守り人 短編集
流れ行く者
上橋菜穂子
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(例)|施療院《せりょういん》
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一
その知らせを、最初に持ち帰ってきたのは、隣家《りんか》に湯《ゆ》をもらいにいっていたチナだった。
「たいへんよ、たいへん! (山畑《やまはた》)のネェやが、山犬《やまいぬ》に食《く》われたんだって!」
土間《どま》に駆《か》けこんでくるなり、裏返《うらがえ》った声でそう叫《さけ》んで、チナは草履《ぞうり》を蹴《け》るようにして脱《ぬ》ぐと、上《あ》がりがまちにあがってきた。
土間に突《つ》きだしている上がりがまちにすわって、草鞋《わらじ》を直《なお》していたタンダは、思わず、脱《ぬ》ぎすてられてひっくりかえった妹の草履《ざうり》に手をのばし、表《おもて》に返してやった。妹が脇《わき》をすりぬけたとき、湯上《ゆあ》がりのいい匂《にお》いが、ほわっと鼻をさすった。
チナは、トタトタと軽《かる》い足音をたてて母に駆《か》けよるや、その首にしがみついた。
「ほれ、ほれ! 赤《あか》ん坊《ぼう》みたいなことしてないで、ちゃんと話しなね。」
生まれたばかりの末息子《すえむすこ》に乳《ちち》をやっていた母は、眉根《まゆね》をよせてチナをひきはがした。
「山犬《やまいぬ》に食《く》われたって? ほんとかよ!」
炉《ろ》はたにいる次兄《じけい》が身《み》をのりだした。
「そんなはずがあるかね。そんなことがあったんなら、鐘《かね》が鳴ってるだろ。」
母さんは苦笑《くしょう》しながら、むずかりはじめた赤《あか》ん坊《ぼう》をゆすった。
「でも、ほんとだよ! 隣《となり》のおばさんとこに、いま、触《ふ》れ役《やく》のおじさんがきてるんだよ!」
それを聞くと、母は笑顔《えがお》を消《け》した。炉《ろ》ばたにあぐらをかいて、小刀《こがたな》でカチの実《み》を割《わ》っていた父がロをひらいた。
「触《ふ》れ役《やく》が、なんといってきたんだ。」
チナは、自分の胸《むね》をさすって息《いき》をととのえながら答えた。
「あのね、(山畑《やまはた》)のネェやがね、狼《おおかみ》に襲《おそ》われて、帯《おび》を食いちぎられたんだって!」
父が厳《きび》しい声でたずねた。
「怪我《けが》は?」
チナの声が小さくなった。
「……知らない。」
それを聞くや、次兄《じけい》がため息をついた。
「なんだぁ! おまえ、しっかり聞いてこいよ! やっぱりガキは、しょうもねぇ…‥。」
長兄《ちようけい》のノシルが、次兄《じけい》の肩《かた》をはたいた。
「おまえは、だまってろ。 − チナ、触《ふ》れ役《やく》は、家《うち》にもまわってくるのか? それとも、おまえ、家に知らせろっていわれたのか?」
チナの声がさらに小さくなった。
「……知らせてこいって、いわれた。」
それを聞くや、父が舌《した》うちをして立ちあがった。
「おれも行こうか?」
長兄《ちょうけい》が聞くと、父はうなずいた。次兄《じけい》も腰《こし》を浮かしかけたが、ふたりの表情《ひょうじょう》を見て、腰をおろした。
母が囲炉裏《いろり》の火を提灯《ちようちん》にうつして手渡《てわた》すと、父は無言《むごん》でそれを受けとり、草履《ぞうり》をつっかけて、開《ひら》いたままになっている戸口から外へ出ていった。長兄《ちようけい》が、そのあとにつづく。ちょっと前かがみになって戸をくぐっていく長兄の後《うし》ろ姿《すがた》は、おどろくほど父に似《に》ていた。
長兄が、ぴしゃん、と後《うし》ろ手に戸をしめると、すん、と冷たい初秋《しょしゅう》の夜風《よかぜ》も、夜の物音《ものおと》も家の外にしめだされ、粗朶木《そだき》がはぜる音が急《きゅう》に耳につくようになった。
「……チナ、(山畑《やまはた》)のネェやって、どのネェやだね?」
母に問われて、妹は顔をしかめた。
「わかんない。」
次兄《じけい》が鼻を鳴らした。
「おまえ、ほんっと、役《やく》にたたねぇなぁ。」
(山畑《やまはた》)は山の畑《はたけ》に近い集落《しゅうらく》のことで、十|軒《けん》ほどの家がある。この村では、嫁《よめ》に行けるくらいの年頃《としごろ》の娘《むすめ》のことをネェやと呼《よ》ぶが、(山畑)にはその年頃の娘が四人いた。母は、ひとりひとり名前をあげながら、チナにどの娘かたずねたが、それでもチナは思いだせなかった。
タンダは草鞋《わらじ》の修繕《しゅうぜん》を終えると、手をはたいて立ちあがり、囲炉裏《いろり》ばたに行ってすわった。
「母さん、カチの実《み》、おれが割《わ》ってもいい?」
たずねると、母はうなずいて、父の小刀《こがたな》を渡《わた》してくれた。
カチの実には、茶色《ちゃいろ》の固《かた》い殻《から》がある。小刀の刃先《はさき》の角《かど》を、へタの部分に食いこませて、左右《さゆう》にこじると、その殻がぱっくり二つに割れて、うす赤い実が中からあらわれる。
父がにぎると小さく見える小刀も、まだ十一|歳《さい》のタンダには、大きくて重い。それでも、タンダは器用《きよう》に刃《は》の角《かど》をあやつって、カチの殻《から》をつぎつぎに割っては、中の実を笊《ざる》に落としはじめた。
次兄《じけい》が脇《わき》から手をだして、タンダが割った殻をぽん、と火の中に放《ほう》ると、殻はパチパチ音をたてながら、あざやかに燃えた。タンダは思わず手を止めて、その炎《ほのお》の色に見いった。
「……おまえたち、そろそろ寝《ね》な。あしたも早いんだから。」
思いだしたように、母が、うながした。
秋風が立ちはじめるこの季節《きせつ》、稲穂《いなほ》は重く垂《た》れ、雑穀《ざっこく》の穫《と》り入《い》れも間近《まぢか》で、このあたりの村人たちは、朝から晩《ばん》まで働《はたら》きづめだった。お祖父ちゃんなど、もう寝間《ねま》で高《たか》いびきをかいている。子どもらも夜明《よあ》けに起こされて母のかわりに飯《めし》を炊《た》き、鳥を追ったり、大声をはりあげて鹿《しか》を追いはらったり、いそがしい。
夕飯《ゆうめし》を終えたこの時刻《じこく》になると、もうまぶたが重くなっていたが、それでも、タンダは、父と長兄《ちょうけい》の帰りを待っていたかった。妹がかわいそうだったから、次兄《じけい》のように問いつめはしなかったけれど、内心《ないしん》では、狼《おおかみ》の話が気になってしかたがなかったからだ。
「父《とう》さんが帰《かえ》るまで、起きてちゃだめ?」
小さい声でたずねると、母は首をふった。
「だめだめ。いつになるか、わかんないだろ。 − 早く寝《ね》な。」
次兄が、にやっと笑《わら》ってタンダの頭をこづいた。
「そうだそうだ。チビは早く寝ろ! 夜更《よふ》かししなくたって、おまえは、すぐ寝ぼけるんだから。」
タンダは口をとがらして、兄の手をはらった。
「寝《ね》ぼけたりしないよ、おれ。」
兄は笑《わら》った。
「嘘《うそ》つけ! 鳥追《とりお》い縄《なわ》をひっぱりはじめると、すぐ、夢《ゆめ》ん中にはいっちまうくせに。」
タンダは赤くなった。
鳥追《とりお》いは、幼《おさな》い子どもらの仕事《しごと》で、稲穂《いなほ》に舞《ま》いおりる鳥たちを追いはらうために、鳴子《なるこ》をつけた縄《なわ》を、調子《ちょうし》をつけてひっぱりつづける。何度も、何度も、長いこと、ひたすら、その動作《どうさ》をくりかえすのだ。
タンダはこれが苦手《にがて》だった。三度、四度とひっぱるうちに、頭がぼんやりしてきて、夢の中にはいっていくような心地《ここち》になってしまうのだ。
そういうとき、タンダは、いつも不思議《ふしぎ》なものを見た。ゆっくりと伸《の》び縮《ちぢ》みしながら宙《ちゅう》をただよっていく透明《とうめい》な虫《むし》のようなものや、田んぼの隅《すみ》に、陽炎《かげろう》のように立っている人影《ひとかげ》などを。
もっと小さかった頃《ころ》は、奇妙《きみょう》なものを見るたびに父や兄たちに話したけれど、いまはもう話すのをやめていた。 − そういう話をすると、父は顔をくもらせ、ため息《いき》をついたからだ。兄たちに馬鹿《ばか》にされるのもいやだったけれど、父にため息をつかれるのはもっといやだった。
それでも、不思議《ふしぎ》なものが見えれば、やっぱり気になって、だれかに、あれはなんなのか、教えてほしくなる。
その気持ちがこらえきれなくなると、タンダは野良仕事《のわしごと》をさぼって山にはいった。山奥《やまおく》の、深い木立《こだち》のあいだの小さな家に、トロガイという呪術師《じゅじゅつし》のおばさんが住んでいて、そのおばさんなら、夢《ゆめ》とうつつの狭間《はざま》で見た不思議《ふしぎ》なものの正体《しょうたい》を、教えてくれたからだ。
(……おばさんとこ、行きたいな。)
田仕事《たしごと》の手伝《てつだ》いがいそがしくて、しばらく、おばさんの家に行っていない。おばさんの家に行けば、バルサにも会えるのに。 − バルサに会いたいなぁと、タンダは思った。
バルサはいつも、おっかないおじさんと槍《やり》の稽古《けいこ》をしてるお姉《ねえ》ちゃんで、たずねていっても、たいして遊《あそ》んでくれるわけでもなかったけれど、しばらく会わずにいると、なぜか、とても会いたくなる。
バルサは村の子とはすごくちがう。ぶっきらぼうだし、女の子なのに荒《あら》っぽくてちょっとこわいときもあるけれど、タンダがなにをいっても、兄たちや村の子たちのように嘲《あざけ》ったりはしなかったから、ほかの子にはいえないようなことでも、バルサにだったら気楽《きらく》にしゃべることができた。
「おい、ぼうっとしてねぇで、シルヤ(寝具《しんぐ》)を敷《し》くのを手伝《てつだ》えよ!」
次兄《じけい》にどなられて、タンダはあわてて立ちあがると、寝間《ねま》にはいっていった。
眠《ねむ》らないで、父たちの帰りを待っているつもりだったのに、シルヤにくるまると、いつのまにか眠ってしまったらしい。夢《ゆめ》の中で、父の声を聞いたような気がして、びくっと身体《からだ》をふるわせて目をあけると、板戸《いたど》の隙間《すきま》から細く居間《いま》の明《あ》かりがもれていた。親たちはまだ起きているのだ。
父も母も、子どもたちを起《お》こさぬよう声《こえ》をおさえて話しているけれど、地声《じごえ》が大きいせいだろう、父の声は、いくら低《ひく》めても、はっきりと聞こえてくる。
タンダはちょっと身体《からだ》をかたむけて、耳をすました。
「……じゃあ、ただの山犬《やまいぬ》……ないっていうんですか?」
母の声には不安《ふあん》げな響《ひび》きがあった。
「ああ。青白い鬼火《おにび》がまとわりついていて、それが、オンザの顔に見えたというんだ。」
タンダはびっくりして、ばっちりと目をあけた。
かたわらで次兄《じけい》がもぞもぞと動いたので、起きているのかと思ったけれど、次兄は半《なか》ば口をあけて、よく眠っていた。
「なんていやなこと! ……それ、本当《ほんとう》のことだって、触《ふ》れ役《やく》は言《い》ってきたんですかね。」
「おい、声が高い。」
父にいさめられて、母はあわてて声を低《ひく》めた。
「だって、あんた……。」
「山畑《やまはた》のネェが、ほんとに、そんなもんを見たのか、まだ、わからん。触《ふ》れ役《やく》のユカジもな、かわたれどきの山道で山犬《やまいぬ》に行きあったもんだから、びっくりして大騒《おおさわ》ぎしているだけじゃないかといってた。ひっくりかえって、すりむいたくらいで、たいした怪我《けが》もしてないくせに、まあ、魂《たましい》を食《く》われたような大騒ぎぶりだったそうだからな。」
喉《のど》にからんだような音をたてて咳《せき》をしてから、父はつけくわえた。
「オンザの死《し》にざまは、むごかったからな。あのあたりの山道を歩いていると、おれたちだって、そのことを思いうかべるだろうが。とくに、オンザが村にはいってくる前にかならずひと息《いき》いれてた、あのコザの大木《たいぼく》の下を通りかかると、ついつい、思いださずにはおれん。
山畑《やまはた》のネェが山犬に行きあったのは、あのコザの大木のところだそうだからな。思わず、オンザが出た、と思いこんじまったんだろうよ。」
「……ねぇ。そうかもしれないけど……。でも、山畑のネェは、なんだってまた、暗くなってから、あんな遠くの山道を歩いていたんですかね。」
父が鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
「川下《かわしも》のヤスギ村にいいなずけがいるからだろうよ。……ちかごろの若いもんは、まったく……。」
「ああ……。でも、あのあたりに山犬《やまいぬ》がいたんですねぇ……。」
「触《ふ》れ役《やく》がきたのも、そのことでな。物《もの》ノ怪《け》うんぬんはおいておいても、朝になったら、男衆《おとこしゅう》をあつめて、あのあたりを見てまわらにゃあならん。」
赤《あか》ん坊《ぼう》が、くくっと喉《のど》を鳴らす音が聞こえたかと思うと、大きな声で泣《な》きだした。
「おお、よしよし……泣くんじゃないよ、さっきあんなに乳《ちち》を飲んだのに、はい、どうしたねぇ……。」
母の足が板《いた》の間《ま》を踏《ふ》む、ぎし、ぎしっという音を聞きながら、タンダは、寝床《もどこ》の中で、いま聞いた話のことを考えていた。
(髭《ひげ》のおんちゃん……。)
タンダはいつも、オンザのことを、髭《ひげ》のおんちゃんと呼んでいた。
遠い親戚筋《しんせきすじ》にあたる人で、いつもは村にいないのに、祭《まつ》りになると派手《はで》な衣《ころも》を着てあらわれる、ひょうきんな、じいさんだった。長い髭《ひげ》を、いくつもに分《わ》けて、細くこよりのように撚《よ》って、先っぽを色とりどりの糸で結《むす》んでいた。
笛《ふえ》がうまくて、宵祭《よいまつり》りにはかならず、調子《ちょうし》のよい笛を吹《ふ》いては、娘《むすめ》たちをたくみに踊《おど》らせた。あびるように酒《さけ》を飲んで、若《わか》い衆《しゅう》を博打《ばくち》にさそい、金《かね》をまきあげる。お調子《ちょうし》モンの、ならず者《もの》、と、陰口《かげぐち》をたたかれていた人だった。
父はオンザがきらいで、家に遊《あそ》びにくると露骨《ろこつ》にいやな顔をしたが、タンダは髭《ひげ》のおんちゃんが好きだった。
オンザの笛《ふえ》を開いていると、楽しくて楽しくて、身体中《からだじゅう》が、ちっちゃな泡《あわ》になって、ぶくぶく沸《わ》きたつような気がした。歯《は》が抜《ぬ》けているロを大きくあけて笑《わら》う、その笑顔《えがお》も大好きだったし、おんちゃんのそばに行くと、いい匂《にお》いがするのも、うれしかった。
「髭《ひげ》のおんちゃん!」と叫《さけ》んで駆《か》けよると、おんちゃんは、かならず「おー!」と、顔をくしゃくしゃにして笑って、タンダを抱《だ》きあげてくれた。
父は、タンダがオンザになついているのを快《こころよ》く思っていなかったのだろう。六つのとき、縁側《えんがわ》にすわって、竹を削《けず》って笛をつくろうとしていると、いきなり、後《うし》ろ頭《あたま》をはたかれた。
びっくりして小刀《こがたな》をとりおとし、父を見あげると、
「そんなもんをつくっている暇《ひま》があったら、鍬《くわ》の手入れでもしろ!」
と、どなられた。
父は、そのまま畑《はたけ》に行ってしまったが、なぜ、突然《とつぜん》おこられたのかわからずに、タンダがべそをかいていると、物干《ものほし》しに衣《ころも》を干《ほ》していた母がふりかえって、
「……父さんは、おまえのことを心配《しんぱい》してるのさ。」
と、いった。
「おまえが、あのオンザみたいになるんじゃないかってね。」
足もとにまつわりついてきた妹がころばぬよう、手でささえながら、母は言葉《ことば》をついだ。
「お義母《かあ》さんが、よく話してたもんさ。オンザは子どもの頃《ころ》から野良仕事《のらしごと》がきらいで、たまあに旅芸人《たびげいにん》がくると、すぐに、なにもかもおっぽりだして、そいつらのとこに行っちゃあ、日《ひ》がな一日《いちにち》、くっついてまわってたって。そんで、やれ笛《ふえ》の鳴らし方だ、踊《おど》りのしぐさだって、おぼえたことを大人《おとな》たちに見せて、大人たちが囃《はや》したてると調子《ちょうし》にのって……。」
パンッと衣《ころも》をはたいて、竿《さお》に通しながら、母は、ため息《いき》をついた。
「そうやって、浮かれて過《す》ごして、みてごらん、けっきょく、ろくなモンにゃならなかっただろう。長男《ちょうなん》だってのに、十六かそこらのときに、先祖代々《せんぞだいだい》の田畑《でんばた》を弟たちに押《お》しつけて、街《まち》に逃《に》げてさ……。お義母《かあ》さんが、よくいってたよ。あれは浮《う》き籾《もみ》だってね。実《み》がしっかりはいっていないから、ふらふら浮いちまう。ちゃんと実《みの》ることもない、すかすかの籾《もみ》だって。」
空《から》になった盥《たらい》を立てかけて、母はタンダをふりかえった。
「おまえも、どっか、ふわふわしたところがあるからねぇ、人さまから、浮《う》き籾《もみ》だっていわれないようにせんと。
おまえは、三男坊《さんなんぼう》なんだから、お天道《てんとう》さまの下で汗水《あせみず》たらして働《はたら》いて、あれはいい働き手だっていわれるようにならなきゃ、いい婿入《むこい》りの口もめぐってこないんだよ。」
タンダはうつむいて、つくりかけの笛《ふえ》を見つめていた。
大きな盥《たらい》いっぱいに張《は》られた水と、そこに、ぷわぷわと浮かんでいる籾《もみ》が目に浮かんだ。実《み》のしっかりつまった籾は水に沈《しず》んで、すかすかの籾は浮かんでくる。浮かんだ籾は、捨《す》てられる。苗床《なえどこ》に蒔《ま》かれることはない。
沈《いず》んだ籾《もみ》は丁重《ていちょう》に祭《まつ》られてから、苗床に蒔かれて大切《たいせつ》に育《そだ》てられ、やがて、青々《あおあお》と伸《の》びてきたら田に植えられて、そして、実《みの》りのときをむかえる……。
ほんとうに、浮《う》き籾《もみ》は実《みの》らないのか、一度、タンダは、こっそり、捨てられた浮き籾を田んぼの端《はし》に蒔《ま》いてみたことがある。芽《め》をだすんじゃないかと、毎日見にいったけれど、田ネズミに食われてしまったのか、それとも、やっぱり、中身《なかみ》がなかったのか、とうとう芽をだすことはなかった。 − 植えても芽をだせなかった浮き籾がかわいそうで、そっと、埋めたあたりの土をなでながら、こんど生まれ変わってくるときは、青い芽をだしなよ、と、いわずにはいられなかった。
いまも、籾《もみ》の選別《せんべつ》を見るたびに、そのときの哀《かな》しい気持ちを思いだす。
浮《う》き籾《もみ》といわれた髭《ひげ》のおんちゃんは、ひどい死《し》に方《かた》をした。この夏、おんちゃんは、ぼろぼろの衣《ころも》をまとって、がりがりに痩《や》せて、村へはいる峠道《とうげみち》で行《ゆ》き倒《だお》れて死んでいたのだ。通りがかった行商人《ぎょうしょうにん》が見つけたときには、獣《けもの》に食《く》いあらされていたそうだ。
(……髭《ひげ》のおんちゃん、死にきれてないのかな。)
なぜか、こわいとは思わなかった。胸《むね》の底にじんわりとわきだしてきたのは、おんちゃん、かわいそうだ……という思いだった。
屋根《やね》に雨があたる、かすかな音が聞こえてきた。雨音《あまおと》を聞きながら、タンダはいつのまにか眠《ねむ》っていた。
翌朝《よくあさ》、村の男衆《おとこしゅう》は、犬をつれて山畑《やまはた》のネェやが山犬《やまいぬ》に襲《おそ》われたというあたりを、丹念《たんねん》に調《しら》べてまわった。泥《どろ》の中に、何《なん》か所《しょ》か、たしかに山犬のものらしい足跡《あしあと》が見つかったけれど、雨のせいで臭跡《しゅうせき》が消《き》えて、犬たちも跡《あと》を追うことはできなかった。
足跡は一|匹《ぴき》だけのものだったから、若《わか》い離《はな》れ雄《おす》だろうということで、周囲《しゅうい》の獣道《けものみち》に罠《わな》を仕掛《しか》けたが、けっきょく山犬はつかまらず、三日、四日と経《た》つうちに、騒《さわ》ぎは下火《したび》になっていった。刈《か》り取《と》りにむけて、田から水を抜《ぬ》いたり、入れたり、むずかしい調整《ちょうせい》がはじまる時期だったから、いつまでも山犬一匹にかまけていられなかったのだ。
しかし、丹精《たんせい》こめて育《そだ》てた稲《いね》をようやく刈り取れる、大切《たいせつ》な時期だったからこそ、オンザが化けて出たという噂《うわさ》は、村人たちの不安《ふあん》をさそった。死んでからまで、さんざん悪口《わるくち》をいわれて、オンザがこの村の者を恨《うら》んでいるのではないかと、ささやきあう声は、いつまでも消えなかった。
[#改ページ]
ニ
タンダの祖父《そふ》と父は夜《よ》が明《あ》ける前から起きだして、家の裏手《うらて》の畑《はたけ》から、家のすぐ前にひろがっている田んぼへと、ぐるりと見てまわるのを習慣《しゅうかん》にしていた。
その朝、雑穀《ざっこく》と米を混《ま》ぜこんだ飯《めし》がいい具合《ぐあい》に炊《た》けた頃《ころ》、父が暗い顔をして足早《あしばや》にもどってきた。
もどってくるや、父は井戸《いど》ばたで顔を洗《あら》っている息子《むすこ》たちに、
「おい、煙棒《けむりぼう》の支度《したく》をしろ。」
と、声をかけた。
タンダは、どきっとして、父を見あげた。兄たちも顔をこわばらせている。
「黒虫《》がついてるの?」
長兄《ちょうけい》が聞くと、父はうなずいた。
「びっしりついてる。 − 昨日《きのう》までは、ほとんど見なかったんだがな。いま、じいちゃんが、お隣《となり》の田んぼも見にいってる。」
黒虫《くろむし》は、稲《いね》の穂《ほ》を喰《く》らう恐《おそ》ろしい虫《むし》だった。赤子《あかご》の小指《こゆび》の爪《つめ》ほどの小さな虫だが、いったいどこからわきでるのか、実《みの》りの時期に、大量《たいりょう》に稲につくことがある。そうなったら、一刻《いっこく》も早く駆除《くじょ》せねば、その年の実りがなくなってしまう。
「タンダ、おまえはひとっ走り、鐘楼《しょうろう》に行って鐘《かね》を打ってこい。ほかにも気づいておる者がいるかもしれんが、とにかく、行って、打ってこい。鐘の音の数《かず》と調子《ちょうし》は、わかってるな?」
父にいわれて、タンダはうなずき、一目散《いちもくさん》に鐘楼めざして駆《か》けだした。背後《はいご》で、父が母に朝飯《あさめし》は握《にぎ》り飯《めし》にして田にもってきてくれといっている声が聞こえた。
(……三《ぜん》、一《もん》、二《じん》。)
タンダは頭の中で、鐘《かね》を打つ数の順序《じゅんじょ》をさらった。田の危機《きき》であることを示《しめ》す三回の鐘をまず打ち、それから、虫《むし》の害《がい》を示す一回の鐘を鳴らす。最後に二回鐘を鳴らして、緊急《きんきゅう》であることを伝《つた》える。
むこうから、睦道《あぜみち》を走ってくる少年の姿《すがた》が見えた。山畑《やまはた》に住んでいるカンチだった。鐘楼《しょうろう》をめざしているな、と思って手をふると、カンチも気づいて手をふりかえしてきた。
「 − 黒虫《くろむし》のことかぁ?」
タンダが叫《さけ》ぶと、カンチが「おお!」と応《こた》えた。カンチのほうが、ずっと鐘楼《しょうろう》に近い。タンダは足をとめて、
「じゃあ、たのむ!」
と、叫ぶと、カンチが、わかった、と手をふった。
タンダは、荒《あら》く息《いき》をつきながら、ちょっとのあいだ、カンチがするすると鐘楼《しょうろう》を登《のぼ》っていくのを見ていた。
カンチが鐘《かね》を鳴らすのを聞きながら、タンダは家にもどろうと、鐘楼に背《せ》をむけた。
兄たちはいまごろ、おおわらわで煙棒《けむりぼう》の用意《ようい》をしているだろう。棒《ぼう》に、ゼコという油分《あぶらぶん》が多い木の皮《かわ》を巻《ま》きつけて火をつけ、その煙《けむり》で黒虫《くろむし》をいぶして殺《ころ》すのだ。
ゼコの煙をあびると、黒虫はおもしろいように稲《いね》からころげ落ちて死ぬが、広い田んぼをいぶしつづけると、煙棒《けむりぼう》を使っている人のほうも、喉《のど》や目が痛《いた》くなる。
駆けだそうとして、タンダは、ふと足をとめた。上段《うわだん》の畑《はたけ》の脇《わき》に植《う》わっている、白い木肌《きはだ》の、すらりと姿《すがた》よくのびた木が目にはいったからだ。
(…………あ、ナヤの木。)
おまえのてのひらくらいの大きさのナヤの木の皮かわ《》を、手鍋《てなべ》に一杯《いっぱい》ぐらいの水にひたしておくと、よい薬《くすり》ができるんだよ − と、まえにトロガイおばさんがいっていた。目をすうっと冷《ひや》やして、痛《いた》みを軽《かる》くしてくれる薬になるんだと。
(ほんとかな……。)
ほんとうに薬《くすり》になるのかためしてみたくなって、タンダは、草がぼうぼうと生えている斜面《しゃめん》をよじのぼり、ナヤの木にたどりつくと、帯《おび》にたばさんでいる小刀《こがたな》を抜《ぬ》いた。
それから、目をつぶって、木を傷《きず》つけるときは、こういいなさいと、トロガイおばさんに教《おそ》わった言葉《ことば》をつぶやいた。
「ナヤの木のカミさま、すこし、木肌《きはだ》を分《わ》けてくだされ。」
白い木肌に二本|切《き》れ目《め》を入れて、切れ目の狭間《はざま》に刃をこじいれると、透明《とうめい》な汁《しる》が染《し》みだし、つんと鼻をつく芳香《ほうこう》がただよってきた。
「……痛《いた》かったら、ごめんなさい。」
白い木肌《きはだ》が裂《さ》けるのが、痛々《いたいた》しくて、タンダは思わず、そうつぶやいた。なんだか自分も痛いような気がして、つい顔をしかめながら、木肌をてのひらぐらいの大きさに剥《は》ぎとると、大切《たいせつ》に手にもって、家に駆《か》けもどった。
父も兄たちもとっくに田に行ってしまって、井戸《いど》ばたにはだれもいなかった。土間《どま》にはいると、母が妹に手伝《てつだ》わせながら、握《にぎ》り飯《めし》を笹《ささ》につつんでいた。
「母さん、手鍋を借りていい?」
声をかけると、母はけげんそうにタンダを見た。
「手鍋なんぞ、なにに使うんだね?」
ナヤの木肌《きはだ》を見せながら、説明《せつめい》すると、母は、あやふやな表情《ひょうじょう》でうなずいた。
「トロガイ師がいっておられたのかね。なら、まあ、やってごらん。ゼコの煙《けむり》は、きついからねぇ………。」
鍋《なべ》に水を張《は》って、木肌《きはだ》をつけると、タンダはさっぱりした気持ちになった。
「じゃあ、おれも田に行くね。」
ひと声かけて、土間《どま》を出ようとすると、妹が駆《か》けよってきた。
「小さい兄《にい》ちゃん! あたしも、黒虫《くろむし》いぶしをやりたい。つれてって!」
タンダは、迷《まよ》った。妹も一人前《いちにんまえ》の手伝《てつだ》いをしたいのだろうけれど、ゼコの煙はほんとうにきついのだ。
「チナ、兄ちゃんをこまらせるんじゃないよ! おまえは、ご飯《はん》を運《はこ》ぶのを手伝えばいいの。」
母さんが叱《しか》ったが、チナは、いまにも泣《な》きそうに唇《くちびる》をふるわせている。
タンダは、母に顔をむけた。
「母さん、おれ、チナをつれていくよ。ゼコを棒《ぼう》に巻くのを手伝《てつだ》ってもらう。つらそうだったら、家に帰すから、いいでしょう?」
母は、ため息《いき》をついてほほえんだ。
「……なら、つれていってやりな。あんまり煙《けむり》を吸《す》わさないように、気をつけておくれよ。それから、ほら、これ。できあがった分《ぶん》だけでも、もっていっておくれ。」
握《にぎ》り飯《めし》をつつんだ笹《ささ》はあたたかかった。握り飯をもち、妹の手をひいて外に出ると、なんだか、わくわくしてきた。収穫《しゅうかく》がなくなるかもしれぬ大変《たいへん》な危難《きなん》なのだとわかっているのに、胸《むね》の底《そこ》でなにかが跳《は》ねているような気分だった。
広い田の、あちらこちらで、煙《けむり》がたなびいている。
「父《とう》さん! 朝飯《あさめし》もってきたよ!」
父の背《せ》に声をかけると、父はふりむきもせずに、
「畔《あぜ》に置いておけ! ひと段落《だんらく》してからだ。」
と、どなった。
兄たちが、畔《あぜ》のあちこちに、ゼコの皮《かわ》を入れた籠《かご》と棒《ぼう》と火種《ひだね》を置いている。タンダはゼコの皮をとりあげると、妹に見せながら、棒に巻いた。
「ほら、これを、こうやって巻くんだ。」
妹は真剣《しんけん》な顔でうなずいて、不器用《ぶきよう》な手つきで、棒《ぼう》に巻きはじめた。
「おれが、もってきてくれっていったら、もってくるんだぞ。それから、煙《けむり》を吸《す》うと、喉《のど》が痛《いた》くなっちゃうからな。ちゃんと、顔に手ぬぐいを巻《ま》いてくるんだぞ。」
「うん!」
妹の気張《きば》った返事を聞きながら、タンダは顔に手ぬぐいを巻き、田にはいった。
収穫《しゅうかく》のために、ちょうどよく水抜《みずぬ》きをされた田は、田植《たう》えの頃《ころ》のように足がめりこむことはない。それでも、ひと足|踏《ふ》むごとに、田の土は、ぐうっと足を吸《す》いこんだ。
たわわに実《みの》って頭を垂《た》れている稲《いね》の穂《ほ》に、黒い虫《むし》がいっぱいついている。これまで苦労《くろう》して、ここまで育《そだ》ててきたのに、実ったとたん、うまいところだけ横どりにきたかと思うと、虫が憎《にく》かった。 もくもくとあがる煙《けむり》を近づけると、黒虫《くろむし》が、ころころとおもしろいように落ちて死ぬ。タンダは、腹《はら》がすいているのも忘《わす》れて、つぎつぎに稲穂《いなほ》を助けてまわった。
それでも、日がじりじりと天《てん》に昇《のぼ》り、駆除《くじょ》をはじめたときの興奮《こうふん》が消《き》えていくと、しだいに目の痛《いた》みと喉《のど》の痛みがきつくなってきた。だから、
「……おーい、手を止めろ! 朝飯《あさめし》にするぞ!」
という父の声が聞こえてきたときには、ほーつと大きなため息《いき》をついた。
チナは、なかなか根性《こんじょう》があって、途中《とちゅう》で逃げもせずにタンダについてまわっていたが、父の声を聞いたとたん、ぼろぼろ涙《なみだ》を流した。
「おい、泣《な》くなよ。……目が痛《いた》いか?」
頭をなでてやると、チナは首をふって、だいじょうぶ、とつぶやいた。
兄たちが、祖父《そふ》や父といっしょにこちらへくる。父は畔《あぜ》に置《お》いてあった水の壷《つぼ》をとりあげると、無言《むごん》でチナに渡《わた》した。
「おー! ようがんばった。いい子だ、チナは。」
祖父《そふ》に頭をなでてもらって、チナはうれしそうに笑《わら》った。
どういうコツがあるのか、祖父はあまり喉《のど》を痛《いた》めていなかったが、兄たちは、喉が痛くて口をきく気になれないのだろう、水がまわってくると、だまって、うがいをしたり、喉をうるおしたりしている。
タンダも喉《のど》と目が痛くて、泣きたいような気分だった。腹《はら》がへって目がまわりそうだったけれど、水でうがいをしてからでないと、握《にぎ》り飯《めし》をほおばる気にもなれなかった。
みんなで畔《あぜ》に腰《こし》をおろして握り飯を食べながら、タンダは、ぼんやりと田んぼを見ていた。小さな黒虫《くろむし》がたくさん泥《どろ》の上にころがっている。煙《けむり》をあてると虫がコロリと落ちるのを見るのは気持ちよかったのに、細い足を上にして泥の上にころがっている虫を見ると胸《むね》がふさいだ。
そうやって虫《むし》をながめているうちに、ふっと、トロガイおばさんと話したことが、心によみがえってきた。
二年ぐらい前だったか、やっぱり黒虫《くろむし》がたくさんわいて苦労《くろう》した秋に、
− 黒虫を、いっぺんに退治《たいじ》して、二度と出てこなくする術《じゅつ》ってないの?
と、たずねたことがある。すると、おばさんは笑《わら》って、
− 冗談《じょうだん》じゃないね。そんな術をあみだしたら、呪術師《じゅじゅつし》じゃなくなっちまうよ。
と、答えたのだ。
びっくりして、なんで? と開きかえすと、おばさんはあっさり答えた。
− そんなことをしたら、黒虫を餌《えさ》にする鳥やらトンボやらが、こまるだろうがさ。
タンダがロをとがらせて、
− だけど、鳥やトンボより、稲《いね》のほうが大切《たいせつ》だよ。
というと、トロガイおばさんは、ひょいっと眉《まゆ》をあげて、人の悪い笑《え》みを浮かべたまま、
− 稲《いね》を守《まも》るは里人《さとびと》の役目《やくめ》。呪術師《じゅじゅつし》は、別《べつ》のもんを守るのさ。
と、いったっきり、どうたずねても、呪術師がなにを守るのかは、教えてくれなかった。
ぼうっとそんなことを思いだしていると、父が腿をはたいて立ちあがった。
「さて、もうひとふんばりだな。」
黒虫《くろむし》の駆除《くじょ》は、夕暮《ゆうぐ》れどきまでかかった。家にもどったときには、みんな、目をまっ赤《か》に腫らして、ひどいありさまだった。
タンダは井戸水《いどみず》で手と顔を洗《あら》ってから、ナヤの皮《かわ》をつけておいた鍋《なべ》をとりにいった。鍋の水はうす黄色く変わっていて、すうっとする匂《にお》いが強くなっていた。
母にたのんで、きれいな手ぬぐいをだしてもらうと、タンダは手ぬぐいの先をその薬水《くすりみず》にひたして、まず、自分の目をぬぐってみた。
「…いちちっ。」
かなり沁《し》みたけれど、何度かぬぐううちに、目の痛《いた》みがやわらいできた。
(……ほんとだ! これ、効く!)
タンダはうれしくなって、まずは妹の目をふいてやった。妹は最初《さいしょ》、痛《いた》いからやだと、逃《に》げようとしたけれど、なだめて目をふいてやるうちに、おとなしくなった。
「おい、なにしてるんだ?」
目をこすりながら、次兄《じけい》が声をかけてきたので説明《せつめい》すると、次兄はすぐに、
「おれもやってみる!」
と、手ぬぐいをひたして、目をぬぐいはじめた。
いつのまにか、長兄《ちょうけい》や祖父《そふ》、それに父までそばにきて、結局《けっきょく》はみんなが、ナヤの薬水《くすりみず》で目をぬぐいはじめた。あまり物事《ものごと》に動《どう》じない父が、
「ほう……こいつは効くなぁ。」
と、つぶやくのを聞いて、タンダはものすごくうれしくなった。
なにを思っているのか、父はしばらく、じっとタンダを見ていたが、やがて、
「おまえ、この薬水《くすりみず》のこと、お隣《となり》にも伝《つた》えてやれ。あそこのニィやは、とくにゼコの煙《けむり》に弱《よわ》いから。」
と、いった。
「うん!」
タンダは元気よくうなずいた。
手鍋《てなべ》をもちあげて、土間《どま》を出ようとしたとき、後《うし》ろから長兄《ちょうけい》が追いついてきた。
「ちょっと待ちな。そいつは、おれがもっていってやる。おまえみたいなチビが、それを、いきなり、薬《くすり》だってもっていったら、お隣《となり》の連中《れんちゅう》はめんくらうぜ。おれが話してやるから、おまえは、もっとナヤの木の皮《かわ》をとってこいよ。」
タンダがためらうと、長兄は苦笑《くしょう》を浮《う》かべた。
「べつに、おまえの手柄《てがら》を横どりしようってんじゃねぇよ。おまえがつくった薬《くすり》だって、ちゃんといってやる。」
いわれて、タンダは赤くなった。長兄《ちようけい》に背《せ》を押《お》されて、家を出ると、こんどは後ろから母が、新しい手鍋《てなべ》をもって追いかけてきた。
「待ちなさい。そっちの手鍋は古いから、こっちにしなさい。」
母は、新しい手鍋に薬《くすり》を移《うつ》しかえ、古いほうをもぎとってもどっていった。
長兄《ちようけい》は、ちらっと笑《わら》った。
「……母《かあ》さんは、見栄《みえ》っぱりだなぁ。」
なんだか楽しい気分になって、タンダは兄を見あげた。
「そんじゃ、おれ、ナヤの木肌《きはだ》をとってくる! おれが行くまで、待っててね。」
兄は、ゆったりとうなずいてくれた。
隣家《りんか》のニィやは長兄と同《おな》い年《どし》で仲《なか》がよい。長兄はニィやの目が心配《しんぱい》で、薬をもっていってやりたかったのだろうと、走りながら、タンダは思った。
ナヤの木肌《きはだ》をもって、隣家《りんか》におとないを告《つ》げると、うすぐらい土間《どま》から、おお、と返答《へんとう》があった。じいさんとばあさんは奥《おく》の間《ま》にいたが、子どもらも、大人連中《おとなれんちゅう》もみな、上《あ》がりがまちに腰をおろし、眉根《まゆね》をよせて、なにやら話しこんでいる。
「……だからよぅ、こないだのこともあるしよ、やっぱり変《へん》だぜ。昨日《きのう》まで、黒虫《くろむし》の一|匹《ぴき》も見てなかったのによ、いきなり、こんなにわくなんて、尋常《じんじょう》じゃねぇよ。こりゃあ、やっぱり、あれの崇《たた》りなんじゃねぇかって、川畑《かわはた》の連中《れんちゅう》もいってた……。」
隣家《りんか》のニィやが、唾《つば》を飛ばしながら、さかんに兄に話している。
あれの崇《たた》り、という言葉《ことば》を聞いて、タンダは、はっとした。 − あれというのは、きっと、髭《ひげ》のおんちゃんのことだ……
タンダがはいってきたのに気づいて、長兄《ちょうけい》が、こっちへこい、と手招《てまも》きした。ニィやも顔をあげ、タンダを見て、ほほえんだ。
「おう、タンダ、ありがとうよ! こいつ、ほんとに効《き》くなぁ。」
ニィやの目はまだまっ赤《か》で、まぶたも腫《は》れあがっていて、すごいありさまだった。
「おれは、ほんと、ゼコの煙《けむり》が苦手《にがて》でよぅ。いつも、翌朝《よくあさ》になると目があかなくなっちまうんだ。また、そうなるかなぁと思って、いやぁな気分だったんだけどよ、おかげでずいぶん、痛《いた》みがひいてる。」
顎《あご》ががっちりしているニィやは、タンダの長兄《ちょうけい》より背《せ》が低かったが、肩幅《かたはば》が広く、タンダには大人《おとな》の男衆《おとこしゅう》のように見えた。
タンダはナヤの木の皮《かわ》を一枚|渡《わた》しながら、ニィやにたずねた。
「ニィや、いま、話してたのって……。」
おずおずと言いかけたタンダの言葉《ことば》をひきとるように、ニィやは、ガラガラ声でいった。
「おう、そうだ、いま黒虫《くろむし》がわいたのは祟《たた》りじゃねぇかって話をしてたんだけどよ、おまえは山家《やまが》の呪術師《じゆじゅつし》にかわいがられてるってじゃないか。この薬《くすり》も、あの、おっかねぇおばさんに教えてもらったんだろ? この事情《じじょう》を話してよ、祟《たた》り祓《ばら》いをしたほうがいいか教えてもらってこいや。」
それを聞くや、長兄《ちょうけい》が苦《にが》い顔をした。
「おいおい、こいつを焚《た》きつけるなよ。そうでなくたって、ちょっと目をはなすと、田仕事《たしごと》をさぼって山家《やまが》に行っちまうようなやつなんだからよ。それに、祟《たた》りの話は、まだ、そうと決まったわけでもねぇだろ。」
上《あ》がりがまちに腰をおろして、お茶《ちゃ》をすすっていたおじさんが、息子《むすこ》の肩《かた》をはたいた。
「ノシルのいうとおりだ。おめぇは、ロが軽《かる》くていけねぇ。おめぇが噂《うわさ》のもとだっていわれんように、他の連中《れんちゅう》がさわぎだすまで、しばらく、この話はほっとけ。」
こィやは不満《ふまん》そうだったが、そのおじさんの言葉《ことば》を機《き》に、ノシルは立ちあがって、タンダの肩に手をおいた。
「そんじゃあ、おれたちは、これで。」
ノシルが挨拶《あいさつ》すると、隣家《りんか》の人びとは口ぐちに、薬水《くすりみず》の礼《れい》をいってくれた。
外に出ると、夕日が雲をそめて、あたり一面《いちめん》|夕焼《ゆうや》けにそまっていた。
「……大きい兄《にい》ちゃん。」
ふと、あることを思いついて、タンダは兄を見あげた。
「ナヤの皮《かわ》、あと一枚あるんだ。だから、おれ、これもって、遠畑《とおはた》のばあちゃんのところへ行ってくる。」
母の母はヤクーで、遠畑《とおはた》という集落《しゅうらく》に住んでいる。川むこうだけれど、走っていけば、日が暮れきってしまう前に、着《つ》けるくらいのところにあった。
長兄《ちようけい》は眉《まゆ》をあげた。
「これからかぁ? もう飯《めし》だぞ。」
「いいよ、あっちで食べさせてもらう。そんで、今夜《こんや》はあっちで泊まる。」
薬水《くすりみず》をばあちゃんにもあげたいタンダの気持ちを察《さっ》してくれたのだろう。長兄は、肩《かた》をすくめた。
「あっちは、あんまり田を持ってないからなぁ、そいつはいらんと思うが……まあ、もっていってやんな。川を渡《わた》るときは気をつけるんだぞ、こないだ、橋《はし》の板《いた》がいたんでるって、だれかがいってたからな。」
タンダはうなずいて、走りはじめた。
赤い雲のあいだを縫《ぬ》うように、黒い鳥の影《かげ》がいくつもいくつも飛んでいる。コウ、コウと鳴きながら、森のねぐらに帰っていく。
遠畑《とおはた》のばあちゃんのところに行こうと思いたったのは、薬水《くすりみず》のことだけではなかった。
ほんとうは遠畑のばあちゃんのところよりも、トロガイおばさんのところに行きたかったけれど、おばさんの家は深い山の中にあるから、灯《あか》りなしでは、とても行かれない。それならば、遠畑《とおはた》のばあちゃんのところに行ってみようと思ったのだ。髭《ひげ》のおんちゃんは、遠畑の生まれだから、ばあちゃんはおんちゃんのことをよく知っているはずだ。ばあちゃんも、髭のおんちゃんが村を崇《たた》っていると思うか、聞いてみたかった。
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三
あたりがうす闇《やみ》におおわれはじめた頃《ころ》、森のかたわらに、黒々《くろぐろ》とうずくまるようにならぶ数軒《すうけん》の民家《みんか》が見えてきた。まるで、お椀《わん》を伏せたような形の泥壁《どろかべ》の家だ。
遠畑《とおはた》の集落《しゆうらく》に暮《く》らしている人の多くは、ヤクーの血《ち》をひいている。タンダのばあちゃんは、ヨゴの血がまじっていないヤクーだった。もう二年も前に亡くなったじいちゃんはヨゴ人の血のまじった色白《いろじろ》の人だったけれど、ばあちゃんはまっ黒《くろ》な肌《はだ》をしていて、小柄《こがら》でいかにもヤクーといった顔をしている。
ばあちゃんは、ヤシロ村やトウミ村にも住んだことがあるけれど、娘時代《むすめじだい》を過《す》ごしたこの遠畑《とおはた》がいちばん居心地《いごこち》がいいらしくて、この村に骨《ほね》を埋《うず》めるつもりだよ、といっている。
家々の煙出《けむだ》しの穴《あな》から、うすく煙《けむり》が立《た》ちのぼり、雑穀《ざっこく》を炊《た》いているいい匂《にお》いがただよってきた。
「こんばんわぁ!」
開《ひら》きっぱなしの戸口のところで、おとないを告《つ》げると、竈《かまど》の前にいた伯母《おば》さんが、のんびりした声で応《おう》じてくれた。
「あれまあ。」
タンダを見るや、伯母《おば》さんは笑《わら》いだした。
「まあまあ、うちの子どもらが、あっちこっちに泊まりにいって、今夜《こんや》は静《しず》かだわと思ってたら、こっちにもひとりきたかね。ほい、はいりな、はいりな。今日《きょう》は、あんたんところは田んぼが、大変《たいへん》だったろう! うちは小さな田んぼしか持たんから、父さんだけで手が足《た》りるもんで、うちの子らはみんな、あっちこっちの田を手伝《てつだ》いにいって、そのまんまさ。」
母の兄のお嫁《よめ》さんであるこの伯母《おば》さんは気さくな人で、この家にくると、タンダはいつも、なんとなくほっとする。
伯母《おば》さんの言葉《ことば》どおり、子どもらはだれも家におらず、伯母さんとばあちゃんが飯《めし》の支度《したく》をしており、伯父《おじ》さんが囲炉裏《いろり》ばたにすわって、のんびりと飯を待っているところだった。
この家にはいると、独特《どくとく》の匂《こお》いがする。伯父さんが狩ってきて天井《てんじょう》からつるしている獲物《えもの》の肉《にく》が放《はな》っている獣臭《けものくさ》さを消《け》すために、香木《こうぼく》のかけらを囲炉裏にくべているからだ。うっすらとただよっている煙《けむり》は、つるされている肉をなでながら煙出《けむだ》しの穴《あな》に吸《す》いこまれて消《き》えていく。
この集落《しゅうらく》の人たちは、ヨゴの暮らし方《かた》より、ヤクーの暮らし方のほうを好《この》んでいて、田んぼはあまり持たなかったが、みな狩《か》りの腕《うで》は一流《いちりゅう》だった。鹿《しか》や猪《いのしし》を狩っては、他の集落の人たちに肉を分《わ》け、代《か》わりに米をもらう。鹿や猪は田を荒《あ》らすから、遠畑《とおはた》の者たちの狩りは村人たちにとっては、ありがたいことでもあった。
タンダが薬水《くすりみず》のことを話すと、伯父《おじ》さんは、おお、とよろこんでくれた。
「そいつぁありがたいな。それほど煙棒《けむりぼう》を使ったわけじゃないんだが、それでも目が痛《いた》くてなぁ。おまえたちは、大変《たいへん》だったろう。……おっかさん、わるいが、ちょっとそこの手鍋《てなべ》に水を張ってくれんか。」
ばあちゃんは、手鍋《てなべ》に水を入れて、囲炉裏《いろり》ばたにもってきた。
「………あれまあ、ナヤの皮水《かわみず》かい。なつかしいねぇ。」
「え、ばあちゃん、知ってるの?」
「むかぁし、うちのじいちゃんが、燻《いぶ》し猟《りょう》をやってたとき、よくばあちゃんがつくってたよ。もう忘《わす》れとったけども。」
ばあちゃんがいうと、伯父《おじ》さんが、
「なるほどなぁ。そういやぁ、もうあんまり燻《いぶ》し猟《りょう》をしなくなったなぁ。」
と、いった。
ばあちゃんは、しわだらけの手で、タンダの頭をなでてくれた。
「なつかしいもんを、まあ、よう持ってきてくれた。それにしても、いったい、だれに教えてもらったんかね。」
ちょっと耳の遠いばあちゃんのために、タンダは、ばあちゃんの耳もとで、もう一度、トロガイおばさんに教えてもらったのだという話をくりかえした。
「おお、そうだったのかね。トロガイ師《し》は、おまえ、ほんに生きた知恵袋《ちえぶくろ》じゃ。あの人に手ほどきを受けておりゃ、おまえも、そのうち立派《りっぱ》な知恵者《ちえしゃ》になるじゃろう。教《おそ》わったことを忘《わす》れるんじゃないよ。」
「うん!」
うれしくて、タンダは、力いっぱいうなずいた。
伯父《おじ》さんは、膝《ひざ》に手をおいて立ちあがった。
「こないだ獲《と》った猪肉《ししにく》が、ちょうど頃合《ころあい》に熟《じゅく》しとるから、薬水《くすりみず》のお礼《れい》にふんぱつしよう。腹《はら》いっぱい食っていけ。」
伯母《おば》さんが、ふりかえった。
「そりゃあ、いいわ。夕飯《ゆうめし》は、あんたの喉《のど》にいいオクナ草の鍋《なべ》にしようと思ってたとこだから。猪肉《ししにく》を入れたら、大御馳走《おおごちそう》だわ。」
伯父《おじ》さんが土間《どま》におりて、猪肉を切りわけているあいだに、タンダは、ばあちゃんを手伝《てつだ》って鍋《なべ》の用意《ようい》をした。
三男坊《さんなんぼう》のタンダは、兄たちが田畑《たはた》の仕事《しごと》に出ているあいだ、母の仕事を手伝うことが多かったから、菜《な》の切り方から飯《めし》の炊《た》き方《かた》まで、ひととおり仕込《しこ》まれていた。手先《てさき》が器用《きよう》なせいか、そういう作業《さぎょう》はすぐにおぼえられたし、なにかをつくる仕事は好きだった。
猪肉《ししにく》がいい具合《ぐあい》に、ぐつぐつ煮《に》えてきた。
タンダが、浮いてきた灰汁《あく》をすくうのを見て、伯母《おば》さんが笑《わら》いだした。
「あんたは、まあ、うちのトナより気がきくねぇ。」
よく熟成《じゅくせい》した猪肉《ししにく》はやわらかくて、舌《した》がとろけそうになるほどうまかった。朝早くから働《はたら》いて、腹《はら》っぺこだったタンダは、無我夢中《むがむちゅう》で飯をかきこんだ。
雑穀《ざっこく》を炊《た》きこんだ香《こう》ばしい飯《めし》を二|杯《はい》おかわりして、人心地《ひとごこち》ついたとき、タンダはようやく自分がなにをしにここへきたのかを思いだした。
「……ねぇ、ばあちゃん。」
ゆっくりと猪肉《ししにく》を噛《か》んでいるばあちゃんに、タンダは話しかけた。
「今日《きょう》ね……。」
隣《となり》のニィやがいっていたことを話すと、ばあちゃんは、ごっくんと肉《にく》をのみこんでから、首をふった。
「(踊《おど》りオンザ)が、村を祟《たた》るなんてことがあろうかい。あれは、心《しん》からお人よしで、人を楽しませるのが好きで好きで……。大きいことをいうのが好きだったから、子どもの頃《ころ》から、よくホラも吹《ふ》いとったけれど、死んだあとに、村を崇《たた》るような男じゃあないよ。」
「……でもねぇ。」
伯母《おば》さんが、鍋《なべ》の底《そこ》をすくいながらいった。
「なにしろ、タロカさんのやり方は、ひどかったからねぇ。オンザさんも、恨《うら》みを残《のこ》してるかもしれないよ。実《じつ》の兄だってのに、屋敷墓《やしきばか》に入れもしないで、罪人《ざいにん》でもないのに、村境《むらざかい》の捨《す》て墓《ばか》に入れるなんて……。」
伯父《おじ》さんが肩《かた》をゆすった。
「まあ、恨《うら》んでいるといやぁ、タロカはオンザを恨んでいたし、実《じつ》の兄だといっても、ずいぶん前に兄弟の緑《えん》を切ってたんだからな、ああした気持ちも、わからんじゃないが。」
タンダは、びっくりして口をはさんだ。
「……タロカおじさんが、どうして、髭《ひげ》のおんちゃんを恨《うら》んでたの?」
伯母《おば》さんが、ため息《いき》をついた。
「いろいろあったって聞いてるよ、むかぁしね。ふた親《おや》が流行《はや》り病《やまい》で死んだとたん、オンザはさ、でかい稼《かせ》ぎを当《あ》てる口を見つけたからって、田んぼを半分人に売っちまって、その金《かね》をもって、扇《おうぎ》ノ下《しも》に行っちまったのさ。
たまらんのは残《のこ》された次男《じなん》のタロカさんさ。弟や妹もいるのに田は半分になっちまって、そのうえ、ちょうど、いちばん上のネェのホリさんが嫁《とつ》ぐことになってて、物入《ものい》りだったって話で……。」
コトっと小さな音がした。ばあちゃんが、お椀《わん》を囲炉裏《いろり》ばたに置《お》いた音だった。
「ありゃあ、馬鹿《ばか》な男だったからねぇ。……こまい頃《ころ》は、ホリがかわいがって、そりゃあ、仲《なか》のいい姉弟《きょうだい》だったんだよ。オンザもホリが好きで、ホリがどこに行っても、くっついてまわってて、わたしらは、よくからかったもんさ。」
「……ホリさんは、ちょうど、母《かあ》さんぐらいの年だったかね?」
伯父《おじ》さんに問われて、ばあちゃんはうなずいた。
「わたしより、ひとつふたつ上だったんじゃないかね。川下《かわしも》のヤスギ村の若《わか》い衆《しゅう》といい仲《なか》になって、嫁《よめ》に行くって決まったときは、オンザは、まあ、はりきってさぁ。……いまも、おぼえてるよ、あのときのオンザのはしゃぎっぷりは。金《きん》一枚もするような飾《かざ》り帯《おび》を買ってきて、おれが姉貴《あねき》を村一番きれいな嫁にしてみせるって、いつものホラぁ吹《ふ》いて……。」
ばあちゃんは、さびしげに笑《わら》った。
「あれは、いっつも、はしゃぐだけで。 − 街人《まちびと》に乗せられて金《かね》をとられてさ、けっきょく、姉の嫁入《よめい》りにも顔もだせずに、そのまんま。この村にはよく帰ってきたけども、姉《ねえ》さんのところには行けずにおったらしいわ。せんにホリに会ったとき、そういって、哀《かな》しげな顔をしておったから。」
「そういえば、墓納《はかおさ》めのとき、ホリさんはこられませんでしたねぇ。」
伯母《おば》さんがいうと、ばあちゃんは、うなずいた。
「オンザも姉《ねえ》さんにひと目会いたかったろうが……。ホリが墓参《はかまい》りでもしてやれば、きっと安堵《あんど》してあの世《よ》に行くんだろうけども、ホリは、腰をいためてからは村から出んようになったし、ヤスギ村からここまでは、ずいぶんあるからねぇ。」
お茶《ちゃ》をひとロすすり、ばあちゃんは苦《にが》い笑《わら》いを浮かべた。
「山犬《やまいぬ》に乗りうつったんなら、ヤスギ村まで駆《か》けてって、姉《ねえ》さんに会いにいけばええに、それもできんで、このあたりをうろうろしとると思われるなぁ、いかにもオンザらしいのう。」
伯父《おじ》さんも苦笑《くしょう》した。
「……笛吹《ふえふ》いて踊《おど》って、ほいほい生きて、けっきょく野垂《のた》れ死《じ》んで……。まあ、ばあちゃんのいうとおりだろうなぁ。おれも、あのオンザが崇《たた》るとは思えんわ。」
*
翌朝《よくあさ》、仕掛けておいた罠《わな》を見にいくという伯父《おじ》さんといっしょに、ばあちゃんの家を出たタンダは、なんとなく満《み》ち足《た》りた気分で家に帰った。
もうみんな田畑《たはた》へ出てしまったのだろう。家の中は、がらんとして、うすぐらく、だれもいなかった。瓶《かめ》から水をすくって、ひとロ飲んでから、タンダは外に出た。
家の前にひろがる田は、稲穂《いなほ》がそよ風にさわさわとゆれて、黄金《こがね》の野原《のはら》のようだった。
遠くに、ぽつん、ぽつんと見える人影《ひとかげ》は、父と祖父《そふ》、それに長兄《ちょうけい》だろう。目をこらして見まわしても、次兄《じけい》や妹《いもうと》の姿《すがた》は見えなかったし、今日《きょう》はだれも、鳥追《とりお》いをしていない。
「……あ、そうか。」
「ゼコの煙《けむり》でいぶした稲穂《いなほ》は、鳥の舌《した》に苦《にが》い」
という言葉を思いだして、タンダは、ロの中でつぶやいた。そういえば、今日《きょう》はほんとうに、鳥の姿《すがた》がない。ならば、今日は鳥追《とりお》いをしなくていいのだ……と、思ったとたん、ある考えが頭にひらめいた。
(あ、トロガイおばさんのとこに、行かれる……!)
次兄《じけい》や妹は、母といっしょに畑《はたけ》にいるのだろうが、それほど人手《ひとで》が足りてないわけではないし、ばあちゃんのところの手伝《てつだ》いをしていたといえば、きっと、だれも疑《うたが》わないだろう。
タンダは田にいる父たちに見つからぬよう、そうっと家にもどり、裏口《うらぐち》からぬけだすと、にこにこしながら、一目散《いちもくさん》に山にむかって駆《か》けだした。
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四
よいお天気だった。採《と》れ秋《あき》の頃《ころ》にたまにある、夏にもどったような暑《あつ》い日で、細い山道にも、枝《えだ》をすかして透明《とうめい》な秋の光がおどっている。
険《けわ》しい道だったけれど、通《かよ》いなれた山道だから、タンダはかなりの速《はや》さで登《のぼ》っていった。
(……バルサは、いるかな。)
バルサは流《なが》れ者《もの》だから、いつも、トロガイおばさんの家にいるとはかぎらない。養《やしな》い親《おや》のジグロといっしょに、どこかへ行ってしまうこともよくあった。
二十日ほど前に会ったときは、どこかへ行くようすはなかったけれど、もしかしたら、もうどこかへ行ってしまったかもしれないと思うと、自然《しぜん》に早足《はやあし》になった。
もうすこしで、おばさんの家の屋根《やね》が見える、というあたりまできたとき、ズーン、ズーンという米俵《こめだわら》を地面に落としているような音が聞こえてきた。
木の陰《かげ》から、家の前の草地《くさち》に出て、タンダはびっくりして足をとめた。 − バルサが、ひとりで、どでかい麻袋《あさぶくろ》と闘《たたか》っていたからだ。 大きな木の太い枝《えだ》からつるした重そうな麻袋を蹴っては、ブーンともどってくる麻袋を肩《かた》で受けとめたり、くるっと身体《からだ》を斜《なな》めにして、いなしたり、すくいあげるようにして投げたりしている。
細《ほそ》っこい手足をした女の子が、重そうな麻袋《あさぶくろ》を自在《じざい》に投げたり、受けたりするのを、タンダは、ぽかんと口をあけて見ていた。
やがて、バルサは麻袋を抱《だ》きとめると、額《ひたい》の汗《あせ》をぬぐいながら、タンダに顔をむけた。
「………トロガイ師《し》なら、今日《きょう》はいないよ。」
ぶっきらぼうな口調《くちょう》でいわれて、タンダは、まばたきをした。
「どこに行ったの?」
「扇《おうぎ》ノ下《しも》。」
「なにしに?」
「悪いモンに憑《つ》かれた子が、いるんだってさ。」
それだけいうと、バルサはすたすたと井戸《いど》ばたに行ってしまった。衣《ころも》の襟《えり》をゆるめて、片肌《かたはだ》を脱《ぬ》ぐと、釣瓶《つるべ》をたぐって水を汲《く》んで、ざあっと盥《たらい》に移《うつ》し、灌木《かんぼく》にひっかけてあった手ぬぐいをとって水にひたして、汗《あせ》をふきはじめる。
「……バルサ。」
声をかけると、バルサはふりむかずに、
「うん?」
と、応《こた》えた。
「なんか、おこってるの?」
たずねると、バルサはおどろいたように、ふりかえった。
しばらく、タンダの顔を見たままだまっていたが、やがて、ゆっくりと口をひらいた。
「おこってなんかいないよ。……もう、十日以上、人としゃべってなかったから、なんか、声をだすと、変《へん》な気がするだけだよ。」
タンダはびっくりして、目をまるくした。
「十日も、ひとりでいたの? ジグロおじさんは、どこ行っちゃったの?」
「ジグロも扇《おうぎ》ノ下《しも》。」
「働《はたら》きにいってるの?」
「金貸《かねか》しのジジイの用心棒《ようじんぼう》。」
「いっしょに行かなかったの?」
バルサは、ふっと視線《しせん》をゆらした。盥《たらい》に手ぬぐいをつっこむと、ぎゅっとしぼって、脇腹《わきばら》をぬぐう。荒《あら》っぽい手つきで汗《あせ》をぬぐいながら、バルサはいった。
「………娘《むすめ》をつれた用心棒《ようじんぼう》なんて、めずらしいだろ。いつもいっしょにいると噂《うわさ》になるから、ときどきは、別々《べつべつ》に暮《く》らすほうがいいんだ。」
肩《かた》をふこうとして、バルサは顔をしかめた。麻袋《あさぶくろ》があたったところが、こすれてまっ赤《か》になっている。
「中指《なかゆび》んとこも、血《ち》が出てるよ。」
タンダが指さすと、バルサはぺろっと指をなめた。
タンダは麻袋《あちぶくろ》に近よって、手で押《お》してみた。ものすごく重くて、片手《かたて》ではゆらすことしかできなかった。
両手でうーんっと突《つ》っぱなし、振《ふ》り子のようにもどってきた麻袋《あさぶくろ》を受けとめようとしたとたん、どんっと、腹《はら》に衝撃《しょうげき》がきて息《いき》がつまり、あっと思う間もなく身体《からだ》が浮《う》きあがった。
もんどりをうってひっくりかえったタンダを、駆けよってきたバルサが抱《だ》き起《お》こした。
「ばか。……痛《いた》かったろう。」
よっこいせ、と、かかえ起こされると、目がまわった。ケホン、ケホンと咳《せ》きこむとバルサが背《せ》をなでてくれた。
「頭、打たなかったかい?」
「……わかんない。」
打ってはいないと思うが、いきおいよくひっくりかえったせいか、頭がぼーっとしている。
「あれを受けとめるには、コツがいるんだ。正面《しょうめん》から受けとめちゃだめなんだよ。」
草のきれっぱしがたくさんついてしまった背中《せなか》をはたいてくれながら、バルサはいった。
「身体《からだ》のでかいやつがさ、突進《とっしん》してきたら、わたしなんかふっとばされちまうだろう? そういうとき、どうやってかわすか、考えてたんだ。」
まだ頭がぼうっとしているので、タンダはだまって聞いていた。
「最初はうまくいかなくてさ、いまのあんたみたいに、ひっくりかえったけど、毎日やってるうちに、だんだん、コツがつかめてきたよ。」
タンダは、しげしげとバルサを見つめた。
「……バルサ。」
「うん?」
「毎日、ずっと、この袋《ふくろ》と闘《たたか》ってたの?」
バルサは、むっとした顔になった。
「ちゃんと短槍《たんそう》の稽古《けいこ》もしてたよ。でもさ、短槍が手もとにないときに襲《おそ》われたらって思うとき、こういうことも大事《だいじ》なんだよ。」
聞きたかったのは、そういうことではなかったのだけれど、十日もひとりでさびしくなかった? などと聞いても、バルサのことだから、鼻を鳴らすだけだろう。
でも、いくらバルサだって、十日もひとりでいたらさびしかっただろうし、退屈《たいくつ》していたはずだ。こんな山の中で、ひとりぼっちで、どんなふうに過《す》ごしていたのだろう……。
「ね、」
タンダは立ちあがって、腰《こし》についた泥《どろ》をはたきながらいった。
「なんかして、遊《あそ》ぼ。」
バルサはこまったような顔になった。
「遊《あそ》ぶ? なにして?」
「なんでもいい。バルサが好きなので。おれ、今日は、遊べるんだもん。なんかしようよ。」
「べつに、好きな遊《あそ》びなんかないよ。 − めんどくさいから、いいよ。そんな暇《ひま》もないし。
トロガイ師がおいていってくれた味噌漬《みそづ》け肉《にく》や燻製《くんせい》ばっかじゃ飽《あ》きちゃうから、今日は罠《わな》を仕掛《しか》けようと思ってたんだ。」
まだ、さっきまで動いていたほてりが残《のこ》っているのだろう、バルサは、首筋《くびすじ》に浮《う》いてきた汗《あせ》をてのひらでぬぐった。
それを見ていて、ふと、タンダはいいことを思いついた。
「あ、じゃあさ、川へ行こうよ! 魚釣《さかなつ》りしよう!」
バルサは、ちょっとのあいだ、だまってタンダを見おろしていたが、やがて、うなずいた。
「まあ、いいや。そんじゃ釣《つ》りに行くか。ひさしぶりに魚《さかな》も食べたいし。」
タンダは、ぱっと顔をかがやかせた。
「やった! じゃあ、まず、タボ釣《つ》りだね。」
バルサはけげんそうな顔をした。
「タボ釣り?」
「え、バルサ知らないの? タボ?」
バルサがうなずくのを見て、タンダは、にこにこ笑《わら》った。
「んじゃ、教えてあげる。おもしろいんだよ。準備《じゅんび》するから、ちょっと待ってて。」
タボというのは、土の中にいる小さな虫《むし》で、魚釣《さかなつ》りのよい餌《えさ》になる。しかも、それを釣《つ》りあげるのは、けっこうおもしろいのだ。
タンダは上《あ》がりがまちに置《お》いてあった雑巾《ぞうきん》で足をぬぐって、トロガイおばさんの家の板《いた》の間《ま》にあがった。よく遊《あそ》びにきているから、おばさんが、どこになにをしまっているかだいたい見当《けんとう》がつく。繕《つくろ》い物《もの》をするための太い糸を見つけると、それをちょうどよい長さに二本切った。そして、先をくるっと結《むす》んで小さな玉《たま》をつくった。
外に出ると、ちょうどバルサが納屋《なや》から釣竿《つりざお》とヤスをもって出てきたところだった。
「バルサ! こっちにきてよ。釣《つ》り方《かた》を教えてやるから。」
バルサはヤスを壁《かべ》に立てかけて、釣竿をもってやってきた。
「あ、竿《さお》はいらない。そこんとこに置いておいて。この糸で釣《つ》るんだ。」
糸を渡《わた》すと、バルサはとまどったような顔でタンダを見た。
「これで、なにを釣るって?」
「あのね、タボって虫がいるの。……ほら、ここに穴《あな》があるでしょ? ちっちゃな穴。」
しゃがんで、地面に、点々《てんてん》とあいている穴を指さすと、バルサはそれに視線《しせん》をおとして、ああ、とつぶやいた。
「これがね、タボの巣《す》なんだよ。そんでね、タボって、巣穴《すあな》に隠《かく》れていて、外を通る虫《むし》に食《く》いつくんだ。………見てて。」
タンダは、穴《あな》の上をすーっと横切《よこぎ》るように糸をゆっくりふった。……と、ふいに小さな虫が頭をだして先端《せんたん》の糸玉《いとだま》に食いついた。タンダは、それを見るや、ぱっと糸を引いたが、うまく動作《どうさ》が合わなくて、虫は糸玉をはなして巣穴《すあな》にもどってしまった。
「あーあ!」
ため息《いき》をつくと、バルサが脇《わき》にしゃがみこんだ。
「ちょっと、どいてみ。やってみるから。」
タンダが脇にずれると、バルサは、すっと巣穴《すあな》の上で糸をふった。糸の振《ふ》りが速《はや》すぎる、と思ったのに、まばたきする間《ま》もなく、糸玉《いとだま》に食いついた虫が地面に引きずりだされて、のたうっていた。
バルサは無造作《むぞうさ》に虫をつかむと、ひょいっとタンダの鼻先《はなさき》にくっつけた。
「わ!」
冷たい虫がべたっと鼻にくっついて、タンダはあわてて、後《うし》ろにさがった。
バルサはにやにや笑《わら》いながら、虫をふっている。
「とーれた。 − 納屋《なや》の脇《わき》に、餌入《えさい》れの壺《つぼ》があるからもっておいでよ。五、六|匹《ぴき》とっておいてやるからさ。」
タンダは首をふった。
「やだよ。壺《つぼ》はバルサがとってきなよ。こんどはおれがタボを釣《つ》る番《ばん》だ。」
笑《わら》いながらバルサは立ちあがった。
「ねらうと、かえって逃げられちゃうよ。虫《むし》の顔を見てから引くんじゃなくて、穴《あな》の上を通過《つうか》させたらすぐ引くぐらいでちょうどいいみたいだよ。」
タンダはぶすっとした顔で穴の上に糸をたらした。しゃくだったから、バルサがいったのとは正反対《せいはんたい》に、ゆっくりふってみたけれど、また逃げられてしまった。
ふりかえってみると、バルサは納屋《なや》の脇《わき》にかがみこんで、小さな壺《つぼ》をもちあげている。
もどってきたバルサに、ほらどいてみな、といわれたくなかったので、タンダは、さっきのバルサのしぐさを思いだして、すっと糸をふってみた。……とたん、小さな手ごたえがあって、虫の重《おも》みが糸にかかった。
「とれたぁ!」
歓声《かんせい》をあげて、タンダは虫をふってみせた。
七|匹《ひき》ほどタボを釣《つ》って、小さな壺に入れると、ふたりは勇《いさ》んで渓流《けいりゅう》にむかった。
薮《やぶ》をぬけていくあいだ、いやになるほど蚊《か》が襲《おそ》ってくるので、トント草を探《さが》し、草をてのひらですりつぶして腕《うで》や首筋《くびすじ》、顔などに塗《ぬ》りつけた。トント草の汁《しる》は青臭《あおくさ》い、いやなにおいがするのだけれど、これを塗ると蚊《か》が寄《よ》ってこないのだ。
細い山道をしばらく下《くだ》ると、せせらぎの音が聞こえはじめた。河原《かわら》に出ると、とたんに、水の匂《にお》いにつつまれた。
河原の小石は日に照《て》らされて白く乾《かわ》いていたけれど、川面《かわも》を渡《わた》ってくる風は、ほっとするほど涼《すず》しい。
「釣竿《つりざお》はあんたが使っていいよ。わたしはこいつで突《つ》くから。」
ヤスを軽《かる》くふってみせると、バルサは、とん、とん、と、岩づたいに川の中ほどまで行ってしまった。
大きな石の上に立って、川面《かわも》に視線《しせん》をおとしたとたん、バルサの雰囲気《ふんいき》が変わった。
動かずに、じっと川を見つめていたバルサが、ふいに動いた、と思ったら、ヤスの先に銀色《ぎんいろ》の光がぴちぴちとおどっていた。
ぽかんと口をあけて、一部始終《いちぶしじゅう》を見ていたタンダは、思わず叫《さけ》んだ。
「パルサー!」
バルサが顔をあげて、なにごとか、という顔で、こちらを見た。
「熊みたいだねー! 熊もそうやって、パシッて魚《さかな》を獲《と》るんだよー、知ってる?」
大きな声でいうと、バルサがあきれたような顔をした。
「ばか。 − 変《へん》なこといってないで魚釣《さかなつ》りな! いつもの淵《ふち》に行って、でかいのを釣りなよ。」
バルサが指さした淵は、渓流《けいりゅう》がぐっと曲《ま》がっているところで、すこし深くなっている。川面《かわも》に大きな木の枝《えだ》が張《は》りだし、水の流れがとろんとゆるくなって、泡《あわ》が浮《う》いていた。
淵《ふち》の岩の下は魚たちの隠《かく》れ家《が》だ。ふたりで前に釣《つ》りにきたとき、あそこでタンダの二《に》の腕《うで》ほどもある大物《おおもの》を釣ったことがあった。
タンダはタボがはいった壺《つぼ》と釣竿《つりざお》をもって枝の下に行き、岩の上に腹《はら》ばいになって水中《すいちゅう》をのぞいた。
流れていく水の動きに慣《な》れてくると、澄《す》んだ水の底まで見えてきた。ゆれる水草《みずくさ》にやどっている水泡《すいほう》が、きらきらと光をはじいている。その水草のあいだを、ときおり、するっ、するっと黒い魚影《ぎょえい》が動いていく。胸《むな》びれを動かしながら、水流《すいりゅう》にさからって静止《せいし》している魚たちもいる。
ふらふらと飛んできたブヨが、力つきたようにポトッと川面《かわも》に落ちた……とたん、それまで静止していた魚が、さっと川面にロを突《つ》きだしてブヨを吸《す》いこんでしまった。
(……魚《さかな》って、目で見てるのかな?)
ふと気になって、タンダは川面《かわも》に指をのばしてふってみた。タンダの手の影《かげ》がゆれたとたん、魚の群《む》れがさっと散《ち》って岩の下に隠《かく》れてしまった。
鳥が飛んできたと思ったのかもしれない。
急《きゅう》に頭上《ずじょう》に影《かげ》がさした。鳥だ! 食われるぞ! − そんな魚たちの思いを想像《そうぞう》したとたん、頭の後ろが冷《つめ》たくなり、うなじがざわざわした。
(でも、鳥と、落っこちてきた虫《むし》と、どうやって見分《みわ》けるんだろう?)
大きさだろうか?
(手の影は大きいから、こわいのかな。それとも、急に動くから、びっくりするのかな。)
水の中で手を動かさずに、岩のふりをしたら、魚が隠《かく》れてくれるかもしれない。
そおっと手を水の中に入れると、また魚はばっと岩の下に隠れてしまった。タンダはゆっくりと手を動かして、魚が隠れた岩に、ひさしをつくるような感じで手をくっつけた。
汗《あせ》ばむほどに暑《あつ》い日だったけれど、やはり秋は秋で、川の水は沁《し》みるように冷たかった。腹《はら》ばいになっているので、胸《むね》が苦しいし、目の前がちかちかしてくる。川につけている手は冷たくて、しびれてきた。
それでも、いま、魚が自分の手を見あげて、あれ? 急《きゅう》にひさしができたなぁと思っているんだろうと思うと、おかしくて、タンダはくっくっと笑《わら》いだした。
いきなり、ぽんっ、と頭をはたかれて、タンダはびっくりして川から手をだし、岩に手をついて仰向《あおむ》けになった。
いつのまにきたのか、バルサが脇《わき》にしゃがんでいる。
「岩の上からじゃだめだよ。ちゃんと川にはいらなきゃ。」
なにをいわれたのかわからずに、ぼんやりバルサを見あげていると、バルサは立ちあがって岩をおりた。
「やってみせるから、見てな。」
(あ……。)
川にはいろうとしているバルサを見て、タンダはバルサがなにを勘《かん》ちがいしたのか気がついた。
「バルサ、ちがうよ!」
声をかけると、バルサがけげんそうな顔でタンダを見た。
「手づかみしょうとしてたんじゃないんだ。魚《さかな》のね、隠《かく》れ家《が》のふりをしてたんだよ、いま。」
手でひさしをつくっていたのだ、と説明《せつめい》すると、バルサは、まじまじとタンダを見ていたが、やがて、手を腰《こし》にあてて笑《わら》いだした。
なにがおかしいのか、バルサはひとしきり大笑《おおわら》いし、いきなり両手をのばすと、岩の上にしゃがんでいるタンダをかかえあげた。
「そーら、魚《さかな》たち、ひさしが落っこちてきたぞー!」
いうや、バルサは淵の深《ふち》いところに、タンダをほっぽり落とした。
盛大《せいだい》に水しぶきをあげてタンダは水に落ち、ぶくぶくもぐってから、一生懸命《いっしょうけんめい》|浮《う》きあがった。
浮きあがったところに、バルサが飛びこんできた。
水の中で腋《わき》の下《した》をくすぐられて、タンダは身《み》をよじって笑《わら》った。水を飲んでしまって、咳《せ》こむと、バルサは胸の下に手をあてて、水の上に顔が出るようささえてくれた。
つーん、と耳が痛《いた》み、聞こえる音が変わる。目をあけると、紅葉《こうよう》した木々の葉をすかして、秋の空が視界《しかい》いっぱいにひろがった。
咳《せき》がおさまると、タンダは顔をてのひらでつるりとぬぐった。立《た》ち泳《およ》ぎをしながら上衣《うわぎ》を脱《ぬ》ぐと、びしょびしょの衣《ころも》をまるめて、思いっきり河原《かわら》のほうへ放《ほう》りなげてから、足で水を蹴《け》って深い淵《ふち》にもぐっていった。
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五
日がかげりはじめた森をぬけて、トロガイおばさんの家の近くまできたとき、バルサがふいに足をとめた。
動くな、というしぐさをされて、タンダは足をとめた。
自分たちの足音が消《き》えたとたん、かすかに人の話し声が聞こえてきた。木立《こだち》のあいだから家のほうをすかし見ると、家の前の草地《くさち》に、数人の人影《ひとかげ》が見える。
聞きおぼえのある声が聞こえて、タンダはぎょっとした。 − 父だ。父と、隣《となり》のおじさん、それに、山畑《やまはた》の集落《しゅうらく》の人もいる。
「……ここにいな。」
耳もとでささやかれて、タンダはうなずいた。
バルサはヤスを右手にもち、左手に魚《さかな》をいっぱい入れた魚籠《びく》をぶらさげて、軽快《けいかい》な足どりで木々のあいだをすりぬけていった。
やがて、バルサが父たちと話す声が聞こえはじめた。
なにを話しているのか、よく聞こえなかったが、しばらくすると、父たちがなにかいいながら手をふるまうなしぐさをし、くるりと背《せ》をむけて、帰っていった。
父たちの姿《すがた》が消《き》えてから、タンダはそろそろと山道を下《くだ》り、バルサのところへ駆《か》けよった。
「父さん、おこってた?」
たずねると、バルサは首をふった。
「あんたを探《さが》しにきたんじゃないよ。トロガイ師《し》に会いにきたんだ。」
ふっと、いやな予感《よかん》が胸《むね》をさすった。
「なんで会いたいか、いってた?」
「なんか、よくわからなかったけど、稲刈《いねか》りの前に崇《たた》り祓《ばら》いをしてもらいたいから、帰ってきたら、すぐに村役《むらやく》のところにきてくれるように伝《つた》えろってさ。」
(やっぱり、おんちゃんのことだ……。)
大切《たいせつ》な稲刈《いねか》りの前に、これ以上、虫《むし》がわいたりしないように、祟《たた》り祓《ばら》いをしようという話になったのかもしれない。
ぽん、と頭に手をおかれて、タンダは、バルサを見あげた。
「夕飯《ゆうめし》、食っていきなよ。これから帰っても、飯《めし》を抜《ぬ》かれちゃうだろ? 帰りは、村のところまで送ってやるからさ。」
タンダは思わず首をふった。
「だめだよ! 暗くなってから山道を歩いちゃ。 − あぶないんだ。山畑《やまはた》のネェやが山犬《やまいぬ》に襲《おそ》われたんだよ。父さんたちがここにきたのも、そのことだよ、きっと。」
数日前からの騒《さわ》ぎの顕末《てんまつ》を一生懸命《いっしょうけんめい》話すあいだ、バルサはだまって聞いていたが、タンダが口をとじると、
「……くっだらねぇ。」
と、鼻で笑《わら》って、バルサは魚籠《びく》をもって井戸《いど》ばたへ行ってしまった。
小刀《こがたな》を抜《ぬ》いて、器用《きよう》に魚《さかな》の鱗《うろこ》をとり、内臓《ないぞう》を抜きはじめたバルサのそばに行って、タンダはしゃがみこんだ。
「バルサは、祟《たた》りじゃないと思う?」
たずねると、バルサは手を止めずに、
「さあね。」
と、いった。
タンダがだまっていると、バルサは言葉《ことば》をそえた。
「あんたの話を聞いたかぎりじゃ、なんか、そのおんちゃんっての、泣《な》きべそかきみたいだね。そんな感じのやつだろ?」
タンダは眉《まゆ》をよせた。
おんちゃんが泣《な》きべそをかくのは見たことがないし、会ったときは、いつも笑《わら》っていたから、笑顔《えがお》の記憶《きおく》しかない。でも、なぜか、いわれてみると、泣きべそをかいている顔を思いうかべられた。
「わかんないけど、そうかもしれない。」
つぶやくと、バルサは内臓《ないぞう》を抜《ぬ》いた魚《さかな》を水で洗《あら》いながら、ちらっとタンダを見た。
「わたしはさ、呪《のろ》いだの、祟《たた》りだののことはぜんぜん知らないけど、泣《な》きべそかくような感じのやつなら、死んでからも化《ば》けて出て、娘《むすめ》を襲《おそ》うなんて、くだらないことをしそうな気がするわ。」
つるっと魚を手でぬぐって桶《おけ》に入れると、バルサはつぎの魚を魚籠《びく》からつまみあげた。
タンダは眉《まゆ》をぎゅっとよせた。 − おんちゃんは、たしかに、そういうなさけないところがある人だったけれど、でも、なにかちがうんだ、といいたかった。胸《むね》にいっぱい、もやもやと思っていることがあるのに、どれも言葉《ことば》にできない。ロにだしたら、ちがうことになってしまいそうな気がした。
タンダの沈黙《ちんもく》をどう思ったのか、ふいに、バルサは投げやりな口調《くちょう》でいった。
「だけどさ、わたしは死んだやつが崇《たた》れるなんて信じられないね。恨《うら》みをのんで死んだやつなんて、この世に山のようにいるだろ。人を恨みながら死んだら祟《たた》りガミになれるんなら、この世は祟りだらけで、大変《たいへん》なことになってるはずじゃないか。」
バルサは小刀《こがたな》をトンッと、手近《てぢか》にあった薪《まき》に突《つ》き立てると、残《のこ》り少なくなった汲《く》み置《お》きの水で手を洗《あら》ってから立ちあがり、ガラガラといきおいよく釣瓶《つるべ》をたぐった。
「そんなことが、ほんとにあるなら、わたしやジグロは、とっくにとり殺《ころ》されてるよ。」
吐きすてるようにそういうや、バルサは、大きな水桶《みずおけ》にざあっと水をあけた。
タンダは、なにもいえずに、バルサを見ていた。バルサはこちらを見なかったが、ぎゅっと歯《は》を噛《か》みしめているのだろう、顎《あご》のあたりが盛《も》りあがっている。
バルサはときおり、こんなふうに、いきなり腹《はら》をたてることがあった。なにかの拍子《ひょうし》に、火にくべた竹のように弾《はじ》けるのだ。
どういう事情《じじょう》か、よく知らなかったけれど、バルサがこんな暮《く》らしをしているのは、追手《おって》から逃《に》げているのだということだけは知っていた。
育《そだ》ててくれているジグロが追手を殺《ころ》して、追跡《ついせき》からのがれているからこそ、こうやって生きていられるのだということも。
でも、バルサには、おびえて逃げている兎《うさぎ》のような、細い糸が張《は》りつめているような感じはなかった。むしろ、追ってくるものに対《たい》して身《み》がまえ、牙《きば》をむきだして捻《うな》っている狼《おおかみ》のような激《はげ》しさがあった。
バルサは、じっとタンダに視線《しせん》をもどすと、きつい口調《くちょう》でいった。
「祟《たた》りかどうかなんて、どうでもいいじゃないか。うしろめたいことのあるやつらが、さわいでるだけさ。うしろめたいことがあるもんだから、山犬《やまいぬ》とでっくわしたり、害虫《がいちゅう》がわいたりするたんびに、祟《たた》りだなんだって大騒《おおさわ》ぎしてるんだろ。
くっだらねぇ。 − 死んだ人に、ひどい扱《あつか》いしちまって申しわけなかったと思ってるなら、祟《たた》り祓いをしてくれなんていいにくる前に、そのおんちゃんとかって人の骸《むくろ》を、ちゃんと葬《ほうむ》りなおしてやりゃあいいじゃないか。」
タンダは、思わずまばたきをした。荒《あら》っぽい言葉《ことば》をぶつけられたのに、むしろ、もやもやしていた気持ちが、吹《ふ》き飛《と》ばされたような気がした。
「うん。」
タンダはうなずいた。
「おれも、そう思う。」
素直《すなお》にうなずかれて、バルサは、なんだかこまったように顔をしかめた。しばらくだまってタンダの顔を見ていたが、やがて、眉根《まゆね》をよせて、つぶやいた。
「……なんの話から、こんな話になったんだっけ。」
「夕飯《ゆうめし》の話からだよ。」
タンダが答えると、バルサはいよいよ顔をしかめた。
「夕飯《ゆうめし》?」
「そうだよ。おれに、夕飯食べてけって、いったじゃない。遅《おそ》くなっても送ってやるからってバルサがいって……。」
「ああ。」
憑《つ》きものが落ちたように、バルサの顔から怒《いか》りの色が消えた。
「思いだした。−−−食べていくだろ? ちょっとくらい遅《おそ》くなったって、山犬《やまいぬ》なんぞ出やしないよ。出たって追っぱらってやるからさ、食べていきなよ。」
「うん。食べてく。」
うなずくと、バルサはちょっとうれしそうな顔になった。
「よし。じゃあ、飯《めし》を炊《た》いてよ。魚《さかな》はわたしが焼《や》くからさ。」
タンダは、うなずいて立ちあがった。
トロガイおばさんが家にいるときでも、いっしょに夕飯を食べるときは、タンダが飯を炊くことになっていた。
飯《めし》を炊《た》かなくていいと思うと、いつも、バルサはうれしそうな顔になる。バルサはなんでもできるのに、なぜか飯《めし》を炊《た》くのだけは苦手《にがて》なのだ。気がみじかいから、途中《とちゅう》で蓋《ふた》をあけて中をのぞいてしまったり、稽古《けいこ》のことを考えていて、炊きすぎてしまうのだろう。
ほっこりとご飯《はん》が炊《た》ける頃《ころ》には、空は夕焼《ゆうや》けにそまっていた。
ふたりは囲炉裏《いろり》で魚《さかな》を焼《や》いて、トロガイおばさんが漬《つ》けている青菜《あおな》を添《そ》えて、ほかほかのご飯といっしょにむしゃむしゃ食べた。
「……うまいなぁ。秋になると、川魚《かわざかな》も脂《あぶら》がのるのかなぁ。」
ご飯《はん》を食べながら、心《しん》から幸《しあわ》せそうな顔をして、バルサがつぶやいた。
獲ってきた魚はほんとうに丸々《まるまる》|肥《こ》えていて、塩をまぶしてこんがり焼《や》いた皮目《かわめ》についた脂《あぶら》は、舌《した》にとろけるうまさだった。
「トロガイおばさんちは、去年|刈《か》った米を食べてるから、ご飯《はん》がすごくおいしいね。うちのご飯は、一昨年《おととし》刈った米と雑穀《ざっこく》まぜてるから、こんなにいい匂《にお》いしないよ。」
炊《た》きたてのご飯の匂いを、タンダは胸《むね》いっぱいに吸《す》いこんだ。
「でも、もうすぐこういうご飯が食べられるんだ。はやく稲刈《いねか》りしたいなぁ。」
タンダがいうと、バルサはふいっとタンダの顔を見た。
「あ、それで思いだした。五日後に、あんたんところの田んぼ、稲刈りなんだって? 助《す》け刈りにこないかって、あんたの父さんからさそわれたよ。手伝《てつだ》ったら新米《しんまい》を分《わ》けてくれるってさ。」
「ほんと?」
びっくりして、タンダは聞きかえした。
「うん! ほら、この夏、ずいぶん、サワさんとこの畑《はたけ》の手伝《てつだ》いをしただろ? サワさんにも、稲刈《いねか》りを手伝えっていわれてるんだ。あんたの父さん、サワさんから、わたしが手伝うって話を聞いたんじゃないかな。」
「ああ……。」
そうかもしれない。サワさんの家は、タンダの家とおなじ雪野《ゆきの》の集落《しゅうらく》にあるから、稲刈《いねか》りもいっしょにおこなうのだ。 − それでも、あの流《なが》れ者《もの》をきらう父が、バルサに声をかけたというのは意外《いがい》な気がした。
「そんで、なんて答えたの?」
バルサが、うちの田んぼの稲刈りにきてくれるかもしれない、と思うと、わくわくする気持ちをおさえられなかった。
バルサは、タンダの顔を見て、笑《わら》いだした。
「そんなに、きてほしい?」
「うん!」
力いっぱいうなずくと、バルサはやれやれ、という顔をした。
「んじゃ、行こうかな。 − 父さんが帰ってきて、どっかへ行かなくちゃならなくなったら、手伝《てつだ》いに行けないけど、そんときは、ごめんよ。」
タンダは、こくっとうなずいた。
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六
この里では、若《わか》い男手《おとこで》がない家でも苦労《くろう》することがないように、稲刈《いねか》りは、それぞれの集落《しゅうらく》ごとに助けあいながらやっていく。今日《きょう》はタンダの家の番《ばん》だったから、夜明《よあ》け前《まえ》から家の前にざわざわと集落の人たちがあつまりはじめていた。
母《かあ》さんもタンダたちも、手伝《てつだ》いの衆《しゅう》にふるまう飯《めし》をつくるために、夜が明ける前から起きて、たくさんの飯を炊《た》き、菜《な》を刻《きざ》んで混《ま》ぜこんだ。それを大人《おとな》のこぶしぐらいの大きさに握《にぎ》って、やわらかく煮《に》て冷《さ》ましておいたアショの葉でつつむのだ。
アショの葉にくるまれた飯《めし》の匂《にお》いをかぐと、ああ稲刈《いねか》りだ、と思う。
近隣《きんりん》の娘《むすめ》たちも手伝《てつだ》いにきてくれていたから、水場《みずば》や竈《かまど》の前に何人もが立《た》ち働《はたら》いていて、土間《どま》がせまっくるしく感じられた。娘たちは手に負《ま》けないくらい口も動かしているので、その騒《さわ》がしさたるや、そうとうなものだった。
とうとうタンダはいたたまれなくなって、できあがったアショ飯《めし》を大きな木皿《きざら》に盛《も》ると、よろよろと土間《どま》から前庭《まえにわ》に出た。
外に出ると、涼《すず》しい風が衣《ころも》をすりぬけていき、タンダは、ほっと息《いき》をついた。
まだうすぐらい前庭《まえにわ》では男衆《おとこしゅう》や少年たちが数人ずつ寄《よ》りあっまって、立ち話をしている。その人の群《む》れから外《はず》れた庭の片隅《かたすみ》に、バルサがぽつんと立っているのに、タンダは気づいた。
なにをするでもなく、ただ鎌《かま》をもって田のほうを見ている。
タンダは、友だちとしゃべっている次兄《じけい》に大皿《おおざら》を押《お》しっけ、皿の上から、アショ飯《めし》を三つとって、バルサのところに駆《か》けよった。
「バルサ、おはよ!」
バルサは、ふりむいて、かすかにほほえんだ。
「おはよ。」
それから、タンダがかかえているアショ飯《めし》に視線《しせん》をおとした。
「なんだい、それ?」
「知らないの? これ、アショ飯《めし》だよ。稲刈《いねか》りのとき、手伝《てつだ》いにきてくれた人にふるまう御馳走《ごちそう》。おいしいんだよ。 − バルサのほうが大きいから、ふたつ。」
大きなアショ飯をふたつ、バルサに渡《わた》すと、バルサはなんだか笑《わら》いをこらえているような顔をした。
「ありがと。……へえ、いい匂《にお》いがするね。」
「うん。」
庭のあちこちで、男衆《おとこしゅう》がアショ飯《めし》を食べているのをながめながら、バルサは、大きな口をあけてアショ飯にかぶりついた。
まだあたたかいアショ飯は、とてもおいしかった。ふたりは、しばらく無言《むごん》で大きなアショ飯を食べた。
庭に出てきて、手伝《てつだ》いにきてくれている男衆に挨拶《あいさつ》をしていた母が、ふと、こちらを見た。ちょっとのあいだ、けげんそうな顔で、三男坊《さんなんぼう》と、そのそばにいる手足の細長い娘《むすめ》をながめていたが、やがて、アショ飯《めし》を配《くば》りながら、こちらへやってきた。
「おやまあ、手伝いにきてくれたのかね。」
タンダの母に声をかけられて、バルサは、ちょっとかしこまった顔になった。
「はい。 − あの、さそっていただいたので。」
タンダの母はほほえんだ。
「まあまあ、そりゃ、ほんとにたすかるわ。ありがとね。台所《だいどころ》のほうも、今日《きょう》はたあんと仕事《しごと》があるんでねぇ。」
バルサは、あわてて首をふった。
「いえ、あの、できれば、わたしは稲刈《いねか》りのほうを手伝《てつだ》いたいです。鎌《かま》ももってきました。」
タンダの母は、びっくりしたような顔になった。
「そうかね。……でも、あんた、稲刈《いねか》りは大変《たいへん》だよ。腰《こし》は痛《いた》くなるし……。」
バルサは、ほほえんだ。
「だいじょうぶです。わたしは頑丈《がんじょう》ですから。」
タンダの母は、しげしげとバルサをながめていたが、膝丈《ひざたけ》の括《くく》り袴《ばかま》をはいているバルサのむきだしの脛《すね》に目をとめるや、
「……ちょっと待ってなさいな。」
と、言いおいて、ばたばたと家の中へもどってしまった。
なにをしているのか、アショ飯《めし》を食べおわっても、タンダの母はもどってこなかった。
男衆《おとこしゅう》が動きはじめ、待つべきか、男衆といっしょに行くべきか、バルサが迷《まよ》いはじめた頃《ころ》、ようやく、タンダの母が手になにかもってもどってきた。
「ごめんねぇ。新しいのがないか探《さが》したんだけど、こんなお古《ふる》しか見つからなくて……。」
いいながら、タンダの母はバルサの前に膝《ひざ》をつき、もってきた脛当《すねあ》てを、バルサの脛にあてて縄《なわ》でしばりはじめた。
「あ……自分でやります。」
おどろいてバルサがいったが、タンダの母は、笑《わら》いながら、ぎゅっぎゅっと手際《てぎわ》よく縄《なわ》を結《むす》んでしまった。
「ほらできた。慣《な》れないと、鎌《かま》で脛《すね》を切っちまうことがあるからねぇ。お古《ふる》でも、怪我《けが》するよりはましだからさ。」
「……ありがとうございます。」
細い声で、バルサがいった。やっと喉《のど》から出たような声だった。
タンダは、どきっとした。 − バルサが、泣《な》くんじゃないかと思ったからだ。
母も、なにか感じたのだろう。バルサの肩《かた》をなでながら、やさしい声でいった。
「大変《たいへん》だけど、お願《ねが》いするね。無理《むり》せんように、ときどきは息《いき》をぬきながら、やっておくれ。」
バルサはだまってうなずいた。
そして、小さく一礼《いちれい》すると、ふたりの顔を見ずに、鎌《かま》をもって、男衆《おとこしゅう》が行ったほうへ駆《か》けていった。
やがて、囃子方《はやしかた》をかって出た爺《じい》さま、婆《ばあ》さまたちの、威勢《いせい》のよい笛太鼓《ふえたいこ》の音とともに、稲刈《いねか》りがはじまった。
腰《こし》をかがめて、三束《みたば》|刈《か》っては脇《わ》に置《お》き、三束刈っては、前の束に重《かさ》ねる。すこしずつ移動《いどう》しながら、ひたすらそれをくりかえす。 − 稲刈《いねか》りは根気《こんき》のいる、大変《たいへん》な仕事《しごと》だった。
へたくそな刈《か》り手《て》が刈った稲《いね》は、干《ほ》しても良い藁《わら》にならないから、十二|歳《さい》以下の子どもらは鎌《かま》をもたせてもらえない。それでも、タンダも妹たちも、刈られて、地面に置《お》かれた稲束《いなたば》をあつめては縄《なわ》でしばる仕事や、水運《みずはこ》びをして、汗《あせ》まみれになった。
夜刈《よが》りをする田もあるようだが、タンダの家がある雪野《ゆきの》の集落《しゅうらく》では、日暮《ひぐ》れには作業《さぎょう》をやめる。くたびれきって、口をきく気にもなれぬ刈《か》り手《て》たちは、女衆《おんなしゅう》が心をこめてつくった煮物《にもの》や炊込《たきこ》み飯《めし》と酒《さけ》をふるまわれて、家路《いえじ》につくのだった。
稲刈りの作業は、平地《へいち》から山ぎわへと次第《しだい》に移動《いどう》していき、五日目には、雪野のすべての田んぼが、無事《ぶじ》に収穫《しゅうかく》を終えた。
バルサは毎日、夜《よ》が明《あ》ける前には山をおりてきて、夕飯《ゆうめし》を食べると山へ帰った。
あぶないし、身体《からだ》がきついだろうからと、タンダの母が家に泊まっていくように何度もいったけれど、バルサは頑《がん》としてそれを聞かず、かならずトロガイ師《し》の家に帰っていった。
愛想《あいそう》のない変《へん》な小娘《こむすめ》だと、次兄《じけい》たちはバルサをさんざんにけなしたけれど、二日、三日と経《た》つ頃《ころ》には、バルサを気にいって、かわいがる者もあらわれた。 − タンダの祖父《そふ》はその筆頭《ひっとう》で、しきりとバルサの仕事《しごと》ぶりをほめた。
「あの娘《むすめ》ぁ、いい野良仕事《のらしごと》をする。一人前《いちにんまえ》の男衆《おとこしゅう》に負《ま》けん! カンバルのもんは馬のように強いというが、ほんとうだのう。あんなに小さいのにまあ、腰《こし》がしっかりすわっているし、刈るのが早い。それに、なにしろ稲《いね》の茎《くき》がつぶれとらん。みごとな切り口で刈りおる。いい藁《わら》ができる、いい刈《か》り方《かた》だ。」
それは、タンダも気づいていた。バルサが刈った稲をまとめるたびに、切り口がきれいだなぁとおどろいていたのだ。
じいさんがほめていたよ、と、バルサにいうと、バルサは素直《すなお》にうれしそうな顔をしたけれど、それでも、バルサはいつも、すこしだけ人の輪《わ》から離《はな》れていて、親《した》しく交《まじ》わろうとはしなかった。
里《さと》のすべての田んぼの収穫《しゅうかく》が終わると、天《てん》ノ神《かみ》さまに初穂《はつほ》をお供《そな》えするお祭《まつ》りがおこなわれる。
おまえが刈《か》った稲《いね》も供《そな》えるのだから、ぜひくるようにと、タンダの祖父《そふ》にいわれて、今年はバルサもお祭《まつ》りを見に山からおりてきた。
その日は、朝のあいだは曇っていたけれど、お日さまが中天《ちゅうてん》に座《ざ》す頃《ころ》 − 稲穂《いなほ》の大束《おおたば》を里の広場に組みあげて天《てん》ノ神《かみ》さまに捧げ、村人|総出《そうで》で歌《うた》い踊《おど》る祀《まつ》り上《あ》げの頃には、雲も切れて、よいお天気になった。
秋らしいうすい青空に、ひょろひょろと陽気《ようき》な笛《ふえ》の音《ね》が舞《まい》いあがっていく。
広場のまわりには扇《おうぎ》ノ下《しも》からやってきた行商人《ぎょうしょうにん》たちが粗末《そまつ》な屋台《やたい》をひろげ、菓子売《かしう》りのおじさんが、赤や黄色の派手《はで》な衣《ころも》をしりっぱしょりして、ボン、ボンと小太鼓《こだいこ》を打ちながら、子どもらに飴《あめ》を売ってまわっている。
タンダは踊《おど》りの輪《わ》にはいらずに、バルサといっしょに屋台《やたい》をまわっていた。さそってみたけれど、バルサは首をふって、踊りの輪にはいろうとしなかったからだ。
「踊《おど》ってきなよ。ここで見ててやるから。」
バルサは気楽《きらく》な口調《くちょう》でそういったけれど、タンダはバルサのそばから離《はな》れなかった。踊っているうちに、バルサがいなくなってしまうような気がしたのだ。バルサは、そんなことはしないだろうけれど、でも、なぜか、ふりかえったら消えてしまっているような、そんな気がしてならなかった。
だから、タンダはバルサのそばにいた。村の悪《わる》ガキ仲間《なかま》がひやかしても、ふりかえりもせずに、ただバルサのそばにくっついて、屋台《やたい》を見てまわった。
飴売《あめう》りの前で、タンダは立ちどまった。
「さあさあ、くるくるまわる飴《あめ》! まわってまわって天《てん》に行け! さあさあ、くるくるまわる飴……。」
赤と白の縞模様《しまもよう》の飴《あめ》を器用《きよう》にまわしながら、歌うように叫《さけ》んでいる飴売《あめう》りのおじさんの口上《こうじょう》を聞きながら、タンダは、小さな声でつぶやいた。
「……髭《ひげ》のおんちゃんの口上は、もっと、跳ねるみたいだった。」
バルサが、タンダを見おろした。
「だれが、なんだって?」
あまりの騒々《そうぞう》しさに、聞きとれなかったのだろう、そうたずねてから、ふいに、察《さっ》した表情《ひようじよう》になって、ああ、といった。
「あのおんちゃんの話か。 − 飴売《あめう》りだったんだね。」
「飴も売ってたし、弾《はじ》け菓子《がし》も売ってた。飾《かざ》り紐《ひも》や、鈴《すず》や……なんでも。」
バルサは、ふうん、といった。
去年の祭《まつ》りのときには、おんちゃんが飴《あめ》を売っていたのに、今年は、もういない。もう、おんちゃんの飴売《あめう》りを見ることは、二度とない。 − そう思ったとたん、ふうっと、なにか、色のない景色《けしき》のようなものが、胸《むね》にひろがった。
こうやって踊《おど》っている人たちも、いつかは消《き》えて、でも、そのときには、別《べつ》の人たちが踊っていて、祭りはつづいていくのだろう。
「飴《あめ》、買ってやろうか?」
バルサの声で、タンダは夢《ゆめ》からさめたように、はっと顔をあげた。
「ううん。飴《あめ》はいいや。− 炙《あぶ》り鳥《どり》を食べようよ。あのおばさんの炙り鳥、おいしいんだよ。」
小柄《こがら》なおばさんがやっている屋台《やたい》を、タンダは指さした。
よく肥《こ》えた鳥をあぶっているのだろう、まっ赤《か》に熾《おこ》っている炭に脂《あぶら》が落ちるたびに、ぼうっと炎《ほのお》がたっている。煙《けむり》に乗って香《こう》ばしい匂《にお》いがただよってきた。
遠くなっていく飴売《あめう》りの口上《こうじょう》を背中《せなか》で感じながら、タンダはバルサを炙《あぶ》り鳥《どり》の屋台《やたい》にひっぱっていった。
ふたり分《ぶん》の炙《あぶ》り鳥《どり》を買ってタンダに一個やってから、自分の分《ぶん》にかぶりついたバルサは、目をまるくした。
「へぇ! こりゃ、うまいや!」
思わずつぶやくと、髪《かみ》に匂《にお》いがつかないようにほっかぶりをしているおばさんが、うれしそうに笑《わら》った。
「そうだろ! え? 扇《おうぎ》ノ下《しも》のどの屋台《やたい》でもさ、炙《あぶ》り鳥《どり》のうまさったら、ぱりっと焼《や》いた皮《かわ》のうまさが売りだけどね、あたしのは、それだけじゃない。秘伝《ひでん》のタレに長いこと漬《つ》けてあるからね、肉《にく》の味《あじ》がこなれてるのさ。」
炙《あぶ》り鳥を大きく噛みちぎって、夢中《むちゅう》で食べながら、バルサは聞いた。
「……ね、おばさん、おばさんは扇《おうぎ》ノ下《しも》でも、屋台《やたい》をだしているの?」
「だしてるよぉ! 青垣水路《あおがきすいろ》の橋《はし》のたもとに割付《わりつけ》をもらってるから、この炙《あぶ》り鳥《どり》が食べたきゃ、ぜひおいで。」
後《うし》ろの人に押《お》されて、屋台《やたい》の脇《わき》に出てきたバルサに、タンダはたずねた。
「屋台まで、行ってみるの?」
バルサは、ちょっと煙《けむ》ったいような顔をして笑《わら》った。
「父さんにも食べさせてやりたいと思ってさ。こんど、扇《おうぎ》ノ下《しも》で働《はたら》くときには、寄《よ》ってみる。」
「……いいなぁ、バルサは。」
タンダがため息《いき》をついたので、バルサは眉《まゆ》をあげてタンダを見おろした。
「なんで?」
「だって、しょっちゅう扇《おうぎ》ノ下《しも》に行けるんだもん。 − おれなんか、二回しか、つれてってもらったことないよ。」
「ああ……。」
バルサは、食べおえた炙《あぶ》り鳥《どり》の串《くし》を、ぽおんと屋台《やたい》の脇《わき》に置《お》いてある籠《かご》に投げ入れた。
「まあね。流《なが》れ者《もの》の暮らしにも、いいことはあるさ。里人《さとびと》の暮らしだって、そうだろ。そんなこと愚痴《ぐち》ったってしょうがないよ。あんたには、やさしいおっかさんや、じいさんがいるじゃないか。」
いいながら、ふっと視線《しせん》をあげて、バルサは言葉《ことば》をついだ。
「じいさんといやぁ、あんたのじいさんが、呼《よ》んでるよ。」
ふりかえると、たしかに、祖父《そふ》が手をふっている。
「あ……もうそろそろ、(里《さと》の守《まも》り)さまのとこへ、初穂《はつほ》をお供《そな》えにいく行列《ぎょうれつ》が出るんだ。」
いつのまにか笛《ふえ》の音《ね》の調子《ちょうし》が変わって、踊《おど》りも終わり、里の人たちがぞろぞろと、ひとつの方向へ動きはじめていた。
ふたりが近づいていくと、タンダの祖父は、きれいな飾《かざ》り紐《ひも》でたばねた初穂《はつほ》の束《たば》をひとつずつ手渡《てわた》してくれた。
「ほれ、行くぞ。はぐれんように、ついておいで。」
三人は、のんびりと歩いていく人の群《む》れにくわわって歩きはじめた。
刈《か》り取《と》りがすんだ田の睦道《あぜみち》をぬけ、西の村境《むらざかい》のほうへ人の群れはゆっくりと動いていく。山ぎわの墓場《はかば》にさしかかると、数人の里人《さとびと》が、あちこちの屋敷墓《やしきばか》の脇《わき》に立ってなにかしているのが見えた。
「…‥‥‥‥。」
バルサがその人たちに目をむけると、タンダがささやいた。
「トルチャ(面影《おもかげ》)を抜《ぬ》いているんだよ。」
このあたりの村の屋敷墓《やしきばか》には、故人《こじん》の面影《おもかげ》を描《えが》いた棒状《ぼうじよう》の板《いた》が立てられている。だれかが亡《な》くなると、家族《かぞく》のうちの手先《てさき》の器用《きよう》な者が、心をこめて、その人の面影を細い板に墨《すみ》で描いて、墓《はか》に立てるのだ。
いま、墓場《はかば》にいる人たちは、たしかに、石積《いしづ》みで囲《かこ》われた屋敷墓《やしきばか》から、その面影《おもかげ》を描《えが》いた板棒《いたぼう》を抜いているのだった。
「……なんのために?」
バルサは、けげんそうに問《と》いかえした。タンダはほほえんだ。
「そっか。バルサは、祭《まつ》りにきたの、はじめてだから、(里《さと》の守《まも》り)さまも見たことないんだね。」
やがて、墓《はか》にいた里人《さとびと》たちは、風雨《ふうう》にさらされて変色《へんしょく》した細い板《いた》を、大切《たいせつ》そうに腕《うで》に抱《だ》いて、歩いている人びとの列《れつ》にくわわった。みんな、ちょっと脇《わき》によけて、その人たちを先に行かせてあげている。
もう日はずいぶんとかたむいて、木々の枝《えだ》を斜《なな》めにすかして西日《にしび》が落ち、山道を村境《むらざかい》の峠《とうげ》へと登《のぼ》っていく人びとの横顔を赤く照《て》らしていた。
村境《むらざかい》の峠《とうげ》には、やや広い草地《くさち》があり、崖《がけ》の斜面《しゃめん》にずらりと木造《もくぞう》の細長い箱のような社《やしろ》がならんでいる。社《やしろ》の下には、野の花や酒《さけ》が供《そな》えられている供物台《くもつだい》があり、その脇《わき》に、もう早くからきて待っていたらしい老人《ろうじん》たちが腰《こし》をおろしていた。
里人《さとびと》が登ってくるのを見ると、老人たちは、よっこいせと曲がった腰をのばすようにして立ちあがった。そして、ふたり一組《ひとくみ》になって、お社《やしろ》の扉《とびら》に手をかけると、ゆっくりと開《ひら》いていった。
バルサは何度もこの峠《とうげ》を通っていたけれど、お社《やしろ》の中の(里《さと》の守《まも》り)さまを見たのは、これがはじめてだった。
ふだんは閉じられている扉《とびら》の奥《おく》にひっそりとたたずんでいたのは、数千本ものトルチャ(面影《おもかげ》)の板棒《いたぼう》だった。風雨《ふうう》にさらされ、描《えが》かれていた顔もうすれて見えなくなった古いトルチャ(面影)が、びっしりと重《かさ》ねられて、ならんでいる。
さっき先祖代々《せんぞだいだい》の家族墓《かぞくばか》からトルチャ(面影《おもかげ》)を抜《ぬ》いていた人たちが前に出て、ロぐちに、「ひいおばあちゃん、わたしたちを守ってね。」
「今年のように、来年も稲《いね》がたあんと実《みの》りますように、守ってくださいねぇ、ひいじいさん。」
などと祈《いの》りの言葉《ことば》をかけながら、トルチャ(面影《おもかげ》)を社《やしろ》に納《おさ》めていく。
里人《さとびと》たちはみな、供物台《くもつだい》に初穂《はつほ》を置《お》くと、頭をたれて目をつぶり、口の中で祈りの言葉をつぶやきはじめた。小さな子どもらも、親たちをまねて、祈りの言葉を唱《とな》えている。
西日《にしび》があたる峠道《とうげみち》に、祈りをつぶやく声だけが、小波《さざなみ》のように満《み》ちた。
バルサは初穂《はつほ》を供物台《くもつだい》に置いて、ちょっとだけ目をとじて礼《れい》をすると、目立たぬように後《うし》ろにさがった。
タンダは祖父《そふ》とともに、深く頭をたれて、一生懸命《いっしょうけんめい》|祈《いの》っている。その髪《かみ》に西日があたっているのを、バルサはぼんやりと見ていた。
里人《さとびと》が祈りを終えると、さきほどの老人《ろうじん》たちが、きしむ扉《とびら》をしめた。
人びとはそれぞれ、供《そな》えた初穂《はつほ》をまた手にもつと、三々五々《さんさんごご》里へもどりはじめた。
タンダの祖父が、供物台《くもつだい》から下ろしてきた初穂をひと束《たば》、バルサに渡《わた》した。
「この初穂《はつほ》の米は万病《まんびょう》の薬《くすれ》だ。大事《だいじ》にとっておいて、具合《ぐあい》が悪くなったら食べな。」
バルサはお礼《れい》をいって初穂を受けとった。
ほとんどの人が草地《くさち》から離《はな》れても、タンダは、しばらく草地に残《のこ》ってきょろきょろとあたりを見まわしていたが、祖父《そふ》に呼《よ》ばれて、あわててバルサのところにやってきた。
タンダとならんで歩きながら、バルサは小さな声で、タンダの祖父にたずねた。
「……お墓《はか》に立っているトルチャ(面影《おもかげ》)が、何年か経《た》つと(里《さと》の守《まも》り)さまになるんですか。」
タンダの祖父はほほえんだ。
「トルチャ(面影《おもかげ》)から面影が消《き》えたらな、(里《さと》の守《まも》り)さまになるんさ。そんで、ずうっと、子孫《しそん》たちを守ってくださるんさ。」
そのとき、ちょっと前を歩いていたおばさんがふりかえって、タンダの祖父に話しかけた。タンダの祖父は足をはやめて、そのおばさんの脇《わき》にならぶと、なにやらうなずきながら、話しはじめた。
バルサはふと、脇を歩いていくタンダが、なんとなく浮かない顔をして、ずっとだまったままなのに気づいた。
「……どうしたんだい?」
声をかけると、タンダは顔をあげた。
「あのね。」
小さな声で、タンダはいった。
「髭《ひげ》のおんちゃんが倒《たお》れていたの、あのあたりのはずなんだ。だから、おれ、拝《おが》もうと思って、亡《な》くなってた場所を探《さが》したんだけど、見つからなかった。……だれかが亡くなった場所には、一年くらいは、家族《かぞく》が花をお供《そな》えするのに。」
バルサは、しばらくだまって歩いていたが、ふと立ちどまると、前を歩いていくタンダの祖父《そふ》に声をかけた。
「おじいさん!」
ふりかえったタンダの祖父に、バルサはいった。
「ちょっと用《よう》を足《た》したいんで、遅《おく》れるけど、心配《しんぱい》しないでください。すぐ追いつきますから。」
うなずいて、またおばさんのほうに顔をもどして歩きはじめたタンダの祖父を見送って、バルサは、タンダの手をとった。
「峠《とうげ》にもどろう。」
けげんそうな顔をしているタンダの手をひいて、バルサは、だれもいなくなった峠の草地《くさち》にもどると、手にもった初穂《はつほ》をタンダに渡《わた》した。
「これを、おんちゃんに供《そな》えてやりな。」
びっくりして、タンダはバルサを見あげた。
「え……でも、場所がわかんないよ。」
バルサは、にやっと笑《わら》った。
「そんなもん、どうでもいいさ。 − この草地のどこだって。」
そして、ぐうっと腕《うで》をひろげて伸《の》びをした。
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七
稲刈《いねか》りが終わると、山も里《さと》も、一気《いっき》に秋の色につつまれる。
タンダの里では、子どもたちが毎朝、白い息《いき》を吐きながら山を見あげては、紅葉《こうよう》の変《か》わり目《め》を指さしながら、秋霜《あきしも》の小僧《こぞう》が、もうあそこまで降《お》りてきてるよ、と話しあった。高い山から下《くだ》ってくる冷たい靄《もや》につつまれた木々の葉は赤や黄にそまり、やがて、かさかさと音をたてて地《ち》に舞《ま》い落ちた。
よく乾《かわ》かした稲穂《いなほ》の脱穀《だっこく》が終わり、田の仕事《しごと》がひと段落《だんらく》するこの時期は、さかんに婚礼《こんれい》がおこなわれる。
山犬《やまいぬ》に飾《かざ》り帯《おび》を食いちぎられたと大騒《おおさわ》ぎした山畑《やまはた》のネェやも、兄から新しい飾り帯をもらい、にぎやかな笛太鼓《ふえたいこ》に送られて、うれしそうにヤスギ村《むら》へ嫁《とつ》いでいった。
租税《そぜい》を払《はら》いおえ、蔵《くら》に種籾《たねもみ》と来年の実りまでの米を納《おさ》めたうえで、手もとに残《のこ》った米は金《かね》に換《か》えることができる。たいした金にはならなかったけれど、それでも、新しい衣《ころも》を縫《ぬ》うための布《ぬの》やら、鍋《なべ》やらを買ったりするくらいの金は、どの家でも手にすることができた。
この時期は、だから、若者《わかもの》たちがさかんに街《まち》に買い物に出る季節《きせつ》でもあった。峠道《とうげみち》をもどってくる若者たちのなかには、美しい金糸《きんし》で縫《ぬ》い取《と》りをほどこし、小さな鈴《すず》をつけた帯《おび》を腰《こし》に巻《ま》いている者もいた。
稲刈《いねか》り終えれば、秋霜踏《あきしもふ》んで、飾《かざ》り帯《おび》ふる若《わか》い衆《しゆう》……という歌があるが、一家《いっか》のなかで嫁入《よめい》りが決まった娘《むすめ》がいると、その家の長男《ちょうなん》が、嫁《とつ》いでいく姉や妹のために街に出て、飾り帯を買ってくるのが、この里《さと》の風習《ふうしゅう》だったからだ。
農家《のうか》の長男にとって、姉妹《しまい》のために豪勢《ごうせい》な飾《かざ》り帯《おび》を買ってやれる働《はたら》き手《て》になったという思いは、嫁取《よめと》りより誇《ほこ》らしい気分がするもので、彼らはみな、買った飾り帯を誇らしげに腹《はら》に巻《ま》いて、峠《とうげ》を越《こ》えてもどってくるのだった。
そして、娘たちは、嫁《とつ》ぐ日まで、兄からもらった飾り帯を腰に巻いて過《す》ごす。山畑《やまはた》のネェやの場合《ばあい》は、去年の秋に嫁ぐはずだったのが、嫁《とつ》ぎ先《さき》の家の娘が急《きゅう》に亡《な》くなったせいで一年のびたので、今年はずっと飾《かざ》り帯《おび》を巻《ま》いていたのだ。
村境《むらざかい》の峠《とうげ》をちょっと下《くだ》ったところ、扇《おうぎ》ノ下《しも》へむかう道と、川下《かわしも》のヤスギ村へむかう道が交《まじ》わるあたりにコザの大木《たいぼく》が生《は》えていた。大きく枝《えだ》をひろげた木の下には、腰《こし》をおろすのにちょうどいい石があるので、旅人《たびびと》がひと息《いき》ついている姿《すがた》がよく見られる。
(踊《おど》りオンザ)も、村にはいる前にかならずここに腰をおろして、色とりどりの飴《あめ》を刺《さ》した背負《せお》い籠《かご》を股《また》にはさみ、ぷかりぷかりとチョウル(煙草《たばこ》)をふかしていたものだ。
そのコザの木の下で、また、若者《わかもの》が山犬《やまいぬ》に襲《おそ》われた、という噂《うわさ》が里《さと》を駆《か》けめぐったのは、秋も深まった頃《ころ》だった。 扇《おうぎ》ノ下《しも》で買い物をし、もどってきた若者が、突然《とつぜん》山犬に襲われて、ほうほうの態で集落《しゅうらく》に駆《か》けこんできたのだった。もう日が暮れおちて山道は暗くなっていたが、そのうす暗がりの中で山犬の頭がたしかに光って見えたと、若者はロから唾《つば》を飛ばしながら親に話した。
その話は一気《いっき》に里《さと》にひろがった。
タンダがその話を聞いたのは、村の広場で、集落《しゅうらく》の子どもらと遊《あそ》んでいたときだった。襲《おそ》われた若者《わかもの》の従弟《いとこ》にあたる子が、とくとくと語《かた》って聞かせてくれたのだ。
「おれの従兄《いとこ》はさ、おまえらも知ってると思うけど、ぜったい弱《よわ》ん坊《ぼう》じゃねぇ。ねぇよな?」
みんなはうなずいた。彼の従兄《いとこ》は肩幅《かたはば》の広い、がっしりとした男で、柴《しば》を山のようにかついで山道を下《くだ》ってくる姿《すがた》をよく見かける。
「その従兄《いとこ》のよ、髪《かみ》の毛《け》がおっ立《た》っちまってたんだってよ。そんくらい、あぶなかったんだ。
そんで、伯父《おじ》さんがよ、タロカさん家《ち》に、どなりこんだんだって。」
仲間《なかま》のひとりが、けげんそうに眉根《まゆね》をよせた。
「なんで?」
すると、しゃべっていた子が、え、知らねぇの? という顔をした。ほかの子どもらも、あきれたような顔をして、ロぐちに、
「おまえぇ。」
「ほんとに、知らねぇのかよ?」
と、馬鹿《ばか》にした。
従兄《いとこ》の話をしていた子が、やれやれ、という感じで、声を低《ひく》めて説明《せつめい》した。
「あのなぁ、その山犬《やまいぬ》にゃ、(踊《おど》りオンザ)がとり憑《つ》いて悪《わる》さをしてるんだぞ? 山道で野垂《のた》れ死《じ》んだオンザを山犬が食ったんだろうよ、そんで、その山犬はオンザにとり憑かれたんだ!」
「それは知ってるよ。」
みんなに馬鹿《ばか》にされた子は、むくれた顔をした。
「おれが聞いたのは、なんで、タロカさん家《ち》にどなりこんだのかってことだよ。」
「そりゃ、おまえ、タロカさんが、自分の兄貴《あにき》のオンザをちゃんと葬《ほうむ》らなかったから、祟《たた》ってるからさ! そのせいで息子《むすこ》が襲《おそ》われたんだからよ、伯父《おじ》さんが、タロカさんに、なんとかしろって、どなりにいってあたりまえだろ?」
タンダが身《み》をのりだした。
「そんで、タロカさん、なんて答えたの?」
「それがさ、むちゃくちゃおこったんだってよ。 − 死んでまで、おれたちに迷惑《めいわく》をかけやがるって、そりゃもう、頭から火が出るんじゃねぇかってくらい、まっ赤《か》になっておこってたってさ。」
子どもらは、なんとなくだまりこんでしまった。
タロカさんは、おだやかな人で、子どもらは、頭をなでてもらいこそすれ、おこられたことなど一度もない。その人が、そんなふうにおこるというのが想像《そうぞう》できなかったのだ。
「ほんとだぜ。」
信じてもらえていないと思ったのか、その子は言いつのった。
「タロカさんはよ、伯父《おじ》さんに、自分は、オンザが山犬《やまいぬ》にとり憑《つ》いてるなんて信じないが、こんど山犬《やまいぬ》が出たら、墓《はか》を掘《ほ》りかえして、オンザの遺体《いたい》を焼《や》いてやる、っていったてんだからさ。」
みんな唖然《あぜん》とした顔になった。 − 遺体を焼くのは疫病《えきびょう》で死んだときだけだ。あの温厚《おんこう》なタロカさんが、兄の遺体《いたい》を焼くといったという、そのことが、恐《おそ》ろしかった。
みんなと別《わか》れて家路《いえじ》についても、タンダはぼうっとそのことを考えていた。
(おれが野良仕事《のらしごと》がやだからって、おんちゃんみたいに村を出ちゃったら……。)
長兄《ちょうけい》は、きっとおこるだろう。とても、とても、おこるだろう。 − そのときの長兄の怒《いか》りがどんなものか、理屈《りくつ》でなく、タンダにはわかった。
顔をまっ赤《か》にしておこり、遺体《いたい》を焼《や》くといったというタロカさんのことを考え、弟に遺体を焼くほど憎《にく》まれていた、おんちゃんのことを思ううちに、タンダは、どんどん哀《かな》しくなってきて、畦道《あぜみち》の途中《とちゅう》で足をとめた。
鳥が、鳴きかわしながら飛んでいく。その声を聞きながら、タンダは、ぼんやりと、うす曇《ぐも》りの空を見あげていた。日暮《ひぐ》れにはまだ間があるけれど、日の光はもう、にぶく、やわらかくなっている。
家に帰りたくなかった。兄たちがしたり顔《がお》で、おんちゃんの悪口《わるくち》をいったり、タロカさんの気持ちがわかる、といったりするのを聞きたくなかった。
タンダは、くるりと踵《きびす》をかえして、山にむかって走りはじめた。
トロガイおばさんの家は、あいかわらずの静《しず》けさだった。
「バルサ、いる?」
草地《くさち》で声をかけると、家の中から、バルサが出てきた。
「お、いいところにきた。 − そろそろ、飯《めし》を炊《た》こうと思ってたんだ。」
にやにや笑《わら》ってそういったバルサに、タンダは、咳《せ》きこむようにたずねた。
「ね、トロガイおばさん、まだ帰ってこない? なにも知らせはない?」
バルサは笑いをおさめた。
「帰ってないよ。知らせもない。 − どうしたんだい?」
タンダは、唇《くちびる》をふるわせながら、堰《せき》をきったように話しはじめた。なんで自分がこんなに哀《かな》しいのかわからなかったけれど、話していても、泣《な》きそうになってこまった。
バルサはだまって最後まで聞いてくれた。
タンダが話しおえても、バルサは、しばらくだまってなにか考えていたが、やがて、口をひらいた。
「……トロガイ師が帰ってきたとしてさ、あんたは、なにをたのみたいんだい?」
いわれて、タンダはつまった。 − なにをたのみたくて来たのか、自分でもわからなかったからだ。なにかをしてはしいというより、話を聞いてほしかったのかもしれない。
「その山犬《やまいぬ》を退治《たいじ》してほしいんじゃないだろ?」
「うん。」
タンダはうつむいた。ぽと、ぼと、と涙《なみだ》が鼻の先につたって落ちた。
「こまったな。 − 泣《な》くなよ。」
バルサは、うなるようにいった。
「あんたはさ、そのおんちゃんにかわいがってもらったから、里の人たちが悪口《わるくち》いうのを聞くと、つらいんだろうけどさ、正直《しょうじき》いって、わたしにはどうも、そのおんちゃんが、ただの馬鹿《ばか》に思えてしょうがないんだ。」
タンダはうつむいたまま、聞いていた。
「わたしはさ、そういうやつ何人も見たことあるんだよ。酒場《さかば》でくだ巻いてるやつらでさ、でかいことをいいながら、けっきょく甘《あま》ったれて有《あ》り金《がね》なくして、そのくせ、自分が金をなくしちまったことを人のせいにする馬鹿《ばか》なやつ。
そのおんちゃんってのも、弟や村の人たちの仕打《しう》ちを恨《うら》んでるのかもしれないけど、そりや自業自得《じごうじとく》ってもんだろ? 自分が馬鹿《ばか》やって金《かね》なくして、育《そだ》った里《さと》の仲間《なかま》にも弟にもきらわれて、帰る家をなくしちまってさ、流《なが》れ者《もの》になって野垂《のた》れ死んだくせに、飾《かざ》り帯《おび》をして気分よく歩いている里の若者《わかもの》を襲《おそ》ってるんだとしたら、くっだらないやつだと思わないか?」
タンダはいつしか顔をあげて、じっとバルサを見つめていた。
バルサのいっていることを聞くうちに、頭の中にかかっていた雲が晴れるように、自分がなんで、人からおんちゃんの祟《たた》りの話を聞くたびに、哀《かな》しかったり腹立《はらだ》たしかったりしたのか、わかってきたからだ。
「……ちがうんだ。」
タンダは、首をふった。
「おれ、わかった! なんで哀《かな》しかったのか。−−みんな、そういうふうに……いま、バルサがいったみたいに思ってるけど、でも、おれ、そうじゃないと思うんだ。」
「どうして?」
「おんちゃんはね、たしかに馬鹿《ばか》だったのかもしれない。でもね、おれ、おんちゃんが、人を恨《うら》んで化《ば》けて出たり、人を襲《おそ》ったりするって思えないんだ。おんちゃん、そんな人じゃなかった。」
タンダは、一生懸命《いっしょうけんめい》、自分が感じていることを説明《せつめい》しようとした。
「飾《かざ》り帯《おび》して、得意《とくい》げに歩いてる人をさ、おどかして、からかおうと思って化《ば》けて出たってんならわかる。でも、恨んだり、祟《たた》ったりするのって、おんちゃんらしくない気がするんだ。」
(そうだ……。)
いいながら、タンダは、自分で自分の言葉《ことば》にうなずいた。
おんちゃんが化けて出た、といわれるたびに心の中に浮かぶおんちゃんの顔は、哀《かな》しげな笑顔《えがお》だった。べろべろばぁ! と、子どもらをおどかしていた顔や、おんちゃん、と飛びついたときに、おー! といって笑《わら》う、あの笑顔も浮かんでいた。 − でも、一度たりとも、恨《うら》めしい顔でにらんでいる、そんな祟《たた》りガミの顔は、心に浮かんでこなかったのだ。
里《さと》の人たちも、みんなおんちゃんを知っていたのに − 今日《きょう》、いっしょに話していた、あの仲間《なかま》たちだって、いっぱい遊《あそ》んでもらったし、だれもがみんな、あのおんちゃんの笑顔を知っているのに − なんで、あのおんちゃんが、恨《うら》んだり、祟《たた》ったりしていると、さも当然《とうぜん》のような顔をして語《かた》るのかわからなくて、それが腹立《はらだ》たしかったし、哀《かな》しかったのだ。
「髭《ひげ》のおんちゃん、かわいそうだよ。」
鼻がつん、として、また、涙《なみだ》がぽろぽろこぼれてきた。
「べろべろばぁ! って、おどかそうと思って化けて出てるのかもしんないだろ? それなのに、祟《たた》ってるって思われて、弟に焼《や》かれちゃうんじゃ、かわいそうだよ。」
ふいに頭をがしがしとなでられて、タンダはびっくりした。
「変《へん》なやつだなぁ。他人《たにん》のことで、なんでそんなに泣《な》くかね?」
バルサは乱暴《らんぼう》に、ゆさぶるようにタンダの髪《かみ》をかきまわしながらいった。
「そんなに気になるんならさ、たしかめてみりゃいいじゃないか。」
タンダは、まばたきをした。
「たしかめる?」
「そうさ。おんちゃんが、祟《たた》ってるのか、それとも、べろべろばぁ! って人をおどかしてるだけなのか、コザの木のとこへ行って、たしかめてみりやいいだろ。」
タンダは、ぽかんと口をあけてバルサを見あげていたが、やがて、目をかがやかせた。
「そうか! ……そうだね! おれ、たしかめてみる。」
勢《いきお》いこんでいうと、バルサは、ちょっと鼻白《はなじろ》んだように顔をひいた。
「え、ほんとにやる気? こわくないのかい。」
「うん。」
夕暮《ゆうぐ》れの山道に立って、頭が光っているという山犬《やまみち》にむかいあうことを思いうかべると、腕《うで》の毛《け》がざわざわと立つような感じがしたけれど、なぜか、こわいという感じではなかった。
バルサはため息《いき》をつくと、ぽん、と、ひとつタンダの頭をはたいて、手をはなした。
「ちぇ。こわがらなかったのは計算外《けいさんがい》だけど、まあいいや。わたしがけしかけちゃったんだから、つきあってやるよ。あんたが山犬《やまいぬ》に食《く》い殺《ころ》されたら、寝覚《ねざめ》めがわるいから。」
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八
夜半《やはん》から降《ふ》りはじめ、昼《ひる》すぎまでぐずぐずと降っていた雨が、午後《ごご》も遅《おそ》くなった頃《ころ》にようやくあがって、空が明るくなった。
早い夕餉《ゆうげ》をすませると、タンダはそっと家の裏口《うらぐち》からぬけだして峠《とうげ》へむかった。道のあちこちに残《のこ》っている水たまりに、夕焼《ゆうや》け空《ぞら》が映《うつ》っている。ちょんちょんと水たまりをよけて、跳《は》ねとぶようにしてタンダは走っていった。
山道を登《のぼ》っていくと、(里《さと》の守《まも》り)さまのお社《やしろ》の前にすわっている人影《ひとかげ》が見えた。
「バルサ!」
声をかける前にバルサは立ちあがって、短槍《たんそう》をすいっと肩《かた》にかついだ。
タンダが、はあはあ息《いき》をつきながら、脇腹《わきばら》をおさえているのを見て、バルサは笑《わら》った。
「ばか。飯《めし》を食《く》ったあと、すぐに走ってきたんだろ。」
タンダは顔をしかめて、ぐうっと背《せ》をのばした。
「……だいじょうぶだよ。もう治《なお》った。」
山犬《やまいぬ》の噂《うわさ》がひろがっているせいだろう、峠道《とうげみち》には人影《ひとかげ》もなく、ねぐらに帰ってきた鳥の声だけが、コウコウとひびいている。
ふたりはつれだってゆっくりと歩き、峠《とうげ》を下《くだ》っていった。
コザは冬でも青々《あおあお》と葉をしげらせている常緑樹《じょうりょくじゅ》だ。木々の葉が黄色くちぢれ、枝《えだ》が目立つようになっている秋の山道で、コザの大木《たいぼく》だけは、黒々《くろぐろ》と沈《しず》んで見えた。
コザの大木のところで、道は大きく二又《ふたまた》に分《わ》かれて、右は光扇京《こうせんきょう》へ、左は川下《かわしも》の村々へと下《くだ》っていく。
タンダが真剣《しんけん》な顔つきで、ぎゅっと唇《くちびる》をむすんでコザの木の下に立つのを、バルサは笑《わら》いをこらえているような顔で見ていた。
「なぁ、わたしが立っててやろうか?」
いわれて、タンダは首をふった。
「いい。バルサは木の上で見張《みは》ってるって約束《やくそく》だろ。」
「ほいほい。そんじゃ、がんばって餌役《えさやく》をやりな。」
バルサは、ぽんっとタンダの肩《かた》をはたくと、ぐるりとあたりを見まわした。それから、もってきていた小さな荷を木の根《ね》もとに置き、短槍《たんそう》を瘤《こぶ》だらけの幹《みき》に立てかけると、枝《えだ》に手をかけて、するすると登《のぼ》っていった。下がよく見える太い枝をまたぐようにして落ちつくと、バルサはタンダに声をかけた。
「短槍《たんそう》をとってよ。」
タンダは短槍をもちあげようとしてびっくりした。−−−思ったよりずっと重かったからだ。重いと思っていることを顔にだすまいとしながら、タンダは一生懸命《いっしょうけんめい》|槍《やり》をのばして、バルサがとれるようにした。
バルサは無造作《むぞうさ》に槍をつかむと、片手《かたて》で枝《えだ》の上までもちあげてしまった。
「この下にいなよ。……そう、そこから動くんじゃないよ。そこにいれば、山犬《やまいぬ》が襲《おそ》ってきたら、あんたに牙《きば》がとどく前に刺《さ》し殺《ころ》してやるから。」
タンダはうなずいた。
すっと、ひらめくようにヤスをふって魚《さかな》を突《つ》き刺《さ》したバルサの姿《すがた》が、ふいに頭に浮《う》かんできた。山犬に咬《か》まれるのはいやだけど、山犬が刺されるのを見るのもいやだなぁとタンダは思った。
いつのまにか、あたりは青い闇《やみ》におおわれて、鳥の声も聞こえなくなっていた。
ときおり、かさかさと薮《やぶ》をゆらしてなにかが走る音が聞こえてくるほかは、自分の息《いき》の音しか聞こえない。
じっと待っていると、自分の息の音がうるさかった。音がしないように、ゆっくり静《しず》かに息を吸《す》ったりはいたりしようとすると、よけいに緊張《きんちょう》が高まってきて、胸《むね》のあたりが苦《くる》しくなってきた。
「……バルサ。」
思わず、ささやくと、頭の上から小さな声が降《ふ》ってきた。
「なんだい?」
「なんでもない。 − 寝《ね》ちゃったらやだなと思っただけ。」
かすかに鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
「寝たりしないから、だまって立ってな。」
タンダは木によりかかった。もう日は完全《かんぜん》に暮《く》れおちて、山道だけが、かろうじて、ぼんやりと見えているだけだった。
湿《しめ》った夜の匂《にお》いがただよいはじめると、寒《さむ》くなってきた。汗《あせ》をかいて山道を駆《か》けあがってきたあとだったから、衣《ころも》が冷《つめ》たい。厚《あつ》い上衣《うわぎ》をはおってくればよかったと思ったけれど、いまさらどうしようもない。
タンダは腕組《うでぐ》みをしてふるえながら、足踏《あしぶ》みをしはじめた。
ふいに、ヒョー……と、細い口笛《くちぶえ》のような音がして、タンダはびくっと身体《からだ》をちぢめた。鳥の鳴き声だろうとは思ったけれど、なんだか、赤《あか》ん坊《ぼう》が泣《な》いているような声も聞こえるような気がした。
かさ、かさと薮《やぶ》が鳴《な》った。あわててそちらをすかし見たけれど、闇《やみ》が凝《こご》っているだけだ。
タンダは、ふいに自分の身体《からだ》を抱《だ》きしめていた腕《うで》をほどいて、木の幹《みき》にむきなおった。
「なにしてるんだい。」
バルサのささやき声が降《ふ》ってきた。
タンダは枝《えだ》に手をかけて、足を幹の瘤《こぶ》にのせた。
「……やっぱり、おれもバルサんとこに行く。」
「ばか! あんたまで登《のぼ》ってきたら、枝が折《お》れちゃうよ!」
おしころした声で叱《しか》られたが、タンダはだまっていた。ロをひらいたら、べそをかきそうだったので、口をむすんだまま、タンダは手さぐりで別《べつ》の枝を探《さが》した。
ふいに手首《てくび》をあたたかい手がつかんだ。
「ほら、この枝をつかみな。」
バルサの手が、タンダの手を太い枝《えだ》にみちびいてくれた。
枝をにぎったとき、バルサの手に力がこもった。
「……動くな。」
緊迫《きんぱく》した声でささやかれて、タンダは木の幹《みき》にはりついたまま、動きを止めた。そっとバルサが手をはなし、短槍《たんそう》をかまえる気配《けはい》がした。
うなじのあたりに、なにか冷たいものが触《ふ》れたような気がして、タンダは身《み》を固《かた》くした。
背中《せなか》全体が目になったように、背後《はいご》の気配《けはい》が濃厚《のうこう》に感じられる。目で見るより、はっきりとタンダは、いま、自分の後《うし》ろにいるモノを感《かん》じていた。
爪《つめ》が土をかくような軽《かる》い足音がして、大きな獣《けもの》が近づいてくる。ハ、ハ、とみじかい息《いき》づかいも聞こえてきた。
枝《えだ》をはなし、タンダはそろそろと地面《じめん》に足をつけて、ゆっくりとふりかえった。
目の前に、青白《あおじろ》く光る目が浮かんでいた。
闇《やみ》の中では濃《こ》い影《かげ》にしか見えなかったが、そこに山犬《やまいぬ》がいることだけは、なまぐさい息のにおいではっきりとわかった。
それにむきあったとたん、タンダは、胸《むね》のあたりから頭のてっぺんまで、じんわりとなまあたたかいものがひろがっていくのを感《かん》じた。歩いていて、ふいに、それまでとは匂《にお》いも温度《おんど》もちがう、なまぬるい大気《たいき》の中に足を踏《ふ》みいれたときのように、いま肌《はだ》に触《ふ》れている闇《やみ》は、すこし前までの闇とはちがうものに変わってしまっていた。
その闇の中で、山犬《やまいぬ》が、ぼんやりと光りはじめた。毛の先になにか灯《とも》っているような淡《あわ》い光で、よく見ようとすると見えなくなる。
タンダは、はっとした。なつかしい匂《にお》いがただよってきたからだ。 − おんちゃんに抱《だ》きつくと、いつもただよってきた、あの飴《あめ》のいい匂いだった。
「……髭《ひげ》のおんちゃん?」
ささやくと、山犬《やまいぬ》の光が強くなった。
山犬の毛先《けさき》から闇《やみ》の中に青白く光る糸がただよい出て、ふわふわと大気《たいき》の中を泳《およ》いでいる。その糸がよりあつまっては、ほぐれ、よりあつまっては、ほぐれ、闇の中で、ゆらゆらと、なにかの形になりはじめた。
懸命《けんめい》に、ひとつの形《かたち》になろうとするが、保《たも》ちがたいのだろう、すぐに、ふわふわと崩《くず》れてしまう。それでもタンダは、その浮《う》きあがっては崩《くず》れる光の中に、おんちゃんのさびしげな笑顔《えがお》を、たしかに見た。
そのとき、かすかな、かすれ声が聞こえた。額《ひたい》から目の奥《おく》へ染《し》みいるような、哀《かな》しい、必死《ひっし》な声だった。
− ねえ、ちゃ……。
それだけいうのが、精《せい》いっぱいだったのだろうか、声をだしたとたんに光はうすれて、山犬《やまいぬ》の中へもどっていってしまった。
水をはらおうとするように、ぶるぶるっと、山犬が身体《からだ》をふるわせた。山犬は苦しげに、キューウと鳴き、さもいやそうに身体をかきはじめた。淡《あわ》い光はまだ残《のこ》っていたけれど、前ほどはっきりとは見えなかった。
「……髭《ひげ》のおんちゃん、まだそこにいるの?」
タンダがつぶやくと、山犬《やまいぬ》は耳をぴんと立てて、タンダを見つめた。それから、ぐいっと頭をさげて、近づいてきた。
頭上《ずじょう》で、バルサが動いた音が聞こえた。タンダはあわててバルサを止めた。
「バルサ、刺《さ》さないで!」
山犬はゆっくりこちらへきたが、タンダのもとへはこなかった。フンフン鼻を鳴らしながら、頭をふり、コザの木の裏側《うらがわ》へとまわっていく。小さく幹《みき》をひっかいているような音が聞こえていたが、やがて、その音もとだえ、薮《やぶ》をゆらしてもぐりこんでいった音を最後に、あたりは、しん、としず静まりかえった。
バルサが脇《わき》に飛びおりた、どさっという重《おも》い音で、タンダは、はっと我《われ》にかえった。とたんに、冷たい汗《あせ》が全身《ぜんしん》にふきだしてきて、タンダはふるえはじめた。
「……だいじょうぶかい?」
肩《かた》をつかまれて、タンダはうなずいた。バルサの手が熱《あつ》かった。
「バルサ。」
タンダは声をしぼりだした。
「……おんちゃんの顔、見た?」
バルサは首をふった。
「いいや。」
「青い、糸みたいな光だよ? それが、ふわふわあつまって、おんちゃんの顔が浮かんだじゃないか。」
バルサは、いらだたしげにいった。
「見えなかったってば、そんなもん。わたしが見たのは、山犬《やまいぬ》だけだよ。あんまり、でかくなかったし、飢《う》えてる感《かん》じでもなかった。 − 襲《おそ》ってくる気なんかない感じだったよ。」
バルサは、しゃがんで、さっき木の根《ね》もとに置いた荷物《にもつ》から、手さぐりで火口箱《ほくちばこ》をとりだすと、手早《てばや》く旅灯《りょとう》に火をともした。
明るい光がともったとたん、あたりは、ふつうの夜の闇《やみ》にもどった。
「ほんとに、顔を見たのかい?」
問われて、タンダはうなずいた。
「……声も、聞こえた。ねえちゃ、っていった。」
バルサはしばらく、じっとタンダを見つめていたが、やがて、そっと背《せ》を押《お》した。
「帰ろうや。おっかさんたちが心配《しんぱい》してるだろ。いっしょに行って、あやまってやるよ。」
背《せ》を押《お》されて歩きだしながら、タンダは首をねじるようにして、山犬《やまいぬ》が消《き》えていった薮《やぶ》をふりかえった。
「おんちゃん、おれになにをいいたかったんだろ。」
つぶやくと、バルサが背《せ》をたたいた。
「やめな。」
びっくりして見あげると、バルサが厳《きび》しい目で見つめていた。
「もうやめな。− あんたが思ったとおりだったんだから、もう、このあたりで、ひっかかるのをやめなよ。」
タンダは顔をしかめた。
「なんで?」
「……とにかく、やめな!」
バルサはタンダの手首《てくび》をつかむと、ぐいっとひっぱって歩きだした。
タンダは、バルサの手をふりはらおうと身《み》をよじった。
「なんで? ……ねぇ、バルサ、なにおこってるの?」
バルサは立ちどまると、タンダの手首を強くにぎったまま、タンダをにらみつけた。
「もう、やめなっていってるんだよ! 死んだやつの霊魂《れいこん》と関《かか》わって、いいこたぁないだろ? なんでそれがわからないんだい、あんたは!」
バルサは声を怒《いか》りにふるわせていた。
「死んだやつなんかに、いつまでもひっかかってんじゃねぇ! あの世へひっぱられちまったら、どうするんだ! あんたには、やさしいおっかさんがいるし、帰《かえ》れる家もあるんじゃないか! ふらふら、死霊《しりょう》にくっついていってんじゃねぇよ!」
涙《なみだ》がにじんできて、タンダは、しゃくりあげはじめた。
うなるように泣《な》きながら、タンダは思いっきり腕《うで》をひっぱって、バルサの手をもぎはなそうとした。バルサも意地《いじ》になって、手首《てくび》をにぎる手に力をこめた。ふたりは暗い山道のまん中で、手をひっぱりあった。
ついに、がまんできなくなって、タンダは大声をあげて泣きはじめた。むちゃくちゃに腕《うで》をふり、全身《ぜんしん》であばれた。
ふいにバルサが手をはなしたので、タンダは地面にひっくりかえった。
「ばかやろう! 赤《あか》ん坊《ぼう》! こんだけいってもわからないなら、そうやって、いつまでも、だだこねてな!」
吐《は》きすてるようにいうと、バルサはくるりと背《せ》をむけた。どんどん峠《とうげ》のほうへ登《のぼ》っていくバルサを見ながら、タンダは道にしゃがみこんで、大声《おおごえ》で泣《な》きつづけた。
泣《な》いて、泣いて、泣きつかれるほど泣くと、タンダは、両手両足《りょうてりょうあし》を放《ほう》りだすようにして、ばたんと仰向《あおむけ》けになった。地面《じめん》は冷《つめ》たくて、背に、その冷たさが沁《し》みてきた。
いつのまにか、お月さまがぽっかりと昇《のぼ》っていて、見つめると、白い光がまぶしかった。
吠《ほ》えるように思いっきり泣《な》いたせいだろうか。気持《きも》ちのすべてが遠《とお》くに行って、お月《つき》さまの白い光の中で、くるくるまわっているような気がした。
ねえちゃ……と、ささやいた、髭《ひげ》のおんちゃんの声が耳の底で聞こえた。
髭のおんちゃんは、いま、どこにいるのだろう。山犬《やまいぬ》の中で、眠《ねむ》っているのだろうか。これからもずっとあの山犬の中にいて、山犬が死《し》んだらいっしょにあの世《よ》へ行くのだろうか。
(髭《ひげ》のおんちゃん、さびしくて、山犬に憑《つ》いちゃったのかな。)
生きているあいだも、髭のおんちゃんには帰《かえ》る家《いえ》がなかったけれど、死んでからも、さびしいのか。
また涙《なみだ》がにじんできて、タンダは、鼻をすすりあげた。
(里《さと》の守《まも》り)さまのお社《やしろ》のところまできて、バルサは立ちどまると、祭《まつ》りの日に老人《ろうじん》たちが腰《こし》かけていた石に腰をおろした。石はひんやりと冷たかった。
旅灯《りょとう》を地面《じめん》に置《お》くと、長いため息《いき》をついて、バルサは両手《りょうて》で顔をこすった。
かすかに、タンダの泣《な》き声《ごえ》が聞こえてくる。まだ泣いているのだ。
(馬鹿《ばか》な赤《あか》ん坊《ぼう》。ほんっとに、馬鹿だ、あいつ。)
ひとしきり胸《むね》の中でタンダをののしったが、もう、さっきの激《はげ》しい怒《いか》りの衝動《しょうどう》はどこかに行ってしまって、ののしっても、もどってはこなかった。
手に触《ふ》れる頬《ほお》が、冷たくこわばっている。……ほんとうは、こわかったのだ。まるで目の前《まえ》にいる人に呼《よ》びかけるように、闇《やみ》にむかって声をかけるタンダを見たとき、タンダがあの世《よ》へ引かれていってしまうような気がして、こわかったのだ。
こわかったから、おこった。 − 泣きだしたタンダの顔を思いだして、バルサは顔をゆがめた。
いつのまにか、タンダの泣《な》き声《ごえ》が聞こえなくなっていた。
静《しず》まりかえった闇《やみ》の中で、しばらく、バルサはじっと前を見つめていたが、また顔《かお》をこすると、手をのばして旅灯《りょとう》をとりあげ、ゆっくりと立ちあがった。
そして、ぎゅっと唇《くちびる》をむすんで、タンダのところへもどっていった。
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九
秋は駆《か》け足《あし》で深まって、いつのまにか季節《きせつ》は冬《ふゆ》へと移《うつ》っていた。
初冬《しょとう》のある朝、バルサは霜《しも》を踏《ふ》みながら、山から村へとおりてきた。
戸口に手をかけて暗い土間《どま》をのぞきこみ、竈《かまど》のところで立《た》ち働《はたら》いているタンダの母へ声をかけた。
「……おばさん、おはようございます。」
タンダの母は、びっくりしたように顔をあげて、戸口のほうをすかし見た。そして、ああ、と、ほほえんだ。
「おはよ。 − どうしたんだねぇ、こんなに朝早く。」
「あの、ちょっと、タンダに話したいことがあって。……タンダは、いますか?」
タンダの母は、苦笑《くしょう》しながら首《くび》をふった。
「もう集会堂《しゅうかいどう》へ行ったよ。朝餉《あさげ》を食べおえると、墨《すみ》と筆《ふで》をかかえて、すっとんでったわ。野良仕事《のらしごと》のときとは、まあ、大ちがいの顔してさ。」
農閑期《のうかんき》になると、扇《おうぎ》ノ下《しも》から学者《がくしゃ》がやってきて、村の集会堂《しゆうかいどう》で子どもたちに読《よ》み書《か》きやら、算術《さんじゅつ》やらを教えてくれるのだ。タンダはたしかに、毎年、この時期になると熱心《ねっしん》に集会堂に通《かよ》っていた。
でも、今朝《けさ》はちがう。バルサはここへ寄《よ》る前に、集会堂《しゅうかいどう》をのぞいてきたが、タンダの姿《すがた》がなかったから、ここへきたのだ。
(あいつ、なにしてるんだろう?)
墨《すみ》と筆《ふで》をかかえて、集会堂《しゅうかいどう》にも行かずに……と、思ったとき、バルサは、はっと、タンダがなにをしているのか思いあたった。
「そうですか。じゃ、またきます。おじゃましました。」
バルサは頭をさげると、ぱっと駆《か》けだした。
村の娘《むすめ》たちが井戸《いど》のまわりにあつまって、なにか楽しげに話している横《よこ》を駆《か》けぬけて、バルサは峠《とうげ》へ登《のぼ》っていった。
いちだんと寒くなったこの季節《きせつ》、旅人《たびびと》の姿《すがた》は稀《まれ》だった。人気《ひとけ》のない峠道《とうげみち》の(里《さと》の守《まも》り)さまのお社《やしろ》の前に、小さな人影《ひとかげ》があった。石にすわり、うつむいて、一心《いっしん》になにかしている。
近《ちか》づいていくと、タンダが、はっと顔をあげた。あわてて手もとのものを隠《かく》そうとして、近づいてきたのがバルサだと気づくと、手を止め、てれくさそうな顔になった。
「トルチャ(面影《おもかげ》)だね。」
バルサがいうと、タンダはうなずいた。小さな指先《ゆびさき》が寒《さむ》さでまっ赤《か》になっている。その指で筆《ふで》をにぎって、タンダは木ざれに、おんちゃんの面影《おもかげ》を描《えが》いていたのだった。
「へたくそになっちゃった。」
たしかに、墨《すみ》がにじんでいるうえに、目も鼻もゆがんで、お世辞《せじ》にもうまい絵ではなかった。バルサはほほえんだ。
「笑《わら》ってるみたいに見えて、愛嬌《あいきょう》があっていいじゃん。」
おんちゃんのトルチャ(面影《おもかげ》)をつくろうと思いたったのは、山犬《やまいぬ》を見た夜だった。でも、それから、冬支度《ふゆじたく》の手伝《てつだ》いが毎日つづいて、なかなか、ひとりになってトルチャ(面影)をつくることができなかったのだ。
タンダは墨《すみ》と筆《ふで》をしまうと、できたてのトルチャ(面影)をもって立ちあがった。
「どこに立ててやるんだい?」
「……コザの木のとこ。」
そういって、タンダは歩きだした。バルサも脇《わき》にならんで、ゆっくりと歩いた。
すぐにコザの木が見えてきた。冬枯《ふゆが》れの木々のなかで、重《おも》たげに葉をしげらせているコザの木は、なんとなく意地《いじ》を張《は》って立っているように見えた。
「あの木の後《うし》ろ側《がわ》に刺《さ》しておいたら、きっと、気づく人、いないと思うんだ。」
この木の根《ね》もとにトルチャ(面影《おもかげ》)が刺さっているのを人が見たら、また、ひと騒《さわ》ぎおきるだろう。後ろ側の目立《めだ》たぬ地面《じめん》に刺して、木《こ》の葉《は》かなにかで隠《かく》しておいたほうがいい。そう思って、大木《たいぼく》の後ろにまわったタンダは、ふと眉《もゆ》をひそめた。
木の根《ね》っこのところに、獣《けもの》がひっかいたような白い傷跡《きずあと》が無数《むすう》についていたからだ。それに、獣の毛.が数本|木肌《きはだ》にひっかかって、ちらちらと光っていた。
膝《ひざ》をついてしゃがみ、その根っこの下をのぞきこんで、タンダは息《いき》をのんだ。
「……なんだい?」
バルサが気づいて、声をかけてきた。
「ここに、なんかある。」
つぶやいて、タンダは太い根っこの下に手をさし入れた。指に油紙《あぶらがみ》らしいものが触《ふ》れて、かさかさと鳴った。油紙でつつんだものが根っこの下に隠《かく》されている……!
ひっぱりだして、それを手にもったまま、タンダは立ちあがった。
「……なんだろう、これ。」
中身《なかみ》は布《ぬの》のようだった。軽《かる》くてやわらかい。油紙《あぶらがみ》にこびりついている泥《どろ》をはたき落とすと、タンダは細《ほそ》い紐《ひも》をほどいて、油紙を開《ひら》いた。油紙の下には、もうひとつ、白い紙包《かみづつ》みがあり、それを開いていくと、ぽろぽろと、小さな白いものが落ちた。虫除《むしよ》け玉《だま》のかけらだった。
包《つつ》みの中から出てきたのは、飾《かざ》り帯《おび》だった。 − 上等《じょうとう》な、錦織《にしきおり》の飾り帯だ。帯の端《はし》に金糸《きんし》で縫《ぬ》い取《と》りがあり、ホリ、という飾《かざ》り文字《もじ》が読みとれた。
タンダとバルサは、顔を見あわせた。
「これ、髭のおんちゃんのだ。」
喉《のど》にひっかかったような声でタンダがつぶやくと、バルサもうなずいた。
「ホリって、そのおんちゃんの、姉《ねえ》ちゃんの名前だろ?」
「うん。」
なぜ、こんなところに隠《かく》してあったのだろう。
ふたりはしばらく声もなく、虫除《むしよ》けの匂《にお》いのしみついた飾《かざ》り帯《おび》を見つめていた。
あの夜、山犬《やまいぬ》がこのあたりをひっかいていたのを思いだして、タンダはつぶやいた。
「おんちゃん、きっと、これを見つけてほしかったんだ。」
これを見つけてほしくて、山犬《やまいぬ》に憑《つ》いて、道行く若者《わかもの》たちの帯《おび》を噛《か》んでひっぱったのだろう。
木枯《こが》らしが、コザの葉をゆらして吹《ふ》きぬけていく。
灰色《はいいろ》の雲《くも》が、かすかに切れて、その切《き》れ間《ま》から細く日の光が射《さ》した。きらきらと金糸《きんし》が光ると、この古《ふる》ぼけた飾《かざ》り帯《おび》のみごとさが際《きわ》だって見えた。
「なんで、こんなとこに隠《かく》してたんだろ。」
タンダは首をかしげた。
「こんなにきれいな帯《おび》を買《か》ってたんなら、婚礼《こんれい》のときに、お姉《ねえ》ちゃんにあげればよかったのに。」
バルサがすっと手をのばして、飾《かざ》り帯《おび》に触《ふ》れた。そして、帯をつつんでいた包《つつ》み紙《がみ》をもちあげた。
「……姉《ねえ》ちゃんの婚礼《こんれい》のときに買ったんじゃないよ、この帯。」
「え?」
「姉ちゃんが嫁《よめ》に行ったのは、もう何十年も前のことだろう? あんたのおばあちゃんより年上《としうえ》だってんだから。 − だけど、見てみ、この包み紙。ちょっと古《ふる》びちゃいるけど、何十年も経《た》ったって感じじゃないよ。」
いわれてみると、たしかにそうだった。油紙《あぶらがみ》につつまれていたとしても、何十年もこの根《ね》っこのところにあったのなら、もっと黄ばんでいるはずだ。
姉の嫁入《よめい》りのときに買ったのでないのなら、おんちゃんは、いつ飾《かざ》り帯《おび》を買ったのだろう。そして、なぜ、こんなところに隠《かく》していたのだろう。
タンダは顔をあげて、峠道《とうげみち》のほうへ目をやった。
おんちゃんの姉《ねえ》ちゃんが住んでいるヤスギ村へむかう道が、雲間《くもま》から射《さ》している光で白く浮《う》かびあがって見えている。
ヤスギ村までは、それほど遠いわけではない。せっかく帯《おび》を買ったのに、なんでお姉《ねえ》ちゃんのところへもっていかなかったのだろう。
この木の根《ね》もとに腰《こし》をおろして、ぷうかぶうかとチョウル(煙草《たばこ》)をふかしていたおんちゃん。姉のいる村まで下《お》りていく道をながめながら、とうとう死《し》ぬまで訪《たず》ねていかなかった、おんちゃん。 − 根っこに飾《かざ》り帯《おび》を隠《かく》した木の下にすわって、おんちゃんは、なにを思って、チョウルをふかしていたのだろう……。
バルサが飾《かざ》り帯《おび》をもちあげたので、タンダは、はっと我《われ》にかえった。
バルサは飾り帯をたたむと、紙でつつみなおし、ていねいに油紙《あぶらがみ》でつつんで、それを懐《ふところ》に入れた。
「こいつは、わたしがもっていってやるよ。」
「え? ヤスギ村に?」
「うん。 − どうせ、通《とお》り道《みち》だから。」
タンダは、ぽかんとバルサを見あげていたが、ゆっくりと、その言葉《ことば》の意味《いみ》が頭に沁《し》みこんできて、胸《むね》がぎゅっと痛《いた》くなった。タンダは顔をゆがめた。
「昨日《きのう》、父《とう》さんが帰ってきたんだ。……どうも、わたしらが、ここいらにいるって噂《うわさ》を、追手《おって》がかぎつけたみたいだって。だから、しばらくヨゴを離《はな》れるって。」
バルサはヤスギ村へと下《お》りていく道を見つめながら、つとめて淡々《たんたん》とした口調《くちょう》でいった。
「……バルサも、行っちゃうの?」
バルサは、顔をこわばらせて自分を見あげているタンダに視線《しせん》をもどした。
「うん。」
「いつ?」
「明日《あす》の朝。夜明《よあ》けに発《た》つってさ。」
タンダはぎゅっと唇《くちびる》をかみしめ、息《いき》を吸《す》ってから、かろうじて声をだした。
「……どこへ行くの?」
「ロタ。」
ロタは、ずっと遠《とお》くだった。ヤスギ村よりも、都《みやこ》よりも、ずっとずっと遠い異国《いこく》だ。
タンダは息《いき》を何度《なんど》も吸《す》って、べそをかくまいとした。
「……もうすぐ、雪が降《ふ》るのに、行っちゃうの?」
つぶやくと、バルサはタンダから目をそらして、早口《はやくち》にいった。
「ちょうどさ、都《みやこ》を通らないで、川沿《かわぞ》いの村をぬけて都南街道《となんかいどう》に出る、って父さんがいってたんだ。かなり遠《とお》まわりになるけどね。べつにいそぐ旅《たび》じゃないし。四路街《しろがい》あたりで冬を越《こ》してから、ロタへ行ったほうがいいし。」
この道を歩いてヤスギ村へ、そして、ずっと遠くへ。
うすい日の光に浮《う》かびあがっている道を見つめて、ふたりは、長いことだまっていた。
やがて、バルサが、みじかくため息《いき》をついた。それから、息を吸《す》い、バルサは、ふいに森のほうをむくと、大声で呼《よ》びかけた。
「髭《ひげ》のおんちゃんー」
よくとおる声が、大気《たいき》をふるわせた。
「タンダが帯《おび》を見つけてくれたよ! あんたの飾《かざ》り帯《おび》は、わたしが、ちゃんと姉《ねえ》ちゃんに届《とど》けるから、もう化けて出ちゃだめだよ!」
突然《とつぜん》の大声におどろいた鳥が、バサバサと舞《ま》いあがったが、冬枯《ふゆが》れの森は静かで、山犬《やまいぬ》が出てくる気配《けはい》はなかった。
*
翌朝《よくあさ》、まだ夜《よ》が明《あ》けぬうちに、タンダは寝床《ねどこ》から起きだして、そっと裏口《うらぐち》から外へ出た。
ぴぃんと凍《こお》った大気《たいき》を吸い、白い息《いき》を吐《は》きながら、タンダは一生懸命《いっしょうけんめい》、峠《とうげ》へ駆《か》けていった。
峠《とうげ》に近づいたとき、前を歩いているふたつの影《かげ》が目にとびこんできた。
「バルサー!」
叫《さけ》ぶと、小さな影《かげ》がふりかえった。夜明《よあ》けの青い闇《やみ》の中に、ぼんやりと白い顔が浮かびあがって見えた。
大きな影がバルサを見おろして、なにかいったようだったが、バルサは小さく首をふって踵《きびす》をかえし、タンダに背《せ》をむけてしまった。
「バルサー!」
ロに手をあてて叫んだけれど、もうバルサはふりかえらなかった。
ふたつの影が、やがて、うす闇《やみ》の中に溶《と》けていった。
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夏の日が、暮れはじめていた。
開《あ》けはなしてある窓《まど》から吹《ふ》きこんでくる風が、ひんやりと冷たくなっている。それでも、涼《すず》しさを感じられるのは窓に近づいたときだけで、酒場《さかば》の内側には、昼間《ひるま》の暑《あつ》さが、むっと、よどんでいた。
窓から見える空は、茜色《あかねいろ》がうすれ、ゆっくりと青紫《あおむらさき》へと変わりはじめている。
バルサは、ぼうっと、その空を見あげて、茜雲《あかねぐも》を縫《ぬ》うように飛んでいく黒い鳥の群《む》れを目で追っていた。
今日《きょう》は十日《とうか》に一|度《ど》の休業日《きゅうぎょうび》で、酒場《さかば》には客《きゃく》の姿《すがた》はなく、奥《おく》の賭博場《とばくじょう》に一組《ひとくみ》、ススット(サイコロを使う賭博《とばく》)をやっている客がいるだけだった。この酒場に泊《とま》まり込みで働《はたら》いている給仕《きゅうじ》の娘《むすめ》たちは、昨夜《さくや》のうちに、いそいそと家族《かぞく》のもとに帰っていき、今夜遅《こんやおそ》くにならないともどってこない。
バルサは、帰る家がある仲間《なかま》たちのことを、なるべく考えまいとしていた。六つの年に故郷《こきょう》から逃《に》げだして、七年。養父《ようふ》のジグロと共《とも》に、旅《たび》から旅へと流れ歩いてきた自分の暮《くら》らしを、他人《たにん》の暮らしとくらべたいとは思わなかった。
それでも、夕空《ゆうぞら》をひとりで見ていると、空《うつ》ろなさびしさがこみあげてくる。
(父さん、早く帰ってこないかな……。)
ジグロは昼《ひる》すぎに、短槍《たんそう》の替穂先《かえほさき》を受けとりに鍛冶屋《かじや》に行ったきり、まだ帰ってこない。きっと、古書店《こしょてん》に寄っているのだろう。ジグロは、本を読むのが好きなのだ。
酒場《さかば》の用心棒《ようじんぼう》として、部屋《へや》の隅《すみ》にたたずんでいるときのジグロは、静《しず》かにそこにいるだけで、飲《の》んで騒《さわ》いでいる荒くれ男たちに一線《いっせん》を越《こ》えさせない威圧感《いあつかん》があったが、休日《きゆうじつ》に、ひとり古書《こしょ》を読んでいるときは、用心棒《ようじんぼう》をしているときとはまるでちがう表情《ひようじょう》になる。その姿《すがた》を見るたびに、バルサは父のことを思いだした。
武人《ぶじん》として名を馳《は》せていたジグロとはちがって、学者肌《がくしゃはだ》で、よく書物《しょもつ》を読んでいた父。カンバル王の主治医《しゅじい》であったがゆえに、きたない陰謀《いんぼう》に巻《ま》きこまれ、命《いのち》をうばわれた父を。 父の親友《しんゆう》であったジグロは、父のたのみを聞き、陰謀《いんぼう》を隠蔽《いんぺい》するために殺《ころ》されかけていた幼《おさな》いバルサをつれて、カンバルから逃げてくれたのだった。あの日から、バルサには − そして、ジグロにも、帰る家はなくなった。
背後《はいご》で、どっと歓声《かんせい》があがった。ススットが盛《も》りあがっているらしい。
バルサは窓《まど》から離《はな》れ、奥の賭博場《とばくじょう》に足をむけた。名のある賭博師《とばくし》がこの酒場《さかば》にしばらく滞在《たいざい》するという噂《うわさ》は聞いていたし、知りあいの若者《わかもの》が、今日《きょう》の勝負《しょうぷ》にくわわっているのも知っていたけれど、なんとなく、勝負《しょうぶ》を観戦《かんせん》する気になれずにいたのだ。
ススットのやり方は、まえに働《はたら》いていた酒場《さかば》でおぼえた。ススットは、いわば模擬戦《もぎせん》だ。限《かぎ》られた領土《りようど》をめぐって戦《いくさ》や商《あきな》いの駆《か》け引《ひ》きをおこない、大半《たいはん》の領土を獲得《かくとく》した者《もの》が勝者《しょうしゃ》となる。おのれの思考《しこう》ひとつで駒《こま》を動かしていくタアルズ(遊戯盤《ゆうぎばん》を使う競技《きょうぎ》)とちがって、駒は、ゴイ(サイコロ)の目によって選《えら》ばれる。一が出れば王《おう》、二が出れば戦士《せんし》、というふうに。その駒の動きは、ふたつのゴイの目の組《く》みあわせによって左右《さゆう》される。ゴイの目に対応《たいおう》した動きを記《しる》した「運命《うんめい》の書《しょ》」という小さな冊子《さっし》にしたがって勝負《しょうぶ》は進行《しんこう》していくが、大仰《おおぎょう》な題名《だいめい》のわりには、書かれている内容《ないよう》は単純《たんじゅん》だから、ススットをやる者は、だいたい、その内容はそらんじていた。
ゴイの目の組みあわせが悪《わる》くて、自分の駒《こま》が殺《ころ》されたり、失脚《しっきゃく》したりすれば、そのたびに、手持《ても》ちの金《かね》がへっていく。ぎゃくに、相手《あいて》の駒を殺せる目や、領土《りようど》に攻《せ》めこめる目が出たりすれば、その利益《りえき》に見あった金《かね》を獲得《かくとく》することができる仕組みになっている。
利益《りえき》に換算《かんさん》される金額《きんがく》は、勝負《しょうぶ》をする者たちが、最初に決めた勝金《かけきん》の率《りつ》で決まるから、男を売ろうとして大勝負《おおしようぶ》を仕掛《しか》けるやつがいたりすると、大きな金額が動く大博打《おおばくち》になることもある。ここロタ王国《おおこく》では、もっとも人気《にんき》のある賭博《とばく》だった。
こういう酒場《さかば》でおこなわれるススットは、(タィ・ススット(みじかいススット))というやり方で、一晩《ひとばん》もかからずに勝負《しょうぶ》が決まるが、氏族《しぞく》の男たちが館《やかた》で催《もよお》すススットには、(ロトイ・ススット(長いススット))と呼ばれるものもある。これは、ひとつの勝負《しょうぶ》で終《お》わらせず、報復戦《ほうふくせん》をおこなったり、新しい賭手《かけて》があらわれて、別の役割《やまわり》をになったりしながら、ススットをつづけていくもので、羊皮紙《ようひし》に記録《きろく》された結果《けっか》をもとに、何年かのちに、思いだしたように、その勝負をつづけていくことができるので、まるで歴史物語《れきしものがたり》のようになっているススットもあるらしい。
じつは、バルサは、ススットが得意《とくい》だった。ジグロに武術《ぶじゅつ》をたたきこまれてきたせいか、それとも、生まれつき手先《てさき》が器用《きよう》なせいか、ゴイ(サイコロ)を思いどおりにあやつれたからだ。
はじめてススットをおぼえたときには、夢中《むちゅう》になって入れこみ、酒場《さかば》の給仕《きゅうじ》をして稼《かせ》ぐ日当《にっとう》の二十日|分《ぶん》を、一晩《ひとばん》で稼いだこともある。
快勝《かいしょう》をつづけて、バルサは有頂天《うちょうてん》になった。あれほど気持《きも》ちがよかったことは、これまでの人生《じんせい》でなかった。まさに光りかがやく日々だった。そして……こっぴどい目にあった。
ある夜、大負《おおま》けをして、これまで稼《かせ》いだ分《ぶん》どころか、日当《にっとう》五十日分もの借金《しゃっきん》を背負《せお》いこんでしまったのだ。
バルサは途方《とほう》にくれたが、ジグロは、まったく助けてくれなかった。
べそをかきながら、事情《じじょう》をうちあけたバルサを平然《へいぜん》と見おろし、
「そうか。まあ、自分でなんとかするんだな。 − 自分で払《はら》えないような金《かね》を賭《か》けるやつは、痛《いた》い目《め》をみるのが世の習《なら》いさ。」
と、いっただけだった。
これは、痛《いた》かった。ものすごく痛い経験《けいけん》だった。 − でも、そのおかげで、見えたこともある。二度と痛い目をみたくなかったので、それまでのように、勝《か》てばどんどん入れこんでいくのではなく、勝ちはじめても、負けはじめても、行きすぎないところで止《や》めるようにしているうちに、一勝負《ひとしょうぶ》、一勝負では見えなかった、その賭博場《とばくじょう》の日々の賭事《かけごと》の流れが、見えるようになったのだ。
大勝《おおが》ちしつづけた者は、かならず、大負《おおま》けをする日がくる。ススットは、勝ちすぎてはいけない賭博《とばく》なのだ。ラフラと呼《よ》ばれる専業《せんぎょう》の賭事師《かけごとし》が、かならずひとり、ススットにはくわわるが、このラフラの裁量《さいりょう》によって、賭博場《とばくじょう》である酒場《さかば》が、長い目でみて損《そん》をすることがないように、うまく勝負《しようぶ》をあやつっていることが、うっすらと見えてきたのだった。
それを話しても、ジグロはなにもいわなかったが、目もとには微笑《びしょう》が浮《う》かんでいた。ジグロは無口《むくち》だったから、ちょっとでもほほえんでもらえると、とてもうれしくなる。たったそれだけのことで、借金《しゃっきん》を返すために休日《きゅうじつ》も別《べつ》の酒場《さかば》で働《はたら》いた苦《くる》しさが、無駄《むだ》ではなかったような気がしたものだ。
また派手《はで》な歓声《かんせい》がわきあがった。どうやら、だれかが大勝《たいしょう》をしているらしい。
風がとおるように開《あ》けはなしてある扉《とびら》から奥《おく》の賭博場《とばくじょう》をのぞくと、大勢《おおぜい》の若者《わかもの》たちがススット盤《ばん》をかこんでいるのが見えた。実際《じっさい》に勝負《しょうぶ》をしているのは四人なのだから、ずいぶんと観客《かんきやく》が多い。
柱《はしら》の陰《かげ》に立ってながめているうちに、歓声を送っている若者たちは、勝負にくわわっている若者の仲間《なかま》であるのがわかってきた。倣慢《ごうまん》な顔つきをした大柄《おおがら》な男で、身なりは裕福《ゆうふく》そうだが、襟《えり》のはだけ方といい、上衣《うわぎ》の派手《はで》な色といい、どこかくずれた感じがある。遊《あそ》びには熱心《ねっしん》で、商《あきな》いを学ぶのはきらいな、商家《しょうか》の息子《むすこ》といったところだろう。
取りまきの中にいる、やたらにかんだかい声をあげている細い男は、どうやら、その大柄な男の弟らしい。ときどき、あまえた声で、兄《にい》さん、兄さんと、呼びかけるのが耳ざわりだった。
勝負《しょうぶ》をしている四人のうちのひとりは、バルサが知っているアールという若者《わかもの》で、この酒場《さかば》に鶏肉《とりにく》を納《おさ》めている農家《のうか》の次男坊《じなんぼう》だった。酒場の二階で、バルサと寝起《ねお》きを共《とも》にしている給仕仲間《きゅうじなかま》のマナと恋仲《こいなか》で、彼女から、さんざんのろけ話を聞かされている。
でも、アールと幾度《いくど》かススットの勝負をしたけれど、バルサには、アールが、マナがいうほど強い男だとは思えなかった。ここ一番の度胸《どきょう》がないし、ちょっと負けはじめると、動揺《どうよう》してしまって、思いきりが悪くなる。勝負事《しょうぶごと》にはむいていないのに、こうして暇《ひま》さえあればススットをやっている。明るくて楽しい人だからきらいではなかったけれど、どうしてマナがあれほど、この男に惚れているのか、バルサには、さっぱりわからなかった。
そのアールは、青ざめた顔で、前かがみになってススット盤《ばん》を見つめている。大負《おおま》けをしているらしい。
(……マナは、指輪《ゆびわ》をもらえそうにないな。)
今日《きょう》の勝負《しょうぶ》で大勝《おおが》ちしたら、マナに指輪を贈《おく》るんだと、うれしそうに話していたアールの顔を思いだしながら、バルサは心の中でため息《いき》をついた。
こういう光景《こうけい》は見なれているつもりだったけれど、正面《しようめん》にすわっている、縁起物《えんぎもの》の赤い肩布《かたぬの》をかけているラフラ(専業《せんぎょう》の賭事師《かけごとし》)を見たとき、バルサは、ちょっとおどろいた。名のあるラフラだと聞いていたから、てっきり強面《こわもて》の壮年《そうねん》の男だろうと思っていたのだが、ぼんやりと片肘《かたひじ》をつき、興味《きょうみ》のなさそうな顔でススット盤《ばん》をながめているラフラは、七十ほどに見える小柄《こがら》な老女《ろうじょ》だったからだ。
「おい、はやくゴイ(サイコロ)を振《ふ》れや!」
観客《かんきゃく》にどなられて、アールが、びくっと顔をあげた。
どなった観客をふりあおいだ彼は、そのまま、救《すく》いをもとめるように目を泳《およ》がせ、ふと、柱《はしら》の陰《かげ》にいるバルサに目をとめた。
「……お、おい! おい!」
アールの顔に、なさけないほどの喜色《きしょく》が浮《う》かぶのを見て、バルサは顔をしかめた。
「バルサ、おい、バルサ! いいところにきたなぁ! こっちへこいよ!」
こんな顔をされては、無視《むし》するわけにもいかない。バルサは背《せ》の高い若者《わかもの》たちのあいだをすりぬけるようにして、アールに近づいていった。
「たすかった! にっちもさっちも行かなくなってたんだよ。たすけてくれや、たのむ!」
すがりつくようにしてバルサの手首《てくび》をつかみ、アールは、ほかの競技者《きょうぎしゃ》をふりかえった。
「ここからは、おれの代《か》わりにこいつにゴイを振《ふ》ってもらう。いいだろう、ズカンさん、割増《わりま》しを払《はら》うからさ。」
アールがそういったとたん、あっけにとられてふたりを見ていた男たちから爆笑《ばくしょう》がおきた。
「なんだ、てめぇ。そんな小娘《こむすめ》に代《か》わってもらうってか?」
ズカンと呼《よ》ばれた、あの大柄《おおがら》な若者《わかもの》が、あざ笑《わら》いながら、椅子《いす》に背《せ》をあずけた。ギィっと椅子がきしみ、椅子の足が床《ゆか》をこする音が聞こえてきた。
「いくつだ、おまえ。」
ズカンに問われて、バルサは答えた。
「十三。」
ズカンが、わざとらしく目を見ひらき、笑いだすと、仲間《なかま》たちも追従《ついじゆう》し、賭博場《とばくじよう》はいっとき、笑《わら》いの渦《うず》につつまれた。
手首《てくび》をにぎっているアールの手が、小きざみにふるえている。
「……どのくらい負けているの?」
たずねると、アールは小声で答えた。−−とんでもない額《がく》だった。マナに指輪《ゆびわ》を買うどころか、このままでは夜逃《よに》げするしかないだろう。アールの尻《しり》ぬぐいなんぞ、してやる義理《ぎり》はなかったけれど、マナが哀《かな》しむ顔は見たくなかった。
バルサは腹《はら》を決めて、じろっとズカンをにらんだ。
「笑《わら》ってるってことは、わたしが代わっても、文句《もんく》はないってことだよね? あんたが、わたし相手《あいて》じゃ怖《こわ》くて勝負《しょうぶ》できないってんなら、引いてやるけど、どうする?」
潮《しお》がひくように笑《わら》い声《ごえ》が消《き》えていった。ズカンは口もとに笑《え》みを浮《う》かべていたが、目は笑っていなかった。ズカンは、ギィ、ギィと椅子《いす》を鳴らしながら、いった。
「いうじゃねぇか。 − いいぜ、アールと代わっても。ちょうど、アールじゃ、借金《しゃっきん》を返してもらえねぇんじゃないかと思ってたとこだ。胸《むね》も出てねぇ小娘《こむすめ》でも、売っはらえば、なにがしかの金《かね》にはなるだろう。アールよりゃ、マシってもんだ。」
バルサは、ズカンのきたない脅《おど》し文句《もんく》には答えず、じっとススット盤《ばん》を見つめていた。腹《はら》の底《そこ》から胸《むね》へ熱《あつ》いものがひろがっていく。勝負《しょうぶ》がはじまる、この瞬間《しゅんかん》が、バルサは好きだった。身体《からだ》が熱くなり、頭は、すうっと冴《さ》えて、冷たくなっていく。
アールは戦士《せんし》の大半《たいはん》をうしなってしまっていた。かろうじて、領土境《りょうどざかい》の橋《はし》を守る戦士が残《のこ》っているだけで、これをうしなってしまったら、一気《いっき》に攻《せ》めこまれて勝負は終わり、莫大《ばくだい》な借金《しゃっきん》をしょいこむことになる。
対《たい》するズカンは、すでに基盤《きばん》の三分の一の領土《りょうど》を獲得《かくとく》している。これまでの動きを記《しる》した帳面《ちょうめん》に目をとおすうちに、もうひとりの競技者《きょうぎしゃ》が、さりげなくズカンを支援《しえん》しているような気がした。
(こいつら、組んでるのかもしれない……。)
きたない手だが、確証《かくしょう》がないかぎり、非難《ひなん》することはできない。
ふしぎなのは、ラフラの老女《ろうじょ》だった。彼女は、まったく領土《りようど》を獲得《かくとく》していないのだ。彼女は一貫《いっかん》して、隊商《たいしょう》の商人《しょうにん》や、旅芸人《たびげいにん》など放浪者《ほうろうしゃ》の駒《こま》を使い、戦《いくさ》の要所《ようしょ》、要所で、一度|得《え》た場所や、よい条件《じょうけん》を売って、金《かね》を稼《かせ》いでいる。勝《か》つことはないが、金は稼げる。実際《じっさい》、領土《りょうど》を多く獲《と》っているズカンより、大金《たいきん》を稼いでいた ー こんな方法《ほうほう》があるのか、と、バルサはおどろいた。
ラフラは、あいかわらず、興味《きょうみ》のなさそうな顔で基盤《きばん》をながめている。バルサがくわわったことにも、なんの反応《はんのう》も示さなかった。
「おい、いいかげんにゴイを振《ふ》れや!」
いらだったズカンの声に、バルサはうなずいて、ゴイをとりあげた。
とるべき戦略《せんりゃく》は、見えていた。すでに獲得《かくとく》した領土《りょうど》は放棄《ほうき》する覚悟《かくご》で、ズカンを陰《かげ》で支援《しえん》している競技者《きょうぎしゃ》に攻撃《こうげき》を集中《しゅうちゅう》するのだ。そして、ズカンが半分以上の領土を獲ってしまう前に、その競技者の領土を奪《うば》う。彼の守《まも》りの手薄《てうす》な場所が、バルサには見えていた。
バルサがゴイを投げ、競技《きょうぎ》が再開《さいかい》した。
バルサが投げるゴイが、正確《せいかく》にねらった目をだし、ゆっくりと勝負に変化が生《う》まれるにつれて、賭博場《とばくじょう》が静《しず》かになっていった。
ズカンを陰《かげ》で支援《しえん》していた競技者《きょうぎしゃ》の領土《りょうど》が、完全《かんぜん》にバルサのものになったのは、真夜中《まよなか》を過《す》ぎた頃《ころ》だった。基盤《きばん》の領土は二分《にぶん》され、わずかにズカンの領土《りょうど》が勝《か》っていたが、アールがしょいこんでいた借金《しゃっきん》は、ほぼ消えて、酒《さけ》を一壺《ひとつぼ》おごるくらいの負けになっていた。
勝負《しょうぶ》が終わっても、だれも、なにもいわなかった。だれかがついたため息《いき》だけが、いやに大きく聞こえた。
ススットが終わった頃《ころ》には、給仕仲間《きゅうじなかま》の娘《むすめ》たちも帰ってきていたが、ジグロはまだもどっていないようだった。
(……なにか、気になる噂《うわさ》を聞いたのかな。)
バルサは暗い顔で二階を見あげた。こんなに遅《おそ》いということは、ジグロはきっと、どこかの酒場《さかば》で隊商《たいしょう》の噂話《うわさばなし》をあつめているのだ。この酒場から出なくてはならなくなったとき、すぐに、隊商の護衛士《ごえいし》などの口を見つけられるように。
高揚《こうよう》していた気分が、すうっとさめていき、黒々《くろぐろ》とした不安《ふあん》が胸《むね》にやどった。
カンバル王が生きているかぎり、バルサたちには心から落ちついてくつろげる日はなかった。きたない秘密《ひみつ》を守ろうとカンバル王が放《はな》ってくる討手《うつて》に、いつ見つかるか、わからないからだ。
暗い思いを胸《むね》の底におしころして、二階にあがろうとしたバルサを、アールが、明るい声で呼びとめた。
「おーい、バルサ、ちょっと待てよ!」
アールはバルサの手をつかんで、強引《ごういん》にひっぱって裏庭《うらにわ》に出た。酒場《さかば》の裏手《うらて》には、井戸《いど》と洗《あら》い場《ば》がある。月は、とうに沈《しず》んで、井戸のあたりは闇《やみ》に沈んでいたが、窓《まど》からもれている明《あ》かりで、マナが立っているのが見えた。
「つれてきたよ! おれの救《すく》い手《て》だ。まあ、聞いてくれよ、すごい勝負《しょうぶ》だったんだぜ!」
笑《わら》いながらアールは、バルサの肩《かた》をたたき、マナに今日《きょう》の勝負について語《かた》りはじめた。
背後《はいご》で裏口《うらぐち》の扉《とびら》がきしむ音がしたので、ふりかえると、ぞろぞろと若者《わかもの》たちが出てきた。勝負が終わっても、アールからせしめた酒《さけ》を飲みながら、賭博場《とばくじょう》にたむろしていたズカンたちだった。
彼らが近づいてくるのを見て、アールは顔をこわばらせ、マナを背後《はいご》にかばった。
きたない怒声《どせい》をあびせながら、因縁《いんねん》をつけてきたのは、取りまきの若者たちで、ズカン自身《じしん》は腕組《うでぐ》みをして、すこし離《はな》れたところに立っている。
バルサには、彼らの言葉《ことば》は聞こえていなかった。闇《やみ》の中で、なにかきたない塊《かたま》が動いて、つつみこんでくる圧迫感《あっぱくかん》を感じたとたん、頭の中に白熱《はくねつ》した怒《いか》りがつきあげてきて、音が聞こえなくなったのだ。
だれかの手が自分の胸《むな》もとをつかんだ瞬間《しゅんかん》、バルサはその手を両手で思いっきりたたき落とし、その男の股《また》ぐらに手をのばして、急所《きゅうしょ》をわしづかみにした。
男がなさけない悲鳴《ひめい》をあげるのを聞きながら、バルサは、男の胸《むね》に下から突《つ》きあげるようにぶつかって、自分よりはるかに背せ《》の高いその男を押《お》したおした。そして、とりかこんでいる若者《わかもの》たちの身体《からだ》の下をかいくぐって、一直線《いっちょくせん》に、ズカンの弟にとびかかった。
びっくりして目を見ひらいたズカンの弟の髪《かみ》をつかむや、バルサは跳《は》ねあがるようにして、その鼻に、思いっきり頭突《ずつ》きをくらわせた。
ズカンの弟が、くぐもった悲鳴《ひめい》をあげた。鼻血《はなぢ》をまきちらしながら泣《な》いている、そいつの髪をつかんだまま、ふりまわし、地面《じめん》に引きたおすと、バルサは両手《りようて》でその頭をおさえつけ、胸に膝《ひざ》をぐいっと押《お》しあてた。
若者たちが、あわてて、バルサをつかんで、引きはがそうとしたが、バルサは若者の頭を離《はな》さなかった。狂犬《きょうけん》のようにうなりながら、もはや悲鳴すらあげられない若者の頭をもちあげては、地面にたたきつける。凶暴《きょうぼう》な怒りに突きうごかされて、自分がなにをしているのかさえ、わからなくなっていた。
突然《とつぜん》、冷たいものが全身《ぜんしん》にぶちあたり、バルサは、はっと手を止めた。だれかが、バルサたちの上に、水をぶちまけたのだ。
「……なさい!」
女の声が、かすかに耳にはいってきた。荒《あら》く息《いき》を吐《は》きながら見あげると、若者たちとはちがう人影《ひとかげ》が、桶《おけ》を手にもって、立っていた。あのラフラの老女《ろうじょ》だった。
「……めなさい。もう充分《じゅうぶん》。それ以上やったら、殺《ころ》しちまうよ。」
バルサはまばたきをして、息を吸《す》った。
見おろすと、血《ち》だらけの顔が自分を見あげている。 − その顔の中の、うつろな目を見たとたん、バルサは、ふるえはじめた。
あたたかい手が肘《ひじ》をつかんで、ひっぱりあげるようにして立たせてくれた。
「……おい。」
背後《はいご》から、声がかかった。ズカンが短剣《たんけん》を抜《ぬ》いて、こちらを見ている。
「その小娘《こむすめ》を、こっちによこせ。 − ここまでやられて、このままってわけにはいかねぇ。」
バルサが身《み》がまえるより前に、ラフラの老女《ろうじょ》の手が、バルサの肩《かた》をぎゅっとつかんだ。
「ズカンさんとやら。」
老女は、気負《きお》いのない声でいった。
「先に手をだしたのは、あんたのほうでしょうが。ススットの勝負《しょうぶ》の因縁《いんねん》を、基盤《きばん》の外にもちだすなんて野暮《やぼ》なまねはしなさんな。」
ズカンが、おどろいたようにラフラを見た。
「なんだと、てめぇ? ばばぁのくせに、おれに説教《せっきょう》しょうってか? − 名のあるラフラだそうだが、図《ず》に乗《の》るんじゃねぇぞ。」
抜《ぬ》き身《み》の短剣《たんけん》を小きざみに振《ふ》りながらズカンが近づいてきたが、ラフラは、バルサの肩《かた》に手をおいたまま、まったく動かなかった。
「……あんた、そのあたりでやめたほうがいい。」
どこか、疲《つか》れているような声で、ラフラはいった。
「わたしは、ナカズさんの(預《あず》かり)だよ。」
若者《わかもの》たちが息《いき》をのんで、顎《あご》をひくのが見えた。ナカズは、この街《まち》だけでなく、この地方一帯《ちほういったい》の賭博場《とばくじょう》を支配《しはい》している男で、小さな氏族《しぞく》の長《おさ》よりも力があると恐《おそ》れられている。
(預《あず》かり)というのは、ナカズの財産《ざいさん》として保護《ほご》されているという意味《いみ》だった。この老女《ろうじょ》の腕《うで》を、それほど、ナカズは評価《ひようか》しているのだ。
動けなくなっているズカンを、老女《ろうじょ》は静《しず》かに見つめていた。
「……あんた、これからも、ススットがしたいかね?」
ズカンは、かすかにうなずいた。
「なら、作法《さほう》を守りな。」
それだけいうと、ラフラはバルサの肩《かた》を押《お》して、ズカンたちに背《せ》をむけた。
あわてたようにアールとマナも駆《か》けよってきて、いっしょに酒場《さかば》にもどった。
「……ねぇ、今夜《こんや》はここに泊まったほうがいいんじゃない?」
まだ、ふるえが残《のこ》っている声でマナがささやいたが、アールは首をふった。
「朝仕事《あさしごと》があるから、帰らねぇと……。」
裏口《うらぐち》のそばで、ぼそぼそと話しているふたりを残《のこ》して、ラフラは、バルサを賭博場《とばくじょう》につれていった。
賭博場には、夕飯《ゆうはん》がわりにつまんでいた揚《あ》げ物《もの》と酒《さけ》、若者《わかもの》たちがふかしていたカザル(煙草《たばこ》)の匂《にお》いがこもっていた。ラフラは椅子《いす》をひいてバルサをすわらせ、自分も椅子にすわると、皿《さら》に残っていた揚げ物をひとつ、つまんだ。
「あんた、わたしの名前、知らないよね。」
「はい。」
「わたしは、アズノっていうんだよ。あんたは、たしかバルサって名だったね。あの若《わか》い衆《しゅう》がそう呼んでたような気がするけど。」
バルサはうなずいた。それから、ぺこりと頭をさげた。
「……あの、ありがとうございました。」
アズノは、かすかに手をふるようなしぐさをした。
「それは、もういいよ。それより、あんた、ススットをはじめて、何年|経《た》つの?」
バルサは、まばたきした。
「一年です。」
アズノは、かすかに眉《まゆ》をあげた。おもしろがっているような光が、その目に浮かんでいた。
「ふうん……。」
鼻を鳴らし、なにかいいかけたが、けっきょくなにもいわずに、アズノは立ちあがった。
指先《ゆびさき》についた脂《あぶら》を、だれかが卓《たく》の上に置《お》きっぱなしにしていった手ぬぐいでぬぐうと、アズノは腰《こし》に手をあてて、うーん、と背《せ》をのばした。
「やれやれ。とんだ大騒《おおさわ》ぎだ。……さあて、寝《ね》ようかね。」
バルサも立ちあがった。触《ふ》れられれば火花《ひばな》が散《ち》りそうに興奮《こうふん》していたのに、いつのまにか気持ちがしずまっていた。
「おばあ……アズノさん……。」
思わず声をかけると、戸口のところへ行きかけていたアズノがふりかえった。
「うん?」
「……しばらく、ここにいらっしゃるんですか。」
アズノは、顔をゆがめるようにして、ほほえんだ。
「くすぐったいから、そんな言《い》い方《かた》しなくていいよ。」
バルサがうなずくと、アズノは戸に手をかけながら、眠《ねむ》そうな声でいった。
「ふた月《つき》ぐらいは、いるつもりだよ。年寄《としよ》りだからさ、みじかい滞在《たいざい》だと、疲《つか》れるから。」
*
ジグロの短槍《たんそう》の穂先《ほさき》がせまってきた。
穂先が顔にせまっても、バルサはまばたきひとつせず、一|歩《ぽ》前に踏《ふ》みこんで、ジグロの槍《やり》の柄《え》に、自分の槍を交差《こうさ》させた。渾身《こんしん》の力で槍を打ちつけたのに、ジグロの槍の軌道《きどう》はほとんどぶれなかった。
夜明《よあ》けの光をはじきながら、頬《ほお》すれすれに刃がかすめ、ひやりとした。鼻の奥《おく》に金臭《かなく》いにおいがする。
「………もう一度!」
低く、鞭打《むちう》つような声とともに、また穂先《ほさき》がせまってきた。
バルサは歯をくいしばり、さっきより半拍《はんぱく》待って、穂先《ほさき》の近くに、槍《やり》を打ちつけてみた。
金具《かなぐ》|同士《どうし》がこすれあって火花《ひばな》が散《ち》る。ジグロの穂先の軌道《きどう》がずれた。……やった、と思った瞬間《しゅんかん》、ふいに手ごたえが消えた。打たれた力を利用《りよう》して、ジグロが槍《やり》を反転《はんてん》させたのだ。
たたらを踏《ふ》んで、身体《からだ》が泳《およ》いだ。のびきった胴《どう》めがけて、ジグロの槍の柄《え》がせまってくるのを、バルサは肌《はだ》で感じた。
とっさに腕《うで》をたたみ、手首《てくび》の金輪《かなわ》を脇腹《わきばら》にあてた。かんだかい音がして、金輪に柄があたった。
直接《ちょくせつ》打たれたのではないのに衝撃《しょうげき》が骨《ほね》までひびき、右手から槍《やり》がはずれた。だが、バルサは槍を落とさなかった。左手一本で槍を突《つ》きだして牽制《けんせい》しながら、左へと逃《に》げた。
うなりをあげて穂先《ほさき》がせまってくる。体勢《たいせい》を立てなおそうと、バルサは必死《ひっし》で、左へもう一|歩《ぽ》|跳《は》ねとんだ。
とたんに、左足が、ずるっとすべった。あっと思ったとき、ジグロの槍が振《ふ》りおろされ、首と肩《かた》のあいだに激《はげ》しい衝撃《しょうげき》が走った。こらえきれずに膝《ひざ》をついたバルサに、ジグロの声が降ってきた。
「闘《たたか》っている場の状況《じょうきょう》を、すべて頭に入れておけといっただろう!」
バルサは肩《かた》で息《いき》をしながら、ジグロを見あげ、ゆっくりと立ちあがった。
井戸《いど》の場所、水桶《みずおけ》の場所など、避《さ》けねばならないところは把握《はあく》していたつもりだったけれど、ぬかるみまでは目にはいっていなかった。実戦《じっせん》では、小石ひとつ踏《ふ》んで体勢《たいせい》をくずしても、死につながる。それは、いつも心に刻《きざ》んでいたはずなのに‥
「受けろ!」
腹《はら》にひびくような声が聞こえて、バルサは、はっと短槍《たんそう》をかまえた。うなりをあげてジグロの短槍がせまってくる。かろうじて、それを受けたときには、もうジグロの槍《ゆり》は、しなりながら頭上《ずじょう》に舞《ま》いあがり、振《ふ》りおろされてきた。
バルサは一撃《いちげき》を受けた力そのままに槍《やり》を振りあげ、両手で槍をささえて、ジグロの打《う》ち込《こ》みを受けとめた。ガチーンとかんだかい音がして、両手が骨《ほね》までしびれた。
右に、左に、下から、斜《なな》め上《うえ》から………はてしなくつづく連続攻撃《れんぞくこうげき》を必死《ひっし》に受けつづけるうちに、手も腕《うで》もしびれて、目の前がかすんできた。
ようやくジグロの攻撃《こうげき》がやんだとき、バルサは地面《じめん》にくずれおちた。膝《ひざ》が笑《わら》ってしまって、立っていられなかったのだ。
ジグロが近づいてきた。あれだけの連続攻撃《れんぞくこうげき》を仕掛《しか》けてきたのに、息《いき》もあがっていない。
「まだ、左脇《ひだりわき》に槍《やり》をもってくるときの動きが悪《わる》いな。」
バルサはうなずいたが、声はだせなかった。見おろしている地面《じめん》が、ゆっくりとまわっているような気がする。
井戸《いど》のほうに歩《あゆ》み去《さ》っていくジグロが、だれかに挨拶《あいさつ》をした声が聞こえたので、顔をあげると、酒場《さかば》の軒下《のきした》に置《お》いてある大きな酒樽《さかだる》に寄《よ》りかかって、アズノがたたずんでいるのが見えた。
近づいていくと、アズノはすっと手をのばした。
「ちょっと、もたせてくれるかね。」
バルサが短槍《たんそう》を渡《わた》すと、アズノは目を見ひらいた。
「重いねぇ! こんなもんを、よくあれだけの速《はや》さで振《ふ》れるもんだ。」
短槍を返してくれながら、アズノは、たずねた。
「こんなことを、毎朝やってるのかね。」
うなずくと、アズノはあきれたような顔をした。
「あんたの根性《こんじょう》も見あげたもんだが、親父《おやじ》さんも、たいした人だ。」
まだ十三の娘《むすめ》が激《はげ》しい武術《ぶじゅつ》の稽古《けいこ》をしているなど、ずいぶんと奇妙《きみょう》な光景《こうけい》に見えただろうに、アズノは、ただ、ぽんぽんとバルサの肩《かた》をはたいただけで、酒場《さかば》にもどっていった。
アズノは、この酒場の賓客《ひんきゃく》|扱《あつか》いで、一階の奥《おく》にある、いちばんよい部屋《へや》で寝起《ねお》きしていた。
夜が遅《おそ》い仕事《しごと》なのに、年寄《としよ》りは眠《ねむ》りが浅《あさ》いのだといって、夜明《よあ》けには起きてくる。そのかわり、昼食《ちゅうしょく》を食べたあと、しばらく部屋にもどって午睡《ごすい》をとるのを日課《にっか》にしていた。
下ごしらえや水汲《みずく》みなどの雑用《ざつよう》がひと段落《だんらく》つくと、給仕仲間《きゅうじなかま》の娘《むすめ》たちは、夜の仕事にそなえて午睡《ごすい》をしたり、化粧《けしょう》をたのしんだりしていたが、バルサは化粧にはまったく興味《きようみ》がなかったので、開店前《かいてんまえ》の人気《ひとけ》のない酒場《さかば》の隅《すみ》で、アズノがひとりでススットをやっているのを見にいった。バルサがそばにくると、アズノは手招《てまね》きして脇《わき》にすわらせ、金《かね》を賭《か》けないみじかい勝負《しょうぶ》をやったり、ゴイ(サイコロ)の投げ方を教えてくれたりした。
アズノの手は小さくて、しわだらけで、染《し》みがたくさん浮いていた。指《ゆび》の動きも、さして速《はや》いわけではなかったけれど、ゴイを爪《つめ》にひっかけて弾《はじ》くように投げたり、二本の指でこするように投げたり、じつに多彩《たさい》に動かすので、おもしろくて、おもしろくて、バルサは夢中《むちゅう》になって、アズノの動きをまねた。
「おお、うまい、うまい。」
バルサが投げるコツを会得《えとく》するたびに、アズノはしわだらけの顔をほころばせた。
「あんたさ、このゴイと、こっちのゴイを振ってみてごらん。」
ふたつのゴイを渡《わた》されて、振《ふ》ってみると、おなじ振り方をしたのに、出た目がちがった。
「おなじに見えるゴイでも、一個一個、わずかな違《ちが》いがあるんだよ。これからはさ、勝負《しょうぶ》をはじめる前に、まず、使うゴイの性質《せいしつ》を感《かん》じとってから振《ふ》りな。」
バルサはうなずいた。
「ね、アズノさんでも、出《だ》したい目が出せないことって、ある?」
「そりゃあ、あるさ。ここ一番ってときに失敗《しっぱい》することもあるよ。」
「そういうときは、どうするの? ラフラは、大負《おおま》けするわけにいかないんでしょう?」
アズノは、基盤《きばん》のかたわらに置《お》いてある皿《さら》に手をのばし、つややかなチクの実《み》(甘《あま》ずっぱい小さな果実《かじつ》)をつまんでロに入れた。
「そうだねぇ。負《ま》けることはあっても、大負けはしないのがラフラさ。」
「でも……。」
バルサは声を低《ひく》めた。
「ラフラは、大勝《おおが》ちしつづける人が出ないように、うまくあやつってるんでしょう? 勝負《しょうぶ》を正確《せいかく》にあやつれなかったら、そんなことはできないんじゃない? どうやってあやつるの?」
それを聞くや、アズノは笑《わら》いだした。
「いやだねぇ、この娘《むすめ》は。それは職業上《しょくぎょうじょう》の秘密《ひみつ》ってもんさ。−−まあ、あんたは目がいいから、もうちょっと場数《ばかず》を踏《ふ》めば、自然《しぜん》と見えてくるんじゃないかね。」
チクの実《み》をもうひとつロに放《ほう》りこんで、器用《きよう》に種《たね》を吐《は》きだしてから、アズノはつけくわえた。
「絶対《ぜったい》に大負《おおま》けしないコツを教えてやろうか?」
「うん!」
身《み》をのりだしたバルサに、顔を近づけて、アズノはささやいた。
「……うまく逃げることさ。」
バルサは顔をしかめた。
「え……そうかなぁ。逃げようと思ってると、腰《こし》がひけて気迫《きはく》が半端《はんぶん》になっちゃうよ。勝《か》てる勝負《しょうぶ》も勝てないんじゃないかなぁ?」
アズノは、にやにや笑《わら》った。
「あんたらしい考え方だねぇ。」
いってから、アズノはふっと笑みを消《け》した。
「あんたの気性《きしょう》には合わないだろうけどさ、逃《に》げるってのは大切《たいせつ》な技術《ぎじゅつ》だよ。年寄《としよ》りの言葉《ことば》だ、おぼえておきなよ……。」
窓《まど》からさしこむ光の筋《すじ》に、ちらちらと細《こま》かい挨《ほこり》が舞《ま》っている。がらんと広い酒場《さかば》は、夜の喧騒《けんそう》が嘘《うそ》のように静《しず》かで、すすけた天井《てんじょう》の色や、靴底《くつぞこ》で削られた床《ゆか》さえ、その静けさに、ひと役《やく》買っているように見えた。
アズノは、ときおり、ぶつぶつ独《ひと》り言《ごと》をいいながら、ススットをしていることがあった。彼女がひとりでやっているススットは、どうやら(ロトイ・ススット(長いススット))らしく、経過《けいか》を記《しる》した羊皮紙《ようひし》は分厚《ぶあつ》くて、黄ばんでいた。
「……どのくらい、長くやっているの?」
たずねると、アズノは、毛羽だった羊皮紙《ようひし》をめくって、最初《さいしょ》の日付《ひづけ》を見せてくれた。それは、なんと五十年も前の日付だった。
「五十年も、ひとりで、このススットをつづけているの?」
びっくりして顔をあげると、アズノは首をふった。
「ひとりでやっているのは、ここや、ここ、ほら、黒い印《しるし》をつけたところがあるだろ。そういうところさ。あとは、相手《あいて》がいる勝負《しょうぶ》だよ。」
黄《き》ばんだ羊皮紙《ようひし》を指でなでているアズノの目には、なにを思いだしているのか、静《しず》かな笑《え》みが浮かんでいた。
「……長い勝負《しょうぶ》だね。」
バルサがつぶやくと、アズノは羊皮紙《ようひし》に目をおとしたまま、うなずいた。
「長い、長い勝負さ。金《かね》を賭《か》けないお遊《あそ》びでね。だまして、助けて、近づいて、離《はな》れて……。」
独《ひと》り言《ごと》のように、アズノはいった。
「十二の年にふた親《おや》を亡《な》くして、ラフラだった伯父《おじ》にひきとられてさ、十六の年にはその伯父も死んで……それからずっとラフラをやって生きてきて……幾度《いくど》か、(ロトイ・ススット(長いススット))もやったけど、いまも終わっていないのは、このススットだけさ。」
最後の日付《ひづけ》は、二年前のものだった。
「まだつづいているんだね。」
「相手《あいて》が病《やまい》を得たんでね、ちょっと休止《きゅうし》してるけど、まだ決着《けっちゃく》はついてないんだよ。」
この(ロトイ・ススット)の中では、アズノはめずらしく領土《りょうど》を争《あらそ》っていた。放浪者《ほうろうしゃ》の駒《こま》ではなく、領主《りょうしゅ》や戦士《せんし》の駒、奥方《おくがた》の駒などを使って、これまで目にしたアズノのやり方とは似《に》ても似つかない、まっすぐで、真剣《しんけん》な勝負《しょうぶ》をくりひろげている。
「その後も、ひとりでやってみているけどね。こうきたら、こう受ける。こうなったら、こう攻《せ》める……。」
アズノは、ゆっくりとした口調《くちょう》で、ひとつひとつ、ためしてみた手を説明《せつめい》してくれた。それは、あたかも、異《こと》なる結末《けつまつ》がいくつもある物語《ものがたり》のようだった。
*
この地域《ちいき》を治《おさ》めるラダム氏族長《しぞくちょう》の重臣、《じゅうしん》ターカヌの使者《ししゃ》が酒場《さかば》にやってきたのは、アズノが酒場にやってきて、二十日ほど経《た》った頃《ころ》だった。
おとずれた使者は武人《ぶじん》らしく背《せ》がぴんと伸《の》びてはいたが、かなりの年寄《としよ》りで、アズノを見るなり、顔をほころばせた。
「おお、アズノ! 変わらんなぁ、そなたは。」
アズノは、膝《ひざ》に手をあてて、深《ふか》ぶかとおじぎをした。
「ヤーザムさまも、お変わりなくご健勝《けんしょう》のようでございますね。ターカヌさまのお加減《かげん》はいかがでございますか?」
「ひところよりは、よくなられた。ただ、すこし足がな……。」
「ああ……やはり、あの落馬《らくば》が……。」
「うむ。若《わか》い頃《ころ》に負《お》った傷《きず》というのは、壮年《そうねん》の頃にはなんということもないように思われても、老年《ろうねん》になるとな。 − 外を歩けぬというのは気がふさぐものだ。それもあって、そなたがこの街《まち》にきていると耳にされるや、一刻《いっこく》も早くつれてまいれとおっしゃってな。」
アズノは、頭をさげた。
「なんとまあ、ありがたいことでございます。一介《いっかい》のラフラふぜいに、いつもいつもご温情《おんじょう》をかけてくださって。」
ヤーザムはほほえんだ。
「一介《いっかい》のラフラと申すが、五十年ものあいだ、(ロトイ・ススット(長いススット))を共に綴《つづ》ってきたとなれば、別格《かくべつ》よ。今夜《こんや》にも、館《やかた》にまいれとのことだが、きてくれるだろうな。」
「ええ、ええ。もちろんでございます。」
酒場《さかば》の主人《しゅじん》に命《めい》じられて、冷《ひ》やした果汁《かじゆう》を盆《ぼん》にのせて持ってきたバルサは、ふたりの前の食卓《しょくたく》に果汁を置《お》いて一礼《いちれい》した。そのまま退出《たいしゅつ》しようとしたバルサを、アズノが呼びとめた。
「バルサ、ちょっと待って。ここにおいで。」
いわれるままに、アズノのそばに行くと、アズノはバルサの肩《かた》に手をおいた。
「ヤーザムさま、わたしの立会人《たちあいにん》として、この子をつれていってもようございますかね。とても勝負度胸《しょうぶどきょう》がいい子で、ぜひともこの勝負を見せてやりたいんですが。」
ヤーザムは、バルサに目をむけて、あっさりとうなずいた。
「かまわんだろう。つれてまいるがいい。」
「ありがとうございます。」
ヤーザムにおじぎをしてから、アズノは、バルサに顔をむけた。
「あの(ロトイ・ススット(長いススット))の続《つづ》きを見せてあげるよ。」
バルサは、ばっと顔をかがやかせた。
(あ、……あのススットは、ここの氏族《しぞく》の武人《ぶじん》たちとやってたんだ!)
どうりで、勝負《しょうぶ》の仕方《しかた》に武人《ぶじん》の匂《にお》いがしたわけだ。五十年もの年月をかけて綴《つづ》ってきた物語《ものがたり》の続きが見られると思うと、わくわくした。
しかし、バルサはすぐに、はたっと困惑《こんわく》の色を浮かべた。
「でも、今日《きょう》は休業日《きゅうぎょうび》じゃないので……。」
それを聞くやアズノとヤーザムが笑《わら》いだした。ヤーザムが、太《ふと》い声《こえ》でいった。
「ターカヌさまとアズノの(ロトイ・ススット)の立会《たちあ》いを許《ゆる》されたのだ。この酒場《さかば》の主人《しゅじん》も、よろこんで仕事《しごと》からはずしてくれようさ。」
ヤーザムの言葉《ことば》どおり、酒場の主人はバルサが今晩《こんばん》休むことをあっさりと許《ゆる》してくれたが、バルサが心配《しんぱい》していたのは、主人のことだけではなかった。ここはロタ王国《おうこく》だが、氏族長《しぞくちょう》の重臣《じゅうしん》の館《やかた》に行けば、カンバル王国からの賓客《ひんきゃく》が宿泊《しゅくはく》している可能性《かのうせい》がある。万《まん》が一《いち》にも、カンバル王が放《はな》った討手《うつて》に出会ったらと思うと、ジグロに話すことさえ気が重かった。
ジグロは、井戸《いど》ばたに砥石《といし》を置《お》いて、槍《やり》の手入れをしていた。
バルサが、小さな声で、ターカヌの館《やかた》でおこなわれる(ロトイ・ススット)の立会人《たちあいにん》をたのまれた、というと、ジグロは穂先《ほさき》の水気《みずけ》をはらいながら、バルサを見た。
「そうか。それは得《え》がたい機会《きかい》だ。楽しんでこい。」
バルサは、おどろいてジグロを見つめた。
「……いいの? 氏族長《しぞくちよう》の重臣《じゅうしん》の館《やかた》に行っても?」
ジグロの目に、かすかに微笑《びしょう》が浮《う》かんだ。
「いいさ。ラダム氏族《しぞく》は、カンバル王家《おうけ》とは関係《かんけい》がうすい。カンバルの武人《ぶじん》が館《やかた》に滞在《たいざい》しているという噂《うわさ》も聞かん。」
「でも……。」
ジグロは立ちあがると、大きな手をバルサの頭においた。
「心配《しんぱい》するな。名高《なだか》いラフラの勝負《しょうぶ》を、しっかり見とどけてこい。」
*
氏族長《しぞくちょう》の重臣《じゅうしん》であるというターカヌの館《やかた》が見えてきたとき、バルサは目をまるくした。
(うわぁ。これで、家臣《かしん》の館《やかた》かぁ。)
幼《おさな》い頃《ころ》に父につれられておとずれたことのある、故郷《こきょう》カンバルのヨンサ氏族長《しぞくちょう》の館《やかた》のようなものを想像《そうぞう》していたので、暗い石造《いしづ》りのヨンサ氏族長の館より大きく、洗練《せんれん》された、白石造《はくせきづく》りの壮麗《そうれい》な館に、びっくりしてしまったのだ。
若《わか》い門衛《もんえい》は、アズノの顔を知らなかったようだったが、話は聞いていたのだろう、すぐにふたりを通してくれた。ところどころで蚊遣《かや》りの煙《けむり》が立ちのぼっている、広大《こうだい》な、薄暮《はくぼ》の庭園《ていえん》をぬけて、本棟《ほんとう》に近づいていくと、アズノは慣《な》れたようすで裏口《うらぐち》にまわった。
裏口で、おとないを告《つ》げると、年かさの侍女《じじょ》があらわれて、まあ、まあ久方《ひさかた》ぶりだこと、と笑わら《》いながらアズノを迎《むか》えいれた。そして、まずは腹《はら》ごしらえをといって、厨房《ちゅうぼう》で、汁気《しるけ》の多い鳥の肉《にく》をあぶった、おいしい夕飯《ゆうはん》を食べさせてくれた。
夕食を終えるのを見はからっていたように、ターカヌの従者《じゅうしゃ》が呼《よ》びにきて、ふたりを廊下《ろうか》にみちびいた。石造《いしづ》りの館《やかた》の中は、ひんやりと涼《すず》しかった。広いせいだろうか、多くの人が出入りしているざわめきも、酒場《さかば》のような騒《さわ》がしい響《ひび》きにはならず、うすぐらい廊下を歩いていると、なんとなく谷底《たにぞこ》にいるような心地《ここち》になった。
通されたのは、客《きゃく》を迎《むか》えいれる広間《ひろま》ではなく、ターカヌの居間《いま》で、大きく開《あ》けはなたれた窓《まど》から、夕風《ゆうかぜ》がそよそよと吹《ふ》きこんでいた。
アズノがはいっていくと、肘掛《ひじか》け椅子《いす》に腰《こし》をおろしていた老人《ろうじん》が、おお、と、手をあげた。
「アズノ!……きたか! 待ちかねたぞ。」
その姿《すがた》を見、その声を開いた瞬間《しゅんかん》、アズノの身体《からだ》がかすかにこわばったのを、バルサは感じた。老人の声には、武人《ぶじん》らしい抑《おさ》えた歓喜《かんき》がにじみでていたが、身体のどこかに痛《いた》むところでもあるような、張《は》りのない声だった。
若《わか》い頃《ころ》は、ほっそりとした長身《ちょうしん》であったことを感じさせる品《ひん》のよいその姿にも、老《お》いとは別《べつ》の、病《やまい》のやつれが、あきらかに感じられた。
アズノは敷物《しきもの》の上に膝《ひざ》をつき、深《ふか》ぶかと頭をさげた。
「長いこと、ご無沙汰《ぶさた》をいたしました。お目にかかれて、ほんに、ほんに、光栄《こうえい》でござります。」
「うむ、うむ……さあ、こちらへまいれ、顔をしっかりと見せよ。」
手招《てまね》きされて、アズノは、恥《は》じらうように、小声で笑《わら》った。
「顔をしっかり見せよなどと、ターカヌさまもお人が悪《わる》うございますねぇ。もう、しわだらけでございますのに。」
「なんの。そなたは変わらぬ。 − 時《とき》は、不公平《ふこうへい》なものだ。わしの上だけ、重く降《ふ》りつもりおった。」
アズノはバルサを紹介《しょうかい》し、部屋《へや》の隅《すみ》の椅子《いす》にすわらせると、ターカヌのそばに行って、下座《しもざ》の椅子《いす》に腰《こし》をおろした。下賎《げせん》な賭博師《とばくし》であるアズノは、始終《しじゆう》、一|歩《ぽ》ひいた態度《たいど》をくずさなかったが、それでも、ふたりの会話《かいわ》からは、たがいを思いやる気持《きも》ちが伝《つた》わってきた。
最初の緊張感《きんちょうかん》が消《き》えていくと、延々《えんえん》とつづく老人《ろうじん》たちの会話《かいわ》に、バルサは退屈《たいくつ》してきた。
(はやく、ススットがはじまらないかなぁ。)
眠気《ねむけ》をこらえて、何度もそう思った頃《ころ》、ようやく扉《とびら》の外から、入室《にゆうしつ》の許可《きょか》をもとめる声がが聞こえてきた。
従者《じゅうしゃ》をしたがえてはいってきたのは、背《せ》の高い若者《わかもの》だった。いかにも才気換発《さいきかんぱつ》といった感じで、目に浮かんでいる表情《ひょうじょう》にも、顎《あご》の動かし方にも、その利発《りはつ》さがあらわれている。
アズノは、深くおじぎをしてから、いかにもおどろいたというふうに、
「まあまあ、サロームさま! なんと、ご立派《りっぱ》な武人《ぶじん》になられて……。」
と、いった。その言葉《ことば》を如才《じょさい》なく受けながらも、サロームの顔に、ちらっと不快《ふかい》げな色が動いた。そっと脇《わき》に立ったサロームの背《せ》をたたきながら、ターカヌはアズノに顔をむけた。
「わしの孫《まご》の中では、これがいちばん、見どころがある。文武両方《ぶんぶりょうほう》に秀《ひい》でておるが、とくにススットの腕《うで》は、もしかすると、もう、わしを凌《しの》いでおるやもしれぬ。どうだ、今回《こんかい》の(ロトイ・ススット)には、これも加《くわ》えようと思うのだが、よいか。」
アズノはうなずいた。
「もちろんでございますよ、たのしみでございます。」
ターカヌは、かすかに笑《わら》いをふくんだ、嗄《か》れた声でいった。
「五十年にもわたって、そなたと(口トイ・ススット)を綴《つづ》ってきたが、たぶん、わしにとっては、これが最後の勝負《しょうぶ》となろう。 − 最後の勝負には、ぜひとも、わしの血《ち》を継《つ》ぐ若《わか》い者《もの》を加《くわ》えたいと思っておったのだ。叶《かな》って、よかった。」
バルサはてっきり、(ロトイ・ススット)は広間《ひろま》で、多くの観衆《かんしゅう》の中でおこなわれるのだと思いこんでいたが、ターカヌとアズノは、居間《いま》の卓《たく》の上に基盤《きばん》をひろげ、年季《ねんき》のはいった羊皮紙《ようひし》の綴《つづ》りをそれぞれ手にもち、まるで昔語《むかしがた》りの続《つづ》きを語《かた》るようにして、ゴイ(サイコロ)を振《ふ》りはじめた。
ターカヌの孫《まご》のサロームは無言《むごん》だったが、祖父《そふ》の綴《つづ》りを読みこんでいたのだろう、とまどったふうもなく、水流《すいりゅう》にすべりこむ魚《うお》のように、勝負《しょうぶ》にはいりこんでいった。
バルサはアズノの背後《はいご》に立って、三人の攻防《こうぼう》を見まもった。おたがいの感覚《かんかく》がもどってくるのを待って、ゆっくりとはじまった勝負は、やがて、うなりをあげて回転《かいてん》する槍《やり》のように、ぐんぐんと熱気《ねっき》をおびていった。
こんなススットは見たことがなかった。金《かね》を賭《か》けた勝負《しょうぶ》には常《つね》にただよっている、臆病《おくびょう》な駆《か》け引《ひ》きなどかけらもない、野を騎馬《きば》が駆《か》けていくような、爽快《そうかい》で激《はげ》しい勝負だった。
三人は、一進一退《いっしんいったい》をくりかえしたが、最初に脱落《だつらく》しはじめたのは、ターカヌだった。疲《つか》れたのだろう。勝負に切れがなくなった。それでも負けぬように、ねばっている姿《すがた》は、武人《ぶじん》の名に恥《は》じぬものだった。
サロームは、おどろくほど切れる頭をもった勝負師《しょうぶし》だった。バルサも、必死《ひっし》で手を読んだが、彼はかならず、バルサが読んだ手の数歩先《すうほさき》を行った。 − だが、真《しん》におどろくべきは、アズノだった。
この老女《ろうじょ》の、どこにこれほどの気力《きりょく》と知力《ちりょく》が隠《かく》れているのかと思われるほど、アズノは、どのような攻撃《こうげき》を受けても乱《みだ》れず、かすかな隙《すき》があれば、見落とすことなく、思いきりのよい攻撃《こうげき》で突《つ》いていく。これまで見せていた勝負《しょうぶ》の仕方《しかた》とはまるでちがう、まるで守《まも》りを考えぬ、攻《せ》めの技《わざ》の連続《れんぞく》であった。
バルサは時《とき》を忘《わす》れた。とうとう、ターカヌが、今夜《こんや》はここまでとしよう、と、いったとき、深い水底《みなぞこ》から水面《みなも》に出たように、周囲《しゅうい》の物音《ものおと》がもどってきて、びっくりした。
サロームは、あいかわらずなにもいわなかったが、その目には、勝負の興奮《こうふん》と、アズノに対《たい》する賞賛《しょうさん》の色が浮かんでいた。
ターカヌは椅子《いす》に背《せ》をもたせかけて、疲《つか》れきった顔でアズノを見ていた。
「……すばらしい勝負《しょうぶ》だ。こうでなくてはならぬ。 − やはり、そなたは最高のラフラだ。」
かすれ声でいわれて、アズノは紅潮《こうちょう》した顔で、うれしそうにほほえんだ。
「とんでもないことでございます。 − ターカヌさまのご体調《たいちょう》も考えず、つい夢中《むちゅう》になって、たいへん申しわけないことを……。」
アズノの言葉《ことば》を、ターカヌは手をふってさえぎった。
「……考えたのだが、このススットの決着《けっちゃく》は、公開《こうかい》でやらぬか。」
ターカヌの目には、贈《おく》り物《もの》を思いついた少年のような、明るい光がやどっていた。
「これほどすはらしい勝負《しょうぶ》を、われらだけのものにしておくのは、いかにも惜《お》しい。最後の勝負は、公開とし、金《かね》を賭《か》けた勝負にしようではないか。」
それを聞いた瞬間《しゅんかん》、アズノの顔に奇妙《きみょう》な表情《ひょうじょう》が浮かんだ。 − つかのまだったが、燃《も》えさかっていた火に、冷水《れいすい》をふりかけられたような、唖然《あぜん》とした表情が浮かんだのだ。
アズノは、ゆっくりと頭をさげた。
「ターカヌさまが、そう望《のぞ》まれるのでございましたら、もちろん、そのように……。」
その答えを聞いて、ターカヌは、うむ、うむ、と、うれしそうにうなずいた。
「よし、それでは明日《あす》にでも触《ふ》れをだし、ひとりでも多くの者が、名勝負《めいしょうぶ》を見られるようにしようではないか!………そうなると、明日の夜では、準備《じゅんび》がととのわぬな。明後日《みょうごにち》にしたほうがよかろう。どうだ? 明後日の夜、広間《ひろま》でおこなおう。それでよいか?」
楽しげにそういったターカヌに、アズノは、深く頭をさげたまま、答えた。
「……よろしく、お手配《てはい》お願《ねが》いいたします。」
ターカヌは、孫息子《まごむすこ》に顔をむけた。
「そなたも、それでよいか?」
サロームは、微笑《びしょう》を浮《う》かべてうなずき、アズノにも、ちょっと、うなずいてみせた。
祖父《そふ》に深く頭をさげてサロームが退出《たいしゅつ》していき、アズノもおじぎをして退出しようとしたとき、ターカヌは、アズノを呼《よ》びとめた。
「……アズノ。」
戸口で足をとめて、アズノはふりかえった。
ターカヌは、静かな声でいった。
「明後日《みょうごにち》の勝負《しょうぶ》、サロームに勝ってくれ。」
アズノがおどろいて目をみはると、ターカヌは、紅潮《こうちよう》した顔で、うなずいてみせた。
「あれは、もっと伸《の》びる男だ。 − ぜひとも、敗戦《はいせん》というものを、あじあわせてやってくれ。そして、な、勝利《しょうり》の栄光《えいこう》と賞金《しょうきん》を受けとってくれ。」
アズノは顔をふせた。バルサは、アズノの唇《くちびる》がふるえているのに気づいて、どきりとした。
アズノは、なかなか顔をあげなかった。顔をふせたまま、かすれた声で、
「……ありがたい、お言葉《ことば》でございます。このわたしを、そこまで……。」
と、いった。そして、ひとつ息《いき》を吸《す》ってから、ようやく顔をあげた。
「全力《ぜんりょく》をつくしますが、ご期待《きたい》にそえるかどうか、お約束《やくそく》はできません。」
ターカヌは、信頼《しんらい》しきっている目で、ほほえんだ。
「なに、そなたなら、やれるさ。」
夜更《よふ》けの道を、アズノは、足をひきずるようにして歩いていた。声をかけるのが、はばかられて、バルサも無言《むごん》で脇《わき》を歩いた。送ってきてくれた館《やかた》の者が、街《まち》の門までふたりを送りとどけて帰っていくと、アズノは深いため息《いき》をついた。
バルサは、がまんできなくなって、ロをひらいた。
「あの人、なんで、あんなことをいったのかな。 − やっぱり、アズノさんを動揺《どうよう》させて、孫息子《まごむすこ》を勝《か》たせようとしてるのかな。」
アズノは、つかのま、バルサがなにをいっているのかわからないという表情《ひようじょう》で、眉《まゆ》をよせてバルサを見ていたが、すぐに、ああ、と、つぶやくと、微苦笑《びくしょう》を浮《う》かべて、首をふった。
「あの方《かた》は − ターカヌさまは、そういうお方じゃないんだよ。」
「でも……。」
言いつのろうとしたバルサを、アズノは、静《しず》かな声でさえぎった。
「ターカヌさまはさ、ロトイ・ススットしかご存《ぞん》じない。いさぎよい、武人《ぶじん》の勝負事《しょうぶごと》しかご存じないのき。 − 酒場《さかば》での、金《かね》を賭《か》けたタィ・ススットなんぞ、見たこともないお方《かた》だよ。わたしをひっかけようなんてきたないことを、考える方じゃない。」
手にもった灯《あか》りをゆらしながら、アズノは歩きはじめた。そして、暗《くら》い夜道《よみち》を見つめなが
ら、ぼつっとつけくわえた。
「……あの方《かた》は、わたしに贈《おく》り物《もの》をくださりたいのさ。五十年の長い楽しみの、褒美《ほうび》にね。」
その声が、あまりにも小さかったので、バルサは、なぜか、涙《なみだ》が出そうになった。
「なら、勝てばいいだけじゃない。ターカヌさまの気持ちに応《こた》えるためにも、勝ってあげなきゃ!」
アズノは、答えなかった。
バルサは、その背《せ》に、声をかけつづけた。
「だいじょうぶだよ! あいつは、たしかに強いけど、アズノさんなら勝てるよ。 − ほら、まえに話してくれた手の中に、捨て身の奇襲《きしゅう》があったじゃない。あのサロームって人、そういう手には弱《よわ》そうだよ。あれを使えば、きっと勝《か》てるよ!」
アズノはふと足をとめて、バルサをふりかえった。なにかをいいかけたが、けっきょく、なにもいわずに、また前をむいて、ゆっくりと歩きはじめた。
その夜、酒場《さかば》に帰りついたアズノは、その足で酒場の主人《しゆじん》の部屋《へや》にはいっていき、長いあいだ出てこなかった。なにを話しているのか気になったけれど、さすがに顔をつっこむわけにもいかず、バルサは、落ちつかない気分で、ときおり、閉じられている主人の部屋の扉《とびら》を見やった。
ジグロは、そんなバルサをじっと見ていたが、やがて、声をかけた。
「アズノが、なにを話しているか、そんなに気になるか。」
バルサはジグロを見あげて、うなずいた。
「なにを相談《そうだん》することがあるんだろ。 − この賭博場《とばくじょう》での勝負《しょうぶ》じゃないのに。」
「だが、金《かね》を賭《か》けることになったのだろう。」
「うん。」
ジグロは、手にしていた茶碗《ちゃわん》を脇《わき》の小卓《しょうたく》に置《お》いた。
「おまえ、ラフラの賭金《かけきん》が、どこから出るか、知っているか。」
「え? ……自分で稼《かせ》いだ金《かね》を、賭《か》けるんじゃないの?」
ジグロは首をふった。
「ラフラは、賭博場《とばくじょう》に雇《やと》われて、賭博場の持《も》ち主《ぬし》のためにススットをあやつる勝負師《しょうぶし》だ。賭金《かけきん》はすべて主人《しゆじん》からの預《あず》かり金《きん》だ。だから、勝っても負《ま》けても、動いた金は賭博場の持ち主のものになる。ラフラが得《え》るのは、賭博場を隆盛《りゆうせい》させた報酬《ほうしゅう》で、賭《か》けで勝《か》った金じゃない。」
バルサは、ぽかんと、ジグロを見つめた。
「……知らなかった。」
「そうだろうな。ふつう、耳にはいる話じゃない。おれも、まえに、あるラフラと飲んだときに、その話を聞いて、おどろいたものだ。」
ジグロは、酒場《さかば》の喧騒《けんそう》に目をくばりながら、静《しず》かな声でいった。
「ラフラは、購博場《とばくじょう》の持ち主と、多くの賭博場から上《あ》がりの一部を上納金《じょうのうきん》として得ている連中《れんちゅう》の持ち物だ。すぐれた賭博《とばく》の腕《うで》で、賭博場を盛《も》りたててきたラフラは、老《お》いて、賭博ができなくなっても、つつがなく暮らせるよう面倒《めんどう》をみてもらえる。だが、一度でも大負《おおま》けをして、その噂《うわさ》がひろがれば、持ち物としての価値《かち》はなくなる。……そういう人生《じんせい》だ。」
やがて、扉《とびら》が開《ひら》いて、アズノが出てきた。疲《つか》れた顔をしていたが、その顔にはもう、動揺《どうよう》の色はなかった。自分を見ているバルサに気づくと、アズノは眉《まゆ》をあげ、ちらっとさびしげな笑《え》みを浮《う》かべた。そして、こぶしで腰《こし》をたたきながら、自分の部屋《へや》にはいっていった。
*
アズノとサロームの勝負《しょうぶ》は、多くの観客《かんきゃく》の前でおこなわれた。一進一退《いっしんいったい》をくりかえす、白熱《はくねつ》したその攻防《こうぼう》は、長く人びとのあいだに語《かた》り継《つ》がれる名勝負《めいしょうぶ》となった。
アズノは、その夜、戦士《せんし》の駒《こま》は使わなかった。攻《せ》めるときは、旅芸人《つびげいにん》や隊商《たいしょう》、暗殺者《あんさつしゃ》などの駒を使って脇《わき》から攻め、あとはひたすら、守《まも》りに徹《てっ》した。
攻《せ》められても、攻められても、のらりくらりとかわし、サロームが領土《りょうど》を得《え》る一手《いって》を打つたびに、金《かね》を払《はら》わねばならぬように仕向《しむ》ける。……ラフラらしい、一瞬《いっしゅん》も乱《みだ》れることのない、狡猾《こうかつ》な手で、アズノは、すこしずつ領土をうしなう一方で、着実《ちゃくじつ》に金を稼《かせ》いでいった。
勝負《しょうぶ》のあいだ、ターカヌは、かすかに眉根《まゆね》をよせ、ときおり、問《と》いかけるように、ちらちらとアズノを見たが、アズノは一度として、ターカヌに視線《しせん》をむけることはなかった。
そして、アズノは負《ま》けた。五十年|綴《つづ》ってきた勝負《しょうぶ》が終わったとき、サロームは多くの領地《りょうち》を得《え》、アズノの手もとには銀貨《ぎんか》が残《のこ》っていた。
万雷《ばんらい》の拍手《はくしゅ》の中、アズノは、静《しず》かに席《せき》を立ち、ターカヌに探《ふか》ぶかと頭をさげると、人びとの賞賛《しょうさん》の声も聞こえていないような顔で、ゆっくりと広間《ひろま》から出ていった。
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一
屋根《やね》をたたく雨の音が、急《きゅう》に激《はげ》しくなった。
夕刻《ゆうこく》に降《ふ》りはじめたときは、さほどでもなかったのに、日が暮《く》れおちてからは風も強《つよ》まってきている。
「……嵐《あらし》になりそうだな。」
帰途《きと》を気にしているのだろう、医術師《いじゅつし》が、ちょっと眉《まゆ》のあたりをくもらせて、窓《まど》のほうに目をやった。酒場《さかば》の屋根裏部屋《やねうらべや》の窓に、高価《こうか》な玻璃《はり》などはいっているはずもなく、閉《と》じられた雨戸《あまど》の隙間《すきま》から、ときおり、強い風にあおられた雨の細《こま》かいしぶきが吹《ふ》きこんでくる。
ジグロが横たわっている寝台《しんだい》が雨に濡《ぬ》れぬように、バルサは旅《たび》のときに使う油紙《あぶらがみ》をだして、毛布《もうふ》をおおった。
老齢《ろうれい》の医術師《いじゅつし》はため息《いき》をついて、ジグロの手首《てくび》から手をはなした。それから、たったいまバルサが油紙《あぶらがみ》でおおった毛布《もうふ》を乱暴《らんぼう》なしぐさで剥《は》ぐと、ジグロの上衣《うわぎ》の前をはだけさせて、腹《はら》の上に手をおいた。
高熱《こうねつ》が出ているのだろう、ジグロは、びっしょりと汗《あせ》をかきながら、ふるえている。目はとじられていて、なにをされても動くようすもなかった。
腹《はら》や胸《むね》を押してみてから、医術師《いじゅつし》は、かたわらに置《お》いていた手ぬぐいで自分の手をぬぐった。それから、その手ぬぐいをバルサに放《ほう》ってよこした。
「汗をふいてやれ。」
バルサは、一生懸命《いっしょうけんめい》ジグロの汗をぬぐってやりながら、医術師を見あげた。
「……なんの病気《びょうき》なんですか?」
医術師《いじゅつし》は帰《かえ》り支度《じたく》をしながらいった。
「白目《しろめ》に黄疸《おうだん》が出たあとがある。肝《かん》ノ病《やまい》だな。大酒《おおざけ》を飲む男は肝が弱《よわ》る。こういうところで働《はたら》いている男には、よくある病《やまい》だ。」
バルサはむっとして、医術師を見つめた。
「父は、ほとんど酒《さけ》を口にしません。それより、すこし前に、腕《うで》にひどい傷《きず》を負《お》ったんです。その傷から、なにか悪いものがはいったってことはないんですか?」
医術師は、ジグロの左腕《ひだりうで》に視線《しせん》をおとした。縫《ぬ》いあとも生々《なまなま》しい傷《きず》あとを見て、医術師は顔をしかめた。
「これか? − もうふさがっている。まあ、関係《かんけい》ないな。」
そういうと、たずさえてきていた革《かわ》の鞄《かばん》をもちあげて、中からきっちりと油紙《あぶらがみ》につつんだものをとりだした。
「この薬《くすり》を飲ませれば、十日もすればよくなるが、どうするね。」
バルサは、なにを問《と》われているのかわからず、眉根《まゆね》をよせて医術師《いじゅつし》を見た。
医術師は、ゆっくりとした口調《くちよう》でいった。
「わからんか、いっている意味《いみ》が。この薬はな、よく効《き》くが、とても高価《こうか》だ。金《かね》を払《はら》う気があるかと聞いているんだよ。まあ、おまえみたいな子どもにできる判断《はんだん》じゃなかろうがな。」
酒場《さかば》の用心棒《ようじんぼう》 − それも子連《こづ》れの − に対する蔑《さげす》みが、その目にはっきりとあらわれていた。
胸《むね》の底《そこ》から怒《いか》りがつきあげてきて、バルサは医術師をにらみつけた。
「……いくらですか。」
医術師《いじゅつし》がロにした値段《ねだん》を聞いたとたん、熱《あつ》くなった頭に、しびれるような不安《ふあん》がしのびこんできた。−−−それは、バルサが、これから半年この酒場《さかば》で働《はたら》いても手にすることができぬほどの額《がく》だった。
貯《たくわ》えはあった。ジグロは一流《いちりゅう》の評価状《ひょうかじょう》をもつ用心棒《ようじんぼう》だったから、どこに雇《やと》われても、かなりの高給《こうきゅう》を得《え》られたからだ。それに、つい先日《せんじつ》、この酒場《さかば》の主人《しゅじん》から多額《たがく》の礼金《れいきん》ももらっていた。しかし、旅《たび》から旅への暮《くら》らしの中では費《つい》えも多く、たとえ礼金を勘定《かんじょう》にいれたとしても、それほどの余裕《よゆう》があるわけではないことを、バルサはよく知っていた。
それでも、いくら高価《こうか》だからとて、養父《ようふ》の命《いのち》を救《すく》う薬《くすり》に払《はら》う金《かね》を惜《お》しむはずがあろうか。そういう心根《こころね》の者だと見られたことが、身《み》ぶるいするほど腹立《はらだ》たしかった。
バルサは、さっとしゃがんで、寝台《しんだい》の下に置《お》いてある頭陀袋《ずだぶくろ》をひっぱりだした。
「金なら充分《じゅうぶん》にあります。父の病《やまい》を治《なお》せるだけの量《りょう》、その薬をください。」
大金《たいきん》を無造作《むぞうさ》に懐《ふところ》にねじこんで医術師《いじゅつし》が帰っていくと、部屋《へや》の中が、静《しず》かになった。雨戸《あまど》に打ちつけてくる雨音《あまおと》と風のうなり、そして、ジグロの苦しげな息《いき》の音だけがひびいている。
医術師が置《お》いていった包《つつ》みを開《ひら》くと、小分《こわ》けにされた薬包《やくほう》が二十|包《ぽう》はいっていた。
「……父さん、起きて。薬《くすり》を飲んで。」
耳もとで声をかけながら肩《かた》をゆすると、ジグロはうっすらと目をあけた。バルサは首の下から手をまわして、ジグロが身体《からだ》を起こすのを手伝《てつだ》った。ジグロのうなじは、とても熱《あつ》かった。
水とともに薬《くすり》を飲《の》みくだすと、ジグロはまた横になった。そして、すぐに荒《あら》い寝息《ねいき》をたてはじめた。
うすぐらい部屋《へや》の、隙間風《すきまかぜ》にゆれている炎《ほのお》の明《あ》かりに浮かびあがっている養父《ようふ》の顔を、バルサは長いこと、ただ見つめていた。
ジグロが突然《とつぜん》|倒《たお》れたのは、昨日《きのう》の夜半《やはん》すぎ、酒場《さかば》がしまり、用心棒《ようじんぼう》の仕事《しごと》が終わった直後《ちょくご》だった。
寝間《ねま》として割《わ》りあてられている屋根裏部屋《やねうらべや》に通《つう》じる階段《かいだん》に足をかけたジグロが、ふいによろめき、壁《かべ》に手をついたのだ。駆《か》けよってジグロの顔をのぞきこんだバルサは、ぞっとした。その顔は水をかぶったように汗《あせ》にぬれて、唇《くちびる》が小きざみにふるえていたからだ。ジグロのこんな顔は見たことがなかった。
「……心配《しんぱい》するな。熱《ねつ》が出ているだけだ。 − 肩《かた》をかせ。」
バルサは養父《ようふ》の身体の下にもぐりこみ、肩と背《せ》でその身体をささえながら、ゆっくりと階段《かいだん》をのぼった。どうにか寝台《しんだい》までたどりついて、横たえさせたときには、ジグロは半《なか》ば気をうしなったようになっていた。
汗《あせ》をふき、冷《つめ》たくしぼった布《ぬの》を額《ひたい》にのせてやりながら、バルサは途方《とほう》にくれていた。
こんな夜更《よふ》けに医術師《いじゅつし》がきてくれるはずもない。旅《たび》をつづける暮《く》らしだったから、すこしばかりの薬《くすり》は常備《じょうび》していたけれど、養父《ようふ》を抱《だ》きおこして熱《ねつ》さましの薬を飲ませても、熱はなかなか下《さ》がっていかなかった。
酒場《さかば》の奉公人《ほうこうにん》たちが眠《ねむ》りにつき、静《しず》まりかえっても、バルサは眠らずに、養父の汗《あせ》をふき、冷たい布《ぬの》を額《ひたい》にのせつづけた。
ジグロは何度か厠《かわや》にたち、ひどく吐《は》いた。頑健《がんけん》な体躯《たいく》をしている養父が、ガタガタとふるえているのを、バルサは為《な》すすべもなく見つめているしかなかった。
翌日《よくじつ》の朝になって、給仕仲間《きゅうじなかま》の姉《ねえ》さんたちが事情《じじょう》を知り、なんで自分たちに助けをもとめなかったのかとあきれた。
賭博《とばく》で大負《おおま》けしそうになっていた恋人《こいびと》を救《すく》ってもらって、バルサに恩義《おんぎ》を感じているマナが、いい医術師《いじゅつし》を知っているといって呼《よ》びにいってくれたが、その医術師がようやくやってきたのは、夜になってからだった。
六つのときに、ジグロに手をひかれて故郷《こきょう》を逃《に》げだしてから七年。ひとところに長く落ちつくことのできぬ旅暮《たびぐ》らしのあいだには、ふたりとも風邪《かぜ》やら腹痛《ふくつう》やらで寝込《ねこ》んだことは幾度《いくど》かあった。
とくにジグロが用心棒《ようじんぼう》の仕事《しごと》をはじめたばかりの、評価状《ひょうかじょう》をもっていなかった頃《ころ》は、稼《かせ》げる金《かね》も少なく、なかなか新しい働《はたら》き口《ぐち》も見つからず、日々の糧《かて》を得《え》ることさえできぬこともあったから、冷《つめ》たい雨が降《ふ》る夜に、すきっ腹《ぱら》をかかえ、商家《しょうか》の軒下《のきした》で泥《どろ》にまみれて眠《ねむ》ったあとなどは、よく風邪《かぜ》をひいた。
ジグロが一流《いちりゅう》の評価状《ひょうかじょう》を得《え》てからは、日々の糧《かて》に事欠《ことか》くようなことはなくなったけれど、多数《たすう》の盗賊《とうぞく》と斬《き》りあうこともあるこの稼業《かぎょう》では、ジグロのような武術《ぶじゅつ》の達人《たつじん》であっても、ひどい傷《きず》を負《お》って高熱《こうねつ》をだすことも稀《まれ》ではなかった。
それでも − 深手《ふかで》を負《お》って高熱をだしている養父《ようふ》のかたわらで、長い夜を過《す》ごしているときでも − バルサは今のような不安《ふあん》を感じたことはなかった。刀傷《かたなきず》は、どのくらいの傷なら、どんな経過《けいか》をたどって、どのくらいで治《なお》るか、ジグロから教えてもらっていたし、なにより、なぜ熱《ねつ》が出ているか、その理由《りゆう》があきらかだったから、ジグロの強靭《きょうじん》な体力《たいりよく》ならかならず治《なお》ると信《しん》じられたからだ。
けれど、これはちがう。この症状《しょうじょう》は、これまで養父を襲《おそ》ったどんな深手《ふかで》のときともちがう。それがわかるから、じわじわと染《と》みいるような恐《おそ》れが胸《むね》をしめつけてくるのだ。
(………やっぱり、あのときの傷《きず》のせいもあるんじゃないかな。)
あの医術師《いじゅつし》はろくに傷を見もしなかったけれど、傷を負《お》ったときに、なにか悪いものでもはいったのではなかろうか。
すこし前におきた、あの死闘《しとう》を思いだして、バルサはぶるっと身《み》ぶるいした。
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ニ
盗賊《とうぞく》に襲《おそ》われる危険《きけん》がある隊商《たいしょう》の護衛《ごえい》とちがって、こういう酒場《さかば》の用心棒《ようじんぼう》の仕事《しごと》は、ふつうは、さして危険があるわけではない。騒動《そうどう》をおこすのは、だいたいが酔《よ》っぱらいだったし、この酒場の主《あるじ》は、地域一帯《ちいきいったい》の賭博場《とばくじょう》を支配《しはい》しているナカズという男の傘下《さんか》で、なかなかに名を売っている男だったから、ゴロツキに因縁《いんねん》をつけられることもなかったからだ。
しかし、酒場の主《あるじ》がナカズの子分《こぶん》として知られていたことが、今回《こんかい》は仇《あだ》となった。
あの夜、酒場が開《あ》いてしばらくのあいだは、いつもと変わらぬにぎわいが賭博場《とばくじょう》と酒場《さかば》をつつんでいた。
この街《まち》は河《かわ》と街道《かいどう》にはさまれているから、ロタ王国《おうこく》の南部と北部を行《ゆ》き来《き》する行商人《ぎょうしょうにん》や荷運《にはこ》び稼業《かぎょう》の者たちなど、雑多《ざった》な人びとが集まっては去っていく。酒場におとずれるのも、常連《じょうれん》の客《きゃく》もいれば、この街に立《た》ち寄《よ》ったばかりの者もおり、見なれぬ顔の男たちがはいってきても、気にする者はいなかった。
そんな雑多《ざった》な人びとのざわめきの中を、盆《ぼん》に酒《さけ》やつまみをのせて行《ゆ》き来しながら、バルサは、ふと、窓《まど》ぎわの食卓《しょくたく》についている四人の男たちに目をとめた。はじめは、自分がなぜ、その男たちが気になったのかわからなかったが、客《きゃく》の応対《おうたい》をしながら、二度、三度と厨房《ちゅうぼう》と酒場《さかば》を往復《おうふく》するうちに、わかってきた − 男たちの視線《しせん》が酒場全体《さかばぜんたい》を泳《およ》ぐように見まわしているのが、気になったのだと。
とくにだれかを探《さが》しているふうでもなく、ときおり、一点にじっと視線をそそいでは、すっと視線を移動《いどう》させていくそのやり方は、ジグロが初《はじ》めてはいる場所《ばしょ》でかならずおこなう観察《かんさつ》の仕方《しかた》によく似《に》ていた。
男たちは一見《いっけん》したところ、隊商《たいしょう》の護衛士《ごえいし》のように見えた。腰《こし》には長剣《ちょうけん》を帯《お》び、武人階級《ぶじんかいきゅう》ではあっても、氏族領《しぞくりょう》に暮《く》らす武人とはちがう、どこかくずれた感じがあったからだ。
ちらっと、壁《かべ》によりかかっているジグロを見ると、ジグロと目が合った。 − それで、ジグロが、とっくに男たちに目をつけていたことを知った。
ジグロは漫然《まんぜん》と酒場全体をながめているように見えたが、その視線《しせん》は、男たちが動きだした場合《ばあい》に、どの客が被害《ひがい》を受けるか、どうすれば最短《さいたん》の時間で男たちに駆《か》けより、客を無傷《むきず》で逃《に》がすことができるかを見取《みと》っていた。
ジグロはどう動くだろう。 − 胸《むね》の底《そこ》にじんわりと熱《あつ》さがひろがっていくのを感じながら、バルサは、なにか事がおきたらジグロがどんな動きをするか、見ぬこうとした。
ジグロがとるだろう対応《たいおう》を幾通《いくとお》りか予想《よそう》して、バルサは物騒《ぶっそう》な期待《きたい》を胸に秘《ひ》めながら、客たちの注文《ちゅうもん》をとってまわった。いつ動くか、いつ動くかと、絶《た》えず気にしていたけれど、男たちはいっこうに動くようすはなかった。
ふと視線《しせん》を感じてふりかえると、ジグロがこちらを見ていた。バルサは注文をとりにいくような顔をしてジグロに近づいた。
「タッガのようすを見てきてくれ。賭場《とば》にも妙《みょう》なやつらがいるようだったら、おれからの伝言《でんごん》だといって、それを伝《つた》えてやれ。賭場《とば》がだいじょうぶなようだったら、ちょっと一|杯酒《ぱいさけ》にありつこうとしている感じで、ここへくるようにいってくれ。」
バルサはうなずいて、盆《ぼん》を胸にかかえたまま踵《きびす》をかえした。
タッガはこの酒場《さかば》の、もうひとりの用心棒《ようじんぼう》で、気のいい大男《おおおとこ》だった。その体格《たいかく》を見るだけでたいがいの酔《よ》っぱらいはおとなしくなるから、こういう酒場の用心棒としてはうってつけの男だったが、もともと武人《ぶじん》の出ではないせいか、事がおこる前に異状《いじょう》に感《かん》づくような感覚《かんかく》の鋭さは持ちあわせていなかった。
タッガが気づいていない賭博場《とばくじょう》の異状《いじょう》に、おまえなら気づくだろう、と、暗《あん》にいわれたことが、バルサは舞いあがるほどうれしかった。
賭博場《とばくじよう》への扉《とびら》に手をかけたとき、厨房《ちゅうぼう》の出入り口に近い食卓《しょくたく》にすわっていた客《きゃく》たちが、なにかの話で盛《も》りあがり、わっと高い笑《わら》い声《ごえ》をあげた。多くの客がそちらに目をむけ、バルサも思わずそちらを見た……その一瞬《いっしゆん》に、事《こと》はおきた。
男たちが立ちあがる、そのそぶりが見えたときには、ジグロは動きだしていた。
立ちあがった男たちのうち、ひとりが食卓を蹴《け》たおし、大音声《だいおんじょう》でどなった。
「なんだ、この酒場《さかば》は! 腐《くさ》った酒《さけ》を客にだしやがるのか!」
食器《しょっき》が飛びちり、床《ゆか》に落ちて割《わ》れる派手《はで》な音が重《かさ》なってひびいた。
別《べつ》の男が、おどろいてふりかえった隣《となり》の食卓《しょくたく》の男を押《お》しのけるようにして、隣の食卓にのっている酒壺《さかつぼ》に手をのばし、無遠慮《ぶえんりょ》にロをつけてあおると、顔をしかめ、音をたてて吐きだした。
「こっちも腐ってやがる。……おまえら、こんな酒に大金払《たいきんはら》って飲んでいるのか? まともな酒場を知らねぇせいだろな。かわいそうなもんだぜ。」
唖然《あぜん》とした顔で男たちを見あげていた隣席《りんせき》の客たちが、さっと顔色を変えた。
「なんだと、こらぁ?」
その客《きゃく》たちは、一見《いっけん》してならず者《もの》だとわかる風体《ふうてい》をしていた。激怒《げきど》に青ざめた顔で、腰《こし》の剣《けん》に手をかけて立ちあがろうとした男の肩《かた》を、ジグロの大きな手がおさえた。
「……腹立《はらだ》ちはもっともだが、剣を抜《ぬ》くのは、すこし待ってくれ。」
男の肩においている手には、さして力がこもっているようには見えなかったが、男は椅子《いす》から立ちあがれずにいた。重心《じゅうしん》をとらえた力のかけ方をされているために、立ちあがろうとしても立ちあがれないのだ。
ジグロは肩を手でおさえている男の顔は見ずに、酒《さけ》が腐《くさ》っていると因縁《いんねん》をつけた男たちの顔を見つめた。
「最初から因縁《いんねん》をつけるのが目的《もくてき》で、この酒場《さかば》にきたようだな。 − だれの手下《てした》だ?」
静《しず》かな声でいわれて、男たちの顔色が変わった。
「なんだと? この酒場は、客に腐《くさ》った酒をだしておいて、それを暴《あば》かれたら、言いがかりをつけるのか?」
最初にどなった男が、太い声でそういい、酒場全体を見まわし、にやっと笑《わら》った。
「ひどい酒場で飲《の》んでいたのが、おまえらの不運《ふうん》だ。恨《うら》むなら、ナカズなんぞの息《いき》がかかった酒場で飲んでいた自分の愚《おろ》かさを恨め!」
男のその言葉《ことば》が合図《あいず》だったのだろう。四人の男たちは、いっせいに剣《けん》を抜《ぬ》いた。
周囲《しゅうい》の食卓《しょくたく》の客《きゃく》たちが、おどろいて腰《こし》を浮かした。逃《に》げようとしている客たちに、四人の男たちは刃《やいば》をむけた。 − その刹那《せつな》、ジグロの手が動き、客に斬《き》りかかろうとしている男の側頭部《そくとうぶ》をつかむや、大きな玉《たま》でも投げるように、思いっきり横に引っぱり投げた。
男はふっとんで、剣《けん》をかまえていた仲間《なかま》にぶちあたった。たがいの剣がどこかに刺《さ》さったのだろう、ふたりの男は、うめき声とも悲鳴《ひめい》ともつかぬ声をあげて、もつれあうようにして床《ゆか》にころがった。
残《のこ》りのふたりが、ジグロにむかって剣をかまえたときには、ジグロはすべるような動作《どうさ》で、ひとりの懐《ふところ》にもぐりこんでいた。
その男の脾臓《ひぞう》に、ジグロがこぶしを打ちこむのを、バルサは息《いき》を止めて見つめていた。
最後のひとりは、うめいている仲間《なかま》を傷《きず》つけずに剣《けん》をふるう空間《くうかん》を見つけられずにいる。
(素手《すで》でやれれば、素手のほうがいいんだ……!)
酒場《さかば》にいるとき、ジグロは短槍《たんそう》も剣も持たず、ラッツという重い幅広《はばひろ》の短剣《たんけん》しか帯《お》びていない。そのわけを、バルサはいま、はっきりと悟《さと》った。
カッと身体《からだ》の芯《しん》が燃《も》えあがった。バルサはこぶしをにぎりしめ、身《み》をのりだして、ジグロの戦《たたか》いぶりを見つめた。つぎの動きで、ジグロは最後のひとりを倒《たお》す − そう思った瞬間《しゅんかん》、ジグロの怒声《どせい》が飛んできた。
「ぼうっと見ているな! 主人《しゅじん》を逃《に》がせ!」
(……え?)
どなられて、バルサはとまどった。
肘《ひじ》の関節《かんせつ》をジグロの太い腕《うで》で極《き》められ、骨《ほね》を折《お》られた男の悲鳴《ひめい》がひびきわたった。 − もう敵《てき》はいないのに、なぜ、主人を……? と、思ったとき、バルサは、はっと背後《はいご》をふりかえった。鞘走《さやばし》りの音が聞こえたからだ。
いつのまにか、戸口のそばにいた男たちが立ちあがっていた。
中のひとりが、すっと、ひらめくように手をふった。その手から放たれた短剣《たんけん》が、ジグロの脇《わき》にいる客《きゃく》めがけて一直線《いっちょくせん》に飛んだ。刹那《せつな》、ジグロは、さっと腕《うで》を突《つ》きだし、客にとどく前に、素手《すで》で短剣をたたき落とした。
ジグロの腕から血《ち》が飛びちるのを、バルサは茫然《ぼうぜん》と見ていた。
ジグロは左手でラッツを抜《ぬ》きながら、猛然《もうぜん》と、戸口の男たちにむかって突進《とっしん》した。
(……主人を逃がさなければ。)
そう思いながらも、バルサは動けなかった。
これは計画的《けいかくてき》な襲撃《しゅうげき》だ。他にも仲間《なかま》がひそんでいることを、ジグロは警戒《けいかい》しているのだろう。だから、主人を逃《に》がしにいけとどなったのだ。それがわかっていてもなお、バルサは動けずにいた。 − 自分が主人《しゅじん》のもとに行った、そのあいだに、ジグロが殺《ころ》されてしまうのではないかと怖《こわ》かったからだ。
ジグロが客《きゃく》のあいだを縫《ぬ》うように走っていく。その腕《うで》に、ぱっくりひらいた傷口《きずぐち》から血《ち》がふきだしている。
時《とき》が間延《まの》びしているような、奇妙《きみょう》な感覚《かんかく》が襲《おそ》ってきた。自分はこれからジグロが死《し》ぬのを見るのではないか − という思いが頭に浮かび、頭の芯《しん》が冷《つめ》たくしびれた。
戸口近くの食卓《しょくたく》にいた三人の男たちと、ジグロの乱闘《らんとう》がはじまった。
その男たちは、最初に事《こと》をおこした連中《れんちゅう》とは比較《ひかく》にならぬ手練《てだ》れだった。せまい酒場《さかば》で長剣《ちょうけん》を抜《ぬ》くようなまねはせず、短剣《たんけん》でジグロに襲《おそ》いかかっていく。
ひとりが裂帛《れっぱく》の気合《きあい》とともに突《つ》きだした短剣を、ジグロがラッツで受けた − とたん、かんだかい音がして、男の短剣が弾《はじ》き折《お》れた。つぎの瞬間《しゅんかん》、短剣をたたき折《お》った勢《いきお》いのまま、ラッツが男の腕《うで》を深く切りさいていった。
利《き》き手《て》でない左手で、ジグロはひらめくようにラッツを振《ふ》りぬき、一瞬《いっしゅん》もとどまることなく流れるように男たちのあいだをすりぬけていく。
軽《かる》いが細身《ほそみ》のロタの短剣《たんけん》では、ジグロが振《ふ》る重いラッツをまともに受けとめられぬことを男たちは悟《さと》り、数《かず》の利《り》を活《い》かすこともできず、防戦一方《ぼうせんいっぽう》になっている。
カンバルのせまい城内《じょうない》での戦闘《せんとう》のために生《う》みだされたという厚刃《あつば》のラッツの威力《いりょく》を、バルサは初《はじ》めて目《ま》のあたりにした。だが、それは、その重さをものともせずに振《ふ》れるジグロの膂力《りょりょく》があってこその威力だ。いまの自分では、あんなふうにはラッツはふるえない。バルサは歯をくいしばって、ジグロの動きを見つめていた。
ジグロは、傷《きず》を負《お》っている右腕《みぎうで》がさらに傷つくのも恐《おそ》れずに盾《たて》のように使い、牽制《けんせい》し、目をくらませながら、男たちを圧倒《あっとう》していく。男たちが腕と肩《かた》を切りさかれ、食卓《しょくたく》を引きたおしながら床《ゆか》に倒《たお》れたときには、ジグロは男たちの血《ち》をあびて、すさまじい形相《ぎようそう》になっていた。
ジグロの傷ついた右腕は、男たちから飛びちった血をびっしょりとあびて、羊《ひつじ》の臓物《ぞうもつ》を抜《ぬ》いたあとの腕のように、まっ赤だった。
荒《あら》く息《いき》を吐《は》きながら、ジグロはバルサを見た。光る目でにらまれ、顎《あご》をふられて、ようやくバルサは、がくがくとうなずいて、動きはじめた。
酒場《さかば》の主人《しゅじん》サドルの部屋《へや》は奥《おく》まったところにあったが、なんとなく物騒《ぶっそう》な物音《ものおと》が伝《つた》わっていたのだろう。バルサが部屋の戸に手をかけたとき、内側《うちがわ》から戸が開《ひら》いて、酒場の管理役《かんりやく》をしているトナルが顔をだした。主人《しゅじん》の長男《ちょうなん》で、豪胆《ごうたん》な父親に似《に》ないおだやかな男だ。
不安《ふあん》げな顔でバルサを通しながら、トナルは、大きな机《つくえ》の後《うしろ》ろにすわっている父親をふりかえった。
「どうした。なにがあった?」
サドルに聞かれて、バルサは順《じゅん》を追って騒動《そうどう》の顛末《てんまつ》を説明《せつめい》した。
「襲《おそ》ってきたやつらは、あれで全員《ぜんいん》だと思いますけど、万《まん》が一《いち》のことがあるといけないんで、逃《に》げたほうがいいと思います。」
バルサがそういうと、サドルは、ぐっと眉《まゆ》をよせた。
「……そいつらは、ナカズさんの名前をだして、ののしったんだな?」
「はい。」
サドルは、腕《うで》を組《く》んだ。そうやってしばらく考えていたが、やがて、長男《ちょうなん》に顔をむけると、
「おい、ひとっ走り、代貸《だいが》しのトウザさんのところへ行ってこい。この話をして、気のきいた若わか《》い衆《しゅう》を十人ほどよこしてもらえ。もちろん、相当《そうとう》の礼《れい》はするんだぞ。」
息子《むすこ》がとびだしていくのを見送《みお》ると、サドルは腕組《うでぐ》みをほどき、ぐっと手をのばして壁《かべ》に立てかけてあった剣《けん》をとった。よく商人《しょうにん》が壁にかけているお飾《かざ》りの剣ではなく、古《ふる》ぼけてはいるが、使いこまれた感じのする剣だった。
太い眉《まゆ》の下からバルサを見、サドルはふてぶてしい笑《え》みを浮《う》かべて立ちあがった。
「あらかた、カタはついたんだろう? なら、おれは逃《に》げねぇぜ。」
サドルは大きな机《つくえ》をまわって、バルサの脇《わき》までくると、ぐいっと扉《とびら》を押《お》して開《ひら》き、廊下《ろうか》へ出た。バルサも無言《むごん》であとについて廊下に出た。
はじめてこの酒場《さかば》に雇《やと》われたときから、この酒場の主人《しゅじん》はカタギではないだろうと感じていたが、いまは、それが確信《かくしん》に変わっていた。サドルもむかしは、賭博場《とばくじよう》を仕切《しき》る大物《おおもの》のナカズのところにたむろしているような、ならず者《もの》だったのだろう。
サドルは、ざわめいている酒場にはいり、ぐるっと見わたした。
下働《したばたら》きの若者《わかもの》たちが、床《ゆか》に倒《たお》れていた男たちを酒場の片隅《かたすみ》にひきずっていき、給仕《きゅうじ》の娘《むすめ》たちが青ざめた顔で、床の血《ち》をぬぐっている。ジグロは、ひとまとめに横たえられた男たちの脇《わき》に立って彼らを見おろしていたが、男たちはみな、まともに動くことすらできぬ傷《きず》を負《お》っており、ひたすら、身《み》もだえしてうめくだけだった。
その状況《じょうきょう》を見てとるや、サドルは、さっと両手《りょうて》をあげて客《きゃく》に呼びかけた。
「お客さまがた! 店主《てんしゅ》のサドルでございます!」
血まみれでうめいている男たちを、こわごわ見おろしていた客たちが、いっせいに顔をあげてサドルを見た。
「とんでもないやつらが乱入《らんにゅう》したようで、怖《こわ》い思いをさせてしまい、まことに申しわけございませんでした! お怪我《けが》はございませんでしたでしょうか?」
ざわめいている客《きゃく》たちの返事を待たずに、サドルは言葉《ことば》をついだ。
「お怪我《けが》をされた方《かた》はもちろん、災難《さいなん》にあわれたみなさんには、今夜《こんや》のお代《だい》はいっさい頂戴《ちょうだい》しません!」
大声でそういってから、サドルはにやっと笑《わら》った。
「失礼《しつれい》だが、こうやってお顔を拝見《はいけん》しますと、みな、肝《きも》の太い常連《じょうれん》さんばかり。
いま、若《わか》い衆《しゅう》がきますんで、こいつらは、すぐに片付《かたづ》けますが、血《ち》のにおいがする今夜の、この酒場《さかば》でも、そいつを肴《さかな》に飲んでやろうという豪儀《ごうぎ》な方がおられるようなら、今夜の酒代《さかだい》は、わたしのおごりにいたしますが、いかがでしょうか?」
肝の太さを売りにしている男らが、にやにや笑《わら》いはじめた。この酒場の常連《じょうれん》の、赤《あか》ら顔《がお》の男が口に片手《かたて》をあててどなった。
「いうじゃねぇか、店主《てんしゅ》! 身代《しんだい》つぶれるぐらいに飲んでやるが、かまわねぇか?」
店主は豪胆《ごうたん》な笑《え》みを浮かべた。
「もちろんでございます。……ただ、まあ、身代《しんだい》をつぶすのだけは、ご勘弁《かんべん》を!」
客のあいだから、笑い声がわいた。それまで青ざめ、こわばった顔で、いつ酒場《さかば》から逃《に》げようかと腰《こし》を浮《う》かしていた客《きゃく》たちも、緊張《きんちょう》をといて、ざわめきながら腰をおろした。
興奮《こうふん》し、紅潮《こうちょう》した顔で、いまのできごとを肴《さかな》に飲みはじめた男たちのあいだを縫《ぬ》って、バルサは、ジグロのもとへ駆《か》けよった。
ジグロは、じっと、自分が倒《たお》した男たちを見おろして立っている。養父《ようふ》のかたわらに立つと、血《ち》と汗《あせ》がまじりあったにおいとともに、むっとするような熱気《ねっき》が肌《はだ》を押《お》した。
「……腕《うで》。」
バルサがつぶやくと、ジグロは他人《たにん》の腕《うで》でも見ているような目で、血《ち》まみれの腕をちらっと見た。つねに手首《てくび》に巻《ま》いている革《かわ》の細紐《ほそひも》で腕の付《つ》け根《ね》をしばって、血止《ちど》めはしてあったが、ぱっくりひらいた醜《みにく》い傷《きず》あとからは絶《た》えず血が盛《も》りあがって、腕をつたい落ちている。
「洗《あら》って縫《ぬ》わないと……。」
「ナカズの手下《てした》がきてからだ。」
バルサは、うめいている男たちを見おろした。どの男も、骨《ほね》を折《お》られ、あるいは斬《き》られて、みごとに利《き》き腕《うで》を封《ふう》じられている。
激痛《げきつう》に耐《た》えかねて、身《み》もだえしている男を見て、バルサはつぶやいた。
「こいつらも、手当《てあ》てしてやらなきゃ……。」
男の身体《からだ》の上にかがもうとしたとたん、大きな手に頭をはたかれて、バルサはぐらっと脇《わき》に倒《たお》れかけた。びっくりして見あげると、ジグロが射抜《いぬ》くような厳《きび》しい目で見つめていた。
ジグロはなにもいわず、すっと目をそらし、また、男たちに視線《しせん》をもどした。
なぜ、頭をはたかれたのか、ふいにわかって、バルサは赤くなった。 − 生半可《なまはんか》な同情《どうじょう》で男の上にかがみこみ、首でもにぎられたら、状況《じょうきょう》は一気《いっき》に逆転《ぎゃくてん》してしまう。
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− 武器《ぶき》をもっていなくても、利《き》き腕《うで》を殺《ころ》していても、けっして油断《ゆだん》するな。
やり方さえ心得《こころえ》ていれば、人は、爪《つめ》でも歯《は》でも、指《ゆび》一本でも、人を殺《ころ》せる。
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倒《たお》した敵《てき》のそばにいるときこそ油断《ゆだん》をするな。そういわれていたのに、苦痛《くつう》の声に、つい気をとられた自分が恥《は》ずかしかった。
「……人を殺すつもりで、」
ジグロがつぶやいたので、バルサは、はっと顔をあげた。
「こいつらは剣《けん》をふるった。 − 剣を抜《ぬ》いたとき、命《いのち》を刃《やいば》に乗《の》せたのだ。」
バルサは、なにもいえずに、虫《むし》のように身《み》をねじって、もだえ苦しんでいる男たちを見おろしていた。
翌日《よくづつ》には、襲《おそ》ってきた男たちが南部の街で最近《さいきん》|勢力《せいりょく》をのばしているラホムというならず者《もの》に雇《やと》われた武人《ぶじん》たちだということが判明《はんめい》した。このあたり一帯《いったい》を縄張《なわば》りにしているナカズの息《いき》のかかった店をつぶすために、大金《たいきん》で雇《やと》われ、組織《そしき》の尖兵《せんぺい》として、この街に乗りこんできたのだった。
ならず者の中には、氏族《しぞく》のあぶれ者《もの》たちが、かなりの数、まじっているといわれている。
氏族領《しぞくりよう》を統《す》べ、運営《うんえい》していく務《つと》めから逃《に》げだした、性根《しょうね》が腐《くさ》った者もいれば、小さな貧《まず》しい氏族領に生まれた次三男《じさんなん》で、食いつめて、ならず者に雇《やと》われて生きのびている者もいて、事情《じじょう》はさまざまだが、そういう男たちはみな、武人階級《ぶじんかすきゅう》の男として、幼《おさ》い頃《ころ》から武術《ぶじゅつ》をたたきこまれてきているので、平民《へいみん》の乱暴者《らんぼうもの》とは比較《ひかく》にならぬ、危険《きけん》な存在《そんざい》だった。
この事件《じけん》以来、酒場《さかば》の主人《しゅじん》は用心棒《ようじんぼう》をふやした。
「まあ、あんたほどの男は、ほかにはおるまいがな。− おれも長いこと、くだらん暮《く》らしをしていたから、斬《き》りあいは、いやってほど見ているが、七人もの武人《ぶじん》くずれを相手《あいて》に、ひとりで全員《ぜんいん》をやっちまった男は、はじめて見た。すげぇもんだ。」
と、主人はジグロの機嫌《きげん》をとるようにいい、礼金《れいきん》をはずんだが、利《き》き腕《うで》の傷《きず》が腫《は》れて、熱《ねつ》をだしているジグロひとりでは、心もとないと思ったのだろう。ナカズの代貸《だいが》しにたのみこみ、腕利《うでき》きをふたり、まわしてもらったのだった。
やってきた用心棒《ようじんぼう》は、かつては武人《ぶじん》だったとしても、いまはその匂《にお》いをまるで感じさせない、根《ね》っからのならず者《もの》に見える男たちだった。
犬とおなじで、ならず者は他人《たにん》と出会うと、かならず自分の優位《ゆうい》を確保《かくほ》したがる。彼らは酒場《さかば》にやってくるや、ジグロとすれちがうたびに目を細《ほそ》め、刺《さ》すような視線《しせん》をジグロにむけた。
どんな視線をむけられても、わざと怒《いか》りをさそうような軽口《かるくち》をたたかれても、ジグロは表情《ひょうじょう》ひとつ変えなかったが、バルサは腸《はらわた》が煮《に》えくりかえるような気分だった。
「……くそ野郎《やろう》が。えらそうに。たいした腕《うで》でもないくせに!」
軽口《かるくち》をたたき、笑《わら》いながら、彼らが賭博場《とばくじょう》に消《き》えたあと、バルサが吐《は》きすてるようにつぶやくと、ジグロが、ふいにバルサの肩《かた》をつかんだ。
びっくりして見あげると、ジグロがいった。
「闘犬《とうけん》か、おまえは。」
なにをいわれたのかわからなくて顔をしかめると、ジグロは言葉《ことば》をついだ。
「犬じゃあるまいし、かんたんに毛《け》を逆立《さかだ》てるんじゃない。」
バルサは、答えなかった。
ジグロはしばらく、歯《は》をくいしばってうつむいているバルサを見おろしていたが、やがて、犬を放《はな》すようなしぐさで肩《かた》から手をはなした。
「……短槍《たんそう》を振《ふ》ってこい。」
バルサは無言《むごん》で駆《か》けだした。ジグロの顔を見る気にもなれなかった。
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三
うすく汗《あせ》が浮《う》いたジグロの寝顔《ねがお》を見つめながら、バルサは寝台《しんだい》の端《はし》をにぎりしめていた。
− ほんとうに、肝《かん》ノ臓《ぞう》の病《やまい》なんだろうか…‥
あの医術師《いじゅつし》の見立てがまちがっていたとしても、この近辺《きんべん》には、ほかに医術師はいない。ジグロの体力《たいりょく》が病《やまい》にうち勝《か》ってくれることを祈《いの》るしかなかった。
夜《よ》が明《あ》ける頃、ジグロの熱《ねつ》はすこし下《さ》がった。あの医術師から買った馬鹿《ばか》|高《だか》い薬《くすり》が効《き》いたのか、ジグロの体力のおかげかわからなかったけれど、バルサは心底《しんそこ》ほっとした。ほっとすると一気《いっき》に疲《つか》れが出て、そのまま床《ゆか》にまるくなって眠《ねむ》ってしまった。
バルサは、ずっとジグロにつきそっていたかったのだが、時間になると、普段《ふだん》どおり下働《したばたら》きと給仕《きゅうじ》の仕事《しごと》に出た。一日働かなければ、給金《きゅうきん》をもらえないだけでなく、働いているときは無料《むりょう》の食費《しょくひ》と寝床《ねどこ》の代金《だいきん》までとられる。ジグロに相談《そうだん》もせずに、高額《こうがく》の薬《くすり》を買ってしまったし、働かないわけにはいかなかった。
下働《したばたら》きの仕事から解放《かいほう》され、夜の給仕仕事《きゅうじしごと》がはじまるまでの昼下《ひるさ》がりの一時《ひととき》、ようすを見にいくと、ジグロは目をさましていた。
「父《とう》さん、だいじょうぶ? なんか食べる? 厠《かわや》は?」
たずねると、ジグロはバルサに目をむけた。微熱《びねつ》があるのか、目にうるみがあったが、それでも昨夜《さくや》よりはずいぶん、まともな顔色《かおいろ》になっていたので、バルサはほっとした。
「だいじょうぶだ。 − 心配《しんぱい》かけたな。」
そういって、ジグロは目をつぶった。寝息《ねいき》をたてはじめた養父《ようふ》を、バルサはじっと見おろしていた。
その日を境《さかい》に、ジグロはゆっくりと回復《かいふく》していったが、バルサの不安《ふあん》は消《き》えなかった。
隊商《たいしょう》の護衛《ごえい》をしているときなど、たとえ大怪我《おおけが》をしても、翌日《よくじつ》には起きだして旅《たび》についていけるほど頑健《がんけん》なジグロにしては、信じられぬ弱《よわ》り方《かた》だったからだ。
バルサは仕事《しごと》の合間《あいま》、合間にジグロの顔を見にいった。
寝《ね》てばかりでは退屈《たいくつ》だろうと、バルサは寝台《しんだい》の脇《わき》にすわり、ぽつぽつと、思いつくまま、トロガイの家にいたあいだにおきた、おもしろかったことなどを話した。タンダの家の稲刈《いねか》りを手伝《てつだ》ったこと。(里《さと》の守《まも》り)さまを見たこと……。ジグロはとくに反応《はんのう》しなかったが、それでもおだやかな顔で聞いていた。
川に魚獲《さかなと》りに行ったのに、タンダは、魚を獲るかわりに、魚の上に手で屋根《やね》をつくっていた、という話をしたとたん、ジグロが咳《せ》きこんだような音をたてたので、バルサはびっくりして立ちあがった。
ジグロの顔を見て、バルサは仰天《ぎょうてん》した。 − 咳《せ》きこんでいるのではなく、身体《からだ》をゆすって笑《わら》っていたのだ。
ひとしきり笑って、笑いがおさまると、ジグロはつぶやいた。
「……あれは、いい子だな。」
バルサは、なぜか、胸《むね》の底《そこ》をくすぐられたような気がして、顔をゆがめた。 − タンダがほめられたと思うと、うれしくてしかたがなかったけれど、それを顔にだしたくなかった。
ぶっきらぼうな口調《くちょう》で、
「馬鹿《ばか》なだけだよ。魚を獲るんじゃなくて、魚に遊ばれてるんだもん。」
と、いうと、ジグロは微笑《びしょう》を浮《う》かべたまま、ゆっくりまばたきをした。そして、静《しず》かな声でいった。
「おまえ、あの家で暮らすか。」
なにをいわれたのかわからず、バルサは、ジグロを見つめた。
「おれと、こんな暮《く》らしをしていないで、あの家で、ずっと暮らすか。−−トロガイ師《し》なら、うまく、おまえをかくまいながら面倒《めんどう》をみてくれるだろう。」
どきん、と心《しん》ノ臓《ぞう》が脈《みゃく》うった。胸《むね》から背《せ》へ、しびれるような痛《いた》みがひろがった。
バルサは、頭をふった。
「いやだ。」
唇《くちびる》がふるえぬように噛《か》みしめているバルサの顔を、しばらく、ジグロは見つめていたが、やがて、すっと目をそらした。
天井《てんじよう》を見ているその顔には、もう、微笑《びしょう》のかけらもなかった。
ジグロが倒《たお》れてから二日ほどは、主人《しゅじん》のサドルは見舞《みま》いにくるほどの気づかいを見せたが、ジグロの病《やまい》が思いのほか重そうだ、と見てとると、すこしずつ態度《たいど》が変わってきた。
そして、四日目になると、主人の長男《ちょうなん》が、ばつの悪そうな顔でやってきて、新しい用心棒《ようじんぼう》をもうひとり雇《やと》ったので、この部屋《へや》を空《あ》けてほしい、といいにきた。
「病人《びようにん》を追《お》いたてるようなまねはしたくないんだが、わかってくれ。一応《いちおう》、移《うつ》れる部屋は用意《ようい》させたから。」
用意させた部屋というのは、屋根裏部屋《やねうらべや》のなかでも最《もっと》もせまい、隅《すみ》の一角《いっかく》だった。
かび臭《くさ》い寝台《しんだい》にジグロが横《よこ》たわるのを手伝《てつだ》いながら、バルサは、サドルをののしった。
「しみったれの、恩知《おんし》らず。 − 父さんがいなかったら、この酒場《さかば》はつぶれていたかもしれないのに!」
寝台に横たわると、ジグロは深《ふか》ぶかとため息《いき》をついた。
「……いまさら、なにをいっている。」
バルサは、かっとして言いかえした。
「いまさらも、なにもないよ! 恩《おん》を忘《わす》れるやつなんて、どれだけののしったって、足りないくらいだよ!」
ジグロは、疲《つか》れた口調《くちよう》でいった。
「……おまえは、勘《かん》ちがいをしている。」
バルサは眉根《まゆね》をよせた。
「え? −−−どこが?」
ジグロは答えず、目をつぶってしまった。
仕事《しごと》をしているときも、ずっと、バルサはジグロの言葉《ことば》の意味《いみ》を考えつづけた。
夜中《よなか》に仕事が終わる頃《ころ》には、答えが心に浮かんでいたけれど、それでも、やはり、自分がまちがっているとは思えなかった。
「父さんは用心棒《ようじんぼう》として当然《とうぜん》の仕事《しごと》をしただけだから、サドルは恩義《おんぎ》を感《かん》じる必要《ひつよう》はないっていいたかったんでしょう? だけど、それでもさ、気持《きも》ちってもんがあるじゃない。命《いのち》も、大事《だいじ》な酒場《さかば》も守ってもらったら、ありがとうって思うのが当然じゃない。」
そういうと、ジグロはゆっくりとまばたきをした。
「それは、そうだ。」
「じゃ、どこが……。」
バルサが眉根《まゆね》をよせると、ジグロは静《しず》かな声でいった。
「 − おれが、勘《かん》ちがいしているといったのは、おまえの怒《いか》りのほうだ。
おまえがサドルに怒ったのは、人としての道理《どうり》のことだけではなかろう。おれが、もっと報《むく》われてしかるべきだと、思ったからだろう。」
バルサは、ちょっと虚《きょ》をつかれて、おしだまった。考えてみると、たしかにそうかもしれなかった。
ぼんやりと視線《しせん》を天井《てんじょう》にむけたまま、ジグロはつづけた。
「サドルに恩義《おんぎ》なんぞ感《かん》じてもらわなくとも、おれはじゅうぶん報《むく》われている。」
かすかに眉根《まゆ》をよせて、バルサは、養父《ようふ》の静《しず》かな顔を見ていた。養父の言葉《ことば》の意味《いみ》は、わかるようで……わからなかった。
五日目になると、ジグロは完全に床上《とこあ》げをし、体力《たいりよく》をとりもどすために外を歩き、短槍《たんそう》を振《ふ》りはじめた。
なにかサドルと話しあっていたようだったが、ある夜、バルサが屋根裏部屋《やねうらべや》に行くと、寝台《しんだい》に腰《こし》をおろしていたジグロが、前置《まえお》きもなしに、
「ヨゴへもどるぞ。」
と、いった。
「……え? 追手《おって》の気配《けはい》があるの?」
びっくりして聞きかえすと、ジグロは首をふった。
「追手の気配はない。だが、長くひとところにいすぎた。今年《ことし》の冬は、トロガイのところにやっかいになろう。」
寝台に立てかけてあった短槍《たんそう》を手にとって、その重さをたしかめるように握《にぎ》りながら、ジグロは言葉《ことば》をついだ。
「トッツアル(薬草酒《やくそうしゅ》)を北部に運ぶ隊商《たいしょう》が、高額《こうがく》の報酬《ほうしゅう》で護衛士《ごえいし》を募集《ぼしゆう》していた。それにくわわって交易宿場《こうえきしゅくば》まで行く。いまから出発《しゅっぱつ》する旅《たび》なら、雪に降《ふ》りこめられる前にサマール峠《とうげ》を越《こ》えられるだろう。」
「父さん……。」
バルサがつぶやくと、その声音《こわね》になにか感じたのだろう、ジグロは短槍《たんそう》からバルサへと視線《しせん》を移《うつ》した。
「だいじょうぶなの?」
「身体《からだ》のことか。 − 心配《しんぱい》するな。」
そういわれてしまえば、それ以上、なにもいえなかった。
それでも、不安《ふあん》は消《き》えたわけではなかった。高額《こうがく》の報酬《ほうしゅう》での護衛士《ごえいし》ということは、それだけ危険《きけん》があるということだ。それくらいは、バルサにもわかる。身体《からだ》が本調子《ほんちょうし》ではないのに、なぜ、危険できつい隊商仕事《たいしょうしごと》をしてまで、トロガイの家へ行こうとしているのだろう……。なにか自分に隠《かく》している本当《ほんとう》の理由《りゆう》があるような気がして、こわかった。
床上《とこあ》げをして七日後に、バルサはジグロにつれられて、数か月暮《く》らした酒場《さかば》をあとにした。
明《あ》け方《がた》の旅立《たびだ》ちだったのに、給仕仲間《きゅうじなかま》たちはちゃんと起きて、見送《みおく》ってくれた。
「これ、みんなからの餞別《せんべつ》。 − 新しい衣《ころも》をひと揃《そろ》え……。」
マナが、油紙《あぶらがみ》につつんだものをさしだした。バルサはおどろいてマナを見た。
「え………、ありがとう。 − でも、なんで……。」
涙《なみだ》が出てきたのをごまかすように、マナはわざと軽《かる》い口調《くちょう》でいった。
「あんたさ、その旅装《りょそう》、男の子用じゃないの。それに肘《ひじ》はすれてるし、膝《ひざ》は抜《ぬ》けてるしさ。それに、なによ、その散切《ざんぎ》り頭《あたま》! いってくれれば、わたしがきれいに切ってあげたのに。それじゃあ、まるっきり男の子じゃないの。」
バルサは自分で切ったばかりの髪《かみ》をさわりながら、眉根《まゆね》をよせた。
「いいんだよ、べつに。洗髪《せんぱつ》しやすくなればいいんだから。」
マナたちは顔を見あわせて、あきれたように苦笑《くしょう》した。
「もう、あんたは! そろそろ、男の子を惹《ひ》きつけなきゃならない年頃《としごろ》だってのにさぁ。これだから、わたしら姉貴分《あねきぶん》としては、見過《みす》ごせないわけよ。その衣《ころも》は、流行《りゅうこう》の服《ふく》だからね。しっかりおしゃれしなさいよ。」
バルサは顔をしかめたまま包《つつ》みを受けとると、ガサガサ鳴《な》るそれを小脇《こわき》にはさんだ。
「元気でね。こっちにくることがあったら、ぜったい顔を見せてね。」
マナの頬《ほお》に涙《なみだ》がつたった。数か月|寝起《ねお》きを共《とも》にしただけなのに、彼女らはほんとうに、別《わか》れるのがつらそうな顔をしてくれていた。
バルサは礼《れい》をいい、なんとか微笑《びしょう》を浮《う》かべて別れをつげ、背《せ》をむけた。
別れなんて、慣《な》れっこだ。 − それなのに、なぜか喉《のど》に熱《あつ》い塊《かたまり》がこみあげてきて、バルサはあわてた。後《うし》ろで、みんなが手をふってくれているのを感《かん》じていたけれど、バルサはもうふりかえらなかった。
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四
鐘《かね》が鳴りはじめた。
歩くうちに日が昇《のぼ》り、秋の朝らしい、うすく靄《もや》のかかった透明《とうめい》な光の中に、赤い煉瓦積《れんがづ》みの巨大《きょだい》な建物《たてもの》が見えてきた。 − 隊商会堂《たいしょうかいどう》だ。
早朝《そうちよう》にもかかわらず、すでに何台もの荷馬車《にばしゃ》が、ぽっかりと開《ひら》いた大きな入り口に吸《す》いこまれていく。入り口をくぐると、この古い建物のうす暗《ぐら》さにつつみこまれるが、すぐにまた、明るい秋の陽《ひ》ざしのもとへ出る。
隊商会堂《たいしょうかいどう》の広大《こうだい》な中庭《なかにわ》に出ると、なまあたたかい大気《たいき》がむっと身体《からだ》をおしつつんだ。馬の匂《にお》いと、かすかに挨臭《ほこりくさ》いような香料《こうりょう》の匂い、そして、人馬《じんば》がかもしだす、ざわめき。
(……ああ、隊商《たいしょう》の匂いだ。)
なにかがほどけたように、心が軽《かる》くなってきた。バルサはわくわくしながら、中庭のあちこちにかたまっている人馬《じんば》の群《む》れをながめた。
この匂《にお》いとざわめきこそ、旅《たび》のはじまりを告《つ》げるものだった。
中庭をとりまく回廊《かいろう》の奥《おく》には、いくつもの部屋《へや》があり、浴場《よくじょう》や食堂《しょくどう》もある。もう朝食《ちょうしょく》が用意《ようい》されているのだろう。バム(無発酵《むはっこう》のパン)を焼《や》く香《こう》ばしい匂いが、うすい煙《けむり》とともにただよってきた。
ジグロの後《うし》ろにくっついて、バルサは人馬《じんば》の群れのあいだをすりぬけ、中庭《なかにわ》の奥《おく》にむかった。奥に行くにつれて、大気の中を舞《ま》い飛《と》ぶ虫《むし》がふえてきた。手ではらいながら、なんだろうと思って、よくよく見ると、ブヨのように小さいが、うなりながら飛んでいるそれは蜂《はち》の姿《すがた》をしていた。
「わ、蜂《はち》だ……。」
つぶやくと、蜂をよけるしぐさもせずに歩いていたジグロが、
「これが粒蜂《つぶばち》か。すごい数だな。」
と、いった。
「粒蜂《つぶばち》って?」
「花の蜜《みつ》のかわりに、トッツの樹液《じゅえき》にむらがる蜂《はち》だそうだ。トッツアル(薬草酒《やくそうしゅ》)はトッツの樹液からつくられるからな。樽《たる》に寄《よ》ってきているんだろう。」
たしかに、蜂が舞《ま》い飛とんでいる下に、年季《ねんき》がはいり、こげ茶色《ちゃいろ》に変色《へんしょく》した酒樽《さかだる》がずらりとならんでいた。ちょっとかぞえただけでも、百個以上はある。
「……壮観《そうかん》だろう。」
急《きゅう》に声をかけられて、バルサは、かたわらにいた男を見あげた。
短槍《たんそう》をもったカンバル人だった。がっちりとした大柄《おおがら》な男で、髪《かみ》にも髭《ひげ》にも白髪《しらが》がまじり、ジグロよりずっと年上《としうえ》に見えた。大病《たいびょう》でもわずらったのか、ひと目でわかるほど肌《はだ》の色がくすんでいたが、目には明るい光があった。
「坊主《ぼうず》、ここにある樽《たる》で、いくらぐらいになると思う。」
バルサは、まばたきをした。
少女姿《しようじょすがた》で短槍《たんそう》をもっているより目立たないし、動きやすいので、男の子用の旅装《りょそう》をまとっているのだけれど、はじめて出会った人はたいがい、バルサのことをジグロの息子《むすこ》だと思う。バルサは、酒樽《さかだる》に視線《しせん》をもどした。
トッツアル(薬草酒《やくそうしゅ》)は酒《さけ》というより薬《くすり》だから、酒場《さかば》でだされることはなかったが、以前どこかで、一瓶《ひとびん》に銀貨《ぎんか》一枚|払《はら》ったという話を聞いた記憶《きおく》があった。この樽《たる》は大きさからして酒瓶《さかびん》四十本|分《ぶん》はありそうだ。とすれば……。
暗算《あんざん》してみて、バルサは思わず口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。
「すっげぇ。金貨《きんか》四百枚だ。」
初老《しょろう》のカンバル人は、眉《まゆ》をあげた。
「お、チビのくせに、なかなかの目利《めき》きだな。だいたいそのくらいだろう。ひと財産《ざいさん》だぜ。」
そういうと、彼は、バルサの脇《わき》に立っているジグロにほほえみかけた。
「いい息子《むすこ》さんをおもちだな。うらやましい。」
ジグロは苦笑《くしょう》を浮《う》かべて、バルサの頭に手をおいた。
「ありがとうございます。 − 息子《むすこ》ではなくて、娘《むすめ》ですが。」
カンバル人は、目をまるくした。
「娘? あんた、娘に短槍《たんそう》をもたせているのか。」
バルサは、ちょっと眉《まゆ》をひそめてジグロを見あげた。
すこし前までは、バルサを息子《むすこ》と見られればそのままにしていたのに、近頃《ちかごろ》はこうして、あらかじめ娘《むすめ》だと明《あ》かしてしまうことが多い。なぜ明かしてしまうのか、と不満《ふまん》をもらすと、ジグロは事もなげに、おまえも、もう十三だからな、といったが、十三になると、なんで(息子《むすこ》)ではいられないのか、バルサにはどうも腑《ふ》におちないのだった。
ジグロは、バルサの視線《しせん》にも、カンバル人の驚《おどろ》きにも反応《はんのう》せず、男に右手を開《ひら》いてさしだして、いつも名のっている偽名《ぎめい》をロにした。
「わたしは、ナドル・ゴ・サラム。」
男はさしだされた手に、自分の短槍《たんそう》を触《ふ》れさせるしぐさをして答《こた》えた。
「おれは、スマル・ゴ・サラムだ。 − あんたも、ゴ・サラム(氏族《しぞく》から外《はず》れた者《もの》という意味《いみ》)か。まあ、こんなところで、隊商《たいしょう》の護衛士《ごえいし》をやっているカンバル人は、たいがい、そうだろうがな。」
スマルと名のった男がそういったとき、回廊《かいろう》|奥《おく》から数人の男たちがあらわれて、足早《あしばや》に中庭《なかにわ》におりてきた。四人は護衛士で、彼らをひきつれるようにして歩いてくる男は、商人《しょうにん》だった。
その商人が、こちらに目をむけて、うなずくようなしぐさをした。
「……ああ、きたな。よし、これでおおかたあつまったか。」
まだ二十|代半《だいなか》ばほどに見えるが、ずいぶんと尊大《そんだい》な感じのする男だった。その顔には笑《え》みのかけらもなく、荷馬車《にばしゃ》の馬丁《ばてい》や人夫《にんぷ》たちに、てきぱきと指示《しじ》をあたえながら、ジグロのほうへ近づいてくる。
「おまえが、新しく契約《けいやく》した護衛士《ごえいし》だな。ほかの連中《れんちゅう》は昨夜《さくや》から宿入《やどい》りしたんで、もう朝食《ちょうしょく》はすませた。朝入《あさい》りの者は、手早《てばや》く朝食をすませろ。」
そういってから、ちらっとバルサに視線《しせん》をおとして、眉《まゆ》をひそめた。
「……おい、まさか、この子もつれていく気じゃなかろうな。」
ジグロは落《お》ちついた声でいった。
「子ども連《づ》れであることは、仲介《ちゅうかい》のオマルに伝《つた》えてあったはずですが。」
商人《しょうにん》はジグロに視線《しせん》をもどした。
「人数《にんずう》や人選《じんせん》は父がやって、わたしは費用《ひよう》の概算報告《がいさんほうこく》を受《う》けたのだ。 −−−父は隊商《たいしょう》についてこられる身体《からだ》ではなくなったから、事前《じぜん》の手続《てつづ》きだけやってもらったんだが、細《こま》かいところまで目をくばれていないところをみると、完全《かんぜん》に隠居《いんきょ》してもらったほうがいいかもしれんな。」
いらついた声で、商人はいった。
「食糧《しょくりょう》はなんとかなるとしても、その子に貸《か》す馬はない。まったく、出発《しゅっぱつ》する朝になって、これでは………。」
商人《しょうにん》の愚痴《ぐち》を、ジグロがさえぎった。
「こいつに、馬はいりません。」
商人《しょうにん》は眉《まゆ》をひそめた。
「どういう意味《いみ》だ? 荷馬車《にばしゃ》のことを考えているのなら、きっちり樽《たる》が載《の》るだけの荷馬車しか用意《ようい》していない。子どもを乗せる隙間《すきま》はないぞ。」
「いいえ。こいつは馬に乗らずとも、隊商《たいしょう》についていけます。 − こいつには、それだけの体力《たいりょく》がありますし、よい修行《しゅぎょう》です。」
商人は顔をゆがめた。
「まさか。 − 冗談《じょうだん》をいうな。」
「冗談ではありません。これまでも何度か、こいつはそういう旅《たび》を経験《けいけん》しています。」
疑《うたが》わしげな商人《しょうにん》の視線をバルサは胸《むね》を張《は》って、まっこうから受けとめた。子どもに似《に》あわぬ、きついまなざしを見て、商人の顔に、それまでとはちがう、あやふやな表情《ひょうじょう》が浮《う》かんだ。
「……途中《とちゅう》でへばったら、どうするんだ。期限《きげん》のある旅だぞ。」
ジグロは静《しず》かにいった。
「途中でへばるようなら、そこに置《お》いていきます。 − 武人《ぶじん》として、それを誓《ちか》いましょう。」
ジグロの声には、疑《うたが》うことをゆるさぬ響《ひび》きがあった。
商人は顔をしかめ、ちらっと背後《はいご》にたたずんでいる護衛士《ごえいし》たちをふりかえった。もっとも年配《ねんぱい》の男が前に出て、ジグロに近づいてきた。
「護衛士頭《ごえいしがしら》のゴズだ。」
ジグロが、すっと頭をさげた。
「ナドルです。」
うなずいて、ゴズはバルサを見おろした。
「年はいくつだ。」
バルサはゴズを見あげて、答えた。
「十三です。」
ふうむ、と、ゴズはうなって、ジグロに視線《しせん》をもどした。
「あんたの言葉《ことば》は信《しん》じょう。カンバル人は馬のように強靭《きょうじん》だし、この子もいい面《つら》がまえをしている。馬がなくとも、隊商《たいしょう》にはついてこられるだろう。……だが、問題《もんだい》はもうひとつある。
見てのとおり、この隊商はひじょうに高価《こうか》な荷《に》を運ぶ。盗賊《とうぞく》どもにしてみれば、一樽《ひとたる》|盗《ぬす》めばバラして売れて、ひと儲《もう》けできる旨《うま》みのある荷だ。いざ乱戦《らんせん》になったとき、子どものことを考えて、あんたの動きがにぶったら、こまるのだ。」
ジグロが口をひらきかけたとき、ゴズの背後《はいご》で、みじかく笑《わら》う声がひびいた。
「ゴズさん、そんなごていねいに説明《せつめい》なんぞしなくていいじゃねぇか。ガキ連れなんて非常識《ひじょうしき》な野郎《やろう》がついてきていい旅《たび》じゃねぇんだ。おまえは失格《しっかく》だ、のひと言《こと》で充分《じゅうぶん》なんだよ。」
十八、九の若《わか》い護衛士《ごえいし》が、笑《わら》いながらそういうと、地面《じめん》に唾《つば》を吐《は》いた。
「ガキ連れだの、病人《びょうにん》くさい年寄《としよ》りだの、しょうもねぇ。昨夜《さくや》からこなかった魂胆《こんたん》が見えみえだぜ。出発《しゅっぱつ》の朝にはいりゃ、選別《せんべつ》される暇《ひま》もねぇと思ったんだろうが、こんなやつらに大金《たいきん》を払《はら》ってやるくらいなら、おれたちだけで行こうぜ。そのほうが、ひとり頭《あたま》の稼《かせ》ぎがふえる。」
その言葉《ことば》を聞くうちに、ゴズやジグロをはじめ、その場にいた護衛士《ごえいし》たち − 年季《ねんき》がはいった護衛士たち − の表情《ひょうじょう》がくもった。
ジグロは、若者《わかもの》には目もくれず、ゴズにたずねた。
「……あの若者は、こういう旅《たび》の経験《けいけん》があるのか?」
それを聞くや、若者がぱっと剣《けん》の柄《つか》に手をおいた。
「なんだと、この野郎《やろう》!」
さっと手をあげて若者をおさえ、ゴズは申しわけなさそうに、ジグロに答えた。
「こいつは、おれの遠縁《とおえん》にあたる者でな。経験を積《つ》ませてくれとたのまれて、今回《こんかい》はじめて加《くわ》えてもらったのだが……。」
じろっと若者《わかもの》をにらみつけて、ゴズは言葉《ことば》をついだ。
「こういう隊商《たいしょう》の護衛士《ごえいし》にとっていちばん大切《たいせつ》なものが、おまえにはわかっていないようだな。」
若者はぎゅっと顔をしかめた。
「わかってるぜ、そんなことはよ。腕《うで》だろうが? 剣《けん》の腕をためしたいってんなら、いつでも相手《あいて》になるぜ。」
ゴズはため息《いき》をついた。
「……馬鹿《ばか》か、おまえは。 − 護衛士《ごえいし》にとっていちばん大切《たいせつ》なのは、仲間《なかま》を思いやる気持ちだ。たがいの背《せ》を守まもりあうんだからな。……おまえは、どうやら、この子に負《ま》けず劣《おと》らず、雇《やと》うには危険《きけん》な者のようだな。」
ゴズの声にある冷《ひ》ややかな響《ひび》きを感じとって、若者の顔色が変わった。
「……冗談《じょうだん》じゃねぇ! いざというとき、おれが、そんなガキより足をひっぱるってか?」
若者が、なおも言いつのろうとしたとき、ふいにジグロがロをひらいた。
「おまえと、こいつと、どちらが有用《ゆうよう》か、ためしてみるか。 − 禍根《かこん》を残《のこ》さぬように、こいつと存分《ぞんぶん》に立《ち》ち合《あ》って、おまえが上だと証明《しょうめい》してみせろ。」
おどろいたのは、若者だけではなかった。ゴズも、他の護衛士《ごえいし》たちも、まじまじとジグロを見つめた。
ジグロは落ちついた声で、ゴズにいった。
「この仕事《しごと》に、子どもをつれてきているのは、たしかに非常識《ひじょうしき》なことだろう。 − だが、おれも、こいつも、ぎりぎりのところで生きてきたし、こいつはガキだが、その男よりは隊商《たいしょう》の経験《けいけん》が豊富《ほうふ》だ。たぶん、武闘《ぶとう》の経験もな。」
ジグロはバルサの肩《かた》に手をおいた。
「自分の居場所《いばしょ》、自分でつくってこい。」
バルサはうなずいた。
でかい相手《あいて》と真剣勝負《しんけんしょうぶ》をする恐怖《きょうふ》が肌《はだ》をしめつけていたが、闘《たたか》えると思ったとたん、腹《はら》の底《そこ》から、うずくような熱《ねつ》がわきあがってきて、バルサは無意識《むいしき》に、猟犬《りょうけん》のように歯をむきだして笑《わら》っていた。
さそうように短槍《たんそう》を振《ふ》ると、若者《わかもの》の顔がみるみるまっ赤《か》になった。
派手《はで》に鞘走《さやばし》りの音をさせて、若者は長剣《ちょうけん》を抜《ぬ》きはなった。それを見て、バルサは、こいつはやっぱり馬鹿《ばか》だ、と思った。
鞘《さや》から抜いてしまえば、長剣は危険《きけん》すぎる武器《ぶき》だ。どこに触《ふ》れても、確実《かくじつ》に相手《あして》に重傷《じゅうしょう》を負《お》わせてしまう。殺《ころ》すのを避《さ》けようと手加減《てかげん》すれば、技《わざ》のキレがなくなる。
こんなところで、こいつは人殺《ひとごろ》しをするつもりなのだろうか? − 殺すつもりもなく、ただ脅《おど》すつもりで抜《ぬ》いたのなら、自分で自分の腕《うで》をちぢませてしまったようなものだ。
潮《しお》がひくように周囲《しゅうい》の物音《ものおと》が消え、針先《はりさき》の一点へ収束《しゅうそく》するように気が集中《しゅうちゅう》していく。
立っている人びと、酒樽《さかだる》、馬 − この中庭《なかにわ》は、傷《きず》つけてはならぬものだらけだ。
バルサはちらっと周囲《しゅうい》を見わたし、回廊《かいろう》の幅《はば》と、屋根《やね》までの高さを見てとった。その瞬間《しゅんかん》、どう動くべきか、心が固《かた》まった。
穂《ほ》に鞘《さや》をはめたままの短槍《たんそう》をかまえ、無言《むごん》の気合《きあい》を発すると、若者《わかもり》がその気合にさそわれて、ばっと前に出てきた。どこをねらうか、目が泳《およ》いでいる若者の腹《はら》めがけて、バルサは短槍《たんそう》を突きだした。
さすがに、さっと足をひいて、若者は半身《はんみ》になって槍《やり》をかわしたが、完全にはかわしきれず、脇腹《わきばら》をこすられ、顔をしかめた。そのまま短槍《たんそう》を振《ふ》りあげれば、若者の剣《けん》を弾《はじ》きあげることができたが、それでは剣が宙《ちゅう》に飛ぶ。バルサはすっと槍をひいた。
それを隙《すき》と見たのだろう、怒《いか》りで顔をまっ赤《か》にした若者は、槍をもつバルサの手めがけて剣を振りおろした。
バルサは脇《わき》にとんで逃《に》げ、若者を挑発《ちょうはつ》するように笑《わら》いながら回廊《かいろう》に駆《か》けあがった。
うなり声をあげながら、若者は白刃《はくじん》を振りあげ、そのあとを追った。 − もはやその顔には、人らしい配慮《はいりょ》などかけらも残《のこ》っておらず、残忍《ざんにん》な衝動《しょうどう》がむきだしになっていた。
その顔を見て、ゴズが足を踏《ふ》みだした。
「……待て! そこまでで充分《じゅうぶん》だ!」
しかし、若者《わかもの》は聞こえないふりで、回廊《かいろう》に駆《か》けあがった。追おうとしたゴズの肩《かた》をジグロがおさえた。
「最後までやらせてくれ。」
ゴズが、驚愕《きょうがく》した顔でジグロを見た。
「なんだと?」
バルサに目をすえたまま、ジグロは低い声でいった。
「おれたちの目には、これで充分《じゅうぶん》だが、商人《しょうにん》には、わからない。はっきりと勝負《しょうぶ》をつけさせたいのだ。」
バルサは、子猿《こざる》のようにすばしっこく、柱《はしら》のあいだをくるくると駆《か》け、若者を翻弄《ほんろう》した。
若者はうなりながら間合《まあい》をつめ、バルサが柱の陰《かげ》から出た瞬間《しゅんかん》をはかって、バルサの頭めがけて長剣《ちょうけん》を振《ふ》りおろした。頭をふって避《さ》けたところで、肩《かた》から腕《うで》までざっくり切れる。それをねらった一撃《いちげき》だったが、若者が間合《まあい》をつめようと、爪先《つまさき》を動かしたときには、バルサもまた、動いていた。 − 後《うし》ろへではなく、前へ。
短槍《たんそう》の間合《まあい》をとるなら、後ろへとぶ。そう読んでいた若者《わかもの》は、いきなり懐《ふところ》にとびこんできたバルサの動きについていけず、長剣《ちょうけん》は宙《とゅう》を切り、その勢《いきお》いのまま硬《かた》い石床《いしゆか》にあたって、火花《ひばな》を散《ち》らした。
バルサは若者の脇《わき》をすりぬけざま、前かがみになっているその顎《あご》を、思いっきり頭でぶちあげた。ガチンッと歯《は》が鳴って、若者がのけぞった。
長剣《ちょうけん》をとり落とし、若者はロをおさえて膝《ひざ》をついた。指《ゆび》のあいだからボクボタと血《ち》がしたたった。
槍《やり》をおさめようとしたバルサの背《せ》に、ジグロの怒声《どせい》が飛んだ。
「……なにをしている!」
バルサは、はっと背筋《せすじ》をのばした。 − やらねばならぬことは、わかっていたけれど、それをせずにすませたくて、槍《やり》をひいたのだ。
バルサは歯《は》をくいしばると、短槍《たんそう》をふりかぶり、鋭《するど》く、若者の右の鎖骨《さこつ》を打《う》った。
いやな音がして、手に骨《ほね》が折《お》れる感触《かんしょく》が伝《つた》わってきた。
若者は悲鳴《ひめい》をあげて石床《いしゆか》にころがり、うめきながら両足を腹《はら》に押《お》しっけて、もだえ苦《くる》しんだ。
ジグロが回廊《かいろう》にあがってきて、バルサを押《お》しのけた。若者《わかもの》の顎《あご》に手をあてて口の中に指を入れ、痙攣《けいれん》して喉《のど》の奥《おく》に巻《ま》きこまれている舌《した》をひきだすと、腹《はら》に巻いている帯《おび》を解《と》いて、手早《てばや》く、肩《かた》を固定《こてい》した。
背後《はいご》で、護衛士頭《ごえいしがしら》が商人《しょうにん》になにか説明《せつめい》している声が聞こえていたが、バルサには、それは意味《いみ》のない音の羅列《られつ》にしか聞こえていなかった。荒《あら》く息《いき》を吐《は》きながら、バルサはふるえていた。唇《くちびる》のふるえが止まらず、指も小きざみにゆれている。
若者の手当《てあ》てを終えたジグロがゆっくりと立ちあがって、バルサを見た。そして、ぐっと肩をつかんだ。
ジグロはなにもいわなかったが、その熱《あつ》い大きな手を感じるうちに、すこしずつふるえがおさまってきた。バルサは、ジグロに肩をつかまれたまま、ゆっくりと回廊《かいろう》から中庭《なかにわ》におりた。
商人《しょうにん》は、青ざめた顔で不快《ふかい》げにジグロとバルサを見た。
「……出発《しゅっぱつ》の朝に、なんということを。」
ジグロもバルサも無言《むごん》だったが、護衛士頭《ごえいしがしら》のゴズが太い声で商人にあやまった。
「見苦《みぐる》しい争《あらそ》いをお見せして申しわけなかったが、未熟《みじゅく》な者をつれてきたわたしの責任《せきにん》で、この者たちの責任ではありません。 − 残酷《ざんこく》に見えるでしょうが、ご説明《せつめい》したとおり、このふたりの行《おこな》いは、護衛士《ごえいし》として、文句《もんく》なく最善《さいぜん》のものだった。この父子《おやこ》は、得《え》がたい護衛士ですよ。あなたは、よい買い物をされた。それは、わたしが保証《ほしょう》する。」
商人《しょうにん》は苦《にが》いものを口にふくんだような顔をしたまま、なにもいわなかったが、護衛士頭《ごえいしがしら》を立てるように、かすかにうなずいた。
くるっと背《せ》をむけようとした商人に、スマルと名のったカンバル人護衛士《ごえいし》が声をかけた。
「トキアン殿《どの》、またごいっしょに旅《たび》をさせていただく。よろしくたのみます。」
商人はふりかえると、冷《ひ》ややかな目でスマルを見た。
「ああ、スマル。 − 父がどうしてもというから、今回《こんかい》は加《くわ》えたが、これが最後だ。しっかり務《つと》めてくれ。」
スマルの顔がこわばった。
「……最後、とは? わたしは、まだ……。」
トキアンと呼《よ》ばれた商人は、スマルの言葉《ことば》をさえぎった。
「おまえは大病《たいびょう》をわずらったと聞いているが? それに、もうかなりの年だろう。」
冷静《れいせい》な口調《くちょう》で、トキアンはつけくわえた。
「わたしは価値《かち》のあるものにはそれに見あった金《かね》をきちんと与《あた》える。出《だ》し惜《お》しみはしない。だが、仕事《しごと》のできぬ者《もの》に、人情《にんじょう》で金を払《はら》うような愚《おろ》かなまねはしない。長いつきあいだから、今回《こんかい》だけは大目《おおめ》にみるが、これで最後だ。武人《ぶじん》なら、身《み》の引きどきは心得《こころえ》ているだろう。」
それだけいうと、トキアンはすっと護衛士《ごえいし》たちに背《せ》をむけた。
荷運《にはこ》び人夫《にんぶ》たちに指示《しじ》をしはじめたトキアンの後《うし》ろ姿《すがた》を見つめているスマルの顔に、そのとき浮かんでいた表情《ひょうじょう》を、バルサは、長く、忘《わす》れることができなかった。
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五
トキアンを頭《かしせ》とする、ダカム商店《しょうてん》が組織《そしき》した隊商《たいしょう》は、荷馬車《にばしゃ》をあつかう男たちや、賄《まかな》いを担当《たんとう》する料理人《りょうりにん》などをふくめた四十人もの大所帯《おおじょたい》だった。
トッツアル(薬草酒《やくそうしゅ》)の樽《たる》を積《つ》んだ荷馬車が十台もつらなり、その後《うし》ろには天幕《てんまく》や食糧《しょくりょう》を積んだ荷馬車がつづく。隊列《たいけつ》の前後左右《ぜんごさゆう》を、馬に乗った護衛士《ごえいし》たちが、ゴズの指示《しじ》のもと、周囲《しゅうい》に気をくばりながら守っていた。
ゴズは三十年以上もの隊商護衛《たいしょうごえい》の経験《けいけん》をもつ老練《ろうれん》な護衛士で、新《あら》たに雇《やと》いいれたジグロを、なめらかに護衛士|仲間《なかま》に組《く》みいれた。護衛士の報酬《ほうしゅう》の分配権《ぶんぱいけん》は彼がにぎっており、さしもの尊大《そんだい》なトキアンも彼の領分《りょうぶん》は尊重《そんちょう》していて、口をだすことはしなかった。
出発《しゅっぱつ》した最初《さいしょ》の夜、焚《た》き火《び》をかこみながら、ゴズはバルサに声をかけた。
「親父《おやじ》さんが保証《ほしょう》しただけのことはあるな。馬の乗り方も、世話《せわ》の仕方《しかた》も手馴《てな》れたもんだ。おまえは、まだ半人前《はんにんまえ》だが、おれが役《やく》にたつと見さだめたら、それなりの報酬《ほうしゅう》を分《わ》けてやる。しっかり励《はげ》め。」
バルサは頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させて、ありがとうございます、といった。ゴズが自分のようなチビにも気をくばってくれているのがうれしかったし、馬の乗り方をほめられたのもうれしかった。報酬をもらえたら、貯《た》めるだけでなく、ちょっとだけ買《か》い物《もの》に使《つか》うのもいいかもしれない。ちょうど交易宿場《こうえきしゅくば》に寄《よ》るんだし、タンダにお土産《みやげ》を買っていこう。タンダは絵草子《えぞうし》が好《か》きだから、ロタの草花《くさばな》の絵草子をあげたら、きっと、跳《は》ねまわって大よろこびしてくれるだろう。
小さな天幕《てんまく》に横たわって、バルサは楽しい物思《ものおも》いにふけった。風がばたばたと天幕をゆらし、ときおり、外をゆっくりと巡回《じゅんかい》している男たちが草を踏《ふ》む鈍《にぶ》い足音も聞こえる。
固《かた》く、でこぼこした芝土《しばつち》の上に敷《し》いた夜具《やぐ》は、寝台《しんだい》のように寝心地《ねごこち》はよくなかったけれど、土の匂《にお》いと、地面と天幕《てんまく》の隙間《すきま》からしのびこんでくる風の匂いにつつまれていると、なぜか心が軽《かる》くなるような気がした。
厚《あつ》い壁《かべ》にかこまれた、あの息《いき》がつまるような酒場《さかば》の屋根裏部屋《やねうらべや》で眠《ねむ》っていたあいだは、よく追手《おって》に追いつかれる悪夢《あくむ》をみた。でも、きっと今夜《こんや》は悪夢をみない。
幸福《こうふく》な気分で、バルサは目をとじた。
薬酒《やくしゅ》という、扱《あつか》いのむずかしい荷を運んでいる隊商《たいしょう》はゆっくりと進《すす》み、北部の草原地帯《そうげんちたい》へはいる頃《ころ》には、秋もずいぶん深《ふか》まっていた。
明《あ》け方《がた》、白い朝靄《あさもや》の中で目ざめると、寒《さむ》さで身体《からだ》がこわばっていてつらかったが、この隊商《たいしょう》の料理人《りょうりにん》は腕がよいうえに気配《きくば》りもあって、冷《ひ》えこむ朝にはかならず、熱《あつ》いラルウ(シチュー)と、焼《や》きたてのバム(無発酵《むはっこう》のパン)、それに甘《あま》いお茶《ちゃ》を用意《ようい》してくれた。
「先代のときより、いい食材《しょくざい》を使っているな。そういうところは、あの息子《むすこ》もなかなか気がきいている。」
熱いラルウをすすりながら、ゴズがささやいた。
護衛士《ごえいし》たちのほとんどは、十年以上も毎年この隊商《たいしょう》の護衛《ごえい》をしてきて、トキアンも子どもの頃《ころ》から知っているらしく、ことあるごとに父親である先代との違《ちが》いが話題《わだい》にのぼった。
「だが、先代はおれたちといっしょに飯《めし》を食《く》ったが、息子のほうはあいかわらず天幕《てんまく》でお食事《しょくじ》だ。」
スマルの言葉《ことば》に、護衛士《ごえいし》たちは、にやっと笑《わら》った。
「まあ、そういうところは変わらんが………。」
と、護衛士《ごえいし》のひとりがいい、すっと声を低《ひく》めた。
「ああいう男だけに、おなじことをくりかえして満足《まんぞく》していた先代《せんだい》とはちがって、商売《しょうばい》を広《ひろ》げるかもしれんぞ。実際《じっさい》、光るお宝《たから》に手をだそうとしてるって噂《うわさ》を聞いたがな。」
護衛士たちはだまりこんだ。ややあって、ゴズがロをひらいた。
「砂金《さきん》の話か。おれも、その噂《うわさ》は聞いたがな、それはなかろうよ。砂金は、古くからジタン(ロタ王国《おうこく》北部の都《みやこ》)に太いつながりをもっている王都《おうと》の大商人《だいしょうにん》たちの商《あきない》いだ。いくら旨《うま》みがあっても、新参者《しんざんもの》が手をだせる商いじゃあるまい。」
そういって、ゴズは目もとに笑《え》みを浮かべた。
「ダカム商店《しょうてん》は、勢《いきお》いはあっても、まだまだ大商人という格《かく》じゃない。砂金《さきん》に手をだすぐらいなら、ジタンにトッツアル(薬草酒《やくそうしゅ》)を卸《おろ》せるツテを開拓《かいたく》するのが先だろうよ。ジタンを他の薬酒商《やくしゅしょう》に握《にぎ》られてなかったら、もっと安全に運搬《うんぱん》ができるんだからな。」
バルサはだまって、大人《おとな》たちの話を聞いていた。
北部の都《みやこ》ジタンを通れる隊商《たいしょう》であれば、王の命《めい》を受けた兵士《へいし》たちが要所《ようしょ》要所を守《まも》っている大きな街道《かいどう》を通っていけるので、盗賊《とうぞく》に襲《おそ》われる危険《きけん》が少ないのに、ダカム商店はジタンでの薬酒取引《やくしゅとりひき》きに割《わ》りこめないので、ジタンを通ってトルアンへむかう街道を通ることを、商人組合《しょうにんくみあい》から許《ゆる》されていない。それで、危険《きけん》な涸《か》れ峪《だに》がある道を通って、交易宿場《こうえきしゅくば》へむかわねばならないのだということは、ジグロから教えてもらっていた。
聞いていてもわからない話だと眠《ねむ》くなるけれど、この話はついていけたので、バルサは、甘《あま》いお茶《ちゃ》にバムをポチャポチャとひたして食べながら、耳をすまして聞いていた。
ふいに、スマルが低い笑《わら》い声《ごえ》をたてた。
「わからんぞ。あの息子《むすこ》のことだ。砂金商《さきんあきな》いでデカイ金《かね》をつかんでジタンの商いに割《わ》りこむつもりかもしれん。 − まあ、失敗《しっぱい》するだろうし、失敗してくれることを祈《いの》ろうぜ。ジタンでの商《あきな》いの道が開《ひら》けたら、あの息子は、情《なさ》け容赦《ようしゃ》なく護衛士《ごえいし》を半分に減《へ》らすだろうからな。首切《くびき》り宣言《せんげん》をされたおれはともかく、おまえたちは、まだまだ、この隊商《たいしょう》で食《く》っていくつもりだろう?」
護衛士たちの顔に、あいまいな苦笑《くしょう》が浮《う》かんだ。
出立《しゅったつ》を告《つ》げる笛《ふえ》の音がひびいてきて、下働《したばたら》きの者たちが天幕《てんまく》を倒《たお》しはじめた。その騒々《そうぞう》しい音を背《せ》で聞きながら、護衛士たちはラルウ(シチュー)を飲《の》みほして、立ちあがった。
慣《な》れた道のりを行く護衛士《ごえいし》たちは、どこが安全で、どこに危険《きけん》があるかも知りつくしており、危険がない道中《どうちゅう》で心身《しんしん》を休めるコツも心得《こころえ》ていた。
安全な場所を旅《たび》しているあいだ、彼らは、よくバルサをかまってくれた。
いつもジグロの尻尾《しっぽ》にくっついていると思われたくなくて、バルサは、先頭《せんとう》を行くジグロとは離《はな》れた位置《いち》につけてもらっていたから、自然《しぜん》と、しんがりを守っているゴズやスマルと話す機会《きかい》もふえた。ゴズは弓《ゆみ》の名手《めいしゅ》で、隊商《たいしょう》の食糧《しょくりょう》をたすけるために狩《か》りをするときなど、よく弓の手ほどきをしてくれた。
弓の扱《あつか》いはジグロに教《おし》えてもらっていたけれど、山国《やまぐに》カンバルの弓とは、またすこしちがう、草原《そうげん》での狩《か》りにむいたロタの弓の引《ひ》き方《かた》をおぼえるのは、バルサにとっては、わくわくと胸《むね》がおどることだった。
秋は狩猟《しゅりょう》の季節《きせつ》だ。冬にそなえて木《こ》の実《み》を食べ、まるまると肥《こ》えた猪《いのしし》や鹿《しか》が獲《と》れた夜などは、焚《た》き火《び》をかこんで宴会《えんかい》のような状態《じょうたい》になった。料理人《りょうりにん》があぶっている肉《にく》から、脂《あぶら》がしたたると、ジュッと音をたてて熾《おき》の上に小さな泡《あわ》がはじけ、香《こう》ばしい匂《にお》いがただよう。
ぱりっと焼《や》けた皮《かわ》に、粗塩《あらしお》をふっただけの猪肉《ししにく》にかぶりつくと、口の中いっぱいに肉汁《にくじゅう》があふれた。夢中《むちゅう》で肉を食べ、水でうすく割《わ》ってもらったチュク(発酵酒《はっこうしゅ》)を飲むと、身体《からだ》の底からあたたまってくる。
夕餉《ゆうげ》が終わっても、隊商《たいしょう》の仲間《なかま》たちは焚《た》き火《び》をかこんでいた。ときおりだれかが話題《わだい》をふって、話がはずむこともあったが、話をすることもなく、ただ、ぼうっと炎《ほのお》を見つめていることもあった。
「……生木《なまき》はけぶり。」
ジグロは焚《た》き火《び》を見ながら、小さく、ロの中でささやくように詩《し》を吟《ぎん》じることがあった。
「白き若木《わかぎ》は思うさま、宙《ちゅう》に炎《ほのお》を立ちあげる。
我《わ》が身《み》から、うねる炎を立ちあげる……。
だが、老《お》いた薪《まき》は − 背《せ》の黒い、老いた太い薪は、その身に若《わか》い炎を抱《だ》きしめて、己《おの》が身《み》で − その身で、炎をかかえこみ、腹《はら》を焦《こ》がし、身を焦がし、包《つつ》んで、鎮《しず》めて、熾《おき》へと変わる……。
老いた薪は − 背の黒い、老いた薪は、身の底に、長く、長く、密《ひそ》かに熱《ねつ》を抱《だ》いていく……。」
ジグロが口をとじると、バルサはジグロを見あげた。
「だれの詩《し》?」
ジグロは炎《ほのお》に目をやったまま、答えた。
「古い、カンバルの詩だ。だれが詠《うた》ったのやら、だれも知らん。……年老《としお》いた武人《ぶじん》たちが、よく口ずさんでいた。」
バルサが、ふーん、と鼻を鳴らすと、ジグロはかすかに苦笑《くしょう》を浮《う》かべて、かたわらに寄《よ》りそっている娘《むすめ》を見おろした。
秋の夜、背《せ》はしんしんと冷《ひ》えてきても、火にあたっている頬《ほお》や足はあたたかく、ジグロの隣《となり》にすわっているだけで、バルサは満《み》ち足《た》りていた。
スマルは胸《むね》を病《や》んでいるらしく、よく咳《せき》をしていた。走らねばならぬような仕事《しごと》からは、そっと外《はず》れていたが、とても目がよくて、獲物《えもの》の足跡《あしあと》を見つけることにかけては、だれよりもすぐれていた。バルサは彼から、獣《けもの》それぞれにちがう移動《いどう》の痕跡《こんせき》の読み方を教えてもらった。
過酷《かこく》な旅《たび》のあいだには、馬や人夫《にんぷ》にひと息《いき》いれさせるための休養日《きゅうようび》がはさまれている。そういうとき、スマルはよく、バルサを狩《か》りにつれていってくれたのだ。
霜《しも》が降《お》り、あちこち白く輝《かがや》いている森の地面を指さして、スマルはいった。
「一点を見ないで、まずは全体を視野《しや》の中に入れるんだ。慣《な》れてくるとな、獣《けもの》の痕跡《こんせき》だけが感覚《かんかく》に触《ふ》れてくる。そこにだけ、自然《しぜん》に目がいくようになる。……やってみな。」
白い息をはきながら、バルサは言われたとおりに地面全体を見ようとした。でも、なにも見えてこなかった。 − というより、怪《あや》しいと思える場所はあちこちにあって、どれもが痕跡《こんせき》に見えてしまうのだ。
スマルはバルサの肩《かた》にそっと手をおいて、すこし背《せ》をかがめさせた。そして、右手に生《は》えている木の根もとを指さした。
「見てみろ。……きらきら光っているものがあるだろう。」
いわれてみると、たしかに、なにか光っている。それがなにかわかって、バルサは、スマルを見あげた。スマルはうなずいてみせた。
「そうだ。あれはカラマ(小動物《しょうどうぶつ》)の毛《け》だ。冬毛《ふゆげ》が生《は》えはじめると、むずがゆいんだろうな、身体《からだ》を木にこすりつけるもんで、毛が幹《みき》にひっかかるんだ。
あれに気づけば、つぎに見るべき場所がわかる。カラマが背中《せなか》をごしごし木にこすりつけているところを想像《そうぞう》してみろ。足をどこに踏《ふ》んばるか想像がつくだろう? そうすると………。」
バルサは、小さく声をあげた。
「あそこの草……。」
それまでまったく気づかなかったが、ほかの場所とはかすかにちがう倒《たお》れ方《かた》をしている草があった。いったん気がつくと浮《う》きあがって見えてくるのが不思議《ふしぎ》だった。
そして、ひとつの跡《あと》が見えると、カラマが歩いた跡が、つぎつぎに見えはじめた。
スマルは満足《まんぞく》そうにいった。
「見えたな? ……よし、じゃあ、近づいてみるか。」
カラマの痕跡《こんせき》を消《け》さぬように、ふたりはそっと草を踏《ふ》みわけて木に近づいていった。
ふと、隣《となり》の木に目をやったバルサは、思わずスマルを見あげた。
「おじさん、あそこのあれ、あれもカラマの毛?」
バルサが指さした場所を見て、スマルは、おっ、といった。
「ははぁ。こいつは母《かあ》ちゃんか。チビをつれてるぞ。」
たしかに、毛がついている位置《いち》が低い。母親のまねをして、隣《となり》の木に身体《からだ》をこすりつけている子どものカラマの姿《すがた》が目に浮かんできて、バルサは思わずほほえんだ。
スマルの顔にも、苦笑《くしょう》とも微笑《びしょう》ともつかぬ笑《え》みが浮かんでいた。
「カラマはうまいんだが、子連《こづ》れじゃあな。……しかたねぇ。見のがしてやるか。おれたちは、狩人《かりゅうど》じゃねぇからな。」
ぽんぽんとバルサの頭をはたくと、スマルは手をおろし、森の奥《おく》をすかし見るようにしてつぶやいた。
「カラマのチビすけ、しっかり母ちゃんのあとについていけよ。はぐれるんじゃねぇぞ。」
それから、ふいっと、バルサを見おろした。
「獣《けもの》ってのは、なんで母子《ははこ》で生きるんだろうなぁ? 親父《おやじ》と子どもって組みあわせは、あんまり見たことがねぇが。」
バルサが応《こた》えられずにいると、スマルはにやっと笑《わら》った。
「ま、人も獣《けもの》も、男ってのはしょうがねぇ生き物だからな。女房子《にょうぼうこ》どもに愛想《あいそう》つかされて、逃《に》げられちまってるのかもしれねぇな。」
スマルは歩きだした。
霜柱《しもばしら》がとけて、土の下に小さな空洞《くうどう》ができている地面をシャクシャクと踏んで、森の奥《おく》にむかって歩きながら、スマルは小さな声でいった。
「おれにもな、息子《むすこ》がいたんだぜ。かわいいやつだったよ。おれがガキだった頃《ころ》によく似て、細《ほそ》っこくてなぁ……。おれの稼業《かぎょう》は留守《るす》が長いから、女房《にようぼう》はさっさと別《べつ》の男に乗りかえて、息子までおっぽりだして消《き》えちまったが、息子はひとりで商家《しょうか》に預《あず》けられても、おとなしく待《ま》ってたもんよ。だからよ、隊商《たいしょう》から帰ったときは、よく、こんなふうに狩《か》りにつれていってやったもんだ。」
バルサは、どう応《こた》えてよいのかわからずに、だまって聞いていた。
なんで、過去形《かこけい》で話しているんだろう、と不安《ふあん》に思ったとき、スマルがいった。
「やっと八つになった頃《ころ》、死《し》んじまった。 − 風邪《かぜ》をひいて、あっけなくな。」
バルサは、おどろいてスマルの背《せ》を見たが、スマルはふりかえるそぶりも見せずに、前を見たまま歩きつづけた。
「……馬鹿《ばか》な話だぜ。なあ? 親父《おやじ》が、赤《あか》の他人《たにん》を守《まも》ってやっているあいだに、大事《だいじ》な息子《むすこ》は、父親にも母親にも看取《みと》ってもらえずに苦《くる》しんで死《し》んでいったなんてよ。くだらない、語《かた》り物《もの》みたいな話だろうが。」
声がかすれ、スマルは咳《せ》きこみはじめたが、足を止めはしなかった。
咳《せき》がようやくおさまると、スマルは痰《たん》を地面にはき、長靴《ながぐつ》で乱暴《らんぼう》に泥《どろ》をかけて埋めた。
スマルはふりかえり、バルサを見た。黄色く枯《か》れた葉のあいだをぬけて落ちてくる日の光が、白髪《しらが》まじりの髪《かみ》と髭《ひげ》を光らせていた。
「おまえの親父《おやじ》が、こんな仕事《しごと》におまえをつれてきている気持ちが、おれにはわかる。盗賊《とうぞく》と死闘《しとう》になって死《し》ぬことになっても、親子いっしょならそれもまた良しと思ってるんだろうな。
いかにもカンバルの武人《ぶじん》らしい考《かんが》え方だぜ。生きるも死ぬも己《おの》れの力ひとつ。刃《やいば》を抜《ぬ》くときは己《おの》れの命《いのち》をその刃に乗《の》せたものと覚悟《かくご》する。 − だから、おまえを、あれほどシゴいているわけだ。すこしでも、生きのびる確率《かくりつ》をふやそうとしてな。」
スマルはため息《いき》をついた。
「……だがよ、おれがおまえの親父《おやじ》だったら、おまえを置《お》いていく。たとえ、たがいの死《し》に目《め》にあえなくてもよ、おれだったら、娘《むすめ》に、こんな暮らしをさせてはおかねぇ。」
バルサが顔をくもらせたのを見て、スマルはゆっくりと首をふった。
「おこらねぇで聞けや。これも人の意見《いけん》ってやつだ。」
顔に降《ふ》りそそいでくる木洩《こも》れ日《び》に、かすかに目を細《ほそ》めて、スマルはいった。
「短槍《たんそう》で人を刺《さ》すってのは、いやなもんだぞ。どんな理由《りゅう》があったってな、人を殺《ころ》したら、もう元《もと》の自分にはもどれねぇ。 − おれは、娘《むすめ》に、そんな思いはさせたかねぇ。絶対《ぜったい》に娘を護衛士《ごえいし》になんぞしねぇ。」
スマルは、かすかに苦笑《くしよう》を浮《う》かべた。
「おまえはたぶん、自分が女だとも思ってねぇだろう。いずれは親父《おやじ》みたいな、いっぱしの護衛士になるつもりでいるようだし、実際《じっさい》、おまえならなれるかもしれねぇ。
だがな、血《ち》にまみれ、流《なが》れて暮《く》らす、護衛士《ごえいし》の人生《じんせい》なんぞ、みじめなもんだぞ。命《いのち》を金《かね》で売《う》り買《か》いする稼業《かぎょう》だからな、長くやってりや、人の生《い》き死《し》にが飯《めし》のネタにしか思えなくなってくる。なにしろ、自分の命をかけてよ、人を救《すく》ってやっても、感謝《かんしゃ》されるわけでもねぇ。そのために金を払《はら》ってるんだっていわれるだけだからな。」
皮肉《ひにく》な口調《くちょう》でそういったスマルの目には、胸《むね》が冷《ひ》えるほど空虚《くうきょ》な光が浮かんでいた。
「何十年も、命《いのち》がけで人助《ひとだす》けをしても、年老《としお》いて槍《やり》をふるうことができなくなったら使《つか》い捨《す》てだ。金が尽《つ》きるまで裏街《うらまち》の安い宿《やど》に横たわって、飢《う》えて……だれにも看取《みと》ってもらえずに死ぬだけだ。」
スマルは顔をそむけ、木洩《こも》れ日《び》を見すかすように天《てん》を見あげていった。
「おれがおまえの親父《おやじ》だったら、絶対《ぜったい》にこんな暮らしをさせねぇ。−−−たとえ、離《はな》ればなれに暮らすことになったとしても、おまえをどこかに預《あず》けて、まっとうな、ひとところに根《ね》をおろした暮らしをさせる。」
− おまえ、あの家で暮らすか。
ふいに、耳の奥《おく》に、ジグロの声がよみがえってきた。
− おれと、こんな暮らしをしていないで、あの家で、ずっと暮らすか。
病床《びょうしょう》に横たわり、天井《てんじょう》を見ながら、そういったときの、ジグロの暗いまなざしを思いだしたとたん、ひんやりとした風のようなものが、胸《むね》の底《そこ》に吹《ふ》いたような気がした。それは夕暮《ゆうぐ》れの風のように、胸の底に物悲《ものがな》しさを残《のこ》していった。
スマルは、つぶやくようにいった。
「……いまはわからんだろうが、おれの言葉《ことば》が心に沁《し》みるときが、きっとくる。いつまでも、こんな暮らしをしているなよ。いい男をつかまえて、子をたくさん産《う》めや。そうすりや死《し》ぬとき看取《みと》ってくれる家族《かぞく》がいる。飢《う》えて死ぬなんてこともなかろうよ。
おれのような独《ひと》り者《もの》の流《なが》れ者《もの》は、金《かね》だけがたよりだ。金で人の情《なさ》けを買って、看取《みと》ってもらうしかねぇんだぞ。」
バルサに視線《しせん》をもどし、かすかに濁《にごり》りのある目をゆがませて、スマルはうすく笑《わら》った。
ふたたび歩きはじめたスマルの後ろを、バルサはゆっくりとついていった。
(……なにも、知らないくせに。)
スマルの言葉《ことば》がかきたてていった哀《かな》しみと腹立《はらだ》ちをもてあまして、バルサは知らず知らずに唇《くちびる》をかみしめていた。
自分のこと、ジグロのこと、自分たちの過去《かこ》と今……。そこには、スマルが知らないことが山ほどある。それを知りもしないで、あんなことをいわれたら迷惑《めいわく》だ、と思った。
死《し》にものぐるいで武術《ぶじゅつ》の腕をみがいているのは、盗賊《とうぞく》に行きあったとき、負《ま》けて死なないためだけではない。仇《あだ》を討《う》つためだ。いつか、仇を討つ、その日まで、追手《おって》にも盗賊にも殺《ころ》されずに生きのびるためだ。
かさかさと落《お》ち葉《ば》を踏《ふ》んで歩きながら、バルサは、もう、どんな顔をしていたのかさえ、ぼんやりとしか思いだせない、血《ち》のつながった本当《ほんとう》の父のことを思った。
よく笑《わら》い、よく話す人だった、やさしかった父のことを思うたびに胸《むね》の底《そこ》があたたかくなり、つぎの瞬間《しゅんかん》、刃物《はもの》をねじこまれるような痛《はし》みが走る。
この気持ちだけは、どれほど時《とき》が経《た》っても、うすれてはいかなかった。
遠い夜、毎夜《まいよ》のように、ジグロと酒《さけ》を酌《く》みかわしながら笑《わら》っていた父。父の話をだまって聞きながら、満《み》ち足《た》りた顔で笑っていたジグロ。その膝《ひざ》によじのぼり、ふたりのあいだに、ぬくぬくとおさまっていた、あのころ………。
あの父が殺《こめ》され、あの幸《しあわせ》せが無残《むざん》に奪《うば》われたのだと思うと、かならず、息《いき》がつまるほどの怒《いか》りがこみあげてくる。
( − あんなことがおきなかったら。)
ずっと、父とカンバルで幸《しあわせ》せな暮《く》らしをつづけていられたら、自分は、あの父によく似《に》た、やさしい、よく笑って、よく話す娘《むすめ》になっていたのだろうか。 − そう思ってみても、そんな自分は、まるで思いえがくこともできなかった。
(いつか………。)
傷《きず》あとだらけの自分の手の甲《こう》を見ながら、バルサは思った。
(かならず、あいつを殺す。あいつの頭を踏《ふ》みつけて、自分がしたことを後悔《こうかい》させてやる……。)
一国《いっこく》の王をどうやったら殺せるのか、考えても、考えても、よい方法《ほうほう》は見つからなかったけれど、それでも、かならず殺《ころ》してやるという暗《くら》く激《はげ》しい思いだけは、心に深《ふか》く根《ね》を張《は》っていた。
修行《しゅぎょう》の中で、骨《ほね》を折《お》られても、白刃《はくじん》で切られる恐怖《きょうふ》をあじわっても、その瞬間《しゅんかん》、頭に浮《う》かぶのは、この痛《いた》みを乗りこえれば強くなれる − 前よりずっと強くなれる、という思いだった。
腹《はら》の底《そこ》から、蛇《へび》がもがくようにうっとうしい怒《いか》りがわきあがってくると、短槍《たんそう》を、こぶしを、なにかにぶつけたくてたまらなくなる。
強くなれば、いつかあいつを殺せる日がくる。 − そう思えなかったら、怒りがどんどんふくらんできて、ギリギリ骨《ほね》をきしませて、身体《からだ》が内側《うちがわ》からはじけて死《し》んでしまうだろう。こんな気持ち、スマルにはわかるまい。
バルサは深《ふか》く息《いき》を吸った。
どこかで鳥が鳴《な》いた。
立ちどまって、枝《えだ》を見あげたスマルの横顔《よこがお》を見て、バルサは、どきっとした。
スマルの頬《ほお》には、涙《なみだ》のあとがあった。 − 歩きながら、スマルは泣《な》いていたのだ。
バルサはうつむいて、視線《しせん》をそらした。涙のあとに気づいたことを、スマルに知られたくなかった。
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六
ロタ北部の原野《げんや》には荒々《あらあら》しい美しさがあり、バルサはおだやかな南部の景色《けしき》より、北部の風景《ふうけい》のほうが好きだった。
けれど、草原《そうげん》と森林《しんりん》、深い峪《たに》には、あっさりと人の命《いのち》をうばう危険《きけん》な箇所《かしょ》がいくつもひそんでいて、毎年おなじ道筋《みちすじ》をたどる隊商《たいしょう》の人びとも、難所《なんしょ》にさしかかるたびに、気をひきしめねばならない。
その日、隊商《たいしょう》は、草原《そうげん》を縫《ぬ》うようにして流れている、浅《あさ》いが幅《はば》の広い河《かわ》にさしかかった。
小高《こだか》い草の丘《おか》から見おろすと、河は、はるか北の森林地帯《しんりんちたい》から、うねるように流れてきて、まるで、その背《せ》に平坦《へいたん》な光をやどした蛇《へび》のように、くねりながら草原の彼方《かなた》へと消《き》えている。
草の丈《たけ》が低く、見通《みとお》しがよいので、盗賊《とうぞく》に襲《おそ》われる心配《しんぱい》はなかったが、河には橋《はし》はなく、荷馬車《にばしゃ》も騎馬《きば》も浅瀬《あさせ》を縫《ぬ》うようにして渡《わた》っていかねはならなかった。
チャプチャプと音をたてて流れている河は、底の石がはっきりと見えるくらい浅いのに、馬を入れてみると、水流《すいりゅう》は思っていた以上に強い力で馬の脚《あし》を押《お》した。
バルサが浅瀬《あさせ》を見まわして、すこし流れがゆるそうなところに馬をむけようとしたとき、背後《はいご》からスマルの声が飛んできた。
「……おい、荷馬車《にばしゃ》のそばから離《はな》れるなよ!」
スマルが馬を寄《よ》せてきて、大声でいった。
「ここからじゃ見えにくいがな、あの一見《いっけん》流れがゆるそうに見えるところは、いきなり底が深くなっているんだ。うかうか近づいてみろ、馬が脚《あし》をとられて、一気《いっき》に流されちまうぞ。前にも……。」
すこし前を行くトキアンが、さっとふりかえった。
その顔を見て、バルサはおどろいた。 − まるでなにかの面《めん》のように、まっ白にひきつった顔をしていたからだ。
白い顔の中の目を異様《いよう》に光らせてスマルをにらみつけ、それからトキアンは前をむいて、河《かわ》を渡《わた》りきった。
隊商全員《たいしょうぜんいん》が渡りきり、安全な草地《くさち》の道を進みはじめたとき、トキアンがぐいっと馬の首を返して、こちらに近よってきた。
「……スマル。」
顔色はすこしまともになっていたが、トキアンの声はかすかにふるえており、感情《かんじょう》がたかぶっていることが、はっきりとわかった。
「おまえは、十年も前のことを、何度ロにすれば気がすむんだ?」
スマルはぐっと目を細《ほそ》めた。
「なにか勘《かん》ちがいなさっているようだが、さっきおれがいおうとしたのは……。」
そのスマルの言葉《ことば》をトキアンは断《た》ち切《き》るようにさえぎった。
「おまえは、たしかにわたしの命《いのち》を救《すく》った。それは事実《じじつ》だ。だが、わたしを救ったことで、おまえは多額《たがく》の謝礼金《しゃれいきん》をもらえて、息子《むすこ》の墓《はか》を建《た》てられたんだろう! 賭博狂《とばくぐる》いの護衛士《ごえいし》では望《のぞ》めぬほどの、よい墓を! ちがうか?
父もわたしも恩義《おんぎ》はきちっと返したのだ。わたしとおまえのあいだには、なんの貸《か》し借《か》りもない。それなのに、いつまでも恩着《おんき》せがましいことをいうのは、性《しょう》が卑《いや》しい証拠《しょうこ》だぞ!」
スマルの顔が、すっと青白くなった。 − 瞳孔《どうこう》が針先《はりさき》のようにすぼまり、凶暴《きょうぼう》な光がぽつん、とやどった。
スマルの手が短槍《たんそう》をにぎりしめた瞬間《しゅんかん》、背後《はいご》から馬を寄《よ》せてきたゴズが、さっと、スマルとトキアンのあいだに手をさし入れた。
「……トキアン殿《どの》、それは言いすぎというものだ。スマルは、はじめてあの河《かわ》を渡《わた》るバルサに、危険《きけん》を知らせようとしていただけ。 − 武人《ぶじん》は、嘲《あざけ》られれば、剣《けん》を抜《ぬ》かざるをえぬ者。たとえ隊商頭《たいしょうがしら》といえど、お言葉《ことば》には気をつけたがよかろう。」
トキアンはゴズをにらみつけた。
「そちらこそ、わたしを商人《しょうにん》ふぜいと侮《あなど》るなよ、ゴズ。商人の身《み》で、そなたら武人《ぶじん》を使って、隊商《たいしょう》の頭《かしら》を張《は》るには、それなりの覚悟《かくご》はあるんだぞ!
武人は嘲《あざけ》られれば、剣《けん》を抜《ぬ》かざるをえぬだと? ならば抜けばいい。抜いてわたしを斬《き》ってみろ。それで、わたしの命《いのち》はとれるだろうが、その瞬間《しゅんかん》、おまえらの人生《じんせい》も終わるんだ。守《まも》るべき者を殺《ころ》した護衛士《ごえいし》は、二度と、護衛士としては生きられないんだからな。」
トキアンは、視線《しせん》をスマルにもどした。
「この隊《たい》から離《はな》れたあとも、用心棒《ようじんぼう》かなにかの職《しょく》がほしいのなら、口には気をつけることだ。評価状《ひょうかじょう》をだすのがだれか、胸《むね》に刻《きざ》んでおけ。」
それだけいうと、トキアンは手綱《たづな》をひいて馬の首をまわし、定位置《ていいち》へともどっていった。
バルサは、そっとスマルを見あげた。
スマルの顔には、表情《ひょうじょう》がなかった。ただ、空白《くうはく》を見つめているように前を見ていた。かすかに手綱《たずな》を動かすと、スマルは馬を歩かせはじめた。
そんなスマルを、そっとしておこうとするように、ゴズはバルサとともに、馬の脚《あし》をゆるめて、すこしスマルと距離《きょり》をおいた。
「……ずいぶん前のことだが。」
ふいにゴズが、小声でいった。
「トキアンがまだ、十四、五の頃《ころ》だったな、あの河《かわ》で馬ごと転倒《てんとう》して、溺《おぼ》れかけた。それをスマルが助けたんだ。」
ゴズはバルサを見おろし、ロのはしをゆがめた。
「トキアンにしてみれば、あれは恥辱《ちじょく》の記憶《きおく》なのだろう。ガキの頃《ころ》から、あの男は、隊商《たいしょう》のだれからも侮《あなど》られまいと必死《ひっし》だったからな。」
視線《しせん》をトキアンの背《せ》にむけて、ゴズはいった。
「これから、あの男は、この隊商《たいしょう》の頭《かしら》を張《は》っていかねばならん。それがつねに頭にあるから、わずかなことでも、腹《はら》をたてるのだろうが……。」
目を細《ほそ》めて、ゴズはつづけた。
「……スマルは、一瞬《いっしゅん》の迷《まよ》いも見せずに、河に飛びこんだんだぞ。トキアンがころんだと見るや、あっというまに飛びこんだんだ。 − たしかに、先代《せんだい》の隊商頭《たいしょうがしら》は、スマルに礼《れい》をして、そのおかげでスマルは、隊商の護衛士《ごえいし》の報酬《ほうしゅう》では買えぬような場所に立派《りっぱ》な墓《はか》を建《た》てなおして、息子《むすこ》を弔《とむら》うことができた。だがな、あのとき……あの瞬間《しゅんかん》は、金《かね》のことなぞ、スマルの頭には浮かんでいなかっただろうよ。」
ゴズはバルサを見おろし、苦笑《くしょう》を浮かべた。
「これが護衛士《ごえいし》稼業《かぎょう》のむずかしいところだ。命《いのち》を助ける仕事《しごと》だからな。助けるほうも、助けられたほうも、金《かね》で済《す》ませるには重すぎて、いろんなことを考えすぎる。恩《おん》だの、借《か》りだの、な。
おれも、ときどき思うぜ。おれは命を助けてるんだ。もっと恩《おん》に着《き》られてもいいんじゃないか、とかな。 − だが、そう思いはじめると、きりがない。助けた相手《あいて》にしてみりゃ、そのために金はきっちり払《はら》っているのに、いつまで恩に着ればいいんだと思うだろうしな、おたがいに不満《ふまん》ばっかりが溜《た》まりつづけるような、くだらない羽目《はめ》におちいる。」
バルサは、じっとゴズを見つめた。
おまえは、まちがっている、といった、ジグロの言葉《ことば》が頭に浮かび、バルサはふと、ゴズにそのことを話して、ジグロの言葉の意味《いみ》を聞いてみようか、と思った。けれど、思っただけで、けっきょく、言葉にはしなかった。
ゴズは馬を進め、スマルの脇《わき》に行くと、ひと言《こと》、ふた言《こと》、話しかけた。スマルは肩《かた》をすくめるようなしぐさをし、それからふいに、バルサをふりかえった。
「おい、ちょっとこっちにきな。」
バルサが近づいていくと、スマルはバルサの頭に手をおいて、ぐいっと引きよせた。
「護衛士《ごえいし》|志願《しがん》のチビさんよ。おまえは、日々、いい経験《けいけん》をしてるぜ、なぁ? − おれが、前にいったことの意味《いみ》、わかっただろうが。護衛士なんてのは、じつにくだらねぇ仕事《しごと》だろう。」
すさんだ笑《わら》い声《ごえ》をたてながら、スマルは、ちょっとバルサの耳をひっぱって離《はな》した。
それから、重苦しくよどんだ気分をふりはらおうとするように、唐突《とうとつ》に酒樽《さかだる》を積《つ》んだ荷馬車《にばしゃ》を指さして、話題《わだい》を変えた。
「ふつうの荷馬車と、あの荷馬車は、ちがうところがある。 − なんだと思う?」
バルサは耳をなでながら、顔をしかめて、荷馬車をながめた。
それまでは気づかなかったが、いわれてみると、どこか他の荷馬車とは形がちがうような気がした。ややあって気づき、バルサは、つぶやいた。
「背《せ》が高い……。」
スマルはうなずいた。
「この荷馬車はな、荷台《にだい》の下に跳《は》ね板《いた》がついているんだ。揺《ゆ》れが、ふつうの荷馬車より大きいだろう。 − 酒《さけ》ってのは、なるべく静《しず》かに運ぶもんだ。だが、トッツアルはちがう。トッッアルはな、トッツの樹液《じゅえき》と酒《さけ》を混《ま》ぜてつくるんだが、トッツの樹液は分離《ぶんり》して固《かた》まりやすい。上下にゆすっていないと、分離しちまうんだとさ。この特製《とくせい》の荷馬車《にばしゃ》にのせて、長い道中《どうちゅう》のあいだ、ゆすぶられてはじめて、よいトッツアルができるってわけだ。 − トッツの匂《にお》いに惹《ひ》かれてむらがってる粒蜂《つぶばち》にとっちゃ、いい迷惑《めいわく》だろうがな。」
粒蜂《つぶばち》は、あいかあらず、ブンブンと羽音《はおと》をたてて樽《たる》に群《む》れていた。樽がゆすられるたびに、とまっていた粒蜂も宙《ちゅう》に飛びあがり、落ちつかなく動きまわっている。
ぼうっとスマルが見ている荷馬車に目をやって、バルサは、ふと、おかしなことに気がついた。その荷馬車の左角《ひだりすみ》に置いてある樽《たる》には、粒蜂《つぶばち》がまったく寄りついていない。他の樽は蓋《ふた》が黒く見えるほどにむらがっているので、その樽だけは、白く浮きあがって見えた。
「あの樽《たる》……。」
バルサがつぶやくと、スマルがすっとバルサに視線《しせん》をもどした。そして、眉《まゆ》をあげ、うすい笑《え》みを浮かべた。
「 − できそこないってのは、目立つもんだな。」
(あ……そうか。)
きっとトッツ(樹液《じゅえき》)が分離《ぶんり》して底に沈《しず》んでいるのだろう。だから、粒蜂《つぶばち》が寄ってこないのだ。
暗くたれこめた雲から、そのとき、ぽつぽつと雨が落ちはじめた。荷馬車番《にばしゃばん》の男たちが、あわてて、油紙《あぶらがみ》をひろげて荷馬車をおおっていくのを、バルサはぼんやりと見つめていた。
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七
ジタンにむかう街道《かいどう》から離《はな》れて、交易宿場《こうえきしゅくば》にむかう分《わ》かれ道《みち》にある街《まち》に着くと、トキアンは隊商蔵《たいしょうぐら》をひとつ借《か》りきり、その中に樽《たる》を納《おさ》めて、鍵《かぎ》をおろした。
「……さあ、これで一晩《ひとばん》、財産《ざいさん》は安全な蔵《くら》の中だ。 」
トキアンは鍵《かぎ》をゴズに預《あず》けながら、腰につけた革袋《かわぶくろ》から、金貨《きんか》を数枚《すうまい》とかなり多量《たりょう》の銅貨《どうか》をとりだし、ゴズに渡《わた》した。
「いつものことだが、ぬかりないようたのんだぞ。」
鍵《かぎ》と金《かね》を受けとりながら、ゴズはうなずいた。
「たしかに。 − お預《あず》かりしました。」
荷馬車番《にばしゃばん》や料理番《りょうりばん》の男たちは、トキアンから一|晩《ばん》|休《やす》みをとってよいという許《ゆる》しを受けていて、目に見えてくつろいだ顔になっていた。
トキアンが料理番《りょうりぱん》たちに小遣《こづか》いを渡《わた》している脇《わき》で、ゴズは護衛士《ごえいし》たちに、トキアンから受けとった金《かね》を分《わ》けた。
「いつものことだが、飲ますつもりで、飲まれるなよ。 − しっかり(厄落《やくお》とし)してこい。」
男たちは、笑《わら》いながら金《かね》を懐《ふところ》にしまいこんだ。
「あんたは、どうするね。おれといっしょに、(厄落《やくお》とし)をするか?」
ゴズに問われて、ジグロはうなずいた。
「この街《まち》には、おれも知りあいがいるが、あなたの知己《ちき》を分《わ》けてもらえればありがたい。」
ゴズはほほえんだ。
「そうだな。盗賊《とうぞく》どもも、縄張《なわば》り争《あらそ》いが激《はげ》しいからな。毎年おなじ連中《れんちゅう》が幅《はば》をきかしているとはかぎらんから、ま、おたがいに目をくばりあおうぜ。」
そういってから、ゴズはバルサに視線《しせん》をおとすと、銅貨《どうか》を五枚、バルサの手にのせた。
「おまえは、今夜《こんや》は非番《ひばん》だ。護衛宿《ごえいやど》でうまいものでも食って、たっぷり眠《ねむ》っておけ。この街《まち》を出たあとは、もっとも危険《きけん》な道が待っているんだからな。」
銅貨をにぎってジグロを見あげると、ジグロはだまってうなずいた。
護衛士たちが夕暮《ゆうぐ》れの街《まち》に散《ち》っていった。スマルは、御者《ぎょしゃ》や荷運《にはこび》び人夫となにやら話しながら歩いていく。
ジグロとゴズも歩きはじめようとしたとき、すっとトキアンがゴズに近づいた。
「……スマルには借金《しゃっきん》がある、というのは本当《ほんとう》か?」
問われて、ゴズは眉《まゆ》をひそめた。
「わたしは知りませんが、だれがいいました?」
「御者《ぎょしゃ》たちが噂《うわさ》しているのを洩《も》れ聞いた。御者のだれかからも借りているらしい。 − いま渡《わた》した金《かね》を、その返済《へんさい》に充《あ》てる可能性《かのうせい》はないだろうかな?」
ゴズは苦笑《くしょう》を浮《う》かべて首をふった。
「それはないでしょう。借金《しゃっきん》なら、わたしらもすこしかかえていますが、この仕事《しごと》を無事《ぶじ》に終えられれば、借金を返しても、たっぷり金が残《のこ》るわけでね。大切《たいせつ》な(厄落《やくお》とし)の金を流用《りゅうよう》するような馬鹿《ばか》なまねはしませんよ。」
トキアンは顔をしかめて、遠ざかっていくスマルの後《うし》ろ姿《すがた》をながめていたが、やがて、
「そうかもしれんな。1おまえの判断《はんだん》を信じよう。」
と、いうと、商人宿《しょうにんやど》のほうへ歩《あゆ》み去《さ》っていった。
ゴズは苦笑を浮かべてジグロを見た。
「スマルは、いい人なんだが……。」
そういいながら、ゴズは指でゴイ(サイコロ)を投げるしぐさをした。
「好きなものが、これだからな。 − 妻子《さいし》もおらんし、酒《さけ》もあまり飲まんほうだし、ほかに無聊《ぶりょう》をなぐさめるものもないから、しかたがないといえば、しかたがないんだが。
じつをいえば、おれたちも借金《しゃっきん》を申しこまれたが、ことわったんだ。薬《くすり》を買《か》うためだと知っていたら、貸《か》したんだがなぁ。この稼業《かぎょう》では病《やまい》をわずらっているなんてロにしたがらないしな、去年|別《わか》れたときには、いまほど顔色も悪くなかったもので、気づかなかった……。」
話しながら歩《あゆ》み去《さ》っていくゴズとジグロの背中《せなか》を見ながら、バルサは、さて、どうしようかな……と、考えていた。
(厄落《やくお》とし)というのは、護衛士《ごえいし》の隠語《いんご》だ。このあたりを縄張《なわぱ》りにしている盗賊《とうぞく》の首領《しゅりょう》たちと酒《さけ》を飲んで、いくらかの金《かね》を渡して、隊商《たいしょう》を襲《おそ》わぬように取引《とりひ》きすることをいう。
盗賊《とうぞく》だって、年《ねん》がら年中《ねんじゅう》、命《いのち》のやりとりをしていたら身《み》がもたない。むしろ、毎年通る隊商《たいしょう》からかならず収入《しゅうにゅう》がはいるとなれば、長い目で見れば、そのほうがよいのだ。
だから、酒場《さかば》が、ならず者《もの》の頭《かしら》にみかじめ料《りょう》を払《はら》っているように、毎年おなじ道を行く隊商《たいしょう》の護衛士《ごえいし》たちは、盗賊がよくあらわれる場所にさしかかる前に、こういう街《まち》の酒場で、一帯《いったい》を縄張《なわば》りにしている盗賊《とうぞく》の頭《かしら》たちに酒をおごって馴染《なじ》みを通し、うまく話をつけて、なにがしかの金《かね》を払《はら》い、襲《おそ》ってこないように約束《やくそく》をとりつけるのだった。
そういうことは知っていたけれど、これまでは、ジグロにいわれたとおり宿《やど》にもどって寝《ね》ていたから、実際《じっさい》に、ジグロたちがどんなふうに取引《とりひき》きを進めるのか、見たことはなかった。
(いっぺん、見てみたいな……。)
ロタの酒場暮《さかばぐ》らしにはずいぶん慣《な》れたから、こういう街《まち》の酒場で給仕《きゅうじ》たちがどんなふうに働《はたら》いているかは、だいたいわかる。親父《おやじ》の浮気相手《うわきあいて》を見たいとか、なんとか嘘《うそ》をついて、給仕の娘《むすめ》にいくらか渡《わた》せば、うまくまぎれこむことはできるはずだ。
バルサは、にやっと笑《わら》うと、ちょいと銅貨《どうか》を宙《ちゅう》に放りなげてから、パシッと握《にぎ》りこんで歩きだした。
バルサは、勘《かん》の鋭いジグロにも察《さっ》しられないくらいの距離《きょり》をおいて、わくわくしながら、あとをつけた。そして、ふたりがはいっていった酒場《さかば》の裏手《うらて》にまわっていった。
ロタの酒場の裏口《うらぐち》は、たいていふたつある。ひとつは農夫《のうふ》や行商人《ぎょうしょうにん》たちが食材《しょくざい》を納《おさ》めるために使う通用口《つうようぐち》。もうひとつは、井戸《いど》のある裏庭《うらにわ》に通《つう》じている裏口で、給仕《きゅうじ》たちは、よごれた皿《さら》や杯《さかずき》などを積《つ》みあげては、この裏口から井戸《いど》ばたに出て、洗《あら》い番《ばん》の幼《おさな》い子どもたちに汚《よご》れ物《もの》を渡《わた》し、洗いあがっている皿《さら》などをもって厨房《ちゅうぼう》にもどる。
バルサは適当《てきとう》な口実《こうじつ》をでっちあげて、洗《あら》い番《ばん》の子どもたちに近づくと、そのあいだにしゃがみこみ、洗い物を手伝《てつだ》いながら、やってくる給仕《きゅうじ》の娘《むすめ》たちを観察《かんさつ》した。
くりかえしやってくる数人の娘たちのなかで、いちばん人がよさそうな娘に目をつけると、立っていって、裏口《うらぐち》にはいる前につかまえて、親父《おやじ》の浮気相手《うわきあいて》をたしかめたい、という嘘話《うそばなし》をうちあけて、拝《おが》みながら小銭《こぜに》をその袖《そで》に入れた。
娘は苦笑《くしょう》しながら、仲間《なかま》たちに事情《じじょう》をささやいてくれて、うまく給仕《きゅうじ》のあいだにまぎれこませてくれた。毎日、おなじ仕事《しごと》をくりかえしている給仕たちにしてみれば、こういうちょっとした(事件《じけん》)は、いい気晴《きば》らしだったから、だれも文句《もんく》をいうようなこともなかった。
料理《りょうり》を盛《も》った皿《さら》をもって酒場《さかば》に足を踏《ふ》みいれると、酒《さけ》と、男たちがふかしているカザル(煙草《たばこ》)の匂《にお》い、脂《あぶら》っこい料理の匂いがたちまじり、むっと身体《からだ》をおしつつんだ。天井《てんじょう》はうっすらと紫煙《しえん》でけぶっている。煙突《えんとつ》の掃除《そうじ》がいきとどいていないのだろう、炉《ろ》でさかんに燃《も》えている薪《まき》の煙《けむり》もただよっていて、目が痛《いた》かった。
酒場の煙突《えんとつ》は、なるべく掃除《そうじ》をしないものなのよ……という先輩給仕《せんぱいきゅうじ》たちの言葉《ことば》を、バルサは思いだした。煙で喉《のど》がいがらっぽくなると、それだけ酒をたくさん飲みたくなるから、わざと掃除をしないのだと。
でも、喉《のど》がいがらっぽくなるのは給仕《きゅうじ》たちだっておなじことで、酒《さけ》を飲むこともできないのだから、わたしらにとっちゃ、いい迷惑《めいわく》だといって、うなずきあった給仕仲間《きゅうじなかま》たちの顔が思いだされてきて、バルサは思いがけず、喉《のど》の奥《おく》が熱《あつ》くなるような感じをあじわった。たぶん、もう二度と会わない、つかのまの仲間たちがなつかしかった。
「おい! そいつはマッサル(ひき肉《にく》と卵《たまご》を練《ね》って、一口大《ひとくちだい》に揚《あ》げたもの)か? なら、おれたちがたのんだもんだ、こっちにもってこい!」
どなられて、バルサは、はっと我《われ》にかえると、ただいますぐに、と明るい声をあげて、手をふっている男たちの食卓《しょくたく》に駆《か》けていった。
この酒場《さかば》は、増改築《ぞうかいちく》をくりかえしたのか、あちらこちらに柱《はしら》があり、小部屋《こべや》のようになっている席《せき》もあって、なかなか全体を見わたせなかった。それでも、幾度《いくど》か給仕《きゅうじ》をしてまわるうちに、バルサは、ようやく、ジグロたちを見つけることができた。
ジグロとゴズは、いちばん奥《おく》まった、大きな柱の陰《かげ》にすわり、数人の男たちと頭をつきあわせるようにして、なにか、熱心《ねっしん》に話しこんでいる。
バルサはふたりに気づかれないように、つねに背中側《せなかがわ》を通るようにして、通りがかりに耳をすましていたが、ふたりも男たちも低い声でぼそぼそと話しあっているので、なにをいっているのか、ほとんど聞きとれなかった。かろうじて拾《ひろ》えたのは、ジグロの向《む》かい側《がわ》にすわっている眼つきのわるい男が、だいじょうぶだ、と請《う》けあっている声だけだった。
(……なんだ、もう、話をつけてしまったんだ。)
あの眼《め》つきのわるい男が盗賊《とうぞく》の頭《かしら》だとすれば、だいじょうぶだ、と請けあっているということは、もう、なにがしかの金《かね》の支払《しはら》いはすんでしまったのだろう。
(ちぇ。いくらぐらい払《はら》うのか、見たかったのにな……。)
心の中で愚痴《ぐち》ったとき、ふいに、眼《め》つきのわるい男が手をあげた。
「おい、クダ(蜂蜜酒《はちみつしゅ》)をもってこい! いちばん高いやつだぞ、まちがえるな。」
間の悪いことに、他の給仕《きゅうじ》は、そのとき、そばにいなかった。バルサが、はっとして柱《はしら》の陰《かげ》に身《み》を移《うつ》す間《ま》もなく、ジグロがふりかえり、バルサを見た。
ジグロは、毛一筋《けひとすじ》ほども表情《ひょうじょう》を動かさなかった。
「おれたちにも、クダをたのむ。」
いわれて、バルサは、かすかにうわずった声で、うけたまわりました、と答えた。
その声を聞いてゴズも顔をまわしてこちらを見たが、ゴズもまた、表情を変えるようなまねはしなかった。
バルサは受けた注文《ちゅうもん》を別《べつ》の給仕《きゅうじ》にまわすと、ほうほうの態《てい》で酒場《さかば》からぬけだした。そして酒場の軒下《のきした》に立って、ジグロたちが出てくるまで、爪先《つまさき》で地面《じめん》をこすりながら待った。
盗賊《とうぞく》たちが出てきたのは、夜も更《ふ》けた頃《ころ》だった。機嫌《きげん》のいい声で、なにやら話しながら闇《やみ》の中へと散《ち》っていく。彼らが去《さ》っていった先をながめていると、戸口《とぐち》でゴズの声が聞こえ、酒《さけ》の匂《にお》いをただよわせたふたりが表《おもて》に出てきた。
しょんぼりと立っているバルサに気づくと、ゴズは、じろっとにらみつけた。
「頭《かしら》の命令《めいれい》に従《したが》わないやつは、護衛士《ごえいし》じゃねぇ。− 報酬《ほうしゅう》を削《けず》るからな。覚悟《かくご》しておけよ。」
バルサは小さな声で、はい、といい、頭をさげた。
ゴズは苦笑《くしょう》してジグロを見た。
「あとの小言《こごと》は、あんたにまかせた。おれは帰って寝《ね》る。 − ちょっと飲《の》みすぎたぜ。」
そういいながらも、ゴズは酔《よ》いを感じさせない足どりで宿《やど》へと帰っていった。
その姿《すがた》を見送ってから、ジグロも歩きだした。
無言《むごん》で歩いていくジグロのあとについていきながら、バルサは、ちらちらとジグロを見あげた。こういうときは、だまってついていくしかない。へたにあやまると、あやまるくらいならやるな、と、ぶんなぐられるからだ。
街《まち》の店々《みせみせ》は、とうに灯《ひ》を落としていたから、酒場《さかば》の灯が遠《とお》くなると、闇《やみ》が深くなった。ジグロがもっている小さな旅灯《りょとう》だけが、ぼうっと闇の中にゆれている。
ふいに、ジグロが口をひらいた。
「あの男たちの中で、どいつが首領《しゅりょう》だと思った。」
バルサはおどろいて、ジグロを見あげた。
「……眼《め》つきのわるい男?」
つぶやくと、ジグロは首をふった。
「ちがう。あいつは二|番手《ばんて》だ。首領《しゅりょう》はな、ひと言《こと》もしゃべらなかった中年《ちゅうねん》の男だ。」
バルサはまばたきをした。あの場のようすを思いだそうとしたけれど、その男のことは印象《いんしょう》になかった。
「眼《め》つきのわるいやつの視線《しせん》に気づいていれば、わかったはずだ。先導《せんどう》して話を進めているような顔をしていたが、ちらちら視線を首領《しゅりょう》にむけて、顔色《かおいろ》を読《よ》んでいた。」
バルサはうつむいた。かなり気をつけて見ていたはずなのに、話している内容《ないよう》を聞きとろうと必死《ひっし》で、視線のやりとりなど、まったく気にしてもいなかった。くやしかったけれど、ジグロがゴズのようにおこってはいないことを知って、うれしくもあった。
ジグロはやはり、バルサが護衛士《ごえいし》になることを止めようとはしていないのだ。そう思うと安堵感《あんどかん》が胸《むね》にひろがった。
星空を見ながら歩いていたジグロが、ふいに、指を天《てん》にむけた。
「おまえ、あの星の名前《なまえ》を知っているか?」
バルサは眉根《まゆね》をよせて、ジグロが指さしている星を見つけようとした。
「どれ?」
「(鵬《おおとり》)の嘴《くちばし》の、すぐ前に光っている赤い星だ。」
うすく白い雲がかかっている秋の夜空に、四つの星が光っている。(鵬《おおとり》)は秋になるとあらわれる星座《せいざ》で、幼《おさな》い頃《ころ》、カンバルでも見た記憶《きおく》があった。その嘴《くちばし》とされる星の先に、たしかに、小さな赤い星が見えた。
「……知らない。」
つぶやくと、ジグロはしばらくだまりこみ、それから答えた。
「あれは、(風邪《かぜ》の実《み》)なんだそうだ。−−この時期になると、カルナはよく、あれを見あげちゃ、うれしそうに、(鵬《おおとり》)が(風邪の実)をついばむ季節《きせつ》がきたな、といったものだ。」
父の名を、ジグロが口にするのは久《ひさ》しぶりだったから、バルサは胸《むね》を押《お》されるような思いで、だまったままジグロを見ていた。
ジグロはかすかに笑《わら》いをふくんだ声でつづけた。
「あの星があらわれると、風邪《かぜ》が流行《はや》るんだそうだ。……あいつ、王都《おうと》に来《き》たての頃《ころ》は、あまり金《かね》をもっていなかったからな。患者《かんじゃ》がふえるのが、うれしかったんだろう。」
それきりジグロはロをとじ、ふたりはだまって夜道《よみち》をたどった。霜《しも》が降《ふ》る音さえ聞こえそうな、静《しず》かな晩《ばん》だった。
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八
その日は、朝から、なんだかんだと手順《てじゅん》がくるう日だった。
出発《しゅっぱつ》しようとしたとき、一台の荷馬車《にばしゃ》の車軸《しゃじく》にひびがはいっているのが見つかり、男たちが大いそぎで、いったんその荷馬車の酒樽《さかだる》をぜんぶおろし、車軸を交換《こうかん》してから、ふたたびび積《つ》むという騒《さわ》ぎがあって、出発が大幅《おおはば》に遅《おく》れてしまった。
そのせいで、昼頃《ひるごろ》に通る予定《よてい》だったタカウの涸《か》れ峪《だに》にたどりついたのは、日がかたむきはじめる頃《ころ》だった。
太古《たいこ》のむかしに神々《かみがみ》が足踏《あしぶ》みをして踏《ふ》み割《わ》ったという言《い》い伝《つた》えがあるこの峡谷《きょうこく》は、鳥の目で見わたせば葉脈《ようみゃく》のように見えるのではないかと思われるほど、いくつもの細い涸《か》れ峪《だに》に枝分《えだわ》かれしている。
街道《かいどう》は、まだ細々《ほそぼそ》と水が流れている峪底《たにそこ》をうねりながら通っているが、道は細く、荷馬車《にばしゃ》が転回《てんかい》する余裕《よゆう》はないので、ひたすら前に進むしかない。
西日《にしび》が、くずれやすい砂岩《さがん》の岩肌《いわはだ》を蜜色《みついろ》にそめているのを、護衛士《ごえいし》たちは目を細《ほそ》め、浮かぬ顔でながめていた。北東へむかう道のなかで、この難所《なんしょ》だけは北西にむけて大きく蛇行《だこう》しており、峡谷《きょうこく》のところどころで、西日に正面《しょうめん》から目を射《い》られる。 − 襲《おそ》ってくる盗賊《とうぞく》にはやさしく、護衛士《ごえいし》にとっては厳《きび》しい難所《なんしょ》だった。
護衛士頭《ごえいしがしら》のゴズは、出発《しゅっぱつ》が遅《おく》れることがわかったとき、トキアンに今日《きょう》の出発は見あわせるように申し入れたが、期日《きじつ》どおりに交易宿場《こうえきしゅくば》に着《つ》きたいトキアンはそれを許《ゆる》さなかった。
ゴズは西日に目を射られる危険《きけん》について、しつこいくらいに説得《せっとく》をくりかえし、しまいにトキアンが腹《はら》をたてて、おまえたちは盗賊《とうぞく》をしりぞけるために雇《やと》われているのだろう? そこまで襲撃《しゅうげき》を恐《おぞ》れるということは、(厄落《やくお》とし)の金《かね》を自分の懐《ふところ》にでも入れたのか、とどなるという一幕《ひとまく》もあって、護衛士《ごえいし》たちのあいだにやりきれぬ気分がただよった。
あらためて荷馬車《にばしゃ》に荷《に》を積《つ》みおわり、いざ出発というとき、馬にまたがったバルサのかたわらに、めずらしく、ジグロが馬を寄せてきた。
「……今日《きょう》は、命《いのち》のやりとりになるかもしれん。」
低い声で、ジグロがいった。
「この隊商《たいしょう》は、守《まも》る者と守られる者とのあいだに溝《みぞ》がある。襲撃《しゅうげき》があれば、人死《ひとじ》にが出るだろう。」
おどろいて、バルサはジグロを見つめた。ジグロは厳《きび》しい目で、じっとバルサを見つめていた。
「武人《ぶじん》の命《いのち》は、いつも、今、この一点までだ。 − その一点に、すべてをこめて、守りぬけ。
盗賊《とうぞく》が襲《おぞ》ってきたら先頭《せんとう》を駆《か》け、血路《けつろ》をひらいて隊商《たいしょう》の命を守るのが、おれの役目《やくめ》だ。おれは、おまえをふりかえることはしない。おまえは……、」
ジグロは、こぶしでバルサの胸《むね》を軽《かる》く突《つ》いた。
「自分の命を守ることに、全力《ぜんりょく》をつくせ。」
バルサはぎゅっと唇《くちびる》をむすんで、うなずいた。
射《い》るような目で、バルサを見つめて、ジグロはいった。
「そのときがきたら、ためらうな。 −一瞬《いっしゅん》もためらうな。」
バルサは、もう一度、うなずいた。
ジグロは大きな手で、ぐいっとバルサの頭をつかんでゆすると、その後はもう、バルサの顔を見ることもなく、自分の持《も》ち場《ば》へと馬をもどしていった。
涸《か》れ峪《だに》の底を進むうちに日はどんどんかたむき、夕焼《ゆうや》けが砂岩《さがん》の崖《がけ》を赤く縁《ふち》どりはじめた。
道の左右《さゆう》にあらわれる裂《さ》け目《め》のような枝峪《えだだに》は、すでに紫色《むらさきいろ》の影《かげ》に小暗《おぐら》く沈《しず》んでいたが、ときおり、その暗くせまい道の先に、日の光が一点、明るく見えることもあった。
馬の蹄《ひづめ》や荷馬車《にばしゃ》の車輪《しゃりん》が砂利石《じゃりいし》を乗りこえる音が、峪底《たにそこ》にこだまするほかは、かたわらを流れる水の音さえ静寂《せいじゃく》に吸《す》いこまれたように聞こえなかった。だから、崖《がけ》に巣《す》をつくっている鳥たちが、ふいに、絹《きぬ》を裂《さ》くような甲高《かんだかい》い声で鳴きながら崖から舞《ま》いたち、騒々《そうぞう》しく天空《てんくう》を飛びかいはじめたとき、男たちは、びくっと身体《からだ》をふるわせた。
護衛士《ごえいし》たちが、いっせいに身《み》がまえた。 − その瞬間《しゅんかん》、ヒョウ、ヒョウと不気味《ぶきみ》な細いうなりとともに、右側の崖《がけ》から矢《や》が降《ふ》りそそいできた。
「ふせろ!」
護衛士たちの声がひびいた。
みなが、さっと頭をふせて、荷馬車の陰《かげ》に身を隠《かく》した刹那《せつな》、荷馬車の枠板《わくいた》に、何本もの矢が突《つ》き刺《さ》さってふるえた。
隊商《たいしょう》の左側には川が流れている。対岸《たいがん》から矢《や》を射《い》てもとどかない。矢を射かけてくるとしたら、右側の崖《がけ》からであることはわかっていたから、ゴズは、人馬《じんば》はすべて荷馬車の左脇《ひだりわき》を進ませ、矢を射かけられたら、荷馬車を盾《たて》にするよう指示《しじ》していた。
荷馬車《にばしゃ》には一部分|屋根《やね》があり、御者《ぎょしゃ》や荷運《にはこ》び人夫《にんぷ》はその陰《かげ》に身《み》をひそめることができたが、間近《まぢか》で矢《や》が突《つ》き刺《さ》さる音を聞いたとたん、肝がちぢみあがったのだろう、荷馬車のあちこちから悲鳴《ひめい》があがった。
ゴズをはじめ、古参《こさん》の護衛士《ごえいし》たちは、荷馬車《にばしゃ》の陰《かげ》から頭をだすと、崖《がけ》の窪《くぼ》みにひそんでいる射手《しゃしゅ》めがけて矢《や》を射《い》た。わずか数息《すうそく》のうちに、十教本もの矢が飛び、ふたりいた敵《てき》の射手をみごとに射落《いお》とした。
悲鳴をあげ、石ころのように落ちてきた射手《しゃしゅ》が砂利道《じゃりみち》に激突《げきとつ》して、にぶい音とともに血《ち》をまきちらした。
「正面《しょうめん》、くるぞ!」
ジグロの太い声がひびいた。
「背後《はいご》もだ!」
スマルの声にかぶさるように、盗賊《とうぞく》たちの鬨《とき》の声がわきあがり、峡谷《きょうこく》にこだました。
前後《ぜんご》を見て、すばやく盗賊の数を確認《かくにん》したゴズは、ジグロにむかって叫《さけ》んだ。
「血路《けつろ》をひらけ! 荷馬車はおれたちが追っていく!」
その声が聞こえる前に、ジグロは馬に鞭《むち》を入れ、矢《や》のようにとびだしていた。
砂利道《じゃりみち》をものともせずに、砂塵《さじん》を舞《ま》いあげながらジグロが馬を駆っていく。短槍《たんそう》をふるいながらジグロが突《つ》っこんだとたん、正面《しょうめん》をふさぐように立ちはだかっていた騎馬《きば》の群《む》れに動揺《どうよう》が走り、二頭の馬が崖道《がけみち》から足を踏《ふ》みはずして川へと転落《てんらく》していくのが見えた。
バルサが見ることができたのは、そこまでだった。
すぐ前でゴズが、御者《ぎょしゃ》が身《み》をちぢめている荷馬車《にばしゃ》の屋根《やね》を剣《けん》でたたき、走れ、走れ、と叫《さけ》んでいる。他の護衛士《ごえいし》たちも、荷馬車を追いたてながら走りはじめた。
最後尾《さいこうび》の荷馬車は、いざというときはホイ(盗賊《とうぞく》にくれてやる捨《す》て荷に《》)として使うことを決めてあったから、そこには護衛士はつかず、御者《ぎょしゃ》も荷運《にはこ》び人夫《にんぷ》も中腰《ちゅうごし》になって、馬と荷馬車を切りはなして、いつでも飛びおりられるよう、姿勢《しせい》をととのえている。
そこまでは、あらかじめゴズから指示《しじ》されていたとおりだったが、盗賊《とうぞく》にむかって驀進《ばくしん》していくあいだに、なぜか隊列《たいれつ》がみだれはじめた。
バルサは、自分の背後《はいご》についているはずの荷馬車の音が遠《とお》のいていくのを感じて、首をまわして、ふりかえった。
「あ……!」
御者《ぎょしゃ》が恐《おそ》ろしさに我《われ》を忘《わす》れたのか、馬の鼻面《はなづら》を右脇《みぎわき》にむけ、枝峪《えだだに》へとみちびいている。
スマルが、バルサを払《はら》うように手をふった。
「おれが追う! おまえは他の連中《れんちゅう》についていけ!」
スマルは馬に鞭《むち》をくれて、ただ一台、枝峪《えだだに》に逃げこんでしまった荷馬車《にばしゃ》を追って、消《き》えていった。
襲《おそ》われたときは、興奮《こうふん》して、だれも気づかなかったが、襲撃《しゅうげき》してきた盗賊《とうぞく》は意外《いがい》に小さな集団《しゅうだん》で、ジグロの相手《あいて》になるような剛《ごう》の者《もの》はおらず、ジグロに突《つ》っこまれると、あっというまに腰砕《こしくだ》けになって、逃《に》げはじめた。
その遁走《とんそう》ぶりは、いっそみごとといえるほどだったが、背後《はいご》からはさみ撃ちにしてせまってきていた盗賊《とうぞく》たちは、わずか数人なのに、しつこく矢《や》を射《い》かけて隊列《たいれつ》をのがそうとしなかった。
隊列は長くのび、バルサはいつのまにか、最後尾《さいこうび》になっていた。背《せ》にむかって飛んでくる矢《や》を防《ふせ》いでくれる荷馬車《にばしゃ》から、馬を切りはなして御者《ぎょしゃ》たちが逃げだしたとき、バルサは矢を避《さ》けるために、覚悟《かくご》を決めて枝峪《えだだに》へとびこんだ。
うすぐらい枝峪にはいったとたん、肌《はだ》をさすってすりぬける風が格段《かくだん》に冷たくなった。
両側にそびえたつ岩壁《がんぺき》のはるか高みには西日《にしび》の色があったが、せまい枝峪《えだだに》の底には日の光はとどかず、紫色《むらさきいろ》の影《かげ》に沈《しず》んでいて、明るい日の下から駆けこむと、つかのま目がくらんだ。
荷馬車《にばしゃ》をつれていなければ、盗賊《とうぞく》は追ってはくるまいと思ったが、それでも背後《はいご》が岩壁《がんぺき》で隠《かく》れる曲《ま》がり角《かど》まで、バルサは全力《ぜんりょく》で馬を駆《か》った。
行き先はわかっていたから、隊列《たいれつ》から離《はな》れることには、さほど不安《ふあん》を感じていなかった。だが、枝峪《えだだに》に駆《か》けこんでみて、バルサは、ぎゅっと肌《はだ》をしめつけるような緊張《きんちょう》をおぼえた。もろい岩質《がんしつ》の崖《がけ》には、いくつもの裂《さ》け目《め》が走っており、自分がどこで曲《ま》がったか、しっかりおぼえていないと、すぐに迷《まよ》ってしまうことがわかったからだ。
瘤《こぶ》のように突《つ》きでた崖を曲がると、背後《はいご》の音が、ふいに遠くなった。そのかわり、右手前方《みぎてぜんぽう》から、荷馬車《にばしゃ》が走る音が空《うつ》ろに聞こえてきた。
(あ、そうか……!)
スマルが追っていった荷馬車が、この先のどこかを走っているのだ。これほど、はっきりと音が聞こえてくるということは、枝峪同士《えだだにどうし》がどこかでつながっているのかもしれない。
本隊《ほんたい》からはぐれてしまったのなら、スマルと合流《ごうりゅう》したほうがいいと、バルサは思った。岩の裂《さ》け目《め》に反響《はんきょう》して空《うつ》ろにひびいてくる音の、位置《いち》を特定《とくてい》するのはむずかしかったけれど、バルサは耳をすまし、周囲《しゅうい》の景色《けしき》をたしかめながら、慎重《しんちょう》に、音をたどって馬を進めていった。
荷馬車の音が近くなってきたとき、ふいに車輪《しゃりん》の音がとだえた。 − 荷馬車がとまったのだろう。
人の声が聞こえたような気がして、バルサは手綱《たづな》をひいて、馬を止めた。
声は細い岩の割《わ》れ目《め》から聞こえてくる。人ひとり、やっと通れるほどの割れ目だったが、その先には西日《にしび》の明《あか》るみが見えていた。
バルサは馬からおりると、手近《てぢか》な灌木《かんぼく》に手綱《たづな》を結《むす》んだ。そして、岩の割れ目に足を踏《ふ》みいれた。
中ほどまで歩いたとき、割《わ》れ目《め》の先のほうから悲鳴《ひめい》がひびいてきて、バルサはぎょっとして足をとめた。だれかが斬《き》られたのだとわかる、断末魔《だんまつま》の悲鳴だった。
盗賊《とうぞく》がスマルたちに追いついたのだ、と思ったが、それにしては静《しず》かすぎた。悲鳴が一度ひびいたあとは、争《あらそ》うような音も聞こえてこない。
バルサはごくっと唾《つば》を飲みこむと、短槍《たんそう》をにぎりしめ、足音をたてぬように気をくばりながら前に進んだ。
岩の裂《さ》け目《め》は、思ったとおり別《べつ》の枝峪《えだだに》へとつながっていた。そっと顔をだすと、ぽっかりと広い空間《くうかん》が開《ひら》けた。西日にそまっている峪底《たにそこ》に荷馬車《にばしゃ》がぽつんととまっており、その脇《わき》に御者《ぎょしゃ》が倒《たお》れている。
しん、と静《しず》まりかえった蜜色《みついろ》の光の底に、荷馬車によじのぼっているスマルの姿《すがた》が、浮《う》かびあがって見えていた。荷運《にはこ》び人夫《にんぷ》がひとり、スマルを見まもっている。旅《たび》のあいだ、よくスマルと話しこんでいた荷運び人夫だった。
スマルは短槍《たんそう》をふりあげると、ひとつの樽《たる》の蓋《ふた》を石突《いしづき》で突《つ》いて打ちこわし、中に手をつっこんだ。
遠目《とおめ》では、彼がどんな表情《ひょうじょう》をしているのかは見えなかったが、荷運《にはこ》び人夫《にんぷ》がみじかく歓声《かんせい》をあげて両手をさしだすのが見えた。スマルはなにか重そうな袋《ふくろ》をもちあげると、その男の手に、それをのせた。
男がそれをかかえこんだ瞬間《しゅんかん》、スマルが短槍《たんそう》をふりあげた。
バルサは思わず目をつぶった。人夫《にんぷ》の断末魔《だんまつま》の悲鳴《ひめい》が耳をうち、重いものが地面に倒《たお》れるにぶい音が聞こえてきた。
バルサは目をあけ、信じられぬ思いでスマルを見つめた。返《かえ》り血《ち》をあび、白髪《しらが》まじりの髪《かみ》をふりみだしているスマルの姿《すがた》は、人ではない、なにか別《べつ》のもののように見えた。
額《ひたい》から後頭部《こうとうぶ》へ冷たいこわばりがひろがった。− いまスマルに見つかったら、殺《ころ》される。そっと後《あと》ずさろうとしたバルサは、背後《はいご》に、騒々《そうぞう》しい物音《ものおと》を聞いた。馬がいるぞ、といっている男の声は、仲間《なかま》の声ではなかった。
スマルのいる峪底《たにそこ》のほうからも、遠く、馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえてきた。
(盗賊《とうぞく》が追ってきた……。)
バルサは乾《かわ》いた唇《くちびる》を無意識《むいしき》になめた。鼓動《こどう》がはやくなり、冷たい汗《あせ》がにじみでてきて、短槍《たんそう》をにぎっている手がぬるぬるした。
背後《はいご》で、だれかが割《わ》れ目《め》にはいってきた音がした。
選《えら》ぶ道はなかった。 − バルサは汗《あせ》で湿《しめ》ったてのひらを衣《ころも》でぬぐい、短槍《たんそう》をにぎりなおすと、ばっと峪底《たにそこ》へとびだした。
スマルが顔をあげて、こちらを見た。目を見ひらき、信じられぬものを見るようにバルサを見つめ、スマルは、しばし、身動《みうご》きを止めた。それから、ふいに、顔をゆがめた。
咳《せ》きこみながら、スマルは笑《わら》いはじめた。なにかを嘲《あざけ》っているような空《うつ》ろな笑い声だった。
「………こういうものだ。なぁ………。」
天《てん》に顔をむけて、ひとしきり笑うと、スマルは荷馬車《にばしゃ》から飛びおりて、バルサに近づいてきた。
その顔を見たとき、バルサはふるえだした。自分の身体《からだ》が、自分のものではないように、遠く感じられる。
ジグロはずっと先で盗賊《とうぞく》と闘《たたか》っている。助けてくれる味方《みかた》はいない。盗賊が数人、この峪底《たにそこ》へ出てくる気配《けはい》を背中《せなか》で感じながら、バルサは、自分はここで死ぬのだと知った。
盗賊《とうぞく》が背後《はいご》にせまってくるのを感じた瞬間《しゅんかん》、スマルがどなった。
「こいつは、おれが殺《ころ》す。おまえらは手をだすんじゃねぇ!」
背後《はいご》から、盗賊《とうぞく》の不満《ふまん》げな声が聞こえてきた。
「……てめぇの取《と》り分《ぶん》は、砂金《さきん》二つかみって約束《やくそく》だろうが! − このガキは、おれたちがもらうぜ。サンガル人に売れば、馬鹿《ばか》にならねぇ金《かね》に……。」
その言葉《ことば》が終わらないうちに、スマルはすさまじい形相《ぎょうそう》で、短槍《たんそう》の石突《いしづき》を手近《てぢか》な岩にたたきつけた。岩が火花《ひばな》を散《ち》らすほどの激《はげ》しい力だった。
「馬鹿野郎《ばかやろう》−−このガキを生かしておいたら、おれがおまえらと通《つう》じたことが、バレる可能性《かのうせい》が残《のこ》るだろうが!」
唾《つば》を吐《は》き、スマルはバルサを見つめた。
「……かわいそうだがな、おまえを、生かしちゃおけねぇんだよ。」
バルサは、カチカチとふるえている歯をくいしばった。
歩幅《ほはば》をぐっと開《ひら》くと、バルサは短槍《たんそう》をかまえなおし、スマルに穂先《ほさき》をむけた。
ブン、と、ひとつ短槍《たんそう》を振《ふ》ってから、スマルは、すたすたと歩《あゆ》みよってきた。
スマルの短槍の間合《まあい》に、はいってしまう。−−−そう思っても、バルサは動けずにいた。
動け、動け、動け……! 必死《ひっし》に思っているのに、スマルの顔を見ていると、どうしてもその胸《むね》にむかって短槍《たんそう》を突《つ》きだすことができなかった。
あとすこしで殺《ころ》されるとわかっているのに、固《かた》い板《いた》の枠《わく》でもはまっているように、身体が動かない。
それを見て、スマルが笑《わら》った。泣《な》いているような笑顔《えがお》だった。
いきなり、なんの予備動作《よびどうさ》もなく、スマルは、バルサの胸《むね》めがけて短槍《たんそう》を突《つ》きだした。
まなじりが裂《さ》けるほど目を見ひらいて、スマルを見つめていたバルサは、その瞬間《しゅんかん》、自分の身体《からだ》が動いたのを感じた。
それは、まばたきして目にはいろうとする虫《むし》をよけるような、反射的《はんしゃてき》な動きだった。
なにかが頭に浮かぶより先に、せまってくるスマルの短槍《たんそう》にむかって、身体《からだ》が前にとびだした。
低い位置《いち》から突きだされたバルサの短槍の柄《え》が、スマルの短槍と交差《こうさ》し、その柄の穂先《ほさき》近くにあたって、かんだかい音がひびいた。スマルの穂先はわずかに軌道《きどう》をそらし、バルサの左胸《ひだりむね》の脇《わき》を切りさいていった。
激痛《げきつう》を感じるより先に、バルサは手に、にぶい重さを感じた。穂先《ほさき》が人の皮《かわ》と肉《にく》に刺《さ》さり、ぐにゃりとその奥《おく》に突《つ》き入《い》り、固《かた》いものにあたった感触《かんしょく》だった。
自分の槍《やり》の穂先《ほさき》が、スマルの肋骨《ろっこつ》に刺《さ》さっているのを見、バルサは、そのまま、押《お》すことも引くこともできずに、固《かた》まっていた。
そのとき、痛《いた》みがやってきた。切りさかれた傷《きず》から骨《ほね》にひびくような痛みがひろがり、バルサは顎《あご》を胸《むね》につけて歯《は》をくいしばって、うめいた。
スマルは自分の胸に刺さっている短槍《たんそう》の柄《え》をつかみ、うめきながら、引きぬいた。ふきだした自分の血《ち》にまみれながら、スマルは歯をむきだして笑《わら》い、つかんでいるバルサの短槍をぐいっと引いた。
ものすごい力で引かれ、バルサはつんのめるようにしてスマルに突《つ》きあたった。血が顔にべったりとつき、思わず目をつぶった瞬間《しゅんかん》、ぐいっと万力《まんりき》のような手で首をにぎられた。一気《いっき》に締《し》めあげられて、耳もとまで血がつまり、目玉《めだま》が押《お》しだされる痛《いた》みが襲《おそ》ってきた。
脳天《のうてん》まで暗《くら》くなる、その一瞬前《いっしゅんまえ》に、バルサはふるえる手で腰《こし》の短剣《たんけん》を引きぬき、無我夢中《むがむちゅう》でふるった。刃先《はさき》がなにかにあたった感触《かんしょく》があって、ふいに、首から手がはずれた。
バルサは地面にくずれおちて、ころがった。
つまってしまった喉《のど》が、息《いき》をしようともだえている。咳《せ》きこむと、傷《きず》にひびいて、激痛《げきつう》が全身《ぜんしん》に走り、バルサは虫《むし》のように丸まってうめいた。
頭上《ずじょう》で身をしぼるような咳《せき》の音が聞こえ、スマルの影《かげ》が身体《からだ》をおおったのを感じた。血《ち》にぬれた短槍《たんそう》の穂先《ほさき》が、シャリシャリと地面の砂《すな》をこすりながら顔の脇《わき》に近づいてくるのを見て、バルサは必死《ひっし》で起きあがろうとしたが、激痛《げきつう》で痙攣《けいれん》している身体は動いてくれなかった。
なにかが空を切る音がした。つぎの瞬間《しゅんかん》、にぶい音とともに、うめき声が聞こえた。
それから、重いものが身体《からだ》の上にのしかかってきた。それが、自分の上で、ビクビクと断末魔《だんまつま》の痙攣《けいれん》をくりかえしていることも、鼻をつく血のにおいも、バルサは膜《まく》でおおわれた何かのむこうでおきていることのように感じていた。
赤い靄《もや》におおわれた世界のむこうで、複数《ふくすう》の男たちが争《あらそ》っている物音《ものおと》が聞こえ、やがて、その音がやんでいった。
長い時間が経《た》って、スマルの死体《したい》の下から引っぱりだされたとき、バルサは半《なか》ば気をうしなったようになっていた。
顔をはたかれて、うめくと、大きな手がぐっとバルサの左腕《ひだりうで》をもちあげて、傷《きず》をあらためはじめた。その指先《ゆびさき》がふるえていることなど、バルサはまったく気づいていなかった。
ただ、目をあけたその先には、一面《いちめん》の赤が − ほかになにもない、一面の赤がひろがっていて、バルサは悲鳴《ひめい》をあげることさえできぬまま、それを見つめていた。
それは、沈《しず》みゆく日が空一面《そらいちめん》に残《のこ》していった、燃えるような夕焼《ゆうや》けだったが、バルサにはただ、ほかになにもない赤にしか見えていなかった。
人の肉《にく》に刺《さ》さっていった穂先《ほさき》の感触《かんしょく》が、ふいに手によみがえり、バルサは身《み》をよじって、吐《は》いた。それから息《いき》を吸《す》うと、長い、長い悲鳴《ひめい》をあげた。
大きな熱《あつ》いものに、バルサは、いきなりかかえこまれた。
血と嘔吐物《おうとぶつ》にまみれて、悲鳴をあげている娘《むすめ》を、ジグロはかきいだき、必死《ひっし》に抱きしめた。身《み》をよじる炎《ほのお》をかかえこもうとするように、背《せ》を丸《まる》めて、強く、強く抱きしめた。
*
バルサが枝峪《えだだに》にとびこんだ直後《ちょくご》、盗賊《とうぞく》は護衛士《ごえいし》たちに蹴《け》ちらされて、峡谷《きょうこく》のあちらこちらにちらばって逃《に》げ去《さ》った。
息《いき》をついた隊列《たいれつ》の中で、砂金《さきん》を隠《かく》した大切《たいせつ》な荷馬車《にばしゃ》がないことに気づいたトキアンが、半狂乱《はんきょうらん》になって、護衛士《ごえいし》たちに探《さが》してくるよう命《めい》じ、それが、結果的《けっかてき》にバルサの命《いのち》を救《すく》うことになったのだった。
スマルに殺《ころ》された御者《ぎょしゃ》と人夫《にんぷ》には、来春《らいしゅん》に嫁《よめ》にいく娘《むすめ》たちがいた。
盗《ぬす》みに加担《かたん》した連中《れんちゅう》ではあったが、彼らの遺品《いひん》は、隊商《たいしょう》の仲間《なかま》たちがトキアンに許《ゆる》しを乞《こ》い、家族《かぞく》のもとへと持って帰ることになった。
砂金《さきん》のために隊商《たいしょう》を盗賊《とうぞく》に売り、仲間を斬《き》り殺《ころ》したスマルの遺体《いたい》は、そのまま枝峪《えだだに》に埋《う》められた。
その人生《じんせい》の大半《たいはん》を、この隊商のために命《いのち》を張《は》り、流《なが》れ暮《く》らした男の身体《からだ》は、水のない峪底《たにそこ》に沈《しず》んだのだった。
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さほど曇ってはいないのに、綿毛《わたげ》のような小さな雪が、ふわふわと舞《ま》っている。
井戸《いど》ばたで、手をまっ赤《か》にして洗《あら》い物《もの》をしている母に近よっていって、タンダは、手鍋《てなべ》の中のものを見せた。
「母《かあ》さん、これ、(寒《かん》のふるまい)にもっていっていい?」
手鍋《てなべ》に盛《も》られている、まだちょっと肉《にく》がついている鳥の骨《ほね》やら、魚《さかな》の骨やらを見て、母は笑《わら》いだした。
「あんたはまた、熱心《ねっしん》に塵《ごみ》さらえをしてくれたようだねぇ。いいよ。もっていきな。」
手鍋の中身《なかみ》をこぼさぬように気をつけながら、タンダが駆《か》けだそうとしたとき、母が背後《はいご》から声をかけてきた。
「(寒のふるまい)はいいけど、あんまり山の奥《おく》へはいるんじゃないよ! 今日《きょう》は雪になりそうだからね。」
うなずきはしたけれど、タンダは心の中で母にあやまりながら、一目散《いちもくさん》に山へとむかった。
(寒《かん》のふるまい)は、冬の最中《さいちゅう》の食べ物が乏《とぼ》しい時期に、山の獣《けもの》たちに食べ物を分《わ》けることをいう。鳥の骨《ほね》だの、豚《ぶた》の骨だの、人にはもう食べられないけれど、獣たちにはじゅうぶん御馳走《ごちそう》になるものをもって山の中にはいり、
「(寒のふるまい) でござる! 大《おお》いに食べてござれ!」
と、大声で叫《さけ》んでから、獣道《けものみち》に置《お》いてくるのだ。
獣《けもの》にやさしい行《おこな》いをすれば、獣もまた、里人《さとびと》に害《がい》をなさないといわれていて、大むかしから、里《さと》の者たちがやってきた習慣《しゅうかん》だったけれど、いまはもう、さほど熱心《ねっしん》におこなわれているわけではなく、タンダのように、いそいそと手鍋《てなべ》に食《た》べ残《のこ》しを盛って山にはいっていく子は稀《まれ》だった。
タンダはしかし、(寒《かん》のふるまい)が大好きだった。
獣道《けものみち》に置いて去った食べ物が、翌日《よくじつ》にはきれいになくなっているのを見るたびに、
− お、こいつぁ、御馳走《ごちそう》だぞ! 今日《きょう》は運《うん》がいいや!
と、よろこんでいる獣の姿《すがた》が心に浮かんだし、母《かあ》さん狐《ぎつね》が骨《ほね》をくわえて巣穴《すあな》にもどり、仔狐《こぎつね》たちに分《わ》けてやったかもしれないと思うと、なんだか仔狐たちと食べ物を分けあって食べたような気分《きぶん》になって、うれしかったからだ。
それに、(寒《かん》のふるまい)に行くといえば、山にはいっていっても、大人《おとな》たちは怪《あや》しまない。トロガイおばさんの家に行くにも都合《つごう》がよかったし、足をのばして峠道《とうげみち》に行くこともできたから、タンダはこの時期、昼餉《ひるげ》や夕餉《ゆうげ》が終わると、熱心《ねっしん》に食《た》べ残《のこ》しをあつめた。
タンダは頬《ほお》を赤くして、白い息《いき》を吐《は》きながら、山道を峠《とうげ》にむかって登《のぼ》っていった。
ちょっと前に、トロガイおばさんに会いにいったとき、おばさんが、いい夢《ゆめ》をみたから、そろそろ、いいことがあるかもしれないよ、と、意味《いみ》ありげに笑《わら》ったので、タンダの胸《むね》に、もしかしたら……という期待《きたい》がやどったのだった。
それから毎日、タンダは峠に行き、(里《さと》の守《まも》り)さまのお社《やしろ》のかたわらで、焚《た》き火《び》を焚《た》いて、餅《もち》や芋《いも》を焼《や》いて食べながら、夕仕事《ゆうしごと》のために帰らねばならぬときまで、そこで過《す》ごした。
ひとりで遊《あそ》ぶのは好きだったから、山の中で、たったひとりで焚き火を焚いていても、べつにこわくもなかったし、退屈《たいくつ》もしなかった。
でも、日が暮れてきても、村の外からこちらへとつづく白い道にまったく人影《ひとかげ》がないと、ああ、今日《きょう》も帰ってこなかったなぁ、という落胆《らくたん》が胸《むね》をふさいだ。
それでも、翌朝《よくあさ》になるとまた、タンダは、いそいそと手鍋《てなべ》をもち、火口箱《ほくちばこ》と餅《もち》や芋《いも》を入れた袋《ふくろ》を背負《せお》って、峠《とうげ》にやってくるのだった。
峠《とうげ》に着《つ》くと、タンダはお杜《やしろ》の脇《わき》にある、炉場《ろば》にむかった。
幾度《いくど》か降《ふ》った雪が日陰《ひかげ》に溶《と》けのこっていたが、石で囲《かこ》ってある炉場《ろば》は、お社《やしろ》のひさしに守られて、淡雪《あわゆき》にも濡《ぬ》れていなかった。
炉場《ろば》というのは、(里《さと》の守《まも》り)さまのお社《やしろ》を掃除《そうじ》しにやってくる婆《ばあ》さまや爺《じい》さまたちが、塵《ごみ》を燃やしたり、暖《だん》をとったりするために焚《た》き火《び》をする場所だったから、奥《おく》には薪《まき》も積《つ》んであったけれど、腰《こし》の曲《ま》がった爺《じい》さま連中《れんちゅう》に薪集《まきあつ》めをさせるのは申しわけないので、タンダはその薪には手をつけず、道々拾《みちみちひろ》ってきた粗朶木《そだき》を積みあげて火をつけることにしていた。
凍《こご》えた手をこすりあわせながら、昨日《きのう》|灰《はい》をかぶせておいた粗朶木《そだき》を掘《ほ》りだして、タンダは器用《きよう》に火をつけた。
火の勢《いきお》いがしっかりしてくると、枯《か》れ葉《は》をたくさんのせて、もくもくと煙《けむり》をたてる。
ここに人がいるぞ、と知らせる煙火《のろし》のように盛大《せいだい》に焚《た》き火《び》を焚《た》いて、タンダは、ときおり、けほけほと、むせたりしながら、熾火《おきび》になっている灰を脇《わき》によけ、その熱《あつ》い灰に埋めて、せっせと芋《いも》を焼《や》いた。
昼どきになると、枝《えだ》をとってきて餅《もち》を刺《さ》し、焚《た》き火《び》にあぶって焼《や》きはじめた。餅が焼けてくると、自分でつくった甘辛《あまから》いタレをつけて、また、ちょっとあぶる。タレをつけたあとは焦《こ》げないように気をつけねばならないが、炎《ほのお》にあぶられたタレの香《こお》ばしい匂いがただようと、タンダは、わくわくした。
ふわふわ天《てん》から落ちてくる綿毛《わたげ》のような雪は、いつしかその数を増して、煙《けむり》にあおられながら、宙《ちゅう》を舞《ま》って消《き》えていく。
灰色《はいいろ》の空を見あげて、ほうっと息《いき》を吐《は》き、焚き火に目をもどそうとしたとき、タンダは、遠くに、なにか動くものを見たような気がした。
はっとして目をこらすと、舞《ま》い飛《と》ぶ雪の彼方《かなた》に大小《だいしょう》ふたつの影《かげ》がにじみでて、みるみるうちに、はっきりと人の姿《すがた》になってきた。
胸《むね》の鼓動《こどう》がはやくなった。
タンダは駆けだしたいのをぐっとがまんしながら、人影《ひとかげ》がこちらにくるのを待った。こちらから迎《むか》えに駆けていったら、人影が淡雪《あわゆき》みたいに溶《と》けて、消えてしまうような気がしたからだ。
目深《まぶか》にカッル(マント)の頭巾《ずきん》をかぶった人影《ひとかげ》が、どんどん近づいてくる。
まだ遠いけれど、頭巾の下の顔が見えたとき、タンダはこらえきれずに、ばっと軒下《のきした》からとびだした。
天《てん》は鈍《にぶ》い光を孕《はら》んでいたが、舞《ま》い落《お》ちてくる淡雪《あわゆき》は、いつのまにか、しっかりとした雪に変わっていた。
降《ふ》りしきるその雪の中を、タンダは一直線《いっちょくせん》に、跳《は》ねるような足どりで駆《か》けていった。
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