天と地の守り人 第三部
上橋菜穂子
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バルサ、あなたは、いま、どのあたりにいるのだろう。
あなたのことだ、大軍《たいぐん》をひきいているわたしたちより、ずっと身軽《みがる》に山を越えて、もうタンダにあっているのかもしれないね。 −  なつかしいな、あのタンダの家。わたしはもう、二度とみることはあるまいが……。
こちらは、昨日《きのう》、無事《ぶじ》に国境《こっきょう》の峠《とうげ》を越《こ》えたよ。
カンバルの騎馬兵《きばへい》たちは、武骨《ぶこつ》だが、心やさしい者《もの》たちばかりだ。みな、どこかあなたに似ている。
もうすぐ、イーハン王子《おうじ》のおられるジタンに着《つ》く。ジタンに着いたら、綿密《めんみつ》に作戦《さくせん》をたて、それから、出発だ。 − いよいよ、新《しん》ヨゴへ向けて。
長かった。でも、あっというまだったような気もする。
新ヨゴは、どうなっているだろう。シュガたちは、息災《そくさい》だろうか。母上は、ミシュナは、 − 父上は……。
ここからさきには、戦禍《せんか》がまっている。
ナユグの春がもたらす天災《てんさい》もまた、光扇京《こうせんきょう》にせまっている。
この春のさきを、わたしは、己《おの》が目でみることができるだろうか……。
[#地付き][チャグムの日誌《にっし》より]
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序章 皇帝《こうてい》のたそがれ
第一章 戦《いくさ》
1 春の谷間《たにま》
2 兵《へい》たちの夜明《よあ》け
3 緒戦《しょせん》
4 みすてられた街《まち》
5 アスラとの再会《さいかい》
6 四路街《しろがい》|炎上《えんじょう》
7 去《さ》る者《もの》たち、くる者《もの》たち
第二章 死《し》をこえて
1 帰郷《ききょう》
2 チャグムの初陣《ういじん》
3 盗賊《とうぞく》と農夫《のうふ》
4 タンダの腕《うで》
第三章 天《てん》をいく者《もの》、地をいく者
1 地《ち》の声《こえ》と天《てん》の声
2 古《ふる》き根《ね》をすてよ
3 帰還《きかん》
4 ふたりの天子《てんし》
5 将軍《しょうぐん》の決断《けつだん》
第四章 奔流《ほんりゅう》きたる
1 チャグム暗殺《あんさつ》
2 天幕《てんまく》の夜
3 シュガの知略《ちりゃく》
4 虹《にじ》の宮殿《きゅうでん》
5 コン・アラミ(金《きん》の蜘蛛《くも》)の糸
6 ながれさる都《みやこ》
第五章 若葉《わかば》|萌《も》ゆ
1 太陽宰相《たいようさいしょう》の思惑《おもわく》
2 ヒュウゴの言葉《ことば》
3 若葉《わかば》の光
4 野《の》の帝《みかど》
終章 青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のふもとの家
あとがき
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はるかな高みに、むかいあう、ふたつの円形《えんけい》の窓《まど》がある。
東の窓は夕暮《ゆうぐ》れのうすい青にしずみ、西の窓からは夏のたそがれの光が、金色の筋《すじ》となってさしこんでいる。
日がのぼり、日がしずむ、太陽が統《す》べる世界をあらわしたこの広間《ひろま》を、いま、日没間近《にちぼつまぢか》のしずけさが支配《しはい》していた。
ちょうど西陽《にしび》がおちるあたりに大きな寝台《しんだい》がおかれ、老人《ろうじん》がよこたわっている。
皮膚《ひふ》が骨《ほね》にはりつき、はっきりとした死相《しそう》がうかんでいるその顔のなかで、ただ、目だけが、いまだ光をたたえていた。
一代《いちだい》で、多くの国をしたがえるタルシュ帝国《ていこく》の基礎《きそ》をきずきあげた英傑《えいけつ》、タルシュ帝国皇帝《ていこくこうてい》オーラハンは、せまりくる生《せい》のたそがれをみつめながら、いま、まさに遺言《ゆいごん》をのこそうとしていた。
寝台《しんだい》の足もとには、最高位《さいこうい》をしめす白い衣《ころも》をまとった神官《しんかん》が、聖杖《せいじょう》をかかげて、ひっそりと立っている。彼《かれ》がかかげる聖杖の先には、太陽神《たいようしん》アルェの口をかたどった金の円盤《えんばん》がついていた。アルェ・コウ(太陽神のロ)とよばれる、彼ら太陽神の神官たちを象徴《しょうちょう》する杖《つえ》だった。
立っている神官《しんかん》のわきに小さな机《つくえ》がおかれ、書記官《しょきかん》が緊張《きんちょう》したおももちで筆《ふで》をかまえている。
寝台《しんだい》のわきには皇帝《こうてい》の子どもたちがすわり、その背後《はいご》には、それぞれの宰相《さいしょう》がならんでいた。
皇帝はおそくまで子にめぐまれず、四十をすぎてから六人の子を得《え》たが、ふたりを病《やまい》と事故《じこ》で亡《な》くし、いま生きているのは、三人の息子《むすこ》とひとりの娘《むすめ》だけであった。第《だい》一|王子《おうじ》バザールと、第二王子ラウルは、そろそろ四十にちかいが、第三王子のユラルはまだ二十七|歳《さい》、王女《おうじょ》のカサリナは二十三歳で、昨年《さくねん》|結婚《けっこん》したばかりである。
皇帝《こうてい》にもっとも近い位置《いち》 − その枕《まくら》もとに立っているのは、皇帝の身内《みうち》ではなかった。
白髪《はくはつ》をきっちりと背《せ》でたばねている、この老年《ろうねん》の男、太陽宰相《たいようさいしょう》アイオルは、タルシュ人でさえなかったが、皇帝がこの世でもっとも信頼《しんらい》する親友《しんゆう》であり、皇帝が生きてきた道を、ともにきりひらいていった戦友《せんゆう》でもあった。
しずまりかえった広間《ひろま》に、皇帝がロをひらいた、かすかな音が、きこえた。
そして、呼吸《こきゅう》の音ににた声が、そのロからながれでた。
「……永遠《えいえん》の地……神《かみ》の、恩恵《おんけい》をうけた、北の大陸《たいれく》の……時のない、祝福《しゅくふく》の地に、命《いのち》あるままで、あゆみいる夢《ゆめ》は、やはり、かなわぬようだ。」
ありえぬ夢をみた自分を笑《わら》うような、その父の言葉《ことば》をきいた瞬間《しゅんかん》、皇帝の次男《じなん》ラウルの目にかなしみの色がうかんだ。わきにいる兄のバザールに目をむけると、兄も自分をみていた。
兄弟《きょうだい》は、たがいの目をみつめあった。
次期《じき》|皇帝《こうてい》の座《ざ》をめざして、熾烈《しれつ》な競《きそ》いあいをくりかえしている彼《かれ》らだったが、目があった一瞬《いっしゅん》、たがいがおなじ思いでいることを感じとった。
父の最後《さいご》の夢を、とうとうかなえることができなかったかなしみ − 父がほんとうに死《し》ぬのだというかなしみが、兄弟の胸《むね》を刺《さ》していた。
南の大陸を征服《せいふく》し、大国《たいこく》をきずきあげた皇帝《こうてい》が、笑いながら口にした(夢《ゆめ》)とは、アルェ・コウ(太陽神《たいようしん》のロ)や、ヨゴ枝国《しこく》の星読博士《ほしよみはかせ》たち、そして呪術師《じゅじゅつし》たちが、北の大陸にあらわれると告《つ》げた、聖《せい》なる地へいくことだった。
そこは、精霊《せいれい》たちに祝福《しゅくふく》された常春《とこはる》の地 − そして、常若《とこわか》の地。その地にはいることができれば、はいったときの姿《すがた》のままで、百年もの時を生きられるという。
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そのような聖地《せいち》がほんとうに北の大陸《たいりく》にあるのか、いまだに、その場所はみつかっていなかったが、北の大陸の住民《じゅうみん》たちが、ときおりロにする、(ナユグ)、あるいは(ノユーク)とよばれる異界《いかい》と、ふかくかかわっていると考えられていた。
しかし、もう数年ものあいだ、北の大陸にちっている、たくさんのターク(鷹《たか》)とよばれる密偵《みってい》たちからも、いまだ、そのような異界《いかい》の入り口をみつけたというしらせはなかったし、そんな陽炎《かげろう》のようなあいまいな夢《ゆめ》のために、皇帝《こうてい》は、北への遠征《えんせい》をゆるしたわけではない。
それでも、皇帝の心のなかには、もしできることであるなら、百年の時のはてを、おのれの目でみたいという願《ねが》いがあった。自分がきずきあげたタルシュ帝国《ていこく》が、百年ののちに、どのようなすがたになっているのか、それをみたいと熱望《ねつぼう》していた。 − 聖地《せいち》は、そんな、かなうはずのない願いを、かなえてくれるかもしれぬ、かすかな夢《ゆめ》だったのだ。
しかし、彼《かれ》の頑健《がんけん》な身体《からだ》も、とうとう病《やまい》と老齢《ろうれい》にかつことはできなかった。
しなびたくちびるをゆっくりと舌《した》でしめし、皇帝《こうてい》はいった。
「……百年生きられぬとなれば……百年をへても、千年をへても、この帝国が、国であると信《しん》じて逝《ゆ》ける、そのための決断《けつだん》を、せねばならぬ。
余《よ》の、最後《さいご》の決断だ。心して……きくがよい。」
広間《ひろま》にいる、すべての者《もの》が頭をたれた。
ラウル王子《おうじ》もハザール王子も、全身《ぜんしん》の皮膚《ひふ》がいたいほどに緊張《きんちょう》しているのを感じながら、息《いき》をつめて、父の言葉《ことば》をまった。
舌《した》がくちびるにふれる、小さな音がした。そして、吐息《といき》とともに、その言葉が吐きだされた。
「……ラウルとハザール、どちらが皇帝《こうてい》になるか、その決定《けってい》は……アイオルにゆだねる。」
ラウルとバザールは、はっと、顔をあげた。
広間《ひろま》にいる者《もの》すべてが、息をのみ、目をみひらいて、皇帝をみつめていた。
もっともふかいおどろきにうたれ、信《しん》じられぬものをみる目で皇帝をみつめたのは、太陽宰相《たいようさいしょう》アイオル自身《じしん》だった。
皇帝は、ゆっくりと目玉をうごかしてアイオルをみあげた。その口もとに、かすかに笑《え》みがうかんだ。
「おどろいたか。……そなたを、おどろかすことができたのは、これが、はじめてだな。」
のどぼとけをふるわせて、咳《せき》をするように、かすれた笑《わら》い声《ごえ》を吐《は》きだしながら、皇帝はいった。
「北への、侵攻《しんこう》も、いまだ途上《とじょう》。わが帝国《ていこく》の、いくべき道も、いまだ、みえぬ。
だが、数《すう》カ月のうちには、それも、みえてこよう。……余《よ》がみることのできぬ、その数カ月さきの、この帝国をみはるかし、そなたが、きめよ、アイオル。 − われらがきずいた帝国《ていこく》の、行《ゆ》くすえを、どちらの息子《むすこ》に、ゆだねるがよいかを。」
アイオルの目に涙《なみだ》がうきあがるのを、ラウルもハザールも声もなくみつめていた。
たそがれの光が、老《お》いた皇帝《こうてい》の顔をぼんやりとうかびあがらせている。その顔にきざまれている時を − ともにすごした長い年月を思いながら、太陽宰相《たいようさいしょう》は、しずかにうなずいた。
「太陽はしずんでも、ふたたび清列《せいれつ》な光をたたえてよみがえるもの。………この国を、新しき光で満《み》たす皇帝をえらぷことを、お約束《やくそく》いたします。」
その日、皇帝《こうてい》は、ふかい眠《ねむ》りにおちた。
死《し》ではないが、かぎりなく死にちかい眠りだった。
太陽宮殿《たいようきゅうでん》の南側《みなみがわ》にある、自分の居城《きょじょう》にもどったハザール王子《おうじ》は、くすんだ顔をして、夕食もとらずに自室《じしつ》にとじこもった。
ハザールの右腕《みぎうで》である(南翼宰相《なんよくさいしょう》)ハミルは、棚《たな》から杯《さかずき》とアラク酒《しゅ》の壷《つぼ》をおろし、ふたつの杯に酒《さけ》を満《み》たすと、ハザールの前に杯をおいた。
ハザールは、なにもみえていないような目で、ハミルをみあげた。
ハミルはタルシュ人ではなかった。黒い肌《はだ》と、よくうごく大きな目をもつカラル人である。枝国民《しこくみん》でありながら、王子の右腕にまでのぼりつめた男だった。
「なぜ、そのようにしずんでいらっしゃるのです。」
ハミルに問われて、ハザールは眉《まゆ》をひそめた。
「なぜ? なぜだと? おまえも、あの場にいたではないか。
父上がおきめになるならばともかく、アイオルが跡目《あとめ》をきめるとなれば、わたしが皇帝《こうてい》になれるはずがない。アイオルは、むかしから、ラウルをかわいがっていた。うまれながらの皇帝だと、あいつのことを……。」
弟がほめられるたびに感じた屈辱《くつじょく》と、身《み》のおき場のないかなしみを思いだして、ハザールは顔をゆがめた。
そんな王子をみつめて、ハミルは低い声でいった。
「殿下《でんか》、失礼《しつれい》ですが、それはお考えちがいとぞんじまする。」
眉《まゆ》をひそめたまま自分をみあげたハザールに、ハミルは、ほほえみかけた。
「アイオル殿《どの》がおきめになることで、わたくしは、ハザールさまが皇帝《こうてい》の座《ざ》につかれる確率《かくりつ》がたかまったと感じております。 − わたくしにみえているものが、ラウル王子やラウル王子の宰相《さいしょう》クールズにはみえておりませんから。」
バザールは、魅《み》せられたように、ハミルの黒《くろ》い顔をみつめた。
「ほんとうか。−−彼《かれ》らにみえていないものとは、なんだ?」
ハミルの笑《え》みがふかくなった。
「わたくしや、太陽宰相《たいようさいしょう》アイオル殿《どの》にはみえているもの。それは、生粋《きっすい》のタルシュ人であるラウル殿下《でんか》たちには、みることのできぬ、この国の底《そこ》にうごめく不満《ふまん》でございます。
いかがでしょう、殿下。わたくしが胸《むね》にひめておりました策《さく》を、実行《じっこう》にうつしてもよいでしょうか。」
ハザールは、目をかがやかせて身《み》をのりだした。
「どのような策だ……?」
皇帝《こうてい》が遺言《ゆいごん》をして十日後《とうかご》。
ラウル王子《おうじ》は、おのれの家臣《かしん》であったひとりの官僚《かんりょう》をとらえ、投獄《とうごく》する命令《めいれい》をくだした。
太陽宰相《たいようさいしょう》とおなじコーラナム枝国《しこく》|出身《しゅっしん》のこの中堅《ちゅうけん》の官僚《かんりょう》が、帝国《ていこく》を害《がい》する大きな陰謀《いんぼう》をくわだてていたというのが、罪状《ざいじょう》であった。
扉《とびら》がひらき、人がはいってきた気配《けはい》を感じても、しばらくラウル王子は書類《しょるい》から顔をあげなかった。
拝謁《はいえつ》をねがいでた男が、執務卓《しつむたく》の前にひざまずき、深く頭をさげたとき、ようやくラウル王子は顔をあげ、その男に声をかけた。
「立ってよいぞ、ヒュウゴ。」
ヒュウゴは立ちあがり、おのれの主《あるじ》である王子をみあげた。
ラウル王子は、ヒュウゴの顔をじろっとみて、かすかに笑《え》みをうかべた。
「あいかわらず、よく日にやけているな、おまえは。おまえほど南と北とをくりかえしわたっている鷹《たか》は、ほかにはおるまい。……いつもどった?」
「今朝《けさ》、帝都《ていと》に帰還《きかん》いたしました。」
「そうか。 − で、どうだった北は。おまえが発《た》ったころの遠征軍《えなせいぐん》のようすをきかせろ。」
ヒュウゴは、ラウル王子をみあげて、ロをひらいた。
「北の状況《じょうきょう》は、のちほどくわしくおつたえする所存《しょぞん》でございます。 − たいへん恐縮《きょうしゅく》でございますが、殿下《でんか》、わたくしは火急《かきゅう》の用があってまいりました。一刻《いっこく》をあらそうことでございますので、まず、その話をさせていただけますか。」
ラウル王子は眉《まゆ》をひそめた。
「なんだ。いってみろ。」
ヒュウゴは、きびしい表情をうかべて、話しはじめた。
「殿下《でんか》、クールズ宰相付《さいしょうつ》き行政長官《ぎょうせいちょうかん》、オイラムをとらえたというのは、ほんとうでしょうか。」
ラウル王子《おうじ》は顎《あご》をつまんだ。
「そのことか。ほんとうだ。クールズがあぶりだしたのだ。おまえも報告《ほうこく》していた、枝国《しこく》出身《しゅっしん》の官僚連中《かんりょうれんちゅう》の不穏《ふおん》な動きの首謀者《しゅぼうしゃ》がやつだとな。 − それが、どうした。」
ヒュウゴは顔をこわばらせて、首をふった。
「殿下《でんか》、クールズ宰相《さいしょう》は、はやまったことをなさった。
オイラムは陰謀《いんぼう》の首謀者《しゅぼうしゃ》ではありません。彼《かれ》は、いわばおさえ役《やく》の要石《かなめいし》。彼がいることで、組織《そしき》は暴挙《ぼうきょ》にでることなく、おさまりをつけていたのです。彼が投獄《とうごく》されてしまったら、過激《かげき》な動きをのぞむ者《もの》たちを、おさえられる者がいなくなり、いっきに……。」
ふいに、剣《けん》の鞘《さや》が床《ゆか》をはげしく打つ、高い音がひびいた。
ラウル王子は立ちあがり、ぎらぎらとひかる目でヒュウゴをみすえた。
「組織《そしき》だと? なんの組織だ、ヒュウゴ! きさまは組織のことなど、これまでひと言《こと》もおれに報告《ほうこく》しておらぬぞ。」
「組織ともうしたのは、それが、もっともわかりやすい表現《ひょうげん》だからです。いまだ、名もなく、実体《じったい》もできあがっていない、人と人とのつながりが……。」
「たわけ!」
ラウル王子はどなった。
「それが、たとえ萌芽《ほうが》であったとしても、組織《そしき》ができつつあったのなら、報告《ほうこく》するのがターク(鷹《たか》)であるおまえの義務《ぎむ》だ。もっと早く知っていたら、芽《め》がでるまえに、摘《つ》めたものを!」
「……それゆえ、ご報告しなかったのです。」
ヒュウゴの答えに、ラウル王子は目をむいた。
「なんだと?」
ヒュウゴは、低いが、はっきりした声でこたえた。
「かたちがなく、そのすがたがどんなかたちをとるのかわからぬ不満《ふまん》は脅威《きょうい》ですが、かたちがあらわれはじめれば、むかう方向《ほうこう》がみえるようになるものです。 − この帝国《ていこく》がかかえる欠陥《けっかん》を、わたしは、はっきりとみさだめたかった。それが、この国の行《ゆ》くすえをあやまたずにみすえる方法だと思ったからです。」
ラウル王子は、しばし、無言《むごん》で、目の前に立つ不敵《ふてき》な面構《つらがま》えをした男をみすえていた。
彼《かれ》がほろぼした国にうまれたくせに、みずから志願《しがん》して、彼の家臣《かしん》になった男。まだ若《わか》いが、たぶん、家臣《かしん》のだれよりも頭がきれ、肝《きも》も太い − しかし、なにを考えているのか、底《そこ》の読めぬ男。
自分が気づかなかったなにかを、この男は、気づいていたのかもしれぬ……そう思った瞬間《しゅんかん》、こみあげてきた不快感《ふかいかん》と怒《いか》りは、すさまじいものだった。
ラウル王子《おうじ》は、怒りにかすれた声でいった。
「アラユタン・ヒュウゴ。おまえは、もっともたいせつなことを、おろそかにしたな。
家臣《かしん》のつとめは、自分がみたものを、すべて主君《しゅくん》につたえることだ。 − おまえにあたえたア・タル(光への道)をとりあげ、職務怠慢《しょくむたいまん》の罪《つみ》で、おまえを投獄《とうごく》する。枝国《しこく》の不満分子《ふまんぶんし》どもの名や、組織《そしき》とやらについても、あらいざらいはかせてやる。……衛兵《えいへい》!」
かけよってきた衛兵たちに腕《うで》を両側《りょうがわ》からつかまれたヒュウゴは、ラウル王子をみつめ、しずかな声でいった。
「……あなたの領土《りょうど》の土台《どだい》に異変《いへん》の兆《きざ》しがみえたとき、思いだしてください。わたしの言葉《ことば》を。 − わたしは、その異変をとめてみせます。」
ラウルは鼻《はな》で笑《わら》った。
「おれの心配《しんぱい》をする暇《ひま》があったら、おのれの心配をするがいい。不満分子《ふまんぶんし》の名前をはけば、そくざに牢《ろう》からだしてやる。だが、すなおにはかないときは、せめころしてやる!」
白熱《はくねつ》した怒《いか》りにとらわれながら、ラウル王子は、ひきたてられていくヒュウゴのうしろ姿《すがた》を、にらみつけていた。
かすかな物音《ものおと》と、風の動きを感じて、ヒュウゴは目をあげた。
しめった石壁《いしかべ》にかこまれた、うすぐらい牢款《ろうごく》の鉄格子《てつごうし》のむこう側《がわ》に、みなれた人影《ひとかげ》がみえた。小柄《こがら》な中年の男。 − 呪術師《じゅじゅつし》のソドクだった。
格子《こうし》に顔をつけてのぞきこんでいるソドクに、ヒュウゴはいった。
「……なにしにきた。」
「ご挨拶《あいさつ》だな。たすけにきてやったのに。」
呪術《じゅじゅつ》をつかって看守《かんしゅ》をねむらせたのだろう。余裕《よゆう》のある表情《ひょうじょう》をよそおっているが、声は、かすれていた。 − ここでヒュウゴをたすければ、ソドクも、大罪《たいざい》をおかすことになる。
ヒュウゴは、じっとソドクをみつめた。十七のころから自分のかたわらにいた、口うるさい叔父《おじ》のような男。彼《かれ》が自分になにをみて、ここまでの道のりをつきあってくれたのか、ヒュウゴは、ときどきふしぎに思うことがある。
かすかにくちびるのはしをゆがめて、ヒュウゴは首をふった。
「おれは、逃げる気はない。 − あんたの心づかいには感謝《かんしゃ》するが、このままかえってくれ。」
ソドクは目をむいた。
「なにをばかな! おまえ、拷問《ごうもん》にかけられるんだぞ!」
「そうだろうな。………だが、いま、ここをでるわけにはいかないんだ。」
つぶやいて、ヒュウゴは、底光《そこびか》りする目でソドクをみつめた。
「これから、枝国《しこく》の不満《ふまん》がこの国をゆらしはじめる。おれには、それがどんなふうにすすんでいくかが、みえている。不満がふきだしたとき、おれは、ここに − 牢《ろう》のなかにいなければならない。」
ソドクが、かすかに口をあけた。ヒュウゴがなにを考えているのか、ふいに、わかったのだ。
「おまえ、かげで連中《れんちゅう》を指揮《しき》しているとうたがわれないために、わざと……。」
ヒュウゴはにやっと笑《わら》ってロに手を入れると、偽装歯《ぎそうし》をぬいて、なかから小さな丸薬《がんやく》をとりだしてみせた。
ソドクは、顔をゆがめた。
「ウラス(魂消《たましいけ》し)‥‥。」
つぶやいて、彼《かれ》は首をふった。
「おまえ、正気《しょうき》か? そいつを飲んだらどうなるか、わかっているんだろうな。」
ヒュウゴは肩《かた》をすくめ、薬《くすり》を偽装歯《ぎそうし》にもどした。
「おれは、けっして連中《れんちゅう》の名をはかない。 − ここで死《し》ぬなら、おれの運《うん》もそこまでってことだ。」
笑《え》みを消《け》し、ヒュウゴは低い声でいった。
「彼《かれ》らの気もちはよくわかる。だが、おれは、あえて、この国の内側《うちがわ》にとどまる。……生きのこれたらの話だがな。」
北から帝都《ていと》へもどってくるあいだに、ヒュウゴは、三つの鷹便《たかびん》をうけとっていた。
ひとつは、次代皇帝《じだいこうてい》の決定権《けっていけん》が太陽宰相《たいようさいしょう》アイオルの手にゆだねられたというしらせ。もうひとつは、ハザール王子側《おうじがわ》の密偵《みってい》として潜入《せんにゅう》させている部下《ぶか》がしらせてきた(南翼宰相《なんよくさいしょう》)ハミルの策略《さくりゃく》の内容《ないよう》。
そして、最後《さいご》は、ヒュウゴが北の大陸《たいりく》にまいてきた種《たね》 − チャグム皇子《おうじ》にわたしてくれと、バルサという女用心棒《おんなようじんぼう》に託《たく》した種が芽《め》ばえたというしらせだった。
この三つを手にしたとき、ヒュウゴは、賭《か》けにでる覚悟《かくご》をきめた。
この帝国《ていこく》の底《そこ》にうごめく不満《ふまん》の胎動《たいどう》を、(南翼宰相《なんよくさいしょう》) ハミルがあおっている。あおられておきる波は、まだ小さいものだろうが、太陽宰相《たいようさいしょう》アイオルの判断《はんだん》には、大きく影響《えいきょう》するだろう。
足もとがゆれはじめ、北の大陸への軍事侵攻《ぐんじしんこう》も思いどおりにすすまなくなったとき、ラウル王子《おうじ》は、うまれてはじあて大きな岐路《きろ》に立つ。 − そのとき、これまでのぞみつづけてきた方向《ほうこう》へ、この帝国《ていこく》の舵《かじ》をきれる好機《こうき》がおとずれる……。
これまで十年、さまざまな動きをみつめ、さまざまな種《たね》をまいてきた。やってきたことの真価《しんか》が、ようやく問われるときがきたのだ。
「ソドク、せっかく、ここにきてくれたからいうのだが……。」
ソドクは、最後《さいご》まできかずに、さえぎった。
「わかっている。まかせておけ。」
そういって、ソドクはヒュウゴをみつめ、かすれた声でいった。
「おまえは、むかしからクソガキだった。つきあっていると命《いのち》がちぢむぜ。……おまえの魂《たましい》、おれがひろってやる。ここまできたら、おまえがしかけた大勝負《おおしょうぶ》の結末《けつまつ》、みとどけたいからな。」
ヒュウゴはほほえみ、無言《むごん》で頭をさげた。
去《さ》っていくソドクの足音をききながら、ヒュウゴはじっと闇《やみ》をみつめていた。
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1  春の谷間《たにま》
青霧山脈《あおぎりさんみゃく》にいだかれた山深い里《さと》に、かすかに春の気配《けはい》がただよいはじめていた。
雪どけのころ、まっさきに花を咲《さ》かせるコサの若木《わかぎ》の枝《えだ》に、もうびっしりと桃色《ももいろ》の小さな花が咲き、あまいかおりがただよっている。小鳥たちが、かしましいほどにさえずりかわしている森の道を、はやる気もちをおさえながら、バルサは馬でくだっていた。
やがて、木々の間に、小さな家の屋根《やね》がみえてきた。板葺《いたぶ》きの屋根が風にとばされぬようおかれている石の間から、雑草《ざっそう》がはえ、花が咲いている。
馬がやっととおれる細い山道をぬけて、その家の前庭《まえにわ》で馬からおりるまえに、バルサは、家のなかに人の気配《けはい》がないことを感じていた。
家のまわりの雑草《ざっそう》が、きれいにぬかれているのをみて、バルサは顔をくもらせた。
この家の主《あるじ》は雑草が好《す》きで、いつものび放題《ほうだい》にしている。こんなふうに雑草をぬいてしまうことはない。
「……タンダ。」
いないとわかっていても、声をかけながら、バルサは戸をあけた。
がらんと人《ひと》けのない家の土間《どま》も板《いた》の間も、きれいにそうじされていたが、そのしんかんとしたしずけさは、もう長いこと、人がここに住《す》んでいないことを感じさせた。
肌寒《はだざむ》い不安《ふあん》がはいあがってきた。
バルサは戸をしめて、春の陽射《ひざ》しにやわらかくてらされた庭《にわ》にもどり、しばし、ぼんやりと考えこんだ。馬が、うれしそうに、やわらかい草をはんでいる。白い歯が草をかみちぎる音が、ぶちっ、ぶちっときこえてくる。
バルサは馬のほうへいき、木にむすんだ手綱《たづな》をほどいて、また、その背《せ》にまたがった。村《むら》までおりてみるつもりだった。村にはタンダの家族《かぞく》が住んでいる。彼《かれ》らなら、タンダがどこにいったのか、教えてくれるだろう。
山道をくだり、青弓川《あおゆみがわ》の支流《しりゅう》がつくりだした谷間《たにま》がみえるところまできたとき、バルサはおもわず馬をとめた。
渓流《けいりゅう》の斜面《しゃめん》に岩と土嚢《どのう》がつみあげられ、しっかりと土留《どど》めがしてある。田へ水をひきこむ水路《すいろ》のわきに、まあたらしい太い溝《みぞ》がほられ、川の水かさが増《ま》しても、濁流《だくりゅう》が里《さと》のほうではなく、下の森と草原《そうげん》のほうへながれるような工夫《くふう》がされていた。
(……もう、気づいていたのか。)
バルサは、すこし心が明るくなるのを感じた。タンダか、トロガイか、だれかが青弓川《あおゆみがわ》の氾濫《はんらん》を予見《よけん》したのだ。そうでなければ、こんなふうに治水《ちすい》の工夫《くふう》がされているはずがない。
はるか北のカンバル王国《おうこく》で、牧童《ぼくどう》たちが告《つ》げた災厄《さいやく》 − ナユグに春がおとずれたことで、大地があたたまり、いつもならとけることのない、ユサ山脈《さんみゃく》や青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の万年雪《まんねんゆき》がとけて、雪崩《なだれ》や大洪水《だいこうずい》がおきるという話をつたえるために、バルサは、封鎖《ふうさ》されている国境《こっきょう》をさけて山を越《こ》え、ようやくここまでくだってきたのだ。
一刻《いっこく》もはやく、この話をタンダやトロガイにつたえて、川沿《かわぞ》いの村人《むらびと》たちや、なにより、青弓川の扇状地《せんじょうち》にひろがる都《みやこ》 − 光扇京《こうせんきょう》の人びとを避難《ひなん》させる方法を考えねばならないと、それだけを思いながら、山を越《こ》えてきた。
いま、目の前にひろがっている光景《こうけい》をみて、そのあせりが、すこしやわらいだ。 タンダは、青弓川《あおゆみがわ》にそってひろがる村々に、こういう工夫《くふう》をひろめるために、でかけているのかもしれない。
雪《ゆき》が消《き》えのこっている北側《きたがわ》の山道をぬけて、ふたりの老人《ろうじん》が、いそがしそうに畑《はたけ》に雪をすきこんでいるわきにくると、バルサは馬からおりて、彼《かれ》らのそばにちかづいていった。
汗《あせ》まみれの顔をあげて、バルサに気づくと、老人たちの顔に、はっとした色がうかんだ。
彼《かれ》らの表情《ひょうじよう》をみて、バルサは、さっき空《あ》き家《や》をみたときに感じた不安《ふあん》が、また、肌《はだ》をはいあがってくるのを感じた。
おさないころから顔なじみの老夫婦《ろうふうふ》が、うろたえた顔で、ものもいえずに自分をみている。
「サコさん、ヒワさん、おひさしぶり。ごせいがでますね。」
つとめて明るい声をかけたが、老人たちの顔はこわばったままだった。彼らは、ちょっと頭をさげるようにして、つぶやくように挨拶《あいさつ》をかえした。
「いいお日和《ひより》で……。」
他人行儀《たにんぎょうぎ》な挨拶をかえされて、バルサは言葉《ことば》をうしなった。子どものころ、タンダとふたりで、彼らの畑仕事《はたけしごと》をてつだうと、トッコ(甘《あま》い芋《いも》でつくった団子《だんご》)をごちそうしてくれた、やさしいじいさん、ばあさんが、こまったような目で自分をみあげている。
「……どうしたの?」
たずねると、彼《かれ》らは手ぬぐいで首をぬぐいながら、おたがいをみていた。
バルサは、やわらかい口調《くちょう》でつづけた。
「いま、タンダの家にいってきたところなんだけど、長いこと、るすにしている感じだったので、どこへいったかなと思って。知ってますか? あいつが、どこへいったのか。」
ふたりの顔が、かなしげにゆがんだ。 − 鼓動《こどう》がはやくなるのを感じながら、バルサは、ふたりの答えをまった。
バルサの問いにこたえたのは、目の前にいる老人《ろうじん》たちではなかった。背後《はいご》の山から、だれかがおりてくる物音《ものおと》がきこえてきたかと思うと、薮《やぶ》をかきわけて、猿《さる》のように小柄《こがら》な人影《ひとかげ》が、山道にすべりおりてきたのだ。
ふりかえって、バルサは目をまるくした。
「トロガイ師《し》……。」
まっ黒《くろ》な、しわだらけの老婆《ろうば》は、汗《あせ》をびっしょりかいて、あえいでいる。
「おまえ……、ようやく、かえってきおったな。」
汗をぬぐいながら、老婆は、怒《おこ》ったようにいった。
「ちょうど、近くにおって、よかった。家にしかけておいた(呪糸《じゅし》)が鳴《な》ったから、いそいでおりてきたんだが、馬にのってたのかい。どうりで追いつけなんだわけだ。やれやれ、まにあわんかと思った。」
バルサは顔をしかめた。
「まにあわないって、なにがです?」
トロガイは、ぼうぜんと立ちつくしている老人《ろうじん》たちのほうを顎《あご》でしめした。
「おまえが村に顔をだしたら、みんな、こまるからさ………。」
とちゅうで言葉《ことば》をきって、トロガイはバルサの手をつかんだ。その目に、思いがけぬ表情《ひょうじょう》をみて、バルサはどきっとした。 −  トロガイは、自分を気づかって、いそいで追いかけてきたのだ。
トロガイは、老人《ろうじん》たちにちょっと手をふると、バルサをひっぱって、タンダの家のほうへひきかえしはじめた。
老人たちからみえないあたりまでくると、トロガイは足をとめて、バルサをみあげた。
「おまえさん、いままで、どこへいっとった。」
バルサは、じっとトロガイをみおろした。
「ロタと、カンバルをまわってきました。……チャグムといっしょに。」
トロガイの眉《まゆ》がはねあがり、目に明るい光がうかんだ。
「そうかい! 坊主《ぼうず》は元気《げんき》かね。」
バルサはうなずいた。
「……もう、わたしより背《せ》が高くなって、りっぱな若者《わかもの》になっていましたよ。」
ゆっくりと山道をタンダの家のほうへもどりながら、バルサとトロガイは、わざと遠《とう》まわりするように、ひとつの話題《わだい》をさけながら、たがいのことを話しはじめた。
ユサ山脈《さんみゃく》の山の底《そこ》で、チャグムがみた光景《こうけい》のこと、牧童《ぼくどう》たちが告《つ》げた災厄《さいやく》のことをバルサが話すと、トロガイは、深くうなずいた。
「カンバルにも、気づいた者《もの》がいたかい。……去年《きょねん》の夏に、わしらも気づいて、すこしずつだが、そなえをしてきた。」
「みましたよ、土留《どど》めや、溝《みぞ》がほってありましたね。」
「そう。村人《むらびと》たち総出《そうで》で、なんとか、あそこまでは、やった。」
トロガイはため息《いき》をついた。
「呪術師《じゅじゅつ》たちが、みんなでね、青弓川《あおゆみがわ》|沿《ぞ》いの村々を説得《せっとく》してまわった。」
「……よかった。」
バルサはつぶやいてから、ふと、気になったことをたずねた。
「でも、いざ青弓川が氾濫《はんらん》したら、あの溝《みぞ》や土留《どど》めだけで、だいじょうぶですか。」
「わからん。……出水《しゅっすい》がはじまったら、呪術師《じゅじゅつし》|仲間《なかま》|全員《ぜんいん》でショ・ヤイ(光の鳥)を飛ばして、あぶない場所にいる村人《むらびと》たちに、しらせてまわるさ。」
「ショ・ヤイ(光の鳥)?」
「呪術で飛ばす鳥さ。ひかってみえる。」
呪術を知らぬ者《もの》に説明《せつめい》するのがめんどうくさいのだろう。トロガイはそれだけこたえて、話をかえた。
「わしが気にしとるのは、村のことじゃない。いちばんあぶない光扇京《こうせんきょう》の者《もの》は、村人のようにはうごかん。……土留《どと》めをしたり、溝《みぞ》をほるような作業《さぎょう》では、すまんからな。もし、その牧童《ぼくどう》とやらがいったように、これまでにないほどの大洪水《だいこうずい》がおきるとしたら、都《みやこ》はつぶれる。都人たちが生きのびるためには、家をすてて、どこかへ逃《に》げるしかないからのう。」
けわしい表情《ひょうじょう》でそういって、トロガイは首をふった。
「星読《ほしよ》みのシュガにな、ありがたい星読みのお告《つ》げとして、このことを帝《みかど》につたえてもらって、帝をうごかしてもらわねば、どうにもならん。 − だが、いまは、それもむずかしい。 シュガは、とんと、なんでも屋《ゆ》におりてこなくなっちまった。……きっと、つらい立場《たちば》になっているんだろうよ。宮でさ。」
バルサは暗い顔でうなずいた。シュガが、困難《こんなん》な状況《じょうきょう》におかれてしまっているだろうと、チャグムがしきりに心配《しんばい》していたから、宮でおきていることは、おおよそ想像《そうぞう》がつく。
声をひくめて、バルサはつぶやいた。
「チャグムが、ロタやカンバルからの援軍《えんぐん》をつれてもどれば、状況《じようきょう》がかわるでしょう。」
トロガイは顔をしかめた。シュガからきいた、チャグムと帝《みかど》との確執《かくしつ》を思いだしたのだ。
「……だといいがな。ともかく、なんとかシュガにはつたえるから、この話はわしにまかせておきな。」
バルサはうなずいた。
トロガイは、しばらくだまって歩いていたが、やがて、ぽつんといった。
「……チャグム坊《ぼう》も、かわいそうな子だな。」
帝《みかど》は、息子《むすこ》であるチャグムを、自分の威信《いしん》をおびやかす者《もの》として暗殺《あんさつ》を命《めい》じるほどにきらっていた。チャグムが、みずから海に飛びこんで、自殺《じさつ》をよそおいながら逃亡《とうぼう》したことを、帝は、まだ知らない。息子は死《し》んだものと思いこんで、盛大《せいだい》な葬儀《そうぎ》まですませてしまっている。
敵《てき》の大軍《たいぐん》の脅威《きょうい》に国全体がおびえているこの状況《じょうきょう》のなかで、ロタやカンバルからの援軍《えんぐん》をつれて、チャグムがはなばなしく帰還《きかん》したら、帝は驚愕《きょうがく》するだろう。……息子が生きていたことを − 強力な援軍をつれてかえったことを、よろこぶはずもない。
チャグム自身《じしん》、それはよくわかっている。 − 父と、帝位《ていい》をかけた争《あらそ》いをせねばならぬとわかっていても、チャグムはかえってくる。
それぞれの思いにしずみながら、ふたりは、タンダの家の前庭《まえにわ》にもどってきた。バルサはさっきとおなじ木に馬をつないでから、トロガイをふりかえった。そして、かすれた声できいた。
「……タンダは、どこにいるんです?」
トロガイは、まばたきして、つぶやいた。
「あいつは、タラノ平野《へいや》にいる。」
あまりにも意外な答えに、バルサはびっくりして、ききかえした。
「タラノ平野? なんだって、そんなところに……。」
いいながら、タラノ平野の位置《いち》を思いだして、バルサは言葉《ことば》をとぎれさせた。
タラノ平野は新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の南部にひろがる大きな平野 − サンガル王国《おうこく》と国境《こっきょう》を接《せっ》している場所だった。
紙のように白くなったバルサの顔をみながら、トロガイが、いった。
「そうだよ。あいつは草兵《そうへい》(民《たみ》から召集《しょうしゅう》される兵士《へいし》)にされて、国境へおくられた。皇国軍《おうこくぐん》がやってきて、各村《かくむら》から十人の草兵をだすよう命《めい》じたんだ。
この村ではくじ引《び》きをした。もともとはカイザがひいちまった当たりくじを……あのお人《ひと》よしが、かわりにひきうけたんだよ。」
物音《ものおと》も風景《ふうけい》も、ゆっくりととおのいていく。はげしい耳鳴《みみな》りがした。
末《すえ》っ子《こ》の弟のかわりに、タンダは戦場《せんじょう》へいったのか。
耳の奥《おく》に、タルシュの密偵《みってい》、ヒュウゴの言葉がよみがえってきた。
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− 緒戦《しょせん》のために配備《はいび》された部隊《ぶたい》は、通称《つうしょう》グロム(牙《きば》)とよばれるラウル王子旗下《おうじきか》の精鋭部隊《せいえいぶたい》だ。オルム王国《おうこく》やヨゴ皇国《おうこく》に攻《せ》めこんだときも緒戦《しょせん》をになった、戦《いくさ》なれした名将《めいしょう》がひきいている。
戦をしたことのない新ヨゴ皇国の兵士《へいし》たちは、惨殺《ざんさつ》されるだろう。緒戦は、戦場《せんじょう》というより、草刈場《くさかりば》のようなありさまになる。……そのむごさを、帝《みかど》にみせつけるための戦だからな。
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冷《つめ》たい手で、バルサは、ぼんやりと、自分の口もとをおおった。
(新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》へおくられた最後通牒《さいごつうちょう》の返答期限《へんとうきげん》は、トウル(雪《ゆき》どけノ月)の十二日……。)
あと、五日《いつか》だった。
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2  兵《へい》たちの夜明《よあ》け
朝靄《あさもや》が、あるかなしかの風に、ゆっくりとながれていく。
夜明けの青みがうすれ、やがて、日の光がさあっと靄をはらって、タラノ平野《へいや》をてらしだした。
タンダは手をかざして朝日をさえぎり、仲間《なかま》たちの身体《からだ》や、最前列《さいぜんれつ》にならぶ弓兵《ゆみへい》たちをまもる盾《たて》の間からみえる光景《こうけい》に、目をこらした。
この季節《きせつ》、アマタ山脈《さんゃく》のほうからのぼってくる朝日の、まぶしい白い光を背《せ》にして、まっ黒《くろ》な帯《おび》のようなものがみえる。
はじめは、ぼんやりとした黒いかたまりにしかみえなかったその帯が、朝日をあびて、はっきりと姿《すがた》をあらわしはじめたとき、胃のあたりからのどへ、しびれるような恐怖《きょうふ》がつきあげてきた。
それは、びっしりと林立《りんりつ》する長槍《ちょうそう》の群《む》れだった。右をみても、左をみても、とぎれるさきがみえないほどの大軍《たいぐん》がひろがっている。
天をついて、かすかにゆれている槍《やり》の穂先《ほさき》が、チカ、チカと光をはじき、長い旗《はた》が吹《ふ》き流《なが》しのように風にはためいている。
その槍をもっている兵士《へいし》の姿《すがた》はみえない。なにかにおおわれているのか、ここからでは、槍の穂先は、どこまでも横につらなる壁《かべ》のようなものからはえているようにみえた。
手にもたされている長槍《ちょうそう》の柄《え》が汗《あせ》ですべる。タルシュの兵士たちには、自分たちも、あんなふうにみえているのだろうか。
合図《あいず》が鳴ったら、この長槍《ちょうそう》の石突《いしづ》きを足で踏《ふ》んで大地に固定《こてい》し、穂先《ほさき》を、敵《てき》の身体《からだ》を刺《さ》せる位置《いち》にさげてかまえろといわれている。 − なにも考えるな、ただ、槍をかまえ、しっかりとささえているだけでよい。そうすれば突撃《とつげき》してきた敵は串刺《くしざ》しになると、兵長《へいちょう》はいった。
だが、相手《あいて》も、あの槍をかまえて突進《とっしん》してくるのだ。激突《げきとつ》すればどうなるか、考えるまでもない。自分が手にもっているこの槍の穂先に人の身体が刺《さ》さり、自分の身体に、相手の槍の穂先が刺さるのだ。
その瞬間《しゅんかん》を想像《そうぞう》したとたん、腹《はら》の皮《かわ》がきゅっとひきつった。
タンダはななめ前にいる、かぼそい少年をみつめた。槍《やり》をにぎっているコチャの手は、血《ち》の気がまったくなかった。
合図《あいず》の笛《ふえ》よ、鳴らないでくれ。
そう思ういっぽうで、早く鳴ってほしいような気もした。どうせ死《し》ぬのなら、こんな恐怖《きょうふ》を長ながとあじわっていたくない。さっさとおわってほしい。
いま、自分は、ほんとうに、ここにいるのだろうか。あとすこしで、ほんとうに人を殺《ころ》し、殺されるのだろうか。ぼんやりと目の前がかすみ、足もとに地面《じめん》を感じられない。
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− 故郷の家族《かぞく》を思え。
武器《ぶき》を手わたされ、緊張《きんちょう》した顔で整列《せいれつ》した草兵《そうへい》たちに、兵長《へいちょう》は、そういった。
− おまえたちが、ひとり敵《てき》を殺《ころ》したら、それだけ、家族がたすかるのだ。
敵をひとり殺しそこなったら、そいつの剣《けん》がおまえたちの妻《つま》を娘《むすめ》を、母を斬《き》りさくのだ。おまえたちの槍《やり》が、おまえたちの身体《からだ》が、この国と家族をまもる盾《たて》となる。…
こわくてたまらぬときは、心のなかでとなえよ。おのれの勇気《ゆうき》で国と家族《かぞく》をすくってみせるぞと。
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とつぜん、遠雷《えんらい》のような音がわきおこり、タンダは、びくっとした。
ドロドロドロと低く太い音が大気《たいき》をふるわせ、胸《むね》を圧迫《あっぱく》する。 − タルシュ軍《ぐん》が、軍鼓《ぐんこ》をうちならしはじめたのだ。
味方《みかた》の弓兵《ゆみへい》に矢《や》をつがえよと告《つ》げる笛《ふえ》が鳴りひびいたとき、タンダの心にうかんだのは、近くに住みながら、ほとんどあうこともなかった母や父、兄弟たちの顔ではなかった。
新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》の指揮官《しきかん》たちは、タラノ平野《へいや》をみはらすことのできる小高い丘《おか》の中腹《ちゅうふく》に、陣《じん》どっていた。
まぶしい日の光を、手をかざしてさえぎりながら、布陣《ふじん》しおえた両軍《りょうぐん》をみおろしている男の目には、つよい緊張《きんちょう》の色がうかんでいる。
緒戦《しょせん》の総指揮《そうしき》をまかされた彼《かれ》、トッカサム将軍《しょうぐん》は、大将軍ラドゥの親戚筋《しんせきすじ》ではなかった。
チャグム皇太子《こうたいし》の母方の遠い親族《しんぞく》で、皇太子がまだ宮中《きゅうちゅう》に健在《けんざい》であったころは、チャグム皇太子|寄《よ》りの動きをしてきた男だ。
そのために、現皇太子《げんこうたいし》の祖父《そふ》であるラドゥ大将《たいしょう》からにらまれ、緒戦を指揮するという、一見《いっけん》はなやかでありながら、むずかしい立場《たちば》につけられてしまったのだった。
「……ふしぎな陣形《じんけい》ですね。」
横《よこ》で、副官《ふくかん》がつぶやいた。
トッカサムは、低くうなった。
新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》とむかいあっているタルシュ帝国軍《ていこくぐん》の大軍は、彼《かれ》がまなんできた戦術書《せんじゅつしょ》には書かれていない、ふしぎなかたちに、軍を配備《はいび》していたのだ。
正面《しょうめん》、最前列《さいぜんれつ》に弓兵《ゆみへい》がならんでいるのは、こちらとおなじだったが、その背後《はいご》にいる歩兵《ほへい》たちは、長い列《れつ》をつくって長方形にかたまりをつくっている新ヨゴ皇国軍とちがって、ずっと小規模《しょうきぼ》な正方形をつくって整列《せいれつ》している。まるで、真四角《ましかく》の箱を、いくつも等間隔《とうかんかく》にならべたようなかたちだった。
騎馬兵《きばへい》は、意外にすくない。こちら側《がわ》からみて左翼《さよく》に、二千騎ほどがならび、なぜか、右翼側《うよくがわ》 − トウハタ山脈側《さんみゃくがわ》には騎馬兵がいない。
かわりに、右翼には、不気味《ぶきみ》な黒い塔《とう》のようなものがならんでいる。
夜のうちにはこばれてきたのだろう。松明《たいまつ》がさかんに移動《いどう》しているのはみえたが、まさか、あんな巨大《きょだい》なものをはこんできていたとは、思ってもいなかったから、夜があけて、その塔の群《む》れが姿《すがた》をあらわしたときは、指揮官《しきかん》たちは息《いき》をのんだ。
「あの塔のようなものは、戦術書《せんじゅつしょ》にかかれていた攻城機《こうじょうき》ににていますが……。」
副官《ふくかん》の言葉《ことば》に、トッカサムはうなずいた。
「そのようだな。平地戦《へいちせん》でつかうとすれば、石の玉でも飛ばして陣形《じんけい》をみだすつもりだろう。」
いいながら、トッカサムは、しきりにこみあげてくるふるえを、おさえようとしていた。あのような武器《ぶき》を、こちらはもっていない。砦《とりで》をつくってまもる側《がわ》なのだから、攻城機《こうじょうき》のような城《しろ》を攻《せ》めるための道具など、つくる必要《ひつよう》も感じていなかった。
だが、もうすこしやわらかい発想力《はっそうりょく》があれば、ああいう道具を、こうして平地戦《へいちせん》でもつかえたのだ。
(そんなことは、いま、考えてもしかたがない。)
トッカサムは後悔《こうかい》をおしころした。
(いま、すべきことは、心をみだされず、当初《とうしょ》の作戦《さくせん》を成功《せいこう》させることだ。)
敵《てき》は、兵力《へいりょく》を温存《おんぞん》するつもりなのだろう。斥候《せっこう》がしらべだしてきたほど、あそこにならんでいる敵兵の数は多くない。こうしてみると、味方《みかた》の軍勢《ぐんぜい》と、ほぼ同数《どうすう》ぐらいだった。
そのうえ、こちらは、ここ − きれいに両軍《りょうぐん》の陣形《じんけい》がみわたせる高い場所に、指揮官《しきかん》が陣どっているが、タルシュ軍側《ぐんがわ》には、ちょうどよく両軍がみわたせるような丘《おか》はない。トウハタ山脈《さんみゃく》の中腹《ちゅうふく》にのぼれば、みわたせるだろうが、あそこからでは遠すぎて、よくみえないだろうし、手旗《てばた》をつかったとしても、合図《あいず》が平地に布陣《ふじん》している軍勢にとどくまで、ずいぶん時間がかかるだろう。
上からみる目を彼《かれ》らがもっていないとすれば、トッカサムがつくりあげた布陣は、彼《かれ》らを罠《わな》におとせるはずだ。
弓兵団《ゆみへいだん》のうしろには、長槍《ちょうそう》をもたせた草兵《そうへい》をならばせている。そして、その背後《はいご》には、軍勢《ぐんぜい》の幅《はば》とおなじ長さの、逆杭《さかさぐい》をうめこんだ堀《ほり》がつくってある。
正面《しょうめん》の敵兵《てきへい》が突進《とっしん》してきて、いきおいよく草兵団《そうへいだん》をやぶっていけば、敵兵は草兵の背後《はいご》にかくれている、逆杭をうめこんだ堀におちるはずだ。
新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》をつつみこむように、左翼《さよく》から突進《とっしん》してくるだろう騎馬兵団《きばへいだん》も、この堀に足をとられ、そのさきに馬ですすむことはできまい。
敵兵が、こちらの陣営《じんえい》深くくいこんで、そこで混乱《こんらん》におちいれば、新ヨゴ皇国の正規兵《せいきへい》たちが、両側《りょうがわ》からつつみこむようにして、彼《かれ》らをおそう。
草兵たちは、敵兵を一点に集中させるオトリのようなものだった。
そこに敵兵《てきへい》が殺到《さっとう》すれば、新ヨゴ皇国軍は、彼らをとりかこみ、袋《ふくろ》の口をとじるようにして、つつみこめる。
たとえ、あの攻城機《こうじょうき》のようなもので右翼《うよく》の陣形《じんけい》がみだされたとしても、こちらの主力《しゅりょく》は、左翼《さよく》の騎馬兵団《きばへいだん》だ。片側《かたがわ》からでも、じゅうぶんつつみこんで、はさみうちにできるだろう。
トッカサムは、いつのまにか、手のふるえがおさまっているのに気づいた。
(だいじょうぶだ。……わが軍は、かならず勝てる。)
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3  緒戦《しょせん》
タルシュ軍《ぐん》の司令官《しれいかん》は、トッカサムが遠すぎると考えていた、トウハタ山脈《さんみゃく》の中腹《ちゅうふく》に陣《じん》をはっていた。
もちはこびしやすい組み立て式《しき》の椅子《いす》に腰《こし》をおろしている男は、すでに五十代なかばだったが、いかにもタルシュ人らしい、がっしりとしたその身体《からだ》つきには、いささかの衰《おとろ》えも感じられなかった。みじかくかりこんだ髪《かみ》と、やはりみじかくかたちをととのえた髭《ひげ》にかこまれた顔は、百戦錬磨《ひゃくせんれんま》のつわものらしい、しずけさをたたえている。
緒戦《しょせん》の総指揮《そうしき》をまかされた彼《かれ》 − シュバルは、南の大陸《たいりく》でヨゴ皇国《おうこく》とオルム王国《おうこく》をおとした英雄《えいゆう》として、タルシュ帝国《ていこく》では知らぬ者《もの》のいない名将《めいしょう》だった。
シュバルは片目《かため》をつぶり、もう片方の目に筒《つつ》のようなものをあてていた。 − トカ・ア・グル(遠くをみる目という意味。遠眼鏡《とおめがね》のこと)をとおして、彼には、はっきりと、両軍《りょうぐん》の布陣《ふじん》がみえていた。
となりに立って、おなじようにトカ・ア・グルを目にあてているオルム人の副官《ふくかん》が、のどで笑《わら》い声《ごえ》をたてた。
「……みごとな陣形《じんけい》ですね。ここからみおろしていると、ヨゴの戦術書《せんじゅつしょ》『戦法百覧《せんぽうひゃくらん》』の図《ず》をみているような気分になります。」
副官の言葉《ことば》に、シュバルは笑顔《えがお》をみせなかった。彼《かれ》は、つぶやいた。
「信《しん》じられぬほどに、古いかたちを、ああして布陣《ふじん》につかう。……二百年も、戦《いくさ》をしなかった民《たみ》というのは、ああいうものか。おそろしいな。」
味方《みかた》の軍勢《ぐんぜい》の穂先《ほさき》が、のぼっていく朝日にひかりはじめたのをみて、シュバルは椅子《いす》から立ちあがった。
「そろそろ、よい時刻《じこく》だな。 − 大いなる太陽神《たいようしん》アルェが、わが軍勢《ぐんぜい》の背《せ》をあたためてくださっている。」
朝日にむかいあうかたちの新《しん》ヨゴの兵士《へいし》たちは、さぞかし、まぶしいことだろう。
シュバルは、一|度《ど》目をとじ、ロのなかでなにかつぶやいた。
配下《はいか》の武官《ぶかん》たちは、直立不動《ちょくりつふどう》の姿勢《しせい》で、この名将《めいしょう》が、戦《いくさ》をはじめるまえに、かならずおこなう、このささやかな儀式《ぎしき》をみつめていた。
やがて、シュバルは目をあけた。そして、ひとつ、うなずいてみせた。
手旗兵《てばたへい》が、赤い旗をもった手を、さっと上にかかげた。
平野《へいや》に布陣《ふじん》しているタルシュ軍《ぐん》の、最後尾《さいこうび》にすえられたオグル(組み立て塔)の上で、トカ・ア・グルを目にあてていた兵士《へいし》が、手旗兵《てばたへい》の合図《あいず》をみて、さっと、青い旗を右手でかかげた。
地上で塔兵《とうへい》の青旗をみた太鼓兵長《たいこへいちょう》が、太鼓をうちならしはじめた。
そのとたん、軍団《ぐなだん》の背後《はいご》にずらりと整列《せいれつ》した太鼓兵たちが、いっせいに、太鼓をうちならしはじめた。一糸《いっし》みだれぬその動きは、あたかもひとつの巨大《きょだい》な太鼓をうちならしているように、正確《せいかく》に、おなじ調子《ちょうし》をかなでていく。
トゥララ・トト・トゥララ……遠くにいるタンダたちには、ドロドロと遠雷《えんらい》のようにしかきこえないその音は、きびしい訓練《くんれん》で太鼓《たいこ》の合図《あいず》を身体《からだ》にきざみこんだタルシュ兵には、言葉《ことば》としてきこえていた。
− アルム(投石機《とうせきき》)のタム(腕《うで》)をはなて! アルムのタムをはなて!
それをきいたとたん、きびきびとした動作《どうさ》で、操機兵《そうきへい》たちが、新《しん》ヨゴの指揮官《しきかん》たちが「攻城機《こうじょうき》のようだ」と思ったアルム(投石機)にとりつき、両《りょう》わきについている巨大《きょだい》な歯車《はぐるま》のようなものを回転《かいてん》させはじめた。
操機兵《そうきへい》たちが歯車を回転させるにつれて、頭髪《とうはつ》で編《あ》まれたじょうぶな縄《なわ》が、ギリギリとねじられていく。このねじりあげられた縄のすさまじい力は、巨大《きょだい》な丸石をのせた匙《さじ》のようなかたちをしたタム(腕《うで》)につたわり、この匙を台車《だいしゃ》につなぎとめている部分が、いまにもはじけそうにふるえはじめた。
五機のアルムは、微妙《びみょう》に角度《かくど》をずらして配置《はいち》されていた。
三機は新《しん》ヨゴ軍《ぐん》の右翼《うよく》に、そして、その三機よりも巨大《きょだい》で、石のかわりに、槍《やり》よりも大きい矢《や》の化《ば》け物《もの》のようなものを溝《みぞ》にのせて、ねじった縄《なわ》を弦《つる》にしてひきしぼっている二機は、おおぜいの操機兵《そうきへい》たちにささえられて、はるか彼方《かなた》の新ヨゴ軍|左翼《さよく》、騎馬兵団《きばへいだん》のほうにむけられていた。
アルムのわきに立っている操機長が、ひと声さけんだ。
「石のアルム、タム(腕《うで》)をはなて!」
その瞬間《しゅんかん》、すさまじい音とともに、右翼《うよく》にむけた三機のアルムのタム(腕《うで》)が、はじけた。
アルムという木製《もくせい》の巨人《きょじん》が、渾身《こんしん》の力をこめて天になげあげた巨石《きょせき》は、ひゅう、ひゅう、うなりながら、弧《こ》をえがいて、はるか天空《てんくう》|高《たか》くまいあがった。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の兵《へい》たちは、信《しん》じられぬ思いで、自分たちめがけて飛んでくる巨石《きょせき》をみつめていた。頭上《ずじょう》が暗くなり、それが落下《らっか》してくるのをみても、びっしり密集《みっしゅう》して立っている兵士《へいし》たちには、逃《に》げ場《ば》がなかった。
盾《たて》をかざして身《み》をまもろうとする、むなしいしぐさをしながら、石におしつぶされ、はじけとんだ断片《だんぺん》にうたれて、兵士たちは即死《そくし》した。一回の攻撃《こうげき》で、直撃《ちょくげき》されて死んだ兵士の数は、さほどではなかったが、わけのわからぬ攻撃《こうげき》をうけた恐怖《きょうふ》は、はげしかった。つぶされて、とびちった仲間《なかま》の身体《からだ》の破片《はへん》をあびて、わめきながら、兵士たちは逃げまどい、大混乱《だいこんらん》がまきおこった。
その混乱がしずまるまもなく、第二の巨石《きょせき》が飛んだ。そして、つぎの瞬間《しゅんかん》、二|機《き》の巨大なアルムの弓《ゆみ》がはじけた。
天空《てんくう》にはねあがった巨大な矢《や》は、するどい射線《しゃせん》をえがき、うなりをあげて、新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》の宝《たから》である、騎馬兵団《きばへいだん》めがけて飛んだ。
せまってくる巨大な矢をみた騎馬兵たちはもちろん、ヤウル山の陣《じん》からみおろしていた指揮官《しきかん》たちも、自分たちがみているものが、信《しん》じられなかった。
対峙《たいじ》した軍勢《ぐんぜい》の、はしからはしまで飛ばせる巨大な矢があるなど、新ヨゴの兵士たちは、だれひとり、想像《そうぞう》をしたことさえなかった。
撃ちこまれた巨大《きょだい》な矢は、馬ごと騎馬兵《きばへい》たちを切りさき、土煙《つちけむけ》をあげながら大地をけずり、多くの兵をなぎたおしていった。
タルシュ軍《ぐん》の軍鼓《ぐんこ》が鳴って、ほんのわずかのあいだに、新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》の左翼《さよく》と右翼《うよく》は石と矢の攻撃《こうげき》におされ、中央へ、そして、前後へと、大きくゆがみはじめた。
ヤウル山からそれをみおろし、トッカサムは、さけんだ。
「攻撃《こうげき》をはじめろ! 弓兵《ゆみへい》に、あの攻城機《こうじょうき》を操作《そうさ》している兵士《へいし》をねらわせろ!」
副官《ふくかん》は、うわずった声をあげた。
「しかし、あの距離《きょり》では、味方《みかた》の弓兵《ゆみへい》の矢《や》は、攻城機までとどきません!」
「では、前進《ぜんしん》させろ! 隊列《たいれつ》をととのえさせ、盾《たて》でしっかりまもりながら前進を開始《かいし》させよ!」
副官は、直立不動《ちょくりつふどう》で命令《めいれい》をくりかえし、すぐに手旗《てばた》で、山すそにいる指揮官《しきかん》たちに合図《あいず》をおくりはじめた。
トウハタ山脈《さんみゃく》の中腹《ちゅうふく》から、ヤウル山の手旗《てばた》をみたシュバル将軍《しょうぐん》の目が、ひかった。
「……ようし、中央にかたまってきたな。盾兵《たてへい》をおしだせ。中央にぶつかったら、騎兵《きへい》たちに合図《あいず》だ。 − グロム(牙《きば》)をとじるぞ。」
その指令《しれい》は、太鼓《たいこ》の音となって、兵士《へいし》たちにつたわっていった。
山の上からみている新ヨゴの指揮官たちは、はっと、目をみひらいた。
さっきまで、きれいな正方形をしていた、いくつもの箱形《はこがた》のタルシュ軍団《ぐんだん》が、あっというまに、前後《ぜんご》、左右に、数個《すうこ》ずつかたまり、その陣形《じんけい》をかえたのだ。
騎馬兵団《きばへいだん》は、うごかない。しかし、数個の兵団があの攻城機《こうじょうき》をまもるようにうすくひろがり、中央には、盾《たて》をもった兵士《へいし》たちにまもられた、弓兵《ゆみへい》と重装歩兵《じゅうそうほへい》たちの、ぶあついかたまりができていた。
太鼓《たいこ》が、タルシュ兵《へい》たちに告《つ》げた。
− 盾《たて》と弓兵《ゆみへい》|前進《ぜんしん》。
ザアア……と、波《なみ》がうちよせるような音をたてながら、盾兵がうごきはじめた。
遠眼鏡《とおめがね》をもたない新ヨゴの指揮官《しきかん》たちは気づいていなかったが、タルシュ兵団《へいだん》の最前列《さいぜんれつ》にずらっとならんで前進《ぜんしん》をはじめた、この盾兵《たてへい》たちは、自分の身長の倍《ばい》ちかくもある、巨大《きょだい》な、長方形の盾《たて》をもっていた。
革《かわ》を樹脂《じゅし》で何枚《なんまい》もはりあわせたその盾は、がんじょうだが、鉄《てつ》の盾ほど重くない。しかも、底部《ていぶ》には、小さな車輪《しゃりん》がついている。盾兵《たてへい》たちは、左腕《ひだりうで》をその盾の裏側《うらがわ》にある太い輪《わ》にとおし、左腕と肩《かた》で盾をなかばかつぐようにしてささえながら、地に盾をつけて、ごろごろと音をたててすべらせていくのだ。
平地《へいち》でしかつかえない巨大な盾だが、平地戦では、絶大《ぜつだい》な力を発揮《はっき》する。
タンダたちが壁《かべ》のようだと思ったのは、この盾がずらりとつらなっている光景《こうけい》だった。
血《ち》まみれの虐殺《ぎゃくさつ》は、あっというまにはじまった。
悲鳴《ひめい》とともに人の群《む》れをゆらす波が、ゆっくりと、中央にいるタンダたちのところへもとどきはじめたとき、タルシュ軍《ぐん》からは太鼓《たいこ》の音が、自国軍《じこくぐん》からはかんだかい笛《ふえ》の音がひびいた。
黒い津波《つなみ》がおしよせるように、タルシュ軍《ぐん》がおしよせてくる。数千《すうせん》の敵《てき》がたてる足音が大地をゆらし、みるみるうちに、壁《かべ》のような盾《たて》の連《つら》なりがせまってくる。
その盾の波が、矢がとどく距離《きょり》にはいった瞬間《しゅんかん》、タンダは味方《みかた》の弓兵《ゆみへい》に発射《はっしゃ》を命《めい》じる高い笛《ふえ》の音をきいた。
幾千《いくせん》もの弓弦《ゆんづる》が鳴る、すさまじい音がひびき、ひゅうひゅうと、矢《や》がタルシュ兵《へい》にむかってはなたれた。
矢はいったん天空《てんくう》高くまいあがり、黒い雲のように一瞬《いっしゅん》、天の一点にとどまったあと、いっせいにタルシュ兵《へい》めがけて落下《らっか》しはじめた。
タルシュの盾兵《たてへい》たちは太鼓《たいこ》の音をたよりに、前をみることなく、ひたすら前進《ぜんしん》していた。
太鼓の音がかわった瞬間《しゅんかん》、ぴたりと盾兵はとまり、背後《はいご》によりそうようにしてすすんできた弓兵《ゆみへい》が地に片膝《かたひざ》をついてしゃがみこんだ。
盾兵が、自分と弓兵の身体《からだ》をおおうように巨大《きょだい》な盾をななめにしたとき、雨のように矢《や》が落下《らっか》してきた。
矢は、しかし、ほとんど完全《かんぜん》に、巨大な盾にふせがれた。
矢《や》が盾《たて》に刺《さ》さる音をきいた、つぎの瞬間《しゅんかん》、盾兵たちは盾を起こし、となりあうふたりの盾兵が、たがいの盾を左右からよせた。
ふたつの盾がひとつになり、一|列《れつ》ずつ、盾がない空間《くうかん》ができた。そのすきまに、弓《ゆみ》をかまえた弓兵があらわれ、いっせいに矢をはなった。
タンダは、雷雨《らいう》のような音をきいた。一瞬《いっしゅん》、天が暗《くら》くなり、みあげたとたん、無数《むすう》の矢《や》がおちてくるのがみえた。
とっさに、頭をかばって左手にもった盾《たて》をもちあげると、ズン、ズンと、にぶい音とともに矢が盾につきささり、つきとおって、盾をささえていた左腕《ひだりうで》に、蜂《はち》に刺《さ》されたような痛《いた》みがはしった。
悲鳴《ひめい》があちこちでひびき、仲間《なかま》たちが矢につらぬかれてたおれていく。
それをみるまもなく、地鳴《じな》りが身体《からだ》をゆらした。
タルシュの盾《たて》の壁《かべ》にまもられた槍《やり》の穂先《ほさき》の群《む》れが、するどくかがやきながら、おしよせてる。弓兵《ゆみへい》の背後《はいご》につづいていた重装歩兵《じょうそうほへい》の突進《とっしん》がはじまったのだ。
槍《やり》をかまえろという合図《あいず》の笛《ふえ》は、鳴ったのかもしれないが、タンダにはきこえなかった。ただ、生きのこったまわりの男たちが、ばらばらと槍を地面《じめん》につけ、教えられたとおりの構《かま》えをはじめたので、タンダもそれにしたがった。
はっはっは……と、みじかく息《いき》をしながら、目をみひらいて、タンダは、黒いものがおしよせてくるのをみつめていた。
味方《みかた》の最前列《さいぜんれつ》の槍《やり》が、かたいものに激突《げきとつ》した音がひびいた。
タルシュの盾兵《たてへい》は新《しん》ヨゴの草兵《そうへい》たちの槍《やり》の穂先《ほさき》に盾がちかづいた瞬間《しゅんかん》、盾をささえている腕《うで》をひきぬき、長大《ちょうだい》な盾を槍の穂先にかぶせるようにおしたおすと、その盾の上にとびのった。
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あっというまに、新《しん》ヨゴ兵《へい》の前二|列《れつ》は、槍《たて》ごと、長大な盾の下敷《したじ》きになった。盾兵たちは帯《おび》につけていた短剣《たんけん》をひきぬきながら、おのれがかかげてきた盾を踏《ふ》んで、おどりあがり、槍をかまえている三列めの草兵《そうへい》たちの上にとびおりながら、正確《せいかく》に刃《やいば》をふるって、草兵たちの首を切りさいていった。
タンダは、目の前の兵《へい》が血《ち》しぶきをあげながらたおれるのを、ぼうぜんとみていた。日の光を背負《せお》った黒い影《かげ》がせまり、その影のなかで、目がひかっているのをみた。
槍《やり》にぐん、と重みがかかり、タンダは槍をおとしてしまった。はっと盾《たて》をかかげて身体《からだ》をねじった瞬間《しゅんかん》、盾をもった左の手首の上のあたりに、火で焼《や》かれたような痛《いた》みがはしった。
タンダの首をねらったタルシュ兵の短剣《たんけん》は、左腕《ひだりうで》の骨《ほね》にあたり、ぐるりと骨にそって切りさきながらすべっていった。
タンダはタルシュ兵ともつれるようにして、たおれた。タルシュ兵が身体《からだ》につきあたっていった力と、左手でもっていた盾《たて》がふりまわされた重みとで、回転《かいてん》しながらうつぶせに地面にたおれた。
重いものが身体にのしかかり、ようしゃなく、踏《ふ》みつぶしていく。激痛《げきつう》が全身《ぜんしん》にはしり、息《いき》ができなくなった。盾《たて》の外にでている足の骨《ほね》が折《お》れる音をきき、自分の血《ち》と泥《どろ》のなかに顔をおしつけられるのを感じたのを最後《さいご》に、タンダは闇《やみ》のなかにおちていった。
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4  みすてられた街《まち》
バルサは木の幹《みき》に手をあてて、木々のあいだからみえる光景《こうけい》をみつめていた。細い峡谷《きょうこく》の底《そこ》をつらぬいている街道《かいどう》をふさぐように、砦《とりで》がきずかれている。
以前は、多くの商人《しょうにん》たちが行《い》き来《き》していた、にぎやかな街道に、人の姿《すがた》がまったくない。
バルサは、はじめ、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のふもとから、タラノ平野《へいや》へまっすぐくだっていこうと思っていた。ところが、道があちこちで閉鎖《へいさ》されていて、遠《とお》まわりせざるをえず、砦による封鎖線《ふうさせん》をさけて山道をぬけていくうちに、すこしずつ進路《しんろ》が予定《よてい》より西にずれて、気がついたときには、四路街《しろがい》に近い山道にでていたのだ。
砦《とりで》につきあたるたびにあせりと不安《ふあん》が胸《むね》を刺《さ》す。いらだちにせめさいなまれながら、ここまできた。緒戦《しょせん》のまえに戦場《せんじょう》に着《つ》きたいという、必死《ひっし》の願《ねが》いはむなしく、タルシュ帝国側《ていこくがわ》がきめた最後通牒《さいごつうちょう》の返答期限《へんとうきげん》は、三日《みっか》まえにすぎてしまった。
いまからタラノ平野《へいや》にいっても、もう、とっくに緒戦《しょせん》はおわってしまっているだろう。こうなれば、まっすぐタラノ平野におりていくよりも、いちど、四路街《しろがい》にいってみるべきだ。
四路街の商人たちなら、どの道をとおれば、兵士《へいし》たちにとめられずにタラノ平野へいかれるか知っているかもしれない。それに、この街《まち》にはアスラたちもいる。彼女《かのじょ》らの無事《ぶじ》をたしかめたかった。
四路街《しろがい》へいくためには、あの砦《とりで》を迂回《うかい》して、道のない山のなかをくだっていくしかない。
バルサは、歩きだすまえに、もういちど、砦をみつめた。
砦をまもっている兵士《へいし》の数はずいぶんすくない。見張《みは》りの兵《へい》も、ふたりしかみえない。砦のつくり方も、いかにも粗雑《そざつ》だった。街道側《かいどうがわ》からみあげれば強固《きょうこ》な砦にみえるのかもしれないが、山側からみおろしているバルサからは、内側が、まるで芝居《しばい》の立て看板《かんばん》のように、数本の丸太《まるた》でささえられているだけで、しっかりとした石組みの厚《あつ》みがないのがみえていた。
これまで、いくつかの砦《とりで》をみてきたが、南部の国境線《こっきょうせん》から都《みやこ》にのぼるのにつごうのよい、主要街道《しゅようかいどう》の砦は、じつに堅固《けんご》なものだった。それにくらべると、都へむかうには、やや遠まわりになる街道につくられている砦《とりで》は、この砦のような、粗雑《そざつ》なつくりのものが多かった。
二年ほどのあいだに、すくない人手《ひとで》で大急《おおいそ》ぎで砦《とりで》をつくっていったのだろう。手をぬく場所と、しっかりつくる場所とをわけたらしい。
バルサは、顔をくもらせた。
(タルシュの密偵《みってい》たちは、どこの砦《とりで》が張《は》りぼてか、とっくにしらべあげているだろうな。)
タルシュの密偵たちのおそろしさは、身《み》にしみて知っている。彼《かれ》らのほとんどは、この北の大陸《ていりく》にいてもめだたぬヨゴ人だし、この国が鎖国《さこく》されるまえに、たくさん潜入《せんにゅう》していたにちがいない。
とすれば、タルシュ軍《ぐん》は、新ヨゴ軍の予想《よそう》を逆手《さかて》にとって、たとえ遠《とお》まわりでも、おとしやすい砦がある街道《かいどう》をえらんで、都《みやこ》へ攻《せ》めのぼるのではあるまいか。
(タラノ平野《へいや》から攻めのぼるなら、さしずめ、この街道なんぞ、ねらい目だろう。新ヨゴ軍が、やつらをとめていれば、話はべつだが……。)
バルサは痛《いた》みをこらえるように、ぎゅっと歯をくいしはった。
緒戦《しょせん》のことを、考えるまいとしても、どうしても考えてしまう。
(だいじょうぶさ。……あいつは、運《うん》のつよい男だから。)
なんの根拠《こんきょ》もないけれど、タンダが死《し》んだら、自分には、なにか感じられるはずだ、と、バルサは思っていた。それを感じないということは、タンダは、生きている。
くだらない思いこみでも、そう思っていたかった。
バルサは、道のない山のなかを、砦《とりで》からみえぬあたりまで、そろそろとくだっていった。騎馬《きば》では越《こ》えられぬ山のなかでも、バルサのような山歩きになれた者《もの》なら、なんとか越えていかれる。それでも、街道《かいどう》を歩けば半ダン(約《やく》三十分)はどの道のりに、二ダンちかくもかかり、ようやく四路街《しろがい》にたどりついたのは、夜もおそい時刻《じこく》だった。
たどりついてみて、おどろいた。街道から街《まち》へはいる大門《だいもん》に巨大《きょだい》な扉《とびら》がつくられ、がっちりとしめられていたのだ。大門のわきの櫓《やぐら》には赤あかとかがり火がたかれ、見張《みは》りの姿《すがた》がみえる。ちらちらとみえるその姿は、どうも正規兵《せいきへい》のようにはみえなかった。
見張りがかがり火のわきにきたとき、一瞬《いっしゅん》、その顔があかりにうかびあがった。バルサは、はっとした。よく知っている顔だったからだ。
「……オバル!」
声をかけると、見張りの男が足をとめ、櫓《やぐら》から身《み》をのりだして、こちらをみおろした。
短槍《たんそう》をふってみせると、男の顔が、さっと明るくなった。
「バルサさんじゃねぇか!」
「こんな木戸《きど》ができているとは知らなかったよ。朝までまたなくちゃ、はいれないかね?」
笑《わら》い声《ごえ》がふってきた。
「まあ、ちょっとまってくれや。そこにいてくれ。」
バルサはいわれるまま、木戸《きど》の前でまっていた。
オバルは、ずいぶんまえから知っている。年は若《わか》いが腕《うで》のいい護衛士《ごえいし》だった。いっしょに隊商《たいしょう》を護衛してロタまで旅《てび》したこともある。どうやら、四路街《しろがい》をまもっているのは、兵士《へいし》ではなく、街役人《まちやくにん》たちにやとわれた護衛士たちらしい。
カタリと小さな音がして、木戸《きど》のわきの小さな潜《くぐ》り戸《ど》があいた。オバルが手まねきしている。
はいっていくと、思いがけず、商家《しょうか》の土間《どま》のような空間《くうかん》にでた。大門《だいもん》の街側《まちがわ》につくられている小屋《こや》に、木戸からはいれるようになっていたのだ。
なかなか広い土間の中央には、炉《ろ》がつくられて、火が燃《も》えている。壁際《かべぎわ》には、ずらりと槍《やり》や刀《かたな》、弓矢《ゆみや》がおかれ、十人ほどの男たちが、火をかこんでいた。
バルサは、彼《かれ》らをみまわして、にやっと笑《わら》った。
「なんだなんだ。……ぶっそうな面《つら》の見本市《みほんいち》でもやってるのかい。」
男たちも、にやにや笑っている。
「ご挨拶《あいさつ》だな。ぶっそうな面じゃ、まけてねぇだろうがよ、バルサさん。」
なかのひとりが、バルサの肩《かた》をたたきながら、火のほうへ、みちびいた。
オバルが鍋《なべ》のなかから陶器《とうき》の酒瓶《さかびん》をつまみあげて、杯《さかずき》にあつい酒をつぎ、バルサにわたした。
「まあ、まず一杯《いっぱい》。話はそれからだ。」
「おい、オバル、おまえ見張《みは》りの当番《とうばん》だろうが。ちゃっかり酒なんかついでるんじゃねぇよ。」
「こまかいことをいうんじゃねぇよ。一杯ひっかけるだけだ。」
ここにいる男たちは、みな、バルサにとっては古なじみだった。腕《うで》のたつやつも、それほどでもないやつもいるが、ともかく、長年《ながねん》|護衛士《ごえいし》としてくらしてきた連中《れんちゅう》で、バルサがよくたちよる護衛士の口入《くちい》れ屋《や》、タチヤの店の常連《じょうれん》もいた。
椅子《いす》をすすめられて腰《こし》をおろしながら、バルサは杯《さかずき》をわたそうとするオバルの手をとめた。
「ありがたいけど、すきっ腹《ぱら》なんだ。あつかましいけど、なにか食べるものは残《のこ》ってるかい?」
「お、いいねぇ。すきっ腹のバルサさんに飲《の》ませたらどうなるか、みてみたいもんだ。」
軽口《かるくち》をたたきながらも、オバルは、酒《さけ》は自分で飲んでしまい、炉《ろ》の灰《はい》のなかにおかれている鍋《なべ》から、鳥《とり》の煮込《にこ》み汁《じる》を木椀《もくわん》についで、バルサにわたしてくれた。
礼《れい》をいって椀をうけとり、バルサは、だれにともなく話しかけた。
「この大門《だいもん》の見張《みは》りは、なんのためだね?」
バルサの問いに、男たちは、びっくりしたような顔をした。
「なんだ、バルサさん、あんたいままでどこにいたんだね。どこの街《まち》でも、おなじような状態《じょうたい》だってきいたが、ちがうのかい。」
「いや、わたしは、つい最近《さいきん》までカンバルにいたんだよ。」
「へぇ。そういや、きいたことがあるな、あんたが、ロタやらカンバルやらに、人をかえしてやる仕事《しごと》をうけおっているってよ。まったく、いい度胸《どきょう》だぜ。兵士《へいし》たちが殺気《さっき》だっているこの状況《じょうきょう》じゃあ、命《いのち》がいくつあっても足《た》りない仕事だろうに。」
彼《かれ》らの話をきくうちに、バルサは、いまのこの国の状態《じょうたい》が、ようやくはっきりとつかめた気がした。
ひどい話だった。 − 新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》は、都《みやこ》とその周辺部《しゅうへんぶ》をがっちりとまもるために、南部の街《まち》や村《むら》を、きりすてたのだ。
都のある中部から北部をまもるために、都南街道《となんかいどう》、都西街道《とせいかいどう》など、大軍《たいぐん》が攻《せ》めのぼることができる主要《しゅよう》な街道に砦《とりで》がきずかれ、守備兵《しゅびへい》はそこに重点的《じゅうてんてき》に配置《はいち》されている。その防衛線《ぼうえいせん》から南の街や村は、兵士《へいし》にまもられていない。
バルサが越えてきた砦は、この四路街《しろがい》の北東側《ほくとうがわ》にある。敵軍《てきぐん》がいるのは南部だから、この街は、敵軍《てきぐん》と砦との間にはさまれてしまっているのだった。
この街《まち》から南は低地が多く、砦《とりで》をつくって街道《かいどう》をふさいでも敵《てき》の進軍《しんぐん》をうまくとめることができない。だから、皇国軍《おうこくぐん》は街をきりすてて、街の背後《はいご》の北東側の、街道が細くなっている谷道《たにみち》の部分に砦をきずいたのだろうが、タルシュ軍がこちら側から都《みやこ》へ攻《せ》めのぼることをきめたら、この街は彼《かれ》らに占領《せんりょう》されて、砦を攻めるための野営地《やえいち》と化《か》してしまうだろう。
護衛士《ごえいし》のひとりが、暗い目でいった。
「皇国軍《おうこくぐん》は、街《まち》をまもってくれないだけじゃねぇ。……タルシュ軍がこっちへくるとわかったら、敵《てき》に食糧《しょくりょう》をわたさないために、食糧を強制徴用《きょうせいちょうよう》して、この街を焼《や》いてしまうんじゃねぇかっていう噂《うわさ》さえながれているんだ。」
バルサは、顔をくもらせて男たちをみた。
「……まさか、あんたたちは、それをふせぐために、街衆《まちしゅう》からやとわれたのかい?」
男たちは、つかのま、だまりこんだ。
やがて、彼《かれ》らは口ぐちに、いった。
「まだ、街衆は、そこまでは腹《はら》をきめてねぇ。おれたちがここにいるのは、気やすめみたいなもんさ。」
「できることなら、皇国軍《おうこくぐん》にさからいたくはねぇ。 − 反逆罪《はんぎゃくざい》は打ち首だからな。だが、南からはタルシュ軍、北からは皇国軍。ロタへの国境《こっきょう》は封鎖《ふうさ》。おれたちには行き場《ば》がねぇのさ。」
緒戦《しょせん》がどうなったのかきこうと、バルサが口をひらきかけたとき、戸があいて、数人《すうにん》の商人《しょうにん》たちがはいってきた。みな、街《まち》の顔役《かおやく》らしく、貫禄《かんろく》のある男ばかりだった。
「ごくろうさんだね、みなさん。今夜《こんや》はずいぶん冷《ひ》える。陣中見舞《じんちゅうみま》いに酒《さけ》をもってきたよ。」
「こりゃ、どうもありがとうございます。」
護衛士《ごえいし》たちが、よろこんで酒壷《さかつぼ》をうけとったとき、商人《しょうにん》のひとりが、バルサに気づいて、目をまるくした。
「なんと、バルサさんじゃないですか!」
バルサの顔も、明るくなった。
「トウノさん、ここであえてよかった。これから、サマド衣装店《いしょうてん》へうかがおうと思っていたところなんですよ。こんなにおそく、うかがってはごめいわくかもしれないけれど……。」
トウノは笑《わら》いだした。
「なにを、水くさいことを! 大歓迎《だいかんげい》ですよ。母はもちろん、アスラやチキサが、さぞよろこぶでしょう。いやあ、あえてうれしい。ほんとうに。」
バルサのわきに腰《こし》をおろしながら、トウノは、真顔《まがお》にもどって、いった。
「こんなときですから、なおさらね。ご相談《そうだん》したいことが、たくさんあるんですよ。」
バルサは、うなずいた。
「この街《まち》がこんな状況《じょうきょう》になっているとは知りませんでした。わたしにできることがあれば、なんでもさせてもらいます。」
四路街《しろがい》の老舗《しにせ》サマド衣装店《いしょうてん》の店主《てんしゅ》である、このトウノと、彼《かれ》の母のマーサには、アスラとチキサをそだててもらっているという大恩《だいおん》がある。彼らみんなの命《いのち》が危機《きき》にさらされているとなれば、みすてていくわけにはいかなかった。
それでも心の奥《おく》にはつよいあせりがあった。ためらったあげく、バルサはトウノにいった。
「ただね、トウノさん……じつは、わたしは、タラノ平野《へいや》にいきたいのです。」
トウノの太い眉《まゆ》がはねあがった。
「なんですって? タラノ平野?……冗談《じょうだん》じゃない、あそこは戦場《せんじょう》ですよ。」
いってから、ふいに、トウノは口をとじた。その目に、事情《じじょう》を察《さっ》した色がうかんだ。
「そうか。……タンダさんを心配《しんぱい》なさっているんですね。」
バルサは、おどろいた。
「ごぞんじでしたか。」
「ええ。チキサからききました。草兵《そうへい》にとられなさったと。うちの店からも、ひとり草兵にとられましたが、みんな、他人《ひと》ごとじゃない……。」
そういってトウノは目をそらし、声をひくめた。
「緒戦《しょせん》がどうなったか、ぼんやりとだが、つたわってきています。 − 惨敗《ざんぱい》だったそうです。
生きのこった皇国軍《おうこくぐん》は都南街道《となんかいどう》にきずかれた砦《とりで》へ撤退《てったい》し、タラノ平野《へいや》に配置《はいち》された草兵《そうへい》の大半《たいはん》は戦死《せんし》。草兵の傷病兵《しょうびょうへい》は、すておきにされたという噂《うわさ》です。」
胸《むね》から顎《あご》のあたりまで、冷《つめ》たいこわばりがひろがった。
バルサは口のあたりをぼんやりと右手でおさえ、じっと炉《ろ》の火をみつめていたが、やがて、ぽつんと、たずねた。
「……生きのこった草兵《そうへい》は、どこへ?」
「たたかえる草兵は、たぶん、正親軍《せいきぐん》といっしょに砦《とりで》にいったのでしょうな。」
右手を膝《ひざ》におろし、バルサはつぶやいた。
「生きていれば砦。 − 傷《きず》をおっていれば、タラノ平野《へいや》におきざりか……。」
トウノは、バルサの横顔をみながら、低い声で問うた。
「いってみるおつもりですか。」
バルサは、しばらくだまっていたが、やがて、かすれた声でこたえた。
「いずれは。……だが、いまは、まずアスラたちのことを考えます。
タンダのことは……砦《とりで》にいるとしても、タラノ平野にいるとしても、こうなってからでは、わたしがかけつけたところで、できることなど、さしてない。」
炉《ろ》の火影《ほかげ》が、じっと炎《ほのお》をみつめるバルサの顔を、ゆらゆらとてらしていた。
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5  アスラとの再会《さいかい》
チュンチュンと小鳥が鳴《な》いている。
朝露《あさつゆ》がしっとりとおりている早朝《そうちょう》の庭《にわ》を、チキサは、ていねいに、はききよめていた。
サマド衣装店《いしょうてん》の朝は、そうじからはじまる。自分たちをやしなってくれる店に、ありがとうという気もちで、きれいにするんだよ……と、(大奥《おおおく》さま) マーサは、よくいっていた。
きびしいが一本|筋《すじ》がとおっているマーサが、チキサは好《す》きだった。主人《しゅじん》のトウノも怒《おこ》るとこわいが、おうようで貫禄《かんろく》のある男だし、店員《てんいん》たちも、みな人《ひと》がいい。とつぜんやってきた自分たち兄妹を、彼《かれ》らが、あたたかくむかえいれてくれたことに、チキサは、心から感謝《かんしゃ》していた。とくに、ふつうの娘《むすめ》のようにはくらせない妹のアスラを、彼らが親身《しんみ》になってめんどうをみてくれていることに…
チキサの妹のアスラは、おそろしい神《かみ》を封《ふう》じるために、みずからの身《み》と心《こころ》を犠牲《ぎせい》にした。異界《いかい》の神《かみ》を封じこめ、二度《にど》とでてこられぬように、のどにぴったりとすいついていた宿《やど》り木《ぎ》の輪《わ》をひきちぎったのだ。
自分がよびだした神《かみ》が、多くの人を殺《ころ》したのだという事実《じじつ》は、アスラの魂《たましい》を闇《やみ》におとし、チキサは、妹はもう二度《にど》と目をさまさないのだろうと覚悟《かくご》した。
そのアスラを、バルサとタンダは、あきらめることなく、根気《こんき》よく介抱《かいほう》してくれた。
あの年 − 長い冬がすぎ、春がおとずれたとき、アスラの魂はうっすらと息《いき》をふきかえし、夏になるころ、ようやく、ひとりでものを食べ、立って歩けるようになった。
いま、アスラは、マーサさんにならって、織物《おりもの》を織《お》るほどに快復《かいふく》していた。 − それでも、声は、うしなったままだ。よく悪夢《あくむ》をみては、びっしょりと汗《あせ》をかいてとびおきる。アスラが声をとりもどして、むかしのように、たのしげに笑《わら》う日が、はやくきてほしかった。
朝食《ちょうしょく》をしらせる鐘《かね》がなった。
チキサは箒《ほうき》をかたづけると、ほかの下働きの少年たちといっしょに井戸《いど》で手と顔をあらいながら、妹が機織場《はたおりば》からでてくるのをまった。アスラの朝仕事《あさしごと》は機織場の拭《ふ》きそうじなのだ。
ほどなく、機織場の土間《どま》に娘《むすめ》たちの姿《すがた》があらわれ、しゃべりながら井戸のほうにやってきた。娘たちのうしろから、アスラはうつむいて歩いてくる。チキサは妹がそばにくると、手をひいて、井戸のわきにしゃがませ、その手に柄杓《ひしゃく》で水をかけてやった。
戦《いくさ》がはじまってから、店のみんなの顔からは、いつもの陽気《ようき》さが消《き》えていた。仕事《しごと》はまえとかわらずにやっているが、いまはもう衣《ころも》などほとんど売れない。街《まち》の人たちは、なるべく金をつかわず、食糧《しょくりょう》をためこむことに必死《ひっし》だった。
はじめてこの街に着《つ》いたときは、にぎやかで人の多い、大きな街だと思ったけれど、交易《こうえき》におとずれる人がこなくなると、がらんとした、さびしい、人《ひと》けのない街になってしまった。昼間《ひるま》でも、通りを歩く人はまばらで、みな、こわばった顔で足ばやに歩いていく。店《みせ》さきにならんでいる色とりどりの衣に、目をとめる人もいない。これからどうなるのか、だれもが不安《ふあん》をかかえ、おびえていた。
それでも食堂《しよくどう》には、いつものようにあたたかい汁物《しるもの》のにおいと、炊きたての米《こめ》の飯《めし》のにおいがただよい、はいっていくと、心がほっと明るくなった。
かたわらで、アスラがびくっと身体《からだ》をふるわせたので、チキサはびっくりして妹をみた。アスラは目をまるくして、食堂のすみをみつめている。
妹がみているほうをみたとたん、チキサは、おもわず、大声でさけんでしまった。
「……。バルサさん!」
すみの食卓《しょくたく》についていたバルサが、微笑《ほほえ》みをうかべて、手をあげた。
チキサとアスラは、履物《はきもの》をぬぐのももどかしく、床《ゆか》の上にあがると、バルサのところへかけよった。
アスラが、むしゃぶりつくようにバルサに抱《だ》きついたので、チキサはびっくりした。妹がこんなふうに感情《かんじょう》をあらわにするのは、ほとんどみたことがなかったからだ。
バルサも、おどろいていた。 − 自分に抱きつき、背《せ》をつかんでいる手の力の強さと、そのぬくもりが身体《からだ》につたわってきて、バルサは顔をゆがめ、しっかりとアスラを抱きしめた。
「……ほったらかしにしていて、ごめんよ。」
うなるようにして泣《な》いているアスラの背をさすりながら、バルサはささやいた。
「バルサさん、いつ、ここにきたの?」
チキサの問いに、。ハルサは、アスラを抱《だ》いたままこたえた。
「昨夜《さくや》おそくに着《つ》いた。ふたりともねむっていたから、おこさなかったんだよ。」
チキサはバルサのわきに膝《ひざ》をついて、せきこむようにいった。
「長くいられるの?」
バルサは右手をのばして、チキサの頭をくしゃくしゃっとさすった。
「あんたまで、そんな顔をしないでおくれよ。」
しゅっしゅっと足袋《たび》がすれる足音がして、笑《わら》いをふくんだ声がふってきた。
「まあまあ、あなたたち、そんなふうにしがみついてたら、バルサさん、食事《しょくじ》もできないわよ。」
きりっと白髪《はくはつ》をゆいあげた老婦人《ろうふじん》が立っていた。トウノの母のマーサだった。
チキサは、さっと正座《せいざ》した。アスラも、はずかしそうにうつむきながら、バルサからはなれて正座した。
マーサは彼《かれ》らの前に膝《ひざ》をたたんですわると、ほほえんで、おだやかな声でいった。
「バルサさんは、あなたたちといっしょに朝食を食べようと、まっていてくださったのよ。
あなたたちの分をここへもってきて、いっしょにおあがんなさい。」
アスラの顔に、ほんの一瞬《いっしゅん》だけれど、明るい色がうかんだのをみて、チキサはものすごくうれしかった。
バルサは、しかし、アスラたちとの再会《さいかい》を、のんびりたのしんでもいられなかった。
この日の夜明《よあ》け、新ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》の騎馬兵《きばへい》が一・二騎、化《ば》け物《もの》に追われているようないきおいで南からやってきて、大門《だいもん》を開門《かいもん》させ、砦《とりで》のほうへかけさっていったという話を、さっきトウノからきいたばかりだ。
かけぬけていったという騎馬兵は斥候《せっこう》だろう。タルシュ軍が進軍《しんぐん》してくるのを発見《はっけん》し、こちらへやってくることを砦にしらせにいったのではないかと、トウノは心配《しんぱい》していた。
たぶん、それは、あたっているだろう。 − 粗雑《そざつ》につくられた、あの砦をみたときから、こうなるのではないかと思っていたが、やはり、タルシュ軍はどの砦が手うすで、攻めやすいか、情報《じょうほう》を得《え》ていたのだ。堅固《けんご》な砦がある都南街道《となんかいどう》をのぼる道筋《みちすじ》をえらばず、遠《とう》まわりだが、確実《かくじつ》に、しかも、すばやくおとせる砦がある、こちらの道をえらんだのだろう。
朝食《ちょうしょく》がすむと、バルサはトウノとともに街《まち》の集会堂《しゅうかいどう》におもむいたが、街じゅうが、騒然《そうぜん》とした空気につつまれていた。
集会堂には、すでに、多くの男たちがあつまっていた。各坪《かくつぼ》(区画《くかく》)の坪長《つぼおさ》(坪を管理《かんり》する責任者《せきにんしゃ》)や、さまざまな職種《しょくしゅ》の顔役《かおやく》たちが一堂《いちどう》にそろっている。見張《みは》りの当番《とうばん》にあたっている者《もの》をのぞいて、多くの護衛士《ごえいし》、酒場《さかば》の用心棒《ようじんぼう》たちまで、あつまっていた。
この街《まち》の街頭《まちがしら》であるアオノ・タソドが立ちあがって、みなをみまわしながら口をひらいた。
「よくあつまってくださった。斥候《せっこう》の騎馬兵《きばへい》の話は、もうきいていると思うが、どうやら、もう、ぼやぼやしている時間は残《のこ》されていないようだ。街をまもるにはどうすればいいか、意見がある者《もの》はぜひ、声をあげてくれ。」
けわしい顔つきで、男たちが話しあいをはじめるのを、バルサは集会堂《しゅうかいどう》のすみにすわって、だまってきいていた。
タルシュ軍《ぐん》が攻《せ》めてきたら、街《まち》の大門《だいもん》をしめるくらいでは、彼《かれ》らの侵入をふせげるはずもない。街道《かいどう》から街にはいる大門とその周囲《しゅうい》には石垣《いしがき》がめぐらされているが、農地《のうち》や河《かわ》に面《めん》している街境《まちざかい》には、柵《さく》もないのだ。
いまさら、街をぐるりとかこむ石垣などきずけるはずもない。 − 男たちは、おびえと不安《ふあん》に顔をこわばらせて、なにかよい方法がないものか、ひたすら言葉《ことば》をかさねている。
およそ一ダン(一時間)ほど彼《かれ》らの話をききながら、バルサは、彼らの発想《はっそう》とは、根本《こんぼん》からちがうことを、考えつづけていた。
街《まち》のまもりの状況《じょうきょう》があきらかになるにつれて、タルシュ軍《ぐん》がやってきたら、街を無傷《むきず》でまもれる可能性《かのうせい》などありえないことが、はっきりとわかった。
タルシュ軍は、都西街道《とせいかいどう》へいたる道をふさいでいる砦《とりで》をおとすために、この街を補給地《ほきゅうち》としてつかうだろう。そして、護衛士《ごえいし》たちがいっていたように、砦にいる皇国軍《おうこくぐん》の指揮官《しきかん》は、それをなんとかふせごうとするにちがいない。
タルシュ軍がここへくるよりさきに、砦にいる新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》が、この街の食糧《しょくりょう》を徴集《ちょうしゅう》にくるだろう。砦にいる兵《へい》は、さほど多くない。援軍《えんぐん》をまつあいだ、すこしでも有利《ゆうり》に防御《ぼうぎょ》するために、街に火をかけるくらいやりかねない。食糧をとりあげられたうえに、火をかけられ、そこへ敵軍《てきぐん》がやってきたら、どれほど悲惨《ひさん》なことになるか…‥
この街《まち》の人びとが生きのびるためにやれることは、ふたつだけだ、と、バルサは思った。
流《なが》れ者《もの》である自分が口をはさんでよいものか、つかのま、バルサはためらったが、すぐに心をきめた。 − ともかく、いってみるべきだろう。そのうえで、バルサの意見にのるか、のらぬかは、彼《かれ》らの判断《はんだん》にまかせればよい。
話が堂々《どうどう》めぐりをはじめ、男たちが、つかれてロをつぐんだとき、バルサは口をひらいた。
「わたしのようなよそ者《もの》が、よけいなことをいってはいけないのかもしれないが、ひと言、いってもいいかね。」
男たちが顔をあげて、バルサをみた。街頭《まちがしら》のアオノがうなずいた。
「かまわんよ。なにか妙案《みょうあん》があるなら、きかせてくれ。」
バルサは、おちついた声でいった。
「いままで、ずっと、みなさんの話をうかがっていたが、隊商《たいしょう》の守護《しゅご》を長年やってきた者《もの》としていわせてもらうと、この街《まち》をタルシュ軍《ぐん》や皇国軍《おうこくぐん》からまもるなんてことは、まったくむりな話だと思う。……わたしなら、逃《に》げることを考えるがね。」
男たちのあいだに、ざわめきがおきた。
商人《しょうにん》たちが、顔色をかえてロをひらいた。
「逃《に》げるだと? 街《まち》をすてて?」
「冗談《じょうだん》じゃない。うちは四代つづいた老舗《しにせ》だ。異国《いこく》の兵《へい》に店《みせ》をくれてやるくらいなら、店と運命《うんめい》をともにする。」
バルサは立ちあがると、張りのある声でいった。
「人の話は、最後《さいご》まできくもんだ。そうじゃないか?」
気おされたようにだまりこんだ商人たちに、バルサはいった。
「逃《に》げたくない者《もの》まで、逃げろなんて、あたしはいっていない。タルシュ兵《へい》にねぐらと酒《さけ》と食《く》い物《もの》をやって生きのこるやり方もあるだろうし、夕ルシュ兵と相打《あいう》ちで死《し》にたいというやつは、そうすればいい。
だが、家族《かぞく》と自分の命《いのち》をなによりたいせつだと思う者 − 家も故郷《ふるさと》もすてて、とにかく生きたいと思う者がいるなら、一刻《いっこく》もはやく、逃げるしたくをするべきだ。わたしなら、あの砦《とりで》にいる新《しん》ヨゴ皇国兵士《おうこくへいし》たちが、食糧《しょくりょう》を強制徴集《きょうせいちょうしゅう》にくるまえに、もってうごける分の食糧と財産《ざいさん》を荷車《にぐるま》につんで、逃げる用意をするがね。」
むこう側《がわ》の壁《かべ》に背《せ》をもたせかけていた初老《しょろう》の護衛士《ごえいし》が、口をひらいた。
「……それは、だれもが一度は考えたことだ。だが、どこへ逃《に》げる? 南部は、どこもおなじょうな状況《じょうきょう》だろう。山に逃げこんでタルシュ軍《ぐん》が街《まち》を去るまでまつか。」
護衛士仲間《ごえいしなかま》の最長老《さいちょうろう》ガシェの、おちついた顔に目をむけて、バルサはこたえた。
「それもひとつの手でしょう。幸《さいわ》い、これからあたたかくなる季節《きせつ》だしね。だけど、わたしが考えていたのは、べつの道です。」
ガシェは眉《まゆ》をひそめた。
「べつの道? そんなものがあるか?」
バルサはうなずいた。
「ありますよ。−−ロタへいくんです。」
つかのま、堂《どう》のなかに沈黙《ちんもく》がひろがった。
やがて、男たちがいっせいにロをひらき、なにをいっているのかわからない騒《さわ》ぎになった。
街頭《まちがしら》のアオノが、中央の机《つくえ》をこぶしでたたいて、男たちをしずまらせた。アオノは、バルサをみつめて、きびしい声で問うた。
「ロタだと? 国境《こっきょう》が閉鎖《へいさ》されていることを知っていて、いっているのかね?」
バルサは、しずかな声でこたえた。
「知っていますよ。」
バルサの右手に陣《じん》どっている、護衛士《ごえいし》のオバルが口をはさんだ。
「バルサさんは、国境《こっきょう》の抜《ぬ》け道《みち》をたくさん知っているって噂《うわさ》だからな。そういう道をとおるって手かい?」
バルサは首をふった。
「いいや。そういう抜《ぬ》け道《みち》は老人《ろうじん》や子どもをつれて大人数《おおにんずう》で越《こ》すのはむりだ。
だけどね、ここは、四路街《しろがい》だろうロタとの国境《こっきょう》、サマール峠《とうげ》は、すぐそこだ。あんた方《がた》がしょっちゅう行《い》き来《き》してきた、あの峠を越えて、ロタへ逃《に》げるのさ。」
護衛士《ごえいし》のひとりが、首をふった。
「冗談《じょうだん》じゃねぇ、サマール峠《とうげ》には百人ちかい兵《へい》がいるんだぜ。女子《おんなこ》どもに老人《ろうじん》までいるような人の群《む》れをつれて、突破《とっぱ》なんぞできねぇよ。」
バルサは、その男に顔をむけた。
「これまではそうだっただろう。だけど、タルシュ軍《ぐん》が攻《せ》めてきたら状況《じょうきょう》はかわるはずだ。そうじゃないかい?
皇国軍《おうこくぐん》がきずいている砦《とりで》は、サマール峠とは反対側《はんたいがわ》にある。
わたしはあの砦を裏側《うらがわ》からみてきたけれど、あそこは、ほかの砦よりずいぶんと手うすで、兵《へい》の数がすくなかった。タルシュ軍が攻《せ》めてきたら、あんな数じゃ、とてもまもりきれない。援軍《えんぐん》をまちながら砦をささえるとしたら、国境《こっきょう》をまもるために兵をさく余裕《よゆう》なんかないだろう。サマール峠《とうげ》の兵は、大半《たいはん》が砦へ移動《いどう》するんじゃなかろうか。
百人もの正規兵《せいきへい》がいたら、わたしら護衛士《ごえいし》だけじゃ勝負《しょうぶ》にならないだろうが、十数人やそこらなら、わたしらでなんとかできる。ちがうかね?」
話がみえてきて、護衛士《ごえいし》たちはにやにや笑《わら》いはじめた。槍《やり》や刀《かたな》をなでながら肩《かた》をゆすり、武人特有《ぶじんとくゆう》のぎらぎらした目で、バルサをみている。
部屋《へや》の空気《くうき》がかわりはじめた。−−−それまでの、おびえと不安《ふあん》から、かすかな希望《きぼう》へ、みなの気もちがうごきはじめていた。
バルサは、いった。
「ここは、ロタとの交易《こうえき》でさかえてきた商人《しょうにん》たちの街《まち》だろう。この場にだって、ロタ人がいるくらいで、ロタに縁《えにし》がある者《もの》はたくさんいるはずだ。 − ロタにいけば、生きる道をみつけられるんじゃないかい?」
考えこんでいた街頭《まちがしら》のアオノが顔をあげ、ゆっくりと男たちをみまわした。
「……やってみる気がある者《もの》はいるかね。」
老舗《しにせ》の商家《しょうか》の主《あるじ》たちは顔をくもらせたままだまりこんでいたが、ほかの男たちの顔には、生気《せいき》がもどってきていた。彼《かれ》らは、アオノにうなずきかえした。
それをみとどけると、アオノは、バルサに目をむけた。
「あんた、(短槍使《たんそうつか》いのバルサ)さんだったな。あんたのことは、口入《くちい》れ屋《や》の夕チヤから、きいたことがある。夕チヤは人をみる目がある男だ。あいつが全幅《ぜんぷく》の信頼《しんらい》をおいているあんたなら、いいかげんなことはロにすまい。」
そういってから、アオノは護衛士《ごえいし》たちをみまわした。
「あんた方《がた》は、どう思うね。」
老舗《しにせ》の商家《しょうか》にやとわれている者《もの》たちは、雇《やと》い主《ぬし》のことを考えて目をふせたが、それ以外《いがい》の男たちは、アオノにうなずいてみせた。
護衛士仲間《ごえいしなかま》の最長老《さいちょうろう》ガシェが、口をひらいた。
「おれたちは、もともと、これだけの人数《にんずう》じゃ、街《まち》をまもるのはむりだとわかっていた。
万《まん》という大軍《たいぐん》でむかえうってもかなわなかったタルシュ軍なんぞ、相手《あいて》にできるはずもないのはもちろんのこと、この数じゃ、皇国軍《おうこくぐん》の兵士《へいし》たちの相手をするのだってむりだろうよ。
ここは砦《とりで》じゃない。大門《だいもん》をとじたって、火矢《ひや》を射《い》かけられたら、どうしようもない。」
商人《しょうにん》たちは、あおざめた顔で、ガシェの言葉《ことば》をきいていた。ガシェは言葉をついだ。
「おれの考えをいわせてもらえば、バルサの意見は生きのこるためには最良の道だと思うぜ。
アオノさんたち街衆《まちしゅう》が、それなりの金をだしてくださるなら、おれは、ロタへ逃《に》げる人たちの護衛《ごえい》をかってでる。」
アオノがうなずいて、街衆をみまわした。
「護衛料《ごえてりょう》を、街衆《まちしゅう》の持《も》ち合《あ》い金《きん》からはらうことは、どうだね。異存《いぞん》はないかね?」
この言葉には、すべての商人《しょうにん》たちがうなずいた。
それをみるや、多くの護衛士《ごえいし》たちが、われもわれもと身《み》をのりだした。アオノは手をあげて彼《かれ》らをだまらせ、バルサとガシェを交互《こうご》にみた。
「これは、ふつうの隊商《たいしょう》の護衛《ごえい》じゃない。これからふれをだせば、赤子《あかご》から老人《ろうじん》まで、この街《まち》でくらす者《もの》の大半《たいはん》がロ夕行きをのぞむかもしれんのだ。なまなかなことでは国境越《こっきょうご》えなどできんだろう。・‥・・・それでも、やってみてくれるのなら、この街にいる護衛士《ごえいし》|全員《ぜんいん》をやとおう。バルサさん、ガシェさん、熟達《じゅくたつ》した一流《いちりゅう》の護衛士と評判《ひょうばん》が高い、あんた方《がた》が中心になって、この策《さく》をねりあげてくれんか。」
ガシェほうなずいたが、バルサは首をふった。
「ありがたいですが、わたしは街衆《まちしゅう》にやとわれるわけにはいかないんです。国境《こっきょう》の峠《とうげ》を越《こ》させるところまでは命をはっててつだいますが、それ以降《いこう》は新《しん》ヨゴにとどまらねばならない理由が、わたしにはあるので。」
アオノは顔をしかめていたが、やがて、うなずいた。
「まあ、それでもいいだろう。国境の峠を無事《ぶじ》に越えさせてくれるなら、そこまでの手間賃《てまちん》ははらうよ。」
バルサはかるく頭をさげ、ガシェに目をむけた。ガシェは、老練《ろうれん》な護衛士《ごえてし》らしいきびしい目でバルサをみつめ、ゆっくりとうなずいてみせた。
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6  四路街《しろがい》|炎上《えんじょう》
夕暮《ゆうぐ》れのうす闇《やみ》のなかに、無数《むすう》の火がみえる。
「……なんて数だ。」
となりで、オバルがつぶやいた。
バルサたちは、森のなかにひそんで、四路街《しろがい》から馬で四ダン(約《やく》四時間)ほどのところにある畑地《はたち》をみおろしていた。畑はむざんに踏《ふ》みあらされ、大軍勢《だいぐんぜい》が野営地《やえいち》をきずいている。
風向《かざむ》きによっては、煙《けむり》のにおいだけでなく、馬のにおいもただよってくる。小さな黒い影《かげ》にみえている見張《みは》りの兵士《へいし》たちの動きは機敏《きびん》で、よく訓練《くんれん》された兵であることを感じさせた。野営地の周囲《しゅうい》には、敵《てき》が夜襲《やしゅう》をかけてきてもいっきには突進《とっしん》できないよう、ぐるりと荷馬車《にばしゃ》のようなものが配置《はいち》されていた。
オバルが、バルサに顔をむけて、ささやいた。
「これだけの軍勢《ぐんぜい》が行軍《こうぐん》するとなると、馬の早駆《はやが》けよりはかなり時間がかかるだろう。明朝《みょうちょう》|進軍《しんぐん》をはじめたとして、四路街《しろがい》に着《つ》くのは、明日《あした》の夕刻《ゆうこく》というところかな。」
バルサは、野営地《やえいち》をみつめたまま、こたえた。
「そのくらいの見当《けんとう》だろうね。」
ガシェとバルサは、護衛士《ごえいし》たちを三つの組にわけた。
ガシェが指揮《しき》する一ノ組は、食糧《しょくりょう》や家財《かざい》をのせた荷車隊《にぐるまたい》とともに、口タへ逃《に》げる覚悟《かくご》をきめた人びとをサマール峠《とうげ》に近い山中の谷間《たにま》へ移動《いどう》させ、そこで野営地《やえいち》をつくって待機《たいき》させる。
二ノ組は三名で、ロタ王国《おうこく》との国境《こっきょう》のサマール峠へ偵察《ていさつ》にいき、どれくらいの兵士《へいし》が、どんな配置《はいち》で国境を閉鎖《へいさ》しているか、しらべてくる。
そして、バルサが指揮《しき》するこの三ノ組は、タルシュ軍《ぐん》を偵察する役割《やくわり》をになっていた。
街衆《まちしゅう》は、砦《とりで》の皇国軍《おうこくぐん》が食糧《しょくりょう》を徴集《ちょうしゅう》にきたら、応《おう》じる覚悟《かくご》をきめていた。
皇国軍の兵士たちが満足《まんぞく》するくらいの食糧を大門《だいもん》のところにそろえておき、平伏《へいふく》して彼《かれ》らをむかえ、街を焼《や》くような暴挙《ぼうきょ》にでないようなだめるつもりだと、アオノはいった。
ふたつの軍にはさまれてしまっている四路街《しろがい》の人びとにとって、それしか道は残《のこ》されていなかった。
バルサたちは、早朝《そうちょう》に街《まち》をぬけていったという偵察《》ていさつの騎馬兵《きばへい》たちのひづめのあとを逆《ぎゃく》にたどって街道《かいどう》を南下《なんか》し、とちゅうから森へはいって、夕ルシュ軍《ぐん》の野営地《やえいち》をみおろせる崖《がけ》にでたのだった。
「……こんなに近くまできているとは、思わなかったぜ。」
護衛士《ごえいし》のひとりがつぶやいた。
「いそいで、ひきかえそう。 − のんびり逃《に》げるしたくをしている暇《ひま》なんぞねぇぞ。」
うなずいて、バルサは全員《ぜんいん》に合図《あいず》をすると、立ちあがった。
日が暮れおちた闇《やみ》のなかを、バルサたちは四路街《しろがい》にむかって馬をかけさせた。
できることなら松明《たいまつ》はたきたくなかったが、暗闇《くらやみ》の道《みち》を馬で全力疾走《ぜんりょくしっそう》するのは危険《きけん》すぎる。いまは速度《いま》が、なによりもたいせつだった。バルサは松明をかかげ、先頭《せんとう》をかけた。
ひたすらに馬を走らせ、走らせ……あるところまできたとき、オバルが、ほっとしたような声をあげた。
「屑丘《くずおか》だ。あと半ダン(約《やく》三十分)ぐらいで、街《まち》だ。」
ものの腐《くさ》ったにおいが闇《やみ》のなかにただよっている。ここから、すこしわき道をいったところに街の塵捨《ごみす》て場《ば》 − 通称《つうしょう》屑丘があるのだ。においがひどいだけでなく、夜になると青い光が、ぼうっと宙《ちゅう》をまうという言《い》い伝《つた》えがあって、四路街《しろがい》の子どもらにとっては、肝《きも》だめしにくるような、こわい場所でもあった。
「このにおいをかいで、ほっとするとは思わなかったぜ……。」
オバルが笑《わら》いながらいった瞬間《しゅんかん》、バルサは、ふっとなにかを感じて、馬の手綱《たづな》をひいた。
「とまれ!」
バルサのするどい声に、男たちは、あわてて馬をとめた。
「なんだ?」
「しっ……。」
みじかく制《せい》して、バルサは前方の闇《やみ》をみつめ、耳をすました。
風にのって、かすかに馬のひづめの音がきこえる。
「森にはいりな。−−−だれかくる。」
バルサは地面《じめん》に松明《たいまつ》をおしつけて消し、思いっきり遠くへなげすてた。煙《けむり》のにおいをかげば、人がいることをさとられるからだ。
「仲間《なかま》のだれかが、おれたちに、連絡《れんらく》をつけにきたのかもしれねぇぜ。」
オバルがささやいた。
「そうだとわかれば、でていくさ。」
バルサはささやきかえし、男たちに命《めい》じた。
「馬をしっかりおさえて、しずかにさせな。夕ルシュ軍《ぐん》の斥候《せっこう》だとしても、こちらからは、ぜったい手をだすんじゃない。ただし、弓《ゆみ》だけは用意《ようい》しておきな。待《ま》ち伏《ぶ》せとかんちがいされたら、攻撃《こうげき》してくるかもしれないからね。」
男たちはうなずいたが、ひとりが、ふしぎそうにつぶやいた。
「なんで、タルシュの斥候《せっこう》が、街《まち》のほうからくるんだ?」
オバルが、みじかくこたえた。
「おれたちが野営地《やえいち》をみるために森にはいっているあいだに、すれちがいになったんだろうよ。」
彼《かれ》らが息《いき》をころして、薮《やぶ》にしゃがみこんでみまもるうちに、五|騎《き》の影《かげ》がみえてきた。松明《たいまつ》をもたず、早足ていどで馬をすすめている。
彼らがバルサたちのわきをとおりすぎた、そのとき、馬のにおいをかいだせいだろう、オバルの馬が鼻《はな》を鳴らした。
それは、ごくかすかな音だった。タルシュの斥候《せっこう》たちが早駆《はやが》けしていたら、気づくはずのない音だった。 − だが、その瞬間《しゅんかん》、五騎の影がぴたっと動きをとめ、ひとりが、神業《かみわざ》ともいえるすばやさで弓《ゆみ》に矢《や》をつがえると、音がしたほうに矢をはなった。
矢はオバルの袖《そで》をかすって飛び、おびえた馬がさおだちになった。オバルが弓をかまえたのを手でとめ、バルサは男たちにするどい声で命《めい》じた。
「命じるまで、矢《や》ははなつな!」
そういってから、バルサは弓《ゆみ》をひきしぼり、馬をねらって矢をはなった。矢は馬の肩《かた》をかすって飛び、悲鳴《ひめい》をあげながら馬がさおだちになって斥候《せっこう》は地面《じめん》にふりおとされた。
つぎの瞬間《しゅんかん》バルサがとった行動《こうどう》に、護衛士《ごえいし》たちは度肝《どぎも》をぬかれた。
バルサは街道《かいどう》にとびだし、短槍《たんそう》をかまえながら、斥候たちにヨゴ語《ご》でよびかけたのだ。
「うごくな! おまえたちを矢《や》がねらっている! わずかでもうごけば、命《いのち》はない!」
街道にいる騎馬《きば》は目でみえる的《まと》だったが、斥候たちからは、森の闇《やみ》にひそむ仲間《なかま》たちの姿《すがた》はみえない。弓矢戦《ゆみやせん》では、こちらのほうがはるかに有利《ゆうり》だった。
斥候《せっこう》たちも、それをさとったのだろう。矢をつがえてバルサにむけたまま、身動《みうご》きをとめた。
バルサは、おちついた声でいった。
「こちらには、おまえたちを殺《ころ》す意図《いと》はない。 − 話をきく気はあるか?」
あきらかに正規軍《せいきぐん》ではない女の声と、意外《いがい》な言葉《ことば》に、斥候たちはとまどったように、身《み》じろぎした。
なかのひとり − 最初《さいしょ》に矢《や》を射《い》た騎馬兵《きばへい》がバルサに矢をむけたまま、ききづらいヨゴ語でいった。
「……話をきこう。おまえたちは、何者《なにもの》だ。」
バルサはこたえた。
「わたしらは街《まち》の人たちにやとわれた用心棒《ようじんぼう》だ。街の人たちは、正規軍《せいきぐん》にみすてられ、あんたらタルシュの軍勢《ぐんぜい》に殺《ころ》されるのではないかとおびえている。
街の人びとは、あんた方《がた》を敵《てき》にまわす気は、まったくない。自分たちをみすてた新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》に忠誠《ちゆうせい》なんぞ感じていない。あんたらが街にくるなら、たたかわずにむかえいれるだろう。
あんたらの隊長《たいちょう》に、それをつたえてくれるなら、無事《ぶじ》にあんたらをかえしてやる。」
先頭《せんとう》の男が、矢《や》の先を地面《じめん》におろした。
「 − その話、隊長につたえよう。」
バルサはうなずくと、身《み》をひるがえして森の闇《やみ》にとけこんだ。
斥候《せっこう》たちがゆだんなく弓矢《ゆみや》をかまえ、背後《はいご》を気にしながら去《さ》っていくのをみおくって、オバルがささやいた。
「やつら、ほんとうに、隊長につたえてくれるかな。」
バルサは肩《かた》をすくめた。
「さあね。 − たとえつたえたとしても、隊長《たいちょう》は街《まち》に火をかけることをえらぶかもしれない。
だけど、あのまま連中《れんちゅう》を殺《ころ》しても、あるいは、殺しそこねて連中が逃《に》げかえっても、待ち伏せされたとタルシュ軍《ぐん》は判断《はんだん》しただろう。そうなったら、タルシュ軍は街を敵《てき》とみて、交戦《こうせん》するつもりで進軍《しんぐん》してくる。……それだけは、さけたかったのさ。」
低い声でそういうと、バルサは馬にまたがった。
「さあ、街へかえろう。」
彼《かれ》らは、ふたたび馬にまたがり、夜道《よみち》をかけはじめたが、そろそろ街がみえはじめるというあたりまできたとき、全員《ぜんいん》が、空をみあげて、声をうしなった。
街《まち》の上空《じょうくう》が、赤黒くかがやいている。街が燃《も》えているのだ。 − 砦《とりで》の皇国軍《おうこくぐん》は、食糧《しょくりょう》だけでは満足《まんぞく》せず、火をはなったのだろう。
風にのってただよってくる、刺《さ》すような煙《けむり》のにおいをかぎながら、男たちはぼうぜんと、その空をみつめていた。
「……ちきしょう。」
バルサのかたわらで、オバルがつぶやいた。
「これが、誇《ほこ》り高いヨゴの武人《ぶじん》のやることか……?」
護衛士《ごえいし》になるような男たちは、貧《まず》しい郷士《ごうし》の出身者《しゅっしんしゃ》が多い。最下級《さいかきゅう》の武人《ぶじん》である郷士のなかでは、皇国兵《おうこくへい》として俸給《ほうきゅう》をもらえる武人になれるのは長男だけだ。あとの子どもたちは農民《のうみん》か、商家《しようか》に奉公《ほうこう》にだされて生きていく。
誇《ほこ》りだけは高い彼《かれ》らは、しかし、農民にも奉公人にもなりきれず、親兄弟からしこまれた武術《ぶじゅつ》の腕《うで》をたよりに、護衛士《ごえいし》や用心棒《ようじんぼう》になっていく者《もの》が多かった。
この戦《いくさ》のために徴兵《ちょうへい》がはじまったとき、こういう稼業《かぎよう》の男たちの多くは、徴兵に応《おう》じて、下級兵士《かきゅうへいし》になっていった。だが、流《なが》れ者《もの》の暮《く》らしが身《み》についてしまった者たちは、徴兵をのがれて、四路街《しろがい》のような街《まち》の商家にやとわれる道をえらんだ。
オバルの兄は、皇国兵《おうこくへい》だった。だからこそ、よけいに、オバルには、彼《かれ》らがほんとうに街に火をはなったということが、こたえていた。
バルサは息《いき》をすい、男たちに声をかけた。
「……逃《に》げおくれた連中《れんちゅう》がいるかもしれない。たすけられるようなら、たすけだそう。」
男たちは、うなずいて、馬を走らせはじめた。
しかし、街《まち》にちかづくにつれて、煙《けむり》がすさまじくなり、とても街のなかにははいれないことがわかってきた。熱《ねつ》のせいで風がうずまき、黒煙《こくえん》と炎《ほのお》が、ごうごうと街|全体《ぜんたい》をゆらしている。
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長い歴史《れきし》をきざんだ交易《こうえき》の街《まち》、四路街《しろがい》が、いま、炎《ほのお》のなかに消えさろうとしていた。
「……街にはいるのは、むりだね。 − 谷《たに》へいこう。」
バルサがつぶやくと、男たちは、暗《くら》い顔でうなずいた。
谷へむかう山道には、多くの人影《ひとかげ》があった。
ぎりぎりまで逃《に》げる気になれず、街《まち》に残っていた人びとが、着《き》の身《み》着のままで逃げだしてきたのだった。
バルサたちは、それぞれ松明《たいまつ》をかかげ、その避難民《ひなんみん》の群《む》れを誘導《ゆうどう》しはじめた。
サマール峠《とうげ》への道は、よく整備《せいび》された広い道だったから、夜でもすすむことができたが、ほかの避難民たちと合流《ごうりゅう》させるためには、とちゅうから山道にみちびかねばならない。
おびえ、混乱《こんらん》しきっている避難民たちをみちびくのは、らくな作業《さぎょう》ではなかった。
「……オバル。」
バルサはオバルに声をかけた。
「あんた、ひと足さきにいって、谷にいるガシェに事情《じじょう》を話して、すこし人手《ひとで》をこっちにまわしてくれるよう、たのんでくれないか。」
長時間の早駆《はやが》けでつかれているだろうに、オバルは、つかれた顔もみせずにうなずくと、すばやく山道をかけさっていった。
オバルが仲間《なかま》をつれてもどってきたのは、もう真夜中《まよなか》をすぎる時刻《じこく》だった。
避難民《ひなんみん》をやすませるためにえらんだ谷間《たにま》は、谷川をはさんで、なだらかな草地《くさち》がひろがっている場所だった。昼《ひる》まえから逃《に》げるしたくをはじめていた一番手の避難民たちは、すでに谷間に簡易天幕《かんいてんまく》をはっていたが、ぞくぞくと山道をおりてくる、あらたな避難民たちは天幕などもっていなかった。
バルサは、ガシェをさがしだすと、たがいの事情《じじょう》を説明《せつめい》し、今後《こんご》のことをうちあわせた。ガシェはおちついて街《まち》の炎上《えんじょう》の話をきいていた。
「……四路街《しろがい》が、燃《も》えたか。」
白いものがまじった顎髭《あごひげ》をなでながら、そういうと、ガシュはバルサをみた。
「まあわるいことばかりじゃねぇ。あんたの読みどおり、国境《こっきょう》|警備兵《けいびへい》の大半《たいはん》が夕方《ゆうがた》までに砦《とりで》へうつったぜ。明日《あした》の朝には残《のこ》りもうごきそうだ。国境|越《ご》えは、らくになった。」
バルサは、低い声でいった。
「国境《こっきょう》は越えられても、そのあとがたいへんだろう。 − 着《き》の身《み》着のままで逃《に》げてきた連中《れんちゅう》があれだけ多いと、内輪《うちわ》もめがおきるだろうからね。」
ガシェは肩《かた》をすくめた。
「そこまでは、めんどうみきれねぇ。そういうことは、街衆《まちしゅう》たちにまかせるぜ。」
バルサは苦笑《くしょう》した。これが護衛士《ごえいし》|気質《きしつ》だ。おのれの仕事《しごと》と、そうでないものをきっぱりわけて、よけいなことには心をわずらわさない。
バルサは、さらに、いくつかこまかい話をつめてから、ガシェの天幕《てんまく》をはなれた。
昼《ひる》まえに街《まち》をはなれるとき、マーサに、ガシェたち護衛士の天幕のそばに、天幕をはってくれとたのんでおいた。
四|代《だい》つづいた老舗《しにせ》サマド衣装店《いしょうてん》をすてて異国《いこく》へ逃《に》げる決心《けっしん》をすることは、マーサのような老女《ろうじょ》にとってはとくに、つらいことだっただろう。
それでも、彼女《かのじょ》は、息子《むすこ》から事情《じじょう》をきくや、あっさりといった。
「逃げられるなら、逃げましょう。」
機織機《はたおりき》や布《ぬの》など、衣装店をつづけていくためにたいせつなものだけをえらんで五|台《だい》の荷馬車《にばしゃ》につみ、あとは、食糧《しょくりょう》や天幕《てんまく》などを三台の荷馬車につんで、彼女らは、街をはなれた。
家族《かぞく》のもとにかえりたい奉公人《ほうこうにん》たちはかえし、ついてきたい者《もの》はついてこさせた。
「サマド衣装店《いしょうてん》の看板《かんばん》を天幕《てんまく》に立てかけておきますよ。」
わかれぎわ、マーサは気丈《きじょう》な声でバルサにそういったが、ロもとがかすかにふるえていた。
サマド衣装店《いしょうてん》の看板《かんばん》を立てかけてある天幕《てんまく》はすぐにみつかったが、おもしろいことに、ほかの多くの天幕も看板を立てていた。マーサがやっているのをみて、いい方法だと思ったのかもしれない。あとからやってきた人びとが、松明《たいまつ》をかかげながら、知りあいの看板をさがして歩いている姿《すがた》が、闇《やみ》のなかにちらちらとみえていた。
サマド衣装店の天幕は五つあった。四つは暗《くら》かったが、ひとつだけは、まだ明《あか》るかった。
声をかけながら、その天幕の戸布《とぬの》をもちあげると、マーサと息子《むすこ》のトウノが、顔をあげてこちらをみていた。
「……。バルサさん。」
トウノがあおざめた顔をゆがめて、いった。
「街《まち》が燃やされたって、ほんとうですか。うちのあたりは……?」
バルサは、低い声でこたえた。
「街《まち》|全体《ぜんたい》が、火の海だった。」
マーサは、バルサから目をそらした。うつろな目で、火皿《ひざら》の火が、天幕《てんまく》におどらせている影《かげ》をみている。なにかがぬけて、しぼんでしまったようなその姿《すがた》を、バルサは暗い気もちでみていた。
バルサは、トウノに視線《しせん》をもどした。
「すこし、お話ししたいことがあります。」
トウノが、うなずいた。マーサも、ゆっくりとバルサに目をむけた。
アスラとチキサが、ロタ人からはきらわれ、おそれられているタルの民《たみ》であることや、神封《かみふう》じの話はすでにマーサたちにはうちあけてあったが、そのほかにも、話しておかねばならないことがいくつかあった。
アスラたちと、イーハン王子《おうじ》との関係《かんけい》。そして、ロタ王国《おうこく》の南部と北部の関係。カンバル王が、ロタ王との同盟《どうめい》をきめたことなどを、バルサは、ひとつひとつかたった。
チャグムのことにはふれず、ロタとカンバルの同盟関係が新《しん》ヨゴにどうかかわるかも話さなかったが、これからアスラたちをつれて、マーサとトウノがロタでくらすために、すこしでも助《たす》けになると思うことは、すべて話した。
「ロタにはいったら、最終的《さいしゅうてき》にはイーハン王子《おうじ》の居城《きょじょう》のある、ジタンへむかわれるのがいちばんだろうと思います。北部はゆたかになりつつあるし、なにかおきたときは、イーハン王子ならアスラたちとの縁《えん》があるので、たすけてくださるでしょう。」
マーサは、首をふった。
「それは、よくよくのときだけにするわ。ご縁《えん》の性格《せいかく》からして、できるだけ、その王子さまとアスラたちは、あわせないほうがいいでしょう。」
「……それは、そうかもしれません。」
マーサは、血《ち》の気《け》のない顔に、かすかに笑《え》みをうかべた。
「心配《しんぱい》しないで。ジタンには、したしい取引先《とりひきさき》があるのよ。看板《かんばん》をわけてやった者《もの》が店《みせ》をだしているし。なんとでもなるわ。」
バルサは、マーサをみつめた。
「こんなときに、マーサさんたちに、あの子らを背負《せお》わせてしまって……。」
いいかけたとたん、マーサの目に、つよい光がうかんだ。
「冗談《じょうだん》じゃないわ。どんなときにも、運命《うんめい》をともにする覚悟《かくご》がなかったら、はなから、あずかったりしませんよ。へんな気づかいは、よしてちょうだい。」
そういってから、マーサは、ふいに口調《くちょう》をかえて、かすれた声でいった。
「……あなた、ほんとうにタンダさんをさがしにいくつもり? タンダさんが、どこにいるとしても、そこは戦場《せんじょう》でしょうに……。」
バルサは、なにもいわず、ただ、かすかに微笑《ほほえ》みをうかべた。
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7  去《さ》る者《もの》たち、くる者《もの》たち
翌朝《よくあさ》、国境《こっきょう》の峠《とうげ》をさぐりにいっていた護衛士《ごえいし》たちがもどってきた。
満面《まんめん》に笑《え》みをうかべて、彼《かれ》らは、大声で報告《ほうこく》した。
「国境の兵士《へいし》たちが、全員《ぜんいん》、サマール峠《とりで》をはなれたぞ! さっき早馬《はやうま》がきて、やつらを砦のほうへつれていった!」
それをきいた人びとのあいだから、歓声《かんせい》があがった。
バルサはガシェをみた。ガシェはうなずいた。
「よし。避難民《ひなんみん》たちをうごかすぞ。 − 峠越《とうげご》えだ。」
谷間全体《たにまぜんたい》が、あわただしい、旅立《たびだち》ちの興奮《こうふん》につつまれた。
バルサは、マーサたちの天幕《てんまく》のところへいくと、すこしはなれたところで足をとめて、天幕をたたむてつだいをしているアスラの姿《すがた》をみつめた。
おなじ年ごろの少女と、目でうなずきあいながら、息《いき》をあわせて天幕をたたんでいる。
自分の足で立つことも、ものを食べることもままならず、人のぬけがらのようだったアスラの姿《すがた》が心にうかび、この娘《むすめ》をここまで元気《げんき》にしてくれたマーサへの感謝《かんしゃ》の気もちが、わきあがってきた。
アスラは、もうだいじょうぶだ。 − 苦《くる》しみは骨《ほね》の髄《ずい》にしみこんで残《のこ》りつづけるだろうけれど、いつかきっと、声も、笑顔《えがお》も、とりもどしていくにちがいない。
ふと、視線《しせん》に気づいたように、アスラがこちらをふりむいた。
バルサをみとめて、その大きな目が、ゆれた。
バルサはあゆみよると、そっと手をのばし、アスラの頭を抱《だ》いて、つぶやいた。
「……あんたたちと、いっしょにいってやれなくて、ごめんよ。」
アスラは顔をゆがめ、バルサの胸《むね》に顔をうずめた。
「この戦《いくさ》がおわったとき、わたしが、まだ生きていたら、かならずロタにあいにいく。それまで、元気《げんき》でいておくれ。」
アスラがうなずいたのを胸で感じながら、バルサは長いこと、アスラを抱きしめていた。
よく晴れた日だった。
戦《いくさ》などなかったころは、連日《れんじつ》多くの商人《しょうにん》たちが行《い》き来《き》していた、サマール峠《とうげ》の大門《だいもん》を、荷馬車《にばしゃ》をひいた避難民《ひなんみん》の群《む》れがとおっていく。
春の光をあびて、長く、長くつづいていく群れの、最後《さいご》の一|騎《き》が門《もん》にさしかかるまで、バルサは門のわきで馬の轡《くつわ》をとって、みおくっていた。
最後尾《さいこうび》をうけもっているオバルが、馬をとめてバルサをみおろした。
「バルサさん、おれたちとこいよ。……もどっても、つらい思いをするばっかりだぜ。」
バルサは笑《わら》って、首をふった。
「みんなをたのむ。」
オバルはため息《いき》をひとつつくと、うなずいて、すっと馬の首をまわした。
用心棒《ようじんぼう》|稼業《かぎょう》の者たちは、再会《さいかい》を約《やく》する言葉《ことば》は口にしない。運命《うんめい》にあざわらわれないよう、未来《みらい》をかたらない。
バルサは、心のなかで、彼《かれ》らの幸運《こううん》を祈《いの》った。
この国境《こっきょう》のむこう − ロタ王国《おうこく》は、うまく内戦《ないせん》の危機《きき》をのりこえただろうか。
カンバルの騎馬兵団《きばへいだん》をつれてロタへむかったチャグムは、なにごともなくすすんでいれば、ずいぶんまえに、ジタンに着《つ》いているはずだ。
人を殺《ころ》すことを心底《しんそこ》きらい、兵《へい》を戦場《せんじょう》にみちびかねばならぬ運命《うんめい》をにくんでいたチャグム。彼《かれ》は、もうすぐ、異国《いこく》の兵をひきいてこの国にもどってくるだろう。そして、あのタルシュの大軍勢《だいぐんぜい》とたたかうことになる……。
バルサは、しばし、土《つち》ぼこりをたてて去《さ》っていく群《むれ》れのうしろ姿《すがた》をみつめていたが、やがて、馬の首をひとつたたくと、その背《せ》にとびのった。
砦《とりで》がある方角《ほうがく》の空に、うっすらと煙《けむり》がみえる。タルシュ軍の攻撃《こうげき》がはじまったのだろう。
(……生きていれば、都南街道《となんかいどう》にきずかれた砦。けがをしていれば、タラノ平野《へいや》の戦場《せんじょう》にすておき……。)
ふかく息《いき》をすうと、バルサは国境《こっきょう》の門《もん》を背《せ》にし、馬をタラノ平野の方角《ほうがく》へむけた。
サマール峠《とうげ》をぬけた避難民《ひなんみん》の群《む》れは、山をくだり、ヤムシル街道《かいどう》を北西へむかっていた。この街道をもうすこしいくと、王都《おうと》へむかう道と、イーハン王子《おうじ》の居城《きょじょう》がある北の大きな街《まち》ジタンへむかうラクル道にわかれる。ラクル地方は草原《そうげん》と森林《しんりん》のひろがる地域《ちいき》だが、この道ぞいには、交易市場《こうえきいちば》やトルアンなどの大きな街もあった。
バルサから、この国の内情《ないじょう》をきいていた護衛士頭《ごえいしがしら》のガシェは、街頭《まちがしら》のアオノたちと、とりあえずはジタンをめざそうと話しあっていた。とちゅうでわかれていきたい者《もの》たちは、それでかまわない。いくあてのない者たちは、ジタンをめざす。そういうおおまかな案《あん》が、人びとにつたえられていた。
ロタの牧夫《ぼくふ》たちは、とつぜんあらわれた避難民《ひなんみん》の群《む》れを、目をまるくしてみおくった。事情《じじょう》をきくと彼《かれ》らは同情《どうじょう》し、畑地《はたち》に天幕《てんまく》をはるのはこまるが、牧草地《ぼくそうち》ならばかまわないと、一夜《いちや》の野営《やえい》をゆるしてくれた。
そろそろ、ヤムシル街道《かいどう》の分岐点《ぶんきてん》にさしかかるというところで、避難民の群れからかなり先行《せんこう》して、前方《ぜんぽう》をさぐっていた護衛士《ごえいし》は、ふっと眉《まゆ》をひそめた。
道のはるか前方で、なにかがキラキラひかっている。みつめるうちに、その光の正体《しょうたい》がみえてきた。彼は、かすかにロをあけ、目をみひらいてそれをみつめていたが、やがて、手綱《たづな》をひくと、馬を反転《はんてん》させて、避難民《ひなんみん》のほうへかけもどっていった。
名をよばれて、ガシェは顔をあげた。先行役《せんこうやく》の若者《わかもの》が、あわてた顔で馬をよせてきた。
「どうした。」
「騎馬《きば》がきます。前方《ぜんぽう》から。すごい数です。」
「騎馬? 盗賊か?」
「いえ、きれいな鎧《よろい》をまとっています。正規兵《せいきへい》の軍団《ぐんだん》にみえました。」
ガシェは顔をしかめ、わずかのあいだ、若者《わかもの》をみていたが、やがて、てきぱきと護衛士《ごえいし》たちに指示《しじ》をあたえた。
「手分《てわ》けして、群《む》れの最後尾《さいこうび》まで伝令《でんれい》をつたえていけ。道をおりて、わきの草原《そうげん》で待機《たいき》しろとつたえろ。避難民《ひなんみん》たちが草原におりたら、おれたちは下馬《げば》して、彼《かれ》らの前面《ぜんめん》にならんで、騎馬隊《きばたい》と避難民《ひなんみん》の間に立つ。わかったか!」
護衛士《ごえいし》たちはうなずいて、馬のわき腹《ばら》をけると、ちっていった。
土ぽこりのなかに、光がみえたと思うまもなく、道の彼方《かなた》から騎馬《きば》の大軍勢《だいぐんぜい》が姿《すがた》をあらわした。騎馬|兵団《へいだん》は、みるみるうちにちかづいてくる。
草原《そうげん》におりて、不安《ふあん》に身《み》をちぢめながら、避難民《ひなんみん》たちは、早足《はやあし》ですすんでくる騎馬兵団をみつめていた。
さきがけの一団《いちだん》が、避難民たちに気づき、おどろいた顔で馬をとめた。
なかのひとりが、避難民たちをまもるようにならんでいるガシェたちにヨゴ語《ご》でよぴかけた。
「おまえたちは、ヨゴ人か?」
ガシェがこたえた。
「新《しん》ヨゴから逃《に》げてまいりました。われわれは、四路街《しろがい》から焼《や》けだされた避難民です。」
ロタの騎兵《きへい》たちは顔をみあわせてなにか相談《そうだん》していたが、すぐに三|名《めい》ほどが、本隊《ほんたい》へひきかえしていき、残《のこ》りのさきがけ隊《たい》は、ふたたび道をさきのほうへすすみはじめた。
もどっていった三名が本隊《ほんたい》のなかに消えると、やがて、本隊の動きがゆるやかになった。早足ではなく、並足《なみあし》で馬をすすめながら、ゆっくりとすすんでくる。
先頭《せんとう》の騎馬武者《きばむしゃ》がちかづき、その顔がみえはじめたとき、ガシェは目をまるくした。
それはふしぎな光景《こうけい》だった。先頭の騎馬武者の周囲《しゅうい》には、彼《かれ》をまもるように、たくましい騎馬武者たちが馬をならべているが、彼らは、ロタ騎兵《きへい》だけではなかった。半数が、独特《どくとく》の短槍《たんそう》をもつカンバル騎兵だったのだ。
そして、ロタとカンバルの騎馬兵をひきい、みがきあげられたカンバルふうの胴当《どうあ》てをまとっている先頭の騎馬武者は、なんと、ヨゴ人だった。しかも、若《わか》い。まだ二十歳《はたち》にもなっていないようにみえる。
目のわきに、刀傷《かたなきず》があるその若者《わかもの》からみおろされたとき、ガシェは、おもわず背《せ》をのばした。……そうせずにはいられぬなにかが、その若者にはあった。
「新《しん》ヨゴから逃《に》げてきたときいたが、頭《かしら》は、そなたか。」
貴族階級《きぞくかいきゅう》の話し方だった。ガシェは、まばたきして、うなずきかけ、それから目で、街頭《まちがしら》のアオノをさがした。アオノが、あわてたようにかけよってくるのをむかえて、ガシェはその肩《かた》を押《お》しながら、若者にこたえた。
「わたしは、護衛士頭《ごえいしがしら》です。こっちが、街頭です。」
若者《わかもの》はうなずいた。
「四路街《しろがい》の者《もの》たちだそうだな。なにがおきたのか、きかせてくれ。」
アオノが、これまでの事情《じじょう》をかたるのを、若者はだまって、ときおりうなずきながらきいていたが、新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》が街《まち》に火をはなったという話をきいたとたん、その目に、なんともいえぬ色がうかんだ。 − かなしみと、怒《いか》りとが、その目の底《そこ》にひかっていた。
アオノが話しおえると、若者は、無言《むごん》で避難民《ひなんみん》たちをみまわした。
そして、ふいに馬からおりた。
彼《かれ》をまもるように周囲《しゆうい》をかこんでいた騎馬兵《きばへい》たちが、あわてて、いっせいに下馬《げば》しようとするのを、若者《わかもの》はふりかえってとめた。そして、ロタ語《ご》でいった。
「みなに半《はん》クルン(約《やく》三十分)休憩《きゅうけい》をとらせてくれ。カーロン副将《ふくしょう》とカーム副将は、わたしとともに、この場にいてくれ。……アラク、文書《ぶんしょ》をしたためる。一式《いっしき》をもってきてくれ。」
騎馬兵たちが、きびきびとしたしぐさで命令《めいれい》にしたがうのをみとどけ、若者はまた、アオノのほうをむいた。若者は兜《かぶと》をとり、わきにかかえると、しずかな声でいった。
「そなたらに、文書をわたす。イーハン王子への文書《ぶんしょ》だ。戦《いくさ》がおわるまで、わが国からの避難民《ひなんみん》をうけいれてもらうよう、殿下《でんか》におねがいする。ジタンに着《つ》いたら王城《おうじょう》へおもむき、この文書をわたすがいい。避難民たちがロタの民《たみ》にめいわくをかけぬよう、くれぐれも心《こころ》して、彼《かれ》らをみちびいてくれ。」
組《く》み立《た》て式《しき》の机《つくえ》と椅子《いす》がはこばれてきた。若者《わかもの》は椅子《いす》にすわると、羊皮紙《ようひし》にロク語《ご》で文を書いていった。
じっと若者の手もとをみつめていたアオノは、文を書きおえた彼《かれ》が、末尾《まつび》にしたためた署名《しょめい》をみた瞬間《しゅんかん》、息《いき》をのんだ。
こおりついたように自分をみているアオノを、若者はしずかにみつめかえした。
アオノが、目をおおうために手をうごかすのをみて、若者はいった。
「目をおおわずともよい。 − つぶれるものなら、もうつぶれておるだろう。あれは、言い伝《つた》えにすぎぬ。」
アオノはぶるぶるふるえながら、それでも目をふせた。
「あ……あなたさまは、い……いきて……。」
かすれ、あわれなほどにふるえている彼《かれ》に、若者はこたえた。
「生きている。 − 海から、生きてもどった。」
そして、立ちあがると、若者は文書《ぶんしょ》をきれいに巻いてひもをむすんだ。従者《じゅうしゃ》がとかした蜜蝋《みつろう》をそのひもにたらすと、若者は腰の短剣《たんけん》をぬき、柄頭《つかがしら》をその蜜蝋におしつけて封印《ふういん》をほどこした。それから、馬の鞍《くら》につけていた荷《に》をひらき、なかからずっしりと重《おも》たげな袋《ふくろ》をとりだして、それを巻物《まきもの》とともにアオノにわたした。
「これを避難民《ひなんみん》たちのために役《やく》だてよ。」
そして、顔をあげると、おおぜいの者《もの》たちにきこえるよう、はっきりとした声でいった。
「家を焼《や》かれ、異国《いこく》でくらすのは、つらいことだろう。しかし、その暮らしは、永久《えいきゅう》につづくわけではない。
カンバルとロタの王《おう》たちは、北の大陸《たいりく》をタルシュからまもるために兵《へい》をあげた。われらは、これから新《しん》ヨゴにむかう。 − そなたらが、故郷《ふるさと》へかえることができる日が、かならずくる。
それまで、たえてくれ。」
どよめきがおこった。そのどよめきのなかで、若者《わかもの》は馬にまたがり、背後《はいご》の兵士《へいし》たちをふりかえった。
「サマール峠《とうげ》の封鎖《ふうさ》がとけている。いそぐぞ。」
若者の言葉《ことば》に、副将《ふくしょう》たちがうなずいた。
うごきだした騎馬兵団《きばへいだん》を、避難民《ひなんみん》たちは、すがるような目をしてみおくった。だれかが、歓声《かんせい》をあげ、その歓声があたりをゆらしはじめた。
その歓声を背《せ》にうけながら、若者《わかもの》は、痛《いた》みをこらえるような暗《くら》いまなざしで、まっすぐに前をみつめていた。
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1  帰郷《ききょう》
故郷《ふるさと》をはなれて、二年。
サマール峠《とうげ》をぬけて新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》へ足を踏《ふ》みいれたとき、チャグムは、つかのま、その山河《さんが》の緑《みどり》に目をうばわれた。これまでのぼってきた山道の風景《ふうけい》となんのかわりもないはずなのに、なぜか、その新緑《しんりょく》が目にしみるような気がした。
春の日がかたむき、若葉《わかば》の葉さきが、うす赤くかがやいている。
「……煙《けむり》は、みえませんね。」
かたわらでカームがつぶやいた。
カンバル兵を主体《しゅたい》とした後方部隊《こうほうぶたい》をひきいている指揮官《しきかん》ハーグから、チャグムの近衛隊《このえたい》の指揮をまかされたカームは、つねに、チャグムのかたわらからはなれなかった。
チャグムの左わきで馬をすすめているロタ人の武将《ぶしょう》カーロンが、歯ざれのよい口調《くちょう》でいった。
「避難民《ひなんみん》の話からすると、タルシュの軍勢《ぐんぜい》が砦《とりで》の攻撃《こうげき》をはじめたのは、せいぜい五日《いつか》まえ。わずか一日、二日《ふつか》で、砦をおとしたか……。」
チャグムはカーロンとカームにいった。
「このそばに、避難民《ひなんみん》たちが天幕《てんまく》をはったという谷間《たにま》があるはずだ。今夜《こんや》は、そこで野営《やえい》をはろう。斥候《せっこう》をだして砦のようすをさぐり、朝になってから砦にむかおう。」
ふたりの副将《ふくしょう》は、うなずいた。
野営地《やえいち》の天幕《てんまく》のなかで眠《ねむ》りにつくときだけ、チャグムはひとりになることができる。一日じゅう身《み》につけている胴当《どうあ》てをはずし、ぬらした手ぬぐいで身をぬぐってから寝床《ねどこ》にはいると、すっと身体《からだ》がらくになる。
それでも、眠りはなかなかおとずれてこなかった。野営地のざわめきをききながら、チャグムは、暗い天幕をみつめていた。
(……とうとう、かえってきた。)
二年ものあいだ、ねがいつづけてきたことが、ようやく現実《げんじつ》になろうとしている。
ロタ王《おう》の代理《だいり》をつとめているイーハン王子《おうじ》は、約束《やまそく》をまもってくれた。
ロタ王国《おうこく》とカンバル王国が同盟《どうめい》をむすび、北の大陸《たいりく》をタルシュ帝国《ていこく》の侵略《しんりゃく》からまもるために、総力《そうりょく》をあげるという宣言《せんげん》を、発《はっ》してくれたのだ。
ジタンの城《しろ》であったカシャル(猟犬《りょうけん》)の頭領格《とうりょうかく》の男 − 鷹使《たかつか》いスファルが、鷹便は、帆船《はんせん》の三|倍《ばい》の速《はや》さで空をゆくと、いっていた。このしらせは、ひと月もすれば、タルシュ帝国《ていこく》にいるラウル王子《おうじ》のもとにつたわるだろう。
そのころまでには、北の大陸《たいりく》は大きくかわっているはずだ。 − かえなくてはならない。
チャグムがカンバル王《おう》からの同盟同意書《どうめいどういしょ》をたずさえ、一万五千もの騎兵《きへい》をつれてジタンへ着《つ》いたというしらせは、あっというまに鷹便《たかびん》で諸侯《しょこう》へつたえられた。
そのしらせは、それまで南部諸侯|側《がわ》にかたむいていた諸侯の気もちをしぼませ、タルシュの密偵《みってい》たちも、すばやく手をひいてしまった。
まったく勝ち目がなくなったことをさとったスーアン大領主《だいりょうしゅ》をはじめ南部の大領主たちは、兵《へい》をとき、王城《おうじょう》へおとずれて、病床《びょうしょう》のロタ王にあらためて忠誠《ちゆうせい》を誓《ちか》ったが、さしもの寛大《かんだい》なロタ王も、こんどばかりは彼《かれ》らをゆるしはしなかった。
スーアンたちおもだった南部の大領主は反逆《はんぎゃく》をくわだてた罪《つみ》で投獄《とうごく》され、王は彼らの兵力《へいりょく》をすべて、王|直属《ちょくぞく》の王国軍《おうこくぐん》に編入《へんにゅう》した。そして、この南部の兵たちに、領主たちがふたたび領土《りょうど》を安堵《あんど》されるかどうかは、おまえたちのはたらきにかかっていると告《つ》げたのだった。
ロタ王の容態《ようたい》は思わしくなく、イーハン王子が、兄のかわりに兵力《へいりょく》のふりわけをおこなった。
まず、南部と北部の兵士《へいし》を混成《こんせい》し、その約《やく》九|万《まん》の総兵力《そうへいりょく》を三つにわけた。ロタ王国《おうこく》をまもる(守備兵団《しゅびへいだん》)二万五千。サンガル半島《はんとう》に派兵《はへい》して、新《しん》ヨゴ皇国《おうみく》を攻《せ》めようとしているタルシュ軍《ぐん》の補給線《ほきゅうせん》を断《た》つ壁《かべ》をつくるための、(サンガル攻略兵団《こうりゃくへいだん》)は、海軍《かいぐん》をふくめて五万。
そして、イーハン王子は、チャグムに、一万五千もの(新ヨゴ皇国|守護《しゅご》兵団)をあたえることを、兄に進言《しんげん》してくれたのだった。ロタ王ヨーサムは弟の進言をみとめ、チャグムに軍をひきいるよう文書《ぶんしょ》でつたえてきた。
病床《びょうしょう》にあるヨーサム王の言葉《ことば》を口述筆記《こうじゅつひっき》したその手紙は、チャグムの心を芯《しん》からはげましてくれた。
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− あなたの故国《ここく》がおちれば、隣国《りんごく》にタルシュ軍《ぐん》の足場《あしば》がきずかれてしまう。
新《しな》ヨゴ皇国《おうこく》をすくうことは、すなわち、ロタとカンバルをすくうことでもある。
タルシュの遠征軍《えんせいぐん》、総数《そうすう》二十|万《まん》というが、じっさいにサンガル半島《はんとう》に上陸《じょうりく》している兵数《へいすう》は六万ていど。そのなかで、すでに新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》に侵攻している兵は、約《やく》三万。
これから艦隊《かんたい》がくるとしても、サンガルの島々《しまじま》の制圧《せいあつ》のために、島に残《のこ》さねばならぬ兵《へい》も多いはず。
そして、われらが総力《そうりょく》をあげてタルシュとぶつかり、彼《かれ》らの侵略《しんりゃく》をくいとめれば、機《き》をみるに敏《びん》なサンガルは、かならずや、また、こちら側《がわ》になびこうとするだろう。
ひとつの駒《こま》を取ることで、多くの駒がつぎつぎに自分の色になっていくタアルズ(遊戯盤《ゆうぎばん》をつかう遊戯《ゆうぎ》)のように、運命《うんめい》の風向《かざむ》きというものは、わずかに変化《へんか》させただけで、つぎつぎと大きな変化をうみだすものだ。その波《なみ》を、ともにおこそうではないか。
チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》、あなたがうごかした一手《いって》は、かならずや、北の運命《うんめい》をかえる……。
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イーハン王子《おうじ》は、兄の手紙を読むや、チャグムに自分の腹心《ふくしん》カーロンをひきあわせた。
カーロンは、まだ三十。鋭敏《えいびん》な男で、戦術《せんじゅつ》の才にめぐまれているとイーハンはいい、彼《かれ》を副将《ふくしょう》にして、北部|諸侯兵《しょこうへい》|主体《しゅたい》の(新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》|守護兵団《しゅごへいだん》)をうごかせるよう、すばやく手配《てはい》してくれたのだった。
イーハン王子は、また、カンバルの遠征軍《えんせいぐん》の指揮官《しきかん》にも、チャグム皇子《おうじ》をたすけて、新ヨゴ皇国をすくうためにたたかう気はないかと、打診《だしん》してくれた。
カンバルの騎馬兵団《きばへいだん》一|万《まん》五|千《せん》をひきいてきたムロ氏族出身《しぞくしゅっしん》の(王《おう》の槍《やり》)ハーグは、これをきくや、深くうなずき、即座《そくざ》に応《おう》じた。
「われらは、タルシュ軍《ぐん》の侵略《しんりゃく》からわが国をまもるために派遣《はけん》された軍。国を発《た》つときに、すでに王から、このような場合《ばあい》の裁量権《さしりょうけん》をあたえられております。カンバル軍が、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の南に敵《てき》の陣《じん》をきずかれぬようたたかうのは、とうぜんのことです。」
無骨《ぶこつ》な髭面《ひげづら》をゆがめて、そういったハーグの言葉《ことば》をきいた瞬間《しゅんかん》、チャグムは、ロタ、カンバル、そして、新ヨゴが、大きなひとつの国であるような、ふしぎな感覚《かんかく》をおぼえた。
ロタとカンバルは、ゆるやかに手をつなぎあい、大波《おおなみ》をのりきろうとしている。そして、その手を、自分にものばしてくれているのだ。
ロタとカンバル、あわせて三|万《まん》の兵士《へいし》たちが、こうして、チャグムとともに、新ヨゴへむかうことになったのである。
すでに、(サンガル攻略兵団《こうりゃくへいだん》)五万のうち、陸軍《りくぐん》四万は、ナバル峠から新ヨゴ側《がわ》にはいり、南下《なんか》をはじめているはずだ。海軍も、あらたな艦隊《かんたい》の上陸《じょうりく》をふせぐために、出航《しゅっこう》している。
彼らが、タルシュ軍《ぐん》がぞくぞくと新ヨゴにはいってくるのをふせぎ、補給線《ほきゅうせん》を断《た》ってくれれば、新ヨゴを攻《せ》めているタルシュ軍は孤立《こりつ》する。 − その孤立したタルシュ軍を背後《はいご》からおそって殲滅《せんめつ》することが、チャグムたちの使命《しめい》だった。
タラノ平野《へいや》の緒戦《しょせん》で、新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》がどんなふうに惨敗《ざかぱい》したか、チャグムは、新ヨゴに潜入《せんにゅう》していたカシャル(猟犬《りょうけん》)の報告《ほうこく》で知った。
約《やく》三|万《まん》のタルシュ軍と約二万五千の新ヨゴ皇国軍が激突《げきとつ》し、タルシュ側《がわ》の死者《ししゃ》、負傷者《ふしょうしゃ》はおよそ八千人。新ヨゴの死者、負傷者はその約三|倍《ばい》、なんと二万三千人にものぽったという。生きのこり、まだ戦力《せんりょく》となる兵士《へいし》は都南街道《となんかいどう》の砦《とりで》に退却《たいきゃく》した。
都南街道か、青弓川《おあゆみがわ》ぞいをのぼるのが、都攻《みやこぜ》めの早道だ。皇国軍《おうこくぐん》はタルシュがその道をとると考えたのだろうが、じっさいにタルシュがとったのは、かなり遠《とお》まわりになる、この四路街《しろがい》をとおる道筋《みちすじ》だった。
カシャル(猟犬《りょうけん》)の報告《ほうこく》によれば、新ヨゴ皇国軍がきずいた砦《とりで》のなかには、急《きゅう》ごしらえの粗雑《そざつ》なものがあるという。
ラウル王子《おうじ》は、宮廷《きゅうてい》に内通者《ないつうしゃ》がいるといっていた。ヒュウゴのような密偵《みってい》もたくさん潜入《せんにゅう》している。タルシュ軍《ぐん》は、どこが攻《せ》めやすいか、よく知っているにちがいない。
タルシュ軍は、いまも、都《みやこ》をめざして攻めのぼっている……。
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− そなたの親族《しんぞく》が住む宮《みや》に火をかけ、そなたの母の耳《みみ》をそぎ、妹の手足を斬《き》りおとして、その泣《な》きさけぶ声をそなたにきかせよう。
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ラウル王子《おうじ》の声が、耳の奥《おく》にこだました。
母と妹の顔が心《こころ》にうかび、チャグムはぎゅっと目をつぶった。自分がまにあわなかったら、どうなるか、それを思ってはならない……
馬が鼻《はな》を鳴らす音、カツ、カツとひづめを鳴らす音。不寝番《ふしんばん》の兵士《へいし》たちが歩くたびにきこえる、金具《かなぐ》の響《ひび》き。たくさんの男たちが、この闇《やみ》のなかでよこたわっている。 − 彼《かれ》らの気配《けはい》につつまれて、チャグムは、あさい眠《ねむ》りにおちていった。
夜半《やはん》から降りはじめた霧雨《きりさめ》が、夜があけても降りつづいた。
砦《とりで》の状況《じょうきょう》をさぐりにいって、もどってきた斥候《せっこう》たちは、あおざめた顔で、チャグムの前にひざまずくと、砦はかなりまえに陥落《かんらく》したようすであること、タルシュ軍《ぐん》の気配《けはい》はまったくないことを告《つ》げた。
斥候は、口ごもりながら、チャグムにいった。
「殿下《でんか》、なにとぞ、本日は、馬車《ばしゃ》にて進軍《しんぐん》されますよう……。」
チャグムは眉《まゆ》をひそめた。
「なぜだ。このくらいの雨なら、カッル(マント)をかぶれば、気にならぬ。」
「いえ、雨のことではございません。ただ、砦《とりで》のありさまは、ごらんにならないほうが……。」
チャグムは首をふった。
「気づかいは、ありがたいが、わたしはみなとともに馬ですすむ。 − 大儀《たいぎ》であった。」
これまでとおなじように、カーロンやカームとともに馬をすすめていたチャグムは、あるところまできた瞬間《しゅんかん》、はっとした。
はじめに感じたのは、においだった。 − 胸《むね》がわるくなるような、ものが腐《くさ》ったにおい。そして、うすぐらい霧雨《きりさめ》のなかをまいとぷ鳥の羽音《はおと》がきこえはじめ、やがて、その光景《こうけい》が目にとびこんできた。
この世《よ》の光景とは、思えなかった。
るいるいと、みわたすかぎり死体《したい》がちらばっている。その死体をついばんでいた鳥たちが、さきがけの兵士《へいし》たちにおどろいて、いっせいに飛びたつのがみえた。
かたわらで、カームがのどを鳴らして口をおさえた。さきがけしていた兵のひとりが、馬をとびおりて、吐いているのがみえた。
「……殿下《でんか》、やはり、馬車《ばしゃ》へ……。」
こわばった顔でチャグムをふりかえって、カーロンはおどろいた。
血《ち》の気《け》のないチャグムの顔に、はげしい怒《いか》りの色がうかんでいたからだ。チャグムは無言《むごん》で兜《かぶと》をぬぐと、鞍袋《くらぶくろ》からシュマ(風よけ布《ぬの》)をとりだし、それで口と鼻《はな》をおおった。そのあいだも、馬の足をゆるめようとはしなかった。
死体《したい》を踏《ふ》まずには、すすめなかった。チャグムは歯をくいしばって、おびえている馬の首をさすりながら、死体の海をわたっていった。
砦《とりで》の下にちらばっているこの死体は、みな、タルシュの鎧《よろい》を身《み》にまとっていた。
矢《や》が何本もつきたった死体、砦の下には、煮《に》え湯《ゆ》をあびてとけ、油をかけられて焼《や》かれた死体……。
「……タルシュ人は。」
かすれた声でカームがいった。
「赤い顔をしていると、きいたが、この死体《したい》の顔は、ヨゴ人ににている………。」
チャグムが、つぶやいた。
「それは、ヨゴ枝国兵《しこくへい》だ。 − そっちの……兵士《へいし》たちは、オルム枝国兵だ。胸《むね》の紋章《もんしょう》に、見覚《みおぼ》えがある。」
タルシュ人の死体《したい》はかぞえるほどしかなく、死体のほとんどは、ヨゴ人かオルム人だった。
ふいに、チャグムは馬をとめて、つぶやいた。
「……これが、タルシュの枝国《しこく》になった民《たみ》の、運命《うんめい》だ。」
背後《はいご》につづく兵《へい》たちをふりかえり、チャグムはさけんだ。
「……これが、タルシュの枝国になった民の運命だ! 異国《いこく》でくちはて、鳥についばまれ……。」
チャグムの頬《ほお》を、涙《なみだ》がつたった。
「なんのための死《し》だ? − いったい、なんのための死だ?」
カーロン副将《ふくしょう》がチャグムの肩《かた》をつかんだ。チャグムは涙《なみだ》をぬぐい、前をむいた。そして、ふたたび死体《したい》を踏《ふ》みながら、大きく割《わ》れている砦《とりで》の城門《じょうもん》へむかった。
砦のなかは、外よりも、すさまじいありさまだった。
外に死んでいる兵士《へいし》たちの何倍《なんばい》もの新《しん》ヨゴ皇国兵士《おうこくへいし》の死体が、切りさかれ、焼《や》かれ、つぶされて、散乱《さんらん》していた。
火をかけられた砦は黒く焼《や》けただれた残骸《ざんがい》となり、消《け》し炭《ずみ》のようになった遺体《いたい》が、おりかさなって、たおれている。
あまりにむごい光景《こうけい》のなかにいると、心がにぶくなっていくのだろうか。
いつしか、チャグムはにおいを感じなくなっていた。
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目の前にみえている光景《こうけい》から、色が消えていた。
手足も首も顔も冷《つめ》たい。胸《むね》にぶあつい板《いた》をおしつけられているようで、息《いき》が苦《くる》しかった。
彼《かれ》らを、こんな目にあわせたのは、父と、父をとめることのできなかった自分たちだ。
馬をすすめながら、チャグムは、背後《はいご》をふりかえった。
多くの騎馬兵《きばへい》の列《れつ》が、チャグムの背後にしたがって、すすんでくる。霧雨《きりさめ》にけぶる、破壊《はかい》された砦《とりで》のなかを、蟻《あり》の大群《たいぐん》のようについてくるその兵士《へいし》たちをみつめ、チャグムは、こみあげてくるふるえを、ひっしにおしころした。
あと、ほんの数日後《すうじつご》には、タルシュ軍《ぐん》の背後につく。この兵士たちに突撃《とつげき》を命《めい》じ……みずからも突撃していくのだ。
青い雨のなかで、チャグムは、つかのま目をとじた。
霧雨《きりさめ》とともに、肌《はだ》に死臭《ししゅう》がしみこんでくるような気がした。
はるかむかしの記憶《きおく》 − おぼえているとも思っていなかった、侍従《じじゅう》の言葉《ことば》が、ふいに耳の底《そこ》にきこえてきた。
[#ここから2字下げ]
− 天子《てんし》は神《かみ》の御子《みこ》。この世のいっさいの穢《けが》れにふれることなく、この世のだれよりも清《きよ》い魂《たましい》であられます。
[#ここで字下げ終わり]
その声にひきだされたように、シュガの言葉《ことば》がきこえてきた。
[#ここから2字下げ]
− 殿下《でんか》、帝《みかど》は、人ではないのですよ。……下《しも》じもの者《もの》とは、まったくちがう、白い綿《わた》でくるまれたような清《きよ》らかな魂《たましい》であるからこそ、ヨゴの人びとは、帝を国の魂としてもちつづけるのです。そういう帝がおられるこの国を、清らかなものと、ほこれるのです……。
[#ここで字下げ終わり]
(わたしは死臭《ししゅう》を身《み》にまとい、屍《しかばね》を踏みながらあゆみ、これから血《ち》で、この身をよごす……。)
天《てん》をあおいだチャグムは、小さな鷹《たか》が雨をついて滑空《かっくう》し、自分をめざしてまいおりてくるのに気づいた。
はっと手をさしのべると、手甲《てっこう》の上に、その鷹はふうわりとおりたち、一、二度、翼《つばさ》をはばたかせて身体《からだ》を安定《あんてい》させると、ゆっくりと翼をたたんだ。
マロ鷹だった。その目は、きみょうに人のまなざしににた表情《ひょうじょう》をたたえている。
「……スファルか?」
カシャル(猟犬《りょうけん》)の頭領格《とうりょうかく》のスファルは、鷹《たか》に魂《たましい》をのせられるといっていたのを思いだして、よびかけると、鷹《たか》は、チャグムにこたえるように、ピィと鳴いた。
足についている金属《きんぞく》の筒《つつ》をはずすと、小さな文字《もじ》がびっしり書かれた布《ぬの》がはいっていた。図《ず》もえがかれている。
「スファルからのしらせですか?」
カーロンがチャグムの手もとをのぞきこんだ。カームも馬をよせてきた。
それは、たしかに、スファルからのしらせだった。
文を読みおえて、チャグムはつぶやいた。
「この砦《とりで》を攻《せ》めたタルシュ軍《ぐん》は、すでにヤズノ砦にせまっている。ヤズノ砦をおとされたら、あとは、都《みやこ》まで砦はない。」
あおざめた顔で、チャグムはカーロンをみた。
「それだけではない。ロタの兵団《へいだん》が封鎖《ふうさ》するまえに、一|万《まん》二|千《せん》のタルシュ軍が新《しん》ヨゴ南部に進軍《しんぐん》していたそうだ。その軍は、タラノ平野《へいや》で二千の兵をおいて補給地《ほきゅうち》をつくらせ、残《のこ》りの一万をひきいて、東側《ひがしがわ》から都へむかっている。」
スファルがえがいてきた図をみつめ、カームがぐっと眉根《まゆね》をよせていった。
「西と東から、都をはさみうちにするつもりか。」
カーロンが、低い声でいった。
「この砦《とりで》の攻防戦《こうぼうせん》でうしなわれたタルシュ軍《ぐん》の兵力《へいれょく》は、多くても数百《すうひゃく》というところ。このさきにいる、西側《にしがわ》から都《みやこ》をめざしている兵力だけでも、二|万《まん》はいると考えねばなりません。」
それをたおせたとしても、さらに東から一万の兵がおそってくる…・‥。
しばし、だまって考えていたチャグムは、やがて目をあげてカーロンをみた。
「まずは、われらの前方《ぜんぽう》にいる軍勢《ぐんぜい》をたおすことを考えよう。なんとしても、タルシュの軍勢よりさきに、都へはいらねばならぬ。」
チャグムは、雨ににじみはじめた図《ず》に目をおとした。
東と西から都にせまっている黒い線が、獣《けもの》が獲物《えもの》にくらいつこうと、牙《きば》をむいている姿《すがた》にみえた。 − このふたつの牙がとじるまえに、片方《かたほう》の顎《あご》をくだかねばならない。
チャグムは、布《ぬの》と筒《つつ》をカーロンにわたすと、マロ鷹《たか》の頭をそっとなでて、つぶやいた。
「スファルよ、感謝《かんしゃ》する。どうか、これからも、われらの目になってくれ。」
鷹はチィ、と鳴いて、翼《つばさ》をひろげた。そして、チャグムの腕《うで》から飛びたっていった。
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2  チャグムの初陣《ういじん》
うなりをあげて、岩《いわ》が飛んできた。
砦《とりで》の上部にならんでいる弓兵《ゆみへい》の列《れつ》に、かたい音をたててその岩がぶつかり、弓兵たちが、はねとばされ、つぶされるのを、ラクサム少将《しょうしょう》はふるえながらみつめていた。
「ひるむな! 火矢《ひや》を射《い》かけろ!」
のどをふるわせてラクサムはさけんだが、なんども岩をうちこまれた石壁《いしかべ》ははしがぼろぼろにくずれ、弓兵は身体《からだ》をかくす場所もなく、みるまに矢で射ぬかれ、岩にくだかれて死《し》んでいく。
このヤズノ砦《とりで》は河原《かわら》が近く、タルシュ軍《ぐん》がアルム(投石機《とうせきき》)の弾《たま》にする、手ごろな岩がたやすく手にはいった。
ドロドロと鳴りひびく太鼓《たいこ》の音とともに、夕暮《ゆうぐ》れの光のなかに、投石機があらわれたとき、ラクサムはわが目をうたがった。山をこえて進軍《しんぐん》してくる遠征軍《えんせいぐん》が、あんな巨大《きょだい》なものをひきずってくるとは思ってもいなかったからだ。
ラクサムには、知りようもなかったが、アルム(投石機《とうせきき》)はくみたてることができる木製《もくせい》の機械《きかい》だった。解体《かいたい》して荷馬車《にばしゃ》ではこび、いざ砦《とりで》をせめるときに、矢《や》がとどかぬ位置《いち》でくみたてる。こういう機動力《きどうりょく》も、タルシュ軍《ぐん》の強さの秘密《ひみつ》だった。
さらに、タルシュ軍は、かならず夜に砦攻《とりでぜ》めをおこなった。
火矢《ひや》をうちこめば、砦の内部《ないぶ》にある木製《もくせい》の城砦《じょうさい》は、闇《やみ》を背景《はいけい》に燃《も》えあがる。タルシュ軍からは、はっきりと目標《もくひょう》がみえるが、砦側《とりでがわ》からは、どれほどの兵《へい》が、どんなふうに展開《てんかい》しているのか、闇にまぎれてみえづらい。
まずは、アルム(投石機《とうせきき》)で、弓兵《ゆみへい》がならんで矢を射られる場所をくずし、つぎに岩のかわりに油樽《あぶらだる》をうちこんでから火矢《ひや》を大量《たいりょう》に射《い》こみ、内側から城門《じょうもん》を火であぶっておいて、破城槌《はじょうつち》でいっきに城門をぶちやぶる。 − そういう方法で、タルシュ軍は、これまで多くの砦をおとしてきたのだった。
城門《じょうもん》に破城槌《はじょうつち》があたる、にぶい音がひびきわたった。
弓兵《ゆみへい》たちが、ひっしに破城槌の担《にな》い手《て》たちを弓で射ているが、その弓兵たちがいる城壁《じょうへき》に、黒い影《かげ》がのびてくるのをラクサムはみた。
ラクサムは刀《かたな》をふりあげて、かけだしながら、守備兵《しゅびへい》たちにさけんだ。
「はしごだ! はしごがかけられたぞ! はしごをはずせ! 敵《てき》がのぼってくるぞ!」
城壁《じょうへき》にかけられたはしごに、新《しん》ヨゴ兵《へい》たちがとりついた。押《お》しかえすのに成功《せいこう》したはしごは、タルシュ兵をのせたまま、うねりながら闇《やみ》のなかにたおれていったが、新ヨゴ兵がとりついたときには、すでに、剽悍《ひょうかん》なタルシュ兵がのぼりきっていたはしごもあった。
つぎつぎとおどりこんでくるタルシュ兵と、守備兵《しゅびへい》たちの肉弾戦《にくだんせん》が、足場《あしば》のわるい城壁《じょうへき》の上ではじまったとき、城門《じょうもん》の大扉《おおとびら》をささえている太いかんぬきが、メリメリとくだける音がひびきわたった。
(もう、だめか……。)
蟻《あり》のように城壁《じょうへき》にむらがってくるタルシュ兵《へい》をみながら、ラクサムは心のなかで、なにかが折《お》れるのを感じていた。
明日《あした》の朝日を、目にすることはあるまい。この闇《やみ》のなかで、自分は死《し》ぬのだ……。
鉈《なた》のようなかたちをしたきみょうな刀《かたな》をふりかざして、タルシュ兵《へい》がせまってくる。実戦《じっせん》などしたことがないラクサムは、ふるえながら刀をかまえ、かろうじて初太刀《しょだち》をうけとめた。守備兵《しゅびへい》がわきから助太刀《すけだち》してくれて、ふたりがかりで、ようやくタルシュ兵を斬《き》りころし、ラクサムはそのいきおいのまま、城壁《じょうへき》のほうへかけはじめた。
どうせ討《う》ち死《じ》にするなら、一兵《いっぺい》でも多く、敵《てき》を殺《ころ》す。血《ち》のにおいと恐怖《きょうふ》とで酔《よ》ったようになった頭でそう思いながら、ラクサムは城壁《じょうへき》に立ち、はるか砦《とりで》の下にひろがる光景《こうけい》をみおろした。
タルシュ兵たちが、アルム(投石機《とうせきき》)を操作《そうさ》しているのがみえた。きりきりとねじられた太縄《ふとなわ》の力で、岩《いわ》をのせた巨大《きょだい》な木製《もくせい》の腕《うで》がしなっている。
あれがはなたれたら、どうなるか − 幻《まぼろし》のように、飛んでくる岩を思った瞬間《しゅんかん》、ふしぎなことがおこった。
ヤズノの切《き》り通《とお》しの、右手の山の斜面《しゃめん》から、ふいに、無数《むすう》の火矢《ひや》が飛んだのだ。
火矢の多くが、まるで一点にすいよせられるように、アルム(投石磯《とうせきき》)むかって飛んでいく。何本もの火矢がアルムの太縄《ふとなわ》につきたち、バチバチと音をたてて縄が焼《や》ききれはじめた。きしむような音をたてて、ねじられた太縄がはじけると、アルムは岩を飛ばす機能《きのう》を完全《かんぜん》にうしなってしまった。
タルシュ兵《へい》たちに混乱《こんらん》が生《しょう》じていた。アルムがこわれてしまうと、火矢《ひや》にかわって、ふつうの矢が雨のように降《ふ》りそそぎはじめた。タルシュ兵は矢が飛んでくるほうへ盾《たて》をならべ、相手《あいて》の姿もみえぬまま矢を射はじめたが、射あげねばならぬ彼《かれ》らの矢はろくにとどかず、射おろされる矢は、盾をもちあげるのがまにあわなかった兵たちを、つぎつぎに射たおしていく。
とつぜん、悲鳴《ひめい》があがった。火矢《ひや》が飛んできたほうとは、反対側《はんたいがわ》の斜面《しゃめん》からも、矢が飛びはじめたのだ。背《せ》を射《い》ぬかれ、多くのタルシュ兵《へい》たちが、たおれはじめた。
タルシュの将軍《しょうぐん》から伝令《でんれい》が発《はっ》せられたのだろう。いきなり、太鼓《たいこ》の音がかわった。
それをきくや、両翼《りょうよく》のタルシュ兵たちは盾《たて》を崖《がけ》のほうにむけてかかげ、内側の兵たちをまもった。そして、中央の兵士たちは体勢《たいせい》をととのえなおし、砦《とりで》のほうへむいた。
城壁《じょうへき》からみおろしていたラクサムは、それをみて、ぞっとした。
(……砦へいっきに攻《せ》めこんでくるつもりだ。)
正体不明《しょうたいふめい》の射手《しゃしゅ》から兵をまもるために、いっきに砦に攻めこんで、砦にたてこもるつもりなのだ。
タルシュ軍《ぐん》が、いっせいに砦のほうをむき、突進《とっしん》をはじめた。
その瞬間《しゅんかん》、ラクサムは、だれかが頭上《ずじょう》で、歓声《かんせい》をあげるのをきいた。
悲鳴《ひめい》でも、怒声《どせい》でもないその声は、きみょうに耳につき、ラクサムは血《ち》まみれの顔をあげて、その声の主《ぬし》をさがした。
声の主は物見《ものみ》の塔《とう》にいる兵《へい》だった。手をふりまわしながら、くりかえし歓声をあげている。
「援軍《えんぐん》だ! 援軍がきた!」
おそいかかってきたタルシュ兵《へい》ともみあい、その兵を無我夢中《むがむちゅう》で城壁《じょうへき》の外につきおとしたラクサムは、顔をあげた瞬間《しゅんかん》、それをみた。
タルシュ軍《ぐん》の背後《はいご》から、槍《やり》をそろえて突進《とっしん》してくる騎馬兵団《きばへいだん》……。
(……まさか。)
きみょうな夢《ゆめ》をみているような気がした。砦《とりで》の背後から援軍《えんぐん》がくるならともかく、南からくる援軍など、いるはずがない。
ぼうぜんとみまもるうちに、タルシュ軍の背《せ》にその槍の群《む》れが激突《げきとつ》した。不意《ふい》を打たれたタルシュ軍が、悲鳴《ひめい》をあげて、陣形《じんけい》をみだしていく。
燃《も》えあがっているアルム(投石機《とうせきき》)の光で、援軍の姿《すがた》がぼんやりとうかびあがっていた。
その鎧兜《よろいかぶと》のかたちは、新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》のものではなかった。
(……まさか、あれは。)
潮騒《しおさい》のように、きこえてきた鬨《とき》の声は、ヨゴ語《ご》ではなかった。
それが、何語であるかに気づいて、ラクサムは目をみひらいた。腹《はら》の底《そこ》から、熱《ねつ》がわきあがってきた。
ラクサムは、守備兵《しゅびへい》たちをふりかえり、のどもさけよとさけんだ。
「ロタ騎兵《きへい》だ! ロタ騎兵がたすけにきてくれたぞ! − 希望《きぼう》をすてるな、ヨゴの武者《むしゃ》たちよ! 砦《とりで》をまもれ! 敵《てき》をはさみうちにするのだ!」
息《いき》をふきかえしたように、新《しん》ヨゴ兵《へい》たちは、生き生きとうごきはじめた。
チャグムの初陣《ういじん》は、日暮《ひぐ》れとともにはじまった。
斥侯《せっこう》たちからの報告《ほうこく》で、ヤズノ砦《とりで》のはるか手前の河原《かわら》に、タルシュの補給部隊《ほきゅうぶたい》がいることを知ったカーロン副将《ふくしょう》は、後方《こうほう》のカンバル騎馬兵団《きばへいだん》をひきいているハーグに伝令《でんれい》をおくり、そちらをたたいてくれるよう、たのんだ。チャグムたちの本隊《ほんたい》が、タルシュの本隊と激突《げきとつ》したとき、背後《はいご》から攻《せ》められるのをふせぐためだ。
それから、彼《かれ》は、砦がきずかれているヤズノの切《き》り通《とお》しの地形《ちけい》をきくや、弓兵《ゆみへい》たちを山の斜面《しゃめん》にのぼらせる戦術《せかじゅつ》を提案《ていあん》した。
「ヤズノ砦《とりで》は、谷道《たにみち》のせばまった部分をきりひらいてつくられた切り通しを、ふさぐようにつくられているそうです。手前は広く、砦にちかづくほどせまい。さきに、切り通しの両側《りょうがわ》の、山の斜面《しゃめん》から矢《や》を射《い》かければ、タルシュ兵《へい》は中央にかたまるでしょう。そこで、タルシュ兵を背後《はいご》から攻《せ》めていけば、砦におしつけて殲滅《せんめつ》することができます。」
チャグムは、即座《そくざ》にそれをうけいれた。
「よい案《あん》だ。」
そういってから、チャグムはつけくわえた。
「はじめは、火矢《ひや》をつかうよう、兵《へい》に命《めい》じてくれ。」
カーロンは眉《まゆ》をはねあげた。
「火矢?……お言葉《ことば》でございますが、火矢を射るためには、油壷《あぶらつぼ》など、よけいな道具をもっていかねばなりません。山の斜面《しゃめん》では、あつかいにくい矢です。」
チャグムは、うなずいた。
「それは、そうであろうな。しかし、火矢がぜひ必要《ひつよう》なのだ。………きいてくれ。突破《とっぱ》された砦《とりで》をとおったとき、緒戦《しょせん》の報告書《ほうこくしょ》に書かれていた投石機《とうせきき》がつかわれたあとがあったであろう。ヤズノ砦でも、それがつかわれるにちがいない。その武器《ぶき》は、太縄《ふとなわ》をねじった力で岩を飛ばすそうだから、その太縄を焼《や》ききってしまえば、こわせるのではないか?」
カーロンは目をかがやかせた。
「殿下《でんか》、おっしゃるとおりです。まず火矢《ひや》をそれに集中《しゅうちゅう》させましょう。」
カームがロをひらいた。
「もう日がおちる。闇《やみ》のなかで、山のなかを移動《いどう》するには、時間がかかるだろう。すぐに弓兵《ゆみへい》たちをうごかしましょう。」
こうして、うごきはじめたチャグムの軍勢《ぐんぜい》は、闇のなかで、ひそかにタルシュ軍《ぐん》の背後《はいご》にちかづいていった。
夜空《よぞら》を赤黒くそめて炎上《えんじょう》している砦《とりで》には、まだ、生《い》きている兵たちの影《かげ》がうごいているのが遠目《とおめ》にもみえた。いくつものはしごが城壁《じょうへき》にかけられ、城門《じょうもん》の大扉《おおとびら》はくだけはじめている。
カーロン副将《ふくしょう》は、ロタの槍騎兵《そうきへい》を最前線《さいぜんせん》にならべ、おしころした声で、彼《かれ》らに告げた。
「味方《みかた》の弓兵《ゆみへい》たちが両側《りょうがわ》から矢《や》を射《い》こみ、投石機《とうせきき》が燃《も》えあがれば、タルシュ軍《ぐん》は中央にかたまるだろう。そのときこそ、好機《こうき》。やつらをおしこんで、殲滅《せんめつ》するのだ。
ロタの騎兵《きへい》たちよ、そなたらの武勇《ぶゆう》をみせるときぞ!」
槍騎兵たちは、はやる馬たちをおさえながら、こわばった笑《え》みをうかべて、うなずいた。なんどとなく軍事教練《ぐんじきょうれん》はくりかえしてきたが、彼《かれ》らにとって、これは、はじめての実戦《じっせん》だった。
チャグムは、近衛部隊《このえぶたい》にかこまれて、槍騎兵《そうきへい》たちのうしろで待機《たいき》していた。
「殿下《でんか》、どうか、最後尾《さいこうび》へ……。」
カームがささやいたが、チャグムは首をふった。
「異国《いこく》の兵士《へいし》たちが、わが国のために命《いのち》をかけてくれているときに、最後尾でぬくぬくと馬車《ばしゃ》にひそんでいるつもりなどない。」
チャグムがそういったとき、はるか前方《ぜんぽう》で、火の手があがった。
どよめきがきこえてきた。
「投石機《とうせきき》が燃《も》えたぞ! 弓兵《ゆみへい》たちが、みごとに、タルシュ兵たちを射ちたおしている!」
やがて、タルシュ軍《ぐん》の太鼓《たいこ》の響《ひび》きがかわった。
ひと呼吸《こきゅう》おいて、チャグムの目の前の槍騎兵《そうきへい》たちが、いっせいに前進《ぜんしん》しはじめ、はじめはゆっくりと、そして、じよじよに馬の速度《そくど》をあげはじめた。
周囲《しゅうい》の兵士《へいし》たちから、鬨《とき》の声があがった。仲間《なかま》たちの背《せ》を押《お》すように、彼《かれ》らは盾《たて》を槍《やり》でうちながら、鬨の声をあげつづけた。
槍騎兵団《そうきへいだん》がとおざかると、視野《しや》がひらけ、戦場《せんじょう》の状況《じょうきょう》がみえてきた。
砦《とりで》にむかって進軍《しんぐん》しているタルシュ軍《ぐん》の背後《はいご》から、いかにもロタ人らしい、みごとな騎乗技術《きじょうぎじゅつ》で馬をあやつりながら、槍騎兵たちが槍を水平《すいへい》にかまえて突進《とっしん》していく。
彼《かれ》らがタルシュ軍にぶつかったとたん、悲鳴《ひめい》と混乱《こんらん》のさけぴがわきおこった。
チャグムの周囲《しゅうい》で、兵士《へいし》たちが槍《やり》をふりあげて歓声《かんせい》をあげた。仲間たちが、タルシュ兵団《へいだん》をおしつぶし、陣形《じんけい》がゆがんでいくのがみえていた。
そのとき、チャグムは、タルシュ軍《ぐん》の軍鼓《ぐんこ》の響《ひび》きがかわったことに気づいた。
(……なにか、伝令《でんれい》がつたえている。)
カシャル(猟犬《りょうけん》)の報告書《ほうこくしょ》には、タルシュ軍《ぐん》は軍鼓《ぐんこ》によって兵《へい》に命令《めいれい》をつたえると書いてあった。その命令がつたわるや、あっというまに陣形《じんけい》が変化《へんか》するのだと。
チャグムは、かすかに口をあけて、前方《ぜんぽう》におこりつつある変化《へんか》をみていた。
ロタの槍騎兵《そうきへい》の突撃《とつげき》にけちらされて、ゆがんだようにみえたタルシュの陣形《じんけい》が、ゆるやかに、両《りょう》わきにひろがっている。
突撃している騎兵たちには、敵兵《てきへい》が逃《に》げて、ちらばったようにみえているだろうが、背後《はいご》からみているチャグムには、せまい切《き》り通《とお》しをうまくつかって、敵兵がゆるやかに網《あみ》をひろげるように、移動《いどう》しているのが、はっきりわかった。
(つつみこむつもりだ……!)
ロタ槍騎兵団《そうきへいだん》の左翼後方《さよくこうほう》にいるカーロンには、まだ、その陣形の変化がみえていないらしい。こちらへ、突撃《さつげき》の合図《あいず》をおくるようすがなかった。
「……まずい、つつみこまれるぞ。」
かたわらで、カームがつぶやいた。
ゆっくりと、タルシュ兵《へい》の両翼《りょうよく》の先端《せんたん》が、ロタの槍騎兵《そうきへい》たちの背後《はいご》にまわってとじはじめている。 − いまいかねば、まにあわない。
チャグムは、腰《こし》の剣《けん》をぬきはなち、背後の兵にむかってさけんだ。
「ロタ騎兵《きへい》は左翼《さよく》、カンバル騎兵は右翼《うよく》をめざせ! 仲間《なかま》たちをつつみこませるな!
ロタとカンバルの勇士《ゆうし》たちよ、志《こころざし》あらは、われにつづけ!」
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いうや、馬の腹《はら》をけって、チャグムは矢《や》のように、戦場《せんじょう》へとびだした。
近衛部隊《このえぶたい》が、まっ青《さお》になって、馬の腹をけった。
「殿下《でんか》をおまもりせよ! いそげ、いそげ!」
カームはさけぴながら、短槍《ちんそう》をにぎりなおし、蹄鉄《ていてつ》から火花をちらすほどのいきおいで馬を駆《か》り、チャグムのあとをひっしに追った。
鬨《とき》の声をあげながら、ロタとカンバルの騎兵《きへい》たちが、ぐうんと両翼《りょうよく》にわかれてうごきはじめた。
煙《けむり》と炎《ほのお》と、悲鳴のなかを、チャグムは剣《けん》をかまえ、一直線《いっちょくせん》にかけていった。
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2  盗賊《とうぞく》と農夫《のうふ》
ヤウル山の峠《とうげ》につうじる街道《かいどう》を、バルサは、馬がつかれないようかげんしながらも、かなりの速《はや》さでのぼっていった。
山頂《さんちょう》の峠《とうげ》にでれば、タラノ平野《へいや》が一望《いちぼう》できるはずだった。戦《いくさ》があった日から今日《きょう》で十日《とおか》め。おきざりにされたという傷病兵《しょうびょうへい》たちがどこにいるのか、一刻《いっこく》もはやく知りたかった。
やがて、峠にでたとき、バルサはおもわず馬をとめた。
広大《こうだい》な平野が、昼《ひる》さがりの光にうかびあがっていた。平野をつらぬいてながれる青弓川《あおゆみがわ》の流れが、みがかれた金属《きんぞく》のように白く平坦《へいたん》な光をはなっている。
平野《へいや》の大半《たいはん》の田では、もう春の田おこしがはじまっているらしく、土が黒ぐろとみえたが、右手のトウハタ山脈《さんみゃく》に近い田畑《たはた》は畝《うね》のかたちもなく、巨大《きょだい》な獣《けもの》がのたうったあとのようなむざんな姿《すがた》をさらしていた。 − あそこが戦場《せんじょう》だろう。
バルサは馬をうながして、山道をくだりはじめた。
山道は、やがて、くねくねとうねりながらくだる道となり、うっそうとした木々にさえぎられて、さきがみとおせないようになった。とちゅう、いくつもの道が、この山道に合流《ごうりゅう》している。近辺《きんぺん》の村々《むらむら》につうじている道だった。
ヤウル山の中腹《ちゅうふく》あたりまできたとき、バルサは前方《ぜんぽう》 − 右まがりになっている道のさきで、人があらそっているような気配《けはい》を感じた。短槍《たんそう》の石突《いしづ》きを鞍《くら》からはずして右手にもち、ゆっくりと、道をすすんだ。
まがり角《かど》をまがると、その光景《こうけい》が目にとびこんできた。
食糧《しょくりょう》をつんだ荷馬車《にばしゃ》を、五人の男たちがおそっている。荷馬車をひいてきた農夫《のうふ》たちが、おびえた声をあげながら、ひっしに荷をとらないでくれとたのんでいるが、抜《ぬ》き身《み》の刀《かたな》をひらめかせた盗賊《とうぞく》たちは、農夫たちをけたおして、馬の手綱《たづな》をとろうとしていた。
なにがおこっているのかみてとると、バルサは馬のわき腹《ばら》をけった。
荷馬車《にばしゃ》の左わきにいる盗賊たちの背後《はいご》から、バルサはいきなりおそいかかった。
馬の足音に気づいてふりかえった盗賊たちは、つっこんでくる騎馬《きば》をみて、あわてて左右にわかれた。その間をバルサがすりぬけた。
盗賊《とうぞく》たちは、なにをされたのかも気づかなかったにちがいない。
彼《かれ》らの間をすりぬけざま、バルサは、ひらめくように短槍《たんそう》をふるい、左右にいた男たちの側頭《そくとう》やうなじを、その柄《え》でうっていったのだ。
バルサが荷馬車《にばしゃ》の前で、馬の手綱《たづな》をひいたときには、三人の盗賊《とうぞく》たちは、丸太のように道にたおれていた。
バルサはそのまま馬の鼻さきをとおって、荷馬車の反対側《はんたいがわ》にでた。
バルサをみた盗賊たちは、まばたきするまもなく、短槍《たんそう》の石突《いしづ》きで顎《あご》をうちあげられ、みぞおちをつかれて、悶絶《もんぜつ》した。
ぽかんとロをあけて自分をみあげている、三人の農夫《のうふ》たちのそばにいき、バルサほ荷馬車《にばしゃ》を顎《あご》でしめした。
「いまのうちに、荷馬車をうごかしたほうがいいでしょう。こいつらは、しばらくはこのままでしょうが、いそぐにこしたことはない。」
農夫たちは、うなずいて、ふるえながら荷馬車にのった。そして、興奮《こうふん》している馬を、舌《した》を鳴らしてなだめながら、荷馬車をうごかしはじめた。
しばらくすすむうちに、ようやく、すこしおちついてきたのだろう、荷をおさえる役目《やくめ》の若者《わかもの》が、おずおずと、バルサに声をかけてきた。
「……その、たすけていただいて、ありがたいんだが……その……。」
なにをいいたいのか察《さっ》して、バルサはほほえんだ。
「金を要求《ようきゅう》する気はありません。心配《しんぱい》しないでください。」
男たちは、それでもおちつかぬようすで、たがいの顔をみている。
バルサは、おだやかな声でいった。
「わたしは、人をさがしてタラノ平野《へいや》にいくところなんです。
あなた方《がた》はこのあたりの人でしょう。わたしは、このあたりがどうなっているのか、まったくわからないんでね。あなた方をたすけたら、教えてもらえるんじゃないかと思ったんですよ。」
それをきいて、ようやく、男たちの顔がゆるんだ。
「そうかね。いや、おれたちでわかることなら、なんでも教えるぜ。」
ひとりがいうと、ほかのふたりも、うなずいた。
手綱《たづな》をもっている男が、大声でいった。
「いや、ありがたかった。ほんとによ。 − あっちこっちの村《むら》から、こういう荷馬車《にばしゃ》がでているからよ、盗賊《とうぞく》どもがねらってるんじゃねぇかと心配《しんぱい》してたんだが、案《あん》の定《じよう》だった。」
バルサは、荷に目をやった。
「それは、食糧《しょくりょう》ですか?……いったい、どこへはこぶんです?」
男たちは、ちょっとうしろめたげな表情《ひょうじょう》をうかべたが、やがて、ひとりが思いきったようにいった。
「タルシュの野営地《やえいち》にはこぶのさ。」
バルサは、おどろいて、まじまじと男の顔をみた。
「タルシュの野営地? タルシュ軍《ぐん》は、まだタラノ平野《へいや》にいるんですか?」
いちばん年かさの男が、口をひらいた。
「いるんだよ。 − 戦《いくさ》をした連中《れんちゅう》は西の街道《かいどう》のほうへいっちまったが、そのあとすぐにべつのタルシュ軍がわんさとやってきやがった。この山のすそ野《の》に野営地をつくってよ、食糧《しょくりょう》をあつめてるんだよ。」
そういってから、男は声をひくめた。
「皇国軍《おうこくぐん》みたいに、ただで食糧をよこせってんじゃねぇ。相場《そうば》より、ずっと高い値《ね》で買ってくれるんだ。おれたちもおどろいたけどよ、タルシュっていっても、あんた、みんなヨゴ人とおなじ顔をしてるんだぜ。きみょうななまりがあるけどよ、きいてた話とは大ちがいでよ、人食《ひとく》い鬼《おに》どころか、気前《きまえ》がいい連中《れんちゅう》なんだよ。」
若《わか》い男が口をはさんだ。
「下の村《むら》の連中《れんちゅう》は、ずいぶん金をもうけたって話だぜ。なんも、下の村の連中ばっかりいい思いをさせるこたぁねぇ、おれたちの村のもんも、かせげるだけ、かせごうじゃねぇかってことになったのよ。」
バルサは、だまって彼《かれ》らの話をきいていた。
何万《なんまん》もの兵《へい》をうごかすには、食糧《しょくりょう》の補給《ほきゅう》を確保《かくほ》せねばならないだろう。タルシュ軍《ぐん》の意図《いと》はよくわかったし、それにのった農民《のうみん》たちの気もちもわかる。
しかし、タラノの農民たちは草兵《そうへい》にならなかったのだろうか。親兄弟を殺《ころ》されていたら、敵《かたき》に食糧《しょくりょう》を売って、金をもうける気にはなるまいに。
それをたずねると、農夫《のうふ》たちは暗い顔になった。
「そりゃ、あんた、恨みはあるぜ。殺せるもんなら、タルシュの連中《れんちゅう》を殺《ころ》してやりてぇって気はある。−−だけどよ、あんた、ものすごい数なんだよ。あいつらが、その気になりゃ、おれたちをみな殺しにして食《く》い物《もの》を根《ね》こそぎとるくらい、なんでもねぇだろよ。それをしねぇで、高い値《ね》で買ってくれるってんだ。親兄弟がうまい飯《めし》を食《く》って、らくになったと思えばよ、戦死《せんし》した連中も、うかばれるだろうよ。」
若《わか》い男が、低い声でつけくわえた。
「それによ、恨《うら》みってんなら、おれは正直《しょうじき》なところ、タルシュの連中《れんちゅう》より皇国兵《おうこくへい》のほうがずっとにくいぜ。 − 馬か牛でもひっぱっていくみたいに兄貴《あにき》たちをひっぱっていきやがって……おれたちが汗水《あせみず》たらしてつくった米を、金もはらわず、とうぜんって面《つら》でもっていきやがった。あんなやり方があるかよ。」
年かさの男が、しつ、と制《せい》した。
「めったなことをいうんじゃねぇ。 − 天《てん》がみてるぜ。」
しかし、若《わか》い男は顔をまっ赤《か》にしていいつのった。
「冗談《じょうだん》じゃねぇよ、親父《おやじ》。天《てん》ノ神《かみ》さまが、みておられるんならよ、おれの気もちも、わかってくださるぜ。親父もみただろうがよ、あの光景《こうけい》をよ。」
若い男は、バルサに目をむけた。
「おれは、あのあと、しばらく飯《めし》がのどをとおらなかったぜ。」
「……あのあと?」
問いかけると、若《わか》い男は、顔をゆがめていった。
「下の村の連中《れんちゅう》から使いがきてよ、死体《したい》を埋《う》めるのをてつだってくれってんだよ。おれたちの村からも、草兵《そうへい》はでているからよ、兄貴《あにき》たちが生きているか死んでいるか心配《しんぱい》だったし、おれたち男衆《おとこしゅう》、総出《そうで》でタラノ平野《へいや》にむかったんさ。
ひどいありさまだったぜ。 − ああなっちまえば、敵《てき》も味方《みかた》もねぇや。おれたちはよ、泣《な》きながら、埋《う》めたよ。……何万《なんまん》って数の死体だぜ。あんた、思いうかべられるか?」
暗《くら》い目を若者《わかもの》にむけて、バルサは、つぶやいた。
「……生きのこった者《もの》は、どうなったんですか。」
若者《わかもの》は鼻《はな》をこすった。
「自分で歩けた連中《れんちゅう》は、皇国軍《おうこくぐん》が砦《とりで》のほうへつれていったってきいたな。」
「歩けない者は?」
若者《わかもの》は、また、なにかを思いだしたのだろう。顔をゆがめて、肩《かた》のあたりをさすった。
「おれたちが泥《どろ》のなかからほりだしたとき息《いき》があった連中《れんちゅう》は、戸板《といた》にのせて下の村にはこんだよ。……いっそひと思いに死《し》んでいたほうがらくだったろうに。泥《どろ》まみれ、血《ち》まみれでよ、手足がもげてたり……。おおかたが、一日二日で、死んだな。」
周囲《しゅうい》の物音がとおのいていくような気がした。
バルサは手綱《たづな》をにぎりしめて、あさく息《いき》をすった。
「 − まだ、生きているけが人《にん》もいるでしょう。そういう人たちは、いま、どこに?」
若者《わかもの》は、うかがうようにバルサをみた。
「……あんたがさがしている入って、草兵《そうへい》だったのかい?」
バルサはうなずいた。
「北部の村からつれていかれた草兵をさがしています。」
男たちの顔に、同情《どうじょう》の色がうかんだ。年《とし》かさの男がつぶやいた。
「かわいそうだが、あんまり期待《きたい》しないほうがいいぜ。 − 生きてるのは、わずかだからよ。
それに、タルシュが下の村《むら》のまわりに野営地《やえいち》をつくっちまったから、生きのこった兵士《へいし》をかくまってるのがバレたら殺《ころ》されるんじゃないかと、村の連中《れんちゅう》がこわがっていてよ、このあたりの村|出身《しゅっしん》の草兵《そうへい》はともかく、よそのもんは村にかくまわずに、山のほうにはこんだって話だぜ。」
バルサはだまってそれをきいていた。その表情《ひょうじょう》をみていた若者《わかもの》が、ふいに、いった。
「あんた、しばらくおれたちにつきあってくれよ。タルシュ兵《へい》にこいつを売っちまったら、おれが、あんたをけが人《にん》たちの隠《かく》し場所《ばしょ》に案内《あんない》してやるからよ。」
年かさの男が、びっくりしたように息子《むすこ》をみた。
「おまえ……。」
若者は父親のほうをみて、ぴしゃっといった。
「親父《おやじ》たちは荷馬車《にばしゃ》をひいて、ひと足さきにかえってくれていいぜ。盗賊《とうぞく》からすくってもらった恩《おん》があるだろうがよ。おれは、この人を案内《あんない》してからかえるよ。」
男たちは、しばらく顔をみあわせていたが、やがて、年かさの男がうなずいた。
「……しっかり案内しな。」
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4  タンダの腕《うで》
タルシュの野営地《やえいち》は、わずかな日数でつくりあげたとはとても思えぬ、しっかりとした陣地《じんち》だった。
野営地の周囲《しゅうい》は、びっしりと荷馬車《にばしゃ》でかこまれていて、奇襲《きしゅう》されてもふせげるようになっている。中央には木材《もくざい》をくんで塔《とう》のようなものまでつくられ、見張《みは》りの兵《へい》が、ゆだんなく周囲をみわたしていた。
高値《たかね》で食糧《しょくりょう》を買ってくれるという噂《うわさ》をききつけた農民《のうみん》たちが、荷車《にぐるま》や荷馬車でおしかけている、その列《れつ》のうしろに、バルサたちもならんだ。
杭《くい》をうってつくってある即席《そくせき》の門《もん》には、数人《すうにん》の兵士《へいし》が立っていて、荷馬車をひいているのが農民《のうみん》かどうか、ひとりずつたしかめている。
。ハルサがとおろうとしたとき、兵士がさっと槍《やり》をつきだして、とめた。
「まて。 − おまえは農民ではないな。武器《ぶき》をもってこの陣《じん》にはいることはゆるさん。」
南のなまりのあるヨゴ語だった。
バルサは、しずかな声でこたえた。
「わたしは、この人たちにやとわれた用心棒《ようじんぼう》です。盗賊《とうぞく》が荷《に》をねらうのでね。 − 武器《ぶき》はおいてはいりましょう。かえるときに、かえしてもらえますか。」
兵士《へいし》はうなずいて、バルサから短槍《たんそう》と短剣《たんけん》をうけとった。
「ここに立てかけておく。かえるときに、もうしでるがいい。」
うなずいて、バルサは農夫《のうふ》たちとともに、彼《かれ》らのわきをとおり、野営地《やえいち》にはいった。
(よく訓練《くんれん》されている……。)
バルサに対応《たいおう》していた兵士のわきで、もうひとりが、槍《やり》をいつでもふるえるようにかまえていた。下級兵士《かきゅうへいし》にありがちな、おうへいさもない。
ものめずらしげに野営地をながめながら、かなり緊張《きんちょう》して荷馬車《にばしゃ》をすすめている農夫《のうふ》たちが、食糧《しょくりょう》を買いいれている空《あ》き地《ち》にでるころには、おちついた顔になっていた。
敵地《てきち》に陣《じん》をはっているとは思えぬ平静《へいせい》さが、この野営地にはあったからだろう。
冗談《じょうだん》のひとつもとばしながら、農夫《のうふ》たちから食糧を買っている兵士の姿《すがた》をながめながら、バルサは、タルシュの密偵《みってい》、ヒュウゴがいっていたことを思いだしていた。
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− タルシュ帝国《ていこく》はすぐれた灌漑《かんがい》技術をもっている。この技術をつかえは、新《しん》ヨゴはもちろん、ロタ王国《おうこく》の北部でさえ、いまの何倍《なんばい》もの田畑《たはた》を開墾《かいこん》し、効率的《こうりつてき》に収穫《しゅうかく》をあげることができる。北の大陸《ていりく》を征服《せいふく》し、凶作《きょうさく》にあえぐ南の枝国《しこく》の農民《のうみん》たちを北に移住《いじゅう》させれば、税収《ぜいしゅう》も安定《あんてい》すると考えたわけだ。
[#ここで字下げ終わり]
タルシュは、本気《ほんき》で農民《のうみん》たちを移住《いじゅう》させようとしている。やろうと思えば、いくらでも略奪《りゃくだつ》できる農産物《のうさんぶつ》を、こうして、農民たちから買っているのは、国をとったあとのことを考えているからだ。
(チャグム……。)
高値《たかね》で食糧《しょくりょう》が売れて、満面《まんめん》の笑《え》みをうかべている若者《わかもの》をみながら、バルサほ心のなかで、つぶやいた。
(あんたの敵《てき》は、とんでもない連中《れんちゅう》だよ……。)
うららかな春の陽射《ひざ》しのなかで、バルサは胸《むね》の底《そこ》が冷《ひ》えるような思いをあじわっていた。
野営地《やえいち》の門衛《もんえい》は、きちんと短槍《たんそう》と短剣《たんけん》をかえしてくれた。
それをうけとって門をでたときには、すでに日が西にかたむき、夕焼《ゆうや》けがトウハタ山脈《さんみゃく》を赤くそめていた。
若者《わかもの》は、約束《やくそく》どおり父親たちをさきにかえすと、せいせいした顔でバルサの馬によじのぼってきた。
ふたりは、ゆっくりと馬を歩かせて、ヤウル山のふもとの村《むら》へとはいっていった。
街《まち》の人びととちがって、村にくらす人びとは、よそ者《もの》をきらう。野良仕事《のらしごと》をおえて村にかえってきた男たちは、バルサたちを、うさんくさげにみあげた。
若者が、ふいに、だれかに手をふった。
「おうい、叔父《おじ》さん!」
頭のはげた農夫《のうふ》が、けげんそうな顔でこちらをみ、若者に気づくと、まばたきした。
「なんだ、ラチャじゃねぇか。………その人はだれだ。」
若者は馬からおりると、身《み》ぶり手ぶりをまじえながら、事情《じしょう》を説明《せつめい》しはじめた。いつのまにか、村の連中《れんちゅう》があつまってきて、若者の話に耳をかたむけはじめた。
事情《じじょう》がわかると、男たちは暗《くら》い顔でバルサをみあげた。若者の叔父《おじ》が、肩《かた》をすくめた。
「案内《あんない》するのは、かまわねぇが……ひでぇありさまだぜ。あらかじめ、いっておくがよ。」
バルサはうなずいた。
「……あらかた事情は、きいています。どうか、つれていってください。」
若者《わかもの》の叔父《おじ》は、ほかの連中《れんちゅう》に、さきにかえって家の者《もの》に事情《じじょう》を話しておいてくれとたのむと、バルサに手まねきをして歩きだした。
バルサは馬からおり、彼《かれ》とともに歩きはじめた。若者がついてくるのをみて、バルサは彼にいった。
「ここまでで、だいじょうぶだよ。これ以上|暗《くら》くなったら、山道は歩けないだろう。」
若者は、にやっと笑《わら》った。
「気にしねぇでくれ。親戚《しんせき》ん家《ち》に泊《と》まるからよ。」
若者の叔父《おじ》は、ずんずん山のほうにはいっていく。あたりはうすぐらくなり、足もともさだかではなくなったが、彼《かれ》はあかりをとりにもどろうとはいわなかった。
あかりは、遠くからも目につく。山のなかで、なにをしているのかと、タルシュ軍《ぐん》の連中《れんちゅう》にうたがわれたくないのだろう。
小さな谷川《たにがわ》を越《こ》えて、すこしいくと、岩肌《いわはだ》がむきだしになった崖《がけ》があらわれた。岩のくぼみや、岩屋《いわや》がいくつもある。
バルサは、煙《けむり》のにおいに気づいた。なにかが腐《くさ》ったような悪臭《あくしゅう》もただよってくる。
「……ここだよ。」
若者《わかもの》の叔父《おじ》は、立ちどまって、バルサをふりかえった。
「ここと、そこと、それと、あれ……四つの洞窟《どうくつ》に、二百人ぐらいいる。村《むら》のもんが交代《こうたい》で、食《く》い物《もの》や薬草《やくそう》をはこんで世話《せわ》をしているが、毎日、十人ぐらい死《し》んでいる。
村には、医術師《いじゅつ》はいねぇから。薬草師《やまそうし》のじいさんひとりじゃ、手におえねぇ。」
バルサは彼《かれ》に頭をさげると、薮《やぶ》をかきわけて岩屋《いわや》のひとつに足を踏《ふ》みいれた。
なかは意外《いがい》に広かった。煙《けむり》と悪臭《あくしゅう》がむっとこもっている。
中央に石をつんで炉《ろ》がつくられ、パチパチと炎《ほのお》がおどっていた。炎がゆらめくたびに、うすぐらい岩畳《いわだたみ》のなかに影《かげ》がおどる。
床《ゆか》にはワラが敷《し》かれ、その上に筵《むしろ》がのっていた。たくさんの男たちが、その筵の上によこたわって、うめいている。
炉《ろ》のまわりにすわっている男たちが、うつろな目で、バルサをみあげた。おびえるでも、警戒《けいかい》するでもない。その目には、なにもうつっていないようにみえた。
血《ち》と汚物《おぶつ》にまみれてよこたわっている男たちを、バルサは、ひとりひとりみていった。三十人ほどの男たちのなかに、タンダはいなかった。
そっと、その岩屋《いわや》をでて、つぎの岩屋へ。バルサはひとりひとりの顔をのぞきこみながら、岩屋をめぐっていった。
最後《さいご》の岩屋にはいるころには日はとっぷりと暮れおち、案内《あんない》してくれた若者《わかもの》やその叔父《おじ》も、村《むら》にかえってしまっていた。
重苦《おもくる》しい思いをかかえて、バルサは男たちの顔をのぞきこみつづけた。
血《ち》のにじんだ布《ぬの》をまかれ、むくんだ彼《かれ》らの顔をみながら、バルサは自分でも気づかずに、歯をくいしぼっていた。
右の岩壁《がんぺき》のそばによこたわっている男たちをみおわって、奥《おく》にいこうとした瞬間《しゅんかん》、バルサは足をとめた。
岩壁のほうに顔をむけてよこたわっている男の、顔までかぶさっている布《ぬの》の下に、わずかにみえている耳のかたちが、目をひいた。
鼓動《こどう》がはやくなった。
バルサは、その男のわきにしゃがみこみ、そっと顔にかかっている布をめくった。布をうごかしたとたん、肉《にく》が腐《くさ》ったにおいがむっとただよってきた。
炉《ろ》の光がとどかぬ暗《くら》がりで、うっすらとうかぴあがった顔の輪郭《りんかく》を、バルサは息《いき》をつめてみつめた。
「……タンダ。」
きずつき、むくんでいるが、まちがいなかった。バルサはふるえる手で、その頬《ほお》にふれた。熱《ねつ》が高く、くちびるがひびわれている。頬にふれても、目をあけるようすはなかった。
そのとき、うしろから声がきこえてきた。
「あんた、だれだね?」
はっとふりかえると、手に籠《かご》をかかえた老人《ろうじん》が立って、顔をしかめてこちらをみていた。
バルサは立ちあがり、老人に、かすかに頭をさげた。
「わたしは、バルサともうします。この草兵《そうへい》の……つれあいです。」
老人の顔に、おどろきの色がうかんだ。
「なんと……あんた、わざわざ、北部から、ここへ?」
バルサはうなずいた。
老人《ろうじん》は籠《かご》をおろすと、炉《ろ》のわきにおいてあったろうそくに火をうつして、バルサのそばにやってきた。そして、タンダをみおろし、暗《くら》い顔でささやいた。
「……かわいそうだが、あと、一日、二日というところだ。」
バルサは、ぎゅっとこぶしをにぎりしめた。
タンダの顔をみたときから、それは、わかっていた。斬られて、けがをした者《もの》を、いやというほどみている。どういう顔になったらあぶないかは、よく知っていた。
「一昨日《おととい》ぐらいまでは、まだ、しっかりしていた。みかけによらず、気丈《きじょう》な男だな。わしとおなじ薬草師《やくそうし》だとかで、足の骨《ほね》をついだときも、どういう薬草が効《き》くか話しておったくらいだ。だが、この傷《きず》が……。」
老人《ろうじん》はしゃがんでろうそくをかざしながら、タンダの左腕《ひだりうで》をしめした。 − 手首のやや上に、ひどい傷口《きずぐち》があった。刀傷《かたなきず》が膿《う》んで、腕が肘《ひじ》の下あたりまでふくれあがり、黒くなりはじめていた。あまいような、腐《くさ》ったにおいがただよってくる。
「こうなったら、腕を切りおとさないかぎり、たすからん。」
そういって、老人《ろうじん》は立ちあがった。
「腕《うで》の太い骨《ほね》を切りおとすなんて力は、わしにはない。村《むら》の若《わか》い衆《しゅう》にたのんでみたが、みんな、おぞけをふるっちまってな。だれもやってみようという者《もの》はおらなんだ。」
バルサは、じっとタンダの左腕をみつめた。
指の先まで、はれあがっているその手。 − いくども、この身《み》にふれた手だった。
「……わたしが、切りおとします。」
バルサは、つぶやいた。
「なんだと?……あんたが?」
おどろいて目をみひらいている老人《ろうじん》にむきなおって、バルサは低い声でいった。
「鉈《なた》と砥石《といし》をもってきてくれませんか。それから、きれいな布《ぬの》とじょうぶなひもと糸も。
ー 腕《うで》はわたしが切りおとしますが、彼《かれ》の身体《からだ》をおさえてくれる人が必要《ひつよう》です。村の若《わか》い衆《しゅう》にたのんでくれませんか。それなりの報酬《ほうしゅう》をはらいます。」
老人《ろうじん》は、口をひらきかけて、とじた。そして、うなずくと、足ばやに岩屋《いわや》をでていった。
彼《かれ》がいなくなると、バルサはタンダのわきにすわって、そっとタンダの頭を膝《ひざ》にのせた。かすかに、タンダが身《み》じろぎし、うっすらと目をあけた。
焦点《しょうてん》があっていない、うつろな目で、しばらくバルサをみつめていたが、やがて、すこしずつ、その目に光がもどってきた。眉《まゆ》をひそめて、タンダがつぶやいた。
「……バ、ルサ?」
バルサはうなずいた。のどがはれふさがったようになっていて、声がでなかった。ふるえながら息《いき》をすいこむと、バルサはタンダの顔に、顔をよせた。
「 − タンダ、わたしの声がきこえるかい。」
タンダの目が、またたいた。とおのきそうになっている意識《いしき》を、ひっしにたもっているのがわかった。バルサはタンダの耳もとでささやいた。
「きいておくれ。……あんたの左腕《ひだりうで》は、腐《くさ》ってしまっている。毒《どく》が身体《からだ》にまわったら、死《し》んでしまう。」
かすかに、タンダがうなずいた。はれた舌《した》をようやくうごかして、かすれた声でいった。
「………壊《え》、疽《そ》。」
[#(img/03_160.png)]
「そう。壊疽《えそ》だよ。 − どうしなければならないか、あんたなら、わかるだろう。」
タンダの目が、ゆれた。くちびるが、ふるえている。たまらなくなって、バルサはタンダの額《ひたい》に額をつけた。そして、うめくようにいった。
「……あんたの腕《うで》を、切りおとす。」
タンダの目から、涙《なみだ》があふれた。ふるえながら、かろうじてうごく右手で、タンダはバルサの背《せ》にふれた。
まるで、なぐさめるように自分の背をさすっているその手を感じたとたん、バルサの目からも涙がこぼれおちた。
歯《は》をくいしぼって、バルサは泣《な》いた。
老人《ろうじん》が、あのラチャという若者《わかもの》をつれてもどってきた。
彼《かれ》は、どういう顔をしたらいいかわからぬ、という顔で、バルサをみて、ささやいた。
「あんた、ほんとうに、腕《うで》を切りおとすつもりかい?」
バルサは無言《むごん》でうなずき、彼の手から鉈《なた》と砥石《といし》をうけとると、老人にいった。
「プサムという薬草《やくそう》はありますか?」
老人《ろうじん》はけげんそうな顔をした。
「あるが、あれは下剤《げざい》だぞ。」
「タンダが目をさましたんです。腕《うで》を切りおとすことをつたえたら、プサムという薬草《やくそう》の汁《しる》と、アカルという薬草を飲《の》ませてくれといったんですよ。」
「アカルは、しびれ薬だ。痛《いた》みをなくす。わしも、いるだろうと思ってもってきた。
だが、プサムはなぁ……。そういや、まえにも、そんなことをいっていたな。熱《ねつ》にうかされた、うわごとだろうよ。」
バルサは首をふった。
「プサムの汁《しる》をしぼってください。」
ぶつぶついいながら、老人《ろうじん》が薬草《やくそう》をととのえはじめたわきで、バルサは鉈《なた》をとぎはじめた。
水をつけてはとぎ、つけてはとぎ、火にかざしてその刃《は》をみてから、つめ爪の上をすべらせ、指《ゆび》の腹《はら》でさわって、その鋭《するど》さをたしかめた。
それから、自分の短剣《たんけん》をぬくと、よく水であらってから、燃《も》えている薪《まき》につきたてた。
「ラチャ、てつだっておくれ。彼《かれ》を火のそばにはこぶ。」
バルサはラチャとともに、そっとタンダをかかえあげて、火のそばにはこんだ。そして、上衣《うわぎ》をぬがすと、左のわきの下から肩《かた》にかけて、短槍《たんそう》の鞘《さや》をあてて布《ぬの》をかぶせ、ぎゅっとおしながら、ぐいぐいとひもでしぼって止血《しけつ》をした。
老人《ろうじん》がふたつの薬草《やくそう》の汁《しる》を飲《の》ませ、しばらくたつと、タンダの目がうつろになった。 バルサは、火に鉈《なた》の刃《は》をかざしてあぶりながら、ふたりにいった。
「ラチャは背後《はいご》からしっかり彼《かれ》の身体《からだ》をかかえておくれ。……そう、そのまま、うごかないように。あなたは、彼の左手をもちあげてください。………そう。」
片膝《かたひざ》をつき、すっと鉈《なた》をタンダの肘《ひじ》にむけると、一瞬《いっしゅん》のためらいもなく、バルサはひらめくような速《はや》さで、鉈をふりおろした。
ラチャは岩屋《いわや》の外にまろびでて、思いっきり吐《は》いた。
あとからでてきた薬草師《やくそうし》の老人《ろうじん》も、まっ青《さお》な顔をして、冷《ひ》や汗《あせ》を手でぬぐった。ふるえながら息《いき》をすって、老人はつぶやいた。
「……なんて女だ。」
腕《うで》をすっぱりと切りおとすや、バルサはためらうことなく、その切り口に自分の口をあて、歯《は》で太い血管《けっかん》をかんでおさえると、手ばやく糸でかたくしばった。そして、切り口全体に、焼《や》いた短剣《たんけん》の刃《は》をつけて止血《しけつ》し、きざんだ薬草《やくそう》をつけた布《ぬの》でぐるぐるまいた。
それだけの治療《ちりょう》をほどこすあいだ、バルサは眉《まゆ》ひとつうごかさなかった。
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1  地の声と天《てん》の声
かさかさと草が鳴って、ほっそりとした中年の女があらわれた。
草地《くさち》で、たき火《び》をかこんでいた者《もの》たちが、ちょっと身体《からだ》をずらして、その女がすわれる場所をつくった。
小さく切って串《くし》に刺《そ》された山鳥《やまどり》の肉が遠火《とおび》であぶられ、じりじりと脂《あぶら》がこげるこうばしいにおいがただよっていた。
空には月がかかっていたが、ときおりうすい雲がながれて、その姿《すがた》をかくす。
女が腰《こし》をおろすと、まっ黒《くろ》な顔をしたみにくい老婆《ろうば》 − トロガイが、なみなみと酒《さけ》のはいった木椀《もくわん》を彼女《かのじょ》にわたした。
「まずは、一杯《いっぱい》。」
女は酒をうけとると、木椀の縁《ふち》にロをつけて、そっと酒をすすった。そして、満足《まんぞく》げなため息《いき》をついて、つぶやいた。
「ホサムの花は、咲《さ》くときにあたりの暖気《だんき》をすうっていうけれど、今夜《こんや》はほんとうに、冷《ひ》えますねぇ。」
トロガイが、かすかに笑《わら》った。
「こういう日が、もうちっとつづいてくれれば、雪《ゆき》どけもおそかろうが……。」
トロガイのわきにすわっている小柄《こがら》な老人《ろうじん》が、山鳥《ゆまどり》の串《くし》を一本とると、やわらかなユイの葉にジキ(豆《まめ》を発酵《はっこう》させた味噌《みそ》に、甘《あま》からい香辛料《こうしんりょう》をねりこんだもの)をぬって、その上に山鳥の焼肉《やきにく》をのせてくるんだ。
それを女にわたしながら、老人はいった。
「はいよ。酒《さけ》には、こいつがいちばんだ。まず、食べな。話はそれからだ。」
トロガイは、ひやかすように眉《まゆ》をあげた。
「やさしいこった。オロムガイは、カシュガイに気があるんじゃないかね?」
「やくな、やくな。わしらのなかじゃ、カシュガイがいちばんいい女だってこたぁ、あんただって承知《しょうち》だろうに。術《じゅつ》じゃあんたがいちばんなんだ。顔でまで、勝とうと思うこたぁなかろう。」
たき火《び》をかこんでいる者《もの》たちのあいだから、笑《わら》い声《ごえ》がおこった。
彼《かれ》らは、みな呪術師《じゅじゅつし》だった。ヤクーらしい顔つきの者から、ヨゴ人の顔をしている者までさまざまだが、一|世代《せだい》まえの師匠《ししょう》たちから呪術《じゅじゅつ》の技《わざ》をならって呪術師となり、各地《かくち》を放浪《ほうろう》しながらくらしている者《もの》ばかりだった。
山鳥《やまどり》と、蒸《む》し飯《めし》を食べ、鳥《とり》の骨《ほね》で出汁《だしじる》をとった山菜汁《さんさいじる》をすすりながら、彼《かれ》らは、それぞれがみてきた話をつたえた。
彼らは青霧山脈《あおぎりさんみゃく》にちらばって、青弓川《あおゆみがわ》にながれこむ谷川《たんがわ》のようすをしらべてきたのだった。
「チャ・コチ(ヤクー語《ご》で西の峰《みね》という意味)では、もう根雪《ねゆき》がとけはじめていますよ。」
鳥の脂《あぶら》がついた指《ゆび》をなめながら、カシュガイがいった。
「雪《ゆき》どけ風がふきはじめているからね、雪崩《なだれ》がおきている場所もたくさんあって、ホクガ(青川《あおかわ》)の水量《すいりょう》は日ごとに増しています。」
たき火《び》のむこう側《がわ》で、中年の男がうなずいた。
「オ・コチ(東の峰《みね》)も、おなじ状況《じょうきょう》だ。タックガ(亀川《かめがわ》)の亀岩が甲羅《こうら》まで水没《すいぼつ》していた。」
オロムガイが身《み》じろぎした。
「……じわじわと、時がせまっているな。水量があがっていることくらい、都《みやこ》の連中《れんちゅう》も気づいてはいるだろうが、サアナン(水源《すいげん》)のまわりのコチ(峰)の雪《ゆき》がきしんでいるとなれば、いっきに崩落《ほうらく》してきたら、いっぺんにとんでもない水量になるぞ。」
トロガイが顎《あご》をなでた。
「カンバルのユサ山脈《さんみやく》の山の底《そこ》で、ナユグの精霊《せいれい》たちのつがいがはじまっておるそうな。とくに、(山の王)がつがいの舞《まい》をまいはじめたら、ユサがゆれるだけじゃおさまるまい。」
老人《ろうじん》たちが、ぎょっとしたように目をむいた。
「トロガイ、そりゃ、ほんとうか?」
「おうよ。カンバルからかえってきた者《もの》が、教えてくれた。」
老人たちがうなった。オロムガイが、しわがれた声でいった。
「師匠《ししょう》からきいたことがある。どのくらいまえか、さだかでないほど、とおいむかしの話らしいが、ものすごい地ゆれがおきて、たくさんの川があふれ地崩《じくず》れがおきたとき、ユサ山脈《さんみゃく》のほうで、大地の精気《せいき》が虹《にじ》のようにゆらめきながら天《てん》にふきあがっていくのがみえたそうな。地の底《そこ》の精霊《せいれい》がつがったときに、つよい精気を吐《は》きだしたのだと、師匠はいっておったな。」
中年の呪術師《じゅじゅつ》が顔をゆがめた。
「なんと、はためいわくな精霊《せいれい》ぞ。しずかにつがってもらわねば、地の上のものがめいわくするわい。」
失笑《しっしょう》がながれたが、すぐに彼《かれ》らは、笑《え》みを消《け》した。
ユサ山脈《そんみゃく》と青霧《あおぎり》山脈は、近い。(山の王)が山脈をゆすれば、ただでさえ、きしみはじめている峰々《みねみね》の雪《ゆき》が、いっせいに川にむかって滑落《かつらく》してくるにちがいない。
そうなれば、川沿《かわぞい》いの村々《むらむら》は大水におそわれ、多くの支流《しりゅう》があつまっていく青弓川《あおゆみがわ》の扇状地《せんじょうち》にきずかれている光扇京《こうせんきょう》は、あっというまに濁流《だくりゅう》にのまれてしまうだろう。
むかい側《がわ》にすわっていた老呪術師《ろうじゅじゅつし》が、暗《くら》い表情《ひょうじょう》でいった。
「ユサと青霧《あおぎり》、ふたつの山脈《さんみゃく》の根雪《ねやき》がとけるとなると、ものすごい水量《すいりょう》になるぞ。土留《どと》めや、溝《みぞ》くらいでは、どうもならん場所もたんとでてくるだろう。大水がおしよせてくるまえに、高いところへ逃《に》げるようにつたえてやらんと、人死《ひとじ》にがでるぞ。」
中年の呪術師がうなった。
「とはいえ、それをしらせてやるのは、出水《しゅっすい》の直前《ちょくぜん》でないとなぁ。いまは野良仕事《のらしごと》がいそがしい時期《じき》だ。でるかでないかわからん大水をまって、長いこと高台《たかだい》に避難《ひなん》しているわけにもいくまい。」
オロムガイがつぶやいた。
「ユサの(山の王)がつがいはじめれば、まず、ナユグの水がゆれるだろう。わしらが、ナユグを自在《じざい》に感じられれば、その、はじまりの時を知ることもできようがなぁ。」
トロガイが、自分の膝《ひざ》をなでながらいった。
「タンダが、おもしろいことをいっておった。ときおり、ナユグに半身をつけているような者《もの》がうまれることは、おまえさんらも知っておろう? そういう者は、オ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)なのではなかろうか、と、いうんだよ。」
呪術師《じゅじゅつし》たちが、ほうっという顔をした。オロムガイがうなずいた。
「なるほどな。さすがは、あんたのお弟子《でし》だ。おもしろいことをいう。……そうかもしれん。わしらより、ずっとはやく異変《いへん》を感じて、わしらに警告を発《はっ》してくれる、オ・チャル(群れの警告者)な。」
カシュガイがいった。
「そういう子を、ひとり知っていますよ。」
ほかの呪術師《じゅじゅつし》たちのなかにも、そういう者《もの》を知っているという者がいた。
トロガイは、みなをみまわした。
「根雪《ねゆき》の滑落《かつらく》を目でたしかめてからじゃ、濁流《だくりゅう》がながれくだってくるまえに村人《むらびと》に警告《けいこく》するには手おくれになるかもしれん。……な、ものは相談《そうだん》だが、あんたらが心当《こころあ》たりがあるといった子たちを、要所《ようしょ》、要所につれていったらどうだろうね。長いこと村をはなれるわけじゃない。氾濫《はんらん》は、もうすぐおこるんだから。彼《かれ》らが、異変《いへん》を感じとったら、ショ・ヤイ(光の鳥)を飛ばして、村々《むらむら》にしらせてやればいい。」
オロムガイが、眉根《まゆね》をよせた。
「しかし、ショ・ヤイ(光の鳥)は、かんたんな術《じゅつ》じゃない。まちがいなく飛ばせるのは、ここにいる六人ぐらいなもんぞ。あんたのお弟子《でし》さんならともかく、わしらの弟子のうちで、ちゃんと飛ばせるやつが何人いるか……。川沿《かわぞ》いの村は二十七か村《そん》ある。とてもとても、すべての村に、警告《けいこく》を発《はっ》するのはむりだぞ。」
カシュガイが、つぶやいた。
「……それに、都《みやこ》の人たちは……?」
トロガイが、ほほえんだ。
「そいつは、わしの知りあいにまかせるさ。 − 都のことは、わしら呪術師《じゅじゅつし》だけじゃ、どうにもならんことがあるからね。わしらは、村のことを考えようや。」
中年の呪術師が、口をはさんだ。
「だが、これ以上なにができる? わしらの言葉《ことば》を信《しん》じて逃《に》げだした連中《れんちゅう》は、もう、あちこちの村にちらばって身をよせている。(扇《おうぎ》ノ中《なか》)(武人階級《ぶじんかいきゅう》の住む地域《ちいき》)や(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)(帝《みかど》の宮《宮》や貴族《きぞく》階級の住む地域)が、わしらの言葉をきくはずがなかろうし。」
トロガイは、その呪術師に目をむけた。
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「きく耳もたんやつは、ほっておけってか?……わしは、いやだね。首根《くびね》っこつかんでも、たすけだしてやるさ。」
「心意気《こころいき》はいいが、トロガイよ……。」
苦笑《くしょう》しながら、いいかけたオロムガイの言葉《ことば》を、トロガイは手でおしとどめた。
そして、しずかな口調《くちょう》でいった。
「オ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)がナユグのゆれを感じ、峰々《みねみね》の根雪《ねゆき》の滑落《かつらく》がはじまったら、みんな、わしのもとに、ショ・ヤイ(光の鳥)を飛ばしておくれ。わしは、(青霧《あおぎり》の主《ぬし》)のなかで、オ・ロク・オム(大樹宿《たいじゅやど》り)をしておるから。」
呪術師《じゅじゅつし》たちは、あぜんとして、トロガイをみた。
オロムガイが、信《しん》じられぬ、という口調《くちよう》でききかえした。
「(青霧《あおぎり》の主《ぬし》)のなかで、オ・ロク・オム(大樹宿《たいじゅやど》り)をするだと?……トロガイさん、あんた、まさか、コン・アラミ(金の蜘蛛《くも》)の術《じゅつ》をやるつもりか?」
トロガイは、にやにや笑《わら》っている。
オロムガイが、顔をこわばらせて、首をふった。
「あんた……それは無謀《むぼう》だ。あれは、あんたの師匠《ししょう》だった大呪術師ノルガイだけが成功《せいこう》した呪術で、しかも……。」
トロガイは、うなずきながら、その言葉をひきとった。
「そう。わが師《し》、ノルガイの命《いのち》をうぼった術《じゅつ》さ。」
笑《え》みをうかべたまま、トロガイはいった。
「あれは、わしが四十ちょっとすぎ、師《し》はそろそろ七十をすぎたころだった。
師は、あの大地震《だいじしん》を予知《よち》されて、山の村々《むらむら》に警告《けいこく》を発《はっ》するために、コン・アラミ(金の蜘蛛《くも》)の術をこころみられた。
あのとき、師にコン・アラミ(金の蜘蛛)の呪力《じゅりょく》をそそがれて、各村《かくむら》にショ・ヤイ(光の鳥)を飛ばした呪術師《じゅじゅつし》の数は、いまのわしらよりふたりもすくなかったが、それでも、二十七か村すべてに警告を発することができた。」
トロガイの目には、とおいむかしの光景《こうけい》が、ありありとみえていた。
「……すごい術《じゅつ》だったよ。わしは、はじめからおわりまで、間近《まぢか》でみとどけた。わが師《し》が、術に命《いのち》をすわれて死《し》をむかえた、その瞬間《しゅんかん》までね。」
トロガイがロをとじると、しずけさが草地《くさち》をおおった。
声もなく、自分をみつめている呪術師《じゅじゅつし》たちをみまわして、トロガイは、いった。
「なんで、そんな顔をしとる? 呪術なんてものは、もともと、おのが命を死の闇《やみ》の上に、細い蜘蛛《くも》の糸でぶらさげていどむものだろうが。術に精気《せいき》をすわれて死ぬのがおそろしくて、術にいどめぬようなら、呪術師なんぞ、やめたがいいのさ。」
そういうや、トロガイは、歯をむきだして、笑《わら》った。
「わしが、コン・アラミ(金の蜘蛛《くも》)の術《じゅつ》をやって生きのびられるかどうか、あんたら、酒《さけ》をひと壷《つぼ》|賭《か》けんかね? え?
このトロガイさまは、顔じゃカシュガイにはかなわんが、呪術《じゅじゅつ》の腕《うで》なら当代一《とうだいいち》ぞ。うまくいったら、酒ひと壷。そんで、末代《まつだい》まで、わしの偉業《いぎょう》をたたえておくれや。」
なまあたたかい風が、むっと顔にふきつけた……と思ったとたん、轟音《ごうおん》がとどろき、まるで敷物《しきもの》がすべりおちるように、山の斜面《しゃめん》から自分へむかって、濁流《だくりゅう》が、土砂《どしゃ》と、なぎたおされた木々をまきあげながら、ながれおちてくる。
シュガはおもわず右腕《みぎうで》で顔をおおった。逃《に》げ場《ば》がない。ねじれた根《ね》を腕のようにふりあげた大木が、地をはねるようにすべりおち、せまってきた…‥
身体《からだ》に力をこめて、背《せ》に衝撃《しょうげき》がくるのをまちつづけたが、いっこうに、土砂《どしゃ》はおちてこなかった。
うっすらと目をあけて、シュガは、自分が乳色《ちちいろ》の靄《もや》のなかにいることに気づいた。
濁流《だくりゅう》も土砂崩《どしゃくず》れも、なにもない。ただ、いちめん、うすい靄がただよっている。
香木《こうぼく》を燃《も》やしたようなにおいが、ふと、鼻についた。乳色の靄《もや》のなかに、ひと筋《すじ》、糸のようにただよっているにおい。それをたどっていくと、身体《からだ》がすべるように前にうごきはじめた。周囲《しゅうい》の闇《やみ》がぐんぐんうしろにとおざかる。
やがて、目の前に、ぼんやりと、白い炎《ほのお》のようなものがみえはじめた。声もきこえる。遠いところにいるのか、それとも靄《もや》にさえぎられているせいか、なにをいっているのかよくわからなかった。
声がきこえるたびに、その白い炎がのびちぢみする。
目をこらすうちに、その炎がかたちをととのえはじめた。 − それが、だれであるかに気づいたとたん、炎は急速《きゅうそく》にかたちをととのえ、人の姿《すがた》がたちあらわれた。
シュガは、ぼうぜんと、その人の姿をみつめた。
− トロガイ師《し》!
みにくい老婆《ろうば》の声が、谷間《たにま》をわたる木霊《こだま》のように、くぐもった響《ひび》きとなってきこえてくる。
− 夢《ゆめ》ではないぞ。あれは、夢ではない。このさきにおこることだ。
なにをいっているのかわからず、シュガは眉《まゆ》をひそめていたが、やがて、はっとした。
− あの地崩《じくず》れですか……?
トロガイの声は、かすかにしかききとれなかった。
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− 雪《ゆき》どけとともに濁流《だくりゅう》が都《みやこ》をおそう。都は、青弓川《あおゆみがわ》の扇状地《せんじょうち》……雪《ゆき》の峰《みね》……川《かわ》に滑落《かつらく》……。
あと、二十日《はつか》ももつまい……。
声が、どんどん遠くなっていく。自分の呪力《じゅりょく》が未熟《みじゅく》なせいで、トロガイの魂《たましい》とつながっていられないのだと、シュガは気づいた。
− トロガイ師《し》、まってください! いつです? いつ、その濁流《だくりゅう》が?
トロガイの声がきこえてきた。
− 魂にふれる、金の糸を、しっかり感じるんだよ……わが、弟子《でし》よ。わしは、おまえに、地の声をとどける……。
トロガイの姿《すがた》は、ふたたび白い炎《ほのお》となり、ゆらめいて、消《き》えていく。かすかな声が耳にとどいた。
− 星読《ほしよ》みよ……天の声を、民《たみ》に……。
もがきながら、シュガは半身を起こした。
冷《ひ》や汗《あせ》でびっしょりぬれている髪《かみ》に指を入れ、シュガは頭をかかえた。
自分がいまみたものが、ただの夢《ゆめ》ではないことはわかっていた。あの香木《こうぼく》の燃《も》えるにおい。あれは、夢《ゆめ》をつかって人の魂《たましい》とふれあう術《じゅつ》につかうと、トロガイ師が教えてくれた香木《こうぼく》のにおいだった。
トロガイは夢をおくってきたのだ。天災《てんさい》の予兆《よちょう》を告《つ》げるために…・。
地があたたまり、地がゆれる − 雪《ゆき》の峰《みね》が滑落《かつらく》し、青弓川《あおゆみがわ》に濁流《だくりゅう》がおしよせる?
シュガは、ぼうぜんと闇《やみ》をみつめた。
まだ悪夢《あくむ》をみているようで、実感《じっかん》がわかなかった。
だが、ここ数《すう》カ月《げつ》、目にしてきた星図《せいず》と天図《てんず》を思いおこすうちに、ひとつひとつ、思いあたることがでてきて、シュガは、ふるえはじめた。
(青弓川《あおゆみがわ》が氾濫《はならん》したら……。)
まっさきにおしながされるのは(扇《おおぎ》ノ上《かみ》)−− 帝《みかど》のおわす宮《みや》と、この星ノ宮 − この国の国政《こくせい》をつかさどるすべての要《かなめ》だ。(扇ノ上)の背後《はいご》には土盛《ども》りがなされていて、すこしくらいの氾濫《はんらん》では水をかぶらないようになっているが、土盛りなどのりこえてしまうほどの氾濫であれば……この国は、タルシュの侵攻《しんこう》をまつまでもなく、一瞬《いっしゅん》で国の中枢《ちゅうすう》をうしなって、崩壊《ほうかい》する……。
(なぜ、ナナイ大聖導師《だいせいどうし》は……。)
南の大陸《たいりく》から、この地にヨゴ人をみちびいてきた星読博士《ほしよみはかせ》ナナイは、扇状地《せんじょうち》などに都《みやこ》をきずいたのだろう?
青弓川《あおゆみがわ》はおとなしい川で、これまで氾濫《はんらん》することなど考えてもいなかったが、いま、あらためて考えてみると、それがふしぎに思えてきた。
扇状地《せんじょうち》は山の精気《せいき》がたまる場所。よい力に満《み》ちた場所であると天道《てんどう》ではみなされているが、いったん川が氾濫すれば、水没《すいぼつ》の危険《きけん》があるこのような土地に、なぜ、国の中枢《ちゅうすう》たる都《みやこ》を、ナナイはきずいたのか……。
シュガはシルヤ(夜具《やぐ》)をはいで、立ちあがった。
すばやく衣《ころも》をまとうと、枕《まくら》もとにおいてある小さな箱《はこ》をあけて、なかから鍵《かぎ》をとりだした。それから、闇《やみ》のなかを戸口《とぐち》までいき、戸をひきあけて、廊下《ろうか》へすべりでた。
人影《ひとかげ》のない廊下には、ぽつり、ぽつりと、常夜灯《じょうやとう》がともっている。
しずかな廊下《ろうか》をひたひたと歩き、やがて、シュガは、聖導師《せいどうし》の居間《いま》であった(奥《おく》ノ間《ま》)の前までくると、その巨大《きょだい》な扉《とびら》をおしあけた。
主《ぬし》のいない(奥ノ間)は、しんとしずまりかえっていた。シュガは、しばし、広く、ひんやりと冷《つめ》たい(石床《いしゆか》ノ間《ま》) に立って、かつて聖導師が寝起《ねお》きしていた、奥《おく》の一|段《だん》高い(畳《たたみ》ノ間《ま》)をみつめた。
この広い部屋《へや》のうつろさが、胸《むね》を刺《さ》した。
シュガは小さく吐息《といき》をつくと、壁《かべ》のくぼみにともしてある悪霊祓《あくりょうばら》いのろうそくをひとつとって、(石床《いしゆか》ノ間《ま》)の一角《いっかく》にいった。敷物《しきもの》をずらすと、上《あ》げ戸《ど》があらわれた。その鍵穴《かぎあな》にもってきた鍵を入れてまわし、シュガは秘倉《ひそう》の戸をあけた。
ここは、ナナイ大聖導師《だいせいどうし》が書きのこした膨大《ぼうだい》な記録《きろく》を、石板《せきばん》にきざんだものが残《のこ》されている秘密《ひみつ》の倉《くら》だった。正史《せいし》にはしるされぬ、なまなましい真実《しんじつ》の記録《きろく》がきざまれているその石板は、古代《こだい》ヨゴ語で書かれており、極秘《ごくひ》につたえられてきたものだった。
この倉になにがあるのかは、聖導師とシュガ以外知る者《もの》はいない。
シュガはそっと秘倉《ひそう》におりていった。聖導師《せいどうし》からこの秘倉の鍵《かぎ》をわたされて、はや、五年。チャグム皇太子《こうたいし》の教育係《きょういくがかり》をおおせつかって、なかなか、この倉にくることもできなかったが、それでも時間をみつけては、シュガはこの倉におりて、ナナイの手記《しゅき》を読みすすんでいた。
なぜ、ナナイは、青弓川《あおゆみがわ》の扇状地《せんじょうち》に都《みやこ》をきずいたのか。
その疑問《ぎもん》を感じたとき、シュガは、なにか、それにかんする彼の言葉《ことば》を読んだことがあるような気がした。それを、どうしてもたしかめたかった。
もってきたろうそくの火を燭台《しょくだい》にうつし、シュガは、自分なりに整理《せいり》してある石板《せきばん》をいく枚《まい》かもってきて、読みはじめた。ふつうの者《もの》には難解《なんかい》で、読みとくのに時間がかかる古代《こだい》ヨゴ文字《もじ》も、いまのシュガには、すらすらと読めた。一枚《まい》めを目でたどり、二枚めのなかほどにきたとき、シュガは、すっと目をほそめた。
それは、ナナイがとくに目をかけていた若《わか》い星読博士《ほしよみはかせ》との、問答《もんどう》の一|節《せつ》だった。
若い星読博士は、ナナイが、なぜこの地を都《みやこ》にさだめたのかと、問いかけている。
その問いに、ナナイは、こうこたえていた。
− 星読《ほし》みよ、おのれの技《わざ》をみがきつづけよ。たゆまず、天《てん》をみつづけよ。
天の災《わざわ》いをふせいでこその、星読み。ながれさるなら、ほろびよ、都……。
うなじに鳥肌《とりはだ》がたった。
石板《せきばん》にふれたまま、しばし、シュガは動きをとめていた。
ナナイは複雑《ふくざつ》な男だった。わざわざ愚痴《ぐち》を書きのこすような人間くさい人柄《ひとがら》の奥《おく》に、はっとするような冷《つめ》たさを秘《ひ》めていた。この世《よ》の生々流転《せいせいるてん》をひややかにみつめているまなざしを、シュガは、いつも、彼《かれ》の文《ぶん》から感じていた。
ナナイの、ひややかな目が、自分をみているような気がした。
(ながれさるなら、ほろびよ、都《みやこ》……。)
彼《かれ》は、未来《みらい》の星読《ほしよ》みたちの背《せ》に、あえて刃《やいば》をつきつけていったのだ。
シュガは、そっと石板《せきばん》をもとの場所にもどした。
(わたしたちは……。)
シュガは、心のなかでつぶやいた。
(星読《ほしよみ》みの本筋《ほんすじ》を、わすれさっていた。)
タルシュ帝国《ていこく》の脅威《きょうい》がせまってきたころから、星図《せいず》も天図《ず》も、人界《じんかい》の運勢《うんせい》の機微《きび》をよむためにつかわれ、生成変転《せいせいへんてん》ノ相《そう》があらわれていても、それを敵《てき》の脅威《きょうい》と国のかかわりでしか、みようとしなかった。
シュガもふくめ、だれひとり、いまの天《てん》ノ相《そう》が、水害《すいがい》のような天災《てんさい》の予兆《よちょう》をつたえていることに、気づく者《もの》はいなかった。
シュガはあかりを消して、そっと秘倉《ひそう》をでた。
まだ、夜明《よあ》けには間があったが、眠気《ねむけ》はきれいに消えていた。シュガは、ふと思いついて(星読《ほしよみ》ノ塔《とう》)に足をむけた。
星《ほし》ノ宮《みや》の中央にそびえたつ塔に、ゆっくりとのぼっていきながら、シュガは、自分がもう、いく月も、この塔にのぼっていなかったことを思っていた。
塔《とう》のてっぺん、ぐるりと四方《しほう》の空をみわたせる天望《てんぼう》ノ台《だい》にたどりつくと、星読《ほしよ》みをする当番《とうばん》の星読|博士《はかせ》と、見習《みなら》いたちが、毛布《もうふ》を身《み》にまきつけ、練炭《れんたん》を入れた火鉢《ひばち》のわきにしゃがみこんで、うつらうつらしている姿《すがた》が影《かげ》になってみえた。
この時刻《じこく》がいちばん眠《ねむ》い時刻なのだ。夜を徹《てっ》して星を読まねばならないのはわかっているが、シュガも、少年のころ、ああしてねむってしまったことがなんどもあった。
シュガは、彼《かれ》らをおこさずに、欄干《らんかん》に手をあてて、星空をあおいだ。
うすく雲がながれる夜空《よぞら》に、銀砂《ぎんさ》のように、星がまたたいている。すんっと澄《す》んだ夜風《よかぜ》が頬《ほお》にふれていく。
ー たゆまず、天《てん》をみつづけよ……。
そういいながら、ナナイはまた、星読博士《ほしよみはかせ》に、帝《みかど》のそばにあって国政《こくせい》をうごかす聖導師《せいどうし》という役割《やくわり》をあたえた。天をみながら、まつりごとにも目をむけ、その両方《りょうほう》をてのひらの上であやつれるのは、ナナイのような不世出《ふせいしゅつ》の天才《てんさい》だけだろうに……。
シュガは、かすかな笑《え》みをそのくちびるにうかべた。
頭上《ずじょう》には星空《ほしぞら》。眼下《がんか》には、ほろびを間近《まぢか》にひかえた都《みやこ》のあかりがひろがっている。
(地崩《じくず》れのあとにも、草木《くさき》は芽《め》ぶく。)
心のなかで、シュガは、つぶやいた。
(ナナイ大聖導師《だいせいどうし》よ、あの世《よ》から、みているがいい。この星読《ほしよ》みが、なにをなすかを……。)
背後《はいご》で、あくびをした音がきこえてきた。身《み》じろぎをして目をさました星読博士《ほしよみはかせ》が、シュガの姿《すがた》に気づいて、あわてて立ちあがった。
「シュガさま………。」
目をしょぼしょぼさせ、緊張《きんちょう》した顔でこちらをみている星読博士に、シュガはいった。
「夜があけたら、上位《じょうい》の博士たちによる星読《ほしよみ》ノ議《ぎ》をひらく。つとめをおえて下におりたら、上位の者《もの》たちに、そのむねをつたえてまわってくれ。」
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2  古《ふる》き根《ね》をすてよ
高窓《たかまど》から、星図《せいず》ノ間《ま》に、昼下《ひるさがり》がりの光がさしこんでいる。
戸をたたく音で、シュガは、机《つくえ》にひろげている天候図《てんこうず》から目をあげた。
「皇国陸軍副将《おうこくりくぐんふくしょう》カリョウさまが、おいでになりました。」
星読見習《ほしよみみなら》いの少年の声に、シュガはこたえた。
「おとおしせよ。」
少年が戸をあけると、背《せ》の高い武将《ぶしょう》がはいってきた。少年が戸をしめて去るまで、カリョウはロをひらかずに戸のそばに立っていた。
シュガとふたりきりになると、カリョウは、すっとシュガにあゆみよった。そして、机《つくえ》にひろげられている天候図《てんこうず》をみながら、低い声でいった。
「天候を教えるというのは、よい口実《こうじつ》ですな。副将《ふくしょう》として、軍《ぐん》をうごかすのに、天候と、恵方《えほう》を知るのはたいせつなこと。われらがあうことを、だれもふしぎに思いますまい。」
シュガは、うなずいた。
「むだについやせる時は残《のこ》っておりませんから。今後《こんご》の手はずをうかがうために、こういう口実《こうじつ》でおまねきしたのです。」
カリョウは、ロもとに笑《え》みをうかべた。
「ここは、しずかですね。(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)は、処刑《しょけい》をまつ囚人《しゅうじん》たちの檻《おり》のようなありさまですよ。いまになってようやく、自分たちがどんな状況《じょうきょう》にあるのか実感《じっかん》がわいてきたのでしょうな、貴族《きぞく》たちは、みぐるしいほどにうろたえています。
兄上などは、緒戦大敗《しょせんたいはい》のしらせをもってきた兵士《へいし》を牢《ろう》に入れてしまった。皇国陸軍《おうこくりくぐん》が大敗するはずがない。大敗したと報告《ほうこく》してきた兵士は、敵《てき》の意《い》をうけているのだといって。」
「……帝《みかど》のごようすは?」
シュガの問いに、カリョウは、笑《え》みを消《け》した。
「湖水《こすい》のように、おちついておられます。 − 日に日に、神々《こうごう》しさを増《ま》しておられる。」
シュガは、窓《まど》からさしこんでいる光が、天候図《てんこうず》をてらしているあたりを、ぼんやりとみていた。
カリョウが、平坦《へいたん》な声でいった。
「タルシュ軍《ぐん》は、およそ七日《なのか》まえに、四路街《しろがい》に近い赤戸《あかと》ノ砦《とりで》を突破《とっぱ》しました。」
シュガは、目をあげてカリョウをみた。カリョウは、なんの表情《ひょうじょう》もうかべず、たんたんといった。
「赤戸《あかと》ノ砦《とりで》の守備兵《しゅびへい》はほぼ全滅《ぜんめつ》。タルシュ側《がわ》の戦死者《せんししゃ》は数《すう》百というところだったのでしょう。
一昨日《いっさくじつ》、二|万《まん》ちかいタルシュ兵《へい》がヤズノ砦《とりで》へむかったとのしらせがとどきましたので、東側《ひがしがわ》の砦の指揮官《しきかん》たちに、ただちに都《みやこ》の守護《しゅび》のために、砦をすてて都へ移動《いどう》するよう指示《しじ》をだしました。」
シュガは、じっとカリヨウをみつめた。
皇国陸軍《おうこくりくぐん》を実質的《じっしつてき》にうごかす立場《たちば》にいるカリョウは、敵《てき》に情報《じょうほう》を売り、敵がうごきやすいように、皇国陸軍を操作《そうさ》している。おのれを信《しん》じて命令《めいれい》にしたがっている兵士《へいし》たちの戦死《せんし》のしらせを、この男は、どんな思いできいているのだろう。
すくなくとも、彼《かれ》の表情《ひょうじょう》からは、その心は読みとれなかった。
「……東から、タルシュ軍《ぐん》が進軍《しんぐん》していることは、まだ、だれも知らないのですね。」
シュガがつぶやくと、カリョウほうなずいた。
「知りません。」
こたえてから、カリョウは、ふっと苦笑《くしょう》をうかべた。
「こうして戦《いくさ》をしてみると、わが軍《ぐん》の不備《ふび》がよくわかる。兵数《へいすう》がすくないだけではない。情報《じょうほう》をあつめる力に欠《か》けている。目隠《めかくし》しをされたまま、たたかっているようなものだ。
わたしとて、タルシュと内通《ないつう》していなかったら、どこから敵《てき》がしのびよっているか、知ることもできなかった。」
みじかくかりこんである髭《ひげ》をなでながら、カリョウはいった。
「ともかく、いまのところは順調《じゅんちょう》にすすんでいます。 − 予想《よそう》していたよりすくない戦死者《せんししゃ》ですみそうだ。」
守備兵《しゅびへい》がもっともすくない砦《とりで》の位置《いち》をタルシュに教えたのは、たんに、タルシュ軍《ぐん》に便宜《べんぎ》をはかっただけではない。なるべく、兵士《へいし》をむだ死《じ》にさせぬための手段《しゅだん》だった。
赤戸《あかと》ノ砦《とりで》を七日《なのか》まえにおとしたのなら、西からすすんできているタルシュ軍《ぐん》はもう、ヤズノ砦もおとしただろう。彼《かれ》らが都《みやこ》にちかづくころには、東から、さらに一|万《まん》のタルシュ軍がせまっていることがつたわってくるはずだ。
東西からはさむようにやってくる三万のタルシュ軍兵士《ぐんへいし》にたいして、都《みやこ》をまもる皇国軍兵士《おうこくぐんへいし》は、もはや七千しか残《のこ》っていない。 − 都は、絶望感《ぜつぼうかん》につつまれるだろう。
敵《てき》の大軍《たいぐん》がせまり、宮中《きゅうちゅう》の不安《ふあん》が頂点《ちょうてん》にたっしたときに帝《みかど》を毒殺《どくさつ》し、いっきに宮中の人びとの心を折《お》って、降伏《こうふく》を納得《なっとく》させるというのが、カリョウの策《さく》だった。
タルシュ軍をひきいてくるふたりの将軍《しょうぐん》には、すでに、そのことをつたえてある。彼《かれ》らが都《みやこ》にたっした時点《じてな》で降伏《こうふく》すれば、都を焼《や》かないという約束《やくそく》をとりつけてあった。
「西からすすんでくるタルシュ軍が、都に着《つ》くのは、いつごろでしょうね。」
シュガが問うと、カリョウは、こたえた。
「おそくとも、三日《みっか》のうちには、やってくるでしょう。」
シュガは無表情《むひょうじょう》のまま、いった。
「そうですか。では、タルシュの到着《とうちゃく》をまたず、天蓋《てんがい》をこわしてください。」
さすがに、おどろいた表情《ひょうじょう》がカリョウの目にうかんだ。
天蓋とは、帝《みかど》を意味している。
ととのった顔に、ひややかな表情をうかべている、この若《わか》い星読博士《ほしよみはかせ》は、一刻《いっこく》もはやく帝《みかど》を殺《ころ》せといっているのだ。
「……あなたから、そのような言葉《ことば》をきくとは思いませんでした。なぜ、いそぐのです?」
シュガは、まばたきもせずにいった。
「まもなく、未曾有《みぞう》の天災《てんさい》がこの地をおそうからです。」
意外《いがい》なことをいわれて、カリョウはおもわずききかえした。
「未曾有の天災?」
「この冬が、異常《いじょう》にあたたかかったことは、おぼえておられるでしょう。暖冬《だんとう》のせいで、これまではとけることのなかった青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の雪《ゆき》の峰々《みねみね》が、きしみはじめているのです。雪どけ風がふきはじめたら、いつ大量《たいりょう》の雪が谷川《たにがわ》に滑落《かつらく》してもおかしくない。
青弓川《あおゆみがわ》の水量《すいりょう》が、いっきにとてつもなくふえたら、なにがおこるか、おわかりでしょう。」
ようやく、いわれていることの重大《じゅうだい》さが心にしみてきたのだろう、カリョウの頬《ほお》がこわばった。
「それは……まことの話ですか……?」
シュガはうなずいた。
「今朝《けさ》、星読見習《ほしよみみなら》いたちに、青弓川の水量をはかりにいかせました。彼《かれ》らは、川の水位《すいい》がどんどんあがっていることをたしかめてかえってきました。
上位《じょうい》の星読|博士《はかせ》たちで、天図《てんず》を読みといたのですが、この天候《てんこう》のかたちになれば、雪《ゆき》どけ風は、いつふきはじめてもおかしくない。」
あおざめているカリョウをみつめて、シュガはいった。
「都《みやこ》にいる人びとを、逃《に》がさねばなりません。一刻《いっこく》もはやく。」
カリョウは眉《まゆ》をひそめた。
「逃がすといっても、何万《なんまん》もの人びとを、どこへ? いまは……。」
シュガはうなずいた。
「南からタルシュ軍《ぐん》がせまっているいま、南の街《まち》や村《むら》へ避難《ひなん》させることはできません。考えられるのは、西の鳥影《とりかげ》ノ丘《おか》あたりから、月《つき》ノ野《の》あたりの高地《こうち》に、とりあえず大規模《だいきぼ》な野営地《やえいち》をつくることぐらいでしょう。」
「野営地《》……?」
ぼうぜんと自分をみているカリョウに、シュガはいった。
「とんでもないことであるのは、わかっています。しかし、ほかに、手がありますか?
都《みやこ》は、この国の要《かなめ》。タルシュ軍《ぐん》に総兵力《そうへいりょく》の約半数《やくはんすう》をうばわれたうえに、何万《なんまん》もの民《たみ》の命《いのち》がうばわれたら、この国は、もはや、国のすがたさえたもてますまい。」
カリョウは眉根《まゆね》をよせたまま、つぶやいた。
「しかし……青弓川《あえゆみがわ》が氾濫《はんらん》したくらいで、都が全滅《ぜんめつ》するとは、考えられないが。」
「そう。最初《さいしょ》の氾濫《はんらん》で建物《たてもの》までおしながされるのは、宮殿《きゅうでん》とこの星《ほし》ノ宮《みや》のある(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)ぐらいのものでしょう。」
平然《へいぜん》といわれて、カリョウはたじろいだ。
「……なるほど。しかし……。」
いいかけたカリョウを、シュガはさえぎった。
「しかし、川の水位《すいい》が大きくかわれば、(扇《おうぎ》ノ中《なか》)と(扇ノ下《しも》)の建物《たてもの》も水につかるでしょう。春がすぎれば雨季《うき》がおとずれます。水はひくどころか、ふえっづける。人びとは住むところをうしない、疫病《えきびょう》も蔓延《まんえん》するでしょう。」
カリョウはロをとじた。じっとシュガをみつめ、声をうしなっている。
シュガは、しずかにいった。
「人びとに家をすてさせ、うごく気にさせることは、できます。 − (大天災《だいてんさい》ノ告《こく》)をだせば。」
カリョウの目に、ゆっくりと光がうかんだ。シュガが、なぜ、帝《みかど》を一刻《いっこく》もはやく暗殺《あんさつ》せよといったのか、わかったのだ。
敵《てき》が都《みやこ》にせまっているいま、帝が、(大天災ノ告)をだすことをゆるすはずがない。
天災は、天子《てんし》たる帝《みかど》を、天《てん》ノ神《かみ》がお怒《いか》りになっている徴《しるし》。 − いま、都をおしながすほどの大天災がせまっていると告げることは、国がほろびる元凶《げんきょう》が帝であると告げるようなものだ。
そして、聖導師《せいどうし》の喪《も》があければ、つぎの聖導師になることがきまっているガカイは、帝のご機嫌《きげん》をそこねるようなことは、けっしてしない。
シュガは、ささやいた。
「帝《みかど》が神去《かむさ》りなされると同時《どうじ》に、(大天災《でいてんさい》ノ告《こく》)をだせば、人心《じんしん》は、いっきにうごくでしょう。」
ひきこまれるように、カリョウはうなずいた。
「なるほど。……わたしは、タルシュ軍《ぐん》がせまってきてから(聖堂籠《せいどうこも》り)をおねがいし、おひとりになったところで、毒《どく》をもることを考えておりましたが……もうすこし、はやめることもできましょう。
ごぞんじのように、明日《あす》、帝《みかど》は戦勝祈願《せんしょうきがん》ノ儀《ぎ》をおこなわれます。そのあとすぐに、(聖堂籠り)をおねがいしてみましょう。」
暗殺《あんさつ》をうたがわれぬためには、食中毒《しょくちゅうどく》にみせかけられるような、ゆるやかな効《き》き目《め》の毒《どく》をつかわねばならない。
しかし、おおぜいの小姓《こしょう》や侍従《じじゅう》が、たえず、つきしたがっている状況《じょうきょう》では、そのような毒をもっても、すぐに解毒《げどく》がほどこされ、確実《かくじつ》に殺《ころ》すことはむずかしい。
たったひとりで三日三晩《みっかみばん》|聖堂《せいどう》にこもっておこなう(聖堂|籠《こも》り)は、国難《こくなん》のおりに帝がおこなう、たいせつなつとめ。こもっているあいだ、帝は、わずかな水と食べ物しかロにしない。いちじるしく身体《からだ》の力がおとろえるそのときであれば、ゆるやかな効《き》き目《め》の毒《どく》であっても、まちがいなく死《し》にいたらせることができるだろう。
シュガは、まっすぐにカリョウをみすえ、しずかな声でいった。
「古《ふる》き根《ね》をすてさる覚悟《かくご》をしたのです。 − すべてをおしながし、あらたにきずきましょ う。」
帝《みかど》を殺《ころ》し、敵に国をわたす。その決断《けつだん》にたいする迷《まよ》いは、かけらも残《のこ》っていなかった。
いま、シュガは、そのさきのこと − 未曾有《みざう》の大災害《さいがい》におそわれたあとに、どうすればタルシュ帝国《ていこく》との交渉《こうしょう》を有利《ゆうり》にすすめられるか、それを考えていた。
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3  帰還《きかん》
その朝、宮殿《きゅうでん》は、はりつめたしずけさにつつまれていた。
皇族《こうぞく》たちが身《み》をきよめ、祈願《きがん》のときにまとう白い衣《ころも》に身をつつんで、宮中《きゅうちゅう》の白砂《しらすな》の中庭《なかにわ》にあつまっていた。
チャグムの母、二《に》ノ妃《きさき》の席《せき》は空席《くうせき》だった。息子《むすこ》の死《し》のしらせをきいてから、二ノ妃は(山ノ離宮《りきゅう》)に忌《い》みこもり、人前に姿《すがた》をみせなくなったが、夫《おっと》である帝《みかど》は、国難《こくなん》の時期《じき》であるということを理由《りゆう》に、ただの一|度《ど》も妃をなぐさめに(山ノ離宮)にわたらなかった。
聖導師《せいどうし》の喪《も》があけるまでは、正式《せいしき》の位交代《くらいこうたい》はないので、シュガとオズルは、いまだ聖導師見習《せいどうしもなら》いの位にいた。そのためこの儀式《ぎしき》にもまねかれ、聖導師見習いノ座《ざ》につき、儀礼《ぎれい》のしたくがととのえられていくのをみまもることとなった。名目上《めいみくじょう》はおなじ地位《ちい》であるはずのガカイは、帝のおそばにつきしたがっていて、まだ、中庭に姿《すがた》をみせていない。
トゥグム皇太子《こうたいし》がまちくたびれて、ぐずりはじめた。五つになったばかりの、このおさない皇太子《こうたいし》は、いっときもじっとしていられない。あたりがしずかなだけに、孫《まご》を赤子《あかご》のように膝《ひざ》にのせてあやしはじめたラドゥ陸軍大将《りくぐんたいしょう》の声が、耳ざわりにきこえた。
皇族《こうぞく》たちは、こわばった表情《ひょうじょう》で祭壇《さいだん》のほうをみている。
緒戦《しょせん》の大敗《たいはい》につづき、赤戸《あかと》ノ砦《とりで》が全滅《ぜんめつ》したというしらせは、彼《かれ》らを恐怖《きょうふ》のどん底《ぞこ》におとしいれた。ヤズノ砦がおちれば、そのさきにはもはや、タルシュ軍《ぐん》を足止《あしどめ》めしうる砦はない。
あと数日《すうじつ》のうちに、タルシュの軍勢《ぐんぜい》は都《みやこ》を焼《や》くだろう。帝《みかど》をはじめ、皇族は虐殺《ぎゃくさつ》されるだろう。せまりくる死《と》の足音《あしおと》をきいている彼らは、ろくにねむることすらできず、つかれきった表情をうかべていた。
それでも、彼らはいま、すがりつくような目で、祭壇《さいだん》をみつめている。
彼《かれ》らはまだ、かすかな希望《きぼう》を胸《むね》にいだいていた。雷《かみなり》がおちるか、大風がまきおこるかして、最後《さいご》には、きっと、天《てん》が自分たちをすくってくれると、心のどこかで信《しん》じていた。
天笛《てんてき》の澄《す》んだ音色《ねいろ》が、中庭《なかにわ》にひびきわたった。−−帝《みかど》の来臨《らいりん》を告《つ》げる音だった。
中庭にいる者《もの》たちすべてが、さっと頭をさげて、最敬礼《さいけいれい》の姿勢《しせい》をとった。
御簾《みす》が左右にひらかれ、帝が姿《すがた》をあらわした。
純白《じゅんぱく》の衣《ころも》に身《み》をつつみ、きっちりと黒髪《くろかみ》をゆったその姿は、微光《びこう》をたたえてみえるほど、清《きよ》らかだった。一|歩《ぽ》一歩、ゆっくりとした動作《どうさ》で、白木《しせき》の階段《かいだん》をおり、帝《みかど》は中庭《なかにわ》に敷《し》かれた白い布《ぬの》を踏《ふ》んで、祭壇《さいだん》へとあゆみはじめた。
その顔には、毛ひと筋《すじ》ほどの感情《かんじょう》もあらわれていなかった。祭壇の前で、ぴたりと立ったその姿《すがた》は、なめらかな白陶《はくとう》のようにみえた。
東をむき、帝は、のぼったばかりの太陽《たいよう》に両手《りょうて》をさしのべた。
そっと顔をあげて、その姿をみまもっている人びとの顔には、魅《み》いられたような表情《ひょうじょう》がうかんでいた。
帝《みかど》が凜《りん》とした声で戦勝《せんしょう》をねがう祝詞《のりと》をとなえはじめたとき、雲がながれはじめ、それまで帝の顔をかがやかせていた白い光がうすれた。
帝は表情をかえずに、祝詞をとなえつづけたが、みまもっている人びとの顔には、かすかな不安《ふあん》の色がうかんだ。
シュガは、じっと帝をみつめていた。
輪郭《りんかく》がくっきりとうかびあがっている、その姿をみるうちに、心のなかに思いがけぬ感情がしみだしてきた。 − それは、帝にたいする畏敬《いけい》の念《ねん》だった。
帝は、いま、このときにいたっても、おのれが天子《てんし》であることをうたがっていない。おのれのおこないの結末《けつまつ》を、おそれていなかった。
つかのま、シュガは、遠い未来《みらい》から、いまの自分をみているような、ふしぎな心地《ここち》におちいった。このまま帝《みかど》を信《しん》じれば天はわれらをすくうのではないか。自分は、小賢《こざか》しくもおのれの才《さい》を過信《かとん》して、帝を弑《しい》し、その結果《けっか》、この国をほろぼしてしまう極悪人《ごくあくにん》なのではないか…‥。
きみょうなその一瞬《いっしゅん》が去《さ》っても、胸《むね》の底《そこ》には、かすかな不安《ふあん》が残《のこ》った。
すずやかな声が、祝詞《のりと》をとなえつづけている。
うすく雲がながれようと、日が雲間《くもま》からあらわれようと、その白い姿《すがた》は、地に根《ね》をはやした白木《しらき》のようにうごかず、輪郭《りんかく》をにじませることはなかった。
この地に国をきずいて二百年。この国をささえてきたもののすがたを、いま、自分はみているのだと、シュガは思った。 − この帝を弑したとき、二百年この国をささえてきたなにかがくずれさり、二度《にど》と、もどることはないだろう。
風がつよくなり、雲の流れがはやくなった。
日をのみこんだ灰色《はいいろ》の雲《くも》が、縁《ふち》を銀色《ぎんいろ》にひからせ、庭木《にわき》がざわざわと音をたてはじめた。
帝《みかど》が祝詞《のりと》をとなえおえ、常葉木《とこはぎ》の枝《えだ》を若水《わかみず》につけて四方にふったとき、かすかに馬のひづめの音がきこえてきた。板《いた》をうつ、うつろでかわいた響《ひび》きだった。
宮殿《きゅうでん》の門《もん》につうじる堀《ほり》にかかる橋《はし》を、早馬《はやうま》がわたっているのだ。やがて、宮殿の建物《たてもの》をったって、潮騒《しおさい》のように遠いざわめきがきこえてきた。中庭《なかにわ》にいる人びとのなかには、その物音《ものおと》を気にして目をゆらしている者《もの》もいたが、帝《みかど》は、たんたんと儀式《ぎしき》をすすめている。
香木《こえぼく》を燃《も》やし、たちのぼるその煙《けむり》に指をさしいれ、帝は天《てん》ノ神《かみ》への願《ねが》いを書きしるしていく。その煙が高く天にのぼり、うす曇《くも》りの空に消《き》えさっていった。
儀礼《ぎれい》がおわった。
宮《みや》にもどっていく帝のあとについて、中庭にいる人びとがみな腰《こし》をあげ、歩きはじめた。
大広間《おおひろま》に、天ノ神にささげた供物《くもつ》がはこばれてくれば、宴《うたげ》がはじまる。その宴の席《せき》で、カリョクは帝に、(聖堂籠《せいどうこも》り)をねがうだろう。
帝《みかど》は、カリョウの願《ねが》いを、こころよくうけるにちがいない。
シュガは、白木《しらき》の段《だん》をのぼっていく帝のうしろ姿《すがた》をみつめながら、あともどりできぬ変化の時が刻一刻《こくいっこく》とせまっているのを感じていた。
帝《みかど》が宴《うたげ》の席《らき》につき、すべての者《もの》たちがそれぞれの席についたとき、広間《ひろま》の扉《とびら》がひらき、侍従長《じじゅうちょう》が興奮《こうふん》したおももちではいってきた。下座《しもざ》で平伏《へいふく》してから、侍従長は膝《ひざ》ですすみ、帝のおそばにいくと、なにかをささやいた。
その瞬間《しゅんかん》、帝《みかど》の顔色がかわった。 − これほどの驚愕《きょうがく》の表情《ひょうじょう》を、帝が人前でみせたのは、はじめてだった。
帝はしばし、かすかに顔をうつむけて、なにもみえていないような瞳《ひとみ》で宙《ちゅう》をみつめていたが、やがて、顔をあげると、しずかな声でいった。
「……よろこばしいしらせがまいった。ヤズノ砦《とりで》をおそったけがらわしき敵軍《てきぐん》は大敗《たいはい》し、敗走《はいそう》した。」
なにごとかと息《いき》をつめていた人びとの顔に、さっとよろこびの色がはじけた。わきあがった歓声《かんせい》がおさまるのをまって、帝は、つけくわえた。
「ヤズノ砦をすくったのは、わが息子《むすこ》、チャグムであるという。ロタ王国《おうこく》とカンバル王国の騎兵《きへい》をひきいて、いま、都西街道《とせいかいどう》を、都《みやこ》へとむかっているとのことだ。」
歓声をあげていた人びとはあっけにとられて、口をひらいたまま身動《みうご》きをとめ、広間《ひろま》は水をうったようにしずまりかえった。
つぎの瞬間《しゅんかん》、どよめきが、宴席《えんせき》をゆるがせた。
シュガはぼうぜんと帝《みかど》をみつめていた。光にうたれたようで、あたりが白茶《しらちゃ》けてみえた。
まばたきし、小刻《こきざみ》みにふるえている手をみおろして、シュガはふかく息《いき》をすった。
(チャグム殿下が………。)
頭がしびれ、ものが考えられなかった。夢《ゆめ》をみているようで、目の前の光景《こうけい》がとおのき、音がくぐもってきこえる。
これは、ほんとうのことだろうか。いま、自分はたしかにめざめてここにいるのだろうか。
(チャグム殿下が、生きて、もどられた……。)
ほんとうに、ロタとカンバルの騎兵《きへい》をつれて……?
「信《しん》じられぬ。このようなことがおこるとは、まことに、ふしぎ……。」
わきにすわっているオズルがさかんに首をふりながら、ぶつぶついっているのをきくうちに、とおのいてみえていたものが、もとのようにはっきりとみえはじめた。
小さな熱《ねつ》が腹《はら》の底《そこ》にうまれ、そこから熱湯《ねっとう》がわきあがるように、よろこびが身体全体《からだぜんたい》にしみわたった。
(生きて、もどられた。 − ロタと、カンバルとの同盟《どうめい》を、なしとげられたのだ……。)
ふるえる手でロもとをおおい、シュガはしみだしてくる涙《なみだ》をひっしにこらえた。
(なんというお方《かた》だ……。)
けっしてかなわぬとあきらめ、わすれようとしていた望《のぞ》みだった。生きておられさえすれば、二度《にど》とあえずともかまわぬと思ってきた。……こみあげてくる歓喜《かんき》をおさえられず、シュガは、しばし、目をふせた。
(天《てん》ノ神《かみ》よ……感謝《かんしゃ》いたします。)
顔をあげると、皇族《こうぞく》たちのようすが目にとびこんできた。最初《さいしょ》のおどろきがうすれると、それぞれの立場《たちば》によって、彼《かれ》らは、さまざまな表情《ひょうじょう》をしめしていた。
失望《しつぼう》と怒《いか》りとで、うろたえ、まっ赤《か》になっているラドゥ大将《たいしょう》。不安《ふあん》そうな三《さん》ノ妃《きさき》。帝《みかど》とチャグム皇子《おうじ》とのあいだで、どううごくのが得策《とくさく》か考えはじめている大臣《だいじん》たちの顔。
そのなかで、ただひとり、三《さん》ノ宮《みや》のミシュナ姫《ひめ》だけは、すなおによろこびをあらわにしていた。わきあがるよろこびをおさえかねて、頭をぴょこぴょこさせている。シュガと目があうと、ミシュナ姫は口をあけて幸《しあわせ》せそうな笑顔《えがお》になった。心があたたまるのを感じながら、シュガは、ミシュナ姫にほほえみかえした。
「しずまれ。」
帝《みかど》の声がひびき、人びとはロをとじた。
帝は広間《ひろま》をみまわし、よくとおる声でいった。
「このしらせは、早馬《はやうま》がもってきたもの。ことの真偽《しんぎ》があきらかになるまで、過大《かだい》な期待《きたい》をせず、しずかにまて。……カリョウ。」
ふいに声をかけられ、カリョウ副将《ふくしょう》は、はっと顔をあげた。帝はカリョウに目をむけて、おちついた声でいった。
「そなたみずから、兵《へい》とともに都西《とせい》ノ門《もん》へでむき、やってくるという騎馬兵団《きばへいだん》が、まことに味方《みんた》であるか、みきわめよ。」
「は! うけたまわりました。」
カリョウは頭をさげた。
帝《みかど》は、すっとカリョウから侍従長《じじゅうちょう》へ視線《しせん》をうつした。
「侍従長、まことにチャグムがもどってきたのであれば、それなりの出迎《でむか》えをする。一応《いちおう》、したくをととのえよ……。」
帝の声をききながら、シュガは、ちらっとカリョウと視線《しせん》をあわせた。
その瞬間《しゅんかん》、すっと心が冷《ひ》えた。カリョウの目にうかんでいる苦悩《くのう》の色をみたとたん、自分たちが、複雑《ふくざつ》な立場《たちば》になったことに、思いいたったのだ。
チャグム殿下《でんか》が、ロタとカンバルとの同盟《どうめい》を成功《せいこう》させて帰還《きかん》したのだとすれば、この国をめぐる状況《じょうきょう》は激変《げきへん》する。場合《ばあい》によっては、シュガとカリョウは、はっきりとたもとをわかつことになる。……そのとき、シュガは、カリョウにとっては、おのれの裏切《うらぎり》りをチャグム殿下に告《つ》げる可能性《かのうせい》があるおそろしい存在《そんざい》にかわる。
(彼《かれ》は、わたしのロを封《ふう》じたいだろうな。)
ちらっとそう思ったが、すぐに、そんな策《さく》を講《こう》ずる時間はあるまいと思いなおした。それでも、ふいをつかれることがないよう、カリョウの動きには、いままで以上に気をくばらねばならない。
シュガは、カリョウから、帝《みかど》に視線《しせん》をうつした。
死《し》んだと思っていた息子《むすこ》が生還《せいかん》したというのに、よろこびの色をまったくみせず、ひややかな顔で、さまざまな指示《しじ》をあたえている帝を、シュガは、暗《くら》いまなざしでみつめていた。
帝を暗殺《あんさつ》する絶好《ぜっこう》の機会《きかす》が、うしなわれてしまった。
このしらせが数刻《すうこく》あとにもたらされていたら、帝を聖堂《せいどう》にこもらせることができたのだが、いまとなっては、帝は、チャグム殿下《でんか》がもどってくるまで、けっして聖堂にこもるまい。
(あと数刻……あと数刻おそければ……。)
チャグム皇子《おうじ》がもどってくるまえに、帝を消しさることができたのだが。
異国《いこく》の軍勢《ぐんぜい》をひきいてもどってくる息子《むすこ》を、帝は、どうむかえるだろう。
父に二|度《ど》も暗殺《あんさつ》されかけたチャグム殿下は、父にどうむきあうだろう。
ざわめきのなかで、シュガは、緊張《きんちょう》で胸《むね》がこわばりはじめるのを感じていた。
たそがれの光が、都《みやこ》の家々の瓦《かわら》の縁《ふち》を金色にひからせはじめたころ、都の人びとは、夢《ゆめ》のような光景《こうけい》を目にした。
うつくしくみがきあげられた鎧兜《よろいかぶと》に身《み》をつつんだ皇国軍《おうこくぐん》に先導《せんどう》されて、土《つち》ぼこりと血《ち》にまみれ、みなれない鎧兜をまとった異国《いこく》の騎馬軍団《きばぐんだん》が、ヨゴノ宮《みや》へむかう(一《いち》ノ大路《おおじ》)をすすんでくる。えんえんとつづく、その軍勢《ぐんぜい》を、夕暮《ゆうぐ》れの光があわくひからせていた。
なんでも屋《や》のトーヤは、その騎馬《きば》の行列《ぎょうれつ》をみるや、店《みせ》のなかにいるつれあいのサヤに、大声でよびかけた。
「おい、サヤ! みてみろ! すげぇ数の騎馬《きば》がくる。こいつをみのがす手はねぇぞ!」
夫《おっと》によばれて、サヤは、店から顔をだした。そして、夫のわきにならぶと、目をまるくして騎馬の行列をみつめた。
おぶっているおさない息子《むすこ》が、ぐうっと背《せ》をそらして、むずかりはじめた。息子のお尻《しり》をぽんぽんと手ではたきながら、サヤは、いった。
「ほーら、みてごらん! お馬さんと武人《ぶじん》さんが、たくさんくるよ。きれいだねぇ!」
沿道《おんどう》にでて、その大軍《たいぐん》をみていた人びとのなかから、そのとき、おどろいたような声があがった。ロタ語《ご》で、くりかえし、歓声《かんせい》をあげている。
「ロタの槍騎兵《そうきへい》だ!……なんと、ロタ騎兵団が、おれたちをたすけにきてくれた!」
鎖国《さこく》で新《しん》ヨゴの都《みやこ》にとりのこされてしまったロタ人たちだった。故国《ここく》の騎兵たちをみて、はねあがり、こぶしをつきあげているロタ人たちを、ヨゴ人は、ぽかんとロをあけてみていた。
そのうちに、カンバル語もきこえはじめた。カンバル人たちが興奮《こうふん》して、カンバル騎兵《きへい》に歓呼《かんこ》の声をあげている。
それらをきくうちに、ヨゴ人たちにも、ようやく事情《じじょう》がわかりはじめた。 − ロタとカンバルの騎兵たちが、自分たちをたすけるために、かけつけてくれたのだと。
どよめきが波《なみ》となってつたわりはじめた。敵《てき》の大軍《たいぐん》がいつ攻《せ》めてくるか、都《みやこ》が炎上《えんじょう》したら、どこへ逃《に》げればよいのかと、ずっと、おびえっづけてきた人びとにとって、目の前をいく騎兵たちの姿《すがた》は、奇跡《きせき》の到来《とうらい》のようにみえた。
顔をゆがめ、泣《な》き笑《わら》いしながら、群集《ぐんしゅう》はいくども、いくども、感謝《かんしゃ》と歓喜《かんき》の声をあげた。
ロタとカンパルの騎兵《こへい》たちは、その遠雷《えんらい》のような民《たみ》の声におくられて、貴族《きぞく》たちの屋敷《やしき》がならぶ(扇《おうぎ》ノ中《なか》)へと消《き》えていった。
金と青のふちどりをした瓦《かわら》がうつくしいヨゴノ宮《みや》は、高い漆喰《しっくい》の外郭《がいかく》で周囲《しゅうい》をかこまれている。(扇ノ中)と宮殿《はゅうでん》をくぎる境《さかい》であるこの外郭の中央には、(大南御門《だいなんごもん》)がそびえていた。
(大南御門)の手前は、ひろびろとした緑地帯《りょくちたい》がひろがっている。戦場《せんじょう》をくぐりぬけ、はるばるここまでやってきたロタとカンバルの騎兵《きへい》のうち、戦死者《せんししゃ》、負傷者《ふしょうしゃ》と後方部隊《こうほうぶたい》をのぞく、約《やく》一|万《まん》七千の兵士《へいし》たちが、春のやわらかな夕日をあびているその緑地に馬をとめた。
彼《かれ》らにみまもられながら、チャグムとその近衛兵《このえへい》二十|騎《き》だけが、馬にのったまま(大南御門《だいなんごもん》)をくぐった。
門から宮殿《こゅうでん》までのびている、きれいにはききよめられた白砂《はくさ》の大道の両《りょう》わきには、皇族《こうぞく》をはじめ、おおぜいの人びとがならんでいた。
チャグムの姿《すがた》がみえた瞬間《しゅんかん》、彼らは、こおりついたように身動《みうご》きをとめた。
彼らのおぼえているチャグム皇子《おうじ》は明るく活発《かっぱつ》で、長身《ちょうしん》ではあるが、きゃしゃな感じのする少年だった。
しかし、いま、ゆっくりと馬をすすめて門をくぐっている、カンバルの鎧《よろい》に身《み》をつつんだ若者《わかもの》は、どことなく殺伐《さつばつ》とした気配《けはい》をまとい、きびしい目をした若者だった。
兜《かぶと》をわきにかかえ、片手《かたて》で馬を御《ぎょ》している。右目のわきには刀傷《かたなきず》があり、首から肩《かた》にかけて血《ち》のにじんだ布《ぬの》がまかれているのが、鎧《よろい》の首のところから、ちらちらとみえていた。
門《もん》をくぐると、背後《はいご》につきしたがってきたカンバル人とロタ人の近衛兵《このえへい》たちが、いっせいに馬をおり、なかのひとりが若者のかたわらにいき、彼《かれ》が馬からおりるのをたすけた。けがをしているチャグム皇子《おうじ》を、心から気づかっているのが、よくわかるしぐさだった。
若者は白砂の上におりたつと、あっまっている人びとをみまわした。
「……チャグム。」
ほそい声が、ひとりの女人《にょにん》の口からもれた。しらせをきいて、(山ノ離宮《りきゅう》)からおりてきた二《に》ノ妃《きさき》だった。
母をみた瞬間《しゅんかん》、はじめて、チャグムの顔に、感情《かんじょう》があらわれた。
「母上……。」
チャグムは、ふるえている母のもとにあゆみより、ひざまずくと、そっとその手をとった。
「ただいまもどりました。−−−ご心痛《しんつう》をおかけいたしました。」
二ノ妃は、ぽろぽろと涙《なみだ》をながしていた。息子《むすこ》の大きな手を、ふるえる手でさすりながら、なんどもなんどもうなずいた。声をだせず、ただ、ふるえている。チャグムは、母になにかをささやきながら、母の小さな手を自分の手でつつみこんだ。
母のふるえがおさまると、チャグムは立ちあがった。
そして、すこしはなれたところに立って、満面《まんめん》の笑《え》みをうかべている妹に、やさしい目で、うなずいてみせた。
それから、でむかえている皇族《こうぞく》のひとりひとりに目で挨拶《あいさつ》をしていった。最後列《さいこうれつ》にひかえている侍従長《じじゅうちょう》のわきで、頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させて、こちらをみている近習《きんじゅう》のルィンに気づくと、さっと笑みをうかべて、深くうなずいた。
そして、最後《さいご》に、シュガに目をむけた。
シュガは、頭をさげることもわすれて、長身《ちょうしん》の若者《わかもの》をみつめていた。
日にやけ、刀傷《かたなきず》のあるその顔にひかっている黒い目には、かつての、あのはじけるような明るい光はなかった。とても十七|歳《さい》とは思えぬその目には、過酷《かこく》な旅《たび》の記憶《きおく》が、ふかい影《かげ》をおとしていた。
チャグムの顔に、ゆっくりと、笑《え》みがうかんだ。
「生きて、もどれた。」
その目にひかっているものをみて、シュガは、歯《は》をくいしばって頭をさげた。のどもとにあついものがこみあげてきて、声をだすことすらできなかった。
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4  ふたりの天子《てんし》
でむかえの祝辞《しゅくじ》をのべた侍従長《じじゅうちょう》が、まずは長旅《ながちび》のよごれをおとし、おくつろぎくださいといいながら、湯殿《ゆどの》に案内《あんない》しようとしたが、チャグムはそれをことわった。
「そのような暇《ひま》はない。一刻《いっこく》もおしいのだ。謁見《えっけん》ノ間《ま》にいく。そのむね、父上におつたえせよ。」
いうや、(帝《みかど》ノ道《みち》)を歩きはじめたチャグムを、侍従長をはじめ、皇族《こうぞく》たちが、あわてて追った。
チャグムは、カンバルとロタの近衛兵《このえへい》にかこまれたまま、まっすぐに謁見《えっけん》ノ間《ま》にむかった。
宮殿《きゅうでん》のもっとも南側《みなみがわ》にある謁見ノ間は、皇族ではない者《もの》でも、はいることをゆるされる広間《ひろま》だったが、鎧《よろい》をまとい、剣《けん》を帯びたままの者たちがこの広間にはいるのは、この宮《みや》ができていらい、はじめてのことだった。
チャグムのうしろからついてきた皇族《こうぞく》たちは、どうしたらよいかとまどいながらも、好奇心《こうきしん》にかてずに、広間《ひろま》の壁際《かべぎわ》にならべられている椅子《いす》に、いつもの席次《せきじ》で腰《こし》をおろした。
チャグムは、近衛兵《このえへい》らに広間の最後方《さいこうほう》の椅子《いす》にすわってくつろぐようにすすめてから、広間の中央に敷《し》かれている敷物《しきもの》の上をすすんだ。床《ゆか》より二|段《だん》高くなっている玉座《ぎょくざ》の間の、御簾《みす》のむこうには、空《から》の玉座がおかれている。
チャグムは、玉座をみあげるかたちで、広間の床《ゆか》に立った。
ラドゥ大将《たいしょう》は不快《ふかい》そうに顔をゆがませて、孫息子《まごむすこ》であるトゥグム皇太子を、これみよがしに、床より一|段《だん》高い皇太子の間《ま》におかれている椅子《いす》にすわらせたが、チャグムは、そちらに顔をむけようともしなかった。
シュガは聖導師《せいどうし》がすわる席《せき》のひとつ下座《しもざ》の椅子に腰《こし》をおろし、広間《ひろま》の中央に立っているチャグムの姿《すがた》をみつめた。
澄《す》んだ笛《ふえ》の音がひびき、御簾《みす》のむこうに、帝《みかど》がはいってきた姿《すがた》がぼんやりとみえた。
同時に、広間《ひろま》のうしろの扉《とびら》があいて、帝の近衛兵《このえへい》である(帝の盾《たて》)たちが広間にはいり、しずかにふた手にわかれて壁際《かべぎわ》をすすみ、必要《ひつよう》とあらば、玉座《ぎょくざ》にかけあがって帝をまもれる位置《いち》についた。広間の前の扉からはガカイがしずかにはいってきて、ためらうこともなく聖導師《せいどうし》の座《ざ》に腰《こし》をおろした。
やがて、帝《みかど》が玉座《ぎょくざ》に腰《こし》をおろすと、御簾《みす》がひきあげられた。
息子《むすこ》をみおろした帝の顔に、最初《さいしょ》にうかんだのは、おどろきと、嫌悪《けんお》の表情《ひょうじょう》だった。
チャグムは、ゆっくりとひざまずいたが、頭をさげることなく、父をみあげていった。
「ただいま帰還《きかん》いたしました。」
みじかく、そういった息子をみつめ、帝は、眉《まゆ》をひそめた。
「よくもどった。……しかし、その姿《すがた》はいったいなにごとだ。それが、父の前にひかえる姿か。」
チャグムは立ちあがり、しずかな声でいった。
「無礼《ぶれい》とはぞんじましたが、一刻《いっこく》をあらそう危急《ききゅう》のおりにて、ごようしやを。」
帝《みかど》は、ひややかな声でこたえた。
「いかに危急とて、血《ち》をあらいおとすくらいの時はあったであろう。清浄《せいじょう》なるわが宮《みや》に、そのような穢《けが》れをもちこむとは……。」
それをきいた瞬間《しゅんかん》、チャグムの目に、にぶい光がうかんだ。
ふかく息《いき》をすうと、チャグムはいった。
「父上、たしかに、わたくLは穢《けが》れております。血《ち》のにおいと、鉄《てつ》のにおい、死《し》のにおいがわたしからただよってくるでしょう。清浄《せいじょう》なる宮《みや》に、につかわしい姿《すがた》ではありますまい。
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しかし、これは宮《みや》の外に満《み》ちているにおいです。 − 都《みやこ》の外、みすてられたこの国の大半《たいはん》が、このにおいに満ちている。ここにいる清《きよ》らかな者《もの》たちは、だれひとり、かいだことのないにおいでしょう。謁見《えっけん》のわずかなあいだくらい、このにおいをかいでいても、罰《ばち》はあたりますまい!」
口をひらこうとした帝《みかど》をさえぎって、チャグムは、右のてのひらをひろげてみせた。
「父上、あなたの息子《むすこ》は、この手で人を殺《ころ》しました。」
つよい光を目にうかべ、ふるえる声で、チャグムはいった。
「赤戸《あかと》ノ砦《とりで》では屍《しかばね》を踏《ふ》んで歩き、ヤズノ砦ではこの手に剣《けん》をもって、タルシュ兵《へい》を斬《き》りころしました。はるばる、カンバルとロタから、わたしとともにきてくれた兵士《へいし》たちも、たくさん死《は》なせてしまいました。……わたしが同盟《どうめい》をねがわなければ、いまも、家族《かぞく》とともに生きていられた人たちが、この地で命《いのち》をおとしました。
わたしは穢《けが》れた人殺《ひとごろ》しです。 − 清らかな皇子《おうじ》をよそおうつもりなど、もうとうありません。」
チャグムは、父の顔があおざめるのをみていた。二年ぶりにみる父の顔は、記憶《きおく》にある顔と寸分《すんぶん》かわりなくみえた。
帝《みかど》は、しばらくだまって、息子《むすこ》をみおろしていたが、やがて、その目からは、蓋《ふた》をしたように表情が消えた。
「……そなたは、わたしに、なにをのぞんでいるのだ。
祖父《そふ》をすくえず、サンガルの人質《ひとじち》となった恥《はじ》を、ヤズノ砦《とりで》における勝利《しょうり》でそそいだことをみとめてほしくて、そのような姿《すがた》で、おのれの穢《けが》れを誇示《こじ》しておるのか。」
広間《ひろま》のうしろのほうで、カンバルとロタの近衛兵《このえへい》たちが息をのんで、身《み》じろぎする気配《けはい》がったわってきたが、チャグムは、そちらをふりかえらなかった。
ただ、父をみつめて、つきあげてくる怒《いか》りの衝動《しょうどう》と、ひっしにたたかっていた。
(……これが、父上だ。)
なじみの口調《くちょう》だった。なぶるようなこの言《い》い方《かた》で、父はいつもチャグムの怒りをあおり、動揺《どうよう》させ、話の主導権《しゅどうけん》をにぎってきたのだ。
チャグムは、つかのま目をとじ、ふかく息《いき》をすって、息をととのえた。
そして、目をひらくと、ふたたび父をみあげた。
「わたくしが父上にのぞむことは、ただひとつ。 − この国をすくってほしい。それだけです。」
帝《みかど》は、だまってチャグムをみつめていたが、やがて、ゆっくりとした口調《くちょう》で問《と》いかけた。
「……この国をすくえ、とな。そなたは、わたしが、この国をすくっておらぬともうすか。」
チャグムは、その帝《みかど》らしい謎《なぞ》かけの口調《くちょう》にとりあわず、きびしい声でいった。
「この国が耳も目もとざしているあいだに、北の大陸《たいりく》は、大きくかわりました。
ロタ王国《おうこく》とカンバル王国は同盟《どうめい》をむすび、ロタ王とカンバル王は、北の大陸をタルシュ帝国《ていこく》の侵略《しんりゃく》からまもるために、総力《そうりょく》をあげるという宣言《せんげん》を発《はっ》しました。」
大臣《だいじん》たちが、おどろいて目をみひらいた。
「ロタ王は、すでにサンガルに五|万《まん》の兵《へい》をおくり、サンガル半島《はんとう》に上陸しているタルシュ兵たちが、これ以上、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》に侵入《しんにゅう》せぬよう、ふせいでくれております。
ロタ・カンバル混成軍《こんせいぐん》は、陸海両側《りくかいりょうがわ》からタルシュの補給線《ほきゅうせん》と後続部隊《こうぞくぶたい》を断《たっ》ってくれているのです。彼《かれ》らが補給線を断ってくれているうちに、新ヨゴ皇国に潜入《せんにゅう》したタルシュの軍勢《ぐんぜい》をわれらがやぶることができれば、ラウル王子《おうじ》は、北への侵攻《しんこう》をみなおさざるをえなくなると、王たちは、お考えになったのです。」
カリョウが、かすかにあおざめたのを、シュガは目のはしでみていた。
チャグムは、はっきりした口調《くちょう》で、話しつづけた。
「ロタ王とカンバル王は、わたくしに三|万《まん》の兵をおあずけくださいました。
その勇敢《ゆうかん》な兵たちのおかげで、約《やく》二万のタルシュ兵を後方《こうほう》から攻《せ》め、ヤズノ砦《とりで》の守備兵《しゅびへい》たちとともにはさみうちをするかたちをつくることができ、彼《かれ》らを敗走《はいそう》させることができたのです。
わたしとともにたたかってくれたカンバル・ロタの騎兵団《きへいだん》と、砦《とりで》の皇国軍《おうこくぐん》の戦死者《せんししゃ》、負傷者《ふしょうしゃ》は、あわせて二千。タルシュ軍の戦死者、負傷者は、およそ一|万《まん》五千。敗走《はいそう》したタルシュ軍|兵士《へいし》は五千ほどと思われます。」
大臣《だいじん》たちがざわめいた。残《のこ》り五千ときいて、かれ彼らの表情《ひょうじょう》は、明るくなっていた。
チャグムは、ひと呼吸《こきゅう》おいて、いった。
「それでも、わが国が危機《きき》にあることには、かわりありません。
ヤズノ砦側《とりでがわ》から攻《せ》めようとしていたタルシュ軍は五千にへったとしても、べつのタルシュ軍が東側から進軍《しんぐん》しているからです。その数、およそ一万。」
広間《ひろま》が、こおりついた。
帝《みかど》が、すっと、ラドゥ大将《たいしょう》に視線《しせん》をむけた。
「それは、まことか?」
ラドゥは立ちあがり、まっ赤《か》な顔でチャグムをにらみつけながらいった。
「とんでもございません。 − そのような報《ほう》は、いっさいはいっておりません。そうだな、カリョウ?」
カリョウは立ちあがると、帝に一礼《いちれい》した。
「おそれながら、もうしあげます。……ごぞんじのとおり、兄上のご指示で、砦をきずいた一線《いっせん》より南をきりすてました。それゆえ、南部の情報《じょうほう》は、ほとんど、とどいてまいりません。
すくなくとも、本日ただいまの時点《じてん》までその情報はございませんでしたので、わたくしは、東側《ひがしがわ》の砦守備兵《とりでしゅびへい》を、都《みやこ》の守備のためにひきあげさせました。」
ざわめきが大きくなった。ラドゥはなかば口をあけたまま、弟をみていた。
帝《みかど》は、眉《みゆ》をひそめた。
「それでは、もし、チャグムのいうことが、まことであった場合《ばあい》は、東側からくるタルシュ軍《ぐん》は、たやすく砦《とりで》を越《こ》えてこられるということか。」
ラドゥは、なにもいえずに弟をみ、カリョウは、おちついた声でこたえた。
「それは、そのとおりでございますが、たいせつなのは都《みやこ》の守備《しゅび》。東からタルシュ軍《ぐん》が進軍《しんぐん》してくるとなれば、砦の守備で兵数《へいすう》をへらすより、むしろ、都を守護《しゅご》する力は増したのではないかと思います。」
ラドゥが安堵《あんど》の色をうかべたとき、チャグムが口をひらいた。
「……残念《ざんねん》ながら、いかに多くの兵数を配備《はいび》しても、都をまもることはできません。」
すべての視線《しせん》が、チャグムにあつまった。
チャグムは、しずかな声でいった。
「父上、青弓川《あおゆみがわ》が氾濫《はんらん》します。」
シュガとカリョウが、うたれたように目をみひらいた。 − シュガは、おどろいて、まじまじと、チャグムをみつめた。
チャグムは慎重《しんちょう》に言葉《ことば》をえらんで話しはじめた。話のもっていき方を、わずかでもあやまったら、父が心をとざしてしまうのは、わかっていた。
「……父上、ナユグをごぞんじですか。」
ふいに、なにをいいだしたのか、という顔で、帝《みかど》はチャグムをみた。
「ナユグア ヤクーどもが信《しん》じる、異界《いかい》のことか。」
チャグムはうなずいた。
「はい。その異界でございます。ただし信じているのはヤクーだけではありません。ナユグ、ナユーグル、ノユーク、さまざまな名でよばれてはおりますが、サンガルでも、ロタでも、カンバルでも、この異界の存在《そんざい》は知られております。」
帝は、いらだたしげにいった。 「……それが、青弓川《あおゆみがわ》の氾濫《はんらん》と、なんの関係《かんけい》があるのだ。」
「大きな関係があるのです。」
チャグムは、牧童《ぼくどう》たちの秘密《ひみつ》や、(山の王)についての話ははぶき、カンバル王の王城《おうじょう》でみたナユグの光景《こうけい》をかたった。ナユグに春がおとずれ、ナユグの河《かわ》の水かさがまし、山々がナユグのあたたかい水につかってしまっていること。カンバルでは、すでに雪崩《なだれ》が多く発生《はっせい》し、いくつかの氏族《しぞく》が、雪崩や地すべり、水害《すいがい》をおそれて、移動《いどう》をしていること。
帝《みかど》の目に、興味《きょうみ》をひかれた色がうかんだ。
「ユサ山脈《さんみゃく》だけでなく、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》も、おなじようにあたためられているというのだな?」
父の問いに、チャグムはうなずいた。
「そのとおりです、父上。これまで、どのような暖冬《だんとう》でもとけることのなかった青霧山脈の根雪《ねゆき》がとければ、いっきに、濁流《だくりゅう》が青弓川《あおゆみがわ》におしよせます。そうなれば、青弓川の扇状地《せんじょうち》にきずかれているこの光扇京《こうせんきょう》 − とくに要《かなめ》の部分にあたる(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)が、どのようなことになるか、考えるまでもないでしょう。」
帝の顔が、かすかにあおざめた。
「……父上、どうか、(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)はもちろん、都《みやこ》の人びとをすべて、一刻《いっこく》もはやく高台《たかだい》へ避難《ひなん》させてください。」
広間《ひろま》のざわめきが、大きくなった。
帝は、すっと手をあげて彼《かれ》らをおさえ、一瞬《いっしゅん》、ガカイをみたが、すぐに視線《しせん》をうつして、シュガに目をむけた。
「星読博士《ほしよみはかせ》よ、そのような天災《てんさい》の徴《しるし》、わたしはいままで耳にしておらぬが。」
シュガは立ちあがり、深く顕をさげた。
「おそれながら、もうしあげます……。」
広間《ひろま》の反対側《はんたいがわ》でカリョウは身体《からだ》をかたくした。 − シュガが、チャグム皇子《おうじ》びいきであることは、だれもが知っている。へたな答えをすれば、帝《みかど》は、チャグム皇子を援護《えんご》するための言葉《ことば》であると考えて、天災《てんさい》の予兆《よちょう》を否定《ひてい》するだろう。
みなが息《いき》をのんでみまもるなか、シュガはいった。
「わたくしは、いま、このときをもちまして、聖導師見習《せいどうしみなら》いの地位《ちい》をつつしんで返上《へんじょう》いたします。」
帝は、まばたきをした。
「……なんだと?」
シュガは、帝をみあげてこたえた。
「その理由《りゆう》は、ここにおりますオズル殿《どの》も、よくぞんじておることと思います。」
ふいに話をふられて、聖導師見習いのオズルは、おどろいた顔をした。
「わたしが? なにを知っておると?」
シュガはオズルにいった。
「昨日《さくじつ》の朝の星読《ほしよみ》ノ議《ぎ》のおり、わたしがもうしたことを、おぼえていらっしゃらないのですか。」
オズルは、まじまじとシュガの顔をみていたが、やがて、けげんそうな顔のままいった。
「それは、あの話か? 星図《せいず》や天図《てんず》を運勢《うんせい》とのかかわりで読むことに心をくだくあまり、もっともたいせつな天災《てんさい》の予兆《よちょう》をみそこなっていたという反省《はんせい》……。」
いいながら、ようやくオズルは話がみえてきたのだろう、しばらくロをとじて考えこんでいたが、やがて、ぼうぜんとした表情《ひょうじょう》で帝《みかど》をみあげた。
そして、かすれた声でいった。
「おそれながらもうしあげまする。……シュガ殿《どの》が聖導師見習《せいどうしみならい》い失格《しっかく》であるなら、わたしもこの地位《ちい》におる資格《しかく》はござらん。」
帝は、いらだたしげにいった。
「いったい、なんの話をしておるのだ。」
オズルは頭をさげた。
「天災《てんさい》の予兆《よちょう》を、われらが、みのがしておったという話でございます。」
広間《ひろま》のざわめきは、どんどん大きくなり、人びとは、うろたえた顔で、ささやきかわしはじめた。帝は、にがりきった顔でシュガとオズルをみつめた。
「……つまり、天災《てんさい》の予兆《よちょう》は、たしかにあるともうすのだな。」
オズルがうなずき、シュガが、しずかな口調《くちょう》でつけくわえた。
「昨日《さくじつ》の朝、われらはそのことに気づき、見習《みなら》いたちをだして、青弓川《あおゆみがわ》の水位《すいい》をはからせました。水位はたしかに、異常《いじょう》にあがっておりました。」
帝《みかど》は、こわばった顔でシュガをにらみつけた。
「それが、まことであるなら、なぜ、すぐにわたしにしらせなかった。」
シュガは、しばしだまっていたが、やがて、帝をみつめて、いった。
「 − もうしわけございません。いま、このときに、もうしあげるべきかどうか、まよっていたのでございます。」
その言葉《ことば》の意味《いみ》が、人びとの心にしみこむにつれて、ざわめきがしずまっていった。
帝の顔から、いっさいの表情《ひょうじょう》が消《き》えた。
戦勝祈願《せんしょうきがん》に天《てん》がこたえたかのように、チャグム皇子《おうじ》が万《まん》という援軍《えんぐん》をひきいて帰還《きかん》した。
そのいっぽうで、天は、青弓川《あおゆみがわ》を氾濫《はんらん》させて、(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)をおしながそうとしている。
((生成変転《せいせいへんてん》ノ相《そう》)……。)
帝《みかど》は、心のなかでつぶやいた。
広間《ひろま》はしずまりかえっていた。皇族《こうぞく》たちがうつむいて、目をあわせないようにしているのを、帝《みかど》は、じっとみつめていた。
それから、チャグムに視線《しせん》をうつした。
チャグムは、父の目をみつめた。父の目には、うまれてはじめてみる、ふしぎな表情《ひょうじょう》が、うかんでいた。
(父は、わたしをみているのではない……。)
帝《みかど》は、チャグムの顔に、なにかべつのものをみている。そのなにかに、問いかけている。そんな気がした。
ほんの一瞬《いっしゅん》、父の視線《しせん》がゆらいだような気がしたが、それは、まばたきするまもなく消《き》えさり、いつもの無表情《むひょうじょう》な目にもどった。
「天災《てんさい》は、天《てん》ノ神《かみ》の声……。」
帝は、低い声でいった。
「もしも、まことに(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)がながれさるなら、それは、わが治世《ちせい》が穢《けが》れていたということ。 だが、わたしは穢れにふれずに、清《きよ》らかに生きてきた。 − わたしのおこないに、あやまりがあったとは思わぬ。」
チャグムが口をひらくよりまえに、ラドゥ大将《たいしょう》が立ちあがり、ふるえながらさけんだ。
「帝《みかど》は、なにひとつ、あやまりなどおかしておられません!………おききください!」
いうや、ラドゥは、チャグムをゆびさした。
「おそれながら、もうしあげる! この者《もの》は、なにものでしょうや? たしかに、チャグム皇子《おうじ》の姿《すがた》かたちをしておられます。しかし、お心はどうでしょうか?」
大臣《だいじん》たちが、なにをいいだしたのかと、おどろいて、ラドゥをみつめた。
ラドゥは、怒《いか》りにふるえながら、いった。
「サンガルで人質《ひとじち》になりながら、なぜ、この者《もの》は解放《かいほう》されたのか?
ロタとカンバルの兵《へい》をひきい、さも援軍《えんぐん》をつれてもどったようなことをいっておりますが、ロタ王とカンバル王が、敵《てき》に蹂躙《じゅうりん》されてよわっているわが国を、属国《ぞっこく》にするたくらみでないと、だれがいえましょう?」
広間《ひろま》のうしろで、ロタとカンバルの近衛兵《このえへい》たちが、椅子《いす》を鳴らして立ちあがった。
チャグムはふりかえり、手をあげて、彼《かれ》らをおさえた。
それすらも気づかず、ラドゥ大将《たいしょう》は帝《みかど》をみあげ、必死《ひっし》なおももちで話しつづけていた。
「清浄《せいじょう》なるわが国に、穢《けが》れをもちこんだのは、この者《もの》でございます!
天《てん》ノ神《かみ》がお怒りになって天災《てんさい》をもたらすというなら、それは帝《みかど》の行為《こうい》をお怒りになっているのではなく、この者《もの》が、穢《けが》れた思惑《おもわく》をひめてこの国にもどってきたからでございます!」
帝《みかど》は、ラドゥをみていなかった。
ただ、まっすぐに、チャグムをみつめていた。
父の目に、つかのまかなしみの色がうかんだのを、チャグムはみた。 − その瞬間《しゅんかん》、するどい痛《いた》みが、チャグムの胸《むね》にはしった。
この国の天子《てんし》としてうまれ、一生《いっしょう》を、この宮《みや》のなかだけで生きてきた父だった。
天子が、穢《けが》れない、真綿《まわた》につつまれたような生《せい》をまっとうすることで、国がすこやかにたもたれるのだと教えられ、それを信《しん》じて生きてきた父だった。
そのいっぽうで、帝の血筋《ちすじ》が清浄《せいじょう》な天《てん》ノ神《かみ》の血筋であるとすべての者《もの》が信《しん》じ、つゆもうたがわないことが、この国のかたちをささえているということを、父は冷静《れいせい》にみぬいていた。
だからこそ、天子の清浄さをわずかでもきずつけると思えば、息子《むすこ》の暗殺《あんさつ》を命《めい》じた。徹底《てってい》した冷徹《れいてつ》さで、父は、帝という存在《そんざい》を、国の魂《たましい》としてゆるぎないものにしてきたのだ。
ラドゥのような権力《けんりょく》を欲《ほっ》する気もちで、父は、帝位《ていい》をまもっているのではない。
父は、天子《てんし》として生をうけ、ただ、ひたすらに、天子でありつづけているだけなのだ。
父にとって、この国は、自分自身《じぶんじしん》。
いま、自分の身が、くいちぎられ、消えさろうとしているのを、父は感じている。
それでも、おのれの決断《けつだん》があやまりであったと、父はけっしてみとめないだろう。
みとめてしまったら、おのれのすべてと、祖先《そせん》から連綿《れんめん》とつづいてきた、天子《てんし》のあり方を否定《ひてい》することになる。
父の目にうかんでいるかなしみが消《き》えて、かわりに鋼《はがね》のような光がうかぶのを、チャグムはみつめていた。
「チャグムよ……。」
ひややかな声で、帝《みかど》はいった。
「そなたは、そなたの道をいくがいい。」
チャグムは、しん、とした冷《つめ》たさを胸《むね》の底《そこ》に感じながら、父をみあげていた。
「星読《ほしよ》みをつかって(大天災《だいてんさい》ノ告《こく》)をだし、民《たみ》を高台《たかだい》にうごかしたいならば、そうするがよい。
皇族《こうぞく》たちも(山ノ離宮《りきゅう》)へでもうつるがよい。 − だが、わたしは、この(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)に残《のこ》る。」
ロをひらきかけたチャグムに、帝はいった。
「わたしは異国《いこく》の兵《へい》にまもられるつもりはない。血《ち》をながす剣《けん》にてまもられるつもりもない。すべての兵《へい》を、つれていくがよい。
わたしが信《しん》じる、このうつくしい国の最上《さいじょう》のすがたは、天《てん》ノ神《かみ》がのぞまれたすがた − 他国《たこく》の穢《けが》れとはかかわらぬ、清《きよ》らかで純粋《じゅんすい》な玉のごときすがただ。
そなたが、なにを信《しん》じているかは、きかぬ。
わたしと、そなた。……天《てん》ノ神《かみ》は、いずれか、正しき者《もの》に、光をもたらすであろう。」
胸《むね》の底《そこ》に、あついものがうまれ、のどへとつきあげてきた。
これしか道はないのだと、わかった。
父は清浄《せいじょう》なる天《てん》の子《こ》として、その生《せい》をまっとうするだろう。
自分は地をいく。血《ち》にまみれ、死臭《ししゅう》をまとい、まよいながらみつけた道を、あゆんでいく。
チャグムは、歯をくいしばって父の顔をみつめていたが、やがて、敷物《しきもの》の上に膝《ひざ》をつき、両手《りょうて》をついて、額《ひたい》を床《ゆか》につけた。
そして、のどの奥《おく》からしぼりだすようにして、ひと声、さけんだ。
「……父上、おさらば!」
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5  将軍《しょうぐん》の決断《けつだん》
しとしとと、雨が降《ふ》りつづいていた。
がっしりとしたタルシュ人が深く椅子《いす》に腰《こし》をおろし、砦《とりで》の窓《まど》のひさしから雨《あま》だれがおちるのをながめている。
「……雨が降りはじめるまえに砦にはいれて、幸運《こううん》でしたね。」
オルム人の副官《ふくかん》が、彼《かれ》に、バラン(香料を入れて、あたためた果実酒《かじつしゅ》)を手わたしながらいった。
彼は、自分が壷形《つぼがた》の酒盃《しゅはい》をうけとったことにも気づいていないような表情《ひょうじょう》で、雨だれをみつめている。
副官《ふくかん》は、それ以上話しかけず、炉《ろ》にかがみこんで、自分用にバランをつくりはじめた。
シュバル将軍《しょうぐん》がああいう表情をするときは、頭のなかで、いくつものことを同時に考えているのだ。ああして、じっくり考え、いったん決断《けつだん》してしまえば、あとはまよわない。
多くの侵略戦争《しんりゃくせんそう》を勝利《しょうり》にみちびき、名将《めいしょう》の名をほしいままにしてきた男のやり方を、こうやってかたわらでみることができる自分は幸《しあわ》せだと、バランをすすりながら副官《ふくかん》は思った。
タラノ平野《へいや》で緒戦《しょせん》を大勝利《だいしょうり》にみちぴぃたあと、シュバルは、長男のラシュバンに、西側《にしがわ》から新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を攻略《こうりゃく》していく軍《ぐん》の指揮《しき》をまかせ、自分は、サンガル半島《はんとう》からやってくる第《だい》二|軍団《ぐんだん》をタラノ平野でまった。
第二軍団がやってくると、シュバルは補給部隊《ほきゅうぶたい》のみタラノに残《のこ》し、東側から都《みやこ》をめざして、ひそかに軍をすすめてきた。
新ヨゴの宮殿《きゅうでん》にいる内通者《ないつうしゃ》 − 新ヨゴ皇国陸軍|副将《ふくしょう》のカリョウはなかなかつかえる男で、彼《かれ》が密偵《みってい》をつうじておくってきた情報《じょうほう》は正確《せいかく》だった。赤戸《あかと》ノ砦《とりで》は守備兵《しゅびへい》もすくなく、長男は、わずかな損失《そんしつ》だけで砦を突破《とっぱ》したというしらせを鷹便《たかびん》でおくってきた。
いまシュバルたちがいる砦も、彼《かれ》らが到着《とうちゃく》したときには、すでにもぬけの殻《から》になっていた。カリョウは、しらせてきた手順《てじゅん》どおりに軍を都へうごかしたのだ。
そこまでは、順調《じゅんちょう》だった。
しかし、今朝《けさ》、光扇京《こうせんきょう》へ偵察《ていさつ》にだしていた斥候《せっこう》たちがもどってきて、もたらしたしらせは、シュバルをおどろかせた。− なんと、都《みやこ》の住民《じゅうみん》たちが、西側《にしがわ》の丘陵地帯《きゅうりょうちたい》へぞくぞくと移動《いどう》しているというのである。しかも、その丘陵地帯には騎馬兵団《きばへいだん》が野営《やえい》しているというのだ。
その数、およそ二|万《まん》ときいて、シュバルは耳をうたがった。
「二万だと? いったい、どこからそんな軍勢《ぐんぜい》がわきだしたのだ。」
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の総兵力《そうへいりょく》は陸海軍《りくかいぐん》あわせて、ようやく三万というところだった。タラノ平野《へいや》で大半《たいはん》の兵力《へいりょく》をそいでいる。海戦《かいせん》でも、砦《とりで》の攻防戦《こうぼうせん》でも三千は戦死《せんし》している。いま、都《みやこ》の守備《しゅび》にまわせる兵士《へいし》は、七千にも満《み》たないはずだ。
「それが、どうも新ヨゴ皇国軍兵士ではないようです。鎧兜《よろいかぶと》や顔かたちからみて、ロタ王国軍《おうこくぐん》と、カンバル王国軍の騎兵《きへい》のようにみえました。」
それをきいた瞬間《しゅんかん》、シュバルは顔をこわばらせた。
(もっともおそれていたことが、おこったか……。)
その軍勢《ぐんぜい》が、まちがいなくロタとカンバルの騎兵だとすれば、ロタ王国、カンバル王国、そして、新ヨゴ皇国は同盟《どうめい》をむすんだのだ。
そのしらせが、いまになるまで自分の手もとにとどいていなかったということが、かえって、それが真実《しんじつ》であると告《つ》げていた。
シュバルは、密偵《みってい》としてつかっているヨゴ人の呪術師《じゅじゅつし》たちをよび、このしらせが、なぜ自分につたわってこなかったのかを問いただした。
呪術師たちは、暗《くら》い顔をしてこたえた。
「もうしわけございません。あと、一日、二日して、確実《かくじつ》にそうだと判明《はんめい》したら、おしらせしようと思っていたのですが、じつは、鷹《たか》がもどってこなくなったのです。」
「それは、どういうことだ? とちゅうで、まよっているのか?」
「いえ、伝令《でんれい》につかう鷹はふつうの鷹ではございません。われら呪術師《じゅじゅつし》が術をほどこして、魂《たましい》の糸にしるしをつけて、みちびいております。たとえ、未知《みち》の土地を飛んでいても、まようということはありえません。」
もうひとりが、つけくわえた。
「しかも、われらは、五|羽《わ》もの鷹を飛ばしております。それらがすべて、もどってこないということは、敵方《てきがた》にも呪術師《じゅじゅつし》がいて、鷹をあやつったか、おそったかしたものと思われます。」
シュバルは、顔をしかめた。
「新《しん》ヨゴ皇国の帝《みかど》は、穢《けが》れをきらい、呪術師など軍事《ぐんじ》につかわぬときいていたが、それは、あやまりだったか……。」
シュバルの言葉《ことば》に、呪術師たちは首をふった。
「いえ、それは、たしかなことでございます。新ヨゴ皇国の軍には、呪術師がいる形跡《けいせき》はございません。もし、いたら、これほど情報《じょうほう》にうといはずがありません。」
そういってから、呪術師《じゅじゅつし》は低い声でいった。
「われらがおそれているのは、ロタ王国《おうこく》の呪術師たちが、この国に潜入《せんにゅう》しているのではないかということです。 − あの国には、川の民《たみ》とよばれる呪術師たちがおります。獣《けもの》に魂《たましい》をのせることができるときいております。」
シュバルは顎《あご》に手をあてた。
(やはり、ロタがうごいているのだ……。)
第《だい》二|軍団《ぐんだん》のあとから、つづいてやってくるはずの、第三、第四軍団が、新《しん》ヨゴにはいったというしらせがなかなかとどかないことも、これに関係《かんけい》しているのだろう。
(ロタは九|万《まん》もの兵力《へいりょく》を擁《よう》する王国。カンバルはちっぽけな王国だが、武勇《ぶゆう》をほこる槍騎兵《そうきへい》がいるときく。このふたつが同盟《どうめい》し、サンガル半島《はんとう》と、この新ヨゴへ軍をうごかしているとしたら……。)
自分たちは、この小さな半島の国のなかにとじこめられ、孤立《こりつ》している可能性《かのうせい》がある。
シュバルは寒気《さむけ》をおぼえた。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》はきみょうな国で、わずかな兵力《へいりょく》しかもたぬくせに、帝《みかど》は、他国《たこく》に同盟をもとめず、国をとじることで防衛《ぼうえい》しょうとしていた。ふるくさく、未熟《みじゅく》な戦術《せんじゅつ》しかもたぬ彼《かれ》らの軍など、敵《てき》としておそれるにたらぬ相手《あいて》だった。あと、五日《いつか》もすれば、内通者《ないつうしゃ》が帝を暗殺《あんさつ》し、降伏《こうふく》してくるはずだった。
(ロタ王国《おうこく》とて、内部《ないぶ》に紛争《ふんそう》の火種《ひだね》をかかえ、内戦《ないせん》の危機《きき》にあったはずではないか。なぜ、急《きゅう》に、こんなふうに事態《じたい》がうごいたのだ……?)
タラノ平野《へいや》に進軍《しんぐん》するまえにきいていた話では、カンバル王は、ロタ王ではなく、南部の大領主《だいりょうしゅ》に加担《かたん》することを決意《けつい》したはずだ。これで、めでたく、ロタの内戦《ないせん》がはじまると、タルシュ遠征軍《えんせいぐん》の指揮官《しきかん》たちは祝杯《しゅくはい》をあげた。
ロタ王国が内部で戦《いくさ》をしているあいだに、新《しん》ヨゴをおとせば、ラウル王子《おうじ》がお考えになっていたより早く、北の大陸《たいりく》を征服《せいふく》できるのではないかとかたりあったものだ。
シュバルは胸《むね》の底《そこ》に、冷《ひ》えびえとしたものがひろがるのを感じた。
(要《かなめ》の駒《こま》が、ひっくりかえった……。)
トウル(タルシュ人がこのむ盤上遊戯《ばんじょうゆうぎ》)でも、たまに、こういうことがある。たったひとつの要の駒がひっくりかえったために、それまでの圧倒的《あっとうてき》な優位《ゆうい》の状況《じょうきょう》が、あっけなく、くずれていくということが。
シュバルは血《ち》の気《け》のなくなった指《ゆび》の爪《つめ》をぼんやりとみながら、息子《むすこ》のことを思っていた。
ロタから新ヨゴに二|万《まん》もの軍勢《ぐんぜい》を進軍《しんぐん》させられる場所はナバル峠《とうげ》かサマール峠しかない。南部のナバル峠をまわってきたとしたら、これほど早く都《みやこ》に着《つ》けるはずがない。とすれば、サマール峠を越《こ》え、赤戸《あかと》ノ砦《とりで》とヤズノ砦を越えてきたのだ。
西側《にしがわ》から都《みやこ》をめざしているはずの息子《むすこ》からの連絡《れんらく》が、赤戸ノ砦|攻略《こうりゃく》のしらせ以降《いこう》、ぷっつりととだえている。
雨の音をききながら、シュバルは、息子の顔を思いうかべていた。
(たとえ敗走《はいそう》していたとしても、生きてさえいれば、あいつのことだ、タラノ平野《へいや》にもどるだろう。補給部隊《ほきゅうぶたい》のところまでもどって、体勢《たいせい》をととのえるはずだ。)
どのくらいの兵力《へいりょく》が残《のこ》っているかわからないが、その兵力が南部からまわってくるとすれば、自分たちと合流《ごうりゅう》するまでには、まだ、かなりの日数がかかってしまう。 合流をまっていては、食糧《しょくりょう》の備蓄《びちく》に問題がでる。
(都《みやこ》の民《たみ》を丘陵地帯《きゅうりょうちたい》にうつしているということは、四路街《しろがい》でやったような、焦土戦術《しょうどせんじゅつ》をとるつもりだろう。……いかにもヨゴ人らしい戦術だ。みずから都に火をはなつことで、われらが都に陣《じん》をすえても、食糧《しょくりょう》を補給《ほきゅう》できぬようにするつもりだ。)
タラノ平野《へいや》に設営《せつえい》した補給部隊の陣《じん》があるから、たとえ戦《いくさ》が多少《たしょう》ながびいても、自分たちが飢えるはずはないと思っていた。
しかし、鷹《たか》による伝令《でんれい》がとだえてしまっていることを考えると、タラノ平野の補給部隊《ほきゅうぶたい》が、いまも無事《ぶじ》でいるかどうかわからない。ロタ王国《おうこく》から、さらに軍勢《ぐんぜい》がはいってきて、タラノ平野の陣を攻撃《こうげき》していないともかぎらないのだ。
(どうする……。)
いったん、兵《へい》をひき、タラノ平野《へいや》で陣《じん》をととのえるか?
しかし、サンガル半島《はんとう》とこの半島の間をロタ軍《ぐん》にふさがれてしまっているなら、そのようなことをすれば、自分たちほ、タラノ平野で孤立《こりつ》する。
もりかえしてきた新《しん》ヨゴ側《がわ》の軍勢《ぐんぜい》と、どんどん侵入《しんにゅう》してくるロタの軍勢とのあいだで、はさみうちにあいかねない。
大きな手で酒盃《しゅはい》をもち、じっと雨《あま》だれをみつめながら、シュバルは考えつづけた。
そして、答えをだした。
トン、と、酒盃を食卓《しょくたく》におくと、シュバルは立ちあがった。そして、だまって自分をみまもっていた副官《ふくかん》にいった。
「おい。今夜《こんや》は、兵《へい》たちに、うまい肉《にく》をぞんぶんに食わして、酒《さけ》もふるまってやれ。」
副官は、ほほえんだ。
「……では、都攻《みやこぜ》めですね?」
シュバルは、ぬるくなったバランを飲《の》みほした。
「ああ。都攻めだ。−−−降伏《こうふく》すればよし。しないとなれば、いっきにたたきつぶす。」
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1  チャグム暗殺《あんさつ》
荷車《にぐるま》をひいた避難民《ひなんみん》たちが、蟻《あり》の群《む》れのように西の鳥影《とりかげ》ノ丘《おか》にのぼっていく。
とぎれることのない、その行列《ぎょうれつ》をみながら、シュガは、西の鳥影ノ丘よりやや低い、月《つき》ノ野《の》|丘陵《きゅうりょう》への道を牛車《ぎっしゃ》でのぼっていた。昨夜《さくや》から降《ふ》りつづいていた雨はあがり、しめった土と草のにおいに満《み》ちた昼《ひる》さがりの大気《たいき》が、牛車がゆれるたびに御簾《みす》をすりぬけてはいってくる。
(雨のせいで、また、水かさが増《ま》していたな……。)
さっき、山影橋《やまかげばし》をとおるときにみえた、青弓川《あおゆみがわ》のようすを思いだして、シュガは心のなかでつぶやいた。川をわたれるのは、あと数日《すうじつ》というところだろう。
チャグム皇子《おうじ》からの御召《おめし》をうけて、シュガはすぐに牛車《ぎっしゃ》をしたてて星《ほし》ノ宮《みや》をでた。
(大天災《だいてんさい》ノ告《こく》)をだしてから二日《ふつか》。星ノ宮の人びとは、たいせつな文書《ぶんしょ》を水害《すいがい》でうしなわぬように、(山ノ離宮《りきゅう》)へはこぶ作業《さぎょう》に追われている。
皇族《こうぞく》や貴族《きぞく》たちも、貴重《きちょう》な財産《ざいさん》を何台《なんだい》もの牛車につんで、(山ノ離宮)へ移動《いどう》しはじめていたが、(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)全体《ぜんたい》が(山ノ離宮)におさまるはずもなく、どの身分の者《もの》までが離宮の内側《うちがわ》にはいるべきか、残《のこ》りの者たちは、どこに避難《ひなん》すべきか、大臣《だいじん》たちは、議論《ぎろん》をかさねていた。
都《みやこ》をみおろせる月《つき》ノ野《の》|丘陵《きゅうりょう》には、ロタ騎兵《きへい》とカンバル騎兵が野営地《やえいち》をつくっている。チャグム皇子《おうじ》の天幕《てんまく》は、その野営地の中央にあった。
シュガの牛車《ぎっしゃ》が野営地の入り口でとまると、短槍《たんそう》をもったカンバルの武人《ぶじん》がやってきて、ヨゴ語《ご》で挨拶《あいさつ》をした。
「よくおいでくださいました。チャグム殿下《でんか》がおまちでございます。」
(殿下のおそばをまもっているこの武人《ぶじん》は、サンガル王宮であった、あの(王《おう》の槍《やり》)か……。)
そう思いながら、シュガは背《せ》の高いカンバル人をみあげ、声をひくめて、たずねた。
「殿下のおけがのことですが、どのていどの傷《きず》なのですか。」
カンバル人は眉《まゆ》のあたりをくもらせた。うちあけたものかどうか、しばらくなやんでいたようだったが、やがて、口をひらいた。
「………かなり深い刀傷《かたなきず》をおっておられます。ヤズノ砦《とりで》で、先陣《せんじん》をきったロタの槍騎兵《そうきへい》たちが敵《てき》につつみこまれそうになるのをみて、殿下《でんか》はわれらの制止《せいし》もきかず、一直線《いっちょくせん》に敵につっこんでいかれた。われらが追いついたときには、すでにタルシュ騎兵《きへい》とたたかっておられました。
剣《けん》を逆手《さかて》にもったタルシュ兵《へい》が、ここから……。」
と、カンバル人は、左の肩先《かたさき》をしめした。
「剣をさしこんだのです。殿下《でんか》が身《み》をねじられたので、致命傷《ちめいしょう》にはなりませんでしたが。」
シュガは、寒気《さむけ》を感じながら、おもわず自分の左肩《ひだりかた》にふれた。
「……その兵を、殿下は、うちとられた……〜」
カンバル人の目に、かなしげな光がうかんだ。
「はい。その兵が再度《さいど》|剣《けん》をふりあげたとき、殿下《でんか》は思いっきり下から剣をつきあげて、ふせごうとなさった。その剣が、兵の首を切りさいたのです。」
足をとめ、カンバル人はシュガをみつめた。
「あれいらい、殿下は、ひどく苦しんでおられます。殿下は、われらのような武人《ぶじん》とはちがいますから。われらは、最後尾《さいこうび》の馬車《ばしゃ》にいていただきたかったのですが……われら異国《いこく》の兵《へい》にたたかえと命《めい》じながら、おのれは手をよごさぬような、卑劣《ひれつ》なまねはできぬとおっしゃって……。」
シュガはうなずいた。
(殿下《でんか》らしい。)
カンバル人は暗《くら》い表情《ひょうじょう》でいった。
「すこし横になって、治療《ちりょう》に専念《せんねん》していただきたいのですが、殿下は、傷《きず》をおわれた直後《ちょくご》に治療をおゆるしになっただけで、その後《ご》は医兵《いへい》に傷をみせることをこばんでおられるのです。なんどもうしあげても、だいじょうぶだとおっしゃって……。」
ほかの天幕《てんまく》とさしてかわらぬ天幕の前で、カンバル人は足をとめ、なかに声をかけた。
「チャグム殿下《でんか》、シュガ殿《どの》がいらっしゃいました。」
なかから、はいるように、という声がきこえ、カンバル人は天幕の戸布《とぬの》をもちあげて、シュガをとおした。
シュガがはいっていくと、チャグムが簡易椅子《かんいいす》から立ちあがった。兜《かぶと》はかぶっていないが、胴当《どうあ》ては身《み》につけたままだった。
チャグムは、カンバル人にいった。
「ありがとう、カーム。しばらく、ふたりきりにしてほしい。だれも、この天幕《てんまく》にちかづけないでくれ。」
「わかりました。」
カームは一礼《いちれい》して、外へでていった。
チャグムは、シュガにむきなおった。長くねむっていないのだろう。目の縁《ふち》が赤く、顔色もわるかった。
「殿下《でんか》……。」
シュガは、つぶやいた。
「もう、二度《にど》とお目にかかれぬと、思っておりました。」
それをきくや、チャグムの顔をおおっていたなにかがくずれ、むかしの面影《おもかげ》が顔《かお》をだした。
チャグムは右手で顔をおおって、うつむいた。しばらくそうしていたが、やがて、涙《なみだ》をぬぐって顔をあげた。
「わたしも……二度とあえぬと思っていた。こうして、ここにいるのが、夢《ゆめ》のようだ。」
ふたりは、中央にきられた炉《ろ》のわきにおかれた椅子《いす》に腰《こし》をおろした。椅子にすわるとき、チャグムが顔をしかめたのをみて、シュガはいった。
「殿下《でんか》、その胴当《どうあ》てで、傷《きず》がすれているのではありませんか?」
チャグムは胴当てをみおろして、苦笑《くしょう》した。
「そう……ここで、これを着ている意味はないな。」
チャグムは、なれた手つきでカチカチとわきの留《と》め具《ぐ》をはずし、ゆっくりと胴当《どうあ》てをぬいだ。胴当てを、厚織布《あつおりぬの》を敷《し》いた床《ゆか》におきながら、チャグムはいった。
「はじめて、これをまとったときはいやでたまらなかったのに、いまは、着ていないと、無防備《むぼうび》な気がして、おちつかぬ。」
顔をあげて、チャグムは、ほほえんだ。
「なにから話してよいかわからぬほど、さまざまなことがあったが、なんとか、生きてもどることができた。……そなたとジンのおかげだ。」
シュガは、首をふった。
「わたしたちは、なにもできませんでした。」
チャグムの笑《え》みがふかくなった。
「なにをいう。ジンの暗殺《あんさつ》をとめてくれたではないか。」
チャグムは首にかけていた細い銀鎖《ぎんぐさり》をつまみ、小さなお守《まも》りをひっぱりだした。それは、シュガがジンに託《たく》したアルサム(天道《てんどう》ノ守《まも》り札《ふだ》)だった。シュガの顔に、てれくさげな色がうかんだのをみながら、チャグムはいった。
「ずっと、これをつけて旅《たび》してきた。……それに、そなたとジンがバルサにわたしをさがすようつたえてくれたのだろう? バルサにあえなかったら、わたしは、いまここにはいない。カンバルとロタの同盟《どうめい》も、なしとげられなかっただろう。」
つかのま目をとじ、それから目をあけて、チャグムはいった。
「わたしは、長い旅《たび》をした。……苦《くる》しい旅だった。いくども、これでおしまいかと思った。だが、たのしいことも、うれしいこともあった。」
チャグムの目に、むかしのような明るい光がうかんだ。
「若《わか》い娘《むすめ》が海賊《かいぞく》の頭《かしら》をしている船《ふね》で、海をわたったときは、つらいこともあったが、けっこうたのしかった。サンガル海賊たちに、泳《およ》ぎともぐりを教えてもらったりして。
それに、なにより、うれしかったのは、またバルサと旅ができたことだ。」
シュガは、身《み》をのりだした。
「どこで、バルサにであったのです? ロタですか?」
チャグムは、ほほえんだ。
「ロタの北部だ。吹雪《ふぶき》のなかだった。………きいてくれるか? 長い話だが……。」
「もちろんでございます。おきかせください。」
チャグムはかたりはじめた。刺客《しかく》におそわれたときに、バルサが、間一髪《かんいっぱつ》でかけつけてくれたこと。バルサの故郷《こきょう》、カンバルヘの旅《たび》。壮麗《そうれい》な雪《ゆき》の峰々《みねみね》を赤く染《そ》める夕日。
ながれるように、つぎからつぎへとチャグムは思い出をかたり、シュガは、いつしか、自分もともに旅をしているかのような気もちになった。
「バルサとは、カンバルの王都《おうと》でわかれた。。バルサは、天災《てんさい》のことをトロガイたちにしらせてくれるといっていたが、無事《ぶじ》かえってきているのだろうかなぁ。」
チャグムの言葉《ことば》に、シュガは、ほほえんだ。
「殿下《でんか》、だいじょうぶです。。バルサはかえってきて、トロガイ師《し》にあったにちがいありません。」
トロガイがおくってきた夢《ゆめ》のことを話すと、チャグムの顔がかがやいた。
「そうか! よかった!」
バルサにあいたいという気もちがこみあげてきて、チャグムは膝《ひざ》においた手に力をこめた。つきり、と傷《きず》がいたみ、おもわず顔をゆがあると、シュガが、めざとくそれに気づいた。
「殿下、傷《きず》に効《き》く薬《くすり》をもってまいりました。飲《の》み薬と、塗《ぬ》り薬です。手当《てあて》てをさせていただいて、よろしいでしょうか。」
チャグムはだまってシュガをみていたが、やがて、うなずいた。
片肌《かたはだ》をぬぎ、傷をしぼっている布《ぬの》をほどくと、みにくい刺《さ》し傷《きず》があらわれた。傷のまわりがこすれて赤くなっているだけでなく、地腫《じば》れもしている。膿《う》んでいるのだ。
シュガは顔をしかめた。
「これほどの傷とは、思いませんでした。これは、しっかりあらって治療《ちりょう》せねば……。」
シュガは治療《ちりょう》をしながら、ちらっとチャグムをみた。チャグムはじっと、自分の傷《きず》をみている。なにかを思いだしているのだろう。その目は、暗《くら》くうつろだった。
やわらかな布《ぬの》に塗《ぬ》り薬《ぐすり》をつけて傷口《きずぐち》にあて、その上に幅広《はばひろ》の布をまきながら、シュガは、つぶやいた。
「殿下《でんか》……ご自分をおせめにならないでください。殿下がなしとげられたことで、たすかる命《いのち》のことを考えてください。」
長いこと、チャグムは返事《へんじ》をしなかった。ゆっくりと腕《うで》を袖《そで》にとおしながら、チャグムはいった。
「……わたしの目には、るいるいとよこたわる戦死者《せんししゃ》の姿《すがた》がやきついている。あれをみながら思っていた。なにが、いけなかったのか。なぜ、こんなことがおきるのかと……。」
シュガは、ひややかな声でいった。
「もちろん、もっともせめるべきは、他国《たこく》に手をのばしてきたタルシュでしょう。 − しかし、われらもまた、おろかでした。」
炉《ろ》の火に小さな鍋《なべ》をかけ、薬湯《やくとう》をつくりながら、シュガはいった。
「殿下《でんか》がお考えになっていたように、サンガルが罠《わな》をしかけてきたとわかった段階《だんかい》で、ロタ王《おう》に使者《ししゃ》をおくり、同盟《どうめい》をねがいでるべきでした。 − しかし、わたしは、帝《みかど》のお心をうごかすことができなかった。聖導師《せいどうし》も、大臣《だいじん》たちも、だれも。
帝とラドゥ大将《たいしょう》が、国をとじて、砦《とりで》をつくって都《みやこ》だけまもるなどという愚劣《ぐれつ》な策《さく》をうちだしたときも、わたしは、なにもできませんでした。 − そうして、手をこまねいているうちに、事態《じたい》はどんどんすすんでいってしまった……。」
シュガの目は、これまでみたこともない暗《くら》い色をたたえていた。
「殿下《でんか》は、ご自分が穢《けが》れているとおっしゃった。しかし、わたしの穢れにくらべれば、そのようなものは、穢れではありません。 − 殿下がごらんになったという屍《しかばね》の山は、わたしがうみだしたものなのですから。」
チャグムは、眉《まゆ》をひそめた。
シュガはチャグムをみつめて、低い声でいった。
「わたくしは、副将《ふくしょう》のカリョウとともに、タルシュ帝国《ていこく》に内通《ないつう》をいたしました。」
チャグムは目をみひらいた。
「それしか、この国をすくう道はないと確信《かくしん》したからです。もっとも守備兵《しゅびへい》のすくない砦《とりで》の位置《いち》をタルシュ軍《ぐん》に教えたのも、わたしたちです。
東から大軍《たいぐん》がせまっているのも、知っておりました。東西から圧倒的《あっとうてき》な大軍にかこまれて、宮中《きゅうちゅう》の者《もの》たちが、はっきりとおのれの命運《めいうん》がつきたことをさとったときに、帝《みかど》を弑《しい》したてまつり、タルシュ軍《ぐん》に降伏《こうふく》するつもりでおりました。」
チャグムは、なにもいえずにシュガをみつめていた。
炉《ろ》の粗朶《そだ》がはぜて、ばちっと高い音をたてた。天幕《てんまく》がばたばたと風に鳴っている。
とじた小さな国のなかで、せまりくる大軍《たいぐん》と、いっこうに外に目をむけぬ皇族《こうぞく》たちとにはさまれて生きた二年がどんなものであったのかが、シュガの暗《くら》いまなざしに、すけてみえた。
ふいに、チャグムは、かすれた声でいった。
「……わたしが、あのまま宮《みや》にいても、きっとその道をえらんでいただろうな。」
シュガは、目をゆらした。チャグムは、じっとシュガをみつめた。
「聖導師《せいどうし》が健在《けんざい》であったとしても、おなじことをしたであろう。 − いったん、決断《けつだん》をくだしてしまわれた父上をおいさめすることなど、だれにもできぬ。」
チャグムは、暗い光を目にうかべていた。
「帝《みかど》の決断《けつだん》をくつがえすためには、帝を、ひそかに殺《ころ》すしかない。あやまちをおかすはずがない天子《てんし》の意思《いし》をくつがえすには、消しさるしかないのだから。」
そういってから、まっすぐにシュガをみつめ、チャグムはいいかけた。
「 − だが、それは……。」
その言葉《ことば》にかぶさるように、天幕《てんまく》の外から声がきこえてきた。
「チャグム殿下《でんか》、ラドゥ大将《たいとょう》が、拝謁《はいえつ》をねがっておりますが、いかがいたしますか。」
チャグムは、夢《ゆめ》からさめたような顔になった。しばし、ぎゅっと顔をしかめてうつむいていたが、やがて、ひとつ首をふり、顔をゆがめて、ささやいた。
「……あいたくない、というわけにもいかぬな。 − てつだってくれ。胴当《どうあ》てをまとう。」
「はい。」
胴当てだけをまとい、兜《かぶと》や剣《けん》は天幕《てんまく》において、チャグムは外にでた。
ラドゥ大将《たいしょう》と、カリョウ副将《ふくしょう》が、ややはなれたところに立っていた。雲のきれ間からさしこむ光を顔にうけて、まぶしそうに目をほそめている。
チャグムは、ラドゥ大将の前に立つと、問いかけた。
「わたしに用ということだが……?」
ラドゥはにがい顔でうなずき、チャグムのそばに立っているカンバル人の近衛兵《このえへい》たちを顎《あご》でしめした。
「あなたさまは、異国《いこく》の兵《へい》にまもられていなければ、わたしと話すこともおできにならぬか?」
チャグムの目に、ちらっと怒気《どき》がうごいた。
「カーム、だいじょうぶだ。みなをさがらせてくれ。」
カームはためらったが、しかたなく近衛兵《このえへい》たちに手で合図《あいず》をしながら、チャグムから十|歩《ぽ》ほどはなれた。
「これでよいか。………用件《ようけん》をきこう。」
チャグムがいうと、ラドゥはロをひらいた。そして、いかにもロにするのがいやだというように、顔をゆがめて、いった。
「陛下《へいか》から、全軍《ぜんぐん》の指揮権《しきけん》を、殿下《でんか》におわたしするよう、おおせつかってきた。
この金色の剣《けん》は、皇国軍《おうこくぐん》|総帥《そうすい》のしるし。……おうけとりくだされ。」
きちんと剣帯《けんたい》が柄《つか》にまかれ、ぬけないようになっている金でおおわれた剣を、ラドゥはチャグムにさしだした。
ちかづいて、その剣をうけとった瞬間《しゅんかん》、チャグムは、ラドゥの目がひかるのをみた。
ラドゥは、さっと、てのひらにかくしもっていた小刀《こがたな》をふりあげるや、さけんだ。
「死《し》ね! 穢《けが》れた凶運《きょううん》の運《はこ》び手《て》よ!」
ラドゥは渾身《こんしん》の力をこめて、チャグムの首に小刀をふりおろした。
とっさにチャグムは身《み》をねじった。小刀は胴当《どうあて》てのはしにあたり、はじかれて、首の皮《かわ》をかすっていった。チャグムは反射的《はんしゃてき》に金の剣《けん》でラドゥの顔をつき、とびはなれた。
ラドゥは小刀をなげすて、腰《こし》の剣をぬき、ふたたびチャグムにおそいかかろうとした。
カームたちがかけよるよりもはやく、背後《はいご》で、カリョウが剣《けん》をぬき、ふりかぶるや、兄のうなじをすっぱりと斬《き》りおろした。
血《ち》しぶきをあげてのけぞり、ラドゥがたおれていく。
「殿下《でんか》!……殿下!」
シュガやカームたちが、さけびながらかけよってきた。チャグムは、小さな切《き》り傷《きず》に手をあてておさえたまま、ぼうぜんと地面《じめん》にたおれたラドゥをみつめていた。
「おけがは……。」
いわれて、チャグムはうつろなまなざしをシュガにむけ、手をはなして傷をみせた。
「かすっただけだ。」
たしかに、わずかに血《ち》がにじんでいるだけだった。だが、チャグムの顔は、蒼白《そうはく》だった。
チャグムは、ふたたび、地にたおれているラドゥに視線《しせん》をおとした。ラドゥの大きな手足が痙攣《けいれん》し、やがて、うごかなくなるまで、ぼうぜんとみつめていた。
きみょうに遠くみえるその死体《したい》をみるうちに、腹《はら》の底《そこ》からふるえがこみあげてきた。チャグムは死体から目をそらし、左手で首の傷《きず》をおさえながら、天幕《てんまく》のほうに足をむけた。
だれかが、肘《ひじ》をとってささえようとしてくれた手を、チャグムはふりはらった。
膝《ひざ》に力がはいらない。額《ひたい》が冷《つめ》たくこわばり、あたりの景色《けしき》が白茶《しらちゃ》けてみえ、無数《むすう》の光の粒《つぶ》がちらちらと視界《しかい》をおおっている。息《いき》が苦《くる》しかった。
ここで、たおれてはいけない。 − チャグムはひっしに歩き、天幕《てんまく》にたどりつくと、戸布《とぬの》をもちあげた。
天幕の床《ゆか》の敷物《しきもの》が、ぐうっと目の前にせりあがってきたようにみえた。……その記憶《きおく》を最後《さいご》に、あとは、なにもわからなくなった。
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2  天幕《てんまく》の夜《よる》
すでに、日は暮れおちていたが、いくつももちこまれているろうそくのあかりで、天幕《てんまく》のなかは、かなり明るかった。
やわらかい綿入《わたい》りのシルヤ(寝具《しんぐ》) の上に寝《ね》かされているチャグムの額《ひたい》には、びっしりと、汗《あせ》の粒《つぶ》がういている。かすかに口をあけて、ねむっている。人がまわりでささやきあっていても、めざめるようすはなかった。
やがて、医術師《いじゅつし》が、夜《よ》どおしの看病《かんびょう》にそなえて食事《しょくじ》をとりにいくと、天幕のなかには、チャグムとシュガだけとなった。
シュガは、清潔《せいけつ》な綿《わた》に、自然《しぜん》なふかい眠《ねむ》りをもたらす薬湯《やくとう》をすいこませて、チャグムのくちびるのところでしぼり、そろそろとロにふくませていた。
「おつかれがたまっておられたのでしょう。戦《いくさ》でうけた傷《きず》も膿《う》んでおりましたし。
熱《ねつ》をだしておられますが、お命《いのち》に別状《べつじょう》はございません。おねむりになるのがいちばんの薬《くすり》です。」
と、医術師《いしせゅつし》はいった。シュガも、その見立《みた》てに賛成《さんせい》だった。いまは、とにかく、ゆっくりとねむっていただくことがたいせつだ。こうして薬をふくませているのも、そのためだった。あさい、きれざれの眠《ねむ》りでは、身体《からだ》がやすまらない。
(これまでずっと気をはって、平然《へいぜん》としたふうをよそおっておられたが、身体も心も限界《げんかい》にきておられたのだろう。)
ラドゥに殺《ころ》されそうになったことは、つよい衝撃《しょうげき》だったにちがいない。ラドゥの小刀《こがたな》は、チャグム皇子《おうじ》の身体ではなく、心をつきさしたのだ。
寝息《ねいき》をたてているチャグムの、やつれた顔を、シュガはじっとみつめていた。
天幕《てんまく》の外から、ざわめきがきこえてきた。戸布《とぬの》がもちあげられ、人がはいってきたのを背中《せなか》で感じて、シュガはふりかえった。 − そして、目をみひらいた。
はいってきたのはジンだった。うしろ手にしばられている。その縄《なわ》のさきを兵士《へいし》がにぎり、カームがジンの首筋《くびすじ》に剣《けん》をあてていた。
ジンが頭をさげて、ささやいた。
「……おどろかせて、もうしわけございません。どうしても、チャグム殿下《でんか》にお目にかかりたくて、ここへまいったのですが、こうしないと、天幕に入れないといわれましたので。」
うしろで、カームがいった。
「とうぜんだ。 − 皇子《おうじ》を、陸軍大将《りくぐんたいしょう》が殺《ころ》そうとするような国だ。帝《みかど》の近衛士《このえし》など、もっとも信用《しんよう》できぬ。」
そういってから、カームは声をひくめ、心配《しんぱい》そうにチャグムのほうをみた。
「……お具合《ぐあい》は、いかがですか。」
シュガは、しずかにこたえた。
「おねむりになっているだけだ。熱《ねつ》がでておられるが、お命《いのち》にかかわることはないと医術師《いじゅつし》もみたてている。」
ジンとカームの顔に、心からほっとした表情《ひょうじょう》がうかんだ。
シュガは、ささやいた。
「カーム殿、そのアムスラン殿《どの》は、なんども、チャグム殿下のお命をすくうために、はたらいてきた者《もの》です。どうか、縄《なわ》をといてください。ご心配《しんぱい》であれば、そうして剣《けん》をかまえたまま、おそばにいてくださってけっこうですから。」
カームは、しばらくまよっていたが、やがて、うなずいて、ジソの手首の縄を切った。
ジンはカームに会釈《えしゃく》をすると、その場でひざまずいて、チャグムの顔をみつめた。
「殿下《でんか》……。」
あおざめたチャグムの寝顔《ねがお》をみるうちに、ジンの目に涙《なみだ》がもりあがった。ジンは敷物《しきもの》に額《ひたい》をつけた。
「……ご苦難《くなん》のすえに……もどられたのに、このような……。」
夜の海に身《み》をおどらせたチャグム皇子《おうじ》をみおくってから一年。 − かなうはずがないと思われた夢《ゆめ》を、みごとにかなえてもどられたというのに。チャグム皇子をむかえた故国は、なんと心ない、むごいしうちをしたことか……。そう思うと、はらわたがちぎれる思いだった。
うめくように泣《な》いているジンの声をききながら、背後《はいご》でカームも目に涙をうかべていた。
「アムスラン殿《どの》……。」
シュガが、低い声でいった。
「なげいている暇《ひま》はない。 − この国の危難《きなん》は、まだ、去《さ》ったわけではないのだから。
あの者《もの》の監視《かんし》を、よもやはずしてはおるまいな?」
ジンは顔をあげ、こぶしで涙《なみだ》をぬぐった。
「 − 部下《ぶか》たちに、みはらせております。」
そして、呼吸《こきゅう》をととのえると、すっと頭をさげた。
「みぐるしいところを、おみせいたしました。……シュガ殿に、おつたえいたします。
帝《みかど》は、われら(帝の盾《たて》)に、宮《みや》から去《さ》るよう命《めい》じられました。」
シュガは、おどろいた。
「なんだと……近衛士《このえじ》をすべて?」
「はい。われらの半数《はんすう》は、(山ノ離宮《りきゅう》)にてトゥグム殿下《でんか》をおまもりし、残《のこ》りの半数は、チャグム殿下をおまもりするようにとのことです。」
暗《くら》い光をうかべた目で、ジンはいった。
「 − 天《てん》ノ神《かみ》にまもられておらぬ者《もの》を、まもるがいいと、帝はおっしゃいました。」
シュガは眉《まゆ》をひそめて、ささやいた。
「それでは、いまは、だれが宮《みや》に残《のこ》っておるのだ?」
「聖導師見習《せいどうしみなら》いのガカイさまはじめ、侍従長《じじゅうちょう》と女官長《じょかんちょう》など、年配《ねんぱい》のお方《かた》ばかりでございます。
帝《みかど》は、お妃《きさき》さま方《がた》はじめ、すべての皇族方《こうぞくがた》から、従者《じゅうしゃ》、侍女《じじょ》にいたるまで、宮に残るのをおゆるしになりませんでした。」
シュガが、さらに、なにかを問おうとしたとき、天幕《てんまく》の外がさわがしくなった。
戸布《とぬの》がもちあげられて、ロタの武将《ぶしょう》がはいってきて、緊張《きんちょう》した声でささやいた。
「カーム殿《どの》、鷹《たか》がまいった。……いそぎ、軍議《ぐんぎ》をせねばならぬ。」
その武将《ぶしょう》のうしろから、医術師《いじゅつし》たちがはいってくるのをみて、シュガは立ちあがり、低い声でいった。
「ロタの武将殿《ぶしょうどの》。カーム殿。お願《ねが》いがございます。」
カーロン副将《ふくしょう》は、おどろいてシュガをみた。
「なんでしょうか?」
「わたくしは、ごぞんじのとおり、ほんのすこしまえまで、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》のまつりごとをつかさどる権限《けんげん》をもつ、聖導師見習《せいどうしみなら》いでございました。正式《せいしき》に次代《じだい》の聖導師の指名《しめい》をうけている者《もの》は宮《みや》におりますが、この事情《じじょう》のなかでは、わたくしの知りえていることをおつたえすることがたいせつだとぞんじます。 どうか、わたくしと、近衛士《このえし》ノ頭《かしら》の、このアムスラン、そして、皇国陸軍副将《おうこくりくぐんふくしょう》のカリョウも、軍議《ぐんぎ》におくわえください。」
カーロン副将の顔がくもった。
「いや……それは……。」
シュガは、カーロンをみつめていった。
「ここは、われらの国でございます。地《ち》の利《り》、天候《てんこう》、さまざまな知識《ちしき》をわたしどもはもっております。それだけでなく、わたしには、ひとつ考えがあるのです。 − せまっているタルシュ軍《ぐん》との戦《いくさ》に勝利《しょうり》したくば、ぜひ、わたしの考えをきいていただきたい。」
カーロン副将は眉根をよせ、じっとシュガをみつめて、こたえなかった。
ロをひらいたのは、カームだった。
「……カーロン殿《どの》、シュガ殿に、くわわっていただこう。」
おどろいて自分をみたカーロンに、カームはいった。
「チャグム殿下《でんか》は、しばしば、シュガ殿のことを、わたしに話された。……殿下が、どれほどふかい信頼《しんらい》をシュガ殿によせておられるか、ひしひしとつたわってくる話ばかりだった。
チャグム殿下がめざめておられたら、かならずや、軍議《ぐんぎ》にシュガ殿をくわえるようにと、おっしゃったであろう。」
天幕《てんまく》をあとにするとき、シュガは、チャグムをふりかえり、しばし、その顔をみつめていた。それから、ねむっているチャグムに深く一礼《いちれい》すると、天幕をでた。
さきに外にでていたジンが、シュガにささやいた。
「わたしはともかく、カリョウ殿を参加させるというのは……。」
シュガは、前をみたまま、つぶやいた。
「それが、わたしがいだいている策《さく》の要《かなめ》なのだ。 − わたしを信《しん》じよ。」
ジンはうなずいた。
シュガのうしろについて歩きはじめながら、ジンは、ぽつんと、つぶやいた。
「……帝《みかど》は、わたしを、おせめになりませんでした。」
シュガは足をとめて、ジンをみた。ジンは涙《なみだ》がたまった目で、シュガをみつめた。
「海におとされても、生きてもどったか。あれは、まことに、つよい運《うん》をもつ子だ……と、おっしゃられたのみでした。」
シュガはうなずくと、すっと目をそらし、また歩きはじめた。
チャグムの天幕《てんまく》のまわりには、おおぜいの兵士《へいし》たちがあつまっていた。不安《ふあん》そうに天幕に目をむけている者《もの》もいれば、うつむいている者もいる。
異国《いこく》をまもる戦《いくさ》にかりだされ、戦闘《せんとう》で友をうしない、いままた、大きな戦をひかえているというのに、彼《かれ》らは、心からチャグム殿下《でんか》のことを案《あん》じている。
彼らのあいだを歩きながら、シュガはいつしか、頭をさげていた。
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3  シュガの知略《ちりゃく》
早馬《はやうま》でしらせをうけて、カリョウ副将《ふくしょう》が野営地《やえいち》の天幕《てんまく》にやってきたのは、すでに月がのぼるころだった。野営地の入り口で武器《ぶき》をすべておき、丸腰《まるごし》ではいってきたカリョウを、カーロン副将、カーム副将、そして、シュガとジンがむかえた。
天幕の中央には、広い机《つくえ》があり、カリョウをまつあいだにシュガが墨《すみ》でかいた、ごく簡素《かんそ》な地図《ちず》がおかれていた。
「おそくなりもうした。 − ロタ・カンバル軍《ぐん》の軍議《ぐんぎ》におくわえいただけるとのこと、光栄《こうえい》にぞんずる。」
カーロン副将が、うなずいた。
「……あのようなことがあったので、はじめは、われらだけで軍議をおこなおうと考えていたのですが、シュガ殿《どの》のお言葉《ことば》をきいて、考えをあらためました。
新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》と手をむすんで兵《へい》をうごかすのですから、軍議にくわわっていただくのは、とうぜんのこと。ぜひ、お力をかしていただきたい。」
そういって、カーロン副将《ふくしょう》は、机《つくえ》におかれている小さな羊皮紙《ようひし》を手でしめした。
「これは、わがロタの呪術師《じゅじゅつし》からおくられてきた鷹便《たかびん》です。
われらがうちやぶったタルシュ軍《ぐん》は、南のタラノ平野《へいや》に退却中《たいきゃくちゅう》とのことで、再度《さいど》、都《みやこ》をめざすまでには、かなりの日数《にっすう》がかかるでしょう。
問題《もんだい》は、東からやってきているタルシュ軍です。 − もう、都まで半日というところまで軍をすすめてきています。」
カリョウはうなずきながら、ちらっとシュガをみた。シュガは、だまってカリョウをみていた。
カーロン副将は、言葉《ことば》をついだ。
「例《れい》の大災厄《だいさいやく》の話がありますし、青弓川《あおゆみがわ》の水位《すいい》は日増《ひま》しにたかまっておりますから、わたしはタルシュ軍を都にさそいこみ、青弓川、鳥鳴川《とりなきがわ》、ふたつの川の間で連中《れんちゅう》を立《た》ち往生《おうじょう》させて、背後《はいご》からいっきにおしこんでうちやぶるべきだと、もうしあげていたところです。」
シュガが、カーロンに視線《しせん》をうつして、かすかに首をふった。
「カーロン副将《ふくしょう》、それは、避《さ》けたほうがよかろうとぞんじます。」
カーロンが顔をくもらせた。
「なぜです?……宮殿《きゅうでん》に攻《せ》めこまれる危険《きけん》があるからですか?」
「いいえ。 − その策《さく》では、われらの兵士《へいし》たちも、逃《に》げ場《ば》をなくしてしまうからです。」
シュガは、地図《ちず》をしめした。
「あなたが考えておられるより、川は、はげしいいきおいで水かさを増《ま》すかもしれません。そうなったら、南部の田畑《たはた》も水没《すいぼつ》し、兵は泥田《どろた》に足をとられてしまうでしょう。
このふたつの川にかかっている橋《はし》は、さほど幅《はば》がありません。軍勢《ぐんぜい》がいっきに退却《たいきゃく》できるような橋ではないことは、ごぞんじと思います。」
カーロンは、ぐっと眉根《まゆね》をよせて地図をみていた。
「もうひとつ、タルシュ軍《ぐん》は情報《じょうほう》を得《え》る力にたけております。すでに、われらが都《みやこ》をすてていることはつたわっているでしょう。都にさそいこもうとすれば、罠《わな》だとみぬくでしょう。
タルシュの密偵《みってい》は民《たみ》のあいだにまじっております。チャグム殿下《でんか》があなた方とともに帰還《きかん》したこと、川の水位《すいい》があがっていること、大災厄《だいさいやく》の予兆《よちょう》があることも、知っているでしょう。」
都の東側《ひがしがわ》の川をゆびさしながら、シュガはいった。
「鳥鳴川《とりなきがわ》にちかづいているのであれば、タルシュ軍《ぐん》の斥候《せっこう》は川の水位を目でたしかめているはず。これ以上、水位があがれば、タルシュ軍は一時撤退《いちじてったい》を考えるかもしれません。」
すっと目をあげて、シュガはいった。
「 − タルシュ軍《ぐん》を、にがしてはなりません。」
カーロンは、だまってシュガをみつめていた。
「ときは、タルシュの味方《みかた》です。都《みやこ》が大水害《だいすいがい》にあえば、わが国の国力《こくりょく》は大きくそこなわれる。それに、戦《いくさ》がながびけば、サンガル半島《はんとう》へ上陸《じょうりく》してくるタルシュ軍はふえ、ロタの兵力《へいりょく》では、おさえられなくなるでしょう。……タルシュ帝国《ていこく》の手をはねのけるためには、いま、このときに勝利《しょうり》するしかありません。」
カーロンが、つぶやいた。
「ときか。‥‥これ以上、水位《すいい》があがるまえに、攻《せ》めこんでくるよう、さそえというのだな。」
シュガはうなずいて、月《つき》ノ野《の》|丘陵《きゅうりょう》の南側《みなみがわ》の野原《のはら》をさししめした。
「彼《かれ》らを、ここにさそうのです。」
カーロンとカームは、シュガがしめしている場所をみて、眉《まゆ》をひそめた。
「そこは広い草地《くさち》がひろがっている場所であろう? われらも、この周辺《しゅうへん》はしらべてまわったのだ。タルシュは平地戦《へいちせん》がとくい。この丘陵《きゅうりょう》の中腹《ちゅうふく》にさそったほうがよいのではないか?」
それをきいて、シュガが、ほほえんだ。
「そうおっしゃられたことで、安心《あんしん》いたしました。」
カーロンが眉《まゆ》をあげた。
「どういうことだ?」
「あそこをしらべて、なお、タルシュに有利《ゆうり》な戦場《せんじょう》であると思われたなら、彼《かれ》らも、そう思うでしょうから。」
カーロンたちは、シュガの真意《しんい》がつかめず、顔をくもらせていたが、ジンは地図《ちず》から顔をあげて、つぶやいた。
「なるほど……。」
ジンはカームたちに目をむけた。
「そこは、かつて稲田《いなだ》だったのです。稲《いね》の病《やまい》が発生《はっせい》したので、しばらくすておかれており、一見《いっけん》したところは、ただの草地《くさち》にみえますが。
青弓川《あおゆみがわ》から水をひくための堰《せき》も、いまはふさがれておりますが、堰をあければ、あっというまに泥地《どろち》にかわります。」
カームが、目をかがやかせていった。
「そうか! それはよい策《さく》だ。」
カーロンは、うなずきながらも、まだ眉《まゆ》のあたりをくもらせていた。
「戦場《せんじょう》のことはよくわかった。だが、問題《もんだい》は、どうやって、ふたつの川を越《こ》えて、そこまでくる気にさせるかだ。」
シュガは、すっと視線《しせん》をカリョウにむけた。
「それは、そこにおられるカリョウ殿《どの》にやっていただきましょう。」
みな、おどろいて、カリョウをみた。
カリョウは表情のない目でシュガをみていた。その目をみながら、シュガはいった。
「カリョウ殿と、わたしは、タルシュ軍《ぐん》に内通《ないつう》しておりました。東西からタルシュ軍が都《みやこ》にせまったときに、帝《みかど》を弑《しい》したてまつり、タルシュに降伏《こうふく》する手はずになっておりました。」
カームが眉をはねあげた。
「な……。」
シュガは、ひややかな目でカームをみた。
「われらに、ほかに、どんな道があったと思われますか? あなた方《がた》がきてくださるなど、わたしたちには予測《よそく》できなかったのですよ。残《のこ》っている味方《みかた》の兵《へい》は、わずか八千。タルシュ軍は三|万《まん》以上と思っていたのです。……われらは、都に火をはなたれて、皇族《こうぞく》も民《たみ》も兵《へい》も虐殺《ぎゃくさつ》されて征服《せいふく》されるよりは、早い段階《だんかい》から内通して、タルシュ軍の兵力《へいりょく》をそこなわずに降伏《こうふく》することを条件《じょうけん》に、枝国《しこく》になることをめざしていたのです。」
カームもカーロンも、こおりついたように、シュガをみていた。
カーロンがせきばらいをして、きつい声でいった。
「……われらは、タルシュの内通者《ないつうしゃ》と軍議《ぐんぎ》をしていたというわけか。」
シュガは表情《ひょうじょう》をかえずに、いった。
「いまもむこう側《がわ》にいるなら、こんな話はいたしません。」
そして、カリョウに目をむけた。
「カリョウ殿《どの》、タルシュの密偵《みってい》は、まだ避難民《ひなんみん》にまぎれていますか?」
カリョウは、うなずいた。
「……そのようだ。」
シュガは、いった。
「ならば、いそぎ、密偵につたえてください。
星読博士《ほしよみはかせ》が、(大天災《だいてんさい》ノ告《こく》)をだしたことで、帝《みかど》は、古き都《みやこ》と運命《うんめい》をともにし、皇太子《こうたいし》は南にのがして、あたらしき都をきずかせようとしている。すでに、帝は、チャグム殿下《でんか》に全軍《ぜんぐん》の総指揮権《そうしきけん》をあたえられたが、チャグム殿下は、ヤズノ砦《とりで》の戦《いくさ》でうけた刀傷《かたなきず》のせいで、かなり危険《きけん》な状態《じょうたい》であると。
いま、全軍団《ぜんぐんだん》は息《いき》をつめてチャグム殿下《でんか》の容態《ようだい》をみまもっているが、もし、チャグム殿下が亡《な》くなれば、ロタとカンバルの騎馬兵団《きばへいだん》二|万《まん》はトゥグム殿下をまもってすみやかに南下《なんか》し、タラノ平野《へいや》にいる補給部隊《ほきゅうぶたい》を攻撃《こうげき》するつもりである。 − ヤズノ砦《とりで》にいる後方部隊《こうほうぶたい》と、あらたにサマール峠《とうげ》を越《こ》えてはいってくるロタ軍が合流《ごうりゅう》すれば、かなりの軍勢《ぐんぜい》になるはずだと。」
カリョウは、かすかにロをあけて、ながれるようなシュガの言葉《ことば》をきいていた。
シュガは、カリョウをみすえて、いった。
「われらは、ロタとカンバルに恩《おん》を売られて併合《へいごう》されるよりは、帝《みかど》の血筋《ちすじ》を自分たちの手でおまもりし、圧倒的《あっとうてき》な力をもつタルシュ帝国《ていこく》の枝国《しこく》になりたいとのぞんでいる。
攻《せ》めるなら、ロタとカンバルの軍が月《つき》ノ野《の》|丘陵《きゅうりょう》にいるいましかない、と、つたえるのです。」
シュガがロをとじても、しばらく、だれも口をひらかなかった。
すっと額《ひたい》の汗《あせ》をぬぐって、カリョウがいった。
「……わたしが、それをそのままつたえると、信《しん》じてくださるのか。」
「タルシュ軍《ぐん》が、こちらの策略《さくりゃく》を知っているような動きをすれば、あなたの命《いのち》はない。」
ひややかな声でそういってから、シュガは、すこし口調《くちょう》をかえて、つけくわえた。
「カリョウ殿、わたしは、チャグム殿下《でんか》に、われらが内通《ないつう》していたことをうちあけたのです。」
カリョウの目がゆれた。
「殿下は、もしご自分があのまま宮《みや》にいたら、おなじ決断《けつだん》をしたであろうとおっしゃった。
あなたが、ここで、北の大陸《たいりく》のためにはたらく意思《いし》をみせれば、殿下はあなたのおこないを正当《せいとう》に評価《ひょうか》されるはずです。」
つかのま、カリョウは、ぼんやりとしたまなざしを地図《ちず》にむけていたが、やがて、シュガに目をもどして、うなずいた。
「……やりましょう。」
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4  虹《にじ》の宮殿《きゅうでん》
軍議《ぐんぎ》をおえて、もどってきたシュガは、チャグム皇子《おうじ》の天幕《てんまく》のそばに、先刻《せんこく》よりもずっとおおぜいの兵士《へいし》たちがあつまっているのをみて、どきりとした。
天幕のわきに牛車《ぎっしゃ》がとまっている。シュガがちかづいていくと、戸布《とぬの》のすきまから天幕をのぞけないかと、うろうろしていたロタ兵士たちが、ばつのわるそうな表情《ひょうじょう》でシュガをとおした。
牛車のかたわらにいた若者《わかもの》が、シュガをみると、そばにいたロタ兵に牛車を託《たく》して、かけよってきた。
「シュガさま………わたくしも、天幕《てんまく》にはいってよろしいでしょうか?」
シュガは、必死《ひっし》のおももちの若者《わかもの》をしげしげとみた。
「ルィンか。はいってよいが……いったいどなたが、牛車《ぎっしゃ》で……。」
いいながら、ルィンとともに天幕にはいったシュガは、なかの光景《こうけい》をみて、息《いき》をのんだ。
「二《に》ノ妃《きさき》さま……。」
シュガは、ぼうぜんと、チャグム殿下《でんか》の寝床《ねどこ》のかたわらにすわっている女人《にょにん》をみつめた。
帝《みかど》の妻《つま》や子は、生涯《しょうがい》、宮《みや》からでることはない。唯一《ゆいいつ》、牛車《ぎっしゃ》にのって外にでるのは、(山ノ離宮《りきゅう》)にむかうときだけだった。宮は天上界《てんじょうかい》に近い清浄《せいじょう》な場所とされている。外にでるということは、下界《げかい》の穢《けが》れにふれてしまうということだからだ。
妃が、兵士《へいし》たちが野営《やえい》している場所にやってくるなど、ありえぬことだった。
「……この子の容態《ようだい》は……?」
二《に》ノ妃《きさき》は、ほそい声で問うた。チャグムの喪《も》に服《ふく》していたあいだに、ひとまわりやせ、頬《ほお》もこけていたが、その目には、つよい光がうかんでいた。はじめて、間近《まぢか》でその目をみて、シュガは、チャグム殿下《でんか》とこの母がよくにていることを知った。
つきしたがってきた侍女《じじょ》ふたりは、おちつかぬようすでしきりにまばたきしているが、二ノ妃は自分の居室《きょしつ》にいるように、しずかにすわっている。
シュガが戸口《とぐち》のわきに正座《せいざ》し、深く頭をさげた。
「大事《だいじ》は、ございません。おねむりになっておられるだけでございます。……たいへんなときをすごされ、お身体《からだ》のおつかれだけでなく、ご心労《しんろう》もたまっておられましたゆえ、ふかくおねむりになられるよう、さきほど、お薬《くすり》をすこし、おふくみいただきました。一日、二日は、おねむりをさまたげぬよう、お薬《くすり》をさしあげるつもりでおります。」
妃《きさき》は、かすかに眉《まゆ》のあたりをくもらせた。
「そんなに長く、薬《くすり》でねむらせては、身体《からだ》にさわるのではないかえ?」
シュガは目をふせたまま、こたえた。
「タルシュ軍《ぐん》との戦《いくさ》がはじまれは、チャグム殿下《でんか》は、かならずや陣頭《じんとう》に立たれるでしょう。そうなることを、避《さ》けたいのです。」
妃の目に、理解《りかい》した色がうかんだ。妃は、息子《むすこ》に視線《しせん》をもどした。
チャグムをみつめながら、妃はつぶやいた。
「……わたくしは、二|度《ど》、この子を、うしなった。」
ひとりごとのような、小さな声だった。
「まだ、おきなかったこの子を、あの女用心棒《おんなようじんぼう》にあずけたときは、命《いのち》さえたすかるなら平民《へいみん》として生きてもかまわぬと思っていた。でも、この子が宮《みや》にもどってきてのちは………あのとき、この子を、あの者《もの》にあずけてよかったのかどうか、わからなくなった………。」
しずまりかえった天幕《てんまく》のなかに、妃《きさき》の声がながれた。
「下界《げかい》から、もどってきたとき、この子はかわってしまっていた。わたくしの膝《ひざ》にもたれていた、幼子《おさなご》では、なくなっていた。 − 下界からもどってくるたびに、この子は、みしらぬ者《もの》のようになる……。」
妃《きさき》のくちびるは、かすかにふるえていた。
「この子は、宮《みや》には、おさまりきらぬ子。皇子《おうじ》にうまれたが……この子の不幸《ふこう》であった……。」
妃は、ふるえる両手《りょうて》で、そっと息子《むすこ》の髪《かみ》をなで、鳴咽《おえつ》をもらしはじめた。
母がなでてくれていることも、泣《な》いていることも知らずに、チャグムはふかい眠《ねむ》りの底《そこ》にいた。身体《からだ》が石のように重く、冷《つめ》たい。
ふりあげた剣《けん》がのどを切りさいた瞬間《しゅんかん》、目をみひらいたタルシュ兵《へい》の顔が、稲妻《いなずま》のように闇《やみ》のなかにうかんだ。
馬のひづめの下で、ごりごりと音をたてた屍《しかばね》。顔にふきつけた血。遠く故郷をはなれて、ついてきてくれた兵士《へいし》たちの死に顔《がお》。 − まとわりつく、いくつもの記憶《きおく》のはてに、すっと父の顔がうかんできた。……おのれのときのおわりをみた、父の目が。
つかれていた。ふかいつかれが、身体《からだ》を闇《やみ》にとかしていく。悪夢《あくむ》をみているのだとわかっていても、目をさますことができなかった。
そのとき、かすかなにおいに、チャグムは気づいた。
夏の夕立《ゆうだち》のあと、草のあいだからたちのぼる大気《たいき》ににた、むせかえるような水のにおいだった。
(……ああ、ナユグの水のにおいだ……。)
そのにおいを胸《むね》いっぱいにすいこむと、心がすうっとらくになった。血《ち》のにおいや死臭《ししゅう》から、いまだけでものがれたい。いま、このわずかなときだけでも。
そう思うと、身体《からだ》の重さがたまらなくいやになって、チャグムはもがいた。……と、ふしぎなことがおきた。まるで脱皮《だっぴ》するように、するりと、身体がふたつにわかれたのだ。
このままいってしまってよいのか……つかのま、不安《ふあん》に感じたけれど、すずやかな水の心地《ここち》よさに、がまんできずに、チャグムはナユグの身体だけになって、水のなかにすべりでた。
澄《す》みきった瑠璃色《るりいろ》の水のなかに、まぶしい光がいく筋《すじ》もゆらめいている。セナと泳《およ》いだ、あの南の海のような明るい水のなかに、緑《みどり》の葉《は》をしげらせた木々がゆれていた。
はるか前方《ぜんぽう》には、山々の連《つら》なりが、水のなかにゆらめいてみえる。山も谷《たに》も、すべて瑠璃色の水につかり、水面《すいめん》は、青空のように、はるかな高みにひろがっていた。
鈴《すず》を鳴らすような音がきこえて、たくさんのヨナ・ロ・ガイ(水の民《たみ》)たちがやってきた。
− おいで……。
くねりながら、泳《およ》いできた彼《かれ》らは、チャグムの手をとると、いっしょに泳ぎはじめた。
ヨナ・ロ・ガイにみちびかれて顔を北にむけたとき、かすかに、あまいにおいを感じた。それをかいだとたん、胸《むね》がたかなった。
なつかしいにおいだった。いつか、どこかでかいだにおいだ。むかし、このにおいをたどって、いまのように、泳いでいったことがあるような気がした。
魚の群《む》れがわたるように、精霊《せいれい》たちの群れが光の筋《すじ》になってながれている。その狭間《はざま》をすりぬけながら、あまいにおいにひかれて、チャグムは泳ぎつづけた。
それにちかづいたとき、チャグムは、目をみひらいた。
前方《ぜんぽう》にずっとみえていた、なだらかな丘陵《きゅうりょう》だと思っていたものが、ふいに、丘陵ではなく、二|枚貝《まいがい》の殻《から》であることに気づいたのだ。
土にうもれ、藻《も》が草原《そうげん》のようになびいているその殻の下には、巨大《きょだい》な穴《あな》がぽっかりと口をあけていた。
その貝にかさなるように、うっすらと、べつの景色《けしき》がみえる。金と青のふちどりをした瓦《かわら》屋根《やね》の連《つら》なりだった。 − それがなんであるかに気づいて、チャグムは、はっとした。
(ヨゴノ宮《みや》だ……。)
自分は、ヨゴノ宮をみおろしているのだ。
貝《かい》は、宮殿《きゅうでん》をすっぽりおおい、(星《ほし》ノ宮《みや》)さえも、なかにつつみこんでしまっていた。
幻《まぼろし》のように、虹色《にじいろ》の光が、その殻《から》の縁《ふち》にうつってゆれている。
(……そうだ。むかし、ここにきたときは、この貝は全体《ぜんたい》が虹色にかがやいていた……。)
そう思った瞬間《しゅんかん》、むかしみた夢《ゆめ》を思いだしているような、きみょうななつかしさをともなって、わすれきっていた記憶《きおく》がよみがえってきた。
おさないころ、熱《ねつ》をだした晩《ばん》に、あのあまいにおいをかいだのだ。においにさそわれて、いまのようにヨナ・ロ・ガイたちに手をとってもらって、瑠璃色《るりいろ》の水のなかへすべりでたのだ。
瑠璃色の水のなかには、貝《かい》の宮殿《きゅうでん》があった。 − あのころは、宮殿にみえた。
七色にかがやく殻《から》の内側《うちがわ》には、ぼんやりとともしび色をたたえた、よいにおいのする靄《もや》がながれていて、そこから、いく本もの光が、帯《おび》のように天《てん》にむけてながれていた。
自分とおなじように、あまいにおいにさそわれてやってきた人や、獣《けもの》や、鳥や、魚が、たくさん、光の帯とたわむれていた。……たのしくて、たのしくて、ずっとこのまま遊んでいたいと思った。
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そして、光の帯から、あわくひかる粒《つぶ》がとびだしたのだ。チャグムは、はねあがって、それを胸《むね》にいだいた……。
ぼうぜんと、チャグムはその巨大《きょだい》な二|枚貝《まいがい》の屍《しかばね》をみつめていた。
うつろな、大きな穴《あな》に、魚の群《む》れが、銀《ぎん》の背《せ》をひらめかせてながれこみ、ながれでている。
(なぜ、わすれさっていたのだろう……。)
ここが、すべてのはじまりだったのに。
この巨大《きょだい》な精霊《せいれい》の卵《たまご》をいだいたときから、自分の運命《うんめい》は、大きく変転《へんてん》していったのだ。
卵をうみ、死《し》をむかえ、その肉《にく》はきれいに消《き》えさっていた。
ヨナ・ロ・ガイに手をひかれて、チャグムは、そのうつろな殻《から》の内側《うちがわ》へはいっていった。なかは、思いのほか明るかった。殻には、無数《むすう》の穴《あな》があいていて、そこから光がさしこんでいるのだ。広大《こうだい》な天井《てんじょう》 − 殻の内側の虹色《にじいろ》が、ヨナ・ロ・ガイや、自分の身体《からだ》にうつってゆれている。
水の流れがおだやかなこの殻《から》の内側《うちがわ》には、無数《むすう》の卵《たまご》がうみつけられていた。さまざまな色、さまざまなかたちの卵が、ゆりかごのような、おだやかな水流にゆすられている。水はあたたかく、よいにおいがした。
せつない思いが胸《むね》にしみだしてきた。 − ずっと、かえりたいと思っていたのは、ここだったのだと、わかった。だが、もはや、ここには、母はいない。
いだいた卵《たまご》は、自分の胸《むね》に記憶《きおく》をしみこませていったのだろうか。それとも、母が自分をやどした宮《みや》が、ナユグ(あちら側)では、この精霊《せいれい》の胎内《たいない》であったせいなのだろうか。
(わたしは……ここと、サグ(こちら側)と……ふたつの世界でうまれたのか。)
この精霊の胎内でゆるやかにはぐくまれていた、あの卵と自分とは、思っていたよりもずっとふかいつながりがあったのかもしれない。
ここは、生をうけたばかりの命《いのち》たちのゆりかごだった。ぬるい水のなかを、たゆとうているだけで、生気《せいき》が身体《からだ》にしみこんでくる。ゆすられて、ゆすられて、明るい、うずくような力が身《み》の底《そこ》からわきあがってくる。
虹色《にじいろ》の光につつまれた、うつろな殻《から》のなかをみまわすうちに、かえらねば……という思いがわきあがってきた。
自分はここで生きる生き物ではない。
やはり、自分が生きる世界は、もうひとりの母がうみだしてくれた世界なのだ。それが、たしかな思いとなって、胸《むね》にひろがった。
そのとき、貝《かい》のなかに無数《むすう》にぶらさがっている卵《たまご》たちが、ふるえはじめた。さざ波になでられているような、かすかなふるえが肌《はだ》につたわってきて、くすぐったい。
ふっと、いやな予感《よかん》が胸《むね》を刺《さ》した。
ナユグの水が、しずかに、しずかに、ゆれはじめていた。
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5  コン・アラミ(金《きん》の蜘蛛《くも》)の糸
人がほとんどたちいることのない青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の山奥《やまおく》に、一本の巨木《きょぼく》がはえている。
大地《だいち》の奥底《おくそこ》まで根《ね》をはって、数《すう》千年の時を生きてきた木だった。
呪術師《じゅじゅつし》たちは、この木のことを、畏怖《いふ》をこめて(青霧《あおぎり》の主《ぬし》)とよぶ。その身《み》には無数《むすう》の宿《やど》り木《ぎ》がまとわりつき、苔《こけ》むし、虫やら獣《けもの》やら鳥やらがやどり、まるでひとつの森《もの》のようだった。この木のまわりには、いつも霧《きり》がたちこめ、苔の先には、透明《とうめい》な水滴《すいてき》がひかっている。
その(青霧の主)の根元《ねもと》には、大きな洞《ほら》があった。
その洞のなかにすっ裸《ぱだか》の老婆《ろうば》がひとり、獣《けもの》のようにうずくまっている。彼女《かのじょ》のまわりには木の実《み》の殻《から》やら、鳥の骨《ほね》やらが、ちらばっていた。
もう五日《いつか》も、トロガイはこうして獣のような暮らしをしている。(青霧《あおぎり》の主《ぬし》)の胎内《たいない》にぴったりと肌《はだ》をつけ、その木肌からにじみでる樹液《じゅえき》を飲《の》んで、この巨木《きょぼく》の精気《せいき》をその身《み》にためているのだった。
かつて、トロガイの師匠《ししょう》、大呪術師《だいじゅじゅつし》ノルガイが、この木のなかでオ・ロク・オム(大樹《たいじゅ》|宿《やど》り)をしたときは、いっさいの食《しょく》を断《た》ち、樹液《じゅえき》しか口にしなかった。そうすることで、ノルガイは、この巨木《きょぼく》と一体となっていったのだった。
しかし、トロガイは木の実《み》や鳥もロにした。師《し》のノルガイのように、ただひたすら巨木と一体になるのではなく、木や鳥の命《いのち》も身《み》にとりこんだ。あらゆる命をとかしこんだ土から、精気《せいき》をすいあげている巨木のように。 − かつてノルガイが、このコン・アラミ(金《きん》の蜘蛛《くも》)という、膨大《ぼうだい》な精力《せいりょく》を必要《ひつよう》とする大呪術《だいじゅじゅつ》にいどんだ一部始終《いちぶしじゅう》をみとどけたトロガイは、師とはことなるやり方で、この術にいどもうとしているのだった。
師《し》の最期《さいご》は、いまも、ありありと目にうかぶ。
術《じゅつ》はみごとに成功《せいこう》したが、術がおわったときにはすべての精気《せいき》をつかいはたして、師の身体《からだ》はまるで透明《とうめい》なぬけがらのようになっていた。
この術をおこなえば、自分もああなるのかもしれない。そのことをおそろしいと思うよりトロガイは、自分がいどむこの一世一代《いっせいいちだい》の大呪術《だいじゅじゅつ》を、愛弟子《まなでし》のタンダにみせてやれないことがかなしくて、腹《はら》だたしくてならなかった。
タンダは、まだ、どこかで生きている。それは、わかっていた。死《し》んだのなら、あの世《よ》へ消えるまえに、かならず、自分のもとへ魂《たましい》となってたずねてくるはずだからだ。
やさしくて、人がよくて……弟のかわりに、戦《いくさ》にいってしまった愛弟子《まなでし》。
シュガのように冷静《れいせい》に術《じゅつ》をつかえない、やわらかすぎる心をもった男だけれど、タンダには呪術師《じゅじゅつし》としてもっともたいせつなものがそなわっている。
それは、この世《よ》のすべてを、あるがままに感じ、あるがままにいとおしむ心だった。
(生きてもどっておいで、へぼ弟子。つたえたいことが、まだ、たあんと残《のこ》っているんだ。)
トロガイは心のなかで、ささやいた。
(わしも、この術を生きてのりこえてみせるからさぁ。)
二日《ふつか》たち、三日《みっか》たつうちに、トロガイは、なかばねむったような状態《じょうたい》になっていった。
精気《せいき》をためこんで、腹《はら》をぱんぱんにふくらませた蜘蛛《くも》になった夢《ゆめ》をみながら、トロガイは、とろとろと時をすごした。
カシュガイは、たき火《び》にかけていた土鍋《どなべ》から蜂蜜《はちみつ》と木の実《み》を入れた甘《あま》い粥《かゆ》をすくって、かたわらの少女にわたした。まっ黒《くろ》に日やけし、低い鼻《はな》にも頬《ほお》にも、皮《かわ》がむけたあとがまだらに残《のこ》っているその娘《むすめ》は、うれしそうな笑《え》みをうかべて、その粥をうけとった。
カシュガイが、この娘を数日《すうじつ》自分にあずけてほしいとたのんだとき、この娘の親たちは、しぶい顔をした。天災《てんさい》をのがれるためだといわれても、そんな雲をつかむような話より、田仕事《たしごと》のほうがよっぽど大事《だいじ》だと思っていたからだ。
それでも、末《すえ》の息子《むすこ》が重い病《やまい》にかかったときに命《いのち》をすくってくれた呪術師《じゅじゅつし》カシュガイの頼《たの》みを、ことわりはしなかった。
今年《ことし》十二|歳《さい》になる当《とう》の娘自身《むすめじしん》は、きつい野良仕事《のらしごと》を数日《すうじつ》やすめるのが、よほどうれしかったのだろう。嬉々《きき》としてカシュガイについて、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の北部、チャ・コチ(ヤクー語《ご》で西《にし》の峰《みね》という意味)をみわたすことができる、ホクガ(青川《あおかわ》)の源流《げんりゅう》近くの丘陵《きゅうりょう》にやってきた。
丘《おか》の上で野宿《のじゅく》をしながら、カシュガイは、木の幹《みき》に片側《かたがわ》をかけるかたちの小さな手織《てお》り機《き》で、少女に機織《はたおり》を教えてやった。野良仕事にあれた指《ゆび》で、少女はたのしげに機を織り、夜は冷《ひ》えこむ野宿がつづいても、文句《もんく》はいわなかった。
あたたかい朝だった。日当《ひあ》たりのよい、この丘の上には、さんさんと、やわらかい陽射《ひざ》しが降《ふ》りそそいでいる。カシュガイが、自分の椀《わん》に粥《かゆ》をよそおうとしたとき、かたわらで、もくもくと甘《あま》い木の実粥をロにはこんでいた娘《むすめ》が、ふいに、ぶるぶるっとふるえた。
「……どうしたの?」
娘は小さな黒い目をカシュガイにむけたが、その目は、カシュガイをつきぬけて、なにかべつなものをみつめていた。
粥《かゆ》の椀《わん》を膝《ひざ》の上におろして、かすかに口をあけ、寒気《さむけ》を感じているように肩《かた》に力をこめている。つぎの瞬間《しゅんかん》、娘は、ばっと両手《りょうて》を地面《じめん》について、身体《からだ》をささえた。椀が膝からころがりおちて、粥が地面にこぼれた。
「ゆれてる……!」
娘《むすめ》はさけんだが、カシュガイには、なにも感じられなかった。地面はまったくゆれていないし、火にかかっている鍋《なべ》もゆれていない。
それでも、娘は、必死《ひっし》で自分の身体《からだ》をささえようとしていた。
「……ゆれてるよ! 波《なみ》がうねって……身体がもっていかれちゃう……こわいよ!」
カシュガイは、あわてて娘を抱《だ》きよせた。
「ナユグが、ゆれているの?」
娘は、冷《ひ》や汗《あせ》をびっしょりかきながら、がくがくとうなずいた。
「うねって、ゆれてる……なんかが、ざわざわと身体にさわるの……。みんな、脈《みゃく》うって、ひかってる……!」
娘《むすめ》にふれているところから、カシュガイはかすかに、なにかを感じはじめた。風がうなっているような、ざわめきだった。
目をあげて、雪《ゆき》の峰々《みねみね》をみつめたが、山はしずかにたたずみ、雪が滑落《かつらく》する気配《けはい》はみえない。
(……どうしよう? これが、はじまりなのかしら……?)
ショ・ヤイ(光の鳥)を飛ばして、トロガイのもとへいくべきだろうか。それとも、もうすこしようすをみるべきか……。
まよっているカシュガイの目に、そのとき、白い煙《けむり》がうつった。雪《ゆき》の峰《みね》からたちのぼっている、靄《もや》とはちがう、細い煙のようなもの。
(……雪煙《ゆきけむり》!)
そうさとった瞬間《しゅんかん》、カシュガイはあわてて目をつぶり、ロのなかで呪文《じゅもん》をとなえはじめた。
彼女《かのじょ》の額《ひたい》から光がもりあがり、その光が翼《つばさ》のかたちにひろがってはばたき、空高くまいあがったとき、ゴゴゴ……と地鳴《じな》りがきこえはじめた。
はるかにつらなる、雪《ゆき》の峰々《みねみね》から、いっせいに白い雪煙《ゆきけむり》がたちのぼり、亀裂《きれつ》がはいった場所から、巨大《きょだい》な雪のかたまりが、つぎからつぎへと滑落《かつらく》していく。
すさまじい大雪崩《おおなだれ》が谷《たに》にむかってすべりおちていくのを背《せ》で感じながら、カシュガイは、渾身《こんしん》の力をこめてはばたき、(青霧《あおぎり》の主《ぬし》)のもとへと、天空《てんくう》をかけていった。
トロガイはねむっていた。
全身《ぜんしん》をうすく散《さん》じるようにして木にとけこませているので、木肌《きはだ》にやどる虫や、すりぬけていく風の感触《かんしょく》がくすぐったかった。烏たちが、頭のなかをとびはねている。くるくる木をのぼるリスのふさふさの尾《お》っぽが、ふわりと首をさすっていく。
きざ波《なみ》のような震動《しんどう》を腹《はら》に感じはじめたとき……光がみえた。
長く尾をひいて飛んでくる、光の鳥だ。北西から二|羽《わ》、北東から三羽、すべるように飛んでくる。もっともすばやく飛んできた二羽のショ・ヤイ(光の鳥)が、(青霧《あおぎり》の主《ぬし》)の枝《えだ》にまいおりるや、それぞれカシュガイと、オロムガイの声で鳴いた。
[#ここから2字下げ]
− チャ・コチ(西の蜂《みね》)の根雪《ねゆき》がどんどんくずれおちていますよ。ホクガ(青川《あおかわ》)があふれて、まわりの崖《がけ》をけずって、奔流《ほんりゅう》になってかけくだっています!
ナユグがゆれているそうです。わたしといっしょにいる子は、こわいこわいと、半狂乱《はんきょうらん》になっていますよ!
− オ・コチ(東の峰)の根雪もくずれおちた! タックガ(亀川《かめがわ》)は茶色《ちゃいろ》くあわだって、すさまじいいきおいでながれくだっておるぞ!
トロガイは、しすかにいった。
− わかった。……さあ、しっかり魂《たましい》をたもて。わしの力にすりつぶされるんじゃないぞ!
[#ここで字下げ終わり]
カシュガイとオロムガイは、ふいに尾をつかまれて、ひっぱられるような痛《いた》みを感じた。
あたりの風景《ふうけい》がゆがんでみえる。(青霧《あおぎり》の主《ぬし》)のまわりの生き物たちが吐きだしている精気《せいき》が、うずまいて、(青霧の主)にすいこまれていくのだ。
おくれてきた三|羽《わ》も、あっというまにその渦《うず》にまきこまれた。トロガイの呪術《じゅじゅつ》の力場《りきば》にすいこまれながら、オロムガイは、こおりつくような恐怖《きょうふ》をあじわっていた。
(……なんという、とんでもない力ぞ……。)
とても、ひとりの人間がうみだしている力とは思えぬ、とてつもない呪力《じゅりょく》だった。
トロガイは夢《ゆめ》みていた。金色にかがやく巨大《きょだい》な蜘蛛《くも》になっている夢を。
あたりの生き物たちの精気《せいき》をどんどん、どんどんすいこんで、すいこんで、腹《はら》がふくれあがっていく……。すって、すって、腹の底《そこ》に光の渦《うず》がうまれるまで、トロガイは精気をすいつづけた。
やがて、腹の底にうまれた光の渦は、ゆるやかに回転《かいてん》しながら、金色の糸の錘《つむ》に変化《へんか》しはじめた。
(まわれ金色の糸巻《いとま》きよ。まわれ、まわれ……。)
トロガイは、腹《はら》の底《そこ》にうまれた糸巻きに、外界《がいかい》からすいこんだ精気《せいき》とおのれの精気をかたくよじりあわせながら、まきつけていった。
そして、ふいに、糸巻《いとま》きの回転《かいてん》をとめると、いっきに、外へむかって、金色にかがやく精気《せいき》の糸を吐きだした。
渦《うず》のなかで、歯をくいしばって、おのれの魂《たましい》をたもとうとしていた呪術師《じゅじゅつし》たちは、とつぜん、金色にかがやく精気《せいき》が、どんどん身体《からだ》にそそぎこまれてくるのを感じた。
身体がパンパンにふくらんで、いまにもはじけそうになった瞬間《しゅんかん》、トロガイの声がきこえた。
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− さあ、まいあがれ! 千のショ・ヤイ(光の鳥)となって、村々《むらむら》へ飛んでいけ!
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パァーン、と、無数《むすう》の金の光が老樹《ろうじゅ》からはじけとんだ。
光の尾《お》をひいて、四方八方《しほうはっぽう》へみるみるうちにひろがっていく。
のびていくさきざきでふれた木々の精気《せいき》をすいとりながら、はるかにひろがっていく金色の糸。山々をおおい、谷《たに》をおおい、どんどんひろがっていく金色の蜘蛛《くも》の巣《す》……。
やがて、その金色の光の糸の先から、無数《むすう》の金色の鳥がまいあがった。
トロガイは、すさまじい痛《いた》みを感じていた。
トロガイの精気《せいき》をすいながら、全身《ぜんしん》から金色の糸がすべりでていく。糸がわかれていくにつれて、頭のなかに、無数《むすう》のことなった風景《ふうけい》、ことなった音がとびこんでくる。
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悲鳴《ひめい》をあげそうになるのをこらえながら、トロガイは、痛《いた》みにこわばる全身《ぜんしん》の力を、ゆっくりとぬいていった。
いま、トロガイは、数《すう》十もの目で風景《ふうけい》をみていた。呪術師《じゅじゅつし》たちと一体《いったい》となり、そのひとつひとつに精気《せすき》と魂《たましい》をわけながら、空にまいあがっていく。
川がみえた。峡谷《きょうこく》をけずりながら、もりあがり、あわだつ濁流《だくりゅう》となってかけくだってくる、いく筋《すじ》もの流れ。
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− いそげ、いそげ!
− あの濁流よりはやく飛ぶのだ。
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呪術師《じゅじゅつし》たちは無数《むすう》の金色にかがやく鳥になって空をすべり、川沿《かわぞい》いに点在《てんざい》する村《むら》へとまいおりていった。
川べりで洗濯《せんたく》をしている農婦《のうふ》
川の堰《せき》をあけて、田に水をひこうとしている農夫《のうふ》
水遊びをしている子どもたち
釣《つ》りをしている川漁師《かわりょうし》……
多くの人びとの頭にむかって、呪術師《じゅじゅつし》たちはまいおり、その頭を金色の光でおしつつんで、するどい叫《さけ》びをあげた。
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− 逃《に》げろ! 逃《に》げろ! 濁流《だくりゅう》がくるぞ! 川からはなれて、高台《たかだい》へ逃げろ!
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いくつもの村《むら》で、農夫《のうふ》や、子どもたちが、金色の光にうたれて腰《こし》をぬかし、そのするどい叫《さけ》びをきいて、ふるえながらかけだした。
濁流《だくりゅう》がうずまいてながれくだってくるさきざきで、人びとは、金色の鳥をみた。
いくつもの支流《しりゅう》が本流へながれこんでいくにつれて、無数《むすう》の金色の鳥も、ひとつにとけあいはじめた。
胸《むね》の苦《くる》しさ、身《み》がとけだしていくような、だるさを感じながら、トロガイは飛びつづけた。
やがて、扇《おうぎ》のかたちをしたうつくしい都《みやこ》がみえはじめたとき、トロガイは、細《ほそ》い呪糸《じゅし》が招《まね》くさきへくちばしをむけた。
都の西側《にしがわ》の丘陵《きゅうりょう》に、白い天幕《てんまく》が、点のようにちらばってみえる。
そのなかのひとつから、シュガにつけた呪糸《じゅし》の光がみえていた。
あそこまで、いきたかった。………だが、もう、飛べない。命《いのち》が限界《げんかい》を告《つ》げている。
呪糸《じゅし》に、思いをこめて、ふうっと息《いき》を吐《は》きかけてゆらしてから、トロガイはおのれの身体《からだ》へと魂《たましい》をひきもどしていった。
もどってきたとき、トロガイは、なにもみえなかった。
暗黒《あんこく》のなかに、泥《どろ》のように重い身体《からだ》をよこたえて、あさく息《いき》をして、あえいでいた。
ほんのわずか、精気《せいき》が残《のこ》っている。 − その精気をつかって、トロガイは首をうごかし、(青霧《あおぎり》の主《ぬし》)の樹液《じゅえき》をなめた。甘《あま》い樹液が口にはいり、のどをながれおちて、身体にしみわたっていく。
ぎりぎりで、命《いのち》をながらえることができたのを、トロガイは感じていた。
身《み》にためた精気《せいき》が多かった分《ぶん》だけ、おのれの精気をすりへらさずにすんだのだ。
トロガイは、ほうっと息《いき》を吐《は》きだした。ふかい眠《ねむ》りへとすべりおちていくとき、ちらりと、ふたりの弟子《でし》の顔が目にうかんだ。
くちびるのはしに笑《え》みをうかべて、トロガイは、夢《ゆめ》もみない眠《ねむ》りへとおちていった。
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6  ながされる都《みやこ》
身体《からだ》をゆするさざ波《なみ》が、どんどん、大きな波へとかわっていく。
虹色《にじいろ》の天井《てんじょう》から、簾《すだれ》のようにたれさがってゆれている卵《たまご》が、ぽうっとひかった。
その瞬間《しゅんかん》、チャグムは、自分の身体《からだ》がひかるのをみた。ヨナ・ロ・ガイ(水の民《たみ》)も、魚たちも、精霊《せいれい》たちも、どこかでひとつにつながっているかのように、ぽうっとひかった。
ざわざわと、寒気《さむけ》がはいあがってきた。
鼓動《こどう》にあわせて脈《みゃく》うつように、瑠璃色《るりいろ》の水のなかにいる生き物すべてが、ぽうっとひかる。そのたびに、なにかがせまってくるような、むずがゆいような、いても立ってもいられない衝動《しょうどう》を感じた。
− 舞《ま》っているよ……。
ヨナ・ロ・ガイがささやいた。
どこか遠いところで、自分たちと命《いのち》の糸でつながったなにかが、大きく、はげしく脈《みゃく》うちはじめたのだ。
はっと、チャグムは気づいた。
(……(山の王)の、婚礼《こんれい》がはじまったのだ……!)
チャグムは、ヨナ・ロ・ガイたちの手をふりはらい、一直線《いっちょくせん》におよぎはじめた。
巨大《きょだい》な貝の内側《うちがわ》に、ぼんやりとすけてみえている宮《みや》のなかを、チャグムは、全力《ぜんりょく》で泳《およ》いでいった。人の気配《けはい》のない白木《しらき》の回廊《かいろう》をすりぬけ、(帝《みかど》ノ道《みち》)の奥《おく》、父のいる寝殿《しんでん》へむかった。
がらんとした寝殿の、豪奢《ごうしゃ》な錦織《にしきおり》の壁掛《かべか》けにかこまれた広間《ひろま》に侍従長《じじゅうちょう》の姿《すがた》をみつけ、チャグムはその肩《かた》をつかもうとしたが、白髪頭《しらがあたま》をうつむけている侍従長は、異常《いじょう》な速《はや》さですべるようにうごいており、まったく追いつけなかった。
− 逃《に》げよ! 水がくる……!
その背《せ》にむかってさけんだが、侍従長《じじゅうちょう》はふりむかなかった。
あっというまに廊下《ろうか》にでて、角《かど》をまがって消えてしまったその姿《すがた》をみおくって、チャグムは、気がついた。……ナユグとサグでは、時のながれる速さがちがうのだ。
それに、音がない。ナユグにいるチャグムには、サグの音はまったくきこえなかった。
寝殿《しんでん》の太い柱《はしら》が、音もなくゆれはじめるのを、チャグムはぼうぜんとみつめていた。
奥《おく》のほうから、床《ゆか》がもちあがってきて、柱がたわみながら天井《てんじょう》をつきやぶっていく。
つぎの瞬間《しゅんかん》、泥色《どろいろ》の水の壁《かべ》が目の前にあらわれた。床《ゆか》も柱《はしら》も壁《かべ》もねじりとっておしよせてくる奔流《ほんりゅう》。
チャグムはおもわず身体《からだ》をちぢめ、ぎゅっと目をつぶった。
毛布《もうふ》につつまれておされるような、きみょうな衝撃《しょうげき》がつたわってきた。サグの濁流《だくりゅう》が、ナユグの水もゆらしているのだ。チャグムは、ゆっくりとおしながされはじめた。宮《みや》の柱《はしら》や瓦《かわら》が、びゅんびゅんと身体をつきぬけていくなかを、ゆるやかに、ただようようにながされていく。
その異様《いよう》な流れのなかで、チャグムは、涙《なみだ》をながしていた。
父がどうなったか、考えるまでもなかった。
侍従長《じじゅうちょう》も、この濁流《だくりゅう》のなかをながれさったのだろう。
歯をくいしばって身《み》をよじり、チャグムは、すこし上へと身体《からだ》をのぼらせていった。上へいくほど、身体に感じる奔流《ほんりゅう》の力はやわらいでいく。
泳《およ》ぎながら、チャグムは、眼下《がんか》をながれさっていく崩壊《ほうかい》した宮《みや》をみていた。星《ほし》ノ宮《みや》の塔《とう》がくずれてながれさっていく。(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)と(扇ノ中)をくぎる、ぶあつい外郭《がいかく》に奔流がぶちあたり、もりあがって、壁《かべ》をおしたおしながら、街《まち》のほうへとながれていく。
鳥のように都《みやこ》の上を飛び、チャグムは、にごった茶色《ちゃいろ》の水が、光の扇《おうぎ》とたたえられたうつくしい都をのみこんでいくのを、涙《なみだ》をながしながらみまもりつづけた。
扇がひらくように、奔流《ほんりゅう》はうすくひろがり、流れの速《はや》さが、ゆるやかになっていく。チャグムは水流《すいりゅう》にのって、すべるように奔流を追いこし、東へむかった。
ふりかえると、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のはるかむこうの空に、七色の光がゆらめきたっているのがみえた。天と地が光の帯《おび》でむすばれ、ともにゆれているような、壮大《そうだい》な光景《こうけい》だった。
遠いユサの山並《やまな》みの底《そこ》にひろがる海で、精《せいれい》霊が、数百年に一|度《ど》の婚礼《こんれい》の舞《まい》をまっている。
その雌雄《しゆう》の大精霊《だいせいれい》がむつみあいながら吐きだす精気《せいき》が、地の底《そこ》から天《てん》へとたちのぼっているのだ。
視線《しせん》をもどすと、丘陵地帯《きゅうりょうちたい》がみえはじめた。都《みやこ》をおしながしている奔流《ほんりゅう》が嘘のように、おだやかな日の光をあぴて、野営地《やえいち》の天幕《てんまく》の群《む》れが、点々と白くうかびあがってみえた。
そのむこう、丘陵地帯のすそ野《の》にひろがる捨《す》て田《た》のあたりで、きらきらとなにかがひかっている。
(……戦《いくさ》……! タルシュとの戦がはじまっている……!)
チャグムは背後《はいご》をふりかえり、せまってくる奔流《ほんりゅう》をみた。丘陵《きゅうりょう》のむこう側《がわ》にいる兵士《へいし》たちには、あの濁流《だくりゅう》がみえていない。このまま濁流がひろがってくれば、戦場《せんじょう》も水にのまれてしまう・…‥!
そのとき、目のはしで、なにかがひかった。ナユグのゆらめく水をすかして、金色の光が天《てん》を矢《や》のように飛んでいく。………なぜだかわからないけれど、その光に、みょうに心をひかれて、チャグムはじっと目で追いかけた。
その光が、天幕《たんまく》近くまできてから、ぐうんと弧をえがいて青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のほうへ去《さ》っていくのをみおくって、チャグムは急降下《きゅうこうか》し、天幕をつきとおして飛びこみ、自分の身体《からだ》にまいおりた。
チャグムの手が、びくっとうごいたのに気づいて、二《に》ノ妃《きさき》が、チャグムの頬《ほお》をさすった。うめいて、苦《くる》しそうにまぶたをふるわせている息子《むすこ》に、二ノ妃は、はげますようにいった。
「だいじょうぶ。夢《ゆめ》よ……わるい夢をみているだけ。さあ、目をさましなさい。」
妃のかたわらにひかえ、チャグムの顔をのぞきこんだシュガは、その瞬間《しゅんかん》、眉間《みけん》を、目にみえぬ羽根《はね》でなでられたような、きみょうな感じをあじわった。
眉間から、頭|全体《ぜんたい》にしびれがひろがっていく。
かつてトロガイ師《し》に(呪糸《じゅし》)の術をかけてもらったときの − 目にみえぬ呪糸を魂《たましい》にむすばれて、そっと息《いき》をふきかけられたときの、あの歯がうくような感覚《かんかく》にそっくりだった。
耳の底《そこ》に、トロガイ師の声がよみがえった。
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− 魂《たましい》にふれる、金の糸を、しっかり感じるんだよ……わが、弟子《でし》よ。わしは、おまえに、地の声をとどけるから……。
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シュガはさっと立ちあがるや、天幕《てんまく》の外にとびだした。後衛《こうえい》の兵士《へいし》たちは、丘陵《きゅうりょう》の中腹《ちゅうふく》の戦場《せんじょう》をみおろせる場所にあつまっている。都《みやこ》を監視《かんし》する役目《やくめ》の櫓《やぐら》の兵士さえ、戦場に気をとられて、都に背《せ》をむけてしまっていた。
櫓《やぐら》によじのぼり、都をみおろして、シュガはあおざめた。
シュガは、見張《みは》りの兵士の腕《うで》をつかんだ。
「鏑矢《かぶらや》だ! 退却《たいきゃく》の鏑矢をはなて!」
おどろいてふりかえった兵士《へいし》は、都《みやこ》の光景《こうけい》をみるや、まっ青《さお》になった。ふるえる手で鏑矢をつかみ、兵士は戦場《せんじょう》の上空へむけて、つぎつぎに鏑矢をはなった。
死闘《しとう》をくりひろげている兵士たちは、鏑矢《かぶらや》の音に気づかない。彼《かれ》らの背後《はいご》で、青弓川《あおゆみがわ》の水がもりあがるのをみながら、見張《みは》り兵《へい》は、ひっしに鏑矢《かぶらや》をはなちつづけた。
見張り兵の手もちの鏑矢がつきたとき、中腹《ちゅうふく》で待機《たいき》していた兵士《へいし》たちのあいだから、鏑矢がはなたれはじめた。いっせいに空を切りさいてまう鏑矢の音が、ひゅうひゅうと戦場《せんじょう》の空にひびきわたった。
ようやく、ロタ騎兵《きへい》たちの動きに変化《へんか》が生《しょう》じた。斬りあいながら、東側《ひがしがわ》の丘《おか》へと退却《たいきゃく》していく。カンバル騎兵と、新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》騎兵たちも、それにつづいた。
タルシュ軍の軍鼓《はぐんこ》も、それまでとはまったくちがう調子《ちようし》で鳴りはじめた。山の上からみおろしていた物見《ものみ》の兵が、奔流《ほんりゅう》に気づいたのだろう。
タルシュ兵たちが退却《たいきゃく》をはじめたそのとき、青弓川《あおゆみがわ》があふれ、戦場《せんじょう》があっというまに泥流《でいりゅう》にのまれていった。足をとられ、馬も兵も転倒《てんとう》していく。
それをみて、丘陵《きゅうりょう》のすそ野《の》にいた新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の弓兵《ゆみへい》たちが、矢《や》をはなちはじめた。矢が、黒い雲のように、泥流に足をとられたタルシュ兵の頭上《ずじょう》に降《ふ》りそそいでいく。
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何千という兵士たちが、ばたばたとたおれ、死《し》んでいく光景《こうけい》を、シュガは、血《ち》の気《け》のない顔でみつめていた。
この日、生きのこったタルシュ軍《ぐん》|兵士《へいし》は、わずか三千。その兵たちも、都西街道《とせいかいどう》から北上してきた、ムロ氏族《しぞく》の(王《おう》の槍《やり》)ハーグひきいるカンバル騎兵《きへい》に遭遇《そうぐう》して、多くが殺《ころ》された。
将軍《しょうぐん》シュバルは重傷《じゅうしょう》をおい、オルム人の副官《ふくかん》は、シュバルと兵たちの身《み》の安全《あんぜん》を条件《じょうけん》に、武器《ぶき》をすてて、ハーグに投降《とうこう》した。
チャグムは、そのしらせを床《とこ》のなかできいた。
血《ち》の気《け》のない顔をカームたちのほうにむけ、母の小さな手に、右手をつつまれたまま、彼《かれ》らが感きわまった表情《ひようじよう》で、どんなふうに戦《いくさ》に勝利《しょうり》したのか、身《み》ぶり手ぶりをまじえながらかたるのをだまってきいていた。
父は死《し》に、都《みやこ》も濁流《だくりゅう》にながれさった。
天子《てんし》が統《す》べた国は、消えさった。あの国は、父とともにおわったのだ。−−−その思いが、遠い木霊《こだま》のように、どこかうつろな響《ひび》きとなって、心にひろがっていった。
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1  太陽宰相《たいようさいしょう》の思惑《おもわく》
木々の葉が色づき、秋風がその葉をゆらしはじめていた。
その日、ラウル王子《おうじ》は、兄とともに、太陽宰相《たいようさいしょう》アイオルの館《やかた》に招《まね》かれ、彼《かれ》の教えをうけていた子どものころのように、アイオルの書斎《しょさい》で暖炉《だんろ》にあたっていた。
暖炉には、スアの枝《えだ》がくべられていて、こうばしいにおいが部屋《へや》じゅうにただよっている。スアの枝を暖炉にくべるのは、アイオルの故国《ここく》コーラナムの習慣《しゅうかん》だった。
アイオルは、暖炉の灰《はい》の上において、さめないようにしてある陶器《とうき》の鍋《なべ》を、柄《え》をもってもちあげると、小卓《しょうたく》においてある三つの茶碗《ちゃわん》に、すきとおった緑色《みどりいろ》のシャオル茶《ちゃ》をそそいだ。
アイオルは酒《さけ》を飲《の》まない。そのかわり、日に何杯《なんばい》もこのシャオル茶を飲む。ふたりの王子の前に茶碗をおいて、アイオルは彼《かれ》らのむかい側《がわ》にすわり、ロをひらいた。
「おいそがしい、おふたりに、わざわざご足労《そくろう》いただいて、もうしわけございませんでした。わたくしのほうからでむけばよかったのですが……。」
ラウル王子《おうじ》が、にやっと笑《わら》った。
「季節《きせつ》の変《か》わり目《め》ゆえ、持病《じびょう》の腰痛《ようつう》がでたのだろう。 − この時季《じき》は、いつもそうだ。」
アイオルも笑《え》みをうかべた。
「そう。……あなた方《がた》が、まだ、少年であったころから、この時季はよく寝《ね》こんでおりましたからな。」
ほほえんだまま、ややうつむいて、アイオルはいった。
「あのころから、ずいぶん時がたちました。おふたりが、ご自分《じぶん》の領地《りょうち》をきりまわすようになって、もうそろそろ、二十年たちますかな。」
「わたしが領地をまかされて二十年だから、ラウルは、十七年になるか。」
兄のハザールの言葉《ことば》に、ラウルはうなずいた。
「そう。十七年になる。今年《ことし》の冬《ふゆ》で。……はやいものだな。もうそんなにたつか。」
その、おだやかなふたりのやりとりをみながら、アイオルはシャオル茶《ちゃ》をすすっていたが、やがて、すっと茶碗《ちゃわん》を小卓《しょうたく》においた。そして、ふたりをみつめて、しずかにいった。
「バザール殿下《てせんか》、ラウル殿下。皇帝陛下《こうていへいか》が、わたくしに、おふたりのうちの、どちらを皇帝にえらぶかきめよ、とおっしゃってから、ひと月《つき》がたちました。 − このひと月、どのようにして皇帝をえらぶべきか、考えつづけておりましたが、ようやく、考えがきまりました。」
ふたりの王子《おうじ》の間に、緊張《きんちょう》がはしった。
アイオルは、ゆっくりと言葉《ことば》をついだ。
「ひと月後《つきご》に、おふたりの領地《りようち》の詳細《しょうさい》をしるした文書《ぶんしょ》を、わたくしにおわたしください。
経済《けいざい》、行政《ぎようせい》、ありとあらゆる詳細をしるした文書です。今後《こんご》の展望《てんぼう》も、くわえてください。」
ラウルは、目をみひらいた。胸《むね》の底《そこ》から怒気《どき》がふきだしてくるのを感じながら、ラウルはアイオルをにらみつけた。
「……領地の統治状況《とうちじょうきょう》によって、皇帝《こうてい》の資質《ししつ》をみるというのか? これまでの、功績《こうせき》はまったく考慮《こうりょ》にいれぬということか?」
アイオルは、おちついた声で問いかえした。
「これまでの功績とは、他国《たこく》を征服《せいふく》した功績のことをおっしゃっておられるのか?」
ラウルは、目をぎらぎらひからせながらいった。
「もちろん、そのことだ。つい昨日《さくじつ》、新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》との緒戦《しょせん》|大勝利《だいしょうり》のしらせをとどけたであろう! わたしが指揮《しき》している北の大陸攻《たいりくぜ》めは、ちゃくちゃくと成果《せいか》をあげている。
父上が、もっともたいせつに思っておられた国獲《くにと》りを考慮にいれぬというのは、あまりにも、父上のご意思《いし》を無視《むし》した選定《せんてい》ではないか!」
アイオルは、こたえた。
「無視《むし》など、しておりません。わたくしの話を注意《ちゅうい》ぶかくきいておられれば、おわかりになったはずだが、領地《りょうち》の統治状況《とうちじょうきょう》には、枝国《しこく》の支配《しはい》も、とうぜんふくまれる。」
アイオルの目に、きびしい光がうかんでいた。
「皇帝陛下《こうていへいか》のご意思《いし》のことをいわれたが、皇帝陛下もわたくしも、ただ、むやみに国をとってきたわけではない。いうまでもないことだが、多大《ただい》な軍事費《ぐんじひ》をかけ、兵力《へいりょく》をそそいでも、その国をとることで、帝国《ていこく》に益《えき》があると考えた場合《ばあい》にのみ、戦《いくさ》をしかけていったのです。
国獲《くにとり》りの功績《こうせき》とは、征服《せいふく》した国の数によってきまるのではない。他国《たこく》を征服したことで、領地《りょうち》がゆたかになり、民《たみ》が満足《まんぞく》してくらしているか − それが功績でしょう。ちがいますかな?」
ラウルは、だまりこんだ。
アイオルは、しずかにつづけた。
「あなた方《がた》は、それぞれ、ごくお若《わか》いころに、いくつかの国を征服《せいふく》された。皇帝陛下《こうていへいか》からまかされた領土《りょうど》にくわえ、それらの枝国《しこく》を十年|以上《いじよう》も統治《とうち》し、運営《うんえい》している。 − その統治が、健全《けんぜん》である方でなければ、この大帝国《だいていこく》の統治をまかせるわけにはいかない。
わたくしの考えは、どこか、まちがっておりますかな?」
ラウルは、怒《いか》りの衝動《しょうどう》をおさえこみ、じっと表情《ひょうじょう》を消《け》していた。ハザールは、ロもとに、かすかに笑《え》みをうかべていた。
自分の居城《きょじょう》にむかって馬を走らせながら、ラウルは、胸《むね》の底《そこ》をあぶられるようなあせりにとらわれていた。
二十日《はつか》ほどまえに行政長官《ぎょうせいちょうかん》のオイラムを投獄《とうごく》していらい、ラウルが統治《とうち》する(北翼領土《ほくよくりょうど》)各地《かくち》の行政庁《ぎょうせいちょう》でさまざまな事件《じけん》がおきていた。たいせつな行政|書類《しょるい》が燃《も》えたり、船《ふね》が燃えたりというような、反乱《はんらん》とはいえぬような事件ばかりだったが、それらの事件のせいでうしなわれたもの − とくに行政記録《ぎょうせいきろく》などは、わずかひと月《つき》のあいだに、再現《さいげん》できるものではなかった。
(ハザールめ……!)
この裏《うら》には、かならず兄がかかわっている。こんな姑息《こそく》な手で − しかも、これほどささいな失策《しっさく》で − 自分が追いつめられていることに、ラウルははげしい怒《いか》りをおぼえた。
居城《きょじょう》にもどったラウルをまっていたのは、この状況《じょうきょう》に追《お》い討《う》ちをかけるような手紙だった。
宰相《さいしょう》のクールズが、あおざめた顔でラウルをむかえ、深く礼《れい》をしながら、とどいたばかりの鷹便《たかびん》をさしだした。
それを読みはじめたラウルは、さっと顔をこわばらせた。
「……ロタとカンバルが、同盟《どうめい》をむすんだだと?」
それは、ロタ王とカンバル王が共同《きょうどう》でおこなった宣言《せんげん》の内容《ないよう》をくわしくしるした文書《ぶんしょ》だった。
ロタ王とカンバル王は、陸海《りくかい》あわせて五|万《まん》もの軍勢《ぐんぜい》をサンガル半島《はんとう》におくって、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》へのタルシュ軍の移動《いどう》を阻止《そし》しながら南下している。
さらに新ヨゴ皇国のチャグム皇子《おうじ》に、同盟を成立《せいりつ》させた功をたたえて、三万もの兵《へい》をあたえたと書かれていた。
その一|行《ぎょう》を読んだ瞬間《しゅんかん》、ラウルは、かっと目をみひらいた。
「あの小僧《こぞう》……!」
手にしている文書をにぎりつぶし、いきなり剣《けん》をぬくや、ラウルは、手近《てぢか》にあった花瓶《かびん》を剣でたたきわった。
まだ少年の面影《おもかげ》を残《のこ》す十七やそこらの若造《わかぞう》が、まんまと自分の裏《うら》をかいたかと思うと、火のような怒《いか》りがふきあがってきた。ラウルはみごとな細工《さいく》をほどこした柱《はしら》に剣で切りつけ、飾《かざ》り壷《つぼ》を両手でもちあげるや、壁《かべ》になげつけた。飾り壷は壁にぶちあたり、高い音をたてて、こなごなにくだけちった。
やがて、ゆっくりと、凶暴《きょうぼう》な怒《いか》りの波《なみ》がしずまってくると、ラウルは、刃こぼれした剣《けん》を床《ゆか》にたたきつけて、執務室《しつむしつ》へと歩きはじめた。
宰相《さいしょう》のクールズは、ラウルについて執務室にはいると、背後《はいご》から声をかけた。
「ラウル王子《おうじ》|殿下《でんか》、もうひとつおしらせがございます。」
ラウルはその言葉《ことば》を無視《むし》して椅子《いす》まで歩いていき、どっかりと椅子に腰《こし》をおろしてから、クールズにむきあった。
「なんだ。」
クールズは、いった。
「今朝《けさ》がた、さきほどの鷹便《たかびん》がとどいたのと相前後《あいぜんご》して、サンガルの島々《しまじま》に駐屯《ちゅうとん》している部隊《ぶたい》からぞくぞくと鷹便がとどきはじめました。……北の大陸《たいりく》にむかって航行中《こうこうちゅう》の軍船《ぐんせん》が、小さな島の港《みなと》に寄港《きこう》したときに、サンガルの海賊《かいぞく》どもにしのびこまれて、火をかけられるという事件《じけん》が頻発《ひんぱつ》しているようです。とくに北部|海域《かいいき》では多くの軍船が燃《も》やされているもようです。
報復《ほうふく》に島《しま》の港街《みなとまち》や漁村《ぎょそん》をおそおうとしたときには、島民《とうみん》のほとんどが家財《かざい》をつんで船《ふね》で逃《に》げだしたあとであったというような、計画的《けいかくてき》な反乱《はんらん》であることをうかがわせる話ばかりでございます。」
ラウルの眉間《みけん》に、きりこんだようなしわがあらわれた。
「………サンガルの海賊《かいぞく》どもめ。ロタとカンバルが同盟《どうめい》したしらせをきいて、おとくいの風見《かざみ》をやりはじめたな。」
したたかな交渉《こうしょう》の術《じゅつ》をみせたサンガル王家《おうけ》のやり口を思いだし、ラウルは怒《いか》りとともに、肌寒《はだざむ》いものを感じはじめた。
サンガルは海の王国《おうこく》。陸の王国とはちがって、しっかりとおさえようとしても、するりと足の下からにげだしかねない。それは、最初《さいしょ》からわかっていたことだった。サンガル王家が心底服従《しんそこふくじゅう》するのは、北の大陸もタルシュの支配下《しはいか》にはいり、南北からはさまれて、逃《に》げ場《ば》がないことを実感《じっかん》したときだろう。
だが、ロタとカンバルが同盟《どうめい》をむすび、新ヨゴにも手をさしのべたということが、風向《かざむ》きを大きくかえてしまった。
(あのとき……。)
兄が、カンバル王をあやつり、ロタを内戦《ないせん》に追いこめる手をうったから、軍《ぐん》をかしてくれといったとき、兄に恩《おん》を売っておくべきだったのだ。
しかし、すでにうってしまった一手をくやんでも、勝利《しようり》にはむすびつかない。勝《か》つためには、すばやく、この状況を逆転できる手をうたねばならない。
「クールズ、そなたなら、どうする。」
声をかけると、クールズは即答《そくとう》した。
「攻《せ》めつづけるべきであるとぞんじます。ここで弱腰《よわごし》になればサンガルの連中《れんちゅう》は調子《ちょうし》づき、北の大陸《たいりく》の諸国《しょこく》の意気《いき》もたかまってしまいます。すでに北の大陸にいる軍勢《ぐんぜい》も孤立《こりつ》してしまいます。枝国《しこく》から、さらに軍事費《ぐんじひ》を徴収《ちょうしゅう》し、兵《へい》をあつめ、徹底的《てっていてき》にサンガルをたたきのめし、北上すべきとぞんじまする。」
それは、まさに、ラウルの胸《むね》にうかんでいたことだった。
うなずきかけて、ふっと、ラウルは目をほそめた。
クールズは、つねに、ラウルがいま、もっともききたいと思っている言葉《ことば》をあやまたずにロにする。頭のよい男だ。
クールズは、ラウルがみたくないもの − ラウルの気性《きしょう》では、頭から否定《ひてい》するであろうものを、よく知っている。知っているから、そういうことについては、ロにしないのだ。
顎《あご》をつまんで、ラウルはじっと、クールズをみていた。
(……こいつは、おれの心をうつす鏡《かがみ》か。)
この男が鏡だとすれば、いくらこの男の目をのぞきこんでも、自分の背中側《せなかがわ》−−自分ではみることのできぬ、気づくことのできぬ部分《ぶぶん》は、みえない。
ラウルは、執務卓《しつむたく》の上においてある筆《ふで》をもちあげると、しばらく、コン、コンと筆で机《つくえ》をたたいていた。そして、手をとめると、いった。
「クールズ……ヒュウゴを、ここにつれてこい。」
クールズの顔がこわばったのをみて、ラウルは眉《まゆ》をあげた。
「なんだ? まさか、せめころしてしまったのではなかろうな?」
クールズは、首をふった。
「いえ、そのようなことは……。命《いのち》はとらぬよう、心《こころ》して尋問《じんもん》せよとのおおせでしたので、そのような尋問のしかたをしておりました。
ただ、あれは、かたくなな男で、いっこうに、一味《いちみ》の名をはこうとしませんでしたので、とちゅうから、いささか手あらな尋問にきりかえました。それでもロをわらないので、おかしいと思っていたのですが………。」
クールズはつかのま口ごもり、それから、低い声でいった。
「医術師《いじゅつし》の話では、どうも、歯にウラスをしこんでいたようです。」
ラウルは、ききかえした。
「ウラス? なんだ、それは。」
「魂《たましい》を消《け》すといわれている薬《くすり》だそうです。小さなかたい丸薬《がんやく》で、ロのなかですこしずつとかしながら服用《ふくよう》すれば、痛《いた》みを感じなくなる効果《こうか》がありますが、ひと粒《つぶ》|全部服用《ぜんぶふくよう》してしまうとふかい眠《ねむ》りにおちこみ……めざめないまま、死《し》ぬことが多いとか。」
ラウルはクールズをにらみつけた。
「つまり、やつはいま、その眠りにおちてしまっているのだな?」
クールズはうなずいた。
ラウルはクールズをにらみつけていたが、すぐに、顎《あご》をしゃくった。
「いけ。いって、医術師《いじゅつし》や、呪術師《じゅじゅつし》どもを総動員《そうどういん》してでも、やつをめざめさせろ。」
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2  ヒュウゴの言葉《ことば》
ヒュウゴの身体《からだ》が、ラウル王子《おうじ》の執務室《しつむしつ》にはこばれてきたのは、その翌日《よくじつ》の夜になってからだった。
しらせをうけて、執務室にはいってきたラウルは、担架《たんか》にのせられたままよこたわっているヒュウゴのようすをみるや、顔をしかめた。
クールズが殺《ころ》す気で尋問《じんもん》をおこなっていたことが、ひと目《め》でわかる姿《すがた》だった。指を折《お》られ、爪《つめ》をはがされ、顔も首も青黒《あおぐろ》くむくみ、目もはれふさがっている。
しかし、ヒュウゴは生きていた。はれふさがったまぶたの細いすきまから目がひかっている。かたわらについているヨゴ人の呪術師《じゅじゅつし》ソドクが、ラウルに深く頭をさげた。
「なんとか、魂《たましい》をよびもどしました。あと半日《はんにち》おそければ、まにあわないところでした。」
ソドクには目をむけず、ラウルはヒュウゴをみおろしたまま、いった。
「ばかなやつだな、おまえは。反乱《はんらん》をくわだてている者《もの》たちの名をあかせば、牢《ろう》からだすといったはずだ。 − なぜ、そこまでして、その連中《れんちゅう》をかばう。」
ヒュウゴのくちびるがうごいた。かすれた、ほそい声がそのロからもれた。
「……名をあかせば、あなたは、彼《かれ》らを、殺《ころ》してしまう。……ハミルの、思うつぼです。ハザール王子《おうじ》、が、皇帝《こうてい》になり、ハミルが、太陽宰相《たいようさいしょう》となる……。」
ラウルが、目をみひらいた。まじまじとヒュウゴをみて、ラウルは低い声でいった。
「……きさま、アイオルが、なにをもって皇帝《こうてい》の資質《ししつ》を判断《はんだん》するか、知っていたのか?」
ヒュウゴは、かすかにうなずくようなしぐさをした。
「アイオルさまに、お目にかかったとき、…………あの方《かた》が、みているもの、を、知りました。」
ラウルは、ひややかな目でヒュウゴをみおろして、問うた。
「いってみよ。アイオルは、なにをみている。」
「……ハミルにも、わたしにも、みえていたのに、クールズは、みようとしなかったもの。」
じれったげに、ラウルは声をあらげた。
「だから、それはなんだときいている!」
ヒュウゴは、いった。
「 − この帝国《ていこく》における、枝国《しこく》の意味《いみ》です。」
ラウルは、鼻《はな》を鳴《な》らした。
「冗談《じょうだん》ではない。おれも、クールズも、そんなことぐらい知りぬいておるわ!」
ヒュウゴは、かすかに、首をふった。
「……知っておられたら、オイラムを投獄《とうごく》するはずがない。」
ラウルの目に、怒気《どき》がうごいた。
ソドクは、腹《はら》がぎゅっとこわばるような不安《ふあん》を感じながら、ラウル王子《おうじ》の顔色をうかがっていた。
ラウルは、くいしばった歯の間から、言葉《ことば》をおしだした。
「いってみよ。おれと、クールズがみえていない、枝国《しこく》の意味とは、なんだ。」
ヒュウゴはこたえた。
「……二千三百|万《まん》人と、四百万人。四十八万人と、六万人。 − これが、なんの数だか、お考えになったことが、ありますか。」
つかのま、ラウルは眉《まゆ》をひそめていたが、やがて、はっと目をみひらいた。かすかにロをあけ、ラウルは、ヒュウゴをみおろした。
二千三百万人とは、枝国《しこく》|出身者《しゅっしんしゃ》の数。四百万人とは、タルシュ人の数だ。そして、四十八万人とは、枝国出身|兵《へい》の数であり、六万人とは、タルシュ兵の数だった。 − わかっている数字であるのに、こうして、あらためて考えてみると、その差《さ》の大きさが、肌寒《はだざ》く感じられた。
ラウルは、低い声でいった。
「たしかに、枝国《しこく》|出身者《しゅっしんしゃ》は、タルシュ人の六|倍《ばい》いる。だが、われらは彼《かれ》らをこの帝国《ていこく》の臣民《しんみん》としてあつかってきた。
最後《さいご》に枝国《しこく》になったサンガルや、枝国になって十数年くらいの、そなたの故国やオルム、ホーラムの者《もの》たちは、たしかに不満《ふまん》もかかえておろうが、父上がとったコーラナムなど古い枝国は、タルシュ人とかわらぬ富《とみ》と権力《けんりょく》を享受《きょうじゅ》しているはずだ。………コーラナム出身《しゅっしん》のアイオルが、つぎの皇帝《こうてい》をきめるくらいなのだからな。古い枝国のすがたをみれば、新しい枝国の者たちも、はやくおなじ状態《じょうたい》になろうと、はげむはずだろう。」
ヒュウゴは、しずかにいった。
「……それで、ほんとうに、うまくいっているなら、ゆがみや、破綻《はたん》が、生《しょう》じるはずがない。」
ラウルは、顔をくもらせて、じっとヒュウゴをみつめた。
ヒュウゴは、言葉《ことば》をつづけた。
「あなたの、手もとにあがってくる、書類《しょるい》、情報《じょうほう》は、クールズが検閲《けんえつ》したもの。
この北翼《ほくよく》の行政《ぎょうせい》の長《ちょう》である宰相《さいしょう》クールズは、タルシュ人。税官吏《ぜいかんし》の長も、軍事《ぐんじ》の長も、タルシュ人。−−−−彼《かれ》らの下で、補佐《ほさ》をする役目《やくめ》をあたえられた枝国出身《しこくしゅっしん》の官僚《かんりょう》たちが、日々、なにをみ、なにを考えているかは、あなたのところまで、あがってはこない……。」
ヒュウゴは言葉をきり、ひびわれたくちびるを舌《した》でしめして、言葉をついだ。
「クールズ宰相付《さいしょうつ》き行政長官《ぎょうせいちょうかん》オイラムは、たしかに、ハザール王子の宰相であるハミルに、内通《ないつう》していた。 − それは、自分の上司《じょうし》であるクールズが耳をかさぬことに、ハミルが真剣《しんけん》に耳をかしたからです。ハミルは枝国《しこく》|出身者《しゅっしんしゃ》。多くの有能《ゆうのう》な枝国出身の官僚《かんりよう》たちの声に、耳をかたむけてきた男です。」
ヒュウゴは、わずかにみえている目に、つよい光をたたえて、ラウルをみつめていた。
「タルシュ人の、六|倍《ばい》もの枝国出身者が、この帝国《ていこく》のすみずみではたらいている。彼らの、はたらきなしには、この巨大《きょだい》な帝国は、たちゆきません。
あなたが、わたしに名をあかせといった者《もの》たちは、すべて、あなたの領土《りょうど》の有能《ゆうのう》な官吏《かんり》。彼《かれ》らを殺《ころ》しますか? 枝国出身者の、不満《ふまん》の芽《め》を断《た》つために、八分の一のタルシュ兵で、六倍の枝国人を、処刑《しょけい》しつづけますか?」
ラウルは、声もなく、ヒュウゴをみつめていた。
ヒュウゴはいった。
「枝国《しこく》の民《たみ》たちは、不満《ふまん》を、かかえている。 − それは、この帝国《ていこく》に、ゆがみが、あるから、です。
あなたが投獄《とうごく》したオイラムは、すばらしい男で、北翼《ほくよく》だけでなく、帝国《ていこく》すべての、有能《ゆうのう》な枝国出身《しこくしゅっしん》の官僚《かんりよう》や、小さな地方区《ちほうく》の役人《やくにん》とまで意をつうじ、この帝国がかかえる、ゆがみをしらべつづけていた。 − なんと、二十年にもわたって、です。彼《かれ》が、しらべて、まとめてきた報告書《ほうこくしょ》は、たぶん、ハミルの手もとにある。」
ラウルは、ぼんやりとこぶしをにぎったり、ひらいたりしていた。自分の指先《ゆびさき》が冷《つめ》たいのを感じながら。
ふいに、ラウルは鞘《さや》ごと剣《けん》を剣帯《けんたい》からぬくと、執務卓《しつむたく》の上にそれをほうり、ヒュウゴのかたわらに腰《こし》をおろした。
「おまえは………。」
ラウルは、低い声でいった。
「なぜ、ハミルに恩《おん》を売らなかった。 − おまえなら、そのくらいのことは、らくにできただろう。おれによけいなことをいわず、おれの領土《りょうど》の、こまかい不備《ふび》の情報《じょうほう》をハミルにながして、兄上が皇帝《こうてい》になったら、とりたててもらう約束《やくそく》でもとりつけておけばよかったではないか。」
ヒュウゴの目に、ひややかな光がともった。
「……そんな、小さな利益《りえき》を得《え》るために、わたしは、父と母と妹を殺《ころ》したあなたの、家臣《かしん》になったわけではない。」
ラウルの目におどろきの色がうかんだ。ヒュウゴは、怒《いか》りをこらえているような、きつい声でいった。
「ハザール王子《おうじ》は、おのれの展望《てんぼう》をもたない。弟である、あなたへの、対抗意識《たいこういしき》だけで、う《》《》ごいてきた男だ。あなたが枝国《しこく》をとれば、自分も枝国をとる。あなたが北へ手をのばせば、自分も北へ手をのばす。……おのれが、この国を、どうしたいか、彼《かれ》にわかっているとは、思えない。
そして、ハミルは、太陽宰相《たいようさいしょう》になるために、二十年も、彼《かれ》を信頼《しんらい》してきたオイラムをみすてた。策略《さくりゃく》のために、信義《しんぎ》をすてたのだ。 − いつ、自分をみすてるかわからぬ男になど、自分の未来《みらい》をゆだねられるものか。彼が太陽宰相になっても、枝国《しこく》|出身者《しゅっしんしゃ》は、アイオルさまをしたうようには、彼をしたうことはない。」
敬語《けいご》をかなぐりすてて、ヒュウゴは、言葉《ことば》をラウルにたたきつけた。
「あなたは、短気《たんき》で倣慢《ごうまん》なタルシュ人だ。おのれの癇癪《かんしゃく》にふりまわされて、すべてを破壊《はかい》してしまうかもしれぬ。しかし、あなたには、ハザールにはないものがある。タルシュ帝国《ていこく》を繁栄《はんえい》させたいという、つよい願《ねが》いと、それを実行《じっこう》していくだけの能力《のうりょく》が。
わたしは、あなたに賭《か》けたのだ。 − 賭けに負ければ、生きていても、意味はない。」
ラウルは、じっと、ヒュウゴをみつめていた。
やがて、そのくちびるに、皮肉《ひにく》な笑《え》みがうかんだ。
「……ばかな賭けをしたものだ。 − そなたの目の前にいる男は、すべてを、その手からうしないつつある男だぞ。」
ラウルは、ヒュウゴが牢《ろう》にいたあいだのことを、たんたんと話してきかせた。すべてをききおえると、ヒュウゴは目をとじた。
そして、はれふさがったまぶたを、ようやくおしあげるようにして、ふたたび目をあけると、いった。
「新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の、都攻《みやこぜ》めの結果《けっか》は、あとひと月《つき》もまたずに、わかるはずです。名将《めいしょう》シュバルが都をおとせば、勝機《しょうき》はまた、あなたの側《がわ》に大きくうごくでしょう。
しかし、都攻めがうまくいかねようなら、すみやかに、北の大陸《たいりく》の国々と和睦《わぼく》をむすび、遠征軍《えんせいぐん》を、ラス諸島《しょとう》までもどすべきです。」
ラウルは目をほそめた。
「その理由《りゆう》は?」
「ラス諸島までは、支配体制《しはいたいせい》がととのっている。そこまで全軍《ぜんぐん》をもどし、サンガルの半分をがっちりとおさえれば、今後《こんご》への足場《あしば》は残《のこ》る。
そういう支配《しはい》のかたちなら、さほど多くの兵《へい》は、必要《ひつよう》ではない。あまった枝国兵《しこくへい》は、故郷《こきょう》へかえしてください。その後《ご》は、交代《こうたい》で、サンガルの管理《かんり》につかせてください。」
長いあいだ考えつづけてきたことを、ヒュウゴは、かすれた声でかたった。
「長年、タルシュ帝国《ていこく》に奉仕《ほうし》しつづけた枝国兵を − 夫《おっと》や、父や、息子《むすこ》たちを、枝国でまつ家族《かぞく》のもとにかえしてやってください。彼《かれ》らの家族に、コムス(臣民権《しんみんけん》)をあたえてください。
これ以上、軍事費《ぐんじひ》がふくらむことはなく、重い税《ぜい》が課《か》されることもないとわかれば、枝国《しこく》の人びとの不満《ふまん》も、すこしはやわらぐ。家族のもとにかえった男たちは、本来《ほんらい》の姿《すがた》 − 農夫《のうふ》や職人《しょくにん》や商人《しょうにん》にもどり、内側《うちがわ》から、この国を安定《あんてい》させていくでしょう。」
ヒュウゴは、じっとラウルをみつめて、いった。
「……北の大陸にあらわれるという聖地《せいち》 − 永久《とわ》の楽園《らくえん》を夢《ゆめ》みられた皇帝陛下《こうていへいか》は、すでに、眠《ねむ》りにつかれた。あなたは、この帝国《ていこく》を、永久の楽園にしてください。 − あなたに、それができると確信《かくしん》すれば、太陽宰相《たいようさいしょう》は、あなたの頭に……皇帝の冠《かんむり》をのせるでしょう。」
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3  若葉《わかば》の光
雨の季節《きせつ》がおとずれていた。
稲田《いなだ》には、すくすくとそだちはじめた稲《いね》がゆれ、風がふくと、よいかおりがただよってくる。タラノ平野《へいや》は、はるか視界《しかい》の彼方《かなた》まで、やわらかな緑《みどり》をたたえていた。雨が降《ふ》れば肌寒《はだざむ》いこともあったが、晴れた日には、夏の陽射《ひざ》しがてりわたる。
戦《いくさ》がおわったことを、バルサがきいたのは、そんな季節だった。
タラノ平野《へいや》に野営地《やえいち》をつくっていたタルシュ兵《へい》は、武装《ぶそう》をといて、ロタやカンバルの騎兵《きへい》たちにかこまれて、どこかへいったという話を、ラチャが話してくれた。
あの日から、この若者《わかもの》は、なにかと口実《こうじつ》をつけては、この岩屋《いわや》にたずねてくる。バルサは、さして愛想《あいそ》のよいきき手でもないのだが、それでも、彼《かれ》は、新鮮《しんせん》なきき手に話せるというだけで、たのしいようだった。
北の地方で、青弓川《あおゆみがわ》とその支流《しりゅう》が氾濫《はんらん》する直前《ちょくぜん》、たくさんのかがやく鳥が飛んで、人びとに逃《に》げる道を教えたという話も、ラチャからきいた。その話をきいて、バルサはほほえんだ。トロガイたち呪術師《じゅじゅつし》が、みごとに、その本領《ほんりょう》を発揮《はっき》したのだ。
ある日、米《こめ》をはこんできてくれたラチャは、興奮《こうふん》したおももちで、新しくしいれてきた話をしてくれた。いま、どこの村《むら》も、その話でもちきりなのだという。
「バルサさん、タルシュ軍《ぐん》がどんなふうに負《ま》けたか、きいたかい?」
米の布袋《ぬのぶくろ》を床《ゆか》におくや、ラチャは話しかけてきた。草兵《そうへい》の腕《うで》の傷《きず》をあらってやりながら、バルサはたずねた。
「どんなふうに負けたんだい?」
ラチャは、目をかがやかせて、話しはじめた。
それは、天《てん》から騎馬兵《きばへい》たちがおりてきて、タルシュ軍をうちやぶったという話だった。
「すげぇ話だろ? − 都《みやこ》が水にのまれてよ、帝《みかど》がおかくれになって……そんでもって、タルシュ軍の太鼓《たいこ》がドロドロ鳴ってよ、もうだめだって、みんなが天に祈《いの》ったときに、なんと、チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》が、白い光につつまれて雲間《くもま》からおりてきたんだと! あの亡《な》くなったはずの、チャグム皇太子殿下がだぜ?
雲間《くもま》からさしこんだ光の道を神馬《しんめ》にのってかけおりてきて、ロタやカンバルからの援軍《えんぐん》をみちびいて、いっきにタルシュ軍《ぐん》をうちやぶったんだそうな!」
話しながら、バルサのそばにいき、肩《かた》ごしに顔をのぞきこんだラチャは、バルサの表情《ひょうじょう》をみて、おどろいた。
「……なんで、そんな、おっかない顔をしてるんだい、バルサさん。おれ、なにかわるいこといったかい?」
バルサは首をふった。
軍兵《そうへい》の腕《うで》に新しい布《ぬの》をまくあいだ、バルサはだまっていたが、やがて、ふりかえって、ラチャをみた。
「べつに、あんたが、わるいわけじゃない。……ただ、チャグム殿下《でんか》は、ご自分のなさったことが、そんな話になってつたわっていると知ったら、うれしくないだろうと思ったのさ。」
ラチャは顔をしかめた。
「……なんで?」
バルサは、言葉《ことば》をさがしながらいった。
「たとえば……あんたが盗賊《とうぞく》にさらわれた子どもをたすけたとしたら……傷《きず》をおいながら、ひっしになって、子どもをたすけたとしてさ、その子を母親のところにつれていってやったのに、母親が、こういったら、どんな気がする? − きっと、あなたには神《かみ》さまがやどっておられたのですね。神きま、どうもありがとう……。」
ラチャは、ぶぜんとした顔になった。
「そりゃ、腹《はら》がたつだろうな。」
そういってから、鼻息《はないき》あらく、いいつのった。
「だけどよ、それは、おれの場合《ばあい》であってよ、チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》は、ちがうだろうがよ。殿下は、天《てん》ノ神《かみ》さまの子なんだからよ。」
ラチャの顔をみながら、バルサは、胸《むね》の底《そこ》に、なんともいえぬにがいものがひろがっていくのを感じていた。
チャグムが、もがきながらかけぬけてきた道は、雲間《くもま》からさしこむ光の道などではなかった。 − きたない思惑《おもわく》と、罠《わな》と、血《ち》のにおいに満《み》ちた、泥《どろ》の道だった。
吹雪《ふぶき》のなかで、顔から血をながして自分をみていたチャグムの顔が……そして、雪《ゆき》の峰《みね》が夕日に染《そ》まるのを、魅《み》いられたようにみつめていたチャグムの顔が、目にうかぶ。
だれもが、できるはずがないと思うようなことを、チャグムはあきらめずにやりとげた。それが、どれほどたいへんなことであったのか − チャグムがどんな旅《たび》をしたのか − ラチャたちが知ることはない。これから、かたりつがれていくのは、きっと、いまラチャがかたっているような、心おどる、うつくしい神の子の語り伝えなのだろう。
それが、チャグムにとっていかにむごいことなのか、ラチャにつたえる言葉《ことば》をもたない自分が、もどかしかった。
ラチャがしらけた顔でかえっていったあと、バルサはねむっているタンダのわきに腰《こし》をおろし、炉《ろ》に粗朶《そだ》をくべながら、ぼんやりと、チャグムのことを思っていた。
帝《みかど》は、都《みやこ》をおそった大水害《だいすいがい》で亡《な》くなったという。父の喪《も》があけたら、チャグムは帝になるだろう。……もう、二度《にど》と、あうことはあるまい。
さびしかったが、ふしぎに、かなしいとは思わなかった。
むかし、おさないチャグムとわかれたときとは、ずいぶんちがう。……あのときは、チャグムがあわれでならなかった。わかれたときの、泣《な》くのをがまんしてくちびるをふるわせていた顔が、思いだされてならなかった。
けれど、いま、心にうかぶチャグムの姿《すがた》は、大地《だいち》にしっかりと根《ね》をはった若木《わかぎ》のような、つよい若者《わかもの》の姿だった。
はなれていても − 生涯《しょうがい》あうことがなくとも、かわることのない絆《きずな》が、自分たちの間にはある。おりにふれて、自分はチャグムのことを思いだすだろう。笑顔《えがお》を、泣《な》き顔を、怒《おこ》った顔を。……そして、そのたびに、彼《かれ》のすこやかな生をねがうだろう。
目をほそめ、バルサは、じっと炉の火をみつめていた。
日々《ひび》は、ゆっくりとすぎていった。
きずついた草兵《そうへい》たちがくらしている、この岩屋《いわや》は、なかで火をたいていなければ、湿気《しっけ》をはらえず、かといって、火をたきつづけていれば煙《けむり》でいぶされてつらかった。石の床《ゆか》は草をしきつめていても、冷《つめ》たく、かたい。
そんなひどいところだったが、ひとつだけいいことがあった。岩屋のすぐそばの渓流《けいりゅう》に、あつい湯《ゆ》がわいている場所があったのだ。もともと近在《きんざい》の村人《むらびと》たちが、河原《かわら》をほり、石垣《いしがき》でかこって、大きな湯船《ゆぶね》を五つほどつくり、湯を浴《あ》びにきていた場所だ。
起《お》きあがれるくらいに回復《かいふく》した草兵《そうへい》たちは、この湯につかって身体《からだ》をいやした。バルサも夜になると、よく湯を浴びにいき、ふたつの湯桶《ゆおけ》になみなみと湯をくんで岩屋にかえっては、タンダの身体をふいてやった。
このころには、傷《きず》をおった男たちの明暗《めいあん》が、はっきりとわかれていた。傷が重《おも》かった者《もの》たちは、死《し》の闇《やみ》へとすべりおちていき、命《いのち》の力が勝《か》ったものは、死の坂《さか》をのぼって、ゆっくりとこの世《よ》へもどってきた。
ここ半月《はんつき》ほどは、死者《ししゃ》を焼《や》いていない。
それまでは、毎日《まいにち》、死《し》んだ者《もの》を河原《かわら》に薪《まき》をくみあげて焼いていた。名前や出身《しゅっしん》がわかっていれば、灰《はい》を壷《つぼ》に入れて、名と故郷《こきょう》の村《むら》の名をしるし、名前さえもわからぬ者の灰は、春になればたわわに白い花をつけるトウスの木の根元《ねもと》にまいた。
生きのこった者たちは、仲間《なかま》の看病《かんびよう》をしたり、村におりて、野良仕事《のらしごと》のてつだいをしたりしていた。町にいたときは大工《だいく》だった男たちもいて、彼《かれ》らは、野良仕事の駄賃《だちん》がわりに板《いた》をたくさんもらってかえると、すのこをつくって、岩屋《いわや》の床《ゆか》に敷《し》いてくれた。
タンダは、いまも、闇《やみ》と光のあいだの細い道の上にいる。
片腕《かたうで》を切りおとしたあと、身体《からだ》は、ゆっくりと回復《かいふく》にむかったが、魂《たましい》は死のにおいに満《み》ちた闇のなかに、うずくまったままだ。
むごい戦《いくさ》は、やさしいタンダの魂をふかくきずつけた。ねむっているときには悪夢《あくむ》でうなされ、めざめているときも、タンダはうつろな目で、死の闇をみていた。いつも、やわらかな笑《え》みをたたえていた面影《おもかげ》は、どこにもなかった。
バルサは、ときおり、ぽつりぽつりとチャグムの話などをタンダにきかせながら、彼《かれ》の介抱《かいほう》をして日々をすごした。
カンバル王《おう》からもらった旅費《りょひ》は、もう残《のこ》りすくなくなっていた。村《むら》の者《もの》たちは、いやな顔をせずに食べ物をはこんでくれたが、いつまでも、世話《せわ》になりっぱなしというわけにもいかず、金銭《きんせん》で礼《れい》をしていたからだ。はたらきたかったが、タンダのそばをはなれる気にはなれなかった。
薮蚊《やぶか》がすごいので、岩屋《いわや》の前の薮は切りはらってある。岩屋の入り口には、昼も夜も蚊遣《かや》りの草がたかれていた。
タンダのかたわらに腰《こし》をおろして、昼さがりの光が、その煙《けむり》に筋《すじ》をつけているのをぼんやりとみていると、烏の声がきこえてきた。
ヒョ、ヒョ……と、澄《す》んだ烏の声がひびいたとき、タンダが身《み》じろぎして、ゆっくりと目をあけた。
「……鳥が、鳴いているな。」
かすれた、ほそい声だった。バルサは、うなずいた。
「ルシャキだね。夏をよんでいる。」
「……雨は、あがったんだな。」
タンダが、こんなふうに言葉《ことば》をつづけるのは、めずらしかった。バルサは、こたえた。
「雨は、昨日《きのう》の夕方《ゆうがた》にあがったよ。夕日がきれいだった。」
タンダは目をとじた。ねむってしまったのかと思ったころ、目をあけて、ゆっくりと顔をバルサのほうにむけた。
「……外に、でたい。」
バルサは、おどろいて、タンダをみた。
うなずくと、そっとうなじに手を入れてその身体《からだ》を起こし、傷《きず》にさわらぬように気をつけながら、自分の背《せ》にタンダがおぶさるようにした。
タンダを背負《せお》って、ゆっくりと立ちあがると、バルサは岩屋《いわや》の外へでた。
鳥が、せわしなくさえずりながら、葉をざわめかせて、枝《えだ》から枝へわたっている。あたたかい日だった。そろそろ、夏がくる。
バルサは、大木《たいぼく》の根元《ねもと》の、ふっかりとした緑《みどり》の苔《こけ》の上に、タンダをおろした。
タンダは木の幹《みき》に頭をあずけたが、身体《からだ》に力がはいらないのだろう、残《のこ》っている右腕《みぎうで》の重みにひっぱられるように、身体がかたむきはじめた。
バルサはタンダのわきに腰《こし》をおろし、身体を自分にもたせかけられるようにしてやった。
うっそうとしげる若葉《わかば》をすかして、ちらちらと、白い光が顔におどった。風が草をゆらしていったかと思うと、さわさわと木々が葉をゆすりはじめる。
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ピーヨ、ピーヨとさえずる小鳥たちの声をききながら、タンダは、細く目をあけて、雨にあらわれた繊細《せんさい》な緑《みどり》の葉の輝きを、みつめていた。
「……うつくしいな。」
つぶやいた、タンダの目に、涙《なみだ》がもりあがった。
「かわいそうに、コチャのやつ。……殺《ころ》されちまって……。」
顔をぎゅっとゆがめ、涙をながしながら、タンダは、死《し》んでいった仲間《なかま》たちの名を、魂《たましい》をおくるようにつぎつぎに口にした。二度《にど》とこの光をみることのない − 故郷にかえることのない男たちのことを思って、タンダは、涙をながしつづけた。
バルサは手をのはしてタンダの頭を抱《だ》いた。バルサの肩《かた》に顔をつけて、タンダは泣《な》いた。
涙《なみだ》がかれるまで泣くと、タンダはそっと頭をおこした。しばらくだまって、苔《こけ》をひからせている陽《ひ》の光をみていたが、やがて、ぽつんといった。
「……雪《ゆき》おろしもしなかったから、屋根《やね》が、ぬけているかもしれないな。」
青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のふもとの自分の家のことを思っているのだとわかって、バルサはほほえんだ。
「だいじょうぶだよ。この春にみたときは、しっかりたっていたよ。こざっぱりとそうじされててね、庭《にわ》の雑草《ざっそう》もぬかれていた。」
タンダは、苔《こけ》に目をおとしたまま、つぶやいた。
「……雑草なんて、この世《よ》には、ないのにな。−−ぬいちまったか。」
ぷーん、ぷーん、と、かぼそい羽音《はおと》をたてながら、蚊《か》がよってくる。タンダの頬《ほお》によってきた蚊をはらってから、バルサは、その耳のわきの髪《かみ》にふれた。
「ずいぶん、のびちまったね。湯《ゆ》にはいれるようになったら、髪をあらって、切ってやるよ。」
タンダの目に、やわらかい光がうかんだ。その光をみながら、バルサはそっとタンダの頭をひきよせて、頻《ほお》にくちびるをつけた。タンダの右手がゆっくりとあがってバルサの髪にふれた。くちびるをかさねると、そのやわらかさが胸《むね》にしみるようだった。
顎《あご》をバルサの肩《かた》にのせ、タンダは目をほそめ、長いこと、若葉《わかば》におどる初夏《しよか》の光をみつめていた。
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4  野《の》の帝《みかど》
木槌《きづち》の音が、あちらこちらから、いせいよくひびいている。
職人《しょくにん》たちの声、木材《もくざい》がふれあう音が、木槌の音のあいまに、きこえていた。
光扇京《こうせんきょう》がながされてから、ふた月《つき》。初夏《しょか》の空のもとで、あらたな都《みやこ》の建設《けんせつ》がはじまっていた。
チャグムは、星読博《ほしよみはかせ》士たちが、(吉《きち》なる土地)であると判定《はんてい》した、都の南にある小河路街《こかわじがい》の西側《にしがわ》の平野《へいや》に、あらたな都《みやこ》をつくることをきめた。
青弓川《あおゆみがわ》に近いことを、おそれる声もあったが、今回のような大氾濫《だいはんらん》がおきても、この平野には、ほとんど被害《ひがい》がなかったし、街道《かいどう》にも川筋《かわすじ》にも近い、よい土地だった。
新しい都に遷都《せんと》するまで、(山ノ離宮《りきゅう》)がまつりごとの場となった。チャグムは、連日《れんじつ》|評定《ひょうじょう》をひらいて、山ほどある問題《もんだい》を議論《ぎろん》しては、決定《けってい》をくだす日々をすごしていた。
チャグムは、国政《こくせい》にたずさわって日があさかったから、ほとんどの場合《ばあい》、長年の経験をもつ大臣《だいじん》たちや、各役《かくやく》の長《ちょう》たち、そして、シュガやオズルの判断《はんだん》にまかせていた。
ただ、彼《かれ》らの意見にはっきりと異をとなえ、まったくちがう決断《けつだん》をくだすこともあった。新しいヨゴノ宮《みや》の建設《けんせつ》のことは、その最《さい》たるものだった。 大臣《だいじん》たちは、新しき都《みやこ》は、まず、帝《みかど》の御座所《ござしょ》であるヨゴノ宮からつくられるものだと思いこんでいた。しかし、チャグムは、宮の建設はあとまわしにするといって、大臣たちをおどろかせたのだった。
もともと帝派《みかどは》であった老大臣《ろうだいじん》たちは、ロもとをふるわせて、そのようなやり方は、ウガタ・カイム(逆《ぎゃく》の流れ)であり、不吉《ふきつ》であると主張《しゃちょう》したが、チャグムは頑《がん》としてききいれなかった。
「帝《みかど》の喪明《もあ》けをまち、さらに、ヨゴノ宮《みや》をたてる儀式《ぎしき》をおこなってから宮を建設して、その後、都《みやこ》の建設をはじめよというのか?」
チャグムはきびしい声でいった。
「百日《ひゃくにち》の喪《も》に服《ふく》し、さらに、宮《みや》が完成《かんせい》するまで一年以上も、民《たみ》が野宿《のじゅく》したまままつ必要《ひつよう》がどこにある。……父上の魂《たましい》が、いまだ、この世《よ》におられるのなら、あらたな都がうまれるさまをみまもってくださるだろう。それに、われらは、宮がたつまで(山ノ離宮《りきゅう》)でくらせるではないか。」
こうして、新しい都《みやこ》の建設《けんせつ》は、まず、武人階級《ぶじんかいきゅう》や貴族階級《きぞくかいきゅう》がくらす区域《くいき》と、民《たみ》がくらす区域から、はじまったのだった。
宮《みや》から避難《ひなん》するときに、もちだすことができた宝物《たからもの》の大半《たいはん》を、チャグムは、都建設のための資金《しきん》にあてた。それでも足《た》りぬ分を、どこからひねりだすかが大きな課題《かだい》だったが、チャグムは、戦《いくさ》で大きな被害《ひがい》をこうむった民たちから、さらに重税《じゅうぜい》をしぼりとることだけはしたくなかった。
ロタ王《おう》に借款《しゃっかん》をもとめようと心のなかで考えていたが、これを評定《ひようじょう》にかければ、大臣《だいじん》たちは、これ以上、ロタに借《か》りをつくるべきではないと大反対《だいはんたい》するだろう。大臣たちの考えにも理はある。けれど、いまは、つかれきった民《たみ》の力をよみがえらせることがなによりたいせつだとチャグムは思っていた。
まだ、帝《みかど》になったわけでもないのに、都《みやこ》の再建《さいけん》、戦《いくさ》で焼《や》かれた街《まち》の再建、草兵として男手をうばわれた農民《のうみん》たちや、負傷兵《ふしょうへい》たちにたいする補償《ほしょう》など、評定《ひょうじょう》で議論《ぎろん》してきめねばならぬことが、チャグムの背《せ》には、すでに山のようにのしかかっていた。
シュガが的確《てきかく》な補佐《ほさ》をしてくれなかったら、傷《きず》がいえたばかりの、しかも、まだ若《わか》いチャグムには、とうてい背負《せお》いきれない重荷《おもに》だった。
ラウル王子《おうじ》との和睦《わぼく》の交渉《こうしょう》も、まだ、はじまったばかりだ。
とりあえず停戦《ていせん》し、和睦の条件《じょうけん》のおとしどころをみつけるために、たがいの手のうちをさぐりあっているという状況《じょうきょう》だった。
「……なにもかもが、泥《どろ》のなかにあるような気がする。」
評定《ひょうじょう》をおえ、つかれはてた顔で自室《じしつ》にもどったチャグムは、卓《たく》によりかかってつぶやいた。卓のむかい側《がわ》にすわったシュガは、評定の記録《きろく》をひらいていた手をとめて、顔をあげた。
「なげかれますな。泥《どろ》からは、草木《くさき》も芽《め》ぶきます。タルシュにくっしていたら、われらの手に残《のこ》っていたのは、なにも芽ぶかぬ焦土《しょうど》だったのですから。」
チャグムは、うかない顔で、つぶやいた。
「……それも、まだ、わからぬ。彼《かれ》らが、このままひくかどうか。」
シュガは巻物《まきもの》を卓においた。
「たしかに。しかし、大国《たいこく》であるタルシュ帝国《ていこく》が、停戦《ていせん》をもとめてきたということが、なによりも、たいせつなのです。彼《かれ》らの側《がわ》にも、兵《へい》をひきたい理由《りゆう》があるということですから。」
シュガは、ふっと、人のわるい笑《え》みをうかべた。
「サンガルに駐屯《ちゅうとん》しているタルシュ遠征軍《えんせいぐん》は、海賊《かいぞく》どもの襲撃《しゅうげき》に苦労《くろう》しているようですな。
サンガル王《おう》もカリーナ王女《おうじょ》も、風向《かざむ》きを読むのにたけている。 − 自治権《じちけん》を約束《やくそく》しながら、そちらが約束をたがえたから、家臣《かしん》たちが反乱《はんらん》をおこしているではないか、どうしてくれると、ラウル王子に苦情《くじょう》をおくったときいたときには……。」
シュガとチャグムは、笑《わら》いだした。
「……さすがは、サンガル王家《おうけ》だな。あのしたたかさは、ぜひまなびたいものだ。」
サンガル王や、カリーナ王女の顔を思いだして、ふたりは、ひとしきり笑った。
やがて、笑いの波《なみ》が去《さ》っていくと、シュガは、しみじみとした口調《くちょう》でいった。
「ものごとというのは、ふしぎなものですね。いったん流れの向きがかわると、これまでとは逆《ぎゃく》の向きに、いきおいを増《ま》しながらながれはじめる。」
シュガは、チャグムをみつめた。
「……殿下《でんか》は、みごとに、流れの向きをかえてくださった。」
チャグムは、赤くなって目をそらした。
「苦労《くろう》をしたかいがあった。−−−あとは、この流れをたもてるよう、細心《さいしん》の注意をはらって、粘《ねば》りづよく交渉《こうしょう》をつづけていくしかないな。」
シュガが眉《まゆ》をあげ、ほほえんだ。
「……つくづく、ごりっぱになられましたな。まじめに問答《もんどう》の講義《こうぎ》をうけるのがいやで、逃《に》げだす方法ばかり考えておられた殿下《でんか》から、粘《ねば》りづよく − などというお言葉《ことば》を、うかがう日がくるとは。」
チャグムは、鼻《はな》を鳴らした。
「わたしは問答《もんどう》がいやだったのではない。せまっくるしい部屋《へや》にとじこめられているのが、いやだったのだ。」
(山ノ離宮《りきゅう》) の暗《くら》い回廊《かいろう》から庭《にわ》にでて、チャグムはふかく息《いき》をすった。
皇太子《こうたいし》の身分《みぶん》でいられるのも、あと一日。
明日《あす》の夜があけたら、身《み》をきよめ、夕日がおちるころには、父の仮墓所《かりぼしょ》である(荒城《あらき》ノ宮《みや》)にこもらねばならない。
この地に国をひらいた聖祖《せいそ》トルガル帝《てい》の衣《ころも》の下にわが身《み》をおいて、いまだ天《てん》ノ神《かみ》のもとでやすらがぬ荒御霊《あらみたま》のままの父とむかいあって夜をすごすのだ。
そして、生きたまま、つぎの朝をむかえられたら……自分は、帝《みかど》となる。
チャグムが、生きて(荒城《あらき》ノ宮《みや》)からでることはないだろう、と、うわさしている者《もの》たちがいることは知っていた。 − 父である帝《みかど》にさからいつづけ、人の血《ち》で手をよごした者《もの》が帝《みかど》となるのを天《てん》ノ神《かみ》が、おゆるしになるはずがないと。
だが、チャグムは、(荒城《あらき》ノ宮《みや》)にこもることを、おそろしいとは思わなかった。
自分は、生きて(荒城ノ宮)をで、帝になるだろう。 − 天ノ神が、そのようなかたちで裁《さば》きをくだすことは、きっと、ない。
天《てん》ノ神《かみ》が、自分の罪《つみ》をさばいてくださると信《しん》じることができたら、むしろ、ずっとらくになれるだろうに。自分がおこなってきたことがよかったのか、わるかったのか、天ノ神が判定《はんてい》して、刑《けい》をきめてくださるのなら……。
だが、チャグムは、もはや、そんなことはかけらも信《しん》じていなかった。
父が洪水《こうずい》でながされたことを天罰《てんばつ》だとも思っていなかった。 − 父|自身《じしん》は、そう思っていただろうが……。
父は、天ノ神を信じ、天ノ神の子であるおのれを信じた。そして、おのれを信じっづけるために、あえて、天災《てんさい》に身《み》をさらした。………最後《さいご》の瞬間《しゅんかん》に、父が、なにを思ったか、それを思うたびに、胸《むね》の底《そこ》をぎゅっとつかまれたような痛《いた》みがはしる。
父に、いえばよかったと思う言葉《ことば》が、あとから、あとから、心にうかぶ。
ひさしのむこうに細くひろがる青空に、雲がながれているのを、チャグムはぼんやりとみていた。
遠く北方《ほっぽう》の天と地がゆらめく虹色《にじいろ》の帯《おび》でつながり、ナユグとサグとがともにゆれていたあの壮大《そうだい》な光景《こうけい》が、ふと、目の奥《おく》によみがえってきた。サグの地に、とてつもない災害《さいがい》をもたらした、ナユグの春の豊穣《ほうじょう》が……生《せい》の営《いとな》みが死《し》につながるふしぎさが、胸《むね》にひろがった。
自分が、ナユグとサグの狭間《はざま》にうまれたこと。おさなかった自分が精霊《せいれい》の卵《たまご》を抱《だ》いたこと。自分の人生を大きくかえていったそれらを、星読《ほしよ》みたちなら、(天意《てんい》)であったというだろう。けれど、あのあたたかい瑠璃色《るりいろ》の水のなかでおこったことは、ナユグの生き物が、次の世代《せだい》へと生をつなげていった、ただ、それだけのことであったのだ。
ナユグでもここでも、天と地は、こうして、ただありつづけ、うごきつづける。きっと、天《てん》ノ神《かみ》のご意思《いし》とは、そういうものなのだろう。
多くの血《ち》をながして、自分がまもったものは、なんだったのだろう。……そう思うたびに、底《そこ》なしの不安《ふあん》が心をゆらす。こんな未熟《みじゅく》な自分が帝位《ていい》についてよいのか、不安でたまらなくなる。
それなのに、自分が天《てん》からおりてきて、国をすくったと民《たみ》は信《しん》じているらしい。
そう思うことで、彼《かれ》らは、天子《てんし》であるはずの帝《みかど》が、自分たちを悲惨《ひさん》な戦《いくさ》にまきこんでみすてたことを、納得《なっとく》するすべをみつけだしたのだと、シュガはいった。 − 苦難《くなん》は、古き帝《みかど》のせいであった。新しい帝こそ、ほんとうに幸《さち》をもたらしてくれる天子《てんし》であると民《たみ》が思えば、この国は、この危難《きなん》の縁《ふち》から、よみがえる力を得《え》るでしょう……と。
そうなのだろう。その思いは自分の帝位《ていい》をしっかりとしたものにしてくれるのだろうし、そういうふうに、国の魂《たましい》である帝《みかど》が、天《てん》ノ神《かみ》の血《ち》をひく清浄《せいじょう》な者《もの》であると信《しん》じていられれば、民《たみ》は幸《しあわ》せなのかもしれない。
天ノ神に荷《に》をあずけてしまえば、民も、皇族《こうぞく》や貴族《きぞく》たちも、そして、自分も、らくになれる。
(けれど……。)
チャグムは、うすい雲が浮かぶ、青い空をみつめた。
(それでは、なにもかわらぬ。)
これまでとおなじ、だれもが天ノ神に責任《せきにん》をあずけて、だれもが真実《しんじつ》をみようとしない、無責任《むせきにん》な国がうまれるだけだ。
(わたしは、民《たみ》も、自分も、あざむきたくない。)
そして、民にも、荷《に》を天《てん》にあずけて、らくになどなってほしくない。
自分は、神《かみ》の声などきけない。神意《しんい》をやどした、とくべつな存在《そんざい》などではない。
(………わたしは、民のだれともかわらぬ、ひとりの男にすぎぬ。)
旅《たび》をしているあいだ、ずっとそうであったように、ただの男なのだ。それなのに、明日《あす》の夜があければ、自分はこの国を統《す》べる者《もの》となる。
(ほんとうは、帝《みかど》などという位《くらい》、なくしてしまえばいいのだ。)
父が、神《かみ》の威光《いこう》をまとったさからうことのできぬ絶対者《ぜったいしゃ》であったことで、なんと多くの血《ち》がむだにながれたことか。父が鎖国《さこく》をえらんだとき、異《い》をとなえられる人びとがいて、話しあいをくりかえすことで道をみいだしていたなら、あれほど悲惨《ひさん》な戦《いくさ》をせずに、すんでいたのかもしれないのだ。
(いつか……。)
こんな位《くらい》、なくしてしまいたい。天《てん》ノ神《かみ》や帝《みかど》に荷《に》をあずけず、だれもが、それぞれ、おのれの背《せ》に、身《み》の丈《たけ》にあった荷を背負《せお》い、おのれの判断《はんだん》に責任《せきにん》をもって生きていく国にしたい。
たったひとりの声のみが高らかにひびく国ではなく、多くのことなる声がひびき、混乱《こんらん》し、まよいながらも、ゆっくりといくべき道をみいだしていく国にしたい。
(だけど、いまは……それはできぬ。)
国が死《し》の縁《ふち》でようやく踏《ふ》みとどまっているいまは、シュガがいうとおり、人びとの心をひとつにまとめる者《もの》が必要《ひつよう》だ。
チャグムは、まぶしそうに目をほそめた。
その荷《に》をおわねばならぬなら、おおう。 − けれど、父のように、神《かみ》の衣《ころも》を身《み》にまとった絶対《ぜったい》にさからえぬ者《みの》には、けっしてなるまい。自分の苦悩《くのう》も、穢《けが》れも、愚《おろ》かさも、けっして民《たみ》の目からかくすまい。おのれがくだす命令《めいれい》の責任《せきにん》を神《かみ》の影《かげ》にかくすようなことはすまい。
民が知ることができるように………自分たちをおさめている者が、どんな人間であるのかを。自分たちが、どんなふうに、荷《に》をあずけているのかを。
チャグムはしずかに、初夏《しょか》の日の光を顔にうけていた。
近習《きんじゅう》のルィンが馬をひいて庭《にわ》をまわってやってきた。チャグムが野《の》を馬でかけることで、つかのまの息《いき》ぬきをしていることを、ルィンは、わかってくれているのだ。
馬の手綱《たづな》をとったとき、背後《はいご》にばたばたという足音をきいて、チャグムはふりかえった。
回廊《かいろう》の柱《はしら》のかげに、ミシュナと、トゥグムが立っていた。侍女《じじょ》たちの姿《すがた》がみえないところをみると、侍女たちが目をはなしたすきに、部屋《へや》から逃《に》げだしてきたらしい。父である帝《みかど》の喪《も》に服《ふく》すためにまとっている衣《ころも》が、いかにも重そうにみえた。
ふたりの顔をみるうちに、チャグムは、ふっと、あることを思いついた。
「……ミシュナ、トゥグム、そなたらは、花畑《はなばたけ》をみたことがあるか?」
トゥグムは、うなずくでもなく、首をふるでもなく、じっとチャグムをみあげていたが、ミシュナは、にこにこしながらこたえた。
「はい。わたしは、庭《にわ》の花壇《かだん》が大好《だいす》き。」
チャグムは、ほほえんだ。
「庭の花壇より、花畑《はなばたけ》のほうがずっとうつくしいぞ。この宮《みや》のすぐ南側《みなみがわ》の野《の》は、いま、いちめん花が咲《さ》きみだれている。……いってみたいか?」
ミシュナの目が大きくなった。トゥグムは、首をふってあとずさりしたが、姉が、兄のほうへ歩きだしたのをみると、まよっているように眉《まゆ》をよせて、チャグムの顔をみあげた。
「おいで、トゥグム。歩いて門《もん》をでるだけだ。……侍女《じじょ》たちにみつからぬうちに、さあ。」
ためらいながら、姉のあとを追ってきたトゥグムの手を、チャグムはそっととった。
はじめて、兄に手をにぎられたトゥグムは、びくっと身体《からだ》をかたくしたが、チャグムが、右手にトゥグム、左手にミシュナの手をもって、ゆっくり歩きはじめると、しだいに身体の力をぬいて、ついてきた。
庭《にわ》にたたずみ、すこしはなれた位置《いち》からチャグムをまもっていた(帝《みかど》の盾《たて》)たちが、そっと、三人をまもる配置《はいち》をととのえて、うごきはじめた。彼《かれ》らは、チャグムが、三《さん》ノ宮《みや》の姫《ひめ》と皇子《おうじ》とをつれて、門《もん》の外へでようとしているのをみて、顔をこわばらせた。
大きな門をくぐろうとしたとき、トゥグムが足をとめた。ぐっと眉根《まゆね》をよせて、息《いき》をつめている。
これほどに、穢《けが》れがおそろしいのだ。 − そう思ったとき、ふっと、チャグムは、母のことを思いだした。
穢れへのおそれも、皇族《こうぞく》の者《もの》たちからの非難《ひなん》も無視《むし》して、母は兵士《へいし》たちの野営地《やえいち》へかけつけてくれた。チャグムが起きられるようになるまで、ついていてくれた。……それが、どれほどうれしかったか……。
あれほど母とよりそってくらしたことは、幼子《おさなご》のころさえなかった。侍女《じじょ》や乳母《うば》たちにかこまれて、外にでるなどありえぬことと、きびしくしつけられてそだった。(山ノ離宮《りきゅう》)におとずれるために牛車《ぎっしゃ》にのって宮《みや》の外にでるときは、いつも、いまのトゥグムのように息《いき》をつめたものだ。
チャグムは、膝《ひざ》をかがめて、おさない弟の顔をのぞきこんだ。
「下界《げかい》の穢《けが》れが、心配《しんぱい》か?」
トゥグムは、くちびるをむすんだまま、うなずいた。
チャグムはほほえんだ。そして、すっと太陽《たいよう》をゆびさした。
「あれは、なんだ? トゥグム。」
「……お日さま。天《てん》ノ神《かみ》さまの、お目め。」
チャグムはうなずいた。
「ごらん。ここからさきにも、お日さまの光は、おなじようにてっている。天《てん》ノ神《かみ》さまが、やさしくみまもってくださっている地の、どこに穢《けが》れなどあろうか?」
すっと立ちあがり、チャグムはいった。
「おいで。花畑《はなばたけ》は、すぐそこだ。」
チャグムが門《もん》をくぐると、ためらいながらミシュナとトゥグムも、門をくぐった。
初夏《しょか》の陽射《ひざ》しが、さんさんと野に降《ふ》りそそいでいる。小鳥が鳴きかわしながら、野《の》と天《てん》とを行《い》き来《き》している。
南側《みなみがわ》の野をみて、ミシュナが歓声《かんせい》をあげた。
道のすぐわきから、なだらかにひろがる野は、みわたすかぎり花ざかりだった。
チャグムは、ふたりをつれて、その花の野にあゆみいった。チャグムが、足で草をはらうようにして歩いているのをみて、ミシュナがふしぎそうな顔をした。
「……兄上、なぜ、そのような歩き方をなさるのですか?」
「これか? 蛇《へび》に、人がいるぞ、でてくるなよと、しらせておるのだ。」
蛇ときいて、ふたりの足がとまった。チャグムは笑《わら》いだした。
「だいじょうぶだ。このあたりに、毒《どく》のある蛇はおらぬ。兄がこうして先導《せんどう》しておるゆえ、心配《しんぱい》するな。」
無数《むすう》の小さな花が風にゆれると、よいかおりがたちあがってきた。チャグムは小川のほとりの、あたたかい草地《くさち》にふたりをすわらせた。
土手《どて》にはえている、細長い草をみたとたん、ずっとむかし、タンダがこの草をつかって、草笛《くさぶえ》の吹《ふ》き方《かた》を教えてくれたのを思いだした。
チャグムは一本草をとり、タンダが教えてくれた手つきを思いだしながら、それを両手《りようて》の親指《おやゆび》の間にはさむと、息《いき》をふきこんだ。
ブゥ……! と、豚《ぶた》が鳴いたような音がひびき、ミシュナとトゥグムの目がまるくなった。
「兄上、どのようになさったのですか?」
ミシュナが目をかがやかせて、チャグムの手もとをのぞきこんだ。チャグムは、ミシュナに草笛《くさぶえ》の吹《ふ》き方《かた》をていねいに教えてやった。
指をくわえて、のぞきこんでいるトゥグムをみて、チャグムはたずねた。
「そなたも、鳴らしてみたいか?」
トゥグムはうなずいた。チャグムは、弟の小さな親指《おやゆび》の間に、草をはさんでやった。
「すこしすきまをつくるのだ。……そう。うまいぞ。よし、ふいてごらん。」
トゥグムは力いっぱい息《いき》をふきこんだが、スウッという音しかしなかった。それでも、なんども、なんどもくりかえすうちに、やがて、ブウゥ! という音がでた。
トゥグムは、けたけたと笑《わら》いだした。大とくいで、ブウ、ブウとふきならした。
三人は、日暮《ひぐ》れまで花の野《の》で遊んだ。
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かえりしな、ミシュナが、摘《つ》んだ花をたばねてもっているのをみて、チャグムはたずねた。
「母上にさしあげるのか?」
ミシュナは首をふった。
「……明日《あす》、兄上は、(荒城《あらき》ノ宮《みや》)へこもらるのでしょう?……父上さまの墓所《ぼしょ》に、この花をおそなえしていただこうと思ったの。」
チャグムは声をうしなって、妹をみた。
自分たちが、おなじ父をもつ兄妹《けいまい》なのだと……そして、自分たちは、ほんとうに父をうしなったのだという思いが、ふいに、こみあげてきた。
(荒城《あらき》ノ宮《みや》)には、父の遺体《いたい》はない。泥流《でいりゅう》にのまれた宮《みや》のあとを、近衛兵《このえへい》をはじめ、多くの者《もの》たちがさがしつづけたが、とうとう、父の遺体はみつからなかった。
(荒城ノ宮)は、かつて、代々《だいだい》の帝《みかど》の墓所《ぼしょ》があったところに、あらたに土盛《ども》りをしてつくられた。そのはかの場所は、いまはもう泥《どろ》にうもれて、雑草《ざっそう》が小さな花を咲《さ》かせている。
宮《みや》でうまれ、生涯《しょうがい》宮をでることのなかった父は、死《し》して、花の野の下にねむっているのだ。
さわさわと、風が草をゆらしていく。妹がもっている花にふれて、チャグムはいった。
「父上に、おつたえしよう。ミシュナからの花だときいたら、およろこびになるだろう。」
トゥグムがチャグムの袖《そで》をひっぱった。姉とばかり話しているのが気にいらなかったのだろう。トゥグムは大きな声でいった。
「兄上! また、ここで、遊びたい!」
それをきいて、ミシュナが、顔をくもらせた。
「トゥグム殿下《でんか》……兄上をこまらせては、いけません。わたしたちは、ふつうは、お外にでてはいけないのよ。」
ミシュナは、わかっているのだ、と、チャグムは思った。自分がなぜ、ここへ、ふたりをつれてきたのか。その気もちを、わかってくれている。
チャグムは、ふたりの肩《かた》に手をおいた。
「また、こよう。……わたしが帝《みかど》になったら、そなたらも、いつかうまれるわたしたちの子らも、花の季節《きせつ》には野《の》に遊《あそ》び、雪《ゆき》がくれは雪遊びができるようにしてみせる。」
夕日《ゆうひ》が、黄金色《こがねいろ》にかがやかせている道を、チャグムは、妹と弟の手をひいて、ゆっくりと(山ノ離宮《りきゅう》)へもどっていった。
二日《ふつか》ののち、チャグムは帝《みかど》になった。
儀式《ぎしき》の最後《さいご》には、(山ノ離宮《りきゅう》) の広い前庭《まえにわ》にあつまっている皇族以外《こうぞくいがい》の、身分《みぶん》の低い家臣《かしん》たちの前に、新しい帝が姿《すがた》をあらわす、(朝見《ちょうけん》ノ儀《ぎ》)がおこなわれる。
純白《じゅんぱく》の衣《ころも》に身をつつんだチャグムは、顔をおおう薄布《うすぬの》をさしだした近習《きんじゅう》のルィンに、ほほえんで首をふった。
「それは、つけぬ。」
白い朝の日の光が、庭《にわ》をかがやかせている。その光のなかに、チャグムは素顔《すがお》のままで、足を踏《ふ》みだしていった。
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夏がおとずれるころ、ロタとカンバルの騎兵《きへい》たちは、新《しん》ヨゴの人びとの心からの感謝《かんしゃ》の声におくられて、それぞれ、帰国《きこく》の途《と》についた。
蝉《せみ》がうるさいほどに鳴く真夏《まなつ》の日に、ラウル王子《おうじ》が、タルシュ帝国《ていこく》の皇帝《こうてい》になったというしらせが、(山ノ離宮《りきゅう》) にとどいた。
秋風がふき、田の稲《いね》が頭をたれるころ、タラノ平野《へいや》で傷《きず》をいやしていた草兵《そうへい》たちは、数カ月《げつ》くらした岩屋《いわや》をでて、世話《せわ》をしてくれた村人《むらびと》たちに礼《れい》をいい、それぞれの故郷《こきょう》へとかえっていった。
冬がきて、春がおとずれ、また、初夏《しょか》がめぐってくるころには、戦《いくさ》の傷《きず》あとも川の氾濫《はんらん》の傷あともうすれ、街《まち》も村《むら》も、もとのような活気《かっき》をとりもどすようになっていた。ロタに逃《に》げていた人びとや、カンバルからかえれなくなっていた人びとも、故郷にもどってきていた。
四路街《しろがい》がみえてきたとき、人びとのあいだから、ため息《いき》のような声がもれた。
まだ、あちらこちらに焼《や》けあとが残《のこ》っているが、街《まち》の再建《さいけん》はちゃくちゃくとすすんでおり、白木の色も新しい家々がたちはじめていた。
さかんに槌《つち》の音がひびき、新しい木のにおいが風にのってただよってくる。
ロタに避難《ひなん》していた四路街の商人《しょうにん》たちは、ロタの各地《かくち》にちっても、たがいに密《みつ》に連絡《れんらく》をとりあっていたが、戦《いくさ》がおわり、タルシュ兵《へい》がひきあげていったと知るや、じっとしておられずに、声をかけあってあつまった。
そして、まずは家や商店《しょうてん》を再建《さいけん》するために、女衆《おんなしゅう》や子どもたち、老人《ろうじん》たちをおいて、男衆だけが、ひと足さきに故郷《こきょう》へともどっていたのである。
かつて店《みせ》があったあたりに、小さいながらも「サマド商店《しょうてん》」と、墨《すみ》あともあざやかに書かれた看板《かんばん》をあげた店《みせ》と家がたっているのをみたとき、チキサは、かたわらで馬をとめたバルサの横顔《よこがお》をみあげた。
ジタンで、懇意《こんい》の商人《しょうにん》にあいている倉庫《そうこ》を貸《か》してもらって、ほそぼそと織物商店《おりものしょうてん》をいとなんでいたマーサたちのもとに、バルサがやってきたのは、ほんの、ひと月《つき》ほどまえだった。
まぶしい初夏《しょか》の光を背負《せお》って、暗《くら》い戸口《とぐち》に立ったバルサは、さっぱりとした、おだやかな顔をしていた。
バルサは、マーサの息子《むすこ》であるトウノから、ジタンに残《のこ》してきたマーサたちをつれかえってほしいとたのまれてやってきたのだった。
それをきいたマーサたちのよろこびようは、たいへんなものだった。大急《おおいそ》ぎで商店《しょうてん》をたたみ、ほかの奥《おく》さん連中《れんちゅう》にも声をかけて、バルサにまもられながら、帰国《きこく》の途《と》についたのである。
新しい店《みせ》をみるや、マーサは泣《な》きだした。
気配《けはい》をききつけたのか、戸口《とぐち》にでてきたトウノは、母を馬からおろしながら、さかんに、バルサに礼《れい》をいっている。バルサも馬をおり、トウノたちに、挨拶《あいさつ》をかえした。
そのようすをみるうちに、命《いのち》からがら逃《に》げだしたあの夜が − ロタでくらした日々の記憶《きおく》が胸《むね》にせまってきて、チキサはおもわず、前鞍《まえくら》にのせているアスラの手をぎゅっとにぎった。
「かえってきたなぁ……。」
つぶやくと、アスラが首をねじまげて、チキサをみた。その目には、明るい光があった。
チキサはほほえんだ。
「 − おまえも、そう感じるだろう? かえってきたなぁって。」
アスラが、小さくうなずいた。そして、自分の右手をにぎっている兄の手に、左手をそっとかさねた。
そのぬくもりを感じたとき、あついものがつきあげてきた。
自分がさきに馬からすべりおり、妹をおろしてやってから、チキサは、バルサにちかづいた。
「バルサさん。」
トウノたちとの挨拶《あいさつ》をおえて、馬の手綱《たづな》を手にまきつけていたバルサは、かたわらにやってきたチキサをみた。
「バルサさん……。」
チキサは口ごもった。
自分がなにをいいたいのか、ふいに、わからなくなってしまったのだ。胸《むね》にあふれている思いが、あまりにもたくさんありすぎて、なんといっていいのか、わからない。
ようやく口からでた言葉《ことば》は、とても、単純《たんじゅん》な言葉だった。
「 − ありがとう……。」
いってしまうと、ふっとらくになった。
バルサは眉《まゆ》をあげたが、なににたいするお礼《れい》なのか、問いはしなかった。
「これからが、たいへんだね。」
雑草《ざっそう》が小さな花をつけている焼《や》けあとに目をむけながら、バルサはいった。
「もとのような街《まち》になるまでには、ずいぶんとかかるだろう。 − こわすのは、あっというまだったけれどね。」
すっと手をのばして、チキサの髪《かみ》をくしゃくしゃとかきまわし、かたわらにきたアスラの頬《ほお》にちょっとふれてから、バルサはいった。
「さあ、無事《ぶじ》に店《みせ》に着《つ》いたことだし、そろそろ、わたしはいくよ。」
チキサは、おどろいて声をあげた。
「え、もう? 店に寄《よ》っていかないの?」
「ああ。日が暮れるまえに、峠《とうげ》を越《こ》えていたいから。」
そういって、バルサはほほえんだ。
「そんな顔をしなさんな。また、あえる日もあるだろうさ。」
アスラの表情《ひょうじょう》をみて、バルサはもういちど手をのばし、その肩《かた》をぎゅっとつかんだ。
「アスラ、兄さんのめんどうを、しっかりみるんだよ。」
つよいまなざしで、アスラをみつめてから、バルサは手綱《たずな》をひき、馬にとびのった。
「バルサさん……!」
おもわず、チキサは声をあげた。
ふりかえったバルサに、チキサはさけんだ。
「タンダさんに、よろしく!」
さっと、バルサの顔に笑《え》みがうかんだ。真夏《まなつ》の光のような、笑みだった。
若葉《わかば》がしげる山道を、バルサはゆっくりとのぼっていた。
ロタ王国《おうこく》にアスラたちをむかえにいくとちゅう隊商《たいしょう》の護衛《ごえい》をして、しばらくは家をはなれずにすむだけの金をかせいだ。その金で、食糧《しょくりょう》やら衣類《いるい》やらを買いこんだから、馬も山道をのぼるのがつらそうで、せかすわけにもいかない。
やがて、木々の問からみなれた屋根《やね》がみえてきたとき、ふっと以前《いぜん》の記憶《きおく》が胸《むね》をよぎり、不安《ふあん》がきざした。
しかし、その不安は、すぐに消えた。
料理《りょうり》をしているのだろう。うすく、煙《けむり》がたちのぼっている。屋根の上にも、小さな家のまわりにも、びっしりと雑草《ざっそう》がはえて、軒下《のきした》には蚊柱《かばしら》が立っていた。
あけっぱなしの戸にちかづくと、なかから、ふわっといいにおいがただよってきた。やわらかい淡竹《はちく》でつくる竹《たけ》の子《こ》|汁《じる》のかおりだった。この時季《じき》になると、タンダがよくつくる汁物《しるもの》だ。
酒《さけ》のにおいもする。トロガイ師《し》は、あいかわらず昼間《ひるま》から酒をくらって寝《ね》ているのだろう。
「おーい、かえったよ。」
声をかけると、ききなれた明るい声が、返事《へんじ》をかえしてきた。
バルサはほほえみ、短槍《たんそう》を戸《と》のわきに立てかけると、家のなかにはいっていった。
[#地付き](お わ り)
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