天と地の守り人 第二部
上橋菜穂子
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バルサは、まだ眠《ねむ》っている。バルサは、ほんとうによく眠る。短《みじか》いあいだでもふかく眠り、起きるときには、まるで眠りをたちきるように、さっと目ざめる。
わたしは、眠れない。このところ、ふかく眠れたことがない。眠っても、夢《ゆめ》ばかりみる。いそがねば、一刻《いっこく》も早く、いそがねば、心がせいているからだろう。
カンバル王を、説得《せっとく》することができるだろうか。その一事に、すべてがかかっているが、あの王は、どうも苦手《にがて》だ。サンガルでであったとき、理《り》のとおった申し入れをしても、即答《そくとう》しなかったような男だから……。
それに、すでにタルシュ帝国《ていこく》の息《いき》がかかっているとなると、説得するのはむずかしいだろう。あの内通者《ないつうしゃ》――タルシュの密偵《みってい》にとりこまれていた男は、カンバル王の側近《そっきん》のひとりだったはずだ。となれば、なおさら……。
それにしても、タルシュは、なんと巧妙《こうみょう》な手をつかうのだろう。
よく、心しておかねは。ロタの南部領主《なんぶりょうしゅ》たちをとりこんでいるのは、ラウル王子《おうじ》ではなく、ハザール王子の手の者《もの》だった。その意味を、しっかり考えておかねば。
北の大陸《たいりく》を攻《せ》める全軍《ぜんぐん》の指揮権《しきけん》をもっているラウル王子を、兄のハザール王子はなんとかして蹴《け》おとしたいのだ。ロタに手をだし、カンバルにも手をのばしているのは、弟を援護《えんご》するためではなかろう。きっと、弟よりさきに北の大陸を手にいれてしまおうと画策《かくさく》しているのだ。兵力《へいりょく》をつかうことができないから、裏《うら》から、ひそかに密偵《みってい》たちをうごかして、国の実力者たちをとりこむという手で。
ハザール王子とラウル王子は、兄弟で、はげしくきそいあっている。どちらがさきに北の大陸という獲物《えもの》を手にいれるか、きそいあっているのだ。
ヒュウゴが、わたしに思いがけぬ道を示《しめ》してくれたのも、好意《こうい》からだけではあるまい。好意はあったのだろうし、人死《ひとし》にを少なくしたいという気もちも、あの男のことだ、本心《ほんしん》からだろう。
だが、彼《かれ》は、ラウル王子の密偵《みってい》だ。わたしが、ハザール王子の密偵をだしぬき、カンバル王と同盟《どうめい》をむすぷことに成功《せいこう》したら、それはすなわちハザール王子が獲物をうしなうことを意味する。――それは、ラウル王子の密偵であるヒュウゴにとっては、大きな利益《りえき》になるはずだ……。
二|頭《とう》の凶暴《きょうぼう》な獣《けもの》がねらっている獲物《えもの》を、わたしは、その牙《きば》の間から、かっさらわねばならない。むずかしいことでも、やらねば。――わたし自身も、彼《かれ》らがねらっている獲物なのだから。
吹雪《ふぶき》がやみそうだ。風の音がよわくなった。
バルサはまだ眠《ねむ》っている……[#地付き][チャグムの日誌《にっし》より]
[#ここで字下げ終わり]
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序章 雪《ゆき》の峰《みね》がかがやくとき
第一章 カンバルへ
1 護衛《ごえい》の知恵《ちえ》
2 ティカ・ウル(さかさ狩《が》り)
3 待ち伏せ
4 イーハンの文《ふみ》
5 故郷《ふるさと》のしらべ
6 内通者《ないつうしゃ》の正体《しょうたい》
第二章 ナユグのざわめき
1 聖導師《せいどうし》の死《し》
2 草兵《そうへい》の日々
3 魂《たましい》の飛翔《ひしょう》
4 精霊《せいれい》たちの婚礼《こんれい》
5 異変《いへん》の前兆《ぜんちょう》
第三章 カンバルにひそむ陰謀
1 裏切《うらぎ》りの裏側《うらがわ》
2 かぼそい道 195
3 ラダール王《おう》の憂鬱《ゆううつ》
4 タルシユの王子《おうじ》たち
第四章 皇太子《こうたいし》の誇《ほこ》り
1 夜の岩山
2 牧童《ぼくどう》の家で
3 ホイ(捨《す》て荷《に》)
4 地の底《そこ》の海原《うなばら》
終章 アラム・ライ・ラ
あとがき
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月が、夜空《よぞら》を射《い》ぬくように、こうこうとかがやいている。
青く雪《ゆき》かげにしずむ壮大《そうだい》なユサの峰々《みねみね》をながめながら、牧童《ぼくどう》のヨヨは、こごえた両手をロもとにあてて、さかんに息《いき》をふきかけていた。
なにかが、はじまろうとしている。
秋から、この冬にかけて、牧童たちは、おちつかぬ日々をすごしていた。胸《むね》の底《そこ》に、いつも、さざ波《なみ》がたっているような感じがある。
いつもの年なら、冬の訪《おとず》れとともに眠《ねむ》りにつく大地《だいち》が、今年《ことし》はまだ、目をさましたままだと、牧童《ぼくどう》たちの最長老《さいちょうろう》トト老人《ろうじん》はいっていた。
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――その証拠《しょうこ》に、ほれ、洞窟《どうくつ》の岩肌《いわはだ》がしっとりとぬれて、石たちがまだ、ぷんぷんにおっておろうが!
[#ここで字下げ終わり]
その言《い》い方《かた》に、きいていた牧童たちは、なんとなく苦笑《くしょう》したけれど、たしかに、ふだんなら冬になるとうすくなる洞窟《どうくつ》の石のにおいが、今年は冬になっても、まるで春のように、つよくにおっている。
(……カッサには、どうして、このにおいがわからないんだろうな?)
ヨヨは、親友《しんゆう》の顔を思いうかべた。
カッサはカンバル人――地上でうまれ、地上でしか生きられない民《たみ》だ。ヨヨたちのように、もともとは山の底《そこ》でうまれた民とはちがう。それでも、カッサは、カンバル人のなかでは、いちばん自分たちにちかいところにいるやつだと、ヨヨは信《しん》じていた。それなのに、なんど教えてやっても、鼻《はな》のそばに石をちかづけてやっても、カッサはこまったように笑《わら》いながら、においなんてしないよ、という。
(あれで、石のにおいがわかるようなら、おれたちの不安《ふあん》も実感《じっかん》できるんだろうけどな。)
トト長老《ちょうろう》は、なにがおころうとしているのかがわかったら、カッサに、ムサ氏族長《しぞくちょう》への伝言《でんごん》をたのむといっていたけれど、伝言者になってもらうなら、カッサにもっとはっきりと、牧童《ぼくどう》たちが感じている不安を共有《きょうゆう》してほしかった。
(……ま、あいつなら、自分にはわからなくても、おれたちのいうことを信《しん》じてくれるだろうけど。それに、やつのいうことなら、ほかのカンバル人もしんけんにうけとめるだろうし。)
年をこせば二十歳《はたち》になるのに、さして背《せ》はのびないままで、本人《ほんにん》はすごく気にしているけれど、まわりの者《もの》からみれば、そんなことはカッサの印象《いんしょう》をよわめてはいない。小柄《こがら》でも、どこか地に根《ね》をはっているようなおちつきがあって、氏族長筋《しぞくちょうすじ》ではないけれど、いずれきっと、〈王《おう》の槍《やり》〉になるだろうといわれている、いい短槍使《たんそうつか》いだ。嫁《よめ》になりたい娘《むすめ》もけっこういるようで、そういう話も、このごろ、ちらほら耳にするようになった。
(それに、このおちつかない感じは、あいつも感じてるみたいだしな。)
長靴《ちょうか》をぬがせて、はだしで洞窟《どうくつ》のなかを歩かせたとき、カッサは、洞窟がうなっているような気がする、と、つぶやいた。
ヨヨたち牧童《ぼくどう》にとっては、この感じは、うなりとは、すこしちがったものに感じる。なにかをまって、身《み》を小刻《こきざ》みにふるわせているような、腹《はら》の底《そこ》がおちつかなくなる震《ふる》え……。若《わか》い牧童|連中《れんちゅう》は、好きな女をまってるときみたいだぜ、などとささやきあって、長老《ちょうろう》たちにゲンコツをくらっていた。
しかりつけながらも、長老たちも、こまったように笑《わら》っていたところをみると、おなじことを感じていたのだろう。この春に嫁《よめ》さんをもらったばかりのヨヨにも、その感じはよくわかった。
山の底《そこ》からつたわってくるものは、だから、どこか心おどるような気配《けはい》だった。病《や》んで、身《み》をふるわせているようなわるい感じではない。……それなのに、牧童《ぼくどう》たちは、なんとなく不安《ふあん》をおぼえていた。なぜだかわからないけれど、おそろしい感じがあるのだ。
――この冬は、しっかり、目と耳をあけておれ。若《わか》い連中《れんちゅう》は、交代《こうたい》で岩屋番《いわやばん》をせよ。
大長老《だいちょうろう》のトト老人《ろうじん》のこのひと言《こと》で、いつもなら家族《かぞく》といっしょに、ぬくぬくと郷《さと》の家でくらしているはずの厳寒《げんかん》の夜に、ヨヨはこうして岩屋に仲間《なかま》とふたりでこもっているのだった。
「えい、ちくしょう。寒《さむ》いなぁ。」
背後《はいご》で、歯《は》をカチカチならしながら、仲間《なかま》がつぶやいた。
牧童《ぼくどう》は寒さにつよいとはいえ、この雪にこおりついた岩屋《いわや》で、火をたくこともできずにうずくまっているのでは、骨《ほね》までこおりそうだ。ユッカルの葉《は》を食べ、葉をもんだ汁《しる》を、さっき足先や腰《こし》と背筋《せすじ》につけたから、そのあたりだけは、ぽっぽっとあつかったけれど、それだけではこの寒さはふせぎきれない。
「腹《はら》や鼻《はな》にも、ユッカルの汁をぬれたらなぁ。」
仲間《なかま》をふりかえって、ヨヨは笑《わら》った。
「ぬりゃあいいじゃねぇか。みてやるぜ、かぶれて赤くなった腹と鼻をさ。」
ふたりが、ふるえながら笑いあったとき、ふいに、たかい笛《ふえ》の音が、闇《やみ》をつんざいてひびきわたった。
はっと、外に視線《しせん》をもどしたヨヨは、息《いき》をのんだ。
さっきまで青い雪かげにしずんでいた南向きの斜面《しゃめん》が、星《ほし》の海にかわっていたのだ。
ちらちらとまたたく、小さな光が、斜面一面《しゃめんいちめん》をかがやかせている。
と……千の風穴《かざあな》をわたる風の音のような、澄《す》んだたかい笛《ふえ》の音が、いくつも、いくつもかさなりあいながら、地をふるわせて、わきあがってきた。
その音にこたえるように、ひとつむこうの山の、南向きの斜面《しゃめん》にも、ふわっと光の群《む》れがあらわれた。その斜面から、笛《ふえ》の音がひびきわたると、つぎの山の斜面に光がともった。
まるでのろし[#「のろし」に傍点]にこたえるように、つぎつぎに斜面がひかりはじめ、あっというまに、雪《ゆき》の峰々《みねみね》は、無数《むすう》の光の帯《おび》でむすばれていった。
はるか遠くまで、光の帯がたっしたとき、ふいに、近くで、リラン(小さな虫)が羽《はね》をこすりあわせているような、鈴《すず》の音ににた音がわきあがった。
ヨヨはおもわず、岩屋《いわや》からとびだした。そして、岩屋のわきの南向きの斜面《しゃめん》をみあげて、あっと小さな声をあげた。
少量《しょうりょう》のトガル(毒草《どくそう》)の効果《こうか》で夜目《よめ》がきくようになっているヨヨの目には、雪のように白いオコジョにまたがった、小人たちの姿《すがた》がはっきりとみえた。
「……チル・カル〈小さな兄弟〉。」
これまでみたことがないほど大勢《おおぜい》のティティ・ラン〈オコジョを駆《か》る狩人《かりゅうど》〉たちが、岩場《いわば》にでている。
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オコジョにまたがっている者《もの》はわずかで、それ以外の者たちは、みな、なにかをまつように南をむいて、岩場《いわば》に立っていた。
いつもの月夜《つきよ》の狩《か》りならば、ほそい茎《くき》の先に花の灯篭《とうろう》をひからせているはずだけれど、いま彼《かれ》らが手にもっているのは、なにか羽《はね》のようなものだった。それをこすりあわせて、リランの音をかなでているのだ。
花のともしびなしでも、彼《かれ》らの姿《すがた》は、はっきりとみえた。――いったいなにがおこったのか、彼らの小さな身体全体《からだぜんたい》が、青白くかがやいているからだ。
わきに立った仲間《なかま》が、ささやいた。
「あの光は、まさか、みんな、チル・カル〈小さな兄弟〉たちなのか………?」
「そんな、ばかな。……あんなに、たくさん……。」
オコジョにまたがり、月の夜に狩《か》りをする、小さな、小さな、ティティ・ラン〈オコジョを駆《か》る狩人《かりゅうど》〉たち。牧童《ぼくどう》たちは彼《かれ》らを山の王にちかい者《もの》たちとして、おそれ、うやまってきた。
ぼうぜんとみあげるヨヨたちに目をむけることもなく、ティティ・ランはひたすらに、南をみつめ、すこしずつはやく、羽《はね》をこすりあわせていく。
多くのティティ・ランがかなでるかんだかい鈴《すず》の音のような響《ひび》きが、どんどんかさなりあって、やがて、ヴィィ……ンという、たかい、たかいうなりにかわった。
ヨヨたちは、おもわず耳をおさえてしゃがみこんだ。目がかゆくなってきた。歯《は》がうき、骨《ほね》がゆすぶられ、全身《ぜんしん》があわだっていく。頭のなかが小刻《こきざみ》みにゆすぶられるようで耳鳴《みみな》りがする。
ヨヨは仲間《なかま》をふりかえり、くいしばった歯《は》の間から、さけんだ。
「……逃《に》げろ、山をくだるんだ。気がくるうぞ!」
ふたりは鷹《たか》に追われたヒョ(雪ウサギ) のように、雪《ゆき》でこおりついた岩場《いわば》をかけくだりはじめた。
ティティ・ランのうなりに背《せ》をおされ、谷底《たにぞこ》にすべりおちぬようひっしでかけていたふたりは、すこし斜面《しゃめん》をくだったところで、ふいに、ふわっと、なにかなまあたたかいものが顔にあたったのを感じた。
それは日向水《ひなたみず》のようななまぬるさで、ちゃぷちゃぷと全身《ぜんはん》をひたしはじめた。雪のにおいとはちがう、生き物が泳《およ》ぐ河《かわ》の水のようなにおいが、ぷんっとかおった。これまでもっと下のほうにあったノユークの瑠璃色《るりいろ》にかがやく水面《すいめん》が、ひたひたと水位《すいい》をあげて、自分たちの身体《からだ》をおしつつみながら、岩場《いわば》をのぼっていくのが、ゆらめいてみえた。
その、のぼってくる水にのって、無数《むすう》の光がよりあつまった群《む》れが、南のほうから、ゆるやかにこちらへと泳《およ》いでくる。
ヨヨたちは背《せ》をまるめ、頭をかかえて、はげしい恐怖《きょうふ》にとらわれながら、幻《まぼろし》のようななまぬるい水のなかをひたすらに〈郷《さと》〉へとかけくだっていった。
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1  護衛《ごえい》の知恵《ちえ》
凍《い》てついた青空が、どこまでもひろがっている。
三日間《みっかかん》つづいた吹雪《ふぶき》がようやくやんで、今朝《けさ》は、朝から気もちよく晴《は》れあがった。ロタとカンバルの国境《こっきょう》に近いこの隊商宿《たいしょうやど》の食堂《しょくどう》にも、小さな窓《まど》から明るい光がさしこんでいる。
竃《かまど》からとりだしたばかりの、こうばしいあつあつのバム(無発酵《むはっこう》のパン)に、たっぷりとラ(バター)をつけてから、バルサは、食卓《しょくたく》の上においてある蜂蜜《はちみつ》の壺《つぼ》をひきよせた。
とけたラの上に蜂蜜をたらして食べながら、バルサは、眉《まゆ》のあたりをくもらせて窓《まど》のほうをみているチャグムに声をかけた。
「バムがさめるよ。」
チャグムは、われにかえったように顔をもどして、バムをもちあげた。
顔の右側《みぎがわ》を白い包帯《ほうたい》でおおっているのがいたいたしくみえる。それでも、トルアンの街《まち》でかかった医術師《いじゅつし》はなかなか腕《うで》がよくて、刺客《しかく》に斬《き》られた刀傷《かたなきず》は順調《じゅんちょう》になおりつつあった。
バルサは、あとが残ることを心配《しんぱい》していたのだが、医術師《いじゅつし》は、化膿《かのう》もせずにくっついているので、縫《ぬ》わなくてもいいだろうといってくれた。白い傷《きず》あとが残るかもしれないが、縫ったあとよりはめだつまいと。
チャグム自身《じしん》は、顔に傷ができることにはむとんちゃくだった。新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の聖《せい》なる皇太子《こうたいし》という身《み》の上《うえ》からいえば、顔に刀傷《かたなきず》をつくるなどもってのほかのはずだったが、なにを考えているのか、傷のことを気にしているようすはなかった。
眉根《まゆね》をよせたまま、チャグムは、蜂蜜《はちみつ》をつけただけのバムをもくもくと口にはこんでいる。
チャグムはラ(バター)やラガ(チーズ)が、苦手《にがて》なのだ。それを知ったとき、バルサはびっくりした。
「どうしてだい? おいしいのに。」
そういうと、チャグムは顔の傷《きず》をうごかさぬようにしながら、鼻《はな》にしわをよせた。
「どうも、くさくてならぬ。ヤギやヒツジの肉《にく》もくさい。なぜ、みな、このようなものをうまそうに食べるのだろう?」
ははぁ……と、バルサは思った。そういえば、新ヨゴでは、豚《ぶた》や牛《うし》、鳥は食べるが、ヤギやヒツジは食べない。だから、この独特《どくとく》のにおいが気になるのだろう。
おさないころ、養父《ようふ》のジグロにつれられて、故郷《ふるさと》のカンバルから新ヨゴ皇国《おうこく》へ逃《に》げてきたとき、食べ物の風味《ふうみ》がちがうので、まずくて食べられないと泣《な》いてダダをこねたことがあったのを、バルサはぼんやりと思いだした。
ロタとカンバルは、もともとひとつの祖先《そせん》からわかれたという伝説《でんせつ》があるくらいで、食べるものも言葉《ことば》も、よくにている。けれど、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》は南の大陸からわたってきたヨゴ人がつくった国だから、料理《りょうり》も言葉《ことば》も、ずいぶん、ロタやカンバルとはちがった。
新ヨゴ皇国の宮殿《きゅうでん》の奥深《おくふ》くで、真綿《まわた》にくるまれた玉のようにしてそだてられたチャグムが、ヤギのにおいをきらうのは、あたりまえかもしれない。――それでも、チャグムは、ほかのものはなんでも文句《もんく》をいわずに食べる。そまつな宿《やど》で、炉《ろ》のそばの床《ゆか》でごろ寝《ね》もできる。皇太子《こうたいし》という殻《から》を、うまくぬぐことのできる若者《わかもの》だった。
蜂蜜《はちみつ》の味《あじ》もわかっていないような顔でバムを食べおえると、チャグムは顔をあげて、バルサをみた。
その目には、はっきりとあせりの色がうかんでいた。
「……やはり、これ以上、時間をついやしたくない。すぐにここをたとうよ。」
バルサは顔をくもらせた。
「でもね、吹雪《ふぶき》がやんだ翌日《よくじつ》だから、今日は隊商《たいしょう》が到着《とうちゃく》するかもしれないよ。」
バルサは、隊商《たいしょう》とともに国境《こっきょう》をこえたいと考えていた。タルシュのはなった刺客《しかく》が、ひとりだったとは、思えないからだ。
チャグムは、タルシュの密偵《みってい》たちが、ひそかに内通者《ないつうしゃ》としてしたてあげた男――カンバル王の側近《そっきん》でありながら、タルシュ側《がわ》にねがえった裏切《うらぎり》り者《もの》――の顔をみてしまっている。
チャグムが、カンバル王のもとへたどりつくまえに排除《はいじょ》するというたいせつな使命《しめい》を、いくら腕《うで》がたつといっても、たったひとりの刺客《しかく》にまかせるだろうか。念《ねん》には念をいれて、二重、三重の罠《わな》をしかけておくのがふつうだろう。
タルシュの連中《れんちゅう》は刺客《しかく》を二手《ふたて》にわけて、ひとりにチャグムのあとを追わせ、残りの者《もの》たちは、さきにカンバルとの国境《こっきょう》にむかわせたのではないかと、バルサは考えていた。
山々が雪にとざされる冬のこの時期《じき》、ロタ王都《おうと》の東側からカンバルヘいける峠《とうげ》は、ここから二日《ふつか》ほど北上した、ハウラズ峠しかない。ハウラズ峠にいたる道のとちゅうには、盗賊《とうぞく》がでるので有名《ゆうめい》なウサル渓谷《けいこく》がある。ここでチャグムをおそえば、盗賊に殺《ころ》されたようにみせかけられる。
ふだんなら、ウサル渓谷のそばにあるマカル城砦《じょうさい》の兵士《へいし》たちに、いくらかの心づけをして警護《けいご》をたのむという手もあったが、南部との戦《いくさ》の準備《じゅんび》がはじまっているいまは、兵士たちは旅人の世話のために、人手《ひとで》をさいてはくれないだろう。
だから、トルアンの街《まち》をとおったとき、バルサは護衛宿《ごえいやど》や口入《くちい》れ屋《や》をまわって、カンバル国境《こっきょう》を往復《おうふく》したことがある護衛《ごえい》をさがした。信頼《しんらい》できる護衛をやとうことができれば、チャグムをまもれる可能性《かのうせい》がたかくなると思ったからだ。
しかし、トルアンでは、タルシュの刺客《しかく》とわたりあえるような、腕《うで》もたち、信頼《しんらい》もできる護衛《ごえい》をみつけることはできなかった。南部との戦《いくさ》の噂《うわさ》がながれはじめたために、そういう連中《れんちゅう》はみな、略奪《りゃくだつ》をおそれた大商人《だいしょうにん》たちにやとわれてしまっていたのである。
自分ひとりで、チャグムをまもりながら、カンバルへいくしかないとかくごをきめたものの、バルサは、残念《ざんねん》ながら、ここからカンバル国境《こっきょう》をこえたことがなかった。
隊商《たいしょう》とともにうごく護衛《ごえい》なら、ウサル渓谷《けいこく》の越《こ》え方《かた》も心得《こころえ》ているだろう。できるなら、この宿《やど》で、隊商がとおるのをまって、その隊商にまぎれこみたいと思っていたのだ。人びとがカッル(頭巾《ずきん》つきのマント)をふかくかぶり、シュマ(風よけ布《ぬの》)で顔をおおっているこの時期なら、隊商にまぎれこめれば、危険《きけん》はずいぶんへるはずだった。
「だけど、今日、隊商《たいしょう》が着《つ》いたとしても、彼《かれ》らがたつのは明日になるだろう? 明日の天候《てんこう》がどうなるか、わからないじゃないか。また、吹雪《ふぶき》にふりこめられてしまったら……。」
顔をしかめて、チャグムは身《み》をのりだした。
「ねぇ、バルサ、おれにとっていまいちばんたいせつなのは、安全《あんぜん》かどうかじゃないんだ。時間なんだよ。一刻《いっこく》もはやく、カンバルにいかねばならない。」
がらんと人がいない食堂《しょくどう》に、声がひびく。
バルサは、おだやかな声でこたえた。
「刺客《しかく》にやられたら、どうせ、いきつくこともできないじゃないか。」
チャグムは首をふった。
「生きてたどりつけたとしても、おそければ、なんの意味もないんだ。カンバルからの援軍《えんぐん》がまにあわなければ、大勢《おおぜい》のロタ兵《へい》がむだ死《じ》にしてしまう。――バルサ、わかってくれ。おれは、ひとりでもいく。」
頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させ、いらだって目をひからせているチャグムを、バルサはだまってみていた。
新《しん》ヨゴの宮殿《きゅうでん》から父に追われて、サンガル王国《おうこく》へ。サンガルから、きみょうな運命《うんめい》にとらわれて、はるか南の大陸へ……。ロタ王国でバルサとであうまで、チャグムは、たったひとりで苦難《くなん》にみちた旅《たび》をのりこえてきた。――その、とほうもない旅をささえてきたのは、いまもチャグムをつきうごかしている、この、北の大陸の民《たみ》を思う心なのだろう。
この時期《じき》、カンバルからロタへ出稼《でかせ》ぎにくる者《もの》はいても、ロタからカンバルヘむかう者はほとんどいない。まっていても、カンバルへむかう隊商《たいしょう》はこないかもしれない。
バルサは、ふかいため息《いき》をついて、うなずいた。
「わかった。――出発《しゅっぱつ》しよう。」
かたく焼《や》きしめてあるので日もちのするジョコム(木《き》の実《み》入りの焼き菓子《がし》)や、干《ほ》し肉《にく》など、冬の山越《やまご》えをするための食糧《しょくりょう》を買いたして、バルサとチャグムがその街《まち》をたったのは、昼《ひる》すこしまえだった。
いま、ふたりがまたがっている馬は、俊足《しゅんそく》をほこるほっそりとした馬ではなく、ずんぐりと足首も胴《どう》も太い、山岳地帯《さんがくちたい》の馬だった。毛並《けな》みが長くて、寒さにもつよい。トルアンの街でこの馬に買いかえたとき、チャグムは、
「目がやさしい馬だなぁ。なんだか、タンダににてるね。」
といって、バルサを爆笑《ばくしょう》させた。
チャグムは調子《ちょうし》にのって、自分の馬をタンダと名づけてしまった。
「そいつは、なんて名前にするの?」
チャグムに問《と》われて、バルサは自分の馬のたてがみをなでながら、首をふった。
「……名前はつけないよ。」
いぶかしげに、チャグムは片方《かたほう》の眉《まゆ》をあげた。
「なんで?」
「名前なんかつけたら、わかれるとき、つらくなるだろ。」
[#挿絵(img/02_027.png)入る]
馬のわき腹《ばら》をそっと踵《きびす》でおして歩かせはじめたバルサは、背後《はいご》にいるチャグムが、なんともいえぬ顔で自分をみているのに、気づかなかった。
〈タンダ〉も、〈名無《なな》し〉もおとなしい馬で、けわしい山道も、白く息《いき》をはきながら、どんどんのぼった。斜面《しゃめん》をのぼっていく馬にのっていると、足だけでなく、腰《こし》や背《せ》にも負担《ふたん》がかかる。日が暮《く》れて馬をおりるころには、いつも、チャグムはくたくたになっていた。地面《じめん》におりても、膝《ひざ》がわらってしまって、まともに立てないほどだった。
そんな過酷《かこく》な旅《たび》なのに、チャグムの倍《ばい》以上年をとっているバルサのほうは、ほとんどつかれをみせなかった。湖面《こめん》のようにしずかなその横顔をみるたびに、自分のひよわさを思いしらされる気がして、チャグムは心のなかで、ひそかにため息《いき》をついていた。
カンバルへとむかう街道《かいどう》は、なだらかな登りがつづく山道だった。木々はこんもりとまろく雪《ゆき》をまとい、風がふくと身《み》ぶるいをして、ドサッと雪を地面にふりおとしている。
国境《こっきょう》へむかう街道とは思えないくらい、ひっそりとした道だった。ときおり、カンバルからロタへ出稼《でかせ》ぎにきた男たちとすれちがうほかは、人といきあうこともない。
ただ、ひとつの枝道《えだみち》と合流《ごうりゅう》したあと、街道《かいどう》の雪の上に、カンバルへむかったとわかる複数《ふくすう》の馬の足あとがあらわれはじめた。翌日《よくじつ》になると、その足あとは、はっきりと新しくなり、バルサは顔をほころばせて、チャグムをみた。
「隊商《たいしょう》か行商人《ぎょうしょうにん》の一行《いっこう》が前にいるみたいだよ。今日《きょう》の午後《ごご》あたりには、追いつけるかもしれない。」
雪《ゆき》の上に残っている足あとをじっとみてから、チャグムは顔をあげた。
「隊商《たいしょう》か行商人《ぎょうしょうにん》だって、どうしてわかるの? 盗賊《とうぞく》や刺客《しかく》たちってことはないのかな。」
バルサは、馬の脚《あし》をゆるめて、いくつかの足あとをゆびさしてみせた。
「足あとにかかっている重みが、ばらばらだろう? 刺客《しかく》や盗賊《とうぞく》なら、足あとはもっとそろっているはずだよ。それに、進《すす》み方《かた》がのろすぎる。」
けわしい山道は、やがて峠《とうげ》にさしかかり、道はゆっくりと下《くだ》り坂《ざか》にかわった。ウサル渓谷《けいこく》へくだっていく崖道《がけみち》だ。左手の木々のあいまから、凍《い》てついた谷間《たにま》の風景《ふうけい》がみえはじめたとき、バルサは、ふっと眉《まゆ》をひそめて馬をとめた。
「どうしたの?」
チャグムがたずねると、バルサは口に指をあてた。
耳をすませると、かすかに人の声がきこえてきた。子どもの、だだをこねるような泣《な》き声《ごえ》までまじっている。
バルサとチャグムは顔をみあわせた。
「谷《たに》のほうじゃない。森のなかから、きこえてくるね。さっき話していた隊商《たいしょう》かな。」
右手の森の奥《おく》をすかしみながら、チャグムがいい、バルサは腹《はら》だたしげにつぶやいた。
「子どもづれとは、おそれいったな。――こんな時期《じき》に、危険《きけん》なことをするもんだ。」
カンバルへむかっているのなら、ここでひとやすみして、これからウサル渓谷《けいこく》をこえるつもりなのだろう。
チャグムは、きびしい顔で森のほうをみているバルサに、いった。
「……警告《けいこく》してやろうよ。」
バルサは、チャグムをふりかえった。
護衛《ごえい》をつれている隊商《たいしょう》ならよいが、子どもづれでウサル渓谷《けいこく》をこえようとするような連中《れんちゅう》に、へたに声をかけたら、めんどうにまきこまれるかもしれない。いま、最優先《さいゆうせん》で考えねばならないのは、チャグムの身《み》の安全《あんぜん》で、ほかのことは二《に》のつぎだ。
とはいえ、子どもが盗賊《とうぞく》の餌食《えじき》になるのを、ほうってはおけなかった。
バルサはため息《いき》をつき、手綱《たずな》をひいて馬を右手のうっそうとした森のほうへむけた。雪にうもれた藪《やぶ》を、馬が踏《ふ》みしだいてとおったあとがあった。それをたどっていくと、前方に、数人《すうにん》の人影《ひとかげ》と馬がみえてきた。どうやら、窪地《くぼち》のようなものがあるらしい。そこでひと息いれているのか、さかんに話す声がきこえてくる。
バルサとチャグムがちかづいていくと、物音《ものおと》に気づいたらしく、ふいに話し声がとだえた。木々の間から、腰《こし》をうかせて、こちらをすかしみている姿《すがた》が、ちらちらとみえていた。
なかのひとりが藪《やぶ》をとびこえてでてきた。まだ十八くらいの若者《わかもの》だが、いっぱしの護衛《ごえい》のように、背《せ》に大刀《だいとう》、腰《こし》に短剣《たんけん》を帯《お》び、手にぬき身《み》をにぎっている。
「そこでとまれ! 何者《なにもの》だ!」
おうへいにどなった若者《わかもの》のうしろから、はげ頭の年配《ねんぱい》の男がゆっくりとあらわれた。こちらも護衛姿《ごえいすがた》だったが、短剣《たんけん》の柄《つか》に手をかけているだけで、大刀《だいとう》はぬいていなかった。
年配《ねんぱい》の男の顔をみて、バルサは、腰《こし》の短剣にあてていた手をはずした。
バルサがカッル(マント)の頭巾《ずきん》をはねのけて、シュマ(風よけ布《ぬの》)を首までおろすと、年配の男の目が、ばっとかがやいた。
「お……? あんた、バルサさんじゃないかね!」
バルサはほほえんで、さっと馬からとびおりた。
「ゴルさん、あなた、まだ、護衛士《ごえいし》をやっておられたんですか。」
ゴルとよばれた男は、てれくさそうに笑《わら》った。
「いや、引退《いんたい》しようと思ったんだが、息子《むすこ》が護衛士《ごえいし》になりたいっていうもんでね。初仕事《はつしごと》につきあっているんだ。教えてやりたいこともあるしな。」
若者《わかもの》は顔をしかめて父親をみ、声をひそめて、いらだたしげにいった。
「でかい声で初仕事《はつしごと》だなんていうなよ。」
それから、バルサをじろっとみて、おもむろに刀《かたな》をおさめると、腕《うで》をくんだ。そういう息子《むすこ》を、しかたのないやつだ、という顔でみてから、ゴルはバルサにいった。
「それにしても、いいところであんたにあった。これから、ウサル越《ご》えかね?」
バルサはうなずいた。
「カンバルへいくところです。……だけど、ゴルさん、あなた方《がた》ふたりだけで、子どもづれの家族《かぞく》をウサル越《ご》えさせるつもりなのですか。」
ゴルの顔がくもった。
「わけありの家族なんだよ。商売《しょうばい》で大失敗《だいしっぱい》して、借金取《しゃっきんと》りに追われている。カンバルへ干《ほ》し果物《くだもの》を売りにいって、その金でオックルを買いつけてひと儲《もう》けするしか、生きのびる手がないってわけだ。」
オックルはカンバルの高い山の岩かげに咲《さ》く花で、冬に雪の下でかたい蕾《つぼみ》をつける。この蕾は長寿《ちょうじゅ》の薬《くすり》として珍重《ちんちょう》されていたから、ロタへもちかえれば、買った値段《ねだん》の倍《ばい》もの値《ね》で売れる。
利《り》のある商売《しょうばい》だったが、行商人《ぎょうしょうにん》や隊商《たいしょう》がほとんど街道《かいどう》をとおらないこの季節《きせつ》は、盗賊《とうぞく》たちが獲物《えもの》に飢《う》えているし、狼《おおかみ》もでる。それをおそれて、手をだす者がまれな商売でもあった。
「妻子《さいし》を故郷《こきょう》において行商《ぎょうしょう》にでたら、借金取《しゃっきんと》りに売りとばされかねないらしい。しかたなく子どもづれで旅《たび》をするはめになったもんで、おれたちをやとったってわけだ。」
バルサは、ゴルの言葉《ことば》のうらにある事情《じじょう》をさっしていた。ゴルはもうかなりの年《とし》で、ふつうの隊商《たいしょう》からは、仕事《しごと》のロはかからないだろう。この息子《むすこ》とて、みるからに未熟《みじゅく》。しかも、初仕事となれば、危険《きけん》なこの時期《じき》、そうそうやとってくれる者《もの》はおるまい。彼《かれ》らは、食《く》いつめて、危険とわかっているこの話を、うけることになったのだろう。
バルサと護衛士《ごえいし》たちが長話をしているので、気になったらしく、うしろの窪地《くぼち》から、やせた男がこちらへやってきた。おきない子どもを抱《だ》いて、あやしている女が、不安《ふあん》そうな顔で、木のかげからのぞいている。
バルサは内心《ないしん》ため息《いき》をついて、ゴルにいった。
「まず偵察《ていさつ》をしてみて、ウサル渓谷《けいこく》をこえられそうだとなったら、わたしたちもいっしょにこえましょう。――ただし、そちらがホイを用意する気があるなら、ですが。」
ゴルは、わが意をえたりという顔で大きくうなずき、商人《しょうにん》をふりかえった。
「ほら、いったとおりでしょう! 生きてウサルをとおりぬけたいなら、そのくらいの損《そん》は、かくごすべきなんですよ。」
チャグムは、バルサにささやいた。
「ホイって? なにをすてる(ホイ)の?」
バルサは小声でこたえた。
「護衛士《ごえいし》の隠語《いんご》でね、捨て荷[#「捨て荷」に傍点]を意味するんだ。盗賊《とうぞく》に、いくらか荷《に》をわけてやるんだよ。」
チャグムはびっくりした。
「たたかうんじゃなくて、捧《ささ》げ物《もの》をしてとおりすぎるってこと? そんなことができるの?」
チャグムの言葉《ことば》をききつけたらしく、ゴルの息子《むすこ》が唾《つば》をはいた。
「ばからしい。親父《おやじ》も、とんだ腰《こし》ぬけだぜ。そこのあんたもな、女がえらそうに、男の仕事《しごと》に口をだすんじゃねぇよ!」
ゴルが目をむいて、息子の耳をゲンコツでなぐった。
「ばか野郎《やろう》、てめぇ。〈短槍使《たんそうづか》いのバルサ〉だぞ、この人は。てめぇがお乳《ちち》を飲《の》んでたころにはもう、いっぱしの護衛士《ごえいし》として名を売ってた人だ。」
ゴルは、すがりつくような目でバルサをみた。
「あんたがいっしょにたたかってくれるなら、ありがたい。ホイのことは、おれも、さっきから、ドホルさんにたのんでいたんだ。」
ドホルは、しぶい顔で、まようようにゴルとバルサを交互《こうご》にみていた。
「……正直《しょうじき》いって、盗賊《とうぞく》に荷《に》をわけてやれるような余裕《よゆう》は、ないんですよ。それに、荷をわけてやるなんて弱気《よわき》をみせたら、盗賊になめられて、みな殺《ごろ》しにされるんじゃないかな。」
バルサはおちついた声で、若《わか》い商人《しょうにん》にいった。
「かんちがいしないでください。ホイは、最初《さいしょ》にわたすわけじゃない。相手《あいて》をたたきのめしてからわたして、はじめて意味《いみ》があるんですよ。」
え……? という顔でバルサをみたのは、ドホルだけではなかった。チャグムも内心《ないしん》、おどろいて、バルサの言葉をきいていた。
バルサは、たんたんと説明《せつめい》した。
「盗賊《とうぞく》の人数《にんずう》が多くて、腕《うで》のたつやつがたくさんいたら、どうせ、わたしら三人じゃ、ウサルをこすことはできません。でも、盗賊だって、よほど食《く》いつめてなけりゃ、毎度《まいど》毎度、命《いのち》をおとすようなはげしい闘《たたかい》いは、したくないもんです。やつらにとっては、襲撃《しゅうげき》は一種《いっしゅ》の商売《しょうばい》ですからね。」
ゴルは、うなずきながらきいている。バルサは言葉《ことば》をついだ。
「あらかじめ、どのくらいの人数《にんずう》がいるかさぐってみて、わたしらで相手《あいて》ができる人数だとわかったら、さきに、わたしらだけで盗賊《とうぞく》とたたかいます。あるていど、やつらをいためつけて、むこうに弱気《よわき》がみえたら、合図《あいず》をするので、わたしらのうしろを全速《ぜんそく》でとおりすぎてください。
そのとき、あわてたふりをして、荷《に》をひとつ、ふたつ、道に落とすんです。」
ドホルは、眉《まゆ》をひそめた。
「なぜ? 相手《あいて》が弱気《よわき》になったなら、そのまま逃《に》げればいいじゃないですか。荷をくれてやることはないでしょう。」
バルサは首をふった。
「ホイはね、獲物《えもの》を追うか、ここで引くか、まよっている盗賊《とうぞく》の気もちを、うまくあとおししてくれるたいせつな役割《やくわり》をはたすのです。
獲物《えもの》には逃《に》げられたが、やられっぱなしのむだ骨《ぼね》じゃなくて、多少《たしょう》は手にはいったとなれば、盗賊の頭《かしら》の面目《めんもく》もたつ。――面目をたもったまま退却《たいきゃく》できる道をつくってやれば、引いてくれるものです。」
バルサは、しずかにつけくわえた。
「盗賊《とうぞく》に荷《に》をやるなんて、業腹《ごうはら》でしょう。それは、わかります。相手《あいて》は泥棒《どろぼう》ですからね。
でも、相手をみな殺《ごろ》しにするのでないなら、こちらも、どこかで妥協《だきょう》したほうがいい。
獲物《えもの》に逃《に》げられ、手下《てした》に面目《めんもく》がたたないと思ったら、盗賊の頭《かしら》はおそろしい獣《けもの》にかわりますよ。すてばちになって、なにがなんでも、わたしらを殺《ころ》そうとするでしょう。ひとり残らず殺して、荷をすべてうばい、人びとがその噂《うわさ》をきいて、自分をおそれればよろこぶ。……盗賊《とうぞく》というのは、そういうものです。」
ゴルも、うなずきながら、つけくわえた。
「穀物《こくもつ》の袋《ふくろ》ふたつ。あんたにはいたい出費《しゅっぴ》だろうが、家族《かぞく》の命《いのち》の値段《ねだん》だと思えば安いもんじゃないかね。」
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2  ティカ・ウル〈さかさ狩《が》り〉
ドホルたちが荷馬《にうま》などをととのえているあいだに、バルサとチャグムはひと足さきに街道《かいどう》まででた。
バルサは、馬をよせて、チャグムにいった。
「あんたは、渓谷《けいこく》の崖《がけ》からみえないぎりぎりのあたりで、ドホルの家族《かぞく》とまっていておくれ。わたしが指笛《ゆびぶえ》をみじかく三回ふいたら、彼《かれ》らといっしょに街道をいっきにかけくだるんだ。」
チャグムは、緊張《きんちょう》した顔でバルサをみた。
「あの父子《おやこ》、腕《うで》はだいじょうぶなの?」
バルサは、かすかに苦笑《くしょう》した。
「ゴルは、この年まで生きのびた護衛士《ごえいし》だからね。ピカ一《いち》ってわけじゃないが、悪い噂《うわさ》はきかない男だよ。……だけど、息子《むすこ》のほうは、だめだ。あれだけ木が密集《みっしゅう》してはえているところで大刀《だいとう》をぬいてくるようじゃ、ね。」
チャグムは、はっとした。
(それで、ゴルもバルサも、短剣《たんけん》の柄《つか》に手をかけていたのか。)
渓谷《けいこく》をみおろしているバルサの横顔《よこがお》はおだやかで、緊張《きんちょう》の色はなかった。
バルサはこれまで、なんどもなんどもこういう場面に遭遇《そうぐう》してきたのだろう。だから、こんなふうにおちついていられる。――その横顔をみながら、チャグムはあらためて、経験《けいけん》というものの力を感じていた。
商人《しょうにん》の家族《かぞく》が森からでてきた。バルサは彼《かれ》らをふりかえりながら、小声《こごえ》でチャグムにささやいた。
「いざとなると、あの商人は、荷《に》をすてるのをもったいないと思うかもしれない。力ずくでも、荷をすてさせておくれ。――それが、彼らをたすけることになる。」
チャグムはうなずいた。
「わかった。」
ゴルたちのほうへ馬の首をまわしたバルサに、チャグムはおもわず声をかけた。
「気をつけて!」
バルサはふりかえって、ほほえんだ。
「……刺客《しかく》がいないことを、祈《いの》ってておくれ。」
そして、真顔《まがお》になって、つけくわえた。
「指笛《ゆびぶえ》を長くふいたら、わたしらはもう、もどれないという合図《あいず》だ。そのときは、あんたひとりで、全力《ぜんりょく》で逃《に》げるんだよ。馬も、あの家族《かぞく》のことも、すべてほうって、自分が生きのびることだけを考えて逃げなさい。」
チャグムはこたえなかった。ただ、じっとバルサをみつめていた。
バルサは、そのチャグムのまなざしを無言《むごん》でうけとめ、やがて、くるりと、背《せ》をむけた。
ゴルと馬をならべると、バルサは、ウサル渓谷《けいこく》のことをたずねはじめた。
「ウサルをしきっている盗賊《とうぞく》は、どのくらいの規模《きぼ》の連中《れんちゅう》だか知っていますか?」
ゴルは、考えながらこたえた。
「カンバルヘいく隊商《たいしょう》も、カンバルからくる隊商も、さほど肥《こ》えた獲物《えもの》じゃないからな。隊商が多い時期《じき》で、二十人ぐらいだってきいている。いまは、その半分というところだろう。」
バルサはうなずき、ちらっとゴルが背負《せお》っている箙《えびら》に目をやった。
「ゴルさん、失礼《しつれい》だが、弓《ゆみ》に自信《じしん》は?」
ゴルの目に、ぱっと笑《え》みがうかんだ。
「おれは生まれも育《そだ》ちもアシャル(ロタ東北部《とうほくぶ》の山岳地帯《さんがくちたい》)の小さな谷間《たにま》だ。仔《こ》ヤギをおそうワシを射《い》たり、ロッカル(岩ネズミ)をとって食《く》ったり、ガキのころから弓《ゆみ》をつかわない日はなかったよ。護衛士《ごえいし》になったのも、弓の腕《うで》を買われたのがきっかけだ。年をとって、近場をみるのは、どうも苦手《にがて》になったが、遠いところは、よくみえる。
いまだって、あのむこう側《がわ》の崖《がけ》にいるワシくらい、かるく射《い》おとしてみせるぜ。」
それをきいて、バルサの表情《ひょうじょう》も明るくなった。
「よかった。それじゃあ、わたしがトック(的《まと》)になります。ゴルさんは、ウラ(射手《しゃしゅ》)になってください。」
ゴルが目をむいた。
「……あんた、まさか、ティカ・ウル〈さかさ狩《が》り〉をやるつもりか?」
バルサは、ほほえんだ。
「この地形なら、いちばん効果的《こうかてき》な方法でしょう。あなたが、ウラ(射手《しゃしゅ》)をやれる自信《じしん》がないなら、話はべつだが。」
ゴルは表情《ひょうじょう》をひきしめた。しばらく考えていたが、やがて、うなずいた。
「ティカ・ウル〈さかさ狩《が》り〉はやったことはないが、一度、ウサルで盗賊《とうぞく》と弓矢戦《ゆみやせん》をやったことがある。どこに陣《じん》どればいいか、見当《けんとう》がつく。……あんたが、ほんとうにトック(的《まと》)になるつもりなら、おれは、あんたと息《いき》をそろえて、ウラ(射手《しゃしゅ》)をつとめてみせるぜ。」
バルサはうなずくと、すっと馬をゴルたちからはなして、崖《がけ》にちかづけた。そして、渓谷《けいこく》の地形をたしかめながら、馬をすすめていった。
ゴルのむこう側《がわ》で馬をすすめていた息子《むすこ》が、顔をしかめて父親にささやいた。
「よう、親父《おやじ》、ティカ・ウル〈さかさ狩《が》り〉ってなんだよ。」
ゴルは、ささやきかえした。
「まあ、みてろ。目をみひらいてな。ティカ・ウル〈さかさ狩《が》り〉のトック(的《まと》)なんて、とんでもねぇ度胸《どきょう》と技《わざ》の持《も》ち主《ぬし》しかできねぇ。――うまくいったら、護衛宿《ごえいやど》で吹聴《ふいちょう》できる、いい話の種《たね》ができるぜ。」
バルサが、ふりかえって、ゴルの息子《むすこ》にいった。
「あんたは、後《あと》づめをたのむ。わたしらが射《う》ちもらした盗賊《とうぞく》どもがかけあがってきても、あの家族《かぞく》がやられることがないように、街道《かいどう》の上で彼《かれ》らをまもっていてくれ。」
ゴルの息子は、肩《かた》をゆすってうなずいてみせた。
「それとね、わるいが、あんたの弓矢《ゆみや》も貸《か》しておくれ。」
バルサが手をさしだすと、ゴルの息子はしぶい顔をしながらも、その手に弓矢をおいた。
ウサル渓谷《けいこく》は、けわしい断崖《だんがい》にはさまれた、ほそながい谷間《たにま》だった。
黒くぬれた岩肌《いわはだ》のところどころに雪《ゆき》にうもれた木々をまとった崖《がけ》が、渓流《けいりゅう》をはさむようにそそりたっている。街道《かいどう》は片方《かたほう》の崖にそってくだり、渓流の上にかけられた吊《つ》り橋《ばし》をわたって、むこう側《がわ》の崖へとのびている。長い吊り橋だった。荷《に》をつんだ馬をわたらせるには、かなりの時間がかかるだろう。
両側《りようがわ》の崖《がけ》には、岩棚《いわだな》やくぼみ、岩穴《いわあな》が、いくつもみえる。
(……なるほど、襲撃《しゅうげき》しやすい場所だ。)
盗賊《とうぞく》だろうがタルシュの密偵《みってい》だろうが、この厳寒《げんかん》の時季《じき》、街道《かいどう》からウサル渓谷《けいこく》へおりてくる者《もの》たちを、夜も昼もずっとまっていることはできない。
待《ま》ち伏《ぶ》せをしている者がいるなら、渓谷《けいこく》へおりてくる者がよくみえる角度《かくど》の岩穴《いわあな》にこごえないで長時間まてるような監視場所《かんしばしょ》をつくり、交代《こうたい》で少人数がみはっていて、どこか大きな岩屋《いわや》にいる仲間《なかま》たちに合図《あいず》をするのだろう。
獲物《えもの》が吊《つ》り橋《ばし》をとおりはじめたら、弓矢《ゆみや》でねらえば、らくな狩《か》りができる。
両側《りょうがわ》の崖《がけ》からみえるようになる手前で、バルサは、ドホルたちの一行《いっこう》をとめた。
「ここで、まっていてください。合図《あいず》をしたら、いっきに街道《かいどう》をかけくだってきてください。荷馬《にうま》をはさむかたちで、先頭《せんとう》がゴルさんの息子《むすこ》、そのうしろに荷馬。ドホルさんたちは、いざというときは、荷馬を楯《たて》にできるようなかたちで、すすんでください。
吊《つ》り橋《ばし》をわたりきったら、ドホルさんは、その荷馬から袋《ふくろ》をふたつ道に落としてください。いいですね?」
その荷馬《にうま》の荷は、ゴルがさっき、落としやすいようにむすんでおいた。鞍《くら》にかけわたしてある縄《なわ》を刀《かたな》で切れば、ふたつが一瞬《いっしゅん》で両《りょう》わきに落ちるはずだった。
ドホルは緊張《きんちょう》した顔でバルサにうなずいてみせた。バルサがちらっとチャグムをみると、チャグムは目でうなずき、腰《こし》の剣《けん》の鯉口《こいくち》をきり、いつでもぬけるようにした。
バルサは馬をおりて、カッル(マント)をぬぐと、手ばやくたたんで、馬の鞍《くら》につけてある荷袋《にぶくろ》に入れた。そして、手綱《たづな》を馬の鞍に巻《ま》いた。
「この馬は、荷馬の間にはさむようにして、つれてきてください。」
ゴルのほうは、馬を木かげにおいて、手綱《たづな》を幹《みき》にむすんだ。
「おれの馬は、このままにしておいてくれ。おれは、おまえさん方《がた》が無事《ぶじ》わたったら、あとから追いかけるから。夜になるかもしれんが、またないですすんでいてくれ。」
準備《じゅんび》がととのうと、バルサとゴルは両側《りょうがわ》の崖《がけ》をなめるように観察《かんさつ》した。むこう側の崖の、吊《つ》り橋《ばし》をわたったさきに、大きな潅木《かんぼく》のしげみがあった。
「あのしげみの裏《うら》っかわに、でかい岩屋《いわや》があるんだ。」
ゴルがささやいた。
バルサは、潅木《かんぼく》のむこうから、ごくかすかに煙《けむり》がたちのぼっているのをみわけていた。盗賊《とうぞく》は、たしかにひそんでいる。こちら側《がわ》の崖《がけ》よりも、あちら側に多くの気配《けはい》があった。
息子《むすこ》に最低限《さいていげん》の指示《しじ》をあたえると、ゴルは街道《かいどう》をはずれて、崖をのぼりはじめた。身《み》をひそめながら、盗賊《とうぞく》の射手《しゃしゅ》を狙《ねら》い射《う》ちできる場所につこうというのだ。
ゴルの弓《ゆみ》はかなり射程距離《しゃていきょり》があるし、上から射《い》れば飛距離《ひきょり》も増《ま》すだろう。それでも、正確《せいかく》に的《まと》を射ぬくには、距離的にぎりぎりというところだった。彼《かれ》の腕《うで》が、彼が自慢《じまん》したほどのものでなければ、バルサは窮地《きゅうち》に立つことになる。
(まあ、やってみるさ。)
ゴルの姿《すがた》が小さな岩棚《いわだな》に消《き》え、藪《やぶ》のなかから手をふるのをみとどけると、バルサは背《せ》に箙《えびら》を背負《せお》い、右手に短槍《たんそう》、左手に弓《ゆみ》をもって、かろやかに街道《かいどう》をかけくだりはじめた。いっきに吊《つ》り橋《ばし》のたもとまでかけおりていく。
バルサは見晴《みは》らしのよい場所までくると、さっと弓《ゆみ》に矢《や》をつがえ、煙《けむり》がたっているむかい側《がわ》の茂《しげ》みにむかってかまえた。……そのとたん、ピュイ、ピュイ、と谷間《たにま》に盗賊《とうぞく》たちの指笛《ゆびぶえ》が鳴りひびきはじめた。
バルサが矢《や》を茂《しげ》みに射《い》こんだ瞬間《しゅんかん》、高い崖《がけ》の上から、ヒュウッと、バルサめがけて矢がはなたれた。バルサはさっと頭をかがめて矢をよけ、弓矢《ゆみや》を地面《じめん》におくや、矢が飛んできたさきを、短槍《たんそう》の穂先《ほさき》でさししめした。
背後《はいご》の崖《がけ》の上で、弓弦《ゆんづる》がビンッと鳴った。
矢は、バルサがさししめした小さな岩棚《いわだな》にむかって放物線《ほうぶつせん》をえがいてとび、藪《やぶ》にすいこまれた。とたん、うめき声がきこえ、バルサに矢を射《い》た男の腕《うで》が、藪の上にはねあがるのがみえた。男の手から弓がはなれ、はるか谷底《たにぞこ》へ落ちていく。
一瞬《いっしゅん》、あたりがしずまりかえった。
つぎの瞬間《しゅんかん》、両側《りょうがわ》の崖《がけ》のあちこちから、ほぼ同時に、三本の矢《や》がバルサめがけて飛んだ。
バルサは半眼《はんがん》になり、息《いき》をとめると、矢が飛んできた方向を感じとりながら、短槍《たんそう》で矢をはじき、ピシッ、ピシッ、ピシッと、三方向を穂先《ほさき》でしめした。
ゴルの弓《ゆみ》の腕《うで》は、みごとなものだった。バルサがしめしたほうへ正確《せいかく》に射《う》ち、ふたりの盗賊《とうぞく》が身体《からだ》のどこかを射《い》ぬかれて、のけぞるのが、はっきりとみえた。
ただ、最後《さいご》の射手《しゃしゅ》はバルサの背後《はいご》の岩棚《いわだな》にいた。ゴルの位置《いち》からはねらえない場所だった。背後から飛んできた矢《や》を、バルサはかろうじてかわすと、短槍《たんそう》をはなし、弓《ゆみ》をひろいあげた。背《せ》に右手をまわして矢を箙《えびら》からぬき、一本小指にひっかけてもち、もう一本をつがえるや、体勢《たいせい》をととのえるまもなく、ヒョウッと岩棚《いわだな》にはなった。
わずかに矢《や》がそれた。射手《しゃしゅ》が矢をつがえるのがみえ、ヒュウッと矢がせまってきた。
バルサは弓《ゆみ》をひきしぼった体勢《たいせい》のまま、顔にせまる矢をうけた。矢がこめかみをかすった瞬間《しゅんかん》、バルサは狙《ねら》いをさだめて、矢をはなった。矢は射手《しゃしゅ》の左肩《ひだりかた》を射《い》ぬき、射手が弓を落とすのがみえた。
むこう側《がわ》の大きな岩屋《いわや》からでてきて、この光景《こうけい》をみていた盗賊《とうぞく》たちのあいだから怒声《どせい》があがった。頭《かしら》らしき男が黒い馬にのり、吊《つ》り橋《ばし》のむこう側で、大刀《だいとう》をかまえて立っている。
頭《かしら》のほかに、狼《おおかみ》の皮《かわ》を頭からかぶった六人の騎馬《きば》がいた。四人の大男が頭のまわりに立ち、残りの、いかにも機敏《きびん》そうなふたりが、獣《けもの》のうなり声のようなわめき声を発《はっ》しながら馬の腹《はら》をけると、吊《つ》り橋《ばし》をわたりはじめた。
ゴルの矢《や》がうなったが、橋をわたりはじめた男の肩《かた》をかすっただけで、男はとまりもせずに突進《とっしん》してくる。
バルサは弓矢《ゆみや》をおき、短槍《たんそう》をもって走りはじめた。橋のなかばあたりで、騎馬《きば》の盗賊《とうぞく》ふたりとバルサの姿《すがた》が交差《こうさ》した。
左側の男が、馬上から、バルサめがけて大刀《だいとう》をふりおろした。
短槍《たんそう》の穂先《ほさき》がはねあがり、日の光をはじいてきらめいたかと思うと、男の腕《うで》から血《ち》しぶき
[#挿絵(img/02_048.png)入る]
がとび、大刀《だいとう》と指が二本、谷底《たにぞこ》へおちていった。男は悲鳴《ひめい》をあげて馬から落ち、鐙《あぶみ》に足がひっかかったかたちで、馬にひきずられていく。
半回転した短槍《たんそう》の石突《いしづ》きが閃光《せんこう》のように右側の男の顎《あご》を下から打ちあげ、男はうめく間《ま》もなくのけぞって落馬《らくば》し、縄《なわ》の欄干《らんかん》にひっかかると、ぶらんと両手をたれさがらせた。
バルサは、ふりかえってするどい指笛《ゆびぶえ》を三回ふきならすと、そのまま足をとめることなく、吊《つ》り橋《ばし》をかけわたった。
街道《かいどう》で待機《たいき》していたドホルたちは、すくんでしまっていて、指笛《ゆびぶえ》をきいても、うごこうとしなかった。ゴルの息子《むすこ》さえも、うごかない。
「合図《あいず》がきこえなかったのか! いけ!」
チャグムはさけび、剣《けん》の腹《はら》で荷馬《にうま》の尻《しり》をたたいた。
荷馬がうごきはじめると、ようやくゴルの息子《むすこ》はわれにかえって、馬の腹をけって走らせはじめた。うしろの一行《いっこう》がついてきているのかたしかめもしない。頭に血《ち》がのぼっているのだろう。ただ、大刀《だいとう》をふりながらつっぱしっていく。
チャグムは、あおざめているドホルに声をかけた。
「さあ、いきましょう。荷馬《にうま》のかげになるようにして。矢《や》が飛んできても、荷馬が楯《たて》になってくれますから、だいじょうぶ。」
チャグムは剣《けん》を右手にもったまま、荷馬《にうま》たちをうしろから追いたて、ドホルたちをまきこむようにして、一行《いっこう》を走らせはじめた。
雪《ゆき》をけたてて、荷馬と騎馬《きば》の一行が、坂《さか》をかけおりていく。
チャグムは最後尾《さいこうび》についているために、ほとんど前がみえていなかった。
橋のほうから、おびえきった馬がかけてきて一行《いっこう》とすれちがい、チャグムの膝《ひざ》のあたりを馬の鞍《くら》がこすっていった。
ゴルの息子《むすこ》がのっている馬が吊《つ》り橋《ばし》にさしかかり、ひづめが板《いた》をけるうつろな響《ひび》きが谷底《たにぞこ》にこだましていく。それをききながら、やがて、チャグムの馬も、吊り橋の上にたっした。
とちゅう、吊り橋の縄《なわ》の欄干《らんかん》にひっかかっている男の背《せ》がみえたが、チャグムは、ちらっとみただけで、前にむかってすすむことだけに集中《しゅうちゅう》した。
そろそろ橋をわたりきってしまう。荷を落とさねばならない時期《じき》がせまっているのに、前を走る荷馬《にうま》の速度《そくど》がにぶらない。
「ドホルさん、ホイを!」
チャグムがさけんだ。ドホルはちらっと、チャグムをふりかえったが、そのまますぐに前をむき、馬の速度はゆるめなかった。
その目には、迷いと、ひっしな願《ねが》いの色があった。ドホルがどれほど、その荷《に》をたいせつに思っているのかが胸《むね》にせまってきて、チャグムは、声をうしなった。
おもわず、手綱《たづな》をひいてしまったのだろう。〈タンダ〉が足をゆるめたために、チャグムは一行《いっこう》からすこしおくれるかたちになった。
橋をわたりきる直前《ちょくぜん》、欄干《らんかん》をすかして、はげしくたたかっている騎馬《きば》と人の姿《すがた》がみえた。ひとりが地面《じめん》にたおれ、バルサは、四人の男と対峙《たいじ》している。
(……バルサ!)
冷水《れいすい》をかけられたように、ふいに、あたりがくっきりとみえた。同時《どうじ》に、なにをせねばならないかが、わかった。
チャグムは腹《はら》をくくった。〈タンダ〉のわき腹をけると、たてがみに顔をふせていっきに速度《そくど》をあげ、荷馬《にうま》においついた。そして、剣《けん》をふりおろし、荷をしばっている縄《なわ》をたちきった。
荷が地面に落ちてころがるのをみとどけると、チャグムは剣を鞘《さや》におさめ、バルサの馬に馬をならべて、その手綱《たづな》をにぎった。
盗賊《とうぞく》の頭《かしら》と、大男三人は、バルサとむかいあったまま、動きをとめていた。もうひとりの男が、手もなくバルサにやられたのをみて、うかつにうごけなくなっていたのだ。
背後《はいご》を荷馬《にうま》の群《む》れがかけていく音が、そうぞうしくきこえていたが、バルサはふりかえらなかった。
男たちの目が、一瞬《いっしゅん》、バルサの背後にそれた。その視線《しせん》の動《うご》き方《かた》をみて、バルサは、荷《に》が地面《じめん》に落ちたことを知った。
その瞬間《しゅんかん》、チャグムの声がきこえてきた。
「バルサ!」
それをきくや、バルサは、だっと、いちばん近い大男めがけて突進《とっしん》し、大男がふりおろした刀《かたな》をかいくぐるや、短槍《たんそう》の穂先《ほさき》で大男がのっている馬をかすめた。馬が悲鳴《ひめい》をあげてさおだちになり、あばれはじめるのをみとどけて、バルサは、チャグムのほうへ走った。
チャグムが馬のくつわをひっぱってかけよってくる。
バルサは短槍《たんそう》で地面を突《つ》き、馬のたてがみをつかむや、鞍《くら》にとびのった。そして、手綱《たづな》をぐいっとひくと、盗賊《とうぞく》たちにむきなおった。
つかのま、盗賊たちと、バルサの視線《しせん》がからみあった。
手下《てした》たちが、あちらこちらで大けがをしてうめいている。頭《かしら》の目に迷《まよ》いがうかんでいるのをみて、バルサは、ピシッと短槍《たんそう》で馬の尻《しり》をうつと、盗賊たちに背《せ》をむけた。
追おうとした手下を、盗賊の頭《かしら》は、手で制《せい》してとめた。
「……ばかやろう! けがをしている仲間《なかま》を、たすけるのがさきだろうが。」
そういうと、頭《かしら》は、もうひとりの手下に、顎《あご》をしゃくってみせた。
「おまえは、あの荷《に》をひろってこい。」
荷馬《にうま》とドホルたちの一行《いっこう》は、悪鬼《あっき》に追いたてられているようないきおいで、はるか前方《ぜんぽう》を走っていた。雪道《ゆきみち》を、いつまでもあんな速《はや》さで走っていては、たがいがぶつかりあって、転倒《てんとう》する危険《きけん》がある。
バルサは馬を駆《か》って荷馬の群《む》れのわきにならべると、短槍《たんそう》で荷馬の首のあたりをかるくたたきながら、おちつかせるような声をだし、すこしずつ速度《そくど》をおとさせていった。
荷馬の速度がおちると、それにつられて、人がのっている馬も速度をおとしはじめた。
一行《いっこう》の進《すす》み方《かた》が、ゆるやかになったときには、人も馬も、汗《あせ》をびっしょりかいて、冷《つめ》たい大気《たいき》のなかに、白い湯気《ゆげ》がたちのぼっていた。
護衛士《ごえいし》のゴルが、一行《いっこう》に追いついてきたのは、あたりがうすぐらくなったころだった。その姿《すがた》をみたとたん、息子《むすこ》の顔に、ぱっと笑《え》みがうかんだ。
「親父《おやじ》!」
ゴルも、にこにこしながら息子《むすこ》のそばに馬をよせ、ひろってきた弓《ゆみ》をその手にのせた。そして、ドホルたちに声をかけた。
「もうだいじょうぶだぞ。盗賊《とうぞく》どもは、追ってきてない。」
ドホルと妻《つま》の顔に安堵《あんど》の色がうかび、あわれなほどにふるえはじめた。
「よかった……よかった……。」
妻が、おさない娘《むすめ》を抱《だ》きしめて、なんどもつぶやいた。
バルサは、ゴルのわきに馬をよせた。
「ゴルさん、あんたはすばらしい射手《しゃしゅ》だ。おかげで、命《いのち》びろいしたよ。」
ゴルがまっ赤《か》になって笑《わら》った。
「とんでもねぇ! こっちこそだ。――噂《うわさ》にゃきいていたが、すごい腕《うで》だなぁ、あんたは。おれたちがくめたから、生きて、ウサルをぬけられたんだって、つくづく思ったよ。」
チャグムは、にこにこしながら、バルサとゴルをみていたが、ふと、ドホルが自分をみている視線《しせん》に気づいて、笑《え》みを消《け》した。
そのチャグムのようすに気づいて、バルサは、ドホルをふりかえった。ドホルは、あわてて目をそらして、つぶやいた。
「……たすけてもらって、いうことじゃないかもしらんが……正直《しょうじき》、その若者《わかもの》がやったことが、腹《はら》がたってならん。あの状況《じょうきょう》なら、あのまま逃《に》げても、なんとかなったんじゃないかね。あの荷《に》がなくなったいまは、借金《しゃっきん》をかえすだけで、かつかつだ。利益《りえき》が手もとに残らない。」
チャグムはあおざめた。ドホルの言いぐさには腹《はら》がたったけれど、彼《かれ》の荷《に》を切ってすてたのは自分の判断《はんだん》で、そのせいで彼の家族《かぞく》が苦《くる》しむのは、いやだった。
懐《ふところ》に手を入れたチャグムの腕《うで》を、バルサがおさえた。そして、ドホルにいった。
「たしかに、あんたは、わたしらにあったことで、荷《に》をふたつ損《そん》した。……だけど、わたしらにあったことで、自分と家族《かぞく》の命《いのち》もたすかったことは事実《じじつ》でしょう。このままカンバルへいけるし、利益《りえき》はなくとも、借金《しゃっきん》もかえせる。そう思って、おさまりをつけてくれませんか。」
ドホルは、しぶい顔をしていたが、やがて、うなずいた。
こわばった顔をしているチャグムとならんで、馬をすすめながら、バルサはささやいた。
「荷《に》を切りおとしたことを、まちがっていたと思うかい?」
チャグムは首をふった。それをみて、バルサはほほえんだ。
「ならば、あいつに金をくれてやることはないさ。」
バルサは、チャグムの肩《かた》に手をおいた。
「わたしは、あんたの判断《はんだん》でたすかったんだよ。あそこで荷《に》が落ちてなかったら、頭《かしら》は手下《てした》のてまえ、引くきっかけをつかめなかっただろう。あのまま四人を相手《あいて》にしていたら、わたしだって、無傷《むきず》ではいられなかった。――ありがとうよ。」
バルサは、ゆっくりと首をふりながら、つけくわえた。
「あの状況《じょうきょう》のなかで、わたしの馬をつれてくる判断《はんだん》をするなんて、老練《ろうれん》な護衛士《ごえいし》でもなきゃできることじゃない。……おどろいたよ。」
チャグムは前をむいたまま、にじみでてきた涙《なみだ》をこらえようと、くちびるをかみしめた。
しばらく、だまって、ふたりは馬をすすめた。背後《はいご》で、ゴルたちが松明《たいまつ》をつけている音がして、ぼうっと光がともった。
それをちらっとふりかえってから、チャグムはつぶやいた。
「……あの盗賊《とうぞく》のなかに、刺客《しかく》がまじっていたと思う?」
「いいや。ロタ人の盗賊《とうぞく》だけだった。ひとりの頭《かしら》のもとでうごいている一団《いちだん》だったよ。」
そういってから、バルサはちょっと間《ま》をおき、つぶやくようにいった。
「このあとも、あの一行《いっこう》といっしょにうごけば、すこしは危険《きけん》がへるだろう。」
さっと、チャグムは、バルサをみた。
「彼《かれ》らをまきこみたくない。盗賊《とうぞく》と刺客《しかく》はちがう。刺客は、おれをおそってくるんだ。なんの関係《かんけい》もない彼らが、あぶない目にあういわれはないよ。」
バルサはきびしい表情《ひょうじょう》で前をむいて、だまっていたが、やがて肩《かた》をすくめた。
「……そうだね。」
うす闇《やみ》のなかに、ぼんやりと、小さな建物《たてもの》がみえてきた。タァン(吹雪《ふぶき》よけの小屋《こや》)だ。今夜《こんや》は、ここで泊《と》まることになるだろう。
(いちおう、ゴルと交代《こうたい》で、見張《みは》りをしたほうがいいな。)
そう思ったとき、バルサは、ふっと顔をしかめた。――なにかに、みられているような気がしたのだ。さっとふりかえって、視線《しせん》の主《ぬし》をさがしたが、森はしずまりかえり、あやしいものはみえなかった。
「どうしたの?」
チャグムは剣《けん》の柄《つか》に手をおいて、緊張《きんちょう》した顔でバルサをみた。
バルサは顔をくもらせたまま、背後《はいご》の森をみつめていた。
「なにかが、こっちをみているような気がしたんだ。」
「追手《おって》?」
「いや……。」
ため息《いき》をついて、バルサは首をふった。その、かすかな気配《けはい》は消《き》えてしまって、いまはもう、感じられなかった。
「追手《おって》なら、もうちょっとはっきり気配を感じるだろう。……いこう。わたしの思いちがいかもしれない。」
馬を歩かせはじめたふたりの姿《すがた》が遠くなったとき、大木《たいぼく》の梢《こずえ》にすわっていた小さな獣《けもの》が、木の幹《みき》にふせていた顔をあげた。――猿《さる》だった。みょうに人間くさいまなざしで、その猿は、じっと、バルサたちが去《さ》っていったほうをみつめていた。
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3  待《ま》ち伏《ぶ》せ
夜明《よあ》けにドホルたちの一行《いっこう》とわかれて旅《たび》だったバルサとチャグムは、翌日《よくじつ》の昼すこしまえに、ロタ王国《おうこく》からカンバル王国へぬける国境《こっきょう》の峠《とうげ》にさしかかった。
ゆるやかな曲《ま》がり角《かど》をまがったとき、チャグムは息《いき》をのんだ。
それまで森にかくれてみえなかった景色《けしき》が、ふいに、目の前にひろがったのだ。
ロタの山並《やまな》みよりもはるかに高い、雪におおわれた壮大《そうだい》な山脈《さんみゃく》が、青い空を切りとるように、くっきりとそびえている。
「……母なるユサの山並みだよ。」
バルサが、つぶやいた。
まぶしそうに目をほそめて、チャグムはしばし、その荘厳《そうごん》な風景《ふうけい》にみいっていた。雪《ゆき》の峰々《みねみね》が、あまりにも巨大《きょだい》すぎるせいか、それとも、空の青さと峰の白さのせいなのか、なんだか目がくらくらする。
カンバル――バルサの故郷《ふるさと》だ。
チャグムと目があうと、バルサはほほえんだ。
「さあ、いこうか。」
街道《かいどう》のさきには、二本の黒い塔《とう》がみえた。
ロタ側にもカンバル側にも、それぞれ黒い石でくまれた物見《ものみ》の塔《とう》が立っており、その背後《はいご》に小さな砦《とりで》がある。十人ほどの兵士《へいし》たちが国境警備兵《こっきょうけいびへい》として寝泊《ねと》まりしている砦だった。
街道《かいどう》をはさむように兵士たちが配置《はいち》されていて、国境をとおる旅人《たびびと》たちをみまもっている。
冬のこの時期《じき》、国境《こっきょう》をとおる旅人はまれで、兵士たちは大きなたき火《び》にあたりながら、のんきにカザル(煙草《たばこ》)をくゆらせたりしていた。
ちょうど、カンバル側から、五人ほどの人影《ひとかげ》が国境《こっきょう》を通過《つうか》してくるのがみえた。出稼《でかせ》ぎにいくのだろう。馬にのった、貧《まず》しげな男たちの一団《いちだん》だった。
彼《かれ》らがとおりすぎるのを、兵士《へいし》たちは、ちらっとみただけで、たき火のところからうごこうともしなかった。
やがて、その一団とすれちがったとき、彼《かれ》らのカッル(マント)にしみこんだ煙《けむり》のにおいが、ぷんっと、ただよってきた。自分たちもあんなにおいをさせているのだろうか、と思いながら、チャグムは国境のほうへ顔をもどした。
ロタの兵士《へいし》たちは、国境《こっきょう》をカンバル側《がわ》へでていくバルサたちに、ちらっと視線《しせん》をおくっただけだったが、カンバル側の警備兵《けいびへい》たちは、バルサたちの姿《すがた》に気づくと、たき火《び》のそばからはなれて、ちかづいてきた。
チャグムは鼓動《こどう》がはやくなるのを感じながら、バルサのあとについて、馬をすすめた。四人の警備兵《けいびへい》たちは、バルサがもっているのとよくにた短槍《たんそう》をふりながら、ふたりにとまるように合図《あいず》をした。
「馬をとめろ。頭巾《ずきん》と、シュマをはずして顔をみせろ。」
バルサとチャグムは、いわれたとおり頭巾をうしろにはねのけると、シュマを顔からはずした。チャグムの顔をみた瞬間《しゅんかん》、警備兵《けいびへい》たちの顔に、はっとしたような表情《ひょうじょう》がうかんだ。
チャグムはだまって、警備兵のようすをみまもった。心《しん》ノ《の》臓《ぞう》がいたいほど脈《みゃく》うっている。
警備兵《けいびへい》たちは、ちらっとたがいの顔をみあった。
「なんの検問《けんもん》ですか。」
バルサがたずねると、中年の警備兵がせきばらいをし、おうへいな口調《くちょう》でこたえた。
「盗賊《とうぞく》の一味《いちみ》が、ロタからカンバルへはいってこようとしている、というしらせがあったので、ロタ側からくる者《もの》は、みな、いちおうしらべている。砦《とりで》までこい。荷物《にもつ》をしらべる。」
そういって、中年の警備兵《けいびへい》は、いちばん若《わか》い警備兵をふりかえった。
「おい。このふたりをつれていって、荷物《にもつ》をしらべろ。」
若《わか》い警備兵《けいびへい》につれられて、バルサとチャグムは砦《とりで》の玄関《げんかん》につれていかれた。そこで荷をとかれ、なかをしらべられたが、バルサはなんとなく、彼《かれ》のそぶりに違和感《いわかん》をおぼえていた。
調《しら》べ方《かた》が、あまりにもぞんざいなのだ。ほんとうに、なにかをさがしているというより、しらべろといわれたてまえ、しらべるふりをしているという感じだった。
若《わか》い警備兵《けいびへい》が、手首にかかった袖《そで》をすこしまくったとき、その腕《うで》に、銀製《ぎんせい》の腕輪《うでわ》がはまっているのを、バルサは目にとめた。
荷物《にもつ》をしらべおえると、若い警備兵は顔をあげて、
「よし。いっていいぞ。」
と、いった。
暗い砦《とりで》のなかから外にでると、つかのま目がくらんだ。
外に立っていた警備兵《けいびへい》たちは、だまって、バルサたちに馬をかえしてくれたが、バルサもチャグムも、警備兵がひとり、いなくなっているのに気づいていた。
国境《こっきょう》の砦《とりで》から、かなりはなれたとき、チャグムがささやいた。
「なんだかへんだったね。」
バルサは、あたりの気配《けはい》に気をくはりながら、ひくい声でこたえた。
「あいつらは、だれかに金をもらって、情報《じょうほう》を売っている。」
「え……?」
おどろいたチャグムに、バルサはいった。
「わたしらの荷《に》をしらべた、あの若造《わかぞう》、腕《うで》に銀《ぎん》の腕輪《うでわ》を巻《ま》いていた。――あんなもの、国境警備兵《こっきょうけいびへい》の若造に買えるはずがない。」
チャグムは、きびしい表情《ひょうじょう》になった。
「ひとり警備兵がいなかったのは、だれかに、おれたちのことをしらせにいったということか。」
バルサはうなずいた。
「国境警備兵《こっきょうけいびへい》を見張《みは》りにつかえば、これほどらくで、確実《かくじつ》な待《ま》ち伏《ぶ》せはないだろうね。」
チャグムは、つぶやいた。
「しくんだのは、タルシュの刺客《しかく》だと思う?」
「そう思っておいたほうが、いいだろう。」
チャグムは、顔の傷《きず》が、つきっといたむのを感じた。無言《むごん》でおそいかかってきた刺客《しかく》の刃《やいば》のひらめきを思いだし、胸《むね》の底《そこ》にいやな痛《いた》みがひろがった。
「……どうしたらいい?」
チャグムの問いかけに、バルサはしずかにこたえた。
「砦《とりで》から、わたしらの姿《すがた》がみえなくなるところまできたら、森にはいって馬をおりよう。街道《かいどう》からみえないあたりに馬をつないでおいて、わたしらは木《こ》かげにひそんで街道をみはろう。」
つかのま、チャグムはバルサの顔をみていたが、すぐに目に、理解《りかい》した色がうかんだ。
「そうか。おれたちのことをしらせにいって、もどってくる警備兵《けいびへい》をつかまえるんだね。そいつをしめあげて、どこに待《ま》ち伏《ぶ》せがいるかわかれば、回避《かいひ》できる。」
バルサは、ひくい声でこたえた。
「うまくいけば、ね。」
しかし、街道《かいどう》がゆるやかにまがり、ようやく砦《とりで》が背後《はいご》の森かげにかくれたとき、バルサは、さっと顔色をかえて、馬の手綱《たづな》をひいた。
「チャグム! ふせろ!」
チャグムは、バルサがなにをみたのかわからぬまま、あわてて馬のたてがみに顔をふせた。
その瞬間《しゅんかん》、鞭《むち》を鳴らすような音がひびき、頭上《ずじょう》をなにかがかすっていった。馬が、悲鳴《ひめい》をあげてさおだちになった。チャグムはあっというまにふりおとされ、雪の上にころがった。
バルサは右手に短槍《たんそう》をもって馬からとびおりるや、チャグムを左手でかかえおこし、森の下生《したば》えのなかにとびこんだ。
ピシッ、ピシッと、矢《や》が二本、チャグムがころがったあたりの雪につきささり、ひと呼吸《こきゅう》おいて、ひかるものをもった灰色《はいいろ》の人影《ひとかげ》が、むかい側《がわ》の森のなかから、わきだしてきた。
(……五人!)
バルサは歯《は》をくいしぼった。盗賊《とうぞく》たちとはまるでちがって、走ってくる男たちの身《み》のこなしは、しなやかで、すきがなかった。
「森の奥《おく》へ走れ! うしろをふりかえるんじゃないよ!」
チャグムの耳もとでささやいてから、バルサは短槍《たんそう》をもって男たちの前にとびだした。
男たちは、さっと分散《ぶんさん》した。ふたりがバルサに対峙《たいじ》し、残りは、チャグムを追うために、森へむかおうとしている。
バルサは、目にもとまらぬ速《はや》さで、二度、短槍《たんそう》の穂先《ほさき》で、地をこすりあげた。はねあげられた雪のこおった破片《はへん》は、思いがけぬ鋭《するど》さでとび、バルサと対峙《たいじ》していた男たちの顔から血《ち》しぶきがあがった。
正面《しょうめん》の男たちがたじろいだ瞬間《しゅんかん》、バルサは右にとんで、森にはいろうとしていた男におそいかかった。
バルサの短槍《たんそう》の一撃《いちげき》を、男は身体《からだ》をねじってかわしたが、わき腹《ばら》にわずかにすきができた。
バルサは、突進《とっしん》したいきおいそのままにはねあがり、膝《ひざ》を男のわき腹《ばら》にたたきこんだ。
骨《ほね》が折《お》れる音がして、男の身体《からだ》が地面《じめん》にたたきつけられたときには、バルサは短槍《たんそう》で地面を突《つ》き、身体をささえて男の身体をとびこえ、もうひとりの男のうしろに着地《ちゃくち》していた。
その男の頭に、バルサは短槍《たんそう》をふりおろした。男は短槍をよけながらふりかえり、下から刀《かたな》をつきあげてきた。
バルサは身《み》をねじったが、わき腹《ばら》にやけつくような痛《いた》みを感じた。バルサはしりぞくのではなく、男のほうへ身をのりだし、左わきに刀《かたな》をもった男の肘《ひじ》をかかえこんで、関節《かんせつ》を折《お》った。
バルサが男の腕《うで》をかかえているあいだに、頬《ほお》から血をながした刺客《しかく》が、バルサの背後《はいご》にかけより、鉈《なた》のような刀を、バルサの背《せ》めがけてふりおろした。
チャグムはひっしにかけていた。
逃《に》げきれなかったら、バルサの思いがむだになる。歯《は》をくいしぼって、チャグムは、ただひたすらに雪にうもれた藪《やぶ》をかきわけ、とびこえ、森の奥《おく》へと走りつづけた。
追手《おって》がぐんぐんせまってくるのを背中《せなか》で感じていた。あっというまに距離《きょり》がちぢまっている。あらく息《いき》をはきながら、目の前の藪に手をついて、のりこえようとした瞬間《しゅんかん》、足が藪にひっかかった。
チャグムは、もんどりをうって、藪《やぶ》のむこう側《がわ》にころげおちた。あわてて、身体《からだ》をねじってあおむけになり、起きあがろうとしたとき、顔に刺客《しかく》の影《かげ》がおちた。
チャグムを刺《さ》しころすために刀《かたな》を逆手《さかて》にもちかえ、刺客は刀をふりあげた。チャグムは、手にもっていた剣《けん》で、それをふせごうとしたが、あっさりはじかれてしまった。
刺客《しかく》がふたたび刀をふりあげ、ふりおろそうとした瞬間《しゅんかん》、チャグムははねおきながら身体《からだ》をまるめ、全身《ぜんしん》をぶつけるようにして刺客の足にしがみついた。
刺客《しかく》は、あおむけにたおれたが、刀ははなさなかった。そのままの姿勢《しせい》で、チャグムの背《せ》に刀をふりおろした。
そのとき、だれかが、刺客《しかく》の肘《ひじ》を思いっきりけりとばした。
けられた刺客の腕《うで》がわき腹《ばら》にくいこみ、チャグムはうめいた。つぎの瞬間《しゅんかん》、なまあたたかいものが顔にかかり、チャグムはぎょっとした。
チャグムをかかえたかっこうのまま刺客《しかく》は痙攣《けいれん》し、やがて、その腕が、ぱたん、と地面におちた。
だれかに腕をつかまれて、ひっぱりおこされ、チャグムはあえぎながら、顔にかかった血《ち》をぬぐった。
「……おけがは?」
声の主《ぬし》をみて、チャグムは目をみひらいた。
いつのまにあらわれたのか、よく知っているカシャル〈猟犬《りょうけん》〉の女性《じょせい》が、目の前に立っていた。右目を白い限帯《がんたい》でおおい、血《ち》にまみれた短刀《たんとう》を手にもっている。
「シハナ……。」
チャグムはつぶやき、それから、はっと背後《はいご》をふりかえった。
「バルサ! バルサは……?」
シハナは、ちらっと街道《かいどう》のほうに目をむけ、ひややかな声でいった。
「仲間《なかま》が加勢《かせい》しているから、だいじょうぶでしょう。」
チャグムは、肩《かた》で息《いき》をしながら、街道のほうへふらふらと走りはじめた。シハナは、仲間に合図《あいず》をして、チャグムのあとをついていった。枝《えたせ》をつたってきた小さな猿《さる》が、シハナの肩にとびのって首にしがみついた。
チャグムは、よろけながら街道《かいどう》に足をふみだした。最悪《さいあく》の光景《こうけい》を目にするのではないかと思うと、息《いき》もできなかった。
目にとびこんできたのは複数《ふくすう》の人影《ひとかげ》だった。手に短弓《たんきゅう》をもった男たちが、地面《じめん》にたおれている身体《からだ》をみおろしている。
「バルサ! ……バルサ!」
チャグムはさけびながら、カシャルたちをかきわけた。
膝《ひざ》をついて、自分の右腕《みぎうで》をかかえるようにしていたバルサが、ふりかえった。そしてチャグムの顔をみると、ぎょっとしたように立ちあがった。
「けがをしたのかい? どこを斬《き》られた?」
バルサは、ふるえる手でチャグムの髪《かみ》をかきわけた。
「ちがう、けがなんかしてないよ。これは、刺客《しかく》の血《ち》だよ。」
バルサの手をにぎって、チャグムは、はっとした。
「バルサこそ、けがをしているじゃないか!」
バルサの左手に鮮血《せんけつ》がしたたっている。
「だいじょうぶ。かすり傷《きず》だよ。」
だいじょうぶという顔色ではなかった。チャグムは気づかなかったが、バルサはわき腹《ばら》にも傷をおっていて、かなりの出血《しゅっけつ》をしていたのだ。
チャグムが無事《ぶじ》だとわかったとたん、緊張《きんちょう》の糸が切れたのだろう。バルサは全身《ぜんしん》に冷《ひ》や汗《あせ》がふきだしてくるのを感じていた。目の前の風《ふうけい》景が白い光にうきあがったようにみえる。心《しん》ノ《の》臓《ぞう》がはげしく鳴《な》り、息《いき》ぐるしくなってきた。
チャグムがなにかいっている。その声が遠くからきこえる。ジーンという耳鳴りとともに、バルサは、気をうしなった。
冷《つめ》たいものが顔にあたって、バルサは目をあけた。チャグムの心配《しんぱい》そうな顔がまぢかにあった。バルサの頭を膝《ひざ》の上にのせて、水でひたした布《ぬの》で、顔をぬぐってくれている。
気をうしなっていたのは、みじかい時間だったのだろう。まだ、街道《かいどう》にいて、カシャルにかこまれていた。
「……気がついた?」
チャグムがささやいた。バルサはうなずいて、起きあがろうとした。
「うごいちゃだめだよ。また気をうしなったらこまる。」
そういって、チャグムは早口でつけくわえた。
「この森の奥《おく》に、カシャルたちの野営地《やえいち》があるんだって。いま、即席《そくせき》の担架《たんか》をつくってくれている。もうちょっとがんばって。」
バルサはロもとをゆがめて笑《わら》うと、手でわき腹《ばら》をおさえて身体《からだ》を起こした。
「……担架《たんか》なんぞ、いらない。」
そのとき、声がふってきた。
「くだらない意地《いじ》をはらずに、担架《たんか》をまちなさい。」
バルサをみおろしながら、シハナは、しずかな声でつづけた。
「傷《きず》が悪化《あっか》したら、カンバル王《おう》のもとへいくのがおそくなるでしょう。」
バルサは、だまって、眼帯《がんたい》をしているシハナをみあげていた。
カシャルが加勢《かせい》にあらわれたときから、なんとなく予感《よかん》がしていたので、こうしてその顔をみても、意外《いがい》には思わなかった。
シハナの右目を切りさいたのは、バルサだ。だが、バルサをみるシハナの顔には、なんの感情《かんじょう》もあらわれていなかった。
チャグムにささえられて立ちあがり、バルサは、シハナとカシャルに頭をさげた。
「……あなた方《がた》に、命《いのち》をたすけられた。どうもありがとうございます。」
シハナたちは、かるくうなずき、担架《たんか》をもってきた仲間《なかま》に道をあけた。
バルサが担架によこたわると、カシャルたちはすばやく森の奥《おく》へと移動《いどう》しはじめた。
街道《かいどう》をみまわしたチャグムは、たおれていたはずの刺客《しかく》たちの姿《すがた》が、いつのまにか消《き》えていることに気づいた。カシャルたちがはこんでかくしたにちがいない。その手際《てぎわ》のよさが、チャグムには、うそさむく感じられた。
バルサがたおした刺客《しかく》たちは、うめいていたから、生きていたはずだ。でも、こんなふうに、きれいにかくされてしまったということは……カシャルたちは、彼《かれ》らに、とどめをさしたのだろう。
あの刺客《しかく》たちは、タルシュ帝国《ていこく》の手先《てさき》だった。シハナにとってはロタ王国《おうこく》をおびやかすゆるしがたい敵《てき》だ。だから、排除《はいじょ》したのだ。もう二度とじゃまができないように、完全《かんぜん》に。
前をいくシハナのうしろ姿《すがた》をみながら、チャグムは、腹《はら》から胸《むね》のあたりに、冷《つめ》たいこわばりがひろがるのを感じていた。
チャグムは、カシャル〈猟犬《りょうけん》〉たちにまもられて旅《たび》をしたことがある。南部の大領主《だいりょうしゅ》の城《しろ》から逃がしてくれたトサハ筋《すじ》のカシャルたちは、あたたかみのある、のんきな感じのする人びとだったが、とちゅうから彼《かれ》らにかわってチャグムをイーハン王子の城までみちびいてくれた、このシハナたちは、彼らとはまったく雰囲気《ふんいき》がちがうカシャルだった。
動《うご》きにも、考え方にもむだがない。じつにするどく、頭が切れるけれど、敵《てき》には一片《いっぺん》のなさけもかけない。そんな印象《いんしょう》をあたえる人びとだった。
(ロタ王のために敵《てき》を排除《はいじょ》する、冷徹《れいてつ》な、するどい刃《やいば》だ。)
チャグムは、ふと、〈狩人《かりゅうど》〉たちを思いだした。父である帝《みかど》の命令《めいれい》をうけて、ひそかに暗殺《あんさつ》をおこなう武術《ぶじゅつ》の達人《たつじん》たち。ジンは、チャグムになさけをかけてくれたけれど、彼《かれ》らも、敵《てき》にたいしては一片《いっぺん》のなさけもかけず、冷徹《れいてつ》に殺《ころ》してしまう男たちだ。
ロタ王《おう》も、父も、一国《いっこく》の主《あるじ》である者《もの》たちは、こういう人びとをつかう。――彼《かれ》らがもたらした死《し》を、おのれの目で、みることはない。
チャグムは、まだ刺客《しかく》の返《かえ》り血《ち》がすこしついたままの頬《ほお》を、冷《つめ》たい手でこすった。
身体《からだ》につたわってきた刺客の断末魔《だんまつま》の痙攣《けいれん》を思いだしたとたん、胴《どう》ぶるいがこみあげてきて、チャグムは、がたがたふるえはじめた。とめようとしても、とめられなかった。
つばを飲みこみながら、チャグムはおもわず、かたわらの担架《たんか》に手をのばして、バルサの手をにぎった。バルサは、ふるえているチャグムの手を、ぎゅっと、にぎりかえしてくれた。
かわいたあたたかいその手につつまれると、胴《どう》ぶるいがすこし、おさまってきた。チャグムは、そのまま、ずっと、バルサと手をつないで、歩きつづけた。
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4  イーハンの文《ふみ》
どこまで森の奥《おく》にはいっていくのだろうと、不安《ふあん》になるほど、長いこと、チャグムたちは雪《ゆき》ふかい森のなかを歩きつづけた。
やがて、あたりがうす青い闇《やみ》につつまれはじめたころ、ようやく一行《いっこう》は足をとめたが、はじめ、チャグムは、どこに野営地《やえいち》があるのか、わからなかった。巧妙《こうみょう》にかくされた彼《かれ》らの野営地は、森の一部にしかみえなかったからだ。
岩にかこまれた窪地《くぼち》で、木の枝《えだ》をくみあわせ、その上に雪をかぶせて、彼らは、みごとな雪洞《せつどう》をいくつもつくっていた。
そのひとつにはいっていくと、なかには小さな火がたかれ、毛皮《けがわ》がしきつめられていて、とてもあたたかかった。
担架《たんか》からおろされたバルサがはこびこまれると、火の番をしていた小柄《こがら》な中年の女性《じょせい》が立ちあがって、バルサを炉《ろ》のわきに寝《ね》かせた。
女は顔をあげると、心配《しんぱい》してバルサのわきにかがんでいるチャグムにいった。
「外で、まっていてください。手当《てあ》てがおわったら、声をかけますから。」
チャグムは赤くなって、立ちあがり、いわれるままに外にでた。
外では、男たちが夕食のしたくをはじめていた。
腕《うで》をくんで立っているシハナのところへ、チャグムはちかづいていった。
「礼《れい》をいうのが、おそくなった。――命《いのち》をたすけていただいた。どうもありがとう。」
そういうと、シハナは、笑《え》みをうかべ、かるくうなずいた。
チャグムは、カシャルたちをみまわして、つぶやいた。
「それにしても、なぜ、ここに野営《やえい》を……?」
シハナは、こたえた。
「イーハン王子殿下《おうじでんか》が、わたしたちに命《めい》じたのです。あなたをおまもりし、無事《ぶじ》に国境《こっきょう》をこえさせるようにと。――あなたにおつけした護衛《ごえい》が、斬《き》りころされた死体《したい》でみつかったので。」
チャグムは暗《くら》い表情《ひょうじょう》になった。
「わたしをまもろうとして、タルシュの刺客《しかく》に斬りころされたのです。……バルサがたすけてくれなかったら、わたしも、あそこで殺《ころ》されていた。」
シハナは、うなずいた。
「その刺客《しかく》もみつけました。わたしたちも顔を知っているやつでしたから、なにがおきたか、だいたいの想像《そうぞう》はつきました。
あなたを殺《ころ》したいのなら、方法はふたつ。ひとつは、ウサル渓谷《けいこく》で盗賊《とうぞく》とくんでおそう手。もうひとつは、国境越《こっきょうごえ》えをしたところで、おそう手。
わたしたちは、さきにウサル渓谷をさぐりましたが、盗賊たちが刺客《しかく》とくんでいるようすはなかったので、国境をこえて、ここに野営《やえい》をはったのです。」
チャグムは目をみはった。
(すごいな……。)
まるで、コウル(ヨゴ式《しき》の遊戯盤《ゆうぎばん》)の手を読むように、可能性《かのうせい》を読んでいる。ただ、きいていて、ひとつ気になったことがあった。
「では、盗賊《とうぞく》たちがおそうことも知っていただろう。なぜ……。」
「たすけなかったか?」
チャグムの言葉をひきとって、シハナは、くちびるのはしをゆがめた。
「わたしたちも、ひそんでいましたよ。あの崖《がけ》に。必要《ひつよう》なら、たすけようと思いましたが、必要がなかったので、さきにすすんだのです。」
あの夕方、バルサが視線《しせん》を感じたといったのを、ふいに、チャグムは思いだした。
肩《かた》にすわっている小さな猿《さる》をなでながら、シハナはいった。
「さきにすすませておいた仲間《なかま》が、カンバル国境《こっきょう》の警備兵《けいびへい》が買収《ばいしゅう》されているとつたえてきました。あのタルシュの刺客《しかく》たちは、砦《とりで》のすぐうしろに、小さな野営地《やえいち》をつくってひそんでいたのです。警備兵から、あなたがとおったというしらせをうけるや、間髪《かんぱつ》を入れずにおそえたのは、そういうわけです。わたしたちも、あのそばにひそんでいたのですけど、わずかに後手《ごて》にまわってしまった。それは、あやまらねばなりませんね。」
そのとき、背後《はいご》で女の声がした。
「手当《てあ》てがすみましたよ。もう、おはいりになってかまいません。」
チャグムの表情《ひょうじょう》をみて、シハナは、どうぞいってください、というしぐさをした。
チャグムは身《み》をかがめて、雪洞《せつどう》のなかへはいっていった。バルサは毛皮《けがわ》にくるまれてよこたわって、こちらをみていた。まだ、顔色はわるかったけれど、目には笑《え》みがうかんでいる。
「バルサ、だいじょうぶ?」
チャグムがわきにすわると、バルサはうなずいた。
「心配《しんぱい》をかけたね。だいじょうぶ。ひと晩《ばん》ねむれば、もとどおりになるさ。
この人は腕《うで》のいい治療師《ちりょうし》さんだよ。どっかのだれかと、おなじくらいの腕だと思うよ。」
中年《ちゅうねん》の女性《じょせい》は、眉《まゆ》をひょいっとあげた。
「そのどっかのだれかが、どんな人か知りませんけどね。あんたはまあ、ずいぶんと、いいお得意《とくい》さんだったようですね。……あたしゃ、はじめてみましたよ。こんなに傷《きず》だらけの人。古いの、新しいの、いったいいくつあるんだか。」
バルサとチャグムはおもわず笑《わら》いだした。
「その人は、好《す》きで治療《ちりょう》しているんだから、バルサの懐《ふところ》はいたんでいないと思うよ。」
チャグムが軽口《かるくち》をいったとき、シハナがはいってきた。シハナをみると、治療師《ちりょうし》の女性《じょせい》は、バルサが腹《はら》に巻《ま》いていた血《ち》だらけの縄《なわ》や、血をぬぐった布《ぬの》をもって立ちあがった。
「その縄の……。」
いいかけたバルサの言葉を、治療師《ちりょうし》はひきとった。
「わかってますよ。釣金具《かぎかなぐ》だけはとっておいてくれっていうんでしょう? さっき、ききましたよ。ま、あなたの命をまもってくれた縄《なわ》ですものね。だいじにあつかいましょ。」
明るい口調《くちょう》でそういって、治療師《ちりょうし》は外へでていった。
シハナは、チャグムのそばに腰《こし》をおろしながら、ちらっとバルサと視線《しせん》をあわせた。
シハナとの因縁《いんねん》については、だいたいのところをバルサからきいていたけれど、こうしてふたりがそばにいると、なにかはりつめたものが感じられて、息苦《いきぐる》しいほどだった。
シハナはバルサには声をかけず、チャグムにほそい銀《ぎん》の筒《つつ》をさしだした。
「イーハン王子殿下《おうじでんか》から、チャグム皇太子《こうたいし》殿下へおわたしするようもうしつかりました。なかをおあらためください。」
チャグムは、筒《つつ》の蓋《ふた》をひっぱってはずし、なかの羊皮紙《ようひし》をとりだした。まるまっている羊皮紙をひろげて読みすすむうちに、チャグムは鼓動《こどう》がはやくなるのを感じた。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
――ロタ王《おう》の全権委任《ぜんけんいにん》をうけた、われ、イーハン・ロタは、カンバル王が、ロタ王と同盟《どうめい》をのぞまれるなら、うける意思《いし》があることを、ここに誓《ちか》う。
[#ここから3字下げ、折り返して3字下げ]
また、この件《けん》に関《かん》し、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の皇太子《こうたいし》であるチャグム殿下《でんか》が、同盟の仲立《なかだ》ちをつとめられることに、われ、イーハン・ロタは感謝《かんしゃ》するものである。
ロタ王国《おうこく》とカンバル王国が同盟《どうめい》をむすぷことは、いま、われらの国土《こくど》を侵略《しんりゃく》せんと手をのばしつつあるタルシュ帝国《ていこく》の脅威《きょうい》から、北の大陸《たいりく》をまもるためにもっとも有効《ゆうこう》な手段《しゅだん》である。
英明《えいめい》なるカンバル王は、かならずや、よきご判断《はんだん》をされることと信《しん》ずる。
[#ここで字下げ終わり]
赤い蜜蝋《みつろう》の上にはっきりと押《お》されたロタ王|御璽《ぎょじ》をみつめて、チャグムは、いった。
「この文書《ぶんしょ》があれば、カンバル王《おう》も、わたしの言葉に耳をかたむけてくださるでしょう。」
シハナは、しずかな声で応《おう》じた。
「イーハン殿下《でんか》は、カンバルとの同盟《どうめい》をのぞんでおられます。――ただし、あくまでも、対等《たいとう》の立場《たちば》での同盟ならばの話です。ロタ王国《おうこく》は、カンバル王国に、助《たす》けをこう気もちはございません。どうか、そのことを、おふくみおきください。」
じっと自分をみつめているシハナの目をみながら、チャグムはうなずいた。
ロタは内戦《ないせん》の危機《きき》にある。いま、ロタ側《がわ》から同盟《どうめい》をもうしでれば、ロタ王がカンバル王に援軍《えんぐん》をもとめるというかたちになってしまう。
(……わたしが交渉役《こうしょうやく》になることは、イーハン殿下《でんか》にとっても、意味があるわけだ。)
そう思った瞬間《しゅんかん》、はっと、ある考えが頭にひらめいた。
イーハンにとって自分がたいせつであるならば、以前《いぜん》とはちがった交渉《こうしょう》のしかたができるのではなかろうか。故国《ここく》の民《たみ》を、まだ、たすけられるかもしれぬ、という思いが、心のなかにふくらみ、全身《ぜんしん》にひろがった。
チャグムはすばやく考えをめぐらしながら、シハナにいった。
「わかりました。イーハン王子《おうじ》のお気もちを心において、カンバル王と交渉《こうしょう》しましょう。
ロタ王は、ロタ王国《おうこく》の危機《きき》をすくってほしいから同盟《どうめい》をのぞんでいるわけではない。カンバルもひとしくタルシュ帝国《ていこく》の脅威《きょうい》にさらされているのだから、一刻《いっこく》もはやく同盟をむすぴ、たすけあうことが、たがいをまもることにつながる、と、説得《せっとく》しましょう。」
シハナの目に笑《え》みがうかんだ。すっと一礼《いちれい》して、シハナはいった。
「チャグム殿下《でんか》は英明《えいめい》であらせられる。イーハン殿下も、チャグム殿下であれば、この大役《たいやく》をみごとになしとげてくださるだろうとおっしゃっていました。」
ひかる目でチャグムをみつめて、シハナはつけくわえた。
「北の国ぐには、ひとつの船の上にございます。たがいをたすけあうことこそ、最上《さいじょう》の守《まも》り。カンバル王に、すみやかに同盟《どうめい》をむすばせ、兵《へい》をロタへおくってくだされば、ロタ王国《おうこく》は一兵《いっぺい》もうしなうことなく、平穏《へいおん》を得《え》られるでしょう。」
チャグムはうなずいてから、つよい光をうかべた目で、シハナをみつめた。
「わたしは、ロタのために一命《いちめい》を賭《と》してもこの大役《たいやく》をなしとげてみせる。……そのかわり、わたしがこれをなしとげたあかつきには、この同盟《どうめい》に、わが国もくわえてほしい。」
シシナは、まばたきもせずにこたえた。
「それは、わたくしがおこたえできることではありません。」
チャグムは首をふった。
「いま、こたえよとはいわぬ。わたしのこの願《ねが》いを、一刻《いっこく》もはやく、イーハン王子殿下《おうじでんか》のもとへつたえよ。そして、返答《へんとう》をわたしにつたえよ。イーハン殿下《でんか》が応《おう》じられたら、わたしはカンバル王の王城《おうじょう》の門《もん》をくぐろう。」
シハナの目が、冷《つめ》たくひかった。
「カンバル王との会合《かいごう》がおくれれば、なんの意味もございません。そのような時間は……。」
その言葉をチャグムはさえぎった。
「あるはずだ。そなたらは、獣《けもの》をつかって、すばやく意《い》をつたえられるときいている。ロタをすくいたくば、今夜《こんや》にも、獣を走らせるがいい。」
チャグムは、一歩《いっぽ》もひかぬかくごでいいつのった。
「わたしが同盟《どうめい》の仲立《なかだ》ちをすることで、ロタ王《おう》は、対等《たいとう》の立場《たちば》という体裁《ていさい》をたもったままでカンバル王との同盟をむすべる。わたしは命《いのち》をかけて、あなた方《がた》に利《り》のある行動《こうどう》をするのだ。
イーハン王子《おうじ》が信《しん》にたる男であるのなら、わたしの願《ねが》いをききとどけるはずだ。」
シハナは、小さく首をふった。
「それは、イーハン殿下《でんか》の問題《もんだい》ではございません。失礼《しつれい》ながら、あなたさまのお立場《たちば》が問題なのです。」
チャグムは、顔をこわばらせた。
シハナは、ひくい声でつづけた。
「あなたさまは、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を代表《だいひょう》されるお立場《たちば》にない。……父君を弑《し》さぬかぎり。」
冷《つめ》たいものが腹《はら》のなかへおりていくのを、チャグムは感じた。
なにか、いわねばならない。いいかえさねばならない。そう思うのに、声がでなかった。
そのとき、うしろから声がきこえてきた。
「その必要《ひつよう》が生《しょう》じたら、だれかが殺《ころ》すさ。」
はっと、チャグムはバルサをふりかえった。バルサは、じっとシハナをみつめていた。
「新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》は滅《ほろ》びの縁《ふち》にいる。その縁からたすかる道をチャグムがしめせば、チャグムが手をくださずとも、まわりがやるだろうよ。」
バルサは、きつい口調《くちょう》で言葉《ことば》をついだ。
「だけど、これは、あんたが問《と》うべき話でも、ことわる話でもないだろう。チャグムと同盟《どうめい》をむすぶかどうか判断《はんだん》するのは、あんたじゃない。」
バルサとシハナは、じっと、にらみあった。
シハナが立ちあがった。そして、チャグムをみて、いった。
「イーハン殿下《でんか》に、あなたさまのご意思《いし》をおつたえしましょう。あなたさまが、王城《おうじょう》へおつきになるまえに、答えをもってもどれるよう、いますぐに伝令《でんれい》をたたせます。」
頭をかがめてでていきかけて、シハナは、おさえきれぬ衝動《しょうどう》にかられたように、さっとふりかえった。そして、つきさすような目でバルサをにらみつけた。シハナはなにもいわず、ただこおりつくような目でバルサをみていたが、やがて、くるりと背《せ》をむけて、でていった。シハナが去《さ》ったあとも、火花《ひばな》がはじけているようなあらあらしい気配《けはい》が残《のこ》った。
チャグムは羊皮紙《ようひし》をまいて筒《つつ》におさめながら、バルサと顔をみあわせた。バルサは、苦笑《くしょう》をうかべた。
「……捨《す》てぜりふがわりに、にらんでいったね。彼女《かのじょ》は、わたしをいまでも殺《ころ》したいくらいにくんでいるわけさ。わたしがじゃまをしなければ、イーハン王子《おうじ》は、タルハマヤの力をその手に得《え》ていたはずだと思って、はらわたがにえくりかえる思いなんだろう。」
チャグムは眉根《まゆね》をよせた。
「タルハマヤって、まえに話してくれた、ナユグのおそろしい神《かみ》のことだね。」
「そう。血《ち》に飢《う》えた、おそろしい神だよ。――だけど、あの女が思っているとおり、タルハマヤの力が自在《じざい》につかえるなら、タルシュ帝国《ていこく》がどれほど兵《へい》をだそうとみな殺《ごろ》しにできるだろう。」
チャグムをみつめて、バルサは、いった。
「あんたは、ほしいかい? そういう力を。」
チャグムはしばらくだまって、バルサをみていた。それから、ぽつん、といった。
「よく、思うんだ。――からみついているにごったものを、いっぺんで切りはらえる力があったら、どんなにらくだろうって。」
ぎゅっと顔をゆがめて、チャグムはいった。
「だけど、そういう力をふるったあとを、みるのはいやだ。おれが殺《ころ》したサンガル兵《へい》やタルシュ兵の死体《したい》がちらばる原《はら》をみるなんて、いやだよ。」
うちの娘《むすめ》は美人《びじん》で……と、笑《わら》っていたロタ兵《へい》の笑顔《えがお》が、ふいに、目にうかんできた。自分をまもるために、斬《き》りころされてしまった彼《かれ》。自分を殺そうとして、殺された刺客《しかく》たち。断末魔《だんまつま》のあの痙攣《けいれん》……。
これで、おわりではない。それどころか、これからはもっと、もっと、多くの人が死《し》ぬだろう。自分が歩んでいくさきで。
(それを考えてはいけない。――このまますすまねば、新《しん》ヨゴはすくえないのだから。)
ロタとカンバルとの同盟《どうめい》に新ヨゴもくわえることができれば、タルシュ軍《ぐん》をむかえうつ軍勢《ぐんぜい》を得《え》ることができる。その軍勢をひきいて新ヨゴへ帰還《きかん》することが、たったひとつ残された、故国《ここく》をすくう道なのだから。
(だけど………。)
ずっと心の底《そこ》におしかくしていたものが、暗《くら》い、その底の闇《やみ》から頭をもたげていた。それをみてはいけないと、思いつづけてきたのに。
チャグムは、ふるえながら息《いき》をすいこんだ。
自分がえらんだ道はまちがっていない――これが北の大陸《たいりく》のためにはもっともよい道なのだと思いたかった。けれど、ほんとうは……心の底《そこ》では、そうなのだろうか、という迷《まよ》いがある。自分がこの道をえらんだために、もうすでに何人《なんにん》もの人の命《いのち》をうばってしまった。これからさきは、もっと多くの人が死《し》ぬことになる……。
同盟《どうめい》が成功《せいこう》したら、自分は、カンバルやロタの兵士《へいし》たちを、新《しん》ヨゴヘみちびいていくことになるのだから。
(異国《いこく》の兵《へい》たちに、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》のためにたたかえ……と、敵《てき》の矢《や》に、剣《つるぎ》に、その身《み》をさらせと、命《めい》じるんだ……。)
そして、その戦《いくさ》のさきに、父とむかいあわねばならない日がくる。
チャグムは片手《かたて》で顔をおおった。こみあげてきた思いをのみこんで、おさえようとしたけれど、どうしても、おさえられなかった。
チャグムは胸《むね》をかかえこむように背《せ》をまるめ、バルサの肩《かた》に顔をうずめた。そして、くぐもった声で、つぶやいた。
「……父上を殺《ころ》さねばならないなら、」
涙《なみだ》が、バルサの衣《ころも》の襟《えり》にしみこんだ。
「そのときは、人になど、たのまない。」
バルサは、うごくほうの手でチャグムの頭を抱《だ》き、ぐっと力をこめた。くぐもった、チャグムの鳴咽《おえつ》が身体《からだ》にしみこんでくるようだった。
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5  故郷《ふるさと》のしらべ
翌朝《よくあさ》、チャグムとバルサが目をさましたときには、野営地《やえいち》の雪洞《せつどう》は、たったふたつになっていた。夜明《よあ》けをまたずに、ほとんどのカシャル〈猟犬《りょうけん》〉がどこかへ旅《たび》だってしまっていたのだ。シハナの姿《すがた》もなかった。
あの治療師《ちりょうし》の女性《じょせい》が、蜂蜜《はちみつ》をたっぷりつけたバム(無発酵《むはっこう》のパン)と、湯気《ゆげ》のたっているラカール(乳酒《ちちざけ》)の朝食をもってきてくれた。
ほかのカシャルたちは、どうしたのかとたずねると、彼女《かのじょ》は明るい声でこたえた。
「南部の動きが気になりますからね、ロタにもどりました。あなたさまの伝言《でんごん》は発《はっ》したし、わたしらを残していくから、安心《あんしん》してください、と、頭《かしら》からもうしつかっています。」
そういって、自分のラカールをひとくち飲《の》み、彼女は、ほほえんだ。
「そうそう、いいわすれてましたけど、わたしはチカリともうします。
わたしらがかげからあなた方《がた》を援護《えんご》しますから、あなた方は、おふたりで街道《かいどう》をすすんでください。わたしらは、ほら、街道はつかわないし、ロタ人とヨゴ人とカンバル人がいっしょになって旅《たび》していたら、カンバルみたいな国じゃめだってしかたがないものねえ。」
それをきいて、バルサは苦笑《くしょう》した。
カンバルは、小さな氏族領《しぞくりょう》がよりあっまってできている国だ。人の数もすくないし、旅人《たびびと》もそう多くはない。王都《おうと》をのぞけば、大きな街《まち》はほとんどなく、ラッサルとよばれる市場《いちば》を中心にした宿場町《しゅくばまち》のようなものが、街道《かいどう》ぞいに点在《てんざい》しているだけだった。
氏族《しぞく》は、ひとつの大きな家族《かぞく》のようなものだから、外からやってくる者《もの》にたいする警戒心《けいかいしん》が、とてもつよい。べつに悪気《わるぎ》はないのだが、ラッサルに店をだしている商人《しょうにん》たちも宿場《しゅくば》の主人《しゅじん》たちも、いわば旅人の監視人《かんしにん》のようなもので、ラッサルにいるあいだは、つねに彼《かれ》らの目がついてまわる。そして、噂《うわさ》は、馬よりはやくつたわっていくのだ。
「王都《おうと》までは、どのくらいでいけるの?」
チャグムがたずねた。
「ここはムガ氏族領《しぞくりょう》で、王《おう》の氏族領の西隣《にしどなり》だよ。王都までそれほどの距離《きょり》じゃないけど、山道だからね。吹雪《ふぶき》にあうこともあるだろうし。まあ、七日《なのか》ぐらいはかかると思っていたほうがいい。新年をむかえるまでに、着《つ》けるだろう。」
治療師《ちりようし》は目をむいた。
「あんた、まあ、その傷《きず》で、今日《きょう》たつつもりでいるのかね!」
バルサは、ほほえんだ。
「皮膚《ひふ》を切られただけですから。……痛《いた》いでしょうけどね。」
カシャルだって、そんなむちゃはしない、と、ぶつぶついいながらも、治療師《ちりょうし》の女性《じょせい》は、バルサに薬《くすり》をあたえ、腹《はら》にきっちりと布をまくと、旅《たび》のしたくをととのえてくれた。
カシャルたちは、チャグムたちの馬をつれもどしてくれていた。彼《かれ》らにまたがって、街道《かいどう》へでたときには、そばにいたはずのカシャルの姿《すがた》は煙《けむり》のように消《き》えていた。
ふたりが、ムガ氏族領《しぞくりよう》でもっとも大きなラッサル(市場《いちば》)に着《つ》いたのは、もう日が暮《く》れはじめるころだった。
けわしい上《のぼ》り坂《ざか》をのぼりつづけて峠《とうげ》にでたとき、チャグムは、おもわず歓声《かんせい》をあげた。
「うわー。」
そそりたつ雪《ゆき》の峰《みね》に西日があたり、山々が、赤みがかった、やわらかな桃色《ももいろ》にそまっている。夕暮《ゆうぐ》れの光のなかで、それは、息《いき》をのむほどにうつくしい光景《こうけい》だった。
「アラム・ライ・ラ。」
バルサがつぶやいた。
[#挿絵(img/02_091.png)入る]
「え?」
チャグムが問《と》いかえすと、バルサはほほえんだ。
「ヨンサ方言《ほうげん》のカンバル語で、山が頬《ほお》をそめている……って、いったんだよ。母なるユサの山々は、お日さまに恋《こい》をしているんだとさ。いとしいお日さまが、眠《ねむ》りにつくまえに、ああして頬をなでると、山は頬をそめる。――千年も、万年も、年をとった老女《ろうじょ》でもね。」
チャグムは、笑顔《えがお》になった。
「タンダがなでたら、バルサも頬《ほお》をそめるの?」
からかってから、チャグムは、バルサの手のとどかない場所にすばやく逃《に》げた。
笑《わら》いながら峠《とうげ》の下をみおろして、チャグムは目をまるくした。
「……まさか、あれ? この氏族領《しぞくりょう》で最大《さいだい》のラッサル(市場《いちば》)って。」
バルサは、苦笑《くしょう》した。
「そうだよ。そんな顔をしないでおくれ。カンバルでは、あれでも、大きいほうなんだから。」
山の懐《ふところ》に抱《だ》かれているような谷間《たにま》に、低い外郭《がいかく》にかこまれて数十《すうじゅう》の石組《いしぐ》みの建物《たてもの》や、天幕《てんまく》のようなものがたっている。大きな市場《いちば》というには、ほどとおい光景《こうけい》だった。
「あっちをみてごらん。」
バルサがゆびさしたところは、ラッサルよりやや高い位置《いち》にある建物《たてもの》の群《む》れだった。こちらも、低い外郭《がいかく》にかこまれている。その外側《そとがわ》には、いくつも囲《かこ》いがあり、小さな小屋《こや》がびっしりとたちならんでいた。
「あれが(郷《さと》)だよ。人が住んでいる、村のようなところさ。外郭《がいかく》の外側にあるのは、ヤギの囲いで、そのそばにたっている家は、牧童《ぼくどう》たちの家だ。」
チャグムは、しげしげと、その貧《まず》しげな小屋《こや》をながめた。
「牧童《ぼくどう》?」
「カンバル人より、ずっと背《せ》の低い人たちだよ。おとなでも、わたしらの腹《はら》のあたりまでくらいの背しかない。でも、山のことならなんでも知っている人たちでね。口笛《くちぶえ》で会話ができるんだよ。」
牧童《ぼくどう》たちの真《しん》の姿《すがた》をバルサはよく知っていたけれど、それは、たとえチャグムにでも、かるがるしく話せることではなかった。
ユサの山の底《そこ》に、蜘蛛《くも》の巣《す》のようにひろがる闇《やみ》の世界《せかい》も、そこを統《す》べる〈山の王《おう》〉のことも。
ふたりは、夕日がしずんでいくのと競争《きょうそう》するように、坂道《さかみち》をくだっていった。
ラッサルにたどりついたときには、露店《ろてん》は商品《しょうひん》をしまって天幕《てんまく》をたたんでしまっていた。
ほとんど人通《ひとどお》りもなく、店《みせ》じまいをして家にかえろうとしていた商人《しょうにん》たちが、顔をあげて、馬をすすめていくふたりをじっとながめた。
新《しん》ヨゴでもロタでも、このくらいの時刻になれば店は軒先《のきさき》にあかりをともす。しかし、このラッサルでは、あかりをともしている店はほとんどなかった。
店の間の通りをすすんでいくと、ようやく一|軒《けん》、あかりをともしている建物《たてもの》があった。看板《かんばん》をみて、バルサはチャグムにささやいた。
「宿屋《やどや》だよ。今夜《こんや》は、ここで泊めてもらおう。」
宿屋のわきにある馬小屋《うまごや》に馬をつれていくと、外でたき火《び》をしていた若者《わかもの》が、むっつりと無言《むごん》で、馬の手綱《たづな》をうけとった。
正面《しょうめん》の玄関《げんかん》にまわると、ぶあつい扉《とびら》のむこうから、かすかに笛《ふえ》の音がきこえてきた。笛がかなでている調《しら》べを耳にしたとたん、チャグムは、おどろいて、足をとめた。
それは、ヨゴの調べだった。故郷《ふるさと》の宮《みや》で、楽師《がくし》たちが演奏《えんそう》をはじめるときに、かならずかなでる曲《きょく》だった。
こんな異郷《いきょう》で耳にするとは思ってもいなかった調《しら》べをきいて、チャグムは、ぼうぜんと、扉《とびら》の前でたちつくしてしまった。
バルサは、扉に手をかけると、ゆっくりと押《お》しあけた。
暖炉《だんろ》の炎《ほのお》のやわらかなあかりと、料理《りょうり》のにおいとともに、笛《ふえ》の調べがふわっと身体《からだ》をつつんだ。玄関《げんかん》の土間《どま》のむこうは、すぐに食堂《しょくどう》になっていて、壁《かべ》にすえつけられた暖炉には赤々と火が燃《も》え、大きな黒い鍋《なべ》がかかっている。その暖炉をかこむようにおかれた椅子《いす》に、宿泊客《しゅくはくきゃく》らしき男女が三人、腰《こし》をおろしていた。
笛《ふえ》をふいているのは四十をすこしでたくらいの女性《じょせい》だった。彼女《かのじょ》と、笛に耳をかたむけている人びとの顔をみて、チャグムは目をみひらいた。――彼《かれ》らはみな、ヨゴ人だったのだ。
チャグムたちがはいってきたのに気づいて、笛の音がとぎれ、彼らはいっせいに、こちらをみた。そして、チャグムの顔をみると、びっくりしたように腰《こし》をうかした。
「おやまあ! 同郷人《どうきょうじん》じゃないかね。」
髭面《ひげづら》の男が明るい声でいった。
「さあ、はいった、はいった。寒《さむ》かっただろう。はやく、火のそばにおいで。」
右側《みぎがわ》の扉《とびら》があいて、厨房《ちゅうぼう》から、背《せ》の高いカンバル女性《じょせい》があらわれた。そして、バルサたちに気づくと、こまったような笑顔《えがお》をうかべた。
「またヨゴ人のお客《きゃく》かね。噂《うわさ》がひろまると、こうやって、同郷《どうきょう》の人ばっかりがあつまってくるんだよね。どこできいたの? オラムのお店《みせ》?」
こわばった顔でたちつくしているチャグムの肩《かた》に手をおいて、バルサがこたえた。
「いや、偶然《ぐうぜん》です。日が暮《く》れてからこのラッサルに着《つ》いたので、目についた最初《さいしょ》のお宿《やど》がここだったというだけで。」
みんなが、へえ、という顔をした。さっき声をかけてきた髭面《ひげづら》の男が陽気《ようき》な声でいった。
「そいつは幸運《こううん》な偶然《ぐうぜん》だったね、若《わか》い衆《しゅう》。ちょうどいま、故郷《ふるさと》をしのぶ夕《ゆう》べってのを、たのしんでいたところだ。彼女《かのじょ》の笛《ふえ》と、この料理《りょうり》とでね。」
髭面《ひげづら》の男の手招《てまね》きにさそわれるまま、チャグムは長靴《ちょうか》の泥《どろ》を落としてから、暖炉《だんろ》のそばにいった。男が黒い大鍋《おおなべ》の蓋《ふた》をとると、ふわっと、よいにおいがたちのぼった。
チャグムは、おもわず歓声《かんせい》をあげた。
「うわぁ……スチャル(鳥と野菜《やさい》の鍋物《なべもの》)だ!」
チャグムのよろこびようをみて、ヨゴ人たちはみな笑顔《えがお》になった。
「やっぱり、あんたもヨゴ料理《りょうり》に飢《う》えていたんだね。大きな声じゃいえないが、ヤギの乳《ちち》のにおいから、ちょっとはなれたい日もあるものなぁ。」
髭面《ひげづら》の男がヨゴ語《ご》でいうと、宿《やど》の主人《しゅじん》らしいカンバル女性《じょせい》が鼻《はな》をならした。
「なにをいってるのか、だいたい見当《けんとう》がつくよ。どうせ、カンバル料理《りょうり》の悪口《わるくち》だろう。」
そういってから、バルサをみて、彼女《かのじょ》は肩《かた》をすくめてみせた。
「まあ、この人は料理人だったとかで、自分で材料《ざいりょう》を買《か》ってきては、こうやって料理して、みんなに食べさせているんでね、わたしらはらくでいいよ。」
問《と》いもしないのに、彼《かれ》らはつぎつぎに自己紹介《じこしょうかい》をした。髭面《ひげづら》の男は新《しん》ヨゴの光扇京《こうせんきょう》で屋台料理《やたいりょうり》の商《あきな》いをしていた料理人《りょうりにん》、笛《ふえ》をふいていた女性《じょせい》は旅芸人《たびげいにん》で、そのわきにすわっている細身《ほそみ》の男性《だんせい》はその夫《おっと》で、やはり旅芸人だった。
「みんな、例《れい》の鎖国令《さこくれい》がでたとき、運《うん》わるくカンバルにいたわけだよ。」
と、髭面《ひげづら》の料理人はいった。
「彼女《かのじょ》らは、王都《おうと》の祝祭日《しゅくさいじつ》に芸《げい》を披露《ひろう》しようとカンバルにきていたそうだ。おれの場合《ばあい》は、初孫《はつまご》の顔をみにきていてさ。」
「初孫?」
おどろいてチャグムが問うと、男は、肩《かた》をすくめた。
「出稼《でかせ》ぎにきていたカンバル人の男と、おれの娘《むすめ》ができちまってね。やめろっていったんだが、娘は家をおんでて、このムガ氏族《しぞく》の男といっしょになっちまった。息子《むすこ》がうまれたっていう便《たよ》りがきたんで、初孫《はつまご》の顔をみにきてよ、かえろうと思ったら……。」
胸《むね》の前で腕《うで》を交差《こうさ》させて、男は苦笑《くしょう》してみせた。
「最初《さいしょ》は娘《むすめ》をつれていった野郎《やろう》ってな感じで、婿《むこ》をいびってたんだが、いまは小さくなって婿の家に居候《いそうろう》している身《み》さ。でも、婿の家もゆたかじゃないしよ、いつまでも食《く》わせてもらっているわけにもいかないからな、この宿《やど》で料理《りょうり》のてつだいをさせてもらっているのさ。」
旅芸人《たびげいにん》の夫婦《ふうふ》もうなずいた。そして、流暢《りゅうちょう》なカンバル語でいった。
「わたしらもね、この宿《やど》の掃除《そうじ》やら洗濯《せんたく》やらてつだって、糸つむぎをさせてもらったりして、なんとかくらしているのよ。まあ、芸《げい》を売るなら王都《おうと》のほうがいいのだけど、あそこには鎖国《さこく》でかえれなくなったヨゴ人がたくさんあつまっているんで、ほかにも旅芸人《たびげいにん》がいてね、なにかと気苦労《きぐろう》がおおかったから。それに、このラッサルの人たちは、みんなやさしいの。冬をこすには、いいところよ。」
宿《やど》の女主人《おんなしゅじん》は、ちょっと眉《まゆ》をあげた。皮肉《ひにく》な笑《え》みをよそおっていたが、そのよそおいの下に、素朴《そぼく》な人のよさがすけてみえていた。彼女《かのじょ》はため息《いき》をつくようにいった。
「わたしらも余裕《よゆう》のない暮《く》らしだけどさ、この人たちも、かわいそうだもんねぇ。いきなり自分の国からしめだされちゃってさ。ひどいことをするもんだよ、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の王さまも。」
チャグムは顔をこわばらせて、その言葉をきいていた。
髭面《ひげづら》の男がロをはさんだ。そして、へたくそだが、なんとかつうじるカンバル語《ご》で、いった。
「王《おう》さまじゃない、帝《みかど》さまだ。この国の王さまみたいに武人《ぶじん》じゃないんだ。天《てん》ノ《の》神《かみ》の血《ち》をひいておられる神聖《しんせい》なお方《かた》だよ。」
真顔《まがお》になって、男はいった。
「おれはこう思っているんだよ。おれみたいなもんが、帝《みかど》さまのお心をわかるはずもないが、ほら、タルシュ帝国《ていこく》の軍勢《ぐんぜい》が攻《せ》めてくるってんだろう? だから、国の外にいる者《もの》は、戦禍《せんか》にのまれないよう、そこで生きさせよって、おっしゃられたんじゃないかな。
でなけりや、天子《てんし》さまが、こんなことは、なさるまい。」
チャグムのくちびるがふるえているのをみて、バルサは、チャグムの肩《かた》に手をおき、そっと力をこめた。そして、髭面《ひげづら》の男の話をやわらかくさえぎった。
「わたしも、そう思いますよ。……ところで、その鍋《なべ》、ずいぶん煮《に》えているようだけど、だいじょうぶですか。」
髭面《ひげづら》の男は、あわてて鍋をみた。
「お、いけねぇ!」
彼《かれ》が鍋《なべ》を火からおろしているあいだに、旅芸人《たびげいにん》の夫婦《ふうふ》がバルサにたずねた。
「あなた方《がた》は? どこからきて、どこへいかれるの?」
バルサはおちついて、カンバル語《ご》でこたえた。
「わたしらは、ロタからきました。わたしは護衛士《ごえいし》をしているんですが、この子の父親は毛皮商人《けがわしょうにん》でね、彼《かれ》の隊商《たいしょう》にやとわれてなんどかいっしょに旅《たび》をしていたのですよ。
でも、運《うん》わるく、べつの護衛士《ごえいし》がついているときに、隊商《たいしょう》が盗賊《とうぞく》におそわれて、彼の父親は殺《ころ》されてしまったんです。」
みんな、驚《おどろ》きと、同情《どうじょう》の色をうかべてチャグムをみた。
「じゃあ、その顔の傷《きず》は……。」
髭面《ひげづら》の男がいい、バルサがうなずいた。
「そう。盗賊《とうぞく》に斬《き》られましてね。さいわい、それほど深《ふか》い傷《きず》じゃないので、もうそろそろ当《あ》て布《ぬの》をとってもいいのですが。ともかく、わたしは彼《かれ》をよく知っていたので、ひきとることにしたのです。りっばにひとりだちできる年ですけどね、護衛士《ごえいし》になりたいなら、教えてやれることが、たくさんあるので。」
宿《やど》の女主人《おんなしゅじん》が、興味《きょうみ》しんしんという顔できいた。
「それで、どうしてカンバルへ?」
「わたしはヨンサ氏族《しぞく》の者《もの》でね、叔母《おば》の調子《ちょうし》がわるいと便《たよ》りがきたもので、冬のあいだだけでもかえってやろうと思いましてね。叔母はひとり暮《ぐ》らしなので。」
女主人は、眉《まゆ》をはねあげた。
「ひとり暮《ぐ》らし? そんな人、いるかね。親戚《しんせき》がいるだろうに。」
バルサはほほえんだ。
「変《か》わり者《もの》なんですよ、うちの叔母《おば》は。」
宿《やど》の女主人《おんなしゅじん》は、なるほど、という顔をして、バルサの短槍《たんそう》をみた。
「失礼《しつれい》だけど、あんたも相当《そうとう》な変《か》わり者《もの》だものねぇ。武人階級《ぶじんかいきゅう》の男みたいに短槍《たんそう》をもってさ、護衛士《ごえいし》だなんて。」
バルサは苦笑《くしょう》した。
「ともかく、そういうことで、ひと晩《ばん》だけ泊《と》めてください。明日《あす》の朝は、早発《はやだ》ちします。」
「はいよ。まだ、すこしはお天気がつづきそうだから、たつなら早いほうがいいだろうね。」
髭面《ひげづら》の男が食卓《しょくたく》のまんなかに鍋《なべ》をおき、みんなの椀《わん》に、湯気《ゆげ》のたつスチャル(鳥と野菜《やさい》の鍋物《なべもの》)をとりわけた。皿《さら》にバム(無発酵《むはっこう》のパン)をおきながら、
「ほんとは、米《こめ》の飯《めし》にこいつをかけて食べると、最高《さいこう》なんだがなぁ。ついでに、卵《たまご》を割《わ》りおとして、半熟《はんじゅく》のやつを……。」
「ああ、いわないで!」
旅芸人《たびげいにん》の女性《じょせい》が手をあげてさえぎり、彼《かれ》らは、爆笑《ばくしょう》した。
まるでかなしみをよせつけまいとするように、自分たちの境遇《きょうぐう》を笑《わら》い話《ばなし》にしながらも、彼《かれ》らの顔には、かくしきれぬさびしさと、不安《ふあん》のかげがあるのを、チャグムはみていた。
これからどうなるのか、もう二度と、故郷《ふるさと》をみることはできないのか……彼らの言葉の底《そこ》には、その思いが、こだましていた。
小さな部屋《へや》でふたりきりになったとき、チャグムは、ぽつん、と、つぶやいた。
「ああいうヨゴ人たちが、カンバルにも、ロタにも、たくさんいるのだろうな。」
バルサは炉《ろ》に火を入れながら、いった。
「いるだろうね。だけど、あの料理人《りょうりにん》の言葉じゃないけど、戦禍《せんか》にのまれずくらせるなら、かならずしも不幸《ふこう》ってわけじゃないよ。人がくらせる場所は、新《しん》ヨゴだけじゃない。」
ぶっきらぼうなその言葉に、思わずチャグムは反論《はんろん》した。
「でも、故郷《ふるさと》にかえりたいって気もちは……どうしようもないものだよ。二度と、あの山河《さんが》を、なつかしい家族《かぞく》の顔をみられない……一生《いっしょう》、ほっかりと炊《た》いた米《こめ》のご飯《はん》を食べられないと思ったら……。」
バルサはゆっくり立ちあがり、寝台《しんだい》に腰《こし》をおろした。
「チャグム、そいつは、あんたのせいじゃない。」
しずかに、バルサはつづけた。
「皇太子《こうたいし》として責任《せきにん》を感じてしまう気もちはわかるよ。……でも、これは、あんたには、どうしようもなかったことだ。タルシュ帝国《ていこく》が攻《せ》めてくる気になったのも、サンガルがねがえったのも、自国《じこく》の民《たみ》を異国《いこく》にとりのこしたまま、新《しん》ヨゴが鎖国《さこく》をしたのも。」
暗《くら》い目をして、チャグムはうつむいていた。
「それを、わすれちゃいけない。……あんたは自分をせめすぎる。ものすごく高いところを夢《ゆめ》みて、そこへとどかないと、自分をせめている。
でもね、なにもかもを背負《せお》える人なんて、この世《よ》にはいないし、だれも傷《きず》つけず、だれにとっても幸福《こうふく》な解決《かいけつ》なんてものも、きっと、この世には、ありはしないんだよ。」
チャグムはだまってうつむいていたが、やがて、顔をあげると、涙《なみだ》がたまった目でバルサをみた。
「……でも、おれは……そういう解決を、したいんだ。」
そして、ぷいっと顔をそむけると、上衣《うわぎ》をぬいで寝具《しんぐ》の下にもぐりこんでしまった。
炉《ろ》の炎《ほのお》がゆらめくたびに、うすぐらい部屋《へや》のなかに影《かげ》がおどる。バルサは、長いこと、その影の踊《おど》りをみつめていた。
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6  内通者《ないつうしゃ》の正体《しょうたい》
天の機嫌《きげん》がよいのか、冬のカンバルにはめずらしく、よく晴れた日がつづいた。
バルサとチャグムが王都《おうと》にはいったのは、国境《こっきょう》をこえて、十日目《とおかめ》の夕方《ゆうがた》だった。
王都は、新しい年をむかえたよろこびにつつまれていた。
笛《ふえ》の音がひびき、おさない子どもたちが、肩《かた》からつるしてもらった小さなヤギ革《かわ》の太鼓《たいこ》をさかんにペンペンたたきながら、通りから通りへとかけまわっている。
商店《しょうてん》は屋根《やね》にカンバル十|氏族《しぞく》の氏族|旗《き》を立て、冬晴《ふゆば》れの空に、たくさんの旗《はた》がはためいていた。
さすがに、王都《おうと》は、氏族領《しぞくりょう》のラッサルとはくらべものにならぬ大きな街《まち》で、がっしりとした石造《いしづく》りの建物《たてもの》がそびえたち、多くの商店がならぶ大通りもある。
それでも、たとえばロタ王国《おうこく》のツーラム港《こう》のような、多種多様《たしゅたよう》の商品《しょうひん》があふれんばかりにならんでいるわけではなく、南の大陸《たいりく》までみてきたチャグムの目には、その品《しな》ぞろえが、なんとも貧《まず》しいものにみえた。
商人《しょうにん》がすくないせいだろうか、カンバルでは、武人《ぶじん》の姿《すがた》がやたらに目についた。十三、四ぐらいの少年たちでも、腰《こし》に短剣《たんけん》をさし、短槍《たんそう》をもって歩いている姿《すがた》をよくみかける。
ここは武人《ぶじん》の国なのだな、と、チャグムは思った。みな背《せ》が高く、がっちりとした身体《からだ》つきで、きびきびとうごく。女たちも骨太《ほめぶと》で、いかにも丈夫《じょうぶ》そうだった。うす青い空に鷲《わし》がまい、天をつく峰《みね》に風がわたるたびに雪煙《ゆきけむり》が雲のように空をながれる、きびしいこの国にそだった人びとだ。かたわらをいく、バルサのような、芯《しん》のつよい北国の民《たみ》。
チャグムは、ふと、バルサをみた。
「バルサ……。」
「うん?」
「あなたがそだったのは、ここなんだよね?」
バルサは、街《まち》に視線《しせん》をむけたまま、うなずいた。
「そう。この街なかじゃないけどね。もうすこし東にいったところに、王城《おうじょう》につかえる者《もの》たちの館《やかた》がならぶ区画《くかく》があるんだ。そこに、六|歳《さい》までくらしていた。」
ふいに、バルサの目に苦笑《くしょう》のかげがひらめいた。
「あのころは、この街《まち》は、ものすごく大きくて、人がたくさんいる、にぎやかなところだと思っていた。おさなかったせいもあるけど、ほかの場所をみたことがなかったからね。カンバルが貧《まず》しいなんて、思ったこともなかった。……数十年ぶりにここへきたときは、びっくりしたよ。街が、小さくしぼんでしまったようでね。ふしぎな気分だった。」
街並《まちな》みをながめながら、バルサは、話しつづけた。
「子どものころは、たまに街につれてきてもらうと、うれしくてね。……さっきの通りに、赤い飴《あめ》を売っている屋台《やたい》があったのに気づいたかい?」
「うん。あったね、なんか、果物《くだもの》みたいなのがなかにはいっていた飴でしょう?」
「そう。マッロっていうやわらかい飴で、あれはわたしの大好物《だいこうぶつ》だった。……いま思うと、父はずいぶん、わたしにあまかったんだろうな。早くから父娘《おやこ》ふたりの家族《かぞく》だったからね。街《まち》にくるとかならず、マッロを買ってくれた。」
バルサの横顔《よこがお》には、かすかに、痛《いた》みをこらえているような表情《ひょうじょう》がうかんでいた。
しばらく、ふたりは、だまったまま、通りから通りへと馬をすすめていった。街はずれにちかづくと、通りを歩く人のなかに、ヨゴ人をみかけるようになった。
ムガ・ラッサルの宿屋《やどや》でであった旅芸人《たびげいにん》が、王都《おうと》には、鎖国《さこく》で故郷《ふるさと》へかえれなくなったヨゴ人がたくさんいる、と、いっていたのを思いだした。
道ゆくヨゴ人の多くが、手に、鳥をかたどった赤い紙細工《かみざいく》をぶらさげている。
(チァリ〈福招《ふくまね》き〉……。)
新年をむかえた日に、ヨゴ人はかならずチァリ〈福招《ふくまね》き〉を買って家にかえる。新しい年がいい年であるように、福をまねいてくれるようにと祈《いの》りながら、南側《みなみがわ》の窓《まど》のところにつるすのだ。
異国《いこく》の地にあっても、だれかがチァリ〈福招き〉をつくり、売っているらしい。
ほんとうに、新年がきてしまったのだということが、チァリ〈福招《ふくまね》き〉をみたとたん、チャグムの胸《むね》にせまってきた。――故郷《ふるさと》が戦《いくさ》にのまれる年が、とうとうきてしまった……
ぼうっとヨゴ人たちをみつめているチャグムに、バルサが、ひくい声でささやいた。
「シュマがゆるんでいるよ。しっかり顔にまいておきなさい。頭巾《ずきん》もまぶかにかぶるようにしたほうがいい。……こんなにヨゴ人がいるなら、タルシュの密偵《みってい》がまぎれこんでいても、みわけがつかない。気をつけるに、こしたことはないよ。」
チャグムはあわてて、頭巾《ずきん》をかぶりなおした。
バルサは、ふと思いついたようにいった。
「そういえば、ききわすれていたけれど、シハナは、あんたがカンバル人の内通者《ないつうしゃ》の顔をみたから追われているってことを、知っているのかい?」
チャグムは考えながらこたえた。
「……たぶん、知らないと思う。すくなくとも、おれは話さなかった。」
そういってから、チャグムは、自分の言葉にうなずいた。
「うん。やはり、知らないだろうな。タルシュの密偵《みってい》がおれを殺《ころ》そうとしていることを、イーハン殿下《でんか》がつけてくださった護衛兵《ごえいへい》の死体《したい》をみて知った、といっていたから。」
チャグムは、バルサの顔をみた。
「ねえ、バルサ、ずっと気になっていたんだけど、イーハン殿下《でんか》の返答《へんとう》がとどいたとしても、なんの策《さく》もなくカンバル王《おう》にあいにいくのは危険《きけん》だよね。あの内通者《ないつうしゃ》は、サンガル王の王宮《おうきゅう》であったとき、カンバル王のかたわらにいた。かなり地位《ちい》の高い武人《ぶじん》だと思う。
タルシュの密偵《みってい》たちは鷹便《たかびん》をつかうから、刺客《しかく》がおれを殺《ころ》せなかったことくらい、もうつたわっているだろうし。王城《おうじょう》で、罠《わな》をはっているかもしれない。」
バルサはうなずいた。
「わたしも、それが気になってた。……でね、考えていたんだけど、(王《おう》の槍《やり》)のなかに、ひとりしたしい男がいるんだ。ジグロの甥《おい》っ子で、誠実《せいじつ》な男だよ。まず彼《かれ》にあいにいって、王城《おうじょう》の状況《じょうきょう》を教えてもらうっていうのは、どうだろうね。」
チャグムは顔をかがやかせた。
「ジグロの甥《おい》っ子《こ》? すごい。ぜひ、あいたい。」
バルサは、ほほえんだ。
「じゃあ、そうしよう。彼《かれ》の館《やかた》は、さっき話した王城《おうじょう》の東側《ひがしがわ》にあるから、とちゅうで王城をみることもできるよ。すこし、近くまでいってみるかい?」
「うん。」
街《まち》をぬけると、雪《ゆき》にうもれた丘《おか》があらわれた。丘がなだらかに山へとつながっていく、その山すそに、カンバル王《おう》の居城《きょじょう》は、そびえていた。
王城《おうじょう》へまっすぐにのびている道の上にきた瞬間《しゅんかん》、ふいに、チャグムは、ぶるぶるっとふるえた。かたわらにいたバルサは、びっくりして、チャグムをみた。
「どうしたんだい?」
チャグムは、こわばった顔で、つぶやいた。
「わからない。なんか、へんな感じがしたんだ。ここへきて、あの山をみたら。」
バルサは眉《まゆ》をひそめてチャグムをみつめた。
チャグムがみつめている正面《しょうめん》の山――王城を抱《だ》くようにそびえたっている、あの山の底《そこ》には、〈山の王〉が住まう闇《やみ》がひろがっている。その闇は、この世ではないところとつながっているのを、バルサは知っていた。ノユーク……と、牧童《ぼくどう》たちがよぶ異界《いかい》。たぷん、タンダたちがナユグとよんでいる、むこう側《がわ》の世界が。
ふっと、むかしのことを、バルサは思いだした。
チャグムがまだナユグの精霊《せいれい》を胸《むね》に抱《だ》いていたころ、ときおり、いまのように、なにかに魅《み》いられたような表情《ひょうじょう》をしたものだ。
「へんな感じって……どんな感じなんだね。寒気《さむけ》かい?」
「いや、下腹《したばら》がうずくみたいな感じ。」
思わず正直《しょうじき》にこたえてしまってから、チャグムは赤くなった。
「いいよ。なんでもない。――たぷん、気のせいだよ。」
バルサにいうには、はずかしい気がする感覚《かんかく》だったので、チャグムはそういって、バルサの疑問《ぎもん》をふりきろうとしたけれど、王城《おうじょう》にちかづくにつれて、そのみょうな感じは、鳥肌《とりはだ》がたつような、つよい感覚にかわってきた。
それだけではない。においがした。ふわっと全身《ぜんしん》をつつむにおい。――それが、なんのにおいかに気づいて、チャグムはあおぎめた。
(ナユグの水のにおいだ……。)
あわてて、チャグムは気をひきしめた。こんなところでナユグによばれるわけにはいかない。ここはきっと、ナユグに近い場所なのだ。
大きく息《いき》をすって、チャグムは、こちら側《がわ》の感覚《かんかく》をたもとうとした。
「チャグム?」
バルサに肩《かた》をつかまれて、チャグムは、はっとバルサの顔をみた。
「だいじょうぶかい? 顔色がわるいよ。」
チャグムは額《ひたい》にういた冷《ひ》や汗《あせ》をぬぐった。
「だいじょうぶ。……だけど、いまはこれ以上、王城《おうじょう》にちかづきたくない。」
バルサはひくい声でたずねた。
「それはいいけれど、どうしたんだい?」
チャグムは息《いき》をととのえて、こたえた。
「たぶん、ここはナユグに近いんだ。ナユグの水のにおいがする。……そういうところにちかづくと、ナユグによばれてしまうことがあるんだ。」
バルサは馬の手綱《たずな》をひいて、馬をとめると、じっとチャグムをみつめた。
「あの卵《たまご》がなくても……いまも?」
チャグムは、うなずいた。
「あのころは、卵がいなくなったらもうナユグとはかかわりがなくなったと思ったんだけど……そうじゃなかった。」
チャグムは、つぶやくようにいった。
「ナユグとサグ(こちら側《がわ》)が近ぢかとふれあっている場所が、ところどころあって、そういう場所にくると、こんなふうにナユグにひっぱられるような気分になる。サンガルでも、ときどき、こういうことがあった。」
そのとき、王城《おうじょう》の門《もん》から、数騎《すうき》の騎馬《きば》があらわれた。門のむこう側《がわ》で、ずいぶんたくさんの騎馬がせわしなく行《い》き来《き》しているのが、ここからでも、ちらっとみえた。新年のにぎわいというには、あまりにも殺伐《さつばつ》とした気配《けはい》がただよっている。
王城警備《おうじょうけいび》の兵士《へいし》たちに不審《ふしん》に思われぬように、そっとチャグムをうながして、ふたりは王城に背《せ》をむけた。
バルサは、ずいぶん長いことだまって考えていたが、やがて、ぽつんといった。
「あの山の下は、たしかに、ナユグにつうじている。」
チャグムは、おどろいて、バルサをみた。バルサはひくい声でつづけた。
「これはカンバルの秘儀《ひぎ》にかかわることだから、たとえ、あんたにでも、くわしいことを話してあげるわけにはいかないけれど、でも、あそこがナユグとつうじていることだけは、たしかだよ。」
自分にさえかたれない、カンバルの秘儀《ひぎ》。――そんなものと、バルサがかかわっているというのが、なんだかチャグムには、ふしぎに思えた。
王城《おうじょう》の東側《ひがしがわ》には、がっちりとした石組《いしぐ》みの館《やかた》がたちならんでいた。りっはな門構《もんがま》えをもち、高い塀《へい》にかこまれている。塀のかげには雪《ゆき》がとけのこってかたまり、青い影《かげ》をつくっていた。
ひとつの館の前で、バルサは、ちょっと馬をとめた。
「……ここが、わたしがうまれそだった館《やかた》だよ。」
石積《いしづ》みの塀《へい》には枯《か》れてしぼんだ蔦《つた》がからまり、塀の上には、葉を落とした冬枯《ふゆが》れの木々の枝《えだ》が、夕暮《ゆうぐ》れの光にあかくうかびあがって、ゆれていた。
「春になれば、花がたくさん咲《さ》いた。」
ほそい木々の枝をみあげながら、バルサがつぶやいた。
「母は、花が好《す》きな人だったらしい。母が亡《な》くなったあとも、ばあやが、たんせいしてそだてていたから、花盛《はなざか》りのころは、館《やかた》のなかにも、あまい花のかおりがしたよ。」
バルサはそっとチャグムをうながした。
「いこう。……もう、他人《たにん》の館《やかた》だ。」
チャグムは、うながされるままに、バルサのあとについて馬を歩かせはじめた。バルサのうしろ姿《すがた》が、夕日に、うすあかくてらされている。
おさないころ、いっしょに冬をこした、あのなつかしい狩穴《かりあな》で、バルサがかたってくれた話が、心のなかによみがえっていた。
わずか六|歳《さい》だったバルサは、ここから、長い、長い逃亡《とうぼう》と闘《たたか》いの旅《たび》にでたのだ。その館《やかた》のわきを、いま歩いているのかと思うと、とてつもなくふしぎな気がした。
バルサは、すこしさきで塀《へい》の角《かど》をまがり、もうすこしいって、またまがり、どんどんさきへとすすんでいく。騎馬《きば》がならんでとおれるように、館と館の間の道はかなりはばが広かった。ときおり、塀のむこうから人の声がきこえてくる。
夕食のしたくをしているのだろう。料理《りょうり》のよいにおいがただよっていた。
バルサが馬をとめたのは、かなり大きな館《やかた》の前だった。りっぱな門《もん》があり、鉄枠《てつわく》がはまっているぶあつい木製《もくせい》の扉《とびら》はとじられている。扉には赤い実《み》がついた輪飾《わかざ》りがかざられていた。門の前の通りは、きれいに雪かきがされていて、石畳《いしだたみ》はかわいていた。
「ここが、カーム・ムサの館だよ。以前《いぜん》に……けがをしたとき、この館にお世話になったことがある。カームが不在《ふざい》でも、むかえいれてくれるだろう。」
バルサが短槍《たんそう》で扉《とびら》をうつと、しばらくして、扉のむこうから声がきこえてきた。
「どなたか。」
門衛《もんえい》だろうか、太い男の声だった。
「とつぜん、失礼《しつれい》いたします。わたしは、ヨンサ氏族《しぞく》のバルサともうします。ムサ氏族のカーム殿《どの》にお目にかかりたいのですが、おとりつぎいただけますか。」
門《もん》のむこう側《がわ》で、ざわめきがおきた。なにか、しきりに話している声はきこえるが、なにをいっているのかは、わからなかった。
かなり長いあいだまたされてから、ようやく扉《とびら》が、内側《うちがわ》からおしあけられた。いかにも武人《ぶじん》らしい男たちが三人、短槍《たんそう》を手にもって立っている。
みたことのない若《わか》い武人たちだった。バルサがこの館《やかた》をおとずれたときは、まだ、ここにいなかった男たちなのだろう。
「おまたせいたしました。どうぞ、おはいりください。」
バルサとチャグムは馬をおり、ちかづいてきた厩番《うまやばん》の若者《わかもの》に馬の手綱《たづな》をわたした。害意《がいい》がないことをしめすカンバルの作法《さほう》にしたがって、バルサは武器《ぶき》をすべて彼《かれ》らにわたし、チャグムも、それにしたがった。
それから、ふたりは、庭《にわ》の中央《ちゅうおう》にのびている敷石《しはいし》の上を歩きはじめた。バルサたちをまもるように武人《ぶじん》たちがついてくる。
たそがれの光がうすれ、庭の木々はうす闇《やみ》にしずんでいた。下仕《しもづか》えの者《もの》たちが、庭にかがり火《び》をたこうとしている。パチパチと音をたててかがり火が燃《も》えはじめると、薪《まき》に塗《ぬ》られている獣脂《じゅうし》がこげる独特《どくとく》のにおいがただよってきた。
黒ぐろとした石造《いしづく》りの館《やかた》にちかづくと、扉《とびら》が内側《うちがわ》からひらいて、なかから背《せ》の高い男があらわれた。光を背負《せお》って、かげになっているので、顔はみえなかったが、どきりとするほど、ジグロによくにた立《た》ち姿《すがた》だった。
ちかづくと、顔がみえてきた。
「バルサさん………!」
なつかしい声が、男の口からもれた。まちがいなく、ジグロの甥《おい》のカームだったが、その声のなにかが、バルサを立ちどまらせた。
チャグムも立ちどまった。カームの顔をみた瞬間《しゅんかん》、全身《ぜんしん》を、冷《つめ》たいものがつらぬいた。
「バルサ……。」
チャグムは、おもわずバルサの肘《ひじ》のあたりをつかんだ。
バルサは、カームの顔がはげしい痛《いた》みをこらえるようにゆがむのをみた。背後《はいご》に立っている武人《ぶじん》たちから、殺気《さっき》がわきあがるのを感じて、バルサは、さっとふりかえった。
つきだされた短槍《たんそう》を腕《うで》ではじきあげ、踏《ふ》みこむや、バルサは男ののどにこぶしをたたきこんだ。その男がたおれるまえに、もうひとりの男がくみついてきた。バルサはすっと身体《からだ》をしずめ、男の腕をかいくぐりながら、わきから腕をからめるようにして、男の肘《ひじ》を、一瞬《いっしゅん》で折《お》った。
「そこまでだ。」
カームの声がきこえてきた。ふりかえると、カームが、がっちりとチャグムをかかえこみ、顎《あご》の下に腕《うで》をまわしているのがみえた。カームの腕なら、まばたきするまもなく、チャグムの首の骨《ほね》を折《お》れる。
バルサは、構《かま》えをとき、腕をたらして、じっとカームをにらみつけた。
三人めの武人《ぶじん》がこぶしをふりあげ、みじかい動作《どうさ》で、バルサの耳のうしろを打った。はげしい衝撃《しょうげき》とともに、バルサは闇《やみ》のなかにしずんだ。
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1  聖導師《せいどうし》の死《し》
つきあげ窓《まど》からさしこむたそがれの光が、柱《はしら》の影《かげ》を長く床《ゆか》にのばしている。
そろそろ燭台《しょくだい》に火をともそうか、と思いながら、シュガは、広い机《つくえ》にひろげた、たくさんの星図《せいず》と天図《てんず》から顔をあげた。そして、はっと、うしろをふりかえった。
いつのまにか、ジンが柱《はしら》のかげにたたずんでいた。
「……そなたは、ほんとうに音をたてずにうごくのだな。」
シュガがいうと、ジンはほほえんだ。そして、かすかに皮肉《ひにく》な口調《くちょう》でいった。
「あの評定《ひょうじょう》いらい、ずっと星《ほし》ノ宮《みや》にこもっておられますが、このまま、ここに身《み》をひそめるおつもりですか。」
「身をひそめているつもりはない。考えねばならぬことが、山ほどあるのだ。」
ひくい声でそうこたえてから、シュガは、ささやいた。
「この部屋《へや》をみはっている者《もの》を、みたか?」
ジンはうなずいた。
「雑役《ざつえき》の者《もの》がふたり、いつも、この部屋《へや》のまわりにおりますな。もっとも、ガカイ殿《どの》の命《めい》をうけているのか、カリョウ副将《ふくしょう》の命をうけているのか、どちらかさだかではありませんが。」
「……カリョウが、どうやってタルシュの密偵《みってい》と連絡《れんらく》をとりあっているかは、わかったのか。」
ジンは、顎《あご》をなでた。
「カリョウ殿《どの》の館《やかた》に出入りしている商人《しょうにん》のなかに、それらしき者《もの》をみつけました。しかし、相手《あいて》も勘《かん》のするどい密偵《みってい》ですので、へたにちかよりすぎれば、気づかれてしまいます。」
そういって、ジンは、問いかけるような目でシュガをみた。
「カリョウ殿は、シュガ殿の出方《でかた》を注意《ちゅうい》ぶかくみまもっているのでしょうから、あまり、はっきりと敵対《てきたい》する動《うご》きは、みせないほうがいいでしょう?」
シュガは、なにもいわなかった。
ふたりは、しばしだまって、たがいの顔をみていた。ジンは、シュガに目をすえたまま、きびしい声で問うた。
「……シュガ殿《どの》、あなたさまは、どうなさるのです。」
シュガは視線《しせん》をそらし、たそがれの光がうすれつつある窓《まど》の外をながめた。
ジンは、おいかけるように、いった。
「カリョウ殿《どの》の申《もう》し出《で》を、うけるおつもりですか?」
シュガは視線《しせん》をジンにもどした。
「うけるつもりだ、と、いったら、そなたはどうする?」
ジンの目には、暗《くら》い光がうかんでいた。
「タルシュに、この国をわたそうとする者《もの》は、どなたであっても生かしてはおきません。」
シュガは、しずかに問うた。
「なぜ?」
ジンは、こたえた。
「この国をけがしたくないからです。タルシュの足もとにひざまずき、その足をなめて生きのび、その手先《てさき》となって、兵《へい》と民《たみ》を、隣国《りんごく》を攻《せ》めるきたない戦《いくさ》へとおいたてる……。
それは、国を生きのびさせる選択《せんたく》ではありません。――生きながら腐《くさ》らせる選択です。」
シュガは、冷《つめ》たい目でジンをみすえた。
「そなたに、わかっていないはずはあるまい。わかっていて、まだ、そのようなことをいうのか。」
ジンは目の縁《ふち》をこわばらせた。シュガは、言葉をつづけた。
「たとえタルシュに内通《ないつう》をせず、正面《しょうめん》からたたかっても、やってくるものは、そなたがいま描《えが》いてみせた国のすがただ。いや、それよりはるかに悲惨《ひさん》だろう。多くの……膨大《ぼうだい》な数の死者《ししゃ》をだし、国を焼《や》き、タルシュ軍に完敗《かんぱい》してしまえば、なんの権利《けんり》もわれらの手には残らぬ。残るのは奴隷《どれい》となる未来《みらい》のみ。」
ふいに、シュガの目にきつい光がやどった。
「それがわかっていながら、まだ、国をけがしたくないなどと口にするのは、なぜだ?
国をけがさぬために、そなたは、なにをせよというのだ?」
ジンは、うつむいた。そして、ひややかな声でいった。
「……やはり、あなたさまは、タルシュへねがえるおつもりなのですね。」
シュガは、ひかるものが首にふれるのをみた。ほそい短剣《たんけん》の刃《は》が、シュガののどに、ぴったりとつけられていた。
シュガは、じっとジンをみつめて、いった。
「わたしにとって、いま、もっともたいせつなことは、ひとりでも多くの民《たみ》を生かしながら、国のすがたをたもつことだ。」
ジンの目に、暗《くら》い光がゆらめいた。
「そのために、カリョウと手をむすんで、帝《みかど》のお命《いのち》をねらうと?」
父も祖父《そふ》も曾《そう》祖父も、ひたすらに帝《みかど》につかえ、帝のために生きることを至上《しじょう》の忠義《ちゅうぎ》として、生きてきた。帝《みかど》への忠義《ちゅうぎ》は、ジンにとって、理屈《りくつ》をこえた、なにかだった。
帝の命《めい》にさからってチャグム皇太子《こうたいし》の命《いのち》をすくってしまったときから、自分のなかで、なにかが微妙《びみょう》にずれはじめたのを、ジンは感じていた。……それでも、帝の暗殺《あんさつ》をみのがすというのは、それとはまったくべつのことだ。考えるだけでも身《み》がけがれる思いがする。
シュガののどにあたっている切《き》っ先《さき》に力がはいり、血《ち》がうきあがって、つうっとシュガののどをつたった。
シュガは、ひややかな目でジンをみつめて、いった。
「わたしを殺《ころ》すことで帝《みかど》をすくえると思うなら、殺せばよい。――わたしを殺し、カリョウを殺し、タルシュ軍《ぐん》が宮《みや》を焼《や》き、帝と、その御血筋《おんちすじ》の者《もの》たちをすべて惨殺《ざんさつ》するその日まで、そなたは帝をおまもりせよ。
そのさきになにがおこるか、わかっていても気づかぬふりをして、おのれをあざむき、近衛士《このえじ》の忠誠《ちゅうせい》をまっとうするがいい。」
ジンの額《ひたい》に、びっしりと汗《あせ》がういていた。
刃《やいば》を首にあてられているシュガのほうは、凍《い》てついた湖面《こめん》のようにしずかな表情《ひょうじょう》だった。
「わたしはカリョウとくんで、タルシュのラウル王子《おうじ》と交渉《こうしょう》をはじめる。
民《たみ》も兵《へい》もむだ死《じ》にさせず、帝《みかど》の御血筋《おんちすじ》を残し、この国のすがたを残すためなら、わたしは天子《てんし》を弑《し》する大罪《たいざい》をおかすこともいとわぬ。
天子があやまった道をえらぼうとするとき、天子をいさめ、国をすこやかな道へとみちびくことこそ、星読博士《ほしよみはかせ》のつとめだ。」
ジンは、ふるえている自分の手をみつめていた。シュガの衣《ころも》の襟《えり》に血《ち》がしみこんでいく。左手で、刃《やいば》をかまえている自分の右手首をにぎり、ジンは刃をシュガの首からはなした。
「……どうか、帝《みかど》の御血筋《おんちすじ》を……。」
かすれた声で、ジンがつぶやいた。
シュガは、ジンをみつめ、ゆっくりとうなずいた。
聖導師《せいどうし》ヒビ・トナンが息《いき》をひきとったのは、その四日後《よっかご》のことだった。
とうとう、おのれのあとつぎを正式《せいしき》にきめることなく、聖導師はこの世を去《さ》ってしまった。
早くから身体《からだ》の不調《ふちょう》に気づいていた彼《かれ》は、ガカイとシュガとオズルの三人を聖導師見習《せいどうしみなら》いという身分《みぶん》においた。三人をきそわせて、やがては、そのなかからひとりを聖導師にえらぼうと考えていたのだろうが、ヒビ・トナンをおそった病《やまい》はじょじょに体力をうばうようなものではなく、いっきにヒビ・トナンの魂《たましい》をうばってしまった。
ある朝、ヒビ・トナンはとつぜんたおれ、そのまま二度とめぎめなかった。おちくぼんだ目をとじ、かすかにロをあけ、いびきにのどをふるわせていた聖導師《せいどうし》の顔には、あのきびしい英知《えいち》にみちた面影《おもかげ》はなかった。そして、けっきょく、そのふかい眠《ねむ》りから、しずかに死《し》へとすべりこんでしまった。
帝《みかど》の心をうごかすことのできる唯一《ゆいいつ》の人間が、こうして消《き》えた。――そのふかい英知《えいち》と経験《けいけん》がもっとも必要《ひつよう》とされるときに、彼《かれ》は、いなくなってしまったのだった。
いつか、このときがくることを、シュガはかくごしていた。それでも、いざ、じっさいにおとずれてみると、その衝撃《しょうげき》は、自分で考えていたよりも、ずっと大きなものだった。
シュガがはげしい衝撃をあじわったのは、帝《みかど》がこの訃報《ふほう》をきくとすぐに、〈百日の喪《も》〉があけたら、ガカイを正式《せいしき》に聖導師《せいどうし》に任命《にんめい》すると発表《はっぴょう》したせいではなかった。そんなことは、最初《さいしょ》から予想《よそう》していたことだった。
聖導師《せいどうし》の死《し》を知った瞬間《しゅんかん》シュガが感じたのは、身《み》の底《そこ》に穴《あな》があいてしまったかのような、ひえびえとした心細《こころぼそ》さだったのだ。――自分が、心のふかい部分《ぶぶん》で、これほど彼《かれ》をたよりにしていたとは、それまで気づいていなかった。
もはや、まよったときに、教えをこう人はいない。
おまえの考えはまちがっていない。そのまますすめと、はげましてくれる人はいないのだ。
(いま……。)
いちばん、話をしたい人が、永遠《えいえん》にうしなわれてしまった。
シュガは長いこと、ひとり自室《じしつ》にこもりつづけた。
聖導師《せいどうし》ヒビ・トナンの訃報《ふほう》にせっしたとき、帝《みかど》は、ただうなずき、喪明《もあ》け後《ご》におこなう次代《じだい》の聖導師の指名《しめい》など、必要《ひつよう》なことを、たんたんとこなした。
そして、死《し》の穢《けが》れをさけるために、いったん泉《いずみ》の水で身《み》をきよめてから、宮《みや》のもっともおくまったところにある聖堂《せいどう》にこもった。
清めのろうそくがともっているだけの、うすぐらい堂《どう》のなかで、帝《みかど》は、ぼうぜんと闇《やみ》をみつめ、ありし日の聖導師のことを思いだしていた。
聖導師《せいどうし》ヒビ・トナンは、彼《かれ》の教育係《きょういくがかり》でもあった。早くにこの世《よ》を去《さ》った父のかわりに、帝《みかど》としての生き方を彼に教えたのもトナンだった。若《わか》くして帝となった彼の背後《はいご》をがっしりとささえ、複雑《ふくざつ》なまつりごとの波《なみ》ののりこえ方を、教えてくれた。
トナンは、つねに彼のかたわらにいた。――しかし、もう二度と、あのつよい光をたたえた目をみることはない……
帝《みかど》は、身動《みうご》きもせず、ただ、堂《どう》のすみにうずくまる闇《やみ》をみつめていた。
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2  草兵《そうへい》の日々
ひっきりなしに目にはいってくる汗《あせ》と泥《どろ》を手でぬぐい、タンダはいたむ背《せ》をのばした。
あかるい陽射《ひざ》しのもとに、無残《むざん》な光景《こうけい》がひろがっている。
青弓川《あおゆみがわ》と山地の間で、農民《のうみん》たちがたんせいし、つくりあげてきた稲田《いなだ》が、ようしゃなくほりかえされ、えんえんと横にのびる堀《ほり》がつくられていた。その堀の海に近い側《がわ》に、先をとがらせた杭をうえる作業《さぎょう》をはじめて、もう何日もたつ。
(……戦《いくさ》がおわって、どのくらいたったら、この田は稲《いね》をみのらせることができるのだろう。)
そう思ってから、タンダは、冷《つめ》たい痛《いた》みが胸《むね》を刺《さ》すのを感じた。田に稲がみのる光景《こうけい》を、自分は、二度と目にすることはないのかもしれない。
頭をふって、杭《くい》をうめこむ作業《さぎょう》にもどろうとしたとき、なにか、人がさけんでいるような声がきこえてきた。タンダも、そばにいた男たちも、なにごとかと頭をあげて、声がした川のほうをながめた。
[#挿絵(img/02_129.png)入る]
このあたりの村人《むらびと》なのだろう。数人《すうにん》の男たちが、騎馬武者《きばむしゃ》たちに、なにかをひっしにうったえている。風にのって、とぎれとぎれにきこえてくる言葉から、彼《かれ》らが、川舟《かわぶね》を燃《も》やさないでくれとたのんでいるのだとわかった。
騎馬武者の、おうへいな声がきこえてきた。万《まん》が一《いち》にも、敵《てき》が川舟《かわぶね》をつかうことがないよう、燃《も》やすのは当然《とうぜん》だといっている。
(くだらんことを……。)
タンダは心のなかで思った。一|隻《せき》、二隻の川舟を敵がつかったとして、なにができるというのだろう。
「……ばかなやつだ。川舟《かわぶね》には、もっといい使《つか》い道《みち》があるのに。」
ふいに声がふってきて、タンダは、おどろいて顔をあげた。
タンダたちの隊《たい》を管理《かんり》している若武者《わかむしゃ》だった。まだ、二十歳《はたち》そこそこの、ほっそりした、すこしたよりなげな若者《わかもの》だ。タンダと目があうと、彼《かれ》は、うろたえたように目をゆらした。
「おい、いまのはひとり言《ごと》だ。ほかの者《もの》にいうなよ。」
タンダは、しずかな声でこたえた。
「いいませんよ。――しかし、もっといい使い道というのは?」
若武者《わかむしゃ》の顔が明るくなった。タンダたちがなまけぬように管理《かんり》せねばならないはずだが、ひたすら監視《かんし》しているだけの仕事《しごと》に、たいくつしていたのだろう、若武者《わかむしゃ》は生きいきとした口調《くちょう》で話しはじめた。
「たくさんの川舟《かわぶね》をうまくしずめれば、川をさかのぼってくる軍船《ぐんせん》をせきとめられるじゃないか。そういう方法があると、『戦法百覧《せんぽうひゃくらん》』 に書いてある。」
タンダは、首をかしげた。
「この広い田を騎馬《きば》で進軍《しんぐん》してくるほうが、敵《てき》にとってはたやすいでしょう。わざわざ川を軍船がさかのぼるなんてことが、ありますか?」
若武者《わかむしゃ》は目をかがやかせた。
「そこが、あさはかだというのだ。稲田《いなだ》は、たとえ冬のあいだでも、雨でも降《ふ》れば、ぬかるみにかわる。騎馬《きば》は、意外《いがい》に足をとられるだろう。だが、川は……。」
彼《かれ》は河口《かこう》のほうをゆびさした。
「たとえば、夜の闇《やみ》にまぎれて、河口からサンガルの底《そこ》のあさい船《ふね》でつぎつぎにあがってくることもできるはずだ。」
タンダは首をふった。
「たとえ夜でも、下流《かりゅう》から上流《じょうれゅう》へこぎあがるのはたいへんです。うまく追《お》い風《かぜ》をつかまえられたとしても、さほどの速度《そくど》はでないでしょう。音もしますし、すぐに気づかれますよ。」
若武者《わかむしゃ》は、いよいよ、にこにこ顔になった。
「そこさ。みな、そう思って安心《あんしん》しているが、みながわすれていることがひとつある。」
タンダは、ついひきこまれて問うた。
「なんですか?」
「〈さかさ流れ〉さ。このあたりの村人《むらびと》がいっていた。春の大潮《おおしお》の日には、川が逆流《ぎゃくりゅう》することがあるのだそうだ。かなりの速《はや》さだそうだぞ。そういう逆流に軍船《ぐんせん》をのせて、みごとに奇襲《きしゅう》に成功《せいこう》した例《れい》が 『戦法百覧《せんぽうひゃくらん》』 にのっているのだ。」
タンダは、なんとなく、この若武者《わかむしゃ》に好感《こうかん》をいだきはじめていた。たぶん、書物《しょもつ》が好《す》きな若者《わかもの》なのだろう。戦法《せんぽう》の書を読んでまなんできたことを、いかしたくてたまらないのだ。
「それは、盲点《もうてん》かもしれませんね。上官《じょうかん》に進言《しんげん》されたら、いかがですか。」
タンダがそういったとたん、若者の目が、蓋《ふた》をしたように暗《くら》くなった。
「……彼《かれ》らが、耳をかすものか。わたしのような、中流《ちゅうりゅう》にようやくひっかかっている出《で》の者《もの》の言葉になぞ。」
タンダは、おだやかな声でいった。
「副兵長殿《ふくへいちょうどの》に話してみたらいかがですか。あの方《かた》は、もののわかったお方のようですが。」
一瞬《いっしゅん》、若者《わかもの》の目に明るさがもどったが、彼《かれ》はすぐに首をふった。
「よけいなことを、わたしが進言《しんげん》したと草兵長《そうへいちょう》につたわったら、まずい。」
そういって、若者《わかもの》はため息《いき》をついた。そして、ふと、長話をしすぎたことに気がついたらしく、背《せ》をのはした。
「作業《さぎょう》の手《て》をやすめるな。どんどん、すすめよ!」
日が暮《く》れおちて、自分の手もともみえなくなるころ、草兵《そうへい》たちの作業《さぎょう》は、ようやくおわる。
青弓川《あおゆみがわ》の河原《かわら》までいって、汗《あせ》と泥《どろ》をあらいながすと、ほてっていたむ身体《からだ》が、ほんのすこしらくになるような気がした。年の暮れまで、あと三日《みっか》。川の水は、さすがに身《み》を切るように冷《つめ》たかったが、それでも、タンダは、このひとときをたのしんだ。
貧《まず》しい食事《しょくじ》とねむることと、こうして身体をあらうことだけが、このつらい日々のなかで、わずかに残《のこ》されている楽《たの》しみだった。
タンダは足をひきずるようにして、炊《た》き出《だ》しをしている草地までいき、男たちの列《れつ》にならんで、雑炊《ぞうすい》をうけとった。
それぞれが自分の村《むら》からかついできた食糧《しょくりょう》はとうにつき、いまはみな、南部の農民《のうみん》たちから皇国軍《おうこくぐん》が徴集《ちょうしゅう》した食糧を食べている。南部は去年《きょねん》も今年《ことし》も大豊作《だいほうさく》だったから、なんとか米も口にはいるが、これだけの兵《へい》を、いったいいつまでやしなえるものだろうか。
気がつくと、コチャがそばにいた。同村《どうそん》の若者《わかもの》たちにいじめられていたところをタンダにたすけられてから、この、かぼそい身体《からだ》つきの少年は、機会《きかい》さえあれば、タンダのそばにいるようになっていた。
昼のあいだは、これでも冬かと思うほど、うららかだったが、日が暮《く》れると、さすがに寒くなってきた。コチャはふるえながらタンダに身体をすりよせ、たき火《び》にほそい手をのばした。
「コチャ、飯《めし》は?」
タンダがたずねると、コチャは肩《かた》をすくめた。
「もう、食っちまった。」
コチャの身体《からだ》の震《ふる》えがつたわってきて、タンダは顔をくもらせた。このほそい身体で、おとなとおなじ重労働《じゅうろうどう》をさせられているのだ。わずかな雑炊《ぞうすい》では、身体がもたないだろう。
「おれのを半分《はんぶん》、食べるかい?」
椀《わん》をさしだすと、コチャの目がかがやいた。
「いいの……?」
タンダはうなずいて、コチャの手に自分の椀《わん》をおいた。コチャがうまそうに、あつい雑炊《ぞうすい》をすすっている音をききながら、タンダは空腹《くうふく》にたえていた。
一日でもいい。山にはいることができれば、山鳥をとったり、芋《いも》をほったりできるのに。それに、薬草《やくそう》もとってきたかった。過酷《かこく》な労働《ろうどう》で男たちはみなつかれはて、けがをする者《もの》や、病《やまい》にたおれる者もではじめている。彼《かれ》らがボロ布《ぬの》のようによこたわってあえいでいるのに、手当《てあ》てもしてやれないのが、タンダには、つらくてならなかった。
コチャが、そっと椀《わん》をタンダの手にもどしてきた。みると、律儀《りちぎ》に半分《はんぶん》残してある。タンダはほほえんで、残された雑炊をすすった。
「……ちかごろは、悪夢《あくむ》はみないかい?」
タンダがきくと、コチャは首をふった。
「みねぇ。横になったとたん、ねむっちまう。」
コチャは、アスラとおなじように、ナユグを自在《じざい》にみることのできる異能者《いのうしゃ》だ。それに、まるで勘《かん》のするどい獣《けもの》のように、地震《じしん》で土砂崩《どしゃくず》れがおきることも予知《よち》したのを、タンダは、まぢかでみていた。
そのコチャが、よく悪夢《あくむ》をみるという話が、タンダには気になってしかたがなかった。アスラもまた、なにかせねばならないという、切迫《せっぱく》した感じの夢《ゆめ》をよくみるといっていた。
こういう異能者《いのうしゃ》たちは、鳥や小魚の群《む》れのなかで、いちはやく危険《きけん》を知らせるオ・チャル〈群《む》れの警告者《けいこくしゃ》〉とおなじような存在《そんざい》なのではないかと、タンダは思うようになっていた。
彼《かれ》らが警告者《けいこくしゃ》であるなら、いったいなにを感《かん》じとっているのか、それを知らねばならないという気もちが、日々、たかまってきていた。
「コチャ、よく悪夢《あくむ》をみたのは、いつの話なんだい?」
たずねられて、コチャは眉根《まゆね》をよせた。
「うちにいたときは毎晩《まいばん》みた。そんでも、都《みやこ》にのぼるとちゅうは、あんまりみなかったのに、青弓川《あおゆみがわ》にちかづいたら、また、みるようになった。都にいたときなんぞ、鳥肌《とりはだ》がたってこまった。」
「うちってのは、どのあたりなんだい?」
「おれんち? おれんちは、オッカ村《むら》さ。」
「オッカ村……たしか、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の奥《おく》の村だったな、カンバルに近い。」
「うん。」
(……オッカ村か。)
はるか北の村だ。コチャの父が、まだ子どもの彼《かれ》をロベらしにと草兵《そうへい》にだしたのも、うなずける。あのあたりは、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》のなかでも、とくに貧《まず》しい村が多い。タンダの呪術《じゅじゅつ》の師匠《ししょう》、トロガイ師がうまれそだったのも、あのあたりのはずだ。ヨゴ人より、ヤクーのほうが多い地域《ちいき》だった。
(それにしても、オッカ村と青弓川《あおゆみがわ》と、都《みやこ》のあたりで、悪夢《あくむ》をみたというのが気になるな。)
そういえば、アスラも、都にきたとたん、おちつかない気もちになったということで、タンダの家まで相談《そうだん》にきたのだった。
(青弓川《あおゆみがわ》に、なにかあるのか。)
しかし、ここだって、青弓川のそばだ。ここでは悪夢《あくむ》をみないということは、たんに、青弓川が問題ということではないのだろう。
ふっと、タンダは、トロガイ師《し》に命《めい》じられて、異様《いよう》に水温《すいおん》が高いナユグの大河《たすが》をたどりながら、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の北部へわけいったことを思いだした。青霧山脈の奥《おく》、もうすこしでカンバル王国《おうこく》へむかう国境《こっきょう》の峠《とうげ》というあたりまでたどっていったのだが、そこで、そのナユグの大河は、そそりたつ断崖絶壁《だんがいぜっぺき》のなかにきえてしまっていたのだった。
そこまで思いだして、タンダは目をみひらいた。
いやな予感《よかん》が、全身《ぜんしん》をつらぬいた。なにがおきようとしているのか、はっきりしたことはわからないが、もしかしたら、と思うことが、ひとつ、頭にうかんできたのだ。
(もし、それが、アスラやコチャが感じている不安《ふあん》の意味《いみ》だとしたら……。)
一刻《いっこく》もはやく、手をうたねば、たいへんなことになる。
冷《ひ》や汗《あせ》が、背筋《せすじ》をつたった。
(師匠《ししょう》にしらせねば。なんとしてでも、師匠に……。)
魂《たましい》を飛《と》ばしてトロガイ師《し》にあいにいこう、と、タンダは決心《けっしん》した。――それは、しかしとてつもなく困難《こんなん》な呪術《じゅじゅつ》だった。広大無辺《こうだいむへん》の闇《やみ》のなかを……無数《むすう》の魂がみだれとぷなかを、たったひとりの魂をさがして、飛ばねばならない。
それでも、やってみようと、タンダは思った。つらい労働《ろうどう》とわずかな食事《しょくじ》のせいで、日、一日と身体《からだ》がきつくなっている。体力《たいりょく》がなくなれば、魂《たましい》の力もよわる。いま、飛ばねば、時がたつほどに、飛べなくなっていくだろう。
タンダは、自分の肩《かた》によりかかって、うつらうつらしているコチャの重みを感じながら、心のなかで、どうやったら、この状況《じょうきょう》で〈魂飛《たまと》ばし〉ができるか、考えていた。
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3  魂《たましい》の飛翔《ひしょう》
その翌日《よくじつ》の夜、男たちが泥《どろ》のようにねむりこむまで、タンダはひっしに眠気《ねむけ》とたたかいながら目をさましていた。あたりがしずまりかえり、いびきや寝息《ねいき》しかきこえなくなったころ、タンダは身体《からだ》にまいていた厚織《あつおり》のシルヤ(寝具《しんぐ》)をそっとはずして、起きあがった。
寒かった。いままでシルヤにくるまって横になっていたから、なおさら、立ちあがると、年《とし》の瀬《せ》の寒気《かんき》がしんしんと身体をしめつけてきた。
タンダはふるえながら、シルヤを半分《はんぶん》に折《お》って、それを肩《かた》にはおった。そして、ねむっている男たちを踏《ふ》まないよう気をつけながら、黒ぐろと闇《やみ》にしずんでいる林へと歩いていった。
ほんとうなら、魂《たましい》を飛ばすときには、竹で四方に結界《けっかい》をはり、ススキの呪具《じゅぐ》をもたねばならない。ススキには魂をまねく力がある。これを手にもっていれば、かえるときには明るくかがやいて、自分の身体《からだ》まで、魂をまねいてくれるのだ。
ススキのほうは、すぐに手にいれることができた。野営地《やえいち》のわきの沼地《ぬまち》のへりに、ススキの原があったからだ。秋のようにつややかではなくとも、多少は穂《ほ》を残しているススキを、タンダは、祈《いの》りながら手折《たお》り、作法《さほう》にしたがって呪具《じゅぐ》をつくった。
こまったのは結界《けっかい》をつくる竹だった。悪霊《あくりょう》は竹をきらう。身体《からだ》から魂《たましい》を飛ばして、ぬけがらになった身体に悪霊がすべりこむのをふせいでくれる、たいせつな魔《ま》よけだった。
しかし、めざめてからねむるまで、監視《かんし》され、ひたすらはたらかされている状態《じょうたい》では、竹をみつけて、あつめてくることなどできなかった。しかたなく、タンダは、青弓川《あおゆみがわ》の河原《かわら》で身体をあらうときに、すっと伸《の》びやかに背《せ》をのばしている姿《すがた》のよい葦《あし》を数本、刈《か》っておいた。そして、昼食《ちゅうしょく》のときに林のへりで笹《ささ》をつみ、葦に笹を巻《ま》いて、即席《そくせき》の結界棒《けっかいぼう》をつくった。
これらの呪具《じゅぐ》は、ひとまとめにして、野営地《やえいち》のはしの道具置《どうぐお》き場《ば》にかくしておいたが、タンダが呪術師見習《じゅじゅつしみなら》いであることを知っている仲間《なかま》たちは、みてみぬふりをしていた。なにをしているのか気になってはいただろうが、まっとうな村人《むらびと》なら、呪術師のやることにかかわろうとはしないものだ。
頭上《ずじょう》にひろがる天は、銀砂《ぎんさ》をまいたような星空《ほしぞら》だった。月は、ほとんどみえない。
(年が暮《く》れゆき、月はこもりたもうたか……。)
タンダは星空をみあげながら、心のなかでつぶやいた。
いつもの年であれば、古き年をおくり、新しき年をむかえる儀式《ぎしき》をおこなっているころだ。しかし、いまは、新しき年をむかえるよろこびなど、だれの心のなかにもない。
春がおとずれれば、戦《いくさ》がはじまる。
タルシュやサンガルの兵士《へいし》たちが、この山河《さんが》を、村《むら》むらを、街《まち》を、砂糖《さとう》にたかる蟻《あり》のように、おおっていく光景《こうけい》が、心にうかんできた。
そのさきはどうなるのだろう。どうも、そのさきを思いえがくことができない。
草兵長《そうへいちょう》たちは、ことあるごとに、敵兵《てきへい》は血《ち》に飢《う》えた残虐《ざんぎゃく》な獣《けもの》で、彼《かれ》らがやってくれば、おまえたちの故郷《ふるさと》の家族《かぞく》はみな殺《ごろ》しにされるのだという。しかし、サンガル人はもちろん、タルシュ人とて人だ。草兵長たちがさかんに、恐怖《きょうふ》をあおりたてているような、残酷《ざんこく》な血に飢えた獣というわけでもあるまい。
われらの故郷を侵略《しんりゃく》してくる強欲《ごうよく》な敵《てき》、と、ヨゴ人の武人《ぶじん》たちがいうたびに、タンダの心には、皮肉《ひにく》な思いがうかぶ。彼《かれ》らヨゴ人とて、もともとは、南の大陸《たいりく》から、この地にやってきて、ヤクーの土地をうばっていったのではなかったか。
ヨゴ人は、たしかに、タルシュ人のように戦《いくさ》をしかけてきたわけではなかった。だが、それは、彼らのやさしさゆえ、というより、ここに住んでいたヤクーたちが、自分たちの土地をまもるために武器《ぶき》をとることもなく、山に逃《に》げこんだからではなかろうか。
ヤクーたちは、おそろしげな武人《ぶじん》たちをみて、きっとおびえたのだろう。たたかうより、逃げることをえらんだ。そして、ヨゴ人たちが平地《へいち》に田《た》をつくり、街《まち》をつくり、山地《さんち》の谷間《たにま》にわけいって村《むら》をつくると、しだいにヤクーは彼《かれ》らの村におりてきて、うまい水のわく場所を教えたりしながら、ゆっくりとヨゴ人とまじわっていったのだ。
(その末《すえ》が、おれだ。)
ヨゴ人の武人《ぶじん》や貴族《きぞく》たちにくらべれば、肌《はだ》も黒く、顔にもヤクーらしさが残っている。
(ヨゴでも、ヤクーでも、サンガルでも、タルシュでも……さまざまな人びとが、いく本もの川の流れのようにまじわって、ひとつの流れになるのなら、それは、それでいいのじゃないだろうか。タルシュがここを支配《しはい》したいなら、させてしまえばいい。彼《かれ》らが、ここへうつってきても、何十年、何百年と住むうちに、われらと血《ち》をまじえて、いつかは、ここの人になっていくのじゃないだろうか。)
もともと、のんびりとした性質《せいしつ》のタンダには、そう思えてならない。
帝《みかど》にとっては、他国《たこく》の王《おう》に支配権《しはいけん》をゆずるなど、ゆるせぬことだろうが、タンダにとっては、正直《しょうじき》、だれが支配者《しはいしゃ》でも、さしてちがいなどない。どんな支配者でも、田畑《たはた》から食糧《しょくりょう》をうみだす農民《のうみん》はたいせつだろうし、国を富《と》ませる商人《しょうにん》もたいせつだろう。
帝《みかど》のために、人を殺《ころ》し、殺されるなど、まっぴらだった。
騎馬《きば》を刺《さ》しつらぬくためのとがらせた杭《くい》をうえながら、タンダは、こんなことをしているのがいやでならなかった。斬りころされるだけならば脱走《だっそう》してもかまわないと思うこともあった。けれど、草兵《そうへい》が脱走すれば、その草兵の出身《しゅっしん》の村全体《むらぜんたい》が処罰《しょばつ》をうける。
村人《むらびと》のうちにかぞえられぬ暮《く》らしをしてきたのに、いまになって、こんなふうに、人のしがらみにしばりつけられるのは腹《はら》がたったが、それでも、村の人たちをむごい目にあわせるわけにもいかない。
凍《い》てついた星空《ほしぞら》をみながら、タンダは、ふかいため息《いき》をついた。
コチャやアスラたちが感じている不安《ふあん》は、きっと、タルシュが攻《せ》めてくることとは、まったくかかわりのないことだろう。大きな群《む》れになりすぎた人という生き物には、感じられなくなってしまったささいな警告《けいこく》を、彼《かれ》らは、自分でもよくわからずに発《はっ》している。
彼らの声を警告だとうけとめ、なにがおこるのかを考えるのは、呪術師《じゅじゅつ》のつとめだ。
――呪術師でありたいとねがうなら、いつも、耳をすましているんだよ、タンダ。
トロガイ師《し》は、よくそういっていた。
――呪術師《じゅじゅつし》は、ほかの人にはきこえぬ、かすかな音をききとらねばならない。
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村人《むらびと》たちなら、笑《わら》いとばすようなことでも、その裏《うら》になにがあるのか、めくってみる心をもたねばならない。
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(師匠《ししょう》……。)
師匠にあいたい、という思いがこみあげてきた。まっ黒でしわだらけの、あの顔をもういちどみたい。
タンダは林にはいると、手さぐりで、ゆっくりすすみ、大木《たいぼく》にいきあたると足をとめた。手触《てざわ》りとにおいで、ウカルという広葉樹《こうようじゅ》の大木であることがわかった。
「ウカルよ、一夜《いちや》の宿《やど》りをいたします。小さきわたしをおまもりください。」
そうささやきながら、タンダは、あいさつするように幹《みき》をなでた。それから、手にもっていた葦《あし》を、大木をかこむように四つ立てて、結界《けっかい》をつくっていった。
大木の根《ね》もとは、ほかの場所より、すこしはあたたかい。根のすきまに腰《こし》をおろすと、タンダは、ススキの呪具《じゅぐ》を手にもって、目をとじた。
口のなかで呪文《じゅもん》をとなえながら、ゆっくり、ゆっくり、身体《からだ》をゆらしはじめる。身体がゆれるにつれて、腹《はら》の底《そこ》のほうに、魂《たましい》がまるく、まるく、あつまって、ひかりはじめる。
あたたかくなってきた。
腹の底でかたまりとなった魂が、やがて一直線《いっちょくせん》に身体《からだ》の芯《しん》をかけあがり、額《ひたい》の一点《いってん》へつきだした。
ぽうっと、眉間《みけん》がひかり、そこから、するりと光の玉《たま》がすべりでた。光の玉は闇《やみ》のなかでふるえ、ふいに、手をひろげるようにして翼《つばさ》をひらくと、ほそい光の糸の尾《お》をひいて、いっきに虚空《こくう》へとまいあがった。
黄緑がかった光や、青白い光の交差《こうさ》するなかを、タンダは、すりぬけていく。木々の精霊《せいれい》や、鳥たち、虫たちが発《はっ》している命《いのち》の光だ。
はるか上空《じょうくう》にまいあがりながら、タンダは、予想《よそう》していたのとはまったくちがう光景《こうけい》に、おどろいていた。
戦《いくさ》にむけて、あらあらしくとがった心や、無残《むざん》にほりかえされた土、切りたおされた木々が悲鳴《ひめい》をあげる、貧《まず》しく荒涼《こうりよう》とした闇《やみ》を、魂《たましい》の目でみるのではないかと思っていたが、いきなり自分をつつみこんだ闇は、なんともいえぬ、なまなましいにおいと音にみちた闇だった。
木々も草も、草かげ、土中にやどる虫も、鳥も獣《けもの》も、水中の魚たちも水草も、なまめかしいほどに濃厚《のうこう》な、命のにおいをはなっている。
ナヨロ半島《はんとう》は、いつもより、はるかに色あざやかな光にみち、濃《こ》いにおいと、ぶんぶんとうなるような音にあふれていた。
もわっとしたあたたかさが、身体《からだ》をつつむ。
そのなかに、ナユグの水のにおいを感じて、タンダは、はっとした。
(ナユグが、こんなに近くなっている……!)
たとえ、魂《たましい》になったとしても、いつもなら、膜《まく》のむこう側《がわ》にあるように感じる異世界《いせかい》が、いまは、ゆらぐかげろうのように、風景《ふうけい》にいりまじって感じられる。
うっすらとみえるその異界《いかい》の風景に目をこらすうちに、自分がいまみおろしているのが、とてつもない光景《こうけい》であることがわかってきた。
ナユグの山々や谷間《たにま》が、瑠璃色《るりいろ》の水にひたってしまっている。高い山々だけが、その透明《とうめい》な水面《すいめん》からつきだしているのが、まるで、海にうかぶ島のようにみえた。
はるか視界《しかい》のかなたまでひろがっている水のなかに、無数《むすう》の光の大河《たいが》が、ゆっくりと南から北へとながれていた。
その光たちの輝《かがやき》きがあまりにまぶしくて、タンダは目をほそめずにはいられなかった。なんとさまざまな色があるのだろう! 黄色や黄緑、青、橙《だいだい》、赤、紫《むらさき》めいた光もあれば、白い光もある。それらが、脈《みゃく》うつようにひかりながら乱舞《らんぶ》している。
ナユグの光が脈うつと、さえずりにこたえる鳥のように、サグ(この世《よ》)の命の光も脈うつ。
タンダは、全身《ぜんしん》に、ふるえるようなよろこびを感じた。愛《あい》する女とむきあったときのような、鼓動《こどう》のたかまりと、熱《ねつ》を。
春なのだ……と、ふいに、タンダは思った。ナユグに春がきたというのは、こういうこと
[#挿絵(img/02_147.png)入る]
なのだ。
ナヨロ半島《はんとう》だけではない。ロタもカンバルも、この虚空《こくう》からみおろせば、ひとつながりの命《いのち》のかたまりで、そのすべてに、ナユグの春の鼓動《こどう》が、脈《みゃく》うちながらつたわっている。
交尾《こうび》をする獣《けもの》たちのように、あるいは、いっせいに身《み》をふるわせながら産卵《さんらん》する魚たちのように、あたらしい命《いのち》がうまれる波《なみ》が、ナユグにおとずれている。
むせかえるような、その、命の光のなかを、タンダは酔《よ》ったように飛びつづけた。
いくつの山河をこえただろう。あまりに遠くまで飛んできたので、いったい、自分がなんのために飛んでいるのかさえ、わすれそうになる。
(青弓川《あおゆみがわ》をたどるんだ……。)
タンダは、自分にいいきかせた。
(青弓川をたどって都《みやこ》へ。そして、都にきたら、東北へ飛べば、家だ。)
寒くなってきた。
わずかな食事《しょくじ》しかあたえられず、骨《ほね》がきしむような労働《ろうどう》をさせられてきた身体《からだ》は、いつもよりずっとよわっていたのだろう。これほど長い魂《たましい》の飛翔《ひしよう》をするのは、やはり、むりがあったのだ。
まるで鉛《なまり》をくくりつけられたように、翼《つばさ》が重い。はばたくたびに、背《せ》に、ちぎれるような痛《いた》みが走るようになってきた。
タンダはゆるやかに落下《らっか》をはじめた。
歯をくいしぼって滑空《かっくう》し、都《みやこ》の家々の屋根《ゆね》をこするようにして飛びこえていく。
(師匠《ししょう》……。)
家にいてくれ。このつかれ方《かた》では、あなたをさがして、飛びつづけることなどできない。
夢《ゆめ》をみている人びとの、無数《むすう》の魂《たましい》の光のなかをすりぬけながら、タンダは、やがて、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のなかへすべりこんだ。
故郷《ふるさと》の山のにおいが身体《からだ》をつつみ、すこしだけ、身体がらくになってきた。
(あとすこし……あとすこしだ……。)
自分の家がみえはじめたとき、タンダは、ふかい失望《しつぼう》につつまれた。
家は暗く、師匠《ししょう》のあの明るい魂《たましい》の光は、みえなかったからだ。
翼《つばさ》がもう、うごかない。おりるというより、落ちるように、タンダは屋根《やね》をすりぬけて、家のなかへとはいった。
そのとたん、ふわっと明るい光がわきあがり、タンダの身体《からだ》をつつんだ。
(あ……!)
家の四すみに立てられていたススキがひかりながらゆれはじめ、その光の網《あみ》がタンダの魂《たましい》をとらえてたわみ、ゆるやかに、外へとおくりだした。
気がつくと、タンダはふたたび夜空《よぞら》を飛んでいた。網《あみ》につつまれたまま、なにかにひかれて飛んでいっている。無数《むすう》の光にみちた山河をこえて、やがて、身体がゆっくりと、谷間《たにま》へとくだっていく。
青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の北の奥《おく》、青弓川《あおゆみがわ》のサアナン(水源《すいげん》)のほとりに、まぶしいほどにかがやく老婆《ろうば》が両手《りょうて》をひろげて立っていた。
トロガイは、両手でタンダの魂《たましい》を抱きとめると、息《いき》をふきかけながら、ゆすった。
「ほれほれ、へボ弟子《でし》め。こごえて、うごけなくなっとるのか。さあ、あたたまりな。あたたまって、手足をのばすんだよ。」
タンダはふるえながら、手足をのばし、人の姿《すがた》にもどって師匠《ししょう》の前に立った。
トロガイは、タンダの両手をにぎったまま、腹《はら》だたしげにいった。
「まったく、おまえはへボ弟子《でし》だよ! まっても、まっても、飛んでこないで。」
タンダは、笑いだした。
「そんな……! 師匠《ししょう》のほうから、さがしにきてくだされば、もっと早くあえたのに。」
トロガイは、眉《まゆ》をはねあげた。
「ばかぬかせ! この年寄《としより》に、あんな遠くまで飛べというか。魂飛《たまと》ばしなんてのは、若《わか》い者《もの》がやることさ。年寄がやって、あの世へよばれたらどうする!」
そうどなってから、トロガイは、ふいに両手をのばして、タンダの頬《ほお》をつつんだ。
「……よく、ここまできた。よく飛んできた。」
しわだらけの手につつまれて、タンダはのどもとにあついものがこみあげてくるのを感じた。
「師匠《ししょう》、きいてください。師匠につたえねばならないことがあったから、ここまで飛んできたんです……。」
タンダは、せきをきったように話しはじめた。トロガイにいわれたとおり、ナユグの大河《たいが》を追っていったこと。アスラのこと、コチャのこと。そして、おそろしい予想《よそう》のことを。
話しおわると、トロガイは、ふかくうなずいた。
「そうだろう。おまえの考えは、たぶん、あたっている。わしも、そうではないかと思いはじめていたところだ。よく教えてくれたね。村《むら》や街《まち》の呪術師《じゅじゅつし》たちにもはかって、なんとかできぬか、やってみよう。」
タンダは、すこし、心がかるくなるのを感じた。
もうかえらねばならない。身体《からだ》とつながっている糸が、限界《げんかい》だと告《つ》げている。トロガイもそれを感じとって、タンダが鳥の姿《すがた》になるのをてつだってくれた。
タンダの魂《たましい》の鳥を両手につつみこむようにして、トロガイは、つかのま胸《むね》に抱《だ》きよせた。
「……死《し》ぬんじゃないよ、タンダ。かならず、生きて、あの家へかえっておいで。」
そして、呪文《じゅもん》をとなえ、力をつける息《いき》をふきかけながら、トロガイはタンダを天空《てんくう》へとほうりあげた。
タンダははばたきながら、小さくなっていく老婆《ろうば》の姿《すがた》を目にやきつけようとした。いつまでも、自分を目でおっている、小さな老婆の姿を……。
いつのまにか、夜があけはじめていた。
タンダは、がたがたふるえながら、目をあけた。うっすらとただよっている朝もやのなかで、タンダは、両腕《りよううで》でわが身《み》をきつく抱《だ》きしめた。
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4  精霊《せいれい》たちの婚礼《こんれい》
ひんやりと水をふくんだトガルの葉《は》がまぶたにふれた。
「いいよ。目をあけて。」
牧童《ぼくどう》のヨヨにいわれて、カッサは目をあけた。それまで塗《ぬ》りこめた闇《やみ》にしかみえなかった洞窟《どうくつ》の岩壁《がんぺき》が、いまは、いくつもの小さな光にてらされた星空《ほしぞら》のようにみえる。
「感じるかい……みえる?」
ヨヨが、なにかをおこすのをおそれているように、小声でささやいた。
カッサは耳をすまし、目をこらした。ヨヨが自分に感じとらせたいものを、なんとか感じたかった。けれど、いつもとはちがう、なまあたたかさをなんとなく感じるだけで、ヨヨがみせたいものは、いっこうにみえてこなかった。
「ごめん、ヨヨ、なにもみえないよ。」
つぶやくと、ヨヨはため息《いき》をついた。となりで、ヨヨの父親のドドが、かすかに首をふるのがみえた。
(やっぱり、カンバル人にはみえないんだな。)
ヨヨは、自分よりずっと背《せ》が高い、カンバル人の若者《わかもの》をみあげた。もともとは山の底《そこ》にうまれ、この闇《やみ》に属《ぞく》している自分たちと、日の下でうまれたカンバル人とでは、感じるものがちがうのは、しかたがないことだ。
(でも、なんとかこれを、わかってもらわなくちゃ……。)
いまおきている異変《いへん》は、牧童《ぼくどう》たちだけでなく、カンバル人たちの生死《せいし》にかかわることだ。カッサに、事態《じたい》の切実《せつじつ》さをわかってもらわねばならない。そして、カッサの伯父《おじ》であり、このムサ氏族領《しぞくりょう》の氏族長《しぞくちょう》であるカグロの心をうごかしてもらわねばならない。
もし、このまま、雪どけの季節《きせつ》をむかえてしまったら、たいへんなことになる。
「水面《すいめん》をみせたらどうだろうな。」
ふと、ドドがいった。ヨヨは、はっとして、父をみた。
「そうか。水面なら、目にみえるね。」
ヨヨはカッサの手をつかむと、洞窟《どうくつ》の奥《おく》へひっぱっていった。おさないころから、洞窟はおそろしいところだときかされてそだったカッサは、洞窟をまもるヒョウル〈闇《やみ》の守《も》り人《びと》〉たちの真《しん》の姿《すがた》を知ったいまでも、この闇に恐怖《きょうふ》を感じてしまう。ふるえているのをヨヨにさとられまいとしながら、カッサは、だまって、小さな親友《しんゆう》のあとをついていった。
こまかい枝《えだ》のようにわかれている洞窟《どうくつ》の枝道《えだみち》をくぐりぬけ、やがて、彼らは、広い地底湖《ちていこ》のほとりにでた。
むこう側《がわ》は、ぼんやりと闇《やみ》にとけあって、どこまでひろがっているのか見当《けんとう》もつかない。おそるおそる水面《すいめん》に目をむけると、澄《す》んだ水をすかしてみえる斜面《しゃめん》も、はるか深《ふか》い闇《やみ》の底《そこ》へとすべりこんでいた。
「目をこらして、よくみて。波紋《はもん》がみえる?」
ヨヨにいわれて、カッサは水面に目をこらした。すると、ヨヨがいっていたものが、ようやくみえはじめた。
いくつも、いくつも、水面《すいめん》に波紋《はもん》がひろがっている。底《そこ》から泡《あわ》がのぼってくる沼地《ぬまち》で、こういう光景《こうけい》をみたことがあったけれど、どれほど目をこらしても、この澄《す》んだ水には泡などみえない。いったい、なにが水面をふるわせているのだろう? まるで目にみえぬなにかが水のなかで身《み》をふるわせていて、その震《ふる》えが湖面《こめん》につたわっているようだった。
ヨヨたちには、カッサにはみえない、身をふるわせているモノたちの姿《すがた》が、ぼんやりとみえていた。こちら側《がわ》にいる生き物ではない。ノユーク(あちら側)の生き物たちが、かがやきながら、よろこびに身をふるわせて、婚礼《こんれい》の舞《まい》をまっているのだ。
魚ににた精霊《せいれい》、トカゲによくにた、手足と長い尾《お》をもつ精霊、蛇《へび》のような精霊……さまざまなモノたちが、それぞれのやり方《かた》で、婚礼《こんれい》の舞《まい》をまっている。地底湖《ちていこ》のなかだけではない。こちら側《がわ》の岩壁《がんぺき》にも、彼《かれ》らの姿《すがた》はかさなってみえる。こちら側は岩壁でも、彼らにとっては、瑠璃色《るりいろ》の水のなかなのだ。
ノユークのあたたかい水のなかを、精霊《せいれい》たちの大河《たいが》がながれてきて、このユサ山脈《さんみゃく》の山の底《そこ》にひろがる広大《こうだい》なノユークの海にながれこんでから、もうひと月以上も、彼《かれ》らの婚礼《こんれい》の舞《まい》はつづいていた。こちら側《がわ》の生き物では、考えることもできないほど、ながい、ながい、婚礼だった。
――ノユークと、こちらとでは、時の流れがちがうからな。
きっと、婚礼《こんれい》の長さも、ちがうのだろうよ。何カ月もつづくかもしれんぞ。
と、トト長老《ちょうろう》はいった。
ノユークの精霊《せいれい》たちの婚礼の舞《まい》は、こちら側《がわ》のモノたちにも、そのなまめかしい鼓動《こどう》をつたえていた。
はじめて、このユサ山脈《さんみゃく》にノユークの河《かわ》がながれついた夜、南向きの斜面《しゃめん》にならんで、ノユークの精霊《せいれい》たちをでむかえたティティ・ラン〈オコジョを駆《か》る狩人《かりゅうど》〉たちは、その夜から、山の底《そこ》へと姿《すがた》を消《け》した。
日の下にでてもう長い牧童《ぼくどう》たちは、月の夜にオコジョにまたがって狩《か》りをする、虫のように小さな人びとを、チル・カル〈小さな兄弟〉とよんでうやまってきたが、彼《かれ》らがどんな暮《く》らしをしているのか、くわしくは知らない。
ただ、トト長老《ちょうろう》は、先代《せんだい》の長老から、ティティ・ラン〈オコジョを駆《か》る狩人《かりゅうど》〉には、とても長命《ちょうめい》な女王《じょうおう》がいて、何百年かに一度、婚礼《こんれい》をおこない、つぎの女王をうむのだときいたことがあるといっていた。その婚礼がはじまると、彼《かれ》らはいっせいに山の底《そこ》に姿《すがた》を消《け》すのだと。
――きっと、ティティ・ラン〈オコジョを駆《か》る狩人《かりゅうど》〉の婚礼《こんれい》がはじまったのだろうよ。
ノユークの婚礼の季節《きせつ》と、山の民《たみ》とは、ふかくむすびついているのだな……。
トト長老《ちょうろう》はさびしげな声でいったものだ。
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――わしらは、遠いむかしに地の底《そこ》から日の下にでて、牧童《ぼくどう》としてくらすうちに、なかば、カンバル人のようになってしまった。感じられなくなったことも、多いのだろうな。
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それでも、トト長老は、いくつもの言《い》い伝《つた》えをわすれてはいなかった。
ノユークが春になれば、なにがおきるのか……そのことを、わすれてはいなかった。
「あの波紋《はもん》は、いったい、なにがおこしているんだ?」
カッサがふりかえってたずねた。
ヨヨがこたえようとした、そのとき、足もとの岩盤《がんばん》が、ふるえはじめた。まるで、大きな生《い》き物《もの》が身《み》ぶるいしたように、岩盤がゆさゆさとゆれ、頭上《ずじょう》で、なにかがきしむような音がひびいてきた。
「あぶない! 岩が落ちてくるぞ!」
ドドがさけんだ。パラパラッと砂《すな》や小石が落ちてきたかと思うと、バシャーン、バシャーン、と、水面《すいめん》に、いくつもの水しぶきがあがりはじめた。カッサたちの立っているところにも、岩が落ちて、すさまじい音をたててくだけちった。
「水にとびこむんだ!」
ドドが、カッサと息子《むすこ》の背《せ》をおしながらさけび、三人は、水のなかに飛びこんだ。その瞬間《しゅんかん》、落ちてきた岩のかけらが、カッサの額《ひたい》をかすめ、肩《かた》にぶちあたった。その衝撃《しょうげき》でカッサはがばっと水を飲《の》み、闇《やみ》の底《そこ》へしずんでいった。
そのすこしまえ、山すその機織小屋《はたおりごや》では、カンバル人の女たちと、牧童《ぼくどう》の女たちが、口と手を両方《りょうほう》いそがしくうごかしながら、機織《はたおり》をしていた。
カンバルの冬とは思えないような、うららかな日だった。
むかしは、機織より外であそぶはうが好《す》きだったジナが、ちかごろは、機織のおもしろさにめざめて、母といっしょに、毎日《まいにち》、はたらくようになっていた。
兄のカッサが朝から牧童《ぼくどう》のヨヨにひっぱられて、なにやら秘密《ひみつ》めかしてでかけていったのが気にかかっていたけれど、それよりもいまは、なかばまで織《お》りあげた布《ぬの》の模様《もよう》を、頭にうかんだばかりの新しい模様に、どうやってかえていくか、そのことで頭がいっぱいだった。
母に相談《そうだん》しょうと、声をかけようとしたとき、となりの機《はた》にすわって、さかんにジナの母と話をしていたヨヨの母が、ふいに話をやめた。
小屋《こや》のなかにいた牧童《ぼくどう》の女たちが、いっせいに手をとめ、たがいの顔をみた。
「きこえたかい?」
ひとりがいうと、みんな、うなずいた。だれもがあおざめた顔をしている。カンバル人の女たちは、なにごとがおきたのかわからぬまま、不審《ふしん》そうな顔で牧童の女たちをみていた。
ヨヨの母は、椅子《いす》をけたおすようにして立ちあがると、外にとびだしていった。
それから、わずかの間《ま》をおいて彼女《かのじょ》はもどってくると、小屋《こや》の扉《とびら》を大きくあけはなって、どなった。
「みんな! 外へでるんだよ! いそいで! おおいそぎだよ!」
牧童《ぼくどう》の女たちは、まるでヤギを追うときのように、気合《きあい》いをこめてカンバル人の女たちを追いたて、女たちは、わけがわからぬまま、足もとであそんでいるおさない子どもたちを抱《だ》きあげて外へでた。
ずらっとならんでいる機織小屋《はたおりごや》のすべての戸があいて、女たちが牧童《ぼくどう》の女たちに追われて、とびだしてきた。牧童の女たちはヤギ囲《かこ》いの柵《さく》をあけて、ヤギまで外へ追いだしている。
「あれをみて!」
だれかがさけんだ。
女がゆびさしているほうをみたジナは、身体《からだ》がこおりつくような恐怖《きょうふ》を感じて、たちすくんだ。
すぐ目の前の雪の斜面《しゃめん》が一面《いちめん》、白い煙《けむり》につつまれている。その煙がどんどん大きくなり、
こちらへとすべりおちてくる。
「雪崩《なだれ》よ!」
女たちは、子どもをかかえたまま、ひっしに走りはじめた。人の前を、ヤギたちがかろやかにかけていく。
まるで激流《げきりゅう》がながれくだるように、白い煙《けむり》をまいあげながら雪崩《なだれ》は斜面《しゃめん》をかけくだり、雪崩よけの石積《いしずみ》みをおしたおし、のりこえ、ヤギの囲《かこ》いをくだき、機織小屋《はたおりごや》をおしつぶした。
牧童《ぼくどう》の女たちが、うまく雪崩がこない方向をみさだめて女たちを退いたてていなかったら、
[#挿絵(img/02_161.png)入る]
女たちの多くが雪崩《なだれ》にのまれていただろう。
雪崩がようやくとまったとき、女たちは、ふりかえって、すこしまえまで自分たちがいたところが、雪原にかわってしまっているのをぼうぜんとみつめた。
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5  異変《いへん》の前兆《ぜんちょう》
ムサ氏族長《しぞくちょう》カグロの館《やかた》には、日が暮れても、つぎつぎに人がおとずれ、不安《ふあん》なざわめきにつつまれていた。
雪崩《なだれ》におしつぶされ、機織小屋《はたおりごや》をうしなったことは、ジナたちの(郷《さと》)の人びとの暮らしにとって大きな痛手《いたで》だったけれど、死者《ししゃ》もけが人もでず、ヤギも無事《ぶじ》だったことで、人びとは牧童《ぼくどう》の女たちに、しきりに感謝《かんしゃ》していた。
あの人たちは、ほら、耳がさといから……。女たちは、興奮《こうふん》さめやらぬようすで、そんなことをいいあっていた。
館《やかた》の広間《ひろま》で、氏族《しぞく》の者《もの》たちの話をきき、これからの対応《たいおう》を検討《けんとう》していたカグロは、廊下のほうで、きゅうに、なにかこれまでとはちがうざわめきがおこったことに気づいて顔をあげた。多くの長靴《ちょうか》が廊下をうつ足音がひびいてきて、やがて、戸板《といた》にのせられた若者《わかもの》が、広間にはこびこまれてきた。
血《ち》の気《け》のまったくない、その若者《わかもの》の顔をみて、カグロは目をみひらいた。
「カッサではないか! どうした!」
男たちが、広間《ひろま》の暖炉《だんろ》の前にカッサをのせた戸板《といた》をおろすと、よばれてかけつけてきたらしい、館《やかた》の医術師《いじゅつし》が、カッサのわきに膝《ひざ》をついた。
カッサのそばにつきそってきた牧童《ぼくどう》のヨヨが、医術師にいった。
「岩が頭にあたって、それから鎖骨《さこつ》を折《お》りました。水のなかにいたので、水も飲《の》んでしまって、こごえています。おれたちが水をはかせて、息《いき》はふきかえしたし、すぐに身体《からだ》もあたためたから、命《いのち》はだいじょうぶだと思うけど、骨《ほね》が……。」
カッサのそばにいこうとしたカグロは、ふいに、自分の袖《そで》をだれかがひっぱったのを感じた。ふりかえると、しなびたような牧童《ぼくどう》の老人《ろうじん》が立っていた。
カグロはおどろいて、老人をみつめた。老人は、口に指をあてて、しずかに、というしぐさをすると、カグロの袖《そで》をふたたびひっぱった。
氏族《しぞく》の男たちがいるこの場では、話せない話をしたがっているのだとさっして、カグロはうなずいた。そして、そっと牧童《ぼくどう》の長老《ちょうろう》をとなりの部屋《へや》へみちびきいれ、だれもはいってこないよう扉《とびら》に鍵《かぎ》をかった。
倹約《けんやく》するために、埋《うず》み火《び》にしておいた暖炉《だんろ》の灰《はい》をかきおこし、火の前においた椅子《いす》にすわるよう老人《ろうじん》にすすめながら、カグロはひくい声でいった。
「トト長老《ちょうろう》、あなたが、みずからこの館《やかた》へやってこられるとは……。」
ムサ氏族長《しぞくちょう》であるカグロが、牧童《ぼくどう》の老人ごときに敬語《けいご》をつかうのをきいたら、氏族の男たちはびっくりするだろう。
しかし、カグロは、目の前にいる、そまつなヤギ皮《がわ》の衣《ころも》をまとった小さな老人が、カンバル全体《ぜんたい》の牧童《ぼくどう》たちの最長老《さいちょうろう》であり、ユサ山脈《さんみゃく》を統《す》べる〈山《やま》の王《おう》〉の民《たみ》であることを知っていた。
〈山の王〉は、みずから青くひかる宝石《ほうせき》ルイシャ〈青光石《せいこうせき》〉をカンバル王にあたえ、カンバル王はその宝石を売って、大量《たいりょう》の穀物《こくもつ》を買いいれる。穀物がほとんどとれぬこの貧《まず》しい山国《やまぐに》で、〈山の王〉からの贈《おく》り物《もの》は、すべての民《たみ》をやしなう、たいせつな宝《たから》だった。
〈山の王〉は、しかし、ただ贈《おく》り物《もの》をくれるわけではない。ルイシャ〈青光石《せいこうせき》〉を得《え》るためには、カンバル王は、〈山の王〉に心からの誠意《せいい》をみせるとともに、民《たみ》の同意《どうい》のもとに王になったのだということを、しめさねばならないのだ。
カンバル王は、〈王《おう》の槍《やり》〉とよばれる、カンバル最強《さいきょう》の短槍使《たんそうづか》いたちからみとめられなければ王にはなれない。この〈王の槍〉のなかでも最強《さいきょう》の者《もの》が舞《ま》い手《て》となり、山の底《そこ》の深《ふか》い闇《やみ》のなかで、山の王の家臣《かしん》であるヒョウル〈闇《やみ》の守《も》り人《びと》〉と槍舞《やりま》いをまって心をひらかせることができて、はじめて、ルイシャ〈青光石〉はおくられるのだ。
四年まえ、山の底《そこ》でヒョウル〈闇《やみ》の守《も》り人《びと》〉と槍舞《やりま》いをまったのは、〈王《おう》の槍《やり》〉ではなく、カグロの亡弟《ぼうてい》の養《やしな》い娘《むすめ》のバルサだった。カグロは、その一部始終《いちぶしじゅう》にかかわるなかで、ふつうなら、王と〈王の槍〉以外の者にはあかされることがない牧童《ぼくどう》たちの秘密《ひみつ》を、かいまみることとなった。
「氏族《しぞく》の父よ……。」
トト長老《ちょうろう》が、かぼそい声でよびかけた。
「まずは、あやまらねばならぬ。われらがついていながら、カッサにあんなけがをさせてしまった。かわいそうなことをした。」
カグロは眉《まゆ》をひそめた。そういう表情《ひょうじょう》をすると、右目から顎《あご》にかけてひきつれている古傷《ふるぎず》がゆがんで、彼《かれ》の顔はふだんよりもっと、暗《くら》く、きびしくみえた。
「あなた方《がた》が、カッサとともにいた……とは? なにか、とくべつな用《よう》があったのですか。」
トト長老《ちょうろう》はうなずいた。
「ほんとうは、カッサから、あなたにつたえてもらうつもりでおった。カッサはああいう実直《じっちょく》な男だから、彼《かれ》がつたえれば、あなたにも信《しん》じてもらえると思ったからだ。
だが、もう、そんな悠長《ゆうちょう》なことをしておられなくなった。――わしが思っていたより、はるかに早く、はるかにつよく、異変《いへん》の波《なみ》が母なるユサの山並《やまな》みをゆすっている。」
カグロは、いっそう眉《まゆ》をひそめた。
「異変《いへん》の波《なみ》ですと?」
「そう。……これから春にかけて、たいへんな異変がユサの山並《ゆまな》みをおそうのだ。」
トト長老《ちょうろう》は、いってよいことと、秘《ひ》するべきことを、心のなかでわけながら、ゆっくりと、話しはじめた。
「あなたは、ノユークを知っているかね?」
カグロは、首をふった。
「ノユーク……? 〈ノユークの陽《ひ》だまり〉の、ノユークですか?」
ずっとむかし、雪のなかを歩いていて、ふいに、ほかの場所よりあたたかいところへでたとき、祖母《そぼ》がそんなふうにいったのをカグロは思いだしながらいった。
トト長老《ちょうろう》はかすかに笑《え》みをうかべた。
「そう。そのノユークだよ。この世《よ》には、ふたつの世界がある。いま、ここにあるこの世界と、ふだんは目にみえないが、たしかにここにかさなってある、もうひとつの世界が。
わしらは、その目にみえぬ世界をノユークとよぶ。……〈山《やま》の王《おう》〉がおられるのも、このノユークなのだ。」
カグロはまばたきをした。〈王《おう》の槍《やり》〉ではないカグロにとって、〈山の王〉の話は、ふれることをゆるされぬ神聖《しんせい》なる禁忌《きんき》だった。
トト長老《ちょうろう》は、カグロの緊張《きんちょう》を感じながら、言葉《ことば》をついだ。
「もう、ひと月以上もまえのこと。ノユークの大河《たいが》が、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》をこえて、この地にながれてきた。ながれてきた………というのは、うまいいい方《かた》ではないかもしれん。もともと、ノユークの河《かわ》は、ユサ山脈《さんみゃく》の底《そこ》とつながっているから。
たぶん、ノユークの河の水量《すいりよう》がふえたのだ。ちゃぷちゃぷと水かさをまして、ずんずん水面《すいめん》があがってきて、いまは、オックル岳《だけ》の山頂《さんちょう》までノユークの水にひたってしまっている。」
カグロは、あっけにとられて、そのふしぎな話をきいていた。オックル岳というのは、ユサ山脈《さんみゃく》の一部で、それほど高い山ではない。それでも、人がのぼれるような低い山ではなく、この館《やかた》からもみえる、うつくしい雪《ゆき》の峰《みね》だった。
ふと、カグロは、|今日《きょう》|雪崩《なだれ》がおきたのがそのオックル岳《だけ》の中腹《ちゅうふく》だったことを思いだした。
「では、今日の雪崩は、そのノユークの河とやらと、かかわりがあると?」
トト長老《ちようろう》はふかくうなずいた。
「そう。数年まえからノユークに春がおとずれている。長い、長い春のはじまりだ。ノユークの河の水は、ふだんよりずっとあたたかく、そのために、こちら側《がわ》も、あたたかくなってきている。
気づいておられんかね? この冬が、みょうにあたたかいことに?」
カグロはうなった。たしかに、今年《ことし》の冬はあたたかい。ふだんなら、雪《ゆき》がかたくこおりつくはずのこの季節《きせつ》に雪崩《なだれ》がおきたのも、そのせいではないかと、さっき話していたばかりだ。
トト長老《ちょうろう》は、暗《くら》い表情《ひょうじよう》でうつむいている。
「ノユークに春がおとずれるのは、めでたいことだ。ノユークの春は、婚礼《こんれい》の季節《きせつ》でもある。多くの精霊《せいれい》たちが、よろこびに身《み》をふるわせて、婚礼の舞《ま》をまっている……。」
トト長老《ちようろう》は、顔《かお》をあげて、カグロをみつめた。
「しかし、これは、わしらのような、山のふもとでくらす者《もの》たちにとっては、おそろしいことでもあるのだ。」
「おそろしい?」
トト長老《ちょうろう》はふかくうなずいた。
「山が、ゆすられている。あたたかいノユークの大河《たいが》を、まるでウンカの群《む》れのように、たくさん、たくさん、わたってきたものたちが、ずうっと広く、この地にひろがって、いっせいに婚礼《こんれい》の舞《まい》をまっているからだ。それは、わしらが想像《そうぞう》していたより、はるかに大きな波となって、山をゆすっている。――山々の内側《うちがわ》では、岩壁《がんぺき》がきしんで割《わ》れ、いままでなかった裂《さ》け目《め》ができ、地下水《ちかすい》のあたらしい流れがうまれはじめておる。」
トト長老《ちょうろう》の目にある不安《ふあん》の色が、カグロの胸《むね》をざわめかせた。トト長老はしずかにつづけた。
「わしは、すべての牧童《ぼくどう》にふれ[#「ふれ」に傍点]をまわし、山のなかがどうなっておるかしらべさせてきた。その答えが、つぎつぎにもどってきている。はるか西のヨント氏族《しぞく》からも、昨夜《さくや》とどいた。
カンバルの西のほう、ヨントやヨンガの氏族領《しぞくれょう》はそれほどでもないが、あとの氏族領の山々の地下にひろがる洞窟《どうくつ》は、みな、ノユークのあたたかい大河《たいが》にゆすられて、亀裂《きれつ》ができているところがある。……だが、もっともひどいのは、ここ、ムサ氏族領と、となりのヨンサ氏族領、そして、王の氏族領だ。」
カグロは顔をしかめたまま、つぶやいた。
「もっともひどいとは、亀裂《きれつ》が多くうまれているということですか? ここの山々の底《そこ》に。」
うなずいて、トト長老《ちょうろう》は、しばし、まぶたをとじた。それから、目をあけると、カグロをみあげた。
「氏族《しぞく》の父よ。――雪どけの季節《きせつ》がきたら、この地はたいへんなことになる。
ふだんよりあたたかいぷん雪どけも早く、雪どけ水も多いだろう。いつもなら地にしみこみ、川《かわ》や泉《いずみ》となって、われらをうるおしてくれる雪どけ水が、もろくなった岩の裂《さ》け目《め》を割《わ》りひろげて、あちらこちらから、ふきだしてくるにちがいない。
地がゆれ、雪崩《なだれ》も、たくさんおきる。川の水量《すいりょう》がまし、畑《はたけ》がながされ、地崩《じくず》れもおきる。
逃げなければ、多くの人死《ひとじ》にが、でるだろう。」
カグロは声もなく、トト長老《ちょうろう》のしわだらけの顔をみつめていた。
息《いき》をすい、くちびるをしめして、カグロはおしだすようにいった。
「信《しん》じられん。」
トト長老は顔をしかめて、カグロをみつめかえした。
「信じてもらわねばならん。わしは、身内《みうち》のようなあなた方《がた》に、雪崩《なだれ》や地崩《じくず》れにまきこまれて死《し》んでほしくないのだ。全員《ぜんいん》が逃《に》げねばならぬわけではないが、すくなくとも、わしらが、あぶないと判断《はんだん》した場所にある(郷《さと》)の者《もの》たちは、逃げてほしいのだ。」
しばらく、ふたりは、だまってみつめあった。
やがて、目をゆらしたのは、カグロのほうだった。
「――逃《に》げるといっても、どこへ。どこならば、その災《わざわ》いにおそわれずにすむのです?」
長いあいだ考えてきたことなのだろう。トト長老《ちょうろう》は即答《そくとう》した。
「西へ。東の山脈《さんみゃく》はけわしすぎて、人はくらせない。」
「西といっても……。」
カグロの声にかぶせるように、トト長老《ちょうろう》はつづけた。
「ヨンサや王《おう》の氏族領《しぞくりょう》も、あぶない場所がたくさんある。」
カグロはあおざめた顔で、ききかえした。
「王の氏族領もですと? 王都《おうと》は……どうなのです?」
「王城《おうじょう》をささえている岩盤《がんばん》は、とてもかたいから、王都じたいは、たぷん、だいじょうぶだろう。けれど、王都の南の(郷《さと》)は、あぶない。」
そういってから、トト長老《ちようろう》は、しばらくためらっていたが、やがて、思いきったようにつづけた。
「――じつは、わしらが、もっともおそれておるのは、〈山《やま》の王《おう》〉の婚礼《こんれい》なのだ。」
カグロは目をみひらいた。トト長老はひくい声でささやくようにいった。
「〈山の王〉の宮殿《きゅうでん》は、王城《おうじょう》の真下《ました》にある。小さな精霊《せいれい》たちの婚礼《こんれい》でも、これほどに地がゆすられるなら、〈山の王〉の婚礼がはじまったら、なにがおきるか……たしかなことは、わしらにも、わからんのだ。」
かなしげな目をして、トト長老《ちょうろう》はカグロをみあげていた。
「ずっと、ずっとむかし、〈山《やま》の王《おう》〉が婚礼《こんれい》の舞《まい》をまったとき、地がゆれ、水がふきあげ、天に虹《にじ》がかかったという言《い》い伝《つた》えがある。……はずかしいことだが、わしらも、それしかつたえきいておらん。」
カグロは顎《あご》に手をあてて、考えこんだ。長いこと、そうやって考えていたが、やがて、いらだたしげに、首をふった。
「たとえ、あなたのお話を信《しん》じたとしても、この時期《じき》に氏族《しぞく》の多くをべつの地にうつすなど、夢物語《ゆめものがたり》だ。それも、ムサ氏族領《しぞくりょう》だけでなく、ヨンサや、王の氏族もとなれば……。」
膝《ひざ》をつかんでいる手に力をこめて、カグロはひとり言《ごと》のようにつづけた。
「いつもの年であれば、新《しん》ヨゴやロタに出稼《でかせ》ぎにだすという手もあっただろうに。なんという間《ま》のわるさだ……!」
それをきいて、トト長老《ちょうろう》は眉《まゆ》をひそめた。
「ロタはいいが、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》はだめだ。」
カグロは顔をしかめて、はきだすようにいった。
「わかっています。あの国は鎖国《さこく》をしている……。」
その言葉をさえぎるように、トト長老はいった。
「そうじゃない。新ヨゴ皇国というのは青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のふもとにひろがっているのだろう? ならば、ここよりも、なおわるい。ユサ山脈の雪どけ水と青霧山脈の雪どけ水が、いっきにかけくだっていくのだから。」
カグロは、だまってトト長老《ちょうろう》をみつめた。
牧童《ぼくどう》たちは、自分たちとはちがう目でこの世《よ》をみている。だからこそ、彼《かれ》らのいうことを無視《むし》することはできなかった。カグロは、腹《はら》の底《そこ》から震《ふる》えがこみあげてくるのを感じた。
(水の災《わざわ》いと、戦《いくさ》の災いと……。)
ふたつの災いに自分たちははさまれてしまっている。
牧童《ぼくどう》たちが、知らないこともある。――南の大陸《たいりく》から攻《せ》めてくる敵《てき》のこと。王がなにを考えておられるか……。
カグロは古傷《ふるきず》を片手《かたて》でおおった。
(――なにがおころうと、わたしは、ムサ氏族《しぞく》の民《たみ》をまもらねばならぬ。)
そのために、なにをすべきか、カグロは床《ゆか》を凝視《ぎょうし》しながら、考えつづけていた。
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1  裏切《うらぎ》りの裏側《うらがわ》
目をさましたとき、つかのま、バルサは自分がどこにいるのか、わからなかった。
あたりはうすぐらく、火が燃《も》える音がきこえ、火かげが壁《かべ》にゆらめくのがみえた。
やわらかな麻《あさ》の枕《まくら》が頬《ほお》にあたっている。ワラ布団《ぶとん》のようなものの上に寝《ね》かされているらしい。しかし、ただ、よこたわっているのではない。がっちりとした太い縄《なわ》で、肘《ひじ》のやや上あたりをぐるぐるとしばられてしまっている。
身体《からだ》を起こそうとすると、頭にずきり、と痛《いた》みがはしった。うめきながら、身体を折《お》るようにして、ようやく半身《はんしん》を上におこしたが、それ以上はうごけなかった。身体をしばっている縄《なわ》のはしが、背後《はいご》のなにかにむすばれているらしい。
「バルサ!」
声がしたほうをすかしみると、チャグムの姿《すがた》がみえた。ワラ布団《ぶとん》の上にすわっている。やはり、身体《からだ》を縄《なわ》でしばられ、太《ふと》い柱《はしら》につながれていた。
どうも、地下《ちか》の食物倉《しょくもつぐら》のなかにいるようだった。壁際《かべぎわ》に樽《たる》がたくさんならび、天井《てんじょう》から燻製肉《くんせいにく》がぶらさがっている。背中《せなか》で手首をしばっている縄《なわ》に、かすかになにかがふれたような感じがあった。縄に、小さな振動《しんどう》がつたわってくる。ネズミかなにかが縄にふれているようだった。食物倉だ。ネズミもたくさんいるのだろう。
右手の壁《かべ》に鉄製《てつせい》の松明《たいまつ》立てがあり、ななめになった松明がバチバチと音をたてて燃《も》えていた。炎《ほのお》がゆらめいているところをみると、どこかに小さな窓《まと゜》でもあいているのだろう。たえられないほどではないが、かなり寒い。
「バルサ、だいじょうぶ?」
チャグムの不安《ふあん》そうな声に、バルサは、ゆっくりとこたえた。
「どうやらね。……頭痛《ずつう》はひどいけど、頭は割《わ》れていないらしい。」
自分の声をきくうちに、なにがおきたのかを思いだしてきた。
「――もうしわけない。わたしは、とんでもない失策《しっさく》をしたらしいね。」
チャグムは、ため息《いき》をついた。
「バルサのせいじゃない。わかりようがないもの。あの内通者《ないつうしゃ》が、ジグロの甥《おい》だったなんて。」
こたえようとして、バルサは、はっと口をつぐんだ。――足音がきこえてきたからだ。
ギィッときしみながら戸がおしあけられ、あかりを手にもってカームがはいってきた。
樽《たる》の上に獣脂《じゅし》ろうそくをおくと、カームは、バルサとチャグムにむきあった。わずかなあかりでも、その顔にうかんでいる苦悩《くのう》のふかさは、はっきりとみることができた。
「……できることなら、こんなことはしたくなかったのだが。」
カームは、かすれた声でいった。
「命《いのち》をとるつもりはない。だが、すべてがおわるまで、チャグム殿下《でんか》にはここにいていただかねばならない。」
チャグムは燃《も》えるような目でカームをにらみつけていたが、怒《いか》りのあまり、声もでないようだった。
バルサが、はきすてるようにいった。
「あんたが、タルシュと内通《ないつう》して、故国《ここく》を売るような男だったとはね。……みそこなったよ。」
カームの頬《ほお》の筋肉《きんにく》がもりあがった。息《いき》をすい、カームは太い声でいった。
「わたしは、故国《ここく》を売ったりしない。――故国をまもるために最善《さいぜん》の道をさがしつづけて、考えて、考えぬいたすえに、この方法をえらんだのだ。
それに、王《おう》をうらぎって内通《ないつう》したわけでもない。王はすべてごぞんじで、わたしの考えを支持《しじ》してくださっている。」
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カームのまなざしは、ゆれていなかった。
バルサは、きょう、ちらっとみた王城《おうじょう》のようすを思いだした。そういえば、たくさんの騎馬《きば》が出入りし、まるで戦《しくさ》じたくをしているような緊張感《きんちょうかん》につつまれていた。
(カームは、嘘《うそ》はいっていない。)
彼《かれ》は、たくみに嘘をつける男ではない。とすれば、カームの言葉どおり、カンバル王はもう、タルシュにつくことをえらんでしまったのか……
重い心のつかえをはきだすように、カームは自分がとった行動《こうどう》の理由《りゆう》をはなしはじめた。
「この国のなかにいると、なかなか外の世界の事情《じじょう》がきこえてこない。
だが、わたしはここ数年、ロタ王《おう》の王城《おうじょう》で、北の大陸《ていりく》の状況《じょうきょう》とタルシュ帝国《ていこく》の動《うご》きを見聞きする機会《きかい》があった。
とくに、南部の大領主《だいりょうしゅ》たちが教えてくれる話は、じつに多様《たよう》で、実《み》のあるものだった。
もともと、ルイシャ(青光石《せいこうせき》)を買いとって穀物《こくもつ》を売ってくれるのは、ゆたかな穀倉地帯《こくそうちたい》をもつ南部の大領主たちなのだ。われらカンバル人は北部よりも、南部とつながりがふかい。
彼《かれ》らは、サンガル王国《おうこく》がやぶれ、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》がタルシュ帝国《ていこく》の大軍《たいぐん》に攻《せ》められようとしていることを教えてくれた。新ヨゴ皇国がやぶれれば、やがては、タルシュの手は、われらの国にものびてくるだろうと。
カンバルの武人《ぶじん》たちは勇敢《ゆうかん》だ。命《いのち》をおしむことはない。しかし、タルシュの兵力《へいりょく》は二十|万《まん》だという。十|倍《ばい》もの兵力をもつ相手《あいて》との、しかも何年にもおよぶ戦《いくさ》なのだとしたら……。」
暗い目で、カームはバルサにいった。
「あなたなら、わかるだろう。この国は、長い戦《いくさ》にはたえられない。ロタ南部や新《しん》ヨゴからの穀物《こくもつ》の供給《きょうきゅう》をたたれてしまったら、民《たみ》は飢《う》えてしまう。
いったいどうすれば、カンバルの国土《こくど》をまもれるのか。〈王《おう》の槍《やり》〉として、たいせつな……。」
いいさして、カームは言葉をにごした。
「……聖地《せいち》を異国《いこく》におかされることなくまもることができるのか。王も、わたしたち〈王の槍〉も、ひっしに考えてきたのだ。」
バルサには、カームが口にするのをさけた言葉がなにか、わかっていた。チャグムがきいているので、はっきりといわなかったのだろう。 タルシュ兵《へい》がカンバルに攻《せ》めこんだら、かならず、貴重《きちょう》な宝石《ほうせき》であるルイシャ〈青光石《せいこうせき》〉をほろうと地の底《そこ》への侵入《しんにゅう》がはじまる。それは、〈山の王〉の聖《せい》なる領界《りょういき》をけがす蛮行《ばんこう》だ。
そんな行為《こうい》をゆるせば、二度とルイシャ〈青光石〉はおくられなくなるだろう。
一命《いちめい》を賭《と》しても〈山《やま》の王《おう》〉の秘儀《ひぎ》をまもることを誓《ちか》い、死《し》すれば山の底にかえって、山の闇《やみ》をまもるヒョウル〈闇の守《も》り人《びと》〉となる〈王《おう》の槍《やり》〉として、カームは、タルシュがカンバルに侵攻《しんこう》するのをふせごうとしている、といいたいのだ。
バルサは、眉《まゆ》をひそめた。
「どうも、よくわからないのだけどね。タルシュにくっすることで、いったいどうやって、この国と、〈山《やま》の王《おう》〉をまもれるんだね?」
「それは……。」
いいかけたカームの言葉を、ふいに、チャグムのよくとおる声が、さえぎった。
「ロタ|王国侵攻《おうこくしんこう》に協力《きょうりょく》し、たたかわずにカンバル王国を枝国《しこく》とすることを約束《やくそく》すれば、自治権《じちけん》をあたえるといわれたのだろう。」
カームの目がゆれた。
チャグムはカームをみすえて、するどい口調《くちょう》でいった。
「ちがうか?――自国《じこく》をまもるために、あなたは他国《たこく》をほろぼす手だすけをするつもりなのだ。」
カームはこぶしをにぎりしめた。
「失礼《しつれい》だが、異国《いこく》の者《もの》であるあなたには、わからぬことが、この国にはある。それをまもることこそ、〈王《おう》の槍《やり》〉の使命なのだ。」
チャグムは、カームをみつめたまま、首をふった。
「〈王《おう》の槍《やり》〉の使命《しめい》がなんであるかなど、たしかに、わたしは知らぬ。
だが、よく知っていることがある。――タルシュの約束《やくそく》する自治権《じちけん》など、絵空《えそら》ごとだ。いったん彼《かれ》らに膝《ひざ》をくっしたら、彼らは巧妙《こうみょう》に、そして徹底的《てっていてき》に支配《しはい》をはじめる。わたしは、この目で、それをみてきたのだ!」
紅潮《こうちょう》した顔で、目をひからせて、どなっているチャグムを、バルサはぽうぜんとみていた。チャグムの声には、まるで奔流《ほんりゅう》のようないきおいがあった。
「あなたは南の大陸《たいりく》がどうなっているか、みたことがあるか? わたしはタルシュの密偵《みってい》にとらえられ、ラウル王子《おうじ》の前にひきだされた。彼《かれ》の手からのがれるまでの、長い、長い旅のあいだに、わたしはタルシュ帝国《ていこく》をみ、枝国《しこく》をみてきたのだ。」
カームは気《け》おされたようにだまって、まだ若《わか》い、皇太子《こうたいし》の言葉をきいていた。
「タルシュ帝国《ていこく》はたしかに巨大《きょだい》だ。われらの国とはくらべものにならぬ富《とみ》と力をもっている。
しかし、枝国《しこく》にされた国の民《たみ》は、他国《たこく》を侵略《しんりゃく》する戦費《せんぴ》を重い税《ぜい》で負担《ふたん》し、親兄弟を徴兵《ちょうへい》されているのだぞ。タルシュ帝国のための戦《いくさ》で死《し》んだ、枝国兵たちの葬送《そうそう》の行列《ぎょうれつ》を、同胞《どうほう》たちがどんな思いでみおくるか、あなたは考えたことがあるか!」
カームは、くちびるをふるわせて、つぶやくようにいった。
「……われらの対応《たいおう》しだいでは。」
その言葉を、また、チャグムはさえぎった。
「税《ぜい》は軽減《けいげん》するといわれたのだろう? たたかわずに協力《きょうりょく》すれば、戦費《せんぴ》がかからぬからと。
わたしも、そういわれた。――あなたが提示《ていじ》された条件《じょうけん》は、すべて、わたしも提示されたものだ。」
チャグムの声は、怒《いか》りにふるえていた。
「わたしが、まよわなかったと思うか? あなたの国とちがい、わたしの国はまっさきに攻《せ》められる国だ。民《たみ》が殺《ころ》され、街《まち》に火をはなたれるさまが、わたしの心にうかばなかったと思うか?
ラウル王子《おうじ》は、わたしの母を斬《き》りころし、おさない妹の手足を斬りおとして、泣《な》きさけぶさまを、わたしにみせるといったのだ。――わたしのまもりたいものは、あなたのまもりたいものより、おとると思うか?」
カームは、つぶやいた。
「……それなのに、なぜ、あなたは、その提案《ていあん》を……ことわったのです?」
チャグムはよくひかる目でカームをみつめ、ひと言《こと》、ひと言、おしだすようにいった。
「なぜなら、その提案《ていあん》で、わずかにまもれるものは、われら皇族《こうぞく》の命《いのち》と特権《とっけん》だけだからだ。
彼《かれ》らが、サンガル王や、わたしのような者《もの》にちらつかせる自治権《じちけん》とは、おまえたちの民《たみ》を、まえとおなじようにおさめていてよいぞ、ということだ。
だが、それは、くだらぬ幻《まぼろし》だ。そうではないか? ――自国《じこく》の民《たみ》を、他国《たこく》との戦《いくさ》のためにさしだし、税《ぜい》の加減《かげん》さえしてやれぬような自治《じち》など、どこが自治だ?」
チャグムは、大きく息《いき》をすうと、たたきつけるようにいった。
「タルシュ帝国《ていこく》の枝国《しこく》になってしまえば、ぜったいに自治などまもれない。――利益《りえき》がほしいから、彼らは、はるばる広大《こうだい》な海《うみ》をわたって、膨大《ぼうだい》な戦費《せんぴ》をついやして、攻《せ》めるのだ。この国がほしいから、攻めるのだ。
知っているか? 自治《じち》を約束《やくそく》されたはずのサンガルの島々には、強固《きょうこ》な砦《とりで》がきずかれ、タルシュ兵《へい》と枝国兵《しこくへい》が、サンガル兵を枝国兵にくみいれる訓練《くんれん》をはじめている。あのしたたかなサンガルの王族《おうぞく》たちでさえ、あざむかれたわけだ。
いったん、彼《かれ》らの手の下にはいってしまったら……抵抗《ていこう》する牙《きば》をうしなってしまったら、あとは、いいようにされるだけだ。」
カームは、声をうしなって立ちつくしていた。
そろそろと手を顔にあて、ぼうぜんとした表情《ひょうじょう》で額《ひたい》をぬぐうと、カームはつぶやいた。
「だから、戦《いくさ》をえらぶと? 二十|万《まん》の大軍《たいぐん》を相手《あいて》に? ――ぼろぼろになって敗戦《はいせん》し、支配《しはい》されるほうを、えらぶと?」
チャグムは、たたきつけるようにいった。
「名だかいカンバルの〈王《おう》の槍《やり》〉たるものが、なさけないことをいうな! まだ、負けるときまったわけではなかろう! ロタ王《おう》はカンバル王との同盟《どうめい》をのぞんでおられる。ロタとカンバルが手をむすべは、強固《きょうこ》な壁《かべ》ができるではないか!」
カームの顔に、さっと朱《しゅ》がさした。しばらく、カームはだまってチャグムをみつめていたが、やがて、むりにおさえた声でいった。
「………ロタ王がおすこやかで、ロタが二分《にぶん》していないころであれば、それは、すばらしい策《さく》だろう。わたしたちも、それを考えなかったわけではない。
だが、ロタ王は病《やまい》にたおれ、あとをまかされたイーハン王子《おうじ》は、貧《まず》しい北部とむすぴつき、ゆたかな南部の大領主《だいりょうしゅ》たちとの戦《いくさ》の危機《きき》にある。
戦がおきてしまえば、タルシュの大軍《たいぐん》にあとおしされている南部連合《なんぶれんごう》が、圧倒的《あっとうてき》に有利《ゆうり》だ。負け馬に、国の未来《みらい》を賭《か》けるわけにはいかない。」
ふいに、チャグムが笑《わら》いだしたので、カームはおどろいて、まじまじとチャグムをみた。
「なにがおかしいのです?」
チャグムは、まだ笑《え》みをうかべたまま、首をふった。
「あなたの言葉が、スーアン大領主《だいりょうしゅ》の息子《むすこ》の言葉《ことば》とあまりにもそっくりなのが、おかしかったのだ。彼《かれ》は、わたしにもおなじようなことをいった。たしかに、彼の言葉だけきいていれば、南部は圧倒的《あっとうてき》につよいように思える。」
チャグムは笑《え》みをおさめ、きつい光をうかべた目でカームをみつめた。
「だが、彼らはタルシュの大軍《たいぐん》のあとおしなどうけていない。そうみせかけているだけだ。カシャル〈猟犬《りょうけん》〉たちに事情《じじょう》をきいたから、まちがいない。――彼らが手をむすんでいるのはハザール王子《おうじ》の側《がわ》で、ラウル王子側ではないのだから。」
なにをいっているのか、よくわからないという顔で、カームは、まばたきした。
「それはどういう……。」
眉をひそめて、カームがいいかけたとき、ふいに、バルサがさけんだ。
「カーム、あぶない!」
背後《はいご》の戸《と》がけりあけられ、黒い影《かげ》がとびこんできた。
カームがふりかえった瞬間《しゅんかん》、影はカームの耳の下を、鞘《さや》をしたままの刀《かたな》で、ぴしっと打った。カームは、丸太《まるた》のように床《ゆか》にたおれ、うごかなくなった。
松明《たいまつ》の光にうかびあがったのは、みしらぬヨゴ人の顔だった。男は、壁際《かべぎわ》の樽《たる》をひとつ、音をたてぬようにたおした。
どろりと油《あぶら》が床《ゆか》にながれでた。油がゆっくりとながれていくさきに、カームの身体《からだ》があった。男は、壁《かべ》にかかっている松明《たいまつ》をとると、油を踏《ふ》まぬように慎重《しんちょう》にまたぎ、カームの身体にたてかけた。柄《え》の底《そこ》が平《たい》らなので、松明はぐらぐらゆれずに、カームの身体にささえられていたが、カームが身動《みうご》きすれば、床《ゆか》にたおれて、油に火がつく。
そこまでの工作《こうさく》をしてから、男は顔をあげた。そして、なんの感情《かんじょう》もうつしていない目で、バルサとチャグムをみすえながら、鞘《さや》から刀《かたな》をぬきはなった。鉈《なた》のような形のみじかい刀――チャグムを追ってきた刺客たちがもっている、独特《どくとく》な形の刀だった。
暗い色の刃《は》に、松明《たいまつ》の光がゆれた。
刺客《しかく》は、すっと刀をわきにかまえた。その刃がまっすぐに自分の首をねらっているのをみて、チャグムはすくみあがった。あたりが白くみえるほどの恐怖《きょうふ》が全身《ぜんしん》をとらえ、頭がしびれた。
すわっている姿勢《しせい》から、よろよろと立ちあがろうとしたせつな、刺客《しかく》は、チャグムにむかって、すべるように突進《とっしん》してきた。
バルサは渾身《こんしん》の力をこめて、チャグムのほうへとびだした。背後《はいご》の柱《はしら》につながれている縄《なわ》がバルサの身体《からだ》をひきもどし、つぎの瞬間《しゅんかん》、音をたてて切れた。
刺客《しかく》が刀《かたな》を水平《すいへい》にふり、チャグムの首を斬ろうとしたそのとき、バルサの身体が刀とチャグムの間にはいった。
血《ち》しぶきとともに、縄《なわ》がバチバチと切れてはねあがった。バルサは刺客《しかく》のロに頭突《ずつ》きをくらわすと、膝《ひざ》で急所《きゅうしょ》をけりあげた。
刺客《しかく》は、わずかに急所|蹴《げ》りをかわし、口を血《ち》だらけにして、よろよろとあとずきった。
刺客が肘《ひじ》をたたんで刀《かたな》をかまえるのをみながら、バルサは左手を身体《からだ》の前にもってきた。その手から、血がしたたっている。チャグムは、まえにも、。バルサがおなじような構《かま》えをしたのを思いだした。左腕《ひだりうで》を、犠牲《ぎせい》にするつもりなのだ……。
あのときは、チャグムが短槍《たかそう》をわたしてやれた。だが、いまは、しばられて、まともにうごくことすらできなかった。歯をくいしばって身《み》をよじったとき、つま先《さき》になにかふれた。
それがなんだかみることさえせず、チャグムは、それをつま先ですくいあげるようにして、刺客《しかく》にむかってけりあげた。
目のはしに黒いものがうつり、刺客はとっさにそれを左手ではらった。ネズミのやわらかい身体《からだ》が刺客の手ではじかれ、ヂュ、と小さくうめきながら、床《ゆか》におちた。ネズミは床にはねかえると、あわてたように部屋《へや》のすみににげこんだ。
その、ごくわずかな間《ま》が、バルサの生死《せいし》をわけた。バルサは刺客《しかく》の懐《ふところ》にとびこむや、刀《かたな》をもつ手首を左手でにぎり、くるりと身体をまるめてそのわきの下に右腕《みぎうで》をすべりこませると、全体量《ぜんたいじゅう》をかけて、はねあげるように、いっきに投げ《な》をうった。
ふいをつかれた刺客《しかく》の身体《からだ》は宙《ちゅう》をまい、壁《かべ》に頭をうちつけながら、樽《たる》をはでにころがして、床《ゆか》に激突《げきとつ》した。
その振動《しんどう》で、カームの身体《からだ》にたてかけられていた松明《たいまつ》がたおれ、油《あぶら》に火がついた。
バルサは刺客《しかく》の刀《かたな》をひろうと、チャグムの縄《なわ》をたちきり、ひっぱるようにして立たせた。油が燃え、黒煙《こくえん》があがっている。
バルサは、たおれているカームにかけよった。火が袖《そで》に燃えうつっている。チャグムがカームの足をもち、燃えている油から、その身体をひきずって、ひきはなした。それから、袖の火をふたりではたいて消した。
火はほかの樽《たる》にも燃《も》えうつりはじめている。
「チャグム、さきにでなさい!」
バルサがどなると、チャグムがどなりかえした。
「バルサはけがをしているだろ。おれがカームをかかえだす。バルサがさきにでてくれ!」
チャグムはカームのわきの下に手を入れると、もちあげてひきずった。カームはうめいたが、目はあけなかった。
あけはなたれている戸をくぐりぬけると、せまい階段《かいだん》があった。てっぺんには外の闇《やみ》がみえる。冷《つめ》たい雪風《ゆきかぜ》が頬《ほお》をさすった。やはりここは、カンバルの館《やかた》によくある、庭《にわ》の下につくる食糧倉庫《しょくりょうそうこ》だったのだ。
カームの身体《からだ》を踊《おど》り場《ば》までひきずりだすと、いきなり、チャグムが身《み》をひるがえした。
「……チャグム?」
おどろいてとめようとしたバルサの手をふりきり、チャグムは、ふたたび倉庫のなかにとびこんでいった。あとを追ったバルサは、チャグムが、刺客《しかく》のぐったりとした身体をかつぎあげるのをみて、顔をしかめた。かけよろうとしたバルサを、チャグムは制《せい》した。
「おれだけで、だいじょうぶ。そこにいて。」
すこしよろめきながらも、チャグムは刺客をかついで戸口まででてきた。刺客を踊り場に落とすと、チャグムは、背《せ》をまるめてせきこみながら、バルサをみた。
バルサは、なにもいわず、刺客《しかく》のわきにしゃがむと、いきなり刺客の胸骨《きょうこつ》のあたりをこぶしでつよくおした。そのきゅうな痛《いた》みにも、刺客がまったく反応《はんのう》しないのをたしかめると、バルサはチャグムを階下《かいか》でまたせておいて、階段をあがっていった。
人の気配《けはい》を感じて、バルサは階段のとちゅうでたちどまった。頭上《ずじょう》から声がふってきた。
「……バルサさん、だいじょうぶ。あがってきてください。いま、このあたりには、われらのほかには、人はいません。
ロタ語《ご》だった。
(カシャル〈猟犬《りょうけん》〉だ……。)
バルサは身《み》がまえながら階段《かいだん》をあがり、雪のにおいのする外の闇《やみ》に顔をさらした。シハナがつけてくれたカシャルの若者《わかもの》と、あの治療師《ちりょうし》のチカリが、階段わきの庭木《にわき》のかげに、しゃがみこんでいた。チカリは、さかんに顎《あご》のあたりをなでている。
このふたりのほかには人の気配《けはい》がないのをたしかめて、バルサはカシャルにいった。
「てつだってください! 火が倉庫全体《そうこぜんたい》にまわったら、戸《と》も燃《も》えるかもしれない。」
カシャルの若者《わかもの》がうなずいて、バルサのわきをぬけ、チャグムと手分けして、カームと刺客《しかく》をかかえあげてきた。ふたりを庭《にわ》の草の上にねかせてから、カシャルの若者は懐《ふところ》から縄《なわ》をだし、刺客の手首を背中側《せなかがわ》でしばりあげた。
そうしておいて、バルサたちは、庭木のなかにもぐりこんだ。
ひんやりと冷《つめ》たい木かげにはいると、チャグムは大きなため息《いき》をついた。
治療師《ちりょうし》のチカリは、顎《あご》をなでながら、なんとなく焦点《しょうてん》のさだまっていない目でふたりをみて、ほほえんだ。
「……ネズミも、役《やく》にたつ生《い》き物《もの》でしょう?」
あっ、と、バルサは目をみひらいた。
「あれは、あなただったのですか!」
チカリは苦笑《くしょう》しながらうなずいた。カシャル〈猟犬《りょうけん》〉のなかには、獣《けもの》に魂《たましい》をのせることができる呪術師《じゅじゅつし》がいる。この女性《じょせい》も、そのひとりだったのだ。ネズミに魂をのせて、バルサを柱《はしら》につないでいた縄《なわ》をかんで切れ目を入れてくれたのだ。
「ああもう。顎《あご》がいたくて、たまらないわ。――そのうえ、けられるし。踏《ふ》んだりけったりとは、このことね。」
こんなときなのに、チャグムは思わず笑顔《えがお》になった。自分がけりあげたネズミも、この人だったらしい。踏《ふ》みつぶさなくて、ほんとうによかった。
「……けがをしたのね。みせてごらんなさい。」
チカリにいわれて、バルサは左腕《ひだりうで》に目をやった。
「だいじょうぶです。かたい縄《なわ》がかさねて巻《ま》かれている上からだったし、身《み》をねじりながら、気合《きあい》を入れてうけましたから。」
それでも、かなり深《ふか》い傷《きず》だった。チカリはてばやく布《ぬの》でしばって、止血《しけつ》してくれた。
「縫《ぬ》ったほうがいいわ。――はやく、この館《やかた》をでましょう。」
バルサは時間の感覚《かんかく》をうしなっていたが、もう夜《よ》ふけのようだった。館は寝《ね》しずまっている。カームは、部下《ぶか》たちが寝しずまってから、バルサたちのところへきたわけだ。
「タルシュの刺客《しかく》は、ひとりだけでしたか?」
バルサがささやくと、カシャルの若者《わかもの》がうなずいた。
「王城《おうじょう》にはタルシュの密偵《みってい》がいるようだが、この館《やかた》には、あの男しかいなかった。」
カームは、あの男をタルシュ帝国《ていこく》とのつなぎ役《やく》だと思っていたのだろう。だが、あの男はカームの行動《こうどう》も監視《かんし》していたのだ。
バルサは、ため息《いき》をついた。事情《じじょう》がわかってみれば、カームをにくむ気にはなれなかった。
「もうしわけないが、この館《やかた》の武人《ぶじん》たちがカームに気づくよう、時機《じき》をみて、火事《かじ》だとさけんでくれませんか。」
カシャルの若者《わかもの》は、うなずいてくれた。
バルサとチャグムは、チカリにみちびかれるまま、館《やかた》の裏手《うらて》へまわった。庭木《にわき》をのぼって塀《へい》の外へおりるのは、けがをしているバルサには、かなりつらかった。傷《きず》がはげしくいたみ、頭痛《ずつう》もひどい。吐《は》き気《け》がこみあげてくるのをこらえながら、バルサはだまって、チャグムとともにカシャルのあとについて、暗《くら》い道を走《はし》りはじめた。
カシャルはあかりももたずに、ふたりの手をもって走っていく。チャグムは、ころばずに走るだけでせいいっぱいで、ほかには、なにも考えられなくなった。
暗《くら》い空から、雪がまいおりはじめていた。
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2  かぼそい道
カシャルは、ふたりを山のほうへみちびぃていった。王城《おうじょう》の東にひろがる針葉樹《しんようじゅ》の森にたどりついたときは、バルサは肩《かた》で息《いき》をしていた。
カシャルは、雪にうもれた森の奥《おく》の岩屋《いわや》にふたりをつれていった。山の底《そこ》にひろがる洞窟《どうくつ》ではなく、岩壁《がんぺき》のくぼみで、藪《やぶ》にかくれていて外からはみえない。チカリは、壁際《かべぎわ》に石をつみあげてつくっておいた即席《そくせき》の炉《ろ》の灰《はい》をかきおこし、粗朶《そだ》をたして火を大きくした。
火のそばにいても、寒くて震《ふる》えがとまらない。チャグムは歯《は》をカチカチならしながら、チカリが。バルサの傷《きず》の手当《てあて》てをするのをみていた。当《あ》て布《ぬの》をはぐと、血まみれの深《ふか》い傷があらわれた。それをみたとたん、寒さとはべつの震えがこみあげてきた。
「これをかんでいて。すこしは、痛《いた》みがやわらぐはずよ。」
バルサは、わたされた薬草《やくそう》のかたまりをロにふくんだ。かみしめるとにがい液《えき》がしみでて、口のなかがしびれてきた。チカリはおなじ草をもんで、バルサの傷《きず》に液をたらした。それから、バルサの傷《きず》をぬっていった。
薬草《やくそう》がきいたのだろうか。傷の手当《てあ》てがおあるころには、バルサはねむってしまっていた。
チカリは布《ぬの》で手をぬぐいながら、チャグムをみた。
「今夜《こんや》は、熱《ねつ》がでるかもしれないから、しっかり看病《かんびょう》してくださいね。わたしがついていられればいいのだけど、頭《かしら》からの伝言《でんごん》をうけとりに鷹便《たかびん》のくる場所《ばしょ》へいかねばならないので。」
チャグムは、びっくりした。
「もうひとり若者《わかもの》がいたようだが、その人にいってもらうわけにはいかないのですか?」
チカリは首をふった。
「彼は、カーム・ムサの館《やかた》にもどりました。」
(あ、そうか。そうだった……。)
それでは、今夜《こんや》|彼《かれ》がもどってくるとはかぎらない。
チャグムは、緊張《きんちょう》した顔で、チカリにたのみこんだ。
「看病《かんびょう》のしかたを教えてください。わたしは、そういうことをまったく知らないのです。」
チカリはつかれた顔をしていたが、ていねいに、看病のしかたを教えてくれた。
彼女《かのじょ》が岩屋《いわや》をでていってしまうと、あたりがきゅうにしずかになった。
チャグムは目をこすった。身体《からだ》の芯《しん》が灰《はい》になってしまったような、にぶいだるさが全身《ぜんしん》をおおっている。昼食《ちゅうしょく》を食べてから、なにも口にしていないけれど、炉《ろ》のところにある鍋《なべ》をみても、蓋《ふた》をとってみようという気にさえなれなかった。
カームがいった言葉が、くりかえし、頭のなかにひびいていた。
――王《おう》はすべてごぞんじで、わたしの考えを支持《しじ》してくださっている………。
ものものしく騎馬《きば》が行《い》き来《き》していた王城《おうじょう》の光景《こうけい》が、その言葉をうらづけていた。
(ようやくここまできたのに、タルシュのほうが一|歩《ぽ》はやくカンバル王を抱《だ》きこんでしまっていたなんて……。)
こうなってしまえば、もう、王城《おうじょう》にはいかれない。
カームは、チャグムがくることを予期《よき》し、館《やかた》にきたらとらえようと体勢《たいせい》をととのえていた。
とすれば、王もおなじように、チャグムをあつかうだろう。のこのこ王城の門《もん》をくぐれは、つかまるだけだ。
いかにバルサがつよくとも、カシャルがまもってくれていても、一国《いっこく》の王がとらえる気でまっているとすれば、きりぬけるのは不可能《ふかのう》だ。むりにおしとおろうとすれば、バルサは殺《ころ》されてしまうだろう。
チャグムは、かすかにロをあけてねむっているバルサの顔をみつめた。
こんなふうに、無防備《むぼうび》にねむっているバルサを、はじめてみたような気がした。ずっと、バルサのことを大きな人だと思ってきたのに、いまはもう自分のほうが、背《せ》が高いのだ。こんなにほそい身体《からだ》が、めざめてうごいているときは、なぜ、大きくみえるのだろう。
わが身《み》を楯《たて》にしてチャグムをかばい、血《ち》をしたたらせながら、左手を刺客《しかく》の刀《かたな》のほうにむけていたバルサの姿《すがた》が目にうかんできた。
バルサは、平然《へいぜん》と自分の身を刃《やいば》の下にさらす。すててもいいもののように、自分の身体をあつかう……。
生《せい》と死《し》とのさかいめに、バルサはいつも、すっと、足を踏《ふ》みだしていく。
馬に名前なんかつけたら、わかれるとき、つらくなるじゃないか、といったバルサの言葉が耳によみがえってきた。
(……そんなふうに、あなたは、生きてきたのだな。)
そう思うと、怒《いか》りともかなしみともつかぬものがつきあげてきた。
チャグムはそっとバルサの額《ひたい》に手をあてて、熱《ねつ》がでていないのをたしかめると、バルサに風があたらぬよう、その身体《からだ》をつつむようにして、横《よこ》になった。
どのくらいねむっただろう。バルサが身動《みうご》きしたので、チャグムは、はっと目をさました。火が消《き》えかけている。チャグムはあわてて起きあがり、炉《ろ》に粗朶《そだ》をたした。
バルサは、うっすらと目をあけていた。額《ひたい》に手をあてると、やはり熱《ねつ》がでていた。
チャグムは教えられたとおり、雪《ゆき》をとかして水をつくり、バルサをかかえおこしてロにふくませた。そして、顔の汗《あせ》をぬぐうと、額に冷《つめ》たい布《ぬの》をあててやった。
「……ありがとう。」
バルサは、ほほえんで目をとじた。寝息《ねいき》がきこえはじめるまで、チャグムは、じっとバルサをみつめていた。
チカリがもどってきた音で、チャグムは目をさました。
いつのまにか、夜明《よあ》けのうすい光が藪《やぶ》をすかしてさしこんでいる。
チカリは、カチカチ歯をならしながら、炉《ろ》の火をかきおこし、しばらく手をかざしてあたためていた。それから、チャグムをふりかえると、懐《ふところ》から筒《つつ》をとりだした。
「頭《かしら》から、これがとどきましたよ。」
チャグムに筒《つつ》をわたしてから、彼女《かのじょ》は、ロもとを手でかくしてあくびをした。
「もうしわけありませんけど、すこし寝《ね》かしてもらいますね。そこの袋《ふくろ》に、ラガ(チーズ)とバム(無発酵《むはっこう》のパン)がはいっています。どうぞ、めしあがってください。」
そういうと、彼女《かのじょ》は毛皮《けがわ》にくるまって、炉《ろ》のわきに横《よこ》になった。よほどつかれていたのだろう。すぐに、いびきがきこえてきた。
チャグムは、ふるえる手で筒《つつ》の蓋《ふた》をとった。なかから巻紙《まきがみ》をとりだしてひろげ、文字《もじ》を目で追った。最後《さいご》まで読みおえたとき、チャグムは、蒼白《そうはく》になっていた。
バルサが目をさましたとき、チャグムは岩屋《いわや》の入口の岩壁《がんぺき》に背《せ》をあずけてすわっていた。
藪《やぶ》をすかしてさしこんでいる光が、複雑《ふくざつ》な模様《もよう》を土におとしているあたりを、ぼんやりとみつめている。手に、小さな筒《つつ》をにぎっていた。
「どうしたんだい?」
声をかけると、チャグムは、ぽつんといった。
「……イーハン王子《おうじ》が、返事《へんじ》をくださった。」
その声のうつろさに、バルサはおどろいた。
「同盟《どうめい》を、ことわってきたのかい?」
チャグムは首をふった。
「わたしが帝位《ていい》につくまで正式《せいしき》な調印《ちょういん》はできないが、イーハン王子《おうじ》のもとへ、カンバルの騎馬兵団《きばへいだん》をつれていくことができたら、タルシュ帝国《ていこく》に、ロタとカンバルが同盟《どうめい》して北の大陸の守護《しゅご》に全力《ぜんりょく》をつくすと宣言《せんげん》してくれるそうだ。」
「……いい返事《へんじ》じゃないか。」
チャグムは、じっと地面《じめん》をみつめたまま、つぶやいた。
「イーハン王子は、もうひとつ、書きそえてくれていた。」
きみょうに平坦《へいたん》な声で、チャグムはつづけた。
「サンガル半島《はんとう》には、新《しん》ヨゴ国境《こっきょう》に接《せっ》している海岸線《かいがんせん》がある。この海岸線の沖合《おきあい》は、むかしから、領有権《りょうゆうけん》があいまいな場所で……サンガルとの関係《かんけい》をあらだてたくないから、あいまいなままにしていた、そこに、タルシュの軍船団《ぐんせんだん》があらわれた。――そのタルシュの軍船団が、海岸線にむかうのを阻止《そし》しようと、新《しん》ヨゴ皇国海軍《おうこくかいぐん》の軍船が攻撃《こうげき》した。」
はっと、バルサは目をみひらいた。
かすれた声で、チャグムはいった。
「タルシュの軍船《ぐんせん》は百五十。新ヨゴの軍船は六十。新ヨゴの海士《かいし》たちは善戦《ぜんせん》して、タルシュ軍船の半数《はんすう》以上をしずめたが……新ヨゴ側《がわ》は、全滅《ぜんめつ》したそうだ。」
チャグムは、ふるえながら、息《いき》をすった。
「無傷《むきず》でサンガル半島《はんとう》に上陸《じょうりく》したタルシュ兵《へい》は約《やく》二|万《まん》。すでにサンガル半島に駐留《ちゅうりゅう》していた騎馬兵団《きばへいだん》と歩兵団《ほへいだん》があわせて二万、陸路《りくろ》を進軍《しんぐん》する体勢《たいせい》をととのえはじめている。緒戦《しょせん》にむかう兵力《へいりょく》はこのくらいだろうが、初夏《しょか》になれば、シクマ(夏風)を帆《ほ》にうけて、つぎつぎとタルシュの軍船団《ぐんせんだん》がサンガル半島《はんとう》へやってくるだろう。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》へおくられた最後通牒《さいごつうちょう》の返答期限《へんとうきげん》は、トウル〈雪《ゆき》どけ|ノ《の》月《つき》〉の十二日。戦《いくさ》がはじまるまで、あとひと月もない………。」
そういったきり、チャグムは彫像《ちょうぞう》のように身動《みうご》きせず、一点を凝視《ぎょうし》していた。
バルサが身《み》をおこすと、チャグムは顔をみられるのをさけるように、ばっと立ちあがって、外へでていってしまった。
バルサは毛布《もうふ》に手をついて、しばらくじっとしていた。あたりがゆっくりとまわっている。血《ち》がたりないのだろう。傷《きず》がいたいのはあたりまえだが、ぬけるように身体《からだ》がだるく、節《ふし》ぶしがいたむ。頭痛《ずつう》もひどかった。
めまいがすこしおさまるのをまって、バルサは立ちあがり、藪《やぶ》の上につもっている雪を片手《かたて》ですくうと、炉《ろ》のほうへそれをもっていき、小さな鍋《なべ》に入れた。
バルサは湯《ゆ》をわかし、炉のわきにおいてある袋《ふくろ》をあけてみた。クッカ(蜂蜜《はちみつ》をかためたもの)があったので、それを湯におとしてとき、そろそろとすすった。
ずいぶん音をたてていたのに、炉《ろ》のわきで、いびきをかいてねむっているチカリは目をさまさなかった。
蜜《みつ》をとかした湯《ゆ》を飲《の》みおえると、バルサは立ちあがった。
岩屋《いわや》の外の森は、冬特有《ふゆとくゆう》の、ぼんやりとした明るさにつつまれていた。雲の切《き》れ間《ま》から、ときおりもれる光が、こおった木々の枝《えだ》をうかびあがらせている。
木立《こだち》のなかに、チャグムがたたずんでいるのがみえた。
バルサがちかづくと、チャグムはふりかえった。まっ赤《か》な目をしていたが、もう、その目に涙《なみだ》はなかった。
チャグムは、しずかな口調《くちょう》でいった。
「……わたしは、新《しん》ヨゴへかえる。」
バルサはなにもいえずに、チャグムをみつめた。
チャグムはひくい声で、言葉をついだ。
「カンバル王《おう》がタルシュにとりこまれてしまった以上、イーハン王子《おうじ》のもとへ、カンバルの騎馬兵《きばへい》をつれていけるはずもない。――いまのわたしにできることがあるとすれば、一刻《いっこく》もはやく新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》へかえり、タルシュ軍《ぐん》との開戦《かいせん》を、故国《ここく》でむかえることだけだ。」
その目にある、もはやおさなさのかけらもないひややかな決意《けつい》の色をみて、チャグムが、父を殺《ころ》す決心《けっしん》をかためたことを、バルサは感じた。
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雲間《くもま》がとじて、日がかげり、あたりがふっと暗《くら》くなった。雪《ゆき》が灰色《はいいろ》にしずんだ。
多くの死《し》をせおったことが、チャグムをいっきにおとなにしてしまった。いまのチャグムの目は、おのれの思いを殺《ころ》して、国をまもることを優先《ゆうせん》する、為政者《いせいしゃ》の目だった。
チャグムの決意《けつい》は、たぶん、もっとも現実的《げんじつてき》な道だろう。だが、その道のさきにあるのは、底《そこ》なしの闇《やみ》だ。
緒戦《しょせん》だけで降伏《こうふく》すれば、戦禍《せんか》は最少《さいしょう》ですむかもしれない。けれど、そのために、チャグムは父を殺《ころ》し、タルシュに服従《ふくじゅう》し、ロタとカンバルとの戦《いくさ》へと兵《へい》をおくりだすことになる……。
バルサはまよっていた。
心のなかに、ひとつ、道がみえている。その道をいくことができれば、チャグムを残酷《ざんこく》な闇《やみ》におとさずにすむかもしれない。ためしてみたかったが、掟《おきて》のきびしさを考えれば、まず可能性《かのうせい》があるとは思えなかった。開戦《かいせん》まで、わずかひと月というかぎられた時間のなかで、その道をためしてくれと、チャグムにいうべきかどうか。
背後《はいご》で藪《やぶ》がゆれて、チカリが顔をだした。
「あら、そんなところでなにやってるんです? バルサさん、傷《きず》をみてあげますよ、はいってきて。」
のんきな声で彼女《かのじょ》はそういうと、岩屋にひっこんだ。
つかのま、バルサは岩屋《いわや》のほうをみていたが、チャグムにむきなおると、心をきめて、ロをひらいた。
「チャグム、タルシュの密偵《みってい》がはいってこられない場所で王と会見《かいけん》ができるとしたら、やってみるかい?」
チャグムの目に、驚《おどろ》きの色がはしった。
「――そんな方法があるの?」
バルサは、つぶやくようにいった。
「ひとつだけ心あたりがある。だけど、それはひらけるとはかぎらない幻《まぼろし》のような道なんだ。それでも、三日《みっか》だけ、わたしの賭《か》けに時間をくれるなら、ためしてみたい。」
チャグムは、眉《まゆ》をよせた。
「……顔色がわるいよ、バルサ。どこへいくにしても、その身体《からだ》で今日《きょう》うごくのはむりだよ。」
バルサは、一瞬《いっしゅん》、苦笑《くしょう》をうかべたが、すぐに笑《え》みをけして、じっとチャグムをみつめた。
「いまは、たった一日だって、宝石《ほうせき》より貴重《きちょう》だろ。後悔《こうかい》しないよう、しっかり考えてから、こたえておくれ。」
それだけいうと、バルサは、チャグムからはなれ、岩屋《いわや》へもどっていった。
チャグムはうごかなかった。きびしい表情《ひょうじょう》で岩屋のほうをみつめ、考えこんでいた。
チカリは、バルサの傷《きず》を、きれいな雪をとかした水であらって、薬草《やくそう》の汁《しる》をつけてくれた。
「……よかった。うんではいないし、出血《しゅっけつ》もとまっているわ。でも、まだ、熱《ねつ》がさがってないんだから、横《よこ》になっていなきゃだめよ。」
彼女《かのじょ》が、傷に当《あ》て布《ぬの》をして、手ぎわよく布をまきはじめたとき、藪《やぶ》がゆれて、チャグムがはいってきた。
チャグムは、バルサをまっすぐにみて、いった。
「かぼそい道でも、道があるなら、それに賭《か》けてみたい。――あなたが知っているという、その道に、つれていってくれ。」
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3  ラダール王《おう》の憂鬱《ゆううつ》
カンバルの王城《おうじょう》には、連日《れんじつ》、各氏族領《かくしぞくりょう》から騎馬兵団《きばへいだん》が到着《とうちゃく》し、広い敷地全体《しきちぜんたい》が、ものものしい空気につつまれている。
広間《ひろま》には、新年をいわった儀式《ぎしき》の際《さい》の色あざやかな織物飾《おりものかざ》りが、まだ壁《かべ》にかかっていたが、広間に出入りする武人《ぶじん》たちの表情《ひょうじょう》はかたく、新年をいわう気分の者《もの》などひとりもいなかった。
家臣《かしん》たちの長靴《ちょうか》が床《ゆか》をうつかたい響《ひび》きは、ラダール王の執務室《しつむしつ》にも、たえずきこえていた。
雪雲《ゆきぐも》が天をおおい、小さな窓《まど》からさしこむ光はにぶい。
王《おう》の執務室《しつむしつ》には、大きな暖炉《だんろ》があった。氏族長《しぞくちょう》の館《やかた》のように、質素《しっそ》なものではなく、うつくしい彫刻《ちょうこく》をほどこした暖炉だった。日があるうちから、太い薪《まき》が燃《も》やされている。そのあかりと熱《ねつ》が、かろうじて、寒《さむ》ざむとしたうす暗《ぐら》さを、追いはらっていた。
カンバル王ラダールは暖炉《だんろ》のそばにおかれた豪奢《ごうしゃ》な椅子《いす》に深《ふか》く腰《こし》かけて、客《きゃく》とむかいあっていた。ラダール王は、ほっそりとした男だった。二十代|後半《こうはん》とは思えぬ、どこか少年めいたおさなさがある。目が、たえず、おちつきなくうごくせいかもしれない。
ラダール王は、目の前にいる、がっしりとしたヨゴ人に、ほほえみかけた。
「あなたの贈《おく》り物《もの》の首飾《くびかざ》りを、妃《きさき》はことのほか、よろこんだ。よい贈り物をいただいた。」
ヨゴ人は、ほほえみかえした。彼《かれ》は、タルシュ帝国《ていこく》の第《だい》一|王子《おうじ》、ハザールにつかえる密偵《みってい》だった。ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》たちとカンバルとの同盟《どうめい》をむすぶためにこの城《しろ》にやってきて、もう半月《はんつき》になる。その半月のあいだに、彼は、ラダール王の性格《せいかく》も、立場《たちば》も、カンバルの政治《せいじ》の特殊《とくしゅ》なかたちも、だいたいつかんでしまっていた。
「もったいないお言葉、光栄《こうえい》でございます。諸国《しょこく》に武名《ぶめい》をひびかせているカンバルの騎馬兵団《きばへいだん》をひきいるラダール王がお味方《みかた》くださるおかげで、われらは勝利《しょうり》を手にできます。
あの首飾《くびかざ》りは、わたしの気もちを、ほんのすこししめしただけのもの。――これから、ひとつひとつ、王のお気もちをやすんじるために、おてつだいさせていただこうと思っております。」
なめらかなカンバル語《ご》でそういって、彼《かれ》は、ゆっくりと首をふった。
「この国のことを知れば知るほど、陛下《へいか》のご苦労《くろう》が、わかってまいります。こうもうしてはなんですが、氏族《しぞく》の男たちは、頑固《がんこ》で、独立心《どくりつしん》がつよい。……調教《ちょうきょう》されていない、鼻息《はないき》のあらい馬たちを横《よこ》につないで、馬車《ばしゃ》を走らせるようなものですからな。」
こまったものですね、というように彼《かれ》が笑顔《えがお》をうかべると、ラダール王《おう》は、わが意《い》をえたり、という顔で苦笑《くしょう》した。
「そなたは、うまいことをいう。まさに、そのとおりだ。この国をおさめるには、暴《あば》れ馬《うま》をつねに御《ぎょ》していける体力《たいりょく》がいるのだ。」
ラダール王は、小さくため息《いき》をついた。いつも、身体《からだ》の芯《しん》につかれがある。いくらねむっても消《き》えることのない、つかれだった。
むかし、ユグロ・ムサが相談役《そうだんやく》としてそばにいてくれたころは、なんでも、彼《かれ》にきけばよかった。彼は、すばやく、まちがいのない判断《はんだん》をくだしてくれたから、安心《あんしん》していられた。
だが、彼が、けっしていだいてはならぬ野心《やしん》をいだき、地《ち》の底《そこ》の闇《やみ》に心をとらわれてしまってからは、自分ですべてを考えて、きめなくてはならなくなってしまった。
〈王《おう》の槍《やり》〉たちが、自分をたよりない王だと思っていることを、ラダールは知っていた。彼らは、ラダールの判断《はんだん》をたすけてくれようとしない。つねに、ラダールの力量《りきりょう》をはかり、へたな決定《けってい》をすれば、かげで、ため息《いき》をつくのだ。……こんな日々がはてしなくつづくのだと思うと、ラダールはいつも、どうしようもないつかれを感じる。
おちくぼんだ目をこすっているラダールに、タルシュの密偵《みってい》は、おだやかな声でいった。
「陛下《へいか》、あなたのご苦労《くろう》、わたしには、よくわかります。多くの国の内側《うちがわ》をみてまいりましたから……。家臣《かしん》には、みせられない、あかせないこと、というのもございましょう。
わたしでよければ、お力になります。」
ラダールは手を膝《ひざ》におろし、ヨゴ人の顔をみつめた。まつりごとの裏《うら》の裏を知りつくしている男のおちついた目が、自分をみつめている。
この男を敵《てき》にまわしたら、おそろしい、と思った。その一方で、こういう男が、ひそかに自分をささえてくれたら、ずいぶんらくになるのではないか、とも思った。
男は、声をひくめて、ささやいた。
「陛下《へいか》の治世《ちせい》の安寧《あんねい》は、われらの利益《りえき》ともふかくつながっております。――陛下の治世をおびやかす者《もの》を、たとえば、陛下の地位《ちい》に野心《やしん》をいだく、危険《きけん》きわまりない血縁《けつえん》の方《かた》がたなどを排除《はいじょ》なさりたいときは、どうぞ、わたしにおまかせください。
ヨゴには、ひそかに人を排除する技《わざ》が数多くつたわっております。だれにも知られることなく、陛下の目の前から、消しさってごらんにいれましょう。」
ラダールは、顔をこわばらせた。
平然《へいぜん》と兄王《あにおう》の毒殺《どくさつ》を命《めい》じた父とちがい、彼《かれ》は、人を殺《ころ》すなど、考えるのさえ、いやだった。この男に暗殺《あんさつ》などたのめば、タルシュによわみをにぎられる。そんな危険《きけん》をおかす気はなかったが、心のかたすみでは、暗《くら》い誘惑《ゆうわく》も感じていた。
叔父《おじ》たちや、とくに、従弟《いとこ》のアローン……ラダールより三つ年下だが、背《せ》が高く、堂々《どうどう》とした武人《ぶじん》で、快活《かいかつ》なものいいが家臣《かしん》たちをひきつけている、あの男が、この世《よ》から消《き》えてくれたら、どれほど、らくになるだろう。
ようやくうまれた息子《むすこ》の将来《しょうらい》を、妃《きさき》は毎日《まいにち》|心配《しんぱい》している。王位《おうい》に野心《やしん》をいだくアローンに暗殺《あんさつ》されるのではないかと。ラダールは、まだ少女のような、この妃を、心底《しんそこ》いとおしく思っていたから、妃の不安《ふあん》をとりのぞいてやれたらと、いつも思っていた。
王として生きるのは、つらいことだったが、あなどられるのは、もっとつらかった。
だれもが彼《かれ》をおそれうやまい、反論《はんろん》せずに、彼の前に、ひれふす……そういう力をもっていたら、どれほどらくになることだろう。
目の前にいる男。――こういう男を、うまくつかうことができたら、そういう力が、手にはいるのかもしれない。ふいに話をきりかえ、明るい話をはじめたヨゴ人と談笑《だんしょう》しながら、ラダールは心のなかで、そんなことを思っていた。
王《おう》の執務室《しつむしつ》を辞《じ》すると、ヨゴ人は、自分の宿舎《しゅくしゃ》として王からあたえられている豪奢《ごうしゃ》な客間《きゃくま》にもどった。
部屋《へや》でまっていた手下《てした》が、さっと立ちあがった。
「……おまちしておりました。たいへんなことがおきました。」
若《わか》い手下は、昨夜《さくや》おそく、カーム・ムサの食糧倉《しょくりょうぐら》が燃《も》えたことを告《つ》げた。
「今朝《けさ》、カーム・ムサに面会《めんかい》をもとめたのですが、急《きゅう》な病《やまい》でふせっているといわれ、あうこともできずに追いかえされました。――どうも、これまでの態度《たいど》とはちがいます。」
ヨゴ人は舌《した》うちをした。
「シアムめ、しくじったな……。」
カームの監視役《かんしやく》においてきた手下《てした》を、ひとしきりののしってから、彼《かれ》は、若い手下に問《と》いただした。
「食糧倉《しょくりょうぐら》が燃《も》えたということは、チャグム皇太子《こうたいし》は死んだのか?」
若い手下はこたえた。
「わかりません。――ただ、ほんのすこしまえ、カームの家臣《かしん》、三人ほどが、館《やかた》をでました。同方向《どうほうこう》ではなく、ちっていったところをみると……。」
ヨゴ人がひきとった。
「逃《に》げた皇太子《こうたいし》をさがしにでたか。」
「――どうしますか。」
ヨゴ人は、しばらくこたえず、顎《あご》をつまみながら考えこんでいた。
やがて、顔をあげると、おちついた声でいった。
「まあ、あまりさわがぬことだな。シアムがつかまっているとしても、いいぬける道はある。
カームは、われらにだまされていたことをかんづいたかもしれんが、自分の失態《じったい》をわざわざ王《おう》にしらせるのは、ためらうだろう。それに……。」
ヨゴ人の目に笑《え》みがうかんだ。
「ラダール王はすでに、決定《けってい》を家臣《かしん》たちにつたえてしまっているからな、もう、過剰《かじょう》に心配《しんぱい》する必要《ひつよう》はなかろうよ。あの王は、家臣から無能《むのう》とみられることを異常《いじょう》におそれている。たとえ、新しい事実《じじつ》がでてきても、一度くだした決断《けつだん》を、家臣の前で恥《はじ》をかくかくごで、ひるがえす度胸《どきょう》はない男だ。」
そういってから、しずかにつけくわえた。
「しかし、こういうことは、最後《さいご》まで、気をぬかずにやるべきだ。家臣《かしん》がチャグム皇太子《こうたいし》をつれかえってくるようなことがあれば、おまえたち全員《ぜんいん》で襲撃《しゅうげき》して、館《やかた》ごと、燃《も》やせ。ロタ王《おう》の密偵《みってい》のしわざにでも、みせかければいい。」
若《わか》い手下《てした》は、きびきびしたしぐさで敬礼《けいれい》し、足ぼやに部屋《へや》をでていった。
ヨゴ人は小さな窓《まど》に目をやった。
あの皇太子《こうたいし》が逃《に》げてからというもの、鷹《たか》の羽音《はおと》をきかぬ日はないほどに、鷹便のやりとりをしてきた。彼《かれ》は、暗殺《あんさつ》をおこなうとき、実行部隊《じっこうぶたい》とは別《べつ》に、呪術師《じゅじゅつし》たちをふくむ監視《かんし》部隊を、複数《ふくすう》うごかしておく。この監視部隊の者《もの》たちは、たとえ実行部隊が劣勢《れっせい》におちいるようなことがあっても、加勢《かせい》することなく、ただ、その場の状況《じょうきょう》をくわしく把握《はあく》することをめざし、その情報《じょうほう》を、すみやかに、彼に送ってくるのである。
呪術師《じゅじゅつし》たちがあやつる鷹《たか》は、彼が移動《いどう》していても、あやまたずに彼の居所《いどころ》をみつけてまいおりてくる。この鷹便のおかげで、彼は、刻一刻《こくいっこく》と変化《へんか》する状況《じょうきょう》を知ることができるのだ。
槍使《やりつ》いの女がかかわってきてから、事態《じたい》の風向きが徴妙《びみょう》にかわってきたことを、彼は感じていた。チャグム皇太子《こうたいし》があらわれたときに動揺《どうよう》をせぬよう、しらせてよいと判断《はんだん》した状況だけをかいつまんでカームに説明したときの、カームのおどろきようは、彼の予想《よそう》をこえていた。皇太子が王のもとにやってくるということより、槍使いの女がいっしょであるということに、カームは、はげしく動揺したのだ。
(……まあ、それでも。)
まだ、事態《じたい》は彼《かれ》の手の内《うち》にある。
うすぐらい空から、いつのまにか、雪《ゆき》がまいはじめていた。
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4  タルシュの王子《おうじ》たち
タルシュ帝国《ていこく》の帝都《ていと》ラハーンは、夏のたそがれをむかえていた。
かげろうがファオルの潅木《かんぼく》をゆらめかせ、真紅《しんく》のファオルの花が、炎《ほのお》のようにみえる。
こういう夕暮《ゆうぐ》れどき、その老人《ろうじん》は、すずやかな水がながれる庭園《ていえん》の花かげに籐編《とうあ》みの寝椅子《ねいす》をはこばせ、泉水《せんすい》の音をききながら、そこによこたわるのを習慣《しゅうかん》にしていた。
耳のきこえないふたりの召使《めしつかい》が、寝椅子の足もとのほうから、大きな団扇《うちわ》で、ぱさり、ぱさりと風をおくっている。
こうして老齢《ろうれい》と病《やまい》にむしばまれた身体《からだ》をよこたえ、泉水《せんすい》の音をきいていると、これまで生きてきた長い年月の、さまざまなことが、まぶたにうかんで、きえていく。
寝椅子《ねいす》の枕《まくら》に、足音がつたわってきた。彼《かれ》は目をあけ、ゆらめく西日のなかをやってくる人影《ひとかげ》をながめた。――上のふたりの息子《むすこ》たちと、その宰相《さいしょう》たち。彼がきずきあげたこの帝国《ていこく》の、つぎの世代《せだい》をになう男たちだった。
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彼の寝椅子のかたわらに椅子をよせてすわり、しずかに書をよんでいた男が顔をあげて、椅子から立ちあがった。
この男は、つねに、彼のかたわらにある。タルシュ帝国《ていこく》の〈太陽《たいよう》〉である彼の宰相《さいしょう》として、この国のまつりごとをその肩《かた》にになっている〈太陽宰相〉アイオルは、しかし、タルシュ人ではなかった。
彼《かれ》がアイオルとであったのは、戦場《せんじょう》のかたすみにすえられた天幕《てんまく》のなかだった。
その日、古い文明《ぶんめい》を継承《けいしょう》し、長く繁栄《はんえい》をほこってきたコーラナム王国《おうこく》の王国|軍《ぐん》は、彼の軍勢《ぐんぜい》に大敗《たいはい》をきっし、コーラナム王は天幕《てんまく》のなかで、自国《じこく》を枝国《しこく》としてさしだす文書《ぶんしょ》に、印《いん》を押《お》したのだ。
それは、彼が、はじめて他国《たこく》の征服《せいふく》に成功《せいこう》した瞬間《しゅんかん》だった。
おもしろいことに、ふつうならはっきりおぼえているはずの、敗北《はいぼく》をみとめたコーラナム王の表情《ひょうじょう》を、彼《かれ》は、まったくおぼえていない。その思い出のなかで、まるで稲妻《いなずま》にうかびあがった景色《けしき》のように鮮明《せんめい》に、彼の目にやきついているのは、天幕《てんまく》のすみに立っていた若者《わかもの》の顔だった。
コーラナム王《おう》の側女《そばめ》の息子《むすこ》としてうまれ、とびぬけた英知《えいち》にめぐまれながら、無能《むのう》な王のもとでは、天賦《てんぷ》の才《さい》を発揮《はっき》することのできなかったその若者《わかもの》は、まるで、獲物《えもの》をみる鷹《たか》のような目で、征服者《せいふくしゃ》である彼《かれ》をみつめていたのだ。
その日から、もう四十年もの歳月《さいげつ》がながれた。ふしぎな縁《えん》でむすばれた彼とその若者《わかもの》は、タルシュという国を、八つの枝国《しこく》をしたがえる強大《きょだい》な帝国《ていこく》へとそだてあげたのだった。
「ご子息《しそく》たちは、この暑《あつ》さも感じておられぬようだ。」
アイオルがささやくと、彼は、苦笑《くしょう》をうかべた。
「腹《はら》に雷《かみなり》をいだいた、雲のようだな。」
やがて、王子《おうじ》たちは皇帝《こうてい》の寝椅子《ねいす》の前にやってくると、膝《ひざ》を折《お》って父に頭をさげた。このふたりは、まるで兄弟にはみえない。
長男《ちょうなん》のハザール王子は、その母ににて、細面《ほそおもて》で長身《ちょうしん》。書をこのむ、ものしずかな男だった。
たいして、次男《じなん》のラウル王子は、父ににて、タルシュ人にしては小柄《こがら》だった。しかし、彼がそばにくると、圧力《あつりょく》のようなものを感じる。腹《はら》に炎《ほのお》を抱《だ》いているような男だった。
「アーレム・オーラ(天《てん》の恩寵《おかちょう》を)、皇帝陛下《こうていへいか》。」
ふたりは、声をそろえてそういうと、顔をあげた。
皇帝は目でうなずき、らくにしてよいと、ゆるしをあたえた。
耳のきこえぬ召使《めしつか》たちが、潅木《かんぼく》のかげからあらわれて、椅子《いす》を王子たちと、その背後《はいご》にひれふしているふたりの宰相《さいしょう》にあたえた。
王子《おうじ》たちが対照的《たいしょうてき》であるのにあわせたように、彼《かれ》らの宰相たちもまた、ずいぶんとことなる外見《がいけん》をしていた。ラウル王子の右腕《みぎうで》である〈北翼宰相《ほくよくさいしょう》〉クールズは、生粋《きっすい》のタルシュ人だが、ハザール王子の右腕、〈南翼宰相《なんよくさいしょう》〉ハミルは、漆黒《しっこく》の肌《はだ》をしている。彼は、カラル枝国《しこく》出身《しゅっしん》のカラル人で、〈太陽宰相〉アイオルとおなじように、タルシュ人に征服《せいふく》された国でうまれ、帝国《ていこく》のなかでのしあがってきた男だった。
宰相《さいしょう》たちは立ちあがると、皇帝《こうてい》に一礼《いちれい》して、皇帝がよこたわっている寝椅子《ねいす》のうしろの、潅木《かんぼく》の背後《はいご》にまわった。そして、だれもひそんでいないことをたしかめてもどってくると、ふたたび、それぞれの主《ぬし》のうしろにつきしたがうかたちで、椅子にすわった。
ここには、ファオルの潅木《かんぼく》以外、人が身《み》をひそめられる場所はない。召使たちは、耳がきこえない。ここでの話が外にもれることはなかった。
ラウル王子が、口をひらいた。
「父上、おかげんはいかがですか。」
皇帝《こうてい》は、ほほえんでこたえた。
「だいぶ、よい。そなたらも、壮健《そうけん》のようだな。」
この国では、長男《ちょうなん》が次男《じなん》よりも優先《ゆうせん》されるということはない。帝国《ていこく》への貢献度《こうけんど》が、すべてをきめる。
兄よりも多くの国を征服《せいふく》し、北の大陸《たいりく》への足がかりをさきにつかんだラウル王子《おうじ》は、兄よりもさきに、父と話す権利《けんり》をあたえられていた。
「北への侵攻《しんこう》の状況《じようきょう》は、どうだ。」
かすれた声で父に問われ、ラウル王子はおちついた声で、現在《げかざい》の状況《じょうきょう》をかたった。
皇帝《こうてい》はうすく目をあけ、うなずくこともせず、息子《むすこ》の報告《ほうこく》をきいていたが、ラウルがかたりおえると、視線《しせん》を長男にむけた。
「……ハザール、なにか、いいたいことがある顔をしておるな。なんだ。」
ハザール王子は、微笑《ほほえ》みをうかべて、口をひらいた。
「父上、わたくしが長年まいていた種《たね》が、ようやくみのりかけております。これをみのらせることができれば、ラウルの背《せ》をまもってやれると思うのです。」
ラウル王子は兄の顔をみた。ハザールは、微笑《ほほえ》みをうかべたまま、弟に眉《まゆ》をあげてみせ、それから、父に視線《しせん》をもどして言葉をついだ。
「ラウルの侵攻策《しんこうさく》はみごとなものですが、ひとつ、よわい部分があります。まえまえから、検討《けんとう》されていたことではありますが、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》をとりまくロタ王国《おうこく》とカンバル王国が、大きな軍事力《ぐんじりょく》をもっているということは、やはり、わすれてはならない。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》に遠征軍《えんせいぐん》の兵力《へいりょく》を集中《しゅうちゅう》させていて、ロタとカンバルが、同盟《どうめい》して背後《はいご》をついてきたら、たいへんなことになりかねない。」
ハザールは、そこでちょっと言葉をきり、膝《ひざ》をなでながらいった。
「ラウルは、せっかくとらえた新ヨゴの皇太子《こうたいし》を逃《に》がしてしまったが、あの若造《わかぞう》は、ラウルが思っていたより、はるかにしたたかだったようだ。ロタ王《おう》の代理《だいり》であるイーハン王子の心をうごかし、カンバル王を説得《せっとく》するためにカンバルへむかっているという。……おまえらしくない、へまをしたものだな、ラウル。」
胸《むね》のなかに怒気《どき》がうごいたとしても、それをみじんも顔にださず、ラウルはほほえんだ。
「さほどの、へまでもないさ、兄上。イーハン王子は、同盟《どうめい》を拒絶《きょぜつ》したと、わたしの密偵《みってい》はつたえてきている。――当然《とうぜん》だろう。チャグムは、すでに、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》では死《し》んだ者《もの》としてあつかわれている。皇太子《こうたいし》でもないただの若造《わかぞう》と、同盟をむすぶ王がいるものか。
やつがカンバルにむかったのは、イーハン王子に拒絶されたからだ。カンバル王に望《のぞ》みをかけて、すがりにいったわけだが、まあ、結果《けっか》はみえているな。」
ハザールが口をひらきかけたのを、皇帝《こうてい》はせきばらいをして、さえぎった。
「……ハザール、おまえの話は、遠まわりをしすぎる。いわねばならぬ要点《ようてん》を、さきにいえ。」
ハザールは、表情《ひょうじょう》をあらためて、うなずいた。
「はい、父上。それでは要点《ようてん》をもうします。――わたくしがそだてていた種《たね》というのは、ロタ王国を二分《にぶん》する火種《ひだね》です。ロタ王ヨーサムが病床《びょうしょう》にあること、われらの軍《ぐん》が北への侵攻《しんこう》をはじめたこと、このふたつが追い風になって、ようやく南部の大領主《だいりょうしゅ》たちの連合《れんごう》が、重い腰《こし》をあげました。さらに……。」
そこで言葉をきり、ハザールは、しずかにいった。
「わたくしは、カンバル王《おう》を抱《だ》きこむことに、成功《せいこう》いたしました。」
このひと言《こと》は、大きな驚《おどろ》きを、みなにあたえた。
ラウルは、はっと背《せ》をこわばらせ、その背後《はいご》で宰相《さいしょう》のクールズは、あおざめた。
しばらく、だれも口をひらかなかった。
皇帝《こうてい》の目に、光がうごいた。ロもとに、みちたりた微笑《びしょう》がうかんだ。
「それは、すばらしい手柄《てがら》だ、ハザール。おまえたち兄弟は、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を南北からはさみ撃ちできる状況《じょうきょう》をうみだしたというわけだな。」
それをきいたとたん、ハザールの視線《しせん》がゆれた。
「………いや、父上、わたくしの説明《せつめい》が、すこしたりなかったようです。おゆるしください。
わたくしは、カンバル王に、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を攻《せ》めるよう説得《せっとく》したのではありません。ロタ王国南部《おうこくなんぶ》の大領主《だいりょうしゅ》たちの連合軍《れんごうぐん》と同盟《どうめい》をむすび、援軍《えんぐん》をさしむけるよう、説得《せっとく》したのです。」
複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》になった父とアイオルをみながら、ハザールは言葉をついだ。
「カンバルがロタ南部とくみ、南北からはさめば、ロタ王側《おうがわ》はかならずたおせます。そうなれば、ロタを、われらの影響下《えいきょうか》におくことができます。」
ハザールの話し方には、弟のような人を圧《あっ》する力がなかった。しかし、皇帝《こうてい》は、冷静《れいせい》に、この長男《ちょうなん》の話をきいていた。
北の大陸《たいりく》の支配《しはい》を成功《せいこう》させる要《かなめ》は、ロタ王国《おうこく》の支配だ。
ラウルは新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を攻《せ》めおとし、足場《あしば》をきちんときずいてからロタを攻めるつもりでいる。それにたいして、ハザールは、さきにロタの分裂《ぶんれつ》をはかった。――どちらも、わるい策《さく》ではない。
「……つまり、おまえは、ロタを完全《かんぜん》に掌握《しょうあく》するために、兵力《へいりょく》をうごかしたいといっているのだな。」
まっすぐに要点《ようてん》をついた皇帝《こうてい》の言葉に、ハザールの顔に、さっと血《ち》がのぼった。
「そのとおりです、父上。――どうか、わたしに兵力《へいりょく》をうごかす権限《けんげん》をおあたえください。
いまサンガルに集結《しゅうけつ》している兵のうち、二|万《まん》でいい。わたしに指揮権《しきけん》をいただければ、ロタをおとしてみせます!」
兄の言葉をききながら、ラウルは心のなかで歯《は》ぎしりしていた。
兄の手はなかなかのものだ。――それが、腹《はら》だたしくてならなかった。カンバルにも手をのばしておくことを、なぜ、気づかなかったのか。
新《しん》ヨゴをおとし、しっかりとした軍事拠点《ぐんじきょてん》をきずいてから、じっくりロタとカンバルをおとす………その策《さく》にのめりこむあまり、みえなくなっていたことがあったのだ。
父が、自分をみているのを、ラウルは感じていた。顔をあげ、父の視線《しせん》をうけとめると、父がロをひらいた。
「どうする、ラウル。――兄に、兵《へい》をわけてやるか。」
ラウルは、ひたっと父の視線をうけとめたまま、動きをとめた。
兄に兵をわけてやれば、兄はきっと、ロタをおとすだろう。自分も安心《あんしん》して、新ヨゴをおとせる。北の大陸《たいりく》|攻《ぜ》めは成功《せいこう》し、タルシュ帝国《ていこく》に損害《そんがい》をあたえることもない。――しかし、それは、兄に手柄《てがら》をわけることだった。これまで、ひとつひとつ足場《あしば》をかため、努力《どりょく》してきたラウルの苦労《くろう》のうえにたって、おいしい部分《ぶぶん》だけを、兄がもっていくことになる。
(………そんなことを、させてたまるか。)
これまで自分がおこなってきたことが、まちがっていたわけではない。ならばまようことなど、なにもない。この道を、あくまでもつきすすめばよいのだ。
しずかで、ゆるぎないものが胸《むね》の底《そこ》にひろがり、白熱《はくねつ》した怒《いか》りが消《き》えていった。おちついてくると、兄の策《さく》の弱点《じゃくてん》もみえてきた。
ラウルは、ぐっと背筋《せすじ》をのばして、父をみつめた。
「いいえ、父上。――兵力《へいれょく》をわけるのは下策《げさく》です。」
はっきりとしたラウルの声が、この場にいる人びとをうった。
「兄上はみごとな手を打たれた。兄上がすでにカンバル王《おう》を同盟《どうめい》にひきこんだのであれば、兵力をわける必要《ひつよう》などない。ロタは身内同士《みうちどうし》で食《く》いあって兵力をへらし、カンバルも、尻馬《しりうま》にのって、兵力《へいりょく》をへらす。――せっかくの共食《ともぐい》いのなかに、わざわざ、わが兵を参戦《さんせん》させる必要などないでしょう。」
ハザールがあおざめた。ラウルは、つよい口調《くちょう》でつづけた。
「わが軍《ぐん》は、まっすぐに新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を食いやぶります。兄上が、ロタを混乱《こんらん》させてくださったことは、とてもありがたい。うまくいくことを、わたしも祈《いの》っている。」
不敵《ふてき》な笑《え》みをうかべて、ラウルは父にいった。
「父上、われら兄弟は、父上の血《ち》をひく、うまれながらの征服者《せいふくしゃ》です。――かならずや、北の大陸《たいりく》を手にいれてみせます。」
皇帝《こうてい》は、しばしだまって、息子《むすこ》の、ぎらぎらとひかる目をみていたが、やがて、つぶやくようにいった。
「……そうか。たのしみにしておるぞ。」
息子《むすこ》たちが、それぞれの宰相《さいしょう》をつれてかえっていくうしろ姿《すがた》をみつめながら、皇帝《こうてい》は、アイオルに声をかけた。
「そなたは、どちらが皇帝《こうてい》の器《うつわ》とみる?」
アイオルも、王子《おうじ》たちのうしろ姿に目をむけたまま、こたえた。
「さて。それは、これから、この国がどのような道にすすめばよいか――そのことにかかっておりますな。」
ふむ、と、皇帝《こうてい》は小さく息《いき》を吐《は》いた。アイオルは、しずかにつづけた。
「ご自身《じしん》のお言葉ではないが、ラウル王子は、うまれながらの征服者。
これまでのように、国獲《くにと》りをつづけ、大きくひろがっていくことが、タルシュ帝国《ていこく》にとって良策《りょうさく》であるなら、彼《かれ》こそ、次代《じだい》の皇帝にふさわしいでしょう。」
そこで、アイオルはロをとじた。皇帝も、あえて、そのさきをきこうとはしなかった。
アイオルは、心のなかで、つぶやいた。
(ラウル殿下《でんか》は、宰相《さいしょう》にめぐまれていない。残念《ざんねん》なことだ。)
クールズは頭がきれる男だが、生粋《きっすい》のタルシュ人であるために、征服《せいふく》された経験《けいけん》がない。
そのために、枝国《しこく》となった国ぐにの民《たみ》の気もちを読みきれていない。
北の大陸《たいりく》への遠征《えんせい》は、これまでの侵略戦《しんりゃくせん》とはちがう。
大海をこえて補給線《ほきゅうせん》をのばし、兵《へい》を移送《いそう》しながら戦《いくさ》をするために、ラウル王子《おうじ》がこまかく堅実《けんじつ》な計画をたてたことは、アイオルもみとめていた。
しかし、サンガルという海の王国《おうこく》は、これまで支配《しはい》してきた陸の王国とは気質《きしつ》がちがう。
浮いている船《ふね》を何艘《なんそう》かつないでいるようなもので、しっかりおきえつけたつもりでも、いつ手の下から、するりとはなれてしまうかわからぬ、不安定《ふあんてい》さがある。
ラウル王子が兵《へい》をわけなかったのは、ある意味ではただしい。この戦争《せんそう》が成功《せいこう》するか否《いな》かは、いかにすばやく、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》をつぶせるかにかかっているからだ。
しかし、新ヨゴ皇国をおとすのにてまどったときは……さまざまな障害《しょうがい》がうまれてくるだろう。
ロタやカンバルの問題だけではない。タルシュ帝国《ていこく》の内側《うちがわ》からも、多大な戦費《せんぴ》への不満《ふまん》がわきあがってくる。……すでに、その兆《きざ》しは、あちらこちらにみえているのだ。
アイオルは、ふと、ひとりの若者《わかもの》のことを思いだした。――枝国出身《しこくしゅっしん》の官僚《かんりょう》たちから、信頼《しんらい》を得《え》ている、あの若い男。
その男は、新《しん》ヨゴの皇太子《こうたいし》をさらった手柄《てがら》で、ラウル王子《おうじ》からア・タル〈光への道〉を得たとき、まっさきに、その権限《けんげん》を、アイオルにあうためにもちいた。
もともと、アイオルは議論《ぎろん》をこのむ性質《せいしつ》だ。とくに、その若《わか》い男とは、はじめの心づもりよりも、はるかに長い時間話しこんだのをおぼえている。その男のおいたちや考え方が、自分とよくにていたせいかもしれない。
――この帝国《ていこく》は、のびきった革袋《かわぶくろ》のようなものです。
そういった男の目には、アイオルにとってはなじみぶかい苦悩《くのう》の色があった。
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――この国は、そろそろ外へひろがるのをやめるべきです。戦《いくさ》以外の方法で、国を富《と》ませる道をみつけないかぎり、かならずや、革袋《かわぶくろ》がやぶける日がおとずれます……。
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(……ヒュウゴとかいったか、あの男は。)
ラウル王子《おうじ》に攻《せ》めほろばされたヨゴ皇国《おうこく》の出身《しゅっしん》だといっていた。――故国《ここく》の滅《ほろ》びを経験《けいけん》し、枝国《しこく》となった国でそだった者《もの》にしかみえぬ風景《ふうけい》というものがある。
アイオルは、心のなかで、ため息《いき》をついた。
(あのような若者《わかもの》が、もうすこし年長《ねんちょう》で、ラウル殿下《でんか》の宰相《さいしょう》であったなら、タルシュ帝国《ていこく》全体《ぜんたい》に目をくばりながら、引きどきを、ラウル殿下に告《つ》げられるのだろうが……。)
アイオルは、おさないころから、ラウル王子をかわいがってきた。早くからめばえていた征服者《せいふくしゃ》の気質《きしつ》をみぬき、そだててきた。
ラウル王子《おうじ》は、先頭《せんとう》をきって帝国《ていこく》をみちびいてかけていく悍馬《かんば》だ。つかれを知らぬ、あの力と自信《じしん》がなければ、これほどの大国《たいこく》を背負《せお》うことはできない。だが、その力は、この国を強引《ごういん》に崖《がけ》っぷちへとひきずっていく可能性《かのうせい》もひめている。……そうなるようなら、〈太陽宰相《たいようさいしょう》〉として、彼《かれ》は、つらい決断《けつだん》をくださねばならない。
暮れていく夏の庭《にわ》を、アイオルはじっとながめていた。
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1  夜の岩山
こまかい雪《ゆき》が粉《こな》のようにまいとびはじめていた。
まだ、昼をすこしすぎたばかりだったが、天は雪を腹《はら》にためているのだろう、重苦《おもくる》しい鉛色《なまりいろ》をしていた。それでも、山の稜線《りょうせん》のあたりは、ぼんやりと明るい。
ずんぐりした馬にのっているバルサの姿勢《しせい》は、いつもより、やや前かがみだった。
岩屋《いわや》をでるとき、治療師《ちりょうし》のチカリは心配《しんぱい》そうな顔をしていた。同盟《どうめい》を意味のあるものにするためには、一刻《いっこく》の時間もおしいことがわかっているから、ひきとめはしなかったが、チカリの表情《ひょうじょう》の深刻《しんこく》さが、チャグムの心を重くしていた。バルサの傷《きず》はけっしてあさくない。熱《ねつ》もまださがりきってはいない。
身を切るような寒さのなかを、チャグムは、暗《くら》い気もちで馬をすすめていた。
いま、ふたりは、ほとんど荷《に》をもっていなかった。カームの館《やかた》においてきてしまった馬たちのかわりを買う金どころか、食糧《しょくりょう》を買う金さえもっていない。とりあえずチカリたちから薬草《やくそう》や食糧をわけてもらったが、それも数日分《すうじつぶん》ぐらいしかもたないだろう。
チカリたちから馬を借か《》りられなかったら、徒歩《とほ》でいくしかないところだった。
(――どこへいくんだろう。)
いくらたずねても、バルサは、これからなにをするつもりなのか教えてくれなかった。
「あんたは、まっさらなままでいたほうがいい。あんたが秘密《ひみつ》を知っていると感じたら、彼《かれ》らは、それだけで、心をとざしてしまうだろうから。」
そういっただけで、彼らとはだれなのかも、話してくれなかった。
チャグムに話さないだけでなく、カシャルたちにも、けっしてついてこないようバルサは説得《せっとく》した。彼《かれ》らがついてきたら、ぜったいに成功《せいこう》はありえないといって。
「王城《おうじょう》をみまもっていてください。わたしたちが王の説得《せっとく》に成功したら、王城をみまもっていれば、わかるはずです。……もし、わたしたちの姿《すがた》がないまま、カンバルの騎兵《きへい》がロタへむかってうごきだしたら、すぐにイーハン王子《おうじ》におつたえください。カンバルは、南部の大領主《だいりょうしゅ》と手をむすんで、背後《はいご》からイーハン王子の軍勢《ぐんぜい》をおそうつもりだと。」
バルサがそういうと、チカリはあおざめて、うなずいた。
ふたりは、カッル(マント)をきつく身体《からだ》にまきつけて、粉雪《こなゆき》のなかを、もくもくと馬を歩かせた。
やがて、雪《ゆき》のなかに、ぼんやりと、カンバル人の村《むら》――〈郷《さと》〉がみえてきた。〈郷〉をかこんでいる石積《いしづ》みの外郭《がいかく》の外側《そとがわ》には、ヤギの囲《かこ》いがあり、そのわきに、小さな小屋《こや》がいくつもへばりつくようにならんでいる。
バルサは、その小屋に馬をむけた。
ちかづくと、小屋の下には、すこし地面《じめん》をほりこんだ半地下の空間《くうかん》があるのがみえてきた。
そのうすぐらい穴倉《あなぐら》からヤギの鳴《な》き声《ごえ》と足音がきこえてくる。もわっとただよってきたにおいに、チャグムはおもわず顔をしかめた。
(うわ。……よく、こんなところでくらせるなぁ。)
家畜《かちく》が床下《ゆかした》にいれば、すこしはあたたかいのかもしれないが、このにおいが苦手《にがて》なチャグムには、考えられない暮らしだった。
「ここで、ちょっとまっていておくれ。」
そういうと、バルサは馬をおり、丸太《まるた》に刻《きざ》み目《め》を入れただけの、かんたんなはしごをのぼりはじめた。二|階《かい》にたどりつくと、板戸《いたど》をたたいて、カンバル語《ご》で、おとないを告《つ》げている。
戸があいて、なかから、小さな女性《じょせい》がでてきた。
チャグムは、びっくりして、その人をみつめた。――バルサの腰《こし》のあたりまでしか背丈《せたけ》がない。一瞬《いっしゅん》、子どもかと思ったが、顔はおとなの顔だった。もじゃもじゃの茶色の髪《かみ》をして、くりくりとした大きな目が、表情《ひょうじょう》ゆたかにうごく。彼女《かのじょ》の足もとにでてきた子どもは、バルサの膝《ひざ》に、ようやく頭がとどくほどの小ささだった。
(この人が、牧童《ぼくどう》か……!)
バルサから話にはきいていたけれど、ほんとうに、こんなに小さいとは思わなかった。
女の人が、おどろいたように首をふっている。
「……かね! まぁ、まぁ!」
ふたりがなにを話しているのか、風の音がうるさくて、よくきこえなかった。
バルサがなにかいうと、女の人の顔がくもった。彼女《かのじょ》が手でちょっとおすようなしぐさをすると、バルサはうなずいて、はしごをおりはじめた。そのうしろから、女の人もおりてくる。
女の人は、ちょっとチャグムに会釈《えしゃく》してわきをとおりすぎ、となりの小屋《こや》の前に立つと、いきなり、ピュウイ、ピュウ! と、するどい口笛《くちぶえ》をふいた。
「どうしたの?」
びっくりしてバルサにたずねると、バルサは牧童《ぼくどう》の女性《じょせい》のほうをみながら、つぶやいた。
「口笛《くちぶえ》は、牧童にとっては、言葉みたいなものなんだよ。」
ならんでいる小屋《こや》の戸《と》が、つぎつぎにあき、なかから女たちがあらわれた。若《わか》い人も年寄《としより》も、ぞろぞろおりてくる。彼女《かのじょ》らは雪のなかに輪《わ》になって、なにか小声で相談《そうだん》をはじめた。
すこしはなれたところから、そのようすをみながら、バルサがいった。
「――ここの牧童《ぼくどう》の老人《ろうじん》に、王城《おうじょう》の地下《ちか》まで案内《あんない》してもらおうと思ってきたんだけど、彼《かれ》は去年《きょねん》|亡《な》くなったそうだ。」
「え? じゃあ、どうするの?」
「ほかにも、知りあいがいる。その人たちに、いそいであいたいといったら、彼らのところに案内《あんない》していいかどうか、自分ひとりじゃきめられないってさ。」
寒風《かんぶう》のなかでまっているのは、つらかった。
足踏《あしぶ》みをしながらまっているうちに、ようやく、どうするかきまったらしく、最初《さいしょ》にバルサがたずねた女性《じょせい》とともに、全員《ぜんいん》が、バルサとチャグムのほうへ歩いてきた。
最年長《さいねんちょう》らしい老婆《ろうば》が、バルサをみあげて、ロをひらいた。
「……〈舞《ま》い手《て》〉をつとめた、あなたなら、おつれしても、つれあいたちはおこらぬでしょう。
でも、その異人《いじん》の若者《わかもの》を、おつれするわけにはいきません。」
バルサは、しずかにいった。
「この若者をつれていくために、わたしは、ここへきたのです。――どうか、おねがいいたします。この若者が、王城《おうじょう》へはいれるかどうかに、何千、何|万《まん》という人の命《いのち》がかかっているのです。」
老婆《ろうば》は、こまったように顔をゆがめた。
「………どうするかのう。」
つぶやいて、彼女《かのじょ》は考えこんだ。ピュイ、ピュウウイ、と、女たちが、さかんに口笛《くちぶえ》をふきはじめた。まるで、小鳥がさえずりをかわしているようだった。
それをききながら、老婆《ろうば》はうつむいていたが、やがて、うなずいた。
「そうだね。――みんなのところへつれていこう。それから、どうするかは、そこできめてもらおう。」
かた太《ぶと》りの若《わか》い女性《じょせい》が、道案内《みちあんない》をしてくれることになった。
馬ではとてものぼれない道だということで、馬はあずかってもらい、ふたりは彼女《かのじょ》のあとについて、山道をのぼりはじめた。
小さいのに、彼女は、おどろくほど足がはやかった。道はすぐに、ごつごつとした岩の間をのぼるはそい獣道《けものみち》のようなものになり、長靴《ちょうか》に滑《すべ》り止《ど》めのワラ縄《なわ》をまいていても、気をはっていないと、すべって歩きにくかった。それなのに、毛皮《けがわ》をまとった牧童《ぼくどう》の女性は、まるでヤギのように身《み》がるに岩から岩へのぼっていく。
「……ちょっとまってください。」
ついに、チャグムは、カンバル語《ご》で女性《じょせい》に声をかけた。
「わたしは、こういう道になれていないし、バルサはけがをしています。すこし、足をゆるめてくれませんか。」
おどろいたように、ぱっと、牧童《ぼくどう》の女性がふりかえった。そして、いかにもすまなそうに、頭をふった。
「ごめんよぅ。あんたらには、はやすぎたかね。……夜がくるまえにと思ったもんで、気がせいていてさ。わるかったねぇ。」
その声には心からわびる響《ひび》きがあり、チャグムは、おどろいた。
異様《いよう》なほどの小柄《こがら》さや、口笛《くちぶえ》での会話など、ふしぎなことが多すぎて、なんとなくうすきみわるく感じていた気もちが、その声をきいたとたん、ぬぐわれたように消《き》えていった。
女の人は、ふたりの進《すす》み方《かた》に気をつけてくれるようになったけれど、いったい、どこまでのぼっていくのかわからないだけに、歩くつらさはかわらなかった。
バルサが、かすかによろけたのをみて、チャグムはおもわず、バルサの右腕《みぎうで》をつかんだ。
「だいじょうぶ?」
バルサはうなずいたが、声はださなかった。あたりはもう、かなり暗《くら》くなっていて、顔はぼんやりとしかみえなかったけれど、つかんでいる右腕《みぎうで》が小刻《こきざみ》みにふるえていた。
チャグムはバルサの右腕を自分の背《せ》にまわし、肩《かた》の下に身体《からだ》を入れて、ささえた。
わずかにためらってから、バルサが自分の肩に身体をあずけたのを、チャグムは感じた。ふたりは、たがいをささえながら、一|歩《ぽ》一歩、岩をのぼっていった。
あたりが暗闇《くらやみ》につつまれたころ、ふいに、チャグムは、なまあたたかいものが顔にふれたような気がして、たちどまった。
ぬるい水のなかにはいったように、あの、身《み》を切るような寒さがきえている。
自分をおしつつんでいるもののにおいをかいだとたん、チャグムは、ふるえはじめた。
あたりの景色《けしき》が、青い光をたたえて、ゆらめいてみえる。
あっと思うまもなく、チャグムは、幾千万《いくせんまん》もの精霊《せいれい》たちがうごめく光の海のなかにいた。
遠くから、バルサの声がきこえてきたが、それは、水のなかできく音のように、くぐもってひびき、なにをいっているのか、よくわからなかった。その声よりも、自分をとりまいて泳《およ》ぎまわっている精霊たちの音のほうが、はるかに大きく、はっきりときこえる。
チャグムは、目をとじた。
(……ナユグだ。)
ここは、ナユグ(異界《いかい》)とサグ(この世《よ》)の結《むす》び目《め》なのだ。
(ひかれては、だめだ。――心をたもたねば……。)
まるで水流《すいりゅう》にひきこまれるように、ものすごい力が自分をおしつつんで、ナユグにひきこんでいくのをチャグムは感じていた。全身《ぜんしん》にナユグの水がしみこんできて、身体《からだ》がとけていく。じんわりとしたぬくもりが身体にひろがっていく。
肩《かた》でささえているバルサの重みを感じることで、チャグムはひっしに、自分の心をサグの側《がわ》につなぎとめようとした。
――チャグム?
バルサの声がかすかにきこえる。
その顔が、瑠璃色《るりいろ》の水のむこうに、ゆらめいてみえる。とけてしまいたいという思いは、あまりにも、はげしく、つよかった。
チャグムは、バルサの背《せ》にまわした手で、バルサのカッルをにぎりしめた。
バルサは、とまどっていた。
自分をささえて歩いてくれていたチャグムが、いきなり立ちどまり、はげしくふるえはじめたのだ。自分の背《せ》を、チャグムが、すがりつくようにつかむのを感《かん》じて、バルサはあわててチャグムを抱《だ》きしめた。
と……においがした。雨あがりの大気《たいき》のような鮮烈《せんれつ》な水のにおい。――それをかいだとたん、記憶《きおく》が心によみがえってきた。
水の精霊《せいれい》の卵《たまご》を胸《むね》に抱《だ》いていた、おさないチャグムが、ナユグにひかれたとき、いつも、こんなにおいがした。
(――ここは。)
ナユグに近いのか? きっとそうだ。〈山《やま》の王《おう》〉のすまう闇《やみ》に近いのだから……。
気のせいか、チャグムの身体《からだ》がかるくなっていくような気がした。しっかり抱《だ》いているはずなのに、たしかな手ごたえがない。目の前がゆがみ、ゆれはじめた。なにかにすいこまれていく……。
チャグムが、きりきりと歯をくいしばった音がした。背《せ》をつかんでいる手に、ものすごい力がこもっていた。激流《げきりゅう》にもまれ、岩にしがみついているようなしぐさで、チャグムはバルサにすがりつき、背をのばした。
その目に光がもどってくると、あたりの景色《けしき》のゆがみがきえて、さだまってきた。
「だいじょうぶかい?」
ささやくと、チャグムはうなずいて、背《せ》をおこした。額《ひたい》にびっしりと汗《あせ》がういている。
案内《あんない》をしてきた牧童《ぼくどう》の女は、ふしぎそうな顔でそんなふたりのようすをみていたが、チャグムがしゃんと背《せ》をおこすのをみると、たかい口笛《くちぶえ》をふきならした。とても複雑《ふくざつ》な節《ふし》まわしで、長ながと口笛をふいている。その姿《すがた》は闇《やみ》にとけ、ほとんどみえなかった。
青い闇のなかに、風の音がひびいている。バルサとチャグムは膝《ひざ》をついたまま、じっと、闇をみつめていた。
ふと、なにかみえたような気がして、チャグムはそちらに目をこらした。そして、息《いき》をのんだ。
たくさんのきみょうな光がちかづいてくる。獣《けもの》のように足音もたてず、目をひからせた影《かげ》が、岩山をするするとおりてくるのだ。
バルサがささやいた。
「だいじょうぶ。あれは、牧童《ぼくどう》たちだよ。」
「目がひかっている……。」
「闇《やみ》のなかでも目がみえるように、トガルという毒草《どくそう》の汁《しる》をすこしだけ目につけているから、あんなふうにひかってみえるんだよ。」
風のなかに、彼《かれ》らがまとっているヤギ皮《がわ》の衣《ころも》のにおいがただよってきた。チャグムたちを
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ぐるりととりかこんで、牧童《ぼくどう》たちは、岩の上に腰《こし》をおろした。
正面《しょうめん》の男が、バルサに挨拶《あいさつ》をした。
「おひさしぶりです。〈舞《ま》い手《て》〉にふたたびお目にかかれて、うれしい。」
バルサは彼《かれ》に深《ふか》く頭をさげた。
「あのときは、わたしたちをみちびいてくださって、ありがとうございました。」
男はうなずくと、チャグムをちらっとみ、それからバルサに目をもどしていった。
「わたしらにあいにいらした理由《りゆう》を、あなたの口からうかがいましょう。」
バルサは、これまでのいきさつをかたりはじめた。
チャグムが新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の皇太子《こうたいし》であること。タルシュ帝国《ていこく》が北の大陸《たいりく》を攻《せ》めようとしていること。カンバル王《おう》がなにを考えているか。ロタ王がなにをのぞみ、なぜ、地下の儀式場《ぎしきじょう》に王たちをよびだして、ほかにだれもいない状態《じょうたい》で、チャグムとあわせたいのか。
すべてをかたりおえるには、長い時間がかかったが、牧童《ぼくどう》たちは、みじろぎもせずにきいてくれた。
「カンバル王《おう》が、タルシュ帝国《ていこく》に服従《ふくじゅう》してしまえば、タルシュ人がこの国にやってきます。彼《かれ》らは、かならず、ルイシャ〈青光石《せいこうせき》〉をとりに、山の底《そこ》へはいろうとするでしょう。
このチャグム皇太子《こうたいし》が、カンバル王《おう》を説得《せっとく》することに成功《せいこう》すれば、カンバルは、ロタや新《しん》ヨゴと手をむすんで大きな壁《かべ》をつくることができます。タルシュ人が、この地にはいってくることも、ふせげるでしょう。」
バルサがロをとじると、あたりはしずまりかえり、風の音しかきこえなくなった。
やがて、牧童《ぼくどう》たちは、ささやきかわしはじめた。早口《はやくち》なので、なにをいっているのか、よくわからなかったが、議論《ぎろん》をしていることだけはわかった。
チャグムは息《いき》をつめて、ことのなりゆきをみまもっていた。
なにか結論《けつろん》がでたのだろう。牧童《ぼくどう》たちは、ぴたっと話をやめ、さっきバルサに挨拶《あいさつ》をした男が口をひらいた。
「バルサさん、チャグム皇太子《こうたいし》、あなた方《がた》のお気もちも、事情《じじょう》も、よくわかりました。
この国がどういう危機《きき》にあるか、わたしらも、多少《たしょう》は知っています。あなたがやろうとなさっていることは、たいせつなことだ。わたしらも、うまくいってほしいと思う。
けれど、そういう事情で、儀式場《ぎしきじょう》へ、王《おう》と〈王《おう》の槍《やり》〉をよびだすことはできません。」
彼《かれ》のわきにいた老人《ろうじん》が、しわがれ声でいった。
「われらが、儀式場《ぎしきじよう》へ王たちをまねくのは、〈山の王〉と〈山の上の王〉とがかかわる大事《だいじ》のときだけだ。たとえ、どのような理由《りゆう》があろうとも、ほかの理由のために、王を儀式場へよびだすわけにはいかぬ。――それは、われらと王のあいだにある約束《やくそく》をけがし、信頼《しんらい》をけがす行為《こうい》だからだ。」
彼《かれ》らは、それきり、ぴったりとロをとざした。身動《みうご》きもしなくなった。そのしずけさは、山の底《そこ》のしずけさににていた。
しびれるような失望感《しつぼうかん》が身体《からだ》にしみてくるのを、バルサは感じていた。
ふいに、チャグムが、バルサをささえながら立ちあがった。そして、牧童《ぼくどう》たちをみまわすと、はっきりとしたカンバル語《ご》でいった。
「……話をきいてくれて、どうもありがとう。」
そして、バルサにささやいた。
「いこう。」
バルサがうなずいたとき、牧童《ぼくどう》が声をかけた。
「今夜《こんや》は、〈郷《さと》〉のわたしらの家でおやすみください。」
チャグムは、じっと牧童をみつめた。ことわりたかった。心をこめたバルサの話を、かたくなな態度《たいど》でことわったこの人びとには、いっさい世話になりたくなかった。
聖《せい》なるものをまもるためには、どんな事情《じじょう》があっても耳をかさない彼《かれ》らの姿《すがた》は、父の姿を思いださせる。こういうかたくなさが、チャグムは大きらいだった。
しかし、背《せ》に腹《はら》はかえられない。宿《やど》をさがすにも金がないし、バルサの身体《からだ》のこともある。
チャグムは、つぶやいた。
「……それでは、一夜《いちや》の宿《やど》をおねがいします。」
牧童《ぼくどう》はうなずくと、うしろをふりかえって、だれかに合図《あいず》をした。と、少年がでてきて、なにかを彼《かれ》に手わたした。彼は、岩の上につもっている雪をてのひらの上でとかし、それになにかをつけると、チャグムにいった。
「目をつぶってください。」
不審《ふしん》に思いながら、目をつぶったチャグムは、まぶたをひんやりとしたものがなでるのを感じた。
「……目をあけていいですよ。」
目をあけて、チャグムはぎょっとした。あたりの景色《けしき》が一変《いっぺん》している。さっきまで、ものの影《かげ》しかみえない闇《やみ》のなかにいたのに、いまは、満月《まんげつ》の光のなかにいるように、岩も人の姿《すがた》もみえる。
目の前に立っている、自分の腹《はら》のあたりまでしかない牧童《ぼくどう》の顔も、いまは、よくみえた。目をひからせた獣《けもの》めいた印象《いんしょう》とはまるでちがう、人のよさそうな中年《ちゅうねん》の男だった。
「衣《ころも》についたヤギの毛のように、幸運《こううん》があなたについてまわりますように。」
そうつぶやくと、彼《かれ》らは、チャグムたちを残し、岩山の闇《やみ》のなかへ姿《すがた》をけした。
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2  牧童《ぼくどう》の家で
帰り道は、のぼってきたときよりも時間がかかった。
ようやく〈郷《さと》〉までたどりついたときには、チャグムは、めまいがするほどにつかれきっていた。案内《あんない》をしてくれた若《わか》い牧童《ぼくどう》の女の家に着《つ》いたときは、ただ、ただやすめるのがうれしくて、ヤギのにおいさえ気にならなかった。
家のなかは、すべてのものが小さかった。天井《てんじょう》に頭がこすってしまうので、チャグムは、まっすぐに立つことさえできなかった。それでも、家のなかは、ほっとするやすらぎにみちていた。炉《ろ》には、あかあかと乾燥《かんそう》させたヤギの糞《ふん》が燃《も》え、焼《や》き物《もの》の据《す》え台《だい》の上で、土鍋《どなべ》がクツクツ音をたてている。
チャグムとバルサがはいったとたん、部屋《へや》のすみに逃《に》げてかたまっていたチビさんたちが、好奇心《こうきしん》にまけたのか、空腹《くうふく》にまけたのか、そろそろと炉《ろ》のそばにちかよってきた。
この家には、道案内《みちあんない》してくれた若《わか》い娘《むすめ》のほかに老婆《ろうば》と中年《ちゅうねん》の女の三人がいて、なんだかんだと話しかけながら世話をやいてくれたが、つかれきっているチャグムは、なにをいわれても、うなずくぐらいしかできなかった。
バルサは、すでに横《よこ》になっていた。炉《ろ》のわきのいちばんあたたかい寝床《ねどこ》につれていかれるや、たおれるように横になって目をとじ、うごかなくなった。
「なにか、あたたかいものを食べさせたいが……。」
チャグムがつぶやくと、バルサの身体《からだ》に毛皮《けがわ》をかけていた老婆《ろうば》が首をふった。
「まず、寝《ね》かせましょ。わたしらがちゃんとお世話をしますから、あなたは、食事《しょくじ》をしてくださいな。」
若《わか》い娘《むすめ》が、炉《ろ》の火のそばにある丸い石の上で、うすいバムを焼《や》いている。ちょっとふくらんでくると、手ばやくひっくりかえし、まわし、まんべんなく火がとおると、わきの籠《かご》に入れている。そのあつあつのバムに、中年《ちゅうねん》の女が黄色いラ(バター)のかたまりをのせた。こうばしいにおいとともに、ラがあついバムの上でとけてしみこんでいく。
手わたされた椀《わん》には、湯気《ゆげ》のたつ煮込《にこ》み汁《じる》のようなものがもられていた。
鶏肉《とりにく》や芋《いも》を乳《ちち》で煮《に》たものらしい。ヤギの乳で煮ているのだけれど、よいにおいがする葉《は》がはいっていて、思ったよりにおいは気にならなかった。ひと口すすると、ちょうどいい塩味《しおあじ》がして、こくもある。もうれつに腹《はら》がへってきて、チャグムは夢中《むちゅう》で煮込《にこ》みを食べ、ラと蜜《みつ》がたっぷりしみこんだ、こうばしいバムをロにおしこんだ。
その食べっぷりを、牧童《ぼくどう》の子どもたちが、ぽかんと口をあけてみていた。女たちは満足《まんぞく》そうな顔で、なんどもおかわりをよそってくれた。
人心地《ひとごこち》ついて、牧童《ぼくどう》たちの食事《しょくじ》のようすをみるうちに、チャグムはふいに、自分が彼《かれ》らの何倍《なんばい》もの量《りょう》を食べてしまったことに気づいた。貧《まず》しげな彼らの、たいせつな冬ごしの食糧《しょくりょう》を、ずいぶんへらしてしまったのかもしれない。
それをロにすると、女たちは笑《わら》いはじめた。
「まったく、あなた、腹《はら》っぺこの狼《おおかみ》みたいな食べっぷりで。全部《ぜんぶ》食べられちゃったら、どうしょうかと思ってましたよ。」
その言い方がおかしかったのだろう、子どもたちもケタケタ笑っている。
チャグムはあかくなった。
「もうしわけありません。……正直《しようじき》にいいますが、お礼《れい》をしたくとも、いまは、まったくお金をもっていないのです。」
中年《ちゅうねん》の女が、手をふった。
「旅人《たびびと》をもてなして、金をとる薄情者《はくじょうもの》がどこにいるかね。うちの分がたりなくなったら、みんなにわけてもらえばいいんだからさ。」
若い娘も笑《わら》いながらいった。
「去年《きょねん》も、今年《ことし》も、いい日和《ひより》がつづいてね、ヤギが、たんとふえたし、乳《ちち》の出《で》もいいし。
気にしないで、たんと食べてくださいな。」
「いや、もう、じゅうぶんいただきました。……ありがとうございます。」
礼《れい》をいって、チャグムは膝《ひざ》に手をおき、天井《てんじょう》に頭をぶつけないよう気をつけて立ちあがった。そして、バルサのわきにすわり、そっと額《ひたい》にふれた。
やはり、熱《ねつ》が高かった。くちびるがひびわれ、息《いき》も苦しそうだ。
中年《ちゅうねん》の女が、木の椀《わん》になにか入れてもってきた。
「これを飲《の》ませましょ。頭をもちあげて。」
チャグムはそっとバルサのうなじに手を入れて、バルサをかかえおこした。バルサはうすく目をひらいたが、ものはみえていないようだった。
木の椀《わん》にはいっている汁《しる》のようなものを、なんとか飲《の》ませ、バルサをよこたえると、チャグムは自分の袖《そで》で、バルサの口もとをぬぐった。
チャグムの表情《ひょうじょう》をみて、中年《ちゅうねん》の女がいった。
「これは、ウッカの木の根《ね》を煮《に》だした汁《しる》でね、よくきくから、だいじょうぶ。明日《あす》の朝には、熱《ねつ》もさがってますさ。」
そういって、中年《ちゅうねん》の女は、ほほえんだ。
炉辺《ろばた》にすわって、木の根《み》のようなものをかんでいた老女《ろうじょ》が、うしろから声をかけてきた。
「あんた、その人の養《やしな》い児《ご》かね?」
中年の女が、あわてたように、老女をたしなめた。
「おばあちゃん、この人は新《しん》ヨゴの皇子《おうじ》さまだよ。」
ほお、という顔をした老女《ろうじょ》に、チャグムは、いった。
「あなたのいうとおり、わたしはバルサの養《やしな》い児《ご》のようなものです。……おさないころ、命《いのち》をすくわれ、いまも、まもってもらっている。」
老女は、ふんふんとうなずいた。
「そうだと思ったよ。あんた、おっかさんを心配《しんぱい》してる息子《むすこ》の顔をしてたもの。」
チャグムはてれくさげに笑《わら》った。
ウツカの根《ね》とやらがきいてきたのだろうか、バルサの呼吸《こきゅう》は、まえよりすこし、おだやかになっていた。
子どもらが、なにやらロげんかをはじめ、中年《ちゅうねん》の女にしかられて、お兄ちゃんらしき男の子がべそをかきはじめた。
チャグムはバルサのわきに片膝《かたひざ》を抱《だ》いてすわり、ぼんやりとそのさわぎをながめていた。明日《あす》の夜も、明後日《あさって》の夜も、ひと月後《つきご》も、この家族《かぞく》は、きっと、こういう夜をすごすのだろう。
(ひと月後、わたしは、どんな夜をむかえているのだろう……。)
すぐそこで笑《わら》っている人びとの声が、遠くからきこえるような気がした。
つぎの日は、チャグムは昼ちかくまで、泥《どろ》のようにねむった。
松明《たいまつ》のあかりがゆれる食糧倉《しょくりょうぐら》で、カームと議論《ぎろん》している夢《ゆめ》をみた。なんどもくりかえし、おなじようなことをどなりあっている夢だった。
目がさめはじめたとき、夢とうつつのさかいめに、カームの、とまどったような顔がうかんだ。その瞬間《しゅんかん》、鼓動《こどう》がはやくなった。
チャグムは、はっきりと目をさまし、いま、なにを思いだしたのか、夢《ゆめ》のなごりをつかまえようとした。たいせつなことを、わすれているような気がする。しかし、手をのばしたとたん、ふわりとゆれる煙《けむり》のように、気がかりだけを残して、その記憶《きおく》はきえてしまった。
身体《からだ》をおこそうとすると、こわばっていた全身《ぜんしん》にきしむような痛《いた》みがはしった。
家のなかは、しずかだった。がらんとして、人《ひと》けがない。
バルサが炉《ろ》のわきにすわって、なにか食べている。まだ、顔色はわるかったが、ずいぶん血《ち》の気《け》がもどってきているのをみて、チャグムは心底《しんそこ》ほっとした。
「……なにを食べているの?」
バルサはふりかえって、椀《わん》をもちあげてみせた。
「食べそこなった夕飯《ゆうはん》のお汁《しる》をあたためなおして、いただいている。」
声にもはりがもどっていた。チャグムは笑《わら》いながら、バルサのわきにすわった。
「この家の人たちは?」
「女たちは機織小屋《はたおりごや》。子どもらはヤギの世話……だと思うよ。目がさめたときは、だれもいなかったから。」
そういって、バルサは椀《わん》を膝《ひざ》におろし、真顔《まがお》になった。
「わるかったね。よけいなまわり道をさせてしまって。」
チャグムは首をふった。そして、ぼんやり炉《ろ》の火をみながら、つぶやいた。
「……いまのおれには、まわり道なんて、ないよ。どれが最善《さいぜん》の未来《みらい》につながっている道なのか、わからないもの。」
顔をなでると、顎《あご》のあたりになにかがふれた。そういえば、しばらく髭《ひげ》をそっていない。
髪《かみ》もとかしていない。牧童《ぼくどう》の女たちは、ずいぶん、むさくるしい顔をした皇子《おうじ》だと思ったことだろう。
チャグムは、ふいに苦笑《くしょう》をうかべた。
「バルサ、おれたち、すっからかんだよ。食物をすこしもっているだけだ。まわり道どころか、どこかではたらいて旅費《りょひ》をかせがないと、新《しん》ヨゴまでかえりつけないよ。」
バルサの顔にも笑《え》みがうかんだ。
「そうだね。……ま、なんとかなるよ。〈郷《さと》〉から〈郷〉へ、牧童《ぼくどう》たちをたよって旅をすれば、彼《かれ》らは一夜《いちや》の宿《やど》くらい、貸してくれるから。そうやって、ヨンサ氏族領《しぞくりょう》へいきつけば、叔母《おば》さんがいる。旅費《りょひ》くらいなんとかしてくれるさ。」
砂《すな》がながれるように、時がながれていくことをおそれる気もちが、つねに心の底《そこ》にある。
チャグムはもっと、あせっているだろう。
火に手をかざしているチャグムに、バルサはいった。
「外に井戸《いど》があるから、顔をあらっておいで。あまり出発がおそくなると、暗くなるまえにつぎの〈郷《さと》〉へつけないよ。」
一夜《いちや》の宿《やど》と、おいしい食事《しょくじ》の礼《れい》を牧童《ぼくどう》の女たちにいって、バルサとチャグムは、ヤギ囲《がこ》いにつながれていた馬たちをひっぱりだした。
チャグムはバルサの馬に鞍《くら》をのせ、腹帯《はらおび》をしめてやった。手をそえて馬にのせてやると、バルサはにやにや笑《わら》った。
「こうやって、あんたに、あまやかしてもらうのも、なかなかいい気分だね。」
チャグムは笑《わら》いながら、自分の馬にとびのった。
雲がきれ、青空がかがやいている。冬のカンバルらしい、凍《い》てついた、うす青い空だった。
〈郷《さと》〉のカンバル人に姿《すがた》をみられないよう、ヤギ囲《がこ》いの裏手《うらて》の森をまわって街道《かいどう》にでたとき、小さな鳥がひゅうっと道をよこぎってきて、チャグムの顔の前ではばたいた。
びっくりして馬の手綱《たづな》をひくと、小鳥は、まるでよくなれた飼《か》い主《ぬし》にやるように、チャグムの肩《かた》にとまってしまった。
「びっくりした。……へんな鳥だね。」
そういいながら、バルサをみて、チャグムは、はっとした。バルサは、きびしい顔つきで森のほうをみている。
「どうしたの?」
「……彼女《かのじょ》らは、わたしらのあとを、つけてきたらしいね。」
そういって、バルサは森のほうをゆびさした。そちらへ視線《しせん》をむけたとたん、肩から小鳥がまいあがり、すうっと滑空《かっくう》して、バルサがゆびさしたほうへとんでいった。そして、木かげに馬をとめている人が、さしだした手にとまった。
治療師《ちりょうし》のチカリと、カシャルの若者《わかもの》がならんで、手まねきしている。
チャグムは鼓動《こどう》がはやくなるのを感じた。――新《しん》ヨゴへかえるためには、彼女《かのじょ》らをふりきらねばならない。だが、なんどもたすけてもらった彼女らをうらぎるのは、気が重かった。
「どうする……?」
つぶやくと、バルサは、カシャルたちに視線《しせん》をむけたまま、いった。
「いこう。……いまのわたしの体調《たいちょう》じゃ、ふりきって逃《に》げるのは、むりだ。」
馬を森のなかに入れ、そばまでいくと、チカリは早口《はやくち》にいった。
「まちがえないでね、約束《やくそくそ》をやぶったわけじゃないのよ。でも、ちょっと気になることがおきたんで、あなた方《がた》につたえるべきだと、判断《はんだん》したの。」
小鳥を肩《かた》にとまらせた若者《わかもの》がつけくわえた。
「こいつを飛ばしていたら、あの〈郷《さと》〉のヤギ囲《がこ》いで、あなた方《がた》に貸《か》した馬をみつけたんで、ここでまっていたんです。」
チャグムは、ちらっとバルサをみた。バルサは顔をくもらせてチカリをみつめていたが、やがて、口をひらいた。
「……気になることって、なんです?」
チカリが、ひくい声でいった。
「カーム・ムサが、あなた方《がた》をひっしにさがしているわ。」
若者《わかもの》が、小鳥をなでながら、あとをひきとった。
「こいつに魂《たましい》をのせて、館《やかた》の窓辺《まどべ》できいていたら、カームが家臣《かしん》たちに、あなた方《がた》をさがすよう、命《めい》じていました。王都《おうと》だけでなく、近辺《きんぺん》のラッサルや〈郷《さと》〉もさがすようにって。」
バルサは眉《まゆ》をひそめた。
「タルシュの刺客《しかく》は……?」
若者がこたえた。
「カーム・ムサは、あのあと、タルシュの密偵《みってい》をぎっちりしばりあげて、慎重《しんちょう》に監禁《かんきん》しました。殺《ころ》されかけたのだから、当然《とうぜん》ですが……。」
その言葉のなにかが、チャグムの胸《むね》に、きみょうなざわめきをうんだ。
夢《ゆめ》うつつに、たいせつなことをわすれている……と思った、あの感覚《かんかく》がよみがえってきた。こんどこそ、逃《に》がしてはいけない。チャグムは、頭のなかにうかびかけたものを、ひっしにつかまえようとした。
(カームが、タルシュの密偵《みってい》をしばりあげた。殺《ころ》されかけたから、当然……。)
その言葉をたどるうちに、ようやく、気になっていたことがはっきりとすがたをあらわした。
「バルサ!」
チャグムはさけんで、バルサの右手をつかんだ。
「……それだよ! ねぇ、バルサ、なんでタルシュの密偵《みってい》はカームをなぐったんだ? なぜ、カームまで殺《ころ》そうとしたんだ?」
バルサは、チャグムがきゅうになにをいいだしたのかわからず、まばたきをした。
「そりゃあ、わたしらが、よけいなことをカームにふきこんだら、カームが………」
いいながら、バルサは、ふいに言葉をとぎらせた。チャグムがいいたいことが、わかったからだ。チャグムは目をかがやかせて、うなずいた。
「そうだよ。タルシュの密偵《みってい》は、わたしたちの話をきいて、カームが心をかえるのをおそれたんだ。だから、カームまで殺《ころ》そうとしたんだ。
王《おう》が決定《けってい》をくだしてしまわれたから、もうだめだと思いこんでいたけれど、きっと、そうじゃないんだ。カームが心変《こころがわ》わりしたら、まだ事態《じたい》がひっくりかえる可能性《かのうせい》があるんだよ! そうでなければ、王《おう》の重臣《じゅうしん》を殺《ころ》すような、危険《きけん》なことをするはずがない。」
あのとき、カームはふしぎそうな顔をした。チャグムの言葉をきいた瞬間《しゅんかん》、とまどってききなおしたのだ。タルシュの密偵《みってい》がとびこんできたのは、そのときだった。
タルシュの密偵に、カームを殺《ころ》す決心《けっしん》をさせたもの――それは、あのとき、チャグムがいいかけていた言葉だ。
鼓動《こどう》がたかまっていくのを感じながら、チャグムはいった。
「バルサ、きっと、カームもカンバル王も、知らないんだ。ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》たちのあとおしをしているのが、ラウル王子《おうじ》ではなく、ハザール王子だということの意味を。
カーム自身《じしん》、いっていたじゃないか。情報《じょうほう》はほとんど、南部の大領主たちから教えてもらったって。――彼《かれ》らが、自分たちに不利《ふり》な情報を教えるものか!
それに、よほど、タルシュの事情《じじょう》にくわしくなければ、ラウル王子とハザール王子がどんなふうにあらそっているかなんて、知っているはずがない。」
チャグムは、わきたつ心をおさえるように、ひくい声でつけくわえた。
「なにか違和感《いわかん》があったんだ。カームが王をうらぎっている内通者《ないつうしゃ》でないなら、わたしのことをあれほど血眼《ちまなこ》になってタルシュの刺客《しかく》が追う必要《ひつよう》がない。べつの理由《りゆう》が――わたしを彼《かれ》らにあわせたくない理由がなければおかしいもの。
カームも、カンバル王も、かんちがいしているんだよ。――いま、北の大陸《たいりく》に攻《せ》めてきている大軍勢《だいぐんぜい》が、ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》をあとおししている軍勢だと。わたしが、それを、彼らに教えてしまうのを、タルシュの密偵《みってい》たちはおそれているんだ。」
目をまるくして、その話をきいていたチカリが、せきこむようにいった。
「それは、ありえますね。タルシュの密偵が二|派《は》にわかれているってことは、わたしたちでさえ、けっこう最近《さいきん》になって知ったことだもの。」
若者《わかもの》も、目をかがやかせて、うなずいた。
「カーム自身《じしん》、殺《ころ》されかけて、気になりはじめたんじゃないかな。だから血眼《ちまなこ》になってさがしているんですよ。でなけりや、もう王は説得《せっとく》ずみなのに、あなた方《がた》をわざわざさがす理由がない。」
興奮《こうふん》が、しずかな熱《ねつ》になって胸《むね》の底《そこ》にひろがるのを、チャグムは感じた。
バルサは、じっと、紅潮《こうちょう》したチャグムの顔をみつめた。
「それをカームに教えにいくつもりかい? カームは説得《せっとく》できても、王はああいう男だ。いったんきめてしまったことを、くつがえすのをいやがるかもしれないよ。」
みな、口をとじ、チャグムをみつめた。
梢《こずえ》から、小鳥のさえずりがきこえてきた。それにこたえるように、若者の肩《かた》の上で、小鳥がチチッと鳴いた。
チャグムが、口をひらいた。
「カームのところへいく。――たとえ、王を説得《せっとく》できなくとも、カンバルの〈王《おう》の槍《やり》〉たちに、ほんとうの事情《じしょう》を知らせるだけでも、なにかをかえられるかもしれない。」
チャグムは、バルサをみつめた。
「わずかでも可能性《かのうせい》があるなら、それに賭《か》けたい。」
バルサは、うなずいた。
「わかった。――だけど、まずわたしがひとりでカームにあいにいく。」
「それは……。」
反論《はんろん》しかけたチャグムを、バルサはさえぎった。
「わたしは、おなじドジを二度ふみたくないんだよ。それに、タルシュの連中《れんちゅう》が、カームの館《やかた》をみはっているにちがいない。あんたがいくのは危険《きけん》すぎる。」
チャグムは顔をくもらせて、つぶやいた。
「そうか……そうだね。」
チャグムの肩《かた》に、バルサは手をおいた。
「まあ、やってみるさ。用心棒《ようじんぼう》らしく、裏口《うらぐち》からはいってみるよ。」
チャグムはけげんそうに、眉《まゆ》をひそめてバルサをみたが、バルサは、にやっと笑《わら》った。
「盗賊《とうぞく》にねらわれている家にやとわれるときは、盗賊の見張《みは》りに用心棒《ようじんぼう》だとばれない姿《すがた》で、裏口《うらぐち》からはいるんだよ。その手でいってみよう。」
そういうと、バルサはチカリに、てのひらをさしだした。
「わるいが、すこしお金を貸してください。カームから荷《に》をとりもどしたら、かえしますから。」
「そりゃ、いいですけど……なにを買うんです?」
バルサはほほえんだ。
「牧童《ぼくどう》たちから、ラガ(ヤギのチーズ)やラカール(乳酒《ちちざけ》)を買うんです。背負《せおい》い籠《かご》もついでに買えればありがたいけど、買えなかったら、どこかでさがしてきてください。」
カームの館《やかた》には、行商《ぎょうしょう》の女たちが、朝から何人もおとずれていた。
この館の食糧倉《しょくりょうぐら》が焼《や》けたという話を耳にした女たちが、さまざまな食糧を売りこみにくるので、背負《せお》い籠《かご》や荷車《にぐるま》をひいた女たちがくると、裏口《うらぐち》の門番《もんばん》はろくに顔もみずになかに入れた。
そういう女たちは、館《やかた》の西側《にしがわ》にある、厨房《ちゅうぼう》にとおされる。そこの石の床《ゆか》に商品《しょうひん》をならべて、館の女たちにみせながら、売りこみ口上《こうじょう》をのべるのだ。
館《やかた》の食事《しょくじ》を一手《いって》にまかされている女中頭《じょちゅうがしら》は、がっしりとした大きな女で、女たちのならべているラや壺《つぼ》づめのカル(漬物《つけもの》)などを、ひとつひとつしっかりみて、買うものをきめていた。
もってきた商品が売れると、女たちはにこにこしながら帰っていく。なかに、ひとり、手際《てぎわ》がわるい女がいて、ほかの女たちが帰ってしまっても、売れのこった商品をのろのろかたづけていた。
「ほら、あんた、さっさとかたづけな。いつまでも、そこにいられちゃこまるんだよ。」
女中頭《じょちゅうがしら》が声をかけると、女が立ちあがった。そのとたん、女の背がのびたような気がして、女中頭はびっくりした。
女はかぶっていた頭巾《ずきん》を背《せ》におろすと、女中頭にほほえみかけた。
「おひさしぶりです、マーナさん。」
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3  ホイ(捨《す》て荷《に》)
〈王《おう》の槍《やり》〉たちが、〈王と槍の内議《ないぎ》〉(王族《おうぞく》と〈王の槍〉のみの会議)をひらくことをもとめてきたとき、カンバル王ラダールは、自分の予感《よかん》があたったことを知った。
昨夜《さくや》、数人《すうにん》の〈王の槍〉たちがカーム・ムサをみまうために、わざわざ彼《かれ》の館《やかた》をおとずれた、という話を侍従《じじゅう》からきいたときから、なんとなく、今朝《けさ》〈王と槍の内議〉をもとめられるような予感《よかん》がしていたのだ。
ラダールは会議場《かいぎじょう》の扉《とびら》の前に立つまえに、ふかく息《いき》をすった。顔のこわばりを、すこしでもほぐして、余裕《よゆう》のある態度《たいど》で会議場へはいっていきたかった。
扉《とびら》の両《りょう》わきに、ぴんと背《せ》をのばして立っている兵士《へいし》が、王の来臨《らいりん》を告《つ》げる笛《ふえ》をたからかにふきならした。
広い会議場《かいぎじょう》の中央《ちゅうおう》におかれた会議|卓《たく》には、すでに九|氏族《しぞく》を代表《だいひょう》する〈王《おう》の槍《やり》〉たちと、ラダールのふたりの叔父《おじ》と、彼《かれ》らの息子《むすこ》たちが着席《ちゃくせき》して、ラダールをまっていた。
扉《とびら》がひらき、ラダールがあらわれると、彼《かれ》らはいっせいに立ちあがった。〈王《おう》の槍《やり》〉たちは左手にもった短槍《たんそう》で、一度、天《てん》をつくようなしぐさをすると、つぎの瞬間《しゅんかん》、いっせいに石突《いしづ》きで床《ゆか》を打った。ダーン! という、大きな音が、会議場《すいぎじょう》をふるわせた。
玉座《ぎょくざ》につくまで、ラダールは、家臣《かしん》たちとは目をあわせないようにしていた。
身体《からだ》がすっぽりとおさまる大きな玉座に腰《こし》をおろすと、ようやくラダールは目をあげて、家臣たちをみまわして、いった。
「着席《ちゃくせき》してよい。」
その声とともに、家臣たちは、椅子《いす》に腰をおろした。……ただひとり、カーム・ムサをのぞいて。
ラダール王《おう》は、カームの姿《すがた》をみて、どきりとした。
彼《かれ》が、いたいたしく包帯《ほうたい》をまいた左手でもっている短槍《たんそう》には黒い布《ぬの》がむすばれていたのだ。
〈槍《やり》の葬儀《そうぎ》〉――武人《ぶじん》が、みずから、〈王《おう》の槍《やり》〉の位《くらい》からおりることをかくごしたしるしだった。
〈王の槍〉のなかで、最年長のムロ氏族《しぞく》のハーグが立ちあがり、ラダールに一礼《いちれい》して、話しはじめた。
「雷神《らいじん》ヨーラムの恵《めぐ》みあつき王《おう》よ、われらの声をききとどけて、〈王《おう》と槍《やり》の内議《ないぎ》〉をひらいてくださったことに感謝《かんしゃ》いたします。
今日《きょう》、われら〈王《おう》の槍《やり》〉がこの会議《かいぎ》をひらくことをねがったのは、ここにおります、ムサ氏族《しぞく》の〈王の槍〉、カーム・ムサが、おのれの失態《しったい》をあかすとともに、王に、おねがいしたき議《ぎ》があるともうしておるからです。」
「カームの失態……?」
つぶやきながら、ラダールは家臣《かしん》たちの顔をみまわした。
ムサ氏族《しぞく》と縁《えん》がふかい数人《すうにん》の〈王《おう》の槍《やり》〉たちは、すでに、カームから事情《じじょう》をうちあけられているのだろう、暗《くら》い表情《ひょうじょう》ながら、驚《おどろ》きの色はうかべていなかった。だが、王族《おうぞく》たちと、ほかの〈王の槍〉たちは、ラダール同様《どうよう》、驚きをかくせぬ顔で、たがいをみている。
なにをきかされるのか、不安《ふあん》におののきながら、ラダールはカームに声をかけた。
「……カーム・ムサ、発言《はつげん》をゆるす。説明せよ。」
カームは床《ゆか》に片膝《かたひざ》をつき、短槍《たんそう》を前におくと、頭をさげた。
「王よ、わたくしは、この国をあやうくする、たいへんなまちがいをおかしてしまいました。
わたくしの失態《しったい》をおききになったのち、わたくしをさばいてくださることを――そして、わたくしの過《あやま》ちから生《しょう》じた事態《じたい》を、ただしい方向へみちびいてくださることを、伏《ふ》しておねがいいたします。」
そういうと、カームは顔をあげた。その顔は、青白くみえるほど血《ち》の気《け》がなく、話しはじめたときは、声もふるえていた。しかし、話しつづけるうちに、しだいに声が大きくなり、はっきりときこえるようになった。
カームは、最初《さいしょ》から、ひとつひとつかたりはじめた。――そもそも、ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》とのつきあいが、どのようなものであったのか。そこで得《え》た情報《じょうほう》が、どういう性質《せいしつ》のものであったのか。
そして、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の皇太子《こうたいし》チャグムとの出会《であい》いと、その後《ご》のいきさつをカームはかたった。
もともと、あまり口がうまいほうではないカームの話は、ときにとぎれ、ときに言葉をさがすようにとどこおり、とてもなめらかとはいいがたかったが、それだけに、彼《かれ》の誠実《せいじつ》な思いが、せつせつとつたわってきた。
バルサがふたたび館《やかた》におとずれ、チャグム皇太子《こうたいし》の言葉をつたえたところまで話しおえると、カームはひとつ息《いき》をつき、王《おう》をみつめて、いった。
「英明《えいめい》なる王のことなれば、すでに、わたくしの失態《しったい》がなんであったのか、おわかりのこととぞんじます。……わたくしは、ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》たちの言葉をうのみにし、いま、サンガル半島《はんとう》へ上陸《じょうりく》している大軍《たいぐん》の統率者《とうそつしゃ》が、われらに協力《きょうりょく》をもうしいれているのだと思いこんでおりました。
しかし、そうではなかったのです。その軍《ぐん》をひきいる全権《ぜんけん》をもっているのは、われらに協力《きょうりょく》をもうしいれたハザール王子《おうじ》ではなく、その弟のラウル王子であり、彼《かれ》らはたがいに、どちらが北の大陸《たいりく》を手にいれるかで、きそいあっているというのです。
とすれば、兄に手柄《てがら》をとられたくないラウル王子が、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を攻めるための軍《ぐん》を、さきに、ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》たちのためにまわすということは、ありえない……。」
ここまでくると、それまで息《いき》をつめてきいていた王族《おうぞく》たちも、〈王《おう》の槍《やり》〉たちも、がまんができなくなったのだろう、顔色をかえて、小声でたがいにささやきあいはじめた。
そのざわめきを圧《あっ》するように、声をはりあげて、カームはいった。
「王よ、わたしは、この国を勝《か》ち馬《うま》にのせるつもりで、南部へつくよう説得《せっとく》いたしました。しかし、わたしは、それを、不じゅうぶんな情報《じょうほう》で判断《はんだん》してしまったのです。
タルシュの大軍《たいぐん》の援助《えんじょ》がないとすれば、南部の大領主たちの軍勢《ぐんぜい》は、ロタ王の軍勢とほぼ互角《ごかく》か、それ以下。――そして、大義《たいぎ》は、まちがいなく、ロタ王の側《がわ》にございます。」
ざわめきは、いっそう大きくなった。
ラダール王は、あおざめた顔でカームをみていたが、やがて、耳ざわりな、男たちの声をはらいのけるように、短槍《たんそう》の石突《いしづ》きで床《ゆか》をはげしく打った。
ターン、という音に、男たちがロをとじ、王に顔をむけた。ラダールは、こわばった顔をカームにむけて、なじるようにいった。
「い……いまさら、ここまで、事態《じたい》がうごいてから、そなたは、なにを……。」
興奮《こうふん》して舌《した》がもつれた。ラダールは息《いき》をのむと、おちつこうとつとめた。
「たとえ、大義《たいぎ》がロタ王《おう》にあるとしても、いまさら、なにができるというのだ。同盟《どうめい》をもとめてきているのは、南部の大領主《だいりょうしゅ》たちであって、ロタ王ではないのだぞ!」
カームは、まっすぐに王をみつめてこたえた。
しずまりかえった会議場《かいぎじょう》のなかに、彼《かれ》の声がひびいた。
「王よ、ロタ王は、われらに同盟《どうめい》をもとめております。」
ラダール王は、目をみひらいた。
「な……なんだと?」
カームは、緊張《きんちょう》で、声をふるわせながらいった。
「控《ひか》えの間《ま》に、ロタ王の使者《ししゃ》がおります。――よんでもよろしいでしょうか。」
ふたたび、ざわめきが大きくなった。
「ま……まて、まて。」
ラダール王は思わず中腰《ちゅうごし》になって、カームをおさえた。
「そのまえに、われらだけで、話をすべきでは……。」
ラダールのかぼそい声にかぶせるように、最年長《さいねんちょう》の〈王《おう》の槍《やり》〉、ムロ氏族のハーグがいった。
「王よ、われらがもっている情報《じょうほう》の、いったいどれがただしいのか、ご判断《はんだん》なさるためにも、ここは、ロタ王の使者《ししゃ》をまねくべきでしょう。ロタ王がなにをのぞんでいるのかきいてから、ご判断されるべきとぞんずる。」
同意《どうい》の声《こえ》があちこちからおきるのをきいて、ラダールは玉座《ぎょくざ》に腰《こし》をおろした。
「……そなたがいうことも、もっともである。そのロタ王の使者《ししゃ》を、ここによぶがよい。」
ハーグがみずから立っていき、控《ひか》えの間《ま》の扉《とびら》をあけた。
男たちの目がいっせいにそそがれるなか、ひとりの若者《わかもの》が、従者《じゅうしゃ》をつれてはいってきた。
だれがくるのか知らなかった〈王《おう》の槍《やり》〉たちが、意外《いがい》な人物があらわれたのをみて、ざわめいた。若者のうしろにつきしたがっている従者が、かつて山の底《そこ》の儀式場《ぎしきじょう》で、ヒョウル〈闇《やみ》の守《も》り人《びと》〉を相手に槍舞《やりま》いをまった、〈舞《ま》い手《て》〉だったからだ。
彼女《かのじょ》をしたがえて歩いてくるのは、まだ若《わか》いヨゴ人だった。カンバルの正装《せいそう》をまとい、凛《りん》とした表情《ひょうじょう》をうかべている。
チャグムは会議卓《かいぎたく》をまわり、王の前にでると、目礼《もくれい》して、カンバル語《ご》でかたりかけた。
「ラダール王陛下《おうへいか》、ふたたびお目にかかれて、うれしいです。サンガルでは、たいへん、お世話になりました。」
ラダールは、声もなく、若者《わかもの》をみつめていた。
彼《かれ》の顔には、たしかに見おぼえがあった。新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の皇太子《こうたいし》、チャグムであることは、うたがいなかったが、目の前にいるのは、記憶《きおく》にある、あのおさなさの残る少年ではなかった。目のわきに刀傷《かたなきず》がある、たくましく日にやけた若者だった。
ラダールは、まっすぐ自分をみつめているそのまなざしから、目をそらしたかった。それをひっしにこらえ、ラダールは顎《あご》をひいて、チャグムをみつめた。
「チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》、わたしも、お目にかかれてうれしい。」
おちついた声がでたので、ラダールは、すこし緊張《きんちょう》がとけるのを感じた。
「あなたは、海に落ちて亡《な》くなったと、うかがっていたのだが、カームの話では、そうではなかったようで……よかった。」
チャグムは、ほほえんだ。
「ありがとうございます。――無謀《むぼう》なことをいたしましたが、たくさんの人たちにすくわれ、幸運《こううん》にめぐまれて、ここまでまいりました。」
チャグムは笑《え》みをけし、懐《ふところ》に手を入れて、はそい筒《つつ》をとりだした。
「カンバル王《おう》ラダール陛下《へいか》、わたしは、ここに、ロタ王の名代《みょうだい》としてまいりました。病床《びょうしょう》にあるロタ王の全権《ぜんけん》を委譲《いじょう》されているイーハン王子からの親書《しんしょ》をあずかっております。
この場で、読みあげても、よろしいでしょうか。」
ラダールは、うなずいた。
「ゆるそう。――みなに、きかせてくれ。」
チャグムは巻紙《まきがみ》をひらくと、声にだして読みはじめた。
「ロタ王の全権委任《ぜんけんいにん》をうけた、われ、イーハン・ロタは、カンバル王が、ロタ王と同盟《どうめい》をのぞまれるなら、うける意思《いし》があることを、ここに誓《ちか》う。
また、この件《けん》に関《かん》し、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の皇太子《こうたいし》であるチャグム殿下《でんか》が、同盟の仲立《なかだ》ちをつとめられることに、われ、イーハン・ロタは感謝するものである。
ロタ王国《おうこく》とカンバル王国が同盟《どうめい》をむすぶことは、いま、われらの国土《こくど》を侵略《しんりゃく》せんと手をのばしつつあるタルシュ帝国《ていこく》の脅威《きょうい》から、北の大陸《たいりく》をまもるためにもっとも有効《ゆうこう》な手段《しゅだん》である。
英明《えいめい》なるカンバル王は、かならずや、よきご判断《はんだん》をされることと信《しん》ずる。」
チャグムがロをとじると、会議場《かいきせしせょう》は、水をうったようにしずまりかえった。
チャグムは、一段《いちだん》高い玉座《ぎょくざ》にすわっているラダール王をみあげた。
「ラダール王陛下《おうへいか》、どうかロタ王と同盟《どうめい》をむすんでください。ロタ王国を南北にわける戦《いくさ》にカンバル軍《ぐん》もくわわって、北の大陸の者同士《ものどうし》が殺《ころ》しあい、兵力《へいりょく》をうしなえば、タルシュ帝国《ていこく》の思うつぼです。」
チャグムの声は、よくとおった。
「王《おう》よ、わたしは、この目で、南の大陸《たいりく》をみてまいりました。いったんタルシュ帝国《ていこく》に膝《ひざ》をおり、その支配《しはい》をうけいれてしまえば、王の手に残るのは、枝国《しこく》の首長《しゅちょう》という名目《めいもく》だけの地位《ちい》です。自国の民《たみ》をタルシュ帝国の兵士《へいし》にとられ、タルシュ帝国の戦《いくさ》のための税《ぜい》をとられる。
あのサンガルでさえ、すでに南半分の島々《しまじま》にはタルシュ軍《ぐん》の砦《とりで》がきずかれています。いせいよく海にのりだしていたサンガルの男たちが、タルシュ兵団《へいだん》にくみこまれ、一糸《いっし》みだれぬ隊列《たいれつ》をくんでたたかうよう、タルシュ式《しき》の教練《きょうれん》をうけているのです。」
言葉にならぬざわめきが、会議場《かいぎじよう》をゆらしはじめた。
チャグムは、しっかりと王をみつめていった。
「王よ、そのような運命《うんめい》を、北の民《たみ》にあたえぬために、南からの津波《つなみ》をせきとめる強固《きょうこ》な壁《かべ》をきずきましょう。
ロタ王国《おうこく》を二分《にぶん》する戦《いくさ》がおきてしまえば、多くの兵《へい》をむだに殺《ころ》し、その壁をきずくこともできず、津波にのまれてしまうでしょう。――しかし、カンバル王がロタ王と同盟《どうめい》をむすんだことを知れば、ロタ王国をふたつにわける、おろかな戦は、まだ、さけられるはずです。」
ラダールは、だまって、チャグムをみつめていた。
チャグムは心をこめて、うったえかけた。
「南部の大領主《だいりようしゅ》たちが兵《へい》をあげるまえに、カンバル王国軍がイーハン王子《おうじ》のもとへむかい、ロタ王と同盟《どうめい》したことをはっきりとしめせば、きっと戦《いくさ》をさけることができます。――それとも、南部の大領主は、もう兵をあげてしまったのですか?」
ラダール王は、とまどったようにまばたきすると、家臣《かしん》のほうに目をおよがせた。玉座《ぎょくざ》の右わきの席《せき》にすわっていた従弟《いとこ》のアローンが、さっと身をのりだして、こたえた。
「いや、まだ兵《へい》をあげたというしらせはきていない。――というより、彼《かれ》らは、われらが兵をあげないかぎり、兵をあげる気はないのです。」
わかるでしょう? というように、チャグムに眉《まゆ》をあげてみせたアローンの横で、ラダール王が不快《ふかい》そうに顔をこわばらせるのを、チャグムはみた。
アローンは従兄《いとこ》の表情《ひょうじょう》には気づかず、快活《かいかつ》な口調《くちょう》でつづけた。
「つまり、ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》たちは、自分たちだけでは、王に勝《か》つ自信《じしん》がないということになる。あなたが、カームに教えたことが、ただしい情報《じょうほう》だという裏《うら》づけになりますね。」
〈王《おう》の槍《やり》〉たちが同意《どうい》するつぶやきが、背後《はいご》からきこえてきたが、チャグムは、まっすぐラダール王だけをみつめていた。
ラダール王は、あおざあた顔で、チャグムをみていた。
従弟《いとこ》のアローンがいうとおり、たぶん、カームや、このチャグム皇太子《こうたいし》がもってきた新しい情報《じょうほう》のほうが、ただしいのだろう。他国《たこく》にそそのかされ、王《おう》に反逆《はんぎゃく》して国をのっとろうとしているロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》たちより、ロタ王の側《がわ》に大義《たいぎ》があるのも、あきらかだ。
ラダール王は、胸《むね》をおされているような痛《いた》みを感じていた。ゆっくりと会議場《かいぎじよう》の壁《かべ》がせばまってくるような気がする。息《いき》が苦《くる》しかった。
このままでは、ロタ南部に加担《かたん》することをきめた判断《はんだん》を、くつがえさざるをえなくなる。
(……そんなことをすれば、みな、わたしを笑《わら》うだろう。)
家臣《かしん》たちは、やはり、この王は無能《むのう》だったとなげきながら、失笑《しっしょう》するだろう。
あやまった情報《じょうほう》に、うかうかとのって、カンバル王国軍《おうこくぐん》を大義《たいぎ》のない戦《いくさ》にむかわせようとしていた自分――タルシュの密偵《みってい》に首飾《くびかざ》りなどもらって、よろこんで妃《きさき》につけさせていた自分を、家臣たちが、かげでどんなふうに、あざわらうか……。
鼓動《こどう》が、どんどん、はやくなってくる。息《いき》ができないような苦しさが腹《はら》から胸《むね》をおおい、頭のうしろがしびれてきた。
家臣《かしん》たちに、無能《むのう》な王とあざわらわれる恐怖《きょうふ》が、ラダールの胸をしめつけていた。
チャグムは、ラダールの顔があおざめていくのをみていた。
目が、助《たす》けをもとめるようにおよいでいる。……まよっているのだ。
昨夜《さくや》、ひそかにチャグムを宿《やど》からひろい、かくまってくれたムロ氏族《しぞく》の〈王《おう》の槍《やり》〉ハーグがいった言葉《ことば》が、耳によみがえってきた。
「ラダール王は、心根《こころね》はやさしいお方《かた》なのですが、決断《けつだん》に時間がかかります。まよったり、ためらったりなさる。だが、われらは忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》った瞬間《しゅんかん》から、王にぜったいに服従《ふくじゅう》しております。たとえ王があやまったご判断《はんだん》をなされたとしても、われらは、だまってしたがうしかありません。」
ふいに、チャグムは、うすい氷《こおり》の上に立っているような気もちになった。
これまでのことが、つぎつぎに頭にうかんできた。
タルシュ帝国《ていこく》のラウル王子《おうじ》とむかいあい、ひっしにかけひきをして、彼《かれ》の手からのがれたこと。月の下に黒ぐろとひろがっていた海にとびこんだときの、あの気もち。たすけてくれた、たくさんの人びと……彼《かれ》らの思い。
自分をまもるために命《いのち》をおとした人びと。タルシュの大船団《だいせんだん》とたたかって死《し》んでいった多くの海士《かいし》たち。大軍《たいぐん》の足音をききながら、殺《ころ》されるのをまつしかない、故郷《ふるさと》の民《たみ》………。
すべてが――そのすべてが、目の前の、青白い男の決断《けつだん》ひとつにかかっているのだ。
まよっているその目をみるうちに、はげしい怒《いか》りがわきあがってきた。
彼《かれ》がまよっているのは、自分のめんつ[#「めんつ」に傍点]を気にしているからだ。さっき、隣《となり》にすわっている王族《おうぞく》の若者《わかもの》が、あざやかな弁舌《べんぜつ》を披露《ひろう》したときの表情《ひょうじょう》をみれば、彼がどれほど自分のめんつ[#「めんつ」に傍点]を気にしているか、よくわかる。
いったんくだした決断《けつだん》をひるがえして、愚《おろ》か者《もの》とあざわらわれるのがいやなのだ。
(そんなことのために……。)
何|千《ぜん》、何|万《まん》の人の命がうしなわれるのかと思うと、目の前が白くうきあがるほどの怒《いか》りにとらわれ、チャグムは、ふるえはじめた。
ラダールの襟首《えりくび》をつかんで、ふりまわしてやりたかった。――どうか、めんつ[#「めんつ」に傍点]などにとらわれず、千万《せんまん》の民《たみ》のために決断《けつだん》してくれと、さけびたかった。
「陛下《へいか》……。」
ふいに、わきからアローンが声をかけた。
「陛下、僭越《せんえつ》ですが、わたしの考えをのべさせていただけるなら、わたしは、この同盟《どうめい》をうけるべきだと思います。――みな、そう思っているのではないですかね。」
その声をきいたとたん、ラダールの顔がゆがむのを、チャグムはみた。狂気《きょうき》にもにた、かたくなな、ぼんやりと白い怒《いか》りが、その目にうかんだ。
寒気《さむけ》が、チャグムの全身《ぜんしん》をつらぬいた。――王《おう》のなかで、いま、心が一方にかたむいた。
かろうじてたもたれていた、うす氷《ごおり》が割《わ》れる……。
チャグムは、自分が、かんだかい声をあげるのをきいた。
「ラダール王陛下《おうへいか》!」
チャグムは、まっすぐ王をみつめて、さけんだ。
「新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の皇太子《こうたいし》は、天《てん》ノ《の》神《かみ》の子。帝《みかど》以外の、なんびとの前でも、膝《ひざ》をおることはいたしません。しかし……。」
ラダール王は、びくっとした。
とつぜん、なにをいいだしたのか、という目で自分をみているラダール王の目をみつめ、チャグムはふるえながら、その言葉をおしだした。
「……わたしは、いま、あなたの前に膝《ひざ》をおります。」
会議場《かいぎじょう》にいる男たちは、息《いき》をのんだ。
おのれを神の子と信《しん》じ、人前に立つときは顔をうす布《ぬの》でかくすほどに誇《ほこ》りたかい新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の皇太子《こうたいし》が、ヨゴの武人《ぶじん》が最敬礼《さいけいれい》をするしぐさで床《ゆか》に膝《ひざ》をつき、ラダール王に深く頭をさげるのを、彼《かれ》らは、ぼうぜんとみつめていた。
チャグムは、ふるえる声でいった。
「カンバル王《おう》ラダール陛下《へいか》、わたくしは、あなたに、伏《ふ》してねがいます。
英明《えいめい》なるご決断《けつだん》をもって、北の大陸《たいりく》の民《たみ》を――そして、わが故国《ここく》の民をおすくいください。」
チャグムは、がくがくとふるえていた。全身《ぜんしん》に冷《つめ》たい汗《あせ》がふきだしてくる。
ほそい声がきこえてきたとき、はじめ、チャグムは、なんといっているのか、よくききとれなかった。
「……お顔をあげてください。」
二度ほど、ラダールが声をかけてくれて、ようやく、チャグムは顔をあげた。
ラダール王は、ふしぎなものをみるような目で、チャグムをみていた。そして、小さな声でいった。
「どうか、お顔をあげて、立ってください。――ロタ王《おう》と、同盟《どうめい》をむすびましょう。」
耳鳴りがしていた。額《ひたい》にびっしりと汗《あせ》をうきあがらせ、チャグムは、なにもいえずに、ラダール王をみあげていた。
無音《むおん》の水流にもまれ、ふいに、しずかな湖面《こめん》にながれでたような、きみょうな脱力感《だつりょくかん》を感じながら。
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同盟《どうめい》の調印《ちょういん》をすませると、王《おう》は、カーム・ムサに裁《さば》きをくだした。
不たしかな情報《じようほう》で王の判断《はんだん》をあやまらせた罪《つみ》は重い。したがって、〈王《おう》の槍《やり》〉の地位《ちい》を剥奪《はくだつ》すると、王は告《つ》げた。ただし、おのれの過《あやま》ちをかくさずにあかしたことを、王は評価《ひょうか》し、異国《いこく》の戦場《せんじょう》へおもむく役割《やくわり》を彼《かれ》にあたえ、みごと、勝利《しょうり》を手にしてもどってきたあかつきには、〈王《おう》の槍《やり》〉にもどすとつたえたのである。――カームはつつしんで、それをうけた。
会議《かいぎ》はそのまま軍議《ぐんぎ》へとうつり、チャグムはタルシュ帝国《ていこく》の兵力《へいりよく》や、その内部の状況《じょうきょう》について、知っているかぎりのことをのべた。この軍議のなかで、イーハン王子側《おうじがわ》に、全《ぜん》カンバル軍の半数にあたる、一|万《まん》五|千《せん》の兵をおくることがきめられた。
城内《じょうない》にいるタルシュの密偵《みってい》をただちにとらえて捕虜《ほりょ》とすることも決議《けつぎ》されたが、兵士《へいし》たちが捕縛《ほばく》にむかったときには、すでに、彼《かれ》らの姿《すがた》はどこにもなかった。
昼食会《ちゅうしょくかい》をおえたあと、チャグムは、ひとり中庭《なかにわ》をみおろせるタサル(ベランダ)にでた。
ねがいつづけてきたことがかなったのに、なぜか思ったほどによろこびがわいてこない。心の底《そこ》に、しこりのように屈辱感《くつじょくかん》がくすぶっているのを、チャグムはもてあましていた。
自分が、これほど皇太子《こうたいし》であることを誇《ほこ》りに思っていたとは、これまで気づかずにいた。天《てん》ノ《の》神《かみ》の子であることをほこり、あがめられるのを当然《とうぜん》と思っている父に反発《はんぱつ》していたくせに、いざとなると、こんなにたいせつなことのためでも、人の前で膝《ひざ》をおったことが、たえがたい恥辱《ちじょく》に感じられる。
だれも、あのとき膝をおった自分を笑《わら》いはしないし、ただしい判断《はんだん》だったとわかっていても、うらがえった声でラダールによびかけ、すがるように膝をおった自分の姿《すがた》を思いだすたびに、たまらないはずかしさが、こみあげてくる。
日をはらんで、雲のふちが金色にひかっているのを、ぼんやりとながめていると、うしろから足音がきこえ、バルサがわきにならんだ。
「……さっきは、おどろいたよ。」
バルサがいった。
「うしろでみていて、あんたが王をどなりつけるんじゃないかと、はらはらしていたんだ。
まさか、ひざまずくとは思わなかった。」
チャグムは、バルサから目をそらした。
日が、雲間《くもま》から顔をだし、すぐにまた、かくれていく。チャグムのこわばった横顔《よこがお》をみながら、バルサは、しずかな声でいった。
「みごとなホイ(捨《す》て荷《に》)だったね。」
チャグムは一瞬《いっしゅん》、いぶかしげな顔でバルサをみたが、すぐに、なにをいわれたのか、理解《りかい》した色が、目にあらわれた。
けわしくこわばっていたチャグムの顔に、ゆっくりと苦笑《くしょう》がうかぶのを、バルサは、ほほえんでみつめていた。
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4  地の底《そこ》の海原《うなばら》
チャグムは、夢《ゆめ》からはじきだされるようにして、目をさました。
びっしょり汗《あせ》をかいている。賓客用《ひんきゃくよう》の寝室《しんしつ》の、天蓋《てんがい》つきの寝台《しんだい》にあおむけになって、チャグムは、小さな常夜《じょうや》ろうそくのあかりにぼんやりとてらされた、厚織《あつおり》の天蓋をみつめていた。
どんな夢《ゆめ》をみていたのか、目がさめたとたんにわすれてしまったが、胸《むね》をおされるような不安《ふあん》は、目がさめても去《さ》らなかった。
この王城《おうじょう》で夜をすごすようになってから、毎晩《まいばん》、夢にうなされる。――悪夢《あくむ》をみたという気はしないのに、肌《はだ》がざわめき、手おくれになるまえに、なにかしなくてはならないという、せかされるような感覚《かんかく》があった。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》が緒戦《しょせん》をむかえるまえに、イーハン王子《おうじ》のもとへカンバル軍《ぐん》をつれていかねばならないというあせりがあるせいかと思ったが、どうも、そうではないようだった。言葉にできない、身体《からだ》の底《そこ》からつたわってくるなにかが、自分を不安《ふあん》にしているのだ。
(ここは、ナユグに近い……。)
それは、王城《おうじょう》の門《もん》をくぐるまえから、わかっていた。
ナユグにひかれないように、いつも気をはっていないと、あの水のにおいがただよってくる。
(あと、二日《ふつか》のしんぼうだ。)
明後日《あさって》には、騎兵団《きへいだん》の出陣準備《しゅつじんじゅんび》がととのう。今日《きょう》、夜があけたら、補給部隊《ほきゅうぶたい》の荷馬車《にばしゃ》に、すべての荷がつまれるはずだ。遠征《えんせい》のための替《か》え馬《うま》も各地《かくち》からあつまってきている。
チャグムは目をつぶった。眠気《ねむけ》はあるのに、ねむってしまうのがこわかった。
眠りの坂をくだりはじめたとき、チャグムは、口笛《くちぶえ》の音をきいたような気がした。
どのくらいねむったのだろう。
そっと肩《かた》をゆすられて、チャグムは、はっと目をさました。
バルサが寝台《しんだい》のわきにかがみこんでいた。夜明《よあ》けがちかい時刻《じこく》なのだろう。バルサの背後《はいご》にある窓《まど》が、うす青くみえる。
「こんな時刻《じこく》に、ごめんよ。……着《き》がえて、いっしょにきておくれ。」
チャグムは目をこすりながら、寝台《しんだい》からおりた。こおるような寒さが、肌《はだ》をしめつけた。
カチカチ歯《は》をならしながら、チャグムはきいた。
「なにがおきたの?」
バルサは、衣装台《いしょうだい》にととのえてあった衣《ころも》をとって、チャグムに手わたした。
「牧童《ぼくどう》たちが、王《おう》と〈王《おう》の槍《やり》〉を洞窟《どうくつ》へよんだ。」
びっくりして、チャグムは、バルサをみた。
「牧童たちが、王をよんだ?」
バルサはうなずいた。
「あんたも、うすうす気づいているだろうけれど、牧童《ぼくどう》たちは、カンバル人とは、すこし出自《しゅつじ》がちがう。彼らは、地上でうまれたわたしらとはちがう、山の底《そこ》の民《たみ》なんだ。
このカンバルには、地上と山の下の、ふたつの世界がある。地上の王は、山の王の民である牧童たちがよべば、かならず応《おう》じなければならない。」
ぶあつい毛織《けおり》の衣《ころも》をまといながら、チャグムはだまってきいていた。
「……あのとき、あんたは腹《はら》をたてていたけれど、牧童《ぼくどう》たちと王《おう》のあいだにある約束《やくそく》ごとは、本来《ほんらい》のすがたをすこしでもゆがめてしまえば、その意味をうしなってしまうものなんだよ。
他国《たこく》と同盟《どうめい》をむすぶなんていう目的のために、王をよびだしてくれと牧童にたのむなんて、わたしは、ばかなことをしたもんだ。あとから、ずいぶん後悔《こうかい》したよ。」
苦笑《くしょう》しながらそういって、バルサはカッル(マント)とシュマ(風よけ布《ぬの》)をわたした。
「彼《かれ》らから、あんたをつれてきてくれとたのまれた。……山の底《そこ》へ、案内《あんない》するよ。」
廊下《ろうか》には、だれもいなかった。人びとがふかい眠《ねむ》りにおちている夜明《よあ》けまえの王城《おうじょう》のなかを、バルサとふたりで歩いていると、夢《ゆめ》のなかにいるような気がした。
ふだんはかたくとじられている王城の北側《きたがわ》の扉《とびら》が、ひらいていた。扉を守護《しゅご》する兵士《へいし》の姿《すがた》はなく、ただ、扉だけが外へむかってひらいている。
その扉をぬけて、外へでると、ぬるい水のにおいが、むっと漉《こ》くなった。王城《おうじょう》の背後《はいご》にそそりたっている岩山の下に、洞窟《どうくつ》がぽっかりと口をあけている。その口のやや上あたりまで、瑠璃色《るりいろ》の水がひたし、水面《すいめん》が波《なみ》うって、ゆらめいてみえた。
(……ここは海のなかだ。)
ざわざわと鳥肌《とりはだ》がたった。この風景《ふうけい》を正面《しょうめん》からみて、ようやくわかった。――ここまでは、瑠璃色《るりいろ》の水をすかして、はるか下のほうに、かすかに白い砂《すな》がみえるが、あの洞窟《どうくつ》のあたりは崖《がけ》のようにおちこんでいて、そのさきは底《そこ》がみえない。水の色も濃紺《のうこん》にかわっている。
チャグムには、壮大《そうだい》なユサ山脈《さんみゃく》をすかして、はるかにひろがる海がみえていた。
「……だいじょうぶかい?」
遠くから、バルサの声がきこえた。
チャグムは大きく息《いき》をのんで、バルサのほうに手をのばした。
「バルサ……あの洞窟《どうくつ》にはいるなら、おれの手をにぎっていて。」
うなずいて、バルサはチャグムの手をにぎった。そして、ふたりは、暗《くら》い洞窟に足を踏《ふ》みいれていった。
洞窟《どうくつ》のなかは暗かったが、岩壁《がんぺき》がぼんやりと光をたたえていて、真の暗闇《くらやみ》ではなかった。ゆるやかな長い坂《さか》をくだっていくと、やがて、ぽっかりと広い空間《くうかん》にでた。――かつて、バルサがヒョウル〈閣《やみ》の守《も》り人《びと》〉と槍舞《やりま》いをまった、儀式場《ぎしきじょう》だった。
儀式場の床《ゆか》にすわっていた王《おう》と〈王《おう》の槍《やり》〉たちが、立ちあがって、ふたりをでむかえた。岩壁《がんぺき》にそって、たくさんの牧童《ぼくどう》たちがたたずんでいる。彼《かれ》らの目は、ひかっていなかった。
チャグムには、彼らの姿《すがた》をすかして、はるかかなたまでひろがる水と、そのなかをまう、無数《むすう》の精霊《せいれい》たちの光がみえていた。
なんという数の光だろう。群《む》れとぶ蛍《ほたる》の大群《たいぐん》のなかに、まぎれこんでしまったようだった。鈴《すず》をふるようなたかい音、うなるようなひくい音、さまざまな音がみち、肌《はだ》をくすぐる。
ヨナ・ロ・ガイ〈水の民《たみ》〉も、群れていた。かすかに色がちがう、二組のヨナ・ロ・ガイたちが、もつれあって泳《およ》いでいる。足もとには、巨大《きょだい》な穴《あな》があった。まるで、なにかの生き物の巣穴《すあな》のような、なめらかな壁《かべ》をもつ深い円形《えんけい》の穴だった。
なぜだかわからない。――ここから、逃げだしたくなった。ここにいては、いけないと、全身《ぜんしん》がさけんでいる。
チャグムは、バルサの手をぎゅっとにぎりしめた。――バルサがにぎりかえしてくれた力が、かろうじて、チャグムの心をこちら側《がわ》につなぎとめた。
びっしょり汗《あせ》をかきながら、チャグムは、こちら側に立っている男たちの姿《すがた》に目をこらした。たがいの顔が、なんとなくみえるくらいのうすあかりのなかで、王《おう》も〈王《おう》の槍《やり》〉たちも、なにかをまっているように、だまって立っている。
やがて、壁際《かべぎわ》にいた牧童《ぼくどう》たちのなかから、老人《ろうじん》がひとり、すすみでた。――チャグムに、王城《おうじょう》まで案内《あんない》することをことわった、あの牧童の老人だった。
彼《かれ》は、じっとチャグムをみつめて、いった。
「……あなたは、ほんとうに、オイ・ラギだったのだな。
あなたを岩山まで案内《あんない》した、わしの孫娘《まごむすめ》が、あなたの身体《からだ》がノユークにとけそうになっているのをみたといった。はじめは、みんな信《しん》じなかったが、いま、こうして自分たちの目でみてしまえば、うたがいようがない。」
チャグムは、小さな声でつぶやいた。
「オイ・ラギ?」
「〈かさなった身体《からだ》〉という意味だ。ごく、ごくまれに、地上の民《たみ》に、そういう者《もの》がうまれるときいたことがある。ノユークとこちら側《がわ》と、両方《りょうほう》に身体をおいて、生きていく者がいると。……あんたは、それだろう? あの岩山では気づかなかったが、いまここでみると、あんたの身体が両方の世界にかさなっているのが、よくわかる。」
彼《かれ》がノユークとよんでいるのは、ナユグのことなのだろう。彼からみれば、自分は、そんなふうにふたつの世界にかさなってみえているのか………。
チャグムはつかのま目をつぶり、ふかく息《いき》をすって、心をおちつかせようとした。すこし、心がおちついてくると、目をあけて、老人《ろうじん》をみおろした。
「そうなのだと、思います。あなた方《がた》はナ………ノユークの側《がわ》ではなく、こちら側にいますね。それでも、ノユークがみえるのですね?」
老人《ろうじん》はうなずいた。
「みえる。だが、あなたのように、自在《じざい》にいくことはできぬ。……山の王の息《いき》につつまれたときだけ、カンバル人も、われらも、いくことができるが。」
そういって、彼《かれ》は、王のほうをふりかえった。
「王《おう》よ、わしらがつたえたことがいつわりではないことを、きっと、この若者《わかもの》なら、あなたにかたれるはずだ。きいてごらん。」
ラダール王は、まばたきした。それから、せきばらいして、チャグムにたずねた。
「その……あなたには、ここに、なにかがみえるかね? どんな風景《ふうけい》がみえる?」
チャグムは唾《つば》をのみこんで、こたえた。
「ここは、濃紺《のうこん》にちかい暗《くら》い青の、澄《す》んだ水のなかです。ここは海のなかなのです。さっき、外にいたときに、気づきました。わたしたちの世界ではここは山の底《そこ》ですが、ノユークでは、ここは、海なのです。はるかかなたまで、海がひろがっているのをみました。
いま、ここでは、ぬるい海水のなかを、たくさんのふしぎな形をした精霊《せいれい》たちが、ぼんやりとひかりながら、まうように泳《およ》いでいます。その……。」
ちょっと口ごもってから、チャグムは、あかくなりながら、早口にいった。
「……彼《かれ》らは、つがっているようにみえます。」
王《おう》と、〈王《おう》の槍《やり》〉たちは、顔をみあわせた。
牧童《ぼくどう》の老人《ろうじん》がチャグムの肘《ひじ》にふれた。
「ふりかえってごらん。あちらには、なにがみえる?」
いわれるままにふりかえって、チャグムは息《いき》をのんだ。
海のなかに山がみえたのだ。はるかにつらなる山並《やまな》みが透明《とうめい》な水にひたってしまっている。高い山々は、海面から山頂《さんちょう》をつきだしているが、低い山は完全《かんぜん》に水の下にある。緑《みどり》の木々
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がはえたままの山が、海のなかにみえるのは、あまりにもふしぎな光景《こうけい》だった。
チャグムは、ぼうぜんとその光景をみつめながら、つぶやいた。
「……海の水位《すいい》があがったんだ。これまで山だったところが、海の下になってしまっている。」
老人《ろうじん》が、うなずいた。
「そう。ここ数年のあいだに、すこしずつノユークの海面《かいめん》があがってきたのは知っていた。ノユークに春がきたのだろう。ノユークの山々が雪どけをむかえ、いっせいに雪どけ水がながれだしたのではなかろうかな。
何百年に一度かの、春だ。水面《すいめん》があがり、山も海の下になり、それまで山にさえぎられていたところが、海につながった。そうして、遠くから、いく筋《すじ》も、大河《たいが》のように群《む》れをなして泳いできた精霊《せいれい》たちが、この海へたどりついたんだ。……この渚《なぎさ》でつがい、あらたな命《いのち》をうみだすために。」
サンガルの海でみた光景《こうけい》を、チャグムは思いだした。あの河《かわ》のようにながれていた、いく筋《すじ》もの精霊《せいれい》たちの群《む》れ。南からやってきた彼《かれ》らがいま、この北の海にひろがって、北の精霊たちとであって、むすばれている……。
「この海は、あたたかいだろう? このあたたかい水が、わしらの世界も、あたためている。」
老人《ろうじん》は、王《おう》たちに目をやった。
「あなたたちも感じていただろう? ここ数年《すうねん》、冬がいつもよりずっとあたたかかったことを。ノユークに春がきたおかげで、われらの大地もあたたかくなった。ノユークの精霊《せいれい》たちの精気《せいき》に満《み》ちたこの水にひたされて、草がよくそだち、ヤギはたくさん子をうんだ。母ヤギたちは、濃《こ》い乳《ちち》をだしてくれる。いい乳にやしなわれて、わしらの家族《かぞく》もふえはじめている。」
ロをとじた老人《ろうじん》の顔がゆがむのを、チャグムは、みた。
「ノユークの春は、わしらに命《いのち》の恵《めぐみ》みをもたらしてくれる。………だが、その一方《いっぽう》で、命をうばいもする。」
王が、つぶやいた。
「な……雪崩《なだれ》がおきたのは、ムサ氏族領《しぞくりょう》とムロ氏族領、ヨンサ氏族領だけでしょう? それも、さして大きな雪崩ではなかったと……。」
老人《ろうじん》が、するどい声でいった。
「もっとあたたかくなれば、いくつもの雪崩がおきる。わしらは、この冬じゅう、山々をしらべてまわったのだ。すでに、水におされて岩盤《がんばん》の亀裂《きれつ》がひろがっているところも、たくさんある。」
〈王《おう》の槍《やり》〉たちが、暗いおももちで、ささやきあいはじめた。
カームが、いった。
「失礼《しつれい》ながら、王《おう》よ、発言《はつげん》をおゆるしいただけますか。」
王がうなずくと、カームはいった。
「わたしの父、ムサ氏族長《しぞくちょう》のカグロからも、昨日《きのう》、便《たよ》りがとどきました。この牧童《ぼくどう》の老人《ろうじん》の言葉《ことば》と、まったくおなじことが書かれていました。父は、雪崩《なだれ》と土砂崩《どしゃくず》れの被害《ひがい》をうける可能性《かのうせい》のある〈郷《さと》〉の者《もの》たち約《やく》八十人を、この春だけでも、どこかの氏族領《しぞくりょう》に避難《ひなん》させてほしいとたのんできております。」
ヨンサ氏族のダーグが、懐《ふところ》から巻紙《まきがみ》をとりだしながら、いった。
「わたしの父も、おなじことを、ねがいでております。氏族領《しぞくりょう》の南側《みなみがわ》の、ふたつの〈郷《さと》〉の、約《やく》百人を、どこか、被害《ひがい》をうける可能性《かのうせい》がひくい氏族領へ、避難《ひなん》させてほしいと。」
〈王《おう》の槍《やり》〉たちは、口ぐちに、しゃべりはじめた。
「うちの氏族領はどうなのだろう? うちの牧童《ぼくどう》たちは、なにもつたえてくれていないが……。」
「それは、氏族長《しぞくちょう》が、牧童たちの真《しん》の姿《すがた》を知らぬから、つたえられずにいるのだろう。」
「どこが、どのくらい被害《ひがい》をうけるのか……。」
「それに、たとえ被害をうけぬ土地だとわかっても、ほかの氏族領《しぞくりょう》の領民《りょうみん》をうけいれる余裕《よゆう》があるだろうか……。」
王《おう》が、両手《りょうて》をあげて、男たちをおさえるしぐさをした。
「まて、まて。ここで、そのような話をしても、混乱《こんらん》するだけだ。これはたいへんな事態《じたい》だ。
王城《おうじょう》にもどって、きちんと話しあおう。……なんとかできる道は、あるはずだ。」
〈王《おう》の槍《やり》〉のハーグが、うなずいた。
「王のおっしゃるとおりだ。たとえば、ロタ王に援軍《えんぐん》をおくる条件《じょうけん》として、雪どけの季節《きせつ》だけ、民《たみ》をロタの北部に避難《ひなん》させてもらうこともできよう。」
ハーグの言葉をきくうちに、男たちの顔におちつきがもどってきた。
王は、牧童《ぼくどう》の老人《ろうじん》にたずねた。
「あなた方《がた》の話を、信《しん》じよう。……そのかわり、われらに、どこが雪崩《なだれ》や土砂崩《どしゅくず》れの災《わざわ》いをうける土地なのか、教えてほしい。」
老人は、うなずいた。
「教えよう。――山が災《わざわ》いをもたらすとき、それをつたえるのは、わしらのつとめだから。」
彼《かれ》らの話をききながら、チャグムはきみょうな不安《ふあん》をおぼえていた。……逃《に》げろ、と、身体《からだ》の底《そこ》からひびいてくる声は、きっと、牧童《ぼくどう》たちが告《つ》げている、この災《わざわ》いとつながっている。
老人《ろうじん》がふりかえり、チャグムをみあげた。
「あなたは、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のむこう側《がわ》にくらす民《たみ》の、長《おさ》だといっておられたな。」
チャグムは、まばたきをした。
「長の……息子《むすこ》です。」
老人がうなずいた。
「ならば、あなたにもつたえよう。青霧山脈《あおぎりさんみゃく》もナユグの海につかっている。いつもの年なら、とけることのない山頂《さんちゅう》の万年雪《まんねんゆき》も、今年《ことし》はとけるだろう……。」
チャグムは、心《しん》ノ《の》臓《ぞう》を冷《つめ》たい手でぎゅっとにぎられたような気がした。鼓動《こどう》がはやくなり、老人《ろうじん》の姿と声がとおのいていく。頭の皮《かわ》が冷《つめ》たくこわばって、全身《ぜんしん》がしびれた。
青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の万年雪《まんねんゆき》がとければ、あの山脈からながれでるたくさんの支流《しりゅう》があつまる青弓川《あおゆみがわ》の水かさは、すさまじいいきおいでふえるだろう。
そうなれば、青弓川の扇状地《せんじょうち》にきずかれた光扇京《こうせんきょう》は……。
血《ち》が音をたててさがっていくのを、チャグムは感じた。目の前が白くゆがんでみえる。耳の底《そこ》で、太鼓《たいこ》をうつような音がきこえた。
「チャグム……。」
バルサに肩《かた》をつかまれて、チャグムはあさく息《いき》をすった。冷たい汗《あせ》がびっしょりと全身《ぜんしん》をぬらしている。
「バルサ………都《みやこ》が……。」
チャグムはつぶやいた。
「……都へ、かえらねば……、みなに、告《つ》げなければ……。」
チャグムの肩においた手に、バルサは力をこめた。チャグムをとらえた恐怖《きょうふ》は、ひとしくバルサをもとらえていたが、それでも、バルサは、おちつきをうしなってはいなかった。
ひくいが、はっきりした声で、バルサはいった。
「あんたは、新《しん》ヨゴにかえっちゃいけない。」
チャグムは目をみひらいた。
「なぜ?」
「おちついて、考えてごらん。この時期《じき》に、あんたが宮《みや》へもどり、天災《てんさい》がくると告《つ》げたら、どういうことがおきるか。」
チャグムは、だまってバルサをみつめていた。その目をみるうちに、ものが考えられるようになってきた。――バルサがいいたいことが、わかった。
戦乱《せんらん》の危機《きき》にあるいま、自分がとつぜん宮《みや》へもどって、天災《てんさい》がくると予言《よげん》したら……天《てん》ノ《の》神《かみ》の子であるはずの父が知らぬ災《わざわ》いを予言してしまったら、父はいかりくるうだろう。
チャグムの言葉を否定《ひてい》するために、災《わざわ》いなどありえぬと、いうだろう。――父の言葉は、神の言葉だ。いったん、父がそう言葉にしてしまったら、民《たみ》を避難《ひなん》させる道は、とざされてしまう……。
バルサが、しずかな声で、いった。
「わたしがいく。――わたしが新《しん》ヨゴへかえって、トロガイやシュガにこのことをつたえるよ。彼《かれ》らなら、きっと、天災《てんさい》をのがれる、よい知恵《ちえ》をもっているさ。」
チャグムの瞳《ひとみ》にかなしげな色がうかんだ。
その瞳をみながら、バルサは、チャグムの肩《かた》をゆすった。
「タンダたちも心配《しんぱい》だしね。……いかせておくれ。」
チャグムは、長いあいだ、じっとバルサをみつめていた。――そして、くちびるをぎゅっとむすんで、うなずいた。
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王城《おうじょう》の門が大きくあけはなたれた。
歓呼《かんこ》の声をあげて手をふる、たくさんの人びとにみおくられて、カンバルの騎馬兵《きばへい》たちが旅《たび》だっていく。
バルサは歓声《かんせい》をあげている人びとにまじって、きらびやかな武具《ぶぐ》をまとった武人《ぶじん》たちが、誇《ほこ》らしげに通りをやってくるさまをみつめていた。人びとが歓声をあげるたびに、かたわらの馬が、びくっと身体《からだ》をふるわせる。くつわをしっかりとにぎって、馬があばれないよう、なだめながら、バルサは騎馬の行列《ぎょうれつ》をみつめていた。
先頭《せんとう》をいくのは、この遠征軍《えんせいぐん》の指揮《しき》をまかされたムロ氏族出身《しぞくしゅっしん》の〈王《おう》の槍《やり》〉ハーグと、カームだった。そのふたりにはさまれて、ほっそりとした若者《わかもの》の姿《すがた》がみえる。
金でふちどりをしたカンバルふうの革《かわ》の胸当《むねあ》てをまとっている若者は、しっかりと顔をあげていたが、きびしい表情《ひょうじょう》をうかべているその目には、ほかの武人《ぶじん》のような、誇《ほこ》らしげな色はなかった。
通りに立つバルサに気づいて、若者《わかもの》の目が、ひかった。
バルサは、小さく、うなずいてみせた。
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つかのま、チャグムの目に微笑《ほほえみ》がうかび、わずかに顔がゆがんだ。――くちびるをむすんで表情《ひょうじょう》をひきしめると、チャグムはバルサにかすかに頭をさげ、それから、きっぱりと顔を前にむけた。
多くの騎馬《きば》をひきいて去《さ》っていくチャグムのうしろ姿《すがた》がみえなくなると、バルサは馬にとびのり、手綱《たづな》をひいて、騎馬《きば》の行列《ぎょうれつ》に背《せ》をむけた。
(バルサ……たのむ。)
馬の背《せ》にゆられながら、チャグムは心のなかで、つぶやいた。
(どうか、無事《ぶじ》に、トロガイやシュガのもとへ、たどりついて……。)
たとえ、バルサがトロガイやシュガにあの話をつたえたとしても、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》のふもとにひろがる村《むら》むらや都《みやこ》の人びとを、どこか安全《あんぜん》なところへ避難《ひなん》させるのは、とてつもなくむずかしいことだろう。――それでも、彼《かれ》らがなんとかしてくれると、信《しん》じたかった。
南からは侵略軍《しんりゃくぐん》、北からは天《てん》の災《わざわ》い……故郷《ふるさと》は、ふたつの災いにはさまれてしまっている。
(いまは、天の災いのことは、考えまい。)
自分がやらねばならぬことは、南からおしよせてくる侵略軍《しんりゃくぐん》を、おしとどめることだ。
そのために、戦場《せんじょう》へ兵《へい》をひきいていかねばならない。――はるか、故郷まで。
そう思ったとき、かわいたバルサのてのひらのぬくもりが、ふっと、頬《ほお》によみがえった。
昨日《きのう》の夜《よる》、客間《きゃくま》にもどると、王《おう》がおくってくれたきらびやかな鎧《よろい》と武具一式《ぶぐいっしき》が、衣装台《いしょうだい》の上におかれていた。
この鎧《よろい》をまとって、兵を戦地《せんち》へみちぴいていく自分――人を殺《ころ》せと命令《めいれい》する自分の姿《すがた》を思いうかべたとたん、胴《どう》ぶるいがこみあげてきた。
暖炉《だんろ》の前の床《ゆか》にあぐらをかいて、短槍《たんそう》の手入れをしているバルサのわきに腰《こし》をおろし、チャグムは、つぶやいた。
「人を殺した者《もの》にも、いつか、苦しさをわすれて……納得《なっとく》して……生きられる日がくるのかな。それとも、ずっと苦しいままなのかな。」
バルサは穂先《ほさき》をみがく手をとめて、しばらくだまっていたが、やがて、ひくい声でいった。
「人を殺《ころ》した者《もの》は、らくになろうなんて思っちゃいけないと、わたしは思う。――理由《りゆう》をつけて納得《なっとく》なんかされたら、殺された人はうかばれないだろう。
自分を殺そうとむかってくるやつを、身《み》をまもるために殺したんだとしても、わたしは、自分が人殺しだってことを、わすれたくない。」
バルサは顔をあげて、チャグムをみた。
「正直《しょうじき》にいおうか。――そう思っていないと、わすれてしまうんだよ、人を殺《ころ》した苦《くる》しみを。身体《からだ》が傷《きず》をなおそうとするみたいに、心《こころ》もさ、傷をとじようと、いろんな言《い》いわけをみつけだしてくる。」
バルサのロもとに、うすい笑《え》みがういた。
「そういう言いわけがうまく傷《きず》をふさいじまったら……わたしの心のなかにかろうじて残っている、まっとうななにかも、消《き》えていくような気がするんだ。」
炉《ろ》の火にやわらかくてらされているその顔から、ゆっくり笑みがきえた。
「……ごめんよ。わたしが、あんたの母上だったら、きっと、もっとやさしい言葉をかけてやれたろうね。世の中には、しかたがないことがある。ひとりの人の力ではどうしようもないことがある。だから、苦しむんじゃないよって。
だけど、わたしは、そういう……あんたをらくにしてやれる言葉を、かけてやれない。」
バルサは、かすれた声でいった。
「人をたすけるために、人を殺《ころ》す矛盾《むじゅん》は、いまもわたしをがんじがらめにしている。おなじ矛盾にむきあっているあんたに、らくになれる道なんて、しめせるはずがない。」
そういってから、バルサは、かすかに苦笑《くしょう》をうかべた。
「だけどさ、こんな人生《じんせい》だって、かなしみしかないわけじゃない。たとえば、ほら……。」
バルサはそっと右手をのばして、チャグムの頻《ほお》をつつんだ。
「ふくれっつらをして、だだをこねてたチビさんが、一人前《いちにんまえ》の男になって、いま、こうしてとなりにすわってる……。」
頬《ほお》をつつんでいる、かわいたその手からつたわってきたぬくもりは、ゆっくりと心の底《そこ》にしみていき、手がはなれたあとも、そこにとどまった。
騎馬《きば》の行列《ぎょうれつ》は、ゆっくりと雪におおわれた野山《のやま》をこえてすすんでいく。
わずかな昼食《ちゅうしょく》のやすみをとったあとも、日暮《ひぐ》れまで、彼《かれ》らは馬をおりることなく、進軍《しんぐん》をつづけた。
やがて、日がかたむきはじめると、夕日をはらんだ雲《くも》が空の底《そこ》を赤くそめはじめた。その光をうけて、雪《ゆき》の峰々《みねみね》が茜色《あかねいろ》にそまっていく。老《お》いた山並《やまな》みが赤くかがやいている。娘《むすめ》が頬《ほお》をそめるように。
「アラム・ライ・ラ……。」
ぽつっと、チャグムがつぶやくと、すぐうしろで馬をすすめているヨンサ氏族《しぞく》のダーグが、おどろいたように声をかけてきた。
「へえ! みごとなヨンサなまりですね、殿下《でんか》。ほんとに、アラム・ライ・ラだ。恋人《こいびと》の指にふれられて、婆《ばあ》さんが、頬《ほお》をそめて笑《わら》っている。」
チャグムは、ほほえんだ。
チャグムは夕日のなごりを顔にうけ、目をほそめて、雪のにおいのする澄《す》んだ風を胸《むね》いっぱいにすいこんだ。
あの山のむこうにはロタがある。
ロタへ、そして故郷《ふるさと》へ、自分が歩んでいくはるかな道が、夕日の底に、幻《まぼろし》のようにのびているのが、みえた気がした。
[#地付き]〈お わ り〉
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