天と地の守り人 第一部
上橋菜穂子
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そなたは、わたしが、この道をえらんだことを嘆《なげ》くだろうか。 − 子どものような心で、かなうはずのない夢を追ってしまったと、嘆《なげ》くだろうか。だが、シュガ、わたしは、大人であれば、えらばぬであろう、この道をいくことに決めたのだ。
南の大陸で、わたしは多くのものをみた。タルシュはまこと、大国であった。いくら言葉をつくしても、その目でみなければ信じられぬほど繁栄をきわめた大国だ。新ヨゴなど、あの国にくらべれば虫ケラにすぎぬ。我らが、総力をあげてはむかっても、彼らの目には、カマキリが、かぼそき斧をふりあげているようにしかみえぬだろう。
シュガ、わたしは、たしかに愚《おろか》かかもしれぬ。わたしが、もっともおそれているのは、この道をえらぶことで、多くの民をむだ死にさせてしまうのではないか、ということだ。
ラウル王子 − あの、倣慢《ごうまん》なタルシュ帝国《ていこく》の第二王子が、もちかけてきたとおりに、わたしは国に帰って、タルシュに降伏《こうふく》し、枝国《しこく》になる道を、えらぶべきだったのかもしれぬ。そのほうが、死ぬ者は少ないのかもしれぬ。だれが国を治《おさ》めようが、民《たみ》が幸《しあわ》せでありさえすれば、それでよい。枝国《しこく》になることで、民《たみ》が幸せになると信じられたなら、わたしは自分の矜恃《きょうじ》など捨《す》てて、ラウル王子にしたがっただろう。
だが、シュガ、わたしは、そのさきにある闇《やみ》を知っている。枝国になったあと、新ヨゴの民が、どのような闇に落ちるか、知っているのだ。
枝国《しこく》にされてしまえば 新ヨゴの民《たみ》は枝国|軍《ぐん》の兵士として徴集《ちょうしゅう》され、ロタ王国やカンバル王国を攻《せ》める道具に使われる。 これまで友であった国々の民を殺すよう命じられるのだ。 ただ、タルシュ帝国の利益のために道具として使われ、友を殺し、友に殺され、その果てにあるのはロタとカンパルの民からうらまれつづける未来《みらい》だ。
こんな未来を、わたしは民にあたえたくない  − 望《のぞ》んで帝《みかど》の子として生まれたわけではないし、帝になりたいなどとは一度なりとも思ったことはないが、それでも、わたしは、否応《いやおう》なく国の司《つかさ》としての立場にある。そうであるなら、わたしは、民の幸《しあわ》せのために、己《おのれ》ができる、最高《さいこう》の選択《せんたく》をせねばならない。
シュガ、わずかだが、希望《きぼう》はある。タルシュ帝国にも弱点《じゃくてん》があるからだ。 たとえば、北の大陸《たいりく》を攻《せ》める権利《けんり》をにぎっているラウル王子を、兄のハザール王子は、なんとか蹴《け》おとしたいと思っている。そのために、わたしを暗殺《あんさつ》しようとしたほとだ。 大国でも、内側《うちがわ》に亀裂《きれつ》があるのなら、攻め手はあるはずだ。
ロタ王は 英明《えいめい》な方《かた》だ。わたしは、かの王が、わたしとおなじ未来《みらい》を夢《ゆめ》みてくださることに賭《か》ける。−−−   わたしは 行く道のさきに光をみている。かすかだが、まごうことなきひと筋《すじ》の光を・・・・・・・・・
[#地付き][シュガへ宛《あ》てたチャグムの書簡《しょかん》より]
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序章 光の河《かわ》
第一章 チャグムをさがす者
1 山越《やまご》え
2 ジンからの手紙
3 帝《みかど》という天蓋《てんがい》
4 盗品商人《とうひんしょうにん》
5 (赤目《あかめ》のユザン)
6 予感《よかん》
7 シュマの男
第二章 味方《みかた》のなかの敵《てき》、敵のなかの味方
1 味方《みかた》のなかの敵《てき》
2 きみょうな敵《てき》
3 襲撃《しゅうげき》
4 小舟《こぶね》の夜
5 密偵《みってい》の思惑《しわく》
6 トサハ筋《すじ》のアハル
7 バルサの決意《けつい》
第三章 吹雪《ふぶき》のなかで
1 オ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)
2 影《かげ》からよみがえったカシャル(猟犬《りょうけん》)
3 イーハンの居城《きょじょう》で
4 刺客《しかく》
終章 雪《ゆき》の峰《みね》へ
あとがき
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闇《やみ》のなかに、ふいに火が燃《も》えあがった。
ぼうっと燃えさかる松明《たいまつ》の火影《ほかげ》が暗《くら》い川面《かわも》にうつり、川漁用《かわりょうよう》の小舟《こぶね》の輪郭《りんかく》がうかびあがる。
「おー、ついた、ついたー」
孫《まご》をせおって川辺《かわべ》の草むらに立っていた老人《ろうじん》がうれしそうな声をあげた。あとをついだ息子《むすこ》たちが、はじめて彼《かれ》らだけで火振《ひぶり》り漁《りょう》にいどむ瞬間《しゅんかん》をあじわうために、わざわざ手燭《てしょく》のあかりをふきけして暗闇《くらやみ》のなかでまっていたのだ。
「お魚を焼《や》いちゃうの?」
びっくりしたような声が、背中《せなか》からきこえてきた。
「いいや、いいや。焼くんじゃないぞ、おどかすんだ。ねむってて、まだ、ちょいと寝《ね》ぼけとる魚をな、おどろかして、しかけに追《お》いこむんだ。……ああ、にぷいのう、あのばかたれどもが。かけ声はどうした! そんな振《ふ》り方《かた》じゃ魚があっちのほうへ逃《に》げちまう……。」       あとのほうは、もたもたと松明《たいまつ》をふりまわしている息子《むすこ》たちへの罵《ののし》りにかわり、老人はのびあがるようにして舟《ふね》をみつめた。
「……おじいちゃん。」
おぶわれている孫《まご》がささやいた。
「あっちにも火が燃《も》えてるよ。」
老人《ろうじん》は、はっと目を息子《むすこ》たちの舟《ふね》からそらして、川をみわたした。
「どこだ?」
今夜《こんや》火振《ひぶ》り漁《りょう》をするのは、彼《かれ》の一家だけの特権《とっけん》だった。火振り漁をやれる日は、家ごとにきまっている。村のだれかが掟《おきて》をやぶって、ひそかに火振り漁をはじめたのかと、老人は川上をすかしみた。
「そっちじゃないよ、あっち。」
ぶあつい毛織《けお》りの肩掛《かたか》けの下から手をだして、孫《まご》がゆびさしたのは川ではなく、葦《あし》の原《はら》だった。そこへ目をむけて、老人《ろうじん》は眉《まゆ》をひそめた。たしかに小さな赤い光がみえる。
(火・・・か?)
ちらちらとおどっている光が、とつぜんふたつに割《わ》れた。三つに割れ、四つに割れ、みるみるうちにふえていく。老人は、ざわざわと髪《かみ》がさかだつのを感じた。
いったん割れたようにみえた光が、やがてよりあつまり、まるで蚊柱《かばしら》のように渦《うず》をまいて、葦《あし》の原《はら》から暗《くら》い宙《ちゅう》へむかってたちのぼっていく。蚊の羽音《はおと》のような高いうなりが、かすかに大気《たいき》をふるわせている。無数《むすう》の光の群《む》れは、ゆるやかに先端《せんたん》を低く北へとまげ、老人《ろうじん》と孫《まご》がぽうぜんと声もなくみまもるなか、北へむかって低く空中《くうちゅう》をわたりはじめた。
波《なみ》うってはひろがり、ひろがってはあつまる光は、まるでみえない大河を泳《およ》ぐ小魚の群《む》れのようにみえる。それがむかうさきに川舟《かわぶね》があるのに気づいて、老人《ろうじん》はわれにかえってさけんだ。
「おーい! 逃《に》げろ!! へんな光がそっちへいくぞ!」
ちょうどそのとき、息子《むすこ》たちは松明《たいまつ》をふりながら、魚追《さかなお》いの叫《さけ》びをあげはじめた。ホーイ、ホイホイッという威勢《いせい》のいい声にかきけされて、老人の声はいっこうに舟にとどかない。
老人《ろうじん》は孫《まご》を背からおろすと、川原《かわら》の石をひろって、息子たちの舟めがけて、つぎつぎとなげた。老練《ろうれん》な川漁師《かわりょうし》のなげた石は、ねらいどおりに舟端《ふなばた》のすぐそばの川面《かわも》に落ちていく。
いくどめかの石をなげたとき、ようやく息子のひとりが気づいて、闇《やみ》をすかすようにこちらをみた。
「逃《に》げろっ! そっちへへんな光が……!」
しかし、老人《ろうじん》の声がとどいたときにはもう、光の筋《すじ》は息子《むすこ》たちのすぐそばにせまっていた。息子たちは、いぶかしげに顔をあげた。その瞬間《しゅんかん》、彼《かれ》らは松明《たいまつ》の燃《も》えるにおいとはべつの、なまぐさいような、むっとする水のにおいにつつまれた。老人と孫の目には、彼らが光の帯《おび》につかってしまったようにみえていたが、息子たちには、光はみえていなかった。ただ、きみょうになまあたたかい風にふかれているような感覚《かんかく》をあじわっているだけだった。
老人《ろうじん》は息《いき》をするのもわすれていた。それはおそろしい光景《こうけい》だった。息子《むすこ》たちの身体《からだ》や舟《ふね》を光の群《む》れがつきぬけてとおっていく。それなのに、息子たちは、ただふしぎそうにこちらをみているだけだ。光の群れはやがて、息子たちのなかをとおりすぎ、こちらへむかってきた。
老人はふるえる手で孫《まご》をかかえあげ、しがみついてくる孫に片腕《かたうで》をまわして、光がながれるさきにあたらない方向《ほうこう》へ逃《に》げはじめた。しばらく逃げてふりかえると、さっき自分たちが立っていた川原《かわら》のあたりからも、ぽうっと光がまいあがり、光の帯《おび》に合流《ごうりゅう》していくのがみえた。その先端《せんたん》が森にさしかかったとき、とつぜん、ばさばさとはげしい羽音《はおと》がきこえはじめた。
夜は飛ばぬはずの小鳥たちが、くるったように森から飛びだしては、まるで川面《かわも》に飛びこんで小魚をとらえるように光の群《む》れをおそっている。光の群れもまた、おそわれた小魚そっくりに、ばあっと散《ち》っては森のなかへながれていく。
やがて、その光の群れは、するすると渦《うず》をえがいて、すこしまえに地崩《じくず》れがあったあたりの地面《じめん》にもぐって消えていった。
老人《ろうじん》は孫《まご》をかかえて、ふるえながら、小鳥の乱舞《らんぶ》がしずまるまで、じっと立ちつくしていた。
夏の陽射《ひざ》しが、うなじと背《せ》をじりじりとあぶっている。
渓流《けいりゅう》の斜面《しゃめん》の草木が根《ね》こそぎくずれている土砂崩《どしゃくず》れのあとをみあげていたタンダは、うしろにたたずんでいる老人《ろうじん》をふりかえった。膝《ひざ》までのみじかい簡袴姿《つばばかますがた》で、この季節《きせつ》でもまだワラ編《あ》みの小笠《こがさ》をかぶっている。彼《かれ》は、このあたりの川筋《かわすじ》の、川漁師仲間《かわりょうしなかま》の顔役《かおやく》だった。
「きみょうな光が飛んでいたっていうのは、このあたりですか」
タンダがたずねると、老人はうなずいて、渓流《けいりゅう》のほうから土砂崩《どしゃくず》れのあとまでをずうっと手でたどってみせた。
「あっこから、このあたりへむかってよ、ブヨ (小魚) の群《む》れがながれるみてぇに、きらきらする光の筋《すじ》がながれていったと思ったら、このあたりで、森から鳥の群れがでてきて、そいつを食いちらかしはじめたんだよ。」
老人《ろうじん》はむきだしの腕《うで》をさすった。
「そりゃあ、あんた、気味《きみ》わるかったぜ。まるで目にみえん川がこのあたりにながれとって、小魚の群れがその流れにのって泳《およ》いでったのを、鳥が川に飛びこんで食ってるようにみえたもんよ。」
「なるほど……。」
つぶやいて、タンダは目をとじた。
口のなかで呪文《じゅもん》をとなえ、らせん状《じょう》にすり鉢《ばち》の底《そこ》へくだっていくように心を集中《しゅうちゅう》させていく。
やがて、ぼんやりと、ナユグ(あちら側《がわ》)がみえてきた。
タンダは、ぼうぜんとその風景《ふうけい》をみつめていたが、すぐに、一歩、二歩、うっすらと、サグ(こちら側《がわ》)の土砂崩《どしゃくず》れがかさなってみえているあたりに足をすすめ、泳ぐように両手《りょうて》をうごかした。
目をあけると、タンダは、ほーっとふかく息《いき》をはきだした。びっしりと額《ひたい》に汗《あせ》がういている。
しばらく、タンダは考えこんでいたが、やがて、顔をあげ、斜面《しゃめん》のずっと上のほうの土砂崩れのふちのあたりにしゃがみこんでいる人影《ひとかげ》に声をかけた。
「師匠《ししょう》!」
人影が顔をあげたとたん、土の表面《ひょうめん》がばらばらとくずれおちはじめた。人影は、猿《さる》のように身軽《みがる》に、すべりおちていく土といっしょにかけおりてきて、タンダがさしだした右手にぶらさがるようにしてとまった。
おそろしくみにくい老婆《ろうば》だった。黒い肌《はだ》に蜘蛛《くも》の巣《す》のようにしわがよっているこの老婆こそ、当代一《とうだいいち》と名《な》だかい呪術師《じゅじゅつし》のトロガイであった。
「なにやってんですか師匠《ししょう》! あぶないじゃないですか。」
タンダがいうと、トロガイは弟子《でし》の腕《うで》をぴしゃんとたたいた。
「おまえが、でかい声をあげるからだろうが、へボ弟子。」
足をさすりながら、トロガイはタンダをみあげた。
「足が痛《いた》い。帰りはせおっておくれや。」
タンダは片眉《かたまゆ》をあげて、ため息《いき》をついた。
「……で? なにかみつけましたか。」
トロガイは鼻《はな》をならした。
「おまえは、どうみたてたね。まず、いってみい。」
タンダはまじめな顔にもどった。
「このあたりは、ほかの場所より、ずいぶん暑《あつ》いというか、ぬるま湯《ゆ》につかっているような感じがあるので、いまナユグをのぞいてみたんですが……。」
タンダは、顔の汗《あせ》をぬぐった。
「まえにのぞいたときは、このあたりは深《ふか》い峡谷《きょうこく》だったのに、いまは、まんまんと水をたたえた大河《たいが》にかわっている。しかも、その大河のなかに、ほかのところより水温《すいおん》が高い流れがあるんです。ちょうど、このあたりで、水温がかわっていました。」
タンダは、土砂崩《どしゃくず》れのあたりで、てのひらをうごかしてみせた。
トロガイはうなずいて、川漁師《かわりょうし》をふりかえった。
「あんたらがみたっていう光じたいはべつに心配《しんぱい》するようなもんじゃないだろ。ナユグの河《かわ》に群《む》れている小魚のなかには、ときおり、こっちにも背《せ》びれの光をみせるやつらがいる。どうしてだか知らないがね。背びれをひからせなきゃ、こっち側《がわ》の鳥に食われることもあるまいに。」
タンダは顎《あご》をさすった。
「サグ(こっち側)の鳥が、ナユグ(あっち側)の魚を食うってのが、ふしぎですよね。実体《じったい》が、どういうふうに……。」
いいかけたタンダを、トロガイがさえぎった。
「そういう呪術問答《じゅじゅつもんどう》はあとにして、だ。いまは、もっと気になることがある。」
トロガイは、右のてのひらをひらいて、川漁師《かわりょうし》に、にぎっていたものをみせた。
「あんた、この虫を知っているかね。」
それは、トロガイの親指《おやゆび》ほどの大きさがある甲虫《こうちゅう》だった。黒光りして、口は大きなハサミのようになっている。虫は泥《どろ》まみれで、ゆるゆるとロのハサミをうごかしていた。
「ああ、そいつは、チョ(根切《ねき》り虫《むし》)だ。木の根っこを食いちらかす小悪党《こあくとう》だよ。そういや、このごろ、こいつをやたらにみるな。ふだんは、秋になるとみかけなくなるんだが。」
「夏にふえる虫なのかね。」
「さぁなあ、おれはあんまりくわしくないが、まえに香木採《こうぼくとり》りのじいさんに、夏が暑いとチョがふえてこまるって話をきいたような気がする。」
川漁師《かわりょうし》は言葉《ことば》をついだ。
「おれは、ときどき鳥猟《とりりょう》もやるんだが、オショロ (渡《わた》り鳥《どり》の一種《いっしゅ》)は、こいつの幼虫《ようちゅう》が大好物《だいこうぶつ》なんだよ。オショロは冬の渡り鳥でよ、冬から春にかけて、ここいらにくると、よく、この渓谷沿《けいこくぞ》いの森のふちで、さかんに土からチョの幼虫を捻《ひね》りだしちゃ、食ってるよ。」
そういってから、彼《かれ》は思いだしたように、つけくわえた。
「そういやぁ、この春さきはオショロをぜんぜんみなかったな。みょうに暑《あつ》かったせいかな。」
チョがハサミをうごかしているのをみつめながら、トロガイは眉《まゆ》をひそめた。
「 − この地崩《じくず》れのふちには、こいつらが、うじゃうじゃいる。」
タンダは、はっとトロガイをみた。
「地崩れは、そのせいか……。」
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トロガイは首をかしげた。
「今年《ことし》はラッカルー(渦嵐《うずあらし》)が異常《いじょう》に多いから、雨やら風やらで、このあたりの斜面《しゃめん》の地盤《じばん》がゆるんだってこともあるんだろうが、こいつらが草や木の根《ね》を食《く》いちらかして、木がたおれやすくなっていたのかもしれん。」
トロガイは、しばらくうつむいて考えていたが、やがて顔をあげて川漁師《かわりょうし》をみた。
「あんたが心配《しんぱい》なさっていた光は、さっきもいったが、べつにわるさをする悪霊《あくりょう》じゃあない。そいつは、安心《あんしん》なさっていい。」
川漁師は、ほっと表情《ひょうじょう》をゆるめた。
「そうかね。そうきいて、安心したわい。」
そういいながら、腰《こし》にぷらさげていた干魚《ほしうお》の束《たば》をとり、トロガイにさしだした。
「こんなもんで、すまんけんど、気もちばかりのお礼《れい》だで、うけとってくれんかい。」
トロガイは干魚を三尾だけとって、あとの四尾を川漁師《かわりょうし》にかえした。ふしぎそうな顔をしている川漁師に、トロガイはいった。
「いや、わしのほうでも、ひとつお願《ねが》いがあるんでさ。三尾でいいよ。」
「お願いたぁ、なんだね〜」
「あんた、このあたりの、川漁師のトイ(仲間《なかま》) の顔役《かおやく》だろう。ふれ《ヽヽ》をだして、そういう光をみた者《もの》がほかにいないか、みたとしたら、いつごろ、どのあたりの川筋《かわすじ》だったか、きいてもらえんかね。」
川漁師はうなずいた。
「ああ。そりゃ、たやすいこった。すぐにふれをだそう。」
川漁師《かわりょうし》とわかれ、家にむかって歩きながら、タンダはトロガイに話しかけた。
「師匠《ししょう》が心配《しんぱい》されているのは、地崩《じくず》れですか。」
トロガイは、弟子《でし》をみあげた。
「おまえは、どう思うね。」
タンダは、考えながらこたえた。
「ナユグに春がきて、ナユグの河《かわ》の水量《すいりょう》が増《ま》している。だから、これまではナユグの水にひたることもなかった、こんな高地《こうち》にまで、その影響《えいきょう》がおよんでいるんでしょう。
やっかいなのは、ナユグの春に影響されて、どういうわけか、こっちの気温《きおん》もあがっていることで、冬にくるはずの渡《わた》り鳥《どり》が越冬《えっとう》の場所をかえた。そのせいで、春に幼虫《ようちゅう》を食われずにすんだチョが、たくさん成虫《せいちゅう》になっている……。」
トロガイがうなずいた。
「こういうことが、あちこちでおこっているとしたら、たいへんなことになるやもしれん。」
タンダは師匠《ししょう》の顔《かお》をみた。
「村《むら》ノ長《おさ》に知らせて、川筋《かわすじ》の地固《じがた》めをねがいでたら……。」
いいかけて、タンダは首をふった。
「いや、むりだろうな。このところ、村《むら》ノ長《おさ》たちは、草兵《そうへい》のことで手いっぱいだからなぁ。」
一年半ほどまえ、タルシュ帝国《ていこく》とサンガル王国《おうこく》が手をくんだとわかったときから、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の村むらには、十五から五十までの男十名を、工兵《こうへい》としてだすようふれがきた。
かりだされた男たちは、都《みやこ》をまもるために皇国各地《かくち》ではじまっている、砦《とりで》づくりに派遣《はけん》されていて、まだかえってこない。
そのうえ、こんどは、十八から四十までの男十名を、草兵として徴兵《ちょうへい》するというふれがきた。
また、働《はたら》きざかりの男手《おとこで》をうばわれるという恐怖《きょうふ》と、だれをえらぶかということで、村は蜂《はち》の巣《す》をつついたようなさわざになっている。おきるかどうかもわからぬ地崩《じくず》れのために、川筋《かわすじ》を地固《じがた》めしていくような余裕《よゆう》は、どこの村もないだろう。
「いちばんいいのは、シュガさんにつたえることでしょうが……。」
つぶやいたタンダに、トロガイは首をふった。
「シュガは、むずかしい立場《たちば》になっているようだ。もう密会《みっかい》をするような危険《きけん》は、おかせんだろう。」
うなずきながら、タンダはふいに、痛《いた》みにおそわれたように顔をしかめた。 − チャグムのことが心をかすめたのだ。
トロガイは、ちらっと、タンダの表情《ひょうじょう》をみると、ぎゅっと口をむすんで、足《あし》ばやに歩きはじめた。ふりかえりもせず、どんどん山道をくだっていく。
そのうしろ姿《すがた》をみながら、タンダはゆっくりと山道をくだった。
思いがけぬ知らせをきいてからずっと、かなしみが胸《むね》のふかいところに根《ね》をはっていて、なにかの拍子《ひょうし》に思いだすたびに、心《しん》ノ臓《ぞう》をにざられたような痛《いた》みがはしる。きっと、トロガイ師もおなじなのだろう。あれから、チャグムのことは、まったく口にしなくなってしまった。
ぼんやりと、チャグムのことを思いながら歩き、自分の家《いえ》の裏手《うらて》にでたとき、タンダは、はっと足をとめた。
人の気配《けはい》があったからだ。
一瞬《いっしゅん》、バルサがかえってきたのかと思ったが、庭《にわ》さきにいる人影《ひとかげ》がみえてくると、猟師《りょうし》姿《すがた》の大柄《おおがら》な男であることがわかった。 − みしらぬ男だ。
トロガイは来客《らいきゃく》に気づいていながら、顔をあわすのがめんどうで、そっと裏口《うらぐち》からはいってしまったのだろう。男は人待ち顔で庭の石にすわっていた。
タンダが裏山から庭さきにおりてくると、さっと男は立ちあがった。
「……あんた、タンダさんかね。」
「そうですが。」
男の顔に、喜色《きしょく》がさした。
「ありがたい。 − じつは、あんたにおりいって頼《たの》みがある。一刻《いっこく》もはやく、バルサという
人にあわねばならんのだ……。」
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1  山越《やまご》え
夕暮《ゆうぐ》れの光が、木々の梢《こずえ》をうすあかくてらしているが、すでに足もとの草むらは、さだかにみえなくなっている。
バルサは汗《あせ》をぬぐいながら、獣道《けものみち》がのびているさきをみさだめた。
山歩きになれているバルサには、なんとか道筋《みちすじ》をよみとることができたが、うっそうとおいしげる草が道をおおっていて、どこが道なのか、目でたどるのはむずかしい。
今年《ことし》は秋のふかまり方《かた》がおそい。いつもなら葉を落としはじめる木々が、まだ、青々《あおあお》と葉をしげらせて、山を暗くしていた。
うしろで、枝《えだ》がバキバキと折《お》れる音がして、小さな叫《さけ》び声《ごえ》があがった。
ふりかえると、行商人《ぎょうしょうにん》のサイソが草に足をすべらせて、ひっくりかえるのがみえた。サイソの妻《つま》のトキが、あわてて手をさしのべようとしているが、右手で娘《むすめ》をささえるので、なかなか手がとどかない。
バルサは山道をかけもどり、サイソの腕《うで》をつかんで、ひっぱりあげてやった。
「……ああ、ありがとう。すまん。足がすべった。」
小太《こぶと》りのサイソは、汗《あせ》だくだった。せおっている荷《に》をゆすりあげながら、ゼーゼーとあらい息《いき》をついている。
「どこが道だか、よくみえん。今日は、どこか、この近くで……。」
いいかけたサイソを、バルサは、しずかに制《せい》した。
「声をひくめてください。きこえるでしょう?」
サイソはおびえた顔になった。
「きこえる? なにが……〜」
「川の音です。」
サイソも、そばにきたトキと娘《むすめ》も、だまって耳をすませた。
「ああ……。」
彼《かれ》らがうなずくのをみて、バルサは低い声でささやいた。
「この斜面《しゃめん》をくだったら川原《かわら》にでます。みとおしのよい川原ですから、見張《みは》りの兵士《へいし》がいるとしたら、そこでしょう。できれば、この夕闇《ゆうやみ》にまぎれて突破《とっぱ》したいのです。」
サイソの目が、ゆれた。
「いっそ、日が暮れおちてからのほうが、いいんじゃないかね。まっ暗になれば、わしらの姿《すがた》もみえないだろうし。」
バルサは首をふった。
「まっ暗《くら》になったら、あなたがたは歩けないでしょう。」
ぶぜんとした様でだまりこんだサイソの横で、まだ六つの娘《むすめ》が身《み》じろぎをした。
こわばった顔で自分をみあげている、おさない女の子に、バルサはほほえみかけた。
「あとちょっと、がんばっておくれ、ライ。あさってには、うちにかえれるから。」
ライは、こくっとうなずいた。
バルサは、サイソとトキに目をむけると、おだやかなロ調《くちょう》でいった。
「いまは、足をすべらせないことだけに集中《しゅうちゅう》してください。ゆっくりでかまいませんから。それから、なるべく音をたてないように。宿営地《しゅくえいち》が近ければ、兵士《へいし》が巡回《じゅんかい》しているかもしれません。」
ふたりがうなずくのをみとどけて、バルサは踵《きびす》をかえし、また山道をくだりはじめた。サイソたちがたどれるように、足で草を踏《ふ》みわけながらおりていく。
背後《はいご》で、サイソがぶつぶついっている声がきこえた。
「なんだって、こんな目にあわなきゃならないんだ。おれたちが、なにをしたってんだ。
故郷《こきょう》へかえるのに、こんなふうに盗人《ぬすっと》みたいに、兵士《へいし》の目をぬすんで、命《いのち》がけで山越《やまご》えしなくちゃならないなんて……。」
この山越えをはじめたときから、彼《かれ》はおなじ言葉《ことば》をくりかえし、つぶやいている。文句《もんく》をいうことで、つらさをまざらせているのだろうと思って、これまでは、なにもいわなかったが、いまは、ほうっておくわけにはいかなかった。
バルサがふりかえって、サイソに手をふり、指《ゆび》をロにあててみせると、サイソは顔をしかめて、わかった、わかったというそぶりをした。
ふたたび足をふみしめて歩きはじめながら、バルサは暗《くら》い目で道のさきをみつめた。
彼《かれ》の気もちは、よくわかる。一年ほどまえ、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の帝《みかど》がだした通告《つうこく》は、あまりにもとつぜんで、あまりにもむごいものだった。帝は、皇国を穢《けが》れた敵《てき》からまもるためという理由《りゆう》で、いきなり鎖国《さこく》を宣言《せんげん》し
たのだ。
タルシュ帝国《ていこく》から使者《ししゃ》がきていらい、新ヨゴ皇国は、まるで、とげをふりたてて身《み》をまるめ、わが身をまもろうとするパキ(ヤマアラシ) のようになってしまった。
サンガルとの国境《こっきょう》の関門《かんもん》だけでなく、ロタ王国《おうこく》やカンパル王国との国境もすべてとじられ、これよりさき、国境を出入りしようとこころみる者《もの》は、敵《てき》の密偵《みってい》とみなし、処刑《しょけい》するという高札《こうさつ》がたてられたのだ。
悲惨《ひさん》だったのは、ロタやカンバルにでていたヨゴの商人《しょうにん》たちと、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》に商売《しょうばい》をにきていたロタ人や、出稼《でかせ》ぎにきていたカンバル人たちだった。
彼《かれ》らはとつぜん、故郷《こきょう》へもどる道をとざされ、問答無用《もんどうむよう》で、異国《いこく》にとどまるはめにおちいってしまったのである。
鎖国《さこく》がはじまったとき、バルサは新ヨゴ皇国にいたのだが、とほうにくれていた知り合いのロタ人商人を、ひそかに山越《やまご》えさせて故郷へかえしてやったのがきっかけで、そのあと、なんども、国境《こっきょう》やぶりの山越えをうけおうことになった。
このサイソも、その噂《うわさ》をきいて、バルサにたよってきたのだった。
正式《せいしき》の関門《かんもん》をとおらない山のなかの獣道《けものみち》で、なんとか人がとおれる道を、バルサはいくつか知っていた。だが、今回《こんかい》のように家族《かぞく》づれともなると、あまりけわしい道はとおれない。
山越《やまご》えは、危険《きけん》で、きつい旅《たび》だ。それでも、このサイソたちのように、命《いのち》がけでも故郷《こきょう》へもどりたいと思う人びとは多かった。
サイソと妻《つま》は、四つになる末娘《すえむすめ》を老親《ろうしん》たちにあずけてきている。たとえ命の危険《きけん》があっても、新ヨゴへかえりたいと、つてをたよってバルサにたのんできたのだった。
新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》は、異常《いじょう》なほど神経《しんけい》をとがらせていて、人がとおっているという噂《うわさ》を耳にした道には、この獣道《けものみち》のような山道でさえ、見張《みは》りの兵士《へいし》をおくようになっていた。
そうなると、。バルサの仕事《しごと》は、ただの道案内《みちあんない》ではすまなくなる。
(……気をまぎらわせられて、いいさ。)
そっと足を踏《ふ》みだしながら、バルサは心のなかで思った。
いまは、仕事があったほうがいい。なにもせずにいると、チャグムのことを考えてしまう。
ロタで、バルサは心を切りさかれるような話を耳にした。そのときから、なにをしていても、その話が心からはなれていかない。
バルサはそっと首をふって、よけいな思念《しねん》をおいはらった。いまは、山越《やまご》えに集中《しゅうちゅう》せねばならない。
せせらぎの音が大きくなってきた。
バルサは煙《けむり》のにおいに気づいて、眉《まゆ》をひそめた。
ふりかえって、サイソたちに手で、そこでとまって、しゃがんでいるように合図《あいず》すると、バルサは手にもっていた短槍《たんそう》を木にたてかけて、足《あし》ばやに獣道《けものみち》をくだりはじめた。狐かなにかの獣が走っているようで、ほとんど音をたてていない。
道にはりだしている木の枝《えだ》を、するすると身《み》をかわしながらよけて、みるみる小さくなっていくバルサの姿《すがた》を、サイソとトキは、目をまるくしてみおくった。
「……よくあんなふうに身体《からだ》がうごくもんだ。」
サイソがつぶやいた。
すご腕《うで》の用心棒《ようじんぼう》がいて、山越《やまご》えをさせてくれるという噂《うわさ》をきいたとき、ごつい中年《ちゅうねん》の武人《ぶじん》を想像《そうぞう》していたサイソは、商人宿《しょうにんやど》でバルサにあって、おどろいた。
バルサが、三十なかばくらいの女だったからだ。あぶら気のない黒髪《くろかみ》をうなじでひと束《たば》にたばね、よく日にやけている。女にしては背《せ》が高いほうだったが、大女というわけでもない。
ただ、かたわらにおいてある短槍《たんそう》は、つかいこまれて、黒檀《こくたん》のようにひかっていた。
こんな女に自分と妻子《さいし》の命《いのち》をあずけていいのか不安《ふあん》だったが、商人宿《しょうにんやど》に出入《でい》りしている、いかにも手《て》ごわい雰囲気《ふんいき》の用心棒《ようじんぼう》たちが、バルサにあうと、無言《むごん》で敬意《けいい》をはらうようすをみているうちに、評判《ひょうばん》を信《しん》じてみる気になった。
「……サイソさん。」
声をかけられて、サイソはとびあがりそうになった。考えごとをしていたとはいえ、バルサが、いつのまにもどってきたのか、まったく、気づかなかったのだ。
わずかのあいだに寝《ね》こんでしまって、母にもたれて寝息《ねいき》をたてていたライが、びくっと身体《からだ》をふるわせて目をさました。
うす闇《やみ》が山をおおい、近くにいても、もうバルサの顔もさだかにみえなくなっている。
「やはり、見張《みは》りの兵士《へいし》たちがいます。」
サイソとトキの顔がこわばった。バルサはつづけた。
「ありがたいのは、兵士が三人だけだということです。野営天幕《やえいてんまく》の大きさからしても、それ以上《いじょう》はいないでしょう。三人なら、なんとかなると思いますが、ひとりでも腕《うで》の立つやつがいたら、全員《ぜんいん》が無傷《むきず》で突破《とっぱ》するのはむずかしいかもしれない。」
そういってから、バルサは、じっとサイソとトキをみつめた。
「どうしますか。……いきますか。ひきかえしますか。」
いつタルシュ軍《ぐん》が攻《せ》めてくるかわからぬ故郷《こきょう》。そこに、命《いのち》がけでかえるか。それとも、ここでひきかえして、戦乱《せんらん》がしずまるまで、ロタですごすか・・・・。
口をひらいたのは、妻《つま》のトキだった。
「いきます。」
末娘《すえむすめ》と老親《ろうしん》たちを思い、サイソもうなずいた。
「ああ、そうだ。かえらねばならん。」
そういってから、サイソは、ふいに手をのはしてバルサの腕《うで》をつかんだ。
「もし、わしらになにかあったら、この子だけは、かならず家へつれかえってくれ。たのむ。」
手が、ふるえていた。バルサはサイソの手をにぎりしめた。
「かならず。」
そして、サイソの手をはなすと、ふたりに、かんでふくめるように話しはじめた。
「これから、わたしのあとについて川原《かわら》までおりてもらいます。ゆっくり、しずかに、たがいの背《せ》にふれるくらいちかづいて、一歩ずつ、ついてきてください。
あなたがたをおろす川原は、兵士《へいし》たちの宿営地《しゅくえいち》がある場所からは、かなりはなれたところです。大きな木が川原にはりだしているので、そこにひそんでいてください。」
ふたりがうなずくのをみてから、。バルサは言葉《ことば》をつづけた。
「わたしは、娘《むすめ》さんをせおって川をわたり、あなたがたがつたってわたれるように縄《なわ》をはります。
それから、わたしが兵士《へいし》たちをおびきよせてくぎづけにしますから、そのあいだに、川をわたってください。さほど深《ふか》い川ではありませんが、流れははやい。足をすべらせたら命《いのち》とりです。」
バルサは、低い声でいった。
「わたしを信《しん》じて、あわてずに、川をわたることだけを考えてください。川をわたったら、森にはいって、そこでまっていてください。」
ふたりは、すいこまれるようにうなずいた。
バルサは立ちあがった。
「それじゃ、いきましょうか。」
たき火《び》の炎《ほのお》がおどっている。
釣《つ》ったばかりの魚を串《くし》にさしてあぶりながら、兵士《へいし》は、あたりをすかしみた。夕闇《ゆうやみ》が、木々も天幕《てんまく》もおなじ色にしずませ、川の両岸《りょうがん》で、山道が川原《かわら》とまじわるあたりに立って、監視《かんし》をしている仲間《なかま》の姿《すがた》も、青い幻《まぼろし》のようにみえる。
あと、二日《ふつか》で交代《こうたい》だ。それまでのしんぼうだと思いながら、魚の串に手をのはしたとき、兵士は、はっと顔をあげた。子どもの泣《な》き声《ごえ》をきいたような気がしたのだ。一瞬《いっしゅん》、魔物《まもの》の声をきいたような気がして、鳥肌《とりはだ》がたったが、すぐに、国境侵犯者《こっきょうしんぱんしゃ》かもしれないと気づいて、立ちあがろうとした。
中腰《ちゅうごし》になったとき、ヒュッと風を切る音がした。背《せ》にはげしい衝撃《しょうげき》をくらい、兵士《へいし》はうめき声をあげて、つんのめった。右の肩《かた》のあたりに、つぶてがあたったのだ。折《お》れはしなかったが、ひびがはいったのだろう。右肩《みぎかた》がしびれて、槍《やり》をひろいあげることができなかった。
身《み》をねじるようにしてふりかえると、こちら岸《ぎし》にいた仲間《なかま》に、影《かげ》がとびかかるのがみえた。
影同士《かげどうし》がもつれたようにみえて、すぐに片方《かたほう》が両膝《りょうひざ》をがっくり地面《じめん》につき、前へたおれた。
立っている影は、仲間《なかま》の影ではなかった。
右肩《みぎかた》をおさえながら立ちあがり、兵士《へいし》は歯《は》をくいしぼって、影のほうへ走りだした。
ザブザブと水をけたてて、むこう岸にいた仲間が、こちら岸へもどってくるのをみて、兵士は、すこし気がらくになるのを感じた。
(やつがくれは、だいじょうぶだ。)
仲間《なかま》は、サギ流《りゅう》の刀術《とうじゅつ》の使《つか》い手《て》だ。刀《かたな》が、ほの白く、うす闇にうかびあがるのがみえた。
影《かげ》が、仲間と対時《たいじ》するのをみて、彼《かれ》は足をとめた。へたに加勢《かせい》をしようとすると、じゃまになるかもしれない。
仲間とむかいあっている影は意外《いがい》に小柄《こがら》だった。手にみじかい槍《やり》のようなものをもっている。
槍がうごいた瞬間《しゅんかん》、裂帛《れっぱく》の気合《きあい》とともに、仲間の刀が、ビュウッと風をきって、槍にむかってふりおろされた。
ブゥーン……という、うなりがきこえた。刀《かたな》と交差《こうさ》するように槍《やり》が地をすって、すくいあげられたとたん、ふりおろしたいきおいそのままに、仲間の刀をもつ腕《うで》がはじかれ、刀が川原《かわら》の石にあたって火花《ひばな》を散《ち》らした。
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鞭《むち》のようにしなった槍《やり》にわき腹《ばら》をうたれて、仲間《なかま》の身体《からだ》が横《よこ》に折《お》れまがるのがみえた。革鎧《かわよろい》の上からうたれたのに、仲間は息《いき》をのむような音をたててうめくと、川原《かわら》にくずれおちて、そのまま悶絶《もんぜつ》してしまった。
闘《たたかい》いの音が消えると、上流《じょうりゅう》のほうで、だれかが川をわたっている音が、はっきりときこえてきた。また、子どもの泣《な》き声《ごえ》がきこえる。
兵士《へいし》は右肩《みぎかた》をおさえたまま、ふるえていた。影《かげ》がこちらへ走ってくる。
たき火《び》のあかりに、かすかに、その姿《すがた》がうかびあがるのをみたように思ったせつな、みずおちに激痛《げきつう》がはしり、兵士は息ができなくなった。
なにをされたのかもわからぬまま、彼は川原にくずれおち、気をうしなった。
バルサは、まだ少年のようにみえる兵士《へいし》のわきにかがみ、顎《あご》をおさえて口をあけた。のどのほうへまきこんでいる舌《した》をひきだしてやると、息《いき》をつめて死《し》なないように顎の位置《いち》をととのえて、よこたえた。
それから、いそいで上流《じょうりゅう》へとってかえした。
ライは、しんぼうづよい子で、これまで不平《ふへい》もいわずについてきたが、バルサにせおわれて川をわたり、木の根元《ねもと》にひとりにされると、さすがに心ぼそくなったのだろう。
バルサが木の幹《みき》に綱《つな》をはって、むこう岸《ぎし》にもどるあたりまでは、がまんしていたのだが、 バルサの姿《すがた》がみえなくなると、母をよびながら泣《な》きだしてしまったのだ。
でも、そのおかげで、サイソとトキは娘《むすめ》のところにいこうと夢中《むちゅう》になって、おびえる間も なかったようだ。無事《ぶじ》に、ひとかたまりになって、木の根元《ねもと》でまっているのが、ぼんやりと みえた。
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2  ジンからの手紙《てがみ》
その夜は、大きな岩かげで野宿をした。
火をたくのは危険《きけん》だったが、バルサはあえて、わずかなあいだだけ火をたいて、あたたかい食事《しょくじ》をつくってやった。こわい思いをしていると腹《はら》をこわすことが多い。体力《たいりょく》をうしなってしまえば、山をこえられない。
蜜《みつ》をとかしこんだあたたかいオルソ(麦《むぎ》の粥《かゆ》)を食べると、サイソたちは、ほっとしたようすで、すぐに寝《ね》いってしまった。
火を消すと、ふかい山の闇《やみ》につつまれた。
木々の梢《こずえ》のさきに星《ほし》の光がみえる。バルサは岩《いわ》によりかかって、その光をながめていた。
チャグムが、死《し》んだ。
ロタの酒場《さかば》で、情報屋《じょうほうや》がおしえてくれたのだ。
− 新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の帝《みかど》は、盛大《せいだい》な葬儀《そうぎ》をおこなったあとで、皇太子《こうたいし》を神《かみ》にまつりあげる儀式《ぎしき》をおこなうと告《つ》げたそうだぜ。
海のむこうからやってくる危難《きなん》をふせぐために、皇太子はみずから海に身《み》をしずめ、故国《ここく》をまもる守護神《しゅごしん》になられたのだそうな。
情報屋《じょうほうや》は、鼻《はな》で笑《わら》った。
− 知っているか。今年《ことし》は異変《いへん》つづきだし、ラッカルー(渦嵐《うずあらし》)が、ずいぶん多いだろう。
その天災《てんさい》は、チャグム皇太子《こうたいし》が亡《な》くなられたせいだとか、じつは、非業《ひごう》の死《し》をとげられたせいで、たたっておられるのだという噂《うわさ》がひろがっているんだよ。
サンガルにとらえられて、どうして解放《かいほう》されたのか、不可解《ふかかい》なことも多いし、チャグム皇太子は、サソガルとなんらかの裏《うら》とりひきをせまられていて、それで、故郷《こきょう》へかえれなくて、身《み》をなげたという噂もある。
帝《みかど》としては、そういう噂をしずめたいんだろうな。
その言葉《ことば》を、バルサはなにもいわずにきいていた。
(あの子が、身投《みな》げなんかするはずがない。)
燃《も》えあがる宮《みや》をみつめて、あふれる涙《なみだ》をこぶLでむちゃくちゃにぬぐっていた、おさないチャグムの顔が目にうかんでくる。十一歳《さい》のときでさえ、苦難《くなん》をのりこえる気骨《きこつ》があった子だ。どんな状況《じょうきょう》に追《お》いこまれても、死に逃げるようなことはすまい。
(……殺《ころ》されたのだろう。)
身投《みな》げにみせかけて、暗殺《あんさつ》されたのだろう。
(それとも、ほんとうに、身をなげたのだろうか。)
潔癖《けっぺき》で、責任感《せきにんかん》のつよい少年だから、たとえば民《たみ》の命運《めいうん》をわけるような裏《うら》とりひきをせまられていたのだとしたら、それを拒否《きょひ》するために、死《し》をえらんだのかもしれない。
どちらにせよ、あまりにも無残《むざん》な最期《さいご》だ。
バルサは、目をとじた。
チャグムが、もうこの世《よ》にはいない − あの、はつらつとした少年が、こんなふうに人生《じんせい》をたちきられたのかと思うと、はらわたが、くずれて消《き》えていくような心地《ここち》になる。
(こんな日がくるのなら、あのとき、宮《みや》へかえさなければよかった……。)
遠くで、枝《えだ》を踏《ふ》む音がした。
バルサは、ぱっと目をあけると、短槍《たんそう》を手にとって、立ちあがった。
だれかがちかづいてくる。小さなあかりがみえてきた。
バルサは、そっと短槍を音のするほうへむけたが、あかりは、短槍がとどかぬくらいの距離《きょり》をおいて、とまった。
闇《やみ》のむこうから、ささやきがきこえてきた。
「……おどかして、もうしわけない。あやしい者《もの》ではありません。鹿猟《しかりょう》をしている者ですが、塩《しお》をきらしてしまって、こまっております。煙《けむり》のにおいがしたもので、だれかおられるのかなと思って、きてみたのですが……そっちへいっていいでしょうか。」
トキが、びくっと目をさまして、身体《からだ》を起《お》こした。
バルサはかがんで、トキの耳もとでささやいた。
「サイソさんをそっとおこして、いつでも逃《に》げられるように、身《み》がまえていてください。
塩《しお》をきらした鹿猟師《しかりょうし》だといっていますが、どうもみょうです。逃《に》げろ、とさけんだら、この岩《いわ》のうしろ側《がわ》にまわって、そこにひそんでいてください。いいですか?」
トキはうなずいた。
バルサは立ちあがって、あかりのほうへ声をかけた。
「すこしなら、塩《しお》をわけてあげましょう。そっちへいくので、そこにいてください。」
バルサは、すっと歩きだした。
バルサは夜目《よめ》がきく。すこしちかづいただけで、あかりをさげているのが、猟師姿《りょうしすがた》をした男であることをみてとった。
しかし、バルサは男が猟師であるとは思っていなかった。言葉《ことば》づかいが、このあたりの猟師のものではないし、猟師は、たとえ塩をきらしたとしても、日が暮れおちてから山のなかを歩きまわったりはしない。
右手に短槍《たんそう》をもったバルサの姿《すがた》があかりにうかびあがったとき、男は、あっと息《いき》をのんだ。
男の口からとびだしたのは、意外《いがい》な言葉《ことば》だった。
「あんた、バルサさんか?」
バルサは眉《まゆ》をひそめた。男の顔にみおぼえはない。だが、男の顔にうかんでいる興奮《こうふん》とよろこびの色は、どうみても芝居《しばい》とは思えなかった。
「バルサさんか〜 そうだろう? あんたを、さがして、さがして……。」
バルサは男の大声をさえぎった。
「しっ。 − 声が大きい。」
男は、はっと声をひくめた。
「失礼《しつれい》した。あまり、うれしかったので……。わたしは、オルという。わけあって、バルサというカンバル人の女用心棒《おんなようじんぼう》をさがしている。タンダという人に、とおる可能性《かのうせい》のある山道をおしえてもらって、そういう山道をいったりきたり、くりかえしていたのだ。」
バルサは顔をしかめたまま、つぶやいた。
「たしかに、あんたがさがしているのは、わたしのようだが、そんなにまでしてさがされたとは、いったいなんのご用《よう》ですか。」
オルと名《な》のった男は、声をひくめてささやいた。
「わたしは、もと新《しん》ヨゴ皇国海軍《おうこくかいぐん》の上級海士《じょうきゅうかいし》だ。」
武人《ぶじん》の口調《くちょう》にかわっていた。
「あんたが、ほんとうにバルサさんなら、あんたにわたすものがある。だが、万《まん》にひとつのまちがいもゆるされん大事《だいじ》だ。たしかめさせてもらいたい。
むかし、あんたが、チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》をおつれして旅《たび》をしていたとき、あんたのかわりに、山越《やまご》えの食糧《しょくりょう》を買《か》いにいった者《もの》の名は?」
バルサは、すこし考えてから、ささやきかえした。
「トーヤ。」
オルの全身《ぜんしん》から、すっと力がぬけるのがわかった。
「ああ……天《てん》ノ神《かみ》よ。ありがとうございます。」
オルはつぶやき、懐《ふところ》からぷあつい封書《ふうしょ》をとりだした。
「わたしは、新《しん》ヨゴ皇国海軍《おうこくかいぐん》の旗艦《きかん》にのっていた者《もの》で、ながらくサンガル王国《おうこく》の虜囚《りょしゅう》となっていたが、チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》に虜囚の身《み》から解放《かいほう》していただき、故郷《こきょう》へかえってきた。
だが、とちゅうでいろいろあって……近衛士《このえし》のアムスラン殿《どの》のご信頼《しんらい》をいただき、密命《みつめい》をうけて、サンガル半島《はんとう》に上陸《じょうりく》するまえに、ひそかに船からはなれたのだ……。」
チャグムという名前をきいて鼓動《こどう》がはやくなった。アムスランというのは、たしか、(狩人《かりうど》) のジンの本名《ほんみょう》だ。ジンが、自分になにをつたえようというのだろう。
早く事情《じじょう》を知りたかったが、バルサは手をあげて、オルの話をさえぎった。
「お話は、ゆっくりうかがいますが、すこしまっていただけますか。ここにいてください。すぐもどります。」
そういって、バルサはサイソたちのもとにかけもどると、心配《しんぱい》ないこと、知りあいの使《つか》いがきたので、すこし話があるから、さきに寝《ね》ていてほしいと告《つ》げた。
サイソたちは、ほっとした顔《かお》で横になった。
オルのもとにもどると、バルサは、サイソたちに話し声がきこえないあたりまで、オルをひっはっていった。
「ありがとう。どうぞ、さきをつづけてください。」
オルはうなずいて、話しはじめた。
オルは、チャグム皇太子《こうたいし》をのせてサンガルからかえってきた船の乗組員《のりくみいん》だった。とちゅうで事件《じけん》がおきたが、その真相《しんそう》を知っているのは、(帝《みかど》の盾《たて》)とよばれる近衛士《このえし》のアムスランと、チャグム皇太子の近習《きんじゅう》のルィソ、そして、このオルの三人だけだという。
「サンガルでチャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》とわれわれが虜囚《りょしゅう》となったとき、わたしは、殿下をおつれして脱出《だっしゅつ》をはかったひとりなのだ。そのこともあって、アムスラン殿《どの》は、わたしを信頼《しんらい》して真相《しんそう》をうちあけてくださった。
サンガル半島《はんとう》についてしまえば、監視《かんし》の目がきびしくなる。半島につく直前《ちょくぜん》に、わたしはアムスラン殿に託《たく》されたこの文書《ぶんしょ》をもって、船から逃《に》げた。・…‥なんとしても、あなたをさがしだして、これをわたすようにと命《めい》じられたからだ。」
懐《ふところ》に入れて長いあいだもちあるいたために、しわがより、かすかにぬくもっている封書《ふうしょ》を、
バルサほうけとった。
「さっきの問答《もんどう》をするよう命《めい》じたのもアムスラン殿《どの》だ。青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の山中の小屋《こや》に住む、タンダという人のこともおしえてもらった。その人にあんたがとおりそうな山道をおしえてもらったが、うごきつづけているあんたといきあうのは雲をつかむようなものだったよ……。」
話しているオルにうなずきながら、バルサは封書《ふうしょ》をひらいた。木の根元《ねもと》にオルの旅灯《りょとう》をおいて、その上にかがむようにしてあかりがなるべくもれぬようにし、あかりで手紙をてらして読みはじめた。
ジンの文章《ぶんしょう》は簡潔《かんけつ》だったが、バルサが事態《じたい》の全体像《ぜんたいぞう》をつかめるように、さまざまな事情《じじょう》をおりこんで書いてあるので、長い手紙になっていた。
読みはじめてすぐに、バルサの顔に、さっとよろこびの色がうかんだ……が、あっというまにその色は消《き》え、表情《ひょうじょう》がこわばっていった。
読みおわっても、しばらくバルサは、きびしい表情で手紙をみつめ、封書《ふうしょ》のなかにはいっていた三枚《まい》の金貨《きんか》を、手のなかでころがしていた。
オルが、じれたように、ささやいた。
「事情《じしょう》は、わかっただろう。」
バルサは顔をあげ、うなずいた。
「では、一刻《いっこく》もはやくロタへもどり、全力《ぜんりょく》をつくしてくれ。」
オルの言葉《ことば》に、バルサは首をふった。
「……ロタには、もどる。だが、あの家族《かぞく》を街《まち》へおくりとどけてからだ。」
髭《ひげ》だらけのオルの顔が、怒《いか》りであかくなった。
「なんだとー たかが平民《へいみん》ごときのために、貴重《きちょう》な時間をついやすというのか!」
バルサは、しずかにいった。
「うけおった仕事《しごと》を、とちゅうでなげだすわけにはいかない。」
どなろうとしたとき、オルは冷《つめ》たいものが首にあたるのを感じた。いつのまに鞘《さや》をはらったのか、槍《やり》の穂先《ほさき》が首筋《くびすじ》にあたっている。
おしころした声で、バルサがいった。
「このしずかな山のなかで、どなるつもりか。」
その目をみて、オルは、だまりこんだ。ひややかな、刃《やいば》のような目だった。
オルは、あさく息《いき》をはずませて、つぶやいた。
「おれが、あの家族《かぞく》を街《まち》におくりとどける。だから、あんたは、ロタへむかってくれ。」
バルサは槍《やり》の穂先《ほさき》をオルの首からはずした。
「……それはだめだ。あんたは優秀《ゆうしゅう》な海士《かいし》かもしれんが、山の歩き方も、山での音のつたわり方も知らない。あんたにまかせるわけにはいかない。」
封書《ふうしょ》と金を懐《ふところ》にしまって、バルサは短槍《たんそう》の穂先《ほさき》に鞘《さや》をつけた。
「この封書《ふうしょ》の返事《へんじ》を書きたいが、アムスラン殿《どの》にとどけられるか?」
オルは、顔にういた汗《あせ》を大きなてのひらでぬぐった。そして、しぶしぶうなずいた。
「伝達《でんたつ》の方法《ほうほう》をきめてある。紙ももっている。」
バルサは、オルがせおっていた袋《ふくろ》からひっはりだした巻紙《まきがみ》と旅用筆壷《たびようふでつぼ》をうけとった。
ジンに返事《へんじ》を書きながら、バルサは内心《ないしん》のあせりとひっしにたたかっていた。サイソたちをみすてることなどできないが、一刻《いっこく》もはやくロタにもどりたい。もどって……チャグムをさがしたかった。
(なんて、むちゃなことを……。)
夜の海に飛びこんで、無事《ぶじ》に島に泳《およ》ぎつけたのだろうか。
旅費《りょひ》として、サンガル王《おう》からもらった宝石《ほうせき》をもっていったというが、そんな高価《こうか》なものをサンガル人にみせたら、うぼってくれとたのむようなものだ。
不安《ふあん》とあせりが、胸《むね》のうらをあぶる。
筆先《ふでさき》がふるえぬよう息《いき》をととのえながら、バルサは手紙を書きつづけた。
ジンの手紙の文面《ぶんめん》が、ときおり頭をかすめた。
− ……殿下《でんか》をおたすけできる可能性《かのうせい》は、すくないだろう。
信頼《しんらい》できる味方《みかた》の数は、あまりにもすくなく、敵《てき》の数はあまりに多い。
殿下が生きておられることを、タルシュ帝国《ていこく》にも − わが国の者《もの》にも、気づかれてはならない。真相《しんそう》を知る者を、ふやすわけにはいかないのだ。
バルサ。自由《じゆう》にうごけるのはそなただけだ。
もし、いまもご無事《ぶじ》で、どこかで生きておられるのなら、なんとしてでもみつけだし、おまもりもうしあげてくれ……。
(無事《ぶじ》で、生きているのなら。)
バルサは、筆《ふで》をおき、墨《すみ》がかわくのをまってから手紙をたたみはじめた。
(かならず、さがしだす。たとえ……死《し》んでいたとしても。)
バルサは、立ちあがった。そして、オルから蜜蝋《みつろう》の粒《つぶ》をうけとると、かるく火であぶり、ぐいっと親指《おやゆび》でおしつぶすようにして手紙に封印《ふういん》をした。
「この手紙を、まちがいなくわたしてくれ。」
オルは、うなずき、むぞうさに懐《ふところ》に封書《ふうしょ》をねじこんだ。顔をあげて、自分をみつめているバルサの目に気づくと、オルは背筋《せすじ》をのはした。
バルサは、しずかにいった。
「……その手紙も、アムスラン殿《どの》以外《いがい》の者の手におちれば、たいへんなことになる。だけど、わたしをさがしだしてくれたあんたを、アムスラン殿同様《どうよう》、わたしも信《しん》じよう。」
オルの顔に、さっと朱《しゅ》がさした。
「信をうらぎるようなまねはせん。あんたも、死力《しりょく》をつくしてくれ。」
バルサはうなずき、オルが去《さ》っていくのをみおくった。
翌日《よくじつ》、山道から、渓谷《けいこく》ぞいの山里《やまざと》にでたあたりで、天候《てんこう》がかわりはじめた。空全体《ぜんたい》が雲に
おおわれ、うすぐらくなってきたのだ。風もつよくなってきた。
「また、ラッカルー(渦嵐《うずあらし》)がきたようだな……。」
サイソがつぶやいた。彼《かれ》の家のあるクマル街《がい》までは、まだ一日はかかるが、バルサが同行《どうこう》を約束《やくそく》しているのは、その手前の、トソル街の宿屋《ゆどや》までだった。
「トソルまで、もってくれるといいが。」
サイソの願《ねが》いがつうじたのか、雨が降りはじめたのは、竹林《たけばやし》の奥《おく》にある、こぢんまりとした宿屋にはいってからだった。
ビュウビュウとはげしい風がふきはじめ、雨がふきつける音がひびくなかで、宿の主人《しゅじん》がバルサたちをでむかえた。
「間一髪《かんいっぱつ》でございましたね。あつい湯《ゆ》がわいております。まずは、汗《あせ》をながしてください。」
ほっとした顔で、上がりがまちに腰《こし》をおろしたサイソたちに、バルサはいった。
「ここまでくれは、もうだいじょうぶでしょう。」
サイソの顔に、はじめて満面《まんめん》の笑《え》みがうかんだ。サイソは立ちあがって深《ふか》く頭をさげた。
「いや、いや。ほんとうに、たすかりました。」
そして、懐《ふところ》に手を入れると、巾着《きんちゃく》をひらいて慎重《しんちょう》に金をかぞえ、約束《やくそく》の報酬《ほうしゅう》をバルサに手わたした。すこしまよってから、もう五枚《まい》ほど銅貨《どうか》をのせようとしたのを、バルサはとめた。
「これからは、なにかと物入《ものい》りでしょう。約束の報酬だけでけっこうです。」
そして、宿《やど》の主人《しゅじん》に顔をむけた。
「もうしわけないけれど、早めの夕食《ゆうしょく》と、いつもの旅《たび》じたくをいそいでととのえてもらえますか。山歩き用のわらじを二足《そく》と雨具《あまぐ》もおねがいします。即金《そっきん》ではらいますから、できれば、一ダン (約《やく》一時間) のあいだに、ととのえていただきたいんですが。」
古なじみの宿の主人は、おどろいた顔になった。
「え?一ダンって、バルサさん、あんた、この嵐《あらし》のなかにでていくつもりかね?」
バルサはうなずいた。上がりがまちに腰《こし》をおろして、手ぼやく、ぼろぼろになったわらじをぬぐと、足をすすいで、板の間にあがる。
「出発《しゅっぱつ》するまでに、湯《ゆ》をあびて、すこしやすませてもらいます。」
サイソとトキが、顔をくもらせてバルサをみあげていた。風はどんどん強さをまし、竹林《たけばやし》をぬける風の笛《ふえ》のような音と、竹同士《たけどうし》があたるかたい音がひびいている。
「バルサさん、あんた、それはむりだ。夜もろくにねむらずに、あれだけのつらい旅《たび》をして、つかれきっているだろうに、この嵐《あらし》のなかをでていくなんて……。」
そういったサイソに、バルサは、かすかにほほえんだ。
「ありがとう。でも、だいじょうぶです。なれていますから。」
かるく一礼《いちれい》して、湯殿《ゆどの》のほうへ歩いていくバルサのうしろ姿《すがた》を、サイソたちは声もなくみつめていた。
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3  帝《みかど》という天蓋《てんがい》
ゆすられて、シュガは、ばっと目をさました。
悪夢《あくむ》のなごりが胸《むね》をしめつけ、しばらく、どこにいるのかわからなかったが、ひんやりとした闇《やみ》をみつめるうちに、ようやく自分が星《ほし》ノ宮《みや》の寝間《ねま》にいるのだとわかった。
シュガは、あわてて半身《はんしん》を起《お》こした。 − 寝床《ねどこ》のわきに、だれかがすあっている。天窓《てんまど》からさしこんでいる明《あ》け方《がた》の青い光が寝間を青白くにじませ、そのぼんやりとした光のなかに、
男の影《かげ》がうかんでいた。人影は、ロに指《ゆび》をあてた。
「おしずかに。わたしです。」
シュガは身体《からだ》の力をぬいた。
「ジンか。……おどかさないでくれ。刺客《しかく》かと思った。」
そういって、シュガは、じっとジンをみつめた。
「 − それとも、わたしの寝首《ねくび》をかきにきたのか。」
ジンのくちびるにうっすらと笑みがういた。
「それなら、寝入《ねい》っておられるあいだに、あの世《よ》におおくりしております。」
そういってから、ジンは笑みを消した。
「刺客《しかく》の可能性《かのうせい》はうすいにしても、毒殺《どくさつ》の可能性はあるでしょう。気をつけてください。」
シュガは苦笑《くしょう》をうかべた。
「そうだろうな。なるべくめだたぬように、おとなしくしているが、それでも気になるご仁《じん》もいるようだから。」
チャグム皇太子《こうたいし》が亡《な》くなったという知らせをもって、ジンたちの一行《いっこう》がサンガルから帰還《きかん》してすぐに、タルシュ帝国の第二王子ラウルからの使者がやってきた。
タルシュ帝国に恭順《きょうじゅん》の意《い》をしめし、すみやかに枝国《しこく》になるように。ことあれば、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を徹底的《てっていてき》に攻《せ》めほろぼす。返答《へんとう》の猶予《ゆうよ》は、タルシュ暦《れき》のラクルーソ (盛夏《せいか》ノ月《つき》) の一日であると告《つ》げてきたのだった。
タルシュ暦《れき》のラクルーン (盛夏《せいか》ノ月《つき》)一日は、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の暦《こよみ》では、トウル (雪《ゆき》どけノ月) の十二日にあたる。およそ半年ちかい猶予《ゆうよ》をあたえているのは、その時季《じき》、ナヨロ半島《はんとう》の近海《きんかい》があれて軍船《ぐんせん》が航行《こうこう》しづらいという事情《じじょう》だけではないだろう。タルシュ帝国軍《ていこくぐん》はサンガル半島《はんとう》に足場《あしば》をきずき、万《まん》が一《いち》サンガルがねがえっても背後《はいご》を刺《さ》されないようそなえるつもりなのだ。
タルシュ帝国《ていこく》がはっきりと侵攻《しんこう》の意思《いし》をみせたことと皇太子《こうたいし》の死《し》というふたつの大事《だいじ》は、帝《みかど》と、第《だい》二皇子《おうじ》の祖父《そふ》である陸軍大将《りくぐんたいしょう》のラドゥ、そして聖導師見習《せいどうしみなら》いのガカイの三人をがっちりとむすびつけることとなった。
帝は、チャグム皇太子の葬儀《そうぎ》をすませるや、第二皇子トゥグムの立太子式《りったいし》をおこなった。
皇太子の祖父となったラドゥ大将は、宮廷内《きゅうていない》をほこらしげに顎《あご》をあげて、のしあるいている。
いま、宮《みや》は、この三人の密議《みつぎ》だけでうごいているといってもよい。かたちばかりの評定《ひょうじょう》(会議《かいぎ》)は数多くおこなわれるが、決定《けってい》はすべて、帝《みかど》とラドゥ大将《たいしょう》、ガカイの内議《ないぎ》でなされる。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》はせまりくる脅威《きょうい》を感じとって、ひとつの方向《ほうこう》へ暴走《ぼうそう》しはじめた馬のようだった。その手綱《たづな》をとっておさえることができるのは聖導師《せいどうし》のヒビ・トナンだけだったが、彼《かれ》は今年《ことし》の春に、とつぜんたおれ、いまは起《お》きあがることもできず、星《ほし》ノ宮《みや》の奥でこんこんとねむりつづけている。
チャグム皇太子《こうたいし》が健在《けんざい》であればともかく、逝去《せいきょ》されたという知らせは、宮中《きゅうちゅう》のチャグム皇太子寄《よ》りの派閥《はばつ》を崩壊《ほうかい》させてしまった。
いきおいにのったガカイは、まだ聖導師《せいどうし》から正式《せいしき》の委譲《いじょう》をうけていないにもかかわらず、まるで聖導師になったかのようにふるまい、同格《どうかく》の聖導師見習いであるシュガを、なんとか排除《はいじょ》しようとやっきになっている。シュガは、彼《かれ》の相手《あいて》になってやる気はなかった。
「めだたないようになさっておられるのは、賢明《けんめい》なこととぞんじますが、しかし……このまま隠遁《いんとん》されるおつもりではないでしょうな。」
ジンの言葉《ことば》に、シュガはほほえんだ。
「 − そうならぬように、考えている。幸《さいわ》い、最近《さいきん》は考える時間だけはあるから。」
そういってから、シュガは首をかしげた。
「そんな話をするために、わざわざ、こんなところまでしのびこんだわけではあるまい?」
ジンは表情《ひょうじょう》をあらためた。
「もちろんです。ひとつだけ、よいお知らせをつたえにまいりました。」
シュガの顔があかるくなった。
「使者《ししゃ》が、彼女《かのじょ》にであえたのだな。」
ジンの顔にも笑《え》みがういた。
「槍《やり》の穂先《ほこさき》を首筋《くびすじ》にあてられた、と、いっておりました。」
シュガは声をたてずに笑《わら》った。
しばらく、ふたりはなにもいわずに、うす闇《やみ》のなかで、それぞれの思いにひたっていたが、やがて、シュガがジンにいった。
「そなたは、複雑《ふくざつ》な心地《ここち》だろうな。」
ジンは、チャグム皇太子《こうたいし》の暗殺《あんさつ》に成功《せいこう》したことになっている。
帝《みかど》はその功績《こうせき》にむくいるために、すこし体力《たいりょく》がおとろえてきている(狩人《かりうど》) の頭《かしら》のモンにかわって、ジンを実質上《じっしつじょう》の頭にすえた。
ジンは、チャグム皇太子のお命《いのち》をたすけようと、バルサをロタへおくりだした。だが、もし、バルサがチャグム皇太子をみつけだすことに成功《せいこう》して、皇太子が無事《ぶじ》にこの国に帰還《きかん》するようなことがあれば、そのときは、彼《かれ》が帝についた嘘《うそ》がばれることになるのだ。
ジンは、うすく笑《わら》って眉《まゆ》をあげた。
「それほど複雑《ふくざつ》でもありませんよ。ごぞんじでしょう。タルシュ帝国《ていこく》は、近衛兵《このえへい》は家族《かぞく》までみな殺《ごろ》しにするので有名《ゆうめい》です。つまり、どのみち、タルシュ帝国が本腰《ほんごし》を入れて攻《せ》めてくれは、討《う》ち死《じ》にするわけですから。」
シュガはしげしげとジンをみつめた。外見《がいけん》は、ごくめだたぬ男なのに、内側《うちがわ》には、おどろくほど豪胆《ごうたん》な魂《たましい》がある。
「そんなふうに、あっさりと、そなたらを討《う》ち死にさせないのが、わたしの役目《やくめ》だ。」
頻《ほお》を手でなでながら、シュガはつぶやいた。
「……タルシュ帝国側《ていこくがわ》にねがえっている内通者《ないつうしゃ》の見当《けんとう》は?」
ジンは首をふった。
「残念《ざんねん》ながら、まだ。」
「なるべく早く、みつけだしてくれ。その人物《じんぶつ》がだれかわかれば、うつ手も考えられる。」
ジンは、うなずいた。
「全力《ぜんりょく》をつくします。」
ジンが音もなく去《さ》ったあとも、シュガはひとりで夜明《よあけ》けの闇《やみ》をみつめていた。
チャグム皇太子《こうたいし》は、自分が知りえたタルシュ帝国《ていこく》の内情《ないじょう》を書きとめて、シュガに残《のこ》してくれた。簡素《かんそ》だが、必要《ひつよう》な点《てん》をはずしていないその文章《ぶんしょう》を読んだとき、シュガは心底《しんそこ》おどろいた。もともとかしこい方《かた》だったが、その文章からただよってくる風格《ふうかく》は、とても十六の若者《わかもの》のそれではなかったからだ。
国の命運《めいうん》という巨大《きょだい》な重荷《おもに》を背負《せお》いながら、ただひとり敵中《てきちゅう》で生きた月日が、チャグム皇太子をこんなふうに成長《せいちょう》させたのかと思うと、複雑《ふくざつ》な思いがこみあげてくる。
無事《ぶじ》にかえってきてほしい。あの、つよくひかる目をみ、はつらつとした声をききたかった。
(だが、いまのこの国の状況《じょうきょう》を思えば、かえってきていただきたかったとも、いえぬな。
この国は、まっしぐらに滅《ほろ》びにむかってひたはしっているのだから……。)
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》は、戦《いくさ》では、ぜったいにタルシュ帝国《ていこく》にかなわない。
タルシュ帝国の侵攻《しんこう》を正面《しょうめん》からうければ、兵《へい》をむだ死《じ》にさせたうえに、国土《こくど》を焼かれる悲惨《ひさん》な滅亡《めつぼう》がおとずれるだろう。
その運命《うんめい》からのがれる道は、ふたつ。
ひとつは、タルシュ帝国《ていこく》に降伏《こうふく》すること。 − 戦《いくさ》に負《ま》けて降伏するくらいなら、戦がはじまるまえに、降伏してしまうべきだ。戦に負けるまえならば、交渉次第《こうしょうしだい》で、すこしは、よい条件《じょうけん》で枝国《しこく》になれるだろう。
(もうひとつは……。)
チャグム皇太子《こうたいし》がめざした道 − すなわち、隣国《りんごく》のロタ王国《おうこく》とカンバル王国、この二国と同盟《どうめい》をむすんで、三国でタルシュ帝国に対抗《たいこう》することだ。
それが実現《じつげん》すれば、サンガル王国は日和見《ひよりみ》がとくいな国だから、南北両大陸《なんぼくりょうたいりく》の間で、力の均衡《きんこう》をとるように努力《どりょく》しはじめるにちがいないのだ……。
ロタと同盟《どうめい》すべきだと帝《みかど》にうったえていたチャグム皇太子《こうたいし》の黒い瞳《ひとみ》と声とが、心のなかによみがえり、シュガは一瞬《いっしゅん》、目をつぶった。
無謀《むぼう》とわかっていながら、これしかないとみきわめた道をえらんだチャグム殿下《でんか》の英明《えいめい》さと、勇気《ゆうき》 − それがむくわれない、この世の非情《ひじょう》さが、つらかった。
彼《かれ》が帝位《ていい》についていたら、この国は、まったくちがった道をたどっていただろうに。
ロタとの同盟《どうめい》も、ありえただろうに。
シュガは、右手でこめかみをおさえた。
(帝《みかど》は、けっして、ロタやカンバルへ援軍《えんぐん》をたのむ使者《ししゃ》はおくるまい。)
天《てん》ノ神《かみ》から、この国を統《す》べる使命《しめい》をさずけられた帝として、自分の国をまもるために他国《たこく》の手を借《か》りるなど、ありえぬこととしか考えられぬお方《かた》だ。
とくに、ロタ王国《おうこく》は新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》より、はるかに機動的《きどうてき》な騎馬軍団《きばぐんだん》を有《ゆう》している。彼《かれ》らの手を借りれば、タルシュ帝国《ていこく》の侵略《しんりゃく》をふせげたとしても、その後《ご》、この北の大陸《たいりく》にできあがる国の連合体《れんごうたい》のなかで、新ヨゴ皇国はロタ王国の下につかざるをえない。
そうなれば、もはや、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》は、神《かみ》にまもられた聖《せい》なる国とはいえなくなってしまう。
神の子が、だれかの下に位置《いち》するということは、ありえないのだから……。
(帝《みかど》はするどいお方《かた》だ。そうなることを、はるかまえからみすえておられた。)
そのうえで、えらんだ道が、鎖国《さこく》であるということは − 帝は、天《てん》ノ神《かみ》の加護《かご》を信《しん》じ、天運《てんうん》なき場合《ばあい》は、おのれとともに、この国が完全《かんぜん》にほろびさることをえらぶおつもりなのだ。
うずくこめかみをおさえている指《ゆび》が、冷《つめ》たく感《かん》じられる。
この国を ー この国にくらす人びとをすくうためには、国をほろばさぬ方向《ほうこう》に帝《みかど》の心をうごかすしかない。それこそが、もっとも賢明《けんめい》な星読博士《ほしよみはかせ》がになってきた(聖導師《せいどうし》) の役目《やくめ》だ。
しかし、聖導師ヒビ・トナソという賢者《けんじゃ》の導《みちび》きをうしなったいま、帝の考えのみが、圧倒《あっとう》的《てき》な力となって、すっぽりとこの国をおおいつくし、おしつぶそうとしている。
チャグム皇太子《こうたいし》が生きてこの場におられれば、とれる手立てもあった。 − チャグム殿下《でんか》ご自身《じしん》はけっしてゆるさないだろうが、シュガは、ためらうことなく実行《じっこう》しただろう。
(だが・・・・・)
たとえ、バルサが旅《たび》だったとしても、チャグム皇太子をみつけだして、無事《ぶじ》につれかえるのは夢《ゆめ》のようなものだ。チャグム皇太子《こうたいし》生還《せいかん》の夢をみて、時をすごすわけにはいかない。
(殿下《でんか》がおられぬままで、この国をおおっている帝《みかど》という天蓋《てんがい》に風穴《かざあな》をあけねばならない。)
聖導師《せいどうし》へといたる道は、おそろしく暗《くら》く、悪臭《あくしゅう》のただよう道なのだ……といった、ヒビ・トナンの言葉《ことば》が、心のなかで、なりひびいていた。
星読博士《ほしよみはかせ》になることを夢《ゆめ》みていたおさないころは、星読博士とは、この世《よ》のだれよりも清《きよ》い人たちだと思っていた。神《かみ》が天《てん》にえがく壮大《そうだい》な理《ことしわり》を読みとき、天《てん》ノ神《かみ》の子である帝《みかど》につかえ、世《よ》の人びとが幸福《こうふく》に日々をくらせるように、みちびくのだと。
(聖《せい》なるものは……遠くであがめるべきものなのだろう。)
ちかづけばちかづくほど、その透明《とうめい》なかがやきはうすれ、みたくないものがみえてくる。
水底《みなぞこ》のような、音のない青い闇《やみ》を、シュガは、じっとみつめていた。
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4  盗品商人《とうひんしょうにん》
黒い海がうねっている。
高い石づくりの塔《とう》の上にともされている常夜灯《じょうやとう》のあかりが、黒い波間《なみま》をわずかにてらしているのを、バルサは、港《みなと》の船着場《ふなつきば》の杭《くい》にもたれて、ぼんやりとみつめていた。
バルサは、あまり海が好《す》きではない。山国の生まれのせいだろうか。底《そこ》もなく、果てもない海をみていると、なんとなく不安《ふあん》になる。
(よく、こんな暗い海に飛びこんだもんだ。)
父に宮《みや》を追《お》われ、タルシュの密偵《みってい》にさらわれて、遠い南の大陸《たいりく》へつれていかれたあげく、こんな暗黒《あんこく》の海原《うなばら》に飛びこんだなんて……。
(タルシュの手から国をすくいたいという思いは、あの子にとって、ほんとうに切実《せつじつ》なものだったんだな。)
そうでなければ、このぬらぬらと広大《こうだい》な夜の海に、身《み》をおどらせる気にはなるまい。
タルシュに対抗《たいこう》するために同盟《どうめい》をむすんでくれとロタ王《おう》を説得《せっとく》することが、チャグムにとって、それほどたいせつな願《ねが》いだったのかと思うと、ふしぎな気がした。
五年という年月は、チャグムをどんなふうに成長《せいちょう》させたのだろう。
皇太子《こうたいし》になんか、なりたくない。ずっと、バルサとタンダといっしょにいたいといって、しがみついたチャグムのぬくもりを思いだして、バルサは、思わず目をつぶった。
ジンの手紙をうけとって、そろそろ十五日がたとうとしている。
サイソたちとわかれた宿《やど》からロタ山脈《さんみゃく》をふたたびロタ側《がわ》へぬけて南下し、とちゅうの街《まち》で馬を買《か》って、港街《みなとまち》ツーラムをめざしたのは、賭《か》けのようなものだった。チャグムをさがす手がかりは、ごくわずかしかなかったからだ。
チャグムをさがしだす手立てを考えたとき、まっさきに頭にうかんだのが、チャグムがもっていったというサンガル王《おう》の贈《おく》り物《もの》のことだった。
チャグムの旅《たび》じたくをてつだったという近習《きんじゅう》によれば、チャグムが旅費《りょひ》としてもっていったのは、銀貨《ぎんか》と金貨《きんか》、そしてサンガル王からおくられた宝石《ほうせき》だったという。
チャグムが幸運《こううん》にめぐまれて、サンガル人に身《み》ぐるみはがれることもなくロタへわたったなら、船賃《ふなちん》は、およそ銀貨三|枚《まい》ていどでたりる。
だが、船から海に飛びこんだチャグムがめざしたというソグル島は、サンガル半島《はんとう》に近い。当然《とうぜん》、サンガル王国《おうこく》が新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》と戦《いくさ》をはじめるという噂《うわさ》は、島民《とうみん》たちの耳にとどいていただろうし、チャグムがついた時期《じき》はもう、新ヨゴ皇国の商人《しょうにん》たちはサンガルには商売《しょうばい》にいっていなかっただろう。チャグムは、とてもめだったはずだ。
新《しん》ヨゴ皇国海士《おうこくかいし》の衣《ころも》を着《き》た、貴人《》きじんの雰囲気《ふんいき》をもつチャグムが、船賃《ふなちん》に銀貨《ぎんか》をだせば、サンガル人の船長《せんちょう》の目には、わけありの獲物《えもの》にうつったにちがいない。たとえ、一見《いっけん》まともな交易船《こうえきせん》にみえても、サンガルの交易船は状況次第《じようきょうしだい》で海賊船《かいぞくせん》に早変《はやが》わりする。銀貨などみせれば、自分は金持ちの獲物だと、みずから明かしているようなものだ。
ひとつだけ救《すく》いがあるのは、サンガル人は、気軽《きがる》に人のものを強奪《ごうだつ》したり、人をさらったりするが、殺《ころ》すことはあったにないということだった。殺してしまったら商品《しようひん》にならないと考えるのがサンガル人だ。
チャグムがサンガル海賊《かいぞく》の手におちたとしたら、チャグム自身《じしん》と、彼《かれ》がもっていた宝石《ほうせき》が、商品《しょうひん》として流通《りゅうつう》していくはずだった。貨幣《かへい》の行《い》き先《さき》をたどることはできないが、人間や宝石ならば、たどる方法《ほうほう》はある。
サンガル王国内《おうこくない》か、南へ売られていった可能性《かのうせい》もあるから、ロタで足《あし》どりがつかめなかった場合《ばあい》は、サンガルのソグル島へわたってみるつもりだった。
ロタへさきにきたのは、サンガル王家《おうけ》にかかわりがある宝石《ほうせき》であることを海賊《かいぞく》がみぬいた場合《ぱあい》、サンガルで売るのは危険《きけん》だと考えて、ロタへもっていったのではないかとふんだからだ。
(狩人《かりうど》) のジンも、おなじことを考えたのだろう。近習《きんじゅう》にたしかめて、どんな宝石《ほうせき》をチャグムがもっていったのか、くわしく手紙に書いてくれていた。
チャグムがもっていった宝石のなかで、もっともめだつ宝石は、魚をかたどった金細工《きんざいく》の台座《だいざ》にタルファ (紅炎石《こうえんせき》)がはまっている頭帯飾《ずたいかざ》りだったという。ひと目でサンガルの職人《しょくにん》がつくったとわかるサンガル様式《ようしき》の金細工だったというし、タルファ (紅炎石)は高貴《こうき》な宝石とされていて、貴族《きぞく》や王族《おうぞく》がもつもので、たとえあがなえる金をもっていたとしても、まず商人《しようにん》は買《か》わない。王《おう》から皇太子《こうたいし》への贈《おく》り物《もの》にふさわしい宝石なのだ。
サンガルの海賊《かいぞく》であれば、その頭帯飾りをみた瞬間《しゅんかん》、気やすく売れる代物《しろもの》ではないことに気づくはずだ。いかにもわけありの貴人《きじん》ふうのヨゴ人の少年と、サンガル貴族《きぞく》か王家《おうけ》がかかわっていそうな宝石《ほうせき》となれば、サンガル王国内《おうこくない》で売らずに、ロタへもっていったほうが無難《ぶなん》だと考えてもふしぎではない。
では、ロタ王国のどの港《みなと》へ、(商品《しようひん》)をもっていくだろうか。
サンガルから遠い場所がいいだろうが、小さな港では、ものがものだけにめだってしまうし、買いとる商人《しょうにん》がいないだろう。そういう宝石《ほうせき》を買いとれる商人は、貴族《きぞく》や王族《おうぞく》に|つて《ヽヽ》をもっていなければならないからだ。
その点《てん》、このツーラム港《こう》ならば、そういう宝石商人もいるにちがいない。
王都《おうと》をながれる大河《たいが》、ホゥラ河《がわ》の河口《かこう》に発達《はったつ》したこの港街《みなとまち》は、王都からの大量《たいりょう》の商品《しょうひん》が河をくだってあつまり、海からは、サンガル王国《おうこく》やスガル海のカラル枝国《しこく》を経由《けいゆ》して、南の大陸《たいりく》からの商品がはいってくる、ロタ王国|最大《さいだい》の港街としてさかえている。
あらゆる物品《ぶっぴん》がここにあつまり、王国の各地《かくち》へちっていくのだ。
ここ数日《すうじつ》、バルサは、この港街《みなとまち》の人買《ひとか》い商人《しょうにん》たちや宝石商《ほうせきしょう》の動きをさぐりつづけていた。
さらわれてきた人びとや盗品《とうひん》の宝石を買いあげて、売りさばくのを商売《しょうばい》としている商人たちと、最近《さいきん》の商品の噂《うわさ》を、こつこつしらべてまわっていたのである。
ここには十五年ぐらいまえに一度おとずれただけなので、残念《ざんねん》ながらなじみの情報屋《じょうほうや》はいない。それでも、うしろぐらい仕事《しごと》をしている連中《れんちゅう》の情報をあつめられる場所は、どの街《まち》でも、たいしてかわりはなかった。
盗品《ちうひん》を売《う》る相手《あいて》をさがしているふりをしながら、うさんくさい連中《れんちゅう》に酒《さけ》をおごるうちに、山ほどのくだらない噂《うわさ》と、ごくわずかの − しかし、とても貴重《きちょう》な噂を耳にすることができた。
タルファ (紅炎石《こうえんせき》) の頭帯飾《ずたいかざ》りの話は、おどろくはどあっさりと耳にはいってきた。それを売ってひと儲《もう》けした海賊《かいぞく》の弟がロのかるい男で、酒場《さかば》でふいてまわったらしい。
最初《さいしょ》にその話を耳にしたとき、バルサは、つかのま、自分の耳が信《しん》じられなかった。それから、じんわりとあついものがこみあげてきた。 − やはり、チャグムは海賊の手におちていたのだ。たしかなチャグムの痕跡《こんせき》にふれて、バルサは、ふるえるほどのよろこびをおぼえた。
しかし、そこからさきの糸は、そうかんたんにたどることはできなかった。その宝石《ほうせき》を売ってもうけた海賊《かいぞく》がだれか、という話になると、だれもが貝のようにロをつぐんだからだ。
うらの仕事《しごと》にかかわっている連中《れんちゅう》の仁義《じんぎ》のようなもので、おもしろい儲《もうけ》け話《ばなし》や、ヤバイ話を酒《さけ》のつまみにするのはいいが、だれかの手がうしろにまわるような情報《じょうほう》を他人《たにん》にわたすのは、きたないうらぎりとしてきらわれる。
タルファ (紅炎石《こうえんせき》) の頭帯飾《ずたいかざ》りをこの街《まち》にもちこんで売った海賊《かいぞく》がだれなのか、それをさぐるには、的《まと》をしぼって、つっこんでしらべねばならない。だが、この街のうらの社会に人脈《じんみゃく》もなく、なんの権威《けんい》もせおっていないバルサには、情報をひきだせる切《き》り札《ふだ》がなかった。
情報《じょうほう》のかけらでも手にいれるためには、はったりをかけて相手《あいて》の心をゆさぶるしかないが、うしろぐらいことをしている連中《れんちゅう》は警戒心《けいかいしん》がつよい。へたにゆさぶりをかければ牙《きば》をむくだろう。
それでも、やってみるしかなかった。
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澄《す》んだ音をひびかせて、鐘《かね》が鳴《な》りはじめた。
ツーラム港《こう》の鐘楼《しょうろう》には、水時計をつかった精巧《せいこう》な鐘うち機があるという。人の手がうつ鐘の音とはちがう、調子《ちょうし》も響《ひび》きも一定《いってい》のかんだかい音が、カン、カン、カン・・・と時を告《つ》げていく。
その昔に背《せ》をおされるように、バルサは歩きだした。
めざす宝石商《ほうせきしょう》の店の位置《いち》は、昼間《ひるま》のうちにたしかめてある。宝飾品《ほうしょくひん》をあきなう店がずらりとならぶ大通りに、堂《どう》どうとした店構《みせがま》えの宝石商が二|軒《けん》、むかいあうようにしてたっており、そのうちの一軒、タタン (太陽石《たいようせき》)をかたどった看板《かんばん》をだしているのが、最近《さいきん》、極上品《ごくじょうひん》のタルファ (紅炎石《こうえんせき》)を手にいれたという噂《うわさ》のある商人《しょうにん》の店だった。
バルサはその店にははいらず、その店のむかいにある青いラファル(月露石《げつろせき》) の看板をだしている宝石商の、店のわきの路地《ろじ》にはいった。
路地側《ろじがわ》の店の壁《かべ》は、大通りに面《めん》している開放的《かいほうてき》な明るい商店の印象《いんしょう》とはまったくことなる、がっしりとした石づくりの堅牢《けんろう》なもので、窓《まど》にはすべて鉄格子《てつごうし》がはまっている。
路地にはいったとたん、犬がそうぞうしくほえはじめた。暗《くら》くて姿《すがた》はみえないが、路地の奥《おく》につながれているのだろう。
路地側《ろじがわ》の壁《かべ》に、扉《とびら》がついている。バルサの胸《むね》のあたりまでしかない、小さな扉だ。バルサは酒場《さかば》できいた盗品売《とうひんう》りの作法《さほう》にしたがって、扉を二回強くたたき、それから三回あいだをおいてたたいた。厚《あつ》い扉なのだろう。奥《おく》まできこえるのか不安《ふあん》になるほどにぶい音しかしなかった。
しばらくまっていると、扉《とびら》の奥《おく》にだれか立った気配《けはい》がして、声がきこえてきた。
「なんの用《よう》だ。」
「……ネズミが、ネコにご挨拶《あいさつ》もうしあげる。」
バルサがこたえると、扉が内側《うちがわ》にひきあけられ、あかりが路地《ろじ》にもれた。
「はいれ。ただし、武器《ぶき》をもってはいってきた場合《ばあい》は、そくざに殺《ころ》す。」
そういわれるだろうと思っていたから、短槍《たんそう》は宿《やど》にあずけてきている。バルサは寸鉄《すんてつ》もおびないで、その小さな扉《とびら》をくぐった。
はいったさきは、人がひとり、やっととおれるほどのほそい通路《つうろ》だった。強盗《ごうとう》をふせぐためなのだろう。このほそさでは、走ることすらできない。
扉《とびら》をあけた男は、右の壁《かべ》にあるくぼみに立っていて、バルサがはいると、背後《はいご》で扉をしめ、鍵《かぎ》をおろした。
あかりは、男がもっている手燭《てしょく》だけだった。男は無表情《むひょうじょう》に、左手に手燭をもってバルサをてらしながら、右手で、すばやくバルサの身体《からだ》をさぐって武器《ぶき》をもっていないかたしかめた。
「よし。歩け。」
バルサは、いわれるままに歩きだした。男が背後《はいご》からついてくる。
つきあたりに大きな扉《とびら》があり、その扉の前には半円形《はんえんけい》の空間《くうかん》があった。バルサがちかづいたとき、扉があいて光がもれ、なかからだれかがでてきた。
背《せ》の高い、若《わか》い男だった。
戸口《とぐち》をでてからバルサに気づいたのに、男はとっさに、するりと体《たい》をかわして、バルサにふれることなくすれちがった。
(ヨゴ人……?)
ふりかえったバルサと、男の目があった。精悍《せいかん》な顔つきの男だった。一瞬《いっしゅん》、男の目に興味《きょうみ》ぶかげな光がうかんだが、すぐに男はバルサに背《せ》をむけ、ほそい通路《つうろ》に消《き》えていった。
「つったってないで、さっさとはいれ!」
部屋《へや》のなかから、尊大《そんだい》な声がきこえてきた。
暗《くら》い通路《つうろ》から部屋に足をふみいれると、つかのま目がくらんだ。通路とは正反対《せいはんたい》に豪華《ごうか》にかざられた大きな部屋で、天井《てんじょう》も高く、奥行《おくゆ》きもある。壁《かべ》ぎわに、いかにも用心棒《ようじんぼう》らしい姿《すがた》の男たちが四人、ひっそりと立っている。
みがきあげられた床《ゆか》に高価《こうか》な毛織《けおり》の敷物《しきもの》が敷かれ、大きな黒檀《こくたん》の机《つくえ》がすえられている。その机のむこうに、小さな男がすあっていた。五十なかはくらいの男だった。
「なんだ、雌《めす》のネズミか? カンバル人のネズミはめずらしいな。」
バルサがちかづこうとすると、背後《はいご》に立っていた男がうごいた。
バルサの背《せ》に、ぴったりと剣先《けんさき》をつけて、男が低い声でいった。
「それ以上、ちかづくんじゃない。」
バルサは肩《かた》をすくめた。
「ごたいそうなことだね。ここまでしないと、話もできないのかい?」
小男が、目をほそめた。
「口のきき方を知らん女だな。盗人《ぬすっと》ふぜいが、言葉《ことば》に気をつけろ。なにをぬすんできたか知らんが、おれの機嫌《きげん》をそこねれば、わざわざ金をだして買《か》いとらんで、おまえを殺《ころ》して、そいつを手にいれてもかまわんのだぞ。」
バルサは、ほほえんだ。
「かんちがいをされているようだが、わたしは売りにきたんじゃない。買いにきたんだよ。」
小男の顔に、けげんそうな色がうかんだ。
「なんだとー なにを買いにきたって?」
バルサは、おだやかな口調《くちょう》でこたえた。
「情報《じょうほう》だよ。わたしのほしい情報をあんたがもっているなら、いい値《ね》で買おう。」
小男は用心棒《ようじんぼう》のひとりに目をむけた。
「おい。外をみてこい。」
うなずいて男が部屋《へや》の外にでていく音をききながら、バルサは眉をあげてみせた。
「……用件《ようけん》をきりだしていいかね?」
小男はうさんくさそうに顔をゆがめた。
「話せ。」
「むかいの、タタン宝石商《ほうせきしょう》の商売《しょうばい》について知りたいことがある。
店主《てんしゅ》のオルシは度胸《どきょう》があって、わけありのものでも買いあげてくれるそうだが・・・・・」
小男が笑いだした。
「なるほどな。おれが、オルシをきらっていることをどっかでききこんで、ここへきたってわけか。おれをたきつけて、やつのことをしゃべらせようって?」
ふいに笑《わら》いを消《け》すと、小男はぎらつく目でバルサをにらみつけた。
「 − おれをなめるんじゃねぇ。どこの馬《うま》の骨《ほね》ともわからねぇやつに、他人《たにん》さまの懐《ふところ》の話をするようなきたねぇことを、おれがするとでも思うか!」
バルサは鼻《はな》で笑《わら》った。
「いいたんかだ。あんた、欲《よく》がないね。オルシがなにをつかまされたのか、知りたくないっていうなら、それでもいいよ。・・・・じゃましたね。」
バルサは小男に背《せ》をむけて、扉《とびら》のほうへ歩きだした。
小男は、用心棒《ようじんぼう》に顎《あご》をしゃくった。バルサの背後《はいご》にいた用心棒と、扉《とびら》のわきにいた用心棒がバルサの腕を両側《りょうがわ》からがっちりとつかんで、バルサを小男のほうへむけた。
「だれがかえっていいといった?」
小男は、うす笑いをうかべていた。
「オルシの野郎《やろう》がなにをつかまされたって?」
バルサは小男をみつめた。
「わたしが知りたいことを、売《う》る気《き》があるのかい?」
小男は、しばらく机《つくえ》の上をコツコツと小さな短刀《たんとう》の柄《つか》でたたいていた。
「なにが知りたいのか、それをきいてからだな。でなけりや、おれが答《こた》えを知っているかどうか、わからないだろうが。」
「あんたが知っていることは、まちがいないんだよ。あんたが、びびって買わなかったから、オルシのところへもちこまれたんだって、もっぱらの噂《うわさ》だからね。」
小男の目に怒《いか》りの色がひらめいた。
「口に気をつけろといっただろうが。 − そんな噂をたれながしてやがるのは、どこのどいつだ。」
バルサは、用心棒《ようじんぼう》たちに腕《うで》をつかまれたまま、こたえた。
「知りたいのは、それさ。」
「なんだと?」
「わたしが知りたいのは、オルシが買いとったという、タルファ (紅炎石《こうえんせき》) の頭帯飾《ずたいかざ》りをもちこんだ、サンガル人の名前さ。」
とたんに、部屋《へや》の空気がこわばり、重い沈黙《ちんもく》がひろがった。
やがて、小男がつぶやいた。
「・・・これは、なんだ・・・ え?」
これまでの、みくだしている色が消《き》えて、警戒《けいかい》の色が小男の目にうかんでいた。
「なんで、ヨゴ人やカンバル人が、あの宝石《ほうせき》のことをさぐってやがる。」
どきりとして、バルサは小男をみつめた。
「ヨゴ人? さっきの男もタルファ (紅炎石《こうえんせき》) のことを、あんたにききにきたのかい?」
小男が、両手《りょうて》で机《つくえ》をたたいた。
「きいているのは、おれのほうだ! このくそ生意気《なまいき》なアマ。てめぇ、すこし痛《いた》い目にあわせてやろうか! そうすりゃ、おれのきいたことにすなおにこたえるだろうからよ。」
両側《りょうがわ》から腕《うで》をつかんでいる男たちの手に力がはいった。男たちがバルサをおさえつけて、ひざまずかせようとした瞬間《しゅんかん》、バルサは、のびあがるようにして男たちの力にあらがい、つぎの瞬間、すっと自分から身体《からだ》をしずめた。
とたん、男たちの身体がうきあがり、もんどりをうって、にぷい音をたてて床《ゆか》に激突《げきとつ》した。受身《うけみ》をとるすきをあたえない、するどく低い投《な》げだった。
男たちが床《ゆか》にたたきつけられたときには、バルサはもう、床をけってはねあがり、わずか三歩で机《つくえ》までちかづくと、四歩めで机にとびのった。小男の頭上《ずじょう》を一|回転《かいてん》してとびこえると、うしろから、小男の首と頭をかかえるようにおさえこみ、机をけりとばした。
はでな音をたてて、机が床にたおれ、小男がいじっていた短刀《たんとう》が、にぷい音をたてて敷物《しきもの》の上ではねた。
剣《けん》をぬきはなった壁《かべ》ぎわの用心棒《ようじんぼう》に、バルサはどなった。
「うごくんじゃない。」
主人《しゅじん》の顎《あご》の下にがっちりときまっているバルサの腕のかたちをみて、用心棒はうごけなくなった。そのままバルサが頭をかかえている手をひねれば、一瞬《いっしゅん》で主人の首が折《お》れる。
「ゆうちょうなかけひきをやってる場合《ばあい》じゃないようだ。手あらでわるいが、さっさとしゃべってもらおうか。」
バルサは小男の耳もとでささやいた。
「タルファ (紅炎石《こうえんせき》) のことをきいたのは、さっき、わたしとすれちがったヨゴ人だね?」
小男はかすかにうなずいた。
「何者《なにもの》なんだい・・」
「……知らん。」
腕《うで》に力をこめると、小男はあわててバルサの手に爪をたてた。
「ほんとうに、知らん。サンガル貴族《きぞく》にやとわれたといっていた。」
「あいつは、タルファ (紅炎石《こうえんせき》) の、なにを知りたがっていたんだい?」
「……あんたとおなじだ。だれが、タルファ (紅炎石)をオルシにもちこんだのかを、知りたがっていた。」
冷たいものがバルサの胸《むね》にひろがった。 − 自分以外にもチャグムの行方《ゆくえ》をさぐっている者《もの》がいる。
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「おしえてやったのかい?」
小男はうなずいた。
「わたしのときとは、ずいぶんちがうじゃないか。」
小男は、のどで笑《わら》っているような声をたてた。
「……やつは、サンガル王《おう》のバルサ(特免状《とくめんじょう》)をもっていた。サンガルでつかまったとき、一度だけなら、そいつで罪《つみ》の免除《めんじょ》をうけられる。おれにとっちゃ、どんな宝《たから》より価値《かち》がある紙さ。あんたも、なにかいいものをもっているのかね。」
バルサは笑った。
「ちゃんと金をはらって買《か》おうと思っていたけれど、やめたよ。いまは、もっといいものをもっているからね。」
ぐっと腕《うで》に力をこめると、小男がばたばたと苦《くる》しげに手足をうごかした。
「ほかのやつらにしゃべられるとめんどうだ……。」
つぶやくと、小男のあがきがはげしくなった。
「まて! 知りたいことをおしえてやる。」
「ありがたいね。 − だが、それだけじゃだめだ。さっきの男について、知っていることをあらいざらい話してもらおう。それから……。」
バルサはいっそう声をひくめて、はったりをかけた。
「わたしには、たくさんの目や耳がある。これ以後《いご》、ほかのやつにこの話をしたら、あんたは死《し》ぬことになるよ。」
うなずいたのを腕《うで》に感じた。
「 − 話しな。」
小男は、ぼつぼつと、時間かせぎをするように話しはじめたが、バルサが、男の頭をかかえている左手に力をこめると、うめき声をあげて、まともに話しはじめた。
バルサはだまってききながら、目では、用心棒《ようじんぼう》たちの動きをみていた。床《ゆか》にたたきつけられた連中《れんちゅう》も、肩《かた》や頭をおさえながら起《お》きあがりはじめている。ひとりは左の鎖骨《さこつ》あたりを折《お》ったようで、あぶら汗《あせ》をながしていた。
小男が口をとじると、バルサは小男の耳もとでささやいた。
「あんたの話がほんとうかどうかは、いずれわかるだろう。
いいかげんなネタをしゃべったのなら、後悔《こうかい》することになる。 − あんたは、自分がどんな泥沼《どろぬま》にはまっているのか知らない。小ざかしいことは、しないはうがいい。あの宝石《ほうせき》を売りにきたサンガル人が、命《いのち》をはってかばう必要《ひつよう》がある相手《あいて》だっていうなら、話はべつだけどね。」
小男はだまっていた。
「どうする。・・・・これが最後《さいご》の機会《きかい》だ。訂正《ていせい》するかね。」
「……その、おれがはまってる泥沼《どろぬま》ってのは、なんだ。」
「きかれたことに、こたえな。」
「 − こたえた瞬間《しゅんかん》に、首を折《お》られたら、たまらねぇ。」
バルサは低く笑《わら》った。
「状況《じょうきょう》を考えてみな。わたしは、ひとりでここにきた。金で買《か》える情報《じょうほう》を買いにね。あっさり情報を売っていれば、わたしは、しずかにかえったんだ。欲《よく》をかいて、よけいな手をだしたのは、あんたのほうだろう。
わたしが、ただのこそどろじゃないことは、わかっているんだろう・・ みょうなまねさえしなけりゃ、こっちも、わざわざ、あんたの首を折《お》って、ことを大きくする気はないよ。」
しばらくの沈黙《ちんもく》のあと、小男の身体《からだ》から力がぬけた。そして、さっきとほ、まったくちがう男の名が、小男のロからもれた。
「ユザンってやつだ。(赤目《あかめ》のユザン) っていう通《とお》り名《な》でよばれている。」
バルサは、ささやいた。
「そいつについて知っていることを、あらいざらいおしえてもらおうか。」
あきらめたように、小男は、その海賊《かいぞく》の行きつけの酒場《さかば》や、船着《ふなつ》き場《ば》を話しはじめた。
「……オルシのところへいくまえに、やつは、たしかに、おれのところに売りにきた。だが、おれは買《か》わなかった。ひと目みて、いやな感じがしたからな。この|商売《しょうばい》、|勘《かん》が大事《だいじ》だ。だてに三十年も盗品商売《とうひんしょうばい》をしているわけじゃねぇ……。」
「 − いい勘だ。大事にしな。」
バルサは、小男を椅子《いす》からひっこぬくようにして立たせた。それから、用心棒《ようじんぼう》たちに声をかけた。
「武器《ぶき》をおいて、その扉《とびら》から通路《つうろ》へでな。わたしはうしろからついていく。無事《ぶじ》に外にでたら、ご主人《しゅじん》さまをかえしてやるよ。 − もちろん、みょうなまねをしたら、こいつの首の骨《ほね》が折れる音《おと》をきくことになる。」
小男がうなずくのをみて、用心棒《ようじんぼう》たちはだまって、いわれたとおりに武器《ぶき》をおき、通路《つうろ》にでた。彼《かれ》らが肩《かた》や腕《うで》を壁《かべ》にすりながら歩いていくあとを、バルサは小男の頭をかかえたまま、ゆっくりついていった。
外にでると、ふわっと風が顔をさすった。
用心棒《ようじんぼう》たちは、むっつりとつったって、バルサが主人《しゅじん》をつれて路地《ろじ》にでてくるのをみまもっている。バルサは用心棒たちの顔をみながら、あとずさりするかたちで表通《おもてどお》りへむかった。
ひとりの用心棒の目が、ちらっとうごいたのをみた瞬間《しゅんかん》、バルサは後頭部《こうとうぶ》がひやっとするのを感じた。前に一歩とびだし、うしろもみずに、小男の身体《からだ》をふりまわしてなげた。
背後《はいご》からおそいかかってきた男の腹《はら》に、小男の身体がぶちあたった。もつれて、ひっくりかえった男の肩《かた》を踏《ふ》んで、バルサは男たちをとびこえ、そのまま表通りに走りでた。
街灯《がいとう》の明るい光につつまれたとき、冷《つめ》たい汗《あせ》がふきだしてきた。
そういえば、外をみてこいと命令《めいれい》されて、さきに外にでていた用心棒《ようじんぼう》がいた。そいつが、あとからでてきた用心棒たちに合図《あいず》されて、ものかげにひそんでいたのだろう。用心棒の目の動きに気づかなかったら、剣《けん》で頭をたたききられるところだった。
地面《じめん》を踏《ふ》むたびに右の足首に痛《いた》みがはしった。机《つくえ》をけりとばしたとき、いためてしまったらしい。バルサは心のなかで舌《した》うちをした。このごろ、思うように身体《からだ》がうごかないことがある。一昨年《いっさくねん》より去年《きょねん》、去年より今年《ことし》と、確実《かくじつ》に身体は年をとっている。
獣《けもの》は、走れなくなったら、食われるしかないんだ。 − そういって苦笑《くしょう》していた、養父《ようふ》のジグロの顔が、ふっと脳裏《のうり》にうかんで消えた。
(冗談《じょうだん》じゃない。まだ、そんな年じゃないさ……。)
バルサは歯《は》をくいしばって足の痛《いた》みにたえながら、表通《おもてどお》りの人ごみをかきわけていった。
表通りは、夜のにぎわいがはじまったばかりで、酒場《さかば》や料理屋《りょうりや》にむかう人びとで、ごったがえしている。その人の波《なみ》にまぎれこみ、ふたつめの路地《ろじ》にはいって建物《たてもの》のかげに立つと、バルサは迫ってきている者《もの》がいないかどうか、たしかめた。
あの店《みせ》の用心棒《ようじんぼう》たちが追ってくるようすはなかったが、身体《からだ》の緊張《きんちょう》はとけなかった。
重苦《おもくる》しい恐怖《きょうふ》が胸《むね》にやどっていた。
(チャグムを、追《お》っている者がいる・…‥。)
それは、おそろしい可能性《かのうせい》を意味《いみ》していた。
なんとしても、あのヨゴ人よりさきに(赤目《あかめ》のユザン)という海賊《かいぞく》にあわねばならない。
そして、その口から、チャグムのことがもれるのを、ふせがねばならなかった。
[#改ページ]
5  <赤目《あかめ》のユザン>
常夜灯《じょうやとう》のうすぐらい光が、足のはやそうな小型帆船《こがたはんせん》をてらしている。
がっちりとした体型《たいけい》のサンガル人が、その帆船の甲板《かんぱん》にたたずみ、いとおしげに帆柱《ほばしら》をなでていた。
船には、ほかに人の気配《けはい》はない。船がゆったりと波《なみ》にもちあげられるたびに、男の肩《かた》が常夜灯《じょうやとう》のあかりにてらされて、赤い神魚《しんぎょ》の目をかたどった刺青《いれずみ》がうかびあがる。
(……ようやく、でられるな。)
男 − (赤目《あかめ》のユザン)は、心のなかでつぶやいた。
こんなに長く、このロタの港《みなと》にいるつもりはなかったのだが、船の修理《しゅうり》に思わぬ時間がかかったのだ。長年、いっしょに荒波《あらなみ》をこえてきたこの船が、ここまでいたんでいるとは思っていなかった。
大金が手にはいったので、いたんでいた箇所《かしょ》の修繕《しゅうぜん》を、なじみの船大工《ふなだいく》にたのんだのだが、船大工のじいさんは、ユザンが気づいていなかった船底《ふなぞこ》の傷《いた》みや、帆柱《ほぱしら》の根元《ねもと》の腐《くさ》れをみつけだした。そして、このままでは、ちょっとした嵐《あらし》でも船がこわれてしずむぞ、といった。
修理《しゅうり》をする金はあったが、ユザンは気がせいていた。売りはらったお宝《たから》が、どうもいわくありげで、この港《みなと》にいては、やばい気がしてならなかったのだ。
だが、船の傷《いた》みは、たしかにひどかった。つぎの港につくまえに嵐《あらし》でもくれば、沈没《ちんぼつ》しかねない。
ユザンはしぶしぶ修理《しゅうり》をたのんだのだが、港に長居《ながい》ができるとなると、手下《てした》の船乗《ふなの》りたちは、大よろこびで昼間《ひるま》から酒場《さかば》にいりぴたり、賭《か》けごとやらなにやら、わるい遊びにのめりこんだ。
彼らは腕《うで》のいい船乗りで、ユザンにとってはおなじ島でうまれそだったヤルターシ・シュリ(海の兄弟)だったが、みんなのんきで、ロがかるい。とくに末弟《まってい》のラゴはロからさきにうまれてきたようなやつで、自分の話で人をたのしませるのが大好《だいす》きときている。
ユザンは、彼《かれ》らが酒場《さかば》で、あのお宝《たから》でもうけた話をするのを禁《きん》じたが、どうも、弟は自分の目のとどかないところで、しゃべっているようだった。
ユザンは、ため息《いき》をついた。
(まあ、明日《あす》の朝になれば、この港《みなと》ともおさらばだ。)
もやい綱《づな》がきちんとむすばれているかたしかめて、ユザンは船から陸にのぼった。とうに真夜中《まよなか》をすぎている。明日|出発《しゅっぱつ》となれば、そろそろ仲間《なかま》たちの酒《さけ》をきりあげさせねばならない。
なじみの酒場《さかば》の戸《と》をあけると、もわっとカザル(煙草《たばこ》) の煙《けむり》が顔をつつんだ。
天井《てんじょう》からぶらさがっている六つのあかり皿《ざら》が、ゆらゆらゆれて、あたりいちめんに影《かげ》がおどり、男たちの酔《よ》いをふかめていた。
ユザンは、ぐるっと酒場をみまわして、自分の船の船乗《ふなの》りたちをみつけると、ひとりずつ腰《こし》をあげて船にかえるよう、肩《かた》をたたいてまわった。
弟のラゴは、酒場《さかば》のすみにいた。小柄《こがら》な商人《しょうにん》ふうのヨゴ人の男とオラック(絵札《えふだ》をつかう賭博《とばく》)をしている。明るい茶色《ちゃいろ》の瞳《ひとみ》が、きらきらかがやいているところをみると、ずいぶん勝《か》っているようだ。酒《さけ》を、水を飲《の》むようにぐいぐい飲みながら絵札を机《つくえ》にうちつけている。
「おい。……そろそろ腰《こし》をあげろや。明日《あす》は夜明《よあけ》けに出港《しゅっこう》するぞ。」
声をかけると、ラゴはちらっと顔をあげて笑《わら》った。
「ちょっとまってくれ。いま、いいところなんだ。 − すぐすむ。」
たしかに、いい手だった。ユザンがみまもるうちに、ラゴは、ヨゴ人の商人《しょうにん》から銀貨《ぎんか》を二枚《まい》もまきあげてしまった。
くすんだ顔色の中年《ちゅうねん》のヨゴ人は、ため息《いき》をついて、こった肩《かた》をほぐすようにまわした。
「まいった。今夜《こんや》のあんたには、トトラ(運《うん》をよぶという星《ほし》)がついているらしい。」
ラゴは笑《わら》った。
「今夜だけじゃねぇよ。おれにはうまれたときから、トトラがついているのさ。そんじゃ、約束《やくそく》どおり、これももらうぜ。」
ラゴは酒《さけ》の壷《つぼ》をもちあげてみせた。ヨゴ人は、顎《あご》で、もっていけ、というしぐさをした。
「兄貴《あにき》、みろや。アラクだぜ。金があっても、なかなか手にはいらないだろうよ、この銘酒《めいしゅ》は。寝酒《ねざけ》にやろうや。」
ユザンは、ほほえんだ。アラクは好《す》きな酒だった。弟のいうとおり、なかなか手にはいらない酒だ。明日《あす》の出発《しゅっぱつ》を祝《しゅく》して、寝酒に一杯《いっぱい》やるのもわるくない。
船にもどると、仲間《なかま》たちはみな酒《さけ》のにおいをただよわせながら、自分の寝棚《ねだな》におさまっていた。
「おまえら、出港《しゅっこう》の祝杯《しゅくはい》だ。一杯ずつ、飲《の》んで寝ろや。」
ラゴは、アラクの壷《つぼ》の蓋《ふた》をとると、木椀《もくわん》についで、気前《きまえ》よく仲間《なかま》たちにまわした。寝棚から半身《はんしん》をおこしたかっこうで、男たちはうまい酒をあおり、最高《さいこう》の気分で眠《ねむ》りについた。
ユザンは、ひとり船室《せんしつ》にはいると、椅子《いす》に深《ふか》く腰《こし》をおろし、アラクをゆっくりと口にふくんだ。ぴりっとした刺激《しげき》が舌《した》を刺《さ》し、こうばしいかおりとともに甘《あま》みが舌にひろがる。
机《つくえ》の上においてあるろうそくが、ジジジと音をたててゆれた。灯心《とうしん》がのびすぎている。切らなくてはな……と思ったのを最後《さいご》に、ユザンは、がっくりと眠《ねむ》りにおちた。
どのくらい時がたったのだろうか。
夢《ゆめ》なのか、現実《げんじつ》なのか、ユザンは船室《せんしつ》の椅子《いす》にすわったまま、足もとを、ひたひたと黒い水がひたしていくのをみていた。
たいへんだ、浸水《しんすい》している。仲間《なかま》を起《お》こして、どこから浸水しているのか、たしかめねば、と思うのに、身体《からだ》がうごかない。
いつのまにか、机《つくえ》のむこう側《がわ》に男がすわっていた。 − ラゴにアラク酒《しゅ》をまきあげられた、あのヨゴ人の商人《しょうにん》が、なぜか、船室《せんしつ》にいる。
(なんだこれは。おれは、夢《ゆめ》をみているのか?)
そう思ったとき、ヨゴ人がほほえんだ。
「そうだ。あんたは、夢をみているんだよ。わたしは、わたしのしるしを肩《かた》にきざんだおまえをたすけるために、ヤルターシ (海) の底《そこ》からきた。この船がしずまぬよう、たすけてほしいかね?」
ユザンは、がくがくとうなずいた。
ヨゴ人は、うす笑《わら》いを顔にはりつかせたまま、いった。
「おまえは、まえの航海《こうかい》で、カルク・ホ (災《わざわ》いの種《たね》)をひろってしまったのさ。気づかなかったかね?」
ユザンは、ぞっとした。
「やっぱり、あの若造《わかぞう》は、カルク・ホ(災《わざわ》いの種《たね》)だったのか……!」
ヨゴ人はうなずいた。
「そうだ。カルク・ホ (災《わざわ》いの種《たね》)をはらいたければ、そいつについて、おぼえていることをすべて、わしにわたしてしまいなさい。わしがのみこんで、おまえたちのかわりに、深《ふか》いヤルターシの底《そこ》へそいつをしずめてやろう。」
ユザンは、よろこんで、うなずいた。
「ありがたいことです。あらいざらい、お話しいたします。あの若造《わかそ゜う》は……。」
その瞬間《しゅんかん》、頭をはじかれたような衝撃《しょうげき》がきて、ユザンは、うめいた。
最初《さいしょ》の、かたいものでなぐられたような痛《いた》みは、すぐに消えさったが、ずきずきする痛みが頭《あたま》の芯《しん》に残っている。
船のゆれやきしみが身体《からだ》につたわり、それまで、そういうものを自分が感じていなかったことに、ユザンは気づいた。足もとに水はなく、足もぬれていない。
顔をあげて、ユザンは目をみはった。
机《つくえ》に、あのヨゴ人の男がつっぷしている。気をうしなっているのか、死《し》んでいるのか、びくっともうごかない。
そのうしろに、みしらぬ女が立っていた。カンバル人の、中年《ちゅうねん》の女だった。
「目がさめたかい。」
サンガル語《ご》で問《と》いかけられて、ユザンは眉《まゆ》をひそめた。
「……なにが、どうなってんだ。てめえ、だれだ。」
耳鳴《みみな》りがしている。吐《は》き気《け》をもよおして、ユザンは口をおさえた。
「話はあと。まずは、こいつのしまつだ。」
そういって、女は手首にまいてあった細革《ほそかわ》をくるくるとほどくと、気をうしなっているヨゴ人の腕《うで》をうしろ手にがっちりとしばった。そして、天井《てんじょう》にわたしてある綱《つな》にぶらさがっていた手ぬぐいをとると、きりきりとねじってから、ヨゴ人の口に、猿《さる》ぐつわとしてかました。
「麻袋《あさぶくろ》はあるかい。」
きかれて、ユザンは顎《あご》で、戸棚《とだな》をしめした。
女は麻袋をみつけてもってくると、パンッと音をたててふってロをひろげ、ヨゴ人の頭から、すっぽりかぶせてしまった。
「縄《なわ》は?」
「……その下にある。右の戸棚《とだな》だ。」
ユザンは、女が手ぎわよく麻袋《あさぶくろ》の上から縄をかけて、ヨゴ人を完全《かんぜん》に身動《みうご》きできないようにするのを、ぼんやりとみていた。まだ、夢《ゆめ》のつづきをみているような気がする。
ヨゴ人を肩《かた》にかつぎあげると、女は船室《せんしつ》からでていった。
しばらく頭をかかえてうめいていたが、やがて、ユザンは机《つくえ》に手をついて立ちあがった。
まだ頭がふらふらするが、吐《は》き気《け》はおさまってきている。
壁《かべ》にかけてある刀《かたな》をとって、鞘《さや》をはらうと、抜《ぬ》き身《み》の刀をかまえて、ユザンは甲板にのぼっていった。
バルサはヨゴ人の男を船大工《ふなだいく》の小屋《こや》にかつぎこみ、手近《てぢか》にあった縄《なわ》で柱《はしら》にしぼりつけた。
チャグムのことを考えるなら、この男を生かしておくべきではない。バルサは、しばらく、暗い目で男をみおろしていたが、やがて、ため息《いき》をついて、目をそらした。
戸をしっかりとしめて外にでると、バルサは、しばらく心をしずめて、あたりの気配《けはい》をさぐった。
常夜灯《じょうやとう》のあかりに、ぼんやりとうかびあがっている船の上に、(赤目《あかめ》のユザン)が立っているのがみえた。手にもっている刀《かたな》が、白くひかっている。 − それ以外《いがい》、人の気配《けはい》はない。
バルサは、船大工《ふなだいく》の小屋《こや》の壁《かべ》にたてかけてあった木製《もくせい》の櫂《かい》を手にとった。ブンッとふってみてから、それを肩《かた》にかつぎ、船のほうへ歩きはじめた。
渡《わた》し板《いた》をのぼりはじめると、ユザンが身《み》がまえた。
「てめぇ、だれだ。」
さすがに年季《ねんき》のはいった海賊《かいぞく》らしい、腹《はら》にひびく声だった。
「礼《れい》をいうのが、さきじゃないのかい。」
「礼だと?」
バルサが甲板《かんぱん》におりたつのを用心《ようじん》ぶかくみまもりながら、ユザンはつぶやいた。
「そうだよ。あんた、呪術《じゅじゅつ》にかけられていただろうが。」
ユザンは眉《まゆ》をひそめた。
「……呪術だと?」
いわれてみれば、たしかに呪術にかけられていたとしか思えない。あの小柄《こがら》なヨゴ人が呪術師《じゅじゅつし》だったのだとすれば、酒場《さかば》にいたのも、偶然《ぐうぜん》ではなかったのだろう。
(あのアラク酒《しゅ》も……。)
アラク酒をひとロ飲《の》んだだけで、眠《ねむ》りにおちてしまったところをみると、あれに呪薬《じゅやく》でもはいっていたのか。そういえば、これだけのさわざがおきているのに、仲間《なかま》はだれひとりおきてこない。
ひんやりとしたものが、胸《むね》にひろがった。あおざめた顔で、ユザンはバルサをみた。
「……なんで、おれをたすけた。」
バルサは無表情《むひょうじょう》でいった。
「たすけたつもりはないね。 − ことと次第《しだい》によっちゃ、あんたをぶち殺《ころ》すことになるかもしれない。」
ユザンは、刀《かたな》をかまえなおした。
「てめぇ、なにをいってやがる。いってることが、ひとつもわからねぇぞ。」
バルサは、ユザンをみすえて、すっと櫂《かい》をもちあげた。
「腹《はら》をくくってこたえな。 − あんたが、タルファ (紅炎石《こうえんせき》)をうばった相手《あいて》は、いま、どこにいる。」
思わずあとずきりしかけて、ユザンは、かろうじて足をとめた。冷《つめ》たいものが、腹《はら》の底《そこ》からこみあげてくる。目の前の女が、ふいに、化《ば》け物《もの》のように思えてきた。
歯をむきだして、ユザンはどなった。
「……知らねぇな、そんなこたぁ!」
いうや、ユザンはバルサのほうに一歩踏《ふ》みこみ、櫂《かい》をにぎっている手をめがけて刀《かたな》をふりおろした。刀身《とうしん》がしなうほどのするどい斬《き》りこみだったが、つぎの瞬間《しゅんかん》、ユザンは目の前に火花《ひばな》がちるのをみた。鼻《はな》の奥《おく》がきなくさくなり、くらくらっと膝《ひざ》をつき、鼻をおさえた。
手から刀がおちたのも、気づかなかった。鼻血《はなぢ》が、指《ゆび》の間からボタボタと甲板《かんぱん》にしたたり、全身《ぜんしん》がふるえはじめた。
鼻を両手《りょうて》でおさえて、ユザンは顔をあげた。おおいかぶさるように女が立っている。櫂《かい》がぴったりとユザンの額《ひたい》の上にすえられていた。
「つぎの一撃《いちげき》は、ここをうつ。」
櫂《かい》の影《かげ》がおちている眉間《みけん》のあたりが、じんわりとあつくなった。
「あんた……あの若造《わかぞう》の、なんだ?」
ユザンは、思わずつぶやいた。
「きいているのは、あたしのほうだよ。 − きかれたことに、さっさとこたえな。」
いいながら、バルサは腹《はら》に力をこめた。
− を殺《ころ》した、という言葉《ことば》が、この男のロからもれるのではないか……
息《いき》をつめてまつうちに、男はてのひらで鼻血《はなぢ》をぬぐい、甲板《かんぱん》に腰《こし》をおろしてあぐらをかいた。
「 − やっぱり、あの若造《わかぞう》は、カルク・ホ (災《わざわ》いの種《たね》)だったぜ。」
つぶやいて、ユザンは肩《カタ》の力をぬいた。
「あいつが、生きているか、死《し》んでいるか、ほんとうに、おれは知らねぇ。」
いってから、バルサをみあげて、ユザンは早口《はやくち》につけくわえた。
「嘘《うそ》じゃねぇ。あいつはきみょうな若造で、おれは、はじめっからかかわりたくなかったんだ。」
「どこで、どうやってであった。 − あらいざらい、しゃべってもらおうか。」
ユザンは甲板《かんぱん》に血《ち》のまじったつはをはくと、ため息《いき》をついて話しはじめた。
「あいつにあったのは、そろそろ、このツーラム港《こう》がみえてきそうなあたりだった。」
意外《いがい》な言葉《ことば》に、バルサは眉《まゆ》をひそめた。
ユザンは、うつむいたまま話しっづけた。
「ラッシャロー(海をただよう民《たみ》) の家船《いえぶね》にのってたんだよ。
おれたちは、ふつう、ラッシャロー(海をただよう民)なんぞに、手はださねぇ。ただ、こういうのを魔《ま》がさしたっていうんだろうな。でかいラッカルー(渦嵐《うずあらし》)にあっちまって、あやうく沈没《ちんぼつ》しかけたあとでよ、せっかく釣《つ》った魚もくさっちまうし、なにか獲物《えもの》がなきゃ、ひあがっちまうって思っているところに、あの家船《いえぶね》といきあったんだよ。」
ラッシャロー(海をただよう民《たみ》)というのは、船でうまれて船で死《し》ぬという、海の民だと、どこかできいたおぼえがあった。チャグムは、サンガル人ではなく、ラッシャローの家船にのせてもらって、ロタまでこようとしていたらしい。ラッシャローのほうが安全《あんぜん》だと思ったのだろうか。
ユザンは、ぼそぼそと話しつづけている。
「ラッシャロー(海をただよう民)は、おれたちより貧《まず》しいからな。獲物《えもの》にゃならねぇ。だけどよ、船のなかに、ずいぶんときれいな娘《むすめ》がのってたんだよ。ラッシャローにしちゃ、いい顔《かお》の娘でよ。ああいう顔の娘は、高く売れる。
かわいそうだと思ったが、こっちもすっかんぴんで、背《せ》に腹《はら》はかえられねぇ。家船に釣棒《つりぼう》をかまして、のりうつったんだ……。」
小さな家船《いえぶね》には、娘《むすめ》と、そのおさない弟と、両親《りょうしん》がのっていた。ふるえている彼《かれ》らに刀《かたな》をつきつけ、娘の腕《うで》をつかんだとき、船のかたすみにあった帆布《ほぬの》をはねのけて、なかから若者《わかもの》がでてきたのだ。
ヨゴ人の若者で、よく日にやけ、ラッシャローのように腰布《こしぬの》だけの姿《すがた》だったが、ユザンはひと目みただけで、この若者が商人《しょうにん》や漁師《りょうし》ではないと感じた。なにがちがうのかわからないが、どこかがちがうのだ。ボロ布《ぬの》のなかから、みがかれた硬玉石《こうぎょくせき》がころがりでたような感じだった。
「さらって売るなら、その娘《むすめ》より、わたしのほうがいいだろう。」
達者《たっしゃ》なサンガル語《ご》で、その若者《わかもの》はユザンにいった。まだガキに毛《け》がはえたくらいの年のくせに、みょうに腹《はら》がすわっていて、声もふるえていなかった。
なんとなく、ユザンはいやな気分になった。こいつはきっとわけありだ。心のなかで、しきりに、かかわらないほうがいいという声がきこえたが、仲間《なかま》たちのてまえ、上等《じょうとう》な獲物《えもの》をあきらめるわけにもいかなかった。
「……獲物が二匹《ひき》になったぜ。」
そういって、若者《わかもの》に手をのばそうとしたとき、ユザンは、なにかひかるものが目の前をかすめたのをみた。
若者が、手に宝石《ほうせき》をもっていた。 − みるからに高価《こうか》な首飾《くびかざ》りだった。
海賊《かいぞく》たちが目をみはった一瞬《いっしゅん》に、若者は船端《ふなばた》に足をかけて、腕《うで》をふった。首飾りが宙《ちゅう》をまい、海に落ちていくのを、海賊たちはうめき声すらあげられずにみおくった。
「な……なにしやがる!」
弟のラゴが、ああてて海にとびこんだ。だが、まにあわなかった。そのあたりの海は深《ふか》く、しずんでしまえば、ひろうこともできない。
あれほどの宝石《ほうせき》をためらいもなく海になげこめるなんて、ユザンには信《しん》じられなかった。
ふりかえると、若者《わかもの》は手に袋《ふくろ》をもって、腕《うで》を海の上にのばしている。
若者のほうに踏《ふ》みだそうとしたとたん、若者がするどい声でどなった。
「うごくんじゃない。 − うごいたら、こいつを海になげこむ。」
若者が本気《ほなき》だということは、よくわかった。
「ばかなことをするんじゃねぇ。どうやったって、おまえに分《ぶ》はねぇだろうが。」
ユザンはどなった。
「おまえがそいつを海になげこんでも、おまえとこの娘《むすめ》が獲物《えもの》であることにゃかわりはねぇだろうが。」
すると、若者《わかもの》は、ほほえんだ。
「ならば、これはいらないか。」
ユザンはだまりこんだ。袋《ふくろ》の中身《なかみ》が、ちらちらとみえている。とてつもなく高価《こうか》なタルファ (紅炎石《こうえんせき》)もあるようだった。
たしかに、若者《わかもの》と娘《むすめ》の両方を売っても、その宝石《ほうせき》の値ほどは高くつかない。
まよっているユザンに、若者がいった。
[#(img/01_103.png)]
「この人たちに手をださないなら、この宝石《ほうせき》はすべて、おまえたちにやろう。船にもどれ。おまえたちがもどって鈎棒《かぎぼう》をはずしたら、この宝石をその船の上になげてやる。」
そういって、若者《わかもの》は、するどいまなざしでユザンをみつあた。
「これだけの宝石を手にいれられるのだ。それ以上の欲《よく》をかくな。天も海も、おまえたちをみているぞ。」
その言葉《ことば》は、ふしぎに、ユザンの心をうった。ついに、ユザンはいった。
「・・・宝石《ほうせき》をなげるってのは、信用《しんよう》できねぇな。おまえが、その宝石をもって、おれたちの船にくるなら、ラッシャローはたすけてやろう。」
若者《わかもの》の顔に、つかのま、ふかい迷《まよ》いの影《かげ》がよぎったのをユザンはみた。
「 − とりこになってもいいが、ひとつ、条件《じょうけん》がある。」
若者は、まっすぐにユザンをみつめていった。
「わたしを売るのなら、ロタ王国《おうこく》のツーラム港《こう》の商人《しょうにん》に売ってくれ。」
ユザンは顔をしかめた。なぜそんなことにこだわるのか、わからなかったからだ。だが、ツーラム港はいちばん近い港だし、高価《こうか》な宝石《ほうせき》の買《か》い手《て》もいる。
「よし。おのぞみどおり、ツーラム港の商人に売ってやる。 − さあ、こっちにこい。」
しかし、若者は首をふった。
「まず、おまえたちが船にもどれ。鈎棒《かぎぼう》をはずしたら、そちらにうつる。
わたしが約束《やくそく》をたがえたら、銛《もり》をうてばいい。」
ユザンは肩《かた》をすくめ、仲間《なかま》たちに合図《あいず》をした。
全員《ぜんいん》が船にもどり、鈎棒《かぎぼう》をはずして、銛をかまえると、若者《わかもの》はロに宝石《ほうせき》の袋《ふくろ》をくわえて、船にのぼってきた。そして、また、すばやく袋をもった腕《うで》を海の上につきだした。
ラッシャローたちは手をふりながら泣《な》いていたが、若者は涙《なみだ》をみせず、ぎゅっとくちびるをむすんで、家船《いえぶね》がはなれていくのをみおくっていた。
ユザンが口をとじると、バルサはつぶやいた。
「・・・それで、この港《みなと》の奴隷商人《どれいしょうにん》に売《う》ったのかい。」
ユザンは首をふった。
「売ってねぇよ。」
片手《かたて》を甲板《かんぱん》について、ユザンはゆっくりと立ちあがった。いつのまにか夜があけていた。
しらじらとした光が海をはがね色にうかびあがらせている。
ぼんやりと街《まち》のほうに目をやって、ユザンはつぶやいた。
「あいつの言葉《ことば》じゃねぇが、欲《よく》をかきすぎるのはよくねぇ。タルファ (紅炎石《こうえんせき》)なんぞ、一生《いっしょう》かかったって手にはいる代物《しろもの》じゃねぇ。はかの宝石《ほうせき》もあわせて売ったら、これからしばらくは仲間《なかま》みんなが遊んでくらせる金が手にはいった。」
バルサのほうに目をもどして、ユザンはいった。
「みょうなガキだったよ。・・・・奴隷商人《どれいしょうにん》なんぞに、売る気にゃなれなかった。」
灰色《はいいろ》の光がてらしているユザンの顔をみつめて、バルサは、つぶやいた。
「あの子は、どうなったんだい。」
ユザンは苦笑《くしょう》した。
「最初《さいしょ》からいってるだろう。知らねぇよ。ここでおろした。宝石を売っぱらってから、どこへでもいけって、おっぽりだしたのさ。」
バルサは、つめていた息《いき》をはきだした。こわばっていた身体《からだ》から力がぬけていく。
ユザンは魂《たましい》がぬけたような顔で、ぼんやりと街《まち》のほうをみている。バルサも、街のほうへ顔をむけて、建物《たてもの》の連《つら》なりを目でたどった。
(ここまでたどってきて、また、糸がとぎれてしまった。)
奴隷商人《どれいしょうにん》に売《う》られていたのなら、まだ、たどりようもあっただろうに・・・。
それでも、ともかく、ここまでは、生きてたどりついたのだ。 − 自由の身《み》になって歩きだしたのだ。あの、きかん気な目をかがやかせて、元気に、歩いていったにちがいない。
そう思ったとたん、おさえる間もなくあついものが胸《むね》にひろがった。
( − 生きていてくれた。)
まだ、よろこんではいけない。無事《ぶじ》な姿《すがた》をこの目でみるまでは、希望《きぼう》をいだきすぎてはいけない。そう思っても、心の底《そこ》からあつい思いがこみあげてくるのをおさえることができなかった。
チャグムは、きっと生きている。いま、このときも、この街のどこかにいる……。
朝の光が、しずかに街の姿をうかびあがらせている。この港《みなと》から河《かわ》にそって倉庫《そうこ》がたちならび、右岸《うがん》のなだらかな丘《おか》の中腹《ちゅうふく》まで、びっしりと家並《いえなみ》がつづいている。
丘《おか》の頂上《ちょうじょう》のあたりに、大きな白い建物《たてもの》がみえた。城《しろ》のようだった。二本の尖塔《せんとう》が、朝日にひかっている。
「……あれは、大領主《だいりょうしゅ》の城かな。」
つぶやくと、ユザンがうなずいた。
「スーアン大領主の城だ。」
こたえてから、ユザンは、ぽつんとつぶやいた。
「そういや、あの若造《わかぞう》も、おなじことをきいたな。」
はじかれたように、バルサはユザンに顔をむけた。
「ほんとうかい?」
「ああ。あれは、大領主《だいりょうしゅ》の城《しろ》か、ってきいたな。スーアン大領主の城だっておしえてやったら、礼《れい》をいって、笑《わら》った。ラッシャローの腰巻姿《こしまきすがた》のまんまで、あの城のほうへ歩いていったよ。」
バルサは櫂《かい》をなげすてると、ユザンの腕《うで》をつかんだ。
「それは、いつの話だい。」
「ええ……っと、まてよ、」
宙《ちゅう》をみて指《ゆび》を折《お》ってから、ユザンはこたえた。
「もうそろそろ十五日くらいたつな。」
バルサは顔をゆがめた。
十五日。ジンの便《たよ》りをうけとったころ、チャグムはここにいたのだ。
バルサは、ユザンの腕をはなした。
「話してくれたことは、すべて、ほんとうのことだろうね。」
ユザンは肩《かた》をすくめた。
「しょうもねぇことをきくな。ほんとの話だって誓《ちか》ったっていいが、なんの証拠《しょうこ》もねぇことだろうが。」
バルサは、きびしい目で、ユザンをみつめた。
「……いそいで、この港《みなと》をはなれな。あの呪術師《じゅじゅつし》には仲間《なかま》がいる。しばらく、ロタにはちかづかないほうがいい。若者《わかもの》のことは二度《にど》と口にするな。タルファ (紅炎石《こうえんせき》) のことも。……命《いのち》がおしければ。」
ユザンは、おそるおそる鼻にさわりながらいった。
「いわれねぇでも、そのつもりだよ。てめぇがおりれば、すぐにでも出港《しゅっこう》すらぁ。」
バルサはうなずいて、歩きだした。
渡《わた》し板《いた》をおりて、ふりかえると、渡し板のはしをつかんだユザンと目があった。
バルサは、つかのま無言《むごん》でユザンをみつめ、それから、くるりと背《せ》をむけて歩きはじめた。
歩みさっていく女が、かすかに右足をひきずっているのに、ユザンは気づいた。
(みょうな女だぜ……。)
あらいざらいしゃべったのは、あの若造《わかぞう》にかかわるすべてをおっぽりだして、厄払《やくばら》いしたい気分だったからだが、どこかに、あの女に話してやりたい気もちもあったのかもしれない。
あの女は、すさまじく、はりつめていた。まったくの無表情《むひょうじょう》だったが、あの若造の生死《せいし》をたずねたときの目つきは、ただごとではなかった。
この港《みなと》でおっぽりだしたとき、ふりかえった若造《わかぞう》がうかべた、さっぱりと明るい笑顔《えがお》を思いだして、ユザンはため息《いき》をついた。
なににかかわってしまったのか − あの若造は何者《なにもの》なのか気になったが、女にいわれるまでもなく、これ以上深入《ふかい》りする気はなかった。
(あいつは、渦《うず》みたいなもんだ。そばによったら、海の底《そこ》までひっぼりこまれちまう。)
年季《ねんき》のはいった船頭《せんどう》は、潮時《しおどき》を知っているものだ。
ユザンは、はれあがってにぶくしびれたようになっている鼻《はな》に、またそっとさわりながら、仲間《なかま》たちをおこすために船倉《せんそう》におりていった。
[#改ページ]
6  予感《よかん》
バルサの声をきいたような気がして、タンダは、はっと目をさました。
あけたままになっている戸から、夕暮《ゆうぐ》れの光が土間《どま》にさしこんでいる。遠くで二度、鳥のさえずりがひびいて、消えた。
だれもいない家のしずけさ。
腕枕《うでまくら》をして板《いた》の間《ま》にころがったまま、タンダは、ぼんやりと戸の外をながめていた。
みょうな時間に寝入《ねい》ったものだ。身体全体《からだぜんたい》に、だるさと、せつなさが残《のこ》っていた。
ときおり、こういうことがある。夜明《よあ》けにふっと目ざめたときなど、かたわらにバルサのいないうつろさが、胸《むね》をさすのだ。
おちついてくらすということが、バルサは、できない。平穏《へいおん》な日々がつづくと、まるで、なにかによばれているように、おちつかなくなり、そして、旅《たび》だっていく。
ひとところに根《ね》をおろし、日々の暮《くら》らしをくりかえすことが好《す》きな自分とは、まったくちがう性分《しょうぶん》なのだろう。
アスラとチキサをこの家でそだててやろうや、と話しかけたときも、バルサは苦笑《くしょう》して首をふった。
− わたしなんぞとくらしたら、あの子らのためにならないよ。
そういったっきり、あとは、なにをいっても、がんとしてききいれなかった。
アスラは、目ざめたあとも、心がもどってくるまで長い月日がかかった。心がもどり、目に光がもどって、人の話がわかるようになってからも、声はうしなったままだ。
アスラが、わずかでも笑顔《えがお》をみせるようになるまで、バルサは巣《す》から落ちた雛鳥《ひなどり》をまもるように、そばについていたくせに、手をはなしてもだいじょうぶだと思えるようになると、アスラを、チキサといっしょに四路街《しろがい》で織物商《おりものしょう》をいとなんでいるマーサという老女《ろうじょ》に、たくしてしまった。
マーサさんという人は、じつによくできた人で、たしかに、あの人なら、チキサとアスラをみごとにそだててくれるだろうと、タンダも納得《なっとく》はした。けれど、タンダはふたりとわかれるのがさびしかったし、バルサだって、内心《ないしん》はさびしかったはずだ。
頭の下から腕《うで》をはずして、タンダは、冷《つめ》たい板《いた》の間《ま》に頬《ほお》をつけた。
(あの使者《ししゃ》がきて、もう、ずいぶんたつな……。)
バルサは、チャグムにあえただろうか。それとも、いまも、ひっLにさがしているのか。
タンダは、ため息《いき》をついた。
ふたりのことが心配《しんぱい》でたまらなかった。たとえ、無事《ぶじ》にチャグムにであえたとしても、そのさきは、どうなるのだろう……。
シュガがトロガイ師《し》にもらした話からも、チャグムが帝《みかど》にうとまれていることはあきらかだ。異国《いこく》との戦《いくさ》がせまり、殺気《さっき》だっているこの国に、死《し》んだ者《もの》として葬儀《そうぎ》をすませ、神《かみ》にまつりあげた皇太子《こうたいし》が、生きてかえってくることを、帝はけっしてのぞむまい。
チャグムをたすけようとするかぎり、バルサはさきのみえぬ巨大《きょだい》な渦《うず》のなかで、もがきつづけるしかない。
タンダは腕《うで》で顔《かお》をおおった。
ふたりをとりまいているものが、あまりにも大きく複雑《ふくざつ》すぎて、どうなればすくわれるのかさえ、わからない。
− そいつは、わしらがなやんでも、しかたのないことだ。
バルサもチャグムも、それぞれ自分で、自分の運命《うんめい》に決着《けっちゃく》をつけるしかないんだよ。
おまえや、わしには、ほかにやることがある。
それぞれが懸命《けんめい》に力をつくした道の果てに、ふたたびであえることを祈《いの》るしかない。
トロガイ師《し》はそういってさとしてくれたが、そのとおりだとわかってはいても、ふたりのことは、かたときも心からはなれていかなかった。
目をあけると、もう夕暮《ゆうぐ》れの光はうすれ、青い闇《やみ》にかあっていた。
身体《からだ》を起《お》こすと、くらっとめまいがした。
(・・・なさけないな。あれしきのことで、これほど精気《せいき》をすりへらしてしまうなんて。)
ナユグに春がおとずれたことで、この地に、なにかがおきはじめている。
チョ(根切《ねき》り虫《むし》)が異常《いじょう》にふえて木の根をぼろぼろにしているだけでなく、なにか、もっと大きなことがおきようとしている。森のなかにたたずんでいると、山や森がうなっているような気がすることがあるのだ。
トロガイ師《し》は、タンダに、ナユグの河《かわ》のなかで異常に水温の高い流れがむかっているさきをたどってみよと命《めい》じて、自分は、あちこちの村にちらばっている呪術師《じゅじゅつし》たちにあいにいってしまった。
いうはやすしで、ナユグをのぞきみるのは、おそろしくつかれる。
タンダは、ところどころで呪術《じゅじゅつ》をつかい、ナユグの風景《ふうけい》をのぞきみながら、ナユグの水流《すいりゅう》をたどったのだが、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の奥《おく》、もうすこしでカンバル王国《おうこく》への国境《こっきょう》の峠《とうげ》というあたりで、ナユグの河《かわ》は、そそりたつ断崖絶壁《だんがいぜっぺき》のなかに消《き》えてしまった。サグにある身《み》では、それ以上たどることはできなかった。
かえってきたのは昨日《きのう》の夕暮《ゆうぐ》れどきだったが、ひと|晩《ばん》|寝《ね》ただけでは、呪術《じゅじゅつ》をつかうことでうしなわれた精気《せいき》はもどってこなかった。昼食《ちゅうしょく》をおえて、ちょっと横《よこ》になったとたん、また寝《ね》こんでしまったくらい、つかれが残《のこ》っている。
呪術で魂《たましい》の力をたかめて、ナユグにふれるのには、やはり限界《げんかい》があるのだ。長いあいだ、呪術をつかいつづけると、精魂《せいこん》つきはててしまう。
(精霊《せいれい》の卵《たまご》を抱《だ》いていたときのチャグムのように、自在《じざい》にナユグをみることができるなら、らくなんだけどな……。)
そういえば、アスラも、自在にナユグをみられる異能者《いのうしゃ》だ。
ふっと、師匠《ししょう》の言葉《ことば》が心をよぎった。
− ……ナユグの河《かわ》に群《む》れている小魚のなかには、ときおり、こっちにも背《せ》びれの光をみせるやつらがいる。どうしてだか知らないがね。背びれをひからせなきゃ、こっち側《がわ》の鳥に食われることもあるまいに。
(なぜ、そんなふうに、ナユグとサグ、ふたつの世界にまたがっているものがいるのだろう。)
チャグムが抱《だ》いた精霊《せいれい》の卵《たまご》。その卵がそだっために必要《ひつよう》だったシグ・サルアの花。もしかしたら、アスラのような異能者《いのうしゃ》たちも、ふたつの世《よ》にまたがって存在《そんざい》しているのだろうか。
タンダは、ふっと、顔をくもらせた。
(そうだとしたら、チャグムも……。)
そういう者《もの》のひとりなのかもしれない。だから、精霊《せいれい》の卵《たまご》を抱《だ》くことができたのではあるまいか。
ぼんやりと、そんなことを考えていたタンダは、足音《あしおと》に気づいて、はっと顔をあげた。だれかが、山道をのぼってくる。ひとりではない。
タンダが立ちあがったとき、ためらいがちな声が外からきこえてきた。
「タンダさん……?」
タンダはびっくりして、土間《どま》にかけおりた。
「チキサか?」
夕暮《ゆうぐ》れのうす闇《やみ》のなかに、チキサとアスラが立っていた。
「なんと、なんと。うれしいお客《きゃく》さんだ! ちょうど、おまえたちのことを考えていたところだよ。よくきたなぁ。そんなところにいないで、はいった、はいった。」
タンダの笑顔《えがお》をみて、ほっとしたようにチキサの表情《ひょうじょう》がゆるんだ。ちょっと頭をさげて、チキサはアスラの背《せ》をおして家のなかにはいってきた。
アスラはこわばった顔で、うつむいている。
「さあ、あがりな。なんにもないが、いま、火をおこして、なにか食うものを用意《ようい》しよう。
足すすぎは、その瓶《かめ》の水をつかってくれ。」
タンダは、そういって板《いた》の間《ま》にのぼり、炉《ろ》の灰《はい》をかいて、埋《うず》み火《び》をかきおこした。小枝《こえだ》を入れ、炎《ほのお》が小枝をなめはじめると、薪《たきぎ》をのせて火を大きくした。
パチパチとはぜながら、薪が燃《も》えはじめると、家のなかが明るくなった。
チキサは、アスラをつれて囲炉裏《いろり》のそばにすわり、うれしそうに火に手をかざした。
「……急《きゅう》にきて、すみません。」
つぶやいたチキサに、タンダは笑《わら》いかけた。
「いつでもきてかまわんさ。だけど、遠かっただろう。よくたどりついたね。」
「いえ、あの、マーサ大奥《おおおく》さまのお供《とも》で、都《みやこ》にきたので。今朝《けさ》、なんでも屋《や》のトーヤさんのところによって、おしえてもらっていた行《い》き方《かた》でいいのか、もういちどたしかめてからのぼってきたんです。日が暮れてきちゃって、ちょっと不安《ふあん》になったけど。」
タンダは囲炉裏《いろり》に水を入れた鍋《なべ》をかけた。
「そいつは、いい判断《はんだん》だったな。それに、今日《きょう》でよかったよ。昨日《きのう》だったら家にいなかった。
ちょっと旅《たび》をしてたもんで、ろくな食い物《もの》がないんだ。まあ、鍋《なべ》ぐらいつくれるが。」
そういいながら、タンダはアスラをみて、つけくわえた。
「せっかくきてくれたのに、バルサはいま、長旅《ながたび》にでているんだよ。」
話しかけられてもアスラはうつむいたままだった。チキサは、そんな妹をちらっとみてから、たちはたらいているタンダをみあげた。
「バルサさんにもあいたかったけど、おれたち、タンダさんにあいたくてきたんです。」
タンダは眉《まゆ》をあげた。
「ほう。そりゃ、うれしいが……どうしたんだい?」
チキサは、うかがうようにアスラをみたが、アスラはこわばった表情《ひょうじょう》のまま、うつむいている。チキサの視線《しせん》をとらえて、タンダはだまって首をふってみせた。
大竹《おおたけ》に水と米《こめ》を入れたものを三本、炉《ろ》の灰《はい》にさしながら、タンダはいった。
「まあ、まずはゆっくりしてくれ。米の飯《めし》と、山菜鍋《さんさいなべ》ぐらいしかないけどな。」
チキサはうなずいてから、思いだしたように立ちあがって、板《いた》の間《ま》のすみにおいた担《かつ》ぎ荷《に》の口をあけた。そして、なかから、なにやら油紙《あぶらがみ》につつんだものと、きれいな紙につつんだものをひっぱりだしてきた。
「あの、これ、大奥《おおおく》さまからです。」
タンダは手を腰《こし》のあたりでぬぐってから、その紙包《かみづつ》みをうけとった。あけてみると、白砂糖《しろざとう》と米《こめ》の粉《こな》をねって、鳥や花をかたどったうつくしい菓子《かし》がでてきた。
「ほう、こりゃこりゃ。きれいなお菓子だね。」
チキサが、にこっと笑《わら》った。
「大恩《だいおん》のある方《かた》のところにいくのに、手ぶらでいくなんてとんでもないって、大奥さまがもたせてくださったんです。」
きりっとした老婦人《ろうふじん》マーサの顔を思いだして、タンダはなんとなく複雑《ふくざつ》な気もちになった。
マーサはこまやかにチキサたちのしつけをしているのだろうが、ふたりをそだててくれているお礼《れい》をするなら自分たちのほうで、マーサからものをいただくのは筋《すじ》ちがいだという気がしたのだ。
だが、もちろん、そんな思いは顔にださず、タンダは菓子《かし》をおしいただいた。
「そうか。マーサさんに、くれぐれもよろしくつたえてくれ。」
「はい。」
うなずいてから、チキサはちょっとてれくさげな顔をして、こんどは、油紙《あぶらがみ》の包《つつみ》みをさしだした。
「あの……これは、おれが都《みやこ》で買《か》ったんです。はたらいた金が、すこしたまったから、その金で。」
油紙の包みのなかに、さらに笹《ささ》の包みがあり、それをあけると、なかからホウロ(豆《まめ》をすりつぶして醗酵《はっこう》させ、塩味《しおあじ》をきかせたタレ)に漬《つ》けこんだ肉《にく》がでてきた。
「おっ、こりゃあいい! うまそうだ!」
タンダは、おおよろこびで、チキサに礼《れい》をいった。
「ありがとうよ。さっそく焼いて食《く》おう。」
マーサの店《みせ》ではたらきはじめているといっても、奉公見習《ほうこうみなら》いの身分《みぶん》では、まだ、それほどの賃金《ちんぎん》はもらっていないだろう。そのわずかな金で、こんなおみやげを買ってきてくれたチキサの気もちがうれしかった。
山菜鍋《さんさいなべ》が煮《に》えると、タンダは鍋を火からおろして、かわりに足つきの網《あみ》を火にかけた。そして、ホウロ漬《ず》けの肉《にく》を、その網にのせた。
ジリジリと音をたてて肉が焼《やけ》け、あぶらが炭《かみ》に落ちるたびに、ジュッと小さな音がして、こうばしいにおいが家じゅうに満《み》ちる。
やわらかくて、味《あじ》がよくしみた焼肉《やきにく》と、ほっかり炊《た》けた飯《めし》と、あたたかい山菜汁《さんさいじる》を、タンダはふたりによそってやった。
チキサは夢中《むちゅう》で肉にかぶりつき、飯をかきこんでいる。
アスラは、はじめ、ゆっくりと汁をすすっていたが、やがて、すこしずつ顔に血《ち》の気《け》がもどりはじめると、焼肉にも手をのはし、おいしそうに食べはじめた。
夕食《ゆうしょく》を食べおわるころには、アスラの顔は、目にみえておだやかになっていた。
タンダ特製《とくせい》の、やや甘《あま》みのあるお茶《ちゃ》をすすりながら、アスラは兄をみあげた。チキサはうなずいて、タンダに、とつぜんやってきたわけを話しはじめた。
「じつは、ずいぶんまえから、アスラが夢《ゆめ》をみて、うなされるようになって……。はじめは、あのころの夢をみて、うなされているのかと思ったんだけど、本人《ほんにん》がちがうっていうんです。
それでですね、三日《みっか》まえに大奥《おおおく》さまのお供《とも》をして、光扇京《こうせんきょう》についたら、なんだか、ものすごくおちつかなくなっちゃって、そのうちに、タンダさんのところにいきたいっていいだして。なにか、話したいことがあるんだって……。」
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一瞬《いっしゅん》、タンダは、アスラが話せるようになったのかと期待《きたい》したが、アスラは口をひらくのではなく、懐《ふところ》からとりだした紙《かみ》をタンダにわたしてきた。包《つつみ》み紙の裏《うら》になにか書《か》いてある。
それをひろげてみて、タンダは、まばたきした。まったくみおぼえのない字がならんでいたからだ。
「 − ・・・・ごめんよ、アスラ。これはタルの文字《もじ》かい? おれはロタ文字なら読めるが、タル文字は読めないんだ。」
チキサがあわてて、手をのばした。
「あ、すみません。そうだった。アスラが書くのはタル文字だけだったっけ。」
チキサは妹が書いた文字を読もうとして、ためらった。
「なんだか、よくわからない内容《ないよう》だなぁ、やっぱり。」
「いいさ。とにかく読んでくれよ。」
タンダがうながすと、チキサは、タル語《ご》の文章《ぶんしょう》をヨゴ語になおして読みはじめた。
「・・・・タンダさん、まえに、たすけてくれて、ありがとう。今日《きょうは》は、おしえてほしいことがあって、これを書いています。
去年《きょねん》の春《はる》ごろから、よく、おなじような夢をみます。なんだかわからない夢。目がさめると、おぼえていない。でも、ときどき思いだしたように、重い岩《いわ》に胸《むね》をおされているような、重い感じ、いそいで走ってにげたいようで、心《しん》ノ臓《ぞう》が、ドンドン、音をたてて、わたしを追《お》いたてるのです。
あのときのことを思いだしたときの、こわい夢《ゆめ》と、にているけれど、ちがう。」
アスラは、じっとタンダをみつめている。その目の必死《ひっし》さが、タンダを不安《ふあん》にさせた。
「……いっしょうけんめい、考えるうちに、気がついた。
この気もちをおぼえるようになったのは、ノユーク(聖《せい》なる世界) の、瑠璃色《るりいろ》の水のなかを、なにかが遠くから泳《およ》いでくる夢《ゆめ》をみたときからだって。
聖なるもの。あの神《かみ》とはちがう、聖なるものが、遠くからやってきた。それが、わたしを、すごく、不安にさせているの。
都《みやこ》の橋《はし》をわたったとき、鳥肌《とりはだ》がたって、夢をみているときとおなじ気もち、走りだしたいような、さけびたいような感じがして、都の宿《やど》では、こわくてねむれなかった。
なにか、しなければならないと感じる。 − でも、なにをすればいいのか、わからない。
おしえてください、タンダさん。わたしは、どうすればいいの……?」
タンダは、肌《はだ》が冷《つめ》たくなるような緊張《きんちょう》を感じていた。
「 − なにが、どこから、やってきたんだね?」
アスラは眉間《みけん》にしわをよせて、兄の手をとった。そして、てのひらに文字《もじ》を書きはじめた。
チキサは、妹が指《ゆび》で書いている文字を読みとって、ぽつぽつと声にした。
「南からきた。だけど、なにって、わからない。ただ、聖《せい》なるものの……。」
タンダはうなった。
「それは、泳《およ》いできたっていったね。南からここへきて・・・いまも、ここにいるのかい?」
チキサは、妹の答《こた》えをまった。アスラは兄のてのひらに文字《もじ》を書くと、すぐに、手をひらひらとうごかした。
「南からきて、泳《およ》いでいった。あっちのほうへ……。」
アスラがゆびさしている方角《ほうがく》に目をむけて、タンダは、はっとした。
アスラの指《ゆび》は、まっすぐに北 − 青霧山脈《あおぎりさんみゃく》と、カンバル王国《おうこく》があるほうをさしていたのだ。
(あの、みょうにあたたかいナユグの河《かわ》がながれていったさきと、一致《いっち》している。)
その話をしようと、タンダがロをひらきかけたとき、玄関《げんかん》の戸をたたく音がきこえてきた。
タンダは、眉《まゆ》をひそめて立ちあがった。
「きょうはお客《きゃく》さんの多い日だな。」
土間《どま》におりて、引《ひ》き戸《ど》をあけると、闇《やみ》のなかに、旅灯《りょとう》をさげた男の姿《すがた》がうかびあがった。
「兄貴《あにき》……。」
長兄《ちょうけい》のノシルは、旅灯の火をふきけして戸のわきにおいてから、タンダにむきなおった。
あおざめた顔をしている。
「どうしたんだ兄貴、だれか、ぐあいでもわるいのか。」
ノシルは、日にやけ、つかれきった顔をぷあついてのひらでなでながら、首をふった。
「そうじゃねぇ。……おまえに、たのみがあってきたんだ。兄弟みんなからの、たのみだ。」
その瞬間《しゅんかん》、タンダは、兄がなぜ、ここへやってきたのか、わかった。兄が自分に、なにをたのもうとしているのかを − そして、自分が、それをことわれないことも。
黒ぐろとした恐《おそ》れとかなしみが、胸《むね》にひろがった。
家にはいろうとせず、兄は、タンダが予想《よそう》したとおりの言葉《ことば》をつぶやいた。
「村でアラト(くじ引《び》き)をやった。カイザがな、草兵《そうへい》にあたっちまった……。」
カイザはタンダの弟で、兄弟のいちばん末《すえ》っ子《こ》だ。|一昨年《いっさくねん》|嫁《よめ》をもらって、この春、かわいい娘《むすめ》がうまれたばかりだ。
家族《かぞく》のみんながあつまって、なにを話しあったのか、きかなくてもわかる。
タンダは、こおりついたように、じっと兄の顔をみつめていた。
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7  シュマの男《おとこ》
バルサがゴイ(サイコロ)をふると、ゴイははかったようにぴったりと、ススッ卜|盤《ばん》(サイコロ賭博用《とばくよう》の盤) の中央《ちゅうおう》の赤い円に落《お》ちてとまった。卓《たく》をかこんでいる男たちは、ゴイの目をみて、ため息《いき》をもらした。
「ちきしょう。いい目ばっかりだしやがるぜ。」
バルサは、ちょっと眉《まゆ》をあげてほほえんだ。
もう、これで五|晩《ばん》、バルサは三人の門衛《もんえい》たちとススット(サイコロをつかう賭《か》けごと)をし、酒《さけ》を飲《の》んでいる。門衛たちは底《そこ》なしに酒を飲んだが、とくに酒がつよいというわけでもなく、飲めば陽気《ようき》になり、口がかるくなった。
「あんたの番《ばん》だ。ゴイをふりな。」
バルサがいうと、正面《しょうめん》の門衛が酒椀《とゅわん》をおいて身《み》をのりだし、なれた手つきでゴイをふった。
バルサは短槍《たんそう》をもたず、ラフラ(賭《か》けごと師《し》)がこのんで身《み》につける縁起《えんぎ》ものの赤い肩布《かたぬの》を肩《かた》からななめにかけていた。
チャグムが城《しろ》をおとずれたかどうか、おとずれたとしたら、その後《ご》どうなったのかをききだすためには、なるべく多くの門衛《もんえい》たちと話をする必要があった。だが、門衛が、領主《りょうしゅ》の来客《らいきゃく》のことをぺらぺらとしゃべるはずもない。
あやしまれずに情報《じょうほう》をひきだすために、バルサはラフラのふりをして、彼《かれ》らをススットにさそい、適度《てきど》に勝《か》たせたり、負《ま》かしたりしていた。ラフラならば、知らない相手《あいて》に声をかけて、酒席《しゅせき》にさそってもあやしまれない。それに、バルサは、ほんとうにラフラになっても、そこそこやれるくらいのススットの腕《うで》をもっていた。
(知っていてわるいことは、ひとつもない……か。)
養父《ようふ》のジグロのロぐせだった言葉《ことば》を思いだし、バルサは心のなかでほほえんだ。
バルサをそだててくれたジグロは、たまに酒場《さかば》の用心棒《ようじんぼう》をすることがあった。ロタの場合《ばあい》、たいていの酒場には、屋根裏《やねうら》に雇《やとい》い人《にん》たちが寝起《ねお》きをする部屋《へや》があって、まだおさなかったころは、日が暮れて酒場がひらくころになると、ジグロに「寝《ね》ていろ」といわれるまま、ひとりで寝床《ねどこ》にもぐりこんだものだ。床《ゆか》の下から、こもってきこえてくる男たちの声や、女たちのかんだかい声、酒盃《しゅはい》がふれあう音が、子守唄《こもりうた》がわりだった。
すこし大きくなると、下働《したばたら》きの少女たちにまじって酒場《さかば》ではたらいた。そのうちに、下働きの仕事《しごと》でかせぐだけでなく、おとなたちの賭けごとの場に首をつっこんで賭《か》けごともおぼえた。
ジグロは、べつにしからなかった。知っていてわるいことは、ひとつもない。金をかせぐ手段《しゅだん》を、できるだけたくさん知っておけ、というのが、ジグロのロぐせだった。
「おれは、いつ死《し》ぬかわからんのだからな。賭《か》けごとでもなんでも金をかせぐすべを知っていれば、ひとりになっても食っていける」と。
そのかわり、むちゃな賭けをしてはでに負けても、ぜったいに尻《しり》ぬぐいはしてくれなかった。自分ではらえない金を賭けるようなやつは痛《いた》い目をみるのが世の習《なら》いさ、といって。一度痛い目にあえば、心底《しんそこ》こりる。おかげで、バルサは、十三のころにはもう、どのくらいが賭けられる金の限度《げんど》か、勘《かん》がはたらくようになっていた。
バルサが好《す》きだったのは、ススットというゴイ(サイコロ)をふった目の数で勝負《しょうぶ》をする賭《か》けごとだった。うまれつき手先《てさき》が器用《きよう》なので、指のひねりひとつで、好《す》きな目をだすコツをすぐにおぼえてしまい、おとなたちにも勝《か》てたからだ。そんなバルサの手先の器用さに目をとめた、ある老女《ろうじょ》が、おもしろ半分に、さまざまな技《わざ》をしこんでくれた。 この老女は、はやくにふた親《おや》をなくし、生涯《しょうがい》のほとんどをラフラとしてすごした人で、彼女《かのじょ》とわかれるときは、ずいぶんさびしい思いをしたものだ。
門衛《もんえい》たちは職務《しょくむ》に忠実《ちゅうじつ》で、なかなか領主《りょうしゅ》への来客《らいきゃく》の話はしなかったが、それでも、五|晩《ばん》もつきあえば、すこしずつ情報《じょうほう》があつまってくる。バルサは、チャグムがスーアンの城《しろ》へいったのはまちがいないと感じていた。 − そして、漁民《ぎょみん》の腰巻姿《こしまきすがた》であったにもかかわらず、たぶん、城のなかにとおされている。
きみょうな若者《わかもの》が、領主《りょうしゅ》に面会《めんかい》をもとめてきたのを追《お》いはらっただけなら、門衛《もんえい》たちは気楽《きらく》に話したはずだ。しかし、バルサがかまをかけたとき、門衛たちは顔をくもらせてだまりこみ、ぎこちなく話をそらした。なにかの理由《りゆう》があって、上司《じょうし》から、きっちり口止《くちど》めされているのだと感じられるしぐさだった。
チャグムが領主にあい、皇太子《こうたいし》として|餐客《ひんきゃく》|扱《あつか》いをされて、無事《ぶじ》にロタ王《おう》のもとへおくられたのなら、事態《じたい》はバルサの手のとどかぬところへいったことになる。しかし、ほんとうにそうなのか、たしかめたかった。
安い香水《こうすい》のにおいをただよわせながら、給仕《きゅうじ》の女がやってきて、大きな皿《さら》を卓《たく》においた。
「……はい、マッサル (ひき肉と卵をねって、ひとロ大に揚げたもの)、おまちどう。」
こうばしい揚《あ》げもののにおいに、衛兵《えいへい》たちは笑顔《えがお》になった。
「お、きた、きた。」
彼《かれ》らがマッサルを指《ゆび》でつまんで口にほうりこむのをみながら、バルサは、心のなかで、これじゃ、ススットの腕《うで》があがらないわけだと苦笑《くしょう》した。油がついた指では、たとえぬぐっても、ゴイを微妙《びみょう》にうごかしながらなげるのはむずかしくなる。自分の番《ばん》がくると、バルサは服《ふく》でゴイをよくぬぐってからなげた。
衛兵《えいへい》たちが、がっかりした声をあげるのをききながら、バルサは細刃《ほそば》の短刀《たんとう》でマッサルを刺《さ》して、ロに入れた。かむうちに、かすかに、いつもとちがう舌を刺すような味《あじ》を感じた。
(古い油をつかってるな、この酒場《さかば》は。)
ちらっと、そんな思いが頭をかすめたが、バルサはすぐに勝負《しょうぶ》に気もちをもどした。
むかい側《がわ》にいるいちばん若い衛兵《えいへい》が、ゴイをなげようとして、みょうな顔をした。眉根《まゆね》をよせ、冷《ひ》や汗《あせ》をかいている。
その若者《わかもの》がゴイを落《お》として、椅子《いす》からすべりおちた瞬間《しゅんかん》、バルサは、|戸口《とぐち》|近《ちか》くにいた男が、外になにか合図《あいず》をしたのをみた。
いやな予感《よかん》が全身《ぜんしん》をつらぬき、バルサは立ちあがろうとして、よろめいた。
足に力がはいらない。目の前の風景《ふうけい》が二重になり、ゆっくりとまわっている。
(しまった……!)
さっきのマッサルになにかはいっていたのだ。卓《たく》をかこんでいた衛兵《えいへい》たちが、つぎつぎに気をうしない、椅子《いす》をひっくりかえして、床《ゆか》にたおれていく。
客《きゃく》たちが、おどろき、さわぐ声と、兵士《へいし》たちがかけこんでくるあらあらしい足音がひびき、バルサは、あっというまに、武装《ぶそう》した兵士四人にとりかこまれていた。
手をのばしてきた兵士の手首《てくび》をはじき、バルサは、その兵士の目に指《ゆび》をつっこんだ。右目をつかれて、のけぞった兵士をおしのけて、バルサは囲《かこ》みをぬけようとしたが、手足に力がはいらず、ふんばることができなかった。めまいがひどくなって、まっすぐ立っているのか、ななめになっているのかさえ、わからない。
背後《はいご》から、がっしりと両腕《りょううで》をかかえこまれた。とっさに頭をふって、思いっきり後頭部《こうとうぶ》をそいつの鼻《はな》にたたきつけると、うめき声とともに腕がゆるんだが、ぬけだす間《ま》もなく、ベつの兵士《へいし》に腹《はら》をなぐられた。
息《いき》がつまり、目の奥《おく》に火花がちった。バルサはひっしに奥歯《おくば》をかみしめて、気をうしなうまいとした。大柄《おおがら》な兵士たちが、乱暴《らんぼう》に両側《りょうがわ》からバルサの腕《うで》をつかんだ。もがくことさえできないほど、がっちりと腕をつかまれて、バルサは、酒場《さかば》の玄関口《げんかんぐち》のほうへひきずられていった。
玄関口へ通じる通路《つうろ》は、両壁《りょうかべ》が衣《ころも》かけになっていて、客《きゃく》のカロ (ロタふうのマント)がずらっとかかっている。
兵士《へいし》たちが、バルサをひきずりながらその通路《つうろ》にはいると、酒場についたばかりの客《きゃく》だろうか、ぬいだカロを手にもって通路に立っていた男が顔をあげて、こちらをみた。外はかなり冷《ひ》えてきているのだろう。男は鼻《はな》のあたりまでシュマ (風よけ布《ぬの》) で顔をおおっている。
「おい、そこをどけ。」
おうへいな口調《くちょう》で兵士が男に声をかけたときだった。男が、いきなり、手にもっていたカロをすくいあげるようにしてふりまわした。……と、なにか小さな袋《ふくろ》のようなものがカロの下からとびだし、バルサの前に立っていた兵士の胸《むね》にあたった。
とたん、ばっと白い粉が煙《けむり》のようにまいあがり、兵士たちが、わっとさけんで、顔を手でおおった。
前がみえない。粉をすいこんで、兵士《へいし》もバルサも、はげしくせきこみはじめた。 シュマで顔をおおった男が、すばやく兵士のうしろにまわりこみ、バルサの右腕《みぎうで》をつかんでいる兵士のうなじを肘《ひじ》でうった。兵士は、うめいて、前のめりにくずれおちた。バルサは、たおれていく兵士にひきずられるかっこうで、兵士のほうへたおれかけた。
バルサの左腕をつかんでいた兵士が、せきこみながら、なんとかバルサをひっぱって、立たせようとした。ななめになって、その兵士をみあげたバルサは、人影《ひとかげ》が彼《かれ》の背後《はいご》にまわるのをみた。
つぎの瞬間《しゅんかん》、その人影《ひとかげ》は、兵士《へいし》のうなじに手刀《てがたな》をふりおろした。兵士はうめき声もたてずに、くずれおちた。
「・・・立てるか。」
くぐもった声が耳もとできこえ、バルサは肘《ひじ》のあたりをもたれて、ささえられたのを感じた。
「出口はあっちだ。走れ!」
背《せ》をおされ、バルサは、よろめきながら走りだした。
背後《はいご》で、男が兵士《へいし》と格闘《かくとう》しているにぶい音がきこえている。
咳《せき》がとまらず、目がいたんで涙《なみだ》がぼろぼろこぼれる。めまいがどんどんひどくなり、周囲《しゅうい》の景色《けしき》がゆがんで、悪夢《あくむ》のなかをもがいているようだった。
なにがおきているのか、まったくわからなかったが、ひとつだけ、たしかなことがある。
いまの自分には、味方《みかた》はいない。 − いるはずがないのだ。
何者《なにもの》かわからないが、シュマで顔をかくしている男からも、逃《に》げねばならない。
背後《はいご》から、その男が走ってきて、バルサの腕《うで》をささえた。
「そこが出口だ。走れ!」
男の手をふりはらおうとしたが、うなじがしびれ、頭のなかに蝉《せみ》がとびこんだかと思うような、すさまじい耳鳴《みみな》りがして、冷《ひ》や汗《あせ》がふきだしてきた。闇《やみ》が視界《しかい》をおおい、視野《しや》がみるみるせばまっていく。背後《はいご》からかかえられたのを感じながら、バルサは闇のなかにおちていった。
闇《やみ》のなかにいても、身体《からだ》がゆっくりとまわっているような、不快《ふかい》な気分がつづいていた。
闇《やみ》の底《そこ》からうかびあがるようにして意識《いしき》がもどりはじめると、きれざれにきこえていた音が、すこしずつ、意味《いみ》をもつ言葉《ことば》になって耳にはいってくるようになった。バルサは目をとじたままで、その声をきいていた。
「・・・わからんな。たぶん、チュヤル (しびれ薬《ぐすり》)かなにかだろう。冷《ひ》や汗《あせ》をかいているが、はいていないからな。まあ、夜明《よあ》けぐらいには、目をさますだろうよ。」
どこかできいたことのある声だった。だが、どこできいたのか、思いだせなかった。
( − ヨゴ語《ご》だ……。)
ぼんやりと、バルサは思った。ヨゴ語だが、なにか違和感《いわかん》がある。
男は、話しつづけている。
「チュヤルなら、目をさましても、身体《からだ》のしびれは一日中のこる。最初《さいしょ》の一日がいちばんひどい。ロはきけるが、手足がなえる。尋問《じんもん》するにはつごうがいい薬《くすり》だぜ、チュヤルは。」
男がいったとおり、目はさめていても、身体《からだ》はしびれて重く、手足がうごかなかった。気をうしなうまえより、ひどくて、まったくうごかない。
しかたなく、身体の力をぬいて、バルサはあたりのようすをさぐった。
かたい寝台《しんだ》に寝《ね》かされているらしい。人の声が消《き》えると、どこかで、チャプチャプと水音がきこえた。
(船のなかか?)
だが、波《なみ》のゆれは感じない。船宿《ふなやど》かなにか、港《みなと》の海に面《めん》している建物《たてもの》かもしれない。
バルサのわきにいた男が立ちあがって、はなれていく気配《けはい》を感じた。椅子《いす》をひいて、すわったらしい。ぎい、と椅子がきしんだ。
だれか部屋《へや》の奥《おく》にいるのだろう。男が不機嫌《ふきげん》な声で話しかけている。
「まったく、なにを考えているんだろうな、おまえは……。」
笑《わら》いをふくんだ低い声が、なにか応《おう》じたが、よくきこえなかった。その返答《へんとう》をきくと、男の声は、よけいに、いらだったように大きくなった。
「……なにをいっている! くだらん。おまえはききあきたかもしれんがな、もういちどいっておくぞ。おまえは、あの皇太子《こうたいし》に感情的《かんじょうてき》に肩入《かたい》れしすぎている。……いや、否定《ひてい》するな。おれには、わかっているんだ。」
がたん、と、音をたてて男が椅子《いす》から立ちあがり、足音をひびかせて部屋《へや》からでていった。
バルサは目をとじたまま、鼓動《こどう》がはやくなっていくのを感じていた。
( − あの皇太子……。)
チャグムのことだろうか。感情的《かんじょうてき》に肩入《かたい》れしすぎているとは、どういうことだ?
かすかに、チョウル (煙香木《えんこうぼく》=火をつけて吸煙《きゅうえん》してたのしむ香木) のかおりがただよってくる。むこうにいるのは、たぶん、シュマで顔をおおっていた、あの男だろう。
身体《からだ》のしびれと、にぶい頭痛《ずつう》はのこっているが、頭は、はっきりしてきた。
(そうか……。)
部屋《へや》からでていった男の声をどこできいたか、思いだした。(赤白《あかめ》のユザン) の船室《せんしつ》で、ユザンに呪術《じゅじゅつ》をかけていた、あのヨゴ人の小男の声だ。酒場《さかば》で、ユザンの弟から、たくみにタルファ (紅炎石《こうえんせき》) の話をひきだしていた、あの男。あとをつけたら、案《あん》の定《じょう》、ユザンを呪術にかけて、チャグムについてききだそうとしていた。殺《ころ》さずに、船小屋《ふなごや》の柱《はしら》にしぼりつけてきたが、仲間《なかま》にたすけだされたらしい。
(ということは・・・。)
この部屋《へや》にいる男 − シュマで顔をおおい、自分をここへはこんできた男は、宝石商《ほうせきしょう》の店《みせ》ですれちがった、あのヨゴ人なのだろうか。
なにがおこっているのか、どうもよくわからなかった。
あの酒場《さかば》でバルサをとらえようとした兵士《へいし》たちは、胸当《むねあて》てにスーアン大領主《だいりようしゅ》の紋章《もんしょう》をつけていた。衛兵《えいへい》たちに、チャグムのことをききだそうとしていたことが、どこかから大領主につたあり、自分をとらえる命令《めいれい》が発《はっ》せられたのだろう。そこまでは、わかる。
だが、なにかきみょうな感じがするのだ。
(わざわざ酒場《さかば》の料理《りょうり》に薬《くすり》をもるなんて、そんな手のこんだことを大領主《だいりょうしゅ》がするだろうか。それも、わたしが警戒《けいかい》せずに食べるように、門衛《もんえい》たちにも知らせずに食べさせるなんて……。)
とはいえ、門衛たちがたおれたのを合図《あいず》に兵士《へいし》たちがとびこんできたことは、たしかだ。
薬《くすり》をもるという慎重《しんちょう》な手口と、兵士が酒場に踏みこんでくるというあらっぽい手ロ ー 自分ひとりをとらえるためにとられた策《さく》のちぐはぐさに、バルサは気味《きみ》のわるさを感じた。
チャグムをさがして扉をたたいてまわれば、いつかは、扉のむこう側《がわ》にいる者《もの》に気づかれる。それは、はなから覚悟《かくご》していたことだ。だが、扉のむこう側には、ぼんやりと思いえがいていたより、はるかに複雑《ふくざつ》で底《そこ》のみえぬなにかがうごめいているらしい。スーアン大領主《だいりょうしゅ》が隣国《りんごく》の皇太子《こうたいし》をかくまっている、というだけなら、こんなきみょうな捕獲劇《ほかくげき》が演《えん》じられるはずがない。
この部屋《へや》にいる男も、「扉《とびら》のむこう側《がわ》」 にいたひとりなのだろう。なにかの思惑《おもわく》があって、大領主《だいりょうしゅ》の手におちるまえに、自分をさらった。
背筋《せすじ》が、ぞくぞくと寒《さむ》くなった。
ひとつだけ、たしかなことがある。 − チャグムが生きていることは、もはや、多くの者《もの》に知られているのだ…‥
男が立ちあがった気配《けはい》がした。足音がちかづいてくる。杖《つえ》をついているような、コツ、コツ、という音がした。
顔に影《かげ》が落ちた。
「……目が、さめているんだろう? まえとは、呼吸《こきゅう》の調子《ちょうし》がちがうぜ。」
ふかみのある声だった。
バルサは、目をあけた。
宝石商《ほうせきしょう》の店ですれちがった、あのヨゴ人の男《おとこ》がみおろしていた。
二十七、八にみえる。だが、どこか年齢《ねんれい》が読めないところがあった。老成《ろうせい》しているだけで、じっさいはもっと若《わか》いのかもしれない。刃物《はもの》を思わせる精悍《せいかん》な顔だちなのだが、かすかに笑《え》みをたたえた黒い目のせいか、みょうに人をひきつけるやわらかさもある。 男が手にしているものをみて、バルサは、はっとした。男はほほえんで、短槍《たんそう》をちょっともちあげてみせた。
「あんたが部屋《へや》をとっている宿《やど》にしのびこんで、もってきた。あの店《みせ》ですれちがったときから、もしかしたらと思っていたが、こいつをみつけて確信《かくしん》したよ。 おれは、あの歌物語《うたものがたり》が好《す》きなんだ。歌語《うたがた》りのユグノがうたう、(水の精霊《せいれい》とチャグム皇太子《こうたいし》の勲《いさしお》)。機会があるたびに、きいている。」
男は短槍《たんそう》の石突《いしづ》きで、床《ゆか》をトン、とついた。
「カンバル人の女で、短槍をもっていて、チャグム皇太子《こうたいし》をさがしている。……となれば、あなたがだれか、子どもでもわかる。そうだろう? バルサさん。」
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1  味方《みかた》のなかの敵《てき》
青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の山やまの山頂《さんちょう》が、うっすらと雪《ゆき》をかぶり、夜明《よあ》けには里《さと》にも霜《しも》がおりるようになると、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の宮《みや》でおこなわれている宮廷評定《きゅうていひょうじょう》は、ぴりぴりとしたいらだちと緊張《きんちょう》にさいなまれる場と化《か》していた。
帝《みかど》は、暗《くら》い表情《ひょうじょう》をうかべている重臣《じゅうしん》たちをみまわしたあと、ラドゥ大将《たいしょう》にいった。
「わが皇国|軍《ぐん》の備《そな》えは、どこまですすんだか。」
ラドゥ大将は額《ひたい》に汗《あせ》をうかせて、ちらっと、かたわらをみた。ラドゥ大将のかたわらには、彼の弟であり、皇国|陸軍副将《りくぐんふくしょう》であるカリョウがひかえている。 カリョウは、ラドゥと兄弟とはとても思えぬほど、ラドゥとは姿《すがた》も性格《せいかく》もことなる男だった。あから顔でつねに人を威嚇《いかく》するように大声で話すラドゥにくらべ、白髪《しらが》まじりの黒髪《くろかみ》をきちっとととのえたカリョウは、筋骨《きんこつ》たくましいが|一見《いっけん》|細身《ほそみ》にみえる男で、およそ声にも顔にも感情《かんじょう》をあらわさない。
カリョウは、たずさえていた巻物《まきもの》を、カサカサとひろげた。
「おそれながらもうしあげます。皇国軍《おうこくぐん》の備《そな》えにつきましては、あたくしが、陸軍《りくぐん》・|海軍《かいぐん》|双方《そうほう》のこまかい調整《ちようせい》をいたしておりますので、わたくしのほうから、現状《げんじょう》をご説明《せつめい》いたします。」
サンガル王国《おうこく》がタルシュ帝国《ていこく》に寝《ね》がえったとわかったときに、帝《みかど》とラドゥ大将《たいしょう》がたてた防衛策《ぼうえいさく》の根幹《こんかん》は、砦《とりで》の建造《けんぞう》だった。
タルシュ帝国軍《ていこくぐん》が攻撃《こうげき》してくるまでに、国境《こっきょう》から都《みやこ》へ大軍《たいぐん》が攻《せ》めのぼることができる街道《かいどう》の要衝《ようしょう》に砦をつくり、進軍《しんぐん》をふせごうというのである。
砦《とりで》をまもる側《がわ》は、攻《せ》める側より、はるかにすくない兵力《へいりょく》でたりる。それを考えれば、たしかに、これはよい策《さく》だったが、難点《なんてん》がいくつかあった。
ひとつめは、この方法では、都《みやこ》はまもることができても、南部《なんぶ》の穀倉地帯《こくそうちたい》をタルシュにとられてしまうということ。
そして、ふたつめは、すべての街道《かいどう》に堅固《けんご》な砦《とりで》をつくるには、時間も人手もたりないということだった。長期戦《ちょうきせん》になることを考えるなら、作物《さくもつ》の収穫《しゅうかく》がゆたかであることがたいせつだった。農民《のうみん》をかりあつめすぎて、農地《のうち》をあらすわけにはいかない。とくに、南の穀倉地帯からの収穫がなくなれば、中部と北部の作物《さくもつ》にたよらねばならないのだから。
これらのことを指摘《してき》する声に、ラドゥ大将《たいしょう》は、こうこたえた。 − 国の魂《たましい》は、帝《みかど》である。
たとえ、国土《こくど》がせばまろうと、都《みやこ》を死守《ししゅ》することを、まず考えるべきであると。
また、建設《けんせつ》する砦《とりで》は、すべてを堅固《けんご》なものにする必要《ひつよう》はない。人手と時間がたりないなら、そのうちのいくつか − 都へ攻《せ》めのぼるには、遠まわりになるような道の上につくるものは、見せかけだけのものでもよいではないかと。
ただし、この策《さく》は、タルシュに情報《じょうほう》がもれてしまえば、たいへんな失敗《しっぱい》におわる。それをふせぐために、鎖国《さこく》を完璧《かんぺき》にせねばならないと、ラドゥは説いた。
外から密偵《みってい》がはいってくるのをふせぐのはもちろん、いま、国のなかにひそんでいる密偵を外へだしてはならないと。 − こうして、国境《こっきょう》の閉鎖《へいさ》がおこなわれたのである。
この策《さく》が実行《じっこう》にうつされて、一年と数か月がすぎた。都《みやこ》に近いところから着工《ちゃっこう》された、砦《とりで》の建設《けんせつ》も、ちゃくちゃくとすすみ、いまは、国境の近くにも、砦がきずかれている。
草兵《そうへい》もあつめられ、各地《かくち》へとおくられている。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》は国をあげて侵略軍《しんりゃくぐん》とたたかう兵士《へいし》をあつめていた。 − しかし、国じゅうから草兵をかりあつめても、すでに、サンガル半島《はんとう》に集結《しゅうけつ》しているタルシュ帝国軍《ていこくぐん》の兵力《へいりょく》よりすくなかった。
カリョウが、たんたんと告《つ》げていく、皇国《おうこく》の軍備《ぐんび》の状況《じょうきょう》を、シュガは、胸《むね》が冷《ひ》える思いできいていた。
カリョウは兄のラドゥのように、「皇国軍《おうこくぐん》の魂《たましい》の力は、賊軍《ぞくぐん》の百|倍《ばい》にあたる」というような飾《かざ》りをつけず、ただ、事実《じじつ》のみをかたっていく。それだけに、評定《ひょうじょう》の場にいるものには、自分たちをまもってくれる軍が、二度、三度までの攻撃《こうげき》にはたえられても、それ以降《いこう》は、じょじょに追《お》いつめられていくであろうことが、はっきりとわかった。
カリョウの声が、しずまりかえった評定の場にひびいていく。
「サンガルにひそませた密偵《みってい》の報告では、今年《ことし》はラッカルー(渦嵐《うずあらし》)が多く、タルシュ帝国《ていこく》は、まだ、大きな艦隊《かんたい》をサソガル半島《はんとう》につけることができないでおります。
緒戦《しょせん》で攻《せ》めてくるのは、いま、サンガル半島に駐留《ちゅうりゅう》している軍勢《ぐんぜい》でしょう。その数、およそ三万。皇国《おうこく》とサンガルの国境線《こっきょうせん》でおこなわれるこの緒戦では、最前線《さいぜんせん》に、民《たみ》からあつめた草兵《そうへい》をおくつもりでおります。」
右大臣《うだいじん》が、さっと手をあげた。
「農民《のうみん》やら商人《しょうにん》やら、剣《けん》の持《も》ち方《かた》も知らぬ者《もの》たちを最前線《さいぜんせん》においては、敵軍《てきぐん》をいい気にさせるだけではないか?」
カリョウは大臣が話しおえるのをまって、ロをひらいた。
「それがねらいでございます。敵軍《てきぐん》は、もともと、われら新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》を一度も戦《いくさ》をしたことのない軍であると、あなどっております。
草兵《そうへい》を相手《あいて》にした敵軍《てきぐん》は、いよいよわれらをあなどり、いっきに攻《せ》めようとするでしょう。
その、うわついた気分でいる軍を、きびしい訓練《くんれん》をへた、われら新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の正規軍《せいきぐん》と対時《たいじ》させるのです。
草兵とて、人は人。剣《けん》をもたせ、槍《やり》をもたせれば、相手《ふいて》をつかれさせ、きずつけるくらいのことはできましょう。もともと、草兵とは、そのための兵。
草兵《そうへい》をけちらすことで気分《きぶん》がたかぶり、みずからのつかれに気づいていない軍を、われら正規軍《せいきぐん》がむかえうつのです。」
なるほど、というふうに右大臣《うだいじん》はうなずいたが、シュガは、暗い顔でカリョウをみていた。
多くの民《たみ》を殺《ころ》して緒戦《しょせん》を勝つことに、どんな意味があるというのか。
たとえば、援軍《えんぐん》をまつための作戦《さくせん》であるなら意味があるだろう。だが、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》には、たすけてくれる味方《みかた》は、いないのだ。
時は、タルシュの味方だ。タルシュには、あせる必要《ひつよう》がない。すこしずつでも新ヨゴ皇国軍をへらし、つかれさせておいて、来春《らいしゅん》には、大艦隊《だいかんたい》をおくりこむことができる。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》には、兵《へい》をふやす手だても、やすませる手だてもない。たたかうたびに、軍《ぐん》は小さく、よわくなっていく。
この場にいる者《もの》はみな、そのことに気づいているはずだ。だが、それをいいたてる者はいなかった。
彼《かれ》らは、ラドゥ大将《たいしょう》の策を信《しん》じているのだろうか。砦《とりで》を攻《せ》めるには、まもる数倍《すうばい》の兵力《へいりょく》がいる。砦さえまもりつづけられれば、いずれは勝機《しょうき》もおとずれるという、彼の策を。
しかし、このなかに、敵《てき》の内通者《ないつうしゃ》がいるのだ。どの砦が急《きゅう》ごしらえの、みせかけの砦なのか、情報《じょうほう》はすでにタルシュ側《がわ》にわたってしまっているだろう。
シュガは、目をふせた。
(……これ以上、むだについやせる時は、残《のこ》っていないな。)
その思いが胸《むね》のなかに落ちてきて、ひろがった。
人生《じんせい》とはふしぎなものだ。ふだんは、多くの努力《どりょく》をくりかえし、はてしなく思える長い時をたえながら、一歩一歩|坂《さか》をのぼるようにして未来《みらい》をきずかねはならぬのに、ときに、こうして、一瞬《いっしゅん》でおのれの未来を大きくかえる選択《せんたく》をせまられる。
それでも、賭《か》けにでるなら、いましかない。 − もう、まっている余裕《よゆう》はないのだ。
シュガは顔をあげ、評定《ひょうじょう》の場にそろっている、この国の高位者《こういしゃ》たちをみまわした。その瞬間《しゅんかん》、カリョウと目があった。カリョウは、さりげなく視線《しせん》をはずしたが、なぜか、彼《かれ》が自分に注目《ちゅうもく》していたことに気づいて、シュガは心のなかで眉《まゆ》をひそめた。
シュガがロをひらこうとしている気配《けはい》を、さっしたのだろうか。だとすれば、思っていたよりも、ずっと勘《かん》のいい男だ。
シュガは、かたわらにおいてあった巻物《まきもの》をとりあげ、すっと身体《からだごと》ごと帝《みかど》にむきなおった。
「おそれながら、もうしあげます。」
シュガの声に、はっと、評定衆《ひょうじょうしゅう》が顔をあげた。帝《みかど》は、シュガをみつめ、うなずいて、発言《はつげん》をゆるした。
シュガは、すんだ声でいった。
「いま天《てん》にあらわれている、天《てん》ノ相《そう》について、もうしあげたきことがございます。」
帝は、顔をくもらせた。
評定衆が、たがいに顔をみあわせている。天ノ相については、星読博士《ほしよみはかせ》はまず、帝にのみつたえ、その解釈《かいしゃく》を衆生《しゅうじょう》につたえるかどうかは、帝が判断《はんだん》するのがふつうである。こんなふうに、評定の場で、シュガが天ノ相について話そうとしていることに、人びとは、なにか不穏《ふおん》なものを感じたのだった。
シュガは言葉《ことば》をついだ。
「わたくしども星読博士《ほしよみはかせ》のつとめは、天意《てんい》を読みとき、帝《みかど》におつたえつかまつり、ご判断《はんだん》のたすけとすることでございます。
この軍議《ぐんぎ》について、帝がご判断をくだされるまえに、ガカイから、天《てん》ノ相《そう》のおつたえがなされておれば、わたしがこの場でもうしあげる必要《ひつよう》はございませんが……。」
帝《みかど》に視線《しせん》をむけられて、星読博士《ほしよみはかせ》のガカイはまっ赤になった。この二日間《ふつかかん》、ガカイは帝のおそばにつききりで、(星《ほし》ノ宮《みや》)にはもどっていない。シュガはそこに好機《こうき》をみて、いそぎ(星読《ほしよ》みの議《ぎ》)をひらき、天ノ相をよみといたこの巻物《まきもの》をつくらせたのだった。
シュガがかたわらにおいている巻物に目をやりながら、なにもいえずにいるガカイのようすをみて、帝は顔をしかめたまま、シュガに目をもどした。
「どのような天《てん》ノ相《そう》があらわれたのか。」
シュガは、一礼《いちれい》すると、巻物《まきもの》の留《と》めひもをするするとほどいた。
「天ノ相は、ごぞんじのとおり、一日、二日で判断《はんだん》するものではございません。ここ数年、この一年、そして、この半年の天ノ相をかさねあわせ、そのうつりかわりから、読みとくものでございます。
わたくしども星読博士《ほしよみはすせ》は、この軍議《ぐんぎ》にそなえ、帝《みかど》のご判断《はんだん》をおたすけするために、天《てん》ノ相《そう》を読みとく(星読《ほしよ》みの議《ぎ》)をひらいたのでございます。」
巻物《まきもの》をひらいて、うつくしい群青《ぐんじょう》の地に金でえがかれた天図《てんず》を帝《みかど》にしめしながら、シュガはいった。
「こまかいご説明《せつめい》はのちほどいたしますが、わたしども星読博士《ほしよみはかせ》の結論《けつろん》は、いまの天《てん》ノ相《そう》は、あきらかにへ生成変転《せいせいへんてん》ノ相《そう》)をしめしているということでございます。」
評定衆《ひょうじょうしゅう》のざわめきが大きくなった。
帝《みかど》は眉《まゆ》をひそめて、真意《しんい》をさぐるようにシュガをみつめた。
「……わが国が夷敵《いてき》におそわれようとしているこのときに、(生成変転《せいせいへんてん》ノ相《そう》)が天にあらわれるというのは、まさに当然《とうぜん》のこと。なにゆえに、いま、ことさら、それをいいたてるか。」
シュガは、わずかに目をふせながらも、しっかりとした口調《くちょう》でいった。
「(生成変転《せいせいへんてん》ノ相《そう》)は、ふたつの相反《あいはん》する未来《みらい》をしめすものと、古来《こらい》より考えられております。ひとつは、あらたなるものがうまれでる吉祥《きっしょう》。もうひとつは、古きものがほろぴさる|凶《きょう》 |兆《ちょう》。」
その言葉《ことば》は、鞭《むち》のように人びとをうった。ざわめきがたえ、評定衆《ひょうじょうしゅう》は息《いき》をのんで、シュガをみつめた。
「どちらの未来を民《たみ》にもたらすか、それは、ただ帝《みかど》のご判断《はんだん》にかかっておりまする。」
シュガの頬《ほほ》は緊張《きんちゅう》にあおざめていたが、目は、つよい光をうかべていた。
まだ若《わか》い、端正《たんせい》な顔をしたこの青年が、おのがすべてを賭《か》けて、帝《みかど》に言上《ごんじょう》をしているのだということを、評定衆は、ふいにさとった。
「民草《たみくさ》の血《ち》が聖《せい》なるこの国の大地《だいち》にしみこみ、かなしみの声がこの地に満《み》ちる未来《みらい》を、どうか、われらにおあたえになりませぬよう。 − あたくしは、帝《みかど》が吉運《きちうん》をおみちびきになられると、信《しん》じております。」
帝は、しばし、なにもいわずに、若《わか》い星読博士《ほしよみはかせ》をみつめていた。シュガは、もはや目をふせることなく、じっと帝をみあげている。その目をみるうちに、帝は、むらむらと怒りがこみあげてくるのを感じた。
「……そなたは、戦《いくさ》をさけよ、といっておるのか。」
シュガは、身《み》じろぎもせずにこたえた。
「あたくしは、|聖導師《せいどうし》|見習《みならい》いの身《み》。そのような言上《ごんじょう》をいたせる立場《たちば》ではございません。
帝《みかど》は、この国のおかれている状況《じょうきょう》を、あまさずにごぞんじであらせられます。戦《いくさ》になれば、どのようなことがおこるか、そのさきまで、みとおしておられることでございましょう。
わたくしは、ただただ、帝に、よきご判断《はんだん》をねがうのみでございます。」
しずまりかえった評定《ひょうじょう》の場に、ふいに、衣《きぬ》ずれの音がひびいた。
帝《みかど》が、玉座《ぎょくざ》から立ちあがったのだった。異例《いれい》のことに、人びとは、あぜんとして帝をみあげた。
「そなたらは……死がおそろしいか。」
帝《みかど》は、シュガから目をそらし、評定衆《ひょうじようしゅう》をみまわして、かすれ声でいった。
「わが祖《そ》は、獣《けもの》のようにたがいを食らいあう南の諸国《しょこく》の穢《けが》れをきらい、はるばる、この北の地にやってきた。
これまで、われらは、他国《たこく》とあらそうこともなく、天《てん》ノ神《かみ》がおしえ、みちびいてくださるままに、清《きよ》い国をきずいてきたのではないか? 小さいが、ゆたかな実《みの》りにみちた、この国を……。
ここは、天上《てんじょう》の理《ことわり》のままに地上に生《しょう》じた、玉《たま》のごとき、清き国ぞ。」
帝《みかど》の目に涙がしみだすのを、評定衆《ひょうじょうしゅう》は声もなく、こおりついたようにみつめていた。いつも平静《へいせい》な帝の声が、いま、あふれでる心情《しんじょう》をおさえきれぬように、ふるえていた。
「わたしは、わが親《おや》たる天《てん》ノ神《かみ》を心から信《しん》じておる。教えにしたがって、清く生きるわが子を、みすてる親があろうか? ……天ノ神は、かならずや、われらをおすくいくださる。」
帝《みかど》は、涙《なみだ》が頬《ほお》をつたうのをぬぐいもせずに、評定衆《ひょうじょうしゅう》をみまわした。
「そなたらは、死《し》がおそろしいか。天《てん》ノ神《かみ》を信じて、最後《さいご》の一兵《いっぺい》までたたかうのは、いやか。
おのれの命《いのち》をおしんで、穢《けが》れた強欲《ごうよく》な者《もの》の前にひざまずき、そなたらのうまれそだったこの国を−−かけがえのない、この国を、かれらの穢れた手にさしだすか。」
いつしか、評定衆《ひょうじょうしゅう》の目にも涙《なみだ》がにじんでいた。
その手に権力《けんりょく》をにぎり、人をうごかし、足をひっぱりあい、政争《せいそう》にあけくれてきた大臣《だいじん》や近衛士長《このえしちょう》、軍《ぐん》の大将《たいしょう》たちの頬《ほお》が、ぬれていた。
「主上《しゅじょう》・・・主上……。」
左大臣《さだいじん》が、のどをつまらせて、いった。
「われらは、この国を……天《てん》ノ神《かみ》と帝《みかど》にまもられた、この国を心から愛《あい》しております。
死《し》をおそれて、国を敵《てき》にさしだすようなふぬけ者《もの》は、ここにはおりませぬ。」
ラドゥ大将《たいしょう》も感きわまって立ちあがり、ほえるようにいった。
「われらは、最後《さいご》の一兵《いっぺい》まで、たたかって、たたかって、たたかいぬきまする! 穢《けが》れたタルシュよ、うらぎり者《もの》のサンガルよ、思いしるがいい! われらは、天《てん》ノ神《かみ》にまもられた清《きよ》き軍《ぐん》ぞ!」
賛同《さんどう》の声が評定《ひょうじょう》の場をゆるがすのを、シュガは目をふせてきいていた。
興奮《こうふん》した声の波《なみ》がしずまっていくと、帝《みかど》がゆっくりといった。
「わたしは、この国に、もっとも清《きよ》き未来《みらい》をもたらす。・・・一心《いっしん》に、わたしを信《しん》じよ。」
評定衆《ひょうじょうしゅう》は床《ゆか》に頭をこすりつけた。
評定《ひょうじょう》がおわると、評定衆は、ざわざわと会話《かいわ》をかわしながら、うすぐらい宮《みや》の廊下《ろうか》をあるきだしたが、だれもシュガに話しかける者《もの》はいなかった。
「 − 天《てん》ノ神《かみ》をまつる星読博士《ほしよみはかせ》たる者があのようなことをのべるとは、なさけない……。」
そう小声でののしっている者もあり、気《き》の毒《どく》そうにシュガをみる者もいたが、評定衆《ひょうじょうしゅう》の多くは、シュガがみずからの手で、みずからの未来《みらい》をとじてしまったと思っていた。
だが、当《とう》のシュガは、廊下《ろうか》を歩きながら、まったくべつのことを考えていた。
(……あれで、じゅうぶんな餌《えさ》になっただろうか。)
シュガが廊下《ろうか》の角《かど》をまがり、(星《ほし》ノ宮《みや》) へむかう渡《わた》り廊下のほうへむかったとき、だれかが、うしろから早足でちかづいてくるのを感じた。
シュガがふりかえると、巻物《まきもの》を胸《むね》にかかえたカリョウが、シュガに、かるく会釈《えしゃく》をした。
そして、すれちがいざま、周囲《しゆうい》の人たちにきこえぬような声でささやいた。
「すこし、お話ししたきことがございます。明日《あす》の(明《あ》けノ刻《こく》)に、祈祷堂《きとうどう》の裏手《うらて》にいらしてください。」
シュガは、全身《ぜんしん》にふるえがはしるのを感じた。
(なんと、カリョウ副将《ふくしょう》か……!)
命《いのち》がけでまいた餌《えさ》にかかった人物《じんぶつ》が、足ばやに歩みさっていくそのうしろ姿《すがた》を、シュガは声もなく、みつめていた。
朝《あさ》もやが、木立《こだち》をぬらし、木肌《きはだ》のにおいが大気《たいき》にかおっている。
朝の祈《いの》りのお勤《つと》めを、ほかの星読博士《ほしよみはかせ》からゆずってもらったシュガは、祈祷堂《きとうどう》で天《てん》ノ神《かみ》に聖水《せいすい》をささげ、ひざまずいて、心から祈《いの》った。
祈祷堂には神像《しんぞう》などはなく、中央《ちゅうおう》に土盛《つちも》りがあるだけだ。六角形の屋根《やね》の中央にあいている天窓《てんまど》から、朝の光がひと筋《すじ》、その土盛りにふりそそいでいる。
(天と地がまじわるところに、命《いのち》がうまれた。……神《かみ》は、人は、生き物は、この世《よ》のすべては、本来《ほんらい》、そういうものなのだ。素朴《そぼく》だが、おかしがたい、厳然《げんぜん》とした真理《しんり》だ。)
白くひかる土のおもてをみつめて、シュガは心のなかで、そう思った。
(聖《せい》なるものは、ここにある。 − ここと、この世《よ》のすべてに。)
ゆっくりと立ちあがり、シュガは、帝《みかど》の寝所《しんじょ》のあるほうへ目をむけた。しばらく、そうして、じっとしていたが、やがて、きっぱりとそちらに背《せ》をむけ、祈祷堂《きとうどう》をでていった。
祈祷堂の裏手《うらて》は、築山《つきやま》になっている。
下働《したば》きの男たちがやってくるにはまだ早いこの時刻《じこく》、広い築山は、しんとした朝の大気《たいき》につつまれていた。
シュガの姿《すがた》をみとめて、築山《つきやま》の岩《いわ》にもたれていた男が身《み》をおこした。
供《とも》のひとりもつれず、短剣《たんけん》を帯《おび》にたばさんでいるだけのカリョウは、昨日《さくじつ》の評定《ひょうじょう》の場《ば》とは、ずいぶん印象《いんしょう》がことなってみえた。評定の場では氷《こおり》の柱《はしら》のようだったが、いまは、ざっくばらんな男という感じがする。五十をすぎているはずだが、老《お》いのしるしは、髪《かみ》にまじっている白髪《しらが》だけで、兄のラドゥ大将《たいしょう》よりずっと若くみえた。
(そういえば、皇国軍《おうこくぐん》の正装《せいそう》をしていないカリョウ副将《ふくしょう》をみるのはこれがはじめてか。)
シュガは心のなかでつぶやいた。
「きてくださいましたな。」
カリョウが、ほほえんだ。
「なぜ、ご足労《そくろう》をねがったか、もう、さっしておられるのでしょうな。」
シュガは首をかしげてみせた。
「さて。もしかしたら、と思っていることはございますが。」
カリョウはうなずいて、声をひくめた。
築山《つきやま》に植《う》わっている木々はまばらで、みとおしがよい。祈祷堂のかげに人がかくれてきき耳をたてていないかどうかだけ、気をつけていればよかった。
「チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》は、この宮廷内《きゅうていない》に、タルシュ帝国《ていこく》と意をつうじている者がいることを知っておられた。文書《ぶんしょ》かなにかのかたちで、それが、あなたにつたあっているのでしょう。でなければ、わたしたちの身辺《しんぺん》をさぐる動きがあるはずもない。」
なるほど、カリョウは気づいていたのだな……と、シュガは思った。もっとも、身《み》におぼえがあるからこそ、気づいたのだろうが。
カリョウの笑《え》みが大きくなった。
「英明《えいめい》なお方《かた》であられた、チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》は。 − だが、いかんせん、若《わか》すぎた。おさない夢《ゆめ》をみて、この国の行《ゆ》く末《すえ》をかえてしまわれた。
殿下がすなおにおもどりになられていたら、もっと、すみやかに、ことははこんだのだが……。」
シュガは、低い声でたずねた。
「あなたのおっしゃる、この国の行く末とは……タルシュの枝国《しこく》になるということですか。」
「もちろん。」
その、あまりにも明瞭《めいりょう》な答《こた》えに、シュガは、しげしげとカリョウをみつめた。カリョウは、くちびるのはしをゆがめた。
「皇国陸軍《おうこくりくぐん》の副将《ふくしょう》であり、チャグム皇太子《こうたいし》のおられぬいま、つぎの帝《みかど》の大叔父《おおおじ》であるわたしが、なぜに、敵国《てきこく》とつうじたか……ふしぎですかな。」
「ええ。」
カリョウの目に、しずかな、はがねのような光がやどった。
「こういう立場《たちば》だからこそ、ですよ。わたしは、この国の軍の内情《ないじょう》も、他国《たこく》の情報《じようほう》も、一手《いって》に知りうる立場にある。 − だれよりも早く、わが国の滅《ほろ》びを予見《よけん》してきた。」
カリョウは、シュガをみつめた。
「早くから、商人《しょうにん》たちをつかってタルシュやサンガルの情報をあつめておられたあなたには、わたしは、ずっと注目《ちゅうもく》しておりました。おなじものをみているお方《かた》だと。」
シュガは、なにもいわずに、ただ、カリョウの言葉《ことば》をきいていた。カリヨウはわずかに視線《しせん》をそらし、白い朝の木もれ日《び》をみながら、いった。
「この国は、滅《ほろ》びの縁《ふち》にある。」
カリョウはシュガに目をもどした。ふたりは、しばし、みつめあっていた。
「……天《てん》ノ神《かみ》のご加護《かご》を、あなたは信《しん》じないのですか?」
シュガがつぶやくと、カリョウは首をかしげた。
「あなたは、どうなのです?」
シュガはこたえなかった。カリョウは気にするふうもなく、言葉《ことば》をついだ。
「天《てん》ノ神《かみ》は、この世《よ》をみておられる。大雨に地崩《じくず》れがおきて人が死《し》のうと、みにくい欲望《よくぼう》のままに人が人を殺《ころ》そうと、ただ、みておられる。 − わたしは、天ノ神を信《しん》じておりますが、兄のように、最後《さいご》には奇跡《きせき》がおきてわれらがすくわれるなどというつごうのいいことは、信じておりません。
たぶん、あなたもそうでしょう。でなければ、昨日《さくじつ》のようなことをおっしゃるはずもない。」
シュガは、内心《ないしん》おどろきながら、カリョウをみつめていた。
兄のうしろに、しずかにつきしたがい、およそ、おのれの意見というものを口にしなかったこの人物《じんぶつ》が、こんな考えをもっていたとは、これまで思ってもみなかった。
カリョウは、ほほえんだ。
「聖《せい》なるものは、あまり近くでみてはいけないようだ。わたしは、あなたより三十年も長く、先代《せんだい》の帝《みかど》と今上《きんじょう》の帝におつかえしてきました。
そのうえ、わたしの姪《めい》……あの、兄そっくりの、あさはかで、気のみじかい姪がうんだ子が、いずれ帝になると思えば、聖なるもののかがやきも、うすれてみえるというものです。」
シュガは、ぽつん、といった。
「 − あなたは、ずいぶんと、あけすけにかたられる方《かた》ですね。このような方だとは、ぞんじませんでした。」
カリョウは肩《かた》をすくめた。
「あなたにだから、あけすけにかたっているのです。」
「帝《みかど》のご不興《ふきょう》をかって、失脚《しっきゃく》したわたしだから?」
カリョウは笑《わら》いだした。
「あなたこそ、ずいぶん、あけすけにおっしゃる。 − だが、まあ、そのとおりです。
昨日《さくじつ》のあのご発言《はつげん》は、わたしにむけた罠《わな》だったのかもしれませんが、失礼《しつれい》ながら、あなたのお立場《たちば》は、聖導師《せいどうし》さまがたおれられ、チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》がいなくなられた段階《だんかい》で、すでに、出世《しゅっせ》の場からははずれておられた。あなたが、帝《みかど》に、わたしのうらぎりを告《つ》げたとしても、帝は、わたしの言葉《ことば》のほうをお信じになるでしょう。」
笑《え》みをおさめて、カリョウはシュガをみた。
「シュガ殿《どの》。 − この国を……民《たみ》を、滅《ほろ》びの縁《ふち》から、すくいたいと思いませんか。
枝国《しこく》になるということは、けっして、国の滅亡《めつぼう》ではない。サンガルをごらんなさい。あのしたたかなやり口を。彼《かれ》らは枝国になることで、以前《いぜん》よりゆたかになっていきますよ。
われらがいま考えるべきことは、最後《さいご》の一兵《いっぺい》までたたかうというようなくだらぬことではない。いかに、われらの価値《かち》をタルシュ帝国《ていこく》にみとめさせ、有利《ゆうり》な立場《たちば》で枝国《しこく》になるか、なのです。」
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シュガは、つぶやいた。
「そのためには、国の魂《たましい》を……タルシュにささげると?」
カリョウはゆっくりと首をふった。
「あのお方《かた》だけが、国の魂《たましい》というわけではない。 − わが姪《めい》の息子《むすこ》でも、果たせる役《やく》です。」
シュガは、ひややかな声でいった。
「そうでしょうか? 昨日《さくじつ》の大臣《だいじん》たちの涙をみたでしょう。したたかな彼《かれ》らに、思わず涙をながさせるような力をひめているのですよ。国の魂というものは、理屈《りくつ》の外にあるものです。」
カリョウは大きくうなずいた。
「だからこそ、あなたが必要《ひつよう》なのです、シュガ殿《どの》。これからおきる大きな変動《へんどう》を、謀反《ぼうはん》でも、滅《ほろ》びでもなく、幸運《こううん》をみちびくために天のえがいた図《ず》であると人びとを納得《なっとく》させられるのは、あなたしかいない。
わたしは、人びとをだませといっているわけではありません。昨日あなたが星図《せいず》をかかげてみせられたとき、わたしは、これこそ天の声だと思いましたよ。
(生成変転《せいせいへんてん》ノ相《そう》) − 古きものがほろび、新しいかたちになることで、この国はすくわれるのです。」
カリョウは、しずかにいった。
「最後《さいご》の一兵《いっぺい》まで惨殺《ざんさつ》されて、タルシュの奴隷《どけい》となる結末を国にあたえようとしている帝《みかど》と兄、帝の血筋《ちすじ》という国の魂《たましい》を残《のこ》し、国の姿《すがた》を残そうとしているわたし。 − どちらが、真に国のことを考えていると、お思いになりますか。」
シュガは、うつむいて考えこんだ。
頭上《ずじょう》の枝《えだ》に小鳥たちが群《む》れはじめ、さえずりが、澄《す》んだ大気《たいき》のなかをわたっていく。
うつむいているシュガの横顔《よこがお》を、朝の光が白くうかびあがらせているのをみながら、カリョウは、ふと、思いついたようにいった。
「……まさかとは思うが、あなたは、ロタ王国《おうこく》との同盟《どうめい》に希望《きぼう》をみておられるのではないでしょうな。まえに、チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》が、そのようなことをおっしゃっておられたが、ロタとの同盟など、まず、ありえぬ話ですよ。」
シュガは、まばたきをした。
「そうでしょうか?」
「ええ、ありえません。残念《ざんねん》ながら。」
カリョウは苦笑《くしょう》をうかべて、言葉《ことば》をついだ。
「ロタ王国《おうこく》は一枚岩《いちまいいわ》ではない。南部《なんぶ》の大領主《だいりょうしゅ》たちが、すきあらは王にとってかわろうと画策《かくさく》しつづけてきたのは、ごぞんじでしょう。
これは、タルシュの密偵《みってい》から得《え》た情報《じょうほう》なのですが、彼《かれ》ら南部の大領主たちは、もうずいぶんとまえから、タルシュ帝国《ていこく》とつうじていたようですよ。」
シュガは、すうっと、肌《はだ》が冷《つめ》たくなるのを感じた。
「なんですって……?」
カリョウの笑《え》みがふかくなった。
「ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》たちは、肥沃《ひよく》な農地《のうち》からの収益《しゅうえき》と、南の大陸《たいりく》との海運《かいうん》で富《とみ》をきずいてきたわけですが、タルシュ帝国《ていこく》は、サンガル王国《おうこく》を間にはさむ交易《こうえき》より、ずっと利のある、タルシュとの直接交易《ちょくせつこうえき》を餌《えさ》に、大領主たちをとりこんできたらしい。
たとえば、南部|最大《さいだい》の港街《みなとまち》ツーラムを支配《しはい》しているスーアン大領主などは、タルシュ帝国の第《だい》一|王子《おうじ》と、太いつながりをもっている男だそうです。」
シュガは眉《まゆ》をひそめた。
「第二王子ラウルではなく?」
カリョウはうなずいた。
「わが国を攻《せ》める優先権《せんゆうけん》をもつラウル王子ではなく、兄のバザール王子のほうだそうです。
弟に、新《しん》ヨゴ|皇国《おうこく》|攻略《こうりゃく》の優先権《ゆうせんけん》をとられたバザール王子は、ロタ王国をねらうことで、名誉挽回《めいよばんかい》をはかっているのでしょう。」
そういって、カリョウは皮肉《ひにく》な口調《くちょう》でつけくわえた。
「弟が、わが新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》を攻略《こうりゃく》するのがさきか、兄がロタ王国《おうこく》を攻略するのがさきか、兄弟できそいあっているというわけですな。」
シュガは、ひややかにいった。
「あなたは、その兄弟げんかの道具《どうぐ》につかわれているわけですか。」
カリョウはおこらなかった。それどころか、シュガの言葉《ことば》を予期《よき》していたように、ほほえみをうかべた。
「この国をすくうためなら、わたしは道具であろうと、なんであろうと、かまいません。
きれる道具であることがラウル王子《おうじ》につたわれば、わたしは将来《しょうらい》も、この国をみちびいていく力を得られる。そのほうが、誇《ほこ》りより、ずっとたいせつです。」
シュガは、ほほえみをうかべているカリョウをみながら、心のなかでつぶやいた。
(なるほど、この男は、帝《みかど》だけでなく、兄《あに》も殺すつもりなのだな。)
そうすれば、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》が枝国《しこく》になったとき、皇太子《こうたいし》の後見役《こうけんやく》として力をふるえる。
このカリョウの思惑《おもわく》は、みにくいだろうか。 − そうは思えなかった。彼《かれ》がみちびこうとしている未来《みらい》の姿《すがた》は、天運《てんうん》にたよることなく、この滅《ほろ》びの縁《ふち》にある国をすくうことのできる、ひとつのかたちであることに、まちがいなかった。
シュガは、カリョウの目をみつめていった。
「ロタ南部の大領主《だいりょうしゅ》たちは故国《ここく》を敵《てき》に売りわたし、ロタが枝国《しこく》になったあかつきには、枝国の政権《せいけん》をにぎるつもりなのでしょうね。」
カリョウは平然《へいぜん》とうなずいた。
「そうでしょうな。ロタ王も家臣《かしん》から首をねらわれているというわけです。それも、国の半分を実質的《じっしつてき》に支配《しはい》している大領主《だいりょうしゅ》たちから。 − ロタ王国《おうこく》は、もしかしたら、わが国より早くタルシュ帝国《ていこく》の枝国《しこく》になるかもしれませんな。」
いつのまにか、日の位置《いち》がずいぶん高くなっていた。地面をきらきらとひからせていた霜《しも》がとけて地をぬらし、土のにおいをたちのぼらせている。
朝の築山《つきやま》のにおいにつつまれて、シュガは、立ちつくしていた。
(チャグム殿下《でんか》……。)
ロタとの同盟《どうめい》を夢《ゆめ》みて、海に飛びこんだ少年の不運《ふうん》が、あわれでならなかった。かすかに残《のこ》っていた希望《きぼう》の光がとおざかっていく。
そして、その透明《とうめい》な光のかわりに、自分がいかねばならぬ血《ち》のにおいのする道が、くっきりとうかびあがってくるのを、シュガは、暗《くら》い思いでみつめていた。
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2  きみょうな敵《てき》
「……想像《そうぞう》していたより、ずっと重いな。」
男が、手のなかで短槍《たんそう》をゆらゆらとふりながら、いった。
バルサは、それを、だまってみていた。身体《からだ》がしびれていなければ、はねおきて、短槍をうばえる距離《きょり》だが、いまは、どうしようもない。
「 − あんた、だれだい。なんで、わたしをたすけた。」
つぶやくと、男が短槍《たんそう》の石突《いしづ》きをしずかに床《ゆか》にあてて、バルサをみおろした。
「おれは、アラユタン・ヒュウゴという。あなたをたすけた理由《りゆう》は……複雑《ふくざつ》すぎて、ひとことでは、こたえられん。」
そういうと、ヒュウゴと名のった男は短槍をもって扉《とびら》のところへいき、扉に鍵《かぎ》をかけた。
バルサは眉《まゆ》をひそめた。
(なぜ、内側《うちがわ》から……?)
ヒュウゴは短槍《たんそう》を扉のところに立てかけて、奥《おく》の食卓《とょくたく》からなにかをもってもどってきた。寝台《しんだい》のわきの椅子《いす》をひき、腰《こし》をおろすと、もってきたチョウルをロにくわえて、うまそうに煙《けむり》をすいこんだ。
「これで、しばらくじゃまははいらない。ゆっくり、話をしよう。」
バルサの表情《ひょうじょう》をみて、ヒュウゴはつけくあえた。
「あなたが後頭部《こうしうぶ》をなぐったあの男は、いい男なんだが、おれのことを心配《しんぱい》しすぎるわるい癖《くせ》がある。であったのが十七のときだったせいか、いつまでも、おれのことをガキ扱《あつ》いする。こまったものだ。」
まるで、むかしからの知りあいに話すような、ざっくばらんな口調《くちょう》だった。
バルサは、じっと男をみつめた。
この男が何者《なにもの》なのか、わからないかぎり、なにをねらっているのかもわからない。いまのところ、すべての手札《てふだ》をにぎっているのは男のほうで、バルサの手もとにはなんの札もない。
すこしでも、相手《あいて》の正体《しょうたい》をみぬき、腹《はら》をさぐる手札がほしかった。
バルサは、つぶやいた。
「……きみょうななまりがあるね。」
ヒュウゴはくちびるのはしに笑《え》みをうかべた。
「おれにいわせれば、なまっているのは、北のヨゴ人のほうなんだがな。」
バルサは、はっとした。
「あんた、南の・・・。」
ヒュウゴはうなずいた。
「おれの故郷《こきょう》は、南の大陸《たいりく》のヨゴ皇国《おうこく》だ。 − タルシュにほろばされて、いまは枝国《しこく》だが。」
バルサは、背筋《せすじ》に冷《つめ》たいものがはしるのを感じた。
(こいつ、やはり、タルシュの手先《てさき》か……。)
そうバルサが思ったのを、さっしたかのように、ヒュウゴはいった。
「このツーラム港《こう》には、タルシュの密偵《みってい》が、うようよいる。スーアン大領主《だいりょうしゅ》の息子《むすこ》が、めずらしい意匠《いしょう》をほどこしたタルファ (紅炎石《こうえんせき》) の頭帯飾《ずたいかざ》りを手にいれた、という噂《うわさ》は、のろしがあがったようなものだったのさ。」
バルサは、だまってきいていた。なぜ、こんな事情《じしょう》を自分にあかすのか、男の真意《しんい》はわからなかったが、男は話をつづけている。
「チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》が身投《みな》げをしたという話は、あの船がサンガル半島《はんとう》につくやいなや、鷹便《たかびん》で各地《かくち》につたわった。その話をきいたときは……胸《むね》が冷《ひ》えた。チャグム殿下は、そういう結末《けつまつ》をえらばれたのか、と思ってな。」
ヒュウゴは、じっとバルサをみつめて、いった。
「あの方は、自害《じがい》をしようとなさったことがある。おれの目の前で。」
バルサは思わず息《いき》をつめて、男をみつめかえした。
( − この男は……。)
いったい何者《なにもの》なのだろう。
その思いが、バルサのなかで、痛《いた》いほどにふくれあがっていた。
ヒュウゴは、バルサをみすえたまま、言葉《ことば》をついだ。
「かしこいが、純粋《じゅんすい》すぎるところがあるお方《かた》だからな。 民《たみ》の信頼《しんらい》をうらぎるかわりに、おん身《み》をすてることをえらばれたのかと思った。」
かすかに、声がひびわれた。ヒュウゴはうつむき、しばらくだまっていたが、やがて、すこし笑《え》みをうかべた。
「だが、そんなにヤワじゃなかったな。ふしぎなお方だ。清《きよ》すぎるから、どこかで折《お》れてしまいそうにみえて……折れない。心の底《そこ》に、したたかなものをもっておられる……。」
バルサは、ふいに、ヒュウゴの言葉をさえぎった。
「 − いいかげんにしな。」
ヒュウゴは、おどろいたように顔をあげた。
「え?」
「あんたは、タルシュの密偵《みってい》だろう? わたしにとっては、まちがいなく敵《てき》さ。その敵に、いきなり、いま自分がみている芝居《しばい》の、舞台裏《ぶたいうら》の裏話《うらばなし》をえんえんとしゃべられてるような気分なんだよ。それも、したしげに肩《かた》に手をまわされてね。
こんな話をきかされる理由《りゆう》は、いったい、どこにあるんだね?」
ヒュウゴは、ゆっくりと手で顔をぬぐった。
「……なるほど、そのとおりだな。」
顎《あご》をさすりながら、ヒュウゴは考えこんでいたが、やがて、いった。
「たしかに、おれはタルシュの密偵《みってい》で、あなたにとっては敵方《てきがた》だ。だが、そう、すっぱりと黒白にわりきれない部分《ぶぶん》がある。それで、こういう話し方をしていたのだが、不快《ふかい》だったのなら、あやまろう。」
「べつに、あやまってもらう筋《すじ》あいのことじゃない。」
バルサは、低い声でいった。
「あんた、さっき、わたしをたすけた理由は複雑《ふくざつ》だとかいってたが、敵味方《てきみかた》にわりきれない部分があるっていうなら、まず、そこから説明《せつめい》してもらおうか。おたがいの立場《たちば》がはっきりしないうちに、まともな話なんぞ、できるはずがないだろう。」
ヒュウゴは苦笑《くしょう》した。
「おっしゃるとおりだ。」
そして、真顔《まがお》になると、話しはじめた。
「さっき、このツーラム港街《みなとまち》には、タルシュの密偵《みってい》がうようよしているといったが、ひとロにタルシュの密偵といっても、その内側《うちがわ》には、敵味方《てきみかた》がある。」
「おなじタルシュのなかで?」
「ああ。タルシュ皇帝《こうてい》の長男《ちょうなん》バザール王子の手の者《もの》と、次男《じなん》ラウル王子の手の者は、たがいの手のうちをひっしにさぐりあい、じゃまをしあっているのさ。」
かすかに笑《え》みをうかべてそういうと、ヒュウゴはつけくわえた。
「ちなみに、おれは、ラウル王子|配下《はいか》だ。タルシュの言《い》い方《かた》では(北翼《ほくよく》) の家臣《かしん》ということになる。バザール王子の密偵たちは(南翼) の家臣だ。……あなたに、しびれ薬《ぐすり》をもったのは、この(南翼《なんよく》) の密偵だよ。」
意外《いがい》なことを、さらりといわれて、バルサは眉《まゆ》をひそめた。
「 − なんだって?」
「あなたは、おれたちの仲間《なかま》 − (北翼《ほくよく》) の密偵《みってい》だと思われたのさ。
まあ、(南翼《なんよく》) のやつらがそう思ったのもむりはない。スーアン大領主《だいりょうしゅ》の門衛《もんえい》たちに、チャグム皇太子《こうたいし》のことをたくみにききだそうとしているあやしい女がいる……となれば、だれだって、まず敵方《てきがた》の密偵《みってい》をうたがうだろう。」
ヒュウゴはほほえんだ。
「おれが、あんたをたすけたことで、(南翼《なんよく》) の連中は、やはり、あなたが(北翼《ほくよく》) の密偵《みってい》だったと確信《かくしん》しているだろうな。」
バルサは、つぶやいた。
「だが、わたしをとらえにきた兵士《へいし》たちは、スーアン大領主《だいりょうしゅ》の兵士だったよ。」
ヒュウゴは、みじかくなったチョウルの先を、てのひらにおしつけて火を消した。
「スーアン大領主は、タルシュ帝国《ていこく》とつうじている。もう二年もまえから。」
バルサは、はっと目をみひらいた。
アスラをたすけようとして、ロタ王国内部《おうこくないぶ》の陰謀《いんぼう》にまきこまれたときに見聞《みき》きしたことが、頭にうかんできた。
(そういえば、南部の大領主《だいりょうしゅ》たちは、すきあらは、騒乱《そうらん》をおこそうとしていたな……。)
ヒュウゴは、たんたんと話しつづけている。
「バザール王子《おうじ》は、弟が新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》をねらっていることを知るや、ロタ王国に目をむけた。
南部の大領主たちは、ロタ王の支配《しはい》に不満《ふまん》をもっている。バザール王子は、そこに目をつけたわけだ。彼《かれ》らにサンガル経由《けいゆ》の交易《こうえき》よりも利のあるタルシュとの直接《ちょくせつ》交易をもちかけ、ひそかにもうけさせ、ふとらせてきた。スーアン大領主《だいりょうしゅ》も甘《あま》い汁《しる》をすい、ロタ王に秘密《ひみつ》で、多くの兵器《へいき》をあつめ、南部の大領主のなかでの密約《みつやく》をかためている。
タルシュ帝国《ていこく》の力をうしろ盾《だて》にして、ロタ王を廃位《はいい》に追《お》いこみ、ロタをタルシュの枝国《しこく》にして、自分たちが枝国の統治権《とうちけん》を得《え》るつもりなのさ。」
もやが晴《は》れていくように、状況《じょうきょう》がみえてくるのを、バルサは感じていた。
(なるほど、そういうわけか……。)
黒白つけがたいと、この男がいった意味がわかった。この男はラウル王子《おうじ》の側《がわ》だという。ラウル王子の兄であるバザール王子に、ロタ政略《こうりゃく》の手柄《てがら》をうばわれたくないのだろう。
それはわかったが、寒気《さむけ》はおさまらなかった。むしろ、どんどんひどくなっていく。
(スーアン大領主《だいりょうしゅ》がタルシュにつうじているなら、チャグムは、とんでもないやつの門《もん》をたたいたことになる……。)
あおざめているバルサをみつめて、ヒュウゴはいった。
「スーアンは、(南翼《なんよく》) の密偵《みってい》から、息子《むすこ》が手にいれたタルファ (紅炎石《こうえんせき》) の頭帯飾《ずたいかざ》りが、どんな意味をもつか、きいていただろう。噂《うわさ》の的《まと》のチャグム殿下《でんか》が、自分の城《しろ》の門にあらわれたときには、さぞや、びっくりしただろうぜ。」
バルサは、ひとりごとのようにいった。
「……ラッシャローの腰巻姿《こしまきすがた》だったのに、なぜ、門衛《もんえい》は、あっさり城《しろ》へとおしたんだろう。」
「おれがきいている話では、門衛は追《お》いかえそうとしたそうだ。
だが、チャグム殿下《でんか》がまだ門のところにいるときに、スーアン大鏡主《だいりょうしゅ》の息子《むすこ》がとおりがかったらしい。あの息子は、なかなかの切《き》れ者《もの》でね。いまは父親よりも積極的《せっきょくてき》にタルシュとかかわっている。
そのうえ、もうひとつ、まずい偶然《ぐうぜん》がかさなった。彼《かれ》はサンガル王の即位式《そくいしき》に参列《さんれつ》している。きっと、チャグム殿下にもお目にかかったことがあったのだろう。そのころとは、ずいぶん印象《いんしょう》がかわられていただろうが、チャグム殿下がお名のりになったら、みわけることぐらいはできたはずだ。」
そういってから、ヒュウゴは、ふと思いだしたように、バルサに問いかけた。
「おれは、漁夫《ぎょふ》の姿《すがた》をしておられたときいたが、殿下《でんか》はラッシャローの腰巻姿《こしまきすがた》だったのか?」
バルサはこたえなかったが、ヒュウゴは気にするふうもなく言葉《ことば》をつづけた。
「殿下は、賄《まかな》いのおばちゃんを気にいっておられたからな。ラッシャローの家船《いえぶね》にのせてもらえば、サンガル人の船にのるより安全《あんぜん》だと思われたのだろう。」
「賄《まかな》いのおばちゃん?」
思わずバルサが問いかえすと、ヒュウゴは微笑《びしょう》した。
「チャグム殿下《でんか》が、南の大陸《たいりく》へわたったときの、船の賄《まかな》いのおばちゃんが、ラッシャローだったんだ。」
それをきいた瞬間《しゅんかん》、バルサは、頭のなかに光がはしるのを感じた。いくつかの断片《だんぺん》がむすびつき、ふいに、ひとつの像《ぞう》をむすんだ。
バルサは、さっと、刺《さ》すような視線《しせん》をヒュウゴにむけた。
「……そうか。あの子をさらった密偵《みってい》っていうのが、あんたか。」
ヒュウゴの目から笑《え》みが消《き》えた。肩《かた》をすくめて、ヒュウゴはいった。
「そうだ。おれが、殿下《でんか》をさらった。」
ヒュウゴが口をとじると、沈黙《ちんもく》がおりた。
ジジジ……と、ろうそくが音をたてて、炎《ほのお》をゆらしている。
ヒュウゴがロをひらこうとしたとき、扉《とびら》をあけようとする音がして、ののしり声《ごえ》がきこえてきた。
「……なんだ、なんで鍵《かぎ》なんぞ、かけている! おい、あけろ。」
小男の呪術師《じゅじゅつし》の声だった。
ヒュウゴは眉《まゆ》をあげて、バルサにほほえみかけた。
「うまいぐあいに、じゃまがはいってくれたな。」
そういって立ちあがり、扉《とびら》のところへいきながら、ヒュウゴはふりかえった。
「まだ、あなたに話さねばならないことがある。おれを殺《ころ》したいと思っているかもしれんが、実行《じっこう》するのは、その話をきいてからにしてくれ。」
かるい口調《くちょう》でそういうと、ヒュウゴは扉の鍵をあけた。
「……おまえ。」
どなりながら、はいってこようとした呪術師《じゅじゅつし》を、ヒュウゴははおさえた。
「まった。むこうで話そう。」
戸に手をかけたまま、ヒュウゴは、バルサにいった。
「身体《からだ》のしびれは、今夜《こんや》までは残《のこ》るそうだ。あとで、だれか女手《おんなで》をよこそう。」
うしろ手に戸をしめて、ヒュウゴはでていった。ややあって、こんどは、外から鍵《かぎ》をかける音がきこえてきた。
バルサは、ぼんやりと、うすぐらい部屋《へや》の壁《かべ》をみつめた。
(チャグムは、スーアンの城《しろ》にいるんだろうか。)
スーアンがタルシュとつうじているとすれば、チャグムをロタ王のもとへおくりとどけるなど、もってのほかだ。きっと、軟禁《なんきん》されているのだろう。
だが、あっさりと殺《ころ》しはすまい。新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》との戦《いくさ》をひかえているいま、タルシュにとって、チャグムは、まだなにかにつかえる可能性《かのうせい》のある、たいせつな人物《じんぶつ》のはずだから。
そこまで考えて、バルサは、ぎゅっと目をとじた。
チャグムが、自害《じがい》しようとするほど追《お》いつめられていた、という話が、とげのように心に刺《さ》さっていた。
苦労《くろう》して、ようやくここまできたのだろうに、いきついたさきが、またタルシュの手のなかだとは……。
白熱《はくねつ》したかたい結晶《けっしょう》のような怒《いか》りが、胸《むね》の底《そこ》をあぶっていた。
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3  襲撃《しゅうげき》
一日がゆっくりとすぎていった。
バルサは、すこしずつうごくようになってきた手足を、寝台《しんだい》のなかで、のばしたり、ちぢめたりしながら、しびれをとろうとしていた。
ゆだんのない目つきをした若《わか》い女が世話をしにきたほかは、ヒュウゴという男も呪術師《じゅじゅつし》も、あれいらい、この部屋《へや》にはきていない。
なんどか失敗《しっぱい》したあとで、ようやくバルサは、壁《かべ》に背《せ》をつけて、ずりあげるようにして、なんとか上半身《じょうはんしん》をおこすのに成功《せいこう》した。
(ここは、倉庫《そうこ》か?)
小さな部屋で、窓《まど》がない。殺風景《さっぷうけい》な部屋だった。むこう側《がわ》の机《つくえ》の上にのっているろうそくと、部屋のすみにおかれたろうそくしかあかりはなかったが、床《ゆか》に粉袋《こなぶくろ》のあとのようなものがあるのに、気づいた。ここは、やはり倉庫で、つみあげてあった粉袋をかたづけて、部屋をつくったのだろう。壁《かべ》はむきだしの石積《いしづ》みで、背《せ》をつけていると冷《つめ》たかった。
ずっと、ちゃぶちゃぷと波《なみ》がうちよせるような音がきこえている。しずかだった。バルサは壁に頭をつけて、その水の音をきいていた。
ふいに、バーンッ! と、どこかで扉《とびら》がたたきつけられたような大きな音がして、バルサは、びくっと、壁《かべ》から頭をはなした。
あわただしく走りまわる足音と、さけんでいる人の声がきこえはじめた。いくつもの物音《ものおと》がみだれてきこえてくる。悲鳴《ひめい》のようなものもきこえた。
(襲撃《しゅうげき》か?)
あの男は、敵《てき》がいるといっていた。ここが隠《かく》れ家《が》だとすれば、敵にみつかって、襲撃されたのかもしれない。
バルサは顔をしかめた。かすかに、煙《けむり》のにおいがただよってきたのだ。
(火をかけられたな……。)
乱闘《らんとう》の音が大きくなっていくなかで、バルサは、はいずるようにして寝台《しんだい》からおりようとした。身体《からだ》はうごくのだが、手や足など、先のほうがまだしびれていて力がはいらない。
このままでは、焼《や》け死《し》ぬのをまつだけだ。
バルサは身体《からだ》をのりだして、寝台《しんだい》のはしから床《ゆか》にころげおちた。ガツンッと歯までひびく衝撃《しょうげき》がきた。首に力がはいらないせいで、もろに頭をうったのだ。
「……くそっ。」
肘《ひじ》で身体をささえて、はいながら、バルサはすこしずつ壁《かべ》にたてかけてある短槍《たんそう》のほうへにじりよっていった。短槍で身体をささえられれば、扉《とびら》に体《たい》あたりできるだろう。くりかえし身体をたたきつけていれば、鍵《かぎ》をこわせるかもしれない。
わずかな可能性《かのうせい》だったが、それにかけるしかなかった。
扉の下から煙《けむり》がすべりでてきた。生き物のようにのたうちながら、ひろがっていく。バルサは、はげしくせきこんだ。のどと胸《むね》が刺《さ》すようにいたむ。
短槍《たんそう》に手がとどいたとき、外であわただしい足音がひびいて、いきなり扉《とびら》がけりあけられた。はじけるようにしてひらいた扉の角《かど》に肩《かた》をひっかかれて、バルサはうめき声をあげた。
「……そんなところにいたのか。」
おどろいたような声をあげて、ヒュウゴは膝《ひざ》をつき、バルサをかかえあげた。
「おい! そんな女なんかにかまうな!」
部屋《へや》の外でどなる声がきこえたが、ヒュウゴはさけびかえした。
「さきにいけ! 例《れい》の場所《ばしょ》でおちあおう。」
そういうや、ヒュウゴは足で扉《とびら》をけってとじた。
ヒュウゴはバルサを机《つくえ》の上におろすと、寝台《しんだい》を両手《りょうて》でかかえあげて、壁《すべ》に立てかけた。
寝台がどけられると、床《ゆか》に、四角い蓋《ふた》があらわれた。ヒュウゴが蓋のとってをにぎってもちあげると、煙《けむり》の充満《じゅうまん》した部屋《へや》に、風がふきこんできた。ほっかりとあいた暗《くら》い空間《くうかん》と、階段《かいだん》がみえる。倉庫《そうこ》の荷物《にもつ》を運河《うんが》におろす階段なのだろう。
階段に足をおろしたヒュウゴの背《せ》に、バルサは声をかけた。
「・…‥待《ま》ち伏《ぶ》せのことは、考えているんだろうね。」
ヒュウゴはふりかえって、にやっと笑《わら》いながら、手のなかの短剣《たんけん》をふってみせた。それから、するすると階段《かいだん》をくだっていった。
下から、くぐもった乱闘《らんとう》の音がひびいてきた。ピンッと弓弦《ゆんづる》が鳴《な》った音がして、ヒュウゴのうめき声がきこえた。刃《やいば》がうちあう音と、叫《さけ》び声《ごえ》がつづく。
穴《あな》があいていても部屋《へや》の煙《けむり》はどんどん濃《こ》くなり、息《いき》が苦《くる》しかった。バルサは短槍《たんそう》をもったまま、床《ゆか》におち、また、穴のところまではいずっていった。
階段《かいだん》にのりだすと、下のようすがみえた。
水にぬれ苔《こけ》のはえた石組《いしぐ》みが水路《すいろ》の土手《どて》をささえている。そのむこうには、波うっている黒い水。うつぶせの男の身体《からだ》が、ゆっくりと水にただよって、ながれていくのがみえた。
ヒュウゴは、階段《かいだん》のすぐわきのところにかがんでいた。 − 腿《もも》に矢羽根《やばね》がみえる。
「やられたのかい。」
声をかけると、ヒュウゴは、ふりかえってバルサをみあげた。汗《あせ》まみれの顔に、黒い目がひかっている。
「腿《もも》をちょっとな。……たいした傷《きず》じゃない。」
「ぬかないほうがいい。」
バルサがいうと、ヒュウゴは、いらだたしげに肩《かた》をすくめた。
「わかっている。矢羽根《やばね》を折《お》るだけだ。」
歯をくいしぼり、ヒュウゴは腿《もも》に深《ふか》くつきさきっている矢の矢羽根《やばね》の部分《ぶぶん》をへしおった。バルサは階段《かいだん》にこしかけ、一段ずつすべるようにしておりていった。
そばでみると、ヒュウゴのけがは一カ所ではなかった。わき腹《ばら》にも血《ち》がしみだしている。
目の前にながれているのは、運河《うんが》ではなく、大きな河《かわ》だった。ホゥラ河だろう。河口《かこう》も街《まち》もみえないから、港《みなと》から、かなりはなれているのかもしれない。河の両岸《りょうんがん》にならんでいるのは小ぶりな倉庫《そうこ》ばかりで、あかりもともっておらず、うす暗《ぐら》かった。
水に浮いている男のほかに、土手《どて》にもうひとりたおれていた。生きているのか、死《し》んでいるのかわからないが、ぴくりともうごかない。その身体《からだ》をみて、バルサは顔をしかめた。おとなの男にしては、ずいぶんと小柄《こがら》だったからだ。手にもっている弓《ゆみ》も、長弓《ちょうきゅう》ではなく短弓《たんきゅう》で、バルサは、そういう形の弓に、みおぼえがあった。
あらく息《いき》をつきながら、ヒュウゴは、河《かわ》のほうをみている。だれものっていない小舟《こぶね》が、襲撃者《しゅうげきしゃ》の遺体《いたい》のわきを、ゆっくりと河口《かこう》のほうへながれていく。
それをみながら、ヒュウゴはつぶやいた。
「こっち側《がわ》の待《ま》ち伏《ぶ》せはたおしたが、道路《どうろ》側には、何人いるかわからん。この足じゃ、あんたをせおって、たたかうのは、むりだな。」
バルサは笑《わら》った。
「おいていけばいい。わたしは、自分でなんとかするさ。」
汗《あせ》を乱暴《らんぼう》にぬぐって、ヒュウゴは、苦笑《くしょう》した。
「そうはいかない。あなたに、死《し》なれちゃこまるんだ。」
それから、また、小舟《こぶね》のほうに目をむけた。
「あれにのれればいいんだが……。」
襲撃者《しゅうげきしゃ》がのってきたのか、荷運《こはこ》び用《よう》の小舟なのかわからないが、がんじょうそうな舟だった。まだ、岸《きし》から、それほど遠くはなれてはいない。
だが、身体《からだ》にしびれが残っているバルサはもちろん、腿《もも》とわき腹《ばら》に深手《ふかで》をおっているヒュウゴも、泳《およ》いでいって、あの舟をつかまえ、よじのぼるのはむりだろう。
火のいきおいがはげしくなり、ごうごうと音をたてて建物《たてもの》をあぶっている。火事《かじ》に気づいて、河《かわ》の両《りょう》わきに、ぽつぽつと人があつまりはじめていた。
燃《も》えているこの倉庫《そうこ》は床《ゆか》の一部が河の上にはりだし、太い石組《いしぐ》みの柱《はしら》でささえられている。
バルサたちがいるのはその床下の部分で、見物人《けんぶつにん》からは、よくみえないだろうが、ぼやぼやしていれば、襲撃者《しゅうげきしゃ》たちが、ようすをみにこないともかぎらない。
逃《に》げるなら、いそがねばならなかった。
「……考えがある。てつだっておくれ。」
そういうや、バルサは、身《み》をよじるようにして袖《そで》から腕《うで》を上衣《うわぎ》のなかへ入れると、思いっきり力をこめて腕《うで》をつきだし、上衣の合《あ》わせ目《め》をやぶった。
あぜんとしているヒュウゴに、バルサはどなった。
「はやく。わたしは、指《ゆび》がつかえない。この腹《はら》にまいてある縄《なわ》をはずしな。」
腹《はら》のあたり、下衣《したぎ》の上に、バルサはいつも、ぐるぐると縄をまきつけている。こうしておけば腹を刺《さ》されても刃《は》が深《ふか》くはいらないし、なにかのときには縄《なわ》としてつかえるからだ。
ヒュウゴは無言《むごん》で、バルサの上衣《うわぎ》をひろげて、腹《はら》にまいてある縄《なわ》をほどいていった。
「縄の先に釣《かぎ》がついているだろう。そいつを、短槍《たんそう》の石突《いしづ》きの金具《かなぐ》にひっかければ、短槍を縄《なわ》つき銛《もり》のようにつかえる。」
ヒュウゴの目に、納得《なっとく》した光がうかんだ。
それからは、すばやかった。ヒュウゴは短槍《たんそう》の石突きの金具に、カチリと釣《かぎ》をひっかけ、岸《きし》に立つと、ねらいをさだめて、短槍を小舟《こぶね》になげた。
ねらいはややそれて、短槍《たんそう》は小舟に刺《さ》さらなかったが、どこかにひっかかったのだろう、縄《なわ》をひっぱると重い手ごたえがあり、ゆっくりと小舟は方向《ほうこう》をかえた。
ヒュウゴは歯をくいしぼって、自分の身体《からだ》を軸《じく》にし、水流にさからあず弧《こ》をえがくように小舟を岸《きし》にひきよせた。
小舟が岸にあたる音がきこえると、バルサはいった。
「縄《なわ》を地面《じめん》におきな。わたしが、身体の下にしておさえるから。」
うなずいて、ヒュウゴは縄のはしをバルサにあずけると、左足をひきずりながら、小舟のほうへ歩いていった。
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4  小舟《こぶね》の夜《よる》
小舟《こぶね》には、小麦《こむぎ》を入れる空袋《からぶくろ》がつまれていた。
バルサとヒュウゴは舟にのりこむと、空袋の下にもぐりこみ、舟がながれくだっていくのにまかせた。海までながされてしまうかもしれないが、襲撃者《しゅうげきしゃ》の目にとまるよりは、ましだ。いまは、運《うん》を天《てん》にまかせるしかなかった。
小舟は、ゆるゆると河《かわ》をくだっていく。
ヒュウゴは小舟の岸側《きしがわ》によこたわって、手ですこし袋《ふくろ》を上にあげて、岸のほうをみていた。
「河口《かこう》までは、どのくらいあるんだい。」
バルサがささやくと、ヒュウゴも小声でこたえた。
「半ダソ (約《やく》三十分)ぐらいだろう。河口にでるまえに、いくつか支流《しりゅう》があるはずだ。そこへはいれば、葦原《あしはら》がえんえんとつづいている。」
それだけいって、ヒュウゴはだまりこみ、また、じっと岸をみていた。
やがて、ヒュウゴが身じろぎをした。
「……あった、支流《しりゅう》だ。こっちへ、うまく体重《たいじゅう》をうつせるか。」
バルサは、うなずいた。バルサは、すこしずつヒュウゴの上に身体《からだ》をのせながら、舟《ふね》の動き方を身体で感じとろうとした。水流《すいりゅう》と、舟の傾《かたむき》き方とで、方向《ほうこう》がかわっていく。
「もうすこし、頭を前に……。」
ヒュウゴがつぶやいた。ヒュウゴの上にかさなると、血《ち》のにおいがむっとつよくなった。身体があつい。熱《ねつ》がではじめているのだ。
舟がゆるやかに方向をかえ、船首《せんしゅ》が左へまわっていく。ほそい支流《しりゅう》にはいると、草が、シャラシャラと音をたてて舟端《ふなばた》をこすりはじめた。やがて、葦《あし》の間にひっかかるようにして、船《ふね》はとまった。
チャプチャプと舟端《ふなばた》をうつ水音と、風がなでるたびに葦がざわめく音しかしない。半月《はんげつ》が冴《さ》えた光をなげかけていたが、雲《くも》がはしるたびに、天も地も暗《くら》くなる。
バルサもヒュウゴも、ぐったりとよこたわったまま、うごかなかった。ヒュウゴの呼吸《こきゅう》があらい。はりつめていた緊張《きんちょう》の糸がゆるむと、傷《きず》の痛《いた》みがましてくるものだ。熱《ねつ》もあがってくる。
岸《きし》のほうから、かすかな音がきこえてきた。獣《けもの》が走る足音だった。
顔をあげようとしたヒュウゴを、バルサはそっと身体《からだ》をつけておさえた。
大きな犬が岸《きし》をうろついている。ふんふんとにおいをかぎながら、草をかきわけている。犬は、ヒュウゴの血《ち》のにおいをかぎとったのか、頭をあげてこちらをみた。
息《いき》をころして、バルサは犬の影《かげ》をみつめていた。
やがて、犬はふいっと頭をさげ、また、ふんふんと鼻《はな》をならしながら、かけさっていった。
「……みつかったかもしれない。」
バルサがつぶやくと、ヒュウゴが、あらく息をつきながら応じた。
「猟犬《りょうけん》なら、ほえて、主人《しゅじん》に、知らせるだろう。」
「ふつうの猟犬ならね。だが、わたしが心配《しんぱい》しているのは、そういう猟犬じゃない。」
バルサは、ようやくしびれがとれはじめた腕《うで》をさすった。
「ロタには、獣《けもの》の目をとおして、ものをみることができる呪術師《じゅじゅつし》たちがいる。あの犬の目をつかって、わたしたちをみたやつがいるかもしれない。」
バルサはヒュウゴをみおろした。
「おそってきたやつらの見当《けんとう》はついているのかい。」
ヒュウゴは、ささやくような声でこたえた。
「……(南翼《なんよく》) の連中《れんちゅう》じゃない。たぶん、この国の密偵《みってい》だろう。背《せ》が低いロタ人ばかりだった。そういう呪術師《じゅじゅつし》がいると、きいたことがある。」
バルサは、つぶやいた。
「やっぱり、カシャル (猟犬《りょうけん》)か。」
「カシャル……?」
ききかえそうとして、ヒュウゴが苦《くる》しげにせきこんだ。煙《けむり》をすいこんだせいだ。バルサものどがやけつくように痛《いた》かった。川の水をわかさずに飲《の》むのは危険《きけん》だったが、いまは、そんなことを気にしていられない。バルサは、そっと手をのばして、水をてのひらですくうと、ヒュウゴの口もとにはこんだ。手がふるえて、ほとんどこぼれてしまったが、なんどかくりかえすうちに、すこしはロにはいったようだった。
バルサも飲んだ。泥《どろ》と草のにおいのする水だったが、のどのいたみが、わずかにやわらいだ。
たとえ、あの犬がカシャル (猟犬《れょうけん》) の目だったとしても、いまは、ここからうごけない。岸《きし》にのぼっても、この体調《たいちょう》では、すぐに追《お》いつかれるだけだ。
かすれた声で、バルサはいった。
「カシャル (猟犬)というのは、ロタ王《おう》のためにうごく、この国の呪術師《じゅじゅつし》たちだよ。探索《たんさく》や追跡《ついせき》にたけている。敵にまわしたら、おそろしい相手《あいて》だ。」
カシャル (猟犬《りょうけん》) の追跡《ついせき》のこわさは身《み》にしみて知っている。だが、バルサにとって、彼《かれ》らはかならずしも敵《てき》ではなかった。頭領格《とうりょうかく》のスファルとは、かなりしたしいといってもいい間柄《あいだがら》だ。
とはいえ、カシャル (猟犬)は、外部《がいぶ》の者《もの》には、よくわからない組織《そしき》だった。
たとえば、スファルの娘《むすめ》であるシハナは、ロタ王《おう》の弟であるイーハン王子に、おそろしい神の力をあたえようと、父をうらぎって、多くの手下《てした》をうごかした。その策略《さくりゃく》に失敗《しっぱい》してシハナは逃《に》げだしたが、彼女《かのじょ》についていったカシャル (猟犬)も、かなりいたらしい。
その後《ご》、スファルが娘をみつけたかどうか知らないが、あの女は、そうかんたんにつかまらないだろう。多くの手下をつれて、いまも、どこかでなにかをたくらんでいるのではなかろうか。
だが、たとえ内部《ないぶ》に反目《はんもく》があったとしても、カシャル (猟犬《りょうけん》)は、ロタ王をまもることに命《いのち》をささげている者《もの》たちだ。ロタ王への謀反《むほん》をたくらむ南部の大領主《だいのょうしゅ》や、大領主たちをそそのかしているタルシュの密偵《みってい》たちは、彼《かれ》らにとっては、ゆるしがたい敵《てき》にちがいない。
ヒュウゴがなにかつぶやいたので、バルサはもの思いからさめた。
「うん?」
「 − チャグム殿下《でんか》は・・・もう、スーアンの城《しろ》には、おられないようだ。」
おどろいて、バルサはヒュウゴをみおろした。
「なんだって?」
「(南翼《なんよく》) の密偵《みってい》にまぎれこませているやつが、知らせてきた。(南翼) の連中《れんちゅう》が大さわぎをしていると。だれかが手引《てび》きして、チャグム殿下を逃《に》がしたらしい。」
そこまで話して、息《いき》をつぎ、ヒュウゴはつづけた。
「(南翼)はおれたちをうたがっているが、手引きしたのは、残念《ざんねん》ながら、おれたちではない。」
ヒュウゴはふいに顔をしかめ、歯をくいしばった。バルサは低い声でいった。
「手当《てあ》てをしたほうがいい。」
「……そうだな。」
革《かわ》の帯《おび》をはずし、衣《ころも》の前をはだけると、ヒュウゴは、自分の下衣《したぎ》の両袖《りょうそで》をやぶいた。そして、片方《かたほう》の袖をたたんで、わき腹《ばら》の傷《きず》にあてた。バルサがその布《ぬの》をおさえているあいだに、ヒュウゴは帯をずりあげて、その布をおさえるようにして、きつくしめた。
バルサは手首にまいているほそい革ひもをほどき、ヒュウゴに手わたした。ヒュウゴは、左の股《また》の付《つ》け根《ね》をその革ひもでしぼってから、腿《もも》につきささっている矢《や》をつかんだ。
「ちょっとまて。」
バルサは、ヒュウゴの腿《もも》にふれて矢《や》の位置《いち》をたしかめた。
「……これなら、ぬいてもいいだろう。」
うなずいて、ヒュウゴはふかく息《いき》をすってとめ、歯をくいしばると、いっきに矢をひきぬいた。
血《ち》がほとばしりでたが、おそれていたほどではなかった。さっきやぶいた袖《そで》の残《のこ》りをきりきりとねじると、その傷《きず》にあててしばった。
それだけの手当《てあて》てをおえると、ヒュウゴは、ぐったりとよこたわった。はだけた上衣《うわぎ》の胸《むな》もとで、なにかひかっている。うすい銀色《ぎんいろ》の板《いた》のようなものが、月の光をはじいているのだ。
「その、首飾《くびかざ》りみたいなやつ、上衣の下にかくしな。追手《おって》に気づかれるとまずい。」
バルサがいうと、ヒュウゴは、銀のうす板をつまんで、胸もとにおしこんだ。
「……こいつは、」
ふいに口のはしをゆがめて、ヒュウゴがいった。
「ラウル王子《おうじ》にもらったものだ。こいつをもらった者《もの》は、功績《こうせき》しだいで、宰相《さいしょう》にさえのぼりつめられる。枝国《しこく》|出身者《しゅっしんしゃ》としては、最高《さいこう》の出世《しゅっせ》への切《き》り札《ふだ》さ。」
にがい笑《え》みをうかべているヒュウゴの目をみて、バルサは、しずかに応《おう》じた。
「 − チャグム皇太子《こうたいし》を献上《けんじよう》した見返《みかえ》りかい?」
ヒュウゴの苦笑《くしょう》がふかくなった。
「そうだ。」
笑《え》みをゆっくりと消し、ヒュウゴは、じっとバルサをみつめた。
「うらみをはらすなら、いまがその機会《きかい》だぜ。たぶん、二度《にど》と、こういう機会はない。」
バルサは、表情《ひょうじょう》を消した目でヒュウゴをみつめ、低い声でいった。
「殺《ころ》してほしいなら、やってやろう。 − そうでないなら、自分の負債《じせき》を他人《たにん》にあずけるようなまねは、やめな。」
ヒュウゴのまなざしがゆれた。ゆっくりと身体《からだ》の力をぬき、ヒュウゴは顔を腕《うで》でおおった。
風が、ざわざわと葦《あし》をゆらしてふきすぎていく。ときおり、葦の間をネズミかなにかがかける音がするほかは、しずかだった。
川風が冷《つめ》たい。襲撃《しゅうげき》からずっと身体の底《そこ》にあった緊張《きんちょう》がとけてきたのだろう。寒くなってきた。。バルサは空袋《からぶくろ》を首のあたりまでひきあげ、短槍《たんそう》を胸《むね》にだいて、横《よこ》になった。だいぶん身体のしびれがとれてきている。夜半《やはん》ごろには、指《ゆび》もまともにうごくようになるだろう。
気をうしなったのか、ねむったのか、腕《うで》が顔からすべりおちても、ヒュウゴは、目をとじたままだった。かすかな月の光にてらされている、その顔は、ずいぶんと若《わか》くみえた。
バルサはため息《いき》をついた。 − なんとも、きみょうなことになったものだ。
チャグムをさらってタルシュにつれていった男だとわかっていても、このまま、ここにおいていく気にはなれなかった。夜狩《よかり》をするフクロウの羽音《はおと》とネズミの悲鳴《ひめい》をききながら、バルサは、ぼんやりと夜空《よぞら》をみあげていた。
(チャグムを逃《に》がしたのは、だれだろう。なんのために……?)
タルシュにもロタにもさまざまな集団《しゅうだん》がいて、それぞれの思惑《おもわく》がからみあっている。
(そいつは、チャグムが生きていて、スーアンの城《しろ》にいることを知っていた。)
心のなかに、ひとつ、可能性《かのうせい》がうかんできた。
(そうだとすれば、チャグムは……。)
ふいに、ヒュウゴがせきこみはじめた。咳《せき》をするたびに傷《きず》がいたむのだろう、身体《からだ》をぎゅっとちぢめている。目はあいているが、うつろだった。カチカチ歯が鳴っていた。
バルサは、ヒュウゴの額《ひたい》に手をあてた。やはり、高熱《こうねつ》がでている。
バルサは、自分の下衣《したぎ》の袖《そで》をひきちぎると、川の水にひたして、しぼり、ヒュウゴの額にのせた。ヒュウゴは目をとじて、されるままになっていた。額にのせた布《ぬの》は、すぐにかわいてしまう。バルサは、こまめに布を水にひたしては、額にのせてやった。
月がしずみ、ゆっくりと時がすぎていった。すこし、ヒュウゴがおちついたのをみさだめて、バルサは横《よこ》になって目をとじた。
どのくらいねむったのだろう。ヒュウゴの声で、バルサは目をさました。
あたりはもう、うっすらと明るくなっている。空はうす紫色《むらさきいろ》の光をたたえていた。
悪夢《あくむ》にうなされているように、顔をふりながら、ヒュウゴはだれかの名前をよんでいる。女の名前のようだったが、よくききとれなかった。あまりに苦《くる》しそうなので、バルサはヒュウゴの肩《かた》をつかんで、ゆすってやった。
ヒュウゴは目をあけて、まばたきした。そして、うつろな目でバルサをみた。
「・・ここは?」
つぶやいて、ヒュウゴは、眉《まゆ》をひそめてあたりをみていたが、やがて、はっきりと目をさましたらしく、ため息《eg》をついた。夜明《よあ》けの冷《ひ》えこみはきびしく、息《いき》が白くこおった。
「そうか。……そうだったな。……追手《おって》はこなかったのか?」
「こなかったようだね。」
バルサはそういって、ヒュウゴの額《ひたい》にのっている布《ぬの》をはずした。
「ずいぶん、うなされていたよ。」
バルサにいわれて、ヒュウゴは、かすかに苦笑《くしよう》をうかべた。
「……火事《かじ》が、いけなかったな。火事には、いやな思い出があるんだ。こんなに時がたっても、まだ悪夢《あくむ》をみる。」
それだけいって、ヒュウゴは目をとじた。
鳥のさえずりが、あちこちできこえはじめた。朝もやが、ぼんやりと風景《ふうけい》をとかしている。
ふいに、ヒュウゴが問いかけた。
「あなたは、チャグム殿下《でんか》をみつけたら……どうするつもりなんだ?」
うす紫色《むらさきいろ》の空をみながら、バルサはつぶやいた。
「……さあね。」
ヒュウゴは目をあけ、低い声でいった。
「ソドクは − あなたが頭をなぐった呪術師《じゅじゅつし》のことだが、彼《かれ》は、あなたが皇太子派《こうたいしは》のだれかのひもつきではないかと考えている。……それは、まちがいないだろう。でなければ、チャグム殿下が生きておられることを知るはずがないし、さがしにくるはずもないからな。
だが、きっと、そのひもは、あるような、ないような、たよりないもののはずだ。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》は、恐怖《きょうふ》にかりたてられて、みずから滅《ほろ》びの縁《ふち》にむかって走りはじめた獣《けもの》のような状態《じょうたい》だ。いま、チャグム皇太子が生きてかえったら、たいへんな混乱《こんらん》がおきる。皇太子派とて、そんなことはのぞむまい。」
風が、さわさわと葦《あし》をゆする。
「あなたは、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》のために、チャグム殿下《でんか》をさがしているわけじゃないだろう。」
バルサは、それにはこたえず、顔をかたむけて、ヒュウゴをみた。
「あんたは、いったい、わたしになにをさせたいんだい?」
ヒュウゴは、しばらくだまっていたが、やがて、つぶやいた。
「チャグム殿下にあったら、つたえてほしいことがある。
北の大陸《たいりく》で同盟《どうめい》をきずくつもりなら、大いそぎでカンバルをめざせ。ロタ王《おう》よりさきに、カンパル王を説得《せっとく》すべきだと、つたえてほしいのだ。」
意外《いがい》な言葉《ことば》に、バルサほ顔をしかめた。
「……なんだって?」
ヒュウゴは、バルサに顔をむけた。
「年があければ、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》は、緒戦《しょせん》をむかえる。
この二年のあいだに、タルシュ帝国軍《ていこくぐん》は着実《ちゃくじつ》にサンガルの主要《しゅよう》な島《しま》じまに地歩《ちほ》をきずいてきた。サンガル半島に配備《はいび》しおえた兵力《へいりょく》だけでも、それなりの数になっている。
緒戦《しょせん》のために配備された部隊《ぶたい》は、通称《つうしょう》グロム(牙《きば》)とよばれるラウル王子《おうじ》|旗下《きか》の精鋭部隊《せいえいぶたい》だ。オルム王国《おうこく》やヨゴ皇国《おうこく》に攻《せ》めこんだときも緒戦をになった、戦《いくさ》なれした名将《めいしょう》がひきいている。」
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痛《いた》みをこらえるような表情《ひょうじょう》が、つかのま、ヒュウゴの目にうかんで消《き》えた。
「戦《いくさ》をしたことのない新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の兵士《へいし》たちは、惨殺《ざんさつ》されるだろう。緒戦《しょせん》は、戦場《せんじょう》というより、草刈場《くさかりば》のようなありさまになる。……そのむごさを、帝《みかど》にみせつけるための戦だからな。」
言葉《ことば》をきって、ヒュウゴは、しばらくうつむいていたが、やがて顔をあげた。
「あとふた月たらずで、そういう戦がはじまる。
もう、ロタ王《おう》もカンバル王も、新ヨゴの緒戦《しょせん》がどのようになるか見当《けんとう》をつけているだろう。
だから、ロタ王は、自国《じこく》の守《まも》りをかためるために全力《ぜんりょく》をつくすつもりでいるはずだ。ロタ王は英明《えいめい》であたたかい心をもった男だという噂《うわさ》だが、英明であるなら、負けるときまっている国をたすけるために出兵《しゅっぺい》するようなおろかなまねはすまい。 − だが、カンバル王は、ちがう。」
バルサは眉《まゆ》をひそめた。
「・・・どうちがう? カンバル王は、気弱《きよわ》なところがある男だよ。新ヨゴがおちると思ったら、青霧山脈《あおぎりさんみゃく》を楯《たて》に、たてこもろうとするだろうよ。新ヨゴをたすけるはずがない。」
ヒュウゴは首をふった。
「おれがいっているのは、新ヨゴとカンバルの同盟《どうめい》じゃない。 − チャグム殿下《でんか》につたえてほしいのは、|カンバルに、ロタとの同盟を考えさせろ《ヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということだ。」
バルサは、目をみひらいた。ヒュウゴは、言葉《ことば》をつづけた。
「新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》がおちれば、つぎはロタ。ロタがおちてしまえば、カンバルには行《い》き場《ば》はない。いかに気弱《きよわ》な王《おう》でも、その理屈《りくつ》はわかるだろう。そして、カンバルとの同盟《どうめい》なら、ロタ王はかならずうける。カンバル王国はロタの北部に近い。カンパルと北部の領主《りょうしゅ》たちが同盟して武装《ぶそう》すれば、南部の大領主たちへの牽制《けんせい》になるからな。」
ヒュウゴの目には、つよい光があった。
「ロタとカンバルが手をむすべば、かなり強固《きょうこ》な壁《かべ》ができる。新ヨゴをおとしたとしても、その壁をこわすには時間も兵力《へいりょく》も金も膨大《ぼうだい》にかかる。……ラウル王子《おうじ》は、北の攻略《こうりゃく》にあつい野心《やしん》をもっているが、おろかではない。彼《かれ》の野心をさまし、戦《いくさ》|以外《いがい》の道を考えさせるにはそれしかない。」
バルサは、つぶやいた。
「なぜ、そんなことを。王子に新ヨゴをおとすことを思いとどまらせて……あんたには、どんな得があるんだい。」
「大ありだ。 − おれは、帝国《ていこく》の宰相《さいしょう》になりたいんだ。そのためには、ラウル王子《おうじ》に皇帝《こうてい》になってもらわねばならん。」
バルサの顔に、困惑《こんわく》の色がうかぶのをみて、ヒュウゴは笑《わら》った。
「新《しん》ヨゴをおとせず、北への侵攻《しんこう》を断念《だんねん》することになったら、ラウル王子《おうじ》には、とてつもなくでかい痛手《いたで》だと思うだろう? それは、もちろん、そのとおりだ。
だがな、それよりもっと決定的《けっていてき》な痛手があるんだよ。 − このままいけば、兄のハザール王子は、ラウル王子が新ヨゴをおとすよりさきに、ロタ王国《おうこく》をおとしてしまうだろう。
ほとんど自国《じこく》の兵《へい》をうしなわずに、新ヨゴ皇国より強大《きょうだい》なロタを、計略《けいりゃく》ひとつでおとしたら、これは、めざましい功績《こうせき》だ。皇帝《こうてい》は死病《しびょう》の床《とこ》にあるからな。バザールがロタをおとしたら、その時点《じてん》で、バザール王子が皇帝にきまってしまう可能性《かのうせい》があるんだよ。」
理解《りかい》した光がバルサの目にうかんだ。
「……なるほどね。カンパル王がロタ王と同盟《どうめい》をむすべば、ロタ王に強大《きょうだい》なうしろ盾《だて》ができる。そうなったら、南部の大領主《だいりょうしゅ》は内戦《ないせん》などおこせないから、バザール王子の野望《やぼう》もついえるってわけか。」
「そういうことだ。」
ヒュウゴは、しばらくだまって空をみつめていたが、やがて、口をひらいて、それまでとはちがう、しずかな声でいった。
「それにな、タルシュは、そろそろ他国《たこく》に手をのばすのを、やめねばならない。
戦《いくさ》をすることをあきらめて新《しん》ヨゴが枝国《しこく》になるならまだしも、このままでは、多くの血をながしながら、ロタやカンバルとの、長い、長い戦がはじまってしまう。」
きびしい光をうかべた目で、ヒュウゴはいった。
「南と北は広大《こうだい》な海でへだてられている。サンガル経由《けいゆ》とはいえ、兵士《へいし》や武器《ぶき》を船団《せんだん》でおくりつづけるのは、たいへんな出費《しゅっぴ》だ。その出費のために高い税《ぜい》をしぼりとられ、息子《むすこ》や夫《おっと》を兵士にとられ、苦《くる》しみにのたうつのは、だれだと思う?  − ヨゴやオルム、ホーラム……タルシュにのみこまれて枝国《しこく》になった国の民《たみ》たちだよ。」
チチチ・・・と、高くさえずりながら、小鳥たちが空に飛びたっていく。朝の光がヒュウゴの顔を白くうかびあがらせている。
「タルシュ帝国《ていこく》は、酒《さけ》を入れすぎて革《かわ》がうすくのびきった革袋《かわぶくろ》のようなものだ。タルシュなどほろびてもかまわないが、いまのままの状態《じょうたい》で革袋がやぶければ、たいへんな惨事《さんじ》になる。それは、なんとしてもさけねばならない。タルシュの運命《うんめい》は、多くの枝国《しこく》の人びとの運命と、ふかくつながっているからな。」
バルサは、つぶやいた。
「そもそも、なんのために、はるばる北まで攻《せ》めてくるんだい。南のほうが、ゆたかだろうに。」
ヒュウゴは苦笑《くしょう》をうかべ、しばらくだまっていたが、やがて、いった。
「それが、そうでもないのさ。 − 南の大陸《たいりく》は、やせつつあるからな。」
バルサは眉《まゆ》をひそめた。ヒュウゴは空をみあげたまま、つづけた。
「膨大《ぼうだい》な戦費《せんぴ》をかけてとるには貧《まず》しい獲物《えもの》であるはずの、はるか海の彼方《かなた》の大陸に、タルシュの王子《おうじ》たちが興味《きょうみ》をもったきっかけは、アルェ・コウ(太陽神《たいようしん》のロ) の言葉《ことば》だ。」
「 − アルェ・コウ(太陽神のロ)?」
「タルシュ人が信仰《しんこう》する太陽神《たいようしん》アルェをまつる祭司《さいし》たちさ。ヨゴの呪術師《じゅじゅつし》たちともふかいつながりがある。・・・彼《かれ》らが皇帝《こうてい》に告げたのき。南の大地は冷《ひ》えつつある。太陽神の恩恵《おんけい》は、北へうつりつつあると。北はこれからあたたかく、地はゆたかになる。常春《とこはる》の聖地《せいち》さえ出現《しゅつげん》するだろう。その聖地にうけいれられた者《もの》は、不老不死《ふろうふし》となるだろう……。」
バルサは苦笑《くしょう》した。ヒュウゴはちらっとバルサをみて、眉《まゆ》をあげた。
「くだらないと思うか? よくあるぎょうざょうしい予言《よげん》だと?  − 皇帝《こうてい》や王子《おうじ》たちも、もちろん、その予言のために、北を攻《せ》めはじめたわけじゃない。とくに常春《とこはる》の聖地《せいち》については……さがしにきた密偵《みってい》たちのだれひとりとして、そんなものはみつけなかったしな。」
ヒュウゴは、しばし言葉《ことば》をきり、じっと、空をみつめた。
「だが、もうひとつの予言《よげん》のほうは的中《てきちゅう》した。何年もたつうちに、アルェ・コウ(太陽神《たいようしん》の口) の予言は、じょじょに、だれの目にもあきらかな事実《じじつ》となってたちあらわれるようになったんだ。 − 凶作《きょうさく》、家畜《かちく》の仔の減少《げんしょう》、漁獲高《ぎょかくだか》の減少《げんしょう》……。北部はそれほどではないが、南部の寒い山間部《さんかんぷ》などでは、かなり深刻《しんこく》なところもある。
帝国《ていこく》|全体《ぜんたい》では、まだ、さほどの減収《げんしゅう》にはなっていない。それでも、なにかがかわりつつあるということを、皇帝《こうてい》たちも信《しん》じはじめている。」
それをきいて、バルサは、ふと思いだした。
(そういえば、新ヨゴやロタは、ここ数年|豊作《ほうさく》つづきで、ロタでも、家畜《かちく》の仔《こ》もたくさんうまれているとだれかがいっていたな。)
ヒュウゴは話をつづけている。
「作物《さくもつ》の生産高《せいさんだか》の減少《げんしょう》は税収《ぜいしゅう》の減少につながる。それに生活が苦《くる》しくなれば、枝国《しこく》の民《たみ》は反乱《はんらん》すらも考えるようになるだろう。もし、アルェ・コウ(太陽神の口) の予言《よげん》が的中《てきちゅう》するのなら、なにか手をうたねばならぬ、と、皇帝《こうてい》や王子《おうじ》たちは考えていたわけだ。
ゆっくりと国がやせていくこの危機《きき》に有効《ゆうこう》な手をうてれば、その王子は、皇帝にえらばれるだろう。皇帝は高齢《こうれい》だし、死病《しびょう》にかかっている。王子たちにとってみれば、なるべく早く手柄《てがら》をたてたいわけだ。
それもあって、王子《おうじ》たちは本腰《ほんごし》をいれて、北の大陸《たいりく》を手にいれる方策《ほうさく》をたてはじめた。」
小さくため息《いき》をついて、ヒュウゴはつづけた。
「おれたち密偵《みってい》は、もう何年も、この大陸《たいりく》について、さまざまなことをさぐり、攻略《こうりゃく》のための手をうってきた。 − 北は、たしかにあたたかくなりつつある。それに、なによりタルシュの王子たちの心をそそったのは、北の農耕技術《のうこうぎじゅつ》がおそまつで人口《じんこう》もすくないことだった。
タルシュ帝国《ていこく》はすぐれた潅漑《かんがい》技術をもっている。この技術をつかえば、新ヨゴはもちろん、ロタ王国《おうこく》の北部でさえ、いまの何|倍《ばい》もの田畑《たばた》を開墾《かいこん》し、効率的《こうりつてき》に収穫《しゅうかく》をあげることができる。北の大陸を征服《せいふく》し、凶作《きょうさく》にあえぐ南の枝国《しこく》の農民《のうみん》たちを北に移住《いじゅう》させれば、税収《ぜいしゅう》も安定《あんてい》すると考えたわけだ。」
バルサは鼻《はな》をならした。
「そんなことのために、膨大《ぼうだい》な戦費《せんぴ》をつかい、兵力《へいりょく》を犠牲《ぎせい》にするのかい?  − わたしには、割《わり》にあわない気がするけどね。」
ヒュウゴは苦笑《くしょう》した。
「それは、逆《ぎゃく》だ。」
「逆?」
「そう。タルシュ帝国《ていこく》のやり方《かた》では、兵力《へいりょく》を犠牲《ぎせい》にしても、他国《たこく》を攻《せ》めれば国が安定《あんてい》する。
タルシュのやり方は、こうだ。 − 他国を征服《せいふく》して枝国《しこく》にすると、その国の兵《へい》をそのまま枝国兵としてタルシュ軍《ぐん》にくみいれる。枝国兵は、つぎの戦《いくさ》の最前線《さいぜんせん》におくられ、軍功《ぐんこう》をあげれば、その兵の家族《かぞく》はコムス(臣民権《しんみんけん》)をあたえられて、減税《げんぜい》してもらえる。
だが、攻《せ》めるところがなくなったら、どうなる? 帝国《ていこく》は、正規兵《せいきへい》をやしないながら、膨大《ぼうだい》な枝国兵《しこくへい》もやしないつづけねばならない。枝国兵の家族《かぞく》は重税《じゅあぜい》からのがれられず、苦《くる》しみつづける。どちらをむいても、不満《ふまん》をつのらせた連中《れんちゅう》ばかりになる。」
冷《つめ》たい笑《え》みを目にうかべて、ヒュウゴはいった。
「南の大陸《たいりく》にはもう、攻《せ》められる国がほとんど残《のこ》っていない。早くに枝国《しこく》になった国の民《たみ》は、ほかの国を攻《せ》めた軍功《ぐんこう》で、いまはタルシュ人とほとんどかわらぬゆたかな暮らしをしている。
割《わり》をくっているのは、最後《さいご》に枝国になったおれの祖国《そこく》のヨゴや、隣《となり》のオルムやホーラムの民《たみ》だ。彼《かれ》らの不満《ふまん》を解消《かいしょう》するためにも、タルシュ帝国《ていこく》は、攻める国がほしいのさ。」
バルサは笑《わら》いだした。
「くだらない。そんなことをやってたって、いつかは、どんづまりがくるじゃないか。」
ヒュウゴも笑った。
「そのとおりだ。」
そして、バルサをみつめ、真顔《まがお》になっていった。
「だからいっているんだよ。 − そろそろ、タルシュの王子《おうじ》たちは気づくべきだと。もう、いままでのやり方《かた》ではだめだと。他国《たこく》を侵略《しんりゃく》して国をひろげるのではなく、兵《へい》を解体《かいたい》し、田畑《たはた》ではたらく人手《ひとで》をふやし、商《あきな》いをさかんにすべきときがきているんだ。
これまでのやり方ほど利は大きくなくとも、そうしないかぎり、あなたがいうように、どんづまりがくる。
だが、手にはいりそうな獲物《えもの》が目の前にいたら、王子たちは、まず、それをつかまえてから、と考えてしまうだろう。 − 北の大陸《たいりく》が、汁気《しるけ》たっぷりの、かよわい獲物のままでいたら、王子たちの目は、ここにとらわれたままだ。」
小さくため息《いき》をついて、ヒュウゴはいった。
「チャグム殿下《でんか》をさがしだせたら、おれは、この話をするつもりでいた。だが、チャグム殿下には、おれは、ラウル王子の影《かげ》にみえるだろう。だが、あなたなら……。」
ヒュウゴは、バルサに顔をむけた。
「あなたの言葉《ことば》なら、チャグム殿下は、耳をかたむけてくださるだろう。」
バルサは、こたえなかった。
遠くから、キィ、キィ、と櫂《かい》をこぐ音と、陽気《ようき》なかけ声がきこえてきた。河舟人足《かわぶねにんそく》たちが、朝の荷をのせて、ホゥラ河《がわ》をくだりはじめたのだろう。
「わたしは・・・・」
バルサは、つぶやいた。
「国がどうとかなんて話は、どうでもいい。 − あの子が、しあわせに生きられるなら、それでいいんだ。」
ひとりごとのように、バルサはつづけた。
「皇太子《こうたいし》なんぞにうまれて、あの子はいつも、国ってやつにしばられ、もてあそばれてきた。その鎖《くさり》が切れたときの、あの子は……ずいぶんと、しあわせそうだったよ。薪《たきぎ》をせおって、手にあかぎれが切れて、つらい暮らしだっただろうに。」
「……そうだろうな。殿下《でんか》はたのしそうに甲板磨《かんぱんみが》きをしておられた。もろ肌《はだ》をぬいで、海賊《かいぞく》に、弟子入《でしい》りしたそうな顔をして。」
バルサのほうをむいて、ヒュウゴはほほえんだ。
「ぞうきんのしぼり方《かた》をおしえたのは、あなただろう。殿下がぞうきんをしぼる手つきは、堂《どう》に入ったものだったぜ。」
バルサは顔をゆがめて、目をそむけた。
ヒュウゴが、つぶやいた。
「あなたは信《しん》じないだろうが、おれも、あの方《かた》にはしあわせになってほしい。だけど、きっと、もう、あの方自身《じしん》、そういう暮らしを夢《ゆめ》みてはおられないんじゃないかな……。」
そのとき、遠くの葦原《あしはら》で、水鳥たちが、なにかにおどろいたように鳴《な》きながら、いっせいに飛びたった。
はっと、身体《からだ》をかたくして、バルサはヒュウゴの口を手でふさいだ。
(……人が、くる。)
葦原のなかを、複数《ふくすう》の人間たちが、獣《けもの》のように身軽《みがる》に、すりぬけてくる。
懐《ふところ》の短剣《たんけん》の柄《つか》をにぎったヒュウゴの手を、バルサはそっとおさえた。それから、短槍《たんそう》をにぎりしめて、手に力がもどっているのをたしかめた。
バルサは胸《むね》の下にあった小さな麻袋《あさぶくろ》をロもとにひきよせると、糸切《いときり》り歯《ば》で噛《か》み傷《きず》をつけてから、ピッと切りひらき、底《そこ》の糸もかみきって、あっというまに二|枚《まい》の布《ぬの》に分けてしまった。そして、その麻布で、はだしの足をつつんでしはった。
空《から》の小麦袋《こむぎぶくろ》をヒュウゴの顔にかぶせようとすると、ヒュウゴが、それを手でおさえ、おしころした声でいった。
「 − なにをする気だ。」
バルサは、にやっと笑《わら》った。
「逃げるのさ。ケガ人は足手まといだ。ここで、しずかにしてな。」
それから、真顔《まがお》になって、小麦袋《こむぎぶくろ》をヒュウゴの顔《かお》におくと、袋にかくれている肩《かた》のあたりに手をおいて、ぎゅっとにぎった。
「よけいなことを、するんじゃないよ。」
いうや、バルサは、まとっていた空袋《からぶくろ》をはでにはねのけて、小舟《こぶね》の上に立ちあがった。
葦原《あしはら》に、三つの人影《ひとかげ》があった。バルサは、短槍《たんそう》の石突《いしづき》きで岸《きし》をつき、小舟からはねあがった。いちばん近いところにいた影が、はっとしたように短弓《たんきゅう》をかまえて、さけんだ。
「うごくな!」
バルサは、それを無視《むし》して男にむかって走った。
男は弓《ゆみ》をひきしぼると、バルサにむかって矢《や》をはなった。バルサは、するどく短槍《たんそう》をふって矢をはじくや、そのいきおいのまま短槍を一|回転《かいてん》させて、男の頭にふりおろした。
ゴッとにぶい音がして、男は白目をむいて昏倒《こんとう》した。
ふたつの人影《ひとかげ》が、葦《あし》をかきわけてせまってくる。バルサは、気をうしなっている男のわきの下に腕《うで》を入れてかかえあげ、自分の楯《たて》にしてから、ロタ語《ご》でさけんだ。
「矢《や》を射《い》るな! こいつにあたるぞ。」
ふたりが、動きをとめた。彼《かれ》らがなにをするより早く、バルサは、ふたたびさけんだ。
「わたしは、短槍使《たんそうづか》いのバルサという。おまえらは、カシャル (猟犬《りょうけん》)だろう。なんで、わたしをおそう。こたえろ! こたえなければ、こいつを殺《ころ》すぞ。」
名のったのは賭《か》けだった。彼《かれ》らが、シハナの手のものなら、問答無用《もんどうむよう》でおそいかかってくるだろう。男を左腕《ひだりうで》でかかえたまま、バルサは右手にもった短槍《たんそう》をにぎりなおした。
弓《ゆみ》をかまえている男たちの顔に、とまどいの色がうかんだ。
「……短槍使《たんそうづか》いのバルサだと?」
ひとりが、つぶやいた。ふたりは、ちらっと顔をみあわせた。
年上の男が、弓《ゆみ》をかまえたまま、いった。
「おれたちはタルシュのターク(鷹《たか》)を追《お》っている。やつらの隠《かく》れ家《が》から、小舟《こぶね》が一艘《いっそう》|消《き》えているのに仲間《なかま》が気づいたので、さがしていたんだ。……あんたが、ほんとうに短槍使いのバルサなら、なんで、小舟なんかにかくれていた?」
バルサは、腕《うで》にかかえていた男をゆっくりと地面《じめん》におろした。
「それを話すには、長い時間がかかる。 − 抵抗《ていこう》しないから、あんたらの頭領《とうりょう》のところへ、つれていっておくれ。」
そういって、バルサは短槍《たんそう》を地面《じめん》におくと、三歩さがって、両手《りょうて》をあげてみせた。
男たちは、しばらくまよっていたようだったが、やがて、弓《ゆみ》をかまえたまま、そろそろとバルサのほうへやってきた。
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5  密偵《みってい》の思惑《おもわく》
壁《かべ》にすえつけられた、巨大《きょだい》な暖炉《だんろ》につみあげられた薪《たきぎ》が、ときおり、パチパチとはぜるような音をたてながら、燃《も》えている。炎《ほのお》がゆらめくたびに、金糸《きんし》を縫《ぬ》いこんだ豪華《ごうか》な壁掛《かべかけ》けがかがやいた。
暖炉のわきにおかれた、小さな卓《たく》をはさむように、ふたりの男がすわっている。
彼《かれ》らが酒杯《しゅはい》をもちあげると、火の色が杯《さかずき》をなめて、金のふちがきらめいた。
深《ふか》く椅子《いす》に背《せ》をあずけている男は、ロタ王国《おうこく》南部の大領主《だいりょうしゅ》スーアンの長子《ちょうし》、オゴン。彼とむかいあってすあっている男は五十すぎくらいのヨゴ人だった。白髪《しらが》まじりだが、年を感じさせない、がっしりとした肩《かた》はばがめだつ男で、いかにもゆたかな商人《しょうにん》という服装《ふくそう》をしているが、そのうごかないまなざしにはきみょうな威圧感《いあつかん》があった。
オゴンはにがい顔で酒杯をあおっていた。顔には濃《こ》いつかれの色がうかんでいる。急《きゅう》な知らせをうけて、二日《ふつか》がかりで速馬車《はやばしゃ》をのりついで、ほんの半《はん》クルン(約《やく》三十分)ほどまえにゼラムからもどってきたばかりだった。
扉《とびら》をたたく音がして、召使《めしつかい》の声がひびいてきた。
「……ユラリーさまを、おつれいたしました。」
オゴンは顔をあげて、太い声でいった。
「はいれ!」
十五、六くらいの少女がはいってきた。三歩ほどなかにはいったが、そこで足をとめて、ふてくされた顔でオゴンをみている。ねむっていたのを起《お》こされたらしく、はれた目をしていた。
オゴンは、射ぬくような目でじっと娘《むすめ》をみつめ、ぐいっと顎《あご》をしゃくった。
娘は、しかたなさそうに、父のところへちかづいてきた。
細面《ほそおもて》で瞳《ひとみ》の大きな、うつくしい娘だが、まなざしが、すい、すいっと泳《およ》ぐようにうごいて、いっときも、じっとしていない。
「なぜ、よばれたか、わかっているな。」
オゴンがいうと、娘は眉間《みけん》にしわをよせた。
「わかってるわ。わるかったと思っているわよ。……ごめんなさい。」
オゴンの目に、怒《いか》りの火がひらめいた。
「あやまって、すむことではない。だいたい、なぜ、あの部屋《へや》にいったのだ!」
ユラリーの目に、ふてぶてしい笑《わら》いがうかんで消えた。
「 − ずっと侍女《じじょ》たちが噂《うわさ》してたから。顔をみてみたくなったの。」
息《いき》をすいこんで、オゴンは娘《むすめ》をにらんでいたが、やがて、すっと視線《しせん》を娘からそらし、むかい側《がわ》にすわっている商人《しょうにん》をみた。
「わかっただろう。こういう娘だ。……だれかと共謀《きょうぼう》するような頭はない。」
商人は、あいまいな笑《え》みをうかべている。
オゴンは娘に目をもどし、きびしい口調《くちょう》で問《と》いつめた。
「顔をみにいっただけなら、部屋《へや》からつれだす必要《ひつよう》はなかっただろう。見張《みはり》りに金をやってまで、なぜ、庭《にわ》につれだしたのだ!」
ユラリーは肩《かた》をすくめて、しばらくだまっていたが、父が立ちあがる気配《けはい》を感じると、あわてていった。
「……彼《かれ》がいったのよ。部屋のなかにいるのはあきたって。だから、ちょっと、庭にだしてあげようと思ったの。」
「夜中《よなか》にか!」
その瞬間《しゅんかん》、ユラリーの目にゆらめいた笑みの影《かげ》をみて、オゴンは思わず手をふりあげた。
ユラリーは、びくっとして、さけんだ。
「だって、まさか、逃《に》げるなんて、思わなかったんだもの! あっというまで、とめられなかったのよ! 木によじのぼって、塀《へい》をのりこえてしまったんだもの。」
ふりあげた手をゆっくりとおろし、オゴンは、にがい声でいった。
「おまえという娘《むすめ》は……。どうしようもないやつだ。一刻《いっこく》もはやく、とつがせるべきだな。明日《あす》にでも、ゼラムのアマン大領主《だいりょうしゅ》の次男《じなん》に娶《めあ》わせる手配《てはい》をはじめよう。」
ユラリーの顔色がかわった。
「いやよ、あんなふとった男! …・‥お父さま、本気《ほんき》じゃないでしょう?」
オゴンは娘をみすえて、はきだすようにいった。
「本気だ。ラロークは、なかなかしたたかな男だからな。婿《むこ》にしても利があるだろう。」
「お父さま!」
あまえた泣《な》き声《ごえ》をたてた娘に、オゴンは、うすい笑《わら》いをうかべて、いった。
「おまえが、どんな遊びをしているか、わたしが知らないとでも思っていたか。これまでも腹《はら》にすえかねることは、たくさんあったのだ。今回《こんかい》のことは、ゆるせる話ではない。
でていけ。 − 泣《な》いても、わめいても、おまえは、ラロークの妻になるのだ。」
ユラリーは泣きはじめたが、オゴンは召使《めしつか》に手をふって、ユラリーをつれていかせた。
扉《とびら》がしまり、ふたりきりになると、オゴンは商人《しょうにん》にむきなおった。
「……くだらぬことで、とんだことになった。」
商人が、にがい表情《ひょうじょう》でいった。
「あの皇太子《こうたいし》は、なかなかみられる顔をしていますからな。客人扱《きゃくじんあつかい》いして、侍女《じじょ》たちに世話をさせたのがまちがいでした。」
「あまりぎょうざょうしく見張《みはり》りをつければ、かえって城内《じょうない》の噂《うわさ》になると思ったのだが……。」
オゴンは、ため息《いき》をついた。
「いまは、不手際《ふてぎわ》をどうこういっている暇《ひま》はない。ユラリーの叫《さけ》び声《ごえ》をきいて、兵士《へいし》たちがあつまってきたのに、煙《けむり》のように城内《じょうない》から消《き》えうせたとなると、やはり、だれか手引《てび》きした者《もの》がいたとしか考えられぬ。もう、二日《ふつか》もたつのに、その後《ご》、なんの情報《じょうほう》もないのか?」
商人《しょうにん》は首をふった。
「必死《ひっし》でさがしていますが、まだ。−−ただ、ひとつ気になることがございました。」
オゴンは商人をみつめた。
「なんだ?」
「昨夜《さくや》、ファルハの小麦倉庫《こむぎそうこ》が、燃《も》えました。もしかしたら、(北翼《ほくよく》) の連中《れんちゅう》がひそんでいるのではないかと考えていたあたりです。火事《かじ》になるまえに、乱闘《らんとう》の音をきいたという話を部下《ぶか》がききこんできました。焼けあとには、死体《したい》はありませんでしたが、河《かわ》の土手で、血《ち》のあともみつけています。」
オゴンは目をほそめた。
「どういうことだ、それは。おまえたちがおそったのではないとすれば、だれが、(北翼《ほくよく》)のターク(鷹)をおそったというのだ。」
商人《しょうにん》は杯《さかずき》をまわした。
「われらは、ああいうはでなおそい方《かた》はしません。身内であらそっていることは、表《おもて》ざたにならないようにするのが、われわれの流儀《りゅうぎ》ですから。
タルシュのターク(鷹《たか》)をおそう可能性《かのうせい》があるとすれば……この国の者《もの》でしょう。」
オゴンはぎゅっと眉《まゆ》をひそめた。
しばらく、暖炉《だんろ》の炎《ほのお》をみつめていたが、やがて、顔をあげて商人《しょうにん》をみた。
「(川の民《たみ》)か。……そうかもしれない。われら南部の領主《りょうしゅ》をかげからさぐる、王の飼《か》い犬《いぬ》たちだ。やつらが、ターク(鷹)に気づいたとすれば、われらの動きも知られているだろう。」
オゴンと商人は、じっとみつめあった。商人がつぶやいた。
「猶予《ゆうよ》はありませんな。 − どうなさいますか。」
オゴンは商人《しょうにん》をみつめたまま長いことだまっていたが、ついに、思いきるようにいった。
「王が亡《な》くなってからと思っていたが、こうなると、どんなふうに事態《じたい》がうごくかわからん。新《しん》ヨゴへのタルシュ侵攻《しんこう》も間近《まぢか》だといっていたな? ならば、いまが潮時《しおどき》かもしれぬ。
ショウ・ホゥル (南部連合《なんぶれんごう》) の戦《いくさ》じたくをひそかにはじめよう。」
商人は、うなずいた。
「同胞《どうほう》たちにも、準備《じゅんび》をするよう告《つ》げておきましょう。」
商人の言葉《ことば》に、オゴンはちらっと、からかうような笑みをうかべた。
「……ありがたいが、その同胞とやらは、いったいどのくらいの人数になった? 南部|各地《かくち》にちってひそんでいるヨゴ人だけでは、多くても千騎ぐらいだろう。
わしにも独自《どくじ》の情報網《じょうほうもう》があるのだがな、ゼラムでおもしろいことをきいたぞ。」
商人《しょうにん》をみるオゴンの目に、冷《つめ》たい光がやどった。
「北への侵攻軍《しんこうぐん》の指揮権《しきけん》をもっているのは、そなたらの主君ではなく、弟のラウル王子《おうじ》なのだそうだな。ラウル王子は、二十万の軍勢《ぐんぜい》をうごかせるとか。」
商人は、うすい笑《え》みをうかべて、あざけるようにいった。
「ずいぶんと長いあいだ、あなたがたに利のある商売《しょうばい》をさせてきたというのに、いまごろになってハザール王子《おうじ》とよしみをつうじたことを後悔《こうかい》しておられるのですか? ……ラウル王子のほうにしておけばよかったと?」
商人《しょうにん》の笑《え》みがふかくなった。
「あなたが知っていることは、いわば、タルシュの上《うわ》っ面《つら》だけの事情《じじょう》。その奥《おく》になにがあるかをみきわめる力をもたずに、ふたりの王子の間でうろうろすれば、はざまに落ちて、どちらからも、みすてられることになりますよ。
わたしたちを、あまり、あなどらないほうがいい。 − たとえば、あなたがたが、ラウル王子|側《がわ》にも顔つなぎをするために、数年まえから軍用馬《ぐんようば》を各地《かくち》の牧場《ぼくじょう》からひそかにあつめて、サンガル半島《はんとう》におくっていることなども、わたしたちは知っている。あなたがたの、こういうやり方《かた》を、ハザール王子におつたえすれば、あまりよく思われないでしょうな。」
オゴンは、むっとした顔をしたが、なにもいわなかった。
商人は、なだめるようにいった。
「まあ、ご安心《あんしん》なさい。このロタ王国《おうこく》は新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》よりもはるかに大きい領土《りょうど》。この国を、バザール王子が枝国《しこく》にできれば、皇帝陛下《こうていへいか》は、新ヨゴ皇国などをもたもたと攻《せ》めている弟の功績《こうせき》より、兄の功績のほうがはるかに上だと評価《ひょうか》されるでしょう。
皇帝陛下《こうていへいか》は、兄弟があらそうことで、得《え》られるはずの成果《せいか》がつぶれればお怒《いか》りになりますが、たとえ兄弟があらそっていても、大きな成果を得られるなら、それでよしとお考えになる。バザール王子《おうじ》をおたすけすれば、あなたがたの功績《こうせき》もみとめられるでしょう。」
オゴンの顔は、くもったままだった。
「しかしだ。話をもどすが、そなたらの同胞《どうほう》が味方《みかた》するといっても、わずか千|騎《き》ほどだろう。王《おう》への忠誠《ちゅうせい》は、ふかくこの国の領主《りょうしゅ》たちに浸透《しんとう》している。南部がいかにゆたかで兵力《へいりょく》が多くとも、圧倒的《あっとうてき》に多いというわけではない。……かならず勝《か》てるという確証《かくしょう》がないまま、兵をあげれば、とりかえしがつかぬことになるやもしれぬ。」
商人《しょうにん》は、声をひくめた。
「……だからこそ、あのカンバル人をひきこんだのです。」
オゴンは眉根をよせた。
「ああ、あのカンバル人か。(王《おう》の槍《やり》) のひとりだという……。南部|連合《れんごう》の覚悟《かくご》について、わたしの顔をみながら話して、たしかめたいとかで、ここまででむいてきているそうだな?」
商人はうなずいた。
「そういう男です。−−顔をみて話せば心がわかると思うような、あまいところがある男ですが、カンバル王の信頼《しんらい》はあつい。彼《かれ》がうごけば、王もうごくでしょう。」
商人《しょうにん》の目に、つよい光がうかんでいた。
「時機《じき》を、はずさぬようにしましょう。 − 勇猛《ゆうもう》なるカンバルの槍騎兵《そうきへい》がうごいた、というしらせがとどいてから、ショウ・ホゥル (南部連合《なんぶれんごう》)も決起《けっき》すれば、かならずやロタ王《おう》の軍《ぐん》をうちやぶれます。」
オゴンは、ひきこまれるように、うなずいた。
商人は、低い声でつづけた。
「……この策《さく》を成功させるためにも、あの皇太子《こうたいし》をこのままはうっておいてはいけません。」
オゴンは顎《あご》をなでながら、うかがうように商人をみた。
「追手《おって》をだせというのか。そこまでする必要《ひつよう》があるだろうかな。」
商人は、しずかにいった。
「あります。彼《かれ》は − 知りすぎている。禍根《かこん》はたつべきです。」
気《け》おされたように、オゴンは商人をみていたが、やがて、うなずいた。
商人《しょうにん》はオゴンの部屋《へや》をでると、城《しろ》の東棟《ひがしむね》へむかった。
東棟には、身分《みぶん》の高《たか》い来客《らいきゃく》を泊《と》めるための豪華《ごうか》な部屋《へや》と、富裕《ふゆう》な商人たちが商談《しょうだん》におとずれる部屋があつまっている。商人は、ある部屋の扉《とびら》の前までくると、扉わきの小さな鐘《かね》をならした。
扉《とびら》があくと、商人《しょうにん》はすっとなかへはいった。
もう、かなりおそい時刻《じこく》だったが、暖炉《だんろ》の前にすえられた卓《たく》をかこんで、三人の男が酒《さけ》を飲《の》んでいた。ふたりはヨゴ人だったが、もうひとりは背《せ》の高いカンバル人だった。みな商人ふうの装《よそお》いをしているが、カンばル人だけは、どことなく衣《ころも》が身《み》についていない感じがある。
もうひとり、暖炉のわきに立っている男がいたが、彼《かれ》は酒を飲むでもなく、ただ、ひっそりとたたずんでいた。商人の護衛士《ごえいし》のような服装《ふくそう》で、腰《こし》に大刀《だいとう》というにはややみじかめの、がっちりした形《かたち》の刀《かたな》をさげている。
商人《しょうにん》がはいってくるのをみると、卓《たく》についていたヨゴ人たちはさっと立ちあがり、椅子《いす》をひいて商人をむかえた。
「……どうなりましたか。」
ひとりがたずねると、商人は、ほほえんだ。
「追手《おって》をだすことになった。」
じっと商人をみつめていたカンバル人が、顔をこわばらせた。
「……まだお若《わか》いあの皇太子《こうたいし》を、オゴンは殺《ころ》す気か?」
商人は苦笑《くしょう》した。
「オゴンの追手《おって》が殺《ころ》してくれるなら、ありがたいことです。……まったく、あの皇太子《こうたいし》に、あなたの顔《かお》をみられたせいで、よけいな心配《しんぱい》ごとがふえましたよ。」
カンバル人は眉《まゆ》のあたりをくもらせて、商人《しょうにん》をみた。
(……嫌《いや》みな言い方をする男だ。)
あれは偶然《ぐうぜん》のできごとだった。彼《かれ》に落《お》ち度《ど》があったわけではないのだ。カンバル人は、にがい気もちで、そのときのことを思いかえした。
この城《しろ》の廊下《ろうか》を歩いていたとき、むこうから、ひとりの若者《わかもの》が、兵士《へいし》と召使《めしつかい》にかこまれて歩いてきた。若者は、彼と目があった瞬間《しゅんかん》、不審《ふしん》そうな顔をした。言葉《ことば》をかわすでもなく、すれちがったのだが、そのあいだも、若者は彼をみていた。
その目をみて、彼《かれ》は、不安《ふあん》を感じた。この若者《わかもの》は、あきらかに自分の顔を知っている……。彼も、かすかに、若者の顔に記憶《きおく》があった。
この城《しろ》では、彼はカンバルの高地《こうち》に産《さん》する貴重《きちょう》な薬草《やくそう》を売りにきた商人《しようにん》ということになっている。もしかすると、この若者は自分が商人ではないことを知っているのだろうか…‥
その疑念《ぎねん》は、若者《わかもの》がチャグム皇太子《こうたいし》であるとわかったとたん、確信《かくしん》にかわった。
チャグム皇太子とは、サンガル王宮《おうきゅう》でなんどか顔をあわせていた。あの廊下《ろうか》で、チャグム皇太子が不審《ふしん》そうに自分をみたのは、カンバル王の側近《そっきん》としてつきしたがっていた彼が、商人姿《しょうにんすがた》でスーアンの城《しろ》にいることを、きみょうに思ったからなのだ。
もし、彼《かれ》がスーアン大領主《だいりょうしゅ》とひそかにつうじていることを、ロタ王《おう》に告《つ》げられてしまったら、たいへんなことになる。
頬《ほお》をこわばらせているカンバル人をみながら、商人はいった。
「ご心配《しんぱい》なさるな。あなたは、われわれにとって、たいせつな方《かた》だ。わずかでも、あなたとわれわれや、南部|連合《れんごう》とのつながりがあきらかになるような可能性《かのうせい》は、残《のこ》しません。」
カンバル人は、ごつい手で顔をおおった。
「……そのために、あの皇太子《こうたいし》を殺《ころ》すというのか。」
長いあいだ、カンバル人は顔を手でおおったまま、身《み》じろぎもしなかったが、やがて、そっと手を顔からはずした。
いかにも武人《ぶじん》らしい、きびしく、清潔《せいけつ》な顔をした男だった。その顔にふかい苦悩《くのう》の色をにじませて、カンバル人はいった。
「あの皇太子《こうたいし》を殺《ころ》さないでほしい。彼《かれ》が、ロタ王《おう》にわたしのことを告《つ》げるとはかぎらないだろう。万《まん》が一《いち》、話してしまったとしても、ロタ王へのもうしひらきは、なんとか、考える。」
商人は、表情《ひょうじょう》を消《け》して、カンバル人をみつめた。
このカンバル王《おう》の重臣《じゅうしん》は、タルシュ側《がわ》にひきこむことができたたいせつな人材《じんざい》だった。
(王《おう》の槍《やり》)とよばれる最高《さいこう》の武人《ぶじん》のひとりで、カンバル王の信頼《しんらい》もあつい。
ロタ王宮《おうきゅう》との外交役《がいこうやく》をおおせつかって、彼《かれ》はここ二年ほど、ロタ王の王宮内《おうきゅうない》の館《やかた》をあたえられ、一年の半分を、ロタでくらしている。
彼は、きちんと密約《みつやく》をかわすために、スーアンの城《しろ》へおとずれたがっていた。しかし、年一回おこなわれる、カンバル王の宝石《ほうせき》とよばれるルイシャ(青光石《せきこうせき》)と穀物《こくもつ》のとりひきは、すでに今年《ことし》の分をすませてしまっており、(王《おう》の槍《やり》) の彼が、この時期《じき》、南部の大領主《だいりょうしゅ》の館をおとずれる適当《てきとう》な口実《こうじつ》がなかった。それで、表向きは病《やまい》の療養《りょうよう》のために館にこもっていることにして、ひそかに商人姿《しょうにんすがた》に身《み》をやつし、このスーアンの城《しろ》へおとずれていたのである。
その彼《かれ》がスーアンの城にいることをチャグム皇太子《こうたいし》が知ってしまったというのは、タルシュの密偵《みってい》たちにとっては、けっしてみすごしにはできぬことだった。
「……そうおっしゃいますが、あの皇太子は、ロタだけでなく、カンバルとの同盟《どうめい》も考えているといっていたそうです。彼がカンバル王《おう》にあったら……。」
それをきくとカンバル人は、ちょっと顔をこわばらせたが、やがて、首をふった。
「それは、たいしたことではない。王はわたしをふかく信頼《しんらい》してくださっている。異国《いこく》の皇子《おうじ》の言葉《ことば》より、わたしの言葉をとりあげてくださるはずだ。 − 安心《あんしん》せよ。わたしは、うまく急用《きゅうよう》をつくって帰国する。あの皇太子《こうたいし》は、イーバン王子《おうじ》にお目にかかるために、まずジタンへむかうのだろう? ならば、わたしのほうが、さきにカンバル王のもとへ帰参《きさん》できる。」
商人《しょうにん》は、心のなかで舌《した》うちをしたが、表情《ひょうじょう》はまったくうごかさなかった。
彼《かれ》は、しばらく考えるそぶりをしてから、うなずいてみせた。
「……そうですか。あなたがそこまでおっしゃるのなら、そういうことにいたしましょう。若者《わかもの》を殺《ころ》すのは、あまりにもむごすぎますからな。」
そういって商人は腰《こし》をあげた。カンパル人に一礼《いちれい》し、彼は部下《ぶか》たちをつれて部屋《へや》を辞《じ》した。
人《ひと》けのない廊下《ろうか》を歩きながら、商人は、わきをいく部下たちにささやいた。
「なにをせねばならぬか、わかっているな。」
部下《ぶか》たちは、うなずいた。
商人《しょうにん》は、心のなかで、にがにがしげに、つぶやいた。
( − あの皇太子《こうたいし》を逃《に》がせだと? ばかな。)
あの皇太子を逃《にが》したのが、ロタ王《おう》の密偵《みってい》たちだとすれば、彼《かれ》らは思っていたよりはるかにふかく、この南部|領主《りょうしゅ》たちの懐《ふところ》にはいっているのだ。南部の大領主たちに縁《えにし》をつくってきた自分たちが、バザール王子配下《おうじはいか》であることも知っているだろう。
(それを、彼《かれ》らが、チャグム皇太子に話したら、たいへんなことになる。)
チャグム皇太子《こうたいし》は、あのカンバル人が知らないことを、知っている。 − 北の大陸を攻《せ》める優先権《ゆうせんけん》をもっているのは|バザール《ヽヽヽヽ》王子《おうじ》|ではなく《ヽヽヽヽ》、|ラウル王子である《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということを。
カンバル王《おう》との同盟《どうめい》をめざしているあの皇太子《こうたいし》が、万《まん》が一《いち》にも、カンバルへたどりつくことがあったら、彼《かれ》は、自分たちバザール王子|配下《はいか》の密偵《みってい》がひっしにはりめぐらしてきた策略《さくりゃく》の最大《さいだい》の弱点《じゃくてん》をカンバル王に告げてしまうだろう。 − 南部|大領主《だいりょうしゅ》たちのうしろ盾《だて》になっているバザール王子は、いま北の大陸へむけて進軍《しんぐん》している軍勢《ぐんぜい》の指揮権《しきけん》をもっていないのだ、ということを。
カンバル王に、それを知らせてはならない。この策略の微妙《びみょう》な均衡《きんこう》がそこにかかっている。
カンバル人は情報《じょうほう》を得《え》る力がよわい。隣国《りんごく》のロタ王国《おうこく》や新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の状況《じょうきょう》は、多少は知っているようだが、ロタ南部の大領主たちのように独自《どくじ》の情報網《じょうほうもう》をもっていない彼《かれ》らは、タルシュ帝国《ていこく》の内側《うちがわ》がどうなっているかなど、さっぱりわかっていない。……だからこそ、いまのように、あきらかにラウル王子|側《がわ》が優勢《ゆうせい》になっているなかで、バザール王子の密偵たちの誘《さそ》いに、のこのことのってきたのだ。
彼らをこのまま無知《むち》な状態《じょうたい》にしておくことが、なによりも重要《じゆうよう》だった。彼らが事実《じじつ》を知ってしまえば − 策略《さくりゃく》のすべてがくずれかねない。
チャグム皇太子《こうたいし》を、生かしてカンバルへたどりつかせてはならない。
商人《しょうにん》は、自分のわきをあるいている、護衛姿《ごえいすがた》のヨゴ人をちらっとみた。
「たのんだぞ。」
ヨゴ人は、かすかにうなずいた。
タルシュ帝国《ていこく》で、征服《せいふく》された枝国《しこく》の民《たみ》であるヨゴ人が頭角《とうかく》をあらわすためには、それなりのなにかをもっている必要《ひつよう》がある。
この護衛姿《ごえいすがた》のヨゴ人は、たぐいまれな武術《ぶじゅつ》の腕でタルシュの第《だい》一|王子《おうじ》バザールに重用《ちょうよう》されてきた男だった。彼自身《かれじしん》も暗殺術《あんさつじゅつ》の達人《たつじん》だったが、腕ききの配下《はいか》たちをうまくつかって、これまでも多くの暗殺に成功《せいこう》している。暗殺|対象者《たいしょうしゃ》を確実《かくじつ》に殺《ころ》すために、二重の暗殺計画を同時《どうじ》にうごかしておくような、慎重《しんちょう》な仕事《しごと》をする男だった。この男にまかせておけば、オゴンがはなった追手《おって》のかげにかくれ、だれのしわざともわからぬようにして、チャグム皇太子《こうたいし》を暗殺できるだろう。オゴンをたきつけて、追手をはなつようしむけたのはそのためだった。
商人《しょうにん》は、チャグム皇太子《こうたいし》が逃《に》げたときから、彼《かれ》を殺《ころ》す方法《ほうほう》を考えていたのである。
[#改ページ]
6  トサハ筋《すじ》のアハル
バルサをつかまえたカシャル(猟犬《りょうけん》)たちが、彼《かれ》らの頭領《とうりょう》に相談《そうだん》にいっているあいだ、かなり長いこと、バルサはツーラムの街《まち》はずれの小さな宿屋《やどや》にとじこめられていた。
チャグムのことを思うと気がせいたが、しかたがない。
バルサは風呂《ふろ》をつかい、せまい部屋《へや》のなかで、なまってしまった身体《からだ》の調子《ちょうし》をととのえたり、考えごとをしながらすごした。
小舟《ぶね》においてきたヒュウゴは、あのあと、無事《ぶじ》に逃《に》げのびただろうか。……まあ、ああいう男が、あんなことぐらいで、くたばることはないだろう。
二派にわかれて敵対《てきたい》しているタルシュの密偵《みってい》たち。南部の大領主《だいりょうしゅ》たち。そして、こうして自分を宿にとじこめているカシャル(猟犬《りょうけん》)たちのこと。……チャグムをとりまいている渦《うず》は、複雑《ふくざつ》で底《そこ》がみえない。考えることは、いくらでもあった。
カシャル(猟犬《りょうけん》)の若者《わかもの》が部屋にはいってきたのは、つかまってから三日《みっか》めの朝だった。
「身《み》じたくをととのえて、おれといっしょにきてくれ。頭領《とうりょう》がおあいになるそうだ。」
それから、若者はつけくわえた。
「あんたの武器《ぶき》は、頭領のところへもっていってある。すててはいない。」
宿《やど》の裏口《うらぐち》には馬がつながれていた。
バルサは馬にのり、若者《わかもの》のあとについて、サール街道《かいどう》を北へむかって走りはじめた。
サール街道はホゥラ河《がわ》ぞいに王都《おうと》へのぼっていく大きな街道だったが、二ダン(約《やく》二時間)ほどすすむと、若者は、東へむかう小さな道に折《お》れた。
小道にはいると、目の前に、みわたすかぎり小麦《こむぎ》の畑《はたけ》がひろがった。
地味《ちみ》がゆたかであたたかいこの地域《ちいき》では、小麦は年に二回も収穫《しゅうかく》できる。秋のうすい青空のもと、黄金色《こがねいろ》にみのった麦が、風がわたるたびに白い光をはじきながら波うっていた。
若者は、麦畑《むぎばたけ》の間のあぜ道のようなほそい道を、どんどんすすんでいく。やがて、畑がとぎれ、森がみえてきた。
森にはいると、若者《わかもの》はバルサをふりかえった。
「ちょっと、おりてくれ。ここからは、目隠《めかく》しをしてもらう。」
バルサはいわれるままに馬をおり、若者が黒い布《ぬの》を目にまくのをてつだった。若者は、バルサの手をとって、馬の手綱《たずな》をにぎらせ、片足《かたあし》をささえて馬にのせてくれた。
「この馬はよくなれているし、道を知っているから、馬にまかせていればいい。」
バルサはうなずいた。黒い布はぶあつくて、光を完全《かんぜん》にさえぎっている。バルサは、音の響《ひび》き方《かた》で、周囲《しゅうい》のようすをぼんやりと感じとりながら馬にゆられていた。
馬は、右や左にまがったり、くだったりのぼったりしながら、かなり長いことすすんでいった。
ふいに、若者《わかもの》が話しかけてきた。
「……ちょっときいていいか。」
バルサがうなずくと、若者は、ためらいながら、いった。
「あなた、ハックで、シハナをたおしたって、ほんとうか?」
「ハック?」
「一|対《たい》一ってことだよ。」
バルサは、うすく笑《わら》ってこたえなかった。
「おれ、シハナがトウィカムを − 技《わざ》くらべのことだけど ー やったのを、みたことがあるんだ。すごかったぜ。うちの川筋《かわすじ》でいちばんのやつとやったのに、まるで相手《あいて》にならなかった。」
若者《わかもの》が、こちらをむいたのを、バルサは声で感じた。
[#(img/01_233.png)]
「あなたの身のこなしも、たしかにすごかったな。シハナをやったってのがほんとうなら、うちの兄貴《あにき》が脳天《のうてん》たたかれて、ひっくりかえるのも、当然《とうぜん》だよな。」
その言《い》い方《かた》に、バルサは、ふっと笑《わら》った。
「……兄さんは、どうしている?」
「まだ、あの宿屋《やど》で寝《ね》てるよ。うめいているけど、たいしたことはない。」
それだけいうと、若者《わかもの》は、おしゃべりしすぎたのを反省《はんせい》したかのように、口をとじた。
やがて、すこしあたりの物音《ものおと》がかわったと思われたとき、若者がバルサの馬を、手でおさえてとめた。
「……よし、目隠《めかく》しをとっていいぞ。」
若者の声で目隠しをはずすと、まぶしい光が目にとびこんできた。バルサはにじみでてきた涙《なみだ》を手の甲《こう》でこすって、目の前にひろがっている光景《こうけい》を声もなくながめた。
夕暮《ゆうぐ》れの光をはじいて、川がながれている。草原《そうげん》と森にかこまれた、その川の土手《どて》には、こんもりと草がおいしげり、よくみると、ところどころで、その草の間からうっすらと煙《けむり》がたちのぼっているのがみえた。
大木《たいぼく》が川面《かわも》にせりだしている下で、数人《すうにん》が網《あみ》をなげて川漁《かわりょう》をしている。その下流《かりゅう》では、女たちが洗《あら》いものをしていた。みな、首のところに黄色《きいろ》い布《ぬの》をまいている。
( − これが、彼《かれ》らの村か……。)
カシャル(猟犬《りょうけん》)は、(川の民《たみ》)とよばれることがあるのを、バルサは思いだした。
若者が、懐《ふところ》から黄色い帯《おび》のような細布《ほそぬの》をとりだし、首にまいた。そして、バルサの視線《しせん》に気づくと、ちょっと布をさわりながらいった。
「これは、ホッ・シャルだよ。魂《たましい》をあたためるって意味だけど。」
「魂《たましい》を……あたためる?」
バルサがききかえすと、若者《わかもの》はうなずいた。
「黄色《きいろ》は、心のよい死者《ししゃ》には、あたたかくみえる色なんだ。灯火《とうか》の色だからな。」
若者の目が、ふいに暗《くら》くなった。
「あの襲撃《しゅうげき》で、おれの従兄《いとこ》が殺《ころ》されたから。 − あそこを、みて。」
若者がゆびさしたのは川の方角《ほうがく》だった。川のなかに黄色いひものようなものが一本しずめられ、水流にもまれながら、ゆれている。目をこらすと、それが、黄色い花をたくさんつらねたものであるのがみえてきた。 「あの花が、ひとつひとつほどけて……ひとつ残《のこ》らずながれたら、従兄《いとこ》の魂《たましい》は川の神《かみ》のもとへかえったしるしだ。それまでは、従兄は、おれたちのつけているホッ・シャルをみて、ああ、自分のことを思ってくれているんだなって思いながら、里《さと》にいるのさ。」
うつぶせで河《かわ》に浮《う》かんでいた男。彼《かれ》の遺体《いたい》は、ここへはこぼれたのだろうか。そんなことを、ふっとバルサは思った。
若者は、ため息《いき》をつくと、気分をきりかえるように、きっぱりとした声でいった。
「こっちだ。ここからは、馬をおりて歩く。あとで仲間《なかま》がつれにくるから、手綱《たずな》をこの木にむすんでおいてくれ。」
馬たちを森のはたに残《のこ》して、ふたりが森からでると、洗《あら》いものをしている女たちや、川漁《かわりょう》をしている男たちが、顔をあげてこちらをみた。
膝《ひざ》まである草がおいしげる原のなかに、くねくねとほそい道が川のほうへのびている。草の間の小道を歩きながら、バルサは、ときおり、なにかが草の間から顔をだすのに気づいた。
右側《みぎがわ》の草の間から、ふいに、もじゃもじゃの髪《かみ》の毛《け》をした小さな顔がつきでて、バルサをみあげた。六つぐらいの男の子だった。その子は口に草をあてると、ピュウイッ! と水鳥の鳴《な》き声《ごえ》そっくりの音をならした。
すると、左側の草の間から、まだ、ずいぶんおさない女の子が顔をだした。目をまんまるくしてバルサをみあげながら、その子も、男の子のまねをしてロに草をあてたが、プクッというような音しかでなかった。
若者《わかもの》が笑《わら》いをこらえているような顔で、子どもたちをみないようにしながら歩いていく。いっぱしの見張《みは》りのつもりなのだろう。バルサたちがすすむにつれて、あちこちで草がゆれて、ピュイ! とか、プゥ! とか、草笛《くさぶえ》がなる。
バルサは、思わず笑《わら》いだしてしまった。若者も、がまんできずに、肩《かた》をゆらしながら笑っている。
川の土手《どて》は、かなり急《きゅう》な斜面《しゃめん》になって川原《かわら》へとくだっていた。一見、草《きさ》のおいしげった土手《どて》にしかみえないが、ところどころ石積《いしづ》みがみえている。川原側《かわらがわ》は、ああいう石組《いしぐ》みの壁《かべ》でしっかりとささえられているのだろう。
バルサには、どこもおなじ草原《そうげん》の土手《どて》にしかみえなかったが、若者《わかもの》はある地点《ちてん》で急《きゅう》に立ちどまると、トントン、と二度|足踏《あしぶ》みをした。
しばらくして、ぽこっと音をたてて、土手の草がもちあがり、その下に、人がふたりならんではいれるくらいの大きさの穴《あな》があらわれた。
「頭領《とうりょう》の家《いえ》だ。」
うながされて、バルサは、しゃがみこんで穴をのぞいた。階段《かすだん》の最上段《さいじょうだん》にこしかけて、蓋《ふた》をささえている中年《ちゅうねん》の男が、バルサにうなずいた。
「どうぞ、おはいりなさい。頭領がおまちです。」
腰《こし》をかがめて階段をくだって、バルサはおどろいた。
階段の下には、外で考えていたよりもはるかに広い空間《くうかん》がひろがっていたのだ。しかも、意外《いがい》に明るい。川原側《かわらがわ》の石組《いしぐみ》みには、ところどころでたくみにすきまがつくられているらしく、内側からみるとすかし彫《ぼ》りの窓《まど》のようだった。そこから、あわい昼さがりの光がさしこみ、部屋全体《へやぜんたい》に、ふしぎな光の模様《もよう》をえがいている。
しっくいだろうか、壁《かべ》も天井《てんしせょう》もなめらかに白くぬられていて、炉《ろ》のあたりだけ煤《すす》で黒くよごれていた。壁のくぼみが棚《たな》や、物置《ものおき》になっていて、小さな人形《にんぎょう》やら、大小さまざまな壷《つぼ》が、ところせまLとならべられている。
菓子《かし》でも焼《や》いていたのか、甘《あま》い、こうばしいにおいがただよっていた。
部屋《へや》のまんなかには食卓《しょくたく》があって、バルサより、やや年上にみえる、小太《こぶと》りの女性《じょせい》がひとり、膝《ひざ》に赤《あか》ん坊《ぼう》を抱《だ》いてすわっている。そのわきに、みごとな白髪《はくはつ》の老人がすわっていた。
赤ん坊は、いっときもじっとしていない。ぐずりながら、彼女《かのじょ》の腕《うで》のなかで背《せ》をそらしている。彼女の足もとには、もうひとり、二|歳《さい》ぐらいの女の子がまつわりついていた。
バルサが階段《かいだん》をおりてくるのをみて、小太りの女性は椅子《いす》からたちあがり、かたわらにいた老人に、赤ん坊をあずけた。
老人は、なれた手つきで赤ん坊を抱《だ》きあげた。
「おーい、ほい。いい子だ。おまえさんもな、じいちゃんと、あっちで遊《あそ》ぶか。」
赤《あか》ん坊《ぼう》を片腕《かたうで》で抱《だ》いて、女の子の手をひき、老人《ろうじん》は、部屋《へや》のすみにある色あざやかな綿入《わたい》りの布《ぬの》の上に腰《こし》をおろした。
小太《こぶと》りの女性《じょせい》が、バルサに、おっとりと会釈《えしゃく》をした。ふっくらとした顔に笑顔《えがお》がうかぶと、まるで、童女《どうじょ》のようにみえる。
「はじめまして。トサハ筋《すじ》の頭領《とうりょう》のアハルです。あなたが、短槍使《たんそうつか》いのバルサさんね。」
「……はい。」
バルサは、とまどいをおぼえていた。倉庫《そうこ》に火をはなつようなはげしい襲撃《しゅうげき》を指揮《しき》した頭領《とうりょう》と、目の前の、小鳥のような女性《じょせい》とが、むすびつかなかったからだ。
アハルは笑《わら》った。
「カシャル(猟犬《りょうけん》)の頭領にみえない? わたしも柄《がら》じゃないと思うんだけど、しかたないのよ、うちの川筋《かわすじ》にも、いろいろ事情《じじょう》があって。……ま、そんな話はいいわね。そこにすわってちょうだい。」
バルサは、いわれるままに、アハルのむかい側《がわ》に腰《こし》をおろした。
さっき蓋《ふた》をささえていた中年《ちゅうねん》の男が、階段《かいだん》をおりてきて、アハルのあきに腰をおろした。
「わたしの夫《おっと》。」
そういってから、アハルは、ほほえみをうかべて、しげしげとバルサをみつめた。
「なんだか、ふしぎな気がするわねぇ。こうして、バルサさんとむかいあっているなんて。あなたは、わたしたちのあいだでは、ずいぶんと有名《ゆうめい》なのよ。あなたのことをうたった歌物語《うたものがたり》も、わたし、大好《だいす》き。いい歌物語よねぇ、あれは。」
バルサは、まはたきして、つぶやいた。
「……いや、わたしはきいたことがありません。」
アハルは眉《まゆ》をはねあげた。
「あらそう! まあ、もったいない。 − でもまあ、そういうものかしらね。自分のことをうたわれたりしたら、面《おも》はゆいものでしょうしね。」
アハルは、ふいに真顔《まがお》になってバルサをみつめた。
「あなたが、タルハマヤの再臨《さいりん》をふせぐために、力になってくださったことは、わたしらはみんな心から感謝《かんしゃ》しているわ。それは、ほんとうよ。
でもね、今回のことでは、はっきりさせておきたいことがあるの。まあ、ざっくばらんに話しあいましょ。」
小皿《こざら》にもった焼《や》き菓子《がし》と、お茶《ちゃ》のようなものがはいっている茶碗《ちゃわん》を、バルサの前におきながら、アハルはいった。
「今回の襲撃《しゅうげき》では、わたしたちのほうも、すこしあわてていたとこがあるのよ。」
ざっくばらんに、といった言葉《ことば》どおりに、彼女《かのじょ》は襲撃《しゅうげき》のいきさつを話しはじめた。
「わたしたちは、タルシュの密偵《みってい》だろうと思う商人《しょうにん》に、ひとりひとり監視《かんし》をつけているのよ。できるなら、あとをつけて、隠《かく》れ家《が》をつきとめたいと思ってね。
タルシュの密偵は用心ぶかくて、なかなかしっぽをつかませてくれなかったのだけど、あの日の早朝《そうちょう》、スーアンの城《しろ》からでてきた男は、なにかで気がせいていたのでしょうね。わたしたちは、あとをつけるのに成功《せいこう》したのよ。」
バルサは、ふっと、ヒュウゴの言葉《ことば》を思いだした。
− (南翼《なんよく》)の密偵《みってい》にまざれこませているやつが、知らせてきた。(南翼)の連中《れんちゅう》が大さわぎをしていると。だれかが手引《てび》きして、チャグム殿下《でんか》を逃《に》がしたらしい……
(その、知らせにきたやつが、つけられたんだな。)
アハルは話しつづけている。
「わたしたちはいろめきたったわ。やつらが、べつの隠《かく》れ家《が》にうつるまえに、いっきにつぶさねばならないと思ったの。それで、あの襲撃《しゅうげき》をおこなったのよ。・・・でも、強引《ごういん》すぎたかもしれない。けっきょく、ひとりもつかまえられなかったうえに、仲間《なかま》をひとり死《し》なせてしまった。わたしは、生涯《しょうがい》、この責任《せきにん》をおっていかねばならないわ。」
暗《くら》いまなざしで、そういってから、アハルは、バルサをみた。
「……で、あなたは? どうしてあの倉庫《そうこ》にいたの?」
バルサは、しずかな声でこたえた。
「わたしは、ある人をさがしているのです。その人がスーアン大領主《だいりょうしゅ》の城《しろ》にむかったという話をきいて、城の門衛《もんえい》たちから話をききだそうとしていたら、とつぜんおそわれたのです。」
バルサは、チャグムの名前や、ヒュウゴと逃《に》げたことなどははぷいて、大筋《おおすじ》はほんとうのことを話した。
アハルは、うなずきながらきいていた。バルサが口をとじると、ほつれ髪《がみ》を耳にかけながら、考えこむような顔つきで、いった。
「なるほど。その酒場《さかば》のできごとは知っているわ。だから、心の大半《たいはん》では、あなたをうたがわないで、すんでいるのよ。‥…へんな言《い》い方《かた》でごめんなさいね。でも、そういう感じなの。」
そういってから、アハルはいいそえた。
「まちがえないでね。あなたがオグハル ー あの襲撃《しゅうげき》で命《いのち》を落とした若者《わかもの》 − を殺《ころ》したと、うたがっているわけじゃないのよ。オグハルの遺体《いたい》のそばの土手《どて》に、たおれていた仲間《なかま》が、やったのは男だったといっているから。
ただね、ちょっと、ひっかかっていることがあるの。」
アハルは、じっとバルサをみつめた。
「あなたは、小舟《こぶね》にのって逃《に》げたといったわね? ……でもね、火事《かじ》をみに川岸《かわぎし》にでていた見物人《けんぶつにん》が、ひとりではなくて、ふたりの人影《ひとかげ》が小舟にのるのをみた、といっているのよ。」
バルサは、だまってアハルをみていた。目の前の女性《じょせい》と、あの襲撃《しゅうげき》を指揮《しき》した者《もの》との印象《いんしょう》とが、ゆっくりとかさなった。小鳥のような外見《がいけん》の下に、するどい洞察力《どうさつりょく》をもつ女性《じょせい》がいる。
アハルの頬《ほお》にはあかみがさしていたが、口調《くちょう》はあくまでもおだやかだった。
「あなたは、オグハルを殺《ころ》した男と小舟《こぶね》にのって逃《に》げたのでしょう。仲間《なかま》たちが、あなたをみつけたときも、オグハルを殺した男は小舟にひそんでいたはずだわ。 − なぜ、タルシュの密偵《みってい》をかばったの?」
バルサは、ごく平静《へいせい》な声で、こたえた。
「彼《かれ》が、わたしの命《いのち》をすくったからです。わたしは薬《くすり》をもられて、身体《からだ》がしびれていた。あの火事《かじ》のなかではうっておかれたら、焼《や》け死《し》ぬところだった。」
アハルは、かすかに顔をしかめた。
「でも、あなたはオグハルの遺体《いたい》をみたはずでしょう? カシャル(猟犬《りょうけん》)を殺《ころ》したタルシュだとわかっていて、なぜ、かばったの?」
バルサは、アハルをみつめた。
「わたしは、命《いのち》の恩《おん》をかえしただけです。あなたがたがはなった火で、わたしは死《し》にかけていた。もし、わたしが、ひとりで、あの建物《たてもの》から河《かわ》に逃《に》げようとしたら、オグハルという人は、わたしを弓《ゆみ》で射《い》なかったでしょうか?」
アハルは、なにかいいかけて、ロをとじた。それから、つぶやいた。
「 − 射たでしょうね。」
大きくため息《いき》をついて首をふると、アハルは顔をしかめた。
「それにしても、スーアンの兵士《へいし》たちから、あなたをさらったり、あの火事《かじ》の最中《さいちゅう》に、わざわざあなたをつれて逃《に》げたり。……そのタルシュの密偵《みってい》は、なぜ、そんなふうに、あなたをたすけるのかしら。」
心の底《そこ》をすかしみるような目で、アハルは、バルサをみつめている。
彼女《かのじょ》を敵《てき》にまわしたくはなかったが、すべてを話す気にはなれなかった。
タルシュの密偵たちの内部抗争《ないぶこうそう》の話などをすれば、この女性《じょせい》は、糸をたぐるようにして、あの小舟《こぶね》でヒュウゴがかたった話までききだそうとするだろう。話がややこしくなるだけだ。
「わかりません。さっきもいったけれど、わたしは薬《くすり》をもられて長いあいだねむっていたし、ろくに彼《かれ》らと顔もあわせないうちに、あなたがたがおそってきたので、きく暇《ひま》もなかった。」
うたがわしげな顔をして、アハルがいった。
「小舟《こぶね》でいっしょに逃《に》げたのでしょう? わけをきく暇ぐらい、あったんじゃない?」
バルサは、首をふった。
「わたしをつれて逃《に》げた男は、腿《もも》に矢《や》をうけて、腹《はら》にもかなりの深手《ふかで》をおっていた。小舟で逃《に》げるあいだも、かなりの高熱《こうねつ》をだして、もうろうとしていたのです。」
アハルは眉《まゆ》をよせて、じっとバルサをみていたが、やがて、ちらっ、ちらっと、夫《おっと》と、部屋《へや》のすみで子どもたちをあやしている老人《ろうじん》の顔をみた。
老人は、かすかにほほえみ、赤《あか》ん坊《ぼう》を膝《ひざ》の上で立たせながら、いった。
「……この人は、だいたい、ほんとうのことをいってるようだ。かくしていることもあるようだが、まあ、だいたいは、ほんとうのことだろう。わしは、そう思うよ。」
アハルの夫は、無言《むごん》でうなずいただけだった。
アハルは、ゆっくりと肩《かた》の力をぬいた。しばらく、うつむいて、なにか考えていたが、やがて、顔をあげてバルサをみた。
「そうね。 − あなたがいるなんて知らないで襲撃《しゅうげき》したのだけど、へたをすれば、あなたはあの襲撃で死《し》んでいたかもしれないのだし。」
そういってから、アハルは、ふっと苦笑《くしょう》した。
「あなたを尋問《じんもん》するのは、岩に爪《つめ》をたてるようなものね。 − チャグム皇太子《こうたいし》がおっしゃっていたとおりだわ。」
どきっとして、バルサはアハルをみた。
「……チャグム皇太子に、あったのですか。」
「ええ。」
アハルは眉《まゆ》をあげ、ちらっと明るい笑《え》みをうかべた。
「こういっては失礼《しつれい》なんでしょうけど、娘《むすめ》たちが、ぽうっとなるような感《かん》じの方《かた》ね。」
アハルは、チャグムとであったいきさつを話しはじめた。
アハルがひきいるトサハ筋《すじ》のカシャル(猟犬《りようけん》)たちは、スファルに命《めい》じられて、長年《ながねん》、スーアン大領主《だいりょうしゅ》の城《しろ》をみはりつづけてきたのだという。
「城のなかにも外にも、つねに仲間《なかま》をひそませているし、城内《じょうない》までつうじる地下通路《ちかつうろ》もつくってあるわ。 − わたしたちは穴掘《あなほ》りがとくいなのよ。」
アハルは、にこっと笑《わら》った。
「でね、もう半月以上まえになるかしら、城門《じょうもん》をみはっていた仲間《なかま》がきみょうな光景《こうけい》をみたのよ。
スーアンの息子《むすこ》のオゴンと、腰巻《こしまき》だけのサンガルの漁民《ぎょみん》みたいなかっこうをした少年が、城門《じょうもん》のところで、なにか、さかんに話をしているので、なにごとかと注目《ちゅうもく》していたら、ふしぎなことに、オゴンが馬をおりて、その少年を城内《じょうない》にみちびきいれたというのよ。
そのあと、急《きゅう》に、わたしらが、タルシュの密偵《みってい》だと見当《けんとう》をつけている商人《しょうにん》たちの出入《でいり》りがあわただしくなったの。」
侍女《じじょ》として城内《じょうない》に潜入《せんにゅう》させている仲間《なかま》から、少年が丁重《ていちょう》な扱《あつか》いをうけながらも、軟禁《なんきん》されているときいて、いよいよ、アハルたちは少年のことが気になった。
あの少年は、いったいだれなのか。
軟禁《なんきん》されているということは、殺《ころ》すこともできず、さりとて、外にでられてはこまる人物《じんぶつ》だということだ。
なんとか少年と接触《せっしょく》することはできないか、方法《ほうほう》をさぐっているときに、なんと、少年が自分で、軟禁されていた部屋《へや》から逃《に》げだしてきたのだという。
アハルは、ころころ笑《わら》いながらいった。
「スーアンの孫娘《まごむすめ》は、見目《みめ》のよい男に、ちょっかいをだすのが大好《だいす》きなのよ。わたしたちが潜入《せんにゅう》させている侍女《じじょ》が、それとなくチャグム殿下《でんか》の話をしたら、うまく食いついて、真夜中《まよなか》にチャグム殿下が軟禁《なんきん》されている部屋《へや》に、しのんでいったの。」
バルサは微苦笑《びくしょう》をうかべて、話をきいていた。夜這《よば》いをかけられて、チャグムは、どんな気もちだっただろう。
(……チャグムは、もうそんな年になったんだな。)
「チャグム殿下《でんか》は、その好機《こうき》をのがさず、スーアンの孫娘《まごむすめ》を庭《にわ》にさそった。そして、庭にでるや、娘をおきざりにして、塀《へい》をのりこえて逃《に》げたというわけ。
娘があわてふためいて兵士《へいし》たちをよぶ声で、わたしたちも殿下の逃亡《とうぼう》に気づいて、兵士たちよりさきに殿下のもとへかけつけて、例の地下道《ちかどう》から城外《じょうがい》へおつれしたのよ。」
話をきいていて、バルサは、ふと気になったことをたずねた。
「 − チャグム皇太子《こうたいし》は、みずから、名のられたのですか?」
アハルは、うなずいた。
「わたしらが王《おう》のためにはたらいているとわかったら、ご自分から名のられたわ。王にお話ししたいことがあって、ロタへきたのだと。」
アハルは、ひとロお茶《ちゃ》を飲《の》んだ。
「お名前をきいて、たまげたわよ。チャグム皇太子《こうたいし》は薨去《こうきょ》されたときいていたから。
わたしたちは、ほら、もちろん、お顔もぞんじあげないし、ほんとうにチャグム皇太子なのか、最初《さいしょ》はうたがったんだけどね。
殿下《でんか》は、うたがわれても平然《へいぜん》としておられたわね。ヨーサム王《おう》にはサンガルでお目にかかっているから、自分が何者《なにもの》であるかをたしかめたいなら、王のもとへつれていけばよい、とおっしゃって。」
アハルは、ゆっくりと首をふった。
「やさしげなお顔をしておられるけど、どうしてどうして、豪胆《ごうたん》で、頑固《がんこ》な方《かた》だわ。」
バルサは、わずかにかすれた声で、きいた。
「……いまは、どちらに?」
「北へむかわれているわ。」
「王都《おうと》の、ヨーサム王陛下《おうへいか》のもとへ、ということですか?」
アハルは首をふった。
「いいえ。これは、まだ、民《たみ》にはしらされていないことだけれど、じつは、ヨーサム王《おう》は、おかげんがおわるいの。人にあえるような状態《じょうたい》じゃないのよ。」
おどろいて、バルサはたずねた。
「なんのご病気《びょうき》なのですか?」
アハルは気づかわしげに、顔をくもらせた。
「それが、よくわからないのよ。ずっと高熱《こうねつ》がつづいておられて……。お父君《ちちぎみ》も、そういうふうに、高熱がつづいて逝去《せいきょ》されたから、みな、心から不安《ふあん》に思っているわ。」
ため息《いき》をついて、アハルはいった。
「だからね、いま、政務《せいむ》はイーハン王子殿下《おうじでんか》がなさっておられるのよ。
南部の領主《りょうしゅ》たちに対抗《たいこう》するために、北部の領主たちもイーハン殿下のもとにあっまって、結束《けっそく》を強化《きょうか》しているから、イーハン殿下は、王都《おうと》ではなく北部の居城《きょじょう》におられるの。」
北部の居城。 − ジタンの、あの堅牢《けんろう》な堀《ほり》をめぐらした城《しろ》を、バルサはよく知っていた。
「では、チャグム殿下は、そこへ?」
うなずいて、アハルはすっと立ちあがると、棚《たな》から、うすくなめした羊皮紙《ようひし》を一|枚《まい》もってきた。
それを手にもったまま、アハルはいった。
「……わたしね、あなたのことを、チャグム殿下《でんか》にお話ししたの。」
バルサは息《いき》をとめて、アハルをみつめた。
「あの方《かた》が、チャグム皇太子《こうたいし》だと名のられたとき、あ……っと思ったのよ。歌物語《うたものがたり》を思いだして……。だから、あなたをとらえていることを、殿下にお話ししてみたの。
チャグム殿下は、ものすごくおどろかれたわ。」
バルサは、だまって、アハルの言葉《ことば》をきいていた。
「あなたは国|同士《どうし》のいざこざとは関係ないって、殿下はいっしょうけんめい、わたしを説得《せっとく》しょうとなきった。自分が残《のこ》した手紙を読んだ者《もの》が、自分の身《み》を案《あん》じてあなたをロタへおくったのだろうとおっしゃって。」
バルサは、つぶやいた。
「それは、いつの話ですか。」
「あなたをとらえた日の午後《ごご》。」
バルサは、きつい目でアハルをみつめた。
「あの日に、わたしの目的《もくてき》を知っていたのに、あなたは、わたしを三日《みっか》もあの宿《やど》に監禁《かんきん》した。
なぜです? チャグム殿下《でんか》のあとを追《お》わせないためですか?」
アハルは、首をふった。
「・・・あなたを、三日間はとどめておいてくれとたのんだのは、チャグム殿下よ。」
アハルは、手にもっていた羊皮紙《ようひし》を、そっとバルサの前においた。
「これは、チャグム殿下《でんか》から、あなたへの便《たよ》りよ。わたしの目の前で、ロタ語でお書きになったの。わたしが読んでもかまわない。そのかわり、ぜったいに、あなたにわたしてほしいとおっしゃって。」
バルサは、目の前におかれている羊皮紙《ようひし》をみた。くっきりと力づよいロタ文字《もじ》でつづられた、チャグムからの便りを。
『バルサ、さがしにきてくれて、ありがとう。
あなたが、ロタまできてくれたときいて、ふるえるくらい、うれしかった。
もういちど、ひと目でもあなたにあいたいけれど、どうかもう、わたしをさがさないでください。
いまは、わたしのことよりも、タンダのことを考えてほしい。
新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》は、もうすぐ、戦場《せんじょう》になる。
わたしがまにあわなかったら、街《まち》も田畑《たはた》も、火の海になってしまう。一刻《いっこく》もはやく、タンダたちを山奥《やまおく》へ逃《に》がしてください。あの冬の狩《か》り穴《あな》でもいい。
あなたたちが無事《ぶじ》で生きていると思うことができれば、わたしは、がんばれる。
わたしは、だいじょうぶです。心配《しんぱい》しないでください。
なにがあっても、かならず生きぬいて、心にきめたことをやりぬいて、故郷《こきょう》へかえってみせます。』
知らぬまに、頻《ほお》に涙《なみだ》がながれていた。
バルサはうつむいてまぶたをおさえると、しばらく、じっとしていた。
涙をぬぐって顔をあげると、アハルも目に涙をうかべていた。
「心配しないで。」
声をつまらせながら、アハルはいった。
「チャグム殿下《でんか》は、わたしたちがイーハン殿下のもとへ、まちがいなく、おつれするから。」
バルサは、うなずいた。
カシャル(猟犬《りょうけん》)にとって、チャグムは、南部の大領主がタルシュとひそかにつうじていることを証明《しょうめい》してくれる、たいせつな生《い》き証人《しょうにん》だ。まちがいなくイーバン王子《おうじ》のもとへつれていってくれるだろう。
チャグムはカシャル(猟犬《りょうけん》)にまもられている。自分にできることは、もう、なにもない。
ほっとしている一方《いっぽう》で、はげしく泣いたあとのようなうつろなさびしさを、バルサは感じていた。
アハルが、そっと、たずねた。
「あなた、帰《かえ》りの旅費《りょひ》はあるの? 短槍はここにあるけれど、荷物やお金はなくしてしまったのじゃない? 新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》までの旅費ぐらいなら、なんとか用立《ようだ》てられるわよ。」
バルサはほほえんだ。
「ありがとうございます。だいじょうぶです。あるていどの金は、いつも、下衣《したぎ》の襟裏《えりうら》や裾《すそ》に縫《ぬ》いこんでありますから。
ただ、もし、おねがいできるなら、馬を貸してください。いったんツーラムの馬宿《うまやど》にもどりたいので。」
「もちろん、もちろん。 − どの馬宿なの?」
「オクル通りの、タク・ホル(青い海)っていう宿屋《やどや》です。前払《まえばら》いをしてあるから、まだ、わたしの馬を売りはらってはいないでしょう。」
アハルは、うなずいた。
「ああ、タク・ホル(青い海)なら、知っているわ。馬はそこにあずけておいてくれればいいわ。あとで仲間《なかま》をとりにやるから。」
アハルの夫《おっと》が短槍《たんそう》をもってくると、バルサは立ちあがって、うけとった。
壁《かべ》の穴《あな》からさしこんでいる光は、いつのまにか夕暮《ゆうぐ》れの色にかあっている。部屋《へや》のすみでは、老人《ろうじん》の腕《うで》のなかで、赤《あか》ん坊《ぼう》が、すやすやと寝息《ねいき》をたてていた。
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7  バルサの決意《けつい》
カシャル(猟犬《りょうけん》)の若者《わかもの》におくってもらってサール街道《がいどう》にでたときには、すでに日は暮れおち、あかみをおびた黄色《きいろ》い光が、麦畑《むぎばたけ》と天の境《そかい》をぼんやりとうかびあがらせていた。
若者とわかれると、バルサは、ツーラム港《こう》へむかって街道をひたはしった。
やがて、青い夜空に星《ほし》が明るくかがやきはじめた。顔にあたり、髪《かみ》をすりぬけていく風が、こおるように冷《つめ》たい。自分のはく息《いき》が、白く顔をつつんで、消《き》えていく。
胸《むね》のなかで、バルサはなんども、チャグムの言葉《ことば》を思いかえしていた。
少年らしい気負《きお》いと、さしのべたバルサの手を、しずかにおしもどすような心づかいが、あのみじかい便《たよ》りにはあふれていた。
(……ずいぶん、おとなになったんだなぁ。)
頭のなかではわかっていたつもりでも、実感《じっかん》できていなかった歳月《さいげつ》の長さが、あの便りを読んでいるうちに、くっきりと心にせまってきた。
十一歳《さい》のチャグムを、ふいにせおいこんでしまったあのときは、命《いのち》をまもることだけを考えればよかった。
だが、十六になったチャグムをとりまいているのは、複雑《ふくざつ》で巨大《きょだい》な、国と国とのかけひきの渦《うず》だ。それに‥
(チャグムは、そのことをちゃんと知っている。自分がどんな道を歩いているのか、わかって歩いている。)
チャグムはもう、為政者《いせいしゃ》となる道から逃《に》げようとはしていない。皇太子《こうたいし》になるのがいやで、宮《みや》の暮《く》らしがいやで、いっしょに旅《たび》をしたいといっていた、あのころの少年ではないのだ。
ふっと、ヒュウゴの言葉《ことば》が耳によみがえってきた。
− あの方《かた》にはしあわせになってほしい。だけど、きっと、もう、あの方|自身《じしん》、そういう暮《く》らしを夢《ゆめ》みてはおられないんじゃないかな……。
ヒュウゴがいった意味が、いまは、よくわかる。
チャグムが夢みているのは、おだやかな平民《へいみん》の暮《く》らしではない。
タルシュ帝国《ていこく》の侵略《しんりゃく》から新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》をまもるために、全身全霊《ぜんしんらせんれい》をかけてがんばっている。
バルサは、風にむかって目をほそめ、かすかな笑《え》みをうかべた。
(もう、わたしなんぞのでる幕じゃないな。)
ッーラムの港街《みなとまち》にたどりついたのは、真夜中《真夜中》すこしまえという時刻《じこく》だった。
それでも、馬宿《うまやど》のタク・ホル(青い海)があるオクル通りは、まだ、たくさんの人が歩き、酒場《さかば》や賭博場《とばくじょう》が、こうこうとあかりをつけて、客《きゃく》をよびこんでいた。
宿《やど》の玄関《げんかん》は、たたきのむこうが大きな部屋《へや》になっていて、暖炉《だんろ》に火がもえている。その部屋《へや》にはいっていくと、火のそばの椅子《いす》にすわって、友人《ゆうじん》らしい老人《ろうじん》と酒《さけ》を飲《の》んでいた主人《しゅじん》が、ふきげんな顔でバルサをみた。
「……やれやれ。ようやくご帰還《きかん》かね。馬も荷物《にもつ》もおきっぱなしで、六日《むいか》も音《おと》さたなし。
いいかげん、荷物も馬も、売《う》っばらっちまおうかと考えてたところだよ。」
バルサは暖炉《だんろ》にあたって、こごえた手をさすりながら苦笑《くしょう》した。
「わるかったね。いろいろあってさ。 − でも、十日分《とうかぶん》、前わたししてあるじゃないか。」
「ふん。そうじゃなかったら、とっくにあの馬を売ってたぜ。」
でっぷりとふとった主人《しゅじん》は、膝《ひざ》をおさえながら立ちあがると、壁《かべ》のところにいって、たくさんかかっている鍵《かぎ》のなかから、ひとつはずし、バルサにわたした。
「ほいよ。もう厨房《ちゅうぼう》の火はおとしちまったから料理《りょうり》はできないよ。風呂《ふろ》は、まだはいれるが。」
バルサは、うなずきながら鍵《かぎ》をうけとった。アハルのところで菓子《かし》をつまんだだけで、朝食《ちょうしょく》いらい食事《しょくじ》らしい食事はしていないけれど、まったく食欲《しょくよく》がなかった。
バルサの顔をちらっとみて、主人《しゅじん》は、ふいにいった。
「顔色がわるいな、あんた。」
バルサはびっくりして主人をみた。
「え……そうかい?」
主人は、鼻《はな》をならした。
「ちょっと、そこにいろ。朝になったら冷《つめ》たくなってた……なんてことになるとこまる。」
そういって、主人は奥《おく》の厨房《ちゅうぼう》にはいっていった。
バルサは、火にあたりながら、ぼうっと立っていた。椅子《いす》にすわっている老人《ろうじん》が、酒杯《しゅはい》をもちあげてみせた。
「いっぱい、やるかね?」
バルサは、ほほえんだ。
「ありがとう。でも、やめときます。すきっ腹《ぱら》だから。」
とじかけた扉《とびら》を足でけりあけながら、主人《しゅじん》がもどってきた。手に鍋《なべ》と杓子《しゃくし》と木椀《もくわん》をもっている。
「その、すきっ腹《ぱら》ってやつが、あぶないんだ。若《わか》いもんは、一食二食ぬいても、ねむらなくても、へいきだと思ってるが、そういう、いいかげんな暮《く》らしが、老人《ろえじん》になるとひびくんだぞ。」
大きな声でいいながら、主人は暖炉《だんろ》に鍋《なべ》をかけた。
「だいたい、あんたは若い女なんだ。子どもをうむ身体《からだ》だってことを、しっかり考えんと。」
バルサは笑《わら》いだした。
「わたしはもう、三十なかばですよ。」
ぎろっと主人《しゅじん》はバルサをみた。
「だからなんだ? おれのおふくろは、四十五でおれをうんだぞ。」
若いとか、子どもをうむ身体だなどとは、ひさしく、いわれていなかったので、バルサは、どうこたえてよいかわからず、苦笑《くしょう》しながら主人をみていた。
主人《しゅじん》が鍋《なべ》の蓋《ふた》をとると、ラル(シチュー)がみえた。つくりおきしてあったのだろう。うすく膜《まく》がはっていたが、暖炉《だんろ》の火であたためながら、主人が杓子《しゃくし》でかきまわすと、湯気《ゆげ》とともに、よいかおりがたちのぼってきた。
「おふくろはな、十六で子をうみはじめて、四十六までに十二人うんだ。そのうち、八人もりっばにそだてあげたぞ。おれのつれあいだって、十人うんで、七人そだてあげた。」
太い眉《まゆ》をぎゅっとよせてバルサをみながら、主人《しゅじん》はいった。
「おれもな、三十すぎまで賭博《とばく》にはまって、おもしろおかしく生きていたがな。ガキが五人になると、そろそろ腰《こし》をおちつけなきゃならねぇなと思った。こいつが、意外《いがい》なもんでな。時期《じき》ってのは、あるのよ。腰をおちつける時期ってのがな。
若《わか》いころには、気づかねぇが、おちついてみりゃ、それもまた、いい暮《く》らしだぜ。」
椅子《いす》にすわって、のんびり酒《さけ》を飲《の》んでいる老人《ろうじん》があいづちをうった。
「そういうことは、あるわな。その時期をはずしちまうと、サカワみたいになっちまう。」
主人が、老人にむかって、大きくうなずいた。
「それよ。おれがいいたいのはよ。サカワをみろや。ひところは、ラフラ(賭博師《とばくし》)として飛ぶ鳥を落とすいきおいだったがよ、いまは、おまえ、みじめなもんじゃないか。酒場《さかば》のすみで、人に酒《さけ》と食《た》べ物《もの》をめぐんでもらってよ。知っているか、こないだなんてな……。」
いつしか主人《しゅじん》と老人《ろうじん》は、バルサへの説教《せっきょう》をわすれて、自分たちの話に夢中《むちゅう》になった。それでも、ラルが煮《に》たつと、主人は木椀《もくわん》によそって、バルサにわたしてくれた。
バルサは暖炉《だんろ》の前にすわりこんで、あっくて、こってりとしたラルを食べながら、ぼんやりと老人《ろうじん》たちの話をきいていた。
バルサはもくもくとラルを食べおえ、主人《しゅじん》に礼《れい》をいうと、廊下《ろうか》へでた。
廊下の両《りょう》わきに、いくつもの部屋《へや》がならんでいる。部屋にいる客《きゃく》たちは、もうねむっているのだろう。廊下は、しんしんと冷《つめ》たく、暗《くら》かった。
部屋にもどって寝台《しんだい》に腰《こし》をおろすと、バルサはしばらく、そのままの姿勢《しせい》で闇《やみ》をみていた。通りのむかい側《がわ》にある賭場《とば》のあかりが、窓《まど》から、ぼんやりとさしこんでいる。男たちの怒声《どせい》や、女たちのかんだかい笑《わら》い声《ごえ》が、潮《しお》のように高くなったり、低くなったりしてきこえていた。
バルサは、上衣《うわぎ》をぬいで寝具《しんぐ》の上にひろげ、腹《はら》にまいている縄《なわ》をほどいた。そして、寝台《しんだい》の裾《すそ》にひっかけて長靴《ちょうか》をぬぐと、寝具にもぐりこんだ。
夜明《よあ》けの闇《やみ》に、かすかに、人のたちはたらく物音《ものおと》がきこえていた。職人《しょくにん》たちが、朝食《ちょうしょく》のためのバアム(パン)を焼《や》きはじめたのだろう。こうばしいにおいが宿《やど》のなかにただよっている。
目ざめるにつれて、夢《ゆめ》のなかで感じていたぬくもりとにおいとが消えていき、腕《うで》のなかに、さむざむとしたうつろさを感じた。
バルサは、かすかに目をあけて、うす青い部屋《へや》をみた。
(ひとつのところにおちつく時期《じき》……か。)
夢《ゆめ》のなごりを身体《からた゜》に感じながら、バルサは心のなかでつぶやいた。
タンダの腕《うで》のなかで、いくどそのことを考えただろう。そのたびに、それはできない、という思いがうかぶ。
やはり、自分はこの稼業《かぎょう》をやめることはできない。
殺伐《さつばつ》とした稼業だけれど、おのれの半生《はんせい》のなかで得《え》てきたなにかは、この稼業のなかでしか、いかすことはできない。いま、この稼業をやめてしまったら、血《ち》まみれの過去《かこ》の記憶《きおく》は負債《ふさい》となって、ゆっくりと自分を枯らしてしまうだろう。
けれど、この稼業は、いつも死ととなりあわせだ。いつ、あっけなく命《いのち》を落とすかもしれない。どこかの街《まち》の裏通《うらどお》りか荒野《こうや》か、どこかそんなところで、ふいに命を落とし、屍《しかばね》になる。
そして、タンダはかえらぬ自分を、なにがおきたのかと心配《しんぱい》しながらまちつづけることになる……。
むごいことをしていると思うけれど、どうしようもない。 − どうすればいいのか、答《こた》えはまだ、みつからないままだ。
ため息《いき》をついて、バルサは頭の下に両手《りょうて》をあてて、天井《てんじょう》をみあげた。
年があければ、戦《いくさ》がはじまる……と、ヒュウゴがいっていた。チャグムも、一刻《いっこく》もはやく、山へ逃《に》げてくれと書いていた。
戦というものは、兵士同士《へいしどうし》がたたかうものだろうが、血《ち》に酔《よ》った兵士たちが侵略《しんりゃく》してくれば、むごいことになるだろう。乱戦《らんせん》になれば、人の心のタガがはずれる。
まえに南の大陸《たいりく》からきた商人《しょうにん》が話していた。戦《いくさ》は戦場《せんじょう》だけでおこなわれるものではない、と。戦の興奮《こうふん》で獣《けもの》のようになった兵士《へいし》たちが、欲望《よくぼう》のままに街《まち》や村をおそい、略奪《りゃくだつ》するのだと。
商家《しょうか》に乱入《らんにゅう》して金品《きんぴん》をうばい、火をかけ、まだ年端《としは》もいかない子どもさえ斬《き》りころすのを、彼《かれ》は目の前でみたといっていた。
彼のその話を思いだすたびに、胸《むね》の底《そこ》に不安《ふあん》がゆらめく。
都《みやこ》から、すこしはなれた青霧山脈《あおぎりさんみゃく》の山中にいるタンダやトロガイは、だいじょうぶだとしても、アスラとチキサをあずけてきた、マーサの店《みせ》がある四路街《しろがい》はあぶないかもしれない。
戦《いくさ》がはじまるまえに、彼女《かのじょ》らのところへむかったほうがいい。状況《じょうきょう》しだいでは、アスラたちをひきとって、チャグムが書いていたように、タンダといっしょに、山奥《やまおく》の狩《か》り穴《あな》へつれていってもいい。
(……新《しん》ヨゴに、かえろう。)
国と国との戦《いくさ》のなかでは、ひとりの力など、虫ケラがふりたてる角《つの》のようなものだろう。それでも、たいせつな人たちが戦にまきこまれるなら、そばにいたかった。
泊《と》まり客《きゃく》が、部屋《へや》の戸《と》をあけてしめる音がひびいてきた。早発《はやだ》ちの客が、朝食《ちょうしょく》に食堂《しょくどう》へいく足音が、部屋の前をとおりすぎていく。
バルサは夜具《やぐ》をはねのけて起《お》きあがり、冷《つめ》たい床《ゆか》に足をつけ、ふるえながら、寝台《しんだい》の下においてあった荷物《にもつ》をひっぱりだした。
袋《ふくろ》に手をつっこんで、あたらしい下衣《したぎ》をとりだしたとき、なにかが、ぽとっと床におちた。床におちているものをみて、バルサは、はっと目をみひらいた。
それは、いつも手首にまいている革《かわ》ひもだった。 − ヒュウゴの腿《もも》をしぼって、血止《ちど》めをしてやった革ひもだ。
きちんとまいて赤い布《ぬの》でたはねてある。その赤い布をほどくと、内側《うちがわ》に、びっしりとこまかいヨゴ文字《もじ》が書かれていた。
ー この革《かわ》ひもの礼《れい》に、情報《じょうほう》をひとつ。
殿下《でんか》を殺《ころ》すために、(南翼《なんよく》) の刺客《しかく》がはなたれた。
殿下は、みてはならぬカンバル人の顔をみてしまったらしい。
(南翼《なんよく》) の連中《れんちゅう》にとっては、せっかくみつけたカンバル侵略《しんりゃく》の糸口をたちきられる危機《きき》だ。
なんとしてでも、殿下を殺そうとするだろう。
殿下の目的《もくてき》がロタ王《おう》の説得《せっとく》であることは、知られてしまっている。
目的がわかれば、行方《ゆくえ》もさっすることができる。
(南翼《なんよく》)の連中《れんちゅう》がはなった刺客《しかく》は、おそろしい手練《てだれ》だ。
おれは、べつの事情《じじょう》のために、明日《あす》にでもここをはなれねばならない。
あなたが、これを読むことを − あなたが殿下《でんか》をまもれることを、祈《いの》っている。
バルサは、ぽうぜんと、その文《ふみ》をみつめていた。
冷《つめ》たいこわばりが、腹《はら》から胸《むね》へひろがった。
(みてはならぬカンバル人の顔……。カンバルにも、タルシュは手をのばしているのか。)
内通者《ないつうしゃ》の顔をみてしまったというなら、タルシュの密偵《みってい》たちも、全力《ぜんりょく》をあげて、チャグムを殺《ころ》そうとするだろう。
(チャグムは、カシャル(猟犬《りょうけん》)にまもられている。彼《かれ》らだって追手《おって》くらい想定《そうてい》しているはずだ・・・。)
そう思っても、刺《さ》すような不安《ふあん》が胸《むね》を去《さ》らなかった。
南部の大領主《だいりょうしゅ》から追手《おって》がかかるのは予想《よそう》しているだろうが、タルシュの刺客《しかく》のことまで考えているだろうか。手練《てだれ》だという、その刺客の手から、あのカシャル(猟犬《りょうけん》)たちは、チャグムをまもりきれるだろうか。
彼《かれ》らに警告《けいこく》したいが、情報源《じょうほうげん》がタルシュの密偵《みってい》では、信《しん》じないかもしれない。それに、警告するにも、時間がかかりすぎる。
(この文《ふみ》は、いつ、書かれたのだろう。)
みじかくても一日、へたをすれば二日《ふつか》か三日《みっか》たっているかもしれない。刺客とやらは、とうに北へむかって旅《たび》だっているだろう。いまから馬をとばしても、まにあうかどうか……。
あせりと迷《まよ》いがこみあげてきて、バルサは赤い布《ぬの》をにぎりしめて立ちあがった。
新《しん》ヨゴへかえるか、北へ − イーバン王子《おうじ》の居城《きょじょう》へむかうか。
北《きた》へいってもまにあわないかもしれない。それに、カシャル(猟犬《りょうけん》)がまもっているのだから、自分がでる幕はないだろう。そう思っても、北へいきたかった。
チャグムの無事《ぶじ》を、たしかめたかった。
ここからイーハン王子《おうじ》の居城《きょじょう》があるジタンまでは、どれほどいそいでも、十日《とおか》以上かかる。チャグムの無事をたしかめてから、封鎖《ふうさ》されている国境《こっきょう》ではない山道をこえて、四路街《しろがい》へむかっても、戦《いくさ》がはじまるまえに、たどりつけるだろうか?
バルサは、布《ぬの》をにぎりしめたまま、なにもみえていない目で壁《かべ》をみつめていた。
四路街《しろがい》は、サンガル王国《おうこく》との国境《こっきょう》から馬で五日《いつか》くらいの距離《きょり》がある。戦《いくさ》が、どんなふうにすすむものなのか知らないが、そこまで攻《せ》めこまれるまでには、かなりの日数がかかるのではなかろうか。
そこまで考えて、バルサは苦笑《にがわら》いをうかべた。四路街へいくのを、あとまわしにする理由《りゆう》をさがしていることに気づいたからだ。
アスラたちは、情《じょう》のあるマーサに家族《かぞく》のように思われ、まもられている。
けれど、心のなかにうかぶチャグムの姿《すがた》は、ひとりきりで立っている姿だった。
(カシャル(猟犬《りょうけん》)たちがチャグムをまもっているのは、証人《しょうにん》にしたいからで、友情《ゆうじょう》や愛情《あいじょう》からじゃない。まつりごとの風向《かざむき》きがかわれば、切りすてる判断《はんだん》さえするかもしれない。)
チャグムは、けっきょく、ひとりきりで巨大《きょだい》な渦《うず》のなかをわたろうとしているのだ。
バルサは、ふかく息《いき》をすった。 − そして、心をきめた。
白い朝の光が、窓《まど》からさしこんできた。
外の通りを荷車《にぐるま》が走る音が、カラカラと威勢《いせい》よくひびいてくる。夜明《よあ》けの漁《りょう》からかえる夫《おっと》の船を、むかえにいく女たちの荷車の音だろう。
てばやく身《み》じたくをととのえると、荷を肩《かた》にかけ、短槍《たんそう》を手にもって、バルサは足ばやに部屋《へや》からでていった。
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1  オ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)
のぼり坂《ざか》の頂上《ちょうじょう》にたどりついて、タラノ平野《へいや》をみおろしたとたん、男たちがどよめいた。
タンダも、息をのんだ。
眼下《がんか》に、広大《こうだい》な平野《へいや》がひろがっていた。
刈《か》りとりをおえた田が、いく百もの、小さな布《ぬの》をはりあわせた敷物《うりもの》のようにみえる。ところどころに緑色《みどりいろ》のお椀《わん》をふせたように小高い山があり、かなり大きな集落《しゅうらく》が点在《てんざい》しているはかは、どこまでも田畑《たはた》がひろがるゆたかな土地だった。
海をわたってきたヨゴ人たちは、最初《さいしょ》にたどりついた土地にいた人びとからきいた名を、地名《ちめい》としてつかっていたのだろう。南部《なんぶ》にはヤクーの地名《ちめい》がそのまま残《のこ》っている場所が多い。ヤクーたちがタラ・ノ(広い野原)とよんでいた、このタラノ平野《へいや》は、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》をささえる穀倉地帯《こくそうちたい》だった。
これまでのぼってきたヤウル山は、平野の右側《みぎがわ》にだらだらとのびるトウハタ山脈《さんみゃく》につながっている。平野のずっと左手にはやや低いアマク山脈があり、冬のこの時季《じき》でも、こんもりと緑《みどり》の衣《ころも》をまとっていた。
平野《へいや》をつらぬいて青弓川《あおゆみがわ》がながれている。ここ数日雨が降《ふ》りつづいていたが、今日《きょう》はよい天気で川の流れは光の帯《おび》のようにみえた。その流れのさきには、海が青くきらめいている。
サンガル王国《おうこく》との国境線《こっきょうせん》は、トウハタ山脈《さんみゃく》を東西によこぎって、このすこしさきの海岸線《かいがんせん》へたっしていた。大軍《たいぐん》をひきいて攻《せ》めてくるなら、トウハタ山脈のなかをとおる街道《かいどう》の峠《とうげ》よりも、海岸に船団《せんだん》をつけて上陸《じょうりく》し、平野を進軍《しんぐん》してくるほうがたやすい。
新《しん》ヨゴ皇国軍《おうこくぐん》の指揮官《しきかん》たちは、この平野が緒戦《しょせん》の場所になると考え、全国《ぜんこく》からあつめられた、およそ二千人の草兵《そうへい》の、約《やく》七|割《わり》をここへおくりだしたのだった。
タンダたち北部の者《もの》は、いったん、都の南にある小河路街にあつめられた。草兵は、各村から十名ずつあつめられたから、北部|地域《ちいき》だけでも四百人ほどはいた。その四百人の男たちは広い河原《かわら》にあつめられ、五つの村ごとの組に編成《へんせい》された。
軍事物資《ぐんじぶっし》をはこぶ役をわりあてられた組の者《もの》たちは、小河路街から河船《かわぶね》にのりこみ、青弓川《あおゆみがわ》を南下《なんか》したから、もう、宿営地《しゅくえいち》をつくりおわっているはずだ。
そのほかの男たちは、荷馬《にうま》に荷をのせて、ここまで南下《なんか》してきた。皇国《おうこく》から馬をあたえられたわけではない。徴兵《ちようへい》されたとき、村の農耕馬《のうこうぱ》を荷馬としてつれてくるようにと命《めい》じられたのだ。村人にとって農耕馬《のうこうば》は貴重《きちょう》だったから、ひとつの村から何頭《なんとう》もだすわけにはいかず、一頭さしだすのがせいぜいだった。貧しい村からきた草兵《そうへい》たちは馬などもっておらず、わりあてられた荷物を自分たちでせおわねばならなかった。
タンダの実家《じっか》がある村では、タンダたち草兵にあたった男たちに、一頭の馬をさしだしてくれたが、ずいぶんと年とった、やせこけた馬で、重い荷を長いあいだはこばせると、いかにも苦しそうに立ちどまってしまう。
老馬《ろうば》のつらそうな目をみているとかわいそうで、つい、タンダは馬に負《お》わせていた荷《に》をひとつ、自分でかつぐことにしてしまった。南部までの遠い道のりを、重い荷をせおって歩きつづけるのはたいへんなことで、足も腰《こし》も背《せ》もばんばんにはって、夜もねむれぬほどだった。
それでも、わきをとぼとぼと歩いている老馬は気のいいやつで、タンダの気づかいがわかっているわけでもなかろうに、ときおり、お愛想《あいそ》をするように、しめった鼻面《はなづら》をタンダの耳のあたりにくっつけたりした。ホチャ(おじいちゃん)と名づけたこの馬は荷馬としては役《やく》にたたなかったけれど、いい道連《みちづれ》れではあったのだ。
「ホチャ、おつかれさんだったなぁ。あとすこしで終点《しゅうてん》だぞ。」
男たちの隊列《たいれつ》が坂《さか》をくだりはじめると、タンダは、老馬《ろうば》の首をなでながら、つぶやいた。
あの平野《へいや》が、人生《じんせい》の終点《しゅうてん》になるのかもしれない。 − だれもがきっと、胸《むね》のなかにいだいているその思いを、タンダも感じていたけれど、平野の風景《ふうけい》はあまりにも、うららかで明るく、あそこで殺《ころ》しあいをするなど、とても、ほんとうのこととは思えなかった。
小さくため息《いき》をつくと、タンダは、坂《さか》をくだっていった。
北部|部隊《ぶたい》の草兵《そうへい》たちは、日が暮れるころに山の裾野《すその》にたどりついた。
広大《こうだい》な草地が、皇国軍《おうこくぐん》の宿営地《しゅくえいち》になっていて、みわたすかぎり天幕《てんまく》がたちならび、金の縫《ぬ》いとりをした旗《はた》が夕日にきらめいている。
宿営地《しゅくえいち》では夕食《ゆうしょく》のしたくがはじまっており、炉《ろ》の煙《けむり》がたちのぼっていたが、何百|頭《とう》もの馬がいるので、そのにおいで、煙のにおいも料理《りょうり》のにおいも、かきけされてしまっていた。
「おまえたち北部|部隊《ぶたい》の宿営地《しゅくえいち》は、もっとむこうだ。」
兵馬《へいば》のざわめきをぬって、草兵《そうへい》の指揮《しき》をしている兵長《へいちょう》の声が、かすかにきこえてきた。
きらびやかな鎧《よろい》や剣《けん》をわきにおいて、あたたかい夕食《ゆうしょく》を食べはじめている正規兵《せいきへい》たちの横《よこ》を、タンダたちは、すきっ腹《ぱら》をかかえて、とぼとぼと、馬をすすめていった。
草兵《そうへい》の宿営地にたどりついて、タンダたちは、ぼうぜんとした。
山かげの渓流《けいりゅう》のわきに牧草地《ぼくそうち》がひろがっている。三百人の男たちが寝泊《ねと》まりするには、じゅぅぶんな広さはあったが、ぽつん、ぽつんと炉《ろ》がつくられているだけで、天幕《てんまく》もなにもない。
これまでは、夜になるととちゅうの村むらに分散《ぶんさん》して、村人《むらびと》たちの家や納屋《なや》に泊とめてもらっていたが、今夜《こんや》は露天《ろてん》でねむるのかと思うと、みんな、がっくりしてしまった。
「五村組ごとに、ひとつの炉《ろ》をあたえる。まず、馬たちの世話。それから、日があるうちに、小川の下手《しもて》に、下の処理《しょり》のための側溝《そっこう》をほれ。そのあとで、夕食《ゆうしょく》のしたくをはじめろ。」
草兵長《そうへいちょう》の言葉《ことば》をきいて、男たちは、のろのろとうごきはじめた。
「さきにいった連中《れんちゅう》は、なにをしてたんだ? 宿営地《しゅくえいち》をつくりに、さきに河《かわ》をくだったんじゃないのか?」
「……おれたちの宿営地じゃなく、正規兵《せいきへい》の宿営地をつくったんだろうよ。」
ささやく声が、あちこちできこえていたが、草兵長《そうへいちょう》たちにきこえるような声で文句《もんく》をいうものはいなかった。士気《しき》をくじくようなことをいえば、ようしゃなく鞭《むち》でうたれることを、この旅《たび》のあいだで、身《み》にしみて知っていたからだ。
草兵《そうへい》を統率《とうそつ》している八人ほどの正規兵《せいきへい》たちは、武人階級《ぶじんかいきゅう》のものの考え方は、民《たみ》とはちがうことを、言葉《ことば》でも態度《たいど》でもはっきりとしめした。
草兵が各地《かくち》からあつめられ、部隊《ぶたい》に編成《へんせい》された日、草兵|部隊長《ぶたいちょう》は、馬の上からきびしい声で、尊《とうと》い御国《みくに》をまもるために命《いのち》をすてる気のない者《もの》は国をあやうくする者であるから、処刑《しょけい》すると公言《こうげん》し、それを数日後《すうじつご》に実証《じっしょう》してみせた。 − 闇《やみ》にまぎれて逃《に》げだそうとしてつかまった男の首を、草兵たちの目の前ではね、彼《かれ》が逃げるのに気づかなかった村人仲間《むらびとなかま》も半死半生《きんしはんしょう》になるまで鞭《むち》うったのである。一片《いっぺん》の情《なさけ》けもないこの扱《あつか》いは、男たちにつよい衝撃《しょうげき》をあたえた。
草兵《そうへい》たちは、うまれてこのかた、故郷《ふめさと》の村から一歩も外へでたことのない者《もの》が多かった。彼《かれ》らは、税《ぜい》をおさめるときくらいにしか、武人階級《ぶじんかいきゅう》の者など、みることもなかった。
鎧兜《よろいかぶと》で身《み》をかため、ひややかな目をして、刀《かたな》で人の首をはねた武人の姿《すがた》は、そういう男たちを心底《しんそこ》ふるえあがらせた。 − 武人とは、おそろしい、なにか自分らとはまったくちがう者なのだと、彼らは思った。
その一件《いっけん》いらい、男たちは、草兵長《そうへいちょう》たちに目をつけられぬよう、不平不満《ふへいふまん》がばれぬようにすごしてきたのだった。
日が暮れてくると、南部でも、さすがに、冷《ひ》えこんでくる。
男たちは炉《ろ》のまわりにあっまって、火にあたりながら、もくもくとそまつな夕食《ゆうしょく》をおえると、毛布《もうふ》にくるまって横《よこ》になった。
長旅《ながたび》のつかれで、横になると身体《からだ》がきしむ。タンダは、すこしでも、身体がらくになる姿勢《しせい》をみつけようとした。毛布を頭からかぶって、自分の息《いき》で顔があたたまりはじめると、タンダは、いつしか、すいこまれるように眠りにおちていった。
だれかの悲鳴《ひめい》がきこえて、タンダは、はっと目をさました。
炉の火は燃《も》えつき、月の光だけがぼんやりと草地《くさち》をてらしている。その闇《やみ》のなかで、複数《ふくすう》の男たちが、だれかをなぐっているような物音《ものおと》がひびいていた。
タンダが身《み》をおこすと、横《よこ》に寝《ね》ていた隣村《となりむら》の男が、小さな声でいった。
「……ほっとけ。めんどうに、かかわるな。」
すすり泣《な》き、うめいている声がし、怒声《どせい》と、なぐっている音がひびいているのに、草兵長《そうへいちょう》たちがやってくる気配《けはい》はない。彼《かれ》らは、すこしはなれたところの天幕《てんまく》でねむっているから、きこえないのだろう。
タンダは立ちあがった。ばかな性分《しょうぶん》だと思ったが、みてみぬふりは、できなかった。
ちかづいていくと、たったひとりの小さな人影《ひとかげ》を、三人の男がなぐったり、けったりしているのがみえてきた。
「なにをしているんだ。」
タンダが声をかけると、男たちがふりかえった。
「てめぇにゃ、関係《かんけい》ねぇ! ひっこんでろ!」
まだ、若い声だった。興奮《こうふん》して、声がひっくりかえっている。
タンダは、つかつかと男たちのあいだにはいって、うずくまっている男のわきに立った。
「……安眠《あんみん》のじゃまだぞ。これ以上さわぐと、ほかの村の連中《れんちゅう》も、おこりだすだろう。」
タンダがしずかな声でいうと、若者《わかもの》たちは、だまりこんだ。眠《ねむり》りをじゃまされた男たちの、怒《いか》りをふくんだ沈黙《ちんもく》に、ようやく気づいたのだ。
それでも、このまま引くのはしゃくだったらしく、さっきどなった若者が、タンダの襟首《えりくび》をつかんだ。
「 − えらそうに、なにさまのつもりだ、てめぇ。」
タンダは、だまって若者《わかもの》をみつめた。若者は、つばをはくと、タンダの腹《はら》を思いっきりなぐった。腹のなかで、なにかが破裂《はれつ》したようで、息《いき》がつまった。タンダは腹をおさえて前のめりになったが、若者から目をそらさなかった。
「おい……。」
仲間《なかま》が若者に声をかけた。ふりかえった若者は、自分たちをかこむように、七人ほどの男たちが立っているのに気づいて、あおざめた。タンダの村組の男たちが、腕組《うでぐ》みをして、むっつりと若者たちをにらみつけている。
若者《わかもの》たちが、ふてくされて肩《かた》をふりながら、炉《ろ》のほうへ去《さ》ると、タンダは、うずくまっている男の背をさすった。
「だいじょうぶかい?」
うなずいて、ふるえながら男は顔をあげた。月の光に、ぼんやりとうかびあがったその顔は、十八をすぎているとはとても思えない、少年の顔だった。がりがりにやせて、目ばかりひかっている。顔じゅう、血《ち》だらけだった。
「……傷《きず》の手当《てあ》てをしてやろう。」
ささやいて、タンダは少年を抱《だ》きおこした。それから、無言《むごん》で立っている男たちに、深く頭をさげた。
「ありがとうございました。」
男たちは肩《かた》をすくめて、自分たちの寝床《ねどこ》へもどっていった。
村人《むらびと》ではないタンダを、彼《かれ》らはいつも、すこし距離《きょり》をおいてあつかっていたけれど、こういうときには、味方《みかた》をしてくれるのだと知って、タンダはうれしかった。
タンダは少年を川辺《かわべ》にかかえていった。
「自分で、顔をあらえるかい?」
ささやくと、少年はうなずいた。痛《いた》そうに、ときおり手をとめながらも、少年は顔をあらいはじめた。そのわきで、タンダは懐《ふところ》から袋《ふくろ》をとりだし、手さぐりで、小さな油紙《あぶらがみ》でつつんだものをえらびだした。
油紙につつんであった粉《こな》を手のひらにもると、水をすこしたらしてねり、少年の顔の傷《きず》につけてやった。
「すっとするだろう。」
つぶやくと、少年は、うなずいた。
「なんで、なぐられたんだい?」
タンダが小声でたずねると、少年は、しばらく口ごもってから、きれざれにこたえた。
「うるせぇって。……おまえがいると、ねむれねぇって。……おらぁ、ずっと、やな夢《ゆめ》をみるんだ。村をはなれてから、みなくなってたのに、ここにきたら、また、みちまった。」
まだ声変《こえが》わりしていないのか、少女のような声だった。
そこまでいって、だまりこんでしまった少年に、タンダはしずかにうながした。
「夢《ゆめ》? どんな夢だい?」
少年は、しばらくだまっていたが、やがて、おしだすようにいった。
「逃《に》げなきゃ……走って、逃げなきゃ。……おしつぶされる。胸《むね》が重くて、おれのなかで、さけべっていう声がきこえる……。」
タンダは、少年がふるえているのに気づいて、そっと肩に手をおいた。
(戦がこわくて、たまらないんだな。むりもない。)
そのとき、少年が、ふいに目をみひらいた。タンダをとおりこして、べつのなにかをみているように、山のほうを凝視《ぎょうし》している。
大気《たいき》がうなっているような感じが、かすかにつたわってきた。
ざわざわと鳥肌《とりはだ》がたち、タンダは、思わず口のなかで呪文《じゅもん》をとなえて、心をしずめようとした。
とつぜん、ザアッと大きな音がした。すぐそばの山の木々から、いっせいに鳥たちが夜空《よぞら》にまいあがったのだ。さわがしい羽音《はおと》とともに、するどく鳴《な》きかわす鳥の声がひびいてくる。
なにかが山の下草の間からとびだしてきた。狐《きつね》か野犬《やけん》か、黒い影《かげ》が、しなやかな走りで川をとびこえ、野のほうへ走りさっていく。それが最初《さいしょ》の一|頭《とう》だった。あとから、つぎつぎに、獣《けもの》たちが山から走りでてきた。
少年が、首をふりながら、さけびはじめた。
「……あぶねぇ! ここは、あぶねぇ! 逃《に》げろ……みんな、逃げろ……−」
走っていく獣《けもの》たちに踏《ふ》まれたり、とびこえられたりして、ねむっていた草兵《そうへい》たちは、びっくりして目をさまし、なにごとかと、あたりをみまわしている。
タンダは立ちあがると、ふるえながらさけんでいる少年の手をひっぱって、男たちがいるほうへ走りはじめた。
「みんなおきろ! おきて、獣《けもの》たちが逃《に》げるほうへ、走れ!」
タンダの声に応《おう》じて立ちあがり、走りはじめた者《もの》もすこしはいたが、大半《たいはん》は、ぼんやりとタンダをみて、なにをいっているのだ……というような顔をしていた。
もういちどさけぼうと、タンダが息《いき》をすいこんだ瞬間《しゅんかん》、大地《だいち》が、ぐうんともちあがり、ぐらぐらとふるえた。そのゆれはしばらくつづき、木々がゆれて、ぶつかる音がひびいた。
それは、ほんとうに、一瞬《いっしゅん》だった。
遠雷《えんらい》のような音がひびいてきたかと思うと、まるで、大地《だいち》の皮《かわ》がはがれるように、目の前の森がもりあがって、こちらへすべってきたのだ。すこし上流《じょうりゅう》でおこった土砂崩《どしゃくずれ》れが木々をなぎたおしながら、男たちが寝《ね》ている草地《くさち》のほうへながれおちてきた。
闇《やみ》のなかに悲鳴《ひめい》がひびいた。
タンダは、少年の手をひいてかけていたが、とちゅうで、背後《はいご》から土砂《どしゃ》に足をすくわれ、おしながされてきた木に衣《ころも》をひっかけられて、ひきずられた。
なにもできず、少年をかかえたまま、タンダは土砂におしながされた。
ただひとつ幸運《こううん》だったのは、土砂崩《どしゃくず》れが、それほど大きくなかったことだった。ながされながらもタンダは腕《うで》で顔をかばい、なんとか土砂の上に顔をだしていることができた。
やがて、野営地《やえいち》の下流《かりゅう》の岩《いわ》の間に木がひっかかって、タンダの身体も、動きをとめた。
土砂崩《どしゃくず》れがおさまった、きみょうなしずけさのなかで、タンダはうなりながら、少年をひっぱりおこし、野営地《やえいち》のほうをふりかえった。
月の光にうかびあがっている景色《けしき》をみつめるうちに、川のあったあたりから、野営地の三分の一ぐらいが、土砂にうまっているのがみえてきた。
タンダは、ロにはいった泥《どろ》をはきだした。少年が、せきこみながら、泣《な》いている。
タンダは、ふるえている手で、そっと少年の泥だらけの背《せ》をなでてやった。
タンダたち生きのこった男たちは、松明《たいまつ》のあかりで土砂《どしゃ》をてらしながら、泥《どろ》と木のなかから、仲間《なかま》をたすけだそうとした。だが、わずかに、ふたり、ちょうどふたつの木のはざまにできた空間《くうかん》にはいりこんだかたちになっていた男たちを、たすけだせただけだった。
朝になると、二十五人もの男たちが、土砂にのまれたことがわかった。そのなかには、タンダの村組の男たちもふたり、ふくまれていた。
土砂《どしゃ》の下敷《したじ》きになっている者《もの》たちをすぐにもほりだしてやりたかったが、鍬《くわ》では、岩や木がまじった泥をほりかえすのには、てまがかかった。
八|騎《き》の武者《むしゃ》たちは馬上から現場《げんば》をみていたが、やがて、草兵長《そうへいちょう》が生きのこった男たちに召集《しょうしゅう》をかけた。
「災難《さいなん》であったが、これ以上、この土砂《どしゃ》をほりかえしてはならぬ。
そなたらは、昼《ひる》までにここを出発《しゅっぱつ》し、敵《てき》の騎馬兵《きばへい》をくいとめる、逆杭《ぎゃくぐい》を埋《う》める作業《さぎょう》をはじめることになっている。 − よけいな作業で、労力《ろうりょく》をつかうことはゆるさぬ。」
よけいな作業、という言葉《ことば》をきいた瞬間《しゅんかん》、目をふせて、地に頭をつけている男たちのあいだから、おさえきれぬ怒《いか》りのうなり声がもれはじめた。 − あの土砂《どしゃ》の下にはいま、弟や友が埋まっている。彼かれ《》らをたすけだすことを、よけいな作業というのか…‥
そのうなりは、だれが発《はっ》しているともわからぬ響《ひび》きとなって、大気をふるわせた。
草兵長《そうへいちょう》は、あおざめた顔をして、おびえてあとずさりしはじめた馬の手綱《づな》をおさえた。
彼《かれ》はまだ二十五の若者《わかもの》だった。代々マロク(一個大隊《いっこだいたい》=約三百人の兵《へい》からなる大隊のこと)をひきいる大隊長《だいたいちょう》の家柄《いえがら》であるため、草兵をひきいる兵長の役《やく》をおおせつかっただけだった。
彼のわきにいた副兵長《ふくへいちょう》は、上官《じょうかん》がうろたえているのを感じとって、大きな声をあげた。
「しずまれ!」
副兵長は、そろそろ六十に手がとどく高齢《こうれい》の武人《ぶじん》だった。もはや、実戦《じっせん》ではたいした力をふるうことはできないし、下級武人《かきゅうぶじん》の出身《しゅっしん》だったが、人をまとめるのにたけた男であるために、若《わか》い兵長をささえる役目《やくめ》に抜擢《ばってき》された男だった。
草兵《そうへい》たちはうなるのをやめたが、あたりをおおったしずけさのなかには、手でふれられるほどの怒《いか》りが満《み》ちていた。
副兵長《ふくへいちょう》は、おだやかな声でよびかけた。
「そなたらの気もちは、よくわかる。あの土砂《どしゃ》の下で、まだ息《いき》をしているかもしれぬ身内《みうち》のことを思えば、いてもたってもいられぬだろう。
だが、そなたら全員《ぜんいん》が鍬《くわ》をもってほりかえしたとして、すべてをほりおこすのに、どのくらいかかる? さきほどから、そなたらの作業《さぎょう》をみておったが、日暮《ひぐ》れまでかかっても、すべてはほりおこせまい。炉のあった位置《いち》を予想《よそう》して、そこだけほることもできようが、これだけすさまじい土砂《どしゃ》がながれてきたのだ。土砂の力にもまれて、ながされているだろうしな。
明日《あした》もほるか?  − だが、考えてみよ、かわいそうだが、人の息というものは、そんなに長くはつづかぬだろう。」
たんたんと事実《じじつ》だけをのべる副兵長《ふくへいちょう》の声をきくうちに、男たちの沈黙《ちんもく》から、怒《いか》りが消《き》えていった。
「平時《へいじ》であれば、ほかの隊《たい》の者《もの》たちもよびあつめて、たすけをこうこともできよう。
だが、いまは、戦時《せんじ》ぞ。あと、ひと月もすれば敵《てき》が攻《せ》めてくる。 − そなたらが、逆杭《ぎゃくぐい》を埋う《》める作業《さきせょう》がまにあわねば、タルシュとサンガルの騎馬兵《きばへい》の足をとめることはできぬ。それこそ、土砂崩《どしゃくず》れのように、わが国をおそうだろう。
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里《さと》に残《のこ》してきた妻子《さい》を思え。いとしい子らの顔を思え。 − 残忍《ざんにん》な敵兵《てきへい》に、彼《かれ》らを殺《ころ》されぬよう、力をつくせ。……土砂《どしゃ》に埋《う》もれている者《もの》たちも、ゆるしてくれようぞ。」
すすりなく声が、男たちのあいだからもれはじめた。
「一ダン(約《やく》一時間)ほど、朝食《ちょうしょく》の時間をのばしてやろう。あわただしいが、そのあいだに、身内《みうち》をとむらうがよい。」
そういって、副兵長《ふくへいちょう》は、草兵長《そうへいちょう》をうながして男たちに背をむけた。
騎馬武者《きばむしゃ》たちが去《さ》っていくと、男たちは頭をあげ、ぼうぜんとした表情《ひょうじょう》で、たがいをみた。どうやってとむらうか、小声でぼそぼそと話しあっている男たちのあいだから、タンダはひとり立ちあがり、膝《ひざ》の泥《どろ》をはらうと、森のなかにはいっていった。
森からかえってきたときには、タンダは、スガという、手のひらのような形をした草の葉を二十五|枚《まい》もっていた。
タンダは、すすりないている男たちのあいだをまわって、土砂《どしゃ》にのまれた男たちの名をききとると、スガの葉《は》に、小刀《こがたな》の先で男たちの名をきざみはじめた。
「……あんた、呪術師《じゅじゅつし》かね。」
ひとりの男が、タンダに声をかけてきた。タンダは、おだやかな声でこたえた。
「まだ見習《みならい》いですが、魂《たましい》送りの儀式《ぎしき》はやったことがあります。」
いつしか、草兵《そうへい》たちはタンダのまわりにあつまり、彼がもくもくとスガの葉に名をきざみ、地面《じめん》にならべるのをみつめていた。
二十五人の名を、二十五|枚《まい》の葉にきざみおえると、タンダは、男たちをみまわした。
「これから、魂《たましい》をあの世《よ》へおくります。やすらかに逝けるように、てつだってください。」
草兵《そうへい》たちは、うなずいた。だれもが一度ならず経験《けいけん》している儀式だった。
タンダは一枚のスガの葉を手にとると、よくとおる声で、魂送《たましいおく》りの言葉《こしば》をとなえた。
「アクチャムよ、鳥になりたまえ!
風にのって天をかけ、あの世《よ》へいたり、やすらかな眠《ねむ》りにつきたまえ。
やがて、ふたたび、この世にうまれでるまで、しばし、ふかい眠りにやすらぎたまえ!」
そして、いきおいよく手をふって、スガの葉《は》を天《てん》になげあげた。
瞬間《しゅんかん》、スガの葉は白い光をはなって燃《も》えあがり、鳥に姿《すがた》をかえて、一直線《いっちょくせん》に天空《てんくう》へとまいあがって、雲《くも》のなかへと消《き》えていった。
「オー、オー、オー。」
男たちが、背《せ》をそらして空をみあげながら、太い声で泣《な》いた。
「さらば、アクチャム! さらば!」
泥《どろ》にまみれた男《おとこ》たちの頬《ほお》を、涙《なみだ》がつたっていた。
二度《にど》と故郷《ふるさと》の村にもどることのない、友や兄弟を思って、彼《かれ》らはほえるように泣いた。
二十五|枚《まい》のスガの葉は、つぎつぎに魂《たましい》をのせた鳥となって、天空《てんくう》へすいこまれていった。
朝食《ちょうしょく》をおえ、出発《しゅっぱつ》するまでの、わずかなあいだに、タンダは、昨夜《さくや》なぐられていた少年のところへいって、もういちど、傷《きず》の手当《てあ》てをしてやった。
朝の光のなかで、あらためて少年の顔をみて、タンダは、そのおさなさに、おどろいた。
「……きみは、いくつだ?」
少年はうつむいて、小さな声でいった。
「十四。……兄貴《あにき》がくじにあたって、おらが、かわりになった。」
そうつぶやくと、こらえきれなくなったように、涙《なみだ》がその目にもりあがった。
タンダは、思わず少年の頭を抱《だ》いてやった。
ふれられるのになれていない野良犬《のらいぬ》のように、少年は、びくっと身体《からだ》をかたくしたが、やがて、身体の力をぬいて、タンダの胸《むね》に顔をうずめた。
働《はたら》き手《て》をとられたくない一心《いっしん》で、数多い子どもたちのなかから、かわりをさしだす親は、すくなくなかった。この北部の草兵部隊《そうへいぶたい》のなかだけでも、そういう、あきらかに十八に満《み》たない少年たちが、何人もいる。
「……おらぁ、へんなガキだから。いらねぇって、親父《おやじ》は、思ってるんだ。」
タンダの背《せ》に腕《うで》をまわして、ぎゅっと力をこめ、少年はうなるようにいった。
その小さな頭をなでながら、タンダはいった。
「へんなガキか。 − おれも、よく、そういわれたよ。」
おどろいたように少年は顔をあげた。なぐられてまぶたがはれ、涙《なみだ》と鼻水《はなみず》で、顔がぐしゃぐしゃになっている。
「あんたも?」
タンダは眉《まゆ》をあげて、ほほえんだ。
「おれは、死者《ししゃ》の魂《たましい》をみることができるし、死病《しびょう》にとりつかれている人の影《かげ》をみることができる。だから、気味《きみ》わるがられたんだ。……きみは、なんでへんだといわれるんだい?」
少年は歯並《はなら》びのわるいロをあけて、いっしょうけんめい言葉《ことば》をさがしながら、こたえた。
「おらぁ、ここじゃないとこが、みえる。山にかさなって、川がみえたり、ひかるものがおどったりするのが、みえるんだ。」
タンダは、はっとして、少年をまじまじとみつめた。
「……ここには、なにがみえている?」
少年は、考えることもなく、こたえた。
「ここは、でっかくて、底《そこ》のねぇ水のなかだ。いっぱい、へんなのが、泳いでる。」
タンダは、しばらく、まじまじと少年をみつめていたが、やがて、目をとじ、呪文《ばゅもん》をロのなかでつぶやくと、ナユグをみる(目)をひらいた。
みわたすかぎり、瑠璃色《るりいろ》の水がひろがっていた。
上をみあげると、はるか上のほうに水面《すいめん》がみえ、明るい光がゆらめいていた。
なんという生き物の多さだろう! みたこともないほど、たくさんのヨナ・ロ・ガイ(水の民《たみ》)や、小魚のような銀色《ぎんいろ》のほそい生き物の群《む》れが、タンダの身体《からだ》をとおりすぎていく。
頭上《ずじょう》では、無数《むすう》の線《せん》や黄色《きいろ》みがかった光が、ちかちかとまたたきながら、いく筋《すじ》もの光の帯《おび》をつくって、南から北へと泳ぎわたっていく……。
サグ(こちら側《がわ》) へもどって、大きく息《いき》をすうと、タンダは汗《あせ》をぬぐった。
少年が、不安《ふあん》そうな顔でタンダをみあげている。
タンダは、少年の顔をみつめた。
( − この子は、異能者《いのうしゃ》だ。アスラとおなじような……。)
草兵《そうへい》にかりだされることになって、アスラの話をちゃんときいてやることもできずに、かえしてしまったけれど、考えてみると、アスラも、夢をみて毎晩うなされるといって、タンダをたずねてきたのだった。
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胸《むね》をおしつぶされるような夢。なにかをしなきゃいけないけれど、なにをすればいいのか、わからない。ただ、あせりだけが心のなかにあるのだと、アスラはいっていた。
(この子も、何カ月も、いやな夢をみて、うなされているといっていたな……。)
異能者《いのうしゃ》たちだけが感じている、なにかが、あるのかもしれない。 − そう思った瞬間《しゅんかん》、閃光《せんこう》のように、ひとつの考えが、頭のなかにひらめいた。
(もしかすると、この子たちは、オ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)なのかもしれない……。)
魚や鳥など、群《む》れでくらす生き物のなかには、ほかのものより敏感《びんかん》に、いちはやく危険《きけん》の到来《とうらい》を感じとって、群れに警告《けいこく》を発《はっ》するものがいるという。そういうものを、呪術師《じゅじゅつし》たちはオ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)とよぶのだと、トロガイ師《し》は、おしえてくれた。
昨夜《さくや》、あの闇《やみ》のなかで、地震《じしん》がくるのを感じとって夜空《よぞら》にまいあがった鳥の群《む》れのことを、タンダは思いだしていた。
この少年は、タンダよりもはるかに早く異変《いへん》を感じとって、逃げろ! とさけんだ。
人という生き物も、群れで生きる生き物だと考えるなら、オ・チャル(群れの警告者)がいても、おかしくはない。
アスラのような異能者《いのうしゃ》 − サグとナユグ、ふたつの世にふかくかかわっている者《もの》がうまれるのはなぜなのか、ずっと考えていたけれど、もしかすると、そういう異能者たちは、ふたつの世《よ》がふれあって、なにかがおきるのを、だれよりも早く感じとれる、オ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)なのかもしれない……。
そうだとすれば、アスラや、この子は、いったいなににおびえ、なにを警告《けいこく》しようとしているのだろう。ナユグでおきていることが、サグに、なにかをひきおこすのだろうか。
オ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)が警告を発《はっ》するのは、群《む》れに危機《きき》がせまったときだ。
(ああ……師匠《ししょう》がここにいたら!)
なにかが、おきようとしている。このまま、手をこまねいていてはいけない。
( − 戦《いくさ》がはじまったら、おれは、命《いのち》をおとすかもしれない。そうなるまえに、なんとしてでも、師匠にこのことをつたえなければ……。)
少年が、不安《ふあん》そうにつぶやいた。
「……おっさん、だいじょうぶPL
タンダはわれにかえって、かすかに笑《え》みをうかべた。
「だいじょうぶだ。 − だけど、おっさんは、よしてくれや。おれはタンダというんだ。名前でよんでくれ。」
少年のはれふさがった目に、笑《え》みがうかんだ。
「タンダさんかぁ。おらぁ、コチャだ。」
「コチャ(チビ)?」
タンダが思わずききかえすと、少年は、歯がぬけた顔で笑《わら》った。
「ずっとそうよばれてて、そのまま名前になった。ひでぇもんさ。うちの親父《おやじ》は。」
タンダは苦笑《くしょう》をうかべて、その笑顔《えがお》をみていた。
遠くから、召集《しょうしゅう》を告《つ》げる鐘《かね》の音がきこえてきた。
鳥や魚の群《む》れならば、オ・チャル(群《む》れの警告者《けいこくしゃ》)がうごけば、群れもうごく。
けれど、人の群れは大きすぎ、複雑《ふくざつ》すぎて、オ・チャル(群れの警告者)の警告など、群れの騒音《そうおん》のなかで、かきけされてしまう。
男たちが召集の場へむかいはじめている。タンダも、少年といっしょに歩きはじめた。国境《こっきょう》へ − 戦場《せんじょう》へ。もう、あとすこしで、戦《いくさ》がはじまる。
男たちにはさまれて歩きながら、タンダは痛《いた》みをこらえるように顔をゆがめていた。
大きな災《わざわ》いの予兆《よちょう》を感じながら、なにもすることができず、土砂《どしゃ》にながされるように戦場《せんじょう》へひきだきれていく自分の無力《むりょく》さが、たまらなかった。
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2  影《かげ》からよみがえったカシャル(猟犬《りょうけん》)
バルサは、ひたすら北へ、馬を駆った。
チャグムたちが、どの道をとおったのかは考えないことにしていた。それをさぐりながら北上《ほくじょう》したら、長い時間がかかってしまう。そんな暇《ひま》はなかったから、バルサは腹《はら》をきめて、ジタンへの最短距離《さいたんきょり》をつっぱしった。
チャグムたちは、バルサより、数日《すうじつ》さきに南部を出発《しゅっぱつ》している。その差《さ》をちぢめるには、ねむる時間をけずるしかなかった。バルサは、一日に四時間ほどしかねむらず、食《た》べ物《もの》も、ほとんど、馬の上で食べながら旅《たび》していった。
とちゅうで二度、馬をかえた。いい馬を買《か》うと、目玉がとびでるほどの金がかかる。ジンからもらった金は残《のこ》りすくなくなって、路銀《ろぎん》はサイソからもらった報酬《ほうしゅう》がたよりだったけれど、すこしでも早くジタンにつくためには、そんなことにかまってはいられなかった。
そういう旅のあいだでも、隊商《たいしょう》の護衛《ごえい》が泊《と》まる宿《やど》をみつけると、バルサは一ダン(約《やく》一時間)ほど身体《からだ》をやすめながら、護衛《ごえい》たちから、噂《うわさ》をきくことにしていた。こういう宿《やど》は、隊商《たいしょう》の護衛としてロタじゅうを旅《たび》している男たちがいきあう場所だったし、彼《かれ》らは、襲撃《しゅうげき》や待《ま》ち伏《ぶ》せの噂には敏感《びんかん》だったからだ。
護衛たちと言葉《ことば》をかわすなかで、南部の大領主《だいりょうしゅ》がはなった追手《おって》たちの噂《うわさ》はなんどか耳にした。けれど、チャグムをつれているはずのカシャル(猟犬《りょうけん》)の噂は、ちらっとも、耳にはいってこなかった。
(・…‥カシャル(猟犬)は、秘密《ひみつ》の道を、たくさん知っているからな。)
まえに、タンダがそんなことを話していたのを思いだしながら、バルサはチャグムの行方《ゆくえ》に思いをはせた。小柄《こがら》な、あの川の民《たみ》たちといっしょに寝起《ねお》きし、いまこのときも、草原や森を歩いているのだろうか。
(無事《ぶじ》で生きていておくれ。)
つかれて、にぶくいたむこめかみをおさえながら、バルサは心のなかで祈《いの》った。
王都《おうと》をとおりすぎて、三日《みっか》ほどたつと、あたりの風景《ふうけい》は大きくかわりはじめた。
道の両《りょう》わきにつづいていたゆたかな畑《はたけ》や街《まち》は消《き》え、かわりに、みわたすかぎり、ぼうぼうと草が波うつ草原があらわれた。天《てん》はうすく、高く、風は顔を切るように冷《つめ》たくて、かすかに雪《ゆき》のにおいがした。……北部|地域《ちいき》にはいったのだ。
去年《きょねん》、|今年《ことし》とあたたかい日がつづいたので、春仔《はるこ》の子ヒツジたちもすくすくそだち、畑《はたけ》の実《みの》りぐあいもいい。北部の人びとは、めずらしくゆたかなたくわえをもって冬をむかえようとしていた。
草原と、針葉樹《しんようじゅ》の森とをぬけて、ジタンにもっとも近い街《まち》オダムに、バルサがたどりついたのは、ツーラムをでて、十日《とおか》めのことだった。ふつうの旅人《たびびと》なら十五、六日かかる道のりだったから、オダムの護衛宿《ごえいやど》についたときは、さすがのバルサも、うごけないほどにつかれきっていた。
このつかれ方《かた》では、たとえチャグムたちに追《お》いついたとしても、なんの役《やく》にもたたない。そうさとって、バルサは、この夜だけは、ゆっくりとねむることにした。
あつい風呂《ふろ》にはいり、つかれた身体《からだ》に力をつけてくれる、やわらかく麦《むぎ》を煮《に》こんだ甘《あま》い粥《かゆ》を食べて、バルサは寝台《しんだい》にたおれこんだ。
つかれすぎていたのだろう。寝入《ねい》りばなは、つぎつぎに、わけのわからぬ夢《ゆめ》をみたが、夜半《やはん》からは地の底《そこ》へおちていくようなふかい眠《ねむ》りがおとずれた。
階下《かいか》のざわめきで、バルサは、はっと目をさました。
窓《まど》からは朝の光がさしこんでいる。うす曇《くも》りの日の、ぼんやりとした光だったが、もう、早朝《そうちょう》とはいえない時刻《じこく》のようだった。
なにか興奮《こうふん》して話しあっている人びとの声が、ぶあつい床板《ゆかいた》をとおして、くぐもってひびいてくる。バルサは起《お》きあがり、身《み》じたくをととのえると、いそいで階下《かいか》におりていった。
玄関広間《げんかんひろま》に立っている、旅《たび》じたくのままの髭面《ひげづら》の護衛《ごえい》が、数人の男たちと、さかんに話している。どうやら、夜明《よあ》けにいったん出発《しゅっぱつ》したものの、とちゅうでひきかえしてきたらしい。
「……そうだ。アファンの森の小道だよ。街道《かいどう》をいくより近道だからな。おれたちは、いつも、あそこをとおることにしているんだ。」
「そこに、死体《したい》があったってのか?」
髭面《ひげづら》の男はうなずいた。
「血《ち》のにおいもすごかった。まだ、あたたかい死体《したい》だった。たぶん、明《あ》け方《がた》にやられたんだろう。」
「それでひきかえしてきたのか。」
髭面《ひげづら》の男が、ぎゅっと顔をしかめた。
「ああ。なんか、いやな感じがしたんでな。おれがみた死体《したい》はみな商人姿《しょうにんすがた》だったが、ありゃ、商人じゃない。手にもっていた剣《けん》は、つかいこんだ業物《わざもの》だった。剣《けん》ダコもあったし、顎《あご》の下に、兜《かぶと》との緒《お》ですれたあとがあったしな。 − ありゃ、兵士《へいし》だよ。」
男たちは、だまりこんだ。
バルサは、男たちの輪《わ》のなかにはいり、髭面《ひげづら》の男にたずねた。
「……死体《したい》は、何人だった?」
髭面の男は、バルサに顔をむけた。
「小道にたおれていたのは、四人だったな。だが、血《ち》の流れ方が、はんばじゃなかった。森のなかには、もっと死体があるかもしれん。」
腹《はら》のあたりから、冷《つめ》たいいものがはいあがってきた。
ジタンへの近道の、森の小道。商人《しょうにん》にはけた兵士《へいし》の死体《したい》。夜明《よあ》けの襲撃《しゅうげき》……。
バルサは、髭面《ひげづら》の男にいった。
「その死体《したい》があった場所を、もうちょっとくわしくおしえておくれ。」
髭面の男は眉《まゆ》をひそめた。
「あんた、あそこへいってみる気か? やめとけ。いまごろは、血《ち》のにおいにひかれて、狼《おおかみ》があつまっているだろうぜ。」
バルサは肩《かた》をすくめた。
「……とにかく、おしえておくれ。」
天空《てんくう》は、銀色《ぎんいろ》の光をはらんだような雲におおわれ、風は氷のように冷《つめ》たかった。
バルサはシュマ(風《かぜ》よけ布《ぬの》)で顔をおおい、アファンの森へいそいだ。森はうすぐらく、黒い鳥たちが、さかんに鳴《な》きさわいでいる。
小道を馬でかけていくと、やがて、髭面《ひげづら》の男がいったとおり、道につっぷしてたおれている死体《したい》が、四体、あらわれた。そばにいた鳥たちが馬の足音でいっせいにまいあがったが、さいわい、まだ狼《おおかみ》はあらわれていなかった。
バルサはシュマの上から鼻《はな》をおさえ、死体がたおれているあたりの地面《じめん》のありさまをじっくりとしらべた。ここで乱闘《らんとう》があったのは、まちがいない。おおぜいの足跡《あしあと》がみだれており血《ち》も地面《じめん》にしみこんでいる。木に、矢《や》が刺《さ》さっているのをバルサはみつけた。 − 見おぼえのある矢羽根《やばね》がついた、みじかい矢だった。
なにかをひきずったようなあとが、下生《したば》えについているのに気づいて、バルサは、小道をそれて、森の奥《おく》へと、そのあとをたどっていった。
かなり奥まであとをたどり、大木のかげからでた瞬間《しゅんかん》、殺気《さっき》を感じて、バルサは、とっさに地にふせた。弓弦《ゆんづる》の音がひびいて、頭上《ずじょう》を矢《や》がうなりながら飛《と》んでいった。
「……トサハ筋《すじ》のカシャル(猟犬《りょうけん》)か? わたしは、バルサだ! 助《すけ》っ人《と》にきた!」
一瞬《いっしゅん》、あたりがしずまりかえり、それから、人が立ちあがった気配《けはい》がした。落《お》ち葉《ば》の上にふせたまま、バルサは、なりゆきをみまもった。
「……ほんとうに、バルサさんか。」
ためらいがちに、かけてきた声をきいて、バルサは膝《ひざ》をついて身体《からだ》をおこした。
木のかげに、アハルの家まで案内《あんない》してくれた若者《わかもの》が立っていた。頭に血《ち》でよごれた布《ぬの》をまいている。こわばった顔で弓《ゆみ》をかまえていたが、バルサの姿《すがた》をみると、ほっと肩《かた》の力をぬいた。
「 − びっくりした。やつらが、もどってきたのかと思った。」
そばにいくと、木のむこう側《がわ》の茂《しげ》みのなかに、ひとりの男がよこたわっていた。足にけがをして、ぐったりとしている。バルサは顔をくもらせて、若者をみた。
「南部の追手《おって》におそわれたのかい。」
若者はうなずいた。
「夜明《よあ》けに。 − ほとんど、全員《せぜんいん》やっつけたんだけど、こっちにもケガ人がでた。仲間《なかま》が、ほかの仲間をつれてくるまで、おれは、ここでまってることになったんだ。」
バルサは、かすれた声でたずねた。
「チャグム皇太子《こうたいし》は……どうなった。」
若者《わかもの》は、にやっと笑《わら》った。
「だいじょうぶ。心配《しんばい》ないよ。−−−ベつの道をとおって、もうそろそろジタンについたころだ。」
バルサは眉《まゆ》をひそめた。
「ふた手にわかれたのかい? あんたたちが、ここをとおることを察知《さっち》されたんなら、チャグムをまもっていったほうも、襲撃《しゅうげき》されているかもしれないじゃないか。」
若者の笑《え》みがふかくなった。
「おれたちがおそわれたのは、べつにドジだったからじゃない。わざと、こっちにさそったんだ。」 若者《わかもの》の言葉《ことば》の意味をさとって、バルサは、身体《からだ》の力をぬいた。
追手《おって》からのがれるために、彼《かれ》らはふた手にわかれ、この若者たちがおとりになって追手を誘導《ゆうどう》したのだろう。
「そういうことか。アハルは、頭がいいな。」
バルサがつぶやくと、若者がこまったような顔をした。
「いや……ま、頭領《とうりょう》もね、頭はいいけど、この策をいいだしたのは、頭領じゃないんだな。」
いってはいけないことなのに、いいたくてしかたがないという顔をしている。
バルサが、無言《むごん》でまっていると、若者は、ついにがまんできなくなって、うちあけた。
「五日《いつか》まえの晩《ばん》にさ、おれたちが泊まっていた岩屋《いわや》に、シハナさんがきたんだよ。」
いやなにおいをかいだように、バルサが顔をしかめたのをみて、若者《わかもの》はあわてていった。
「いや、あんたにとっては、シハナさんは、ゆるせない相手《あいて》だろうけどさ……。」
バルサは、思わず、その言葉《ことば》をさえぎった。
「あんたたちにとっても、シハナは罪人《ざいにん》じゃなかったのかい? ……いつから、あんたたちは、なれあってたんだい。」
若者は、むっとした顔になった。
「そんなことを、よそ者《もの》のあんたにいわれる筋《すじ》あいはないね。シバナさんは、たしかに、大きな罪《つみ》をおかした。 − だけど、あの人は、だれよりも真剣《しんけん》に、ロタのことを考えてる。
いま、南部の大領主《だいりょうしゅ》どもは手をむすんで、国を二分する戦《いくさ》をおこそうとしてやがる。こういうとき、シハナさんみたいな人を、いつまでものけ者《もの》にしていたら、ロタにとっても、おれたちカシャル(猟犬《りょうけん》)にとっても、よくないんだ。」
いっきにそういった若者《わかもの》の、紅潮《こうちょう》した顔をみながら、バルサは、ゆっくりといった。
「それは、アハルの受《う》け売《う》りかい?」
若者の顔が、もっとあかくなった。
「頭領《とうりょう》は頭のやわらかい人だぜ。おれは、頭領がシハナをうけいれたのをみて、頭領の度量《どりょう》の大きさを思いしったよ。」
冷《つめ》たい不安《ふあん》が胃《い》のあたりによどんでいたが、バルサは、しずかにたずねた。
「それで? ……シハナが、チャグム皇太子《こうたいし》をつれていったのかい。」
若者はうなずいた。
「シハナは、南部の追手《おって》がどの道をとおってきているか、おしえてくれた。それで、自分も力《ちから》になるから、ふた手《て》にわかれようと提案《ていあん》してくれたんだ。」
(……なるほど。)
シハナは、イーハン王子《おうじ》のもとへチャグムをつれていくことで、南部の大領主《だいりょうしゅ》とタルシュのつながりを明かし、王子の信頼《しんらい》を、ふたたび得《え》ようとしているのだろう。
アハルは、そういういい役目《やくめ》をシハナにゆずり、自分の部下《ぶか》たちを|おとり《ヽヽヽ》役《やく》にまわした。さっきこの若者《わかもの》がいったとおり、シハナという人材《じんざい》を、アハルは、もったいないと思っているのだ。ロタ王が病《やまい》にふせって、国を二分する戦《いくさ》がおきようとしているいま、おそろしく頭がきれ、イーハン王子に心からの忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》っているシハナは、カシャル(猟犬《りょうけん》)にとっても、いつまでも追放《ついほう》しておけない人間なのかもしれない。
シハナという女の冷酷《れいこく》さを、バルサは身《み》にしみて知っていたから、あの女がチャグムをつれて旅《たび》をしていると思うと、いい気分《きぶん》ではなかったが、不安《ふあん》は、すこしうすれていた。
すくなくとも、そういう目的《もくてき》なら、チャグムをしっかりまもって、イーハン王子《おうじ》のもとまでつれていくだろう。 − 武術《ぶじゅつ》の腕《うで》と、頭のきれは、すさまじい女だから、この若者《わかもの》たちにまもられているよりは、よほど安全《あんぜん》かもしれない。
(……アハルは、それも考えたのだろうな。)
ため息《いき》をついて、バルサはいった。
「それで、あんたらは、みごとにおとりの役目《やくめ》をはたしたわけか。 − 何人ぐらいの追手《おって》がおそってきたんだい?」
若者の顔にとくいそうな笑《え》みがうかんだ。
「十人はいたな。でも、さほど、腕《うで》のたつやつらじゃなかったぜ。数が多かったから、ケガをしたけど、四人|殺《ころ》して、あとのやつらも大けがをさせた。いまごろは、狼《おおかみ》の餌《えさ》になっているかもしれないな。」
バルサは、顔をくもらせた。腕《うで》のたつやつらじゃなかった ー という若者《わかもの》の言葉《ことば》がひっかかったのだ。 ヒュウゴは、(南翼《なんよく》)のはなった刺客《しかく》はおそろしい手練《てだれ》だと書いていた。その言葉に、誇張《こちょう》があったとは思えない。
(……タルシュの刺客《しかく》は、べつの道をたどっている。)
背筋《せすじ》に、冷《つめ》たいものがはしった。
カシャルたちは、タルシュの刺客《しかく》がはなたれたことを知らない。
南部の大領主《だいりょうしゅ》の追手《おって》は、チャグムがイーハン王子《おうじ》の城《しろ》へはいってしまえば追う意味がなくなるから、チャグムが城《しろ》へはいった時点《どてん》で、カシャルたちは、もうだいじょうぶだと、警戒《けいかい》をといてしまうだろう。
けれど、タルシュの刺客《しかく》は、カンバル人の内通者《なすつうしゃ》をチャグムにみられたから殺《ころ》そうとしているのだ。 − たとえ、チャグムが無事《ぶじ》にイーハン王子の城《しろ》へたどりついていたとしても、殺すことをあきらめるはずがない。どこかで、殺す機会《きかい》をねらっているはずだ。
バルサはあおざめ、無言《むごん》で踵《きびす》をかえすと、馬をつないだところへかけもどっていった。
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3  イーハンの居城《きょじょう》で
にぶい銀色《ぎんいろ》の光をはらんだ雪雲《ゆきぐも》が、天《てん》をおおっている。
その空のもと、イーハンの居城《きょじょう》からは、煮炊《にた》きをする煙《けむり》がさかんにたちのぼっていた。城《しろ》の外の野にも、城門《じょうもん》の内側《うちがわ》にも、多くの天幕《てんまく》がはられ、ものものしく武装《ぶそう》した騎馬《きば》たちが、ひづめの音をひびかせて行《ゆ》き来《き》している。
その昼《ひる》さがり、イーハンは広間《ひろま》にいた。
広間《ひろま》の壁《かべ》にすえつけられている巨大《きょだい》な暖炉《だんろ》では、盛大《せいだい》に薪《たきぎ》が燃《も》え、はりつめた表情《ひょうじょう》で、大きな机《つくえ》をかこんでいる男たちの背《せ》や顔に、火影《ほかげ》をおどらせている。
机の上には、羊皮紙《ようひし》にえがかれた地図《ちず》がひろげられ、男たちは、それをゆびさしながら、さかんに数をかぞえていた。
「……そうです。ラダム領《りょう》は南部に近いが、領主《りょうしゅ》は忠義者《ちゅうぎもの》だ。ヨーサム王側《おうがわ》につくでしょう。あそこの兵力《へいりょく》は、三百といったところか?」
「いや、四百ちかいだろう。」
イーハンは、味方《みかた》の数を試算《しさん》している北部の領主《りょうしゅ》たちをみつめながら、心のなかで、兄のことを考えていた。
(なんとか、もちなおしてほしい……。)
兄がもちなおしさえすれば、こちら側《がわ》にもどってくる領主たちも、いるはずなのだ。
(だが、いまは、そういうあまい期待《きたい》をいだいていてはならぬ。−−最少《さいしょう》の兵力《へいりょく》で、勝《か》つ方法《ほうほう》をみいださねば……。)
イーハンは、眉間《みけん》にしわをきざんで、じっと地図《ちず》をみつめた。
そのとき、扉《とびら》の外から鈴《すず》の音がひびき、侍従《じじゅう》の声がきこえてきた。
「イーハン王子殿下《おうじでんか》に、来客《らいきゃく》であります。」
イーハンは顔をあげて、大きな声でいった。
「はいってこい。ここへきてつたえよ!」
扉をあけてはいってきた侍従は、男たちの背後《はいご》をまわってイーハンのもとへやってきた。
「(短槍使《たんそうつかい》いのバルサ)が、殿下に、お目どおりしたいともうしでております。」
「なんだと……。」
イーハンは、おどろいたように眉《まゆ》をあげたが、やがて、なにかを考えているような顔つきになった。
「いかがいたしましょうか。会議《かいぎ》の最中《さいちゅう》であるともうしたのですが、火急《かきゅう》の用なので、ふしておねがいするともうすものですから……。」
侍従《じしゅう》の声でわれにかえったように、イーハンはまばたきすると、いった。
「書斎《しょさい》にとおせ。」
侍従が去《さ》ると、イーハンは、興味《きょうみ》ぶかげな顔をしている北部の領主《りょうしゅ》たちに、みじかくいった。
「すこし、席《せき》をはずす。そなたらは軍議《ぐんぎ》をつづけてくれ。」
廊下《ろうか》にでると、すっと冷気《れいき》につつまれた。イーハンは足ばやに、自分の書斎《しょさい》にむかった。
イーハンが書斎の椅子《いす》にすわるのと、扉《とびら》の外の鈴《すず》が鳴《な》るのとが、ほぼ同時《どうじ》だった。
イーハンが応じると、扉があき、侍従《じじゅう》がささえる扉の外から、バルサがはいってきた。
ほこりにまみれた旅装《りょそう》をまとい、きびしい顔をしている。侍従が扉をしめて去ると、バルサは片膝《かたひざ》をついて、深《ふか》く頭をさげるカンバル式《しき》の礼《れい》をした。
「おいそがしいところ、お目どおりの幾会《きかい》をいただき、感謝《かんしゃ》しております。」
イーハンは、ほほえんだ。
「顔をあげて、くつろいでください。あなたなら、わたしは、いつでもあう。」
立ちあがったバルサに、イーハンはいった。
「アスラとチキサは、元気ですか。」
バルサは、すこしためらいながらこたえた。
「わたしが最後《さいご》にあったときは、元気でした。お便《たよ》りしましたように、いまは、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の四路街《しろがい》の商家《しょうか》ではたらいています。……しかし、今後《こんご》はどうなるか、不安《ふあん》に思っています。」
イーハンも顔をくもらせた。
「タルシュの侵攻《しんこう》は、そろそろ、はじまるころだろう。あの子たちを、ここへつれてきてやりたいが……。」
いいさして、イーハンの顔ににがい笑《え》みがうかんだ。
「ここにいても、安全《あんぜん》とはいえないかもしれぬ。」
バルサは、イーハンの、つかれがにじんでいる顔をみつめた。
「……殿下《でんか》、わたしがお目どおりをねがったのがなぜか、おさっしでしょうか。」
イーハンはうなずいた。
「アハルから、あなたにあったことはきいた。だが、アハルは、あなたは新《しん》ヨゴヘかえったといっていたが。」
バルサは低い声でこたえた。
「考えなおしたのです。チャグム皇太子《こうたいし》が心配《しんぱい》でならなかったもので。 − 殿下《でんか》は、ここへたどりついたのですか。」
身《み》をかたくして、答《こた》えをまっているバルサに、イーハンは、うなずいてみせた。
「チャグム皇太子殿下《こうたいしでんか》は、たしかに、ここにおいでになった。わたしと会見《かいけん》され、貴重《きちょう》な知らせを多くもたらしてくださった。」
そうかたる声に、なにかをかなしむようなひびきを感じて、バルサは息《いき》をつめて、つぎの言葉《ことば》をまった。
「……英明《えいめい》な方《かた》だ、チャグム皇太子殿下は。十六とはとても思えぬ、英明で剛毅《ごうき》な方だ。
わが兄上から、チャグム皇太子はいずれ名君《めいくん》になられる器《うつわ》だときいたことがあったが、お目にかかって、わたしもそう感じた。」
イーハンの目のなかにある、かなしみの色がふかくなった。
「できることなら、わたしはあの方の願《ねが》いを − 命《いのち》がけで自国《じこく》の民《たみ》をすくおうとされている、あの真摯《しんし》な願《ねが》いを、かなえたかった。
ロタと新《しん》ヨゴとの同盟《どうめい》。 − チャグム皇太子がおっしゃったように、本来《ねんらい》なら、それこそが、タルシュ帝国《ていこく》の脅威《きょうい》から北の大陸《たいりく》の諸国《しょこく》をまもる、最高《さいこう》の道であっただろうに。」
ぎゅっとこぶしをにぎりしめて、イーハンは、いった。
「だが、できぬ。できぬ理由《りゆう》があることを、わたしはチャグム殿下《でんか》にもうしあげた。
ひとつは、わが国の事情《じじょう》だ。わが国はいま、内戦《ないせん》の危機《きき》にある。タルシュの連中《れんちゅう》にふとらされた南部の大領主《だいりょうしゅ》たちは、王に反旗《はんき》をひるがえす機会《きかい》をねらっている。
いまのわれらにとっては、一兵《いっぺい》たりとも、ほかにまわす余裕《よゆう》はないのだ。」
バルサは、息《いき》ができないような痛《いた》みを感じながら、イーハンの話をきいていた。
命《いのち》がけで旅《たび》をして、ようやくたどりついたというのに。−−チャグムは、ここで、夢《ゆめ》みてきたことは、かなわぬと、告《つ》げられたのだ。
歯をくいしばっているバルサをみながら、イーハンは、つぶやいた。
「……もうひとつ、大きな問題《もんだい》があった。それは、チャグム皇太子《こうたいし》ご自身《じしん》の問題だ。」
バルサは、眉《まゆ》をひそめた。
イーハンは、しずかにいった。
「われらも、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》の事情《じじょう》にうといわけではない。わたし自身《じしん》、何人《なんにん》かのカシャル(猟犬《りょうけん》)を新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》にひそませている。彼《かれ》らがつたえてきた話と、チャグム皇太子をつれてきたカシャル(猟犬)がつたえてきた話は、ほぼ一致《いっち》していた。」
[#(img/01_313.png)]
バルサは、つぶやいた。
「……シハナは、新《しん》ヨゴにひそんでいたのですか。」
イーハンは、眉《まゆ》をはねあげた。
「知っていたのか。 − ならば話ははやい。シハナがやったことをゆるしたわけではないが、いまは、その罪《つみ》を問《と》うより、彼女《かのじょ》の力がほしい。シハナは、死《し》ぬより、生きていたほうが、われらのためになるはずだ。王《おう》と民《たみ》をすくうことで、罪をつぐなわせようと思う。」
いってから、イーハソはにがい笑《え》みをうかべた。
「……あまいと思うか? だが、わたしの心の奥《おく》には、ずっと、シハナをせめられぬ気《き》もちがあったのだ。 − わたし自身《じしん》、あれからなんども、タルハマヤの力をほうむりさったことがただしいことだったのかと、思いなやんできた。いま、あの力が、わが手にあったなら、南部の大領主《だいりょうしゅ》もタルシェも、この国から一掃できただろうにと……。」
バルサは、だまってイーハンの顔をみつめていた。
他者を思うままにできる力の魅力《みりょく》は、心ただしい者《もの》さえも、ゆきぶりつづける。血《ち》に飢《う》えた神《かみ》の顔を間近《まぢか》でみたあとでさえも……。
イーハンは暗《くら》い顔で、言葉《ことば》をついだ。
「兄上のかわりに、この国をになって思いしらされた。国が敵《てき》の牙《きば》に食《く》いあらされようとしているとき、王は、だれよりも冷徹《れいてつ》でなければならぬ。翼《つばさ》の下にある者《もの》をまもる鷹《たか》のように、ためらわずに、敵《てき》をたおし、必要《ひつよう》とあらば、味方《みかた》の命《いのち》を犠牲《ぎせい》にする決断《けつだん》もせねばならぬ。」
ひかる目でバルサをみつめ、イーハンは、いった。
「チャグム皇太子《こうたいし》には、その冷徹《れいてつ》さがない。彼《かれ》は……清廉《せいれん》すぎる。
お若《わか》いからではなく、心根《こころね》が、やさしすぎるのだ。あの方《かた》の目をみていて、つくづく、そう思った。あの方は、けっして、冷徹にはなれぬ方だ。」
バルサは言葉《ことば》もなく、イーハンをみつめていた。
「さきほどいった、チャグム皇太子《こうたいし》ご自身《じしん》の問題《もんだい》というのは、それだ。
新《しん》ヨゴという国は帝《みかど》を神《かみ》とまつる国。帝は絶対《ぜったい》の権力者《けんりょくしゃ》だ。チャグム皇太子が同盟《どうめい》を約束《やくそく》し、それを実行《じっこう》するためには、チャグム皇太子自身が帝にならねばならない。だが、チャグム皇太子は、あの国ではすでに、死者《ししゃ》としてとむらわれてしまっている。」
きびしい光をやどした目でバルサをみながら、イーハンは言葉《ことば》をついだ。
「新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》という国は、きみょうな国だ。われらの感覚《かんかく》では、はかれぬところがある。わが国であれば、たとえば、死《し》んだと思った息子《むすこ》が援軍《えんぐん》をつれて帰還《きかん》すれば、わたしは歓喜《かんき》の涙《なみだ》をながしてむかえいれるだろう。……だが、あの国の帝《みかど》は、チャグム皇太子《こうたいし》をそういうふうにむかえいれはすまい。」
暗《くら》い光をうかべた目で、イーハンはいった。
「帝《みかど》は、いまにいたっても同盟《どうめい》をもとめる使者《ししゃ》をおくってこない。帝はすでに決断《けつだん》をくだし、隣国《りんごく》に同盟をもとめず、鎖国《さこく》をして国をとじたのだ。たとえ自国《じこく》がほろびても、他国《たこく》の手ですくわれることをのぞまぬ − そういう帝の意をチャグム皇太子《こうたいし》がくつがえし、あの国をタルシュの手からすくう道は、ただひとつ。」
イーハンは言葉《ことば》を切ったが、バルサには、彼《かれ》のいいたいことがわかった。
チャグムが、父の意《い》に反《はん》して、新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》をすくう道は、ひとつしかない。 − 帝《みかど》を、ひそかに弑《しい》し、おのれが帝になることだ。
バルサがわかっているのを感じとって、イーハンは、言葉をついだ。
「だが、チャグム皇太子《こうたいし》は、その道をえらぶことが、できないだろう。……それゆえ、わたしは、彼《かれ》の約束《やくそく》を信《しん》じてうごくことができないのだ。」
バルサは、しずかに息《いき》をすった。
胸《むね》に満《み》ちている思いはあまりにも重く、声をだすことすらできなかった。
イーハンは、ゆっくりと右手で顔をなでた。
「むごすぎるな、人の世《よ》というものは。……心清《こころきよ》く、心から民《たみ》を思っているあの若者《わかもの》が、こんな道を歩《あゆ》まねばならぬ。」
バルサは、低い声で問うた。
「チャグム皇太子《こうたいし》は、いま、どちらに。」
そっと右手を膝《ひざ》におろし、イーハンはこたえた。
「わたしは、この城にとどまるようにといった。賓客《ひんきゃく》として、一生《いっしょう》、この地におられてもかまわぬと。 − しかし、あの方はひと晩《ばん》しか泊《と》まらず、ほんのすこしまえに、旅《たび》だっていかれた。」
胸《むね》に、刺《さ》されたような痛《いた》みがはしった。
「どこへ……?」
「カンバルへ。 − ロタとの同盟《どうめい》がかなわぬなら、カンバル王《おう》に新《しん》ヨゴ皇国《おうこく》との同盟をもうしいれるとおっしゃった。」
かなしみの色が、イーハンの目の底をひからせていた。
「もし、カンバル王が新ヨゴと同盟をむすんでくれたら、わたしも同盟を考えてくれるか、と、おっしゃった。………だが、わたしは、うなずくことはできなかった。
カンバル王とて、おろかではない。殿下《でんか》の状況《じょうきょう》のあやうさは、みぬかれるだろう。それに、あの国の民《たみ》は、よそ者《もの》には自分たちのことはわからぬときめつけるような、偏屈《へんくつ》なところがある。新《しん》ヨゴのために兵《へい》をだすくらいなら、自国《じこく》の守《まも》りをかためて、抵抗《ていこう》することを考えるだろう。 − 同盟《どうめい》はむすぶまい。」
バルサは、みじかく問うた。
「チャグム殿下《でんか》は、おひとりで旅《たび》だったのですか。」
イーハンは、首をふった。
「カンバルへの道をよく知っている兵《へい》をふたりおつけし、カンバルへ旅《たび》するのにじゅうぶんな旅装《りょそう》と旅費《りょひ》をさしあげた。いまの状況《じょうきょう》では、それがせいいっぱいだった。」
もうすぐ、雪が降《ふ》りはじある。わずかふたりの兵とともに、狼《おおかみ》がうろつく森をこえ、けわしいユサの山並《やまな》みをこえていく旅に、チャグムは足をふみだしてしまったのか。
タルシュの刺客《しかく》は、この城《しろ》をみはっていたにちがいない。城のなかでおそうのはむずかしいだろうが、城の外へでてしまえば……思うがままだ。
やけつくような不安《ふあん》に胸《むね》をあぶられて、バルサは、いった。
「お話しいただき、ありがとうございました。これにて、失礼《しつれい》いたします。」
イーハンは立ちあがった。
「チャグム皇太子《こうたいし》を追《お》っていかれるつもりか。」
「はい。」
バルサの顔にあらわれている、つよい不安《ふあん》の色をみて、イーハンは、気がかりをおぼえたようだったが、問いかける言葉《ことば》は口にしなかった。
バルサは深《ふか》く一礼《いちれい》すると、さっと踵《きびす》をかえした。
扉《とびら》のところまでいって、とってをにぎろうとしたとき、ふと、右手首にまいている革《きわ》ひもが目にはいった。 − その瞬間《しゅんかん》、ヒュウゴの言葉《ことば》が頭によみがえってきた。
バルサは、ふりかえって、イーハンをみあげた。
「イーハン殿下《でんか》。もし、カンバル王《おう》が、|新ヨゴとではなくロタとなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》同盟《どうめい》をむすぶといったら、いかがなされますか。」
イーバンは、はっと目をみひらいた。つかのま、その目に思案の色がうごいたが、すぐに、きっぱりとこたえた。
「カンバル王がわれらと同盟をとねがうなら、わたしは、うける。」
バルサはうなずくと、一礼《いちれい》してから、扉《とびら》をひきあけ、廊下《ろうか》へとびだしていった。
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4  刺客《しかく》
雪《ゆき》がまいはじめていた。
はじめ、綿毛《わたげ》がおどるように宙《ちゅう》をまっていた雪は、やがて、しんしんと音もなく天《てん》と地《ち》をおおいはじめた。
隊商《たいしょう》の護衛《ごえい》としてなんども行《い》き来《き》した道を、バルサは馬を駆《か》り、ひたはしっていた。
チャグムは、ついさっき城《しろ》をでたと、イーハン王子《おうじ》はいっていた。今夜《こんや》はトルアンに宿《やど》をとるつもりで旅《たび》をしているだろうが、この雪だ。むりをせず、とちゅうのタァン(吹雪《ふぶき》よけの小屋《こや》)で夜をすごすことを考えるのではなかろうか。
ロタの北部では、ふいに吹雪《ふぶき》におそわれることがある。そういうとき、旅人《たびびと》が逃《に》げこめる小さな小屋《こや》が、街道《かいどう》ぞいには、ぽっ、ぽっと点在《てんざい》している。
トルアンへむかうこの街道は、ふだんなら、多くの隊商《たいしょう》が行き来している道だったが、この天候《てんこう》のせいで、いまは、ほとんど、旅人とすれちがうこともなかった。
日が暮れはじめ、街道《かいどう》の両《りょう》わきが深《ふか》い森にかわると、あたりは青い闇《やみ》につつまれた。その青く冷《つめ》たい風景《ふうけい》のなかを、バルサはひとり、ひたすらに馬を走らせた。馬の白い息《いき》と、彼《かれ》が首をふる音だけが、こおりついた風景《ふうけい》のなかで、命《いのち》の響《ひび》きをきざんでいた。
青い闇ににじんでいる道のさきに、なにか黒いものがうごめくのを、バルサはみた。
(狼《おおかみ》……。)
手綱《たづな》から手をはなし、手袋《てぶくろ》の先をかんではずして、懐《ふところ》に入れると、バルサは、鞍から短槍《たんそう》をぬいた。それから鞘《さや》をはずして、これも懐にしまうと、ぎゅっと短槍をにぎりしめた。
道の上にある黒いものにむらがっていた狼が、顔をあげてこちらをみ、牙《きば》をむきだした。黒いものが、人の身体《からだ》であることに気づいて、バルサはぎゅっと歯をくいしばった。
いっきに狼《おおかみ》の群《むれ》れにとびこむと、狼は、いきりたっておそいかかってきた。
馬がくるったように白目をむいてはねあがるのを膝《ひざ》でおさえながら、バルサは短槍《たんそう》を右へ左へとめまぐるしくふるった。狼がぶつかるたびに、短槍に重《おも》みがかかる。三|頭《とう》、四頭、たおしただろうか。気がつくと、残《のこ》りの狼たちは森へと逃《に》げさっていた。
あらく息《いき》をつきながら、バルサは馬からおり、ふるえている馬をなだめながら、死体《したい》のほうへちかづいていった。
顔はよくみえなかったが、ロタ兵《へい》であることは、わかった。うつぶせになっている身体《からだ》を、そっとひっくりかえすと、右の肩《かた》から胸《むね》のなかばまで、一撃《いちげき》で斬《き》りおろされた傷《きず》があった。鎖骨《さこつ》も肋骨《ろっこつ》も、すっぱり斬っている。
バルサは、彼《かれ》のまぶたをとじてやった。このまま埋葬《まいそう》もせずに、ここへ寝《ね》かせておけば、また狼《おおかみ》がくるだろう。 − けれど、いまは、ゆるしてもらうしかなかった。
バルサは立ちあがり、遺体《いたい》に頭をさげると、馬にとびのった。
この兵士《へいし》が、チャグムのお供《とも》をしていた兵士だとすれば、刺客《しかく》はここで、チャグムをおそったのだ。
首から顎《あご》にかけて、こわばりがひろがっていた。胸《むね》には板《いた》がはいっているようだった。不安《ふあん》をひっしにこらえて、バルサは道に目をこらした。雪《ゆき》の上に、たくさんのひづめのあとがみだれている。そのあとをおって、バルサは馬を走らせはじめた。
すこしいったところで、もうひとり、兵士がたおれていた。
もはや、バルサは馬からおりることもなく、その遺体《いたい》のわきをかけぬけた。この兵士は、チャグムを逃《に》がすために、ここで刺客にたちふさがったのだろう。そして、斬《き》られた……。
風にのって、前方《ぜんぽう》からひづめの音がきこえてきた。
降《ふ》りしきる雪《ゆき》の彼方《かなた》に二|騎《き》の影《かげ》がみえる。追《お》いすがっていく馬上《ばじょう》の男の手に、刀《かたな》がひかっていた。
「チャグムー!」
ほえるように、バルサはさけんだ。そして、腕《うで》をふりあげるや、鞍《くら》の上で背《せ》をしならせて、矢《や》をはなつように短槍《たんそう》をなげた。短槍はうなりをあげて飛《と》び、追手《おって》の背《せ》にせまった。さっと、追手は身体《からだ》をねじって短槍をよけ、短槍は馬の首をかすっていった。
馬は悲鳴《ひめい》をあげてたおれたが、馬上《ばじょう》の人影《ひとかげ》は鞍《くら》の上からしなやかにとびあがり、宙《ちゅう》で一回転《いっかいてん》して地にとびおりた。そして、背後《はいご》のバルサには目もくれず、なにかをチャグムの馬めがけてなげた。
チャグムが、地面《じめん》になげだされるのがみえた。もがくようにして立ちあがったチャグムのもとへ、男がかけよっていく。
チャグムは腰《こし》の剣《けん》をぬきはなち、身体《からだ》の前でかまえた。そのせつな、男の刀がふりおろされた。
耳ざわりな音がして、チャグムの剣《けん》がまっぷたつに折《お》れ、血《ち》しぶきがとんだ。
バルサは馬上に立ちあがり、鞍《くら》をけってはねあがると、肘《ひじ》をふりあげて、刺客《しかく》の上にとびおりた。刺客は身体をねじり、とっさにバルサの肘が脳天《のうてん》を直撃《ちょくげき》するのをさけた。ふたりはもつれあって地面《じめん》にころがった。
バルサは男のわき腹《ばら》に膝《ひざ》をたたきこみ、刀《かたな》をもっている右手をおさえようと手をのばした。
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しかし、男はその手を左手でつかむや、左肘《ひだりひじ》を、ハルサののどにつきこんだ。
バルサはとっさに身体《からだ》を男の上にふせるようにして、肘の直撃《ちょくげき》をさけたが、男は肘をつきだした反動《はんどう》を利用《りよう》して身《み》をねじり、バルサを身体の下にしいた。
男の腕《うで》が首を圧迫《あっぱく》するまえに、バルサは顎《あご》をひいて首をまもった。そして、男の腕を思いっきりかんだ。一瞬《いっしゅん》、男がたじろいだのをのがさず、全身《ぜんしん》の力をこめて男をつきはなすと、バルサは地をころがって、はねおきた。
男もみごとな動きではねおき、ふたりは、むかいあって、動きをとめた。
バルサにかまれた男の左腕《ひたせりうで》の手首から、雪《ゆき》の上に黒く血《ち》がしたたっていた。男は無言《むごん》で、ずんぐりとした鉈《なた》のような形の刀《かたな》をかまえた。
しびれるような痛《いた》みが、バルサの胸《むね》にはしった。 − 素手《すで》では、あの刀はふせげない。
バルサはすっと、左腕を顔の前にかまえた。左腕一本|犠牲《ぎせい》にして、懐《ふところ》にとびこみ、喉仏《のどぼとけ》をこぶしでたたき折《お》る。そう心にきめた瞬間《しゅんかん》、男にむかって、ひかるものが飛んだ。折れた剣《けん》だった。
はっと、男がそれを刀《かたな》ではじきあげたとき、声がひびいた。
「バルサ……!」
短槍《たんそう》が宙《ちゅう》を飛《と》んできた。身《み》をねじって、それをうけとるや、バルサは、そのいきおいのまま、男にむかって、ビュンッと、短槍をふりおろした。
わずかな動きで、男は短槍をはじき、軌道《きどう》をずらすと、バルサの手もとにすべりこんできた。その動きに応《おう》じるように、バルサは身体《からだ》をねじりながらしずみこみ、短槍の石突《いしづき》きを下から男のわき腹《ばら》にあて、そのまま男の身体にそっていきおいよく短槍をすべらせると、男の顎《あご》をたたきわった。
血《ち》をはきながら、男は、のけぞって、とびのいた。
ロから、だらだらと血をたらしながら、男は悪鬼《あっき》のような形相《ぎょうそう》になって、刀《かたな》をふりあげ、いっきに間合《まあい》をつめてきた。
男とバルサの身体が交差《こうさ》したせつな、バルサのわき腹と男の首から血《ち》しぶきがとんだ。ひと呼吸《こきゅう》のあいだ、バルサも男も、うごかずにいたが、やがて、男が首をおさえて雪《ゆき》の上にどさっとたおれた。
男が身動《みうご》きしなくなったのをみとどけて、バルサはわき腹《ばら》を手でおさえ、青い闇《やみ》のなかにたたずんでいる人影《ひとかげ》にむきなおった。
背《せ》の高い若者《わかもの》が、顔半分を血《ち》にそめて立っていた。
「チャグム……?」
バルサがつぶやくと、笛《ふえ》のようにほそく音をたてて息《いき》をすい、若者がちかづいてきた。
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「バルサ………。」
気がついたときには、バルサは、自分より背《せ》の高い若者《わかもの》に抱《だ》きしめられていた。
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恐怖《きょうふ》と痛《いた》みと寒《さむ》さとで、チャグムは、はげしくふるえていた。
その身体《からだ》を、バルサは思いっきり抱《だ》きしめた。歯《は》をカチカチ鳴《な》らしながら、チャグムがつぶやいた。
「……ほんとうに、バルサ、だ。それとも、夢《ゆめ》をみているの、かな。」
バルサは笑《わら》いながら、チャグムをゆすった。
「……きっと、夢だ。……こんなに、大きくなっちまって……。」
バルサはゆっくりと腕《うで》をほどくと、まじまじとチャグムをみた。青い闇《やみ》のなかで、顔はぼんやりとしかみえなかったけれど、左半分が血《ち》にそまっているのはわかった。
「かなり、ひどく斬《き》られたね。」
バルサは、そっとチャグムの傷《きず》にふれた。額《ひたい》から目尻《めじり》のあたりまでを斬られている。
この暗さでは、きちんと傷の手当《てあて》てをすることなどできなかったけれど、寒さのおかげで、もうあらたに血はでていないようだった。するどい刃《は》で、すぱっと斬られた傷だ。縫《ぬ》うよりも、むしろ傷口をぴっちりあわせておさえたほうがいいと、バルサは判断《はんだん》した。
「ちょっといたむかもしれないよ。」
そういって、バルサは、チャグムの傷口《きずぐち》を指《ゆび》でそっとつまむようにしてあわせた。それから、当《あ》て布《ぬの》をして、予備のシュマ(風よけ布《ぬの》)を折《お》りたたんでほそながくし、その当て布をうごかぬように、頭までひと巻《ま》きしてしぼった。その上から、チャグムがまいていた血《ち》でよごれたシュマを鼻の上までもちあげてやり、カッル(マント)の頭巾《ずきん》をふかくおろしてやった。
「……痛《いた》いかい?」
バルサがつぶやくと、チャグムは歯をならしながらいった。
「あんまり、痛くない。しびれて、こわばっているだけで。 − それより、ここにくるまでに、ロタの兵士をみかけなかった?」
バルサは、しずかに首をふった。
「ふたりとも、そいつにやられていたよ。」
チャグムは、身動《みうご》きをとめた。
「し……死《し》んでいた……?・」
つぶやくや、歯をくいしばって、チャグムは顎《あご》をひき、鳴咽《おえつ》をこらえようとした。
「わたしの、せいだ。わたしを、まもろうとして……。いい人たち、だったのに。子どもも、いるって……。」
足をひきずるようにして歩きはじめたチャグムの肩《かた》を、バルサはつかんだ。
「どこへいく気だい?」
「埋葬《まいそう》して、あげなければ……。」
バルサは手に力をこめて、チャグムをひきとめた。
「もう雪《ゆき》に埋《う》もれている。地面《じめん》もこおっている。 − 道具《どうぐ》がなければ、とても埋葬なんてできないよ。」
「だけど……。」
いいつのろうとしたチャグムに、バルサは、きびしい声でいった。
「ききなさい。 − ロタの冬を、あんたは知らない。この雪も、これからはげしくなるばかりだよ。この森には、狼《おおかみ》もいる。このままでは、馬もこごえる。
あの兵士《へいし》たちは、あんたをまもって死《し》んだのだろう? その死をむだにしないためにも、いまは、自分が生きることを考えな。」
ふるえながら、だまっているチャグムに、バルサはいった。
「雪《ゆき》が、彼《かれ》らを埋葬《まいそう》してくれている。 − ここから、頭をさげて、祈《いの》ろう。」
チャグムは、長くためらったのちに、うなずいた。
バルサとチャグムはならんで、遺体《いたい》がねむっているほうに、深《ふか》く頭をさげた。雪は音もなく降《ふ》りつもり、すでに、馬のひづめのあとさえも消《き》えさっていた。
幸《さいわ》いなことに、おびえて逃《に》げたチャグムの馬は、手綱《たずな》が茂《しげ》みにひっかかって、からんだせいで、すぐ近くにとどまっていた。
バルサは、まず、チャグムを馬にのせ、それから、チャグムの馬につんであった荷《に》のなかから松明《たいまつ》をみつけだすと、かじかんだ指《ゆび》をロに入れてあたためながら、なんとか火をつけた。
松明では、さほど遠くまではてらせない。バルサが、ようやく森かげにタァン(吹雪《ふぶき》よけの小屋《こや》)をみつけたのは、半《はん》ダン(約《やく》三十分)以上もたってからだった。
そのころには、ふたりは芯《しん》からこごえてしまっていた。
チャグムを馬からおろそうとして、バルサは、チャグムが気をうしなっていることを知った。馬が、バルサの馬にしたがってきてくれたおかげで、なんとか、ここまでこられたのだ。
チャグムの身体《からだ》は重かった。やっとのことで小屋にはこびこむと、床《ゆか》に寝《ね》かせてから、バルサは、松明《たいまつ》で炉《ろ》の粗朶《そだ》に火をつけた。
チャグムの足をもって長靴《ちょうか》をぬがせると、血《ち》の気《け》のないまっ白な足があらわれた。凍傷《とうしょう》になっていたら急《きゅう》にあたためると危険《きけん》だし、こすってもいけない。バルサはチャグムをゆすった。
「チャグム。……起《お》きておくれ、チャグム!」
傷《きず》がいたんだのだろう。うめきながら、チャグムがうすく目をあけた。
「ききなさい。 − わたしの声がきこえるかい?」
チャグムは、かすかに、うなずいた。
「いまから、足の指《ゆび》を一本ずつ、つねるから、感じたら、そういいなさい。」
チャグムがうなずいたのをみとどけて、バルサは、チャグムの指《ゆび》や皮膚《ひふ》をつねりはじめた。最初《さいしょ》は顔《かお》をしかめているだけだったが、やがて、小さな声で、チャグムはうめいた。
「感じるかい?」
チャグムはうなずいた。凍傷《とうしょう》にはかかっていないのだ。バルサはほっとして、チャグムの足を床《ゆか》におろした。
チャグムはまた目をとじていたが、バルサはチャグムの両足《りょうあし》をこすりはじめた。しばらくこすると、血《ち》の気《け》がもどりはじめたのだろう。チャグムが痛《いた》さにうめきはじめた。
「がまんしな。 − しっかり血《ち》をかよわせておかないと、歩けなくなるよ。」
チャグムの足や手をこすって、血をかよわせてやってから、バルサは自分のわき腹《ばら》の傷《きず》をしらべた。かすり傷で、さほど出血《しゅっけつ》もしていない。
バルサは手ぬぐいを一|枚《まい》たたんで傷にあて、上から帯《おび》でしばると、立ちあがった。やらねばならないことが山ほどある。バルサは、まず雪《ゆき》にまみれた、自分たちのカッル(マント)を外にもっていって、パン、パン、と雪をはらった。雪がついたままでは、小屋《こや》のなかで雪がとけて床《ゆか》がぬれてしまうからだ。
よく雪《ゆき》をはらったカッルで、チャグムをくるんでやってから、バルサは自分の手足をこすりはじめた。血《ち》がかよいはじめたときの痛《いた》みときたら、千の針《はり》でさされているような、胸《むね》のわるくなる痛みだった。
指《ゆび》がまともにうごくようになると、バルサはねむっているチャグムの顔からシュマをほどき、そっと当《あ》て布《ぬの》をはずした。こごえて感覚《かんかく》がないのか、チャグムは目をさまさなかった。
炉《ろ》のあかりでみると、チャグムの傷《きず》は、かなりひどいものだった。
額《ひたい》から左の目尻《めじり》をとおって、頬《ほお》まで切られている。それでも、さっきの判断《はんだん》はただしかったようだ。傷はぴったりとはりついて、出血《しゅっけつ》もしていない。
考えたすえ、バルサは雪をとかしたお湯《ゆ》で、そっと傷をあらってやった。チャグムはうめいて、顔をふろうとしたが、バルサは片手《かたて》でがっちりと頭をおさえて、傷をあらった。 それから、なるべく清潔《せいけつ》な布《ぬの》をさがして、たたんで傷にあて、べつな布で、ぐるぐると、うごかぬようにしばった。
「傷……?」
チャグムが、つぶやいた。もうろうとした声だった。
「だいじょうぶ。もうくっついているから。……タンダがいたら、もっとちゃんと、手当てしてくれただろうけど、しかたがないね。」
バルサがいうと、チャグムのロもとが、かすかに、ほころんだ。
「タンダは……元気?」
「あいかわらずさ。あのころと、まったくかわってないよ。多少《たしょう》、年《とし》をとったけどね。」
微笑《びしょう》をうかべたまま、チャグムは眠《ねむ》りにおちたようだった。
かすかに寝息《ねいき》をたてているチャグムの頭をだいて、バルサは、つぶやいた。
「あんたは、どえらくかわったね。 − もう、りっぱな若者《わかもの》だ。」
日にやけたその顔は、若者《わかもの》の骨格《こっかく》にかわっていたけれど、ロもとと、きりっとした眉《まゆ》のあたりに、むかしのおさない少年の面影《おもかげ》が残《のこ》っていた。
そのままねむりたかったけれど、バルサは自分の心にむちうって立ちあがった。
馬を馬小屋《うまごや》に入れて、世話をしてやらねばならない。ねむるのは、それからだった。
雪《ゆき》の夜は、しずかにすぎていった。
ときおり薪《たきぎ》をたして、火をたやさないようにしながら、バルサはチャグムをなかばかかえるようにして、うとうととねむった。
夜半《やはん》をすこしすぎたころ、チャグムがうなされはじめた。 − 熱《ねつ》がでてきたのだ。
バルサは、雪をつつんだ布《ぬの》をチャグムの額《ひたい》にあて、炉《ろ》に鍋《なべ》をかけて雪をとかしては、かわいたくちびるの間に、水をふくませてやった。
せきこみながら、ふいに、チャグムは顔をふってさけんだ。
「……逃《に》げろ! そこにいては、だめだ! ……逃げろ!」
バルサはチャグムを抱《だ》きしめた。
「チャグム……チャグム! だいじょうぶ、夢《ゆめ》だよ。わるい夢をみているだけだよ。」
チャグムは、ぼんやりとうるんだ目をバルサにむけた。
「民《たみ》が……都《みやこ》が……ほろびる。みなを、逃がさねば……。」
そうつぶやくと、チャグムは目をとじ、糸が切れたようにがっくりと身体《からだ》の力をぬいた。
夢のなかでまで、故国《ここく》のことを思いつづけているチャグムがあわれで、バルサは、汗《あせ》で額《ひたい》にはりついた髪《かみ》を、そっと、指《ゆび》ですいてやった。
夜明《よあ》けちかくにチャグムはふかい眠《ねむ》りにおち、バルサも、いつしか眠りについた。
雪は、つぎの日も降りつづき、夜があけても、うすぐらかった。
昼《ひる》まえに熱《ねつ》がすこしさがって、チャグムは目をさました。顔の傷《きず》がいたむらしく、つらそうだったけれど、自分の身体を抱くようにしてよこたわり、その痛みにだまってたえていた。
バルサはチャグムの荷《に》をほどいて食糧《しょくりょう》をとりだすと、肉《にく》と芋《いも》を煮《に》こんでから、ラガ(チーズ)をすこしそのなかに入れてとかし、あたたかいラルウ(シチュー)をつくると、チャグムに食べさせてやった。チャグムは椀《わん》に半分《はんぶん》だけ食べた。
やがて、夕方《ゆうがた》になると熱《ねつ》もさがって、自分で用足《ようた》しにいけるようになった。
夕食《ゆうしょく》は、バン(無醗酵《むはっこう》のパン)にラガをのせて焼いたものと、香料《こうりょう》入りの蜜《みつ》を湯《ゆ》でとかした飲み物だった。
チャグムは、なにか考えこみながら、傷《きず》にさわらないよう、すこしずつバンをちぎってロにはこんでいた。
自分の分を食べおえると、バルサは、食器《しょっき》をもって立ちあがった。
「ずいぶん顔色がよくなってきたね。あと一日ゆっくりやすめば、傷《きず》の痛《いた》みも消《き》えるよ。」
チャグムはこたえなかった。ただ、炉の火《ひ》を凝視《ぎょうし》している。
長いこと、そうしていたが、ふいに、こみあげてきた寒気《さむけ》をこらえるように自分の左腕《ひだりうで》を右手でつかんだ。
「……バルサ。」
「うん?」
[#(img/01_339.png)]
「わたしは、死者《ししゃ》なんだ。」
うつろな目をして、チャグムはいった。
「新《しん》ヨゴの皇太子《こうたいし》としてのわたしは、死者《ししゃ》だ。ロタがだめならカンバルへと……ほそい糸にしがみつくように、そう思って城《しろ》をでてきたけれど……死者が同盟《どうめい》などむすべるはずがない………」
炉《ろ》の火をみつめながら、チャグムは、顔をゆがめた。
「海にとびこんだときは、たとえ死《し》をよそおったとしても、ロタ王《おう》が英断《えいだん》をくだしてくだされば、よみがえることができると − 援軍《えんぐん》をつれてもどることで、故国《ここく》をすくえると思っていた。
たとえ、父上がわたしの行為《こうい》に激怒《げきど》するとしても、心のなかにあるまっすぐなものをいつわらずに、全身全霊《ぜんしんぜんれい》をかけてぶつかっていけば、道はひらけると思っていた……。」
チャグムはぎゅっとこぶしをにぎりしめた。
「だけど、それは……あまい、子どもの夢《ゆめ》だった。」
にぎりしめたこぶしで目をおおい、チャグムはうごかなくなった。
雪《ゆき》をとかしたぬるま湯《ゆ》がはいっている鍋《なべ》に皿《さら》をつけながら、バルサは、いった。
「……あんたは、それをかなしんでいるんだね。」
なにをいわれたのかわからず、チャグムは顔をあげて、いぶかしげにバルサをみた。
バルサは、ほほえんで、眉《まゆ》をあげた。
「あんたがみたのが、あまい夢《ゆめ》だったのかどうかは、わたしには、わからない。
だけど、あんたが、皇太子《こうたいし》でなくなったことをかなしんでいることはわかる。………むかしは、あれほど、いやがっていたのにね。」
かすかにロをあけて、チャグムは、なにもいえずに、バルサをみていた。
「むかしのあんただったら、皇太子の位《くらい》からときはなたれたら、おおよろこびしただろうに。」
「それは……。」
口ごもったチャグムに、バルサは、しずかにいった。
「あんたをさがしはじめたとき、あんたにあえたら、いってやろうと思っていた。 皇太子《こうたいし》として葬式《そうしき》あげられちまったなんて、天《てん》がくださった贈《おく》り物《もの》だ。ようやく、くだらない鎖《くさり》からときはなたれたね、おめでとうってさ。」
バルサは、言葉《ことば》をついだ。
「新《しん》ヨゴがほろびたって、それはあんたの責任《せきにん》じゃない。 − 国がほろびる崖《がけ》っぷちにいるのに、隣国《りんごく》にたすけをこおうとしない、かたくななあんたの父親の責任だし、帝《みかど》をいさめることもできないまわりの連中《れんちゅう》の責任《せきにん》だよ。そうじゃないかい?
大《だい》のおとなが雁首《がんくび》ならべて、うごかせないでいる運命《うんめい》を、わずか十六のあんたが、なんで、全部《ぜんぶ》せおいこまねばならない?
あの国《くに》があんたにしたしうちを、わたしはぜったいにゆるさない。戦《いくさ》はおきてほしくないけれど、(扇《おうぎ》ノ上《かみ》)(皇族《こうぞく》と貴族《きぞく》) の連中《れんちゅう》がほろびたって、そいつは、自業自得《じごうじとく》ってもんだろうよ。
ここまでがんばったんだ。八方《はっぽう》ふさがりだと思うなら、肩《かた》の荷《に》をおろすのはわるいことじゃない。だれひとり、あんたをせめられる者《もの》なんぞいない。 − らくになれる道は、あんたの目の前にあるんだよ。」
チャグムは、気おされたように、まばたきをした。
心をおおっていた暗《くら》い薮《やぶ》を、ばっさりと切りはらわれてしまったような気分だった。光がさしてきて、風がはいってきたような心地《ここち》だったけれど、すっ裸《ぱだか》にされてしまったような、うすら寒い、おちつかなさもあった。
自分がなににとらわれてきたのか − どうすればいいのか、ぼんやりと考えるうちに、いままでみえていなかったものが、ゆっくりと、うかびあがってきた。
チャグムは、バルサをみつめて、ぽつん、といった。
「……その道にいっても、らくにはなれない。」
バルサは、うながすように眉《まゆ》をあげた。
チャグムは、気はずかしそうに顔をしかめて、その言葉《ことば》をおしだした。
「わたしがせおっているのは、重荷《おもに》じゃなくて……夢《ゆめ》だから。」
チャグムの目に涙《なみだ》がういた。
「母や妹や、みんなをたすけたい。 − ひとりでも多く……。新《しん》ヨゴをタルシュ帝国《ていこく》の枝国《しこく》なんかにしたくない。ラウル王子《おうじ》になんぞ、負《ま》けたくない。 − 民《たみ》を、しあわせにしたい。」
バルサは、なにもいわずに、チャグムをみていた。
宮《みや》にかえるのがいやで泣《な》いていた、おさない子どもは、もういない。
民《たみ》が不幸《ふこう》になれば、チャグムもまた不幸になる。自分のように、国などどうでもいいとは、チャグムはけっして思えないだろう。
この道を − 峻烈《しゅんれつ》な雪《ゆき》の峰《みね》を歩むようなきびしい道を、チャグムはすすんでいくしかない。その道のむこうにしか、チャグムが心から笑顔《えがお》をうかべられる場所は、ないのだ。
「チャグム……。」
バルサは、いった。
「ヒュウゴって人から、伝言をあずかっている。きくかい?」
チャグムは、はっと目をみひらいた。
「ヒュウゴにあったの?」
そういってから、チャグムは顔をゆがめた。
「へんな人だよね。・‥…敵《てき》なのに、にくめない。」
バルサは、ふふっと笑《わら》った。
「そうだね。たしかに、へんな男だったよ。」
であったいきさつをかんたんに話してから、バルサはいった。
「あいつが、あんたにつたえてくれといったのは、こういうことだよ。 − ロタ王《おう》との同盟《どうめい》を考えるよりさきに、カンバルへいそげ。カンバル王にあって、新《しん》ヨゴとの同盟ではなく、ロタとカンバルとの同盟を考えさせろ。」
チャグムは、身動《みうご》きをとめた。閃光《せんこう》にうたれたようだった。
「ロタと、カンバルの同盟……?」
胸《むね》の鼓動《こどう》が、はやくなった。
チャグムの頬《ほお》に、ゆっくりと血《ち》がのぼっていくのを、バルサはみつめていた。
「そうか……そうだ……それなら、カンバル王《おう》も、ロタ王《おう》も、応じるだろう。
それに、ロタとカンバルが手をむすべは強固《きょうこ》な壁《かべ》ができる。ラウル王子も、うかうかと北の大陸《たいりく》を攻《せ》められまい……!」
目をかがやかせて、そういってから、ふっとチャグムは顔をくもらせた。
「だけど、なぜ、ヒュウゴが、そんなことを?」
「カンバルとロタをさきに兄貴《あにき》がおとしちまったら、あいつの主君《しゅくん》が皇帝になれないからだといっていたね。それから、枝国《しこく》がどうとかっていう話もしてたな……。」
あのときヒュウゴがいったことを、思いだせるかぎり話してやると、チャグムは話のうらをさぐるように、真剣《しなけん》な表情《ひょうじょう》できいていた。
チャグムは、しばらくうつむいて考えこんでいたが、やがて、顔をあげた。
「……なにかうらの事情《じじょう》があるとしても、カンバルとロタが同盟《どうめい》すれば、大きな利があることには、かわりはない。 − できるかどうか、やってみたい。」
バルサは、うなずいた。
「イーハン王子《おうじ》は、カンバル王が同盟《どうめい》をむすびたいといえば、うけるとおっしゃったよ。」
びっくりして、チャグムは、問いかえした。
「イーハン王子が、ほんとうに……?」
バルサは、ふっと笑《え》みをうかべた。
「彼《かれ》にとっても、わるい話じゃないんだろう。……それに、あんたの、そのまっとうな真剣《しんけん》さに心をうごかされたみたいだしね。帝《みかど》にうとまれている若者《わかもの》だとかいいながら、どうにかしてあんたの力になってやりたいという気もちが、すけてみえていたよ。」
チャグムの左目から涙《なみだ》がこぼれおちた。涙をむちゃくちゃにぬぐおうとして、チャグムは痛《いた》そうに顔をゆがめた。
「傷《きず》にさわるんじゃないよ。」
バルサがいうと、チャグムはふふっと笑《わら》った。バルサは粗朶《そだ》を折《お》って、火にくべながら、おだやかな声でいった。
「カンバルには、ここより早く雪《ゆき》が降《ふ》る。山越《やまご》えをするには、かなりの覚悟《かくご》がいるよ。このさきのトルアンでしっかり旅装《りよそう》をととのえなきゃね。わたしは、ちょっと懐《ふところ》がさびしいから、あんたの旅費《りょひ》を、すこしわけてもらわなきゃならないけど。」
チャグムは、真顔《まがお》になってバルサをみた。
「……いや、バルサ……。」
いいかけたチャグムを、バルサはさえぎった。
「わたしの行動《こうどう》は、わたしがきめることだよ。」
チャグムは、しばらくバルサをみていたが、やがて、目をそらして、炉《ろ》の火をみつめた。
薪《たきぎ》をなめておどる炎《ほのお》をみるうちに、長い、長い旅《たび》の記憶《きおく》が心によみがえってきた。 海にとびこんで、暗《くら》い大海原《おおうなばら》を泳《およ》いで、泳いで、やっと浜《はま》に流れついたあの夜。ぬけるようにだるい身体《からだ》をようやくうごかして、喉《のど》のかわきにくるしみながら、村まで、白くやけた浜辺《はまべ》を歩きつづけたあの朝。
ロタにいってくれる船が、なかなかみつからなかったあの日々の、あせりと絶望感《ぜつぼうかん》。ようやくロタにたどりついたのに、南部の大領主《だいりょうしゅ》にとらわれてしまったときの、はげしい落胆《らくたん》。
そして、イーハン王子《おうじ》に同盟《どうめい》をことわられたときの、あの気もち。 − ずっと心ぼそさや不安《ふあん》を胸《むね》の底《そこ》におしこめ、気をはりつめて、いっしょうけんめい自分をささえてきたけれど、すべて、むだだったのかもしれないと思った……。
でも、まだ、いける。まだ、このさきにも、道はつづいている。
ぬくもりが胸の底にうまれ、身体《からだ》のすみずみにまでひろがっていった。炎《ほのお》がゆらめき、薪《たきぎ》の割《わ》れ目《め》があかくかがやくのをみながら、チャグムはつぶやいた。
「……おれを、カンバルヘつれていってくれる?」
バルサも炎をみながら、ほほえんだ。
「ああ。つれていってやるよ、わたしの故郷《ふるさと》へ……ワシが骨《ほね》を落とす音がひびく、あの貧《まず》しいけれど、うつくしい谷間へ、あんたをつれていってあげるよ。」
雪《ゆき》に降《ふ》りこめられた闇《やみ》のなかで、炉《ろ》の火《ひ》が、ゆらめきながら、ふたりの顔を、あたたかくうかびあがらせていた。
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