神の守り人 帰還編
上橋菜穂子
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)|名代《みょうだい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)トルア|郷《ごう》まで
[#]:入力者注
(例)[#改ページ]
[#ここから3字下げ]など
傍点は、|と《ヽヽ》を使って表示する。
-------------------------------------------------------
目次
序章 王城の裏庭で
第一章 |狼殺《おおかみごろ》し
1 吹雪の夜
2 狼きたる
3 |壺牢《つぼろう》のなかで
第二章 罠
1 交易市場へ
2 早耳のタジル
3 冬の湖面のように
4 罠におちる
5 神にぬかずく者
第三章 サーダ・タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉
1 波乱の予感
2 罠猟師の|出小屋《でごや》で
3 ジタンでの再会
4 祝典前夜
5 建国ノ儀のしかけ
6 神をのむ
終章 サラユの咲く野辺で
[#改ページ]
登場人物紹介
バルサ……………女用心棒。|短槍《たんそう》使いの達人。
タンダ……………バルサのおさななじみ。薬草師。呪術師見習。
◆タルの民
アスラ……………タルの民。十二歳の少女。
チキサ……………アスラの兄。十四歳。
トリーシア………チキサとアスラの母。
イアヌ……………タルの女。ラマウ〈仕える者〉。
◆ロタ王国
ヨーサム…………ロタ王。国民からの信頼が厚い。
イーハン…………ロタ王ヨーサムの弟。兄ヨーサムを敬愛している。
◆カシャル〈猟犬〉
スファル…………ロタの呪術師、薬草師。ロタ王のカシャル。
シハナ……………スファルの娘。カシャル。
カファム…………シハナの同志。カシャル。
マクルとアラム…スファルの部下。カシャル。
◆ヨゴ人の隊商
ナカ………………バルサが護衛する隊商の|頭《かしら》。
ミナ………………ナカの娘。八歳。
トシ………………ナカの弟。
マロナ……………ナカの妻。
レン………………ナカの隊商と合流する隊商の頭。
シンヤ……………レンの隊商の護衛。
◆交易市場の人びと
早耳のタジル……交易市場の情報屋。
カイナ……………タジルの母親。陰の情報に詳しい。
[#改ページ]
まめ知識
▼タルハマヤ〈おそろしき神〉…恵みをもたらす神アファールの|鬼子《おにご》。
▼スーラ・タルハマヤ…タルハマヤのいる地。
▼ノユーク〈聖なる世界〉…異界。神がみの世界。
▼ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉…ノユークの目に見えない川。恵みを与える反面、タルハマヤが流れにのってくる災厄を秘めている。
▼ピクヤ〈神の苔〉…タルハマヤをまつる神殿に生える苔。聖なる川が流れてくると輝くと伝えられる。
▼サーダ・タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉…太古ロタルバルで、絶大な力を持ち、恐怖で全土を支配していた者。
▼タル・クマーダ〈|陰《かげ》の司祭〉…アファール|神《しん》に仕え、タルハマヤの来訪をふせぐためにその一生を捧げる。
▼ラマウ〈仕える者〉…十四歳でラマウ〈仕える者〉になる。四十の年にタル・クマーダになる。
▼チャマウ〈神を招く者〉…タルハマヤをその身に招く者。
▼カッル…………マント。
▼シュマ…………風よけ布。
▼ラル……………乳で野菜や肉を煮こんだシチュー。
▼サッカウ………干し果物をくだいて、砂糖でかためたもの。
▼ラコルカ………乳入りのお茶。
▼ラクァ…………チーズ。
▼ラ………………|乳《ちち》。もしくはバター。
▼ラヤ……………バターミルク。
▼バム……………無発酵のパン。
▼ションム………精製した砂糖をまぶした菓子。
▼コーヤン………ロタの獣。毛皮が商品になる。
▼シャイム………ヨゴ特産の牧畜用薬草。
▼マコス…………強い眠り薬。
▼タジャ…………たばこ。
▼クルン…………ロタ語で時間の単位。
▼ダン……………ヨゴ語で時間の単位。
▼タアルズ………遊戯盤を使う競技。
[#改ページ]
序章 王城の裏庭で
夕暮れの光が、王城の裏庭を黄金色にそめている。
イーハンは、庭のはずれにあるトウの木の根もとに腰をおろして、ぼんやりと庭をながめていた。ここにすわっていると、大木に抱かれているようで、ふしぎに心がおちつく。
家臣たちは、王族の私室の裏手にあたるこの庭には、ほとんど足をふみいれないし、ほかの王族たちも、あまりやってこないので、ひとりになれる。この城でうまれそだったイーハンの、お気にいりの場所だった。
新年の儀式もすぎたというのに、この庭には雪がない。イーハンは、北部と南部の|境目《さかいめ》にある自分の居城を思った。いまごろは、うっすらと雪が屋根をおおい、この時刻なら、もう、うす闇がただよっているだろう。
黄昏の光がたゆたう、春のようにあたたかい裏庭は、しずかだった。夜明けから興奮につつまれて、ざわめいていた城が、いまは、ぬけがらのような静寂につつまれている。
槍の穂先をきらめかせた騎馬の武人たちにかこまれて、サンガル王家の|新王誕生《しんおうたんじょう》ノ|儀《ぎ》に参列するために|出立《しゅったつ》していった、兄ヨーサムの後ろ姿を思いだして、イーハンはほほえんだ。堂々たる王の|威容《いよう》がその背にはあった。
(――兄上は、|名君《めいくん》だ。)
弟の目からみても、つくづくそう思う。それだけに、その身を大事にして、長生きしてほしいという思いがあった。
ヨーサムは|文武《ぶんぶ》に秀でた王で、がっしりとした身体つきをしている。たとえ具合がわるかろうと表情にだすこともないから、頑健そのものにみえるが、近年ひんぱんに熱をだすようになっていることをイーハンは知っていた。早死にした父――先代の王も、晩年よく熱をだしていたことを、思いださずにはいられなかった。熱をだしながらも、もくもくと政務をこなしていたところも、よく似ている。
兄には、もうすこし、自分の身体をいたわってほしかった。サンガル王家の儀式だって、イーハンを|名代《みょうだい》にたててくれればよかったのだ。たしかに、この儀式は君主層が集まるものだし、サンガル王とじかに会って話すにはよい機会だろうが……。
(――国のなかにも不安があるのだから、外交はわたしにまかせて、兄上が国にとどまっておられたほうがよかったのではないか。)
シンタダン牢城でおきた、おそろしい虐殺。残酷なタルハマヤ神を招いたという女性は、すでにこの世にはいないが、ことの真相をさぐっているカシャル〈猟犬〉のスファルが、いまだ、なんの知らせもよこさないことが、気になる。
暮れゆく庭で、木々の長くのびている影をみながら、イーハンは、こういうときに、兄が国をイーハンにまかせてサンガルに発ったということの意味を思った。
兄がいないあいだに、建国ノ儀をおこなわねばならない。この日には、南部の大領主たちも、イーハンの居城にちかいジタン祭儀場に集まってくる。――兄は、イーハンに、これまでにない重い責任を負わせて旅立ったのだ。
兄がしめしてくれた信頼の深さは、うれしかったが、不安も感じていた。
(――もしかすると、兄上は、わたしに王位をゆずる準備をしているのではないか……。)
建国ノ儀をまかせることで、イーハンに、すきあらば王位をうばおうとしている南部の大領主たちに、次代の王としての威厳をきざみつけてみせよ、と、兄がいっているような気がする。
(難題だな。わたしは、大領主たちからは、とことんきらわれているからなあ。)
イーハンは、ひとり笑みをうかべて、空をみあげた。
(もっとも、ラハンたちのように、わたしに肩入れしすぎ、期待しすぎる連中も、こまりものだが……。)
イーハンは、過激な改革を望む、北部の氏族の若者たちを思いうかべ、笑みを消した。彼らの気もちは、わかりすぎるほどわかる。あたたかい気候にめぐまれた南部で、ぬくぬくと肥えふとっていく大領主たちは、この国をうごかしているのは自分たちだけで、北部の者たちは、ロタ王国のお荷物だと放言してはばからない。
長い冬には雪にとざされ、家畜を狼の害からまもるために、涙さえ凍らせてはたらく北部の男たち。みじかく、うつくしい夏も、やせた大地にはさしたる恵みももたらさない。苦労と努力が、じゅうぶんに報われぬむなしさのなかで、生きてきた北部の氏族の人びと……。
南部の大領主たちにはっきりとものをいい、改革をすすめるイーハンを、北部の若者たちが熱狂的に支持し、救世主のように思う気もちは、よくわかる。
しかし、イーハンは、彼らの性急さが不安だった。
「……イーハン殿下。」
ふいによびかけられて、イーハンは、ぱっと地面から剣をとりあげて身がまえた。
いつやってきたのか、十歩ほどはなれたところに、人がたたずんでいた。小さな猿を肩にのせた、小柄な女だった。
「シハナか。」
イーハンは緊張をといて、ため息をついた。
「おどろいたぞ。――わたしにちかづくのに、足音を消すな。」
シハナが、ほほえんだ。
「もうしわけございません。カシャル〈猟犬〉の習性なのです。」
イーハンは、そばにくるよう手まねきした。
「待っていたぞ。そなたがくるのを、いまか、いまかと。」
シハナの父親、スファルからの報告だと思ったイーハンは、いきおいこんでそういったが、シハナの口からでた言葉は、予想とはまったくちがうものだった。
シハナは、じっとイーハンをみつめ、しずかにいった。
「殿下、かの|女人《にょにん》の消息、つかみました。」
そのひとことは、イーハンの胸を、矢のようにうちぬいた。
[#改ページ]
第一章 狼殺し
1 吹雪の夜
大気に、すんっと冷たい、しめったにおいがまじっている。
銀色のにぶい光を抱いたような天をみあげて、アスラは分厚いカッル(マント)の頭巾の下で、眉をひそめた。そして、そっと手綱をひいて馬をとめた。
「アスラ?」
いっしょに馬にのっているミナが、アスラをふりあおいだ。
「どうしたの?」
今年八つになるというミナは、小鳥のようにかわいい声で話す。隊商の|頭《かしら》ナカの|愛娘《まなむすめ》で、とてもひとなつっこい子だ。年がちかい少女といるのがうれしいのだろう。いっしょに旅をはじめた最初の日から、アスラに笑いかけ、隊商暮らしでの子どもらの務め――水運びや、料理の手伝いなどをおしえてくれた。
ヨゴ人の習慣にも隊商の暮らしにもふなれなアスラは、はじめはとまどうことも多かったがミナをはじめ、隊商の仲間たちは気のいい者ばかりだったので、なれるのにさして時間はかからなかった。ヨゴ語も、かんたんな言葉なら話せるようになった。
さいわいなことに、アスラは馬のあつかいになれていた。父がまだ生きていたころ、年老いた馬を一頭飼っていたからだ。それに罠猟師だった父は、森のなかで暮らす知恵を、アスラにさずけてくれていた。
だから、馬のあつかいはもちろん、サマール峠を越えてロタ領にはいると、アスラは薬草をみつけたり、冬に実をつける草の実をつんだりして、隊商の仲間たちの役にたつようになっていた。ミナはもうアスラを姉のように慕っている。
内気で、殻にとじこもりがちなアスラが、思いがけずなめらかに隊商の暮らしにとけこんだので、バルサは安心して護衛の仕事に専念できた。
サマール峠を越えるときに、ロタ北部をまわる毛織物商人の隊商といっしょになったので、いまは、その隊商と組んでうごいている。人数が多いほうが盗賊にねらわれにくいからだ。とくに夜は、その隊商の護衛と交代で眠ることができるので、バルサにはありがたかった。
これまでのところ旅は順調にすすんでいたが、|一昨日《いっさくじつ》から雪がちらつくようになり、寒さもきびしくなってきた。予想よりずいぶんはやい、冬のおとずれだった。
新ヨゴ|皇国《おうこく》からサマール峠を越えてロタ王国へはいると、|都西《とせい》街道は、ヤムシル街道と名をかえる。その街道を北へすすむとヤムシル街道は|二《ふた》またにわかれ、|本道《ほんどう》はロタ王国の王都へ、そして、ラクル道とよばれる北へむかうわき道は、どんどんほそくなって、やがて、この草原と森林地帯がひろがるラクル地方へとはいっていく。
このあたりは寒さがきびしいので、農耕に適していない。人びとは、寒さにつよい種類の麦をつくるほかは、毛の長いシク牛や、羊を放牧して、日々の|糧《かて》を得ていた。
アスラは手綱をひいたまま、すこしのあいだ考えていたが、やがて、左手で手綱をぐいっとひいて、馬の頭を左へむけた。そして、ゆっくりとうごく女たちの馬車のわきからはずれて、馬をかけさせはじめた。
「アスラってば、どうしたの?」
「ちょっと気になることがあるの。バルサのところへいくわ。」
バルサは、ひとり黒い|駿馬《しゅんめ》にのって、隊商の周囲をまえになり、うしろになりして見張っている。冬枯れの草原の、たけの高い草のむこうに、黒い影のようにみえているバルサのもとへ、アスラは馬を走らせた。
バルサは、すぐにアスラに気づいて馬をとめて待っていた。アスラは、バルサのかたわらに馬をよせると、ためらいがちにきりだした。
「バルサ、あのね、空模様が気になるの。……この空と風のにおい。きっと吹雪がくるわ。」
バルサは、白い息をはいて頭をふっている馬のふとい首をなでながら、うなずいた。
「そうだね。わたしも、さっきから気になっていた。ナカさんは今朝、トルア|郷《ごう》までいって泊まるつもりだといっていたけれど、トルアにつくまでに吹雪にまかれそうだね。ナカさんに相談して、はやめに風をふせげる場所を探すよ。」
バルサは膝のうごきだけで馬をまわすと、隊商の先頭集団へむかって馬を走らせていった。
ナカを頭とする隊商は、ナカと、その弟トシの家族九人だけで、馬も|荷馬《にうま》をあわせて十頭しかいない。頭のナカが|去勢馬《きょせいば》にのって先頭をいき、そのうしろに、生活に必要な品や、ロタで交易につかう商品をのせた、トシが御している二頭立ての荷馬車がつづいている。
そのまたうしろには、ナカの妻マロナが|御《ぎょ》している二頭立ての屋根つき馬車に、乳飲み子を抱いたトシの妻や、まだよちよち歩きのナカの長男、そしてナカたち兄弟の老母がのっており、最後尾はナカの末の弟タムが、荷馬をひいてまもっていた。
すこしおいて、レンという毛織物商人を頭にしたべつの隊商がつづいている。こちらも規模はナカの隊とほとんどかわらなかった。護衛は四十がらみの男で、細身の剣と弓矢をたずさえている。
バルサがちかづいていくと、ナカが馬をとめた。そして、空を指さして、うなずいてみせた。彼も|雪雲《ゆきぐも》を気にしていたのだろう。
「いけるかと思ったが、どうも、トルア郷までもたないようだな。」
ナカが話しかけてきた。前方には、ぼうぼうと枯れ野がひろがっている。ここで吹雪にあったら、命はない。背後には、ほんのすこしまえにぬけてきた森がある。
「森をぬけたあたりに、家畜囲いがあったでしょう。あそこまでもどったほうがいい。」
バルサがいうと、ナカはうなずいた。
「バルサさん、わるいが、レンさんの隊に伝えてくれるかね。アスラとミナは、うちの連中に方向転換するよう伝えてくれ。」
バルサがのった駿馬が矢のようにかけていくのをみおくって、アスラも馬をまわし、背後につづいている馬車に、ナカの言葉を伝えてまわった。
このあたりの草原の道はほそく、馬車がぐるりとむきをかえるのは、とてもむずかしい。まず、道ばたの草を馬でふみたおしてみて、転回するための地面が平らかどうかたしかめねばならない。ウサギ穴などが草にかくれていたら、|轍《わだち》をとられて転倒することもあるからだ。
あたりはうす暗くなり、天は重苦しくふくらんで、不吉な銀色の光をにぶくひらめかせている。気はせくが、みな声をかけあって、慎重に作業をすすめた。
レンの隊も、天候に気づいていた。バルサがちかづいていくと、すでに先頭に男たちが集まって、転回の準備をはじめているところだった。
バルサがナカの意向を伝えると、レンは頬をゆがめて、おれたちもそうしようと思っていたところだ、といった。
「まったく、気のみじかい女みたいな空だぜ。すぐふくれっ面をしやがる。たまらねぇよ。」
レンの隊は独身の男ばかりだった。男しかいない気やすさで口はわるいが、気はいいのだ。彼らが先頭になると、どうしても進み方がはやくなって、ナカたちの隊にはきついだろうと、後方についてくれた気づかいからも、それがわかる。
バルサがもどろうとすると、護衛のシンヤが馬をよせてきた。|白髪《しらが》がすこしまじりはじめた黒髪が、風になぶられている。
「……よけいなことだが……。」
しずかな声で、シンヤはきりだした。
「あの子は屋根つき馬車にのせておいたほうがいい。」
「ああ、そうするよ。」
吹雪からのがれるために寄せてもらおうとしているのは、ロタの|牧夫《ぼくふ》の小屋だ。タルの民であるアスラは、顔をみせないほうがいいと、シンヤはいっているのだ。
シンヤはバルサの表情をうかがって、冷静にその言葉をうけとめているのをたしかめると、かすかにうなずいた。
バルサは、ナカの隊にもどると、まずナカにそのことを話し、アスラを馬車にのせる許しを請うた。ナカは、そういうめんどうごとがあったな、と思いだしたらしく、ちょっと眉をひそめたが、すぐに肩をすくめて、アスラに、馬はミナにまかせて馬車にのるようにいった。
「え? なんでアスラが馬車にのるの?」
ミナがとまどって、大きな声でたずねた。つかのま、大人たちのあいだに沈黙がおちた。
「アスラはロタ人が苦手なんだよ。顔をあわせないですむようにミナも協力しておくれ。」
バルサがいうとミナは、変なの、という顔をしながら、うなずいた。
アスラは転回をおえた馬車にのぼりながら、肌がこわばるような思いをあじわっていた。
みんなが目をあわせないようにしているのが、よけいこたえた。
のどに、いやなかたまりがこみあげてくる。歯をぎゅっとくいしばって、息をすい、アスラは、馬車のいちばん奥にいって腰をおろした。
馬車を御しているナカの妻マロナの、ふとい腕のむこうに、バルサの顔がみえた。目があったとき、アスラは、どきっとした。
バルサの目にうかんでいたのは同情ではなく、ふしぎにあかるい、つよい光だった。これを、あんたはどううけてみせる? と、その目がいっているような気がした。
ロタ領にはいった以上、これから、いやでもこういうことがふえる。そのたびにきずついて背をまるめていたら、兄をたすけになどいけない。
アスラは、ぎゅっと歯をかみしめた。そのアスラの目になにをみたのか、バルサがほほえんだような気がした。バルサはくるりと馬の頭をかえして、はなれていった。
この地方の牧夫たちは、冬のあいだ、風をふせいでくれる森を背にしたあたりに、大きな家畜囲いをつくる。ふとい木の柵に、牛の皮や木の皮をまいて、なるべく風が吹きこまぬようにして、家畜を凍死させぬようにまもるのだ。
その家畜囲いの背後に、彼らが住む小屋がつくられている。妻やおさない子どもたちは、トルア郷に住まわせ、若者たちと、はたらきざかりの男たちは冬をここですごす。――家畜を寒さからまもるだけでなく、狼からまもらねばならないからだ。
ナカとレンが|先駆《さきが》けして、牧夫たちに話をつけにいった。牧夫たちは、吹雪にそなえて家畜囲いをみまわっているところだったが、ナカたちの話をきくと、こころよく自分たちの小屋に避難することをゆるしてくれた。
馬車隊が到着すると、がっしりとしたひげ|面《づら》の|牧夫頭《ぼくふがしら》が、若い連中に声をかけて、小屋へ馬車をまわしていく手伝いをしてくれた。
アスラは、馬車の奥に身をひそめて、外からきこえてくるロタ語に耳をすましていた。あらっぽい話し方ではあったが、牧夫たちは、じつに気さくにナカたちに話しかけ、女たちに、心配いらない、ここでゆっくりしていけばいいといっていた。
そのやさしさに、アスラはつよい違和感をおぼえた。――こんなふうにロタ人が親しげな口調で話すのをきくのは、はじめてだったからだ。
「……いや、馬車にいるのはやめたほうがいい。馬車なんかで、吹雪をしのげるもんかね。そうだろう? だいじょうぶ。小屋は、じゅうぶん広いから。さあ、馬車からおりて、小屋へはいった、はいった!」
親切な牧夫頭の言葉にうなずきながら、ナカの妻マロナはちらっとアスラをふりかえった。心臓がはげしく脈うっていたが、アスラは、つとめて平静な口調でささやいた。
「わたし、顔、シュマ(風よけ布)でかくす。だいじょうぶ。」
へたなヨゴ語だったが、シュマを|懐《ふところ》からだしてみせると、マロナは、わかったというようにうなずいた。
カッル(マント)の頭巾を一度背にはねて、アスラは灰色のやわらかい布で顔半分をおおい、それから頭巾をもどした。そして、みんなのあとから馬車をおりた。ロタの若者たちのあいだを、うつむいて歩いていったが、だれもアスラに目をとめるようすはなかった。
(いまは、これでかくせるけれど、食事のときはどうしよう。)
そう思いながらも、アスラは、ふしぎと心が平静になってきたのを感じていた。ロタ人の小屋に足をふみいれたときも、好奇心がさきにたって、おびえは感じなかった。
小屋をはいったところは小部屋になっていて、薫製の肉が大量に天井からさがり、床には|甕《かめ》がずらっとならんでいる。そして、壁の二面には|薪《まき》がぎっしりと積みあげられていた。
そこをぬけて、もうひとつの戸をあげると、男たちが寝起きし、食事をするだだっ広い部屋で、炉にあかあかと火が燃えて、むっとするほどあたたかかった。煙で目が痛い。
ふたつの隊商は、三つの小屋にわかれて泊めてもらうことになった。部屋の一角にぬれてはこまる荷を積みあげて、その奥に寝床をつくった。ミナはおおはしゃぎで、三つの小屋を走りまわり、年配の牧夫たちに頭をなでられたりしている。
アスラが荷の陰で寝床をととのえていると、バルサが部屋にはいってきた。そして、アスラのわきにかがんで、小声でいった。
「牧夫頭に、あんたは顔に傷があって、人に顔をみられるのをいやがっている、といっておいたよ。隊商の連中にも、その話を伝えておいたから、口裏をあわせてくれるだろう。」
アスラはうなずいた。バルサは、シュマからでているアスラの目をみつめた。
「だいじょうぶだね?」
アスラはほほえんだ。それをみると、バルサの目にも、やわらかい笑みがうかんだ。ぽんとアスラの肩をたたいて、バルサは立ちあがった。
やがて、ヒューと強い風の音がしたかと思うと、強風で小屋が、ミッシミッシゆれはじめた。男たちが、どやどやと部屋にはいってきた。カッル(マント)が雪にまみれている。
「こいつは、すげぇ吹雪だぞ。今年最初の|大物《おおもの》だぜ。」
そういいかわしながらも、なんとなく、はしゃいだ空気がただよっている。吹雪は、おそろしいものだったが、こうして異国からの隊商が逃げこんでいることもあって、男たちだけの暮らしに、にぎやかな変化がうまれたからだろう。
小屋の壁がギシギシゆれている。壁ぎわにいると、すきま風が冷たかったので、アスラはミナとふたりで壁ぎわに荷物を移しはじめた。それに気づいた牧夫頭がふとい声でいった。
「お、ヨゴの女の子は気がきくな! そうやってくれれば、壁が二重になったようなもんであったかくなる。|いい子《マシュル・ライ》だ!」
ミナは、ほめられて満面の笑みをうかべたが、アスラは胸の底でふしぎな感覚がうごめくのを感じていた。「|いい子だ《マシュル・ライ》!」といった牧夫頭の声が、父の声を思いださせたからだ。……ロタ人の言葉で、父を思いだしたふしぎさが、胸をゆらしていた。
その夜は宴会になった。客人たちに、と、ロタの牧夫たちは、腕によりをかけて、羊の乳で、肉をとろとろになるまで煮込んだラル(シチュー)をつくった。マイという香りのいいキノコをいれているので、羊の乳のくさみが消えて、腹の底からあたたまる。
牛の乳からつくったラクァ(チーズ)のかたまりを|鉄串《てつぐし》にさして炉の火であぶり、表面に焦げ目がついて、とろけたのを、厚く切ったバム(無発酵のパン)にのせたものもでた。
ナカたちも、ヨゴの高級な酒の封を切った。ヨゴの高い技術で精製した砂糖をまぶしたションムという菓子は、ロタの男たちをとてもよろこぼせた。
アスラは荷の陰にうずくまって食事をしたが、みんな、気にしないふりをしてくれた。
ひとり部屋の奥からながめていると、|宴《うたげ》のあかるさ、心地よさが、きわだってみえた。はじめてみる、ロタ人の暮らしの内側。彼らの自然な笑顔。
ここでシュマをはずしたら、彼らの笑顔は消えさるのだろうか。
バルサがアスラのわきにきた。腰をおろして、荷物に背をもたせかけ、のびをした。
「……今晩はゆっくり眠れるね。」
アスラがささやくと、バルサは苦笑した。
「そうだね。馬のようすをみなきゃいけないけれどね。」
そういってから、バルサは、すこし真顔にもどっていった。
「ナカさんも、レンさんも、こんなにはやく吹雪がくるとは思っていなかったんだろう。雪の季節がくるまえに、ラクル地方をぬけるはずだったのにね。こうなったら、雪がかたく凍るまでは、馬車じゃうごけない。」
アスラは、はっとしてバルサをみた。
「……期限までに、ジタンへいけないかもしれないの?」
バルサは首をふった。
「それは心配しなくていいよ。――わたしが心配しているのは、四本足の盗賊たちさ。」
狼……。雪の季節は、狼たちが飢える季節でもある。ふだん家畜をおそうことはあってもめったに人をおそうことはない狼も、飢えていれば、おそろしい獣となる。壁をゆらして泣きさけぶ吹雪の音が、狼の遠吠えにきこえて、アスラの腕に鳥肌がたった。
「毛皮交易は危険な商売だよ。ヨゴでいちばん高く売れるコーヤン(ロタの獣)が冬毛にかわるこの時期に、買いつけてまわらなきゃならない。ロタ人が高く買ってくれるシャイム(新ヨゴ特産の牧畜用薬草)は晩秋にならないと手にはいらないから、どうしても、この危険な時期に旅をすることになる。」
バルサの言葉をききながら、アスラは、なぜナカさんたちは、乳飲み子をつれて、こんな危険な商売をしているのだろう、と思った。その思いを読んだように、バルサがいった。
「そのかわり、農民よりは、はるかに儲けることができる。……ナカさんたちは、うまれたときから、この暮らしをしてきたから、ほかの暮らしなんか考えられないんだろうね。」
炉の火があたたかくてらしているナカさんの横顔をみながら、アスラはうなずいた。
うまれたときから、隊商暮らしをしているナカさんたち。牧夫の子にうまれ、牧夫として生きていくロタの若者たち。タルにうまれた自分。……なんと、さまざまな暮らしがあるのだろう。
(そういえば、バルサは、どこでうまれて、どんなふうにそだったのかな。)
きいてみたいと思いながら、口にだすことはできず、おだやかに夜がすぎていった。
[#改ページ]
2 狼きたる
吹雪は三日間、吹きつづけた。
長い吹雪に吹きこめられると、さすがにみなしずかになり、最初の夜のような宴会はせずに、食糧をもたせることを考えるようになった。食糧をわけてもらっているので、隊商の家族たちは気がねをしたが、牧夫たちは、こういうときはおたがいさまさ、と笑ってとりあわなかった。異国の話がきけて気がまぎれていい。気にするな、と。
そのかわり、隊商の人びとは牧夫たちを手伝って、吹雪のなかを家畜の世話をしてまわった。あれくるう吹雪で方向をうしなわないように、縄をつたっての作業だった。
三日目の夜になってようやく、風の音がしずまったときには、耳がおかしくなったような感じがした。やっと吹雪がやんでくれたと、ほっとしたのもつかのま、その、ピンッと大気が張ったような静けさのなかに、ふいに、長く尾をひく声がわきあがった。
ひとつの|咆哮《ほうこう》に、いくつもの声がかさなって、長く、長く、ひびいていく。
人びとは、身を凍らせて、その声をきいていた。
「……ちきしょう。長い吹雪だったからな。森の兄弟たちは、腹っぺこらしいぜ。」
牧夫たちは松明をつくると、手に手に弓矢や槍をもって外にでていった。
バルサが短槍を手にとったのをみて、アスラは思わず立ちあがった。
「……バルサ。」
「馬をやられたらたいへんだからね。アスラ、小さい子たちがおびえないように、しっかりめんどうをみておくれ。たのんだよ。」
手袋をし、カッル(マント)をまとって、バルサは隊商の男たちとともに、凍てついた闇のなかにでていってしまった。
きゅうに、部屋のなかが、がらんとさびしくなった。おびえているミナの手をにぎってあげて、アスラは外の物音に耳をすましていた。男たちの声が、ときおりきこえてくる。
どのくらいたっただろうか。突然、狼の遠吠えが、すぐちかくでわきあがった。
ミナが泣き声をあげてアスラにしがみついてきた。
「だいじょうぶよ。小屋のなかへは、はいれないから。」
アスラがささやくと、ミナは小さくうなずいた。
家畜囲いのほうから、家畜たちが恐慌におちいって、鳴きさわいでいる音がひびいてくる。鳴き声だけでなく、蹄の音や柵にぶちあたるような音もきこえ、マロナたちの顔も不安げにゆがんだ。男たちの怒声が大きくなる。
そのとき、なにかがさけた音がした。男たちがさけんでいる。なにかおきたのだ。
じっとしていられなくなって、アスラは手袋をはめると、松明をもちあげて、かけだした。
「マロナさん、わたし、みてくる!」
「たのんだよ。――あっ、ミナ! あんたは、ここにいなさい!」
しかし、ミナは母の声を無視して、アスラのあとを迫って外にとびだしてしまった。
外はまっ暗だった。大気は氷のかたまりのようだ。|寒気《かんき》が分厚いカッル(マント)をしみとおってくる。息をするだけで胸が痛いし、目に涙がたまって、よくみえなかった。
家畜囲いのほうで、松明がいくつもゆれている。男たちの声がきこえてくる。
「……だめだ! とんでもねぇ! 迫っていったら、あんたらも狼のえじきになるだけだ!」
牧夫頭の声にかぶせるように、ナカの声がきこえてきた。
「|荷馬《にうま》を四頭もうしなったら、おれたちはおしまいなんだ! かまわないでくれ!」
アスラはそっとちかづいていったが、だれもアスラに気づかなかった。|松明《たいまつ》のゆれる明かりで、家畜囲いの一部がこわれているのがみえた。狼の声におびえて、馬たちがけってこわしたのだろう。あそこから、ナカの隊商の馬たちが数頭、逃げてしまったらしい。
ナカは、はねあがろうとする自分の去勢馬を必死でおさえ、興奮しきってどなっている。
「ナカさん! わたしが迫っていくから、あなたたちは、ここで……。」
バルサの声がきこえたが、ナカはまったくきかずに馬にとびのると、馬が逃げた森の奥へかけさってしまった。弟たちも、そのあとを追ってかけていく。
舌うちして、バルサが自分の馬にとびのるのがみえた。
牧夫たちが、なんてばかなことを、とどなりながら、ほかの小屋の牧夫たちをよび集めに走っていった。こわれた柵をなおしていたふたりの男も、気になるのだろう、ほかの連中が走っていったほうをみている。
(どうしよう。)
とにかく、なにがおきたのか、マロナさんたちに知らせようと小屋にもどりかけたとき、アスラは、小さな人影が、家畜囲いにしのびこんでいくのをみた。
「……ミナ!」
おどろいてさけんだが、ミナは無視して自分の馬によじのぼった。そして、牧夫たちがおどろいてとめようとする手のあいだを、すりぬけてしまった。
アスラは、走ってくる馬のわきに、ななめにかけよった。雪に足をとられたが、むちゅうで|轡《くつわ》をつかみミナのうしろにとびのった。手綱をひいてとめようとしたがミナはくるったように、アスラの手をふりはらった。
「ミナ! わかった、わかった! とめないから、手綱、わたして!」
アスラはもがきながら手綱をとると、ナカたちがむかったほうへ馬をむけた。
ばかなことをしているとわかっていたけれど、バルサたちが狼に食われてしまったらと思うと、いてもたってもいられないのはミナとおなじだった。自分の目で、無事をたしかめたかった。
「お父さん……お父さん……。」
ミナがくりかえしつぶやく声がきこえる。
アスラは、ミナの気もちが痛いほどわかった。かつて、おなじように父の無事を祈ったことがあったからだ。その願いはききとどけられることもなく、父は狼にかみさかれた無残な死体になってみつかった……。
闇のなか、前方にゆれる松明の小さな明かりをめざして、アスラは馬をかけさせていった。雪はまだやわらかく、馬の足がとられて、のっているだけでつかれてくる。半月のあわい|銀光《ぎんこう》にてらされた雪の上に、木々の影が長く、ゆがんだ帯のようにのびている。
どのくらい、かけただろうか。牧夫たちの松明の光が、まったくみえなくなったころ、アスラは、木々のあいだをかけていく、黒い水のような影をみた。いくつも、いくつも、影が流れていく。
ぞうっと背筋があわだった。――狼だ。ものすごい数の群れだ。
すぐまえのほうで、ナカたちが馬をつかまえている物音がきこえ、その姿もみえてきた。そこは、ふしぎに雪の少ない空間だった。巨大な倒木と、大きな石がある。馬がそこで立ちどまったので、つかまえられたのだろう。
アスラたちは、必死にそこをめざした。馬がもがくようにしかすすめないのがもどかしく心臓がのどからとびでそうだった。
大きな木の陰をぬけた瞬間、アスラは、ふわっとなにかが顔にあたるのを感じた。とたんに、世界が微妙にずれ、暗い森のなかに、あわく光りさざめく|水面《すいめん》がみえはじめた。
(――ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉……!)
母とみた、あの流れが、この森へも流れきている。背から胸へ、ざわめきがはしった。
「お父さーん!」
ミナがさけんだ。ナカたちがふりかえって、ぎょっとした顔をするのがみえた。バルサが馬をよせてきて、乱暴に|轡《くつわ》をにぎった。
「なんてばかなことを――!」
バルサのどなり声が、アスラをこちら側の世界へひきもどした。
バルサは、狼の群れがとりかこんでいることに、とうに気づいていた。これほどの数の群れが相手では、逃げることも、自分たちの命をつなぐこともむずかしいと覚悟を決めた。そんななかに、子どもたちがとびこんできてしまったのだ。
怒りにまかせて、バルサは短槍でアスラたちがのっている馬の尻をたたき、ナカたちのいるほうへ追いやった。
そして、自分は倒木にかけよると、馬の鞍につけてあった|鉈《なた》をとって、倒木にたたきつけはじめた。
「ナカさん! あんたたちも鉈でここを切って! 倒木の内側の、かわいたところをくだいて、火をつけるんだよ。」
ナカたちも、あわててバルサにしたがった。雪にとざされて木々はしめり、火をおこすのは至難の技だった。だが、たしかに倒木の内側ならば、|生木《なまき》よりはかわいたところがあるはずだ。
青白い光がいくつも闇におどっている。狼の目だ。輪をせばめてきている。
鉈で切りこまれて、ささくれだった木に、ナカがふるえる手で松明の火をうつした。ゆるやかに炎が|木《こ》っ|端《ぱ》をなめたが、なかなか火がうつらない。
「アスラ! ミナといっしょにここの木の下にはいりな!」
バルサにどなられて、アスラはあわてて馬からすべりおりると、ミナの手をつかんで、石と倒木のすきまに身体をねじこんだ。
「トシさんたちも、わたしの背後に! 倒木のうしろからくるやつを弓で射て!」
トシたちは、ひきつった顔をして、倒木のすきまにはいったアスラたちのそばに立ち、弓矢をかまえた。バルサが歯で手袋をかんで、手ばやくぬぎすてるのがみえた。
馬たちがいなないて、|後足《あとあし》で立ちあがった。倒木にむすんだ紐をちぎりそうないきおいだった。その瞬間、黒い影がふたつ、雪の上をすべるようにかけてきた。
バルサがふりむきざま、松明を投げた。松明は矢のように飛んで、狼にぶちあたり、狼は火の粉をまきちらしながら、ギャンギャン鳴いてあともどりしていく。そのときには、バルサは短槍をふって、もう一頭を串刺しにし、足でけってその身を雪の上にとばしていた。
やっと倒木に火がついたが、火が大きくなるまえに、狼の群れが四方からおそいかかってきた。バルサの短槍がうなりはじめた。まるで、旋風のように四方八方に回転しながら、狼たちを切りさいていく。人の身体が、こんなふうにうごけるのか、と、おどろくような速さで、バルサの全身がうごき、狼をよせつけなかった。
だが、狼はあまりに多かった。背後からおそいかかってきた群れに、ナカの兄弟たちが弓矢で応戦したが、すぐに矢がつきてしまった。
ピシッと鋭い音がして、一頭の荷馬の綱が切れた。反動で、荷馬がバルサのほうへたおれかかった。かろうじて、身体をねじってよけたが、バルサのうごきに乱れが生じたその瞬間、一頭の狼が、バルサののど笛をめがけてとびかかった。
よける間も、槍をふるう間もなかった。バルサは、とっさに左のこぶしをその大きくあいた口につきこみ、狼の舌を指でつかむと、その頭を地面にねじりおとした。そして、膝を胴にたたきこんで肋骨をくだいた。
アスラは、バルサの左手から血がしたたるのをみた。ナカさんが、もう矢がない、とさけんでいる声をきいた。黒い影が、青白い眼光の尾をひいて、とびかかってくるのをみた。
アスラはとっさにミナの頭を腹の下に抱きしめて、その目をおおった。
(死にたくない。)
全身がふるえた。
(――カミサマ……カミサマ……。)
背から腹へ、ざわめきがはしった。自分の身体がふたつにずれていくような、ふしぎな感覚がおとずれた。アスラの首にかかっている、目にみえぬ〈聖なる宿り木の輪〉が光を発し、濃厚な血のにおいをたちのぼらせはじめた。ごうごうと、川が鳴る。身の奥をふるわせて、聖なる川が流れくる……。
頭のなかが白熱したように光り、胸の奥からのどへ、光がふきあげてくるのを感じた。
その瞬間、アスラは、はっきりとみた。自分の首にかかった〈輪〉からすべりでていく銀色の光を。うろこを光らせて、闇を泳ぐ、鋭い牙を光らせた神の姿を……。
血に飢えたタルハマヤは、|白刃《はくじん》のようにきらめきながら、狼を切りさいていく。アスラは、血の味を感じた。はじめて、目ざめたままでこの光景をみているせいだろうか。アスラは自分とその神がつながっているのを、まざまざと感じていた。
大いなる川が、アスラの身のうちを流れていく。アスラからでると、川は水ではなく、大気を凝縮した風のようになって、だれの目にもみえる微光をともなって吹き流れていく。アスラがむくほうへ風は流れ、その流れにのって、すべるようにタルハマヤが泳いでいく。
タルハマヤにふれられた狼は、まるで、やわらかい果実のように切られていく……。
なんという大いなる力! 自分の身体が何倍にもふくれあがっていくような心地がした。
なにもおそれることはない。もう、なにもおそれることはないのだ……!
圧倒的な快感にアスラは酔いしれ、笑いながら狼を虐殺していった。弧をえがきながら、いきおいよく木にぶつかると、やわらかい泥のように木がけずれ、木っ端をまきちらしながらたおれていく。
バルサたちにタルハマヤがふれぬように、流れをあやつりながら、タルハマヤに心をのせたアスラは、心地よく殺戮をつづけた。
ついに、あたりがしずまりかえったとき、アスラは自然に、ふうぅ……と、息をすった。――と、思うぞんぶんに血をあじわったタルハマヤは、しずかに、アスラのなかをとおり、ノユークの流れに消えていった。
だれも、身うごきすることもできずにいた。
耳鳴りがするような静けさのなか、バルサは、月の光にてらされ、点々ところがる狼の死骸をみまわした。それから、ゆっくりと、アスラに目をうつした。
アスラは、満ちたりた笑みをうかべて、バルサをみあげていた。――精気に満ちあふれ、底に光をひめたその瞳は、それまでの内気な少女のものではなかった。
その目をみたとたん、腹の底からふるえがはしった。
凍てついた森の闇のなかで、バルサは、アスラをみつめて、立ちつくしていた。
[#改ページ]
3 |壺牢《つぼろう》のなかで
人さし指をつっこんであけたような穴が同心円状にいくつもならび、そこから白い光と、かすかな風がはいってくる。その通気孔からのわずかな光で、タンダは夜が明けたことを知った。
目をさましたときは、闇のなかだった。――最後に目をとじてから、いったいどのくらいの時がたったのか、いまどこにいるのか、まったくわからなかった。腹を抱いて身体をまるめ、マコス(薬草の名)がもたらした、不自然で長い眠りのあとの頭痛と吐き気がおさまってくれるのを祈るしかなかった。
その苦痛がさっていくのとひきかえに、記憶がもどってきた。
スファルの娘シハナが、父さえもあざむいて、なにかの計画をすすめていたのだと知ったあの日、宿にもどるや、タンダは殺されそうになった。あわやというときに、タンダの命をすくったのは、スファルだった。
スファルは娘に、自分をしたがわせたくば、タンダを殺すな、といってくれたのだ。
スファルは力も地位もある呪術師だ。シハナは、精悍な男たちの協力を待て、とにかく父を拘束することはできたものの、殺すわけにも、傷つけるわけにもいかずに、そのあつかいにこまっていたのだろう。スファルはそこに、タンダの新たな人質としての価値をみつけてくれたのだった。
命がたすかったのは、ありがたかったが、シハナの人質のあつかいは冷酷そのものだった。有無をいわさずに、ときに魂を病む可能性さえあるほどのつよい薬草マコスを飲ませてタンダを眠らせ、物のようにあつかった。
おかげで、マコスを口にした瞬間から、目ざめるまでの記憶がまったくない。ただ、こうして、それ以前の記憶がもどってきたということは、魂を病んでいない証拠なので、タンダは、ほっとした。
通気孔から、夜明けのあわい光がさしこんできたとき、タンダは、チキサも眠り薬をつかわれていたことを知った。ただ、チキサが飲まされたのは、マコスではなかったらしい。彼の目ざめは、タンダの目ざめより、ずいぶんとおだやかなものだった。
こうして朝の光がさしこんでも、ここがどこなのか、見当もつかない。壁も天井も床も一体で、なめらかな粘土でつくられている。扉さえない。まるで、粘土の壺の底にいるような感じだった。天井は高くて、とびあがっても通気孔にはとどかない。
ずっと、かすかな音がきこえていた。風が草をなでているような音だったが、絶えることがない。
「……ここは、どこ。」
チキサがつぶやいた。
「さあ。」
タンダは通気孔をみあげた。マコスのせいで、まだ空腹感はないが、のどの渇きを感じている。水をもらえるかどうか、わからないと思うと、よけいに渇きがたえがたくなってきた。
「おーい!」
タンダはどなった。
「だれかいるか? 水と食べ物をくれ!」
なんの反応もない。考えてみると、ここには扉さえないのだ。――しびれるような不安が全身をはいあがってくる。
しかし、チキサのことを考えると、不安を顔にだすことはできなかった。もうすこし体力がもどったら、魂を飛ばしてみようと思ったが、シハナたちがタンダの呪術を警戒していないはずがない。なにかで結界をはられているかもしれなかった。
大声でさけぶことで、タンダは、不安をまぎらわせようとした。
そのとき、影がおちた。だれかが、通気孔の上にきたのだ。指が通気孔をふさいだ……と思ったら、パクッと音がして通気孔の周囲にまるく線がはしり、蓋のようにもちあがった。
光をせおって逆光になっているので、だれがみおろしているのか、顔はみえなかったが、
「どけ。」
と、ひとことロタ語がきこえたかと思うと、大きな籠が投げおとされた。
おちた衝撃で蓋があき、なかから、まるいかたまりと瓶がころがりでた。食べ物と水らしい。
また天井の蓋がもどされるのをみて、タンダはあわててさけんだ。
「おーい! 厠は……。」
蓋をふみつけてはめる音とともに、男の声がふってきた。
「あとで、壺をおとしてやる。」
タンダはチキサと顔をみあわせた。
「――水と、食べ物があるだけ、ましか。」
タンダはつぶやくと、まるいかたまりをひろいあげて、はたいた。みたことのない食べ物だったが、手ざわりとにおいからすると、ロタのバム(無発酵のパン)のようなものらしい。
「これ、知っている?」
チキサにわたすと、チキサは、ちょっとちぎって口にいれ、眉をよせた。
「バムに似ているけれど、はじめて食べる味です。」
ここは、どこだろう、とタンダはあらためて思った。あの日、タチヤの店にのこされていたバルサの文には、タンダとチキサをジタン祭儀場でひきわたす話が書かれていたし、シハナはロタへいくと、たしかにいっていた。
だから、ここはロタ王国のどこかなのだろうが、どうも見張りをしているのは、ロタ人ではないような気がする。
タンダは、食べ物と水をチキサとわけあいながら、ぽつぽつと、タチヤの店でのできごとや、これまでのいきさつを話してきかせた。
ジタン祭儀場という言葉がタンダの口からでた瞬間、チキサの顔色が変わった。
「ジタン祭儀場……。」
タンダは、まばたきした。
「なにか、あるのか? ジタン祭儀場に?」
「ジタン祭儀場は……かつてのロタルバルの聖都、サーダ・タルハマヤの宮殿があった場所にたてられた祭儀場です。」
チキサは、タル・クマーダ〈陰の司祭〉におしえられた歴史を、タンダに語った。
いま、ロタ王国の王都は南部にあるが、サーダ・タルハマヤがロタルバルを支配していたころは、この地はいまよりもあたたかく、現在の王都よりかなり北の、ジタンのあたりに都があったのだという。
もう当時の面影すらないが、スーラ・シ・タルハマヤ〈タルハマヤの|在《いま》す地〉とよばれた聖都には、壮麗な宮殿と、巨大な樹がはえるうつくしい泉があり、緑したたる森にかこまれていた。その森はあたたかく、あまい果実がたわわにみのり、たくさんの猿たちがすんでいたという。
サーダ・タルハマヤがキーラン王に討たれ、ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉が消えさると、その宮殿があったところはゆっくりと冷えて、あちら側の世界へとけて消えてしまった。
キーラン王は、サーダ・タルハマヤを殺した、その場所を清めるために祭儀場をつくった。
また、祭儀場のそばに、ロタ風の城塞をきずき、自分の弟にその城塞をまかせて、北の守りとしたのだという。
「ジタンは、タルの民にとっては、かつての夢の都で……大いなる後悔の地なのです。タル〈陰〉に生きるようになったとき、二度と、足をふみいれぬと誓った禁忌の場所です。」
タンダは眉をひそめた。
シハナは、いったいなにを考えているのだろう。アスラがサーダ・タルハマヤになるまえに殺すために、追っていたのではないのか? なぜ、わざわざアスラをサーダ・タルハマヤが暮らしていたという地へおびきよせねばならないのだ?
「……それなら、アスラは、ジタンにいきたくないだろうな。」
タンダがつぶやくと、チキサが顔をくもらせた。
「アスラはジタンが禁忌の地だとは、思わないかもしれない。」
タンダはびっくりしてチキサをみた。
「なぜ?」
チキサは無意識に左手の傷をなでながら、暗い口調でこたえた。
「アスラは、母の言葉を信じこんでいるから。」
チキサはうつむいたまま、話しはじめた。
「ぼくらの父は、五年まえに狼に殺されてしまったのだけど、父がいなくなって、母子三人で暮らすようになってから、母は、しだいにふさぎこむことが多くなったのです。」
鼻にしわをよせて、チキサは肩をすくめた。
「父が亡くなってから、ぼくらはものすごく貧しくなってしまったから、母もくるしかったのだと思います。
だけど、ものすごく変わったのは、二年ぐらいまえからです。きゅうに、タル・クマーダ〈陰の司祭〉の教えをきらうようになって、ぼくらに、タルハマヤは、司祭がいうようなわるい神ではなくて、タルの民をすくう、聖なる神なのだと、おしえこもうとしました。
ぼくは、母の言葉をどうも信じることができなかったけれど、アスラは、母のいうことなら、なんでもほんとうだって、いいはった……。」
チキサの顔がゆがんでいた。
「父が生きていたころでさえ、ぼくらは、ほかのタルの仲間からは、はなれて暮らしていました。アスラも、ぼくも、友だちもあまりいなかった。ほかの人たちが住んでいる森から、ずいぶんはなれた、聖域のちかくの森に、ぼくらだけで住んでいたのです。」
タンダは、だまって、チキサの話をきいていた。
「母は、ぼくらがうまれるずっとまえに、故郷をはなれて、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちが暮らす聖域の森に身をよせたのだそうです。
そういうタルの民の聖域は、ロタ人は、悪霊が住むとおそれて、けっしてちかづかない、シャーンという深い森の奥にあります。母は、ロタ人に会うことを、ものすごくおそれていたから、そこへ住むようになったのだと思います。父と結婚してからも、父を説得して、ほかの人とははなれた場所に家をたてさせたのだって、父からきいたことがあります。」
「なぜ、ロタ人を、そんなに、おそれた?」
チキサはちょっと首をかしげた。
「わかりません。タルの民はみな、ロタ人に会うのをいやがるけれど、毛皮の売り買いや買い物などで、かならず年に数度は顔をあわせるものです。でも、母は、けっしてロタ人に会わないようにしていた。ロタ人との交渉はすべて父にまかせていた。」
チキサは唇をしめして、話しつづけた。
「タルの民の集落は小さくて、森の奥に、ぽつん、ぽつんとはなれているけれど、ふつうは、親戚などのあいだで、行き来があるものだそうです。タル・クマーダ〈陰の司祭〉が、月に数回、集落をおとずれて、子どもたちに聖伝や歴史をおしえるのだともききました。
でも、ぼくは、一度もほかの集落をみたこともないし、親戚に会ったこともない。アスラもそうです。ただ、定期的にタル・クマーダ〈陰の司祭〉がたずねてくださって、聖伝や歴史をおしえてもらいました。だけど……。」
チキサはちらっとタンダをみた。
「母が、変わってしまってからは、ぼくもアスラも、司祭さまの訪問が、いやでしかたがなかった。……司祭さまが帰ると、すぐに、母が、いまの話を信じてはだめよ、と、司祭さまをけなしたから。そういうときの母は、もとの、やさしい母とは人がちがってみえて、とてもいやだった。」
チキサは、ぎゅっと顔をしかめた。
「ぼくは、ラマウ〈仕える者〉たちが、母さんになにか吹きこんだのだと思うのです。司祭さまの目をぬすむようにして、母さんは、よくラマウの秘密の集会にでていたから。」
「ラマウ〈仕える者〉?」
「タル・クマーダ〈陰の司祭〉になるために修行をしている人たちです。ノユーク〈聖なる世界〉の気配を感じることができる子は、十四になると聖地に集められて、ラマウ〈仕える者〉になるのです。……アスラも、ラマウになるはずでした。」
「アスラも、ノユークが、みえた?」
チキサは、うなずいた。
「みえる……のか、ただ、感じられるだけなのか、ぼくにはわからないけれど。
でも、母は、アスラがラマウになるのを、とてもいやがっていたな。アスラには、わたしみたいな人生をあたえたくないって。」
「|わたしみたいな《ヽヽヽヽヽヽヽ》? きみの母さんも、ラマウだったの?」
「ううん。ちがいます。あの、ラマウは結婚できないのです。母はラマウじゃありません。
母が、どういう意味でいったのか、よくわからないけど……。母はよく、自分は、生きたいように生きることをゆるされなかった、逃げて、かくれて生きてきたって、つぶやいていた。たぶん、ぼくらがうまれるまえに、なにかあったのだろうなって思ったけど……。」
チキサは、ため息をつくと、首をひとつふって話をもとにもどした。
「ええと、ラマウが母になにか吹きこんだっていう話ですけど、ぼくは、若いラマウたちのあいだで、タル・クマーダ〈陰の司祭〉が伝える聖伝とはちがう考えがうまれていたのだと思います。秘密の集会から帰ってくるたびに、母さんは、熱にうかされたみたいに、タル・クマーダ〈陰の司祭〉の教えとはちがう信仰を、ぼくらに話すようになりましたから。すごく生きいきと……たのしそうに。」
チキサの目には、そんな母を恥じる思いと、なつかしむ色とが、複雑にまじりあってうかんでいた。
「アスラは、母がとても好きで、いつもくっついている、甘えん坊だった。ぼくのように、母の変化をいやだなと思うこともなく、むしろ、沈んでいた母があかるくなってきたのを、すごくよろこんでいた。……アスラは、いまも、母の教えのほうを信じていると思います。」
タンダはひと口水を飲むと、そでで瓶の口をぬぐってチキサにわたした。
「アスラのことを、話して。どんな子?」
チキサは瓶をかかえたまま、しばらく考えていた。
「アスラは、おとなしい子です。内気だけど、芯はつよい。でも、やさしい子なんですよ。ほんとうに。……なんで、こんな……。」
うつむいたチキサの唇がふるえはじめた。
「――みんな、母さんがいけないんだ。母さんが、あんなことをしなければ、処刑されることなんてなかったし、アスラが、あんなふうになることもなかったのに……。」
タンダは手をのばして、不器用なしぐさで、チキサの肩に手をおいた。
チキサは涙をこらえて、身体をかたくしていた。
「それにしても、アスラは、なぜタルハマヤをよべるようになった? きみの母さんは、どうやった?」
チキサはうつむいたまま、肩をすくめた。
「わかりません。ぼくには、みえなかったから。……父さんが死んでから、|罠猟《わなりょう》は母さんとぼくらでやっていたんだけど、ある日、しかけた罠をみにいったとき、アスラが、変なことをいいだして……。」
チキサは目をあげてタンダをみた。
「森を歩いていると、ふいに、ほかのところより、大気があたたかい場所にでることがあるんです。ぼくらは、そういうところをノユーク・チャイ〈ノユークの水溜まり〉ってよぶんだけど、あの日罠をしかけたのも、そんなふうに、妙にあたたかい場所でした。
罠をしかけながら、アスラは、なんだかきゅうにおちつかなくなって、ぼくらにはきこえない物音に耳をすましたり、なにかみているように目をうごかしたりして……ぼくは、すごく気味がわるかった。」
そのときのことを思いだしているのだろう。チキサの目がゆれていた。
「アスラは、まるで夢をみているような顔になって……。その日の夜、母はアスラをつれて、どこかへでかけていきました。たぶん、ラマウ〈仕える者〉たちのところへいったんだと思います。ぼくには、なにも話してくれなかったけれど。
つぎの日の真夜中、母は、聖域の神殿へぼくらをつれていきました。そして、神殿の奥にある、絶対にたちいってはいけない禁域――サーダ・タルハマヤの|墓所《ぼしょ》へ、しのびこんだんです。ぼくは反対したけど、母さんはとりあってくれなかった。
神殿の岩には、苔がはえているんだけど、ぼくはそこではじめて、ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉をみたんです。真夜中なのに、ピクヤ〈神の苔〉が、みえない川の水にあらわれているように、ゆらゆら光っていた……。
母さんは、ぼくに木陰にかくれているようにいって、アスラだけをつれて、その〈川〉の流れにつかりながら、神殿の岩の奥へはいっていったのです。
ふたりは、なかなかでてこなくて、でてきたときは、もう夜が明けはじめていました。
母さんは夜が明けていることにおどろいたようにみえた。そんなに長い時間がたっていたとは、思っていなかったみたいだった。母さんは、きっと夜のうちに、ひそかに禁域をでるつもりだったんですよ。でも……そうはいかなかった。夜明けの儀式におとずれたタル・クマーダ〈陰の司祭〉たちに、ぼくらは、みつかってしまったのです。」
そのあとのことは、チキサは話したくなかった。
タンダも、あえてきかなかった。だいたいのことは、スファルの話から推測できたからだ。ただ、ひとつだけ、どうしてもきいておかねばならないことがあった。この少年をくるしめたくなかったが、いまをのがしたら、二度ときけないかもしれない。
「チキサ……。」
タンダがよびかけると、チキサは目をあげた。
「――シンタダン牢城で、アスラは、なにをした?」
チキサの目にうかんだ苦痛と、かなしみの色をみたとたん、タンダは、きかなければよかった、と思った。
しかし、チキサは、ひとつ息をすうと、話しはじめた。
「あの夜、母が処刑されたとき、ぼくらは、腕をつかまれて、処刑台のうしろにいました。たくさんの人たちが、処刑台をとりかこんでいて、……同情している人や、おそろしげにみている人もいたけれど、わら……笑っている人も、いて……。」
チキサの声がふるえた。
「こんなひどい、ひどい人が、いるのかと、ぼくも、笑っているやつらを殺してやりたかった。母さんをたすけてって、さけんだけれど、どうにもならなくて……。」
タンダは思わず、もういい、というようにチキサの腕をつかんだ。しかし、チキサはやめなかった。
「母さんが殺された瞬間、どよめきがあがったんです。悲鳴もあったけど、歓声もきこえて、そうしたら……アスラが……ふいに、宙をみあげて、|白目《しろめ》になって……。
アスラの身体が|二重《にじゅう》になったように、ぼやけたかと思ったら、大きなものが、光りながらすべりでて……あとは、一瞬でした。ほんとうに。
闇のなかに、あわく輝く川のような、風の流れのようなものが、びゅうっと吹きあれて、みるみるうちに人を殺していったんです。
アスラと抱きあっていたぼく以外、ぼくらの身体をおさえていた兵士さえ、あっというまに、殺されてしまった。
処刑台からとおいところにいた人たちが、逃げていくのがみえたけど、|あれ《ヽヽ》は|燐光《りんこう》のように光りながら迫っていって……だれひとり、逃げられなかった。」
タンダは、鳥肌がたつのをおぼえた。タンダをみつめたチキサの目に、涙がたまっていた。
「ぼくたちは、人殺しです。あんなに、たくさんの人を、殺してしまった。――あのとき、逃げるんじゃなかった。アスラを殺して、ぼくも死ねばよかった。」
「チキサ……。」
チキサの目から、涙が流れおちた。あとから、あとから、とめどなく流れおちた。
「アスラは、なにもおぼえていないみたいだった。サーダ・タルハマヤの墓にはいったことも、母さんの処刑さえ、ぼんやりとしか。
アスラのせいじゃない。――母さんが禁忌をやぶらなければ、あんなことにはならなかった。だから、ぼくらの罪じゃないと思いたかった。
でも……こんなふうに、どんどん、ことは大きくなって、人をまきこんで、ぼくの手にはおえなくなってしまった。」
チキサは両手で顔をおおって泣きながら、話しつづけた。
「アスラに会いたい。アスラが、また、だれかを殺してしまうまえに、会って、こういうことをみんな話してやりたい。ぼくらだけで、ほかの人をまきこまないで、決着をつけられればいいのに。……なんで、こんな……。」
タンダはチキサの頭を抱きよせた。チキサはタンダの胸に頭をうずめて声をあげて泣いた。
「ごめんなさい。あなたや、あの女の人を、まきこむつもりは、なかったのに!」
タンダはチキサを抱いている腕に力をこめた。
「きみが、まきこんだのではない。これは、おれたちの決断だ。たとえ、死んでも、きみには、責任はない。」
もっとなめらかにロタ語を話せればいいのに、と、タンダは口惜しかった。
タンダは、チキサをかかえたまま、牢獄の壁をみつめていた。スファルの話をきいたときには実感がわかなかったが、アスラはほんとうに……とてつもなく、危険だ。
(――バルサ……。)
タンダは胸のなかでつぶやいた。いまごろ、バルサは、自分たちをたすけに、ジタンにむかっているだろう。
シハナの罠と、アスラ。……バルサは、ふたつの危険にはさまれてしまっている。
バルサに会わねば。――ジタンについてしまうまえに、なんとしても、会わねばならない。
タンダは、長いあいだ、身うごきもせずに、牢獄の壁をみつめつづけていた。
息苦しい牢獄のなかでの一日がゆっくりとすぎ、夜がおとずれた。息抜きの穴のあたりだけが、ぼんやりとあかるかったが、夜の闇は深く、タンダは無力感に責めさいなまれていた。
(魂を飛ばしてみようか。)
チキサの寝息をききながら、タンダは心を決めかねていた。シハナは呪術のこころえがある。タンダが魂を飛ばすことを考えて、罠をしかけてあるかもしれない。罠にかかって、シハナに魂をしばられてしまったら、息をしているだけの人形にされてしまう。
(だが、こうしていても、らちがあかない。いっこくもはやくバルサに会わねば……。)
うまくシハナの罠をさけて、見張りの魂に術をかけることができれば、ここからでられるかもしれない。いちかばちか、危険を承知で、魂を飛ばそう、と決意したときだった。タンダは、牢獄の蓋がもちあげられる音をきいた。
はっとして顔をあげると、おちてきた細かい泥が目にはいってしまった。涙を流して目をこすっていると、膝の上に、どさっと縄がおちてきた。
「まんなかをあけろ。」
ささやき声がふってきた。タンダと、物音で目をさましたチキサが、壁にへばりついた瞬間、だれかが穴のなかにとびおりてきた。そして、懐からなにかをとりだすと、小さな火をともした。携帯用の|灯火《ともしび》の明かりで、男の顔がうかびあがった。
「……スファル。」
タンダがつぶやくと、スファルは、さっと手をあげて、しゃべるな、というしぐさをした。
そして、しばらく耳をすまして外の物音をうかがっていたが、やがて、タンダに目をもどし、上からのびている縄のはしをタンダに手わたすと、ヨゴ語でささやいた。
「タンダ、ここから逃がしてやる。この縄をのぼれ。はやく!」
タンダは、眉をひそめてスファルをみた。
「チキサは? チキサも逃がしてくれるのか?」
「いや、チキサはここにのこってもらう。」
タンダは、縄をはなした。
「ならば、わたしはいかない。」
スファルは、いらだたしげに縄をタンダにおしつけ、ロタ語にきりかえた。
「きけ。シハナは、絶対にチキサを傷つけることはない。わたしを信じてくれ。とんでもない計画がすすめられているのを、わたしは、ようやく知ることができたのだ。」
スファルはつかのま、口ごもり、闇のなかの少年に目をやった。
「シハナがもどってきたら、チキサは、この牢からだされる。チキサの命がおびやかされることは、絶対にない。むしろ、シハナはチキサをていねいにあつかうだろう。」
そういって、スファルはタンダに目をもどした。
「だが、おまえは、かならず殺される。――いいか、シハナがどうしても手もとにおいておきたいのは、チキサなのだ。チキサをつれて逃げたら、シハナとその仲間は全力で追ってくる。われらだけでは、とても、逃げきることはできまい。」
沈黙が闇のなかに重く沈んだ。
「……いってください、タンダ。」
チキサがつぶやいた。低いが、しっかりした声だった。
「ぼくは平気です。うまく逃げて、もし……もしも……。」
言葉がとぎれた。チキサがなにをいいたいか、痛いほどわかるタンダは、さっと手をのばして、チキサの肩にふれた。
「わかった。きみを、ひとりにするのは、つらいが、おれは、ここをでて、アスラを、探す。アスラを、たすけるため、力をつくす。だから、がんばってくれ。」
チキサがタンダの手をにぎりしめた。
そのとき、スファルがロタ語でつぶやいた。
「……きみは、きっと妹に会える。シハナは――わたしの娘は、きみの耳に心地よい話をするだろう。だが、チキサ、タルの民が、なぜ、これほど長いあいだ、聖伝を伝え、みずから陰に生きてきたのか、どうか、もう一度深く考えてみてくれ。それを胸において、シハナの話をきいてくれ。」
「それは、どういう意味ですか? もっと、わかるように……。」
チキサの言葉を、スファルはさえぎった。
「時間があれば、ゆっくりと話せるのだが、もう時間ぎれだ。ゆるしてくれ。
タンダ、縄をのぼれ! いそげ!」
タンダは、最後にもう一度だけ、チキサの手をにぎりしめると、縄にとりついた。そして、牢の|土壁《つちかべ》に足をかけながら、着実にのぼっていった。天井の穴にちかづくにつれて、しめった草のにおいがつよくなった。
穴のふちに手がかかったとき、だれかの力づよい手が、がっしりとタンダの手首をつかみ、ぐいっとひきあげた。タンダはぎょっとしたが、その男はタンダのようすなどかまわずに、スファルがつかんでいる縄をぐいぐいとひきあげはじめた。
あたりをみまわして、タンダは、自分が川の土手にいることを知った。たえずひびいていた音は、川のせせらぎだったのだ。
土手は枯れ草におおわれ、かなり急な斜面をつくって川へとおちこんでいる。川の両側の土手に、点々と明かりがみえた。凍るような大気のなかに、かすかに煙のにおいがする。
とおくに、土手を歩いてくる人影がみえた。タンダのわきにのぼってきたスファルは、その人影をすかしみて、切迫した口調で、つぶやいた。
「……見張りがもどってきた。いそげ!」
スファルは、カチカチ歯を鳴らしてふるえているタンダの腕をつかみ、土手をすべりおりるようにうながした。
冷たい枯れ草のなかをすべりおりていくと、川にほそながい舟がうかんでいた。さっきタンダをひきあげてくれた男が、さっとその舟にのりこむと、タンダが舟にのるのをたすけてくれた。スファルはなれた手つきで、岸の木にむすんであった|もやい《ヽヽヽ》綱をとくと、身軽に舟にのりこんだ。男が|艫《とも》に膝をついてしゃがみ、|舵《かじ》の役目をするらしいほそい棒をもった。スファルはおなじように片膝をついて|舳先《へさき》にしゃがみこみ、|櫓《ろ》を手にした。
小舟は、魚のようにするりと流れにのった。スファルと男は息のあったしぐさで、かすかに櫓と|舵棒《かじぼう》をうごかし、舟を流れにのせてすべらせていく。ほとんど水音をたてずに、舟は川をくだっていった。
やがて、土手に点々とともっていた光が背後に消えさると、スファルが話しはじめた。
「この川は、ラワル川という。さっきの光は、われらカシャルの家の、|煙出《けむだ》しの穴からもれていた光なのだよ。あそこは、わたしの母方のとおい親族が暮らす村だ。村の|若長《わかおさ》カファムは、シハナの従兄にあたる。」
ぽつ、ぽつと、スファルの声がきこえてくる。
「シハナは、とても頭のきれる娘だが、それだけに、自分はすべて知りつくしていると思いこんでいるところがある。――だが、年寄りには、若者の知らない歴史があるものだ。わたしには、シハナが知らぬ知りあいもいる。」
のどの奥を鳴らすように、スファルが笑った。
「わたしが逃げたのを知ったら、さぞおどろくだろう。」
スファルのうつろな笑い声は、夜のしじまにすいこまれ、消えていった。
[#改ページ]
第二章 罠
1 交易市場へ
狼の群れにおそわれた、おそろしい一夜が明けると、うそのような晴天がひろがった。草原は姿を消し、まぶしく輝く雪の野が、はるかみわたすかぎりひろがっていた。
昨夜、命をおとしかけたナカたちは、夜明けになってようやく、悪夢だらけの眠りにおち、朝になっても、牧夫小屋の壁ぎわの荷物に顔をくっつけるようにして眠りこけていた。
アスラとミナは熱をだし、マロナたちが、夜どおし冷たい布で汗をぬぐってやっていた。
バルサも、狼の鋭い牙で左手に深い切り傷をおっていた。手当てをおえて横になっても、なかなか眠りはおとずれてくれなかった。
たとえ命のやりとりをしても、その危機がすぎれば、あとは平静な気もちにもどって、悪夢もみずに眠れる――そういう身体になっているはずなのに、なぜか、冷たい泥のかたまりのようなものが胸の底につかえて、眠れなかったのだ。
目をとじると、アスラのほほえみがうかんでくる。底に光をたたえた瞳と、熱にうかされたような、あの|微笑《びしょう》が……。ようやく眠りにおちても、バルサは、いく度も、いく度も、あのなまあたたかい風と、牙の光、そしてアスラの微笑を夢にみた。
朝になり、目ざめても、その悪夢のなごりは、なかなか消えていかなかった。
牧夫たちは、夜明けに起きて朝仕事をしにいき、うす暗い部屋のなかには、ナカの隊商の者たちだけが、ぐったりと横たわっていた。
ガタン、と大きな音がして戸があくと、もうひとつの隊商の頭であるレンがはいってきた。
「雪は、うまいぐあいに、カッチカチに凍りついているぞ。」
レンの声は、がらんとした部屋のなかに、やたらに大きくひびいた。彼は、身体を起こしたナカのそばに腰をおろし、すこし声をおとして話しかけた。
「あれなら、馬車の車輪もうまらずにうごける。今朝出発すれば、つぎの吹雪がくるまでに、トルア郷のむこうの、交易宿場にいけるだろう。
おれたちは出発を決めたが、あんたらは、どうするね?」
ナカは、|土気《つちけ》色にくすんだ顔を手でなで、しばらく考えていたが、やがて、うなずいた。
「おれたちも……いくよ。」
声に力がなかった。出発するとなれば、雪原用に馬の蹄鉄をかえねばならない。馬車の車輪にもすべり止めをつけねばならない。山ほどの仕事がある。だが、男たちは昨夜の事件でみな生気がぬけおちたような顔をしていた。
「よし、そのほうがいい。つかれているだろうが、この機会をのがすと、ろくなことはねぇぞ! 心配するな! おれたちの隊商は男手だけは、あまっているからな。蹄鉄は、おれたちがかえてやる。おまえらは、馬車のしたくをしろよ。」
「……もうしわけねぇ。この借りは、かならずかえす。」
そういったナカの肩を、レンが陽気にどやしっけた。
「おお、たのしみにしているぜ。」
レンがでていくと、ナカたちは、出発のために、うごきはじめた。
バルサは、アスラとミナが眠っているわきにかがみこんだ。ふたりとも熱でまっ赤な顔をして、物音にも気づかずに眠りこんでいる。だが、呼吸は夜中より深く、しずかになっていた。
「馬車にのせていけば、だいじょうぶでしょうよ。」
マロナがささやいた。バルサはうなずき、アスラを看病してくれていることに礼をいった。
マロナのつかれた顔に、うすい笑みがうかんだ。
「……昨日の夜は……。」
マロナがつぶやいた。
「もう、だめかと思ったわ。みんな狼に食われちゃったんじゃないかと。いまも、ふしぎ。よくたすかったもんだわ。」
ナカも、ほかの者たちも、昨夜、あの森のなかでなにがおきたのか話していない。話しようがなかったからだ。ナカたちがみたのは、あわく光る、すさまじくはやい風のようなものが、狼たちをつぎつぎに殺していった光景だけだった。
バルサとアスラにとって幸いだったのは、彼らが、アスラがその光をあやつっていたことに、気づかなかったことだ。命があわや消えかけた混乱と緊張のなかで、しかも、わずかのあいだのできごとだったために、彼らは狼たちの死しか目撃していなかった。
バルサは、マロナの言葉に、あいまいにうなずいて、立ちあがった。
外へでると、バルサはレンの隊商の護衛、シンヤを探した。小屋の壁によりかかって、地図をながめていたシンヤは、バルサに気づくと、ちょっと手をあげて、まねくしぐさをした。
「昨夜は、たいへんだったな。傷は、どうだ。」
無口で、感情を|面《おもて》にださないシンヤにはめずらしく、バルサを気づかっている色が目にうかんでいた。バルサは左手をだして、まいていた布をはがし、縫ったばかりの傷をみせた。
「|腱《けん》は切れていないから、だいじょうぶ。二、三日で、うごかせるようになるよ。だけど、それまでは、隊商の右手側だけをまもるしかないね。もうしわけない。」
シンヤはうなずいた。
「おれが、左手側をひきうけよう。」
地図をあごでしめしながら、シンヤはつづけた。
「うまくいけば、今夜には交易宿場につけるだろう。問題は、四日後だな。」
バルサはうなずいた。
「シャハルの切り通しは、盗賊の名所だからね。」
交易宿場は、隊商たちが集まる宿場だ。周囲を高い防壁でかこみ、ここを定期的に利用する隊商たちが金をだしあって、おおぜいの護衛をやとっている。各国からおとずれる商人たちと、地元の人びとが、安全に商売ができる場がつくられているのだ。
だが、問題は、ひと商売おえて、金を|懐《ふところ》にした隊商たちが、つぎの大きな交易宿場であるトルアンへむかうためにかならずとおる、シャハルの切り通しだった。
そこは、両側が崖になっているほそい道だ。崖の上から矢を射て、いっきに馬でかけくだってくる盗賊たちに、いくつもの隊商が犠牲になってきた。
もちろん、このあたりを管理しているロタのシャハル氏族は、交易の安全のために、武人たちを切り通しの警護にあたらせているが、なぜか、ときどき警護のすきをぬって盗賊たちがおそいかかってくることがある。
シャハル氏族の長に、盗賊たちが、かなりの金をしはらって、みのがしてもらっているという噂が、あとをたたなかった。盗賊たちは、もとをただせば、シャハル氏族のはぐれ者たちだ。氏族長と血がつながっている者もいる、という話もささやかれていた。
隊商の者たちは、氏族長に贈り物と称して金品をあたえることで、安全を保障してもらうこともあったし、うまく、いくつもの隊商がうごく時期があっていれば、それぞれが金をだしあって、護衛をふやし、かたまって難をのがれることもあった。
「ほかの隊商と組めればいいけれどね、あの吹雪で移動の予定がくるった連中もいるだろうから。うごく時期が、ばらけるかもしれない。」
シンヤと、さまざまな場合を想定して護衛の計画をねるうちに、バルサは、悪夢の味をわすれていった。
ナカとレンの隊商が、交易宿場の高い防壁にひらいている正門をくぐったのは、夜もずいぶんおそい時刻だった。なじみの宿場で荷をほどき、ひさしぶりに湯につかって、食事をおえるころには、みな、あまりのつかれに、無口になっていた。
ここでは護衛の必要はない。毛皮の売買をする二日間、バルサとシンヤは、それぞれの|頭《かしら》から休日をもらった。
護衛たちの宿は、防壁のそばにつくられている。バルサは、まだ熱がさがらずにうとうととしているアスラをせおって、自分にわりあてられた宿の個室にはいっていった。
部屋の両側の壁につけられた、ふたつの大きな寝台にはさまれて、食卓がひとつある。質素な部屋だったが、床には毛織りの敷物がしかれ、部屋の奥には暖炉もあった。
寝台におろすと、アスラは、ちょっと目をあけたが、すぐにまたとじてしまった。部屋は冷えきっていて、厚い毛布をかけてやっても、アスラはガタガタふるえている。
「……すぐ火をつけるよ。もうちょっと、がまんしていておくれ。」
そう声をかけたが、アスラにはきこえていないようだった。
バルサは暖炉の|火床《ひどこ》から火種をかきおこし、|薪《まき》をのせた。ほどなくして炎が薪をなめはじめると、バルサは火に手をかざし、じっと、ゆれる炎をみつめた。
この宿には、何度か泊まったことがある。子どものころは、いまのアスラのように、さきに寝台に横になり、ジグロが薪に火をつけるまで、毛布にくるまってふるえていたものだ。
煙突がつまっていないかどうか、煙がのぼっていくようすをたしかめてから、バルサは|旅装《りょそう》をとき、寝台に横になった。夜のしじまに、だれがかなでているのか、ほそく笛の音がきこえている。かなしげな、その音色をきくともなくききながら、バルサは深い眠りにおちていった。
夜明けすこしまえに、バルサは目をさました。むこう側の寝台から、すすり泣きと、なにか、しきりに話している声がきこえてきたからだ。
「……お母さん。お母さん! いや! お母さんを殺さないで……!」
アスラがうなされているのだった。悪夢をみているのだろう、泣きながら身をよじっている。バルサはアスラのわきにかがみこんで、汗にぬれた髪をなでてやった。
「だいじょうぶ。夢をみているんだよ、アスラ、目をさましなさい。」
アスラは目をさまさなかったが、深い吐息をつくと、ぎゅっとにぎりしめていたこぶしをほどいた。そして、寝返りをうち、枕に顔をうずめると、しずかな寝息をたてはじめた。
西側にひとつだけひらいている小さな窓のむこうに、夜明けの青い闇がみえる。うすぼんやりと影に沈むアスラの顔をみつめながら、バルサはもの思いにふけっていた。
(――お母さんを殺さないで……か。)
タンダとふたりで、スファルからきいたシンタダン牢城での惨事。たしかスファルは、女が処刑されていた場所から、巨大な鎌をふるったように死体がちらばっていた、といっていた。
その人びとの死が、どんなふうにしてもたらされたのか、いまのバルサには、ありありと思いうかべることができた。あのなまあたたかい風とともに、光る牙がアスラからとびだして、虐殺していったのだ。……たぶん、アスラの母の処刑をみていた人びとを。
夜明けの青い闇に似た、しんしんと冷たいものが、バルサの胸にひろがっていた。
スファルが、この子を殺そうとしていたわけが、いまは、よくわかる。――なんというおそろしいモノが、この子には宿っているのだろう。
頬に涙のあとをつけて、かすかに口をあけて、寝息をたてているアスラの寝顔は、あどけなかった。……あまりにも、おさなかった。
のどもとに、しみるようなかなしみがこみあげてきて、バルサは、ぎゅっと歯をくいしばった。
運命をつかさどる神がいると、よく人はいう。だが、もし、そんな神がいるのなら、なぜ、こんなおさない子に、これほどむごい運命をあたえるのだろう。
バルサは自分の寝台に腰をおろし、短槍を膝のあいだに立てて、額をつけ、目をとじた。
(命をたすけるだけでは、この子はすくえない。)
バルサは、そのまま、朝がくるまで、じっとうごかなかった。
アスラは、朝になっても目ざめなかったが、バルサはさほど心配しなかった。このまえ、あの化け物をあやつったときも、こんなふうに眠っていたから、いずれは目がさめるだろう。
宿の食堂へいって、しぼりたての乳をたっぷりつかった、あまい麦の粥の朝食をおえ、盆にアスラの分の朝食をのせて部屋に帰ってくると、部屋のなかから話し声がきこえてきた。
なかへはいると、アスラの寝台によじのぼっていたミナが、手をふった。
アスラは目をさましていた。上半身を起こして、寝台にすわっている。
「目がさめたんだね。気分はどう?」
アスラは、まだねぼけているような顔で、ほほえんだ。
「だいじょうぶ。なんだか、ぼうっとしているけれど。」
「きっと熱のせいよ。わたしも、起きたとき、そんな感じだったもん。」
ミナは、母のマロナそっくりのおとなびた口調でいって、バルサが食卓においた盆をみた。
「あ、それ、アスラの朝食?」
「そうだよ。ミナは朝食をおえたのかい?」
ミナは|粥《かゆ》の蓋をとって、なかをのぞきこんだ。
「うん。……あれ? これ、サッカウ(干し果物をくだいて、砂糖でかためたもの)がはいっていないね。わたしたちのには、はいっていたのに。」
バルサは笑った。
「|隊商宿《たいしょうやど》のほうが、宿代が高いからね。食事もいいものがでるんだよ。」
「ふうん。……じゃあ、アスラ、昼食にお菓子がでたら、もってきてあげるね。」
アスラはミナの髪をなでた。
「ありがとう。たのしみに待っているね。」
ミナは、くすぐったそうに笑って、アスラを抱きしめた。
「こわかったねぇ! 狼! さっき、お母さんに怒られちゃった。もうすこしで狼に食い殺されるところだったんだよって。……でも、ほんとうに、どうしてたすかったのかなぁ? アスラはみなかった? だれが狼を殺したのかなぁ?」
アスラは、しずかに身体をはなして、ミナの顔をのぞきこんだ。
「……きっと、カミサマがたすけてくださったのよ。ミナが、お父さんのこと、たすけてって、いっしょうけんめい願ったから、ききとどけてくださったのよ。」
アスラが、ちらっとバルサをみて、ほほえんだ。
バルサは、笑みをかえせなかった。稲妻のように、ある想いが心のなかにひらめいたからだ。
(――そうか。アスラは、あれを、神だと思っているのか……!)
人を気づかう、やさしい娘なのに、アスラが、おおぜいの人を虐殺したことを深く思い悩んでいるようにみえなかったのが、バルサにはふしぎでならなかった。
たとえ自分の命をまもるためでも、人を殺した記憶は魂に深くきざまれる。なまぐさい血のにおいとともに。……どんなに正当化しようとしても、のがれられない思いと後悔を、魂にきざむものだ。
だが、神ならば――祈りをききとどけて、神がたすけてくれたのだと思っているのなら、罪の意識を感じることもあるまい。祈りをききとどけたのは神。裁きをくだしたのも、アスラではなく、神なのだから。
いま、アスラの目にうかんでいるのは、心から安らいでいる者の、やわらかい笑みだった。あの狼を殺したことで、神がまもってくれていると、いつでも自分の|招喚《しょうかん》に応じてくれると確信したのだろう。いまのアスラには、おそれるものがないのだ。……兄をたすけることもかんたんにできると思って、ほっとしているのかもしれない。
腹の底から|寒気《さむけ》がはいあがってきた。それは、狼を殺しつくしたアスラがほほえんだときに感じたのと、おなじ寒気だった。
アスラに、二度と、あれを招喚させてはならない。人を殺させてはならない。
人を傷つけるということ――人を殺すということ。その意味を実感したときには、もう、なにもかも手おくれなのだ。後悔もなにも、役にたたない。苦悩は一生魂につきまとい、消えることはない。
――人に槍をむけたとき、おまえは、自分の魂にも槍をむけているのだ。
ジグロの言葉が身にしみてわかったのは、実際に短槍で人と闘ったあとだった。あのときバルサは、はいた。手につたわった、人をさした感触。それと、大地にたおれている男の醜い傷口とがむすびついた瞬間、バルサは身をよじってはいた……。
まだ、アスラはおさない。いまは、兄をたすけて、と神に願い、それを神がかなえてくれるのだからと思っていても、いつか、かならずさとるときがくる。たとえ、実際に人ののどを切りさいたのは神でも、それを望んだのは自分なのだということに。
(この子の手を、これ以上血でよごしちゃだめだ。)
人を傷つけて生きる人生が、どんなものであるか、いやというほど知っている。
バルサの脳裏に、ジグロの顔がうかんできた。おさない自分のためにつくった短槍を、手わたしてくれたときの顔だった。その目にうかんでいた深いかなしみが、いまはよくわかる。これから、この短槍をもって、バルサが歩んでいく殺伐とした道を思っていたにちがいない。あのころは、まったくわからなかった。短槍を手にしたときも、燃えたつようなよろこびしか感じなかった。……そして、いまも、これほど嫌悪と後悔にまみれながらも、短槍をすてることのできぬ自分がいる。
(わたしの胸の奥には、狼より貪欲に闘いをほっする獣がいる。)
おさえつけようとしても、闘いたい、思いきり短槍をふるいたい、と身をよじる獣がいるけれど、アスラは槍ではなく、花の香りのする衣を愛する娘だ。闘いへの醜い欲望を胸にいだいている自分とはちがう。あんなおそろしいモノに宿られていなければ、もっとおだやかな道を歩んでいけるはずなのだ……。
「わたしね、これから市場につれていってもらうの! アスラもいこうよ。」
ミナのはしゃいだ声に、バルサはわれにかえった。ミナの言葉に、アスラは心ひかれたようだったが、すぐに首をふった。人目につく場所にでていってはまずいと思ったのだろう。
「なんだか、まだ身体がだるいから……。」
「ふーん。残念だなぁ。じゃあ、ちょっと眠ってから、でておいでよ。ここの市場、おもしろいものがいっぱいあるんだよ。」
アスラが、バルサをみあげた。バルサは、つとめて平静な口調でいった。
「あとで、つれていってあげるよ。わたしも市場にいく用事があるし。」
アスラの顔が、ぱっとあかるくなった。
ミナが、昨夜まで熱をだしていたとは思えない元気なしぐさで、手をふって、部屋をでていくと、アスラは、バルサにたずねた。
「ほんとうに、市場についていっていいの?」
「ここは交易市場だからね。ロタ人よりも、よそ者が多いくらいだし、タルの罠猟師も毛皮を売りにきている。心配いらないよ。」
「あの、スファルという人にみつかったら……?」
「どうせ、わたしらの目的地はわかっているんだから、ここで逃げかくれしても意味はないよ。むしろ、スファルの仲間があらわれてくれたら、ありがたい。彼らのおもわくを知りたいからね。」
バルサは寝台に腰をおろして、アスラに粥を食べるように手でしめした。アスラは、あまり食欲がないような顔でひと口食べたが、そのおいしさに気づくと、ぱくぱく食べはじめた。
そんなアスラをみながら、バルサは、重い気もちをきりかえようとしていた。この二日の休日は、とても貴重だ。この二日のあいだに、すこしでもスファルたちについての情報を集めなければならない。
さいわい、ここは交易市場だ。物といっしょに、情報も集まってくるところだった。
[#改ページ]
2 早耳のタジル
バルサとアスラは、シュマ(風よけ布)をまとい、頭巾から目だけをだした姿で市場にむかった。雪原をわたってくる風は、防壁にとめられているとはいえ、大気は氷のように冷たく、道ゆく人びとも、おなじような装いをしているので、目立つことはなかった。
カンバルの〈|郷《さと》〉に似て、防壁で外郭をぐるりとおおわれた交易宿場は、小さな街ほどの大きさがある。防壁ぞいに宿屋がひろがり、中央には、まるで大きな椀をふせたような、巨大な建物があった。
市場はその建物のなかにあった。雪の季節が長いこの地方で、一年じゅう商売ができるように、隊商と地元の商人たちが資金をだしあってつくった、みごとな屋内市場だった。もうすこし南にくだり、ジタン城塞にほどちかいトルアンの街にいけば、これより巨大な屋内市場があるが、うまれてはじめて屋内市場をみるアスラには、とてつもなくふしぎで、豪華な建物にみえた。
あけはなたれている大きな正面扉から、バルサに手をひかれて、一歩、なかに足をふみいれたアスラは、ぽかんと口をあけてしまった。
天井は、複雑な|木組《きぐ》みがむきだしになっている。何本ものふとい円柱が、天頂にむけてかすかに湾曲している|円天井《まるてんじょう》をささえているほかは、部屋割りはなく、みわたすかぎり、露台がならんでいた。
わぁんと音がこもって、耳鳴りのようにきこえる。市場ではたらく人びとのかけ声、商人たちのやりとりが、壁に反響してひびいているのだ。円天井には、いくつも明かりとりの窓があいていて、白い光がいく筋もさしこみ、うっすらとほこりが舞っていた。
野菜や干し果物、穀物や肉類など食糧をあつかっている店もあれば、炉に油鍋をかけて揚げ物をつくっている店もある。
そのむこうには、武器をならべている店もあり、料理屋からたちのぼるにおいがとどかないあたりから、多くの毛皮商が台をならべはじめる。
はずれのはう、建物の陰にかくれるようにして、毛皮を売っているタルの民の姿に気づいたとき、アスラは、鼓動がはやくなるのを感じた。ずいぶんたくさんの、タルの民がいる。罠猟でとらえた獣の毛皮を売っているのだ。
(――お父さんも、あんなふうにして、毛皮を売っていたんだわ。)
女の人も、数人まじっていた。しゃがんで毛皮をひろげていた女性が、ふとアスラをみた。頭巾をまぶかにかぶっているので顔はよくみえなかったが、たしかに、アスラをみて、はっとしたようにみえた。
足ばやに歩いていくバルサにつれられて、アスラは、声をかわすこともなくタルの民の横をとおりすぎたが、彼女らの目がずっと迫っているのを、うなじに感じていた。
バルサもまた、その視線に気づいていたが、あえて無視した。いま、タルの民にかかわることがよいことかどうか、判断ができなかったからだ。もし、彼らに話をきくなら、夜になってから、人目につかない場所をえらんだほうがいい。
バルサは、壁ぞいに|衝立《ついたて》をたてて、短槍や長槍、剣などを掛けている一角にむかっていた。そこは商人たちがほとんどおらず、妙にしずかだった。ほかの店とはちがう、足をふみいれるのをためらわせるような雰囲気がただよっていた。
衝立の奥は意外に広く、まんなかに炉がたかれていて、木製の長椅子に腰をおろした男がひとり、ゆったりとラコルカ(乳入りのお茶)を飲み、タジャ(煙草)をくゆらせていた。
奥のほうには、この場に似あわぬあかるい色の布がかかり、そのむこうから、チャッチャと水がはねるような調子のいい音がきこえていた。
男が顔をあげて、こちらをみたので、アスラは思わずバルサの手をぎゅっとにぎった。
なめし革のような茶色い肌をした男だった。首も腕も、どこもかしこもがっちりとふとい。のっそりとした外見に似あわず、目には油断がならない光がうかんでいる。
バルサは気おくれするようすもなく、シュマ(風よけ布)をはずした。
「……おお、短槍使いのバルサじゃねぇか。ずいぶんとひさしぶりだな。」
牛がうなっているようなふとい声で、男がいった。
「おひさしぶり。元気そうだね、早耳のタジル。」
早耳のタジルとよばれた男は、にやっと笑った。
「まあ、すわれや。」
そういって椅子をしめしながら、タジルは、じろっとアスラをみた。
「あんたの娘かい? ……そんなわけねぇなぁ。いや、隠し子ってこともあるか。」
「なにをばかなことを。」
かるくいなして、バルサはアスラをさきにすわらせ、自分も椅子にすわった。そして、じっとタジルをみすえた。
「シュマをしてたって、この子がタルの民だってことは、すぐわかったはずだろう、タジル。そういう軽口をたたいて、時間かせぎをしてるのは、わたしらの情報をどう売るか考えているからかい?」
タジルは、にやっと笑った。
「あいかわらず、鋭いや。」
タジルの顔から笑みが消えた。
「あんた、|的《まと》にかけられてるぜ。――今度は、なににかかわったんだ?」
バルサは肩をすくめた。
「それが、自分でもよくわからないから、こまっているのさ。どこのどいつが、わたしを的にかけている〈猟師〉か、おしえてくれないかね。」
タジルはあごひげをさすった。
「さあてなぁ……。ただでは、ちょっとなぁ。」
とたんに、バルサが笑いはじめたので、アスラはびっくりしてバルサをみあげた。
「あんた、つくづく欲が深いね。どうせ、わたしらが帰ったら、すぐにその〈猟師〉に、わたしらの情報を売って、いい金をもらうんだろうに。」
タジルが、にやっと笑った。
「まあ、そりゃそうだがな。……あんたとジグロにゃ恨みもあるが、恩もある。まあ、どっちかといやぁ、恩のほうが多いか。」
そういって、真顔にもどると、声を低めてささやいた。
「おれに声をかけたのは、ここの氏族長の次男だ。タルの民の小娘をつれた、短槍使いの女があらわれたら、すぐに知らせろといってきやがった。」
意外な話に、バルサは、かすかに眉をひそめた。なぜ、シャハル氏族長の次男がかかわってくるのだろう? 草をゆさぶったら、思いがけぬところまで、根がひろがっているのをみたようで、背筋が寒くなった。
勘の鋭いタジルは、そのバルサの表情をみて、つぶやいた。
「……考えていた相手じゃなかったようだな。図星かい?」
バルサは、考えこみながらうなずいた。
「ああ、図星だね。わたしは、呪術師が相手だとばかり思っていたよ。」
「呪術師ぃ?」
今度はタジルが、意外そうな声をあげた。
「あんた、スファルって知らないかい? 女のように小柄だが、武術のこころえがある初老の男なんだけどね。肩にマロ鷹をとまらせている。」
タジルは首をかしげた。
「さあて、知らねぇなぁ、そういうやつは。だが、まあ、呪術師で、小柄ってのは、わかる。あんたがいっているのは、たぶん〈川の民〉のことだろう。」
「〈川の民〉?」
「マラル川やラワル川ぞいの土手に村をつくって暮らしているやつらさ。背が低くてよ、獣を手下にしてつかってるっていう話だぜ。悪霊が憑いただの、呪われただのってときに、金をはらったらたすけてくれる呪術師だよ。……なんだい、そのタルのアマッ子は、悪霊にでも憑かれてるのか。まあ、タルの民なんてなぁ、悪霊と親戚みたいなもんだっていうからな。おっかさんが悪霊で、親父が人だってこともあるそうだしよ。」
アスラは、はじかれたように顔をあげた。母と父を侮辱された、と思った瞬間、胸の底がかっと熱くなった。
「お? いっちょまえに、おれをにらんでやがる。威勢のいいアマッ子じゃねぇか。」
バルサは、アスラからたちのぼりはじめた殺気におどろいた。それは、いままでのアスラからは想像できない、凶暴な気だった。
バルサはアスラの肩に手をおいて、タジルをかるくにらんだ。
「子ども相手にいう言葉じゃないだろう、タジル。この子は、いまはわたしの養い子だ。この子への侮辱は、わたしへの侮辱だよ。」
口調はおだやかだったが、その声にひめられているものを感じとって、タジルは肩をすくめた。
「冗談だよ。まあ、怒るなや。」
そのとき、奥にさがっている布のむこうから、しわがれ声がきこえてきた。
「おまえの冗談は、品がなさすぎるんだよ。」
布をはねあげて、でっぷりふとった老婆が、血色のいい顔をのぞかせた。手には壺からつきでた|攪乳棒《かくにゅうぼう》をにぎっている。さっきからきこえていたチャッチャッという音は、ラ(バター)をつくっていた音だったのだ。
「おふくろ、そこでラをつくるのはやめてくれって、いつもいっているだろう? なんでうちでやらねぇんだよ。」
タジルは、げんなりした顔でそういって、バルサに、ため息をついてみせた。
「たまんねぇよ。毎日、こうやって、ここでチャッチャ、チャッチャ、ラをつくりながら、ぬすみぎきをしてやがるんだぜ。」
タジルの母親は、ふん、と鼻を鳴らした。
「ラってもんはね、耳をもってるんだよ。おもしろい話をきかせてやれば、味に|こく《ヽヽ》がでるのさ。」
「へっ。ここできける話ぁ、ろくな話じゃねぇだろうによ。だから、おふくろのラは、いやな味がするのかもな。」
タジルの母親は、息子によく似たふとい眉をぎゅっとあげた。そして、アスラのほうをむいて、手まねきをした。アスラが、びっくりして、どうしたらいいか迷っていると、彼女は大きな声でいった。
「こっちへおいでよ。ラヤ(バターミルク)をあげるからさ。うちの息子がくだらないことをいって、わるかったね。」
アスラはバルサをちらっとみた。バルサがうなずくと、アスラはおずおずと老婆にちかよった。老婆はなれた手つきで壺の蓋をとると、乳の上にかたまってうかんでいるラを水のはった桶におとし、壺にのこったラヤを、木の椀にそそいでくれた。
アスラは、とろりとしたラヤをひと口飲んで、目をまるくした。ラヤは母がラをつくるたびに飲ませてもらっていたが、これほどおいしいものは初めてだったからだ。あまい香りが独特だった。
アスラの表情をみて、老婆は笑った。手ばやくラのかたまりを水であらい、皿にうつして塩をねりこみながら、彼女は自慢げにいった。
「うまいだろう。香料に秘密があるのさ。」
老婆は、バルサに目をうつした。
「ひさしぶりだねぇ、短槍使いのバルサ。ちかごろ、姿をみなかったけど、元気そうじゃないか。」
「おひさしぶりです、カイナさん。カイナさんは、ほんとうに年をとりませんね。」
カイナは、上をむいて、はえるような声で笑いだした。
「うまいねぇ。そのくらいしか、ほめるところはないだろうけどさ。……でも、あんた、うちの息子なんかに話をきいたって、ろくな情報はもっていないよ。まだまだ、ひよっこだからねぇ。」
「なんだとぅ?」
タジルがにらみつけても、カイナはすずしい顔でつづけた。
「だいたい、鷹使いのスファルも知らないぐらいだからね。まだまだ。」
バルサは、はっとしてカイナをみつめた。
「ごぞんじなんですか、スファルを?」
カイナは、にやっと笑って、息子をちょっとどかせると、長椅子にどっかり腰をおろした。
「あんた、わたしが娘のころ、どこにいたか知っているかい?」
バルサがだまっていると、カイナの目に、自慢げな色がうかんだ。
「わたしはね、若いころ、ジタンのお城で料理番をしてたのさ。この子がうまれたころには、料理長にまで出世していたんだよ。」
タジルがげんなりした顔でつぶやいた。
「バルサ、気をつけろよ。話が長くなるからな。」
カイナは、じろっと息子をにらみつけた。
「わたしゃ、昼間っから若いころのひとつ話をくりかえしてるジジイとはちがうからね。要点だけ、ずばずば話してやるさ。
ジタン城は、知ってのとおり、代々、王弟殿下が住まわれる居城だよ。ロタ王国第二の都市の、大きなお城さ。氏族の城塞とちがって、王族が住まわれる城だから、格式も高い。
わたしはね、そこで、六つの年から五十年もはたらいたのさ。城の厨房ってところは、噂話がどっさりと集まってくるところなんだよ。タジルが、いっちょまえに情報屋なんぞをやっているのは、もとをただせば、わたしの人脈があったからさ。」
タジルは、ぶすっとした顔をしていたが、今度は茶々をいれなかった。カイナの目には、むかしを思いだしている、なつかしげな色がうかんでいた。
「亭主に死なれて、女手ひとつでタジルをそだてていたあのころ、わたしゃ、よく街の酒場で、あらっぽい男たちと対等に酒を飲み、情報をいろいろ、おしえてやってたもんさ。
あんたの養い親のジグロにであったのも、そんなころだったよ。おぼえているだろう?」
バルサは苦笑した。いまのでっぷりふとった姿からは想像できないが、当時のカイナは、すらりとした容姿の、きっぷのいい女だった。大声で笑い、酒を飲み、そして、情報をやりとりしていた頭のきれるカイナの姿は、いまも思いだせる。
「わたしは、ジグロと酒をくみかわした思い出も、わすれちゃいないよ。あのジグロの養い子、目ばかりギラギラさせてた、やせっぽちが、根性のすわった用心棒にそだっていくのをみるのも、おもしろかったしね。」
カイナは、ぐいっとふとい手を膝について、身をのりだし、声を低めた。
「タジルはもの惜しみするやつだから、しらばっくれてたが、むかしのよしみでおしえてやるよ。〈川の民〉は、たしかに呪術師だが、もうひとつの顔ももっている。あいつらはね、密偵なのさ。王族のね。
わたしは、有力な氏族の長たちが、やつらをおそれていたのを知っている。わたしも、何度も、お城で、彼らといきあったもんさ。王に、さまざまな行事の日どりの吉凶を占ったり、呪いをふせいだりするためにおとずれているといわれていたけど、いくつかの話をむすびつけるうちに、わたしは、ピンときたのさ。」
バルサは、彼らの追跡の技を思いだして、深くうなずいた。新ヨゴの帝が影の者をつかっているように、スファルたちも、王族に深くかかわる影の者たちなのだろう。
「なるほどね。――だけど、ここの氏族長の次男は、どうかかわってくるんだろう……。」
バルサがつぶやくと、カイナが、目を輝かした。
「それさ。その話をしなくちゃと思って、しゃしゃりでてきたんだよ。
バルサ、あんた、このロタ王国の事情を、どの程度知っている? 王弟イーハン殿下が、この北部で、どれほど人気があるか、知っているかい?」
バルサは首をかしげた。
「噂では、きいたことがあります。南部の大領主からはきらわれているが、彼らの反感をかうのもおそれない、豪胆な改革者だと。」
カイナが、わが意を得たり、という顔でうなずいた。
「そのとおりさ! わたしはね、先代の王弟殿下が亡くなって、イーハン殿下が城主になられたときから、ずっと知っているからね。いかにすばらしいお方か、よーく知っている。
あんたは、何度もこの国にきているから、わたしら北部の者たちが、南部のやつらを憎んでいるのは知っているだろう? ただ土地にめぐまれているってだけで、なんの努力もせずに肥えふとって、でかい|面《つら》をしているやつらをさ。
わたしら北の者は、そりゃはたらき者だよ。冬がくれば雪にとざされてさ、狼どもがおそってくるあらっぽい土地で、歯をくいしばってがんばっている。
ねぇ? その努力は、報われてあたりまえだと思わないかい? イーハン殿下は、当然のことをおっしゃっているのさ。だから、北部の氏族の、とくに若い連中は、イーハン殿下を熱狂的に支持しているのさ。」
熱にうかされたような口調で、そこまでいって、カイナは真剣な表情になり、バルサを正面からみすえた。
「で、あんたは、どうしてイーハン殿下に敵対しているんだね。」
「……はあ?」
バルサは、突然の、ふしぎな問いかけに、つい間のぬけた声をだしてしまった。――それが幸いしたらしい。不意をついた問いかけにバルサが素直におどろいたのをみて、カイナは腕をくんだ。
「敵対しているわけじゃないのかい?」
「敵対もなにも……。」
バルサはアスラの肩に手をおいた。
「なにがどうなっているのか、よくわからないから、かんたんにいいますが、わたしが追われているのは、この子をスファルの手から、かっさらったからですよ。どんなわけがあるのかは知らないけれど、子どもが殺されるのを、だまってみているわけにはいかなかったのでね。」
カイナは、苦いものでもかんだような顔をして、アスラをみた。
「なんだい、そりゃ。――わたしはスファルを知っている。あの男は頑固だけれど、まがったことはしないと思うがね。バルサ、あんた、きっとよけいなことをしちまったんだと思うよ。」
カイナは、バルサをみて、ため息をついた。
「だけど、まあ、あんたが、この娘を見殺しにできなかった気もちは、わからないでもない。あんたも、孤児だったわけだしさ。似たような境遇の子を、ほっておけなかったわけだろう? あまいよねぇ、あんた。一見こわもてだけど、そういうところはさ……。」
アスラは、その言葉をきいて、はっとした。ジグロという養い親がいたことは、きいていたから、そうではないかと思っていたけれど、やはりバルサも孤児だったのだ。
あまいといわれて、バルサは肩をすくめた。
「たしかにね。――でも、他人をあっさりみすてるやつは、自分も他人からあっさりみすてられるからね。」
カイナがにやっと笑った。
「名言だね。」
それから、真顔にもどってあごをなでながら、カイナはつぶやいた。
「イーハン殿下は、むしろタルの民を保護しようと努力しておられる。わたしみたいな無学の者でも、長いこと殿下のお働きをみていれば、タルの民に対する見方を変えるくらいに、そりゃ熱心にやっておられる。だから、この子がタルだからっていう理由で、スファルに殺すように命じたはずはないよ。」
カイナは、だまりこんでしまった。そのとき、タジルが口をひらいた。
「あのよ、おふくろ。おふくろは、氏族長の次男が熱狂的なイーハン殿下の支持者だから、バルサが、イーハン殿下に、なにか不都合なことをしていると思ったんだろう? おれも、最初はそう思ったから、いろいろしらばっくれたんだがよ、さっきから考えていて、ちょっと変だと思いはじめた。」
カイナは、だまって息子をみ、目でさきをうながした。
「あの次男、そんな重要な仕事ができるようなやつじゃねぇよ。知っているだろう? あいつは、かなり強欲で、野卑な男だぜ。たしかに、イーハン殿下支持だって、大声でいっているが、政に熱心になるやつじゃない。むしろ、盗賊につながってるはずだぜ。」
カイナは、うなった。
「たしかに、変だね。スファルが、盗賊を仲間にするとは思えない。……やりくちの色が、ちがいすぎる。」
その言葉をきいた瞬間、バルサの脳裏に、なにかがひらめいた。
(……なんだろう。まえに、似たようなことを感じたことがある。)
バルサは目をほそめた。
(そうだ。あの、ジタン祭儀場にこいという置き手紙をうけとったときだ。)
わざわざタンダの名をかたって、人をなぶるやり方には、にじみでるような悪意があった。
わずかなあいだだったが、言葉をかわしたスファルの人柄とは、カイナがいうように「やりくちの色」がちがうと、あのとき思ったのだ。
バルサは、だまって親子のやりとりをきいていたが、カイナとタジルほど、このあたりの情報に精通した者たちでも、けっきょく、すっきりする答えをだすことはできなかった。
それでも、おとずれた|かい《ヽヽ》はあった。ぼんやりとだが、警戒せねばならない相手の巨大さが、みえてきたからだ。敵の姿をしっかりととらえること。――それが、生きのびる道をみつけるための、第一歩だった。
バルサは、懐から財布をだして、ふたりにたずねた。
「腕がよくて人柄もいい護衛で、いま仕事についていない人を知らないかい?」
自分たちがねらわれているとわかった以上、ナカたちにめいわくはかけられない。ナカたちとは、ここで別れるべきだろう。違約金をはらって、よい護衛をみつけねばならない。
タジルは、あごをなでながらちょっと考えていたが、
「サバールがいいだろう。|長剣《ちょうけん》の使い手だ。人あたりがいいやつだしな。」
といって、その男の居所をおしえてくれた。
バルサは情報の代金をはらうと、礼をいって立ちあがった。タジルが、かるく手をあげた。
「おおよ。――でも、礼は口にもどしていいぜ。おれは、この情報を売らしてもらうからな。」
タジルは、まっすぐにバルサをみつめて、わるびれるふうもなくいった。バルサはうなずいた。
「せいぜい高い値で売っておくれ。……それで、カイナさんに親孝行しておくれよ。」
カイナが、にやっと笑って手をふった。
また会おう、という言葉は、どちらも口にしなかった。タジルのような情報屋も、バルサのような用心棒も、未来を約束する言葉は口にしない。――そういう言葉を口にしてしまうと、運にあざわらわれるような気がするからだった。
タジルの店からはなれると、バルサは、ぶらぶらと歩きだした。そして、小さな焼き菓子売り屋にたちよって、ラをたっぷりとねりこんだ焼き菓子とラコルカ(乳入りのお茶)をふたり分買って、建物のすみに、点々と長椅子がおいてある休憩所へアスラをつれていった。
休憩所には人影はなく、人びとがたちはたらくざわめきが、ぼんやりときこえてくる。
焼き菓子を手にもったまま、アスラはバルサをみあげ、気になっていることをたずねた。
「……バルサ、あの人たち、ほんとうに、わたしたちのことを話してしまうの?」
バルサは、うなずいた。
「ああ、今日じゅうに話してしまうだろうね。それが、あの親子の商売だから。」
口のなかにのこっているラヤの味が、ふいに苦くなったような気がした。
「むかしからの知りあいの命を売って、お金を稼ぐなんて……、どうして、そんなことができるのかな。」
バルサは苦笑した。アスラの気もちは、よくわかる。少女だったころ、バルサもそう思った。
「欲張りで、ずるくて……それでもね、あの親子は、せいいっぱいの厚意をみせてくれたんだよ。情報の売り先をおしえてくれるなんて、ふつうはありえないことだからね。」
バルサは、ラコルカの椀を長椅子におくと、アスラのほそい肩に手をおいた。
「彼らは、わたしに敵の姿をちらっとみせて、用心しろよといってくれた。そこからさきは――自分次第さ。」
肩におかれている手から、重みとぬくもりがつたわってくる。
「バルサは……。」
思わず、つぶやいてしまって、アスラはつぎの言葉をのみこんだ。バルサは、うながすように片眉をあげた。アスラは顔を赤くして、早口にいった。
「バルサは、とても、自信があるのね……自分に。わ、わたしも、そんなふうになりたいな。」
バルサは、ちょっと、たじろいだ。
「自信……というのとは、すこし、ちがうんだけどね。」
そんな上等なものじゃない、と、バルサは胸のなかで思った。
大木のように自分をまもってくれていたジグロが死んでから、長いこと、たったひとりで用心棒稼業をしてきた。うす皮一枚のむこうに、つねに死がひそんでいるような生活のなかで、いつしか、あきらめるのがうまくなったのだ。
ひとりで用心棒稼業をはじめて間もないころ、信じていた人に、手ひどく裏切られたことがある。ある大きな隊商の護衛仲間だった。盗賊がおそってきたとき、その男は、バルサをだまして、おとりにつかって、隊商をまもったのだった。
死にかけるほどの重傷をおって横たわっていたとき、バルサは思った。
人にたよれば、心にすきがうまれる。つらくて、弱みをみせれば、だれかがそれを利用するかもしれない。――命は、自分の身体と頭とでまもれるぶんだけ、つづいていくもの。自分でまもれないときは、ここまでの命だったと、あきらめるしかない。
死ぬのがおそろしくて、弱音をはきたくなる自分をささえるために、いつのまにか心がうみだした、人生を、どこかであきらめている気もち。
自分のために人生をうしなった多くの人びとへの罪の意識もまた、その思いをつよめていた。彼らのことを思うと、自分がたのしい人生を送ってはいけないような気がしていたからだ。
そういう罪の意識が軽くなったいまも、自分の心には、|習《なら》い|性《しょう》になった気分が深く根をはっているのを、バルサは感じていた。
この気分というか、心構えは、いざというときの思いきりをよくしてくれた。こういう気もちでいなかったら、いままで、生きのびられなかっただろうと思う。
けれど、それはけっして、アスラが頬をそめて憧れるようなものではない。
命がけで、アスラをたすけたことを、あまい、と、カイナはいったが、きっと、そうではないのだ。――人生をたいせつだと思う気もちに、自分は、まだなれていないのだ。
タンダとすごしたおだやかな日々に幸福を感じながら、どこかで、借り物の人生を生きているような、おちつかなさがあった。未来を夢みることが、できなかった。
おさないころから血を流しつづけていた心の傷は、故郷カンバルの、〈山の王〉のふところで、ジグロたちの霊によっていやされた。それなのに、長いあいだにしみついてしまったこの自分の人生に対する思いのうすさは、消えていかなかった。
(……わたしは、まだ生き方を知らない赤ん坊なのかもしれない。)
ふと、バルサはそう思った。あの闇の底で死に、もう一度うまれた赤ん坊。自分の人生をどうやってきずきあげていけばいいかわからない、赤ん坊……。
だまりこんでしまったバルサの横顔には、くすんだ、心ぼそげな色がうかんでいた。バルサが、そんな顔をしていることが、アスラをおどろかせた。
いままで、バルサは、なにがあってもゆるぐことのない、大岩のような人だと思っていた。こんなに強くて、なんでもできる人なのに、なぜ、こんな表情をうかべているのだろう……。
バルサは、冷めてしまったラコルカを飲みほした。
「食べおわったら、サバールとかいう用心棒に会いにいこう。ナカさんの隊商の護衛を、かわってもらわなきゃならないから。わたしが、護衛を交代することは、タジルが敵に話してくれるだろうから、ナカさんたちをねらうことはないだろう。」
「……ナカさんたちと、ここで別れるのね?」
さびしげな表情をうかべたアスラに、バルサはうなずいた。
「彼らを、わたしらのめんどうごとにまきこみたくないだろう?」
「うん。」
ここからは、ふたりきりでいくのだ。敵が待ち伏せているとわかっている道を。ミナたちの顔が目にうかんだ。もう二度と、彼女らと旅することはないだろう。そう思うと、たまらないさびしさがこみあげてきた。
(しかたないわ。)
いかにさびしくても、ミナたちが、自分のせいで傷つくより、ずっといい。
(カミサマがいてくださる。)
そう思うと、胸の底から力がわきあがってきた。
(だいじょうぶ。なにがあっても、わたしにはカミサマがついていてくださる。)
とても強いバルサと、カミサマにまもられている自分が、やられるはずがない。女と子どもふたりっきりだとあなどっている敵は、きっと、びっくりするだろう。アスラの唇に、うっすらと笑みがうかんだ。
[#改ページ]
3 冬の湖面のように
夕食のあとで、バルサから護衛の交代の話をきりだされたナカは、顔をくもらせた。
「最初から、わけありじゃないかと思っていたよ。」
ナカは不満そうにつぶやいた。
「だが、まあ、こっちもそれを承知でやとったんだからな。いまさら、それは、いうまいよ。」
しかめ面をして、ぶつぶついっていたが、バルサが新しい護衛候補を部屋にまねきいれると、ナカは、すこし機嫌をなおした。タジルの紹介のサバールは、みるからにたくましく、あかるい目をした青年だったからだ。
バルサは違約金のかわりに、トルアンまでの、サバールの護衛料をナカにわたした。その金をうけとると、ナカは、複雑な表情をうかべた目で、バルサをみた。
「――まあ、正直なところ、あんたは、いい護衛だったよ。わけありでさえなきゃ、ずっと護衛をたのみたかったぜ。アスラもな、いい子だよな。ミナは、きっとさびしがるぜ。」
そういうと、ナカは、新しい護衛に目をむけた。
人とであい、ともに旅し、別れていくのが隊商の暮らしだ。こういう別れは、彼らにとっては、日常のことにすぎなかった。
宿の部屋にもどると、アスラはもう毛布に頭までくるまって眠っていた。
バルサは寝台に腰をおろして、短槍の鞘をはずし、穂先をしらべた。夕方によった|研《と》ぎ屋は、いい腕だった。穂先は、炉の光をうつして、鋭く輝いた。
明日、出発する隊商たちにまぎれて、ここをでよう。そして、とちゅうでほそい山道にそれるのだ。荷馬車といっしょでなければ、街道や|峠道《とうげみち》ではなく、けわしくほそい山道をえらぶことができる。
ここには敵の息がかかった者が何人もいるだろうし、正門は見張られているだろう。だがどの集団と出発したかはわかっても、無数にあるほそい山道のどれをバルサたちがえらぶかは、わかるまい。
そのとき、石の廊下を歩いてくる足音がきこえた。やがて、足音は部屋のまえでとまった。
「宿の者ですがね、あなたがたに会いたいという人がきているんだが……。」
足音と人の気配がひとりだけであるのをたしかめて、バルサは短槍をもったまま戸をあけた。宿の使用人が、ぶっそうな槍の穂先をみて、一歩うしろにさがった。
「だれが、たずねてきているって?」
バルサが問うと、使用人は、眉をひそめてこたえた。
「名前はきいていないが、タルの民の女ですよ。」
意外な答えに、バルサは、ちょっと考えこんだ。このやりとりで目をさましたらしく、アスラが寝台から身を起こした。
使用人は、バルサの顔をのぞきこんだ。
「追いかえしましょうか?」
「……いや、どうぞ、とおしてください。」
使用人はうなずいてひきさがると、しばらくして、まぶかに頭巾をかぶった女性をひとり、つれてもどってきた。彼女は、使用人が部屋をでて戸をしめるまで、頭巾をはずさなかった。
やわらかい手つきで、そっと頭巾をうしろにおとすと、意外に若い顔があらわれた。目もとがくっきりとした美人だった。
「はじめまして。わたしは、イアヌともうします。こんな夜分、いきなりおとずれまして、もうしわけございません。」
バルサは、かすかにうなずいた。
「なんのご用でしょうか。」
イアヌと名のった女性は、バルサの背後にいるアスラに目をやった。
「わたしは仲間たちといっしょに毛皮を交易市場に売りにきているのですが、今日、市場であなたがたをみかけて、息がとまるほどおどろいたのです。……アスラ、あなた、アスラでしょう?」
アスラは、びっくりして、タルの女性をみあげた。
「おぼえていない? わたしたちは、一度会っているのだけれど。――あの夜、お母さまがあなたをわたしたちのもとへつれてきたときに。」
きゅっと、のどのあたりが痛くなった。アスラは、まじまじと、若い女性をみつめた。たしかに、見おぼえがある。あのとき、うす暗い集会小屋のなかにいた……。
「あなたは、ラマウ〈仕える者〉の……。」
イアヌはうなずいた。そして、ふいに涙ぐみ、ふるえる手でアスラの肩を抱いた。
「――よかった。ああ、恵み深きアファール、感謝いたします。この子は、生きていた!」
声をおしころして、イアヌは泣いた。イアヌの衣にしみこんでいる、聖堂のお香の香りをかいだとたん、胸がさされたように痛んで、アスラは、あえいだ。
鮮烈に、母の姿が目の裏にうかんできた。いまのイアヌとおなじように、アスラを抱きしめて、よろこびにむせんでいた母のにおいがよみがえってきた。
涙があふれてきた。けれど、アスラの手はだらんとたれたままで、イアヌを抱きしめようとはしなかった。イアヌは母ではない。母の思い出に、かすかにつながってはいるが、ほとんど知らない人だったからだ。
イアヌは、やがて、アスラをはなすと、バルサをみあげた。
「あなたが、この子をたすけてくださったんですね。……ほんとうに、ありがとうございます。」
バルサは、あいまいな表情をうかべて、うけながした。
「とにかく、すわってください。どうも、突然のことで、よくわからないのだけれど、あなたは、アスラとどういう関係なのですか?」
イアヌは、頬をあからめた。
「すみません。そうですよね、きちんと説明しなければ。」
イアヌは、バルサにうながされて、バルサの寝台に腰をおろした。そして、バルサがアスラのとなりにすわると、口をひらき、ぽつぽつと話しはじめた。
自分は、アスラが家族と暮らしていた、ここからさほどとおくない、サーウ地方の聖域で暮らしているラマウ〈仕える者〉であること。
ラマウ〈仕える者〉というのは、ふつうの人はみることができない神の世界〈ノユーク〉の気配を感じられる才をもってうまれた異能者で、おさないときから聖域に集められ、そこで、タル・クマーダ〈陰の司祭〉になるべく、そだてられるのだということ。
アスラの母トリーシアは、異能者ではなかったが、よくイアヌたちのもとをおとずれ、神について学び、語りあったのだ、と。
「アスラの母トリーシアは、不運な人でした。なみはずれてうつくしく心の清い人だったのに、あんな最期をとげるなんて……。」
寝台にすわっているアスラは、その言葉にたじろいで、ぎゅっと毛布をにぎりしめた。
イアヌは、バルサに目をむけた。
「あなたは、カンバル人ですね?」
バルサがうなずくと、イアヌはいった。
「では、きっとわかってもらえないと思いますが、わたしたちタルの民には、たいせつにまもりつづけてきた信仰があります。それを知らないと、トリーシアの身になにがおこったのか、わからないでしょうから、すこし長くなりますが、きいてください。」
イアヌは、そういって、ロタルバルの伝説をバルサに語ってきかせた。
耳になれた話をきくうちに、アスラは、母の言葉をきいているような気もちになった。
はるかなるロタルバル。タルハマヤ神を身に宿したサーダ・タルハマヤによって、平和に|統《す》べられていた国。
(サーダ・タルハマヤ……。)
その名を耳にしたとき、アスラの背に、ぞくっとふるえがはしった。闇のなかから、記憶の糸がすべりでてくるように、なにかが、ぼんやりとみえた。横たわっている、石の彫像のような姿……その胸の、かすかな光……。
イアヌが、サーダ・タルハマヤの最期について語るのをきくうちに、バルサが身をのりだした。
「……それじゃあ、カシャル〈猟犬〉というのは、そんなにむかしから、ロタ王家とつながりがあったのですね?」
イアヌは、うなずいた。
「わたしたちタルの民と、カシャルは、かつて、ともにサーダ・タルハマヤに仕えていた祖先をもっているのです。でも、カシャルはロタ王家を支持し、いまも、陰で彼らをささえているのです。
彼らは、わたしたちが禁忌をおかしたら、罰する役目も負っている、王家の番犬なのです。」
イアヌは、小さな吐息をついた。
「……あの夜、トリーシアは、アスラをつれて、わたしたちのところをおとずれました。ノユークからの聖なる流れが、ついにこの世へおとずれたのだといって。彼女は、熱にうかされたような目をして、神をこの世へ招かねばならない、といいました。
わたしたちは、夜中まで話しあいました。ほんとうに、アスラがノユークの流れをみたのかどうか。かつて、サーダ・タルハマヤは、どうやってその身に神を招いたと伝えられているか……。」
イアヌは、アスラの表情をみながら、声を低めて、つづけた。
「わたしたちは、彼女の熱烈な信仰を祝福しました。ぜひ、サーダ・タルハマヤの墓所がある聖地へいって、祈るべきだといいました。
でも、まさか、彼女が禁忌をやぶって、サーダ・タルハマヤの墓所へはいってしまうとは思ってもいなかったのです。」
沈痛な声で、イアヌは、トリーシアが禁域に侵入した罪で、タル・クマーダ〈陰の司祭〉に捕らえられ、カシャルにひきわたされたことを語った。
アスラがふるえはじめるのをみて、バルサは腕をまわして、その肩を抱いた。
「そこからさき、どんなことがおきたか、あなたは知っているのですか?」
バルサがしずかに問うと、イアヌは、うなずいた。
「わたしたちは、処刑がおこなわれた日、聖域におりました。〈聖なる川〉の水をあびている苔が、突然、一面まっ赤になり、わたしたちは、彼女が、ほんとうに、かつてのサーダ・タルハマヤのように、タルハマヤを招いていたことを知ったのです。」
そういうと、イアヌは目をふせた。
「………タルハマヤがこの世をおとずれたのは、それが最後で、彼女の死とともに、神がこの世をおとずれる通路はうしなわれてしまいましたが。」
アスラは身をかたくした。
息がくるしかった。どうしよう……と、アスラは思った。
(お母さんではなく、わたしがチャマウ〈神を招く者〉なのだと、いったほうがいいのかしら……。)
そのとき、肩を抱いているバルサの手に、かすかに力がこもった。
アスラは、はっとしてバルサをみあげた。
いってはいけない、とバルサの目が告げていた。アスラも、かすかにうなずいた。イアヌは、同族で、しかも事情をよく知っているラマウ〈仕える者〉だけれど、自分がタルハマヤを招き、いつでもまた招喚できるのだと話すのは……なぜか、おそろしかったからだ。
やがて、イアヌは顔をあげた。
「シンタダン牢城でのできごとをきいたとき、わたしたちは、あなたとお兄さんのチキサも、いっしょに死んでしまったものだと思ったのよ。まさか、こうしてであえるなんて……。
アスラ、あのとき、なにがおきたの? お兄さんは……?」
「その話は……。」
と、バルサが、さえぎった。
「この子に話させるのは、あまりに酷ですよ。」
バルサは、ごくかんたんに、アスラとチキサがヨゴにきてから、これまでのことを、狼の襲撃の話ははぶいて、説明した。イアヌは真剣な表情でだまってきいていた。
そして、バルサが話しおえると、小さく首をふった。
「アスラ、なんと、たいへんな旅を……。つらかったでしょう。
わたしも、むかし、伯父につれられて南部から旅をしてきたから、よくわかるわ。」
つらい過去を思いだしたのだろう。顔をゆがめて、イアヌはそういった。
「わたしの両親も、ロタ人に殺されたのよ、アスラ。わたしは南部のアルーヤ地方の森でうまれたのだけれど、毛皮市場で両親とロタ人の毛皮商がもめてね。まるで、羊でも殺すみたいに、あっさりとさし殺されてしまったの。」
イアヌの目には、こらえきれぬ怒りとかなしみの色がうかんでいた。
「その毛皮商は、罪にも問われなかったわ。タルの民の死など、その程度にしかあつかわれない。わたしは、伯父につれられて、おそろしい思い出がのこる地をはなれて、北部へ移り住んだのよ。北部には、ロタ人がけっして足をふみいれないシャーンの森があるし。」
そこまで話して、イアヌは、はっと、バルサをみた。
「ごめんなさいね。――つい、よけいな昔話をしてしまったわ。」
バルサは、しずかに首をふった。
「……気にしないでください。」
イアヌは、あおじろい顔に、かすかに笑みをうかべたが、すぐに、表情をひきしめた。
「アスラが、なぜ追われているか、わたしにはわかる気がするわ。
ノユークから聖なる川が流れきているいま、タルの民が、タルハマヤ神の復活を願えば、ロタ王国はあやうくなる。だから、トリーシアがおこなった招喚の儀式をみているアスラを、カシャル〈猟犬〉が迫っているのでしょう。」
バルサは、首のあたりが冷たくしびれるのを感じた。
そうなのかもしれない。アスラがおそろしい神を招く力をもっているということは、ロタ王家にとっては、あまりにも危険なことだ。
そう考えると、スファルだけでなく、王弟イーハンの熱狂的な支持者だという、ここの氏族長の次男がかかわってくる理由も、なんとなくみえてくる。
イアヌは、バルサをみつめた。
「どうするのですか? 彼らは、おそろしい追手ですよ。うまく逃げて、しかも、チキサをたすけるなんて……あなたがた、ふたりだけでは……。」
そういって、彼女は口をとじ、アスラをみつめた。しばらく、じっとなにかを考えていたが、やがて、イアヌは心を決めたように、きっぱりといった。
「わたしたちはタルの民。|陰《かげ》に生きる者として、王家に反抗するようなことはできません。
でも、このまま同族の子をみすてることも、わたしたちには、できません。
たいした力にはなれないけれど、いっしょにここをでましょう。タルの民の頭巾つき外套を貸してあげます。仲間たちといっしょに、ひとかたまりになって門をでれば、敵の目をごまかせるかもしれない。」
バルサは首をふった。
「それは、むりでしょう。ここには、敵の目や耳になっている者がおおぜいいる。この宿も当然見張られているはずだから、あなたが、ここへきたことは、もう知られてしまっていますよ。」
「そうだとしても、わたしたちときたほうが、ふたりだけで逃げるよりは、ずっとましだわ。わたしたちは、ロタ人が足をふみいれない、深い森の奥へつづく道を、知りつくしています。ジタンの祭儀場で、あなた方の力になるわけにはいかないけれど、そこまで安全につれていくことぐらいはできます。
明日の朝、ほかの隊商たちが出発するときに、わたしたちもいっしょにでましょう。とちゅうで、|細道《ほそみち》にそれれば、きっとうまく逃げられます。」
それは、バルサが考えていたことと、よく似た計画だった。たしかに、タルの民にまぎれ、彼らに道をおしえてもらえれば、すこしは逃げのびる可能性がますかもしれない。
「……ありがとうございます。では、そうさせてください。」
バルサがいうと、イアヌは、明日の朝の行動について打ち合わせてから、不安と興奮がいりまじった表情をうかべて帰っていった。
アスラは、ふたたび寝台に横になり、毛布にくるまったが、心がたかぶっていて、まえのように眠ることができなかった。バルサが荷づくりをおえ、手もとに短槍をおいて眠りについても、長いこと、その規則ただしい寝息をきいていた。
昼間のつかれがでて、ようやく眠りにおちたあとも、アスラは、つぎからつぎへと、悪夢をみつづけた。夢のなかでは、心の鍵がはずれるのだろうか。昼間は思いだせないできごとが、霧のなかからたちあらわれる木立のように、異様にくっきりと、よみがえってきた。
巨大な岩のあいだにゆれる、かすかな燐光に似た光。しめった苔のにおい。
母とふたりで、川のなかをたどり、まろびでた先には、月光のようにあわい光が宿る、墓所があった。
なめらかな黒い石の上に、だれかが横たわっていた。暗くて、その姿は、影にしかみえなかったが、聖なる川の水にひたっている、その胸もとに、ぼんやりと光の輪がうかびあがっていた。
――聖なる宿り木の輪……。
つぶやくと、お母さんが、おどろいて、ささやいた。
――アスラ、あなたには、それがみえるのね?
アスラは、母には、なにもみえていないのだと知っておどろいた。
[#ここから3字下げ]
――みえるわ、お母さん。そこに、サーダ・タルハマヤがいらっしゃる。聖なる川にひたって、眠っておられるわ。聖なる宿り木の輪が、あんなに輝いているのに、ほんとうに、お母さんには、みえないの?
[#ここで字下げ終わり]
お母さんが、さびしげな声でいった。
[#ここから3字下げ]
――みえないのよ、お母さんには。わたしには、聖なる力はないの。
でも、神さまは、わたしの大事な娘に、その力をさずけてくださった。
さあ、アスラ、運命のときがおとずれたのよ。聖なる宿り木の輪を、手におとりなさい。
[#ここで字下げ終わり]
アスラは、おののいた。
――こわいわ、お母さん……!
――だいじょうぶ。お母さんがついているわ。
お母さんは、聖句をくりかえしつぶやきながら、アスラの手をにぎってくれた。アスラは息をつめて、そっと、青白い光のなかに手をのばした。
アスラの手に、なにかがふれた。
それは、風のようだった。実体はないのに、なにかを指先に感じた。……と、かすかな光が、ぽうっとともった。自分の身体から、その光の輪にむけて、なにかが流れだすような感じがして、光は、徐々につよく、しっかりとしたものになっていった。
――アスラ……!
お母さんが、息をのんだ。お母さんは、アスラの手をとってその光の輪をそっとアスラの胸もとにみちびいた。
とたん、すいつくように、輪はアスラの胸にとどまり、輝きをました。
――アスラ。
感極まった声で、お母さんはつぶやくと、アスラの頭を抱いて、泣きだした。
[#ここから3字下げ]
――すばらしいわ。あなたは、この世を変える、神にえらばれし子。
やがて、サーダ・タルハマヤになり、人の命を超えて、この世を治める者……。
もう、わたしたちには、なにも、おそれるものはない……!
[#ここで字下げ終わり]
お母さんは、ひざまずいてアスラをみつめ、一言一言に力をこめて、いった。
[#ここから3字下げ]
――気高くありなさい、アスラ。だれよりも、気高く。
冷静でありなさい。どんなに心みだされることがあっても、顔にだしてはいけない。つねに、冬の湖面のように、冷静でありなさい。
強くなりなさい。大いなる神とひとつになり、人びとをみちびけるように。
かつて、サーダ・タルハマヤは、そのような人であった。あなたも、そうなるのです。
[#ここで字下げ終わり]
お母さんの言葉は、石に碑文がきざまれるように、アスラの心にきざみつけられた。
夢は、場面を変えて、どんどんおそろしい思い出をよみがえらせていく。
くりかえしみた、あのシンタダン牢城での悪夢が、また、はじまった。
死んでいく人びと。――兄の、かなしげな、絶望しきった瞳……。
「お兄ちゃん……ちがうのよ! わたしが、わるいんじゃない……!」
さけんでとび起きると、アスラはあらい息をついて、しばらく寝台の上でふるえていた。暖炉の火は、ずいぶんまえに|熾《おき》にかわり、部屋は、うす暗かった。
むこう側の寝台で、バルサが、むっくりと起きあがった。
「だいじょうぶかい?」
アスラは、汗にまみれた顔で、バルサをみつめた。
「お兄ちゃんが……。」
アスラは、あらい息の下から、つぶやいた。
「わたしを責めるの。――夢のなかで、いつも、すごくかなしい顔で……。」
アスラは、必死に表情をくずすまいとしたが、唇がふるえるのをおさえられなかった。
アスラは両手で顔をおおった。
「わ、わたしが、殺したわけではないのに。わたしではなくて、カミサマが、あいつらを罰してくださったのに……。」
アスラは顔を手でおおったまま、とりとめもなく、話しつづけた。まだ、半分夢をみているようだった。
墓所のうす暗がり。光っていた聖なる輪。お母さんの言葉。お母さんの処刑。そして……。
アスラは手をおろし、涙にぬれた顔でバルサをみあげた。
冬の湖面のように、冷静であれ……という、母の言葉が耳の奥にひびいていたが、胸の奥からわきあがる思いが、ついに、凍った湖面をつきやぶってしまった。
アスラは、せきこみながら、しぼりだすようにいった。
「わたし……憎かったの! あの人たちが、ほんとうに、憎かった! だって、お母さんが殺されそうになっているのに……笑ったり、はやしたり……! わ……笑うなんて……!」
バルサは立ちあがって、アスラのまえに立つと、その頭をそっと腹に抱いた。
アスラは両手をバルサの身体にまわして、ぎゅっと力いっぱい抱きしめると、声をあげて泣きはじめた。はじめて、母のために、のどがちぎれるほど声をふりしぼって泣いた。
バルサは、腹にくぐもって伝わってくる泣き声が、ゆっくりと|潮《しお》がひくように消えていくまで、だまって抱いていた。
やがて、アスラが腕の力をぬいたとき、バルサは、身体をはなした。そして、アスラの汗でしめった頭をなでた。
「……アスラ、あんたのお兄さんは、やさしい、誠実な子なんだね。」
はれぼったい目で、アスラが、バルサをみあげた。
「だから、夢のなかで、あんたの思いを語ってくれるんだよ。きっと。」
「わ、わたしの、思い?」
バルサは、ゆっくりとした動作で、自分の寝台に腰をおろした。しばらくだまっていたが、やがて、低い声で話しはじめた。
「わたしも、ものすごく人を憎んだことがある。あんたぐらいのころは、そいつを殺すために、むちゃくちゃな修業にあけくれていたよ。身体の底に、どろどろの熱い憎しみがあって、槍をふり、こぶしをなにかにたたきつけていないと、自分が内側から破裂しそうだった。」
バルサは、ぽつぽつと、むかしのことを話した。カンバル王のきたない陰謀の犠牲になった父のこと。自分の人生をすててバルサをたすけてくれたジグロのこと。長い、長い旅のことを。
「はやく、強くなりたかった。だれよりも、強く。……強くなれば、すくわれると思った。」
アスラが、うなずいた。弱くて、小さくて、母をたすけることさえできなかった自分。気軽にけとばされる小石になったような、あの無力感。
だれよりも強くなれば、もう二度と、あんな思いはしなくてすむ。
「でもね……。」
バルサは、かすれ声でいった。
「強くなっても、わたしは、すくわれはしなかったよ、アスラ。」
アスラは、いぶかしげな目でバルサをみあげた。
「武術の腕の強さや経験は、わたしの命を、いく度もすくってくれたし、この腕っぷしの強さのおかげで、誇りもまもっていられる。でもね……。」
バルサは言葉をさがした。胸にうずまいている思いを、どう言葉にしていいか、わからなかった。
「憎いやつを殺せば、すべて|かた《ヽヽ》がつくわけじゃない。そいつを殺せば、すっきりするなんて……そんなもんじゃないんだよ。」
短槍の|柄《え》に額をつけて、バルサはつぶやいた。
「気がつくと、いろんなものが、とりかえしがつかない変わり方をしてしまっているんだ。」
バルサは、アスラをみつめた。
「いちばん変わってしまうのは、自分だよ。自分が、どんな気もちで人を殺したいと願ったか、だれも知らなくても、自分だけは知っているからさ。……想像してみると、たまらなくおぞましくなる。憎んで、憎んで、人を殺したいと願い、人の死を一瞬でも気もちがいいと思ったとき、わたしは、どんな顔をしていたんだろうね。」
首筋が冷たくしびれ、こわばってくるのを感じながら、アスラは身をかたくしていた。
目をふせて、アスラはつぶやいた。
「……でも、それがわるいことだったのなら、カミサマが、祈りをかなえてくださらなかったはずだもの。」
自分にいいきかせるように、そういいながら、アスラは床から目をあげなかった。
バルサは、かすかに首をふった。
「わたしは、神がどんなものか、わからない。おさないころ、父から、雷神ヨーラムが、どんなふうにこの世を創造していったのかおそわったし、ふしぎな精霊たちに、いく度かふれる機会があったけれど。
雲をわかせ、雨をふらせる精霊の卵もみたし、人の夢を抱く花もみた。人の思いを青く輝く石に変える、透明な蛇に似た山の王にもであった。だけど……。」
バルサは、つぶやくようにいった。
「よい人をすくってくれて、悪人を罰してくれる神には、まだ一度もであったことがない。」
アスラは目をあげた。バルサの目には、アスラを責める色はなかった。その目にうかんでいたのは、深いかなしみだけだった。
「悪人を裁いてくれるような神がいるなら、この世に、これほど不幸があるはずがない。……そう思わないかい?」
耳鳴りがしていた。心の奥で、なにかが鈴を鳴らしている。気づいてはいけないものを、気づかせようとして。――タルハマヤ|神《しん》を信じる気もちを、ゆるがせてしまう、なにかを。
母の言葉は、やはり、どこか、おかしいのだと気づかせてしまう、なにかを……。
アスラは、必死で耳鳴りを無視して、小さく首をふった。
「タルハマヤは、偉大なる神よ。悪人を罰してくださるほんものの神さまなのよ。
サーダ・タルハマヤは、神の大いなる力とひとつになって、悪を裁いた方だったって、お母さんがいっていた。」
アスラは、いっしょうけんめい、いいつのった。
「あのね、タル・クマーダ〈陰の司祭〉がおしえている聖伝じゃない、ほんとうのことを、お母さんは知っていたのよ。それで、わたしたちに、サーダ・タルハマヤは、ほんとうはどんな人だったか、おしえてくれたの。
ロタルバルは、ゆたかな、とても平和な世界だったんだって。こんな不公平な世の中になったのは、キーランがサーダ・タルハマヤを殺してしまったからなのよ。」
バルサは、アスラをみつめたまま、しずかにいった。
「……あんたは、その、サーダ・タルハマヤになるつもりなのかい?」
アスラは、こわばった顔でバルサをみつめた。
[#ここから3字下げ]
――あなたは、この世を変える、神にえらばれし子。
やがて、サーダ・タルハマヤになり、人の命を超えて、この世を治める者……。
[#ここで字下げ終わり]
お母さんの声が耳の奥によみがえってきた。
(わたしには、ほんとうに、カミサマを招く力がある。お母さんが願ったように。)
アスラは、あの狼を殺したときの気もちを、思いだそうとした。天へひろがっていくような、あの気もちを。
けれど、いま、こうして寝台にすわっていると、とても、サーダ・タルハマヤになれるような気がしなかった。この世の不幸をなくす、大いなる神の化身になるなんて、とてつもないことだとしか、思えなかった。
(なぜ、カミサマは、わたしなんかをおえらびになったのだろう? もっと心がつよい、頭のいい人をおえらびになれば、よかったのに。)
アスラは、顔をゆがめた。
「わたし……わたしは……。」
アスラは、消えそうな声でいった。涙がこみあげてきた。
「どうしよう、バルサ……。お母さんは、この世をよくするために――サーダ・タルハマヤになって、もう一度、ほんとうに幸福な世をうみだすために、命さえすてたのに、わたし……わたし、サーダ・タルハマヤになれる気が、しない……。」
涙が、あとから、あとから頬をつたった。
バルサが、低い声でいった。
「わたしには、タルの信仰はわからない。タルハマヤが、どんな神なのかも、知らない。
だけどね、命あるものを、好き勝手に殺せる神になることが、幸せだとは、わたしには思えないよ。……そんな神が、この世を幸せにするとも、思えない。」
涙を流しながら、アスラはバルサをみつめた。
「そんなものに、ならないでおくれ、アスラ。……狼を殺したときの、あんたの顔は、とてもおそろしかったよ。」
氷のように冷たい手が、胸にふれたような気がして、アスラは、目をみひらいた。
「サラユのような色をした衣をまとって、お湯からあがってきたときの、あんたは、とてもうつくしかった。……みていたわたしまで、幸せな気分になるくらいに。」
花の香りが、ふっと鼻の奥によみがえってきた。その香りをアスラは必死でふりはらった。
バルサは、ロタ人ではない。タルハマヤのことを、まったく知らないカンバル人なのだ。
バルサのいうことに、心をゆらしてはいけない。カミサマを信じるなら、こんなことで心をゆらしてはいけない。
――冬の湖面のように……。
ぎゅっと目をとじて、心のなかで、アスラはつぶやいた。
うすい氷がはるように、アスラの顔が、あおじろく無表情になっていくのをみながら、バルサは、それ以上、なにもいえなかった。
[#改ページ]
4 罠におちる
天の底が、かすかに明るみをおびはじめた。
|交易宿場《こうえきしゅくば》の正門には、おおぜいの人びとが集まり、出発のときを待っていた。大気は氷のように冷たく、じれたように足踏みをくりかえす馬たちと、荷馬車の点検をしている人びとの身体からは、湯気が白くたちのぼっている。
バルサとアスラは、タルの民たちとともに、出発を待つ隊商たちの列の最後尾に、ひっそりとたたずんでいた。
タルの民の黒い衣と頭巾をすっぽりとまとい、頭巾の下も、鼻までシュマ(風よけ布)でおおっていたが、それでも、きびしい寒さが衣をしみとおってくる。バルサはてのひらを馬の首にあてて、あたためていた。短槍は、ほかの猟師たちとおなじように、鞍に石突きをのせて、肩に柄をおいている。
アスラは、無言で、しだいに明るさをましていく地平線をみつめていた。青い|雪原《せつげん》に、|隊商《たいしょう》の荷馬車がつけた|轍《わだち》が、はるか彼方まで、のびていた。
鐘が鳴りはじめた。正門わきの、高い|鐘楼《しょうろう》からひびく、夜明けの鐘だった。まるで、耳のそばで鳴っているように大きくひびく鐘の音に、アスラは、びくっと身をちぢめた。
隊商の人びとは、いっせいに馬や荷馬車にのりこみ、手綱をにぎり、出発の姿勢をととのえた。
先頭にたった隊商の頭が、大きく息をすいこむと、ろうろうと角笛を吹き鳴らした。
旅立ちのときだった。|人馬《じんば》の群れは、ゆっくりと正門をでて、うごきはじめた。
アスラは思わず背後を――まだ青い影に沈んでいる隊商宿をふりかえった。さようならをいうことさえできなかったミナや隊商のみんなに、心のなかで別れの挨拶をつぶやきながら。
道の大半は、かたく凍っていたが、ところどころぬかるんでいる場所もあり、隊商たちは、ゆっくりとすすんでいった。はじめは、ひとかたまりに、整然とならんでうごいていたが、しばらくすると、だらだらと、紐のようにのびて、隊と隊の間隔がひらいていった。
昼をすぎると、雪原は、やがて丘陵地帯にかわり、道の両わきに、深い森や、きりたった崖があらわれはじめた。
シャハルの切り|通《どお》しが、とおくみえはじめたころ、バルサのかたわらで馬をすすめていたタルの民のイアヌが、馬をよせてきて、ささやいた。
「バルサさん、そろそろ道をはなれます。馬の速度をおとしてください。」
バルサはうなずいて、|手綱《たづな》をすこししぼり、馬に意思を伝えた。
タルの民たちは、ゆるやかに隊商の列からおくれ、やがて、深い森へとつづく細道へとそれていったが、すすんでいく隊商の群れの人びとはふりかえることなく、気づいたようすもなかった。
「アスラはわたしのうしろについて。バルサさん、最後尾をまもってくださいますか?」
イアヌの言葉に、バルサはうなずいて、短槍を右手にもった。左手で手綱をにぎっていると、縫った傷に、にぶい痛みがよみがえってきた。
森の小道には雪が少なく、風がさえぎられるぶん、あたたかく感じられた。雪にぬれた木立から、すうっとする|香気《こうき》がただよってくる。小鳥のさえずりもきこえない静けさのなかを、タルの民たちは、無言で、影のように移動していった。
ちらちらと、雪がふりはじめた。
道はしだいに上り坂になり、地面から角のようにつきだした、苔むした岩が目立つようになった。馬たちは白い息をはきながら、器用に山道をのぼっていく。
前方から、水が流れる音がきこえはじめた。谷川があるのだろう。
イアヌがふりかえって、大きな声でバルサにいった。
「もうすぐ、サイ川です。吊り橋を越えたら、シャーンの森の領域で、ロタ人は、はいってくることはありません。吊り橋を越えたら、ひと休みしましょうね。」
バルサは、わかったというしるしに短槍を小さくふってみせたが、イアヌの大声に眉をひそめていた。
ほんのすこしまえから、バルサは、なにかを感じていた。音はまったくきこえないのだがうなじがびりびりしている。その正体をさぐろうとした瞬間に、イアヌが大声をだしたので、集中力がみだされてしまった。
森がとぎれ、|急峻《きゅうしゅん》な崖があらわれた。幅はたいしたことなく、元気な山羊ならとびこえてしまえるほどだったが、きりたった崖で、たしかに吊り橋がかかっていた。
吊り橋がみえてきたことで、ほっとしたのだろうか。イアヌは、ひんぱんに、ふりかえっては、バルサに声をかけてきた。
「この吊り橋です! バルサさん、もうすこしですよ。」
バルサはこたえなかった。
背中に鳥肌がたった。殺気がチリチリと肌につきささってきた。まちがいない。待ち伏せされている……!
バルサは短槍をひとふりして、アスラがのっている馬の尻をたたいた。
「アスラ、走れっ! 罠だ……!」
バルサの声がおわらぬ間に、矢がバルサの背をおそった。
バルサは身をねじって矢をよけると、手綱を乱暴にひいて、馬のむきを変えた。
木々のあいだから、おおぜいの武装した男たちが、ぬっと立ちあがった。
「……バルサ!」
アスラが、悲鳴のような声をあげた。
「走れっ! 吊り橋をわたれ!」
イアヌがアスラの馬の|轡《くつわ》をとると、ぐいっとまえにひっぱった。すでに、ほとんどのタルの民はみじかい吊り橋をわたりきり、むこう側で不安そうにこちらをみている。アスラの馬が吊り橋をかけぬけるのを追うように、イアヌも馬でせまい吊り橋をかけぬけた。
それをみとどけると、バルサは短槍をひらめかせて、大人数でかけぬけようとすれば吊り橋がおちるように、吊り橋をつっている縄を一本だけ断ち切った。
男たちは、ゆっくりと輪をせばめてくる。
なぜ、弓をつかわないのだろう。
吊り橋を背に、矢をふせぐつもりでかまえていたバルサは、奇妙な違和感を感じていた。
これだけの男たちが矢の雨をふらせれば、いかにバルサとて、完全にふせぎきることはできない。吊り橋をわたってしまうまえに、アスラを殺すこともできたはずだ。
だが、男たちはバルサをねらった|一矢《いっし》以外、弓をつかおうとはしなかった。まるで、アスラたちがわたりきるのを待っているかのように、男たちはしかけてこようともせず、むだな|間《ま》をおいている。
ほんの一瞬だけ、背後をふりかえったバルサは、アスラを背にかばったイアヌの顔に、ほっとしたような微笑がうかんでいるのをみた。
武人たちは追ってきたのではない。最初からここで、待ち伏せていたのだ。――それに気づいた瞬間、かっと全身が熱くなった。
(――|謀《はか》られた……!)
焼けつくような、あせりと怒りがのどもとにこみあげてきた。
イアヌは、バルサを罠にかけたのだ。アスラとバルサをひきはなし、バルサだけ、ここで殺すために……。
アスラが吊り橋をわたりきるのをみとどけるや、男たちが、いっせいにおそいかかってきた。
バルサは馬の背に立ちあがり、|鞍《くら》をけってはねあがった。
予想外のうごきに、あっけにとられた男たちの頭を、宙返りをしながらとびこえて、猫のように身をまるめて男たちの後ろ側におりたつと、真横に走った。
怒声をあげて男たちは追ってきたが、木立と下生えをよけて走るうちに、足がのろい者はおくれはじめた。
いきなりバルサがふりかえり、木の根をけって、先頭の男にとびかかった。
長剣でふせぐ間もなく、もんどりをうって地面にたたきつけられた男の頭をふんで、バルサははねあがり、ふたりめの男のわきをすりぬけざま、短槍で右腕を切りさいた。
いま、バルサはなにも考えていなかった。燃えるような怒りが全身を焦がし、ただ、身体がうごくにまかせて、ひたすらに闘いつづけた。
森の木々だけが味方だった。木立にふせがれて、矢をつかえず、かこむこともできない男たちを、バルサは、ひとり、また、ひとりと、たおしていった。
だが、敵はあまりにも多かった。重い外套をまとったまま、うごきつづけ、走りつづけるうちに、肺が焼けつくように痛みはじめ、汗が目にはいり、視界をにじませた。
雪はほんぶりになり、あとから、あとから舞いおちてくる。
横なぐりにふりぬいてきた長剣を短槍でうけた瞬間、背後からななめに背を切られた。うなじは毛織りの頭巾と厚いシュマ(風よけ布)にまもられていたが、それでも、肩さきからわきまで、あさく長く、傷がはしった。バルサは、|体《たい》をいれかえながら、短槍を前後にふってふたりの男をたおしたが、もう、さほど長くはもたないことをさとっていた。
白い息をはきながら、バルサは走った。手負いの獣のように、思いがけぬ速さで森をかけぬけた。吊り橋のところへ走りでたとき、わき腹にはげしい痛みがはしった。矢がわき腹を切りさいていったのだ。
うなりながら、バルサは、かすむ目で吊り橋をつっている縄をみあげると、短槍の穂先で、それを断ち切った。
バチンと音をたててはねあがっていく縄のあとを追うように、バルサは、吊り橋の上をかけはじめた。男たちが追ってくる。吊り橋はたよりなく左右にうねり、だれかがおちていく悲鳴がきこえた。
足もとが、ふいに力をうしない、落下しはじめた。バルサは、考える間もなく短槍を|橋板《はしいた》につきさした。ぐうーんと身体がふられ、両手で短槍をにぎったまま、バルサは橋板ごと、崖にたたきつけられた。
全身の傷に激痛がはしり、左手が短槍からすべってはなれた。ヒュンッと、耳をかすって崖に矢がつき立った。――このままでは、ねらいうちの的だ。
ちらりと下をみると、舞いおちる雪がすいこまれていく深い緑色の|淵《ふち》がみえた。
その瞬間、バルサは覚悟を決めた。
全身をぎゅっとちぢめると、両足で崖をけった。短槍がぬける音とともに、バルサは頭から落下していった。
ぎゅっと目をつぶったとたん、頭巾をかぶった脳天に板でなぐられたような衝撃がきて、闇のなかにすべてが消えた。
男たちは、灰色の天と地をつなぐようにふりしきる雪のなかで、崖に身をのりだして淵をみおろした。水しぶきをあげて緑色の水にもぐっていったバルサの身体がうきあがり、ゆっくりと流れていく。頭巾と厚い衣がふくらんで、ななめにういた身体を、水流が、木の枝のように流していった。
「……下におりて、死体の首をとるか?」
男のひとりがつぶやくと、ほかの男たちが首をふった。
「冗談じゃねぇ。吹雪になるまえに、けがした連中をかついで〈|郷《さと》〉へもどらなけりゃ、おれたちが凍え死んじまうぜ。」
男たちは、流れていくバルサの身体に最後のいちべつをくれてから、森にたおれている仲間のもとへもどっていった。
アスラは、バルサが男たちの頭上をとびこえて、森へ消えるまでしか、みとどけることができなかった。イアヌが有無をいわせぬ力でアスラの乗馬の轡をつかみ、むりやりまえにかけさせたからだ。
「バルサ……バルサをたすけなければ!」
アスラが身をよじってさけぶと、イアヌは、きつい口調でどなった。
「むりです。わからないのですか? わたしたちは武人ではない。あんな|大人数《おおにんずう》の盗賊たちにかなうはずがありません。あなたは、逃げなければ! 彼女が命がけでまもってくれた命をむだにする気ですか!」
アスラは涙を流しながら、歯をくいしばった。イアヌが、自分に敬語をつかっていることに、気づく余裕さえなかった。
バルサが心配で、気がくるいそうだった。
「きいて、イアヌ! わたしは、タルハマヤを招くことができるのよ! わたしなら、あの盗賊たちをたおして、バルサをたすけることができるわ!」
だが、イアヌたちはアスラをかこむようにして、むりに馬をかけさせた。どんなにもがいても、なにをいっても、耳をかしてくれなかった。
そのあとの旅の記憶は、悪夢のなかのように色をうしなっていた。どこをどうかけていったのか、ただひたすらイアヌたちに追いたてられて、深い森のなかを、のぼったりくだったりしながら走りつづけた。
舞いとぶ雪はどんどんはげしくなり、ようやく、彼らが馬をとめたときには、馬たちはつかれきって、口のはしから|草色《くさいろ》の泡をふいていた。
あたりはうす暗く、雪がふっているのに、妙にあたたかかった。
アスラは、目のまえが、ちらちら光っているような気がして、はっと息をすった。ほそく光る〈川〉がみえる。あの聖なる〈川〉が、ここにもほそい支流となって、ひたひたと流れきているのだ。
ギャ、ギャ、と猿たちが、なにやらさけびながら頭上をとびかっている。
巨大な三つの岩と、苔むした巨木。そのまえに横たえられている、黒くみがかれた平らな巨石。
アスラは、自分がどこにいるのかをさとって、ふるえはじめた。
(――これは神殿だわ。)
母としのびこんだ、サーダ・タルハマヤの墓によく似た神殿が、目のまえにあった。
黒い衣をまとった多くの影が、ひっそりと、あたりをかこむように立っていた。
そのなかから、肩に猿をのせた、小柄な人影が歩みでて、アスラにちかづいてきた。人影は、アスラがのっている馬の轡を手にとると、優雅なしぐさで頭巾をはねあげた。
頭巾の下からあらわれた、ほっそりと白い顔をみて、アスラは声をあげた。
「……シハナ?」
シハナは、つかのま、さぐるようにアスラの顔をみていたが、そこにうかんでいるのが、純粋に、おどろいている表情だけであるのをみてとると、にっこりほほえんだ。
「よかった、アスラ。けがはないようね。……こわかったでしょう。でも、もうだいじょうぶよ。」
アスラは、なにがなんだかわからずに、ただ、ぼうぜんとシハナをみつめていた。シハナの肩にのっていた猿が、うれしそうにアスラの肩にとびうつってきた。アスラは、あたたかい猿を抱きしめて、ほおずりをした。
もの心ついたときから、アスラが、森のなかで、ひとりでいるときにだけあらわれて、遊んでくれた小さな猿と、小さな女性。
――猿たちは、神の使い。わたしは、猿の言葉がわかるから、わたしも神の使いなのよ。
そんなシハナの言葉が耳によみがえってきた。
シハナは、アスラの母のまえにも姿をあらわした。最初にシハナをみたとき、母は、まっさおになった。あんなふうにあおざめた母をみたのは、あれがはじめてだった。
だが、シハナと小声でなにかを話しあううちに、やがて、母はシハナをうけいれ、そのうちに、シハナは、母の大事な友人になっていった。
シハナのことは、だれにも――父や兄のチキサにさえも、けっして話してはいけないと、母から口止めされた。母は、その理由をおしえてはくれなかった。
シハナは、ときおり風のようにあらわれ、また、風のように消えてしまうふしぎな人だった。アスラは、バルサが話していたスファルが、シハナの父であることを知らなかったし、シハナが自分をせおってつれさろうとしたときも、眠り薬を飲まされていたので、まったくおぼえていなかった。
ただ、バルサがおそわれ、必死に逃げてきたさきにシハナが待っていたことのふしぎさをぼんやりと感じただけだった。
「ここは、聖域よ。まわりの森は凍てつくように寒いのに、ここは、あたたかいでしょう。ふだんもそうだけれど、この冬は、とくにあたたかいわ。」
シハナの言葉に、アスラは、ぽつんとこたえた。
「……聖なる〈川〉が、流れてきているから。」
シハナの目が輝いた。
「あなたには、みえるの? あの苔の光以外にも、聖なる〈川〉の流れが?」
アスラは、うなずいた。神の使いであるなら、当然みえているのかと思ったが、シハナにも、この微光を発している〈川〉はみえないらしい。
シハナは、うやうやしくアスラの手をとって、馬からおろした。
「ようこそ、聖なる子。――チャマウ〈神を招く者〉であり、やがて、サーダ・タルハマヤとなる子よ。」
シハナのささやきに、アスラは全身を凍らせた。
「安心なさい。わたしは、すべてを知っているの。お母さんのトリーシアと、あなたたちになにがおきたのか。あなたが、何者であるのかを。」
アスラはこわばった顔で、狐のように小柄なシハナをみつめた。おさないころから知っているけれど、名前しか知らない、このふしぎな女性が、アスラは、ふいにおそろしくなった。
未来をみるという予言者のように、この人は、ふつうの人では知りえないことを、みとおす力をもっているのだろうか。
「……すべてを知っているのなら、バルサのことも知っている?」
つぶやくと、シハナは無表情のまま、うなずいた。
「それなら、お願い、シハナ、バルサをたすけて! 吊り橋のところで、おおぜいの男たちにおそわれたの。でも、バルサのことだから、まだ、きっと生きているわ。大けがをして、たすけを待っているかもしれない。お願い、シハナ、だれかをあそこへむかわせて……。」
シハナは、アスラの腕をつかんで、そっと歩くようにうながした。
「わかっているわ。猿たちから知らせをうけて、もう人を送ってあるわ。だいじょうぶ。」
アスラはおどろいて、腕のなかの猿をみた。猿の瞳は、たしかに、獣というよりは、人に似た知性の光を宿して、こちらをみあげている。
シハナは、ほんとうに、猿と話ができるのだろうか。……そうなのかもしれない。この、ふしぎな人は、頭上を走っている多くの猿たちから、無数の話をききとっているのかもしれない。
だれかが、森の小道に立って、|旅灯《りょとう》で道をてらしていた。シハナが、アスラとともに歩きはじめたのをみとどけると、その人影は、先触れをするように明かりをもって歩きはじめた。青い闇のなか、ゆらゆらと先をいく明かりのあとを追いながら、アスラは、夢のなかにいるような心地で、シハナに問いかけた。
「あなたは、ほんとうに、すべてを知っているの?」
シハナは小さくほほえんだ。
「すべてではないわ。でも、多くを知っている。なにが知りたいの?」
アスラは、ささやいた。
「お兄ちゃんが、いま、どうしているか、知っている?」
シハナの笑みが深くなった。
「あなたのお兄さんは無事よ。もうすぐ会わせてあげるわ。」
思いがけぬ答えに、アスラは、おどろいてシハナをみた。
「あなたがたすけてくれたの?」
「そう。すべて話してあげるけれど、まず、家にはいって、食事をして、あたたまってからね。」
日が暮れおちた闇のなかに、やがて煙のにおいがただよいはじめ、前方に、いくつものかがり火がみえてきた。狼よけだろうか? まるで防壁のように点々とかがり火がたかれ、武装した人影が、そのまわりに立っている。
かがり火のわきをとおると、武装した小柄な男たちや、タルの民たちが、シハナとアスラに頭をさげた。自分をみる彼らの目に、おそれにも似た色がうかんでいることが、アスラをおちつかぬ気もちにさせた。
かがり火の奥に、雪につつまれた数戸の家があらわれた。聖域のかたわらで暮らすラマウ〈仕える者〉たちの家だった。シハナは、そのうちの一軒に、アスラをまねきいれた。
かなり広い家なのに、まったく人けがなかった。
みがき石の床に、香りのよいマウ|草《そう》を織った敷物がしかれ、暖炉にはさかんに火が燃えている。
大きな食卓には、厚く切った焼きたてのバム(無発酵のパン)に、たれるほどたっぷりとラ(バター)をぬり、その上に蜜をのせたものや、湯気のたっているラル(乳で野菜や肉を煮込んだシチュー)、砂糖漬けの野イチゴなどがならんでいる。
バルサのことが心配で心配で、胸がちりちりと痛いのに、料理の香りをかいだとたん、今日は朝食しかとっていなかったアスラは、ぎゅうっと腹がすいてくるのを感じた。
分厚いタルの民の頭巾と外套をぬがせてくれて、シハナは、アスラを食卓の椅子にいざない、やさしく、ささやいた。
「まず、お食べなさい。おなかからあたたかくなれば、心がおちつくわ。」
アスラは、すすめられるままに、熱くてあまいラコルカ(乳入りのお茶)を飲み、ラと蜜が、とろとろにとけあっているバムにかぶりついた。
食べるにつれて、身体が芯からぽうっとあたたかくなり、バルサを心配するあまり、かたく凍りついたようになっていた気もちが、すこしずつ、ほぐれていった。
シハナの猿が、うれしそうに砂糖漬けの野イチゴをほおばっている。シハナは、満足そうな表情で、食事をするアスラと猿をながめていた。
アスラが食事をおえたころ、だれかが扉をたたく音がきこえてきた。シハナが立っていき戸をすこしだけあけて、外のだれかと話していたが、やがて、戸をしめてもどってきた。
シハナは、食卓の椅子に腰をおろすと、暗い顔でアスラをみつめた。
「……どうしたの?」
アスラはたずねながら、自分の声が、妙にとおくからきこえるように感じていた。
「残念な知らせよ。バルサは……死んでいたそうよ。」
時がとまったようで、アスラは、しばらくなにも考えられなかった。やがて、ぼんやりとした膜のようなものをとおして、ゆっくりと、その言葉が胸の底におちると、針の先でつかれたように鋭い痛みがはしり……アスラは、涙を流しはじめた。
あとから、あとから涙が頬をつたったが、泣き声がでなかった。
シハナが、やさしく肩を抱いてくれた。
「……わ、わたしのせいだ。」
アスラは、はれふさがったのどから声をしぼりだした。
「わたしとであわなければ、バルサは、あんな……。」
息をすおうとすると、ひゅーっとのどが笛のような音をたてた。あとは言葉にならなかった。アスラは歯をくいしばって、目をぎゅっとつぶって、身をかたくまるめた。――胸がちぎれるようなかなしみを、おさえこむために。
その背をなでながら、シハナがいった。
「あなたのせいではないわ。あなたが、たすけてくれといったわけではないでしょう?
あの人は、自分からあなたに手をさしのべた。――そのときに、自分の運命をえらんだのよ。」
その声は、こだまのように奇妙な反響をともなってきこえた。シハナの声が、どんどんとおくなっていく。アスラは知るよしもなかったが、シハナは、食事に眠りをさそう薬をまぜていたのだった。頬に涙のあとをつけたまま、アスラは、深い眠りの闇にひきこまれていった。
[#改ページ]
5 神にぬかずく者
ガタンと、車輪が石をのりこえた振動で、アスラは目をさました。
ぼんやりとかすむ頭で、つかのま、ナカさんの隊商の馬車にのっているのかと思ったが、うす暗く、がらんとした馬車のなかは、ナカさんの馬車とはまったくちがうものだった。
側面にひらいている窓から、外をながめている人影に気づいて、アスラは身体を起こした。
「……目がさめた?」
シハナがふりかえり、こちらをみた。そして、また窓のほうにむきなおると、外にいるだれかに声をかけた。
馬車のうごきがゆるやかになったな、と思ったとき、馬車の後尾の扉がカタンとひらき、イアヌが水差しと食べ物をいれた籠をもってのぼってきた。
イアヌをみたとたん、バルサのことが胸によみがえり、アスラはうつむいた。いわれるままに顔をあらい、水を飲んだが、いくらすすめられても、食事をとる気にはならなかった。
口のなかには、いやな苦味がのこっていて、まえに薬を盛られたときのことを思いださせた。夕食のあとの、あの不自然な眠気が、薬によるものではないかという疑いが胸にきざした。
薬を盛って、馬車にのせて……どうするつもりなのだろう?
「……どこへむかっているの?」
「ジタンよ。――祭儀場と、イーハン王弟殿下の居城のある。」
その、こともなげな口調が、アスラの気もちを逆なでした。
(眠り薬を盛って、勝手に馬車にのせて。――勝手に……。)
ずっとそうだった。まるで遊戯盤の駒みたいに、人はアスラを勝手にうごかしていく。
「……眠り薬を盛るなんて。」
はきだすようにつぶやいたアスラに、シハナは、しずかな口調でこたえた。
「わるかったわ。薬を盛って。でも、時間がなかったのよ。」
アスラは眉をひそめた。
「なんの時間?」
怒りが、ふいに、気おくれをおしのけて、ふきあげてきた。
「なにが、どうなってるの? どうしてジタンへむかっているの? 時間がないって、なんで? ……いったい、どうして、なにを……。」
あとは言葉にならなかった。涙があふれでた。
いったい、なぜ、自分は追われているのか。いったい、なぜ、シハナは自分をつれてジタンにむかっているのか。いったい、なにがおきているのか。だれも、なにも自分におしえてくれないなんてひどすぎる。
(みんな、わたしをちっちゃな赤ん坊みたいにあつかって……!)
凶暴な怒りがふきあげてきた。それを敏感にかぎとって、のどもとの輪が白熱しはじめるのを、アスラは感じていた。みるみるわきあがる雲のように、全身に力が満ちていく。
アスラは目を光らせて、どなった。
「ばかにしないでよ! わたしは赤ちゃんじゃない! わたしは、やろうと思えば、カミサマをよんであなたたちなんか、殺すことだってできるんだから!」
イアヌが、蒼白になってあとすざった。
それまでの、気弱でやさしい少女の面影は消えさり、狼のように凶暴なまなざしが、白く光っている。
シハナは、ささやくようにいった。
「おちついて、アスラ。――わたしたちは、あなたを赤ちゃんだなんて思っていないわ。
薬をあたえたのは、あなたを軽んじてしたことではないのよ。
昨日、あなたはひどい目にあったから、心がたかぶって眠れないだろうと思ったの。だから、眠りをさそう薬をいれただけ。
わたしたちがジタンにむかっているわけも、きちんと説明するつもりだったのよ。」
シハナの口調は、低く、おだやかだった。
アスラは、なにもいわずに、じっとシハナをみすえていたが、シハナは、表情を変えずに、率直な口調でいった。
「これから、すべてを話すから、どうぞ心をおちつけて、きいてちょうだい。」
その真摯な口調は、アスラの怒りをすこしずつ、しずめていった。
アスラは、かすかにうなずいてみせた。
シハナは、まず、自分が、はるか太古のロタルバル王国の時代に、サーダ・タルハマヤに仕えた、スル・カシャル〈死の猟犬〉の子孫であることをアスラに告げた。王家の目と耳としてはたらきながら、一方で、タルの民の司祭たちと、深くかかわってきたことを。
「そうよね、イアヌ?」
シハナが目をむけると、イアヌが、まだ血の気のない顔でうなずいた。
「ええ。一昨日の晩、あの宿で、すこし話しましたが、カシャルはわたしたちの監視役だったのです。ロタ王家のために、わたしたちタルの民が、二度と、おそろしい力をもつ神、タルハマヤを招くことがないように、見張っている……。」
「でもね。」
と、シハナがあとをひきとった。
「わたしは、あなたたちとふれあううちに、しだいに考えが変わってきたの。
祖先がおかした過ちのために、なぜ、いまを生きるあなたたちが、虐げられなければならないの?
なにかまちがっている。――わたしは、いつしか、そう思うようになっていたのよ。」
森で遊んでくれたシハナの面影が、アスラの胸によみがえってきた。
「だけど、わたしの父は王家に忠誠を誓う頑固なカシャルだから、こんな気もちは、けっして相談できなかった。でも、運命というのは、ふしぎなもので、道が、自然にひらけはじめたのよ。」
シハナは、自分が少女のころから、ロタ王の弟君のイーハン殿下に仕えていたことを語り、王弟イーハンが、タルの民と真剣な恋におちたことを話しはじめた。
「イーハン殿下は、まっすぐな心の方だから、その娘がタルであろうと、結婚しようと心に決めていた。わたしは、当時まだ十六の小娘だったけれど、イーハン殿下が、いかに真剣な恋をされていたか、はっきりおぼえているわ。……ふたりがであい、恋をはぐくむのを、カシャルとして、陰からみまもっていたのだから。」
シハナはまるで友人にうちあけ話をするように話し、アスラは、いつのまにか、すっかりひきこまれていた。
「でも、結婚などゆるされるはずもなかったわ。イーハン殿下が、むりに結婚をおしすすめようとすれば、ロタ王家はロタのすべての氏族から信頼をうしなってしまう。
タルの女性は賢い人だったから、それを察していた。だから、イーハン殿下に結婚をもうしこまれたとき、殿下をたすけるために、みずから姿を消してしまったの。家族も、親族もすてて。――そのタルの女性が、あなたのお母さんの、トリーシアなのよ。」
アスラはがくぜんとしてシハナをみつめた。
母が、なにか事情があって聖域の森に逃げてきたのだということは知っていた。でも、まさか、ロタ王の弟と恋におちていたなんて……。
母がどんな気もちで逃げたのか、それを理解するには、アスラはまだおさなすぎた。けれど、ロタ人をおそれ、かくれていた母の顔を思いだすと、ぼんやりとかなしみが胸にひろがった。
「イーハン殿下は、気がくるったように彼女を探しもとめたわ。彼女の跡を追えと、わたしに命じた。わたしは、数年間も探しもとめて、ようやく彼女をみつけだした。
おぼえている? わたしとはじめて会ったころのことを。」
アスラはうなずいた。
「あなたと遊びながら、わたしは、トリーシアがそれなりに幸せだと知った。だから、そっとしておいてほしいという彼女の願いをきいて、とうとうイーハン殿下には告げなかった。
ふたりが再会することは、どちらにとってもよいことではないと思ったから。」
やがて、シハナは、巧妙に、イーハンが、王家の者でありながら、タルの民を苦境からすくうために努力していることに話をもっていった。
「……ところがね、欲深い南部の大領主たちは、それを知ると、イーハン王弟殿下はタルの民を好み、ロタの氏族を軽んじているという噂をながしはじめたのよ。
彼らは、もともとイーハン殿下をきらっていたの。自分たちの特権を、イーハン殿下がつぎつぎに改革しようとするものだから。すきあらば暗殺しようとしているという話さえ、わたしはきいているわ。」
シハナの瞳は、つよい輝きをひめていた。
「南部はゆたかで、大領主たちは、王家をものともしない財力と権力をもちつつある。いつ彼らが謀反をおこしてもおかしくないのよ。
ヨーサム王はすばらしい名君だけど、お身体の具合が、あまりよくない。ヨーサム王が亡くなることにでもなったら、イーハン殿下が王位を継承されるのだけれど……イーハン殿下は諸侯たちにきらわれているから、きっと、それを機に大領主たちは謀反をおこすでしょう。
欲にまみれた、あの大領主どもがロタ王国を支配するようになったら、タルの民は、いまよりもいじめられて、くるしい暮らしをすることになるわ。」
シハナの口から語られることは、アスラがそれまで考えてみたこともなかった、ロタという国の内情をおしえてくれた。タルの民の暮らしが、ロタという大きな国の内情で左右されることも、いわれてみて、はじめて、そのとおりだろうと思った。
アスラは、すっかりシハナの話にひきこまれてしまっていた。
「イーハン殿下をまもり、ロタもカシャルもタルも、ゆたかに生きられる道はどうしたらひらけるのか。わたしは、悩みつづけたわ。」
シハナは、わずかに顔をアスラにちかづけ、声を低めた。
「そのとき、奇跡がおきたの。」
シハナの唇にはかすかに笑みがうかんでいた。
「まず、予兆があらわれたわ。知っているでしょう? 三年まえに、ピクヤ〈神の苔〉に黄色い花が咲いたことを。」
アスラはうなずいた。ちかいうちに〈聖なる川〉が、流れくる予兆だと、噂がささやかれたものだ。
「あのときは、なにもおきないまま半年がすぎたので、噂も下火になってしまった。
でも、|一昨年《いっさくねん》の冬、今度は、夏に咲くワウルの花が、秋になっても枯れず、つぎつぎに花を咲かせていると、噂になった。」
そうだった、と、アスラも思いだした。
「ね? 予兆が、ひとつ、ふたつとかさなるにつれて、わたしは、ほんとうに、〈聖なる川〉が流れくるときがちかづいているのではないかと、思うようになったの。
タル・クマーダ〈陰の司祭〉が伝えていた話がほんとうであるなら、それは、恵みのときの訪れである一方で、おそろしき神がこの世にあらわれるかもしれない、あやういときでもあるわ。わたしたちカシャルにとって、もっとも気をひきしめねばならないときなのよ。
でもね、アスラ、わたしは、予兆がひとつずつ現実になるのをみながら、父たちとはまったくべつの思いにとらわれていたの。」
シハナは、じっとアスラをみつめた。
「長いあいだ、権力をもったロタ人たちの、きたない裏側をみつづけてきたわたしには、タルハマヤを残酷な神だといい、タルの民を〈陰〉に生きる民にしてしまった伝説を、すなおに信じることができなくなっていたのよ。
タル・クマーダ〈陰の司祭〉の言い伝えが正しいという証拠はどこにもない。長い年月のあいだに、ロタ人に都合のよいように、ねじまげられていないと、だれにいえるかしら?」
ね? というように、シハナは、眉を片方もちあげてみせた。
「タルハマヤ神が、すきまじき力をもった神であるなら、その力を、わるい心をもった人が利用すれば、たしかにおそろしいことになるわ。
でも、アスラ、考えてみて。わるい心の人ではなく、心の清い人がサーダ・タルハマヤになれば、タルハマヤ神の力は、人に幸いをもたらすことだって、できるはずでしょう?」
アスラは、思わず、うなずいた。それをみて、シハナは、うれしそうにほほえんだ。
「そうよね? あなたも、そう思うでしょう? そうだとすれば、こんなふうに考えられない? その絶大な力を、タルの民の、だれか心の清い人が得て、ロタ王国全体を幸せにすれば――タルの民だけでなくてよ――ロタ人もみんな幸せにすれば、タルの民は、ロタ人に感謝されるようになるじゃない? そうなれば、タルの民は、いまのようにかくれて暮らすことなどなくなる! そして、ロタ王国は、いまよりも、ずっとずっと、いい国になるわ!」
熱っぽい口調で、シハナは語った。
「わたしは、この話をあなたのお母さんやイアヌたちに伝えたの。そうしたら、イアヌたちは、とてもよろこんだのよ。……ね? イアヌ、そうよね?」
イアヌが深くうなずいた。
「わたしたちを見張ってきたカシャル〈猟犬〉であるシハナが、そんな考えを伝えてくれたということが、わたしたちには、神の声に思えたのです。
それまで陰にひっそりと息をひそめていろ、と、おさえつけていた手が、ふいに、はずれたような気がしました。光がさしたような。
ああ、わたしたちが、光のなかで生きられる道がある。そう思ったのです。
ねじまげられた教えで、おそれていたタルハマヤ神が、ゆたかで、うつくしい国をつくる力を、わたしたちにあたえてくれる神なのだとしたら……!」
イアヌの瞳は、希望に輝いていた。
「サーダ・タルハマヤさえ、心清らかで、やさしい人であれば、神はきっと、残酷な神としてあらわれたりしない。むしろ、タルハマヤがおとずれれば、わたしたちは、もう一度、光のなかにもどれる……そう気づいたのです!
そうなると、ちかく〈聖なる川〉が流れくるという予兆も、すこしもおそろしくなくなりました。むしろ、待ちどおしくてたまらないほどでした。」
シハナも、ほほえみをうかべ、アスラをみつめて、それまでとはうってかわった、しずかな口調でいった。
「そして、ついに〈聖なる川〉は流れきた。……この国の|暗雲《あんうん》を切りさき、光で満たす神が、彼方からおとずれ、ひとりの少女に宿った。これを奇跡とよばずに、なんとよぶの?」
ふいに、氷のような冷たいものが、アスラの背にはしった。
「アスラ、あなたは運命の子。大いなる力をもって、この国を光で満たす神に宿られた子。
あなどるどころか、アスラ、わたしも、イアヌも、仲間たちはみな、あなたを、おそれをもってうやまい、大きな望みを託しているのよ。」
呪文のようにシハナがささやくと、イアヌがしずかに床にふせた。神にぬかずく姿勢だった。昨夜、かがり火をたいていた者たちの目にうかんでいた畏敬の念を思いだし、アスラは、肌がしびれるような、ふしぎな心地になった。
――アスラ…………!
お母さんの声と、頭を抱いてくれたぬくもりが、ふいによみがえってきた。
[#ここから3字下げ]
――すばらしいわ。あなたは、この世を変える、神にえらばれし子。
やがて、サーダ・タルハマヤになり、人の命を超えて、この世を治める者……。
もう、わたしたちには、なにも、おそれるものはない……!
[#ここで字下げ終わり]
わきたつような誇りが、胸をふくらませた。だが、同時に、天に、ひとりぽつんとうかんでいるような心ぼそさが、足もとを冷たくさせていた。
(お母さん……。)
アスラは心のなかで思った。
(お母さんがいてくれたら、こわくなかったのに。)
まるで、そのアスラの心の声をきいたかのように、シハナが、低い声で告白をはじめた。
「……あなたにぬかずき、祈るまえに、わたしは罪を告白しなければならない。アスラ。わたしは、あなたに殺されてもしかたがない罪をおかしたのよ。」
アスラは、ふるえながら、白いシハナの顔をみつめた。
「トリーシア――あなたのお母さまから、〈聖なる川〉が、ふたたびこの世へ流れきたこと、その流れを、あなたはみることができるときいたとき、わたしは信じなかった。
イアヌたち異能者のだれもが、まだ川をみていないのに、ラマウでもない、十二歳のあなたがいっただけのことを、信じる気にはなれなかったの。
だから、父が、禁忌をやぶったトリーシアを処刑するといったとき、わたしはとめなかった。」
鼓動がはやまり、アスラは、あさく息をしながら、身体をこわばらせた。
「正直にいうわ。あのとき、わたしは、トリーシアを憎んだのよ。こんなときに、はやまって、なんて危険なことをするのだと。タルの民がおそろしい神を招いて、反乱をくわだてているなどという噂がながれでもしたら、たいへんなことになると思ったから。」
シハナは、たんたんと告白をつづけた。
「でも、あのシンタダン牢城の惨事をみたとき、わたしは雷に打たれたような思いでさとった。お母さまのいったことは、ほんとうだったのだと。
だれが、タルハマヤ神を招いたのか、わたしにはすぐにわかったわ。アスラ――〈聖なる川〉がきていることに、だれよりもはやく気づいていた、あなたこそが、ほんもののチャマウ〈神を招く者〉だったのだと。
それなのに、愚かなわたしは、トリーシアの言葉を信じず、彼女を見殺しにしてしまった。」
シハナのきつい目に涙がうかんでいるのをみて、アスラは心をうごかされた。
「父が、犬の目にやきついた光景を呪術でよみがえらせたとき、わたしは思った。アスラ……聖なる子、あなたが生きているかぎり、救いはあるのだと。」
のどから胸に熱い板がはいったようで、アスラはうごくこともできずに、シハナをみていた。
「かたくなにスル・カシャルの掟を信じている父スファルは、あなたを、おそろしい神を招く者だと考えて、跡を追いはじめた。
わたしは父についていったわ。父があなたをみつけたら、なんとかして、父の手からあなたをすくいだし、まもるために。」
アスラは、すこしずつ、糸がほぐれていくのをみているような気がした。バルサが話していたことと、シハナの話とが、ふいに、ここでむすびついてきたからだ。
「わたしたちは、あの新ヨゴ皇国の宿場で、ようやくあなたたちに追いついた。
ところが、父があなたたちを殺そうとしていることに気づいた、あのバルサという用心棒が、横からでてきて、あなたをさらってしまったのよ。」
シハナが口をとじると、沈黙があたりをおおった。凍った大地を馬車が走る音だけが、しずかにひびいていた。やがて、小さく吐息をついて、シハナが首をふった。
「あの人は善意で、あなたをたすけたのでしょうけれど、わたしは、二度とあなたに会えないのではないかと、不安だった……。」
シハナは顔をあげて、アスラをみた。
「タンダという人に事情を説明して、ようやくバルサのたちよりそうなところをききだしたけれど、彼女のことだから、なにをしても罠だと勘ぐるだろうと思ったの。
だから、ジタンにくるようにという手紙をのこして、彼女が、とんでもない方向へあなたをつれていってしまわないようにしたのよ。そして、ジタンへの道の要所要所に人を配置して、情報をさぐるようにたのんでおいたの。」
(ああ、それで……。)
交易市場で、早耳のタジルからきいたのは、こういう裏があった話なのか、とアスラは納得した。
タンダに事情を話しておしえてもらったというシハナの言葉が、まっかなうそであることなど、アスラが知るよしもなかった。
「じゃあ、イアヌたちも……?」
「そうよ。なんとか、あなたをまもり、わたしのもとへつれてきてくれるように、たのんでおいたの。あとすこしというところで、あなたたちが山賊におそわれたのは災難だったけれど、このときばかりは、バルサがいてくれて、よかった。彼女は身をすてて、あなたをまもってくれたのね。」
バルサが死んだということを、アスラはまだ信じられずにいた。どこかで生きていると、思わずにはいられなかった。
だが、アスラが、バルサの死の知らせについて、くわしくきこうと思ったとき、シハナが、口をひらいた。
「たいへんな遠回りをしたけれど、アスラ。わたしたちは、ようやくであえた。」
その声には、いつわりのない感慨がこもっていた。
シハナは正座をすると、ゆっくりと頭を床にこすりつけ、神にぬかずくしぐさをした。その姿勢のまま、くぐもった声でシハナはいった。
「聖なるアスラ。大いなる神を招く運命の子に、もうしあげます。
どうか、わたしたちをおまもりください。わたしたちとともに闘い、この国に光をもたらす力となってください。」
氷をおしつけられたように、全身が冷たくなった。
「これは、わたしたちだけの願いではありません。あなたのお母さまのトリーシアも、生きていたらきっと、おなじことをあなたに願ったはずです。」
小さくふるえながら、アスラは、自分にぬかずいている、シハナとイアヌをみつめていた。
[#改ページ]
第三章 サーダ・タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉
1 波乱の予感
いまにも雪がおちてきそうな灰色の空をみあげて、タンダは白い息をはいた。
スファルにたすけられてから、もう何日たつだろう。タンダは、スファルにみちびかれて、ロタ王国じゅうにカシャル〈猟犬〉がはりめぐらした網の目のような|路《みち》を、馬で旅してきた。
この路は、ふつうの旅人がとおる道である場合もあったが、ロタ人が知らない森の奥の路や、渓谷ぞいの小道、洞窟や滝の裏をくぐる通路にもつながっていた。
多くのカシャルたちが、この路をつかって移動し、休息をとったりかくれたりする宿も、あちらこちらにもうけられていた。そういう宿は、カシャル同士が情報を交換する場でもあった。
ジタン城塞へむかって旅をつづけるあいだ、スファルはマロ|鷹《だか》のシャウを飛ばして、ちかくの宿に、どんなカシャルが泊まっているかをたしかめた。シハナの息がかかっていそうなカシャルがいる|宿《やど》に、ちかづかないようにするためだった。
その一方で、信頼がおける仲間にであったときは、シハナのうごきをさぐる協力を得たり、ロタ王国全体の情報を集めたりと、精力的にうごいた。
カシャルたちには、全体を統べる|長《おさ》という者はいない。ただ、故郷の|川筋《かわすじ》ごとに、長老格の者がいるだけだ。スファルは、サーム川筋の長老で、多くの若者たちに慕われていたが、問題は、この若者たちはまた、シハナの能力を慕う、兄弟|従兄弟《いとこ》たちでもあることだった。
スファルは、シハナに捕らえられたとき、すぐに、ひとつの手を打った。かつてバルサを迫ったマクルという若者を信頼し、シハナのすきをみて彼にすべての事情をうちあけ、バルサとアスラを追うように命じたのだ。
マクルは口数の少ない若者だが、バルサを追いつめていった腕といい、誠実な人柄といいすぐれたカシャル〈猟犬〉だった。彼は、バルサたちがくわわった隊商の跡を、まさに猟犬のように、しずかに追っていった。
「バルサとアスラの行方はマクルにまかせる。問題の日までにはジタンにむかうが、そのまえに、わたしたちは、ほかにすることがある。」
そうスファルに告げられたとき、バルサが心配でならぬタンダは、異をとなえかけた。だが、スファルの考えをきくうちに、タンダも、彼にしたがうことを決めたのだった。
「シハナのおもわくは、ロタ王国全体にかかわっている。あの娘は、アスラを追跡するために駒をうごかしているのではなく、王国全体にかかわる広大な|遊戯盤《ゆうぎばん》をながめて駒をうごかしている。
シハナの暴走をとめるには、われらもおなじ高さから、広大な遊戯盤をながめねばならぬ。」
それで、スファルとタンダは、ロタじゅうのうごきに耳をすましながら旅をしてきたのだった。
スファルはまた、あちらこちらの深い森の奥に点在している、タルの民の聖域にも、なるべくたちよった。
むかしから知っている、何人ものタル・クマーダ〈陰の司祭〉たちと話すうちに、スファルは、ほとんどの司祭たちが、シハナのたくらみに気づいていないことを知った。
ただ、北へむかううちに、タルの民たちのあいだで、地の底にかくれていた水が|陽炎《かげろう》となって地上にゆらめきたつように、これまでかくれていたものが、あらわになりつつあることが感じられた。
はるかな時を経て、ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉が、ふたたびこの地へと流れきているいま、タルの民は、ふたつの相反する思いのあいだでゆれていたのだ。
いまこそ、自分たちの誠実さがためされるときだと、ほとんどのタル・クマーダ〈陰の司祭〉は考えているようだった。
彼らは、王国じゅうの聖域に伝文を送りあい、おそろしき神タルハマヤをふたたび招く者がでないように、きびしく民の心をひきしめようとしていた。
だが、彼ら司祭の戒めとは、まったく逆の思いが、タルの民をゆらしはじめていた。
チャマウ〈神を招く者〉が、すでにあらわれている、という噂が、|野火《のび》のようにタルの民のあいだをかけめぐっていたのである。
シンタダン牢城の惨劇は、タルの民を処刑しようとしたロタ人に、おそろしき神タルハマヤの怒りがくだされたというのが真相だそうだ、と、人びとはささやきあった。
やがて、チャマウ〈神を招く者〉が、サーダ・タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉となったとき、タルの民は、長年の苦しみから解放される。――そういう噂に、ロタ人にさげすまれ、ふみつけられていた人びとの心はゆれはじめていた。
だれが発信者かわからぬ、いくつもの噂が、タルの民のあいだでささやかれていると、あるタル・クマーダ〈陰の司祭〉は不安そうにスファルにうちあけた。
たとえば、サーダ・タルハマヤを圧政者だといい、その罪を|償《つぐな》いつづけるよう自分たちにおしえてきた聖伝は、ロタ人が自分たちを支配するためにでっちあげたものだ、という噂だ。
こういう噂は、人びとの心を大きくゆさぶっている、と司祭はいった。
タルハマヤは偉大な神で、自分たちの祖先は、ロタ人など足もとにもよれぬ、偉大な民だったのではないか? いまこそタル〈陰〉という名の重荷をすてて、光のなかへでていくべきだ。
ずっと、せおってきた闇を自分の子どもたちにはせおわせたくない。いま、子どもらに、あかるい未来をあたえられるかどうかの、わかれ道がきているのだという考えは、タルの民の共感をよんでいる、と。
北部の、とくにジタンにちかづくにつれて、こういう噂はひろがっているようだった。もっともジタンにちかい聖域では、なんと、ラマウ〈仕える者〉たちが武装して、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちをひとつの建物にとじこめてしまっているところがあった。
鷹を飛ばして観察するうちに、スファルは、そこで、かがり火をたいて見張りをしているラマウたちのあいだに、シハナに心酔している若いカシャルがまじっていることを知った。
タルの民の反逆をおさえるために存在しているはずのカシャルが、ラマウたちと手を組んでいるのだった。
それだけではない。北部の氏族たちのあいだにも、ふしぎな噂がながれはじめていることを、スファルは、仲間のカシャルたちからきいた。イーハン王弟殿下が北部の諸氏族を苦難からすくう運命のときがちかづいている……という噂だった。
いったい、どうやってすくうのか、なにが運命のときなのか、具体的な内容のわからない奇妙な噂だったが、北部の氏族のあいだでは、すこしでもイーハン殿下のお役にたとうと、若者たちがいさみたっていた。
その一方で、南部の諸氏族と大領主をさぐっているカシャルたちも、きなくさいうごきをかぎつけていた。
シャーサム〈新年の月〉の二十二日には、ジタン祭儀場で建国を祝う式典がひらかれる。
ジタンは、かつてロタルバルの都があった場所にたてられたのだが、初代のロタ王、キーランが、サーダ・タルハマヤをたおして、ロタ王国の建国を宣言した日が、シャーサム〈新年の月〉の二十二日なのである。この日には、毎年、南部と北部すべてのロタ氏族のおもだった者たちがジタン祭儀場に集まり、盛大な式典がもよおされる。
すでに、南部の者たちもジタンへむかう準備をはじめていたが、大領主や氏族長をまもる衛兵の数が例年の倍ちかい、というのである。
王家へとどけでた衛兵倍増の理由は、「北部の諸氏族のあいだで、奇妙な噂がながれていることを警戒して」ということだったが、ヨーサム王がサンガル王国の式典へ出席するために留守にしているときだけに、ロタ王家の者たちは注意する必要があると、カシャルたちは警告していた。
いくつものおもわくがからみあい、大きなうねりがおきはじめている――スファルとタンダは、それをひしひしと感じていた。
タンダとスファルは、森の小さな岩屋で、野宿のために焚き火をしていた。
小芋を枝にさして、器用に焼きながら、タンダが顔をあげた。
「スファル。」
「うん?」
「もう、シハナのおもわくは、すべて読めましたか?」
スファルは、しばらくだまってマロ鷹のシャウの首をなでていたが、やがて、うなずいた。
「……たぶんな。いま、王国じゅうをゆらしている波は、シハナがおこしたものではない。
南部の大領主たちのおもわく、北部の氏族のおもわく、王家のおもわく、そして、はるかなる異界ノユークから、おそろしき神をつれて川が流れきたこと。いくつもの波がぶつかりあい、かさなりあい、大きな波がもりあがり、王国をのみこもうとしている……。」
シャウが気もちよさそうに目をほそめ、ククッと鳴いた。
「われらはな、タンダ、ロタルバルの伝承だけでなく、王国の歴史を多く語り伝えてきた。そういう歴史語りをきくと、思うことがある。――できごとは、ふしぎに、より集まっておこるものだと。川の流れもそうだが、単調に、ただ流れているだけではない。
ゆるやかな流れが、底の石や地形によって、ふいに急流になったりする。
歴史もそうだ。偶然の一致とは、とても思えぬできごとが、あるとき、一点により集まって、ふいに大波に変わる。」
スファルは、なにかを思いだすように目をほそめた。
「シハナは、だれよりもはやく、その波がくることを読んでいたというわけだ。
それどころか、いつか波がきたとき、いっきに船を大波にのせていこうと準備をととのえていた。
あの娘が、すこしずつ仲間の輪をひろげていたことには、うすうす気づいていたよ。
シハナには、人をしたがえる力がある。なんというか……あの娘は、いつも別格なのだよ。あの娘が予想したとおりにものごとがうごくものだから、つい、みんなしたがってしまう。若いカシャルだけでなく、タルのラマウ〈仕える者〉たちまで、あの娘にしたがってしまったのも、むりはない。」
スファルの声には、かくしきれない誇りの色がにじんでいた。それに、自分でも気づいたのだろう。顔をゆがめて、せきばらいをすると、スファルは話をロタの事情にもどした。
「われらカシャルは、いつか南部の諸氏族と王家が衝突するのではないかという不安を、ずっとかかえている。
とくにシハナは、南部の大領主たちは、ヨーサム王陛下が崩御されれば、かならずイーハン王弟殿下を攻めて虐殺し、王位をうばいとると、いいつづけていた。
第一の王位継承権はもちろん、イーハン王弟殿下がもっておられるが、大領主たちも、|傍系《ぼうけい》ではあるが王族の血をひいている。
ヨーサム王の人気は絶大だから、彼が王位にあるあいだは、南部もへたにうごくことはできないが、イーハン殿下は、南部ではもちろん、北部でも老人たちにはさほど支持されていない。」
タンダは芋をひっくりかえしながら、首をかしげた。
「だけど、ヨーサム王は、すこしのあいだ不在というだけで、べつに亡くなったわけではないでしょう? いま、南部がイーハン殿下を攻めるということは、ないでしょうに。」
「そうだな。わたしも、それはないと思う。たぶん、今回衛兵を倍増させたというのは、威嚇だろう。――これだけの軍備を、われわれはもっている。われらを軽んじれば、いつでも攻められるのだぞ、という。」
首をなでられているシャウが、満足そうに目をほそめた。
「それにしても、こんなときに、どうしてヨーサム王は、サンガル王国の式典へいかれたのでしょうね? イーハン殿下を代理にたてればよかったのに。」
タンダがいうと、スファルは首をふった。
「じつは、南の大陸のタルシュ帝国が、ロタに手をのばそうとしている気配があるのだよ。
だから、ヨーサム王はサンガルへいったのだ。サンガルは、ロタにとっては南の防壁のようなものだからな。直接サンガル王家と話をする機会を、のがすわけにはいかなかったのだ。」
「おれは、平民にうまれて、よかったな。」
そういって笑いながら、タンダは芋をスファルに手わたした。
「だけど、その王権うんぬんの話と、アスラがどうかかわってくるんです?」
スファルは、わたされた芋の串を、手のなかでくるくるまわした。
「……たぶん、シハナは、アスラをイーハン殿下のためにつかおうとしているのだと思う。」
タンダは眉をひそめた。
「アスラを、武器につかうということですか?」
スファルは、暗い表情でうなずいた。
「じつは、ヨーサム王のお身体に不安があるのだよ。」
タンダは、そんな重大なことを自分に話していいのか、という顔でスファルをみたが、スファルは気にしていないようすで、言葉をつづけた。
「ヨーサム王のお側にいる者なら、みな、気づいていることだ。ヨーサム王は、近年、ひんぱんに熱をだされる。ヨーサム王の父君が崩御されるまえと、よく似ているのだ。」
タンダはまばたきをした。
「だから……? アスラがタルハマヤを招くことができると知って、ヨーサム王になにかがあったとき、次代の王になるイーハン殿下に、絶大な力をあたえようと思いついたと?」
ため息をついて、スファルはうなずいた。
「南部の大領主のだれかが王位につくようなことにでもなったら、ロタ王国は大混乱におちいる。きっと北部と南部でいくさがおきるだろう。血で血をあらう争いが長くつづくにちがいない。」
タンダは、うなって、首をかしげた。
「いや……それはわかりますけど、でも、あまりにも危険な賭けだよなぁ。だって、うまくアスラを捕まえることができたとしても、おもわくどおりにタルハマヤの力をつかえるとはかぎらないでしょう。アスラの気もちってものがあるんだから。」
うつむいて茶碗に目をおとし、スファルは、きびしい表情でいった。
「わたしにも、それはよくわからない。だが、あれのことだ。勝算がない賭けはしないだろう。アスラと、かなりまえから知りあっていたようだしな。」
タンダは、すこしまえにスファルからきいた話を思いだした。
シハナは、イーハン殿下から、行方をくらました恋人を探すようにたのまれ、長年追いつづけていたのだという。
シハナがイーハン殿下の恋人――チキサとアスラの母親トリーシアの居所をみつけだしていたことを、スファルはまったく知らなかった。シハナはトリーシアの居所を知りながら、だれにも、イーハン殿下にさえ、それを告げなかったからだ。シハナは、スファルを軟禁して説得していたとき、はじめて、スファルに、そのことをもらしたのだった。
イーハン殿下が探しつづけていた女性をみつけていたのに、なぜ、シハナはイーハン殿下にそれを伝えなかったのだろう。なにか、おもわくがあったのだろうか。
「シハナは、最初から、タルハマヤの力をつかおうと思ってトリーシアにちかづいたのかな?」
タンダのつぶやきをきくと、スファルが目をあげ、首をふった。
「それはない。トリーシアの娘が、将来、チャマウ〈神を招く者〉になるなどと、知る方法はなかったのだから。」
そういいながら、スファルは、ふと、かつてシハナがいった言葉を思いだして、背筋が寒くなるような思いにとらわれた。タアルズ(遊戯盤をつかう競技)にかならず勝つためには、自分が勝利する形をまず想像しておいて、そのとおりになるように、自分のうごきで相手の行動をみちびくのだという言葉を。
(……まさか。いくらあの娘でも、思いどおりに、アスラを、チャマウ〈神を招く者〉にすることなど、できたはずがない。)
タルハマヤを招くのは、死罪にあたる重罪だ。それに、タルハマヤのおそろしさは、タルの民の心に、しみついているはずだ。どんなに言葉たくみにトリーシアを説得したとしても、娘の命を犠牲にしようと母親が思うはずがない。
スファルは、心にうかんだ、おそろしい可能性をふりはらった。
「たぶん、シンタダン牢城で、タルハマヤのおそるべき力を|目《ま》のあたりにしたときに、この計画を思いついたのだろうよ。アスラとつきあいがある自分なら、あの少女をうまくあつかえる。勝算のある賭けだと、思ったのだろう。」
タンダは、ふーむとうなったきり、なにもいわず、熱いラコルカ(乳入りのお茶)をすすった。そのタンダの表情をみて、スファルは言葉をついだ。
「カシャルとしては、とんでもない、ゆるされぬ考えだが、あれの心のなかでは、カシャルの掟など、とうに、意味のないものになっていたのだろうな。」
スファルの顔に、影がゆれた。
「いま思えば、いくつか、思いあたることがある。
サーダ・タルハマヤのすさまじい力に、シハナは、たしかに、魅せられていた。
もし、サーダ・タルハマヤのような絶大な力が自分にあったら、わたしは、いまの千倍も、この国をよくしてみせるわ、と、あれがいうのをきいたことがある。
ばかなことを、と、わたしはいった。人知を超えた、そんな力をもてば、どんな人間でも、かならず、独善的な暴君になるだけだと。サーダ・タルハマヤがそうだったように。」
ククッとシャウが鳴いた。
「シハナは、|微笑《びしょう》をうかべたまま、こたえなかった。
あれは、自信のかたまりのような娘だ。しかも、いったん思いこんだら、どんな犠牲をはらっても、冷徹に、やりとげてしまう……。」
スファルは口をとじて、焚き火の炎をみつめた。
ゆれる|火影《ほかげ》にさそわれるように、まだ妻が生きていたころの、ささいなできごとが、あざやかにスファルの胸によみがえってきた。
妻が、ふとした拍子に手をすべらせて、家の鍵を飛ばしたのだ。偶然にも、その鍵は、シハナの壺のなかにおちてしまった。その壺は、もう亡くなっていた祖父が、シハナに心をこめてつくってやった壺だったが、花を一輪さすためにつくった小さな壺で、口がほそく、いくらふっても、鍵はでてこなかった。
妻がこまっていると、シハナが外から帰ってきた。話をきき、何度か壺をさかさにしてふっていたが、でてこないとわかると、いきなり、壺を床にたたきつけて割ってしまった。
そして、破片のあいだから鍵をひろって妻にわたすと、こともなげにそうじをはじめたのだ。
スファルも妻も、正直なところ、冷えびえとした心地になった。祖父の真心がこもっている壺を、自分でも大事にしていた思い出の壺を、あっさりと割ってしまった。そのときのシハナの無表情な目を、いまも、スファルはときどき思いだす。
スファルは、火影から目をそらし、芋に手をのばした。塩をふって芋を食べ、ラコルカ(乳入りのお茶)を飲んでから、顔をあげて、タンダをみた。
「シハナは、やることにためらいがない。邪魔になると思ったら、たとえ親でも、敵にまわす。」
その言葉の奥にひそんでいる痛みを感じとって、タンダは、つぶやいた。
「でも、あなたを捕らえてからのあつかいには、ためらいがあったと思いますよ。」
スファルは、まばたきをした。
「……あなどっているだけだろう。わたしには、わが子を傷つけるようなことはできまいと。」
スファルは目をそらし、串に肉をさしてあぶりはじめた。
(たしかに、スファルには、できないかもしれない。)
タンダは心のなかで思った。いまは、スファルとともに、こうしてすごしているが、いつか、スファルと|袂《たもと》を|分《わ》かつときがくるかもしれない。
スファルが、シハナのためにうごくなら、自分も、バルサとアスラたちのために、うごく。そのときは、スファルと敵対することをためらってはいけない、と、タンダは自分にいいきかせた。
(バルサ……。)
煙がすいこまれていく、雪がふりしきる暗い空をみあげて、タンダは思った。
(おまえ、いま、どこでこの空をみている?)
「飯を食ったら、はやめに寝よう。あと三日もあれば、ジタン城塞につく。ここからは、シハナのめぐらした網の目は、どんどん密になるだろう。つかれをとって、そなえねばな。」
スファルの言葉に、タンダはうなずいた。
ロタの冬の夜は、すさまじい冷えこみで、毛皮にくるまっても冷気がしみとおってくる。
うとうとと眠りにおちたタンダは、バルサの夢をみた。
いまのバルサではなく、まだ十二歳くらいの、やせっぽちの少女だったころのバルサが、岩屋の入り口に立っているのだった。全身びしょぬれで、あおざめた顔をして、がたがたふるえている。歯が、カチカチと鳴っている。
タンダは、あわてて立ちあがり、バルサをひきよせた。いっしょうけんめい抱きしめて、あたためようとした。だが、腕のなかのバルサは、氷のように冷たくて……煙のように消えてしまった。
タンダは、はね起きた。まるで、ほんとうにずぶぬれの少女を抱いていたかのように、全身が冷たい汗にぬれていた。
(バルサ、まさか、おまえ……。)
息ができないほどの恐怖が、タンダの胸をしめつけていた。
自分の死を告げにきた霊だったのか……? 頭から血の気がひいた。顔がこわばり、手がふるえはじめた。
「……どうした?」
かたわらで、スファルが身を起こした。タンダはこたえずに、闇をみつめてふるえていた。〈|魂呼《たまよ》ばい〉をしようにも、すでに、バルサの魂の気配さえない。
「ただの夢であってくれ……。」
ぎゅっと目をとじたタンダの口から、うめき声ににた言葉がもれた。
眉をひそめていたスファルは、ふと、視線を感じて、岩屋の入り口をみた。
月の光の下に、白銀に光る獣がすわっていた。――狼だった。氷の彫像のように、うつくしい姿をしている。
その瞳をみたとき、スファルは、その狼がのせている魂に気づき、そっと手まねきをした。
[#改ページ]
2 罠猟師の|出小屋《でごや》で
タンダがおそろしい夢をみる、その、わずか数刻まえ、カシャル〈猟犬〉のマクルは、サイ川にほどちかい、タルの罠猟師の、出小屋にたどりついていた。
マクルにとって、その日は最悪の一日だった。
勘の鋭いバルサに、気配を感じとられないように、たいへんな思いをして跡をつけてきたというのに、吊り橋のところで、とんでもない大乱闘がおきて、アスラをみうしなうはめにおちいってしまったからだ。
マクルの使命は、とにかくアスラの跡を追うことだった。だが、吊り橋をわたるためには大乱闘のただなかをぬけていかねばならず、とても、すぐあとをわたるわけにいかなかった。それどころか、おおぜいの武装した男たちにみつからずに逃げるために、マクルは、おびえた猿のように大木によじのぼって、事態がおさまるのを待つしかなかったのだ。
バルサに加勢する気はなかった。ひとりがふたりにふえたところで、この大人数を相手にできるはずがないからだ。
木の上から乱闘をみるうちに、マクルは、バルサの鬼神のような強さに舌をまいた。まえに気絶させられたが、あれは、ほんとうに手加減していたのだと、つくづくさとった。
多勢に無勢で、追いつめられていくバルサを、マクルは、胸が痛む思いでみまもっていた。
やがて、バルサが吊り橋をおとし、自分も川におちたとき、マクルは目をとじて、バルサの無事を祈ったが、冬の川におちて、たすかるとは思えなかった。
男たちが仲間をせおってひきあげたあと、マクルは吊り橋の残骸が、むこう側の崖にぶらさがっているのをみて、ため息をついた。山羊なら、とんでわたることもできようが、自分にはむりだ。
深い緑色の川をみおろして、マクルはふるえた。バルサの姿は、どこにもみえない。雪が舞いとぶこの寒さでは、たとえ岸にあがったとしても、凍死はまぬがれまい。
「……人の心配より、自分の心配をせねばな。」
マクルは、つぶやいた。
アスラを迫っていくためには、むこう側にいかねばならないが、もうすぐ日が暮れる。橋を探して、うろうろするわけにはいかない。いったん、川におりるべきだろうと、マクルは心を決めた。
崖をくだるのは意外に時間がかかった。ようやく岸辺についたときは、すでにうす闇がただよいはじめていた。
下流に歩きながら、今夜の野営地を探そうと思っていたとき、マクルは、ふと、煙のにおいに気づいた。
このあたりは、シャーンの森がちかく、ロタ人が野宿するはずもない。いるとすれば、タルの罠猟師だろう。煙のにおいを追って、歩きはじめたマクルは、やがて、うっすらと雪がつもった地面に、真新しい足跡をみつけた。ふたりの男が、獲物かなにか重いものをもって歩いていった跡だった。
その跡をたどって、いまようやく、罠猟師の出小屋にたどりついたというわけだった。
小屋のなかからは、なにやら口論している声がきこえてくる。やっかいごとの気配に、マクルはしばらくためらっていたが、雪のなかで野宿するよりはと、思いきって戸をたたいた小屋のなかが、しずかになった。ずいぶん長い間をおいて、戸がそっとほそめにあいた。
「……どなただね?」
しわがれた男の声に、マクルはていねいにこたえた。
「わたしは呪術師のマクルといいます。雪のなかで、日が暮れてしまいました。もうしわけないが、今夜ひと晩、泊めていただけまいか?」
呪術師だとよ、と、しわがれ声が、仲間に話している声がきこえ、なぜ、ここに? とか、いや、おそうつもりなら、わざわざ声はかけまい、という声などがきこえてきた。マクルはせきばらいをした。
「わたしに、害意はありません。信じていただくしかないが、夜をこしたいだけなのです。」
ひと呼吸おいて、ゆっくり戸があいた。むっとあたたかい、目をさす煙と、獣の皮のにおいがへただよってきた。
そっと屋内に足をふみいれると、暖炉に火が燃えているだけの、うす暗い部屋のなかに、三人の老人がたたずんでいた。暖炉のわきには、大きな狼の皮がしかれ、その上に、ごろんと、ふたつの身体が横になっている。
「おじゃまいたします。|一夜《いちや》の宿を、お願いいたします。」
そういって頭をさげると、老人たちが、うさんくさげな目で、それでもおじぎをかえしてくれた。目がなれてくると、老人たちのうち、ふたりは罠猟師で、のこりのひとりは、タル・クマーダ〈陰の司祭〉であることがわかった。
つぎに、ぐったりと横たわっているふたりに目をやって、マクルは、はっと息をのんだ。
「……バルサ?」
マクルは、あわてて、そばにひざまずいた。暖炉の明かりにてらされた横顔には、ぬれてもつれた黒髪がはりつき、雪のように血の気がない。鼻に手をおいても、息を感じなかった。
「あんた、その女の知りあいかね?」
罠猟師のひとりが声をかけてきた。
「川辺に流れついていたんで、ひろいあげてきたんだが。聖域にちかい川に、死体をおいておくわけにはいかんので。……わしは、死んでいると思うんだが、シンザイもタル・クマーダさまも、まだ生きておるというんだよ。」
背中にそんな声をききながら、マクルは耳の下に指をあてた。凍るように冷たい肌だったが、たしかに、ひとつ、ふたつと、かすかに脈が感じられた。
「……生きている! 生きているぞ。」
マクルは、うれしそうにさけんで、老人たちをふりかえった。
「身体をあたためねば! もっと毛皮がありますか?」
そういいながら、ふと、バルサのとなりの、やはり、まったくうごかずに横になっている男に目をやって、マクルは、また大きな声をあげた。
「なんと、アラム叔父じゃないか!」
おなじサーム|筋《すじ》のカシャル〈猟犬〉で、とおい叔父にあたる男だった。そういえば、このあたりの森を監視範囲にしていたのは、アラムだった、と、マクルは思いだした。
「さわってはならぬ。」
タル・クマーダ〈陰の司祭〉が、あわてて声をかけてきた。
「アラム殿はいま、魂を狼にのせて、走らせておるところじゃ。」
マクルは、ああ、と、うなずいた。アラムはすぐれた呪術師で、長のスファルや、シハナのように、獣に魂をのせることができる、数少ないカシャルのひとりだった。
罠猟師の出小屋に、なぜ、タル・クマーダがいるのか。アラムは、なんのために狼を走らせているのか。……考えられることは、ひとつしかなかった。
マクルは、ゆっくりと顔をめぐらして、部屋のすみの椅子に腰をおろしているタル・クマーダをみあげた。そして、不安をしずめるように、おだやかな声でいった。
「あなたは、聖域にいられなくなって、ここにおられるのですね?」
タル・クマーダは、複雑な表情で、じっとマクルをみつめていた。
「そう。……あそこは、いまや聖域ではなく、まるで兵士の野営地じゃ。しずかに神に祈れる場所ではない。」
マクルは、うなずいた。やはりそうだ。タルの民たちがアスラをつれてかけさったときから、そうではないかと思っていたが、この森の聖域はシハナの息がかかった者たちにおさえられているのだろう。
アラムはスファルに忠実な、一本気の男だ。きっと、スファルにその状況を知らせるために、狼に魂をのせて、カシャル|路《じ》を走っていったのにちがいない。
シャーサム〈新年の月〉の二十二日の行事までに、ジタンへたどりつくためには、そろそろ、スファルも、このあたりにきているはずだ。案外はやく、合流できるかもしれない。
マクルは、バルサに目をおとした。あいかわらず目ざめるようすもなく、息もあさい。このまま、ぬれた衣をまとっていれば、体温がすいとられるだけだ。
罠猟師から、かわいた毛皮を何枚もうけとると、なるべく目をそらしながら、マクルは、バルサのぬれた衣をはぎとった。うつぶせに寝かせたとき、背に、長い切り傷をみつけて、声をあげそうになった。冷たい水におちたのが幸いして、ほとんど出血していないが、身体があたたまれば、出血してくるだろう。わき腹にもほそい傷がある。
マクルは、ため息をついた。治療の技は得意なほうではないが、呪術師として、ひととおりは身につけている。マクルは老人たちに声をかけた。
「……つよい酒はありませんか? 傷の手当てをしたいのです。」
老人のひとりが、壺にはいった果実酒をもってきた。
「その人は、いったい何者だね? 女なのに短槍なんぞもって。まあ、すげぇ力でにぎりこんでいるもんだから、槍を手からとりあげるのに、ふたりがかりだったよ。」
「この人は、用心棒ですよ。」
マクルは、それだけおしえてやって、真剣な表情になると、傷を治療しはじめた。
狼にみちびかれて、スファルとタンダがその小屋へやってきたのは、翌日の昼すこしまえだった。氷のように冷たい身体をしていたバルサが、一転して高熱をだしはじめたので、昨夜は、きれぎれにしか眠れなかったマクルは、戸をたたく音で、はっと居眠りからさめた。
戸があくのと、かたわらで、アラム叔父がうなり声をあげて、むっくり起きあがるのが、ほぼ同時だった。
どこへいったのか、罠猟師の老人たちはおらず、タル・クマーダ〈陰の司祭〉だけが、あいかわらず部屋のすみの椅子にすわって黙想している。
戸をおしあけてはいってきたスファルは、マクルに気づいて、目をまるくした。
「なんと……マクル、おまえ、なぜここに?」
マクルはこたえようとしたが、スファルのあとからはいってきた男が、こちらをみて、ぎくっと目をみひらいたかと思うと、突然、すごい声をあげて、とびつくようないきおいで突進してきたので、あわててわきに身をかわした。
「バルサ……!」
男は、マクルにもアラムにもまったく目をくれず、ふるえる手でバルサの額にふれた。そして、まぶたをそっとおしあけ、瞳孔の収縮するさまをみ、脈をとりはじめた。
たしか、タンダという男だったとマクルは思いだしたが、その、弓の|弦《つる》のように張りつめた必死さに、声をかけることさえできなかった。
狼から、おりたばかりのアラムは、ぼうっとした表情で、突然の騒ぎをみていた。バルサがはこびこまれ、マクルがやってきたのは、彼にとっては不在のあいだのできごとだったので、なにがおきているのかわからずに、ただ、まばたきをするしかなかった。
スファルが、マクルとアラムに声をかけ、タンダを気づかった小声で、それぞれから、順番に事情をききはじめた。
マクルは、バルサとアスラが吊り橋のところで待ち伏せにあったこと、アスラが、どんなふうにタルの民につれさられたかを話した。
「聖域にいってみようかとも思ったのですが、アラム叔父もそう長く狼に魂をのせてはいられないでしょうし、アラム叔父が目ざめるまで待って、相談すべきだと思いなおしたのです。
聖域は兵士の野営地のようだと、タル・クマーダがいっておりましたし、事情もわからぬまま、へたにちかづかないほうがいいだろう、と。
それに、スファルさまと合流できるなら、いまのうちに合流したほうがいいと思いまして。」
スファルはうなずいた。
「正しい判断だったな、マクル。……アラム、聖域の状況をおしえてくれ。」
アラムは、しばらく頭をふって、狼の感覚をふりはらおうとしていたが、やがて、ひとつ息をつくと、スファルをみた。
「五日まえに、突然、ラワル|筋《すじ》の連中がおおぜい、聖域にはいりこみ、わたしを捕らえました。そして、ラマウ〈仕える者〉たちを指導して、あそこを野営地のようにかえていったのです。
|一昨日《いっさくじつ》の夜、シハナが到着して、仲間たちを集合させたとき、わずかなすきをみつけて、わたしは、やっとの思いで逃げだしてきたのです。
シハナのうごきを伝えよ、という、あなたの伝言をうけとっていたので、ここまで逃げてから、狼に、のったのですが……。」
アラムは顔をゆがめた。
「いったい、なにがおきているのですか、スファル。カシャルとタルが手を組んで、なにをしようとしているのです?」
カタリ、と、木がこすれる音がした。しわがれた声が部屋のすみからきこえてきた。
「おそろしき時代を、招こうとしておるのだ。残酷なタルハマヤを、ふたたびこの地へ招こうとしているのだ。」
眉をひそめて自分をみたアラムを、スファルは、暗い瞳でじっとみかえした。
パチパチと火がはぜる音と、ゆれる光を感じて、バルサはかすかに目をあけた。
身体が自分のものではないようにたよりなく、透明なぬけがらになったような気がした。自分がどこにいるのか、なにをしているのか、わからぬまま、バルサは長いこと、うつらうつらしていた。
頬にあたたかく、やわらかい布がふれていた。身体はきつかったが、親しいにおいにつつまれて心はおだやかだった。あたりはうす暗く、しずかで、人の寝息や、いびきがきこえてくる。身じろぎをすると、頬をあずけていた身体が、ふいにうごいた。
「……バルサ、気がついたか?」
ききなれたささやき声に、バルサは、ようやく、はっきりと目をさました。
「タンダ?」
自分がタンダに抱かれて眠っていたことを知って、バルサは、まばたきをした。まだ夢をみているのだろうか……?
タンダが、ほっとしたように、ほほえんだ。
「よかった。……待ってろ、いま、水をもってくる。」
そうっとバルサから身体をはなして立ちあがると、タンダは、ほかの人を起こさぬように、ぬき足さし足で水瓶から水を椀にくんでもどってきた。
水は、熱にはれふさがったのどに、冷たくあまく、すべりおちていった。
「ここは、タルの民の罠猟師の出小屋だ。なにがおきたのか、すぐ話してやるけど、まず、これを飲め。」
口にいれられた小さな丸薬を、バルサは顔をしかめて飲みくだした。
「おれの小屋なら、いくらでも薬があるのにな。いまは、帯にしまっておいた、こんなものしかない。でも、ないよりはましさ。身体が傷とたたかうのをたすけてくれる。」
タンダは、またバルサによりそうように横になると、子どものころ、よくやっていたように、無声音で話しはじめた。
「おまえは、ほんとうに運がつよいよ、バルサ。おまえの生き|霊《りょう》をみたときは、もうだめかと思ったけど……。」
ひとりごとのように、タンダは、ささやきつづけた。バルサは、なかば目をとじて、その声をきいていた。
これまでの話を、ひとつ、ひとつきくうちに、頭のなかの霧が晴れて、自分がどうしてここにいるのかわかってきた。シハナとスファルが、べつの意図をもってうごいていたことを知って、多くの謎がとけたし、もつれた糸が結び目をつくるように、タンダと、こんなふうにであえたことの幸運は、信じられぬほどだった。
けれど、多くのことがはっきりしてくるにつれて、胸にしみるような痛みと後悔がおそってきた。
アスラ……。タルの民だというだけで、あっさりイアヌを信じたせいで、まんまとアスラをうばわれてしまった。
タンダが語ってくれる、アスラをめぐる、とてつもなく大きな話を、バルサは、だまってきいていた。
話がひととおりおわると、バルサは目をあけた。
「……ここには、もう、スファルたちはいないんだね。」
寝息の音から、自分たちのほかには、三人しか人がいないことに、バルサは気づいていた。
「ああ。スファルたちは、日があるうちに、シハナたちの跡を追ってジタンへむかったよ。」
バルサはため息をついた。熱があって話しづらかったが、つぶやかずにはいられなかった。
「……シャーサム〈新年の月〉の二十日、朝の鐘が鳴るまえに……か。
シハナは、たった二日で、アスラを、自分の思いのままにできると、思っていたんだね。」
「兄も、それに母の思い出も、切り札につかえるからな。」
夢のなかで、兄がかなしい目をして自分をみる、と泣いていたアスラを思いだし、バルサは目をとじた。
翌朝、バルサが目をさましたときは、罠猟師たちは、罠の見回りにでていて、部屋のすみで黙祷しているタル・クマーダ〈陰の司祭〉しかいなかった。
タンダに抱かれていたのは夢だったのか、と、つかのま思ったが、すぐに戸があいて、タンダが|水瓶《みずがめ》をさげてはいってきた。
「お、目がさめたな。」
いつもの口調でいって、タンダは、バルサの額に手をあてた。
「……つくづく、すごい体力だよな、おまえは。もう微熱しかない。マクルってやつ、傷の縫い方はへただったけど、手当ての基本はちゃんとしてたみたいだな。
それにしても運がいいよ。冬の川におちて、凍死をせず、しかも息がつまることもなかったのは、着ていた衣のせいだろうってマクルがいっていた。おまえ、脂をぬりこんだ毛織りの衣と頭巾、それに首にはシュマ(風よけ布)をぎゅっとまいていたんだってな。それが氷のような水から、おまえをまもったんだ。それに、胸に抱きしめていたっていう短槍と頭巾のおかげで、頭がういて、呼吸ができたんだろう。」
タンダは、暖炉にかかっている黒光りする鍋のなかから、なにかを椀によそい、食卓においてあった壺から、蜂蜜をそのなかにたらすと、匙をそえてもってきた。
「麦の粥だよ。乳がたっぷりはいっている。なかなかいけるぞ。」
バルサが、ひと口ずつ粥をすするのを、タンダは満足げな顔でながめていた。バルサは、ときおりお茶をすすりながら、なんとかひと椀の粥を食べおわった。
食べたら、休ませたいが、バルサは背中に傷をおっている。食べてすぐ、うつぶせにならせるわけにもいかない。
タンダはあごをなでながら思案していたが、やがて、暖炉のそばの壁によりかかるようにしてすわると、そっとバルサの身体をひきよせて、自分の身体にもたせかけるようにした。
バルサは、だまってされるままになっていた。ようやく背の傷がひきつれないような姿勢をみつけだすと、自然にため息がもれた。
「……わたしは、まる一昼夜眠っていたといったね。」
「ああ。」
「それじゃあ、今日は、シャーサム〈新年の月〉の……十七日か。」
タンダの顔が、ふっとくもった。
「バルサ……。」
「ここから、ジタンまでは、だいたい馬で二日。明日までには、まともにうごけるようにならないとね。」
タンダは、しばらくこたえなかった。ずいぶん長いあいだ、ふたりは、しずかに暖炉の|薪《まき》がはぜる音をきいていたが、やがて、タンダがつぶやいた。
「ああ。いっしょにいこうな。あの子たちの行く末をみとどけに。……だけど、正直いって、おれはもう、あの子たちに、なにかしてやれるとは思えないんだよ。」
バルサは、だまって、タンダの言葉をきいていた。
「ことは、ロタ王国全体の問題にまでひろがってしまった。
アスラたちはもう、イーハン王弟殿下のもとにつれていかれているだろう。」
苦いものが、タンダの声にまじった。
「事情を知れば、チキサも、アスラも、かつて母が愛した人で、しかもタルの民をすくってくれるというイーハン王弟をたすけたいと思うだろう。シハナのおもわくよりなにより、あの子たち自身が、きっと、そうしたいと願うんじゃないかな。」
タルハマヤは、わるい人をこらしめ、この世をすくう神だといった、アスラのかたくなな表情を、バルサは思いだしていた。
タルの民であるがゆえに差別され、恋人と添いとげられなかった母親は、タルハマヤが残酷な神だという伝説は、タルの民をおとしめるためのうそだったのだと――ほんとうは、この世を変える聖なる神だったのだと、娘におしえこんだ。
アスラは、それを信じている。……そう、アスラは、きっと、母の教えを信じて、タルハマヤを自分の意志で招くだろう。
狼の群れをほふったときの、圧倒的な力をふるう快感に酔って光っていたアスラの瞳が、心によみがえってきた。
人びとをまえにして、神を招いたとき、アスラはおそろしい|神人《しんじん》になる。雷を抱いて身をふくらませ、天空をおおっていく暗雲のように、そのときから、アスラは、だれもふれることのできない神になるのだ。――それが、あの子の行く末だろう。
だけど……。
「アスラは、まだ十二歳なんだよ。」
バルサは、つぶやいた。
お兄ちゃんが、夢のなかで、わたしを責めるの――そういって泣いていたアスラ。
あの子は、心の底で気づいている。憎しみにかられて人を殺したこと。狼を殺すことで強さを実感し、その強さに酔っている自分の、おぞましい闇に。
バルサは目をとじ、十二のころの自分を思った。
心の奥にうごめいている、狂暴な闘いへの欲望に気づきはじめていた、あのころ。自分を野良犬あつかいしていじめた少年を、思いっきりなぐりつけたときの、身がふるえるような快感。
自分がかかえている、その闇に気づきそうになるたびに、あばれたいのは不幸な境遇のせいだと、思いこもうとしてきた。
おのれの心の底にある、醜い闇を知るのは、おぞましい。
けれど、それに目をつぶって生きたすえに待っている日々は……もっと、おぞましい。
(……わたしは、なぜ、あの子にであったんだろう。)
野に咲くサラユのような、うす紅い衣をまとって、頬をそめ、幸福そうにほほえんでいたアスラ。自分とは、まったくちがう、やさしい子。――けれど、あまりにもみなれた、醜い闇をかかえることになってしまった、あの子に……。
「タンダ、あんた、昨日の夜、いったね。」
バルサは、つぶやいた。
「シハナは、はるかな高みから、大きな遊戯盤をながめているって。ロタ王国全体の力関係とか、王家の|存亡《そんぼう》とか、タルの民の解放とか――そういう大きな構図をみすえているって。」
「ああ。」
バルサは、つかのま、目をとじた。
「わたしは、大きな遊戯盤なんか、どうでもいい。神も、王家も、どうでもいい。」
目をひらき、バルサは、暖炉の明かりでゆれる椅子の影をみながら、いった。
「ただ、どうしてもゆるせないのは――シハナや、あの子の母親までもが、よってたかってあの子に、人殺しをしろと、そそのかしていることなんだ。」
声が、低く、かすれた。
「だれかが、伝えなければ……あの子に、人を殺すことのおぞましさを……。」
なにもいえずにいるタンダの腕を、バルサはにぎった。
「いつになっても、おだやかな日々に安らぐことができない闇が、そのさきには待っているんだと……。」
肩に、うつむいて額をあずけているバルサにはみえなかったが、タンダの目からは、涙が流れおちていた。涙をぬぐうこともせず、なにもいわず、タンダは、ただじっと、粗末な棚がある壁をみつめていた。
[#改ページ]
3 ジタンでの再会
草原が、シャーンの森にであう|縁《ふち》に、ジタン祭儀場はあった。
祭儀場の背後から、なだらかな丘がはじまり、その上に深く広大な森がひろがっている。そのため、草原から祭儀場をみると、深い森がその上にのしかかっているようにみえた。
祭儀場の周囲には|外郭《がいかく》の壁がめぐらされ、小さな尖塔をふたつそなえた南側の正門と、北側の裏門の二か所しか、はいるところがない。外郭の内側には、低い内郭の壁があり、その壁にかこまれた空間が、祭儀の場となっていた。
祭儀場の南門をでると、南西へ石畳の道がのび、草原に、もこっともりあがった、なだらかな丘へとつづいている。イーハンの居城があるジタン城塞は、その低い丘の上にあった。
建国の祝賀儀式がちかづいているので、城塞の丘のふもとにひろがる平民たちの商店も活気づいていた。王国各地からおとずれる旅人をあてこんで、芸人たちも集まり、色とりどりの旗が風にひらめいて、冬の|曇天《どんてん》をにぎやかにいろどっていた。
しかし、城壁の外側の堀にかかる跳ね橋をわたって、城塞のなかへ足をふみいれると、|大気《たいき》は一転する。
ジタン城塞は、王都とおなじように、ひとつの街をまるごとのみこめるほど巨大だが、奥にそびえたつ、イーハンの居城の|前庭《まえにわ》には、すでに、ぞくぞくと王国各地の氏族たちが集まり、武人たちが野営をはじめていた。
大領主や氏族長など上層の者たちは、それぞれ、城内の豪華な客間を宿舎としてあてがわれていたが、一般の武人たちは、厚手の毛織物でつくられた野営天幕で寝泊まりをする。
北部の氏族用の天幕と、南部用のそれは、前庭の東と西とにわかれてもうけられていたが、男たちが、対面している天幕にむける視線はとげをふくんでおり、それが、城塞内の大気を重苦しくしていた。
アスラをのせた馬車は、城塞へははいらず、祭儀場の北側にそびえる森へとはいっていった。
祭儀場の背後の森にちかづくまえから、アスラは、あの異界からの流れを感じていた。さざ波を光らせながら、流れくるいく筋もの小川が、しだいに、ふとい流れとなっていく。おしよせてくる、この流れを、シハナが感じていないのが、ふしぎでならなかった。
アスラは目をほそめ、全身で流れを感じていた。イアヌも、かすかにみえているのだろう。おちつかなげに、まばたきしている。
(わたしたちは、流れの|源《みなもと》へむかっている……。)
心のなかに、むかし、母からくりかえしきいた聖伝の一節がよみがえってきた。
|彼方《かなた》に雪の峰あり。
神がみの住まう地に、永い春訪れるとき、
雪の峰は|清廉《せいれん》なる水を溢れさせ、この世に千の川流れきたる。
はるかなる神がみの世から流れきたる川は、この世を潤し、
神の苔、よろこびに光るなり。
もっとも深い川は、
聖なる泉より、こんこんと、この地へ溢れ、
大地を潤さん。
聖なる泉には、
|永久《とわ》の木がはえる。
むかし、娘ひとり、この泉につかり、
永久の木に宿る、宿り木の輪をとりて、首に飾る。
宿り木の輪は、おそろしき神の門。
泉に渦巻くおそろしきタルハマヤ、
母なるアファールの子、
神の門をとおり、この世に来訪す。
聖なる泉の木に宿り、
神の門となる者は、|永久《とわ》を生き、
おそろしき神の声を、この世に轟かし、神の威光でおおうであろう。
……だが、おそろしき神の声を拒む者は、|永久《とわ》に、沈黙するであろう。
「……聖なる泉が、ちかいのね。」
アスラがつぶやくと、シハナがふりかえった。
「あなたには、みえるの? 聖伝の詩が伝えているような、神の川の流れが?」
アスラがうなずくと、シハナが、うれしそうにほほえんだ。
「この森から祭儀場、そして城塞のあたりまでが、はるかむかしロタルバルの聖都だったところよ。このあたりの森は、禁域として、ふだん、人がたちいることはゆるされていないわ。
ほら、サーダ・タルハマヤの宮殿があったのは、あのあたりだったそうよ。」
と、シハナは|御者《ぎょしゃ》の肩ごしに、指さした。そこには、ひときわ緑の濃い木々がおいしげり、その枝のはざまから、祭儀場の北門の尖塔が、ちらちらとみえていた。枝から枝へ猿の群れが、せわしない声をあげて、とびかっている。
アスラは、息をのんだ。――ふたつの景色が、かさなっている。
緑の木々がおいしげる森をすかして、透明な水面が光っている。
その水面から……ああ、なんという大きな樹だろう! お城の塔ほどもあるふとい幹からはるか天へと枝をひろげる|巨樹《きょじゅ》が、そびえていた。その幹にも枝にもピクヤ〈神の苔〉がはえ、きらきらと輝いていた。
巨木の根もとには、石でつくられた宮殿の残骸が、うすぼんやりと幻のようにみえている。すべては、異界のすきとおった水につかり、こんこんと水がわきでている泉の底は、はるかにうす暗く、どこまでつながっているのか、まったくみえなかった。
シハナにはみえていないのだろうか? いま、馬車は、深い泉から水があふれ、湖のようにひろがっているところへはいっていこうとしているのに……。
「馬車をとめて!」
アスラはさけんだ。
身体のふるえがおさえられない。この泉へ足をふみいれたら、なにかおきる。胸にかけた輪が光り、タルハマヤが、かすかにうごめくのを感じて、アスラはシハナの手をにぎった。
「ここでとめて。ここから先へはいってはだめ!」
御者が、あわてて馬車をとめた。アスラは馬車から地面におりると、泉からあふれた水が川になっているところをよけて立ち、ふるえる両手をにぎりしめて、目のまえにひろがる壮大な光景をみつめた。
森の奥で、滝にであったときに感じる香気に似た、清い香りが全身にしみとおってくる。
(お母さん、わたし、とうとうここまできた……。)
アスラは、胸のなかでつぶやいた。
「なにがみえるの、アスラ?」
シハナの声に、ふりかえることなく、アスラは、みえるものを描写していった。
「ここは、神の世と、この世がふれあっているところよ。はいってはいけない。」
最後に、そうささやくと、シハナはうなずいた。
「アスラ、わたしたちをみちびいてください。あなたの道案内で、とおってもよい道をいきましょう。あの尖塔のふもと、祭儀場の外郭のすぐそばに、わたしたちは天幕をはっているのです。もう、歩いてもいける距離ですから。」
アスラに話しかけるシハナの言葉は、いまや完全に、うやうやしい尊敬をこめたものに変わっていた。
つきしたがうタルの民たち――神の気配を感じられる才をもってうまれてきたラマウ〈仕える者〉たちは、アスラほどはっきりと、異界の風景をみることはできなかったが、それでも全身で、しみとおってくるような香気を感じ、木もれ日のような光のさざめきをみていた。
アスラは、馬車からおりてきた人びとが、神殿にむかうときのような、おそれに満ちたまなざしを自分にむけているのを、ふしぎな気もちでみていた。アスラが歩きだすと、彼らは声もなく、アスラにつきしたがってきた。
やがて、森がきれ、ジタン祭儀場をみおろす斜面にでた。彼らは斜面をくだり、北門からはかなりとおくはずれた、森と外郭のはざまに設営されていた天幕にちかづいていった。
天幕は五つあった。シハナはアスラの手をとると、もっとも大きな天幕にみちびいた。そして、|戸布《とぬの》のまえに立つと、頭をさげて、ささやいた。
「……おはいりください、アスラ。お兄さまが、待っておられます。」
もちあげられた、分厚い戸布の奥で、だれかが立ちあがるのが、ちらりとみえた。
天幕の中央には炉があかあかと燃え、そのわきにチキサが立っていた。
「アスラ!」
ひとつ息をする間もなく、アスラは兄の腕のなかにとびこんでいた。ぎゅっと抱きしめあい、そのぬくもりを感じ、なつかしい兄のにおいを胸いっぱいにすいこんだ。
アスラは泣きだした。どうしても、とめられなかった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……!」
チキサも泣いていた。ひたすらに妹を抱きしめて、声をころして泣いた。
シハナは、そっと肩から猿をおろして天幕のすみにすわらせると、自分は戸布の外へでた。
アスラとチキサは炉端の椅子にすわり、時をわすれて、たがいの旅の話をした。ふたりは長い長い旅をしてきたような気がしていた。母の処刑から、わずか、二か月にも満たないとは、とても信じられなかった。
なぜだろう。ようやくふたりいっしょになれたのに、こうしていると、バルサたちとであうまえのような、心ぼそさが胸によみがえってくる。
「お兄ちゃん。これからどうなるのかな……。」
チキサがつぶやいた。
「わかんないよ。でも自分たちで決めなくちゃな……。」
アスラは、兄の言葉にうなずいた。そうなのだ。これからどうするか、ふたりだけで決めなくてはならない。
シハナやイアヌが望んでいることは、わかっている。あの人たちは、アスラがサーダ・タルハマヤになることを、ただひたすら待ち望んでいる。
どうやったら、サーダ・タルハマヤになれるか、いまのアスラにはわかっていた。あの泉につかり、あの聖なる巨樹へのぼれば、きっと首にかかっている宿り木の輪が、神の門へ変わるのだろう。
(でも、そのとき、わたしは人ではなくなってしまう。)
こうしてお兄ちゃんと会えたのに、サーダ・タルハマヤになれば、もう二度と、むかしのように暮らすことはできない。
「……なんだか、長い夢をみているみたい。」
アスラは、はねおどる炎をみながら、つぶやいた。
「わたしがサーダ・タルハマヤになる運命だったなんて。」
「うん。夢みたいだよな。――ひどくねじれた、いやな夢だよ。」
アスラは目をあげて兄をみた。
「お兄ちゃん……イーハン殿下に、もうお目にかかったの?」
チキサは首をふった。
「アスラたちがついてから、お目にかかることになるっていわれた。」
チキサは、ぼうっと炎をみながらいった。
「あのシハナって人から、母さんとイーハン殿下の話をきいてさ、母さんが、なんでロタ人に会うのをあれほどこわがっていたのか、ようやくわかったよ。でも、信じられないよな。――おれ、イーハン殿下に会いたいのか、会いたくないのか、自分でもよくわからない。」
チキサは、泣きだすのをこらえるように、顔をゆがめた。
「どんな顔をして会えばいいんだ? なんていえばいい? あんたのせいで、母さんは、ひどい目にあったんだぞって、いっちゃいけないよな?」
さまざまな母の表情、母の言葉がよみがえってきて、ふたりは声もなくふるえていた。
「いっそ、全部うそならいいな。あのシハナって人がつくりだした、ものすごいうそなら。」
やがて、チキサは、そういうと両腕に顔をうずめて、おさない子どものように泣いた。
ふたりの話を、猿の目と耳をとおしてきいていたシハナは、そこまできくと、そっと天幕からはなれた。
すきのない目で、この天幕の周囲がきちんとまもられているかどうかをたしかめながら、シハナは、イーハンの居城へと足をむけた。
人どおりの多い街をぬけるのではなく、シハナは、祭儀場と城塞を地下でむすんでいる、秘密の通路をつかって、城へとむかった。
川辺の土手に穴をほって暮らす民であるシハナたちの祖先が、はるか、ロタルバルの時代、スル・カシャル〈死の猟犬〉としてつかわれていたころに、あちらこちらにはりめぐらした地下通路は、いまもなお、こうして、その子孫たちによってつかわれているのだった。
じっとりと湿気がよどみ、肌が凍るほどに寒い通路は、長い時を経てもがっちりとしている。かつて、初代ロタ王キーランが、スル・カシャル〈死の猟犬〉にみちびかれて、サーダ・タルハマヤの暗殺にむかった通路も、まだのこっていた。
彼も、きっと、冷気にふるえながら、白い息をはいて、この道をひた走ったのだろう。
地下通路は、城の内部だけでなく、祭儀場の内郭の内側など、思いがけぬところへ、通じているのだった。
やがて、シハナは城の地下へでると、カシャル〈猟犬〉だけがつかう、城の内部へ通じる隠し扉へと歩いていった。わきに小さな明かりがともっている隠し扉が、そのとき、カタリとあいて、城塞内のようすをさぐって、もどってきたラワル筋のカファムがあらわれた。
シハナに気づいて、カファムはささやいた。
「……イーハン殿下のところへいくのか?」
シハナはうなずいた。カファムの顔に、緊張をにじませた笑みがうかんだ。
「いよいよだな。」
シハナは、長いあいだ、ともに計画をあたためてきた仲間の目をみつめた。
ときどき鋭い毒舌をはくので、仲間からおそれられているが、頭のよいカファムは、シハナにとって、数少ない、|実《み》のある会話をたのしめる相手だった。
十四、五歳のころから、シハナはカファムと、このロタ王国は、根のゆるんだ大木ではないかという不安を語りあっていた。
〈猟犬〉として、人びとの暗い思いを追いつづけているシハナには、この国の底に、さまざまな不満がうごめいていることが、よくみえていたからだ。
南部の領主たちの不満。北部の若者たちの不満。そして、もっと深いところにかくれている、ロタの民の不満。それらが、からみあい、ねじれている。
一見、すぐれた王のもとで平和にみえるが、その内側では、くずれる一歩手まえで危うくゆれているロタ王国。ヨーサム王は賢明な方だが、けっして、大きく鉈をふるって王国を変えることはしない王だ。いかにもロタ王家の王らしく、むかしからつづいてきた形をまもることで、平和を保とうとする。
だが、そんなやり方では、かならず、おさえきれないときがやってくる。もつれあっている多くの不満は、大木の根をじわじわとむしばみ、やがて、ロタという|大木《たいぼく》は、悲鳴をあげて裂け、たおれるだろう。
シハナは、長いあいだ、胸の底にいらだちをかかえつづけていた。
自分にはみえている、これほどあきらかな「未来」が、なぜ、ほかの人にはみえないのか。
策をろうしても王をあやつれるのが、カシャル〈猟犬〉の強みのはずだ。王がうごかぬなら、うまくうごかしてこその、カシャル〈猟犬〉だろうに。
かつて、そういったシハナに、カファムがはきだすようにこたえた。
「そりゃ、むりだ。おれたちの親父連中も、みな王家とおなじ、ふるくさい頭をしてやがるんだから。地の底にうごめく不満を、地面をかためて外にださないようにすることで、おさえこめると思ってやがる。」
それは、カファムのいつもの愚痴だった。自分は鋭いことをいっている、と思えるのだろう。シハナ相手に、それをはきだすだけで満足しているようだった。
シハナは、うす暗い自分の部屋のなかで、ひんやりとした部屋の壁に背をもたせかけていた。その自分の姿が、部屋の片すみにおかれた鏡にうつっていた。
そのとき、シハナはふいに、カファムと愚痴をいいあっているだけの自分に、吐き気をおぼえた。
なにか、冷たくかたいものが、胸の底に宿ったのは、その瞬間だったのだろう。
変えてみようか――とシハナは思った。変えてみせようか、この手で。
自分なら、きっと、複雑にからみあった糸をほぐし、この国を変えられる。
そう思った瞬間、全身をさいなんでいた|いらだち《ヽヽヽヽ》が、すうっと消えさり、やりがいのあるタアルズ(遊戯盤をつかう競技)の盤面に直面したときのような、心地よい緊張感と、あわだつような、やる気がわきあがってきた。
(だけど、最初の|一手《いって》を打つには、まだ、なにかがたりない。)
そんな気がした。
タアルズを競うときのように、「勝利の図」がうかびさえすれば、最初の一手がみえるだろうに、なにかがたりないために、まだ「勝利の図」がみえなかったのだ。
それから、シハナは、この国の理想の姿をさがしはじめた。
|王弟《おうてい》イーハンに仕えるうちに、シハナは、このイーハンという、若く、変革をおそれない男のなかに、かすかな希望の芽をみいだした。
この国が大きく変わるとしたら、このイーハンが王になったときだろう、という気がした。
だが、イーハンが王になるには、のりこえねばならぬ大きな危険がある。
ヨーサム王が崩御したら、南部の大領主たちが蜂起して、イーハンを殺し、王位をうばおうとするにちがいないからだ。
イーハンがたよりにできる戦力といえば、北部の氏族たちだが、彼らは貧しく、まともにぶつかったら、とても南部には勝てない。
イーハンのために人を集めようと、シハナは思った。いざというときに、思いがけない|手勢《てぜい》となって、イーハンに味方する人の輪をつくること。それこそが、まず打っておくべき、第一|手《て》にちがいない。
慎重に、慎重に、シハナは、手を打ちはじめた。まずは、若いカシャルのなかで、うまくつかえそうな数人の心をつかむことからはじめた。
シハナの父スファルのような「|長《おさ》」の世代から、反抗的だといわれているような、不満をかかえている若者のなかには、やりがいのある目標をあたえれば、目をさましたように生きいきとうごきだす者たちがいた。シハナは、そういう若者たちの心を巧妙につかんでいったのだった。
カシャルの真価は、陰にいてこそ発揮できる。シハナは、父たちの世代さえあざむき、さらに深い陰の猟犬たちをうみだしていったのだ。
もちろん、イーハン王弟には、機が熟すまで、なにも知らせる気はなかった。
さいわいなことに、イーハンは、王国各地の裏の事情に通じ、しかも、すさまじく頭のきれるシハナを信頼し、その言葉に重きをおくようになっていた。イーハンを王にすえ、陰からみちびいていくことで、いつか国を変える、という壮大な夢が、しだいに形をなしていった。
だが、イーハンをうまくみちびいて国を変えさせるには、ひとつ、大きな問題があることに、シハナは、やがて、気づきはじめた。
イーハンの信頼は、第一に、兄であるヨーサム王にむいていたのだ。
平和を好むヨーサム王が、たとえ南部の大領主が王位をうばうとしても、ロタ王国をロタ人同士の血でそめるいくさをしてはならない、と遺言でもしたら、イーハンは、けっしてその遺言にさからわないだろう。
シハナはイーハンの心をうごかす力がほしかった。第一の信頼を自分にむけさせる力が。
そんなとき、シハナは、思いがけぬ幸運の鍵を手にした。
イーハンの恋人トリーシアをみつけることに成功したのだ。いつか、イーハンをうごかすためにつかえる駒が、手にとびこんできた、と、シハナは思った。
イーハンは、彼女への想いから、ロタ人たちの反発をかってもタルの民の地位を改善しようとしている。トリーシアへの想いが、それほどまでにイーハンをうごかす力をもっているなら、トリーシアがシハナの思いの代弁者になれば、彼をうごかしやすくなる。
だが、ロタ人にみつけられるのをおそれて、かくれ暮らしているトリーシアが、あっさりとシハナを信じるはずもない。シハナは、どうやってトリーシアにとりいるか、アスラにちかづいたり、猿をつかったりして、さぐりつづけた。
トリーシアは、うつくしいが、どこか陰のある女性だった。不運を呪う気もちを、胸の底におさえつけているような、やるせない思いが、ふとした表情にあらわれる。
これだ、と、シハナは思った。――この不満にはけぐちをあたえてやれば、かならず、トリーシアの心をつかみ、味方につけることができるはずだ。
そう確信して、シハナは、思いきって、トリーシアのまえに姿をあらわしたのだった。
おびえ、警戒心をあらわに、自分をにらみつけているトリーシアに、シハナは、自分が、タルの民を監視する使命を帯びたカシャル〈猟犬〉であることを告げた。
「でも、心配しなくてもいいわ。わたしは、あなたの味方よ。わたしはカシャル〈猟犬〉として、けっしてしてはならない禁忌をおかして、こうしてあなたと話しているの。
もし、わたしを疑うなら、タル・クマーダ〈陰の司祭〉に、わたしが、あなたにカシャルの身分をあかしてちかづいた、と告げ口するだけでいい。司祭から、ほかのカシャル〈猟犬〉にこの話が伝われば、わたしはカシャルの掟をやぶった者として、捕らえられることになるわ。」
トリーシアの瞳がゆれたとき、シハナは、すかさず、こういった。
「イーハン殿下は、いまも、あなたを思っているわ。心から。」
それをきいたとたん、みるもあわれなほどに、トリーシアは、ふるえはじめた。
「だいじょうぶ。あなたが、殿下のもとから姿を消した気もちはよくわかるわ。あなたのことを、殿下に伝えたりしないから、安心して。わたしは、ずっとあなたをみまもってきたの。かわいそうに。あなた、つらかったわね……。」
トリーシアの大きな瞳から、涙がこぼれおちた。
トリーシアが、シハナを信頼し、胸のうちを打ち明けるようになるには、さほど時はかからなかった。シハナは、トリーシアにとって、だれにも話すことができなかったことを話せる、ただひとりの人だったからだ。
タルの民であることが、どれほど不幸であるか。なぜ、そんな目にあわねばならないか。
そんなことを語りあううちに、ある日、シハナがいった言葉が、いま思えば、トリーシアとアスラの運命を大きく変えるきっかけとなったのだった。
「……ねぇ、あなたは、タルの民をうみだした伝説そのものが、まちがっているかもしれないと、考えてみたことはある? ロタ人は、ロタルバルを残酷な神が支配していたといっているけれど、それは初代ロタ王キーランが王位をうばったことを、正当化するためにつくられた話とも、考えられるわ。
皆殺しにされるのをおそれた、あなた方の祖先たちは、タル〈陰〉に生きると誓うことで新しい支配者の剣をのがれたのだわ。
いつしか、それが、ほんものの信仰にすりかわってしまった。タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちは、それをばか正直に信じこんで、長いあいだ、仲間の顔を、地に伏せさせつづけてしまった、大ばか者の集まりなのよ。」
その言葉が、トリーシアにあたえた衝撃は、シハナの予想をはるかにこえていた。
トリーシアは、その言葉にとびついた。それどころか、彼女のほうがずっと熱心にそれを信じ、タルハマヤへの信仰のもとにロタ王国が変わっていくことを夢みるようになっていった。
「わたしは、ずっと……とても不幸だったわ。」
あるとき、あおざめた顔で、トリーシアはシハナにいった。
「タルにうまれたために、心から愛した人と別れねばならなかった。それどころか、家族や親戚の縁も断って、ひたすら逃げて、かくれて、おびえて生きてきた。ようやく、家族をもてたと思ったら、その夫もまた、狼にうばわれてしまった。
そのうえ、いま、わたしは病んでいる。胸が内側から焼かれるように痛いの。……たぶん、もう、それほど長くは生きられないわ。」
それは、たぶんほんとうだったのだろう。彼女のやせ方は、ふつうではなかった。
「アスラが異能者の力をしめしはじめているの。でも、絶対にラマウになんか、したくない。
結婚もせずに、ひっそりと陰に生きるなんて、そんな人生を送らせたくない。」
トリーシアは異様に光る目で一点をみつめて、うなるようにいった。
「わたしは、石ころのように、運命にもてあそばれてきた。でも、子どもたちには、絶対にそんな人生をあたえたくない。わたしが死んだら、あの子たちがどうなるか、それを考えると夜も眠れないわ。……あなた、ほんとうに、わたしたちの味方になってくれるわね? わたしが死んだあとも、ずっと?」
いまにもこわれそうな、か細い女性だったが、トリーシアの目には、思いつめたら、なにをするかわからない光があった。
シハナは、当時を思いかえして、胸のなかでつぶやいた。
(彼女は、自分の命とひきかえに、娘に、だれよりもつよい、神の力をあたえることに成功したのだわ。――そこまで彼女が思いつめていたとは、あのころは、気づかなかったけれど……。)
たわめられた枝は、機会さえあれば、はじけようとするものだ。
シハナは、彼女の熱心さをみるうちに、タルの民をも、自分の手勢としてとりこもうと思うようになった。若いラマウ〈仕える者〉は、意外なほどかんたんに、シハナの思想に共鳴した。彼らもまた、たわめられた枝だったからだ。
その不満は、大きな力になりうることを、シハナは敏感に感じとっていた。
この暗い力を、どうつかうか……。とつぜん、自分の手のなかに流れこんできた、大きな力に、シハナは緊張した。
タルの民は、たしかにつかえる。――大きな戦力にはなるまいが、だれも考えてもみないだけに、なにかのときに伏兵としてつかえる、イーハン王弟の味方をつくりだせるかもしれない。さいわい、イーハン王弟はタルびいき。それをタルたちも知っているのだから。
タアルズの盤面が、手づまりにみえるときは、逆さまからながめると、思わぬ道がみえてくるものだ。
その道がみえたとたん、自分もまた、ふるい盤面にとらわれていたことに、ふいに、シハナはさとった。
根本からロタ王国を変えるなら、イーハン殿下を王にするだけでなく、ロタ人の心も変えなければならない。
タルの民が虐げられる民となった原因。――その大もとの神話を、完全に逆手にとるのだ。その大きな逆転こそが、「勝利の図」につながる道であるという予感があった。
だが、それでもなお、シハナは、タルハマヤへの信仰などという、あいまいなものを、ロタ王国を変革するための力に変えていくために、なにをしたらいいかわからずにいた。
前兆が、ひとつ、またひとつとあらわれるにつれて、ラマウたちの期待はたかまっていったが、シハナは、そんなふたしかなものに、期待を託す気にはなれなかった。
ある日、トリーシアが異様に目を輝かせて、はるかな異界から、とうとうほんとうに神の川が流れてきたわ! と、告げてきたときも、シハナは信じなかった。
熱心に夢をみすぎたトリーシアが、幻をみたのだろうと、わずらわしく思っただけだった。
だが、シハナに心酔しているラマウ〈仕える者〉のイアヌが、ほんとうに、ノユークから川が流れてきている証拠があります、と、神殿のピクヤ〈神の苔〉が光るさまをみせてくれたとき、シハナは、全身に、さあっと鳥肌がたつのをおぼえた。
大きな運命が、自分のために道をととのえてくれている。――雷のように、そんな予感が脳天からつまさきまでかけぬけた瞬間だった。
歴史がうごいていく。いくつもの波がひとつによりあって、大きな波になろうとしている。その波を、自分の手で、ひとつの方向へうごかすことができれば、この王国は変わる。
「勝利の図」が、ふいに、あまりにもあざやかな形になって、シハナの頭にうかびあがった。 そこに至るまでの複雑な「手」が、みるみるうちに、頭のなかで組みあがっていく。
ふるえるほどの快感が、シハナの全身をつつんだ。
タルハマヤだ。――それこそが、「勝利の図」を不動のものにする、最後の一手だ。
神以上に、絶対的な権力があろうか。
タルハマヤを招くために、禁域である、サーダ・タルハマヤの墓にトリーシアとアスラがはいっていったときいたとき、シハナの胸に、とても残酷な計画がうかんだ。
サーダ・タルハマヤが危機におちいり、怒りを爆発させたときにおとずれたという、おそろしき神タルハマヤ。……あの母子ふたりのどちらかが、ほんとうに、神を招く力を得たかどうか知りたいなら、彼女らを死に直面させればいい。
うまくいけば、いっきに夢を実現させる駒を手にいれることができる。
シンタダン牢城での、すさまじい惨殺の凶報は、シハナにとっては、夢へ手がかかったことを告げる、すばらしい|吉報《きっぽう》だった。
思わぬ邪魔がはいって、回り道をしてしまったが、えがいてきた壮大な絵も、ようやく完成にちかづいている。しかも、ありがたいことに、いまヨーサム王は、国を留守にしている。いまこそ、待ち望んできた、最後のひとおしをする機会だった。
だが、最後まで気をぬいてはいけない。先の先まで読み、手を打っておかねばならない。
「カファム、イーハン殿下の出方しだいで、つぎの手を打つわ。用意はできているわね?」
カファムは、深くうなずいた。
シハナのおとずれを告げる、小さな鈴の音がひびくと、イーハンの息子のサハンが、はっと顔をあげた。
城の書斎で書き物をしながら、イーハンは息子が足もとで遊ぶのを、ときおり、目をほそめてながめていた。妻と娘は、めずらしい衣をたくさんもった行商がきたと、さっき大よろこびで城の裏庭にでていき、五つになる息子のサハンだけが、父のそばにのこっていたのだった。
「父上、鈴が鳴ったね。」
サハンはぎゅっと顔をしかめた。サハンは鈴の音がきらいだった。この鈴が鳴ると、いつも召し使いに子ども部屋へつれていかれてしまうからだ。
イーハンは、椅子から立ちあがると、息子を抱きあげた。
「サハン、いつかおまえも、あの鈴の音の意味を知るときがくる。おまえは、王族の血をひいているのだからな。」
そういって、ひげの濃い頬をいとおしそうに息子にすりつけると、部屋にはいってきた召し使いにサハンをあずけた。
ひとりになると、イーハンはよびかけた。
「シハナ、はいってよいぞ。」
足音もたてずにはいってきたシハナを、イーハンは、緊張した|面《おも》もちでみつめた。
「つれてきたか?」
「はい、殿下。」
シハナは、すらりと背が高いイーハンをみあげた。
イーハンの目が、鋭く光った。
「……シハナ、ほんとうに、トリーシアの娘がチャマウ〈神を招く者〉なのだな?」
シハナはうなずいた。イーハンも、そう問いながらも、すでにそれを疑ってはいなかった。
王都でシハナから長い話をきいたあと、すぐにシンタダン牢城へおもむいて、処刑された女性の墓をあらため、変わりはてた、かつての恋人の姿をみいだしていたからだ。
寒さのおかげで、おそれていたほど遺体はいたんでいなかったが、それでも、血の気のないトリーシアの顔は、いまも、よく夢にあらわれる。
「殿下、あの子の力はほんものです。ほんとうに、タルハマヤを、あの子は招くのです。
新ヨゴから、ここへくるまでのあいだに、あの子はラクル地方をとおってきているのですが、トルア郷のそばでも、一度、狼の大群をほふって、隊商仲間をたすけています。」
たしかめるために、仲間に狼の死体をあらためさせたと、シハナは説明した。
「狼たちは、すべて、シンタダン牢城の死体とおなじ死にざまでした。」
そういって、シハナは、光をおびた瞳でイーハンをみた。
「殿下、わたしの提案を、お考えいただけましたか?」
大きく息をすって、イーハンは、小柄なシハナの、きつい顔をみおろした。そして、しずかにいった。
「千万の軍勢にも勝る、おそろしきタルハマヤの圧倒的な力を、わたしにくれるという話か。」
シハナは、うなずいた。とたん、イーハンの目に、|白刃《はくじん》のような鋭い光がひらめいた。
「なぜ、兄上がおられぬときをねらって、わたしにその話をうちあけたのだ、シハナ。
わたしに王位を|奪《と》れ、とそそのかしているのか?」
シハナは、つかのま口をとじた。へたな答えをすれば、極刑をいいわたされるかもしれない。そう感じさせるものが、イーハンの全身からただよっていた。
シハナはイーハンをみつめた。
「わたしが、そんなことをするとお思いですか。」
その声はしずかで、みじんのゆらぎもなかった。
「わたしの願いは、ただひとつ。ヨーサム王陛下の|治世《ちせい》がゆるぎなくつづくことです。
けれど、殿下、カシャルであるわたしは、ヨーサム王陛下のご健康に不安があることも、南部の大領主がどんなうごきをみせているかも、すべて知っております。王家が、どのような危機にひんしているか知っているのです。」
シハナの目に、きつい光が宿った。
「僭越ながら、ことはタルハマヤにかかわることゆえ、古き誓約の権利をもつカシャルとしてもうしあげます。
ヨーサム王陛下になにかがおき、南部の大領主たちが反乱をおこしてしまってからでは、おそい。|いま《ヽヽ》、イーハン殿下に千万の兵に勝る圧倒的な力があれば、反乱を未然にふせぐことができるのです。」
炎のような熱意が、シハナのまなざしにきらめいた。
「なぜいまか、と問われましたね? 殿下、それこそ、わたしがおたずねしたいことです。
なぜ、いま、ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉が、ロタへ流れきたのでしょう?
そして、なぜ、よりにもよって、殿下の愛された方の娘が、タルハマヤを招く力を得たのでしょう? ――これこそ、人知を超えた神のご意志だと思われませんか?」
イーハンの瞳が、打たれたようにゆれた。その心のゆれをおさえようとするように、イーハンはつぶやいた。
「……カシャルであるおまえが、それを神の意志というのか? サーダ・タルハマヤの復活をふせぐことを使命として生きてきたカシャルが?」
シハナは、挑むようにうなずいた。
「はい。あえて、そうもうしあげます。わたしは、父たちのようにふるい考えにとらわれず、タルハマヤの災いを、福に転じさせたいのです。」
迷いのない口調でシハナはいった。
「殿下、すでに、チャマウ〈神を招く者〉はあらわれてしまっているのですよ。この国を生かすことも、ほろぼすこともできる、絶大な力をもった者が。
この娘を、|野放《のばな》しになさいますか? それとも処刑なさいますか? ――シンタダン牢城の惨劇とおなじことをくりかえす危険をおかして……?」
イーハンは、こたえなかった。
シハナは、すっと声を低めた。
「考えてみてください。アスラは、わずか十二歳のおさない娘です。まだ大人のいうことを素直にきく年ごろなのです。大いなる力をもったこの娘を、殿下がみちびいてくだされば……。」
シハナの声が、かすかに、かすれた。
「そうなれば、この国は変わります。ヨーサム王陛下は、南部の大領主たちにわずらわされることなく、善政をおこなうことがおできになるでしょう。そして、イーハン殿下がずっと望んでこられたように、タルの民もまた、幸福になるでしょう。
国と民とを幸せにするための、正義の剣を、どうか、殿下、そのお手にとってください。」
シハナが口をとじると、息づまるような沈黙が、ふたりをおおった。
イーハンの顔は、胸のなかをかけめぐっている迷いの大きさをしめしてあおざめ、額にはびっしりと汗のつぶがうかんでいた。
長い沈黙のはてに、イーハンは、ついに、口をひらいた。
「そう……わたしも、何度も思った。絶対的な力がわたしにあれば、南部の、あのくさりきった大領主どもに、くだらぬ口をたたかせることもなく、すっきりと、すべてを変えられる。
ゆれる王国を、必死にたもっている兄上の重荷も、とりのぞいてさしあげられる。」
イーハンの口もとが、ゆがんだ。
「だがな、シハナ。――それは、ロタ王家の者が、けっしてしてはならないことだ。それは、みずから手をよごしてサーダ・タルハマヤを暗殺してまで、新しい国をきずいた初代のキーラン王以来の、われら王族の努力を、ふみにじってしまうことなのだ。
ロタ王は、氏族長たちの議論をまとめ、ひとつにしてみちびく者。――絶対的な力で民をおさえつける、サーダ・タルハマヤのような圧政者になってはならないのだ。」
イーハンは、大きな手で顔をなでて、つぶやくようにいった。
「……兄上なら、きっとそうおっしゃるだろう。」
シハナの顔から、すっと表情が消えた。
「では、あのお子たちは、どうされますか。」
イーハンは、深い苦しみをひめた目で、シハナをみた。
「兄上がもどられたら、相談して決める。……とにかく、会わせてくれ。」
うなずいて、イーハンをみちびいて歩きだしながら、シハナは心のなかで、カファムにつぎの手を打たせねば、と思っていた。
天幕の外からざわめきがきこえてきたとき、アスラとチキサは、思わずたがいの手をにぎりあって、椅子から立ちあがった。
戸布がもちあがると、新鮮な冷たい風とともに、背の高い武人がはいってきた。鞭のようにしなやかな身体つきをしている男だった。頬骨が高く、黒髪をみじかく刈りこんでいる。きつい顔だちだったが、その目は、あかるい光をたたえていた。
武人は、炉のかたわらに立っているチキサとアスラをみつめて、立ちつくした。
アスラは、息ができないほど緊張していた。
(この方が、イーハン王弟殿下。お母さんが、愛した人……。)
イーハンも、頭のなかが白くなるような、はげしいおどろきにとらわれていた。
ふたりの子どもの目に、口もとに、イーハンは、かつてのトリーシアの面影をみた。とくに、アスラのまなざしは、トリーシアそのものだった。
「ああ……なんということだ。」
かすれ声が、イーハンの口からもれた。
「なんと、トリーシアに似ているのだ……。」
きびしい武人の顔が、深いかなしみにゆがんでいくのを、アスラとチキサは、声もだせずにみつめていた。
「疑いようがない。……そなたらは、トリーシアに生き写しだ。」
イーハンは一歩一歩ふたりにちかづいた。そして、兄妹をみつめると、低い声でいった。
「わたしは、いま、こうして、そなたらにであえて……トリーシアの命をつたえる者にであえて、この身がはじけるほどに、うれしい。」
チキサとアスラは、どうしたらいいか、わからなかった。どんな顔をして、この人をみればよいのかさえわからず、ただ、凍りついたように、背の高い王弟をみあげていた。
「だが、きっと、そなたたちは、わたしを憎んでいるのだろうな。……憎んでいいのだ。わたしも憎んでいるのだから。トリーシアを不幸にしてしまった自分を。」
豪胆な武人にみえるイーハンの声が、ふるえていた。
「トリーシア……。」
すでに死んでしまった者へ、祈るように、イーハンはつぶやいた。
「わたしは、誓う。……この子たちを、かならず幸せにすると。」
[#改ページ]
4 祝典前夜
「ものすごい、にぎわいだな。」
タンダが、着なれない外套の頭巾をわずらわしそうに、はねあげながらいった。
城壁の外にひろがる街のはずれに、なんとか宿をとって、バルサとタンダは、ジタン城塞にはいる跳ね橋をわたっていた。
建国を祝うシャーサム〈新年の月〉の二十二日は、明日にせまっている。この祝賀の数日だけは、人びとは自由にジタン城塞の外郭まで、はいることをゆるされていた。
「タンダ、あそこを歩こう。」
バルサは相棒の肩をつついて、城壁を指さした。城塞の外郭にあたる城壁は、かなりの幅があり、多くの人がものめずらしげに、城塞内をみおろしながら歩いている。
「……あぶないなぁ。この穴はなんだ?」
タンダが、城壁のわきにあいているほそながい穴をのぞきこんだ。はるか下に、堀の濃緑色の水面がみえる。
「矢を射たり、煮え湯をおとしたりする穴さ。角度をごらんよ。跳ね橋にむいているだろう。」
心ここにあらずという口調で、バルサがこたえた。
広大な|前庭《まえにわ》の周囲をかこむように|天幕《てんまく》がはられ、武人たちが、短槍をきらめかせながら、たむろしている。色とりどりの|氏族旗《しぞくき》が壁にそってたてられ、|寒風《かんぷう》にひるがえっている。
ふと、バルサは視線を感じて空をみあげた。小さな鷹が頭上を舞っている。
「……スファルにみつかったみたいだよ。」
ぽつん、と、バルサがつぶやいた。タンダは、まぶしそうに目をほそめて、シャウがどこかへ帰っていくのを目で追った。
「彼に会ったほうがいいだろう?」
「そうだね。わたしらを拘束する気だとわかったら、逃げればいい。」
そんなことを話しているうちに、スファルの小柄な身体が、人ごみをかきわけて、こちらに歩いてくるのがみえた。
「タンダ! ……バルサ。」
スファルは、そばまできて立ちどまると、複雑な表情でふたりをみた。
「もううごけるのか。たいした体力だな。」
バルサの顔色はくすんでいたが、目には生気があった。
「あなたのお弟子さんに、お礼をいわねばね。たすかりました。」
「いや……。」
スファルは顔のまえで、かるく手をふった。彼がなにかいおうとしたとき、前庭のほうから、すさまじい獣の悲鳴がかさなってわきあがった。
大きな豚や羊の群れが、囲いにおしこまれて、鳴き声をあげているのだった。
「なんだ、あれは。」
タンダがおどろいてつぶやくと、スファルが肩をすくめた。
「式典で、|供犠《くぎ》にされる豚や羊だよ。各氏族が十頭ずつ式典のためにつれてくるのだ。」
スファルは、ぼんやりとその群れをみながらいった。
「建国の式典は、初代の王キーランが、サーダ・タルハマヤを殺して、ロタ王国を建国したことを祝う儀式だ。各氏族が奉じる歌舞のあとには、王による供犠の儀がある。祝賀儀礼が最高潮にもりあがるときだ。
キーランがサーダ・タルハマヤの首をおとしたとされる、〈解放の場〉……。」
スファルは、とおくにみえる、祭儀場を指さした。
「外郭の内側に、低い内郭がみえるだろう?」
「ええ。」
「あの|内郭《ないかく》にかこまれた広場の中央に、紅い|板石《いたいし》が円形にはめこまれたところがあるだろう。あれが、その〈解放の|場《ば》〉だ。
明日、あそこで王が、供犠のシャハン(茶色の毛の羊)の首を剣で切りおとすのだ。キーランが、サーダ・タルハマヤの首を切りおとしたことを模してな。今年はヨーサム王陛下がご不在だから、イーハン王弟殿下がなさるのだろう。」
スファルは祭儀場をみていた視線をあげた。
「祭儀場のむこう、小高い丘の上に森がみえるだろう。あれが、禁域の森だ。」
祭儀場の外郭の、さらにそのむこうは、なだらかにもりあがり、その上に深い緑の森がひろがっていた。冬だというのに雪の気配さえない、妙になまなましい生気を感じさせる森だった。
「……あ。」
タンダが、ふいにのどの奥で声を発した。目をこらして、じっとその森をみているタンダの顔が、みるみる、おどろきにこわばっていった。
「……光が、まるで日の光に|川面《かわも》がさざめいているみたいな。」
かすかにみえる、幻のような光景をくいいるようにみつめ、タンダは、口のなかで呪文をとなえて、魂の力をたかめた。
呪術の力で、うっすらとみえてきた光景に、タンダは、よろよろと三歩ほどあとすざった。ぶつかられた人が、むっとした顔でタンダをみたが、タンダはまったく気づいていなかった。
タンダは、ゆっくりと視線を森から天へあげていく。
「|樹《き》だ。……きっとそうだ。でも、なんて、巨大な樹なんだ……。」
スファルが、目を輝かせてタンダの顔をみあげた。
「みえるのか、タンダ。やはり、トロガイがみこんだだけの才はあるのだな。呪力をつかっても、わたしには、ゆらめく|陽炎《かげろう》のようにしか感じられない。」
バルサは、ふたりがみている森をながめたが、ふつうの森にしかみえなかった。タンダにはみえているらしい天へそびえる樹など、まったくみえない。
「ここは、太古のむかしロタルバルの都だったところだ。都をみおろすあの森には、ノユークからわきでる川の源たる泉があり、そこからそびえたつ巨樹がはえていたといわれている。
サーダ・タルハマヤは、その樹に宿って、タルハマヤを招いた。人びとは、毎日数頭の羊や豚を、ちょうど、いま祭儀場があるあたりにつれてきて、タルハマヤにささげていたという。
|聖樹《せいじゅ》に宿ったサーダ・タルハマヤの声は、ふしぎなことに、はるかとおくまできこえたそうだ。
樹の根もとには壮大な石造りの宮殿があったが、樹や宮殿をみることができる者は、ほとんどいなかったという。」
バルサは、ふたりがみているらしい禁域の風景ではない、あるものに気づいた。
「あの森のふもとから、煙があがっているね。禁域のそばに、人が住んでいるのかい。」
スファルが、ゆっくりとバルサに目をもどした。
「……あそこに、天幕がはられている。」
バルサは、ほそくたちのぼる煙をみつめた。
「アスラたちは、あそこにいるってわけか。」
タンダは、スファルをみた。
「もう、シハナと話したのですか。」
スファルは肩をすくめた。
「……話した。計画もきいた。イーハン殿下とも、|昨夜《さくや》お話しした。」
ため息をついて、スファルも煙をぼんやりとみやった。
「イーハン殿下は、南部を威嚇する武器としてアスラをつかう気はないと、はっきりおっしゃられた。あの方は、裏表のない方だ。そのご決意は、信じてよいと思う。」
城壁の石に肘をついて、スファルは前庭にたむろしている、氏族の男たちをながめた。
「殿下はチキサとアスラにお会いになったそうだ。ふたりの将来は、ヨーサム王陛下とご相談のうえで決めるが、かならず、ふたりの幸せを第一に考えるとおっしゃっておられた。」
スファルは、顔をねじってバルサをみた。
「イーハン殿下は、情の深い方だ。ふたりを幸せにしたいという思いは、真心からのものだ。
こうなっては、シハナもよけいなことはできまい。へたなことをすれば、イーハン殿下のご|不興《ふきょう》をかうだけだからな。」
バルサとタンダは、だまってスファルとみつめあった。
「これで、おわりだということですか。」
タンダがつぶやくと、スファルは肩をすくめた。
「ああ。おわりだと思う。アスラがサーダ・タルハマヤになることがないよう、どうあつかうか、ヨーサム王陛下とじっくりご相談せねばならんが、イーハン殿下がご英断をされたおかげで、シハナのもくろみは、とりあえず、はばまれたといえよう。」
「シハナは、いまどこに?」
バルサがたずねた。
「城の、カシャル用の控えの間にいる。」
「捕らえられているのですか。」
スファルの眉間にしわがよった。
「監視は、つけている。」
バルサとタンダが、だまりこんだのをみて、スファルはいいわけをするようにいった。
「イーハン殿下が、シハナの処置は、くれぐれも慎重にするようにと、おっしゃったのだよ。あれのやったことは、カシャル〈猟犬〉としてはみのがせぬ罪だが、王家に対する忠誠からでた行為だからな。祭儀がおわったら、われらの長老会議に出頭させるが、処置が決まるまでには、長い時間がかかるだろう。」
スファルは、ため息をついた。
「イーハン殿下が、アスラの力をつかうことを拒まれた以上、シハナには打つ手はなくなったのだから、もう、さしせまった不安はないだろう。あそこにたむろしている氏族の男たちのあいだに、妙な期待感があるのをのぞけばな。連中は、明日、ひと騒動おきることを期待して槍を研いでいる。」
前庭をながめるスファルの横顔には、つかれの色が濃かった。
「スファルさん。」
バルサがいった。
「味方より、敵のほうが、人柄が深くわかることがある。命のやりとりをするときは、闘い方に、その人の人格がにじみでるからね。」
バルサのかわいた低い声に、スファルは眉をひそめた。
「シハナは、あきらめないと、わたしは思う。人が思いどおりにうごかないなら、うごくようにしむける。どんなきたない手をつかっても。……シハナは、そういう人だと思う。」
スファルの目に、どんよりと暗い光が宿っていた。――それをみて、スファルも心の底では、そう思っていたのだと、タンダは知った。
羽ばたく音がきこえた。空から舞いおりてきたシャウを、ひょいと腕をのばしてとまらせると、スファルはつぶやいた。
「わたしも、シャウも、目をひらいているつもりだよ。――明日という日がおわるまで。」
明日は祝典というその夜、アスラとチキサは、むかしのように枕をならべて|夜具《やぐ》にもぐりこんだが、なかなか眠れなかった。
炉の火がゆれるたびに、物の影が、暗い天幕の布にゆらゆらとおどる。
「アスラ……。」
チキサがつぶやいた。
「おれ、安心したよ。」
「なにが?」
「あの人……イーハン殿下、アスラにいったじゃないか。サーダ・タルハマヤになど、ならなくてよいって。わたしのために、残酷な神になることはないって。」
アスラは、しばらくこたえなかった。ときおり、とおくから、なにかさわいでいる人の声がきこえてくるほかは、水の底にいるようにしずかだった。
「お兄ちゃんも、あの人も、バルサも、タルハマヤ神を残酷な神とよぶのね。」
アスラはつぶやいた。
「ああ。昨日、お兄ちゃんの考えを話しただろう? 母さんが、なぜ、タルハマヤを偉大な神だって思いこんだか……。」
チキサの言葉をアスラはさえぎった。
「そんなことを、いいたいんじゃないの。そうじゃなくて……。」
アスラは顔をゆがめた。
「お兄ちゃん、わたしがチャマウ〈神を招く者〉じゃなかったら、わたしたちは、いま、こんなふうにふたりでいられなかったことを、考えてみたことある?
狼の群れにおそわれたとき……ヨゴの宿屋で人買いに売られそうになったときだって、わたしたちは、タルハマヤ神にたすけてもらわなかったら、生きのびられなかったわ。
いまの、この命は、タルハマヤ神からあたえられた命なのよ。……そうでしょう?」
チキサは、こたえられずに、じっと影のゆらめく天幕をみつめていた。
アスラは、寝返りをうって、兄のほうに身体をかたむけた。
「残酷だというなら、人のほうが、ずっと残酷よ。シンタダン牢城で、お母さんの処刑を笑いながらみていた人たちも、わたしたちを売り買いして稼ごうとしていた、あの人たちも。」
アスラは、ささやいた。
「わるい人たちから、人をすくうことを神に祈るのは、いけないことじゃないと思う。
タルハマヤを招くことでしか、人をすくえないとき、わたしはどうすればいいの? 見殺しにするのは、人殺しとおなじじゃないの?」
チキサは、妹のほうに顔をむけた。アスラの目には、深い苦しみの色があった。
妹がかかえているものは、あまりに重い。真剣に考えて、考えて、その重みにたえようとしている妹が、かわいそうでならなかった。
アスラのいうことは、まちがってはいない。
たしかに、この世には、残酷な人がたくさんいる。そいつらに殺されそうになっている人をみたら、なんとかして、たすけたいと思う。――そうできる力があったら、と思う。
だけど……。
「アスラ……むりだよ。」
チキサは、おしだすようにいった。
「人を自由に殺せるような、神の力をもつなんて……どんな心の清い、つよい人にだって重すぎると、おれは思う。――そんな力で、人を幸せにすることなんて、きっとできないよ。」
兄の目に、ふいに、バルサの、深いかなしみをひめた目がかさなった。
[#ここから3字下げ]
――命あるものを、好き勝手に殺せる神になることが、幸せだとは、わたしには思えないよ。……そんな神が、この世を幸せにするとも、思えない。
[#ここで字下げ終わり]
耳の奥に、低くかすれたバルサの声がよみがえってくる。
[#ここから3字下げ]
――そんなものに、ならないでおくれ、アスラ。……狼を殺したときの、あんたの顔は、とてもおそろしかったよ。
[#ここで字下げ終わり]
アスラは両手で顔をおおった。
心の底にひびがはいり、その下に、なにかがみえている。目をつぶって、これまで、みるまいとしてきたものが、そこにあることがわかる。
タルハマヤは聖なる神。サーダ・タルハマヤになることは、すばらしいことなのだといった母の言葉を、いま、アスラは、むかしのように、いちずに信じられなくなっていた。
自分は、どう生きればいいのだろう。答えは、いまもなお、闇のなかだった。
おなじころ、やはり、大きな重圧をかかえて、闇をみつめている女性がいた。
彼女は、心のなかで、シハナの指示をかみしめていた。
イーハン王弟が、サーダ・タルハマヤの力をつかうことを拒んだら、こうするように、と、あらかじめ、シハナから伝えられていた指示だった。
シハナは、イーハン王弟に提案を拒まれるや、すばやくいくつかの手を打っていた。
自分の父親たちがジタンへとたどりつくまえに、したがってきたイアヌたちタルの民と、数人のカシャル〈猟犬〉仲間を逃がしておいて、自分とカファムなど、指導者格の者だけは、おとなしく監視つきの部屋にとどまったのだ。
その監視のなかに、シハナの息がかかった仲間がいることを、スファルたちは知らない。
こういう事態を予測して、父の仲間にさえ、自分の意のままになる仲間をひそませていたシハナの|先見《せんけん》の|明《めい》に、イアヌは、うすら寒いものさえおぼえていた。
(シハナは、すごい人だ。)
シハナが予測したとおりに、すべてのものごとがうごいていく。明日も、きっと、シハナがえがいたとおりに事態はすすんでいくだろう。
夜の大気は冷たかったが、それでも、〈聖なる川〉が流れきているせいで、ほかの土地にくらべれば、早春のように、おだやかな寒さだった。
イアヌは、かがり火を背にして、禁域の森をみあげた。陽炎のように、かすかな光がたゆとうてみえる。
自分が、この光をみる力をもってうまれてきたことに……そして、生きているあいだに、聖なる子とであえたことに、感謝した。
両親を、羊をほふるように、あっさりと殺したロタ人への憎しみは、どんなことをしても消えなかった。復讐をはたし、タルの民が、二度とロタ人に膝を折って生きなくてよい世界を招く|いしずえ《ヽヽヽヽ》になるなら、命など惜しくない。
イアヌは、小さくつぶやいた。
「シハナ。わたしは、あなたについてきたことを後悔していません。みごとに、サーダ・タルハマヤを目ざめさせる〈笛〉を吹き鳴らしてみせます。」
[#改ページ]
5 建国ノ儀のしかけ
シャーサム〈新年の月〉の二十二日がおとずれた。
夜明けにすこし雪が舞ったが、日が昇りきるころには、雪はあがり、天は、どんよりとにぶい光を宿していた。
祝典は昼からだったが、バルサとタンダははやめに宿をでて、|祭儀場《さいぎじょう》へとむかった。人出は昨日よりさらに多くなり、ひとめ、|祝賀《しゅくが》ノ|儀《ぎ》をみようと、おおぜいの人びとが祭儀場につめかけていた。
バルサとタンダは祭儀場の外郭にのぼり、人をかきわけて禁域の森にちかい側へと歩いていった。ふたりとも、ロタ人の商人とおなじ頭巾つきの外套をまとって、顔をシュマ(風よけ布)でかくしていた。
バルサには、なにかしようという計画があるわけではなかった。ただ、|雷雲《らいうん》のようにふくれあがってくる、いやな予感だけがあった。
禁域にちかいところまでくると、バルサたちは、そっと、下をのぞきこんだ。五つの大きな天幕があるだけで、人の姿はまったくない。
「……アスラたちは、いまはここにはいないようだね。」
バルサがつぶやいた。
「タルの民やカシャル〈猟犬〉の姿もないな。」
タンダがそう応じたとき、バルサは、禁域の森のなかに、うごく影をみつけた。ひとりに気づくと、すぐに、数人の人影が森にひそんでいるのをみわけることができた。
「彼らは禁域の森にいるよ。あそこから、こっちをみおろしている。……そんなふうに、まっすぐみちゃだめだよ、タンダ。気づかれる。」
タンダは首をすくめて、|内郭《ないかく》広場にむきなおった。赤と金の敷物がしかれた台座が、広場をかこむようにもうけられ、大領主、氏族長などが、そのいちだん高い席についていた。
禁域の森にむかいあうようにつくられている、もっとも高い台座は王族用だろう。
「……腕のいい|射手《いて》なら、ここから、ねらいうちできるな。」
タンダがこそっとつぶやくと、バルサが苦笑した。
「あそこと、あそこ、みてごらん。」
バルサがしめしたのは、南北ふたつの門の塔だった。|長弓《ちょうきゅう》をもった衛兵の姿がみえた。
「なるほど。彼らにも、わかるよな、その程度のことは。」
タンダがぼやいたとき、角笛の音がたからかに鳴りひびいた。同時に、四つの尖塔から、鐘の音がひびきわたった。
人びとのざわめきがやみ、みんな身をのりだして祭儀場の入り口をみつめた。
王家の旗をかかげもった武人があらわれ、そのすぐうしろから、長身の男が姿をあらわすと、いっせいに歓声があがった。
王弟イーハンは、民の歓呼に手をあげてこたえ、おちついた足どりで王族の席にすわった。
そのとなりに、妻と息子、娘が腰をおろすと、花火が鳴りひびいて、式典のはじまりを告げた。
ロタ王国全土から集まった、各氏族おかかえの芸人たちが奉じる歌舞は、どれも、なかなかのできだったが、建国ノ儀らしく、うたわれる歌も、演じられる舞や劇も、すべて、いかにサーダ・タルハマヤの圧政から、キーラン王が人びとをすくったかという主題ばかりで、しばらくすると、バルサもタンダも、あきあきした気分になってきた。
「……タルの民がいないわけだな。」
タンダがつぶやいた。
バルサは、ほとんど歌舞をみていなかった。ゆるやかに視線をうごかしながら、人の配置をながめ、どこに射手や槍をかまえた武人が配置されているかをみていた。
だが、残念なことに、どんなに探してもアスラたちの姿をみつけることはできなかった。
「……シハナたちが部屋にいないだと!」
スファルの顔が、こわばった。その知らせは、歌舞が最高潮になったところで、ようやくスファルのもとに伝えられたのだった。
「探せ! まず、アスラたちのいる天幕からだ。」
しかし、スファルたちが天幕にたどりついたときには、なかはもぬけのからで、アスラたちの姿どころか、天幕を監視していたはずの兵士たちの姿さえ、みあたらなかった。
やがて、スファルたちは、兵士たちが祭儀場の壁の陰にたおれているのを発見した。彼らはみな、呪術で眠らされていた。
スファルは、全身が凍るような不安にとらわれていた。
「探せ! とにかく、探すのだ! わたしは天から探す。おまえたちは、地下通路を探せ。」
マロ鷹のシャウを天高く舞わせて、スファルはさけんだ。
祭儀をみだすことなく、シハナたちを探すには、信用のおけるカシャルの数があまりに少なすぎる。地下通路を探すにしても、いく本もの道があるのだ。
あせりが、スファルの胸をこがしていた。
そのころ、アスラとチキサは、外郭から探していたバルサや、空を舞うシャウには、けっしてみつけられないところにいた。内郭の内部につくられた、秘密の通路にいたのである。
「ここは、だれからもみえない、とくべつの観覧席よ。」
ささやくシハナの声が、暗くほそい通路にこだました。内郭をつくっている石と石のすきまから、かなりはっきりと広場がみえた。
天幕で、歌舞の音だけをきいていたアスラたちのもとに、シハナがあらわれたのは、ついさっきのことだった。
「イーハン殿下がね、だれからもみられないところで、ふたりに歌舞をみせてあげなさいとおっしゃったのよ。」
祭儀場のまわりには、カシャル〈猟犬〉だけが知っている秘密の通路がいくつもあるのだ、と、シハナはいって、さそいだした。アスラたちは、シハナにつれられて、禁域の森にちかい斜面から、祭儀場の内側へとつづく地下の通路をたどって、ここまできたのだった。
地下の通路は、ここまでは一本道で、あっというまにきてしまった。ところどころに、巧妙な明かりとりの穴があいているから、さほどこわくなかった。
歌もはっきりときこえ、踊りや劇もみえる。アスラたちは、わくわくして、あれがきれいだとか、あっちの人の衣装がおもしろい、などと、ささやきあいながら、にぎやかな祝典をみていた。
けれど、歌舞の内容がわかるにつれて、ふたりは、むっつりとだまりこむようになった。
はっきりと、タルの民をおとしめて、からかっているのだとわかる踊りをみたときは、かっと身体が熱くなった。
「……ひどいね。」
アスラがつぶやくと、チキサがうなずいた。
「建国ノ儀が、こんなものだなんて、知らなかった。」
シハナが、チキサの肩に手をふれてささやいた。
「こうやって、毎年毎年、ロタ人であることを誇りに思い、サーダ・タルハマヤを憎む気もちが、あせないようにしているのよ。そうすることで、タルの民をいかにくるしめているか、思いやりもしない。――自分たちがやっていることの、醜さに、まったく気づいていない。
こうして外からみていると、こんなにも、はっきりとわかることなのにね。」
やがて歌舞がおわった。うそのようにしずかになった中庭に、突然、悲鳴があがったので、アスラはとびあがった。
「だいじょうぶですよ。供犠の豚がつれてこられただけです。ほら、豚や羊がみえるでしょう?」
各氏族の若者たちが、わが氏族最高の家畜を、供犠として献上する、という声がきこえてきた。
その言葉をうけて、イーハンが、ろうろうと感謝の言葉をのべるのがきこえた。そして、イーハンは、輝く剣をもって中庭の中央に歩みでると、純白の供犠の羊のまえに立った。
「母なる神アファールよ! 天地と、そこに生きるすべてのものを創りたまいし神。神の世と、この世とをうるおす神! われらロタ人は、あなたの恵みに感謝し、この獣を|奉《たてまつ》る。
どうか、ロタ王国が、このさきもゆたかでありますように!」
イーハンの剣がきらめいて、ふりおろされた。アスラは思わず目をとじたが、一瞬で命を絶たれた羊は、ひと声も鳴かなかった。
そのみごとな手腕に、いっせいに拍手がわいた。
従者の若者が、つぎに大きなシャハン(茶色の毛の羊)をひきだしてきて、またイーハンのまえにおいた。
「母なる神アファールよ! 神の世と、この世とをうるおす神。わが|祖《そ》は、あなたのゆるしを得て、あなたの|鬼子《おにご》を神とあがめた、愚かでおそろしい者を、ほふりました。
二度と残酷な鬼子を招かぬという祈りをこめて、ここに……。」
そのとき、イーハンの言葉をさえぎって、女性の声がひびきわたった。
「タルハマヤ|神《しん》は、鬼子ではない!」
イーハンが、おどろいてふりむいて、声の主を探しているのがみえた。
やがて、ほっそりとした人影が群集のなかから歩みでて、頭巾をはねあげた。
「……イアヌ!」
アスラは、口に手をあてた。全身から血の気がひいた。
イアヌは、緊張にあおざめた顔をしていたが、その瞳はらんらんと輝き、背はすっくとのびていた。
「タルハマヤは、偉大なる神。白き神の峰より、いま、清廉なる流れ、この地にきたり!
ロタ人よ、知るがいい! そなたらの|糧《かて》となる実を宿す森、大地、川、海は、これより、ゆたかにうるおされるであろう。
賢きタルの乙女があらわれた! この乙女は、サーダ・タルハマヤとなりて、この世を正しくみちびくであろう!」
イアヌの目は、はっきりとこちらをみていた。みえないはずの、城壁の石のはざまをとおして、その視線が、アスラをとらえた。
命をかけた、イアヌのさけびが、アスラの耳につきささった。
「ああ、サーダ・タルハマヤよ! 神に愛されし乙女! われら、苦しみに生きたタルの民を、どうか自由にしてください。
頭をたれて陰に生きる者の背を、なおふみつけにするロタ人を罰してください!
シンタダン牢城で、悪しき人びとをほふったように、われらをふみつける者たちを、どうか罰してください!」
両手を天にのばしてさけぶイアヌの声に、どこからか、タルの民たちの声がかさなってひびいてきた。
「サーダ・タルハマヤよ! 神に愛されし乙女! われら、苦しみに生きたタルの民を、どうか自由にしてください。シンタダン牢城で、悪しき人びとをほふったように、われらをふみつける者たちを、どうか罰してください!」
アスラは、がたがたふるえていた。イアヌの目が、ふいに、母の目にかさなってみえた。
広場は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。衛兵たちがとびだしてきて、イアヌを両側からつかまえ、耳のあたりをなぐるのがみえた。
イアヌがくずれるようにたおれるのをみて、アスラは悲鳴をあげた。
「しずまれ! しずまるのだ!」
イーハンが、剣で、かたわらにいた衛兵の盾をはげしくたたいた。
人びとの声が、ゆっくりとしずまっていくと、イーハンは、衛兵にイアヌを、牢へつれていくように命じた。
そのとき、群集のなかから、声高にさけぶ声がきこえてきた。
「イーハン殿下! サーダ・タルハマヤからの解放を祝う、この儀式に、サーダ・タルハマヤの復活を願い、ロタ王国のほろびを祈った者を、どうされるおつもりか!」
それは、ただひと声だったが、まるで鞭のように群集をうち、どよめかした。
南部の大領主たちが、席から立ちあがった。
「そのとおりだ。イーハン殿下、その者を、どう裁くおつもりか? 賛同の声をあげた、タルの民どもを、どうなさるおつもりか?」
アマンが、ふとった頬をふるわせてどなった。
「建国の儀式を、呪われたままでは、いかなる災いがふりかかるか! イーハン殿下、即座に、この場を清められよ!」
賛成の声が、あちらこちらからあがった。
「サーダ・タルハマヤにけがされたこの地を清め、国にあらたな命をよびこむのが、ロタ王族の役目! そのタルの女を、シャハンのかわりに供犠として処刑すべきだ!」
ざわめきと、興奮が、あたりをゆるがした。
アスラは、ぎゅっと手をにぎりしめた。――イアヌが、殺されてしまう……!
「アマン殿、お待ちなさい。」
イーハンが、よくとおる声でこたえた。
「人を、きちんとした裁きもせずに殺せというのか。それこそ、神に恥ずべき残忍な行為であろう! ロタ王族は、殺人者ではないぞ!」
アマンが、あざけりをひめた声でさけんだ。
「イーハン殿下! 殿下は、タルの民をいつもたすけようとなさるが、それには、とくべつなわけがあることを、われらは知っているぞ!」
イーハンの顔が、さっと紅潮した。
「アマン殿、わたしを愚弄する気か!」
「愚弄ではない。真実をのべているのだ。知っているぞ。あなたは、シンタダン牢城で処刑されたタルの女の遺体をほりかえし、あらためられたそうだな!」
ざわめきが大きくなった。
「さっきの女がさけんだように、そのタルの女こそ、血に飢えた魔神タルハマヤをこの地へ招こうとした者だという噂、わたしたちが知らぬとでも思っておられたか?
そして、そのタルの女に、なぜ、あなたが、墓をほりかえすほどの興味をしめしたのかを!」
人びとの声は、もはや、波のようにたかまっていた。
北部の氏族の若者が、そのとき、立ちあがってどなった。
「のせられるな! みんな、のせられるなよ! これは、南部のやつらの罠だぞ! イーハン殿下をおとしめるために仕組まれた、きたない罠だぞ!」
どよめきがはしり、北部の武人たちが、立ちあがりはじめた。それに対抗して、南部の武人たちも、席をけって立ちあがった。
「しずまれ! ロタの武人たちよ! しずまるのだ!」
イーハンが、のどもさけよとばかりにどなった。
「おまえたちは、この式典を人の血でけがすつもりか? しずまるのだ!」
男たちは、しかし、にらみあったままだった。これは罠だとさけんだ北部の若者が、イーハンによびかけた。
「イーハン殿下、あのタルの女を処刑してください! あなたが、私情で、われらを裏切るはずがないことを、証明してください! 私情で、王国をゆるがすような、愚かな方ではないことを、みなにみせてください!」
アスラは、その瞬間、イーハンの顔がゆがむのをみた。……冷たいものが、背をはしった。
(……イアヌは、きっと殺される。)
処刑をさけぶロタ人の顔をみるうちに、恐怖は、はげしい怒りへと変わった。
アスラは、ぱっと走りだした。
[#改ページ]
6 神を飲む
「アスラっ!」
チキサが、あわてて妹のあとを追った。そのうしろを、シハナもかけてくる。
暗い回廊をかけて、かけて、アスラは、必死にかけぬけた。イアヌが殺されてしまうまえに、禁域の森へいかねは……。
アスラの足は、信じられぬほどはやかった。チキサは、どうしても妹に追いつけずに、とうとう、アスラが出口の穴をぬけていく後ろ姿をみることになった。
日のもとに走りでたとき、だれかの手が、がっしりとチキサをつかんだ。
「はなしてくれ! 妹が……!」
カシャル〈猟犬〉の男が首をふり、ぎゅっとチキサの腕をにぎりしめた。そばにいたタルの民が、顔をよせてささやいた。
「チャマウ〈神を招く者〉がサーダ・タルハマヤになる瞬間を、たとえ兄でも、邪魔させるわけにはいかない。」
頭にのぼっていた血が、さあっとひいた。身をよじってシハナをみあげると、うすい笑みが、その唇にうかんでいた。
「……これは、すべて、仕組まれていたんだな? アスラを、サーダ・タルハマヤにするために、あんたたちが仕組んだことなんだな?」
アスラに、さけぼうとしたチキサの口を、シハナの手がふさいだ。
その手をかもうとしたとき、カシャルに腹をなぐられた。息がつまって、チキサはうめいた。
(――アスラ……!)
そんなことがおきているとは、まったく知らずに、アスラは、けんめいに斜面をかけのぼっていた。
(イアヌが殺されてしまうまえに……。)
そのことしか、頭になかった。
おそれてはいけない、とアスラは自分にいいきかせた。
いま、ここで自分がしりごみしたら、イアヌが、殺されてしまう。
やわらかく、なまあたたかい水が身体をさすって流れていく。微光をひめた深い泉に、アスラは足をふみいれた。
とたんに、身体じゅうに水がしみわたり、すっと身体が軽くなった。
アスラは、聖なる巨樹にちかづくと、迷うことなく、その幹をのぼりはじめた。
|幹《みき》にふれている手から、足から、生気がしみこんでくる。ピクヤ〈神の苔〉の香りが、息苦しいほどだ。のどの宿り木の輪が、いつしか輝きはじめ、ピクヤよりはるかに濃厚な、血に似たにおいを、ただよわせはじめていた。
あたりの風景が、どんどん変わっていく。くずれかけた宮殿の廃墟がうかびあがり、森の木々よりも、はっきりとみえるようになってきた。
まるで心地よい椅子のようになった|洞《ほら》までたどりつくと、アスラは洞に腰をおろした。
シュルシュルと音をたてて、水がめぐっている。人の身体に血がめぐるように、この樹は、ノユークから流れきて、泉からあふれでる水をすいあげているのだった。
(――この樹は、川とおなじ……。)
そんな思いがわいた。アスラの身体もまた、樹の一部となり、水に満たされ、水があふれていく川となっていた。
ふしぎだった。はるか下のほうにある祭儀場の物音が、そばにいるかのようにきこえる。
水のなかでとおくの物音が伝わってくるように、この光る水が、音を伝えているのだろうか。
おそろしい神をよぶタルを殺せ、という声が、わきあがっていた。
「……おそろしいのは、あなたたちのほうよ。」
アスラはつぶやいた。
「人の死を望んでいる、その醜い自分の顔をみてみればいい。どちらが残酷か、わかるはずだから。」
その瞬間、ふしぎなことがおきた。
祭儀場の広場でさわいでいた人びとが、いっせいに、話をやめて、うろたえたように、あたりをみまわしはじめたのだ。
(わたしの声がきこえたのね。)
アスラは、ほほえんだ。狼の群れをほふったときのような、はじけるような高まりが胸にのぼってきた。
アスラは息をすいこむと、大声でさけんだ。
「ロタ人よ、ききなさい。人の死を望む者は、醜い。
タルの民のかなしみや苦しみを思いやることもなく、ふみつけにして平気でいる、あなたたちこそ、醜い。
タルを殺せとさけぶなら、ロタ人よ! タルとおなじ痛みと恐れを、味わうがいい。」
泉の底から樹の幹を、うずまいてかけあがってきたものが、アスラの身のうちをとおりぬけた。
宿り木の輪が光り、その奥から、輝く牙をもつタルハマヤがすべりでて、|滑空《かっくう》していく。
そのとたん、アスラは、ふたつにわかれていた。
ひとりは、樹の洞にすわり、もうひとりはタルハマヤとなって空をすべっていた。
みるみる広場がちかづいてくる。タルハマヤは、すさまじい速さで外郭と内郭の石壁をけずり、石の|粉《こな》を雲のようにたちのぼらせ、まきちらしながら、広場へとすべりおりていった。
ぼうぜんとしている人びとのあいだをすりぬけて、タルハマヤは、光の帯をひいて泳いでいく。
光る風がすりぬけた……と思ったとたん、人びとの、首のすぐうしろの壁が切りさかれ、熱い石の粉が、人びとにふりかかった。
アスラは笑った。笑いがとまらなかった。うろたえ、おびえ、ふるえ、泣きさけんでいるロタ人をみて、笑いつづけた。
タルハマヤが血を飲みたがっている。――イーハンが切り殺した供犠の羊からたちのぼる血の香りが、たえがたいのどの渇きをさそった。
アスラの身体が宿っている樹の幹が、光りはじめた。ふたつの世界のはざまにはえるピクヤ〈神の苔〉がうるみ、きらきら輝いているのだった。
そして、アスラののどの、宿り木の輪も、光を放ちはじめていた。
「……あそこだ。」
タンダが、バルサの肩に手をおいて、さけんだ。
「あの樹の上にいる。みえるか?」
バルサは目をほそめて、森をみつめたが、アスラの姿はみえなかった。
「そこじゃない! もっと上だ!」
森の木々の、すこし上に視線をむけた瞬間、信じられない光景が目にとびこんできた。
アスラが天にうかんでいる。アスラをとりまいているあわい赤い光が、いまは、バルサの目にもみえた。
アスラの笑い声が、さざ波のように大気をふるわせている。
それは、狼の群れを虐殺していったときの、あのアスラの笑い声だった。背筋が寒くなるような、その笑い声をききながら、バルサは歯をくいしばった。
光る牙がすべってくる。血のにおいをなめるように、何度も、何度も、獣の死体の上をすべっていく。
あの牙が、人にむくのは、時間の問題だ、と、バルサはさとった。
アスラの心が、圧倒的な力に酔い、暴力の快感にしびれたとき……アスラは、あそこにいるロタ人たちを殺してしまうにちがいない。
バルサは、だっとかけだした。
「バルサ!」
タンダがさけんだ。バルサは外套をぬぎすてると、外郭から身をおどらせた。
タンダも頭巾をはねあげ、外套をぬぎすてると、目をぎゅっとつぶり、そのあとを追って、外にとびおりた。足が地面に激突すると、脳天までしびれた。
タンダが足をひきずりながら走りはじめたときには、すでに、バルサは無人の天幕のわきをかけぬけて、斜面をのぼりはじめていた。
あまりの心地よさに、アスラは、笑いがとまらなかった。血が、こんなによいにおいのするものだとは、知らなかった。
人びとの、やわらかいのどから、よいにおいがする。あれにそっとふれるだけで、おいしい血が口にはいってくる……。
だが、心のどこかで、なにかが、それをさせまいと必死に自分をひきとめていた。
(殺してはだめ。)
どうして?
(殺してはだめ……!)
人びとがあげる悲鳴が、たまらなく心地よい自分と、それをおぞましく感じている自分がいた。
心のなかで、だれかが身をよじる。なにかを、思いだせといっている。
だが、それは心地よい夢をさまそうとする、邪魔な音だった。
(血を飲みたい……。)
欲望がふくれあがる。それは、タルハマヤと、のどに輝く宿り木とがともに感じている、はげしいのどの渇きだった。その欲望に、圧倒的な力をふるえる心地よさがかさなっていた。
ゆるゆると人びとのかたわらを泳ぐうちに、イーハンの顔が目のまえにきた。
汗にまみれ、目をみひらいて、自分をみつめてふるえているイーハンをみても、アスラは、なにも感じなかった。武人たちが、うろたえてかまえる槍も、剣も、麦わらのように、ちっぽけで、やわらかいものにみえる。人の身体が、血をたたえた袋のようにみえた。
(殺してはだめ……!)
欲望の陰で、だれかが泣いていた。身をよじって泣きながら、必死に自分をひきとめようとしている。
(そんなこと、したくない……!)
だが、血のにおいも、力を思いきりふるいたいという思いも、あまりにも大きかった。
バルサは、森の|木陰《こかげ》で、数人の人間がもつれあっているのをみた。もがく少年を、三人の男女がおさえつけようとしているのだ。
「……チキサ!」
バルサはさけんで、とびかかった。
まだ穂先に鞘がはまったままの短槍を左右にふりぬき、一瞬で、ふたりの男の腹をついて気絶させると、小柄な女が、さっととびすざった。
「|射手《いて》……!」
手をあげてさけんだ女が、シハナであると気づいたとき、矢がうなりをあげて飛んできた。
バルサは、短槍をふってそれをはじいたが、すぐにつぎの矢のうなりがきこえた。
ふりむくと、弓をかまえたカシャル〈猟犬〉がみえた。バルサは身をしなわせて、短槍を投げた。弓の弦をはじき切って、短槍が木の幹につきささってふるえた。
熱い風が耳をかすった。
バルサははねとんで、つぎの攻撃をさけた。
短剣をかまえたシハナが、冷たい笑みをうかべて、つっこんできた。おそろしくはやい踏みこみだった。腹を短剣がかすり、かすられたあとがカッと熱くなった。
シハナは、おそろしい使い手だった。短剣は白い光にしかみえない。かわそうとしても、かならず皮一枚、切りさかれる。素手でかなう相手ではなかった。
優位にたっても、むだなあざけりに集中力をさくこともしない。無言で、ただ、冷静に切りこんでくる。
「バルサ!」
タンダの声がきこえた。
「わたしはいいから、チキサを!」
バルサはさけんだ。頬が切れて、血がはじけとんだ。
「チキサを……アスラのところへ……!」
手が切れるのもかまわずに、バルサはシハナの目にむかって左手をつきだした。
シハナがのけぞった瞬間、バルサの足がはねあがり、短剣をけりとばした。
シハナがしゃがみこみ、バルサの軸足をけった。
背からおちたバルサは、縫ったばかりの傷にはしった激痛を無視して、背で地面をはねるようにして起きあがり、低いけりをシハナの膝にはなった。
けりが膝わきにあたった瞬間、がくっとシハナの身体がおれた。バルサはシハナの懐にはいり、すくいあげるようにわきの下に右腕をひっかけると、そのまま投げおとした。
だが、地面におちたシハナにけりをいれようとした瞬間、シハナの手がうごき、なにかが目にとんできた。かろうじてよけたが、それはごく小さな短刀だった。
距離をとったバルサは、起きあがるシハナとむかいあって、うごきをとめた。
「だいじょうぶか、チキサ……!」
タンダにたすけ起こされて、チキサは腹をおさえてせきこんだ。涙をうかべた目でタンダをみあげて、チキサは、ささやいた。
「アスラを、とめなくちゃ……。」
タンダはうなずき、チキサをかかえるようにして走りはじめた。
だが、森のなかに配置されていたタルの民やカシャルが、いっせいに走りでてきて、ふたりのまえに立ちふさがった。
タンダは、足で地面をこすると、草をひとにぎり、もちあげた。
(トロガイ師匠、まもってください。うまくいきますように……!)
草をてのひらにのせて、呪文をとなえながら両手をこすりあわせると、タンダは、力いっぱい、草を吹きとばした。
草は、針のようになって飛び、手や顔をさされた男たちは、わめいてとびあがった。
タンダはチキサの手をひいて、わめいている彼らのあいだをすりぬけた。なれない|荒事《あらごと》に心の臓がはねあがって、いまにものどからとびだしそうだったが、タンダは歯をくいしばって、口のなかで呪文をとなえ、ぼんやりと輝いてみえる大樹へと走っていった。
「……チキサ、この樹が、みえるか?」
あらい息をつきながらの問いかけに、チキサは首をふった。
「樹なんて、みえないよ。――ぼくにはみえない。」
「あそこをみるんだ……。」
チキサは、タンダが指さしている上のほうをみあげ、声をあげた。
「あ、アスラが……!」
妹の小さな姿が、はるか上の宙にうかんでみえた。赤い|微光《びこう》につつまれた、その身体からは、くるったような笑い声がひびいてくる。
(――アスラ……。)
鳥肌がたつような、笑い声だった。たしかに妹の声なのに、まったく妹のやさしさを感じさせない、おそろしい声だった。
「ここに、さわってみろ。――ふれるか?」
タンダの手にみちびかれて、なにもない空間に手をおいたとき、ふんわりと風のようなものが手をおしかえした。ここに、たしかに、なにかがある。自分にはみえないが、樹があるのだ。
チキサは、あおざめた顔でタンダをみつめた。
「ここを……のぼるんだね?」
タンダはうなずいた。
チキサは、息をすって、歯をくいしばった。とめようとしても、ふるえがとまらなかった。
アスラは、すでに残酷な神人サーダ・タルハマヤになってしまった。
のぼっていっても、なにもできないだろう。――――あの残酷な笑いをうかべた目を、のぞきこむことになるだけだ。
「おれが、さきにのぼる。いこう、チキサ。」
そういって、タンダは、空中に手をおくと、目にみえぬ樹をよじのぼりはじめた。
チキサは、あわててそのあとを追った。おそるおそる手をかけ、足をかけると、たしかになにかが身体をうけとめてくれる。だが、なにもない空間に手をおいて、下をみるのは、おそろしかった。のぼるにつれて、恐怖がました。
鼻の奥で、泣き声をたてているチキサに、タンダがよびかけた。
「……がんばれ、チキサ。のぼって、アスラを抱きしめるんだ。――あの子の心を、タルハマヤに食わせるな!」
チキサは、泣き声をたてながらも、必死で手足をうごかしつづけた。
しだいに、笑い声がちかくなってくる。耳をふさぎたくなるような、おそろしい声だった。
アスラの姿がまぢかにみえてきたとき、ふっと笑い声がやんだ。
アスラが、こちらをみおろしている。異様に輝く目で、まるで、|餌《えさ》の虫をみるように、こちらをみおろしていた。
|冷水《れいすい》をあびせられたように、全身に鳥肌がたった。
冷たい神の息が、研ぎすまされた|刃《やいば》のように、頬にふれた。
シハナは、もう一本の短刀を懐からぬきはなち、バルサにおそいかかってきた。
その瞬間、なにかの気配が背筋をさすり、間一髪でバルサは地面にたおれこんで、背中を切ろうとしたカシャルの刃をのがれた。
全身が、燃えるようだった。背の傷も口をひらき、血がつたいおちている。
バルサが起きあがるのをみつめながら、シハナがカシャルに命じた。
「ここはいいから、チキサをうちおとしなさい。」
バルサは歯をくいしばって、シハナにとびかかった。
シハナの短刀がバルサの首をおそった。
バルサはよけなかった。首の皮を短刀が切りさいた。だが、つぎの瞬間、シハナは悲鳴をあげた。バルサの指が、右目を切りさいたのだ。
目をおさえたシハナの|鳩尾《みぞおち》に、バルサの膝がつきこまれた。
シハナが地面にくずれおちるのをみることもなく、バルサは身をひるがえしてカシャルの射手のあとを迫った。
射手は、すでに矢をひきしぼっていた。バルサがとびかかった瞬間、矢が、うなりをあげて飛んだ。
タンダは、矢の音をきき、はっとふりかえった。
チキサが悲鳴をあげた。ほそい少年の肩に、矢がつきささってふるえていた。
「チキサ……!」
激痛に身をよじったチキサの身体が、樹の幹をはなれた。
タンダは手をのばして、その衣をつかんだが、重さで、あやうく自分もおちそうになった。
ゆらめく陽炎のようにしかみえない樹では、とっさに手をのばしても、手は宙を切るばかりだった。
(――だめだ……。)
おちかけたチキサと、冷たいアスラの目が、ほんの一瞬あった。
あわだつようなよろこびに、なにかがささった。
アスラは、自分の目がみているものを、とらえようとした。
(目だ。)
だれの……?
(お兄ちゃんの。)
苦痛にゆがんだ、兄の目。必死に自分をみあげている兄の目。
わきあがった泡が、冷たい風にふれて、はじけ、ちぢんでいくように、うかれた快感がさめていくと、なにかが心にもどってきた。
心の暗い底から、いくつもの声がきこえた。その声には、なつかしい人の顔がともなっていた。自分をみつめて、よびかけている。なにか、いっている。
兄の目。かなしい兄の目。――そして、かなしい、だれかの目。
(……バルサ。)
自分をみつめている目が、光となって心の底をてらし、いくつもの思い出が、きらめくように、ふきあがってきた。
兄との思い出。バルサとすごした日々。隊商の仲間たち。
吹雪の吹きすさぶ夜、陽気に笑っていたロタの牧夫たち。
それらを思いだした瞬間、あまく感じていた血のにおいが、なまぐさいものに変わった。
逃げまどい、泣きさけぶ人の声が、はっきりと、いまわしいものにきこえはじめた。
恐怖にみひらかれた彼らの目は、自分をみていた。
イーハンの顔をとおりすぎ、いくつもの人の顔をとおりすぎ、やがて、南部のふとった領主が目にはいってきた。ふるえている男の顔が、目のまえにあった。汗のにおいさえかげるほどに。その命は、自分の手のなかにあった。
のどを切りさきたいという欲望が、わきあがってきた。
そのとたん、稲妻のように、ある思いが全身をつらぬいた。
(いま、わたしは、人を殺したいと思っている……!)
領主の目にうつる、自分の顔がみえたような気がした。
おそろしい顔……おそろしい自分の顔が。そのとき、はじめてアスラはタルハマヤの顔をみた。
バルサの、かすれた声が耳によみがえった。
――狼を殺したときの、あんたの顔は、とてもおそろしかったよ。
記憶の底にしまっていた、もうひとつの、おぞましい光景がみえてきた。
逃げまどう人びと。そののどを切りさく自分……。
アスラはさけんだ。絶叫してのどをかきむしり、のどにすいついている宿り木の輪をつかんだ。
南部の領主の首に、牙をふれようとしている自分をひきはがすように。
(殺したくない。)
タルハマヤが身をよじり、むりに欲望をおさえられることに、いらだって、さけんだ。
――殺したい。邪魔をするな……!
それは、いまわしい自分の声だった。タルハマヤとなった自分が、かまくびをもたげ、異様に光る目で、こちらをみた。
――邪魔なもの……消えてしまえ!
すべるように、タルハマヤがもどってくる。
自分の心を食らうために。心が食われたとき、アスラは完全にタルハマヤとひとつになる。――サーダ,タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉に、なるのだ……。
(いやだ! わたしは……サーダ・タルハマヤにはなりたくない!」
ふいに、雲のはざまから日の光がさしこんだように、その思いが、心をさあっとてらした。
(わたしは、そんなものには、ならない……!)
アスラは、両手で宿り木の輪をにぎりしめた。
(これは、神がこの世へでてくる門。タルハマヤを飲みこんで、この門をなくしてしまえば、きっと、タルハマヤを封じることができる……。)
身にしっかりとすいついた、この輪をひきちぎったら、のどがちぎれて死んでしまうかもしれない。
(それでも……。)
目の裏に、なつかしい人びとの顔が、つぎつぎにうかんで消えた。
光る牙が一直線にもどってくる。
全身に、ふるえがはしった。
アスラは、宿り木の輪をにぎりしめて、あえてまっすぐに、おそろしき神をみつめた。
おそろしかった。……けれど、恐怖が頂点に達した瞬間、あれくるっていた風が、ふいに吹きやんだような、音もうごきもない、ふしぎに透明なときがおとずれた。
光る牙が、みるみる大きくなる。目をみひらいたまま、アスラは腹に力をこめて、輪にすべりこんでくる神を……その身に飲みこんだ。
身を食われる激痛がはしった。最後の力をふりしぼって、アスラは、宿り木の輪をひきちぎり、深い闇のなかにおちていった。
熟した柿のようにアスラがおちてきたとき、タンダはとっさに、宙をさぐっていた腕でアスラの身体を抱きとめた。
とたんに、全身がゆらいだ。身がねじれた瞬間、ほんのすこし下に、緑がみえた。この森にはえている、ふつうの木々のてっぺんだった。
とっさに、タンダは幹を両足でけった。そして、ふたりの子どもをかかえたまま、禁域の森にはえている木の枝に背中からおちていった。
むちゃくちゃに身体がこすれ、打たれ、切りさかれたが、どうすることもできなかった。
タンダは目をぎゅっとつぶって、ただひたすら落下がとまるのを祈った。
三人の身体をうけとめた木がさける音がして、ぐうーんと身体がゆれた。
射手のうなじをなぐって気絶させたバルサは、木々のはざまから、空にうかんでいるようにみえる三人をみあげた。
はじめにチキサがおち、チキサの衣をつかんだタンダの身体が大きく泳いだと思ったとき、アスラが立ちあがり、のどをかきむしるのがみえた。そして、まるで抱きとめるように手をひろげ、光る|牙《きば》を、正面からうけとめた……。
そのあとは、ほんの一瞬だった。三人がかたまって、ななめむこうの木におち、すさまじい音をたてて、落下してきた。
バルサは必死にその木にむかったが、その木はほそすぎて、三人の重さにたえきれなかった。悲鳴のような音をたてて、木がさけ、たおれていく。
ふとい木が、その木をうけとめるかっこうになり、タンダたちの身体も、ふとい木にからまった。バルサはその木にとりついて、のぼりはじめた。
さけた木の枝がからまって、なかなかのぼれない。もがいているとき、だれかが下からのぼってくる音がきこえてきた。
「バルサ! きこえるか! いまいくぞ。」
スファルの声だった。鋭い短剣で枝を切りおとしながら、スファルがあがってくる。木の下には、マクルの姿もあった。
スファルと力をあわせて、バルサは、まずチキサとアスラを地上におろすためにはたらいた。ふたりは血まみれで、ぐったりと目をつぶっていたが、生死をたしかめる余裕もなかった。ぎしぎし音をたててゆれている木から、タンダの身体を地面におろすのはたいへんなことだった。
全身に傷をおっているバルサだけでなく、スファルやマクルまで、傷だらけのタンダたちを抱きおろすうちに、血まみれになっていた。
地面に横たわったタンダが、身うごきをしたときも、バルサは声もだせなかった。ただ、あらく息をついて、子どもたちのかたわらに、しゃがみこむと、その首に手をあてて、脈をさぐった。
脈はあった。――ふたりとも、脈だけは、たしかに打っていた。
バルサは、ぐったりとした小さなアスラの身体を、ふるえる手でかき|抱《だ》き、力いっぱい抱きしめた。うめくような声が、バルサの口からもれた。
[#改ページ]
終章 サラユの咲く|野辺《のべ》で
バルサは長いあいだ、闇のなかにいた。
ときおり、ゆれる光や、人の声をきいたような気がしたが、それも夢のなかにとけて、さだかではなかった。
すぐそばできこえた、耳なれない男の声に、警戒心が刺激されて、ようやく、なまぬるい闇の底から、もがきながらバルサはうきあがった。
目をあけると、風景がゆっくりとまわっていた。目をとじ、息をととのえてめまいがやむのを待っていると、
「……この人は、気づいたようですね。」
という声がきこえた。目をあけると、みしらぬ男がふたり、そばに立っていた。
「きこえるかね? もうだいじょうぶだ。わたしたちは、医術師だ。安心して、もうすこし眠るといい。」
「……ほ、かの……。」
舌がこわばって言葉にならなかったが、いいたいことは、伝わったらしい。
「だいじょうぶだよ。ほかの三人も生きている。さあ、眠りなさい。」
その声をきいて、緊張がゆるんだとたん、バルサは眠りにすいこまれていった。
だれかがささやく声で、バルサは、ふたたび深い眠りからうかびあがった。
あたりはうす暗く、かたわらに横たわっているタンダの姿が黒い影のように沈んでみえた。炉の、あわい光だけが、あたりをぼんやりとてらしている。
その暗がりに、ひとりの男が、こちらに背をむけてすわっていた。男は、低いロタ式の寝台に横たわっているアスラの、かたわらの椅子に腰をおろしているのだった。
男は、なれない、不器用なしぐさで、そっとアスラの髪をなでながら、語りかけていた。
「……そなたは、なぜ、わたしたちを殺さなかったのだ?」
低いが、よくひびく声だった。
バルサは、ふいに、その声の主がだれかをさとった。――イーハン王弟にちがいない。
アスラに問いかけるというより、自分に問いかけているように、イーハンは、しずかに話しかけていた。
「そなたの母を不幸にした、わたしたちを、心底、憎んでいただろうに。」
バルサは目をとじて、イーハンの声をきいていた。
「わたしは、そなたの母を心からたいせつに思っていたが、そのために王家の安泰をゆるがす気はなかった。あのころ、自分では、そんな自分の本心に気づいていなかったが、そなたの母は、みぬいていたのだろうな。」
イーハンは、吐息をついた。
「トリーシア、姿を消した、そなたの判断は正しかった。
もし、あのとき、わたしがむりにそなたを妻にしていたら、王家は、たいへんな危機におちいっていただろう。だれかが、かならず、子を産むまえに、そなたを殺そうとし……わたしは、きっと、それをとめることができなかっただろう。」
イーハンはだまりこみ、静けさのなかに、ぱたぱたと天幕の布が風にうたれる音が、ひびいていた。イーハンは、アスラの胸もとにまかれた包帯をみつめ、つぶやいた。
「ここに宿り木の輪がかかっていたのか。ひきちぎるのは、たいへんな痛みだったろうに。 なんという勇気だろう。おのが命をすてて、おそろしき神を封じるとは……。」
バルサは、はっと目をあげて、ゆっくり顔をうごかした。
イーハンが、おどろいてバルサをふりかえった。
「起きていたのか。」
バルサは、こわばっている舌をうごかした。
「アスラは……。」
イーハンは暗い顔で、じっとバルサをみつめた。
「息はしている。だが、スファルがいうには、身体のなかに、魂が感じられないそうだ。」
イーハンの声が、ふるえた。
「このおさなさで、なんと重い選択を、この子はしたことか……。」
バルサは目をとじた。どこまでもつづく闇がひろがっていた。
バルサとタンダ、そしてチキサは、ゆるやかに回復していった。祭儀場のわきの、天幕のなかで、ひっそりと彼らは身体をいやした。
きびしい冬が、ゆっくりと春にむかっていく。
スファルは、ときおり天幕にたちよっては、さまざまな話をしていった。ヨーサム王が帰国し、留守のあいだにおきた王国をゆるがす騒ぎの一部始終を、イーハンからきいたということ。イアヌの刑はまだ決まっていないこと、などを。
スファルの|眉間《みけん》には、いつみても、深いしわがきざまれていた。
スファルが帰っていくと、タンダがつぶやいた。
「シハナのことが、かたときも心からはなれないのだろうな。」
シハナはあの日、大混乱に乗じて、いつのまにか数人の仲間とともに姿を消してしまった。スファルの手の者が跡を追っているが、ようとして行方が知れないという。
「スファルにしてみれば、カシャルの頭のひとりとして、シハナをこのままにしてはおけないだろう。ロタ王家にしたって、タルの民を煽動したことをほうっておくわけにはいくまいし。
でもなぁ。たとえシハナをつかまえて、死刑にしたって、問題はのこったままなんだよな。
むしろ、傷をかくしていた|かさぶた《ヽヽヽヽ》がとれたようなもんで、これからがたいへんだよなぁ。」
スファルとともに、このロタにひそむ、無数のざわめきをみききしてきたタンダは、これから、この国がたどる道のむずかしさを思わずにはいられなかった。
「南部の領主たちと、王家の間の緊張も、消えたわけではないしな。
あのシハナのことだ。うまくスファルたちから逃げきれれば、いつか、イーハン王弟が危機におちいったときに、それをすくうという形で、いっきに表舞台にもどってくるかもしれない。
な、バルサ。そう思わないか?」
短剣をはさみこむ形の革帯の止め具をととのえていたバルサは、帯に視線をおとしたままで、つぶやいた。
「……そうだろうね。」
ややあって、バルサは、ピチンッと帯を鳴らすと、妹の横たわっている寝台のそばに、ぼうっとすわっているチキサに声をかけた。
「チキサ、ちょっと。」
チキサは、はっと顔をあげて、そばにきた。バルサが|革帯《かわおび》をさしだすと、チキサは、ふしぎそうな顔をした。
「これ……ぼくに?」
「そうだよ。旅のための荷物をみつくろってくれって、あんた、わたしにたのんだだろう?」
チキサは、うなずきながらも、まだよくわからないという顔をしていた。
「これも、|旅装《りょそう》のひとつさ。つけてごらん。」
バルサから帯をうけとると、チキサは、なれない手つきで腰にまいた。それから、短剣をうけとると、帯にはさみこんだ。
「重いかい?」
バルサに問われて、チキサは、かすかに上気した顔をほころばせ、首をふった。
バルサはすわったままで、そんなチキサの顔をみあげていった。
「タルの風習は知らないけれど、わたしの故郷では、短剣を帯びるのは一人前の大人になったしるしなんだ。」
チキサは、よろこびに顔を輝かせて、短剣の|鯉口《こいくち》をきると、ゆっくりと抜いた。
「ありがとうございます。――すごいや。」
白く光る刃を魅いられたようにみつめているチキサに、バルサがしずかにいった。
「カンバルではね、それを息子にわたす儀式のとき、父親がいう言葉があるんだよ。
剣の重みは、命の重み。その短剣は、そなたの生であり、死である。それを抜くときは、自分の命をその刃に託したものと覚悟せよ。」
笑みがゆっくりと消えて、チキサの目に、ためらうような色がうかんだ。
「ぼく、まだ、そんな、一人前じゃないから……この短剣をさげていいのかな……。」
バルサはほほえんだ。
「イーハン王弟殿下が保護してくださるとおっしゃったのに、あんたはそれをうけなかっただろ。妹をせおってでも、故郷をはなれて、二度とタルの民に会わずに生きていくと、きっぱり王弟殿下にもうしあげていた、あんたの顔をみて思ったんだ。もう短剣をさげていい年ごろだなってね。」
イーハン王弟との対面を思いだして、チキサのまなざしがゆれた。
「ぼくは、殿下のくださったお金も、かえしたいんだけど。」
「もらっとけ、もらっとけ。」
タンダが笑いながらいった。
「いつか、金を稼げるようになって、そのときもまだかえしたかったら、かえせばいいさ。」
バルサにもらった短剣の|柄《え》をさわりながら、チキサは、イーハン王弟のきびしい顔にうかんでいた、なんともいえぬ表情を思いだしていた。
のちに、イーハン王弟の顔さえうっすらとしか思いだせなくなっても、「すこやかに生きよ。」とだけいって、去っていった、その後ろ姿だけは、なぜか、チキサの思い出のなかに、あざやかにのこりつづけたのだった。
その年の春は、はやくおとずれた。
サーダ・タルハマヤがいなくても、異界からくる川は、しずかに、とうとうと流れ、地をうるおし、雪の野を、花がゆれる野へと変えていった。
春がきても、アスラは目ざめなかった。
アスラは、口に汁物を流しこめば飲みこんだが、なにもいわず、まぶたをむりに指でひらいてみても、その目に光はなかった。ただ、うつろな闇だけがあった。
「魂がないわけじゃない。」
何度か、魂にふれたタンダは、スファルはまちがっているといった。
「いるよ。たしかに。――だが、とてもふれにくい。……たぶん、自分をわすれようとしているからだろう。」
バルサは、よくアスラを春の野に抱いていった。一面に咲きはじめたサラユの、あわい|紅《べに》の花がゆれる野で、日が暮れるまで、アスラを抱いていた。
ある日、チキサがやってきて、バルサのわきに腰をおろした。しばらくアスラの髪をなでていたが、やがて、ぽつん、とつぶやいた。
「……アスラは、このままのほうが、いいのかもしれない。」
アスラから目をそらし、羊の群れが草をはんでいる景色をながめながら、チキサはいった。
「シンタダン牢城でアスラに殺された人たちは、目ざめたくても、二度と目ざめられないのだもの。人を殺したアスラは、目ざめないのが、正しいんじゃないだろうか。」
膝をかかえ、膝がしらに頭をつけて、チキサはくぐもった声でいった。
「だから、もういいよ。バルサ。……アスラを、死なせてやろうよ。」
バルサは、アスラを抱いて、木によりかかっていた。
この春にうまれた仔羊だろうか。バッタがはねるように、ぴょんぴょんはねている、小さな姿がみえた。生きるのが、うれしくてたまらないらしい。全身ではねている。
「……いま死なせるくらいなら、あのとき、手をださなかったよ。」
バルサは、手をのばして、チキサの髪の毛をくしゃくしゃっとこすった。
「チキサ、あんた、もうすこし妹を誇ってやりなよ。」
チキサが、おどろいて、バルサをみあげた。
「誇る……?」
バルサは、うなずいた。
「アスラは、とんでもないことを、やってのけたと思わないかい?」
チキサは、まばたきをした。
「この子は、どちらかというと、おくびょうで、こわがりだったよね。
それなのに、おそろしい神の力をつかえるようになって、憎しみを思うぞんぶんたたきつける快感を知っても、人を殺すまいと思った。それよりは、神をわが身に封じようとした。
……そんなこと、わたしには、とてもできないよ。」
かすかに、苦い笑みが唇にうかんだ。
「この子が、生きてはいけないなら、わたしなんぞ、とうに死んでなきゃならない。」
そういってから、バルサはかるく肩をすくめた。
「だけど、わたしの生き死にを、人にどうこういわせる気はないね。」
バルサは、チキサをみつめた。
「アスラが目ざめるかどうかは、アスラが決あることだよ。」
「でも、決めるっていっても……。」
「アスラの魂は、ここにいるよ。タンダがそういってた。」
バルサの目に笑みがひらめいた。
「あいつは、うそはつかない。アスラの魂は、ここにいるよ。ここにいて、目ざめるかどうするか、迷っている。……あんたみたいに考えているのかもしれないね。自分は、目ざめてはいけないと、思っているのかもしれない。」
バルサは、ほほえみをうかべたまま、緑の野にはねる仔羊をながめた。
「目ざめなよ、アスラ。生きるほうが、つらいかもしれないけれど。」
ささやくように、バルサはいった。
「自分が、生きていていいと、思えるようになるまでには、長くかかるけれど。
それでもさ……。」
風がわたってきて、草を、木々をゆらした。
「ほら、サラユの花がゆれてる。……みてごらん。」
闇のなかに、花の香りがただよってきた。
闇の彼方に、ぽつんと、針の穴のように小さな白い光がみえた。
春の香りが、そこからしのびこんできた。あわい|紅《べに》にゆれるサラユと、草のにおいだった。
[#地付き]〈帰還編おわり〉