神の守り人 来訪編
上橋菜穂子
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(例)|牢城《ろうじょう》
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目次
序章 シンタダン|牢城《ろうじょう》の虐殺
第一章 災いの子
1 秋の草市
2 〈青い手〉とみえない牙
3 不吉な子ら
4 月下の短槍
5 闇へかけゆく
第二章 逃げる獣 追う猟犬
1 鹿狩り
2 |老獪《ろうかい》な獣
3 鷹と猟犬
4 ロタルバルの悪夢
第三章 罠へとさそう手紙
1 |穢《けが》れた羊
2 花の衣
3 裏切り
終章 旅立ち
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登場人物紹介
バルサ……………女用心棒。|短槍《たんそう》使いの達人。
タンダ……………バルサのおさななじみ。薬草師。呪術師見習。
◆タルの民
アスラ……………タルの民。十二歳の少女。
チキサ……………アスラの兄。十四歳。
トリーシア………チキサとアスラの母。
◆ロタ王国
ヨーサム…………ロタ王。国民からの信頼が厚い。
イーハン…………ロタ王ヨーサムの弟。兄ヨーサムを敬愛している。
キーラン王………初代ロタ王。
アマン……………南部の大領主。
スーアン…………南部の大領主。
ニギリ……………北部の長老格の氏族長。
ラハン……………北部のヤーン氏族の若き長。
◆カシャル〈猟犬〉
スファル…………ロタの呪術師、薬草師。ロタ王のカシャル。
シハナ……………スファルの娘。カシャル。
マクルとカッハル…スファルの部下。カシャル。
◆|四路街《しろがい》の人びと
マーサ・サマド…サマド衣装店の初老の女主人。ヨゴ人。
トウノ……………マーサの息子。昔、バルサに助けられたことがある。
タチヤ……………護衛の|口入《くちい》れ屋。
ジャノン…………用心棒志願の男。
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まめ知識
▼クルン…………ロタ語で時間の単位。
▼ダン……………ヨゴ語で時間の単位。
▼タアルズ………遊戯盤を使う競技。
▼タルハマヤ〈おそろしき神〉…恵みをもたらす神アファールの|鬼子《おにご》。
▼ノユーク〈聖なる世界〉…異界。神がみの世界。
▼ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉…ノユークの目に見えない川。恵みを与える反面、タルハマヤが流れにのってくる災厄を秘めている。
▼ピクヤ〈神の苔〉…タルハマヤをまつる神殿に生える苔。聖なる川が流れてくると輝くと伝えられる。
▼サーダ・タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉…太古ロタルバルで、絶大な力を持ち、恐怖で全土を支配していた者。
▼タル・クマーダ〈|陰《かげ》の司祭〉…アファール|神《しん》に仕え、タルハマヤの来訪をふせぐためにその一生を捧げる。
▼ラマウ〈仕える者〉…十四歳でラマウ〈仕える者〉になる。四十の年にタル・クマーダになる。
▼チャマウ〈神を招く者〉…タルハマヤをその身に招く者。
▼マラル…………果実酒。
▼マハン…………白い毛の羊。
▼シャハン………茶色い毛の羊。北部の氏族の間では穢れた羊とされる。
▼チャツ…………しびれ薬。
▼ラ………………|乳《ちち》。もしくはバター。
▼ハチャル………キノコの一種。あげものにするとおいしい。
▼タジャム………ヤクー語。木の根の一種。呪術に使う。
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序章 シンタダン|牢城《ろうじょう》の虐殺
月が、大地に|霜《しも》のような光をおとしている。
そのあわい光の霜をふみちらして、騎馬の武人たちがかけぬけていく。彼らが左手にかかげている松明の火が、|残光《ざんこう》の尾を闇にのこしていた。
小高い丘をのぼりきったとき、彼らは眼下に、ぼうっと輪になった明かりをみた。シンタダン牢城だ。牢城の周囲にはりめぐらされた高い防壁の上には、点々とかがり火が燃えていたが、防壁の上を巡回しているはずの兵士がもつ松明のうごきは、まったくみえなかった。
防壁の内側には、三つの|牢館《ろうかん》がみえる。それぞれの牢館の窓からも明かりがもれている。
「……まったく、うごくものがみえませんね。」
はやるように足踏みをしている馬を、|手綱《たづな》をしぼっておさえながら、若い武人が、先頭にたっている武人に声をかけた。先頭の武人の馬は、ぴたっと静止したまま、彫像のように眼下の牢城をみおろしている。先頭の武人が、口をひらいた。
「みえぬな、たしかに。――シンタダン牢城から、敵襲を知らせる赤首輪の鳩が到着して、まだ半クルン(約三十分)にしかならぬのに、この静まり方は、げせぬ。……見張り犬の吠え声すらきこえぬ。」
ぶこつな半球形の兜の下から、武人はじっと牢城をみつめていた。革の胴鎧をまとい、背には短弓をせおっている。腰におびた刀の|柄《え》には、青い染め糸の|房《ふさ》に、隊長のしるしである金糸がまじっていた。
「……|二手《ふたて》にわかれるぞ。シュルダからドウルムまではおれとこい。正門から、なかへはいる。のこりの者たちは、われらの二十|馬身《ばしん》背後に待機せよ。われらに異状がおこったときは、援護にはまわらず、いそぎ、われらがマカル城塞に知らせるのだ。
敵が、いずれの手勢かはわからぬが、すでに牢城を制圧して、罠をはっているかもしれぬ。くれぐれも油断するな!」
腹にひびく声で、彼が背後に扇形にひろがっている騎馬兵によびかけると、騎馬兵たちが、ふとい声で応じた。
丘をくだりながら、彼らは胸のなかに不安がうごめくのを感じていた。――〈敵〉とは、いったい、どこの手勢なのだろう? 同族の囚人を脱獄させるために、どこかの氏族がおそったのか? しかし、王の名のもとに収監されている囚人を脱獄させるということは、王への反逆を意味する。シンタダンは辺境の小さな牢城で、囚人は下層民ばかりだ。氏族全体をほろぼしてもたすけたいほどに、重要な人物が囚人になっているという時は、きいたことがない。
ここは新ヨゴ|皇国《おうこく》の国境にちかい。だが、新ヨゴ|皇国《おうこく》とロタ王国は友好関係にあるし、いくさをきらうヨゴ人が、こんなふうに、いきなり小さな牢城をおそうとも思えない。
騎馬兵たちは、平地におりたつと、それぞれ刀をぬきはなった。左手に松明、右手に刀をもちながら、脚だけで、みごとに馬を|御《ぎょ》していく。
そそりたつ防壁には、敵がはしごをかけた跡もなく、ただ、しずまりかえっていた。深い堀にかけられた橋がみえてきたとき、騎馬兵たちは、眉をひそめた。
まるで昼間のように跳ね橋がおりて、正門がひらいている。正門のむこうには、かがり火の明かりが、ぼうっとだいだい色に牢館の壁をうかびあがらせていた。
「……あっ。」
騎馬兵のひとりが息をのんで、あわてて馬の手綱をひいた。そして、地面にとびおりて、なにか黒いかたまりの上にかがみこむと、すぐに、身体をねじって仲間をふりあおいだ。
「兵士が死んでいる!」
隊長がその死体のわきにおりたち、松明で死体をてらした。松明の明かりにうかびあがった死体をみて、隊長はぎゅっと顔をしかめた。
「……なんと、これは。」
うつぶせにたおれている死体は血まみれだったが、刀傷も矢傷もなく、ただ、うなじがざっくりとけずられていた。
「狼のかみ傷のようだな。」
隊長がそうつぶやいたとき、わきのほうで、もうひとり、兵士が声をあげた。
「ここにも死体があります!」
こちらも、おなじように、うつぶせにたおれ、うなじをかみさかれていた。ふたつの死体が、掘のほうから頭をこちらへむけてたおれていることに、騎馬兵たちは気づきはじめた。
隊長は、ぼうぜんと牢城の正門をみやった。
「……この兵士たちは、狼に追われて防壁の内側に逃げこもうとしたのではなくて、牢城から逃げてきて、ここで追いつかれたのか? まさか。それでは、狼の群れが、牢城のなかにいたことになる。」
ゆっくりと牢城にむかってうごきはじめた彼らは、やがて、牢城のなかで、すさまじい光景を目にすることになった。
ものいわぬ|骸《むくろ》が、点々とちらばっている。囚人も看守兵も、みな、おなじように、うなじか、のどをかみさかれて死んでいた。
この牢城のなかで、生きのびた者は、牢館のなかにいた看守や、牢につながれていた囚人たち、そして、下水溝のなかにもぐりこんでいた犬くらいのものだった。
騎馬の足音がしても、生きのこった者たちがむかえにでてくるようすはなかった。おびえきった彼らは、牢館の外にでてくる勇気さえもてなかったのだ。
騎馬兵たちは、氷水をかぶったようにふるえながら、しずまりかえっている牢城のなかを、無言で歩きまわった。狼の影すらなく、壁の内側にならぶ囚人たちの作業場では、|平台《ひらだい》に作業とちゅうの細工物などをならべたままだった。狼の群れがおそったのなら、いったいなぜ、平台の上に積まれた細工物がくずれていないのか……。
騎馬兵たちは、ゆっくりとみてまわるにつれて、これが、狼のしわざとは、とても思えなくなっていた。
「……隊長、これをみてください!」
騎馬兵が、おどろきの声をあげた。彼が指さしているのは、罪人をさらし者にして処刑する木製の台のへりだった。かたい|樫材《かしざい》の台が、まるで、やわらかいラ(バター)をすくいとった跡のように、ざっくりとけずられている。
「いったい、どうやって……こんなことが……。」
いったん、その異常なけずれ跡に気づくと、それまで気づかなかった、いくつもの跡がみえはじめた。なんと、がっちりと石で組まれた城壁にまで、巨大な獣が一本の爪でけずっていったような跡がついていた。
やがて、彼らは、たったひとつだけ、獣にかみさかれたのではない死体をみつけた。
それは、広場で処刑された女の死体だった。
いちだん高くなっている処刑場にのぼり、処刑された骸のわきに立って、あたりをみまわしたとたん、隊長は、声をうしなった。
ここで、なにかがおこったのだ。――ここに巨人が立って、すさまじく巨大な|大鎌《おおがま》をふるったかのように、この場を中心にして死体が放射状にちらばっているのが、はっきりとわかった。
隊長は豪胆な男だったが、膝がふるえるのをどうしてもおさえられなかった。
(これは、狼の群れのしわざではない。これが、悪夢でないならば、わたしはいま、なにをみているのだろう……。)
月の光が霜のように、息をしなくなった人びとの上をおおっていた。
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第一章 災いの子
1 秋の草市
その|薬問屋《くすりどんや》のなかはうす暗く、一歩なかへ足をふみいれると、外のにぎわいや、秋らしい、すきとおった明るさからきりはなされて、薬壺のなかへでもおちこんだような気分になった。
バルサは、すたすたと奥へ歩いていくタンダのあとについて、ゆっくりと店内を歩きながら、両わきの棚におかれた無数の薬草の束と、天井からつるされている、乾燥とちゅうの葉がかもしだすにおいに、顔をしかめていた。
店の奥には大きな平台があって、そのむこう側に店主らしい中年の男がすわり、こちら側には、数人の旅姿の男女がたたずんでいる。うしろからみただけでも、ヨゴ人だけでなく、ロタやサンガルの商人もいるのがわかった。タンダは、肩から斜めがけにしていた|頭陀袋《ずだぶくろ》をはずしながら、その商人の群れにくわわっていった。
この店の外には、都西街道ぞいに、たくさんの露店がたちならんでいる。そのすべてが、薬効のあるキノコや、めずらしい薬草などの、|草《くさ》ものをあつかっている露店だった。
〈ヨゴの|草市《くさいち》〉は、晩秋のこの時期だけたって、わずか三日でおわってしまう。それでも、この市をめあてに隣国から、この新ヨゴ|皇国《おうこく》の国境の宿場町まで足をのばしてくる商人たちで、なかなかに、にぎわっていた。
笛の音と、軽快な太鼓の音がひびきはじめ、手拍子と人びとの笑い声がきこえてきた。その笛の調べには、ふしぎななつかしさがあり、バルサは、手にもった短槍を、調べにあわせて、そっとゆらしながら耳をかたむけた。
草市にいきたいから、つきあってくれよ――と、おさななじみの薬草師タンダにたのまれて、バルサはここにやってきた。
初夏に大けがをしたタンダが、完全に回復するまでいっしょにいてやりたいと思って、バルサはひさしぶりに、夏から秋にかけて、のんびりと、タンダや、その呪術の師匠である大呪術師トロガイと、|青霧《あおぎり》山脈の山ふところにいだかれた小さな家ですごしたのだった。
バルサは女ながら、用心棒を稼業としている。三十をいくつかすぎたこの年になると、そろそろべつの仕事を考えるべきかと、この数か月考えていたが、どうも、この稼業しか、生きるすべを思いえがけなかった。
秋がおとずれ、山やまが錦をまとうころになると、どこかへ流れていきたい、という|旅心《たびごころ》が胸にわきたった。――それを察したのだろうか。タンダは、|青霧《あおぎり》山脈から徒歩で十日はかかる都西街道の宿場町にたつ〈草市〉へ、つきあってくれとたのんだのだった。
タンダ自身は、毎年、かかさずこの市をおとずれている。|青霧《あおぎり》山脈の、自分の家の周囲でとれる薬草をたんねんに乾燥させ、あるいは、すりつぶしてべつの薬草と調合してつくった自家製の薬を売り、異国からもたらされる薬を買ってかえるのだ。
店内にこもっている薬草のにおいにたえきれなくなって、バルサは、戸口のそばにもどった。何種類もの薬草のにおいがまじりあった店内のにおいよりは、馬の汗や土ぼこりのにおいのほうが、まだたえられる。
戸口にたたずんでいると、往来する商人たちの会話が、さざ波のようによせては消えていく。ヨゴ語だけでなく、この市のすぐむこうに国境を接しているロタ王国の言葉やら、バルサの故郷のカンバル語やら、南のサンガル語まできこえてくる。
バルサは、これまで、さまざまな国を旅してきたから、これらの言葉は、きけばどこの言葉かはすぐにわかったし、ロタ語などは、故郷のカンバルの言葉によく似ているので、不自由なく話すことができた。
ぼんやり人の往来をながめているバルサの横を、ロタの商人たちがとおりすぎた。ふたりの商人が、十三、四歳ほどの少年と、その妹らしい少女をはさんで歩いていく。
兄も妹も、はっと目をひくほど、うつくしい顔だちをしていたが、ふたりとも痛いたしいほどやせている。とくに妹のほうは血の気がなく、まるで火が消えたロウソクのように、うつろな顔をしていた。
その少女が、小石にでもつまずいたのか、ちょっとよろけると、かたわらを歩いている商人が、舌うちをした。
「……しっかり歩け、シャットイ〈野良犬〉。」
バルサは顔をしかめた。――シャットイ〈野良犬〉というロタ語には、いやな思い出があったからだ。
十歳ぐらいのころ、養父のジグロが、ロタの商人の用心棒をしていたことがある。そのとき、その雇い主の息子が、なにかというと、バルサを「シャットイ」とよんで、からかったのだ。
ロタ人はカンバル人とおなじように氏族を重んじ、どこの氏族にも属さぬ流れ者を軽蔑する。……まあ、いま考えると、あのころのバルサは、たしかに、みすぼらしい姿をしていた。
ジグロは、バルサが腹をすかすことがないように、食べ物には気をつかってくれたが、女の子の髪型や服装などには、うとかったから、服はいつも二枚しかなくて、色があせて、あちこち穴があくようになってはじめて、もう一着服がいるな、と気づくのだった。
もっとも、バルサが服をねだれば、ジグロも買ってくれたはずだ。けれど、バルサは自分が女の子だなどということは、当時まったく頭になかった。頭にあるのは、いっこくもはやく、ジグロとおなじくらい強くなって、父の|仇《あだ》を討ちたいという、はげしい願いだけだった。
胸の底に、いつも怒りが煮えたぎっていた。……その怒りに身をまかせてはいけないと思い知ったのも、「シャットイ」という言葉がきっかけだった。
商人の息子は、たぶん十四くらいだったのではないか。もう大人くらいの背丈があった。なぜ、あれほどバルサを目の敵にしたのかわからないが、ことあるごとにバルサをからかい、しつこくいじめた。雇い主の息子といさかいをおこしてはいけないことは、おさないバルサにもわかっていたから、心にふたをして、そこに彼がいないかのように無視することで、なんとかやりすごしていた。
だが、ある日、ひとつの事件がおきた。――追手が、ジグロとバルサをみつけたのだ。
バルサのほんとうの父カルナは、カンバル王の主治医だったが、王位をねらう|王弟《おうてい》ログサムに、王の毒殺を命じられた。もし拒めば、カルナの命だけでなく、おさない娘バルサの命もない。その苦境のなかで、カルナは、親友のジグロに、バルサをつれて逃げてくれるようにたのんだのだった。
ジグロは、〈王の槍〉というカンバル最強の武人集団のひとりとして尊敬されていた。王宮での地位も高かった。――だが、血をはくような親友のたのみに、ジグロは、それまでの人生のすべてをすてて、バルサをつれて逃げてくれたのだった。
どこへ逃げても、追手はやってきた。……ジグロは強かった。追手のだれよりも。
けれど、追手となっていたのは、〈王の槍〉として、深い絆でむすばれていたかつての友であり、彼らを殺すことは、ジグロにとっては、すさまじくつらいことだったのだ。
バルサはおさないころでも、追手を殺したときのジグロのかなしみは、いつも感じていた。
その日も、おそろしい闘いのはてに友を殺したジグロは、日暮れまでかかって、草原に友を埋葬した。殺した友を埋葬しているあいだ、ジグロは無言だった。血のにおいと、死闘をまのあたりにした恐怖にぶるぶるふるえながら、すこしはなれて立っているバルサに、目をやることもなかった。……そんなとき、バルサは、自分が、たよりない煙のように消えてなくなっていくような、さびしさを感じた。
埋葬しおえると、ジグロは、血まみれの|上衣《うわごろも》をぬいで、まるめてもった。そして、むっつりとおしだまったまま歩きはじめ、当時宿舎としてわりあてられていた商人の館の、裏庭の小屋につくと、なかにはいって戸を後ろ手にしめてしまった。
バルサは小屋の外にぽつんと立って、しめられた戸をみつめていた。その戸に、裏庭にたくさんはえていた、シャラの木の影がうつっていたのを、はっきりとおぼえている。ほそい枝の影がゆれるのをみながら、ジグロのかなしみを思い無視されている自分のかなしみをもてあましていた。
そんなときに、商人の息子がとおりかかったのだ。彼も、なにか気にいらないことでもあったのだろう。ぼんやりとつっ立っているバルサの背後に立って、いつものように、ののしりながら、つばをはきかけたのだった。
「シャットイ、おまえ、くさいぞ! 裏庭がくさくなるから、小屋にはいってろ。」
あれは、思いきり人をなぐり、たたきのめした、はじめての記憶だった。短槍が、そのとき手もとになかったことが、たったひとつの幸運だった。でなければ、バルサは、その少年をさし殺していただろう。
怒りに身をまかすのは、たまらなく心地よかった。バルサは、いきなり少年の膝をけり、たおれた少年に馬乗りになって、顔が血みどろになるまでなぐりつづけた。
少年の歯がこぶしにあたって、こぶしが切れたのさえ気づかないほど、バルサは興奮していた。まさに、野良犬のようにうなり声をあげて、少年の顔をなぐりつづけた。
背後から襟首をつかまれた瞬間、バルサは、獣のように身をねじってはねあがり、その手にかみつこうとしたが、あっさり投げとばされて地面にたたきつけられた。
ジグロは右手で、バルサののどをぎゅっとおさえ、地面にはりつけてしまった。
「……おまえは、ののしられたくらいで、人を殺すつもりか。」
ジグロの声は怒りにかすれ、それまでみたことがないほどに、すさまじい|形相《ぎょうそう》をしていた。興奮がいっきにさめて、バルサは恐怖にちぢみあがった。
武術をおしえてくれるとき、ジグロは容赦なくバルサをたたきのめしたが、それ以外のときに、ジグロに怒られたことはなかった。だから、ほんとうに、こわかった。バルサはおびえきって、ジグロをみあげていた。
あのときのジグロの気もちを思うと、たまらなくなる。むごいことをしたものだ。まだおさない娘が、怒りの快感に酔いながら血まみれのこぶしで人をなぐりつけている光景を、ジグロは、どんな思いでみたのだろう……。
バルサは、店のまえをいきすぎていく四人を、じっとみつめていた。
シャットイ、とののしられたおさない妹の腕を、兄がかばうようにささえて歩いていく。その目にうかんでいる光がバルサの胸につきささり、にぶい痛みをのこした。
その姿が、人ごみにまぎれて消えていくのを目で追っていたバルサは、ぽん、と肩をたたかれて、われにかえった。いつのまにか、タンダがそばに立っていた。
「……どうした。こわい顔をして。」
おさななじみのおだやかな顔をみたとたん、こわばっていた気もちが、すこしほぐれた。
「べつに。――薬草は全部売れたのかい?」
「おお、売れたぞ。けっこう、いい値で買ってくれたよ。」
バルサは、ほほえんだ。
「そりゃよかった。」
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2 〈青い手〉とみえない牙
|草市《くさいち》がたっている宿場町には、よい温泉がわいている。その湯につかるのも、この市にやってきた人びとのたのしみだった。
街道ぞいにたちならぶ宿屋は、それぞれ玄関の軒さきに、剣のしるしやら馬のしるしやらをそめぬいた旗をたてている。風にはためいているそれらの旗をみれば、旅人は、宿の客層を知ることができる。宿屋は、ただ泊まるだけの場ではなく、おなじ商売をする者がであう場でもあった。
バルサとタンダは、宿屋のなかでも、もっとも山ぎわにはずれてぽつんとたっている宿に、市につくとすぐに荷をおろし、今夜の泊まりを約束していた。ここは、旅芸人や、呪術師など、つねに流れ暮らしている者が多く泊まる宿だった。
入り口をはいると、広い半円形のたたきに、猿がちょこんとすわっていた。赤い布の首輪をしているところをみると、旅芸人の猿なのだろう。つながれてはいないのに、おとなしくすわっている。
「お、かわいいやつがいるなぁ。」
タンダの顔に笑みがひろがった。タンダは獣やら虫やらが大好きなのだ。獣のほうでも、そういう人はわかるのか、こずるそうな顔をしている猿が、ひっかきもせずに、うれしそうに頭をなでられている。
こういうときのタンダの顔は、とても三十の男にはみえない。バルサは、ため息をついて、上がりがまちに腰をおろし、履き物をぬいだ。すぐに宿屋の使い女が足すすぎをもってきてくれたが、いかにも温泉を売りものにする宿らしく、足すすぎは、水ではなくて、あたたかいお湯だった。
「おかえりなさいませ。|夕餉《ゆうげ》は、こちらでなさいますか?」
使い女にきかれて、バルサはタンダに声をかけた。
「どうする?」
タンダは、猿の頭を最後にひとなでしてやって立ちあがった。そして、使い女に会釈した。
「やあ、トマさん、また世話になります。……今日は、ハチャル(キノコの一種)の揚げ物は、ありますか?」
トマは、にこにこと会釈をかえした。
「タンダさん、よくおこしくださいましたね。ええ、ええ。ハチャルの揚げ物はできますよ。」
「じゃあ、ここで食べようや、な? ここの料理はうまいんだぜ。」
さきに湯につかって、旅のよごれをおとし、さっぱりしたふたりは、渡り廊下をとおって、|食事所《しょくじどころ》へむかった。厨房と食事所は火をつかうので、ほかの建物とはすこしはなれているのだった。
日はとうに暮れおちて、渡り廊下を歩いていると、秋風の冷たさが湯あがりの身体に心地よかったが、食事所は三つの|掘炉《ほりろ》に火がはいっていて、煙と人いきれで、むっとしていた。
食卓は、炉をかこむようにしつらえられていて、すでに、さまざまな国の衣をまとった旅人たちが、食事をはじめていた。
どこにすわろうかとみまわしたとき、壁ぎわの食卓にすわっていた中年の男が、さっと手をあげた。
「……おおい! タンダさんじゃないか。」
よびかけてきた男をみて、タンダの顔が輝いた。
「スファルさん!」
タンダはバルサをふりかえった。
「ロタの呪術師だよ。いい人でね、トロガイ師について修行の旅をしているときに知りあったんだ。トロガイ師も|一目《いちもく》おいている。彼といっしょに飯を食おうや。」
バルサはうなずいて、歩きだしたタンダのあとについていった。
スファルは席から立ちあがって、ふたりをむかえてくれた。スファルの左肩には、マロという種類の鷹がとまっていた。大人のこぶしほどの小さな鷹だ。スファルが立ちあがっても、彫像のようにうごかなかったが、鋭い目がくるっと光った。この鳥は|夜目《よめ》がきかないはずだが、すこしはみえているのかもしれない。まるで観察するように、タンダとバルサをみつめている。
スファルは、小柄な男だった。女のバルサと背丈が、ほとんどおなじくらいだった。その動作をみて、バルサは、彼が、なにか武術を身につけていると感じた。
五十代だろうか。みじかく刈りこんだ髪にもひげにも白いものがまじっているが、うす茶色の瞳は底につよい光をひめていた。
スファルとタンダは、ロタ風に手首をにぎりあって挨拶をかわした。
「おひさしぶりです、スファルさん。こんなところで会えるなんて、うれしいな。」
スファルはほほえんでタンダに挨拶をかえしたが、タンダと、うしろにたたずんでいるバルサとの関係をはかりかねているようだった。
ふつうならタンダの妻か恋人だと思うところだろうが、バルサがスファルに武人のにおいを感じたように、彼もまた、バルサにおなじにおいを感じたのだろう。
スファルの表情に気づいて、タンダはいった。
「スファルさん、おれのおさななじみのバルサです。用心棒を稼業にしていましてね、短槍の使い手ですよ。」
スファルは、はっと目をみひらいた。そして、流暢なヨゴ語でいった。
「……〈短槍使いのバルサ〉。あなたが、チャグム皇太子をすくったという女用心棒か!
これはこれは、なんという幸運だ。あれは、呪術師にとっては、興味深いできごとだった。わたしは歌語りできいただけだが、今夜は、ぜひ、くわしい話をきかせていただきたい。」
かつて、バルサは、タンダやトロガイにたすけられながら、この新ヨゴ|皇国《おうこく》の皇太子の命をすくったことがある。皇太子チャグムは、ナユグという異界の精霊に卵をうみつけられ、卵を食う魔物と、息子を|穢《けが》れた者として抹殺しようとする帝から、命をねらわれていたのだった。
おいしい夕餉を食べながら、三人の会話はよくはずんだ。おもに話しているのはタンダで、バルサは、ときどき話にくわわる程度だったが、おかげで、スファルをゆっくり観察することができた。
スファルは、底のみえない男だった。もっとも、呪術師はみな、ひとくせも、ふたくせもあるのがふつうで、そうでなければ、人の心の暗闇にかかわる術をあやつれはしない。スファルには、陰湿さはまったくなかったが、ときおりなげかけてくる問いの鋭さが、この男の頭の切れ味をしめしていた。
夕餉がおわっても、三人は、マラルという果実酒をかたむけながら話をつづけた。
話題は、いつしか、ついさきごろロタ王国でおきた、奇怪なできごとの話になっていた。敵襲を知らせてきてから、援軍が到着するまでの、わずか半クルン(約三十分)で、囚人と看守兵の別なく虐殺されたというシンタダン牢城のおそろしい話だった。
「半クルンというと、半ダンくらいか。それで、おそった敵の姿さえなかったとは……。」
タンダがつぶやくと、スファルは杯をほして、コトン、と卓上においた。
「わたしは、そのとき、偶然シンタダンのそばのマカル城塞にいた。援軍にむかった騎馬隊は、みな豪胆な武人だったのだが、マカル城塞にもどってきたときは、骨まで凍えたような顔をしていたよ。
わたしは、すぐにシンタダン牢城にむかったのだが……あれは、あの光景は……。」
スファルは、無意識に|杯《さかずき》をもてあそびながら、ささやくようにいった。
「この世のものとは、思えなかった。はじめは、狼のしわざにみえたが……傷口などからね……しかし、すぐに、これは、この世のもののしわざではないと、確信した。」
そういって、スファルは、なにやら呪術の技の話をしはじめた。なんとかの術をつかって、犬の目にやきついた光景をみたとか、そんな話だった。タンダにはよくわかるらしく、身をのりだしてきいていたが、バルサには、長ったらしい名前の呪術の技など、とんとわからなかったので、すこし気がそれてしまった。
室内には、食事をしている人の姿はまばらになっていたが、まだ、バルサたちのように酒を飲んでいる者たちが、いくつかかたまってのこっている。
みるともなく室内に目をやっていたバルサは、むこう側のすみにすわっている四人の男に、目をとめた。――いやなにおいでもかいだように、バルサはかすかに顔をゆがめた。
こちらをむいてすわっているふたりは、昼間、やせこけた少女を「シャットイ」とののしっていた、あの商人だった。バルサが顔をしかめたのは、その商人たちが、頭をよせるようにして話している相手にも、見おぼえがあったからだ。
(……あいつらは、〈青い手〉だ。)
用心棒稼業をしていると、裏の世間にいやでもくわしくなる。きたない商売に手をそめている男たちの顔も自然とみおぼえるようになる。横顔がみえているあの男は、たしかにヨゴ人の人身売買組織〈青い手〉の一員だった。数年まえには、都で|はば《ヽヽ》をきかせていた男だ。
新ヨゴ|皇国《おうこく》では、人を売り買いすることを禁じている。しかし、実際には、金にこまって子どもを売る者はあとをたたず、他人の子どもをさらって〈青い手〉に売る者もいた。ときには、隣国から商人たちが、賃稼ぎのために子どもを売りにくることもある。
昼間みた、あの少女のうつくしい顔だちを思いだし、バルサは胸の底が重くなるのを感じていた。
ひとごとだ。売られる子は、おおぜいいる。――そう思ったが、いったん気になってしまうと、あの娘がこのさきおとされる闇を思わずにはいられなかった。
部屋のむこう側で、男たちが、|杯《さかずき》をおいて立ちあがった。
「……ちょっと、ごめんよ。」
バルサは、話しこんでいるタンダたちをのこして、席を立った。
チキサは、血の気のない妹の冷たい手を、いっしょうけんめいさすっていた。
あの商人たちは、ここ数日、かなりたっぷりと食べ物を食べさせてくれたし、今夜も、これまで食べたことがないほど、おいしい料理を食べさせてくれた。これほど肉や油をつかった料理は食べたことがなかったので、腹がもたれてくるしいほどだ。
腹が重苦しいのは、食べ物のせいだけではない。あの商人たちが、なにを考えているか、チキサには手にとるようにわかっていたからだ。
やつらは、アスラを売ろうとしている。自分たちの奴隷にするためにひろったのではなくて、アスラのきれいな顔だちをみて、商品にすることを思いついたのだろう。
もともと、この市に用事があったのだろうが、国境を越えて、新ヨゴ|皇国《おうこく》へはいれば、ヨゴ人は、チキサたち〈タルの|民《たみ》〉に、ロタ人のように、とくべつな思いを感じることもないから、高く売れるとふんだのだ。
あの商人たちにひろわれたときから、こうなることはわかっていた。けれど、あのときは、とにかく、あの場から逃げられればよかった。あのまま、あそこにいたら、野たれ死ぬか、ロタ兵につかまっていただろう。
母さんが処刑された瞬間が目の奥にひらめいて、胸がさけるように痛んだ。チキサは歯をくいしばって、その痛みにたえた。
いまは、母さんのことを思って泣いているひまはない。妹のアスラのことを考えてやらねば……。
なぜ、こんなおそろしいことになってしまったのだろう? 母さんは、なぜ、アスラにあんなことをしたのだろう? なぜ、あんなおそろしい、罰当たりなことを……。
チキサは、目を異様に光らせてアスラの頭をなでていた母さんの表情を思いだして、身をふるわせた。
[#ここから3字下げ]
――おそれないでいいのよ。まちがっているのは、ほかの人たちのほうなのだから。
まぶしすぎる光は、人の目をくらませる。光をみているのに、闇をみていると思いこむ。それとおなじよ。……ほかの人がまちがっていたのよ。
[#ここで字下げ終わり]
母さんは、くりかえしそうつぶやき、アスラも信じていたようだけれど、チキサは、どうしても、母さんの言葉を信じられなかった。
ましてや、アスラがもたらした、すさまじい悲劇をまのあたりにしてしまってからは、信じられるはずもなかった。
あれから、アスラはひとことも口をきいていない。食べ物を口にはこんであげれば食べるし、|厠《かわや》にも自分でいく。夜になれば眠るし、朝になれば目をさます。――けれど、まるで眠ったままうごいているように、話すことも、チキサをみることもないのだ。
ときどき、チキサがにぎってやっている手をにぎりかえすことがあるから、魂は身のうちにいるのだろうけど……。
かわいそうなアスラ。よくからかったり、けんかしたけれど、いまは、妹があわれでならなかった。
母は死に、もう、帰るところもない。
五年まえ、罠猟師だった父のマッカラが、狼の群れに殺されるまでは、父と母と、アスラと、みんなで、ふつうに暮らしていたのに、いまは、妹とふたりきりになってしまった。
アスラをまもれるのはチキサだけだ。けれど、チキサはあまりにも無力だった。
(これから、どうなるのだろう。)
自分が、もうすこし大人だったら、妹をつれて逃げて、生きのびられたのに。なにか、ほかの道を思いつけたかもしれないのに。
そのとき、部屋の外から商人たちの声がきこえてきて、戸の鍵をあける音がひびいた。商人たちだけでなく、こわい目をした、ふたりの男がはいってくるのをみて、チキサは、おそれていたときがおとずれたことを知った。
「……いかがですか?」
ロタ人の商人が、ヨゴ人をふりかえった。ヨゴ人は、のどの奥でうなるような声をだして、チキサとアスラにちかづいてきた。そして、ゆっくりとかがむと、手をのばしてアスラのあごをもちあげた。チキサがその手をはらおうとすると、男はチキサをみもせずに、いきなり、こぶしでなぐりつけた。
チキサは後頭部を壁にたたきつけられた。おん……という音が頭のなかでひびき、目のまえが暗くなった。
人形のようにうつろだったアスラの顔が、そのとき、ふいにゆがんだ。
アスラは、これまでずっと、半分眠っていた。うす暗くしずかな、せせらぎのなかにいて、その、なめらかな水面ごしに、兄の顔や、外の景色をぼんやりとみていた。
それが、兄のうめきをきいた瞬間、心の底でなにかがうごめき、流れにはじきだされるようにして、目が、はっきりとさめた。
みしらぬ男の顔が目のまえにあった。なめるように自分の顔をみている、その目は、とてもおそろしかった。
「……ふん。まあ、銀三枚というところだな。」
男がつぶやくと、うしろに立っていたロタ人の商人が笑いだした。
「いや、そういう駆け引きはなしにしましょうや。さっきお話ししたでしょう。こういう、顔だちのきれいな娘を集めるすべを、わたしらは知っているんですよ。これから、長いおつきあいをするんですから、言い値でお願いしますよ。」
すると、こわい目をした男は立ちあがって、商人をふりかえった。動作がゆっくりしているのが、かえっておそろしかった。
「銀三枚だ。顔色がわるすぎる。いくら|見場《みば》がいい娘でも、すぐに死ねば、|もと《ヽヽ》もとれない。」
商人は、むっとした顔でおしだまったが、すぐにチキサを指さした。
「じゃあ、その兄のほうもつけましょう。金一枚という最初のお話をまもってくださいよ。」
こわい目をした男は、まばたきもせずに腰の刀に手をやった。
「やせこけたガキなどいらん。これ以上ごねるなら、金ではなくて|刃《やいば》を懐にくれてやるぞ。」
アスラは、彼らのやりとりをきくうちに、ようやく、いま、なにがおきているのかさとって、目をみひらいた。――この男たちは、自分たちを売り買いする話をしている……!
チキサは、なかば気をうしなっていた。商人たちの声も、かすかにしかきこえていなかった。ロタの商人たちがぼそぼそと相談し、あきらめて銀三枚をもらったころ、なんとか、物がみえるようになった。頭が割れるように痛い。なぐられた鼻が大きくふくれあがって息苦しく、チキサは口をあけて息をすった。
アスラは、兄のうめき声をきいて、あわてて兄をふりかえった。
「お兄ちゃん……。」
ヨゴ人の男がアスラの腕をつかんだ。アスラは鳥のような悲鳴をあげて、チキサにしがみつこうとした。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
チキサは、必死で妹の手をつかんでひきよせようとしたが、もうひとりのヨゴ人の男が、むぞうさにチキサの腹をけってつきたおした。
アスラの胸の底で、なにかが、ぐる……っとうごめいた。
(お兄ちゃんを、けった……!)
アスラは、のどの奥で泣き声をたてはじめた。
こわい、という思いと、憎い、という思いとで、全身が燃えるように熱くなっていく。胸の底が、煮えたぎっているようだ。そこから、熱いものが、のどへとつきあげてくる。
闇のむこうから、光がさしたような気がした。アスラは、闇のはてから、自分の身体の奥底へと流れこむ〈川〉の音を全身できいていた。〈川〉の音がどんどん大きくなる。恐怖と怒りにおされて、なにかが外へはじけようとしている。
だれの目にもみえなかったが、アスラは、のどもとに、輝く光の輪がうかびあがるのを感じていた。その輪から、血のにおいに、よく似たにおいが、身のうちへとしみこみ、ひろがっていく。
そのにおいにみちびかれて、うねるものが、ごうごうと鳴る〈川〉をくだってくる……。
(……カミサマ。カミサマ。)
ふ……ふ……ふ……みじかく、せわしなく息をついて、アスラが男をみあげた。その目が、くるりと白目になるのをみて、チキサの顔から血の気がひいた。チキサは、あわてて、妹に抱きついた。
「だめだ! アスラ、だめだっ!」
ヨゴ人の男は、なまあたたかい風がふわっと顔にあたったような気がして、目をほそめた。
つぎの瞬間、風は、氷のように冷たくなった。
バルサは、ひっそりと渡り廊下に立っていた。
宿屋の部屋はせまい。しかも、なかには子どもをいれて、六人もの人がいるのだ。すばやくうごくのはむずかしいだろう。へたにふみこんだら、四人の男たちをたおすまえに、だれかが子どもを人質にするかもしれない。
バルサは、〈青い手〉の二人組が、子どもを渡り廊下につれてでる瞬間を待っていた。部屋からは、かんだかい商人の声と、おしころした〈青い手〉のやりとりが、かすかにきこえてくる。
やがて、女の子の悲鳴がきこえた。兄をよぶさけびをききながら、バルサは短槍をにぎる手に力をこめた。
そのときだった。――バルサの腕に、ざわっと鳥肌がたった。
自分がなにを感じたのかわからなかったが、つぎの瞬間、部屋のなかで悲鳴がいりみだれてひびきわたった。
だれかが部屋の戸にぶつかり、|戸板《といた》ごと渡り廊下にふっとんできた。
男ののどから血しぶきが天井までふきあがり、バルサは、とっさに渡り廊下の|欄干《らんかん》をとびこえ、中庭にとびおりた。……と、欄干が、突然、すぱっとけずれた。まるで、巨大な目にみえぬ鎌にでも、切られたような感じだった。
なにもみえなかったが、バルサは、なにかが自分にむかって飛んでくるのを感じて、ぎりぎりで、それをかわした。
考えているひまはなかった。気配に反応して身体がうごくにまかせ、バルサは、ひたすらに、目にみえぬなにかをよけつづけた。のどにせまってくる|神速《しんそく》の槍の穂先をいく度となくかわしてきた、身にしみこんだ経験が、かろうじてバルサの命をすくっていた。
だが、すさまじい速さでうごく、目にみえぬものをよけつづけるのは、神経をぎりぎりとけずる技だった。さすがのバルサも、すぐに息がみだれてきた。
のどを腕でかばった瞬間、手首に、冷たい気配を感じた。
(――手首を切られる……!)
さっと手をわきにおろして、手首をかばおうとしたせつな、わき腹に冷たいものがはしり、そこが、カッと熱くなった。バルサは地面にたおれ、廊下の下にころがりこんだ。だが、そこへも、それはやってきた……。
顔をまもろうと手をかざし、ぎゅっと力をこめた。――が、いつまでたっても、なにも手にぶつかってこなかった。
あらい息をつきながら、バルサは、そっと手を顔からはなした。手がぶるぶるふるえている。
歯が、カチカチ鳴りはじめた。おさえようとしても、おさえられなかった。
バルサはおのれの身体をぎゅっと抱きしめ、ふるえをとめようとした。――はじめて命のやりとりをしたときのように、身体の芯からふるえがおこり、とめることができなかった。
――目をぎゅっとつぶれ。
耳の奥に、ジグロの言葉がきこえた。
――息をかぞえろ。ひとつ、ふたつ、三つ……。
八つまでかぞえたとき、ようやく、身体のふるえがおさまりはじめた。それにつれて、わき腹の傷がはげしく痛みはじめた。
足音が、身体の上の廊下をうつろにひびかせて、いくつもちかづいてくる。バルサは、歯をくいしばって傷をかばいながら、廊下の下からはいでて、立ちあがった。
「……バルサ?」
タンダが、おどろいて欄干から身をのりだし、意外に身軽なうごきで欄干をとびこえると、中庭におりたってバルサの身体をささえた。――バルサの手の冷たさに、タンダはびっくりした。バルサの顔には血の気がなく、じっとりと冷や汗をかいていた。
わき腹の傷をざっとみてから、タンダはバルサをささえ、渡り廊下へのぼるのを手伝ってやった。廊下は、人でいっぱいだったが、バルサたちがあがってくると、すこしわきにどいてくれた。
ふと、バルサは背後からの視線を感じて、ふりむいた。
しかし、中庭にも、むこう側の渡り廊下にも人の姿はなかった。みられている、という感覚は消えなかったが、その視線の主をみつけだすことはできなかった。気にはなったが、敵意は感じなかったので、バルサは、目のまえでおきていることに注意をもどした。
小柄な女が、渡り廊下にたおれている男の死体にかがみこんで、首の傷を調べている。板戸がはずれた部屋のなかには、肩にマロ|鷹《だか》をのせているスファルの後ろ姿がみえた。
バルサが傷を手でおさえながら、戸口によりかかってなかをのぞきこむと、スファルがふりかえった。きびしい顔つきで、スファルは、なかにたおれている三人の男の死体をさししめした。
「みな、のどをかみさかれている。……シンタダン牢城の死者たちと、そっくりだ。」
スファルはバルサをみつめた。
「……いったい、なにがおきたのだ?」
バルサは、それにはこたえず、部屋のすみにしゃがみこんでいる兄妹に目をやった。
ふたりは、うつろな目をして、ぎゅっと抱きあっているようにみえたが、よくみると、兄が、ぐったりとした妹をかかえこんでいるのだった。その兄の手から血が流れているのに気づいて、バルサはふたりのそばにかがみこんだ。
|額《ひたい》にふれると、少年は、びくっとして目をあけた。そして、大きく息をすいこみ、はげしく歯を鳴らしてふるえはじめた。やせこけた顔に、目ばかり大きく光っている。少年は、妹をかばうようにかき|抱《だ》き、あとずさった。
バルサは、なにもいわずに、ただ少年をみつめていた。みつめあううちに、少年の目のなかの、はげしい敵意がすこしずつうすらいでいき、おびえだけがのこった。
少年は、必死にふるえをおさえようとしているが、身体に力をいれればいれるほど、ふるえはひどくなり、抱かれている妹の力なくたれさがったほそい手が、床をすってゆれた。
バルサは、そっと手をのばして、少年の汗にぬれた髪をなでると、ゆっくりとその頭を抱いた。少年のふるえがおさまるまで、バルサは、そのままうごかなかった。
[#改ページ]
3 不吉な子ら
バルサのわき|腹《ばら》の傷は、|獣《けもの》のかみ傷によく似ていた。タンダが傷を薬草でよくあらって、手ぎわよく縫いあわせてくれたが、すぐに高い熱がではじめた。
熱があがってきたのを感じると、バルサは、寝床のわきにすわっているタンダの手をつかんだ。
「なんだ?」
びっくりしてタンダが身をかがめると、バルサは、かすれ声でささやいた。
「……あの子たちは?」
「ああ、心配するな。今夜は薬草師がふたりも泊まっていたんで、手伝ってもらって、さっき手当てをすませたよ。兄のほうの手は、おまえとよく似たかみ傷で、やっぱり熱がでている。」
バルサは、ぎゅっとタンダの手をにぎった。
「……あのふたりから、目をはなさないで。それから、この部屋には、だれもいれないで。」
「え? なぜ……。」
「熱にうかされて、話すうわごとを、人に、きかれたく、ない。」
タンダは、なにもきかずにうなずいた。それをみて、バルサは、ほっと吐息をつくと、目をとじた。
翌朝、かなり日が高く昇るまで、バルサは、こんこんと眠りつづけた。目がさめたときは、めまいがひどく、あたりがゆっくりとまわっていたが、タンダが飲ませてくれた薬草入りの|重湯《おもゆ》が腹にはいると、すこしずつ力がもどってきた。
「スファルがね、おまえに、いっこくもはやくききたいことがあるといってるんだが……。」
バルサは、重湯の碗を床におくと、背を壁にもたせかけたまま、かすかにうなずいた。
すぐに、タンダにみちびかれてスファルがはいってきた。
「だいじょうぶかね?」
「……ご心配をおかけしましたが、もうだいじょうぶです。」
「それはよかった。さすがに、常人とは体力がちがうな。」
スファルは、ヨゴ人のようにあぐらをかいてすわった。
「|昨夜《さくや》、なにがおきたのか、話してくれないか。」
バルサは、じっとスファルの顔をみていたが、やがて、口をひらいた。
「……あの部屋のまえをとおりかかったとき、ふいに悲鳴があがって、戸板ごと男が廊下へたおれてきたんですよ。のどの急所から血がふきあがっていた。
とっさに中庭に逃げたのですが、なにかにおそわれて、わき腹を切られたのです。」
スファルは身をのりだした。
「なにに? なににおそわれたのだ?」
バルサは首をふった。
「わかりません。すさまじい気配はあるのに、姿はまったくみえなかった。」
スファルは眉をひそめた。
「そうか……。それは残念だな。あれにおそわれて、生きているのは、あなただけだから、正体をきけるとおもっていたのだが……。」
そういって、スファルはバルサのわき腹に目をやった。
「それにしても、ほかの者たちはみな、のどをかみちぎられているのに、なぜ、あなただけ、わき腹なのだろう?」
「たしかに、のどをねらわれましたよ。のどを手でかばおうとしたら、瞬時に手首をねらってくる気配を感じた。手首をわき腹につけて、切られるのをふせごうとしたとたん、わき腹をやられたのです。……|あれ《ヽヽ》は、たぶん、血をねらっている。」
「なるほど。のども手首も大きな血の筋があって、しかも衣でかくれていない部分だからな。
しかし、なぜ、あなたがおそわれたのだろう? そして、なぜ、命がたすかったのだろう?」
「さあ。」
そっけないバルサの答えをきいて、スファルは目をほそめた。
「……なぜ、短槍をもって渡り廊下を歩いていたのだ? いっしょに飲んでいたときは、もっていなかったようだが。」
バルサは、無言で肩をすくめた。
スファルは、じっとバルサをみつめていたが、やがて、お大事に、といって立ちあがった。
彼が部屋をでて、足音がとおざかっていくと、背後で腕ぐみをして、だまってきいていたタンダが、腕をといた。
「なんで、スファルを警戒しているんだ。」
「自分でも、よくわからない。……でも、あのとき、なんだかいやな感じがしたんだよ。彼は、死体がころがっている部屋のまんなかに立って、死体の傷をみていた。
あんたなら、まず、部屋のすみで抱きあっている子どもの安否を気にするだろう? だけど、彼は、まったく、子どものことを気づかっていなかった。
それに、いま、|あれ《ヽヽ》におそわれて生きのこっているのは、わたしだけだといったけれど、あの少年だって生きのびたひとりだ。なぜ彼は、あの子らを、そんなふうにあつかうのか……。」
そのとき、目のまえにチカチカと銀色の光がちったかと思うと、耳鳴りがして、すうっと気分がわるくなった。バルサは、くずれるように寝床によこたわった。
気がつくと、タンダの顔が目のまえにあった。いつもの、のんびりとした表情などかけらもない暗い目で、じっとみつめている。バルサは、唇に笑みをうかべた。
「……だいじょうぶだよ。血がさがっただけだから。」
まばたきをして、タンダはつぶやいた。
「なんでこんなに不安なんだろうな。いやな予感がして、しかたがない。……昨日、おまえの手をさわったとき、すごく冷たかった。おまえの、あんな表情をみたのも、はじめてだ。」
そういって、タンダはそっと手をのばして、ためらいがちにバルサの頬にふれた。そして、こわいほどに真剣な目でバルサをみつめて、ささやいた。
「……あの子らに、かかわるなよ。」
バルサは、タンダの意外な言葉におどろいて、目をみひらいた。
「なんだって?」
「おまえが、あの子らを気にしているのは、わかってる。だけどな、おれだって、呪術師のはしくれだ。あの子らのようすが、ふつうじゃないことぐらいわかるんだ。」
バルサは苦笑した。
「……あんたらしくないね。苦境にいる子を、みすてろっていうのかい。」
タンダは笑みをかえさなかった。
「スファルが、あの子らをみなかった気もちが、おれにはわかる。あの子らから、ただよってくる〈死のにおい〉は、ただごとじゃないんだ。――おれは……こわい。」
バルサは、頬にふれているタンダの指がふるえているのに気づいた。
「あそこで、なにがおきたのか、わからないけれど、商人たちはあっというまに殺されて、外にいた無関係のおまえまで、これほどの目にあっているというのに、あの妹のほうはまったく無傷だ。兄の傷だって、おまえの傷にくらべれば、軽いものだ。」
タンダは、息をすった。
「妹のほうの魂にふれようとしたとき、おれは、ぞっとしたんだ。いいようもないほど、おそろしくて、思いだすだけでふるえがはしる。
おれは未熟だけれど、呪われた者や、悪霊に憑かれた者を、いく人もみている。あの子から感じる気配は、それとはまったく異質なんだ。――こんなことは、はじめてだよ。
ただ、予感だけがあるんだ。あの子は危険だ。すさまじく……。
むごいことをいうようだけれど、あの子らは、|不治《ふじ》の|疫病《えきびょう》にやられているようなものだ。かかわった者にも、死をひろげていくような気がするんだ。」
タンダは口ごもり、それから、おしだすようにいった。
「だから、かかわらないでくれ。おれは……おまえを、うしないたくない。」
タンダの声にこもっているものが、バルサの胸をうった。バルサは、そっと手をのばして、タンダの顔をひきよせると、口のそばに唇をつけた。そして、かすれた声でささやいた。
「わたしは、そうかんたんに死なないよ。――トロガイ師ぐらい、長生きしてやる。」
スファルが部屋にはいって後ろ手に戸をしめると、若い女が顔をあげた。昨夜、廊下の死体の傷を調べていた女だった。小柄で、ひきしまった身体つきをしており、目のあたりがスファルによく似ている。
目鼻だちのすっきりとしたその顔はうつくしかったが、どこか、こわいものを感じさせた。すこし離れたところから、すべてをながめているような、独特のまなざしのせいかもしれない。
「……あの女はなんと?」
スファルはやわらかい敷物の上に腰をおろした。
「たいしたことはきけなかった。」
スファルは、バルサからきいたことをかんたんに話してきかせた。
「で、そっちは、なにかわかったのか?」
「死んだ商人の仲間たちは、昨夜のうちに逃げたわ。役人がくるまえに。役人が、宿の者たちに話していたのをもれきいたのだけど、彼らといっしょに殺されたのは、〈青い手〉だそうだから、あぶない商売をしていたのがばれるまえに、逃げたのでしょうね。」
スファルは、ははあ、と、うなずいた。
「なるほどな。もしかすると、バルサは〈青い手〉に気づいていたのかもしれぬな。ああいう稼業をしていれば、人身売買をなりわいとする者の顔は、よく知っているだろうからな。それならば、短槍をもって、やつらの部屋のそばにいた理由がわかる。」
スファルは、〈タルの民〉の少年の頭を抱いていたバルサの姿を思いだして、苦笑した。
「ぶっそうなようでも、しょせんは女だな。子どもとみると、かばいたくなるか。」
若い女は、うつむいてなにか考えていたが、やがて、すっとスファルに目をむけた。
「……父さん、あの子が気をうしなっているあいだに魂をしばりましょう。自然に目がさめることがないように、いっこくもはやく。」
スファルは、眉のあたりをくもらせて娘をみた。
「シハナ、こわいことを、あっさりというやつだな、おまえは。」
「いそいだほうがいいわ。あの娘が目をさましたら、へたに手をだせないのだから。」
スファルは、あごひげをかいた。
「……しかし、術をかけるのも、かんたんではないぞ。ここでやれば、たとえ病気にみせかけたとしても、タンダならかならず気づく。」
シハナは、表情をうごかすことなく、しずかにいった。
「なんの権力もない薬草師に気づかれても、たいした問題ではないわ。」
スファルの顔がきびしくなった。
「そうでもないぞ。タンダは、ああみえて、なかなか才能のある呪術師だし、彼の師匠のトロガイは、ヨゴでもっとも力のある呪術師だ。われらとちがって、ヨゴの呪術師たちは横のつながりはうすいが、口封じのためにタンダを殺すことにでもなれば、へたをすると、ヨゴの呪術師たちを敵にまわすことになる。」
シハナは、口をとじて目をほそめた。
スファルは、シハナが左手の親指と人さし指を細かくうごかしているのに気づいた。これは、シハナがなにかを集中して考えているときの癖だった。シハナは、彼女がタアルズ(遊戯盤をつかう競技)をしているときのように、ぼんやり宙をみつめていた。
タアルズは、相手の考えの、先の先を読み、多くの駒をつかって複雑な図形をつくっていく難解な競技で、ロタの王族や領主たちが戦略の勘を学ぶために好んでおこなう。
シハナは、この競技の天才といわれ、なんと十二歳のときから負けを知らない。
かつて、スファルは娘に勝利のコツをたずねたことがある。すると、シハナはこともなげに、こういった。
――自分が勝利する形をまず想像しておくの。それから、自分のうごきで、相手をその形へみちびくのよ。それだけ。
それをきいたときのおそれにも似たおどろきは、いまもスファルの胸のなかにきざまれている。
ぼんやりとした瞳の奥で、娘はいま、なにを考えているのだろうと思いながら、スファルは、つけくわえた。
「タンダたちのことだけではないぞ。あの娘の魂が、いまどんな状況にあるかわからぬ以上、呪術をつかって魂にふれたときに、なにが起こるかわからん。あまりにも危険すぎる。」
シハナは、一瞬スファルに視線をむけると、うなずいて、すっと立ちあがった。
「では、マクルたちに、すぐに集まってもらいましょう。彼らはたぶん、ヨモの|宿場《しゅくば》あたりまできているでしょうから、わたしが馬でむかえにいけば、おそくとも三日後にはもどれるわ。」
そういってから、ふと気づいたようにシハナは父にたずねた。
「それまで、父さんひとりになってしまうけれど、だいじょうぶ?」
スファルは娘をにらみつけ、はやくいけ、とあごをしゃくった。
娘がでていくと、スファルは、鍵のかかる戸棚にしまってあった荷物をひきだし、なかから、小さな袋をとりだした。それをもって廊下へでると、〈タルの民〉の兄妹が眠っている部屋へむかった。
部屋の外に立って、ふたりが眠っているのをたしかめてから、スファルは部屋のなかにすべりこんだ。
窓の|蔀戸《しとみど》をおろしてあるので、部屋のなかはうす暗かった。シルヤというヨゴ式の夜具にくるまって眠っている小さなかたまりのほうへ、スファルは足音をたてずにちかづいていく。
妹のほうは、あおむけに横たわっていて、寝息さえほとんどきこえなかったが、兄のほうは、びっしょりと寝汗をかいていて、くるしげに寝返りをうっている。
その兄のそばにたたずんで、スファルは|懐《ふところ》から小さな袋をとりだした。そのなかに手をいれて、粉をつまみだすと、親指と人さし指でこすりはじめた。……と、彼の指のあいだから、紫煙がほそくたちのぼり、あまい香りが部屋にひろがっていった。
スファルが口のなかで、なにかぶつぶつとつぶやくと、そのほそい煙は、まるで生き物のようにうねって、少年の額へとおりていった。
チキサは夢をみていた。昨夜のおそろしいできごとから、隊商にまじって暮らした、ここ数日のことへと、めまぐるしく場面がいれかわっていく。時をさかのぼり、けっして思いだしたくない場面が、目のまえにあらわれてくると、チキサは身をよじって、くるしんだ。
夢をみていることはわかっていた。なんとかして目ざめようとするのだけれど、だれかの声が、しつこく過去の記憶を問いつづけ、目ざめることをゆるしてくれなかった。
その声にさからって、必死に重いまぶたをあげようとするうちに、ようやく、かすかにまぶたがもちあがって、自分のわきにすわっている男の姿をみることができた。
「……しぶといな。」
男はつぶやくと、かすかに笑みをうかべた。そして、立ちあがり、部屋をでていった。
チキサは、せわしなく息をつきながら、男がでていったほうをみつめていた。これは、熱がみせた幻ではない。妙なあまいにおいが、まだ部屋にただよっている。
(あれは、だれだったのだろう? ――なにをしていたのだろう。)
チキサは不安になって妹のほうをみたが、妹はぴくりともうごかずに眠っていた。
そのとき、部屋の戸をそっとひきあける音がきこえてきたので、チキサはびくっと顔をむけた。さっきの男がもどってきたのかと思ったが、はいってきたのはべつの男だった。昨夜、傷を縫ってくれた、おだやかな話し方をする男だ。たしか、タンダと名のっていた。
「……はいっていいか。具合をみにきた。」
タンダがささやいた。たどたどしいロタ語だったけれど、意味はわかったので、チキサはうなずいた。
タンダは足音をしのばせて部屋にはいってきたが、すぐに、ふっと眉をひそめた。
「――ここに、だれかきた?」
チキサは話そうとしたが、のどがかわいてはりついていて、声がうまくでなかった。
「ごめん、ごめん。さきに、これ、飲んでごらん。楽になる。」
チキサは身体をささえてもらって、タンダがさしだした吸い飲みから、ひと口、ふた口とすすった。すっとする飲み物が、熱にかわいたのどをくだっていくのが心地よかった。
頭をささえてやっているタンダは、少年の首と肩の肉の、あまりのうすさに、胸が痛むのをおぼえていた。バルサに、この子らにかかわるなといったし、かかわるべきでないと思うのは、たしかに本心なのだが、それでもあわれに思う気もちは、おさえられなかった。
それにしても、このにおいは……。
少年が自分をみあげてなにかささやいたので、タンダは、あわてて顔を少年にちかづけた。
「……ありが、とう。」
タンダは、ほほえんだ。
「どういたしまして。」
少年の声はかぼそかったが、のどの渇きがいやされるにつれて、すこしずつはっきりときこえるようになってきた。
「さっき、だれか、いました。おれのわきにすわって、なにかしていた。」
タンダは真顔になった。
「どんな人?」
「男。暗くて、よくみえなかったけれど。」
「おれの背丈と、おなじ?」
少年はしばらく考えていたが、やがて、首をふった。
「もっと、低かった。」
(やっぱり、スファルか。)
タンダは心のなかでつぶやいた。このにおいは、タンダたちヤクーの言葉で、タジャムという木の根をすりつぶし、樹脂をまぜた|呪香《じゅこう》の香りだ。眠っている者にこれをかがせて、術をかけると、夢を自由にあやつれる。力のある呪術師ならば、おのれの魂を眠っている者の魂にふれあわせて、おなじ夢をみることさえできる。
「……タンダさん。」
よびかけられて、タンダはもの思いからひきもどされた。
「うん?」
「あの女の人は、だいじょうぶ?」
ちょっとのあいだ、だれのことかわからなかったが、少年がわき腹にふれるしぐさをしたので、バルサのことをきいているのだと気づいた。
「だいじょうぶ。」
少年の目に、不安げな色がのこっているのをみて、タンダは力づけるようにいった。
「だいじょうぶ。あの人は、強い。」
バルサは、ふつうの女性より、ずっと身体をきたえていて、けがになれていること。だから、もう熱もさがったこと。タンダは、不自由なロタ語で、ぽつぽつと話してきかせ、少年を安心させた。
だまってきいていた少年の顔から、すこしずつ緊張感が消えて、かわりにつかれの色がうかぶのをみて、タンダは少年をそっと横たわらせた。
少年が、顔をねじって妹をみた。いっこうに目ざめるようすのない妹を心配しているのが、手にとるようにわかったので、タンダは意を決し、少年の足もとをまわって、少女のかたわらにかがみこんだ。
昨夜も、タンダは呪術の技をつかって少女の魂にふれようとした。その瞬間の感覚を思いだすと、腹の底からふるえがのぼってくる。
魂にふれようとしたとたん、背筋がこおった。――うす|皮《かわ》のむこうに、なにかがいる。ふれたら、うす皮をやぶって、こちらへ飛びだしてくる。そんな気がしたのだ。
タンダは、あわててみずからの魂をひきもどしたが、あまりの恐怖に、|心《しん》の|臓《ぞう》が、飛びださんばかりに胸骨にぶちあたっていた。むこう側にいるなにかの気配もこわかったが、それが放つにおいが、たまらなくおそろしかった。さっき、バルサには〈死のにおい〉と表現したけれど、そうとしかいいようがないにおいだった。
タンダは、少女にふれたくなかった。――この少女が、どういう存在なのか、まったくわからなかったからだ。
呪われているなら、呪い除けをする方法もある。悪霊に憑かれているなら、退散させる術もある。けれど、なにがどうなっているのかわからない、この少女には、どう対処してよいかわからないのだ。
とてもしずかではあるけれど、たしかに寝息はきこえているから、生きていることはたしかだが、いつまでも目ざめなければ、衰弱していくのはまちがいない。この娘のやせ方では、水も飲まず、ものを食べずに眠りつづければ、長くはもつまい。
「……まえは、目をあけるまでに二日かかりました。」
少年の声に、タンダは、はっと少年をふりかえった。少年の目には、つよい警戒とためらいの色がうかんでいた。タンダに話してよいか悩みながらも、妹が心配でたまらずに、思わずいってしまったのだろう。
まえというのは、いつ? ――と、ききたかったが、タンダはその言葉をのみこんだ。少年がたずねてほしくないのは、そのことにちがいない。
それに、これまでのことを考えあわせれば、それがいつのことか、だいたい察しはつく。
考えたくないことだったが、まず、まちがいないだろう。――このふたりは、スファルが気にしつづけているシンタダン牢城の大虐殺にかかわっている。
それをたずねたら、少年は心をとざしてしまうだろう。タンダを信じるべきかどうか、いま、少年の心の|秤《はかり》は微妙なところでゆれている。追いつめる気になれなかった。
「……そのとき、どうやって、目ざめた?」
タンダがたずねると、少年は頬に緊張の色をはりつかせたまま、慎重に言葉をえらんでこたえた。
「眠っている妹をせおって歩いていて、おれがたおれたとき、目ざめたんです。腹がへって、ふらふらになってたおれたので、妹は草原にころがりおちて、その拍子に目がさめたんだと思います。」
「そのとき、妹は、どんなようす?」
「ぐったりしていました。うごく力もないくらい。……そのまま死んじゃうんじゃないかと、こわかった。」
タンダは、しばらく考えこんでいたが、やがて、少年をまっすぐにみつめて、たずねた。
「水だけでも、飲ます。死なないように。わかる?」
少年はうなずいた。
「……起こしたら、あぶないか?」
少年は、はっとして、タンダをみつめた。タンダは、ただ、しずかに少年をみつめていた。やがて、少年は、ゆっくりと首をふった。
「だいじょうぶだと思います。おれが起こしてみます。」
タンダが手をかして、少年を妹に手がとどくところまでうごかしてやった。少年は、妹の髪をなでて、妹の名をよんだ。
「アスラ、アスラ! 起きろよ、アスラ!」
しかし、妹はまったく反応しなかった。少年がタンダをみあげた。
「しかたがない。もうすこし、待つ。もし、起きたら、おれをよぶ。いいね?」
少年がうなずいた。
タンダが立ちあがって部屋をでようとしたとき、少年がうしろから声をかけてきた。
「あの、宿代と治療費……。」
少年の声が小さくなった。
「おれたちは、金をもっていないんです。」
タンダは、ひょいと眉をあげた。
「気にするな。宿代は、貸せる。きみが大人になったら、稼いで、かえす。いいね?」
少年はじっとタンダをみあげていたが、やがて、けがをしていないほうの手をあげると、額と鼻と口を三本の指でとん、とんとなでてから、床に頭をつけた。感謝をしているのだということは伝わってきたが、はじめてみる作法だった。
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4 月下の|短槍《たんそう》
バルサは、よく食べて、よく眠った。そして、傷をおって三日目の夜には、もう日課にしている短槍と体術の稽古をしに、宿の裏庭にでていってしまった。
その年齢の者とはとても思えない回復ぶりをみるたびに、タンダは思う。――バルサは、まるで野に生きる獣のようだ、と。傷ついたり、弱ったりすれば、それがすぐに死につながる獣たちにとって、傷の治りがはやいかおそいかは生死をわける。
タンダは、けがをしたり病を得たりすると、いたわってもらいたい気分になるのだが、バルサは、そういうあまえを自分にゆるさない。ゆるさないというより、身にしみついてしまっているのだろう。弱ったときにも、つけいられることのないように、心がいつも、どこかで張りつめている。――ジグロは、ひとりで生きられる獣をつくりあげたのだ……。
回復といえば、あのチキサという少年も、身体のやせ方を思えば、ずいぶん回復がはやい。たっぷり食べている裕福な商人の子より、じゅうぶんに食べられない貧しい家の子のほうが、身体がいえるのがはやいこともあるのは知っていたけれど、あの子の回復のしかたは、むしろバルサを思わせる。――心が、身体をせかしているのだ。はやく治れ、はやくうごけ、と。
妹のほうも、今朝、目をさました。はじめは、ぼんやりとしていたが、昼すぎには、ずいぶんしゃんとして、兄にささえられて、ひとりで厠へいけるほどになった。食べて、歩くようになると、人は、どんどん回復していくものだ。
タンダは、宿の人たちにたのんで、彼らの身体に負担がかからず、それでいて精のつくものをつくってもらった。それを、うれしそうに食べているふたりをみながら、タンダは、心のなかで、彼らにあやまっていた。
ふたりに、はやく元気になってほしいと願う気もちの奥に、そうなれば、|情《じょう》を断ち切って、彼らから手をはなせる、という思いがひそんでいたからだ。
いかに危険な者だとわかっていても、無力な子どもをみすてることはできない。――それが自分の弱さでもあることを、タンダはよくわかっていた。
夕食をおえると、チキサはアスラと両側から火鉢を抱きこむようにして横になった。うとうとしていたのだが、やがて、ふしぎな物音に、ふと目をさました。ヒュウ、ヒュウ、と鞭が宙を切るような音が、裏庭からきこえてくる。アスラも目をあけた。
「なんの音?」
「わからない。見習いの|馬子《まご》が、鞭のふり方を練習しているのかな。」
「でも、それなら、ピチンっていう音がきこえるはずよ。」
チキサはうなって、夜具を身体にまいたまま身を起こした。そして、|蔀戸《しとみど》をもちあげて、暗い裏庭をのぞいた。アスラも、となりで顔を窓からつきだした。
月の光にぼんやりとてらされている庭で、最初に目にはいったのは、ちかっちかっと輝く光だった。残像の尾をひいて、すさまじい速さで円をえがいている光。――槍の穂先が、月の光を反射して光っているのだ。
そのうごきの、あまりの速さとうつくしさに、チキサもアスラも声もなくみとれていた。
短槍で宙を切って舞っている人影に、チキサは見おぼえがあるような気がした。
「……あ、あの人だ。」
チキサがつぶやくと、アスラが、え? と、ききかえした。
チキサは、しばらく口ごもっていたが、やがて、妹にささやいた。
「……|あれ《ヽヽ》に、あいつらが殺されたとき、廊下にいて、けがをした女の人だよ。バルサっていう人だ。」
アスラが眉をひそめ、きつい口調でいった。
「あれ、なんていってはだめ。カミサマっていわなきゃだめよ。」
チキサは、むっとして妹をみたが、妹の、じっとバルサをみつめている横顔には、いっさいの反論をうけつけない、かたくなな表情があった。チキサは肩をすくめた。
「とにかく、あの人は……その、〈カミサマ〉におそわれたけれど、殺されなかったんだ。あれほど、はやくうごける人だから、たすかったんだろうな。」
アスラは首をふった。
「どんなにはやくうごけても、カミサマにはかなわないわ。わるい人じゃないから、たすかったのよ。」
アスラの顔には、まるで神に仕える者のような、冷たくしずかな表情がうかんでいた。やさしくて、気が小さい、むかしの妹の面影は、そこにはなかった。
チキサは、胸がくるしくなるのをおぼえて、唇をかみしめた。
妹は、〈あれ〉をカミサマだと信じている。――自分の身に宿っているタルハマヤを、よいカミサマだと信じているのだ。
ゆたかな恵みをもたらす神アファールの、残酷な|鬼子《おにご》タルハマヤ。――母さんは、タル・クマーダ〈陰の司祭〉の教えにさからい、たとえ残酷な力をふるう神であっても、タルハマヤこそ、自分たちにふたたび栄光をもたらしてくれる神なのだと信じていた。
だが、シンタダン牢城での、すさまじい虐殺をまのあたりにしてしまったチキサは、やはり、タル・クマーダ〈陰の司祭〉さまたちが正しかったのだと――母さんはまちがっていたのだと思うようになっていた。
たしかに、あのときシンタダン牢城で、母さんの処刑を笑いながらみていた人びとをチキサも憎んだ。剣でずたずたに切り殺してやりたいと思った。
でも、アスラからでてきた〈あれ〉は、人を、まるで嵐が木々を刈りたおすように殺してしまったのだ。
チキサには、とても、あれが神のなされたことだとは思えなかった。――〈あれ〉には、情けというものが、まったく感じられなかった。あまりにも残酷で無表情な〈力〉だった。
けれど、妹に、その疑問をつきつける気には、どうしてもなれなかった。タルハマヤを、母のいうとおり、聖なる神だと信じることが、妹の心をまもる防壁になっている。それがくずれたら、妹はくるってしまうにちがいない。
神に仕える者の、気高く、しずかな表情を、いっしょうけんめいにまねている妹が、チキサは、あわれでならなかった。
「あの人は、きっといい人なのよ。だから、カミサマは、殺さなかったんだわ。」
自分にいいきかせるように、アスラが、もう一度つぶやいた。
「……そうだな。」
チキサは、こたえた。
「あの人は、いい人だよ。――自分も大けがをしていたのに、おれを抱きしめてくれた。」
アスラは、びっくりして兄をみた。赤の他人が自分たちを抱きしめるなんて、信じられないことだったからだ。
「ほんとうだよ。」
アスラは、まばたきをしてちょっと顔をしかめた。
「……ほんとうに?」
それから、兄の言葉のあらをさがすように、いった。
「あの人、けがなんてしてないよ。あんなにうごいているじゃない。」
チキサも、それがふしぎだった。あの夜、たしかに左のわき腹に大きく血がにじんでいたはずだけれど、たった三日で、あんなふうにうごけるようになるものだろうか。
ふたりは、また人影のうごきをながめはじめたが、やがて、ふたりとも、ほぼ同時に気がついた。人影は、なめらかにうごいているようにみえるけれど、よくみると左側をかばっている。右手のうごきがあまりにうつくしいので、そちらに目をすいよせられて気づかなかったけれど、左手は、肘をまげてわき腹につけたまま、まったくうごかしていないのだ。
「ほんとうだ……。」
アスラが、つぶやいた。その妹の声に、かすかにだけれど、あかるさが感じられて、チキサはうれしくなった。
これまで、長いあいだ、冷たい闇のなかにいた。このさきも、闇しかみえない。多くの人を殺してしまった〈あれ〉のことを考えると、自分たちは、生きていてはいけないのかもしれないという思いが、たえず、心にうかんでくる。
ただ、この一瞬――妹とおなじものをみて、ふっとあたたかい気もちになった、この瞬間だけ、小さな|灯火《ともしび》のようなものが、チキサの心をてらした。
ある考えがチキサの胸にうかんだのは、このときだった。実現するはずのない夢だと、わかってはいた。けれど、妹とこんな話をする機会はいましかないかもしれない。
「なあ、アスラ、ちょっときいてくれ。」
チキサは、けがをしていないほうの手で、妹の冷たい手をつかんだ。
「これからどうするか、おれ、ずっと考えていたんだ。おれたちは、まったく金をもっていないだろう? このまえみたいに、わるい人にひろわれたら、またなにをされるかわからない。」
アスラは、兄を元気づけるようにぎゅっと手をにぎった。
「お兄ちゃん、だいじょうぶよ。わたしたちには、カミサマがついているもの。どんな悪者がきても、きっとまもってくださる。」
つよい光を宿している妹の目をみたとたん、チキサは、口のなかに苦いものがひろがっていくのを感じた。
「でも、アスラ……おれは、二度とみたくないんだ。」
のどにひっかかったような、かすれ声でチキサはつぶやいた。心の底から、苦いかなしみをしぼりだしたような兄の声に、アスラはびっくりして顔をしかめた。
「おまえは、みていないだろう。おまえが、あの……あのお方をよびだしたあと、実際にどんなことがおきるのか。」
アスラは、まばたきした。――たしかに、カミサマがきてくださると、なにもわからなくなってしまう。ただ、とても気もちがいいのだ。それまで感じていた、こわい、という気もちや、怒りが、すうっと消えていき、なんともいえぬ心地よさが全身にひろがる。そして、目ざめると、わるい人たちは、いなくなっているのだ。
チキサは、こみあげてくる思いに、妹の手をはなすと、傷ついた右手にまかれている布をはずしはじめた。なにかにせきたてられるように、乱暴に留め金をはじき、傷が痛いのもかまわずに、血ではりついている当て布もはがしてしまった。
そして、その手を妹の目のまえにかざした。――〈あれ〉が、妹の内側にいて、監視しているかもしれない。こんなことをしたら、殺されるかもしれない。
かまうものか、とチキサは思った。
「みろよ、アスラ。これが、おまえの〈カミサマ〉に、やられた傷だよ。あわてておまえの口をおさえようとしたとたん、やられたんだ。」
興奮で、声がはねあがらないように、必死でおさえながら、チキサはつづけた。
「ほかの人はね……のどをかみさかれた。これよりずっと深い傷が、のどに、ぱくっとひらくのを、おれはみたんだ。」
アスラは、信じられぬものをみるように、兄の手の傷をみつめていた。てのひらから、親指と人さし指のあいだに一本、みにくい傷がはしっている。縫いあわせた糸に黒ずんだ血がこびりついている。
アスラの唇がふるえはじめた。白い仮面のようなかたくなさが消えて、むかしの妹の顔が、そこからすけてあらわれてきた。
「……お兄ちゃん、ごめん。知らなかった。その傷、あいつらが切ったんだと思ってた……。」
妹の目に涙がもりあがるのをみて、チキサは、思わず妹の頭を抱きしめた。
「おまえのいう〈カミサマ〉は、たしかに、おれたちの命をすくってくれたよ。それは、おれも、感謝してる。……でも、わかってくれよ。おれはもうみたくないんだ。人が血まみれになって死ぬのを。」
妹を抱いたまま、チキサは思いきって、つづけた。
「〈カミサマ〉があらわれたのは、二回とも、おれたちがひどい目にあっているときだった。おまえが、おびえたり、腹をたてたりして、われをわすれたときだ。――そうだよな?」
アスラは、小さくうなずいた。なにか、とてもいやなできごとが心にうかびそうになったが、それは、魚が沼に身をかくすように、とらえるまもなく逃げさっていた。チキサとちがい、アスラは、シンタダン牢城でのことは、ほとんど、おぼえていなかった。母の処刑という、あまりにつらい記憶を、心が封印してしまっていることを、アスラ自身は気づいていなかった。
ただ、身体がばらばらになるくらい、かなしくて、くるしい目にあって、そんな目にあわせる人たちなんか、消えてなくなってほしいと願ったとき、胸のなかに〈聖なる川〉の音がひびいてくる。ごうごうと流れる音が全身にひびいて、その流れにのって、カミサマが、願いをかなえにやってくる。――そのあとの記憶は、まったくないのだ。
のどをかみさく? その光景を想像したとたん、頭から血がすうっとひいて、顔が冷たくしびれた。
「おれたちは、ふたりだけだ。金もないし……親もいない。これからだって、どんなひどい目にあうかわからない。でも、そのたびに、おまえは、〈カミサマ〉をよびだして、まわりの人たちを殺すのかい……?」
兄の鼓動が、すごくはやい。
「おれたちは、ずっと自分たちのために、人を殺して生きていくのかい?」
アスラの胸の鼓動も、息苦しいほどにはやかった。アスラは、兄の胸から身をもぎはなして、首をふった。
「そんなこと、しない。わたしのカミサマが殺すのは、わるいやつだけよ!」
「でも、ただ、まわりにいただけの人だって、傷つくんだ! お兄ちゃんみたいに!」
アスラは首をふったが、さっきほど、きっぱりとしたふり方ではなかった。
「きけよ。な、アスラ。……おれたち、生きていく道をさがさなくちゃ。人にふみつけられたり、いじめられたりしないで、生きる道をさがさないとだめだ。〈カミサマ〉に、人殺しをして、たすけてもらわなくていい道をさ。大人になって、自分たちだけで生きていけるだけの、お金を稼げるようになるまで。」
アスラは、のろのろとうなずいた。
「……でも、どうしたらいいの?」
「うまくいくかどうか、わからないけど、おれ、ひとつ考えがあるんだ。たぶん、絶対むりだと思うけどさ……。」
チキサは妹にその考えをうちあけた。アスラは、だまってきいていたが、その顔にゆっくりと血の気がもどってきた。兄の考えは、アスラにも、とてもいいように思えた。
父によく似た、生まじめな目をしている兄をみあげて、アスラはつぶやいた。
「……お兄ちゃん、うまくいくといいね。」
そのとき、廊下から宿の使い|女《め》の声がきこえてきた。
「失礼しますよ。|薬湯《やくとう》をもってきたので、なかにはいってもいいかね?」
なかなかうまいロタ語だった。夕食をはこんでくれたトマという使い女の声だったので、チキサは、あわてて立って戸をあけた。盆に小さな湯飲みをのせて、トマがはいってきた。
「薬湯ですって。熱いですから、気をつけて飲んでね。飲みおえたら、この盆にのせて、廊下にだしておいてくださいな。……じゃあ、おやすみ。」
トマは火鉢の炭がじゅうぶんにあるのを確認してから、もどっていった。
チキサとアスラは、ふうふう冷ましながら薬湯をすすりはじめた。アスラは、顔をしかめながらも薬湯をほとんど飲んだが、チキサはひと口すすっただけで飲むのをやめてしまった。
「お兄ちゃん、ちゃんと飲まなきゃだめよ。」
「いいんだよ。おれは、もう具合がよくなったから。眠れば治るさ。」
にやっと笑って、チキサは立ちあがり、窓の外にのこりをすてた。
渡り廊下を厨房へむかっていたトマは、背後から声をかけられてふりかえった。
「ああ、スファルさん。きっきたのまれた薬湯、いま、あの子たちにとどけましたよ。」
「おお、どうもありがとう。」
「いえいえ。……スファルさんも、タンダさんも、えらいですねぇ。赤の他人の子らを、こんなに|親身《しんみ》にめんどうをみてやるなんて、なかなかできませんよ。あの子らは幸せ者だわ。」
スファルはてれたように手をふった。
「あの子らは、なかなか利口なのでね。これからも世話をしてやろうと思っています。さっきお話ししたように、明日の明け方に発ちますので、そのときいっしょにつれていきます。さきにおわたししておいた宿代は、たりていますね?」
「ええ、ええ。じゅうぶんでございます。また、おいでくださいね、スファルさん。」
タンダは、ほの暗い明かりの下で、今日、手にいれたばかりの巻き物を読んでいた。ロタ人の書いた薬草学の巻き物で、紙質はよくないが、内容はなかなかおもしろい。こういう巻き物を手にいれることができるのも、市にくるたのしみのひとつだった。
廊下に足音がしたので、タンダは巻き物から顔をあげた。つかのま、バルサが帰ってきたのかと思ったが、バルサの歩き方ではないことに気づいた。
「スファルだが、はいっていいかね?」
タンダは立ちあがって戸をひきあけ、スファルを部屋にいれた。
スファルは、机の上にひろげられている巻き物をみて、ほほえんだ。
「ああ、シャルトムの|薬草総覧《やくそうそうらん》か。わたしも写しを一巻もっているよ。」
「こういう薬草総覧を読んでいると、国ごとに、植物の|相《そう》がちがうのがわかって、おもしろいですね。ロタは、新ヨゴ|皇国《おうこく》と一部となりあっているけれど、植物の相は、むしろ北国のカンバルに似ているような気がします。」
スファルはうなずいた。
「新ヨゴ皇国のあるナヨロ半島は、わがロタにくらべると、大気にずいぶん湿り気を感じるよ。まあ、ロタでも南部は湿潤だが、海からはなれている北部の高原地帯は、深い森と、ぼうばくたる草原がひろがっている。そうだな、たしかに、北部はカンバルに似ているよ。」
ぼんやりと、薬草総覧に目をやっていたスファルは、やがて、タンダに視線をもどした。
「……タンダ、きみは、ずいぶん熱心に、あの兄妹の世話をしてやっているようだね。」
「わたしは、薬草師ですからね。」
スファルは、ほほえんだ。
「なるほど。傷ついている者をすくうのが、きみの仕事だからな。」
タンダは、ほんのすこし、顔をくもらせた。
「なにがいいたいんですか、スファルさん?」
スファルは、笑みを消した。
「きみは、〈タルの民〉という人びとのことを、きいたことがあるかね?」
「バルサからきいたことがあります。人里はなれた森の奥にひっそりと暮らし、ロタ人とふれあうことをさける民だそうですね。すらりと背が高くて、うつくしい人びとなのに、ロタでは、気味のわるい連中だと、きらわれているとか。」
スファルは、唇のはしをゆがめた。
「きみは、ほんとうに人のいい男だな。よその国の話でも、そういう話をきくと、その民に同情してしまうのだろう。顔にそう書いてある。」
タンダはむっとしてスファルをみた。
「いけませんか。」
スファルは笑みをうかべたまま、ため息をついた。
「いけない場合がある、ということをわかってほしいのだ。そのために、わたしは、今夜ここにきたのだよ。」
スファルは身をのりだして、声を低めた。
「もう察しているだろうが、あの兄妹は、タルの民だ。
タルの民は、外見はとてもうつくしい。――彼らとロタ人は、ほとんど婚姻をむすぶことがなかったから、祖先たちの姿形をいまもしっかりと伝えている。
そして、伝わってきたのは、|姿形《すがたかたち》だけではない。あたかも地下に流れる水のように、祖先から、とくべつな力をうけついでうまれる|異能者《いのうしゃ》が、ときおり、あらわれるのだ。」
「異能者? それは、呪術師のようなものですか?」
「いや。異能者というのは、ふつうの人はみることができぬ異界のものをみ、それにふれることができる者のことだ。
そうだな、われら呪術師も、魂ひとつになれば、異界へいくこともできるし、術をつかえば異界をみることができるが、それでも、みじかい時間しかみることができないだろう?
異能者というのは、とくに術をつかわずとも、自然にそれがみえてしまう者なのだ。」
「…それは、おもしろいな。そういえば、チャグム皇太子も精霊の卵を抱いていたとき、ふつうにナユグをみていたっけ。そういう力をもってうまれる者がいるのですね。」
スファルは顔をしかめ、きびしい口調でいった。
「おもしろいでは、すまない。異能者は、つねに災いをひきおこす可能性をひめているのだ。
異界は、ときに、ゆたかな恵みをこの世へもたらしてくれる。――だが、異界は、おそろしいモノが住む世界でもある。考えのあさい者が、気軽にふれたら、なにがおこるかわからない、おそろしい世界なのだ。……だから、おさない異能者は、とくに、危険な存在なのだよ。」
タンダは、ふいに、話の行き先がみえた気がした。
スファルは、たたみかけるように、言葉をついだ。
「子どもであるとか、うつくしいとか、それは〈|器《うつわ》〉の話にすぎない。――いいかね、タンダ。呪術師ならば、真の姿をみる目を、いつもやしなってきただろう。あどけない子のなかに、悪霊が憑いていることもある。」
タンダはスファルをみつめかえした。
「そうですね。だが、呪術師のつとめは、とり憑いた悪霊をその子からのぞき、祭りあげて鎮めることであって、あなたのいう〈器〉ごと、悪霊をつぶすことではありません。」
ゆっくり首をふったスファルの目にかなしみの色があるのに気づき、タンダはおどろいた。
「そのとおりだ。悪霊がとり憑いたのなら、呪術師たるわれらは、そのあわれな子をすくうために全力をつくすだろう。だが、あの子の場合は、そうではないのだ。
災いがひろがるのをふせぐ術がないのだよ。――あの子が生きているかぎりは。」
そのとき、廊下から足音がきこえてきた。スファルはそれに気づくと、さっと立ちあがった。そして、真剣なまなざしで、タンダをみつめた。
「タンダ。わたしはきみと、いつまでもよき友でいたい。どうか、わたしを信じてくれ。われらは、せねばならぬことをしているのだ。」
スファルがでていくのと、いれちがいで、バルサがはいってきた。髪がしめっており、湯あがりのいいにおいをただよわせている。短槍を部屋のすみに立てかけてから、バルサはタンダに問いかけた。
「スファルは、なにをしにきたんだい?」
タンダは腕ぐみをして、バルサをみあげ、いま、スファルが話していったことを、バルサに伝えた。バルサは、かわいた布で髪をふきながら、話をきいていた。
「……つまり、くぎをさしにきたわけだ。おまえたちは、なにもわかっていないのだから、自分のすることに、よけいな手出しをするなよ、と。」
「そうだろうな。」
髪をふいていた布を、四つにたたみながら、バルサはいった。
「スファルは、明日の明け方にここを発つらしい。」
「え? おまえ、なんで、そんなことを知っているんだ?」
「|湯殿《ゆどの》からここへもどるとちゅうにトマさんとすれちがったんで、立ち話をしたのさ。彼女は、わたしらとスファルが友人だと思っているからね、気軽に話してくれたよ。あんたとスファルが、赤の他人の子どもたちを親身になってみていて、えらいと、しきりに感心していた。スファルは、あの子らを、出発のときにいっしょにつれていくといったそうだ。」
バルサの目に、かすかに笑みがうかんでいた。
「で、どうするんだい?」
タンダは大きく息をすって、いった。
「笑いごとじゃないだろう。……スファルは、たぶん、あの子らを殺すつもりだ。妹を殺せば、のちの災いを断つために兄も殺す必要ができるだろうし、スファルがそれをためらうとは思えない。ふたりをあわれだとは思っているらしいが、それでも、殺すべきだという信念は、まったくゆらいでいない。」
「あんたは、どう思うんだい? スファルがいうように、あの子を殺さないかぎり、災いがひろがっていくと思うのかい。」
タンダのまなざしが暗くなった。
「おれにはね、スファルを信じている部分があるんだよ。たしかな根拠なしに、子どもを殺すような人じゃない。……おれは、あの子らを死なせたくない。だけど、自信がないんだ。知らないことが多すぎるから、まちがった判断をしないという自信がない。」
バルサは、じっとタンダをみつめた。
「じゃあ、スファルにききにいけばいい。彼が知っていることと、おなじだけ知れば、正しい判断ができると思うなら。」
タンダは顔をしかめてバルサをみた。
「……どういう意味だ?」
バルサは、ため息をついた。
「なにを知っても、判断のつらさは変わらないだろうよ。いずれにせよ、判断は、ただひとつだ。あの子らを殺すか、殺さないか。――それだけだろう?
だれが殺すかは問題じゃない。殺されるのを知っていながらみすごせば、わたしらが手をくだしたのとおなじことだ。」
タンダは、だまりこんだ。そして、長い沈黙のあとで、つぶやくようにいった。
「……だが、スファルがおそれているように、あの子が人を殺していく、災いをひろげる者であるなら、あの子をたすける者は、未来の殺人を手だすけしていることになる。殺されるかもしれない人たちだって、あの子とおなじ、ただひとつの生を生きているんだぞ。」
「だから、あの子をいまのうちに殺すのかい?」
そういって、バルサは苦い笑みをうかべた。
「いずれ災いの種になるから、殺したほうがいい、か。――そういう理屈は、いやというほど知っているよ。」
タンダは、はっとしてバルサをみた。バルサは苦笑していたが、その目は、笑ってはいなかった。ふれたら切れそうなほどの怒りが、ゆらめいていた。
「おまえなんぞ野良犬だ。|蚤《のみ》がうつるから殺したほうが人のためになる。――面とむかって、そういわれ、けとばされる子どもが、どんな思いをして生きのびるか、あんた、考えてみたことあるかい。」
「……やめろよ、バルサ。」
タンダは、低い声でいった。
バルサは、あの子らに、おさないころの自分をかさねている。その気もちは、わかりすぎるほど、わかる。けれど、その感情にのまれて、判断すべきではない。
「おまえは、身にしみて知っているはずだぞ。――他人をたすけるのが、どういうことか。他人にたすけられるのが、どういうことか。……これは|一時《いっとき》の用心棒稼業じゃない。へたをすると、一生にかかわることだぞ。情に流されて、自分をすてるな。」
バルサは右手であごをこすった。そして、うなずいた。
「そうだね。たいせつに貯めてきたもので、ひたひたに満ちている器を、ひっくりかえして|空《から》にする気がないなら、やめたほうがいい。」
バルサの目は、怒りともかなしみともつかぬ光をひめて、異様に光ってみえた。いつもはひと束にむすんでいる髪が背にひろがり、額にもかかって、濃い影をつくっている。
「……自分が、そういう|器《うつわ》をもっていることさえ気づいていなかったころは、もっと思いきりよく、心を決められたのにね。」
バルサは、部屋のすみに立てかけてある、手の|脂《あぶら》がしみこんで|柄《え》がにぶく光ってみえる短槍をみつめた。十歳のときにジグロにもらってから、ずっとかたわらにある短槍を。
それから、視線をタンダにもどした。
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5 闇へかけゆく
真夜中をすこしすぎたころ、馬にのった人影が三つ、バルサたちの泊まっている宿の裏門にはいってきた。
ねぼけまなこをこすりながらでてきた門番の少年に金をわたして、三人は、裏庭の厩舎へむかった。長旅をしてきたらしく、馬たちの背からは汗が湯気になって、ほわっと白くたちのぼっている。
彼らは馬を厩舎につなぐと、水と穀物をあてがって、いったん鞍をはずし、きれいに汗をふいてやった。だが、汗がひくのを待たずに新しい毛布を背にかけると、その上にまた鞍をのせ、|鞍壺《くらつぼ》に手綱をくるくるとまきつけて、いつでも騎乗できる準備をととのえた。
火災をおそれて、厩舎に明かりはもちこめない。よほど馬のあつかいになれているのだろう、彼らは、それだけのことを手もともみえぬ暗闇のなかでこなしてから、宿へはいっていった。
三人のうち、ひとりは女――スファルの娘のシハナだった。ヨモの宿場で、べつの街道を探索していた仲間の呪術師マクルとカッハルをみつけ、いま、もどってきたのだった。
彼らが宿にはいっていくのを、じっと屋根からみていたものがいた。――赤い首輪をつけた猿だ。三日まえに、宿のたたきにすわっていて、タンダに頭をなでられていた、こずるそうな顔をした、あの猿だった。
猿は、三人が宿にはいってしばらくたつと、するすると屋根をつたって厨房にいき、なかにだれもいないのをたしかめて、|煙出《けむだ》しの小さな穴からすべりこんだ。
厨房はきちんとかたづけられ、壁ぎわに五つならんでいる煮炊き用の|竃《かま》の火もおとされて、寒ざむとしていた。猿はまず、その竃のわきに立てかけてあった火かき棒をにぎると、器用に竃の灰をかきだしはじめた。
灰のなかには、朝になったらすぐ火をつけられるように埋めておいた炭がある。炭は、灰のなかからころころところがりでると、外の大気にふれて、ぽうっと赤い火を目ざめさせた。
それをみとどけると、猿は、迷うようすもなく、西側の壁ぎわにおかれている|甕《かめ》にちかづいて、身体を壁と甕のあいだにねじいれてから、ぎゅっと壁をけった。甕はごろんと床にころがって、なかから、どろりとした油が、床一面に流れでた。
猿は身軽にはねとんで、油をふまずに棚にのぼり、流れでた油が竃のほうへゆっくりとひろがっていくのをみまもった。
やがて、油は竃の下へとどき、赤くおこっている炭にふれて……ぼっ、と燃えあがった。
チキサは、びっしょり汗をかき、うなりながら目をさました。のどがかわいて、たまらない。そばにおいてある水がはいった土瓶に手をのばそうとして、おどろいた。身体が思うようにうごかないのだ。全身がだるくて、うまく力がはいらない。
頭がはっきりしてくるにつれて、薬を飲まされたのだと気がついた。
――あの薬湯だ。
それしか考えられない。妙な味がした、あの薬湯。
「……ア……アス、ラ!」
妹の名をよんで、身体をゆすったが、アスラは目をさまさなかった。心の臓をわしづかみにされたような恐怖が、チキサをとらえた。チキサは薬湯をひと口しか飲まなかったが、アスラは、ほとんど一杯飲んでいる。あれが毒だったのなら、もう死んでしまったのかもしれない。
チキサは、ガタガタふるえながら、アスラの鼻のところに耳をちかづけた。息をころして、必死に祈りながら、アスラの鼻の先が耳たぶにふれるくらいにちかづけて、待った。
ふわっとなにかが耳にあたった。……そして、もう一度。
(生きている!)
全身の力がぬけて、チキサはたおれて、ハァハァと息をついた。あれは、眠り薬だったのだろう。……でも、なぜ? だれが眠り薬を自分たちに飲ませたのか……。
(――タンダさんが、やったのだろうか。)
まず、そのことが頭にうかんだ。考えたくないことだが、いちばん可能性のあるのはそれだった。けれど、考えてみると、タンダが薬湯を宿の人にはこばせたことは一度もない。薬湯をはこんできたトマは、タンダからだといっただろうか……。
(――だけど、タンダさんでないとしたら、いったいだれが?)
そのとき、チキサは、悪夢をみたときのことを思いだした。ふしぎな香りのする煙をたいて、自分に悪夢をみせた人影……。
ぞっとして、チキサは身体を起こした。だれかが自分たちに悪意をもっている。――このまま、ぼうっと朝までここにいたら、なにをされるかわからない。
たすけをもとめなければ。身体はしびれているが、なんとか歩ける。
チキサは、廊下にまろびでた。
「……おまえ、薬を飲まなかったな?」
背後から、低い声がきこえたので、チキサは、どきっとしてふりかえった。
暗い廊下にすわっていた人影が立ちあがった。小柄な男だった。底光りする目でみつめられて、チキサは、あとすざった。
「あわれだが、これも運命。」
そういって、男はチキサの腕をつかみ、ひきよせざま、腹の急所にこぶしをつきいれた。気絶したチキサをスファルは軽がると肩にかつぎあげ、暗い部屋のなかにはいって床におろすと、妹のほうがしっかり眠っているのをたしかめた。
そのとき、半分あいている引き戸ごしに、むこう側の渡り廊下からの声がきこえてきた。
「……父さん。」
旅姿のシハナが、渡り廊下の欄干をつかんで、ひょいと中庭にとびおり、中庭をつっきってくる。そして、あっというまに、こちらの廊下にのぼり、部屋にはいってきた。
「どうした? すこし休むといっていたのに。」
スファルがささやくと、シハナはきびしい顔つきで早口にいった。
「感じない? どうもきなくさいにおいがするわ。――どこかが燃えているのよ。」
スファルは廊下にでて、大気のにおいをかいだ。
「……たしかに。かすかだが、におうな。」
「なんだかいやな感じだわ。はやく出発してしまいましょうよ。」
「しかし、おまえたちはついたばかりだろう。馬もつかれている……。」
「だいじょうぶよ。ね、つぎの町に宿をとってあるわ。そこまでいってから、馬を休ませましょう。」
とうとうスファルもうなずいた。
「よし。おまえ、あの娘をおぶってさきにいけ。おれは兄のほうをかついで、いったん部屋にもどり、連中に告げてくる。厩舎で会おう。」
スファルとシハナは、それぞれ子どもを抱きあげると、くるりとせおって、音もなく廊下を左右にわかれていった。
バルサは、決定的なことはひとことも口にしなかったが、いつでもうごけるように|旅装《りょそう》をととのえはじめた。それをみながら、タンダは、深い迷いからぬけだせずにいた。
やがて、タンダも旅装をととのえはじめたのは、決心がつかないからだった。
いま、あの子らをスファルの思うとおりにさせて、見殺しにすることはどうしてもできない。まちがった判断をしているのかもしれないが、もうすこし考えて、事態をみきわめる時間がほしかったのだ。
ふたりがしたくをおえたとき、突然、|早鐘《はやがね》が鳴りはじめた。二回長く鳴らしては、一回みじかく鳴らすそのつき方は、火事を知らせるものだった。
タンダは戸をひきあけて廊下にとびだした。ほかの部屋からも泊まり客が廊下にとびだしてくる。大気には、はっきりと鼻をさす煙のにおいがただよいはじめていた。
「……火事だ! 厨房が燃えているぞ!」
とおくから、そうさけぶ声がきこえてきた。
背後で大きな音がしたので、タンダは、ふりかえった。
バルサが、短槍の石突きで|蔀戸《しとみど》の四方をついている。最後にてのひらでまんなかをついて、バルサは|蔀戸《しとみど》を外へたたきおとしてしまった。
「なにを……?」
バルサはこたえずに、すたすたとちかよって、タンダの首に左腕をまわし、ぎゅっと抱きしめた。一瞬だけ視線があったが、バルサは、すぐにきびすをかえしてしまった。
そして、よびとめる間もなく、|蔀戸《しとみど》をはずした窓から外へとびだした。
タンダはあわてて窓にかけよって、身をのりだした。裏庭を厩舎のほうへかけていくバルサの姿は、あっというまに闇にまぎれてみえなくなった。
つかのま、あとを追おうかと考えたが、すぐに考えなおし、タンダは廊下にとびだして、右往左往している人びとをおしあげて、チキサとアスラが寝ている部屋へむかった。
ようやくたどりついてなかをのぞきこんだが、|夜具《やぐ》がぬけがらのように床にあるだけで、ふたりの姿はみえなかった。
煙のにおいはどんどん濃くなっている。タンダはバルサにならって|蔀戸《しとみど》をたたいてこわすと、裏庭にすべりおりた。
火事を知らせる早鐘が鳴りだしたとき、シハナは宿の裏庭にでたところだった。薬で眠っているアスラは、耳をうつ鐘の音にも目ざめるようすもなく、ぐったりと背にもたれている。
シハナは娘をゆすりあげて、厩舎にむかった。月はとうに沈んでいたが、厨房のあるあたりが赤くうかびあがって、その光で、厩舎の輪郭もぼんやりとみることができた。
煙のにおいをかぎつけたのだろう。馬たちは白目をむいて、いななき、足をふみならしている。いかに馬のあつかいになれているシハナでも、ちかよってしずめるためには両手が必要だった。
舌うちをして、シハナはいったんアスラを地面におろした。そして、自分の馬にちかづいて、低い声で話しかけながら、鞍壺にまいておいた皮紐をはずして、アスラのところへもどった。
シハナはアスラをせおいなおすと、アスラの腰の下に皮紐をとおして、自分の腹のまえでむすび、その皮紐の片方のはしで、アスラのだらんとたれた左手首をむすんだ。
それだけのことをして、馬のほうへむきなおろうとした瞬間、シハナは、闇のなかを、なにかが走ってくる気配を感じて、はっと、そちらへ身体をむけた。
帯のまえに斜めざしにしている短剣をぬきはなち、影にむかいあったせつな、風が腹からわきへ、ヒュウッ、とすりぬけた。
ビシッと皮紐が切れてはじけ、アスラが地面におちた。
風が、ヒュンッとうなって、なにかがあごをめがけて飛んできた。シハナは、かろうじてそれをよけたが、一歩さがろうとしてアスラにつまずき、地面にあおむけにころがってしまった。
反転してはね起きたとたん、けりが左の耳にぶちあたり、シハナは、一瞬にしてなにもわからなくなった。
シハナが丸太のように地面にたおれるのをみとどけると、バルサは、地面に短槍をつきさした。
そして、せおっていた|背嚢《はいのう》を腹側にまわし、アスラをせおって、アスラの足を背嚢の背負い手にとおした。それから、手首にまいていた紐をはずし、アスラの両手を自分の首のまえでむすんで、おちないようにした。
バルサは短槍を右手にもって厩舎にはいると、すでに鞍がついているシハナの馬にちかづいた。馬は興奮しきっていて、むきだしになった大きな歯と白目が、闇のなかでもうかびあがってみえる。
なんとかなだめながら、馬をひきだしたときだった。
アブがうなるような音がきこえた……と、思ったとたん、あたりが突然、燃えあがった!
一瞬、厩舎に火が燃えうつったのかと思ったが、そうではなかった。炎は、まるで意志のある生き物のようにバルサをとりまき、壁となってバルサをとじこめてしまったのだ。
馬がかんだかくいなないて、|後足《あとあし》で立ちあがり、バルサをふりはらおうとした。
手綱を必死でひきながら、バルサは、ゴウゴウと音をたててせまってくる|熱波《ねっぱ》からのがれようと、短槍をもった右手を顔のまえにもってきた。
そのとき、なにかが飛んできて、ドスンッと腹に衝撃がきた。腹側にまわしていた背嚢から短剣の柄がつきでている。……ヒュン、ヒュン、と音をたてて、つぎつぎに短剣が宙を切り、一直線にバルサにむかってくる。
バルサは、かろうじて短槍で短剣をたたきおとしたが、四方を炎がかこんでいるために、視界がまったくきかない。背後から短剣を投げられたら、アスラにささってしまう。
そのとき、馬がふいにつよく手綱をひいた。左手で手綱をつかんでいたので、わき腹の傷に激痛がはしり、バルサは馬の手綱をはなしてしまった。
炎の壁がのたうって、ちぢまってくる。熱風に息がつまり、目のまえがまっ赤になった。
と……一陣の冷風が矢のように炎の壁をつきやぶり、バルサをおおった。すっと息が楽になって、バルサは、なにがおきたのかと、まばたきをした。
目のまえにタンダが立っていた。炎がその身体をなめているのをみて、バルサは声をあげそうになった。
「――心配するな。|幻炎《げんえん》だ。」
タンダの声がきこえ、大きな冷たい手が額にふれた。とたん、目のまえの炎がうすれ、身体が楽になった。もう一方の手で、タンダは馬の手綱をにぎり、バルサの手におしつけた。
「はやくのれ!」
バルサは、さっと手綱をとると、あばれている馬の背にとびのり、脚をぐっとしめて、馬の胴をはさみこんだ。そして、手綱をひき、いっきに炎をとびこえると、目のまえにならんでいた三人の人影につっこんだ。
彼らは、あわてて左右にわかれてよけ、ひとりはうまくよけきれずに、地面にころがった。
タンダとスファルたちが争っている物音が、背後からきこえてきたが、バルサはふりかえらなかった。ふりかえったら、タンダの思いがむだになる。
しかし、心ははげしくもだえ、さけんでいた。
(――彼らは、タンダを殺しはしない。)
自分がアスラをつれて逃げきれば、タンダに人質としての価値がうまれるはずだ。……スファルなら、そう考えるはずだ。
胸のなかで、うなり、もだえている不安をむりやりおさえつけ、バルサは、ひたすらにまえをみつめて、闇のなかをかけぬけていった。
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第二章 逃げる獣 追う猟犬
1 鹿狩り
高い笛の音が、深い森のなかからきこえてきた。それにこたえるように、犬のほえる声が、木々にこだまして、ケン……ケン……と、うつろにひびいてくる。
夏場には黒ぐろとしてみえる森も、秋が深まったいまは、|木《こ》の葉が金色に変わり、ところどころ葉をおとし、すきとおった秋の陽ざしがさしこんでいる。
その森の手まえに、ぼうぼうとひろがる草原も、夏草が枯れて老人の髪のように色あせ、どこまでも、風になびいていた。
その草原に十数騎の騎馬が、すこしあいだをおいてちっている。馬にのっている人びとは、いかにもロタ人らしく脚だけで馬をあやつり、|箙《えびら》をせおい、弓をもって、森の気配をうかがっていた。
いずれも、うつくしい|駿馬《しゅんめ》にまたがり、堂々とした騎乗ぶりだったが、ひときわ目をひくのは、中央に、すっくと立っている二騎の人影だった。
光ってみえるほどに白い馬にまたがっているのが、ロタ王のヨーサム・ラマイで、そのややうしろ、青みがかってみえる|黒馬《くろうま》にまたがっているのが、ヨーサムの弟、イーハンだった。
ロタ王ヨーサムは今年四十五。めったに声をあらだてることのない、ものしずかな男で、思慮深く、情けがあつい君主として、家臣からも民からも絶大な信頼をうけている。
その弟イーハンは今年三十六。兄よりも背が高く、鞭のようにしなやかな身体つきをしている。頬骨が高く、黒髪をみじかく刈りこんだ精悍な顔つきの男だったが、その目にうかんでいるあかるい光が、顔のつくりのきつさをやわらげていた。
ヨーサムとイーハンの父である先代の王は、ヨーサムが|二十歳《はたち》になったころに亡くなっていた。はやくから王となって国の|政《まつりごと》という重責を負った兄を、イーハンは陰になり日向になり、よくたすけてきた。ふたりは、王族としてはまれにみる、仲のよい兄弟だった。
ヨーサムには、娘が三人いるが、いまだ王子を得ていない。そのために、イーハンは|王弟《おうてい》というだけでなく、ヨーサムになにかあったときには、第一王位継承権をもつ者でもあった。
笛の音と、犬の声がちかくなってきた。騎馬の狩人たちの緊張がたかまっていく。
と、森から黄色いものが、ぱっとはねだしてきた。
まっさきに獲物に気づいたのはイーハンだった。
「……兄上、でた!」
低い声でイーハンがいうと、ヨーサムも鹿をみとめて、さっと馬を|早駆《はやが》けにうつした。みごとに脚だけであやつりながら、弓に矢をつがえ、予備の矢をこぶしににぎりこんで、下にたらしてもった。
|勢子《せこ》に追われてはねだしてきたのは、りっぱな|枝角《えだづの》を誇らしげにふりたてた|牡鹿《おじか》だった。
ヨーサムの馬ほどの体躯をもつ巨大な鹿で、四方をかこまれたのに気づいているのだろう。冷たい大気に白い息を吹きあげながら、逃げずにヨーサムにむかって突進しはじめた。
地面をすくいとるように低く|角《つの》をさげて、まっすぐにむかってくる巨大な牡鹿に、ヨーサムも、ひるむことなく冷静に馬を走らせていく。
弓をきりきりとひきしぼり、放とうとした……瞬間、馬の右前足が、がくんとみじかくなった。草にかくれてみえなかった|地《じ》ウサギの巣穴をふみぬいたのだ。ヨーサムはまえにふりとばされ、一回転して地にたたきつけられた。身うごきできぬその身体に、牡鹿が容赦なくせまってくる。
四方から矢が飛び、牡鹿にささったが、牡鹿の突進はとまらなかった。
ヨーサムの顔に、牡鹿の蹄があたる寸前、ドスンというふとい音がして、牡鹿の身体が横にはねあがり、地面にたたきつけられた。
その首から、イーハンが投げた短槍がつきでていた。牡鹿はけいれんして、四肢で宙をけっていたが、やがて、うごかなくなった。
イーハンは馬からとびおりると、兄にかけよって、たすけ起こした。
家臣たちから歓声があがった。イーハンは馬を走らせながら、矢では牡鹿の突進をとめられないとみるや、弓を投げすて、鞍壺から短槍をぬきとって、牡鹿に投げつけたのだった。イーハンの腕が弧をえがき、短槍を投げた瞬間のみごとさは、男たちの血を熱くさせた。
ヨーサムは、さすがにあおざめ、息をきらしていた。弟にたすけ起こされると、彼は恥ずかしそうに、ほほえんだ。
「……ありがとう。そなたが、いてくれて、命びろいした。」
腰をさすりながら、ヨーサムがつぶやくと、
「こんな弟でも、たまには役にたてますね。」
と、笑いながら、イーハンは兄の背についた泥をはたきおとした。
「ヤルラスは……。」
王の|愛馬《あいば》ヤルラスは、まるで恥じているかのように、うなだれて、ヨーサムの肩に鼻をつけた。
「よしよし、おまえのせいではない。どこにでも穴をほりおる無礼なウサギのせいだ。」
ヨーサムは、すばやく愛馬の右足をなでて、骨折していないことをたしかめると、ほっと表情をゆるめた。
家臣たちがかけよってきて、口ぐちに気づかうのを、おだやかにうけて、王は牡鹿の角をイーハンにあたえるように命じた。
イーハンは血のしたたる枝角をうけとると、みなにかかげてみせ、歓声をあげている男たちにこたえた。それから、従者にそれをほうり、もってかえるように命じた。
しとめた牡鹿は、そのままはこぶには巨大すぎたので、四人の従者がその場で解体をはじめた。大地を血でよごさぬように、大きな|牡牛《おうし》のなめし革をしき、その上で解体していく。腹をひらくと湯気がたちのぼり、いやなにおいがあたりにひろがった。
王は、弟と、湯気がたつ肝臓をわけて食べ、家臣たちにもまわした。
ふつうなら、二、三頭狩らずに鹿狩りをやめることはないが、王の身を気づかって、今日はこれでイーハンの居城へ帰還することになった。
ヨーサムが足をいためた愛馬にのろうとせず、手綱をひいて歩きはじめたので、イーハンはあわてて自分の愛馬カラムに兄をおしあげた。そして、ヤルラスをひいて歩きはじめた。
従者たちが、あわてて馬をおりて馬をゆずろうとすると、イーハンは彼らを制した。
「おまえたちは騎乗のまま周囲をまもれ。わたしたちは、ゆっくり話しながら歩いていく。」
従者たちは一礼して、イーハンの言葉にしたがって、さっとちり、周囲をかこんでうごきだした。
イーハンは大股に歩きながら、馬上の兄をみあげた。
「兄上が都へ帰られると、さびしくなります。南はまだあたたかいでしょうが、毎年、兄上が秋の狩りをたのしまれて帰還されると、わが所領は木枯らしが吹きはじめるのですよ。」
「去年は、ラクルやヤクシルなど北部の地方では|狼《おおかみ》の害がひどかったな。」
イーハンの歩幅にあわせて馬を歩かせながら、ヨーサムがいった。
「ええ。今年も、北部地方の各氏族長から、すこしずつ被害の報告がはいってきます。今年は麦のできはまあまあでしたが、マハン(白い毛の羊)に病がはやって、ずいぶん死にましたからね。そのうえ、狼にやられたのでは、今年の冬はへたをすると北部では飢え|死《じ》ぬ者がでるかもしれません。」
はりのある声でイーハンはこたえた。
「北部の氏族長たちに、王国へおさめる税を軽くすると伝えようと思うのですが。
同時に、今年も豊作だった南部の大領主からは、すこし税を多く徴収して、北部への援助にしていただきたいのです。」
ヨーサムは苦い笑みを唇にうかべた。
「そなた、また、大領主たちから反感をかうぞ。」
イーハンは鼻で笑った。
「そんなことは、いまさら気にもなりません。氏族長たちは、自分の氏族領のようすを知っているから、ほっとすることでしょう。王家の親族である血筋をほこって優雅に都であそびくらし、南部のゆたかな氏族たちに寄生している大領主より、彼らのほうがよっぽど大事です。実際にこの国をささえているのは彼らですから。」
そういって、イーハンは笑みをひめた目で兄をみあげた。
「サンガルの王子の奥方が、そろそろ出産されるころでしょう。もし男児だったら、来年は|早《そう》そうに、サンガル王家の即位式がある可能性が高い。来年の出費を考えると、われら王家も、今年はくるしい冬をすごすことになります。――尊い血をひくからには、大領主たちにも、われらとおなじ苦しみを、わけあってもらいましょうよ。」
ヨーサムの頬に笑みがひろがった。
「ならば、そなた、明日から狩りに専念するのだな。王家の食い扶持を稼いでくれ。」
兄の冗談をきくと、イーハンはうれしくなる。兄は、家臣のまえでは気楽な心のうごきをみせることはない。こういう兄の一面を知る者は、ほとんどいないのだ。
「それはだめですよ、兄上。これ以上、森の兄弟(狼のこと)の食い扶持をかすめとると、害がますますひどくなる。」
そういってから、イーハンは真顔にもどってつけくわえた。
「それから、まえからお話ししていたことですが、これを機に、シャハン(茶色の毛の羊)をもっとふやすように、各領主にふれをだしたいのですが。」
イーハンは、低い声で言葉をついだ。
「シャハンは、今年、羊たちのあいだに大流行した|羊熱病《ようねつびょう》につよい。いまのうちにシャハンをふやしておけば、また羊熱病がはやっても、被害を軽くすることができます。
気候が温暖な南部の穀倉地帯とちがって、北部は、シク牛と羊、山羊にたよるしかないのです。これ以上、南部と北部の貧富の差がひろがるのは、王国のためによくないと思います。いま、北部をなんとかする手を打つべきでしょう。」
ヨーサムは、弟をみおろした。
「……おまえが、まえにその話をしたとき、わたしがいったことは、おぼえているな?」
イーハンは、顔をひきしめて、うなずいた。
まえにも、イーハンは羊熱病の被害をへらすために、シャハンをふやすべきだと兄に進言したことがある。そのとき、ヨーサムは、時機をしっかりとみきわめて、くれぐれも、慎重に|こと《ヽヽ》をはこぶようにイーハンをさとした。
ロタ人は、雪のように白いマハン(白い毛の羊)を好み、泥のような茶色い毛がまじっているシャハンを、穢れた羊だといってきらう。毛が茶色でも羊毛の使いようはあるし、乳や肉の味はむしろシャハンのほうがよいくらいだが、好みというのは、そういう理屈では、なかなか変えられないものだ。
だが、ヨーサムが、この問題にことさら気をつかうのには、もうひとつ深い事情があった。ヨーサムは、弟の評判を気づかったのだった。
まえに、兄が、そのことにふれたとき、イーハンは、こういって笑いとばした。
「王弟は、変わり者を好む、か! ――くだらぬことで、わたしを愚弄したがる者たちには、させておけばいい。わたしは、気にしません。」
十数年まえ、イーハンは、森の奥に、ひっそりと暮らす、〈タルの民〉の娘と恋におちたことがある。
辺境の城塞に巡視にでかけていて、突然の吹雪にあい、家臣たちとはぐれたイーハンは、森のなかで凍死しかけていたところを、〈タルの民〉の家族にたすけられたのだった。
その家族は、タルの民のなりわいである、|罠猟《わなりょう》をして暮らしていた。イーハンは吹雪がやむまで、彼らの粗末な小屋ですごすことになった。
イーハンは、それまで、まぢかに〈タルの民〉をみたことがなかった。ごくまれにみかけることがあっても、彼らはすぐに顔をふせ、頭巾で顔をおおってしまうので、なんとなく、うすぎたない印象しかもっていなかった。
だから、このとき、凍傷にかかりかけていた自分の手足を必死に雪でこすり、親身に看病してくれた〈タルの民〉の娘をまぢかにみて、イーハンは心底おどろいたのだった。
その娘は、白い花のようにうつくしい顔だちをしており、澄んだ目をしていた。うすぎたないどころか、貧しい罠猟師の娘でありながら、凜とした気品さえ感じさせた。
|歌語《うたがた》りでは、ひとめで恋におちる話が好まれるが、イーハンはそれまで、そんなことがあるわけがない、と笑いとばしていた。人と人は、ゆっくりと語りあい、ふれあうなかで、たがいの心を知るものだ。ひとめで恋におちるということは、その者の容姿だけで惚れたということではないか。そんなあさいものは、ほんとうの恋ではないと、つねづね思っていた。
しかし、このとき、イーハンは、まぎれもなく恋におちたのだった。タルの娘の瞳をみたとたん、全身が燃えるように熱くなった。そばにいなくても、その娘のことを一瞬でも考えただけで、心の臓がはげしく脈うつ。そんな恋におちてしまったのだった。
だが、それは、けっしてゆるされぬ恋であることを、イーハンは知っていた。
王弟として、ふつうのロタ人より、はるかに深く、〈タルの民〉のことを知っていたからだ。
ロタ王家が、国政の表舞台にたっている者であるとするなら、〈タルの民〉は、ある理由から、二度と政治にかかわらぬことを誓い、みずから陰に身をひき、ひっそりと生きてきた者たちだった。……タルの民の祖先と、ロタ王家の祖先は、深くひめられた歴史の奥底で、複雑にからみあっていたのである。
だが、イーハンは、もともと、そういう歴史だの、由来だのというものに、あまりこだわらないたちだった。大事なのは、いま、このときだと、つねづね思っていた。
状況は、どんどん変わっていくものだし、変えることだってできる。そういうものだ、と、彼は、思って生きてきた。
そのうえ、イーハンは、まわりの人びとの評価にこだわらないところがある。自分がよいと思えば、ほかの者がけなそうと、批判しようと、気にしないのだ。
だから、吹雪がやんで城塞へ無事帰還したとき、イーハンは帰還をよろこぶ家臣たちに、自分をたすけてくれた家族のこと、娘が花のようにうつくしかったことを、率直に話してしまった。それだけではない。その後も、足しげく、娘のもとにかよいつめた。家臣がなんといおうと、耳をかさなかった。
これがイーハンの評判に、思わぬきずをつけることになった。
以前から、イーハンが、それまでの慣例を無視し、さまざまな改革をすることに腹をたてていた大領主たちは、この噂をききつけると、これさいわいとイーハンの評判をきずつけるために利用したのだった。
くだらぬ中傷など気にしないという豪胆な弟を、ヨーサムは表情をまったくうごかさずにみつめていたが、やがて、いつに似あわぬ、きびしい口調でたしなめた。
「たしかに、くだらぬ中傷だが、こういうくだらぬことが、なにかの拍子に思わぬ深刻なきずを人にあたえることがある。――それを、けっしてわすれるな。」
イーハンは兄の口調におどろき、それまで笑いとばしていたことを、もっと真剣に考えてみる気になった。
イーハンも二十歳をすぎ、それまで気づかなかったことがすこしずつ、みえるようになっていた。彼は、兄の言葉に重い真理がふくまれていることを、彼なりにさとった。――もっとも、それで、みずからの行動を控えようとは思わなかったが、すくなくとも、気をつけるべきだと考えるようになったのだった。
それでもなお、イーハンは、娘との恋をあきらめる気はなかった。タルの民を妻にしてはいけないという王国法はない、といいきって、周囲をおどろかせた。
ふだんは温厚で、弟に大声をあげたことのない兄王ヨーサムが、このときだけは自室によびつけて、弟をしかりつけた。
「王家とタルの民が、むすばれてはならぬわけを、おまえは、よく知っているはずだ。
自分の恋のために、王国をあやうくするつもりか!」
イーハンは、激怒している兄に、正面からさからった。
「タルの民のなかに、おそろしい神を招く力をひめた〈異能者〉がうまれる、という話は、もちろん知っています。そういう者が、恐怖をもって国を支配することが二度とおきないように、タルの民は、みずから、陰に生きる者になったのだということも。」
イーハンは、紅潮した顔でいった。
「それに、王族であるわたしが、タルの娘をめとったら、王家に異能者の血がまじる、と、おそれる者もいるでしょう。それは、よくわかっています。
だが、タルの民すべてが、そういう力をもってうまれてきているわけではありません。わたしが愛している娘は、ごくふつうの娘なのです。」
ヨーサムは、ゆっくりと首をふった。
「そんなことは関係ない。問題は、その娘が、どうこう、ではないのだ。
タルの民と王家の婚姻は、あってはならぬことだ。――それに、人びとの感情もある。」
イーハンは、みるみる顔を紅潮させた。
「もし、タルの民であるというだけで、あの娘がおとしめられるなら、そういう|人心《じんしん》を変える努力をするのが王族のつとめです。前途に困難があるからと、ゆく道を変える気はありません。ゆく道のさきに苦難があるのなら、それを変えてみせます!」
しかし、イーハンの恋は突然おわりをつげた。――タルの娘が消えてしまったのだ。
イーハンはくるったようになって、|八方《はっぽう》手をつくして探したが、娘の行方を知ることはできなかった。絶望に暗く沈んでしまった弟に、ヨーサムがいった。
「おまえは、娘の気もちを考えてみることがあったか?
おまえの妻となったら、その娘は王族として暮らさねばならぬ。禁忌をやぶったといいつづける王族たち、そして、タルの民をさげすむロタ人のあいだで、一生を針の|筵《むしろ》の上で暮らさねばならぬ娘の気もちを、おまえは考えたか?」
兄の言葉は、若かったイーハンの胸をつらぬいた。
それから十五年以上の時がたち、王族のつとめとして妻をめとり、|一男一女《いちなんいちじょ》を得たいまも、イーハンの心の底には、あのタルの娘の面影がねむっている。しかし、イーハンは、もはや、熱情にまかせてつきすすめば、すべてがかなう、と思うほど若くはなかった。
ただ、タルの娘との恋は、イーハンを、大きく変えた。
イーハンの目には、タルの民は、もはや、|森陰《もりかげ》にひそむ気味のわるい〈|異人《いじん》〉ではなく、笑いもすれば、泣きもする、血のかよった人として映るようになっていたのだ。
そうなってみると、いままでみえなかったことが、目につくようになってきた。
タルの民が家のそばをとおると、大声で子どもたちを家によびいれ、戸をとざすロタ人たち。市場に毛皮を売りにきたタルの民を、けぎらいし、冷たくあしらう商人たち……。
自分が王族として政をおこなっている、この国で、虐げられ、きらわれながら生きている人びとがいることに、イーハンは、はじめて、気づいたのだった。
ロタとタルのあいだの深い|溝《みぞ》。――だれかが、これをうめる努力をはじめるべきだ、と、イーハンは思った。王族である自分とタルの娘が恋におち、別れざるをえなかった、この運命には、むなしさや、かなしみ以上の意味があると思いたかった。
それから、彼は、さまざまな改革を、手さぐりではじめていった。
タルの民というだけで、彼らをさげすむロタ人の心を、すこしでも変えていこうという思いは、いまも、変わっていない。しかし、年をとるにつれて、だれかをさげすみ、憎む心というものが、いかに変えがたいかを、イーハンは思い知るようになっていた。
イーハンは、馬上の兄をふりあおいで、たずねた。
「……兄上は、シャハンをふやすのに反対ですか?」
ヨーサムは、しばらく考えていたが、やがて、いった。
「いや。――わたしも、これがよい機会だと思う。この命令は、おまえからではなく、わたしの勅命としてだそう。」
イーハンの顔が輝いた。
「ありがとうございます、兄上! さすがは、わが兄上だ。羊熱病がはやろうと、狼がふえようと、兄上が王であられるかぎりは、ロタは安泰だ。」
イーハンは、あかるい口調でいったのだが、そのとき、ヨーサムの顔がふっとくもった。
「……兄上?」
「安泰か。――わたしは、いつまでロタをささえていられるだろうな。」
ヨーサムの声はいちだんと低くなり、イーハンにさえ、よくききとれぬほどだった。
「なんとしてでも国力を安定させねばならぬ。シャハンをふやしても、さほど大きな変革にはならぬだろうが、おまえがいうように、南部と北部の格差をこれ以上ひろげてはならぬ。南部の大領主たちが、自分たちだけがロタ王国の代表だという思いちがいをせぬように。」
イーハンは、ぼんやりと宙をみすえている兄をみあげた。
「大領主たちが、なにかいってきたのですか?」
ヨーサムは苦い笑みをうかべた。
「彼らは、一度だめだと決定した話を、何度も蒸し返してくる。いささか、つかれたよ。」
イーハンの目に怒りの色がうかんだ。
「ツーラム|港《こう》の話ですか! 南部の大領主どもは、まだ、あの話をあきらめていないのか!」
半年ほどまえ、海の彼方、南の大陸で勢力をのばしつつあるタルシュ帝国が、ロタに使者を送ってきた。
南の大陸との交易は、すべてサンガル王国をとおしておこなわれているのだが、ロタ王国南部のツーラムという港をタルシュ帝国との交易のために開港してくれれば、サンガル王国をとおすより、はるかに安価な交易を約束するといってきたのだった。
タルシュ帝国からロタ王国までの海路は、かなりの距離がある。だが、二年まえに、タルシュ帝国は隣国のカラル王国を配下におさめており、スガル|海《かい》に点々と浮かぶ島も、いまは、タルシュ帝国の支配下にある。スガル海を北上する海路をとれば、タルシュ帝国からロタ王国までは、とおくても、島づたいに、なんとかこられる距離になったのだ。
スガル海がタルシュ帝国の手におちても、ロタ王国の支配者層は、さして不安には思っていなかった。サンガル王国の諸島群とちがい、スガル海には、それほど島はない。海を攻めのぼってくるには、とてつもない資金と時間をついやさねばならない。タルシュ帝国が、ロタを攻めるために、そんなむだなことをするとは思えなかったからだ。
だから、交易港をひらいてくれという話に、南部の大領主たちは、とびついたのだった。
「港をひとつひらいたからといって、タルシュ帝国がロタを攻める足場になぞ、なりませんよ。」
と、大領主のひとりであるアマンなどは、つばをとばして熱弁をふるった。
「サンガル王国をとおしての交易ではなく、ゆたかな南の大陸と直接交易をすることができれば、利益は、はかりしれません! 国の発展を第一に考えるべきです。」
だが、ヨーサムは氏族会議で、開港反対をつらぬきとおした。
ロタ王国は、新ヨゴ|皇国《おうこく》のようなすばらしい絹織物や陶器などを生産する技術はない。カンバル王国のような宝石もない。ロタ王国の商品で、南の大陸の人びとが欲しがるものといえば、鉄鉱石などの資源ぐらいなものだ。これは、ロタ王国を支配し、ここで鉄製品に加工するならともかく、重すぎて運搬には適さない品だ。
毛皮と羊毛なら軽いから海運に適しているが、これとて、はるかな海路を北上してくる費用を考えれば、サンガルをとおしての交易より利がうすい。
つまり、わざわざロタ王国と直接交易しても、タルシュ帝国にはなんの得もないのだ。だとすれば、タルシュ帝国がこんな話をもちかけてくる意図は、べつにあると思うべきだ。
ツーラム港を補給港と考えるなら、彼らには利益がある。あそこを足場にして、南北をむすぶ海路をととのえていくことができるからだ。
これだけとおければ危険がないと油断させておきながら、ひとつひとつ、雨粒が石をうがつように地道なやり方で、交易という足場から、やがて海路をととのえ、攻めのぼる基礎をつくる。――タルシュはそう考えているにちがいない。
もうひとつ、タルシュ帝国の申し出をうければ、サンガル王国との関係があやうくなる。これまで良好だったロタとサンガルの信頼関係に溝ができれば、これもタルシュ帝国にとってはありがたいことだろう、と。
ヨーサムは、つぶやいた。
「この時期に、サンガル王国を訪問できるというのはありがたい。これを機に、両国の関係をより深めておかねば……。」
そういって、ヨーサムは弟をみた。
「わたしが外交をおこなっているあいだ、国の内側を、しっかりまとめておいてくれよ。」
イーハンは顔をひきしめて、うなずいた。
「南部の大領主どもは、北部をお荷物としか思っていない。南部と北部どちらの氏族も対等であるように、ひとつの王国としてむすびつけるのが、われら王家の役目だとこころえています。」
そういいながら、イーハンもヨーサムも、心のなかで、不安を感じていた。
ヨーサムの目が黒いうちは、王家への謀反がおこることはないだろう。だが、ヨーサムになにかあったら、南の大領主たちを、イーハンがまとめていけるかどうか……。
能力の問題ではない。北部の氏族に絶大な人気があるイーハンだが、南部の大領主たちからはきらわれている彼には、ヨーサムのような王国全体をまとめられる人望がないのだ。
兄弟は、しばらくだまりこんで、露にぬれた|下生《したば》えをふんで歩いていった。
ヨーサムが、ふと、口をひらいた。
「そうだ。もうひとつ、そなたにたしかめようと思っていたことがあった。
シンタダン牢城の件、その後、なにか知らせはあったのか?」
イーハンは、首をふった。
「いいえ。スファルたちが事情をさぐっていますが、まだ、知らせはきていません。」
「そうか。」
ヨーサムは、馬の|蹄《ひづめ》が落ち葉をふむ音をきいていた。
「禁域にはいった女が処刑されて、処刑をみていた者が、信じられぬ死に方をした。」
ヨーサムが、つぶやいた。
「スファルたちが、必死で真相をさぐるのもうなずけるな。」
イーハンは、兄をみあげて、苦笑した。
「おそろしきタルハマヤが、女のよびかけにこたえて、あらわれたとでも……? まあ、スファルはカシャル〈猟犬〉ですからね。なんにでも、タルハマヤのにおいをかいでしまうのはむりもないが、処刑された女は、神を招く能力がある異能者ではなかったのでしょう?」
「そうきいている。わたしは、あのとき、スファルから異能者ではなく、ふつうの女なので、禁忌をおかした狂人として、シンタダン牢城で処刑する――と、報告をうけた。」
「ならば、やはり、あれは狼の群れのしわざだったのでしょうよ。わたしは、そう思いますね。」
ヨーサムの顔にも、苦い笑みがうかんだ。
「まあ、いずれにせよ、すでにその女は処刑されたわけだ。そちらのほうは、さしせまった危険はないと思って、よいのだろうな。」
ロタ王が鹿狩りをしていたころ、おそろしい惨事がおきたシンタダン牢城からほどちかい、深い森の奥でも、一頭の鹿が、四人の|罠猟師《わなりょうし》によってしとめられていた。
罠猟師が、四人がかりで抱きあげてはこんでいる鹿は、無傷で、しかも、まだ生きていた。鹿の習性を知りぬいている彼らは、鹿たちが好んでなめにくる岩塩がむきだしになっている崖の、鹿の舌の跡がついているところに、チャツというしびれ薬をぬっておいたのだ。
チャツは、めったにみつからない草から、ごく少量しかとれない秘薬だ。ふだん鹿を獲るときには、つかうことはない。だが、この鹿はとくべつだった。――タル・クマーダ〈陰の司祭〉からたのまれた、タルハマヤ神への|供犠用《くぎよう》の鹿なのだ。この鹿をほふるのは神に仕える司祭であり、それまでは、傷をつけることすらゆるされない。
罠猟師たちは、〈タルの民〉だった。ふだんは森の奥深くに暮らし、年に数回だけ、ロタ人の氏族領の外にたつ市に毛皮や干し肉を売りにいく。ロタ人は、森を、狼や魔物がすむところとしておそれ、とくに森の深部にちかづくことはない。だから、〈タルの民〉は、ほとんどが、こうして王国各地にひろがる森の奥で、ひっそりと暮らしているのだった。
罠猟師たちが鹿をはこんでいる森は、ロタ王国の北部に、東西にほそながくひろがる、シャーン〈おそろしき森〉とよばれる、とくべつな森だった。
シャーンの東のはしは、ここ、シンタダン牢城にほどちかい森からはじまり、中央には、太古のむかし、都があったとされる|禁域《きんいき》の森があり、西のはしは不毛の地へとつづいている。
シャーンの|東端《とうたん》にあたる、この森の南側、森がとぎれて、草原がはじまるあたりには、ロタ人がアファール|神《しん》を祭る巨大な神殿があった。この神殿では、朝と夕べに、ロタ人の司祭たちによって、果物や穀物が神に供えられている。
だが、神殿の裏側の壁に、〈開かずの門〉があることを知っているロタ人は少ない。
それは、ほんとうの門ではなく、壁にえがかれた|文様《もんよう》である。これは神殿の背後にひろがるシャーンから、〈おそろしき神〉がでてこないように封印するためにえがかれた模様だった。
王国の東から西にかけて、三つあるアファール神を祭る神殿は、すべて、シャーンの|森境《もりざかい》に位置していることを考えれば、これらの神殿は、シャーンから〈おそろしき神〉がでてこないように封印するためのものだということが、よくわかる。
そして、シャーンの奥には、いくつかの、べつの神殿があった。これは、タルの民の、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちによってまもられている神殿であった。
罠猟師たちは、鹿を谷川にはこびおろした。ほそい清流がチャプチャプと小石をあらっている河原に、茶色の衣をまとった|十《とお》の人影が待っていた。ふたりの老婆と三人の老人はタル・クマーダ〈陰の司祭〉、その背後につきしたがっている五人の男女はラマウ〈仕える者〉で、いずれも、彫りの深い顔だちをしている。
タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちは、罠猟師たちに指示して、いったん鹿を河原におろさせた。それから全員で鹿をかこみ、両手で清流から水をすくうと、その水を鹿にそそいできよめた。
そして罠猟師たちに合図をして、鹿をもちあげさせ、彼らをかこんでゆっくりと、|木立《こだち》のあいだにほそくのびる道を歩きはじめた。
歩くにつれて、頭上で、ざわざわと木々の枝がゆれる。タルハマヤ神の神殿をまもる猿たちが、紅葉した木の葉のあいだから、彼らをみまもっているのだ。タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちがこうして神殿をおとずれて儀式をおこなうと、猿たちは|供物《くもつ》にありつくことができる。だから、彼らは警戒の吠え声を発することもなく、行列をしずかにみおろしていた。
神殿にちかづくにつれて、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちと罠猟師の顔は、しだいにこわばり、緊張にあおざめていった。
タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちは、神殿がちかづいてくるにつれて、胸をしめつけられるような思いにとらわれていた。ここにくると、ほんの少しまえにおこったできごとを――そして、自分たちが下さざるをえなかった、きびしい判決を、思いださずにはいられないからだ。
禁域に侵入し、禁忌をやぶった罪で処刑されてしまった女性――トリーシア。
彼女には、チキサとアスラという、まだ、十四と十二の、おさない子どもがいた。タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちも、できることなら、処刑されぬよう、はからいたかった。
だが、彼女がおかした罪は、タル・クマーダ〈陰の司祭〉にとっては、けっしてゆるすことのできぬ罪だったのだ。
母をうしなったふたりの子どもたちは、シンタダン牢城から消えてしまったという。孤児になり、タルの仲間にもどることもできないおさない兄妹たちは、いま、どこをさまよっているのか。生きているのだろうか。
司祭たちは胸の底に冷たい石をかかえているような思いをいだいて、神殿の森のなかをうつむいて歩いていた。
トリーシアは、十六年まえ、ふいにこの森にやってきた。言葉すくなに、身内をすべて事故でうしない、天涯孤独になってしまったと語ったトリーシアに、司祭たちは、小さな小屋をあたえ、神域の森に住まわせたのだった。
〈タルの民〉は、ときにロタ人の暴力にさらされることがある。トリーシアのように、身寄りがなくなった者が、ロタ人のよりつかぬ森の奥へ、タル・クマーダ〈陰の司祭〉をたよって逃げこんでくることは、さしてめずらしいことではなかった。
そのころのトリーシアは、ひきこもりがちの、口数の少ない女性ではあったが、おだやかで賢い人だった。
それが、数年まえから、まったく人が変わったようになってしまったことに、司祭たちは、うすうす気づいていた。
それまで、しずかに司祭たちの説話をきいていたトリーシアが、あるときから、説話をきくのをいやがるようになった。集会にもこなくなり、子どもたちを、〈教えの場〉につれてくることもなくなってしまった。
そして、とうとう、おそろしい罪をおかしたのだ。禁域の墓へしのびこむという……。
彼女が処刑されたときの惨事、あれは、おそろしき神タルハマヤのしわざとしか思えない。伝えきいた現場のようすはすさまじく、タルハマヤ|神《しん》の殺戮の力に、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちは心底おびえていた。
けれど、一方で、彼らは、どこか違和感もおぼえていた。
タルハマヤ神を招いたということは、トリーシアが、チャマウ〈神を招く者〉の力をもっていたということになる。禁域の墓のなかで、トリーシアは、その力を得たのだろうか?
タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちには、どうもそれがふにおちなかった。――トリーシアは、異能者ではなかった。それだけは、まちがいない。トーリーシアが異能者であったなら、異能者であるタル・クマーダ〈陰の司祭〉たちに、わからなかったはずがないのだ。
異能者は、心でふれあえる。言葉のように、はっきりと意思は伝えられないが、なにか、感じられるのだ。
だが、トリーシアからはなにも感じられなかった。……ただ、彼女の娘アスラは、たぶん異能者であろうと、多くの司祭たちが予感していた。
異能者はまた、ふつうの人がみることのできない風景を、みることができる。
この世にかさなった、神がみの世界を、ぼんやりとした、ゆらめきのように、みることができるのだ。
太古のむかし、この地を恐怖で支配した者が異能者であったことから、異能者であるとわかった子どもは、神殿のそばの聖域に集められ、一生を神に仕えてすごす、ラマウ〈仕える者〉にされるのがしきたりとなった。
きびしい戒律をまもり、結婚して子孫をのこすこともなく、ただ聖域の森で生きる暮らし。
司祭たちは、十四歳でラマウ〈仕える者〉になり、聖伝を暗唱し、儀式を習い、心の平安を得る方法を学んで、四十の年には、タル・クマーダ〈陰の司祭〉となる。
たしかに、なんの刺激もない暮らしだが、この世の平安をまもるという、意義のある人生を歩むことができる。
だが、子どもが異能者だとわかったら、親たちはうろたえるものだ。
トリーシアは、アスラをラマウ〈仕える者〉にしたくなくて、あんなことをしたのではないかといった司祭がいたが、ほかの司祭たちは、納得しなかった。
たったそれだけのことで、禁域にしのびこんで、おそろしい神を招く力を得ようとするなどと、思うはずがない。
アファール神に仕え、おそろしきタルハマヤ神の来訪をふせぐために、その一生をささげているタル・クマーダ〈陰の司祭〉たちでさえ、神殿にちかづくと、鳥肌がたつほどにおそろしいのだ。その奥の禁域へはいろうなどと思ったトリーシアの気もちは、だれにも、想像もつかなかった。司祭たちには、トリーシアはくるっていたのだとしか思えなかった。
鹿をかかえた罠猟師たちと、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちは、うす暗い森のなかを、もくもくと歩いていく。
やがて、道の奥に、三本の|巨木《きょぼく》がみえはじめた。人の背丈の五倍はあろうかという巨大な岩をかこむ三本の巨木。岩の中央には割れ目があった。その割れ目は、人ひとりがとおれるほどの大きさで、奥はまっ暗でみとおすことはできず、闇へといざなう道の入り口のようにみえた。巨木の根は岩と大地をぬいつけ、根も岩も暗い緑の苔をまとっている。
岩の割れ目のまえに、みがきあげられた黒い|板石《いたいし》の祭壇がしつらえられている。この、岩の割れ目が、タルハマヤ神の住まう〈聖なる川〉に通じるとされる神殿だった。
神殿の奥には、墓がある。はるかむかし、残酷な神とひとつになった者の墓が。そこは、けっしてたちいってはならぬ禁域だった。――そして、ここが、アスラの母トリーシアがしのびこみ、禁忌をやぶるという大罪をおかした場所だった。
白い日の光が、水流のように巨木をつたって、岩にふりそそいでいる。
彼らは、神殿のかなり手まえで足をとめた。そして、おそるおそる神殿に目をやった。
岩の割れ目の、内側のピクヤ〈神の苔〉が、ぼうっと青白く輝いている。
ある部分が光ったかと思うと、そのすぐ上まで光り、やがて光る部分は下へ波うっておりては、また、あがる。まるで、目にみえぬ波にあらわれているように、光はいっときも休むことなく波うっているのだった。
その苔の光がゆらめくことで、そこに目にはみえぬ水面があることが、ありありと感じられた。いずこからか流れきたり、いずこかへと流れゆく、そこにあるはずのない、この世ならぬ水面が、青白く光りながらたゆたうている。
秋も深まり、いつもの年ならば、茶色く枯れはじめているはずのピクヤ〈神の苔〉が、その流れにあらわれている部分だけは、精気に満ちた、みずみずしい緑色に輝いている。
タル・クマーダ〈陰の司祭〉と罠猟師たちは、この奇跡を、声もなくみつめていた。ほんの半月ほどまえに、はじめて、聖なる川が流れきていることに気づいた者は、おどろきのあまり、身うごきもできぬほどだったという。
はるか太古のむかしから伝えられてきた聖伝によれば、この目にみえぬ川は、この世のむこう側にある、とほうもなくゆたかで、|峻烈《しゅんれつ》な雪の峰がそびえる神がみの世界〈ノユーク〉から、流れきた雪どけ水なのだ。
すべての世界を創造した母なる神アファールは、〈ノユーク〉の四季のめぐりもつかさどっている。
〈ノユーク〉が春になると、アファール神は、ぼうだいな雪どけ水を大河にして、その、ゆたかな滋養に満ちた水を、ほかの世界に流し、恵みをわけあたえるのだといわれていた。
はるか、人の記憶にないほどの太古のむかしから、人が数世代かわるほどの時をおいて、たびたび、この目にみえぬ聖なる川が、ロタの大地へと流れてきた。
目にはみえなくとも、〈ノユーク〉から流れきた川がうるおした大地は、それまでより緑が萌え、麦もゆたかにみのったといわれている。
北の大地でも、ピクヤ〈神の苔〉に滋養ゆたかな実がつき、それを獣たちが食べてふえたので、狼も飢えず、冬でも家畜をおそわなかったという。
はるかなる、この世のむこう側〈ノユーク〉が、いままた春をむかえたのだろう。神がみの世界の春はながく、百年はつづく。――この川は、これより百年のあいだ、この地をうるおすだろう。
しかし、この異界から流れくる恵みの川は、また、アファール神の|鬼子《おにご》、タルハマヤ〈おそろしき神〉が、流れにのって寄りくる、災厄をひめた川でもあった。
タル・クマーダ〈陰の司祭〉のひとりが、顔をふせ、ふるえながらつぶやいた。
「ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉……。おお、われら、心から祈りたてまつりまする。どうか、タルハマヤ〈おそろしき神〉を鎮めたまえ。川よりこの地へおとずれることのないよう、鎮めたまえ……。」
すり足で祭壇にちかづいた彼らは、前回|供犠《くぎ》の獣をささげた跡を、血の気のない顔でみつめた。供犠の獣は、すでに猿たちにとられて消えていたが、血が流れた跡がある。
司祭たちは、罠猟師に、鹿を祭壇にのせるように命じた。
「われら、あたたかき鹿をささげまする。――どうか、この血にて、タルハマヤ〈おそろしき神〉を鎮めたまえ。」
いっせいに司祭たちは|聖句《せいく》をとなえはじめたが、ふいに、ひとりの司祭が、なにかに目をとめて、息をのんだ。
「あ……あれを、あれをみよ。」
ほかの司祭たちが、眉をひそめて、彼がみているほうをみやった。やがて、ひとり、またひとりと、それに気づいて、目をみひらいた。
目にみえぬ川のさざ波をうけて光っている苔の一部に、赤い|滴《しずく》がしみだしている。ぽつ、ぽつと、数か所が赤く光っている。
司祭たちの顔が、それまでよりさらに白くなった。
「なんと……あれは、|しるし《ヽヽヽ》か……?」
ささやく声に、ほかの声がかさなった。
「そうだ。たしかに、|しるし《ヽヽヽ》がしみだしている。」
「ということは……チャマウ〈神を招く者〉は、まだ生きているのか?」
司祭たちは、凍えたように身をふるわせた。たったいまささげた犠牲の鹿の血であるはずもない。――ということは……。
「まさか。チャマウ〈神を招く者〉の死体は、シンタダン牢城でみつかっているのだぞ。」
司祭のひとりが、ささやいた。
「シンタダンで彼女が処刑されたとき、たしかに、神殿の苔は一面にしるしの|滴《しずく》でまっ赤にそまった。――あれは、彼女の、チャマウ〈神を招く者〉として最初で最後の力の発現であったのだと思っていたが……。これは、いったいどういうことなのだ……?」
年老いたタル・クマーダ〈陰の司祭〉たちは、おののいて、くいいるように、その異様な赤い滴をみつめていた。
彼らの背後で顔をふせているラマウ〈仕える者〉たちの口もとには、こらえきれぬ笑みがうかんでいた。
うろたえている司祭たちとは、まったく逆に、ラマウ〈仕える者〉たちの、ふせた目には、期待に満ちた光がゆれていた。
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2 |老獪《ろうかい》な獣
タンダは、安宿の、うす暗い部屋のなかにすわっていた。手首を後ろ手にしばられているので、背も腕も痛くてたまらない。もっとも、|菰《こも》でくるまれて、荷物のように馬の背にのっけられ、馬が走る振動をもろに腹にうけつづけるよりは、ずいぶんましだ。
スファルは、よほど腹をたてていたのだろう。あまりの苦しさに、タンダがはいても、うめいても、新しい宿場につくまで、いっさいかまわずに馬を走らせた。おなじあつかいをうけていたチキサは、まだ起きあがることもできずにうめいている。身体をさすってやりたいが、柱と身体をつないでいる縄は、やっと横になったりすわったりできるほどの長さしかなく、部屋のむこう側にたおれているチキサまでは、とてもとどかない。
スファルといっしょに|宿場《しゅくば》まできたのは、バルサにやられて気絶していた若い女だけで、あとのふたりの男は、バルサの跡を追っていった。
(たいした時間かせぎもできなかったが、バルサは、無事、逃げきれただろうか……。)
バルサを追っていった男たちは、呪術師だろうか。スファルとおなじ系統の術をつかう者たちだとすると、獣を〈目〉としてつかうだろう。
もっともおそれねばならないのはスファルの鷹だ。彼がいつも肩にとまらせているあの鷹は、彼の魂をのせる〈目〉にちがいない。しかも、あれはバルサをみて知っている。いまごろは、その鋭い目でバルサたちをみつけるために、空を舞っているだろう。バルサに、きちんと、あの鷹について話しておけばよかった。いまごろ後悔してもおそすぎるが……。
そんなことを思いながらも、タンダは、ふしぎなことに、それほど心配していなかった。
もちろん不安なのだが、いてもたってもいられない、というほどではない。自分が、これほどまでにバルサの力を信じていることに気づいて、タンダは苦笑をうかべた。
人質になってしまったのは情けないが、吐き気がおさまって、ゆっくり考える余裕がでてくると、それも、わるくなかったのかもしれないと思いはじめていた。こうしてかかわっていれば、スファルたちがなにを考えているのか、どう行動するのかを、すこしは知ることができるだろうし、なによりチキサといっしょにいられる。
戸がひきあけられて、若い女がはいってきた。茶碗をもっている。女は、無言でタンダの口に茶碗をおしつけた。
熱かったが、タンダはさからわずに飲んだ。においから、なんの|薬湯《やくとう》かわかったからだ。
馬に腹をぶつけつづけたタンダの身体をスファルが気づかっているのだろう。
「……おれより、チキサに飲ませてやってくれ。」
半分も飲まずに口をはなしてタンダがそういうと、女はタンダをみた。冷たい知性を感じさせる、澄みきった冬の|湖面《こめん》のような目だった。こおりついた湖面の下には底のみえぬ深い闇がひろがっている。
顔色がわるく、眉間に切りこんだようなしわがある。きつい顔だちだが、スファルによく似ていた。はじめて、はっきりと顔をみて、タンダはそれに気がついた。
「きみは、スファルの……娘か?」
タンダの、そのおだやかな声が、なにを刺激したのか、しずかだった女の目に、ふいに、いらだったような表情がうかんだ。タンダが知るよしもなかったが、それは、シハナが、めったに人にみせることのない表情だった。
タンダやバルサのような人間が、シハナはきらいだった。
なにもわかっていないくせに、目先の情だけでつっ走る人間。善意で行動しているつもりなのだろうと思うと、腹の底から嫌悪感がこみあげてくる。
彼女はタンダに顔をちかづけると、正確なヨゴ語でささやいた。
「わたしは、シハナ。おぼえておさなさい。わたしは、かならず、あの女を殺す。」
タンダは、シハナの、針の先のように瞳孔のすぼまった目をみつめた。この女が、スファルに、バルサに左耳をけられたと話していたのを思いだし、タンダはつぶやいた。
「……バルサは、きみを殺さなかったのにか。」
シハナは、かすかに笑みをうかべた。
「あの女は、すぐにつかまるでしょう。かならず追手になるとわかっている者に、とどめもさせない、あまい女だから。わたしたちは、カシャル〈猟犬〉。追うのが仕事なのよ。」
タンダは顔色を変えることもなく、ただ、だまっていた。
彼女らがカシャル〈猟犬〉なら、バルサは賢く老獪な獣だ。――これまでの人生の大半、ひたすらに追手から逃げて暮らしてきた日々が、どんな力をバルサにあたえたか、いずれ、シハナたちは知ることになるだろう。
タンダの顔から目をそむけ、シハナは、さっと立ちあがった。
そして、柱の下にたおれているチキサのそばにかがむと、やわらかなしぐさで少年をかかえ起こし、その頭をささえて薬湯を飲ませた。
なにを感じる気力もないチキサの耳に、シハナはロタ語でささやいた。
「……もうすこしの辛抱よ。あなたの妹がもどれば、すべてが変わる。」
みしらぬ女の顔を、チキサは、かすむ目でみあげたが、彼女が、どういう意味でそんなことをささやいたのか、まったくわからなかった。
茶碗がからになると、シハナは立ちあがり、タンダをふりかえった。タンダをみおろしているその目には、深いさげすみの色がうかんでいた。
「……あなたも、あの女も、目先のことしかみえない愚か者よ。いずれ、それに気づくときがくるわ。」
しずかな口調で、そういいすてると、シハナは部屋をでていった。
うっそうとおいしげる木々の、ほそい枝さきをすかして、朝の空がみえる。
バルサは、大木の根もとに笹をしいてすわり、幹に背をあずけて、アスラの身体を抱いていた。追われている身では、火はたけないが、すっぽりと油紙で身体をくるんで、アスラの身体を抱いていると、たがいのぬくもりですこしはあたたかい。
もやが木立のあいだをゆっくりと流れていく。
(――馬をすてたことに、いつ、気づくだろう。)
あの馬は興奮していたから、運がよければ、かなりとおくまで走っていったかもしれない。
バルサは、はじめから、馬で逃げつづけるつもりはなかった。
かなり街道を走ったあとで、わき|路《みち》にはいり、川にさしかかったところで手綱をひいて速度をゆるめ、浅瀬にとびおりたのだった。
馬は、いやな乗り手から解放されて、一目散にかけさっていった。あのままの勢いで、とおくまで走りつづけてくれていれば、追手をまちがった方向へみちびいてくれたことだろう。
ただ、ひとつ気になっていたのは、あの馬のつかれぐあいだった。あの馬は、かなりつかれていたから、さほどとおくまではいかずに、どこかで休んでしまっているかもしれない。
その場合は、追手が優秀ならば、バルサがどこで馬をすてたか、すぐに気づくだろう。川をつかって足跡を消すのは、よくつかわれる手だから。それでも、こうしておけば、追手を二手にわけることができる。
バルサは、足跡をのこさずに川からあがれるところを探して、ずいぶん長いこと、くるぶしまで水につかって川のなかを歩いた。水は冷たかったが、流れがそれほどはやくなかったのは、幸運だった。たとえ浅瀬でも、川の流れはつねに、深みへと人をひきずりこむ力をひめている。浅瀬だからと油断すれば、いつでもおぼれ死ぬ危険があるのだ。
バルサはかなり夜目がきくが、半月の夜では、うすぼんやりとしか、まわりはみえない。わき腹の傷がひらいて出血しはじめていたし、背にぐったりとしたアスラをおぶっていたので、すべりやすい川底の石をふんで歩きつづけるのは、つらかった。
だから、つんと鼻につく、カサラ|草《そう》の独特のにおいに気づいたときは、心底ほっとした。この草は、ふまれても、すぐに身を起こす特性がある。しかも、川にそって点々と群生してはえるので、足跡をかくすには、ありがたい草むらだった。
川のそばは冷気が流れている。眠るときは、この冷気がのぼってこないところを探さねばならない。だから、バルサは、まず、川からかなりはなれたところまでのぼった。そして、この大木をみつけると、いったんアスラをおろして、背嚢からとりだした|油紙《あぶらがみ》でくるんで寝かせ、それから、水をくむために、また、ゆっくりと川までくだった。
道のない山にわけいるときは、しるしをつけなければ、おなじところへはもどれない。しかし、いまは、しるしをつけたら迫ってこいというようなものだ。こういうときは、ゆっくりと、手がかりになる木の形、岩の形をおぼえながら歩く。
追われている緊張感が、たえず、いそげ、いそげ、と身体をせかすが、けっしてあせってうごいてはいけない。あせっていると必要なことをしわすれ、大事なことをみおとすからだ。
バルサが水をくみ、痕跡をのこしていないか点検し、ようやく身体を休めたのは、もう夜がしらじらと明けはじめたころだった。
バルサは目をとじた。たとえ、すこしでも眠ることができれば、ずいぶん身体が楽になるものだ。大木に背をあずけて、アスラをふところに抱いて眠り、いま朝をむかえたのだった。
空は、朝の明るさをたたえはじめていたが、森のなかには、まだうす青い闇がたゆとうている。バルサは、ふしぎにしずかな心地で、枝のはざまからみえる空をみつめていた。
薬がきれて、すこしずつ目がさめていく。のどがひりひりかわいているけれど、身体はとてもあたたかくて、熱があるときのようにだるい。
まぶたをひらいたアスラが、いちばんさきにみたのは、奇妙な模様だった。黒ずんだ木の棒に彫りこまれた、くねくねとまがり枝分かれしている線の模様。ぼんやりと、それをたどっていくと、鉄の輪がはまっていて、その上に木製の鞘がみえた。そこまでみて、それがなんだか、ようやくわかった。――槍だ。
ふいに、はっきりと目ざめて、アスラは、あわてた。お兄ちゃんと宿の部屋で眠ったはずなのに、森のなかにいる……!
とび起きようとすると、耳もとで、だれかが、おちつかせるように、シー……といった。
「しずかに。なにがおきたか話してあげるから、すこしのあいだ、そのままでおいで。」
女の人の声心地よい低い声だった。アスラは、自分が、みしらぬ女の人に抱かれていることを知って、身をかたくした。女の人はガサガサと油紙をはずして、地面においてあったふとい竹筒をとり、アスラの口にあててくれた。
「水だよ。むせないように、ゆっくりひと口ずつ口にふくんで飲みなさい。」
熱をもってはれたのどに、氷のように冷たくあまい水がすべりおちていく。身体が、すうっと楽になった。
「頭は、痛くないかい?」
アスラは首をふった。ぼうっとしているけれど、痛くはない。
語りかけてくる声が、おちついているせいだろうか。みしらぬ人に抱かれているのに、なぜか、こわくなかった。
女の人は、ぽつぽつと話しはじめた。
自分はバルサという名で、薬草師のタンダのおさななじみであること。アスラが災いの種になることをおそれて、スファルというロタ人の呪術師が、チキサとアスラを殺そうとしたこと。火事のこと。どうやってここまで逃げてきたか……。
きくうちに、アスラは、この女の人が、月光の下で短槍をふるっていた人だと気がついた。
それに思いあたったとたん、あのとき、兄がいった言葉がよみがえってきた。
――あの人は、いい人だよ。自分も大けがをしていたのに、おれを抱きしめてくれた。
(……お兄ちゃん。)
ぼんやりしていた胸が、ふいに、針でつきさされたように痛んだ。
(お兄ちゃんは、どうなったんだろう……。)
その思いを察したように、バルサがいった。
「だいじょうぶ。あんたの兄さんは、きっと生きているよ。」
アスラは、小さく首をふった。涙がもりあがり、のどがふるえはじめた。
「おきき。」
バルサは、アスラをゆすった。
「スファルのねらいは、あんただ。……よく考えてごらん。」
アスラは、つばを飲みこんで、必死で泣き声をとめようとした。
「わかるだろう。あんたが生きて逃げているかぎり、あんたの兄さんは、大事な人質だよ。あんたをつかまえるための、最高の切り札だもの。殺すはずがない。」
いわれたことが頭にしみこんでくるにつれて、息がすこしずつおちついてきた。
枝をたわめて、飛びうつる小さな鳥たちの影が、朝の光をときどきさえぎる。あかるい鳥のさえずりが、ちかく、とおく、ひびいては消える。
「兄さんに会いたいかい?」
アスラは、うなずいた。
「じゃあ、いまは必死で逃げるしかないね。」
アスラは、バルサをふりあおいだ。
「……お兄ちゃんをたすけにいかないの?」
「たすけたいのは、やまやまだけど、いまはむりだね。わたしは、けがをしているし、相手は呪術師で、しかも、すくなくとも四人はいる。態勢をたてなおす時間が必要だよ。
それどころか、わたしたちだって逃げきれるかどうかわからない。追手は、いま、このときも、わたしらを探している。彼らにつかまったら、わたしらも兄さんもおしまいだ。」
(カミサマ……。カミサマにお願いすれば、きっとお兄ちゃんをたすけてくださる。)
アスラは目をとじて、胸の底――どこか深いところを流れる〈川〉の音をきこうとした。けれど、せせらぎは、あまりにとおく、かすかで、感じとることさえむずかしかった。はげしい恐怖と怒りにわれをわすれたときには、全身をゆするほど、ごうごうと流れるのに……。
兄をたすけたい。悪人たちの顔をみれば、きっと怒りが胸にこみあげてくる。そうすれば、また、〈川〉を感じられる。カミサマにお願いして、わるいやつらを殺してもらえる。
けれど、なぜだろう。兄のところへつれてもどって――という言葉が、でなかった。
カミサマにすがるということは、人を殺すということだ。
兄のてのひらの醜い傷が目にうかんできた。カミサマが、のどをぱっくりと切りさいたという兄の声――人が血まみれになって死ぬのをみたくない、といった言葉が、耳によみがえってきた。もうカミサマにたよって、人を殺してはいけないと、チキサはいった。
相手は兄をつかまえているわるい人なのだ。兄をたすけるためなのだ。――そう思っても、ためらいは消えなかった。
深い闇の底にいるような気がした。……どうしたらいいのか、まったくわからない。たよりなく、小さくちぢんでいくような気がして、アスラは、ふるえをとめることができなかった。
――気高くありなさい。冷静でありなさい。冬の湖面のように……。
きれぎれに、母の声が耳の奥によみがえってきた。
大いなる神を身に招く者は、たやすく動揺してはならない。アスラは、大きく息をすい、背をのばし、ふるえをおしかくそうとした。
あわれなほどほそい身体と、大きな目。おびえきっているのに、すがりつこうともせずに、ひとりで闇をみつめている。まるで、針をさかだてて、おそいくる死をみつめながら、身をまるめている小さなハリネズミのようだった。
バルサは、アスラのふるえがしずまるまで、だまってその小さな身体を抱いていた。
かろやかにさえずっていた小鳥が、ふいにひと声鋭く鳴いた。しばらく、鋭い鳴き声がとびかっていたが、やがて、ぴたりとさえずりがやんだ。
バルサは、枝のあいだから空をみあげた。
(鷹が舞っている……。)
バルサにつられて上をみようとしたアスラの頭にそっと手をおいて、バルサはささやいた。
「じっとしておいで。」
アスラは、いわれたとおり身をかたくして、じっと自分の息の音をきいていた。
やがて、小鳥のさえずりがもどってくると、バルサの身体が緊張をとくのを感じた。アスラは、そっと身体をねじって、問いかけるようにバルサをみた。
「小さな鷹が舞っていたんだよ。小鳥たちが警戒していただろう?」
(なぜ鷹をおそれるのかしら?)
アスラが眉をひそめるのをみて、バルサはいった。
「ただの鷹かもしれないけれど、さっき話したスファルという呪術師が、いつもマロ鷹を肩にとまらせていたんでね。」
「……鷹が、おしえるの?」
アスラが、ささやくと、バルサは肩をすくめた。
「わたしは、呪術のことはよくわからない。でも、犬の目をつかうとか、獣の目に自分の魂をのせるとか、そんな話をしていたからね。用心するにこしたことはないだろう。」
「……わたしたちに、気づいた?」
「さあね。鷹はおそろしく目がいいから、もしかすると気づいたかもしれない。この油紙は茶色だから木の幹にまぎれやすいけれど、顔をあげたときに気づかれたかもしれないね。」
バルサは、がさがさと油紙をはずしはじめた。
「いずれにせよ、そろそろ腰をあげよう。」
アスラはバルサの胸から身体をはなして、立ちあがろうとした。……が、ひざに力がはいらない。足がふにゃりとなって、あやうく地面にたおれそうになった。バルサの腕が、さっとアスラの胴をささえてくれた。
「まだ薬がぬけきっていないんだね。」
バルサはアスラを木によりかからせて、背嚢から|丸薬《がんやく》のようなものをとりだした。それをひとつ自分の口にほうりこんでから、アスラにも食べるようにうながした。
おそるおそる口にいれてみて、アスラは目をまるくした。苦い味を覚悟していたのに、口のなかで玉がぼろっとくずれると、花のような香りとあまい味がひろがったからだ。
アスラの表情をみて、バルサはほほえんだ。
「ユナの花の蜜を粉にねりこんでかためた携帯食だよ。けっこういけるだろう? 解毒薬があればいいんだけどね。あまいものを食べて、水をたくさん飲めば、すこしずつ身体に力がもどってくるよ。」
アスラがあまい玉を三つ食べて、水を飲んでいるあいだに、バルサは油紙をきちんとたたんで背嚢にしまった。それから昨夜とおなじように背嚢を腹側にして、アスラをせおった。
バルサは、たんねんに、ここにいた|痕跡《こんせき》を消した。それでも、さっき鷹にみられていて、場所の見当をつけられたら、追跡者の目をごまかすのはむずかしいだろう。
根気のある熟達した追跡者なら、地面におちている枯れ葉の割れ方、肩がこすり折った小枝からでも、人がとおった跡をたどれる。バルサひとりならともかく、アスラをせおっているので、足跡が深くつきやすくなるし、歩ける場所もかぎられてしまう。それでも、かすかな痕跡をたどるのは時間がかかる作業だ。追手よりは、ずいぶんはやく移動できるはずだ。
バルサは、いったん歩きだしてから、空からみえないように、なるべく葉がしげった木の下をえらんで、ぐるりと方向を変えた。深い下生えのなかを、足場をみつけながら歩かねばならないが、あの鷹は飛んでいったとみせかけて、まだ見張っているかもしれない。用心をするにこしたことはない。鷹に位置を知られる危険だけは、なんとしてもさけねばならない。
アスラはおとなしくせおわれていたが、身体に力をいれて、うまくバルサの歩く調子にあわせようとしている。バルサの負担にならぬように、気づかっているのが感じられた。
「……どこへいくの?」
アスラは、思いきって、バルサの耳にささやいた。バルサも小さな声でそれにこたえた。
「|四路街《しろがい》へいこうと思っている。」
「四路街?」
「ここから、歩いて……そうだね、二日ほどでいかれる、大きな街だよ。」
「どうして街へいくの? 山のなかにかくれていたほうが……。」
バルサは、かすかに首をふった。
「追うのがうまい人には、山のなかのほうが追いやすいんだよ。とくに、人がほとんどとおらないこんなところだと、人がとおった跡はとても目立つからね。」
バルサは、やぶに片手をのばして、黒い実をいくつかつんだ。
「これを手でつぶして、顔にぬりなさい。全体に、まんべんなくね。」
「え?」
バルサは自分でも実をつぶして顔にぬった。アスラは、顔をしかめながらも、いわれたとおりに実をつぶした。黒い実には思いがけずたっぷりと汁があり、青くさいにおいがした。それを、目をつぶって頬やまぶたにぬりたくっていると、
「耳たぶもわすれないで。」
と、バルサがいった。アスラは、あわてて耳たぶにもぬった。
「顔はね、とても目立つところなんだよ。うす暗い山のなかでも、顔だけは白くうきあがってみえる。」
アスラは、あっと思った。むかし、お父さんから、おなじことをきいたのを思いだしたのだ。お父さんは罠猟師で、顔に泥をぬったままで帰ってくることがあった。それをアスラが笑ったら、お父さんは、こうすると獣に気づかれないんだぞ、といったのだ。
「街にでるまえに、顔をあらうのをわすれないようにしないとね。」
バルサの声はおだやかで、アスラは不安でこわばっている胸のあたりが、ほんのすこしだけゆるんでいくような気がした。
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3 鷹と猟犬
スファルは風のつよい天空を舞っていた。
|幼鳥《ようちょう》のころから飼いならしたマロ鷹シャウの魂に自分の魂をのせて、シャウの目から地上をみおろしているのだ。
魂をのせた瞬間から、しばらくのあいだは、つよいめまいと吐き気がおそってくる。シャウの目からみる世界は、人の目でみている世界とはあまりにもちがうからだ。距離感もちがえば、みえる色さえもちがう。
鷹の目でみる世界は、はるかに色鮮やかで、言葉にしようのない色に満ちあふれている。そのうえ目の焦点のあわせ方が、人とはちがう。空から、ひろびろとした地上をみおろしながら、地上で、なにか気になるものがうごいた瞬間、ぐうっとひきよせて拡大し、小さな獣の姿まで、はっきりとみることができるのだ。
音も、においも、光さえ、人が感じているものとはちがう。十六歳で、はじめて鷹に魂をのせたとき、スファルは、はげしい衝撃をうけた。
鷹は、こんな世界をみていたのか! これまで自分がみてきた世界は、自分にあたえられた身体が感じている世界でしかなかったのだ。
鷹だけではない。たとえば犬が感じる世界は、色のかわりににおいが支配している世界だった。それは、鷹の目からみるよりも、もっとスファルにはなじみにくい世界だった。
あらゆる獣に魂をのせてみて、スファルは、マロ鷹が〈目〉としてはもっとも自分にあっていると感じるようになった。それ以来、いく羽ものマロ鷹を〈目〉としてそだててきたが、シャウは、そのなかでも、「獲物をとって食べたい。」という鷹の衝動をおさえてスファルの命令にしたがってくれる、〈目〉に適した鷹だった。
風がきた! ……ぐうぅんと天空に舞いあがっていく。海に海流があるように、空には、目にみえぬ流れが、いく層にもなって流れている。シャウは全身でそれを感じとり、流れにのって空をすべっていく。
夜が明けて、シャウの目がよくみえるようになってから、スファルはバルサの跡を追いはじめた。バルサが馬で去っていった街道は、すでにふたりの弟子、マクルとカッハルがたどっている。スファルは、バルサが馬をすてて街道から山にはいっていった可能性を考えて、山の上空を舞うことにした。街道のどこから山にはいったとしても、人の足で山にわけいったとすれば、歩ける範囲はさほど広くない。地上から調べるにはかなり広い範囲だが、鷹の目で調べる広さとしては、それほどでもないのだ。
マクルとカッハルは、腕のよい追跡者だ。地上にのこる、かすかな痕跡を追っていける。鷹という〈目〉をつかえるスファルと、さまざまな小動物をあやつる術にたけた娘のシハナ、そしてマクルとカッハルは、ロタ王家の信のあついカシャル〈猟犬〉だった。
スファルは、街道からわかれていくわき道に、ずんぐりとしたマクルの姿をみつけた。わき道と沢が交差する小さな橋の上だ。その姿に焦点をあててひきよせると、マクルが橋の上にかがんで、馬の足跡を調べているのがみえた。バルサがぬすんでのっていった馬はシハナの愛馬で、|蹄鉄《ていてつ》の形をみればマクルにはほかの馬との区別がつくのだ。
(――なるほど、川か。)
スファルはシャウを降下させた。マクルは、すぐに羽音に気づいて身体を起こし、腕をのばしてくれた。シャウが革製の|手甲《てこう》に舞いおりると、マクルの声がきこえてきた。
「カッハルと、さっき二手にわかれました。馬の蹄の跡はずっと先までつづいていますから、カッハルはそれを迫っています。馬の蹄の跡が、ここでみだれているので、おれは川にとびおりて足跡を消した可能性を追います。」
スファルは、わかったという意味でシャウをひと声鳴かせて、マクルの腕から舞いあがった。
馬をさきに走らせて、川をつかって足跡を消せば、たとえその跡に気づかれたとしても、マクルたちのように、追手は二手にわかれざるをえない。――スファルは、あらためてバルサをみなおした。かなり頭のまわる女だ。
夜の闇のなかで、子どもをせおって川のなかを歩いていったとすれば、どのくらいまで歩けただろうか。川の水は、とても冷たかったはずだ。あせってもいただろう。だが、わき腹に傷をおっていながら、あれだけのうごきをみせた女だ。こちらが考えるよりとおくまで歩いたかもしれない。
スファルは川にそって森の上を旋回しはじめた。秋でたすかった。これが夏の森だったら、視界が葉にさえぎられて、みえない範囲が多くなる。いまは木々が葉をおとし、ところどころ、すけてみえる。
鷹の目の特性をいかして、広範囲をながめながら、気になったところに焦点をあててひきよせて探索をつづけたが、狩人らしい人影をひとつみつけただけで、なかなかバルサたちをみつけることはできなかった。
スファルはあせらなかった。探索は根気のいる仕事だ。ながく集中力をたもてる者でなくては、カシャル〈猟犬〉にはむかない。
ただ、腹がへってたまらなくなってきた。シャウが空腹なのだ。シャウの心が、だんだんスファルの魂からはなれて、地上の小さな獣や鳥に気がそれはじめた。
それが幸運をもたらした。――シャウが小鳥の群れる木をみつけ、焦点をあてた瞬間、スファルは、白く光るものをちらりとみた。人の顔だ。顔をふせたのだろう。光はすぐにみえなくなったが、いったん気づいてしまえば、シャウの目はごまかせなかった。
ひきよせてみると、バルサとアスラの頭はもちろんのこと、油紙のしわまでみえた。顔をふせて上をみないようにしている。――シャウに気づいたのだ……!
となれば、いそがねばならない。すぐに、ここからたちさってしまうだろう。このまま、このあたりに旋回していて、うごくのを待つか、マクルに知らせるか、一瞬迷った。
バルサは追跡の技をよく知っている。つまり、追跡をまく技にもたけているということだ。ここで目をはなさないほうがいい。そう判断したスファルにあやつられて、シャウは、小鳥たちに警戒音をたてられぬように高く舞いあがった。
|高空《こうくう》で、ゆるく旋回しながら見張っていると、バルサが、アスラをせおって歩きだすのがみえた。アスラは、まだ薬がきれていないのだろう。
シャウをバルサがむかった方向へ飛ばせた。木の葉がすけている場所を探して、その上空で、じっとバルサたちがあらわれるのを待った。
なかなかバルサはあらわれない。人が歩く速さを考えれば、そろそろ姿がみえてもいいはずだったが、いっこうにバルサの姿をとらえられなかった。
スファルの胸に、ざわっと不安がよぎった。
(――みうしなった? まさか……。)
シャウを広い範囲で旋回させて、スファルは必死にうごくものをさがした。小鳥やネズミばかりが目にはいってくる。シャウが空腹にたえられなくなってきているのだ。
かなり長いあいだ、スファルはシャウをなだめながらバルサを探しつづけたが、どうしてもその姿をとらえることができなかった。
(――なんと用心深い女だ……!)
空腹で腹がやけつくようだ。身体が寒く、だるくなってきた。限界だった。スファルは、とうとう、シャウに狩りをゆるした。
シャウがみごとな滑空をみせて小鳥におそいかかるのを感じながら、スファルは、自分の判断がまちがっていたことを、苦い思いでさとっていた。バルサをみつけたとき、いっこくもはやくマクルに知らせ、地上から追わせるべきだったのだ。
いまからでも、とにかくマクルに知らせるしかない。バルサはアスラをせおっている。マクルなら痕跡をみつけて追えるはずだ。
腹がくちくなると、すぐに身体があたたかくなってきた。スファルはシャウを舞いたたせ、マクルのもとへむかわせた。
マクルは、まだ橋からさほどはなれていない川の浅瀬を、痕跡を探しながら、のろのろと歩いていた。その腕におりると、マクルが失望を声ににじませて話しかけてきた。
「師匠、あの女は追跡になれています。川底の石をふんでひっくりかえした跡もなければ、川からあがった跡もない。追うには、かなり時がかかると思います。」
スファルはシャウに二度鳴かせた。とたん、マクルの顔が、ぱっと輝いた。
「みつけたのですか! みちびいてください。」
シャウが舞いあがると、マクルは河原にかけあがり、その跡を追った。いきつもどりつしてみちびくシャウを迫って、マクルは走りつづけた。
シャウが川筋をはなれて山のなかへむかう合図をした地点で、マクルは川岸に、ずっと密生してはえている草のなかに足をふみいれ、ふと足をとめた。ずいぶん腰のつよい草だ。ふまれても、すぐに身を起こしてしまう。
(――あの女は、この草の特性を知っていて、川からあがる地点をえらんだのか……?)
だとしたら、あの女の追手をまく技術は、やはりあなどれない。師匠の〈目〉がなかったら、とてもここが上陸地点だとみきわめることはできなかっただろう。用心棒を稼業にしているときいていたが、こんな技も用心棒には必要なのだろうか。
シャウの鳴き声が鋭く耳をうった。さきへいそげとうながしているのだ。マクルはしげみをかきわけて斜面をのぼりはじめた。
やがて、マクルはすこしひらけた場所へでた。川の冷気があがってこず、四方に大木としげみがあって風があたらない、野宿に適した場所だった。マクルは、地面とまわりの木々をたんねんに調べた。じょうずに痕跡を消してはいるが、ここで野宿をしたのはまちがいなさそうだ。
上空をシャウが舞っている。旋回をくりかえすことで、ここがふたりをみつけた地点であることをおしえていた。
(さて、ここからは地をはう追跡にもどるわけだ。)
シャウが、カッハルをよぶために飛びさっていくのをみおくって、マクルは胸のなかでつぶやいた。
慎重に、こきざみに場所を移動しながら、まさに地をはうようにして痕跡を探していく。
ぐるりと草地をまわって、ようやく、マクルは、かすかな痕跡をみつけた。
秋でも葉をおとすことのない常緑樹の大木の根もとだ。頭上には葉がおいしげって空はまったくみえない。そのふとい根に、木の根にはえた苔がこすられている跡があった。
(とらえたぞ。)
マクルはほほえんだ。最初の一歩だった。マクルは|懐《ふところ》から白い小さな帯状の布をとりだして、あとからくるカッハルへの目じるしとして、足跡のすぐ上の幹にほそい鉄杭でとめた。
太陽がうごくにつれて、木々をてらす光の角度が変わっていく。マクルは携帯食を食べるときも足をとめることなく、ゆっくりと、しかし確実に、バルサの足跡を追いつづけた。足跡は、めったにみつからなかったが、たったひとつの足跡からでも多くのことが読みとれる。
足の形が全部わかるほど、くっきりとついていることはなかったが、どうみても、足跡はおなじ人間のもので、子どものものはなかった。女はあの娘をせおっているのだろう。せおえば体重が重くなって足跡がつきやすくなるが、足跡の消し方を知らない子どもを歩かせるよりは、むしろましかもしれない。
それにしても、足のはやい女だ。よほど山を歩きなれているとみえる。道もないところを、子どもひとりせおって、追手を気にしながら、よくこれほどの歩幅で歩けるものだ。
葉のあいだから、ななめにさしこむ日の光は、あわい黄色をおびはじめている。マクルは、日が暮れるまえに女に追いつくのはむずかしいと思いはじめていた。
あの女も子どもをせおっているのだ。かならず休息をとるだろう。だが、日が暮れてしまえば、こちらもうごきがとれなくなる。野宿によい場所をみつけたら、そこで休んだほうがいいだろう。昨夜はほとんど夜どおし馬を走らせていたし、あの騒ぎのあとも、ずっと探索をつづけている。マクルは、つかれきっていた。にぶい頭痛もしている。
あの女は名のとおった短槍使いだというし、実際に、シハナを一撃で昏倒させている。シハナが人に後れをとったのをみたのは、あれがはじめてだった。
たおれているシハナをみたとき、マクルは自分の目をうたがった。一瞬、だれかべつの女かと思ったほどだ。
つかれきった状態であの女に追いついたら、逆にやられてしまうかもしれない。
マクルも武術の腕には自信があった。背に負っている|直刃《すぐは》の剣は|だて《ヽヽ》ではない。呪術の技もいくつかあやつれる。だが、シハナにはとてもかなわない。不意打ちにせよ、あのシハナをたおした女だ。用心するにこしたことはないだろう。
それに明日になれば、また師匠が〈目〉をつかえるようになる。鷹に魂をのせるのはひじょうにつかれる術で、長い時間はつかえないのが難点だった。とはいえ、マクルがここまで迫ってきたのだから、協力しあえば、明日はかなり距離をちぢめられるだろう。
カッハルが追いついてくれれば、いうことはない。馬をどこまで追っていったかによるが、マクルがつけた目じるしを追えばいいのだから、意外にはやく追いついてくれるかもしれなかった。
日が暮れおちるすこしまえに、マクルは探索をやめて、野宿のしたくをととのえた。どのくらい女にちかづいているかわからないので、火はたかなかった。光がとどかなくても、煙のにおいは風にのってかなりとおくまでとどく。追手の影を感じさせるべきではなかった。
夜が明けはじめたころ、マクルは足音で目をさました。青い闇のなかに、ほっそりとした人影があらわれた。カッハルだった。背に愛用の短弓をせおっている。距離と貫通力では長弓にかなわないが、木々の密生した森のなかでは小回りがきき、速射ができる弓だった。
「はやかったな。」
ささやくと、カッハルがにやっと笑った。ふたりは頭をよせあって、これまでの状況を話しあった。カッハルは携帯食をかみながら、懐から布にかかれた地図をとりだした。おおざっぱな地図だったが、方角とてらしあわせてたどってみると、自分たちがむかう先に|都西《とせい》街道があることがわかった。
「あの女は、街道にでるつもりだな。」
カッハルの言葉に、マクルはうなずいた。
「追跡の技にこれだけくわしければ、山のなかにいたら不利なことぐらい、わかっているだろう。われらはヨゴの街にはふなれだ。街に逃げこまれたらやっかいだな。」
マクルは、四路街という文字を指さした。
「みろ、四路街がちかい。ヨゴの都の|光扇京《こうせんきょう》からサンガルへむかう都西街道と、ロタの王都から光扇京へむかう街道がまじわる大きな街だ。ここへむかっているにちがいない。」
カッハルは携帯食を飲みこんで、底光りする目でマクルをみた。
「いそごうぜ。――街をみるまえに、あの世へ送ってやろう。」
マクルは、歩きはじめたカッハルの後ろ姿を、かすかに眉をひそめてみていた。
カッハルは、追跡そのものよりも、追いつめた獲物をしとめることに、つよいよろこびを感じる男だ。そこがマクルとはちがうところだった。
女と子どもとはいえ、あのふたりには、殺さねばならぬじゅうぶんな理由がある。マクルは、殺すことには、ためらいを感じていなかった。――しかし、カッハルのように、それによろこびを感じることはできなかった。
しめった朝もやのなかを、ふたりは左右にわかれ、たがいに半円をえがくようにしながら、足跡を追いはじめた。足跡を追う作業はかくだんにはやくなった。同時に、より広い範囲に目をくばることができるからだ。
夕日が森をやわらかにそめはじめたころ、彼らは、みつかる足跡が新しくなってきたのを感じた。バルサとの差がせばまったのだ。
一日がおわっていく。木々の梢には、まだところどころ、あわい夕暮れの光がのこっていたが、木の下は、ずいぶんうす暗くなりはじめていた。
そろそろ野宿をする場所を探すか……と思ったときだった。マクルは、はっとして足をとめた。かなり新しい足跡をみつけたのだ。下生えがとぎれて、かなり広い範囲にわたって泥が露出している場所だった。ちかくに沼地があるのかもしれない。水のにおいがする。地面に湿気があり、ところどころぬかるんでいる。
さすがに、この|泥地《でいち》では足跡をかくすことができなかったのだろう。点々と、足跡がみえる。かがんで足跡にふれてみた。自分のつけた足跡には、ゆっくりと水がしみでては、また地面にすいこまれて消えている。それとくらべてみて、この足跡は半クルン(約三十分)もたっていないだろうと判断した。自分が背後にせまっていることを、あの女に気づかれぬよう、気をひきしめねばならない。
マクルはそろそろと足跡を迫って歩きはじめた。もううす暗くなっていたが、はっきりとみえる足跡に心がひかれて、やめる気になれずにいた。
泥地から草地へうつると、また足跡がみえにくくなった。さすがに、あきらめようと思ったとき、マクルは、ふと、大木の根もとに目をすいよせられた。草のあいだに、てらっと光沢のある小さなものがおちている。かがんで、さわってみて、油紙の切れはしだと気づいた。
(なぜ、こんな切れはしが……?)
いやな予感が胸をよぎった瞬間、ドンッと後頭部に衝撃をうけて、目のまえに火花がちり、マクルは丸太のように地面にたおれた。顔が地面に激突したときには、気をうしなっていた。
マクルより、ずっと左手の森を歩いていたカッハルは、その音をきいた瞬間、反射的に木の陰に身をふせた。そっと木の陰から音がしたほうをのぞくと、うす闇のなかに、手に棒のようなものをもった人影がみえた。その足もとにころがっている影もみえる。
(――あの女だ!)
たったいままで、殺気どころか人の気配さえなかったのに、いまは、手でふれられるほど濃厚な殺気が感じられる。マクルは殺されたのだろうか。緊張で胃がせりあがってくるような感じがしたが、すぐにそれは身ぶるいするような興奮に変わっていった。
カッハルは|下生《したば》えの草に手をふれると、両手をひろげて、波を送るようなしぐさをしはじめた。と……下生えの草が生き物のように波うちはじめ、あちらこちらのやぶが、やがて、とおくの木々までもが、ざわざわとゆれはじめた。
バルサは、ずっと、追手が足跡を追っている可能性を考えていた。四路街の街にはいってしまえば、人ごみにまぎれてしまう手はいくらもあるが、問題は街道だった。街道にでれば、しばらくはかくれるところはない。追手は呪術をこころえている。どんな手をつかってくるかわからない。それが不安だった。
足跡をかくすことのできない泥地にでたとき、ふと、こちらから罠をしかけてみようか、と思いついた。勝負はつねに、不意をうってしかけた側に有利にはたらくものだ。
バルサはアスラに自分の考えを伝えて、やぶのなかにかくした。
泥地なら足跡がのこっても不自然ではない。追手が、これまで二日、必死に足跡を追ってきているとすれば、はっきりと足跡がみえる幸運に、かならず気をとられるはずだ。
バルサは、泥地の外の、大木の上で待ち伏せしてみることにした。日がかたむきはじめている。闇のとばりがおりてしまえば、追手は追跡をやめるだろう。それまでここで待ってみて、完全に闇がおおったら、アスラのところへもどって野宿しよう、と思った。
ところが、気配を消して待ちはじめて、さほどたたぬうちに、音もたてずに、地をはうようにすすんでくる黒い人影があらわれたのだ。
これほど距離がつまっていたのか、と、ぞっとした。このまま気づかずに先にすすんでいたら、むこうからしかけられてしまうところだった。
子どもづれで逃げているバルサが、罠をしかけて待っているとは思っていなかったのだろう。最初の男は、あっさりと罠にひっかかってくれた。
だが、追手がふたりいたのは誤算だった。――もうひとりをしとめようとむきなおったときには、男の影はどこにもみえず、風もないのに森全体がざわめきはじめて、気配が読めなくなってしまった。
木々が生き物のように身をくねらせている。うごめく草木にとりかこまれているうちに、めまいを感じはじめた。足もとさえ、うねうねとゆれているような気がする。……額に冷たい汗がふきだしてきた。あの炎が幻だったように、これも幻にちがいない。だが、とく方法がわからない。
バルサは短槍を身体のまえに立ててもち、|半眼《はんがん》になり、頭をからっぽにして、心を集中させた。全身の感覚をぎりぎりまでとぎすまし、ひたすらに攻撃をうける瞬間を待った。
うねる大気のなかで、なにかがはじけた。
考えるまえに身体が反応し、短槍で矢をはじくやいなや、バルサは矢が飛んできた方向へ、だっとかけた。つぎの矢をつがえるまえに、間合いをつめるしかない。
ヒュウ、と宙をさいて、思わぬ速さで二|射目《しゃめ》が飛んできた。矢はバルサの身体ではなく、足もとの地面につき立ち、すぐにつづいて三射目も、つまさきに飛んできた。バルサは、ふみだそうとしていた足をとっさにずらして、かろうじて矢をさけたが、泥地に足をすべらして、身体を大きく泳がせてしまった。
バルサは地をけって地面にとびだすと、すばやく前転した。まえにとびだしたせつな、額のあたりを矢がかすり、焼けつくような痛みがはしった。前転して起きあがったときには、左目に血がはいって、みえなくなっていた。
矢がくる! ……バルサは低い姿勢ではね起きざま、その矢にむけて短槍をブンッと投げた。矢が左肩をかすったが、ほぼ同時に短槍がだれかにあたるにぶい音がした。
うめき声が|木陰《こかげ》からあがった。短槍は、半立ちになって弓をかまえている男の右腕をかすって、長い切り傷をおわせていた。
バルサは、男にかけより、苦痛に身をまるくしている男の頭に回しげりをはなった。膝を軸にして|脛《すね》が|鉈《なた》のように男の側頭にぶちあたり、男は白目をむいて昏倒した。
短槍をひろいあげ、男の弓の弦を切ってから、バルサはかがんで、男の頭をうごかさないように横たえ、舌がまきこんで窒息しないように、あごの位置をととのえてやった。
それから、矢がかすった自分の左肩にふれて、傷の深さをたしかめた。衣に血がにじみはじめているが、たいした傷ではない。バルサは手首にまいている紐をほどいて、片はしを歯でくわえて、右手だけで肩にまいてぎゅっとむすび、止血をした。
かさっと音がしたので、目をあげると、うす闇のなかに小さな人影がみえた。アスラが、がまんできなくなってようすをみにでてきたのだ。
「……だいじょうぶ。追手はたおしたよ。そこにおいで。」
バルサは声をかけてやってから、最初にたおした男のところへいき、そうっとあおむけに起こしてやった。かすかなうなり声が口からもれた。――すこししたら気がつくだろう。
もう夜のとばりが森をおおいはじめている。気がついても、追ってくるのはむりだ。
バルサはアスラのほうへ歩きだした。ひと足ごとに矢傷に痛みがはしる。
アスラは、ふるえていた。闇のなかで顔がぼんやりと白くうかびあがっている。
「……殺したの?」
バルサはアスラの小さな肩に手をおいた。
「殺してないよ。」
バルサは、アスラをそっとうながして歩きだした。
アスラは汗と血のにおいを感じて、バルサをみあげた。わきを歩いているバルサの呼吸があらかった。暗すぎてよくみえなかったが、なんだか、バルサが泣いているような気がした。
ためらったすえに、アスラは、ささやいた。
「……け、けがをしたの?」
バルサが、しずかな声でこたえた。
「だいじょうぶ。かすり傷だよ。」
泣いているわけではなかったのだ。――それでも、アスラは、かたわらを歩くバルサが、泣いているような気がしてしかたがなかった。
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4 ロタルバルの悪夢
タンダが囚われの身となって四日目の真夜中に、スファルが、たったひとりで部屋にやってきた。
タンダは、スファルの顔をみて、ぎょっとした。わずか四日のうちに、頬がこけ、目もとがくぼんで目つきがきつくなり、肩にとまらせている鷹によく似た形相になっていたからだ。
タンダは身体を起こして柱によりかかった。日に何度か|厠《かわや》にいかせてもらう以外、この柱のそばからうごいていないために、身体を起こすと、かるいめまいがした。
部屋のむこう側で横たわっていたチキサが、背を柱にこするようにして身を起こすのがみえた。
スファルは、タンダにむかいあってすわると、しばらくなにもいわずに、じっとタンダをみつめていた。やがて、口をひらくと、つかれがにじむ声でいった。
「……タンダ、|四路街《しろがい》に、あの女がたちまわりそうな場所があるか?」
タンダは眉をひそめた。その表情をみて、スファルは、うすく笑った。
「そんなことをおしえるはずがないだろう、という顔だな。――いや、おまえは、おしえてくれるよ、タンダ。おまえは、愚かな男ではないからな。
いま、なにがおきているのか、自分とバルサが、なにに首をつっこみ、どんな役割をはたしているのかを知れば、かならず、おしえる気になるだろう。」
タンダは、首をふった。
「おれをかいかぶらないでくれ。――おれは愚かな男だよ。なにがあっても、バルサを売るようなまねはしない。」
いつものおだやかな表情からは想像もつかぬ、強固な意志が、タンダの目にあるのをみながら、スファルは真顔にもどって、しずかな声でいった。
「バルサを売れ、といっているのではない。われらは、バルサには用はないのだ。いまなら、バルサもおまえも、このことから手をひいて、自分の人生を生きられる。
これ以上、泥沼にはまりこんでしまうまえに、バルサをたすけたいだろう?」
タンダは、スファルの目をみながら、彼の言葉の裏にあるものを考えていた。
「わざわざこんな話をしにきたということは、バルサは、うまく逃げきったわけだ。あんたの娘は自分たちの能力を自慢していたが、バルサのほうが一枚上手だったわけだな。
しかも、四路街のような大きな街に逃げこまれて、完全に手づまりというわけだ。」
タンダがほほえむと、スファルの目に一瞬怒りの色がひらめいた。が、すぐに、その色は消えた。
「挑発しても、むだだよ、タンダ。おこって、ついもらすような本音などありはしないのだから。おまえのいうとおり、われらはみごとにまかれてしまった。地の利があったとはいえ、カシャル〈猟犬〉をまくとは、たいしたものだ。」
スファルはタンダに、すこし顔をちかづけた。
「いちばんおどろいたのはな、バルサが追手を殺さなかったことだ。……むしろ、生きてもどれるように気づかった。
わたしが、こうしておまえに手のうちをあかす気になったのはな、バルサが、そういう人間だと知ったからだ。むやみに敵にまわすより、きちんと状況を知って、味方になってほしいと思うようになったからなのだ。」
タンダは、きびしい表情をうかべたまま、だまっていた。一瞬、スファルの背後にいるチキサと目があった。
スファルはその目のうごきに気づきながら、チキサをふりかえることなくいった。
「わたしの話をきけば、そこにいる兄にもわかるだろう。――納得はできなくとも、なぜ妹が死なねばならぬのか、理解することはできるはずだ。」
スファルは、親指の腹を歯でかんで、ひと粒血をうきあがらせると、その血をタンダの額につけた。それから、自分の額にもつけた。
「おまえも呪術師なら、この意味はわかるな。――これで、わたしはおまえにうそがつけなくなった。魂の絆をとおして、おまえは、わたしの魂のうごきを感じることができるのだから。」
タンダはうなずいた。いま、タンダとスファルの魂は、目にみえぬほそい糸でむすばれていた。
彼の魂をのぞけるわけではないが、すくなくとも、口からでた言葉がうそであれば、その心のうごきがはっきりとタンダに伝わってしまう。
スファルはロタ語にきりかえて、タンダにもわかるようにゆっくりと、話しはじめた。
「伝説から、語りはじめよう。はるか、太古のむかしにさかえた国、ロタルバル。おそろしき神によって支配されていた、ロタルバルの話から。
おそろしき神の名はタルハマヤ。かつて、この神を祭り、最高の栄華をほこった氏族――それが、タルの民の祖先、シウル氏族だった。小さな氏族だったのに、彼らはタルハマヤ神の力を得て、百年もロタルバルを支配することになった。」
背後でチキサが身じろぎした。スファルは、身体をねじってチキサをみた。
「はるかな時がたって、いまや彼らは、シウルという氏族名をすて、タル〈|陰《かげ》〉に生きる民となっている。国の表舞台に二度とあらわれぬという古き盟約にしたがい、森の奥、陰にかくれて、ひっそりと生きている。」
スファルはタンダに目をもどした。
「そして、彼らが、その盟約をわすれることがないよう、みまもってきた民がいる。
子に、孫に、その務めをわすれるなと、伝えつづけてきた民が。――それが、われらなのだ。」
スファルの魂から、熱いものが伝わってきた。
「はるかむかし、ロタルバルに、ふしぎな川が流れてきた。人の目にはさだかにみえぬが、特殊な苔が、その川が流れきたことを人に伝えたのだという。
この目にみえぬ川は、この世のむこう側にある、とほうもなくゆたかで、峻烈な雪の峰がそびえる神がみの世界〈ノユーク〉から、流れきた雪どけ水なのだ。」
「ノユーク……ナユグか!」
タンダがおどろきをこめてつぶやくと、スファルは肩をすくめた。
「ノユーク、ナユグ、ナユーグル。……この世のむこうにある異界を、人はさまざまによんできた。われら呪術師でさえ、しかとみることのかなわぬ世界。おなじひとつの世界なのか、そうでないのかさえ、さだかではないのは、おまえならよく知っていることだろう。
とにかく、ロタルバルの人びとは、この異界をノユークとよび、その世界の四季を、この世とおなじように、アファール神がつかさどっていると考えた。
ノユークが春になると、ぼうだいな雪どけ水が生じる。母なる神アファールは、そのゆたかな滋養に満ちた水を、ほかの世界に流し、恵みをわけあたえているのだと。
実際、目にはみえなくとも、ノユークから流れきた川がうるおした大地は、それまでより、ゆたかな実りをもたらした。寒さのきびしい北部でも、ピクヤ〈神の苔〉に滋養ゆたかな実がつき、それを食べて獣がふえたので、狼も飢えず、冬でも家畜をおそわなかったという。
だが、この川はまた、アファール|神《しん》の|鬼子《おにご》、血を好む、おそろしき神タルハマヤが住む川でもあったのだ。」
スファルの声が、低くなった。
「タルの民の|聖伝《せいでん》は、こう伝えている。
シウル氏族に、ひとりの娘がうまれた。
娘は、すくすくとそだち、十八になるころには、光るようにうつくしい姿になっていたという。
娘は、ある日、森のなかで、ふしぎな泉にであった。真冬なのに、その泉のまわりは、春のようにあたたかく、猿たちが遊び、鳥がうたっていたのだという。
その泉こそ、ノユークから流れくる水がわきでる、聖なる場所だった。そこからわきでた水は、いく筋もの川となり、大地をひろくうるおしていた。
泉には、異界の水にはぐくまれた、巨大な樹がはえていた。人の目にはみえぬ、その樹を、娘は、たしかにみることができた。
樹をみあげていた娘は、ふと、聖なる水をすって花をつけている、うつくしい宿り木に目をとめた。それは、まるで首飾りのようだった。首にかけるのにちょうどいい大きな輪と、花が咲いている小さな輪がひとつながりになり、光り輝いていたのだという。
娘は樹にのぼり、手をのばして宿り木の輪をとった。そして、その宿り木の輪を、首飾りのように首にかけてみた。……すると、輪は、娘の身体にとけるように、すいついて消えてしまったのだという。」
スファルの声が、さそうように低くなった。
「それが、すべてのはじまりだった。――宿り木の輪は、娘におそろしい力をあたえたのだ。
泉は異界とつながり、樹は異界の水の通り道であった。異界の川には、血に飢えた、おそろしき神タルハマヤが住んでいた。
娘が招くと、タルハマヤは流れにのり、宿り木の輪から、こちらの世界へとすべりでて、牙のある風のように、命あるものを惨殺していった。
娘はタルハマヤとひとつになり、その力を得て、なんと百年間、十八の姿のままで生きたという。」
どくどくと、熱いものが魂の絆をとおして伝わってくる。
「娘はサーダ・タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉とよばれた。この|神人《しんじん》サーダ・タルハマヤに率いられたシウル氏族は、ほかの氏族にいくさをしかけ、みるみるうちにロタルバル全土を征服していった。
どの氏族も――屈強な戦士団をかかえた氏族でさえ、サーダ・タルハマヤのまえには無力だった。
サーダ・タルハマヤは、敵とむかいあうと、雷を腹にためた雷雲のように怒りくるった。彼女が怒ると、その身からタルハマヤがあらわれ、つむじ風のように人びとをおそい、瞬時にのどを切りさいて殺したのだという。盾も、石の城壁さえも、タルハマヤをふせぎとめることはできなかった。
多くの氏族がほろぼされ、とうとう、のこっているのはロタ氏族だけになってしまった。
小規模なシウル氏族と強大な騎馬軍団を誇るロタ氏族とが戦ったシャハーンの古戦場では、広大な草原に展開していたロタ各氏族の騎馬軍が、わずかのあいだに、まるで草が刈られるようになぎたおされて、あたりは血の海と化したといわれている。
ロタ人は降伏し、サーダ・タルハマヤはロタルバルに君臨した。……そして、悪夢の時代が幕をあけたのだ。」
チキサが、突然さけんだ。
「……ち、ちがう!」
スファルがふりむくと、血ばしった目で、チキサが、スファルをにらみつけていた。
「そ、それは、おまえたちロタがつくりあげた伝説だ。」
スファルは、おどろいて、眉をあげた。
「なにをいう。おまえは、タルの民だろう。まさか、この話を知らぬはずがあるまい。これは、おまえたちが、語りついできた聖伝だぞ?」
チキサは首をふった。
タル・クマーダ〈陰の司祭〉から、聖伝をきいたときは、自分の祖先たちは、なんとひどいことをしたのだろう、と祖先を恥じ、罪を感じた。
けれど、いまこうして、自分とアスラを殺そうとしているやつが、自分の祖先を非難しているのをきくと、身のうちを怒りがあぶりはじめ、母の言葉が胸にわきあがってきた。
チキサは、母の考えを異端だと思っていた。――だが、いま、アスラと自分をまもるためには、母の考えにすがるしかなかった。
チキサは、けっして人前で語ってはならぬと母にいわれた言葉が、口からすべりでてくるのを、とめられなかった。
「サーダ・タルハマヤは、神を身に招くことによって、いくさの時代をおわらせたのだ。ひとつの神のもとで、ロタルバルは、はじめて統一された国となり、いくさのない世を経験したのだ!
おまえたちは、サーダ・タルハマヤの死後、ロタルバルをまんまとうばって、初代のロタ王となったキーランを神聖化するために、サーダ・タルハマヤをおとしめ、われらを陰の暮らしにとじこめ、ずっと、ずっと長いあいだ、われらをさげすみ、いじめてきたのだ!」
スファルは、おどろいてチキサをみつめていたが、ふいに、深くうなずいた。
「……なるほど、タルの民に、そういう考えが芽生えていたのだな。
これで、わかった。おまえの母が、なぜ、長年まもりつづけてきたたいせつな禁忌をやぶったのか、ふしぎでならなかったのだが。」
それをきいたとたん、チキサは、ひるんだ。――タルの民の禁忌は変わってはいない。けれど、母だけが異端の考えをいだき、禁忌をやぶったのだという気にはなれなかった。
スファルは、だまりこんでしまったチキサに目をすえて、いった。
「ロタ人は、たしかにキーラン王を神聖化し、おまえたちを、うさんくさい異人としてさげすんでいる。それは事実だ。
だが、チキサよ、神聖化するために他者をおとしめ、過去の真実をいつわっているのは、おまえもおなじではないか?
おまえは、サーダ・タルハマヤのもとで、ロタルバルがはじめて氏族同士の争いのない、しずかな時代をむかえたといった。――それは、たしかにそのとおりだ。
しかし、その静けさは、けっして民が満足していたがための静けさではなかった。それは、恐怖ゆえに声をだす者がいないための静けさだったのだ。
あの時代、サーダ・タルハマヤの意にわずかでもそむけば、死が待っていた。
圧倒的な力――恐怖で――おさえつけられていた静けさを、おまえは平和とよぶのか?」
「うそだ! サーダ・タルハマヤは、賢い方だった! 善政をしいた、神聖な方だった!」
「うそではない。もしサーダ・タルハマヤが善政をしいていたのなら、なぜ、彼女は殺されねばならなかったのだ?」
「キーランが、権力を手にしたいと思ったからだ! おなじ欲望をもつ者たちを集めて、あのお方を惨殺したのだ!」
スファルの目に冷たい笑みがうかんだ。
「とんでもない。――サーダ・タルハマヤは、おめおめとキーランに殺されるような、やわな存在ではなかった。
知っているだろう? 神の力がその身に満ちていたあいだ、サーダ・タルハマヤは眠ることさえなかったことを。彼女には、どこにもつけいるすきなどなかった。
ましてや、支配されることになれ、おびえきっていたロタ人が、おそろしきサーダ・タルハマヤその人を殺そうと思うはずもなかったのだ。」
スファルは、ゆっくりと首をふりながらそういって、チキサに問いかけた。
「おまえは、スル・カシャルという名をきいたことがあるか?」
チキサはぎゅっと眉をよせてつぶやいた。
「スル・カシャル〈死の猟犬〉は、サーダ・タルハマヤが飼っていた犬たちの呼び名だ。」
スファルはほほえんだ。
「タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちは、ちゃんと秘密の誓いをまもっているのだな。」
「秘密?」
「そう。自分たちを、ずっと監視している者がいることを、司祭以外の者には秘密にするという誓いだ。
おまえは死にゆく身だから、ロタ人も、ふつうのタルの民も知らぬことをおしえてやろう。
サーダ・タルハマヤの首をとったのはキーランだけの手柄ではない。サーダ・タルハマヤの〈死の猟犬〉としてつかわれていた、スル・カシャルが手をかし、みちびかねば、彼は聖都にはいることもできなかったのだ。そのスル・カシャルこそ、われらカシャル〈猟犬〉の祖先だ。」
チキサが、おどろいて目をみひらいた。
「スル・カシャルをほんものの犬だと思っていたのか? いいや、彼らは犬ではなかった。サーダ・タルハマヤによって奴隷にされて、〈死の猟犬〉としてつかわれた民の呼び名なのだ。
いまもむかしもわれらは草原の地に穴をほって住む民だ。ロタやシウルのように、武力をもって国をつくろうとする気はなく、川の流れにそって小さな集落をつくり、漁や狩りをして、ひっそりと暮らしてきた。
ただ、わが民には、獣に魂をのせ、野をかけ、天を飛ぶ力をもつ者がいた。また、獣のように、人に気づかれることもなく野にひそみ、森をかけることができた。……それが、われらの悲劇の源になったのだ。」
スファルの声には、苦い響きがあった。
「その祖先たちの力に目をつけたサーダ・タルハマヤは、家族を人質にすることで、わが祖先たちを奴隷にし、彼女に反感をいだく者を狩りだす、おぞましい仕事をさせたのだ。
彼らの手をのがれた者たちもいるが、奴隷にされた、われらの祖先が、いかにおそろしい仕事をさせられたか、われらは、いやというほどきかされてそだった。
おまえはロタ人が、おのれの祖先を美化するためにサーダ・タルハマヤをおとしめる伝説を伝えてきたのだというが、それならば、われらは、どうなる? われらの祖先は、みずからが手をくだした、おぞましい所業について、なぜ、わざわざ子孫に、ことこまかに伝えたと思う?」
チキサは唇をふるわせてだまっていた。
「それはな、わすれさせないためだ。記憶を風化させないためだ。
いつか、はるかな時のはてに、ふたたび、あの川がこの世に流れてきたとき、おそろしき神が来臨するのを、子孫がみすごすことがないように――二度と、おなじ過ちをくりかえさぬように、心に深くきざむためだったのだ。」
スファルが口をとじると、重い沈黙が三人のあいだにひろがった。
深く息をすって、スファルは口をひらいた。
「川の流れが、ほそく消えはじめたとき、ようやくサーダ・タルハマヤに衰えのときがおとずれた。
彼女は、ときおり、まどろむようになり、容姿も衰えて、老いはじめた。――川の流れが完全に消えれば、彼女もまた老衰で死ぬだろう。人びとはそう思った。
だが、わが祖先は、彼女が老衰で死ぬのを待てなかった。シウル人は、数が少ない。サーダ・タルハマヤが、自分の死後、シウル氏族がおびやかされることがないように、シウル以外の人びとを皆殺しにしようと思うかもしれない……それをおそれたのだ。
ただ、わが民は数も少なく、政を好まない。サーダ・タルハマヤを殺せば、国が混乱するのは目にみえているが、自分たちが国政の表舞台にたつ気はまったくなかったし、また、その力もないことをよく知っていた。
祖先たちは考えたすえに、ロタ人を陰からささえることに決めたのだ。
ロタ人のなかで、もっとも人望あつかったキーランという若者に、ひそかにサーダ・タルハマヤが衰えてきたことを伝え、彼に手をかしてサーダ・タルハマヤの首をとろうと考えた。
だが、サーダ・タルハマヤが暮らす禁域の森は、シウルの司祭たちにまもられていて、わが祖先たちでも、まったく気づかれずにしのびこむのは、むずかしかった。それでも、わが祖先たちは、思いきって、禁域にしのびこもうとした。
そのとき……思いがけぬ味方があらわれたのだ。」
スファルは、複雑な表情をうかべた瞳で、チキサをみつめた。
「おまえは、知っているはずだな。それが、おまえたちの祖先――サーダ・タルハマヤに仕え、彼女をまもっているはずの、シウルの司祭たちだったということを。」
チキサは、唇をぎゅっととじて、なにもいわなかった。
「彼らは、サーダ・タルハマヤのおかげで、長いあいだ、|栄華《えいが》をきわめ、人びとを支配してきた。だが、一方で、彼らは、サーダ・タルハマヤに仕えることに、つかれはててもいたのだ。
サーダ・タルハマヤは、人の心をもたぬ冷たい|神人《しんじん》だった。彼女のまえでは、人の命は、泡のように、あっさりと消されてしまう、はかないものだった。……いつ、怒りをぶつけてくるかわからぬ、おそろしき神におびえて生きる暮らしに、彼ら自身、たえられなくなっていたのだ。」
スファルは、たんたんとつづけた。
「サーダ・タルハマヤが衰えをみせはじめたとき、シウルの司祭たちは、考えた。
聖なる川がこなくなれば、タルハマヤ|神《しん》もこの世から消える。――そのとき、自分たちが、どうなるのか、を。
恐怖の神が消えれば、かならずロタ氏族はたちあがり、反乱をおこすだろう。そうなるまえに、サーダ・タルハマヤに、ロタ人を皆殺しにしてもらうか……?」
スファルは、ゆっくりと首をふった。
「チキサ、おまえの祖先は、そのとき、大きな決断をしたのだ。――それは、人として、とてもたいせつな決断だったと、わたしは思う。
彼らは、残酷な神にすがって、すさまじい虐殺をおこなうより、ロタ氏族の長と手をむすび、残酷な神人を殺す決断をくだしたのだ。」
チキサは、思わず、スファルの話にききいっていた。カシャル〈猟犬〉の目からみた、その話は、チキサの耳には新鮮にきこえた。いつもタル・クマーダ〈陰の司祭〉からきいていたのとは、似ていながらも、すこしちがう色合いをひめたものだったからだ。
「われらカシャルが、キーランを聖都にみちびきいれ、サーダ・タルハマヤの暮らす禁域の森へしのびよったとき、シウルの司祭たちがあらわれた。そして、密談をもうしいれてきた。
われらは、サーダ・タルハマヤのそばに仕えている。だから、彼女が、まどろみはじめたとき、それをおしえることができる、と、司祭たちはいった。
われらは、サーダ・タルハマヤを殺す手伝いをしよう。そのかわり、サーダ・タルハマヤ亡きあと、シウル人にいくさをしかけぬと約束してほしい、と、彼らはキーランにもうしいれた。
キーランは、はじめ、首をたてにふらなかった。シウル人には、聖なる川や、聖なる樹をみることができる異能者がおおぜいいる。いつまた、そういう異能者が、宿り木の輪を抱いて、タルハマヤ〈おそろしき神〉を招き、サーダ・タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉になるかもしれないと。」
汗ばんだ手を膝でぬぐって、スファルはつづけた。
「すると、シウル人司祭たちはいった。われらは、二度とタルハマヤを招かないと誓う。
残酷な神の力で、国を支配することのおそろしさを、われらは、だれよりも深く知っている。もう、そのような生き方はしたくないと、心から思っている。
われらはシウルという名をすて、二度と国の表舞台にたたない、タル〈陰〉の民となろう。
ひっそりと森の奥に暮らし、司祭はタル・クマーダ〈陰の司祭〉となって、タルハマヤを鎮め封じるために、わが民をおしえみちびくことを誓おう、と。……それでも、キーランは、首をたてにふらなかった。」
スファルは、唇をしめした。
「そのとき、わが祖先たちが口をひらいた。――われらは、これ以上の血が流れ、山河があれることを望まない。
キーランよ、われらが、シウルを見張ろう。これから、いかに時がながれようと、ずっと見張りつづけていくと誓おう。
そのかわり、キーランよ、そなたがロタ王となったあかつきには盟約をせよ。タルハマヤとシウルにかかわることは、王よりも、われらカシャル〈猟犬〉が権限をもつことを誓え、と。
この盟約は、いまもひそかにまもられている。キーラン王の直系の子孫と、ロタの司祭たち、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たち、そして、われらカシャルの間で。」
スファルは吐息をついた。
「こうして、サーダ・タルハマヤは首をとられた。
死の直前、サーダ・タルハマヤはさけんだという。――われは、ほろびぬ。死して芽をだす|草木《くさき》のように、ふたたび川が流れきたとき、わが身体に宿りし聖なる輪はめぶき、神を招くであろう。われを焼けば、神が、かならずこの国をほろぼすであろう! と。
おそろしいことに、彼女が死ぬと、彼女の身体はすきとおりはじめた。シウルの異能者だけが、その姿を、ぼんやりとみることができるだけだった。あの宿り木の輪も、まったくみえなくなってしまった。
神の怒りをおそれて、彼らは、|それ《ヽヽ》を神殿の奥に祭ることにしたのだ。そして、そこは、人がたちいることのゆるされぬ、禁域となった。
彼女の死後、われらと、ロタと、シウルの盟約はまもられた。シウルの司祭たちは、みずからの民をみちびいて、森の奥に消えた。キーランは王となり、ロタ王国をきずいた。」
スファルは、長い吐息をついた。そして、チキサをみつめた。
「わかるか、チキサ。シウル人司祭たちは、そのとき、われらカシャルの祖先に誓ったのだ。――聖なる川が流れきたとき、ふたたび、タルハマヤを招こうとする者があらわれたら、かならずその者を、カシャルにさしだすと。」
チキサは、目をみひらいて、ふるえはじめた。
「そうだ。おまえの母は、その盟約をまもったタル・クマーダ〈陰の司祭〉たちによって、われらカシャルに、〈殺されるべき者〉として、さしだされたのだ。
サーダ・タルハマヤの墓にしのびこんだ女がいる、ときいたときは、われらはおどろいた。
だが、彼女が異能者ではないときいて、胸をなでおろしたのだ。異能者でないなら、たとえ墓にしのびこんだとしても、なにができるわけでもないと思ったからだ。」
スファルは、顔をゆがめた。
「それは、わたしの失敗だった。……しかし、わたしは、用心はしていたのだ。ロタ兵におまえの母を連行させたときも、われらはひそかに矢をつがえて、おまえの母をねらっていた。」
あの朝のことが、チキサの目の裏にうかび、チキサはこぶしをにぎりしめた。
「だが、おまえの母が危険にさらされても、タルハマヤはあらわれなかった。それで、われらは胸をなでおろしたのだ。」
チキサは、声をしぼりだした。
「……なら、母さんを、殺すことはなかったじゃないか。」
スファルの顔に痛みの影がよぎった。
「禁域であるサーダ・タルハマヤの墓にしのびこむことは、古き盟約をやぶる、おそろしい大罪だ。たとえ、おさない子がいるとしても、みのがすわけにはいかなかったのだ。」
チキサの目に涙がもりあがった。
「まさか、チャマウ〈神を招く者〉が、おまえの母ではなく、妹だったとは……。たいへんな失敗をおかしてしまった。」
スファルは、低い声でいった。
「だが、まだ打つ手はある。アスラは、眠るし、気をうしなうこともある。ということは、まだ、完全な神人サーダ・タルハマヤではないのだ。
かつて、川の流れが消えはじめたときに、サーダ・タルハマヤを殺すことができたように、あの娘の力が満ちるまえならば、殺すことができるだろう。」
スファルは口をとじたが、心のなかには、後悔とかなしみがうずまいていた。
〈川〉が流れきたことを知り、シンタダン牢城の犬の目にやきついていた、あの娘の顔をみたときから、あの娘がチャマウ〈神を招く者〉だとわかっていたのに、ようやく追いついたときには、殺すのをためらってしまった。おさない娘を殺さずにすむ道を、心のどこかでさがしていた、その弱さが、こんな事態をうんでしまったのだ。
床に視線をおとしたスファルの顔には、深いつかれと、苦しみが、にじんでいた。
身をこがしていた怒りが、いつのまにかチキサの心から消えさっていた。かわりに、水をかけられた燃えさしの枝のように、いやなにおいをにじませて、かなしみがくすぶっていた。
怒りを燃えつづけさせることのできないものが、チキサの心にはあったからだ。シンタダン牢城で、そして、あの宿屋で、妹がどれほどおそろしいことをしたか、チキサはみてしまっている。――この男のいうことが正しいとしたら、自分たちは、いったいなんなのだろう? このさきも、おそろしい惨事をひきおこしてしまう災いの種なのだろうか。
タンダは、チキサの、うつろなまなざしをみつめていたが、やがて、ぽつんといった。
「スファル。」
スファルが目をあげると、タンダはロタ語でたずねた。
「これで、あんたの話はおわりか? ――これが、アスラを殺す理由か?」
スファルは、かすかに眉根をよせてタンダをみた。
「これ以上の理由が必要だというのか?」
タンダは、うなずいた。
「ああ。……あんたは、祖先から伝えられたことを、真実という。けど、過去になにがおきたか、だれにもわからない。ほんとうのところは、だれにもわからない。
あんたの祖先の伝えたことにも、わが身をかばう、都合のいいうそが、あったかもしれない。チキサの言い分にも、真実がかくれていないと、だれに、いえる?」
スファルの表情がくもった。タンダはおだやかな口調でつづけた。
「たとえアスラに、そのタルハマヤの力が宿ることが、あっても、彼女が、むかしのサーダ・タルハマヤとおなじ恐怖で、人を支配するとは、かぎらない。
たとえば、ヨゴの|帝《みかど》も、神の子孫とあがめられ、民は、その目をみるだけで、雷に打たれたように死ぬと、いわれる。どこの国の王も、強大な力で、民を支配している。
あの娘だけが、なぜ、生きる道をえらぶことを、最初から、うばわれねばならない?」
タンダとスファルはみつめあった。チキサの目に、かすかに光がもどった。ほそい糸にすがるように、チキサは声をしぼりだした。
「そうです。……アスラは、やさしい子です。人をよろこんで殺すような子じゃない!」
スファルが肩をすくめた。
「そうかもしれぬ。――それでも、いまの状況は、まるで変わらない。ロタ王国に、強大な力をもつ新たな権力者がうまれれば、どれほどの惨事がおきるか、考えるまでもなかろう。」
スファルは、チキサをふりむいた。
「おまえは、みたのだろう? 妹がなにをしたか。――どれほどの、おそろしい力をもっているか。シンタダン牢城の状況をみれば、わたしが正しいことが、すぐにわかるはずだ。
ひとりの人を殺すことさえ、死に値する罪だ。すでに、あの娘は|万死《ばんし》に値する。」
スファルは、じっとチキサをみすえていった。
「おまえは、妹をやさしい子だといったが、それならば、あれだけの人の命をむごくうばいながら、なぜ、おめおめと生きていられる? おさないからか? それとも、あれが神のなされたことだと思っているからか?」
チキサは、こたえられなかった。スファルは、苦い口調でいった。
「いずれにせよ、おなじことだ。――おのれがもたらす死に罪の意識がなければ、あの娘は、かならず、また人を殺す。……うばわれるかもしれぬ人の命を、おまえは、思いやらぬのか?」
タンダが声をかけた。
「チキサを責めることは、筋ちがいだ、スファル。むごいことを、いうな。」
スファルがふりかえり、きっとタンダをにらんだ。
「むごい? とんでもない。わたしは、これ以上災いをひろげないために、ぎりぎりのことをしているのだ。それがむごいというのなら、おまえは、なにができるのだ? え、タンダ。
これから|人死《ひとじ》にがでれば、おまえも傍観者ではすまぬぞ。おまえも、その殺しに手をかしたことになるのだからな!」
スファルは、顔を紅潮させていいつのった。
「なぜわからぬ? あの娘を闇からすくう道があるとするなら、おのれのしたことを、はっきりとさとらせるしかない! 心清く、やさしい娘であるなら、みずから死をえらぶだろう。そうでないなら、殺さねばならぬが、それでも残酷な神と化すより、よほどましではないか!
おまえたちは、あの娘が人を虐殺するさまをみたいのか? そんな未来をもたらしたいのか?」
タンダはぎゅっとこぶしをにぎりしめた。じっと床の一点をみつめていたが、やがて、目をあげてスファルをみた。
「アスラが、おのれを知り、おそろしき神を招くぐらいなら、死をえらぶ、と考えるように、なるとしたら、どうだ? そういう可能性がないとは、いえまい?
アスラがそう決意し、さらに、ヨゴに一生とどまって、その川の聖地にふれずに生きるとしたら、どうだ? ……おれがアスラの一生に、責任をもつ。」
スファルは、つかのまタンダをみつめたが、やがて、首をふった。
「それはむりだ。――人は弱いものだし、一生は長い。なにがおきるかわからぬではないか。
おまえが責任をとるという、その気もちに、うそがないことはわかるが、だからといって、おまえに責任がとれるとは思えない。」
タンダは、スファルをみすえた。
「責任をもつというのは、殺す、ということだ。とめられぬときがきたら、殺す、といっているのだ。きっと、バルサも、おなじことをいうだろう。
おれは、なにもおこらぬうちに、アスラを殺すのは、ゆるせない。アスラが、まちがったことを、えらんだら、そのとき殺す、といっているのだ。おれと、バルサと、ふたりで。
サーダ・タルハマヤにならなければ、アスラは眠るし、老いるのだろう?」
タンダは、チキサをみた。
「チキサ、きみは、どうだ? 一生、妹の番人に、なるか?」
チキサは、暗い目でタンダをみつめていたが、やがて、かすかに、うなずいた。
タンダはヨゴ語にもどって、スファルにいった。
「これは、最後の選択だ。おまえも手づまり、おれも手づまり。――この条件をのみ、呪術師同士の誓いをたてぬなら、バルサがたちまわる可能性のある場所は死んでもおしえない。」
スファルが部屋にはいっていくと、シハナが目をあげた。マクルとカッハルは、となりの部屋で眠っている。マクルは傷をおったカッハルをたすけながら、なんとか山をおりて、この宿までたどりついたが、ふたりとも、体力をつかいきっていた。シハナは、ついさっきまでふたりの看病をしていて、いまもどってきたところだった。
どさっと床に腰をおろすと、スファルがいった。
「バルサがたちよる可能性がある場所が、いくつかわかったぞ。」
スファルが、タンダからきいた話を伝えると、シハナの顔が輝いた。
「よかった。マクルたちが回復したら、タンダを始末して、いっこくもはやく発ちましょう。」
スファルが、ぎゅっと顔をしかめた。しばらく、だまっていたが、やがて、おしだすようにいった。
「……あのふたりは、いっしょに四路街へいく。あの娘を殺すかどうか、それから決める。」
「なんですって? なにをいっているの、父さん。」
シハナの声がたかくなった。しつ、と娘を制して、スファルはいった。
「それが、タンダの条件だ。いっしょに四路街へいき、みなで、もう一度、可能性を話しあう。」
シハナは、信じられぬ、というふうに、みじかく笑った。
「父さん、正気でいっているの? 場所をきいてしまったなら、もう条件をのむ必要なんてないでしょう。」
スファルは、じっと娘をみつめた。
「条件をのんだのはな、わたしも、そうするべきだと思ったからだ。――わたしのなかには、どうも、すっきりしないものがあるのだよ。いそいで娘を殺してしまってはいけない、という気がしてならんのだ。……魂の絆をとおして、わたしが、そういう気もちでいることを感じたからこそ、タンダは、口をひらいたのだ。」
シハナは、なにかいおうとして、やめた。その目には、複雑な表情がうかんでいた。
やがて、シハナは、小さく首をふった。父の言葉をうけいれたしぐさとも、話にならない、というしぐさともとれる、ため息とともに。
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第三章 罠へとさそう手紙
1 穢れた羊
うすい秋の晴天の日、ロタ王国の王都は熱気につつまれていた。
ロタ王国のすべての氏族長が一堂に|会《かい》する、ラマルー・ハン〈秋の大集会〉の季節がおとずれたからだ。一年の収穫を祝い、王国の資産となる税をおさめる重要な集会で、都に|居《きょ》をさだめている、王国南部諸氏族をたばねる三人の大領主はもちろん、北部の小さな氏族の長たちも、荷馬車の行列をひきつれて王都へと集まってきた。
ロタの王都は、広大な草原のただなかに、蜃気楼のようにあらわれる壮大な都だった。周囲を堅固な外郭でおおい、中央に王城がそびえ、その周囲をとりまくように大領主たちの壮麗な館がある。
外郭の内側に、商店をかまえている商人たちは、みな高い税をはらうかわりに、王から保護をあたえられた大商人であり、外郭の外側には、壁にも兵士にもまもられることのない、下級の商人たちが、それでも、生きいきとたくましく、露店や小屋での商いをおこなっていた。
その日、王城の広間では、王族をはじめ、三人の大領主とその配下の氏族長たち、そして、北部の八氏族の|長《おさ》たちが、楕円形の大きな会議卓をかこんでいた。
中庭にむかってひらいている、八つの大きな窓から、透明な秋の光とともに、かすかに風がしのびこみ、部屋の四方にかざられた花をゆらしていた。
ロタ王ヨーサムは、会議卓をみおろせる、いちだん高い玉座にゆったりとすわり、ついさきごろ自分が口にした言葉に、まっ赤な顔で憤慨している大領主たちをみおろしていた。
「……お言葉ではございますが、ヨーサム陛下。」
でっぷりとふとった、大領主のアマンが、うなるようにいった。
「税というものは、平等が原則。ゆたかな者が、多くの税をとられるようになれば、ゆたかになるべく、いっしょうけんめいはたらいた者が、損をするということになります。|僭越《せんえつ》ながら、わたしは、南部のみの増税には反対でございます。」
ほかの大領主も、アマンの言葉にうなずいた。
ヨーサムは、しずかな口調でこたえた。
「だが、さきほども報告があったとおり、羊熱病の流行もあり、今年の財政は、かつてないほどの苦境にある。増税は、やむをえないのだ。」
アマンは身をのりだした。
「ならば、北部もひとしく増税すべきです。南部だけが負担するのではなく! それが平等というものでしょう!」
北部のヤーン氏族の長をついだばかりの若者ラハンが、アマンにきびしい視線をむけた。
「お言葉ですが、アマン大領主殿……。」
アマンは、まるで蝿でもはらうようなしぐさをした。
「だまっておれ。わたしは、いま、ヨーサム陛下とお話ししているのだ。」
北部の者たちが、ざわめいた。怒りにあおざめて、ラハンが立ちあがろうとした瞬間、玉座の膝もとにすわっていた王弟イーハンが立ちあがった。
「しずまれ。」
声をはりあげているわけではないのに、彼のふとい声は、広間全体にひびいた。
「アマン大領主。ここは王の広間。ここでは、王のもと、各氏族の長は、ひとしくおなじ発言権をもっているのだ。大領主といえども、ここでは、氏族長とおなじ地位にある。」
アマンは、|慇懃《いんぎん》にうなずいてみせたが、目にあざけりの色がうかんでいた。
「これは、失礼をいたした。……なにがいいたかったのかな? ラハン殿。」
ラハンは怒りに燃えた目でアマンをにらみつけ、大きく息をすってから、いった。
「ヨーサム陛下がおっしゃったとおり、北部では、羊熱病がひろがり、ひどい被害がでたのだ。
あなたがたにとっての増税は、たくわえがすこしへる、という程度のことだが、われらにとっての増税は、氏族の者たちが飢えるかどうか、という問題なのだ。――ひとしく増税することは、けっして平等な課税ではない!」
北部の氏族長たちが、いっせいに拍手をした。南部の者たちは、肩をすくめて、ささやきあっていたが、やがてアマンが、ふたたび口をひらいた。
「ヨーサム帝。どうか、熟慮を。ロタ王国の国力が、どこの氏族の者たちによってささえられているのかを、おわすれにならぬように。
北部の者たちが飢えるというのは、たしかにこまることだが、われら南部の者たちに、負担がかかれば、やがては王国の国力にひびいてくるのだということ、まさかおわすれではないとぞんじますが。」
玉座にすわるヨーサムの目が光った。
「……アマン大領主。わたしに、国政についておしえてくださるつもりかな?」
アマンは、たじろいで、顔色を変えた。ヨーサムは、おだやかな王だったが、ふいに彼が発した威圧感は、一瞬にして広間の緊張をたかめた。
「いや……これは、とんでもないことです、陛下。」
ぼそぼそとつぶやいたアマンの言葉をひきとるように、そのとなりにすわっていた老人――大領主スーアンが口をひらいた。
「アマン殿は、いささか言葉づかいに慎重さがたりないようだが、陛下、そのような|小事《しょうじ》に、ご立腹めさるな。」
ききとりにくいかすれ声でスーアンはいい、ヨーサムをみつめた。
「北部の者たちとて、ロタ王国の臣民。飢えさせるわけにはいきませぬ。南部の者たちが、すこし税を多く負担することで、彼らがたすかるのなら、われらが負担をすることは、いたしかたないでしょう。」
アマンをはじめ、南部の氏族の者たちが、ぎょっとしたように長老のスーアンをみつめた。だが、スーアンの言葉は、そこでおわりではなかった。
「ただし、金を多くしはらえば、より高価なものが買えるのが、この世のならい。税を多く負担せよとおっしゃるのなら、それなりの見返りを、われらにくださるべきでしょう。
さきほど、王弟殿下が、この広間での発言権は平等とおっしゃったが、国を、よりゆたかにする者たちの発言は、国力をそこねる者たちの発言より、重くあつかわれてしかるべきだと考えまする。……いかがかな? ヨーサム陛下。わしは、まちがっておりますかな?」
あまりのことに、広間はしずまりかえり、それから蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
王弟のイーハンが、さっと立ちあがると、短槍の石突きを、ダーンッ! と、床にたたきつけた。
ぎょっとして、人びとが口をとじると、イーハンは、スーアンをにらみつけた。
「さきほどからきいていて、ひとつ、ふしぎなことを感じていたのだがな。」
怒りをひめた口調で、イーハンはいった。
「ここに集まっている者は、南部・北部という区別よりも、まず、ロタ王国の臣民ではないのか? スーアン殿、そうではないのか?」
スーアンは、肩をすくめた。
「それは、そのとおりですが。」
「ならば、なによりも、国を安定させることを第一に考えるがよい!
平等・不平等をいうのなら、土地が、まず平等ではないのだ。穀物がゆたかにみのり、南の海岸線をつかって、他国との貿易ができる南部と、やせた大地と長い冬吹雪と狼におびやかされる北部とでは、はじめから平等などありえないのだ。
富をもつ者に、より多くの権力をあたえることに、どんな平等があろうか? 南部が、ゆたかであるということで、北部の者より、国政において権力をもつことになれば、この国は分裂するのだぞ!
そなたがもうしていることは、王への不敬以上の、大罪につながるのだぞ、スーアン殿。そなたは、国をあやうくしているのだからな!」
スーアンは、いっこうにこたえたふうもなく、若い者はしょうがない、という表情で、ゆっくり首をふった。
「とんでもない。この国をあやうくしているのは、われわれではない。よく考えていただきたい。なによりも、この国をあやうくしているのは、国力のなさですよ。北部の方がたにわかりやすいたとえでいうなら、やせて力のない羊の群れは、狼の餌食になって滅びさるだけ。
よく食べ、元気のよい雄羊の大群にまもられた、大きな群れにならねば、この国は、いつ他国の侵略に食いつくされるやもしれぬのです。」
スーアンは、底光りのする目をヨーサムにむけた。
「増税をなさりたいなら、それもよいでしょう。だが、国庫をささえる南部を弱らせるより、再三もうしあげているように、ツーラム港をタルシュ帝国との交易港に開港されるべきです。サンガル王国の強欲な商人たちに南の大陸との交易権を独占させて、いつまであまい汁をすわせておくおつもりか?
タルシュ帝国との直接交易をてはじめに、独自の交易路をひらいていくことができれば、ロタ王国は、いまよりもはるかにゆたかになるのですぞ。北部の氏族たちも毛皮交易の相手がひろがるのだ。国力がつけば、タルシュ帝国をおそれる必要もない。なにをためらうことがありましょう?」
南部の氏族だけでなく、北部の氏族のあいだにも、ざわめきがひろがりはじめた。あちこちで、議論する声がわきあがり、広間全体がそうぞうしい声につつまれてしまった。
ターン、ターンと槍の石突きが床をたたく、かたい音が、ひびきわたった。声がしずまっていくのを待ってから、ヨーサム王は口をひらいた。
「これは、いく度も話したことだが、スーアン殿。われらロタにとって、たしかにタルシュ帝国との直接交易は、利が多く、魅力がある。
だが、タルシュ帝国にとって、わが国に港を得ることに、どのような利益がある? なぜ彼らは、南の大陸より、はるかに貧しく、ろくな物産もないわが国と〈交易〉などしたがるのだ? はるばる海を渡り、利益などほとんどない商売を、なぜしたがる?」
しずまりかえった広間のなかに、おちついたヨーサムの声だけがきこえた。
「彼らの意図はただひとつ。北の大陸への足場をきずくことだ。攻めのぼってくるための足場を。彼らは戦火のたえぬ南の大陸で、他国を食い、のしあがってきた帝国。あまい計算など、しているはずがない。
交易だけのつきあいをしておいて、わが国の国力をたかめておけば、いざタルシュ帝国が攻めてきても、おそれることはないとスーアン殿はもうされたが、まことにそうだろうか? それほどあまい算段を、タルシュ帝国がしていると思うか?
わが国のことしか、そなたらはみておらぬが、もっと広い目でみてみよ。
たとえば、サンガル王国だ。わが国がタルシュ帝国との直接交易をはじめれば、サンガル王国の国力は、確実に弱まる。サンガル王国は南の大陸から、われら北の大陸を隔てている、もっともたいせつな防壁なのだぞ。
もし、わが国とサンガル王国の間の関係がわるくなり、サンガル王国の国力が弱まり、タルシュ帝国の手におちでもすれば、タルシュ帝国が攻めのぼってくる架け橋ができてしまうのだ。それを考えたことがあるか?」
ヨーサム王は、目もとにつかれをにじませた顔で、つけくわえた。
「タルシュ帝国は、これからも、あまい誘いをかけてくるだろう。だが、さきほどのスーアン殿のたとえを借りるなら、やつらは、われらを食うことしか考えていない狼であることをわすれてはならぬ。やつらが、われらをふとらせてくれるとしたら、それは、より口当たりがよく、|腹《はら》だまりがする肉にするためなのだ。そうであろう?
国力は、べつの方法でたかめねばならぬ。そして、いま、もっともたいせつなことは、国内に分裂をひきおこさぬことだ。」
ヨーサム王は、しずかにいいはなった。
「利益に応じて、税をかけることを、わたしは平等と考える。税の多い少ないによって、発言権の重みをかえるつもりはない。」
南部の者たちの顔には、あきらかな不満の色がうかび、北部の者たちの顔が輝いた。
しかし、ヨーサム王が、つぎの言葉を発したとたん、広間の空気が変わった。
「もうひとつ。北部をゆたかにすることに全力をつくすことが、国の安定につながると、わたしは考えている。羊熱病によって、国の財政が左右されることがないように、北部の者たちに、シャハン(茶色の毛の羊)をふやすことを命じる。」
北部の者たちの顔がこわばった。
「……シャハン? 穢れた羊をふやせとおっしゃるのか……?」
南部の者たちは、無関心か、あるいは冷笑をうかべていたが、北部の氏族、とくに年寄りたちは、はげしい嫌悪の色を目にたたえ、王弟をみ、王をみた。
「かつて……。」
北部の長老格の氏族長ニギリが、はきすてるようにいった。
「イーハン殿下がそのお話をもちだされたとき、われらの意見はしっかりのべたはずですが。シャハンは、とても繁殖力がつよい。シャハンをふやせば、いつかは、穢れた羊がロタの家畜の大半をしめるようになってしまうだろう。」
若い氏族長ラハンが、つよい口調でいった。
「ニギリ殿、たとえ穢れた羊であっても、家畜がふえればゆたかになるのです! このまま、貧しい北部とののしられていくよりは、われら若い者たちは、イーハン殿下のおっしゃるとおりにすべきだと考えています。」
北部の氏族長たちのあいだで、はげしい口論がおこり、それを南部の者たちが冷笑してみまもっているのを、玉座にすわっているヨーサムは、暗い表情でながめていた。
おのれの欲望、権力、かたくなな偏見、身勝手さをむきだしにして、はてしなく議論しつづける男たちをみるうちに、イーハンは、むかむかしてきた。
兄に、どなりつけてしまえ、といいたかった。
各氏族の代表としてのロタ王は、伝統的に、氏族長たちの意見を重んじなければならない。兄が、最後まで議論につきあうことは、よくわかっていたが、それでも、兄の気もちを思うと、たまらなかった。
このにごった泥沼をいっきにおしながせる権力が、兄の手にあればよいのに、とイーハンは思っていた。賢い兄の手に圧倒的な権力があれば、この国はもっとよくなるはずなのだ、と。
その夜、イーハンは兄の書斎によばれた。
ヨーサム王の書斎は、城のざわめきがとどかない、奥まったところにある。イーハンがはいっていくと、ヨーサムは、読んでいた書物から目をあげて、ほほえんだ。
豪華な彫刻をほどこした、人の背丈ほどもある大きな暖炉のまえに椅子をおいて、深ぶかと、なかば椅子にうずもれるようにしてすわり、書物を読んでいる兄。それは、イーハンが子どものころからみなれた姿だった。
だが、目をあげた兄の顔には、あのころとはちがって、深い、つかれの色がみえた。
「兄上、おつかれになったでしょう。もうしわけありませんでした。わたしが、むりにシャハン(茶色の毛の羊)のことをお願いしたせいで、会議が長びいて……。」
ヨーサムは首をふった。
「会議がもめるのは、いつものことだ。気にしなくてよい。わたしが、つかれてみえるとしたら、気になる話をきかされたせいだろう。」
「気になる話? 南部の大領主たちが、なにか? ……」
「いや、それとはまた、べつの話だ。」
ヨーサムは弟に椅子をすすめ、かたわらの|小卓《しょうたく》から片手で酒壺をもちあげて、弟の|杯《さかずき》についだ。
「話というのは、シンタダン牢城でおきた謎の大虐殺のことだ。」
「あ、スファルから知らせがきたのですか?」
「いや。スファルの知らせではない。……人びとののどを切りさいて殺したものがなんであったのか、いまだにはっきりとわかっていないが、ロタ聖教の大司祭が、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちから、気になる話を伝えられたというのだ。」
イーハンはだまって、兄にさきをうながした。
「シンタダン牢城での虐殺がおきる、すこしまえから、ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉が、流れてきているというのだよ。
異能者であるタル・クマーダ〈陰の司祭〉たちは、そのことに気づいていたが、まちがいないことをみきわめてから、報告するつもりだったらしい。
だが、シンタダンで、あの事件がおきたので、たいへんなことになったと、あわててロタ聖教の司祭たちに警告してきたらしいのだ。」
「警告?」
「……タルハマヤが、この世へ出現したのかもしれぬとな。」
イーハンはまばたきした。
「タルハマヤ……アファール神の、血に飢えた鬼子が?」
はるか太古のむかしに消えさった神が、よみがえったときかされても、恐怖よりは疑う気もちのほうがさきにたってしまう。ヨーサムは、そんな弟にうなずきかけた。
「わたしも、最初にきいたときには、おまえとおなじように思った。だが、彼らの話をきくうちに、しだいに、かるがるしくあつかってはならぬと思うようになったのだ。」
ヨーサムは、おちついた口調で話しはじめた。
「シンタダン牢城の城壁には、大きくけずられた、ふしぎなきず跡があった。かたい石壁が、まるでラ(バター)をけずるように、すっぱりとけずりとられていた。
殺された者たちの死体は、処刑台から、まるで巨大な草刈り鎌をふるったように、放射状にちらばっていたという。そして、処刑されていたのは、タルの民の女だった。」
イーハンが苦い顔でうなずくのをみて、ヨーサムはつづけた。
「その女の|罪状《ざいじょう》は、禁域であるサーダ・タルハマヤの墓にしのびこみ、タルハマヤをその身に|招来《しょうらい》しようとした、という大罪だった。」
胸の底で、いやな気分がうごめきはじめ、イーハンは眉をひそめた。
「これらのことを、かさねて考えてみよ。
ひとつ。異界から、おそろしき神が住む川が、流れきている。
ふたつ。サーダ・タルハマヤの墓に侵入した女が処刑された。
三つ。女が処刑された場所から、放射状に死体がちらばっていた。」
イーハンは、かすかに口をあけたまま、兄をみた。
ヨーサムがうなずいた。
「その女が、ほんとうに、タルハマヤを招いたのかもしれぬ。信じられぬことだが、こう考えれば、あのふしぎな虐殺にも説明がつく。」
筋はとおっている。イーハンも、そう思った。だが、それでもまだ実感はわかなかった。
ヨーサムがいった。
「惨殺されてしまった者たちの命はかえらぬが、タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちが、古き盟約をまもって、すばやく、カシャル〈猟犬〉に女をさしだしたというのが、救いだった。
手おちがあったとはいえ、カシャルのはたらきも、むだではなかった。――おそろしき神は、これで、こちらへあらわれる通路を絶たれたというわけだ。出現を一度だけにとどめられたのが、せめてもの救いだ。もう、二度とこんなことをおこしてはならぬ。」
そういって、ヨーサムは、複雑な表情をうかべている弟の目をみつめた。
「……まだ、実感がわかぬか。」
イーハンは、だまってうなずいた。ヨーサムは、かすかに吐息をついた。
「それだけ、われらロタ王族は記憶を風化させてしまったわけだ。政と財政だけに全身全霊をそそぐうちに……。」
唇に笑みをうかべて、ヨーサムはいった。
「カシャル〈猟犬〉とタル・クマーダ〈陰の司祭〉に感謝せねばならぬな。
彼らは、タルハマヤを、ほこりをかぶった伝説にせぬよう、努力をつづけてきた。それがいかにたいせつなことだったかを、わたしは、いまつくづく実感している。……王族として、古き誓約をまもりつづけるよう、これからも、かくじつに子孫に伝えねはな。」
王族の者は、成人すると、いくつかの秘密の誓約をさせられる。そのなかで、初代のロタ王キーランの時代からうけつがれてきた誓約があった。タルハマヤに関することは、カシャル〈猟犬〉が第一にあつかい、ロタ王は、彼らの指示にしたがうというものだった。
カシャル〈猟犬〉は、ふしぎな民だ。
大きな川の土手に住み、畑をつくり、|川魚漁《かわざかなりょう》で暮らしている、小柄で、おだやかな人びと。だが、その〈川の民〉のなかで、呪術の才に恵まれてうまれた子だけは、はやくから鍛えられ、やがて、故郷をはなれて、流れ暮らすようになる。
平民たちは、こういう流れ者を、ただの呪術師だと思っている。悪霊に憑かれたり、呪われたりした者をたすけることで暮らしている者たちだと。事実、ふだんの彼らはそうして暮らし、富をためることも、権力をにぎることもない。
だが、初代キーラン王の直系の子孫は、彼らをカシャル〈猟犬〉とよぶ。
国の内外にうごめく不穏なうごきを、いちはやくあぶりだす猟犬として、たよりにし、また、ノユークという異界にかかわることでは、彼らに敬意をはらい、その意見にしたがうよう、おしえこまれてそだつのだ。
ロタ聖教の司祭たちも、ノユークにかかわることは、すべてカシャルの意見にしたがってきた。
ただ、タルハマヤが恐怖でこの地を治めた……という時代は、もうとおい過去だった。
これまでに、いく度かハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉が流れきたが、そのたびに、タルの民は盟約をまもり、タルハマヤが出現することはなかった。
そのために、タルハマヤに対するおそれも、カシャルに対する敬意も、しだいに形だけの、さして実感をともなわないものになっていたのだった。
ふるい言い伝えの重要さが、ようやく、イーハンの心にもしみこんできた。
「ひとまず危機は去ったが、ハサル・マ・タルハマヤ〈おそろしき神の流れくる川〉が、この地へ流れきていることを、しっかりと心しておかねはならぬ。」
ヨーサムはつぶやくようにいった。
「ノユークから流れくる、ふしぎな川は、この地をゆたかにうるおすという。われらにとっては希望をひめた神の川だ。
だが、タルの民にとっては、それよりも大きな意味をもつ。――処刑された女が、残虐なる神の復活を望んだように、神の力をその身に得て、ロタ人をたおし、ふたたび栄光の日々をとりもどしたいと願う者が、ほかにもあらわれるかもしれぬ。」
イーハンは、突然、心の臓をつかまれるような恐怖をおぼえた。この事態が招くかもしれない危機の大きさに、ふいに気づいたのだ。
かつてはげしい恋におち、いまもなおタルの民の、ほっそりとした女人の面影を胸にひめているイーハンにとって、恐怖は、相反するふたつの面から生じていた。……国を案ずる思いと、タルの民を案ずる思いとの。
「兄上……われらは、慎重であらねば。|謀反《むほん》をくわだてることがないように、タルの民を見張らねばなりませんが、一方で、この噂が民にながれたら、タルの民を無差別に虐殺する者があらわれるかもしれません。
タル・クマーダ〈陰の司祭〉たちがとった行動をみればわかるように、ほとんどのタルの民は、恐怖の神にすがって栄光をとりもどしたいなどとは思っていません!」
|声高《こわだか》に語るイーハンを、ヨーサムは、さえぎった。
「わたしを説得する必要はない。よくわかっている。だから、大司祭に、くれぐれも民にこの話をもらさぬよう厳命しておいた。」
そういって、ヨーサムはふいに手をのばし、イーハンの肩に手をおいた。
「イーハン、おまえがタルの民を案じ、救護所をもうけたり、人心を変えようとつとめていることを、わたしは心から評価している。タルのような異族が不幸であることは、かならず、国をゆるがす。彼らを、幸福にせねばならぬと、わたしも思っている。
だが、イーハン。わが弟よ。――われら兄弟は、ほそく、ゆれる糸の上に立っていることをわすれるな。タルの民を幸せにすることで、ロタの民が不満に思うようなことがあれば、糸は大きくゆれるのだ。
糸を片方にゆらしてはならぬ。われらは、たがいの手をひきあって、糸からおちぬように、慎重に歩いていかねばならぬ。……わかってくれるな?」
イーハンは肩におかれた兄の手に、自分の手をかさねて、深くうなずいた。
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2 花の衣
バルサとアスラが、四路街の表通りにある|衣装商家《いしょうしょうか》の裏木戸にたどりついたのは、日が暮れようとする時刻だった。
裏木戸はあけはなたれており、やわらかな|黄昏《たそがれ》の光にそまっている庭がみえる。そうぞうしい表通りとはうってかわって、ここはとてもしずかだったが、庭のむこうにひろがる屋敷には、人がたちはたらく気配があった。
表通りに面した店構えも品のあるりっぱなものだったが、裏手にまわっても、年代を感じさせる裏木戸に、さりげなくほどこされた、幸運をまねくといわれる花の彫刻といい、きちんと手入れのいきとどいた庭木といい、この商家が|旧家《きゅうか》であることをうかがわせる。
裏木戸の番屋から若い男があらわれて、不審そうな顔で、木戸の外にたたずんでいる女と少女をみた。女は、細工物につかえそうな|太竹《ふとだけ》の束を右肩にかけて、つかいふるしの背嚢をせおい、やせこけた女の子の手をひいている。一見、|細工竹《さいくだけ》の商いをしてわたり歩く、行商人の母子のようにみえたが、女と娘の顔は、まったく似ていなかった。
「なにかご用かね?」
番人は、おだやかな声で問いかけた。――いたけだかに問いかけないところに、この商家のしつけがあらわれていた。
「マーサ・サマドさんは、ご在宅でしょうか。」
女の答えに、番人は、意外そうに眉をあげた。
「大奥さまにご用ですか?」
「はい。お目にかかれれば、うれしいのですが。わたしは、バルサともうします。」
番人はうなずいて、木戸にさがっている鈴を鳴らした。すぐにどこからか、十歳ほどの少年がとんできた。番人に伝言をつげられると、少年はまた、きびきびと、屋敷のほうへ走っていった。
さほど待つこともなく、屋敷の勝手口があいて、小柄な人影があらわれた。庭の飛び石を足ばやにつたってくる。裏木戸までくると、その人は、バルサにほほえみかけた。
マーサ・サマドは初老の婦人だった。背をしゃんとのばし、銀色の髪をかちっとゆいあげ、地味だが品のよい衣をまとっている。
「まあ、バルサ……。」
笑みをたたえて、なにかいいかけて、マーサは、ふと言葉をとめた。バルサの顔になにをみたのか、すっと手をのばすと、かばうように門のなかにまねきいれた。
「挨拶や話はあとにしましょう。こちらへいらっしゃい。お嬢さんも、さあ、遠慮なく。」
アスラは、はじめてみるヨゴ人の屋敷に目をうばわれ、つかれもわすれて、きょろきょろとあたりをみながら、ふたりのあとについていった。
マーサは屋敷にははいらず、東側にある離れにふたりをみちびいた。客用の建物らしく、人けがない室内には、居間と寝間、そして、こぢんまりとした厨房と|湯殿《ゆどの》、|厠《かわや》があった。
ふたりを居間にみちびきいれると、マーサはバルサをすわらせて、顔をのぞきこんだ。
「……けがをしているようね?」
バルサは、ほほえんだ。矢傷は、できるだけの手当てをして血止めをし、衣も着がえておいたから、はた目にはわからないはずだったが、マーサはみぬいたらしい。
マーサは、むかしから、鋭い人だった。こまかいところにまで目がとどき、判断もはやい。この人がいたから、この商家は繁盛してきたのだとバルサは思っている。
「マーサさんの目はごまかせませんね。ちょっとけがをしています。」
「みせてごらんなさい。」
バルサは首をふった。
「いえ、こちらに長居をするつもりはありません。追われていますので、ごめいわくがかかります。うかがったのは、人目につかずに、着替えの衣を買いたかったからで……。」
マーサは、いらだたしげに手をふってバルサの言葉をさえぎった。
「追われているのなら、なおさら、まず手当てをして、なにか食べて、休むべきだわ。あなたはともかく、この子をみてごらんなさい。なんてひどい顔色!」
マーサは、お話にならない、という顔で舌うちをすると、立ちあがった。
「まあ、わたしにまかせなさい。」
「いや、あの、マーサ……。」
いいかけたバルサを、マーサは、きっとにらんだ。
「しのごのいわないの。――トウノの命の恩義をかえせる、こんないい機会を、わたしがのがすわけがないでしょう! あきらめて、ちょっとそこで休んでなさい。」
そういいはなつと、マーサはさっさといってしまった。
ヨゴ語がわからないアスラには、なにがどうなっているのか、まったくわからなかった。
バルサは壁によりかかると、とまどっているアスラにロタ語でいった。
「むかし、養父のジグロとふたりで、ここで用心棒をしていたことがあるんだよ。
そのとき、彼女の息子のトウノが、ぶっそうなやつらと、けんかをして、命をねらわれるはめになってね。」
「……その人を、たすけたの?」
バルサは、かすかに肩をすくめた。
「ジグロとふたりで、トウノのやっかいごとに、なんとか|かた《ヽヽ》をつけたのさ。トウノは、あのころ、十七、八だったかな。血の気の多い若者だったけど、いまは、四路街でも名の知れた、いい商人になっているよ。
用心棒として当然の仕事だったのに、マーサさんは、いまも恩にきてくれている。」
バルサは、ちょっとほほえんだ。そして、ささやいた。
「正直にいうと、たすけてくれるんじゃないかと、心の半分では期待していたんだ。めいわくをかけたくないけれど、いまは、背に腹はかえられないから。きっと、マーサさんも、わかっているだろうけどね。」
アスラは、そのときになってようやく、マーサがバルサの顔にみたものに気づいた。表情は平静だったけれど、顔色がくすんでいる。バルサはなにもいわないけれど、ほんの数日まえにわき腹にけがをして、山のなかを、アスラをせおって逃げてきたのだ。そのうえ、矢傷をおっている。――つかれていないはずがない。
バルサは竹の束のなかから短槍をとりだすと、手もとにおいた。そして、壁にもたれると、目をとじて、つぶやいた。
「それに、マーサさんは、とても頭がきれる。火の粉がふりかかっても、おたおたせずに、冷静にはらえる人だから……。」
そういったきり、バルサはしずかになった。
気をうしなってしまったのかと、アスラは不安になったが、やがて、バルサがかすかな寝息をたてていることに気づいた。
円形の窓から夕日がさしこみ、部屋には蜜色のゆるやかな静けさが、たゆとうていた。
眠っているバルサの顔に、透かし彫りの窓枠の影がおちている。アスラは、はじめてゆっくりとバルサの顔をみつめた。
ふしぎだった。……この人は、わずか数日まえまでは、まったく知らない人だったのだ。
(――なぜ、この人は、わたしをたすけてくれるんだろう? まったくの他人なのに……。)
わずかに口をあけて眠っているバルサの唇はかわいて、頬は血の気がなかった。肩の傷をおさえている布が、衣の下にもりあがってみえている。まるで、ぼろきれのような、つかれきった姿だった。
ふっと、ひなたの干し草のようなバルサのにおいを感じた瞬間、ここ数夜、抱いて眠ってくれたぬくもりが、肌によみがえってきた。とたん、胸になにかがつきあげて、のどが熱くなった。アスラは、唇をぎゅっとむすび、顔をゆがめた。
ありがとうと、いいたかった。……でも、バルサが目をさましたら、きっと、うまくいえないだろう。
大きく息をすいこんだとき、ふと、部星の片すみにおいてある荷物が目にふれた。アスラは立ちあがって、なるべく音をたてないように気をつけながら、荷をほどき、なかから、バルサが寝具のかわりにつかっている油紙をとりだした。
油紙をいじると、どうしてもガサガサ音がしてしまう。バルサが起きてしまわないか心配だったが、よほどつかれているのだろう、バルサは、しずかな寝息をたてていた。
アスラは、そっと、その身体に油紙をかけた。寒くないように、肩までかけた。
そして、自分も、バルサの膝に頭をつけるようにして横になった。敷物はやわらかく、頬に心地よい。目をとじると、すぐに、アスラは眠りにすいこまれていった。
アスラは、母の夢をみた。やさしく髪をなでてくれて、炉のまえでお話をしてくれている母の夢。あたたかくて、よいにおいがする、母の手……。
(……ああ、むかしのお母さんだ。)
やさしかったころの、お母さん。
いつまでも、そのお母さんの手を感じていたかったのに、なぜか、夢は、めまぐるしく場面を変えていく。
思いつめた顔で、炉の火をみつめているお母さん。そして……。
アスラは、うめいて夢を変えようとした。けれど、つぎにみえてきたのは、いちばんみたくない思い出だった。
ゆらめく松明の炎。パチパチと闇にはねあがる火の粉。
何本もの手がのびてきて、お母さんの腕をつかむ。汗のにおい。絶叫するお母さんの声。
乱暴にアスラの背をつきとばす手……。がっちりとつかまれて、どうしてもお母さんのところへいけない。ふとい腕のあいだからみえる、お母さんの絶望にゆがんだ顔……。
「……タルハマヤよ! どうか、おたすけを……。」
身をねじり、おしひろげていくような、すさまじい痛みと空につきぬけるような、心地よさ……。
いきなり、あたりはしずまりかえり、月の光だけが、いやにあかるくみえる。
腕をつかむ、お兄ちゃんの汗ばんだ手。ふるえる声。
「ア、アスラ、アスラ……なんてことを……。」
風が血のにおいをまきあげてくる。それをかいだ瞬間、急速にわきあがる雷雲のように、いやなものが胸にせまってきた。
アスラは目をぎゅっとつぶり、耳をふさいで、兄の声をしめだそうとした。
「わたしじゃない。――お兄ちゃん、ちがう、わたしじゃないのよ。」
アスラはさけんだ。なんで、お兄ちゃんはわかってくれないのだろう?
お母さんの声がきこえた。
[#ここから3字下げ]
――おまえは、みえるのね?
ああ、なんとすばらしい! おまえは、タルハマヤにえらばれたのだわ!
これで、すべてが変わる。タルハマヤが身に宿ったら、わたしたちには、もうおそれるものはなにもないわ。……ロタ人なんか、|塵《ちり》とおなじ!
[#ここで字下げ終わり]
「ほらね? お兄ちゃん、きこえた? お母さんもこういっているでしょう?
あの人たちは、ひどい人たちだったもの。だれだって、殺したいと思うよ!」
アスラは、必死にいいつのった。
「あの人たちは塵だから、死んでもいいのよ。タルハマヤが罰をあたえたのよ!
ねえ、どうしてわからないの? わたしは、まちがってないでしょう? そうでなくて、どうして、タルハマヤにえらばれるの?」
くりかえし説明しても、チキサは、どうしてもわかってくれない。月の光に、ぼんやりと白くうきあがっているチキサは、かなしげな顔をして首をふるばかりだった。
もがくように首をふって、アスラは目ざめた。
しばらく、どこにいるのかわからなかったが、みしらぬ男の人をみちびいて、マーサが部屋にはいってくるのをみたとたん、自分が四路街の商家にいることを思いだした。
いつのまにか|灯台《あかりだい》に火がともり、窓の外はまっ暗になっていた。身体には、あたたかい毛織りの布がかかっている。
マーサは、みしらぬ男をバルサにひきあわせると、すぐに部屋をでていった。
みしらぬ男は、バルサのわきに腰をおろした。バルサが左肩をはだけると、なれた手つきで、矢傷をみはじめた。――医術師らしい。
アスラが身じろぎをしたのに気づいて、バルサがこちらをむいた。
そのとき、医術師が傷のまわりをおしたので、バルサは一瞬顔をゆがめた。
つられて、アスラも顔をゆがめた。
バルサが笑いだした。
「あんたまで、そんな顔しなくていいよ。」
「……だって、痛そうなんだもの。」
アスラが、かぼそい声でいうと、バルサは、やさしい笑顔をうかべた。
「だいじょうぶ。なれているから。ぐっすり眠ったんで、ずいぶん気分もよくなったよ。
|油紙《あぶらがみ》、ありがとう。」
アスラは赤くなって、目をふせた。
カラリと戸が引かれる音がして、マーサが白い布をかけた手桶をもって部屋にはいってきた。手桶を医術師のかたわらにおくと、マーサはアスラに顔をむけ、やさしいほほえみをうかべて、なにか話しかけてきた。
なんといっているのかわからないので、だまっていると、バルサが、ロタ語でマーサに、その子はヨゴ語はわかりません、といってくれた。
「あらまあ。ごめんなさいね。」
マーサは、なかなかうまいロタ語でいった。
「ロタの子とは思わなかったわ。」
ロタじゃない、といいたかったけれど、アスラはだまっていた。タルだとわかったとき、この人の顔がゆがむのをみたくなかったからだ。お兄ちゃんは、ヨゴ人はタルの民をよく知らないし、軽蔑していない、といっていたけれど、ためしてみる気にはなれなかった。
マーサは、その沈黙を気にするようすもなく、きびきびとした口調でいった。
「もうすぐ、お夕食よ。そのまえに、お湯をつかっていらっしゃい。バルサが治療しているあいだ、ここにいないほうがいいわ。――わかるわね?」
アスラは目をあげて、うなずいた。さしだされたマーサの手を、アスラは、ちょっとのあいだみていたが、おそるおそる手をのばして、とった。
マーサは思いがけぬ力で、ひょいっとアスラを起こしてくれた。そして、手をにぎったまま湯殿にみちびき、ヨゴ式の湯殿のつかい方を、ていねいに説明してくれた。
「わかった? ひとりではいれるわね?」
アスラがうなずくと、マーサはにっこり笑った。それから、ふと、測るような目になって、アスラの身体をながめた。
「あなたは、いくつ?」
「……十二、です。」
「まあ、そう。わたしの孫娘とおない年だわ。あの子より、背は高いけれど、ずっとやせているわ。――着替えの衣を用意しておくから、ぬいだ衣は、この籠にいれておいて。」
そういいのこすと、マーサは湯殿からでていってしまった。
まるで小鳥のような人だ、と思った。小柄な身体で、きびきびうごく。
足音がきこえなくなるまで待って、アスラは、衣をぬいだ。
アスラは、おそるおそる湯殿の床におりた。小さなすべすべの石がびっしりうめられている、冷たい床だった。わきに溝があって、ここから湯が外へ流れていくらしい。
湯船は大きな壺のようにみえた。おしえられたとおり桶をとって、湯船から湯をくみ、そろそろと肩からかけた。
あたたかい湯が身体を流れていくのは、ふしぎな感じだった。アスラは、ヨゴ式どころか、湯をあびることじたい、これがはじめてだったのだ。タルの民は清流で身をきよめる。湯にはいる習慣はなかった。
小さな陶器の器に、砂のような粉がはいっていた。それを手にとって身体になすりつけると、やわらかくとけて、泡がたちはじめた。
(わぁ、いいにおい!)
花のようなにおいがする。アスラはうれしくなって、身体じゅう、すみずみまでよく洗った。
それから、湯でもう一度身体をすすいだ。湯をあびると、熱いような気がするのに、すぐに、すうっと寒くなってしまう。
こわごわ湯船に身体をつけると、最初は、とても熱いような気がした。つまさきなど、びりびり痛い。しかも、胸がくるしいような気がする。
でも、がまんして肩までつかって、しばらくたつと……なんともいえない、いい気もちになってきた。肌をうす氷のようにおおっていた緊張がゆっくりととけて、全身の力がぬけていくようだった。アスラは膝を抱いて、湯気のむこうにみえる、天井の模様をながめた。
このとき、なにかが身体にもどってきたような気がした。――あのおそろしいことがおこるまえの、ふつうの暮らしをしていたころの感じがもどってきたのだ。
(なんて、ふしぎ……。)
アスラは、ぼんやりそう思った。激流のような運命におしながされて、めまぐるしくすべてが変わってしまった。
(ヨゴ人の家で、お湯につかっているなんて。)
あのころの自分に、こんな未来がくるといったら、信じられただろうか?
風が鳴る音がして、すきま風がしのびこんでくると、湯気がゆらゆらと舞った。
(お兄ちゃんは、どうしているだろう。)
胸の底がぎゅっと痛んで、鼻の奥が熱くなった。……いますぐ会いたい。
カミサマにお願いすればたすけられるはずなのに、チキサをたすけにいかない自分を、アスラは、心のなかで責めつづけていた。
でも、チキサの傷をみてしまった瞬間から、アスラはカミサマがこわくなっていた。たとえ自分たちが生きるためでも、カミサマにすがって人を殺すのは……いやだった。
それに、人を殺すことを願ってしまったら、カミサマを信じる清らかな思いが、穢れてしまうような気がした。
けれど、カミサマを招く力をつかわなければ、アスラは、ただの十二歳の少女にすぎない。なにもできずに、運命が自分たちをころがしていくのをみているしかない、ちっぽけな子どもだ。
(人を殺さずに、だれも傷つけずに、生きていける道はないのかしら。)
スファルという呪術師は、アスラが災いをよぶのをおそれて殺そうとしているのだという。相手はロタ人だ。アスラが、災いなんてよばないと誓っても、信じてはくれないだろう。
それに、母が望んでいたことを、かなえるとするなら……アスラは、たしかに、ロタ人にとっては、とてつもない災いになる。
アスラは、小さく首をふった。――いくら、母の願いでも、そんな大それた、おそろしいことが、自分にできるはずがない、と思った。そんなことは、したくなかった。
(わたしは、だれも殺したくないのに……。)
目に涙がしみだしてきた。なんで、こんなことになってしまったのだろう?
むかし、家の裏手の森で薪を集めていて、いきなり吹雪におそわれたことがある。切りつけるような突風におされて目もあけられず、すぐそばに家があるはずなのに、方向がわからなくなってしまった。息ができないほどの風に身体をおしまくられ、なにをどうしたらいいか、まったくわからずに、ただやみくもに歩いた。あのときの、とてつもない心ぼそさと、いま感じている思いは、よく似ていた。
あのときは、お父さんがアスラをみつけて、つよい手でひっぱってかえってくれた。その力づよい手の感触を思いだしたとき、ふと、バルサのことが心にうかんできた。
バルサは、ほんとうにふしぎな人だ。赤の他人の自分を、まるで、あたりまえのようにたすけてくれている。
それに、お父さんのように、いろいろなことを、よく知っている。傷をおっても、大さわぎすることもない。
街道にでるまえに、バルサは清流で傷をあらって、血まみれの衣を着がえたのだが、アスラは、その傷をみて声をあげそうになった。――あんな傷をおっていて、なんで、がまんしていられるのだろう? さっき、なれているからだいじょうぶといっていたけれど、いくらなれていたって、痛いものは、痛いだろうに。
でも、バルサは傷の手当てをおえると、|竹林《たけばやし》にはいっていって、右手一本で|鉈《なた》をふるって竹を切りだし、短槍を竹の束のなかにかくしてしまった。
バルサは、あまり話をしないけれど、だまってとなりを歩いていても気づまりではない。
身内でもないのに、どうして自分をたすけてくれるのか――それをきいてみる勇気は、なかった。このさきのことを考える勇気も、過去におきたことをふりかえってみる勇気もない。
アスラはのどに手をふれた。……カミサマのことを考えるのも、こわかった。
未来にも、過去にも、まっ暗な闇がひろがっているような気がする。考えたくなかった。あたたかい湯につかっている、この心地よい〈いま〉だけを、抱きしめていたかった。
「……ちょっと、はいりますよ。いいかしら?」
マーサの声がきこえてきたので、アスラはびくっとした。
「はい。」
ひっかかったような声でこたえると、戸があいて、マーサが衣をかかえてはいってきた。
「身体をこの布でふいたら、この衣を着て、バルサがいる部屋にもどっていらっしゃい。もうすぐ、お夕食のしたくがととのいますからね。」
脱衣所に着替えをおいて、でていこうとしたマーサに、アスラは、あわてて声をかけた。
「あ……あの。」
マーサがふりかえった。
「ありがとうございました。」
マーサは眉をあげて、ほほえんだ。
「どういたしまして。」
マーサが脱衣所からでていくのをみとどけてから、アスラは湯からあがり、やわらかい布で身体をふいた。マーサがおいていってくれた着替えの衣を手にとって、アスラは、目をまるくした。それは、まるで春の野に咲くサラユのような、あわい|紅色《べにいろ》の衣だった。胸もとで襟をあわせ、飾り帯をまくヨゴの衣で、まとってみると、雲をまとっているように軽いのに、あたたかい。
衣からは、よい香りがした。
(――花びらをいれて織ったのかしら。)
アスラは、心地よい香りをまとって湯殿をでた。廊下をとおって、さっきの居間へはいっていくと、バルサとマーサしかいなかった。医術師は帰ったらしい。
目をあげてアスラをみたとたん、バルサの顔に、おどろきの色がうかんだ。
「へぇ! これは、これは。」
バルサのおどろいた顔をみて、マーサが満足そうにいった。
「ぴったりでしょう? 丈も、色合いも。もともと、鼻筋がとおって目が大きい、きれいな顔だちの娘さんですもの。これで、髪をきちんとして、頬に赤みがもどってごらんなさい。花が咲いたようになるわよ。」
そういって、マーサはつけくわえた。
「とにかく、食べなくてはね。たくさん食べて、自分の身をきちんとかざるすべをおぼえるのよ。そうすれば、道ゆく男たちが、ふりかえるような娘になれるわよ。」
ふたりにみつめられて、アスラは赤くなった。――心が、ほうっとあたたかくなるほど、うれしかった。
「……この|衣《ころも》、いい香りがする。」
アスラは、小さい声でいった。
「お花を織った布なんですか?」
マーサの目に、さっと笑みがひらめいた。
「花を織った布! いいひびきね。その衣の布には、シュラムという|香木《こうぼく》からとった香をたきこんでいるのよ。香りがいいし、虫をふせいでくれるわ。もう三十年以上もまえに、わたしが考えた|香布《こうふ》なの。わがサマド衣装店の人気商品よ。――その衣、気にいったのなら、あなたにさしあげましょう。わたしを思いだす、よすがにしてちょうだい。」
アスラの顔が、ぱっと、輝いた。
「……ありがとうございます。大事にします。」
アスラの表情はあかるく、やわらいで、これまでとは別人のようにみえた。
(マーサさんは、すごいな。)
バルサは、心のなかで、ため息をついた。湯にはいって、さっぱりとし、うつくしい衣に着がえるだけで、女の子はこれほどあかるくなれる。……こういうことを、どうも自分は思いつかない。
そういえば、むかし、マーサに衣をもらったことがあった。秋の空のようなあわい青色の地に、ほそい金糸で繊細な刺繍をほどこした、華やかだが品のいい衣だった。いつか、こういう衣を着る機会があるかもしれないでしょう? と、マーサはいったけれど、とうとう一度も袖をとおすこともなく、タンダの家においてある|櫃《ひつ》にしまったままだ。
すぐに夕食がはこばれてきた。料理をはこんできたのは、かなり年配の女だった。長年、この家ではたらいてきた女で、バルサも顔を知っている。
彼女は、バルサに会釈して、ひとことふたこと、元気だったか? というようなことをきいたが、長居はせずにさがっていった。
「あなたがここにいることは、わたしが心から信頼できる者にしか知られないように、気くばりしてありますから、心配しないで。裏の木戸番や使い走りの子にも、きちんといいふくめてありますからね。」
そういったマーサに、バルサは頭をさげた。
「どうもありがとうございます。」
マーサは、なんでもないことよ、というように手をふり、アスラに料理の説明をはじめた。
「これはね、山鳥をひと晩香料入りのタレにつけておいてから、炭火であぶったものよ。このほそくきざんだネギといっしょに食べてごらんなさい。」
四路街は、ロタ王国やサンガル王国からの交易路が交差する街だ。ヨゴではつくられない香辛料や、果物なども手にはいる。むしろ、都よりも新鮮なものがあるくらいだった。
マーサがすすめてくれた鳥の炭火焼きは、皮がパリッとこうばしく、その裏についた脂があまくて、とてもおいしかった。ひと口食べたとたん、きゅうっと腹がすいてきた。アスラはしばらくむちゅうで料理をほおばった。
バルサとマーサは、ロタ語で話しながら、ゆっくり食事をしている。――追われていることを、しばしわすれるほど、おだやかに夜がすぎていった。
サマド衣装店は、衣装や装身具を商うだけでなく、広い敷地のなかには織物や装飾品の原案をつくる作業場ももっていた。
マーサは、いっときも手をとめていられないたちらしく、翌朝も、バルサたちが泊めてもらっている離れに、衣の型をかいた冊子や、小さな作業道具をもちこんできて、刺繍などをこなしながら、バルサたちと話をした。
さまざまな衣の型をかいた冊子をアスラがよろこんでみていると、マーサがたずねた。
「あなたは、どの衣が好き?」
アスラは、くいいるように衣の絵をみつめていたが、そのうちのひとつを指さした。
「それが好き? どうして?」
アスラは、おずおずとこたえた。
「……この衣は、襟と肩のところがゆったりとしていて、まとったとき、心地よさそうだと思ったの。帯をこういうふうにまくと、すっきりとしてみえるし。」
マーサはうなずいた。
「あなたは、わたしと好みが似ているわね。わたしも、好きな衣だわ。」
そう話すあいだも、針をもったマーサの指は、布の上をはねるようにうごいている。アスラはそのうごきに目をすいよせられていた。
バルサは、なるべくはやく発とうと思っていたのだが、マーサは、傷がいえるまで待つべきだとゆずらなかった。
「商いでもね、あせってうごいて、うまくいったためしはありませんよ。傷をおったときは、休めという合図だと思って、その時を、じっくり考えることにつかうべきよ。
あなた、隊商の護衛の口を考えているっていったでしょう? いまトウノが、タチヤさんに連絡をとっているわ。いずれ、どんな隊商が、どこへむかってうごくか、どんな人たちが護衛を必要としているか、調べてくるでしょう。」
日のあたる窓辺で刺繍をしているマーサをながめながら、バルサは、彼女の言葉は正しいと思った。いまは傷をいやしながら、じっくりと考えて、計画をたてなおすときだ。
ただ逃げるだけなら、いくらでも手はある。――しかし、それでは、タンダとチキサをすくうことはできない。
スファルたちは、なぜ、アスラを殺すことにこだわるのだろう。
たとえ、アスラが、あの目にみえぬ牙のようなものをあやつる力をもっているのだとしても、それがかならずスファルたちに害をおよぼすとはかぎらないではないか。
アスラは容易にうちとけない、殻にこもりがちな少女だが、バルサ自身の少女時代にくらべれば、はるかにおだやかな子だ。人を思いやり、なるべく傷つけまいとする、やさしさをもっている。兄をたすけるために、あの力をつかって、スファルたちに立ちむかおうといいだすようすもない。
たとえば、激流にのまれたら、バルサは必死に流れにさからって泳ごうとするたちだが、アスラは、手足をぎゅっとちぢめて身体をまるめ、流れにさからわずに流されていくのではないか、という気がするのだ。スファルがおそれるような災いの種に、自分からなるような子ではないと思う。兄といっしょなら、ヨゴでおだやかに暮らしていくのではないだろうか。
「アスラ……。」
バルサが声をかけると、アスラは顔をあげた。顔にかすかに緊張の色がうかんだ。
「ヨゴの暮らしは、どう? なれない暮らしだと思うけれど。」
アスラの顔から緊張が消え、やわらかな笑みがうかんだ。
「……ここは、好き。マーサさんも、衣も、料理も、湯殿も。椅子がなくて、床にすわるのには、おどろいたけれど。あと、床で眠るのも。でも、あたたかいし……。」
ぽつ、ぽつと、ゆっくりつぶやいてから、アスラは、思いきったようにつけくわえた。
「ロタにいたときは、こんな暮らしがあるって、知らなかった。――お兄ちゃんが、ここにいたら、ここは最高だなぁっていうと思う。」
「じゃあ、お兄ちゃんといっしょになれたら、ヨゴで暮らしてもかまわないと思うかい? ロタに帰らずに?」
アスラは、うなずいた。そして、ちょっと考えたすえに、うちあけるようにいった。
「……あのね、まえに、お兄ちゃんと話していたことがあるの。――笑わないでね。」
バルサは、うなずいた。アスラは、ささやくような小声でいった。
「あの宿でね、お兄ちゃんがいったの。タンダさんって、いい人だって。タルをきらわないし、やさしい。あの人が、弟子にしてくれて、わたしといっしょに暮らしていけるようにめんどうをみてくれるなら、おれ、大人の倍ははたらくのになって。それで、大人になったら恩を倍にしてかえすって。……だめで、もともとだから、タンダさんにそう話してみようよって、いっていたの。」
思いがけぬ話に、バルサは胸をつかれて、なにもいえずにアスラをみていた。
「わ……わたしたちは、もう、家族がいないし、ロタに帰ったら、殺されるかもしれない。でも、お金もないし、まだ子どもだし、ヨゴで、どうやって……。」
アスラの声がふるえはじめた。
「生きて、いけばいいか、わからなかった……から。」
バルサは手をのばして、アスラの頭にふれた。とたんに、アスラは、せきがきれたように泣きはじめた。バルサの膝に顔をうずめて、声をおしころして泣いた。
「タンダはいいやつだけれど、あまりゆたかじゃないよ。マーサさんやトウノさんとちがって、金もうけには、まったく縁のない男だから、あんなのの弟子になったら、おいしいものも食べられないよ。」
バルサは冗談めかしていったが、アスラは、ただ泣きつづけるだけだった。
マーサと目があった。深い懸念をうかべた目だった。――どうするの? と、その目が問いかけているようだった。あなた、その子をそだてるつもりなの? と。
アスラは、赤の他人だ。なんの義理もない。……けれど、好むと好まざるとにかかわらず、これしかえらべない選択というものもある。
あのとき、自分はアスラたちをみすてることができなかった。手をさしのべてしまった以上、この子が、ふつうの暮らしができるようになるまで、手をひく気にはなれない。
眠っている自分に、油紙をかけてくれたアスラの気もちを思うと、せつなくなる。
バルサは、かすかに苦笑をうかべてマーサをみた。
「……これも縁ってやつでしょう。タンダとこの子の兄をたすける策がうかぶまで、隊商の護衛になって、金を稼ぎながらうごきつづけるしかありません。――わたしにとっては、なれた暮らしですしね。」
そうやって暮らしているあいだに、この子は、もうすこし心をひらいてくれるだろうか。あたたかい頭をなでながら、バルサは思った。スファルの真意を知るためには、シンタダン牢城で、なにがあったのかを知らねばならない。この子が、どんな脅威を身のうちにひめているのかを知らずには、なんの計画もたてられない。
けれど、それをむりにききだすつもりはなかった。――スファルの話が事実なら、この子は、おおぜいの人を殺している。へたにききだそうとしたら、とりかえしのつかないことになりそうな予感がした。
みじかいつきあいだが、それでも、この子が、人を殺して平気でいられるような心のもち主ではないことはわかった。……とすれば、なにか、あるのだ。人を殺しながら、それを自分のおかした罪と感じないですむ、なにかが。
それがひとつの鍵のような気がした。――それを知れば、スファルと、どう取り引きすればいいかわかるだろう。
タンダのことを思うと、胸の底を火であぶられるような気もちになる。いっこくもはやく、自由にしてやりたい。……あの、のんきな笑顔をみたい。
だが、タンダなら、おれのためにあせるなよ、慎重に、おまえのやり方でことをすすめろと、いうだろう。そういうタンダの声がきこえてくる気がする。
隊商の口と、今後の行き先が決まったら、ここから、タンダの師匠の大呪術師トロガイに、なにがおきたかを知らせる|文《ふみ》を送ろう。もしかしたら、バルサには考えもつかない手をひねりだして、応援にかけつけてくれるかもしれない。
だが、それは、あわい希望にすぎなかった。ここから文を送っても、|青霧《あおぎり》山脈の奥のトロガイのもとにとどくには十日以上かかるし、放浪癖のあるトロガイのことだ、家にいるとはかぎらない。――彼女のたすけはないものと思って、自力でできることをせねばならない。
ようやくアスラが泣きやみ、顔をおこして、はずかしそうに顔をあらいにいこうと立ちあがったとき、足音がきこえてきた。
「バルサさん、トウノです。はいりますよ。」
ふとい声がして、三十くらいの男が、戸をあけてはいってきた。背はさほど高くないが、肩幅があるせいか、それとも、よく光る目のせいか、押してくるような貫禄がある。
バルサは立ちあがって、この商家の主人をでむかえた。
「おひさしぶりです。――おどろいた。貫禄がつきましたね。」
バルサがそういうと、トウノが笑った。
「ふとったでしょう? 悪さをしていたころは、竹のように細かったもんだが。――バルサさんは、あまり変わりませんね。もう五年くらいたちますか? 最後にお目にかかってから。」
「そのくらいたつかな。」
トウノは、バルサに腰をおろすよう手でしめして、自分もむかい側にすわった。それから、母のマーサにいった。
「母さん、|織物頭《おりものがしら》が探していたよ。」
マーサは手をパタパタとふった。
「織物頭は、いつだってわたしを探しているのよ。――あとでいくわ。」
にやっと笑ってうなずくと、トウノはバルサに目をもどした。
「ゆっくり積もる話をしたいが、そうもしていられないようですね。タチヤさんと話してきましたよ。あと五日ほどで、なじみの隊商がもどってくるそうで、そのうち三つの隊商が護衛をあらたに雇いたいといっているそうです。都へいくのと、サンガルへいくのと、ロタへいくのと。
タチヤさんはかたい仕事をするけれど、ちかごろは、護衛の口入れ屋がふえてきているから、あまり仕事がまわってこないようですよ。隊商の規模も小さいし。ほかの人を紹介することもできますが?」
バルサは首をふった。
「ありがたいけれど、いまは遠慮しておきます。タチヤさんは、察しがはやくて口がかたい。隊商の規模は、むしろ小さいほうがいいのです。護衛の数がふえると、女をいれることをきらうから。」
トウノはうなずいた。
「わかりました。あなたが護衛の職を探していることは、人にいわぬようにたのんであります。五日後にきてくれといっていました。」
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3 裏切り
バルサは、できればひとりでタチヤの店にいきたかった。アスラをつれて歩くと、目立ちすぎるからだ。しかし、隊商の護衛の仕事につくためには、隊商の|頭《かしら》に人柄をみてもらわねばならない。子どもづれなら、その子をつれて会うのが常識だった。
隊商は長い旅をする。いっしょに旅をする人との相性が、なによりたいせつなのだ。わがままな子や、身体が弱い子をつれてくるのではないかと疑われたら、いかにバルサに信用があっても、職を得られない可能性がある。
マーサが、すこしでも印象を変えてあげましょう、といって、アスラの髪をきれいにあらい、背まである栗色の髪をゆいあげてくれた。それから、ヨゴの娘たちが外を歩くときに日よけとしてつかう、白地に刺繍をほどこした頭巾をかぶせてくれた。
タチヤの店まで、ロバ引きの車をたのむという手もあるだろうが、そんな車でのりつけたら、むしろ目立ってしまう。四路街は異国からの人びとがいきかう大きな街だ。人ごみにまぎれることを、願うしかなかった。
バルサは、四方に気をくばりながら、アスラの手をひいて歩いていった。秋の陽ざしはうすく、冬がすぐそこまできていることを告げている。にぎわう街の、迷路のようなほそい路地裏に、タチヤの店はあった。
表の看板は「よろず|承《うけたまわ》り」とあるだけだ。タチヤは、人のつながりで商売をする人で、ふらりとやってくる人は相手にしない。だから、店の表の戸には、うす布がかけられていて、外からみただけでは、なにをやっている店なのか、まったくわからないつくりになっている。
それも、バルサがタチヤをえらんだ理由だった。よほど、四路街の口入れ業者にくわしくなければ、ここが隊商の護衛を世話する店だとは、気づかないからだ。
店のまえにくると、バルサは短槍を右手から左手にもちかえた。それをみて、アスラは、左肩はもう痛くないのかな、と思った。
うす布をもちあげてはいると、なかは意外に広く、がらんとした、たたきがひろがっている。奥に座敷があって、机のうしろに小さな老人がすわっていた。そのわきの、上がりがまちにも男たちが四人腰をかけて、老人と話をしていた。
バルサたちがはいっていくと、男たちが顔をあげた。三人は商人らしい身なりだったが、もうひとりは長剣を手もとにおき、衣の袖をまくって、りゅうりゅうとした筋肉をみせつけている。ひげをはやし、おちついた武人らしい態度で、むっつりとすわっていた。
三人の商人のうち、もっとも若い男が、アスラに目をとめると、ふしぎそうな顔になった。しきりと、バルサの顔とアスラをみくらべている。ロタとの行き来が多い商人なのだろう。アスラがタルの民だと気づいたのだ。バルサはさりげなくアスラを自分のそばにひきよせて、男の視線からかくした。
机のむこうにすわっていた老人が、目もとに笑みをうかべて立ちあがった。
「ひさしぶりですね、バルサさん。お元気でしたか。」
「おひさしぶりです。おかげさまで、なんとか元気にやっています。タチヤさんも、いい顔色をしておられますね。」
バルサがそういうと、タチヤの笑みが深くなった。
「トウノさんから、だいたいの話はうかがっています。サンガルへの隊商に護衛としてくわわりたいということでしたね?」
それをきくと、武人らしい男が、じろじろと無遠慮な視線をおくってきたが、バルサは無視して、タチヤにうなずいた。
「この子をつれていきたいので、その条件さえのんでいただければ、賃金はいつもの半額でかまいません。」
「……失礼だが、ちょっといいかね?」
アスラに目をとめた若い商人が、口をはさんできた。
「はい?」
「あんたの場合、いつもの賃金というのは、いくらぐらいなのかね。……いや、親父から頭をひきついだばかりで、護衛の相場について、すこし知識をふやしたいもんでね。」
「わたしの賃金は、ふつう、三食のほかに、一日銅貨三十枚です。」
すわっている武人が笑いだした。
「なんだと? そりゃ、ふっかけすぎだろうが。銅貨三十といったら一流の護衛の値だぞ。」
バルサは、なにもいわなかったが、タチヤがその武人に目をむけた。
「ジャノンさん。バルサさんは一流ですよ。経験からいっても、腕からいっても銅貨三十で当然の人だ。」
ジャノンとよばれた男はおもしろくなさそうな顔をしたが、タチヤににらまれると職を得られないので、口をとじた。
若い商人は、ふうん、とうなった。
「ということは、半額なら銅貨十五枚か。ふたり分の食事つきでね。」
武人が彼にいった。
「さっき話したように、おれなら銅貨十二でいい。ガキもいない身軽なひとり身だ。子どもなどつれて護衛をやるなど、ふざけた話だ。そちらに気をとられては、ろくな護衛はできまいに。」
タチヤが首をふった。
「子どもづれだろうと、まもる隊商の人数がひとりふえるだけですよ。バルサさんは、そういう人だ。」
タチヤは若い商人に目をむけた。
「だが、ナカさん、あなたはロタへむかいなさるのだろう? バルサさんはサンガルの方面へむかう隊商を望んでいるのですよ。」
商人たちは、ぼそぼそと護衛の報酬について話しはじめたが、タチヤはそれにはくわわらず、バルサに、ちかくにくるよう手まねきした。そして、小声でいった。
「バルサさん、昨日、あなたをたずねてきた人がおりました。」
バルサは顔をくもらせた。
「どんな人でしたか?」
「ヨゴの男で、たしか、タンダ、と名のっていました。」
胸をたたかれたような衝撃を感じて、バルサは目をみひらいた。
「……背格好は?」
「かなりふとっている男でしたな。四十がらみの。」
(――タンダじゃない。)
「わたしに、どんな用があるといっていましたか。」
「ただ手紙をとどけにきたということで。わたしは、あなたはここにはきていないといいましたが、とにかく、あらわれたらわたしてくれ、と手紙をおいていきました。これです。」
紐でむすんである|皮紙《ひし》をひらくと、ロタの文字が目にとびこんできた。読みすすむうちに、背筋が冷たくなっていった。
[#ここから3字下げ]
――シャーサム〈新年の月〉の二十日の、朝の鐘が鳴りはじめたら、ジタン|祭儀場《さいぎじょう》の門をくぐれ。
あらわれぬなら、朝の鐘が鳴りおえたときが、タンダとチキサの命が消えるときだ。
[#ここで字下げ終わり]
スファルたちが、ここを知っている。ここにバルサがくると、読んでいたのだ。
この手紙をもった男は、昨日たずねてきたという。バルサは追手をたおしてからの|日数《にっすう》をかぞえた。ロタ人のスファルたちが、このわかりにくいタチヤの店を、なぜこれほどはやく探しだせたのか。……まさか、タンダが話したのだろうか。
タンダが裏切るとは、まったく思わないが、だからこそ不安が胸にこみあげてきた。タンダは気のいい男だが、思慮深い。たとえスファルと取り引きしたとしても、こんな結果になるような、ばかな取り引きをするはずがない。わざわざ使いの男にタンダと名のらせたことにも、バルサをきずつけようとする悪意を感じる。
あたりの音がとおざかるほどの恐怖が胸をしめつけた。
「……バルサ?」
不安げなアスラの声で、バルサはわれにかえった。――そして、心のなかの恐怖が外にあらわれぬように、しずかに息をととのえた。
「あとで、話すよ。」
アスラにそうつぶやいて、バルサは心のなかで日数を考えはじめた。
ジタン祭儀場はロタの北方地域と南方地域の境目にある。シャーサムの|二十日《はつか》までは、まだ四十五日ほどあるから、時間的にはじゅうぶんだった。
なぜ、ジタンなのか。シャーサム〈新年の月〉の二十日といえば、ロタ王国の建国ノ儀がジタン祭儀場でおこなわれる、わずか二日まえだ。なぜ、そんな日をえらんだのだろう? ――それを考えてみる必要があるが、いまは、とにかくロタにむかわねばならない。
この店のことを知っているのなら、バルサが護衛につく隊商がどれかを知るのも、さしてむずかしいことではないだろう。――ならばなぜ、わざわざ手紙をのこしたのだろう?
ひそかに見張っていれば、楽にあとをつけられたはずだ。
一度、手ひどくまかれたことで、警戒しているのだろうか? ……そうは思えなかった。
最後にいきつく場所と時間を指定するというのは、これまでのような、追ってくるやり方とは、においがちがう。
なにか事情が変わったのかもしれない。――いずれにせよ、こうして居所をつかまれ、意思を伝えられてしまえば、圧倒的にバルサのほうが不利だ。条件をのむ以外に、方法はないのだから。彼らは、まず、道中は、ねらわないだろう。バルサとアスラがあらわれる場所と時間はわかっているのだ。罠をはって待っていればいいのだから。
「タチヤさん、ちょっと事情が変わりました。――ロタへいく護衛の口は、ありますか?」
バルサの言葉をきいて、ジャノンという武人がさっと立ちあがった。
「ロタ行きの隊商は、おれが|先口《せんくち》だ。」
バルサは、はじめてまともに彼にむきなおった。
「べつに、あんたの口をとろうというわけじゃない。すこし待っても、ロタにいく隊商の口をたのむという意味でいったんだ。」
タチヤが、あごをなでた。
「……さて、こまったな。バルサさん、ちかごろは、ナバル峠などの南部の国境は、通行料を高くとるというので、四路街からの隊商は、北のサマール峠をとおりたがるのですよ。サマール峠は、あと十日ほどで雪にとざされる。今年の出発は、たぶん、このナカさんたちの隊で最後でしょう。」
バルサはうなずいた。
「わかりました。タチヤさん、たいへんもうしわけないのですが、ほかの口入れ業の方で、タチヤさんが、信用できるという人がいたら、ご紹介いただけませんか。」
それをきいていた、ナカという若い商人が、ぱっと立ちあがった。
「いや、ちょっと待ってくださいよ。タチヤさんがみとめる一流の護衛が、子どもひとりに食事をだせば銅貨十五枚なんでしょう? うちの隊は人数が少ないし、女子どもがいる家族だけの隊商なので、腕さえたしかなら、あなたにぜひお願いしたい。」
ジャノンの顔に、さっと怒気がうかんだが、さすがにナカに怒りをむけないだけの分別はもっていた。隊商の頭にきらわれれば、口から口へ悪評が伝わる。ジャノンは、おさえた口調でいった。
「ナカさん、頭はあなただから、えらぶのはあなただ。しかし、これだけはいわせてもらおう。
女が護衛についていても、なめられるだけだ。それに、この女は短槍をつかうようだが、つねに短槍を手にしていられるわけじゃない。なにかの事情で、槍をもたないときにおそわれることもあるんだ。そういうとき、女はやはり女だ。素手では、けっして男にはかなわない。」
タチヤはだまっていたが、目におもしろがっている光がうかんでいた。バルサはちらっとタチヤをみたが、彼は、だまってほほえむばかりで、今度はわってはいろうとはしなかった。
バルサは、ジャノンに目をもどした。
「……自分を売りこむために、人をおとしめるのかい。」
「おとしめたわけじゃない。事実を話しただけだ。――事実じゃないと、自分で証明してみせるかね?」
ジャノンが、にやっと笑った。バルサは、小さくため息をついた。そして、アスラにささやいた。
「これをもって、あのすみにいておくれ。重いから、気をつけて。」
アスラは緊張した顔で、バルサからわたされた短槍をもった。――思っていたより、ずっと重い。アスラは慎重に槍を両手でもって、ずっとすみのほうへさがった。心臓が痛いほど脈うっていた。口のなかが、からからだった。
ジャノンという武人は、立ちあがると、バルサより頭ひとつほども背が高かった。だれがみても、素手ではかないそうにない。それに、バルサは、ふたつも傷をおっている。アスラは、心配のあまり、胸が痛くなってきた。
ジャノンは、どこからでもかかってこい、というしぐさをしてみせた。
かすかに腰をおとしたバルサの右足が、ぴくっとうごいた。――瞬間、バルサが右利きだとみてとったジャノンは、けりが急所にあたらぬように|半身《はんみ》になった。そして、半身になった勢いを利用して、バルサの顔面に左のこぶしをふりだした。
その左手を、バルサの右手が外側からなでた……ようにみえたせつな、ジャノンの身体がくずされて、大きくまえへ泳いだ。そのときには、バルサは、流れるようなしぐさでジャノンの身体にそってうごき、右肘をジャノンのわきの下にたたきこんでいた。
ジャノンは目をむいた。わきの下の急所から激痛がはしって息がつまった。それでも、うなりながら、ジャノンは身体をねじり、バルサの髪を右手でつかもうとした。髪をつかんで、膝でけりあげれば、女の身体だ。どこへはいっても一撃でたおせる。
ポキンッと枝を折るような音がして、髪をつかみにいった右手に、突然、激痛がはしった。なにがおきたのか、ジャノンはみることさえできなかったが、髪をつかむためにこぶしをひらいた瞬間、閃光のようなバルサの|手刀《てがたな》が指を打って、たたき折ったのだった。
ジャノンが激痛で右手をつかんで身体をまるめても、バルサは手をとめなかった。かるくまげた手刀を、気合とともにジャノンの耳の下にたたきつけると、ジャノンは、たおれて、うごかなくなった。それでも、バルサは、足をとられぬように背後からちかより、膝をついてジャノンのまぶたを指であけた。
そうやって、ジャノンが完全に気をうしなっているのをたしかめて、はじめて、バルサの身体から殺気が消えた。
商人たちは、声もなく、ぼうぜんとしていた。バルサが、アスラのところに歩いていって、短槍をうけとると、ようやく呪縛がとけたように、彼らは身じろぎした。
ナカが、かすれ声でつぶやいた。顔があおざめて、目に嫌悪の色がうかんでいた。
「いや……強いのはわかったが、ずいぶん残酷なことをする人だ。力の差がこんなにあるのなら、指を折らなくても……。これでは、この人はしばらく仕事ができなくなってしまう。」
そのとき、タチヤが口をひらいた。
「ナカさん、バルサはね、わたしが口をはさまなかったから、ここまでやったのですよ。」
タチヤは立ちあがって、たたきにおりると、なれた手つきでジャノンのまぶたをあけ、首筋に指をあてて脈をみた。
「さっきお話ししておきましたように、ジャノンは酒場の用心棒をした経験はあるが、隊商の護衛の経験はありません。あなたのところのような小さな隊商は、複数の護衛はやとえないが、よくごぞんじのように、隊商というのは、盗賊にとってねらいやすい獲物です。
あなたたちは、もちろんほかの隊商とよりそって旅をされるでしょう。それでも、盗賊がおそってきたときは、容赦のない命のやりとりになりますね。」
ナカは、うなずいた。
「隊商の護衛は、酒場の用心棒とはちがうのです。ジャノンは銅貨十二枚の価値だといった意味は、そこにあります。バルサは銅貨三十枚。わたしがそういったのに、ジャノンは、バルサを女だというだけであなどった。
ジャノンは剣の腕はたしかだが、手をだしてはいけない相手をみぬけないようでは、まだまだ。隊商の護衛はしないほうがいいと、わたしは判断しました。だから、とめなかった。いま指を折られたほうが、あとで首を折られるよりずっといい。
バルサは、いったん相手をするとなったら、格下の相手でも容赦なくたおし、たおれていても、油断をしなかったでしょう? そのうえ、しばらくは剣をにぎれないようにすることで、恨みをいだいても、おそえないようにしたのですよ。指が治るころには、バルサさんはここにはいない。ふたたび会うころには、頭も冷えているでしょうからね。
ナカさん、残酷なのではなく、これこそが、命をまもる仕事をするときに絶対必要な、心構えなのです。……だから、わたしはバルサを一流だといったのですよ。」
ナカは、こわばった顔でだまっていたが、やがて、ゆっくりと頬に血の気がもどってきた。
「なるほど。――いい勉強になった。」
バルサのほうにむきなおって、ナカはいった。
「ぜひ、あなたに護衛をたのみたいんだが、うけてもらえるかね?」
バルサはうなずいた。
「ありがたいです。ただ、ひとつだけ。……ロタのどちらへいかれますか?」
「わたしは毛皮の買いつけを仕事にしているのでね、北部をまわって毛皮を買いつけてから、ヨゴへもどるのが、いつもの道筋なんだが。」
「そうですか。じゃあ、トルアンをとおりますね?」
ナカが、うなずいた。
「ロタをよく知っているようだね。そう、トルアンは北部の毛皮が集まってくる市場だからな。かならずとおるよ。」
「わたしたちにはいかねばならない場所がありますので、トルアンまでなら護衛をしましょう。トルアンには、わたしがよく知っている信頼できる護衛の口入れ商がいます。そこで、ヨゴまでの帰路の護衛をかならず紹介します。――その条件でいいでしょうか。」
うなずきかけて、ナカがふと、バルサのうしろに立っているアスラに視線をむけた。
「条件は、それでいいんだが……。その子は、あなたの娘さんじゃないね? さっきから気になっていたんだが、あなたはカンバル人のようだし、その子はどうみても……。」
「ええ、わたしの子ではありません。」
さえぎるように、バルサはいった。口調をやわらげるために、すこし笑みをうかべながら。
「たちのわるいロタの商人にさらわれて、ヨゴで売られそうになっていたのをたすけたんです。身寄りがないとわかったんで、ひきとったというわけです。」
「ああ……なるほど、そういうわけかね。」
ナカは、ちょっと考えていたが、やがて手をさしだした。契約の成立だった。
タチヤに仲介手数料を手わたしながら、バルサは小声でささやいた。
「もし、またわたしを訪ねてくる人がいたら、わたしは条件をのんだ、と伝えてください。かならず期日までにジタンへいくと。……だが、もし、そちらが約束をやぶり、タンダとチキサを傷つけたら、かならず後悔させてやると。」
バルサの口調はおちついていたが、全身から殺気のなごりのようなものがたちのぼっていた。タチヤはうなずき、手もとのざら紙にさらさらと書きつけた。それから顔をあげて、小さいが、よく光る目でバルサをみて、いった。
「むかし、ジグロさんの技をみたことがあるが、バルサさん、その域に達したようだね。年をとっても衰えぬ技というのがあると、ジグロさんがいっていたが、わたしは首をかしげたものだ。――だが、さっきのあなたのうごきをみて、すこし信じはじめたよ。」
バルサは、ほほえんだ。
「ジグロは、女の身体でも強くなれる技をわたしにしこんでくれた。それは、けっきょく、筋力にたよらない技ですからね。……いつまで、わたしがこの仕事をできるか、長いつきあいができるといいですね。」
タチヤが、笑った。
「あなたが衰えるよりさきに、わたしが引退するのはまちがいない。いずれ、息子に紹介しましょう。」
ナカとこまかい打ち合わせをし、明日合流することを約束して、バルサはアスラとともに店の外にでた。外にでたとき、あたりの気配をさぐったが、秋の光が、にぎやかな街をてらしているだけで、見張っている者の視線は感じなかった。
透明な陽ざしとは裏腹の、行き先のみえない思いをかかえながら、バルサは歩きだした。
バルサたちがタチヤの店を去って、ほんの数刻のちに、タンダとスファルが、タチヤの店のまえに立った。シハナやマクルたちは店の外にちって、あたりに目をくばっている。チキサは泊まっている宿の部屋にとじこめられていた。
タンダたちがうす布をもちあげて店にはいると、タチヤが目をあげた。
「なにか、ご用ですかな?」
タンダはタチヤにちかづいていった。
「失礼ですが、タチヤさんですか? 隊商の護衛の世話をしておられる?」
「はい、わたしがタチヤですが。どなたかのご紹介でいらしたのかな?」
「いえ、その、わたしは友人をたずねてきたのです。まえに、その友人から、あなたの話をきいていたもので、連絡がつかないかなと思いまして。……要領のわるい話でもうしわけないのですが、ええと、バルサという女用心棒をごぞんじですよね?」
タチヤの表情は、まったくうごかなかった。
「失礼ですが、あなたのお名前をうかがっていないようだが。」
タンダが赤面した。
「もうしわけありません。そうでした。わたしは、タンダともうします。」
タチヤの目が、すっとほそくなった。
「……これは、どういうことなのでしょうかな。二日まえにこられたタンダさんは、あなたよりふとった方だったが。わたしはたのまれたとおり、バルサさんに手紙をわたしましたよ。」
タンダは、はじかれたようにスファルをふりかえった。スファルの顔には、はっきりと困惑の色がうかんでいた。
裏切ったのか? ――タンダは、ひごろに似あわぬきつい視線でスファルをにらみつけたが、スファルは必死に首をふった。
「わたしは、知らぬ。……誓ってもいい。」
ふたりのやりとりをみまもっていたタチヤが、口をはさんだ。
「バルサさんからの伝言があります。ききますか?」
タンダはうなずいた。タチヤは机の上を探していたが、やがて、一枚のざら紙をみつけだして、老眼の目をほそめ、紙をはなして、読みあげた。
「わたしは条件をのんだ。期日までにジタンへいく。だが、もし、そちらが約束をやぶり、タンダとチキサを傷つけたら、かならず後悔させてやる。」
タンダはあおざめた顔で、くいいるようにその紙をみつめた。スファルがわきにきて、やはり、あおい顔でその紙をみつめている。
なにがおきているのか。――スファルが裏切っているのでないとすれば、なにが……?
タンダは声のふるえを必死におさえて、タチヤに、バルサが隊商にくわわったのかどうかたずねたが、タチヤは貝のように口をつぐみ、それ以上はいっさいおしえてくれなかった。
うす暗い店から外にでると、一瞬目がくらんだ。
シハナがこちらへ歩いてくる。その肩に赤い首輪をした小さな猿がすわっているのをみて、タンダは、はっとした。見おぼえのある猿だ。――あの宿にいた猿、あれはシハナの猿だったのか。
スファルが、足ばやにシハナのほうへ歩きだしたとき、数人の男たちがタンダとスファルの両わきからせまってきた。スファルは、その男たちをふりかえって、目をみひらいた。
「ラワル|筋《すじ》のカファム……。」
男たちは、あっというまにスファルとタンダをとりかこんだ。シハナが、ゆっくりとスファルのまえに立った。
「父さん、ごめんなさい。父さんのやり方では、やはり時間がかかりすぎるわ。だから、わたしの仲間たちに応援をたのんだの。」
スファルが、娘をにらみつけた。
「なんのことだ? なにをいっている……。」
シハナは、しずかにこたえた。
「わたしは、ずっと、ロタ王国にとってもっとも幸せな形になるように絵をかいて、駒をうごかしていたのよ。父さんは、きっと反対するだろうから、知らせずにいたけれど。……まあ、こんなところで話していてもしかたがないわ。宿に帰りましょう。今夜じゅうにロタへむけて旅立つから、したくをしなくてはね。これからは、わたしの指示にしたがってもらうわ。」
父の顔に、はげしいおどろきと、怒りの色がうかぶのをみても、シハナの表情はまったくうごかなかった。その目には、いつもの、とおいところからすべてをながめているような超然とした光がうかんでいるだけだった。
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終章 旅立ち
アスラが目をさましたのは、夜明けの光が、闇をうすくしはじめたころだった。
もうバルサは起きていた。窓ぎわにすわって、左肩の傷の手当てをしている。アスラが身体を起こすと、こちらに顔をむけて、
「おはよう。」
といった。
「……傷、治った?」
小さな声でたずねると、バルサは、うなずいた。
「だいぶ治ったよ。」
アスラは、しばらくためらっていたが、やがてちかよって傷をのぞきこんだ。深い矢傷にできていたかさぶたがとれて、新しい皮が光っている。
「こうやって、傷が治っていくのをみるたびに、思うんだ。……ああ、身体が生きようとしてるんだなぁってさ。」
アスラが目をあげると、バルサは、なんとなく、てれくさげにいった。
「そんな気がしないかい?」
アスラは、うなずいた。
昨日、バルサは、タチヤの店にのこされていた文のことを話してくれた。兄をたすけるためには、ジタン祭儀場へいかねばならぬことを、アスラは知った。
ジタン祭儀場ときいた瞬間、アスラは、どきりとした。――バルサは知らないようだが、ジタンこそ、はるかむかし、ロタルバルの聖都があった場所だったからだ。
聖なる泉がわき、巨大な|聖樹《せいじゅ》が天に枝をひろげ、宿り木の輪が花をつけていたという聖地。
かつて、シウルの娘が、サーダ・タルハマヤ〈神とひとつになりし者〉となった、まさにその場所であり――サーダ・タルハマヤが、キーラン王に殺された場所でもあった。
胸にかかっている、目にみえぬ聖なる宿り木の輪が、かすかにうずいたような気がした。
運命の手が、自分を聖地へとみちびいている。……そんな気がした。そのとたん、とてつもなく大きな嵐のまえに、ぽつんと立っているような、心ぼそさが胸をさした。
(スファルという呪術師は、サーダ・タルハマヤが殺された場所で、わたしを殺そうと思っているのかもしれない……。)
こわかったけれど、バルサには、どうしても、それを伝えられなかった。――ジタンのことを話すには、自分がタルハマヤを招けるということを、うちあけねばならなかったからだ。
チキサをたすけるためには、罠が待っているとわかっている地へ、いかねばならない。
おそろしかった。母におしえられたように、神を招く者として、冷静であらねばと思ったが、胸の底にひろがっていくおびえを消すことはできなかった。
がたがたふるえながら、バルサをみつめていると、バルサが肩に手をおいた。
「わたしの養父が、いっていた。――絶望するしかない窮地においこまれても、目のまえが暗くなって、魂が身体をはなれるその瞬間まで、あきらめるな。
力をつくしても報われないことはあるが、あきらめてしまえば、絶対にたすからないのだからってね。」
その言葉よりも、バルサのおちついた声が、アスラのふるえをしずめてくれた。
「あんたにとって、お兄ちゃんがかけがえのない人であるように、わたしにとって、タンダは、かけがえのない人なんだ。――ふたりで道を探そう。あと数十日あるのだから。」
バルサは、傷に当て布をして包帯でまくと、衣をまとった。
「ロタから新ヨゴへは隊商といっしょにきたんだったね。」
アスラはうなずいた。――ぼんやりとしかおぼえていないが、いやな印象だけがのこっている。その表情をみて、バルサは、はげますようにいった。
「そのときの旅とはちがうから安心おし。仲間として旅をするんだから。馬にのって長旅をするのはたいへんだけれど、それは、みんなおなじだし、小さい娘さんもいるそうだから、さほど、つらい旅にはならないと思うよ。旅の仲間を気づかって、いっしょにはたらいてごらん。はやく、とけこめるから。
盗賊がおそってきたら、わたしは、隊商の仲間全員をまもることを考える。アスラをとくべつにはあつかわない。みんなの命を、ひとしいものとして、うごく。……わかってくれるね?」
アスラは、深くうなずいた。
「よし。じゃあ、したくをしよう。」
立ちあがったバルサを手伝って、荷物をととのえ、寝具をかたづけて、部屋をそうじしながら、アスラは、こみあげてくる不安とたたかっていた。
バルサがいてくれる。――それに、最後の最後には、どうしようもないときがきたら……カミサマが、きっと、たすけてくださる。
わたしは、気高く、強くあらねばならない。聖なる神タルハマヤにえらばれた者なのだから。
大きく息をすって、アスラは背をのばした。いつのまにか、朝の光が窓からさしこみ、かたづけられて、がらんとなった部屋を白くてらしていた。
足音がきこえてきた。マーサの足音だった。戸をひきあけて、きちんとかたづけられた部屋をみると、マーサの顔に、さびしげな表情がうかんだ。
「旅立ちね。」
つぶやいたマーサは、夜具の下にさしこまれている小さな包みを目ざとくみつけると、ひろいあげた。それは、昨日、隊商の頭であるナカからうけとった支度金の一部で、バルサがマーサへの謝礼として、わたそうと考えていたものだった。
マーサはバルサに包みをおしつけた。バルサが口をひらこうとすると、マーサはきっぱりと首をふって、異議を封じこめてしまった。
「これをうけとったら、わたしは、あなたの友だちではなくなってしまうわ。」
そういってから、マーサはアスラに目をうつした。
「アスラ、このさき、あなたにどんな運命が待っているのか、わたしにはわからない。でもね、もし、あなたが望むなら、もう一度ここへ帰っていらっしゃい。あなたには、衣をみる目があるようだから、わたしが、一流の衣装職人にしこんであげますよ。お兄さんにも、なにかよい仕事をみつけてあげましょう。」
アスラはびっくりして、きりっと立っているマーサをみつめた。
「職人になるのも、商人になるのも、たいへんよ。きびしい道だわ。でもね、そういう道で生きようと思うなら、わたしが手だすけをしましょう。――わすれないでね、わたしのことを。」
マーサの目にうかんでいる、やさしい笑みをみて、アスラはのどもとに、熱いものがこみあげてくるのを感じた。
泣いてしまわないように、ふるえる唇をかみしめて、アスラは床にすわった。そして、手をあげると、額と鼻と口を三本の指でとん、とんとなでてから、床に頭をつけた。心からの感謝をあらわすタルの民のしぐさだった。
バルサは、マーサとみつめあった。そしてマーサに、深く頭をさげた。
この子に、ここで生きる未来をあげたい。心からそう思った。
窓からさしこんでいる白い光を横顔にうけて、バルサは、もちなれた短槍をにぎりしめた。
そして、立ちあがったアスラと目をあわせ、その小さな手をとると、新たな旅へと足をふみだしていった。
[#地付き]〈帰還編へつづく〉