夢の守り人
上橋菜穂子
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目次
序章〈花〉の種が芽吹くとき
第一章 〈花〉の夢
1 〈木霊の想い人〉
2 ねむりつづける人びと
3 〈花番〉
4 出口のない部屋
第二章〈|花守《はなも》り〉
1 呪術と星読み
2〈花〉の罠
3 バルサと〈|花守《はなも》り〉の死闘
4〈花〉の息子
第三章〈花〉への道
1 記録係のオト
2 チャグムとタンダ
3 密会
4 チャグムの策略
第四章〈花の夜〉
1 〈狩人〉ジンの約束
2 山の湖
3 月の門
4 滅びの風と、歌声と
5 目ざめ
終章 夏の日
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序章 〈花〉の種が芽吹くとき
新ヨゴ|皇国《おうこく》の西隣、ロタ王国のある村の広場で、ひとりの年老いた歌い手があおむけにたおれていた。この老人――人びとからふかく愛されてきた放浪の歌い手ローセッタは、村の|夜祭《よまつり》にまねかれてうたっている最中に、突然たおれたのだった。
夜の闇のなかにかがり火がパチパチとはぜ、人びとが不安げにさわぐ声が広場に満ちている。だが、ローセッタには、もはやその物音は|潮騒《しおさい》のように遠くきこえ、ただ、満天の星空だけが、近くみえていた。
ローセッタは、ふいに、自分の身体がかるくなるのを感じた。まるで水のなかにいるように、身体が勝手に浮かびあがっていく。みおろすと自分がよこたわっているのがみえた。
(魂が|身体《からだ》からはなれていく……。)
それでもまだ、彼は完全に身体とはなれてはいなかった。みおろしている身体の|額《ひたい》あたりから、光る一筋の糸がのびて、自分とつながっているのだ。その光の糸をひきながら、ローセッタは、ぐんぐん身体からとおざかっていった。
彼の魂はこのまま〈あの世〉へと吸いこまれ、身体と魂をむすんでいる糸が切れ、死をむかえるときがきていたのだ。――彼がふつうの人であったなら。
ローセッタは流星のように白く光る尾をひきながら、暗い|虚空《こくう》をすごい速さで飛んでいた。おもしろいことに魂になっても手足や身体があるように感じられる。ローセッタは泳ぐように虚空を手でかいたり、足をばたつかせたりして飛行をたのしんだ。
と、胸のあたりに、やけつくような熱さを感じた。両手を胸にあてると、その手のなかに、コロリとなにかがころげおちてきた。ローセッタは、自分の手のなかにあるものをみて、さびしげな笑みをうかべた。――彼の手のなかで、あわく光っていたのは、小さな花の種だった。
(……ああ。ほんとうに、おれは死ぬのだな。)
自分の一生が、長い長い歌物語のように脳裏をかけぬけていく。ローセッタは、さびしい思いを吐きだすように、そっと手のなかの種にささやいた。
(おれの時が終わる。さあ、おまえの時をはじめよう……。)
どこに種をまくかは、ずっとまえに決めていた。十年ほどまえに旅した隣国、新ヨゴ|皇国《おうこく》の山々にかこまれたうつくしい湖――あそこほど、この種が芽ばえるにふさわしい場所はない。
その湖のなかに、|白木《しらき》の宮を夢みよう。あのころ、よくうたった大好きな歌物語のように。そこで種を芽吹かせるのだ。……そう思ったとたん、彼の魂は、いっきにはるかな道のりをこえて、その異国の湖の上を飛んでいた。この山の湖にも、彼の故国の山の水辺とおなじように、小さな歌好きの精霊たちがいて、死にかけている彼の魂に最後の挨拶をおくってくれた。
ローセッタは湖に吸いこまれた。水の冷たさは感じなかった。ただ、夜明けまえのうす青い闇のような、静かな青のなかをすべっていく。
その青の底にふかい闇がみえる。あの闇が、死者の魂をむかえる〈あの世〉なのだろう。だれかの魂が、すうっと、その闇に吸いこまれていくのがみえた。あのなかで、あの魂は生前の記憶をすべてわすれ、まっさらな魂へとさらされてから、いずれまたこの世へと生まれでてくる。まっさらな魂にならなければ、ふたたび人の世へ生まれでることはゆるされないのだ。
だが、ローセッタの魂は、〈あの世〉の闇の手前でゆっくりととまった。
ローセッタがてのひらでつつんでいた種の|外皮《がいひ》に、つっと光が走り、みるみる割れ目がひろがっていく。そこからあふれでたあわい光は、まるで水のなかの気泡のように、ぷうっとふくらんでいき、あっという間にローセッタをそのなかにとりこみ、〈あの世〉の闇から、そのうすい気泡の膜で、へだててしまった。
ローセッタは目をとじて、夢みた。壮大な、うつくしい白木の宮を。その宮には広大な中庭があり、まんなかにこんこんと湧く泉がある……。
目をひらくと、その泉がほんとうに目のまえにあった。ローセッタはほほえんで、そっと種を泉のなかに落とした。手から種がはなれたとたん、ローセッタはひどいつかれを感じた。立っているのさえつらくなり、泉のかたわらにごろりと横になった。
このままねむってしまおう……そう思ったとき、影が顔におちた。重いまぶたをあけると、ひとりの若者が自分をみおろしていた。若いころの自分とうりふたつの顔をした若者だった。
[#ここから3字下げ]
――ローセッタ、ありがとう。〈花〉の種は、無事に芽吹きましたよ。
今度は〈花〉が、あの世の闇にかわって、あなたの魂をまっさらにし、新たな人生へとおくりだす番です。これから赤ん坊として人の世にうまれ、新しい人生を歩むその人は、やがて、この〈花〉が種をみのらせたとき、種をまもりはぐくんでくれる|宿主《やどぬし》となるでしょう。〈花〉のなかであなたはねむり、あなたのなかで〈花〉がねむる。|永久《えいきゅう》にめぐる時の輪の、つぎの回転をはじめましょう。
さあ、最後の息で歌をうたってください。わたしとむすばれてあなたの魂をうみなおし、人の世へ送りだしてくれる〈母〉の魂をさそうために。
[#ここで字下げ終わり]
(歌か。)
ローセッタは、しわだらけの顔をゆがめて、ほほえんだ。歌は、いつも彼とともにあった。
(ああ、うたおう。最後の歌を。)
ローセッタは、そっと口をひらき、最後の息にのせて、歌をおくりだした。
〈花〉の世界がふるえ、湖の外にふるえがつたわっていく。その歌は、人の魂をふるわせる風になって、ゆるやかに吹いていく。その風にさそわれて、いくつかの魂が湖のそばに集まってきた。ねむって夢をみている人びとの魂だ。この湖の近くの村や町でねむっている人のなかで、死にゆく者の、かなしくも、うつくしい歌声にひかれた魂たちが集まってきたのだった。
ローセッタのかたわらにすわっていた若者が、すっと顔をひとつの魂へむけた。
[#ここから3字下げ]
――あの娘をむかえいれましょう。ぼろぼろにきずつき、死にひかれているのに、あんなにうつくしく輝いている。……ああ、なんとはげしく、つよく輝いているのだろう! そのうえ、この夜に、この湖へやってきてねむっているとは。
あの娘こそ、〈花〉のつぎの宿主の、魂の母となるにふさわしい力をもった娘ですよ。
[#ここで字下げ終わり]
ローセッタはこたえなかった。彼の姿は、もうほとんどみえないほどにうすれていた。若者は立ちあがり、みそめた娘をむかえるために、うす青い闇のなかをのぼっていった。
この夜、山々にかこまれた湖の岸辺でねむっていた、ひとりの貧しくみにくい娘が、うつくしい夢をみた。娘は、その夢のなかで白木の宮に住む若者と恋におち、息子をうみおとした。
娘は、夢からさめると、それまでの人生をすてた。
やがて、時が流れ、娘は世に名をとどろかす大呪術師となった。
そして、芽吹きの夜から五十二年の歳月をへて、〈花〉が、満開の時をむかえた……。
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第一章 〈花〉の夢
1 〈|木霊《こだま》の想い人〉
バルサは夢をみていた。
日がすっかり暮れおちた草原に立っている夢だった。|星明《ほしあかり》さえないので、あたりは塗りこめたような、まっ暗闇だ。ただ、さわさわと草がゆれて、膝をさすっている。
なぜ、こんなに、ものがなしいのだろう……。風が草をゆらし、草が心をゆらしていく。高い、高い、笛のような音が足もとからはいあがり、髪をすくいあげていく……。
だれかの手が髪にふれた感触で、バルサは、いっきに目ざめた。
だが、目ざめていることに気づかれぬよう、目はあけず、ねむっていた姿勢のままで、だれが自分にふれたのか、あたりの気配を全身でさぐった。
バルサは、武人である。たとえ寝こんでいたとしても、人が、髪にふれるほどちかづくまで気づかぬはずがない。とくにいまは|野宿《のじゅく》をしているのだ。夢をみるほど寝こんでいても、神経の一部は、たえず目をさました状態だったはずだ。
カサコソと、野ネズミが下草をふみわけて、バルサのすぐわきをかけぬけていった。人の手が髪にふれた感触で目ざめたのに、あたりには、まったく人の気配はなかった。どれほど気配を消す|術《じゅつ》にすぐれた者でも、髪にふれるほど近くにいて、バルサが気配を感じとれないはずがない。
(夢のなごりだったんだろうか。それとも、|物《もの》の|怪《け》でもうろついているのかな……。)
バルサは、ゆっくりと身体の力をぬき、そっと目をあけた。露をふくんだ土のにおいがして、夜明けのうす青い闇のなかに、木立がぼんやりとみえていた。
ふいに、沢のほうから、複数の人間がかけてくる音がきこえてきた。必死でかける足音と、それを追う怒声が、夜明けの静けさのなかにそうぞうしく乱入してきたのだ。
バルサは身体にまきつけて寝ていた油紙を音をさせぬよう気をつけてぬぎ、そっと身を起こして、つかいなれた短槍をにぎった。木々をすかして沢をみおろすと、下流のほうから、すべる岩の上を、おぼつかない足どりで必死に逃げてくる男の姿が、ぼんやりとみえた。
そのうしろを三人の男が追っている。|熊皮《くまがわ》をまとっているが狩人ではない。刀をせおっている狩人など、この新ヨゴ|皇国《おうこく》にはいない。むしろ、|隊商《たいしょう》にやとわれた傭兵のようにみえた。弓をもっている男もいたが、それをつかう気配がないところをみると、逃げている男を殺す気はないらしい。生け捕りにせねばならない理由があるのだろう。
それだけみてとると、バルサは、顔をしかめた。逃げているのがひとりで追っているのが三人だからといって、追っているほうが悪者とはかぎらない。殺そうとしているのでないとすれば、事情を知らない自分がよけいな手だしをする必要はなかろう。……とはいえ、逃げている男の必死さをみると、ほうっておくのも気がひける。バルサは、心のなかで舌うちをした。
と、ふしぎなことがおきた。岩のコケにすべらぬように逃げるのに必死で、あたりをみる余裕などないはずの男が、ふっと顔をあげ、まるでそこにいるのを知っているかのように、まっすぐにバルサをみあげたのだ。
目があった瞬間、バルサは思わずあとずさってしまった。
(ばかな。)
夜明けの、うす暗い木立の陰にいる自分に、あの男はなぜ気づいたのだろう?
男の顔は、うす闇にまぎれて、ほとんどみえない。ただ、すがりつくように自分をみあげていることだけは、わかった。
その一瞬で心が決まった。バルサは、くいっとあごをしゃくった。――とたん、男は向きをかえ、必死にバルサのほうへのぼりはじめた。
「おい! 藪のなかに逃げこむ気だぞ!」
追手のひとりがさけんだ。それをきいて、バルサは眉間にしわをよせた。こんなところで耳にするとは思わなかった言葉だったからだ。
(サンガル語だ。サンガルの者が、なんで、こんな北の山奥に……?)
サンガル王国は、はるか南の王国だ。馬で旅してもいちばん近い国境まで十日はかかる。
さけんだ男は沢歩きになれているとみえて、ほかのふたりをひきはなし、逃げている男にぐんぐんせまってくる。逃げている男が、あらく息を吐きながら草をつかみ、木の根をつかんで、身体をもちあげかけたとき、その|追手《おって》が、とうとう男に追いついた。
「このクソ野郎! てまを、かけさせやがって……。」
ひげづらの追手は手をのばして、男の衣をつかもうとした。
帯をつかんだ……と思った瞬間、その手に小石が当たり、横にはじかれた。うめいて、右手を左手でにぎりしめ、顔をあげた追手は、こおりついたように動きをとめた。
槍のとぎすまされた白い穂先が、自分の鼻先にピタリとつきつけられていたのだ。
槍をにぎっている人影をそろそろとみあげて、追手はあぜんとした。槍をかまえているのが、三十をひとつ、ふたつすぎたような中年の女だったからだ。あぶらっけのない黒髪をむぞうさに背でたばね、うすよごれた|旅衣《たびごろも》をまとっている。おちつきはらった女の目をみて、追手は、この女がこういう修羅場になれているのをさとった。
「……なるほどね。近くで顔をみせてくれたんで、事情がすこしわかったよ。」
女がつぶやいた。
「その背の刀からすると、あんた、ガルシンバ〈奴隷狩人〉だね。」
追手の顔に、驚きの色がうかんだ。
「きさま、なんでそれを……。」
そうつぶやいたとたん、追手の眉間の一点から血がもりあがり、みるみるあふれて目に流れこんだ。わめいて、追手は両手で顔をおおった。やられた追手自身さえ、なにがおきたのかわからぬほどの速さで、バルサの槍の穂先が眉間をごくあさく切りさいたのだ。
流れこんだ血で目をつぶされて、追手は、よろよろと足場をさがした。バルサは追手のわきをすりぬけざま、左のこぶしでみずおちに当て身を入れた。がくん、と膝を折って、追手はうつぶせにたおれて気絶した。
「おい、どうした……。」
ようやく追いついてきたふたりの追手は、|木立《こだち》のあいだからかけおりてきた人影をみて、はっと立ちどまった。人影が短槍をもっているのに気づいて、あわてて|柄《つか》に手をかけ、せおった刀をひきぬいた。走っていたので息があがっているが、刀をかまえた姿にはすきがなかった。
追手たちは、逃亡者が山に逃げこむまえにつかまえようとあせっていたが、うかつにうごけずにいた。目のまえの女の|槍構《やりがま》えもまた、ひどく実戦慣れしたすきのないものだったからだ。
もうひとつ、彼らは、とまどってもいたのだ。ここは、新ヨゴ|皇国《おうこく》の北にひろがる|青霧《あおぎり》山脈のなかだ。だが、この女はどうみてもヨゴ人でも先住民のヤクーでもない。がっちりとした骨格と顔つきは、|青霧《あおぎり》山脈のむこう、北方のカンバル人のものだった。
「……きさま、何者だ。」
男のひとりが、たどたどしいカンバル語で話しかけてきた。バルサは、ふっとほほえんだ。
「むりに、カンバル語なんぞをつかうことはないよ、ガルシンバ。」
サンガル語でこたえられて、男たちの目が大きくみひらかれた。
「……なにか、かんちがいをしているようだ。われらは、サンガルの隊商を護衛している傭兵だ。あの男は、商品をぬすんだ盗人で……。」
そのとき、追手の言葉にかぶせるように、若い男の声がきこえてきた。
「うそだ。わたしはなにもぬすんでいない!」
追手たちの視線がバルサの背後をみた。彼らの表情に、余裕がもどったのをみて、バルサは、舌うちをした。
(ばかなやつ。とっくに逃げたと思ったのに……。)
「かったるい|猿芝居《さるしばい》は、やめようや。」
バルサは槍を、くいっとふった。
「刀の|柄《つか》の玉を右にかたむけてつけてる意味を、わたしは知ってるんだよ。サンガルで、どんなきたない仕事をしようが知ったことじゃたいが、このヨゴでは、人狩りはさせないよ。〈青い手〉は、そこまであまくない。」
追手たちの顔が、みるみる、けわしくなった。
「なるほど、てめえ〈青い手〉か。じゃあ、生かしちゃおけねえな。」
〈青い手〉とは、ヨゴの人身売買の組織である。バルサは、もちろん、そんな組織の者ではなかったが、読みどおり、うまく誤解してくれたようだ。
男たちが、じりじりと間をつめはじめた。彼らが手にしているのは、肉厚のそり身の刀で、ふりおろしたとき、もっとも威力を発揮する。もともとは騎馬戦用の刀だ。刀身は、さほど長くなく、攻撃の間合もみじかい。バルサの槍は彼女の肩までの|丈《たけ》の|短槍《たんそう》だったが、それでも、攻撃の間合は刀とはくらべものにならぬくらい、長かった。
追手たちは、なかなかおそってこなかった。バルサの攻撃をまって、槍をかいくぐり、|懐《ふところ》にとびこむのをねらっているのだ。あるいは、バルサがひとりを攻撃した瞬間に、もうひとりが懐にもぐりこむという手も考えているのだろう。
男たちがバルサの|出方《でかた》をまつあいだに、バルサは、彼らの立っている足場をみ、男たちのあいだの距離をはかっていた。バルサの頭のなかには、男たちがとるだろう、さまざまな動きが、あざやかにうかびあがっていた。やがて、それらのざわめきが、潮がひくように、すうっとひいていき、白熱した静けさが心に満ちた……。
バルサが、歩きだした。まるで、友人にむかって歩いていくような、じつに、ふつうの歩き方だった。予想外の出方に、男たちは一瞬とまどったが、ちらりと、たがいの目をみると、左側の男が、短槍がとどかぬ距離をおいて、さっとバルサのうしろにまわりこんだ。
彼は、バルサが仲間を攻撃した一瞬をねらって、背後から刀を投げつけるつもりだった。肉厚の重い刀だ。どこに当たっても致命傷を負わせられるはずだった。
だが、バルサは、背後の男のことなど、まったく気にかけるようすもなく、むぞうさに正面の男の間合にふみこんだ。
バルサが攻撃したとき、背後の男はもちろん、攻撃された正面の男でさえ、なにがおきたのか、まったくわからなかった。ただ、ふいに自分の右膝に熱い痛みを感じただけだった。一瞬ののち、膝の|筋《すじ》を切られた激痛に、うめき声をあげて男が川原にひっくりかえったときには、バルサの身体は、さっとわきにとんで、反転しおえていた。
刀を投げそびれた男は、あわてて刀をかまえなおしてバルサにむかいあった。男は、しびれるような恐怖を感じていた。バルサの槍がいつうごいたのか、まったくみえなかったのだ。
バルサがちかづきはじめると、男は、思わず一歩さがった。それで、短槍の間合からは、はずれたはずだった。だから、膝に火箸を刺しこまれたような痛みを感じたとき、男は、あぜんとして膝をみおろし、それから、バルサをみあげた。男は悲鳴もあげられず、川原に、すとんと腰をおとした。男は、まるで目にみえない長い槍に刺されたような気がしていた。
男は戦意を喪失していたが、バルサは刀がとどかない距離をおいて男のわきをとおりすぎた。
「なんで、右手の男の右にでて攻撃しなかったんです?」
のんきな声がきこえてきた。顔をあげると、あの逃げていた若者が歩いてくるのがみえた。二十歳をすこしすぎたくらいの、ツルのようにやせこけた背の高い若者だ。ヤクーとヨゴ人の混血児らしい平凡な顔だちだったが、うすい茶色の目がひどく印象的だった。
「片側にでて、一度にひとりずつ相手にすれば……。」
バルサは、足早に若者にちかづくと、その肘をつかんで、くるりと方向転換させた。
「あんた、ばかか。のんびり話しているひまがあったら、すこしでも遠くへ逃げるんだよ。」
「でも、追手は三人だけですよ。みんな、のびてるじゃないですか。」
「最初のひとりは、当て身をくわせただけだ。もうすこししたら、気がつくだろ。」
「え、殺したんじゃないんですか!」
バルサはじろっと、男の顔をみあげた。
「なんでわたしが、見ず知らずのあんたのために、人を殺さなくちゃならないんだ。……やつらが手加減できるくらいの腕で、ほっとしてるよ。」
バルサは若者をせかして、野宿していたところまでもどると、手ばやく荷物をまとめた。それから、いったん山道を沢までくだり、そこから岩の上をしばらくもどって|足跡《あしあと》をたどられないようにしてから、ごくかすかな|獣道《けものみち》をたどって、山奥へとはいっていった。
昼をすこしすぎたころ、バルサたちが足をとめたのは、岩のあいだからしみだした水が、小さな泉をつくっている草地だった。
山のなかとはいえ、初夏の日ざしが大気をあたため、彼らはびっしょりと汗をかいていた。冷たく甘い|湧水《わきみず》で思うぞんぶんのどをうるおし、顔をあらうと、生きかえったような心地がした。
バルサは、木の根もとに足をなげだしてすわっている若者を、しげしげとながめた。なんとも、ちぐはぐなかっこうをした若者だった。ヨゴの平民がきる灰色の衣――それも、だいぶ、くたびれた衣をまとっているくせに、しめている帯は、みるからに高価な|錦織《にしきおり》だ。肩からななめがけにしている袋にしても、つかいこんではいるが、かなり高価な品だとわかる。
女のように、きゃしゃで長い首と手足。顔だちはじつに平凡だが、おどろくほど澄んだうす茶色の目が、ひどく目立つ。
(旅芸人――それも、歌い手ってところか。)
町や村を旅してまわる歌い手なら、その歌に酔いしれた金持ちの商人の奥方などから、高価な帯や袋をおくられることもあるだろうし、それを目立つように身につけて、自分が人を酔わせるだけの技をもっていることをしめすのも、流浪の歌い手らしいやり方だった。だが、それにしては、旅芸人がもつ、世慣れたしたたかさが感じられなかった。
「……どうも、よくわからない。」
バルサは、ゆっくり首をふった。
「うつくしい娘だったら、わかるんだけどね。いったいガルシンバは、なんで、あんたみたいな男をねらったんだろう。」
若者は、首をかしげた。
「あの、さっきもいってましたが、ガルシンバってなんですか?」
「え……、あんた、自分がだれにさらわれたのか、知らなかったのかい?」
あきれ顔でいってから、バルサは思いなおしたようにつぶやいた。
「いや、そうか。案外そういうものかもね。売りとばされるまで、自分がだれにさらわれたか、なんて、知らない人のほうが多いだろうね。」
「はあ。あの、宿屋で酔いつぶれたところまではおぼえているんですが、つぎに気がついたときには|葛籠《つづら》に入れられてて、びっくりして……。まいりましたよ、ひどくのどがかわいてるのに、さるぐつわをはめられてて、わめくこともできなくて。でも、とちゅうで葛籠からだされて、なんだか、ひどくいやな味のする水を飲まされたんです。眠り薬だったんでしょう。――ただ、運がいいことに、」
若者は、にこっとわらった。
「わたしは、|他人《たにん》さまより、ずっと薬がききにくい|身体《からだ》をしてるんですよ。それで、こまることが多いんですが、今回はたすかりました。夜明けすこしまえに目がさめたんです。で、薬がきいていると思ってゆだんしていた、やつらのすきをついて、逃げだしたってわけです。」
バルサは、肩をすくめた。
「そいつは、あんた、ほんとうに運がよかったんだよ。ガルシンバってのはね、サンガル人の奴隷狩人なんだ。うつくしい娘なんかを専門にさらって、金持ちの商人やら貴族やらに売るのさ。酒に薬をまぜてねむらせて、ねむらせたまま葛籠に入れてはこぶんだそうだ。ふつうの|隊商《たいしょう》をよそおって、目的地までつれていくわけさ。
きたない商売のうえに、とくに|他国《たこく》で人狩りをしてるのがばれたらたいへんな目にあうからね、たいがいは、ああやって商人役と傭兵役に化けている。仕事は五人一組ぐらいでやるらしいが、けっこう大きな組織で、たがいに顔を知らないやつも多いから、仕事のじゃまをされたり、おなじ獲物をうばいあわないように、さらった獲物をはこぶあいだは、仕事中だっていう合図に、刀の|柄《つか》の玉をわざとかたむけてつけるんだとさ。……さっきの連中のようにね。」
若者は、ぽかんと口をあげてきいていた。
「すごい。なんでそんなことまで知っているんですか。」
バルサは、ふっと、いたずら心をおこした。
「そりゃ、|商売敵《しょうばいがたき》のことだからね。……あんたは、オオカミの牙からのがれて、クマの爪の下にはいっちまったようなもんさ。」
若者が、苦笑した。
「あなたは、〈青い手〉なんかじゃ、ないでしょ。」
「ずいぶん自信ありげだが、かんたんに人を信じるから、さらわれるはめになったんだろ。」
若者は、だまってほほえんでいた。バルサは、そんな若者の表情としぐさがかもしだす気配に、また、なんだかわからぬ違和感を感じた。
「まあ、いいや。……|朝飯《あさめし》ぬきのうえに、朝っぱらから立ちまわりをさせられて、腹がへって死にそうだよ。うまく連中をまけたようだし、ここで昼飯を食おうや。」
バルサは、袋のなかから、シカの干し肉と、日もちがするよう焼きかためた甘い焼き菓子をとりだした。半分割ってわたすと、若者はうれしそうに、おしいただいて、食べはじめた。香ばしい木の実のかおりがする焼き菓子をほおばりながら、若者はつぶやいた。
「これは、ジョコムでしょ。」
バルサは、眉をあげた。
「へえ、よく知ってるじゃないか。そうだよ。ジョコムだ。半月以上日もちがするうえに、腹もちもいい重宝な菓子さ。」
「まえに一度、カンバルから出稼ぎにきていた人たちから、わけてもらったことがあるんです。……あなたは、カンバル人なんですね?」
「うまれはね。」
あっ、と若者は、頭をかいた。
「すみません。まだ、たすけていただいたお礼もいっていませんでしたね。名前も。」
バルサは、ほほえんだ。
「そのようだね。」
「あらためて、命をたすけてくださって、ほんとうにありがとうございました。わたしは、ユグノといいます。」
若者は、大地にふせて額を地につけるヨゴ人の最敬礼をした。
「わたしはバルサ。渡り者の用心棒だ。〈青い手〉とは、なんのかかわりもないから安心おし。」
ユグノは、くったくのない顔でわらった。
「なるほど、用心棒かぁ! なぞかけみたいで、おもしろいな。カンバル人なのに、ヨゴ語もサンガル語も話せて、女の人なのにめっぽう強い短槍の使い手。さて、その正体は? ってね。」
「あんたは、根っからの芸人らしいね。でも、本職は、歌い手かい?」
苦笑をうかべてバルサがいうと、ユグノは、目をまるくした。
「え、はい。……すごいな、よくわかりますね。」
「商売がら、いろいろな人にあうからね。でも、なんでガルシンバが歌い手に興味をもったのかが、まだわからないんだが。サンガルにだっていい歌い手はたくさんいるだろうに。」
ユグノは立ちあがって泉のはたまでいくと、かがみこんで両手に水をすくった。思うさまのどをうるおしてから、バルサをふりかえった。
「……天からいい声をさずかった者は、この世にたくさんいるでしょう。でも、わたしのような運命をさずかった者は、そう多くはないはずです。」
若者の口調にこめられたなにかが、バルサのうなじを冷たくなでた。
「あなたには、命をすくっていただいた。だから、商売用ではない、わたしのほんとうの歌を、おきかせしましょう。」
バルサは、あわてて、手をあげた。
「ちょっとまった。ここで歌をうたうのは、まずいよ。」
ユグノは目をほそめ、なにかの声をきいているようなしぐさをした。
「……だいじょうぶですよ。歌声がきこえる範囲には、だれもいないそうです。」
ユグノの目に微笑がうかんだ。
「それにね、たぶん、あなたは、〈山のなかの水辺で歌をうたうと呪われる〉という、言い伝えを知っていて心配しているのでしょうけど、それは心配ないことが、歌をきけばわかっていただけるでしょう。」
ユグノは、身体の力をぬいた自然体で立ち、目をとじた。静かに、息をととのえはじめる。
と……、きみょうなことに、|渦《うず》がすうっと消えていくように、あたりの物音が、ごく小さく、小さく、消えていき、やがて、自分の息の音さえもきこえない静けさがおとずれた。
ユグノの口から、息の音がもれはじめた。それは、草のあいだをわたる風のような、静かな響きだった。やがて、それが、やわらかい旋律をかなではじめた。
とたん、バルサは、肌に――腹に――身体全体に、ふしぎな振動を感じはじめた。
ユグノの声は、風よりもかるく、さざ波よりも繊細に、大気をゆらした。そして、あたりの木々のあいだ、草のあいだから、いくつもの声が――ほそく高い、低くふとい、なんともいえぬふくざつな旋律をもった声が、ひびきはじめた。
糸が織りあわされるように、声と声とがひびきあい、響きが響きを織り……バルサは全身が波にゆすられ、泡だっていくような――意識さえも泡だっていくような、たまらない感覚にとらわれていた。
身体と心をかたちづくっているものの、ひとつひとつが、歌声に共鳴して、ふるえている。
わきあがるよろこびが、渦をまいて天にのぼり……消えていった。
音が消えたあとも、バルサはうごけずにいた。目もみえず、耳もきこえなかった。
ようやく、あたりがみえるようになり、森の物音がもどってきたとき、バルサは、あたりのすべてが、ふだんよりはるかに鮮明に、うつくしくみえるのにおどろいた。まるで、はげしい雷雨のあと、さっと空が晴れあがったときのように、森の緑があざやかに輝き、森の精気が、すうっと鼻の奥から頭の芯にまで吸いこまれてくるような気がした。
そうなってはじめて、胸がぎゅっとしめつけられるような感情がこみあげてきて、目から涙があふれでた。――あの歌をきいていたあいだは、感情さえも消えさっていたのだった。バルサは両手で顔をおおい、じっとしていたが、やがて顔をあげ、若者をみつめた。
「なんてこった。あんた、リー・トゥ・ルエン〈|木霊《こだま》の想い人〉なんだね。そうだろう? ほんとうにいるなんて、いまのいままで思っていなかったけれど……。」
ユグノは、バルサのそばにすわった。
「ええ。うまれたときは、ごくふつうの農民の子で……。ただ、うたうのが好きで好きで。はたらいているときも、祭のときも、好きな娘を口説くときも、歌はわたしの味方でした。歌はわたしを……なんというか、人気者にしてくれたんです。
でも、両親は不安に思っていたようでした。親っていうのは、子どものことに関しては勘がはたらくもんなんでしょう。母は、いつもいっていました。――山のなか、とくに泉のそばや、沼のそばではぜったいうたってはいけないよ。むかしからいうだろう? 水辺には歌好きなリー〈木霊〉たちがいて、声のいい子がうたっていると、それにひかれてあらわれて、とりつくのだそうだよ。リーの歌は、人に、とてつもなく長い命をあたえるのだそうだ。だけど、一度リーにみそめられたら、二度と、ふつうの人としては生きられないのだそうだよ……と。」
ユグノは苦笑した。
「親の言葉は、あとになってしみじみ、その正しさがわかるものですね。でも、あの十三のころ、わたしは、リーたちがわたしの歌にひかれるかためしてみたくてしかたがなかった。リーたちにみそめられるほど、非凡な歌い手なんだってことを証明したかったんですよ。
リーたちは、おそろしいほどにすばらしいよろこびをわたしにくれました。……でも、そのかわりに、それまでのすべてを――あのころのままだったら得られただろう、わたしの未来をもうばっていきました。」
ユグノは、ちらっとバルサをみた。
「わたしは、いくつにみえますか。」
「そう……二十ぐらいだと思っていた。」
ユグノは、さびしい笑みをうかべた。
「わたしは、今年の〈|蝉《せみ》鳴き月〉で、五十二になります。」
「え……!」
「リーとうたうことは、ほんとうに、長い長い命をあたえてくれるんですよ。……いま、あの歌をきいたあなたも、すこし寿命が、のびたはずです。」
身体も魂もふるえ、わきたつようなあの感覚を思いだし、バルサは、ゆっくりと首をふった。
「……あんた、よほど気をつけないと。そのことを人に知られたらおしまいだよ。ガルシンバがねらって当然だ。あんたは、不老不死の|仙薬《せんやく》のようなものだ。どんな高価な値をつけても、あんたを得たいという人は、星の数ほどいるだろうよ。」
「ええ。それは、わかっています。これまで、ずいぶん気をつけて生きてきたんです。もちろん、故郷の村ではくらせませんでした。三十をすぎても十五歳くらいにしかみえない男なんて、目立ちすぎますからね。ひとところに長くとどまることもできません。だから、旅の歌い手として、人前では商売用にふつうの歌をうたって生きてきました。……でも、たった一度だけ、大きなまちがいをしてしまったんです。そのつけが、今度の騒ぎなんですよ。
去年の秋に、ある宿屋で、サンガル人の|反物《たんもの》商人にであいました。この人は女性なんですが、たいへんな目利きでね、糸を買いつけるときには自分の目でみないと納得できないってことで、ヨゴへきていたんです。とてもうつくしい女性でね。一目で恋におちてしまったんです。どうしようもなかった。ああいうときは正気じゃなくなっちまうもんですね。わたしは……自分がただの、しがない旅芸人じゃないってことをみせたくなってしまったんですよ。」
ユグノは、苦笑いをくちびるにうかべた。
「家族以外で、あれをきかせたのは彼女がはじめてでした。彼女は、とても心をうごかされたようすで、わたしの手をにぎっていったんです。つぎの初夏に、また買いつけにヨゴへくるから、日を決めておいて、おなじ宿屋であおうと。|一昨日《いっさくじつ》がその約束の日だったんですが、宿屋でまっていたら、彼女の使いだという男がきて、おいしい酒をごちそうしてくれて……。」
ユグノは、それきりだまって、ぼんやりと下をみていた。
「……なにか、わけがあったのかもしれないじゃないか。商売に失敗して、どうしても大金がいるようになったんで、泣く泣くあんたを売ることにしたとか。」
ユグノは目をあげて、かすかな笑みをうかべた。
「ひでえな。……でもそうですね。そう思いたいもんです。」
「リーは、いまも、近くにいるのかい?」
「ええ。あそこと、あそこに、たたずんでいます。」
ユグノは、ホオの木の陰と、泉のはしの|藪《やぶ》をゆびさした。バルサは目をこらしてみつめたが、それらしいものは、まったくみえなかった。
「姿はみえませんよ。ただ、わたしにはリーたちと絆があるもんで、いつも彼らを感じているだけです。わたしには、彼らの声もきこえるんです。」
「でも、気配もないよ。……気配を読むのには自信があるんだけどね。」
「木や草の気配と、まったくおなじだからでしょう。」
バルサは、ふっと今朝のできごとを思いだした。髪にふれ、自分をおこしたもの……。
「そうか。あれは、リーが、あんたをたすけてほしくて……。」
つぶやいて、バルサはユグノをみあげた。
「リーってのは、夢をみせることもできるのかい?」
「さあ。たぶん、できるんじゃないかな。いままで考えてみたこともなかったけれど。」
そういってから、なにを思ったのか、ユグノの顔に明るい笑みがうかんだ。
「でも、ね、人にすてきな夢をみせることなら、わたしにもできるのかもしれない。」
「……どういうことだい?」
バルサがききかえすと、ユグノは赤くなって、にやにやしながら手をふった。
「いや、まあ、その……いいですよ。わすれてください。」
「そういわれると、ますますききたくなるじゃないか。」
しかし、ユグノは、わらって、
「まあ、歌語りをする者なら、だれもがそんな力をもっているってことですよ。」
と、はぐらかしてしまった。
秘密をかかえていることが、うれしくてしょうがない子どものようなユグノの顔をみているうちに、バルサは、ふっと、名案を思いついた。
「ユグノさん。ガルシンバは、けっこうしつこいから、髪やひげがのびて人相がかわるまでは、人里からはなれたところにかくれてたほうがいい。……それでね、いい隠れ家を知っているんだが、そこへいかないかい?」
ユグノは、ちょっと眉をよせた。
「ええ、そりゃ、ねがったりかなったりですけれど。あなたの隠れ家なんですか?」
「いや、おさななじみの家なんだが、子どものころしばらくくらしてたんで、自分の家みたいなもんなんだ。正直にいうとね、そこの主に、あんたをあわせてやりたいんだよ。タンダっていう見習いの呪術師で、あんたにあえたら大よろこびするにちがいないんでね。」
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2 ねむりつづける人びと
タンダは、よこたわっている姪の脈をとっていた。うしろにたたずんでいる|長兄《ちょうけい》の家族が、不安げな、すがりつくような目でみつめているのを背中に感じながら。
ねむっている姪のカヤの顔は、十四歳という年より、ずっとおさなくみえた。シルヤという|蔓草《つるくさ》を織ってつくる粗末な寝具にくるまって、ぐっすりねむっている。顔色はあまりよくないが、呼吸はおだやかだったし、脈もややおそいが、とくに異状はなかった。
「……この状態が、朝からずっとつづいているって?」
身体をねじってタンダがたずねると、ノシルがうなずいた。ノシルは、タンダの長兄で、ねむっている娘の父親だ。
「ああ。ゆすっても、たたいても、なにをしてもおきないんだ。」
「頭をつよく打ったとか、そういうことも、なかったんだね?」
タンダは、不安そうに自分をみあげている甥っ子たちや、兄嫁にも目をやったが、みんなはっきりと首をふった。
「昨日の夜までは、いつもどおりだったんだ。おまえもよく知っているだろう。こいつは働き者で、夜明けからおきだして、くるくるよくはたらく娘だからな……。」
タンダは、カヤに目をもどした。手首をとって、かなり強くゆすってみたが、カヤは、おだやかな寝息をたてて、ねむりつづけている。
印象的なのが、カヤの寝顔だった。かすかに笑みをうかべ、とてもしあわせそうにみえるのだ。タンダは、両手をこすりあわせながら呼吸をととのえはじめた。呪文をつぶやくことで、意識の焦点をしぼりこんでいく。右手で脈をとりながら、左手をカヤの額にのせ、しばらく、じっと目をつぶっていた。
吐息をついて目をあけたタンダに、うしろから兄がささやいた。
「……どうだ。やっぱり、だれかに呪われてるのか?」
いや、そんなことはない――と、否定しようとしたタンダは、兄の目にうかんでいる表情に気づいた。兄は、すっと立ちあがると、ついてきてくれ、というしぐさをした。
兄は、部屋の隅にタンダをつれていくと、子どもたちにきこえないように、ささやき声で話しかけた。
「なるべく小声でこたえてくれ。……カヤは、呪われてるのか?」
「いや、そんな気配はない。呪いの心配はないと思うよ。」
「じゃ、なんなんだ? はやり|病《やまい》かなにかか?」
「いや、すくなくとも身体の病ではないと思う。」
兄の目がするどくなった。
「じゃあ、なんだ。」
タンダは、まるでにらみつけるように自分をみている兄に、こたえた。
「正直にいって、おれには、カヤがなぜ目ざめないのか、わからないんだ。病ではないようだし、呪いがかけられている気配もない。それだけは、わかるんだが……。」
兄は鼻を鳴らした。
「呪いじゃないかどうか、ほんとうに、おまえにわかるんだろうな。」
さげすんだ口調でそういってから、兄は、はっと表情をあらためた。この一見たよりない、変わり者の弟が、去年、皇太子をたすけて、この国を大干ばつからすくった英雄であることを思いだしたからだ。兄は、あわてていいなおした。
「……いや、わるかった。おまえが、そのくらいのことをまちがえるはずがないな。悪気じゃないんだ。つい……な。」
タンダは、おだやかにこたえた。
「とにかく、呪いじゃないことだけは、たしかだよ。けど兄さんのいうとおり、おれは、呪術師としてはまだ未熟だ。ちょうどいま、トロガイ師が帰ってきてるから、相談してみるよ。そうすれば、もっとたしかなことがわかるだろう。」
兄は、しばらく顔をしかめてだまっていたが、やがて、タンダに視線をもどした。
「それはありがたいが、原因がわかっても、カヤの病は呪いだってことにしといてくれ。」
タンダは兄をみつめた。兄はタンダの視線にいらだったように、おしころした声でいった。
「おまえも知ってるだろう! カヤは、この秋の収穫が終わったら、嫁入りが決まってる。みょうな病だと思われるよりは、だれかが呪いをかけてることにしたほうが、傷がつかん。」
タンダは、かすかに首をふった。
「それはわかるけど、だれかが呪っているっていう噂がたてば、カヤとなかがわるい娘とか、まったく無実の者が疑いをかけられて、迷惑するかもしれない。おれは賛成しないね。」
兄は、冷たい目でタンダをみた。
「おまえの姪だぞ、カヤは! おまえはな、村の者じゃない。山のなかで、魂だの化け物だのとつきあって生きているから、わからんだろうがな、いったん、みょうな噂でもたってみろ。その娘にゃ、一生、その噂がついてまわるんだ。だれかが迷惑するだ? それが心配なら、こないだ村にきた旅芸人のせいにでもするさ。」
そこまで、いっきにささやいてから、兄は、ふっと肩をおとした。
「タンダ。おまえ、いくつになった。おれが三十八だから、おまえも、そろそろ二十九か? ほんとうなら、おまえにも、かわいい娘がいるころだろうに。山のなかで、女っけもなく、呪術師やら、渡り者の女用心棒やらとつきあってるからなんだろうなぁ、いくら、えらい呪術師さまだといっても、おれにはおまえが、まだ十四、五にしか思えんよ……。」
タンダは、さびしい笑みをくちびるにうかべた。実直な農民で人望のあつい兄とのあいだには、ふかい溝がある。それは、言葉でいかに説明してもこえることのできない溝だった。
兄はため息をつくと、タンダの肩に手をおいた。
「まあ、おまえは、いわば英雄だし、ずいぶん人に信頼されてるしな。こうして、おれたち親族もいる。あやしげな、渡り者の呪術師ってわけじゃない。たよりになる弟だとは思っているんだ。きついことをいってわるかったが、とにかく、カヤのことをたのむぞ。」
タンダは、うなずいた。
カヤの枕もとにもどると、タンダは、兄嫁のナカにいった。
「|義姉《ねえ》さん、一日に三度は、なんとか水を飲ませてみてください。のどをつまらせないよう、身体を起こしてやって、うまく飲ませてやってください。もし水が飲めるようなら、蜜をとかしたぬるま湯をあたえてください。それから、なるべく身体を清潔にたもってやってください。」
ずんぐりとしたナカは、ひとつひとつ、うなずきながらきいていた。田植えが終わったばかりのいそがしい時期だが、親族たちが手をかして、なんとかするだろう。
兄の家をでて山道を歩きながら、タンダは考えこんでいた。ふだんのタンダを知る者が、そのけわしい表情をみたら、びっくりするだろう。童顔のこの男は、じつにおだやかな性格で、いつも、のんびりとした表情をうかべているからだ。その人がらゆえに、このあたりの村人たちは、彼をしたい、また薬草師としてたよりにもしていた。
だが、兄が言葉のはしばしににじませていたとおり、薬草師や呪術師は、まっとうな村人ではなかった。農民ではないので、税を納めることはなかったが、かわりに、|飢饉《ききん》のときでも、農民をすくうために配給される食料をもらうこともなかった。村のなかに住むこともなく、村の祭にくわわることもなく、村人と結婚することもない。――霊と語り、魂を飛ばして、あの世や、異世界を旅する者として、おそれられてもいたのだ。
タンダがくらしているのは、|青霧《あおぎり》山脈のふもとに近い山のなかだ。〈新ヨゴ|皇国《おうこく》〉の都、|光扇京《こうせんきょう》から、歩いて一ダン(約一時間)ほどの山のなかの|庵《いおり》に、ふだんはひとりでくらしていた。
〈新ヨゴ|皇国《おうこく》〉は建国二百年ほどの国で、ヨゴ人の祖先は、故国〈ヨゴ|皇国《おうこく》〉をきらい、はるか海をわたって、この緑豊かなナヨロ半島にうつってきた人びとだった。
ヨゴ人がやってくる以前、この半島には、ヤクーという人びとがくらしていた。ヤクーは、ヨゴ人とはまったくちがう、黒い肌と黒い瞳をもつ人びとで、小さな畑をたがやし、獣を狩り、木の実や草の根を集めて日々をすごしていたのである。
ヨゴ人がやってきて二百年、皇族や貴族はもちろん、都にくらす商人たちも、いまだにヨゴ人として純血をたもっていたが、ヨゴ人の農民の多くはヤクーと結婚をくりかえし、いまでは、褐色の肌の農民たちが、この国の農業をささえていた。
タンダも、ヤクーとヨゴ人両方の血をひいている。黒に近い褐色の肌、茶色のみじかく刈りこんだ髪の下に、やわらかい光をたたえた黒い瞳。低い鼻に愛敬がある、なんとも人のよさそうな顔をした男だった。その顔が、いまは、けわしくひきしまっている。
タンダの家は、山のなかの小さな草地にたっている。たった一間に、水場があるだけの小さな家で、もともとは彼の呪術の師匠のものだったのだが、その師匠は、ときどきふらっといなくなる癖があるので、いつの間にやら、タンダがゆずりうけたかっこうになっていた。
引き戸をあげると、ぷうんと、あたためた酒のにおいがただよってきた。部屋のまんなかの囲炉裏ばたで、老婆が|土鍋《どなべ》の中身をかきまわしている。
「すごいにおいだな。師匠、いったい、なにをつくってるんです?」
老婆が顔をあげた。しわだらけの黒い肌に、ぼうぼうの|白髪《はくはつ》。うすく切れ目を入れたような目と、ぐっとひろがった鼻。一目みたらわすれられないほどみにくい老婆だったが、その目には、年寄りとは思えぬ強い精気がある。このみにくい老婆こそ、タンダの師匠で、当代でもっとも力のある呪術師だと噂されているトロガイだった。
「酒で鳥を煮とる。」
ぶっきらぼうな口調でいってから、トロガイは、ふっと顔をしかめた。
「なんだ? なにを、むずかしい顔をしとる。」
タンダは|炉端《ろばた》にすわると、今日みたててきた姪の状態を、くわしく説明した。
「不安がらせるだけだと思って、兄にはいわなかったんですが、……あれは、たぶん〈魂抜け〉です。」
「〈|一体診《ひとつみ》〉をしてみたんだね?」
〈|一体診《ひとつみ》〉とは、右手で手首をにぎり、左手で額にふれる触診で、患者の魂とタンダ自身の魂を、つなげてみる呪術だった。
「ええ。〈|生命《いのち》〉はありましたが、カヤのなかには〈|魂《たましい》〉がいませんでした。」
人のなかには、ふだんは目にみえぬ糸でむすばれている〈生命〉と〈魂〉とがある。
〈生命〉は、人が死ぬと別の生き物の胎内にやどって新たな魂とむすびつき、永遠にこの世をめぐっていく。
〈魂〉は、さまざまなことを思い考える〈心〉で、夢をみるのもこの〈魂〉だ。
たいていの夢は、〈魂〉が、さまざまな記憶やら欲望やらをまぜこぜにしてうみだしているにすぎないが、ときに、〈魂〉は、身体をぬけだして異世界を旅することがある。そういうときにみた夢は、だから、別の世界でほんとうにおこったことなのだ。
人が死ぬと、生命とむすばれていた糸が切れた〈魂〉は、一度あの世へと吸いこまれ、前世のすべてをわすれてから、新たな〈魂〉になってこの世へうまれでてくる。
ところが、恨みなど、つよい想いを残して死んだときには、生命との糸を断たれた〈魂〉だけが、生前の記憶を抱いたまま、この世に留まりつづけてしまうことがある。これが、幽霊とよばれているものだ。
トロガイのような呪術師は、こういう〈魂〉をなだめて、あの世へ送ってやる術を知っているし、タンダも、師をてつだって、いく度か〈魂〉をあつかったことがある。だからこそ、さっき姪をみたとき、姪のなかに〈魂〉がいないことが、はっきりわかったのだった。
「さてさて……偶然の一致というわけはないな、これは。」
トロガイは、首のうしろをなでながら、つぶやいた。
「今朝、わしはシュガにあいにいっただろう?」
「ああ、はい。例の|星読博士《ほしよみはかせ》ですね。」
星読博士というのは、この国の宗教と学問をつかさどる〈|星ノ宮《ほしのみや》〉の博士のことだ。シュガというのは、そのなかでも天才と噂される出世頭の若者なのだが、みょうな縁でトロガイと知り合い、ひそかにトロガイと知識の交換をしているのだった。
「そう。そのシュガがもちかけてきた相談が、おまえの姪っ子の話とそっくりなんだよ。」
「え……ほかにも、だれかねむりつづけている人がいるんですか?」
「それがな、|一ノ妃《いちのきさき》が、もう二日もねむりつづけているのだそうだ。」
タンダは、へえっという顔をした。|一ノ妃《いちのきさき》とは、帝の長男――すなわち皇太子をうんだ妃のことである。だが|一ノ妃《いちのきさき》は、一年とすこし前、最愛の皇太子サグムを病でうしない、それ以来かなしみがいえずに〈山ノ離宮〉にこもっているといわれていた。
「二日も……。」
タンダが、つぶやいた。
「たしかに偶然だとは思えませんね。いったい、なにが原因なんだろう。」
「|一ノ妃《いちのきさき》のほうは、まるで原因がわからないってことだったが、おまえの姪っ子のほうはどうだい? 兄さんは、なにも心当たりはないってんだね?」
「兄はね。――ただ、おれには、思いあたるふしが、ひとつあるんです。」
トロガイが、片方の眉を、きゅっとあげた。
「おれは、カヤとなかがいいんですよ。そんなに、しょっちゅうあうわけじゃないけれど、ふたりだけで話せるときには、カヤは、よく、うちあけ話をしたんです。変わり者の叔父にしか、話せないようなことをね。」
タンダは、苦笑した。
「ちょっとまえ、歌語りにやってきた旅芸人がいましてね、じつに声のいい若者だったんだそうです。カヤは、はでな娘じゃない。むしろ、どちらかというと、おとなしい娘なんですがね、どうも、その若者に一目惚れしちまったらしいんですよ。
もちろん、あわい片想いで……。すぐに別の村へと旅だってしまった、その若者を追うわけでもなく、ただ、夢のような恋心を抱いてただけなんでしょう。」
タンダは、てれくさそうにあごをさすった。
「でも、先日、隣村の十八も年上の農夫に、嫁にいく話が決まって……。それから、なんともいえぬ、暗い気持ちがつづいてるっていってました。いろいろなことを考えて悩む年頃だし、その想いがなにかのきっかけになったんじゃないかと思うんです。」
そのとき、ふっとタンダは、あることを思いだした。
「それに、カヤの魂にふれようとしたとき、いいにおいがしたんです。花のかおりのような。
ほら、だれかに呪われたときは、呪いがけにつかったドルガの根のこげくさいにおいがするじゃないですか。カヤからは、そんなにおいはしなかったから、呪いじゃないと判断したんですよ。――それとも、おれが知らないだけで、花で呪いがけをする方法もあるんですか?」
トロガイは、こたえなかった。ぼんやりと炉の火をみつめている目は、どこかほかのときをみつめているようにみえた。
こうなってしまったら、こたえをせかしてもむだなことを、タンダはよく知っていた。老呪術師はそっとしておいて、タンダは|中腰《ちゅうごし》になって鍋をのぞき、なれた手つきで|灰汁《あく》をとりのぞきはじめた。汁を一口すすってみて、顔をしかめ、すこし水を足す。
タンダが足した青菜と芋が鳥の汁を吸って、いい具合に煮えはじめたころ、ようやくトロガイが身じろぎをした。タンダは椀に煮こみ|汁《じる》をすくってトロガイに手わたした。
トロガイは両手をあたためるように椀をもっていたが、やがて、がつがつと食べはじめた。そろそろ初夏とはいえ山の夜は冷える。酒入りの熱い煮こみ汁は腹の底から身体をあたためてくれた。
ラモンの葉を煮だしたお茶をすすりながら、トロガイが、ぽつりといった。
「……あの世界に、〈花の夜〉がおとずれたのかもしれん。」
「〈花の夜〉? あの世界って、ナユグのことですか?」
ヤクーたちは、いま目にみえている世界〈サグ〉だけではなく、ふだんは目にみえない世界〈ナユグ〉があることを知っていた。
ヨゴ人はそれを信じないが、トロガイもタンダも、呪術の力を借りて〈ナユグ〉の景色をながめることができたし、そこにすむものたちと語りあうことさえできた。
「タンダ。これは、おまえにも話したことのない話だ。……話したくなかったんだよ。これを話すには、くそおもしろくもない、わしの過去も話さねばならんのでな。」
いつもは、きつい口調で、ぽんぽん言葉を投げるように話すトロガイが、いまは、なにかをまよっているように、言葉をさがしながら話していた。
「サグとナユグのことは、おまえもよくわかってるだろ。この世とかさなりあっている、別の世界ナユグ。呪術の力をつかえば、わしらは目ざめたままでナユグをみることができる。
だが、ナユグは、底なしの沼のようなもんでね、ふかくなればなるほど奥は、はてしなくひろがっていく。へぼ呪術師はあさいところをのぞいただけで満足しちまう。……それで、いいのさ。へぼなやつにとっては、ふかいところは、命とりになるほどあぶない世界だからな。」
トロガイは、歯をむきだして、にやっとわらった。
「わしの師匠のノルガイは、ふかい、ふかいところまでいった人だ。わしもこの年になって、ようやくノルガイ師とおなじくらいのふかさは、知ったと思うよ。
タンダ、まえに教えたように、異世界はナユグだけではない。サグとナユグの関係のようにかさなりあって存在している世界もあれば、水中の|気泡《きほう》のようにちかづいたり、はなれたりしている世界もある……。」
トロガイは、ため息をついた。
「わしは、まだ呪術なんぞ知りもしないころに、ふしぎな世界にであってしまった。――息子をなくして、すぐのころだった。」
タンダは、あぜんとしてトロガイの顔をみた。
「師匠の、息子ですか? 師匠、子どもをうんだことがおありだったんですか!」
トロガイは、苦虫をかみつぶしたような顔でタンダをにらんだ。
「おまえ、わしをなんだと思ってる。わしにも若い娘時代はあったんだぞ!」
「あ、はあ。それは、もちろん、そうでしょうね。」
「子どもは、三人うんだ。息子ふたりに、娘ひとりだ。だが、わしの故郷の村は、ここよりずっと土地のやせた貧しい村で……、三人とも、四つの年をむかえずに死んでしまったよ。」
トロガイは、はじめて、タンダに自分分の過去を語りはじめた。――それは、なんともかなしい、そして、とてもふしぎな物語だった。
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3 〈花番〉
「……いまは、もうそんな村はあまり残っていないが、わしがうまれたのは、ヤクーだけがくらす小さな村だった。村人全員が親戚縁者でね、ヤクーの掟ではわずかでも血がつながった者とは結婚できないから、すこし川下のヨゴ人の村との縁組が多かった。
想像がつくだろうが、わしは、うまれたときから、ちょっとおかしな娘でね。」
トロガイは、タンダをみて、にやっとわらった。
「夜明けにおきて、一日じゅうはたらいて、ねむる。嫁にいって、子をなして、年おいて死ぬ。だれもが、それをあたりまえに思い、それ以外の一生など思ってもみない村で、わしは、いつも、なにかちがう、もっと別の暮らしがあるはずだ……という思いを抱いて生きていた。
祭のときにやってくる旅芸人が語る歌語りに胸をときめかせ、遠い異国を夢みていた。
だが、生きるのにやっとの暮らしのなかで、そういう夢は、胸の奥底にねむる|埋《うず》み火のようなものでね。十四になると、それまで顔をみたこともなかった|川下《かわしも》の村の農夫の嫁になったのさ。」
トロガイの目に、きつい光がやどった。
「いやな男だったよ。よくはたらく男だったが、それだけだった。女房に、やさしくしようという気もなく、子どもがうまれても、たいしてかわいがりもしなかった。
このあたりの村より、ずっと貧しくてね。女はたいてい十人ぐらいの子どもをうむんだが、そのうち生きのこるのは四人ぐらいなもんだった。
わしも十五でひとりめをうんで、つぎつぎに三人うんだ。でもね、みんな、ほんとうにあっけなく死んでしまったよ。夫は、たいしてかなしみもしなかった。そういうもんさ、という顔をしてたよ。また、いくらでも子はできると思っていたんだろう。
だが、わしは、そんなふうには思えなかった。子どもを亡くしてしばらくは、その子の笑い声がきこえるような気がしたり、足もとにまとわりつく気配を感じたりしたもんだ。
そのころから、わしは少しずつおかしくなっていたんだろうよ。ほかの女たちがのりこえていったかなしみを、わしはこえられなかった。むかしから心に抱いていた、埋み火のようなあの思いが、ちらちら光る大きな炎にそだっていたのかもしれない。
最後の子どもを|亡《な》くしてから、わしは、山によばれるようになってしまったのさ。」
タンダは、小さくうなずいた。子を亡くした女が、ふいに姿を消してしまうことがある。そして、半月もたったころ、ぼろぼろの衣をまとって山のなかをさまよっているところをみつかるのだ。そういうとき、村人たちは、「あの娘は山によばれたんだ」というのである。
「息ができないような気分になるんだよ、村にいるとね。山菜を摘みに山にはいったときだけ、すうっと心がやすまるんだ。そのうちになにをしていても、つい山のほうをみるようになり、気づくと山のなかに立っているということがあった。のぼってきたおぼえもないのにだよ。
あの日も、畑仕事をしているうちに、ひどく頭が痛くなって……、ふと気づくと、山のなかに立っていた。いつもなら、しばらく木立の陰にたたずんでから、夫に気づかれぬうちに山をくだるんだが、その日は、どうしても村に帰りたくなかった。
このまま、山の奥へ、奥へとはいっていったら、なにがあるんだろう。……奥へ、奥へ。いきだおれて死んでしまうなら、それでもいいと思ったよ。
ちょうど、いまくらいの季節でね、山のなかはむせかえるような若葉のにおいに満ちていた。その青い光のなかを、わしは、ひたすら歩きつづけた。木の根に足をとられ、藪に身体じゅうをひっかかれながら……。
夜明けに、わしは、山々にかこまれた広大な湖の岸辺へとまろびでた。夜明けまえの青い闇のなかに、その湖は、しん、とよこたわっていた。さざ波ひとつたっていない鏡のような暗い|湖面《こめん》に、ゆっくりと白いもやがすべっていく。
わしは、岸辺にしゃがみこみ、そのままねむってしまったんだと思う。
そして、ふしぎな夢をみた。……湖の岸辺にねむっている自分の夢なんだよ。岸辺の草むらによこたわっていると、なんともいえぬ、心地よい風が吹いてきて、|身体《からだ》をさすった。
わしは、死んだわが子によばれたような気がして、あわてて身を起こした。すると、湖面から湖の底にかけて、なにかがみえはじめたんだ。」
「……なにがみえたんです?」
「大きな|宮《みや》だった。――さかさまのな。まるで、宮がむこう岸にそびえていて、それが湖にうつっているように。ただし、むこう岸にはなにもなく、湖のなかにだけ宮がみえたのさ。
当時は宮なんぞみたこともなかったけれど、わしは旅芸人の歌語りがとても好きでね。とくに、太古のむかしにさかえた国の貴人たちが、いまも大きな宮のなかでたのしかったときの夢をみている話が好きだった。おさないころはねむるまえにお話をつくってはたのしんでいた。なかでもいちばん気にいっていたのが、その貴人たちのひとりと恋におちる話だったのさ。
風も雨もびゅうびゅう吹きこんでくるような、ひどく粗末な小屋のなかで――シルヤの|寝具《しんぐ》さえなく、土間で灰にくるまってねむりながら、そんな夢をみていたのさ。昼間のわしは、みにくい、貧しい娘だった。だが、夢のなかでは貴人たちのひとりになっていたんだよ……。嫁にいってからは、そんな夢さえ、わすれはてていた。
だけど、そのとき、湖の底にあらわれたのは、かつて夢みていたとおりの大きな宮だった。|白木《しらき》を組んでつくられたふくざつな屋根が、いまでも目に残っているよ。いくつも渡り廊下があって、巨大な門が、湖の底へむかってそびえたっていた。
その門から、人影があらわれて、こちらに歩いてきたんだよ。背の高い若者だった。みたこともない長い灰色の衣をまとって、ふかみのある緑色の帯をしめていた。いかにも夢のなからしく、その若者は、わしをみておどろくこともなく、寒いですね、と話しかけたんだ。
寒いですね、と、わしもこたえた。若者は岸辺の砂利の上で|焚《た》き火をおこした。火にあたりながら、わしらはたのしく話をしたんだ。……もう、なにを話したのか、ほとんどおぼえていないがね。ひとつ、ふたつ、わすれられない話があった。
若者は、自分は〈|花番《はなばん》〉なのだといった。人の夢を糧として咲く〈花〉の番人なのだと。
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――ローセッタという人が、今日、亡くなりました。彼は〈花〉の種のよい|宿主《やどぬし》でした。|歌語《うたがた》りをうたいながら多くの土地を旅し、多くの人びとの夢とふれあいながら生きた人でした。……だから、彼の魂はいつも夢に満ちていて、〈花〉の種にとっては、芽をはぐくむための滋養に富んだ、最高の宿主だったのです。
息絶える最期の瞬間に、彼は〈花の種が|芽吹《めぶ》く夢〉をみて……この世界がうまれました。〈花〉はこの世界そのもの。〈花〉の種が発芽すると、この世界がうまれ、〈花〉が散ると、この世界も消えてしまいます。
けれど、〈花〉が種を残せて、よい宿主の魂のなかで芽をはぐくむことができれば、その種が発芽したとき、こんなふうに、また新たに世界がうまれるのですよ。
わたしはね、種が発芽したときにうまれた〈花〉の番人なのです。〈花〉をそだて、〈花〉の種の次代の宿主になってくれる魂に、新しい生をあたえるのが、わたしの役目です。
[#ここで字下げ終わり]
若者が立ちあがり、わしに手をさしのべた。わしは、その手をとった。
身体がかるく、浮きあがるような感じで、なんとも心地よかった。若者にみちびかれ、わしは湖のさかさの宮へ、すべるようにおりていった。
青い青い湖だったよ。だが、水はなく、青い光があるだけだった。わしは、それを夜明けの青だと思った。日がのぼるまえの、あの夜明けの青だとね。
宮には、人の気配がまったくなかった。ただ、ひっそりと建物だけがたっていた。みあげると、はるか高みに白木組みの屋根があった。その屋根に、水の波紋のような光がおどっていたのをおぼえている。
わしらががおりたったのは、白い|土塀《どべい》にかこまれた広大な庭だった。名も知らぬ木々がおいしげり、庭というよりは山のなかのようだったよ。庭のまんなかあたりに、おそろしいほどに澄んだ泉があって、その泉の底の|白砂《しろすな》のなかから、小さな芽がはえていた。」
トロガイは、あぐらを組み、頬杖をついてタンダをみた。
「……そこで、いったいなにをしたか、自分がどれほどのあいだ、そこにいたのかさえ、ほとんどおぼえていない。おぼえているのは、とてもしあわせだったこと、〈花番〉の若者をひたすらに愛していたことだけだ。それまで一度も感じたことのないはげしさで、その若者を愛した。
そして、子をはらみ、子をうんだ。……男の子だったと思う。」
カシャリ、と、かるい音をたてて、炭が燃えくずれた。
「〈花番〉は、息子を腕のなかであやしながら、いった。
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――この子は、わたしとあなたのあいだにうまれた魂。この世界とあなたの世界の架け橋。あなたの世界にうまれでたのちも、この子は夜ごと夢のなかでここへおとずれて、生き生きとたのしいその夢で、〈花〉の成長をたすけてくれることでしょう。
そして、〈花〉が満開になったら、受粉してくれる〈夢〉をさそい、やがては、種を抱いて、あなたの世界を歩んでいく新しい宿主となるでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
ローセッタという人のように? というと、〈花番〉はうなずいた。
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――そう。この子の魂は、かつてローセッタとよばれていました。
でも、いまは、わたしたちの子ですよ。新しい人生を歩んでいく魂です。
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わしはふしぎだった。〈花番〉は、なぜ、わしのような、みにくい女をみそめたのだろう、と。そういうと、彼は、おどろいたような顔をした。
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――みにくい? とんでもない。あなたは、つよく、うつくしい。
きずつき、死にひかれて夢をみながら、こんなに輝いていられる……。
〈花番〉のわたしと、つよくうつくしい魂であるあなた。〈花〉の宿主の、魂の親となるのに、これほどふさわしい者がおりましょうか。」
[#ここで字下げ終わり]
炉の火が、トロガイの顔にふくざつな影をおどらせていた。
「そういって、〈花番〉は、〈花の夜〉の話をしてくれた。
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――あの庭の芽が、数十年後には大きくそだって、いくつものうつくしい|花房《はなぶさ》をつけ、満開になると、〈花の夜〉がやってきます。そのとき、受粉をするために、あなたの世界から〈夢〉たちがさそわれてくるでしょう。
受粉は最初におとずれた〈夢〉がしてくれますが、種がみのるためには、たくさんの〈夢〉たちに、花房にやどって夢みてもらわねばなりません。
そのかわり、〈花〉は、〈夢〉たちに、心地よい夢をみせてあげるのですよ。
やがて、種がみのると、風が吹きます。あなたの世界と、この世界のあいだをつなぎ、〈花〉を散らしていく風が……。
[#ここで字下げ終わり]
彼がそういったとたん、肌に、すうっと風がふれたような気がしたよ。
さそわれた〈夢〉たちはどうなるの? と、たずねると、〈花番〉は、わしの目をのぞきこんで、こたえたんだ。
[#ここから3字下げ]
――〈夢〉たちが帰りたいと望むなら、そのとき、風に乗って帰っていくでしょう……。」
[#ここで字下げ終わり]
トロガイが目をあげ、タンダをみつめた。
「〈花番〉は、それしかいわなかったけれど、彼の言葉の意味は痛いほどにわかった。
わしは……帰りたくなかった。たとえ、このまま死ぬのだとしても、あの村の生活へは、もどりたくなかった。――〈花〉の世界にまよいこんだあのとき、わしは、本当は〈死〉にさそわれていたのかもしれない。
よく、生き物にとってなによりつよい思いは、生きたい、という思いだというね。……だけど、なぜだろう。人は、ときに、たまらなく死にさそわれてしまうこともある。
あの〈花〉の世界は……|朝露《あさつゆ》にぬれて芽をのばしていくような、みずみずしい|生命《いのち》のにおいがしていたけれど、どこかで夜明けまえの静けさのような死のにおいもただよっていた。――生と死が、水面に浮かんだ泡の膜のように、うすい膜でへだてられて、となりあっているような、そんな感じだったんだよ。」
「……でも、生きたいと望みさえすれば、帰ってこられるわけですね?」
「たぶんね。」
タンダは、ほっとつめていた息をはいた。
「なら、きっと帰ってきます。カヤの場合は、師匠みたいに絶望してたわけじゃない。死にひかれるほどに絶望してた師匠でさえ帰ってこられたんだから、カヤは、きっとだいじょうぶですよね。」
トロガイはこたえなかった。
「師匠?」
「……ああ。カヤは、きっと、だいじょうぶだろうよ。だが、わしの場合は……。」
トロガイは、くちびるをゆがめ、苦い笑いをうかべた。
「〈花番〉はわしをつよいといった。あの夢から帰って生きていける強さをもっているとみこんだからこそ、彼はわしを宿主の母にえらんだのだろう。……けれど、いまでも思うことがあるんだよ。自分ひとりだったら、わしは帰ってこられただろうか、と。」
「え?」
「……あのとき、わしを、もとの世界へひっぱりだしてくれた人がいたんだよ。
〈花番〉の若者と語らっていたとき、ふいに、あわく光る鳥が飛びこんできた。
雪の朝のような、冷たい風を身にまとった鳥が、わしのそばに舞いおりると、すうっと人に姿をかえたのさ。背の高い、やせこけた中年の女にね。彼女は、ぐるっとあたりをみまわすと、ひょいっと眉をあげて、わしをみおろした。そして、
[#ここから3字下げ]
――ずいぶん、うつくしい夢をみてるんだねぇ。
[#ここで字下げ終わり]
と、いったのさ。
心地よい夢をみていたところに、急に水をかけられたようで、わしは腹をたてた。彼女は、わしの表情に気づくと、さっと手をあげた。
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――おやめ! 怒っちゃだめだよ。あんたが怒ると化け物がでてくるかもしれないからね。
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わしは、彼女がなにをいっているのか、さっぱりわからなかった。ただ、腹がたって、腹がたって……! それで、どなったのさ、ここからでていけってね。
わしは、こわかったんだよ。よけいな人がはいってきたせいで夢がこわれ、目がさめてしまうことが……。だから必死で彼女を追いだそうとした。そっとしておいて、この大事な夢をこわさないで、と。
それをみて、わしが、どれほどふかく夢にとらわれているかに気がついたんだろうね。
彼女は、かがみこんで、わしの肩に手をおいた。その目は、はっとするほどふかい光をたたえてた。……それまで、みたことがないほどうつくしい目だったよ。
彼女はわしの頬を両手でそっとつつんで、いったんだ。
[#ここから3字下げ]
――どうやら、おせっかいをしたほうがよさそうだね。
つらいだろうけど、はやく目をさましたほうがいい。ここは、あの世に近すぎるよ。このまま、ここにいたら、残してきている身体がよわって、いずれは死んでしまうよ。
[#ここで字下げ終わり]
わしは彼女の手からのがれようとした。帰りたくなかった。あんな人生にもどるより、愛する若者と〈花〉の夢のなかで死んでしまうほうが、はるかにしあわせに思えたから。
だが、彼女は、わしをしっかりつかまえて、はなさなかった。そして、一言、一言に心をこめて、いったんだ。
[#ここから3字下げ]
――あんたは、自分で思っているより、はるかにつよい。それが、わたしにはよくわかる。死ぬ気なら……ほんとうにすべてをすてる気なら、別の人生を生きられるだろうよ。この夢のなかのようにほんわりとしあわせじゃあないが、思いがけぬよろこびもある人生をね。この世には、あんたの知らないことが、まだまだたくさんあるんだから!」
[#ここで字下げ終わり]
トロガイは、ふっとわらった。
「わしは、冷たい風に、さっと顔をぬぐわれたような気がしたよ。身体の奥に、うずくような力を感じた。……まだ死にたくないという思いが、ふいにわきあがってきたんだ。
ふりかえると、〈花番〉の若者が、さびしげなほほえみをうかべていた。
[#ここから3字下げ]
――あなたが帰るときがきたようですね。
さあ、わたしたちの息子の魂を抱いて、つれていってください。そうすれば、この子は、あなたの世界で、だれかの子としてうまれでられますから。
[#ここで字下げ終わり]
息子をわたされたとき、わしは、たまらなくかなしかったよ。〈花番〉にとって、わしは、この子の魂をうんで、人の世へ送りだすためだけに必要だったのか、と思ってね。
すると、〈花番〉は、そっとわしの髪をなでた。
[#ここから3字下げ]
――トムカ、そんな顔をしないでください。わたしとあなたの絆は切れることはありません。いつか、かならず、もう一度あえますよ……。」
[#ここで字下げ終わり]
トロガイは、長いため息をついた。
「目がさめたとき、わしは岸辺の草のなかによこたわっていた。夜は明けていたけれど、日は、まだ昇りはじめたばかりだった。わしは、あわてて立ちあがり、焚き火のあとをさがしたけれど、もちろん、そんなものはどこにもなかった。
な、わかるだろう。……わしは、それが夢だったのだと知っていた。けれど、ふつうの夢じゃなかったことも感じていたのさ。だから、|葦原《あしはら》のなかから背の高い中年の女があらわれて、わしにほほえみかけたときも、おどろかなかった。
その人は、わしの胸をすっとゆびさした。そのとたん、鋭い痛みがはしって、胸からホタル火のような光が舞いあがり、ひゅっと空を舞ったかと思うと、山のむこうへ消えてしまった。
――いまの光がみえたかい?
わしは、うずくようなさびしさを胸にかかえて、うなずいた。
すると彼女は、満足そうにいったのさ。
[#ここから3字下げ]
――やっぱり、あんたには素質がある。いい呪術師になる素質がね。
[#ここで字下げ終わり]
あの光は……息子の魂なんですか? と、たずねると、彼女はうなずいた。
[#ここから3字下げ]
――そうだろうね。あれは魂の光だから。……正直いって、わたしも、こんなことは、はじめてみたから、確かなことはいえないけれどね。
はじめてといえば、あの夢もふしぎな夢だったね。あんたの魂を迫っていけたんだから、あれは、ナユグのどこかなのだろうけど、みょうな具合に、あんたの夢とあの世界とが影響しあってたようだねぇ……。
それに、でるのがむずかしい世界だったよ。まるで、|渦巻《うずまき》の底みたいでさ。へたすりゃ、わたしもとらわれてしまってたかもしれない。あの雰囲気から察すると、ちょうど、あんたを帰す時期がきていたようだから、うまく帰ってこられたけどね……。」
[#ここで字下げ終わり]
トロガイは、苦笑をうかべた。
「彼女がいっていることは、当時のわしには、さっぱりわからなかった。それに息子の魂がどうなってしまうのか、そのほうが気にかかってね。わしは彼女をゆさぶって、息子の魂になにをしたの? どこへやってしまったの! と、どなったんだよ。
彼女は、両手をあげて、なだめるようにいった。
[#ここから3字下げ]
――わたしはなにもしてないよ。ただ、あんたが胸に抱いてた魂をゆびさしただけさ。
あの魂は自分で舞いあがったんだよ。いまごろは、どこか山むこうに住んでいる女の腹にはいってるだろうよ。
[#ここで字下げ終わり]
わしは、自分がうんだ魂が、ほかの女の子どもになるときいて、びっくりするやら、腹がたつやら……! 彼女は、怒りくるっているわしの肩に手をおいて、いったものさ。
[#ここから3字下げ]
――そんなに怒らないでおくれ。あんたの魂だって、あんたの母さんがつくったわけじゃないんだから。死んだだれかの魂が、あの世へいって過去のすべてをわすれてから、あんたのお母さんの腹にやどってうまれてきたんだから。それが、この世のならいなんだよ。でも、まあ、あんたの魂の息子は、常人とはちがう運命をたどりそうだね。
[#ここで字下げ終わり]
それから、彼女は、はっとするほどやさしい目で、わしをみていったんだ。
[#ここから3字下げ]
――この世の魂は、ふしぎな糸でつながってる。あんたの魂の息子も、いつか、あんたとであう日がくるかもしれないよ。その日をたのしみにしておいで……。
[#ここで字下げ終わり]
とね。」
トロガイはタンダをみて、かすかにほほえんだ。
「彼女が、大呪術師ノルガイさ。わしの呪術の師匠だよ。
あの夜、彼女は山で野宿をしていて、真夜中に明りももたずに、鬼気せまる顔をして歩いていくわしに気づいて、そっとあとを追ってきたのだそうだ。
わしがねむってすぐに、彼女は、わしがさそわれたのとおなじ、あの風を感じたのだそうだ。ほかにも、いくつもの魂が、湖の上に集まってくるのを彼女はみたといっていた。彼女も魂になって、その風の世界へいこうとした。
湖のなかにさかさまの宮がみえて、ああ、あれが風の吹いてきた世界だな、と思ったけれど、みえてはいるのに、どうしても、その宮へはいきつけなかったそうだ。
やがて、湖のはたにいるわしのもとに、ふしぎな光をたたえた若者がやってくるのを、彼女はみた。そして、わしの魂がその若者とともに宮へ消えていくのも。
さそわれてきたほかの魂たちは、若者とわしが白木の宮へ消えると、あきらめて帰っていったそうだが、呪術師である彼女は、わしがどうなるのかが気になった。
異世界へはいるのは、とても危険なことだ。彼女はずいぶんまよっていたのだそうだけれど、日が昇りはじめたころ心を決めて、わしの身体と魂をむすんでいる糸をたどって、あの〈花〉の世界へとびこんでいったのさ。……夢をみていたわしには、子をなすほど長い時に思えたけれど、こちらですぎていたのは、夜明けから日が昇るまでだったわけだ。
朝の光のもとでは、それもまた、夢のような話にきこえたよ。だけど、わしは、なんだか、うまれかわったような気がしていた。夫のいるあの村へは、それから一度ももどっていない。
わしはトムカというもとの名をすてて、ノルガイについて山を越え、やがて、彼女から呪術を学んで、呪術師トロガイになった。……もう、五十年以上もむかしの話だよ。」
タンダは、トロガイをみた。
「〈花の夜〉か。……その〈花〉がそだって、受粉の時期をむかえたんでしょうか。」
トロガイは、耳のうしろをぽりぽりとかいた。
「さてねぇ。――ただ、あんたが姪っ子をみたとき、花のかおりがしたといっただろう? それで思いだしたんだよ、この夢をね。」
タンダは、ふっと吐息をついた。
「とにかく、なんにせよ、カヤをおこすためには、〈|魂呼《たましいよ》ばい〉をするべきでしょうね。」
心がけのわるい呪術師のなかには、金で呪いがけをうけおう者もいる。そういう呪術師のかけた術で〈心の魂〉をぬかれた人をたすけるために、トロガイもタンダも、〈魂呼ばい〉という術をおこなうことがあった。これは、自分の魂を飛ばして、他人の魂を追っていく術なのだが、とても危険な術だった。
トロガイは、じろっと|愛弟子《まなでし》をにらんだ。
「……そいつは、口でいうほどかんたんじゃないよ。あの〈花〉の世界は、師匠のノルガイにとってさえ未知の世界だったんだ。師匠は、はいるのはやさしく、でるのはむずかしい世界だといってた。渦巻の底のような、ね。
それに、わし自身が体験したことを、ほかの人びとも体験しているのだとすれば、〈花〉のなかにねむっている〈魂〉たちは、ほんとうに求めていた夢をみているんだよ。
わかるかい? あのねむりは、あらがえないほどに心地よい夢で人をとらえてしまうんだ。あそこでねむっている魂たちは帰ってこられないんじゃない。|帰ってきたくないんだよ。《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
いま〈花の夜〉とやらがおとずれているのなら、その世界は絶頂期――もっとも力がつよいときだよ。そのなかに魂ひとつでしのびこんで、心地よい夢をみている魂をつれだすってのは、ひどく危険なことだ。とりこまれて、二度ともどれなくなってしまうかもしれない。それが、わかっていってるんだろうね。」
タンダは、うなずいた。
「……カヤが自然に目ざめてくれるのをまったほうがいいかもしれないけれど、でも、わが身かわいさで手をこまねいているうちに、カヤを死なせてしまうことにでもなったら、たまりません。あと数日のうちには、やってみようと思います。」
トロガイは鼻をならした。
「おまえは、どこか、バルサとにているな。やらねばならんと思うと、自分のことは二の|次《つぎ》になっちまう。……だが、」
トロガイの目に、きつい光がやどった。
「バルサとおまえには、決定的にちがうところがあるんだよ。気づいてるかい? あいつは、ひどくさびしいやつで、いつも自分の人生を、いまいるところまでだと思ってる。さきを夢みていないから、命を賭ける瞬間の思いきりがちがう。
でも、おまえはそうじゃない。おまえはさきを夢みてる。このさきの人生をたのしみにしているだろう? おまえが命を賭けるのは、こうせねばならぬからという信念のためだ。」
「だから、本当の正念場がきたとき、思いきれない……と?」
「いいや。」
トロガイは、わらった。
「きっと、おまえは自分の信念のために死ぬだろうよ。おまえは、そういうばかだ。
だけど、いやじゃないか、え? 死ぬ瞬間に、このさきにあったかもしれない未来を思いうかべるような死にざまは、さ。――おまえに、そういう死に方をしてほしくないだけさ。」
タンダは鼻にしわをよせて、苦笑した。
「やめてくださいよ。縁起でもない。」
カタン、と音をたてて茶碗を床におくと、トロガイは、すわったままで手をのばして、囲炉裏ばたであたためてあった寝具をひきよせた。
「とにかく、明日、その姪っ子のようすをみにいってやるよ。〈魂呼ばい〉をするかどうかは、それから決めようや。」
トロガイがタンダに夢の話をしていたころ、バルサとユグノは、山のなかで野宿していた。風のつよい晩だったが、旅なれているふたりは、風よけになる岩陰をみつけて焚き火をし、話に花をさかせていた。
ユグノは、旅芸人だけに、たくさんの歌物語を知っていて、じつにたのしい道連れだった。夜は声が遠くまでとどくので、小さな声でささやくようにうたうのだが、それが、かえって物語に、よい雰囲気をあたえていた。むかしむかしにほろびた国の伝説を、ユグノがうたいおえると、バルサは感心したようにうなった。
「そういう話はだれから教わるんだい? やっぱり、師匠かなにかがいるのかい?」
ユグノは、|竹筒《たけづつ》から水を飲んでのどをうるおすと、くちびるをぐいっとぬぐった。
「そう、師匠がいる場合もありますね。でも、わたしの場合は、旅のあいだにであう芸人たちと、知っている歌物語を交換するんですよ。国境のほうまで旅をすれば、ヨゴ人だけじゃなく、それこそカンバル人やサンガル人の歌い手にも、であえますしね。
バルサさんもだけれど、わたしらも三つぐらいの言葉は、まあ、なんとかわかりますし。」
「なるほどねぇ。そういえば、わたしも、ずいぶんいろんな旅芸人にであったけれど、たしかに、みんな、三つぐらいの言葉はあやつってるね。」
ユグノは、枝に刺してあぶっていた、木の実のはいった小さな餅をほおばった。そして、手を膝でぬぐうと、すこしのびはじめたぶしょうひげのあたりをかいた。
「そんなふうにして、歌物語を語りあってるとね、おもしろいことがありますよ。遠くはなれた国々なのに、よくにた伝説があったりしてね。」
ユグノは夜空をみあげた。天空の風が雲を走らせ、ほそい月をかくしたり光らせたりしている。
「ときどき思いますよ。ほら、|綿毛《わたげ》を飛ばす花があるじゃないですか。ああいう綿毛みたいに、物語も、ふわふわと空を飛んで、いろんな土地で花を咲かしてるんじゃないかってね。」
バルサが、かすかに、ほほえんだ。
「さしずめ、あんたは綿毛をのせてはこぶ風ってわけだね。」
「そんなところですね。」
ユグノは陽気にわらった。そして、ふっと思いついたように、バルサをみた。
「わたしはね、いろんな土地に花を咲かせてるだけじゃなく、身分もこえて花を咲かせてるんですよ。〈歌語りのユグノ〉っていえば、けっこう有名なんですから。
つい、七日ほどまえには、なんとなんと、|一ノ妃《いちのきさき》さまを歌でおなぐさめしたほどで。」
バルサは、おどろいて、ユグノをまじまじとみた。
「へえ! この国の皇族は、下じもの者とは、ぜったいにふれあわないと思ってたよ。」
「わたしら流浪の歌い手や踊り手は別です。わたしらは、身分の外にあるんですよ。わたしら旅の歌い手の歌は、〈|幸招《さちまね》き〉っていってね、幸運をもたらす力があるんですよ。」
「ああ、なるほど。だから、新年や祭のときによばれるんだね。」
「そう。ここだけの話ですけどね、|一ノ妃《いちのきさき》さまは、皇太子殿下を病で亡くされてから、もう一年ちかく〈山ノ離宮〉にこもられてるのだそうです。それで、|一ノ妃《いちのきさき》さまをおなぐさめする宴がもよおされましてね、なにかお気をまぎらわせる歌語りをとまねかれたんですよ。
いや、その宴のはなやかだったこと! 新しい皇太子さまをはじめとして、聖導師さまや貴族の方がたが、せいぞろいでね。あれほど身分の高い方がたのまえでうたうのは、きっと生涯最初で最後でしょうねぇ。」
新しい皇太子、ときいたとたん、バルサの胸が、ずきんと痛んだ。ふしぎな縁でであい、またわかれなくてはならなかった少年の面影が心にうかんできたからだ。
その少年――チャグムは、当時は第二|皇子《おうじ》だったが精霊の卵をやどしてしまったために、父である帝に追われ、バルサやタンダとともに半年以上ものあいだ逃亡生活をおくったのだった。
さまざまな事件をへて、去年の夏、チャグムは宮へと帰っていった。|一ノ妃《いちのきさき》の息子の皇太子サグムが亡くなったために、|二ノ妃《にのきさき》の息子であるチャグムが、やがて帝になる運命をせおう皇太子になってしまったからだった。
(サグム皇太子が死ななかったら、あの子はいまも、わたしのところにいただろうか……。)
いまでもときどき、そんな思いが頭をよぎって、つらくなる。
ユグノは、バルサのようすに気づかずに、ひとりでしゃべりつづけていた。
「もちろん、〈山ノ離宮〉でうたったといっても、わたしは中庭に立ってうたい、|一ノ妃《いちのきさき》さまは、ずっと奥の間の|御簾《みす》のむこうにおられたわけで、影さえみえませんでしたけどね。」
くすくすわらって、ユグノは、ひょいっとバルサの顔をのぞきこんだ。
「ね、そのときうたった歌を、うたってあげましょうか?」
バルサは、物思いからさめて、うなずいた。ユグノはうれしそうにうたいはじめた。
それは恋の歌だった。やわらかく明るい響きの歌なのに、なぜかバルサはその調べのなかに、きみょうにものがなしい、せつない響きを感じて、きいているのがつらくなってきた。
目の裏にチャグムの顔が……わかれたときのかなしげな顔がうかび、胸がぎゅっと痛んだ。
もし、自分があの子の本当の母だったら。そういう運命にうまれていたなら、もっと豊かな――しあわせな人生を生きていただろうに……。
ねがっても、どうしようもないそんな思いが、歌の響きにのって胸のなかをかけめぐった。
ようやく歌がおわったとき、バルサは、大きく息をすって、必死にその歌の余韻を心から消そうとしている自分に気づいた。――胸にぽっかりとうつろな穴があいているような、たまらないこのむなしさを、いっこくも早く消しさりたかった。
バルサは、汗ばんだ手で顔をぬぐい、ユグノをじっとみつめた。ユグノは、その視線に気づいて、眉をあげた。
「どうしました? 気にいりませんでしたか?」
「いや、……なんでなんだろうね。とてもうつくしい歌なんだけど、いまの歌は……。」
バルサは、言葉をさがして、しばらく考えこんでいた。
「なんていうのか、……なくしてしまったものを、ひどく恋しく思わせる歌だね。もう、ぜったいに手にはいらないものを恋いこがれるような、せつなさを感じたよ。――息子を亡くした妃にうたってきかせるには、ちょっと|酷《こく》な歌じゃないかな。」
ユグノは、おどろいたようにききかえした。
「……酷?」
「うん。この歌は、|一ノ妃《いちのきさき》に、息子を思いださせたんじゃないかな。……けど、思いだしたからといって、死んだ息子が帰ってくるわけじゃない。恋しいのに、けっしてもどってこない時を思わせるのは、酷だろう。」
ユグノは、まるで鳥のようにひょいっと首をかしげた。
「そうかな。たとえ|一時《いっとき》でも、幸福だったときのことをもう一度味わえるなら、そのほうがしあわせだと思うけどな。――実際、この春は、あちこちでこの歌をうたいましたけど、みんな泣くほど、のってくれてたし……きっと、いまごろ、この歌をきけて感謝してると思いますよ。」
そういって、にこっとわらった、底ぬけに明るいユグノの顔をみて、バルサは、それ以上、異をとなえる気持ちをなくした。
「そうかい。それなら、いい歌なんだろう。わたしは風流なことには、うといから、肌にあわなかっただけだろ。」
ユグノは、いかにも芸人らしく、気をそがれたそぶりもみせずに、それじゃお口直しに、と明るい歌をうたってくれた。が、バルサの胸の奥からは、あの歌のせつない響きが、なかなか消えていかなかった。
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4 出口のない部屋
一ノ妃が、きみょうな病にかかっているという噂は、ひそやかに、しかし、すばやく〈扇ノ上〉じゅうにひろがっていった。
新ヨゴ|皇国《おうこく》の都、|光扇京《こうせんきょう》は、青弓川と鳥鳴川にはさまれた扇状地にひろがっている。扇にたとえれば要の部分、つまりもっとも北に帝のおわす宮殿があり、その南西に一ノ妃から|三ノ妃《さんのきさき》までがくらす一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮がある。四つの宮は、正式には〈ヨゴノ|宮《みや》〉というが、人びとは〈|扇ノ上《おうぎのかみ》〉という名でよびならわしていた。
この〈|扇ノ上《おうぎのかみ》〉と、その南の貴族たちが住む〈|扇ノ中《おうぎのなか》〉に、はさまれるようなかたちで、この国の宗教と学問の中心地〈星ノ宮〉がある。そして、もっとも|下手《しもて》──南にひろがる〈扇ノ下〉は、庶民のくらす町であった。
帝の長男――すなわち皇太子をうんだ妃をこの国では一ノ妃とよぶ。だが、一ノ妃は、一年とすこしまえ、最愛の息子サグム皇太子を病でうしない、それ以来かなしみがいえずに、〈山ノ離宮〉にこもっていた。その一ノ妃がもう七日間もねむりつづけているというのである。
この国では、皇族の目をまのあたりにみたら、それだけで、目がつぶれるといわれている。皇族は神の子孫であり、その目には|神力《じんりき》がやどっている。そういう力は意識せずとも水が低きに流れるように流れてしまうので、うける力のない者がふれれば、きずついてしまうと信じられていた。それだけに、皇族が病にかかったということは、おそろしい知らせとなる。それは、この国をまもる神の力がよわまっているしるしにほかならないからだ。
だが、いま、二ノ宮のおくまった部屋で、学問にいそしんでいる少年にとっては、それはたいくつな日々に|風穴《かざあな》をあける〈事件〉でもあった。
この少年――十三歳の、皇太子チャグムは、父である帝から、きつい眉と鼻筋を、母である|二ノ妃《にのきさき》からは、よくうごく黒い瞳をうけついでいた。
一ノ妃の息子――腹ちがいの兄であるサグム皇太子が亡くなったために、彼は皇太子となった。だが、それはチャグムにとっては、けっして幸運ではなかった。この鋭敏な少年には、やがて帝にならねばならぬ皇太子という立場は、呪いとしか思えなかったからだ。
彼のまえに置かれている大きな机の上には、この国の地図と、ごくうすい布にえがかれた|星図《せいず》とがかさねて置かれていた。昼さがりの光が、大きくひらかれた窓からさしこんでいる。この部屋は宮の三階にあり、窓の下にはふかくひろい堀があるので、窓の外からきこえるのは、鳥の声と木々がそよぐ音くらいだった。
その静けさのなかに、チャグムと教育係の若い|星読博士《ほしよみはかせ》がおこなっている問答の声だけが、ひびいていた。
「〈|天道《てんどう》〉は千年もむかし、わが祖先が大陸においてきずいた〈古ヨルサ王国〉の時代から、つづいてきたという。だが、千年もの時をへても、まったくかわることがなかったのか?」
チャグムの問いに、星読博士の、静かだがよくとおる声がこたえた。
「われらヨゴ人の〈|天ノ神《てんのかみ》〉が、この世をうごかす、そのありかたが〈天道〉であるという信仰は、この千年間まったくかわっておりません。つまり根底はかわっていないのです。
ただし、いかに〈天道〉を読むか、という技術は、進歩しつづけましたから、当然、知識もつみかさなってきたわけです。
たとえば、われらの|祖《そ》を大陸の〈ヨゴ|皇国《おうこく》〉から、この緑なすうつくしいナヨロ半島にみちびき、〈新ヨゴ|皇国《おうこく》〉をおこす大きな力となった、大聖導師カイナン・ナナイは、『星読博士』の制度を創設しました。それまで、〈天道〉をまつりつかさどる神官は、四|家族《かぞく》の血筋の者のみが代々うけついでいましたが、ナナイは、国じゅうから身分を問わずかしこい少年を集め、〈|星ノ試《ほしのため》し〉をおこなって適性をみ、これをそだてることで、新しい風を〈天道〉に吹きこみました。
『見習い』『博士』という段階をへて、知に|秀《ひい》で心が正しければ、たとえ平民の子でも最高位の『聖導師』になれるという制度をつくりあげたのもナナイです。……彼があらわれなかったら、貧しい|漁夫《ぎょふ》の息子だったわたしは、いまごろ舟の|櫓《ろ》をこいでいたことでしょう。」
若い星読博士は、ほほえんだ。
「そなたはナナイの再来とささやかれるほどの天才だし、|胆力《たんりょく》もある。そなたのような者に国をうごかす機会をあたえたナナイは、本当の|傑物《けつぶつ》だな。」
チャグムはそういってから、暗い口調でつけくわえた。
「ナナイの志をみならって、帝も、血筋ではなく、国じゅうの者のなかから、|政《まつりごと》の才に秀でた者をえらべばよいのに。」
星読博士の顔が、さっとくもった。
「殿下。」
「案ずるな、シュガ。おまえ相手だから本音をはいているのだ。」
シュガとよばれた星読博士は、声をひくめるように、というしぐさをした。
シュガには、皇太子の気持ちが痛いほどよくわかっていた。この少年は、おそらく千年以上つづく皇族の歴史のなかで、もっともふしぎな体験をしてしまった皇太子なのである。
一年半まえ、まだ第二|皇子《おうじ》にすぎなかったチャグムは、この世界〈サグ〉にかさなっている異世界ナユグの水の精霊〈ニュンガ・ロ・イム〉の卵を体内にうみつけられてしまった。神の血をひく者であるはずの|皇子《おうじ》が、|土着《どちゃく》の精霊の卵をやどしてしまったと知った帝は、実の父であるにもかかわらず、チャグムを暗殺しようとしたのである。
チャグムは、暗殺されかけたときに偶然たすけてくれた女用心棒バルサと、そのおさななじみの薬草師タンダ、そして呪術師のトロガイにたすけられ、その苦難をきりぬけた。
そのとき、彼をたすけるもうひとつの力となったのが、このシュガであった。この事件のあいだに、シュガはまだ二十という若さでありながら、聖導師の右腕となってはたらいた。そして、〈星ノ宮〉と宮中の政の、もっともきたなく暗い部分を知ることになったのである。
もうひとつ、この事件がシュガにあたえた出会いがあった。それは、それまでまったく知らなかった知――ヤクーの呪術師トロガイが、彼にしめした世界の見方だった。
出世の階段をかけのぼり、いずれ聖導師になるであろうと思われているシュガだったが、彼自身はふかい迷いを胸のうちに秘めていたのである。
シュガは、万が一にも人にぬすみぎきされぬよう、低い声で話しはじめた。
「殿下のお気持ちはわかります。殿下には、この宮のすべてが、暗くカビくさい、とじた箱のように思われるのでしょう。だから、その箱を一度、ひっくりかえしてしまいたい、と思っておられる。すべてをひっくりかえし、新しい風を吹きこむというのは、心ひかれることですし、たしかに、それが必要なときがあります。
しかし、殿下、どうか心にとめておいてください。大聖導師ナナイがおこなった大改革は、たしかに〈星ノ宮〉をよい方向へみちびきました。けれど、組織というものは、一度かたちができると、また、そのなかで、みにくい争いがはじまるのです。そして、一度は風が吹きこむようになったはずの箱に、また、よどんだ気がたまりはじめるのですよ。」
チャグムは、つよい口調できりかえした。
「よどんだら、また|風穴《かざあな》をあければよいのさ!」
シュガは、苦笑した。
「殿下、どうか、そういう率直さをしめされるのは、わたし相手のときだけにしてくださいよ。率直さは、皇太子にとっては、あまり得になる態度ではないのですから。」
チャグムは不満げに顔をしかめたが、シュガは、かまわずにつづけた。
「あちらこちらから噂がきこえてくるのですよ。殿下、先日、帝がえらばれた|太刀《たち》に、ケチをつけられたそうですね。」
「ケチをつけたわけではない。父君に意見を求められたから、思ったとおりを述べたまでだ。」
帝はうつくしい太刀が好きで、多くの太刀を集めている。先日も、こった飾りをほどこした太刀をもって、ある名高い刀商人がおとずれたのだった。その太刀が帝のもとにはこばれてきたとき、チャグムは、帝から学問の進み具合などについて問われており、お|側《そば》近くにすわっていたのだった。
その太刀は、じつにうつくしい太刀だった。柄にも鞘にも|漆《うるし》が塗られ、金と|螺鈿《らでん》で|象眼《ぞうがん》されている。しかし、帝が太刀の鞘をはらって、どうだ、とみせてくれたとき、チャグムはつよい失望を味わったのだ。チャグムはすなおに、それを帝につたえた。
「かざりおく宝としては、すばらしい太刀だとぞんじます。
しかし、このような、人の身体をつくことを目的とした|平刃《ひらば》の太刀で、血ぬきの|溝《みぞ》もないようなものは、実戦の役にはたちませぬ。刺した傷口が太刀にピタリと吸いついてしまって、ぬけなくなってしまいますから。」
帝は、「なるほど」とうなずいたが、そのとき、父の顔がくもったことに、チャグムは気づいていた。
「……なぜ、父君はご不快に思われたのだろう。あのような太刀をよろこんで買うほうが、よほど人からかろんぜられるだろうに。」
シュガは、じっとチャグムをみつめた。
「殿下。帝は、人ではないのですよ。
帝おんみずからが太刀をとって戦わねばならぬようなときは、この国のほろびるときです。帝は実戦の太刀など知らなくてよいのです。その太刀の善し悪しを判断し、帝にご助言もうしあげるのは、お側づきの武官の仕事です。
|下《しも》じもの者とは、まったくちがう、白い綿でくるまれたような清らかな魂であるからこそ、ヨゴの人びとは、帝を国の魂としてもちつづけるのです。そういう帝がおられるこの国を、清らかなものと、ほこれるのです。――帝は、人を殺すというような血なまぐさいことを、平気で口になさるような者であってはならないのですよ。」
チャグムの目に、つよい光がうかんだ。
「たとえ、その清らかな顔のうらで、実の息子を殺すような血なまぐさいことを考え、実行できてもか。」
「はい。――それが、外にみえさえしなければ。」
チャグムは、しばしだまって、その言葉の意味を考えていたが、やがて、首を横にふった。
「そちのもうすことは、よくわかる。だが、わたしは、そのような帝にはなりたくない。
なりたくない、というより、なれぬだろう。わたしは、下じもの者の暮らしに一度どっぷりとつかりこんでしまった。わたしには、国というものの姿が、あの人びとひとりひとりの暮らしの、ごちゃごちゃとした集まりとしてうかんでくる。それはどうしようもないことだ。
父君のように――これまでの代々の帝のように、宮の外のことはなにも知らぬ、夢のなかに生きているようなふりをしつづけることは、できぬし……したくもない。」
シュガは、鋭い知性をもったこの皇太子に、あやういものを感じていた。この知性と人を思いやる感性は、やがて帝となるべき者としては、身をほろぼす危険を秘めた短所ともなるからだ。……だが、もしも、その感性と知性を弱点とせずに、武器とすることができたら、この皇太子は、ナナイのように、いつか、この国をかえていくかもしれない……。
シュガは、しずかにいった。
「できなくとも、しなくてはなりません。すべてをひっくりかえしても、なお、この国をささえられるほどの力と知恵をもてる日までは。――その日がくると、わたしは信じております。」
その言葉はチャグムの胸をつよくうった。チャグムは吐息をつくと、にやっとわらった。
「そなたは小言をいう機会をとらえるのが、じつにうまいな。――だが、そなたの言葉、肝に銘じておこう。」
窓の外から、風にのって、いま満開のスラヤの花のかおりがただよってきた。チャグムは大きく息を吸って、そのかおりをすいこんだ。
「かおりというのは、ふしぎなものだな。思い出を、あざやかによみがえらせる力があると思わないか? わたしは、このスラヤのかおりをかぐと、〈山ノ離宮〉を思いだすんだ。あそこの中庭には、大きなスラヤの|古木《こぼく》があって……。」
いいかけて、チャグムは、ふと、シュガをみつめた。
「そういえば、今朝、離宮から、一ノ妃さまの病についての新しい知らせがきたそうだな。」
シュガは、ため息をついた。
「殿下。いまは、雑談の時間ではありませんよ。」
チャグムは、ほほえんだ。
「かたいことをいうな。そなたと語りあうときくらい、息ぬきをさせてくれよ。な、シュガ。一ノ妃さまに、なにがおこっているのか、本当のところを教えてくれ。」
シュガは、ちょっとためらったが、やがて、話しはじめた。
「一ノ妃さまは、もう七日間も、一度も目ざめずにねむりつづけているのだそうです。」
チャグムは、身をのりだした。
「そういう病があるのか? それとも、なにかの呪いなのかな。」
「眠り|病《びょう》、という病があることは、きいたことがあります。一ノ妃さまは心にふかい傷をおっておられますし、それがいえずに、一ノ宮をでて、〈山ノ離宮〉へこもられたくらいですから、もしかすると、そういう心の病からねむりつづけておられるのかもしれません。……ただ、」
と、シュガが声をひくめた。
「これは、まだ極秘のことなのですが……、じつは、ねむりからさめなくなってしまっているのは、一ノ妃さまだけではないようなのです。」
「なんだと?」
「殿下、これからお話しすることを、けっして|他言《たごん》せぬとちかっていただけますか?」
チャグムは、じっとシュガをみつめた。
「ちかう。」
シュガは、小声でささやいた。
「じつは、わたしは月に一度、極秘に〈扇ノ下〉におりて、トロガイとあっております。」
チャグムの目が、まんまるくなった。
「ほんとうか!」
「はい。一年まえの、あの事件のおり、わたしとトロガイは、ひとつの約束をいたしました。わたしが〈天道〉をトロガイに教えるかわりに、トロガイもヤクーの呪術を教えてくれるという約束です。もちろん、こんなことをしているのが〈星ノ宮〉に知られたら破門ですし、わたしのまわりには、それをよろこぶ者がおおぜいおります。」
シュガは、にやっとわらった。
「ということで、これは、ほんとうに、こっそりとおこなっている知識の交換なのです。」
いいながら、ふと、シュガは、自分もこの皇太子と同類なのかもしれないと思った。身の内にかかえているあやうさは、自分もおなじかもしれぬ、と。
チャグムはシュガの手をにぎり、せきこむようないきおいでたずねはじめた。
「トロガイは、元気か。毒舌も、あいかわらずか?」
「はい。とても七十過ぎの老婆とは思えぬ元気さですよ。」
「バルサは? タンダは元気か?」
「バルサには、ここしばらくあっていないそうですが、タンダは元気だそうです。」
チャグムは涙ぐみそうになって、あわてて目をとじた。少年の気持ちを察して、シュガは、たんたんと言葉をつづけた。
「つい一昨日、トロガイにあったのですが、そのとき気になる話をしていたのです。|青霧《あおぎり》山脈のなかの村にも、一ノ妃さまのようにねむりからさめなくなった女がいるのだそうです。もし、これが、どんどんひろがるようなものであったらたいへんですから、なるべく早い機会に、もう一度トロガイとあって、話しあおうと思っております。」
チャグムは目をあけて、じっとシュガをみあげた。
「シュガ……たのむ。これからも、わたしに彼らの話をつたえてくれ。」
シュガには、チャグムの気持ちが痛いほどにわかった。
ふいに、はげしい後悔の念が胸につきあげてきた。
(軽率だった。――皇太子に、あかすべきではなかった。)
チャグムは、この暮らしを――皇太子としての人生を、いわば窓も出口もない部屋のなかでの一生だと感じている。いま、シュガは、その部屋に外をみる窓をあけてしまったのだ。……しかし、いくら窓から外をみつめつづけても、その部屋には外へでる扉はないのだった。
シュガが、ひそかにトロガイとあっていることを知った日の夜、チャグムは、なかなか寝つかれずにいた。さまざまな思い出が目の裏にうかんでは消えていく。
槍をかまえるバルサの姿。あのあたたかくかわいた、がっしりとした手。耳にここちよい低い声。雪に降りこめられた山の小さな|洞穴《ほらあな》の家で、バルサが語ってくれた、かなしい身の上話。タンダの、おだやかな声。おいしい山菜鍋。隙間風が吹きこむ粗末な家で、バルサとタンダとトロガイと四人でくらした、あのなつかしい日々。
(タンダとバルサは、どうなったんだろう? うまくいってるのかな。でも、トロガイが、しばらくバルサとはあっていないっていったそうだから、また、バルサはどこか遠いところで用心棒をしてるんだろうか。)
チャグムは、ほほえんだ。
(おたがい、心の底ではひかれあってるのは、おさなかったわたしにさえ、みえみえだったのにな。なんで、ああ不器用なのかな、あのふたりは。)
ほほえみが、ふいにゆがみ、チャグムの頬に涙が流れおちた。
(ああ、みんなにあいたい!)
一度はまるで家族のようにくらしたあの人びとと、もう二度とあうことはないのだと思うたびに、胸がはりさけそうにつらかった。一年がたつうちに、その気持ちが、あきらめとともに、すこしずつうすれはじめていたのに、今日のシュガの話でまた傷口があいてしまった。
(……帝になんか、なりたくない。)
帝は人ではない。帝になってしまったら、もうだれも、チャグムを人としてはあつかわなくなる。親しく、腹をわって語りあうような交わりは、二度と望めなくなるのだ。
チャグムは胸の底にふかい絶望をかかえていた。これまで、その絶望をかろうじてすくっていたのは、ニュンガ・ロ・チャガ〈精霊の守り人〉だったときにみた、ナユグの、さえざえとしずまりかえった水底の風景だった。
あれに、なにをみたのか。――それは言葉になるようなものではなかった。ただ、ふかいところでなにかを感じた、その気持ちが、チャグムをささえつづけてきたのだ。
だが、今夜は、その思いさえ、チャグムの心を重くふさぐ、逃げ道のみえない苦しさをすくうことはできなかった。
重くしずんだチャグムの心に、ふと、ひとつの歌のしらべがうかんできた。かろやかななかに、せつなさを秘めた、うつくしいしらべ。……それは、すこしまえに一ノ妃をおなぐさめする宴で耳にした、歌語りのしらべだった。
そのしらべが、もう手のとどかないあこがれを、せつなく、かきおこしていく――この息ぐるしい闇のなかからのがれ、バルサたちと旅した山の風にふれたい。魂だけになって、あの時へと飛んでいけたら……。
ねむりの坂をくだりはじめたとき、耳の奥に流れていた歌のしらべが、だれかの、やさしいよび声にかわった。チャグムは声がするほうをふりかえった。……と、遠くに、やわらかく、なつかしい|灯色《ともしびいろ》の光がみえた。チャグムは、その光へと自分からおちていった。
なにとも知れぬ花のかおりに、やさしくつつみこまれていくのを感じながら。
「……いやだ。」
バルサは、隣で寝ているユグノが、ぶつぶつ寝言をいっているのを背中できいていた。
「やめてくれよ、やめて……。」
ユグノは、すうっと大きく息を吸い、のどをしめられているかのように、ぐぐっとうめいた。
バルサは身を起こすと、夜明けのうす闇をすかして、ユグノをみた。ユグノは、まるで、だれかの手をはらいのけようとしているように、のどをかきむしっている。
「ユグノさん! おい、ユグノさん! だいじょうぶかい?」
バルサが肩をつかんでゆすると、ユグノはのけぞった。そして、ひゅうっと音をたてて息を吸い、ようやく目をさました。あらい息をつきながら、なにもみえていないような目つきで、ぼうぜんと闇をみつめ、ユグノは、ガタガタと、ふるえていた。
「だいじょうぶかい? ずいぶん、ひどい悪夢をみたもんだね。」
ユグノは、バルサをふりかえって、汗をぬぐった。
「……ああ、まいった。……おどろいた。」
苦笑して、バルサはユグノをのぞきこんだ。
「おどろいたのは、こっちだよ。どんな夢をみたんだい?」
「……いつもみる夢ですよ。ずっと、いい夢だったのに。なんで、急に、あんな悪夢にかわってしまったのかな。」
ユグノは、おびえきった目でバルサをみた。
「このままじゃ、ねむれそうにないや。ね、バルサさん、手をつないでてくれませんか?」
「はぁ?」
バルサはあきれかえってユグノをみた。おびえてふるえているユグノは、いっそうおさなく――まるで少年のようにみえた。とてもとても五十二年生きてきたおとなの表情ではない。闇がこわくて用足しにいけないくせに、気はずかしくて、親にはついてきてといえなくて、姉につきあってくれとたのんでいる少年のような目だった。
(……この人は、外見だけでなく、もしかすると心も成長していないのかな。)
バルサは、ふとそう思ったが、だからといって手をつないでやる気にはなれなかった。
「冗談じゃないよ。」
バルサはひらひらと手をふった。
「わたしは、もうすこし寝るよ。あんたも寝たほうがいい。だいじょうぶだよ。おなじ悪夢は二度とみないっていうじゃないか。」
ごろっと寝てしまったバルサをうらめしげにみて、ユグノはため息をついた。
「……冷たいなあ。わたしの場合は、二度どころか、ずっとみつづけるかもしれないのに。こまったなぁ……どうしたもんかな。」
ひとり言をよそおいつつ、ちょっと大きめの声でそういってみたが、バルサが相手にしてくれるようすはなかった。
ユグノは、また、ため息をつき、顔をしかめて考えこんだが、やがて、なにか思いついたようすで、ごそごそと枕がわりにしていた荷をほどくと、人差し指ほどの長さのひげそり|小刃《こがたな》をとりだした。それを額の上にのせて手拭いでしばり、落ちないようにしてから横になった。――夢をみているあいだに、魂を魔物にとられないようにと、病気のときなどに、母がやってくれたおまじないだった。目をとじたあとも、しばらくは、おびえてねむれなかったが、バルサのしずかな寝息をきくうちに、やがて、うとうとと夢のないねむりにおちていった。
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第二章 〈|花守《はなも》り〉
1 呪術と星読み
庶民の町〈扇ノ下〉の、荷揚げ水路のわきに、小さいが、なかなか品ぞろえのよい店がある。『なんでも屋』という看板の下には、こまごまとした雑貨がならんでいた。この店は、若い夫婦がいとなんでおり、客がさがしている品物が店になかったときには、若い店主が、気前よく〈|扇ノ下《おうぎのしも》〉じゅうを走りまわって、まるで手品のようにみつけだしてきてくれるというので評判になっていた。
若妻が、また、なんともきれいな娘で、
「こんなきれいな女房に、ひとりで店番をさせといて不安じゃないかね? わるいやつらにでも目をつけられたらたいへんだよ。」
などと心配してくれる客もいるほどだ。若夫婦は、そんなときには、にこにことわらって、
「ご心配、ありがとうございます。」
と、こたえるだけだった。――じっさい、彼らはあまり心配する必要がなかったのだ。トーヤとサヤという名のこの若夫婦には、〈短槍使いのバルサ〉という、おそろしく腕のたつ友人がいることを、わるいやつほどよく知っていたからである。バルサは一年まえの水の精霊の事件のときに、橋の下でくらす|物乞《ものごい》だったトーヤとサヤにたすけてもらったことがあった。それを恩にきて、バルサは〈|扇ノ下《おうぎのしも》〉へきたときには、かならずふたりのところへ立ちよった。
しかも、そのバルサのつながりで、当代で最高と噂されている呪術師トロガイが、この店にちょくちょく立ちよることも、裏の世界では、かなり有名な話だった。虫のいどころがわるいと、人を亀にかえてしまうという噂があるこの呪術師に、にらまれる勇気のある『わるいやつ』など、この町にはいなかったのである。
今日も、夜明けまえのごく早い時刻に朝もやをついて、手足の長いみにくい老婆が、この店の裏手にあらわれた。老婆が裏の戸を二回、トン、トン、と、たたくと、なかから、さっと戸がひかれた。老婆が店のなかに消えて、ほんのわずかあとに、今度は背の高い、商人姿の若者があらわれ、これもまた、おなじように戸をたたいて、店のなかへとむかえいれられた。
トーヤは、いつもはものしずかなこの若者が、血相をかえているのをみてびっくりした。
「師は?」
「へえ、いらしてます。」
トーヤのみじかい返事さえまたずに、若者は天井からさがった飾りひもをひいた。ガタン、と音をたてて天井の一部がはずれ、小さなはしごがおりてきた。外からは|一階建《いっかいだて》にしかみえないこの店には、じつは、看板と屋根のあいだに巧妙につくられた秘密の|間《ま》があるのだった。
はしごをかけのぼってきた若者をみて、老婆が顔をしかめた。
「どうしたね。だれかに気づかれたのかい?」
若者――シュガは首をふった。
「トロガイ師、わたしは、たいへんなことをしてしまった……。」
「おちついて話せ。おまえさんらしくもない。」
「皇太子が――皇太子が、一ノ妃とおなじように、目ざめなくなってしまったのです。」
トロガイのほそい目がみひらかれた。
「なんだと? いつから。」
「昨日の朝から目をさまさないのだそうです。」
シュガは、血の気のない冷たい手で顔をおおった。
「あの日、わたしは殿下に、こうしてひそかにあなたとあっていることを話してしまった。……うかつでした。」
シュガは、手をそろそろとおろして、トロガイをみつめた。
「師は、人が夢にとらわれてしまうのは、その夢をみているのがしあわせだからだと、いわれましたね。それは、裏をかえせば、夢にとらわれていたほうがしあわせな人ほど、帰ってこなくなるということでしょう。――殿下は、いまの生活に……これからの一生に、なんの希望ももてずにおられた。暗くよどんだ箱のなかにとじこめられているように思っておられた。そこに、わたしは残酷にも、外をみる穴をあけてしまったのです。――みるだけで、けっしてでることのできない穴を。」
トロガイは、しばらくだまって若い星読博士をみつめていたが、やがて、ぼそっといった。
「たぶん、おまえさん自身もわかってることだと思うが、こういうことは、他人からいってもらったほうがすくわれるもんだから、いうがね、」
ため息をつきながら、トロガイはつづけた。
「チャグムが、一度、宮の外の世界を知ってしまったのも、その生活にいかに恋いこがれようとも、もう二度ともどれないのも、やがて帝になる運命なのも、あんたの責任じゃない。これは、人の力を超えたもののせいだよ。……そして、そこからのがれるために、夢のなかにとどまることをえらんでしまったのは、チャグム自身なんだ。わかってるだろ。自分を責めるような、むだなまねは、やめな。」
シュガは、身じろぎもせずに、じっとだまりこんでいた。トロガイは、肩をすくめた。
「まあ、そうはいっても、チャグムを死ぬまでほっとくわけにはいかないけどね。」
「……ねむりつづけて、どのくらいで、死ぬのでしょうか。」
「ふつうに考えれば、水はなんとか飲ませられても、ものを食べられないんだから、もって十日というところだと思うんだが……。きみょうなことに、タンダとわしがみている娘は、よわるのが、じつにゆっくりなんだよ。ねむりつづけてもう五日もたつのに、ほとんどよわっている色がみえない。脈も、だんだんゆっくりになってきているが、しっかりしてるしね。どうも、ふつうのねむりとは、ちがうようだ。」
「ええ。それは、一ノ妃さまをみておられる聖導師さまも、おっしゃっておられました。」
「だが、たとえば二十日くらいは死なぬとしても、やはり、いずれは死んでしまうことにはかわりがない。やっぱり、思いきって〈魂呼ばい〉をしてみるかね……。」
ひとり言のようにつぶやいてから、トロガイは、ふっと顔をあげた。
「そうそう。チャグムのことで、びっくりしてわすれておったが、あんたに、いおうと思っていたことがあるんだよ。
あんた、〈天道〉では、星と人の運命のあいだに、つながりがあるって考えるんだって、いってたね。」
「はい。ただし、それは、とても、ふくざつで……。」
「そりゃ、そうだろうよ。それはわかってるんだが、もし、だよ。星と人とのあいだに、なにかのつながりがあるんなら、一ノ妃やチャグムの星に、いま、なにか共通点があらわれているはずじゃないかい?」
「――可能性は、あると思いますが……。」
「あんた、ね、〈天道〉の技を生かして、それをさぐってみたらどうだね? わしらの呪術の知識と、あんたらの〈天道〉とを、|透《す》かし絵をかさねあわせるようにあわせてみたら、それまでだれも気づかなかった、新しい絵がみえてくるかもしれないよ。」
「……それは、そうかもしれませんが、皇太子殿下をすくうには、あまりに時間がかかりすぎて役にたちませんよ。」
トロガイが、にやにやしているのに気づいて、シュガは、トロガイをにらんだ。
「なぜ、わらうのです。わたしは、まちがっていますか?」
「いいや。あんたの若さが、かわいかっただけさ。……一歩さがって、いまの状況を考えてごらん。あんたが、いくらあせっても、〈天道〉ではチャグムはすくえない。いま、あんたにできることは、わしらにまかせてまっていることだけだよ。」
シュガが顔をしかめるのをながめながら、トロガイはさとすようにいった。
「まつのはつらいわな。でも、できることをやるしかなかろう?
すこしおちついたら、わしのいったことを、もう一度考えてみてごらん。わしの恩師が、よくいったものさ。すぐに役にたたないものが、むだなものとはかぎらんよってね。」
タンダは、ねむりつづけているカヤのもとへ毎日かよっていた。トロガイも、一度おとずれて〈|一体診《ひとつみ》〉をしてくれたが、タンダのみたてどおり〈魂〉がぬけていることをたしかめると、しばらくようすをみようといったきり、〈魂呼ばい〉をためそうとはしなかった。
タンダの兄のノシルは、トロガイがなにもしてくれなかったことに腹をたてて、評判のわりには、たいしたことがない、と、タンダに不満をぶちまけた。兄の短気はいつものことだったが、今度ばかりは、タンダの胸にもこたえた。――タンダ自身、いつににあわぬトロガイの慎重さが、どうしてもふにおちなかったからだ。
トロガイは大胆な術をつかう呪術師だ。まず危険のなかにとびこんでから、力ずくで解決してしまうのが、トロガイのやり方だったはずだ。
(なぜ、今回にかぎって、こんなに慎重になっているんだろう……。)
たしかに、ふつうの〈呪いがけ〉やら〈魂ぬけ〉やらの場合とはちがい、今回は、なにがおきているのかわからない部分が多いことはわかる。だが、だからといって、じっとようすをみていても、らちがあかないではないか……。
戸口をくぐり、家のなかに入ると、つん、と煙にいぶされた屋根藁のにおいが鼻についた。目がなれてくると、うす暗い炉ばたに、カヤがぽつんとシルヤにくるまってよこたわっているのがみえてきた。夜明けから日没まではたらきづめの兄はもちろん、子どもたちのせわから、畑仕事までこなさねばならぬ兄嫁も親族たちも、一日じゅうカヤの看病をしている余裕はないのだ。
タンダは枕もとに腰をおろすと、カヤの寝顔をみつめた。あいかわらず、しあわせそうな笑みを口もとにうかべているが、気のせいか、顔がひとまわり小さくなったようにみえた。
(……身体が、おとろえはじめたんだ。)
タンダは、そっとカヤの手をとった。冷たく、かわいた手だった。その、小さなてのひらは、あかぎれや、まめで、ざらざらだった。
カヤが、まえに、自分のてのひらをみながらいっていた言葉が、耳によみがえってきた。
[#ここから3字下げ]
――ときどき、すごく、ふしぎな気持ちになるの。……この手が、あと一年か二年すれば、赤ん坊を抱いてるんだなぁって思うと。
そして、十五年もたてば、その赤ん坊が、また、嫁にいって、赤ん坊を抱いて……。
そんなふうに、このさきを思うと、なんでだろ、すごくむなしくなることがあるの……。
[#ここで字下げ終わり]
カヤが、あのとき抱いていた思いは、きっとトロガイが娘時代に抱いていた思いに近いものだったのだろう。
この年ごろになれば、農民の娘たちには、人生が、だいたいみえてしまう。……そのことに、たまらない、むなしさを感じる娘もいるのだ。
タンダは、カヤの気持ちがよくわかった。タンダも、どこか人とちがう子どもだったからだ。
家族が、ふかいところで自分を愛してくれているのは、よくわかっていた。けれど、その一方で、茶のみ話にたちよった老婆の顔に死の影をみてしまったり、ほかのだれにもみえない鳥が、夕暮れの空をゆったりと舞うさまを、ぼんやりとながめていたりする息子を、父も母も気味わるがっていたのも知っていたし、兄弟たちは、あからさまに、ばかにした。
八つのとき、タンダは、あわい光をはなちながら、ゆっくりと舞う鳥をみた。そして、その夢のような鳥を追って山のなかにわけいった。その鳥は、ゆるゆると木々のあいだをすりぬけ、やがて、小さな草地にでた。草地には、一軒の粗末な小屋がたっており、その煙出しの穴へ鳥が舞いおりて消えるのを、タンダは、じっとみまもっていたのだった。
突然、小屋の戸がひらいて、なかからまっ黒い顔をした女がでてきた。うまれてこのかたみたこともないような、みにくい女だったが、その女は、藪の陰にかくれて、息をひそめていたタンダのほうをまっすぐみて、
「ぼうず、でてきな。」
と、いったのだった。タンダは、あまり、ものおじするほうではなかったので、いわれるままに藪からでて、手まねきしている女のもとへちかづいていった。
「どうして、こんな夕暮れに、こんなところへきたんだい?」
タンダは正直に、ふしぎな鳥を追ってきたのだと話した。すると、女の顔に興味ぶかげな色がうかんだ。
「へえ。あんた、あの鳥がみえたのかい。――あれはね、わしが飛ばしたのさ。」
兄たちから、そんな鳥はいない。おまえは気がくるっているのさ、と、ばかにされていたタンダは、自分が幻をみていたのではないと知って、うれしくなった。
「どうやって、飛ばすの? なんで、あの鳥を飛ばしたの?」
「なんでだと思う?」
問いかえされて、タンダは、思っていたことをすなおにこたえた。
「魂をさがしているんじゃない?」
女の目に、たのしげな光がうかんだ。
「へへえ。なんで、そう思う?」
「昨日も、あの鳥をみたんだ。あの鳥は、|鳥鳴川《とりなきがわ》の〈|夜泣《よな》き|淵《ぶち》〉の上を、何度も飛んで、すうっと川のなかへ消えた。だから、おれ思ったんだ。あれはきっと、迷子になってる西の村の子をさがしている鳥なんじゃないかって。」
「ああ、そうだ。その子の魂は、川の精霊ノウノによばれたらしい。もっと早くに、わしに知らせてくれれば、たすけようもあったんだが……。いまは、〈|生命《いのち》〉とはなれて、あの世へいってしまったから、もう、たすけることはできん。」
そういってから、女はタンダをみつめ、にやっとわらった。
「わしの鳥は、あの子の魂はつれてこられなかったけれど、どうやら、別の魂をひっぱってきたようだね。」
タンダは、そのときになってはじめて、こわくなってきた。
「……あなたは、山の|物《もの》の|怪《け》なの?」
女は、顔をしかめた。
「ばかぬかせ。物の怪ってのは実体がないんだよ。山女か、ときくならわかるが。」
「山女って、どんなものなの? 人をとって食うの?」
目を輝かせて、たずねたタンダをみて、女はわらいだした。
「あんた、そういう話が好きなのかい? ……こりゃ、あんがい、いい呪術師になるかもしれないね。」
それが、トロガイとの出会いだった。
タンダは、それから、ひまさえあればトロガイのもとに入りびたるようになった。仕事をさぼるようになった息子をにがにがしく思っていた親たちも、そのうち、どうせ畑もわけてやれない、すこしかわった三男坊の人生をあずけるさきがみつかったと、あきらめ半分で黙認するようになった。
トロガイのもとですごすうちに、タンダはきみょうなカンバル人の親子と知りあった。タンダより二つ年上の、がりがりにやせた女の子と、筋骨たくましく、目つきの鋭い男が、トロガイの小屋に|居候《いそうろう》していたのだ。しばらくして、タンダは、そのふたりが血のつながった親子ではないことを知ったが、ふたりは無口で、あまりタンダと話をしようとしなかった。
ふたりは、朝から晩まで山のなかをかけまわってすごしているようにみえた。家のまえの草地で、真剣勝負そのままの、組みうちの稽古をしていることもあった。
タンダがびっくりしたのは、わずか十歳ばかりのその女の子が、男のふりまわす槍の穂先で|額《ひたい》をきられたのをみたときだ。いまから思えば、傷はあさかったのだと思うが、額はきずつくとはげしく出血するところなので、女の子の顔は、みるみる血にそまってしまった。
それなのに男は、目がみえない状態のその女の子に、さらに槍をふりおろしたのである。タンダが心底おどろいたのは、女の子が目にはいった血をぬぐうまえに、うしろへはねとんで、男の槍をさけたことだった。そのまま、彼女は木立の奥へ逃げこみ、長いこともどってこなかったが、もどってきたときには、衣の袖を裂いてつくった布で額をきつくまいて、血を止めてしまっていた。
少女は、あぜんとして自分をみているタンダをじろっとみて、
「ジグロは?」
と、男の行方をきいた。
「さっきまで槍の穂先をといでいたけれど、ちょっとまえに、沢のほうへいったよ。」
うなずいて、沢のほうへいこうとした少女に、タンダは思わず声をかけた。
「傷、痛くないの?」
少女は、ふりかえって、みじかくこたえた。
「痛い。」
「じゃ、ちょっとまって。」
タンダはトロガイの家にかけこむと、小さな|薬壺《くすりつぼ》をもってもどり、少女の額の布をとって、傷薬を塗ってやった。かなり痛いはずなのに、少女のほうは顔もしかめずに、されるままになっていたが、塗ってやっているタンダのほうは、痛そうで、顔をゆがめていた。
もう一度鉢巻きをしてもらうと、少女は、めずらしく、ちょっとほほえんだ。
「ありがとう。」
その少女がバルサだった。タンダは、これまでに、かぞえきれぬほどバルサの傷の治療をしてきたが、それがはじめての治療だった。
タンダは、かすかに苦笑をうかべた。
(いまごろ、あいつは、どこで、なにをしているのやら。)
バルサは、タンダやトロガイのように、みずからえらんで、ふつうの生活からはずれたわけではない。わずか六つの年に、いやおうなしに、ふつうの生活から、はじきだされてしまったのだ。親を殺され、追手に追われ、|一寸《いっすん》さきに死がまっているかもしれぬ、暗闇のなかで生きてきた娘だった。刺客をはなって、ふたりの命をねらいつづけた男――カンバル王が、ようやく死んだときには、バルサはもう二十一になっており、たとえ望んだとしても、ふつうの男の妻になり、母になって生きる道にもどることは、できなくなっていた。
もっとも、バルサ自身、そんな人生はもう望んでもいなかっただろう。バルサは、自分の肌にしみこんでしまっている血のにおいを、よく知っている。自分の心の底にひそむ、闘いへの、はげしく、みにくい欲求も……。
そんなバルサが生きるためにえらぶことのできた、たったひとつの道が用心棒だったのだ。
養父のジグロが死んでから、バルサにとって『家』とよべるのは、いつの間にやらトロガイからタンダがゆずりうけたかっこうになっている、この粗末な小屋だけだったから、バルサは、仕事のあいまに、ふらりとこの家にもどってきた。羽をやすめる渡り鳥のように、ほんのしばらくタンダのもとですごし、また、旅だっていく。
バルサは口数の多いほうではなかったが、それでも、そうやってタンダのもとへ帰ってくれば、旅のあいだのできごとなどをぽつぽつと話してくれた。そういうときタンダは、自分には語ってくれぬことの多さを思い、自分がふれることのできぬバルサの人生を感じるのだった。
であってから二十年のあいだには、いろいろなことがあった。バルサを自分のもとに留めておきたいと、やけつくような気持ちでねがったこともある。
だが、そういうはげしい、夏の陽ざしのような思いは、いつの間にか初秋の光のようなものにかわり、このごろは、いまのようなすごし方が、自分たちにはいちばんあっているのかもしれない……と思うようになっていた。
とはいえ、ときには、ゆっくりとゆれる振り子のように、人恋しい気持ちがもどってくることもある。いまのようにトロガイ師が家にいて、呪術の技を、ひとつ、ふたつと教えてくれているときは、そんな気持ちもわすれはてているが、師が、ふらりと旅にでてしまい、山のなかの小さな家で、ひとりきりの日々がすぎていくときなどには……。
タンダは、兄の家のなかを、ゆっくりとみまわした。
すわる順序で炉端をかこんでいる六つの|藁座《わらざ》。一日じゅう、汗まみれになってはたらいて帰ってきた兄は、夕食時には、あの、あかじみてへこんだ藁座に、どさっと腰をおろすのだろう。むかし父がそうしていたように。父のまわりには、いつもたわいない家族のざわめきがあった。……それは、人里はなれた静けさのなかで、精霊のつぶやきをきく、呪術師の道をえらんだタンダには、たぶん、もう一生もどってくることのない、ざわめきだった。
タンダは、あごをさすった。
気がつくと、もう三十の坂を越そうとしている。長くても、あと四十年ほどの歳月が、残されているだけだ。その歳月で、なにができるだろう。この世にうまれ、また消えていくまでに、いったいなにができるのか。家族にかこまれて生きる人生とひきかえにして、自分は、なにを得たのだろう……。
そう思ったとき、ふと、耳の奥に、ひとつの言葉がよみがえってきた。それは、トロガイ師が〈魂呼ばい〉の術を教えてくれたときにいった言葉だった。
「……人はね、生きるのに理由を必要とする、ふしぎな生き物なんだよ。
鳥も獣も虫も、生きていることを思い悩みはしないのにね。ときに、人は、悩んだすえに、自分を殺してしまうことさえある。
タンダ、よくおきき。〈魂呼ばい〉はね、身体からぬけてしまった〈魂〉をさがすだけじゃだめなんだよ。〈生命〉から遠くはなれ、まよってしまった〈魂〉に、思いださせてやらねばならないんだ。自分がまだ、生き物として生きているんだっていう、生命そのものの、ふるえるような、熱い力を。〈生命〉とつながっている、その糸を……。」
その言葉は、タンダの胸に、つよくひびいた。
そして、トロガイ師にみちびかれて、はじめて魂だけになって身体から舞いあがり、ナユグの精霊の世界をのぞきみたときの、あの、めくるめくような驚きと、よろこび……。
(カヤ……、)タンダは、そっと、ねむりつづける姪によびかけた。(よろこびにも、苦しみにも、ほんとうに、いろいろあるな。――でも、ねむったまま、死んでしまうほど、おまえは、自分の人生に絶望してはいなかっただろう?)
カヤの冷たいほそい手首に脈がうつのを感じたとき、タンダは、自分ひとりで〈魂呼ばい〉をしてみよう、と、心を決めた。
命の危険があるかもしれない。――けれど、こういうときに役にたたないような技ならば、学んだ意味もない。ちょうど、トロガイ師はシュガにあいに都へいっている。いまからしたくをすれば、師にとめられるまえに、カヤの魂を追っていけるだろう。タンダは立ちあがり、〈魂呼ばい〉の儀式につかう呪具をとりに、いそいで家へもどっていった。
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2 〈花〉の罠
儀式のしたくをととのえてもどってきたタンダは、ちょうど水汲みから帰ってきた兄嫁に、むずかしい呪術をこころみるので、夕暮れまでだれも家に入れないようにとたのんだ。
兄のノシルの家は、いかにも農家らしい、お椀をふせたようなかたちの|泥壁《どろかべ》の家である。南むきの戸のほかは窓もなく、屋根のいちばん高いところにあけた煙出しの穴から光がはいってくるだけだ。土間に編み藁を敷き、中央に囲炉裏がきってある。カヤは、その囲炉裏の西側に、シルヤにくるまってよこたわっていた。
タンダは、まず家の戸をはめこみ、それから、部屋の四方に竹を立てた。その四本の竹から竹へ麻縄をわたして結界をつくる。そして、カヤの枕もとにあぐらをかいてすわり、手に、ススキの穂でつくった〈|魂寄《たましいよ》せ〉の呪具をもった。
〈魂呼ばい〉の儀式は、まず呪術師自身の魂を変化させることからはじまる。
タンダは目をとじて口のなかで呪文をとなえながら、ゆっくりと身体を前後にゆすりはじめた。そのゆれが、しだいに、ゆるやかな弧をえがきはじめる。右へ、左へ。右へ、左へ。
ゆるやかにゆれる身体のなかで、タンダの〈魂〉は、母に抱かれてゆすられる赤ん坊のように、心地よく丸くなり、やがて、熱をもった小さな玉になった。
タンダは、〈|鳥《とり》〉を夢みた。小さな白熱した玉よ、〈鳥〉になれ、〈鳥〉になれと。
やがて、白熱した玉は、かろやかな羽をもつ鳥へと変化していった。
〈鳥〉が目をひらくと、うす闇のなかに、一本の光る筋がみえた。ねむっているカヤの額から、はるか高みまでのびている一本の光る糸。タンダは、その糸にそって、すうっと舞いあがった。うす闇のなかを、ただひたすらに、光る糸を追っていく。
ふりかえると、はるか下のほうへ、自分の魂の糸がのびているのがみえた。そして、その糸の根もとに、まぶしい光がある。〈魂〉のぬけた自分の身体がもっているススキの|呪具《じゅぐ》が、光をはなっているのだった。あの光が、身体へもどるときの目印となってくれるはずだ。
かろやかに飛翔していくうちに、タンダは、白く光る糸が、ほかにもたくさん、ひとつの方向へむかってのびているのに気づいた。その糸たちは、あわい光をはなつ、もやのなかへと消えている。タンダは、糸について、そのもやのなかへと舞いこんだ。
とたん、刺すような恐怖にとらわれた。もやが、背後で、一瞬にして網に|変化《へんげ》したのだ。
(――しまった。)
罠にかけられたと、さとったタンダは、おのれの魂を瞬時に〈鳥〉から〈太刀〉へと|変化《へんげ》させ、その|網《あみ》をきろうとした。しかし、あやういところで、タンダはとどまった。――その網は、ここへ吸いこまれている魂たちの、魂と生命とをつないでいる糸でできていたのである。
――タンダ。
声がきこえてきた。
――こちらへ、おりておいで。
声のするほうには、夜の闇があった。その闇のなかに、いくつもの、ほの紅い光がみえる。
それは、寒い夜の闇にともる|灯《ともしび》の色、あたたかい囲炉裏の火の色だった。この高みからみおろすと、その灯が、いく|群《む》れかずつかたまってともり、その明りの中央に、ひときわ大きな明りがゆれていた。
(あれは、花の|花房《はなぶさ》が光っているのか……。)
やわらかくあたたかい、その明りをみているうちに、なつかしさがこみあげてきた。タンダは、ゆるやかに〈太刀〉から〈鳥〉に変化すると、明りへむかっておりていった。
その世界は夜だったが、花の明りで、タンダは大きな宮の広大な中庭にむかっておりているのだとわかった。花がゆれるたびに、|人気《ひとけ》のない宮の白木の回廊や屋根に、ゆらゆらと影がおどる。中庭におりたつと、タンダは〈鳥〉から人の姿へと変化した。足もとが冷たいのにおどろいて下をみると、庭は、タンダのくるぶしくらいまでの深さの、澄んだ水でおおわれているのだった。
その水のなかから、〈花〉が咲いていた。広く|四方《しほう》にはった根で、しっかりとささえられた一本の太い茎から、四方八方へとほそい茎が枝のようにのび、葉がしげり、タンダの背より、はるかに高い茎のさきに、いくつもの花房がひとむれずつ集まって咲いている。そのなかで、ひときわ目立つのが、もっとも太い茎の先端にゆれる、巨大な花房だった。あれが、実をつける花房なのだろう。その大きな花房も、小さな花房もホタルブクロのようにとじており、そのなかに、あのあたたかい灯色の光が、ぽうっと、ともっていた。
その明りが水にうつり、たとえようもなく、うつくしかった。
――うつくしいだろう。
タンダは、声の主をさがして頭をめぐらした。中庭の四方をかこんでいる回廊に人影があった。手まねきをしている。タンダは、まねかれるままに、その人影のほうへ歩いていき、四段ほどの階段をのぼって回廊に立った。
背の高い男が立っていた。灰色の長い衣を、ふかい緑色の帯でとめている。花明りで、からだの右側がぼんやりとてらされてはいたが、どんな顔をしているのか、どうしてもよくみえなかった。みえないというより、みようとすると、ぼやけてしまうような気がした。
――タンダ。トムカの息子よ。
そうよびかけられて、タンダは、首をふった。
「わたしは、トロガイ……あなたのいうトムカにそだてられましたが、血をわけた息子ではありません。」
男が、かすかにほほえんだような気がした。
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――血をわけておらずとも、魂がつながっておれば、息子だ。
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その言葉は、思いがけぬつよさでタンダをうった。トロガイは、およそ〈母〉にはにあわぬ、はげしくつよい女だったが、それでもタンダは、トロガイのどこかに〈母〉を感じていたのかもしれない。
「あなたが、〈花番〉ですね?」
男が、うなずいた。タンダは、おだやかな口調で語りかけた。
「わたしがだれだかわかっていたのなら、なぜ、魂の糸を編んだ網で逃げ道をふさいだのですか? わたしは〈花〉に害をなすために、ここへきたのではなく、〈花〉にとらわれてしまった魂を、もとの身体へ帰すためにここへきたのですよ。」
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――この世界は〈花〉のためにある。〈花〉が、この世を夢みているから、この世界があるのだよ。あの〈夢〉たちは、花房にやどって、種をみのらせてくれているのだ。
そのお返しに、〈花〉は、夢たちがみたいと望んでいる夢をみせてあげている。
これは、ほんとうに、あたりまえのことなのだ。
[#ここで字下げ終わり]
タンダは、視線を男からはずし、しばし〈花〉をみつめていた。
「そうですね。わたしのうまれた世でも、花は虫たちに蜜をあたえるかわりに、花粉をはこばせ、実をむすばせます。それは、あたりまえのことです。……しかし、」
タンダは、男に目をもどした。
「多くの花は、虫の生命を危険にはさらしません。虫たちは、日々のひとときを花とかかわるだけで、あとは、虫なりの暮らしをし、一生を終えます。
それなのに、あの〈花〉の夢にとらわれつづければ、あの人たちは死んでしまうのです。これが、あたりまえのこととは、わたしには思えません。」
影になっている顔のなかで、目だけが光ってみえた。
[#ここから3字下げ]
――それは、〈花〉の罪ではない。あの子の罪なのだよ。
[#ここで字下げ終わり]
「あの子?」
[#ここから3字下げ]
――トムカがつれていった赤子の魂だよ。いまは、そちらの世界でくらしている。
[#ここで字下げ終わり]
タンダは、トロガイの話を思いだした。
(ああ、トロガイ師が、胸に抱いて帰ってきたっていう、あの魂か!)
「……彼の罪とは、どういうことです? 夢みる魂たちが帰ってこないことに、彼がどうかかわっているというのですか。」
[#ここから3字下げ]
――あの子は、〈風〉なのだ。はるかむかし、トムカが、あの子とともに、そちらの世界へもどったとき、そちらの世界とこの世界のあいだに、ほそい|通《かよ》い|路《じ》がひらいた。
あの息子は、その通い路をぬけて、毎夜、魂となってここへもどってきた。
ここが、あの子のうまれたところ……母の胎内だから。
[#ここで字下げ終わり]
その声をきいたとたん、タンダは、うなじの毛がさかだつような、いやな気分を味わった。ふいに、〈花番〉の声に女の声のようなほそい響きがまじったからだ。
しかし、それは一瞬のことで、〈花番〉の声は、すぐにもとの男の声にもどっていた。
[#ここから3字下げ]
――あの子は、〈花〉とともにうまれた子。この世界とわかちがたくむすびついた子。中庭に、このうつくしい〈花〉が咲くと、あの子は、〈花〉に実をむすばせるために、そちらの世界の人びとの夢をさそう風となった。
[#ここで字下げ終わり]
タンダは、はっと顔をあげた。トロガイも、たしか、そんなことをいっていた。
「では、彼にさそわれて、カヤたちは夢にとらわれてしまったのですか?」
〈花番〉はうなずいた。
[#ここから3字下げ]
――そう。でも、それを怒ってはいけないよ。彼は風なのだから。〈花〉の種がみのったら、ここへもどり、ここで、〈花〉をゆらして、〈夢〉たちの目をさまし、そちらの世界へ帰すのも、あの子なのだから。
[#ここで字下げ終わり]
「では、彼が帰ってきて、〈夢〉たちを目ざめさせてくれれば、カヤたちは身体へもどれるんですね?」
〈花番〉はうなずいた。
――そうだ。……だが、彼が帰ってこないのだ。
「えっ?」
[#ここから3字下げ]
――〈花〉の種はみのっている。あと、わずか三日後の|半月《はんげつ》の夜になれば、この〈花〉は散るだろう。
[#ここで字下げ終わり]
「わたしたちの世界の三日後ですか?」
[#ここから3字下げ]
――そうだ。トムカが帰って、通い路をひらいたときから、そちらの世界と、この世界は、おなじ時のなかにあるのだから。……みよ、
[#ここで字下げ終わり]
〈花番〉が、すっと天空をゆびさした。夜空に月がかかっていた。あとすこしで半月になるくらい欠けた月だった。
[#ここから3字下げ]
――あの月が半月になったとき、外からつよい風が吹きこんでくる。〈花〉を散らすつよい風だ。
〈花〉が散る……この世界の終わりがやってくる。
そちらの世界からさそわれ、ここでまどろんでいる〈夢〉たちは、〈花〉を散らす風が吹くまえに、あの子のそよ風に目をさましてもらわねば……自分の世界へ帰るよう、やさしく、うながしてもらえなければ、その夜、風に吹きちらされる〈花〉とともに散って、ここで死をむかえることになる。
[#ここで字下げ終わり]
タンダは、ゆれている花をみていた。茎と花のあいだのつけ根は、とてもほそく、風が吹くと、いまにもおちてしまいそうにみえる。
「……なぜ、」
タンダは、つぶやいた。
「なぜ、彼は、帰ってこないのでしょう……。」
〈花番〉は、低く、かすれた声でつぶやいた。
[#ここから3字下げ]
――それは、わたしにはわからない。なぜ逃げたのか、なぜ帰ってこないのか。
[#ここで字下げ終わり]
タンダは、顔をしかめた。
「そんな……。彼だって、自分が多くの生命に責任があることを知っているのでしょう? もどってくるんじゃないですか? 半月の夜までには。」
〈花番〉がうす笑いをうかべたような気がした。
[#ここから3字下げ]
――それまでまてばよい、というのかね? それは、あまりにも危険な賭けだ。
これまで毎晩この庭にもどっていた彼の魂が、ここ数晩もどってこない。自分の意志でもどってこないのだよ。……まってみて、もどってこなかったら?
[#ここで字下げ終わり]
〈花番〉は、しずかな声でいった。
[#ここから3字下げ]
――わたしは、それでもかまわない。〈花〉はすでに実をむすんだのだから。
だが、あの〈夢〉たちをたすけたいのなら、彼をつれもどさねばならない。たとえ、力ずくでも。それが、ここにとらわれた人びとの命をすくう、ただひとつの道なのだから。
だが、わたしは、こちらの世界でしか力をもてぬ者。そなたのように、あちらの世にうまれ、あちらの世に身体がある者しか、あの子を追っていくことができぬのだ。
[#ここで字下げ終わり]
タンダは、目をみひらいた。
「それで、わたしを……?」
[#ここから3字下げ]
――そうだ。やってみるかね? あの子は〈風〉。ふつうの人間には、とても三日ではつかまえられまいが、〈花〉の力を借りれば、そなたには人を超えた力がそなわる。
[#ここで字下げ終わり]
「人を超えた力……?」
[#ここから3字下げ]
――〈花〉のなかでうまれた者が、どこにいてもみつけだせる力。そして、どこまでも追いかけ、とらえることができるつよい力だ。〈花〉をまもる、〈花守り〉の力だ。
[#ここで字下げ終わり]
ふいに、〈花番〉の声が、世界全体に反響しているように、ぶんぶんとうなりをあげてタンダをつつみこんだ。
[#ここから3字下げ]
――〈花守り〉となれ、タンダ。〈花〉にまどろむ者たちの生命をたすけるために……!
[#ここで字下げ終わり]
花のかおりがタンダをつつみ、まるで、酒に酔っているかのように、意識がもうろうとしてくる。それが、タンダの警戒心をよびおこした。タンダは、よせてくる力にあらがい、必死に考えようとした。
――タンダよ。……トムカの息子よ。
花のかおりがむせかえるほどつよくなり、タンダは、目のまえがかすんでいくのを感じ、必死で身体に力をこめた。
――〈花守り〉になれ、タンダ! あの子をつれもどしておくれ!
タンダは、目をとじた。重くるしいほどの花のかおりのなかで、タンダは、歯をくいしばって、正気をたもとうとした。
(罠かもしれない。なにか変だ。)
もうろうとする意識のなかで、タンダはそう思った。けれど、なにが変だと思うのか、どうしても、はっきりわからなかった。
(……わすれるな。おれはカヤをたすけにきたのだ。カヤをたすけることだけを、考えろ。)
タンダが心のなかでつぶやいたとき、〈花番〉がささやきかけた。
[#ここから3字下げ]
――あの息子は、そのカヤという娘や、ほかの魂たちに歌をうたい、こうして〈花〉へとさそってきた。彼には、〈夢〉たちをさそった責任があるのだよ。
[#ここで字下げ終わり]
タンダは、はっとして〈花番〉に問いかえした。
「その男は、歌で魂をさそったのですか?」
――そうだ。
「じゃあ、そいつは、歌い手なのですね?」
――そうだ。
つよい怒りが、胸の奥からつきあげてきた。カヤが恋をしたという歌い手……たぶん、それが、トロガイの夢の息子だったのだろう。まだ、おさないカヤの心に、けっしてかなわない夢を植えつけ、自分の人生へのむなしさをかきたて、〈花〉へとさそったのか……。
人が、おさえてもおさえても、抱かずにおれない夢をエサに、あの娘をさそったのか! タンダは人一倍おだやかな男だったが、いま胸にわきあがってきた怒りは、おそろしくはげしいものだった。
タンダの心を決めたのは、歌い手にたいする、そのはげしい怒りだった。
〈花守り〉になったら、自分がどんなふうになってしまうのかわからない。だが、このままではカヤをすくうことはできない。その男を力ずくでもつれかえり、責任をはたさせ、カヤをすくうためには、〈花守り〉になるしかない。
タンダは、ゆっくりと花から〈花番〉に目をもどした。
「わかりました。〈花守り〉になりましょう。」
〈花番〉にみちびかれて、タンダは、ふたたび中庭におりた。〈花番〉は、タンダを花の茎のところへつれていった。茎は、四人のおとなが腕をひろげてもかかえきれないほどの太さがあり、その茎の根もとには、いく本もの根がふくざつにからまっていた。
その根のかたまりが、まるで椅子のようにくぼんでいるところに、タンダは、あぐらをかいて、すわらされた。
〈花番〉がタンダの正面に立った。タンダは上の|衣《ころも》をぬぐようにいわれ、身につけているのは|筒袴《つつばかま》のみになった。
〈花番〉がタンダに指をのばした。そして、タンダの右足のももから膝にかけて、指で線をえがきはじめた。指がたどっていったあとが緑色にかわり、まるで蔓がはっていくように右足にからみはじめた。
――そなたの右足は、そなたのものにあらず。〈花〉のものなり。
〈花番〉がとなえるうちに、タンダは、右足の感覚が消えていくのを感じて、はげしい恐怖にとらわれた。
〈花番〉は、すばやくタンダの左足にも模様をえがいていく。
――そなたの左足は、そなたのものにあらず。〈花〉のものなり。
みるみる両足の感覚が消えていくおそろしさは、すさまじいものだった。
(おちつけ。おちつけ。……魂を、しっかりとたもつんだ。)
歯をくいしばって、タンダは、たえた。
〈花番〉が一歩ちかづき、タンダの顔に影をおとした。その指がのどにふれたとき、タンダは、思わず、ふるえた。指が、のどから胸、腹にかけて、蔓をえがいていく。
――そなたのからだは、そなたのものにあらず。花のものなり。
とうとう、全身の感覚が消えさり、感覚があるのは頭だけになってしまった。
〈花番〉が、一房の花のガクをはずした。それは両目はおろか鼻と口の部分にさえ穴もない仮面だった。ガクについていたカヤの葉のような鋭い葉が、髪の毛のようにのびている。
その仮面が、目のまえをおおっていくのを、タンダは、歯をくいしばってみつめていた。
〈花番〉が最後の呪文をとなえようと口をひらいたとき、タンダは、〈花番〉が、かすかに身じろぎをし、ふっと、ふたつにわかれたような気がした。その、ほんの一瞬、冷たい風が顔にふれ、タンダの頭をはっきりとさせた。
――そなたの夢は……。
呪文がきこえ、顔に仮面がふれたとき、タンダは心のなかで、かろうじて、ひとつの言葉をとなえた。
ふたつの呪文が、同時に、タンダのなかに鳴りひびいた。
――そなたのものにあらず、〈花〉のものなり。
(……おれの夢のみ、おれのものなり。)
とたん、タンダは、うしろへはじかれるような、はげしい衝撃を感じた。――そして、全身の感覚が消えた。
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3 バルサと〈花守り〉の死闘
ノシルの家がみえるあたりまできたとき、トロガイは、異変に気がついた。家の外で子どもたちが、うずくまり、抱きあって泣いている。タンダの兄嫁のナカが、子どもたちを抱きしめて、ふるえていた。
「どうした。なにがあったんだい!」
トロガイがかけつけると、ナカが、ぶるぶるふるえながら、屋根をゆびさした。
「あ、あそこから、大きな猿みたいな化け物がとびだしてきて……。」
トロガイは、ノシルの家の戸がしめられているのをみて、顔をゆがめた。不吉な思いが、胸の奥からつきあげてきた。
「あの、ばか。まさか、ひとりで……。」
トロガイは戸に手をふれると、口のなかで呪文をとなえていっきに戸をおしやぶった。土ぼこりをたてて内側に戸がたおれ、タンダが張った結界の縄がはじけとんだ。
うす暗い家のなかには、カヤがよこたわっているだけで、タンダの姿はなかった。トロガイは、カヤの枕もとにしゃがみこんで、〈魂呼ばい〉のススキの呪具をひろいあげた。その呪具は、まっ黒に焦げていて、手のなかでぼろぼろにくずれてしまった。
トロガイは立ちあがり、煙出しの穴をみあげた。結界は、トロガイがやぶるまで、内側からはやぶられていなかった。と、いうことは、タンダは、あの煙出しの穴から外へでたとしか考えられない。――しかし、煙出しの穴は、タンダの背たけの倍以上の高さにあるのだ。足場もなしに、とびあがって、つきぬけたというのか……。
大きな猿みたいな化け物、と、ナカはいっていた。
トロガイはなにがおきたのかを察して、歯をくいしばり、つかのま目をとじた。そして、目をあげると、呪文をとなえて意識を集中し、大気の流れの乱れをたどった。
タンダが、この家をとびだしたのは、ほんのわずかまえのことだったらしい。その乱れは、はっきりと感じられるほどに、新しかった。トロガイはその乱れのあとを追って走りだした。
「へえ、こんなところに家があったんですねぇ。ちょっとまえに、すぐそばの村にたちよったけど、こんなところに人が住んでるとは知らなかったなぁ。」
タンダの家のまえの草地に立って、ユグノがいった。
「でも、だれもいないようですよ。」
バルサは、うなずいた。
「薬草をとりにいってるか、病人をみにいってるんだろう。さあ、かまわないからはいっておくれ。火をおこして……。」
そういいながら戸に手をかけたとき、バルサは、全身に、さあっと鳥肌がたつのを感じた。短槍をかまえてふりかえると、ユグノも木霊から警告をうけたらしく、不安そうな顔でバルサをみた。
殺気……ではなかった。まるで、木立の陰から、オオカミにみつめられているのに気づいたときのような恐怖が、全身をとらえていた。
それは、木の上からおそいかかってきた。あまりに動きがはやいので、ユグノには黒い影にしかみえなかったが、バルサには、それが人のかたちをしているのがはっきりとわかった。
それは、一直線にユグノにおそいかかった。バルサは、あやういところでユグノをつきとばし、草地でくるりと反転すると、人影にむかいあった。
その顔をみたとたん、バルサは、あまりのことにほんの一瞬うごけなくなってしまった。
「タンダ!」
その人影はタンダの衣をまとい、タンダの顔をしていた。――しかし、その表情は人の表情ではなかった。その目は、まるで獲物をおそう瞬間のオオカミのように白い光をうかべている。
タンダは、槍をものともせずに、バルサにおそいかかってきた。バルサは、とっさに、ぴゅんと槍を一転させ、石突きのほうでタンダのみずおちをついた。だが、タンダは、おそってくるいきおいを殺さぬまま、かかとをつかって身体を回転させて|半身《はんみ》になり、槍をさけてしまった。
槍をさけた半身のまま、右手が、バルサの顔につきだされた。バルサは、まえへとびだすことで、かろうじてその右手をさけた。
なにがおきているのか、まったくわからなかったが、バルサには、タンダの姿をしている者を槍でつくことはできなかった。その思いが、かえって動きを鈍くしているとさとって、バルサは槍をほうりだした。
そして、横にはらうような蹴りを、タンダの|膝上《ひざうえ》にはなった。タンダは、信じられぬ身軽さで宙にはねあがり、その蹴りをさけた。そして、はねあがったところから、バルサに蹴りをはなってきた。あまりに鋭い蹴りで、頭にくらわないよう身をねじるのが、せいいっぱいだった。左肩のあたりにはげしい衝撃がきた。それは、手加減のまったくない蹴りだった。
首にくらっていたら、首の骨が折れて即死していただろう。――その一撃をうけて、バルサは、タンダが、自分を殺す気でいることをさとった。
バルサは、まえへとんで、草地で一回転して立ちあがり、タンダにむかいあった。
むぞうさに間をつめてくるタンダが、両手をバルサの首にのばした瞬間、バルサはタンダの両手首をつかみ、ふところにとびこむように身をしずめて、ぶんっとねじった。タンダの身体が宙に舞った。大きな投げではなく、受け身をとるすきをあたえない、地にたたきつける鋭い投げだった。地面にたたきつけられたタンダは、さすがに一瞬、動きをとめた。
バルサは、タンダの右腕の関節をとったまま、タンダの身体をうつぶせにして、膝で背の一点をおさえた。このツボをおさえられると、息ができなくなる。しかも、腕の関節がここまでかためられていれば、激痛で、うごくどころか、声もだせなくなるのだ。
ところが、タンダは、動きをとめなかった。
「タンダ、やめろ! 腕が折れるよ!」
胃から胸に、苦いかたまりがこみあげてきた。人の腕を折るのは、おそろしい。ましてや、タンダの腕なのだ。額に冷たい汗がふきだしてきた。手の下で、タンダの腕の骨が、ぎしぎし鳴っている。
「……タンダ!」
タンダは、まるで痛みを感じていないように、自分の骨がきしむのもかまわず、身をおこしてくる。バルサは歯をくいしばり、心を決めた。ひねりながら力をこめると、いやな音がして、タンダの右肩の関節がはずれた。
とたん、バルサは、顔になにかがたたきつけられるのを感じて、のけぞった。タンダが身をねじって、左手でバルサの顔をなぐったのだ。関節がはずれる痛みはすさまじい。まさか、反撃できるとは思ってもいなかった。目のまえに星が散り、鼻の奥がきなくさくなって、一瞬、気がとおくなった。
タンダの左手がバルサの首をつかんだ。バルサは、その左手の肘に|手刀《てがたな》をたたきつけて、はずし、渾身の力をこめて、右のてのひらを耳にたたきつけた。いっきに鼓膜をやぶられたタンダは、頭をぐらりとゆらし、尻もちをつくと、ゆっくりあおむけに、たおれた。
バルサは、あらい息をはいて、ふるえていた。かぞえきれぬほど命のやりとりをしてきたが、これほどおそろしい闘いはしたことがなかった。――殺すどころか、きずつけるのさえいやな者を相手に、これからどうすればいいのか、わからなかった。
まるで、みえない糸にひかれるように、タンダの身体が起きあがってくる。バルサは、歯をくいしばり、顔をゆがめて、それをみつめていた。
タンダのなにもみえていないような目がバルサをみた瞬間、タンダの鼻先にポッと火の玉があらわれた。右にも左にもいくつも火の玉があらわれ、タンダをかこんでまわりはじめた。
「炎、炎、焼きつくすものよ、おどるもの……。」
となえるというより、うたっているような呪文が、草地にひびきわたった。声のするほうをみると、トロガイが立っていた。半眼でタンダをみつめながら、両手をこすりあわせている。
タンダは身をよじって、炎からのがれようともがいていた。炎が光の縄になっておそいかかった瞬間、まるで、なにかにはじかれたような勢いでタンダは宙にはねあがった。そして、あっという間に片手で頭上の木の枝にとびつき、山のなかへと消えてしまった。
草地に膝をついたまま、バルサは、全身汗でずぶぬれになってあえいでいた。
炎は、いつの間にか消えさっていた。バルサは知らなかったが、あれは本物の炎ではなく、呪術で〈心の魂〉にだけみせた、幻の炎だったのである。
「……トロガイ師、」
バルサは額の汗をぬぐって、立ちあがった。
「あれは、……なにが、いったい……。」
トロガイも、汗まみれだった。
「とにかく、家のなかへはいれ。そこの人も。わしは、家の四方に結界をつくってくる。でないと、あれは、また、やってくる。」
ユグノは、ぼうぜんとたたずんでいたが、バルサは、槍をひろって、ユグノの肩をおし、家のなかにはいっていった。
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4 〈花〉の息子
ユグノが囲炉裏の火をおこしているあいだに、トロガイがもどってきた。
「……バルサ、あれは、おまえにおそいかかったのかい?」
トロガイにきかれて、バルサは首をふった。
「いや。最初は、このユグノにおそいかかったんです。ユグノをたすけようとしたら、わたしにおそいかかってきた。――あれは、タンダでした。」
トロガイは炉ばたにすわって、大きなため息をついた。バルサは、さらにいいつのった。
「タンダの姿をしていた。でも、あれは、人じゃない。まったく獣のような気配だったし、身のこなしも、タンダができる動きじゃなかった。それに、すさまじい力で、ためらいもなく、わたしを殺そうとしていた。……みてください。」
バルサは、衣の襟をといて、左肩をはだけてみせた。左肩が紫色にはれあがっていた。
「わたしは、呼吸法をつかって衝撃をはねかえす技を知っています。けられるとかくごしてうけたから、これですんでいますが、もし、ふいをつかれて、まともにくらっていたら、骨がみじんにくだけていたでしょう。――そういう蹴りでした。」
トロガイは、うなずいた。
「そうだろう。――おまえが相手じゃなかったら、殺されていただろ。」
口をひらきかけたバルサを、トロガイは制した。
「タンダになにがおきたのかは、すぐに話してやる。だが、そのまえに、そこの人を紹介してくれんかね。」
バルサは、五日前の夜明けにユグノをたすけたこと、彼が、リー・トゥ・ルエン〈木霊の想い人〉であることを説明した。若くみえても五十二歳であることも。そのあいだじゅう、トロガイがユグノをじっとみているので、ユグノは、居心地わるそうにもじもじしていた。
バルサが語りおえても、トロガイは、しばらく身じろぎもせずにユグノをみつめていた。
やがて、トロガイは、つぶやいた。
「……なんてこった。ノルガイ師がいっていたとおり、運命の糸ってものがあるんだのぅ。」
それから、気をとりなおそうとするように頭をひとつふって、ここ数日の事件をふたりに説明しはじめた。
夢からさめない、タンダの姪やチャグムのこと。むかしみたふしぎな夢のことと、〈花〉の世界でうんだ息子のこと。〈花の夜〉のことも。この午後ノシルの家でみたことまですべてを……。
「だから、バルサ、おまえが闘った相手は、タンダであって、タンダではない。あれは ――あのお人好しの大ばか者は、きっと〈花〉に魂をとられてしまったんだよ。」
そして、トロガイは、バルサからユグノへ視線をうつした。
「だが、なんで、タンダはあんたをおそったんだろうね? あんたには、〈花〉におそわれる心あたりがあるかい。」
バルサがユグノをみると、ユグノはちょっと青ざめた顔でトロガイをみていた。そして、口のなかでぶつぶつとつぶやいた。
「はあ……、まあ、その、ええ。――でも、まさか、ほんとうに、〈花守り〉が追いかけてくるなんて……。」
「口のなかでもごもごいってないで、ちゃんと説明しとくれ!」
トロガイがどなると、ユグノはびくっと首をすくめて、不快そうにトロガイをみた。
「どならないでくださいよ。なんでどなるんですか! わたしだって、よくわからないんですよ、なにがおきているのか。」
それから、顔をしかめて考えこんだ。
「……まず、話を整理させてくださいよ。ええと、つまり、あなたがトムカなんですね?」
「そうだよ。もう五十年以上もわすれてた名前だけどね。」
ユグノはくちびるをなめた。
「つまり、ええと、あなたが、わたしを、あの世界でうんだ母親……?」
「そうらしいね。でもね、それは、〈花〉の種をやどして死んだ男の魂をさらして、新しい魂にした者だっていう意味で、べつに、あんたの母親だっていう気は全然しないがね。」
ユグノが鼻にしわをよせた。
「そりゃ、こっちだって、そんな気は全然しませんよ。……父さんがいっていたトムカとは、ずいぶん雰囲気がちがうし。」
トロガイが顔をしかめた。
「父さん?」
「ええ。あなたがいっていた〈花番〉ですよ。」
ユグノは、ため息をついた。
「わたしはね、うまれてからずっと、たったひとつの夢しかみたことがなかったんです。うす青い夕暮れの庭とそだっていく〈花〉。背の高い父……。父は、わたしがうまれた事情と、〈花〉のために、わたしがやるべきことを教えてくれました。あの庭できいていたときは、それが、ごくあたりまえのことに思えたもんです。
他人は、毎晩ちがう夢をみるんだと知ったときは、おどろいて、どうしてわたしだけ、と思ったけれど、やはり、わたしはうまれつき、ふつうの人とはちがう運命をせおっていたんですね。」
バルサが、しびれをきらせて、身をのりだした。
「水をさしてわるいけどね。夢だのなんだのより、いったいなぜ、タンダが化け物になって、おまえさんをおそわなければいけないのか、要点だけを早く教えてくれないか!」
ユグノは、心ぼそげにまばたきした。
「え? ええと、それが、いまひとつよくわからないんですけどね。」
バルサは、いらだって、ユグノの肩をつかむと、かるくゆすった。
「あんた、いま、〈花〉のためにやるべきことを教えられたっていったね。それはいったい、なんなんだい? その役目を果たしていないから〈花〉におそわれてるんじゃないのかい?」
ユグノは、ぶるぶると首をふった。
「いいえぇ!〈花〉のためにしてくれっていわれたことは、ちゃんと果たしましたよ。」
トロガイが、わってはいった。
「とにかく、その役目っていうのは、なんなんだい?」
ユグノは、ちらっとバルサをみ、それからトロガイをみた。
「……わたしは、さびしい人、いまの人生をむなしいと思っている人に、夢をあたえただけですよ。
中庭の〈花〉がそだって、つぼみがほころびはじめたとき父がいったんです。さあ、時がきたよ。〈花〉を受粉しみのらせてくれる〈夢〉たちをさそう、甘い風におなり……って。」
バルサが、はっとしてユグノの肩においた手に力をこめた。
「あの歌……あの歌だね? 一ノ妃にうたったっていう、あの歌……。」
バルサの声に苦いものがまじった。
「あれをきいたときの気分は、いまでもわすれられないよ。永遠にうしなってしまったもの、望んでも得られないものを、たまらなく恋しく思わせる、あの歌。一度きいたら、耳の奥に残って、なかなか消えさらない歌……。」
バルサは、じっとユグノをみつめた。
「あんたは、あの歌で、よわい人の心を、夢へとさそったんだね。」
重い沈黙が流れた。ユグノは、しばらく顔をくもらせてバルサをみていたが、やがて、小鳥を思わせるしぐさで、ひょいっと首をかしげた。
「バルサさん、怒っているんですか?」
バルサはこたえなかった。ユグノは、まばたきをして、不満そうにつぶやいた。
「なんで怒るのかなぁ? わたしは、ほかの歌い手にはけっしてできない、最高の贈り物を人にあたえたのに。そうでしょう? 望んでも、なかなかみられませんよ、目ざめたくなくなるほど、いい夢なんて。」
バルサは、大きく息を吸って怒りをおさえようとつとめた。
「……どんなにいい夢だろうと、命とひきかえじゃ、ありがたくない人もいるとは、思わなかったのかい?」
「え? 命とひきかえ……? なんです、そりゃ。――ああ、そうか。タンダとかって人は、あの人たちがもう目ざめないんじゃないかって、心配してたんでしたっけね。」
ユグノは顔をしかめた。
「そんなに心配しなくてもいいんじゃないかなぁ。だって、種をみのらせるために、あの人たちをよんだんですよ? 種がみのったら、もう用はないわけですもん。留めておいて、殺す必要なんかないでしょう。役目を終えたら帰ってくるんじゃないんですか?」
トロガイが、なにかを思いだそうとするように目をほそめた。
「そう、そうだね。むかし、〈花番〉に、夢たちは帰ってこられるのかとたずねたとき、彼は、〈夢〉たちが、帰りたいと望むならとこたえた。
あの心地よい夢からさめたいと思える人はなかなかいないだろうけれど、それでも、あの〈花〉は、わしがうけた感じでは、人の魂をとりこんで殺してしまう|食虫植物《しょくちゅうしょくぶつ》のような性質ではなかったと思うんだよ。
受粉のために虫をさそうが、虫にはちゃんと甘い蜜をあたえ、たがいの生がまじわるのは、ほんの一瞬だけ。そういう感じだったんだ。だから、わしは正直なところ、タンダほど心配はしていなかったんだよ。いずれ、実をむすんだら――〈花番〉のいう〈時〉がおとずれたら、夢たちは帰ってくるのではないか、という気がしていたんだ。」
トロガイは、腕をさすりながら、ユグノをみた。
「だけど、いまは、そうは思えなくなった。〈花〉が、すなおにみんなを帰すつもりなら、魂をよびにきたタンダを、〈花守り〉にする必要なんかなかったはずだから。――なんだろうね。なにか、歯車がずれてる。なにか、変なことになってる……。」
語尾をとぎらせ、トロガイは額を指でおさえた。
「〈花〉は、いつ種をつけるんだろうね。いつ、〈夢〉たちは役目を終えるんだろう。その時さえわかれば、〈魂呼ばい〉でなにかできるかもしれないんだが……。」
ひとり言のようにつぶやいて、トロガイはユグノをみた。
「あんた、物心ついてから、ずっと、〈花〉の成長をみまもってきたんだろ? いつ受粉を終えて種をつけるか、知らないのかい?」
ユグノは、ぽりぽりとあごをかいた。
「はあ、それが……知らないんですよ、残念なことに。」
バルサは、のんびりとしたその口調に、むかっとしてユグノにむきなおった。
「あんたね、あんたがあの人たちを〈花〉へさそったんだろう!? 彼らにたいして、責任を感じてないのかい?」
ユグノは、けげんそうな顔でバルサをみた。
「責任? なんでです? わたしはたしかに、あの人たちの夢をかきたてる歌をうたったけれど、たのしい夢からさめたくないのは、あの人たちの意思で、べつにわたしが強制してるわけじゃないでしょ? なんで、わたしが責任を感じなきゃならないんです?」
バルサは口をひらきかけ……なにもいわずに口をとじた。この男と自分の考え方は、根底からずれているのだ、と思ったからだ。怒る気力さえうせてしまった。
ユグノは不満げに顔をしかめた。
「ほんとにね、あの人たちはいいですよ。いい夢をみてるんだから。わたしなんか、こないだ〈花〉のなかで、ひどい悪夢をみたんだ。そのうえ、〈花守り〉まで追いかけてくるなんて、わたしこそ被害者ですよ。」
トロガイが眉をあげた。
「あのなかで悪夢をみたって?」
「ええ。わたしは、これまで毎晩、夢であそこへいっていたっていったでしょう? 毎晩、すこしずつ〈花〉が成長していくのをみまもって、ずっといい夢だったんですよ。でもね、最近、あの夢がだんだん悪夢にかわってしまって――わたしは、あの夢へもどるのがこわくなってしまったんですよ。
いつからだっただろう。……そう、最初の夢がきて、受粉したころからだったかもしれないな。〈花番〉が父さんじゃなくなりはじめたんですよ。変な言い方ですけどね、まるで……その……、」
ユグノは頬をあからめた。
「なんだね、女にかわったのかい?」
トロガイのずけずけとした言い方に、ユグノは不快そうに顔をしかめた。
「そういう意味の女性じゃないですよ。――なぜか知らないけど、いつの間にか、〈花番〉が、母にかわってしまったんです。」
ユグノは、くちびるをとがらせた。
「最初は、べつにいやじゃなかった。わたしの母は、もう十年もまえに亡くなっていましたから、なつかしくてね、うれしかったですよ、もう一度あえて。」
ユグノは、すっと息を吸った。
「だけどね、そのうちに、だんだんつらくなってきた。わたしは、そんなつもりはないのに、夢のなかでの自分の年齢が、どんどん若がえっていくんです。十二歳ぐらいの子どもになってしまったとき、わたしは、心底おそろしくなったんですよ。」
ユグノは、トロガイをみつめた。
「なんででしょうね? 夢から帰っていかずに、ここでずっとわたしの腕のなかにおいでっていうんですよ、母さんが。――小さく、無力になれ、そのまま成長するなって、あの世界がおおいかぶさってくるような気がしたんですよ。
あの世界は、もとは、そんな世界じゃなかった。芽吹き、成長し、花を咲かせ、やがては種をむすんで散っていく。そういうふうにうごいていた世界だった。
それなのに、あるときから、小さく、小さく、ちぢみはじめたんです。――まるで、赤子を抱きしめて、どこへもいかせまいとしておしつぶしてしまう、くるった母のように。
わたしは、心底おそろしくなった。それで、母の手をふりきって、逃げてきたんです。」
「ああ、あのときか。あんたが、ひどくうなされてた……。」
バルサがつぶやくと、ユグノはうなずいた。
「そう。バルサさんにゆすりおこしてもらわなかったら、逃げられなかったかもしれない。すごくこわかったんで、あれからは、夢であそこへいかないように、ひげそり|小刀《こがたな》を額につけてねむってるんですよ。子どものころ、母さんが教えてくれたおまじないでね。――わたしの本当の母は、あんな、子どもを、おしつぶすような人じゃなかった。」
ユグノが口をとじると、三人はだまりこんだ。
「つまり……、」
トロガイが口をひらいた。
「そのときあの世界から逃げだしてしまったから、いつ受粉が終わって、種ができるかも、わからないというわけだ。」
「はあ。」
ユグノはうなずいた。トロガイが大きなため息をついた。
「なんで、そんな変化がおきてしまったのかはわからないけれど、とにかく、その〈花〉のなかにいるおっかさんは、まだ、あんたをあきらめてはいないようだね。――タンダのやつをとりこんで、追わせてるってことは。」
ユグノは、ぶるっとふるえた。
「ええ。まさか、ほんとうにこちらの世界まで追いかけてくるなんて、思ってもいなかった。母の胸から逃げだしたとき、おそろしい声でどなっていたんですよ、これで逃げられたと思うな、〈花守り〉が、かならずおまえを追っていくぞ! おまえののどをつぶして、うたえなくしてやるからな! って。」
トロガイの目が、ふっとほそくなった。
「おまえののどをつぶし、うたえなくしてやる? ほんとうに、そういったのかい?」
「ええ。耳にこびりついてますよ。」
トロガイは、あごをさすった。
「それが、なにか?」
「……ふん。まあ、とにかく、〈花〉は、ヒナの巣立ちをみとめない、おそろしいおっかさんになってしまったってわけだ。
だれかの夢に、〈花〉が支配されてしまったのかもしれないね。だれか、おおぜいを道連れに、死にたがっているようなやつの、ね。」
トロガイは、そういってから自分の頭をかきむしった。
「ああ、くそっ! だれが、〈花〉に、なにをしたのかは知らんが、とにかく、タンダのばかが、そいつの策略にひっかかっちまったことだけはたしかなようだね。まったく、あのお人好しの大ばか者が!」
バルサが低い声でいった。
「トロガイ師、なにか、タンダをすくう方法はないんですか? タンダが、あちらの世界にはいったように、トロガイ師もはいっていったら……?」
トロガイは、顔をぎゅうっとしかめた。
「だからタンダは、大ばかだっていったんだ。そりゃ、はいるのはかんたんだよ。事実、ノルガイ師だってはいってきて、わしをこちらへ目ざめさせてくれた。
だけどね、あのときは、〈花〉はこいつを送りだすために、わしをこちらへ帰す必要があったんだよ。いまは、あのときとは事情がまったくちがう。わしがたったひとりで〈花〉のなかへはいっていって、その世界が|掌中《しょうちゅう》の|珠《たま》のように抱きしめている魂たちを、つれてかえれるわけがないだろう? 小さな鳥が一羽で大群を相手にするようなもんだよ。」
「じゃあ、わたしをつれていったら……?」
トロガイは、素人はしょうがない、という顔で首をふった。
「おまえは、こっちでなら武術の達人だろうが、夢のなかで、夢をあやつっている者と闘って勝てるかね?」
トロガイは顔をゆがめて、また、大きなため息をついた。
「タンダのやつ。ちゃんと、教えておいたのに、どんなに危険か……。」
バルサが、手で、そっと血の気のうせた顔をなでた。
「……それでも、いかずにはいられなかったんでしょう。あれは、そういうやつだから。」
トロガイとバルサの目があった。トロガイが、しずかに、さとすような口調でいった。
「バルサ、かなしいことだが、タンダはもう、〈花〉に魂をとられてしまっている。ユグノをつかまえることしか考えていない〈花守り〉とやらになってしまったんだよ。その使命を果たすまで、ユグノをおそいつづけるだろう。
わしは、草地とこの家の周囲に、タンダが残した呪具の残骸をつかって結界を張ってきた。だが、痛みも死もおそれないやつを相手に、どれくらいもつか、わしにもわからん。
生き物はすべて火をおそれるから、炎の呪術をつかったが、あれは幻の炎だ。じっさいには身体をきずつけることができないのだとわかってしまえば、役にはたたん。ただの目くらましにすぎんのだから。
だから、な、さっきおまえは、短槍をつかわずに闘っておったが、今度タンダとむきあうときは、短槍をつかうんだぞ。」
バルサは、しばらくトロガイをみつめていたが、やがて、くちびるのはしをゆがめた。
「……冗談じゃない。あいつを殺すくらいなら、あいつに、この首くれてやるよ。」
とん、とん、と首のうしろをたたいてみせて、バルサは言葉をつづけた。
「あいつを止めるために全力をつくす。だけど、あいつを殺さねばならない、ぎりぎりの瞬間がきたら、わたしはあいつに殺されるほうをえらぶ。――あとの始末は勝手につけてくれ。」
いいすてると、バルサは立ちあがった。
「……草地の外にでるなよ。」
トロガイが、バルサの背中に声をかけた。
バルサがでていってしまうと、ユグノは、トロガイにささやいた。
「バルサさんと、そのタンダさんって、どういう関係なんです?」
「……タンダはね、もの好きなやつで、おさないときから、ずっとバルサに惚れてたんだ。バルサのほうが、どう思ってるのかは知らん。」
「え? だっていま、タンダを殺すくらいなら、自分のほうが死ぬって。」
そういってユグノは、ちらっとわらった。
「よっぽど惚れてなきゃ、あんなことはいわないでしょ?」
トロガイは、顔をしかめた。
「おまえさんは、そういう下世話な話が好きそうだねぇ。」
「そりゃ、そういう話が好きでなけりゃ、恋の歌なんてうたえませんよ。」
トロガイは、ふしぎな生き物でもみるように、しみじみとユグノをみた。
「おまえさんは、つくづく、わしが想像してた息子とは、ちがうね。」
ユグノは、にやにやわらっている。
「そんなもんですって。長年旅をつづけてきたけど、母親の希望どおりにそだった息子なんて、みたことがありませんよ。」
トロガイは、ふふっとわらった。そして、バルサがでていったほうへ顔をむけた。
「……バルサは、あんたに自分のことを話したかい?」
「いいえ。カンバル人で、用心棒をしてるとだけ。」
「そうかい。これから、バルサに命をあずけなきゃならないことがおきるかもしれないから、すこしだけ、バルサのことを話しておこうか。
バルサはひどい人生を歩んできた。親の仇を討つために、十歳くらいのころから、ひたすら命がけの修行をつづけていたのに、おとなになったときには、親の仇は死んでしまっていた。目的をなくしたうえに、バルサをそだてた男は、バルサを生きのびさせるために、かつての友を八人も殺し、その悲惨な人生の果てに、病をえて死んでしまった。」
トロガイは、ため息をついた。
「だから、バルサは、心のふかいところで、自分の人生を人からのもらい物のように思っているところがある。それも、他人の血であがなわれた、もらい物だとね。
そして、恋だのなんだのは別にして、バルサがこの世でいちばんたいせつに思っている者は、タンダだ。だから、口先だけじゃなく、自分の命をまもるためにタンダを殺すことは、絶対にしないだろうね。それくらいなら、ほんとうにタンダに殺されてやるだろうよ。」
ユグノは、心ぼそげな顔をした。
「え……ということは、いよいよとなったら、わたしなんか、みすてるってことですか。」
トロガイは、にやっと人のわるい笑みをうかべた。
「さてね。――とにかく、バルサにたよるんじゃなく、自分の命は自分でまもる気でいなってことさ。」
うしろ手に戸をしめ、草地に一歩足をふみだして、バルサはあたりをみまわした。南側の木立のなかに、かすかに、なにかがひそんでいる気配があった。バルサは、その気配に対面するかたちで、草地に腰をおろした。日がかたむき、西日が木々をすかして長い影を草地におとしている。
(あいつ、うまく肩をはめられたかな。)
おさないころ、養父のジグロと武術の稽古をしたのも、この草地だった。受け身をとりそこなって、肩をはずしたこともあった。すさまじい激痛をこらえて、涙をぼろぼろ流し、ふるえながら、自分で肩関節を入れていると、わきに立ってみているタンダの目からも、涙が流れていたものだ。
タンダは、よく泣く子だった。気がよわいのではない。人だけでなく、鳥にも、獣にも、虫にさえ、思い入れをしてしまっては、泣くのだ。バルサがしごかれるのをみているのがつらいなら、家にはいっていればいいものを、いつも、じっと立ってみつめていた。
(……かならず、もとのおまえに、もどしてやる。)
バルサは、胸のなかでタンダに語りかけた。
もうすぐ夜がやってくる。初夏とはいえ、山の夜は冷えこむ。たとえ寒さを感じなくとも、タンダの身体はよわっていくだろう。それに、あんな動きをしたら、どれほど身体にむりがくるか、バルサにはよくわかっていた。痛みは身体の限界を知らせる警報だ。これ以上はむりだぞ、と知らせてくれる感覚なのだ。痛みを感じないタンダは、自分の身体をぼろぼろにしながら、うごきつづけ……やがては、限界をこえる。
(いっこくも早く、なにか手をうたなければ……。)
用心棒という仕事は、ただ腕がたつだけではなりたたない。人をまもるというのは、未来におこるかもしれぬことを予測してこそ、できる仕事なのだ。味方になにができるか、敵になにができるか、それをしっかりつかんで作戦をたてる。――十数年の歳月のなかで、バルサが学んできたのは、そうした知恵だった。
ふと、人の気配を感じて、バルサはわれにかえった。日はとうに暮れおち、草地は青い影にしずんでいた。
(三人……四人。)
心のなかでつぶやいて、バルサは短槍をもって立ちあがった。しばらくすると、草をふみわけて、明りをもった男たちが四人、草地へ姿をあらわした。そのうち三人の顔にはみおぼえがあった。タンダのふたりの兄と弟だ。とすると、あとのひとりは妹の夫なのかもしれない。
男たちは、緊張した面持ちでバルサをみた。長兄のノシルが一歩まえへでた。
「あんた、バルサさん、だったか。……タンダにあいにきたんだが、家にいるかね。」
「ノシルさん、でしたね。あいにく、いま、タンダは家にいません。」
ノシルの顔つきがけわしくなった。ノシルが口をひらきかけたとき、家の戸がひかれて、なかからトロガイがでてきた。男たちの緊張が、さっとたかまった。
「こんばんは、ノシルさん。」
トロガイがバルサの横にならんだ。ノシルはくちびるをなめて、口をひらいた。
「タンダにあいにきたんだ。タンダは、どこだね。」
「じつは、ちょっとふくざつな事情があってね。あんたたちが心配するのは当然だが、こんなところで、立って話していることはないだろ。家のなかへどうぞ。お茶でも飲みながら、話しましょうや。」
ノシルは首をふった。
「ゆっくり話をするつもりはねえし、なにを入れられるかわからん、お茶を飲む気もねえ。」
|次兄《じけい》が、あわてて、ノシルの腕をつかんだ。
「そりゃ、いいすぎだぞ、兄貴。――まだ、事情もわからんうちに、そんなけんか腰になったら、だめだ。」
ノシルは、弟の腕をふりはらった。
「ばかやろう! うちのやつは、化け物が家からとびだすのをみたんだぞ! それも、タンダの姿をした、化け物だったと! 隣村にも、カヤとおなじように、ねむりつづけている娘がいるっていうし、いったい、なにがおこってるのか、はっきりさせねえで、どうする! え、トロガイさんよ。あんた、えらい呪術師のはずなのに、なんで、おれの娘をたすけてくれなかったんだ? あっちこっちの村で、噂になってるんだぞ。これは、たちのわるい呪術師が、人の魂を狩りあつめてるんじゃなかろうかってな。」
トロガイは、一歩ノシルにちかづき、おだやかな口調でいった。
「あんた、ほんとうに、わしが、そんなことをしてると思ってるのかね? わしと、あんたの家族のつきあいは、そうふかいもんじゃないが、それでも、この二十年のあいだ、わしは、タンダをそだててきたんだよ。タンダとわしは、長い年月、あんたたち村人の病をなおしてきた。そのたびに、あんたたちは礼をいってくれたが、その気持ちは、そんな不確かな人の噂で、吹きとぶようなものだったのかい。」
ノシルの顔に、ゆっくりと血がのぼった。
「……だが、おれの娘には、あんた、なにもしてくれなかったじゃないか。ちょっと、みただけで……。」
トロガイは、ため息をついた。
「じゃあ、正直にいおう。ここには身内しかいないようだから、あんたたちの胸にしまっておいておくれ。カヤはね、ねむっているというより、魂がぬけてしまっているんだよ。」
男たちが、ざわめいた。
「タンダがいったとおり、だれかが呪って魂をぬいたんじゃない。タンダは、あんたを気づかっていわなかったが、あの子は魔物に魂をぬかれてしまったんだよ。わしが、なにもしなかったのは、へたに手をだすと、自分まで魔物にひかれてしまう危険があったからだ。」
ノシルの顔が、こわばった。
「じゃあ、タンダは……。」
「そう。あんたもよく知っているとおりタンダはやさしい男だ。わしの忠告を無視して、カヤをたすけようと、カヤの魂を追っていったんだよ。それで、魔物につかまってしまった。
あんたの女房がみたのは、タンダの身体をのっとって、こちらへでてきた魔物なのさ。」
男たちは、あまりのことに、こおりついたように、立ちつくしていた。
「じゃあ、いったいどうしたら……。」
ノシルが、うなるようにいった。トロガイが肩をすくめた。
「なんとかなるか、ならないか……。とにかく、わしらは、いま必死にタンダとカヤをたすけるすべを、考えているところだ。
信じようと信じまいと、あんたの勝手だが、わしらは全力をつくして、あのふたりをたすけようとしているんだよ。」
それまで、だまっていたバルサが、ぽつっといった。
「……そして、信じようと信じまいと、このあたりで、それができるとしたら、トロガイ師以外にいないことは、あんたらもわかっているだろう?」
タンダの次兄が、ノシルのわきに立った。
「ひどい言い方をして、もうしわけない。――だけど、おれたちは、カヤとタンダが心配で、たまらなかったんだ。村は、もう、すごい噂の渦で……。」
トロガイは、鼻をならした。
「あんたらは、呪術師の親族だってことで、白い目でみられてるんだろうが、そりゃあ、あんたたちで、なんとかしてもらうしかないことだ。村のことは村のこと。わしらの相手は、魔物だからな。」
タンダの兄たちは、顔をみあわせた。やがて、彼らは口ぐちに、トロガイにふたりをたすけてくれるようたのむと、こわばった暗い表情で山をおりていった。
男たちの気配が消えると、バルサは、トロガイをみた。
「さすがは、トロガイ師。どう説明するのかと思ったけれど、うまいもんだ。……それにしても、村で生きるってのも、むずかしそうだね。」
トロガイは、かすかにわらった。
「そのかわり、なにかのときにはささえてくれる人の輪がある。二十歳まで、わしも村人だったから、それが、いかに心づよいもんかよく知ってる。
わしらのような、はずれ者は、気楽なかわりに、ささえてくれる手もない。なにかおきれば、こうしてうたがわれ、にくまれるのさ。」
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第三章 〈花〉への道
1 記録係のオト
シュガは、〈星ノ宮〉の暗い廊下を、宮の北のはずれにある〈|星図ノ蔵《せいずのくら》〉へむかって歩いていた。トロガイに、〈天道〉と呪術をかさねあわせてみないかとすすめられたときには、この緊急時になにをゆうちょうな、と腹がたった。だが、すこし冷静になって、その言葉を思いかえしてみたとき、ふと、ひとりの男の顔がうかんできたのだ。
〈星ノ宮〉には、およそ三十人の星読博士がいる。四年に一度の〈星ノ試し〉をうけに、国じゅうから百人もの少年たちが集まってくるが、この試しにうかって〈見習い〉になれる少年は、毎回わずか十人ほどだ。その〈見習い〉の少年たちのなかで、修行をかさねて〈星読博士〉となれる者は、さらにすくない。〈星読博士〉になるには、学ぶのが早い者で十年。人によっては、三十年もかけて、ようやく〈星読博士〉になる者もいた。
シュガが思いうかべた男は、三十年かけて〈星読博士〉になったくちだった。小太りの目立たない男で、古い星図や天図の管理をする記録係をしている。あまり、人と話している姿をみないような内気な男だったが、シュガは、この男がときおりもらす話に、とても興味をひかれることがあった。彼もまた、真剣に話をきいてくれるシュガにだけは、自分の考えを話してみるのをたのしみにしているようだった。
大きくて重い〈星図ノ蔵〉の扉をあけると、冷え|冷《び》えとした空気のなかに、古い紙特有のにおいがただよってきた。紙が日にやけてしまわないよう、北側にほそながい窓が四つあいているだけなので、蔵のなかは、いつもうす暗かった。昼さがりのあわい光のなかで、何層もの棚と、天井まで整然と積みかさねられた巻き物がねむっていた。
「オト殿、おられますか。」
シュガの声が、かすかに蔵にこだました。と、右手の棚のわきから、人影があらわれた。
「おお、シュガ殿。」
記録係のオトは、手にもっていた巻き物を棚におさめると、衣の腰のあたりで両手をぬぐって、シュガのほうへ歩いてきた。
「いま、おいそがしいですか?」
「いやいや。なにか、おさがしですかな?」
シュガは、気配をさぐるように、蔵のなかをみわたした。
「蔵のなかには、われらのほかには、どなたかおられますか。」
オトの顔に、かすかに不安そうな色がうかんだ。
「ええ、〈見習い〉がふたり、掃除をしておりますが……。人にきかれてはこまる話なら、わたしの小部屋へいきましょう。」
オトのあとについて、シュガは、蔵の奥の小さな部屋にはいった。星図を置くための大きな机のほかは、茶道具がのった小さな棚があるだけの部屋で、きちんと、ちりひとつなくかたづけられているところは、オトの性格をよくしめしていた。
オトは、窓の外をのぞき、だれもいないのをたしかめてから、シュガに椅子をすすめた。シュガは、オトをみつめて口をひらいた。
「きょうは、あなたの研究の成果をおしえていただきたくて、まいりました。」
オトは、まばたきをした。
「え? いや、シュガ殿、わたしには、ろくな研究の成果などございませんが……。」
「このあいだ、オト殿は、長い歴史のなかであらわれる、ふしぎな一致について話しておられましたね。」
オトは、赤くなった。
「ああ。あれ。あれは、遊びのようなもので、とても研究成果といえるようなものでは……。」
シュガは、身をのりだして、声をひくめた。
「たしか、皇太子が水妖を退治されたときに、それに気づいたとおっしゃっておられましたね。このあいだは、くわしくお話をきくことができませんでしたが、いま、ある事情がありまして、どうしても、そのお話をくわしく知りたいのです。」
オトの顔に、おびえの色がうかんだ。
「いや、シュガ殿……。」
「オト殿、わたしを信じてください。帝の神話にかかわることゆえ、みだりに話すのをおそれておられるのでしょうが、けっしてオト殿をこまった立場におくようなまねはしません。」
オトは、しばらくまよっていたが、やがて、ぼそぼそと話しはじめた。
「あの夏至の日に、皇太子殿下が水妖を退治されたことを知りましたとき、ふと聖祖トルガル帝が、やはりおなじように水妖を退治されたという、二百年まえの夏至の星図や天図をみてみたくなりましてな。|古星図《こせいず》などをひっぱりだして、くらべてみたのです。
はじめのうちは、大干ばつをしめす〈|乾ノ相《かわきのそう》〉が一致するくらいで、ほかには、にているところはないようにみえたのですが、じっくりみていくうちに、いくつかのにている|相《そう》があるような気がしてきました。
そこで、あわてて、百年まえの夏至の図もしらべてみたのですが、これにも、わたしが気づいた相がある。ただ、まあ、おなじ夏至のことですし、百年という、きちんとした時の単位がありますのでな、にていて当然かと、そのときは思ったのです。」
話しつづけるにつれて、オトの目に、生き生きとした光がうかびはじめた。
「しかし、だんだんおもしろくなってきましてな。ひまをみつけては、十年ごと、八年ごと、というふうに年を決めたり、夏至や冬至というふうに日を決めたりして、星図や天図をくらべてみては、たのしむようになりました。
毎日の星図を一年、二年とかさねてくらべ、天の相のうごきをみるのは星読博士のつとめ。それにくらべれば、こんな、とびとびの年やら時やらを思いつきでくらべるのは、まあ遊びのようなものです。シュガ殿はこころよく話をきいてくださるから、お話ししたのですが、」
オトが、苦笑した。
「その遊びのなかから、ふしぎなものが、みえはじめたような気がしたのです。さきほどの相の類似は、百年ごとの夏至でしたが、すこしずつ、かたちもちがえば、時もちがう、さまざまな相の類似があるような気がして……。
まあ、にているものをみつけようとするから、そうみえるだけかもしれませんが。」
シュガには、目のまえのオトがみえていなかった。しびれるような、ふしぎな予感にとらわれていたからだ。自分が、なにかをみつけることになる、その糸口にであった、という予感だった。その糸口に、最初に気がついたオト自身は、それが〈天道〉をひっくりかえすほどの大発見につながるとは、まるで思っていなかったし、その思いつきを、そこまで発展させていくほどの力はもたなかった。――だが、シュガには、その力があったのである。
「シュガ殿?」
シュガのようすに気づいて、オトが顔をのぞきこんだ。シュガは、はっとわれにかえった。
「オト殿、今年も、そのような相の類似があるのですか?」
オトが、よくきいてくれた、というように、にやりとした。
「いや、じつは、このあいだシュガ殿に、この話をもらしたのはですな、まさに、そういう類似が今年もみえはじめているからなのですよ。――ちょっと、まってくださいよ。」
オトは立ちあがって、蔵にはいっていき、やがて、腕いっぱいに巻き物をかかえて帰ってきた。シュガは、おちそうになっている上のほうの巻き物を、二本とってやった。
「ああ、どうも。」
うわの空で礼をいい、オトは星図と天図とを机いっぱいにひろげると、説明をはじめた。オトの説明をひとつひとつ確認するうちに、シュガは、われをわすれてしまった。ふたりがわれにかえったのは、日が暮れおちて図が読めなくなってからだった。
シュガは、オトの手をとって、心からの感謝をつたえた。
「……オト殿。あなたは、遊びだなどといわれましたが、これは、もしかすると、とてつもない発見になるかもしれませんよ。」
オトは、てれくさそうにわらった。
「まさか、そんなおおげさな。星読みとしては、たしかに、じつにたのしい遊びではありますが、あまり期待しないほうがいい。それほどの成果には、きっとなりませんよ。」
オトのもとを辞して、自分の部屋にもどりながら、シュガはつよい興奮をおぼえていた。
〈天道〉しか知らないオトには、ただのおもしろい類似にしかみえないものが、トロガイからヤクーの知を学んでいるシュガには、まったく別のものとしてみえたからだ。
〈天道〉は、世界を、いまここにあるこの世界と、神の支配する天界、魔物の支配する魔界からなると考えている。だが、それらは独立してあるもので、ヤクーがいうように、目にみえないだけで、いま、ここでかさなっている異世界があるなどとは考えない。
しかし、トロガイがいうように、この世界に、さまざまな世界がかさなってあるのだとしたら。そして、皇太子チャグムが異世界の精霊の卵をやどし、この世にうみだしたように、いつもは遠くはなれている異世界が、近ぢかとふれあう瞬間があるのだとしたら……。
今日オトがみせてくれた相の類似は、まるで、ふたつの海流がであう|潮目《しおめ》のように、シュガにはみえた。オトは、八年に一度の類似もあれば、百年に一度の類似もあるから、これは意味があるようにみえるだけの、ただの偶然の一致なのだろう、とわらっていたが、であう海流が二本だけでなく、たくさんあるなら、そういうちがいがでて当然だ。
シュガの心のなかには、壮大な図がうかんでいた。星がめぐり、ちかづいたりはなれたりするように、さまざまな世界がふれあい、また、はなれていく図が。
一年まえのナユグとサグの接近は、百年ごとに、はぼ完全におなじ相があらわれていて、一目瞭然だった。だが、オトが、今年とにている、としめしてくれた年の相は、たしかに、にてはいるが、すべておなじ、というわけではなかった。
これらの年は、人の夢をさそうという〈花〉の開花に、なにかかかわりがあるのだろうか。それを知るには、あまりに情報がすくなすぎる。いまはじめて気づいたこの可能性を立証するには、試行錯誤をくりかえす長い時間がいるだろう。それを思うと、わきあがっていた気持ちがすっとさめた。それでも胸の底に、ふしぎな興奮がしっかりと根をはっていた。このわくわくする好奇心こそが、長い試行錯誤をのりきっていく力になるにちがいない。
トロガイは正しい――と、シュガは思った。すぐに役だたないものが、むだなものとはかぎらない。むしろ、いつ役にたつかわからないものを追いつづけ、考えつづけるという、人の、このふしぎな衝動こそ、いつか新しいものをみつける力になるのだろう。
(……わたしにとっては、これこそが夢だな。)
そんな思いがうかび、ひとりほほえみながら、シュガは暗い廊下を帰っていった。
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2 チャグムとタンダ
タンダは、おのれの身体を夢みることで、ゆっくりと身体の感覚をつくりあげていった。〈花番〉が、最後の呪文をとなえたとき、とっさに自分の夢をまもる呪文をかけられたから、こうして魂をもちつづけていられるが、そうでなかったら、いまごろは、魂も〈花〉のものになっていただろう。
それでも、〈花〉に身体をのっとられたとき、自分の身体にある〈生命〉と〈魂〉をむすんでいた糸がたちきられてしまったので、もう身体へもどるすべはない。――タンダは、自分が罠にかけられたのだ、ということを、苦い思いでさとった。
最後の呪文がかかる直前、どこかから吹いてきた風が頬をなでたとき、タンダは、〈花番〉のうしろに、白い|女人《にょにん》の面影をみた。その、ほんの一瞬に、稲妻がつらぬくように、その女人の想いがつたわってきたのだ。
永遠に夢にまどろみ、目ざめたくないという、つよい想い。――そして、その裏側にある、ねっとりとした憎しみ……。ほかの夢を道連れにして、永遠の夢にとけてしまいたい。そうすることで、だれかに、自分とおなじ悲しみを味わわせてやりたいという想い……。
タンダは、ため息をついた。
(きっと、あの女人が〈花〉に受粉をした人なんだろう。そして、あの女人の魂が抱いていた、つよい想いが、〈花〉を支配しているんだ。)
だから、〈花番〉は、あの女人の想いをうけてタンダに罠をかけた。なにをしたいのかわからないが、むこうの世界にあるタンダの身体をつかうために。
(……うつくしい色や、甘い蜜、あの手この手で虫をだますのは、花に生まれつきそなわった性質だものな。まどわされたおれは、ほんとうにお人好しの大ばか者だ。……だが、)
タンダは、思った。
(小さな虫けらにも、やれることはあるさ。)
最後の呪文で〈魂〉をまもったタンダは、〈花〉のなかにいながら、〈花〉の夢にとらわれていない、ただひとつの魂だった。タンダは立ちあがり、ほの明るいもやをみあげた。
|花房《はなぶさ》ひとつひとつに夢がねむっているのだろう。いっきに、あの夢たちをおこすことができれば、それがいちばんよいのだが、そんなことをすれば〈花番〉に気づかれてしまう。
ここは〈花〉の世界だ。闘うことになれば、たったひとりのタンダがかなうわけがない。
(とにかく、まず、カヤをさがそう。)
カヤならば、きっと、タンダの言葉を信じて目ざめてくれるだろう。
タンダは鳥に姿をかえると、ひとつはばたいて舞いあがった。カヤをさがして花のなかを飛ぶうちに、なんともなつかしい夢をみつけた。――というより、その人が、なんとタンダを夢にみていたので、すうっとひきよせられ、吸いこまれてしまったのだ。
気がつくと、タンダは自分の家の炉端にいた。とはいっても、それは、いまの自分の家とは、なにか微妙にちがっていた。タンダがみなれている家のなかは、こんなに明るくはないし、こんなにひろくもない。ずいぶん前に、ひっくりかえして割ってしまった|薬酒《やくしゅ》の瓶が、むかしどおりに棚の下に置いてある。
それに、季節が初夏ではなかった。タンダは、自分が秋にしかとれぬキノコ、カンクイを手にもっているのに気づいた。囲炉裏のむこう側には、バルサがすわり、トロガイが行儀わるく横になって火にあたっている。そして、自分が話しかけている相手は……、
「……チャグム!」
タンダがさけぶと、チャグムは、びっくりしたような目で、タンダをみあげた。
「え、なに?」
タンダは、カンクイをほうりだして、チャグムの肩をつかんだ。
「なんてことだ。おまえも、とらわれちまってたのか――」
チャグムは、顔をしかめた。
「とらわれるって? ……どうしちゃったの、タンダ。なにいってるの?」
タンダは、チャグムが夢みていた風景をもう一度みまわし、胸をつかれた。
チャグムが、〈花〉にとらわれるほど、もどりたかった〈時〉は、タンダの家でバルサやトロガイとすごした、あの秋だったのだ。
タンダはチャグムを抱きしめた。そして、ゆっくりと語りはじめた。
「チャグム。よくききなさい。――これは、夢なんだ。」
タンダは、順を追って、自分がここにきたわけと、〈花〉の罠について物語った。話すにつれて、チャグムの身体がこわばっていくのが、よくわかった。
話しおえたとき、チャグムは、タンダから身体をもぎはなし、首をふった。
「――いやだよ。あっちには、ぜったい帰りたくない。み、帝になんか、なりたくない!」
チャグムは、ぎらぎらする目で、タンダをみた。
「あの人生は〈花〉の罠よりずっとひどい。あの一生にとらわれるよりは、こっちの夢にとらわれていたほうが、ずっといい。」
タンダは、まっすぐにチャグムをみつめた。
「……そうかい? おまえは、ここで夢にしがみついてねむっている自分が、好きかい?」
かすかに、チャグムは、たじろいだ。
「ここでたのしい夢をみながら、死んでしまってもかまわないと、もし、ほんとうに思うなら、そうすればいい。」
タンダは、チャグムから手をはなした。
「でも、わずかでも、いまの夢にしがみつく自分をゆるせない気持ちがあるなら、帰ったほうがいいと、おれは思うよ。」
タンダは、ほの明るいもやをすかし、たくさんの夢をながめた。
「ここにいるのは自分を不幸だと思っている人たちだ。その不幸には、きっと|二通《ふたとお》りある。
ひとつは、|不治《ふち》の病にかかっているとか、とりかえしのつかないことをしてしまった、というような、行き止まりにきている人たち。
もうひとつは、別の人生もあるはずなのに、なぜ自分はこんなに不幸なのか、と、運命を呪っている人たち。」
タンダは、チャグムに目をもどした。
「別の人生って、なんだろうね、チャグム。ほかの人の場合はわからない。でも、おまえの場合、いまのすべてをすてる気なら、バルサもおれも、命をかけてでも、おまえを別の国へ逃がしてやるよ。……それは、あの一年まえのおまえでさえ、わかっていたはずだよ。
でも、おまえはあのとき、自分の人生をなんとか生きてみようと思ってたはずだ。帝になる人生という、おぞましく暗い闇にむかって、さみしい思いをかかえながらも、しっかり顔をあげていた。……それはね、おまえが、そういう自分の姿が好きだったからなんじゃないかな。」
タンダは、小さく吐息をついた。
「おれにはね、人がみんな、〈好きな自分〉の姿を心に大事にもっているような気がする。なかなかそのとおりにはなれないし、他人にはてれくさくていえないような姿だけどね。
すくなくとも、おれはその姿をもって生きてきた。そして、どうしたらいいかわからないわかれ道にやってきたら、どっちに歩んでいくほうが〈好きな自分〉かを考えるんだ。」
チャグムは、歯をくいしばっていた。タンダはチャグムの手をとった。
「最後の決断は、おまえのものだよ。――こういうと、ずるくきこえるかい?」
チャグムは、かすかに首をふった。
「ここは、なにもない夢のなかだ。夢だと気づいてしまっても、おまえがつくりあげたバルサとおれとトロガイ師の幻にかこまれて、死ぬまでねむっていたいと、思えるかい?」
チャグムは目をとじ、かすかにふるえていた。
「それとも、目ざめて、自分の人生を終わりまで生きるかい? ……それを望むなら、おれが、帰る道を教えてやるよ。」
大きく息を吸って、吐き、チャグムは、目をあけると、まっすぐにタンダをみつめた。
タンダは、ほほえんだ。
「よし。――みてごらん。ここに、白く光る糸があるのがみえるかい?」
チャグムの額からのびている糸を、タンダはしめした。チャグムは、びっくりしてその糸をみた。
「みえるよ。いままで、気がつかなかったけれど。」
「〈魂〉の世界ではね、気がつかないと、なにもみえない。これは、呪術の基本さ。」
タンダはわらった。
「この糸は、おまえの身体からのびている糸だよ。これをたどっていけば、かならずもとの身体へもどれる。――ただし、」
タンダは顔をひきしめて、チャグムの肩をつかんだ。
「ぜったいにふりかえってはいけない。いいかい、肝に銘じてくれよ。ぜったいに、ぜったいにふりかえるな。なにがみえても、なにがきこえてもだ。それは〈花〉がみせる幻なんだ。
いいね? 約束してくれよ。」
チャグムは、ぐっと口をむすんで、うなずいた。タンダは、ほっとして手をはなした。
「それから、むこうへ帰ったら師匠に伝言をたのむ。〈花〉を散らす風がむこうの世界から吹きこむのは、|三日後《みっかご》の|半月《はんげつ》の夜だとつたえておくれ。師匠が〈魂呼ばい〉の機会をねらっているなら、このときがきっと最後の機会だ。」
「わかった。三日後の半月の夜だね?」
「そうだ。チャグム、どうかそれを、シュガにつたえてくれ。シュガなら、ひそかにトロガイ師にあうことができる。頭のいい男だそうだから、きっと、うまくつたえてくれるだろう。」
チャグムは力づよくうなずいた。
「よかった。たったひとつでも師匠につたえられることがあって。これで、ふたつの世界がつながって、風が吹きこむ場所がわかれば、師匠も〈魂呼ばい〉をしやすいんだろうがなぁ。」
タンダの言葉に、チャグムが、ふっと眉をひそめた。
「タンダ、あのね。」
「うん?」
「ここへさそわれてくるとき、ふしぎな景色をみたような気がするんだ。タンダの炉端を夢みてたんだけど、ほら、夢ってときどき、ふいに場面がかわることがあるでしょう? あんなふうに、ちょっとのあいだなんだけど宮をみたような気がするんだ。」
「ああ、それは、きっとここだよ。さっきいっただろう?〈花〉が咲いているのは、|人気《ひとけ》のない宮の中庭なんだ。」
「ふうん……。だけど、それなら、ここは、すごく〈山ノ離宮〉ににているところなんだね。」
タンダは、どきりとしてチャグムをみた。
「え、ほんとうかい? そういえば、〈山ノ離宮〉ってのは、湖のほとりにたっているときいたことがあるが……。」
「うん。そっくりだよ。夏になると母上と避暑にいく宮だもの。まちがえるはずがないよ。それに、」
チャグムの顔に興奮の色がうかんだ。
「まえの学問係だったココルにきいたことがある。〈山ノ離宮〉は、父上の先代のヤムル帝が五十年ほどまえにたてた宮なんだけど、そこに宮をたてたのは、ちょうど|皇子《おうじ》を亡くしたばかりの|二ノ妃《にのきさき》が、ある夜、とてもうつくしくかなしい夢をみて、息子の供養に、その夢のとおりの宮をたててくれ、とヤムル帝にたのんだからなんだって。
歌声にひかれて青弓川をさかのぼっていくと、山にかこまれたうつくしい湖があって、そのほとりに宮がたっている夢だったと妃がいうので、いってみると、ほんとうに妃が夢にみたとおりの湖があった。それで、そのほとりに〈山ノ離宮〉をたてたんだってさ。」
タンダは、目を輝かせた。
「……まちがいない。トロガイ師が〈花〉にさそわれたとき、ほかにも、さそわれてきた魂たちがいて、〈花番〉にみそめられなかった魂たちは、宮にはいれずに帰っていったといっていた。きっとヤムル帝の|二ノ妃《にのきさき》は、そのうちのひとりだったんだろうね。トロガイ師に話したら、どんな顔をするだろうな。とにかく、チャグム、この話もかならずシュガにつたえておくれ。」
タンダは、肩の荷をほんのすこしおろせた気がして、ほっとため息をついた。
「それにしても、チャグム、おまえまでさそわれるとはなぁ。そんなに、うつくしい歌だったのか?」
チャグムは、はずかしそうにほほえんだ。
「うん。詩は、ただの恋歌なんだけど、そのしらべがね。なんていったらいいか、胸の奥にねむってるものを爪でかきおこすようなしらべなんだ。……最初にきいたときも胸がくるしくなったけど、そのときは冷静になれって自分にいいきかせて、気持ちに蓋ができた。
でもね、シュガからタンダたちの話をきいたら、いろいろ思いだして、どうしてもたえられなくなっちゃったんだ。」
チャグムは、シュガがトロガイにひそかにあっているという話をきいたこと。それをきいて、自分がどんな気持ちになったかを、いっしょうけんめい説明した。
「でね、そんな気持ちのままねむったら、なんか、女の人がよんでる、やさしい声がきこえて、そっちをみたら、なんだか、すごくなつかしい|灯《ともしび》の色みたいな光がみえて……気がついたら、ここにいたんだよ。」
タンダは、顔をしかめた。
「女の人の声?」
うなずいたチャグムの顔が、ふいにこわばり、みるみるうちに青ざめた。
「……そうか、あの声、一ノ妃さまの声だ。そういえば、一ノ妃さまも、ずっとまえから、ねむりつづけているんだった。」
タンダはぞっとした。〈花番〉のむこうにすけてみえた、女人の白い顔を思いだしたからだ。
「一ノ妃さまは、兄君を病で亡くしてから、ずっとかなしみがいえなくて、〈山ノ離宮〉にこもっておられたんだ。それが、六日まえから、急に目ざめなくなったって……。」
チャグムのつぶやきをききながら、タンダはおそろしい考えにとらわれていた。
一ノ妃が息子を亡くしたことで、|二ノ妃《にのきさき》の息子であるチャグムが皇太子になったのだ。
一ノ妃は、愛しい息子をうしなっただけではない。いつかは帝の母となって――この国の女性として最高の地位につけるはずだったのに、その輝かしい未来のすべてが、息子の死とともに、いきなりうばわれてしまった。……いまの彼女に残されているのは、|二ノ妃《にのきさき》の息子であるチャグムが、帝になっていく姿をみまもることだけだ。
タンダは、〈花番〉の裏にひそんでいた、あの女人の想いを思いだした。――永遠に夢にまどろみ、目ざめたくない、というつよい想い。そして、だれかに、自分とおなじかなしみを味わわせたいという、ねっとりとした憎しみ……。
タンダは青ざめた。
ふいに、花のかおりが、むっとするほどに濃厚になった。そのかおりにつつまれたとたん、チャグムの目が、とろんとなった。
(……たいへんだ。)
いままで、一ノ妃は、ずっときき耳をたてていたにちがいない。タンダに気づかれたとわかって、なりふりかまわず、チャグムを支配しようとしている……!
タンダは、手をすりあわせて意識を集中すると、ふうぅ……と長く長く息をはいた。その息が白いもやのようなものに変化し、みるみるタンダとチャグムをおおった。
タンダが、チャグムの頬を手ではさんで、ふっと息を吹きつけると、チャグムは、ふいに冷たい水をかけられたように、びくっととびあがった。
「……わ、なにこれ?」
チャグムが目をぱちぱちさせて、もやの壁から身をひきはなした。タンダは、手をのばして、ぐいっとチャグムを抱きよせた。と、もやの壁の外から、だれかが身もだえして、うなっているような声が、長く長く尾をひいてひびいてきた。それは、ぞっとするほどの怒りに満ちたうなり声だった。
壁が押される気配があったが、壁はこゆるぎもしなかった。
「心配しなくていい。これは、おれの結界だよ。おれは、この〈花〉のなかで、夢をみていない魂だ。最後の呪文のとき、おれは自分の魂をまもったから、おれの結界をこわすことはできないよ。」
魂の力は意志の力だ。この結界をまもるくらいのことはやってみせる、とタンダは思った。
「タンダ、なにがおきたの? あれは、だれの声?」
「一ノ妃が怒っているのさ。彼女が、おまえを道づれにしようと、ここへさそったんだろう。ちょうど、おまえ自身、〈花〉にひかれやすい心の状態だったらしいし。……いったん、手に入れたおまえを、あっさり手ばなすはずがない。」
チャグムは顔をしかめた。
「でも、一ノ妃さまは、やさしい人だよ。あまりあったことはないけれど、きれいでやさしい、はかない花のような方だったけどな。そんな呪いみたいなことをするなんて……。」
タンダは、ほほえんだ。気のつよい少年だが、こういうとき、この子の心のやさしさが、ふっとすけてみえる。
「そうか。……けどな、きずつけられたとき、だれもうらまずにいられる人は、いないだろ。それは、心のやさしさとは、また、別のものだよ。それに、夢のなかでは、人の想いは、はずかしいほどに、むきだしになるだろう?
おれは、その|方《かた》が、わるい人だといってるわけじゃない。ただ、ここは、だれもがもっている、心の奥底の暗い部分が、むきだしになるところだといってるんだよ。
おまえを、ここから送りだすまえに、一ノ妃のことに気づいてよかった。知らずにおまえを送りだしていたら、とちゅうできっと罠にとらえられてただろう。――一ノ妃の罠は、すごく巧妙なんだ。おれも、ころっとひっかかった。」
タンダは、苦笑いをうかべた。
「いまは、むこうの声はきこえても、むこうは、こちらの声はきこえないし姿もみえない。
よくおきき、チャグム。ここから、無事に逃げるためには、おまえは姿をかえねばならない。姿をかえるのは、一ノ妃の目をあざむくためじゃない。どれほど姿をかえようと、一ノ妃は、まどわされはしないだろうからな。
おまえの姿をかえるのはね、おまえの〈魂〉の力を最大限にひきだすためなんだよ。
〈魂〉にとっては、姿は、その性質をしめすんだ。人の姿では、人の走る速さでしか走れない。だが、鳥になれば、鳥が飛ぶ速さを得られるんだ。」
「じゃあ、矢になったら?」
タンダは、ちょっとほほえんだ。
「うちだされた瞬間は、なによりもはやいだろうが、自分で飛ぶ力がないから、だめだ。
これから、おまえをハヤブサに変化させてやるから、そのあとは、ふりかえらず一直線に糸を追って飛んでいくんだ。一ノ妃は、おまえをまどわそうとするだろう。だが、ふりむくな。」
タンダは、チャグムの肩に手をおいて、ぎゅっと力をこめた。
「ここへさそいこまれたのは、おまえの心が、ここへきたがっていたからだ。きっと、〈花〉の力は、そういう者につよくはたらくんだよ。
だが、いいか、よくおきき。一度、おのれの身体へもどると決めた魂を、むりやりひきとめる力はないはずだ。あるようにみせかけているが、そんな力はないはずなんだ。おまえが弱みをみせさえしなければ、ぜったいにもどれるはずだ。まような。まよったら、ひきもどされるぞ。」
チャグムの頬がこわばっていた。
「一ノ妃さまに……?」
「いいや。……おまえ自身の心にだよ。」
タンダは、チャグムをみつめた。
「〈生命〉は元気に息づいているのに、〈魂〉がねむりつづけることを――死さえも望むとは、なんとふしぎなことだろう。……人はなぜ、身体にあまるほど大きな魂をもってしまったんだろうね?」
チャグムは、すっと息を吸った。声がふるえていた。
「この〈花〉は、残酷な生き物だね、タンダ。人の夢をさそうなんて。こんな思いをさせるなんて。……おれ、夢をみずには……いられなかったんだよ。」
タンダはチャグムを抱きよせた。チャグムは、タンダの胸に顔をうずめ、すすり泣いた。
「……タンダ。一ノ妃さまも、かわいそうだよね。きっと息もできないくらい、つらかったんだよ。……どうしようもなかったんだよ。」
「ああ。……だけど、彼女の夢は、おまえをとらえたことで、とんでもない悪夢になってしまったらしいな。おまえをここにつなぎとめ、永遠にとじこめれば道づれにできる――そう思ったとたん、かなしみが、恨みへとかわってしまったんだ。
おまえへの恨みじゃないよ。彼女は自分の運命をうらんでいたんだろう。なぜ、わたしだけ! と。|二ノ妃《にのきさき》にはおまえがいて、おまえはいずれは帝になる。|二ノ妃《にのきさき》がうらやましくて、うらやましくて……けれど、やさしい一ノ妃は、そんなことを思ってはいけない、と自分をいましめていたんだろう。――だが、夢のなかでは、その恨みが、むきだしになってしまったんだ。」
タンダは心のなかでつけくわえた。
(……そして、やっかいなことに、その恨みが〈花〉を支配してしまっているらしい。)
自分をだまし、身体をのっとってしまった手口のあざやかさを思いだしながら、タンダは、それでも、なにか、しっくりこないものを感じていた。
(さそった魂に支配されるような性質をもってて、この〈花〉は、よくこれまで生命をつたえてこられたな。一ノ妃のように、この世界をとじて、ほかの魂を道づれに死んでしまいたい、とねがう魂は、きっとほかにもいただろうに。)
だいたい、〈花〉にさそわれるような魂は、いまの生活に絶望し、のがれたいと思っている魂ばかりのはずだ。――なにか、死をねがうこういう魂から〈花〉の生命をまもる力がはたらいていなかったら、この〈花〉は、|種《たね》を飛ばして生命をくりかえすことなく、とうのむかしに死滅していただろうに。
タンダは頭をふった。いまは、そんなことを考えているときではない。
「とにかく、いっこくも早く、ここを一ノ妃の悪夢から解放しなくちゃな。ここにとらわれてしまっている、ほかの夢たちのためにも。」
チャグムは、決意の色をうかべ、ぐっと口をむすんでうなずいた。
そのけなげさに胸がつまり、タンダは思わずチャグムのやわらかい頬を両手ではさんだ。
「まよったら、思いだしてくれ。血のつながった親子じゃないし、身分も全然ちがうが、おれもバルサも、おまえを息子みたいに思ってる。……元気で生きててほしいと思ってるんだ。
飛ぶ力は、おまえが生きたいと望む力だ。苦しみも闇も、つっきって飛びつづげろ。おまえには、その力がある。……おれも、バルサも、それをよく知ってるよ。」
チャグムの目に、涙がもりあがった。タンダは、とん、と肩をたたくと、チャグムを立たせた。必死に涙をこらえながら、チャグムがきいた。
「タンダ、は、どうするの?」
「おれは帰れない。身体を〈花〉にのっとられてしまったからな。」
チャグムが顔をゆがめるのをみて、タンダはわらった。
「ばか。そんな顔するな。おれは、自分の未熟さから、大失敗をしちまったんだ。師匠にばれたら、それこそ亀にかえられちまうような、ひどいへまをな。いま、そのつけを支払ってるところなんだよ。」
「……きっと、トロガイやバルサが、たすけてくれるよ。」
「ああ。情けないが、おれも、それを期待してる。」
タンダは立ちあがり、真顔にもどって、チャグムの頭の上に両手をおいた。
「さあ、目をとじて心をしずめろ。胸のなかに、あたたかい光がうまれるぞ。
ほら、感じるか、……あたたかいだろ。その熱で、おまえはゆっくりかわりはじめる。両手が、ほら、翼になっていく。
うつくしく、つよいハヤブサを夢みろ。そうだ。……さあ、はばたいてみろ!」
チャグムは、ホタル|火色《びいろ》の光をはなちながら、ゆっくりとハヤブサに姿をかえていった。
タンダは、あたたかいハヤブサを両手で抱き、投げあげた。
「さあ、飛んでいけ、一直線におまえの故郷へ! 風を顔に感じながら、飛んでいくんだ!」
一瞬、とまどったように、バタバタとはばたいたあと、チャグムは、外からの風に乗って力づよく舞いあがった。もやが、ぐんぐんうしろへ消えていく。顔に、かすかにあたる風に乗って飛びつづけるうちに、うしろから声がきこえてきた。
「おーい、ちょっとまて、チャグム!」
タンダの声だった。思わずふりかえろうとして、チャグムは、あやういところで思いとどまった。たとえ、タンダがいいわすれたことがあったのだとしても、危険はおかせない。
と、もやが渦をまきはじめ、むかしみたことのある光景が、目のまえにあらわれてきた。ヨゴノ宮の大広間だ。|帝位《ていい》をしめす金色の冠をつけた父上のまえに、死んだはずの兄、サグムが、頬を紅潮させて立っている。まっ白な|毛織《けおり》の敷物をふみながら、兄が一歩進みでると、父上が、皇太子のしるしである、金糸で織られた|肩布《けんぷ》を、兄の肩にかけた。金糸が、午後の光をうけてキラリと光る。兄が、白い歯をみせてわらったのがみえた。
チャグムの胸に、鋭いかなしみが走った。
兄のサグムとは、ほとんど言葉もかわしたことがない。兄弟の情など、まったく感じたことがなかった。――いまチャグムの胸をつらぬいたのは、命の、あまりのはかなさだった。
このとき、兄は、わずか一年後に、自分がこの世を去るとは思ってもいなかっただろう。このまま皇太子として成長し、やがては、帝の冠をつける自分を思っていたにちがいない。
(なぜ、兄が死に、わたしが、なりたくもない皇太子にならねばならないのだ……?)
この世の運命は、ひどく残酷なものだ、とチャグムは思った。
と、かぼそい声がきこえてきた。
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――なぜ、サグムが死なねばならなかったのじゃ? 帝になりたがっていたあの子が……。
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胸の奥に、爪をたてて、すうっとひかれたような痛みがはしった。
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――なぜ、生きたいと望んでいたあの子が死に、帝になるよりは死んだほうがましだと思っているそなたが生きていくのじゃ? 宮にもどり、そなたは、また、あの冷たい、砂のように味気ない日々を生きていく気かぇ。そのさきに、いったいなにがあるというの。
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羽が、鉛のように重くなってきた。
たしかに、帰っても、たのしい生活がまっているわけでもない。そう思ったとき、たまらないつかれがおそってきた。はばたくのをやめて、ねむれたら、どんなに気持ちがいいだろう。そうすれば、一ノ妃のかなしみも、すこしはなぐさめられるのだろうか。チャグムをにくむ気持ちも、なくなるだろうか……。
東からの風が、そのとき、まえよりもかすかにつよく、チャグムの頬をさすった。
と、タンダの明るい声が、思いがけぬつよさで耳の底によみがえってきた。
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――まよったら、思いだしてくれ。血のつながった親子じゃないし、身分も全然ちがうが、おれもバルサも、おまえを息子みたいに思ってる。元気で生きててほしいと思ってるんだ。
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まるで、目の底が光ったような気がした。
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――飛ぶ力は、おまえが生きたいと望む力だ。苦しみも闇も、つっきって飛びつづけろ。おまえには、その力がある。……おれも、バルサも、それをよく知ってるよ。
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ふいに、バルサの姿が目のまえにうかんできた。背に自分をかばい、おそろしい怪物ラルンガにむかって、槍をかまえている姿。自分の子でもないチャグムを、命をすててまもろうとしてくれた、あの、つよさ……。
(バルサも、多くのものをもぎとられた人だ。親も、ふつうの人生も……。でも、バルサならぜったいに、こんなふうに夢に逃げたりしないだろう。――そうしたい、と思っても、けっして、逃げないだろう。)
胸の底から、熱い力がこみあげてきた。つよくはばたくと、ぐん、と自分の身体が風に乗るのを感じた。いつ、うばわれるかわからない、はかない生命――自分の生命が、はじめて、とてもたいせつなものに思えてきた。
目のまえに、かつて〈精霊の守り人〉だったときにみた、ナユグの、さえざえと冷たい、広大な風景が、よみがえってきた。|生命《いのち》が、そのままにある世界。むきだしの、しずかな、|山河《さんが》の風景……。
すうっと、身体がかるくなった。チャグムは、あわく光る糸を追ってひたすら飛びつづけ、やがて、まぶしい光につつまれた……。
チャグムは、夢からはじきだされるようにして、とびおきた。昼すこしまえの、明るい日の光のなかで、チャグムはあえいでいた。絹の夜具の感触が、夢からさめたのだということを教えてくれていた。|心ノ臓《しんのぞう》が、痛いほど、どっくどっくと脈うっている。
(ずいぶん、きみょうな夢をみたものだ。)
タンダの言葉など、あまりに|真《しん》にせまっていて、すごいほどだった。
戸口のところで、ガッチャーン、と、はでに茶碗の割れる音がして、チャグムは、びくっと、ふりかえった。戸口で、おせわ係の若い|侍従《じじゅう》が立ちすくんでいた。
「……ラサム、どうした?」
「で、殿下……。」
つぶやいたと思ったら、彼は、くるりときびすをかえして、
「殿下が、お目ざめになりました!」
と、さけびながら、走りきってしまった。
チャグムが、自分が三日もねむりつづけていたことを知ったのは、侍従と医術師がもどってきてからだった。そのとたん、ねむりつづけているという一ノ妃のことや、シュガとの会話、そして、タンダとの会話が、いっきに心によみがえってきた。
「たいへんだ! おい、すぐにシュガをよんでくれ!」
侍従にさけんでから、おどろいて自分をみている彼らの顔つきに気づいて、あわてていいなおした。
「星読博士のシュガに、|火急《かきゅう》の用がある。すぐにまかりこすよう、つたえよ。」
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3 密会
いつものとおり、明け方に『なんでも屋』の|裏戸《うらと》をくぐったシュガは、トロガイがまだきていない、というトーヤの言葉に顔をしかめた。
「おかしいな。トロガイ師は、たとえむだ足になっても、これからは毎朝ここにきてまっている、と、おっしゃっていたんだが。」
「はあ。おれにも、そうおっしゃってましたが……。なにか、あったんでしょうかね。」
「こまったな。そなた、師のすまいを知らぬか?」
「おおよそは見当がつきますが、正確な場所はわかりません。近くの村の者にたずねれば、きっとわかるとは思いますが、ここからだと、ゆうに、一ダン(約一時間)はかかる山のなかだそうですよ。もちろん、おれもついていってご案内しますが、……どうします?」
シュガは、きびしい顔をして、だまりこんでしまった。トロガイにあうために夜明けにぬけだしてきただけでも、かなり危険なことなのだ。あと一ダン半ほどで、昨夜の星読みの結果を話しあう〈朝の会〉がはじまってしまう。そのときに〈星ノ宮〉にいないことがわかれば、当然、どこにいたかを問われるだろう。
皇太子チャグムが目ざめたいま、破門の危険をおかしてまで、〈花〉にとらわれた人びとをすくう必要があるだろうか……という思いが、シュガの心にうかんでいた。それに、皇太子に教えてもらった〈花〉が散る夜までには、まだ、二日の間がある。
「……しかたがない。また明日でなおそう。いちおう、ことづてを……。」
そのとき、裏町にはめずらしい馬の蹄の音が、すごいいきおいでちかづいてきた。シュガとトーヤは顔をみあわせると、あわててシュガだけ隠し部屋へと姿を消した。
馬が『なんでも屋』の裏木戸のところでとまる気配がした。シュガが息をころして耳をすませていると、トロガイの到着を知らせる合図のとおりに戸をたたく音がきこえてきた。
トーヤが、おどろいた声をあげるのがきこえてきた。
「バルサさん!」
「トーヤ、わるいが鳥のせわをたのむよ。シュガっていう星読博士は、きているかい?」
シュガは眉をひそめたが、すぐに隠し戸をあけて、はしごをおろした。
「ここにおります。――どうぞ、あがってきてください。」
はしごの下に、女があらわれた。みあげている目の鋭さに、シュガは、|白刃《しらは》をつきつけられたような気がして、思わず顔をひいた。女は、あっという間にはしごをのぼってきた。
「お初にお目にかかる。わたしはバルサ。トロガイ師がこられないのでかわりにきた。わるいが、気がせいているもんで、手みじかに話させてもらうよ。」
バルサは、タンダが〈花守り〉にされてしまったことと、ユグノのこと、そして結界を張っているトロガイは、こられなかったことなどを語った。
「チャグムが夢にとらわれちまったそうだが、なにか進展はないかね?」
気づかわしげなバルサの問いに、シュガはほほえんだ。
「はい。それで火急にトロガイ師にお目にかかりたかったのです。よろこんでください、皇太子殿下が、お目ざめになったのです。」
「目ざめたのかい! よかった!」
「はい。昨日の昼に目をさまされて、とてもたいせつなことをトロガイ師につたえてほしいとおっしゃられたのです。明後日の半月の夜に、あちらの世界とこちらの世界が近ぢかとつながり、風が吹きこんで、〈花〉が散るのだそうです。トロガイ師が呪術で夢たちをすくわれるなら、そのときが最後の機会だろうと。それから、〈花〉が咲いている場所は、〈山ノ離宮〉のそばの湖かもしれぬともおっしゃっておられました。」
バルサの表情が、おどろくほど、やわらいだ。
「ありがたい。さすがは、チャグムだ。――しんのつよい子だもの。きっともどってくると思っていたよ。」
シュガは、皇太子が、この女用心棒のことを語るときの表情を、ふと思いだした。
「ええ。殿下はおつよい方です。けれど、あなたがさっき〈花守り〉とやらにされてしまったとおっしゃった、タンダさんに、たすけてもらわなかったら、もどってこられなかった、とおっしゃっておられました。」
バルサの顔に、さっと、よろこびの色がさした。
「タンダにたすけられたって? じゃ、身体をのっとられただけで、魂は、ちゃんと、あっちに残ってるんだね! トロガイ師は、魂も〈花〉にとられちまったっていってたが。」
「いや、魂はちゃんと、もとのタンダさんのままだったそうです。この最後の夜についての伝言も、タンダさんからトロガイ師へったえてくれといわれたそうですから。……ただ、もどるすべはない、といっておられたそうですが。」
シュガは、チャグムが語った一部始終をバルサにつたえた。一ノ妃の話をきいて、バルサは、はっと目をみひらいた。
「そうか、それで……。」
シュガが、けげんそうな顔でバルサをみた。
「いやね、トロガイ師がふしぎがっていたんだよ。なんで、〈花〉とやらは、タンダを〈花守り〉にして、ユグノを追わせてるのかってね。そいつは〈花〉の|性《さが》に、そぐわないとね。」
「なるほど……。〈魂〉は想いによって姿をかえるし、その姿が性質をしめすんだというタンダさんの言葉をきいたとき、おもしろいなと思ったんですが……。」
シュガは目を輝かせて話していたが、そういう話にはあまり興味のないバルサのほうは、うわの空でうなずきながら、もう、別のことを考えていた。
シュガが言葉をきると、バルサは話題をかえた。
「シュガさん。あんた、〈狩人〉のジンと、つなぎをつけられるかね。」
〈狩人〉とは、帝のために暗殺などの陰の仕事をおこなう者のことである。|近衛士《このえじ》として、帝のお|側《そば》をまもっている者のうち、八人のみが、代々〈狩人〉として生きてきた。彼らの存在は極秘だったが、バルサは一年まえ、チャグムをたすけるために彼らと死闘をくりひろげ、シュガもまた、聖導師に右腕としてえらばれたために、彼らの存在を知ることになった。
ジンという〈狩人〉は、そのとき、きみょうないきさつで、タンダに命をすくわれている。それを恩にきて、いつか借りをかえすといっていた。頭もきれれば、腕もたつ男だ。
「つなぎは、なんとかつくと思いますが……、なぜ?」
「さっき話したように、タンダは〈花守り〉になってしまってる。こいつはおそろしいやつで、オオカミのような動きをするし、力もすさまじい。並みの武人じゃ相手にならない。」
シュガがうなずくと、バルサはつづけた。
「だけど、トロガイ師が〈魂呼ばい〉の呪術で、〈花〉にとらわれている魂をたすけるためには、わたしが師をまもって、その〈山ノ離宮〉につれていかなきゃならない。〈花守り〉にねらわれているのはユグノだから、わたしがユグノをつれて逃げて、そのあいだにトロガイ師に湖へいってもらうという手もあるが、〈花守り〉がトロガイ師のほうをおそわないという保証はないから、わたしがふたりをまもって湖にいくのがいちばん確実だろう。
とすれば、わたし以外のだれかに、この〈花守り〉を、たとえしばらくのあいだでも食いとめてもらわなければならない。」
バルサの、てきぱきとした話し方は、シュガに、目のまえにいる女が腕がたつ用心棒なのだということを、あらためて思いしらせた。
「ただ、問題は、殺してしまうならともかく、あれは気絶さえしないんだ。……それに、わたしは、できるならタンダをきずつけたくない。魂がまだ生きているなら、なおさら。」
バルサは、暗い表情をうかべていた。
「それに、貸し馬屋をたたきおこして、馬なんぞを借りてきたのはね、トロガイ師が張っている結界が、いつまでもつか、わからないからなんだよ。」
「……それで、ジンを。」
「うん。ジンは、タンダに命の恩を感じているし、腕もたつ。ジンならば、わたしのかわりに、しばらくはタンダをおさえておいてくれるだろう。
わたしはこれから馬を二頭借りて、ヤシロ村につないでおく。ジンがやってきしだい、わたしが護衛して、トロガイ師とユグノを馬で〈山ノ離宮〉へつれていく。むこうへついたら、トロガイ師に結界を張ってもらえばいいだろう。」
シュガは顔をひきしめてバルサの計画をきいていたが、やがて、口をはさんだ。
「バルサさん。その計画には、いくつか問題点があります。」
バルサは、うなずいた。
「まず、ジンは表むきは|近衛士《このえじ》です。帝のおゆるしなく任をはなれることはできません。それに、その夜になにがおこるのかわかりませんから、万が一を考えて、〈山ノ離宮〉の人びとを避難させねばなりませんが、これにも帝のおゆるしが必要です。」
「……なるほど。」
シュガは、くちびるに、かすかな苦笑をうかべた。
「そして、もうひとつ。わたしがトロガイ師とつうじているのは、極秘なのです。ばれれば、そくざに破門されます。いまの聖導師さまは心のひろい、すぐれた方ですが、それでも、たぶん、わたしをすくってはくださらないでしょう。」
バルサは、射ぬくような目でシュガをみつめた。
「あんたが、なぜ、この計画を知っているか、人に明かす危険はおかせないってわけだ。」
シュガは、たじろぎもせずに、バルサの視線をうけとめた。
「はい。――チャグム殿下が夢にとらわれたままなら、破門の危険をおかしたでしょうが、いまは、そこまで自分の身を危険にさらす気にはなれません。」
バルサは、この目もとのすずしい若者が、かなりしたたかな男であることを思いしった。
「――正直な男だなぁ。」
バルサは、ふっとわらった。
「だが、あんたのほうが分がわるいよ。わたしはいつでも、あんたとトロガイ師のつながりをばらすことができるし、タンダをもとにもどすためなら、どんなきたないことでもする。」
しばらく、にらみあっていたが、やがて視線をはずしたのは、シュガのほうだった。
「……そうですね。どうやら、わたしのほうが分がわるい。なんとか、破門にならずに、その策を成功させる方法を考えてみましょう。」
うなずいて、バルサは立ちあがった。
「ありがとう。わたしらがいる家への地図をかいてわたすよ。」
そういってから、ふっと思いついて、バルサはシュガをみた。同時に、シュガも口をひらき、声がかさなってしまった。
「皇太子殿下に……。」
「チャグムに、嘘をつかせるってのは、どうだろうね?」
シュガがわらった。
「夢のなかでお告げをうけた、とか、なんとか、つくり話をしていただければ……。」
「そう。あの子は腹がすわった子だから、きっとうまくやってくれるだろ。」
「帰る道みち、うまい話をでっちあげましょう。うまくいったら、明日の朝には、ジンがそちらへ着くでしょう。」
「うまくいくことを、祈ろうよ。――おたがいのためにね。」
シュガが苦笑すると、バルサも、にやっとわらいかえした。
シュガが、皇太子のご用という|名目《めいもく》で〈|空読《そらよ》み〉をぬけだしたのは、昼をすこしまわったころだった。いつも〈天道〉を教えている部屋で、チャグムとふたりきりになると、シュガは身をのりだして、チャグムの耳に、バルサと話しあったことをささやいた。
「バルサ! バルサとあったのか。」
チャグムの瞳が、さっとかがやいた。
「はい。殿下からうかがっていたとおり、おそろしい女人ですな。」
チャグムは、思わず声をたててわらいそうになり、あわてて口をおさえた。
「で、バルサがわたしに演技をもとめているというわけか。父君をまるめこむために。」
シュガは、うなずいた。
「要点はふたつです。〈狩人〉のジンを、バルサのたすけにおくることと、〈山ノ離宮〉のなかを無人にすること。――それを、トロガイやバルサなど、下じもの者たちの指示だと思わせずに、おこなわねばなりません。」
チャグムの目に、おもしろがっている光がうかんでいた。
「それで、わたしがあの夢のなかで知ったことにする、というわけだ。そうすると、いちばんよいのは、〈山ノ離宮〉を夢みたというヤムル帝の|二ノ妃《にのきさき》をひっぱりだすことだろうな。」
シュガが、ほうっという表情になった。
「殿下、わたしも、そう考えておりました。」
シュガは、いっそう声をひくめて、自分が練った物語を語ってきかせた。チャグムは真剣な表情で、うなずきながらきいていたが、やがて、ひとつ大きくうなずいた。
「わかった。まかせてくれ。父君をだますくらい、朝飯まえさ。」
シュガは、顔をくもらせた。
「殿下、くれぐれも帝をあなどられますな。帝はおそろしいお方です。――おそろしく、鋭いお方ですよ。」
チャグムの目に、暗い光がうかんだ。
「それを、わたしが知らぬと思うのか? あの父に殺されかけた息子である、わたしが?」
「念をおしたまでです。それに、帝は、決断をくだされるまえに、かならず聖導師さまに相談されるでしょう。わたしたちは、帝と聖導師という、この国でもっともおそろしいふたりを、相手にせねばならないのです。それを肝に銘じてください。」
「肝に銘じているさ。これしきのことがうまくやれないなら、もどってきた意味がない。」
チャグムの顔には、不敵な笑みがうかんでいた。
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4 チャグムの策略
〈ヨゴノ宮〉は、北を背にし、東西にひろがる台形の宮殿である。その宮殿の中央部は〈|帝ノ道《みかどのみち》〉とよばれ、帝に目どおりをゆるされた者しか足をふみいれることのできぬ領域だった。〈帝ノ道〉のもっとも南――つまり、街にもっとも近いところには、広大な|謁見《えっけん》の間があり、貴族などが目どおりをねがうときには、ここで謁見をするのである。そして、もっとも奥まったところにある帝の寝殿は、皇族と聖導師しかはいることをゆるされていなかった。
いま、その寝殿の居間には、三人の人影があった。みがきぬかれた白木の板の間に、極上の|白毛獣《はくもうじゅう》シュシュウの毛織物が敷きつめられている。
帝は、夜光貝をはめこんだ光沢のある漆塗りの椅子に深ぶかと身をしずめ、皇太子チャグムは、帝とむかいあうかたちで敷物の上に置かれた低い椅子の上に正座していた。
チャグムの、ななめうしろには、〈山ノ離宮〉の一ノ妃のもとから|一時《いちじ》よびもどされた聖導師が、敷物の上に直接正座していた。
チャグムは、目のまえの帝よりも、みえない位置にいる聖導師の視線を、つよく背に感じていた。聖導師ヒビ・トナンは、星読博士というよりは、武者にふさわしい、肩幅の広い大男で、高齢のために、眉もひげもまっ白だったが、その底光りする瞳には、長年権力の座にすわりつづけてきた者がもつ、にじみでるような威厳があった。
一年まえ、自分を殺すために実際の計画を立てたのも、また、自分をすくうために手をうったのも、この男であったことを、チャグムは、うすうす察していた。
帝が口をひらいた。
「チャグム。そなたまでが、ねむりからさめぬときいたときは心配したが、……大事なくて、よかった。」
チャグムは、膝に両手をあてて、ふかく一礼をしてから顔をあげた。
「父君さま。ご心配をおかけしました。」
「うむ。……で、話があるということだったが。」
チャグムは帝の目をみた。まったくの無表情だったが、その目の奥に、かすかに警戒の色があるのを、チャグムは感じていた。
「はい。父君さま、そして、聖導師さま。わたしがねむりからさめなかったわけを、お話しせねばならないと思ったのです。もしかすると、それが、いまだねむりつづけている一ノ妃さまの、たすけになるかもしれませんので。」
(一ノ妃さまをたすけられる、と、いいきってはいけません。)
というシュガの声が、耳の奥によみがえっていた。
(一ノ妃さまが夢にとどまることをえらんだとき、お立場がわるくなりますから。)
「ほう、それは、たいせつな話じゃ。……話してみよ。」
「はい。父君さま、わたしはあの夜、とてもふしぎな夢をみたのです。ねむるまえに、〈山ノ離宮〉のことを、考えていたからかもしれないのですが……。
あわい青い光のなかに、|女人《にょにん》が立っておりまして、手招きをしておられるのです。まねかれるままにちかづきますと、その方は、
われは、ヤムル帝の|二ノ妃《にのきさき》なり。
と、おっしゃったのです。」
帝が眉をひそめたが、チャグムは、かまわずつづけた。
「わたしは、自分が夢をみているのだと、わかっておりました。それでも、それは、とても印象ぶかい夢だったのです。
ヤムル帝の妃と名のった方は、ふしぎな話をなさいました。そして、くれぐれも夢と思うて、わすれるでないぞ、しかと帝におつたえせよ、と、おっしゃったのです。
ヤムル帝の妃が語ったのは、こんなお話でした。」
チャグムは、息をととのえて背をのばし、語りはじめた。
「われは、青き湖のほとりにたつ、うつくしき白木の宮を夢にみた。その宮には、だれとも知れぬが高貴な人びとが、くらしていた。
この貴人たちの都は、千年も富みさかえたが、いまは、夕暮れのときをむかえ、ほろびようとしていた。貴人たちは、われにうたった。その千年の|栄枯《えいこ》と、最後の夢を。
〈われら、〔花〕に変化し、夢を生きん。そなたの世から風が吹き、われらの花を散らすときまで。どうか、この湖のほとりに宮をたて、われらの夢を咲かせたまえ。さすれば、そなたの息子の魂を、われらのひとりにむかえよう。〉
その歌と願いをきいて、われは、〈山ノ離宮〉をたてた。そして、死後、わが魂もまた、夢の貴人たちとともに、湖のほとりの宮にて〈花〉となり、夢をみてきた。
だが、わが孫よ、きくがよい。この〈花〉は夢をさそう〈花〉。さびしい魂に、このうえなく、あまくうつくしい夢をみせてくれる〈花〉ゆえ、いまも、|皇子《おうじ》をなくした妃が〈花〉の夢にとらわれておる。
そして、わが孫よ、きくがよい。この〈花〉にも、とうとう散るときがおとずれた。つぎの半月の夜が、滅びの夜となろう。
こちらの世界とそちらの世界に、通い路がつうじるその夜に、もし、〈山ノ離宮〉に人がおれば、滅びの夢にさそわれるかもしれぬ。
わが孫よ。その夜、夢にとらわれている妃のみを残し、〈山ノ離宮〉を|無人《むじん》とせよ。
そして、われらを夢みた、そなたのみ、ほろびゆくわれらに、最後の別れを告げておくれ。湖のほとりに立つ、そなたの姿が道しるべとなり、夢にとらわれた、かなしい魂たちが、もどっていけるかもしれぬから……。」
そこまでをいっきに語りおえると、チャグムは、ちょっと息をついた。帝は、じっとチャグムをみつめていた。
「なるほど。とてつもなく、ふしぎな夢だのぅ。……そなた、それをすべて、おぼえていたのか? 夢を、そのように、はっきりとおぼえておるものかの。」
「……それこそが、わたしが、これがただの夢ではないと思った理由なのです。まるで、耳のなかに歌が鳴りひびくように、この語りが、いまもわたしのなかにひびいておるのです。」
きりかえされて、帝は、身じろぎをした。
「ふむ。――とにかく、そなたは、その夢を信じて、その|半月《はんげつ》の夜に、〈山ノ離宮〉を無人にしてほしい、ともうしておるわけだな。」
チャグムは目をふせた。
「はい。……夢を信じてこのようなことをすれば、人の笑いものになるか、とも思いましたが、一ノ妃さまのこともございますので、もし、父君と聖導師が同意してくださるようでしたら、そうできれば、と思ったのです。」
部屋のなかに沈黙がおりた。帝の目が、ちらっと、チャグムの背後の聖導師をみた。
「――すべての事情を、語る必要は、ありますまい。」
聖導師のふとい声が、背後からきこえてきた。チャグムは身体をかたくした。
「万が一を考え、帝が、そうせよとおおせられるなら、〈山ノ離宮〉をはらいきよめる、とでももうして、無人にすることはできましょう。一ノ妃さまのお身体は、わたしが責任をもって、おまもりいたしましょう。」
帝が身を起こした。
「……ということは、そちは、チャグムの夢を信じるのか?」
「さて、夢は、あくまでも夢。――しかし、一ノ妃さまが、いまだ目ざめられぬのも事実なら、皇太子殿下が、つい昨日までお目ざめにならなかったのも事実。とすれば、そのふしぎなねむりのなかでみた夢に、なにか意味があると考えるのは自然でしょう。」
チャグムは、内心、ほっとため息をついていた。
かすかに笑いをふくんだ声で、聖導師はつづけた。
「ただ、問題は、皇太子殿下が、その夜に湖のほとりにいなければならぬ、というくだりでしょうな。」
帝が大きくうなずいた。
「そうだ。なにがおこるかわからぬ危険なところに、皇太子はやれぬ。」
チャグムは自分に、あせるな、あせるな、といいきかせながら口をひらいた。
「しかし、父君、あの夢は――あの貴人たちのかなしい思いは――夢をみたわたしにしか、わからぬものです。そして、いったんは夢にとらわれながら、もどってくることのできたわたしには、たしかに、道しるべとしての力があるのかもしれません。
どうか、どうか、わたしの酔狂を、一度だけおゆるしください。」
帝の目が、鋭い光をうかべた。
「そなたに、みずからが皇太子だという自覚があれば、そのようなことはもうすまい。」
心臓が痛いほど脈うっていた。顔をふせたまま、チャグムは必死の思いでいった。
「……わたしは、兄君の死によって、皇太子になりました。一ノ妃さまが、息子をなくされたために、わたしは皇太子になったのです。わたしは、ずっと、それがつらかった……。
父君、ほかでもないわたしが、この夢をみたのは、きっと、それなりの意味があったからでしょう。わたしに一ノ妃さまへの心からのおわびと感謝をさせていただけませんか。そのときわたしは、はじめて、みずからが皇太子であることをうけいれられると思うのです。
〈狩人〉の頭は父君のご用がありましょうから、ジンたちを護衛につけていただければ、わたしの身になにかおこることはございますまい。――どうか、お願いでございます。」
しぶい顔で帝は聖導師をみた。聖導師の顔には、あいかわらず、なにかおもしろがっているような色が、かすかにうかんでいた。
「――目ざめられて、皇太子殿下は、すこしかわられたようですな。」
聖導師が、おだやかな声でいった。
「帝、どう思われまするか。わたしには、この変化、よい方向への変化と思われるのですが。」
「そうかのう……。」
チャグムをみつめている底光りのする目は、父が子をみる目ではなかった。むかしから、チャグムは、吐き気がするほど、この父の目が嫌いだった。だが、いまは、ふしぎとそういう気持ちはおきなかった。それほどチャグムの心は父からはなれてしまっていたのだ。
帝になったとき、自分はどんな目で息子をみるのだろう、と、ふとチャグムは思った。
「まあ、よい。兄の|供養《くよう》をしたいともうす気持ち、わからぬでもない。それに、たしかに、そなたがねむりにとらわれ、目ざめなかったのも事実。――〈狩人〉をつけるゆえ、采配をふるってみるがいい。」
チャグムは、両手を膝につけ、深ぶかと礼をした。
学問部屋で、チャグムから、このやりとりをきいたシュガは、目をみひらいた。
「なんですって! 殿下、なんということを……、なぜ、勝手に、そんな話をつけくわえてしまったのですか!」
チャグムは、小さくわらった。
「このくらいの役得があっても、いいだろう? わたしは、どうしても、みなに、もう一度あいたいんだ。それに、ことの結末を自分の目でみたい。」
シュガは自分をののしった。この少年の性格と能力を考えてみれば、そのくらいのことを勝手に計画し、実行してしまうことぐらい、あらかじめ察しておくべきだったのだ。
それでも、腹だちはおさまらなかった。
「殿下、その夜に〈山ノ離宮〉で、なにがおこるのか、だれも知らないのですよ!〈狩人〉や、バルサたちがいたとしても、殿下をおまもりできるかどうか……。」
チャグムは、肩をすくめた。
「そのときは……。」
いいかけて、チャグムはそのあとを飲みこんだ。扉をたたく音がきこえてきたからだ。
「なにか。」
チャグムのこたえに、扉のむこうからきこえてきた声はふたりをこおりつかせた。
「ヒビ・トナンでございます。皇太子殿下に、お話がございまして、勝手ながら、まかりこしました。」
チャグムは、息を吸いこんで、こたえた。
「はいるがよい。」
聖導師は、供のひとりもつれずに、扉を自分であけて部屋へはいってきた。そして、かるくおじぎをすると、皇太子がしめした椅子に腰をかけた。シュガがこの部屋にいることに、おどろいたようすもみせなかった。
そして、チャグムをみつめると、前置きもなしにいった。
「さて、殿下。さきほどのお話の、どこまでが真実で、どこからがつくり話かを、うかがいにあがりました。」
チャグムは、顔をこわばらせたが、すぐに気をとりなおして、聖導師をにらみつけた。
「……どういうことか。わたしは、真実以外、語っておらぬが。」
「そうでしょうかな。あいにく、わたしには、そのようにはきこえませんでした。とくに、殿下ご自身が、夢にとらわれた魂の道しるべになる、というくだりは、」
聖導師は、ほほえんだ。
「あまりにも、殿下につごうがよい、つくり話にしかきこえませんでしたが。」
チャグムの心臓は、破裂しそうに脈うっていた。
(おちつけ、おちつけ。聖導師とて、すべてを知っているはずがない。おちついて考えろ。)
チャグムは、がっくりと頭をさげ、そして、苦笑をうかべて聖導師をみた。
「そうか。……さすがは、聖導師。」
シュガは、顔色もかえずにすわっていたが、内心では、さけびだしたいような気持ちで、チャグムの綱渡りをみまもっていた。
「そなたなら、わかってくれようが、父君には話せぬ話というのもある。そなたを信じて、すべてを明かすゆえ、わたしがまちがっているかどうか教えてくれ。」
聖導師は、無表情のまま、うなずいた。
「たぶん、そなたは察しておろうが、わたしは、皇太子として生きなければならぬいまの人生がいやでならぬ。できるなら、皇太子などにならずに、ただのチャグムとして平民のくらしをつづけたかったのだ。
人を夢にとらえる〈花〉の話は本当だ。その〈花〉は、わたしのように、いまの人生からのがれたがっている者をとらえてしまう。心からみたい夢をみせてな。一ノ妃さまがとらわれてしまったのも、当然なのだ。それどころか、わたしは、たくさんの人が、あの〈花〉のなかにとらわれているのをみたよ。」
うたがうなら、うたがってみよ、という目で、チャグムは聖導師をにらんだが、彼はまったくの無表情のままだった。
「〈花〉が散る夜がくるというのも、ほんとうだ。そのとき、きっと〈山ノ離宮〉で、なにか異変がおこるだろう。だから、あそこを無人にしたかったのだ。
ただ、ヤムル帝の妃のことは、つくり話だ。わたしを夢からすくいだし、なにがおこっているのかを教えてくれたのは、タンダだったのだ。」
はじめて、聖導師の表情がうごいた。
「タンダ?」
「そう。一年まえ、わたしをすくってくれた、呪術師トロガイの弟子だ。」
チャグムは、シュガの秘密がばれることのないよう、すべての事情をタンダからきいた話として、聖導師に語った。
チャグムは、苦笑をうかべた。
「わかっただろう? 父君にすべての事情を、そのまま語らなかったわけが。」
聖導師は、背をのばした。
「なるほど。……で、殿下が、その夜、ご自身で湖にいかねはならぬ、という話は?」
「あれは嘘だ。タンダは、トロガイ師ならば、〈魂呼ばい〉という呪術で、〈花〉にとらわれている魂をすくいだせるといっていた。だが、その〈花〉をまもる〈花守り〉という妖怪が、そうはさせじとトロガイ師をおそってくるというのだ。それで、トロガイ師をまもるために〈狩人〉をつかいたかったのだ。……わたしが、湖畔で道しるべにならねばならぬ、という話は、わたしのつくり話だ。」
チャグムは、ちらっとシュガをみ、それから聖導師をみた。
「わたしは、すべてのもやもやの決着をつけたいのだ。その夜になにがおこるか、わたしはこの目でみたい。あの心地よい夢にとらわれた魂たちが、ほんとうに、もどってくるものかどうか……生きなおせるのか、知りたいのだ。」
聖導師は、しばし、だまってチャグムをみつめていたが、やがて、太刀の|鋼《はがね》のような冷たい響きをもつ口調でいった。
「殿下には、たったひとつしか、生きる道がないことは、わかっておられますな。
帝はまだお若い。このさき、いずれかの妃に男子がうまれることも、じゅうぶんありえますし、たとえ男子がうまれずとも、いよいよとなれば、三ノ宮の姫君がおられます。つまり、たとえ殿下がおられずとも、この国のお世継ぎは、とぎれることはございません。
ただし、皇太子となった殿下には、たったひとつしか生きる道はないのです。皇太子とは帝になるお方。帝になれず、とちゅうで挫折した方には、病死か事故死という運命しかございません。帝になりたくないような皇太子は、この世には、いないはずなのですから。」
あまりにも、あからさまな言い方に、チャグムもシュガも、なにもいえずに聖導師をみつめていた。
「それでも、その夜、|湖畔《こはん》にいかれますか?」
チャグムは静かにいった。
「いく。……いかねば、いずれは、病死か事故死の運命だろうから。」
聖導師は、ほほえんだ。
「わかりました。それでは、帝にはあのお話のまま。殿下には、〈狩人〉をつけましょう。」
立ちあがった聖導師に、シュガが声をかけた。
「聖導師さま、あすの夜は、わたしも殿下のお供をしてよろしいでしょうか。」
聖導師は、シュガをみおろした。
「よろしい。しっかり、おまもりせよ。」
聖導師が部屋をでて、その足音が遠くはなれて消えさったとき、シュガが、つぶやいた。
「心からお礼をもうしあげます、殿下。わたしをおまもりくださったこと一生わすれません。」
「これで、〈狩人〉のジンを、バルサのもとへおくれるな。――ただし、」
チャグムは血の気のない青白い顔に、苦笑をうかべた。
「わたしがバルサと逃げようとしたら、〈狩人〉たちの刃はわたしにむく、というわけだ。」
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第四章 〈花の夜〉
1 〈狩人〉ジンの約束
昼すこしまえ。
炉端でねころがっていたトロガイが身じろぎをするのと、ほぼ同時に、槍の手入れをしていたバルサも目をあげて戸口のほうをみた。トロガイが身を起こして、つぶやいた。
「……だれかが結界を越えた。」
バルサは立ちあがり、短槍を手にしたまま戸をひきあけた。
朝露にぬれた草地に、ひとりの男が立っていた。うす茶色の|筒袴《つつばかま》にすね当て。|剣帯《けんたい》に、飾り気のない|両刃《りょうば》の剣をつるしている。どこにでもいる兵士といった顔だちの、目立たない男だったが、全身にまったくすきがなかった。
「ひさしぶりだな、〈|短槍使《たんそうづか》いのバルサ〉殿。」
バルサは、ほほえんだ。
「よかった。――きてくれたんだね、ジンさん。」
「さん、は、よしてくれ。ジンでいい。」
〈|狩人《かりゅうど》〉のジンは、ちょっと眉をあげて、かるい口調でいった。
「ここが隠れ家だと、あのとき知っていたらなぁ。……もっとも、おれは、あんたにズタズタにされて、虫の息だったから、どうせ追ってもいけなかったが。」
ふたりは、ちらっとわらいあった。
ジンは、あたりをみまわしていたが、両側の木立のほうをむいて、ふと顔をひきしめた。
「……なるほど。みょうな気配だな。獣の気配みたいだ。」
バルサは、うなずき、ジンを家にみちびきいれた。トロガイとジンは顔みしりだったが、初対面のユグノは、とまどった表情でジンにあいさつをしていた。バルサから武術の達人だときいていたから、歌語りにでてくるような大男を想像していたのかもしれない。
気がせいているバルサは、すぐに本題にはいった。
「こんな役を人にたのむのは心ぐるしいんだが……、いまは、あんたに、たよるしかない。」
「ああ。おおよそのところはシュガ殿からきいた。あの、おだやかなタンダ殿が、そんな物になってしまったとは、ちょっと信じがたいが……。殺さず、傷もなるべくつけずに化け物と闘って、できるだけ長くひきとめるというのは、たしかにちょっとたいへんそうだな。」
「それに、あれは、まったく痛みを感じないらしいんだ。左肩の関節をはずされても、右手をわたしの顔にたたきつけてきた。」
ジンのくちびるに、かすかに笑みがうかんだ。
「それは……ちょっと、どころじゃなく、かなりたいへんそうだ。
だが、おれはタンダ殿に命の恩がある。やれるだけ、やってみよう。」
バルサは、深ぶかと頭をさげた。
「ありがとう。」
「いや。――だが、彼がそんなふうに獣みたいになったというなら、いっそのこと、獣をとらえるように、網か縄かでしばりあげたらどうだろうな。」
バルサが顔をくもらせた。
「わたしも、はじめはそう思ったんだが……。あれは、タンダの身体を道具としか考えていないんだ。だから、縄でとらえたら、自分の肌や肉……骨までをこすりきって、逃げようとするだろう。それをどうやって止める? 話がつうじる相手じゃないし、気絶もしないんだよ。網でとらえることができても、たぶん、あれは、タンダの身体がぼろぼろになるまで、うごくのをやめないだろう。そうなれば、夜がくるまでにタンダは……。」
ジンは、顔をゆがめた。
「なるほど。」
バルサは、いやな想像をふりはらうように、小さく首をふった。
「だからね、わたしたちがさきに湖に着けるだけの余裕さえとれれば、あとは、あれに追わせといたほうが、タンダの身体のためになるだろ。それで、あんたにたのんだわけさ。」
「わかった。」
ジンは、うなずいた。それから、ふと思いだして、つけくわえた。
「そうだ。わすれるところだった。今夜は、皇太子殿下も湖畔にいかれるぞ。」
「なんだって!」
バルサとトロガイは、びっくりして目をみひらいた。舌うちをして、バルサがいった。
「気持ちはわかるが、危険すぎるじゃないか。なんで止めなかったんだ!」
ジンは、なだめるようにいった。
「〈狩人〉のゼンとユンがおそばをまもらせていただくから、|御身《おんみ》に、なにかがおこることは、なかろうよ。」
バルサとトロガイは顔をみあわせた。心配なのは身体ではなく、魂のほうなのだが、それをいま、ジンにいってもしかたがない。悩みが倍増した気分で、バルサはため息をついた。
ジンが、重い空気をふりはらうように、きっぱりとした口調でいった。
「とにかく、おれは、なるべく長く、その〈花守り〉とやらを食いとめよう。それ以外のことは、いま心配してもしょうがない。」
すべてのしたくがととのい、表の戸に手をかけたとき、バルサが、ふりむいてジンをみた。だが、かすかに息を吸いこんだだけで、その口から言葉はでてこなかった。
ジンは、その表情に胸をつかれた。
自分が、ふたりに分裂できたら……、とバルサは思っているにちがいない。ジンがタンダをきずつけてしまうことをおそれながら、これから必死の闘いをせねばならないジンに、それをいえずにいる。
ジンは、思わずバルサの腕をつかんだ。
「……ぎりぎり、おさえられなくなったら、おれは、タンダの左足をねらう。それも、骨をねらう。――わかるな。」
ジンは、バルサの目のまえで腰の剣帯をはずし、その帯を鞘と柄とに十字にまきつけてむすんだ。けっして刀を鞘からぬかないという意思表示だった。
バルサは、ふかい感謝をこめてジンをみつめ、低い声でいった。
「今度は、わたしがあんたに命の借りができたね。いつかかならず、この恩はかえすよ。」
ジンはわらった。
「冗談じゃない。これは、おれの恩返しだぞ。わすれないでくれ。あんたまで貸し借り勘定にふくめたら、ややっこしくてかなわない。……さて、用意ができたようだから、いくか。」
最初にジン、つぎがバルサ、そして、トロガイが外にでた。最後にユグノが草地にでたとたん、全員が、はっとするくらいつよい気配が、西の木立の上からわきあがってきた。
「……結界を解くよ。」
トロガイがつぶやき、バルサとジンが、ユグノをはさんで立った。ユグノは血の気のうせた顔で、じっと木立をみつめている。
トロガイは目をとじ、胸のまえで両手をあわせ、気合いとともに、さっとひらいた。
とたん、黒い影が、枝の上からはなたれた矢のように、一直線にユグノにとびかかった。
ジンが、すくいあげるように剣をふった。ドンッ、と、にぶい音がして、鞘で脇腹を打たれた〈|花守《はなも》り〉が地面に落ちた。
「いけ!」
ジンがさけぶまえに、バルサは、すくんでいるユグノの腕をつかんで、走りはじめていた。バルサはふりかえらなかった。
ジンがあたえた衝撃は、人間なら、しばらくは息がつまってうごけないほどの衝撃だった。
だが、〈花守り〉は、痛がるようすもなく、すっと身を起こした。バルサが関節をはずしたはずの左肩は、どうやら自分ではめてなおしたらしい。
(……なるほど、こいつは人間じゃない。)
〈花守り〉の目をみて、ジンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。その顔は、たしかにタンダの顔だったが、あの、おだやかなタンダの面影はどこにもなかった。――人の顔が、表情ひとつで、これほどかわるものか……。
〈花守り〉が膝をまげたのをみて、ジンは、〈花守り〉が自分をとびこえて、ユグノを追おうとしているのをさとった。
つぎの瞬間、かるがるとジンの頭上まではねあがった〈花守り〉のくるぶしを、ジンは、すんでのところでつかんだが、そのいきおいに身体ごとひっぱられて地面にたおれてしまった。
左のくるぶしをつかんでいるジンの手を、〈花守り〉は右足でけろうとした。ジンは、けられる寸前にくるぶしをはなし、地面をころがってはねおきた。
だが、〈花守り〉がはねおきるほうが、わずかにはやかった。〈花守り〉は、ジンに、まったくかまわず、ユグノが走りさったほうへ、走りだした。
ジンは鞘にはいったままの剣をにぎると、その足にむかって投げた。みごとに両足のあいだに剣がからみ、〈花守り〉は地面にたおれた。
ジンは、〈花守り〉にとびかかり、すばやく両腕をわきの下からくぐらせて、〈花守り〉の後頭部で指を組んだ。こうなれば、がっちりと両肩と首の関節がきまり、相手はうごけないだけでなく、ジンの力加減ひとつで首を折ることもできる。
うしろに体重をかけながら、ジンは、これで〈花守り〉をつかまえたと思った。このまま、できるだけ長く、この体勢をたもてばいいのだ。うまく、足を|刈《か》って地面にころがして、両手両足でしっかりからみつければ、力がつづくかぎり、おさえておけるだろう。
ジンは、バルサとおなじように、おさないころから、きわめて実戦的な武術をたたきこまれてきた。ほんとうに武術に|長《ちょう》じてくると、自分の体重さえも、ある程度あやつれるようになってくる。ジンはけっして大男ではなかったが、重心の落とし方と呼吸法で、どんな大男よりも自分の身を重くすることができた。ここまで相手をかためることができれば逃がさない、ぜったいの自信があったのだ。
だから、自分の腕の下で、〈花守り〉が身動きをはじめたとき、ジンは胃がぎゅっとちぢむような寒気を感じた。〈花守り〉が、腕を背中のほうにまげはじめたのだ。ぎしぎしと〈花守り〉の腕の骨が鳴る音をきいて、ジンの背に冷たい汗がふきだした。
(こいつ、自分の両腕を折る気だ……!)
がっちりときめられてしまった両腕を折ってしまうことで、ジンの腕のなかからぬけだそうとしているのだ。――タンダの身体は、〈花守り〉にとっては道具にすぎない――そういったバルサの言葉が耳によみがえってきた。両腕を折ろうが、きられようが、|生命《いのち》がつづくかぎり、〈花守り〉は、ユグノを追いつづけるだろう。
そのおそろしさを、ジンは、いま、身にしみてさとった。
ジンは、とっさに腕をほどいて、〈花守り〉の膝の裏がわをけった。膝が、ガクンッとゆれて、〈花守り〉は地面にたおれた。ジンは、〈花守り〉の両足をまたぐようにして、〈花守り〉の膝の外側に膝をつき、その両膝の裏を自分のすねでおさえた。そして、〈花守り〉の首のうしろを右手でおさえ、頭がうごかないようにしてしまった。
〈花守り〉が、頭をおさえつけているジンの右手に、両手でつかみかかってくるのを、ジンは、左の|手刀《てがたな》ではらいつづけた。しかし、〈花守り〉は、おそろしい力で、のしかかっているジンをはねかえそうと、うごくのを一瞬たりともやめなかった。
ジンの額に汗がふきだした。闘いはじめてどれほどの時間がたったのか、わからなくなっていた。かなり長いあいだ、ジンは、ひたすら〈花守り〉をおさえつけ、おそってくる手をはらいつづけていたが、やがて、つかれから、ほんの一瞬集中力をうしなってしまった。
そのとたん、〈花守り〉の右手の爪が、ジンの右腕をきりさいた。熱い痛みがはしり、ジンは、思わず左手で傷をおさえた。と、〈花守り〉の全身が、エビのようにはね、ジンは、あっと思う間もなく地面にはねとばされてしまった。
〈花守り〉は、起きあがると、ジンにおそいかかった。この男をたおさねばユグノのもとへいけないことを、さとったのだろう。
それは、人の闘い方ではなかった。獣がおそいかかるように、爪と歯でジンをひきさこうとしていた。すごい速さで手をジンの顔にたたきつける。かろうじて顔をねじったが左目のわきを爪にきりさかれてしまった。左目に血が流れこみ、みえなくなった。〈花守り〉が、のどをねらっているのに気づいたとき、ジンは手加減をする余裕をうしなった。
さけびながら、ジンは、のどにかみつこうとせまってきた〈花守り〉のあごを、右のこぶしで力いっぱいなぐりつけた。のけぞった〈花守り〉ののどに、もう一度、こぶしをたたきつける。
〈花守り〉の身体が、ようやくはなれたとき、ジンは、肩でぶつかるようにして〈花守り〉を押したおし、その左足のくるぶしのやや上に手刀をたたきつけた。きれいに骨が折れる感触が、手につたわってきた。
やった……と、思った瞬間、〈花守り〉の右手が、ジンの頬にたたきつけられた。棍棒でなぐられたような、すさまじい衝撃だった。かろうじて急所ははずしたものの、横にとばされたジンは、地面にたたきつけられるまえに、気をうしなっていた。
〈花守り〉は、立ちあがろうとして、自分の左足に力がはいらないことに気づいた。しばらく地面にすわりこんで、左の足をさわっていたが、やがて、くるりと四つんばいになると、両手と片足だけで走りはじめた。おどろくことに、そんなかっこうでも、人が走るのと、たいしてかわらぬ速さだった。
〈花守り〉と化したタンダは、ユグノが消えた方角へ、あっという間に姿を消した。
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2 山の湖
午後の日ざしがすこしかたむきはじめたころ、バルサたちは馬をとめた。バルサは、さきに馬をおりて、自分のまえに乗せていたトロガイをかかえるようにして地面におろした。
「おお、しんどい、しんどい。」
トロガイは、ぶつぶついいながら、いたむ腰をのばした。
ユグノが、ずるりとすべりおちるようにして馬からおり、地面にくずれおちた。ユグノは、まえに二、三度、金持ちのためにうたった帰りに、馬に乗せてもらったことがあったが、自分ひとりで、しかも、かなりの速さで馬を進めていくバルサのあとをついていくのは、それとはまったく別の体験だった。膝の内側がすりむけ、ももが、ぶるぶるふるえている。しばらくは、立つこともできなかった。
「だいじょうぶかい。」
バルサがかがみこんで、まっ青なユグノの顔をのぞきこんだ。ユグノはけいれんしている脚をさすりながら、うなずいた。バルサはユグノの肩に手をおいた。
「すこしやすもう。これだけ馬を走らせたんだ。人の足ではとても追いつけはしないだろ。」
タンダの家をでてヤシロ村で馬に乗ってから、もう五ダン(約五時間)ちかくたっている。彼らは、ヤシロ村から青弓川へでて、浅瀬をわたってから、きこりが山で切りだした木材を青弓川まで馬にひかせてはこぶ道を、〈山ノ離宮〉のほうへたどってきたのだ。
バルサが馬をとめたのは〈|荷馬《にうま》の水場〉だった。きこりたちが荷馬を一休みさせるためにつくった水場だ。ここからは、木材をはこぶ道は、ぐっと北へそれてしまい、〈山ノ離宮〉のほうへはいかない。このさきは、木を切ったり狩りをすることがゆるされない〈|皇家《おうけ》の領域〉だからだ。
バルサは、ユグノとトロガイをやすませておいて、馬の背から荷をおろした。水場は、泉の水を竹筒でひいてきて、地中に埋めこんだ大きな木箱に、水をうけるかたちになっている。
バルサは、ちょろちょろと落ちてくる水を竹の水筒にうけて、ふたりに冷たい水をもっていってやった。それから馬をひいてきて、たっぷりと水を飲ませてやった。エサ袋をそれぞれの首にかけてやると、馬たちは、すごい音をたてながら大よろこびでエサを食べはじめた。
それをみているうちに、ひどく腹がへってきた。いままで、せきたてられるように走りつづけて、とちゅうでいく度かやすんだときも、なにも食べる気にならなかったのだ。
(用心棒失格だな。)
心のなかでつぶやいて、バルサは荷から竹の皮につつんだシュルジをとりだした。干し肉をこまかくきざんで甘からく煮つけ、それを炊きたての米にまぜてにぎった携帯食だ。
バルサがシュルジをほおばるのをみて、トロガイが自分にもくれと、手をのばした。
「すごいな……。」
息もたえだえ、といった口調で、ユグノがつぶやいた。
「わたしは、とても食べられない。」
バルサは、ユグノの隣に腰をおろすと、袋から、小さな木製の容器をとりだして蓋をあけ、蜜で煮た、よいかおりのする赤いマイカの実をとりだした。
「これを、すこしずつでいいから口に入れてごらん。ゆっくりかんで飲みこむんだ。」
いやそうに顔をしかめながら、蜜煮の実を口にふくんだユグノは、すぐに、びっくりして目をみひらいた。おどろくほどさわやかな甘みとよいかおりが、口じゅうにひろがったからだ。
「……マイカの実が、こんなにおいしいとは思わなかった。」
ユグノがつぶやくと、バルサは、ほほえんだ。
「タンダ秘蔵のマイカの|蜜煮《みつに》を、すこしもってきたんだ。ロガっていう香草と蜜でゆっくり煮こんでつくるんだそうだよ。」
「へえ。……なんだか、頭がすっきりしてきた。つかれがとれていく気がする。」
「そうだろ。これは、つかれをとる最高の薬さ。」
ふいに、おどろくほどの鮮明さで、ひとつの思い出がよみがえってきた。十八くらいのころだっただろうか。ジグロにしごかれて、たおれそうなほどつかれきって家にもどると、タンダが皿にマイカの実を盛って、もってきてくれたことがあった。あのときのマイカの味はわすれられない。ほてった身体の痛みが、すうっと消えていくような気がしたものだ……。
トロガイの手がのびてきて、マイカの実をひとつとった。
「いやしは女の|技《わざ》だといわれるが、そんなこともないわな。タンダは、うまれついてのいやし上手だ。こういう物をつくらせたら、最高さ。」
ユグノは、ちらっとバルサをみた。バルサはきつい表情で手のなかの実をみつめていた。
全員がマイカの実を食べおわると、バルサは草で手をぬぐって立ちあがった。
「さあ、いくか。月が昇るまえに、湖に着かなくちゃいけないからね。」
馬たちを|水場《みずば》のそばの木につなぐと、バルサは、すこしかるくなった荷を短槍にひっかけてかついだ。ここからは、ほとんど道のない山のなかを歩かねばならない。
バルサが先頭にたち、ときおり|山刀《やまがたな》で藪をきりひらきながら、道をつけていく。そのうしろにユグノがつづき、しんがりをトロガイが歩いていた。バルサは、ぐんぐん道をつけて進んでいったが、ユグノもトロガイも、なれない乗馬でつかれきっており、ゆっくりとしか進めなかった。とちゅう、いく度も休みをとりながら、彼らはひたすら歩きつづけた。
西日がかたむきはじめた……と、みるみるうちに光をうすめていく。西向きの|木肌《きはだ》が、あわい夕暮れの光にそまっている木々のあいだを、三人は、もくもくと歩いていく。
やがて、日が暮れおちると、バルサはちょっと立ちどまって、荷から〈|旅灯《りょとう》〉をとりだし、火打ち石と|火口《ほくち》を器用につかって明りをつけた。〈旅灯〉は|細竹《ほそだけ》で編んだ籠のなかにロウソクを立てたもので、みじかい|柄《え》がついていて、身体からはなしてもてるようになっている。
「これは、あんたがもっていておくれ。」
バルサは、〈旅灯〉をユグノにわたし、また、前をきりひらきながら歩きはじめた。ユグノがもつ明りは、ほとんどバルサの足もとにはとどかなかったが、バルサの足どりはしっかりしたものだった。ときおり、物音におどろいて鳥が鳴きながら飛びたつほかは、バルサがふるう山刀の音と、三人の足音しかきこえなかった。
トロガイは、歩きつづけるうちに、夢のなかにいるような気持ちになってきた。若いころ、山によばれ、ひたすら山のなかを湖まで歩きつづけた。あの夢のなかを……。
まっ暗な山のなかを、歩いて、歩いて、歩いて……。
やがて、あのときとおなじように、ふいに目のまえがひらけた。
ふかい山々にかこまれた広大な湖が、三人のまえに黒ぐろとひろがっていた。
トロガイは、頭のなかがしびれるような衝撃をうけて立ちすくんだ。
「……ああ、あの湖だ。」
しわがれたトロガイの声に、バルサとユグノが、ふりかえった。トロガイは、湖をぼうぜんとみつめながら、西の山をゆびさした。
「わしはあのとき、あっち側から、ここへ山をぬけてきたんだ。あの山のむこうに、わしの故郷の村がある。子どもたちの墓も……。」
トロガイは、冷たい手で顔をなでられたような気がしていた。子どもたちの死や夫の記憶が、まるで激流が流れこむように脳裏につぎつぎにうかんでくる。
自分は無意識のうちに過去から目をそらし、記憶に蓋をしていたのだと、トロガイは苦い気持ちで思った。
はるかむかしにすててきた過去――背をむけて歩みさり、わすれようとつとめてきた過去が、冷たい手をのばしてきたような気がした。
それに、湖のほとりにそびえたつ〈山ノ離宮〉……。
背筋に冷たいものがはいあがってきて、トロガイはふるえた。大きな門と、|白木《しろき》でふくざつに組まれた屋根――それは、あの夢の宮そのものだった。
五十二年まえ夢のなかでみた、あの湖のなかにそびえていた、さかさの宮は、はるかに時をこえた未来の宮を、うつしていたのか……。
トロガイは大きく息を吸うと、自分をしかりつけた。
(ばかな。〈山ノ離宮〉は、あの夢を模してたてた宮だ。わしとおなじ夢をみてたてたのだ。そっくりおなじであることは、チャグムからの伝言できいていたじゃないか。)
トロガイは、なぜ自分がこれほどおびえているのか、よくわかっていた。彼女は目をとじ、自分にいいきかせた。
(わしは、五十二年まえの、不幸な、よわよわしい娘っ子のトムカじゃない。――わしは、呪術師〈大地の上を歩く者〉トロガイだ。)
トロガイは、バルサとユグノに、つよい口調でいった。
「さあ、結界を張ろう。教えたとおりに、したくをしな。」
三人は、湖のほとりの|葦《あし》の原をぬけて、ひたひたと水がよせる岸辺へとでた。
トロガイは、|葦原《あしはら》でぬいてきた四本の太く長い葦を岸辺にふかく刺し、その葦のあいだに草を編んだほそいひもをわたしていった。バルサとユグノは手わけをして、持参した四枚の素焼きの|火皿《ひざら》に炭を置いて、〈旅灯〉から炭火をうつし、さらに、炎をつくるために、独特のにおいをはなつ枯れ草を、その火の上にのせてまわった。
燃えあがった枯れ草から、白い煙がのろしのように立ちのぼり、ゆっくりと湖のほうへ流れていった。
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3 月の門
バルサは自分をよぶ声をきいたような気がして、顔をあげた。
湖をまわってやってくる四人の人影をみたとき、バルサの胸によろこびがわきあがってきた。
「バルサー!」
チャグムが、ころげるようにかけてくる。あのころより、ずっと背が高くなった。それに、その声はもう、かん高い子どもの声ではなく、声変わりし、おとなびた少年の声だった。
「おい! 気をつけろ、結界をこわすんじゃないぞ! そっとまたいではいっておいで。」
トロガイが、あわててさけび、チャグムはようやく足どりをゆるめた。いわれたとおりに、そうっとひもをまたいではいってきたチャグムは、バルサをみると、顔をゆがめた。そのとたん、あのころの面影がよみがえってきた。
「……こいつは、また、大きくなったなぁ、チャグム。」
かすれた声でバルサはいい、つぎの瞬間、その頭をさっと抱きしめた。あのころは胸のところまでしかなかったチャグムが、いまは、バルサの肩に顔をうずめていた。チャグムは、バルサを力いっぱい抱きしめて、泣きじゃくった。
バルサもチャグムも、たがいに、もう二度とあえないと思っていた。――そして、この夜が明ければ、また、わかれなければならない。
チャグムのあとから結界にはいってきたシュガと、〈狩人〉のゼンとユンは、だまってふたりをみていた。
「……月が昇るぞ。」
トロガイの声に、全員が、はっと空をみあげた。山の稜線から、にぶく赤い、大きな|半月《はんげつ》が顔をのぞかせていた。
「さあ、月が湖に顔をうつすまでに、わしは〈魂呼ばい〉のしたくをせねばならぬ。みな、静かにすわっていてくれよ。」
トロガイの言葉に、バルサはわれにかえった。チャグムが、ばつのわるそうな顔をしてバルサからはなれ、地面に腰をおろそうとした。それをみて、〈狩人〉のユンは、あわてた。
「しばしおまちください、殿下。」
彼はせおっていた敷物をおろすと、さっと地面に敷いた。チャグムは、ふきげんな顔で敷物をみたが、バルサがうなずくと、しかたなく敷物の上に腰をおろした。
バルサは、はしのほうにたたずんでいるシュガに目をやって、ふかく頭をさげた。はじめてあった他人への挨拶をよそおった感謝だったが、シュガには、つうじたようだった。シュガはくちびるに、ちょっと笑みをうかべてから、すぐに真顔になって、おじぎをかえした。
バルサは、対照的な身体つきのふたりの〈狩人〉たちに|目礼《もくれい》した。ずんぐりとした|猪首《いくび》の〈狩人〉ゼンは、無表情のまま目礼をかえしたが、バルサにきられた傷を顔に残している、ひょろりと背の高いユンのほうは、ちょっとためらってから、ぶすっとした顔で目礼をかえしてきた。
バルサは、ときおりヒュー、ヒューと鳥の声がひびくだけのしずまりかえった闇のなかで、あたりの気配をさぐってみた。――〈花守り〉の気配は感じられない。追いつかれずに、無事に、ここまでこられたらしい。
けれど、それをよろこぶ気持ちにはなれなかった。バルサの脳裏には、闇のなかを、ぼろぼろになって走ってくるタンダの姿がうかんでいた。
(くるんじゃない、タンダ。)
そう思いながらも、心の底からもうひとつの思いがうかびあがってくるのを、とめられなかった。
(……生きている姿をみせておくれ、タンダ……。)
いつの間にか、月は、こうこうと白く輝く小さな半円となり、高く|中空《ちゅうくう》にかかっていた。その月の光に、山々の輪郭がくっきりうかびあがっている。|対岸《たいがん》にそびえている、|人気《ひとけ》のない〈山ノ離宮〉の|白木《しらき》の屋根にも、霜のようにあわく白い光がやどっていた。
ふいに、ユグノが身じろぎをした。
「あの宮、なにか変じゃないか……。」
全員が、ユグノがゆびさしている湖面をみた。
暗い湖の水面に、まるで鏡にうつっているかのように、はっきりと〈山ノ離宮〉がうつっている。だが、それは月の光で|湖水《こすい》にうつっているにしては、あまりにもくっきりとみえ、しかも、風が湖面をゆらし、さざ波をおこしながらわたっていっても、ゆらめきさえしなかった。
チャグムが、ふるえながらつぶやいた。
「月も、変だ……。」
天空にかかっている月は、きれいな半月だ。それなのに、湖水にうつっているのは、ふくらみをおびた満月にちかい月だった。みまもっているあいだにも、月は、みるみるふくらみを増し、満月にちかづいていく。――まるで、ひとりでに窓がひらいていくように……。
月が、完全な満月になった瞬間、かん高い音がひびきはじめた。口笛の音ににた、その音が、しだいに高くなるにつれて、バルサは肌に、ふしぎな気配を感じはじめた。
「――風?」
バルサがつぶやくと、シュガが首をふった。
「湖面は、ゆれていない。この炎も、葦の葉も……。」
しかし、すわっている人びとは、肌に風を感じていた。
「あ……。」
みな、いっせいに、それに気がついて息をのんだ。
ここからみえる〈山ノ離宮〉は、明りひとつみえず暗闇にしずんでいる。
だが、|水鏡《みずかがみ》にうつっているさかさの宮には、渡り廊下にかこまれた奥のほうに、ゆらゆらと、明りがみえはじめていた。ほの明るく、やわらかい|灯《ともしび》の色……。
「〈花〉だ。」
チャグムが、つぶやいた。
「あれは、中庭の〈花〉の花明りだ。」
ぼんやりとねむそうなその口調に、バルサは、はっとしてチャグムの腕をつかんだ。
「ひかれるんじゃない、チャグム! 気をしっかりたもつんだよ。」
チャグムは、びくっと身体をふるわせた。ほかの人びとも、うとうととしていたところを、たたきおこされたような顔で、バルサをみた。
「気をつけろ! あれが、夢をさそう〈花〉なんだよ。いま、あちらとこちらは近ぢかとつながってるんだ。気をぬくと、ひっぱられるよ!」
いいながらも、バルサは、夢のなかでさけんでいるような、たよりなさを感じていた。まるで、大気が、ぬるい液体にかわってしまったようだった。
そのとき、左右にゆっくりとゆれていたトロガイの身体から、ぽうっと光がにじみはじめた。それは、ホタルのはなつ光ににた、あわい黄色がかった光だった。みるみるうちに、その光はトロガイの額に集まっていく。
そして、バルサは、うまれてはじめて、〈魂〉をみた。――うつくしい鳥に変化したトロガイの〈魂〉は、ホタル火のように光りながら、白い糸をひいて舞いあがり、一直線に湖面の月に吸いこまれていった。
トロガイは、気流に飲みこまれた鳥のように、ものすごい速さで〈月〉に吸いこまれた。あたりにぼんやりとただよっている青いもやは、夜明けまえのうす闇の青を思わせた。
警鐘が、トロガイの心のなかで鳴っていた。
(このもやには、つよい呪力がはたらいている。――とらわれては、だめだ……。)
けれど、その思いは、するするとほどけて消えさり、青いもやのなかを、すべるようにくだるうちに、トロガイのなかで〈時〉がさかのぼりはじめた。
いくつもの渡り廊下をぬけて、木々のおいしげる庭におりたったときには、トロガイは、五十二年の歳月をわすれさり、トムカに――二十歳の娘にもどってしまっていた。
灰色の衣にふかみのある緑色の帯をしめた、背の高い男の姿をみたとき、トムカは鋭いよろこびを感じた。そのよろこびは、やがて、あたたかい幸福感となってトムカをつつんだ。
(トムカ、……あの子は、どこだね?)
〈花番〉にいわれて、トムカは、はっとして自分の手のなかをみた。
(いない! いままで、しっかり抱いていたはずなのに……。)
腕のなかには、赤ん坊のぬくもりが消えたあとのうすら寒さしか残っていなかった。
(だいじょうぶだよ、トムカ。あの子をよんでごらん。きっともどってくるから。)
トムカは、はっとした。――そうだ、わたしは、あの子がどこにいるか知っている。あの子をこの腕によびもどす方法も。
トムカは、腕をひろげて息子をよんだ。
いくつものことが、同時におこった。
トロガイがにぎりしめていたススキの穂の呪具が、ボウッと燃えあがったかとおもうと、結界のひもが、内側からはじかれたように、ちぎれてとんだ。――とたん、葦原から三本足の獣のような影がとびだし、ユグノにおそいかかった。バルサは、かろうじてユグノと影のあいだにすべりこんだが、ものすごい力でおしたおされてしまった。
「化け物!」
〈狩人〉のユンがさけんで、剣をぬいたのが目のはしにみえた。
バルサは、〈花守り〉のわきの下に腕を入れ、右足首に足をからませると、渾身の力をこめて〈花守り〉をひっくりかえし、上にかぶさった。
〈花守り〉の背をねらってつきおろされたユンの剣が、バルサの左肩をつらぬいた。
ユンがおどろいて剣をひきぬくと、チャグムがさけびながらバルサにとびついて、その肩を手でおさえて、ふきだす血を止めようとした。
〈花守り〉が、バルサの下で起きあがろうともがきはじめた。――と、いきなりバルサは身を起こし、右腕一本で〈花守り〉の身体を、ぐいっと肩にかかえあげてしまった。
そのまま、バルサは〈花守り〉をかついではこぼうとしたが、〈花守り〉が、両手のこぶしをかためて、バルサの背をはげしく打った。
バルサは、うめいて、〈花守り〉をおとし、その上にたおれこんだ。
ユンが、ふたたび〈花守り〉にきりかかろうとしたとき、ゼンが、さっととめた。
「おまえは、殿下をおまもりしてろ!」
うなるようにいうと、ゼンは、バルサの首をつかもうとしている〈花守り〉の両腕を、おさえた。せきこみながら、バルサが顔をあげた。
「……殺すな。これは、タンダなんだ。」
「わかってる。」
ゼンは〈花守り〉をバルサの下からひきずりだしたが、〈花守り〉が自分の腕を折って自由になろうとしているのに気づくと、さすがに顔色をかえた。
ユグノは、心底おびえきっていた。化け物のような〈花守り〉が自分にとびかかり、ワシの爪のようにぐっとまげられた指が、自分ののどにむかってのびてきたとき、あまりのおそろしさに、完全にわれをわすれてしまった。
ユグノはがくがくする足を必死にうごかして、もつれあって格闘している人びとからはなれようと、湖のほうへあとずさっていった。
そのとき、ふっとよいかおりがただよってきた。そのかおりは、まるで故郷の炉端にかかった鍋から立ちのぼる湯気のように、あたたかくユグノをつつみこんだ。
耳の奥に、なつかしい声がきこえてきた。
――ユグノ……。
ああ、母さんの声だ。と、ぼんやりとした頭でユグノは思った。こわい夢をみたとき、あやしてくれたやさしい声……。その声をきいたとたん、おびえきってかたくなっていた身体から力がぬけ、あっという間に、あの悪夢の記憶は頭の片隅に追いやられて、たまらなく母にあいたくなった。
――はやく、おいで……。
自分の魂がうまれたあの庭で、〈花〉のやわらかい明りが、さそうようにゆれている。
ユグノは草の上に膝をついた……。
〈花〉の世界の終わりのときは、ふいにはじまった。
一陣の風が、まえぶれのように吹いた、と、思ううちに、ビュウゥ……と、風のうなりがたかまり、やがて、どんどんはげしくなっていった。
タンダは、風がつよまりはじめたとき、もはやまようひまはないと判断して、鳥に変化し、カヤをさがして舞いあがった。
花の明りが、はげしい風にゆれて、あたり一面に影がおどっている。どこかの|房《ふさ》が散ったのか、花びらが、ぱあっと舞いとんできた。むせかえるようだった花のかおりが、甘ったるい死のにおいにかわりつつあった。
タンダは、思うようにはばたけないことに気づいて、ぞっとした。
(この風のせいか、それとも、あちらの世界で〈花守り〉と化しているおれの身体が死にかけているのか……。)
どちらにせよ、たまらないつかれを感じはじめていた。
(カヤだけは、たすけたい……。)
タンダは必死にはばたいて、はげしくゆれている、ひとつの花房にちかづいた……、と、その花房が、ぐらっと大きくゆれたかと思うと、ぱっと、花びらを散らした。
タンダは、あやうく花びらの直撃をさけた。風にさらわれていく花びらのなかから、ぼんやりとした人影が、ただよいおちてくるのがみえた。
その人影をみたとたん、タンダは、とっさに鳥から人へ変化した。
「カヤ!」
さけびながら、タンダは、かぼそい少女の身体を抱きとめると、自分の身体を下にして、背中から中庭におちていった。
地面にぶつかっても、思ったほどの衝撃は感じなかった。中庭の水は、いつの間にか、砂のようなものにかわっていた。タンダの腕のなかで少女が身動きした。
「カヤ、気がついたか。」
タンダの声に、カヤは、とまどったような顔をむけた。
「叔父さん? ここ、どこ? ……どうして、わたし、こんなところにいるの?」
つぎつぎに花が散り、多くの人影が、まるで熟れた果実のように、中庭へおちてきはじめた。人びとは、おちたあとも赤子のように身体をまるめてよこたわり、身動きもしなかった。
彼らをおこしにいかねばと、タンダは思ったが、身体が思うようにうごかなかった。ひどいつかれが、全身をおおっている。
(カヤを、鳥に|変化《へんげ》させなければ……。)
そう思いながら、タンダはうごけずにいた。しびれるような恐怖が、ぽつんと胸の底にうまれ、じんわりと身体全体にひろがっていった。
(こんなところで、死ぬのか……。)
やりたかったこと――あるはずだった未来が、夕暮れの光のように、みるみるうすれて消えていく。
「叔父さん? どうしたの、叔父さん? いったい、なにが、どうなってるの!」
カヤが、タンダをゆすりながら、おびえた声でさけんだ。タンダは、やっとの思いで声をしぼりだした。
「……カヤ、ここから逃げるんだ。おまえ、糸がみえるか?」
「糸?」
カヤは、目をほそめた、そして、自分の額から光る糸がのびているのに気づき、おどろいた声をあげた。
「みえるわ! 叔父さん、糸がみえる!」
タンダは、カヤの腕をつかんだ。
「おれが、これから、おまえを、鳥にかえてやる。だから、鳥に変身したら、その糸をどこまでも追って、飛んでいくんだ。そうすれば、家に帰れる。」
「……わたしを鳥に? 叔父さん、そんなことできるの?」
タンダは、かろうじてくちびるのはしをもちあげ、ほほえんだ。
「でき、るさ。おれは、呪術師のはしくれだぞ。」
タンダは、つかのま目をとじた。そして、目をあけると、カヤの心に暗示をかけて鳥へと変化させるための、最後の仕事にとりかかろうとした。だが、身体がいうことをきかなかった。身体がとてつもなく重くなり、目のまえが暗くなっていった……。
ゼンは、〈花守り〉をおさえつけていた手をゆっくりとはなし、バルサをみあげた。バルサはきずついた肩をおさえて、ぼうぜんと、かわりはてたタンダの身体をみおろした。|火皿《ひざら》の明りにうかびあがったその顔をみて、バルサは、タンダの身体が命の限界にきていることをさとった。
バルサの胸に、剣でつきさされたような痛みがはしった。心をおおっていたものが、その瞬間くずれ、かなしみがしびれるような冷たさになって、全身にひろがっていった。
バルサはうごかなくなったタンダの横にひざまずき、頭を抱いて、その額に自分の額をおしあてた。カチカチと歯が鳴るのをとめられなかった。のどがつまって、息が吸えない。
「タンダ……。」
バルサの目から涙があふれた。
「死ぬんじゃない、タンダ……!」
タンダは、バルサの声をきいたような気がして、目をあけた。身体の重さは、あいかわらずだったが、なぜか、生きたい……という欲がうずきはじめ、それが身体をうごかす力をあたえてくれた。
タンダは、肘をついて身を起こし、心配そうに自分をみているカヤに気づいた。
そうだった。カヤのためにも、いま死ぬわけにはいかない。
そう思ったとき、ふとタンダは、散りはじめている〈花〉の根元に、〈花番〉に寄りそわれて、若い娘が立っているのに気がついた。吹きすさんでいる風にまったく気づいていないかのように、その娘は、ぼうっと、まるで、だれかを抱こうとするかのように手をひろげている。
まだ若いヤクーの娘だったが、その顔には、みなれた面影がはっきりと残っていた。
(まさか……。)
タンダは息を飲んだ。そして、力をふりしぼってさけんだ。
「し、師匠……! トロガイ師!!」
娘が、けげんそうに、タンダをふりかえった。
目があった瞬間、娘の瞳に、はっと光がうかんだ。
「タンダ……?」
トムカは、タンダをみたとたん、身体の底からふるえが走るのを感じた。ねむらされていたなにかが、むっくりと身を起こし、ふくよかだが、たよりない表情をうかべていた顔に、しわと、したたかな表情がもどってきた。
[#ここから3字下げ]
――トムカ、おまえは、みにくく老いはじめているよ、気をつけなさい……!
[#ここで字下げ終わり]
〈花番〉がきつい口調でいった。
ぶるんと頭をふってわらったとき、その顔は、すっかりトロガイにもどっていた。
「そうかい? そんなにみにくいかい。でもね、これが、わしだよ。五十二年もかけて、そだててきた顔さ。」
トロガイは、〈花番〉をにらみつけた。
「あんた、〈花番〉じゃないね。――くそったれが、きたない罠にかけやがって! ひっかかっただけに、腹がたつ!!」
トロガイは炎に|変化《へんげ》し、男にとびかかったが、男は、さあっとゆらいで消えてしまった。
そのとたん、男がみせていた幻がすべて消えさり、トロガイは、嵐のような風が吹きすさぶ世界にほうりだされた。
風に散っていく花びらと、砂のようにくずれ、うすれて消えていく宮……。
「こいつは、たいへんだ!」
トロガイはつぶやき、風のなかでうずくまっているタンダにかけよろうとした。
が、タンダの姿が、ふいに砂嵐におおわれて、みえなくなってしまった。
――いかせない。
ほそく、かん高い女の声がひびいてきた。
[#ここから3字下げ]
――わたしたちは、みんな、ずっとここにいるの。
帰っておいで! わたしの手から逃げていった息子たち……!
[#ここで字下げ終わり]
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4 滅びの風と、歌声と
うごかなくなったタンダの身体におおいかぶさっているバルサを、みおろしていたシュガは、ふと、目のはしで、なにかがうごいたような気がして、そちらをむいた。
シュガは、目をみひらいた。
湖の岸辺の、草のなかに膝をついているユグノの身体が、ゆっくりとまえのめりにたおれていくではないか。
「ユグノさん!」
シュガの声に、ユンがさけぶ声がかさなった。
「皇太子殿下? 殿下! どうなされたのですか?」
シュガは、あわててふりかえった。チャグムが、ユンにささえられて、必死に身体を起こそうとしている。まるで、泥酔しているように、自分の身体をささえられず、チャグムは、ついにユンの腕のなかにくずれおちてしまった。
シュガは、人の声が、みょうに遠くからきこえてくるのに気づいた。チャグムのほうへかけよろうとするのだが、夢のなかで走っているように、うまくまえへ進めない。
バルサはシュガたちの声に顔をあげた。そして、周囲の景色がきみょうにゆがんでいることに気がついた。
湖にうつった月にむかってうずまいて流れていく風が、自分たちをもまきこんでいるのだ。
その風は、ふしぎなことに、目でみることができた。それだけではない。ユグノとチャグムの額から魂の光がふくらんで、ぬけだそうとしているのさえ、バルサの目にははっきりとみえた。そして、トロガイの額からでているのとおなじような糸が、いく本も天空をはしって湖の宮へと消えているのも。――あれが、〈花〉にとらわれた人びとの魂と、身体に残る生命とをむすんでいる糸なのだろう。
バルサは膝に手をついて、渾身の力をふりしぼって立ちあがった。
いく度となく、崖っぷちぎりぎりの危機をのりこえてきたせいなのだろうか。こういうときバルサの心は、冷たくおちついていく。
「シュガ! ユン! チャグムをゆすれ! ぜったいにねむらせるな!」
そうさけんで、バルサは、そばにだれもついていないユグノにむかって、うずまく風にさからって歩きだした。
バルサは、一歩一歩足に力をこめてユグノにちかづくと、草むらにうつぶせになっているユグノを片手で抱きおこした。
ユグノの頭は、まるで死人の頭のようにぐらぐらと肩のあいだでゆれた。その額の光は、ぐんぐん明るくなり、もがくように、外へでていこうとしている。
(タンダ。)
バルサは心のなかでタンダに問いかけた。呪術の知識がないことを、いまほど、悔やんだことはなかった。
(どうすれば、こいつを目ざめさせられるんだろう……。)
バルサは、はっと顔をあげた。ある考えがひらめいたのだ。
あたりをみまわして、バルサは大声でさけんだ。
「リー〈|木霊《こだま》〉! おまえたちの〈想い人〉が、つれさられてしまうよ!」
ここは、山のなかの水辺だ。リー〈木霊〉がすんでいるといわれている条件にあてはまる。姿がみえなくても、かならず、いるはずだ……。
「リー〈木霊〉! おまえたちの〈想い人〉をひきとめておくれ!!」
ユグノは、なつかしい母の声にひかれて、そちらへいこうとしていた。自分の魂がうまれた、うす青い庭と背の高い父……湖の底にみえる風景が、たまらなくなつかしく思えた。
――はやく、おいで……。
心地よい声がよんでいる。ユグノは、もがいて、浮かびあがろうとした。
と、ふいに、ぎゅっと、なにかが自分をつかんだ。いくつもの小さな手がすがりつき、ひきとめている。その手につかまれたとたん、思いがけぬ鮮明さで、おさないころ、はじめてきいたリー〈木霊〉たちの歌がよみがえってきた。
なにもいらない。魂をふるわせるような歌をうたうことさえできれば……。リーの呪いがかかることを知りながら、泉のほとりでリー〈木霊〉たちにむかって歌をうたった、あのときの熱病のような思いがユグノの胸にわきあがり、その歌がよびさます、身体全体が泡だち、ふるえるような熱さを思いだした。
その瞬間、母の声をよそおいながら、死へとさそっていた呼び声の魔力が、ぷっつりととぎれた。
ユグノは、すがりついているリー〈木霊〉たちに、ほほえみかけた。
(だいじょうぶだよ。どこにも、いかないよ。)
ユグノは、自分の魂が、ひゅうっと身体にもどっていくのを感じた……。
「ユグノ。」
ユグノは、バルサの声をきいた。リー〈木霊〉たちとおなじように、バルサもまた、ユグノの腕をしっかりとつかんでいる。
「目をさませ、ユグノ。」
自分の腕をつかんでいるバルサの手の熱さを、目をとじたままで、ユグノは感じていた。
祈りをこめて、つよく自分の腕をにぎっているその手から、ふるえがつたわってきた。
ユグノは、心の底のほうで、なにかがうずくのを感じた。
遠くから、チャグムの名をよぶ男たちの声がきこえてくる。何度も、何度も、くりかえしよびつづける響きと、バルサの手からつたわってくるふるえとが、ユグノのなかで、しだいにかさなりあい、ひびきあい、つよい|脈動《みゃくどう》となって、身体をゆらしはじめた。
|生命《いのち》をよぶ響き――腹の底から、全身の想いをこめてよぶ響き。
ユグノをつかんでいるリー〈木霊〉たちが、彼らの声に共鳴して身をゆすり、つぶやきはじめた。そのつぶやきがユグノの心をゆさぶり、心地よいふるえとなってわきあがっていく。
草、木々、虫、鳥、獣、魚、石、水――この山のなかの湖のほとりの、すべてがはなっている、しずかな、泡だつようなふるえがつたわってきた。
ユグノは目をひらき、身体を起こした。ゆっくりと立ちあがって、ほほえんだ。
(ふるえろ、ふるえろ。)
ユグノは、くすくすとわらいだした。泡がのぼってくるように、くすぐったいよろこびがわきあがってきた。
(さあ、ゆすってやろう、くすぐってやろう、――ふるえて、はじけろ!)
とつぜん、ユグノののどから声が吹きあがった。全身を共鳴させて吹きあげる、高い高い歌声……。
リー〈木霊〉たちがたのしげに共鳴し、葦原がふるえ、天地がふるえはじめた。
歌声は、たまらないよろこびとなって湖をわたり、湖をゆすった。
湖のなかへと消えている、たくさんの糸――生命と魂をむすんでいる糸が、歌声にゆすられて、脈うちながら、きらきらと輝きはじめた。
歌声が風となり、天地の声となった。
〈花〉の世界は、急速にうすれていた。白木の宮も、風にさらわれる砂のように、うすれて消えつつあった。
その世界に、いままでとはちがう、ふしぎな風が吹きはじめていた。
悪意に満ちた重い砂嵐のなかに吹きこめられていたタンダは、その砂嵐をはじきとばしていくさわやかな風に顔をなでられたとき、つよいよろこびを感じた。白い朝の光を顔にうけたような、おだやかなよろこびだった。
あきらめるな、と、バルサにいわれたような気がした。
「ああ。」
タンダは、つぶやいた。
「あきらめない。」
まるで、水がしみこんでくるように、身体に力がもどってきた。
カヤの目にも、光がやどった。
「……この風、いいにおいがする。|稲《いね》の花のなかをわたる風みたい。ううん、もっとつよいにおいだわ。夏の、草いきれみたい。」
ふたつの風が、世界をゆさぶっていた。
ひとつは、死のにおいのする風。もうひとつは、真夏の草原の草いきれのような、生のにおいのする、ふしぎな風。ふたつの風は、よじれた糸のようにからまりあい、渦をまき、うなりながら吹いていた。
あたり一面が、ぼうぼうと風に波うつ草原にかわっていた。
タンダは、ゆっくりと立ちあがった。中庭におちていた人びとも、風に吹かれて、かすかに身ぶるいし、身体を起こしている。
彼らは、とまどったような顔で歩きはじめた。はじめは、たよりない足どりだったが、やがて、なんともいえぬ笑顔をうかべたかと思うと、つぎつぎに、はずむような足どりで、走りはじめた。
タンダもカヤも、どこまでもひろがる真夏の草原に立って、風に波うつ草をみているうちに、腹の底から、わくわくし、わけもなく走りだしたくなってきた。ふたりは、ちょっと顔をみあわせると、はじけるように走りはじめた。ぐんぐん走れば走るほど、もっと、もっとはやく、走りたくなった。
カヤは、自分の額からのびている糸が、光っているのをみた。その糸から全身に、熱いものが、脈うちながら流れこんでくる。
(帰りたい。)
鼻の奥が、じいんといたんだ。朝、泉に水をくみにいくときの、朝露のにおい。はだしの足の裏に、冷たい草。鳥のさえずり。家族の顔。友だちの顔……。そんなものが、つぎつぎにうかんできた。
やがて、はるか頭上、青い闇のかなたに、満月がみえはじめた。
たくさんの糸が、その満月にむかってのびている。
「……舞いあがれ!」
タンダの声がきこえたときには、カヤは、まるで糸に吸いあげられるように、ひゅうっと、宙に舞いあがっていた。
うずまく風にもまれながら、満月に吸いこまれていく。まぶしい光が全身をつつんだ……。
タンダは、夢みていた魂たちが、あわくホタル|火色《びいろ》に輝く玉になり、自分の〈生命〉の糸にひっぱりあげられていくのを、じっとみおくっていた。
タンダには、ひっぱりあげてくれる糸がなかった。
(ここまでか。)
そう思ってから、はっとトロガイ師のことを思いだした。この風が吹いてくるまえ、砂嵐に飲まれるまえに、たしかに、トロガイ師をみたはずだ。あれは、〈花〉がみせた幻だったのだろうか。
トロガイ師をさがそうと一歩足をふみだしたとき、タンダは自分の足になにかがしっかりとからみつくのを感じた。それは、黒ずんだ根だった。
――おまえは、いかせない。わらわとともに永遠にねむるのだ。
根は、みるみる蛇のようにタンダにまきつき、すさまじい力でしめつけはじめた。
自分をしめつけている根から、ぽっかりとあいた黒い穴におちこんでいくような、さびしさとかなしみとが、しみこんできた。
――いかないで……。
タンダは、必死の思いですがりついている腕を感じた。……そのかなしみが、タンダの心を、ふかくゆさぶった。
(そんなにも、さびしいのか……。)
あらがおうとする気力がなえ、タンダは身体の力をぬいていった……。
そのとき、なぐりとばすような、はげしいどなり声がひびいてきた。
「……なにをしてるんだい、へぼ弟子!」
トロガイが、すたすたと歩みよって、根にまきつかれているタンダのまえに立った。
「このボケ! なにを相手にまきこまれてるんだい。わしがたたきこんだことを全部わすれちまったのかい? おまえは呪術師だろうが! 絶望した魂に共鳴して、どうする!
相手をあわれに思うなら、力のかぎりすくう努力をせんかい! さあ、さっさとそんな根っこ、ずたずたにしちまいな。」
はずかしさと安心感とがわきあがってきて、タンダは思わず苦笑した。
目をとじると、タンダはしめつけてくる力を|無視し《ヽヽヽ》、全身を水に変化させて、するりとその根の腕から逃げだした。
かなしげな叫びがあがり、根がきゅるきゅると立ちあがって〈花番〉の姿にかわった。
トロガイは、〈花番〉に歩みよると、ついっと手をのばして、その肩をつかんだ。
「……他人の陰にかくれてないで、でておいで。一ノ妃さん。」
〈花番〉の顔がゆがみ、ゆらゆらとゆらぐと、くるしげな女人の顔がその下からあらわれてきた。一ノ妃は、金切り声をあげた。
――ふれるでない! 下賎の者!
しかし、トロガイは手をはなさなかった。
「わしがトムカのままだったら、手をはなし、両手で目をおおっただろうけれど、ね、妃さま。わしは呪術師トロガイだよ。身分の外、この世とあの世の境目にいる者なのさ。」
トロガイは、しずかにいった。
「妃さま。あなたの名は?」
白い顔がふるえた。
――リアノ……。
「じゃあ、リアノ。わしはね、あんたの魂をよびにきたんだよ。」
リアノ、とよばれて、女の顔から、一ノ妃としての気位や誇りがうすれていった。その下からあらわれたのは、青白い、ふれればこわれてしまいそうな、もろい表情だった。
――わたしは、帰らぬ。
リアノは、つぶやいた。リアノの腕のなかに息子のサグムの姿がぼんやりとうかんでいた。
――皇太子サダムのおらぬ世には、もどらぬ。
トロガイは、リアノの肩をつかんだ手に力をこめた。
「……ここに、その子がいると、ほんとうに思っていたら、あんたはもっと、しあわせそうな顔をしているだろうに。――こんな呪いで〈花〉をおおったりは、しなかっただろうに。
子をうしなったかなしみは、どんなことをしても、消えてはいかない。子をうしなって五十年もたった、わしの心のなかにさえ、ふれれば痛む、かなしみがねむっているよ。
だけど、これほどかなしみながらも、生きていけるのはなんでなんだろうねぇ。……人ってのは、自分で思っているよりずっと、したたかな生き物なんだろうよ。」
トロガイの顔に、泣き笑いのような表情がうかんだ。
「さあ、だだっ子のように憎しみにしがみついて、泣くために泣くのはおやめ。あんたにふれている、わしにはわかる。あんたの憎しみ、かなしみは、うすく、白く、さらされはじめているってね。……それを、恥じることはないんだよ。」
リアノは顔をあげ、はじめてトロガイをみた。
「……いく人もの、わたしが、いるような気がする。
チャグムをさそったときは、あの子をここにとじこめて、|二ノ妃《にのきさき》に、わたしとおなじかなしみを味わわせてやりたいと、やけつくようにねがっておったのに、ここで〈花〉となって、あの子の夢を抱いているうちに、そんな気持ちがうすれていった。あの子が、ここをはなれていったときも、力づよい翼の音にまどわされ、とらえておけなかった。
ユグノを胸に抱いて、〈夢〉たちを目ざめさせる風にならないようにし、みな、もろともに小さくなって、消えていくようにとねがっていたのに、この風のなかでは、もとの世界へ帰っていくのがあたりまえのような気がしておる。……自分の魂のはずなのに、思いどおりにならぬのが、ふしぎじゃな。」
リアノは、かなしげな笑みを、くちびるにうかべた。
「わたしは、いくつもの夢をみた。男の夢、女の夢、少女の夢、少年の夢……。」
トロガイが、苦笑した。
「そりゃあ、たいへんだ。夢をみるのに、つかれたろう。」
リアノの笑みが、ふかくなった。リアノは、そっと、うなずいた。
「……十年も、二十年も、夢をみていたような気がする。」
「この風をかぐと、朝の光を思いださないかね。」
リアノは目をほそめ、生命のにおいのする風を顔にうけた。
トロガイは、〈花〉の茎に埋もれていた〈花守り〉の仮面が、黒ずみ、しおれていくのをみながら、つぶやいた。
「ごらん。この風さえも、おこすことのできない魂たちもいる。」
花房からおちたままうずくまっていた、いくつかの寝顔から生命の糸がぷつりと切れて消えさり、彼らはしずかに黒ずんで、どんどんうすくなっていく〈花〉の幹のむこうの闇へととけていった。
「ねむりは、とても、死に近いのさ。ほんとうに、つかれきった魂たちは、いま、ねむったまま、あの世の闇へすべりおちていった……。」
トロガイは、ぎゅっとリアノの腕をつかむと、力づよい声でいった。
「さあ、そろそろ目をさまそうや。いつか、いやでも目ざめられない日がくるんだから。
リアノ、あんたに、呪術師のわしができる最高の贈り物をしてあげよう。あんたを白い鳥にかえて、空を飛ぶよろこびを味わわせてあげるよ。
鳥におなり、リアノ。うつくしい翼で風をきって舞いあがる白い鳥を想いえがいてごらん。
夢のなかでは、〈想い〉こそが力なのだから!」
リアノは、とまどったように、しばし動きをとめていたが、やがて、ひとつ吐息をつくと、ホタル火色の光をはなちながら、うつくしい白い鳥へと変化していった。
「舞いあがれ、リアノ!」
トロガイの声におされて、リアノは舞いあがり、はばたくと、一直線に月にむかって飛んでいった。
トロガイはリアノが白い光のなかに消えるのをみおくると、ぼうっと月をみあげているタンダのむこうずねを、思いっきりけとばした。
「あいたっ!」
タンダは足をおさえて、うめき声をあげた。
「この、大ばか者が! てまをかけさせおって!」
タンダは、泣き笑いをしながらトロガイをみた。そして、はっと顔をこわばらせた。
トロガイは、タンダが自分の背後をみているのに気づいて、ふりかえった。
背の高い男がひとり、トロガイをみつめてたたずんでいた。トロガイは、声をうしなって、その男の顔――記憶にあるより、はるかに年老いた〈花番〉の顔をみた。
〈花番〉は、ゆっくりとほほえみをうかべた。
――わたしたちの息子が、風を入れてくれましたね。
〈花番〉の声は、かすれて、きこえにくくなっていた。その姿も、しだいにうすれはじめている。〈花番〉はトロガイとタンダをみながらいった。
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――種は無事にみのり、ほとんどの夢たちも帰っていった……。
そこにいる、あなたの、もうひとりの息子が、ずいぶん、力になってくれました。
あんなふうに、恨みをせおった〈花守り〉にしたくはなかったのだが、受粉してくれた〈夢〉の力がつよくて、なかなか思うようにすることができなかったのです……。
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「でも、ときおり、たすけてくれましたね?」
タンダがいうと、〈花番〉はうなずいた。
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――そう。〈花守り〉があの子ののどをつぶしてしまわぬよう、できるだけのことを、ね。
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〈花番〉は、月をみあげた。
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――月が、欠けはじめた。この〈花〉の時が、もうすぐ終わります。
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〈花番〉の身体はもう、うすいカゲロウの羽根のようにしかみえなかった。そのすきとおった手で、〈花番〉はトロガイの手をとった。
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――さようなら、愛しいトムカ。
〈花〉の命は永遠にめぐっていくけれど、わたしは――あなたと愛しあった記憶をもつ、わたしの時と世界は、これで消えていきます。……ほんとうの、おわかれです。さようなら、愛しい、愛しいトムカ……。
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トロガイは、ぎゅっと歯をくいしばった。
「……さようなら。」
〈花番〉はトロガイの手のなかへとけるように消えさっていった。
トロガイは、あえいだ。〈花番〉の姿とともに、自分の手に奔流のように流れこみ、とけこんでくるものを感じ、〈花番〉の最後の願いをしっかりと抱きとった。
トロガイは大きく息を吸って上をむいた。そして、ちらっとタンダをみると、鳥に|変化《へんげ》し、つよくはばたいて舞いあがった。タンダもくるりと鳥に変化し、トロガイのあとを追った。
二羽の鳥は、力づよくはばたいて、とじようとしている天空の月にむかって、ぐんぐん飛んでいった。
月は、もう半月にちかくなっていた。
「すりぬけるぞ! 身体をほそく変化させろ!」
トロガイとタンダは、まぶしい光のなかを、身をよじってすりぬけた。
そのとたん、さわやかな風が、ふたりをおしつつんだ……。
ユグノは、いくつもの光が湖にうつっている月から舞いあがり、飛びさっていくのをみた。その光たちの糸がふるえるたびに、すきとおったうつくしい音色が虚空にひびいた。
みるみるうちに|湖中《こちゅう》の月が欠けていき、さかさの宮が消えていく。――宮の光が完全に消えさった瞬間、あたかもその光をすべて吸いとったかのように輝く二羽の鳥が、湖上に舞いあがったのがみえた。
ふいに、さびしさがこみあげてきた。
生まれてからずっとみつめつづけてきた〈花〉が消えてしまった。〈花〉は、ユグノにとって、心のなかにいつも咲いている明るい|灯《ともしび》だった。
ユグノは声をあげて泣きはじめた。
周囲で、ざわめきがおきた。なにかをいっているトロガイの声がきこえ、バルサたちが、よろこびの声をあげている。……だが、ユグノには、それらは、遠いところでうごいている影絵のようにしか感じられなかった。
ユグノは、のろのろと立ちあがると、彼らからすこしはなれた、くさむらに腰をおろした。ぬけるように身体がだるい。〈木霊〉たちとうたったあとは、全身に精気が満ちてくるのに、いまはなぜか、命の|灯《ともしび》が消えてしまったような、うつろな気分だった。
ユグノは、くさむらによこたわって、目をとじた。だれかが心配そうに話しかける声がきこえたが、ユグノは、ちょっと手をふって、ほっておいてくれ、と追いはらった。
どのくらいそうしていただろうか。
ふと、ユグノは、自分がうす青い闇のなかに立っているのに気づいた。物心ついてからずっとみなれた、あの夢の庭に立っている……!
頭をめぐらすと、青い闇のなかにたたずんでいる人影がみえた。黒い肌をした、こがらな老婆に、ユグノはゆっくりとちかづいていった。
「……トロガイ師。」
トロガイは、昼間みる顔より、はるかにおだやかな表情でほほえんでいた。
「ここは、〈花の夢〉のなかなんですか?」
「いいや。おまえをわしの夢によんだのさ。……おまえにふれてみたら、さびしそうだったから。」
ユグノは、小さくうなずいた。
「〈花〉が消えてしまったとき、わたしのなかで明りが消えてしまったみたいです。……胸が、うつろになってしまいました。」
トロガイは手をのばし、おさない子にするように、そっとユグノの頬をなでた。
「ユグノ、〈花〉は消えたのではないよ。ごらん。」
トロガイがてのひらをひらくと、その、しわだらけのてのひらの上に、小さな種がひとつ、のっていた。
「……これは!」
「そう。〈花〉の種だよ。〈花番〉が最後にわしの手に残していったのさ。」
トロガイは、てのひらの上で、その小さな種をころがした。
「あの〈花〉は、いったいなんだったんだろうね? いつうまれたのか、どこからきたのか。……あそこでみていたような、灯色をした花なのかさえ、わしにはわからないんだよ。」
トロガイの手の上にのっているのは、どこにでもありそうな茶色の小さな種だったが、ユグノがみているうちに、ふいにその種のかたちがゆらぎ、かわりに白い大きな種があらわれた。あっけにとられてみているうちに、その白い種はふたたび、ゆらゆらとかたちをかえて茶色の種にもどっていった。
「|種《ヽ》でありさえすれば、どんな色、どんなかたちへでも|変化《へんげ》するけれど、石にかわることはない。これはね、|その性格にあうものでありさえすれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、夢にえがくことで、いくらでも姿をかえるものなのさ。」
トロガイは目をあげて、ユグノをみた。
「夢にえがかれることで姿を得る花だから、受粉した一ノ妃の夢に、あんなふうに支配されてしまったのだろうね。……それでも、受粉し、種を残して散っていくという性格だけは、まもられていたのさ。」
トロガイは、片頬をゆがめた。
「〈花番〉はね、きっとそれをまもっている力なんだろうよ。夢に支配されながらも、種を残して散っていけるように、まもっていた番人なんだろ。」
「じゃあ、〈花守り〉は?」
ユグノの問いに、トロガイはにやっとわらった。
「〈花守り〉は、おまえのお守り役だったんじゃないかねえ?」
「え?」
「ちがう世界にいる、たいせつなおまえをまもるために、その世界からさそいこんだ魂を支配して、身体をあやつる――もともとは、そういうものだったのだろうよ。」
「それが、一ノ妃の意思で、ねじまげられてしまった……?」
うなずいたトロガイの笑みが、ふいに毒をふくんだものにかわった。
「だけどね、たぶん、一ノ妃の意思と〈花〉の意思のあいだには、ひとつだけ共通点があったのさ。……おまえが〈花〉との絆をたちきって、逃げさってしまうのをふせぐという、ね。
おまえを、あの夜、〈花〉のもとにつれてくるために、〈花守り〉をはなったという点では、きっと、ふたつの意思は一致していたのだろうよ。」
ユグノは、ぞっと肌が栗だつのを感じた。
「ただ、一ノ妃は、おまえののどをつぶそうとしていた。――それは〈花〉の意思ではなかった。〈花番〉は一ノ妃に〈花〉を支配されすぎぬよう、できるだけのことをした、といっていた。」
トロガイは種をつまみあげた。
「この〈花〉は、きっと、綿毛を風にのせて遠い土地へと種をはこばせる花のような生き物なんだろう。
おまえが、リー・トゥ・ルエン〈木霊の想い人〉となったのも、きっと偶然じゃないんだろうよ。人の〈魂〉も〈生命〉もともにふるわせる歌をうたい、長い長い生命を得て、国々を旅してまわるおまえほど、綿毛をのせてはこぶ風にふさわしい者はいないものね。
〈花〉とふかくとけあっていた一ノ妃は、そういう〈花〉の性質を感じとっていたのかもしれない。だから、おまえが生命の風を吹きこんで、〈夢〉たちをときはなってしまうことをおそれて、〈花守り〉に追わせたんだろう。
悪夢のなかで、おまえが、おそろしい母親に、〈花守り〉にのどをつぶさせ、歌をうたえなくしてやるっていわれたときいたとき、なぜ、そんなにおまえに――おまえの歌にこだわっているんだろうとふしぎに思ったけど、そう考えてみると、ね、わかるだろう?」
ユグノは力なくほほえんだ。
「……そして、わたしの役目は終わったわけだ。だから、こんなにからっぽになってしまったんですね。」
トロガイは笑い声をたてた。
「とんでもない。おまえの人生は、まだまだこれからさ。」
ユグノは、のろのろと首をふった。
「でも、なんだかすごくつかれてしまいました。……うたいたいという気持ちさえ、かれてしまった……。」
トロガイは笑いをおさめると、そっとユグノの手をなでた。
「ユグノ、おまえはね、夜明けと夕暮れの子なんだよ。このうす青い闇のように、夜と昼との境目にいるんだ。
おまえの歌は、明るい日の光のように生命をふるいたたせる力をもっている。――その力の源はね、夜の夢だったのさ。ねむりは昼のつかれをいやし、夢は魂をいやしてくれる。悪夢さえも、魂の底にひそむ傷をむきだしにし、風にさらしてかわかしてくれる……。
リーたちは、おまえの魂と共鳴して〈歌〉をうみだしてきた。おまえにとって、夢みることは、うたう力そのものなのさ。」
ユグノはくちびるをかんだ。トロガイは、しずかに問いかけた。
「おまえはうたいつづけたいかね? それとも、ふつうの人とおなじように生きたいかね? 人というのは、つよい生き物だよ。たとえ歌をなくしたとしても……おまえが、いま感じている空しささえ……日々をすごすうちに、ゆっくりと慣れて、やがては消えていくだろう。なにか、別に生きる道がみつけられるよう、わしがたすけてやろう。きっと、おだやかにくらしていけるだろうよ。」
ユグノの顔がゆがんだ。かなしげな笑みをたたえ、ユグノは、ゆっくりと首をふった。
「わたしは……、わたしは、うたわずには、生きていかれません。」
トロガイは、うなずいた。
「それなら、手をおだし。」
トロガイが、なにをしようとしているのかをさとったとたん、背筋に寒気がはしった。
(あのときのようだ……。)
ユグノは思った。泉のまえで、はじめて歌をうたった、あのおさない日の恐怖と、それをうわまわるつよい想い……。
(いま、もう一度、あのときとおなじわかれ道にきている。)
ユグノは、そう思った。これまで何度思ったことだろう? あのおさない日に、泉のそばでうたわなかったら、いったいどんな人生がまっていたのだろうか、と。
だが、いまはよくわかった。……わかれ道のむこう側にまっている、どんな未来の幸福も、こちら側にまっているかもしれない不幸も、うたいたい、というこの気持ちとくらべれば、色あせてしまうことを。
ユグノは、そろそろと手をだした。そのてのひらに、トロガイは〈花〉の種をおいた。
種には、人肌のようなあたたかさがあったが、みる間にゆらいで、手のなかにしみこんで消えてしまった。――身体じゅうにじんわりとした熱がひろがった。
そのとたん、熱とともに、〈花〉のなかでまどろんでいた〈夢〉たちの記憶が、奔流のようにユグノの魂に流れこんできた。
ユグノは、あえいで、両手で顔をおおった。
人びとの思いが……やけつくような願いが、そして、それがかなわないことへの、せつないかなしみが、うずまいて流れこんできたのだ。
いくつもの人生が、めまぐるしい印象の激流となってユグノのなかをぐるぐるとめぐっていく。人びとのすごした長い長い歳月が、一瞬のうちになだれこんでくる……。
やがて、その〈夢〉の渦は、しずかに魂の底にしずんでいった。――そして、種が完全に魂にとけたとき、ユグノの魂は、根底から変化していた。
ゆっくりと両手をおろし、ユグノは顔をあげた。
肌も髪も、二十代の若者のままだったが、ユグノの目と表情に、トロガイははじめて、ふかい歳月の色をみた。
その瞳からは、おさな子しかもてぬような、あの底ぬけに明るい色は消えさっていたが、そのかわり、人の心の痛みを自分の痛みとして感じられる者の奥ふかい光があらわれていた。人びとの夢を自分の心にとけこませたことで、夢みることが秘めている痛みを――夢をみずにはいられない人の痛みを、ユグノは、はじめて知ったのだった。
「おまえは、〈夢〉たちをしっかりと抱いたね。」
トロガイは、かすかにほほえんで、ささやいた。
「おまえの歌は、これまでのようなかろやかな明るさはうしなってしまったかもしれない。
そのかわり、木霊たちとうたうときでなくとも、きっと、人の魂をふかくふるわせる歌をうたえるようになるだろうよ。――わしがこの世を去るときには、おまえをよぶから、その歌で、わしをあの世へと送りだしておくれ。」
ユグノはうなずいた。トロガイはユグノの手をとった。
「はるかなむかし、おまえの魂から〈花〉がうまれたのか、〈花〉からおまえの魂がうまれたのか、それとも、もともと、そういうひとつの生き物だったのか、それはわからない。……けれどね、きっと、おまえと〈花〉は、わかちがたく、たがいにからみあっているんだよ。」
トロガイは、ユグノをみつめ、まるで呪文をとなえるようにつぶやいた。
「おまえは夜明けと夕暮れの子。うす青い闇の子。〈花〉の種の|綿毛《わたげ》をのせて、遠い世界へとはこぶ風。
おまえのなかでこの種はまどろみ、おまえが夜をむかえたときに、芽吹いて、おまえの最後の夢でかたちを得、だれかの夢をさそい、やがてまた花を咲かせるだろう。……たぶん、これまで、ずっとそうしてきたように。ひとつの輪の終わりは、もうひとつの輪のはじまりなのさ。」
ユグノは、トロガイをみつめた。トロガイは、力づけるように、ユグノの肩をたたいた。
「かろやかにうたいながら、飛んでおいき。わしの夢の息子よ。」
ユグノは、まどろみから目ざめ、ゆっくりと身を起こした。夜が明けているかと思ったが、まだあたりはまっ暗だった。焚き火の光がゆれ、バルサたちが、心配そうにタンダをかこんでいるのがみえた。……長い夢をみていたはずなのに、トロガイと夢で語りあったのは、ほんのわずかの時間だったらしい。
焚き火のわきによこたわっていたトロガイが身を起こすのがみえた。トロガイは頭をめぐらして、ユグノをみつけると、ちらっと、ほほえんだ。
そして、どっこらしょと立ちあがり、タンダのそばへ歩いていった。
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5 目ざめ
冷たいものが顔にあたり、タンダは目をさました。目をあけようとしたが、まぶたの上が重くて、あけられなかった。
「……左足首が、きれいに折れている。」
「ジンが|手刀《てがたな》で折ったんだろう。わたしがはずした肩関節ははまってるみたいだけれど、やっぱり、ひどくはれあがってるね。あ、そうだ。たしか左の鼓膜もやぶったおぼえがあるよ。」
バルサの声だ、とタンダは思った。ワーン……と、みょうな反響音をともなっていて、よくききとれなかったが……。もうひとりの声は、まったくききおぼえのない声だった。
「いちばんの問題は、過労ですね。」
「そうだね。きっと、ほとんど物を食べていないだろうし。――左足が折れた状態で、どうやって、ここまで、あんなにみじかい時間でたどりつけたのか、いまでもふしぎだよ。」
と、ききなれた咳ばらいが、耳もとでひびいた。
「ふん。つかれや、痛みを感じない状態だったからねぇ。わしらは馬をつかったけれど、馬が走りやすい道をえらんで遠まわりしたし、とちゅう、何度もやすんだしね。」
師匠の声だ、と、思ったとき、ふいに、全身の感覚がもどってきた。タンダはうめいた。痛い、というより、たまらなく重い。全身に鉛を流しこまれたような感じだった。
かわいた手が、頬にふれた。
「タンダ! 気がついたのかい? タンダ、きこえるかい?」
バルサの声はきこえたが、返事をするどころではなかった。
「うめいてる。」
「そりゃ、うめくだろうさ。ひどく、きついんだろ。……おいおい、バルサ。おまえらしくない。うろたえるんじゃないよ。」
トロガイの、あきれたような声がきこえてきた。
「だいじょうぶだよ。こいつの〈生命〉はよわってはいるけど、死ぬほどじゃあない。このわしのみたてを、信じられないのかい?」
「信じてますよ。だけど、痛みをやわらげる薬かなんか、ないんですか。さっき、わたしにくれた薬は、ずいぶんよくきいてますよ。あれを飲ませてやっちゃ、だめですか?」
ガサガサと、油紙をひらいているような音がした。
「そうだね、気がついたらしいから、こいつを飲ませてみよう。頭を起こしておくれ。」
バルサの手だけでなく、だれかのがっしりした手が身体をささえて起こしてくれた。気をつけて、ゆっくりと起こしてくれたのだが、それでも、ひどい目まいがおそってきた。
額にのっていた冷たい布が膝におちて、ようやく目がみえるようになった。ぐるぐるまわっている周囲が、ゆっくり、ゆっくりおさまってくると、心配そうに自分をみつめている、たくさんの顔が、ぼんやりとみえた。
まだ夜中なのだろう。さかんに焚き火が燃えている。口にひんやりとした水があたった。
「タンダ、水だよ。わかるかい? 薬を飲むんだ。むせないように、しっかり飲むんだよ。」
薬の苦味が、口のなかにひろがった。
(……ライゴルの根だ。こいつを、こんなに飲んだら、ねむってしまうぞ……。)
そう思ったのを最後に、タンダはまた、ふかいねむりにおちこんでいった。
つぎに目がさめたときは、まぶたに白い光がおどっていた。顔全体が、ぼんやりとあたたかい。やわらかい、朝の日ざしだった。
タンダは、目をとじたまま周囲のざわめきをきいていた。脂ののった魚の焼けるいいにおいがただよってきた。灰のなかで蒸し焼きにされている、うす焼きのラーダのにおいもしている。
「……肩は、だいじょうぶ?」
チャグムの声がきこえてきた。
「ああ。シュガさんのまいてくれた包帯がきついから、ちょっと痛いし、うごかしにくいけれどね。」
バルサがこたえると、|昨夜《さくや》きいた、ききなれない男の声がきこえてきた。
「すみませんね。でも出血がずいぶんひどかったんですよ。傷もけっこうふかかったし。」
バルサが低い声でわらった。
「べつに苦情をいってるわけじゃないよ。手当をしてくれたことには、感謝してるよ。」
「いつも、手当をしてくれてたやつは、ここにのびてるしな。」
トロガイ師の、笑いをふくんだ声がきこえた。
だれかがちかづいてくる気配がして、光がかげった。額に、かわいた、あたたかい手を感じた。――バルサの手だ、とタンダは思った。
目をあけると、今度こそ、はっきりとバルサの顔がみえた。半年ぶりなのに、まったくかわらぬその顔に、ゆっくりと、ほほえみがうかんだ。
「よう。」
耳に心地よい、低い声。タンダも、かすかにほほえんだ。
「……帰ってきたんだな。」
くやしいほど、よわよわしい声しかでなかった。
「ああ。――いろんなことがあったんだよ、この半年。ほんとに……。旅のあいだ、ずいぶん、ふしぎなこともあって、あんたがいたらなぁと思ったことが、何度もあったよ。」
槍ダコのあるかたい指が、思いがけぬやさしいしぐさで、額にはりついているタンダの髪をかきあげた。
「もうすこし元気になったら、話してやるよ。――あんたが、あっちへ魂を飛ばしてたあいだのことも、みんな……。」
タンダは、うなずいて目をとじた。そしてまた、ふかいねむりに吸いこまれていった。
タンダがねむったのをみとどけると、バルサは立ちあがり、焚き火のそばへもどった。ユグノがなれた手つきで灰のなかからラーダをとりだして、ぽんぽんと灰をたたきおとしている。
「さあ、できましたよ。食べましょうや。」
トロガイが、まっさきに手をだした。米の|粉《こな》を水と塩で練って、うすくのばして蒸し焼きにするラーダは、焼き魚をまいて食べても、干し肉をまいて食べてもうまいのだ。
みんな、思い思いに、焼き魚をまいたり、持参した干し肉をまいたりしている。〈狩人〉たちが干し肉を食べているのをみて、チャグムが声をかけた。
「ゼンもユンも魚を食べよ。わたしが釣ってよいといったのだから、心配することはない。〈山ノ離宮〉では、|下仕《しもづか》えの者たちも、この湖の魚を食べているのだから。」
そういわれて、ふたりは顔をみあわせると、自分たちが湖で釣ってきた魚に手を増した。
「……ふしぎな一夜でしたね。」
シュガが、ぽつんといった。そして、ラーダをほおばっているユグノに、目をむけた。
「もちろん、あの花の咲く宮もですが……、わたしには、あなたの歌がもっとも驚きだった。」
「――あんた、リー・トゥ・ルエン〈木霊の想い人〉なんだな。」
ぼそっと、そういったのは、おどろいたことに、いつもはひどく無口な〈狩人〉のゼンだった。ユンが、びっくりして、仲間をふりむいた。
「なんだ、そのリー、なんとかってのは。」
ゼンは、手の甲で口をぬぐった。
「おれが、まだガキだったころ、叔母のお供をして旅をした。とちゅう山道をぬけるところがあって、ヤクーの道案内をやとった。叔母は歌が好きで、しょっちゅう歌をうたってた。だが、山のなかの泉のところへきたとき、そのヤクーが、叔母に、歌をやめてくれといった。
山の水辺にはリー〈木霊〉がいる。声のよい歌い手がここでうたうと、リー〈木霊〉の呪いがかかるってな。」
ゼンは、肩をゆすった。
「そのヤクーのじいさんは、えらく話がうまかった。歌がうまい者が泉のはたでうたうと、リーに想いをよせられて一生呪われる。だが、そのかわり、身も心もふるえるようなすごい歌をうたえるようになるっていう話も、ばかばかしいとは思ったが、おもしろかったよ。」
ゼンは、ユグノをみた。
「あんたの歌をきいたとき、雷に打たれたようだった。――ああ、これかと思った。これが、あのじいさんのいってた、リー・トゥ・ルエン〈木霊の想い人〉の歌なんだなってな。」
ユグノは、肩をすくめてほほえんだが、そうだ、とも、ちがうともこたえなかった。
食事がおわり、荷づくりもおわると、チャグムがゼンに声をかけた。
「ゼン。そなた、タンダを家までせおっていってくれぬか。バルサは肩に傷をおっているし、ユグノさんでは、あの道のりを、タンダをせおって帰るのはむりだろうから。それに、ジンがどうしているか心配だ。」
「は……。」
ゼンが、ちらっとユンをみたのに気づいて、チャグムは苦笑いをうかべた。
「だいじょうぶだ。わたしは、シュガと、まっすぐ宮へ帰る。」
チャグムはみじかくそういうと、バルサに目をむけた。
「……思いがけずあえて、うれしかった。」
バルサは、ほほえんだ。そして、そっとチャグムの肩に手をおいた。
「ああ。……またいつか、思いがけずってことがあるかもしれないね。わたしらの縁は、どうやら、ずいぶんとふかいらしいからさ。」
チャグムは息を吸って、くちびるをぎゅっとむすぶと、顔をそむけた。
そのまま、ほんのわずかのあいだ、だまっていたが、ふとシュガに目をむけた。
「シュガが……、」
チャグムはバルサから顔をそむけたまま、つぶやいた。
「ここへくる道みち、おもしろい話をしてくれた。まるで、海流のように、さまざまな世界が、ちかづいては、はなれていくという話を。……人の縁も、そうかもしれないね。」
シュガのうしろに、〈山ノ離宮〉がみえている。
初夏の緑が萌えたつ山のふところにいだかれて、静かにたたずんでいる宮が、湖にもうつっていた。湖水を白いもやがわたっていくと、まるで雲にかくれたように、水鏡にうつったさかさの宮はみえなくなった。朝の光のもとでは、なんのふしぎもない光景だった。――そのあたりまえさが、心地よかった。
チャグムは、バルサに目をもどして、しっかりした声でいった。
「タンダが目をさましたら、つたえて。……ありがとうって。」
バルサは、うなずいた。
風が、葦原をざわめかして吹きぬけていく。鳥が一羽、羽をふるわせて、その風にのり、すうっと湖の上をすべって消えていった。
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終章 夏の日
蝉しぐれがふりそそぐ真夏の林をぬけると、眼下に、青あおと若い稲がゆれる田がひろがった。ぎらぎらとてりつけるつよい日ざしのもとで、いそがしくはたらいている人びとの姿がみえる。草がぐんぐんそだつ夏の田の草とりは、たいへんな仕事だ。
「……どこにいるか、みえるかい?」
タンダに肩をかして、散歩につきあってきたバルサが、たずねた。
「ちょっとまて。――ああ、あそこにいる。ほら、あの田のはしで、草とりをしているよ。」
バルサは、タンダがゆびさしたほうをみやった。がっしりした体格の女が、せっせと草とりをしている。その横で草とりをしている娘が、なにかを話しかけた。と、女が腰に手をあてて、背をのばしながら、こたえているのがみえた。
「もう、まったく、いつもどおりだな。」
タンダがつぶやくと、バルサが、ふっとわらった。
「あんたは、つくづくお人好しだよ。たいした礼も、もらわないでさ。命がけでがんばったんだから、たとえ兄弟からでも、しっかり謝礼金をぶんどりゃいいんだよ。」
「とんでもない。あの兄貴に感謝されただけで、じゅうぶんむくわれたよ。そのうえ、ナスとキュウリを山ほどもらったじゃないか。おまえと師匠があらかた食べちまったくせに。」
タンダは、そろそろと左足をかばいながら、木陰に腰をおろした。
「それに、おれの手がらってわけじゃないしね。おれは、おまえやジンさんをはじめ、みんなに、ひどい迷惑をかけただけだ。ユグノさんがいなかったら、たすからなかったんだし。」
バルサはタンダのかたわらの木によりかかった。
「ユグノか。ろくに別れもいわずに、あっさりと旅立っちまって、それっきりだね。いまごろ、どこでうたっていることやら。……あれは、ほんとうにふしぎな男だったなぁ。
このあいだ見舞いにいったとき、あんたの姪っ子が、うまいこといってたじゃないか。あいつは、あいつの歌そのものだって。心をふるわす歌だけれど、風のように吹いてきては、すうっと消えていってしまうものだって。」
「それを、わかってくれてよかったよ。」
バルサはわらった。
「なに、そんなことは、あの子も最初からわかってはいたんだろ。わかってても、どうにもならないもんだから、ああいう気持ちはさ。あの子は、ユグノに恋をしたというより、外からの風に恋をしたんだから。」
タンダは苦笑した。ユグノが、カヤのような、まだ心のやわらかい娘を歌でさそったことには、いまでもゆるせない気持ちが残っていた。うまく帰ってこられたからよいものの、ひとつまちがえば、カヤは死んでいたかもしれないのだから。
だが、風に説教してもしかたがない。……そういうユグノだからこそ、あの〈花〉の種を魂のうちにもって、生きていけるのだと、トロガイ師はいった。タンダにあの〈花〉の種の行方を教えてくれながら、トロガイ師がいった言葉が、いまも胸に重く残っている。
「ユグノに種をわたしたのはね、あいつ以外に|宿主《やどぬし》になれる者はいないからさ。
あの〈花〉は、人の夢を糧にして生きる花。だから、人の世界に生きる者を宿主にする。
だが、ふつうの人には、あの〈花〉は荷が重すぎる。……人と〈花〉とのあいだにうまれた魂でなければ、宿主の役目は負いきれないのだろうよ。
むかしはわからなかったが、〈花番〉が、わしを宿主の魂の親としてえらんだわけが、いまは、わかるような気がする。わしは、呪術師にむいた魂の持ち主だったからな。……人の夢にかかわって生きていくつよさを、わしがもっていることを、彼は感じとったのだろうよ。」
そういわれたとき、タンダはきかずにはいられなかった。……わたしには、そのつよさはないのでしょうか、と。すると、トロガイは、じっとタンダをみつめて、いったのだ。
「つよさは、あるだろうよ。でも、おまえは、あまりにやさしすぎて、人の夢にまきこまれて生命をおとすかもしれぬ危うさがあるね。ユグノが夜明けと夕暮れの子なら、おまえは真昼の子だよ、タンダ。まず、人のことを考えてしまう、やさしい春の光のような男だ。
ユグノはね、歌にみいられている。歌のためなら、なんでも犠牲にしてしまえる。
おまえだったら、たとえ自分の呪術師としての力をすてねばならなくなっても、人の魂を死へとさそうかもしれない〈花〉の種をうけいれはしなかっただろう。
でもね、真昼の子にしかできぬこともあるだろ。……万能の者など、この世にはおらん。わしには逆立ちしたってできぬことが、おまえにはできるということもあるだろうさ。」
(おれの限界を、師匠はみぬいているのだろうか……。)
トロガイ師がいったように、呪術がみせてくれる世界は底なし沼のようなもの。ふかくなればなるほど、奥ははてしなくひろがっていく。そのなかへ、人のことも、自分のこともかえりみず身を投じていくほどの、狂気にもにた熱意が、自分にはあるだろうか。
タンダは、胃のあたりに冷たいふるえが走るのを感じた。
「どうしたんだい?」
バルサの声で、タンダは、われにかえった。
「……ああ、」
タンダは吐息をついて、ふと思いついたことを口にした。
「たとえ、ユグノさんみたいな人でも、一生、ああやって流れてくらしていくうちには、ずいぶん、さびしいこともあるだろうなと思ってたのさ。」
タンダのつぶやきをきいて、バルサは、ユグノの言葉を思いだした。
(リーたちの歌は、おそろしいほどに、すばらしいよろこびをわたしにくれました。……でも、そのかわりに、それまでのわたしのすべてを――あのころのままだったら得られただろうわたしの未来も、うばっていきました……。)
「そうだね。さびしいだろうね。」
バルサは、つぶやき、ぐっと頭をそらして、青あおとしげっている葉むらをみあげた。
「だけど、よろこびもある。あの農民たちのように、大地に根づいて生きる人たちとは、また、ちがったよろこびもさ。」
タンダは、バルサをみて、ちょっと笑いをふくんだ声でいった。
「なんだか、自分のことを話してるみたいな口調だな。」
「そうさ。自分のことも話してるんだよ。」
バルサは空をみあげて、目をほそめた。
「チャグムにであって、故郷を旅して、いろいろなことがあって……ようやく、不幸の亡霊からのがれられた気がするんだよ。あんたもよく知っているとおり、ジグロは、わたしの生命をまもるために故郷をすてて、あるはずだった未来もすてて生きてくれた。生きのびるために友人たちを殺さねばならなかった、むごい人生を……。
わたしは、ずっとそのことに感謝しながら、一方で、それをけっしてつぐなえない借りにも感じていたんだ。……それが、とんでもないまちがいだってことに気づくのに、なんと、こんなに長いことかかっちまった。」
タンダは、おどろいた。バルサが、こんなふうに自分のことを話すのは、はじめてだったからだ。バルサは、おだやかな表情でタンダをみた。
「あれほどの思いをかけてくれたことを、わたしは、信じられぬほどのしあわせだと思って生きるべきだったんだ。……好きな者をまもって生きることには、よろこびもあるんだから。あんな人生だったけれど、ジグロにも、そんなよろこびがあったと思いたい。
チャグムをまもっていたとき、わたしはしあわせだった。他人のチャグムのために、死ぬかもしれない危険な闘いをしたけれど、それでも……しあわせだったんだよ。」
バルサの顔に、ちらっと笑いの影がよぎった。
「自分の不幸はガキのころから呪っていたけど、幸福をみとめる気になったのは、こんな年になってからだとは、情けない話さ。
自分の運命を呪っていたあいだは、人と闘って殺すことを運命のせいにして、それが、血まみれの手でもなんとか生きていける言いわけになっていたんだけどね。自分のしあわせに気づいたら、もう言いわけにはできない。……それなのに、わたしが考えられる稼業ときたら、やっぱり用心棒しかないときてる。」
いままでの蓄えをもとに、商売をはじめるとか、武術を教えるとか、ふつうの人であれば、いくつもの道を考えつくだろう。――だが、そういうふうに生きる気になれないものが、まだ、バルサの胸の奥にはうずいているのだ。おさないころから抱きつづけた暗い怒りは、それほどかんたんに消えていくものではない。
バルサは、草地におどる木もれ日をみつめながら、つぶやいた。
「……この身の奥にある闘いへの欲望をおさえられないわたしがいるうちは、そのための死――他人の死も自分の死も、言いわけなしの、わたしの闇さ。」
タンダはため息をついた。そして、いつになくきつい口調でいった。
「ばかやろうが。言いわけぐらい、自分にゆるせや。
もし、王位継承のみにくい陰謀にまきこまれていなかったら、おまえのそのみにくい欲望も、いまとは、まったくちがったかたちになっていたかもしれないだろう。」
バルサはタンダをみた。その口もとに、ゆっくりと笑みがうかんだ。
「もし、こうじゃなかったら……。もし、愛情ゆたかな農民の家にうまれていたら。わたしは、いまごろ、五、六人の子どもにかこまれた、おっかさんだったかもしれないね。
そして、それなりの苦しみをかかえて、ああ、もし別の人生にうまれていたら、もっとたのしいこと、おもしろいことがあったろうに、と、なげいていたかもしれない。」
目にはいりそうになったブヨを手ではらいながら、バルサは首をふった。
「もしっていうのは、苦しくなったときにみる夢だよ。目ざめてみれば、もとの自分がいるだけさ。――夢を逃げ道にできるような人生をわたしはおくってこなかった。」
タンダは目をとじた。蝉しぐれが、雨のように全身をおしつつんでいる。
「……夢から帰ってこなかった人もいるぞ。」
「え?」
「トロガイ師さ。〈花〉の夢からは帰ってきたけれど、けっきょく故郷にはもどらないで、呪術師になっちまったんだからな。」
タンダは目をあけて、田ではたらいている人びとを、ぼんやりとながめた。
わかれ道のうしろにすててきてしまった人生が、あそこにある。
ひとり、あの道をはずれ、夕闇の空にあわく光るトロガイの魂の鳥を追って暗い山のなかへわけいってから、もう二十二年の歳月がすぎてしまった。
タンダは目をとじて、あの、むせかえるような〈花〉のにおいを思いだした。夜の闇に、ぽうっとうかんだ花明りが中庭の水にうつってゆれていた、あの光景を。そして、そのなかで、しあわせそうにまどろんでいた、たくさんの夢たちを……。
昼のあいだは、おさえつけていた思いが、夜のねむりのなかでは、自由に舞いあがってしまう。――その夢たちがまどろんでいた、あの〈花〉。もし、あそこでねむっていたとしたら、自分はなにを夢みていただろう? その夢から、目ざめることができただろうか……? 夢は、身にあまるほど大きな〈魂〉をもってしまった人間にゆるされた、たったひとつの自由に舞える空であり――のがれがたい罠でもあるのかもしれない。
まえにトロガイ師がいっていた言葉が、耳によみがえってきた。
「呪術師になるような者はね、一度は、自分の〈魂〉にふりまわされ、ぎりぎりの|縁《ふち》まで、いっちまった経験があるもんさ。おまえ自身は、おさなすぎて気づいていなかったかもしれないが、あの八歳の夕暮れどき、おまえもその縁までいってしまっていたんだよ。
魂の鳥はね、あわく光ってうつくしいが、ふつうの子なら、たとえみえたとしても、その光を|おそろしい《ヽヽヽヽヽ》と感じるはずだ。――だって、魂の鳥は、死の縁を舞っていく鳥なんだからね。……あれにひかれて走ってきたおまえは、精霊の声にひかれて川に飲まれる子のように、死へとひかれていたんだよ。」
トロガイは、そういって、にやっとわらった。
「だけどね、そのときに死んでしまわずに、わしのような師にであって、いったん呪術師の仲間いりをした者は、今度は、なかなか死なないもんさ。生と死のはざまの針のようにほそい縁をおどって歩いてみせるようなしたたかさを、いつの間にか身につけてしまうからね。
タンダ、よくおぼえておおき。おまえのような呪術師見習いはね、呪術にのめりこんでいけばいくほど、闇しかみえなくなっていく。ふつうの人にはみえない、その世界こそが、真実の力のある世界なんだと思いこむ。……そして、ふつうの人びとを、かるくみるようになる。
だがね、ほんとうの呪術師なら知っているもんさ。夜の力と昼の力が、たがいにおぎないあっていることを。……いつか、おまえも知るだろう。魂のみえない、ふつうの人びとのしたたかさを。――あたりまえの日々を生きていける人びとの、つよさをさ。」
そして、いつになくまじめな目でタンダをみて、いったのだった。
「そんな、したたかな人びとでも、ふっとまようときがある。昼の力ではおさえておけない夢をかかえることがある。――呪術師はね、そんな人たちが、思いっきり飛ばしてしまった魂を、死の縁ぎりぎりのところから、つれかえらねばならない。
夜の力と昼の力の境目に立っている、わしらはね、夢の守り人なのさ……。」
タンダは目をあけて、白い真昼の光がおどる風景をみやった。蝉しぐれの音が、そうぞうしくもどってきた。
タンダはバルサに話しかけた。
「……そろそろ、ジュルソの実がみのるころだな。夏の暑さがこれだけきついから、冬はきびしくなるだろう。いつもより多めに風邪病みの薬をしこんでおかなくちゃな。つみとるのを、てつだってくれないか。」
「ああ、いいよ。……さて、それじゃ、そろそろ腰をあげるとするか。」
バルサは、タンダの腕をつかんで、立ちあがるのをたすけてやった。
そのとき、田んぼのほうから歌がきこえてきた。仕事のつらさをまぎらわせようと、だれかがうたいはじめたのだろう。いつしか歌声は、ひとつ、ふたつとふえていき、やがて陽気な大合唱となって、夏空をわたっていった。
草がはえるよ、夏の日は。とっても、とっても、はえてくる。
この草たちが米ならば、いまごろ、おれたちゃ、金持ち暮らし。
草がはえるよ、夏の日は。ぬいても、ぬいても、はえてくる。
この草たちが金ならば、いまごろ、おれたちゃ、金持ち暮らし。
ああ、ままならぬ、世のなかよ。
ああ、ままならぬ、夏の日よ……。
[#地付き](おわり)