カンピオーネ W 英雄と王
丈月城
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)草薙《くさなぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少々|自意識《じ い しき》過剰《かじょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あなた[#「あなた」に傍点]
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底本データ
一頁18行 一行42文字 段組1段
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草薙護堂は神殺しである。
草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》は限界を迎えていた。自らを取り巻く少女たちとの生活に心労を重ねる護堂は、逃亡を決意する。だが、そこに現れたのは戦女神・アテナ。今ここに神と神殺しの呉越《ご えつ》同舟《どうしゅう》がなる!? 一方、エリカと並び称される魔女・リリアナは|剣の王《カンピオーネ》・サルバトーレとともに竜の誕生に遭遇する。そしてそれは新たな神の顕現《けんげん》をも意味していた!!
Authors Introduction
著者紹介
丈月《たけづき》城《じょう》
最近、アテナはおバカでグラマーな方が
萌えると思うようになりました。
つまり何を言いたいのかというと、
桂明日香先生の『神話ポンチ』は
すばらしいと主張したいわけです。
シコルスキー
S57生まれ、神奈川在住のイラストレーター。
小説の挿絵を中心にお仕事しております。
最近は自身魚さんの絵柄にはまり中。
まるっ、ぷにっとしながら同時に力強い線は憧れです〜。
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スーパーダッシュ文庫 丈月 城の本
カンピオーネ! 神はまつろわず
カンピオーネ! U 魔王来臨
カンピオーネ! V はじまりの物語
カンピオーネ! W 英雄と王
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Characters Introduction
主要登場人物
草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》
高校1年生。
軍神ウルスラグナの権能を有するカンピオーネ、
エリカ・ブランデッリ
〈赤銅黒十字〉の魔術師。
自称、護堂の「愛人」。
万《ま》里《り》谷《や》祐《ゆ》理《り》
霊視の力を持つ媛巫女。
護堂の「正妻」と称される。
リリアナ・クラニチャール
〈青銅黒十字〉の魔術師。
「剣の妖精」とも呼ばれる魔女。
アテナ
まつろわぬ女神。以前、護堂に敗れた。
サルバトーレ・ドニ
イタリア最強の騎士にして「剣の王」。
ルクレチア・ゾラ
サルデーニャの魔女。年齢不詳。
アリアンナ・ハヤマ・アリアルディ
通称アンナ。エリカの部下。
装丁/川谷康久(川谷デザイン)
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Contents
――――――
目次
序章 p11
第1章 失われた時を求めて p20
第2章 魔女たちと剣の王 p48
第3章 英雄推参 p89
第4章 東から来た男 p135
第5章 行方不明の王様たち p173
第6章 騎士の誓い p212
第7章 荒ぶる魔王、太陽の勇者 p251
終章 p296
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序章
【二〇世紀初頭、ロンドンにて遊学中の博物学者、沙耶宮《さ やのみや》惟道《これみち》による賢人《けんじん》議会|宛《あ》てのレポートより抜粋《ばっすい》】
竜《りゅう》に九似あり。
頭は駱駝《らくだ 》に似る、角《つの》は鹿《しか》に似る、目は鬼《おに》に似る、耳は牛に似る、項《うなじ》は蛇《へび》に似る、腹は蜃《みずち》に似る、鱗《うろこ》は鯉《こい》に似る、爪《つめ》は鷹《たか》に似る、掌《てのひら》は虎《とら》に似る。
これは、漢書に見られる『竜』の形容である。
竜とは畢《ひっ》竟《きょう》キマイラ、奇怪な合成生物の類《たぐい》であると活写《かっしゃ》した名文であろう。
しかし同時に、竜を竜たらしめる最大の性質は『蛇』の外形であるとも言える。
東洋においても西洋においても、竜は長き蛇体にさまざまな畜《ちく》生《しょう》の部品、部分を寄せ集めた霊《れい》獣《じゅう》である。時代・地域によって表現方法の差異は多々確認されるが、この霊獣の最大にして不変の部位が『蛇』である事実は、古今東西の何《ど》処《こ》でも変わらない。
【ペルセウス・アンドロメダ型神話に関する、魔女ルクレチア・ゾラの覚え書き】
水辺に棲《す》む怪物(多くは大蛇、竜の類である)に人身《ひとみ 》御供《ご くう》として捧《ささ》げられた乙女《お と め》。
折《おり》よく現れた英雄が怪物を倒し、救い出した乙女を妻とする。
われわれがペルセウス・アンドロメダ型として知る説話の類型は、遠く東の果ての日本でも確認されている。彼《か》の地での最も知名度の高い例は、八岐《やまたの》大蛇《おろち》の伝承であろうか。
スサノオなる男神が八岐大蛇を倒し、クシナダヒメを妻にめとる。
そして彼は、屠《ほふ》った大蛇の尾より|天 叢 雲 剣《あまのむらくものつるぎ》を得るのだ。
ここでスサノオは『蛇』より『剣』を獲得する。
これは我ら欧《おう》州《しゅう》の魔女が熟知する、あの図式とまったく同じ構造である。
たとえば竜ファーヴニルの殺害によって不死身となる英雄ジークフリート。たとえば湖《みずうみ》の妖精《ようせい》より庇《ひ》護《ご》と霊剣をたまわるランスロット・デュ・ラック。
――つまり、鋼《はがね》の英雄たちと、大地と水の神霊たる竜たちの隠れたる共生関係の構図と。
【バカンスに備えるリリアナ・クラニチャール、『王』との面談へ赴《おもむ》くことになる】
もうまもなく月も改まる、七月の下旬。
欧州では、真夏のこの時期はバカンスのシーズンである。
長期休暇を取って避暑地に、あるいは海辺に出かけるのもいい。別荘を借りてのんびり過ごすのもいいだろう。自宅で悠々《ゆうゆう》と遊び暮らすのも悪くない。
だから、リリアナ・クラニチャールが自室の鏡の前で、己《おのれ》の水着姿をチェックしていても、誰かに文句を言われる筋合いはない。
ない、はずなのだが。
「……や、やはりダメだ。こんな格好をして、人前に出るわけにはいかない!」
リリアナは鏡に映る己の姿を前にして、自《みずか》らダメ出しをしてしまった。
海でのバカンスを予定する今夏。新しい水着を試着しているところだったのだが――。
スレンダーな肢体《し たい》を包む、白いビキニの上下。
ほっそりと華奢《きゃしゃ》な体つきでありながら、つつましくふくらんだバストや女性らしい丸みを帯びた腰回り、十分にやわらかいくせにガラス細工《ざいく 》じみた細さの両脚などが、妖精めいた可憐《か れん》さ、危《あや》うい均衡《きんこう》の少女らしさを醸《かも》し出している。
そんな自分の姿を、リリアナは絶望的な思いで凝視《ぎょうし》した。
――ダメだ。これでは露出が大きすぎる! 何てはしたない!
透き通るように白いリリアナの肌の面積が、青のラインが鮮やかな水着のそれを圧倒的に凌駕《りょうが》し、駆逐《く ちく》してしまっている。
たしかによく似合ってはいるのだが、やはりまずかろう。
この装いがきっかけで何かあったりするかもしれない。だが、ダメなものはダメだ。
……照りつける真夏の太陽。じりじりと熱く灼《や》けた砂浜。
……そこを恥じらいつつも歩く水着姿のリリアナ。そんな彼女の姿に思わず目を奪われる紳士(やはり水着で、日焼けしたスポーツマン風か。きっとハンサムだ)がいる。
……ふとした拍子《ひょうし》に目が合い、はにかむリリアナ。上品に笑いかけてくる紳士。その場はそれでおしまいだが数時間後、偶然にもふたりは再会し――。
「な、何を考えているのだ、わたしは……。そんなことよりもカレン!」
「何でしょう、リリアナさま? その水着、お気に召しましたか?」
リリアナの呼びかけに、うしろで控えていた専属メイドが落ち着いた声音《こわね 》で答えた。
カレン・ヤンクロフスキ。
メイドの衣装に身を包む、小柄で可愛《か わ い》らしい少女だ。
年齢一四歳。本来なら学業に専念しているはずの年代である。
だがカレンは、クラニチャール家の所属する魔術結社〈青銅《せいどう》黒十字《くろじゅうじ》〉で修業する魔女見習いだ。結社の運営する私立学校に通い、飛び級を繰り返して、すでに高等学校レベルの課程を終えてしまっている。
今はリリアナのもとで働きつつ、魔女としての教育を受ける身の上だった。
「せっかく買ってきてもらって何だが、この水着はわたしには少々似合わないようだ。ちょっと派手すぎるように感じるぞ」
「とんでもない。よくお似合いでございますよ」
「いや! こ、こんなに布地のすくない水着を着るのは淑女《しゅくじょ》として問題があるだろう!」
「いつもおっしゃっているではないですか。自分は騎士であって淑女などではないと」
「うぐっ、たしかに。じ、じゃあ乙女として! そうだ、わたしは清らかなる乙女として、このようにいかがわしいものを身につけるわけにはいかない!」
声高らかに、リリアナは宣言した。
だがカレンは小さくため息をつき、駄《だ》々《だ》っ子《こ》でも眺めるように生温かな目つきになった。
「左様《さ よう》でございますか。まあ、リリアナさまがそうおっしゃるのでしたら、新しい水着を用意いたしますが……少々|自意識《じ い しき》過剰《かじょう》ではございませんか?」
主《あるじ》に向かって、抜け抜けと言う。
カレン・ヤンクロフスキは優秀な魔女見習いであり、有能なメイドであり、そして何より毒舌《どくぜつ》と批判精神の持ち主であった。
「水着なのですから、布地の面積がすくないのは当然にして必然です。そのように些末《さ まつ》なことを気にされるなど、ずいぶんと器《うつわ》がお小さい……ああ、申し訳ございません。つい頭に思い浮かんだ言葉を口に出してしまいました。お許しください」
まったく誠意の感じられない口調で謝罪されて、リリアナは眉《まゆ》をひそめた。
だが、この程度の皮肉で意思を変えたりしてたまるものか。
「では、こちらの水着などいかがでしょう? 念のため、もう一着用意しておいたものです。色は青のワンピース。全然可愛らしくもありませんし、色気のかけらもない野《や》暮《ぼ》ったさが唯一《ゆいいつ》の特徴という、おもしろみのない品ですが――」
「ちゃんとおとなしめのもあるじゃないか。最初から、そちらを出せばいいものを」
カレンがすぐそばのテーブルから取り上げた水着を見て、リリアナは安堵《あんど 》した。
だが従順ならざる曲者《くせもの》メイドは、わざとらしく憂《うれ》いのある表情を作る。
「ええ、一応は用意しておきました。ですが、今年のエリカ・ブランデッリさまの水着は一見スポーティーで機能的でありながら、あの方らしい華やかさと大胆さを強調してくれるビキニタイプだそうです。これではとても、勝負にはなりませんわね……」
「……何だって?」
聞き流すつもりのリリアナだったが、仇敵《きゅうてき》の名を出されて釣り上げられてしまった。
「カレン……エリカの今年の水着のことを、どうして知っているんだ?」
「ご存じですか、アリアンナ・アリアルディ? 実はわたくし、エリカさまのメイドを務めている彼女と親交があるのです。昨日、電話でおしゃべりした際に聞き及びました」
「あ、あの悪魔女のメイドと、いつの間にそんな関係に!?」
「この程度で驚かれないでください。リリアナさまの、そして我ら〈青銅黒十字〉のライバルであるエリカさまの動向を把握《は あく》しておくための布石《ふ せき》です」
女主人の驚愕《きょうがく》を澄まし顔で受け流しながら、小柄なメイドは答えた。
「エリカさまとリリアナさまは不思議とご縁のある間柄ですから、どこかの海かプールでばったりお顔を合わせるかもしれません。……そうなったら最後、こんな野暮ったい水着では到底勝負にならないと心配していたのですが」
「それは杞憂《き ゆう》というものだ。あのいやらしい雌狐《めぎつね》は、七人目のカンピオーネをたぶらかすため日本にいるはずだ。この夏は絶対に顔を合わさない」
エリカへの敵愾心《てきがいしん》を利用して変な格好をさせるつもりなのだろうが、そうはいくものか。
リリアナはふふんと鼻で笑いながら、カレンの意見を退《しりぞ》けた。
「あら、ご存じではなかったのですか? エリカさまは今、愛人である草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》さまのお供でイタリアに戻っていらっしゃいますよ」
……予想外の情報がもたらされた。
リリアナはしばらく無言で考え込んだ。幼少の頃から繰り返してきた、エリカ・ブランデッリとの戦いの日々。武芸では勝ったり負けたりとほぼ互角。魔術ではあの女の専門分野である錬鉄《れんてつ》術《じゅつ》ではかなわないが、全体的には自分の方が勝っている。
そして要領のよさ、社交術では圧倒的にあちらが上。
そこが足かせになるのか、女としての魅力、存在感では常にエリカの方が上であるように言われる。容姿やスタイルでは負けていないと思うのだが、なぜか。
……いや、たしかに自分の方が無骨《ぶ こつ》だったり、口《くち》下《べ》手《た》だったりはするが。
いやいや、あの女がまるでダメな家事全般、特に料理の腕ではこちらの圧勝だ。リリアナ・クラニチャールは、これでも家庭的な女なのだ。
「では、今着ていらっしゃる水着はおやめになるということでよろしいですか?」
物思いにふけっているところで、唐突《とうとつ》に訊《き》かれた。
リリアナはうなずきかけて、しかし躊躇《ちゅうちょ》した。いいのか、それで。本当にいいのか?
理屈で言えば、何の約束もなしにエリカと、しかも海で遭遇《そうぐう》する可能性などゼロに近い。だが、自分とあの女の腐《くさ》れ縁《えん》ぶりを思うと、ゼロが一〇にも二〇にもなっていく――。
「……いいや。改めて鏡を見たら、これはこれでイケているようにも思えてきた。二着も用意してもらって申し訳ないが、今年はこの一着目でいこう、うん」
「左様でございますか。かしこまりました」
平静を装って言うリリアナと、いかにも控えめなメイドらしく申しつかるカレン。
……実はリリアナの祖父でもあるクラニチャール家当主が、孫娘の色気のなさを憂《うれ》えて『せめて、もっとマシな格好をしてくれればよいのだが。どうにかならんものか』『では当主様、わたくしにおまかせくださいませ』『おおそうか、成功の暁《あかつき》には特別手当を――』などという約束をメイドとしていたりするのだが、今のところは語られる予定のない物語である。
ともあれ、女主人も専属メイドもそれぞれに納得のいく結果が出た直後。
リリアナの携帯電話がメロディを奏《かな》で、着信を知らせた。
「はい、こちらはクラニチャール……ああ、おひさしぶりですね、ディアナ。え、サルバトーレ卿《きょう》? ええ、連絡を取ることは可能ですが……あの方の御力《おちから》を必要とする事態など、滅多《めった 》に起きるものではないでしょう? ヘライオン? あの蛇と雌牛の印が!?」
電話に出たリリアナは、会話を終えてすぐに携帯のアドレス帳を呼び出した。
イタリアが誇る剣のカンピオーネ、サルバトーレ・ドニ。
彼の連絡先へと電話し、その助力を要請するために。
そうしながらも、リリアナはかたわらに立つメイドへと呼びかけた。
「すまないがカレン、今年のバカンスは中止になりそうだ。サルバトーレ卿をお呼び奉《たてまつ》り、これからすぐにナポリへ向かう。旅の準備を頼む」
「かしこまりました、リリアナさま」
これがリリアナ・クラニチャールを『まつろわぬ神』との戦いに引き込む、新たな冒険のはじまりであった。
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第1章 失われた時を求めて
1
女ばかりの集団に男がひとりだけ。
そんな状況を極楽《ハライソ》、この世の楽園だと思う人間はちょっとおかしい。
最近、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》はそう思うようになっていた。
とにかく、肩身が狭いのだ。居心地も悪い。心が安まらない。
今年の夏休み、護堂は何の因果か日本を離れ、南イタリアのサルデーニャ島で夏休みを過ごすことになった。
この島は四国と同じほどの面積を持ち、真夏のリゾート地としてよく知られている。
島の北東部にあるエメラルド海岸は、特にセレブ御用達《ご ようたし》のビーチとして有名だ。もっとも、護堂たちが滞在している場所はこちらではなく、西海岸沿いの一角である。
空港のあるアルゲロ市にも近く、観光名所も多い辺りだ。
ゴシック、バロック、ルネッサンス様式の建築物など、さまざまな名所《めいしょ》旧跡《きゅうせき》。
そして何より、美しい海と砂浜。
少々暑すぎることを除けば、真夏のバカンスを楽しむにはもってこいの土地だった。
にもかかわらず、護堂の心は晴れやかとは言えなかった。
全《すべ》て、いっしょに滞在している女性陣のせいだ。現地に到着してから、すでに四日が経過している。その間、一日たりとも心おだやかに過ごせはしなかった。
たとえば、今日の早朝なども――。
貸別荘の一室で、さわやかに起床した護堂が洗面所へ向かう。
そこで歯磨きなどを済ませた直後、何者かに背後から襲撃されてしまった。
猿《さる》ぐつわをかまされ、手足を手錠《てじょう》で拘束《こうそく》され、目隠しまでされる。そうして別荘の外へ連れ出され、何やら小さなゴムボートらしき乗り物に放り込まれてしまう。
そこから約二〇分後。
沖合まで漕《こ》ぎ出したボートの上でようやく拘束を解かれ、理不尽《り ふ じん》な言葉を聞かされるのだ。
「やっとふたりきりになれたわね、護堂。待ちくたびれちゃったわ」
発言者は当然のことながら、エリカ・ブランデッリである。
赤みがかった金髪を誇らしげに掲《かか》げる美少女は、とても華《はな》やかで、そして得意げな表情であった。護堂はめまいにも似た感覚を味わいながら、彼女の意見に異《い》を唱えた。
「ふたりきりになったんじゃなくて、誘拐《ゆうかい》をしたって言わないか、この状況は?」
「言わないわ。……だって、こうなったのも全部、護堂が悪いせいだもの」
まったく悪びれずに、しかも楽しそうにエリカが言う。
天上天下《てんじょうてんげ》、唯我《ゆいが 》独尊《どくそん》。仏陀《ぶっだ 》は誕生時にそう言い放つたという。この少女が同じ行為をしていても、護堂はまったく驚かないだろう。
「どんな悪《あく》行《ぎょう》を犯したせいで俺がこんな目に遭《あ》っているのか、きちんと教えてくれ。今後、平穏無事な生活を送るために役立てたい」
「もちろん、わたしとふたりきりになろうとしなかった罪のせいよ」
サルデーニャ島に到着した初日、護堂はひどく情熱的なァプローチをエリカから受けた。
以来、そのような事態の再発を防ぐために、彼女とは極力ふたりきりにならないよう細心の注意を払いつつ行動してきたのだが。
その報《むく》いがこんな形で返ってきたのか。鶏《にわとり》が先か、卵が先か。惨事《さんじ 》を防ぐために取った行動が、さらなる悲劇を生み出すだけだったとは。結局、何をしても同じ結果に終わるのであれば、人生とはひどく空虚《くうきょ》なものではないか。
……護堂は思わず、無意味なモノローグで現実|逃避《とうひ 》しかけた。
そこへにじり寄ってくるエリカ。
当然のように水着姿の彼女は、護堂には正視しがたいほど蠱惑的《こ わくてき》で、肌の露出もすごかった。
素肌が密着し、顔が近づき、誘うような唇《くちびる》が距離をせばめてくる。
ダメだ。このまま現実から目を逸《そ》らしていては、致命的《ち めいてき》な結果を招いてしまう。具体的には、三日後にはエリカと婚約していても不思議ではないほどの状況だろう。
――力比べ、格闘戦で対抗するのは不可能だ。
彼《ひ》我《が》の戦力差を計算した護堂は、次の一瞬に懸《か》けた。
消耗戦《しょうもうせん》を挑《いど》んでも、じりじりと体力を削り取られるだけ。ならば、刹那《せつな 》の攻防に全てを託す。
甘やかなアプローチのためにエリカが気を緩《ゆる》めた、そのとき。
護堂は、えいと、海面に身を躍《おど》らせた。
「あ、待ちなさい護堂! わたしにここまでさせて、どこへ行くつもり?」
「悪いが、俺はひとりで帰る! 追いかけてくるなよ!」
着ていたTシャツを水中で脱ぎ捨て、波に揺られながら遥《はる》か遠くのビーチを視認する。
そのまま力の限りに泳いで、泳いで、泳ぎ切った。
どこかも定かでない沖合から、砂漠の蜃気楼《しんき ろう》のように遠い砂浜への遠泳。肉体的にも精神的にもひどい苦行《くぎょう》であった。
そんな難《なん》行《ぎょう》を終えて、帰り着いた貸別荘では。
万《ま》里《り》谷《や》祐《ゆ》理《り》とルクレチア・ゾラが、ふたりいっしょに待ちかまえていた。
「護堂さん……朝から一体どちらへいらっしゃっていたのですか?」
祐理が玄関の前に立ちはだかり、問いかけてくる。
いかにも純和風といった雰囲気《ふんい き 》の彼女だが、やや茶色がかった黒髪のせいか地味な印象はない。ほどよく抑《おさ》えられた華やかさと透明感を持つ美少女なのだ。
だが今、いつもはおだやかな祐理のまなざしが怖かった。
あからさまに険しい目つきをしているわけではない。むしろ、静謐《せいひつ》とさえ言いたくなるほど澄み切ったまなざしだ。そこからは、強い意志と気高《け だか》い義務感が見て取れる。
――鳴《あ》呼《あ》。何だか知らないけど、また万里谷が怒っている。
護堂は心のなかで嘆《なげ》いた。
ここ数カ月のつきあいで、この表情が危険の兆候《ちょうこう》だということを思い知っている。菩薩《ぼ さつ》のようなやさしさと夜叉《や しゃ》の怖さを併《あわ》せ持つ、類《たぐ》いまれな少女なのだ。
ついでに、軒先《のきさき》でロッキングチェアを揺らしている魔女の方も眺めてみた。
「ほほう、日本の女子大生が旅行中にサン・ピエトロ大聖堂《だいせいどう》に落書き。ついカッとなってやった。今は後悔している……まったく、嘆かわしい真《ま》似《ね》をしてくれるものだな」
わざとらしく新聞など広げながら、ルクレチア・ゾラはつぶやいている。
亜《あ》麻《ま》色《いろ》の髪と超絶グラマーな肢体《し たい》を誇る美女にして魔女は、祐理と護堂の方をちらりとも見ようとしなかった。……あやしい。
この時点で、これから起こる災難の原因が彼女にあることは容易《ようい 》に推測できた。
「護堂さん、どちらを見ていらっしゃるのですか? ちゃんと私の方を向いて、話をお聞きください。それが礼節というものです」
「あ、悪い。……ええと万里谷、何を怒っているのか訊いていいか?」
「私、怒ってなどいません。ただ呆《あき》れてはいますが。ええ、口ではいつもまじめなことをおっしゃる護堂さんが、やっぱり破廉恥《は れんち 》で不潔《ふ けつ》な方なのだとわかって失望いたしました」
おそるおそる訊《たず》ねてみると、こんな答えが返ってきた。
祐理の目の怖さがぐんぐん増していく。
「な、何か誤解があるみたいだけど、どうしたんだよ?」
「誤解などしていません。先ほど、ルクレチアさんからお聞きしました。今《け》朝《さ》早くに護堂さんとエリカさんがふたりでこっそり外出されたと……。そ、その、よからぬ企《たくら》みを持ったエリカさんのお誘いに、護堂さんは反抗も抵抗もせずに、おとなしく連れていかれるにまかせていらしたとか……」
「いや、俺が無抵抗だったのはエリカに拘束されていたからで、あいつに従順だったわけじゃない。そこのところを誤解しないでくれよ」
真摯《しんし 》な護堂の訴えに、祐理は悲しげに微笑《ほ ほ え》んだ。
何だろう、この表情は? 愚《おろ》かで度《ど》し難《がた》い生き物の業《ごう》を哀れみ、その行く末を憂《うれ》えるような、神々《こうごう》しさすら感じさせる菩薩にも似た顔つきだ。
「やはり、本当のことを言ってはいただけないのですね。こういうときの男性は嘘《うそ》に嘘を重ねて墓穴《ぼ けつ》を掘っていくと、ルクレチアさんのおっしゃった通り……。私、護堂さんのことを見損ないました。いやらしいです」
万里谷祐理は聡明《そうめい》かつ思慮《し りょ》深《ぶか》い少女だ。
しかし純粋|培養《ばいよう》に近いほどのお嬢さまでもあり、相当にだまされやすい一面もある。世間知らずで、そして純真なのだ。
「ま、万里谷。あの人が何を言ったか知らないが、鵜《う》呑《の》みにするな。俺を信じてくれ!」
「追い詰められた男性はしばしば『自分を信じろ』と、根拠と説得力に欠ける要求をするもの――本当に、ルクレチアさんのご指摘通りに……」
この魔女は、どれだけあることないこと吹き込んだのだ?
護堂はじろりと、新聞で顔を隠そうとするルクレチアをにらみつけた。
「……ほほう、イタリア首相が植毛手術疑惑を否定。ここ数カ月での不自然な頭髪増量を食生活の変化にともなう現象だと熱弁。ふふん、ずいぶんと胡散《う さん》くさいウソをつくものだ」
「他人事《ひ と ごと》のように言わないでください。あなたこそ万里谷に、どんな胡散くさいウソを吹き込んだんですか!?」
「ウソを吹き込むとは心外な言われ方だな。少年、邪推《じゃすい》はよくないぞ」
ようやく新聞をたたんだルクレチアが、重々しく返答した。
「私はただ生物学と社会心理学について、ちょっとした講義をしただけだ。まずは、おしべとめしべの果たす役割と受粉のメカニズムについて。それと年頃の男女が若さゆえに陥《おちい》ってしまう、ある種の営《いとな》みへの耽溺《たんでき》傾向について。あとは己の不実を糊《こ》塗《と》するために、男という生き物がどんな論法を使うのか。その辺りを今朝、集中的に語りたくなっただけなのだ!」
と、圧倒的なほどに豊かな胸を張って言う。
ルクレチア・ゾラは、この島に護堂たちを招待してくれた魔女である。
本人のさまざまな体験談、および数々の状況証拠より推測するに、おそらく六〜七〇歳代のはずだ(もっと年寄りである可能性も否定できないが)。
だが、見た目は完璧《かんぺき》に二〇代半ばの美女。
そして中身は『おもしろければ何でもよし』のノリに忠実な、快楽主義者《エ ピ キ ュ リ ア ン》だ。
――結局、祐理に己の無実を認めてもらうまでに、一時間を要した。それでも彼女は、最後まで疑わしげな視線を護堂に向けつづけた。しかも、こんなふうに言ったものだ。
『そこまでおっしゃるのでしたら、今回は信じることにいたします。……私の信頼を裏切らないでくださいね』などと、どこか悲しげに。
隠れて浮気をする夫の行状を知り、傷つきつつも気丈《きじょう》に振る舞う若妻のような風情《ふ ぜい》だった。
万里谷祐理は『霊視《れいし 》』という千里眼《せんり がん》にも似た眼力を持つ巫《み》女《こ》さんだ。
しかし、視《み》えざるものを視、知りうべくもないものを知るはずの力は、彼女の自由になるものではない。こういうときは、それが本当に恨《うら》めしい。
とにかく、やっとのことで帰還《き かん》を済ませた護堂は、キッチンで新たな危機と遭遇《そうぐう》した。
「あら、護堂さん。どこへ行ってらしたんですか? もうちょっと待っててくださいね。もうすぐお昼ができますから」
軽やかに台所仕事をしながら、ハミングでも歌うような口ぶりで明るく言う。
アリアンナ・ハヤマ・アリアルディ。
日本人の祖父を持つという、エリカの助手にしてメイドを務める女性の言葉だった。
明朗快活、親切、さわやか、まじめ、等々。彼女を構成する精神的要素のほとんどは人畜《じんちく》無害《む がい》で、しかも好感の持てるものばかりだ。
だがこのとき、護堂の背筋を冷たい戦慄《せんりつ》が走った。
通称アンナことアリアンナは沸騰《ふっとう》する湯を張った鍋《なべ》に、ズッキーニやら正体不明の貝やらを投入しようとしていた。彼女の煮込み料理は危険だ。先日はアリアンナ曰《いわ》く『すっきり夏らしい味わいのスープ』だという、名《めい》状《じょう》しがたい味わいのモツ煮込みが食卓に供された。
エリカとルクレチアは一口も食べずに全て残した。
祐理は懸命《けんめい》に最後まで完食しようとしていたが、半分ほどでギブアップした。
結局、ほとんどを護堂が処理することになった。残りを野《の》良《ら》猫《ねこ》に分け与えようとしたら、匂《にお》いをかいだだけで逃げられた。
だから護堂は、朝からの遠泳で疲れ切っていたにもかかわらず、こう申し出た。
「アンナさん、いつも作ってもらってばかりで悪いですから、今日の昼は俺が作りますよ」
「そんな、気を遣《つか》わないでください。わたし、お料理好きですし」
「いえ、是《ぜ》非《ひ》やらせてください! 俺にまかせて!」
と、無理矢理に調理係を交代してもらった。
その後、できあがった料理を護堂、戻ってきたエリカ、祐理、アリアンナ、ルクレチアの五人で囲み、ランチになった。
「大雑把《おおざっぱ 》な味付けね。食材の切り方も美しくないわ」
護堂の向かいの席でケチをつけたのは、美食家のエリカだった。
意外と何でも食べる彼女だが、選択の余地があるときは常に上質なものを選ぶのだ。
そのくせ、自分では冷凍食品(スローフード大国にもちゃんとあったりする)の準備さえしない。なんとも彼女らしい奔放《ほんぽう》さであった。
「これはきっと、作った人の愛情が欠けているせいね。あんなに激しく愛し合った仲だというのに、最近は本当に逃げ腰で……。おざなりにわたしの相手をしていると思ったら、すぐべつの女のところに行こうとするの」
「仕方ない、男とはそういう生き物だからな」
深遠《しんえん》な真理でも説《と》くように応じたのは、もちろんルクレチアだ。
その真向かいの席で、祐理が(……まあ。なんて勉強になるのでしょう)と言わんばかりの真剣な表情で耳をそばだてている。
いや、この老魔女の演説は絶対にまちがっているから、聞き流してほしいのだが。
「釣《つ》った魚にエサをやるのは惜《お》しい。なんとも浅はかでせこい了見ではないか。仮にも『王』の称号を持つ男にふさわしい振る舞いとは到底思えな――おっと、すまない。これはあくまで一般論、決して特定の個人を責めているのではないのだった」
と、ルクレチアは隣にすわる護堂の肩を叩《たた》く。
これがまたわざとらしい振る舞いなので、腹立たしいことこの上ない。
「うん、だが、一般論として言うと、淡泊なのはよくないぞ。熱烈に求めすぎるのも多々問題はあるが、関係を持った女性との仲を上《う》手《ま》く切り盛りするのも器量というものだ。……よければ、カエサルがいかにして複数の女性との愛人関係を維《い》持《じ》していったか講義してやるが」
「そうね、護堂にはそういう器用さを身につけてほしいわね。今後のためにも」
「どんな今後だよ、それは!」
勝手なことを言う女どもに、護堂は吠《ほ》えた。
ストレスを溜《た》め込んでいるせいか、自分でも意外なほど大きな声だった。
「講義なんていりませんし、俺をどこかの光源氏《ひかるげんじ》みたいに言わないでください!」
「あー、島流しになって毎日泣き暮らす、情けない貴公子か。そんな生活をしながら、ちゃっかり愛人を作って都へお持ち帰りする色好みだったな。……ああ、でも言われてみれば、君の暮らしぶりと相通《あいつう》じるものが結構あるように思えるぞ、少年」
「あらルクレチア、わたし、護堂がこれ以上愛人を増やすのは許さないわよ。たしかその人、お屋敷に妻やら妾《めかけ》やらを六、七人囲っていたんでしょう? さすがに多すぎるわ」
「に、日本の名作古典をそのように表現するのはおやめくださいっ。――護堂さんがいけないんですよ! あなたが誤解を招くような行動を繰り返すから……ッ」
ああ、かしましい。
彼女たちの話をまともに聞くのも疲れた。右から左へスルーさせていく。
草薙護堂はこんな生活を、もう四日もつづけていた。そろそろ限界が近いと感じるようになってきている。――逃げたい。
2
やはり、女ばかりの生活に交ざっているのがよくないのだ。
ようやく迎えた四日目の夜、貸別荘の自室で孤独を楽しみながら、護堂《ご どう》はそう結論づけた。集団生活には慣れているはずの自分がこのありさま。他に理由は考えられない。
幼い頃から野球をしていた護堂は、しばしば合宿に出かけたものだ。
リトルリーグやシニアの頃は、長期休暇のたびにチームで合宿し、練習に励んだ。男ばかり数十人で寝泊まりし、洗濯や食事も自分たちで何とかした。
硬式野球の東京選抜や日本代表に参加した経験もある。
ああいうチームを作る場合、選考合宿、強化合宿を行うのが通例だ。
まわりが皆ライバルばかりという環境下での、緊張感にあふれた生活。だが、それが逆にやりがいにつながり、どこか心地よくもあった。
男ばかりの生活なら遠慮は要《い》らない。気配りも必要ない。気苦労もない。
だから今の状況が苦しいのは、女ばかりの環境のせいなのだ。決して、草薙《くさなぎ》護堂と近しい女性たちが性格・素行・常識のどれかに問題があるせいではないのだ。
――手の届かないブドウは、酸《す》っぱくてまずい。
護堂はそんな言葉を思い出しつつも、もしかしたら世の中にはやさしくて癒《いや》し系の女性にばかり囲まれて暮らす果報者《か ほうもの》の男がいるのかも……とは敢《あ》えて考えないようにした。
そして、改めて部屋のなかを見回してみる。
貸別荘の一室。
女性陣はエリカとアリアンナ、祐《ゆ》理《り》とルクレチアの組み合わせで一部屋ずつ使っている。
誰かとの相部屋などとんでもない。自分は個室がいいと強硬に主張したおかげで、今ここにいるのは護堂だけだ。鍵《かぎ》もかけてある。何て居心地のいい場所だろう。
「……まあ、この程度の鍵、エリカならかんたんにぶち壊せるだろうけどな」
十分にありえる未来を予測して、護堂は肩を落とした。
傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』の乱行を制止できる人間が、ここには誰もいない。
いろいろと口うるさい祐理は意外とだまされやすく、本来は控えめな少女なので、どうしてもエリカに対しては分《ぶ》が悪くなってしまうのだ。
アリアンナが女主人をいさめるわけがない。ルクレチアは悪だくみに協力する側だ。
だが、それで観念するほど、草薙護堂は諦《あきら》めのよい人間ではなかった。
「やっぱり、あの計画を実行する必要があるな」
こっそりと物音を立てないように気をつけながら、部屋を出る。
同じ調子で玄関へ向かい、貸別荘から外へ出てしまう。
すっかり日も沈んだ深夜の別荘地。
ヨーロッパの田舎《い な か》での夜は、日本と比べると驚くほど照明がすくない。だが夜《よ》目《め》の利《き》く護堂にはそれも苦にはならなかった。
夜道を一〇分ほど歩き、到着したのは小さな雑貨屋の前だった。
イタリアにはコンビニなどない。ここは食料品や日用雑貨などを扱う個人商店で、今は固く扉を閉ざしている。だが護堂の目的は買い物ではないので、問題なかった。
お目当ては、店の軒先《のきさき》にある公衆電話なのだ。
コインを投入し、昼の間にエリカから聞き出した携帯の番号を打ち込んでいく。
(なに、護堂。あんな下品な男に何の用があるの?)
(前に会ったとき、頼まれていたことがあったのを思い出したんだ。頼むよ)
渋るエリカを拝《おが》み倒して、どうにか教えてもらった。
これからコンタクトを取る相手は、外面《そとづら》のいいエリカが気に入らない人間だと吹《ふい》聴《ちょう》する数少ない存在だ。だが、護堂は彼とウマが合う。そこに懸《か》けたい。
『……おい、誰だ? 言っておくが、今の俺はとても忙しい。早く用件を言え』
「俺です、草薙護堂です!」
電話越しだが、ひさしぶりに聞く野太い声。
護堂は声の主、ジェンナーロ・ガンツの風貌《ふうぼう》をまざまざと思い出した。
背はさほど高くはないが、均整のとれた逞《たくま》しい体つきをしている。そして、ぼさぼさの髪と口元をおおう男くさい髭《ひげ》。鋭いまなざしに、いかめしい顔つき。
――頭にバンダナを巻けば、誰が見ても立派な海賊《かいぞく》だ。
しかし、魔術結社〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉に所属するガンツは、エリカの同輩だった。
テンプル騎士のなかでも特に誉《ほま》れ高《たか》き『大騎士』の称号を持つ若者。だが、二三歳のくせに三《み》十《そ》路《じ》とまちがわれる強面《こわもて》で、しかも奥さんと満一歳になる子供までいる。
『おお、王様か。ひさしぶりだな』
「はい、本当に。ところでガンツさん、俺は今イタリアに来ているんですが……」
『そういうことは来る前に知らせてくれよ。ちゃんと歓迎の準備をしてやるからよ』
うれしいことを言ってくれる。
ジェンナーロ・ガンツは荒っぽい強面だが、気のいい青年なのだ。
お世《せ》辞《じ》にも上品とは言えない立ち居振る舞いと、そして暑苦しいほどに血の熱そうな言動のせいでエリカに嫌われているが、まっすぐな気性の好青年だと言ってもいい。
……まあ、そんな彼にも問題点がないわけでもない。
『ところで王様、例の宿題はちゃんと終わらせてるんだろうな?』
いきなり、ぶしつけに訊《き》かれた。
魔術の世界に関《かか》わる人々は、護堂に対して過剰《かじょう》に恭《うやうや》しい態度を取ることが多い。
だが、ガンツは数少ない例外なのがありがたい。
礼儀にこだわらず、しかも豪快な気性のおかげだろう。そこはうれしく思いつつも、護堂は彼のぶしつけさが恨《うら》めしくもあった。
「い、いえ。いろいろと忙しかったもので、まだ」
『何だって? バカ、あれほど何度も言ったじゃねえか! あんたも日本人なら『おシャ魔女SORAMI』四シーズン全二〇〇話を可能な限り早く鑑賞しなくてはならないってよ!』
「……すいません」
やはり訊かれてしまった。
これが厄介《やっかい》で、逃げ場所を探していた夏休み前にもガンツと連絡を取らなかったのだ。
護堂は向こうに聞こえないよう、小さくため息をついた。
『ったく。前にも言ったが魔法のコスメでおシャレ魔女に変身するソラミたちは、まだ魔女見習いだが周囲の人々の笑顔を取り戻してくれるんだ。いいか、本当の魔法ってのはな、小さな勇気とやさしさなんだよ! 俺はそのことを、このアニメから教わったんだ……!』
本物の魔術師にそんなことを力説されても。
内心でぼやきつつも、護堂はそれを口には出さなかった。
日本ではかなり前に放送終了したアニメが、どうしてこんな異国の本職に大人気なのかはわからない(イタリアでは何度も再放送しているらしいが)。
だが、DVDでもレンタルして自宅のテレビで観《み》はじめた日には、妹の静花《しずか 》から多種多様な罵署雑言《ば り ぞうごん》と白い目を浴びせられることはたしかだろう。
……これさえなければ、豪快でいい人なのになァ。
遺憾《い かん》に思う護堂だったが、つづく彼の言葉にそんな気持ちは吹き飛んだ。
『仕方ない。やっぱりあんたを我が家に招待して、上映会を開くしかないようだな。オールナイトでDVDを観まくれば、第一シーズンぐらい二日で観終わるだろう』
「そうですか。俺の方はかまいません。これからすぐ、ミラノに向かいます!」
こんな居心地の悪い場所には、もう留まりたくない。
決心を固めた護堂は、逃亡場所を求めてガンツに電話をかけたのだ。しばらく泊めてくれないかと切り出す前に、向こうから誘ってくれた。
よし、自分にはまだツキがある。まだまだ戦えると、護堂は闘志に火がつくのを感じた。
対象年齢一〇歳以下、しかも女の子向けアニメのDVD全五〇巻鑑賞の苦闘にも、今なら耐えられるはずだ。――だが、しかし。
『……あ、いや待てよ。やっぱりダメだな。今のはナシだ』
「え!? ど、どうしてでしょうか?」
『どうせ、こっちにはひとりで来たんじゃないだろ。あの小悪魔――エリカ・ブランデッリもおまえさんといっしょのはずだよな?』
「ええ、まあ……」
『ってことはだ。あんたを招待したら、あの女が絶対、我が家に押し入ってくる! そんなのは絶対にゴメンだね! いいか、今うちには可愛《か わ い》いアンジェラがいるんだぞ!』
アンジェラとは、ガンツのひとり娘の名前だった。
護堂も以前、写真を見せられたことがある。だが、それがこの話と関係があるのか?
『あの性悪女と同じ空気を吸わせて、アンジェラがあんな悪魔みたいな女になっちまったら大問題だ。俺は娘の教育のために、エリカを家に近づかせるわけにはいかねえんだよ!」
「そんな非科学的なこと、言わないでくださいよ!」
『万が一ということもありうる。俺は我が家の天使、可愛い娘のためにも、害になりそうなものを呼び込んだりはしない。悪く思わないでくれよ、そのうち我が家以外の場所で会おう』
これで電話は切れた。
突き放された護堂は一瞬、いっそ『王』の強権を発動させようかと考えてしまった。神殺しの魔王として、ガンツに前言を撤回するように命じるのだ。
だが、すぐに思い直した。いけない、これは悪魔の思考法だ。
自分の立場をこんなふうに利用してはいけない。そもそも『おまえの家でアニメのDVDを観させろ』と要求する魔王なんて前代未聞《ぜんだんみ もん》すぎる。かなりのダメ人間だ。
「……こうなったら、俺はひとりででも戦い抜いてやる」
決意を新たにして、護堂はつぶやいた。
とりあえず、今夜は別荘に帰るのはやめよう。このままどこかで夜を明かし、女どもから離れて英気《えいき 》を養《やしな》うのだ。どうせ暖かいのだから、いっそ野宿してもいい。
……要は半分ヤケになって、前向きなようで後ろ向きな決心をしただけなのだが。
ともかく護堂は、足の向くまま気の向くままに夜道を歩き出した。
容赦《ようしゃ》なく太陽に照らされる昼間とちがって、夜はそこそこ涼しいのがありがたい。もちろん冷房の効いた屋内の方が快適なのはたしかだが、夏の夜の散歩も楽しいものだ。
ゆるやかに夜の風が吹き抜けていく。
空に輝く真夏の星座たちは、空気のきれいな田舎《い な か》ならではのきらびやかさだ。
そして、中天に輝く銀色の半月。
星座とちがい、月は日本でも欧州でも変わらない。こんなふうに夜を支配する女王のような月を、日本でも見上げた記憶がある。あれはいつのことだっただろう。
ノスタルジーを覚えながら、護堂は夜道を進む。
いつしか背筋に緊張が走り、体と四《し》肢《し》に力がみなぎってきた。
この春にウルスラグナを倒して以来、幾度も体験した感覚。神殺しの魔王が仇敵《きゅうてき》である神々と接近したときにのみ起こる体内の変化。
それを感じた護堂は、息を呑《の》んだ。
行く手に立ちはだかる少女が何者かに気づいたからだった。
――月のかけらを溶かしたような、淡く輝く銀の髪。
――夜の闇《やみ》を凝縮《ぎょうしゅく》したかのような、漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》。
――幼い少女の形をした、いにしえの女神。
まつろわぬアテナ。
かつて東京で戦い、からくも勝利を収めた女神が、護堂の前に立ちはだかっていた。
3
「ひさしぶりだな、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》よ。あなたとの再会に、妾《わらわ》の心はいささか昂《たか》ぶっておる」
うっすらと微笑《ほ ほ え》みながら、アテナが告げる。
古き地《じ》母《ぼ》神《しん》の叡智《えいち 》を封じ込めた神器、ゴルゴネイオン。
それを取り戻し、闇《やみ》と大地を支配する女神となったアテナだが、その微笑は地母神のものではなかった。彼女のもうひとつの相――戦いの女神としての不敵な笑顔だ。
「……何であんたが、こんなところにいるんだよ?」
「それは愚《おろ》かな問いだな。あなたの方が、妾の版図《はんと 》に飛び込んできたのだ。この地で相まみえるのは、いわば必然であり運命《さ だ め》。そうではないか?」
そういえば、そうだった。
この女神様は、ギリシアのみならず北アフリカや小アジアまで含めた地中海《ちちゅうかい》全域で崇拝《すうはい》された神格なのだ。イタリアはまさに、勢力範囲のど真ん中だ。
「だからって、俺の居場所に来る理由にはならないだろ。断っておくけど、俺はあんたに用なんかないぞ。のんびり話をするほどの仲でもないし」
「ふむ……理由か」
月明かりの下で、アテナが可憐《か れん》な唇《くちびる》の端《はし》を歪《ゆが》めている。
美しく、凛《り》々《り》しく、獰猛《どうもう》でさえある笑顔。みなぎる闘志を抑《おさ》えされないがゆえにこぼれる、戦闘者としての証《あかし》にちがいなかった。
「あなたも察しの悪い男だな。敗《やぶ》れし者が、己《おのれ》に敗北をあたえた者を訪ねているのだ。かつての雪《せつ》辱《じょく》を果たすためだとは思い至らぬのか?」
思い至らなかったのではなく、思いたくなかっただけなのだが。
冷たい汗が護堂の背を伝う。
アテナと再戦して勝機はあるか? おそらく、ない。
前の戦いでは『剣』の言霊《ことだま》を武器にして戦ったが、ここで同じ真《ま》似《ね》はできない。『剣』の源《みなもと》となる敵神についての知識が、今の護堂には欠けているのだ。
二カ月前、護堂は『教授』の魔術でアテナの知識を授かった。
この術を使えば、ほんの一瞬で莫大《ばくだい》な量の知識を教え込むことができる。だが、その知識が脳内にとどまるのは約一日というところだ。
術の効果が永続するなら、地道に勉強する必要などなくなってしまう。
だから普段は、この制限をありがたくさえ思っているのだが――今はさすがに恨《うら》めしい。
アテナについての知識を思い出そうとしても、ぼんやりとアウトラインが甦《よみがえ》ってくるだけで、細かい辺りはまるでダメだ。これでは『剣』を使うことはできない。
どうする? どう戦う?
『剣』以外の武器が必要だ。どの化身《け しん》なら使えるだろう――?
「察しが悪いうえに、諦《あきら》めも悪い男か。妾にはわかっているぞ。……今のあなたは、以前ほどの脅威《きょうい》ではない。その理由もおおよそ見当がついておる」
見下すようにしてアテナが言う。
護堂は、彼女が三相一体《さんそういったい》の女神であることを思い出した。
大地と冥界《めいかい》を支配する地母神であり、戦神であり、そして智《ち》慧《え》の女神でもある。
アテナ相手に隠し事は難しい。だが、こちらの手の内がバレていても戦えないわけではないはずだ。……相当に苦しい、絶望的な展開にはなるだろうが。
ひそかに覚悟を決めた護堂の顔を眺めて、アテナは不快そうに鼻を鳴らした。
「ふん、そう気色《け しき》ばむな。妾に再戦の意思はない。……今日のところはな」
忌々《いまいま》しそうに目をすがめながらの宣言だった。
「草薙護堂よ。先の戦いから、まだ月が二度ほど満ち欠けを繰り返しただけだぞ? かような短き間に、神と神殺しの聖戦を重ねてはあまりに無粋《ぶ すい》。我らほどの闘士が再戦するとなれば、然《しか》るべき時と場所を選ばねばならぬ。あなたも己の立場をわきまえよ」
「じゃあ、何で俺の前に出てきたんだよ?」
護堂は気を抜かないよう意識しながら訊《たず》ねた。
今の言葉が、こちらの油断を誘うための策略かもしれないからだ。アテナほどのビッグネームがそんな姑息《こ そく》な真《ま》似《ね》はすまいとも踏んではいたが、用心するに越したことはない。
「うむ、妾はあなたとの間にある種の運命、予感を感じておる。――つまり、あなたを打ち倒すのはおそらく妾の役目になるのではないかという意味でだが」
そんな運命、絶対に欲しくない。
護堂は、己の女運の悪さを本格的に呪《のろ》いたくなってきた。
「だから、あなたには我が敵手のひとりとして、十分な力と経験を身につけてほしいと考えている。あなたがいずれ妾と――闇《やみ》と大地をしろしめす女王たる妾と戦うにふさわしき権威《けんい 》を備えるに至ったときこそ、我らの雌雄《し ゆう》を決する大戦がはじまるであろうゆえ」
「い、いや、クリスマスでも待つみたいに雌雄を決するとか言われたくないんだけど」
「実は近頃、やけに気の昂《たか》ぶることが多くてな」
護堂のささやかな反論を、アテナは無造作にスルーした。さすが最高位の女神様、ナチュラルに傲岸不遜《ごうがんふ そん》なようだ。
「あるいは、戦いの時が近づいておるのやもしれぬと感じたのだ。そこにあなたが近くへ来ていると知り、すこし遊んでみる気になった」
「遊ぶ?」
「左様《さ よう》。いくさ場《ば》で過ごす一日は、一〇〇日の鍛錬《たんれん》にも勝《まさ》る。まして戦士の女王でもある妾の傍《そば》で戦い、教えを受けるのであれば、千日の鍛錬にも勝る糧《かて》となろう。……あなたを鍛えて進ぜる。この遊びにしばらくつきあうがいい、草薙護堂よ」
「な、何だって?」
アテナの横暴な言いぐさに、護堂は己の耳を疑った。
「未熟なあなたを鍛えるゆえ妾の傍にいよと命じたのだ。嫌だと言うのであれば、その首に縄《なわ》をつけてでも引っ立てていく。異論はあるまいな?」
もちろん、あるに決まっている。決まってはいるのだが。
少女のようなアテナの体から、凄《すさ》まじいほどの神力が洩《も》れ出てくる。大地のあらゆる生命を育《はぐく》み、慈《いつく》しむ地母の力。地の底に横たわる冥界の女王、死と闇の支配者としての力。勇猛《ゆうもう》無比《む ひ 》な闘神としての力。叡智《えいち 》に長《た》けた智神《ち しん》としての力。
こんな女神様と迂闊《う かつ》に戦うのは、ちょっと避けた方がよさそうだった。
――以上のような事情で、草薙護堂は女神と行動を共にすることになった。
ちなみに、護堂たちの滞在する貸別荘は海岸沿いにある。
アルゲロ市の中心街から海に沿って郊外の方へ移動していくと、夏のバカンス客が利用するホテルや別荘などをあちこちで発見できる。そのうちの一軒なのだ。
紺碧《こんべき》の海と、どこまでもつづきそうな白い砂浜。
この好立地は海水浴で存分に活用されるのだが、サルデーニャの海で楽しまれるマリンレジャーはもちろんそれだけではない。
大小さまざまなヨットを駆《か》って海と戯《たわむ》れ、大自然の脅威と闘《たたか》ったりもできるわけで――。
船があるなら港もある。この近辺でいちばん大規模なのはアルゲロ港だが、それ以外にも小さな港が海岸沿いのあちこちに点在する。
アテナとお供の護堂がやってきたのは、その港のうちのひとつだった。
「さあ、旅立つとしようか。草薙護堂よ」
「……旅立つってどこへ?」
厳《おごそ》かに宣告する女神様へ、護堂は醒《さ》めた声で訊ねた。
「先ほども言ったが、このところ妙に気が昂ぶる。闘神としての妾の心が、間近に迫る荒事の匂《にお》いをかぎ取っておるのであろう。この感触であれば、おそらく事が起こるのはまもなく――まあ、半日もかかるまい」
「ヘー」
「その凶事に行き当たるであろう方向も、おおむね見当はついている。この海を越えた先であろうな。まだ見ぬ我が敵、我が逆縁の担《にな》い手が顕《あらわ》れるのは……」
「そうか」
「ゆえに、妾たちの行き先はあちらとなる。ついて参れ」
「いや、そこおかしいだろ! 危険が待っている場所にわざわざ近づくなよ!」
護堂はつっこんだ。
常識的に考えて、今の『ゆえに』の用法はあまり妥当《だ とう》ではないはずだ。
「おかしいのはあなただ。妾にいくさの兆《きざ》しが見えるのは、つまり天が妾に戦えと願っているからだ。天地の意志を汲《く》んでやるのも神たる者の務め。無《む》下《げ》にもできぬ」
やたらとスケールの大きな義務感を語られてしまった。
せめて、その一〇分の一でも戦場となる場所にいる人間たちを気遣《き づか》ってほしいものだが。
ため息をついた護堂は、彼女についていく決心を固めた。
どんな騒動が起きるにせよ、きっと周辺の住民に多大な迷惑がかかるはずだ。東京での戦いぶりを思い出す限り、彼女の辞書に『配慮』という文字はないはずだから。
こうなったら、可能な限り女神様の暴走を抑え込もう。
隙《すき》を見て逃げ出すアイデアもあったのだが、護堂は渋々それを捨てた。
「……海を渡るって言ったよな? フェリーにでも乗るのか?」
地中海に浮かぶサルデーニャ島やシチリア島、フランス領のコルシカ島とイタリア半島の間を周航するフェリーがある。だが、もう船便など動いてない時間だ。
不吉な予感を覚えながら訊ねた護堂に、アテナは傲然《ごうぜん》と答えた。
「目の前にたくさんの船があるではないか。どれでもよい。どれかひとつを使えばいいだけのこと。あなたは妙なところに気を回すのだな」
「あんたが言ってる行為は、立派な窃盗《せっとう》だッ。神様がそんな犯罪するなよ!」
そう、この小さな港にも大小さまざまなヨットが停泊《ていはく》している。
四人乗りの小型艇から、全長一五メートルを越す大型高速艇まで、よりどりみどりで。そのうちの小さな一|隻《せき》にアテナは乗り込み、手振りでついてこいと指示してきた。
名前も知らない船の持ち主に、護堂は心のなかで謝った。
余裕があったら、この港に必ず持ち帰ります。どうか許してください。そうしてから、女神の隣の席にもぐり込んだ。
「……あんた、こんな船も扱えるんだ? 神様の特技にしちゃ変だけど」
「人の船など操れるわけなかろう。案ずるな。星が導《みちび》き、風がささやくままに、我が神力を以《もっ》て動かしてくれる。何とでもなるであろう」
と言って、アテナは指を鳴らした。
もやい綱《づな》――ヨットを港につなぎ止めていたロープは、それだけで切れてしまった。
そして、誰もエンジンをかけていないのに、ハンドルを握ってもいないのに、ひとりでにヨットも動き出してしまった。
まちがいなくアテナのデタラメなスーパーパワーが、この船を操作しているのだ。
進行方向は、真っ暗な沖合。
まさかこのまま大海原《おおうなばら》に乗り出す気か。大航海時代の船乗りだって、ずさんな海図や羅針盤《ら しんばん》、六分儀《ろくぶんぎ 》くらいは用意したはずだ。水も食料もない。
護堂はあまりに無計画な旅の始まりに、恐怖を覚えた。
海で遭難《そうなん》して事故死しても、まったく文句を言えない状況だ。俺の命、こんな女神様に預けてしまってもいいのかと不安になってしまった。
何はともあれ、奇妙な呉越《ご えつ》同舟《どうしゅう》はこのようにして成立したのである。
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第2章 魔女たちと剣の王
1
ナポリはイタリアでも有数の大都市であり、そして港街、観光地でもある。
この古都の美しさ、雅《みやび》さゆえに『ナポリを見て死ね』という言葉が生まれたほどだ。
実際、高台から見渡す眺望はすばらしい。
太陽の日差しを浴びて紺碧《こんぺき》に輝くナポリ湾、サンタ・ルチアの港、歴史的建造物の数々。
世界三大夜景にも数えられる華麗《か れい》にライトアップされた街並。東に目を向ければ、一〇キロと離れていない位置にそびえ立つヴェスヴィオ火山の偉容《い よう》を鑑賞できる――。
「まあ、遠くから眺めている分には綺麗な街ってことですよね。内側に入ってしまうと、あちこちにゴミが捨ててあったり、落書きばかりだったり、いつも車が渋滞中だったり、やたらとスリが多くて物騒だったりで、お世《せ》辞《じ》にも住みやすい環境とは言えませんが」
「あらカレン、いくら本当のことでも住民を前にして言うのはどうかしらー?」
「申し訳ありません、ディアナおばさま。根が正直者ですので、つい本音が」
スパッカ・ナポリと呼ばれるナポリの旧市街。
ガリバルディ広場や大聖堂《ドゥオモ》にほど近い市の中央部、下町情緒あふれる猥雑《わいざつ》な一角に、ディアナ・ミリートの古書店はあった。
「お、おば!? 今の聞いた、リリィ!? この娘ったら私のことをお、おば……だなんて呼んで! 何か言ってやってちょうだい!」
「カレン、ディアナのような……乙女《お と め》にはもっとふさわしい呼び方があるはずだぞ」
ピッツァの発祥地《はっしょうち》として名高いナポリは、実は大学都市でもある。
一二二四年、シチリア王国の時代に設立されたナポリ大学は今でもなお健在なのだ。こういう土地柄のせいか、市内には古書店が意外なほど充実している。
特に旧市街のベリニーニ広場周辺は、古書店街として有名な場所であった。
そのうちの一軒である『ミリート家の店』に、彼女たち三人の魔女は集まっていた。
不思議なもので、古書店という場所はどんな国でも似たような雰囲気《ふんい き 》になる。
この店もこぢんまりとした造りで、そのなかにところ狭しと大小さまざまな古書を山と積み上げ、押し込んでいる。雑多で混沌《こんとん》とした、あの独特の空気で満ちていた。
「リリアナさまは心にもないことをおっしゃるとき、必ずあらぬ方を向いて、相手の目をご覧《らん》になりませんよね? ……ちょうど今のように」
「何ですって!? リリィ、あなたまさか――」
「そんなことはありません! 根も葉もないことを言うな、カレン!」
「あら、この間も気にしてらしたじゃありませんか。――ディアナさまは本当のところ、おいくつになられるのだろうと。かなりの若作りだけど、最近はさすがに目元の小じわが隠せなくなってきたとか何とか言って」
「言ってない! そ、そこまで言わなかったはずだぞ!」
「ま、まあ。語るに落ちたわね、リリィッ。なんてひどい娘たちなの!」
店主であるディアナ・ミリートは、ナポリ在住の魔女だった。年齢|不詳《ふしょう》、童顔の若々しい女性で、フリルいっぱいのヒラヒラしたワンピースを違和感なく着こなしている。
彼女と初めて会ったとき、リリアナはまだ七歳だった。ディアナも妙齢だったはずだ。
あれから九年弱。ディアナは未《いま》だに童顔のまま、あどけなく笑う。
……とはいえ時の流れには勝てないようで、最近では目元に細かいしわが目立つようになってきた。肌も以前と比べて少々つやが落ちているように思える。
彼女が本当のところ何歳なのか。やはり、深く考えない方が得策だろう。
リリアナは話題を切り替えることにした。
「それよりもです。サルバトーレ卿《きょう》の到着が遅れていますが、心配ですね」
「……ふんだ。リリィったら、そんなこと言って誤《ご》魔《ま》化《か》そうとしてるのね。カンピオーネであらせられる卿のお体に万一のことなんてあるものですか」
拗《す》ねた口ぶりでディアナが答えた。
いい歳《とし》なんだから、そんな真《ま》似《ね》しないでください――そう言いたい衝動を、リリアナは冷静にこらえた。いけない。これは相当に危険なNGワードだ。
「もちろん、そういう意味ではありません。わたしが言いたいのは、卿のメンタル的な問題です。つまり怠《なま》け癖《ぐせ》だったり気まぐれだったり、己との戦いという意味で」
このなかで『剣の王』と直《じか》に会った経験があるのはリリアナだけだ。
彼女の言葉にディアナは心細そうな顔になり、カレンは「なるほど」とうなずいた。
「つまり、サルバトーレ卿はアレですか……『王』としての権能《けんのう》をべつにした場合、人格的にお誉《ほ》め申し上げるのがちょっと難しいタイプの御方だと?」
「細かいことは気になさらない豪快な方だとは、よく聞くわよねェ……」
リリアナは青いボディの携帯電話を取り出した。
頭の痛いことに、サルバトーレ・ドニはこの手の道具を持ち歩かない。
持っていても、すぐどこかに忘れるからだという。だが万一に備え、今回の招聘《しょうへい》に際して助力をお願いした人物がいる。彼なら、こんなときも何とかしてくれるはずだ。
数回の呼び出しで、その人物は電話に出てくれた。
「クラニチャールです。……卿の方はどのような案配《あんばい》でしょう?」
『到着が遅れていてスマン。どうにかナポリまではお連れできたのだが、王がガリバルディ広場でジェラートを買い込み、足を止めておられるのだ。こちらまで迎えに来られるか? この際だから、もうここで引き渡し――いや、ご案内を引き継いでしまいたい』
やや疲れた感じの、しかし十分に冷厳《れいげん》な声が電話から返ってくる。
どうやら、かなり苦戦していたようだ。一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない『王』のひととなりを思い出したリリアナは、すぐ加勢に向かおうと決めた。
「はい。でしたら、すぐにでも参ります。では後ほど。……卿はもうナポリへ到着されているそうですので、わたしがお迎えに行ってきます。ディアナはカレンを連れて、先に地下へおりていてください。その方が手っ取り早いでしょう」
電話を切ったあとで、リリアナは仲間たちに告げた。
店主であるディアナが『都合により本日休業』のプレートを店のドアにぶら下げるのを待って、三人の魔女たちはスパッカ・ナポリの往来を歩きだした。
ただし、リリアナだけ仲間たちと別れて、ひとりでガリバルディ広場へ向かう。
リリアナ・クラニチャールは騎士であり、そして魔女《ま じょ》でもある。
魔術の世界では、この肩書きの意味は大きい。ライバルのエリカ・ブランデッリも、広義では魔女だと言える。しかし、それはあくまで『女性の魔術師』程度の意味である。
ただの魔術師とは一線を画《かく》す『魔女』。
これは、元始の時代には聖なる巫《み》女《こ》、祭司《さいし 》であった女たちの末裔《まつえい》を指す言葉なのだ。
彼女たちの知恵と術は、先達《せんだつ》の魔女たちから直に口頭で伝えられる。
ディアナ・ミリートも〈青銅《せいどう》黒十字《くろじゅうじ》〉に所属するナポリ在住の魔女であり、リリアナに魔女術の叡智《えいち 》を授けた導師《どうし》だった。そして、同じ素養を持つカレンがリリアナの傍にいるのは、やはり魔女としての教育を受けるためである。
実は師弟の絆《きずな》を持つ魔女仲間と別れたリリアナは、真夏の日差しがぎらつくウンベルト一世通りを抜けてガリバルディ広場にまでやってきた。
革命の英雄ジュゼッペ・ガリバルディの彫像に見守られた駅前広場。
さすがに人通りの多い場所なのだが、目当ての人物がいる場所はすぐに目星がついた。
騒がしい雑踏《ざっとう》のなかに、聞き覚えのある声がふたつも混ざっていたからだ。
「では答えてもらおうか、サルバトーレ・ドニ。貴様、さっきまでジェラートを舐《な》めていただけだったのが、いつのまにそんなものを買い込んだ?」
「細かいことを気にしちゃいけないな、アンドレア。あの空を見上げてごらん」
目立つ容姿の青年ふたりが、何やら口論をしていた。
ひとりは黒髪で、銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《め が ね》をかけている。知的かつ神経質そうな細《ほそ》面《おもて》の眉間《み けん》には、深いしわが刻まれていた。
もうひとりは見るからに能天気そうな金髪のハンサムだった。
「ほら、太陽がいっぱいだ。いいかい、今は夏まっさかり。そして僕たちがいるのはナポリだ。輝ける太陽と海の街だ。ここには遊び戯《たわむ》れる老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》、ヨット、砂浜、ビール、バーベキュー、夏の全てがある! こんな状況で僕らが為《な》すべきことはひとつ。そう、バカンスさ!」
彼の手には、|レモン酒《リモンチェッロ》の小ビンが握られていた。
かなり冷えているらしく、ビンの表面がびっしりと結露している。口にストローをさし、ちゅるちゅるすすりながらの熱弁だった。
さらに言えば、サングラスと派手な柄《がら》の開襟《かいきん》シャツというラフすぎる格好である。
「サルバトーレ卿《きょう》!」
金髪の美男に向けて、リリアナは呼びかけた。
そう、彼こそがサルバトーレ・ドニ。イタリア最強の騎士にして『剣の王』。神殺しのカンピオーネその人であった。
「や、ひさしぶり。えーと、何クラニチャールだっけ?」
「リリアナ・クラニチャールです、王よ」
満面の笑顔で挨拶《あいさつ》するカンピオーネに、眼鏡の青年が恭《うやうや》しく補足する。
慇懃《いんぎん》な態度と言葉|遣《づか》い。あらゆる感情を押し殺した、鉄仮面にも似た無表情。ふたりきりのときとは、一瞬で態度も顔つきも豹変《ひょうへん》してしまっていた。
彼の名はアンドレア・リベラ。
サルバトーレ・ドニに仕える若き大騎士にして参謀、ときどき秘書、そしてお目付役。
全ての職分をひっくるめて『王の執事《しつじ 》』とも呼ばれる青年だった。
「あー、そうだったっけ。悪いね、僕も五回ぐらい会った人の名前はちゃんと覚えるんだけど、君とはまだ三度目だろ? なかなかフルネームまでは覚えされなくてね――」
へらへら笑う『王』に、リリアナは武人らしく一礼しておいた。
本当はもう六度目なのだが、そこは敢《あ》えてつっこむまい。この能天気さに欺《あざむ》かれてはいけない。目の前の人物は、正真正銘の怪物《フェノメノ》――地上の全魔術師を敵に回しても勝利しかねない、不死身の剣王なのだ。
「リリアナ・クラニチャール、王のご案内を頼む。私は所用があるので、ここで別れさせてもらうことになるが、かまわないな?」
「問題ございません。御助力に感謝いたします、アンドレア卿」
断りを入れるアンドレア・リベラに、リリアナは丁寧《ていねい》に謝意を示した。
彼がいなければサルバトーレ・ドニはただの戦士にすぎず、イタリア魔術界の盟主として機能しない。それゆえに皆、『王の執事』には最上の礼を尽くすのだ。
「では王よ。ここからはクラニチャールにまかせますゆえ、彼女の要望に耳を傾けられ、王としてふさわしき度量をお示しあそばしませ。このリベラ、衷心《ちゅうしん》よりお願いいたします」
リベラは恭《うやうや》しく言《ごん》上《じょう》した。
地上に七人しかいない魔王のひとりは、この言われように顔をしかめた。
「わかってるって。べつに悪いようにはしないさ。本当に心配性だな、君は」
「これも我が務めのひとつゆえ、ご容赦《ようしゃ》ください。――心配ついでに言わせていただければ、御身《おんみ 》が事の途中で気まぐれに去られた場合は、早急に私のもとへ連絡せよとクラニチャールめに申しつけております。こちらにもご留意いただければ幸いです」
途中で逃げたら承知しないぞ……と、暗にほのめかしている。
この光景に、リリアナはひそかにうなずいた。
リベラはサルバトーレ・ドニが『王』となる前からの友人だったという。その関係と魔王に対しても諫言《かんげん》をためらわない剛毅《ごうき 》さ、生《き》真《ま》面《じ》目《め》さを買われて、執事役をまかされたのだ。
「わかったわかった。君の方こそ例の件、ちゃんとやってくれよ」
腹心の苦言に、サルバトーレ・ドニは手をひらひら振って別れを告げる。そんな主に無言で一礼してから、リベラは雑踏のなかに消えていった。
「アンドレア卿はどちらへ?」
「僕の頼んだ野《や》暮《ぼ》用《よう》。……さて、と。じゃあそろそろ、君らの用事を済ませに行こうかな」
質問するリリアナに、ドニはつまらなそうに答えた。
ずずーっと残りの|レモン酒《リモンチェッロ》をすすってから、地面に置いていた荷物を拾い上げる。
大判の図面でも入っていそうな、細長い黒のケース。
彼が『剣の王』と呼ばれる理由を収めているはずの、かさばる荷物であった。
「でも、正直燃えないんだよねー。危険かもしれないものがあるから相談に乗ってくれとか言われても、やっぱりちょっとねェ……」
気怠《け だる》そうにドニが言う。
あのデヤンスタール・ヴォバンの横暴さと威厳《い げん》に比べれば軽いこと甚《はなは》だしいが、この気ままな動じなさも『王』の恐ろしさであると言えた。
|常 在 戦 場《つねにせんじょうにあり》。彼はこの心得の体現者である。
それを知るイタリアの魔術師たちは、むしろ彼の能天気さに生まれる時代をまちがえた闘士の威風をかいま見てしまう。
「やっぱり、目の前に敵が出てこないと盛り上がらないじゃない? どっかから神様か悪魔か怪物か、僕のお仲間なんかが殴り込んでくればいいのにねー」
「……卿。神か竜かといったレベルの存在が関《かか》わってくるはずの案件ですので、おそらくご期待には添えられるかとは存じます」
だからリリアナは、簡潔に事実を伝えるだけでよかった。
できれば、詳細がはっきりするまでは伏せておきたい情報だったのだが仕方ない。
まあ、この王様をナポリまで引っぱってこれたのだから、もういいだろう。いちばん避けたかったのは、出発前に彼が必要以上に騒ぎ立てて一騒動になることだったのだ。
はたして、サルバトーレ・ドニは気怠そうな態度を急に改めた。
「詳しく話を聞こうか、リリアナ・クラニチャール」
何度名乗っても覚えてくれなかったフルネームが、はっきり口にされた。
彼の口元がかすかに歪《ゆが》んでいる。今までのへらへらした、しかし好青年めいた笑顔とは明らかに別物の、戦士の暗い喜悦《き えつ》を示す微笑めいた歪みだった。
2
ナポリはもともと、古代ギリシア人の植民市だった。
当時の人々が奴隷《ど れい》を働かせた採石場の跡。そして後代のローマ人が築いた上下水道や貯水槽の跡。さらに中世の頃、食糧や酒類を貯蔵した地下倉庫等の跡。
それらは今も、旧市街の近辺などに地下|遺跡《い せき》として現存しているのだ。
ナポリ・ソッテラネア――すなわち『地下のナポリ』と呼ばれる空間だった。
「……旧市街の地下遺跡などは観光スポットになっていますが、この辺りのものは一般公開されてはおりません。ナポリの魔女たちによって封印され、隠されているからです」
先に立って案内しながら、リリアナは語る。
サンタ・ルチア地区。
ナポリ湾に面し、サンタ・ルチア港や卵城《たまごじょう》などの観光名所を擁《よう》する区画だ。
その片隅にある古着屋に入り、店番のおばさんに挨拶《あいさつ》する。
お世《せ》辞《じ》にも綺麗《き れい》とは言えない乱雑な店に似合いの太ったおばさんは、無言でリリアナとドニを奥に案内してくれた。彼女は実は、ディアナ配下の魔女なのだ。
店の奥――魔女ならざる者たちが決して見ることのない場所。
そこに、地下遺跡の入り口はあった。
むき出しの地面にぽっかり開いた四角い穴で、石造りの階段が地下へつづいている。闇夜《やみよ 》を見通す視力の持ち主であるリリアナとドニは、懐中電灯も持たずに下りていった。
「……何だか『蛇《へび》』が多いねえ。あとは『牛』か」
先導するリリアナのうしろを歩きながら、ドニがぼそりとつぶやいた。
廃坑《はいこう》めいた細長い地下遺跡の通路。
紀元前までさかのぼれば採石場だった場所なので、廃坑に似ているのは当然である。だが、壁面のあちこちに刻まれた壁画の数々はそうではないだろう。
石器時代の人間が彫ったと言われても信じてしまいそうな、素朴《そ ぼく》な線画。
ドニの言う通り、多くは蛇を模したものだ。
とぐろを長々と巻く大蛇、いくつもの頭部を持つ多頭蛇《ヒ ュ ド ラ》、コウモリにも似た翼《つばさ》をはやした蛇。さまざまな蛇が壁面に刻まれている。
他には牛や鳥、豚、獅《し》子《し》などの線画も見受けられる。
いずれも魔術の素養を持つ者なら一目でわかる、地《じ》母《ぼ》神《しん》の象徴《しょうちょう》ばかり。これらが刻まれたのは、おそらく帝政ローマの支配期以降のはずだ。
「……ここはその昔、秘密の地下神殿だった場所ですから」
聖域の静《せい》寂《じゃく》を乱したくないリリアナは小声で答えた。
男権主義の一神教が国是《こくぜ 》となって以来、かつて聖なる巫《み》女《こ》であった女たちは『魔女』として追われる身となった。
だから彼女たちは地下に逃れ、自分たちの叡智《えいち 》を守り、伝える地下神殿を築いたのだ。
これらの壁画は魔女たちの信仰の対象として刻まれた、神の似姿である。
「そういえば蛇って、魔女の守り神なんだっけ。何でだい?」
いきなり訊かれて、リリアナは困惑した。
古代世界における、大地母神に仕える巫女。それが『魔女』の原型である。
ヨーロッパではキリスト教の普及に伴《ともな》って古来の信仰が失われ、あるいは弾圧されてきた。その過程で聖なる巫女だった女たちは、忌むべき魔女と見なされるようになったのだ。
古き大地の女神は、多くが地上と冥界を共に支配する生命と死の女神だ。
アテナ、イシュタル、イシス、ティアマト、キュベレー等々。枚挙《まいきょ》に暇《いとま》がない。美の女神として名高いアフロディーテなども、元は強力な大地の女神である。
そして、死と生命のサイクルを示す聖獣こそが蛇。
ゆえに蛇は地母神の象徴となり、魔女たちの守護者となるのだが。
こんなところで陰秘学《オ カ ル ト》の講義をするのもためらわれる。リリアナは無難に、面倒ごとを後まわしにしようと決めた。
「長くなる話ですので、あとでご説明させていただきます。しばしお待ちください」
「ハハハ、ごめんごめん。前に習ったはずなんだけど、すっかり忘れちゃって」
たいして反省していなさそうな口ぶりで、ドニが能天気に言う。
この暴言を、リリアナは少量の畏《おそ》れと共に聞き流した。
カンピオーネと魔術師はただ似ているだけで、まったく別種の存在。
改めて、その風聞が事実なのだと痛感できた。そういえば、エリカ・ブランデッリがご執心の草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》も魔術の知識を露《つゆ》ほども持たない素人《しろうと》だった。
「で、君たちの仲間が隠しているっていうのはヘライオンだっけ?」
「はい。数カ月前に発見されたゴルゴネイオンは、女神メドゥサとアテナの印。そしてヘライオンは、女神ヘラの印です。古き伝承にいわく、ヘラは蛇の巻き毛と雌牛《め うし》の目を持つ女神――これはどちらも地母神の神性を示す印ですから」
ギリシア神話でのヘラは、神王ゼウスの妻である。
だが、この女神はもともとペロポネソス半島の地母神だ。
そこにゼウスの原型となる天空神を崇《あが》めるインド・ヨーロッパ語族系騎馬民族が侵入し、征服者となった。以後、ヘラはゼウスに従属《じゅうぞく》する女神とされたのだ。
やがてふたりは、地下神殿の深奥《しんおう》へとたどり着いた。
そこには黒い石造りの柱があり、そのそばにはふたりの魔女――ディアナ・ミリートとカレン・ヤンクロフスキが待ちかまえていた。
「お初にお目にかかります、サルバトーレ卿。このたびは私どもの嘆願を聞いていただき、まことにありがたく――」
「そんなことより、早く本題に入ろう。それがうわさのヘライオンだね?」
ディアナの挨拶をあっさりと切り捨て、ドニは石柱へと目を向けた。
黒曜石《こくようせき》にも似た、黒い石材で造られた円柱。
大昔には採石場だった地下神殿の床から、なんと樹木のように生えている。
表面には、とぐろを巻く大蛇にも似た生き物の線画が刻まれている。稚拙《ち せつ》なタッチなのに、不思議と見る者の目を惹《ひ》きつける力があった。
高さは約二メートルほど。それがヘライオンの外観だった。
「うん、いいね。たしかにものすごい神力を感じるよ」
「はい。これをギリシアで発見し、ここに苦労して移送したのは数百年ほど前のナポリの魔女――私どもの先達《せんだつ》たちなのですが」
ディアナが厳《おごそ》かに語り出した。
さきほど古書店で取り乱していた姿とはほど遠い立派な振る舞いだが、彼女はこれでも〈青銅《せいどう》黒十字《くろじゅうじ》〉ナポリ支部のリーダー格なのだ。
「ちょうど今年の春――カラブリアでゴルゴネイオンが発見された時期から、それに呼応するように呪《じゅ》力《りょく》を蓄《たくわ》えだしたのです。幸い、最初はそれほどの強さでもなかったので、私たちが『隠遁《いんとん》』の結界を編んで隠してきたのですが――」
最近は、それでも抑え切れなくなってきた。
ため息と共にディアナが説明すると、ドニは楽しそうにうなずいた。
「なつかしいな、ゴルゴネイオンか。僕がちょうどサボっていたときのだねー」
「……サボっておられたのですか?」
「うん。ほら、ちょうど護堂と決闘して怪《け》我《が》をしたあとだったし。それに僕が出張《でば》らなければ、あの坊やにあれの始末が依頼されるように話を持っていきやすいだろう?」
思わず答《とが》める口ぶりになったリリアナに、ドニが軽くウインクしてきた。
この無責任な青年には、同じカンピオーネの少年がいずれ最大の強敵になる日を手ぐすね引いて待ちかまえている節がある。リリアナは改めてそれを実感した。
サルバトーレ・ドニは純血の戦士だ。
歓喜も友情も、怒りも愛も悲しみも、全て戦いの場でしか感じ得ない人物なのだ。だから、どれだけ鷹揚《おうよう》に見えても、どれだけ陽気に見えても、それは本当の彼ではない。
彼が真の己をさらけ出すのは、ただ闘争の場――それも強敵たり得る敵手にだけなのだ。
だから彼は、その稀《まれ》なる敵を愛し、友と呼び、全力で打ち倒すべく剣を研《と》ぐ。
自分やエリカは天才的な魔術師と言ってもいいだろうが、この青年には遠く及ばない。リリアナは抗《あらが》いがたい戦慄《せんりつ》と共に、それを認めた。
かつて、サルバトーレ・ドニは落ちこぼれの烙印《らくいん》を押された。
だがそれは、彼が規格外の存在であったからだ。
既存の尺度《しゃくど》や凡人の常識では量り切れないほど巨大な才能と歪み。あやふやな魔術などという芸に背を向け、ただ武術のみを磨き、その剣の鋭さだけで神さえ殺《あや》めた異能の天才。
それこそが『剣の王』の本質のはずだ。
もちろん、見た目そのままの能天気さも彼の動かしがたい本質ではあろうが……。
「ま、あれで出てきた神様がアテナだって聞いたときは『しまった!』って思ったけどね。護堂に回さず、僕が戦っておけばよかったよ。惜しいことをした。……ヘライオンを持ってたら、ヘラが来てくれたりするかな?」
「うーん、その可能性は低いと思いたいのですけどー」
困り顔でディアナが答えた。そもそも、この円柱を持って出ることなど容易にはできまい。
地面から柱を掘り起こし、移送する。
そのために人員と機材を用意しなければいけないし、そんな扱いをしてヘライオンにさらなる異状が生じたら大変だ。リスクが大きすぎる。
「そういえば、さっき竜が出てくる可能性もあるって言ったよね。どうしてさ?」
あっけらかんとドニに訊《き》かれて、三人の魔女はひそかに目配せし合った。
(……そこも説明しないとダメなのかしら?)
(……ダメなのでしょうね。先ほどからのお話を聞く限りでは、サルバトーレ卿の魔術に関する知識はそこらの魔術師見習いとほぼ同等かと)
(こ、こらカレン、決して変なことを口走るんじゃないぞっ)
女三人によるアイコンタクト。
カンピオーネとして、何より剣士としての力量は大いに敬服するところではあるが、この素人同様の知識レベルはどうにかならないものだろうか。
少々ぼやきたくなりながらも、リリアナはコホンと咳払《せきばら》いをした。
「竜とは結局のところ、蛇の変形ですから。極端な話、大蛇に鳥やトカゲ、馬や獅《し》子《し》などの部品を適当にくっつけていけば、竜になります」
「えー、そうかい? なんだか強引な理屈だなァ」
「強引ではありません。聖なる巫女であった女たちが『魔女』におとしめられたように、地母神の化身である蛇も、時代が下ると共に『竜』という魔獣に変わっていきました。その過程で、より凶悪な姿形と能力を獲得していったのです」
ここでリリアナは、伝え聞くサルバトーレ・ドニの偉業を思い出した。
「そういえば、サルバトーレ卿も竜にまつわる権能《けんのう》をお持ちのはずです」
「そんなのあったかな? 僕は竜と戦ったことはないはずだけど」
「もちろん直接ではありませんが、竜の――つまり大地と水の神霊である魔獣の力を継承した英雄と、すでに剣を交えておられます」
ドニが初めて倒した神は、ケルトの神王ヌアダ。
彼はこの神から、名高い魔剣の権能を簒奪《さんだつ》した。その次にヴォバン侯《こう》爵《しゃく》によって呼び出された神を倒して、竜の力――不死なる鋼《はがね》の権能を手に入れたのだ。
竜殺しの戦士たちは、征服対象である竜蛇の神性を何らかの形で我がものとしている。
その理を踏まえたリリアナの指摘に、ドニはうなずいた。
「……そうか。まあ、わかったよ」
「ご理解いただけましたか。それはようございました」
「いや、君が何を言いたいのかは全然わからない。けど今まで知らなくとも何とかなったんだから、多分たいした内容じゃないなって。それがわかった。大丈夫大丈夫」
「…………き、卿がそれでよろしいのでしたら、問題はないかと」
やはり自分たちとは頭の仕組みがちがうと、リリアナは思い知った。
ここまで大雑把《おおざっぱ 》な思考法で、この王様は数々の修羅場《しゅら ば 》を切り抜けてこられたのだ。真似したくもないし絶対に真似できないが、ある意味でこれも彼の偉大さなのだろう。
「じゃあ、このヘライオンをどうしたものかな? 護堂がしたように持って帰るには、ちょっと大きすぎるよねえ」
高さ約二メートルの黒い円柱。しかも、地面から生えているものだ。
自分よりも背の高いヘライオンを眺めながら、ドニはつぶやく。それから不意にニンマリと笑い、楽しそうに提案した。
「これを根本で斬《き》ってから手頃なサイズにまで細切れにしてさ、バッグにでも入れて僕が持ち歩く……ってのはダメかな?」
「ヘライオンを斬る!? と、とても大切な神具なのですよ!?」
「そ、それはいくら何でも乱暴です」
ディアナが叫び、いつも冷静なカレンでさえ顔色を変えた。
ゴルゴネイオンもそうだったが、ヘライオンも欧州の魔女には神聖な祭具なのだ。いくら『王』とはいえ、無茶が過ぎるアイデアだった。リリアナも言い添える。
「サルバトーレ卿、ディアナたちの言う通りです! それに、いくら卿の魔剣でも地母神の神具を斬り裂いたりはできますまい!」
「いや、斬れるんじゃないかな。斬れない気がしないから、多分いけるよ」
ヘライオンを見つめるドニが、静かに言い切った。
彼は本当にやる気だ! 確信したリリアナは、あわてて叫んだ。
「いけませんッ。今、ヘライオンには大地と水の呪力が大量に蓄《たくわ》えられています。ディアナたちが編んだ結界のおかげで外に洩《も》れてはいませんが、ここに卿の権能が加わったりすれば、どんな事態になるのか予測もつきません! 最悪、たまった呪力が一気にはじけ飛んで、ナポリごと全てを吹き飛ばすかもしれません。軽率な行為は避けるべきです!」
「でもさ、この柱のそばに貼りついて何か起こるのを待つのも退屈だよ」
「ですから、どうすればいいか卿のお知恵を拝《はい》借《しゃく》したいというお話なのです。神に関わる案件でしたら、なんといっても卿がイタリア最高の専門家なのですから。……細切れ以外で、いいアイデアは何かございませんか?」
「うーん、そうだねー」
リリアナに厳しく言われて、考え込むドニ。が、すぐに首を横に振った。
「特にない。わからない」
「卿! まじめにお考えください!」
この王様の相手をしていると、ペースが狂って仕方がない。
つい諫《いさ》めの言葉を発してしまいながら、リリアナは冷や汗をかいた。ヴォバン侯爵などにこんな発言をしようものなら、即刻処刑ものだ。
だがドニは能天気な笑顔で、不敬《ふ けい》な失言を聞き流した。
「まあまあ。今のところはって意味だよ。とりあえずさ、今日は帰って休もうよ。もう結構遅い時間だし、明日になれば妙案が思い浮かぶかもしれないしね!」
この王命を拒む理由は、たしかになかった。
ヘライオンの前に残っていても時間を無駄にするばかりで意味がないのだから、当然だろう。かくして、三人の魔女と『剣の王』は地上への道を戻ることにしたのだが――。
帰りの道中、ドニはずっとニヤニヤしながら物思いにふけっていた。
その表情に不吉なものを感じたリリアナは、ひそかにある決意を固めるのだった。
3
その夜、サルバトーレ・ドニは市内に手配したホテルに宿泊した。
そしてリリアナとカレンはディアナの家に泊まる。それで今日の騒ぎはひとまず終了――となる予定だった。
だが、深夜〇時過ぎ。リリアナはひとりで夜のナポリを歩いていた。
昼間も来たサンタ・ルチア地区、海沿いの大通り。
夏の欧《おう》州《しゅう》、特にこういう大きな都市では決して遅すぎる時間帯ではないため、人通りは結構多かった。夜はまだこれからという遊び人たちが出歩いているせいだ。
ナポリはあまり治安のよくない街だが、この辺りは比較的安全なエリアである(これが旧市街の方なら、スリ団や強盗たちと遭遇《そうぐう》しても文句を言えないところだが)。
とはいえ、リリアナには夜遊びの習慣はない。
腕に覚えもあるため身の危険を感じたりはしなかったが、どうも居心地が悪い。
……落ち着かない気分のまま彼女は深夜営業中の|カ《バ》|フ《ー》|ェ《ル》に入り、サンドイッチで腹ごしらえをし、濃いエスプレッソで眠気を覚まして店を出た。
足早に歩き、道を急ぐ。早く定位置に戻らなくては。
それにしても――。若い女牲と時折すれちがうたび、リリアナは眉《まゆ》をひそめたくなった。
この街の女性たちは、いささか露出度が高くはないだろうか?
キャミソールやタンクトップを着るのはいい。だが、いくら夏とはいえ大胆におヘソまで出したり、ブラジャーのひもを見せたりするのはどうかと思うのだ。
ちなみにリリアナの方はといえば、当然おとなしめの格好である。
五|分袖《ぶ そで》のゆったりとしたシルエットの青いブラウスに黒のスキニーパンツ。これはこれで清潔感のある優美なファッションなのだが、どうも気後《き おく》れを感じてしまう。
そんな道中を終えて、彼女は宵《よい》の口《くち》から貼《は》りついている定位置に戻ってきた。
あの太った魔女が店番をしていた古着屋のそばだった。ある不安を感じたため、今夜はここを見張ることに決めたのだ。
(あー。あの方ならたしかに、そういう真《ま》似《ね》もしちゃいそうですよねー)
(そうねえー。やっぱり万一のときに備えた方がよさそうねー)
リリアナが不安の内容を口にすると、こんな答えが仲間たちから返ってきた。
人間同士の信用は、やはり普段の行いから育《はぐく》まれるもの。その教訓を噛《か》みしめながら、リリアナはピューっと口笛を吹いた。
すぐに物陰から、やせた野良猫《の ら ねこ》がのそのそと歩み出てくる。
食事へ行く前にこの猫をつかまえて、即席の使い魔にする魔術をかけたのだ。自分の代わりに見張りをさせ、異状の有《う》無《む》を報告させるためである。
毛並みの悪い野良猫の頭に手のひらを乗せ、留守の間の情報を得る。
「……ここまで予想通りだと、本当に頭が痛くなってくるな」
悪い予想が現実になったと知り、リリアナは古着屋に向かった。
店のドアは古い木製なのだが、ノブの鍵《かぎ》が器用にこじ開けられている。彼[#「彼」に傍点]に『解錠』の魔術が使えるはずはないから、手先の技でどうにかしたのだろう。
「あの方は何で、こんな怪しい特技を身につけておられるんだ!」
腹立ちまぎれに怒鳴りながら、ドアを開け放つ。
店内では見覚えのある太ったおばさんが気を失い、倒れていた。
急いで地下へと向かう。軽快に走ること数分。地下|遺跡《い せき》の深奥、ヘライオンの石柱の前で機嫌よさそうにしている彼の姿をついに見つけた。
「――サルバトーレ卿《きょう》!」
「ん? クラニチャールか? どうして君がここに!?」
「それはもちろん、あなたのご様子が怪しかったので用心していたのです!」
「……な、何だって!」
かくして地下遺跡の奥底で、魔王サルバトーレ・ドニと再会したのである。
「お願いですから、こんなバカげた真似はおやめください! 何かうるさく言われる前に全部済ませればいいやとか思われたのではないでしょうね、まさか!?」
「すごいな君は。僕の考えをそこまで読むとは……やるじゃないか」
女騎士の詰問《きつもん》に、ドニはこわばった面持《おもも 》ちでつぶやく。
どうやら完全に本気だったようだ。うすうす察してはいたが、何というダメ人間。
リリアナは、自分たちの持つ選択《せんたく》肢《し》のすくなさを嘆《なげ》きたくなった。
『まつろわぬ神』の顕現《けんげん》に発展しかねないトラブルを、神殺しの魔王に相談する。この選択自体は誤りではないはずだが、相談相手にろくな人間性の持ち主がいない。
イタリアの擁《よう》する『剣の王』はこの通り、何をしでかすかわからない爆弾のような男だ。
近所のバルカン半島に住む『侯《こう》爵《しゃく》』は、飢《う》えた猛《もう》獣《じゅう》並《なみ》に危険。
アメリカと中国の『王』たちとは疎遠《そ えん》すぎる。
イングランドの『黒王子』は、性格が悪い曲者《くせもの》ともっぱらの評判だ。
アレキサンドリアの『女王』は百年にも及ぶ隠棲《いんせい》のまっ最中。
あとはたまたまイタリアにいるらしい日本の『王』……性格は比較的まともそうだし、すこしは見所のありそうな少年だが、女を見る目がない。やっぱりダメだ。
「仕方ない。こうなったら、剣を抜く以外に道はないか」
フッと微笑《ほ ほ え》みながら、ドニは例の黒いケースに手をかけた。
それまでもずっと肩にかけて、手放さないようにしていた荷物。そのフタを開け、なかの得物《え もの》を鞘[#「鞘」に傍点]ごと取り出す。ドニはその鞘《さや》を地面に投げ捨てた。
鋼《はがね》の刀身が露《あらわ》になる。
リリアナやエリカが持つような魔剣ではない。名《めい》匠《しょう》の鍛《きた》えた業物《わざもの》でもない。
ただの大量生産品。真剣であるという以外に、何の特徴もない剣。にもかかわらず、地上最強の魔剣となる驚異《きょうい 》の鋼《はがね》。
……リリアナたちはこんなふうに持ち歩かず、召喚《しょうかん》の魔術で剣を呼び出す。
それをドニがしないのは、単に魔術が苦手なためだ。その術を行使できないのだ。もっとかんたんな初歩の魔術ですら、彼は満足に使いこなせない。
だというのに、その体から湧《わ》き出る呪《じゅ》力《りょく》の強大さはどうだろう。リリアナは息を呑《の》んだ。
「き、卿。まさか、剣に物を言わせるおつもりですか!?」
「あ、いや、べつに君を斬《き》り捨てたりするつもりはないんだ。……ほら、日本の歴史映画でミネウチってあるだろ? あれぐらいならアリかなって」
「アリなわけないでしょう!」
チャンバラを歴史映画とか呼ぶなと日本文化にそこそこ詳しいリリアナは思ったが、今はドニの体勢の方が気になる。
――軽く半身になり、剣を握る右手はだらりと無造作に下げている。
サルバトーレ・ドニの武芸を見た騎士たちしか知らない事実がある。おそろしいことに、これが彼の戦闘態勢なのだ。構えはない。攻撃にも防御にも備えない。
あくまで自然体、融通無碍《ゆうずうむ げ 》。この体勢から全てを見切り、全てを斬り裂く。
人間相手の戦いというステージを卒業し、神、悪魔、魔王、怪物――超常の敵たちとの予測不能な戦いのなかで彼が辿《たど》り着いた臨機応変《りんき おうへん》の境地が、これなのだ。
「ミネウチがダメなら、剣を落とすくらいで勘弁《かんべん》してあげよう。準備はいいかな?」
のんびりとドニが言う。
リリアナはとっさに召喚の魔術を使い、愛剣を虚空《こ くう》より呼び出した。
考えたうえでの行動ではない。ひたひたと迫る荒事の気配に、騎士の直感が勝手に迎撃行動を起こした結果だった。
イル・マエストロ――『匠《たくみ》』の名を持つ、由緒《ゆいしょ》ある魔剣。
緩《ゆる》やかなカーブを描く銀の刀身は、優美ですらある。その愛剣をリリアナが構えた直後に、ドニが踏み込んできた。速くはない。かといって遅いわけでもない。
無造作な、友人の家へ入り込むように自然な足取りだった。
同時に彼の右手の剣が弧《こ》を描き、イル・マエストロを打《う》ち据《す》えようと襲いかかってくる。
リリアナは避けようとはしなかった。
逆にドニの剣に自分のサーベルを打ちつけ、抑《おさ》え込もうとする。受け止めるのではなく、敵の刀身へ自分の剣を蛇のように絡《から》みつかせ、動きを封じる技だった。
だがドニの軽くはたくような打ち込みを、搦《から》め捕《と》ることはできなかった。
逆にあっさりとイル・マエストロは弾《はじ》き飛ばされてしまった。
しかも、彼の剣を持っていない方の左拳《ひだりこぶし》が飛んでくる。
これもまた無造作な当て身で、みぞおちの辺りを叩《たた》かれた。かなり軽そうな一打なのに、ズシンと体の芯《しん》まで衝撃が響く。息が詰まり、全身の力が抜けていく。
リリアナは膝《ひざ》を折り、あえいだ。次元がちがいすぎて、攻防にすらならない。
「……とまあ、こうなったわけだ。これ以上の妨害を君がするなら、僕の四十八の殺人技で夢見心地のまま気絶してもらったり、五十二のサブミッションで手足の関節を外したりのコースが待ってるんで、おとなしくしていてよ!」
快活に告げたドニは、背を向けてヘライオンの方に歩いていった。
どうにか立ち上がるだけで精一杯のリリアナには、もう妨害することはできない。しかも、彼の右腕が銀色に輝きだしている。
彼女は戦操《せんりつ》した。『剣の王』が所有する最強の権能《けんのう》。その準備がはじまったのだ。
ドニの右腕は今や、血と肉と骨から成る人間の腕ではなかった。
白銀に輝く、金属造りの腕。天才的名工が全ての技と情熱を傾けた、精緻《せいち 》な彫像の腕のように変わり果てていた。
「ここに誓おう。僕は、僕に斬れぬ物の存在を許さない。この剣は地上の全てを斬り裂き、断ち切る無敵の刃《やいば》だと!」
ドニの口から不遜《ふ そん》な宣言が――否《いな》、言霊《ことだま》がほとばしった。
言霊は膨大《ぼうだい》な呪力となり、彼が持つ鋼にまとわりついていく。超常の性質を付与し、唯一無二《ゆいいつむ に 》の魔剣へと変えていく。そして、『王』の剣は黒い円柱に振り下ろされた。
それだけでヘライオンは一刀両断――真っぷたつにされた。
銀の腕で振るう刃物に、地上のあらゆる物体を断ち切らせる。これが『|斬り裂く銀の腕《シルバーアーム・ザ・リッパー》』。彼がケルトの神ヌアダより簒奪《さんだつ》した権能だった。
錆《さ》びついた剣でもただのソムリエナイフでも、至高の魔剣に変える力。
おそろしくシンプルな権能である。だが、その一刀は大地を斬り裂き地形すら変え、海面をも断ち切る奇跡をやってのけるという。単純にして強大無比な力であった。
そしてリリアナは見た。
魔剣で切られたヘライオンから、莫大《ばくだい》な量の呪力がマグマのように噴き出す光景を!
そのまま呪力はまばゆい緑の閃光《せんこう》をまとい、地上へと駆け上がっていった。地下遺跡の天井を砕き、突き崩しながらの噴出・上昇だった。
4
人間たち――特に、魔術師《 マ ギ 》などという小賢《こ ざか》しい輩《やから》が言う『まつろわぬ神』。
この超自然の存在は、いかにして生まれるのか。
それを知る人間はいない。彼らにできるのは的《まと》を射《い》ない、もしくは存外に鋭い仮説を打ち立て、頭を悩ます程度だろう。
何しろ、当の神々ですら明確には答えられない現象なのだから無理もない。
彼ら『まつろわぬ神』は、気づいたときには地上に顕現《けんげん》し、存在しているものだ。自《みずか》らの誕生した過程など覚えていたりはしない。
「……我、この地に生を得たるは何故《なにゆえ》か? などと己《おのれ》に問うても、もちろん答えなどわからないわけだ。難儀《なんぎ 》でもあり気楽でもある身の上だな」
実体を得たばかりの彼は、苦笑気味につぶやいた。
その笑みに嘆《なげ》きの色はない。
わからないなら、それはそれで面白い。気に病《や》む必要はない。
己が己である理由を知りたい、真の己が何者かを探したい――などと繊細《せんさい》すぎる悩みを持つのは、神代《かみよ 》の豪傑《ごうけつ》たる彼の流儀ではなかった。
とはいえ、彼ら神々の核となるエッセンスは『神話』である。
そうである以上、その物語を語る人間たちの暮らす土地、あるいは物語にゆかりの土地で聖誕《せいたん》するケースは多いと言えるかもしれない。
彼は周囲を見回してみた。
辺りは夜闇《よ やみ》に包まれていたが、神の視力には何の障碍《しょうがい》もない。
ここは山、それも火山のなかのようだ。見渡す限り、緑はすくない。鉄分を多く含んでいるのだろう、赤みの強い火山岩ばかりが目立つ。
――ヴェスヴィオ火山。
そう人間たちが呼ぶ土地であることを知らぬまま、彼は観察をつづけた。
ここは火山の中腹《ちゅうふく》辺りのようだ。遠方に目を向ければ、海と人間どもの都があった。さほど離れてはいないようだ。弓の名手でもある彼の視力を以《もっ》てすれば、余裕で見渡せた。
「……ほう。これはまた面白そうな――」
都《みやこ》の一角、海にほど近い辺り。そこから天に向けて、強大な呪《じゅ》力《りょく》が噴き上がっている。
大地と水の精気が、エメラルド色の閃光《せんこう》となって屹立《きつりつ》しているのだ。
まるで噴火する火山のようだ――。そう思い至った瞬間、彼は己がなぜ顕現したのかを唐突に理解した。
大地の精気。おそらく母なる蛇《へび》、大地の女王に属する力なのだろう。
そして今、己が立つているのはどこだ? 火と鉄を産み出す、石の山嶺《さんれい》の上だ。
では己は何者か? 英雄だ。火に焼かれ、鉄を携《たずさ》え、地を征す戦士だ。
「大地の精と鋼《はがね》の魂《たましい》が私を呼んだか。そうであれば、次に顕《あらわ》れるべきはあれだな」
彼は、己の身に宿る神力を解き放った。
噴き上がる緑の神力が、彼の神力に呼応して新たな形を造っていく。
そこに地と水と火と風の精気が集《つど》い、巨大な生命のエネルギーを精錬《せいれん》させていく。
その巨体の基本は大蛇だ。
かつて、彼が神話のなかで打ち倒してきた怪蛇・海獣たちにも負けない長さ。天を見上げる民衆は、その偉容、巨大さに恐怖の叫びを上げているだろう。
そして翼。蝙蝠《こうもり》のそれに似た、禍々《まがまが》しくも長大な翼が背に生まれている。
トカゲを思わせる短い四《し》肢《し》が、胴に加わる。
頭部の形状は、むしろワニに似ていると評すべきだろう。大きく裂けた口に、剣のごとく鋭い牙《きば》が列をなす。――竜の誕生だ。
今や海辺の都の上空では、巨大な竜が翼を広げ、悠々《ゆうゆう》と旋回していた。
彼は満足して微笑んだ。
いくさ神にして英雄、そして大地の精の討伐者《とうばつしゃ》でもある己にふさわしい強敵の誕生。実によろこばしき展開ではないか。
とりあえず、倒すべき敵がいればよい。乗り越えるべき冒険があればよい。
あとは救うべき麗《うるわ》しの乙女《お と め》がいれば尚よいが、まずはそちらが先だ。これがなければ始まらない。英雄の存在意義がない!
彼は血のたぎりにまかせて駆け出そうとして、すぐに足を止めた。
「――そうであった。名乗りを決めておかねばなるまいな」
美《び》々《び》しく雄《お》々《お》しい英雄たる彼は、当然のことながら派手好きでもあった。
あまり人間どもの感銘《かんめい》を惹起《じゃっき》しない名乗りも、己の威厳《い げん》を傷つけるというものだ。
しばし熟慮《じゅくりょ》し、まあこれが妥当《だ とう》であろうと思い定めた彼は、稲妻《いなずま》のごとく地上へと降《くだ》った。
「も、もうお終《しま》いかと思った……」
どうにか脱出を果たしたリリアナ・クラニチャールは、力なくつぶやいた。
ヘライオンから湧《わ》き出た閃光が地上へと駆け抜けていった直後、地下|遺跡《い せき》の天《てん》井《じょう》は崩落をはじめたのだ。相当激しい衝撃が加わったのだろう。
このままでは生き埋めになる!
地震でも起きたかのように揺れる地下遺跡のなか、リリアナは即行動を起こした。
大小さまざまな石や、あげくに岩盤まで落ちてくる極限状況で、とっさに『飛翔《ひしょう》』の魔術を使ったのだ。この術を使えば、数百メートルの距離なら一〇秒ほどで飛び越えられる。
傍目《はため 》には瞬間移動を果たしたようにも見える魔術だ。
だが、要は長距離を高速で移動するだけなので、もちろん実情はちがう。
リリアナはこのとき、ヘライオンから出た閃光がぶちぬいた天井の大穴めがけて『飛翔』し、地上へと脱出したのだ。あとすこしでも決断が遅れていれば、同じ術を使っても落石に巻き込まれていた可能性が高かった。
――今、彼女が立っているのはサンタ・ルチア地区の海辺だった。
この辺りに砂浜はなく、形のまばらな大理石を敷き詰めて、防波堤代わりにしている。ほんのすこし歩けば、すぐにサンタ・ルチアの街に戻れる。
例の古着屋までなら、徒歩で十数分というところだろうか。
地下遺跡のなかで移動し、さらに『飛翔』の術で一気に飛んだ結果、気づかぬ間にここまで来ていたらしい。急いで周囲を見回してみる。
ヘライオンの蓄《たくわ》えていた呪力が弾け飛んだのだ。
その余波で、地上の街が吹き飛ばされる――そんな最悪の結果まで危《き》惧《ぐ》していたのだが、よかった。港のまわりは無事なままだ。特に大きな被害が生じている様子はない。
リリアナは安堵《あんど 》した。
もちろん貴重な地下の聖域が崩落してしまったし、あの一帯の地上にある建物や人々も地盤沈下の影響をこうむっているだろうが、都市ごと吹き飛ぶよりはマシだ。
……そう、マシだと思ったのだが。
ふと空を見上げて、リリアナは自分の勘《かん》ちがいを悟った。
竜だ。竜が飛んでいる。
港の上空で巨大な竜が翼を広げ、下界の街並みを傲然《ごうぜん》と見下ろしている。
翼長は優に三〇メートルほどはありそうだ。鱗《うろこ》[#ふりがな「うろこ」は底本では「うころ」]は輝くエメラルドグリーン。
現代人が竜と言われて想像する姿と比べれば、胴も首も蛇のように長めで、すくなからぬ違和感があるかもしれない。だが、これは些細《さ さい》な問題だと言える。
竜というキマイラの姿は、時代と場所によって変遷《へんせん》を遂《と》げていくものだ。
欧州では古来、さまざまな竜が描かれてきた。
四肢のない竜、翼のない竜もいた。逆に四肢や翼が長すぎて、ペガサスのような体型の竜もいた。ファンタジー映画やゲームで定番の似姿は、意外と近年の産物なのだ。
「やはり、ヘライオンを真っぷたつにしたから生まれたのか……?」
「いやー、すごいね。あの柱から本当に竜が出てくるとは思わなかったよ。ビックリだ」
竜を見上げるリリアナの呆然《ぼうぜん》としたつぶやきに、のんきな声が応じた。
驚きはなかった。
自分が無事に脱出できたのだ。彼の身に万一のことなどあるわけがない。リリアナが振り返ると、そこにはサルバトーレ・ドニが傷ひとつない姿で立っていた。
さすがは『|鋼の加護《マン・オブ・スチール》』の権能《けんのう》を持つ戦士。
彼が北欧の英雄ジークフリートから簒奪《さんだつ》した力は、肉体を鋼よりも硬く、半ば不死身に変えるという。あの崩落でさえ、にわか雨程度にしか感じなかったのかもしれない。
「……卿《きょう》。申し上げにくいことではありますが、先ほどの卿のお振る舞いゆえに、あの竜が誕生したのです。すこしはご自重《じちょう》ください!」
「わかってるよ、大丈夫。責任を持って、僕があいつを倒してみせるとも!」
「おやめください! この土地の精気が凝縮して生まれた神獣を倒されたりしたら、この近隣一帯の霊《れい》脈《みゃく》が涸《か》れてしまうかもしれません! 危険すぎます!」
リリアナは、空中の竜を見上げながら叫んだ。
東洋の風水《ふうすい》で言うところの地脈、竜脈。
あの竜はまさしく、そういう類《たぐい》の力が凝《こ》り固まって具象化《ぐしょうか 》した神獣なのだ。
あれを倒すことでナポリは都市としての命脈を失い、不毛の大地と死の海だけが残る。そんな未来の到来を、魔女の霊感が警告している。絶対に避けねばならない。
――ばさばさと羽音を鳴らしながら、竜が港の方へ近づいてきた。
物理法則など無視した生物なのだから、空を飛ぶために不可欠な器官とも思えないのだが、意外と律儀に翼を動かしている。
ナポリ湾の上を悠々《ゆうゆう》と滑空する巨竜。
そしてサンタ・ルチア港の埠頭《ふ とう》から、それを見上げるふたりの騎士。
ひとりは旺盛《おうせい》な戦意に燃え、ひとりは何としても戦わせまいと気を揉《も》んでいる。
ドニの闘志に気づいたのか、エメラルド色の竜は空から帝王のように『剣の王』を見下ろしている。そして、いきなり声高《こわだか》に咆哮《ほうこう》した。
グアアアアアアアアアアアッ!!
竜の咆哮はすさまじい轟音《ごうおん》となり、深夜のナポリ市全体を激しく震憾《しんかん》させた。
同時に、強烈な呪力が竜の巨体からほとばしった。
まさかこの竜、魔術か神力の類を使いこなせるのか!? リリアナが危《き》惧《ぐ》した直後、海に変化が生じた。――波だ。波が来た。
ザァ、ザザァと音を立てて埠頭《ふ とう》に打ちつける波。
その水と音の押し寄せるリズムが、急速にテンポアップする。
今までは静かな夜のさざ波だったものが、ほんの数十秒で荒波にまで強さを増している。
「ふふん。すこしばかり波を強くしたからって、どうだっていうんだい?」
「すこしばかりではありません! あれをご覧ください!」
余裕を見せるドニに、リリアナはあわてて警告した。
白兵戦《はくへいせん》の天才にして純血の戦士、この分野においてはカンピオーネのなかでも羅濠《ら ごう》教主を除けば最強と言われる彼だが、ここに弱点というか悪い癖《くせ》があった。
魔術戦についてのセンス、判断力が著《いちじる》しく低いのだ。
何しろ、彼は魔術に対して絶対的な耐性を誇り、そして鋼鉄よりも強靱《きょうじん》な肉体を持つ鉄壁のカンピオーネなのである。
強力な魔術や神力で攻撃されても、ひたすら耐えながら前進して剣で攻撃。
お世《せ》辞《じ》にも頭脳的とは言い難い戦法で戦う、突撃の騎士なのだ。必然的に、敵の魔術を前にしても泰然自若《たいぜんじじゃく》、細かいことは気にしないようになる。
――竜の呼んだ荒波は、わずかな間に勢いをさらに強めていた。
荒れ気味の海から、さながら嵐の夜の海に。ひっきりなしに強い波が埠頭に押し寄せ、そして沖の方からは雪崩《な だ れ》のように港へと侵入してくる大津波《ビッグウェーブ》が。
おだやかな内湾に到来するはずのない、大自然の猛威《もうい 》であった。
「サ、サルバトーレ卿!?」
「ふん、こんな波ぐらい僕の剣で――って、しまった! さっさ地下で落っことしたんだ!! ち、ちょっと待った! もっと正々堂々戦おうよ、ねえ!?」
必死で『王』に呼びかけるリリアナと、大声で訴えるドニ。
ふたりとも場ちがいな大津波に呑《の》み込まれ、海へと押し流されてしまった。
――な、何でわたしまでこんな目に!
リリアナは己の悲運を呪《のろ》いながら、暗い夜の海に呑《の》み込まれた。
ドニに打たれた体はまだすこし痛むが、このまま溺《おぼ》れ死ぬわけにもいかない。濡れた衣服に邪魔《じゃま 》されつつも、海面を目指して泳ぎはじめたとき。
エメラルド色の巨大な物体が、彼女の体を真下からすくい上げてくれた。
――数十秒後。
竜の長大な頸部《けいぶ 》の付け根に乗せられたリリアナは、海上を飛行していた。津波でドニもろとも押し流したあとで、彼女だけを海に潜って拾い上げてくれたのだろう。
「わ、わたしを助けてくれたのか?」
つぶやくように質問しても、竜の返答はない。
だが、答えはもちろん肯定に決まっている。地《じ》母《ぼ》神《しん》の神具であるヘライオンから生まれた竜は、それを守護していた魔女たちを仲間と認めて、救ってくれたのだろう。
リリアナは安堵《あんど 》の吐息《と いき》を洩《も》らした。
同時に『王』のことを思い出し、一瞬だけ心配し、まあいいかと思い直した。
あの超人がこんなところで溺れ死ぬはずはない。
どうせ、何食わぬ顔でどこかの海岸まで泳ぎ着くのだろう。そして「いやー死ぬかと思ったよ」なんて能天気に言うに決まっているのだ、絶対に。
竜はゆったりと飛んでいたが、そこそこの速度は出ているようだ。
港の景観がどんどん近づいてくる。最も目立つのは、やはり卵城《たまごじょう》だった。
これは海に張り出した突端に建つ、石造りの城塞《じょうさい》である。正式にはデローヴォ城という名称なのだが、『卵城』と呼ばれている。「この卵が割れるとき、城とナポリに災《わざわ》いが起こる!」という予言と共に卵を埋めたことが名前の由来であった。
海を見張るための要塞《ようさい》だったのは中世の話、今ではナポリ屈指の観光スポットだ。
訪れる観光客は、ここの屋上からナポリの風景を一望することができる。
――竜が降り立ったのは、この城および港から街へ行き来するための通路の上だった。城と港はサンタ・ルチア地区から海に張り出す形になっているのである。
竜はおとなしく、乗り手が地上に降りるのを待ってくれた。
どうにか生還してほっとしたリリアナは、海水で濡れた体を潮風にさらして乾かしながら、これからどうしようと思案をはじめたのだが――。
このとき、稲妻《いなずま》が走った。
天空からではない。ナポリの東――おそらくヴェスヴィオ火山の方角からだ。
轟音《ごうおん》と共に天翔《あまかけ》てきた稲妻は、人の形をしていた。
しかも、今までリリアナが見たなかでは随一《ずいいち》の美男子だ。
太陽の輝きを思わせる山吹色の巻き毛に、秀麗《しゅうれい》でありながら微塵《み じん》もひ弱さを感じさせない美貌《び ぼう》。長身で、神々《こうごう》しいほど逞《たくま》しい――。
その身にまといつけた白い衣とマントは、明らかに現代の装束ではなかった。
『まつろわぬ神』。
まちがいない。一目見た瞬間に、リリアナは確信した。
人の世に顕《あらわ》れる最大の災厄《さいやく》、狂える流浪《る ろう》の神。偉大なる神力と神性の所有者。
いつかは遭遇《そうぐう》するかもしれないと覚悟してはいたが、まさか今日になるとは――。
予想外の成り行きに胸が高鳴る。喉《のど》がカラカラになる。
この美青年はリリアナ・クラニチャールなど一瞬で打ち殺せる、規格外の存在だ。その点ではサルバトーレ・ドニも同様だが、彼にはない強烈なオーラが彼女の心を蝕《むしば》んでいた。
言いしれぬ慕《した》わしさと畏《い》怖《ふ》、違和感。
青年神の美貌を見つめているだけで、その立ち居振る舞いに目を奪われてしまう。彼が何をするのか見届けたくなってしまう。
だが、彼はあくまで人間に似た何か。人の形を借りただけの、異質な存在なのだ。
そして、今ここにいる人間は己ひとり。リリアナは覚悟を決めた。
この『まつろわぬ神』が何を求めているにせよ、自力で切り抜けなくてはならない。
「……御身はいずこかの神であらせられますね? よろしければ、御名を賜《たまわ》りとうございます。お聞かせ願えますか?」
だからまず、恭《うやうや》しく訊《たず》ねてみた。すると、美貌の青年神は莞爾《かんじ 》と笑った。
「よくぞ訊いた、乙女よ。我が名、我が素性《すじょう》をいかに語るべきかとしばし悩みもしたが、やはりこう告げるのがよかろう。――我が名はペルセウス。以後、見知りおけ」
まるで用意していたかのように、青年はなめらかに口にした。
リリアナの背後で、竜が低く唸《うな》り声を発し始めた。
不倶戴天《ふ ぐ たいてん》の仇敵《きゅうてき》と巡り合い、避けられぬ闘争に覚悟を決めたと言わんばかりの危険な威嚇《い かく》の声であった。
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第3章 英雄推参
1
夜の海を進むこと二時間余り。時刻はもう夜の〇時を過ぎている。
遥《はる》か向こうに陸地と街の明かりが見えたとき、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》は心底ほっとした。どこへ行くかも定かでない船旅も、どうやら無事に終点へ到達したようだ。
アテナの操るヨットの速度は明らかに異常だった。
地上の公道をこの速度で爆走すれば、どれだけの惨事《さんじ 》になるか想像もつかない。護堂はひたすら進行方向に障害物が現れないよう、祈りつづけていた。
今は陸地が近づいたためか、かなり緩《ゆる》やかな速度なのがありがたい。
港のすぐそばには巨大な城塞《じょうさい》がそびえ立っている。
かなり特徴的な景観だ。イタリア国外には出ていないと思うが、どの辺りかはまったくわからなかった。ただ、ざっと見ただけでも相当な規模の都市だと推測できた。
「……でさ、あそこは一体どんな場所なんだよ? 何てところだ?」
「ふむ? さて、どこであろうな。知らぬ」
当然の質問に対して返ってきたのは、ひどく無責任な答えだった。
「妾《わらわ》に訊《き》くな、草薙護堂よ。妾はただ、風の導《みちび》きにまかせて船を走らせたに過ぎぬ。そもそも旅とはそういうものではないか。吹きゆく風に身をゆだね、足の向いた方角に進み、気まぐれという名の天啓《てんけい》に従うのみ。雲が天を往《ゆ》くがごとくにな……」
無断借用したヨットの上で、女神アテナが超然とつぶやく。
ゆとりのない現代人への警《けい》鐘《しょう》じみた言いぐさだったが、護堂は特に感銘《かんめい》を受けなかった。ホメロスがリアルタイムで詩を吟《ぎん》じていた御時世《ご じ せい》といっしょにするなとむしろ言いたい。
状況が急変したのは、そんなときだった。
港の一隅から、いきなり緑色の光が天に向けて放たれたのだ。
「何なんだ、あれ?」
「ほう。何者かが大地の霊《れい》脈《みゃく》を不用意に刺激したものと見える」
護堂とアテナがヨットの上から見守るなか――。
緑色の閃光《せんこう》は、護堂にも見覚えのある姿へと変わった。……竜、だ。翼長数十メートル、エメラルド色の鱗《うろこ》を持つ巨大な竜が空を飛んでいる。
「やっぱり、あれも何かの神様なのか?」
「いや、神《しん》獣《じゅう》の類《たぐい》であろうな。聖なる者の系譜《けいふ 》に連《つら》なるではあろうが……」
慣れというのはおそろしい。神様じゃないならマシな方かとさえ、護堂は思った。
神と魔王が見守るなか、竜は悠々と地上へ舞い降りていった。
その直後、稲妻《いなずま》にも似た光がどこからか街に落ちてきた。竜のすぐ近くに急降下し、この巨獣をまるで追いかけるかのような軌道《き どう》だった。
「……俺、すごくイヤな予感がしてたまんないぞ」
「妾《わらわ》の勘《かん》はどうやら当たりのようだ。少々|厄介《やっかい》な神が今、地上に降臨《こうりん》してきたばかりと見える。ふふ、なかなか面白いことになりそうではないか」
アテナの神力が操るヨットは、どんどん陸地に近づいていく。
かくして草薙護堂とまつろわぬ女神は、今イタリアで最も危険な都市に上陸したのである。
ペルセウス。
ギリシア神話の蛇妖《じゃよう》メドゥサを倒し、エチオピアの王女アンドロメダを生《い》け贄《にえ》に求めた怪物とも海辺で戦い、やはり勝利し、美《び》姫《き》を救った勇者。
蛇、そして竜殺しの英雄の典型として、広く知られる神格だった。
この種の神話を指して『ペルセウス・アンドロメダ型』とも言うほどである。
ヘライオン――大地の印の暴走が、仇敵《きゅうてき》である彼を呼んだのか。その可能性に気づいたリリアナ・クラニチャールは、ひそかに舌打ちした。
「ギリシアでもイラク[#「イラク」に傍点]でもないイタリアのど真ん中に、何でまた突然……」
つぶやきが口から洩《も》れる。本来の神話と関係ない土地にも出没するから「まつろわぬ神」なのだと承知の上で、愚《ぐ》痴《ち》りたくなったのだ。
「さて、我が名乗りを聞いたな、美しき乙女《お と め》よ。蛇を殺《あや》める戦士の名に敬意を示し、疾《と》くそこをどくがいい。名乗りの次は、我が武勇を示す番だ」
ペルセウスは、まぶしいほどに白い歯を見せて笑いながら言った。
ただの美男子では決して持ち得ない、ふてぶてしさと愛《あい》嬌《きょう》を両立させた笑顔・それを威嚇《い かく》するようにして、リリアナの背後にいる竜が咆哮《ほうこう》した。
ガガァァアアアアアアアアアアアッ!!
すさまじい大《だい》音声《おんじょう》だった。
リリアナの華奢《きゃしゃ》な体を大きく揺さぶり、鼓膜《こ まく》が破れるのではと思わせるほどの咆哮《ほうこう》。おそらく、サンタ・ルチア港だけでなく市街の方にまで響き渡ったことだろう。
その雄叫《お たけ》びに応《こた》えて、ペルセウスの手に忽然《こつぜん》と刀が現れた。
刃渡り一メートルを超す、反《そ》り身《み》の彎刀《わんとう》。しかも、鉈《なた》のように刃が分厚い。英雄の武具にふさわしい豪刀だった。――いけない。
戦いの開始を阻止すべく、リリアナは美貌《び ぼう》の英雄に呼びかけた。
「ペルセウス神よ、おやめください! これなる竜はナポリの――この土地の精より生まれた神獣ッ。不用意にお手《て》討《う》ちにされては、この地の霊気が死に絶えてしまう恐れがございます。どうぞ、この場は刀をお納めくださいませ!」
「それはできぬ相談だな、乙女よ」
フッと微笑しながら、ペルセウスは静かに答える。
「竜を殺め、蛇を屠《ほふ》るは我が宿業とも言える務め。これこそが私を英雄たらしめる偉業であり、行動でもある。その務めを中途で止めることは、何人《なんびと》にも許されぬのだよ」
「そ、そのためにこの土地がどうなってもかまわぬと!?」
「我が武勲《ぶ くん》の成就《じょうじゅ》のためだ。致し方あるまい」
快活にして明朗、太陽のごとき英雄が、春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》として言う。
民《たみ》を救い、乙女を守護する勇士にあるまじき豪語。それを口にする輝かしい美貌は、どこか優雅な――洗練された猛々《たけだけ》しさとも言うべき闘志を露《あらわ》にしていた。
「控えているがいい。乙女の役目は救いを待ち、勝者たる武士《もののふ》に愛を捧《ささ》げること。いくさの邪魔《じゃま 》立《だ》てとは僭越《せんえつ》に過ぎるぞ!」
この穏やかな叱咤《しった 》に打たれて、リリアナの体は凍りついてしまった。
ペルセウスを止めるためにも、持てる力を尽くさなくては。頭はそう思っているのに、体が応えてくれない。手足がピクリとも動かない。否、動かせない。
これは言霊《ことだま》の力だろうか?
ペルセウス――蛇殺しの英雄が持つ支配力に、リリアナは呑《の》まれてしまっていた。
かつてライバルの少女が、軍神ウルスラグナに似たような目に遭《あ》わされたことなど、彼女は知るよしもない。だが、己が神の権威に屈した事実は痛感できた。
「ハハハ、聞き分けのよい子だ。よければ竜を打ち倒したあとで、我が侍女《じ じょ》として召し抱えてやろう。いにしえの我が妻、アンドロメダの故事に倣《なら》ってな!」
高らかにペルセウスが吠《ほ》えた直後。
エメラルドの竜が翼を広げ、飛び立つ。地上の英雄を空から打ち倒すつもりなのだろう。
空中で禍々《まがまが》しい顎《あぎと》を開き、鋭い牙《きば》と紅蓮《ぐ れん》の舌を見せた。
――攻撃態勢。
凶暴な神獣の表情から、リリアナがそうと察した瞬間。
竜の口腔《こうこう》から烈《はげ》しい焔《ほのお》が噴き出す。地上を嵐が吹き荒れるように、ペルセウスの立つ大地が聖なる焔で灼《や》き清められる!
だがその瞬間、美貌の英雄は白き流星となった。
リリアナの動体視力でも追い切れないスピードで跳《と》び退《の》いたのだ。その動き、まさに流星――。おそろしく速い。しかも同時に、ペルセウスは刀を上空に向けて投じていた。
回転しながら上昇する豪刀は、みごと竜のエメラルド色の翼を斬《き》り裂く。
グアアアアアアアアッ!!
獣《けもの》の咆哮《ほうこう》が響き渡る。明らかに苦悶《く もん》の絶叫であった。
――地上へ、港の埠頭《ふ とう》へ落下した竜は、それでも首をもたげて戦う姿勢を作ろうとする。しかし、ペルセウスの速さがそれを許さなかった。
ブーメランのごとく舞い戻ってきた刀の柄《つか》を空中でつかみ取る。即座に地を蹴《け》る。
一秒のさらに一〇分の一以下。
たったそれだけの時間しか流れていないのに、ペルセウスは巨大な竜のすぐそばにまで踏み込んでいた。閃《ひらめ》く豪刀。竜の太い頸部《けいぶ 》が断たれ、青い血がほとばしる。
ふたたび竜の咆哮、いや絶叫。
首を刎《は》ねられはしなかったが、その半ば以上を分厚い刃物で断たれてしまったようだ。
――もし自分たち魔術師が竜と戦うならば。
惨状を呆然《ぼうぜん》と眺めながら、リリアナは思った。最上位の魔術師たちを集め、必勝の戦術を練り、そのうえで押し包む。それでも返り討ちに遭《あ》う可能性は非常に高い。
竜とはそれだけの神獣だ。自分たち魔術師にとっては。
だが――目の前にいる人間に似た存在は、易々《やすやす》と竜を追い詰め、その強靱《きょうじん》極《きわ》まりない生命を摘み取ろうとしている。
これが『まつろわぬ神』。なんて禍々《まがまが》しい。
雄々しく、勇壮に戦う美々しい英雄の姿が不吉の象徴《しょうちょう》にしか見えない。動かぬ体でリリアナが恐怖を覚えていたとき、ひとつの声が割り込んできた。
おだやかで威厳《い げん》に満ちた――しかし、明らかに幼い少女の声だった。
「しばし待つがいい、そこな軍神よ。あなたがまず戦うべき相手はこちらにおるぞ。神ともあろう者がたかだか神獣ごときをいたぶり、得意がるとは嘆かわしい話よな」
「ふふ、竜どもは御身らの眷属《けんぞく》。たかだか呼ばわりするほど私は不遜《ふ そん》ではありませんな」
ペルセウスが声に応えながら跳び退き、竜から距離を取った。
クアアアアアアァァァァ…………。
力なく竜が啼《な》く。
落命する寸前の神獣を英雄から庇《かば》うようにして、一〇代前半とおぼしき少女が歩み寄ってきた。いつのまにか埠頭に入り込んでいた、場ちがいな女の子――ではない。
リリアナは、彼女も『まつろわぬ神』だと確信した。
月の滴《しずく》を浴びたように輝く銀色の髪と、夜よりも暗い闇色《やみいろ》の瞳。強力な大地と闇の神性を感じる。大地母神、しかも相当なビッグネームだ。
女神の放つ神力を浴びて、リリアナの体が熱くなってくる。
まるで満月の加護を受ける『魔女《ストレガ》の夜』のようだ。遥《はる》か太古の主筋――魔女と蛇の守護者である神格と遭遇し、リリアナの呪力が最大限に高まったのだ。
このおかげでペルセウスの呪縛《じゅばく》も解けた。
体が動く。自由になる。硬直の解けた体で周囲を見回したリリアナは、女神の背後で居心地悪そうにしている旧知の人物に気がついた。
「草薙護堂? あなたがなぜ、こんなところにいるのですか!?」
「君はエリカの友達の――。リリアナだよな?」
遥か東方より来たカンピオーネと挨拶《あいさつ》を交わすことになってしまった。
英雄、女神、魔王が一堂に会する、滅多にない瞬間。そこに立ち会ったリリアナは、波乱の予兆《よちょう》を感じて暗澹《あんたん》たる気分となった。
2
どうやら、今夜はよくよく知り合いと出会う日らしい。
どこかもわからない夜の港で顔見知りと再会した護堂《ご どう》は、ため息をついて感じ入った。
「草薙《くさなぎ》護堂、ひとつおうかがいしておきたいのですが――」
リリアナ・クラニチャールが竜のそばを離れて、足早に近づいてきた。
東欧《とうおう》系の、妖精《ようせい》のように綺麗《き れい》な顔立ちの少女だ。
「あの女神をナポリに手引きしたのは、まさかあなたではないでしょうね?」
「逆だよ。あいつ――アテナが俺をここに連れてきたんだ」
ここはナポリだったのか。
いちばん知りたかった情報を得た護堂は、わざと固有名詞を出して答えた。
リリアナほどの騎士なら、この名前だけで事態の深刻さを理解してくれるだろうと期待したのだ。はたして彼女は、軽く目を瞠《みは》ってうなずいた。
「……アテナ。あなたがこの春に戦った女神ですね」
それ以上は訊《き》こうとせず、対峙《たいじ 》する神々に注意を向ける。やはり彼女は生《き》真《ま》面《じ》目《め》で理性的な性格のようだ。こういう非常時にはかなり頼もしく思える。
「では、わたしの方も手短にご報告いたします。あの『まつろわぬ神』は英雄ペルセウス。竜と地《じ》母《ぼ》神《しん》であるアテナにとっては仇敵《きゅうてき》に[#「に」は底本では「にに」]当たる神格です。ご留意《りゅうい》ください」
「そういえばアテナのやつ、メドゥサと一心同体みたいな神様だったんだよな」
リリアナの警告に、護堂はうなずいた。
もう漠然《ばくぜん》としか覚えていないアテナの知識。だが、そこは何とか記憶していたのだ。
会話の間も、男女一対の神々は互いを熱心に見つめ合っていた。その原因が恋愛感情ではなく、強烈な敵愾心《てきがいしん》であるのは頭の痛いところだ。
「左様《さ よう》、たしかに竜は我らが眷属《けんぞく》。賢《かしこ》き蛇《へび》たちの末裔《まつえい》にして、我らが愛子《まなご 》よ。……我が子に刃《やいば》を向ける狼籍者《ろうぜきもの》がおれば、庇《ひ》護《ご》者《しゃ》たる我らが守護するは当然と言えような」
「このペルセウス、女人《にょにん》と争う趣味など持ち合わせはせぬのですが」
物騒な言葉を投げつけ合う二神。
語調は穏やかだが、代わりに眼光の方は鋭く、猛々《たけだけ》しい。
「相手が偉大なるアテナの御神とあらば、お断り申し上げるはむしろ非礼でありましょうな」
「ペルセウス、だと?」
「かつてメドゥサとも呼ばれた御身にとっては、忘れがたい名でござりましょう。神代《かみよ 》の敗北をここで雪《すす》ぐのも一《いっ》興《きょう》かと存じますが、いかに?」
「……ふん、この派手好みめが。その名をわざわざ持ち出すとは、ふざけた男よ」
忌々《いまいま》しげに吐き捨てたアテナは、口の端《は》を歪《ゆが》めた。
「よかろう、あなたの誘いに乗ろうではないか。――傷つき倒れた我が子よ、妾《わらわ》の胸に還《かえ》り、その身を休めるがよい」
猛《たけ》る闘士の微笑で、女神は傍《かたわ》らの竜へ呼びかける。
半ばまで首を断たれた瀕死《ひんし 》の神《しん》獣《じゅう》はこれに応《こた》えて、エメラルド色の巨体をほどいた。緑に輝く光の集まりとなり、地母神の小さな体へと吸い込まれていく。
死に瀕《ひん》した眷属を吸収したアテナは、今度は高々と片手を天へと差し上げた。
たちまちナポリ湾の海面が隆起する。
海中の土砂が鎌首《かまくび》をもたげるように高々と盛り上がり、大蛇のような姿を形作っていく。
いわば砂で造られた蛇。
一頭だけではない。海面の隆起は次々とつづき、合計で八つ――砂の大蛇が八体も並んで、海上からペルセウスを見下ろしている。東《とう》京《きょう》での戦いを護堂は思い出した。
あのときもアテナはこうして大蛇を造り出し、地母神としての力を誇《こ》示《じ》したのだ。
しかも、彼女の周囲に闇《やみ》が広がっていく。
濃密な黒い空気。これに満たされた空間では一切の光が失われるはず。東京を大恐慌《だいきょうこう》に陥《おとしい》れた、闇の女神としての神力だ。幸い、まだ小出しにしかしていないようだが――。
「闇と大地の蛇。これは少々|厄介《やっかい》ですな」
ペルセウスが言った。
ただし、表情が言葉を裏切っている。口元に余裕の笑みを浮かべている。
「だが幸い、この道の心得は私にもある。……いにしえの武勲《ぶ くん》、我が刈り取りしゴルゴンの首にかけて申しましょう。あらゆる蛇は、私の前で無力となると」
この宣言と同時に、アテナの産み出した八体の大蛇は塵《ちり》となった。
霧《もや》のように湧き出した闇も吹き飛ばされた。
「蛇殺しの言霊《ことだま》か。妾と血を等しくする女神《メドゥサ》を倒し、得た力だな」
「よろしければ、このいくさには使わぬと誓約いたしましょう。いかがですかな?」
女神の険しいまなざしに、英雄は恭《うやうや》しく頭《こうべ》を垂《た》れた。
「ふん、要《い》らぬ気遣《き づか》いよ。その大言を後悔させてやろう……。その言霊ごと、あなたの神格を蹴《け》散《ち》らしてくれる。ゼウスの意を受けてギリシアの地ではあなたを庇《ひ》護《ご》したが、もはやそのような義理もない。覚悟せよ」
憤怒《ふんぬ 》を抑え込んだ表情で吐き捨てるアテナの後ろで、護堂はいぶかしんだ。
今の言霊、まさか「剣」と同じなのか?
ペルセウスが引き起こした現象は、あの武器の効果に似ている。おそらく蛇に関係する神の力を打ち消し、封じ込める能力があるのだ。
これに対抗するためか、アテナの神力が爆発的にふくれあがっていた。
もう小手調べなどという段階ではない。前に東京で見せたのと同等……もしかしたら、あれ以上になるかもしれない。――これはやばい。
彼女たちが全力で激突した結果を想像して、護堂は焦《あせ》った。早く止めなくては!
「ま、待った! こんなところで暴れるのはやめろ!」
「ふむ。先ほどから気になってはいたのだが、君は何者だ? 只人《ただびと》ではあるまい……当代の神殺しのひとりと見たが、どうかね?」
自分たちの間に割って入ってきた護堂を眺めながら、ペルセウスが訊《たず》ねる。
これに答えたのはアテナの方だった。
「その通りだ。草薙護堂といってな、未熟ではあるがなかなか手強いところもある小僧よ。……言っておくが、そやつは妾《わらわ》の獲物《え もの》と決まっておる。しかと心得ておくがいい」
「ほう。御身ほどの大神にそこまで言わせるとは、なかなか……」
目を細めたペルセウスにぶしつけに見つめられて、護堂はいやな気分になった。
おそらく、値踏みされている。
こいつ、アテナとだけでは飽きたらず、自分とまで戦う気があるのか!?
「だから待てって。あんたたちがケンカするのは勝手だけど、人間の街でそんなことするなよ。住んでる方にはいい迷惑なんだからな!」
「この前、故国の都で妾と力の限りに戦ったくせに、よく言うな」
「あれは成り行きっ、仕方なくだ! とにかくケンカするなら他《よ》所《そ》へ行け!」
「若き神殺しよ、それは君の了見が浅いだけだ。まちがっているぞ」
神々の間で仲裁しようとしていると、ペルセウスに傲然《ごうぜん》と言われた。
絶対にろくでもない発言が飛び出してくる。その予感に護堂は眉《まゆ》をひそめた。
「いいかね? 民は英雄の活躍を望み、我らの武勲を好んで聞きたがるもの。私は、己を崇《あが》める民のためにも彼らのそばで戦い、武勇を示さねばならぬ。それこそが英雄たる武士《もののふ》の務めだと言えよう」
「勝手に『私を崇《あが》める民』とか決めつけるなよ。図々しいぞ、あんたっ」
予想通りの我田引水《が でんいんすい》な理屈に、精一杯の文句を言う。
このままでは神殺し――草薙護堂とも決闘するなどと言い出しかねない雰囲気《ふんい き 》だ。
「言っておくが、君も我が敵のひとりだぞ。若き神殺しよ?」
逃げ腰の護堂を眺めながら、ペルセウスは微笑んだ。
堂々たる英雄の姿に似つかわしくも、どこかいびつな闘争心。前に見た記憶がある。そう、これは数カ月前――まつろわぬウルスラグナも抱えていた歪《ゆが》みだ。
「デイモン、ラークシャサ、堕天使《だ てんし 》、神殺し……忌《い》むべき大妖の称号を持つ戦士よ。君たちと我ら鋼《はがね》の英雄は、神々と魔王のなかでも特に激しく戦ってきた宿敵同士。神でありながら地上に生誕《せいたん》する我らと、人でありながら神と同列に並んだ君たちは、交わる機会が頻繁《ひんぱん》にあったのだ。――我らの逆縁、数千年を閲《けみ》したところで消えはせぬよ」
鋼の英雄。その一言に、ぞくりと護堂の背が震えた。
まるで体に刻まれたカンピオーネの本能が警告を発し――そして、ただの仇敵《きゅうてき》を超える好敵手との再会に武者震いを覚えているとでも言うかのように。
「言われてみれば、そうであったな」
不意にアテナがつぶやいた。
「神殺しの魔王どもと英雄の軍勢は古来、決して相容《あいい 》れぬもの。……ふん。この因縁《いんねん》を思い出せば、あなたたちの出会いも必然のように思えてくるな、たしかに」
必然も何も、全て目の前の女神様のせいなのだが……。声に出さないツッコミにも気づかぬまま、神のお告げはつづく。
「よかろう。ならば今回はすこしばかり譲ってやろうではないか、鋼の勇士よ。思えば、この少年をちょうど鍛《きた》えるつもりであったところだ」
予想通りの不吉な発言。
頭を抱えたくなった護堂に、アテナが女王の威を以《もっ》て命じてきた。
「草薙護堂よ、人間どもの都に累《るい》を及ぼすなと申すのであれば、自ら戦うがよい。王として戦い、己の同朋《どうほう》らをみごと守ってみせよ。これは未熟なあなたに授ける試練である」
「フフ。神殺しと蛇の女王、双方と相まみえる。なかなか愉《たの》しきいくさになりそうですな」
「こ、こいつら、勝手に決めやがって……」
神様ってのは、何でこんなに自分勝手な連中ばかりなんだろう?
護堂は我が身の不幸を呪いながら、さりげなく周囲をチェックした。
アテナが挑発するように嗤《わら》い、ペルセウスが闘志を顔にみなぎらせ、そして無言で成り行きを見守るリリアナ・クラニチャールが心配そうに見つめている。
神話の英雄相手にどう戦えばいいのか。ちょっとすぐには思いつかない。
また問題は、この場所にもあった。
海に張り出すような地形の上に造られた城塞《じょうさい》と港。そして、街がおそろしく近い!
今、護堂たちが立っている波止場のような道を一〇メートルも歩けば、もうすぐに街のなかなのだ。しかも、かなり賑《にぎ》わっている繁華街のようだ。
どんな展開になろうと、周辺地域には相当な被害が出るはずだ。ここはまずい。
「あんたたちの提案に乗ってやってもいいけど、こっちにも要求がある。勝負するにしても場所を変えたい。こんなところで戦ったりできるものか」
護堂は吐き捨てるように言った。
向こうのペースに巻き込まれてはいけない。ダメでもともと、まずは主張してみなければ。
「ほう、君はここを決闘場とするのに不満があると?」
「大ありに決まってるだろ」
「……ふむ。特に問題はないように私には思えるが」
強気の訴えに対して、ペルセウスはしげしげと周囲を眺め回した。
「なかなか風情《ふ ぜい》のある古城の膝元《ひざもと》で、月と女神に見守られながら腕を競う。悪くない舞台だ」
「大いに悪い。大体、決闘する前は普通、いろいろ準備とかするものだッ。いきなり戦えとか言われて、すぐそんな気になれるものか!」
ウルスラグナの一〇ある化身。そのどれが有効そうなのかも不明。
こんな状況で戦っても、蹴《け》散《ち》らされるだけだ。だから、まずは時間を稼がなくては。その間に対策を練らなくては。
すばやく決心すると、護堂はすぐそばの女騎士に小声でささやいた。
「……悪い、そういうことだから俺はここを離れる。俺がいなければ君は安全なはずだから、どうにかして逃げてくれ」
そう告げて走り出すつもりだったのだが、リリアナもささやき返してきた。
「……つまり、この場はひとまず退いて、迎撃の態勢を整えたいと?」
「うん、まあそんなところだ。あいつの足はかなり速そうだから駆けっこで勝ち目はなさそうだけど、とりあえずやってみるよ」
「でしたら、わたしにおまかせください」
いきなりリリアナがしがみついてきた。
彼女の華奢《きゃしゃ》な体に密着され、抱え込まれて、護堂はどぎまぎした。海にでも落ちたのか、リリアナの衣服は生乾きで、潮《しお》の匂《にお》いがする。
そして、妖精じみた美少女の体温と柔らかさも同時に感じてしまうわけで――。
その心地よい感触に驚いた瞬間、銀髪の魔女は叫んだ。
「アルテミスの翼よ、夜を渡り、天の道を往《ゆ》く飛翔《ひしょう》の特権を我に授け給《たま》え!」
これは呪文《じゅもん》――呪力を操るための口訣《く けつ》か。
気づいた瞬間、護堂の体はリリアナと共に空高く上昇していた。
「え?」
眼下に、信じがたい光景が広がっていた。
ナポリの内湾。そこに張り出した港。そのそばに建つ巨大な石造りの城塞。そして、おびただしい数の街の明かり――。
さっきまで立っていた辺りを、護堂は今、空中から見下ろしていた。
ペルセウスもアテナも地上に置き去りにした格好だ。
「ええっ!?」
次いで、大きな磁石《じしゃく》に引っぱられる鉄片のようにして、リリアナと護堂の体はギュンと空を飛んでいった。遥《はる》かな下方にはナポリの街並みが軒《のき》を連ねている。
下界から見上げる者がいれば、ふたりの姿はきっと彗星《すいせい》のように見えたはずだ。もちろん、こんな低空を飛ぶ帚星《ほうきぼし》など存在するはずもないが。
飛翔していた時間は三〇秒ほどだろうか。
ゆったりとした弧を描きながら、高度が落ちていく。とあるビルの屋上がぐんぐん近づいてくる。正面衝突し、ぐしゃりとつぶれる光景を想像した護堂だったが、それは杞憂《き ゆう》だった。
飛翔の勢いに乗ったままではあったが、護堂とリリアナの足が屋上に着いた。
そのまま車輪を出した飛行機のように滑る。これで勢いを殺して、着陸は無事に成功した。
飛んだのはおそらく二、三キロというところだ。
結構遠くになった海辺の城塞を眺めつつ、護堂はふうと息を吐き出した。
3
リリアナと共に、護堂《ご どう》はビルの屋上から地上へと下りた。
欧《おう》州《しゅう》の街は高層建築がすくないのが通例だが、ナポリのような大都市はもちろん例外だ。高層ビルの数もかなり多い。
そして目の前に広がる夜の街は、ひどく賑《にぎ》やかだった。
もう遅いのにかなりの数の店が営業している。食堂や飲み屋、バールが多いが、ブティックや雑貨屋などもやっている。
行き交う人々もかなり多い。とりわけ若い男女の組み合わせが目立つような……。
「もしかしてこの辺、夜のデートスポットとか?」
「ええ。サンタ・ルチア地区は、夜のナポリでもまあまあ安全な場所ですから」
リリアナの答えに、護堂は納得した。
サルデーニャ島の田舎《い な か》から出てきた身には少々まぶしすぎる光景だ。
「……それにしても、リリアナさんがまさか空を飛べるとは思わなかったよ」
さっきの逃走劇を思い出して、護堂はしみじみと言った。
以前、魔術で空は飛べるのかとエリカに訊《たず》ねたら、ちょっと悔しそうに『自分にはできない』と言われたのだ。
あの天才児にもできない芸当が、リリアナには可能だったとは。――意外だ。
「お役に立てて幸いです。飛翔《ひしょう》術《じゅつ》は、わたしたち魔女だけの秘《ひ》儀《ぎ》なのです。ご存じではありませんか、ほうきに乗って空を飛ぶ魔女の昔話を?」
ちょっと得意そうにリリアナに言われて、護堂は矛盾《むじゅん》に気がついた。
「あれ? でもエリカのヤツも魔女だけど、空は飛べないって言ってたぞ?」
「彼女は、厳密に言えば魔女ではありません。ただの女魔術師です。魔女とは巫《み》女《こ》の資質を持ち、魔女術の伝授を受けた者だけを言うのです。……まあ、たしかにあの女の手練手管《て れんて くだ》は『魔女』の呼び名にふさわしいとは思いますが」
そういえば六月の騒動のとき、リリアナを巫女の資質を持つ魔女だと紹介された。
なるほど、あれにはそういう含みがあったのか。
いずれにしても、リリアナのおかげであの窮地《きゅうち》から脱出できたのだ。護堂は改めて、彼女に向かって頭を下げた。
「とにかくありがとう。おかげで助かったよ……本当にどうなることかと思ったもんな」
「王をお助けするのは騎士の務め、お誉《ほ》めの言葉を授《さず》かるほどの功績ではありません。……ですが、なぜあの場で戦われなかったのですか?」
「戦えなかったんだよ。あいつにどんな化身《け しん》が効くのか、見当もつかなかったし」
不審《ふ しん》そうに問いかけてくる女騎士に、護堂はぼやいた。
どうやら、彼女にもウルスラグナの権能《けんのう》が抱える厄介《やっかい》な問題点をはっきりと説明しておいた方がよさそうだ。そう決心したときだった。
「リリアナさま、こちらにおいででしたか! やはり異変が起きているのですね!?」
人混《ひとご 》みのなかから、小柄な少女が駆け寄ってきた。
妹の静花《しずか 》と同じくらいの歳《とし》だろう。半袖のメイドの衣装がよく似合っている。リリアナの知り合いらしい彼女は、ちらりと護堂の方を胡散《う さん》くさげに見た。
「ああ、すまない。探させてしまったようだな」
いきなり登場したメイド少女を、リリアナは平然と受け入れている。
護堂は人探しの魔術を思い出した。何でも、髪の毛など探し出したい人物の一部や持ち物などがあれば、同じ市内程度なら居場所の見当がつくらしい。
たまにエリカが使っている。あの少女も、おそらく同じ魔術を使ったのだろう。
「カレン、おまえもお名前を存じ上げているだろう。日本のカンピオーネ、草薙護堂さまだ。失礼のないようにな。草薙護堂、こちらはわたしの従者、カレン・ヤンクロフスキです」
リリアナが紹介してくれた。
日本人にはややこしい姓から察するに、カレンという娘も東欧系のようだ。
「……草薙護堂さま? リリアナさま、先ほどまでご一緒されていたのはサルバトーレ卿《きょう》でいらしたはずですが、何があったのですか?」
「うーん、いろいろだ。頭の痛いことが本当にいろいろあったんだ」
「サルバトーレ卿って、ドニのことか? え、あいつもナポリに来ているのか!?」
どうやら、事態は予想以上に錯綜《さくそう》しているらしい。
とりあえず、近くにあるという〈青銅《せいどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の支部へ向かうことにした護堂は、歩きながらナポリで起きた事件をかんたんに説明してもらうことになった。
……やっぱり、サルバトーレ・ドニはアホで傍《はた》迷惑《めいわく》なヤツだ。
一部始終を聞き終えた護堂は、夜道を進みながら決めつけた。同時に、メイドらしく後方を控えめに歩いているカレンの笑顔が気になった。
「まあ、そんな緊急事態になっていたのですね。……でもリリアナさまも案外と隅に置けない方ですね。サルバトーレ卿が行方不明になられた直後に、もうべつの『王』をくわえ込んで――いえ、懇意《こんい 》にされて。エリカさまの不在につけこむおつもりなのですか?」
「カ、カレン! 妙な邪推《じゃすい》をするな!」
ああ、この娘も悪魔だ。護堂はリリアナに同情した。
カレンというメイドの笑顔がひどく邪悪に見える。とても可愛《か わ い》らしいのに、その可憐《か れん》さを素直に誉《ほ》められない。これは、エリカとはまたちがう方向性の悪魔的性格だ。
「と、ともかく、早急にペルセウス神を迎え撃つための対策を練りましょう。草薙護堂、あなたの権能には使用条件があるとのことですが、『剣』の言霊《ことだま》――東京でヴォバン侯《こう》爵《しゃく》にも使われた力には、どのような条件が?」
リリアナがやや強引に話題を変えた。
「あれを使うには、相手の神様のことを詳しく知らなきゃダメなんだ。残念だけど俺、神話には全然詳しくないんだよ」
もちろん、一般教養程度のペルセウス神話なら知ってはいるが。
護堂は自分の右手を見つめてみた。ダメだ。『剣』を扱えるという自覚が湧《わ》いてこない。この程度ではまったく足りないようだ。
「ですが、あなたはあの力を今まで何度も使ってこられたはず。そのときはどうやって条件を満たされたのですか?」
「エリカに魔術でいろいろ教わったんだ。『教授』ってヤツでさ」
「なら話はかんたんだ。その術はわたしも会得《え とく》しております。エリカが果たしていた役目を、このリリアナ・クラニチャールが代わりに務めましょう!」
「いや、それは無理だろ……。ほら、俺たちカンピオーネに魔法は通じないし」
まずい。護堂は焦《あせ》った。
このままでは5W1Hで言う How、どうやってを説明しなくてはいけなくなる!
「……草薙さまのお話には矛盾《むじゅん》がございます。カンピオーネに魔術が通じないのはわたくしも存じてあげていますが、そのあなたさまに『教授』の術をどのようにかけるのでしょう?」
案《あん》の定《じょう》、カレンにつっこまれてしまった。
リリアナも興味深げに護堂の答えを待っている。こんな娘たちに、自分の口から語らなくてはいけないのか。なんて罰ゲームだろう。
「ええと、それはつまり……。外からかけた術は効かなくても、内側からはべつなんだ」
「体の内側から? 経口《けいこう》摂取《せっしゅ》ということですか、魔術を?」
「経口……内から……ああ、なるほど。そういうことですか」
リリアナが首をかしげている横で、カレンがほくそ笑んだ。
やっぱり、この娘は悪魔だ。全てを見すかした上で、自分の愉しみに還元しようとしている。
護堂の苦悩をよそに、女主人はメイドに向けて問いかけた。
「どういうことだ、カレン? わたしには見当もつかないんだが」
「ふふっ。さすがリリアナさま、初《う》心《ぶ》ですね。……ご自身でおっしゃったではありませんか、経口摂取と。つまりマウストゥマウス。口移し。男と女の熱いキッスなわけです。お忘れですか、魔王カンピオーネに我が身を捧《ささ》げて封印の魔術を施《ほどこ》そうとした乙女の伝説を」
「…………口移し? 熱いキッス?」
つぶやくリリアナの顔が、あっという間に真っ赤になった。
「そ、そうだっ。東京でもわたしの目の前でエリカと――あ、あのときの行為にはそのような意味が隠されていたのですか!?」
「あ、ええと、何だ。……うん、まあ、そんなところかな」
実際には、エリカの悪ふざけ&意趣《い しゅ》返《がえ》しだったのだが。
ばつが悪くて言い出せず、護堂は曖昧《あいまい》にうなずいた。この返答に、リリアナは強い衝撃を受けたかのようによろめいた。
「あのとき――あなたが周囲にいるわたしたちのことなど目にもくれず、今ここにいるのは自分と愛人のふたりだけな感じで衝動と愛欲にせき立てられるまま、ヴィオラの弦《げん》と弓《ゆみ》がひとつの音を奏《かな》でるようにしてエリカと激しく睦《むつ》み合っていた、あのときのアレですね!」
そんな表現はやめてほしい。強く願いながらも、無言で耐える。
「あ、あのときも思ったことですが、改めて言わせていただきます! あ、あなたがたは破廉恥《は れんち 》ですッ。目を背《そむ》けようとするわたしに見せつけるようにして、あんなに情熱的な口づけをされて……!」
護堂は申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。彼女があのとき、自分たちの行為を熱心に見入っていたような気がしたのは勘ちがいだったらしい。
「わ、悪い。……まあ、そんな事情があるから今回はダメなんだ。わかっただろう?」
「は、はい。理解できました。たしかにエリカがいない以上、あなたに術をかけることはできませんからねっ」
「どうしてダメなのでしょう? すごくかんたんな解決策があるかと思われますが」
指摘したのは、もちろんカレンだった。
王と女主人が暗黙の了解で避けようとした打開案を、ずばり口にしようとしている。
「リリアナさまが草薙さまに口移しで術をかければ、何の問題もございませんよね?」
「いや、問題はある! 俺とリリアナさんがそういうことをしたらマズイだろ!」
「そ、そうだっ。わたしは貞淑《ていしゅく》な乙女として、そんな行為をするわけにはいかない!」
護堂とリリアナは、口をそろえて反対した。
だがカレンは聞き分けのない子供たちをあやすように、冷静に言った。
「今は『まつろわぬ神』が降臨《こうりん》した非常時。カンピオーネと大騎士であられるおふたりが、事の軽《けい》重《ちょう》を見誤らないでくださいませ。たしかに乙女の純潔を踏みにじるのは悪《あ》しき行いでしょうが、神の災厄《さいやく》を放置するのはもっと巨大な悪だと言えます。――ささ、そういうことですからリリアナさま、ぶちゅっとおやりなさいませ」
この娘、やっぱりこの状況を愉しんでいる!
護堂は確信した。カレンは真《ま》面《じ》目《め》ぶった澄まし顔で提案しているのだが、多分わざとだ。肚《はら》の底ではきっと、困惑する主人たちを眺めながらニヤニヤほくそ笑んでいるにちがいない。
だが、この小悪魔なメイドの進言はおそらく正解なわけで――。
護堂はちらりとリリアナの顔を見た。
狼狽《ろうばい》し、困惑し、ちょっと怒っているようだが、この銀髪の少女も従者の意見が正しいことをまちがいなく理解していた。思い切るべきか否《いな》か。明らかに迷っている、覇《は》気《き》に欠けた弱々しい表情だった。
――護堂の体に力がみなぎってきたのは、このときだった。
『まつろわぬ神』が近づいてきた証拠だ。慌てて周囲を見回して、すぐに気づいた。
海の方から飛来[#「飛来」に傍点]する、純白の駿馬《しゅんめ》に。背中に大きな翼をはやし、美しくも逞《たくま》しい英雄を乗せている。
「……そういえば、ペルセウスって空を飛べるんだよな」
天馬ペガサス。
メドゥサの血より誕生したと伝えられる、天翔る霊《れい》獣《じゅう》だ。あとたしか、空を飛べる靴も持っていたような……。昔聞いたギリシア神話を護堂は思い出した。
それにしても、なんて派手な光景だろう。傍《はた》迷惑《めいわく》な分、おそろしく華やかだ。
今、護堂たちがいるのは、ちょっと開けた広場だった。
飲み物や軽食を売るスタンドが集まり、多くの男女で賑《にぎ》わっている。
その上空を、繁華街の明かりに照らされながら純白の天馬が軽やかに駆ける。
手綱《た づな》を取る美男子は腰に刀を、手には堅そうな木で造った長弓、背には矢筒《や づつ》を携《たずさ》えて、白いマントをなびかせる。おそろしく目立つ風体《ふうてい》だった。
「ハハハ! そこにいたか神殺しよ、あちこち探し回ったぞ!」
馬上よりペルセウスが呼びかけてきた。
天かける人馬を見上げて、街の人々が絶叫し、騒ぎ立てている。
混乱、騒乱、錯乱のなかを突っ切って飛来する英雄の姿に、護堂は焦《あせ》った。
「リリアナさん、さっきのあれでペガサスから逃げ切れると思うか!?」
「……難しいと思います、正直に言って。神話の霊獣がわたしたちの術に振り切られるほど遅いと期待するのは、希望的観測が過ぎるでしょう」
予想通りの回答だった。
護堂は決意した。このまま逃げ回っても将《らち》があかない。
退路がどこにもないのなら、進むべき道はひとつ――前しかなかった。
「どうやら、このまま出たとこ勝負で戦うしかなさそうだ。……俺は行くよ。万一のことがあったら、後始末を頼む。ドニの野郎はどうせどこかで無事なはずだから、最悪あいつを見つけてペルセウスと戦わせれば何とかなると思う!」
そうリリアナとカレンに言い残して、護堂はペルセウスの方へと走り出した。
4
異様な風体《ふうてい》の美男子。
そしてCGを駆使した映画の世界にしか生息しないはずの翼馬《ペガサス》。
それらを前にして、ナポリ市民や観光客など普通の人々は騒然としていた。
ある者は逃げ出そうとし、ある者は何かのパフォーマンスと勘《かん》ちがいしてはやし立て、ある者は状況を呑《の》み込めず狼狽《ろうばい》し――要するに、混沌《こんとん》とした状況だった。
だが多数派を占めるのは、野次馬《や じ うま》連中だった。
これから何が起きるのか見物したい。とりあえず見守ろう――。
ペガサスから降りて地上を歩む美青年と、人混みのなかから出てきた東洋人の少年。夜の広場で対峙《たいじ 》するふたりを遠巻きに囲んで、熱心に見つめる人々だった。
カンピオーネとなって以来、こんなギャラリーを背負って戦うのは初めてだ。
街へあたえる被害を最小限にしたい護堂《ご どう》は、ダメ元で訊《たず》ねてみた。
「なあ、あんたがよかったら場所を変えたいんだけど、ダメか?」
「駄目だな。この期《ご》に及んで場所変えなど興《きょう》が削《そ》がれる」
言下に拒絶してから、ペルセウスは愉《うれ》しげに目を細めた。
「地上に実体を得たのはひさしぶりだが、人の世もずいぶんと賑《にぎ》やかになったものだ。私としては、むしろ此《こ》処《こ》でこそ戦いたい。このように美しく華々しい場所をいくさ場にするなど、神話の世でもできなかったことだからな!」
英雄の言葉に耳を傾けながら、護堂は分析をはじめた。
ナルシストなのは、まちがいない。だが、それだけではない。この美青年の姿をした神には、ただの目立ちたがりというだけでは片づけられない凄《すご》みがある。
命のかかった修羅場《しゅら ば 》でこそ賑々《にぎにぎ》しく、派手やかに振る舞おうとする嗜好《し こう》と胆《たん》力《りょく》。
強烈な『個』の存在感。その一挙手一投足《いっきょしゅいっとうそく》で人々の注目を集める華。
良いか悪いかはともかく、英雄の自称にふさわしい器量の持ち主のようだ。そんな観察をして、ひそかに護堂が納得していると、ついにペルセウスが仕掛けてきた!
今まで手にしていた弓を背にかけ、腰の刀を抜き放ち――。
一気につっこんできた。
細かな駆け引き、フェイント、複雑なテクニック。そんなものとは無縁の直線的な踏み込みから、まっすぐ斬《き》り下ろすシンプルな太《た》刀《ち》筋《すじ》。
ただ、これが速い。とにかく速い。護堂はとっさに横へ跳んで逃れた。
ペルセウスはぴったりとそれを追いかけてきた。またも速い斬撃《ざんげき》を打ち込んでくる。
護堂は崩れた体勢のまま、どうにか避けた。
反撃も見栄えも一切考えない、無我夢中《む が むちゅう》の動きだ。武術の素人《しろうと》である草薙《くさなぎ》護堂が超絶的な戦士たちと渡り合うには、ここまで割り切る必要があるのだ。
だが、この無理な回避とひきかえに、護堂は地べたに身を投げ出す羽目になった。
そこへ獰猛《どうもう》に斬りつけてくるペルセウス。
まるで白《しろ》豹《ひょう》のような速さ、しなやかさだった。これを転げ回るようにして逃れる。固い石《いし》畳《だたみ》の上でのマット運動は結構痛かったが、斬殺されるよりはマシだ。
「ふむ、いかんな。神殺しには『なりふり構わない』という悪癖《あくへき》を持つ者が多いのは知っていたが、君はその典型ではないか。それではいかんぞ。君も人間たちの上に君臨する立場なら、王たる威厳《い げん》を持って戦うべきだ」
「そんな余裕があれば、とっくにやってるよ!」
チェスで相手の悪手を指摘でもするように言うペルセウス。余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》の敵へ怒鳴りつけながら、護堂は立ち上がった。
やはり白兵戦《はくへいせん》では分《ぶ》が悪い。『鳳《おおとり》』の化身《け しん》で逃げだすのも難しいだろう。
ペルセウスはまだ、竜を追い詰めたときの動きを見せていない。白豹どころか白い流星じみたスピード。あれには『鳳』でも勝てるかどうか、わからない。
他に逃げ出す方法。……実はある。
その策を思いつきながら、護堂は逡巡《しゅんじゅん》していた。これを使ったら最後、ナポリの文化遺産にとんでもないダメージを与える可能性が高い。さすがにまずいだろう。
そんな護堂にペルセウスがふたたび刃を向ける。
そろそろ限界か、まだ粘《ねば》れるか。突進してくる英雄の放つ太《た》刀《ち》筋《すじ》を見極めようと目を疑《こ》らしながら、護堂が覚悟を決めかねていたとき――。
銀髪のポニーテールをなびかせて、少女が割り込んできた。
青地に黒の縦縞《たてじま》を入れたケープ――|青と黒《ネラッズーロ》の戦装束《いくさしょうぞく》をまとい、刀身の長い優美なサーベルを構えている。もちろん、リリアナ・クラニチャールだった。
「助《すけ》太《だ》刀《ち》します、草薙護堂!」
そう叫びざま、リリアナはペルセウスの豪刀を受け止めた。
否《いな》、受け流した。英雄の剛毅《ごうき 》果断《か だん》な一撃を、微妙な角度をつけて構えたサーベルに受け止めさせる。豪刀の重さで細いサーベルが折れ飛んでも不思議ではない交錯《こうさく》。
しかし、ペルセウスの刀はリリアナの作った微妙な角度に沿《そ》って滑り落ち――。
みごとに空を斬り、そして地面の石畳へと食い込んだ。
「たおやかな乙女《お と め》の手には似合わぬ武具を持っているな、少女よ。君はその神殺しのために、私と切り結ぶつもりなのかな?」
「はい。不遜《ふ そん》を承知で竜殺したる御身《おんみ 》に挑《いど》ませていただきます」
余裕の笑みを浮かべ、石畳から愛刀を引き抜くペルセウス。
悲壮な決意で白い美貌《び ぼう》をこわばらせているリリアナ・クラニチャール。
青衣の大騎士はサーベルの切っ先を英雄の眉間《み けん》へ突きつけるように構え、護堂を守るポジションに己《おのれ》の身を置いた。
「やめるんだ、リリアナさん! こいつの相手は俺がするから下がれ!」
「そのご命令には従いかねます! あのいやらしいエリカのように、あ、愛人として役立つつもりは毛頭ございませんが、騎士としてあの雌狐《めぎつね》に劣《おと》るわけではありません。我が武勇《ぶ ゆう》を以《もっ》て、先ほどの失態を穴埋めしてみせましょう!」
騎士だからって、そこまでする必要はない。と言いかけて、護堂は言葉を呑《の》み込んだ。
莞爾《かんじ 》と笑うペルセウスが、リリアナめがけて斬り込んでいったからだ。まるで猛獣が仲間へ戯《たわむ》れかかるような、稚《ち》気《き》と危険にあふれた攻撃だった。
「よく言った、乙女よ。神を前にして怯《ひる》まず挑む。その意気や良し!」
迅速果敢《じんそくか かん》、豪放《ごうほう》磊落《らいらく》。
ペルセウスが矢《や》継《つ》ぎ早《ばや》に繰り出す斬撃は、そんな表現が似つかわしい激しさだった。
とにかく速く、重く、力強い太刀筋を、リリアナは必死に受け流していく。
エリカと同等の騎士だという彼女だが、やはり闘神相手の戦いは荷が重いようだ。ペルセウスに本気で倒すつもりがないから、持ち堪《こた》えていられるのだろう。
だが、当たり前だ。神を相手に斬り合いを挑み、互角以上の戦いに持ち込む。
そんな偉業《いぎょう》はサルバトーレ・ドニ――『剣の王』辺りでしか成し得ない、人外の特権なのだ。いくら若き天才とはいえ、只人《ただびと》の騎士が到達できる領域ではない。
彼女はそれを承知で、我が身を楯《たて》にしてくれている。
この瞬間に、護堂は迷いを切り捨てた。細かいことを考えるのはあとだ。今はとりあえず、あの英雄野郎に目にもの見せて、リリアナを危険から遠ざける!
「主は仰《おお》せられた――咎人《とがびと》に裁《さば》きを下せと」
ひさしぶりに唱《とな》える、断罪の言霊《ことだま》。
黒く、猛々《たけだけ》しく、一〇の化身のなかでも最も獰猛《どうもう》な『あいつ』を呼び出す言霊だ。
「背を砕き、骨、髪、脳髄《のうずい》を挟《えぐ》り出せ! 血と泥と共に踏みつぶせ! 鋭く近寄り難《がた》き者よ、契約を破りし罪科に鉄槌《てっつい》を下せ!」
護堂の立つ場所――何の変哲《へんてつ》もない石畳が、黒く変色した。
空間の裂け目、異界と現世をつなぐ扉が口を開けようとしているのだ。黒い変色は、あっという間に広場全体へと広がった。
「む? ついに本気になったか、神殺しよ。これが君の権能《けんのう》だな!」
「草薙護堂、この化身は一体――!?」
ペルセウスが歓喜し、リリアナが瞠目《どうもく》するなか、ウルスラグナ第五の化身を解き放つ。
「――来い『猪《いのしし》』! 今日こそは俺の言うことをちゃんと聞けよ!」
地面の黒さは、ここが今や異界の入り口となった証《あかし》であった。
そして来る。最《さい》凶《きょう》の化身『猪』が地上に躍り出る!
まず毛皮。
護堂とリリアナ、そしてペルセウスが立つ地面が黒い毛皮となった。
意外にしなやかで艶《つや》のある、美しい毛並みだ。いわゆる獣臭《じゅうしゅう》、異臭がしないのは超常の神獣ならではというところか。
その鼻先から尻《しり》までの体長は、約二〇メートルほど。
真上に立つ護堂たちには、その全貌《ぜんぼう》を見ることはできない。だが、おそろしく太い胴回りと猛々しい顔つきを持つ巨大な『猪』――見る者の度肝《ど ぎも》を抜く魁偉《かいい 》な容貌は健在のはずだ。
決闘を見物していたギャラリーたちは、さぞ仰天《ぎょうてん》していることだろう。
巨獣の背に立つ形となった護堂の視界が、勝手にせり上がっていく。まるでエレベーターにでも乗っているように、高みへとゆっくり昇っていく。
大地から躍り出た『猪』は、ついにその全体を地上にさらけ出した。
ちょっとしたビルの屋上から街を見渡すのと同じ眺望が、護堂たちの眼下に広がっていた。
ナポリ湾のすぐ前にあるサンタ・ルチア地区。
あとで知った話だが、この辺りには歴代のナポリ王が居城とした王宮などもあり、定番の観光スポットである。民謡『サンタ・ルチア』の元になった土地なのだ。
だが、このときの護堂と『猪』の視線は、海の方へと向けられていた。
さっきまでいたサンタ・ルチア港の埠頭《ふ とう》。
海に張り出した突端には、石造りの城塞《じょうさい》(あとで『卵城《たまごじょう》』という名前だと知った)。
草薙護堂は巨大な物体を破壊したいときだけ、『猪』の化身を召喚《しょうかん》できる。
このときはつまり、あの海上の城を目標にしていたのだ、実は。
こう言っては何だが、ちょうど手頃だったのである。目立つランドマークなので、海からも港からもよく見え、印象深かったのだ。
ルオオオオオオオォォォォォォォンンンンンッ!!
破壊の権化《ごんげ 》と化すべく『猪』がいきり立ち、その咆哮《ほうこう》が夜のナポリに響き渡る。
「妙なものを呼び出したな、神殺し! だが、ここからどうする? これだけで私を倒すことはできないぞ!」
「こうするんだよ! リリアナさん、落ちないようにしっかりつかまれよ!」
共に毛皮の上に立つ英雄と女騎士に、護堂は怒鳴り声で呼びかけた。
その瞬間に『猪』が地を蹴《け》った。
城塞めがけて、猛然と走り出す――否《いな》、跳躍する。
大地を揺らし、石畳も道路も踏み砕きながらの踏み切りだった。目指すは海辺の城塞。地上を疾走《しっそう》させれば周囲への被害が甚大《じんだい》になる。そこで、このジャンプだった。
幸い、城の近辺は港の埠頭なので空きスペースも十分にある。
「きゃあああああああっ!?」
「むう、これは――!」
意外に可愛《か わ い》らしい悲鳴をリリアナがあげ、ペルセウスが賛嘆《さんたん》した。
それでも両者共にみごとなのは、『猪』から振り落とされなかったことだ。
巨大な獣の背中という、ただでさえ不安定な足場。しかも、いきなりの大跳躍。この悪条件にもかかわらず、リリアナは転倒しながらも黒い毛をつかみ、持ち堪《こた》えてみせた。
エリカなら、こんな状況でもどうにか乗り切れる。
あの相棒と同等の騎士なら何とかできるだろう。その期待にたがわぬ反応だった。
一方のペルセウスは、異常なバランス感覚で踏みとどまっていた。
ぐらつきはしたが、倒れたりはしない。さすが神様、人間離れしている。対して護堂は四つん這《ば》いになり、黒い毛を両手でつかんで乗り切った。
「ま、これで振り落とせるとは思わなかったよ……」
つぶやきながら、護堂は次の動作に移る。
四つん這《ば》いのまま、獣のように『猪』の背中を疾駆《しっく 》する。
この怪獣を呼んでいる間、なぜか護堂自身も猪じみた突進力を得る。また、この跳躍でやってのけたように、以心《い しん》伝心《でんしん》で操れたりもする(『猪』が反抗的でなければ、だが)。
……もしかしてこいつ、ゲームとかでよくある『召喚獣《しょうかんじゅう》』的な存在ではなく、俺の分身みたいな立ち位置ではあるまいなと、ひそかに危《き》惧《ぐ》する由縁《ゆ えん》だった。あまりにも護堂自身の心身とこいつがリンクし過ぎている。これではまるで、自分が隠し持っている破壊的な衝動やら欲求やらが巨大化しているみたいで不吉ではないかと。
それはさておき、護堂は獣のごとく四つ足で駆けた。
狙いは当然、ペルセウス。
足場の悪さ、跳躍による予期せぬ揺れ、どんな暴れ馬よりもひどい乗り心地。
さまざまな悪条件が重なっても尚、平衡《へいこう》を保っているのは賞賛に値《あたい》する。だが、ここまで来ても二本の足だけで立ちつづける見栄っぱりは致命的だった。
猪のごとく突進した護堂は、ペルセウスの足を抱え込むようにタックルをぶちかます。
陸地の上なら、これはおそらく防がれただろう。
だが、そうではなかった。この不安定な状況でも四つん這いになることを拒み、威風《い ふう》を保とうとしていた英雄に、なりふり構わない護堂の攻撃を凌《しの》ぐことはできなかった。
ペルセウスの足をすくい、そのまま押し出し、『猪』の背から突き落とす。
この程度で倒されてはくれないだろうが、劣勢の戦況をリセットする一手にはなるはずだ。
「くっ……!」
英雄の肉体が宙を舞う。
同時に、すさまじい衝撃が黒い背中を揺らす。『猪』が着地したのだ。
こいつを呼び出した広場から港の埠頭まで、直線距離にして数百メートル近くを一気に跳び越える飛翔《ひしょう》。巨体のくせに、驚異的なジャンプカだった。
「待て! それ以上はもう突っ込むんじゃないぞ! とっとと元いたところに帰れ!」
城塞めがけて激走を開始しようとした『猪』に、護堂は命じた。
一応、動きが止まる。
だが巨獣はぐるぐると獰猛《どうもう》に唸《うな》り、ガッガッと後ろ足で苛立《いらだ 》たしげに地を蹴り、護堂の停止命令に抗《あらが》おうとしている。黒い背中がさざ波のように震えている。――まずい。
このままではまた、貴重な文化遺産が破壊されてしまいそうだ。
護堂が必死に『もういいから消えろ!』と念じても、『猪』の唸《うな》りは止まらない。
もうダメかと絶望しかけたとき。
急に『猪』は喩り声を発するのをやめ、背の震えも止まった。
「草薙護堂、ご注意ください! ペルセウスが戻ってきます!」
不意にリリアナの警告が耳《じ》朶《だ》を打った。顔を上げ、敵の姿を探す。
「一応は誉《ほ》めておこうか。みごととも華麗とも言いかねるが、不意を突かれる仕掛けではあった。それは認めよう」
優雅につぶやくペルセウスは、翼ある駿馬《しゅんめ》――ペガサスにまたがっていた。『猪』から落ちた彼を、この白馬が空中で拾い上げたのだろう。
そして今、ペガサスに騎乗する彼の背には光のリングが輝いていた。
日輪《にちりん》にも似た、まぶしい山吹色《やまぶきいろ》の光を放つ輪。まるで後光《ご こう》が差しているかのようだ。
護堂は直感した。
『猪』の突進を止めたのは、自分の命令ではない。この光の輪から放たれる、不可解な神力のせいだ。これは何だ? どのような力なのだ?
「君が簒奪《さんだつ》した力は、勝利の軍神のものか。我が遠い同朋《どうほう》、東方より来たりし者のひとりだな……。運が悪かったな」
ペルセウスは不憫《ふ びん》そうにつぶやき、その背後で光輪が輝きを増した。
「我が父祖たる東方の輝きよ、我に力を――。御身の名の下に奇跡を為《な》さん。さあ、蛇《へび》を殺《あや》めし戦士の誓いを今こそ聞き届け給《たま》え!」
この言霊に応じて、後光が強まった。
天空と大地を照らす陽光にも似た、おだやかな光。それを浴びた『猪』が吠《ほ》えた。
――オオオオォォォォォォンンンン……。
らしくない、護堂も初めて聞く類《たぐい》の声。まるで遠吠えだ。
次の瞬間、信じがたいことが起こった。巨大な『猪』の姿が消え失せたのだ!
「な、何だ、これ?」
護堂は呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
支えも足場もなくして、空中から地上へと自由落下していく。
己のなかで猛っていた『猪』の力が綺麗に消えている――その事実を痛感しつつ。
「魔女《ストレガ》の翼よ、我が飛翔を助けよ!」
とっさに言霊を唱えたのはリリアナだった。
護堂と同じように落下をはじめた彼女は、この呪文《じゅもん》と共に宙[#「宙」に傍点]を蹴った。
まるでグライダーが滑空するように下降しながら軌道を変え、落ちる護堂を追いかけて、体ごと抱きかかえてくれた。そのまま、ゆるやかに落ちていく。
ほどなく地上へ到達。
ふたりして石の上を転がり、衝撃を逃がしながら着地した。
「い、痛たたた……。た、助かったよリリアナさん、おかげで墜落《ついらく》死《し》しなくて済んだ」
「草薙護堂、今ペルセウスが使った力は一体……?」
「全然わからない。でも、あれで俺の権能は綺麗に封じ込められたのはたしかだ」
蛇殺しの言霊でアテナの力を封じ込む。
これはわかる。ペルセウスはアテナと同体を成すメドゥサを倒し、その首を刈り取った勇者だ。蛇の女神を封じる力は、その神話に由来しているのだろう。
だが、ウルスラグナ――古代ペルシアの軍神を封じる力はどこから来るのだ?
ともかく、体勢を立て直さなくては。
痛みを堪《こら》えながら、護堂とリリアナは立ち上がった。港の埠頭で転げ回ったため、全身が痛い。あちこち擦《す》り傷だらけだった。
そのときにはもう、空を駆けるペガサスの馬上でペルセウスが弓を構えていた。
放たれる一矢。
その矢は天かける閃光《せんこう》となって、護堂の足下に突き刺さった。
爆裂した。矢が爆薬のように弾《はじ》け、衝撃が走り抜ける。護堂とリリアナは大きく吹き飛ばされた。本物の爆弾だったら、命がなかったかもしれない。
護堂がどうにか立ち上がったときには、もう二の矢が放たれるところだった。
今度は足下ではなく、自分の頭を狙っている。そう直感した護堂は、反射的に『鳳《おおとり》』の化身を使った。もうこれ以外に逃れる術《すべ》はない。
加速する自己。減速する周囲の世界。
高速で攻撃されたときにのみ行使できる『鳳』は、超人的なスピードと身軽さを与えてくれる。だから、矢よりも速く動いて死を避けることができた。
だが、三の矢をペルセウスがつがえたとき――。
またも彼の背で光輪が輝いた。その瞬間に『鳳』の速さは失われた。
いつも通りの運動能力しか持たない草薙護堂に、三の矢をかわす選択肢はない。胸の中央部、心臓の辺りを綺麗に射《い》貫《ぬ》かれてしまった。
――力が消されてしまう。カンピオーネとなって以来、こんな現象は初めてだ。
薄れゆく意識のなかで、必死に最後の化身を使う。ペルセウスがこの悪あがきに気づかないでくれるといいのだが。あとはリリアナ……あの娘の身が心配だ――。
その思考を最後に、護堂は意識を失った。
5
ペルセウスと戦うために使える化身《け しん》はない。
などと言っておきながら、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》は黒き『猪《いのしし》』を呼び出してみせた。
おそるべき召喚術《しょうかんじゅつ》だった。上級魔術師が集まって召喚の儀式を一〇〇日間つづけたとしても、あれだけの神《しん》獣《じゅう》は呼び出せないだろう。それを彼は、ほんの十数秒でやってのけた。
あれこそまさに、魔王カンピオーネの権能《けんのう》。
だがペルセウスは、その神獣を謎《なぞ》の神力で封じ込んでみせた。
そして、草薙護堂を射殺《い ころ》した。
――自分のせいだ。一部始終を見届けたリリアナ・クラニチャールは、倒れ伏したカンピオーネの亡骸《なきがら》を見つめながら呆然《ぼうぜん》とし、同時に自《みずか》らを責めていた。
わたしがあのとき、彼に『教授』の術を施《ほどこ》していたら――!
ヴォバン侯《こう》爵《しゃく》の権能さえ抑《おさ》え込んだ『剣《けん》』の言霊《ことだま》で、きっと戦況は変わっていたはずだ。
自分の思い切りが足りなかったせいで、人が死んだ。しかも、神々に対抗するための人類の切り札――世に救いと騒乱をもたらす魔王のひとりが。
魔術師たちがカンピオーネを『王』と崇《あが》めるのには、理由がある。
彼らがおそるべき魔王だから。これはいちばん大きな理由だ。だが、もうひとつある。『まつろわぬ神』の災厄《さいやく》が人類を苦しめるとき、彼らこそが唯一《ゆいいつ》の救世主となるからだ。
それなのに、自分は我が身かわいさに彼を見殺しにするような真《ま》似《ね》を――!
「……ふむ。妙な胸騒ぎがするな」
リリアナの懊悩《おうのう》をよそに、ペルセウスは難しい顔をしていた。
「この若き神殺しを倒したのはまちがいない。が、なぜか気が晴れない。このままでは愚《おろ》かしい失態を犯してしまいそうな――いやな予感がつきまとう。なぜだ?」
ぶつぶつとつぶやきながら彼は、倒れ伏した草薙護堂の屍《しかばね》に歩み寄ってくる。
死体に辱《はずかし》めでも加えるつもりなのか? これほどの英雄がそんな恥知らずな真似を――しないとも限らない。古代の首刈りの習俗《しゅうぞく》を再現する英雄神話は、意外と各地にあるのだ。
せめて『王』の亡骸だけでも守り切ってみせなければ。
決意したリリアナは、イル・マエストロを構えた。だが、ペルセウスは彼女の悲壮な決意など気にもとめず、まっすぐ護堂へ近づいてくる。
――その直後、不意にペルセウスが前のめりに倒れた。
リリアナは見た。
サンタ・ルチア港を照らす街灯が生む、英雄の影。
そのなかから突如《とつじょ》として少女の姿をした闇《やみ》が立ち上がり、漆黒《しっこく》の刀身を持つ大鎌《おおかま》を振り上げたのだ。この闇の姿形はまさしくアテナ。彼女の鎌が、英雄の背中を斬り裂いた。
だがペルセウスの反応もみごとだった。
背後からの攻撃にも、とっさに前転することで致命傷《ちめいしょう》となるのを防ぐ。
それでも深傷《ふ か で》を受けたことにはちがいない。鮮血を流しながら跳ね起きる英雄の美貌《び ぼう》は、苦痛で歪《ゆが》んでいた。
「アテナともあろう御方が、いささか卑怯《ひきょう》なお振る舞いですな!」
「さすがの英雄も神殺しとのいくさを終えて、気を抜いていたな。――ふふ、まあ決闘の作法に反するのはたしかだが、見逃せ。言っておいたではないか? 譲るのはすこしだけ、そやつは妾《わらわ》の獲物《え もの》だと。……あなたにはやらぬよ」
アテナがほくそ笑みながら言う。
この言葉にペルセウスは大きくうなずいた。
「なるほど。つまり、この少年はまだ倒されていない……というわけですな。それにしても、背後からの不意打ちとは御身《おんみ 》もお戯《たわむ》れがひどい」
「あなたがそれを言うか。戯れが過ぎているのはあなたの方であろう?」
人が悪い――人間の慣用句に従うなら、そうとしか表現できないアテナの微笑だった。
これにペルセウスは苦笑で応《こた》えた。
「おお、これは参りましたな。お気づきでおられましたか」
「無論だ。だが、ここで引き下がるのであれば文句は言うまい。どうだ?」
女神の提案に、英雄は肩をすくめた。
「承伏《しょうふく》しかねますな」
「ならば仕方ない。あなたを打ち倒すとしようか」
「御身がこのまま、蛇《へび》殺《ごろ》しの言霊《ことだま》を持つペルセウスを倒すと? ふふ、あなたが私に引き下がれと言われた理由、大体の察しはつけておりますぞ」
「何を言っておるのか、わからぬな」
「そうおっしゃいますな。時を稼ぎたい御身のお心と、傷ついた我が身。その双方のために、ここはひとまず休戦といたしませぬか?」
「……ふん。まあ、いいだろう。あなたがその傷を癒《いや》し終えるまで時を置こう」
「恐縮ですな。では、その神殺しが恢復《かいふく》し、ふたたび戦場に立てる時まで待ちましょう」
ペルセウスの言葉に、アテナが眉《まゆ》をひそめた。
「あやつともまだ戦うつもりでおるのか?」
「よいではありませぬか。神殺しと蛇の女王、その双方と同時に戦える機会など滅多《めった 》にないこと。私はいささか図々しい気質ゆえ、せっかくの好機を見逃すつもりはござりませぬ」
咎《とが》めるような視線に、ふてぶてしい微笑が応える。
ふん。不承不承《ふしょうぶしょう》という面持ちで、アテナは小さくうなずいた。
――どういうことだ? リリアナは困惑した。
漆黒《しっこく》の鎌を向けるアテナ、無双の豪刀を携《たずさ》えるペルセウス。草薙護堂亡き今、にらみ合う二神の決戦に移行するのかと思った矢先に、予想外の展開となった。
まさか、この少年王は死んでいないとでもいうのか?
それにアテナは、なぜすぐに戦わないのか。不意打ちでペルセウスに深傷を負わせたのだから、このまま戦う方が有利なはずなのに――。
「再戦の日時は追って明らかにいたしましょう。――では、さらば!」
指笛で呼んだ愛馬にまたがり、ペルセウスは颯爽《さっそう》と告げた。傷はまだ癒《い》えていないはずなのに、その痛みをもうおくびにも出さない。
夜の海原へとペガサスを走らせ――いや飛翔《ひしょう》させ、去っていった。
「――さて。娘よ、草薙護堂の面倒を頼むぞ。そのうち勝手に目を覚ますであろう。ああ、あとペルセウスの再訪に備えて準備せよと伝えておけ。……あなたを倒すのは、この妾なのだ。その前に敗死するような過失は決して認めぬともな!」
そして、去り際《ぎわ》にアテナの残した言葉がこれであった。
死んだように横たわる草薙護堂とリリアナ・クラニチャールの受ける苦難は、まだ終わってはいなかったのだ。
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第4章 東から来た男
1
長靴の形をしたイタリア半島本土と、その西方に浮かぶサルデーニャ島。この両者の間に広がる海域が、大雑把《おおざっぱ 》に言えばティレニア海である。
ここを行き来する船舶の代表のひとつに、フェリーが挙げられる。ジェノヴァ、ナポリ、パレルモ、カリアリなど、各地の港を周航する船便だ。クルージング用のヨットも多い。
そして海産資源にも恵まれた海なので、もちろん漁船もいる。
この日の早朝未明、サルデーニャ島の近海で行われた巻《ま》き網《あみ》漁《りょう》の収獲に、魚類ならざる存在が混じっていた。まだ成長途中のクロマグロ(日本ではメジともいう)の群れのなかに、ただひとりだけ人間が紛《まぎ》れ込んでいたのだ。
……何時間も波間を漂《ただよ》い、海流に翻弄《ほんろう》されるままナポリからここまでティレニア海をほぼ縦断して、それでも元気はつらつな生物を人間と形容してもよければ、だが。
彼は、クロマグロを囲い込んだ巻き網を自力でよじ登ってきたらしい。
そして勝手に漁船へ上がり込んだあげく、唖然《あ ぜん》とする漁師たちにこう言ったという。
「ふー、今度ばかりは死ぬかと思ったよ。あ、いちばん近い陸地の方向を教えてもらえる? 大丈夫、泳ぎは得意な方なんだ。え、ボートを貸してくれる? 悪いねー。そうそう、ここってどの辺の海? サルデーニャ? そりゃ都合がいいや。面白くなりそうだ!」
草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》が何の連絡もなしに失踪《しっそう》したまま、一夜が明けた。
彼の不在が判明したのは朝の九時頃。姿を見せないので心配したアリアンナが部屋を見に行き、どこにもいないことが確認されたのだ。
「ど、どうしたのでしょう、護堂さんは? まさか事故にでも遭《あ》われたとか?」
「うーん、ちょっとからかいすぎたかしらねー」
サルデーニャ島の貸別荘では、少女たちがリビングで顔を合わせていた。室内を不安げに行ったり来たりする祐《ゆ》理《り》は、ひどく落ち着かない様子だった。
だがエリカは、特に不安を感じてはいなかった。
あの朴念仁《ばくねんじん》のことだ。女子寮のような環境にストレスを溜め込み、出ていったに決まっている。何日か息抜きさせてやれば十分だろう。そういえば昨日、ジェンナーロ・ガンツの連絡先を訊かれたばかりだった。今頃は彼の家に到着している頃かもしれない。
全《すべ》て読み切った上で、エリカは鷹揚《おうよう》にかまえていた。
心配するアリアンナにその必要はないと伝えて、エスプレッソを淹《い》れさせる。
「さっきも言ったでしょう、祐理? 護堂はあれでまあまあ繊細《せんさい》なところもある人だから、時にはひとりの時間も必要なの。だから、しばらく放っておいて、そのあとで首根っこを押さえる方が効果的よ。割とどこででも生きていける人だし、心配するだけ損だわ」
落ち着きのない日本の媛《ひめ》巫《み》女《こ》に、悠然《ゆうぜん》と忠告する。
いずれ正妻として『王』の身辺をまとめあげる身としては、こういう気遣《き づか》いも必要なのだ。
「は、はあ……」
「ま、本人に自覚がないだけで、本質は大雑把《おおざっぱ 》で行き当たりばったりな人なんだけど。でも逆にその分、過保護にしなくても大丈夫だって言えるわ」
「エ、エリカさんのおっしゃることも理解はできるのですが」
心配そうに祐理が言う。このときエリカは、初めて泡沫《ほうまつ》のような不安を覚えた。
「妙な胸騒ぎがするんです。あの人がまた危険な事件に巻き込まれているような、いやな予感がしてたまりません」
万《ま》里《り》谷《や》祐理は、霊視《れいし 》術師《じゅつし》としては最高の資質を持つ少女だ。
同年代の友人|知《ち》己《き》のなかで、エリカが己《おのれ》と同等と認める数少ない逸材なのだ。他には〈青銅《せいどう》黒十字《くろじゅうじ》〉のリリアナ・クラニチャールと、香港《ホンコン》陸家《りくけ 》の御曹司《おんぞうし 》ぐらいしかいない。
だから、この娘の予感、直感はバカにできない。
そんな話をしている最中に、エリカの携帯電話が鳴りだした。
着信表示を見て、『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』は驚いた。アンドレア・リベラ。『王の執事《しつじ 》』と呼ばれる大騎士からだった。
いろいろと心労の絶えない、エリカが同情を覚える数少ない人物である。
「おひさしぶりですわね、アンドレア卿《きょう》。良い報《しら》せと悪い報せのどちらでしょう?」
『エリカ嬢、君に悪い報せ以外を伝えた記憶はないし、今回もそうなるだろう。――昨夜の〇時未明、ナポリに『まつろわぬ神』が降臨《こうりん》した。その現場に君の主《あるじ》、草薙護堂が居合わせたことを知っているか?』
「初耳です。彼は昨夜の二二時頃まで、わたしたちのそばにいたのですが」
『ならば、船便や飛行機以外の画期的な手段でサルデーニャからの移動を行ったのだろうな。彼はナポリで神と交戦し、敗退したらしい。詳細はまだ不明なのだが、一応、命に別状はないそうだ。――で、だ。今回の連絡は、実はこれが本題ではない』
「と、おっしゃいますと?」
『気をつけろ、君たちの身辺に危険が迫っている。われわれの恥をさらすことになるので、実は詳しく話したくなかったのだが、仕方あるまい……』
「アンドレア卿《きょう》は今、ナポリにいらっしゃるのですか?」
『いや。……サルデーニャだ。所用があって、こちらに来ていた。まあ、その用というのが――むっ。貴様、もう追いついてきたのか! ぐふっ!?』
ツー、ツー、ツー、ツー……。
短い呻《うめ》き声を最後に何も聞こえなくなり、電話も切れてしまった。
アンドレア・リベラは何者かに襲撃され――そして、倒されたようだ。大騎士の称号を持つ、エリカ・ブランデッリと同等以上の実力者がいともかんたんに!
「……あ、あの、何か非常事態でも起きたのですか?」
「ナポリに『まつろわぬ神』が顕《あらわ》れて、わたしたちの王様はなぜかそこに居合わせて戦いになったそうよ。最悪の事態にはなっていないみたいだけど……」
心配そうに訊《たず》ねてきた祐理に、エリカは簡潔に答えた。
そしてアンドレア・リベラの警告と敗北。自分たちに危険が迫っていると彼は言った。
一体、何が起きているのだ?
疑念と焦燥《しょうそう》に駆《か》られながらも、エリカはまず携帯電話を操作した。
できるだけ多くの情報を集めて、迅速《じんそく》に行動の方針を決めなければ。特に護堂の状態をすぐにでも知りたい。敗退しても死んではいないのなら、『雄羊《おひつじ》』でも使ったのか。
各方面に連絡し、情報を集めなければいけない。
そのつもりでかけた電話が、いきなり沈黙した。発信の途中で電源が落ちたのだ。
バッテリーはまだ十分にあるはずなのに、なぜ?
「あら? あらあら? ……どうしてしまったのかしら」
キッチンからメイド姿のアリアンナ・ハヤマ・アリアルディがやってきた。
今の不吉な現象を知らないはずなのに、困ったような憂《うれ》い顔だ。
「どうかしたの、アリアンナ? 何か異常事態でも?」
「それがエリカさま、ガスが止まってしまったようなんです。ランチの準備でコンロの火を使っていたら、急に消えてしまって……」
「――ブレーカーを落としたのは誰だ!?」
さらにもうひとり、リビングに駆け込んできた。
セクシータレントにも負けない抜群のスタイルに薄いネグリジェをまとい、脇《わき》に枕《まくら》を抱えている。おそらく朝寝の最中だったルクレチア・ゾラだ。
ルクレチアはいつもの気怠《け だる》げな雰囲気をかなぐり捨てて、珍しく激昂《げっこう》していた。
「クーラーが止まってしまっては、暑くて寝ていられないだろう! 冷蔵庫の電源も切れてしまっているッ。これでは昼酒用のビールもぬるくなってしまう! まったく、快適なバカンスがこれでは台無しではないか!」
護堂ならここぞとばかりに常識人ぶったコメントをしそうな、自堕落《じ だ らく》な言いぐさである。
だがエリカは、そこにふくまれている情報に注目した。
祐理に目配せする。うなずいた媛巫女はテレビのリモコンを手に取り、あちこちボタンを押した。――テレビには何の変化も生じなかった。
全員の携帯電話も確認。やはり、全て電源が入らない。
外に出て、アリアンナが買い出しに使うスクーターも調べてみた。
エンジンに火が入らない。玄関にあった懐中電灯も試してみたが、まったくつかない。これはもう、電気が来ていないとか、ガスが止まったというレベルではない。
「この家の近辺では、文明的な生活を送れなくなっているみたいね。機械関係が全部ダメになってるわ。祐理、何か感じない?」
「……おそらく、もっと広い範囲にまたがって起きている現象だと思います。ここが事件の中心、という印象があまりしませんから。――もしかして、この付近にも『まつろわぬ神』が降臨しているのでしょうか?」
エリカは眉《まゆ》をひそめ、祐理は心細げな表情をして、ささやき合った。
一刻も早く原因を究明しなくてはいけない。そして、ナポリにいる草薙護堂のもとへ駆けつけなければいけない。すぐに行動を開始しなくては!
エリカが決意していたのと同じ頃――。
彼女たちのいる別荘地にほど近い海水浴場では、熱い口論が行われていた。
「そもそもだな、貴様、本土からここまで泳いでくるとは非常識にもほどがあるだろう!」
「そのつもりで泳いできたわけじゃないよ。流されるまま海を漂っていたら、いつのまにか着いてただけで。せっかく護堂と遊べると思ったのに、入れちがいになったとは残念だ」
荒縄《あらなわ》で拘束した側近にわめかれながら、彼はクーラーボックスを開けた。
かち割りの氷と共に、二ダースの缶ビールを放り込んである。ワインのイメージが強いイタリアだが、意外とこちらの消費量も多いのだ。
プルトップをこじ開け、一気に中身を飲み干す。ぷはあっ。
「うーん、ひと泳ぎしたあとの一杯は最高だ。ふふふ、しばらくは冷蔵庫も使えないから、ここにある冷え冷えの缶は結構貴重だよ――。アンドレア、君もどうだい?」
「誰が飲むか、この人間のクズ、呼吸する産業廃棄物め! ナポリの件はどうする気だ!?」
「当分は大丈夫だよ、多分。護堂があっちに行ってるなら、まかせておけばいい。僕の役目は、余計なお供が彼に手助けしないよう、足止めしておくことさ。――やっぱり、ひとりで戦って苦戦した方が、彼の成長も早まるはずだからね!」
松林に囲まれた、小さくとも美しいビーチ。
その砂浜を眺めながら、冷たいビールをあおる。空からは太陽の日差しが降り注ぎ、目の前にはアズーリ色――濃いマリンブルーの海が広がっている。
待望のバカンスを楽しむ青年は、もちろんサルバトーレ・ドニその人だった。
2
どこかもわからない空間に、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》はいた。
おそらく、どこでもないのだろう。ここが現実の地球上には存在しない場所だと、なんとなく察しはついていた。
辺り一面、灰色でしかない世界。地平線の先まで、ひたすら灰色の空間がつづいている。
ただし、例外がひとつだけあった。
「……ゆっくり顔を合わせるのは、ひさしぶりねー」
目の前にひとりの少女がいる。
一〇代の半ば頃だろうか。整った顔立ちだった。体つきは細身で、たとえばルクレチア・ゾラやエリカの起伏《き ふく》に富むスタイルに比べると、かなりスレンダーな方だろう。
にもかかわらず、彼女は蠱惑《こ わく》的だった。
美しいと形容するよりも、可愛《か わ い》いと呼びたくなる童顔と体つき。金色の長い髪を頭の左右でふたつに分けて、白い薄布のドレスを身につけている。
背も低く、印象も幼い。だが護堂の知る誰よりも、なまめかしい『女』そのものだった。
一瞬、誰だかわからなかったのだが、すぐに思い出した。彼女の名はたしか――。
「……パンドラさん、でしたよね?」
「あいかわらず水くさい呼び方をするのね――。ママって呼んでもべつにいいのに」
語尾にハートマークがつきそうな軽いノリで言われてしまった。
日本人以外のDNAを持ち合わせない身としては、さすがに受け入れがたい要望だ。ひとまず無視して、質問を重ねることにした。
魔王カンピオーネを誕生させた夫妻、不死者エピメテウスとその妻パンドラ。
彼女はもちろん、その後者の方なのだ。
「お会いするたび不思議に思うんですけど、普段の俺はあなたと会ったことをどうして忘れているんでしょう?」
「うーん、ぶっちゃけて言うとレベルが足りないせい?」
女神(一応そのはずだ)の威厳《い げん》に欠けること甚《はなは》だしい口調で、パンドラは言った。
「魂《たましい》の浄化が進んで、悟りでも開けるレベルにまで達していれば、この空間での経験もちゃんと覚えていられるわよ。ま、そんな悟り澄ました人は神殺しになったりしないから、まずありえないとは思うけど」
「……はあ。ここってたしか、生と不死の境界でしたっけ?」
ぼんやりと記憶が甦《よみがえ》ってくる。以前にも教わっている情報のはずだ。
護堂の言葉に、パンドラはにっこり笑ってうなずいた。実に朗《ほが》らかな、どこにでもいる人間の少女のような笑顔だった。
「そうそう。昔のギリシア風に言えばイデアの世界、ペルシア風ならメーノーグね。あなたがちょうどよく一回死んで、現世とのつながりが希薄になったから上《う》手《ま》く呼び出せたの」
「一応、死ぬ前に『雄羊《おひつじ》』の力を使ったはずなんですが」
「ああ、大丈夫。体の方は順調に回復中よ。実はね、あれで甦る前って一回きっちり死んでいるの。気づいてなかった?」
「もしかしたら、そうなのかな程度には疑ってましたけどね……」
できれば永久に知りたくなかった情報に、護堂はぼやいた。
そうか。死んだところから蘇生《そ せい》していたのか。何てデタラメな体なんだ、自分。
「いいじゃない。この領域で会えるのはそのおかげなんだし。あたしが地上に出てもいいんだけど、帰りが面倒なの。だから神殺し爆誕《ばくたん》! みたいなとき以外は避けてるのよ、最近」
「はあ。……で、今回はどんな御用なんでしょうか?」
彼女はこれでもカンピオーネの元締めにして支援者。いわゆるパトロンである。
無駄に呼び出しなどはしないはずだ。多分。
「あなたを呼んだのは、警告してあげようと思ったからなの。ちょうどよく〈鋼《はがね》〉の神格にも出会っちゃったところだしね」
「鋼……ペルセウスのことですね」
「うん、そんなとこ。あの勇者様、ちょっと曲者《くせもの》……ううん、悪戯者《いたずらもの》だから気をつけなさいよ。とにかく〈鋼〉の連中は、あなたたちのライバルなんだから負けちゃダメっ!」
「警告って、それですか?」
負けるなと言われる程度で勝てるなら、苦労はしない。頭をかく護堂に、パンドラは首を横に振った。
「ううん。他の神殺しはともかく、あなたは東の果ての生まれだから特別に言うの。――ゴドーの住んでる島にはね、最強の〈鋼〉が眠っているから一応注意してなさい。いい?」
「最強?」
「ええ、最強。今戦ってる勇者様も強いけど、あの方よりも上よ」
「……そんなのが何で日本に?」
「だって、東の終わり――つまり、あの向こうには海しかない土地だもの。いろんなものが流れ込んできて、吹きだまっちゃうのよ。……まあ、もう長いこと眠りっぱなしだから大丈夫かもしれないんだけどね」
「その辺の情報、もっと詳しく教えていただけないんですか?」
「ごめん、無理。あたしたちも結局は神様の側だから、あんまり具体的に協力できないの。世界のお約束みたいな、絶対|遵守《じゅんしゅ》の掟《おきて》があるから……。それに、ここで話した内容をゴドーはどうせ忘れちゃうでしょ? だから、詳しく話してもあまり意味はないし」
「そういえば、そうでしたね」
護堂はうなずいた。だが、彼女の教えはきちんと無意識の領域に残るらしい。
ときどき、野性の本能のように護堂を導いてくれるカンピオーネの勘《かん》。それらの一部は、彼女がこの空間で授けてくれた教えなのだ。
「気をつけてね。あの人、本当にえげつないから。女の敵、勇者の風上にも置けないヤツ! 万一戦うことになったら、絶対負けちゃダメよ! こてんぱんに叩《たた》きのめしてやってね!」
それ、やっぱり警告じゃないです。
体育会系のOBがライバル校には絶対勝てと後輩に強要するような、そんなメッセージに深いため息をつきながら、護堂は現実へと帰還していった。
護堂は目を覚まし、上体を起こした。
ここはベッドの上。そして、狭いが清潔な寝室だ。客間なのだろうか。調度類がすくなく、生活感もかなり希薄な部屋だ。
ベッドの傍《そば》には見覚えのある少女もいた。赤みがかった金髪の美少女、ではない。
だが同じほどに美しい、妖精《ようせい》にも似た銀髪の女騎士だった。
「今、何時かわかる?」
「は、はい。もうすぐ正午になる頃です」
「で、ここはどこだい?」
「ディアナ・ミリート――ナポリに住む仲間の住まいです。客間のベッドを借りて、あなたのお世話をしていました」
開口一番|訊《たず》ねた質問に、リリアナ・クラニチャールが答えてくれた。ペルセウスにやられたのは、昨夜の一時か二時頃だったはず。ほぼ半日寝ていたのか。
妙だな。護堂は首をかしげた。
ウルスラグナ第七の化身『雄羊』。その力は、瀕死《ひんし 》の――否《いな》、死んだ草薙護堂を復活させてくれること。ただし、オートで発動してはくれないので即死したら無意味。
そして、回復するまでには何時間か寝込む必要がある。
だが、いつもより寝ていた時間が長い。夢らしきものを見ていた記憶があるので、そのせいだろうか? それにしても俺、死ぬのに慣れたなあ……。
瀕死《ひんし 》・死亡・復活のサイクルを当たり前に受け入れている自分が、ちょっと悲しい。
「――草薙護堂!」
いきなり名前を呼ばれた。
見れば、リリアナが目に大粒の涙をためて、思い詰めた顔をしていた。
「お、お体の方は大丈夫なのですか? 昨日の夜、ペルセウスに倒された直後は完全に呼吸も止まっていたのですが、いつのまにか体が勝手に治りはじめて……」
「ああ、ごめん。いろいろあって死なずに済んだよ」
そうか。事情を知らない人間にしてみれば、やはり驚異の出来事なのだ。
反省した護堂は、蘇生《そ せい》のからくりを手短に説明した。このデタラメな能力の子細《し さい》を聞くや否や、リリアナの目からついにボロボロと涙の滴《しずく》がこぼれだした。
……泣いている? あんなに気丈な娘《こ》が? 予想外の成り行きに、護堂はたじろいだ。
「い、生き返るなら生き返ると、事前に説明してから死んでくださいッ。……わ、わたしがどれだけ心配したと思っておられるんですか!」
「わ、悪い。でも、そんな時間はさすがになかったしさ」
泣きながら怒るリリアナに、護堂はひたすら頭を低くする。参った。まさか泣かれるとは思わなかった。
「時間くらい何とかするのが王の器量というものです! で、でも本当に安心しました。よく生きてお帰りになってくださいました……。申し訳ございません、わたしの失態のせいであんなことになってしまって!」
今度は怒るのをやめて、リリアナは泣きながら謝りだした。
護堂は彼女に対する印象を改めた。西洋人形じみた容姿のせいか、あまり感情的にならないイメージだったのだが、実際は表情がころころ変わる女の子のようだ。
真《ま》面《じ》目《め》だったり焦《あせ》ったり怒ったりと、考えていることがすぐ顔や態度に反映される。
「まあ生き返ったんだから、結果オーライってことでいいじゃないか。……大体、君の失態なんて何もなかっただろ? 俺が不《ふ》甲《が》斐《い》ないからペルセウスに負けただけで」
と、護堂が言った途端、リリアナは涙でぐしょぐしょの顔を上げた。
とても凛《り》々《り》しい女騎士には見えない、泣きじゃくる幼女のように頼りない表情だった。
「い、いえ。あなたの敗北はわたしの失態ゆえです。……わたしがあのとき、あなたにキ……キスをしていれば、またべつの結果になっていたでしょうし」
この発言に、護堂は顔を赤くした。声を荒らげて話題を逸《そ》らす。
「そ、そんなことはないって! 断じてそんな理由で負けたわけじゃないからな! それよりさ、あのあとどうなった!? アテナとペルセウスは!?」
「あ、はい。問題は解決しておりませんが、差し迫った危険はない状況です」
あのあとの出来事を、リリアナが語ってくれた。
神々が勝手に決めた休戦協定の内容を聞かされて、護堂は気分が重くなった。ついでに、厄介《やっかい》な問題があることにも思い至った。
「そうだ、俺がナポリにいることをエリカたちにも知らせないとな。……もしかして、もう電話とか入れてくれたりしている?」
「あ、いえ。……申し訳ございません、失念しておりました」
「べつに責めてるわけじゃないよ。自分でちゃんと連絡するから、問題ないし」
などと言いつつも、憂鬱《ゆううつ》な護堂だった。
昨夜からの騒動をエリカと祐《ゆ》理《り》が知ったら、皮肉やお小言をさんざん聞かされそうだ。もし連絡済みなら、しらばっくれようか。そんな邪念《じゃねん》が首をもたげたのだ。
「リリアナさまは、昨夜から付きっきりで草薙さまの看病をされていたのです。仕方ありませんわ。ずっと枕元《まくらもと》に寄り添われて、それはもう献身的に」
と女主人をかばったのは、ちょうど入室してきたカレンだった。
「カ、カレン、そんなことは言わなくてもいい!」
「あらリリアナさま、照れなくともよろしいではありませんか。傷ついた戦士に寄り添う乙女《お と め》、なかなか絵になる光景でございましたよ。それはそうと、お電話をされるのでしたら用意はすぐにできますが……よろしいのですか、草薙さま?」
顔を真っ赤にして照れる主人をからかったあとで、カレンが思慮《し りょ》深《ぶか》げに訊ねてきた。
質問の意味がわからず、護堂は首をかしげた。
「何か問題でもあるのか?」
「いえ。草薙さまがお眠りの間に、わたくしの方からエリカさまに連絡を取ろうかとも考えたのですが、念のため控えておいたのです」
いかにも気の利《き》くメイドらしく、小悪魔が報告する。
「わたくし、実はアリアンナ・アリアルディと親交がありまして、彼女から聞き及んでおりました。今回、草薙さまはエリカさまの他にもうおひとり、日本の愛人女性を伴《ともな》われてイタリアへいらしたと。またサルデーニャ島の現地づ……失礼、プライベートでご親密なルクレチア・ゾラさまも交えてバカンスを楽しまれていたと」
誰だ、その色狂いとしか形容できなさそうな男は?
すくなくとも草薙護堂ではない。だから、リリアナには「な、なんて燗《ただ》れた生活を……」とか洩《も》らしながら浮き足立つのをやめてほしい、本当に。
「そんな御方が滞在先から姿を消され、愛人方とはべつの美少女と共に旅立つ。わたくし、ピンときました。もしや駆け落ち? おそらく何らかの痴情《ちじょう》のもつれ――男と女のトラブルがあったのだろうと。ですから愛人の方々には不用意に連絡を取らない方がお心にかなうのではないかと判断したのです」
「君の想像はいろいろおかしいだろッ。大体、相手は神様だし!」
「く、草薙護堂……て、体裁を取りつくろわずとも結構です。あなたは色好みとして名高い御方。ハ、ハレムのひとつやふたつを運営されていることは想定の範囲内です……。ええ、あなたはきっと浴槽をシャンパンで満たし、その傍《かたわ》らに愛人たちを並ばせて酒池肉林《しゅち にくりん》を謳歌《おうか 》しているにちがいないんだ! いずれ世界中から美《び》姫《き》を集めて、歴史上にも類を見ない壮大な愛の巣を造り上げるつもりで――く、なんて退廃的な!」
「それも王の器《うつわ》でございますよ、リリアナさま。まあ殿方とはそういう生き物ですし」
「こ、こら! そんな訳知りっぽい顔でウソ八百を吹き込むな!」
結局、護堂は一〇分ほど熱弁を振るう羽目になった。
妙な妄想《もうそう》を口走るリリアナをたしなめ、火に油を注こうとするカレンに凄《すご》みを利《き》かせ、その場をどうにか沈静させた。
「……というわけで、俺には愛人なんかいないから。エリカはただの友達だし、万里谷――日本人の女の子もそう。それにルクレチアさんは、俺のばあちゃんと同年代のはずだし!」
「ただのお友達と熱いキッスをされたと? それはそれで貞操《ていそう》観念に問題がございますわね」
「ううっ、その辺は必要に迫られて、仕方なくだよッ」
もう何度繰り返したか不明な、言い訳の言葉。
カレンは皮肉っぽい小悪魔的半笑いの表情で聞き流し、リリアナは尚もあやしげな物思いに耽《ふけ》っている感じだったが、どうにか詮議《せんぎ 》は収まった。
それから護堂は改めて電話を借り、エリカの携帯へかけてみた。
つながらない。ルクレチアとアリアンナの携帯にも試してみる。やはりダメだ。祐理は護堂と同様イタリアでも使える携帯電話を所持していないので除外だ。
……結局、何度かけてもサルデーニャ島の仲間たちに電話はつながらなかった。
3
「では、お連れの皆様とはさっぱり連絡が取れないのですか? 奇妙ですわねー」
この日、家業の古書店を『本日閉店』とした魔女、ディアナ・ミリートが言った。
場所はミリート家のダイニングキッチン。
遅めの昼食をテーブルに並べ、それを一同で囲みながらの会話だった。リリアナとカレンの主従、そして草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》が顔をそろえている。
「はい。それでエリカたちの本部に連絡を取って、あいつの消息を知らないか訊《き》いてみたいんですけど、連絡先を教えてもらえますか?」
「ああ、でしたら私どもの方でやっておきますので、ご心配は無用ですわ」
草薙護堂とディアナが会話している。
その間、リリアナは暗い顔でシーフードサラダをフォークでつついていた。頭の痛くなりそうな問題が山積みなため、自然と口数がすくなくなっていたのだ。
……ちなみに、ディアナが食事の準備中に『サルバトーレ卿《きょう》は女性にご興味がないことで有名だけど、草薙さまはお若くして結構な色好みなのでしょう? ……歳上《としうえ》の女にご興味を持たれたりしないか、ちょっと心配だわ♪』と、そわそわしていたのも気になるところだ。
「それでは草薙護堂――今回の事件の解決を、あなたの手に委《ゆだ》ねてしまっても問題ないと?」
ともあれ、建設的な話もしなくてはいけない。
リリアナが確認すると、最も若きカンピオーネは当然のようにうなずいた。
「ドニの野郎がどこへ行ったのかわからないんじゃ、今ここにいる俺がどうにかするしかないよ。ちょうど通りがかったのも何かの縁だし」
ろくでもない性格の所有者が多い『王』たちには珍しく、話のわかる人物だ。
義挾心《ぎきょうしん》も公共心も人並み以上に持ち合わせている。これで女癖の悪さがなければ申し分ない人物なのにと、リリアナは思わずにはいられなかった。
エリカ――あの雌狐《めぎつね》は、彼の女遊びをどう考えているのだろう。
見て見ぬふり。泣き寝入り。いや、どちらも彼女らしくない。――もしや、積極的に協力しているとか!? こちらの方がありそうな話だ。自堕落《じ だ らく》な環境を作って『王』を骨抜きにし、いいように利用するつもりなのだ!
……いや待て。たしかに悪魔と呼ぶに値《あたい》する女だが、そこまで悪辣《あくらつ》ではない。何だかんだで、堂々たる騎士の衿持《きょうじ》を持っているはずだ。
「ところで、ドニの消息はまだわからないのか?」
「は、はい、そのようです。そういえば今朝早く、アンドレア卿――サルバトーレ卿の側近の方ですが、あの方からディアナに電話があったのですよね?」
草薙護堂に訊かれて、リリアナはあわてて答えた。
いけない。今は実務的な話をすべきとき、余計な考えごとは後まわしにしなくては。
「こちらの状況はどうなったのかと確認のお電話をいただいただけなの。サルバトーレ卿の行方はあちらもご存じではなかったわ。……それとね、さっきこちらからお電話をさしあげてみたら、つながらないの。何度かけ直しても」
「……サルデーニャ島の連中といっしょですね」
ディアナの報告に、草薙護堂は難しい顔をした。
状況が不鮮明すぎる。それでも彼があまり悲愴感を見せないのは、消息不明な面子《メ ン ツ》が逞《たくま》しすぎるせいだろう。特にサルバトーレ・ドニやエリカなどに、滅多な事態が発生するとは想像しづらい。この点ではリリアナも同感だった。
「ひとつ、いいでしょうか」
これまで控えめに話を聞くだけだったカレンが発言した。
一通り給仕を終えた彼女も、今は同じテーブルについて食事中だったのだ。
「いろいろ不明瞭《ふめいりょう》なことが多すぎて、心配の種は尽きない状況ですが――今、いちばん検討すべき案件は、来たるペルセウス神との決闘で草薙さまに勝利していただくにはどうすればいいのか、だと思います」
「うーん、あいつとの決闘か……正直、だいぶ厳しそうだな」
と、草薙護堂がぼやいた。
「『教授』の魔術の問題でしたら、このナポリには手《て》練《だ》れの――たとえば私のような魔女が何人かおりますので、ご心配はいりませんわ」
「あ、いえっ。そっちも問題ですが、もっと気になることがあるんです!」
まんざらでもなさそうにディアナが言うと、若き『王』は慌《あわ》てて話題を逸《そ》らした。
「ペルセウスのヤツ、俺の力を綺麗《き れい》に封じ込んでみせたんですよ。だから『剣』を使えたとしても、多分同じ結果になると思います。あいつが俺の――ウルスラグナの権能《けんのう》を封じる秘密がわかれば、べつかもしれませんけど」
「……そうですわねえ」
ディアナが考え込んでいる。
大騎士にして魔女である身としては口惜《くちお 》しいが、リリアナには見当がつかない。もちろんカレンも同様だろう。ここは最年長者の知恵に期待したいところなのだが。
「ペルセウスという名前には『ペルシアより来たりし者』という意味があります。実は彼、オリエントに起源を持つ神格なのです」
「ペルシア? じゃあウルスラグナとは故郷が同じなんですか!?」
草薙護堂が身を乗り出してきた。
不敗の軍神を封じる能力の源《みなもと》がそこにあるのかと期待したのだろう。
「うーん、どうでしょう? ここで言うペルシアは単に『東方』くらいの意味で考えるのが通例です。古代のペルシアは、今で言うイランに当たります。でもペルセウス神のルーツはイラク、つまりバビロニアなのですもの」
そう、ペルセウスはメソポタミアの地で生まれた英雄なのだ。だが昨夜の戦いで、ウルスラグナのことを『我が遠い同朋《どうほう》』と呼んでいた気がする。
その理由がわからなくて、リリアナたちは困り果てているのだった。
「彼が妻とするアンドロメダを救うために倒した怪物の名はティアマト。巨大な鯨《くじら》だとも海蛇《うみへび》だとも伝えられる海獣《レヴィアタン》です」
ディアナの語る蘊蓄《うんちく》はリリアナも知っている。
今日《こんにち》、鯨座として知られる星座は、この海獣ティアマトを指すという。ペルセウス座、アンドロメダ座、カシオペア座などと並ぶ、秋の代表的な星座のひとつである。
だが、この名はもっと重要な意味を持っているのだ。
「このティアマトとは、バビロニアの女神の名でもあります。神々を生み出した大《だい》地《ち》母《ぼ》神《しん》にして神界の支配者、そして竜の姿に変身して洪水を引き起こす女神です。この彼女を倒して神々の王となる嵐の神の名を、マルドゥークといいます」
「……もしかして、その神話がギリシアに持ち込まれてペルセウスの話になったとか?」
ここまで言われて、草薙護堂にも察しがついたようだ。
ティアマトを倒すマルドゥークの物語がオリエントから伝えられ、ペルセウス神話になった。それゆえに、この英雄は『|東方から来た者《ペ ル セ ウ ス》』の名で呼ばれるのだ。
ギリシア神話は周辺地域の神様を節操なく取り込みながら形成された。
他民族の神を邪神・怪物として描くこともすくなくない。
アテナやメドゥサの神話でも見られるパターンである。そういう意味では、ペルセウスはかなりの好待遇だと言えるだろう。
「その通りです。これではウルスラグナ神との関係はわかりませんわね」
と、ディアナが申し訳なさそうに話を締めくくる。
一通りの事情を知り、草薙護堂は困ったように天《てん》井《じょう》を仰《あお》いだ。
「こんなとき万《ま》里《り》谷《や》がいてくれば、何かヒントをくれるかもしれないのになあ」
「それについては同感ですが、連絡を取れないのではどうしようもありません。わたしたちでペルセウス神の秘密を解き明かせないか、いろいろと考えてみましょう」
リリアナは現実的な意見を唱《とな》えた。
万里谷|祐《ゆ》理《り》ほどの霊視術師は、欧州でも滅多にいない。ないものねだりをしても将《らち》があかないのだ。この発言に、若きカンピオーネもうなずいてくれた。
「俺の方でも知り合いに連絡を取って、みんなの行方《ゆ く え》を捜してみます。こういうとき頼りになるのは、やっぱり万里谷やルクレチアさんですから。あっちがどうなってるか心配ですし」
と言って、すでに食べ終えていた草薙護堂は席を立つ。
彼がひとりでダイニングを出ていったため、魔女たちだけが残された。
「さて、と……そろそろ今後の方針について会議をした方がよさそうですね」
三人だけになった途端、おもむろにカレンが提案した。
「それはやはり、草薙護堂もおっしゃっていたように彼の連れを捜すのがいちばんだろう。日本の巫《み》女《こ》の霊感はわたしたちでもかなわないレベルだし、何よりルクレチア・ゾラの知恵を借りることができるのは大きい」
リリアナの答えに、横でディアナもうなずいた。
サルデーニャの魔女ルクレチア・ゾラ。『神を知る者』とも呼ばれる彼女は、術の巧《たく》みさ、呪《じゅ》力《りょく》の強大さ、『まつろわぬ神』に関する知識など、全てに秀《ひい》でた最高の魔女だ。ナポリでは随一《ずいいち》の実力者であるディアナでさえ、あのサルド人の末裔《まつえい》には及ばないのだ。
「ええ。やっぱり私たちよりもお歳《とし》を召されてる分、歳の功があるものね!」
キャリアの差が具体的に何年ほどなのかディアナに訊《き》くのは、やはりまずいだろうか。
そんなことを考えていると、カレンが否定的な意見を口にした。
「でも、そうしますと『王』をお助けした功績は草薙さまの愛人方と、それを取り仕切るエリカさまのものとなります。……そして、エリカさまは〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の大騎士です」
リリアナは、専属メイドにして所属結社の後輩魔女が言わんとする意味を察した。
「同じ場にいながら無力だった〈青銅《せいどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の面目《めんぼく》は失われる、というわけか」
「それはちょっと面目ないわよねー」
カレンが敢《あ》えてエリカたちに連絡を取らなかった真意は、おそらくこれだったのだ。功績を立てるチャンスに恵まれながら、それを棒に振るのは避けたい、と。
「だが、今は『まつろわぬ神』の顕《あらわ》れた非常時。そのように些末《さ まつ》なことを気にかけている場合ではないはずだ。わたしたちはわたしたちで、最善を尽くせばいい」
リリアナは力強く言い切った。
「その結果、力及ばずにエリカたちの尽力で勝利できるなら――それはそれでいいじゃないか。どちらにせよ『まつろわぬ神』を退け、ナポリがふたたび安全な街になるのだからな。……だが、そうならないようにわたしも全力で草薙護堂をサポートする。あの連中が到着する前に、勝利していただく。それでいいな?」
「かしこまりました」
カレンは恭《うやうや》しくうなずいた。そのあとで、しれっと付け加える。
「リリアナさまなら必ず、そうおっしゃると思っておりました。では〈青銅黒十字〉の本部にも、消息不明のエリカさまたちを捜索してくれと要請いたしましょう。……でもあちらが来る前に『教授』の術を草薙さまにかけて、既成事実を作っておくべきですね、念のため」
「え?」
「もちろん、これはリリアナさまのお役目です。全力を尽くすとおっしゃったのですから、もちろん拒まれませんよね? ご自分で宣言されたわけですし」
「ええっ!?」
しまった。こんな形で言質《げんち 》を取られるとは! リリアナはハメられたことに気がついた。
「いや、ほら。彼も言ってただろう、まだペルセウスの謎《なぞ》が解けていないと!」
「もちろん謎解きに皆で取り組んで、答えが出てからです。でも、そのあとの段取りを決めておかないと、スムーズに事は運びませんからね」
「わ、わたしじゃなくて、ディアナでもいいじゃないか!」
「そ、そうねー。は、恥ずかしいけど、神様との戦いに必要なことなら……」
ぽっと頬《ほお》を赤く染めながら、ディアナが言う。うん、ちょっと年《とし》甲《が》斐《い》がないのは気になるが、結構|可愛《か わ い》らしい。これなら色好みの草薙護堂もオーケーだろう。
「まあ、最悪その線もありだとは思うのですが――」
そんなリリアナの提案に、カレンはにこやかに応じた。
底意地の悪い黒猫のニヤニヤ笑いにも似た、不吉な小悪魔の笑顔だ。
「わたくしが申し上げたいのは、今回の事件はきっと運命だということです」
「う、運命だって?」
「はい。草薙さまとリリアナさまの間には、おそらく運命的な絆《きずな》があるはずです。だって、普通ありませんよ。ひとりの殿方とここまでキスしなければいけない事情が重なるなんて。おふたりを結びつけようとする、運命のお導《みちび》きなんですよ」
「そ、そんな強引な理屈、信じられるか!」
「ではリリアナさま、先ほどから草薙さまをチラチラ熱っぽく見つめていらしたのはなぜでしょう? 昨夜からごいっしょに過ごしていたら、あの方のことが気になって仕方がなくなったのですよね? ふふっ、とぼけても無駄ですよ。全部バッチリ見ていましたから」
カレンの指摘に、リリアナは息を呑《の》んだ。
そういえば食事中、ずっとそんな感じだったかもしれない。
いやちがう、これは運命などではないはず。ただ――そう、ただ『王』の顔を拝見していたら、胸がドキドキしてたまらなかっただけなのだ!
「ずばり言って、リリアナさまは今、恋に落ちていらっしゃいます。ええ、その胸のときめき、彼のことが気になって仕方ない気持ち。それこそが恋なのです!」
「こ、恋!?」
リリアナは愕然《がくぜん》とした。そんなバカな。いやでも、もしかすると?
「あら、そうなの? じゃあ仕方ないわね――。草薙さまとのキスは、リリィに譲ってあげなくちゃね!」
「デ、ディアナまでそんな!?」
「しかも、この運命の恋には豪華特典までついてきます。リリアナさまが無事に草薙さまの愛人となられた暁《あかつき》には、〈青銅黒十字〉の大騎士が『王』のおそばに侍《はべ》ることになるのです」
「あ、愛人……? カレン、何を言おうとしているんだ!?」
「ああ、そっか。ふふっ、カレンったら考えることがあくどいわね、あいかわらず!」
混乱するリリアナに対して、ディアナは妙にうれしそうだ。
対照的な年長者ふたりを眺めながら、カレンは流暢《りゅうちょう》に計画を語り出した。
「昨夜から草薙さまを観察した結果、あの方はまだ風評ほど女性に慣れていらっしゃらないと判断しました。今の時点なら、彼の個人的な側近兼愛人となって影響力を発揮するのは難しくないはずです。ただ、同じ立場の女性がすでに二名もおります。あとから割り込む人間が彼女たちを追い落とすには、相応の力を持っていなくてはいけません」
「お、追い落とす!?」
「はい。幸いリリアナさまは〈青銅黒十字〉の大騎士にして魔女、しかも名門クラニチャール家の次期当主です。魔力でも政治力でも他の面子に後《おく》れを取ったりはしないでしょう」
草薙護堂に関して、最も影響力を持つ結社は〈赤銅黒十字〉である。
結社会体で彼に隷《れい》従《じゅう》してるわけでもないのにカンピオーネの庇《ひ》護《ご》を独占し、他の魔術師たちがその関係に割り込めない状況はとても不健全であり、不公正だと言える。
その癒着《ゆちゃく》を崩すためにも必要な措《そ》置《ち》なのだと締めくくられて、リリアナは絶句した。
自分が草薙護堂の愛人になる。そんな未来があり得るのだろうか。
思わずリリアナは考え込んでしまった。なぜか、この件とは無関係なストーリーの構想がむくむくとふくらんでくる。
――恋に不慣れなひとりの少女がいる。
――そんな彼女の前に現れる、ミステリアスでワイルドな恋多き美青年。危険な香りを身にまとう彼と少女は、偶然の出会いから互いをちょっとずつ意識し合うようになる。
――わたし、あんないいかげんなヤツ、好きでも何でもない。
――そう言いつつも少女は彼に惹《ひ》かれはじめる。青年は素直でない少女の振る舞いに興味を抱き、いつしか彼女のことを忘れられなくなるのだ。
ここまで妄想《もうそう》して、リリアナはあわてて頭を振った。自分は何を考えているのだ!?
「カレン、そんな戯《ざ》れ言《ごと》を誰にも言うんじゃないぞ。わ、わたしはすこし休む!」
がたんと音を立てて椅《い》子《す》から立ち上がり、リリアナはダイニングを出ていった。
そのあとで最年長の魔女とメイドが「……脈あり、という感じよね」「……ええ。では、ここでもう一押し、おふたりの距離を縮めるためにちょっと細工をしておきましょう」とささやき合っているとも知らずに。
4
護堂《ご どう》は電話を借りて、ジェンナーロ・ガンツにも連絡を取ってみた。
彼も、そして他の〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉のメンバーたちもエリカの居場所を知らず、連絡も取れないという話だった。本当に、何が起こっているのか?
まさかサルデーニャ島にも『まつろわぬ神』が顕《あらわ》れて、妙な事件が発生しているとか?
『その可能性はたしかにある。そうでもなければ、あの女悪魔が消息不明になるなんて考えづらいしな。……そっちは俺たちで調べよう。あんたはナポリの方を片づけてくれ』
「わかりました。よろしくお願いします」
ガンツが請け合ってくれたので、護堂は礼を言って電話を切った。
――急遽《きゅうきょ》、休業したという古書店のなかでのやりとりだった。
当たり前の話だが、周囲を見回せば洋書ばかり。そのくせ、日本の草薙《くさなぎ》家の雰囲気《ふんい き 》とよく似ている。古書店という場所に漂う空気は、国がちがっても共通のようだ。
もう夜の七時を過ぎている。
とはいえ、夏の欧《おう》州《しゅう》なので外はまだまだ明るい。日本では夕暮れ時という明るさだ。
西日で橙色《だいだいいろ》に染まる店内の電話を借りて、あまり多くもないイタリアの知人にあれこれ連絡を取っていたのだ。作業を終えた護堂は、店の窓から外を眺めてみた。
ずいぶんと下町風の、ゴミゴミした通りだった。
ちょうど真向かいの雑貨屋では、おそろしく太ったおばさんがおへそ丸出しのタンクトップとホットパンツ姿で店番をしている。カルチャーギャップを感じる光景だった。
時間と心に余裕があれば、散歩にでも出るところなのだが。
護堂は諦《あきら》めて、魔女たちを探しに住居部分の方へ向かう。……その途中で、廊下《ろうか 》に落ちていた黒革の手帳に気がついた。
誰のものだろう? 深く考えずに拾い上げ、何となく開いてみた。
『やめて、放して! わたし、あなたのことなんか大ッ嫌い!』
『フッ。だったら何で俺のところに来た? わかっている。おまえは俺のことを――」
『あっ、いやッ――んんっ!?』
『もうおまえを放さない。俺のものになれ」
これは少女小説だろうか。いや、ハーレクインロマンス?
両者の折《せっ》衷《ちゅう》のような恋愛小説が、手書きでつづられている。傍若無人《ぼうじゃくぶじん》っぽい男が荒っぽくヒロインを口説こうとして、無理矢理キスなどしている。
「参ったなー。まさかこんなものが書いてあるとは……」
不用意にのぞいてしまったことを、護堂は後悔した。
他人の秘密をのぞき見てしまったようで、ちょっと後ろめたい。誰のものだろう? こういうのを書きそうなのは、やはりディアナか。
あとでこっそり返しに行こうと決心して、手帳を閉じた瞬間。
背中に冷たいものが突きつけられた。冷たく、鋭い何か。この感触はやはり刃物か。
「動かないで。このまま外へ行きましょう……静かに、自然に。いいですね?」
押し殺した声での通告――いや、脅迫《きょうはく》。
誰だ? 派手好きなペルセウスではないだろう。ならば、どこかの秘密結社が送り込んだ刺客《し かく》とか? 悩みながらも護堂は、声の主に命じられるまま店の外へ出た。
背後の脅迫者とともに、夕暮れのストリートを歩く。
振り返りたい欲求にかられながらも我慢《が まん》する。そうしたら最後、当然ぶすりと刺されたりするのだろう。ちょっとリスクが高すぎる。
……やがて、護堂と脅迫者は薄汚い路地裏へと辿《たど》り着いた。
「もういいでしょう。ゆっくりとこちらを振り返りなさい」
言う通りにした護堂は驚愕《きょうがく》した。
そこには想像だにしていなかった人物の顔があったからだ。
「そんな!? リリアナさん、君が何でこんな真《ま》似《ね》をするんだ!? まさか、俺の命をずっと狙《ねら》っていたのか……?」
「あ、あなたはわたしの秘密を見てしまった! あなたを殺して、わたしも死にます!」
「…………へ?」
思い詰めた顔で短剣を握るリリアナ・クラニチャールの言葉に、護堂は意表を突かれた。
「このメモ帳、もしかして君のものか!?」
恋愛小説やらポエムやらが書き込んであるっぽい創作ノート。
勇ましい女騎士である彼女にこんな趣味があるとは、予想外もいいところだ。
「先ほどバッグから取り出して書きつけていたはずなのに、いつのまにか見えなくなっていて……。もしかして、わたしの荷物を探られたりしたのですか!?」
「そ、そんなことするわけないだろう! 俺を信じてくれよ!」
(ちなみに、よからぬ企《たくら》みを持つカレンの手によってバッグから抜き取られ、護堂が廊下《ろうか 》を通る寸前にわざとらしく放り出されたという幕間劇《まくあいげき》が事態の真相なのだが、もちろんふたりには知ることのできない裏事情である)
「とにかく、わたしの秘密の趣味を知られたからには口を封じなくてはいけません!」
「え、ちょっと待とうよ。その程度で人を殺したりとかおかしいよ、絶対!」
「おかしくありません! これ以上、脅迫される材料を増やすわけにはいかないのです!」
脅迫と言われて、護堂の脳裏《のうり 》に思い浮かぶ顔があった。
あの『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』――彼女と自分の共通の友人が優雅に、そして気取った言い回しで数々の要求を突きつけてくるときの顔だ。
完全に根拠のない憶測だが、我ながら当たっていてもおかしくないと思う。
「とにかく落ち着いてくれ。俺はエリカとちがう。大丈夫だ」
「くっ……。そこでその名が出るということはあの雌狐《めぎつね》からやはり聞いていたのですね、わたしの秘密を。では、あなたを殺したあとで、今度こそあの女悪魔を!」
「も、もしかして藪蛇《やぶへび》!?」
明らかに錯乱しているリリアナを説き伏せること数分。
なんとか思いとどまってもらったが、彼女はひどく狼狽《ろうばい》していた。
「こ、こんな非常時ですが、つい雑念が湧《わ》き起こってしまい、それを抑《おさ》えるために書いたのですっ。見なかったことにしてください。お、お願いです、どうか忘れて!」
と、涙ぐみながら訴えてくる。
そんなに知られたくない趣味だったのかと、護堂は頭をかいた。
「あー、まあ趣味は人それぞれだし、そんな気にしなくてもいいんじゃないかな」
護堂は淡々と、ちょっと投げやりに言った。
この程度のことでそこまで思い詰めなくても、と思う。
明治《めいじ 》時代の草薙家当主など、その死後に原稿用紙三〇〇〇枚にも及ぶ私小説が発見されたらしい。年端《としは 》のいかない幼女になじられ、虐《しいた》げられることに倒錯《とうさく》的快楽を見出す『これはもう官能小説では』と親族会議で物議《ぶつぎ 》を醸《かも》した大著だったという。それに比べれば……。
ともかく、打ちひしがれるリリアナの肩をたたき、幼い子供をあやすようにして、護堂は慰《なぐさ》めた。そのせいで、目を潤《うる》ませる彼女との距離がひどく近づいてしまった。
原因はどうであれ、涙ぐむ彼女の妖精《ようせい》じみた美貌《び ぼう》は弱々しく、そして魅惑《み わく》的だった。
自分より武芸も達者で勇猛果敢《ゆうもうか かん》なはずの少女が、どこかはかなく見える。保護欲を刺激されてしまう。照れくさくなった護堂は、あわてて目を逸《そ》らした。
リリアナも恥ずかしいのか、頬《ほお》を赤く染めてうつむいてしまった。
妙な空気になってしまい、ふたりして黙り込む。これは気まずい、どうしよう――と思った矢先に、声をかけられた。
「どうやら傷は癒えたか。あいもかわらず、しぶとい男よな」
尊大にして高貴。幼いとさえ言える容貌でありながら、女王の威厳をまとう。
護堂とリリアナは同時に顔を上げ、身がまえた。
――薄汚い路地裏に降臨《こうりん》していたのは、もちろん『まつろわぬアテナ』だった。
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第5章 行方不明の王様たち
1
スパッカ・ナポリ――ナポリ旧市街の路地裏で。
草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》とリリアナ・クラニチャールは女神アテナと向かい合っていた。
「しぶといとか言うな。こっちはあんたのせいで大《おお》怪《け》我《が》したんだぞ」
「あなたこそ情けないことを言うな。戦いで傷を負ったのはあなたの未熟さゆえ。まずは己《おのれ》の不《ふ》甲《が》斐《い》なさを嘆《なげ》くべきであろう」
平然と言い返されて、護堂は気分が重くなった。
いや、戦う意思などない傍観者《ぼうかんしゃ》を無理に巻き込んだ女神様が原因だろう。こいつの唯我《ゆいが 》独尊《どくそん》ぶりは、明らかにエリカさえ凌《しの》ぐ。なんて自分勝手なヤツだ。
「…………草薙護堂」
寄り添うように立つリリアナが、そっとささやきかけてきた。
どうすればいいのかと問うような声だった。こちらの指示を待っているのだ。
護堂はかぶりを振った。
あの女神と戦うつもりはない。しばらくは静観していてほしい。その意図を汲み取ったのか、リリアナは小さくうなずいてくれた。
呑《の》み込みの早い支援者の存在を頼もしく思いながら、護堂はアテナと向き合う。
「なあ、ひとつ教えてくれ。今回、俺を戦いに巻き込んだのはあんたなんだから、そのくらいしてくれてもいいはずだぞ」
「何だ? 言ってみよ」
「ペルセウスは何で俺の――ウルスラグナの力を打ち消すことができるんだ? あいつが蛇《へび》、つまりアテナの力を消せるのは、何となくわかる。メドゥサの神話があるからだろ? でも、ペルセウスとウルスラグナの間には何の接点もない。変じゃないか?」
「さて――」
護堂の質問に、アテナはうすく笑った。
そして、品定めするようにこちらを見《み》据《す》えてくる。こういう目つきをすると、鎌首《かまくび》をもたげた蛇、獲物《え もの》の小動物でも狙《ねら》うフクロウのような印象になる。
やはり彼女は狩猟者《しゅりょうしゃ》でもあるのだ。これは、闘争と狩猟の女神としての相だ。
「どう答えたものか、迷うところであるな。たしかにあなたを巻き込んだのは妾《わらわ》だが、ここで素直に教えるのも遊戯《ゆうぎ 》としての興《きょう》に欠ける」
「いいじゃないか。こっちはあんたの気まぐれにつきあって戦うんだし」
反論してから、ついでにもう一言付け加える。
「……昨日、俺を鍛《きた》えるとか言っていたけど、もしかして蛇殺しとの勝負を避けたいから俺を引っぱりだした――なんてことはないだろうな?」
「闘争の女神たる妾を侮辱《ぶじょく》するな、草薙護堂よ」
じろりと、アテナがにらみつけてきた。
「たしかに、不用意に戦いたくない相手ではある。蛇殺しの言霊《ことだま》はなかなかに厄介《やっかい》ゆえな。だが、その不利を覆《くつがえ》す策などいくらでもある。闇《やみ》と大地の女王を侮《あなど》るでないぞ」
「……あるのか、そんな方法が?」
内心の喜びを押し隠して、護堂は訊《き》いた。
もしかすると、ペルセウス戦の切り札として使える策かもしれない。
「うむ。彼奴《き ゃ つ》が蛇を殺すのであれば、妾も灼熱《しゃくねつ》の焔《ほのお》を以《もっ》て鋼《はがね》を溶かしてくれよう。……ふふ、あなたが眠っている間に、あちらにそびえる火の山を眠りから目覚めさせる仕込みが済んでおる。煮えたぎる溶岩で押し流せば、〈鋼〉の英雄といえども必ず打ち倒せよう!」
「打ち倒さないでいい! 俺が戦うから、あんたはおとなしく観ててくれ!」
こいつ、火山を噴火させるつもりか! 護堂はあわてて叫んだ。
アテナが言ったのは、ナポリの東にそびえ立つヴェスヴィオ火山のことだろう。
帝政ローマの時代、かのポンペイの都を火山灰のなかに沈めて滅亡させた休火山である。いちばん最近では、一九四四年に噴火している。ナポリからの距離はわずか九キロ。
そして、護堂は納得した。
ペルセウスを不意打ちしながら、アテナが休戦の申し出を受けた理由。
どういうカラクリかは知らないが、火山を使うための準備とやらに時間を使いたかったからなのだ。それで蛇殺しとの相性の悪さを克服するつもりだったのだろう。
「でも、火山を使うつもりだってことは、ペルセウスは熱に弱いのか?」
「きわめて烈《はげ》しい熱と焔、竜をも灼《や》き滅ぼすほどの高熱であればな。べつにあやつだけの弱点ではない。〈鋼〉とはそういうものであろう?」
鋼。
この言葉を聞くたび、落ち着かない気分になる。護堂は話題を戻すことにした。
「じゃあ改めて訊くけど、どうしてウルスラグナの力は消されてしまうんだ?」
「教えてもかまわぬが、代償を支払ってもらうぞ。草薙護堂よ?」
……そんな理不尽《り ふ じん》な。
「妾に戦うなと言うのだから、当然ではないか。あなたを戦場に立たせたのは妾。ゆえに借りがひとつだ。だが、あなたの意向通りに妾がいくさ場に立たぬのであれば、貸しがひとつ。これで貸し借りはなくなるであろう? そして、あなたに勝利の鍵《かぎ》を授けるのであれば、もうひとつ余分に貸しだ」
ゆえに、草薙護堂は借りを返す必要があるのだとアテナは微笑んだ。
この女神様、わざと突飛《とっぴ 》な理屈を口にしている感じだ。困るこちらを見て、愉《たの》しんでいるのかもしれない。護堂は頭を抱えたくなった。
「無茶を言う神様だな。じゃあ、代償って何がいいんだよ?」
「うむ。妾も考えていない」
試《ため》しに訊《たず》ねてみたら、この口上。もう勘弁《かんべん》してほしい。
「ふふっ、今はまだ思いつかぬという意味だ。――彼《か》の神の秘密をあなたに教える代わりに、いずれ妾の願いをひとつ聞いてもらう。これでどうだ?」
アテナが不敵かつ尊大に問いかけてきた。
この口ぶりとまなざし、まさに強大な女王そのものだ。相手の器《うつわ》を試すような、この挑戦を受けられるかと問いかけるような――。
「さあ、どうする? あなたの命を寄こせと言うやもしれぬぞ。あなたの大切な者を差し出せと命じるやもしれぬぞ。答えを聞かせてもらおうか?」
護堂は頭のなかで計算をはじめた。
神々は基本的に悪辣《あくらつ》ではない。しかし多くの場合、無意識に残酷な振る舞いをする。
偉大で強壮な彼らには、卑小《ひしょう》な人間を思いやる細やかさなど皆無《かいむ 》だからだ。さて、アテナの要求を呑んだ場合、どちらの面が出てくるだろうか。
護堂は数十秒ほど思案したあげくに、あっさりと結論を出した。
今回に限って言えば、リスク以上のリターンが見込める取引だ。それに最悪、借金を踏み倒すという倭《わい》小《しょう》な人間の特権を行使するのもアリだろう。
何より最大の理由は――こんな挑発に、無難な答えなど口にしたくなかったことだ。あとは相手の言い分を丸呑みにせず、どうこちらのペースに持っていくか、だが。
「わかった、じゃあ――」
「王に成り代わり、わたしがお答えいたします。もちろん否《いな》です!」
思案しながら口を開いた矢先に、割り込まれてしまった。
ずっと護堂の傍《そば》で成り行きを静観していた、リリアナの発言だった。
「非礼を承知で申し上げます、アテナよ。我ら人類を守護する戦士にして王たる方が、そのような申し出を承諾できるはずもないでしょう。ただ今の仰《おお》せは聞かなかったことにさせていただきとうございます」
「……その返答は、あまり面白くないな。つまらぬ」
恭《うやうや》しく頭《こうべ》を垂《た》れながら回答するリリアナから、アテナは退屈そうに目を逸《そ》らした。
「まあいい。ならば妾は、そこらの海にでも籠《こも》っているとしよう。気が変わったなら、昨夜の港にでも来て、妾の名を呼べ。いつでも謎《なぞ》の答えを教えてやろう。……あの悪戯者が戻ってくる前であれば、いつでもな」
闇と大地の女神はそう言い捨てて、彼女には不似合いな路地裏から去っていった。
2
「あそこで断ることもないじゃないか。アテナから情報を引き出すチャンスだったのに」
ディアナの家に戻る道すがら、護堂《ご どう》はぼやいた。
あの判断を下したリリアナの気持ちもわかるし、あとでこっそりアテナと会えばいいかとも思ったので、非難はしなかったが。
「そうおっしゃるということは、やはり承諾するつもりだったのですね?」
「まあ基本的には。こっちからも条件を出して上《う》手《ま》く折り合いをつければ、そう悪い話でもないし。……ところで、俺がオーケーするってよくわかったな」
感心しながら護堂は言った。
やはりと言う以上、リリアナはこちらの意向を読んでいたわけなのだから。
「わかりますッ。いっしょにいた時間は短いですが、あなたがろくでもないことを考えているときの雰囲気《ふんい き 》が何となくわかるようになってきました!」
「俺、君の前でそんなに変なことをしたか?」
「されています。たとえば昨日、あの『猪《いのしし》』をいきなり街中で呼び出したりとか」
そういえば、と護堂は恐縮した。
死から復活するために半日近く寝たりしたので、すっかり忘れていた。
「草薙《くさなぎ》護堂――あなたは普段の言動こそ常識的ですが、ここぞというときにはひどく大雑把《おおざっぱ 》な判断と行動をするようになりますね」
旧市街のストリートを歩きながら、リリアナが非難する。
態度、言葉|遣《づか》いはまったくちがうが。まるでエリカ辺りが口にしそうな言いぐさだ。すこし憤慨した護堂は、ささやかな反論を試みた。
「大雑把じゃないって。さっきのアテナとの取引だって、俺なりに計算はあったし」
「上位魔術師や『まつろわぬ神』相手に、迂闊《う かつ》に言質《げんち 》をあたえるような誓約は控えるべきです! 誓約者が反《ほ》故《ご》にするつもりで『おまえの言う通りにする』と誓ったときでも、その言葉を足がかりに絶対服従の呪縛《じゅばく》をかけたりもできるのですから!」
それはかなり予想外の情報だ。
ぎょっとする護堂を、本気で怒っているらしいリリアナがにらみつけた。
「あなたはカンピオーネですから、おそらく最上位の魔術師がかけた呪縛でも断ち切れるでしょう。ただし、相手が神であればべつです。アテナほどの女神にあんな誓約をあたえたら最後、どんな結末を迎えても文句は言えません」
「……そうか。さっきはありがとう、助かったよ」
どうやら、かなりのピンチだったらしい。
反省した護堂は素直に礼を言った。するとリリアナはフンと顔を背《そむ》けて、
「い、いえ。騎士として『王』を助けるのは当然の行い。ねぎらっていただくようなことではありません。お気になさらないでくださいっ」
照れているらしい。
わずかに頬《ほお》を上気させるリリアナが、ちょっと微笑《ほ ほ え》ましい。
「大体、そんな言葉でごまかそうとしてはいけません。昨夜から気になっておりましたが、あなたは無頓着《むとんちゃく》すぎます。御自身の権能《けんのう》が周囲にあたえる影響をもっとお考えください」
「な、なるべく周りの物を壊さないようにはしているんだけど……」
「そうではありません。周囲の人々、組織にとって、カンピオーネがどれだけ強大で破格な存在なのかを理解し、然《しか》るべき振る舞いをしていただきたいのです」
ここでリリアナは、背けていた顔の向きを戻した。
まっすぐに護堂を見つめてくる。
「あなたは周囲を気遣っているとおっしゃいましたが、極言すれば、そのご心配は無用です。カンピオーネがどれだけの破壊を行おうと、咎《とが》められる存在は同格のカンピオーネしかおりません。それだけの権威を持つがゆえに、あなた方は『王』と呼ばれるのです」
そういえば、いつだったかどこかの魔術師が言わなかったか。
――あなたが手にしたのは神にも魔神にも並びうる力。人でありながら人を超越する絶対者の特権なのだ云々《うんぬん》みたいな。
その言葉のバカバカしさを思い出して、護堂は頭を振った。悪い冗談だ。
「あなたもご存じでしょう、サルバトーレ卿《きょう》やヴォバン侯《こう》爵《しゃく》のひととなりを? 人格的にはまったく誉《ほ》められませんし、人として然るべき道徳観さえも持ち合わせない方々です。しかし、『王』たるカンピオーネであれば許されるのです」
そんなはずはない。
護堂は再度、かぶりを振った。そんなことはないはずだ。
「カンピオーネに課せられた責務はただひとつ。『まつろわぬ神』が顕《あらわ》れたとき、非力な人類の代表として神々と戦うことです。その一点さえ守っていれば、彼らに何かを望める人などおりません。高貴なる者の義務とも、わずらわしい統治とも無縁でいい。カンピオーネの本道は本能の赴《おもむ》くままに神と戦い、地上に君臨することだけにあるのですから」
「そんな理屈が通っていいわけないだろ」
短く護堂は言い切った。
滔々《とうとう》と世界の理《ことわり》を言い聞かせるリリアナに、真正面から言い切る。
「あの連中がダメ人間なのは、単にあいつらがダメなヤツらだってだけだ。カンピオーネだから人間的に最悪でもいいなんて理屈が大丈夫なはずないだろう? 大体さ、君はそんなのでいいと思っているのか? 思わないだろ。思うはずがないよな、リリアナさん?」
この問いかけに、リリアナは困ったようにうつむいた。
それはそうだろう。真《ま》面《じ》目《め》で頑固《がんこ 》でやさしい彼女が、これが決まりだからという理由だけで王様たちの横暴に目をつぶれるはずがないのだ。
「他の連中がどうだろうと、俺は俺のやりたいようにやるよ。いろいろ妙な縁でとんでもない特技をいくつも手に入れちまったんだ。世の中に迷惑をかけないようにしながら、できるだけマシな使い道を見つけてみせるよ」
そう護堂は宣言した。
ただし、そのあとで今までの失態の数々を思い出して、念のため言い添えたが。
「……まあ、俺には大雑把なところもあるらしいから結構失敗もするけど、エリカとか万《ま》里《り》谷《や》とか君みたいに助けてくれる人たちもいるし、何とかなるさ。これからもよろしく頼むよ」
「わ、わたしもですか?」
「だって、今もいろいろ手伝ってくれてるじゃないか。やっぱり大変だから、今回だけがいいとか? だったら申し訳なかったかな……」
落ち着いて考えてみれば、こんな厄介事《やっかいごと》に好んで首を突っ込む人間はすくないだろう。
誰もが自分やエリカのように物好きではないのだ。
そこに思い至って護堂はあやまったのだが、リリアナは首を横に振った。ため息をついて急に立ち止まり、有能な騎士らしく答えてくれた。
「あなたが――『王』が望まれるのであれば、この身を御身に捧げる覚悟で尽力いたしましょう。……でも、今日のところは休みましょうか。そろそろ暗くなってきましたし」
いかめしい言葉遣いが、途中から急に崩れた。
初めて見るやわらかな微笑とともに、リリアナはやさしく言ってくれた。
こういう顔を見せられると、普通のかわいい女の子のように思えてしまう。この不意打ちにちょっと照れながらも、護堂はうなずいた。
いつのまにか、ディアナの店の前に着いていた。
歩いているうちに夕日もかなり西に傾いてきた。長い黄昏時《たそがれどき》が終わりつつあるのだ。
「そうだな。ペルセウスの秘密も自分たちで考えなきゃいけないしな」
ふたりはそろって家のなかへ入る。
ダイニングに赴《おもむ》くと、ディアナもカレンもいなかった。ふたりきりだ。
「ミントティーを淹れますので、一服しましょう」
キッチンでカチャカチャと茶器の準備をしながら、リリアナが言う。
そういえば、イタリアではいつもコーヒーばかりを飲んできた。大体はエスプレッソで、ときどきカプチーノやカフェラッテというところだ。
たまには真っ黒でない飲み物もいいかもしれない。椅《い》子《す》にすわり、おとなしくお茶が出てくるのを護堂は待った。独特の薬草じみた匂《にお》いが漂ってくる。
「――どうぞ」
数分後。
護堂は琥珀《こ はく》色の液体が入ったティーカップを、リリアナの手から受け取った。
ミントの芳香《ほうこう》が立ちのぼってくる。
いい香りだと思うのだが、違和感がある。カップに口をつけ、味を見てみる。口のなかがすっきりとする感じだ。しかし、妙に不快だった。
「あんまり美《う》味《ま》いものじゃないんだな。変な匂いと味がするよ」
「薬草をお茶にしたようなものですからね。大事なのは味よりも効能です」
思わずぼやくと、リリアナが肩をすくめて応じてくれた。
そういうものか。納得した護堂は、ミントティーを全て飲み干した。体の異変に気づいたのは、そのまま一〇分ほどリリアナと雑談をしたあとだった。
「……何だ、これ?」
体がしびれる。最初は指先。すぐに手足が動かなくなった。
やがて、しびれは胴体にまで移っていき、護堂の全身はほとんど動かなくなった。
「やはり経口《けいこう》摂取《せっしゅ》であれば、カンピオーネが相手でも魔術は利《き》くのですね」
ほぼ全身がしびれ、身動きが取れなくなった護堂へ、リリアナが言った。
まさか、一服盛られたのか!? 護堂は愕然《がくぜん》とした。彼女がなぜこんな真《ま》似《ね》を!
「麻《ま》痺《ひ》の呪《じゅ》力《りょく》を持つ霊薬をお茶に混ぜました。……ハーブの味と香りでごまかしたはずなのに、はっきり指摘されるとは予想外でしたが――」
なるほど、あれが毒を飲んだときの感覚か。
カンピオーネのデタラメな超感覚が毒物の混入を察知し、警告していたのだ。身を以《もっ》て味わった護堂は、次はもうだまされまいと誓った。
「アテナと取引してでも情報を得ようという、あなたのお考え。悪くないと思います。ただし、交渉の材料になるのがあなたでなければ、です。神との戦いで切り札となるあなたを犠牲《ぎ せい》にしては、まさに本末転倒《ほんまつてんとう》」
五感と脳は問題ないが、全身がしびれて動けない。
そんな状態の護堂を、リリアナはやさしく抱え起こし、壁にもたれかけさせた。
「わたしがアテナと先ほどの線で話をしてみましょう。もちろん、あなたの身に危害を及ぼすような約束は一切いたしません。……わたしは魔女ですので、アテナのような大地の女神とは相性がいいはずです。何かしらの情報は得られるでしょう。おまかせください」
相手がカンピオーネだから、アテナは取引を持ちかけてきたのだ。『まつろわぬ神』が人間相手の取引に応じるはずはない。危険すぎる。
護堂はそう訴えたかったのだが、口も舌も動かせない。
「あなたがごいっしょですと、わたしが交渉役でも妙な方向に話がいきかねませんからね。ひとりで行って参ります。一服盛った非礼、平《ひら》にご容赦《ようしゃ》ください」
と言って、リリアナはダイニングを出ていった。
残されたのは護堂ひとり。動かない体を無理矢理に動かそうとして、護堂は全身の力を振り絞ろうとした。駄目だ、びくともしない。
――我は最強にして、全ての勝利を掴《つか》む者なり。
――全ての敵と、全ての敵意を挫《くじ》く者なり! あらゆる障碍《しょうがい》を打ち砕く者なり!
ウルスラグナの聖句を胸の内で唱える。体のなかに古代ペルシアの軍神から奪った力が充溢《じゅういつ》しだす。すると、しびれが若干《じゃっかん》収まった。
これならいけるか。
手応えを得た護堂は筋力ではなく、神より簒奪《さんだつ》した呪力を最大限に振り絞った。
魔術を体内へ直接吹き込む。たしかに、このやり方ならカンピオーネにも魔術は通じる。だが、それはあくまでこちらが無抵抗だった場合だ。
神が相手ならともかく、普通の魔法相手にそうそう負けてたまるものかと――。
そう自分に言い聞かせながら、護堂は麻《ま》痺《ひ》と戦いはじめた。
3
サンタ・ルチア港の埠頭《ふ とう》。
昨夜ペルセウスと出会い、アテナと草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》がやってきた場所だ。約二〇時間ぶりにここへ戻ってきたリリアナは、海へと呼びかけた。
「女神アテナよ、騎士リリアナ・クラニチャールが願い奉《たてまつ》ります! どうか我が前へ尊《とうと》き御姿を顕《あらわ》しくださいませ」
リリアナの声は、夕日で橙色《だいだいいろ》に染まった海面へ呑《の》み込まれていった。
ややあって、銀色の輪郭《りんかく》を持つ闇《やみ》が埠頭の端に顕れる。この闇はすぐにまつろわぬアテナの姿になり、リリアナの方へと歩いてきた。
「草薙護堂はどうした? そなたに用はないぞ、娘よ」
尊大《そんだい》に女神は言う。予想通りのリアクションだ。
ここから何としても、ペルセウスについての情報を引き出さねば。
リリアナは気を引き締めた。
剣でなく弁舌《べんぜつ》を用いた駆け引きなど、彼女が特に苦手とする分野だと言ってもいい。こういうやりとりはエリカの得意技なのに、どこで足止めを喰《く》っているのだか……。
「我らが王に成り代わり、御身にご教示いただきたく存じます。ペルセウス神はいかな理《ことわり》を以《もっ》て、草薙護堂の権能《けんのう》を封じているのか。非才なる我らには、その謎《なぞ》を解《と》く糸口すらつかめぬ状況です。どうか、お智《ち》慧《え》をお授けいただきたく――」
「先ほども申した。それには代償が必要だ」
にべもないアテナの回答。リリアナはとにかく頭を低くした。
もとより完全な答えなど求めていない。
女神の口からヒントだけでも聞き出せればという目論見《もくろ み 》なのだ。そういう意味では、さっき草薙護堂にあのまま交渉させるのもありだっただろう。だが、あのアバウトさでは迂闊《う かつ》な言質《げんち 》を取られる危険性が大。だから、彼女がこうしているのだが――。
「御身の代わりに戦う草薙護堂へのはなむけと思《おぼ》し召《め》しくださいまし」
「これもすでに告げたことだが、何もあやつを戦わせずともよいのだ。あの悪ふざけが過ぎる英雄を、妾《わらわ》自身の手で火の山に投げ込めばよいだけの話。そうである以上、草薙護堂にわざわざ贈り物を差し出す必要もあるまい」
まったく気乗りしない表情でアテナは言った。
これが人間なら、このワガママ女めと一喝《いっかつ》してやるところなのだが……。
リリアナはキレてしまいたい衝動にかられながらも、己に「我慢《が まん》だぞ、我慢」と言い聞かせた。並の魔術師なら、話の通じない女神を前にして諦《あきら》めるところだろう。
だが彼女は、魔女《ストレガ》の資質を持つ。
そして欧《おう》州《しゅう》における魔女の原型は、アテナたち古代の地《じ》母《ぼ》神《しん》に仕える巫《み》女《こ》なのだ。
霊感を研《と》ぎ澄《す》まし、女神の言葉に耳を傾ける。
地母神の言霊《ことだま》と神気は、魔女にとっては特に力をあたえてくれるもの。こぼれ落ちる神の叡智《えいち 》、天啓《てんけい》をすくい取れる可能性は高い――。
「草薙護堂を連れ出したときは、まさかあのような神が降臨《こうりん》するとは思わなかったが、これも天の采配《さいはい》よな。古き東方の盟主《めいしゅ》との立ち合いはたしかに苦しかろう。だが、それも覆《くつがえ》せぬようではあの小僧もまだまだ……」
アテナが愉《たの》しげに嗤《わら》う。
古き東方の盟主? そういえば、女神はさっき何と言った? 悪ふざけだ。あの美《び》々《び》しい英雄を悪戯者《いたずらもの》とも呼んでいた。
ペルセウスを評してアテナが口にした言葉の数々。
それらがリリアナの脳裏《のうり 》でくるくると渦巻《うずま 》き、はじけるようにインスピレーションを生み出していく。そうか。女神は事のはじめから英雄の素性《すじょう》を見抜いていたのだ。
あと、湧《わ》き上がるイメージは何だ?
輝く山吹色《やまぶきいろ》の光。天空よりこぼれ落ちる太陽のかけら。日輪《にちりん》の輝き。
それらを併《あわ》せ持つ英雄。鋼《はがね》の性質を持つ剣の神々の一《ひと》柱《はしら》。
ディアナは『ペルシアより来たりし者』と言った。その名はペルセウス。だが、まだ足りない。この神の真なる御名、いや真なる来歴は――。
「……ほう。そなた、巫女であったか」
気づけば、アテナにじっと見《み》据《す》えられていた。
リリアナは戦慄《せんりつ》した。蛇《へび》ににらまれた小動物、フクロウに狙《ねら》われた地虫、今の自分はそれらに等しいほど無力だ。
「そういえば、草薙護堂めは故国でも勘《かん》のよさげな巫女を侍《はべ》らせておったな。ふふ、妾《わらわ》の言霊《ことだま》から天啓でも得たか? さて、今そなたの頭のなかにある謎《なぞ》の答えをあやつのもとに持ち帰らせてもいいものか……」
捕らえた獲物《え もの》を鋭い爪《つめ》でもてあそぶ猫。
そんな風情《ふ ぜい》でアテナがささやく。智《ち》慧《え》の女神の眼力は、今リリアナの霊感が得た啓示を見抜いているようだ。 これはちょっとまずいかもしれない。
アテナは自分よりも背の高いリリアナのおとがいに手を伸ばし、指先で撫《な》で回す。
この指がこのまま凶器と化しても不思議ではない。
間近に迫る死と闇の匂《にお》いをかいで、リリアナは息を呑《の》んだ。せめて、今つかんだヒントだけでも草薙護堂に知らせることはできないか。
「……ま、待ってくれ」
不意に、呼びかけられた。
アテナにとっては、待ちかねていた少年の声で。リリアナにとっては、ここに現れるはずのない少年の声で。
「ようやくのお出ましか。妾をこれほど待たせるとは、慮外者《りょがいもの》め」
「草薙護堂! どうしてあなたが来ているのですか!?」
貴重な麻《ま》痺《ひ》の霊薬――牛馬でも半日は金縛《かなしば》りにする薬を飲ませたのだ。
ところが、よろよろと体をふらつかせながら近づいてくるのは、まちがいなく草薙護堂だった。どうやら薬の効果を完全に無力化できたのではないらしい。
若きカンピオーネの足取りは危なっかしく、いつ倒れ込んでもおかしくはなかった。
そんな状態だというのに、彼は鋭くアテナをにらみつけた。
「……その娘《こ》をどうするつもりだ?」
「今、思案しているところであった。この者、ぶしつけにも妾の言霊より天啓をかすめ取ろうとしたのでな。本来であれば、不敬《ふ けい》の報《むく》いとして神罰でも喰《く》らわせてやるところだが……」
「天啓?」
「左様《さ よう》。あなたがペルセウスと呼ぶ神の素性《すじょう》を暴くためにな。しかも、あとわずかで答えへと辿《たど》り着くようだが……。さて、こやつをどうしてくれようか」
リリアナのおとがいを撫《な》でていたアテナの指先が、ゆっくりと下りていく。
首筋もやさしく愛撫《あいぶ 》する。いつでもへし折れると宣言するように。
もっと下、決して豊かとは言えない控えめな胸のふくらみにも指先を押し当てる。いつでも抉《えぐ》り、突き破れると見せつけるように。
今まで経験したどの戦いよりも、この状態は危険だ。
文字通り、アテナに生死を握られたリリアナが絶望しかけたとき――。
「放してやってくれ。代わりに、俺がさっきの取引を受けよう」
恐れていた言葉が『王』の口から飛び出てしまった。
リリアナは思いとどまるようにと願いながら彼を見つめたが、あっさりと無視された。
「今さらか、草薙護堂よ」
「べつにいいだろ。あんたは神様なんだから、それぐらい余裕を見せて譲《ゆず》ってくれ。大体、この前の決闘で勝ったのは俺の方だぞ。ディフェンディング・チャンピオンが優遇されるのは、人間の勝負事じゃ当たり前なんだ」
「……ふん」
「俺が取引に乗るなら、あんたがペルセウスの秘密を教えるのは約束通りってことになる。その娘が霊感とかをもらったのも、ちょっと順序が狂っただけになって問題なくなるだろ? それで手を打たないか?」
彼の申し出に、アテナは無造作にうなずいた。
恐れていた事態が現実となってしまい、リリアナはうなだれた。
「まあ、よかろう。いくつかの行きちがいはあったが、妾《わらわ》とあなたの双方にとって益《えき》ある結果となった。それで良しとしようではないか」
「いや、あともうひとつだけいいか」
まだ何か要求するつもりか。
そう言いたげに柳眉《りゅうび》を吊り上げたアテナが、少年を見やる。
「いつか、あんたの言うことをひとつ聞くけど、俺の周りの人間を巻き込むようなのはお断りだからな。あんたの言う通りにするのは俺ひとりだけ。あんたのご要望で苦労するのは俺ひとりだけでないとダメだ。……これでどうだ?」
「取引に応じると言ったくせに、都合のいいように内容を変えるつもりか」
「当たり前だ。相手が勝手に用意した借金の証文にサインするバカがいるわけないだろ」
草薙護堂がふてぶてしく開き直った。
こんな逞《たくま》しい顔つきをする少年だとは思っていなかったので、リリアナはドキリとした。
「すこしは人間の社会も勉強しろ。大体、無理なワガママを言い出したのはあんたの方だ。無理を要求する相手には無茶で返すのが、うちの家系のやり方なんだ。……これでようやく、あんたの言った通り双方に益のある結果になる」
「妾が断ると言えば?」
「あの英雄野郎が戻ってくる前に、あんたとの再試合をするだけだ。……俺に勝てたとしても、次はペルセウスを片づけなくちゃいけないだろ、あんたは。あまりリスクを冒《おか》すべきじゃないと思うぞ」
女神と少年のやりとりを眺めながら、リリアナは理解した。
草薙護堂はおそらく善人であるはずだが、どうやらそれだけの少年ではない。
誠意は見せる。だが、脅《おど》しもかけるし損得も勘定する。一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない曲者《くせもの》の顔、したたかさと我《が》の強さも隠し持っているようだ。これは意外だった。
「ふん、あなたもようやく調子を取り戻してきたか」
くつくつと合格を告げるようにアテナは笑い、そして付け加えた。
「よかろう。女王たる妾の要求に、あなたは王の流儀で応えた。ある意味で神殺しの位《くらい》にふさわしい申し出と言えよう。その条件で取引をしようではないか。――娘よ」
リリアナの体からアテナが指先を離した。
とん。その手で軽く押される。
それだけでリリアナの細い体は吹き飛ばされ、ふらつく護堂に抱き止められた。
「もうひとつ教えを授けてくれよう。これでみごと、あやつの戯《たわむ》れを暴き立ててみせよ。よいか、ペルセウスはバビロンの地より来た蛇殺し。そのあやつを古き東方の盟主たる太陽神とひとつにしたのは、そなたたちの先達《せんだつ》である帝国の民よ」
先達である帝国。この土地にあった国ということか。
そして、古き東方の盟主。太陽神。その光が東方の軍神ウルスラグナを封じるものである以上、これはつまり――。
護堂の腕のなかで、ついにリリアナは悟った。
アテナから授かった数々の霊感と、魔術師として長年学んだ知識が混じり合い、ペルセウスの正体を唐突《とうとつ》に理解できた。そういう仕組みだったのかと、ため息が洩《も》れる。
このような事情であるなら、ウルスラグナの神力が抑え込まれても不思議ではない。
「悟ったか。ならば、もう用はない。……草薙護堂よ、次にまみえるときはあなたの戦いが終わったあとだ。勝敗いずれを得るかは知らぬがな」
アテナの姿が変貌《へんぼう》していく。
少女の容貌と肢体《し たい》が見る間に縮んでいく。すぐに彼女は、灰色の羽毛と闇色の瞳を持つフクロウの姿へと変わっていた。
神の化身《け しん》である夜の鳥が飛び去った直後――。
草薙護堂の体が大きく揺らぎ、支えていたリリアナと共に地面へ倒れ込んでしまった。
「どうされましたか!? しっかりしてください!」
「い、いや、薬の力を無理に振り払ったせいか、体にしっかり力が入らないみたいで……。悪い、あとはまかせた……」
「も、申し訳ありません、わたしなどのために――!」
へたり込んだ『王』の体に取りすがりながら、リリアナは叫ぶ。
夜の足音が近づく夕闇のなか。空にうっすらと姿を現した半月が、ふたりを皮肉っぽく見下ろしているように彼女には感じられた。
4
「全て、あなたの仕業《し わざ》だったのですね」
「ふふふ、よくここまでやってきた。そうとも、僕こそが事件の首謀者! この異変の全《すべ》てを引き起こした元《げん》凶《きょう》なのさ!」
連続|猟奇《りょうき》殺人の犯人と名探偵。
そんな対決のシチュエーションっぽいセリフを投げ合いながら、エリカ・ブランデッリと不死身の魔王は対面を果たしていた。
エリカとともに彼を追い詰めた、万《ま》里《り》谷《や》祐《ゆ》理《り》もいる。
彼女が本当に怒ったときにだけ見せる、冷酷ささえ感じさせる凛然《りんぜん》とした表情だった。
祐理の気持ちはよくわかる。
珍しくエリカも、目の前のダメ人間にもっとマシな生き方をする気はないのかと道理を説きたくなったのだから。
サルデーニャ島の北部、アルゲロ市の郊外で――。
ナポリの草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》と合流すべくエリカが行動を開始した直後、その異変は発生した。
全ての機械類が作動停止。
家に電気もつかない。車も走らない。ガスも駄目。電話もつながらない。電気・ガス・蒸気・火薬などの関《かか》わる文明の利《り》器《き》は、ことごとくただの置物と化していた。
「エリカさん、これはまるでアテナが東京に降臨《こうりん》したときのような……」
「わたしもそう思ったわ。もし『まつろわぬ神』が顕《あらわ》れているのだとしたら……早く護堂のところに行かなきゃいけないのに厄介《やっかい》ね」
この日の昼頃、護堂が滞在していた貸別荘で――。
不安そうな祐理の指摘に、エリカは憮然《ぶ ぜん》とした表情でうなずいてみせた。
「……どれ、ちょっと探《さぐ》りを入れてみるか」
このときルクレチアが、億劫《おっくう》そうにつぶやいて窓辺へ向かっていった。
パンくずで餌《え》付《づ》けしていた小鳥を呼び招き、ぶつぶつと『使役』の魔術をかけて空へと解き放つ。適当な小動物を使い魔にする術だった。
魔女の資質を持つ者しか修得できない呪法《じゅほう》、『魔女術』のひとつである。
自他共に認める天才エリカ・ブランデッリにも、これは使えない。だから、おとなしくルクレチアの報告を待つ。
サルデーニャ島の老魔女は、しばらく目を閉じていた。
使い魔にした小鳥を飛ばして、アルゲロ市内を探らせているのだろう。ルクレチアほどの魔女なら、使い魔が見聞きしたものは全てリアルタイムで知覚できるはずだ。
そして、彼らの目を媒介《ばいかい》にして『霊視《れいし 》』を行うことも。
祐理ほどではないが、ルクレチアにも霊視術の心得はあるのだ。
「この近辺を妙な呪縛《じゅばく》――強制力の類《たぐい》が包み込んでいるな。市内の全てを覆《おお》うほどではないようだが、範囲はそこそこ広そうだ。……文明的な器具や装置を封じ込み、『禁止』する結界というところか」
一〇分ほどが経過し、おもむろに目を開けたルクレチアが素《そ》っ気《け》なく言った。
待ちかねていたエリカは、すぐに質問する。
「港はどう? 船は動いていた?」
「そこまでは確認していない。だが、この有《あ》り様《さま》でそこらだけ無事だと考えるのは虫がよすぎるだろう。仮に動いたとしても、こんな呪縛がすぐそばで作用しているんだぞ。こいつの影響範囲が広がるかもしれん。私なら船にも飛行機にも乗りたくはないがね」
「そう。参ったわね、サルデーニャから出ていくには、どちらかが絶対に必要だというのに」
気怠《け だる》そうな報告に、エリカはつぶやいた。
このとき彼女が考えていたのは、島から脱出する方法だった。
「……もしかしてエリカさんは、この異変を無視されて、すぐにナポリへ往《ゆ》くおつもりなのですか?」
美しい顔立ちを憂《うれ》いの色で曇《くも》らせながら、祐理が訊いてきた。
さすがに勘《かん》がいい。エリカの表情から思案の内容を見抜いたようだ。
「ええ。向こうで護堂は『まつろわぬ神』と戦って――敗れたらしいわ。死んではいないとのことだけど、彼が苦境に立っているのに変わりはないはずよ。わたしが駆けつけないで、誰が彼を助けてあげるというの?」
今、ここで発生している怪異はたしかに気になる。厄介《やっかい》でもある。
だが優先順位をまちがえるつもりはない。エリカ・ブランデッリが何より心を砕くべきは草薙護堂――愛するカンピオーネその人にほかならないのだ。
大体、ほんの二、三時間でサルデーニャ島からナポリに移動するなど普通ではない。
ここにもおそらく神々の力が作用しているはずだ。護堂は見た目よりも遥《はる》かに逞《たくま》しい少年だが、万全のサポートがなければ十分に戦えない『王』でもある。
とにかく、一刻も早く彼のそばに駆けつけたい。
そのためにはサルデーニャ島の異変など――正直どうでもよかった。
「で、ですがエリカさま。東京のときのように、発生中の現象が広がっていくかもしれませんよ? たしかに護堂さんの安否《あんぴ 》は心配ですが、ちゃんと島から出られるかどうか……」
と、困り顔でアリアンナ・アリアルディが訴える。
「あのアテナでさえ、東京の全てを闇《やみ》に沈められなかったのよ? そして、サルデーニャは東京より広いわ。すぐにアルゲロから離れてしまえば、どうとでもできるでしょう」
エリカは助手兼メイドの不安を一《いっ》蹴《しゅう》した。
車やバイクがなくて困るのは一般人。魔術で走力を高めて近隣の街まで自力で移動してもいいし、近くの牧場で馬を調達してもいいのだ。
「……いいえ。それはいけません、エリカさん」
凛然と異を唱えたのは、祐理だった。
「まずは、今ここにある災厄を解決してからナポリへ向かうべきです。全ての機械を使えなくする結界など、通常の魔術では絶対にかけられない呪縛です。まちがいなく『まつろわぬ神』、もしくはそれに類する存在の力が働いています」
「そんなことは承知の上よ。でも、わたしは護堂の方が大切なの」
ムッと眉《まゆ》をひそめながら、エリカは言い返した。
「だったら、こんなところからはさっさと出ていくに限るわ。あなたはどう、祐理? ひとりで神と戦っている護堂のことが気にならないの?」
「もちろん、気になります! 心配でたまりません!」
毅然《き ぜん》とした声をすこしだけ不安げに震わせながら、祐理は言った。
だが彼女の美貌《び ぼう》には、確固たる意志が宿っていた。エリカほど強くもなく才覚でも劣《おと》るというのに、この娘はときどき誰よりも勇敢《ゆうかん》に、そして気高《け だか》くなる。今もそうだった。
こういうとき、万里谷祐理はやはり媛《ひめ》巫《み》女《こ》――『姫』なのだと思う。
彼女は個人的な感情を押し殺してでも、顔も知らない人々を思いやって発言し、行動することの重要さを知っているのだ。
「ルクレチアさんを除けば、この島で最も強い力を持つ方はエリカさんです。そのあなたが背を向けてどうするのですか? 異変がこのまま継続、あるいは進行していけば、どのような被害が発生することか……それがわからないあなたではないでしょう?」
電気や機械を使用不能にする謎の結界。
この別荘だけなら、クーラーの涼気を求めてルクレチアがわめくだけの笑い話で済む。だが、たとえば病院で同じ現象が起きたら――結果はあまり想像したくない。
こんな結界のなかにどこからか飛行機でも飛び込んできたら――。これも最悪だ。
エリカは深くため息をついた。
自分は今、冷静さと公共心を欠いているようだ。これは、民《たみ》を守るべき騎士としては許されがたい失態だろう。だが、心のなかの優先順位は変わらない。
仕方ない。こうなったら可及的《かきゅうてき》速《すみ》やかに事件を解決し、ナポリへ急行する。職業的な義務と個人的な欲求を両立させるには、こうするしかないようだ。
かくしてエリカたちは、この緊急事態の解決に乗り出したのだが――。
このような経緯《いきさつ》なので、彼女たちはかなり悲壮な覚悟を抱いていた。
アリアンナとルクレチアは別荘で待機。
武力を持つエリカと霊視力を持つ祐理で、周辺地域を調査。
この分担で、調査を開始した。異変の原因をいち早く突き止め、可能であれば取り除く。それが無理でも情報を持ち帰り、然《しか》るべき対策を練る。
――『まつろわぬ神』と遭遇《そうぐう》するかもしれない、おそろしく危険な探索行。
そう、最初はそのつもりだったのだが。
「何だか、みんなルクレチアのようになってしまったみたいね。自堕落《じ だ らく》だわ」
「そのご発言には、私の口からは何とも申し上げかねます……」
まずいちばん近くの街に出て、情報を集めよう。
そう決めたエリカと祐理は、フェルティリアという小さな街に向かった。
あらゆる機械、文明の利器を『禁止』されて、たしかに街の人々は困っていた。とはいえ、差し迫った危険が目の前にある状況でもないわけで……。
文明生活と切り離されたことを嘆《なげ》きながら、彼らは漫然かつ適当に過ごしていた。
ぬるそうなビールやジュースをすすっていたり。
機械がダメになって仕事にならないのか、手持ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》風にボーッとしていたり。
涼を求めて屋内から出たのか、道端や軒先《のきさき》でシエスタをしていたり。
そんな人々の間を、エリカと祐理は歩き回った。バールやレストランもない、本当に小規模な街である。なにしろ、スーパーが一軒しかない。
そのスーパーから出てくる旧知の人物を見とがめて、エリカは驚いた。
鼻歌を口ずさみながら歩く、金髪の青年。派手な柄《がら》の開襟《かいきん》シャツを着込み、スーパーの袋を抱えている。中身はおそらく大量の缶ビールとスナック類。
わ〜たし〜のた〜いよう〜オーソレミ〜オ〜などと能天気に歌っている。
「あ、あの方が何でこんな場所に……。どういうこと?」
「お知り合いなのですか、エリカさん?」
「ええ、まあ。お名前だけなら、祐理も多分存じ上げているはずよ」
ふたりはとっさに物陰に隠れ、ひそひそ話し込む。
エリカが口にした名前を聞いて、祐理は「えっ!?」と驚いた。
「この異常――結界を作った犯人、多分あの方じゃないかしら。そんな気がするわ」
「し、証拠もないのに疑ったりしては失礼ですよ、エリカさん。たまたま、こちらにいらしていただけではありませんか!?」
「いいえ、祐理。あの方がいらした場合、たいていの揉《も》め事《ごと》はあの方のせいだと思っておいた方がいいの。……後をつけてみましょう。すぐにボロを出すに決まっているわ!」
そこからは全てがスムーズだった。
細心の注意を払い、ときに魔術まで駆使して尾行するエリカたちに、青年はまったく気づかなかった。
彼は途中で、道端に停《と》めていた自転車に乗り込んだ。前かごに缶ビールの袋を入れ、サンタ〜ルチ〜ア〜とハミングしながら北の方角へ走り出す。
エリカもすぐに、ちょうど近くにあった自転車の鍵《かぎ》を壊した。
怒る祐理を力ずくで荷台にすわらせ、ふたり乗りで追いかける。金髪の青年と自転車が走るのは海辺の道だった。
沈みゆく西日と心地よい潮風にさらされるサイクリングは、二〇分ほどで終わった。
――そこは、レンタルのパラソルが並ぶ海水浴場だった。
異常事態が発生しているせいか、ずいぶん閑散《かんさん》としている。だがヤケになったように浜辺で遊んでいるグループもおり、皆無《かいむ 》ではない。
その砂浜に青年は下りていった。
彼が目指すパラソルは、ビーチのはずれに位置していた。その下には、なぜか荒縄《あらなわ》で縛《しば》られた青年とクーラーボックスが待ちかまえていた。
「あれはアンドレア卿! やっぱり悪だくみをしていたんだわ。祐理、ついてらっしゃい!」
「は、はいっ」
拘束《こうそく》されている青年はアンドレア・リベラ。今朝電話で会話した大騎士だ。
エリカはすぐに飛び出して、大声で呼びかけた。
「サルバトーレ卿! 全て、あなたの仕業《し わざ》だったのですね!」
「ふふふ、エリカ・ブランデッリか。……よくここまでやってきた。そうとも、僕こそが事件の首謀者! この異変の全てを引き起こした元凶なのさ!」
金髪の青年はゆっくりと振り向き、堂々たる態度で居直ってみせた。
もちろん『剣の王』サルバトーレ・ドニその人だ。
「護堂なんかは僕を剣しか取り柄がないみたいに思っているようだけど、実はこんなこともできたりするんだ。どうだい、驚いたかい」
「驚くよりも先に呆れるところだ、この大バカ者め……」
拘束されたリベラが顔を苦々しげにしかめ、小声でぼやいている。
気の毒に、とエリカは彼の苦労に同情した。
あれでジェンナーロ・ガンツや〈老貴婦人〉の聖ピントリッキオなどと並んで騎士たちのなかでも有数の実力者なのだが、まったく浮かばれない。
「ところでアンドレア卿、この異変はどのような権能《けんのう》で引き起こされたのでしょう?」
「本来は極秘事項なのだが、こうなっては仕方ない。――あのバ、もといサルバトーレ卿がウルカヌス神より簒奪《さんだつ》された権能だ。卿はこの権能で、周囲一帯の文明を半日ほど中世レベルに退行させることができるのだ……!」
おそらくバカと言いかけて中止したリベラは、謹厳《きんげん》な口調で言い直す。
ローマの神ウルカヌス。
この火と鍛《か》冶《じ》の神は、ギリシア神話でいうヘパイストス――発明の神格だ。
サルバトーレ・ドニの権能は四つ。その一は、地上の万物《ばんぶつ》を斬り裂く魔剣。その二は半ば不死となる鋼鉄の肉体。だが、三つ目と四つ目の詳細は不明だった。
いざというときの切り札にするつもりで手の内を隠しているのだろう。
この辺り、能天気な考えなしのくせに、サルバトーレ・ドニはしたたかだ。こと闘争に関してだけ、意外なほど細心に立ちまわる人物なのだ。
「エリカさん、サルバトーレ卿の足下をご覧ください」
祐理が小声でささやく。エリカはそちらに目を向けてみた。
自慢げに笑うドニの足下には『nudus ara』『sere nudus』とラテン語を刻んだ板切れが転がっている。意味は『裸で耕《たがや》せ』『裸で種を蒔《ま》け』。ヘシオドスの文だ。
これが異変の源《みなもと》なのか。
ちらりと祐理を見ると、うなずいてくれた。やはりそうか。
……後に『|いにしえの世に帰れ《リターン・トゥ・メディーバル・スタイル》』と命名される権能であった。
それにしても、発明の神の力を奪っておきながら、発明を封じる方向に権能の効果が転じてしまうとは。エリカは呆《あき》れながらも『王』をにらみつけた。
「卿。現在ナポリには『まつろわぬ神』が降臨し、草薙護堂が現地で戦っていると聞き及びましたが、詳細はご存じでしょうか?」
「あー、あっちは今、膠《こう》着《ちゃく》状態みたいだね。アンドレアがそう言ってたよ」
「エリカ嬢。今朝、向こうの状況を電話で聞いた限りでは、そのようだ。降臨した『まつろわぬ神』ペルセウスはひとまず姿を消し、近いうちに再戦が行われると聞いている」
エリカはすこし安堵《あんど 》した。だが、この情報は古い。
一刻も早く合流して、安否を確かめたいところだ。そのためには目の前の人物をどうにかして、この近辺に平和を取り戻さなくてはいけない。
「サルバトーレ卿、そもそもあなたがなぜここに?」
「たいした理由じゃないんだよ。ナポリで津波に呑《の》み込まれて、ここまで流されてきたからなんだ。で、実は昨日、護堂の動向を探ってもらおうとアンドレアをサルデーニャ島に送り込んでいたんだよね。島に流れ着いた僕は、彼と連絡を取って合流したんだけど」
その後、エリカたちを足止めしようと思いつくドニ。
主《あるじ》の目を盗んで警告しようとするリベラを見つけて、実力行使で無力化。
連絡や移動の手段を封じるのがいちばんだと決めつけてウルカヌスの権能を行使。荒縄で拘束したアンドレアを連れて海岸に移動。バカンス開始。
そして現在に至る……と、聞いてみれば呆れるほどバカバカしい筋書きだった。
「さて、と。カラクリがバレたとあっては、次の手を打たなきゃいけないね」
不意にドニが言った。
ゆらりと陽炎《かげろう》のように半身で立ち、だらりと手を下げる。
剣こそ持っていないが、これは『剣の王』の戦闘態勢だ。エリカは息を呑んだ。
「サルバトーレ卿、わたしどもをなぜ足止めしようとされるのですか?」
エリカは問いかけながらも、魔術を使った。
右手を開き、召喚《しょうかん》の術で愛剣クオレ・ディ・レオーネを呼び寄せる。
「護堂には早く強くなってもらいたいからね。君たちがいるといろいろ便利だから、ちょっと彼に苦労してもらおうと思って。……やっぱり、孤独な戦いこそが戦士を大きく成長させると思うんだ。だからさ」
そう言ってドニは短く笑う。
彼はどこまでも明朗快活で、己《おのれ》の理屈のおかしさには無自覚なままだ。こういう一面を見せられると、やはり普通の青年ではないと痛感してしまう。
「ま、一、二時間ほど足腰立たなくなる程度で勘弁《かんべん》してあげよう。その日本のお嬢さんはサービスで痛いのは免除だ。僕から行くかい、それとも君から?」
エスプレッソに入れる砂糖の数でも訊《き》くように問いかけられた。
エリカは嘆息《たんそく》した。目の前にいるのは『剣の王』、欧《おう》州《しゅう》最強の剣士。決してかなうはずはない。そう認めながらも、彼女は一気に踏み込んだ。
小細工は通用しない。手加減など気にしなくてもいい大敵。
ならば、渾身《こんしん》の一撃を繰り出すまで。そう即断したうえでの、いきなりの攻撃だった。
とにかく速く、鋭く――。
電光のごとくクオレ・ディ・レオーネを閃《ひらめ》かせ、『剣の王』の胴を突きで狙う。
だがドニはひょいと何気なく横にずれるだけで、この剣に空を突かせた。そして、猫でも捕まえるように腕を伸ばし、エリカの手首を手刀で叩いた。
その軽い一撃で痺《しび》れが走り、彼女は愛剣を取り落としてしまった。
「君もリリアナ・クラニチャールも、まだまだだな……」
そんなつぶやきが王の口から洩《も》れるのを聞きながら、エリカの体は宙に舞った。
高々と放物線を描いて、砂浜に叩きつけられる。
「くっ……ッ!」
いつのまにか投げられていたのだ。何とか受け身を取ったものの、大地にぶつかる衝撃を全身で味わうことになってしまった。
攻撃に転じる瞬間がまったく読めない。あいかわらずの神技だ。
エリカは立ち上がろうとあがいたが、無駄だった。
おそらく彼の言った通り、しばらく自力で動くのにも苦労するのだろう。そのくせ骨折や深刻な負傷の感触はない。ダメージまで完璧《かんぺき》にコントロールされている。
手負いの雌《め》獅《じ》子《し》の目でにらみつけるエリカに、ドニは手を振った。
「まあ、こんなところさ。君たちに見つかったことだし、僕はそろそろナポリに戻るよ。護堂と神様の戦いも近くで観たいしね。――相手は何だっけ? またアテナ?」
「ペルセウスと申し上げたはずです。アテナはただの付き添いかと思われますな」
苦虫をかみつぶした表情でリベラが答えた。
それにうなずいてから、ドニは祐理に目を向ける。鼻歌でも口ずさみそうなノリの軽さで余っていた荒縄を取り上げ、近づいていく。
「へ? さ、サルバトーレ卿、何をされるのですか!? あなたも王であるなら、それにふさわしい自覚を――ああっ、やめてください!」
「痛いのは免除だから、こっちね。大丈夫、僕は縛るのも得意だからあとにはならないよ」
「き、きゃあああああッ!?」
というやりとりで、祐理の手足を縛《しば》り上げたあと。
ドニは地面に転がっていた板を踏み割った。例のラテン語を刻んだ板だ。
「これで僕たちは文明生活に戻ってきたわけだ。……というわけで、僕はどこかの船にでも便乗させてもらってナポリへ行くよ。君たちはあとから、ゆっくり来るといいよ!」
打ちのめされて地に伏す女騎士、荒縄で縛り上げた側近、媛《ひめ》巫《み》女《こ》にドニは言い放った。
彼がサルデーニャ島で引き起こした騒動の顛末《てんまつ》は、以上であった。
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第6章 騎士の誓い
1
その名前を聞かされても、護堂《ご どう》にはまったくピンとこなかった。
「……全然知らないなあ、そんな神様」
「無理もありません。ヨーロッパの人間でさえ忘れ去っている古き神の御名です。日本人であるあなたがご存じでしたら、むしろ驚きです」
と、講師役のリリアナが言ってくれた。
アテナとの別れから、一時間ほどが経過している。例の麻酔《ま すい》薬《やく》のせいで未《いま》だ体のふらつく護堂は、ディアナの家に帰るや否《いな》や客間のベッドに連れていかれた。
そして、彼女の講義がはじまったのだ。
「この神格は今日《こんにち》での知名度という点ではさほどではないのですが、歴史的には重要な意味を持っています。彼は|不敗なる太陽《ソル・インヴィクトゥス》、ヘリオガバルスとも呼ばれ、ローマ帝国に君臨していました」
「えっ? ギリシアじゃなくて?」
ペルセウスがオリエント起源の英雄だとは聞いていたが、なぜさらにローマの国名が出てくるのか? 混乱した護堂に、リリアナが説明をつづけてくれる。
「はい。これは特に不思議なことではありません。ギリシア的教養は、共和政時代からローマに深く根づいていましたから」
そういえば、古代ローマの富裕層《ふ ゆうそう》は子供の教育をギリシア人の家庭教師にまかせ、しばしばギリシア本国に留学させたのだったか。
護堂は、どこかで聞きかじった雑学を思い出した。
「ローマの太陽神ってアポロだったか? ギリシアで言うとアポロンの……」
「いいえ、ちがいます。たしかにユピテルやネプトゥーヌスのようなローマ古来の神もいますが――征服されざる太陽神は、そういう古き神々ではありません。彼は現代で言うところの新興宗教だったのです」
「新興宗教って、ローマ帝国に?」
「はい。古代ローマの宗教観は、よく言えば寛容《かんよう》、悪く言えば非常に混沌《こんとん》としています。ローマ土着の神よりも、あとから顕れた神や宗教をもてはやす傾向が明らかにありましたし。……何しろ、自分たちの神をギリシアの神々と習合させてしまうほどですから」
「つまり、八百万《や およろず》の神が住む国だったと」
考えてみればユピテルをゼウスに、ネプトゥーヌスをポセイドンに置き換える国である。
要するに日本と大差のない宗教観なのだなと、護堂は想像した。
「そのご認識で問題ないと思います。わたしたちの前に顕《あらわ》れたペルセウス神が、このイタリアの先達《せんだつ》である古代ローマによって生み出された神だと考えれば、全《すべ》ての謎《なぞ》を解くことが可能になります。――それで、どうでしょう?」
リリアナに確認されて、護堂は自分の右手を見つめてみた。
神を斬り裂く黄金の『剣』。己の切り札となる武器を使用可能になったという、あの確信は――全然感じられなかった。
「これじゃダメみたいだ。今の説明だけじゃ『剣』は使えないらしい……」
「そ、想定の範囲内です。やはり結論だけを簡潔に教える方法では無理なようですね」
やはり、例の方法しかないのだろうか?
護堂が不安に思うと、銀髪の女騎士がすかさず言ってくれた。
「神の性質を理解するという行為は、おそらく歴史を学ぶ作業と同じなのでしょう。ある国の一時代だけを切り取って勉強しても、それはあまり意味がありません。その時代に至るまでの歴史の流れ、過去からの積み重ねを知らずして、真の理解は得られないのです」
なるほど。護堂はうなずいた。
歴史の先生が言いそうな文句だったが、それだけに説得力がある。
「そこでわたしは考えました。あの神格の来歴を知るためには、最低限どのようなことを知っていただければよいのか……。取り急ぎ簡潔にまとめたものを講義いたしましょう」
これがエリカなら『めんどくさいわ、そういうの。もっと楽な方法があるんだし、そっちにしましょう』と言い出すところである。
護堂はリリアナの勤勉さに、ちょっと感動した。すばらしい心映《こころば》えだ。
「ではまず、インド・ヨーロッパ語族の起源について語りましょうか。コーカサスの片隅で民族として成立した彼らはやがて東方……インドとイランの平原に移動していきます。その過程で彼らは印欧《いんおう》語族系の最源流神格を生み出すわけですが――」
「ちょっと待った。……それで簡潔にまとめているんだ?」
暦《こよみ》で言うと、それは紀元前三〇〇〇だか二〇〇〇年頃のエピソードだったような……。
「そのあと、どんなエピソードがつづくか訊《き》いていいか?」
「そうですね。東方に進出した印欧語族がインドとイランに分割していったり、それとはべつにオリエントでセム語族がウガリット神話を創造していたり、巨石建造物を創造した古ヨーロッパ文明などが彼ら独自の神々を生み出したりして――」
「スケールが大きすぎるよ、その講義は! 長すぎるって、絶対!」
週一コマニ時間ずつの授業なら、語り終えるまでに二年はかかりそうな気がする。
この指摘に、リリアナが困り顔で叫び返す。
「し、仕方ないんです! まずその辺りを知っていただいてから、オリエントやギリシア、何よりローマ帝国について学んでいただかないと、完璧《かんぺき》な理解なんて望めないんですから!」
そうだったのか。そりゃエリカも毎回『めんどくさい』と連呼するわけだ。
徐々に護堂は焦《あせ》りはじめた。
……このままでは、なし崩しでアレをする必要が出てきてしまうのではないか。リリアナと目が合うたび、その可能性を考えてしまう。
ダメだ、自分も彼女もお互いの顔を正視できない。この状況は本当につらい。
ついにふたりは黙り込み、悶々《もんもん》とする思いを抱え込んだままチラチラと視線を交わし合うようになった。目が合うたび恥ずかしくてたまらない。
しかも、こんなときに最後の追い打ちがかけられたりするのだ。
「草薙さま、リリアナさま――たった今、ペルセウス神からのものと思われるメッセージが届きました。こちらへおいでください」
客間のドアが開き、メイド姿のカレン・ヤンクロフスキが声をかけてきた。
小悪魔なはずの彼女が、珍しく真剣そのものの表情だった。
ディアナの家の玄関先に、矢の突き刺さったメダルが置かれていたらしい。
そのメダルが、ダイニングのテーブルの上に鎮座《ちんざ 》している。
材質は白い石。表面には翼を広げた鳥とおぼしき意匠《いしょう》が彫《ほ》り込まれてあった。それを眺めたリリアナが表情を引き締める。
「天に君臨《くんりん》する太陽の印。まちがいなくペルセウス神のサインでしょうね」
「アフラ・マズダも象徴《しょうちょう》としたイコンね。彼の秘密はやっぱりリリィが霊視《れいし 》した通り……」
リリアナとディアナ、ふたりの魔女がうなずき合う。
そして、その傍《かたわ》らにいたカレンが恭《うやうや》しく頭を下げながら、護堂に願い出る。
「草薙さま、どうぞお触れください。ペルセウス神のお言葉をお聞きいただけます。……わたくしもこれを拾い上げたときに賜《たまわ》りまして、ひどく驚きました」
「あ、ああ」
護堂は言われるままに手を伸ばし、触れてみる。
その瞬間、石のメダルから聞き覚えのある美青年の声が軽やかに響き渡った。
『傷は癒《い》えたようだな、神殺しよ! 私もどうにか恢復《かいふく》した。ではそろそろ雌雄《し ゆう》を決するとしようか。私は君を下し、その余勢を駆ってアテナを打倒する。そちらの準備はいいか?』
「……待ってくれって言ったら、どれくらい待ってくれる?」
どんな方法で答えたらいいのか。
わからなかったので、護堂はとりあえず声に出して言ってみた。
『常在戦場《じょうざいせんじょう》は武士《もののふ》のたしなみだぞ。すぐに応戦できない不心得は感心できないな。だが、いいだろう。……今宵《こ よい》は月が美しい。あれでも眺めながら待つとしようではないか。準備ができたなら、我らが昨夜戦ったあの辺りに来たまえ』
どうやら大丈夫だったようだ。
だが、ペルセウスは昨夜に引きつづき天下の往来《おうらい》で戦うつもりらしい。どうにかして場所を変えられないか――護堂が思案していると、さらにつづけて言われた。
『では待っているぞ。……ああ、なるべく早めに来てくれ。月見に飽きたら、私の方から君の隠れ家に出向くつもりだが、やはりお互いに申し合わせて立ち合いの場に赴《おもむ》くのが決闘の醍醐味《だいご み 》ゆえ。後《のち》ほど逢おう』
これを最後に、ペルセウスの声は聞こえなくなった。
こちらから何を言っても通じている気配はない。護堂はため息をついた。どうやら、もう猶予《ゆうよ 》はあまりないらしい。どうする? あの手強《て ごわ》すぎる英雄とどうやって戦う?
悩んでいると、いきなりディアナに言われた。
「あまり余裕はないようですね。……草薙さま、ぶしつけなお願いで恐縮なのですが、お席を外していただけますでしょうか? ちょっと女同士で大切な話し合いがあるんです」
最年長の家主にこう言われては、護堂には断れない。
どうしたらいいのか悩み、迷いながら、すごすごと客間に引っ込むことにした。
――本当にどうしたらいいのだろう?
2
「じゃあ時間もないことだし、ちゃちゃっと会議をしましょうか。――草薙《くさなぎ》さまにどうやって勝利していただくか、その方法を今ここで決めちゃいましょう!」
「提案いたします。リリアナさまが『教授』の術を使えば、全て解決すると思います」
「まあ、それは名案ね。じゃあリリィ、その線でお願いしてもいいかしら?」
「い、いいわけないでしょう!」
三人だけとなったダイニングでディアナが明るい口調で懸案《けんあん》を掲《かか》げ、簡潔《かんけつ》にカレンが結論を口にして、いきなり終了ムードの空気が醸成《じょうせい》された。
それに断固|抗《あらが》おうと、リリアナは必死に声を張り上げる。
「わわ、わたしが草薙|護堂《ご どう》にキ――キスで魔術をかけるなど、とんでもないこと。断じて、了承できません!」
「昼間、全力を尽くすと言ってたじゃないですか?」
「い、言ったけどキス以外でという意味でだ! そ、その……何というか、やはり乙女《お と め》のすべき振る舞いではないと思うんだ。わ……わたしと草薙護堂はべつに恋人同士でも愛人関係でもないのだし……」
顔が熱い。何を言っているんだ自分は、と混乱しながらも、リリアナは抗弁《こうべん》する。
「それに、この場には他にふたりも魔女がいる。わたしである必要は決してないと思う!」
「わたくしは『教授』を使えないから除外されます」
「私は使えるけど、やっぱりリリィの方がいいと思うわ。だってアテナから啓示《けいじ 》を授かったのはリリィでしょ? 霊感で教えを受けた分、他の誰がやるよりも精度の高い知識を草薙さまにお伝えできると思うの」
「よ、他《よ》所《そ》から適当な魔術師を連れてきて、『教授』を使わせる方法も……」
自分でも無理があると思う反論を口にしかけて、リリアナは途中でやめた。
そもそも、今も草薙護堂のそばに三人の魔女しかいない理由はなぜか? 神を相手にする局面で、多数の魔術師がいても役に立たないからだ。
よほどの上級魔術師でもない限り、カンピオーネの足手まといになる。
だから神と王の到来を知っても、あまり出しゃばらないようにする。それが魔術の世界の慣習なのだ。このため、ナポリ近辺の術者たちも手伝いに来ていない。
あと何より、ウルスラグナ一〇の化身の特殊性がある。
利用に際して制限を持つ権能。その使用条件は極力外部に洩《も》らさない方がいい。
ディアナ、カレンのふたりならばリリアナの器量で口止めもできるが、彼女たち以外となると……。彼がそういうことに無頓着《むとんちゃく》な分、こちらでフォローしなくてはいけない。
「リリアナさま、正直に申し上げて、往生際《おうじょうぎわ》が悪いと思います」
自問自答を繰り返し、煩悶《はんもん》しているリリアナに、カレンが醒《さ》めた声で言った。
「全ての条件があなたに『やれ』と命じているのです。ここでやらないのは空気が読めていない上に、女がすたると思われるのですが……」
「たしかにそうよねー。そもそもリリィは、どうしてそんなにいやがるの?」
最年少のメイドのツッコミに、ディアナも乗っかってきた。
「草薙さまは性格面でも容姿の面でも、そこそこイケてる男の子でいらっしゃると思うのだけど。一回ぐらいチュッてしちゃってもそんなに問題ないんじゃないかしら。ねえ?」
「問題はあります! 大ありです!」
他人事《ひ と ごと》だと思ってお気楽な先輩魔女に、リリアナは強く言い切った。
「べつによいではありませんか、キスぐらい。お父さまにおやすみのキスをする延長だと思って、さっさと済ませれば大丈夫です」
「そうそう。ポーイフレンドとスキンシップする感じでしちゃえばいいの」
「だからダメです! は、初めてのキスをする男性は、運命の恋をする相手と決めているんですから、わたしは!」
勢い余ってリリアナは大声で抗弁した。
そうしてから、しまった失敗したと頭を抱えたくなった。
昔、このひそかな願いをうっかりエリカに告白したら、いつも優雅に振る舞いたがる気取り屋が悶絶《もんぜつ》しそうな勢いで爆笑しはじめたのだ。
『……ひ、ひどいわリリィ。こんなふうにおなかを抱えて大笑いしてるところを誰かに見られたら、わたしの淑女《しゅくじょ》としての評判が台なしになっちゃうじゃない! で、でもあなたって本当に、今時ありえないほどの乙女《お と め》だったのね、やっぱり!』
などと言うおまけつきで。では、このふたりはどう反応するのだろう?
リリアナはおそるおそる彼女たちの出方を待った。ディアナとカレンもしばらく無言でこちらを見つめていた。――笑っていない?
ちょっと意表を突かれたような、そして『ああ、やっぱり』と言いたげな納得の顔。
なぜだろう? 自分で認めるのも悲しいが、リリアナ・クラニチャールは無骨《ぶ こつ》な女騎士と思われているはず。なのに、ふたりともなぜそんな表情を――。
「え、ええと、その……だといいなと思っているだけで、それほど深刻な願望とか誓いではないのですが……」
あわてて取りつくろおうとした言葉が虚《むな》しい。ますます焦《あせ》りがつのる。
「……そう。わかったわリリィ! なら、草薙さまとあなたの相性を占ってあげる!」
「い、いえ。そこまでは」
いきなりディアナに言われて、リリアナは断った。
この年齢不詳の魔女は、その昔どんなカップルにも相性抜群、絶対幸せになれると告げるデタラメ恋占いを副業にしていたらしい。そんな託宣《たくせん》を信用する気はさすがにない。
「運命、ですか……」
カレンまで、やけに真剣な表情でつぶやきだした。
主をからかおうとするときの小悪魔顔ではない。そこが逆に、不吉に感じられる。一体、どんな罠《わな》にはめるつもりなのか想像もつかない。
「リリアナさま、あなたがお考えの運命的な恋とはどのようなものでしょう?」
「そ、そんなことをいきなり訊かれても、上《う》手《ま》く答えられるわけないだろう。……まあ強《し》いて言えば、どんな障碍《しょうがい》がふたりの仲を引き裂こうとしても、どんなにふたりの心が離れてしまったように思えても、強い絆《きずな》で何度でも愛を取り戻すような関係だろうか」
突然の質問にも、ついスラスラと答えてしまうリリアナだった。
普段からあれこれと妄想《もうそう》している題材なので、自然と言葉が出てきてしまうのだ。
「では、身分ちがいの恋などは? 王族と騎士の恋とか」
「……そ、そういうのは最近|流《は》行《や》らない。運命的とは言えない」
今の話題を、草薙護堂と自分の関係に還元《かんげん》するつもりか。
その手には乗るかと、リリアナは冷たく突っぱねた。――身分や因習を超える熱き想い、古典的でなかなかグッとくる関係だと頭の隅で考えながら。
「数々の浮き名を流している恋多き青年が、あるとき出会った素朴《そ ぼく》な少女に心を奪われて、今までの生き方を改める……というのはいかがでしょう?」
「都合がよすぎる。そんな遊び人の言うことなど、信用できるものか!」
リリアナはそのシチュエーションを、大声で否定した。
――今までの女とのことは、全部まやかしだったんだ。おまえ以外は何も要らない。
と、怖いほど真剣な表情でささやきかける青年の顔を想像しながら。なぜか東洋人で、ここ二日ほど行動をともにした少年とよく似ていた。
「ふたりでいっしょにピンチを乗り越えたり、助け合ったりしているうちにお互いを憎からず想うようになり、いつしか他の何者も入り込めない愛の絆《きずな》で結ばれたりとかは……?」
「ただの吊《つ》り橋効果だ! 異常な状況のせいで冷静に判断できなくなっただけだ!」
叫ぶリリアナの脳裏《のうり 》に、昨日と今日だけで経験した危機の記憶が甦《よみがえ》る。
ふたりで神に立ち向かい、ふたりで切り抜け……。
騎士として自分は彼を気遣《き づか》い、守っていたつもりだ。では彼は? 彼もこちらを案じてくれていたはずだ。互いの配慮が噛《か》み合わないところはあったが、それはおそらく時間が解決してくれることで……。決して相性が悪い同士ではないと思う。
何より、彼は失敗した騎士のためにあんな取引を女神相手にしてくれた――。
あの恩は必ず返さなくてはいけない。この身に代えてでも。
……そういえば、ずっと訊《き》くのを忘れていたが、草薙護堂はあの英雄――ペルセウスを名乗る神に勝ちたがっているのだろうか。
もしそうなら、リリアナの持つ知識は絶対に必要なはずだ。
なのに、一言も勝ちたいとか、『剣』を使いたいとか言わないままで……。あれはもしかして、自分に負担をかけないためなのだろうか。
そこまで思い至ったとき、リリアナは不思議な感覚を覚えた。
きゅん、と小さな針で胸を突かれたような――痛いというよりも切ない、そしてちょっとだけ甘やかな感覚。初めて知る、とても不思議な感覚だった。
胸の動悸《どうき 》が止まらない。トクトクと高鳴っている。
「ち、ちょっと彼のお顔を拝見してきます! 秘薬の影響が心配――いや、気になりますから。それだけなので、変なふうに思わないようにッ!」
このまま、じっとしてはいられない。
そんな想いに突き動かされて、リリアナは草薙護堂のいる客間の方へ歩き出した。
「かしこまりました。いってらっしゃいませ」
「じゃあ、あとはお願いね、リリィ」
脇目《わきめ 》もふらずに直進したので、見送るふたりの表情をリリアナは目撃できなかった。
(ちなみに、曲者《くせもの》メイドと若作りな魔女は『この女、陥《お》落《ち》たっ!』とモノローグを横に書いても違和感ないほど邪悪《じゃあく》に微笑《ほ ほ え》んでいたのだが、それはさておき)
草薙護堂が引っ込んでいるはずの客間。
そのドアを開けたリリアナは――誰もいない室内を目の当たりにした。無人だ。
急いで他の部屋を見て回る。どこにもいない。家中を探しても見つからない。若きカンピオーネは、ディアナの家から姿を消していたのだった。
3
結局、どうしたらいいのか答えを見出せないまま、護堂《ご どう》はバスに乗っていた。
このままでは、あの方法で知識の伝達を行う流れになるはず。
体のしびれはもう治まったので、護堂は魔女たちが話し込んでいる隙《すき》にディアナの家を抜け出した。そしてサンタ・ルチア地区へ向かうため、バスに乗り込んだのだ。
夜のナポリを走る公共車両に揺られながら、護堂は悩んだ。
今まで何度もああしてきたくせに今更かもしれないが、やはりあの手段はよくない。
ときどきエリカや祐《ゆ》理《り》とややこしい感じになるのも、あれが原因のはずだ。
この辺りで負の連鎖を断ち切らなくてはいけない……のだが、あの方法に頼らないまま戦うことは、至難《し なん》を通り越して不可能に近い。参った。
ぼんやりと、窓の外を眺めてみる。
夜景が美しい街だとのことだが、さすがに高みに登らなくてはわからなかった。
……とりあえず、ペルセウスと戦うのは既定事項だ。
自分が逃げたらアテナが嬉《き》々《き》として出陣して、ヴェスヴィオ火山を噴火させてしまう危険性が高い。そうなったら最後、ナポリを含めた周辺地域にどれだけの被害が出ることか。
では『剣』もないのに、どう戦う?
結局、そこで思考が止まってしまう。まさに堂々巡りだった。
――考えている間に、とある停留所でバスが停《と》まる。護堂はあわてて降りた。
地下鉄やケーブルカーの駅もあり、サンタ・ルチア港にも近い停留所だった。地下鉄一駅分くらいの距離はあるようだが、考え事をしながら歩く分にはちょうどいいだろう。
ディアナの家から拝《はい》借《しゃく》した市内地図を手に、護堂は歩き出した。
「……やっぱりエリカがいっしょだったら、こんなことで悩まなくてもいいのか……って、俺は何を考えているんだ!」
道端にあった公衆電話を見て――。
一瞬、エリカの携帯に連絡を入れてみようかと考えてしまい、護堂は叫んだ。
今までさんざん、あの方法はやめようと力説してきた自分である。もしここで電話がつながって、エリカを呼び寄せることになったら――決定的な敗北になるだろう。
だが、しかし。
「いいアイデアが何も浮かばない。俺はどうしたらいいんだっ!?」
締め切り間際《ま ぎわ》に筆の進まなくなった小説家のような文句を口走りながらも、護堂は歩く。いつのまにか海沿いの通りにまで来ていた。
潮《しお》の香りが鼻をくすぐる。
漆黒《しっこく》の海が目の前に広がつている。
サンタ・ルチア港があるはずの方向――東に目を向けてみた。弧を描く海岸線に沿って、海辺に立ち並ぶ建物や波《は》止《と》場《ば》、そこに停泊する船などが見渡せた。
遠くの方に、昨日壊しかけた卵城《たまごじょう》の姿もある。
あの山吹色《やまぶきいろ》の髪を持つ英雄が待ちかまえる場所は近い。
護堂が深く息を吸い込み、なるようになるだろうと大雑把《おおざっぱ 》な決意を固めて、そちらへ歩き出そうとした瞬間。
「……戦いの準備もされずに、どこへ行くおつもりですか?」
と、冷たい声を投げかけられた。
おそるおそる、振り向く。いつのまにか背後には、リリアナ・クラニチャールの妖精《ようせい》めいた姿があった。
「俺の居場所、どうやって見つけたんだ……?」
「魔術であなたの居場所に見当をつけて、飛翔《ひしょう》の術で近くまで飛んできただけです。わたしのような魔女から逃げ出すおつもりなら、もっと工夫をしなければいけません」
リリアナは憮然《ぶ ぜん》とした様子で、簡潔に言った。
護堂はため息をついた。やはり自分は魔術について無知すぎるようだ。
「向こうへ行きましょう。……すこしお話がしたいので」
怖い声で言ってから、リリアナは海の方に近づいていった。
今いる海辺の通りは、人が結構行き来している。近くには緑の多い大きな公園もあり、オープンエアーの店なども軒《のき》を連ねる、にぎやかな通りなのだ。
たしかに、往来のど真ん中で話をするのも邪魔《じゃま 》になる。
……やはり、何かお説教でもするつもりなのだろうか。怜悧《れいり 》な面差《おもざ 》しの祐理に叱《しか》られる場面を思い出した護堂は、覚悟を決めた。
ここは適当に聞き流しながら、逃げ出す隙《すき》をうかがおう。
そんな邪心も知らないであろうリリアナは、おもむろに口を開いた。
「草薙護堂、あなたはこの戦いに勝ちたくはないのですか?」
「それはできることなら勝ちたいよ。俺は、どんな勝負でも負けるのは嫌いなんだ」
答えながら思う。
負けたくない、負けられない理由があるぐらいで勝てるなら楽でいいよなァと。
スポーツの日本代表戦などでよくテレビがやる煽《あお》りを思い出して、護堂はすこし皮肉な気分になった。煽る方は楽でいいだろうが、やる方は結構大変なのだ。
「だったら、勝つためになぜ最善を尽くさないのですか?」
「尽くしたいのは山々なんだけどな……」
人事《じんじ 》を尽くして天命《てんめい》を待つという。自分の裁量だけで可能な人事なら、いくらでも尽くして勝機を見出してやるところなのだが――。護堂はしみじみと思った。
結局、エリカや祐理に助けられなければ、草薙護堂などこの程度の存在なのだ。
とても王様などと呼ばれ、持ち上げられる器《うつわ》ではない。
「あなたはもう、自分がどうすればいいのかをご存じのはずですよ。今すぐここで、わたしに命じればいいだけです。ペルセウス――蛇《へび》殺《ごろ》しの勇者にして東方より来たりし者ミトラス。彼の謎《なぞ》を解く知識を我に与えよ、と」
ミトラス。
名前とプロフィールを聞いただけでは、とても理解できなかった神。
彼が何者かを知らなくては、戦いにならない。そんな理屈はとっくに承知している。だがそれでも、草薙護堂にはできないことであった。
「そうするつもりはないよ。たしかに俺は神様からデタラメな力を奪ったけど、俺自身はべつにたいしたヤツじゃないんだから、他の人に命令とかしていいはずがない」
この宣言に、リリアナが首を横に振った。
「先ほど申し上げました。『王』の責務は神と戦うことだけだと。――今『まつろわぬ神』と戦おうとしているあなたは、まぎれもなく王であらせられます。我々を従え、服従させる特権の所有者でいらっしゃるのです」
「そんなことで持ち上げなくてもいいんだよ。俺があいつらとの揉《も》め事《ごと》で体を張るのは、俺しかできそうな人間がいないからってだけなんだから」
他にやってくれる人間がいるなら、よろこんで代わってもらうだろう。その程度の志《こころざし》しかない人間を、過度に賛美する必要はない。
「俺しかいないから俺がやってる。それだけの話なんだ。そして、ここからは完全に俺のワガママで、王様とか呼んでほしくない理由が実は一応あるんだけど――」
かつて草薙護堂は、まつろわぬウルスラグナを英雄ではないと否定した。
それ以来、何の因果か『あなたは王だ』と言われる境遇になってしまった。すると妙なもので、かつて狂える少年神に言ったのと同じ文句を自分に言いたくなってきたのだ。
誰かに王様だと呼ばれたら、それで王様なのかと。
王とは、その称号にふさわしい偉業を成して初めて王なのではないか。自分はそう呼ばれるだけの生き方をしているのかと。
「俺は、俺程度のヤツを断じて王様だなんて認めたくない。あと、王様扱いされたからって調子にも乗りたくない。俺は自分がどんな人間かは一応知ってるつもりだから、人に言われたぐらいでその認識を変えるつもりはないんだ!」
頑固と言えば頑固、子供っぽいと言えば子供っぽい。
その自覚が護堂にもあるため、あまり口外しないようにしているのだが――。つい言ってしまった。リリアナも呆《あき》れたのか、ふうと小さくため息をついた。
「まったく……あなたは割とどうしようもない方ですね。大バカです」
おっしゃる通り。
否定できない指摘なので、護堂はちょっと恥ずかしくなった。
「そんなこだわりのために、わたしへの御命令をためらっていたのですか?」
「うん、まあ……。あとはやっぱり、いくら必要だからって俺なんかとああいう真《ま》似《ね》をするのはイヤだろうし。命令でやらせるのなんて、絶対にまちがっていることだしさ」
照れながら、もごもごと言う。
その解決策をごり押しできるほど、草薙護堂はタフガイでも鉄の精神を持つ男でも、そして無神経でもないのがつらいところだ。物怖《ものお 》じしない方だと自負していた自分に、まさかこんなヘタレな一面があったとは――我ながら意外だった。
「仕方ないですね。……では、あなたのこ懸案《けんあん》を解消する方法を教えて差し上げます」
軽くため息をついたリリアナが、おもむろに言った。
ちょっとはにかんだ感じの、やわらかな表情での申し出だった。
こうしていると、この娘はあまり妖精のようには見えない。彼女の美貌《び ぼう》に付随《ふ ずい》する凛《り》々《り》しさが和《やわ》らぎ、普通のやさしい女の子に思えてくる。
その表情に心を一瞬奪われた護堂だが、すぐに気を取り直した。
一体、どんな秘策が? 黙って次の発言を待つ。
リリアナが「それは……」とささやいた。声が小さくて、よく聞こえない。耳をそばだてて聞き取ろうとして――護堂は仰天《ぎょうてん》した。
その瞬間、唇《くちびる》にやわらかな感触が押しつけられたのだ。
……リリアナにキスされた。その現状を認識するまでに、数秒かかった。
「つまり、こうすればいいのです。……わたしとあなたでキス、してしまえば」
唇を放し、顔を真っ赤にしながら彼女は言う。
「あ、あなたはご自分しか神と戦える人材がいないから戦うだけとおっしゃいました。でしたら、わたしも同じです。わたししかあなたをサポートできる人材がいないのなら、わたしが全力でお助けいたします。……それに、イヤではありませんから」
「え?」
「あなたと……今みたいにすることです」
そうなのか? 本当に心から、そう思ってくれているのか?
恥じらいながらつぶやくリリアナを見つめながら、護堂は混乱する頭で考えた。
「あなたは非道な暴君となっても許されるお立場でありながら、あれこれと周囲を気遣《き づか》ってくださいます。たしかに不注意ではありますが、そこは大きな美点です」
いや、暴君になれるような性格と、何より能力がないからなのだが。
護堂は後ろめたくなった。もしウルスラグナの権能に使用制限がなかったら、今頃ヴォバンやドニをあれこれ言えないほど増長していたかもしれない。
「わたしのせいでひどい目に遭《あ》われながら一言も責めようとせず、それどころか我が身を犠牲《ぎ せい》にしてアテナからわたしを庇《かば》ってくださいましたし……」
ひどい目。そうか、客観的にはまあまあひどい方か。
だが草薙護堂にとっては、この程度のひどい目なら日常茶飯事の範《はん》疇《ちゅう》だとも言える。気にしなくてもいいのに。
「エリカなどを侍《はべ》らせている辺りは女を選ぶ目がないと正直思ってしまいますが、雌狐《めぎつね》の手練《て れん》手管《て くだ》にお若いあなたが対抗できないのも無理からぬこと。これから改めていけば大丈夫でしょう。……わたしもお手伝いしますし」
え? 女癖が悪いという風評は否定してくれない?
そこをいちばん誤解してほしくないのだけれど――と思う護堂に向けて、リリアナがきりっと表情を引き締めた。
「〈青銅《せいどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の騎士リリアナ・クラニチャール、これよりは御身こそを我が剣の主《あるじ》とし、非才なる身と忠誠を捧《ささ》げたく思います。この誓い、お受けいただけますでしょうか?」
「忠誠なんてものをもらえるほど、俺はえらいヤツじゃないけど」
彼女が明らかにした決意に、護堂は思った。
どういう形であれ、この真剣さに応《こた》えなくては男がすたる。だから、迷わずうなずいた。
「君が俺を助けてくれる仲間になってくれるなら、俺の方は大歓迎だ。……多分、いろいろ失敗ばかりして迷惑かけてばっかりになると思うけど――それでもいいか」
「かまいません。苦労することは承知の上です」
まっすぐに見つめ合う。
護堂とリリアナはひさしぶりに真正面から向き合った。
「あなたはきっと、苦労し甲《が》斐《い》のある主になってくれると期待しております」
「期待に添えるよう、努力するよ。……約束は難しいけど」
「結果を伴《ともな》うのがいちばんですが、努力だけでも許して差し上げます。足りない分はわたしがお助けし、補佐いたしますから……。この剣であなたをお守り申し上げますし、神の知識が必要であればお伝えいたしましょう」
「あ、ああ」
知識を伝えるのくだりで、護堂は恥ずかしくなった。
それはつまり、彼女とまたあれをするということで……。さっきは不意打ちで流されてしまったが、やはりよくないのでは――。
動揺していると、それを見抜いたのかリリアナが声を荒らげた。
「ご、誤解のないようにお断りしておきますが、ああするのはあくまで騎士として、ですからね! わたしはエリカとはちがいます。あなたの愛人になって甘い汁を吸おうだなんて目論んだりはしません!」
「そ、そうだよなっ。もちろんわかってるよ!」
「そうです。……では草薙護堂、騎士として要求いたします。これからはあなたを補佐するため、極力おそばに控えるつもりです。なるべく早く身辺を整理して、そのための態勢を整えたいと思うのですが、かまいませんね?」
「あー、うん。特に問題ないと思う」
「これより我らは騎士と王として、比翼《ひ よく》の鳥、連理《れんり 》の枝となる間柄。きっと行きちがいもあるでしょう。もう心が離れてしまったのではと、お互いを信じられなくなる時もあるに決まっています。……数々の苦境もそのたびに乗り越えて、前よりもさらに強い絆《きずな》を手に入れるような――そんなふたりになりましょう。これはわたしたちの、鴛鴦《えんおう》の契《ちぎ》りです」
「……わかった。まあ、ずっと仲良くってことだよな」
今リリアナが口にした言葉には、この場合には不適切なものが多いような――。
そう思った護堂だが、まあいいかと気にするのをやめた。
いくら言葉の問題がないとはいえ、彼女は異文化の人なのだ。微妙なニュアンスの差異に突っ込むのも無粋《ぶ すい》というものだ。
「では我が主よ――お願いがあります。……キス、してください」
「えっ?」
護堂の周囲で世界が凍った。
リアクションの薄い主を、不満げに女騎士がにらみつけてくる。
「まさかあなたは、わたしにもう一度自分からキスをしろと言うのですか!? こういう行為は、まず殿方の方から行うものです!」
「……ダ、ダメに決まってるだろッ。こんな道端でそんなこと!」
「さっきもしたのですから今更です。そ、それに周りをご覧ください……。キス程度でしたら、この辺では全然目立ちません」
恥じらいながら、リリアナが言う。護堂は改めて周囲を見回して――認識した。
海辺のにぎやかな通り。夜。カップルも多い。
そして、海のそばまで行けば適度に薄暗いのだ。これだけの条件がそろっていれば、当然カップルたちはいちゃいちゃとスキンシップを楽しみ、勢い余ってキスなどしていたりも――。
「こ、この期《ご》に及んでまだ迷っているのですか!?」
「迷っているというか、自分のなかの倫理委員会が許可を出さないっていうか!」
「許可なら、わたしが出します。……あ、あなたは正しい志を持つ方だと思いますし、我が主です。それに――あなたが敗北するところは見たくありません。あなたがまたペルセウスの矢に貫《つらぬ》かれて倒れるところなど見たくないのです」
いつのまにか、リリアナがにじり寄ってきていた。
華奢《きゃしゃ》な体を護堂に預け、ぴったりと寄り添う。潤《うる》む瞳で見上げてくる。
「わたしのためにも……勝つために最善を尽くしてください。お願いします」
リリアナのやや色素の薄い唇が、震《ふる》えながら訴える。
――勝つために。
ある意味で、護堂がいちばん弱い言葉だ。そうだ。あのペルセウス――ミトラスという正体不明の名前も持つらしい神に、自分は一度負けたのだ。
あの男に勝つためにとリリアナはささやく。そして、彼女は美しい。
妖精か人形を思わせる、繊細《せんさい》な美貌。意外なほど気遣いが細やかで、真《ま》面《じ》目《め》で、話しやすくて、ちょっとズレたところもある可愛《か わ い》い女の子だった。
その事実を実感したときにはもう、彼女の唇をふさいでしまっていた。
唇と唇が合わさる。
あわてて離した途端に、リリアナが咎《とが》めるように口をとがらせた。
「そ、それではダメです。もっと……してください」
ここまで来たら、行けるところまで行ってしまうしかないのか。
初めて自分から異性にキスしてしまった護堂は、もう観念して覚悟を決めた。もう一度、唇を合わせる。リリアナがひしと抱きついてくる。
その瞬間に知識が伝わってきた。
――かの英雄は、東より来たる太陽の化身。
――蛇を殺す鋼《はがね》の剣神にして、無敵の皇帝として君臨する光の王。
つながった。
リリアナと護堂の間に、たしかなつながりが構築されたのだ。
また唇を離す。今度はリリアナも文句を言わない。互いに見つめ合い、うなずき合う。
「あなたが倒した神ウルスラグナは、とても複雑な来歴を持つ神格です」
護堂の首筋にキスするように顔を近づけて、リリアナはささやいた。
「ゾロアスター教の守《ヤ》護《ザ》者《タ》となる前、彼は古代ペルシアの光《こう》明《みょう》と契約《けいやく》の神ミスラに従属する軍神でした」
耳元でささやくリリアナの声が心地よい。
こうしているだけで、彼女と作ったつながりの強さが増していくような気がする。
「ミスラは契約破りの罪人を罰するとき、黒き猪《いのしし》に化身《け しん》して打ち砕いた――そのような伝承があります。黒き猪、ウルスラグナ一〇の化身にもふくまれる獣《けもの》です」
凛《り》々《り》しく真面目な女騎士の姿が、ウソのようにやわらかな声だった。
護堂の体に自分の体重を預けて、リリアナは安心しきったように目を閉じている。
「主従で同じ姿を共有する理由――それは、ウルスラグナがミスラを祖とする神格だからです。もともと戦闘神であったミスラは、時代が下るにつれて光明と契約の神としての性格を強めていきます。彼の薄まった戦闘…機能を引き継いだのがウルスラグナなのです」
ただひとりにだけ聞かせるための、かすかな声。
子守唄、あるいは睦言《むつごと》にも似た語りが、護堂の耳に染みいってくる。
「ミスラの荒ぶる魂《たましい》から誕生したウルスラグナは、インドラの神性をも受け継ぎます。このインドの雷神はペルシアの地では悪魔とされたために、その神性だけをウルスラグナが継《けい》承《しょう》する形になったのです」
ミスラ、インドラ。どこか懐かしい聖なる御名。
護堂のなかに眠るウルスラグナの神力が、遠い記憶を甦《よみがえ》らせているかのようだ。そう、彼はその後オリエントの地でヘラクレスと習合し、不敗の軍神となるのだ。
「ミスラもインドラも元をたどれば、東方に向かった印欧《いんおう》語族――アーリア人の生み出した軍神です。特にミスラは旧名をミトラといい、ヴァルナと並ぶアーリア系の最重要神格でもありました。この神こそが、後に西方へ至る英雄ミトラスのルーツなのです」
ここまで語ると、リリアナは急に口をつぐんだ。
どうしたのだろう?
不思議に思った護堂は、ぴったり寄り添う銀髪の少女を見つめてみた。すると彼女は恥ずかしいのかうつむいてしまい、目を逸らしながらつぶやいた。
「つ、つづきをしましょう。さっきのあれだけでは……まだ不十分です。……その、もっとキス、してくれないと――」
白い肌を首筋まで真っ赤にしながら意を決したように顔を上げ、震える声でせがむ。
そんなリリアナの可憐《か れん》なたたずまいを見た瞬間に、護堂のなかで最後の迷いが吹き飛んでしまった。もう、こんなことを言わせてはいけない。
また自分から顔を寄せて、彼女の唇を奪う。
ぎこちない、強引な接吻《せっぶん》。
最初のうちはリリアナも体をこわばらせていたのだが、すぐに力を抜いてくれた。不器用に動く護堂の唇を受け止め、包み込むように桜色の唇が開く。
精一杯のひたむきさで護堂の唇をついばみ、より深く交わろうとキスを返してくれる。
……息を継ぐために、ふたりで同時に唇を離す。
とろんとした目つきでリリアナが見つめてくる。もしかすると、護堂も同じ目つきなのかもしれない。差恥《しゅうち》と恍惚《こうこつ》の双方で震え、目を潤ませる彼女の唇が艶《つや》っぽい。今度は何か言われる前に覆《おお》いかぶさり、ふさいでしまった。
――ポンペイウス、カエサルとも同盟を結んだ軍事の天才。
――彼は小アジアの海賊《かいぞく》を討伐《とうばつ》したときに、奇妙な習俗を目撃したという。
――曰《いわ》く、彼奴《き ゃ つ》らはリュキアのオリュンポス山に奇妙な供物《く もつ》を捧《ささ》げ、人知れぬ密議を執《と》り行った。それは今尚ミトラス神の崇拝《すうはい》のなかに存在するものである、と。
「プルタルコスが『英雄伝』に残した記録です。東から西へと駆け抜け、ペルシアより来た英雄、すなわちペルセウスとなった神格。不敗なる太陽とも呼ばれた彼はイングランドにまで到達する、世界を横断した稀代《き たい》の英雄のひとりなのです」
合わせた唇からリリアナの知識が流れ込んでくる。
まだすこし恥ずかしいのか、彼女はときどき唇を離してささやきだす。その言葉を封じたくなって、護堂はまた唇を押しつけた。
「だ、ダメです……。そんなふうにしちゃ……」
ちょっと強引すぎたのだろうか。困ったようにリリアナに言われた。
だが、その割にしっとりと濡れた彼女の唇はやわらかく轟《うごめ》き、護堂の唇を恥じらいながらも受け入れてくれている。
護堂が押しつける唇に、リリアナは吸いつくようにして自《みずか》らの唇を開く。
「これは魔術の儀式……神と戦うために行っていることなんですから、もっと真面目にやってください……ふざけないで……」
リリアナの唇からこぼれ出る唾液《だ えき》が、護堂の口の周りを濡らしている。
彼女はぴちゃぴちゃと音が鳴りそうなほどこまめに、じっくりと護堂の唇に吸いつき、次第に舐《な》め回すように舌を蠢かせはじめた。
リリアナの唇が吐き出す唾液が、護堂の口のなかに入り込んでくる。
それが舌の上を通り、喉《のど》を潤《うるお》すと、甘やかな感覚と知識に脳が蝕《むしば》まれそうになる。
――ミトラスとペルセウスをつなぐ鎖《くさり》。東方より来たりし英雄の相。
――東から来るのは英雄だけではない。そう、太陽もまた東から昇るもの。
――ゆえに、東方より来たる太陽の化身はペルセウスの名で呼ばれるようになるのだ。
「もっと……もっと深くつながらないと……伝わりません。わたしたちはもう王とその騎士、誰にも、エリカにも文句は言わせない……。だから……だから、いいんです……」
真っ赤になりながら、リリアナが口早に訴える。
すぐに目をつぶり、唇を押しつけ、きつく吸いついてくる。
これをもっと味わいたい。そう思って矢《や》も楯《たて》もたまらず、護堂は大きく唇を開き、迎え入れた。その瞬間、彼女の蠢かせていた舌と、護堂の舌がぶつかった。
そのぐにぐにとした軟体動物のような感触に焦《あせ》りを感じ、唇をちょっとだけ離す。
……このままでは歯止めが利《き》かなくなる。
その予感に萎縮《いしゅく》しての、行為の中断だった。唾液が細い糸となり、ふたりの間に短い橋を架《か》けた。しばらくそのまま、互いの顔を見つめ合った。
リリアナのとろんとしたまなざしが、茫洋《ぼうよう》と護堂を見上げている。
焦点の合わない、普段のきびきびした振る舞いからは想像もつかない目つきだった。背筋が震えるほど可憐で蠱惑《こ わく》的な、女の表情。
この少女のこんな顔を見たことがあるのは、まちがいなく自分だけだろう。
そう確信した瞬間、護堂は迷いを断ち切った。
すると、何も言わないのにリリアナがこくりとうなずいてくれた。護堂の顔つきを見て、こちらが何を望んでいるのか察してくれたのだ。
「お、お好きなように、してくださっていいんですよ? わ、わたしもあなたと早く、キ、キスしたいです……。だから、だからもっと――」
それ以上は言わせない。
改めて、力強くキスする。もう遠慮はしない。
護堂が荒々しく差し入れた舌に、リリアナも激しく吸いついてきた。
何度も何度も、舌を絡《から》め合う。お互いの唾液を交換し合う。口元をぴちゃぴちゃに濡らし合う。吸いつき、唇のやわらかな感触を確かめ合う。
そうやって、本当に長くキスをつづけて――。
ついに護堂は、ペルシアより来た者の知識を完全にした。
東から来た戦士、不敗なる太陽の化身、蛇《へび》を殺《あや》める鋼《はがね》の英雄。この雄敵《ゆうてき》を斬《き》り裂《さ》く言霊《ことだま》を手に入れることができたのだ。
結局、何分ぐらい行為に耽《ふけ》っていたのだろうか。
正確にはわからないが、護堂はふと我に返って唇を離した。自分もリリアナも唾液で口の周りがたっぷりと濡れている。
こちらも冷静さを取り戻したらしいリリアナの美貌が、差恥《しゅうち》で打ち震えていた。
いくらカップルの多い場所とはいえ、やり過ぎてしまったようだ。
同じように抱き合っていたカップルたち、さらにはオープンエアーのカフェにいた店員や客などの何人かが、こちらをニヤニヤ笑いながら眺めていた。
護堂やリリアナとも視線が合う。
これが日本なら目を逸《そ》らしてくれるところだが、ここはラテンな情熱の国だ。
ぴゅ〜と口笛を吹いたり、親指をグッと立てたり、にっこり微笑《ほ ほ え》みかけてきたり――となってしまった。
「――!? く、草薙護堂、早く行きましょう!」
「そ、そうだなリリアナさん! あいつもきっと待ってるだろうし!」
半《なか》ば走るような早歩きで、その場を離れにかかる。
ふたりで並んで目指す方向には――あの卵城《たまごじょう》があった。もうすぐ戦いが始まる。早く落ち着かなくては! 護堂は自分へ必死に言い聞かせた。
「ど、どうでしょう? 勝機はありそうですか?」
リリアナも同じように考えたのか、現実的な話題を振ってきた。
「正直わからない。あいつを斬る『剣』がこっちにはあるけど、あっちも俺の力を封じ込めるんだ。条件で言えば、まだ向こうが有利だろう」
「その割に落ち着いていますね、何かまだ切り札でも?」
「特にない。でもアテナも言ってただろ、噛《か》み合わせの悪い相性はあっても、神々の戦いに絶対はないって。だったら、俺たちと神様の間もいっしょのはずだ。なるようになる――いや、なるようにしてみせる」
ふたりは歩きながら、来《きた》る戦いへと意識を向けていった。
護堂の強がりに、リリアナが肩をすくめる。
「やっぱり、あなたはいいかげんな方ですね。でもいいでしょう、わたしも全力でお助けいたします。あと、ひとつお願いしてもよろしいですか?」
「何?」
「わたしのことはリリアナとお呼び捨てください。この程度のことでエリカと差をつけられるのは正直、我慢《が まん》できかねます」
「……普通、さん付けの方が待遇いいはずじゃないか?」
「他人行儀です。わ、わたしたちはああいう行為に及ぶほどの関係なのですから、べつにいいじゃないですか!?」
「わ、わかった。わかったから、その話はまた今度にしよう……!」
リリアナの失言でさっきの記憶を思い出したりしながらも、ふたりは|ペルシアより来た者《ペ ル セ ウ ス》=ミトラスの待つ決闘場へと向かっていった。
4
東欧《とうおう》の魔王、デヤンスタール・ヴォバン侯《こう》爵《しゃく》。
彼は多彩な職能を持つアポロンを倒して、狼《おおかみ》の権能《けんのう》『| 貪 る 群 狼 《リージョン・オブ・ハングリーウルヴス》』を得た。そしてサルバトーレ・ドニは、ケルトの神王ヌアダから『|斬り裂く銀の腕《シルバーアーム・ザ・リッパー》』を得た。
いずれも彼らの気性、能力に似つかわしい権能である。少々出来すぎなほどに。
「――これらの事例から、わたしはカンピオーネの権能には所有者たちの個性や技能、あと適性が反映されていると推測します。おそらく、膨大《ぼうだい》な神の力を一応は人間であるカンピオーネの器《うつわ》に収めるには、どこかを削り取らないといけないのでしょう。その過程でこのアレンジが行われるのだと思うのだけど」
と、船上のエリカ・ブランデッリは数時間前に思いついた仮説を開陳《かいちん》した。
夜のティレニア海を進む高速クルーザー。
全長一二メートル、重量約二〇トンの高速艇《こうそくてい》のキャビンでの講釈だった。聴講生はアンドレア・リベラ、そして万《ま》里《り》谷《や》祐《ゆ》理《り》のふたりである。
――サルバトーレ・ドニによる狼籍《ろうぜき》のあと。
ダメージを受けた体に鞭打《むちう 》ったエリカは、苦労してリベラと祐理の荒縄《あらなわ》を断ち切った。
自由になった彼女たちは大急ぎでドニの追跡に取りかかる。
だが、時すでに遅し。高速クルーザーとその運転手をいち早く手配した『剣の王』は、もう出港してしまったあとだった。
とにかく、自分たちも可及的《かきゅうてき》速《すみ》やかにナポリに到着しなければ。エリカと祐理、そしてリベラは手際《て ぎわ》よく船をチャーターして乗り込んだ。
向こうでは草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》が『まつろわぬ神』ペルセウスとの戦いに赴《おもむ》いているという。
ドニの呪縛《じゅばく》が解けたので、すでに電話で状況は確認済みだった。ナポリで事件の解決に当たっている〈青銅《せいどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の魔女ディアナとも連絡が取れた。
彼を補佐するのは大騎士リリアナ・クラニチャールだとも教えてもらった。
能力的には申し分のない人材である。
だがやはり、護堂のそばにいられないことがエリカには歯がゆかった。とはいえ、いくら焦《あせ》っても船のなかでは何もできない。
そこで気を紛《まぎ》らわすために、さっき思いついた推論《すいろん》を話題に出したのである。
「エリカ嬢の推測には根拠がない。正確なデータの裏付けもないので、学問的には意味がないだろう。だが個人的な感想を言えば、かなり合理的な考察だと思われるな」
生《き》真《ま》面《じ》目《め》な性格そのままに、断定を保留しながらリベラが賛同してくれる。
その横で発言を求めたのは祐《ゆ》理《り》だった。
「ひとつ、いいでしょうか? サルバトーレ卿やヴォバン侯爵に関しては、エリカさんのご指摘はたしかにつじつまが合いますが……護堂さんの場合はどうでしょう?」
「そういえば、彼はウルスラグナ一〇の化身をほとんど使いこなすのだったな」
「はい。性格や適性でカンピオーネの権能に個性が出るというのなら、あのような状態にはならないと思うのですが……」
と、祐理が控えめに提言し、小首をかしげている。
エリカはうなずいた。実はここ数カ月、この問題こそがひそかに彼女を憮然《ぶ ぜん》とさせていた懸案《けんあん》だったのだ。
「そうね。祐理の言うことは妥当《だ とう》だわ。でも、こう考えればつじつまが合うの。……護堂が要するに、来る者は拒まず、誰とでも仲良くしちゃう性格だからじゃないかって。そのせいで、あんなふうに全ての化身を使う状態になってるんじゃないかって」
たしかに、誰にでも愛想《あいそ 》を振りまく少年ではない。
だが、心を開いてきた人間にはひどく鷹揚《おうよう》な性格だ。バカじゃないかと思うほどに誠意を尽くそうとするし、相手を信用してしまう。夏休みがはじまる前、ルクレチアにあっさりだまされた迂闊《う かつ》さは記憶に新しい。
いい例のひとつが、あのジェンナーロと上《う》手《ま》くやっていることだろう。
がさつで乱暴、粗《そ》野《や》で下品。しかも幼児向け日本製アニメの信奉者《しんぽうしゃ》で、何かにつけて熱くアニメ論を語る鬱陶《うっとう》しい男。だが、あんなのとも護堂は仲がいいのだ。
「なるほど、そういう解釈もあるか。……まあ、いずれにしても証明しようのない議題だ。これ以上は追究しても意味はないと思うが、なかなか面白い話ではあるな」
真《ま》面《じ》目《め》くさってリベラが言うと、隣で祐理もうなずいていた。
「そうですね。たしかにエリカさんのおっしゃる通りなら、いろいろと不思議だったところにも説明がつくようになります」
などと言いながら、媛《ひめ》巫《み》女《こ》がかすかに微笑《ほ ほ え》む。
今まで護堂の身を案じて暗い顔だったのだが、すこし気持ちが上向きになったようだ。彼の素朴《そ ぼく》で善良な人柄を思い出したのかもしれない。
「祐理は甘いわね。……まあ護堂のああいうところはわたしも嫌いじゃないし、結構|可愛《か わ い》いし、からかいがいがあって面白いとも思っているけど、大きな問題でもあるでしょう?」
「問題、ですか?」
「あの人、男だけじゃなくて女にもあの調子で接するのよ。相手が女の子だと腰が引けて自分から仲良くなろうとしないだけで、何かの拍子《ひょうし》に距離が縮まるとすぐにああなるわ。わたしたちやルクレチアとのことを思い出してごらんなさい」
それで相手が、護堂を憎からず想っているような婦女子だったなら――。
ちょっと厄介《やっかい》な事態になる。彼が自分から女子を口《く》説《ど》く展開はないだろうが、向こうから近づいてくる子を遠ざけるとも思えない。
そこに誤解や勢い、神との遭遇などの要素が加わっていけば――。
「そ、そんな……護堂さんに限ってそんなことは……あ、いえ、護堂さんだからこそ、変なことになってしまう危険が……!?」
エリカと同じ懸念に祐理も思い至ったらしく、うろたえている。
あと気になるのはリリアナ・クラニチャール――エリカの好敵手にして幼なじみが、護堂の補佐に回っているという情報だ。
あの堅物《かたぶつ》な乙女に限って、護堂といかがわしい関係になるとは考えづらいのだが。
妙に胸騒ぎがする。
もし、護堂がリリアナとややこしいことになっていたら、どうしてあげよう。人をもてあそぶ悪魔と言うにはやや険のある表情で、ずっと眉《まゆ》をひそめているエリカだった。
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第7章 荒ぶる魔王、太陽の勇者
1
夜のナポリを歩く。
リリアナ・クラニチャールを引き連れて、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》はついにサンタ・ルチア地区にまでやってきた。賑《にぎ》やかな繁華街を漫然《まんぜん》と歩いていく。
昨夜、あれだけの騒動があったというのに、人出が結構多い。
ここが日本ならネズミも逃げ出す沈没寸前の船のように静まりかえっているはずだが、さすがイタリアでも特に楽天的だと評判のナポリっ子たちだ。
そんな街のなかを護堂はただ歩く。
ここで逢おうと言ったのは、あのハンサムな英雄様の方だ。こうしていれば、向こうから近寄ってくるだろう。出てくるなら早く出てこい。
などと護堂が思っていると、やにわに笛の音が響き渡った。
笛と言っても、きちんとした楽器の音ではなさそうだ。素朴《そ ぼく》でノスタルジックな、ひどく印象深い音色。どこかもの悲しい、不思議なトーンのメロディ。
護堂は雑踏《ざっとう》のなかをにらみつけた。
音はそちらから聞こえる。
はたして、往来のど真ん中で立ち止まり、草笛を吹き鳴らす美青年の姿があった。
このパフォーマンスに気づいた人々が、彼のために道を開けていく。
まるで、今初めて笛の音に気づいたような行動だ。いや、きっとそうなのだろう。『まつろわぬ神』たる美青年は、その神力でおそらく気配を絶っていたのだ。
そして神の威厳《い げん》を以《もっ》て、人間たちを自《みずか》らの意思で引き下がらせているのだ。
彼を見つめる人々は、一様に恍惚《こうこつ》とした表情だ。
仮装としか思えない白《しろ》装束《しょうぞく》の美形。だがその姿を見るだけで、民衆は彼を特別な者、聖なる存在だと認識しているのだ。これが神のカリスマというものか。
「ついに再会できたな、神殺しよ。このときを待ちくたびれたぞ」
と、英雄はさわやかに笑っている。
護堂は彼の前まで歩いていった。その後ろにリリアナがつづく。周囲の人々がスペースを空けてくれていたおかげで、労せず彼と向き合えた。
「あんたのことは何て呼んだらいい? ペルセウスのままでいいのか?」
「……ほう」
いきなりの問いかけに、太陽の輝きにも似た美貌《び ぼう》が微笑《ほ ほ え》む。どこかの広葉樹から拝《はい》借《しゃく》したとおぼしき楽器を捨てながら、彼は言った。
「私の隠し事に気づいたか。アテナにでも教わったのかな?」
「そんなところだ。まさか神様にウソの名前を教えられるとは思わなかったけどな」
「弁明させてもらえば、偽《いつわ》りの名乗りではないぞ。私はいくつかの名を所有している。|東方より来たりし者《ペ ル セ ウ ス》はそのなかでも特に名高いものだ。……よいではないか、当節ではこの名乗りが最も受けを取れると判断したのだよ」
と、悪戯《いたずら》っぽくニヤリと笑ってみせる。
そんな顔も茶目っ気があって魅力的なのだから、この美青年は本当に始末が悪い。
「我が第二の名は軽々《けいけい》に唱《とな》えるべきに非《あら》ず。私の呼び名は引きつづきペルセウスで結構。……意外に思うかもしれないが、私はこれでも目立ちたがりなのだよ」
まったく意外ではない。そんなことは短いつきあいでも容易に察しがつく。
彼の断りを聞き流しながら、護堂は気を引き締めた。
多少ふざけた性格ではあるが、この男――自己申告に従えばペルセウス、は強い。全力で勝ちに行かなければ、いい勝負すらできないだろう。
そのためにも戦場を変えたい。
ギャラリー付きの戦いは彼のリクエストだから仕方ないが、観客席との距離がこれほど近いのは、やはり避けたい。もっと広い場所で戦わなくては――。
「……だったら、もっといいところがあるらしいぞ。ここよりも広くて目立って、俺たちの暴れっぷりをみんなに見てもらえる場所があるそうだ」
「ほう?」
「どうせだから、そっちで始めよう。……リリアナ、案内を頼む」
この指示に彼女は「はい」とうなずき、先頭に立って歩き出した。
新しい決闘場をどこにするかは、もう決めてある。ここに来るまでの間に、ふたりで最後の打ち合わせをしておいたのだ。
凛《り》々《り》しい女騎士の背後に、神殺しと美貌《び ぼう》の神がつづく。
賑《にぎ》やかなナポリの繁華街。夜でも十分に明るいストリート。
そんな華やかな場所に集まる人々が勝手に空けてくれた道を、三人で悠々と歩いていく。皆の注目を集めながら――。
これから何が始まるのか?
周囲の人々は、ほとんどがそんな面持《おもも 》ちで護堂たちを見つめている。
そんなギャラリーのなかを、注目を受け流しながら進んでいく。まるでリングへの花道を行く格闘家か、グラウンドへ向かうプロアスリートにでもなった気分だ。
……まさか、こんなに派手な道中になるとは。
予想を超える厄介《やっかい》な展開に、苦い気分になる護堂だった。
「なるほど、なかなかいいではないか。ここならば民《たみ》も、我らの戦いを存分に堪能《たんのう》できるだろう。よい決闘場だ!」
リリアナの案内で辿《たど》り着いた場所を見るなり、満足げにペルセウスがうなずいた。
サンタ・ルチア地区のなかでも、特に観光名所として有名な場所だ。
――プレシビート広場。見晴らしのいい半円形の広場である。
ここを挟み込む形で、ふたつの歴史的建造物が向かい合っている。
サン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂。そしてパラッツォ・レアーレ・ディ・ナポリ。つまりナポリ王宮である。
さらに王宮に隣接してイタリア三大歌劇場のひとつ、サン・カルロ劇場や、卵城《たまごじょう》と近い時期に建造された中世の王城――カステル・ヌォヴォなどもあったりする。
要は、由緒《ゆいしょ》ある建物がやたらと集まった名所なのである。
だから夜とはいえ、この辺りは人出が多い。だというのにペルセウスが広場に入り込んでいった途端、彼らは波が引くように離れていくのだ。
そして広場を遠巻きに囲み、これから何が起きるのかと見守っている。
まるで大量のエキストラを使った映画の撮影だ。
この状況での草薙護堂の役回りは、美形の主役と対決する悪役にほかあるまい。気恥ずかしさを覚えながら、ペルセウスの背中を追う。
途中で群衆のなかにまぎれた、しかし彼らの最前列にいるリリアナと目が合った。即座にうなずきかけてくる彼女の存在が心強い。
――かくして、神と神殺しはプレシビート広場の中心で対峙《たいじ 》したのである。
例の豪刀を虚空《こ くう》から呼び寄せるペルセウス。
対して護堂は丸腰だ。
ここで選ぶべきは半端《はんぱ 》な武器ではない。昨日の勝利で勢いづいている英雄に、まず強烈な一撃をあたえなくてはいけない。だから、ここで使うべきは――。
「もうひとつの名を気軽に呼ぶな……あなたはそう言ったな?」
ただの言葉を聖なる刃《やいば》へと変える、言霊《ことだま》の技。
神を斬《き》り裂《さ》く黄金の秘剣。
しかし、いつもは最強の切り札となる武器が、今日はどこまで当てになるだろう?
他の化身が封じ込まれた以上、『剣』だけは例外になると期待するのは虫のいい話だ。だが、ダメかもしれなくとも挑まなければならないときがある。
「悪いが、そいつは聞けない相談だ。今ここで言わせてもらう。……|東から来た男《ペ ル セ ウ ス》、|不敗の太陽《ソル・インヴィクトイス》、ヘリオガバルス――数多くの称号を持つあなたの隠している名前はミトラス。冬至《とうじ 》の日に生まれる太陽神。それこそがもうひとりのあなただ!」
今がその時。意を決した護堂は、一気に『剣』を引き抜いた。
周囲で光がはじける。吐き出す言葉が言霊となり、そして黄金の光球となる。ウルスラグナ最後の化身《け しん》『戦士』だけが武器とする、『剣』の言霊だった。
「光の英雄ミトラス。それこそがあなたの隠している名前なんだ!」
まずは牽制《けんせい》の初《しょ》太《だ》刀《ち》。
護堂は『剣』の光をいくつか操《あやつ》り、ペルセウス=ミトラスに斬りつけた。矢で射《い》抜《ぬ》かれた意趣《い しゅ》返《がえ》しでもあるので、遠慮はしない。
「ほほう――このような技も隠し持っていたか。ハハハ、みごとだ!」
ペルセウスでありミトラスでもある男の動きは、あいかわらず白《しろ》豹《ひょう》さながらだった。
とっさに飛び退き、光の剣をかわす。
「あなたは初め、ただのペルセウス――東《ペルシア》から来た男だった。大蛇に狙《ねら》われた王女アンドロメダを救う異邦人《い ほうじん》、蛇を殺す刀剣の使い手……そういうシンプルな役どころだったはずだ」
ペルセウスを後退させた護堂は『剣』を展開させた。
星々の燦《きら》めきにも似た無数の光が、広場中に散らばっていく。この輝きのひとつひとつがペルセウス=ミトラスを斬り裂く武具なのだ。
「古来、蛇――そして竜と戦う英雄は多い。あなたはその典型だ。蛇を倒し、美女を救う英雄。彼らはなぜ蛇と戦うのか? それは、蛇も竜もかつて神界の支配者だった大《だい》地《ち》母《ぼ》神《しん》たち――彼女たちが悪《あ》しき魔獣として落魄《らくはく》した姿だからだ」
今、護堂のなかにはアテナをはじめとする地母神たちの知識もあった。
まずここを知らなくては、『蛇殺し』の本質を理解することはできないからだ。地母神を最高の神と崇《あが》める原始世界では、権力の頂点も『女』だった。これは、前にアテナと戦ったときにも学んだ知識だ。
それらの叡智《えいち 》が言霊となり、『剣』の光となる。
その輝きをさらに研《と》ぎ澄《す》ますために、護堂は尚も言霊を紡《つむ》いだ。
「神界の女王が、魔獣として倒される。その結果、女神を頂点としていた世界は崩壊し、青銅《せいどう》や鉄の武具を携《たずさ》える戦士たちが世界の頂点に君臨する。武力で国を治める時代の到来だ。あなたたち鋼《はがね》の英雄の役割は、そういう荒々しい世界を創造することなんだ!」
準備はできた。はたして、結果はどうなる?
護堂の言霊に応《こた》えて、ペルセウスの周囲を飛び回る光球たちが一気に加速をはじめた。
「ふむ――これは飛び道具の類《たぐい》か。妙な言霊だ」
英雄はそれらの光を吟味《ぎんみ 》するように眺めてから、つぶやいた。
その手から豪刀が消え失せ、代わりに見覚えのある長弓が現れた。背には矢筒《や づつ》も。そのなかにはもちろん、数十本の矢が入っている。
「ならば、私も弓矢で相手をしよう。さあ、弓比べと参ろうか!」
男らしく笑うペルセウスと比べて、そんな余裕は護堂にはない。
必死で言霊を唱え、『剣』を束ねていく。
「我は不義なる竜、最強の邪悪《じゃあく》の殺裁者《さつりくしゃ》! 義なる男女を守護する剣よ、我に従え!」
これに応えて、今まで無数に瞬《またた》く光球だった輝きが集結し、数十の剣となった。
黄金の剣陣。
切っ先をペルセウスに向けて、ぐるりと彼の周りを囲い込む。
「ならば東方より昇る太陽よ、我に力を! 我が同朋《どうほう》ウルスラグナを挫《くじ》く鉄槌《てっつい》となり給《たま》え!」
負けじとペルセウスも言霊を唱えてきた。
彼の背後に光の輪が顕現《けんげん》する。東から来た男が持つ、太陽神の証《あかし》だ。
この光こそ、彼がローマの地で巡り会った東方の神ミトラスから得た大いなる力。ウルスラグナを封じる厄介《やっかい》な能力の源《みなもと》のはずだ。
護堂は覚悟を決めて、黄金の『剣』たちを一気に解き放った。
「今、日輪《にちりん》の加護を借りて、この一矢を撃たん。若き神殺しよ、光はより強き光の前では輝きを失うもの。その理《ことわり》を思い知るがいい!」
同時に、中空の月めがけてペルセウスも矢を放つ。
その一矢は高々と上昇し――数百の光となって、地上に降り注いでくる。
この光の雨に打たれた『剣』たちは、夏の日差しを浴びた氷のように溶け去った。
「……やっぱりダメか。本当に面倒な芸を持っていやがるな」
厄介な能力を前にして、護堂はつぶやいた。
どうだ? と言わんばかりにペルセウスが胸を張っている。子供っぽい稚《ち》気《き》にあふれた仕草、だがそれすらも英雄の愛《あい》嬌《きょう》に変えてしまう魅力が彼にはある。
舌打ちしたくなるほど強い。
総合能力でアテナを上回るとは思えないが、あの女神様よりも格段に相性が悪い。彼が光の英雄ミトラスとしての相を持つ以上、どう攻めても通用しないはずだ。
――だが、だからといって、おとなしく負けてやるつもりはない。
護堂は開き直った。
相手の武器が厄介なら、まずそちらを封じ込む。この戦法を成功させなければ勝ち目はないのだ。かえって迷いが出なくていいとも言える。
護堂は消された分の『剣』を復活させるべく、言霊を再度吐き出した。
「あなたが隠している第二の名――ミトラス。この神様が栄え、世界の中心に君臨していた場所は、俺たちがローマ帝国の名前で知る国だ。この国の人たちには外から輸入[#「外から輸入」に傍点]した神様を崇《あが》めて新興宗教にする、おおらかでいいかげんな性癖《せいへき》があった」
そう、外なる神。
たとえば小アジアからキュベレーを、エジプトからイシスを、さらにはモーセを。
初期のローマ帝国は世界各地の神々や預言者《よげんしゃ》を輸入し、信仰する国だった。そして、そのいずれにもアレンジを加えて、オリジナルの神格とは異なるローマ風の神に変えていく。
そのうちの一柱がミトラスだった。
「外なる神ミトラスの故郷はペルシア、ローマの東だ。そしてもうひとり、東方から現れる神がいた。ヘリオス――東の果てに宮殿を持つギリシアの太陽神、ローマではソルの名前でも呼ばれた神だ!」
英雄の来歴をつまびらかにする言霊で、ふたたび『剣』の光が顕現する。
だが、ペルセウスの背後では例の光輪が輝きを増していた。
さらに弓を構え、矢をつがえている。このままではさっきの二の舞。だが――!
「共に『東から来る者』で『太陽神』。大雑把《おおざっぱ 》なローマの人々は、いつしかヘリオスをミトラスの仮の姿だと考えるようになる。そして、もうひとりの『東方より来たりし者』――ペルセウスまで、そのなかに加えてしまったんだ!」
ミトラスの力がウルスラグナを封じ込むのであれば、まずそちらをつぶす。
それで『剣』の言霊を使い切ってもいい。ここの攻防で勝てなければ、その時点で勝敗がついてしまうのだ。躊躇《ちゅうちょ》してはいけない。
勝負師、もしくは博打《ばくち 》打《う》ちの理屈で、護堂は勝負に出た。
あふれ出る言霊の光。リリアナから授かった『剣』を、景気よく展開させる。
「|東から来た男《ペ ル セ ウ ス》――その名の下に、古代ローマの人々はギリシアの英雄ペルセウスとヘリオス、そしてペルシアの太陽神をひとつにまとめ上げた。寛容《かんよう》で適当な宗教観のローマ人だからこそできた荒技だ。あなたは古代ギリシアの英雄じゃない……! まだ一神教に統一される前のローマ帝国で崇められた、新興の英雄神だ!」
「ふふっ。よく回る舌だが、戦場で役立つのは鋼《はがね》の武具の方だぞ!」
十《と》重《え》二十重《は た え》に己を取り囲む『剣』に、ペルセウスはひょうと矢を撃ち放った。
その背で、『太陽』の輪もまぶしく輝いている。
放たれる一矢、そこから千条の閃光《せんこう》が弾《はじ》ける。即座にかき消されていく『剣』たち。だが、そうされる間にも護堂は新たな作業に取りかかっていた。
『剣』で斬り裂く対象を、ペルセウスからミトラスに――絞り込む。
「なぜミトラスに俺の、ウルスラグナの力が通用しないのか? 答えはかんたんだ。東方から来た神ミトラスは、元をたどればミスラ――ウルスラグナの主だからだ!」
リリアナが教えてくれた神々の秘密。
ウルスラグナよりも前に『東方の軍神』であり、太陽神であったミスラ。何のことはない、この神の名前をギリシア語もしくはラテン語読みすれば、ミトラスになるのだ。
護堂の狙いを察したペルセウスが、矢を次々と放つ。
一本しか撃ってないように見えても、その一矢が数十の閃光の矢となって『剣』を貫《つらぬ》いていく。満天の星々にも似た黄金の光たちがひとつ、またひとつと消滅していく。
だが、対ペルセウスから対ミトラスに変わった『剣』は無事だった。
決して多くはない。どうにか残ったのは、全体から見て四分の一がせいぜいだろう。
「古き東方の盟主、そして己の原型とも言えるミスラに、ウルスラグナは神の力を封じ込められていたんだ! だから――まずは、その太陽の力を斬り破る!」
もう『剣』の言霊は残ってない。全て吐き出してしまった。
護堂は、貴重な武器たちに手を伸ばす。その手のなかに黄金の光が集まり、一振りの長大な剣となった。黄金の刃を持つ神剣の誕生だった。
「ウルスラグナが太陽王の支配を拒むか。味な真《ま》似《ね》をする!」
自分の絶対的優位が失われたと知り、ペルセウスが吠《ほ》えるように言った。
そのまま猛々《たけだけ》しく笑い、今まで一本ずつ撃っていた矢を四、五本ほどつかみとる。
それらの矢を全てまとめて弓につがえ、高らかに叫ぶ。
「それでこそ神殺し、我らが宿敵よ! ……ハハハ、すっかり失念していたが、いい機会だから訊《き》かせてもらおう! 神殺しよ、君の名を教えよ。ペルセウスが敵とするに足る男と認めて、覚えておいてやろうぞ!」
「草薙護堂だ! べつに覚えてくれる必要はないぞ!」
「いいや。その名、しかと覚えた。では勝負のつづきと参ろうか!」
護堂の名乗りに、英雄はうれしそうに叫び返す。
古代の英雄なんて連中はみんなこいつの同類なのだろうか。だとしたら、絶対に深くつきあいたくない。サルバトーレ・ドニじゃあるまいし、決闘で斬り合った相手と一時間後に酒を酌み交わすような趣味はないのだ、生憎《あいにく》と。
神とのカルチャーギャップを実感しながら、護堂は黄金の剣を握りしめた。
そして、ミトラスを斬り裂く『剣』を研ぎ澄ます。
「あなたの絶頂期は三世紀の初め頃、皇帝ヘリオガバルスがローマ帝国に君臨していた時期だ。彼は退廃の限りを尽くす暴君だった。そして、ミトラスの異名のひとつヘリオガバルスを名乗り、ローマ古来の神々を捨てて自らあなたの最高司祭となった!」
「その通りだ、草薙護堂! よく知っているものだな!」
答えとともに、ペルセウスが光の矢を放つ。
護堂の構えた『剣』がひとりでに動き、それを跳ね返していく。
「だが彼は近衛《こ の え》兵《へい》に暗殺され、その在位はわずか四年で終わる。あなたは皇帝にさえ崇められる神でありながら、神々の頂点に立つことはできなかった。代わりに慈《じ》悲《ひ》深《ぶか》き神の子と彼を崇める教団が、ローマの宗教界を制覇《せいは 》することになるんだ!」
三一三年、ミラノ勅令《ちょくれい》によるキリスト教の公認。
これを契機《けいき 》に迫害を受けつづけていたキリスト教は東西ローマ帝国の国教にまで成り上がり、隆盛を誇ったあまたの神々は『異教』とされ、駆逐《く ちく》されていく。そのなかにはもちろん、不敗の太陽神もふくまれていた。
――ゆえに、この言霊はミトラスを葬《ほうむ》る最期《さいご 》の一刀となる。
護堂は手のなかの武器を振りかぶり、ペルセウスめがけて投げつけた。黄金の長剣はまっすぐ矢のように飛んでいく。
これを向こうは、長弓をかかげて受けようとした。
だが剣は、その弓ごと彼を斬り裂く。逞《たくま》しい英雄の肉体に黄金の剣が吸い込まれる。
次の瞬間、光がはじけた。
衝撃が走り、護堂も英雄もまとめて吹き飛ばされてしまった。
2
ふたりがダウンしていた時間は、ほんの十数秒ほどだった。
「……我が身中に宿る『太陽《ミトラス》』を斬《き》り裂《さ》いたか。華麗《か れい》さという点では賞賛できかねるが、なかなかにみごとな手であったぞ、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》よ!」
やや興奮気味につぶやきながら、英雄が立ち上がる。
彼の名前は今や、ただのペルセウス。ミトラスの名は『剣』のダメージから回復するまで、意味を成さないはずだ。
元気そうな彼の姿を眺めて、護堂はひそかにうなずいた。
今|叩《たた》き込んだのはミトラス殺しの『剣』。やはり、ペルセウス本来の神格はほぼ無傷のようだ。まあ、仕方ない。これ以上は高望みというものだろう。
それに、予想外の幸運もあった。
前に対アポロンから対オシリスに『剣』を変えたときは疲労|困憊《こんぱい》してしまったが、今回はたいして消耗《しょうもう》していない。多分、あのときほど無茶な変化でなかったおかげだろう。
――などと考えていたら、急にペルセウスが動いた。
気づいたときには目の前に肉薄され、左の手首をつかまれてしまっていた。そのまま無造作に放り投げられ、宙を飛ぶ羽目になった。
「――ぐはッ! なんてバカ力だよ……!」
護堂が叩きつけられたのは、白い石柱だった。
幸い頭は打ってないようだが、背中から突っ込む羽目になった。
決闘場であるプレシビート広場は、サン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂とナポリ王宮、ふたつの歴史的建造物に挟み込まれている。
そのうちの前者、聖堂の正面側《ファサード》。ここには白い石造りの柱が整然と並び、この広場の有名な鑑賞スポットになっている。
その一本に、護堂は投げつけられたのだった。
……かなり強烈な衝撃だった。経験したことはないが、トラックにでも礫《ひ》かれたら同じ感覚を味わえるかもしれない。
「組み打ちは古来、戦士だけでなく自由民のたしなみでもある。おそらく君も心得があることだろう。さあ、次はこちらの腕比べといこうか」
「あるわけないだろ! 俺はれっきとした現代人だ。そんな基礎教養は持ってないッ」
護堂は苦情を言い立てた。ペルセウスが言うのはおそらく総合格闘技パンクラチオンのはずだが、そんな競技の心得などあるはずもない。
立ち上がろうとして、護堂は戦慄《せんりつ》した。
体が上《う》手《ま》く動かない。背中を打ったときの衝撃のせいか、それともどこかを痛めてしまったのか。そこにペルセウスがゆっくりと近づいてくる。
応戦しなくてはいけない。かろうじて上体だけ起こすことができた。
その瞬間、護堂の視界に美しい少女の顔が飛び込んできた。
神と神殺しの決闘を困惑しながら、しかし夢中で見守っているギャラリーたち。千はいないだろうが、数百は集まっていそうだ。
その最前列に立つ、銀髪の美少女。思い詰めた表情をしている。今にも魔剣を呼び出し、英雄と護堂の間に割って入りそうな様子だ。
護堂は必死に『まだ早い』と念を込めて、リリアナを見つめた。
あやしくも強大な権能《けんのう》をいくつも所有する神々との戦いでは、手持ちの戦力を一気に投入しない方がいい。まとめて叩きのめされる危険性が高いからだ。
むしろ、戦局を変えるために逐次《ちくじ 》投入する方が効果的だとさえ言える。
サッカーや野球の試合で選手交代をするようなものだ。リリアナは口惜《くちお 》しそうにうなずき、肩の力を抜いてくれた。想いが通じたようだ。
「我は最強にして、全ての勝利を掴《つか》む者なり。人と悪魔、全ての敵と敵意を挫《くじ》く者なり。我は立ちふさがる全ての敵を打ち破らん!」
護堂は言霊《ことだま》を唱《とな》えた。
最強と勝利を宣言するウルスラグナの聖句。そしてイメージする。雄《お》々《お》しく逞《たくま》しい、角《つの》を持つ聖獣『雄牛《お うし》』の化身を。
「輝ける黄金の角を有す牛よ、我を援《たす》けよ!」
護堂の闘志に合わせて、体の痛みが消え始めた。
こういうとき、カンピオーネの肉体が分泌《ぶんぴつ》するアドレナリンの量は、普通の人間の一〇〇倍以上なのかもしれない。このデタラメな肉体は、戦闘中であれば打ち身や骨折どころか内臓が破裂するほどの重傷でも結構|我慢《が まん》できてしまうのだ。
「おお、また新しい力を使ったか。君は、かの軍神から変化の神力を簒奪《さんだつ》したのだな。今度は一体、どのような力を使うのだ!?」
と叫びざま、ペルセウスが組みついてきた。
また護堂の体を投げ飛ばすつもりなのか。だが、もう力負けはしない。
『雄牛』の使用条件は、敵が並外れた剛力《ごうりき》の所有者であること。ペルセウスであれば、もちろん問題はない――!
そして護堂は、のけぞりながらペルセウスの体を抱え上げ、後ろへ豪快にぶん投げた。
今度は美《び》々《び》しい英雄の肉体が宙を舞い、石柱に激突する。
「ははは、やはり心得があったか! いいぞ、さあ攻めてくるがいい!」
ペルセウスが声高に笑いながら立ち上がる。
だんだん目つきが真剣になってきた気もするが、ダメージはおそらくなし。
護堂はフンと鼻を鳴らした。
悪いが神話の英雄と取っ組み合いをする気などない。もっと効率的で、現実的な戦い方があるのだ。護堂は忸怩《じくじ 》たる思いを抱きつつ、石柱にさわった。
……今の自分は超人的な怪力の持ち主である。
これは筋肉が生み出すパワーではない。もっとあやしい、超自然の力だ。
『雄牛』の化身でいる間、大地を踏みしめる足の裏から熱いエネルギーのようなものが体に流れ込んでくる。おそらく、これが怪力の源《みなもと》のはずだ。
この大地がもたらすパワーの扱いには、ちょっとしたコツがある。
護堂は両手で、サン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂の白い石柱を抱え込んだ。
瀟洒《しょうしゃ》な石造りの聖堂。その正面側《ファサード》を飾る、高さ四、五メートルはある大理石の柱。当然、上も下も固定されている。
「お、おおおおおおおおおおッ!!」
雄叫《お たけ》びとともに、精神を集中させる。
『雄牛』の怪力のデタラメな特徴。それは、力を行使する対象が大きく重いほど、怪力の度合いが跳ね上がっていくことだ。
ペルセウスに腕力を直接振るっても、彼をせいぜい十数メートルぶん投げられる程度だ。だがこうして、この壮麗《そうれい》な聖堂全体に力を使うつもりになれば――。
……ミシッ。……ミシッ。いやな雰囲気《ふんい き 》の音が柱から響いてくる。
柱の根本と上部にヒビが生じている。そろそろいけそうだと確信した護堂は、柱を一気に引っこ抜き――いや、むしり取ってしまった。
何て非常識な。自分でやっておきながら、呆《あき》れざるを得ない。
ホウレン草を食べて怪力を発揮するアメリカの船乗り、あるいは旧約聖書でダゴン神殿を破壊する士《し》師《し》サムソンといった蛮行《ばんこう》だった。
(ちなみにこの聖堂は一九世紀はじめ、当時の著名な建築家ピエトロ・ビアンキによってデザインされ、時のローマ教皇に公認された由緒《ゆいしょ》正しいものである。これがおそろしく罰当《ばちあ 》たりな行為であることは言うまでもないだろう)
護堂はその柱を思い切り、大きく振り回し――。
ガツンとペルセウスを殴りつけた。
いや、この場合『殴る』という言葉は控えめに過ぎるかもしれない。工事現場で見かけるクレーン車、あれが解体用の鉄球を振り回すようなノリで叩きつけたのだから。
「ぬう! なんという剛力!」
ペルセウスが叫んで、両腕で顔の前をかばった。ガードの上から彼を打《う》ち据《す》える。
凶器の石柱は、実は石灰石製だと言わんばかりにあっけなく砕け散った。もうもうと舞う白い粉を振り払いながら、鋭く英雄がにらみつけてくる。
恨《うら》みでも怒りでもなく、闘志と賞賛を込めた猛々《たけだけ》しい視線だった。
「君も王と呼ばれる男、ふさわしい武具と戦い方があるとは思うが――それも悪くはない。だがやはり、もうすこし美しさが欲しいところではあるな!」
言いながら両腕を大きく広げ、ペルセウスが地を蹴《け》る。
身を低くしてのタックル。レスリングかパンクラチオンの一手かもしれない。だが、これは格闘技ではなく、何でもありの戦闘なのだ。
――というわけで護堂は、まだ抱え込んだままだった石柱の残りを投げつけた。
重量にすれば、この状態でも百キロ以上はありそうだ。
それを『雄牛』の怪力で投擲《とうてき》したのである。そして、草薙護堂はかつて名捕手の端《はし》くれぐらいにはいた野球選手だった。強肩とコントロールには自信がある。
ブゥンッ!!
すさまじい風切り音を立てて飛んでいく元石柱。
それをペルセウスは、横に跳んで避けた。一瞬前まで彼が立っていた石《いし》畳《だたみ》の辺りに、標的を逃した白い石の塊《かたまり》が衝突し、ガツンガツンとバウンドしながら転がっていく。
「悪いけど、みっともない手を使ってでも勝つ方が俺の好みなんだ。あんたのリクエストに応えるつもりはひとかけらもないね」
「どうやらそのようだな。……よかろう、ならばその流儀で力を示すといい」
ペルセウスの手に、例の豪刀が虚空《こ くう》より現れた。
「君だけに得物《え もの》を持たせるのも付き合いが悪いというもの。私はこちらでお相手しよう」
この会話が、華麗ならざる戦いの始まりとなった。
サン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂正面の石柱を、護堂が次々と引っこ抜く。
それを振り回す、投げる、叩きつける、投げ落とす。
対してペルセウスは平原を駆ける白《しろ》豹《ひょう》のごとく走り、跳んで、避けつづける。鋼《はがね》のように堅牢《けんろう》な肉体で石柱を敢《あ》えて受け止め、逆に粉砕する。
ふたりで繰り返す数々の破壊行為。
その過程で、大小さまざまなガレキの塊が発生していく。
ときどき護堂が思いつきでそれらをぶん投げると、ペルセウスは豪刀を振るって空中で斬り裂いた。とんでもない神業《かみわざ》だ。
攻める側も守る側も、共に尋常でない人外《じんがい》の攻防。
……ちなみに、見守るギャラリーたちは目の前で始まった破壊の惨劇《さんげき》に、ついに正気を取り戻した。悲鳴、怒号、嘆き、狂乱など、さまざまな種類の叫びをあげて逃げ惑い、立派なパニックの状態になっていた。
怪《け》我《が》人《にん》が出なければいいのだが――。
そんな彼らの狂態を眺めながら、護堂はすこし心配になった。
人外の決闘場となった広場に迷い込んでくる強者は、さすがにいない。だがパニックの押し合いへし合いでの負傷が不安だった。
もっとも、そんな葛藤《かっとう》をしながらもしっかり戦いはつづけて十分ほど後――。
プレシビート広場は、廃墟《はいきょ》を彷彿《ほうふつ》とさせる空き地と化していた。
広場の石畳にはあちこちに白い大理石がめりこみ、そこかしこにガレキが散乱している。
回廊《かいろう》のように並ぶ白い柱が瀟洒《しょうしゃ》だった聖堂は、もう見る影もない。
柱はほとんど護堂が引っこ抜いてしまったのだ。ローマの万神殿《パンテオン》を模したという歴史的建築物が、実に無惨なありさまだった。
だが、それだけの犠牲《ぎ せい》を払ってもペルセウスはほぼ無傷――。
「ハハハ、手こずらせてくれたな。だが、そろそろいい頃合になってきたようだ!」
豪刀を握り、ガレキを踏みしめて英雄が叫ぶ。
白豹のごとく俊敏《しゅんびん》で、ときに白い流星じみたスピードをみせるペルセウスを捉《とら》えきれない。
相手が速すぎる。しかも、白兵戦の能力に差がありすぎる。
得物のリーチと重量差、そして反射神経の導きでどうにか護堂も持ち堪《こた》えてきたが、そろそろ旗色が悪い。石柱がほとんど砕け散ってしまい、武器が底を尽きかけているのだ。
……リリアナの存在を護堂は思い出した。
彼女を呼んで、防御をまかせようか。そう考えて、すぐに首を振った。
あのスピードが相手なら、ふたりがかりでも大差ないだろう。
それに、戦前に聞いておいた彼女の切り札――エリカの『ゴルゴタの言霊《ことだま》』に匹敵するらしい切り札は、もっと有効な使い方をするべきだ。
――なら、自力で切り抜けるしかない。多少の傷みは我慢するしかない。
護堂は覚悟を決めた。
口元をいびつな形に歪《ゆが》めて獰猛《どうもう》に笑い、抱えていた石柱の残りを放り捨てる。
「全ての敵よ、我を畏《おそ》れよ」
言霊が口を突いて出る。
その間にペルセウスが踏み込んでくる。まっすぐに刀を突き出してくる。
おそらく必殺の突きを繰り出すつもりなのだろう。――好都合だ。護堂は敢《あ》えて避《よ》けなかった。速すぎて避けられない、というのもあったが。
「全ての悪《あ》しき者よ、我が力を畏れよ。今こそ我は、十の山の強さを、百の大河の強さを、千の駱駝《らくだ 》の強さを得ん! 雄強なる我が掲げしは、猛《たけ》る駱駝の印なり!」
唱えながら、刀で貫《つらぬ》かれた。
護堂の胸に、分厚い刃の切っ先が入り込んでいく。
そのまま刃は胴を貫通し、体内を蹂躙《じゅうりん》し、背中を切り開く――!
「何?」
ペルセウスが不審そうにつぶやく。
さすが蛇殺しの英雄、勘《かん》がいい。こちらの異常に気づいたようだ。
刀で貫かれながらも、護堂は左足を上げた。そして一閃《いっせん》。体をふらつかせながらも、前蹴りでペルセウスの厚い胸板を蹴り、突き飛ばす。
草薙護堂は格闘技の素人《しろうと》である。だが、これはあらゆる格闘家を凌駕《りょうが》するキックとなった。真正面から振り下ろす鋼鉄のハンマーにも似た、豪快な足蹴《あしげ 》り。
おそらくコンクリートの道路に喰らわせたら、粉々に踏み砕いていたことだろう。
「――ぐふっ!?」
初めて、ペルセウスが苦痛に喘《あえ》ぐのを聞いた。
彼の逞しい肉体は、護堂の前蹴りで二〇メートルは後方に吹き飛んだ。
それと同時に豪刀も護堂の体から引き抜かれ、英雄の体もろとも飛んでいってしまう。
「――ぐはっ!」
こちらは護堂の呻《うめ》きだ。いきなり刀を抜かれて、傷口からは鮮血がほとばしった。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い、言語《ごんご 》道断《どうだん》なまでに痛い!
だが、すぐに刺された辺りの感覚が鈍《にぶ》くなり、『かなり痛むが我慢はできる』程度の苦痛に収まっていく。血もいつの間にか止まっていた。
これが『騎駝』の化身の能力だった。苦痛に鈍感になり、異常に打たれ強くなるのだ。
そしてキックの鋭さと威力が爆発的に上昇する。今なら多分ムエタイの現役チャンプと蹴り合いをしても勝つ自信がある。しかも、その破壊力ときたら――。
……護堂の眼前に、白い流星が飛び込んできた。
すさまじいスピード。メジャーリーガーの剛速球よりも、おそらく上だろう。
だが護堂の右足は、持ち主が考えるよりも早く勝手に動いていた。
あざやかなハイキック。ぎりぎりでガードしたペルセウスをさすがと賞賛するべきかもしれないが、そのガードごと蹴《け》りで薙《な》ぎ払い、弾き飛ばした。
……英雄の体は、またも高々と空を舞う。
今度の飛距離は五〇メートルはありそうだ。護堂たちがさんざん破壊したサン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂の向かい側に立つナポリ王宮の壁まで飛んでいった。
「ぐはあッ!?」
王宮の壁は、くすんだオレンジ色のレンガで造られている。
そこにクレーター状の大穴を穿《うが》ち、さらにバウンドしたペルセウスの体は広場のプレシビート広場の石畳へと落下していった。
3
……我ながら凶悪な破壊力だ。追い打ちをかけたいところだが、護堂《ご どう》は膝《ひざ》をついた。
刺された腹が、やはり苦しい。ひどく痛む。
だが、この苦痛とひきかえに『駱駝《らくだ 》』の力を手に入れたのだから、仕方ない。
この化身《け しん》の使用条件は、ある程度のダメージを受けること。しかし、パンチの一、二発程度ではダメ。今回のように刀や剣でぶっすり刺される程度は必要らしい。
とりあえず、死ななかったことを天に感謝しよう。
護堂は心底ほっとした。『雄羊《おひつじ》』の再生力も即死したら無意味なのだ。
「草薙《くさなぎ》護堂!」
凛《り》々《り》しい少女の声。リリアナが駆け寄ってくるところだった。
「だ、大丈夫なのですか!? あなたが急に棒立ちになって、ペルセウスの一刀をわざと受けたときはどうなることかと!」
「し、心配かけてすまない。……ってリリアナ、気をつけろ!」
吹っ飛ばしたペルセウスの様子を目で追いかけて、護堂は警告した。
何事もなかったかのように彼が石《いし》畳《だたみ》の上で身を起こし、立ち上がったのが見えたからだ。
「ハハハハハ! アテナの前に軽くつまみ食いをする程度のつもりだったのだが、愉《たの》しませてくれるものだな、草薙護堂。ふふ、勇ましき乙女《お と め》も戻ってきたか。よろしい、ならば神殺しをここで葬《ほうむ》り、みごと乙女を救い出してみせるとしようか!」
高らかに、そして自《みずか》らの栄誉を誇るようにペルセウスが言い放った。
「ペルセウス神よ、お戯言《たわごと》もほどほどにされますよう、お願い申し上げます。わたしは草薙護堂の騎士、御身《おんみ 》に救っていただく必要などありません――!」
「おお、やはり君は勇ましいな。その気性、なかなかに好ましいぞ」
魔剣イル・マエストロを呼び出し、|青と黒《ネラッズーロ》のケープをまとったリリアナに稀代《き たい》の英雄が微笑《ほ ほ え》みかける。
「だが、魔物のもとにいた乙女が我が軍門に降《くだ》るのは、麗《うるわ》しのアンドロメダよりの倣《なら》い。ましてや君は巫《み》女《こ》――大《だい》地《ち》母《ぼ》神《しん》に仕える処女と見た。そうであれば尚更だ」
ペルセウスの紡《つむ》ぎ出す言葉には、強力な呪《じゅ》力《りょく》がこもっていた。
言霊《ことだま》、しかも前に聞いたことがあるような――いぶかしんだ護堂はすぐに気づいた。
ウルスラグナだ。かつてサルデーニャ島でまつろわぬ軍神が、エリカや自分に向けて放った、忌《い》まわしき支配の鎖《くさり》と同じ呪法《じゅほう》なのだ。
「たおやかな乙女の手には剣など似合わない。そんなものは捨てて私の勝利を待つといい」
「まともに聞くな、リリアナ。そいつは人間に命令して言うことを聞かせるクソったれな力だ。でも神様に絶対逆らうつもりでいれば、そうそう変なことにはならない!」
護堂はとっさに警告した。
神々と幾度も戦った今なら、あの支配力の破り方もなんとなくわかる。ただの人間である草薙護堂でも振り切れた呪縛《じゅばく》なのだから、そう厄介《やっかい》でもないはず――。
ところがリリアナは、うつろな目でぼんやりとペルセウスを見つめるばかりだった。
「無駄だな、草薙護堂。君はひとつ思いちがいをしている。神に逆らう意志を持てば、たしかに我らの支配は免《まぬが》れよう。だが、これがなかなか難しい。その娘のような魔術師は、幼時より神々の存在を教えられ、その脅威《きょうい》を繰り返し教えられてきたはず。そのような者が長年の教えを捨て去るには時間もかかるというものだ」
ペルセウスが超然として言う。
今までの笑い、猛《たけ》り、良くも悪くも堂々と振る舞ってきた英雄の印象とはすこし異なる、世界の真理を語る超越の神めいた真顔だった。
「しかも、その者は巫女だ。君も我が来歴を知るのなら、私に従属することこそが彼女たちの役割であると承知しているだろう? 我ら蛇《へび》殺《ごろ》しが、怪物を倒したあとで妻をめとるのには理由がある。知らぬ君ではあるまい?」
護堂はリリアナから授かった知識を思い出した。
竜蛇を殺《あや》めた勇者が、乙女をめとる『ペルセウス・アンドロメダ型神話』の図式。
「英雄と戦い、倒された地母神をおそろしい蛇や竜として語り継ぐ。英雄の偉業を華々しく、勇壮に脚色するためだな」
「うむ。その通りだ」
「そして、倒した地母神を従属させた証《あかし》として、英雄は零落《れいらく》した彼女たちを妻にするんだ。『怪物にさらわれた乙女を救った』って美談で脚色して。あんたの奥さん――アンドロメダは元をたどれば大地の女神ティアマト、彼女を捕らえていた蛇と同一の神格だ!」
護堂は美《び》々《び》しい英雄を鋭くにらみつけた。
この言葉に『剣』が宿っていないのが腹立たしい。乙女を救う勇者。その構図に隠された事実に、妙に腹が立って仕方がなかった。
「やはり知っていたか。いかにも君の指摘は正しい。だからわかるだろう、その乙女が私に従属する理由を。大地の女神たちは我ら鋼《はがね》の英雄にとっては征服する対象なのだ。ならば、その巫女も同様だ。彼女らが私に逆らうなど、無理というものであろうな」
魔女たちをまるで所有物のように言う。
常識でも説くようなペルセウスの口ぶりに、護堂はカチンときた。
「無理かどうかは、やってみなければわからない」
「……ふむ。神と人との約束事さえ無視して、抗《あらが》おうとするか。ふふふ、なかなか好ましい心映えの少年だ。私も己が神だと知らなければ、同じような文句を吐いたのかもしれないが」
ペルセウスはすこしだけ悲しげに微笑んだ。
雄《お》々《お》しい英雄の美貌《び ぼう》には似つかわしくない、世の無常を悲嘆《ひ たん》するような表情だった。
「残念ながら、私は神たる英雄だ。君の誤謬《ごびゅう》がわかってしまう。その巫《み》女《こ》たちが我らに従うのは、まあ運命だと言ってもいい。だから諦《あきら》めよ」
「そんなことできるわけないだろう!」
やはり、こいつはウルスラグナと同じだ。護堂は確信した。
英雄であろうとしながら、英雄になりきれないでいる。真の英雄《ヒーロー》ならば、自分の言っていることの誤りぐらい気づくはずなのに!
「……リリアナ、聞いての通りだ。神様たちの言いなりでいいのか? 俺はイヤだぞ、君がこんな連中の言いなりになるなんて、俺は絶対に認めないぞ?」
「無駄だ。乙女よ、武器を捨てて我がもとに来るがいい。それこそが君の務めなれば」
王と神、双方の言葉を受けて――。
いつしかリリアナは目を閉じていた。数秒後、おもむろに目と口を開き、
「ダヴィデの哀悼《あいとう》を聞け、民よ! ああ勇士らは倒れたる哉《かな》、戦いの器《うつわ》は砕けたる哉!」
詠《えい》唱《しょう》の声を響き渡らせた。
「ギルボアの山々よ、願わくは汝等《なんじら》の上に露《つゆ》も雨も降らざれ! 贄《にえ》を求めし野の上もあらざれ! 其《そ》は彼処《か し こ》に勇士の楯《たて》、棄《す》てらるればなり! サウルの楯、油を注がずして彼処《か し こ》に棄てらるればなり!」
周囲にひどく冷たい空気が満ちていく。
この肌を切る寒々しさは、エリカが『ゴルゴタの言霊《ことだま》』を使うときに近い。
あちらはもっと切羽《せっぱ 》詰《つ》まったような、絶望と憎悪が大気のなかで煮えたぎっているような感覚になる。対してこちらは、ひどくもの悲しい――殷々《いんいん》と響く悔《く》いある亡霊たちの悲嘆、戦いに疲れた武人の詠嘆《えいたん》。
そんな形容の似合う、いたたまれない感覚だった。
「……我が支配を断ち切っただと?」
ペルセウスが驚嘆していた。
常に余裕と華麗さに満ちあふれていた英雄が、初めて困惑していた。
「殺《あや》めし者の血を呑《の》まずして、ヨナタンの弓は退かず! 勇士の油を喰《く》わずして、サウルの剣は虚《むな》しく還《かえ》らず! ああ勇士らは戦いのなかに倒れたる哉!」
リリアナの左手《ゆんで》に青き光が集まり、彼女の背丈と同じほど長い弓となった。
右手《めて》には同じ青さで輝く四本の矢が現れた。
「ヨナタンの弓よ、鷲《わし》よりも速く獅《し》子《し》よりも強き勇士の器よ。疾《と》く駆け汝《なんじ》の敵を撃て!」
この世ならざる青き長弓から、全ての矢が四筋の彗星《すいせい》となって放たれた。
全て異なる軌道を描きながら、ペルセウスめざして天かける。
狙撃《そ げき》された英雄は、あの超絶のスピードを発揮した。白い流星になって右に左に跳びまわり、青き彗星の矢をかわしていく。
しかし、四つの矢の一本がついに彼の左肩を撃ち抜いた。
「くっ――!」
顔をしかめて跳びすさるペルセウス。
青き矢で撃ち抜かれた左肩は大きく挟《えぐ》れ、鮮血で彩られている。もう左腕は動かせまい。
これがリリアナの切り札『ダヴィデの言霊』かと、護堂は賛嘆した。
神すら射ぬくヨナタンの矢と、神すら斬り裂くサウルの剣を呼び出す秘術だと言っていたが、やはりすごい。十分にペルセウスを苦しめている。
このとき、あるアイデアが護堂の脳裏《のうり 》に閃《ひらめ》いた。
これを実現させるためには、リリアナの協力が不可欠だ。彼女の方を振り返ると、女騎士は冷静|沈《ちん》着《ちゃく》そのもの顔でうなずきかけてきた。
「大丈夫なのか、リリアナ!?」
「もちろんです。呪縛《じゅばく》の破り方を教えてくださったは、あなたではありませんか」
「いや、そうだけど……魔女は英雄たちに逆らえないんじゃ――」
「逆らえないのではなく、逆らい難いだけでしょう。ですが今わたしの心には、熱く燃える想いが宿っています。たとえ神にでも、この気持ちは踏みにじらせない……そう考えたら、自然と呪縛が解けていたのです!」
「あ、熱く燃える想い?」
「はい。あなたとの絆《きずな》……ええ、わたしたちは比翼《ひ よく》の鳥、連理《れんり 》の枝。生きるときも死ぬときも共にふたりでひとり。あなたひとりを戦わせたりしないと、そう想ったら自然に」
ぽっと頬《ほお》を赤らめながらリリアナが言った。ひどく可愛《か わ い》い表情だ。
友情パワー、のようなものか? やや釈然《しゃくぜん》としないままうなずいた護堂は、どこか愉快そうに刀を構えるペルセウスへと視線を転じた。
「じゃあ、ふたりであいつを片づけてやろうか。さっきのヤツ、まだ撃てるか?」
「ええ、何とか。ただし、あと一度が限界でしょう」
「わかった。じゃあ、その一発であの英雄様を地面[#「地面」に傍点]に縫《ぬ》い止めてくれ」
「……ですが、まともに撃てば、またさっきのようにかわされるだけです!」
「俺があいつを引きつけるから! その隙《すき》に頼む!」
これがエリカとだったら、以心伝心で互いの意《い》図《と》を呑《の》み込めるのだろうが――。
リリアナとの間には、まだそこまでのコンビネーションはない。
だが、それも時間が解決してくれるだろう。この娘《こ》とも、きっと抜群の連係を取れるようになるはず。そう確信しながら、護堂はペルセウスめがけて駆け出した。
「あの巫女に何をした、草薙護堂!」
「俺は何もしていない! 俺たちの絆があんたのえげつない力に勝ったんだそうだぞ!」
「そうか! ハハハ、やはり愛の力は古来より最強の武器ということなのかな。ペルセウスともあろう者がその道理を忘れるとは、耄碌《もうろく》してしまっていたか!」
なぜか痛快そうに笑い、英雄は右手一本で豪刀を振り回してくる。ヨナタンの矢で貫《つらぬ》かれた左腕は、やはり動かせないようだ。
護堂はそんなペルセウスと、歯を食いしばりながら対峙《たいじ 》した。
刺された腹の辺りが疼《うず》いて、痛んでしょうがない。だが、もうすこしだけ我慢だ――。
斬《ざん》。豪刀が振り下ろされる。
跳びのいてかわす。だが、傷ついた体ではやはり動きが鈍《にぶ》い。
体勢を崩してしまった。そこに突きを打ち込まれる。右にも左にも前にも動けない。仕方なく後ろへ、背中から倒れ込むようにして逃げる。
地面にあおむけに倒れた護堂と、刀を突き出した格好のペルセウス。
護堂は倒れた体勢から足を繰り出した。うわさに聞くブラジルの格闘技カポエラのような、下からの蹴り技になった。
狙いはペルセウスの刀を持つ腕の肘《ひじ》。
ここを砕《くだ》くことができれば――。その願いも虚しく英雄はとっさに腕を上げて、この蹴りを外してしまった。
そしてすかさず、斬り下ろしの一刀。あわてて横に転がり、避ける護堂。
豪刀が深々と石畳に――突き刺さった。
「ヨナタンの弓よ、鷲よりも速く獅子よりも強き勇士の器よ。疾《と》く駆け汝の敵を撃て!」
これはチャンスだ。そう考えた瞬間に、リリアナの言霊が響き渡る。さすがは新しい相棒、ちゃんとこちらの期待に応えてくれる!
待ち望んでいた四筋の彗星《すいせい》が、上方より襲いかかっていった。
反射的に刀を抜こうとして、石畳に目を落としたペルセウスめがけて。
「おお、来るか――!」
さすがは白き流星、三本までは彗星の矢を避けてみせた。
だが、残る一本がペルセウスの左足の甲に突き刺さる。英雄の足ごと石畳に深々と突き刺さり、みごとに縫い止めてみせた。
矢を引き抜き、自由の身になろうと右手を伸ばすペルセウス。
その隙に護堂は全力で走り、彼から離れていく。
「主は仰《おお》せられた――咎人《とがびと》に裁きを下せと」
この方法なら、あの化身で今度こそあいつを倒せるはず。
――だから、早く来い。今度こそ好きなだけ暴れさせてやる。とにかく早く!
言霊を唱えながらも護堂は必死に駆ける。『駱駝』の化身を解いたので、もうあのデタラメな打たれ強さはない。貫かれた腹部の痛みがどんどん激しくなっていく。
それでも根性で足を動かし、最後の言霊を解き放った。
「背を砕き、骨、髪、脳髄《のうずい》を抉《えぐ》り出せ! 血と泥とともに踏みつぶせ! 鋭く近寄り難き者よ、契約を破りし罪科《ざいか 》に鉄槌《てっつい》を下せ!」
空間の裂け目、異界と現世をつなぐ扉が顕現《けんげん》する。
今回は石畳の上――地面にではない。
護堂が寝転がり、ペルセウスが刀を突き刺した広場の――真上の空間だった。地上から測《はか》れば二〇メートルほど上空だろうか。
扉から、あの黒い『猪《いのしし》』の野郎が鼻面《はなづら》を見せた。
まっすぐに真下をにらみつけ、激しくいきり立っている。そう、今度の目標はプレシビート広場――ペルセウスが縫《ぬ》い止められている地面そのものだった。
ルオオオオオオオォォォォォォォンンンンンッ!!
魔獣の咆哮《ほうこう》が、夜のナポリに響き渡る。
黒い巨体が空――というにはかなり低空だったが、一応は空から降ってくる。
「む――おおぅッ!!」
落ちてくる『猪』の巨体を愕然《がくぜん》と見上げながら、ペルセウスが雄叫びをあげた。
その直後に漆黒《しっこく》の巨体が大地に急降下し、英雄の体ごとプレシビート広場の石畳を超弩級《ちょうどきゅう》のボディプレスで踏みつぶした。
4
黒き『猪《いのしし》』の魁偉《かいい 》な肉体が広場ごと『まつろわぬ神』を押しつぶした直後。
草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》はバタンと倒れ込んでしまった。
ついに限界が来たらしい。意識を失ったようだ。
あわてて駆け寄ったリリアナは、護堂の有《あ》り様《さま》に泣きたくなってしまった。
ペルセウスに貫《つらぬ》かれた腹部が真っ赤に染まっている。ひどい出血だった。いくら魔王カンピオーネの肉体とはいえ、どこまで保つものだろうか。
「あ、ああ、なんてことだ。しっかりしてください、草薙護堂! 我が主よ!」
一瞬パニックになりかけたが、リリアナはすぐに持ち直した。
とにかく、まず病院を手配しなくては。カンピオーネの肉体はすさまじい治《ち》癒《ゆ》能力を持つというが、できる限り人為《じんい 》も尽くすべきだ。
そして『王』の体を触診《しょくしん》してみようとにじり寄り、ふとリリアナは思いついた。
傷ついた体を癒《いや》す『治癒』の魔術。
考えてみれば、まずそれをかけるべきなのだ。カンピオーネに術は効かないという固定観念があったのですぐ思い至らなかったのだが、今の自分は解決策を知っている……!
「こ、これは治療行為なのだから、わたしの方からキ、キスして差し上げても問題ないはず……。いや、むしろそうすることがわたしの義務なわけで……」
恥じらいながらもつぶやき、『王』の唇《くちびる》を見つめる。
ドキドキと胸が高鳴る。
目の前で傷つき、横たわる人のために、できる限りのことをしてあげたくてたまらない。
手料理も振る舞ってあげたいし、冬は編み物でもして何かを贈ってあげよう。あとは身の回りの世話だったり、部屋の掃除なんかもしてあげたり……。
だがとにかく、まずは彼の体を治してあげることが先決だ。それからゆっくり看病してあげればいいのだ。というわけでキスをしようかと、決心した瞬間。
「……ふん、どうにか勝利したか。未熟ではあったが、最低限の結果は出したわけだ」
少女の声がいきなり聞こえたので、リリアナはあわてて振り向いた。
そこに立っていたのは、女王の威厳《い げん》を持つ少女。
夜目にもあざやかな銀月の髪と闇色《やみいろ》の瞳《ひとみ》。――まつろわぬアテナだった。
「勝利したあとにこそ気を引き締めるべきだと申すのに、この体《てい》たらく。まったく、未熟な小僧よ……。だがまあ、あの悪戯者《いたずらもの》を相手によく戦ったとも言える。何と言っても彼奴《き ゃ つ》は、かつて我が分身を倒したほどの勇士ゆえな――」
口では手厳しく罵《ののし》っている。だが『王』を眺める女神のまなざしには、かすかな賞賛の色があるようにもリリアナには思えた。
「とはいえ、王にして戦士たる者が、このように隙《すき》だらけで何とする。同じことを前にも言ってやったはずだというのに改めずか。この慮外者《りょがいもの》め」
アテナは、草薙護堂に歩み寄ってきた。
そして、横たわる彼の前でしゃがみこむ。女神の意《い》図《と》に気づき、リリアナは「お、お待ちくださいませ!」と制止しかけたのだが。
間に合わなかった。
アテナは草薙護堂の唇に己の可憐《か れん》な唇を押しつけて、キスをあたえてしまった。
「あなたを此度《こ たび》のいくさに巻き込んだ詫《わ》び、そして勝利への褒美《ほうび 》だ。その傷を治してくれよう。……次はもっと上《う》手《ま》く戦うがいい!」
唇を放し、傲然《ごうぜん》と告げて、アテナは立ち上がった。
そしてリリアナの方を一瞥《いちべつ》だにしようともせぬまま、女神の威を込めて命じる。
「娘よ、主の世話をしかとするがいい。しばらく寝ておれば体も回復するはずよ。そして伝えておけ。例の取引を忘れるなと――。いずれアテナがあなたの前に現れるとな!」
その言葉だけを残して、アテナは夜の街へと消えていった。
(街といっても、プレシビート広場とその周辺は破壊の限りを尽くされて、もう廃墟《はいきょ》としか呼べないような惨状ではあったが)
残された魔女にして大騎士は、せっかくの好機を逃したショックでがっくりと膝《ひざ》を着き、悄然《しょうぜん》と肩を落とすのであった。
遠くで黒き神獣が、勝利の咆哮《ほうこう》を天へと捧《ささ》げている。
それがかすかに聞こえるナポリの路地裏で、光の粒子がきらきらと輝き、弾《はじ》け、人の姿を形作っていった。
光はやがて美男の英雄――まつろわぬペルセウスとなった。
「まったく、美しくない荒技を繰り出してくれるものだ。あんな方法でここまで追い詰められるとは、神話の時代にもなかったことだというのにな!」
はあはあと息を荒らげながらも、ペルセウスは歓喜で打ち震えていた。
神《しん》獣《じゅう》に潰《つぶ》されながらもギリギリのところで光となり、復活を果たした直後だった。沈んだ太陽が朝にはふたたび甦《よみがえ》る、光の生命力の恩恵である。
わずかに残っていた『太陽』の神力は、これで全て使い果たした。もうこの方法で窮地《きゅうち》を切り抜けることはできないのだが――。
ペルセウスは草薙護堂がいるはずの方角を微笑しながら見《み》据《す》えた。
「これからすぐに戻れば、勝負のつづきに間に合う……という頃合か。ふふ、このまま矛《ほこ》を収めるのは、やはり少々もったいないと言えよう」
神である彼だが、さすがにあれだけの攻撃を受けた直後。
正直に言って限界が近かった。だというのに、さらに戦いたくて仕方がない。ひさしぶりの地上、ひさしぶりに巡り会った強敵の存在が、彼の心を昂《たか》ぶらせていた。
「いやー、そろそろ潮時《しおどき》だと僕は思うよ。プロレスだったら3カウント、ボクシングだったら10カウントがとっくに終わっている試合だからね」
ゆっくりと歩み寄ってくる男に声をかけられた。
神ではなく人間。そして神殺し。気配からそうと察したペルセウスは刀を呼び出した。
足音も立てずにこちらへ歩いてくる、神殺しの青年。
その歩き方だけで、身につけた武芸の奥深さが察せられる。彼の手には鋼《はがね》の長剣が握られている。ごく平凡な駄剣のはずだが、なぜか言いしれぬ脅威《きょうい》を感じてしまう。
おそらく、銀色に輝く右腕に秘密があるのだろう。
どんな能力かは不明だが、この腕こそが青年の簒奪《さんだつ》した権能《けんのう》のはずだ。
「やあ、はじめまして。僕の名はサルバトーレ・ドニ。あの坊やとは、そうだな……終生の友にしてライバルという関係なんだ。あなたは多分、ペルセウスでいいんだよね?」
「それでかまわんよ。察するに君は、友の身を守るために戦うつもりなのかね?」
「う〜ん、ちょっとちがうかな」
ペルセウスの問いに、金髪の神殺しは能天気な笑みを浮かべた。
「今回はさすがに、僕も遊びすぎているからね。すこしは事件解決に貢献《こうけん》しておかないと、ちょっとアンドレアのお説教が怖いんだ」
「ほう。では、私と戦うつもりだと?」
「正解。でも手負いを相手にしてもつまらないから、逃げるなら追わないよ。はっきり言って、今のあなたが相手なら一〇回戦っても全部勝てるし」
にやーっと人好きのする笑顔でサルバトーレ・ドニは言った。
好青年にしか見えない顔の造作、明るい笑み。そして、その目の奥でほの暗く燃える焔《ほのお》。
ごく稀《まれ》に生まれるという類《たぐい》の人間、狂える天与の才を持つ男か。
そうと見抜いたペルセウスは、うっすらと微笑した。もちろん神から見れば、人間である限り他の凡人と大差はない。だが、そんな男が神殺しとなったのであれば――。
この青年もまた、稀代《き たい》の傑物《けつぶつ》なのだろう。
当代の神殺しはなかなか面白い輩《やから》がそろっているようだ。すばらしい。
「君の言い分は理解した。では、私が戦うと言うならどうする?」
「それはもう、美《お》味《い》しくいただくまでだね」
意見の一致を見た剣士ふたりは、得物《え もの》を手に向かい合った。
サルバトーレ・ドニは半身になっただけで、だらりと剣は下げたまま。この構えとも言えない無の構えから、無限の変化を生む千変万化の剣術。よくここまで鍛《きた》え上げたものだ。
刃を交える前からペルセウスは敵手の技倆《ぎりょう》を読み取った。
史上最強かどうかは不明だが、当代最強の剣士と名乗っても不遜《ふ そん》ではあるまい。
対してペルセウスの刀術はシンプルだ。
敵よりも速く動き、敵よりも速く刀を操る。それだけだった。だが、超常の英雄たる者にはそれで十分なのだ。
だからこのときも、白き流星となってドニに詰め寄り、豪刀を振り下ろした。
「だから手負いはイヤなんだ。万全の状態ならともかく、弱って遅くなったあなたの動きなんか、あくびが出そうなくらい余裕で見えちゃうんだからさ」
真下からドニの剣が跳ね上がってきた。
それでペルセウスの豪刀は半ば辺りから両断されてしまった。そのままドニは剣の勢いを殺さず、逆|袈《け》裟《さ》の一刀で英雄の肉体を斬り上げた。
この剣は、神すら斬り裂く最高の鋼――。
己を打ち倒した一撃のみごとさに満足すると、微笑するペルセウスの肉体は塵《ちり》のように崩れ去っていった。
「……やっぱり権能は増えないか。せっかくの神様だってのに、もったいなかったかな?」
塵《ちり》となったペルセウスの最期《さいご 》を見届けて、ドニは独りごちた。
正々堂々の一騎打ちである必要は必ずしもないが、神を倒してカンピオーネとなるには相応の戦いぶりを示さなくてはならない。
つまり、神殺しの母パンドラを満足させ、己の養子に迎え入れたいと思わせる勝利が。今のドニのような勝ち方では、彼《か》の女神は頬をふくらませてダメ出しするだけだろう。
「弱った神様を狙って倒しても権能は増やさないって、前に釘《くぎ》を刺されたもんなー。……あれ、いつどこで会ったんだっけな? ま、いいか」
どこかでパンドラと出会ったような気がするのだが、詳細が思い出せない。
だが、サルバトーレ・ドニは深く気にしなかった。思い出せないということは、それほど重要な出来事ではないのだ、多分。
この後、彼は草薙護堂の顔を見ることなくナポリを去ったという。
口うるさい側近兼世話係が追いつく前に、行方《ゆ く え》をくらますためであったらしい。『まつろわぬ神』の顕《あらわ》れた街ナポリでの、知られざる一幕であった。
終章
ナポリの夜はまだ終わっていなかった。
ペルセウスを押しつぶし、その立役者となった『猪《いのしし》』が消え去ったあと、意識不明の草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》は病院へ運ばれることになった。
目覚めると病室のベッドの上だったので、護堂はひどく驚いた。
刀で貫《つらぬ》かれたはずの腹部は包帯で覆《おお》われていて、不思議と痛まない。傷口もほとんどふさがったように思える。聞けば、アテナが去り際《ぎわ》にお節介をしてくれたらしい。
だから、病院の手配をしてくれたリリアナに退院したいと願い出たのだが。
「あれだけ深く刺されたのです! いくらアテナに癒《いや》していただいたとはいえ、しばらくは安静にしておくべきです! おとなしく寝ていてください!」
憤然《ふんぜん》と言われて、無理矢理寝かしつけられてしまった。
生傷が絶えない割に病院とは縁がない生活を送っていた護堂は、落ち着かない気分で病室内を見回した。個室なので、ここにいるのは自分とリリアナのふたりだけだ。
――そういえば、ペルセウスは今頃どうしているのだろう?
護堂はふと疑問に思った。
彼の権能《けんのう》がこちらに移ってきていない以上、あの『猪』の一撃にすら耐えて生き延びているはずなのだ。さすが神様、生命力が半端《はんぱ 》でなく旺盛《おうせい》なようだ。
まあ、姿を見せないということはどこかで静養しているに決まっている。
護堂は気にするのをやめて、ベッドの脇《わき》にすわるリリアナを眺めた。
彼女はちょうど洋梨の皮を、小振りなナイフで器用に剥《む》いているところだった。これがエリカならメイド兼助手に命じてやらせるところだ。
「もしかして、リリアナは普通に家事とかできる人なのか?」
「当たり前です。あなたが誰と比べているのか察しはつきますが、あんな雌狐《めぎつね》といっしょにしないでください。この程度は騎士といえども、女であればできるのが普通なのです。わたしはちゃんと料理もしますし、家事だって人並み以上にこなします」
というのが、失礼な質問に対する返答だった。
護堂は苦笑してうなずいた。メイドの女の子など連れていたので、もしかしたらエリカの同類なのかと疑ってしまったのだ。
「よ、よろしければ、近いうちにわたしの手料理をご馳走《ち そう》して差し上げますが」
「へえ。そりゃちょっと楽しみだな。そのときはよろしく頼むよ」
「でしたら、ついでです。お、お部屋のお掃除やお洗濯などもいたしましょう。どうせついでですから、全ておまかせいただいてかまいませんッ」
「え? いや、べつにそこまでしてもらわなくても……」
「いいえ。これも騎士の務めです! あなたは『王』なのですから、細かいことを気にされずにデンと構えていればいいのです!」
「そ、それはちょっとちがうんじゃないか!?」
などと妙な会話になってしまったとき。
ガチャリと病室のドアが開いて、ふたりの少女が入ってきた。
エリカ・ブランデッリと万《ま》里《り》谷《や》祐《ゆ》理《り》。一日ぶりに会う日本からの同行者たちだった。
「ああ、何だ。わざわざこっちに来てくれたのか。べつにサルデーニャで待っててくれてもよかったのに」
特に深く考えず、護堂は声をかけた。
そして、肝《きも》を冷やすことになった。まず祐理がきりりと澄んだ双眸《そうぼう》を吊《つ》り上げ、こちらをにらみつけてきたから。そしてエリカが、フッとあでやかに微笑してみせたからだ。
「護堂さん、あなたはあれだけ人に心配をかけさせておきながら、そのことについて何も反省されていないようですね。消息不明のあなたの安否《あんぴ 》を案じて、私たちがどれほど不安に思っていたか――すこしはお察しください」
いきなりのお説教。
祐理が放つ夜叉女《や しゃめ 》の眼光で、護堂は射《い》すくめられた。怖い。
「おまけに、まさかと思っていればエリカさんのご推測通りに、こんなことに……」
「も、申し訳ない、万里谷。俺も連絡しようとはしたんだけど、全然ダメでさっ。と、ところで、こんなことってどういうこと?」
あわてて護堂はあやまり、そして訊《たず》ねた。
ベッドの自分と枕元《まくらもと》のリリアナを眺める、祐理の永久凍土《えいきゅうとうど》に吹くブリザードにも似たまなざし。彼女は一体、何を心配していたというのだろう?
そしてエリカだ。入室してきたときから、ずっと華やかに微笑したまま。
優雅《ゆうが 》で、悪魔的で、本能的な恐怖を刺激されてたまらない笑み。――危険だ。これはとてつもない危機の兆候《ちょうこう》だと、カンピオーネの本能が訴えていた。
「祐理、あまり護堂を責めてはいけないわ。この人は王様なの、ちょっとぐらいのやんちゃは大目に見るべきよ。結果的に無事なのだし、『まつろわぬ神』にも勝ったというしね」
ものわかりのいい貴婦人めいた言葉。
だまされてはいけない。これはフェイク。真の攻撃を隠すための牽制《けんせい》に過ぎないはず。
「護堂がどれだけ勇戦したか、ディアナという魔女に全部[#「全部」に傍点]教えてもらったわ。さすがね、わたしたちがいなくてもちゃんと神の正体を暴いて、『戦士』の化身《け しん》まで使いこなして」
耳に心地よいエリカの賛辞《さんじ 》を、護堂は身がまえながら聞いていた。
いつだ? いつ彼女はしかけてくる? この病室はたしか二階、いざとなったら窓を破って地上へ飛び降りよう。どうせ死にはしない。
「リリィにもお礼を言うわ。すっかり護堂がお世話になったみたいで……」
今度は銀髪の旧友の方に華やかな微笑を振り向けた。
その瞬間に、ついに来た。――閃《ひらめ》く鋼《はがね》の影。忽然《こつぜん》とエリカの右手に短刀が現れ、彼女はそれをごく自然な動きで護堂に突き込んできたのだ。
「う、うわあああああッ!」
エリカが何かやるとは感じていたものの、ここまで過激な行動は予想外だった。
護堂は絶叫して、ベッドからまろび出ようとした。
この短刀の軌道、明らかに自分の胸部――おそらく心臓を狙《ねら》っている気がする!?
「乱心したか、エリカ! 主に対して不敬《ふ けい》だろう!」
リリアナが一喝《いっかつ》し、手にしていたナイフを割り込ませてエリカの短刀を受け止める。
ガキン!
カン、カン、カン、カン、カンと甲高《かんだか》い響きを立てて、幾度も短刀とナイフが打ち合わされる。巧《たく》みな剣技を駆使した、熾烈《し れつ》な攻防だった。
そして、ようやくエリカがふぅと息を吐いて、短剣を下ろした。
「やっぱり護堂を庇《かば》ったわね、リリィ。隠すつもりもないというわけ?」
「あなたに遠慮する理由はないからな、エリカ。理解できたのなら、以後このような狼籍《ろうぜき》は慎《つつし》むといい。何度乱心しようと、必ずわたしがお守り申し上げてみせる」
鋭く互いをにらみつけながら、ふたりの女騎士が言い合う。
「エ、エリカ、イタズラにしては質《たち》が悪すぎるぞ。勘弁《かんべん》してくれ……」
いきなり刺されかけた恐怖に打ち震えつつ、護堂は言った。
「だって、すこしは怖がってもらわないと、おしおきにならないでしょう? どうせリリィが庇《かば》うんだろうし、これぐらいはしなきゃダメだと思って」
「お、おしおき!?」
驚く護堂に、エリカは邪気《じゃき 》のない笑顔を見せた。
童女のように可愛《か わ い》らしい、真夏のヒマワリにも似た笑い。どこかで見た気がする。
「わたしは寛容《かんよう》だけど我慢《が まん》はしない女だって、前に言ったはずよ? ちょっと護堂のことが憎たらしくなったから、そのおしおき。大丈夫、勢い余ってあのまま刺さっても、どうせ護堂なら死なないわ。逆にいい薬になったはずよ」
「無茶言うなよ! どうして俺にこんなことを!?」
「あら、言わなきゃわからない? ……『剣』を使ったのよね?」
――!? 護堂は息を呑《の》んだ。
口をつぐんで隠しておけば、きっとわからないだろうと姑息《こ そく》な計算もしていたのだが、甘かったか。彼女の情報収集力を見くびっていた。
(事実はもちろん「あらエリカさん、わざわざ来ていただいて申し訳ないわ――。安心して、草薙さまのサポートは私たちだけでバッチリだったから!」「ペルセウス神を斬り裂く言霊《ことだま》、存分に使っていただきました。エリカさまがおられなくとも、草薙さまはこれから不自由されないことが立証されたようですね」と、ナポリに到着したエリカたちを出迎えた魔女ふたりのコメントが情報源なのだが、護堂はそこまで思い至らなかった)
「言霊を授けたのはリリィ、あなたなのよね?」
「その通りだ。わたしがその役に最も適任だったからな」
余裕すら漂わせるリリアナの表情を、エリカは面白くなさそうに眺めた。
大きく成長したライバルと再会し、警戒心を刺激されている――そんな顔つきだ。
「剣技にすぐれ、魔術にも長《た》け、霊視の力も所有するわたしと我が主《あるじ》の出会いは、運命的だと言えるかもしれない。わたしならば、あらゆる局面で主を補佐することができるからな」
「我が主、ですって?」
「ああ。今回の件がきっかけになり、わたしは草薙護堂の個人的な騎士となることに決めたのだ。すでに主従の誓いは済ませてある。エリカ、一応あなたが先輩となるわけだが、特に敬意は払うつもりはない。おそらくわたしの方があなたよりも有為《ゆうい 》の人材だと思うからな」
そんなリリアナの宣言のあと――。
エリカにふふっと笑いかけられて、護堂の背筋を冷や汗が伝う。
この可愛さとあどけなさが怖い。これならいつものように悪魔の微笑で弄《もてあそ》ばれる方が、遥《はる》かに気楽でいいと痛烈に感じた。
「仕方のない人ね。……正妻以外の愛人はひとりまでとも言ってあったでしょう? しかも、わたしが許可を出していない娘に手を出して。やっぱり本当に刺してあげた方が、教訓になっていいのかしら?」
「そういう冗談を可愛く言うのはやめてくれ、本気でおっかないぞ!」
「いやだわ。わたし、冗談を言うときはもっとウイットを利かせるわよ。これはただ、頭に思い浮かんだことをそのまま口に出しているだけ」
「落ち着いて話を聞けよッ。リリアナは愛人じゃなくて『騎士として』って言ったんだぞ!」
「そのふたつは同じことよ。護堂、あなたはもっと修辞学《しゅうじがく》と弁論術を学ぶべきね。そんな芸のない浮気の言い訳、面白くないわ」
「浮気じゃない! 万里谷、黙って見てないで何か言ってくれ!」
エリカと口論して勝てるはずがない。
遅まきながら気づいた護堂は、もうひとりの少女に話を振った。いくら怒っていても、正義感に富み、思いやり深い祐理なら庇ってくれるはずだ……!
「そうですね。エリカさんのおっしゃる通り、一度くらいは刺された方が護堂さんも己の罪をきちんと悔《く》いてくれるかもしれませんね。『まつろわぬ神』との戦いを理由に女性の唇《くちびる》を奪って悪びれないなんて、まさに色魔《しきま 》の所行です。鬼畜《き ちく》外道《げ どう》です」
庇ってくれなかった。
咎人《とがびと》に死罪を言い渡す姫君のように、祐理の言葉は冷徹だった。
巫《み》女《こ》さんが仏教用語で人を罵《ののし》るのはどうかと思いながらも、護堂は粘《ねば》った。
「ほ、ほら、これって万里谷と俺がその……アレをしたときといっしょじゃないか。そんなふうに言わなくてもいいだろう?」
「いいえ。私のときとはまったく異なる状況のはずです」
「え? そんなことはないって」
「あります。とにかく、私との行為と今回の為《な》さりようとの間には天と地ほどの隔《へだ》たりがあるのです。そのような妄言《もうげん》で己の罪を糊《こ》塗《と》しようとされるなんて姑息《こ そく》です」
祐理にまで突き放されて、護堂は混乱した。
ペルセウスとの戦いを切り抜けたというのに、むしろあのときよりもピンチに陥《おちい》っているではないか。なぜだ!?
「まったくあなた方は……。そろいもそろって王と主への敬意に欠けること甚《はなは》だしいですね。ですが草薙護堂、ご安心ください。このわたしだけは永遠にあなたの忠実な騎士、生死を共にする剣にして楯《たて》となりましょう」
リリアナだけは、そんなふうにけなげな誓約をしてくれる。
だが彼女が味方する分、かえってエリカと祐理からの風当たりが強くなる気もする。
――護堂が現状の危うさを認識し、自分がおそろしく繊細《せんさい》なパワーゲームのプレーヤーになった事実を自覚するには、時間と経験がまだ足りていなかった。
今のところは、三人の少女たちを前にしておろおろするだけであった。
熱いナポリの夜はまだまだ終わっていなかったのである。
[#改ページ]
あとがき
「俺、このあとがきを書いたら故郷に帰って結婚するんだ」
なんてフラグを立てておけば、あとがきを書かなくても許されるかもしれない。
そんなふうに考えていた時期が僕にもありました。
おひさしぶりです、もしくははじめまして。丈月《たけづき》城《じょう》です。要するに僕が言いたいのは「あとがき書くのって、ちょっと面倒だよね。テへ♪」みたいなことなのですが、スーパーダッシュ文庫編集部の前には通用しない言い訳です。なので、おとなしく書き進めます。
さて、本作もめでたく四巻まで刊行させていただく形となりました。
この巻では、一巻のアテナに匹敵する有名人(?)の登場と相成ります。
シコルスキーさんによってイラスト化された彼の美しさにしびれた淑女《しゅくじょ》のみなさま、ぜひ『もっと美形キャラを出せ』という声を当方までお届けください。
いや、拙作《せっさく》に女性読者がいるという話は寡聞《か ぶん》にして存じ上げないのですが、一応念のため。
とはいえ当方の予想以上にいらっしゃるのであれば、『カンピオーネ! 戦国BASARA篇』を上梓《じょうし》することもやぶさかではありません。熱いお便りをお待ちしております。
ちなみに、僕の脳内には『カンピオーネ! 利根川《と ね がわ》源流行《げんりゅうこう》篇』や『美少女だらけの箱根《はこね 》温泉、ポロリもあるよ篇』なども用意されていますので、ご希望の方はぜひリクエストを!
さてさて、三、四巻の舞台が外国でしたので、そろそろ日本に戻るつもりでおります。
物語の序盤もゆるゆると終わり、中盤戦のはじまる次巻。『学校篇』となる予定ですが、予定は未定の状態です。秋頃にお届けできればよいのですが。
よろしければ、ひきつづきお楽しみください。ご縁がありましたら、またお会いしましょう。
[#地付き]二〇〇九年六月丈月城
■女騎士燃え!
今回はリリアナがやたらと可愛いお話です。
リリアナ党員急増の予感がしますね。
かく言う自分も読んでてクラッといきそうになりました。
■あとがきカットはここ最近お留守番が続いて出番の少ない
静花さんで〆てみました。
日本で怒ってるだろうなぁきっと※[#「顔文字」は2頁前参照]
シコルスキー