カンピオーネ V はじまりの物語
丈月城
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)草薙《くさなぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)変人|揃《ぞろ》い
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あなた[#「あなた」に傍点]
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底本データ
一頁18行 一行42文字 段組1段
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草薙護堂は未だ神殺しにあらず。
草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》は祖父の友人を訪ねるため、イタリア・サルデーニャに来ていた。その地で不思議な少年と出会い、友誼をはぐくむ護堂。だが、そこに現れた魔術師を名乗る少女・エリカとの出会いによって「神」にまつわる事件に巻き込まれることに…。草薙護堂は如《い》何《か》にして神を殺し、魔王《カンピオーネ》となったのか。そのはじまりの物語が遂に明かされる!!
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Authors Introduction
著者紹介
丈月《たけづき》 城《じょう》
私、かつて仕事場の同僚に
極めて効果的な仕事の処理方法についての
私案を語った際に
「よくそんな邪悪なことを思いつきますね」と
賛辞された経験もあったりするのですが、
初対面の方にはおおむね「やさしそうな人だ」と言われます
どちらが本当の私なのかは秘密です。
シコルスキー
S57生まれ、横浜市在住のイラストレーター
趣味は読書とPCゲーム…等。
最近left 4 DEAD≠ナ
ゾンビ娘萌えに目覚めました。
スーパーダッシュ文庫 丈月 城の本
カンピオーネ! 神はまつろわず
カンピオーネ! U 魔王来臨
カンピオーネ! V はじまりの物語
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Characters Introduction
主要登場人物
草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》
軍神ウルスラグナの権能を有するカンピオーネ。
エリカ・ブランデッリ
〈赤銅黒十字〉の魔術師。
自称、護堂の「愛人」。
万《ま》里《り》谷《や》祐《ゆ》理《り》
霊視の力を持つ媛巫女。
護堂の「正妻」と称される。
ルクレチア・ゾラ
サルデーニャの魔女。一朗の友人
草薙《くさなぎ》静花《しずか 》
護堂の妹。祐理の茶道部の後輩。
草薙《くさなぎ》一朗《いちろう》
護堂の祖父。若い頃は浮名を流したらしい。
アリアンナ・ハヤマ・アリアルディ
通称アンナ。エリカの部下。
甘粕《あまかす》冬馬《とうま 》
正史編纂委員会のエージェント
装丁/川谷康久(川谷デザイン)
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Contents
――――――
目次
序章 p11
第1章 光は東方より p33
第2章 運命の出会い p60
第3章 サルデーニャの魔術師 p99
第4章 プロメテウス秘笈 p139
第5章 我、敗北を求めたり p174
第6章 その名はウルスラグナ p212
終章 p272
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序章
夏休み。
多くの高校生が待ち望んでやまない長期休暇。
ある者は遊びに、ある者はスポーツに、ある者はバイトに、恋愛に、受験勉強に、同人誌即売会に青春の血潮《ち しお》と情熱を捧《ささ》げる一カ月半。
しかし現在、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》にとって夏休みとは災厄《さいやく》と同義語であった。
『――ふふっ。いい、護堂。夏休みはわたしといっしょに旅行に行くの。これはもう決定事項で最優先事項なんだから、そのつもりでいてよね。……イヤだと言っても認めないわよ』
と、赤みがかった金髪の少女から宣告されたのは半月以上も前である。
彼女が浮かべる微笑はあでやかで、華やかで、何より悪魔的だった。
護堂が知る限り、こんな風に笑える少女はエリカ・ブランデッリ以外にひとりもいない。すばらしい美貌《び ぼう》と聡明《そうめい》さ、狡猾《こうかつ》な知謀《ち ぼう》、剣と魔術に関しては天才の名をほしいままにする才能と自信――それら全《すべ》てを凝縮《ぎょうしゅく》した、とびきりの笑顔なのだ。
護堂とて健康な一六歳の男子高校生である。
エリカほどの美少女にここまで言われてうれしい気持ちは当然ある。
あることはある。
だが、だからといって流されるわけにもいかない。そうしたら最後、旅行─結婚─出産─育児という二〇代も半ばを過ぎてから真剣に思い定めるべき人生航路のほとんどが、半自動的に決まってしまいそうな――そんな恐怖があるせいかもしれない。
「つまりだ、少年。君がエリカ嬢の求愛を素直に受け容《い》れられない理由はあれと同じなのだ。……もう六年も付き合った恋人がいるとしよう。性格も性癖《せいへき》もおたがい知り尽くした彼女とのぬるま湯のような関係は居心地良くもあり、刺激に欠けるものでもある」
なつかしいサルデーニャ島に住む歳上《としうえ》の友人の言葉が、自然と思い出される。
「そんな彼女に、ある日突然言われるのだ。『ねえ、そろそろ私たち、ちゃんとしてもいい頃じゃない? 今度、うちの両親と会ってよ』などと。そのとき男の胸に押し寄せる想《おも》いは、たいてい身勝手なものだ。『そんなこと言われても、もっと自由の身でいたいしなァ……』なんて考えて『ん、まあ、そのうちにな』とか適当な生《なま》返事《へんじ 》をする。そう、今の君のように」
「俺とエリカは出会ってから半年も経《た》っていませんっ。そのたとえ話は不適切です!」
「ははは、だったら尚更《なおさら》じゃないか。本来なら五年以上かけて到達するような決断を、出会いから数週間程度の短期間で迫られたのだからな。そりゃ腰も引けるだろう」
失礼な決めつけをするなと口では抗弁《こうべん》したものの、そうか、そういうことなのかと納得した自分がいる。
理詰めで考えれば、エリカを拒《こば》む理由など皆無《かいむ 》だ。
美貌や才能は置くとしても、気が合うのはたしかだし、絶妙なほど息が合う。
価値観の差違はすくなくないが、致命的なものはない。そして何より、あれほど熱烈に、口でも態度でも行動でも情愛を示してくれるのだ。
(……言葉であれ行動であれ、エリカに結婚を約束するような言質《げんち 》を取られたら、その時点で俺の人生はコールドゲームになる! 多分、再試合はできない……!)
だが、こういう確信が護堂にはある。
エリカ・ブランデッリの決断力、企画力、行動力はどれもずば抜けている。
彼女がその気になれば、たいていの無茶は無茶でなくなる。そして、その拘束下《こうそくか 》に置かれることも「それはそれで幸せなのではないか」と思えるほど魅力的な少女でもある。
ゆえに護堂は、一瞬たりとも気を抜かず、全力で抗戦しつづける必要があった。
この一夏《ひとなつ》、エリカの攻撃から我が身を守り抜くにはどうすればいい?
検討の結果、護堂は「逃走」がいちばんだと結論した。
腕力では絶対にかなわない。知謀や才覚なら尚更だ。エリカとは戦わないことがいちばんの自衛策なのだ。ならば、逃走ルートや潜伏先はどうする?
知人のつてを頼って日雇《ひ やと》いバイトを重ねながら、逃走資金の確保をはじめた。
同時に、具体的な逃亡プランの構築に取りかかる。
どこに逃げる? できれば、あの娘《こ》が好き勝手できないような、手荒な行動を慎《つつし》むようなところがいい。だが、地球上にそんな場所が存在するのだろうか……。
護堂は夏休みが近づくなか、沈思《ちんし 》黙考《もっこう》をつづけていた。
「あの、護堂さん……。この問のお話ですけど、あれからどうなりましたか?」
あと一週間で夏休み、そんな頃におずおずと問いかけられた。
放課後の城楠《じょうなん》学院《がくいん》高等部。
人気《ひとけ 》のない校舎の一角で向き合う相手は、万《ま》里《り》谷《や》祐《ゆ》理《り》――校内でも際立《きわだ 》った美貌で名高い、楚《そ》々《そ》とした雰囲気《ふんい き 》の女生徒だ。
……考えてみれば、自分はこの娘ともあんな大胆な真《ま》似《ね》をしてしまったのだ。
護堂は努《つと》めて自然体を装《よそお》った。意識しだしたら、まともに相手の顔を見られなくなる。
「ああ、エリカから逃げるって話か。うん、あれこれ下準備を進めてはいるんだけど、手頃な逃げ場所がやっぱりなくてさ。正直、困ってる」
「そう、ですか……」
うつむきながら祐理はつぶやいた。
なんとなく、向こうも護堂を正面から見ないようにしている気がしてならない。
やはり、あの一件が彼女の心の重荷になっているのだろうか。
武蔵《む さ し》野《の》の媛《ひめ》巫《み》女《こ》――関東一円を霊的に守護するお役目を持つという聖なる巫女。
そのなかでも、格別に強力な霊視の呪《じゅ》力《りょく》を持つらしい彼女と、自分はあんなことをしでかして……。穴があったら入りたい。
「あ、あのさ、万里谷。何て言うか、ええと、その――」
「ご、護堂さんっ。ええと、何て言いましょうか、その――」
口を開いたのは同時だった。それで、おたがいに気勢《き せい》を削《そ》がれてしまった。
「……俺に言いたいことがあるのなら、遠慮なくどうぞ。もしかして、お説教?」
「い、いえ。そんなことはありません。護堂さんこそ、どうぞお先にお話しください」
などと、譲《ゆず》り合った瞬間。
注意深く避けていたはずなのに、おたがいの顔を正面から見つめ合ってしまった。
途端に護堂は、自分の顔が真っ赤になるのを自覚した。見れば、祐理も同じだった。顔どこうかうなじまで差恥《しゅうち》で真っ赤にしている。
……エリカ・ブランデッリは、かつてないほど息が合う相手だ。
ずっと野球、しかも捕手をやっていた護堂は、何人もの投手とコンビを組んできた。
だが、その誰よりも異性であるはずのエリカは「合う」のだ。
以心《い しん》伝心《でんしん》。阿呼《あ うん》の呼吸。出会ってから四カ月程度のつきあいなのに、目配せひとつで互いの意図を読み取れてしまう。
対して今、目の前にいる少女――万里谷祐理とはとにかくテンポが合う。
この娘とは、話すリズム、考えるリズム、行動するリズム――そういったもろもろのタイミングと呼吸が、不思議なほどしっくりとくるのだ。
女子とのつきあいは苦手と言ってもいい護堂だが、最近は明確に自覚してきた。
祐理といっしょにいることが苦にならない。
おたがいに何も発言しないままでいたとしても、彼女となら多分一日中でも大丈夫だ。
口にせずとも伝わることはある。この娘はきつい指摘やお説教ばかりするが、それは彼女の思いやりの表れなのだ。万里谷祐理は護堂の知る誰よりも慈愛《じ あい》深く、心やさしい。だから、どれだけ説教されても感謝しなくては罰《ばち》が当たってしまう。
「じゃあ、その……いつもすまないな、万里谷。俺、君には迷惑かけてばっかりだ」
「な、何をおっしゃるんですか。私、あなたのことを迷惑だなんて考えたことは一度もありませんっ。もう、変に卑屈《ひ くつ》にならないで、しゃきっとしてください!」
頬《ほお》を赤らめる祐理に言われて、護堂は苦笑した。
反骨心《はんこつしん》をあおって自分を元気づけるために、敢《あ》えてこんな言い方をしているのかもしれない。
彼女にはどれだけなじられても、鷹揚《おうよう》に受け容れられてしまうのが不思議だった。
「ああ、わかった。努力するよ。……で、万里谷の方は何の話なんだ?」
「あ、はい。…………そ、その、護堂さん。夏休みにどこかへ隠れたいという例のお話なんですけれども……よろしければ、わ、私におまかせいただけないでしょうかっ」
唐突に言われてしまった。
びっくりした護堂は、まじまじと恥じらう祐理を見つめ直す。
媛巫女――「姫」の呼び名にふさわしい、たおやかな可憐《か れん》さと高雅《こうが 》な気品を持つ少女は、何かを思いきるようにして口早に発言をつづけていた。
「実は正史《せいし 》編纂《へんさん》委員会の甘粕《あまかす》さんが手配してくださったのです。護堂さんの悩みをお伝えしたところ、自分たちに協力させて欲しいとおっしゃられて……」
正史編纂委員会。
怪力《かいりき》乱神《らんしん》の数々――魔術、呪術、超常現象、神々といった超自然の存在を一般社会から隠蔽《いんぺい》することを目的とするらしい怪《あや》しげな秘密組織。
一応は国家公務員だという彼らの名前を聞いて、護堂は考え込んだ。
この得体《え たい》の知れない連中をどこまで信用し、そして頼っていいものだろうか。
「も、もちろん、現地までは私が責任を持ってご案内いたしますし、見知らぬ土地で何かと不便もあるでしょうから、ちゃんとお世話もさせていただきますっ。――へ、変な風にお思いにならないでくださいねっ。こ、これはそう、委員会から頼まれて仕方なくすることであって……」
「うーん。せっかくだけど、今回はパスさせてもらうよ。申し訳ない」
「決して私といっしょに旅行をしましょうとか、そんなはしたない提案をしているわけではなくて――え? 今回は、パス……?」
急に口をつぐみ、きょとんとする祐理へ、護堂はうなずいた。
「ああ。せっかく骨を折ってもらったのに申し訳ないけど、他を当たってみるよ」
「そ、そんな。でも護堂さん、困っているとおっしゃっていたじゃないですか!?」
やけに打ちひしがれた表情で、祐理が言う。
せっかくの親切なのに申し訳ないなと思いつつも、護堂はきっぱり断った。
「いや、そうなんだけどさ。でも、こういうことに公務員の人たちの助けを借りるのは筋ちがいじゃないかな、なんて思ったんだ。悪い」
これが祐理個人の親切であったのなら、ありがたく甘えさせてもらったかもしれない。
だが、まだ全貌《ぜんぼう》も定かでない胡散《う さん》くさい組織の名前が出た以上、この話に軽々しく乗るのはためらわれた。
カンピオーネ。神の権能《けんのう》を簒奪《さんだつ》した魔王。人でありながら人を超えた戦士。
嘆《なげ》かわしいことに自分がそんな規格外の存在である以上、力を貸したり借りたりする相手の立場や思惑《おもわく》も警戒しなくてはならない。いやな話だが、草薙護堂は魔術・呪術にかかわる者たちにそれだけの影響力を持つ『王』なのだ。
エリカもまた、ミラノの魔術結社〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉に所属する魔術師である。
護堂は彼女の――その背後にいる結社の要請《ようせい》や助力を、割と鷹揚《おうよう》に受け容れている。だがそれは、この集団の総帥《そうすい》であるエリカの叔《お》父《じ》の人となりを知るからでもあった。
高潔《こうけつ》なる騎士のなかの騎士。|紅と黒《ロッソネロ》の生ける伝説。
そうエリカが評し、あの唯我《ゆいが 》独尊《どくそん》の美少女を心から敬服させている人物なのだ。
まだ一度しか会ったことはないが、その一度で護堂も彼に敬意を抱いた。この世に完全なる騎士道精神の体現者がいるとすれば、それはまちがいなく彼だ。
別れ際《ぎわ》に彼と交わした握手の力強い感触は、今でも忘れられない。
「……護堂さん、何だかうれしそうですね」
いきなり祐理に言われた。
彼女はこちらを不審そうに、そして、なぜかすこしだけ恨《うら》めしそうに眺めていた。
「遠くを見るようにして、誰かなつかしい、大切な人のことを思い出しているような顔をされています――」
「ああ、悪い。ちょっと知り合いのことを思い出したんだ」
いいかげんに答えながら、護堂はふと思った。
もし彼――パオロ・ブランデッリがエリカの横暴な誘惑を知れば、姪《めい》の淑女《しゅくじょ》らしからぬ計画をたしなめてくれるかもしれない。
だが護堂は、彼の個人的な連絡先を知らない。
いや待て、それを知っていそうな友人が自分にはひとりいる……!
そこに思い至って、護堂はひそかにうなずいた。
駄目かもしれないが、やってみる価値はある。あらゆる可能性を探ってみなくては!
「俺、用を思い出したから行くよ。いろいろ気を遣《つか》ってくれてありがとうな!」
「あ、護堂さん!? ど、どなたのことを思い出されたのか、ちょっとお訊《き》きしても――」
大急ぎで自宅へ帰るため、護堂は駆けだした。
別れ際に祐理が何かゴニョゴニョ言っていたような気もしたが、今度ゆっくりと聞こう。
二日後の夜、護堂は待望の返答が来ていることを自室で確認した。
以前は母が使っていた古いノートPCに電源を入れ、メールソフトを立ち上げたところ、書き送ったメールへの返信がついに来ていたのだ。
送信者の名前は Zora とある。サルデーニャ島で知り合った魔術師の名前だった。
「さあ、どうなった? ……どうか、いい返事でありますように」
祈りながらメールを開く。
『ひさしぶりだな、少年。君の活躍ぶりは私もよく耳にしている。魔王としてのキャリアを順調に積み上げているようで、君の誕生に手を貸した私もいささか鼻が高い』
漢字まで駆使した日本語で、ふざけた挨拶《あいさつ》が書いてあった。
『さて、お訊《たず》ねの件だが、残念ながらパオロ・ブランデッリの連絡先は私も知らない。あちらは名門の総帥にして最高位のテンプル騎士。対して私は田舎《い な か》の老いぼれ魔術師だ。個人的なつきあいなど、あるわけないだろう』
そうだったのか。護堂は落胆《らくたん》したが、つづく文章を見て思い直した。
『しかしだ。君の窮境《きゅうきょう》を知って突き放すほど、私は冷酷ではない。君をこの夏、サルデーニャの拙宅《せったく》へ招待しよう。考えてもみろ、どこに隠れようとエリカ・ブランデッリほどの魔術師が本気で追跡すれば、居場所などすぐに知れてしまう。あの少女の目から逃れるには、すぐれた魔術師の助力が不可欠だ。その点においても力になれると自負している』
そう、その通りなのだ。
まさにそこが護堂の懸案《けんあん》でもあったので、深くうなずいた。
『旅券等に関しても、私の方で手配しよう。全て私にまかせてくれればいい。遠慮はするな。君に面倒事の後始末を押しつけ、因果《いんが 》な世界に巻き込んだことへの詫《わ》びだと思ってくれ。考えてみれば、数カ月ぶりの再会となる。楽しみにしている』
最後は『我が友へ』の一言で結ばれている。
「……俺は何て浅はかだったんだ。今まで、ものぐさで物事を面白半分でめちゃくちゃにする良識のないダメ人間だと思っていたけど、こんな気遣いをしてくれる人だったのか」
こわもての不良が捨て猫にエサをやっている――そんな場面に遭遇《そうぐう》したような感動を覚えて、護堂は己《おのれ》の不明を恥じた。
持つべきはやはり友だ。つくづくと痛感し、感謝した。
――ここからは全てが順調だった。
夏休み、ひとりで[#「ひとりで」に傍点]長期の旅行へ行くと祖父および母に報告し、祖父には秘密厳守を誓約《せいやく》させ、妹の静花《しずか 》には隠れて旅立ちの準備を進め、サルデーニャの滞在先との打ち合わせも済ませ……。
そして、七月も後半に。いよいよ終業式が明日へと迫っていた。
夏休みを控えてずっと機嫌《き げん》よさげなエリカに対して、護堂はずっと不機嫌そうな態度を取りながら「婚前旅行」の話にも鷹揚に受け答えしてきた。
内心ではひそかな逆転劇への闘志を燃やしながら、それを表には出さない。
クールに、そして秘密裏に事を運ぶ。
それこそが勝利へ至る道なのだ。隠し事は性に合わないが、時と場合による。
……この日の放課後、そんな護堂に祐理が話しかけてきた。
「護堂さん、お話があります。すこしお付き合いください」
いきなり、妙に冷ややかなまなざしで宣告された。
人目を避けて校庭の片隅へと歩いていく祐理の背中を追いかけながら、護堂は得体《え たい》の知れない緊張感を味わった。
何か不吉なことを言われそうな、いやな予感がしてならない。
「……単刀《たんとう》直入《ちょくにゅう》におうかがいします。護堂さんはもう、この夏どこへ行かれるかをお決めになっていらっしゃるのですよね?」
万里谷祐理は世間ずれしていないせいか、基本的に察しの悪い少女だ。
聡明《そうめい》さも思いやりの深さも十分に持っているのだが、やはり深窓《しんそう》の令嬢なのだ。
だから、場の空気を読む力にとぼしい。だが天性の直観力を持つせいか、ときどきおそろしく鋭くなる。何の手がかりもないのに、真実をずばり言い当てるときがある。
今回もそうだった。
「……で、どなたのもとへ行かれるのですか?」
「どなたって言われてもなァ……。そこは秘密にしておきたいんだけど、ダメか?」
祐理は理屈ではなく、直感でものを言っている。
こんな相手にとぼけても意味がない。頭をかきながら、護堂は頼み込んだ。
自分の潜伏先は家族にも秘密にしているのだ。……いや、そこをひた隠しにした旅行計画を認めてしまう草薙家の祖父と母は、さまざまな意味で豪傑《ごうけつ》だと思うが。
「ダメです! 私の……い、いえ、私たちのいないところで、どんな良からぬことをされるおつもりなんですか!? 詳細を教えていただかなくては、快《こころよ》く送り出すわけにはいきません!」
実の家族よりも家族らしいことを言う。
しかも祐理は急に顔色を変えて、妙な心配を口にし出した。
「や、やはり、まさかとは思っていましたが、そういうことなのですか……? どなたか親しい女性のもとへでも転がり込んで、夏休み中そこで遊び暮らす……とか、そんなことを計画されていたり、実はするのですか!?」
なぜそんな発想に思い至ったのか? 護堂は困惑《こんわく》した。
「し、親しい女性ってどんな人だよ?」
「げ、現地妻、とおっしゃるのでしょう? だ、男女の間ではそのように不適切な、いかがわしい短期契約のような関係が結ばれることもあると、私、うかがっております!」
訳がわからないので質問してみたら、力一杯叫ばれてしまった。
なぜ現地妻。そんな言葉、もはや死語だと言えないか。
『――ほほう。草薙さんが遠方の親しい知人らしき方との旧交を思い出し、当座の逃げ場所を確保したらしいと、そう祐理さんは感じられたのですか。……ねえ祐理さん、これはちょっと厄介《やっかい》かもしれませんよ。現地妻、という言葉をご存じですか? なに、ご存じじゃない? これはいわゆる愛人関係の一形態でしてね――』
などと彼女に吹き込んだ人物が陰にいることを、護堂は当然知らない。
しかも、さんざん言葉を弄《ろう》したあげくに、
『ほほう、草薙さんがそんな高校生らしからぬ人間関係を持っていると、祐理さんは信じたくない? しかしですね、彼は只《ただ》の学生じゃありません。王様です。世界に七人しかいない悪鬼《あっき 》羅刹《ら せつ》の化身《け しん》で魔術師の王様なのです。その程度の甲《か》斐《い》性《しょう》があっても不思議じゃ――』
『ああ、対策ならありますとも。とてもシンプルで、効果的なものがね。……祐理さんもいっしょに付いていけばいいんですよ。ふたりで旅立って、彼の行動を監視するんです」
と、物騒なアイデアをささやきかけていたことなど、さらに知るよしもない。
だから護堂は、祐理の発想の飛躍《ひ やく》に戸惑《と まど》った。
「いや、もっと普通に考えようよ。そんなの常識的にありえないだろ」
「ではお訊《き》きしますが、ご滞在される場所にはお知り合いがいらっしゃいますか?」
「まあ、いる……かな」
「そのお知り合いの方は男性ですか、女性ですか?」
「女性、だな。一応は……」
「どのような方なのでしょう? お綺麗《き れい》な女性なのですか?」
「ええと、その辺りは何て言うか、答えづらいな……。無回答でいいか?」
続けざまの質問と応答。
すると、護堂の答えを聞いた祐理は、打ちのめされた表情でいきなり涙ぐみ――。
「不潔です、護堂さん! 私、信じていましたのに! 信じたいと思っていましたのに!」
「え? あの、万里谷? だから普通に考えようって……」
「やっぱり本当だったんですね! そういう不適切な関係の女性がいらっしゃることを私やエリカさんにも隠していたなんて……! 汚《けが》らわしいです!」
決めつけられて、護堂は困惑した。
この夏、頼らせてもらう予定の女性はかなり特殊なプロフィールを持っている。
それを詳細に明かしたら、あらぬ誤解がさらにエスカレートするのではと危《き》惧《ぐ》したので、不器用ながらもごまかそうとしたのだが。
「甘粕さんから聞いております! こういう話題のときに男性が何かをごまかそうとしたら、絶対にやましいことがあるはずだって!」
「あ、あの人は何を吹き込んでるんだよ……!?」
正史編纂委員会のエージェント、甘粕|冬馬《とうま 》。
瓢々《ひょうひょう》とした風貌とは裏腹に曲者《くせもの》らしいとは護堂も思ってはいたが、こんな小細工を仕掛けているとは。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「万里谷、もっと冷静に考えてみろ。どこをどうしたら、そんな発想に行き着くんだよ? 俺にはさっぱり理解できないぞ。人を何だと思ってるんだ!?」
「女性をたぶらかす悪い鬼です。色魔《しきま 》ですっ。あなたは普通の人じゃありませんもの!」
思わず声を荒げたら、間髪《かんはつ》いれずに言い返された。
拗《す》ねた子供のように祐理が怒っている。初めて見る彼女の一面に、護堂は驚いた。
「今までだって、さんざん非常識な真似をされてきたではありませんか!?」
「うぐっ、まあその通りなんだけど、俺は現地妻なんて囲ったことは一度もないし、これからだってないっ。絶対にないからな!」
今の祐理には理屈は通じない。だから、力強く言い切った。
それにしても、このやりとりを誰かに見られたら痴《ち》話《わ》げんかだと思われるのではないだろうか。何でこんな状況になったのか、我が身の不幸をつくづくと呪《のろ》う護堂だった。
「……でしたら、証明してください」
うつむきながら、小声で祐理がささやく。護堂は「え?」と問い返した。
「私もごいっしょさせていただきます! ずっとお傍《そば》にいますから、自分の潔白《けっぱく》を私にちゃんと証明してみせてください! 本当に無実なら、できるはずではありませんか!」
「――ええっ!?」
そして終業式当日。
一学期の授業もこれで最後という日だが、学校に行くつもりは護堂にはない。
朝早く――六時過ぎには旅《たび》支度《じ たく》で家を出て、駅へ向かう。
終業式の直後にエリカに拉《ら》致《ち》・監禁されるかもしれない。それを恐れての行動だった。ここでしくじっては、今までの苦労も水の泡《あわ》だ。
昨日はあれから、拗《す》ねて怒ってすこしだけ泣く祐理をなだめるのにひどく苦労した。
結局、感情を抑《おさ》えようと努力しながらも目元が潤《うる》んでいる彼女の怒り顔に抗しきれず、根負《こんま 》けしてしまった。この記憶が護堂の足取りを重くしていた。
……地下鉄に乗り、上野《うえの 》駅へ。
中央改札口で、待ち合わせの相手と無事に合流できた。
「お、おはようございます。その……よろしくお願いします」
昨日、取り乱したのが恥ずかしいのだろう。
蓋恥《しゅうち》で顔を赤らめながら挨拶《あいさつ》してくる祐理に、護堂はうなずきかけた。
大きなトランクケースを持つ彼女は、初めて見る私服姿だった。白い半袖《はんそで》のワンピース。夏の日差しに備えてだろう、やはり白いつば広の帽子。
この装いが、色白の彼女にはよく似合っていた。
制服と巫《み》女《こ》装束《しょうぞく》以外の格好をしている祐理はひどく新鮮で、護堂はドキリとしてしまった。
彼女とふたりきりで旅立つ。その事実を痛感し、自然と胸が高鳴ってくる。
……これじゃあまるで、駆け落ちみたいじゃないか。
「じ、じゃあ、行こうか」
「は、はい。行きましょうか」
歩き出す護堂の横に並んで、祐理も歩きだす。
どうしても駆け落ちを意識してしまって、まともに祐理の顔が見られない。わざとらしく前を向いて護堂は歩く。多分、向こうも同じ状態かもしれない。
会話もないまま改札をくぐり、成田《なりた 》空港行きの電車に乗るためホームを探す。
……とんでもないことに、あれから祐理は飛行機のチケットをすぐに確保したらしい。しかも、護堂が乗るのと同じ便、さらに席も隣だという。
もちろん、正史編纂委員会が裏で手を回した結果に決まっている。
委員会の仕事ということで、祐理が渡欧《と おう》する許可も万里谷家からすぐに出たとか……。
おそらく、このために暗躍したであろう旧知の正史編纂委員――甘粕冬馬のとぼけた笑顔を思い出して、護堂はため息をついた。
こんなことに労力をかけて、何が狙《ねら》いなのだ?
サルデーニャ島で世話になる相手へも『もうひとりお邪魔《じゃま 》してもいいか』とうかがいのメールを送ったところ、すぐに返答がかえってきた。『面白そうなので良し』と。
あちらもあちらでふざけている。
妙な状況に陥《おちい》った護堂が落胆していると、唐突に祐理が話しかけてきた。
「あの、護堂さん……。あちらでお世話になるという方は、結局どういう御方なのでしょう? よろしければ、教えていただけませんか?」
沈黙に耐えされなくなったのかもしれない。いきなりな質問であった。
「魔術師の人だよ。考えてみれば、俺がこんな身の上というか体質になっちまった元《げん》凶《きょう》のひとつは、まちがいなくあの人なんだよなァ……」
あの日、彼女がした面白半分の提案こそが、護堂を神への対決に誘った引き金なのだ。
無論、それ以外の偶然が山ほども積み重なった果てに現在へと至るのだが――。
この詠嘆《えいたん》を聞いた祐理は、冷ややかにつぶやいた。
「……そうですか。これから護堂さんが頼りにされる女性は、きっとお美しい方なのでしょうね」
「ええと万里谷、まだ会いもしないうちから決めつけるのはどうかと思うぞ」
「でも、当たっているのでしょう? 護堂さんのお顔を拝見したら、突然そうだと確信できました。絶対にそのはずです。」
こんなところで予見者の才能を発揮しないでほしいものだ。
人智の及ばぬ眼力《がんりき》を持つ巫女さんのお告げに、護堂はかぶりを振った。
「いや、だから性別はたしかに女性だけど、俺はあの人のことをそんな風に考えたことは一度もないぞ。向こうは俺のじいちゃんと同年代――いい年寄りなんだ。本当だぞ?」
だが、この精一杯の反駁《はんばく》にも、祐理は冷ややかな目つきのままだった。
「そのお言葉に嘘《うそ》はないと感じますが、全てを語っているわけではありませんね?」
「かなり長い話になるんだよ! こんなところでパパッと話せる内容じゃないんだって!」
「でしたら大丈夫です。幸い、私たちにはたっぷりと時間があります。これからイタリアまで半日以上もかかる長旅になるのですもの。いくらでもお話を拝《はい》聴《ちょう》できます」
ようやくたどり着いた京成《けいせい》上野のホームで特急列車に乗り込み、座席を確保する。
しばらくしてから、列車は走り出す。
成田に着いたら今度は空港へと向かい、欧《おう》州《しゅう》への飛行機に搭乗し、一二時間ものフライトに耐え――。祐理の言った通り、たっぷりと時間はある。
護堂はため息をついた。
この先、ずっとご機嫌ななめの祐理とふたりきりでいるのは過酷すぎる。
こうなったら事のはじめから説明し、己《おのれ》の潔白《けっぱく》を納得させるしかない。
「よし、わかった。最初から説明していくよ。俺はこういう話が苦手だから、わかりづらいところがあるだろうけど勘弁《かんべん》してくれよ」
「……最初から、ですか?」
「ああ。中学の卒業式が終わったあとの春休みにまでさかのぼる話なんだ」
その頃の草薙護堂は、中学生でも高校生でもない中途《ちゅうと》半端《はんぱ 》な存在だった。
誕生日の五月一〇日も迎えていなかったから、まだ一五歳。
そして神と戦い、その権能を簒奪《さんだつ》するという蛮行《ばんこう》も果たしておらず、正真正銘《しょうしんしょうめい》の人間だった。
己の境遇を徹底的に変えてしまった数日間。
エリカ・ブランデッリと、その他さまざまな人々と出会い、友誼《ゆうぎ 》を結び、そして戦った数日間の出来事。今ではなつかしくさえある、はじまりの物語。
それを護堂は、おもむろに語り出した。
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第1章 光は東方より
1
三月も半ばを過ぎた頃のある夜。東京都|文京区《ぶんきょうく》、根《ね》津《づ》。
草薙《くさなぎ》家の居問では、老人ふたりが差し向かいで酒を酌《く》み交わしていた。
護堂《ご どう》がそこに居合わせたのは、追加の酒を持ってきたからだ。ほどよく燗[#底辺では、「火へん+間」、読みは「かん」、33-3]《かん》した日本酒の銚子《ちょうし》を運んできたところだった。
……酒の銘柄《めいがら》に合わせて、ちょうどいい塩梅《あんばい》の燗酒《かんざけ》を仕上げる。
実は、護堂のひそかな特技である。弱冠《じゃっかん》一五歳でこの得意技はどうかと自分でも思うのだが、幼少の頃から祖父に仕込まれた成果であった。
「――で、何でまたいきなりイタリアに行くことにしたんだね?」
と訊《たず》ねたのは、祖父の旧友である高松《たかまつ》先生だった。
祖父と同年代である彼は、都内の私立大学で教授として西洋史を教えている。このため、護堂や妹の静花《しずか 》は『先生』と呼んでいた。
「うん、昔の友人に逢《あ》いに往《い》こうと思ってね」
そう答えたのが二日後にイタリアへ旅立つ予定の祖父、草薙|一朗《いちろう》である。
旅行好きな人なのだが、最近は海外へ赴《おもむ》くことは珍しくなっていた。それがこの春、突然のイタリア行きを公言したのである。
そこでわざわざ、高松先生が見送りを兼《か》ねて酒瓶《さかびん》と共に訪ねてきたのだ。
……この祖父もかつては民俗学の教授だったという。だが今は引退して、悠々《ゆうゆう》自適《じ てき》の日々を送っている。ときどき悠々過ぎて、苦言を呈《てい》したくなったりもするが。
家事のほとんどを担当してくれているのはありがたい。
だが、孫に酒の味や銘柄、産地の知識を吹き込んだり、地元商店街の女性に大人気(老いにも若きにも)だったり、道ですれちがった老齢の女性(たいてい昔はさぞ美人だったであろうと思われる)と『あ、貴方《あ な た》は――』『やあ君か。ひさしぶりだね』などと訳あり風のやりとりをちょくちょくするのは、かなり問題があるだろう。
「……その相手は女性なのかい、やっぱり?」
祖父の古なじみである高松先生は、半ば呆《あき》れたように言った。
余談だが、この人は護堂の顔を見るたび『一朗さんに似てきたね……』と心配そうにつぶやく。DNAを共有しているのだから当然だろうに、妙な心配をしないでほしいものだ。
「ああ。そういえば、君も知っているはずの人だよ。ほら、覚えてないか? うちの大学にイタリアから留学で来ていたルクレチアさん」
「あ、あの女か。おいおい、まさか一朗さん、彼女とずっと付き合いがあったのか?」
「いいや。実は最近、昔聞いたイタリアの住所に手紙を送ってみたら、返事がきたんだよ。もう四〇年以上も前になるのか……彼女が日本に置いていった品が、巡《めぐ》り巡って僕のところに転がり込んできたのでね、できれば返してあげたいと思ったのさ」
「待て待て! あの女とは二度と会わないって千《ち》代《よ》さんと約束したろう? 忘れたのか?」
だんだん不穏《ふ おん》な話になってきた。
千代というのは数年前に亡くなった護堂の祖母の名前である。
祖父・一朗はいまだに色気めいたものを漂わせるだけあって、若い頃はなかなかの美男子であった。さらに、それほど饒舌《じょうぜつ》でもないのに人の心を巧《たく》みにつかむ話術、如才《じょさい》ない社交術、みごとな人間観察眼まで持ち合わせている。結果、とにかく女性にもてた。
しかも、来るものは拒《こば》まずの鷹揚《おうよう》さまであるのだ。
そんな夫の行状《ぎょうじょう》に、祖母は心労が絶えなかったと聞いている。
「約束……あれはたしか、空港には見送りにいかないとかじゃなかったかな?」
「ちがうだろう! どうせ覚えているくせに、忘れたふりをしてるんだろ、一朗さんは。大体、直接持っていかなきゃいけない理由はないはずだぞ。航空便で送ればいいじゃないか」
とぼける祖父に、高松先生がひどく真っ当な指摘をする。
「貴重な品物みたいだからね。途中で壊れたりしたらまずいだろう? それに一度イタリアには行ってみたかったし、ひさしぶりにルクレチアとも話をしてみたかったしね」
「一朗さん、イタリア語できたのかい?」
「いいや、全然。でもまあ、何とかなるだろう。大丈夫だよ」
これが普通の老人の言葉なら、のんきな人だと呆《あき》れるところだろう。
だが、祖父の場合はちがう。現役の民俗学者だった頃の草薙一朗は、フィールドワークの名人であった。各地の伝統芸能の研究が専門だった彼は、あちこちの集落を訪れては聞き取り調査を行っていたのだ。
その訪問先のほとんどは、閉鎖《へいさ 》的な村社会である。
そこにわずかな時間で溶け込み、住人たちと仲良くなり、時には門外不出の秘伝にまつわる話まで聞き出してしまう。しかも、訪ねた場所のなかには東南アジアや中国、インドなどの海外もすくなくない。祖父の人づきあいの上《う》手《ま》さは言葉の壁を悠々と越えるのだ。
まさに名人芸と言われる由縁《ゆ えん》であった。
「貴重品ねえ……。あの女、一体何を日本に置いていったんだい?」
「ほら、大学の仲間たちで旅行に行ったことがあったじゃないか。あの、氏神《うじがみ》様のたたりだ何だって、人が二〇人くらい怪死して騒ぎになったときの」
「たたり!?」
とんでもない言葉が出てきたので、護堂は思わず声を上げてしまった。
そんな孫をちらりと見て、祖父が微笑《ほ ほ え》む。
「ああ。昔、僕がまだ大学院の学生だった頃の話なんだがね。仲のいい友人たちで集まって、能《の》登《と》の方に旅行したんだ。そのとき、いろいろあったのさ」
「そういえば、そんな騒ぎがあったな……。あの魔女がたしか、隠れて何かしていたんだ」
「ま、魔女ですか」
高松先生まで常識はずれな単語を口にしたので、さらに護堂は驚いた。
たたりの次は魔女。どんな事件があったのだろう?
「……一朗さんが逢いにいくつもりの女性はイタリア出身の留学生でね。あだなが『魔女』だったのさ。妙な雰囲気《ふんい き 》のある女で、いつのまにかそう呼ばれるようになったんだ」
「本人は笑っていたがね。『いかにも。私は魔女にちがいない』と言っていたよ」
機嫌《き げん》悪そうな高松先生に対して、祖父はどこか楽しそうだった。
昔をなつかしんでか、すこし目を細めながら語り出す。
「実際、不思議な人だった。猫や鳥を手なずけるのが異様に上手かったり、なくしものがある場所をずばりと言い当てたり、天気予報よりも正確に翌日の天気を当ててみせたりしてね。……そうそう、日本語もやたらと達者《たっしゃ》だったよ。言葉だけなら、僕らネイティブと同じだった」
その女性と若き日の草薙一朗、高松先生らをふくめたグループでの温泉旅行。
さびれた山村の温泉宿でのんびりと過ごしているときに、その怪《あや》しげな事件は起こったのだという。
「次々と人が心臓|麻《ま》痺《ひ》で死んでいったんだよ。半月あまりで犠牲者は二〇人弱。伝染病でも殺人事件でもない。これはたたり、土地神様の呪《のろ》いだって言われるようになったんだ」
「呪いって……推理小説なら、衝撃のトリックが明かされるところだよな」
その手の小説が、護堂はきらいではない。だが祖父は苦笑して、首を横に振った。
「残念ながら、そうはならなかった。旅行で居合わせた僕らは、すっかり動転していたよ。だけど、ひとり落ち着いていたルクレチアはふらりと出かけて一晩帰ってこなかった。朝、疲れ切った様子で戻ってきた彼女がまた『予言』したのさ。今後はもう人が死んだりはしない。全《すべ》て解決したとね」
ウソのような昔話。にわかには信じがたい。
だが、祖父の語り口にふざけたところはなく、高松先生も渋《しぶ》い顔でうなずいている。
「なんだかすごい人みたいだな。……ところで、その人は何で留学なんかを?」
興味をそそられた護堂は、なんとなく訊《き》いてみた。
「日本古来の伝《でん》承《しょう》――特にヤマトタケルなんかの勉強をしにきたと言っていた。実際、僕らよりも神話や民話におそろしく詳しかったよ。日本に来る前はロンドンの大学でアーサー王と円卓の騎士を研究していたそうだ」
「それ、脈絡《みゃくらく》が全然ないじゃないか。何でロンドンから日本にわざわざ?」
「さてねえ? ルクレチア本人はちゃんと理由があると笑っていたがね」
「で、じいちゃんはその女の人とも昔いろいろあったわけだ」
院生だった頃の祖父と祖母はまだ結婚しておらず、婚約者同士だったはずだ。その祖母がルクレチア嬢との逢瀬《おうせ 》を厳禁し、高松先生が苦い顔をしている。
となれば、全ては明白だった。
「いろいろ? 人聞きの悪い言い方だな。僕たちは、単に性別のちがう友人としておたがいを尊重し合っていただけだよ。千代さんも高松くんも変な風に勘《かん》ぐるんだから参るな」
もっともらしい返答が、まったく信用できない。護堂はため息をついた。
……亡くなる直前の祖母に、よく言われたものだ。
『護堂、あなたはおじいさんのようになってはいけませんよ。あの人はとても素敵だけど、昔からどうしようもない欠点があったから……。おばあちゃんは、子供の頃のあの人とあなたがよく似ているから心配なの。言うことも見た目もまともなのに、気がつくとひどく常識はずれな真《ま》似《ね》をしでかしていて……。ああ、心配だわ』
いくら何でも、まだ成人もしていない孫に言うセリフではない。
祖母をこんな風に不安がらせたのは、長年寄りそった夫の洒脱《しゃだつ》な遊び人っぷりが度を越しすぎていたせいだろう。断じて自分のせいではないはずだ。
その想《おも》いを新たにした護堂は、祖父の目を正面から見つめた。
「なあ、じいちゃん。他のことならともかく、死んだばあちゃんがやめてくれって言っていたことだろう? だったらやめよう。イタリア行きは中止しろよ」
「それはできないな。たしかに千代さんに不義理はできないけれど、古い友達との約束も大切だ。彼女にはもう、日本に置いていった物を渡しにいくと伝えてあるんだ」
友達との約束。
それを言われると、護堂も反論しづらくなる。
どれだけ女遊びがひどくとも、祖父が家族からの信頼を失わず、男友達からも慕《した》われているのには理由がある。草薙一朗は友人づきあいをしている相手には、それが男でも女でも決して不義理をしない。友が困《こん》窮《きゅう》していると聞けば、それがたとえ外国であろうとも駆けつけ、手助けしようとする義挾心《ぎきょうしん》の持ち主でもある。
人との交わり、つきあいを何より愛し、大切にする人なのだ。
祖父のそういう気性を護堂は敬愛していた。できれば自分もこうありたいとも思っている。
「……あの女の持ち物とは、何なんだい? さっきは貴重品と言っていたが」
「ほら、たたりのあった村、あそこに彼女が置いていった品物なんだ。……あの夜、ルクレチアはどこかの不博者《ふ らちもの》が火をつけたという地元のお社《やしろ》を訪ねて、それを奉納《ほうのう》したらしい。すると、例のたたりはすぐに治まったわけだ。……やっぱり本物のたたりと魔女だったのかな?」
高松先生に問われて、祖父は席を立ち、すぐに戻ってきた。
紫の風呂敷《ふ ろ しき》に包まれた平べったい板のようなものを小脇《こ わき》に抱えている。
それを祖父はテーブルに置き、包みを開いてみせた。
B5サイズほどの長方形の石板に、稚拙《ち せつ》な絵が描かれている。鎖《くさり》で両手両足をしばられた男の姿、だろうか。その絵を縁取《ふちど 》りするようにして、羽を広げた鳥に太陽、月や星らしき図柄が散りばめられてあった。
全体にひどく摩耗《ま もう》しており、ところどころ焼け焦《こ》げのような黒い染みがある。
「…………石板に絵? これ、もしかしてすごく古い物なのか?」
護堂は素直な感想を口にした。
どこかの未開人が彫った過去の遺物。そう言われても信用してしまいそうだ。
「どうだろうね。どこかの遺跡から出てきた代物《しろもの》にしては、逆に状態が良すぎるとも思うのだけど……。だからと言って、前衛芸術家の作品には見えないが」
面白そうに石板を眺めながら、祖父が答えた。
「これが何でまた、一朗さんのところに?」
「実は例の村だがね、一〇年以上も前に廃村《はいそん》になっていたそうなんだよ。で、お社《やしろ》を管理されていた家の方が、この板の扱いに困ったわけだ。持ち主の行方《ゆ く え》はわからない。ただ、その連れだった学生――つまり僕のことを覚えておられた。それから方々を当たって、どうにか僕のところに連絡を入れてくださったのさ」
「そして、じいちゃんがその人のところへ行くって話になったのか」
偶然の成り行きの絶妙さに、護堂は感心した。
草薙一朗は民俗学者として著作《ちょさく》も出しており、そこには当時の勤務先であった大学名も載《の》っている。その辺りを手がかりにして、祖父の連絡先を探し当ててくれたのだろう。これが普通の職業の人が相手だったら、不可能だったはずだ。
たしかに、せっかくここまで来たのだ。
この石板を元の持ち主に返すためにイタリアへ渡る祖父の気持ちも理解できる。
だが、祖母との約束が破られるのを見過ごすわけにもいかない。
しばし考えて、護堂は決意した。だったら、べつの方法で届けるまでだ。
「よし、わかった。――その板、俺がイタリアまで持っていくよ。だから、じいちゃんは約束をちゃんと守れよな」
そう言い切った護堂を、祖父は面白そうに、高松先生は心配そうに見つめてきた。
「ほ、本気か、護堂くん。君、イタリア語とかできるのかい?」
「いいえ、全然。でもまあ、何とかなります。大丈夫です」
護堂には、祖父に連れられて何度か海外に行った経験がある。
行き先はベトナムやタイなど、東南アジアが多かった。その途中で祖父とはぐれたことが、一再《いっさい》ならずあった。そうなると、言葉も通じない国でたいした所持金もないまま半日以上、ひどいときは数日間を過ごす羽目になるのだ。
この手の体験を繰り返した結果、護堂は思うようになった。
言葉が通じなくても身振り手振り、片言《かたこと》でのやりとりで意外とコミュニケーションは取れてしまう。複雑な意思の疎通《そ つう》をしなくとも、結構親しくなれてしまうものだ、と。
今では道で外国人に英語で話しかけられて、他の日本人たちが固まっている――そんなときでも護堂は知っている限りの英語を適当に使い回して、ブロークンな会話を成立させてしまうまでになっていた。
……ちなみに、妹の静花も祖父と共に何度か海外旅行をしている。
だが、兄のような目に遭《あ》ったことはないと言う。このため護堂は、男孫のバイタリティを鍛《きた》えるために祖父がわざとああしていたのではないかと疑っていたりもする。
「ふうん、護堂が僕の代わりにねえ……。本当にまかせてもいいのか?」
果たして祖父は、孫を挑発するような微笑を浮かべて言った。
「ああ。男に二言はない。今は春休みだから、暇《ひま》は腐《くさ》るほどあるしな」
「ルクレチアがいるのは、イタリアと言っても地中海《ちちゅうかい》に浮かぶ島――サルデーニャ島というところだ。しかも、かなり田舎の内陸部に住んでいるらしい。苦労すると思うぞ?」
「それくらい何とかしてみせるよ。じいちゃんは根《ね》津《づ》で留守番をしていてくれ」
宣言する孫に対して、祖父の笑《え》みの質が変わった。
なかなか言うようになったじゃないか。誉《ほ》めるような、からかうような、微妙な割合で感情をブレンドさせた、実に愉《たの》しげな微笑だった。
「承知した。じゃあ全ておまえにまかせるから、上手くやってみせてくれよ」
祖父はテーブルの上の石板に手をかけ、スッと護堂の方に押し出した。
2
イタリアの南端、地中海《ちちゅうかい》に浮かぶリゾート島。
それがサルデーニャ島である。島の面積は日本の四国《し こく》とほぼ同じ程度なのだが、人口は一五〇万前後。しかも、その大半が島最大の都市カリアリに集中している。
四方を美しく澄んだ海に囲まれ、手つかずの自然も豊富。
島の最大の産業は観光であり、夏ともなればヨーロッパ中からリゾート目的の観光客が集まってくるという。特に北東部に位置するエメラルド海岸はセレブ御用達《ご ようたし》のリゾート地として有名らしい。
だが、そんな場所を訪れることは、妹の静花《しずか 》には秘密であった。
「……何よ、お兄ちゃん。急に旅行へ行くだなんて言い出して。あたしとの約束は忘れちゃったの? 最低!」
おかげで、こんな風に罵《ののし》られる羽目になったが。
全《すべ》ては祖父のアドバイスゆえであった。
『正直に言ってもいいとは思うが、お勧《すす》めはしないね。なあ護堂《ご どう》、おまえだけ南イタリアのリゾート地に行くと知った静花が何て言いだすと思う?』
『自分もいっしょに行く、もしくは行かせろ、かな?』
『だがね、ヨーロッパと言っても田舎《い な か》の方を旅行するのは結構めんどくさい。ああいうところは市内でいちばんの繁華街《はんか がい》とかでも、この根津の商店街よりさびしいくらいだからね。……さて、ここで質問だ。そんな田舎をひとりで気楽に旅行するのと、いちいち口うるさい妹を連れて苦労するのと、どちらがいい?』
『もちろん、ひとりだな』
即答してしまった。
かくして護堂は一週間ほど知り合いの禅寺《ぜんでら》へ雑用を手伝いに行くと言って、べつの口実をでっちあげることにしたのである。
ところが、妙に怒った様子の静花から文句をつけられる羽目になった。
草薙《くさなぎ》家の二階にある自室で荷造りの最中に、いきなり部屋に入ってきたのだ。
「仕方ないじゃないか。母さんから自分の代わりに行けって命令されたんだから」
「お母さんの命令? ……じゃあ、仕方ないか。あの人、どうせ自分がめんどくさいからってお兄ちゃんに押しつけたんだよね。ほんと、わがままなんだから」
「……まあ、おまえのわがままな性格は多分、母さんに似――痛《いた》ッ」
「失礼なことを言うな! あたしはあんな女王様じゃないもん!」
母の干《かん》渉《しょう》を匂《にお》わすだけでごまかせたのはいいが、一言多かった。
静花に足を踏まれたので、それ以上のコメントを控える護堂だった。
ちなみに、偽《いつわ》りの訪問先として挙げた禅寺は秩父《ちぢぶ 》の山奥にあり、かつて僧籍《そうせき》に入りながらも遊蕩三昧《ゆうとうざんまい》だった草薙家の祖先が住職を務めていたらしい。
この寺には、炊事《すいじ 》に使う水は井戸から汲《く》んでくるというストイックな慣習がある。
だが、ふもとの酒屋に注文した酒類が業務用冷蔵庫にたっぷりとストックされ、般若湯《はんにゃとう》などという隠語すら使われない。精進《しょうじん》料理に平気で酒を合わせたりする。
歴代の住職はおおむね変人|揃《ぞろ》いで、草薙家の人々とも代々親交が深かった。
ちなみに祖父|一朗《いちろう》の伯《お》父《じ》は、ここで修行する身でありながら数々の奇行に手を染め、最後は米屋の後《ご》家《け》さんとの不倫《ふ りん》がばれて騒ぎとなり、逃げるように上海《シャンハイ》へ去ったそうだ。まだ大《たい》正《しょう》の頃の話で、あの寺を訪れると必ず聞かされる武勇伝であった。
……こういう環境なので、静花は法事のときを除けば絶対に行きたがらない。
だから口実に使わせてもらったのだ。
祖父の口添えのおかげで、何の取引もなしで母も口裏を合わせてくれる手筈《て はず》だ。いつもだったら最低三時間の奉仕《ほうし 》活動を強要させられただろう。
万事、手抜かりはないはず。
だが静花は不機嫌《ふ き げん》そうに兄をにらみつけている。――なぜだ?
「でもお兄ちゃん、先に約束していたのはあたしなんだよ? 何とかならなかったの? あいっかわらず全然、気が利《き》かないんだね。最低で最悪ね!」
「や、約束? あれってもしかして、約束したうちに入るのか?」
護堂は驚いた。
中学の卒業式が終わる数日前、何かの折に静花が言ってきたのは覚えている。
『お兄ちゃん、春休みは暇《ひま》? どうせ暇でしょ、部活もないし彼女もいないし。はい、暇決定ね。じゃあ、いい? あたしも偶然、春休みはそこそこ時間がないわけじゃないの。その貴重な余《よ》暇《か》を割いて、お兄ちゃんに付き合ってあげる。まず、服を買いに行くでしょ。あと、二丁目に最近おしゃれなカフェができたから、そこにも行くのね。それから――』
などと、勝手に春休みの予定をでっち上げていた気がする。
時間があれば、べつに妹の気まぐれに付き合うのもやぶさかではない。
だから鷹揚《おうよう》にうなずき、聞き流したのだが。
「あのとき『まあ、暇だったらな』って言ったでしょ! 可愛《か わ い》い妹のために暇を作る努力もしないで、逆にお寺へ行っちゃうだなんて……お兄ちゃん、そんなの兄失格だからね!」
「こ、こんなので失格になるのかよ。それと、自分で可愛いとか言うなって」
一応、護堂は釘《くぎ》を刺した。
やはり妹には、ある程度の慎《つつし》みは持っていて欲しい。
だが客観的に見て、たしかに静花が可愛い部類に入るのは否定できない。何しろ、やたらと派手な美女として名高い母によく似ているのだから。
……もっとも、母に関しては化粧による自己演出が神がかっているのも事実だ。
あれはもう神技の域だと、己《おのれ》の母に敬意すら抱いている護堂であった。
「春休み中あっちにいるわけでもないし、帰ったら付き合ってやるよ。それでいいだろ?」
「約束を忘れておいて、その言い草は何? 『付き合ってやる』じゃないの。あたしがお兄ちゃんのために付き合ってあげるんだから、そこを勘《かん》ちがいしないでよね!」
またこの妹は、勝手なことを言う。
しかし、付き合いも長いので、この娘のひねくれた物言いにも慣れている。
護堂は苦笑してうなずくだけで、余計な発言は控《ひか》えた。
「あ、そうだ。唯《ゆい》のこと、覚えてる? あたしの友達の、背の低い子」
「ゆい? 唯……もしかして、たまに遊びに来る女の子か。そういえば前、試合のとき応援に来てくれたりもしたよな。……うん、何となく。覚えていない、こともない」
唐突に出てきた名前に、護堂はひどく悩んだ。
そんな名前の子が静花の後ろにいるのを見た覚えはある。だが、印象は薄い。
「まあお兄ちゃんだし、そんなものか。全然覚えてないんだ」
「全然じゃないぞ。すこしは記憶に残っている」
バカにしたように笑う静花へ、護堂はささやかな反論を試みた。
「強がらなくてもいいよ。あたしの友達を気にするほどのマメさが、お兄ちゃんにあるはずないものね。……実は唯が言っていたの。春休み、お兄ちゃんに時間があれば、いっしょに遊びに行かないかって。どうする? その気があるなら取り持ってあげてもいいけど〜」
からかうように言われて、護堂はたじろいだ。
妹の友達と遊びに? 何でそんなことをしなくてはいけないのだ?
「いや、べつに……。俺にそんな気はないし、その子もきっと楽しくないだろうし、やめておいた方がいいと思うぞ。断っておいてくれよ」
「そう。せっかくのデートのお誘いなのに、もったいない」
なぜかうれしそうな口調で静花がからかう。護堂はため息と共に首を横に振った。
「デートとか言うな、ただの遊びの誘いだろ。……俺なんかといっしょにいても退屈するだけだろうに、その子は何を考えてるんだ?」
「ま、そうよね。お兄ちゃんみたいに気が利かなくて面白くもなくて、結構ちゃらんぽらんなくせに変なところでまじめな人、普通の女の子にかまってもらえないものね。……妹のあたしぐらいしか相手してあげる子はいないんだから、感謝してよね」
「はいはい、わかったよ。静花は俺の可愛い妹だ。いつもすまないな。これでいいか?」
「言い方が真《ま》面《じ》目《め》じゃない。誠意がない。言ってることも普通でつまんない。全然ダメ。一〇〇点満点で一五点くらい。もっと努力してよね、お兄ちゃん」
文句を言うくせに、静花は妙に機嫌よくなった。我が妹ながら、わからないヤツだ。
「お兄ちゃんの取り柄《え》なんて、馬車馬みたいに体力があることと、野球が人より上《う》手《ま》いくら……い……。ゴメン。あたし、バカなこと言っちゃった」
気分よさげにしゃべり出した静花が、急にうなだれた。
護堂はしょげた妹の頭に手を置き、くしゃくしゃと撫《な》で回した。
「上手いって言うほど、たいしたものじゃなかったよ。気にするな。おまえが可愛い妹で、結構感謝しているのは本当のことだから、べつに何とも思わないよ」
「で、でも……。ゴメンね、あたし無神経で、あんまり考えないで話すから」
「いいんだ。全部気にしてないってこともないけど、野球をやめたのは割と納得ずくなんだ。おまえは気にしなくていい。安心しろって」
しばらくして、妹とのやりとりはお開きになった。
しょげている静花が気になって、普段は絶対に口にしないようなやさしい言葉をさんざんかけ、たっぷり頭を撫でてやった。
そうするうちに気を取り直してきた静花は、別れ際《ぎわ》にこう言うことを忘れなかった。
「お兄ちゃん、あたしへのおみやげは高くなくてもいいから、すっごく気の利いたヤツを用意してよね。あたしが感心するようなヤツ。適当に買ってきたら、承知しないんだから!」
兄の気の利かなさを知っているくせに、何て要求をするのだ。
護堂は大きくため息をついた。
草薙護堂は今、一五歳。中学を卒業し、高校進学を控えた半端《はんぱ 》な時期だ。
小・中学の間は、ずっと野球をやっていた。
中学時代は強豪《きょうごう》シニアのチームで四番兼捕手としてレギュラーを張り、海外での遠征試合や世界大会に向けた東京選抜、日本代表にも選ばれた経験がある。
だが中学三年の夏、世界大会に向けた代表での合宿中に肩を負傷してしまった。
剛速球だがコントロールに難のある投手が、三塁からホームへ疾走《しっそう》する護堂を刺すべく放ったボール。その直撃を、背後から右肩に受けてしまったのだ。
肩は治ったが、捕手として大きな武器であった強肩《きょうけん》は失われていた。
へろへろ球しか投げられなくなった己に失望しながら、護堂は高校の進路について悩んだ。
肩は駄目でも、野球をつづける選択《せんたく》肢《し》はあった。
実際、打者としての力を買って、誘ってくれる高校はあったのだ。だが断った。
――九年もやったのだから、もういいか。
結局、肩を壊したことがきっかけで、そう思うようになってしまったのだ。そろそろ他の何かを経験するのもいいかもしれない。そんな考えが首をもたげてきたせいでもある。
自分は野球が上手くない。
静花に言った言葉は、半ば本気である。
縁あってハイレベルな環境でずっと野球をつづけてきた護堂は、天才的な才能と遭遇する機会がしばしばあった。
本物の才能の持ち主と比べれば、草薙護堂の資質はせいぜい中の上程度だろう。
もともと潤沢《じゅんたく》とは言えない資質がさらに減ったのだから、敢《あ》えて野球にこだわらなくてもいいではないか。他のスポーツ、あるいは文化系の部活をするのもいいかもしれない。
ここ数カ月は、そんな気持ちで受験勉強などしていたのだ。
『あのな草薙、それじゃ今までずっとおまえに負けてきた俺はどうなる!? 俺にリベンジさせるチャンスを寄こせ! 勝ち逃げするな!』
中学の二学期が終わる頃、訪ねてきた友人・三浦《み うら》に言われたセリフである。
だが、護堂の決心は変わらなかった。
『高校に進んで野球をやったとしても、おまえの球は多分、俺には打てないよ。俺とちがって、おまえは野球、それも投手をするために生まれてきたようなヤツだ。この先、差は開きっ放しになると思うぞ。だから、この辺で勘弁《かんべん》してくれ』
シニアでは東京一の投手と評判だった三浦に、護堂は言ったものだ。
所属チームはちがったが、東京選抜では何度もバッテリーを組んだこともあった。
『バカ野郎、そりゃオレに負けてたヤツの言うことだ。今までの対決でオレは、草薙を完全に打ち取った試合は一回もないんだぞ!』
『いや、あれはズルみたいなもんだから、そんな気にしない方がいいぞ』
『ズル? 何だよ、それ』
『ああ。おまえの性格は単純だし、考えてることもわかりやすかったからな――。俺、中三になる頃にはおまえがどこに何を投げるのか、顔見るだけで五割くらい読めるようになっていたんだ。昔、うちのじいちゃんが教えてくれたんだよ。勝負事や交渉事は、相手の性格を把握《は あく》して対策を練れば七割方上手くいくって。だから、野球の実力ってわけじゃないんだ』
それでも三浦はしつこく食い下がり、同じ学校に行こう、せめて野球部の強い高校に入れとうるさかったものだが……。
護堂が進学するのは、近所にある城楠学院《じょうなんがくいん》の高等部である。
妹の静花も中等部に通っている。この学校の野球部は、切なくなるほどに弱い。さすがに、ここに入って野球をする気はなかった。
半強制的に野球という選択肢を切り捨てた高校生活は、はたしてどうなるのだろう?
イタリア行きの準備を終えた護堂は、ふとおかしくなってきた。
「考えてみれば、こんな時期に海外旅行って、ほとんど『自分探し』みたいだな」
自分を探して旅立つ。
そんな繊細《せんさい》さとは無縁だと自覚しているので、自然と苦笑してしまった。
3
イタリアは南部と北部で、住民の気質がまるで異なるとされている。
無論、あくまで一般論に過ぎないのだが、北部は裕福で都会的、南部は比較的貧しく、素朴《そ ぼく》で情に厚いというのが定説だ。
ミラノは、その北部を代表する大都市である。文化、経済、ファッション、スポーツ等、さまざまな分野の中心地として知られている。
エリカ・ブランデッリを知る者は、彼女こそミラノの粋《すい》を集める少女だと賞賛《しょうさん》する。
先祖代々のミラネーゼ(ミラノ人)にして名門ブランデッリ家の令嬢。美しく、気高《け だか》く、深い教養と洗練された物腰を誇《ほこ》り、機知と才気に富む。
まさしく大輪《たいりん》の薔《ば》薇《ら》か椿《つばき》のような、華麗《か れい》極まりない美少女なのだ。
「もちろん、わたしが人よりも容姿で抜きんでている事実を否定はいたしませんが――」
エリカは優雅《ゆうが 》に微笑《ほ ほ え》む。
だが、その笑顔は可憐《か れん》な花に喩《たと》えるべきものではない。むしろ雌豹《めひょう》、あるいは雌《めす》獅《じ》子《し》。
気高く力強い野獣の女王こそが、彼女の不遜《ふ そん》さを表すにふさわしい。
「これはいわば、ケーキの上にかかったチョコレートのようなもの。わたしという存在を彩《いろど》る重要な要素のひとつではありますが、それだけがわたしの全《すべ》てではありませんわ。――そのお話、お断りしていただけますか、叔《お》父《じ》様」
「おまえが言うのなら、もちろんそうするがね、エリカ」
苦笑しつつ答えたのは、唯一《ゆいいつ》の肉親である叔父だった。
パオロ・ブランデッリ。その姿をダヴィデの彫像に喩えた者がいるという。
それもむべなるかな。まもなく四〇を迎える歳《とし》でありながら青年のように若々しく、彫りの深い顔立ちは端正に整い、知性と気品に満ちている。
そして、鍛《きた》え抜かれた肉体はまさしく鋼《はがね》――最高の騎士の呼び名にふさわしい。
イタリア最強の騎士は剣の| 王 《カンピオーネ》たるサルバトーレ・ドニ。
だが、最高[#「最高」に傍点]の騎士はパオロ・ブランデッリ。
それに異論をはさむ愚《おろ》か者はいない。叔父は謙遜《けんそん》して否定するだろうが、当事者の片割れであるサルバトーレ卿《きょう》も笑って認める事実なのだ。
「感謝いたします。……わたしをモデルにだなんて、どこのおバカさんが考えたことなのかしら。自分の美を公《おおやけ》にするのはやぶさかではありませんが、姿形の見目麗《み めうるわ》しさだけを見せるだけでは意味がありません。外なる美と内なる才知が合わさって、初めて真のエリカ・ブランデッリになるというものでしょうに」
「おまえがそうやって拒絶すると思ったから、まず私に持ちかけたのだろうさ。そうバカにすべきではないと思うがね」
苦笑する叔父とエリカが向き合っているのは、通りに面した喫《バ》茶《ー》店《ル》の一角だった。
本来、ふたりはブランデッリ家の邸宅で共に暮らす家族である。だが、このところ多忙な叔父はあまり家に帰ってこない。ここ数週間、ずっと会っていなかった。
そこに突然、ひさしぶりに話をしないかと連絡があって、待ち合わせたのだが――。
「叔父様、もっと有意義なお話をしませんか。サルデーニャ島の件はご存じでしょう?」
「ああ。どうやら本当に『まつろわぬ神』が降臨《こうりん》している可能性が高いようだ。我らが盟主《めいしゅ》サルバトーレ卿は南米に遠征中で、お戻りになるまで時間もかかるらしい。まずは我々の手で情報を集め、現地の状況を探るとしよう」
「では、わたしに斥候《せっこう》の役目をお授けくださいませ。叔父様――いえ、〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の長《おさ》たるブランデッリ総帥《そうすい》に、騎士エリカが請《こ》い願います」
中世ヨーロッパを横行《おうこう》したテンプル騎士団。
騎士でありながら神の子と魔神バフォメットを奉《ほう》じる魔術師であった彼らの後裔《こうえい》が、エリカたちなのだ。テンプル騎士の秘儀を継《けい》承《しょう》する魔術結社は数多い。だが、ミラノを本拠地とする〈赤銅黒十字〉は最強の結社のひとつであった。
イタリアの南端サルデーニャ島に、不穏《ふ おん》な動きあり。
その報《しら》せが〈赤銅黒十字〉に届いたのは、二日前。彼の地に居合わせた団員のひとりが報告してくれたのだ。この情報を知るイタリア本土の結社はごく少数か、皆無《かいむ 》のはずだ。
それゆえにエリカはあるアイデアを思いつき、今の申し出を行ったのだが――。
だが、パオロ叔父は厳しい表情で首を横に振った。
「おまえは我らの宝――いずれ結社の頂点に立つべき真の天才児《ジ ェ ニ オ》なのだ。認めづらい要望だな。おまえにはまだ、神と遭遇した経験はないだろう?」
「ございません。ないからこそ、ここで経験を積みたいのです」
エリカは不遜《ふ そん》に言い切った。
己《おのれ》の能力への絶対的な自信が、この態度を取らせるのだ。
幼少時より叔父が手ほどきしてくれた武技。古代ローマから中世ヨーロッパを経て、テンプル騎士の系譜《けいふ 》に連なる者たちによって連綿《れんめん》と受け継がれてきた魔術。
それらを、一五歳の若さでエリカほどの深さで習得した者は稀《まれ》であった。このイタリアでは、同じミラノのリリアナ・クラニチャールのみが唯一《ゆいいつ》認める同年代の好敵手である。
「かつて叔父様は、賢人議会を統《す》べる|アリス姫《プリンセス・アリス》らと共に、黒王子《ブラックプリンス》アレク様へ立ち向かった功を以《もっ》て、『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』に任ぜられました。わたしも叔父様の称号を受け継ぐに足る器量を示す必要があるのです」
「あのとき私は二五歳だった。今のおまえより一〇も歳上だ。早まるな、おまえにはまだ学ぶべき事柄《ことがら》が山ほどある。神に近づくのは、数年後でも決して遅くない」
思慮《し りょ》深い叔父の、真摯《しんし 》な提言。だがエリカは受け容《い》れなかった。
「遅いでしょう。ここでわたしが功をあげなければ、叔父様が守ってきた『紅き悪魔』の称号は粗《そ》野《や》で下品なジェンナーロが受け継いでしまいます。わたし、高貴なる〈赤銅黒十字〉の筆頭《ひっとう》たる称号を、あんな男に渡したくはありませんわ」
パオロ・ブランデッリがもう二〇年も所持してきた称号『紅き悪魔』。
これは〈赤銅黒十字〉を代表する騎士に与えられる、名誉あるふたつ名だった。だが三カ月前、ついに結社の総帥へと昇り詰めた叔父は、この称号を返上したのだ。
筆頭騎士と総帥の座を両立するのは無理がある。それゆえの決断であり、自分は騎士としては現役を引退して一線を退《しりぞ》く――その意思表示でもあった。
神童と名高いエリカとはいえ、結局は経験の浅い若手である。
この称号を引き継ぐに足る功績も、声望《せいぼう》もない。
だが『まつろわぬ神』――人の世に顕《あらわ》れる最大の災厄《さいやく》に何らかの功を上げることができれば、話はちがってくる。
「……エリカ。おまえ、まさか神殺しに挑むつもりではないだろうな?」
「さすがにそこまで自惚《う ぬ ぼ》れてはおりません。もちろん、機会があれば第二のサルバトーレ卿となるのも辞したりはいたしませんが、それは高望みが過ぎるというものです。……とはいえ、神たる存在を封じ、鎮《しず》めるくらいの真《ま》似《ね》はしてみたいと考えておりますが」
「まったく! そこまで言う以上、すでに準備は済ませてあるということか!」
呆《あき》れて言う叔父に、エリカは澄まし顔で頭《こうべ》を垂《た》れた。
「このような日が来るかとも思い、かねてよりゴルゴタの言霊《ことだま》を招く秘儀の研鎭《けんさん》に努《つと》めて参りました。よろしければ、出《で》来《き》映《ば》えをあとでご覧いただきますわ」
「嘆《なげ》きと祈りの聖槍《せいそう》か。その歳であれを会得《え とく》するとは、本当に末恐ろしい子だな」
そう言って嘆息《たんそく》した叔父は、やがて表情を改めた。
凶猛《きょうもう》なる紅《あか》き騎士団の頂点に立つ、厳格な総帥の顔だった。
「いいだろう、エリカよ。危地に赴《おもむ》き、勇気と武勇を示すことこそ騎士の本懐《ほんかい》。一度口にした以上、その挑戦は必ず果たせ。いいな?」
「御意《ぎょい 》。エリカ・ブランデッリ、サルデーニャ島に赴き、彼《か》の地の『まつろわぬ神』を調べ、その正体を探り出してみせます。この神格を可能であれば封印し、島に平穏を取り戻してご覧にいれましょう。吉報《きっぽう》をお待ちください」
恭《うやうや》しく答える姪《めい》に、叔父は重々しくうなずきかけた。
「どうやらおまえは、平和のなかで生きることが何よりも不《ふ》得《え》手《て》のようだ。願わくばこの先、おまえが勇気と無謀《む ぼう》の区別をつけ、恃《たの》むに足る友と仲間を得て、騎士として王道を歩むようになってくれることを願う。この旅を成功させて、私を安心させて欲しいものだ」
「あら、叔父様。わたしをハンニバルだとおっしゃるの?」
エリカは微笑んだ。
かつて、共和政ローマを撃破すべくイタリアに乗り込んだカルタゴの名将。
古代最高の戦術家であった彼との決戦前に、ローマの名将スキピオが告げたという。『貴方《あ な た》は平和のなかで生きることが何よりも不得手のようだ』と。この会話のあとで行われたザマの会戦の結果、ついに稀代《き たい》の智将は敗北を得たのだ。
「わたしは敗れたハンニバルよりも、むしろ勝者たるスキピオに似ていると思いますが――」
「それは『まつろわぬ神』との遭遇によって、はっきりするだろう。私はこれで行く。生還したおまえと再会できる日が来ることを祈っているぞ」
パオロ叔父は席を立ち、エリカの前から立ち去っていった。
――この日は偶然にも、東京で草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》がイタリア行きを宣言した日と同日であるのだが、彼女が知るはずはもちろんなかった。
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第2章 運命の出会い
1
サルデーニャ島と周辺の島々によって、サルデーニャ自治州は構成される。
州都カリアリは、島の南に位置する港街であった。この地に初めて街を築いたのは、紀元前八世紀頃のフェニキア人だという。
日本とは比較にならないほど古都の多い欧《おう》州《しゅう》でも、ここまで由緒《ゆいしょ》が古い街は珍しい。
穏やかな地中海《ちちゅうかい》を臨《のぞ》む、のどかな田舎《い な か》街《まち》。
それがカリアリに対する、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》の第一印象であった。
「……今日はこの街を見て回って、ルクレチアさんのいる街には明日、列車で移動するか」
日本から祖父が予約しておいた宿の一室。
三階建てのこぢんまりとしたホテルで、華美ではないが清潔感がある。
護堂はそこのベッドに腰掛けながら、ネットからプリントアウトした島の地図とガイドブックを眺《なが》めて、今後の方針を練《ね》っていた。
祖父の『友人』が住む街は、島の中央部に位置するらしい。今日はここで一休みして、長旅と時差ボケで疲れた体を休めよう。
そう決めかけた護堂だったが、窓の外へ目を向けた。
時刻は昼の一時過ぎ。中天で輝く地中海の太陽はまぶしく、空の青さも限りない。日本では絶対に目にできない風景が、見渡す限り広がっている。
このまま外出しないのはあまりにもったいない。
徹夜明けにも似た高揚感《こうようかん》にまかせて、護堂は部屋を出ることに決めた。
休むのは夜になってからでいいだろう。せっかくはるばるここまでやってきたのだ。
荷物を部屋に置いて、ホテルを出た。
眠気覚ましも兼《か》ねて、どこかのカフェ(イタリアではバールと言うらしい)にでも入ってコーヒーと軽食でも頼んでみようか。そう考えて周囲を見回したところ、目に付いた商店は固く扉を閉ざしていた。
首をかしげたあとで、すぐに気づいた。
今はシエスタ――昼寝の時間なのだ。ローマやミラノのような都会ではあまり行われない習慣だと聞いていたが、この辺りはそうでもないようだ。
それでも、全《すべ》ての商店が閉店するわけではない。
しばらく歩き回った結果、路地裏で営業中のバールを一軒発見した。
イタリア語の心得《こころえ》は、飛行機で読んだ旅人用の教本程度である。しかも、うろ覚えだ。
だが護堂は、たいして気後《き おく》れもせず入っていった。ここで物怖《ものお 》じしても仕方がないし、リゾート地なのだから店員も旅行者に慣れているだろう。そう踏んだのだ。
……前に同じようにして、タイの屋台で超々|激辛《げきから》の焼きそばをそうと知らずに食べる羽目にもなったのだが、まあ、それも旅の思い出だろう。
落ち着いた内装のバール店内。
六、七人程度いる他の客は、中年以上のおじさんとおじいさんばかりであった。
洒落《し ゃ れ》者《もの》という風情《ふ ぜい》の人はおらず、皆ラフな格好でゆるい雰囲気《ふんい き 》だ。
彼らは店の奥に集まって、ブラウン管のテレビに見入っている。ちょうどサッカーの試合を放映しているところだった。
護堂は立ち飲み用とおぼしきカウンターに向かった。
出迎えてくれたバリスタは二〇代の青年だったので、すこしほっとした。どこの国でも、英語が通じる確率は若い世代の方が高い。……無論、例外も多々あるが。
片言《かたこと》のイタリア語と知っている限りの適当な英語で会話をはじめる。
エスプレッソの注文はかんたんだった。だが、食べ物の方は難しい。何しろ、メニューを眺めてもどんな料理か想像できないのだ。
護堂は例のおじさんたちの方を見て、ひとりが食べていたパニーニを指さした。
あれと同じのをくれ、と頼んでみる。親切そうなイタリア人青年は『OK』とばかりにうなずいてくれた。
無事出てきたエスプレッソに、袋の砂糖をふたつも投入してみた。
砂糖を大量に入れるのがイタリア流だと聞いていたからだ。濃厚なのになめらかな味で、たしかに美《う》味《ま》い。
でも味そのものは普通だよなと考えた矢先、パニーニをかじって驚いた。
丸く平たいパンで、生ハムとチーズ、アスパラなどの生野菜をはさんだだけ。だが、パンもハムもチーズも、おそろしく味が濃厚だった。これは文句なく絶品だ。
食べ終えたあとで礼を言い、支払いを済ませて店を出る。
それから護堂は、街のあちこちを気の向くままに歩き回った。
ときどき地図をバッグから出して、通りすがる人に道を訊《き》きながらの散策。
日本でも、欧米からの観光客は臆《おく》することなく日本人に道を訊《たず》ねたりするが、それを真《ま》似《ね》したのだ。なるべく暇《ひま》そうな相手に声をかければ、邪険《じゃけん》にされることもすくない。
現地の言葉や英語に堪能《たんのう》でなくとも、おたがいに地図を見ながらの会話なら意思|疎通《そ つう》は十分にできる。海を見たかった護堂は、カリアリ港を目指した。
道々、せまい路地の間にひもを渡して吊《つる》してある洗濯物をちょくちょく目撃した。
のどかな眺めに頬《ほお》をゆるませながら、護堂は巨大な聖堂――いわゆるドゥオモのある広場も通り抜ける。しばらく歩くと、見晴らしのいい広場に出た。
ここからはカリアリの港が一望できた。
遠くに目をやれば、美しいエメラルドブルーの海が彼方《か な た》まで広がっている。こんなに美しい海は、東《とう》京《きょう》では絶対にお目にかかれない。自然と心が浮き立ち、足が速まる。
ローマ通りという名のメインストリートにつづく坂道を下り、海の方へと急いだ。
2
その少年と出会ったのは、港の近辺を歩いていたときだった。
倉庫らしき建物の壁にもたれかかりながら、彼方《か な た》の海原《うなばら》を眺《なが》める少年がいたのだ。
かなり奇妙な風体《ふうてい》だった。
ボロと言っては失礼かもしれないが、この表現がふさわしい外套《がいとう》を身につけている。
おそらく昔は白かったのだろう。しかし今は薄茶色に汚れ、ボロボロにすり切れている。こんな港街よりも、むしろ砂漠か草原の真《ま》っ只中《ただなか》の方が似合いそうな衣装だった。
まちがいなく護堂《ご どう》と同年代。
一四、五歳あたりだろう。肩までかかる髪はつややかな漆黒《しっこく》で、象牙《ぞうげ 》色の肌をしていた。
そして何より、彼の顔立ちは美しかった。
思わず護堂は見《み》惚《ほ》れそうになった。線の細い顔つきは中性的で、怖いほどに整っている。芸能人でもこれほどの美少年を見たことはない。
――不意に、少年が視線を動かした。
まるで護堂の注目に気づいてでもいたかのように、まっすぐこちらを見つめてくる。
そして、くすりと笑った。
初対面や通りすがりの相手にも、目が合えば笑いかけ、軽く挨拶《あいさつ》をする欧米人は多い。だから護堂は、この美少年もそうなのかと思って挨拶を返そうと思ったのだが。
「××××、××、××××××……××××××」
と、彼は聞いたこともない言葉で声をかけてきた。
おそらく英語ではなさそうだが、自信はない。母音《ぼ いん》をはっきりと発音するイタリア人の言葉は聞き取りやすい方だが、日本人の耳には難解すぎる発音で話す国の人々もいる。
「悪い。あんたが何を言ってるのか全然わからないよ」
護堂は敢《あ》えて日本語で言って、大げさに肩をすくめてみせた。
外国人が相手の場合、ジェスチャーと表情はたまに言語以上の伝達手段になってくれる。こういうときは照れずに、オーバーに意思表示する方が良かったりする。
「おお、すまぬな。では、おぬしの流儀に合わせて話すとしようかのう」
……いきなり、流暢《りゅうちょう》な日本語で返された。
護堂は絶句して、まじまじと少年の顔を見つめ直してしまった。
「なに、たいした用があったわけでもないのじゃ。おぬしの体にまとわりつく妙な匂《にお》い――いや、気配と言うべきかの――が気になっての。ちと声をかけただけなのじゃ」
少年の声はテノールよりもやや上、中性的なアルトの音域だった。
「匂い……そんなに汚れてないと思うんだけどな。くさいのか?」
「いいや。ふふ、思い当たる節がないのであればよい。妙なことを訊《き》いてしまったのう」
自分の風体をチェックする護堂に、少年は朗《ほが》らかに言った。
いきなり失礼な質問をしておきながら、まったく悪びれる様子がない。下《へ》手《た》をすれば相手を怒らせかねない言葉なのに、不快な印象がないのは人徳というものだろうか。
「少年よ、失言を謝罪しよう。まあ許せ。悪気はなかったのじゃ」
うっすらと微笑《ほ ほ え》みながら少年が言う。
細い切れ長の目をさらに細め、唇《くちびる》をわずかにほころばせる。
アルカイックスマイル。そう呼ぶのがふさわしい、煙《けむ》るような微笑だった。
「全然あやまっているように聞こえないぞ。おまけに人のことを『少年』って何だよ?」
容姿はすばらしいが、思い切りえらそうな口調で、しかも上から目線だ。ほとんど変わらない年頃のくせに「少年」呼ばわりとは。
そのアンバランスさを、護堂は不思議に思った。
こんなに上《う》手《ま》く話せるのに、日本語の用法に不案内なのだろうか?
「それだけ話せるだけで十分すごいんだけど、君の日本語はすこし変だぞ」
「些細《さ さい》なことは気にするな。言葉など通じればよいのじゃ」
平然と言い切っている。
奇妙な美少年の言い草に、それもそうかと苦笑する護堂。だが、こんなに達者で変な日本語をどこで覚えたのか、気にならなくもない。
「なあ、君は時代劇でも見て日本語を覚えたのか?」
「そのようなものに聞き覚えはないな。我がこの言葉を習い覚えたのはいつであったか――まあ、よいではないか。よく覚えておらぬのじゃ」
「じゃあ名前は? 俺は草薙《くさなぎ》護堂。わかっていると思うけど、日本から来た」
「それも覚えておらぬ。我が名、我が生地《せいち 》……はて、一体どこであったかのう?」
割とのんきな口調で少年が言う。
予想の斜め上をいく返答に、護堂は一瞬言葉に詰まった。
「……ええと、記憶|喪失《そうしつ》と冗談、どっちなのか訊いてもいいか?」
「もちろん記憶なんとやらの方じゃ。いかにも、我は過去の記憶を失っておる。うむ、なかなかに由《ゆ》々《ゆ》しき状況よな。困ったものじゃ」
と、これもまったく困っているように聞こえない。
どう考えても冗談だと護堂は思ったが、一応助力を申し出ることにした。
「もし本当に記憶がないならだけど、よかったら警察か病院まで付き合うぞ」
「それには及ばぬ。己《おのれ》の名や素性《すじょう》を知らずとも、特に困ることもないのでな。我は我について、最も重要な事実を知っておる。それさえわかっておれば十分じゃ」
「最も重要なこと?」
こいつは変人だ。護堂は決めつけながら訊《たず》ねた。
今までの発言が本当であれウソであれ、この少年は「超」を付けてもいい変人だろう。さすが海外、変なヤツに出会う機会がゴロゴロしているようだ。
「うむ。我は勝者じゃ。勝利こそ常に我が手中にあり、我を我たらしめる本質。あらゆる闘争、いかなる敵と対したとしても、我が勝利は変わらぬ。揺るがぬ」
「……そうか」
傲慢《ごうまん》極まりない宣言を、少年はひどく淡々と口にした。
こいつの発言は本当に予測不能だと、護堂は呆《あき》れつつも感心してしまった。
「そうなのじゃ。これでも常々、敗北というものを一度くらいは味わってみたいと思っておるのじゃぞ? それでもかなわぬ。ま、我もいざ戦いはじめれば興《きょう》が乗ってしまう気性ゆえ、つい本気を出してしまうのがいけないのじゃろうが……」
そして遠くを見やるように慨嘆《がいたん》した少年は、不意にこんなことを言いだしたのだ。
「どうじゃ? おぬし、我と勝負してみぬか? すこし遊ぼうではないか」
「おぬしの得意なものでかまわぬぞ。遊戯《ゆうぎ 》、武芸、智《ち》慧《え》比べ、馬、何でもよい。おお、そういえば、この地は希臘《ギリシア》に近かったな。かの国の故事に倣《なら》い、我らが五体を操る競技でもしてみるかの。おぬし、何か得《え》手《て》はあるのかや?」
ここまで言われては引き下がれない。
護堂は少年と共に、対決の場を探すことになった。
ふたりで連れ立って、港をあちこち歩き回る。やがて、開けた一角に出た。
そこでは港で働いているとおぼしき若者たちが十数人ほど集まって、ストリートサッカーに興じていた。休憩中なのか、それとも今日の仕事はもう終わったのか、どちらかだろう。
おそらく、ここは彼らの遊び場なのだ。
あちこちに漁網《ぎょもう》を流用したとおぼしきネットを張って、ゴールに見立てている。
今はそのうちのふたつを使って、二チームに分かれて対戦中らしい。そして護堂は、とある即席ゴールの傍《そば》に見慣れた道具が転がっているのを発見した。
野球のボールと金属バット、そして何種類かのグローブだ。
「……そういえば、イタリアにもプロ野球はあるらしいからなァ」
思い出した護堂は、ぼそりとつぶやいた。
サッカ一人気の前には消えかけたロウソクの火のように目立たず、プロ選手のレベルも相当低いらしいが、一応はあると聞いていた。
「おお、あれがおぬしの得手か。ふふ、すこしは愉《たの》しめそうじゃのう」
「あ、いや、あれは――」
めざとく気づいた少年が、道具の方に近づいていく。
護堂は一瞬制止しかけたが、すぐに思い直した。今から行うのは草野球以下のレベルだ。壊れ物の肩を酷使《こくし 》しなくてはいけない状況になどなるまい。
その間に、少年はみごとなイタリア語で若者たちに話しかけていた。
道具を貸してもらう交渉をしているようだ。程なく、若者たちは笑顔で親指を立てた。交渉成功らしい。
「さ、準備は整った。ほれ、どうやって戦うのか説明せい。これはどう使うのじゃ?」
「あ、ああ。じゃあ、片方が投げた球を片方が打つことにしようか」
少年が放って寄こしたボールを受け止めながら、護堂は言った。
……数カ月ぶりの感触。
右手のなかのポールを見つめる。余程のランナーでなくては、盗塁を許さなかった強肩《きょうけん》。それはもう、護堂が失ってしまったものだ。
「……ふむ。どうやら、おぬしはこちらの方がよさそうじゃな」
逡巡《しゅんじゅん》してしまった護堂を見て、少年はバットを差し出した。
「傷を嘆《なげ》くのはかまわぬが、恥じてはならぬぞ。戦士たる者が傷つくのは、世の道理じゃ。戦わぬ者は傷つかぬ。それはおぬしの戦いの証《あかし》でもあるのだ」
こいつは俺が怪《け》我《が》したことを知っているのか!?
驚いて、少年の顔をまじまじと見つめ直す。相手の目に憐憫《れんびん》の色はなかった。
同情、思いやり。ここ数カ月で幾度も遭遇《そうぐう》し、そのたびに「参ったな」と困惑し感謝しながらも、ひそかに腹を立てていた感情は、少年の目にはない。
苛烈《か れつ》な誇りのような何かを秘めた、冷厳《れいげん》たる双眼《そうがん》。
これは一体、何者の瞳《ひとみ》なのか。
厳しく雄《お》々《お》しく、ふてぶてしい。戦士――少年自身が口にした言葉がしっくりとくる。
「ふふっ、そう不思議がるな。我は闘争と勝利の具現《ぐ げん》たる者。おぬしが戦いの果てに得た成果であれば、良きものも悪《あ》しきものもわかる。少年よ、傷つき、疲れた体でなお戦いうる者を戦士という。かつての武具を捨てるのは決断というものじゃが、そやつから逃げてはならぬぞ。それは戦士の行いにあらず」
少年がかすかに笑う。さっきの消え入りそうな笑みではない。ひどく不敵で、ひそやかな獰猛《どうもう》さを秘めた微笑。こんな笑顔を、護堂は初めて見た。
無言でバットを受け取る。負けてたまるかと、なぜか思ってしまったのだ。
「善《よ》き哉《かな》! 良い子じゃ、良い戦士じゃ! ささ、勝負と参ろうではないか!」
今度はあどけない、子供のような顔で少年が言う。
こんなふうにコロコロと表情を変える相手とは、他に会ったことがない。
護堂はだんだん楽しくなってきた。
「おお。じゃあ、おまえが投げたボールを俺が打つ。バットが届かないところに投げたボールはノーカウントにしていい。俺が空振りしたり、ゴロを打ったりしたら、その打席は俺の負け――これでどうだ?」
「ほほう。ずいぶんとおぬしに不利そうな取り決めじゃが、よいのか? 我は強いぞ」
ふたりでにらみ合い、そしてにやりと笑い合う。
まさか、こんな異国の地でバットを握る日がふたたび来ようとは――。
予想外の成り行きに、護堂はひさしぶりに熱くなってきた。
3
勝負の結果は、驚くべきものだった。
最初の数球こそ打ち勝つことができたのだが、以後はほとんど護堂《ご どう》の敗北だった。
でたらめなフォームで少年が投げる白球。
これが速くて、しかも重い。コントロールもみごと。
同年代のどんな投手が投げるボールも、きっとこれにはかなわない。中学時代、素質の差をまざまざと見せつけてくれた三浦《み うら》も、台湾《たいわん》や韓国《かんこく》への遠征で対戦した向こうの怪物投手も、サルデーニャで出会った少年には遠く及ばない。
背丈は一七〇センチにも届かず、体つきも華奢《きゃしゃ》。
それなのに、この剛腕《ごうわん》はいかなることか。
「おまえ、野球はあんまりやってないよな。たいして経験ないだろ?」
「うむ、今日が初めてじゃ。なかなか面白いのう」
三〇球以上も対戦したが、ほとんど空振りか凡打で終わった。
少年の投球フォームは、まちがいなく我流《がりゅう》である。訓練を受けたものではない。だが、これがおそろしく自然でなめらかなのだ。
デタラメなくせに美しい動きからの、威力絶大な剛速球。
バットに空を切らせたあとは、漁網《ぎょもう》のネットに破らんばかりの勢いで突き刺さる。
「くそっ、ダメだ。すこし休憩していいか? ちょっと攻略法を考えてみる」
息を荒らげながら、護堂は「待った」を要求した。
天才? これが正真正銘《しょうしんしょうめい》の天才なのか? いや、ちがう気がする。目の前にいる自称《じしょう》記憶|喪失《そうしつ》の少年は、そんな代物《しろもの》ではないような 理屈抜きにそう感じてしまう。
だが、どれだけ球が速くとも、荒削《あらけず》りなことはまちがいない。
まずはあの速さに目を慣れさせなくてはいけない。とはいえ、現役で四番だった頃でも打ちあぐねたであろう剛球。さて、どう打ち崩す?
「ふふっ、焦《あせ》るな。我は最強にして、あらゆる敵を打ち破る者。おぬしは善戦している方じゃ。まあ、ゆるりと遊ぶとしようではないか」
とんでもない大口を叩《たた》かれてしまったが、悔しいことに反論できない。
しかも、少年は余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》――それでいてわずかに勝ち誇っているところが憎らしい。何としてでも、一矢《いっし 》報《むく》いてやりたいところだ。
……ふたりはサッカーに興《きょう》じていた若者たちから十分に距離を取って対戦していたのだが、少年の放る球があまりにすごいせいか、彼らも周りに集まってきていた。
護堂が休んだのを見て、俺も俺もとしゃしゃり出てくる。
ここからは、カリアリ港の若者たちまで巻き込んでの勝負になった。
だが、少年の敵はいなかった。ひとりも打てない。ボールにかすりさえしない。
「何なんだ、あいつは……? 人間じゃないって言われても、信じたくなってきたぞ」
一〇〇を超える数の剛速球を放ってもなお、少年は息ひとつ乱していなかった。
球威にもコントロールにも乱れはない。
涼《すず》やかに若者たち全員を打ち取った少年の姿に、護堂は驚嘆《きょうたん》した。
そのうち、今度はサッカーをやろうという話になったようだ。イタリア人の若者たちは、護堂と少年の肩を抱きながらサッカーボールの方に向かっていく。
「おい、この人たちに仕事はいいのかって訊《き》いてくれよ! どう見たって遊びすぎだぞ!」
「おぬしも細かいことを気にするのう……。これもこやつらの流儀というものじゃろ。郷《ごう》に入《い》っては郷に従えと申すぞ。おぬしも楽しめ!」
心配して護堂がわめくと、少年は涼しい顔で言い返してきた。
あまりに軽いラテンのノリに護堂は呆《あき》れたが、「ま、いいか」とすぐに思い直した。
破天荒《は てんこう》な祖父や母、その友人たちに慣れているせいか、根は真《ま》面《じ》目《め》な性格だと自認しているのだが、不真面目であやしい人間への許容範囲も広いのだ。
ここまできたら少年の言う通り、あれこれ考えずに楽しんだ方がいい。
Tシャツやタンクトップ姿のイタリア男たちは皆、港で肉体労働をしているのだろう。体格のいい者がほとんどだった。二の腕や首、胸や背中にタトゥーを彫り込んだ者も多い。一瞬ぎょっとしたが、やたらと気さくでもある。すぐに慣れた。
護堂と少年を同じチームに入れて、ストリートサッカーがはじまる。
ここでも少年にかなう者は誰ひとりいなかった。
ボールを持てば軽やかなドリブルで敵を抜き去り、針の穴を通すパスでゴール前の味方にアシストし、自らも華麗《か れい》なシュートで点を取る。またしても「これも今日が初めてじゃ」などと口走っていたが、もう気にならない。それほどの活躍だった。
試合終盤にドリブルで五人抜きを果たし、美しいループシュートを決めた少年の姿は神々《こうごう》しいほどであった。
「ファンタスティコ、ファンタスティコ! フィーリオ・デル・ソーレ!」
感極《かんきわ》まって、若者たちのひとりが叫んだ。
あとはなし崩しで試合終了。皆で少年を囲んで、満面の笑顔と感動の涙で喝采《かっさい》する。おまえは天才だ、太陽の子だとラテンのノリで大騒ぎだった。
試合中、一度もサボらずに走りつづけた護堂のことも、彼らは肩を叩《たた》いて賞賛《しょうさん》した。
やがて、日も暮れてきた。
西に沈みゆく太陽が港をオレンジに染めるなか、ふたりは仲良くなった若者たちと笑顔で別れた(結局、彼らは一度も仕事に戻る気配を見せなかったのだが、そこは問うまい)。
そして、護堂と少年は改めて向かい合い、笑い合った。
「……変な一日だったけど、楽しかったよ。おまえはどうだ」
「我もじゃ。こういう遊びも時には悪くないのう」
人見知りはしない方だと自覚のある護堂だが、こんな短期間で、しかも名前すら名乗らない変なヤツと、ここまで馴《な》染《じ》んだ自分が意外だった。
だが、悪い気分はしない。
まだ現役で野球をやっていた頃の、チームメイトたちといっしょにいるような――。
そんな親しみを、この美少年に感じはじめていた。
「俺、明日から内陸の方に行くんだけどさ、おまえはどうするんだ? 当分この街にいるなら、俺が戻ってきたときにまた会わないか?」
「ふむ。我にもせねばならぬことがあるのじゃがのう……」
「自称記憶喪失のくせに、何するつもりなんだよ。いいじゃないか、さっきの人たちのところに行ってまたサッカーするのもいいし。ああ、何なら九対九でちゃんとした野球をするのも面白そうだな。この港よりも広い場所を確保しなきゃいけないけど」
「ほう。何じゃ、おぬし先ほどあれだけ負けたのに、まだ懲《こ》りてないのか」
ふたりでいっしょに軽口を叩き、ふたりでいっしょに笑う。
夕暮れの港街。
あざやかな橙色《だいだいいろ》で染め上げられた海辺の道。
今日という日はもうすぐ終わってしまう。できれば、この少年ともうすこしだけ時間を共にしたい。その思いが、護堂をいつもより饒舌《じょうぜつ》にさせていた。
だから、道の前方で立ちはだかる影の存在に気づかなかった。
その影は、華奢《きゃしゃ》な少女の形をしていた。
護堂が彼女の存在に気づいたのは、声をかけられた直後であった。
「ねえ、そこをゆく方たち――突然で申し訳ないけれど、お訊《たず》ねしたいことがあるの」
それはイタリア語での呼びかけだった。
もちろん、護堂には理解できなかった。もっとあとで、当の彼女に何を言っていたのか訊ねて、初めて意味を知ったのだ。
だから護堂はこのとき、いきなり現れた少女に見《み》惚《ほ》れるばかりであった。
欧《おう》州《しゅう》の基準で言えば、背は低い。一六〇センチをすこし超える程度だ。それなのに、この威厳はどうだろう? まるで女王のように傲然《ごうぜん》と、そして堂々と立ちはだかっている。
彼女は長い金髪を潮風になびかせていた。
その赤みがかった金髪は、オレンジの陽光を浴びて紅《くれない》の色味をさらに強くしている。
焔[#異体字 底本での使用は、「火へん+つつみがまえ/臼」Unicode:U+7130、読みは「ほのお」、78-13]《ほのお》が燃え上がるような紅と黄金の髪。それがまるで王冠か戦士の兜《かぶと》のように、彼女の頭と輪郭《りんかく》を華麗に飾り立てている。
だが、何より――何より少女の美しさが、護堂の目を惹《ひ》きつけてやまなかった。
繊細《せんさい》な造りの美貌《び ぼう》。どんな人形よりも整い、どんなモデルや女優よりも覇《は》気《き》に富み、高貴さと自信に充《み》ち満ちた、二度と忘れられない顔。
「この島に顕《あらわ》れた神について、知ることを全てわたしに教えなさい。我が名はエリカ・ブランデッリ。あなたたちに教える必要もないのだけれど、これを以《もっ》て礼としてあげるわ」
後日、護堂は思った。
こんなにえらそうな発言だと知っていたら、意地でも見惚れたりしなかったのに、と。
4
「……なあ。あの娘、何て言ってるんだ? すごく真剣そうだぞ」
「知っていることがあれば、洗いざらい吐《は》けとか何とか。要するに脅迫《きょうはく》じゃのう」
「脅迫!?」
護堂《ご どう》と少年の会話は、もちろん日本語である。
それを聞いて、金髪の美少女は不機嫌《ふ き げん》そうに眉《まゆ》をひそめた。
そんな表情ですら絵になるのだから、この娘は本当にとんでもない。
あざやかな紅色《べにいろ》の上着と、黒のパンツを身につけている。美貌《び ぼう》の割にファッションは普通なのだが、センス良くまとめているのでかなり洒落《し ゃ れ》て見える。絶世の美貌と抜群のプロポーションが、衣服の印象まで引き上げているせいでもあるだろう。
「……全《すべ》ての道はローマに通ず、郷《ごう》に入《い》っては郷に従えというのに、嘆《なげ》かわしい話ね。イタリア語もできないのにこんなところをうろつくなんて、不心得《ふ こころえ》もいいところだわ」
やや苛立《いらだ 》った様子の少女がふたたび口を開いた。
内容の失礼さを除けば、今度はみごとな日本語である。もしかしたら、格好つけた登場が台なしになったので、…機嫌を悪くしたのかもしれない。
「三日ほど前から、サルデーニャ島の各地で顕現《けんげん》している『まつろわぬ神』について教えていただきたいの。ボーザ、オルゴソロ、バルミニ……神の来臨《らいりん》が確認された場所の近辺では、常にあなた[#「あなた」に傍点]の姿が目撃されている。偶然ではないはずよね?」
少女に言われて、護堂は隣にいる少年を見やった。
彼女が口にした地名は、いずれもサルデーニャ島の地名だと思われる。となれば「あなた」が指すのは自分以外の人間に決まっている。
それにしても、「神」とはどういう意味だろう? わけがわからない。
「わたしはエリカ・ブランデッリ。ミラノの結社〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の大騎士よ。一応、こんな南の果てにも我が結社の団員はいるの。ちなみにさっきの目撃者というのは彼らのことだから、とぼけても意味がないわよ」
結社、それに神。半端《はんぱ 》なく奇怪な単語の数々に、護堂は困惑してしまった。
だが彼女の口ぶりがあまりに自然なので、不思議と違和感がない。
「あなた、何者? あまりそうは見えないけれど魔術師? それとも、どこかのカルトの祭司《さいし 》か助祭というところかしら。そうした輩《やから》が『まつろわぬ神』の招来《しょうらい》にまぐれで成功した例も皆無《かいむ 》ではないし、そう推測するのが妥当《だ とう》なところよね?」
エリカ・ブランデッリが尊大《そんだい》に微笑《ほ ほ え》んでいる。
これほど気品高く、そして不遜《ふ そん》に笑う女の子を護堂は初めて見た。何でこんなにえらそうなんだという反発と、その華麗《か れい》さへの感嘆《かんたん》が両方こみ上げてくる。
「あら。ここまで待っても、まだ黙ったまま? 仕方ないわね。なら、平和的な話し合いの時間は終了よ。ここからは剣の時間。|言葉の通じぬ者《バ ル バ ロ イ》に道理を説くなんて、無駄もいいところですものね!」
こんなに挑発的な口ぶりで、平和的が聞いて呆《あき》れる。
そう思う護堂を余《よ》所《そ》に、エリカ嬢はさらに言葉をつづけていった。
「来《きた》れ、鋼《はがね》の獅《し》子《し》よ。獅子の魂《たましい》を宿す者、闘争の精髄《せいずい》を宿す鋼よ。我が手・我が声に応《こた》えよ。汝《なんじ》の名はクオレ・ディ・レオーネ――獅子心王の名を継《つ》ぐ勇士なり!」
次の瞬間に起こった現象は草薙《くさなぎ》護堂の常識を根本《こんぽん》から揺さぶるものであった。
忽然《こつぜん》と剣が――エリカの右手のなかに、いきなり剣が出現したのだ!
「騎士エリカ・ブランデッリは誓う。汝の忠誠《ちゅうせい》に武勇と騎士道を以《もっ》て応えんことを」
突如《とつじょ》として出現した長剣。
その銀色の刀身はか細く、美しい。夕暮れの陽光を浴びてきらめく姿は、まるで澄み切った清流が光を反射するかのように清冽《せいれつ》だった。
「あなたも神に関《かか》わる身の上なら、エリカ・ブランデッリとクオレ・ディ・レオーネの武名は聞いたことがあるのではなくて? 小者相手に|紅と黒《ロッソネロ》の技は使いたくないの。知る限りの情報を、迅速《じんそく》かつ従順に、効率よく教えなさい」
と、美術品めいた剣を突きつけてくるエリカ。
もちろん護堂と、あの淡い微笑を浮かべる少年に向けて、である。
「……何だ、今のヤツ? もしかして手品か?」
「あの程度の魔術であれば、たしかに手品と言ってもよいのう。たいした術ではない」
「ま、魔術!?」
剣、神、騎士、魔術、魔術師――! 何だ、この単語の数々は。
護堂は絶句した。ここは二一世紀のイタリア、断じて暗黒の中世ヨーロッパなどではないのだ。こんなに非現代的な用語が並んでいいはずがない。
「無茶をする娘じゃ。剣を以て我と対するとは、かつていかなる勇士たちもはばかった蛮行《ばんこう》じゃぞ。知らぬということは恐ろしいのう!」
「あら、ずいぶんと腕に自信がおありのようね?」
苦笑しながら言う少年に、エリカは傲然《ごうぜん》と胸をそびやかして応じる。
そして、剣の切っ先をゆらゆらと生きた動物の尾のように揺らしだした。剣術の心得など皆無《かいむ 》の護堂にも、それが攻撃の予備動作であることが直感できた。
「よろしければ、あなたの分も剣を出して差し上げるわよ。このエリカ・ブランデッリが剣での決闘から逃げることは、滅多《めった 》にあることじゃないの。いかが?」
言うだけのことはありそうだと、護堂は息を呑《の》んだ。
この美少女が剣をかまえる立ち姿が、おそろしく決まっているのだ。
ある分野の技術を突き詰めた者だけが持つ美しさ。無駄をそぎ落としたことで生まれる機能美。ただ容姿がいいだけでは手に入らない格好の良さが、まざまざと感じられる。
「それも面白そうじゃが、今回はちとつきあう暇はなさそうじゃ」
「まあ。わたしの誘いを断る殿方は、今までひとりもいなかったのよ。こんなところで初めての体験をするだなんて、すこし屈《くつ》辱《じょく》だわ」
「ふふ、そう申すな。いずれおぬしとも遊んでくれよう。じゃが今は――」
むしろ優雅《ゆうが 》に遺憾《い かん》の意を表するエリカに、少年は飄然《ひょうぜん》と告げる。
「もっと厄介《やっかい》な輩《やから》が出てきおるのでな!」
異変が生じたのは、その直後であった。
ゴゴォォォォォォォォォンンンンン!!
すさまじい轟音《ごうおん》が響く。
今までのやりとりで十分に驚嘆《きょうたん》していた護堂だが――。
今度は、己《おのれ》の正気を疑う羽目になった。だが、仕方ないではないか。
体長五〇メートルはあろうかという巨大な『猪《いのしし》』が海中から現れ、すさまじい勢いで港に上陸し、近くに建っている建物へと手当たり次第に突進しては打ち壊していく――。
そんな光景がいきなり目の前に現れたのだから。
自分だけではなく、剣を持つエリカまで唖然《あ ぜん》として見入っていた。
何なんだ、これは? こんな怪獣映画のような光景が本当に現実のものなのか?
と、茫然《ぼうぜん》自失《じ しつ》となった瞬間に手を引っぱられた。
「ほれ小僧、走れ! 早《はよ》う行くぞ!」
少年が叫び、護堂の手を取って走りだす。
思考が麻《ま》痺《ひ》していたため、特に深く考えもせずいっしょに駆け出した。だから、進行方向の有り様を理解した瞬間に度肝《ど ぎも》を抜かれてしまった。
「ち、ちょっと待て! おまえ、あっちはすごく危なそうだぞ!」
「どのみち剣で行く手をふさがれておるのじゃぞ。前門の虎《とら》、後門の何とやらじゃ。覚悟を決めい! 自《みずか》ら危《き》地《ち》に飛び込んでこそ、浮かぶ瀬もあるものよ!」
こんな状況だというのに、少年は快活に叫ぶ。
護堂の手を引きながら彼が向かう先は、まさに『猪』が暴れている港の真《ま》っ只中《ただなか》。
おそらく今、カリアリで最も危険な場所にちがいなかった。
「ま、待ちなさい! まだわたしの用は終わっては――」
「縁があれば、また会おうぞ! さらばじゃ!」
エリカ嬢が何やら叫んでいたが、少年は護堂の手を取ったまま走りつづけた。
巨大な『猪』の毛皮は、闇《やみ》そのもののように黒い。
黒き巨獣が地を蹴《け》るたびに港は震え、激しく地面が揺れ動く。
「オオオオオオンッ!」と吠《ほ》えるたびに建物の窓ガラスは震え、砕け散っていった。
突進するたびにいくつものビルや倉庫が、ミニチュア模型のように粉砕された。
どこからか火まで出てきた。
倉庫のひとつに油でも貯蔵してあったのかもしれない。
禍々《まがまが》しい焔《ほのお》はたちまちのうちに燃え広がっていく。港中を紅蓮《ぐ れん》の舌で舐《な》め回し、呑み込み、焼き尽くそうと勢力を増していく。
「……この火事のおかげで、あの物騒な女をまけたのはたしかだけどな」
燃えさかる焔を仏頂面《ぶっちょうづら》でにらみながら、護堂は言った。
あのエリカという少女を煙にまぎれてやりすごしてから、一〇分ほどが経《た》っている。追いかけてこなかったところを見ると、もっと安全そうな方へ逃げたのかもしれない。
今、護堂と例の少年がいるのは、火に包まれた港の一角だ。
まだ命の危険を感じるほどではないが、着実に火の手は広がっている。
何より、数百メートル先にいる『猪』が恐ろしい。
周囲に破壊する建造物がなくなったら、気まぐれにこちらへ突進してくるのではないか。そうなったら最後、護堂と少年の命は風前の灯火《ともしび》だろう。
「このままだと俺たちも焼け死ぬぞ。よりにもよって、こんなところに逃げ込むなよ」
「火に呑まれる前に逃げてしまえば、大事はなかろう。――ふむ」
護堂の苦情もどこ吹く風で、少年はきょろきょろと辺りを見回している。
憎らしいことに、その美貌はあいかわらず涼しげで超然としたままだった。
これだけの焔にさらされながら、汗ひとつかいていない。汗と煤《すす》で汚れまくった護堂とは対照的に、白面《はくめん》の美少年のままだ。
「何だよ、さっきから? 様子が変だけど、気になることでもあるのか?」
「うむ。実は、誰かが助けを呼んでいるような声が聞こえてのう。空耳とも思えぬ」
護堂も耳を澄ましてみたが、それらしき声は聞こえない。
「俺には全然聞こえないぞ。気のせいじゃないか?」
「いや、それはあるまい。――そうか!」
いきなり少年が動き出した。
彼の目指す方向では、あの巨大な『猪』が現在進行形で暴れている最中だった。
「おまえ、どこへ行くつもりだよッ? そっちは危ないだろ!」
「ははっ。怖ければ先に帰るがよい。無理についてくる必要はないのじゃぞ!」
と笑うなり、少年は駆け出した。
護堂は一瞬|逡巡《しゅんじゅん》し、だがすぐにあとを追うことにした。
ここで彼とはぐれたら、もう一生会えなくなるかもしれない。何より、この無鉄砲な少年の面倒を見なくてはならない。そう決心したのだ。
少年の背中を追いかけて、護堂は懸命《けんめい》に足を動かした。
ガレキを乗り越え、石ころを蹴飛ばし、燃えさかる焔を避け、煙に咳《せ》き込み涙ぐみ、何度もつまずきながら走る。五分ほど、そうやって走りつづけただろうか。
ようやく少年が足を止めた。
彼の行く手を、崩れた建材がふさいでいる。
ほんの一時間前までは、港に立ち並ぶ倉庫の壁や屋根、扉などであったはずの建材だ。
だが今はただのガレキの山。しかも、烈《はげ》しく燃えさかる焔がそれらを呑み込んで、難関をさらに厳しいものに変えていた。
相応の装備がなければ、この先に進むことはできないだろう。
だが、ここで護堂は気づいた。あちらの方から人の声が聞こえる。誰かが崩れた建材の向こうにおり、おそらく必死で声を張り上げているのだろう。
声の感じからして、ひとりではなさそうだ。数人、あるいは十数人か。
「のう小僧、ここに見覚えがあろう? ほれ、さきほど我らが遊んでいた場所じゃ」
唐突《とうとつ》に少年から指摘され、護堂はハッとした。
彼の言う通り、ここは数十分前まで港の若者たちといっしょにボールを追いかけていた空き地ではないか。おそらく『猪』の暴走でまわりにあった倉庫が崩れ、突然の猛火に呑み込まれ、こんな有《あ》り様《さま》になったのだろう。
「あやつら、どうやら逃げ遅れたようじゃのう。哀れにも助けを求めて泣き叫んでおるわ」
「あやつら? ……もしかして、さっき港で遊んでた連中のことか!?」
「うむ、まちがいなかろう。道すがら出会った者たちが救いを求めるとき、その声を聞き届ける。これは我の得《え》手《て》のひとつでな。そうそうまちがえたりはせぬよ」
うずたかく積み上がったガレキの向こうから、イタリア語らしきわめき声が聞こえる。
もちろん、意味はわからない。だが、救いを請《こ》う声であることは容易に想像できた。
護堂は迂回路《う かいろ 》を探した。ない。
護堂はこのガレキを乗り越える道を探した。ない。
護堂は灼熱《しゃくねつ》の焔を避ける術《すべ》を探した。ない。全てない!
「どうすんだよ、これ! どうやって助け出したらいいんだよ!?」
思わず怒鳴ってしまった。
烈《はげ》しく炎上する焔も、わずか数十メートル先で破壊の限りを尽くしている『猪』も忘れて激昂《げきこう》した。あの怪物のせいで今、どれだけの人間が犠牲《ぎ せい》になっているのだ?
そう思いはじめると、無性に腹が立って仕方がなかった。
そんな護堂を見て、少年は穏やかに微笑んだ。
「己の逃げ道を探す前に他者を救う手だての思案とは、なかなかに見所のある小僧じゃのう。おぬしの義侠心《ぎきょうしん》に一〇の賛辞《さんじ 》を贈ろうではないか」
「バカ、そんなこと言ってる場合か! ふざけるのはよせ!」
「ふざけてなどおらぬ。あやつらは我が助けるゆえ、安心せい。……小僧、短い間じゃが楽しい一時であった。礼を言うぞ」
焔が紅《あか》く照らし上げる少年の美貌。
護堂はその荘厳《そうごん》さに不意に気づき、黙り込んでしまった。何だ、こいつ? いきなり、妙にえらそうな感じになった? ――変だ。
「ふふ、只人《ただびと》の小僧との遊びでここまで楽しめるとは、意外な発見じゃった。興《きょう》が乗ったゆえ、ついあちこち連れ回してしまったのじゃが、さすがにそろそろ潮時よな。我は我の務めを果たさねばならぬ。縁があればまた会うこともあろう。つつがなくおれよ」
護堂よりも背の低いはずの少年に、見下ろすような視線を向けられている。
だが、まったく違和感がない。
目の前の少年がやけに慕《した》わしく、そしてまぶしく感じられるせいだろうか。彼が只の人ではなく、特別な存在であるように思えて仕方がなかった。
「行くがよい、小僧。おぬしの向かう先は、焔|渦巻《うずま 》く戦場ではない。安らぎと平穏に満ちた人の世よ。性正しく、光の加護を失わぬ生を歩めよ」
助けを呼ぶ人々のいるガレキの向こう。
そちらとは真逆《まぎゃく》の方向を少年が指さした。すると護堂の体は勝手にそちらを向き、歩きだしてしまった! 何なんだ、これは!?
驚愕《きょうがく》しながらも、護堂は必死に足を踏ん張った。
このまま行ってしまうわけにはいかない。その一心での抵抗だった。
「強情な小僧じゃのう。我が加護の言霊《ことだま》にそうまで抗《あらが》うか」
「ま、待て。待ってくれ。俺ひとりで逃げ出すわけにいかないだろう? 行くならおまえも、向こうにいる人たちもいっしょだ。だから――!」
「その心映《こころば》えだけで十分じゃ。おぬしの助けなど要《い》らぬ。邪魔《じゃま 》じゃから、とっとと行け」
邪険な言葉とは裏腹に、やさしい笑顔で少年は言った。
「我が名を失っておることが残念でならぬのう。窮地《きゅうち》に陥《おちい》りしときは我が名を呼び、加護を求めよ。かつての我であれば、この聖句を別れの言葉としたものであるが! じゃが代わりにかりそめの友として、この言葉を贈ろう。――さらばじゃ。疾《と》く行くがよい!」
結局、それが最後となった。
少年がさらばと言うや否《いな》や、護堂の足は勝手に走り出した。
もう踏ん張ることも、抗うこともできない。
火と『猪』の脅威《きょうい》から逃れようと、全力で駆ける。道なき道をひた走る。
少年を、そして焔のなかに取り残された人々を助けなくては――。その思いが胸に渦巻いていたのだが、護堂の足は止まらなかった。
やがて、どこをどう走ったのかもわからぬまま、護堂はついに火の出ていない辺りにまで辿《たど》りついた。ひとりで逃げてきたという罪悪感も一瞬忘れて、安堵《あんど 》のため息をつく。
――その直後、絶望した。
護堂はいつのまにか、昼間も通ったドゥオモのそばまで来ていた。
そびえ立つ大聖堂。
神聖なる者たちを敬《うやま》い、祈りを捧《ささ》げるための礼拝所。
静《せい》寂《じゃく》と敬皮《けいけん》さこそがふさわしい建造物のそばに、一匹の巨獣が並び立っていた。高さ数十メートルはあるドゥオモと同じほど巨大な、黒き『猪』が。
魁偉《かいい 》なほど太く、たくましい胴回り。
意外と華奢に見える四《し》肢《し》。禍々《まがまが》しく長大な牙《きば》――。
これは護堂が知る同種の獣《けもの》とは、酷似《こくじ 》していながら別種の存在であった。
どんなに怒った猪でも、これほど猛々《たけだけ》しくはない。これほど獰猛《どうもう》ではない。これほど凶暴でも、これほど神々《こうごう》しくもない。これほど人に畏《おそ》れを与えはしない!
美しい石造りの聖堂よりも、この『猪』こそが聖なる存在のように思えてきた。
怒れる神、破壊の神、黒き神。
驚愕と恐怖と畏《い》怖《ふ》で、今度こそ護堂の体は完全に凍り付いた。
オオオオオオオォォォォォォンンンンンッ!!
ルオオオオオオンンンン!!
大地を揺るがし、空を震《ふる》わす咆哮《ほうこう》が幾度もこだまする。『猪』がドゥオモを紙《かみ》細工《ざいく 》のように破壊し、粉砕していく。護堂はその光景を呆然《ぼうぜん》と見つめるばかりであった。
ガレキが次々と、雹《ひょう》のように空から降ってくる。
このままでは危ない! そう思った直後、一陣の風が吹いた。
はじめは涼やかな微風。すぐに勢いが増して強風となり、やがて渦巻く烈風《れっぷう》となった。
「……風? ――って、のんびりしてる場合じゃないぞ!」
叫びながらも護堂は、ドゥオモと『猪』から急いで離れた。
この直後に起きた奇怪な活劇のことは、おそらく終生忘れないだろう。
それは、ついに竜巻《たつまき》となった烈風と、黒き『猪』の格闘戦であった。
ドゥオモのあるパラッツォ広場の近辺には、カリアリの街でも特に古い建造物が多い。
エレファンテの塔、サン・パンクラツィオの塔、ゴシック様式やバロック様式で築かれた中世の教会もたくさん残っている。
その歴史的な地所に発生した竜巻が、巨大な『猪』を持ち上げ、天高く舞い上げていったのだ。この竜巻の風力たるや、一体どれほどのものなのだろう?
渦巻く暴風に呑まれ、中空に吊り上げられた『猪』。
その周囲を数度、黄金の閃光《せんこう》が駆け抜けるのを護堂は目撃した。鋭く速い何かが金色の弧を描き、『猪』の巨体を斬《き》り裂《さ》いたようにも見えた。
グアアアアアアアアアッッッッッッ!!
『猪』の咆哮が響く。それはまちがいなく断末魔《だんまつま 》の絶叫であった。
支えをなくした黒き巨体が地上へ落ち、すさまじい轟音《ごうおん》を立てる。塔のひとつが砕け、石材が飛び散り、多くの家屋《か おく》も押し潰《つぶ》された。
そして『猪』の体は、砂のように細かい粒となって崩れ去っていく。
その粒を巻き上げたのは、殺害者である竜巻であった。竜巻は渦巻くのをやめ、ただの強風となり、かつては『猪』であった砂(?)と共に飛び去っていく。
あとに残されたのは、阿鼻叫喚《あ びきょうかん》の巷《ちまた》であった。
無惨《む ざん》に破壊された街並み、いまだ勢いの衰えない港の火事、混乱しきった人々。
我先にと逃げる者。呆然と立ちつくす者。神へ祈りを捧げる者。泣き、怒り、パニックを起こし、傷つき、嘆く者たち――。
そのなかを護堂はふらふらと歩き回った。
いつのまにか日も暮れていた。崩壊した夜の街を、せわしなくさまよう。
あの少年と、港の若者たちはどうなったのか? 彼らの無事な顔が見たい。どうなったのかを知りたい。その思いにまかせて、闇雲《やみくも》に探し回ったのだが――。
結局、誰とも巡り会えなかった。
5
翌朝、護堂《ご どう》を驚かせたのは、ホテルで見せてもらった新聞だった。
カリアリを中心とする、サルデーニャ島南部の地方紙だという。だが、そこに昨夜の一件は何も書かれていなかった。
炎上する港の写真を載《の》せた記事はある。が、英語のできるホテルの主人に訊《たず》ねても「昨日、港で火事があったらしい。君も巻き込まれたのか、災難だったな」と肩を叩《たた》くだけだった。
ホテルの誰に訊《き》いても『猪《いのしし》』と竜巻《たつまき》のことは知らないと言う。
突っ込んで質問しようにも語学力が足りない。もどかしい気分のまま護堂はチェックアウトし、ホテルの外へ出た。昨日あったことは、全《すべ》て現実のはずなのだ。
とにかく現場に行ってみようと決めて、ドゥオモのある広場に向かう。
無惨に砕け散ったドゥオモ。破壊の限りを尽くされた街並み。
作業員の人々が黙々と復旧作業に努めているが、回復までどれだけの時間がかかることか。
「やっぱり夢じゃないよな……」
護堂は惨《さん》状《じょう》を見渡しながら、つぶやいた。
次は港の様子を見に行こう。そう決心した直後に声をかけられた。
「まだこの街に留まっていたなんて、のんきなものね。あなたのお連れはどうしたの? わたし、あの子の行方《ゆ く え》を追っているのだけれど、協力していただける?」
昨夜の傷跡もなまなましいカリアリの往来《おうらい》。
そこに現れたのは、赤みがかった金髪の少女――忘れ得ぬ美貌《び ぼう》の持ち主だった。
「……何だ、おまえか」
たしかエリカ・ブランデッリといったか。
この少女にいい印象を抱いていない護堂は、ごく冷淡に言った。
「あら、御挨拶《ご あいさつ》ね。日本人は礼儀正しいって聞いていたのだけれど、わたしの勘《かん》ちがい? それとも、あなたひとりが礼節を知らないだけなのかしら?」
優雅《ゆうが 》な口調で辛辣《しんらつ》なことをエリカが言う。
あまり女子とのつきあいが得意ではない護堂だが、こんな態度を取られて気後《き おく》れするわけにもいかない。ムッと眉《まゆ》をひそめて、毒舌《どくぜつ》への反撃を試《こころ》みた。
「イタリア人も親切で友好的だって聞いているぞ。おまえにそういうやさしいところはないみたいだけどな」
しばらく無言でにらみ合う。
明らかにエリカは気分を害しているが、護堂も似たようなものだった。
「あなたが紳士として振る舞うなら、いくらでもやさしくして差し上げるわ。でも、淑女《しゅくじょ》を前にしてそんな態度じゃ全然ダメね。まるでダメ。不合格」
「すくなくとも俺の生まれたところじゃ、剣を振り回して脅迫《きょうはく》するような女を淑女だなんて言わないんだ。自分の乱暴さを棚《たな》に上げて、人のせいにするな」
あとで振り返って、しみじみ感慨《かんがい》にふけるときもあるのだが――。
このように、草薙《くさなぎ》護堂とエリカ・ブランデッリのファーストコンタクトは最悪に近い形ではじまったのだ。おたがい、初対面でいきなり攻撃的になる性格でもなかったのだが、このときは状況が悪かった。
「『まつろわぬ神』を呼び出した魔術師の子分|風情《ふ ぜい》が、きいたふうな口を叩くわね」
「またそれか。昨日から神様神様って何なんだよ、それは? 俺みたいな普通の人間にも理解できるように話せよ。わけのわかんないことだらけで、こっちは頭が混乱してるんだ!」
護堂は憤然《ふんぜん》と吐き捨てた。
ところが、この文句を聞いたエリカはフンと鼻で笑い、いきなり手を伸ばしてきた。
彼女の手がつかんだのは、護堂が肩にかけていた旅行用のバッグだった。
そのまま引ったくられてしまった。とんでもない怪力だったので抗《あらが》うこともできず、護堂は驚嘆《きょうたん》した。こんなに華奢《きゃしゃ》な女の子と、腕力勝負で負けてしまうとは!
「ほら、ご覧《らん》なさい。これは何? 神力の気配をここまで発散させる聖遺物《せいい ぶつ》――わたしたち〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の魔術師でさえ滅多に見ることのできないレベルの品よ」
エリカがカバンから引っぱり出したのは、例の石板だった。
B5サイズほどで、紫《むらさき》の布で包んである。印象深いが稚拙《ち せつ》な絵を刻《きざ》み、祖父の友人である女性が日本に持ち込んだという物品――。
「あ、こら、返せよ! それは俺の持ち物じゃないんだ。元の持ち主へ返すために日本からわざわざ持ってきた物なんだぞ!」
「元の持ち主? その人がこのサルデーニャ島にいるっていうの?」
「そうだよッ。昨日からえらそうなことばかり言うくせに、ろくなことしないヤツだな!」
「……このわたしにそんな減《へ》らず口《ぐち》をたたいた罰はあとであげるとして、あなたにひとつ質問があるわ。その持ち主の名前を教えなさい」
夜の狩《か》りで獲物《え もの》を見つけたフクロウのように、爛々《らんらん》と輝く目つきでエリカが訊ねた。
「『まつろわぬ神』を呼び出した一党の所持する神具と、その持ち主。すごく興味深い話だわ。……ほら、また剣で脅《おど》してもいいのよ? わたしが寛大《かんだい》なうちに話した方が賢《かしこ》いと思うけど?」
エリカの目つきは剣呑《けんのん》で、口調は偽《いつわ》りのやさしさで満ちていた。
反発しかけた護堂だが、すぐ思い直した。
神、魔術、謎《なぞ》の少年、エリカ・ブランデッリ。昨日から理解不能なことばかり身の回りで起きている。この辺りでもっと情報をそろえておきたい。
あの少年がいない以上、この少女が唯一《ゆいいつ》の手がかりと言ってもいいのだ。
「……ルクレチア・ゾラっていうらしい。内陸の方にあるオリエーナって街に住んでいるって聞いた。俺はその人のところに往《ゆ》く途中なんだ」
決心して、敢《あ》えて正直に言う。
それを聞いたエリカは眉《まゆ》をひそめ、じろじろと護堂のことを眺め回した。
「ルクレチア・ゾラ? あのサルデーニャの魔女のこと? あなたのような邪派の魔術師の子分が、彼女と会ってどうするつもりなの? ……胡散《う さん》くさい匂《にお》いのする話ね」
草薙護堂と謎の少年。
そして、草薙護堂とエリカ・ブランデッリ。
このふたつの出会いが、やがて世界と神々を震憾《しんかん》させる事態に発展していくのだが――。今はまだ南イタリアの片《かた》田舎《い な か》、サルデーニャ島での一幕にすぎなかった。
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第3章 サルデーニャの魔術師
1
「あの男の子とあなたはたまたま知り合っただけで、赤の他人。その石板《せきばん》も、偶然手に入ったから元の持ち主に返しにわざわざやってきた……」
同じベンチにすわるエリカが、音楽的な声で数え上げる。
ちなみに護堂《ご どう》はベンチの左端、エリカは右端なので、ふたりの距離は結構離れている。
「そんなウソみたいな話、信じられると思う? もっとリアリティのある作り話をしなさい」
「ウソじゃない。全部本当で、全部偶然だ。おまえが信じなくたって知ったことか」
いちいち癇《かん》に障《さわ》ることを言う少女に、護堂はしかめ面《つら》で答えた。
こんな女を旅の道連れにするなど、冗談ではない。何としてでも追い払いたいところだ。
「大体そっちこそ何だよ、魔術師で騎士って。片方だけでも変なのに、そんなのをふたつも並べてバカみたいだぞ。ネットでやるゲームとかじゃないんだからさ」
チェスや囲《い》碁《ご》などはたまに遊ぶ護堂だが、デジタルなゲームはあまりやらない。それでもオンライン|R P G《ロールプレイングゲーム》がいかなるものかぐらいは知っている。
魔術師や騎士、神。怪しい単語の数々が、自然とその知識を呼び起こしたのだ。
「テンプル騎士団の末裔《まつえい》であるわたしたちを、作り物のゲームなんかといっしょにしないでくれる? あなたって紳士じゃないうえに教養までないのね。ほんと、嘆《なげ》かわしいわ」
「そんな教養、べつに欲しくなんかないね!」
エリカと口論しながら、護堂は仏頂面《ぶっちょうづら》でイタリア語の時刻表を眺《なが》めた。
――今ふたりがいるのは、カリアリ駅のホームである。
護堂の目的地であるオリエーナの街は、島東部のヌオロ県にある。カリアリからは鉄道や車で二、三時間の距離らしいと知ったので、鉄道の利用を思いついたのだが。
ホームで待つこと、もう一時間。列車は影すら見えない。
イタリアの電車は絶対に遅れる。話に聞いていた通りであった。
「ほら、見なさい。鉄道が時刻通りに来るはずないって忠告してあげたでしょう? わたしの言った通り、車を使っていればこんな苦労をしなくてもよかったのよ」
「うるさい! 付き合うのがイヤなら、とっとと家に帰れ!」
現在、ホームには護堂とエリカしかいない。だから遠慮なく口《くち》喧嘩《げんか 》できた。
ちなみにカリアリ駅はひどくこぢんまりとした施設で、日本のローカル線の駅によく似ている。思わず既《き》視《し》感《かん》を覚えたほどだ。
「……まあ、おまえの言う通り、長距離バスって手はあったけどさ」
仮に仲の悪い相手であっても、言い分に理があれば認めてしまう。
多分これは、草薙《くさなぎ》護堂のあまり賢くない性分のひとつなのだろう。だがエリカは、その譲歩をあっさりと切り捨てた。
「何言ってるの? バスだの鉄道だの、このわたしが使うはずないでしょう!」
「どういうことだよ?」
いぶかしむ護堂に、エリカは誇らしげに胸を張って宣言した。
「いい? このエリカ・ブランデッリ、生まれてから今日までバスにも鉄道にも乗ったことなんてないわ。だって面倒くさいじゃない? こんなふうにわざわざ待ったり並んだりして」
「……へえ」
「わたしは車と運転手を手配すべきだと言ったのよ。飛行機に乗るのならともかく、地上を走り回るのに、こんなにわずらわしいことをしなくてもいいはずよ」
「……ふうん」
「あ、でも馬に乗るのは好きよ。馬といっしょに風を切る感覚は、他ではとても味わえないものだしね。あなたにも馬たちくらいの可愛《か わ い》さがあればいいのにね……」
「余計なお世話だ。取りあえず、よくわかったよ」
護堂は悟《さと》りにも近い諦念《ていねん》に達しながら、言った。
「わたしの偉大さが? だとしたら、ずいぶんと今さらな話ね。察しが悪すぎるわ」
「るさいッ。そんなんじゃない! おまえが正真正銘《しょうしんしょうめい》、俺が想像したこともないようなお嬢さまで、俺たちの間には大きなカルチャーギャップがあるってことをだよ!」
この女は完璧《かんぺき》に異文化に属する存在だ。自称《じしょう》魔術師、そして超が付くほどのお嬢さま。
たとえ言葉の壁はなくとも、理解し合えるはずなどないのだ。
「あら、それほど深窓《しんそう》の育ちでもないわ。一応、貴婦人たりうるように教育は受けて、そこそこ成果は上げているけど、その程度のものよ?」
「普通の庶民《しょみん》は、まず貴婦人なんて言葉と縁がない!」
しれっと言ってのけるエリカに、護堂は遠慮なくつっこんだ。
「これでわかっただろう? 俺とおまえの間には、埋めがたい文化と育ちの溝《みぞ》がある。いっしょに旅するなんて無茶な話なんだよ。列車に乗る前に理解できたのは幸運だと思う。――というわけで、ここで別れようぜ。うん、短い付き合いだったな」
「あなたも理解力が貧弱な人ね。わたしがあなたに同行するのは、どこまでもわたしの都合なの。あなたが何を言おうとやめたりしないわ!」
あっさりと言い切るエリカ。
すがすがしいほどのエゴイストぶりに護堂は頭を抱えたくなった。
「それに騎士たる者が使命のために耐えがたきに耐え、艱難《かんなん》辛苦《しんく 》を乗り越えるのはいにしえよりの習い。心配御無用よ」
「俺は、俺自身の心配をしてるんだ。おまえの苦労なんか知ったことかよ……」
護堂はぼやき、この少女が同行するに至った事情を心底|疎《うと》ましく思った。
今《け》朝《さ》の再会時。
己の目的地を告白した護堂に対して、エリカは宣言したのだ。
『だったら、わたしもルクレチア・ゾラのところへ同行するわ。あなたが高名なサルデーニャの魔女と面会して何をするつもりなのか、その石板がどんな力を持つ物なのか、とても興味があるもの。あの男の子からあなたに連絡があるかもしれないし、それがいちばんよね』
などと澄まし顔で。
護堂が激しく拒否すると、彼女は即座にこう切り返してきた。
『あら、剣に物を言わせて、今すぐあなたから石板を奪ってもいいのよ? そうしないのは、わたしがやさしくて騎士道精神の持ち主だからなの。ご理解いただけるかしら?』
暗に脅迫している。これではエリカの同行を黙認するしかない。
かくして、ふたりで口論しながらカリアリ駅までやってきたのだが。
「おまえさ、何であいつのことを追いかけているんだよ? たしかに変なヤツだったけど、悪いヤツじゃない。昨日だって、港の人たちを助けていたんだろ?」
今朝、護堂に話しかけてきたとき――。
エリカは昨夜の顛[#異体字 底本での使用は、「眞+おおがい」Unicode:U+985A、読みは「てん」、103-17]末《てんまつ》をあらかた調査し終えていたらしい。
彼女の追跡を振り切ったあと、少年と護堂が向かった場所。そこで焔《ほのお》とガレキに閉じこめられて絶望していた港の若者たちを、どこからともなく現れた少年が無事に救い出したこと。
彼はその後、風のように姿をくらまし、行方《ゆ く え》は杳《よう》として知れないこと。
護堂が港の若者たちを心配して出発を遅らせようとしたら、エリカがそれらの情報を教えてくれたのだ。何でも今朝早くに港を訪ねて調査し、助け出された若者たちにも聞き込みをして少年の行方を探ろうとし、最後に護堂のもとへ来たのだという。
だから時間を無《む》駄《だ》にせず、早く目的地へ向かえとエリカはえらそうに言ったものだ。
「昨日の神《しん》獣《じゅう》を見たでしょう? あの子には、あれを呼び出した疑いがあるの。もしそうなら、自分で呼び込んだ危険の後始末をしただけで、べつに誉《ほ》めるような話じゃなくなるわ」
「神獣とか神様とか、当たり前のように言われてもなあ……」
自分の目で一部始終を見ておきながら、未《いま》だに現実と認めたくない護堂であった。
「カリアリに出たのは『猪』だったけど、この三日ですでに三匹もサルデーニャ島に顕《あらわ》れていたのよ。ボーザには『駱駝《らくだ 》』、オルゴソロには『羊《ひつじ》』、バルミニには『牛』」
「……じゃあ、昨日のは四匹目だったのか!」
「ええ。幸い、神獣たちが出た直後に『風』の神が顕れて倒していくから、たいした被害は出てないんだけど。不幸中の幸いというところかしら」
昨日の騒乱を思い出した護堂は、肝《きも》を冷やした。
あれだけ怪獣が暴れ回っても「たいした被害じゃない」のか。凄《すさ》まじすぎる話だ。
「その現場の全て、しかも神獣たちのすぐそばで、あの男の子は常に目撃されているのよ。黒幕でないとしても重要参考人であることにちがいないはずよ。どう、反論できる?」
鬼の首でも取ったようにエリカに言われ、護堂は降参してしまった。
弁護材料がすくなすぎる。悔しいが、現時点では向こうの言い分を認めるしかない。
「じゃあ話を変えるけど、神様ってどんな連中なんだ? いまいちピンとこないんだけど」
あの少年の話は分が悪い。ちがう話題を振ってみた。
「そうね……。実を言えば、あれが本当に宗教的な意味での『神』かどうかは、わたしたちにも断言はできないのだけど」
エリカが天を見上げたので、護堂もそれに倣《なら》った。
サルデーニャの空は青く、高く、どこまでも澄み切っている。
あの空の彼方に、神様たちの住む天界とやらは本当に存在するのだろうか?
「人類が遥《はる》か昔から語り継いできた『神話』から、彼らは誕生するわ。天と地と星々の精気、地水火風・木火土金水など自然界の構成要素。そういった超自然力が『神話』を核として形を得、顕現《けんげん》した存在。それが『神』だと、わたしたち魔術師は仮説を立てているの」
エリカの言葉は半分も理解できなかったが、超自然という言葉に護堂はうなずいた。
たしかにあれは、自然の摂理《せつり 》を超えた存在だ。
「だけど、顕現した『神』のなかには核とした『神話』に抗《あらが》って行動するものもいる。だから神話に抗う神、『まつろわぬ神』と呼ばれるのよ。彼らは己の神話と縁のない土地にも勝手に現れ、災厄《さいやく》をもたらす。神の力は、ただそこにいるだけで人の世に悪影響を及ぼすのよ」
「……災いの神様か。あの黒い猪を見たら、すごく納得できるな」
「案外、あれで実は温厚《おんこう》な神の化身かもしれないけどね。本来は善神であっても『まつろわぬ神』として顕現した場合、いい感じで騒乱の火種になるらしいから」
「じゃあ、あの竜巻《たつまき》は? あれも神様なのか?」
「多分ね。風にまつわる神格なんていくらでもいるから正体は不明だけど、あの『猪』に敵対する神なのでしょう。おたがいの属性がどうであれ、結局困るのは人間というわけよ」
「ひどい話だな。そんなのが出てきたら、人間はどうすりゃいいんだよ?」
頭を振りながら、護堂は言った。
今まさに巻き込まれている最中なのだから、切実な問題だった。
「まず第一の選択肢は、嵐か地震のようなものと割り切って、やり過ごす方法ね。余計な騒ぎは起こさず、ひたすら神の慈《じ》悲《ひ》と、気まぐれに立ち去ってくれることを祈るの」
「お供え物をして、お祈りするわけか。まさに神頼みだな」
「でも、悪あがきするよりも意外と効果的だったりするわ。ほら、カリアリの人たちも昨日のことを騒ぎ立てたりしなかったでしょう? つまり、ああいうふうに」
「ああ、あれか! じゃあ、みんな神様のこと知っててやってたのか!?」
今朝の新聞やホテルの人々の反応を、護堂は思い出した。
皆で申し合わせたかのような、不自然な言動。あれにもちゃんと理由があったのだ。
「もちろん、神の存在を明確に知る人間はすくないわ。でも、欧《おう》州《しゅう》の古い街にはたいてい魔術師が隠れ住んでいるから、こういうときの対策をそれとなく教えてくれるのよ。あとはやっぱり歴史よね。神の出現時にはどうするか、先祖代々受け継いできた心得みたいな――」
「なるほどなあ。第一ってことは二番目もあるのか?」
「ええ。第二の選択《せんたく》肢《し》は、いちばんシンプルね。ずばり、神を倒すこと」
感心しながら護堂が訊《たず》ねると、エリカは予想外の答えを口にした。
「できるのか、そんなことが!?」
「もちろんできないわ」
驚いた途端に、ひどい答えを返された。何だ、それは。バカにしているのか?
「普通はできないし、最強レベルの上位魔術師たちにだってできないことよ。でもね、ごくごくたまに――奇跡が三度も四度も重なるぐらいの幸運の恩《おん》寵《ちょう》を受けて、それが可能になるときもないわけじゃないの。まあ、真剣に検討するような選択肢じゃないわね」
「要するに、まぐれ当たりが出ればってことか」
「まぐれ? そんなものじゃ無理よ。厩《うまや》で生まれた大工の息子が救世主になるぐらいの奇跡が起きなくちゃダメ。だから、第三の選択肢の方が現実的だわ。もし相手が弱い神格なら、その存在を封じ込めるのよ」
神を封じる。その言葉で、護堂は祖父の昔語りを思い出した。
たたり神の出た村に石板を奉納《ほうのう》すると、連続怪死事件がたちまち収まったという……。
「それ、おそらく神代《かみよ 》の魔導書よ。どんな術を秘めているかはわからないけれど」
石板をしまったバッグに護堂が目を向けていると、エリカが言った。
「魔導書って、本じゃないのに?」
「紙のない時代――神代の昔の産物だもの。神々が気ままに世界を闊歩《かっぽ 》していた頃の話よ。当時、神が己の叡智《えいち 》と神力を遺《のこ》すために記した魔導書は、そういう形をしているの」
エリカの語りを遮《さえぎ》ったのは、ガシャガシャという騒音だった。
耳障《みみざわ》りなブレーキ音も響く。ちょうど列車がすべり込んできたところだった。
護堂は数十分ぶりにベンチから腰を上げ、そして言った。
「まあ、俺みたいな一般人には全然ピンとこない話だってのはわかったよ。……それと言っておくけど、草薙護堂だからな」
「え、何が?」
「俺の名前だよ。おまえ、俺の名前とか全然気にしてないだろ? 一度も訊かれてないから、こっちから名乗ったんだ。もう言わないぞ」
たとえ嫌々でも、共に旅する以上は名前を教えないわけにはいくまい。
だから護堂は無《ぶ》愛想《あいそう》に名乗ったのだが、エリカの返答は予想外に失礼なものだった。
「ふうん、ゴドーねえ……。永遠に約束をすっぽかしそうな名前ね。変だわ」
サミュエル・ベケットの戯曲《ぎきょく》『ゴドーを待ちながら』。
永遠に来ないゴドーという人物をずっと待ちつづける浮浪者ふたり。彼らを描く舞台劇。その内容を護堂は知らなかったので、エリカがそんなふうに言った理由はわからなかった。
だが、ろくでもないことを言われたのだけは確信が持てた。
2
列車の窓から見える風景は、おおむね見渡す限りの草原であった。
あとは荒野も多い。そういった広大な土地に放牧された羊《ひつじ》の群れ、羊飼いの人たちなども何回か目撃した。牧羊はサルデーニャ島の主要産業なのだ。
この風景のなかにも、石を積み上げて築いた古代の砦《とりで》――ヌラーゲがあるらしい。
これはフェニキア人が到達するよりも前、先史時代の古代サルデーニャ人が造った城塞《じょうさい》跡《あと》である。今日では重要な観光資源になっていたりする。
途中で一回、ヌオロ市行きの列車に乗り換えた。
ここはヌオロ県の県都で、オリエーナはその近郊にある街なのだ。
カリアリの駅を出発したのは昼過ぎ。ヌオロ市に到着したのは三時間後。そこから数十分ほどバスに揺られて、ようやくオリエーナに辿《たど》りついた。
午後六時を回っており、夕方と呼ぶには遅めの時間である。
護堂《ご どう》はルクレチア・ゾラの家を訪ねるのは明日にしようと決めた。彼女の家がすぐに見つかるとは思えなかったからだ。夜が更《ふ》ける前に宿を決めたかった。
「……どこかに空《あ》いてる宿があればいいんだけどな」
周囲をきょろきょろと見回しながら、護堂はつぶやいた。
特に目立つ観光スポットもないであろう、ごく平凡な田舎《い な か》町《まち》。
山や丘陵《きゅうりょう》に程近く、自然が豊富な街のようだが、これは売り文句になるまい。列車から景色を見た限りでは、これがサルデーニャ島のスタンダードのようだから。
「この島、たしかに車で移動した方が楽そうだな。それにしても、腹が減った……」
途中、弁当代わりのパンを食べただけなので、護堂はひどく空腹だった。
この弱音を聞いて、隣にいたエリカが鼻で笑った。
「だらしない人ね。わたしをご覧なさい、初めての鉄道旅行、初めてのバス移動だったというのに、いつも通りに毅然《き ぜん》たるものでしょう? これが心得の差というものよ」
などと勝ち誇っている。護堂はカチンときた。
たしかに、華奢《きゃしゃ》な見た目の割にエリカはタフなようだ。その美しさにも華麗さにも、全く陰《かげ》りはない。だが、この差を生んだ原因は他にちゃんとあるのだ。
「そりゃおまえは腹も減ってないだろうさ。人が景色にも見飽きて、退屈して腹が減って仕方ないってのに、自分だけ楽しくおしゃべりして、食い物も分けてもらっていたんだから」
過酷な長旅のことが思い出される。
護堂があるボックス席にすわると、エリカはごく自然に離れた席に向かった。
まあ、彼女と向かい合わせになっても正直会話に困るので、特に気にしなかった。
……外の景観を眺めて面白かったのは、最初の一時間だけだった。暇を持て余して列車内を眺めていると、なんとエリカはにこやかに近くの席の婦人と談笑していた。
イタリア語での会話だったので、内容はわからない。
だがエリカは、護堂と話すときとは真逆《まぎゃく》の朗《ほが》らかさであった。言葉はわからなくとも、その語り口が軽妙で洒脱《しゃだつ》であることは容易に推測できた。
エリカの話し相手である老婦人は、やがてバスケットを開いて魔法のように数々の食べ物を取り出した。サンドイッチにオリーブの実、各種チーズに果物……。それらを当然、エリカにも分け与える。
ちょうど空腹感を覚えていた護堂は、ひそかにうらやましく思ったものだ。
その食糧の数々を、エリカは全《すべ》てひとりで平らげた。
「わたしには騎士として、体調をベストの状態で維持する義務があるの。食糧の摂取《せつしゅ》を怠《おこた》らないのは当然じゃない。そもそも、あなたと食糧を分け合う義理なんかないし」
悪びれずにエリカが言う。あいかわらずの唯我《ゆいが 》独尊《どくそん》ぶりだ。
今回は護堂も舌戦に応じることにした。食い物の恨《うら》みはおそろしいのだ。
「そりゃそうだけどさ。騎士だお嬢さまだって自慢する割に、意外とケチくさいヤツだなって思ったよ。あ、あと、おまえもちゃんと愛想《あいそ 》よくできるんだな。食べ物をくれる人にはいい顔するなんて、意地汚いっていうか、しっかりしてるよな」
「わ、わたしがケチで意地汚い? 言うに事欠いて、何ていう侮辱《ぶじょく》かしら……」
悪意をこめた反撃に、エリカが怒《ど》気《き》を露《あらわ》にする。
苛立《いらだ 》つ彼女を見て、護堂はひそかにうなずいた。ここがこいつの怒らせどころか。いつか役に立つかも知れないから覚えておこう、と。
これは護堂の、野球をやっていた頃からの習い性だった。
捕手として打者を、四番として敵のエースを攻略するために、相手の性格・嗜好《し こう》を逐一《ちくいち》分析して、勝負時に備える。純粋な選手としての才能では特別に抜きん出たものを持たない凡才には、こんな努力も必要だったのだ。
「いい? わたしは、たいていの相手には愛想よく接する人間なの。無駄に敵を増やしても仕方ないし、後々都合が良くなるときも多いし!」
「計算高いヤツだな。おまえ、肚《はら》を割って話せる友達とかすくないんじゃないか?」
「もっと優雅に、社交術と言いなさい。これはむしろ、円滑《えんかつ》な友好関係を築くために欠かせない配慮なの。そんなことも理解できないなんて、とんだお子さまだわ」
「べつに理解したくもないよ、そんなの」
「ふん、そういうところがお子さまなのよ。その程度の不心得者のくせに、わたしがケチで意地汚いとか言うなんて、本当に許し難い人ね!」
憤然《ふんぜん》とエリカが言う。
護堂の顔を真っ向からにらみつけ、指を突きつけてくる。
「いいわ。エリカ・ブランデッリに吝《りん》嗇《しょく》の悪徳はないって事実を教えてあげる。あなたと食卓を共にする理由はひとつもないけれど、今夜はいっしょに夕食を食べに行きましょう。あなたに昼間の分までご馳走《ち そう》して差し上げるわ!」
こうして護堂は、エリカと共にリストランテの扉をくぐることになったのだ。
イタリアでは大衆食堂をトラットリアといい、やや敷居の高いレストランをリストランテという。その程度の知識は護堂にもあった。
エリカが選んだ店は、まちがいなくリストランテの方であった。
内装はシックで、照明も暗い。上品な雰囲気《ふんい き 》の店で、未成年ふたりで入店したことがすこし申し訳なく思えてくる。
ふたりが案内された卓につくと、エリカはてきぱきとウエイターに注文をはじめる。
無論、イタリア語に不案内な護堂にはまったく理解できなかった。
「ちょっと待て。おまえ、酒なんか頼んだのかよ」
まず運ばれてきたグラスを見て、護堂は呆《あき》れた。
アルコールの香りが鼻をつく。明らかに食前酒――発泡《はっぽう》ワインの類《たぐい》のようだ。
「当たり前でしょう? あら、あなたもしかして、お酒がダメな人?」
「そんなことあるか。店の人がよく注文を受けてくれたなって思ったんだよ!」
挑発的に笑うエリカへ、護堂は言い返した。
「そういえば、イタリアとかスペインは一六歳以上で酒が飲めるんだっけか」
「ええ、そうよ。わたしも来月で一六になるから問題ないわ。……まったく、この程度のことであわてるなんて器《うつわ》の小さな人ね」
「待て。四月生まれってことは今一五歳で、俺と同い年だ。法律違反じゃないのか!?」
「バレなければいいのよ。わたしがそんなボロを出すと思う?」
などと口論するうちに、料理の皿が運ばれてくるようになった。
生ハムや季節の野菜を盛りつけた前菜、護堂は初めて見る羊の脳みそ(!)だというフライ、自家製ソーセージ、サルデーニャ独特の薄焼きパンなど、盛りだくさんだった。
メインは肉料理で、名物だという子豚の丸焼きを切り分けたものや、血のしたたるような馬肉のステーキと、二種類もの肉が供された。
どれも本当にいい味で、これだけでも列車の長旅に耐えた甲《か》斐《い》がある。そう思えた。
が、問題はエリカが頼んでいた赤ワインのボトルであった。
「……ま、多分来るだろうとは思っていたけどな」
もはや文句を言う気持ちも捨てて、護堂は自分のグラスを眺めた。
暗い照明を受けて、真紅《しんく 》の液体が妖《あや》しい輝きを宿している。食前酒の|ス《シ》|プ《ャ》|マ《ン》|ン《パ》|テ《ン》を見た時点で、メインが肉だと聞いた時点で、予測していた成り行きだ。
「飲めないなら無理しなくてもいいわよ。この程度、わたしひとりでも片づけられるわ」
澄ましてエリカが言う。小バカにするような口ぶりだった。
こんなことで張り合うのもアホらしい。頭では理解しながらも、護堂はワインのグラスを持ち上げた。何だかんだで負けず嫌いな性分なのだ。
ゆっくりと口に含み、味わう。
いい赤ワイン特有の複雑な味わいがある。渋みに甘み、苦みにかすかな酸味などがからみ合い、ブドウや木の実の芳香《ほうこう》が鼻をくすぐる。
「うまいな、これ。ワインはそんなに好きじゃないんだけど、これはいいな」
「あら、すこしは味がわかるようね。だったら文句をつけずにおとなしく飲めばいいのよ」
文句を言うエリカへ、護堂は不敵に微笑んだ。
これでも祖父の晩《ばん》酌《しゃく》にちょくちょく付き合わされ、齢《よわい》一五にして酒の道にはそこそこ通じているのだ。……いや、中学生の孫に安物のワインと|特 級《グラン・クリュ》の逸品《いっぴん》を飲み比べさせて、両者がまったく別物だと教える祖父は本当にどうかと思うが。
母は母で息子にシェイカーを振らせて、カクテルを作らせる。ついでにウイスキーなどもロック水割りストレートと注文付きで用意させる。味見もさせる。
自分好みの味に作れと息子に要求するためだ。ある意味、英才教育の日々であった。
「実は大人相手に飲むときでも、酒の量で負けることはないんだ。残念だったな」
「あら、偶然ね。わたしもそうよ。今まで酒《しゅ》量《りょう》で後《おく》れを取ったことは一度もないわ」
そこからはふたりとも、大いに食べ、そして飲んだ。
どちらかがワインの杯《さかずき》を空《あ》けると、ソムリエがさりげなく進み出て新たに注いでくれる。最後の一杯を飲み干したのは護堂の方だった。
赤ワインは飲み慣れていないので、一本飲み切ることができて護堂は安心した。途中で酔いが回ってこないか心配だったのだ。
だが、その光景を見ていたエリカがムッと眉《まゆ》をひそめた。
「護堂……あなた、わたしよりも一杯多く飲んだわね。こっそりと盗賊《とうぞく》のように」
「数えてたのかよ? 意地汚いから、そういう真《ま》似《ね》はやめろよな」
「ま、またしてもわたしを侮辱《ぶじょく》したわね。誤解しないでほしいから繰り返すけど、わたしに吝《りん》嗇《しょく》の悪徳はないの。問題は、現時点であなたの方が多量のアルコールを摂取している事実よ」
そういえば、自分の方が酒飲みだと張り合ったばかりである。
まさか、それを気にしているのか。
意地汚くはないが、意外と子供っぽい。呆《あき》れる護堂にエリカは言い放った。
「どうやら第二ラウンドが必要なようね。どちらが高みにいるのか、はっきりさせましょう」
――チュン、チュン。
部屋の外では小鳥が啼《な》いているようだ。
ベッドのなかで目覚めた護堂は、ぼんやりとした頭で昨夜の出来事を思い出そうとした。
リストランテでの食事のあと、予約なしであったが運良く大通り沿いの| B & B 《ベッド・アンド・ブレックファースト》に部屋を取ることができた。
そして、大量の酒瓶《さかびん》やつまみを買い込んだエリカまで付いてきてしまった。
さすがに若いふたりが街中の居酒屋で大っぴらに飲むのは難しい。だからここで、という流れだった気がする。
なし崩しではじまった酒盛りの途中で、おたがいの酒量が甲乙《こうおつ》つけがたいレベルだと判明した。なんとなく競争心をあおられて、どんどん酒杯を重ね――。
あれから、どうなったのだろう?
その辺りの記憶がない。まあ、いいかと追憶をあっさり放棄した。
そして、違和感と言いしれぬ心地よさを同時に感じて、いぶかしんだ。何だろう、このやわらかな感触は。適度な重みとしなやかさと、ひどく心地よい温かさを持つ何かが、自分のすぐそばにいる。
護堂は眠気と戦いながら大きく目を開け、傍《かたわ》らを見やった。
……一瞬、頭のなかが真っ白になった。
エリカ・ブランデッリが寄り添い、しがみつくようにして眠っていた。
こいつは一体なぜ、こんなところにいるのだ?
一夜のあやまち?
いやいや、そんな可能性はあるまい。ないと思う。なかったらいい。自分の理性、もしくは彼女の慎重さに期待したところだ。でも、もしかすると、万一の事態も……。
千《ち》々《ぢ》に乱れる心を抑《おさ》えつけて、護堂はまじまじとエリカを見る。
いまだに見慣れない絶世の美貌《び ぼう》が、今は安らかな寝顔であった。こうしていると天使もかくやという美少女だ。そんな彼女は下着姿であった。色は青、上品なデザインの上下で、他に衣服は身につけていない。
やっぱりスタイルがいい。いや、これはそんなレベルではない。
欧州の女性としては小柄で華奢《きゃしゃ》な体格なのに、この凹凸《おうとつ》の激しさはどうだろう? 手足はすっきりと細くて顔も小さい。モデルのような八頭身のサイズ。それなのに、ブラジャーで支えた乳房はこぼれ落ちそうなほどに豊かで、まるでリンゴか桃の果実のようだ。
腰からお尻《しり》にかけての曲線もすばらしかった。
芸術的な美しさを持ちながら、正視しがたいほど扇情的《せんじょうてき》でさえある。
水着グラビアでも滅多に見られないようなスタイルを持つ美少女が、今、護堂にしがみつきながら眠っている。護堂の胸に自分の胸を、豊かな乳房を無意識に押しつけてきている。
(――――――!?)
護堂は狼狽《ろうばい》した。
人生で初めて味わう心地よさが、そこにはあった。これはまずい。とにかくまずい。絶対にまずい。脳髄《のうずい》を痺《しび》れさせるような充足感が、逆に背徳感《はいとくかん》を加速させる。
早く離れなければ! 決意した瞬間に、エリカがいきなり目を覚ました。
「……誰? アリアンナ? やだ、わたしったらベッドをまちがえたのかしら……」
「……ええと、その……俺だ」
おたがいに無言で見つめ合った。
最初はぼんやりとしていたエリカの視線が、急速に理性の色を取り戻していく。
目をこすりながら起きあがり、ベッドから出る。ついでにシーツをつまみ上げ、下着姿の体にまといつける。そして手を開き、そこに二日前にも見た剣が唐突に現れ――。
エリカは剣の切っ先を、躊躇《ちゅうちょ》なく護堂の顔に向けた。
「よくも、わたしの純潔を汚してくれたわね。今すぐここで死になさい」
「うわっ、ちょっと待て! 変なことはしてない、多分ッ」
剣を突きつけられて、護堂は焦《あせ》った。
相対するだけで気《け》圧《お》される。凄絶《せいぜつ》な威圧感がエリカの体と、冷酷な意思を宿した目から発散されている。もしかして、これが殺気というヤツだろうか……?
「そうね、いやらしいことは何もされてないみたいね。あなたが去勢された犬並みに無害な輩《やから》で本当に良かったわ」
「そ、そうだな。いや、ほんとに」
「ええ。あなたにとって、だけど。もし妙な真《ま》似《ね》をされていたら、たとえ熟睡《じゅくすい》しながらでもその首をへし折っていたはずよ。運が良かったわね!」
「……そうなのか」
淡々と紡《つむ》がれるエリカの言葉がウソに聞こえない。護堂は心底|安堵《あんど 》した。
「でもね、あなたはエリカ・ブランデッリのあられもない姿を網膜《もうまく》に焼き付け、それどころかわたしの肌に触れさえした。――やっぱり万死《ばんし 》に値《あたい》するわ」
値するわけないだろう! 大声で反論したいところだが、恐ろしくてできなかった。
それに彼女の素肌と密着したことは事実なので、やはり後ろめたい。
「とにかく、まずは落ち着け。な? 落ち着いて話をしようッ」
「あら、認識が甘いわね。わたしは落ち着いて、冷静に、あなたの眼球をえぐり出して、その汚らわしい首を路上にさらす手順を検討しているところよ? バカにしないでくれる?」
「それを落ち着いてるとは言わない! まずは平和的に話し合おう!」
かくして、一〇分ほど時間が経過した。
どうにか言葉を尽くして相手を思いとどまらせた護堂と、冷酷無比《れいこくむ ひ 》なまなざしのまま衣服を身につけたエリカは、改めて正面から向かい合った。
「まず、こうなった原因と責任の所在をはっきりさせよう。どう考えても、昨日の俺たちは飲み過ぎだったと思うんだ。そこをまず反省しようぜ」
胃のなかがムカムカするうえに、ひどく喉《のど》も渇《かわ》いている。
しこたま酒を飲んだ翌朝特有の状態に、護堂は気分が悪くなった。
それでも二日酔いでないのは、たいしたものだと自分でも思う。祖父も母もそうだが、草薙《くさなぎ》の家系はよほど肝臓《かんぞう》の強い血筋なのか、酒豪ばかりなのだ。
見れば、エリカも二日酔いという雰囲気《ふんい き 》ではない。
おそらく、どちらかがもっと酒に弱ければ、あそこまで飲みはしなかっただろう。
ひとりで手酌《てじゃく》するよりも、大勢集まる飲み会の席よりも、ザルのような酒飲み同士が差しつ差されつで飲む方が酒量は急上昇する。そのカラクリを、護堂は卒然《そつぜん》と理解した。
度を越した酒飲みであれば、一再《いっさい》ならず体験するイベントである。
「まさか、同世代でわたしと同じくらいに飲める人間がいるなんて思ってもいなかったわ。これがリリィだったら、酔わせたあとでさんざん愉《たの》しめたところなのに……」
己の酒量に余程自信があったのか、エリカが小声でつぶやいていた。
「まあともかくさ、飲み過ぎたのは俺たちふたりが悪いけど、おまえをもっと早く帰らせなかったのは俺の責任だと思う。目をえぐるとか首を刎《は》ねるとかは勘弁《かんべん》してほしいけど、もっとゆるいことでおまえの気が済むなら善処《ぜんしょ》するから、この通りだ」
護堂はきっちりと、日本式に頭を下げた。
夜が更ける前にエリカを部屋から追い出すという選択肢もあったわけだし、この部屋を借りているのは自分だ。その辺りの気配りをしなくてはいけなかったと反省したのだ。
「そんな謝罪で、わたしの受けた屈《くつ》辱《じょく》をごまかすつもりなの?」
じろりと冷ややかなまなざしで、エリカがにらみつけてくる。
そこに宿る容赦《ようしゃ》のない殺気に護堂は肝《きも》を冷やしたが、それでも言うべきことは言わねばならない。ため息まじりに反論する。
「いや、でもさ。要するに同じベッドで寝ただけなんだから、そこまで気にするなよ」
「気にするに決まっているでしょう! わたしはブランデッリ家の娘として、淑女《しゅくじょ》の名誉を守らなければいけないの! 結婚を決めた男性以外と同裂《どうきん》するなんて、拭《ぬぐ》いがたい失態だわ!」
やっぱり育ちがちがう。護堂は改めて痛感した。
エリカを上《う》手《ま》く言いくるめられる文句がないか、あれこれ考えてみる。
だが、もう何も思いつかない。――仕方ない。こういうときは問題を保留するに限る。
「よし、わかった。この件の埋め合わせはあとで必ず何かするから、まずここを出よう。今日はルクレチアさんの家を探さなきゃいけない。そうだろ?」
護堂は敢《あ》えて多くを語らず、エリカの翻意《ほんい 》を待った。
腹を立てているとはいえ、頭の切れそうな彼女のことだ。すぐに本来の目的を思い出してくれるのではないかと、期待したのだ。
「……そうね。わたしもまずは騎士として、己の責務を果たさないといけないわ」
エリカが低い声で言う。
どうやら冷静さを取り戻したようだが、能面《のうめん》めいた無表情でのつぶやきだった。それが逆に怖い。激怒しているときよりも、断固とした意志を感じてしまう。
「じゃあ、すぐにサルデーニャの魔女のところへ行きましょうか。――そのあとで、己の罪を後悔させてあげる。あなたのような色情狂《しきじょうきょう》にふさわしい厳罰《げんばつ》を考えておかないとね」
今度は色情狂呼ばわりか。護堂は天を仰《あお》ぎたくなった。
このようにして、ふたりの旅は波乱気味の二日目を迎えたのである。
3
明るい空の下で歩き回るオリエーナは、風光明媚《ふうこうめいび 》な美しい街だった。
近くにはさわやかに風|薫《かお》る緑の森が広がり、美しい泉などもあるという。人口は一万人にも満たない街だけあって、かなりこぢんまりとしていた。
「これだけ小さな街なら、ルクレチアさんの家《いえ》探《さが》しも苦労しないで済みそうだな。……アポなしで行くのが不安だけど――」
護堂《ご どう》は街の地図を広げて、祖父から教わった住所に近い場所を探した。
一夜を過ごした宿に程近いバール。
そこで朝食を摂《と》りながらの、半ば独《ひと》り言《ごと》であった。傍《かたわ》らにエリカはいるのだが、朝の一件から一言も口を利かないのだ。朝食のあと、いよいよ家探しがはじまった。
護堂は道行く人に声をかけた。
拙《つたな》い英語で行き先を告げ、地図を見せ、どう行けばいいのか訊《たず》ねてみた。
言葉の壁があるので、細かい意思の疎通《そ つう》はやはりできない。
それでも大体の方向をつかみ、そちらへ向かってみる。道がわからなくなったら、また同じようにして通行人に行き方を訊《き》いてみる。
そんなことを四回ほど繰り返し、今また五回目に取りかかろうとしたとき――。
「ああ、もうッ。じれったいわね! その地図、貸しなさいっ。わたしが案内するわ!」
今まで黙ってついてくるだけだったエリカが、いきなり言いだした。
どうやら要領の悪い進み方に痺《しび》れを切らしたらしい。ひどく苛立《いらだ 》っている。
「何だよ、今さら。べつにおまえの助けなんか必要ないぞ」
護堂は冷たく言った。
朝からずっと沈黙しつづけていたエリカに腹を立てていたのだ。たしかにこちらも悪いことになったと思ってはいるが、ここまで後に引くようなことか、とも。
「あなたを助けるつもりなんかないわよ。わたしが、早くルクレチア・ゾラと会いたいだけなの! 何よ、あれだけ道順を説明してもらっていたのに、全然理解してないじゃない!」
「仕方ないだろ! 俺はイタリア語は全然できないんだから!」
護堂が道を訊ねた人たちは、割とていねいに教えてくれていたはずだ。
が、イタリア語はさっぱり、本格的な英会話もお手上げな語学力では、細かいニュアンスを理解できなかった。このため、こんな効率の悪い進み方になっていたのである。
エリカが地図を引ったくり、先に立って歩き出した。
どうやら彼女は、今まで聞いた道順の説明をちゃんと覚えているらしい。足取りにまったく迷いがない。腹を立てながら、護堂もそれにつづく。
ここからは全《すべ》て順調で、二〇分ほどで目的地に到着した。
ルクレチア・ゾラの家は、街はずれの森に程近い辺りにあった。
小さな庭を持つ小さな石造りの家。いかにも年代物らしい雰囲気《ふんい き 》が、家屋全体から漂っている。しかも近所に他の家はないようで、実にさびしい辺りだった。
魔女の館《やかた》。小さい家だが、そんな言葉が似つかわしく思えた。
庭を見れば、雑草が結構あちこちにボウボウと生えている。ガーデニングの趣味はないのか、単に無精《ぶしょう》なだけなのか。
ともかく、このために遠路はるばるサルデーニャ島まで来たのだ。
護堂は先に行きかけるエリカを手振りで抑《おさ》えて、自分が前に出た。玄関に向かい、呼び鈴らしきドア脇《わき》のボタンを押す。
――待つこと、しばし。だが、何の反応もなかった。
「留守か……こうなったら、帰ってくるまでここで待たせてもらおうか――ん?」
護堂は目を瞠《みは》った。
ギィィィと重々しい音を立てて、ひとりでにドアが開いたのだ。
まばたきして、よく目を凝《こ》らしてみる。開いたドアの前にも後ろにも人はいない。どう見ても自動ドアなどではなく、古めかしい木製の扉なのに。どうして?
「入れと言ってるのよ。魔女の家を訪ねているんだから、この程度で驚かないで」
「くそっ、これも魔法ってヤツかよ。胡散《う さん》くさい家だな……」
後ろからエリカに言われて、護堂はつぶやいた。
やや気後《き おく》れを感じながら足を踏み出し、家のなかに入る。すると、玄関口には一匹の黒猫が待ちかまえていた。
ニャァァァァと、愛想《あいそ 》のない声で啼《な》く。
毛並みの美しい細身の猫なのに可愛《か わ い》げがない。ふてぶてしい顔つきだった。
黒猫はいきなり家の奥へと歩きだした。途中で足を止めて振り返り、人間たちを呼ぶようにして一声啼くと、また歩きはじめた。
「やっぱり、ついてこいって言ってるのか、あれ?」
「当然。猫の使い魔――いくらあなただって、あんな古典なら理解できるでしょう?」
無論、察しはついていた。ただ、認めたくはなかったのだ。
護堂は頭を振って、カルチャーショックを振り払おうとした。こんなところで足踏みしても、仕方がない。急いで猫を追う。
案内された先にあったのは、寝室らしき部屋であった。
薬品――いや、薬草めいた匂《にお》いが充満する、雑然とした室内。そこに据《す》えられたベッドの上には、上体だけ起こした女性がしどけなく横たわっている。
例の猫は部屋の隅に行って丸くなり、退屈そうにあくびをした。
「我が家にようこそと言おうか、古き友人の縁者よ。君が誰の血縁か、一目でわかったよ。察するに、君が草薙《くさなぎ》一朗《いちろう》の孫だな。私がルクレチア・ゾラだ」
と、ベッドの女性がみごとな日本語で呼びかけてきた。
護堂はパチクリとまばたきを一回した。
目の前にいるのは、だらしなくネグリジェのまま、しかもベッドに横になった姿勢で客を出迎える美女だった。どこか茫洋《ぼうよう》としたまなざしが不思議な色香を生み出すアクセントになっている。亜《あ》麻《ま》色の長い髪も美しい。
そして妙齢だ。歳《とし》は二〇代の半ばほどに見える。
思いっ切り若作りをしているとしても、せいぜい三〇代だろう。計算が合わない。祖父と昔いろいろあった世代なのだから、いい歳のおばあさんのはずだ。
「おや少年。私に見《み》惚《ほ》れてしまって、どうした? ふふふ、うぶな若者には少々刺激の強い格好だったかな。最近|厄介《やっかい》な事件に出くわしてな、ベッドから起きあがれない体なのだ。……それに君も内心ではうれしいのだろう? 男とは概してそういうもの――」
「お話の途中ですいません。あなたがルクレチア・ゾラさん、なんですね?」
本人の名乗りを無視して、問わずにはいられなかった。
護堂の確認に、彼女は重々しくうなずいてみせた。
「ああ、そうだ。君が草薙護堂だろう? 一朗が送ってきたメールに諸般《しょはん》の事情で孫を行かせると書いてあったから、いつ来るかと待っていたよ」
――――!?
護堂は声にならない悲鳴をあげそうになった。
神様やら魔術師やら、この三日間で草薙護堂の常識は根こそぎ崩れ去った。そこにとどめの追い打ちを受けて、思考停止に陥《おちい》ったのだ。
「今さら驚くほどのことでもないでしょうに。肉体の若さを保つのは、呪《じゅ》力《りょく》が至純《しじゅん》の域に達した魔女の特権なのよ?『まつろわぬ神』の方がよっぽど衝撃的だと思うけど」
「ほう。この島に顕《あらわ》れた神と遭遇《そうぐう》してしまったか。運の悪い少年だな。ところで少女よ、君の方は何者なんだ? とても日本人には見えないのだが」
「エリカ・ブランデッリ、〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の大騎士です。縁あって彼の連れとなりました」
「パオロ卿《きょう》の姪御《めいご 》殿《どの》か。うわさは何度か耳にしていたよ。察するに、こんな田舎《い な か》に来た理由は例の『まつろわぬ神』といったところだな。なかなかフットワークが軽い」
気づけば、エリカとルクレチアが女同士で話し込んでいた。
ようやく気を取り直した護堂は、バッグから例の石板《せきばん》を取り出した。
「とにかく、まずはこれを……。うちの祖父が持ってくる予定だった――ルクレチアさんが日本に置いていったという品です。受け取ってください」
鎖《くさり》か縄《なわ》でしばられた男を稚拙《ち せつ》なタッチで描いてある石板。
それを一瞥《いちべつ》して、ルクレチアが嘆息《たんそく》した。
「……『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』。やはり、これだったか。ずっと以前に、私がコーカサスの山奥で発見した品だ。ずいぶんと懐かしいものが返ってきたな」
「シニョーラ、いくつかご質問させていただいてもよろしいでしょうか?」
イタリア語でマダムに相当する呼びかけが「シニョーラ」である。
丁《てい》重《ちょう》に本来の目的を切り出したエリカへ、ルクレチアはニヤリと笑いかけた。
「名前で呼んでくれてかわないぞ。見ての通り、私のような若々しい美女を年寄り扱いするのは適切ではないからな。それでエリカ卿は、どうして日本の少年についてきたのかな?」
ふたりの魔女が向かい合う。
その傍らで、一般人である護堂は居心地の悪い気分になった。
「ならルクレチア、わたしのこともエリカでいいわ。実は今回の『まつろわぬ神』の関係者らしき人物と、この護堂が接触しているの。しかも彼は、そんな神代《かみよ 》の魔導書まで持っていたのよ。だから彼も事件の関係者で、あなたに会うと言っているのも何か企《たくら》みがあってのことかと疑っていたのだけど――」
と言って、エリカはつまらないものでも見るような目で護堂を一瞥した。
「しばらくいっしょにいたら、ただの素人《しろうと》だってすぐにわかったわ。おまけに教養もなくて要領も悪くて、しかもいやらしくて!」
「ほう、人は見かけによらないものだ。外面はあんなに無害そうな少年なのにな」
悪意に富む人物描写に、ルクレチアが感想をつぶやく。
護堂が「根も葉もないこと言うな!」と凄《すご》んでも、エリカは無視して先をつづけた。
「で、彼があなたの御友人の孫だというのが本当なら――つまり、護堂は本当に偶然サルデーニャに来ただけで、その魔導書も偶然持っていたことになるのね?」
「まあ、そうだろうな。彼の祖父はただの学者で、魔術とも神とも無縁の一般人だ」
ルクレチアの言葉を聞くなり、エリカはガックリと肩を落とした。
「何てこと。こんなどうでもいい一般人相手に貴重な時間を浪費《ろうひ 》してしまうなんて、失態もいいところだわ。このわたしとしたことが!」
「……言っとくけど、俺はウソを言ったりしたことは一度もないからな!」
自分のせいにされる前に、護堂は先回りして言った。
ところがここで、ニヤニヤ笑いながらルクレチアが口をはさんできた。
「まあ、そう嘆《なげ》くな。エリカ嬢、君が『まつろわぬ神』の情報を求めているのなら、私の元へ来たのは結果的に正解だ。駄賃《だ ちん》代わりに教えてやろう」
「――まさかルクレチア、今回の神が何者か知っているの?」
「正確には知らんな。私がつかんでいる情報は、かの神が軍神の類《たぐい》であろうという程度だ。最初はメルカルトの神格かとも考えたのだが、それだけではないようなのだ」
ベッドの上でルクレチアが淡く微笑《ほ ほ え》んだ。
メルカルト。初めて聞く神の名に、護堂は小首をかしげた。
「おお、少年は知らないか。無理もない。歴史的には非常に重要な意味を持つ神格なのだが、今日ではさほど有名でもないからな。メルカルトとは東方《オリエント》にルーツを持つ闘神の名だ。またの名をバアルと言う。いや、正確にはこちらが真の名と呼ぶべきか」
ルクレチアがなめらかに語り出した。
「カナン人、フェニキア人といったセム語族が崇《あが》めた神王……それがバアルだ。元は嵐と雷と天空の神であったが、その権威《けんい 》が強大化するにつれて、多様な権能を持つに至った。よく似た経緯を経た神に、印欧語族系のゼウスやオーディンがいる。こちらは知っているか?」
「さすがにそれぐらいなら、まあ」
ギリシア神話の主神ゼウス。オペラなどでよく聞くゲルマンの主神オーディン。
護堂のような日本人でも、彼らの名を知らない者はすくないだろう。
「この種の天空神は、極めて多くの性質を所有する。最高神、王、智《ち》慧《え》の神、生命の神、戦神、冥府《めいふ 》神などだな。バアルもその典型だ。多面性を持つ神に別名ができるのは、ごく自然な流れだろう? ……メルカルトとは、特にテュロスの街を守護するバアルの尊《そん》称《しょう》なのだよ」
またしても聞き覚えのない名だ。
まじめに歴史を勉強しておけばよかったと思う護堂に、ルクレチアが微笑む。
「テュロスとは、フェニキア人が築いた街だ。アレクサンドロスをして陥落《かんらく》までに一年の時を必要としたほど難攻《なんこう》不落《ふ らく》だった。そして、古代|地中海《ちちゅうかい》の覇者《は しゃ》であったフェニキア人の母港でもあった。彼らはこのサルデーニャにも到達し、島の支配者となったのだよ」
ゆえに、メルカルトはサルデーニャとも縁の深い神格なのだ。
そうルクレチアは語り、さらに付け加えた。
「ギリシアに近いこの辺りでは、メルカルトは棍棒《こんぼう》を持った大男の姿で表現される。――数日前、私はこの姿で顕現《けんげん》したメルカルト神を目撃した」
「でもルクレチア、最初にメルカルトとはちがうようだって言ったわよね?」
口をはさむエリカに、年長の魔女は焦《あせ》るなと言いたげに微笑を向けた。
「ああ。サッサリの柱《メ》状《ン》列《ヒ》石《ル》があるだろう? あそこの近くに五日前、異様な規模の神力が集結するのを霊視《れいし 》してな。様子をうかがいに行ったんだ」
霊視――千里眼《せんり がん》のようなものだろうか。
話を聞きながら、さすがは魔女だと護堂は感心した。
「そこで私が見たものは、二《ふた》柱《はしら》の神々が戦っている光景だった。一《ひと》柱《はしら》はメルカルト、もう一柱は戦士の姿で、黄金の剣を持つ神だった。この二神は激しく戦い、ついに相打ちとなった」
ここでルクレチアは一息ついた。
疲れているようだ。彼女の体調を心配して、護堂はベッドのそばに近寄った。
「案ずるな、少年。もうすぐ話は終わる。――メルカルトは棍棒で、もう一柱の神は黄金の剣で、最後の一撃を与え合ったんだ。おたがいに重傷だったのだろう。メルカルトは稲妻《いなずま》に姿を変えて飛び去り、黄金の剣の神は砕け散った」
「砕けた? じゃあ実体を失ったの?」
「ちがう。剣の神の肉体はバラバラに分かれ、それぞれの肉片は新たな形を得た。ひとつは猪《いのしし》、もうひとつは鷲《わし》、あと馬や山《や》羊《ぎ》もいたはずだが数え切れなかった。その分身たちはすぐ海や空に飛んでいってしまったからな」
つまり島の各地に出没している巨大な獣《けもの》たちは、黄金の剣の神から生まれた分身なのだ。
デタラメもいいところだと、護堂はつくづく感じ入った。
「じゃあ今、その獣たちを倒している『風』の神は、メルカルトの化身だというの?」
「どうかな、それは? メルカルトにしても剣の神にしても、こんな短時間で回復する傷ではなかったはずだ。もし回復したのなら、私の霊視術で何らかの予兆が見えるはずなのに、それもない。サルデーニャ島から立ち去った可能性も考えていたのだがな」
エリカの問いに、ルクレチアは「さあ?」とばかりに肩をすくめた。
護堂にはよくわからないが、異常な状況らしい。
「もしかして、あなたは神々の戦いに巻き込まれて呪力を使い果たしたの?」
「ああ。あの戦場で身を守るために、限界を超えて魔術を使う必要があった。おかげで呪力が空《から》になってしまったぞ。回復するまで三カ月はかかるだろう。しばらくは大きな術も使えないし、満足に身動きも取れない。困ったものだな」
困ったと言う割に、ゆるい口調ではあった。
護堂はずっと手にしたままだった石板のことを思い出した。
「じゃあ改めて、こいつのことですが……。どうぞ、受け取ってください。ルクレチアさんは昔こいつで、神様のたたりを鎮《しず》めたんでしょう? 今回の件にも役立つかもしれませんし」
「……ちょっと護堂。その重要情報、一言もわたしに伝えてなかったわよね?」
「これはルクレチアさんの持ち物なんだ。必要もないのにペラペラと話せるかよ」
眉《まゆ》をひそめるエリカに吐き捨てながら、護堂は石板を差し出した。
するとルクレチアは、ふたりの少年と少女を交互に見比べて、「ふむ」などと思案する体《てい》になった。一体、何を考え込んでいるのだろう?
「少年、『プロメテウス秘笈』で私が何をしたのか、一朗から聞いていたようだな」
「ええ、まあ……。信じてはいませんでしたが」
「エリカ嬢、もしかして君は『まつろわぬ神』を封印でもするつもりで来たのか?」
「ええ。わたしは難関を乗り越えて、〈赤銅黒十字〉の筆頭たりうる人材であることを証明しなくてはならないの。そのために、敢《あ》えて困難な使命を望んだのよ」
「それで神の行方に興味も持つわけか。困ったものだな!」
やはり深刻さに欠ける口ぶりでルクレチアは言い、そして――。
「わかった。では少年よ、君にこれをくれてやる。ひとつ上《う》手《ま》いように使ってみてくれ」
などと宣言した。
護堂は「えっ?」と驚き、エリカが目を吊《つ》り上げる。
「ルクレチア・ゾラ! 何を考えているの!? 貴重な神代《かみよ 》の魔導書をこんな素人に渡すだなんて、愚行もいいところだわ!」
「とはいえ、今さらこんな物を持ってこられても正直めんどくさ――いやいや、私の手に余るのだよ。何しろ、こんな体だからな。まさか、このタイミングでこれが私の手元に返ってくるとは思わなかった。天の采配《さいはい》も皮肉なものではないか、うむ」
「なら、わたしにこそ魔導書を渡すべきでしょう! それが適材適所というものよ!」
「だが、それでは当たり前すぎて面白くない。私は面白いことの方が好きなのだ」
「そんな重々しい口調で、ふざけないでください!」
予想外の成り行きに呆然《ぼうぜん》としながらも、護堂はつっこんだ。
そのついでに、彼女の横たわるベッドの脇を眺め――そして気づいた。枕元にある古いゲーム機に、年季の入っていそうなROMカセットが突き刺さっている。
■■■■クエスト? あれは|R P G《ロールプレイングゲーム》か。古いファンタジーRPGなのか?
「おっと。断っておくが、べつに私は今プレイ中のゲームに影響を受けて、こんな提案をしたのではないぞ。とはいえレベル1の少年が使命を果たすべく旅立つのは、やはり冒険ものの定番。燃えるシチュエーションではないか。なあ?」
「燃えません。全然燃えません!」
護堂の反駁《はんばく》を軽やかに無視して、ルクレチアはさらに言う。
「そうそう。もちろん〈赤銅黒十字〉の大騎士――パオロ・ブランデッリの弟子にして姪《めい》である者が、凡庸《ぼんよう》な少年から無理矢理それを奪い取ったりせぬと信じているぞ」
「するわけないでしょう! バカにしないで!」
「ならば、よし。エリカ嬢、艱難《かんなん》辛苦《しんく 》を乗り越えてこその騎士だ。己《おのれ》の器量を見せるつもりであれば、この程度の足枷《あしかせ》に文句を言うべきではないな。――そして少年よ」
「は、はい?」
「聞いての通りだから、上《う》手《ま》くやってくれ。その魔導書をどう使うかは、君に一任する。少女に協力するも良し、逃げるも良しだ。なるべく私が予想もできないような使い方をして、私を愉《たの》しませてくれないだろうか?」
とルクレチアは言い、それからついでのように付け加えた。
「あと、その娘のことをよろしく頼む。なるべく面倒見てやってくれ!」
「面倒!? 冗談じゃないわ! こんな子にわたしのどこを面倒見させるつもりなの、バカにしないで!」
憤然《ふんぜん》と吐き捨て、エリカが優雅ならざる乱暴な足取りでドアへ向かっていく。
かなり怒っているようだ。そのまま足早に外へと歩み去った。
はたして自分はどうしたものか?
護堂が迷っていると、ニヤニヤ笑うルクレチアに手振りで外へ出るよう促《うなが》された。
どうやら、これで面会終了らしい。護堂は悩ましい思いで頭を振り、先に行った金髪の美少女を追いかけた。
[#改ページ]
第4章 プロメテウス秘笈
1
ルクレチアの家を辞《じ》して外の通りに出るまで、ふたりとも無言だった。
さあ、これから一体どうしよう?
護堂《ご どう》が軽くため息をついたとき、エリカの携帯電話が軽快に着信音を鳴らし出した。即座に彼女はポケットから紅《あか》い電話機を取り出し、イタリア語で応答をはじめる。
そのやりとりを何となしに眺める護堂。
エリカの表情も声音《こわね 》も、かなり深刻そうだった。非常事態でも起きたのだろうか?
五分ほどで電話を切ると、彼女がいきなりにらみつけてきた。
「護堂。あなた、わたしに言ったわよね? 今《け》朝《さ》の狼籍《ろうぜき》にはハラキリをしてでも詫《わ》びてみせるって。その言葉にウソはないわね?」
「大ウソだらけだ。誰が腹を切ったりするものか」
「ふん、これは文学的|修[#ルビの「しゅうじ」は底本では「じゆうじ」]辞《しゅうじ》というものよ。――いいわ。なら、ついてらっしゃい」
「は? どうして?」
当然のように命令するエリカに、護堂は問い返した。途端に、バカでも見るような侮蔑《ぶ べつ》の視線でにらみつけられる。
「あなた自身は何の役にも立たない素人《しろうと》だけど、その魔導書――『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』はべつだもの。ルクレチアは効能を教えてくれなかったけど、持っていって損はないはずよ」
そうなのだ。この魔導書の力とやらは、結局教えてもらえなかったのだ。
元の持ち主に訊《たず》ねると「アイテムの隠された力ぐらい自分たちで見つけ出すべきだぞ? 攻略本を見ながらRPGをプレイするのと同じほど無粋《ぶ すい》な行為だな、それは」であった。
ルクレチアの不謹慎《ふ きんしん》さを思い出して、護堂は憂鬱《ゆううつ》な気分になった。
それともやはり、深い思惑《おもわく》あっての言動なのだろうか?
「というわけで、しばらくわたしの荷物持ちをしなさい。そうやってわたしへの奉仕で誠意を示して、贖罪《しょくざい》とするの。わかった?」
「……また剣で脅《おど》して、奪い取ったりはしないのかよ?」
「わたしは〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の騎士として、そんな狼籍はしないって誓っているのよ! その誓いを破ったりしたら、いい笑いものだわ!」
エリカが激昂《げっこう》して言った。あのときの誓約に、そんな重い意味があったとは。
さて、草薙《くさなぎ》護堂はどうすべきだろう。おとなしくエリカについていく。あるいは逃げる。いっそ何とかの秘笈とやらを押しつけて日本に帰る。
護堂が選んだのは、第四の選択肢だった。
「俺、もう一度ルクレチアさんと会ってくる。ちょっと待ってろ!」
エリカの返答を待たずに、早足で魔女の家に戻る。
今度は自分の手でドアを開けて上がり込み、ルクレチアの部屋へと駆け込んだ。
「感心しないな、少年。女の寝室に入るときの振る舞いとしては、不合格と言わざるをえないぞ。早くドアを閉めて、落ち着くといい」
ルクレチア・ゾラはベッドに横たわり、眠るように目をつむりながら言った。
布団《ふ とん》のなかに入ったままで、今度はさっきのように体を起こさない。
やはり、ひどく疲弊《ひ へい》しているようだ。神々の戦いを間近で見届け、生還する おそらく護堂の想像を絶するような難《なん》行《ぎょう》だったのだろう。
「一〇分前に別れたばかりだというのに、もう戻ってくるとは。私の美貌《び ぼう》に心奪われ、愛を告白しに来たか? ま、無理もない。思春期の少年が私ほどの美女と出会えば、そのような激情に駆られても致し方なかろうな……」
「いえ。そういうことでは全然ありません」
間髪《かんはつ》いれずに護堂は答えて、会話の主導権を渡すまいとした。
交友関係の広い祖父や母がいるせいで、この手の奇人との付き合いにも慣れているのだ。
「顔は祖父に似ているが、女を楽しませる舌はあれほど回らぬと見える。だが、君は君で興味深いな。私に何を言いに来た?」
ようやくルクレチアが目を開いた。
護堂の顔を検分《けんぶん》するように、じろじろと見つめてくる。
「さっきのルクレチアさんのお言葉には、おかしなところがあり過ぎますよね? エリカの言った通り、あいつに石板を預ける方が絶対いいじゃないですか?」
「ふふふ、さきほど言ったではないか。私が面白そうな方を選んだのだと」
「その言葉が一〇〇%ウソじゃないって納得できるのがアレですけど、全部本心でもない――と思いたいんです、俺は。でないと、あなたのお遊びにつきあう気持ちも湧《わ》いてこないし」
「ほう。私に思惑があると考えたわけだな、少年は」
護堂の言葉を聞いて、ルクレチアはニヤリと微笑した。
「ええ。俺が呆《あき》れて、この石板をゴミ箱に捨てちまう前に教えてもらえると助かります」
「しかも、逆に私を脅迫《きょうはく》するのか! いいぞ、それでこそ一朗《いちろう》の孫だ。あいつに似ない堅物《かたぶつ》かとも思ったが、なかなかの曲者《くせもの》じゃないか。うん、そうでなくては恃《たの》み甲《が》斐《い》もない」
ルクレチアは愉快そうに、ベッドの上でくつくつと笑っている。
「まあ白状してしまえば、たいしたことじゃない。あのお嬢さんに足枷《あしかせ》をつけて、勢いを削《そ》ごうと思ったのだ。あのまま普通に『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』を持たせたら、すぐさま神との対決に挑みかねないからな。あの天才は!」
「……あいつ、そんなにすごいヤツなんですか?」
「ああ。エリカ・ブランデッリは〈赤銅黒十字〉の至宝と呼ばれる神童《しんどう》だ。だが、それだけに危ない。あの娘は『まつろわぬ神』の恐ろしさをまだ理解していないのだ。……実は、あの秘笈をあのまま受け取って、私が隠しておくことも考えたのだが」
「何でそうしなかったんです?」
「役に立つことはまちがいないからな、あれは。だから、どこかの魔術師に預けておきたかったのさ。あとはサルバトーレ卿《きょう》が到着されたら、あの方に渡して有効活用してもらえればいい――そう考えたのだ」
「サルバトーレ卿?」
またも「卿」などという敬称の人物である。護堂は首をかしげた。
もしかして、イギリス辺りでナイトの称号を授かっている名士なのだろうか。
「ん、ああ。今回の事件を一刀両断できるかもしれない御仁《ご じん》だ。私のような無所属の魔術師ではなかなかお近づきにもなれない大物だから、名門の騎士であるエリカ嬢に預けるのがいいと判断したわけだ。納得してもらえたかな?」
「ええ、まあ……。要するに、俺がエリカの足手まといになればいいと考えたんですね」
「ご名答だ! それで少年、君は一体どうするつもりなのかな?」
歳上の魔女が問う意味を察して、護堂は考え込んだ。
ルクレチアの思惑を知ってなお、その意向に沿って行動するつもりなのかと。
どうする? たしかに魔女たちの思惑は気に入らないが、この島で人智《じんち 》を超える事態が発生しており、人々の平穏な生活をかき乱している。
自分がそれを解決できるなどとは思わない。だが、見て見ぬふりも難しい。
護堂はため息をついた。事の顛末《てんまつ》を見届けないと、落ち着いて日本にも帰れなさそうだ。
「わかりました。命に支障がなさそうな範囲であいつについていきます」
「うむ、そうしてくれると助かる。君の勇気と物好きに、あとで乾杯してやろう」
「物好きとか言わないでください! 洒落《し ゃ れ》抜きで死ぬかもしれないんですから!」
カリアリで目撃した神の力。
あれを見たあとでも自分の安全を盲信《もうしん》できるほど、護堂は能天気ではなかった。あんな脅威の前では、人間など取るに足らない砂粒のようなものだ。
「ふふふ、怒るな怒るな。言葉も通じない国でここまでたどり着くのだから、そこそこの運とバイタリティはあるだろうと踏んだのだ。いざとなったら、文句は言わないから逃げ出すといい。君の幸運を祈っているぞ」
最後にルクレチアは、穏やかに微笑んで護堂の顔を眺めた。
孫と対面した老婦人のような、弟の成長を祝う姉のような、何とも曖昧《あいまい》な表情であった。
2
「何よ、護堂《ご どう》。あの女と密談でもしてきたの? ……いやらしい」
ふたたびルクレチアの家から出てきた護堂の顔を見るなり、エリカは言った。
かなり機嫌が悪そうで、彼女の柳眉《りゅうび》はみごとに逆立っていた。
「いやらしいって何だよ。俺はあの人にちょっと確認したいことがあったんだ」
「わたしに隠れてコソコソしていたことがいやらしいの。恥じるところがなければ、堂々と行動するはずでしょう? ま、いいわ。早速、出発しましょう。次の目的地はドルガリよ」
「何でそこへ行くんだよ? あいつの消息でもつかめたのか?」
ここから車で一時間ほどの場所にある街だと説明するエリカに、護堂は訊《たず》ねた。
カリアリで別れたきりの少年。無事でいてくれるといいのだが。
「いいえ。でも、また現れる可能性は高いわね。……わたしたち〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の霊視術師が、ドルガリの近辺に集まる呪《じゅ》力《りょく》を察知しているの」
「呪力?」
「ええ。それも、かなり強力なヤツをね。わたしがカリアリに出向いたのも、同じように呪力の集中が霊視されたからよ。そうしたら、あの男の子がいて『猪《いのしし》』も顕《あらわ》れた」
そういえば、ルクレチアも霊視《れいし 》がどうとか言っていた。
霊視術師とは、予見者のような人材らしい。さっきの電話は、彼らからの報告だったようだ。
「そんなことまで予知できるなんて、すごいな。何でもお見通しじゃないか」
「そうでもないわ。彼らが霊視する内容はすごく限定的なの。現にわたしたちは、この島に顕れる神の素性《すじょう》もわかってないしね。――まあ、最高クラスの霊視術師がいればまたべつなのだけど、そんな才能の持ち主は滅多《めった 》に生まれてこないのだから仕方ないわ」
霊視術師の能力は、ほぼ天性の素質に依存するようだ。
考えてみれば、千里眼《せんり がん》の持ち主がゴロゴロしているのも怖い話である。
納得した護堂は気持ちを切り替えた。あの少年が来るかもしれないと聞いて、気が急《せ》いてきたのだ。一刻も早く彼の安否《あんぴ 》を確かめたかった。
「その街には何で行くんだ? 電車かバス、どっちだよ?」
「どちらもゴメンよ。どこかで車と運転手を調達しましょう!」
とはいえ、こんな田舎《い な か》町《まち》でそう都合良くタクシーの類《たぐい》を手配できるはずもなく――。
結局、ヌオロのタクシー会社に電話して車を呼ぶよりも、公共のバスの方が早い。その結論に至り、やや不機嫌なエリカと共に護堂はバスに乗り込んだ。
ドルガリは、沿岸部にある小さな街らしい。
海の近い山間部にあり、近隣には峻険《しゅんけん》な渓谷《けいこく》地帯もあるのだとエリカが教えてくれた。ヌオロやドルガリの近辺は自然が豊富で、国立自然公園にも指定されているとも。
起伏《き ふく》に富んだ山道を、バスは軽快に走り抜けていく。
「――ん? 雨でも降るのか?」
窓の外を眺めていた護堂は、突然空が曇《くも》ってきたことに気がついた。
いつのまにか灰色の雲が現れ、重いカーテンのように空を覆《おお》っていたのだ。
「雨ですって? いいえ、ちがうわ」
日本語のつぶやきを聞きとがめたのだろう。ひとつ前の座席にすわっていたエリカが振り返った(ちなみに護堂の隣も空いているのだが、彼女はそちらを無視して前を選んだのだ)。
「このサルデーニャでは、雨はほとんど降らないのよ。そんなことも知らないの?」
エリカのバカにするような一言で、護堂も気づいた。
地中海《ちちゅうかい》性気候だ。温暖で、乾燥していて、めったに降雨がない。地中海の真《ま》っ只中《ただなか》にある島なのだから、もちろん該当地域のはずだ。
「じゃあ、あれってもしかして……」
「あなたの想像通りでしょうね。おそらく、これから何らかの怪異が起きる――かなりの確率で神が顕現《けんげん》する兆候《ちょうこう》でしょう」
そんなエリカの予言を聞いた数分後、短いバスの旅は終了した。
ドルガリは、山のふもとにある小さな街だった。
交番と数軒の店くらいしかない通りにある停留所でバスを降りた護堂とエリカは、真っ先に曇り空を見上げた。車内で気づいたときよりも、明らかに雲の量が多い。
つい一時間前までは、爽快《そうかい》なほど青く晴れ渡っていたのがウソのようだ。護堂はサルデーニャ島に来てから初めて見る曇天《どんてん》に、いやな予感を覚えた。
「――来るわよ」
ぽつりとエリカがつぶやいた。
その直後、雨粒が護堂の頬《ほお》を叩《たた》いた。ついに雨が降りだしたのだ。
まるで夕立のような強い雨。だが、エリカが来ると言ったのは多分これではあるまい。
護堂の直感を裏付けるように、いきなり黄金の光が閃《ひらめ》いた。
ゴォォォオオオオオオンンン!
雷鳴が轟《とどろ》き、稲《いな》光《びかり》が閃く。風も急速に強くなりはじめた。
――嵐。
何の前触れも兆候もなく、嵐が襲来してきたのだ。そして護堂は気づいてしまった。
嵐のなかを悠々《ゆうゆう》と飛翔《ひしょう》する四つ足の獣《けもの》――『山《や》羊《ぎ》』が上空に存在することに。
中国《ちゅうごく》の龍《りゅう》が空を駆けるように、羽も翼もないのに巨大な『山羊』が、風と雲と雨、そして雷霆《らいてい》をひきつれて宙を飛んでいたのだ。
かなり遠くにいるため、具体的なスケールはわからない。
それでもカリアリで目撃した『猪」に負けず劣らずのサイズだろう。毛皮は白く、頭からはおそろしく立派な角《つの》が二本、長々と生えている。
クアァァァァァアアアアッ!!
甲高《かんだか》い声で『山羊』が咆哮《ほうこう》すると、いきなり暴風が吹き荒れた。
もう一啼《ひとな 》き。今度は雷の束が地上へと降り注いだ。
この街にはほとんど木造建築はなさそうなうえに、雨まで降っている。大火事の心配はすくないのが不幸中の幸いだろう。
それでも、災害には変わりない。護堂は呆然《ぼうぜん》と『山羊』の偉容《い よう》を見つめてしまった。
「あれも、剣の神様から生まれた分身なのかよ?」
「そうなのでしょうね。できれば『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』の能力を突き止めてから接触したかったけど、仕方ないわ」
エリカの雰囲気《ふんい き 》が変わっていたので、護堂は驚いた。
焔《ほのお》と黄金を思わせる華麗《か れい》さはそのままに。雄《お》々《お》しく、苛烈《か れつ》な意志が美貌《び ぼう》と双眼《そうがん》に宿る。
試合を前にしたトップアスリートにも似た、気やすく声もかけられないような峻厳《しゅんげん》さを身にまとっていた。
「来《きた》れ我が剣、クオレ・ディ・レオーネ。獅《し》子《し》の玉座《ぎょくざ》を守護せし刃《やいば》よ! |紅と黒《ロッソネロ》の先達《せんだつ》にも請《こ》い願わん。願わくば我が身、我が騎士道を守護し給《たま》え!」
さらにエリカは、呪文《じゅもん》のような文句を唱えた。
すると見覚えのある細身の剣と、初めて見る紅《あか》いケープが虚空《こ くう》より現れる。彼女は右手で剣を取り、ケープを華奢《きゃしゃ》な体にまといつけた。
紅色の下地に黒い縞《しま》が幾重《いくえ 》にも入った勇壮《ゆうそう》なデザインのケープが、エリカの美貌と金髪におそろしく似合っている。一瞬だけ護堂は見《み》惚《ほ》れてしまった。
「わたしはあの『山羊』に接近して、様子をうかがってくるわ。護堂はどこかに隠れていなさい。あとで合流しましょう」
「おまえ、もしかしてあんなのと戦うつもりかよ!?」
「まさか! 偵察《ていさつ》してくるだけよ。あなたがどこにいても探索の魔術で探し出してあげるから、遠慮なく好きな場所に隠れなさい!」
と言い残して、エリカが駆け出した。
雨の街中をまるで飛ぶように、矢のように走っていく。とても人間の脚力とは思えない。
もしかして、あれも魔術なのだろうか。驚愕《きょうがく》と共に見送る護堂であった。
「……っと、こんなのんびりしてる場合じゃないな。俺も早く逃げ場所を探さないと」
街の様子を確かめようと、護堂は目を凝《こ》らした。
突然の暴風雨と雷鳴。
そして、空を舞う巨大な怪獣。
これだけの異変が起きているのだから、にわかにドルガリの街も騒然としはじめていた。
嵐だというのに窓を開け、空を呆然と見上げている人々。
恐怖の悲鳴、驚愕の絶叫、狂乱のざわつきなど、阿鼻叫喚《あ びきょうかん》の数々。
暴風が木材や布など、軽い物を巻き上げ、天へと運び上げている。稲妻が暗い曇天を短時間だけ輝かせている。空より降ってくる雷撃が地面を灼《や》き、建物を打ち砕いている。
そして、逃げ場を求めて街のなかへとさまよい出てきた人、人、人――。
人口数千人規模の小さな街のはずだが、こんな有り様になっては立派なパニックだ。
「……下《へ》手《た》に逃げようとしたら、かえってヤバイことになるかもな。どうしたもんかな」
悪い意味で活気立つ街の人々を眺めながら、ぼやく。
ある程度は事情を知っているのと、騒ぐ人々を目《ま》の当《あ》たりにしたことで、逆に護堂は冷静さを取り戻していた。――だから、気づけた。
今、護堂は逃げまどう人々のなかに交じりながらも、冷めた目で周囲を観察している。
この慌《あわ》ただしい雑踏のなかに、自分と同じ冷ややかさで群衆の乱れっぷりを眺めている少年がひとりだけいた。一度見たら、忘れられない美貌の持ち主だ。
彼と目が合った。
向こうは懐かしげに微笑し、こちらは困惑した。
会いたいとは思っていたのだ。無事を確かめたいとも思っていたのだ。
なのに、いざ顔を合わせてみると、微妙な引っかかりを覚える自分がいた。神の分身が顕れる場所には、あの少年も姿を見せる。これではエリカの言った通りではないか?
3
駆ける。
エリカ・ブランデッリは〈跳躍《ちょうやく》〉の術を使って身を軽くし、全力で駆ける。
数え切れないほどの箇所を稲妻《いなずま》に打たれ、さまざまなものを暴風に剥《は》ぎ取られ、滅多《めった 》にないほど強い雨にさらされて満身《まんしん》創痍《そうい 》の街を飛ぶようにして走る。
実際、エリカは半ば飛翔《ひしょう》していた。
崩壊しつつある石造りの街並み。その屋根、壁、街灯など、ありとあらゆる建物や部分を足場にして跳躍し、ほとんど地に足をつけていない。
欧《おう》州《しゅう》、特にイタリアの街で高層ビルなどを建てることは難しい。
たとえばピサの斜塔《しゃとう》、ローマのコロッセオなど、象徴的《しょうちょうてき》なモニュメントを持つ都市も多いため、景観を損ねるような高層建築は条例で禁止されているのだ。
この事実を、エリカは舌打ちして口惜《くちお 》しんだ。
――もっと高い建物があれば、あの『山羊』にもっと近づけるのに。
ドルガリの街の建物は、せいぜいが五、六階程度の高さである。悠々と『山《や》羊《ぎ》』が飛んでいるのは、さらに数十メートルは上空なのだ。
魔術の天才と言ってもいいエリカだが、飛翔の術は身につけていない。
彼女の専門は〈鉄〉。鋼鉄を手足のように操《あやつ》り、攻防に役立てること。飛翔術や霊視術、秘薬の調合などはルクレチア・ゾラのような本職の魔女の領分なのだ。
ついに、ある塔の屋上で足を止めたエリカは深く息を吐いた。
いくら偵察が目的とはいえ、こんな遠くから眺めているだけでは将《らち》があかない。
虎穴《こ けつ》に入らずんば虎《こ》児《じ》を得ず――。
ここは、敢《あ》えて危険を冒《おか》してみるべきか。まだ実戦で使ったことはない、あの術――叔《お》父《じ》にも報告したあの奥義《おうぎ 》を試《ため》してみるべきか。
一〇秒だけ悩み、すぐに決断した。
まずは虎穴に入ってみて、あとは臨機応変《りんき おうへん》に進むなり退くなりすればいい。
「エリ、エリ、レマ・サバクタニ! 主よ、何《な》故《ぜ》我を見捨て給《たま》う!」
エリカは声高らかに唱えだした。
ゴルゴタの言霊《ことだま》。憎悪《ぞうお 》と嘆《なげ》き、怒りと祈りの聖霊を呼ばわる呪文《じゅもん》を。
「主よ、真昼に我が呼べど御身は応《こた》え給わず。夜もまた沈黙のみ。されど御身は聖なる御方、イスラエルにて諸々の賛歌をうたわれし者なり!」
右手のクオレ・ディ・レオーネを、天に向けて突き上げる。
この剣は、好敵手リリアナ・クラニチャールの魔剣イル・マエストロと対《つい》を成す。
かつて、獅《し》子《し》王《おう》と妖精《ようせい》王《おう》の名を持つ偉大な騎士ふたりのために鍛《きた》えられた剣。彼女たちはこの二振りをフィレンツェの地下墓地で見つけ、それぞれの佩刀《はいとう》としたのだ。
「我が骨は悉《ことごと》く外《はず》れけり。我が心は蝋[#異体字 底本での使用は、Unicode:U+881F、読みは「ろう」、153-11]となり溶けり。御身は我を死の塵《ちり》の内に捨て給う! 狗《いぬ》どもが我を取り囲み、悪を為《な》す者の群れが我を苛《さいな》む!」
これは絶望の禍詩《まがうた》。死に瀕《ひん》した己《おのれ》を救わぬ主への怒り。
「我が力なる御方よ、我を助け給え、急ぎ給え! 剣より我が魂魄《こんぱく》を救い給え。獅子の牙《きば》より救い給え。野牛の角より救い給え!」
これは祈りの賛歌。死に際しても気高《け だか》く主に帰《き》依《え》するという絶対の意志。
「我は主の御名を告げ、世界の中心にて御身を讃え、帰依し奉《たてまつ》る!」
術の名は『|主よ、何故我を見捨て給う《エ リ ・ エ リ 、 レ マ ・ サ バ ク タ ニ》』。
〈赤銅黒十字〉に伝わる技のなかでも、至難《し なん》とされる奥義《おうぎ 》のひとつであった。
――寒々しい冷気を感じて、エリカは成功を悟った。
不敵な雌《めす》獅《じ》子《し》の微笑が彼女の口元を彩《いろど》る。
風雨のせいではなしに、周囲の気温がぐんぐん下降していく。
エリカの招来した言霊《ことだま》が、身を切るような冷気を呼び込んでいるのだ。
ゴルゴタの丘。神の子が命を落とした場所と同じ空気、冷気が今、エリカの周囲には満ちている。これを浴びれば、常人はそれだけで心臓|麻《ま》痺《ひ》を起こすという。
そして神――ないし、それに類する聖なる存在には、極めて不快な気配のはずだった。
果たして『山羊』は、じろりと視線を下界に向けた。
エリカの立つ石の塔へ、ゆっくりと降下してくる。
上《う》手《ま》いこと挑発になったらしい。ほくそ笑みながら、エリカは隣家の屋根へ跳んだ。
同時に『山羊』を観察する。
賢しげな目だ。もともと山羊は賢《かしこ》い獣《けもの》である。愚鈍《ぐ どん》な羊に姿は似ているが、中身ははるかに機敏《き びん》で賢い。だから当然と言えば当然なのだが――。
カリアリの『猪《いのしし》』のときは、これほど近づく前に『風』の神が顕《あらわ》れてしまった
黒き猪と謎《なぞ》の竜巻《たつまき》の戦いを遠巻きに眺めているだけで、間近での偵察はできなかったのだ。だが今、あの『山羊』を見る限りでは神獣たちに知性があるようには見えない。
あくまで、動物として賢い。その程度にしか思えなかった。
――試してみるか。
「クオレ・ディ・レオーネ、汝《なんじ》、神の子と聖霊の慟哭《どうこく》を宿し、ロンギヌスの槍《やり》と成れ!」
愛剣に〈変形〉の魔術をかけて、長槍に変える。
そこに絶望の言霊を吹き込んでしまう。これでクオレ・ディ・レオーネは、神の子を刺した聖槍と同じ魔力を得た。神すら傷つけ流血させる、魔性の武具の誕生だ。
「聖トマス、御身の殉死《じゅんし》を彼《か》の者にも振り分け給え!」
新たな言霊と共に、エリカは槍を投げた。
必中必殺の呪誼《じゅそ 》を長槍に与えたうえでの投擲《とうてき》。これが神なら、それでも通じまい。神よりも下位の存在――神獣、聖獣の類であればどうだろうか。
長槍は、深々と『山羊』の下腹を抉《えぐ》った。
グアアアアアアアアアッッ! 獣の絶叫が天にこだまする。
エリカは魔術でクオレ・ディ・レオーネを呼び戻しながら、確信した。『まつろわぬ神』から生まれた神獣たち――このレベルであれば、彼女の力は十分に通用する!
だが、何の下準備もなしに勝てるほど甘い相手ではないだろう。
エリカが敵戦力を冷静に分析していると、『山羊』が甲高《かんだか》く咆哮《ほうこう》した。
天より次々と稲妻が降ってくる。
もちろん狙《ねら》いは、生意気にも神獣を傷つけた人間|風情《ふ ぜい》だろう。雷に打たれて黒《くろ》焦《こ》げになる前に、エリカは勘《かん》にまかせて飛びのいた。
轟《ごう》!
閃光《せんこう》、雷鳴。
二秒前まで彼女が立っていた場所を、烈《はげ》しい雷撃が打ちのめした。
衝撃と熱風を受けて、肌がビリビリと震える。そろそろ潮時《しおどき》のようだ。
このまま戦いつづけても、現状維持がせいぜいだろう。撤退を決めたエリカはふたたび跳躍し、隣のビルの屋上へと飛び移った。そのまま次々と跳躍を繰り返していく。
じっとしていたら、『山羊』が降らせる稲妻で灼《や》き殺されてしまう。
エリカはちらりと上空を見やった。
空を駆ける――否《いな》、空を漂う巨大な『山羊』。
今まで出現した神獣たちは、謎の竜巻によって倒された。では、今回の『山羊』はどうなる? あれと敵対する神は顕れるのだろうか。
思案しながらも、エリカは逃走ルートを算段した。
このまま下に降り、混乱する人々のなかに紛《まぎ》れ込んで逃げおおせる。これがいちばん手堅く、そして大惨事を招くことは必至な逃走ルートだ。
エリカはフッと微笑《ほ ほ え》んで、その案を捨てた。
誇り高き大騎士が、そんな姑息《こ そく》な退路を選んでいいものだろうか。断じて否だ。
ならば、自分が取るべき道はひとつ。
ドルガリの街からも仰《あお》ぎ見ることのできる、峻険《しゅんけん》な山のふもと。
そこを目指して、エリカは跳躍していった。これなら最悪『山羊』を街から引き離して、人々が避難する時間を稼げるだろう。そう判断したのだ。
「息災《そくさい》であったか、小僧。おたがい命《いのち》冥加《みょうが》なことよな」
逃げまどう人々の流れから、どうにか抜け出し――。
ふたりきりで顔を合わせるなり、少年が言った。あいかわらずえらそうな口調だ。
「まったくだ。言っとくけど俺、かなり心配したんだぞ。……何だかんだでバタバタしちゃって、おまえを探しにいけなかったのも心残りだったしな」
少年の姿をしげしげと見つめながら、護堂も答える。
以前と同様、ボロみたいな外套《がいとう》を着ている。顔立ちも繊細《せんさい》で、端正で、神韻《しんいん》縹渺《ひょうびょう》たる美しさだ。カリアリで会ったときと、どこも変わっていない。
だというのに、違和感がある。
護堂はいぶかしんだ。おかしい。こいつ、前とどこかがちがう。見た目は何にも変わっていないのに、明らかにどこかがちがう。どこがだ?
「ふふっ。おぬし、なかなか勘が良いようじゃのう。然《しか》るべき教育を受ければ、もしかしたら祭司《さいし 》として大成するやもしれぬぞ」
悩む護堂を見て、少年が笑っていた。
あどけない少年の笑顔。だが、前よりもすこしだけ大人びているような気もする。
――待て。こいつ、今何て言った?
「なあ。おまえ今、変なことを言わなかったか。教育とか祭司がどうとか……」
「気にするな、ただの独り言じゃ。それよりも、我らを今一度巡り会わせた運命の采配《さいはい》に感謝をしようではないか。我らの縁は思ったよりも深いようじゃのう」
いや、これは運命などではない。人為《じんい 》の結果だ。
草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》とエリカ・ブランデッリは、この少年と会うことを期待してやってきたのだ。
なのに、どうしてそれを告白する気になれないのだろう?
わずかな逡巡《しゅんじゅん》、気後《き おく》れ。少年に対して抱いている共感とはべつの感情が湧《わ》き起こってきた。
ゴォォォオオオオオオンンン! その直後、轟音《ごうおん》が響き渡る。
雷が近くに落ちたのか? 護堂と少年は顔を上げ、周囲を見回した。
「――エリカ!」
天より降る幾筋もの雷と、それを右に左に跳躍しながら避けつづけるエリカ。
その光景を見た護堂は、思わず叫んでしまった。
あのままでは遠からぬうちに雷で灼《や》き尽くされてしまうのではないか。そんな恐怖に襲われながらも、彼女の逃走ぶりをたしかめる。
あの巨大な『山羊』は、いつのまにか低空を飛ぶようになっていた。
立ち並ぶ建物のやや上空をすべるように漂い、ゆるやかに金髪の美少女を追っている。そして、追われるエリカが向かっているのは、街の外――そびえ立つ山のふもとの方向だ。
屋根から屋根へ飛び移りながら、矢のように走っていく。
ドルガリの街並みと人々にこれ以上の被害が出ないように気を遣《つか》っているのかもしれない。
だが、そんな隠れ場所もないような開けたところへ向かって、本当に大丈夫なのか。
今までの仲たがいも忘れて、護堂はエリカの身を案じた。
「なんじゃ、あの娘も来ておったのか。あやつとも縁があるようじゃのう」
こんな状況だというのに、少年がのんきな口調で言った。
「ん、ああ。いろいろあって、今は俺、あの女といっしょに旅してるんだ。それよりも、このままじゃまずい。俺はあいつを追いかける! おまえはどうする!?」
「やめておくがよい。おぬしが行ったところで、何の役にも立つまいよ」
何の目算《もくさん》もなく、焦《あせ》りにまかせて口走る護堂を、少年が冷静にいさめた。
だが護堂は激しく首を振り、その勧《すす》めを一《いっ》蹴《しゅう》した。
「だからって、じっとしてられるか!」
たしかにエリカはむかつく女だ。
口を開けば、いちいち腹の立つ文句を言う。他の人間には愛想《あいそ 》よくするくせに、自分にはトゲトゲしくて辟易《へきえき》させられる。おまけにわがままで、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》。だが、それでも――。
だからといって、ここで見捨てたくなるほどイヤなヤツでもない。
護堂は彼女の走り去った方角を、決然と見《み》据《す》えた。
むかつくところは多々ある女だが、今は神様相手に孤軍奮闘《こ ぐんふんとう》しているのも事実だ。これを見て助《すけ》太《だ》刀《ち》にも行かず、見て見ぬふりは できそうにもなかった。
無論、ただのバカげた衝動だとはわかっている。わかってはいるのだが。
「おぬし、存外にバカ者じゃのう。バカといえば、あの娘もそうじゃ。もっと上手い逃げ方があると気づかぬほど愚昧《ぐ まい》でもあるまいに、敢《あ》えて苦しい道を選んでおる」
呆《あき》れたふうに少年が言った。
「立ち合わせた我としては、それを見逃すこともできぬではないか。難儀《なんぎ 》なことじゃ!」
そういえば、この少年もまた不思議な力の持ち主ではないか。
護堂はカリアリでの別れを思い出した。あのとき体験した、少年の不思議な支配力――あれも魔術だったのか? 強力な催眠術とでも言うような?
あの力をまた使われてはまずい。後ずさる護堂に、少年がくすりと微笑みかけた。
アルカイックスマイル。
ごくかすかな、神韻《しんいん》縹渺《ひょうびょう》たる霧のうすさにも似た微笑。
ここで護堂は気がついた。彼との再会時に気づいた違和感の正体は、これだったのだ。
前よりも生々しくない[#「生々しくない」に傍点]。生きた人間というよりも、精緻《せいち 》な造りの仏像とでも対峙《たいじ 》しているかのような、形容しがたい違和感がある。
「安心せい。バカじゃとは思うが、バカな子ほど可愛《か わ い》いとも申す。止めはせぬし、力も貸そう。――じゃから、おぬしが隠し持っておるものを見せるがよい」
と、少年は手を差し出してきた。
「お、俺が隠し持っているもの?」
「あるはずじゃろ。我があの港でおぬしに声をかけたのも、其《そ》れの匂《にお》いを嗅《か》ぎ取ったからじゃ。今はあのときよりもはっきりと、その匂いを感じておる。ほれ、その荷を開けてみせい」
「あの石板のことか!」
少年の視線が、護堂の持つバッグに注がれている。ようやくピンときた。
護堂はあわてて例の石板――『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』を取り出した。
「ふむ、やはりな。古き叡智《えいち 》の輝きを奥に秘めておる……このような逸品が未だ人の世に埋もれていたとはのう。こやつがあれば、今の我のままでも何とかなろう」
表面に縛《しば》られた男の稚拙《ち せつ》な図を描いた、古めかしい石板。
少年は面白げに目を細めつつ、その図を眺めた。
「ほお。戒《いまし》めを受けし巨人……太陽……焔《ほのお》 愚かしき民《たみ》……救済。なるほど、ここに秘められしは〈偸盗《ちゅうとう》〉の力か! はは、『欺《あざむ》く者』プロメテウス! 神々を欺き、人間を導く偸盗の英雄――あのとき港で感じたのは、おぬしの気配であったか!」
その愉快そうなつぶやきを聞いて、護堂はたじろいだ。
まだ『プロメテウス秘笈』の名を告げてはいない。だというのに少年は、その名を喝破《かっぱ 》してのけた。やはり彼も、人智を越えた存在なのだ。
「……おまえもエリカたちと同じ、魔術師ってヤツなのか?」
「いいや。我はもっと別種の、ちと半端な身の上での。我が己の名を思い出すまでは、半端なままで我慢《が まん》せねばならぬ。ま、最近はそれも気軽で悪くはないと思っておるのじゃが」
苦笑しながらも、少年は『プロメテウス秘笈』を撫《な》で回す。
「誰ぞ、この石をすでに使った者がおるのではないか? こやつのなかには今、どこぞの神より盗み取った神力が蓄《たくわ》えられておるよ」
「盗んだ、だって?」
「うむ。〈偸盗〉の力を持つと言ったじゃろう? この石にはの、神の持つ権能を盗み取り、蓄えておく性質があるのじゃ。……ま、強大な神格が相手であれば、せいぜい力の一部をかすめとる程度で終わるじゃろうが、役には立つはずじゃ。面白いのう」
石板を手に、少年は数百メートル先にそびえたつ山々をにらむ。
その方向にはエリカと、彼女を追いかけていった『山羊』がいるはずだった。
「では怪物退治と参ろうかのう。――小僧、おぬしもついてくるがよい!」
4
すでにドルガリの街は遠く離れている。
雨の降るなか、緑の森と白く乾いた岩肌を持つ山のふもと。
この辺りはまばらに木々が生えてはいるものの、基本的には見通しのいい岩場だ。
ここまで来て、エリカはようやく走るのをやめた。街の方角からは、例の『山《や》羊《ぎ》』が一見|悠然《ゆうぜん》と、その実かなりの速さで飛来してくる。
さあ、これからどうする? エリカは思案をはじめた。
幻惑《げんわく》の術を駆《く》使《し》して隠れ潜み、神《しん》獣《じゅう》の目をやり過ごすのが最良の策だろう。
だが、もうすこし時間を稼《かせ》いだ方がいいかもしれない。お目当ての自分がすぐにいなくなったら、あの『山羊』はまた街に戻って破壊の限りを尽くす可能性が高いからだ。
「……一五分、というところかしらね」
荒い息を吐きながら、エリカはつぶやく。
あの神獣との追いかけっこで消耗《しょうもう》した体力と精神。そして、自分の持つ戦力をかんがみて、その程度の時間ならまだ粘《ねば》れると判断したのだ。
その間に街の人々が避難《ひ なん》をしていればよし。
それ以上のことをする能力は、エリカには――否《いな》、人間にはない。あとはもう、天の采配《さいはい》にまかせるほかないだろう。
冷静に計算を終えたエリカは、闘志《とうし 》を秘めたまなざしで空飛ぶ『山羊』を見上げた。
その瞬間に、予想外のものを目撃した。
――黒い雷。
天より立てつづけに黒い雷が降り、『山羊』の巨体を打つ。
クォォオオオオオンンンンッ!!
天空に苦悶《く もん》の絶叫がこだまする。雷を操る神獣が、己《おのれ》の武器でもある雷撃を浴びて苦しんでいる?
エリカは黒い雷が、『山羊』の降らせていたものとは別種の存在だと気づいた。
あれは呪詛《じゅそ 》の固まりのような代物《しろもの》だ。おそらく、エリカ自身も操るゴルゴタの言霊《ことだま》に極めて近い性質のはずだった。普通の人間が近づけば、それだけで死にかねない。
憎悪《ぞうお 》と嘆《なげ》きの意思が凝《こ》り固まり、黒き呪誼となって周囲に害を為《な》す。
霊視術師《れいし じゅつし》としての素養を持たないエリカにもはっきり認知できるほど、黒い雷の呪詛は強烈だった。だが、あれほどの呪詛がどこから湧《わ》き出てきたのか。
――やはり、第二の神が顕《あらわ》れたのだろうか?
黒い雷でさんざん打ちのめされ、ついに地上へ落下していく『山羊』の姿を眺めながら、エリカは気を引き締めた。
ドルガリの街を出てすぐ、少年は『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』を天にかざした。
すると雷雲より黒い稲妻が幾筋も走り、天を舞う『山羊』に襲いかかったのだ。この雷光に打たれるたび、空飛ぶ怪獣は絶叫し、打ちのめされ、苦しんでいた。
そして、さんざん稲妻を浴びた『山羊』は地上に落ちた。
そのまま街の外に広がる岩場へ激突し、ビクビクと巨体を震わせている。意外とあっけない怪獣の最期《さいご 》に、護堂《ご どう》は目を丸くした。
「なに、あの獣《けもの》どもには見た目ほどの力はないのじゃ。無論、死すべき運命《さ だ め》の者にとっては最悪の脅威《きょうい》であろうがの。所詮《しょせん》はひとつの神格の権能を切り分けた、不安定なもの――ちと神力で揺さぶってやれば、あの通りよ」
「よ、よくわからないけど、つまり体がでかいわりに打たれ弱いってことか?」
「うむ、言い得て妙じゃ。誉《ほ》めてつかわそう。……まあ、この武勲《ぶ くん》も石の助けがあればこそじゃが。どこぞの土地神の呪誼が蓄えてあったので、ちょうどよかったわ」
横たわる『山羊』を悠々と眺める少年と、おののく護堂の会話。
護堂は隣で誇らしげにしている友人の素性《すじょう》が、いよいよわからなくなってきた。
神格を切り分けたという発言は、ルクレチア・ゾラの証言――『黄金の剣を持つ神が砕け散り、巨大な獣になった』と合致《がっち 》している。
この少年は、明らかにエリカよりも事情通だ。ルクレチアが天才、神童《しんどう》と呼んで賞賛《しょうさん》していた少女よりも。一体、何者なのだろう?
「護堂! あなたやっぱり、その子と申し合わせていたの!?」
いきなり美しい声で怒鳴りつけられた。
もちろんエリカだ。どこかで『山羊』の墜落《ついらく》を見て、駆けつけてきたのだろう。
すっかり雨に濡れ、泥で汚れてはいたが、その華麗《か れい》さに陰《かげ》りはない。むしろ、こういう極限の状況でこそ、彼女の美は引き立つのかもしれない。
「そうじゃない。あの街で偶然会ったんだよ。……おまえだって、そうなるかもしれないって言ってただろ?」
わずかな含みを持たせて、護堂は答えた。
もちろん、トゲトゲしいエリカよりも少年の方を慕《した》わしく思っていることには変わりないのだが――。それでも彼の得体の知れなさを痛感するたび、疑惑が首をもたげてくる。
もしかして。いや、やはり、そうなのかと。
「……ねえ、あの神獣を倒したのはあなたなの?」
護堂の言葉で警戒心を刺激されたのか、エリカが険しい目つきで少年をにらみつけた。
彼が手にしている『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』にも気づいたようだ。
「うむ。幸いにも〈偸盗《ちゅうとう》〉の秘石を借り受けることができたのでな」
「その秘笈の持つ力を読み解いた――ということは、あなたもしかして霊視術師? 最高クラスの霊視力でもない限り、そんな真《ま》似《ね》できっこないわ」
「ふふ、我の素性は訊《き》いてくれるな。我が名は今、封じられておるのだよ」
エリカの問いかけにも、少年は涼しい顔を崩さない。
「それよりも、おぬしたちに警告させてもらおう。早うこの場を去れ。――もうすぐ二匹目が参るはずじゃ。相当に猛《たけ》り狂っているようじゃから、近くにおらぬ方がよい」
「二匹目?」
不穏な言葉を聞いて、護堂が眉《まゆ》をひそめた直後。
クアアアアアアアアアッッ!
怪鳥の叫びがこだまする。何なのだろう、この声は? 護堂とエリカは同時に空を見上げ、今日何度目かの戦慄《せんりつ》を覚える羽目になった。
――今度は金色の『鳳《おおとり》』だった。
長大な翼を広げて暗天を滑空《かっくう》する、金色の羽毛を持つ猛禽《もうきん》。
そういえばルクレチアは、剣の神からは鷲《わし》も生まれたと言っていた。だが、あれはおそらく鷲ではない。護堂には鷹《たか》に似た鳥種のようにも思える。
強《し》いて言うのなら、やはり『鳳』だろう。
羽の端から端までを測《はか》れば、翼長五、六〇メートルはありそうだ。
ドルガリの街の上空で力強く羽ばたき、何度も勇壮に旋回している巨大な猛禽には、その呼び名こそがふさわしく思える。
「――って、あれまずくないか!?」
空中の『鳳』が羽ばたき、旋回するたびに風が渦巻《うずま 》く。
強風から旋風《せんぷう》、そして烈風《れっぷう》に、さらに勢いを増して竜巻《たつまき》にまで――。ごく短時間で力を強めた羽風は、気づけば渦巻く竜巻となって街中を吹き荒れていた。
大小さまざまな物体が、風に巻き上げられて空へと昇っていく。
あんなに強力な竜巻が街のど真ん中で発生したら、どれだけの被害を生むことか。『山羊』や稲妻の比ではないはずだ。
護堂が絶望する隣では、エリカが少年に向けてふたたび問いかけていた。
「……あの鳥も、あなたが呼び寄せたの?」
「ちがうな、少女よ。我《われ》が呼ぶのではない。我を探して、あやつらがやってくるのじゃ」
あの霞《かす》むような笑みを浮かべて、少年が答える。
こんな非常時に不謹慎《ふ きんしん》すぎると呆《あき》れた護堂だが、彼の美貌《び ぼう》から目を離せない。不思議と惹《ひ》きつけられてしまう。その言葉に従いたくなってしまう。
……こんなことではダメだ。これではいけない!
「そう……。じゃあ、あなたは――あなたはまさか……」
「ふふ、言ってくれるな。それは言わぬが花よ。さあ小僧、娘御《むすめご》も、早《はよ》う去れ。こう申しては気の毒じゃが、あの街はもういかん。あとは滅びを待つのみよ」
少年は己の唇《くちびる》に人差し指を当てながら言った。
まるで、エリカに口止めでも願うような仕草だった。だが護堂はそれも気に懸《か》けず、少年の美貌を真正面からにらみつけた。
「待つだけなんて、決まっちゃいないだろう?」
「決まりじゃ。プロメテウスの石に蓄えてあった神力は、先ほど使い切った。あれを追い払う手立てはもうないのじゃ。その程度の理屈もわからぬほど愚《おろ》かではあるまい?」
「理屈ではわかっても、納得できないんだよ!」
衝動にまかせて護堂は叫んだ。
さっきエリカを追いかけようとしたときも、そうだった。今もそうだ。全力を尽くして立ち向かっても、絶対にかなわない難事に直面している。
だからといって、そこから逃げたくはない。目も背《そむ》けたくない。
これが子供っぽい強情だというのは、頭では理解している。だが、あの竜巻のなかで起きている惨事《さんじ 》を想像すると、怪獣にひとりで立ち向かって苦闘するエリカを想像すると、居ても立ってもいられなくなる。だからせめて、意地だけでも張りたい――。
「これがいにしえの世であれば、我が加護を授《さず》け、我が戦士のひとりとして迎え入れたうえで戦場に送り出すところなのじゃが――」
聞き分けのない子供のわがままを、できることなら叶えてやりたい。
そんな父親にも似た表情で、少年はつぶやいた。
「そういえば小僧、先ほども似たような文句を吐いておったのう。抗《あらが》えぬ強者には膝《ひざ》を折り、その力に恭順《きょうじゅん》するは弱者の智《ち》慧《え》ともいうべき選択なのじゃが。仕方のないヤツじゃ」
ふう。憂鬱《ゆううつ》そうに、軽いため息をつく。
「その愚かしさ、救ってやれるのもこれが最後じゃぞ? あの二匹を打ち倒してしまえば、のうのうと遊んでおることもできなくなるであろう。まったく、こんな小僧のために我《わ》が休息の時を失うことになるとは、口惜《くちお 》しきかな!」
「……? おまえ、何を言ってるんだ?」
少年のつぶやきの意味がよくわからなかったので、護堂は問いかけた。
こいつ、何を言っているのだろう? だが返答はなく、代わりに『プロメテウス秘笈』が投げ返されてくる。あわてて護堂は抱き止める羽目になった。
「持っておれ。その石ころがまた必要になるやもしれぬからな」
「え?」
「小僧、約束せいよ。いずれ時が来れば、必ず其《そ》れを世のために役立ててみせると」
そう言い残すなり、少年はいきなり走りだした。
ドルガリの街――『鳳』が旋回し、竜巻を生み出している方へと。
「おそらくこれが今《こん》生《じょう》の別れとなろう。さらばじゃ!」
護堂も追いかけようとして走ったが、すぐに引き離された。
まるで風だ。風のような速さで少年は駆け去り、その背中はすぐに見えなくなってしまった。
「あいつ、自分で危険だとか言ってたくせに、どういうつもりだよ?」
つぶやきながらも走る護堂の周囲を、風が駆け抜けていく。
その風はどんどん強くなり、『鳳』の飛ぶドルガリの上空へと吹いてゆく。
「護堂、気をつけなさい! もうすぐ来るわよ!」
「来る? 何がだよ!?」
追いかけてきたエリカに警告され、護堂は怒鳴り返した。
「カリアリに顕れた第二の神! 獣《けもの》たちを討ち倒す風の神、いえ、風の化身《け しん》を持つ軍神よ!」
この直後にふたたび風が渦巻き、第二の竜巻が発生した。
ドルガリの街の外で烈風が渦《うず》を作る。
その光景を前にして、『鳳』が旋回をやめた。途端に街中の竜巻は雲散霧消《うんさんむしょう》する。
竜巻に向けて、巨鳥はまっすぐ突っ込んでいった。
あの『猪』ですら持ち上げ、虜《とりこ》にし、空へと巻き上げた竜巻。
その中心に飛び込んでなお、『鳳』は健在だった。
巻き上げられるどころか、竜巻の回転とは逆方向に旋回をはじめた。いかなる理屈に基づく現象なのか、超高速で『鳳』が旋回するにつれて、竜巻の勢いがどんどん減衰《げんすい》していく。
デタラメもいいところだと、護堂が呆《あき》れ、かつ戦慄《せんりつ》した直後。
一瞬にして竜巻が消え失せた。
その代わりに『鳳』のそばに顕現《けんげん》したのは――黄金の剣。
巨大な黄金色の鋼《はがね》。『鳳』の翼長に負けぬほど長大な刀身を持つ、両刃《もろは 》の剣だった。
この『剣』が空中に浮かび、『鳳』と対峙《たいじ 》しているのだ。まるで人の目に見えない巨人の戦士が剣をかまえているかのような、異様な光景だった。
「やっぱり……あの神格は状況に応じて、自らの姿を変化させる。数多《あまた 》の化身を持つ軍神なんだわ……!」
いつのまにか護堂の隣に来ていたエリカがつぶやいた。
もうふたりとも走ってはいない。『鳳』と『剣』の異様な戦いを、呆然と見守っている。
ほとんど視認できないほどのスピードで、天を駆け巡る『鳳』。
そのたびに衝撃波じみた突風が地上を吹き荒れる。さすがに音速に達していたりはしないだろうが、すさまじい速さだった。
だが、それでも『剣』の方が優勢だった。
超高速の相手に対して、むしろ優雅《ゆうが 》とも言える悠揚《ゆうよう》さで宙を舞い、斬撃《ざんげき》を繰り出す。
その太《た》刀《ち》筋《すじ》は、飛び回る『鳳』を巧《たく》みに斬《き》り刻《きざ》んでいった。
斬撃が決まるたび、黄金の羽毛が舞い飛び、鮮血が中空と地上を紅《あか》く染める。
そしてついに、決着の時が来た。
黄金の一刀が深々と打ち込まれ、『鳳』の巨体がまっぷたつに両断された。
そして、ふたつに分かたれた猛禽《もうきん》の肉体は砂のように細かい粒になり、崩れ去っていく。この粒は残らず『剣』の刀身に吸い込まれていった。
だが、これで終わりではなかった。
最後に黄金の『剣』は、地上に墜落《ついらく》した『山羊』を大地ごと貫《つらぬ》いた。
とどめの一刺し――そういうことなのだろう。戦闘力を失い、地上に横たわるだけだった巨獣の頸部《けいぶ 》を刺し貫く、容赦《ようしゃ》ない一撃だった。
これで『山羊』の巨体も光の粒となり、『剣』の刀身へと吸い込まれていく。
いつのまにか雨がやみ、風も雷も収まっていた。
太陽の光がふたたび地上を照らし出したとき、黄金の『剣』は唐突に消え去った。
あとに残されたのは神々の猛威《もうい 》に半ば打ち砕かれながらも持ち堪《こた》えたドルガリの街と、ただ唖然《あ ぜん》とするばかりの護堂と、難しい顔で天を見上げるエリカだけであった。
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第5章 我、敗北を求めたり
1
美しい海と並んで、古代の遺跡《い せき》はサルデーニャ島の重要な観光資源である。
島の各地で七〇〇〇以上も発見されている石の砦《とりで》――ヌラーゲ。
これを築いた文明は紀元前一五世紀頃からはじまったという。この頃、サルデーニャ島の人々はヌラーゲのふもとに集落を築き、生活していた。
この先史時代を経《へ》て、フェニキア人がやってきた。
航海者、交易《こうえき》商人であった彼らと島の接触は、やがて紀元前五〇九年、フェニキア人の街テュロスによるサルデーニャ島の支配という形で決着した。
その後に、ローマ人が来た。
共和政、そして帝政ローマによる新たな支配。ローマ人はフェニキア人の築いた街に手を加えて自分たちの居住地を建造した。
だからサルデーニャ島には、フェニキア、ローマの遺跡まで存在する。
これらの遺跡が特に多いのは島の西部、オリスターノ県である。
フェニキア人の開拓した航路が西部の沿岸を通るために、彼らはここを拠点にしてアンタスやタロスなどの街を建造したのだ。
――特にタロス。
この遺跡は半島の突端に位置する岬《みさき》に、半ば海に沈みながらも現存している。
テュロスのフェニキア人――メルカルトを守護神とした民族が築いた街であった。
「メルカルトとその本体であるバアルは、フェニキア人の文化・習俗に深く結びついた神格だったわ。――ハンニバルは知っている?」
「映画のタイトルじゃない方か? ローマに攻め込んだ武将の方の?」
島の西部を占《し》めるオリスターノ県の県都、オリスターノ。
ヌオロと同様、ほどほどに発展した街なのだが、あちらよりも海が近い。風に潮《しお》の匂《にお》いがかすかに混ざる。そのせいか、やや開放的な空気であった。
その市内にある|ピザ屋《ピッツェリア》。
そこのオープンテラスで、エリカと護堂は腹ごしらえの最中だった。考えてみれば、護堂がイタリアに来てから初めて食べるピザであった。
うわさに聞くモチモチしたナポリ風ではなく、サクサクと生地のうすいローマ風だった。
「もちろん。ハンニバルは『バールの愛子《いとしご》』という意味なの。そして彼の父はハミルカル……こちらは『メルカルトの下僕《げ ぼく》』という意味よ。どちらもフェニキア人の名前としてはスタンダードなものだったらしいわ」
「……で、こんなところにやってきたわけか」
ドルガリで巨獣たちと遭遇《そうぐう》した翌日、ふたりはこの街へと向かった。
まず南部のカリアリへ一度戻り、そこからはエリカの雇《やと》った車で西へ。オリスターノには二時間ほどで到着した。
タロスの遺跡は、この街からわずか二〇キロの距離だとエリカは言う。
フェニキア人が土台を築き、後《のち》にローマ人が上下水道などの設置で都市機能を整えた廃墟《はいきょ》は、今日ではさびれ気味の観光地となっているらしい。
「なあ、黄金の剣の神様の方はいいのかよ? あいつ――自称《じしょう》記憶|喪失《そうしつ》のヤツも姿を消したまま行方《ゆ く え》知れずだし、あっちは放っておいても大丈夫なのか?」
「いいのよ。あちらのカラクリはもう何となく読めているから」
エリカの醒《さ》めた返答に、護堂は苛立《いらだ 》ちを感じた。
護堂としてはむしろ、昨日見た『剣』の神について知りたいのだ。
島の各地に現れる巨大な獣《けもの》たちを倒して回る神。そして、あの不思議な少年と深い縁を持つらしい神。だがエリカは、あの神への関心を失ってしまったようにも見える。
「今、あちこちで暴れているのは剣の神様から生まれた分身たちなんだろ? 危険なのはそっちなんだから、先に何とかした方がよくないか」
「剣の神の分身が出没するとしても、多分あと一、二匹よ。それに、出てもすぐ退治されるはず。だったら消息不明のメルカルトを追いかける方が効率的だわ。……わたし、もう剣の神様の正体は大体察しがついているし」
などとエリカが宣言したので、護堂は驚いた。こいつ、いつのまにそこまで?
「すごいな、おまえ……。たいして手がかりもないのに、どうやって?」
「手がかりなら昨日たっぷりともらったもの。おそらくはペルシアかインド辺りの神格よ。……勘《かん》で言わせてもらえば、ペルシアの方だと思うけど。鷲《わし》だか鷹《たか》だかがいたから」
カフェラッテを口に運びながら、エリカがつまらなそうに言った。
「でも、すぐ退治されるって決めつけるのも問題なんじゃないか?」
「問題ないわよ。だって、剣の神様の分身たちは退治してもらうために[#「退治してもらうために」に傍点]、自分たちの本体を追い回しているんだもの。――さ、この話はもうおしまい。わたしは地元の結社と接触してくるから、しばらく時間をつぶしていなさい。わかった?」
「地元の? ……ああ、魔法使いたちの秘密結社な」
護堂は何の結社だといぶかしんだが、すぐに気づいた。
「ええ。ここはタロス遺跡にいちばん近い街だし、情報が得られる可能性は高いわ」
「まさか、その遺跡に神様がいたりするのか?」
「それはないでしょうけどね。『まつろわぬ神』はたいてい人間を避けるから、観光地に居座ったりは滅多にしないわ。ただ、かつての聖地や神殿には彼らの注意を惹《ひ》く程度の魅力はあるらしいの。もし一度でも近くに来ていたなら、この土地の魔術師が察知しているはずよ」
そう言って、エリカは先にピザ屋から出ていった。
電話で訊《たず》ねたらどうだと護堂が言うと、顔も合わせないまま余《よ》所《そ》の魔術師に頼み事をするような真似は礼を失するのだと凄《すご》まれた。
どうやら、魔術師の業界にもしきたりがいろいろあるらしい。
護堂はその後、街中をまわって時間をつぶすことにした。
考えてみれば、ひさしぶりに観光らしい行動である。だが、あまり楽しい気分ではない。さんざん神様たちと遭遇し、今も彼らを追いかけているせいだろう。
――エリカが戻ってきたのは、太陽が西の方に傾きだした頃だった。
べつに待ち合わせの場所や時間も決めていなかったのだが、彼女の方からどこからともなく現れたのだ。昨日言っていた人探しの魔術とやらを使ったのだろう。
「こっちに来たのは正解だったみたい」
開口一番にエリカは言った。
「メルカルトか剣の神かはわからないけれど、この付近に『まつろわぬ神』が来臨《らいりん》しているわ。この土地の魔術師たちが神の気配を感知して、大あわてだったの。わたしが斥候《せっこう》として現地へ行くからって、たっぷり情報をもらってきたわ」
「また神様が来ているのか……」
緊張を隠せない護堂の顔を見て、エリカが微妙な顔つきになった。
言いたいことがあるのに遠慮して口をつぐんでいるような、彼女らしくない表情だ。
「何だよ? おまえ、何か心配事でもあるのか?」
「ねえ護堂……あなた日本に帰るつもりはない?」
いきなりの質問に、護堂は「はあ?」と呆《あき》れかえった。さんざん今まで、一般人に過ぎない日本人を連れ回していたのはエリカの方ではないか。
「ここまで来たら、毒|喰《くら》わば皿までだ。途中下車してたまるかよ」
事の顛末《てんまつ》を見届けないまま日本に帰ったら、絶対に後悔する。昨日、少年を見失ってから肚《はら》を固めていた護堂は、即答で言った。
「すくなくとも、あいつがどうなったか確認するまでは、帰る気はないぞ」
「あいつ――あの男の子ね。彼にこだわっても多分、いい結果にはならないと思うけど」
「……神様だけじゃなくて、あいつのことも何かわかったのか?」
この質問にエリカが見せたのは、先ほどの微妙な表情だった。
つまり、知ってはいるが答えたくない。彼女らしくもない消極的な意思表示だ。
「まあね。わたしが最初に考えていたのとはだいぶちがったけど、大体のところは察しがついているわ。あなたにはショックなことかもしれないから、まだ言わないけど」
そう告げるエリカの顔を見て、護堂は自分の大きな勘ちがいを悟った。
今まで彼女のことを傲慢《ごうまん》で、傍若《ぼうじゃく》無人《ぶ じん》な自信家だとばかり考えていた。だが、護堂が思っていたよりも細やかな気遣《き づか》いのできる、思慮《し りょ》深い一面もあるのだ。
おそらくエリカが多くを語らないのは、草薙護堂のためなのだろう。
その配慮を察して、護堂は黙り込んでしまった。
……あとにして思えば、これが草薙護堂とエリカ・ブランデッリの心の距離がせばまった、最初の瞬間だったのかもしれない。
「まあ、わたしとしては『プロメテウス秘笈《ひきゅう》」さえあれば、特に言うことはないわ。あなたがそれを持ってついてこようが、わたしに差し出して日本に帰ろうが、どちらでもいいと思っているの。だから怖かったら、さっさと故国に帰りなさい。止めはしないわ」
エリカの方も、護堂を気遣う自分に違和感を覚えたのかもしれない。
いきなりツンと顔をそむけて、口早に言う。
そんな彼女を初めて微笑《ほ ほ え》ましく思いながら、護堂は即答した。
「なら決まってるよ。俺は最後までおまえにつきあう。イヤだと言われてもついていく。多分、迷惑をかけると思うけど、それでもいいか?」
「よくはないけど、いいわ。今後も荷物持ちとしてこき使ってあげる。覚悟しなさい!」
すこしだけ照れながら告げるエリカに、護堂はうなずきかけた。
考えてみれば、こいつとは三日もいっしょに旅してきたのだ。そろそろ打ち解けてきてもいい頃なのかもしれない。
「断っておくけど、わたしに必要なのはその魔導書だけなんだから、そこのところをわきまえておきなさいね。あなたなんて正直、いてもいなくてもいっしょなの。いい?」
「わかった、肝《きも》に銘《めい》じておくよ」
例の少年が『プロメテウス秘笈」について語っていた内容は、全て報告済みだ。
その後、エリカは神代の魔導書とやらをあれこれ眺め、いじり回していたのだが、最後には降参したものだ。自分にはこれの扱い方はわからない、と。
この天才魔女にも不可能な難事をやすやすと行う少年。一体、何者なのだろう?
2
夕闇《ゆうやみ》が真の闇へと変わりゆく頃。
エリカが先導し、護堂《ご どう》がそれにつづく隊列で、ふたりは鬱蒼《うっそう》とした森のなかを進む。
「待てよ。暗くて足元もよく見えないんだから、もっとゆっくり歩け!」
「だらしないわね。夜目も利《き》かないなんて、鍛《きた》え方が足りないんじゃなくて?」
「普通の人間はそんな訓練しない! 自分たちの常識だけで物を言うな!」
そんな話をしながら、明かりといえば夜空の星と中天の月しかない闇夜を行軍する。
照明などあるはずもない夜の森。
懐中電灯を片手に苦労する護堂に対して、エリカは実に身軽そうだった。
人工の光などに頼らず、軽快な足取りでどんどん森の奥へと進んでいく。彼女は闇夜のなかでも昼間のように先を見通せるらしい。
オリスターノからタクシーで北上すること一時間弱。
サン・バステンの遺跡《い せき》は、その辺りに広がる森のなかに鎮座《ちんざ 》している。
ここは保存状態のあまりよくないヌラーゲと、その近辺にあった集落の跡地だという。この地域には状態の良好な遺跡も多いので、観光地としての人気はたいしてないらしい。
だが、それでも――。
まだ日が落ちきる前に見たヌラーゲの偉容はなかなかみごとであった。
緑生い茂る森に、ひときわ高く屹立《きつりつ》する古代の砦《とりで》。
ヌラーゲとしては島でも有数の高さだそうで、背の高い森の木々を見下ろすようにしてそびえ立っていた。森の外からでも、巧《たく》みに石を組み上げた姿を見ることができたほどだ。
「……でも、このヌラーゲってフェニキアより前の文明の遺跡だよな? メルカルトや剣の神様が、どうしてそんな場所に潜伏《せんぷく》するんだ?」
「もしかしたら、聖地の霊気に惹《ひ》かれたのかもね」
道中の退屈しのぎに質問してみると、そんな答えがエリカから返ってきた。
「ヌラーゲがあるということはつまり、古代の集落の跡って意味だもの。当時の集落には神殿や墳墓《ふんぼ 》のような聖なる地所が何かしらあるものよ。『まつろわぬ神』がそういう土地の霊気に惹かれて、関係ない神の地所に押し入るケースもあるの」
「要するに、余《よ》所《そ》の神様の縄張《なわば 》りでも、他よりは居心地がいいわけか」
などと話しているうちに、どうにかヌラーゲの近くにまで到達した。
森の奥まった辺りが開けていて、見晴らしのいい広場のようになっている。
茫々《ぼうぼう》にのびきった草に覆《おお》われていてわかりづらいが、大小さまざまな石を器用に組み上げて造った集落の痕跡《こんせき》がたしかに遺《のこ》っていた。
石を積んで造った垣根や、石《いし》畳《だたみ》。高台。
そういえば、ヌラーゲのなかにはいくつもの部屋や階段などもしっかりあるらしい。
この文明の最盛期は、紀元前一〇世紀頃。
そんな時代に、しかもたいして人口も多くないだろう場所で、これだけの建築事業を行ったのだ。ある意味で現代の建築技術よりもすごい技だと、護堂は見入ってしまった。懐中電灯の明かりしかないのが、本当に悔やまれる。
ここで護堂は突然、強烈な寒気を背筋に感じた。
――何だろう、これは? 広場の一角が不思議と気になったので、そちらに目を向ける。幹の太い大樹が生い茂り、どこかから崩れた石材がうずたかく積み上がっている。
それらに隠された地面に、空洞のようなものがある。
電灯をそちらに向け、目を凝《こ》らす。
おそらくは三角形だ。三角形の穴が地面に空いていた。
「あそこ、何なんだ? 妙にヤバそうな気がするんだけど、俺、どうかしたのか?」
護堂の言葉を聞いて、エリカが何事か口のなかでつぶやいた。どうやら呪文《じゅもん》のようだ。また魔術を使っているのだろう。
「……護堂、あなた結構鋭いわね。あそこはおそらく神殿の入り口なのだけど」
「だけど?」
「今、呪力を感知する術を使ってみたの。そうしたら大当たり。ちょっと独特な感じの呪力が、あそこから漏れ出ているわ。多分いるわね」
もちろん神様が、だろう。
絶句する護堂の顔をまじまじと見つめながら、エリカが言った。
「何度も超自然現象と遭遇するうちに、神の気配を感じ取る勘《かん》が利《き》くようになってきたんだわ。動物とか巫女、神官みたいに。……意外な才能を持っていたのね。まあ、そんなに役には立たない才能だけど。――ここから先は何が起こるかわからないから、そこで待ってなさい」
と言い残して、エリカは歩きだした。
石材を乗り越え、三角の穴のなかへ降りていく。
護堂はしばらくの間、エリカの消えた穴を眺めていたが、迷った挙げ句に「くそっ」とつぶやいて後を追った。まさに毒喰わば何とやらである。
……穴のなかは階段になっていて、地下へつづいていた。
地下神殿。
原始的な自然|崇拝《すうはい》を行っていた民族が、こんな凝《こ》った建造物を持っていたとは――。
古代人の知識・技術は、時に一般的現代人のそれを凌駕《りょうが》する。その物証を間近で見て護堂は感動したが、ずっとこうしているわけにもいかない。
神殿の内部も巧みに石を積み上げ、そして敷き詰めて造ってあった。
懐中電灯で足元を照らしながら、地下通路をなるべく早足で進んだ。
地中海《ちちゅうかい》性気候であるサルデーニャ島は、基本的に空気が乾いている。だが今、地下を流れる空気はほのかにしめっていた。奥に水場でもあるのだろうか?
「護堂! あなた、何でついてきたのよ?」
しばらく歩いていると、前から突然呼びかけられた。
剣呑《けんのん》なまなざしのエリカだった。どうやら無事に追いつけたようだ。
「おまえ、あれを忘れているぞ。ほら、プロメテウスの何とか」
「……そういえば。結局、使い方もわからないものだから、頭のなかから消しちゃってたわ。そんな不確かな道具よりも、自分の技の方が頼りになるもの」
護堂がとっさに思いついた言い訳に、こんな大言が返ってきた。
なるほど、ルクレチアが不安に思うわけだ。
「この奥に神様がいるって言ったの、おまえだろ? そんな調子で大丈夫なのかよ?」
「いくら『まつろわぬ神』とはいえ、いきなり出会った人間を取って食べるような真《ま》似《ね》は――滅多にしないわ。あの神獣たちみたいに見境《みさかい》なしに暴れているわけでもないし、危険はすくないわよ。ちょっと潜って偵察したら、すぐ戻るつもりだったし。心配ないわ」
「いや、心配するだろ普通……」
エリカの返答に、護堂は自分のことは棚上げして呆《あき》れてしまった。
彼女は危険が皆無《かいむ 》とは言っていない。あくまで、すくないと判断しているだけだ。にもかかわらず、その渦中《かちゅう》にためらわずに飛び込もうとしている。
腕と才覚に自信があるからこそ、多少の無茶なら押し通せると考えてしまうのだろう。今までの行動を見る限りでは、退くべき時には退く冷静さもあるのだろうが……。
「大体、あなたの方こそ呆れたものだわ。何の力もない普通の男の子のくせに、こんなところまで入り込んできて。あなたはおとなしく荷物運びをしていれば、それだけで十分なの。でしゃばらないでちょうだい!」
「うん、まあ……それなんだろうな、多分」
「え、何?」
「……これでも一応は、男だからな。危険だから下がってろって言われても、素直には従えない。女の子がひとりで危ない真《ま》似《ね》をしようってのに、隠れているわけにもいかない。これは多分、男の意地というかバカさというか、そんな性分のせいなんだと思う」
この島に来て以来、護堂はさんざん己の無力さを痛感していた。
天才魔女にして騎士だというエリカ。
そんな彼女でさえ絶対にかなわないと認める、まつろわぬ神々。
不思議な力を持つ、自称記憶喪失の美少年。
このなかにあって、草薙護堂はどこまでも脇役でしかない。いてもいなくても関係のない存在。何の力もなく、事件の行く末に影響を及ばさない人間なのだ。
だがそれでも、親しくなった少年が消息不明なら、探し出したいと思う。
神の理不尽《り ふ じん》な仕打ちで苦しむ人たちがいるなら、力になってあげたいとも思う。
強くて無茶な女の子が孤軍奮闘《こ ぐんふんとう》しているのを見れば、負けていられるかとも思う。無茶しすぎないように、見張っていなくてはとも思う。
その気持ちと意地だけで、ここまで来てしまったのだ。
理屈ではない分、自分で自分を止めることも難しい。と言うより、できそうにない。
「あなたバカね。とんでもないバカ者だわ。……頭は悪くなさそうなのに、どうしてここまでバカなのかしら。呆れちゃうわ」
エリカの罵《ののし》りにも、今回は反論できない。護堂はうなずくしかなかった。
「それに、この先に剣の神様がいるなら――あいつがまた現れるかもしれないだろ? だから俺も行きたいんだ。あいつがあれからどうなったのか、自分の目でたしかめないと日本に帰れそうにないし」
「それも男の子の意地? バカみたい」
おっしゃる通りだ。認める護堂を前に、エリカは深々とため息をついた。
「ま、あの子にせよ剣の神にせよ、どちらかがいるなら、あなたといっしょの方がわたしも安全でしょうけど。あなた、あの子のお気に入りみたいだから……」
「お気に入り?」
「深く気にしないで。こっちの話よ。――いいわ。ここで追い返しても、どうせまた追いかけてくるつもりなんでしょう? このまま付いてきなさい! 邪魔《じゃま 》だけはしないでよね!」
「悪い。迷惑をかける」
「本当だわ! 断っておくけど、あなたの身に何が起きても責任持たないわよ!」
憤然《ふんぜん》とエリカがつぶやいている。
「まったく、もう! 男の意地とか何とか、ジェンナーロみたいなこと言って……わたし、その手の精神論って嫌いなの。二度と言わないでよね!」
「……誰だよ、それ? なんか俺と話の合いそうな人だな」
「わたしの仲間、〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の大騎士よ。……おぞましいことに、今最も『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』の称号に近い人間でもあるわ。わたしがこの島に来たのも、あの乱暴者に名誉ある称号を渡さないためなんだから!」
忌々《いまいま》しそうに語りながら、さらにエリカは険しい目でにらみつけてきた。
「あなたがこんなに手のかかる男の子だったなんて、予想外だったわ。将来、あなたの恋人や奥さんになる娘はすごく苦労するわね、絶対に。気の毒なこと」
「な、何でいきなりそんな話をするんだよ」
草薙家の男子は代々、女泣かせの奇人ばかりである。
自分はその典型ではないと自負していたので、護堂はたじろいだ。何でこんなセリフを、こんな怪しい魔女に言われてしまうのだ?
ともあれ、そろって神殿の奥へと進んでいく。
思ったよりも通路は長く、一〇分近くも歩いただろうか。途中、何度か分かれ道にぶつかったが、呪力の気配を感じ取るエリカの先導で、迷わずに済んだ。
そして、ふたりはついに出会った。
真なる神。真なる猛威《もうい 》。真なる力の具現――『まつろわぬ神』と。
「死すべき運命《さ だ め》の定命《じょうみょう》の者どもよ。はて、一体いつ以来であったか。貴様らのような輩《やから》と顔を合わせたのは……」
深い地の底より響くような、低い声であった。
そして、轟《とどろ》く雷鳴を思わせる重厚な声でもあった。
「かつては我が版図《はんと 》であったはずの小島が、いつのまにやら氏素性《うじすじょう》も知れぬ者どもに奪われ、蹂躙《じゅうりん》されておる。わしも長く地上を留守にしておったのだと、いやが上にも痛感させられるのう……。フフ、すまぬな。年寄りの愚《ぐ》痴《ち》につきあわせてしまったか」
地下神殿の深奥、地下より湧き出した泉のほとり。
石造りの通路が途切れ、そこだけ土がむき出しになっていた。
『水』を聖なる存在として崇《あが》めていた民《たみ》の、おそらく御神体《ご しんたい》がこの泉なのだ。
そのほとりに、彼はいた。
水辺の祭壇《さいだん》に腰掛けた、壮年の巨漢。
手入れとは無縁そうな蓬髪《ほうはつ》と、顔の下半分を覆うみごとなひげが印象的な、野性味のある容貌だった。身長はおそらく、二〇〇センチを軽く超えている。
これほどたくましく、均整の取れた肉体に、護堂は初めて対面した。
普通はこれだけ長身だと、どうしても背ばかり高く、細く見えてしまう。だが、彼にはそれがない。隆々《りゅうりゅう》と盛り上がる巌《いわお》のような筋肉に、見ているだけで圧倒されてしまう。
彼の肉体はどこまでも雄《お》々《お》しく、いかめしく、そして神々《こうごう》しい。
ごく粗末な衣装――薄汚いボロ布と革の胸当て、すり切れたマントしか身につけていないというのに、おそろしいほどの威厳《い げん》があった。
向き合うだけでひざまずき、頭《こうべ》を垂《た》れたくなってしまう。
「見苦しい姿をさらしているが許せ。見ればわかるであろう? わしは傷ついておるのだ。この傷が癒え、我が身にふたたび力が満つる時を待っておる」
彼の言う通りだった。
その分厚い胸板には、黄金の剣が深々と突き刺さっていた。
ただし、刀身は途中で折れていた。柄《つか》がない。おそらく、元々の三分の二ほどの長さだ。
「さて、わしの名を知っておるか? 名乗らねばならぬか? それとも貴様らには古き王の名をそらんじるほどの殊《しゅ》勝《しょう》さがあるのか? さあ、いずれだ?」
笑みを含んだ声で巨漢が訊《たず》ねてきた。
豪放《ごうほう》磊落《らいらく》なユーモアを感じさせる声。だが一度|機嫌《き げん》を損ねれば、すぐさま激情に駆られて暴れだしてもおかくしなさそうな――嵐の前の凪《なぎ》にも似た声で。
もちろん、知っている。素人《しろうと》の護堂にすら察しがつく。
聞かされていた特徴に、彼の姿形は全《すべ》て合致しているのだから。
「畏《おそ》れながら申し上げます。御身の御名はメルカルト――そうであらせられますね」
答えたのはエリカだった。
怯《おび》えている。この傍若《ぼうじゃく》無人《ぶ じん》、傲岸不遜《ごうがんふ そん》な美少女が怯《おび》えている!
微妙な声の震え。美貌に浮かび上がるわずかなおののきから、護堂は確信した。
だが無理もない。傍《そば》にいる自分も、実はさっきから震えている。恐ろしいのだ。目の前にいる巨漢――『まつろわぬ神』メルカルトが恐ろしいのだ!
これこそ王だ。
王のなかの王。神々の王。
天を治め、気まぐれに世界と人間を滅ぼしても許される、絶対の権力者。護堂は一五年の人生で、初めて『王』という言葉の意味を実感した。
「そうだ! わしこそがメルカルト。バアルの名も気に入っておる。バアル・ハダドも悪くない響きだ。だが、この島ではメルカルトと名乗るべきであろうな、ハハハハハ!」
王者の哄《こう》笑《しょう》が地下神殿を震わせた。
比《ひ》喩《ゆ》ではない。まるで地震のように床が震え、壁が震え、天井が震えている。
泉の水にはさざ波が起こり、護堂の肌にもびりびりと衝撃が走る。
「さて、王への礼節をわきまえた小さき者どもよ。貴様らに役目をくれてやろう。疾《と》く地上に帰り、古き王の復活をふれ回れ。メルカルトが己の版図を汚した下郎《げ ろう》どもに怒りを燃やしておると謡《うた》え。このちっぽけな島を我が腕《かいな》で砕き、海に投げ込んでくれる――そう言っておったと警告してやれ!」
「島を海に……沈める…………?」
あまりに突然の宣告に、護堂は呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
荒ぶる神王の宣言にウソはない。根拠もないのに、そう確信できてしまった。
「そうだ、死すべき運命《さ だ め》の子よ。貴様も己の玩具《おもちゃ》に泥がついておったら、同じようにするであろう? 左様、汚れは水で洗い落とすものだ。我が領土に居《い》着《つ》いた虫どもは、海で洗って綺麗にせねばならぬ。わかるであろう?」
わからない。そんな理屈がわかるはずもない。
だが護堂は、神罰を告げる神の声にひたすらうつむき、震えるだけだった。
隣を見ればエリカも同じだった。青ざめた表情で立ちつくし、神の暴論に口答えもしない。反抗的な目つきにさえならない。まさか、彼女のこんな顔を見る時が来ようとは。
護堂にはそれが悲しく、口惜《くちお 》しかった。
この誇り高い少女の、こんな絶望的な表情、できれば見たくはなかった!
護堂はギリッと歯ぎしりし、この反骨心をバネに顔を上げた。
「さて――わしは今、ちと厄介《やっかい》な敵といくさの最中でな。そなたらのような子供たちですら潜り込める穴蔵《あなぐら》にこもっておるのも、うまい話ではないのう」
軽く笑いながら、メルカルトが言った。
只人《ただびと》の護堂も魔女のエリカも「子供たち」と呼んで、十把一絡《じっぱ ひとから》げにしている。
おそらく、彼にとっては同じことなのだろう。中天に輝く太陽の光と比べれば、夜空に瞬《またた》く星が一等星であろうと六等星であろうと些細《さ さい》な問題なのだ。
「彼奴《きゃつ》とのいくさに備えて、わしはこれより眠りにつき、傷を完治させる。寝込みを襲われぬように細工《さいく 》を施《ほどこ》すので、早《はよ》う去れ。よいな」
メルカルトはごろりと石《いし》畳《だたみ》の上で横になった。
ひどく無造作な仕草だった。そこが野外でも洞窟《どうくつ》でも絹《きぬ》のしとねでも、常と変わらずに眠れる蛮人《ばんじん》の豪放《ごうほう》さ。そんな剛毅《ごうき 》さがかいま見える。
――かさ。かさかさ。かさ、かさ、かさ。
メルカルトが寝ころんだ直後、護堂とエリカは妙な物音を聞いた。
音に惹《ひ》かれて下方を見て――絶句した。
いつのまにか、足元の石畳にはイナゴの大群が発生していたのだ。小さな害虫の群れ。百、千、万、いや、それ以上かもしれない。数え切れないほどのイナゴが蠢《うごめ》いていた。
生理的な嫌悪《けんお 》、恐怖が護堂の胸にこみ上げてくる。
これは、メルカルトの暴君ぶりとは全く別の意味で恐ろしい。
イナゴたちがこちらに向けて、かさかさと跳びはねだした。一部は羽を開き、空まで飛んだ。
護堂とエリカは、互いの顔を同時に見た。
目と目が合う。何も語らずとも、思いはいっしょだった。即座にうなずき合うと、来たばかりの道を全力で駆け出した。
脇目もふらず、出口を目指して全力疾走。
後方から追ってくるイナゴの大群。彼らにおいつかれないよう一瞬たりとも足を止めず、そして、手と手を取り合うようにして逃げた。
3
どうにか地下神殿を脱出したふたりは、しばらくハアハアと息を切らせていた。
三角形の入り口を眺《なが》めれば、数十匹のイナゴたちがのどかそうに歩き回り、跳ね回り、あるいは身動きせずにじっとしていた。
「な、何なんだよ、あれ? き、気持ち悪くて仕方ないぞ……」
「イ、イナゴはメルカルトの下僕《げ ぼく》なの。彼は嵐の神であり海の神、太陽の神でもあり、豊《ほう》穣《じょう》と干魃《かんばつ》をもたらす生命の神でもある……。さ、作物を食い荒らし、大地を荒廃させるイナゴは、彼の脅威《きょうい》の象徴《しょうちょう》だとも言えるわ」
「あ、ああいうのは普通、あ、悪魔の使いじゃないのかよ!」
「ほ、ほとんどの悪魔は元をたどれば、バアルやメルカルトのような古き神々が原型なの。こ、後発《こうはつ》の宗教が、彼らをおとしめるために悪魔として語り継いでいった結果。……し、知ってる、悪魔ベルゼブブ? あれはバアルの別名バアル・ゼブブが原典よ……」
激しく息を切らせながら、護堂《ご どう》とエリカは声を掛け合う。
しばらくの間、ふたりとも立ち上がることもできないまま、時を過ごした。
サン・バステンの遺跡《い せき》。
そこを取り囲む真夜中の森。
夜空には、春のイタリアの星座が静かに輝いている。
そのなかで、逃走した天才魔女と挫折《ざ せつ》した元野球少年は互いの背中に寄りかかり、相手の顔を見ないようにしてへたり込んでいた。
次第に荒くなった息も収まってきた。だが、すっかり回復し、流れ出た汗が夜風の冷たさで全て引いたあとも、ふたりは立ち上がりはしなかった。
「……すごかったな、あれ。俺、神様にああまで逆らえないとは思ってなかったよ」
「……わたしも。あの神獣たちを見て、あんなものかとすっかり油断してたわ。本物の『まつろわぬ神』の最強クラスには、あそこまで気《け》圧《お》されるなんて想像していなかった」
まだ合わせたままの背中から、エリカのぬくもりが伝わってくる。
逆に向こうも、護堂の体温を感じ取っていることだろう。
――結局、ふたりとも甘かったのだ。真なる『まつろわぬ神』、最高位の神々がどれほど規格外の支配力を持つのか、理解できていなかったのだ!
男の意地も、天才魔女のプライドも木《こ》っ端微塵《ぱ み じん》に打ち砕く存在感、威圧感。
向き合っただけで抵抗しようなどという意思は吹き飛んだ。あとはそれこそ、へたり込んで泣き出さなかっただけでも殊勲《しゅくん》だと、護堂は思う。
「……で、これからどうすんだよ。まだ偵察するつもりなのか?」
「……冗談じゃないわ。あんなのとまた対面なんて、絶対にゴメンよ。メルカルトがもうすこし機嫌《き げん》が悪かったら、わたしたち今頃生きていなかったわよ」
ようやく息を整えた護堂は、エリカの方へと体を向ける。
だが彼女はイライラと答えたきり、不機嫌そうに黙り込んでしまった。
その後も結局、ふたりは一〇分ほど地べたに腰を下ろして、呆然《ぼうぜん》とするだけだった。
共に無言。何となく目を合わさない。
特にエリカは膝《ひざ》に顔を埋めてしまい、あからさまに護堂の存在を無視しようとしていた。
それぞれ実力や意地を恃《たの》みに、この先もどうにかなると楽観した結果だ。神を軽く見た不届き者へのしっぺ返し。だから一言も文句は言えない。
だが、とにかく衝撃的だった。
護堂はさっきの失態を思い出し、恥ずかしくなった。
ひそかに負けず嫌いな性格を自《じ》負《ふ》している自分が、こうもあっさり遁走《とんそう》してしまうとは。ドルガリの街では無力ながらも神獣のもとへ向かおうとしたのに、今回はそれも叶《かな》わなかった。
エリカたちの言う神獣と、本物の『まつろわぬ神』。
すさまじい格の差だった。負け惜しみさえ言えない負け方、完敗を喫《きっ》してしまった。
屈辱感《くつじょくかん》、無力感、自分への怒り。
そういった重い感情が強烈にのしかかってくる。
だが、それでも――護堂は目の前でうずくまる少女を眺めて、思い直した。
自分たちの受けた衝撃の質と量にはだいぶ差があるはずだ。
草薙護堂は結局のところ、何の力も持たない一般人だ。やっぱり意地だけでは神様にはかなわないな、程度の挫折でしかない。
だがエリカは、天才と言われるほどの魔女だ。
そんな彼女でさえ、敵が神様であれば一般人の護堂と大差なくパニックを起こし、脱兎《だっと 》のように逃げ出してしまった。彼女の受けた衝撃は自分の比ではないだろう。
うずくまり、顔を上げないエリカを注視する。
あの傲岸不遜《ごうがんふ そん》な少女が、誰よりも華麗な美貌《び ぼう》を伏せたままだ。
強烈でまぶしすぎるほどのオーラ――周囲の他者を圧倒し、同時に魅惑してやまない『華《はな》』のようなものが消えている。
かつて天才的な才能の持ち主と共闘し、あるいは対戦した経験のある護堂にはわかる。
今のエリカは、あのたぐいまれな『華』を生む源《みなもと》――己の才気と能力と実績に対する、確固たる自信を失っているのだ。ああなると天才もただの人だ。
だが、彼女のそんな姿はできれば見たくなかった。
……口が裂けても言うつもりはないが、反発してばかりの護堂でさえ、内心ではエリカ・ブランデッリという存在のみごとさに惹《ひ》きつけられているのだ。
護堂は深く息を吸い込んだ。
ダメージの軽い自分までが落ち込んでいては、このまま負けっ放しになってしまう。
今はまだ、七点ビハインドで迎えた八回の表だ。
走者一掃のホームランでも一発出れば、まだまだ戦える点差だろう。元捕手で四番が、こういう展開で黙っているわけにはいかない。
「……俺、半年くらい前まで野球をやっていたんだけどな」
できるだけ、明るく聞こえそうな声を出してみた。
「才能はあんまりある方じゃなかったけど、わりとがんばって練習していたおかげで、まあまあレベルの高いチームのレギュラーだったんだ。東《とう》京《きょう》の選抜とか、代表とかにも選ばれたこともあった。……肩を壊して挫折したけどな」
「……意外な過去と言うべきかしらね。普通の子にしては、体力あると思っていたけど」
まだうつむいたままなので、エリカの表情は見えない。
だが相づちが返ってきた。声に力がないのはともかく、いい兆候《ちょうこう》だろう。
「で、結構いろんなところと練習試合とかもしたけど、一度、強い高校の野球部とやることになったんだ。俺たちシニア――中学生のチームなのにな。要するに、向こうは調整が目的だったから、自分たちよりも弱い連中と試合したかったんだな」
「……スポーツの世界ではよくある話だと思うけど?」
「そりゃそうだけど、俺たちも中学の年代じゃ東京|屈指《くっし 》の強豪だったんだ。やっぱりプライドがあったから、全力で戦った。……九対二で負けたけどな」
「……実力通りの結果というわけね」
「いや、そうだけどな。それでも最終回には二点返して、一矢《いっし 》報《むく》いたんだぞ。最後に目にもの見せてやろうって全力を尽くしたんだ」
最終回に二塁打を打ち、二打点を稼いだ打者は草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》なのだが、それは言うまい。
「……で、結局あなたは何を言いたいわけ?」
「あ、うん。つまりな、どうせ負けるにしても二点くらいは返しておかないと、こんなふうに話のネタにもならないだろ? だからアレだ。もうすこし粘《ねば》ってみるのもな……」
「……護堂、あなた話が下《へ》手《た》すぎるわ。そろそろ黙りなさい!」
ようやくエリカが顔を上げた。
その端正な美貌にはふさわしからぬ深いしわが眉間《み けん》に寄っている。そんな怒りも露《あらわ》な表情で、勢いよく立ち上がった。
「……あなたまさか、最強の神王との遭遇《そうぐう》を、中学生ごときの課外活動と同列で語ろうとしたわけじゃないわよね。だとしたら、バカバカしすぎて言葉もないわ!」
「そ、そうか? でも、必要な心がまえはあまり変わらない気も――」
「変わるに決まっているでしょう!」
メルカルトと対峙《たいじ 》したときとは真逆《まぎゃく》の、怒れる美貌。
護堂はほっとした。打ちのめされているよりも、怒っている方が断然彼女らしい。こんな風にバカにされるのは勘弁《かんべん》してもらいたいところだが……。
「まったく! 何かいい話でもするのかと思って、黙って聞くんじゃなかったわ! とんだ期待はずれ。センスはないし、気も利《き》かないし、評価できる点が何もないわね」
いや。そこまで罵《ののし》るのは正直どうかと思うのだが。
「おまえな、たしかに俺は話が上手い方じゃないけど、そこまで言うことないだろ」
「うるさい。荷物持ちは荷物持ちらしく、黙ってわたしに付いてくればいいの!」
地面に置かれていた護堂のバッグを、エリカがいきなり拾い上げた。
それを乱暴に投げつけてくる。
護堂は自分のバッグを器用に抱き止めながら、すこしだけ笑った。
「まあ、いいか。おまえも立ち直ったみたいだし、わざわざあんな話をした甲《か》斐《い》がある」
「立ち直った、ですって? バカな人だと思っていたけど、金メダル級にバカだったのね。わたしがいつ落ち込んでいたというの?」
憤然《ふんぜん》と吐き捨てられたが、護堂は意に介さなかった。何を今さら、という気分だ。
「べつに隠すほどのことでもないだろ? 向こうは神様だったんだ、相手が悪かっただけだ。大体おまえ、ずっと顔伏せて暗いままだったじゃないか」
「その決めつけ、許し難い愚行《ぐ こう》ね……。あれは――ええ、あれは単に下を見ていたかっただけ。深い意味はないわ。失礼な想像をしないで」
何と無理のある言い訳か。
弁舌《べんぜつ》はあいかわらず巧みだったが、説明に無理がありすぎる。あのエリカをしても、さっきの行動に上手い言い訳はつけられないのだ。
護堂は肩をすくめて苦笑した。彼女がほんのすこしだけ可愛《か わ い》らしく思えたのだ。
さすがに自分でも無理があると気づいているようで、エリカはかすかに頬《ほお》を赤らめた。
「そういうわけだから、わたしの行動にあなたが与えた影響について、変な勘ちがいをするのはやめなさい。……でもまあ、いずれさっきの下《へ》手《た》な話をしてくれた分の借りを返してあげてもかまわないけど。あの程度の出来とはいえ、労働に対して対価を支払わないほどエリカ・ブランデッリは吝《りん》嗇《しょく》ではないの」
「わかったわかった。じゃあ、そのうちにな。期待してるよ」
鷹揚《おうよう》に答える護堂へ、さすがのエリカももう噛[#旧字体 底本での使用は、「口へん+齒」、読みは「か」、201-12]《か》みついてはこなかった。
ちょっと迷った挙げ句、かなり小さくうなずいた。まだすこし頬が紅《あか》く、彼女らしくもない不器用な仕草で、照れくさげに護堂から目を逸《そ》らす。
――だが次の瞬間、エリカは不意に森の奥の方を凝視《ぎょうし》した。
十数秒もそうしていたあとで、いきなり手のひらを差し出してきた。
「護堂、お水をちょうだい。早くしてね」
「いきなり何だよ? ほら」
バッグからミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、護堂が渡す。
エリカはその中身を地面にぶちまけ、かがみ込んだ。そして、即席の水たまりに人差し指を突っ込み、ぶつぶつと何事かつぶやきはじめる。
その水たまりのなかをのぞき込んで、護堂は驚いた。
映っていたのは白い毛並みの馬だった。
競馬などで見慣れたサラブレッドと比べると体つきがたくましく、前後の四つ脚も太い。競走馬よりもそう、もっと荒事向きの軍馬などのように思える。
「……なあ、これってやっぱりただの馬じゃないよな」
「ええ。今ちょうど、森の外に強い呪《じゅ》力《りょく》が集まる気配を感じているの。だから、遠見《とおみ 》の術を使ってみたんだけど――」
確信にまかせて訊《たず》ねた護堂に、エリカが静かに答える。
「剣の神様の分身、だよな」
「もちろん。……わたしはもう決めているけど、あなたはどうするの?」
行くか、逃げるか。
言葉にされなくとも、エリカの言わんとする意味を察することができた。
「意地だけじゃどうにもならないことがあるのはわかったけど、だからってすぐに主義主張を変えられるほど器用でもないんだよな」
ため息と共に護堂が言うと、エリカはバカにするように鼻で笑った。
「そう。なら、わたしの後ろについてらっしゃい。守ってあげるとは言わないわ。でも、わたしの活躍のおこぼれを拾うぐらいなら大目に見てあげる。悪くないでしょう?」
「まあな。……人のことさんざんバカバカ言ってたくせに、おまえも頭良くないな」
「不屈の闘志を持っていると表現しなさい。いい、主役は一度|挫折《ざ せつ》を味わうものなの。でも、そこから立ち上がって栄光を掴[#旧字体 底本での使用は、「手へん+國」、読みは「つか」、203-5]《つか》むのが定番でしょう?」
愚《ぐ》にもつかない話をしながら、護堂とエリカは歩き出した。
エリカが先導し、護堂がそれにつづく形で、ふたたび森の外を目指す。
懐中電灯と月明かりだけを頼りに夜の森を強行軍で進むのは、一般人の護堂にとってはかなりの苦行であった。だが一時間も歩くと木々がようやくまばらになってきた。
森の外へ近づいているのだ。
さらに言えば、巨大な何かが動き回り、みしみしと木々を薙《な》ぎ倒しながら押し進んでいるかのような物音も近づいてきた。
――『白馬』。
さっき遠見の魔術で見た神獣が、いよいよ近くで暴れているのだ。
護堂とエリカは顔を見合わせ、うなずき合った。ここからは一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないはずだ。その覚悟の確認である。
彼[#「彼」に傍点]が茂みの奥から現れたのは、その瞬間であった。
「久しいのう、小僧、それに魔女よ。こんなところをまだうろついておったか」
肩までかかる黒髪に、細《ほそ》面《おもて》の美貌。
その目は未来を見はるかすように切れ長で、どこか弥勒菩薩《み ろくぼ さつ》の像を彷彿《ほうふつ》とさせるアルカイックスマイルが印象的で――。
カリアリで、ドルガリで、護堂が二度も遭遇した少年だった。
「じゃが悪いことは言わぬ。只人《ただびと》の身でこれ以上、我ら[#「我ら」に傍点]の争いに首を突っ込むな。そこな魔女もな。魔性の術に少々の心得があっても我らには遠く及ばぬ。人と神の道は交わらぬのじゃ、永遠に」
ちがう。護堂は直感した。
今まで出会ったときの少年とは何かが決定的にちがう。
華奢《きゃしゃ》で、背もたいして高くない。なのに、おそろしく巨大な存在に思える。
弥勒菩薩にも似た精緻《せいち 》な顔立ち。なのに、ひどく不可解で非人間的な存在に思える。これは人間の顔ではない。人に似せて造った、ゆえにどんな人間よりも美しい一|箇《こ》の部品だ。
――そうだ、なぜ今まで気づかなかったんだ。
細身の体から放たれる力感。美貌に宿る神々《こうごう》しいオーラ。
姿形は似ても似つかないのに、彼はメルカルトとよく似た雰囲気《ふんい き 》をまといつかせている。
護堂は自分のバカさ加減を呪《のろ》った。こんな規格外の存在が、只人であるはずはない。
メルカルトに遭遇した直後の今なら、はっきりとわかる。
神だ。
もうひとりの『まつろわぬ神』が今、自分たちの目の前にいる。
4
「御身《おんみ 》の御《み》名《な》をうかがわせていただきたく存じます、不敗なる東方の神よ」
いきなりエリカが膝《ひざ》をつき、恭《うやうや》しく頭《こうべ》を垂《た》れた。
彼女を見下ろす少年――否《いな》、少年神は、明らかな苦笑を浮かべていた。
「その必要はあるまい。早くも我が素性《すじょう》を読み解いておったとは、聡《さと》い娘じゃ!」
そして彼は目を細め、愉《たの》しげに森の奥へと視線を投げた。
「メルカルト王め、このような場所に潜んでおったか……。結界まで築いて、ひどく警戒しておるのう。ふふふ、善《よ》き哉《かな》。彼奴《きゃつ》も手負い、我も手負い。しばらくはおたがいに身を休めるとしよう。先に回復した方が有利となるわけじゃ」
「やはり、御身がメルカルト神に手傷を――」
恭しくエリカが問う。
表情は固いが、メルカルトとの遭遇《そうぐう》時《じ》よりも遥《はる》かに落ち着いている。
真の神との遭遇も二度目、彼女は前回の経験を糧《かて》に、着実に成長しているのだ。
「然《しか》り。じゃが相打ちであった。我も深く傷つき、神力の大半を失ってしまったからの。ほれ、この島のあちこちで暴れておった獣《けもの》ども、あれらは我が神力の顕現《けんげん》よ。我が身より飛び散った神力が命を得て、神獣となったのじゃ。じゃが一匹を除いて全《すべ》て倒し、我が体内に今一度押し込んだ。ふふ、おぬしらと出会ったのは、途中で飽《あ》きて遊び呆《ほう》けておったときよな」
一方で、草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》は――。
困惑していた。容姿はあの少年と瓜《うり》二つ。だが、絶対に彼ではないと確信できた。
「……おまえ、誰だ? いや、神様だってのはもうわかってるよ。でもなんて言うんだ、その――あんたは絶対に、俺といっしょにつるんでたヤツじゃないよな?」
「ふむ、やはり勘《かん》のいい小僧じゃの。いかにも、我はかつての我ならず」
超然と、高みより見下ろす神の微笑。ますます確信が深まる。
たしかにやたらと尊大《そんだい》ではあったが、あいつはこんなふうに護堂を見たりはしなかった。
「さてさて。この島での遊びも終わりが近いと見える。メルカルト王を甦《よみがえ》らせた甲《か》斐《い》があったようじゃ。かの王とふたたび相まみえ、今度こそ勝敗をつけてくれよう」
「――甦らせた?」
聞き捨てならないセリフに、護堂は眉《まゆ》をひそめた。
「そうじゃ。我は闘争と勝利をこそ本質とする『まつろわぬ神』。敵が欲しい、戦う相手が欲しいと我が念じておれば、ふさわしき敵が勝手に現れおるのじゃ。此度《こ たび》、この島に来たのは最高の難敵にゆかりの土地と思えばこそ」
我、敗北を求めたり。
うすく微笑しながら、少年神がつぶやいた。
「そうじゃ。わしはとびきり強大な敵が眠るこの島を訪れ、絶えず念じておった。――我に敗北を与えよ。我に大敵を与えよ。我に真の闘争を与えよと! その甲斐あってか、此度のメルカルト王は歯ごたえがあって堪《たま》らぬ。いや、まことに良きいくさじゃ」
この少年が全ての元《げん》凶《きょう》。
そうと知った護堂は息を呑《の》んだ。エリカが言いづらそうにしていたのはこれか。
「畏《おそ》れながら申し上げます。御身は光の陣営に属し、正義と民衆の守護者であらせられます。かような暴挙をされて、良いはずがございません。どうか本道にお戻りくださいませ」
エリカが訴え出た。まるで王か高官への直訴《じきそ 》だ。
だが、少年は例の霞《かす》むような微笑と共に、首を横に振った。
「残念ながら、そうもいかぬのじゃ。忘れたか、今の我はまつろわぬ身。光《こう》明《みょう》と正義の守護者――左様、かつてはそうであった。じゃが今は、まつろわぬ闘争の神。ふふふ、小僧、おぬしと遊んでいるうちは良かったのじゃがな」
少年が切れ長の瞳をさらに細め、護堂をまっすぐに見《み》据《す》えた。
「すこし前までの我は、神としての性質をあらかた失っておった。ゆえに『まつろわぬ神』としての気質も薄れておった。本来の我に近い存在であったとも言えるのう。じゃが、神力の大半を取り戻した今はちがう。我はかつての我にあらず。まつろわぬ闘神たる我なのじゃ!」
たしかに以前とはちがう。
前よりも偉大で、前よりも強壮で、前よりも神々《こうごう》しくて非人間的――道を踏み外しているようにも見える。しかも、そのことに自覚的だ。
これが『まつろわぬ神』。人の紡《つむ》いだ神話にそむく神。
この意味を護堂は、ようやく理解した。
「ふふ、ちと長話が過ぎたのう。『白馬』のやつめ、痺《しび》れを切らして来てしもうたわ」
木々がかき分けられ――否《いな》、踏みつぶされる。
緑なす森を叩《たた》き壊しながら、巨大な獣が接近してくる。
まるでブルドーザーにも似た突進力で迫る闖入者《ちんにゅうしゃ》は、もちろん『白馬』だった。
その毛並みは月の光を浴びて、白い輝きを放っている。おかげで夜目の利《き》かない護堂でもはっきりと見て取れた。
「はは、よい子じゃ! その力を我に捧《ささ》げるため来おったか!」
少年の姿がほどけた[#「ほどけた」に傍点]。
精緻《せいち 》な神像を思わせる美しい肉体が消え、代わりに風が吹き出す。
――竜巻《たつまき》だ! 護堂はすぐに悟った。すでに二度も目撃した、神獣たちを空へ巻き上げる聖なる風。これも少年の神力のひとつなのだ。
放っておけば、この風はすぐに渦を巻き、竜巻となる。
早く止めなければ。あの少年を――短い間とはいえ、友だと思っていた神様を止めなければ。でも、どうやって。草薙護堂は無力な一五歳の一般人に過ぎない。どうする!?
エリカが叫んだのは、そのときだった。
「護堂! 草薙護堂!『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』にすごい呪力が集まっているわ!」
初めて彼女にフルネームで呼ばれた。
だが、それに気づくよりも先にバッグに手を伸ばし、例の石板《せきばん》を取り出していた。
考えてみれば、悩むようなことではなかったのだ。草薙護堂の力、技、知識のどれにも神を出し抜く手立てはない。
あるとすれば、あの少年自身が「神の力を盗む」と明言した石板くらいだ。
だが天才魔女であるエリカにさえ扱えないものが、果たして自分の手に負えるのか。
目算などなく、ただヤケっばちで掴《つか》んだ石板はひどく熱かった。まるで火のなかに突っ込んでいたかのような熱さだ。
その熱を我慢《が まん》して掴んでいると、不意に閃《ひらめ》いた。
石板に描かれた男の絵――おそらくプロメテウスの似姿を、竜巻と『白馬』に向ける。ほとんど無意識での行動だった。
その刹那《せつな 》、神代《かみよ 》の魔導書から青い焔《ほのお》が吐き出された。
「――え、使え……た……のか?」
自分でも半信半疑で、焔の行く先を見つめる護堂。
少年が化身した竜巻は、あざやかに焔を避けた。
だが焔は『白馬』のたくましい巨体を丸ごと包み込み、呑《の》み込むことには成功した。そのまま十数秒ほど燃えさかり、すぐに消えていく。
そして焔と共に、そびえ立つ『白馬』の肉体まで消え去っていく!
結局、青い焔と『白馬』は三〇秒ほどで地上から完全に消失してしまった。
その直後、『プロメテウス秘笈』の重さが増した。さっきから我慢していた熱さが穏やかになり、じんわりとしたぬくもりへと変わる。
――太陽。
不意に、輝く太陽と白い焔のイメージが脳裏《のうり 》に浮かんだ。
これはもしかして『白馬』の持っていた神力なのか。なぜ馬が太陽に結びつくのだろう?
「……ふむ、その石の使い方を悟ったか。ちと厄介《やっかい》よな」
風が渦を巻き、その中心に少年神の姿が現れた。
「まあ、化身のひとつがない程度であれば、たいした影響はないとも言えるが――。すでに我はほとんどの神力を取り戻しておるのでな。……小僧よ、本来であれば神に抗《あらが》った罰をくれてやるところじゃぞ。だが、ひとときの友誼《ゆうぎ 》に免じて許してくれよう」
少年が笑っている。
あのアルカイックスマイルではなく、新たな障碍《しょうがい》登場を喜ぶ剛毅《ごうき 》な笑みだ。
「断っておくが、二度目はない。その石を使い、我の邪魔をするというのであれば、次こそは相応の報《むく》いを与えてくれようぞ。さがっておるがよい!」
彼はここまで言うと、もう護堂にもエリカにも注意を払ったりはしなかった。
森の奥をまっすぐに見据え、力強い足取りで分け入っていく。
だが、その瞬間に――。
木々の枝と幹がぐにゃりと歪《ゆが》んだ。森の木々が次々と歪み、たわんでいき、少年神の行く手を遮《さえぎ》っていく。
もとより道などない森の奥深くだが、これでは無理矢理に押し入っていくことも難しい。
少年神の手のひらから稲妻《いなずま》がほとばしる。
普通であれば、彼の行く手をふさぐ木々はこの一撃で灼《や》かれ、打ち倒されるはずだ。
だが無傷。森への進入を阻《はば》む木の結界は、焼け焦げひとつ受けることなく健在であった。
「メルカルト王の結界か。これはまた、かなり警戒されておるのう。下準備もなしに押し通ることはさすがに無理か」
少年神は苦笑し、森の奥へ向けて言い放った。
「よかろう、古き王よ。夜明けまで待つがよい! 我はそれまでにおぬしの砦《とりで》を斬《き》り裂《さ》くに足る力を蓄え、また戻ってこようぞ!」
力強く宣戦するや否や、彼は実体をふたたび解きほぐした。
強風が空を駆け抜ける。
最後に護堂は「ハハハハハ!」と哄《こう》笑《しょう》する少年の声を聞いたような気がした。
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第6章 その名はウルスラグナ
1
サン・バステン遺跡《い せき》のある森からやや離れた辺り。
近くには公道も走っているが、基本的に見渡す限り無人の広野である。
もう真夜中の零時過ぎ。メルカルト、そして少年神と遭遇《そうぐう》したあと、護堂《ご どう》とエリカは街には戻らなかった。
「プロメテウスはギリシア神話に登場する神……ティタン神族の末裔《まつえい》よ。その名の意味は『先に考える者』、つまり先見の明がある賢人《けんじん》だったわけね」
エリカの語る神話に、護堂は耳を傾ける。
今ふたりは、暖を取るために作ったたき火を囲んでいた。周囲がしんと静まりかえっているせいか、ぱちぱちと火の爆《は》ぜる音がやけにうるさく聞こえる。
「プロメテウスってたしか、人間に〈火〉を分け与えた神様だろ?」
「ええ。神々の王ゼウスには、人間に余計な智《ち》慧《え》を与えるつもりはなかったの。でも、彼らの愚《おろ》かさを憐《あわ》れんだプロメテウスは、天界から〈火〉を盗みだした」
この神はそれを人間族に与え、火を得た人類は飛躍的に文明を発達させた。
だが、その報《むく》いとしてゼウスに捕らえられた彼は――。
「罰としてプロメテウスはコーカサスの山頂に磔《はりつけ》にされ、禿鷹《はげたか》に生きながら肝臓《かんぞう》をついばまれる刑に処せられるの。不死の神であった彼の肉体は、日が落ちれば完治してしまう。だから、また禿鷹に肝臓をついばまれる。つまり、永劫《えいごう》につづく責め苦だったのよ」
「……趣味の悪い拷問《ごうもん》だな」
「結局、ヘラクレスによってこの苦しみから解放されたプロメテウスは、以後ゼウスの腹心になるから、よほど懲《こ》りたのでしょうね」
護堂も何となく聞き覚えのある神話だった。
「ちなみに言うと、ヘラクレスはメルカルトとも関《かか》わりの深い神格よ」
「何でさ? ヘラクレスってギリシアの神様……ていうか英雄だろ?」
「前にルクレチアがヒントを言ってたじゃない。ギリシアに近いこの島では、メルカルトは棍棒《こんぼう》を持った大男の姿で表現されるって」
一二|功《こう》業《ぎょう》を完遂《かんすい》したギリシアの大英雄と、フェニキアの神王の密接な関係。
見当も付けられない護堂に、エリカが流暢《りゅうちょう》に説明してくれた。
「メルカルトの神話を知ったギリシア人が、自分たちの英雄とテュロスの守護神を習合《しゅうごう》させたのよ。いえ、メルカルトやバアルの神話をもとにヘラクレスという英雄が生まれたのかもしれないわ。ちなみにバアル神の武器はヤグルシ・アイムール――これは魔法の棍棒の名前よ」
獅《し》子《し》の毛皮をかぶり、棍棒を持つ野《や》卑《ひ》な大男の英雄ヘラクレス。
魔法の棍棒を持ち、闘志|旺盛《おうせい》で残忍な英雄神メルカルト。
古代|地中海《ちちゅうかい》の民《たみ》はジブラルタル海峡の突端を「ヘラクレスの柱」と名付け、フェニキア人以外の何者もその先の海へは行けないと知っていた……。
「何だかすごいな、神話って。そんなふうにいろいろとつながりがあるのかよ」
感じ入った護堂が言うと、エリカは重々しくうなずいた。
「ええ。何と言っても人類が最初に生み出した架空《か くう》の物語――フィクションですもの。全くのオリジナルで生み出し、あるいは剽窃《ひょうせつ》し剽窃され、影響を受け影響を与えて育《はぐく》んでいった。その絡《から》み合いの集大成が神話なの」
「なるほどなあ……。じゃあプロメテウスの話に戻るけどさ、この石板の御利益《ご り やく》はなんで神様の力を盗むことなんだ?」
「彼は、神を欺《あざむ》く神――トリックスターでもあったのよ。こんな神話もあるわ」
『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』を取り出した護堂に、エリカが静かに答えた。
生《い》け贄《にえ》の牛を神々と人間の間で分かち合うとなったとき、プロメテウスはふたつの皿を用意した。肉と臓物を胃袋に詰めて隠した皿と、骨を脂身《あぶらみ》で包んで見た目だけ美《お》味《い》しそうにした皿。どちらを取るか、彼はまずゼウスに選ばせた――。
結果、ゼウスは骨の皿を取り、騙《だま》されたと知って激怒したという。
「で、護堂。さっき『白馬』を消したのは、明らかにプロメテウスの神力よ。つまり、あなたはあのとき秘笈を発動させていたの。心当たりはあるでしょう?」
「それなんだけど、ただのまぐれだと思うんだよな」
少年神よりも先に『白馬』の神力を奪った――否、盗んだのは『プロメテウス秘笈』。
エリカの主張に誰よりも半信半疑なのは、当の本人であった。
「いいわ、じゃあ確認してみましょう」
エリカが上着のポケットから携帯電話を取り出した。
「――ルクレチア? エリカ・ブランデッリよ。あの魔導書のことをきちんと教えてほしいのだけど、いいかしら? とぼけても無駄よ、すでに護堂があれの力を発動させているの。ええ。もちろん本当よ。本人に確認してみなさい」
どこかに電話をかけたと思ったら、いきなり話しだした。
いつのまにルクレチアの電話番号を聞いていたのだと、護堂は驚いた。それとも怪しい秘密結社の調査能力を駆使して、勝手に個人情報を調べ上げたのか。
後者の可能性が高そうだと失礼な想像をする護堂に、エリカが電話機を差し出してくる。
仕方ない。覚悟を決めて受け取った。
『驚いたな。まさかレベル1の分際で、あれの使い方に気づいてしまうとは』
「気づいちゃいません。何か、いつのまにか使えていたみたいなんです。ところでルクレチアさん、魔女のくせに現代文明に毒されすぎじゃありませんか?」
『便利で安易《あんい 》な方に流れるのが人間の性《さが》だからな。私のせいではない。我が家にはパソコンもネット環境もあるから、たいていの買い物はオンラインで済ませている。エアコンや冷蔵庫も愛用しているし、デジカメは日本製だ。今さら何を言う?』
話す内容は俗《ぞく》であったが、ルクレチア・ゾラの声はあいかわらず超然としていた。
「あれが神様の力を盗む石なのはもう知ってます。ただ、それを俺なんかが使えた理屈の方はさっぱりわかりません。その辺りを詳しく教えてもらえませんか?」
『なに、大した理屈じゃない。あれは要するに、詐《さ》欺《ぎ》と盗みをはたらく魔導書だからな。力を盗みたい神と長く接し、よく話し込んだ人間でないと扱えないのさ』
「詐欺、ですか」
『ああ。日本であれを使ったとき、私は物騒なたたり神と一晩中向き合い、あいつの恨《うら》み辛《つら》みを聞き流さなければならなかった。ひどく苦労したものだ。そのうえで隙《すき》をついて、ヤツの神力を盗んで抜《ぬ》け殻《がら》にしたんだ。だが、それも向こうが弱い神格だからできたことだ。秘笈を奉納したのも、あの神が復活したときに備えての用心だったしな』
「そうでしたか……」
あの少年神やメルカルト相手に盗みが成功する確率は、いくらもないように思える。
護堂はルクレチアの言葉に深くうなずいてしまった。
『ああ、あとな。溜め込んである神の力は使わない方がいいぞ。人間には過ぎた力だからな。使ったら最後、脳髄《のうずい》と全身の血液が沸騰《ふっとう》するくらい苦しんで死ぬ。私の前の持ち主は、実際にそれで亡くなっているからウソではない』
「……絶対に使いません。貴重な情報、感謝します」
『ああ、あとだな。言っておくが、秘笈の力程度ではメルカルトたちには到底かなわないからな。早まった真《ま》似《ね》はするんじゃないぞ』
こんな忠告までされてしまった。
だが、護堂はこちらには礼を言えなかった。もう決めていることがある。だから中途半端な礼は言えない。彼女の気遣《き づか》いを裏切る結果になるはずだから。
……ルクレチアは思ったよりも勘《かん》がよかった。
『少年、君もしくは君たちは何を考えている? もう一度繰り返すが、早まるなよ』
「お言葉ですが、それは無理そうです。このまま事態を静観していたら、とんでもない大惨事に発展しそうですから。さすがにそれを見過ごすのは良心が咎《とが》めます」
『咎めなくてもいい。身を滅ぼす危険には近づかない。それは生きるための智《ち》慧《え》だ』
「わかります。この二、三日で神様たちと出会って、すごく痛感しました。メルカルトって神様と会ったときなんかは腰が抜けました」
『……それでも尚《なお》、何か事を為《な》そうというのか。愚《おろ》かだな!』
「まあバカなことをしている自覚はあります、俺もエリカも。反論できません」
『君のバカさの方が、エリカ嬢よりも勝っているのはまちがいないがな! 何しろ彼女は魔術師、君は力なき一般人だ。比較になるまい』
断言されてしまった。
だが護堂は肩をすくめて受け容《い》れた。まったくその通り。
『だがまあ、バカは嫌いではない。頭のいいヤツには計算通りのことしかできないが、バカはときどき限界を超えるからな。あとは不快なバカと愉快なバカがいる。頼むから前者にはなってくれるなよ』
「はあ……」
よくわからない言い方だが、誉《ほ》められているのだろうか?
『草薙護堂、今回の件で君のことはそこそこ気に入った。愉《たの》しいオモチャになりそうな気がするから、こんなところで死ぬなよ。エリカ嬢もだ。退《ひ》き時は見誤るな、いいな』
このようにして、ルクレチアとの電話は切れた。
何だかんだで年長者らしいところもあるようだ。ただの性格|破綻者《は たんしゃ》ではないらしい。護堂は彼女に感謝しながらも、電話の内容を手短に報告した。
「……だそうだ。あんまり切り札にはならなそうだけど」
「でも、神に干《かん》渉《しょう》できる唯一《ゆいいつ》の道具であることに変わりはないわ。――大体ね、このまま手負いの神様たちが戦いはじめたら、この島はどうなると思う?」
島を沈めると宣言していたメルカルト。
力の一部だけでも、各地の都市をやすやすと粉砕する少年神。
彼らのガチンコ勝負が三〇分やそこらで終わるとは思えない。島の各地をリングにして死闘を繰り広げ、全てが終わったときには不毛の大地だけが残される……。
この手の予想が次々と湧《わ》き上がってくる。護堂は頭を抱えたくなった。
「とはいえ、わたしや『プロメテウス秘笈」、島の魔術師たちが総力を集めても大したことができるとは思えないし……。だから、ここは時間稼ぎをするしかないわ」
「時間稼ぎ? そういうのって普通、援軍の当てがあるときにするものだろ?」
自信ありげなエリカの提案を、護堂はいぶかしんだ。
「それは大丈夫よ。実はすでに、サルデーニャの魔術師たちがサルバトーレ卿《きょう》に連絡済みらしいの。卿がいらっしゃるまで、あと一日か二日。それまで持ち堪《こた》えればいいのよ」
「サルバトーレ卿……?」
護堂は思い出した。そういえばルクレチアも、前に同じ名前を口にしていた。
「ええ、サルバトーレ・ドニ様。我がイタリアの擁《よう》する最強の騎士。魔剣の権能を所有されるカンピオーネよ。前に言ったでしょう? わたしたち人間でも奇跡に奇跡を重ねることができれば、神に勝利できてしまうときがあるって――」
カンピオーネとは、神を殺《あや》めた人間へ贈られる称号。
神を殺め、神の権能を簒奪《さんだつ》した彼らは、人界の魔王として君臨し、神々と戦うのだという。
この話を聞いて、護堂は心底驚いた。
あの少年もメルカルトも、ただの人間など小指一本で殺せるはずだ。彼らと遭遇して逃げ延びるだけでも幸運なのに、戦って勝つ。そんなバカな。
「神様って、あんなの[#「あんなの」に傍点]だぞ。あんなのに勝った人間がいるのかよ!?」
「もちろん、滅多に誕生しないわ。実際、百年以上も不在だった時期はザラにあるし。ただ一九世紀と二〇世紀の後半に幾人か集中して誕生したから、今は六人もいらっしゃるの。そういう当たりの時期があるようなのよ、世紀末とかにときどき」
「いや、ワインじゃないんだから、当たりはないって……」
話に出たサルバトーレ卿とやらは、ほんの数年前に誕生した六人目だと教えられた。
あまりに常識はずれな話に、護堂はむしろ呆れた。
「ともかくそういう手筈《て はず》だから、まずは時間稼ぎを心がけましょう。さすがのわたしも、七人目のカンピオーネを目指すほどバカじゃないし」
エリカの言葉に、護堂は即座にうなずいた。
たしかにバカだ。神にケンカを売るなど、ただの愚行でしかない。そんな勝負に勝ってしまった魔王カンピオーネとは、本当にどんな化け物たちなのだろう?
「だけど、時間を稼ぐだけでも相当に難しいぞ。どうするつもりなんだよ?」
「狙い目は、剣の神様の方ね。今、あの神様の力は九割程度。八か七割ぐらいにまで落とせれば、さすがにメルカルトとの戦いにも慎重になると思うのよね」
「九割とか八割とかって、どうしてわかるんだよ?」
「だって、彼の化身は全部で一〇。そのうちの『白馬』は秘笈のなかにあるから九割。かんたんな計算じゃない?」
「……なあ。あいつの名前、教えてくれるか」
唐突に護堂は切り出した。さっきから気になって仕方がなかったのだ。
エリカは、おもむろにひとつの名前をささやいた。
初めて聞く、不思議な響きの名。一体、どこの国の名前なのだろう?
「おそらく、これがあの神の名前。この島で起きた怪異、護堂から聞いた情報、その全てから推測した結果よ。多分、まちがえてはいないわ」
「……そんな名前の神様、聞いたことない」
「ま、普通はそうよね。でも、細々とだけど現存する宗教の守護神で、西アジアの民間信仰にも足跡を色濃く遺《のこ》している強大な神様よ。――さて、と」
エリカの手のなかに突然、剣が現れた。
何をするつもりだと護堂が思った瞬間に、その切っ先を突きつけられた。
「ここまで来たら、もうあなたに荷物持ちをしてもらう必要もないわ。秘笈をここに置いて、おとなしく日本に帰りなさい。もう足手まといはいらないの。イヤだというなら、この剣で始末するだけ。わかった?」
いきなりの脅迫《きょうはく》。だがこれは彼女の配慮、騎士の誓いとやらを破ってまで護堂を守ろうとするやさしさの表れだ。だからこそ従えない。
「あいつと長く接した人間でないと石板は使えないって、ルクレチアさんが言ってたじゃないか。エリカじゃ多分無理だ。俺もいた方がいい」
「そんなの、何とでもなるわ。あなたが心配することじゃない」
「ならないだろ、どう考えても。あいつが次に戻ってきたときは、メルカルトって神様と決着をつけるつもりなんだぞ。話し込む時間なんかあるものか」
「なければ作るだけよ。あなたみたいな素人《しろうと》の助けなんか必要ないの」
何を言われても、決してうなずかない。
あの『猪《いのしし》』と遭遇した夜の翌朝に言われたのであれば、刃物怖さに護堂はしぶしぶ『プロメテウス秘笈』を渡していたかもしれない。
だが、今はダメだ。そんな真似はできない。
エリカはわがままで理不尽《り ふ じん》な娘だが、騎士道精神とやらの持ち主だ。人づきあいが上《う》手《ま》くて、意外と気配りもできるヤツだ。時には心の折れることもある女の子なのだ。
そこまで知っている自分が、ひとりで帰るわけにはいかない。
何よりもうひとり、道を踏み外したヤツがいて、とんでもない騒動を起こそうとしている。あいつを放り出していくわけにもいかない。
しばらく無言でにらみ合う。ついにエリカは肩をすくめて嘆息《たんそく》した。
「いいわ。どこまでもわたしに付いてくる覚悟があるのなら、付いてくればいいわ。その代わり、思う存分こき使ってあげるから、覚悟しなさいよ!」
無論、望むところであった。
2
東方の空より曙光《しょこう》が差してきた。
その光を受けながら、『強風』の化身《け しん》から『少年』へと姿を変える。
黒髪の少年神は、軽やかに地上へ降り立った。光の神格と縁の深い彼にとっては、この上なく慕《した》わしい夜明けの時だ。
彼の目の前には、いにしえの遺跡《い せき》を包み込む緑の森が広がっている。
緑深い森の木々が陽光を浴びて薔《ば》薇《ら》色に輝く。
――善の陣営に属し、光《こう》明《みょう》の神を主とする彼の神力は、暁《あかつき》の光を浴びることで最大限に高まる。今の状態なら、この森に敷かれた結界を破ることも可能なはずだ。
実はメルカルトも太陽を司《つかさど》る神格なのだが、彼の場合は職掌《しょくしょう》が広すぎる。
だから逆に、太陽の出現によって高まる力は自分ほどではないのだ。その差を利用する腹づもりであった。
――いっそ、あの神王が完全に回復するまで待つのも良いかもしれない。
そう考えてから、彼は思い直した。これはさすがに不敬《ふ けい》だろう。
あらゆる勝利を手にしてきた彼だが、いにしえの偉大なる神王相手の勝利ともなれば、彼にとっても特別なものになる。ここは敬意を持って、隙《すき》をつかせてもらうとしよう。
ニヤリと笑い、少年の姿のまま森のなかへと分け入っていく。
一〇の化身に変じる力を持つ彼だが、今の姿形がいちばんしっくりとくる。
ただの人間ではなく、一五歳の少年の姿だ。
麻《あさ》のごとく乱れた世に秩序《ちつじょ》をもたらすとき。主命を受けて、まつろわぬ敵神の討伐《とうばつ》に赴《おもむ》くとき。彼は好んで、少年の外見を選んだ。
輝く一五歳の少年。
彼が守護してきた教義では、これは〈英雄〉を示す象徴《しょうちょう》なのだ。
昨夜のように、木々の幹と枝が生きた蛇《へび》のごとくうごめき、歪《ゆが》み、行く手を阻《はば》んでいく。
だが、それに対して「退け」と命じる。
加《か》護《ご》と支配の言霊《ことだま》は、〈英雄〉たる『少年』の化身だけが所有する権能だ。森の木々はすぐさま普通の植物に戻り、彼のために道を開いた。
次はイナゴの群れが襲ってきた。
神王本人が直々《じきじき》に現れても互角に渡り合える彼だ。ただの神獣、神使《しんし 》でしかないイナゴどもなど、敵となるはずもない。第八の化身『山《や》羊《ぎ》』の霊力を発現させる。
この俊敏《しゅんびん》な聖獣は、騎馬の民《たみ》が稲妻《いなずま》の具現として崇《あが》めたものだ。
かざした手から雷撃を放ち、イナゴの群れを焼き払う。
「メルカルト王よ、この程度の障碍《しょうがい》で我を阻めると思わないでいただきたいのう!」
天に向かって叫ぶ。
すると即座に返答が響いてきた。
『無論だ! 神殺しの神、偉大なる戦士の神よ。そやつらはただの見張り、その程度で貴様の足止めをできるはずもない』
次に立ちはだかったのは、前方より吹いてくる暴風であった。
メルカルト王は嵐の神でもある。人間たちの住む都ですら吹き飛ばすであろう威力の風を、またも『強風』となってやりすごした。風で風は蹴《け》散《ち》らせない。
……その後も、さまざまな神力によって行く手をふさがれた。
冥府《めいふ 》より呼び出された死人の軍団、洪水にも似た全《すべ》てを洗い流す波濤《は とう》、天の矛《ほこ》である幾千の雷霆《らいてい》、等々。
それら全てを打ち破り、少年神はついにサン・バステンの遺跡へと到達した。
『……ちっ。あいもかわらず、器用に姿を変えるやつよ。鬱陶《うっとう》しい!』
「この変化の力を以《もっ》て、あらゆる戦場で勝利を手にしてきた我なれば。ハハハ、王よ。この先におぬしの気配を感じておるのじゃが、まだ直接出てこぬのかのう? どうやら、おぬしの神力はいまだ全快しておらぬと見える!」
メルカルトの声と対話しながら、遺跡を見回す。
本来であれば地下神殿への入り口があるはずの箇所に、巨大な巌《いわお》が鎮座《ちんざ 》していた。
『おぬしの力を持ってしても、この岩はやすやすとは破れまい。かつて匠《たくみ》なるコシャル・ハシスに命じて最高の宮殿を造らせたわしが、直々《じきじき》に貴様を阻む防壁を築いてやったのだ。感謝するがいい!」
「ふうむ……なるほどのう。無骨《ぶ こつ》じゃが、よい出来じゃ!」
いかにも強固そうな一枚岩を眺めて、少年神は誉《ほ》めそやした。さすがは古き神王にして闘神。防備に抜かりはないようだ。
だが、己もあらゆる神と魔を打ち倒してきた軍神。
戦闘者としての洗練度で言えば、メルカルトすら凌《しの》ぐ神格なのだ。その誉《ほま》れにかけても、この巌を破らねばならぬ――そう決意した直後、ウルスラグナは気づいた。
ほんのわずかな気配。
強大な神である彼からすれば、ごくちっぽけな呪《じゅ》力《りょく》の主。
「おぬしも来ておったか。次に邪魔《じゃま 》するのであれば、相応の罰を下すと言ったこと、覚えておるのかのう?」
少年神は背後を振り向き、そして彼女に微笑《ほ ほ え》みかけた。
金髪の美しい魔女。魔剣クオレ・ディ・レオーネを持ち、|紅き戦衣《バンディエラ》をまとった少女がそこに立っていた。
「お言葉、しかと覚えております。ですがわたしは騎士。御身を放置しては世のためにならず――そうと知っていて無《む》為《い》を決め込めるほど、厚顔《こうがん》ではございませんわ」
エリカは静かに抗弁《こうべん》した。
少年神自身が口にしていた夜明けの刻限。
森へ突入した彼を追って、護堂と共にふたりでこの遺跡へやってきた。打ち合わせ通り、すでに護堂は隠れて『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』の準備をしている。
あとはエリカが、少年神の集中力を奪うだけだ。
まともに秘笈を使おうとしても、おそらくかわされる。神力を奪う青い焔《ほのお》――『白馬』は直撃を受けたが、少年神は軽やかに避けていた。あれの繰り返しになるだけだ。
だから、エリカがつけ込む隙《すき》を作り出さなければならない。
「御身の方こそ初めてお会いしたときのお約束、覚えておいででしょうか?」
椿《つばき》のようにあでやかな笑みと共に、エリカは訴えた。
サロンで会話を楽しむ貴婦人にも似た、優雅な笑顔と言葉遣い。
だが、これを保つだけでも実はかなりの苦労だった。相手は神、気を抜けばすぐにメルカルトと対峙《たいじ 》したときの二の舞だ。あんな屈《くつ》辱《じょく》は二度と御免《ご めん》だった。
神に抗《あらが》い、逆らえ。決して気《け》圧《お》されたりするな。エリカ・ブランデッリたろう者が、戦わずして敵の膝下《ひざした》に屈するなどあってはならない! 己に必死で言い聞かせる。
「ほう、約束とな? はて?」
「いずれ剣を以《もっ》て、わたしのお相手をしてくださると御身はおっしゃられました。ですから、賭《かけ》をさせていただきたく存じます。――わたしが剣での勝負に勝ちを得ました暁《あかつき》には、御身にこの島より立ち去っていただきたいのです」
恭《うやうや》しく頭《こうべ》を垂《た》れて、エリカは申し出る。少年神の反応はどうだ?
乗るか、蹴るか。後者なら次の手に移らなければいけない。一体どちらだ。
「ハハッ! なんと、おぬしは軍神たる我に剣で挑むか。うむ、善《よ》き哉《かな》! その意気、汲《く》んで進ぜよう。昨今珍しい勇士の気概《き がい》を持つ魔女じゃ!」
やはり期待通りに乗った。護堂から聞いていた通りだ。
エリカはひそかにほくそ笑んだ。我、敗北を求めたり。どのような敵にも、勝負でも負けたことはなし。数々の豪語から、彼の自信|過剰《かじょう》ぶりはわかっていたが、上《う》手《ま》くいった!
「さて、では得物《え もの》を準備せねばの。……おお、これでよい」
少年神は地面を見回し、一本の枝切れを拾い上げた。
エリカの持つクオレ・ディ・レオーネと同じほど長いが、ひどく細い。子供でもかんたんに折ることができるだろう。
「うむ、ちょうどよい長さじゃ。これでよかろう」
笑いながら、少年神は小枝を軽く振る。
たかだか一〇センチ程度の斬撃《ざんげき》。だが、そこから巻き起こる太《た》刀《ち》風《かぜ》たるや、旋風《せんぷう》のようであった。しかも、あんなに細くて軽い小枝で。
まさに神技。今の一太刀だけで、エリカには少年神の技倆《ぎりょう》がうかがえた。
武の道を極《きわ》めていけば、得物の大小軽重は重要でなくなる。
巨大な武具を使うのであれば、それを軽々と小刻みに操る技を体得せねばならない。軽く細い武具を使うのであれば、それを重く操る技を体得せねばならない。
「クオレ・ディ・レオーネ――獅《し》子《し》王《おう》の名を持つ鋼《はがね》よ。汝《なんじ》に命ず。我の与えし仮の姿をほどき、真の汝を顕《あらわ》しめよ。獅子の雄姿をふたたび我に示し、共に戦わん!」
エリカは言霊《ことだま》を唱《とな》え、愛剣の封印を解いた。
輝く清流を思わせる細身の長剣。この形態は、己の鍛錬《たんれん》のために与えている仮の姿に過ぎない。そう、軽く細い剣でも重厚な剣技を使いこなせるように、自《みずか》らに課した枷《かせ》。
クオレ・ディ・レオーネが膨《ぼう》張《ちょう》する。
まるで鉈《なた》を思わせる、幅広で分厚い刀身にふくれ上がる。二回りほど長さも増す。
少女の華奢《きゃしゃ》な細腕には不似合いな、幅広の片手剣《ブロードソード》。
これこそが、獅子の魔剣本来の姿であった。
さらにエリカは、歩兵用の丸い盾《たて》を左手に呼び出した。鋼鉄製で、紅《あか》く塗った表面には黒十字の紋章が描かれている。
魔術で筋力と瞬発力を増強させたエリカでなくては扱えない、重武装である。
「よし、おぬしの準備は終わったか。ならば参れ!」
朗《ほが》らかな笑顔で告げる少年神。
エリカは遠慮なく、一息に踏み込んでいった。
軽く細い剣を使うことで、剣技の重厚さを磨く。ならば逆に、重く太い剣を使う際に心がけねばいけない秘訣《ひ けつ》は何か? ――速く、そしてしなやかに操ることだ。
エリカは右腕を軽やかに振り出した。
そのまま肩から肘《ひじ》、手首にかけて、そして重く固いクオレ・ディ・レオーネまでもしならせ、少年神へ横薙《よこな 》ぎに斬《き》りつける。
肩から剣の切っ先までが、さながら一箇《こ》のムチであった。
これが人間相手なら、一流以上の剣士でも初見《しょけん》で見切ることは至難であったろう。
しかも威力は絶大だ。真の姿となったクオレ・ディ・レオーネにはコンクリートでさえ斬り裂く切れ味に、圧倒的な重量が生み出す打撃力まで加わる。
――その一撃でさえ、少年神はか細い枝の一振りで受け流すのだ。
それどころか、返す刀、いや枝で軽やかに打ち込んでくる。エリカはそれを鋼の楯で受け止めた。細枝による打擲《ちょうちゃく》で、楯を持つ左腕にびりびりと衝撃が走る。
その痛みを堪《こら》えながら、少年神のボディめがけて逆に楯で打ち込んだ。
攻防一体の荒々しい戦技。同時にエリカは、少年神の足の甲を狙《ねら》って、左のかかとを踏み下ろす! 細身の剣を操る華麗な戦いぶりは、彼女の一面に過ぎない。
真の〈赤銅黒十字〉の技には、華麗ならざる実戦本意の戦法も多いのだ。
それらを駆《く》使《し》して、エリカは矢《や》継《つ》ぎ早《ばや》に攻めつづける。
だが少年神は、右に左にひらひらと避けまわっていく。
そして時折、ぴしりと小枝を的確に打ち込み、エリカの突進の勢いを削《そ》いでしまう。まさしく蝶《ちょう》のように舞い、蜂《はち》のように刺すであった。
「娘よ、なかなかよく鍛《きた》えておる! そのまま精進《しょうじん》をつづければ、いずれひとかどの戦士となろう。みごとじゃ!」
あげくに、そんな誉《ほ》め言葉まで出てくる始末だ。
完全に遊ばれている。だが、かまわない。これは最初から予測していたことだ。
エリカは全力で戦いながらも、機をうかがっていた。
わざわざ剣の勝負と言ったのも、敢《あ》えてクオレ・ディ・レオーネの真の姿を見せて全力で挑むのも、全ては次の一手への布石《ふ せき》に過ぎない。
あとは少年神に、予知や心を読む神力がないことを祈るだけだ。
そしてついに、エリカは切り札を繰り出した。
「獅子の魔剣よ、汝《なんじ》、刃を捨て戒《いまし》めの縛鎖《ばくさ 》となれ!」
剣と細枝による丁々《ちょうちょう》発止《はっし 》の打ち合い。その流れのなかで、エリカはいきなり後方に跳んだ。
同時に短く言霊《ことだま》を謡《うた》い、愛剣を〈変形〉させる。
騎士の武器である剣や槍《やり》ではない。長さ三メートルほどの、鉄の鎖。先端には重しとして分銅《ぶんどう》を付けた。この鉄鎖を、少年神の足元めがけて振り回す!
鎖で二本の足を搦《から》め捕《と》り、転倒させる狙いだった。
「ははは! 何か企《たくら》んでおると思えばこれか!」
これすらも少年神は、笑いながらの跳躍で避けた。
だがエリカは、二本目の鎖を振り回した。左手の楯も〈変形〉させて造ったのだ。
それも細枝で打ち落とされる。
しかし、その間にエリカは間合いを詰めることができた。
右手の鎖を幅広の剣――クオレ・ディ・レオーネ本来の姿に戻し、斬りつける。着地する寸前の少年神に、渾身《こんしん》の一刀を叩きつける。
鮮血が舞った。
事前にゴルゴタの言霊を込めてあった獅子の魔剣は、ついに神の右手首を斬り飛ばした。
――『プロメテウス秘笈』の青き焔《ほのお》がほとばしり、エリカごと少年の体を呑《の》み込んだのはこの瞬間であった。
3
剣の勝負を挑《いど》んで、自分が少年の気を逸《そ》らす。
そこを『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』で狙《ねら》えと言い出したのは、エリカの方であった。
「……要するに、おまえを巻き添えにして撃てってことだろ? それ、もう作戦でも何でもないな。ただの玉砕《ぎょくさい》戦法じゃないか」
と、護堂《ご どう》はしみじみ論評したものだ。
「うるさいわね。神様が相手なんだから、こざかしい策を練っても仕方ないわ。でも『プロメテウス秘笈』は神の力を盗む魔導書なんだし、わたしには悪影響もないはず。考えうる限りでベストの選択肢のはずよ」
「でもさ、おまえが一〇秒くらいで負けたら、そこでおしまいなんだぞ」
「そんなこと、わかっているわ! でも仕方ないじゃない。まともに秘笈で狙っても、絶対に当たってくれそうにないんだから!」
結局、他に手はないということで、エリカの策に乗る形になった。
そして彼女は死力を尽くして戦い、少年神の方は相手を舐《な》めきった余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》の戦いぶりで応じ、その結果、手首を斬《き》り飛ばされた。
この瞬間、気づけば護堂は『プロメテウス秘笈』に手をかけていた。
石板の熱さがまた耐《た》え難《がた》いほどに高まり、あの青い焔《ほのお》が一気に吹き出した。これまで、いつ狙ってもかんたんに焔を避けてしまいそうだった少年神を、みごと捉《とら》えることに成功した。
天を突く勢いで、豪快に燃え上がる青き神秘の焔。
その渦中《かちゅう》からエリカがまろび出てきたので、護堂はあわてて駆け寄った。
大丈夫かと問えば、もちろんと即答が返ってくる。蒼白《そうはく》の顔色を見る限り、明らかに強がりだ。神との剣試合は、よほど神経をすり減らす戦いだったのだろう。
「それより護堂、しっかり焔を見てなさい。あの神格から早く力を盗み取ってしまうのよ。できるだけたくさん、秘笈の能力が許す限り!」
エリカに言われて、護堂は「あ、ああ」とうなずいた。
正直、この怪しい道具がどれほど神の力を貯《た》め込めるのか見当もつかない。だが何となく、まだ余裕があるように感じられる。
改めて護堂が焔を注視し、なかにいるはずの少年神に意識を向けた瞬間――。
「やはりプロメテウスの秘石《ひ せき》を使う気であったか。そうではないかと思っておった」
少年の声が響いた。あいかわらず余裕綽々の声色だ。
「思っていた、だって?」
「うむ。当たり前ではないか? おぬしらの持つ手札で、我に唯一《ゆいいつ》通じそうなものはこれぐらいじゃからな。となれば、いつ使ってくるか、その時期だけが問題じゃろ?」
「いくら予想してたって、もう遅いぞ。そこから逃げる手があるならともかく――」
焔のなかの少年と言葉を交わしながら、護堂は不安になってきた。
逃げる手があるなら。
だが昨夜、エリカが言っていなかったか。彼はあらゆる障碍《しょうがい》を打ち破る軍神だと。
だとしたら、まさか――。
「我が名にかけて、告ぐ。古き賢人プロメテウスよ」
やさしいとさえ言える語調で、少年がささやく。
その瞬間に、焔のまわりに黄金の光がいくつもまたたきだした。
「我を恐れ、退くがいい、プロメテウスよ。我はあらゆる障碍を打ち破る者なれば、力ある者も不義なる者も、我を討《う》つ能《あた》わず」
いきなり光の数が増えた。
黄金に輝く光球が一〇個、二〇個――もう一〇〇個近くも焔のまわりを飛び交っている。
しかも、どんどん焔の青さが薄れていく。
細身の少年の姿がふたたび現れ、周囲の光に照らされて黄金色に輝く。
「我を恐れよ、プロメテウス! 我と我が名を恐れるがいい! 我が名はウルスラグナ! 光明と聖域の守護者なり! ウルスラグナを恐れよ、プロメテウス!」
鳴《あ》呼《あ》、ついに。ついに、この名が出た。
『障碍を打ち破る者』を意味する名。エリカも護堂も、名を隠そうとする神の意をはばかって容易に唱えることのできなかった聖なる名。
強風、雄牛、白馬、駱駝《らくだ 》、猪《いのしし》、少年、鳳《おおとり》、雄羊、山《や》羊《ぎ》、そして黄金の剣を持つ人間の戦士。
一〇の化身を持つという常勝不敗の軍神 その名はウルスラグナ。
「言葉は光なり。言霊《ことだま》は光なり。ゆえに光よ言霊よ、我が剣、我が刃たれ!」
夜明け前にエリカが語ってくれた。
古代ペルシアの軍神にして、光の神ミスラに仕える守護者。
西アジアにおける光の守護者。インドの雷帝インドラとも源《みなもと》を同じくするという。
日本においては執金剛《しつこんごう》。オリエント世界において西方《せいほう》文明と結びつき、ヘラクレスとも同体を為《な》す。彼とメルカルトの戦いは、いわば先祖と子孫が相打つようなもの。
そう、彼こそは洋の東西を問わず闘神として駆け、降臨《こうりん》した稀《まれ》なる闘神なのだと。
今やウルスラグナは、無数の光に囲まれ、燦然《さんぜん》と輝いていた。
「我はおぬしを知っておるぞ、プロメテウスよ。おぬしが戒《いまし》めを受けた地は、かのカフカスの山嶺《さんれい》よな。かつて、おぬしは火の神であった。かつて、おぬしは盗人の神であった。かつて、おぬしもまた英雄であった!」
ウルスラグナがささやくたび、光の乱舞は激しさを増していく。
同時に焔もかき消えていく。
「我、ウルスラグナは剣――武の英雄なり。じゃが、おぬしは智の英雄よ。愚かしき人間どもに〈火〉を――文明を授ける智者。智を以《もっ》て神すら欺《あざむ》く悪戯者《いたずらもの》。人間どもを守護する太陽と影の申し子じゃ。カフカスのアミラン、遥《はる》か北方のロキなどがそうであるようにのう!」
かくして、黄金の光は太陽すら凌《しの》ぐまぶしさとなり――。
秘笈の焔を雲散霧消《うんさんむしょう》させたのであった。
「なんてこと……。黄金の剣の正体が、神の力を斬り裂く言霊だったなんて」
護堂の隣で、エリカが愕然《がくぜん》とつぶやいていた。
「こ、言霊?」
「ええ。プロメテウスとはいかなる神なのかを、さっきウルスラグナ神がおっしゃっていたでしょう? あれはただ知識を語っていたのではないわ。呪力を込めた言霊 おそらく、相手の神が何者なのかをつまびらかにすることで、その神格を斬り裂く武具。いわば、智慧の剣とでもいうべき呪術なのよ」
そういえば、カリアリで『猪』を斬り裂いた閃光《せんこう》も、ドルガリで『山羊』と『鳳』を打ちのめした剣も黄金色だった。その正体はもしかすると、これだったのかもしれない。
そして『プロメテウス秘笈』の力が少年神には通じないのであれば――。
もう、あの軍神を止める手立てはない。
護堂は戦慄《せんりつ》と共にウルスラグナという神――短い間であったが、同じ時間を共有した少年の成《な》れの果《は》てである軍神を見つめた。
彼はやんわりと、あの霞《かす》むような微笑でこちらを見下ろしていた。
そう、同じ高さの地面に立っているはずなのに、彼は明らかに人間たちを高みから眺めている。絶対的強者、必ず勝利する者という高みから。
「さて、我は己の言葉を守った。今ひとつの言葉も守らねばならぬのう……。つまり、おぬしたちに罰を下すという方じゃが」
傲然《ごうぜん》と宣告するウルスラグナの右手首が、ほぼ一瞬で新たに生え替わった。
エリカがふたたび剣を取り、身がまえる。
「なに、命までは奪わぬ。じゃが小賢《こ ざか》しい抵抗をされるのも鬱陶《うっとう》しい。……ここは我が加護、我が権威を受けて、従順にしてもらうとしようかの」
少年神――まつろわぬウルスラグナは、飄然《ひょうぜん》と告げた。
「我は最強にして、最多の勝利を得し守《ヤ》護《ザ》者《タ》なり。汝《なんじ》らに災《わざわ》い迫りしときは、我の与えし言霊を祈念《き ねん》せよ。我が勝利の言霊を誦《しょう》するがよい! さあ魔女よ小僧よ、我が庇《ひ》護《ご》を受け容《い》れるがよい!」
――何だ、これは! 護堂は驚愕した。
足が勝手に膝《ひざ》をつこうとしている。体が勝手に動き、少年に対してひざまずき、臣《しん》従《じゅう》の礼を取ろうとしている! 何なんだ、この力は!?
見れば、すぐそばにいるエリカも膝を折ろうとしていた。
ただ体は言うことを聞かないものの、表情と心の方はまだ自由が利《き》いた。二人して顔を見合わせる。
「護堂、気をしっかり持って! これは『少年』――ウルスラグナ神の〈英雄〉の化身としての神力よ! さっきの言霊は多分、わたしたち人間を庇護し、その代わりに下僕《げ ぼく》とするためのもの……彼の命令に逆らって!」
エリカがとっさに警告してくれた。
当の彼女も、ひざまずくまいと必死に歯を食いしばっているのが見て取れた。
その甲《か》斐《い》あってか、ぎこちない動きでエリカの態勢は元に戻っていった。
ふたたび剣をかまえ、少年に対して切っ先を向けようと全身の力を振りしぼっている。
「ふふふ、魔女よ。あまり無茶はせぬ方がよい。でないと、ひどい反動が返ってくるぞ」
少年が笑う。
人を無理矢理に従えようとしていながら、実に楽しそうな、邪気のない笑顔だ。
「きゃ、あ、あああッ!」
しかも、いきなりエリカが苦悶《く もん》の悲鳴をあげて倒れ込んだ。
ひざまずく寸前だった護堂は、彼女の足首の異状に気づいて愕然とした。異様な角度に折れ曲がっている。捻挫《ねんざ 》どころではない。確実に骨折しているほどの曲がり方だ。
少年が何かしたのか? 尚も微笑む彼に、非難の視線を向ける。
「咎《とが》め立《だ》てするな、小僧よ。たしかに我が原因ではあるが、手を直接下したわけではないぞ。その娘が強情を張るので、体が勝手に壊れただけじゃ。素直に我に従っておれば、痛い思いもせずに済んだのじゃが」
倒れ込んだエリカの華奢《きゃしゃ》な体。
ありえない角度に曲がった足首と、苦痛に歪《ゆが》む彼女の美貌《び ぼう》。土と埃《ほこり》で汚れる金髪。
それを悠然《ゆうぜん》と見下ろす、秀麗《しゅうれい》に整っているくせに非人間的な少年――否、まつろわぬウルスラグナ神の横顔。
それらを全て見届けた瞬間に、護堂のなかで何かが吹っ切れた。
敵は神。だが、それがどうした。
神にはかなわない。本当にそうか? こんなに隙《すき》だらけで、こんなに勝負事を舐《な》めきっていて、こんなに容赦《ようしゃ》なくて、こんなに前とちがってしまったヤツに、本当にかなわないのか?
そんなことはないはずだ。
そうであってはいけないはずだ!
……護堂はゆっくりと、だが労することなく立ち上がった。英雄の支配力とやらも、もう感じていなかった。痛めつけられたエリカの姿が目の前にあるせいだろうか。
「不思議なこともあるものじゃな。小僧、それもプロメテウスの力か? どのようにして我が言霊の拘束を断ち切ったのじゃ?」
「そんなこと、俺が知るかよ。でも、その理由――見当が付かないわけじゃないぞ」
護堂は真正面からウルスラグナをにらみつけた。
前にカリアリとドルガリで出会ったときの方が、この少年を偉大に感じていた。まつろわぬウルスラグナである今の状態こそが彼の真の力を体現しているはずなのに。
「ほう?」
「今のあんたは、ただ強いだけだ。誰よりも強い神様だからって勝手気ままに暴れているだけの怪物だ。そんなの全然、英雄なんかじゃない。俺は、ただ強いだけのヤツを英雄だなんて認めない。だからあんたに従わないし、ひざまずく必要も感じないんだ。文句あるか!」
呪文、言霊、言葉の力。
そんなものの存在を、護堂は信じたことなどない。だが今、ウルスラグナへの叛意《はんい 》をはっきりと口にした途端、彼を畏《おそ》れる心がさらに薄まっていった。
「強きことこそが英雄たるの者の資質。これは太古の昔より変わらぬ真理であるが」
愚かな子供を滑稽《こっけい》がるように、微苦笑するウルスラグナ。
「呆れたことにおぬし、その子供めいた思い込みだけで我が言霊を振り払ったのか! これはおかしな、しかしみごとな偉業《いぎょう》よな。誉《ほ》めてやろうぞ!」
「ちがう。これは俺の手柄じゃない。あんたがダメなヤツってだけだ」
たしかに目の前の神は、おそろしい強さを誇るのだろう。
エリカのような魔術師には、その力量が明確に推《お》し量《はか》れるのだろう。だから彼女は、少年の姿をした怪物を神と認め、偉大なる存在と敬意を払っているのかもしれない。
だが草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》は魔術師でもなければ、神の知識も持たない。
だから、こう思う。何だ、前の方が――記憶を失っていたときの方が、すごいヤツじゃないかと。どんな勝負でも負けないと豪語するところは変わらない。だが、前は人間たちのなかに人なつっこく飛び込んでいき、太陽のように燦然《さんぜん》と輝く神々《こうごう》しい魅力を発揮し、困っている人間がいれば風のように助けに駆けつけた。
あいつなら――まつろわぬウルスラグナになる前の少年なら、英雄と認めてもいい。
だが今、目の前にいる神様はちがう。
こいつはただ強いだけだ。慕《した》わしくも思わないし、頼りにしたくもない。
「今のあんたは英雄だって自分で名乗ってるだけだ。それにふさわしいことを何ひとつしちゃいない。だから、英雄の力を使えるわけがないんだ!」
「ふむ、おぬしの言い分はあいわかった。それでも、我が常勝不敗の神である事実は変わらぬぞ。その我に逆らってどうする? おとなしく従うといい」
「どうかな、そいつは? あんたの絶対に負けないって看板も結構怪しいと思うぞ」
毒|喰《くら》わば皿まで。すこし前に自分で言った言葉をふたたび噛《か》みしめながら、護堂は神をおとしめる言葉を勢いにまかせて吐き出した。
こうなったら、どこまでも屁理屈《へ り くつ》を押し通すまでだ。
だが、これを聞いた途端にウルスラグナが柳眉《りゅうび》をひそめた。
……万事《ばんじ 》に超然としているように見える軍神。そんな彼がたしかに不快感を示した。ここがこいつの怒らせどころだったか。
「あんたは大体、勝負事を舐めすぎなんだよ。俺やエリカと勝負したときも、わざわざ相手に得意な種目を選ばせているし、遊びすぎだ。自分が勝って当たり前だと思っているんだ」
生憎《あいにく》と、草薙護堂は勝って当たり前の勝負などとは、ほとんど縁がない。
いつも敵の、あるいは敵になりそうな相手の戦力・傾向を分析し、真っ当な駆け引きはもちろん、必要とあらば反則ギリギリの奇策まで駆使して勝ちにこだわった。
シニア時代のライバルだった投手の三浦《み うら》など、格好のカモだった。
ずっと護堂に負けっぱなしだったヤツが訪ねてきたときに「あれは実力じゃないから」などと言ったのは、ただ格好つけただけだ。本音は「あいつの才能はすごいけど、頭が単純すぎるから絶対に負けない」である。
あまり勝負にこだわる性格をばらしたくないので、決して公言はしない。
そんな護堂から見たら、ウルスラグナの勝負に臨む姿勢は到底納得できなかった。
「いくら神様でも、そんなヤツが相手なら一〇〇回に一回程度なら多分、勝ちを拾えるぞ。あとはその一〇〇分の一をどうやって引き当てるかってだけだ」
もちろん、この決めつけは鼻で笑い飛ばされた。
「無理じゃ、小僧。神である我を前にして、そのようなまぐれ当たりを期待してどうするのじゃ? 我はこの指を一振りするだけでおぬしを消《け》し炭《ずみ》にできるのじゃぞ?」
まちがいなく、その通りだろう。
だが今回に限って言えば、そうとも言い切れないのではないか。
実はエリカとウルスラグナの勝負を見守りながら、そして今、神に向かって舌戦を仕掛けながら、ずっと考えていた手がある。まさしく反則ギリギリの奇策であったが。
いや。護堂は思い直した。
これは反則ではない。むしろ他力《た りき》本願《ほんがん》だ。
「たとえそうでも、あんたが油断しまくってるのは変わらない。現に今だって。――なあ、神様! 俺が持ってる石板の力は見てただろう!? 次はあんたがエリカの……さっきの女の子の役をやってくれたら、今度は上《う》手《ま》くいくかもしれない! だから力を貸してくれ!」
護堂は天に向かって叫んだ。
森の結界を破るウルスラグナと何度も会話していた声。護堂たちも一度だけ間近で聞いた、雄《お》々《お》しく荒々しい声。
その声の主へと、祈りを込めて訴え出た。
『ク、ハハハハハハハ! どのような茶番がはじまるかと思い、黙って見ておれば! なんと人間ごときに不敗の軍神が陥《おとしい》れられるとはのう!』
フェニキアの神王メルカルト。
彼の豪放な笑い声が、天空と森中に響き渡った。
『神々の王たる我に向かって、僭越《せんえつ》すぎる願いをしおったな、小僧! だが目の付け所は悪くない。誉めてくれよう! ――ウルスラグナよ、貴様の厄介《やっかい》な『剣』だがな。はたしてプロメテウスとわし、二柱の神力を同時に斬り裂ける武具なのかのう!?」
いきなり虚空《こ くう》が歪《ゆが》んだ。
そこから回転しながら飛び出してきたのは、二本の棍棒だった。
『ヤグルシよ、アイムールよ! 追いて駆ける者、我が牙《きば》たる一対の武具よ、東方の軍神を追いて打ちのめせ! 我が怒りを思い知らせてやれ!』
「くっ……! メルカルト王め!」
初めてウルスラグナの美貌が焦燥《しょうそう》で歪んだ。
数々の速球を打ち砕いてきた護堂の目でも追うのが難しいほどのスピードで、二本の棍棒――ヤグルシとアイムールが天かける。
そのうちの一本が稲妻のように真上から迫る。もう一本が飛鳥のように真後ろから迫る。
ウルスラグナは高々と跳躍し『強風』となった。だが、二本の棍棒にはちゃんと位置がわかるのか、巧みに連携《れんけい》を取りながら吹きゆく風を追う。
「――護堂! 早く『プロメテウス秘笈』を使って! ウルスラグナがメルカルト王を討つ言霊を詠《よ》み上げる前に!」
地面に伏したままのエリカが、とっさに叫んだ。
あわてて秘笈をかかげる護堂。縛《しば》られたプロメテウスを刻んだ絵から、青き焔が豪快に吹き出す。これで三度目の使用になるせいか、かなりスムーズに操作できた。
「う、ぬおおおおおおッ!」
|渦巻く強風《ウ ル ス ラ グ ナ》は『剣』を使うつもりなのか、空中で少年の姿に戻った。
青き焔の接近を、黄金の光球で阻《はば》む。
だが、そこへ棍棒のひとつが飛来し、彼のうすい胸板に直撃した。「グッ!?」と苦悶《く もん》のうめきを上げ、光球の輝きも弱まった。
『はたして『剣』を操りながら、他の化身となる余裕はあるのかのう? あるまい! 貴様がわしを見切っていたように、わしも貴様の力の程は見切っておるのだ。今のおぬしはわしの結界を破った直後。しかも、完全とは言い難い状態でな! このまま神力を使いつづければ、その存在も怪しくなろうぞ! 小僧の申した通りだ。迂闊《う かつ》だったなウルスラグナ!」
「いいや、まだじゃ! まだ我の敗北と決まったわけではないぞ、メルカルト王!」
雷鳴のように天を震わせる神王の声に、ウルスラグナが叫んだ。
「追いて駆ける者ヤグルシ・アイムール! かつて匠《たくみ》の神コシャル・ハシスがおぬしに贈った武具じゃな。バアルとしてのおぬしは、こやつらを用いて竜王ヤムを玉座《ぎょくざ》より引き離し、打ち殺した! この討伐《とうばつ》を以《もっ》ておぬしは神王の座に昇り詰めたのじゃ!」
まさか、これも言霊――黄金の『剣』を生み出す呪文なのか。
護堂は息を呑《の》んだ。
対プロメテウス用の『剣』を対メルカルト用に切り替えるつもりなのか。だが、それでは戦局は変わらない。起死回生《き し かいせい》の一手とするなら、そう――。
二刀流しかないはずだ。
護堂の予想を裏付けるように、黄金の光はウルスラグナの両手に集まっていった。
光が凝縮《ぎょうしゅく》し、金色の刀身を持つ長剣となる。彼の右手と左手に、一振りずつ。
『ほう、捨て身か! ハハ、さすがよなウルスラグナ! 油断ゆえの敗北よりも、限界を超えてでも戦う方を選ぶか。その意気やよし、では存分に戦おうぞ!』
喜色《きしょく》も露《あらわ》なメルカルトの声が轟《とどろ》く。
対するウルスラグナの額《ひたい》からは、真紅《しんく 》の血が一筋流れ落ちてくる。今まで朗々と言霊を紡《つむ》いできた唇《くちびる》も、秀麗《しゅうれい》な美貌も蒼白。
それでも彼は、雄々しく空中で双剣を振りかざした。
そこへ飛来するのは二本の棍棒、ヤグルシとアイムール。そして、彗星《すいせい》のごとく空を駆ける
『プロメテウス秘笈』の青き焔。
神々の戦いの形勢は、未《いま》だ定まってはいなかった。
4
ウルスラグナの双剣とメルカルトの棍棒《こんぼう》、プロメテウスの焔《ほのお》がぶつかり合う空。
その下で護堂《ご どう》は、足を負傷したエリカを抱き起こした。
「歩けるか? ちょっと我慢《が まん》しろよ。ここは危なそうだから、すこし動いた方がいい」
「護堂……あなた、『まつろわぬ神』を陥《おとしい》れるなんて、ものすごいことをやってのけたわね」
神々の戦いを尻目《しりめ 》に、ふたりは森のなかへ入っていった。
まともに歩けないエリカに肩を貸して、彼女の杖《つえ》代わりとなりながら護堂は歩く。
どうにか、大樹の根元にまでたどり着いた。
そこへエリカのもたせかけると、護堂は改めて『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』を手に取った。
空中の戦いは、ウルスラグナ優勢になっていった。敵とする神の力を封じ、斬《き》り裂《さ》く剣を武器としているのだから、当たり前だとも言える。
ヤグルシもアイムールも、青き焔も千《ち》々《ぢ》に切り刻まれている。
戦いが少年神の勝利に終わるのは時間の問題だろう。だが、空を飛ぶ彼の動き、そして剣さばきは目に見えて鈍《にぶ》っていた。
「あの調子じゃ、『プロメテウス秘笈』であいつの力を盗むのは難しそうだな」
「そうでしょうね。――護堂、ウルスラグナがこちらへ来る前に、あなたひとりで逃げて。わたしは足手まといになるから、置いていきなさい」
大樹に寄りかかるエリカが、苦痛にあえぎながら言った。
明晰《めいせき》で凛《りん》とした美声に、土と砂と汗で汚れながらも色あせない美貌《び ぼう》。今さらながら護堂は、この少女がとてつもなく容姿《ようし 》端麗《たんれい》である事実を実感してしまった。
「おまえ、傷を治す魔法とか使えないのか? ほら、ゲームとかでよくあるヤツ」
「使えるけど、そういう術は効いてくるまで時間がかかるの。この足を治すには……多分、三〇分はかかるわ。だからもう、間に合わない」
折れていそうな足首がその程度で治《ち》癒《ゆ》するのなら、相当に強力そうな術だ。
だが、この状況では役に立つまい。
今、役に立つものがあるとすれば、ひとつだけだ。
護堂は決然とウルスラグナのいる方向をにらみ、そしてエリカに言った。
「じゃあ、やっぱり切り札はプロメテウスの石板《せきばん》だけだ。俺がどうにかして、あいつの相手をしてくるから、早くその魔法を使え。足を治していっしょに逃げようぜ」
「無茶言わないで! あなたはウルスラグナをあそこまで追い込んでしまったのよ! どんな神罰《しんばつ》がくだされるかもわからないのよ!?」
「でもさ、あいつは風に変身できるだろ? 俺ひとりで逃げてもどうせ追いつかれる。だから、おまえがいっしょじゃなきゃ、きっとダメだと思う」
ここで護堂は深々とため息をついた。
「まあ本音を言うと、これ以上は打つ手がないって思ってるけどな。でも――」
「でも?」
「エリカも言ってただろ、俺があいつのお気に入りだって。俺もあいつのことを結構気に入ってたんだ。で、一度は友達になったヤツがあんなふうになっている。やっぱり、このまま全部放り投げて見捨てるのは気分が悪い」
短い間とはいえ、友人であった少年があそこで本道を見失っている。
それに対して、自分が何をできるのか。――わからない。
おそらく満身《まんしん》創痍《そうい 》であるはずだが、未《いま》だ強大な軍神があそこで闘志を燃やしている。
それに対して、自分が何をできるのか。――わからない。
だが、それでも最後まで見届けたい。その気持ちだけはたしかであった。
「……あなたって、やっぱりバカなの?」
「それについては全く反論できないな。今ならおまえの言い分、全面的に認めちまうぞ」
魔女にして女騎士の罵倒《ば とう》に、護堂はむしろやさしい声で答える。
エリカは呆《あき》れたふうに天を仰《あお》ぎ、短く嘆息《たんそく》した。
「バカ。それも大バカ。治療の余地がないほどの絶望的なバカね、あなた」
「……まあ言いたければ、好きなだけ言え。ちょっとだけ反論したくなったけど」
悟《さと》りされない護堂の反応に、エリカはかすかに微笑する。嘲《あざけ》りでも哀《あわ》れみでもなく、あきらめの成分が強いように見えた。
「でも、そのバカなところもちょっとだけ可愛《か わ い》く思えてきたわ。……最後に一回だけ引き留めるけど、決心を変える気はない?」
「まあな。俺はあいつに借りもあるし、やっぱり逃げるってのは選べない」
「……借り? ああ、そういうことか。なら仕方ないわね」
わずかな言葉でしか語らなかったが、それでエリカは察してくれた。
それが護堂には驚きで、そしてうれしくもあった。この娘とも最後の最後で通じ合える部分ができてきたように思える。出会ったときには想像だにしなかったが。
「でも仕方ない――の一言で済ませるのも、ひ弱な人間としてはシャクよね。何としても神様たちに目にもの見せてあげたいところだわ」
そう言ってエリカは、しばらく沈思《ちんし 》黙考《もっこう》した。
やがて護堂の顔を見つめながら、おもむろに口を開いて言う。
「ずっと忘れてたけど、『プロメテウス秘笈』にはすでにウルスラグナの神力――『白馬』の化身《け しん》が溜め込んであったわよね?」
「あ、ああ、そうみたいだな。太陽に関《かか》わる力みたいだけど、何で馬が太陽なんだ?」
「それについては、あとで講義してあげる。それよりもいい? ウルスラグナのところに行って、もう最期《さいご 》だって思ったら、迷わずその力を使いなさい」
エリカの助言に、護堂は目をパチクリさせた。
前にルクレチアが「絶対にするな」と警告した手段ではないか。
「それをやったら絶対に死ぬって、ルクレチアさんが言ってたじゃないか!」
「このままだって多分死ぬわ。でも、こうすれば、ものすごい大逆転になるかもしれないの。知ってる、チェスのプロモーション?」
護堂はうなずいたが、エリカの思惑はさっぱりわからなかった。
たしか、チェス盤の最終ラインに達したポーンがクイーンやナイトに変わるルールだったはずだ。将棋《しょうぎ》で言えば、と金《きん》だ。
「残念だけど、そうしても丸く収まらない……あなたが死ぬ確率はかなり高いと思うわ。でも上《う》手《ま》く転がれば、本当にすごい結果になる。ただ死ぬよりも試す価値あり、よ」
ここでエリカはやさしく、あでやかに微笑《ほ ほ え》んだ。
小さな紅《べに》椿《つばき》のつぼみがほころぶような、高貴な姫君にこそ似つかわしいような笑顔。この娘はこんな表情もできるのか。予想外の一撃に、護堂は目を奪われてしまった。
「草薙《くさなぎ》護堂、あなたはとってもバカな人だわ。でも、その愚《おろ》かさがあなたをここまで導いてきたのも事実。だったら、世界で最も愚かで、最も偉大な方々の仲間入りをしてみなさい。勇気を持てとは言わない。代わりに、とことんまでバカを貫《つらぬ》きなさい。――わかった?」
「ああ、なんとなく……。でも、そうバカバカ言われると複雑な気分だな」
「あら。わたし、今は誉《ほ》め言葉のつもりで、愛を込めて『バカ』と言ったのよ。――感じられなかったの? 鈍《にぶ》い人ね」
「全然。そんな奥の深いバカは初めて聞いた」
降参する護堂に、エリカは弾《はじ》けるように笑った。
「わたしね、実は今悟ったことがあるの。『エピメテウスの落とし子』……これ、さっき説明してあげたカンピオーネの別名よ。とても変な意味の言葉なのだけど」
「えぴめてうす。またギリシアの神様か? そんな感じの名前だな」
「ええ、正解。もしまた会うことがあるなら、きちんと意味を教えてあげる。だから迷わずに行きなさい、護堂。たとえ勇気があっても、賢《かしこ》き者には決して通れない道があるわ。そこを進めるのはきっと、大いなる愚か者たちだけ。あなたにはその資質があると信じています」
「……よくわからないけど、わかった。おまえには世話になった。ありがとうな」
意味深な言葉の数々に首をかしげつつも、護堂は礼を言った。
実を言えば、ウルスラグナのもとへ向かう理由はもうひとつある。
この強く美しくトゲトゲしい態度の少女を見捨てて、ひとりで逃げる。もし自分がそんな真《ま》似《ね》をしたなら――草薙護堂は一生、自分を許したりはできないだろう。
それぐらいなら、いっそ自分から神との対決に赴《おもむ》く。
女の子を見捨てるよりも、女の子を守るために体を張る方が痛快ではないか。
そんな決意もあったのだが――。
無論、口に出したりはしなかった。そんな真似をしたら、誇り高きエリカ・ブランデッリは折れた足を引きずってでも最後の戦いに向かうだろうから。
「……ああ、待って護堂。腰を低くして。わたしに耳を貸して」
まだ助言でもしてくれるつもりなのか、エリカが言いだした。
さっきまでの優雅な雰囲気《ふんい き 》から、すこしモジモジとして――話しにくそうな感じだ。
恥ずかしい内緒話でもあるのだろうか?
疑問に思いながらも、護堂は彼女の言う通りにした。足を痛めて立てないエリカの口元に、自分の耳を近づける。
彼女はその状態になっても、なおもためらっていた。
「何だよ、話があるんじゃないのか?」
「ええ、まあ……。伝えたいことはさっき全て伝えてしまったのだけど」
「じゃあ何で俺、こんな格好に?」
「いいから黙っていなさい。あなたに素敵な贈り物をあげるところなんだから!」
予想外の攻撃が来たのは、このときだった。
さんざんためらい、逡巡《しゅんじゅん》していたエリカは、いきなり意を決したように桜色の唇を護堂の頬に寄せて、そっと口づけしてきたのだ。
チュッ……と柔らかな、そして軽やかな感触が伝わってくる。
護堂は思わず飛びのいた。
ごく小さな、そして淡すぎる感触。だが、その衝撃は凄《すさ》まじかった。いきなり何て真似をするのだ、この娘は!
「お、おまえ、何で? 今のは何のつもりなんだよ!?」
「う、うるさいわねっ。この程度のことで驚かないで! ただの――ええ、ただの幸運のおまじないよ! ありきたりだけど、これがいちばんだと思ったの!」
エリカが差恥《しゅうち》で真っ赤になりながら言う。
「わたしがキスしてあげた男性は、今まで叔《お》父《じ》様とお父様しかいないのよ! きっと、ものすごい効き目があるに決まってるわ! 感謝しなさいっ」
護堂の頬《ほお》が――いや、顔全体が熱い。
おそらく自分の顔も真っ赤になっているのだろう。だが無理もない。まさか、こんな美少女にキスされる日が来るとは夢にも思っていなかったのだから。
もうエリカの顔をまともに見られない。
彼女に大慌《おおあわ》てで背を向けると、護堂はかつての友がいる方へと一気に駆け出した。
サン・バステンの遺跡《い せき》。メルカルトの築いた巌《いわお》の扉の前には――。
両断されたヤグルシとアイムールが転がっていた。プロメテウスの青き焔も、いつのまにか燃焼を終えてしまったようだ。
そして、ウルスラグナが肩で息をしていた。黄金の双剣はすでにその手にはない。
まさに満身《まんしん》創痍《そうい 》。傷だらけの状態。
そんな彼と『プロメテウス秘笈』を持つ護堂は、ついに正面から対峙《たいじ 》した。
「小僧よ、おぬしはよくやったと言えよう。じゃが、この通りじゃ。我はメルカルト王の武具を退け、おぬしの奥の手も斬り破った。もはや気がかりとなるのは、そのプロメテウスめの秘石《ひ せき》ぐらいよ。さあ、それを我に渡すがよい」
「いやだね。おまえがこの島から出ていかない限り、これが俺たちの――人間の切り札なんだ。俺ひとりの勝手で手放したりできるか!」
手のひらを差し出すウルスラグナに、護堂はにべもなく言った。
その片意地に、少年神が嘆息を漏らす。
「仕方のないやつじゃのう。たかが人間の小僧ひとりを相手するのに、軍神たる我が神力を使うわけにもいくまい。まったく、手のかかることよ!」
とつぶやきながら、ウルスラグナが近づいてくる。
足取りが重い。相当に疲労しているようだ。
だから、その直後の行動に、護堂は意表をつかれてしまった。少年の姿をした神は、いきなり地を蹴《け》ったのだ。
神力でないのなら何を使う? その五体しかあるまい。悟った瞬間に衝撃が来た。
ウルスラグナの回し蹴りをこめかみに喰《く》らい、吹き飛ばされた。
それでもとっさに頭をずらして直撃を避けたのは、かつて鍛《きた》えた動体視力の恩恵《おんけい》だろう。そして『プロメテウス秘笈』は根性で掴《つか》んだまま、手放さなかった。
「この期《ご》に及んでもまだ、俺ごときには本気を出せないのか? とことん勝負事を舐《な》めてるヤツだな」
「これは勝負などではない。愚かな人間に分《ぶん》をわからせるための仕置きじゃ」
それもそうだ。格闘技でもスポーツでも、草薙護堂に勝ち目などまるでないのだ。
だが、下風《か ふう》に見られて黙りっ放しでいるわけにもいかない。
「エリカから教わったぞ。ウルスラグナがどんな神様なのか――次々と変身して、どんな戦場でも勝利を勝ち取る戦いの神様なんだろ? 最初は戦士階級と王族の神だったのが、とても人気があったからみんなが崇《あが》め奉《たてまつ》って、民衆と正義の守護神にもなったんだろ?」
「いかにも。それこそ我の来歴じゃ!」
今度は前蹴りが護堂を襲う。
危険な急所こそ狙わないものの、ウルスラグナの攻めはかなり容赦《ようしゃ》ない。
車にはねられるような衝撃を味わい、吹っ飛ばされる。地面を転がりながら、護堂の意識は一瞬途切れそうになった。
「だってのに、今は俺みたいな小僧をいたぶって、おかしいじゃないか! 港で会ったときのおまえは、そんなふうじゃなかったぞ。もっと太陽みたいで、みんなから慕《した》われて――自分で言っていたように、そう、英雄みたいだった!」
「言うな。それは我が『まつろわぬ神』の性《さが》を忘れていたときの話よ。本来の我、神話に語られし我は、たしかに太陽の申し子。光を守護する英雄じゃ」
今度は掌《しょう》、次は拳《けん》、その次は手刀《しゅとう》。
かわすことも、ブロックすることさえもできない手練《しゅれん》の早技。護堂はサンドバッグのように打ちのめされ、またもボールのように跳ね飛んだ。
体のあちこちが熱い。重度の打撲《だ ぼく》。もしかすると骨折もあるかもしれない。
意識も朦朧《もうろう》としてきた。何より痛い。
「じゃが、すでに終わった話じゃ。戻らぬ過去を懐かしんでも仕方あるまい?」
ウルスラグナが言う。
だが護堂はうなずかなかった。この期に及んでも、右手は『プロメテウス秘笈』を掴《つか》んだままだった。四番打者として鍛《きた》え抜いた握力と、根性の賜物《たまもの》だ。
「じゃあどうして、俺にこの石板を返したりしたんだ? 二度目に会ったときに、何で俺に預けたりしたんだよ? あのまま割っちまえばよかっただろう!?」
ドルガリでの一幕。あのとき、最後に少年は言わなかったか。
時が来れば、この石を世のために役立てろと。
これで今《こん》生《じょう》の別れだと。
つまり、あいつはわかっていたのだ。ウルスラグナの分身である神獣をあそこで倒せば、己は『まつろわぬウルスラグナ』に戻ってしまうという未来を。
――だから、草薙護堂は彼に借りがある。
カリアリで彼は、護堂や港の若者たちまで巻き込んで、気楽そうに遊んでいた。
ドルガリでの彼は初め『プロメテウス秘笈』を使って『山《や》羊《ぎ》』を倒した。『鳳《おおとり》』とは戦おうとしていなかったように思える。
彼は己の化身から生まれた神獣たちを倒すことで、神としての力を取り戻していった。
同時に『まつろわぬ神』としての自分。封印されたはずのウルスラグナの神名。神話に逆らい、人に仇《あだ》なす性質までも、取り戻してしまった。
護堂の願いに応えて、自分の分身たちを倒してしまったからだ。
だから、もう彼はいない。
カリアリで出会い、ドルガリで再会した少年はもういない。今、目の前にいるのはウルスラグナという少年の姿をした神なのだ。
こうなりたくないから、彼は二度目の出会いのとき、自《みずか》ら戦おうとしなかったのだろう。
それが今ならはっきりとわかる。草薙護堂のわがままのために、彼は戻りたくなかったはずの姿を取り戻したのだ。そして、ご丁寧《ていねい》にも自らを苦しめる切り札まで遺《のこ》していった。
これが借りでなくて、何だというのか。
だから護堂は、ウルスラグナを阻《はば》むために体を張らなくてはいけない。絶対に!
「おぬしの言う通りじゃのう。たしかにあれは我の過《あやま》ち。ふふふ、なぜあのような真似をしでかしたのか……どうにも思い出せぬ」
「本当か? 本当に思い出せないのか?」
ボロボロの体で地に伏しながら、神に問いかける。
今ならわかる。あいつが草薙護堂に何を望み、期待していたのか。そんな人間の少年を見下ろす神の美貌は、すこしだけ以前の彼に似ていた。
「……うむ。思い出せぬな、小僧。許せ」
「誰が許すか。物忘れのひどい神様に、俺が人間を代表して文句を言ってやる」
交錯《こうさく》する神と少年の視線。
あるべき己を見失った『まつろわぬ神』の静かな瞳《ひとみ》を、人間の少年がにらみつける。
打擲《ちょうちゃく》が止まり、護堂は傷だらけの体に鞭打《むちう》って、ようやく身を起こせた。
――フッ。
かすかに嘆息したウルスラグナは穏やかに微笑し、つぶやいた。
「ふふ。よいヤツじゃのう、おぬしは。こんな因果な神と出会わなければ、平穏な日々のなかで健《すこ》やかな生を送れたであろうに。運の悪い小僧じゃ」
「まったくだよ。この島で出会った連中は変なヤツらばっかりだ。まあ、運が悪いばかりだとも思わないけど」
「ほう。それは殊《しゅ》勝《しょう》な意見じゃが、おぬしの立場としてはやや強がりが過ぎよう?」
ウルスラグナと草薙護堂。
カリアリの港で出会った一日目のように、言葉を交えるふたり。
あれからわずか四日。それだけの時間で、ふたりの状況はここまで変わってしまった。
「変だけど、みんな面白い連中だからな。天才で高飛車《たかび しゃ》だけど、根はいいヤツの魔女とか。ものぐさで性格の破綻《は たん》した若作りのばあさんとかさ」
「ほう」
「あと、記憶|喪失《そうしつ》で自信|過剰《かじょう》な神様とかもいた。こいつには現在進行形で迷惑をかけられているけど、そんなに嫌いじゃないぞ」
「神を捕まえて面白いなどとは、不敬《ふ けい》もいいところじゃ。慮外者《りょがいもの》め」
「敬服してほしいなら、もっと神様らしいことをすればいい。簡単だろう?」
もはやにらみ合いではなかった。
見つめ合う神と人間の瞳。そのまま十数秒ほどが過ぎ去る。
先に目を逸《そ》らしたのは、ウルスラグナの方であった。
「今さらそうもいかぬのう。我は一度まつろわぬ身となった。その我が、神としての本道へ立ち戻るには敗北を得、新生を遂《と》げねばならぬ。さて、どれほどの時がかかることか」
霞《かす》むような微笑を浮かべながら、手のひらを突き出す。
そこに走る小さな火花は稲妻の先触れ。
その手を向けた先には、短い間とはいえ行動を共にした少年がいる。
「負ければいいってことか? だったら、俺がそいつをくれてやってもいいぞ」
護堂も震える手でどうにか『プロメテウス秘笈』をつかみ、軍神に向ける。
持ち主の意志に応えて、石板がどんどん熱さを高めていく。
「よせ、小僧。人の手で神の力を操るなど、おぬしらの分を超えた行為じゃ。我が『白馬』の力を使うつもりなのじゃろう? そうしたら最後、おぬしは死ぬ。おとなしくそれを差し出すがいい。さすれば、命は救ってやろうぞ」
「うるさい。人に迷惑をかけるだけの神様に言われて、その通りにできるか!」
「愚かな。この状況で撃ち合っても、せいぜい相打ちじゃ。それもわからぬか?」
「そうでもないみたいだぞ。……エリカが、俺よりも頭のいいヤツが、これで全部丸く収まるかもしれない――そう言ってたからな。だったら、試してみるのもいい。理屈はわからないけど、これで勝つ目があるなら、そこに全額|賭《か》けてやるよ」
「短い生の最期で、かようにバカげた博打《ばくち 》を打つか! まったく、度し難い小僧じゃ!」
「……草薙護堂だよ。覚えておけ」
「なに?」
「これだけいっしょにあれこれやってきたんだから、名前ぐらい覚えておけ。エリカにも言ったけど、俺の名前とか気にしてなかっただろ? ったく、失礼な連中ばかりだ」
ふたたび見つめ合う少年ふたり。
見下ろす体勢の少年神はフッと微笑んだ。
見下ろされる人間の少年は、フンと不服そうに遺憾《い かん》の意を表した。次の瞬間、手のひらからは稲妻が、石板からは白い焔がほとばしる。
相打ち。ふたりの少年が放った攻撃は、まさに相打ちの格好となった。
5
『ふ、ははははは。だらしないのう、ウルスラグナよ。不敗の神たる者がかような人間の子供相手に敗北を喫《きっ》するとは』
「ぬかせ、メルカルト王。おぬしこそ、こやつごときに利用されておったではないか」
――朦朧《もうろう》とした意識のなかで聞き取れる会話があった。
激痛が五体を苛《さいな》み、頭と全身がとてつもなく熱い。
ルクレチアの言っていた『プロメテウス秘笈《ひきゅう》』を行使した反動と、ウルスラグナに痛めつけられたダメージ、そして最後の雷撃《らいげき》。それら全《すべ》てのせいだろう。
これだけのダメージなのに、まだ死んでいないとは。おかしな話だ。
『ふん。利害が一致したゆえ、こやつの提案に乗ってやっただけよ。だが無論、忘れてはおらぬ。こやつもわしも、まもなく甦《よみがえ》る身だ。増上慢《ぞうじょうまん》の報いは、あとできちんとくれてやるわ』
「甦るじゃと?」
『忘れたか、軍神。エピメテウスとパンドラ、あのプロメテウスめの忌《い》まわしき弟妹たちが遺《のこ》した呪法を! 愚者《ぐ しゃ》と魔女の落とし子を生む暗黒の聖誕祭《せいたんさい》、神を贄《にえ》として初めて成功する簒奪《さんだっ》の秘《ひ》儀《ぎ》だ! ほれ、貴様の神力がこやつの心身に流れ込んでおる!』
「おお。くくく、そうか。そういう狙いであったか、魔女め。抜け目ない娘じゃ!」
『胡乱《う ろん》なやつめ。敗北を喫しながら笑うだと? 脳まで腐れてしまったのか?』
「失敬じゃのう、神王。たかが一度の敗北じゃ。その程度の挫折《ざ せつ》を受け止められぬのでは度量に問題ありと言わざるを得まい。これが最初で最後の敗北と思えば、なかなかに心|躍《おど》る経験ではないか! 無論、二度目はあり得ぬがな!」
「ふふっ。ウルスラグナ様ってば、やっぱり負けず嫌いでいらっしゃるのね」
「ほう、おぬしは――おお、そうか。新たな落とし子の誕生にもう気づいたか」
『パンドラ! 全てを与える女め! 貴様が直々《じきじき》に顕《あらわ》れるか!』
「あら王様、御挨拶《ご あいさつ》ね。あたしは神と人のいるところには、必ず顕現《けんげん》する者。あらゆる災厄《さいやく》と一掴《ひとつか》みの希望を与える魔女ですもの。驚くほどのことじゃないでしょう? ……この子があたしの新しい息子ね。ふふっ、苦しい? でも我慢《が まん》しなさい、その痛みはあなたを最強の高みへと導く代《だい》償《しょう》よ。甘んじて受けるといいわ!」
甘く可憐《か れん》な声が耳《じ》朶《だ》を打ち、やさしく頭を撫《な》でられた。
誰だろう、この声の主は? エリカだろうか?
「さあ皆様、祝福と憎悪をこの子に与えて頂戴《ちょうだい》! 七人目の神殺し――最も若き魔王となる運命を得た子に、聖なる言霊《ことだま》を捧《ささ》げて頂戴!」
『ぬかせ、魔女め! 貴様の新たな落とし子など、すぐに葬《ほうむ》ってくれるわ!』
「ふ、よかろう。ならば草薙護堂よ、神殺しの王として新生を遂《と》げるおぬしに祝福を与えようではないか! おぬしは我の――勝利の神の権能を簒奪《さんだつ》する最初の神殺しじゃ! 何人《なんびと》よりも強くあれ。ふたたび我と戦う日まで、何人にも負けぬ身であれ!」
治《ち》癒《ゆ》の魔術はまだ、完全に効果を発揮してはいない。
そのため、エリカ・ブランデッリは痛む右足首をひきずりながら、遺跡のなかへとやってきた。あと十数分も経《た》てば完治するはずなのだが、待ち切れなかったのだ。
「――護堂!」
神々の戦いで各所をボロボロに破壊されたサン・バステン遺跡。そのど真ん中に横たわり、こんこんと眠る日本人の少年。
彼の無事な姿を見つけたとき、エリカは心底ほっとした。
『プロメテウス秘笈』が盗んだ神力を行使する際の激痛。ウルスラグナ渾身《こんしん》の雷撃を受け止めた際の衝撃。それらがどれほどの苦痛であったのか、彼女には想像もつかない。
だが今、草薙護堂は――。
ボロボロの衣服に身を包み、打撲や骨折、火傷《や け ど》など、さまざまな傷を負ってはいたが――。
安らかな寝息を立てて、寝入っていた。
その満足げな寝顔には、もう傷ひとつない。そのほかの傷も、時を待てば再生していくはずだ。……彼らの生命力、治癒力は人間よりも神々に近いはずなのだから。
「神を殺《あや》めたのね、草薙護堂……。七人目のカンピオーネが誕生してしまったのね!」
震える声でエリカはつぶやき、かがみこんだ。
眠れる神殺し――いずれ魔術師の『王』として崇《あが》められ、君臨する運命を手にした少年の顔を見ながら、語りかける。
「あなたは知らないはずよね? カンピオーネを生み出す転生の秘儀は、プロメテウスの弟エピメテウスと妻パンドラが、あらゆる災厄とわずかな希望をつめこんだ箱のなかから見つけ出したという伝承があるの」
わずかにためらったあとでエリカは、護堂の頭をやさしく持ち上げた。
自分の細くやわらかな膝《ひざ》の上に乗せてやる。
普段なら絶対にしてやらない行為だが、今回だけの特別なご褒美《ほうび 》だ。何しろ今日の彼は、神を倒した功労者なのだ。
「プロメテウスの名の意味は、先に考える者。つまり先見《せんけん》の明《めい》がある賢者を指す。対してエピメテウスの意味は、後で考える者。行動したあとで後悔する愚者という意味なのだけど」
膝《ひざ》枕《まくら》を与え、血と汗と砂《すな》埃《ぼこり》で汚れた彼の顔をハンカチで拭《ぬぐ》ってやる。
そうしながら、エリカは滔々《とうとう》と神を語る。
「あなたみたいなおバカさんだからこそ、エピメテウスの恩《おん》寵《ちょう》を得られたのでしょうね。頭のいい人が神と一対一で対決するはずないもの。――さっき教えたでしょう? カンピオーネは『エピメテウスの落とし子』とも言うのよ。つまり、愚者の申し子。あなたにぴったりの称号だわ。大バカだし」
今のうちにたっぷり罵《ののし》っておくことにしよう。
彼がこの先、とんでもない暴君に成長した暁《あかつき》には、こんな罵倒《ば とう》は到底できないはずだ。
……いや。そうなった暁には、自らが誕生に手を貸した責任を取って『王』への反逆に挑んでもいいだろう。だが――。
それよりもありそうな未来がある。
彼はこれから、今まで想像さえしていなかった闘争と苦難の日々を送ることになるはずだ。
自身が平穏を望んでも、世界と魔術師と、何より神々が放っておかない。
「まあ、いいわ。そのときにはもうすこしだけつきあってあげるから。こんな体になってしまった責任はわたしにもあるし、あなたのことが……すこしだけ気になるしね。もちろん、あなたが誠心誠意わたしにお願いするなら、だけど」
フンと鼻息も荒く、一方的に伝えるエリカ。
相手が聞いていないのは百も承知だった。だが、さっきから不思議な高揚感がこみ上げてくる。無言でいたくなかった。
「だから草薙護堂、早く目覚めなさい。〈赤銅《しゃくどう》黒十字《くろじゅうじ》〉の大騎士が、天下無双のエリカ・ブランデッリがあなたの目覚めを待っているのよ? 待たせたりしたら承知しないわよ?」
だが、この声は小さい。
これでは『王』の爆睡《ばくすい》を邪魔《じゃま 》できない。もちろん承知の上でそうしているのだが、そんな自分がエリカ自身にも不思議に思えていた。
なぜ自分は、こんなところで無《む》為《い》に時間を過ごしているのだろう?
……まあ、これもまた一《いっ》興《きょう》か。
この程度の寄り道、自分の人生には何の影響も与えないはず。だから最も若き『王』が生まれ、戦いはじめる顛末《てんまつ》をもうすこし観察することにしよう。
そう思い定めた直後だった。
遺跡の一角にある三角形の穴――地下神殿の入り口を、エリカは鋭くにらみつけた。
フェニキアの神王によって築かれた、巌《いわお》の防壁はいつのまにか消えていた。
代わりに、穴の上空には黒い靄《もや》か影のような何かがわだかまっている。その周囲では雷光がパチパチと火花を立て、風が渦《うず》を巻いている。
「メルカルト王、御身であらせられますか?」
『くくっ、いかにも。その小僧の転生、無事に終わりつつあるようだな。感じるぞ、神殺しの気配を。我らが仇敵《きゅうてき》たる古き戦士の匂《にお》いを!』
黒き影が、もう聞き覚えた神王の声を発した。
「ならば王よ、今ここで新たな神殺しと対決なさると?」
『バカを申すな! わしは神々の王にして偉大なる戦士、竜を殺《あや》めし最強の狩人《かりゅうど》じゃ! そのような生まれたての小者に姑息《こ そく》な真似はせぬ!』
昂然《こうぜん》と影をにらむエリカに、メルカルトの声は朗々《ろうろう》と告げる。
『そやつが目覚めた後に伝えよ! 貴様の最初の敵は軍神ウルスラグナ、第二の敵はこのわし、メルカルトよ! まもなくわしは完全なる力を取り戻す。その暁には、かの軍神めの代わりに我が怒りの矛《ほこ》を向けてくれようぞ! 剣を磨いて待っておれ、と!』
轟《ごう》、と風が吹き、黒い影は稲妻のように飛び去った。
神王メルカルトの退席であった。
「ですって。あなたも大変ね、あんな荒っぽい神様に目をつけられちゃって」
エリカは肩をすくめながら、護堂の安らかな寝顔を見つめた。
「仕方がないから、もうしばらくの間はわたしが守ってあげることにするわ。この貸し、あとできっちりと返しなさいよ?『王』様が相手でも借金の取り立てはきちんとするから、覚悟しておきなさいね、草薙護堂!」
かくして、はじまりの物語は終わる。
神殺しになる運命を力ずくでもぎ取った少年と、その騎士となる少女の出会いの物語。
その幕は下り、これよりはじまるのは、魔王と騎士の巡り合わせが世界に呼び込む騒乱の物語であった。
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終章
七月下旬。まさに夏の真っ盛り。
南イタリアは、五月あたりから半袖で過ごすほど温暖《おんだん》な気候である。
これが真夏ともなれば、その暑さと日差したるや激烈なほどだ。だが、その代わりにマリンリゾートには持ってこいの日ばかりとなる。
「少年よ、何の因果《いんが 》か君がカンピオーネなぞになったあとも忠告したことだが――」
みごとに晴れ渡ったサルデーニャ島の青空。
そして、美しい砂浜と紺碧《こんぺき》の海が目の前には広がっている。
ここは護堂とエリカが春にさんざん駆け回った辺りではない。島の北西部、廃坑《はいこう》になった銀山に程近いビーチであった。
空港のあるアルゲロ市の近所なのだが、ガイドブックにも載《の》らない穴場だという。
今ここには草薙《くさなぎ》護堂《ご どう》と万《ま》里《り》谷《や》祐《ゆ》理《り》、ふたりを招待したルクレチア・ゾラ、さらにエリカ・ブランデッリとその助手兼メイドのアリアンナまでそろっていた。
「君の最大の欠点は、友人を疑おうとはしないところだろう。ひとりの少年としてなら可愛《か わ い》らしい美点だとも言えるが、君は正真正銘《しょうしんしょうめい》の魔王様なのだ。王にして戦士たる存在としては、いかにも不用心。だから、このような目にも遭《あ》う」
えらそうに講《こう》釈《しゃく》しているのは、ルクレチアであった。
懐かしいサルデーニャの魔女。護堂がカンピオーネになる遠因を作った老婦人、ただし見た目は妙齢《みょうれい》の美女だ。
彼女は今、砂浜に敷いたシートの上に寝そべり、優雅に日焼け止めなど塗らせていた。
塗っているのは草薙護堂、その人である。
ちなみに、どちらも水着姿であった。ただし、ルクレチアの方はビキニの上を外して、いわゆるトップレスの格好でしどけなく寝ころんでいる。
彼女のむき出しの背中にオイルを塗る護堂はひどい仏頂面《ぶっちょうづら》で、しかも無言であった。
「追いつめられたときに君が発揮する判断力、決断力はたしかに見事なのだが、もっと深謀遠慮《しんぼうえんりょ》もめぐらすべきだな」
ちなみに付け加えると、ルクレチアの肢体《し たい》はおそろしくグラマーであった。
圧倒的な威圧感すら放つバストといい、だらしない生活の割にくびれたウエストといい、凹凸《おうとつ》の突き出ている部分のボリュームでは、エリカすら凌駕《りょうが》していた。
そもそも身長一六〇そこそこのエリカは、イタリアでは小柄な方だ。
日本の基準では水着グラビアも霞《かす》むほどのスタイルだが、本国ではむしろ華奢《きゃしゃ》な少女らしさの方が目立つ。だが、ルクレチアはそうではない。
一七〇台後半の長身に、爆発的なボリュームの肉体美。
その扇情的《せんじょうてき》な丸みと弾力は、欧米のテレビでよく観るショーガール――いわゆるセクシータレント並みであった。
「まず疑うべきは、狡猾《こうかつ》なエリカ嬢がわざわざ君の警戒心を刺激するような提案をしたことだったのだ。すでにその時点から、陰謀《いんぼう》が始まっていたと考えるべきではないかね? ……こら、手を休めるな。もっとしっかり塗れ」
「ねえルクレチア、そろそろ護堂を返してちょうだい」
講釈するトップレスの美女に、エリカが愉《たの》しげに声をかけた。
黒地に紅《くれない》で摸様を描いたスポーティーなビキニを着て、トランジスターグラマーな肢体と瑞々《みずみず》しい素肌を惜しげもなくさらしている。
「一枚噛んでもらったお礼に護堂を貸しているけど、この旅行の趣旨《しゅし 》はわたしと護堂の関係を発展させることにあるのよ? そろそろいいでしょう?」
「まだだよ、エリカ嬢。最大の功労者は私なのだ。もうちょっと楽しんでもいいはずだぞ」
……草薙護堂と万里谷祐理が、アルゲロの空港に到着した直後。
ふたりを出迎えたのは、ルクレチアとエリカ、そして彼女たちのメイド然として後ろで控えるアリアンナの三人であった。
そう。全てがエリカの手のひらの上で進行していたのだ。
最初に旅行計画を持ちかけ、護堂の警戒心を煽《あお》る。窮《きゅう》した護堂に、すでに話をつけておいた共通の知人に救いの手を差しのべさせる。
そうやって護堂を、真夏のリゾート地などという開放的な場所に飛び込ませる。
ルクレチアと密約を交わしたエリカが描いた計画は、みごとに成功した。
「……護堂さん。招待してくださった恩人が、ああおっしゃっていますよ? もっと懇切《こんせつ》丁寧《ていねい》に、誠意を込めてご奉仕して差し上げたらどうでしょう?」
寝そべるルクレチアに奉仕する護堂へ、祐理が冷ややかな声で告げた。
彼女の水着は青いワンピースで、下の方は裾《すそ》の短いスカートのような形だった。だがそれでも、むき出しの白い肩とほっそりとしたうなじには、清楚《せいそ 》な色香が漂う。
また、隠している部分が多くとも、やはり水着姿。
祐理のスタイルの良さは、十分に見て取れた。ボリュームでこそエリカやルクレチアに一歩も二歩も遅れを取っているが、逆に程よくメリハリが利《き》いていながらも気品に満ちた雰囲気は、彼女たちでは到底持ち得ない美点だった。
「…………ルクレチアさん。これ、そろそろやめてもいいかな?」
祐理から注がれる侮蔑《ぶ べつ》の視線が、護堂には何より痛かった。
空港で彼女らに捕まるなり、このビーチまで拉《ら》致《ち》されてしまった。そして「わざわざ招待したやった恩は体で返せ」と、強制労働まで要求された。
断ったところ、ルクレチアはわざとらしく遠くを見やり、
『……そうか。ま、君も男だからな。私のような老いぼれた女にはそんなサービスはできないか。エリカ嬢や連れの少女のような若い肉体を思う存分|貧《むさぼ》りたいと思うのは道理だ。ふふふ、友達|甲《が》斐《い》のないヤツとは思わぬよ。恩知らずだとも思わない、この色狂いめ。……ちなみに君が私の要求を呑《の》まない限り、これからずっと色狂いと呼ぶつもりなのだが』
などと遠回しに脅迫《きょうはく》されたので、しぶしぶ奉仕活動に取りかかったのだ。
「護堂さん。よろしければ、私が代わって差し上げますよ?」
横合いから言ってくれたのは、アリアンナ・ハヤマ・アリアルディだった。長い名前の彼女は、エリカの助手という触れこみのメイドである。
ちなみに水着の上にエプロンという、ある意味で倒錯的《とうさくてき》な格好をしている。
護堂が「なぜエプロンを?」と問えば「だって、お給仕の際に必要じゃないですか」と即答された。車の運転と煮込み料理さえさせなければ、天然かつ癒《いや》し系の女性なのだ。
「ぜひお願いします、アンナさん!」
「待て、少年。それはいかん。アリアンナも早まったことは言うな」
「あらルクレチア様、それはどうしてでしょう?」
「いやがる少年をかしずかせ、奉仕させる気分はなかなかに心地いいのだ。だから少年、もっと愛情を込めてしっかり励むといい。それに君も悪くない気分だろう? 私のような美女の柔肌に、公然かつ合法的に接触できるのだから」
「……自分のことを老いぼれだって言ったのは、ルクレチアさんじゃないですか!」
護堂は大声で反駁《はんばく》した。
もういいかげん、やめにしたい。次はわたしにね、と横で控えているエリカからも逃げ出したい。何より怜悧《れいり 》な夜叉女《や しゃめ 》のまなざしで静かに見守っている祐理が怖い。
「俺のじいちゃんと同年代のおばあさんに対して、何か思うわけないでしょう! 変な言いがかりはやめてください!」
「ふふふ、口では強がりを言っても体は正直だな。私の背中をまさぐる君の指先が震えているぞ。――どうした、もっと大胆にして良いのだぞ? あ……その調子だ。なかなか上《う》手《ま》いではないか。私の急所が肩だと見抜いたか。そう、そうやってやさしく、ゆっくりと焦《じ》らすようにして――あ……」
妖《あや》しい雰囲気の微妙な声が、ルクレチアの唇から意味ありげに漏れてくる。
たまりかねた護堂は諸手《もろて 》を上げて降参した。
「お願いです。この辺りで勘弁《かんべん》して下さい!」
何はともあれ真夏の海である。
護堂の心労をよそに、やはり遊びにも自然と熱が入る。
地元の人々が集まるビーチサッカーの大会があるらしいと聞き込んできたルクレチアが、突然に参加を表明したりもした。
「べつにかまいませんよ。どうぞ、行ってきてください」
「そうか。じゃあ、君たちもついてくるといい」
当然のように命令するルクレチアに、護堂は頭を振りながら反論した。
「何で、俺たちまで参加しなくちゃいけないんですか?」
「優勝したチームに豪華景品の全自動洗濯機が贈られる大会なんだぞ。身内でチームを組まなくては意味がない。我が家の家電を充実させるためだ、君たちも手伝え!」
「イヤな予感がするからお断りです。この面子《メ ン ツ》でスポーツの大会なんて無理ですよ!」
護堂、エリカ、祐理、アリアンナ、ルクレチアの五人。
最悪のバランスだ。こんなチームが上手く機能するはずないと、護堂は確信した。
「君は愛人のおねだりはさんざん聞いてきたくせに、現地妻は放置するのか!?」
「……誰が、誰の現地妻ですか?」
「私・ルクレチア・ゾラが君・草薙護堂の現地妻だ。知らなかったのか?」
平然とサルデーニャの魔女は主張する。
眉《まゆ》をひそめる護堂へ、祐理が『やっぱり、そうだったのですね!? 信じていたのに!』と言わんばかりのハッとした表情を向けている。本当に勘弁してほしい冗談だ。
「知りません。勝手に決めないでください」
「いや、私も最近カンピオーネの愛人となりおおせて『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』の座を勝ち取ったエリカ嬢のしたたかさに感銘《かんめい》を受けていてな。せっかく都合のよい友人ができたのだから、せいぜい甘い汁を吸わせてもらおうと思ったのだ」
「思わないでください。いい歳《とし》して他力本願でどうするんですか?」
「私はこれでも尽くすタイプなんだぞ。ウソだと思うなら、君の祖父に訊いてみるといい」
「そんな生々しい話はしないでくださいよ!」
結局、ルクレチアの勢いに負けて大会に参戦する羽目になった。
サッカーの大会なら、五人じゃ参加できまいと護堂は踏んでいたのだが、参加者不足のため急遽《きゅうきょ》ビーチフットサルの大会に変更になっていた。
いかにもイタリア流のアバウトなノリで大会ははじまり――。
護堂の危《き》惧《ぐ》は現実となった。
運動|音痴《おんち 》の祐理とアリアンナ、運動能力はありそうだが怠惰《たいだ 》なルクレチア。
この三人は戦力外だ。残るふたりで戦うしかない。
エースとして敵ゴール前に切り込み、単独でも得点できてしまうエリカのために、護堂はひたすら走ってボールを奪い、パスを回す肉体労働者となった。
こんな態勢で勝ち抜けるはずもなく、三回戦での惜敗で大会をリタイアした。
大会終了後、護堂はひとりで砂浜へと向かった。
椰《や》子《し》かソテツのどちらかだと思われる木にもたれかかって、フットサルで疲労|困憊《こんぱい》した体を休める。何となく空を見上げて、木《こ》洩《も》れ日《び》のまぶしさに目を細めた。
思えば、初めて地中海《ちちゅうかい》を見たときから状況は大きく変わったものだ。
神殺しなどという非常識な体質もそうだが、何より――。
「こんなところにいたの、護堂? 探しちゃったわ」
と声をかけながら、すぐ隣に腰かけるエリカの存在だ。
この娘と初めて同じベンチにすわったときなど、あんなに距離が離れていたのに今では――離れているどころか、密着されてしまった。
しまった、油断した――! 護堂は己の不覚を悟った。
膂《りょ》力《りょく》で勝るエリカにこんなポジションを取られたら、もう跳ね返せない。
おまけにただでさえ魅惑的な美少女なのに、今の格好ときたら……!
「エ、エリカ……この体勢はまずいと思う。絶対によくないから、ちょっと離れてくれよ」
「どうして? ようやくふたりきりになれたんだし、チャンスは有効活用しなくちゃ。……それにいつもこんなふうにくっついているじゃない?」
密着どころではない。エリカがしっとりとした声と共に、しなだれがかってきた。
あぐらをかく護堂の足の上にすわり直し、豊かな乳房をぴったりと押しつけてくる。護堂の首に手を回し、頬《ほお》に頬をすり寄せてくる。軽いキスまで耳たぶにしてくる。
「そりゃそうだけど、おまえの今の格好とかさ……」
「あ、どう、この水着? 護堂ったら、わたしから目を逸《そ》らしてばかりで気になってたの。これが気に入らない……なんてことはないわよね? むしろ逆かしら?」
エリカの指摘通りだ。
この美少女が華麗に着こなす衣服にケチをつけるセンスなど、草薙護堂にはない。露《あらわ》になった彼女の素肌があまりに面積が大きく、正視できなかっただけなのだ。
「頼むからやめてくれ! お願いだから!」
自分のボキャブラリーの乏《とぼ》しさを嘆きつつも、シンプルに懇願《こんがん》する。
もちろん効果はなく、逆に押し倒された。
彼女の紅《あか》く濡《め》れた唇《くちびる》が、護堂のそれをやさしく包み込んでしまう。傍《はた》から見れば、海辺でいちゃつく大胆なカップルだ。
「……わたしたち、そろそろシチリアの夜のつづきをしてもいい頃だと思うの。ねえ護堂、わたしはあのとき、あなたに改めて純潔を捧《ささ》げたわけだけど――」
たっぷり一分近く護堂の唇を吸ってから、エリカが濡れた声でささやいた。
「いや、だから、同じベッドで寝るぐらいで純潔がどうとか言うのはな……」
「あら、あのときはそれだけじゃなかったでしょう? ふふっ、わたしも護堂も今より薄着、というより何も着てなかったわけだし。決して大げさな表現じゃないはずよ?」
「……ええと、まあ……それもそうかな」
あのときの一部始終を思い出すたび、いたたまれない気分になる護堂であった。
「でも、あれだ! 今の俺たちは団体行動している途中だしさ!」
「今から個人行動に切り替えればいいのよ。わたしと護堂、ふたりきりで」
一瞬、もう体の力を抜いて、為《な》すがままにまかせようかと諦念《ていねん》が頭をよぎる。
だが護堂は思い直した。ダメだ! それではいけない。
今、一瞬でも抵抗の意欲をなくしたら、あとはズルズルと押し込まれるだけだ! 闘志を強く持って、戦いつづけなければ!
「――護堂さん、それにエリカさんも! こんな日も高いうちから、しかも公衆の面前で何をしていらっしゃるんですか!?」
凛《りん》とした、しかしどこか恥ずかしそうな叱咤《しった 》が割って入ってきた。
差恥《しゅうち》で真っ赤になりながらの祐理の叫びだった。どうやらふたりの不在に気づいて、追いかけてきたようだ。
「べつにいいじゃない。この辺の海じゃ、カップルはみんな似たような感じよ?」
「よ、よくありませんっ。ふしだらです!」
「うーん……じゃあローテーションを組んでみましょうか。一週間のうち、正妻であるわたしが四日。愛人の祐理は二日ね。最後の一日は現地妻|枠《わく》でルクレチアでもいいわ」
「何のお話ですか、それは!?」
眼前の痴態《ち たい》から目を逸《そ》らしつつ問う祐理に、エリカはあでやかに微笑みかけた。
「だから、ローテーションよ。護堂と甘い一時を過ごす順番と日数。わたしも神殺しの『王』をひとりで独占できると思うほど、現実の見えない女じゃないわ。もちろん本音は永遠にふたりきりの方がいいけど、折り合いはつけていかなきゃいけないしね」
「お、おまえなあ、俺を何だと思ってるんだよ!」
この激昂《げっこう》は、全てを見通すかのような魔女の微笑に跳ね返された。
護堂と祐理を意味ありげに眺めながら、エリカは冷笑する。
「あら、護堂の性癖《せいへき》や性格はきちんと計算したうえでの提案よ。護堂ってまともなことを言っても大体は口先だけで、とんでもない真似ばかりするし。ほら、ちょっと目を離した隙《すき》に祐理とも一線を越えているわけじゃない?」
「そ、それはだな……やむにやまれぬ理由が……。仕方がなかったんだよッ」
「え、ええ。やむにやまれぬ理由があったんです……。不可抗力《ふ か こうりょく》だったんですッ」
「ふうん、何だかんだで息も合ってるのね。もしかして、口裏も合わせてたりする?」
声をそろえるふたりを、エリカは憮然《ぶ ぜん》として眉をひそめ、そして――。
「痛い! あ痛たたたたたた、バカ力でつねるのはやめてくれ!」
「エ、エリカさん、やめてくださいっ。そのままだと護堂さんの耳が千《ち》切《ぎ》れてしまいます!」
三つどもえの痴《ち》話《わ》げんかにも似た口論が収まり、しばらく経《た》った頃。
不意に祐理が訊《たず》ねてきた。
「ところで護堂さんからうかがったお話ですと、メルカルトという神格もいっしょに甦《よみがえ》ったのですよね? こちらの神王は一体どうなったのですか?」
……訊《き》かれてしまった。
護堂が敢《あ》えて語らず、このまま口をつぐんでいようと決めていた話を。
「あら、ウルスラグナとの話はしておいて、そっちの結末は話してないの? わたしと護堂が心も体も結ばれたときの、素敵な思い出じゃない。いいわ、わたしが全部教えてあげる。実はね、あのあとシチリアの方で――」
「ま、待てエリカ。その誤解を招くような表現はやめてくれ。頼む!」
「……護堂さん。やましいところがあるので、わざとお話しになられなかったのですか?」
サルデーニャの空はどこまでも青く澄み渡っている。
夏はまだこれからが本番。
騒がしい三人のやりとりも、まだまだこれからが本番であった。
潮騒に乗って届いた、聞き覚えのある声。
「――ほう?」
彼女はひっそりとつぶやいた。
試《ため》しに耳を澄ませてみる。闇《やみ》と大地の支配者たる彼女だが、海とも深い縁を持つ。気まぐれな風と波が力を貸してくれれば、もしかしたら聞き分けられるかもしれない。
結果は成功だった。
「……何だ、あやつか。わざわざ海を越えてまで、何をしに来たのやら」
ほんの数カ月前、彼女に敗北を与えた神殺し。
まだ若く、不敗の軍神より権能を簒奪《さんだつ》した未熟者。だが、荒削りゆえに予測不能な強さも持つ少年。彼の声をかすかに、だがまちがいなく聞いた。
彼女は眼前の海を眺め、微笑した。
触れるだけで肌の切れそうな、刺々《とげとげ》しい岩《がん》礁《しょう》。それらに当たって、荒波が白く砕け散っていく。海風が鳴り、空を往《ゆ》く雲は速い。
この海の向こう――おそらく、どこかの近海に彼はいるはずだ。
「ふん。妾《わらわ》とあやつが再び相まみえるときは、意外に近いと見える」
ゆるやかな微笑が、彼女の口元を彩《いろど》る。
まつろわぬ地《じ》母《ぼ》神《しん》。天と地と冥府《めいふ 》をしろしめす、最強最古の女神の末裔《まつえい》。
銀の髪と闇色の瞳《ひとみ》を持つ、幼い少女の姿をした彼女――まつろわぬアテナは、海に向かって言い放った。
「そのときを待っているがよい、草薙護堂よ。戦うか和するかは知らぬ。だが、妾とあなたがまみえる場所には、必ずや新たな騒乱が生まれよう。――今から愉《たの》しみだぞ!」
天と地と海より読み取った波乱の予兆《よちょう》が、アテナの心をたぎらせる。
数カ月ぶりに荒ぶる戦神としての心に火がつき、彼女は猛々《たけだけ》しく笑いだした。
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あとがき
おひさしぶりです、もしくははじめまして。丈月《たけづき》城《じょう》です。
ようやく本作も記念すべきファーストエピソードが刊行されることになりました。
ですので、このシリーズを三巻で初めて手に取ったあなた。シコルスキーさんの描くツンデレっぽい金髪少女に惹《ひ》かれて手を取ったあなた。
シリーズの途中から買っても……と躊躇《ちゅうちょ》する必要はありません。このまま書店さんのレジまで持っていってしまいましょう。三巻を読了してから一、二巻を読んでも十分間に合います。
もちろん、ごいっしょにお求めいただいても大丈夫です。僕的にはむしろ、そちらがオススメです、はい。
そして既刊をすでに読まれているという、すばらしき皆様。
この三巻は、著者である僕がひそかに予想していた通りの代物《しろもの》となっております。
僕はかねてより、こう考えていたのです。『この物語の設定だと、絶対に第一話だけ毛色のちがうエピソードになるよな!』と(苦笑)。
一、二巻では恒例《こうれい》だった『まじめな性格のはずの主人公による名所《めいしょ》旧跡《きゅうせき》への罰当たりな行為の数々』は今回ございません。……いろんなところがぶち壊されているのはあいかわらずですが。また我らがヒロインであるエリカの言動も、いつものノリとはだいぶ異なります。
やや番外編的な色合いの強い第三巻、お楽しみいただければ幸いです。
さて、いつのまにやらシリーズ化しました本作ですが、設定や世界観に関する質問を受ける機会が最近増えて参りました。
なかでも訊《き》かれる回数の多い質問は、これです。
Q.七人いるらしいカンピオーネのなかには、女子はいないのですか?
主にスーパーダッシュ文庫編集部の担当様から受ける質問です。
わかります。生き馬の目を抜くライトノベル業界、可憐《か れん》なイラストで読者様の関心を惹《ひ》けるキャッチーな女性キャラの存在は、今後の商業戦略に大きく関《かか》わる重要事項です。
個人的にはアサウラ先生に『筋肉《マッスル》刑《デ》事《カ》』を毎月WEB連載して欲しいなとか、藍《らん》上《じょう》先生には男屋さんの出番を増やして欲しいなとか考えている男祭りOKな僕ですが、公私の区別をつけることぐらいはできるのです。だから、こんなふうに回答します。
A.何人かいます。たとえば米国在住のジョン・プルートー・スミスさんとか。
「……思いっ切り、男の名前じゃないですか」
「それはカンピオーネとしての通称です。彼女は人知れず悪の魔術師と戦う、孤高のヒーローなのです。覆面《ふくめん》で顔を隠し、その正体を知る者はほとんどおりません」
「それが何でまたジョン・スミスなんですか?」
「彼女が最初に神様から奪った能力は『変身』です。これには格闘形態とかビースト形態とかいろいろあるのですが、この能力のスタンダードフォームは筋肉ムキムキでタイツに覆面姿の男性形態なんですよ! 闇夜《やみよ 》に現れる謎《なぞ》のマッチョ紳士を人々はいつしかヒーローと認め、あだなで呼びならわすほどになったのです!」
「そこは普通に、男装の麗人《れいじん》にしましょうよ!」
てな感じで『男性形態』→『男装の麗人』などの設定変更も行われたりもしますが、実は七人のカンピオーネの設定はそこそこ決めていたりもします。……まあ、諸般の事情で(主に僕が前に考えた設定を忘れるために)ちょくちょく変わったりするのですが。
あ、ロサンゼルス市在住の米国人女性(職業・正義の魔王、年齢・三〇間近、多忙につき結婚どころか恋人すらいない現状がややプレッシャー、夜な夜なコスプレして街を出歩く習慣あり ※編集部注 この設定は現時点における仮のものです。本編登場時には全く異なる設定かも知れませんが、怒らないでください)を主人公とした本シリーズの外伝をお読みになりたい方は、その旨《むね》をはがき等に熱くしたためて、スーパーダッシュ文庫編集部までお送りくださいませ。
もしかしたら、働く女性の共感を得られる新感覚ライトノベルヒーローが誕生するかもしれません。多分しないと思いますが。
さてさて、第四巻では銀髪の人たち二名が再登場の予定です。
いよいよ夏休みも本番、いつも通りの展開に戻る予定です。宜《よろ》しければ、引き続きお楽しみください。
[#地付き]二〇〇九年二月 丈月城
■しこるすきー
HP:グググググ
http://www.sikorsky.sakura.ne.jp/
■どうも――。
毎度挿絵を担当させていただいております、シコルスキーです。
初めての方ははじめまして、そうじゃない方はこんにちは!
読者の皆様のおかげをもちまして、[#「、」は底本では「,」]このあとがき
(という名目で、単なる自重しない楽描きページに堕してるコーナー)
もどうやら三回目を迎えることができました。
■今回も寝不足の異常な精神状態でラフを切っていたら
やっぱりひどい有様に。
だからこれは僕が悪いんじゃないんです。
…そう、全部睡眠不足が悪いんDA!
…ホントデスヨ?