カンピオーネ! U 魔王来臨
丈月城
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)註釈《ちゅうしゃく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|神殺し《カンピオーネ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)恋人[#「恋人」に傍点]
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目次
序章
第1章 好日ならざる日々
第2章 嵐の前に風は凪ぎ
第3章 魔王来臨す
第4章 王たちは話し合う
第5章 狩りの時
第6章 汝、闇より生まれ光を成す
第7章 風よ、雨よ、狼よ
終章
[#改丁]
序章
【クロアチア、ダルマチア地方に伝わる民話と、賢人議会による註釈《ちゅうしゃく》より抜粋】
ある日、ブタの王さまのお城に、悪いオオカミが入り込もうとしました。
「やあ、こんな立派なところに来るのはひさしぶりだ。かわいいブタさんや、お願いだから、どうかぼくをここに入れてくださいよ。何もひどい真似《まね》はしませんよ」
「いいえ、とんでもありません。欲しいものは何でも差し上げますから、お引き取り下さい」
お城の外から猫なで声で頼むオオカミに、ブタの王さまは答えました。
かしこい王さまは、オオカミが約束を守ったりはしないとわかっていたのです。
「欲しいものなんかありません。ぼくはただ、お城に入りたいだけなんですから。入れてくれないのなら、もっとべつのやり方で遊ばせてもらいますよ?」
「やめてください、やめてください! 他のことなら何でもいたしますから!」
泣きながら頼むブタの王さまを無視して、悪いオオカミは大きく息を吐き出しました。
すると、何ということでしょう。オオカミの息はつむじ風になって、ブタの王さまのお城を吹き飛ばしてしまったのです。たくさんのレンガで造ったお城は、綿《わた》のように飛んでいってしまいました。
つむじ風はそのまま大嵐になって、お城のまわりにある全《すべ》ても吹き飛ばしました。
「ほら、ぼくが言った通りでしょう? おとなしくぼくをお城に入れていればよかったのですよ。これにこりたら、二度とぼくに逆らってはいけませんよ?」
と、悪いオオカミはブタの王さまにニコニコと告げたのでした。
〈註釈〉いわゆる『三匹の子ブタ』の原型となった『狼《おおかみ》と山羊《やぎ》』『狼と子豚《こぶた》』物語の派生型と見受けられる民話である。だが、この説話の成立についての大胆な仮説が存在する。
一八五四年、魔王デヤンスタール・ヴォバンが悪名高い嵐の権能《けんのう》――『疾風怒濤《シュトルム・ウント・ドランク》』によって、ダルマチアの港町ヤーデルを壊滅《かいめつ》の手前にまで追い込んだ。この惨劇の記憶が長年語り継がれてきた民話に影響を与えた可能性について、一部の研究者が言及しているのだ。
【欧州魔術師名鑑――ヴォバン、サーシャ・デヤンスタールの項より抜粋】
『ヴォバン侯爵《こうしゃく》』と呼ばれる彼だが、決して高貴の出ではない。
おそらく一八世紀の前半、現代で言うハンガリーの近辺で誕生した彼は、生後まもなく天涯《てんがい》孤独の身となったという。その日のパンを得るのにも困窮《こんきゅう》し、各地を転々と放浪する生活を十数年もつづけた少年は、ある日、神殺しに成功しカンピオーネへと成り上がる。
カンピオーネとは殺害した神が所有していた『権能』を我がものとする者である。魔術師からは『王』と呼ばれ、畏怖《いふ》される存在だ。
だが、この頃の彼はまだ『侯爵』ではなかった。
それから数年後、近隣を治める領主であった侯爵の居城を襲った彼は、侯爵の地位と領土までも簒奪《さんだつ》する。結局、この身分は数年で飽きて放り出すのだが、今もつづく彼の称号――ヴォバン侯爵の由来となったのだ。
尚、家名のヴォバンは、彼独特の笑えないユーモアが生み出した名である。
自《みずか》ら追い落とした前侯爵が〈ヴォバン〉なる猛犬を飼っていたと知った彼は、自らの家名もヴォバンと定めた。そして、前侯爵には己《おの》が親族――つまり、かつての飼い犬の世話係を命じたのである……。
【騎士リリアナ・クラニチャール、ブカレストにて『王』との謁見《えっけん》を果たす】
どこの国にでもありそうな、高層ホテルのスイート。
豪奢《ごうしゃ》で快適ではあったが、魔王の宮殿と呼ぶにはあまりに平凡な室内で、その『謁見』は行われていた。
部屋の主の名はサーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。
世界中の魔術師たちから王、魔王と畏怖されるカンピオーネのひとりだった。
彼らは皆、『権能』と呼ばれる絶大な魔力の所有者である。それらは全て、この魔王たちが自ら殺《あや》めた神々から奪い取ったものなのだ。
「――君がクラニチャールの孫娘か。四年前にも会っていたはずだが、君の顔には見覚えがないな。……ああ、物覚えの悪い老いぼれだと思わないでくれ。君たちの年代は成長が早すぎるのだよ。私でなくとも、似たようなものだろうさ」
彼の声は明晰《めいせき》で、知的ですらある。
容姿もそうだ。広い額《ひたい》と、深く窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》を持ち、顔色はひどく青白い。どこかの大学で教鞭《きょうべん》を執《と》っていると言われれば、誰しも納得するだろう。
銀色の髪は綺麗《きれい》になでつけられ、ひげも丁寧《ていねい》に剃《そ》り上げられている。
「無理もございません。あのときのわたしはまだ小さく、侯とお会いした時間も一〇分とありませんでした。どうか、お気になさらぬよう――」
リリアナ・クラニチャールは儀礼的に返答しながら、騎士の礼を取った。
膝《ひざ》をつき、右手を胸に当てる。
ホテルのスイートで行う挨拶《あいさつ》としては、ひどく異例だろう。しかし『王』と相対した以上、騎士たる者には相応の礼を尽くす義務がある。
――魔術結社〈青銅黒十字《せいどうくろじゅうじ》〉に所属するリリアナは、まだ一六歳。
妖精《ようせい》を思わせる端正な顔立ちは、可憐《かれん》さよりも凜々《りり》しさの成分の方がやや強い。銀褐色《ぎんかっしょく》の長い髪をポニーテールにしてまとめている。
しかし、彼女は若くとも大騎士の称号を持つ魔術師だった。
世界各地から逸材《いつざい》の集まるミラノでも、彼女に比肩《ひけん》しうる才能は宿敵〈赤銅黒十字《しゃくどうくろじゅうじ》〉のエリカ・ブランデッリしかいない。
「それは結構。さて、知っているとは思うが、私は気短な性分でね。さっそく本題に入らせてもらおう。君をわざわざミラノから呼び寄せた理由についてだ」
緑柱石《エメラルド》の色の瞳を、ヴォバンはわずかに細めた。
この邪眼《じゃがん》が輝くとき、視線の先に立つ生者《せいじゃ》は塩の固まりと化す。ケルトの魔神バロールから簒奪《さんだつ》したといわれる権能であった。
――『ソドムの瞳』『貪《むさぼ》る群狼《ぐんろう》』『疾風怒濤《シュトルム・ウント・ドランク》』『死せる従僕《じゅうぼく》の檻《おり》』。
彼が所有するという権能の数々を、欧州の魔術師で知らぬ者はいないだろう。
「四年前の儀式を忘れてはおるまい? 『まつろわぬ神』を招来《しょうらい》する大呪《たいじゅ》の儀《ぎ》――あれだ。君たちに協力してもらったあの秘儀を、もう一度試みてみようと思っているのだよ」
リリアナはまじまじと、魔王の顔を見つめ返した。
すくなからぬ犠牲を出した、あの大魔術。あれほど危険な儀式をふたたび試みようとするのはなぜか? 一瞬だけ疑問に思い、すぐにリリアナは気づいた。
|神殺し《カンピオーネ》が神を招来する。戦うため以外に理由などあるものか。
「あのときは、サルバトーレめにしてやられた。招来された神を横取りし、先に手をつける痴《し》れ者がいるとは予想していなかった。まさか、あんな若造が世に出ていたとは思ってもいなかったからな!」
つまらなそうにヴォバンは言い、邪眼の虹彩《こうさい》を揺らめかせる。
四年前にイタリアから登場した若き魔王《カンピオーネ》サルバトーレ・ドニが、欧州の魔術界にその名を轟《とどろ》かせた事件。古き『王』の獲物《えもの》を奪う、神殺しの顛末《てんまつ》。
あの場に居合わせたリリアナは、その一部始終をよく覚えていた。
「あと三月《みつき》もすれば、『まつろわぬ神』を呼び出すに足る星の配列、地脈の流れが四年ぶりに整うらしい。私はその種の知識には疎《うと》いのだが、詳しい者に確かめさせた。――そうなのだろう、カスパール?」
いきなりヴォバンが、愉《たの》しげな視線をリリアナの背後に向けた。
――ぞくり。
背後に不気味な悪寒《おかん》と、そして何者かの気配を感じてリリアナは焦《あせ》った。大騎士である自分の背後を取るとは、いったい何者なのだ!?
あわてて振り向き、嘆息した。
背後にたたずんでいたのは、黒衣《こくい》をまとった老人だった。ヴォバンの問いに、老人はぎこちなく、油の切れた機械仕掛けのようにうなずいてみせた。
蒼白色《そうはくしょく》の顔に表情はない。目にも光がない。ひどく虚《うつ》ろで、焦点も合っていない。
死相。
そうとしか言いようのない顔色の老人は、動く死体そのものだった。
(――これが『死せる従僕』たち!)
老王の権能のひとつを、リリアナはすぐに思い出した。
自《みずか》ら屠《ほふ》った人間を、|生ける死者《リビングデッド》としてこの世にとどめ置き、忠実な従僕として絶対服従させる。
何とむごい。リリアナはそう思わずにはいられなかった。
この死人はおそらく、徒人《ただびと》でありながら魔王に抗《あらが》い、立ち向かった魔術師のひとりなのだろう。並の勇気でできる真似ではない。敬意すら覚える。
だが、この権能はそんな勇者の死を汚し、尊厳をおとしめる。
名門クラニチャール家の血を引き、魔術結社〈青銅黒十字〉に所属するリリアナに、魔王への反抗は許されない。そうでなかったら、今すぐ立ち去りたいところだ。
……いや。
イタリアの魔術師が盟主と仰《あお》ぐサルバトーレ・ドニさえ万全《ばんぜん》の状態であれば、彼の庇護《ひご》を恃《たの》み、それもできたかもしれない。だが、今は無理だ。
二カ月前の負傷が癒えたばかりの彼に、カンピオーネ相手の抗争はまだ早いだろう。
「クラニチャールよ。君は、四年前に私が集めた巫女《みこ》のひとりであった。あのとき、最もすぐれた巫力《ふりょく》を見せたのは誰か、覚えているかな?」
神を招来するために、王の強権で集められた数十人の巫女たち。儀式を終えたあと、彼女たちの三分の二が正気を失い、心に深い傷を負ったという――。
リリアナは幸運にも、無事であった方の三分の一に属していた。
「あのときは、量よりも質が重要だと思い知らされた。有象無象《うぞうむぞう》を集めるよりも、飛び抜けて優れた巫女を選《え》りすぐり、そろえるべきだったとな」
エメラルドの邪眼が、面白げにリリアナを射抜く。
まるで、彼女が抱いた叛意《ほんい》を見抜きでもしているかのように。
「たしか東洋人だったか? あの娘の名と素性《すじょう》を、覚えていないかね?」
この一瞬、リリアナはためらった。
正直に答えるべきか、否《いな》か。あの少女に降りかかる危険を考えれば、もちろん後者だ。だが、自分ひとりがここでとぼけても、魔王は他の者から聞き出すだけだろう。
ならば、誇りある騎士として取るべきは前者となる。
この件に敢《あ》えて深く関《かか》わり、無用な犠牲《ぎせい》は出させないように力を尽くす。持ち前の正義感にまかせて、リリアナは決意した。
「名はマリヤ。日本人、それも東京《とうきょう》の出身だと申しておりました。――僭越《せんえつ》ながら、わたしにお命じいただければ、彼女を探し出し、御前に連れ出してみせますが」
頭《こうべ》を垂《た》れながら、申し出る。だが返答は、予想外のものだった。
「もっとよいアイデアがあるぞ。私がこの足で、日本に往《ゆ》こうと思うのだよ。ふむ、考えてみれば久しぶりだな、海を越えるのは」
「カンピオーネたる侯が、御自《おんみずか》ら?」
「私にも、異国の空気を吸いたくなるときぐらいある。よいではないか? 老い先短い老人が、つかのまのバカンスを楽しみたいと言っているだけだぞ」
笑えないユーモアを交えた意思表明で、魔王は女騎士の反論を封じ込んだ。
「だが、供の者はいた方がたしかに便利だな。君にその役を命じよう。異論は?」
あっても口に出せるわけがない。
受諾するリリアナを、ヴォバンは満足そうに眺めつつ言った。
「では、一時間で準備を済ませ給《たま》え。一秒たりとも待たぬので、そのつもりでいてくれ」
「承知いたしました。が、その前にひとつ宜《よろ》しいでしょうか? 日本には侯の同胞たる御方がいらっしゃいます。先にお話を通された方が良いのではございませんか?」
草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》。古代ペルシアの軍神ウルスラグナを倒してカンピオーネとなった少年。
かの軍神が変化《へんげ》したという一〇の化身を操り、リリアナのライバルである紅《あか》き騎士を愛人として侍《はべ》らせているらしい。
だが、最古参の魔王は鼻で笑い、この進言を退けた。
「その必要はなかろう。話をしたいのであれば、そやつの方から参ればよいだけだ」
……暇をもてあました魔王の気まぐれ。
これが草薙護堂と東京を巻き込む大騒動へ発展するのは、もうすこし先の話である。
[#改ページ]
第1章 好日ならざる日々
この頃、草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》は以前よりも四〇分ほど早く家を出る。
もともと朝は早起きしてランニングをする習慣があったので、このために起床時間を早める必要もなかった。代わりに、走る時間は夜に変更となったが。
もう六月も終わりに近い。雨の降りつづく梅雨《つゆ》の日々が、半月以上も続いている。
だが今日は、ひさしぶりの晴天だった。玄関でスニーカーを履《は》き、何日かぶりに傘を持たずに家を出る。――その寸前に、背後から声をかけられた。
「お兄ちゃん、おはよう。今日も早いんだね……また、あの人のところに寄るの?」
可愛《かわい》らしい声のはずなのに、妙な凄《すご》みがある。
振り向けば、妹の静花《しずか》が冷笑を浮かべながら玄関に立っていた。
「毎朝毎朝、金髪の恋人[#「恋人」に傍点]のところに顔を出して、いっしょに登校? ほんと、お兄ちゃんにそんなマメさがあったなんて驚きだよね」
「あー……誤解しないで欲しいんだけど、エリカは恋人なんかじゃないぞ」
兄のささやかな反論を、妹はフンと鼻で笑い飛ばした。
「ああ、そっか。お兄ちゃんは万里谷《まりや》さんとエリカさんを両天秤《りょうてんびん》にかけているんだもんね。……まったく、どっちが本命なんだか。まさか、両方とか言わないでよね!」
「変なうわさを鵜呑《うの》みにして、俺を女たらしみたいに言わないでくれよ」
「だったら、変なうわさが立たないように行動してよ。……大体さ、女友達が寝坊するからって、その娘《こ》の家まで毎朝起こしに行くなんておかしいじゃない。変! そんなの目覚まし時計があれば済む話でしょう!」
まさしく静花の言う通り。
深く護堂はうなずいた。同時に、エリカ・ブランデッリという少女の特異性をどう説明したものか、困り果てた。
――エリカと同じ教室へ通うようになって、すでに一カ月。
彼女が朝、ホームルームがはじまる前に教室へやってきたのは初日だけだった。
以降は連日の遅刻つづき。ホームルームの途中で現れれば、まだいい。
ひどいときは一時間目、もしくは二時間目の授業中に悠々《ゆうゆう》と教室へ入ってくる。しかも、同級生と教師の注目を集めながら、悪びれもせず朝の挨拶《あいさつ》をしてみせるのだ。
『――みなさん、おはよう。今日も早いのね。……あら、護堂ったら怖い顔して、どうしたの? ああ、わたしの顔を見るのが遅くなって不機嫌になってるのね。ごめんなさい、わたしも愛《いと》しいあなたと早く逢いたくて急いできたんだけど、こんな時間になってしまって……許してくれる?』
いけしゃあしゃあと妄言《もうげん》を吐《は》きながら護堂のそばへ寄ってきて、頬《ほお》に頬をすり寄せるイタリア式の愛情表現、とどめに挨拶代わりのキスまでしようとする。
クラス中から突き刺さる視線が、護堂には痛かった。
(特に男子のものが。あれが刃物だったら、数千の肉片になるまで切り刻まれたはずだ)
密着してくるエリカを必死に押しのけながら、護堂は決心した。この女をまともに登校させる。そのためには多少の犠牲も仕方ない、と。
結果、エリカの部屋を訪ねて、いっしょに登校するのが日課となったのである。
……もしかして、あいつと必ず朝を共にするようにハメられたのだろうか、俺? などと多少の疑いを抱きつつも。
皮肉っぽいまなざしで見送る妹を振り切り、護堂は家を出た。
エリカが新居をかまえたマンションは本郷《ほんごう》通《どお》り沿いにあり、徒歩で五分ほどの距離だ。一二階建ての一〇階に、彼女たちの住む2LDKはある。
いつものように、護堂はエントランスのインターフォンで訪問先を呼び出した。
『はい、どちらさまでしょう?』
「おはようございます、アンナさん。草薙です」
『あら護堂さん、毎朝ご苦労さまです。どうぞ、お上がりください』
明るく快活なソプラノは、インターフォン越しでも耳に心地よい。
エントランスをくぐり、エレベーターで目当ての階まで上がる。厳重なオートロックで守られたマンションへの出入りは、簡素な一軒家に慣れた護堂にはやや敷居が高かった。
エリカの部屋の前でチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「おはようございます。さ、どうぞどうぞ」
出迎えてくれたのは、アリアンナ・ハヤマ・アリアルディであった。
魔術結社〈赤銅黒十字〉に所属する魔術師見習い。そして、大騎士の称号を持つテンプル騎士エリカ・ブランデッリの助手兼お世話係(要するにメイド)だ。
彼女は2LDKの小さな方の部屋に住み込み、全ての家事を担当しているのだ。
「今日はいい天気でうれしくなりますね。最近、曇《くも》りか雨ばかりでお洗濯ものも乾きが悪くて、困っちゃいますし」
さわやかに微笑《ほほえ》みながら、護堂を招き入れるアリアンナ。
一九歳だという年齢よりも幼く見える顔立ちは、すばらしく聡明《そうめい》で有能そうだ。……ただし、極めて残念な事実だが、彼女は『人は見かけによらない』の典型例である。
「ところでアンナさん、エリカのヤツ、今日こそは起きていますか?」
リビングに通された護堂は、早々に切り出した。
エリカが自力で起床するはずないとは思うものの、淡い期待をしてみたのだ。
「一応、さきほど声をおかけはしたのですけど……。ちょっと寝室の方を見てきますね。あ、よかったら、お待ちの間カプチーノでもいかがですか? もしおなかがお空さでしたら、ゆうべ作ったスープなんかもありますけど」
可憐《かれん》な百合《ゆり》の花がほころぶような笑顔で、アリアンナは言う。
見るだけで心が和《なご》みそうな、不純物ゼロの笑み。こんなふうに笑える女性が、人を陥《おとしい》れたり、不幸にしたりするわけがない。
そう思いたい護堂だったが、ちらりと台所のコンロに載《の》った圧力|鍋《なべ》を見やった。
……イヤな予感がする。
これは多分、先入観のせいなのだろう。だがもしかすると、危険を察知するカンピオーネの直感が警告しているのかもしれない。避けられる危険は避けるべきだ。
「朝飯はもう家で食べてきましたから……。スープの方は遠慮しておきます」
無難な回答を口にする。
もちろん食べ盛りの一〇代男子である護堂の胃袋には、二度目の朝食ぐらいペロリと収める余裕はある。だが、徹底的に煮込んでいそうなアリアンナ特製の一品はべつだ。
……ひと月前、初めてこの部屋を訪ねたとき。
女主人であるエリカとその客である護堂に、アリアンナは手料理を振る舞ってくれた。
手作りだというパスタにクリームチーズソースをからめた料理や、スライスしたチーズやハム、サラミを野菜といっしょに載せたバゲット、新鮮な魚の刺身《さしみ》を使ったカルパッチョなど、どれもすばらしく、心から満足できるものだった。
ただし、最後に出された深皿入りのスープを除けば、だが。
「わたし、今ダイエットしているから。この辺でやめておくわ」
と、急にフォークを置いたのは、さんざん飲み食いしていたエリカだった。
彼女は細身だが、食べる量は並の男を凌駕《りょうが》する。
らしくない言いぐさを不審《ふしん》がりながらも、妙に赤みがかった色のスープを受け取った護堂は、一口すすり――。
……自分でも、よく最後まで食べきったものだと思う。
日本語には『名状《めいじょう》しがたい』という、説明を放棄《ほうき》するような形容詞がある。
あの味がまさにそれだった。
名状しがたい味。甘い辛《から》い酸《す》っぱいしょっぱい苦《にが》い等、既存の表現だけでは間に合わない、どんな材料をどう調理したのか全く想像できない代物《しろもの》。
思わずエリカに視線を向けたら、にんまりと人の悪い笑顔を返してきた。
(前に言ったじゃない。アリアンナの煮込み料理には気をつけろって)
(そ、そういえば……。でも、一言警告してくれたっていいだろうが!)
涼しい顔で食後のエスプレッソを飲むエリカに、脂汗《あぶらあせ》を流しながらアイコンタクトで文句をつけたものである。
このときの教訓を活《い》かし、今朝の護堂はカプチーノだけ頂戴した。
ごく真っ当なシナモンの甘味に安堵《あんど》しながら、主人の部屋へ向かったアリアンナの帰りを待つ。……彼女はすぐに戻ってきた。
「申し訳ありません、護堂さん。エリカさまは一度目を覚まされたのですが『今朝《けさ》は王子様のキス以外で起きる気はないの。早く護堂を連れてきて……』と言い残して、また――」
エリカの二度寝を、気の毒そうに報告するアリアンナ。
護堂はしかめ面《つら》になった。
もちろん、あの少女がかんたんに起きてくれるとは思っていなかった。自宅からモーニングコールをしても、途中で通話を切るようなヤツなのだ。
やはり、寝室に乗り込んで叩き起こす以外の手は通用しないか。
「あいつは毎朝毎朝、人に迷惑ばかりかけさせやがって――」
つぶやきながらリビングを後にし、エリカの寝室に突入する。
この家の女主人は、ベッドの上で毛布にくるまり、安らかな寝息を立てていた。
「こいつ、本当に二度寝してやがる……」
呆《あき》れる護堂の視界に、室内の様子が入ってくる。
一〇代の女子が暮らす場所とは思えない、書物と骨董品《こっとうひん》めいた品々に満ちた部屋だ。
ファッション誌やペーパーバックに混じって、英語やイタリア語、ラテン語、中国語など多様な言語で書かれた古書まで本棚に収まっている。CDもMP3プレーヤーもないくせに、おそろしく年季の入っていそうなレコードプレーヤーがあったりもする。
整理整頓《せいりせいとん》が行き届いているのは、主人の功績ではない。
おそらく、アリアンナが掃除しているおかげだろう。この予想を裏付けるように、ベッドの下には昨夜脱いだとおぼしき衣服が自堕落《じだらく》に散らばっている。
Tシャツとショートパンツ、それに面積の小さな水色の布きれがひとつ、ふたつ――。
この一組の布きれは何なのか?
イヤな想像にたどり着いた護堂は、そちらを見ないように注意しながらベッドへ近づいた。
「なあエリカ、そろそろ起きないと遅刻するぞ。いい加減にしろって」
少女の体を揺すって、起こそうとする。
剣豪小説の武芸者は近づくだけで目を覚ますが、この天才剣士にして魔術師にそんなデリケ――トさはない。本人|曰《いわ》く「殺気のあるなしで変わるわよ……多分」らしい。
「……もうすこし寝かせて。昨日、四時過ぎまでブルース・リーのビデオを観《み》てたから眠いの。お願い、あとでキスしてあげるから。いいでしょ、護堂――」
と、エリカは目を開けないまま答えた。
このイタリア人少女は、意外にも偉大なるカンフースターのファンなのだ。もっとも、今時ビデオというのはツッコミどころかもしれない。
「よくない。学校がある平日なのに、そんなもの観てたおまえが悪い。諦《あきら》めて起きろ。土日だったらドラゴン三部作の一気鑑賞にでも付き合ってやるから、ほら」
「ブルースだけじゃヤ。ジェット・リーもいっしょならいい……」
眠そうにまばたきしながら、エリカがつぶやく。
どうやら覚醒《かくせい》に向かいつつあるらしい。護堂はさらに声をかけた。
「ジャッキーでもチョウ・ユンファでも付き合うから、起きろって。学校に行くぞ」
「んー……もう、護堂の意地悪。このわたしを無理やり起こそうなんてする男の子は、あなたぐらいよ……。起きてあげるから、おはようのキスを頂戴《ちょうだい》……」
いつも自信たっぷりで覇気《はき》に富むエリカだが、寝起きの時だけはべつだ。
子供っぽい、甘えるような話し方になる。
それをあしらいながら、護堂は彼女がくるまる毛布を引きはがそうとして――硬直した。白いうなじと、むきだしの背中が露《あらわ》になったからだ。
こちらに背を向ける格好で寝ていたため、幸い正面は見えない。
だが、腰からお尻《しり》にかけての芸術的なカーブを描いている部分が見えそうになってしまったため、護堂はあわてて毛布をかけ直した。
「エ、エリカ。……おまえ、ちゃんと服着てるか?」
「着てるわよ〜。裸で寝る趣味なんかないし……あ、寝苦しくなって、明け方頃に脱いだかも。……でも大丈夫、香水はつけてるから。……なんか昔の女優みたいね、これ――」
むくりと、エリカが起きあがる。
同時に、何も身につけていないのは明らかな上半身から、毛布がすべり落ちかける。彼女の豊かな胸の谷間と、さらにその下が露《あらわ》になろうとする。
落ちそうな毛布を、護堂はとっさに押さえた。
「エリカ、服着ろ! 頼む! お願いだから、まず服を着てくれ!」
「んー……じゃ、着させて。タンスの下から二番目の引き出しに、下着がいろいろ入ってるから、護堂の好みで選んでいいわよ……」
必死に言い聞かせる護堂に、エリカはにこりと笑いかけてきた。
いつもの小悪魔めいたそれとはちがう、あどけない無邪気《むじゃき》な笑顔。寝起きのせいか、狡猾《こうかつ》な魔女のスパイス分が圧倒的に少ない。
その新鮮さにドキリとさせられながらも、護堂は懇願《こんがん》をつづける。
「バカ言うなッ。自分で選んで自分で着ろって!」
「あいかわらず甲斐性《かいしょう》なしねー。じゃ、昨日着てたのでいいから取ってー。ベッドの下に落ちてない?」
「や、やっぱりあれは下着かよ。男の目につくところに、そんなの放置するなッ」
「護堂はいいの。あなたは特別。べつに裸だって見せてもいい人なんだから」
「よくない。全然よくないっ。ア、アンナさん、すいません、エリカのヤツに服を着せてもらえますか! 早く、早く来てください!」
とんでもないことを口走るエリカに、焦《あせ》る護堂。あらまあ、と穏やかに微笑みながら駆けつけてくるアリアンナ。
草薙護堂の最近の朝は、おおむねこのような感じであった。
城楠《じょうなん》学院《がくいん》高等部、一年五組。
ここが護堂《ごどう》とエリカの教室である。ついでに、席も隣同士だ。
本当は、もっと離れた場所にエリカは座る予定だった。しかし転入初日、彼女はいきなりやらかしてくれたのだ。
一カ月前の、朝のホームルーム。
イタリアからの留学生として、完璧《かんぺき》な日本語による自己紹介。
その後、窓際《まどぎわ》の席が自分の定位置だと教えられたエリカは、フフンと尊大《そんだい》に微笑《ほほえ》んだ。そして、つかつかと護堂の座る席に歩み寄るなり、いきなり宣言したのだ。
「まず最初にご説明しておきます。わたし、エリカ・ブランデッリにはもう将来を約束した人がいます。それがこの人、草薙《くさなぎ》護堂なのです。――ふふっ、これからは毎日いっしょにいられるわね、護堂♪」
などと口走りつつ、護堂が逃げる前にすばやく抱きつき、頬《ほお》にキス。
十分警戒していた相手を見事に捕まえてみせる、おそるべき早技だった。しかも、そのあとで朗々《ろうろう》と演説をはじめたのだ。
愛し合うふたりは、片時も離れるべきではない。
故《ゆえ》に自分たちの席は隣同士にすべきであり、そのために協力をお願いしたいと。
「わたしが座るべき場所は、草薙護堂の隣以外にありえません。愛し合うわたしたちを助けると思って、このわがままをお許しいただけませんか?」
そんな問いかけをするエリカに、護堂はつくづく呆《あき》れた。
――いや、それはいくら何でも無理があるだろう。そう諫《いさ》めようとして、絶句した。
いきなり周囲の生徒たちが席を立ち、エリカの要求をかなえるために席替えをはじめたのだ。担任教師も文句を言わなかった。
……あのときのエリカは、催眠術《さいみんじゅつ》か、その類《たぐい》の魔術を使っていたはずだ。
こうしてふたりは隣同士の席になり、ついでにクラス公認の関係にもなったのだ。
「さ、護堂。わたしたちも昼食にしましょうか。今日もアリアンナがサンドイッチを持たせてくれたわよ」
昼休みを告げるチャイムが鳴ると、楽しげにエリカは言った。その直後、護堂はおびただしい殺気で全身を貫《つらぬ》かれた。
――草薙のヤツ、またかよ! 毎日毎日見せつけやがって!
――くそッ、おれたちのエリカちゃんは、何であんなヤツと!
――この憎しみが凶器になるなら、ぼ、僕はあいつを殺せるッ!
――どうやら貴様には、地獄すら生ぬるいようだな……。
「なあエリカ、たまには他の女子といっしょに飯を食べるのもいいんじゃないかな? 俺は学食にでも行くからさ」
無言のプレッシャーに気圧《けお》された護堂は、そんなことを言ってみた。
日を追うごとに、周囲の男子から放たれる黒いオーラが強大化していく。
嫉妬《しっと》、憎しみ、嫌悪《けんお》、殺意、敵意。負《ふ》の想念《そうねん》を数値化できる計測器があったら、この教室でどれだけの数字をマークすることだろう。
「何言ってるの。女の子とだって十分うまくやってるわよ。みんな、わたしたちのこと応援してくれてるから、野暮《やぼ》は言わないわ」
あっさりとしたエリカの答えに、そうだったと護堂は嘆息《たんそく》した。
エリカ・ブランデッリの政治力・交渉力は、実に恐るべきものだった。
彼女は決して、誰にでも人当たりのいい人間ではない。事実、護堂に対しても出会ったばかりの頃は、やたらと尊大で冷淡な態度であった。
しかし、その気になれば誰とでも上手《うま》くやれる外交家なのだ。
圧倒的な美貌《びぼう》と名家の息女《そくじょ》として身につけた優雅《ゆうが》さ、人を惹《ひ》きつける話術、迎合《げいごう》はしないが波風も立てない社交術、自分を特別な存在として印象づけるカリスマ性。
そんな資質の持ち主が本気を出せば、日本の高校生など敵ではない。
あれだけ好き放題やりながら、たいして陰口も叩《たた》かれないエリカの立ち回りように、護堂は感心しつつも呆れている。
……問題は、それほどの少女が特定の男子への好意を隠しもしないことだ。
女子は好意的に(もしくは苦笑気味に)黙認してくれるが、男子は怒りと憎しみと羨望《せんぼう》を思い切り護堂へ向けてくる。その重圧たるや、かなりのものだった。
「でも、そうね。たまには外で食事をするのもいいかもしれないわね。今日は天気もいいし、中庭にでも行きましょうか。あそこのベンチなんか、いいんじゃない?」
「すまん、それだけは勘弁《かんべん》してくれ。教室で食べよう」
笑って提案するエリカに、護堂は即答した。
中庭は高等部だけなく、中等部の生徒まで通りがかる場所だ。昼休みは特に人が多い。そんな人目につくところで目立つ行為をするのは、何としても避けたい。
「じゃ、いつもどおりってことね。飲み物を買ってくるわ。何にする?」
「お茶。甘くないヤツ」
一日おきに交代で飲み物やパンを買い出しに行くことは、ふたりの間の約束事だった。
当番のエリカを送り出してから、護堂はテーブルセッティングをはじめた。
弁当といっしょに入っていたナプキンを広げ、その上にハムや冷肉、野菜をはさんだバゲットサンド、オリーブの実が入ったプラスチック容器、丸ごとのリンゴなどを置く。
アリアンナが用意してくれた、欧風《おうふう》のランチだ。
ちなみに転入当初、昼食の飲み物にワインかシャンパンを買いに酒屋へ行こうとしたエリカを叱《しか》りとばしたのは、記憶に新しい出来事である。
「……何か用か、高木《たかぎ》?」
後ろの席にすわる男子が何か言いたげだったので、問いかけてみた。
護堂《ごどう》も背は高い方だが、この高木はさらに大きい。一八五センチ近くある。たしか剣道部に所属していたはずだ。
「草薙《くさなぎ》、おまえにいいことを教えてやろう。今までオレたち五組の男子は、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》なおまえの横暴に対して、怒りと憎しみを蓄《たくわ》えながら堪《た》え忍んできた……」
「……すまん。でも、傍若無人なのは俺じゃなくて、エリカの方だと思う」
「くそっ! おまえときたら、いつもそうだ! 自分は突っ立ってるだけで、エリカさんの方が勝手にいちゃついてくるとか王様発言しやがるヤツなんだッ。――いいか、そんなおまえに対して、オレたちは緊急措置を取ることにした」
決然と高木が言う。
何だろう? 彼――否、護堂を見つめる他の男子生徒の目にも、確固たる意志がみなぎっている。まるで、相打ち覚悟でクロスカウンターを狙《ねら》うボクサーのようだ。
「緊急……措置?」
「そうだ。オレたちは毒をもって毒を制すッ。おまえがオレたちに男の義理を果たさないのなら、相応の手段で反撃するまでよ! ……実はな、さっき隣のクラスに伝令を送り込んだ」
「何で隣に……って、まさか!?」
「くくく、気づいたか。だが、もう遅い。この手はオレたちにもダメージがあるから、今まで避けてきたんだが――おまえを苦しめるために、オレたちは敢えて苦難の道を往く!」
悲壮感たっぷりに高木が言い放った直後、彼女[#「彼女」に傍点]は来た。
一年六組、万里谷《まりや》祐理《ゆり》。
妹・静花《しずか》の茶道部での先輩であり、日本の呪術界を代表して護堂に目を光らせる武蔵野《むさしの》の媛巫女《ひめみこ》である。彼女は五組の出入り口をくぐると、まっすぐにこちらへ向かってきた。
「……草薙さん。すこしお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「い、いいけど、何?」
エリカと並び学院|随一《ずいいち》と評判の美少女が、凜《りん》としたまなざしで問いかけてくる。
彼女の美しさは、山間《やまあい》にひっそりと咲き揃《そろ》う桜の可憐《かれん》さだ。あでやかに、驕慢《きょうまん》に咲き誇るような真似《まね》はしない。
あくまで控えめで、そのくせ観《み》る者を魅了《みりょう》してやまない深みがある。
「こういう注意をするのが、筋ちがいだというのは承知しております。私はクラスもちがいますし、風紀委員というわけでもありませんし……。でも、このクラスのみなさんにあなた方をどうにかしてほしいと頼まれて、見過ごせずにやって参りました」
「そ、そう……」
理路整然《りろせいぜん》と語り出す祐理の前で、恐縮する護堂。この美しい巫女さんが、どうも苦手なのだ。お説教モードに入られると、ついかしこまってしまう。
「聞けばお昼休みのたびに、草薙さんはエリカさんとその……いちゃつく、というのですか? 慎《つつし》みに欠けるような親密さでお話をされたり、遊んだりされているのですよね? ここは学校のなかです。もっと時と場を選ぶべきだと思いませんか?」
「いちゃついてない! いっしょに昼飯を食べているだけだって!」
「見え透《す》いたウソをついてはいけません。それだけで、五組のみなさんが涙を流すほど悩むはずありませんもの。……さっき、私のところにいらした方がおっしゃっていました。『草薙くんは僕たちカノジョのいない男子をバカにするように、毎日エリカさんといちゃついています。僕たちが注意しても、ちっとも改めてくれません』と、涙ながらに」
義憤《ぎふん》に燃える祐理がお説教する、その背後。
クラスの男子たちは、追い込まれる護堂をニヤニヤと人の悪い笑顔で眺めていた。その邪悪な表情が、彼らの想《おも》いを言外に告げていた。
――ククク、計算通り。草薙め、やはり万里谷さんには逆らえないようだな。
――でも、あんな猿芝居《さるしばい》にだまされて、わざわざこっちの教室に来るなんて……。やっぱり、万里谷さんも草薙のことを!?
――くそっ、許せねえ。何であいつばっかり、いい目に遭《あ》うんだよ!?
――うらやましいッ。『男子なんて興味ありません』な万里谷さんに、オレもあんなふうに意識されてえ! お説教されてえ!
――お、見ろ。エリカちゃんが帰ってきたぞ! これからが本番だ!
「あら、祐理? お昼に来るなんて珍しいわね」
ウーロン茶とオレンジジュースの紙パックを持ったエリカが、教室に戻ってきた。
「いっしょに食事でもする? わたしと護堂の楽しいひとときを邪魔《じゃま》しないのなら、追い払ったりしないわよ」
「生憎《あいにく》ですが、私はおふたりの邪魔をするために、ここに来たんです」
エリカと祐理が静かに、そして強い意志を持って対峙《たいじ》する。
このふたり、どうも相性がよくないらしい。いつものように護堂がエリカにからかわれていると、居合わせた祐理が文句をつける。
初顔合わせ以降、何度もそんな光景が繰り返されている。
……問題は、その多くが学校で発生し、かなりの数の高等部&中等部の生徒に目撃されていることだった。
「おお、愛人対|正妻《せいさい》の一騎打ちだ!」「これで草薙も年貢《ねんぐ》の納め時だぜ!」「それにしても草薙のヤツ、いつのまに万里谷さんと仲良くなったんだ」「バカ、決まってんだろ。ふたりは幼なじみなんだよッ」「あれか? 万里谷さんが草薙のことを意識しつつも自分の想いに気づいていなかったところに、イタリアから来たエリカちゃんが割り込んできたのか!?」「日本の正妻である万里谷さんと、金髪の愛人エリカ様の二択……究極《きゅうきょく》の選択だな」
とまあ、このような誤解を生む原因になったのである。
国籍のせいか、祐理の方が護堂と先に知り合っていたと思われているようだ。事実は逆なのだが、先入観というものはおそろしい。
「……なんだか騒がしいですね」
「……言いたいことが山ほどあるのはわかったから、とりあえず場所を変えないか? 屋上とか、人目のつかないところにさ」
憶測話で盛り上がる周囲に眉《まゆ》をひそめる祐理へ、護堂は申し出た。
この場で落ち着いて話をすることは、もう不可能だろう。エリカへ目配せする。さすがは相棒。すぐに飲み込んでくれた。
机の上に広げていた食料を、彼女はナプキンで手際《てぎわ》よく包み直す。
キョトンとしている巫女さんの手を引き、教室の外へと向かう護堂。
「え?」と驚きながら引っぱられていく祐理。そこへ足早に続くエリカ。
――最近、のんびり食事も取れやしない。
ぼやきたくなりながら、護堂は先陣を切って教室の外へ飛び出していった。
昼休みの屋上はそれなりに混んでいた。
数人のグループが何組かおり、お弁当を食べていたり、ボール遊びをしていたりと結構にぎわっている。ただ教室とちがい、護堂《ごどう》たちに注目が集まらない。
「最初から、こっちに来ればよかったなー。ひさしぶりに落ち着けそうだ」
「おふたりとも普通にお昼を食べていれば、いつでも落ち着けるはずです。他人のせいにしてはいけませんよ」
適当な場所を選んで腰を下ろす護堂に、あいかわらず祐理《ゆり》は手厳しい。
ちなみに、彼女も途中で六組の教室に寄って、自分の弁当箱を取ってきている。
「でも今日は天気もいいし、やっぱり外は気持ちいいわね。かえって良かったんじゃない?」
大らかに言いながら、エリカがバゲットサンドをかじりはじめた。
ちなみに、アリアンナは彼女の分も護堂の分も同じ量を用意している。小柄な体格の割に、エリカはよく食べるのだ。
「……ところで、草薙《くさなぎ》さんとエリカさんは普段どんなふうに食事をされているんですか?」
祐理の弁当箱は、いかにも女子らしい小さなものだ。
箸《はし》の持ち方、使い方が美しい。子供の頃のしつけが良かったのだろう。
「俺は普通にしているよ。エリカがからんでくるから、いろいろ言われるんだ」
「からむとか言わないでほしいわね。……ほんと、護堂って変わってるわよね。このわたしといっしょに食事をしたいって男の子は山ほどいるのに」
ため息まじりに言うエリカを、護堂はうらめしい思いで見つめた。
実はこれまでも、ふたりの食事に交ぜてくれと割り込んでくる連中は何人もいたのだ。そのたびに追い払ってきたのは、彼らのお目当てであるエリカ当人であった。
……女子が相手だと、角が立たないよう断り方にも気を遣《つか》う。
この辺り、エリカは非常にそつがない。
しかし男子に対しては、まったく容赦《ようしゃ》しない。簡潔に『邪魔《じゃま》だから、しばらく離れていてもらえる?』と、優雅《ゆうが》な微笑と共に告げるだけだった。
「自分が人気者だって自覚してるなら、その女王様っぷりをどうにかしてくれ……。おまえが好き放題する分、矛先《ほこさき》が俺に向けられるんだぞ」
しみじみ護堂が愚痴《ぐち》っても、エリカは軽やかに笑うだけだった。
「いいじゃない? その代わり、わたしの愛情を独占できるんだから。収支は大きくプラスになっているはずよ」
「……おまえの自信が、うらやましくてたまらないときがあるよ」
「ですが、草薙さんが毅然《きぜん》と対応されていれば、そうおかしな事態にはなっていなかったようにも思えます。まずご自分がしっかりされるところから、心がけてください」
ぼやいているところに、祐理がちくりと言ってきた。
あ、うん、とつい首をすくめてしまう。
当たり前のことを指摘されるせいか、彼女の言葉にはどうも反論できない。ツッコミどころの多いエリカとは、大ちがいだ。
「あ、そうだ。護堂、例の件だけど、そろそろ認めてくれてもいい頃じゃない? 具体的には今日、学校が終わったあとでもかまわないわよ」
「例の件……家に連れていけって話か」
いきなりエリカが言い出したので、護堂は頭を抱えたくなった。
転入直後から草薙家を訪問し、家族に挨拶《あいさつ》したいと事あるごとに要求されていたのだ。
「そういえば、以前もおっしゃっていましたね。まだ諦《あきら》めていなかったのですか?」
「もちろん。将来に備えて、護堂の家族はきっちり取り込んでおきたいもの」
計算高そうなセリフを明るく、快活に言ってみせるのは、エリカの得意技だ。
この言いぐさに、祐理は眉《まゆ》をひそめた。
「静花《しずか》さん、エリカさんの話を聞いて、すごく警戒しているようですよ。お兄さまにこんな女性が近づいているのだから、無理もありませんが……」
妹の静花は、同じ学院の中等部三年生。
金髪の留学生との仲が校内でうわさになってしまったため、すでにふたりの関係は知られてしまっている。が、直接引き合わせるのは、家庭内の平穏のためにも避けたい。
「あのな、俺の家に行ったって面白いことないだろ?」
「面白くなくてもいいの。恋人の家族と顔を合わせて、公認の仲になることが大切なの」
と主張するエリカに、護堂はすかさず言い返した。
「恋人じゃないっ。公認されるような仲でもない!」
「…………そう。じゃ、仕方ないわね。妹さん、この学校にいるのよね。中等部三年二組、出席番号は9、席は廊下《ろうか》にいちばん近い列の前から二番目」
朝の子供っぽい仕草とは真逆《まぎゃく》の、不敵な魔女の横顔。
エリカの口元に浮かぶ微笑が、彼女の意地悪さを浮き彫りにしていた。……護堂を追いつめ、困らせることが心底|愉《たの》しいのだ。
「大学で民俗学の教授をされていたおじいさまは、六年前に引退。今は悠々自適《ゆうゆうじてき》の生活で、家事全般を受け持たれているわね。お母さまの仕事場はたしか、湯島《ゆしま》の――」
「お、俺の家の事情を、何で細かく知っているんだよ?」
「護堂が紹介してくれないから、ちょっと調べてみたの。やっぱり、いきなり訪ねていって挨拶《あいさつ》するのも変だから、会わせてくれるのをずっと待っていたんだけど。……でも、自分から行動を起こさなきゃいけない時ってあるわよね」
エリカが迫るのは、二者択一だ。
自分のいないところで好き勝手に自己紹介させるか。家に連れていって、自分も立ち会ったうえで家族に引き合わせるか。どちらを選ぶ? そう問いかけているのだ。
「くっ、あいかわらず手段を選ばないヤツだな……」
護堂は歯がみした。リスクの少ない選択肢を選ばせる、いつもの手だ。
勝利を確信し、フフンと勝ち誇るエリカのすまし顔が腹立たしい。何とか一泡吹かせられないものか? ――そうだ、まだ手はある。
傍《かたわ》らにいる、もうひとりの少女。
眉《まゆ》をひそめる彼女の端正《たんせい》な顔を、護堂は正面からのぞき込んだ。
「なあ万里谷《まりや》。今日の放課後、時間はあるか? もし都合がよかったら、俺の家に来てくれないか。こいつ――エリカといっしょに」
誠意を込めて、拝《おが》み倒す。祐理はキョトンとした顔で、護堂を見つめ返した。
「わ、私が草薙《くさなぎ》さんのお宅に、ですか?」
「ああ。聞いての通り、エリカを家に連れてかなくちゃいけないんだけど、俺じゃこいつを抑《おさ》えられないから、できればお目付役になってくれないかなって――」
「そうですか……。そういう事情でしたら、かまいません」
ちらりとエリカを見ながら、祐理はうなずいてくれた。
「たしかに、エリカさんだけをご家族に引き合わせるのは危険そうですものね。男性のお宅へいきなりお邪魔するのは正直気が引けますが、そういう事情なら仕方ありません。お引き受けいたします」
「ありがとう、万里谷!……ということでかまわないよな、エリカ?」
反撃に成功した護堂はフフンと笑い返す。
エリカはすこし感心したように微笑み、面白いと言わんばかりにうなずいた。
「護堂……あなた、その程度の小細工でわたしを止められると思っているの? この『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』も見くびられたものね」
「ふん。いつまでもおまえの好きにばかりはさせないから、覚悟しておけよ」
このときの護堂は、自分が掘った墓穴の深さにまだ気づいてはいなかった。
はて、自分は何かまちがいを犯《おか》したのだろうか?
妙にいらだった様子の静花《しずか》を眺めつつ、護堂《ごどう》は首をかしげた。
ひとりだけ連れてきたら確実に抑《おさ》えきれないエリカを牽制《けんせい》するため、祐理《ゆり》の助力を願う。理にかなった戦術だと思う。――なのに、この居心地の悪さは何だ?
授業が終わったあと、護堂とエリカ、そして祐理は連れ立って草薙《くさなぎ》家へと向かった。
城楠《じょうなん》学院《がくいん》から十数分ほど歩き、文京区《ぶんきょうく》根津《ねづ》の商店街に到着。
そこにある休業中の元古書店が、草薙家の家屋《かおく》だった。護堂はふたりの少女を連れて、居間へと入っていった。
「おかえり、お兄ちゃん。ねえ、聞いて。おじいちゃんが今日の晩ご飯、手巻き寿司《ずし》にでもしよう――か、だって……。いっしょに、お買い物に……」
「ああ、おかえり。今日はきれいなお客さまを連れてきたね?」
すでに学校から帰宅していた静花と、祖父・草薙|一朗《いちろう》が出迎えてくれた。
半日|経《た》って機嫌を直したのか、妹は明るく話しかけてきた――のだが、途中でどんどん尻《しり》すぼみになっていった。
祖父は泰然自若《たいぜんじじゃく》として、孫の連れてきた少女ふたりに微笑《ほほえ》みかけた。
「……ええと、何て言うか、いろいろあって友達を連れてくることになったんだけど」
「ふうん。いろいろ、ねえ?」
とつぶやいてから、静花は部活の先輩である祐理にぎこちなく会釈《えしゃく》した。
兄と先輩、そして金髪の来客を眺める目が、やけに冷たい。
「こんにちは、万里谷《まりや》先輩。そちらの方はお兄ちゃんと仲良しのエリカさんでしょ? 知ってるよ……いろいろ[#「いろいろ」に傍点]聞いてるから」
「こんにちは、静花さん。前にお電話でお話しさせていただいたことがあったわね? はじめまして、おじいさま。今日は突然お邪魔《じゃま》して、ごめんなさい。わたし、どうしても護堂のご家族とお話ししてみたかったんです。許してくださいね?」
よそ行きの淑女《しゅくじょ》めいた微笑と共に、エリカが挨拶《あいさつ》する。
こういう振る舞いをするときの彼女は、完全無欠のお嬢さまに見えるから不思議だ。
「ほほう。……ま、とにかく座りなさい。今お茶を用意してくるよ」
こうして、一同は草薙家の居間に集まったのである。
大きな卓を囲んで、護堂の右にはエリカ、左には祐理がすわる。正面には険しい目つきの静花がおり、その隣で祖父がにこやかに微笑んでいる。
なぜか『仕方のないやつだな、おまえは』と苦笑されているような気がする。なぜだ?
「そちらの君も、護堂の友達ということでかまわないのかな?」
不意に、祖父が祐理に水を向けた。
エリカよりも口数の少ない彼女に、気を遣《つか》ったのだろう。
「はい、万里谷と申します。今日はぶしつけに押しかけてしまい、申し訳ございません。実は静花さんと同じ、茶道部に所属しております」
「じゃあ、静花の先輩でもあるわけだね。護堂と仲良くなったのも、それが縁で?」
ていねいな祐理の挨拶にうなずいた祖父が、何気なく訊《たず》ねる。
これを受けて意地悪く答えたのは、静花であった。
「それが、あたしは無関係なんだよね。お兄ちゃんと万里谷さん、いつのまにか仲良くなっていたの。お休みの日にふたりでこそこそ、あたしに隠れて会うくらいだからね」
なんとなく自分の犯したミスに、護堂は気づきはじめた。
そうか、戦術的には正しい判断でも、戦略的にはベストでない場合もある。味方として連れ込んだ祐理が、敵(妹)の戦意を大幅に強化させるとは予想外だった。
……いや。失敗と判断するのはまだ早い。
戦意が向上しても攻撃対象がふたつに増えた分、かえってやりづらくなるはずだ。
「エリカさんとも、いつ知り合ったのか謎《なぞ》だし。前に電話でおしゃべりしたときは、日本語がお上手《じょうず》だから外国の人だなんて思わなかった。……エリカさんとお兄ちゃん、ものすご〜く仲いいんだよね? 学校中のうわさになってるよ」
静花がその矛先《ほこさき》を、エリカにも向ける。二方向への攻撃がはじまった。
ここからが正念場だと、護堂は即座に言い返す。
「たしかにエリカとは仲がいい方だと思うけど、それだけだって。静花にだって仲のいい友達ぐらい、何人もいるだろ」
「すくなくともあたしには、転校初日に婚約宣言するような友達はいないけどね」
兄の反論を強引にスルーして、エリカの様子をうかがう静花。
金髪の魔女があることないこと主張しても、自分の無実をきちんと主張しなくては。そう決心しつつ、護堂も彼女の発言を待ち受ける。
……エリカは、フッと憐《あわ》れむように微笑してみせた。
自分に勝てるつもりなのかと挑発されたみたいで、護堂はイヤな気分になった。
「わたしと護堂のことが、うわさなんかになってるんだ。なんだか照れくさいわね」
「うわさのネタを作っている本人が言っても説得力ないぞ。いつも嫌がる俺を無理矢理巻き込むのはエリカじゃないか!」
「もう、そういうこと言わないでよ。……いつも無理矢理じゃないんだし」
すっとエリカが手を伸ばしてくる。
まずいと思ったときには、もう遅く――。卓の上に乗せていた護堂の右手が、しっかりとエリカの左手に包み込まれてしまった。
速かったわけではない。
むしろ緩慢《かんまん》とした、優雅な動き。それなのに護堂は手を引けなかった。
……剣の達人がゆっくりと打ち込む竹刀《しない》を、腕に覚えのある猛者《もさ》たちが誰もかわせない。そんな逸話《いつわ》を思い起こさせる、エリカの妙技だった。
「ほら。口ではいろいろ言っても、ちゃんと応《こた》えてくれるし。護堂って本当に素直じゃないわよね。でも、そういうところも可愛《かわい》くて好きよ」
氷点下よりも温度の低そうな、静花の目。
その先にはもちろん、仲睦《なかむつ》まじげに握り合わされた手と手がある。
「ち、ちがうッ。かんちがいするなっ。エリカのヤツはすごいバカ力だから、この手を振りほどけないんだ! 手をつなぎたくて、こうしてるんじゃないぞ!」
「うわ、お兄ちゃん最低。いくら何でも、その言い訳はないって」
エリカの白い手から自《みずか》らの右腕を引き抜こうと、護堂は全力を振り絞っている。
だが、この金髪の悪魔は涼しい顔で易々《やすやす》と押さえつけ、それどころか愛《いと》しげに護堂の手のひらをなで、親密そうに指をからめてくる。したい放題だ。
護堂はつくづく、この女に魔性の力を授ける魔術が恨《うら》めしくなった。
いっそ立ち上がり、全身の力を振り絞って、このつかみ技から脱出を図ろうか?
……いや、ダメだ。
前に似たような状況でそれを試したら、重心を崩されて床に引き倒された。そのまま寝技に持ち込まれて、いいようにもてあそばれた。この魔女はそういうとき、抜群のプロポーションを惜しげもなく、そして意図的に押しつけてくるのだ。
「エリカさんッ。悪ふざけをされるのも、いいかげんになさって下さい!」
響く一喝、護堂はほっとした、やはり彼女に来てもらって正解だったと、勇気づけられる。
「静花さん、それとおじいさまに、私から事情をご説明させていただきます。とても信用しがたい、虚偽《きょぎ》に満ちた言い訳に聞こえるかもしれませんが、エリカさんと草薙さんは男女のおつきあいをされているのではございません」
凜《りん》とした祐理の声が、実に頼もしい。
清澄《せいちょう》な鐘《かね》の音を聞きでもしたかのように、静花も先輩の顔を注視する。
「この間、草薙さんは私に対して宣誓《せんせい》してくれました。――自分はエリカさんと決してつきあってはいない。この誓約が偽《いつわ》りだったとしたら、殺されても文句は言わない、と。私は、あのときの草薙さんの言葉に嘘《うそ》はなかったと信じています。いえ、信じたいのです」
……ひと月前、アテナを追い払った直後。
エリカとの不健全な関係を断ち切れとさとす祐理に対し、いや、愛人じゃないからと護堂は何度も主張。しまいには命を懸《か》けた誓いまでしてしまった。
この甲斐《かい》あって、どうにか祐理は護堂の言い分を認めてくれたのだ。
「たしかに、おふたりの関係はひどく不健全な、いやらしいものに思えます。ですが、エリカさんのはしたない誘いにたぶらかされながらも、草薙さんはギリギリの一線で踏みとどまっているとおっしゃるのです」
祐理の弁護がつづく。……いや、これは弁護なのか?
「この人は常識家みたいなことを普段さんざん言うくせに、いざとなると無茶ばかりしますし、周りの迷惑も考えなくなります。本当に仕方のない、でも、嘘は言わない人です。約束も、できる限り守ろうとしてくださいます。結果的に守れてないときが多いですけど」
隣でエリカが、声を殺してクスクス笑い出した。
彼女の力がゆるんだので、急いで護堂は右手を引き抜いた。だが、なぜだろう? ちっともピンチを脱した気がしない。
「エリカさんの慎《つつし》みに欠ける求愛を拒否するなら、草薙さんはもっと毅然《きぜん》とした態度で接するべきです。毎朝起こしにいったりするのはどう考えても甘やかしすぎですし、しょっちゅう体をくっつけ合って、正直見るに堪《た》えません。とても合格点をあげられるレベルではありませんが、ギリギリ身の潔白《けっぱく》を認めてあげてもいいとは思います。……不本意ではありますが」
ここでようやく、護堂は自分の犯したミスが何かを明確に悟った。
援軍を呼ぶ発想はまちがっていなかった。言葉を飾らず、どこまでも誠実に物事を語ろうとする祐理が、このケースの援軍にふさわしいか否《いな》か。問題はそこにあったのだ。
「どうでしょう? 草薙さんとエリカさんは、おつきあいされているわけではないと、ご理解いただけたでしょうか?」
真摯《しんし》なまなざしで問う祐理に、静花はうなずいた。
ついでに兄の方には、軽い侮蔑《ぶべつ》と皮肉に満ちた視線を向けてくる。
「はい。このふたりがどんな関係なのか、今の説明で大体なんとなく。……ま、それでもツッコミどころはやたらと多いようですけど」
護堂とエリカ、そして祐理を、静花は皮肉っぽく眺めながら言う。
「でも、いちばんのツッコミどころはですね、どうしてウチのバカ兄貴がそんなことを万里谷さんに誓ったのか、なんです。……万里谷さんと兄はどういう関係なんですか?」
「え!? ただのお友達……ですよ? それ以上でも、それ以下でも――」
まさか神様殺しの魔王と、日本の呪術師《じゅじゅつし》を代表する媛巫女《ひめみこ》だとは説明できまい。
まじめ一辺倒の祐理に、そこをごまかすアドリブはやはり無理だった。
「ふうん。さっきのお言葉、まるで奥さんか古《ふる》なじみの恋人みたいでしたけど。正妻と愛人……そっちのうわさは、本当だったんだ。お兄ちゃん、やるじゃない? おじいちゃんと死んだおばあちゃんみたいな感じで、いい雰囲気《ふんいき》だよ?」
「な!? 何をおっしゃるのですか、静花さん!」
「い、言うに事欠いて、じいちゃんといっしょにするなよ……」
妙にやさぐれた感じの静花に言われて、祐理は狼狽《ろうばい》し、護堂は顔をしかめた。
いくら何でも、祖父と比べられたくはない。
「おじいさまとおばあさま? それって、どういうこと?」
興味|津々《しんしん》の体《てい》でエリカが訊《たず》ねると、静花はおおげさにため息をついた。
「草薙家の男子は代々、ひどい遊び人が多いんです。死んだあとに何人も隠し子が現れたご隠居《いんきょ》とか、芸者遊びがひどくて身代《しんだい》つぶした商家の若旦那《わかだんな》とか、お坊さんなのにお妾《めかけ》さん囲っていたりとか。ここ二〇〇年ばかり、本当にろくでなしばかりが揃っているんです」
静花はちらりと、隣でお茶をすする祖父を見やった。
……途中から口をはさまず、空気のように同席するだけだった祖父・一朗は、やわらかな微笑で孫娘の視線に応えてみせた。
「ははは、よくないな静花。ご先祖さまのことをそんなふうに言うものじゃない。……ま、全部まちがっちゃいないがね」
「で、その血筋のなかでも、近年|稀《まれ》に見る逸材《いつざい》がおじいちゃんだったんだよね。遊び人ってだけじゃなくて、女の人の方から近寄ってきて、次々と誘いをかけてくる、みたいな。幼なじみだったおばあちゃん、悪い虫を追い払うのにすっごく苦労したんだって?」
孫娘の追及に、祖父はフッと笑って首を横に振った。
「さて、どうだったかな? 僕も若い頃は人並みに女性とおつきあいもしたけど、奥さんと結婚してからは彼女一筋だったよ」
と、軽くウインクしてみせる。
ごく常識的な返答をしながらも、『おいおい、野暮《やぼ》は言わないでくれよ』と言外《げんがい》に告げている。役者のちがいを痛感させられる所作だった。
「で、このおじいちゃんの若い頃にそっくりなのが、うちのお兄ちゃんだって評判なんです。親戚《しんせき》も、古くからの知り合いもみんな言います。顔と、まじめなこと言うくせに無茶ばかりするところが瓜《うり》二つだって。……女性関係の方も、順調に似てきてるんだね」
「濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だ! 大体、じいちゃんと俺は似てないっ。性格、全然ちがうだろ!」
護堂の反論を、静花は肩をすくめて無視した。
おまけに、祐理も祖父と孫をちらちらと見比べて「言われてみれば、たしかに……」と腑《ふ》に落ちた顔をしている。エリカまで、何やら感じ入ったふうにうなずいている。
「いや、だから顔よりも肝心なのは性格だって、この場合」
「たしかに性格はちがうけど、行動が『すごく似てる』って評判なんだからね。おじいちゃん、若い頃は一見まじめそうに見えて無茶苦茶だったって。お兄ちゃんもそうでしょ?」
我が身をかえりみて、護堂は反論を呑《の》み込んでしまった。
南イタリアのサルデーニャ島で軍神ウルスラグナを倒したのは、今年の春。
この古代ペルシアの神様には、一〇の化身――強風、雄牛、白馬、駱駝《らくだ》、猪《いのしし》、少年、鳳《おおとり》、雄羊、山羊《やぎ》、そして戦士に変身する特性があった。
ウルスラグナに勝った護堂は、望みもしないのにその力を奪い取ることになってしまったのだ。それ以来、神様や魔王と戦ったり、世界遺産をさんざん破壊したり……。
たしかに無茶苦茶だ。身に覚えがありすぎる。
「さ、おしゃべりは一度中断して、そろそろ夕飯の準備をはじめようか。今夜は手巻き寿司でもひさしぶりに作ろうかと思ってね。もう酢飯《すめし》の仕込みは済んでいるんだ」
不意に、祖父が立ち上がった。
このまま話をつづけても埒《らち》があかないと思ったのだろう。
「魚屋の桜庭《さくらば》さんにはさっき電話して、いいネタを選んでもらっている。護堂と静花は、ふたりで受け取りに行ってくれ。ああ、ふたり分を追加してもらうのも忘れないように」
エリカと祐理に、人好きのする笑みを向けながら祖父は言う。
「君たちもいっしょでかまわないだろう? せっかく来てくださったんだから、これぐらいはさせてもらわないとね。もちろん、門限の時間や他に用があるなら、話はべつだ」
「いいえ。ぜひご相伴《しょうばん》させていただきますわ、おじいさま」
畳《たたみ》に横座りしているくせに、優雅に一礼してみせるエリカ。
そのやりとりを見て、意外と相性のいい組み合わせなのかもと、護堂は感心した。祖父とエリカ、どちらも社交術に関しては全く隙《すき》がないふたりだ。
そして、残る祐理は――。
「わ、私は……いきなりお邪魔して、お食事までご馳走《ちそう》になるだなんて、ご迷惑じゃ……」
「かまわないよ、じいちゃんはこういうのが好きなんだ。大勢集まって、手料理を食べてもらって、ついでに酒を飲んでって」
ためらいを見せる彼女に気を遣《つか》い、護堂は声をかけた。
だが、この誘い文句には問題があったようだ。最後の一言に祐理はひどく驚いた。
「お、お酒、ですか!?」
「あー……さすがに今日はないと思うけど。そうだよな、じいちゃん?」
「ダメかい? 僕と護堂だけなら問題ないだろう。エリカさんもきっと大丈夫じゃ――」
その昔、中学生の孫にすこしずつ酒の味を覚えさせ、『無茶な飲み方をされて急性アルコール中毒になったら困るからね』とうそぶいた不良老人は、やはり言うことがちがう。
エリカが目を輝かせて賛同しかけたので、護堂はすばやく叫んだ。
「頼むから、今日は飲むのをやめてくれ。エリカのヤツも飲み出すとザルなんだ!」
「あら護堂、適度のアルコールは健康にも友情にもいいのよ?」
「ちょっとお兄ちゃん。今の話、何? それって、ふたりでお酒飲んだことがあるって意味じゃないの! 詳しく事情を説明しなさい!」
「そ、そういえば、たしかに。草薙さん、どういうことなんですか!?」
うかつな発言で投下された、新たな燃料。
そこへ追い込みをかける静花と祐理。どこ吹く風のエリカ。
そして祖父は、窮地《きゅうち》に立つ孫へ微苦笑を向けている。その表情に『まだまだ修行が足りないな、おまえは』と言われた気のする護堂であった。
「今日はごちそうさまでした。皆様にも宜《よろ》しくお伝え下さい」
「悪かったな、万里谷《まりや》。無理言って来てもらったのに、こんな時間まで引き留めちゃって」
万里谷|祐理《ゆり》が草薙《くさなぎ》家を辞したのは、夜の八時すぎだった。
玄関口で別れの挨拶《あいさつ》をすると、見送りに出てくれた護堂《ごどう》がすまなそうに謝ってくれた。
「いいえ。私もとても楽しかったですし、そんなふうにおっしゃらないでください」
「そうか。なら良かったよ。……じゃ、また明日な」
「はい、また明日。失礼いたします」
微笑する護堂とうなずき合い、ていねいに頭を下げてから、祐理は玄関を出た。
――結局、静花《しずか》たちとの面談のあと夕食をご馳走されることになったのだ。エリカと護堂が飲酒などしないように目を光らせながら、おしゃべりと食事でよく口を動かした。
友達が多いとは言えない彼女が、こういう時間を過ごすのは珍しい。
ていねいすぎる口調や立ち居振る舞いが人を遠ざけてしまうのか、同年代の女子や男子から遊びに誘われたりすることはほとんどなかった。
忌避《きひ》されているのではないが、明らかに浮いている。馴染《なじ》めていない。
本人もうすうす自覚しているため、そういう輪に自《みずか》ら飛び込んでいったりもしなかった。
さきほどの食卓でも、いちばん口数が少なかったのは祐理だった。
それでも、居心地はまったく悪くない。
エリカは話題も豊富で、護堂だけでなく、彼の祖父や妹、時には祐理を相手に次々とおしゃべりしていく。その話しぶりに押しつけがましさはなく、相手のリズムを尊重《そんちょう》して、軽やかに会話を楽しんでいる。
もともと口数の多い方ではない護堂は、会話よりも食事に集中力を傾けていた。
唯一《ゆいいつ》の若い男子だけあって、かなり旺盛《おうせい》な食欲だった。だが、適度に話の輪に入りつつ、手と箸と口をおおいに動かしていた。
同じ部活の静花とは、ある程度気心が知れている。あまり気を遣《つか》わなくてもいい。
ホスト役の草薙家の祖父は、なかなかに気配りの細かい人だった。なるほど、若い頃は女性に人気だったというのもうなずける。
「やあ、祐理さん。見つかってよかった、探していたんですよ。お願いですから、携帯電話ぐらい持ってくださいよ。仕事で緊急の連絡が必要なときだってあるんですから」
祐理が最寄り駅の根津《ねづ》駅を目指して商店街を歩いていると、いきなり呼びかけられた。
声の主はくたびれた背広姿の青年――甘粕《あまかす》冬馬《とうま》。
日本の呪術師《じゅじゅつし》を管理し、怪力乱神にまつわる全《すべ》ての情報を統制・改竄《かいざん》する組織〈正史《せいし》編纂《へんさん》委員会〉のエージェントだ。
「携帯電話、ですか? すいません、今まで欲しいと思ったことがなかったもので。……ですが、どうして私がここにいるとご存じだったのですか?」
祐理の質問に、甘粕は微苦笑で応《こた》えた。
「たまたま近くまで来ていましてね。電車に乗る前の祐理さんをつかまえられないかと思って、ちょっと待っていたんですよ。ご自宅にお電話したら、学校近くのお友達の家に寄られていると教えてもらえましたので」
「そうでしたか……。ところで今日は、どういったご用件なのでしょう?」
そういえば、遅くなりそうだったので草薙家の電話を借りて家に連絡を入れていたのだ。
納得した祐理は、改めて訊《たず》ねた。
「実は頼み事があったんですよ。でも今日はもう遅いから、明日とかどうですかね?」
「大丈夫ですけれど、今ここで済ませてもかまいませんよ?」
「いえ。ちょっと場所を移動しなくてはいけない用件なので、明日にしておきましょう。なに、祐理さんなら軽い仕事です。ルーマニアだかクロアチア辺りから流れてきたとかいう魔導書が見つかりましてね、本物かどうか、パッと鑑定していただきたいなと」
軽い調子で不謹慎《ふきんしん》なことを言う甘粕に、祐理はため息をついて注意した。
「甘粕さん、私の霊視は何でも『視《み》える』ほど便利なものではありませんよ。何もわからないときだって多いのですから」
友達がすくないのは、この口うるさい性分のせいでもあるのだろう。
そう思いつつも、正史編纂委員にあるまじき不見識をたしなめる。
霊視の呪力とは、決して万能の解析力《かいせきりょく》を意味しない。神が気まぐれにささやく天啓《てんけい》を厳粛《げんしゅく》に受け取るだけの、とても不確かで当てにならない力なのだ。
「そんな、ご謙遜《けんそん》を。魔術の本場イングランドでも東欧《とうおう》でも、祐理さんを上回る霊視術師はいなかったと聞いていますよ。あなたでダメなら、他の誰でもダメだって諦《あきら》めもつきます。軽い気持ちでかまいませんから、協力してくださいよ」
しかし、甘粕はヘラヘラ笑って取り合わなかった。
これ以上は言っても無駄かと諦め、祐理は依頼を承諾することにした。これは要請の形を取った指令であり、余程の理由がなけれは拒否できない。
「承知いたしました。明日の放課後でよろしければ、ご協力いたします」
「ありがとうございます。……ところで、学校の近くのお友達の件ですが。もしかして、草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》氏のお宅にでもいらっしゃっていましたか?」
いきなり甘粕が話題を変えてきた。
呪術や神と縁深い者がカンピオーネと接触することを警戒でもしているのだろうか?
「はい。……あの、もしかして何か問題でも? 私としては、もう十分に関《かか》わってしまっている以上、草薙さんと距離を取る意味はあまりないと判断しているのですが……」
いぶかしみつつ返答すると、甘粕は大きく首を振って否定してみせた。
「あ、いえ、それは問題ありません。むしろ逆です。祐理さんには草薙護堂と大いに仲良く、親密になっていただきたいところなのです。むしろ積極的にやってください。家に行くのも良し、逆に招待しちゃうのも問題なしです。どんどんおやりなさい」
「そうなのですか?……甘粕さん、すこし様子が変ですよ?」
挙動不審《きょどうふしん》な相手を、祐理は軽くにらみつける。
妙な予感がする。嫌悪感と、不思議な高揚感。もしかすると、これは霊視の力が何かを予告しているのだろうか?
「ま、この件についても明日、詳しく話しますよ。それではごきげんよう……よい夜を」
芝居めかして手を振ってから、甘粕は立ち去っていった。
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第2章 嵐の前に風は凪《な》ぎ
城楠《じょうなん》学院《がくいん》高等部では、体育の授業を男女別々に行う。
男子と女子に分かれてニクラス合同で授業を受ける。草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》のいる五組は、六組と合同になる取り決めだった。
この日、男子の授業で行われる種目は野球であった。
女子はソフトボール。共に球技、それも野球のグラウンドを使うということで、珍しく五・六組の男女は同じ場所で体育の授業を行っていた。
――六組の男子が、マウンドから白球を放る。
ボールはキャッチャーのミットには収まらず、金髪の打者が鋭く振ったバットに当たり、右中間を転がりながら抜けていく。
その打球を拾ったライトの悪送球もあって、見事三塁打になった。
学校の授業、それも素人ばかり。レベルで言えば、その辺の草野球にも劣《おと》る。だから、どれだけ活躍しても自慢にはならない。
……が、打席では四打席四安打、そして守備ではピッチャーとして九奪三振。
男子に交《ま》じって、これだけの活躍をしているのがエリカ・ブランデッリ――まぎれもない女子だというのは、なかなかにすごい。
剣とは勝手がちがうだろうに、華麗《かれい》なスイングでバットを見事に操っている。
「護堂! もっと速い球を投げたいから、あなたが受けてよ! 護堂ならちゃんと捕ってくれるでしょ!」
「バカ言うなよ。チームちがうんだから、無理に決まってんだろ!」
攻守が交代し、マウンドに向かうエリカがわがままを言ってきたので、自分の試合を終えて見物中だった護堂はすげなく言い返した。
エリカの快速球を、さっきから捕手がボロボロと落球している。
無理もない。いきなりキャッチャーをまかされた素人に、あの速球(軟球ではあったが)をキャッチしろと望む方が酷なのだ。
「女の子のチームがひとり余っちゃうから、わたしも男の子に交ざっていいかしら? もちろん、男子諸君がわたしとの対決から逃げたいのなら諦《あきら》めるけど、どう?」
発端は、授業開始直後のエリカの発言だった。
エリカ・ブランデッリがスポーツ万能である事実は、早くも知れ渡っていた。
彼女なら男子に交じっても十分やれそうだとクラスの大半が納得し、そして体育教師までが悪ノリで容認したこともあって、エリカは五組の男子チームAに編入されたのだ。
……ここから、男子のプライドを根こそぎ打ち壊す悪夢がはじまった。
エリカが投げる。打者空振り。せいぜいボテボテの内野ゴロ。
エリカが投げる。捕手、速すぎて取り損ねる。
エリカが打つ。シングルヒット、二塁打、三塁打、ランニングホームラン。
そんな光景が、コピー&ペーストのように増産されていく。やがて、ソフトボールをしていた女子たちまで試合を中断し、エリカの大活躍を見物しに来た。
金髪少女のスーパープレイが飛び出すたびに、女子たちが歓声をあげる。
「やりたい放題だな、あいつは……。もっと手加減してやってもいいだろうに」
護堂は感心するよりも、むしろ呆《あき》れて言った。
彼女の運動能力を知る人間としては、この程度の活躍ではまったく驚かない。野球の経験ゼロでも、そこらの野球部員以上の活躍をしてみせる怪物なのだ。
「あの、草薙さん――。ちょっといいですか?」
女子のグループから抜け出てきた万里谷《まりや》祐理《ゆり》が、声をかけてきた。
そういえば、体育は六組の彼女とエリカが顔をそろえる唯一《ゆいいつ》の授業だった。
「エリカさん、変な魔術とか使っていないですよね? もしそうなら、早くやめさせないと。男子相手にあそこまで活躍するなんて、普通じゃありませんよ」
「それはないと思う。こういうときは、完全に生身の力で勝負するヤツだから」
声をひそめて心配そうに訊《き》く祐理へ、護堂はあっさりと答えた。
「騎士とか言うだけあって、遊びのときはズルをしないんだよ。……俺に何かするときも、そうしてくれればいいのになァ」
普段、護堂にじゃれついてくるときは魔術で身体能力を増強させるくせに、スポーツのときはフェアプレイ精神を発揮する。これが逆なら、個人的にはものすごくありがたい。
まあ、そんな真似《まね》をするヤツと友達になりたいとは思わないが――。
「エリカは運動神経が普通じゃないんだ。何だかんだで魔術のイカサマなしでも、身体能力とか体力もとんでもないし」
中学時代、硬球野球のキャッチャー兼四番として、そこそこ活躍した護堂である。
それだけに、エリカの才能がどれだけ規格外か理解できる。野球をやっていたら、絶対にエ――スで四番になるタイプだろう。
「やりすぎだってのには同感だけど、まあ、あれぐらいなら許容範囲じゃないかな?」
「そうですか……。草薙さんは、エリカさんのことを信用されているんですね」
やや硬い面持《おもも》ちで祐理は言った。
「私はあの活躍を見て、まず魔術の悪用を考えてしまいました。人を疑うのが先に来てしまうなんて、我ながら恥ずかしいお話です」
「無理もないよ。あれだけ好き放題やってたら」
対戦する男子たち、そして捕球するキャッチャーのプライドをずたずたに切り裂くエリカは、マウンド上で輝く太陽のような笑顔をしている。心の底から楽しんでいるようだ。
「ま、ときどきズルもするヤツだけど、性格は不思議とひねくれてないから、変な心配はしなくていいよ。大丈夫だって」
「……承知いたしました。でも、ああいう才能はちょっとうらやましいですね」
表情を和《やわ》らげて、かすかに微笑《ほほえ》みながら祐理がつぶやいた。
しっとりとした優美さがにじみでる、彼女らしい控えめな笑い方だった。
「うらやましい? 万里谷が?」
「ええ。…………実は私、あまり運動は得意じゃないんです」
「あ、そうなんだ」
相づちを打ちつつも、護堂は納得した。
制服や巫女《みこ》装束《しょうぞく》の普段とちがい、今の祐理は体操服を着ている。華奢《きゃしゃ》な体つき――特に手足の細さがよく見て取れた。これでは大して筋肉などもついていないはずだ。
……ついでに、スタイルの良さもわかってしまった。
エリカほどではないが、女性らしい起伏《きふく》に富んだ体つきをしている。気恥ずかしくなった護堂は、あわてて試合の方に目を向け直した。
「はい。体力に関しては、人並みを下回る方だと自負しています。……スポーツで活躍した記憶は、生まれてからひとつもありません」
恥ずかしそうに告白した祐理は、ちょっと恨めしげに護堂を見つめてきた。
「そんな私が、この前は夜の街をアテナから逃げ回って大変だったんです。……あのあと、筋肉痛になってしまいましたし」
それは悪いことをしたと、護堂は申し訳ない気分になった。
ただ、同時に気づいてしまった。
「いろいろ迷惑かけて、ごめん。……でもさ、この前合流したところって万里谷のいた神社から大して離れてなかったような気がするんだけど。二キロは走ってないよな?」
あの一帯、芝《しば》公園《こうえん》近くの地図を思い出そうとしながら護堂は言う。
すると祐理が、キッと軽くにらみつけてきた。
「私にとっては、かなりの長距離だったんです! そういえば草薙さんも、無駄に体力がおありの人でしたものね。だからといって、体力のない人間をバカにしないでくださいっ」
珍しく、拗《す》ねたように言う祐理はどこか可愛《かわい》らしい。
もちろん、そんな感想を口にするわけにもいかないので、護堂はなるべく神妙な顔つきになるよう意識した。
「ええと、それは悪い。申し訳ない。……もし今度ああいう機会があったら、もっと早く俺を呼んでくれよ。すぐに助けに行くから、絶対に。約束する」
ウルスラグナの権能《けんのう》を使えば、ピンチの人間を文字通り『飛んで』助けに行ける。
だからウソにはならない、はずだ。多分。……自分でも『大丈夫かな?』と不安に思いながら言う護堂に、祐理は苦笑まじりにうなずいてくれた。
「あの御力が不確かで、上手《うま》く使えないかもとおっしゃったのは草薙さんご自身じゃありませんか。そんなの当てにできません。……一応、心には留めておきますけど」
言葉の割に、祐理の笑顔はやわらかい。つられて護堂も笑ってしまった。
「ところで祐理《ゆり》さん。草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》氏とはその後、どんな感じですか?」
運転席でハンドルを握る甘粕《あまかす》が、唐突《とうとつ》にそんなことを訊《き》いてきた。
質問の意図が呑《の》み込めず、助手席にすわる祐理は「はい?」と首をかしげた。
「ですから、我らが大魔王殿と祐理さんの個人的関係についてですよ? どうですかね? ふたりで命の危機を乗り越えた経験がきっかけで、彼に友情以上の何かを感じてドキドキしちゃうとか、うれし恥ずかしな展開になってたりしませんかね?」
「……甘粕さん、あなたが何を確認されたいのか、ちっともわかりません」
と、にべもなく言う。
ちなみに祐理が白衣《びゃくえ》と袴《はかま》の巫女《みこ》装束《しょうぞく》なのは、ついさっきまで七雄《ななお》神社でお勤めをしていたからだ。甘粕が昨日の約束通りに訪ねてきたので、途中で中断することになった。
「いえね、私たちも彼と今後どのような関係を築いていくのか、試行錯誤《しこうさくご》している最中でして。その参考にさせてもらおうかと」
「私と草薙さんの個人的関係が、委員会の方針に影響するのですか?」
「します。大いにしますとも」
甘粕の運転する車は首都高に入り、渋谷《しぶや》方面へと向かっている。
ちなみに、同じ首都高の有明《ありあけ》方面に向かうルートは交通規制がしかれている。半月前、アテナと草薙護堂が戦った際に破壊された箇所に、いまだ復旧のめどが立たないせいである。
「……ぶっちゃけて言えばですね、私たちは草薙護堂氏と敵対関係になりたくありません。まだ『王』になったばかりで荒削りとはいえ、すでに途方もない能力を所有しています。この先、どこまでの怪物になるやら想像もつきませんし」
「そんな……怪物だなんておっしゃらなくても。ご本人はあれで普通の方ですし……」
身もふたもない表現に、祐理は一応反論を試みた。
もっとも、草薙護堂の能力だけを単純に見るのであれば、否定は難しい。どうしても声が小さくなってしまう。甘粕も苦笑してうなずくだけだった。
「できれば、十分に親密な関係を保ちつつも、彼の行く末――この先どのような魔王に育つか見極《みきわ》めがつくまで、最終的な関係の構築を保留したい。そんな虫のいいことをわれわれは目論《もくろ》んでまして」
甘粕たち正史《せいし》編纂《へんさん》委員会が慎重になるのも無理はない。
これが欧州《おうしゅう》であれば、今まで幾人ものカンピオーネと共存してきた歴史がある。どのように『王』と接すればよいのか、あちらの魔術結社は知り尽くしている。
だが、委員会が自国に誕生したカンピオーネと接触するのは、これが初めてなのだ。
「で、いざというときのために彼と親密な交友関係の下地も作っておきたいわけです。……この辺りは、最初に草薙護堂を発見した〈赤銅黒十字《しゃくどうくろじゅうじ》〉が、実にうまい手を打っています」
「エリカさんの所属する結社が、ですか?」
「はい。結社の幹部候補を個人的な愛人として送り込んで、公的には無関係なのに彼の能力を存分に利用しています。あれはずるくていい方法です、ほんとに」
――愛人!?
甘粕の言わんとするところを理解して、祐理は柳眉《りゅうび》を逆立てた。
「あなた方は、エリカさんみたいな人をさらに増やすおつもりなんですか!」
「神様の権能《けんのう》を持つ大魔王といっても、所詮《しょせん》は若い男の子ですからねー。そんな若人《わこうど》は、女でたぶらかすのがいちばん確実です。これぞ古典にして王道。ほら、旧約聖書に士師《しし》サムエルを陥《おとしい》れた美女デリラの話があるでしょう?」
「聖書をひきあいに出して、ごまかさないでください!」
ヘラヘラ笑う甘粕に、祐理はぴしゃりと言った。
顔も知らない美少女が草薙護堂にまとわりつき、彼の好意を得ようと媚《こび》を売る。その場面を想像して、なぜか声が荒くなってしまった。
「いま草薙さんは、エリカさんの誘惑に屈するギリギリのところで踏みとどまっている状況なんです! これ以上、あの人の自制心を試すような行為は避けるべきです。不謹慎ですし、不健全です! 大体、どんな女性にその役を頼むおつもりなんですか!?」
「おお、ようやく最初の話に戻ってこれそうだ。そこです、女性の人選なんですよ」
得たりとばかりに、甘粕がニタリと笑う。
祐理は思わず身がまえた。ろくでもない言葉が続きそうな、いやな予感がする。
「もし祐理さんがこの役を引き受けてくださるのなら、まさに適役だと思っていまして。……あのエリカ嬢と争うライバル役ですから、人選が難しいんですよ。祐理さんなら、あの娘さんと並んでも見劣りしないし、かなりイケるのではないかと――」
「な、なんてことをおっしゃるんですか。私なんかがエリカさんに太刀打《たちう》ちできるはずないでしょう!」
地中海《ちちゅうかい》を照らす太陽のように、容姿も、明るい性格も、強引さもまぶしい金髪の美少女。
そんな相手と、ひとりの少年を巡って競い合う。
考えただけで、祐理の頭は真っ白になった。かなうわけがないし、するつもりもない。一体、何の冗談なのか。
「いえいえ、いけますって。あちらはたしかに強敵ですが、祐理さんのポテンシャルもかなりのものです。自分を信じて!」
「……甘粕さん、バカげたご冗談はおやめください。もう結構です」
本気で怒ったとき、祐理はなぜか微笑してしまう。
今も口元がゆるくカーブを描くのを感じながら、冷たい声音《こわね》で告げた。
「ウイ、マドモワゼル。失礼いたしました。ま、今のはそんな方法もありかなという胸算用のひとつです。お忘れいただければ幸いです」
ひょうげた仕草で肩をすくめた甘粕は、以後は無言で運転を続けた。
ふたりの乗る国産乗用車は渋谷《しぶや》の出口で首都高を下り、目黒《めぐろ》方面へと走っていった。
青葉台《あおばだい》の閑静《かんせい》な一角に、その建物はあった。
正史《せいし》編纂《へんさん》委員会が管理し、運営しているのだという公立図書館。
関係者以外の入館・利用は一切認められない。そもそも近隣の住民でさえ、ここがどういった公共施設なのか、はっきりとは認知していない。
その館内に、甘粕《あまかす》の案内で祐理《ゆり》は足を踏み入れた。
図書館としてはごく平凡な造りである。
清潔で、そして静謐《せいひつ》な館内。そこかしこの書架《しょか》に収められた万巻の書物。
だが、人はいない。たまに見かける人影は、全て正史編纂委員会に所属するか、それに近い筋の関係者のみだ。そして、ここに集められた書物。
いずれも魔術・呪術《じゅじゅつ》について記《しる》された専門書――魔導書《まどうしょ》や呪文書《じゅもんしょ》の類《たぐい》ばかりなのだ。
一般の人間には読み解くこともできない、危険な叡智《えいち》の結晶。魔術に関する禁書、稀覯本《きこうぼん》を秘匿《ひとく》し、世間より隔絶《かくぜつ》させるために、この図書館は存在するのである。
「青葉台の『書庫』……話には聞いていましたが、来るのは初めてです」
「用がなければ、来る必要のない場所ですしねー。じゃ、すこし待っていていただけますか。問題のブツを持ってきますので」
と言い置いてから、甘粕が奥へ引っ込んでいった。
――図書館二階にある、広い閲覧室《えつらんしつ》。
待たされることになった祐理は、きょろきょろと周囲を見回した。
人がほとんどいないだけで、見た目はごく普通の図書館である。しかし、書棚に並ぶ数々の書物からにじみ出る怪しい気配を、祐理の霊感は感じ取っていた。
やはり、ただの書庫ではない。
魔術の深遠《しんえん》について記し、呪法の奥義《おうぎ》を伝えるために生み出された書物。
そういった魔導書のなかには、時を経《へ》るうちに自《みずか》ら魔力をたくわえ、稀《まれ》に意思すら持つに至った『特別品《スペシャル・ワン》』が存在するという。
ここに集められた図書は、そのような逸品《いっぴん》ばかりなのだ。
力ある魔術師、霊力者によって手書きされた物が多いと言われるが、印刷機によって大量生産された書籍でも突然変異のように魔性を得るケースが確認されている。
……祐理は、好奇心にまかせて書棚を見回してみた。
本のタイトルの多くは、横文字である。日本語で書かれた書籍は、見る限り三割にも満たないようだった。
正史編纂委員会が活動を始めたのは、第二次大戦の終戦直後。
海外から伝わる魔術の知識をできうる限り制限するのは、委員会が持つ大きな役割のひとつである。この書庫に集められた万巻の書は、彼らが数十年かけて実践してきた魔導書狩りの成果なのだろう。
「お待たせしました。……視《み》てもらいたいのは、これなんですよ。強力な守護の呪文で守られていましてね、無理に読もうとするとイヤ〜な事態になるので、誰も鑑定できないのです」
戻ってきた甘粕は、革で装丁《そうてい》された薄めの洋書を手にしていた。
「……いやな事態、ですか?」
「はい。部屋の隅でうずくまって他人には見えないエンゼルさまと会話したり、アバババババとか奇声を発しながら精神世界への長期旅行に旅立ったり」
「そんな危険な本を、人に鑑定させないでください!」
さらりと重要情報を告げられて、祐理は強い口調で言った。
「大体、それほど危ない術で守られているのなら、かなり強力な魔導書と見てまちがいなさそうじゃないですか! 鑑定の必要はないと思うのですけど……」
「ああ、そこで人間の欲は怖いという話になりまして。何てことのない魔導書もどきに強い守護の術をかけて、いかにも稀少本ですって感じにして高く売りつける手口があるのです。……なに、祐理さんなら本を読まなくても鑑定できるから安全ですよ。大丈夫」
毒のない笑顔でひどいことを言いながら、甘粕は閲覧室の大きなテーブルに本を置く。
『|Homo《ホモー》 |homini《ホミニー》 |lupus《ルプス》』。
それが表紙に書かれた書名であった。
紙の具合、装丁の傷《いた》みなどから、一〇〇年以上は前の古書に見える。Lupus――祐理の記憶がたしかなら、ラテン語で『狼《おおかみ》』の意味だったはずだ。
「もしこれが本物ならば、一九世紀前半のルーマニアで私家出版された魔導書になります。その昔、エフェソスの地でひそかに信仰《しんこう》された『神の子を孕《はら》みし黒き聖母にして獣《けもの》の女王』の秘儀について記した研究書で、読み解いた者を『人ならざる毛深き下僕《げぼく》』に変えてしまったと言います。人ならざる毛深きもの――狼、熊《くま》あたりが定番ですかね」
例によって甘粕が立て板に水とばかりにウンチク話を披露《ひろう》する。
彼の言い回しの微妙なふくみに気づいた祐理は、ついそこへつっこんでしまった。
「変えてしまった[#「変えてしまった」に傍点]と言われますと、読み終わったときには姿形が変わり果てていたように聞こえるのですが……。それだと魔導書というより呪《のろ》いの本のような――」
「おお、鋭いですね。正解です。これ、魔術の伝導書にして狼男を次々と増殖させる呪詛《じゅそ》がこもった、呪いの魔導書なんです。だから、本物ならかなりのレア物なんですよ!」
「そんなことをうれしそうに言わないでください!」
不謹慎《ふきんしん》に目を輝かせる甘粕にまたも文句をつけてから、祐理は古書と向き合った。
――目を凝らし、心を澄ませる。
彼女の霊視は、いつでも気ままに行使できるような力ではない。
心を空にし、神霊の導きにまかせて、目と直感を働かせる。それで何が視えるか、何に気づくかはそのとき次第。知りたいことの重大な手がかりが得られるときもあれば、まったく役に立たないときもある。まさに当たるも八卦《はっけ》、当たらぬも八卦であった。
……しかし、この書からはたしかな叡智《えいち》と歴史を感じ取れる。
甘粕の言う通り、よほど曰《いわ》くのあるものなのだろう。
鬱蒼《うっそう》とした森の奥に住まう魔女、彼女らを崇《あが》める数多《あまた》の動物たち――なかでも力ある存在は狼であり、熊であり、鳥である。この書に記された秘儀《ひぎ》は奥深く、力強い。読み解く者を魔女の下僕へと近づけていく、並の魔術師では抗《こう》しきれない伝道の書。
「これは呪いの書ではありません……読む人間に十分な見識があれば、この本に秘められた力に毒されず、知識だけを獲得できるはずです」
この古書の本質を漠然と感じ取った祐理は、そうつぶやいた。
「読む者の姿形を変えるのは、呪詛ではなく試練――資格のない者がひもとくのを防ぐための仕掛けなのだと思います」
「ははあ。つまり、こいつは本物だと。一目で見抜くとは、さすがですな」
「たまたまわかっただけです。次もわかるとは限りませんから、こういうときに頼るのはもうやめてくださいね」
感心する甘粕に、祐理は念を押す。――この直後だった。
人狼《じんろう》と、それを操った魔女の魔導書。そして甘粕冬馬。図書館。
それらが不意に、姿を消した。祐理と、彼女を囲む空間が闇《やみ》に包まれた。じめじめと湿った空気がこもる、どことも知れない闇のなかに、いつのまにか彼女は立っていた。
「これは幻視《げんし》? あの魔導書のせい?」
祐理は霊視が高じて、幻覚《げんかく》じみたヴィジョンをかいま見るときがある。
滅多にあることではないが、強大な呪力を秘めた物や存在に接触した直後など、たまに起こってしまう。だから、驚きはしたが動揺はしなかった。このときは、まだ――。
幻視はつづく。
闇の奥底でうごめく何か。目を凝らすと、それはネズミのように思えた。ネズミは徐々に大きくなっていき、やがて規格外のサイズに成長を遂《と》げる。しかも、姿まで変わっていく。これは犬……いや、狼だ。猛々《たけだけ》しく精悍《せいかん》な顔つきから、そう祐理は判断した。
狼は四つ足から二足で直立するようになった。これはもちろん、人狼の姿だ。
あの魔導書と接触したせいか? こんな幻視を見るのは何故《なぜ》なのだろう?
そんな祐理の疑問をよそに、ゆっくりと歩む人狼は、闇――おそらく洞窟《どうくつ》の中から地上へと出ていった。そこで見つけた大蛇《だいじゃ》に躍りかかり、踏みにじって殺戮《さつりく》する。
そして人狼は、天に輝く太陽へ手をさしのべた。
つかみ取る。輝く光球を、なんと人狼は素手でつかみ取ってしまう。
あげくに、その太陽を呑みこんでみせた人狼は、人間の老人へと変貌《へんぼう》を遂《と》げた。それはかつて、祐理が出会ったことのある人物だった。
長身|痩躯《そうく》、秀《ひい》でた額を持つ知的な面差し――そしてエメラルド色の双眼。
東欧と南欧に君臨する、古きカンピオーネ。老いたる魔王は輝く邪眼を祐理に向け、獰猛《どうもう》に微笑んだ。
「――ヴォバン侯爵《こうしゃく》!? そんな、あなたがなぜ!?」
最大級の恐怖が、祐理を襲う。悲鳴と共に、彼女は意識を失った。
草薙《くさなぎ》家にその電話がかかってきたのは、夜の一〇時頃だった。
「はい、草薙です」
『その声は護堂《ごどう》か。……ひさしぶりだね。元気にしていたかい、我が友よ?』
聞き覚えのある、そして、なるべくなら聞きたくない声が受話器から届く。
深みのある、無駄《むだ》にいい声。護堂はすぐさま受話器をおろし、電話を切ってしまった。
「……くそっ。あの野郎、ついに復活しやがったか!」
誰かの不幸を願うなど滅多《めった》にしない護堂だが、このときはべつだった。
念のため、電話線をモジュラージャックから引き抜いておく。これでしばらくは電話に出なくても大丈夫だ。
ところが自分の部屋に戻った途端、今度は携帯電話が鳴りだした。
護堂は着信画面を見た。送信者の名前は「通知不可能」。
やはり、海外からの電話なのか? このまま無視しようかとも考えたが、それもリスクは大きそうだ。ある日、ドアを開けたら『電話に出てくれないから直接来ちゃった♪』などとアホを言うヤツの姿があるかもしれない。それだけはイヤだ。
覚悟を決めた護堂は、通話ボタンを押した。
『いきなり電話を切るなんて、ひどいじゃないか!』
「そいつは悪かったな。ところで、あんたは何で俺んちの電話番号と、俺の携帯電話の番号を知ってるんだ?」
『バカだなァ、君は。友人の電話番号くらい、知ってる方が当たり前だろ?』
これが直接の会話だったら、ウインクのひとつでもされていたかもしれない。
金髪《きんぱつ》碧眼《へきがん》で、長身のハンサム。無駄に整った顔立ちに浮かぶ表情はどれも明るく、人なつっこい。上辺《うわべ》は線の細い優男《やさおとこ》。だが実は、鋼《はがね》の肉体を持つ最強の戦士――。
護堂は自称『親友』の姿をまざまざと思い出した。
「なあサルバトーレ・ドニ、俺とあんたは友達でも何でもない。おまけに俺は、あんたに電話番号を教えた覚えはないぞ」
『うん、君は電話番号もメールアドレスも交換してくれない水くさいヤツだ。おかげで、部下に命じて調べさせなきゃいけなかった。あと、僕との関係を「何でもない」なんて表現しちゃいけないな。……前にも言ったけど、僕たち親友じゃないか?』
「本気でそう思ってるなら、友達の意味を辞書で一〇〇回調べてから電話してこい」
サルバトーレ・ドニ。
二四歳のイタリア人、そして六人目のカンピオーネ。
南欧を中心に強い影響力を持ち、すでに四柱《よんはしら》の神々を倒しているともいう。年齢でも、そして経歴でも護堂のだいぶ先を行く先達《せんだつ》である。
しかし護堂は、この男相手に敬語を使う気にはなれなかった。
自分でも不思議だった。普段は、年長者には然《しか》るべき態度と言葉遣いで接している。
だが、この男が相手だと勝手がちがう。心の奥底で微妙な敵愾心《てきがいしん》めいたものがくすぶり、それを許さないのだ。
『おいおい、友の意味を知らないのは君の方だ。日本人のくせに恥ずかしいヤツだな』
「……そこでどうして国籍が問題になる?」
『なるとも。僕の記憶がたしかなら『強敵と書いて友と訓《よ》む』――これは日本の格言だったはずだ! 昔読んだ日本の文献《ぶんけん》に、しっかりと書いてあった!』
「え、いや……そうだった、かな?」
ドニの発言は絶対にまちがっている気がするのだが、実は護堂も似たような文句をどこかで聞いた覚えがあった。もしかしたら、珍しくこいつが正しいのだろうか?
『そうだとも、君と僕はあれだけの死闘を共にした関係じゃないか。――あのとき、僕たちは何度も熱い拳《こぶし》を叩《たた》きつけ合い、激しく刃《やいば》を交えたよね?』
「刃は交えてないぞ。俺がおまえにブスリと刺された……ていうか、斬《き》られただけだ」
熱っぽく語るドニに、冷たく答える護堂。
この男の誇大妄想《こだいもうそう》と中世騎士物語風|浪漫《ロマン》主義には、到底付き合いきれない。
『あのときの君は、本当にすばらしかった。避けられないはずの死を乗り越え、燃え上がるような闘志と共に残された力を僕にぶつけてきて――僕も全力でそれに応えた』
「……格下の俺を相手に全力でケンカするあんたは、本当に大人げなかったよ」
『あの決闘で、僕たちふたりは感じ合ったよね? 嗚呼《ああ》、いま目の前にいる男こそがおそらく永遠の好敵手――いずれ幾度となく死闘を繰り返す、運命の相手にちがいない、と。そんな僕たちが何でもないわけないだろう?』
「感じてない! 俺はそんな気の迷い、一瞬たりとも感じてないぞ!」
『――というわけで、永遠のライバルたる君よ。僕のことは、親愛と敬意を込めてサルバトーレと呼んでくれ。あれだ、トトと愛称を使ってくれてもかまわないが』
サルバトーレというイタリア名の一般的な愛称は、『トト』であるらしい。反論など一切気にせず、ドニはマイペースで呼びかけてきた。
議論のできない相手との会話に疲れつつも、それでも護堂は強く言い返した。
「あんたを愛称で呼ぶだなんて、死んでもゴメンだね!」
『ふふふ、あいかわらずシャイな男だな。僕のことをかなり意識しているくせに、そういうツレない態度を取るんだから……。知っているよ、それが日本で言うツンデレだね?』
「あんたが日本文化を激しく誤解していることが、よくわかった。話がそれだけなら電話を切るけど、かまわないよな?」
このアホとの会話はもうたくさんだ。痛感した護堂は、電話を切ろうとした。
『まあ待ち給《たま》え、友よ。今日は君にアドバイスしようと思ってね。……デヤンスタール・ヴォバンの名前を知っているかい?』
「名前だけなら。たしか、あんたの近所に住んでる偏屈《へんくつ》じいさんの大魔王だろ」
『ま、イタリア半島とバルカン半島に住んでる同士だから、世界地図で見れば近所と言っても問題ないかな? 僕もそうだけど、あのじいさまも一所《ひとところ》に落ち着かない性格だから、あまり近所ってイメージないんだけどね』
「……俺はまた、どっかの城かダンジョンに引きこもっているのかと思っていたよ」
最長老の魔王という言葉から勝手に想像していたのだが、ちがったようだ。
『おお、クラシカルスタイルだね。僕的にはそういう暮らしも悪くないとは思うけど、ヴォバンのじいさまは賛同しないだろうな。あの人、食欲以外の欲があんまりなくてね。土地とか建物に執着《しゅうちゃく》しないんだ。だから結構フットワークが軽いのさ』
またも意外な人物評が出てきた。
……だが考えてみれば、この草薙護堂やサルバトーレ・ドニも『魔王』と畏怖《いふ》される存在なのだ。らしくない魔王様があちこちにいても、不思議ではないのかもしれない。
『王になる前は街から街へと転々としていく身の上で、食べるものもろくにない生活を十数年も続けていたらしいよ。で、魔狼《まろう》フェンリルだかガルムを倒してカンピオーネとなり、彼の人生は一変するわけだ』
「ガルムって、北欧神話に出てくる魔界の犬だっけか?」
『あー、そうそう。地方によってはガルムルとも言うらしいよ』
――こいつは絶対、エリカよりも物を知らないよなァ。
ずさんな回答を聞きながら、護堂は改めて思った。あの少女に訊ねたら、ここぞとばかりに余計な知識を吹き込まれる場面である。
カンピオーネとなる前のドニは、落ちこぼれのテンプル騎士だったという。
エリカのような、剣も魔術も天才的なエリートとはまさに対極。剣の技倆《ぎりょう》だけは誰よりも優れていたが、魔術の才はゼロ。武芸と魔術の両立を求められるテンプル騎士としては、失格の烙印《らくいん》を押されていたとか――。
『ま、その可能性が高いってだけで、彼が最初に倒した神様は不明なんだけど。ヴォバン侯爵《こうしゃく》が持つ第一の権能は、数百頭もの狼を召喚《しょうかん》し、使役する力――『貪《むさぼ》る群狼《ぐんろう》』だ。だから、狼がらみの神様を殺《あや》めたんだろうと言われているのさ』
「数百頭って、景気よすぎるだろ。その数字……」
『あとは、にらむだけで街中の生き物を塩に変えたり、嵐を呼んで街ごと吹き飛ばしたり、自分が殺した人間たちをゾンビや幽霊に転生《てんせい》させて奴隷《どれい》にしたりとか』
やはり、カンピオーネ=ろくでなしなのかと、護堂はため息をついた。
自分もドニもそうだが、ここまで理不尽《りふじん》な特殊能力を持つ一個人がいて、いいわけがない。
「ところで、その傍|迷惑《めいわく》なじいさんの話を何で俺にするんだ?」
『ああ、ゴメン。忘れてた。――このじいさま、いま東京にいるはずだから、ちょっとケンカでも売りに行くといいよ。俺の縄張《なわば》りに入ってくるなとか言ってさ』
「誰がそんな真似《まね》するか! 大体、何でそんなのが日本に来るんだよ!?」
護堂は怒鳴りつけ、頭をかきむしりたくなった。
……また厄介事《やっかいごと》の種が向こうからやってきようだ。本当に勘弁《かんべん》してほしい。
『ふふふ、教えてあげてもいいけど、条件がある。――我が友にして兄とも慕《した》う勇士サルバトーレよ、あなたの助力が必要だとおねだりしてくれれば、すぐに……』
「絶対に言わない。教えてくれなくて結構」
にべもなく拒否してから、ふと護堂はべつの質問をしてみた。
「そのじいさん、結構な数の神様を倒してるんだよな。で、あんたもアイルランドとか北欧の神様を殺してるんだろ? 全部でどれくらいの数になるんだ?」
『ふたり合わせれば一〇は超えるはずだけど、それがどうかしたのかい?』
「いや、あんたらの倒した神様とは、俺は戦わなくてもいいんだよなって思ったんだ」
世界中に神々がどれだけ存在するのかは知らないが、戦うかもしれない相手はすくないほどいい。そんなことを心配する自分の境遇に幻滅しながら、護堂は言った。
『ははは、何を言ってるんだ。僕や他のカンピオーネが倒した神々とだって、いずれ戦うときが来るかもしれないんだぞ。そんな計算に意味はないよ』
「何でだよ? あんたたちに殺されてるんなら、戦いようがないじゃないか?」
『――僕らに神を殺すことはできても、滅ぼすことはできない。人間がいる限り、そして神話がある限り、殺された神々は幾度でも甦《よみがえ》り、復活を果たす。覚えておくといいよ』
ドニは珍しく厳かな口調で言った。
その奥底に宿る、ひそやかな暗い闘志と喜悦《きえつ》の感情。どれだけ陽気でノリが軽く見えても、剣に生き、闘争に死す武人の魂《たましい》を内に秘めた男なのだ。
『所詮《しょせん》、地上に現れ、僕らと戦う神々の〈肉体〉は彼らのごく一部なんだよ。いいかい、彼らの本質は〈神話〉だ。肉体を滅ぼしても、神話がある限り神々は何度でも実体を得て、新生する。そして、神話を消滅させることは不可能だ。全人類が滅亡でもしない限りはね』
「……神話がある限り、何度でも、か」
『その通りさ。だから君も、もしかするとウルスラグナ神と戦う日がふたたび来るかもしれない。あの神格は西アジアではかなりのビッグネームだから、今頃どこかで復活していても不思議ではないよ』
それがサルバトーレ・ドニとの会話の一部始終《いちぶしじゅう》だった。
携帯電話をオフにしたあと、護堂は不安になった。――最長老のカンピオーネ。そんなヤツと戦う事態にならなければいいのだが……。
目覚めれば、そこは七雄《ななお》神社だった。
社務所《しゃむしょ》のなかにある、専用の和室。敷かれた布団《ふとん》の上で、万里谷《まりや》祐理《ゆり》は目を覚ました。
――ひどく喉《のど》が渇《かわ》いていた。
白衣《びゃくえ》と袴《はかま》の乱れと、髪の具合を直してから部屋を出る。
この社務所には台所もあり、冷蔵庫もちゃんと用意されている。何か飲み物が欲しいと思った祐理は、そちらへ向かうことにした。
「おや祐理さん。よかった、目を覚まされましたか。……体調に異状は?」
台所には甘粕《あまかす》冬馬《とうま》がいた。
テーブルの上に数十枚の書類を広げて、目を通しているところだった。
「特におかしなところは、何も――。私はあれから、どうなったのですか?」
「例の魔導書を霊視していただいた直後、急に意識を失われまして。あわてて七雄のお社《やしろ》まで連れ帰った次第です。……いや、宮司《ぐうじ》や権禰宜《ごんねぎ》にもたっぷり叱《しか》られました。畏《おそ》れ多くも媛巫女《ひめみこ》さまに何をさせてるんだと。ご迷惑をおかけしました」
と頭を下げてから、甘粕は興味深そうに訊《たず》ねてきた。
「それで祐瑠さん、あのとき様子が変でしたけど、何かすごいものでも視《み》えましたか?」
「い、いえ。ちょっと疲れてしまったみたいで、急に意識が途切れてしまったんです。おかしなことは何もありませんでした」
とっさに祐理は言い訳した。
なぜデヤンスタール・ヴォバンの姿を幻視してしまったのか、さっぱり理解できない。あの老人と出会ったのは四年も前の話だ。東欧由来の魔導書に接触したので、あのカンピオーネの記憶が甦《よみがえ》ったのか。それとも、べつの原因があるのか?
いずれにしても、軽々しく話すべきではないように思える。
祐理は話題を切り替えることにした。甘粕が眺めていた書類に目を向ける。
「それは一体、何なのですか?……履歴書?」
見てまずいものなら、こんなところで広げたりはしないはずだ。正史《せいし》編纂《へんさん》委員会のエージェントが、そんな不手際《ふてぎわ》をするわけがない。
そう考えて、祐理は大量の書類をちらりと眺めてみた。
どれも履歴書のようで、L判サイズのカラー写真がクリップで添付《てんぷ》されている。
……写っているのは、一〇代の若い少女たちばかりだった。皆、すばらしく可憐《かれん》な容姿の持ち主ばかりである。大人っぽい娘もいれば、あどけない可愛《かわい》らしさの娘もいる。快活《かいかつ》そうな娘もいれば、おとなしそうな娘もいる。まさに百花繚乱《ひゃっかりょうらん》だった。
「ああ、さっき話した件ですよ。ほら、草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》氏の愛人候補として送り込む人材を選考していたんです。さすが全国から選《え》りすぐっただけあって、逸材《いつざい》ばかりですよ」
妙に楽しそうに甘粕が言った。
オーディションへの応募書類のような履歴書の束に、お気楽そうに目を通している。
「エリカ・ブランデッリという強敵がすでにいる以上、エレガント系美少女よりも可愛らしい歳下《としした》路線、あるいは男|勝《まさ》りの友達路線といったキャラクターで攻める方が吉かもしれません。しかし、あのタイプが彼の好みだという可能性もあります。これはなかなか難しい……」
「甘粕さん! あなた方はあんな計画を本気で実践するおつもりなのですか!」
祐理に叱られても、当の正史編纂委員は軽く首をすくめるだけだった。
「必要な人材ですからねェ。他にいい対案、祐理さんにもないでしょ?」
「そ、それは……。草薙さんは話せばわかってくださる方です。ですから、地道に話し合う機会を作って、ご自身の立場を理解していただければ――」
「ははは、そんなの無駄ですって。だって、所詮は一〇代の男の子ですよ」
へらへらと甘粕が笑う。妙に祐理の怒りを逆撫《さかな》でする、軽薄な笑顔だった。
「口先でどれだけ真面目《まじめ》ぶっていても、付き合ってる女の子からおねだりされたら、結局そっちを優先しますよ。男なんて、そんなものです。どんな理想も高邁《こうまい》な精神も、この年代の男子には女の子以上の価値なんかありませんって」
「だからって、女性の気持ちも無視して愛人役をさせるなんて!」
おそらく正史編纂委員会の威光《いこう》を使って、どこかの呪術師《じゅじゅつし》一族に生まれた少女や巫女たちにその役目を押しつけるつもりなのだろう。
そんな横暴、許すわけにはいかない、と勢い込む祐理に、甘粕はあっさりと答えた。
「まさか。そんなふうに登用した人材にはモチベーションを期待できませんからね。ちゃんと志願者だけを厳選した人材選考ですよ。ご心配されなくとも大丈夫です」
「えっ!?」
「さすがにカンピオーネの雷名《らいめい》は効《き》きましたね。日本に初めて現れた魔王の愛人になれば、本人にもその一族にもメリットは絶大《ぜつだい》です。苦労せずに志願者を集めることができました」
にたりと、甘粕は満足そうに笑う。
祐理は動転した。まさか、そんな欲得《よくとく》ずくの動機で志願者が続出するとは――。
草薙護堂の愛人を自称する、エリカ・ブランデッリ。節度も恥じらいもなしに、情熱的なアプローチを繰り返すラテンの美少女。
しかし祐理は、彼女に対して嫌悪感を持ったことが不思議とない。
困った人間だとは思うが、せいぜいその程度だ。計算高いことを言うくせにどこまでも快活で、裏表がない――あの能天気な明るさのせいかもしれない。
何よりエリカは、草薙護堂のためなら躊躇《ちゅうちょ》せず命を懸ける。
この前のアテナとの戦いで、そのことが祐理にはよく理解できた。しかし、彼の能力と立場を利用するつもりで近づく少女たちは、どうだろう?
「い、いけません、やっぱり! そんな思惑《おもわく》の女性を身辺に近づけて、せっかくまだ更生の余地がある草薙さんに悪影響が出たら、どうするんですかッ?」
ひどく汚らわしいものを見た気分になって、祐理は反射的に叫んでしまった。
「でも、彼の力を利用したいって人間はどうせ山ほど出てきますよ。私らがやるか、余所《よそ》がやるかです。それこそ祐理さんが自ら、あの少年のそばに侍《はべ》って監督するならともかく」
「ま、また、その話ですか……。でも私、きっと草薙さんによく思われてませんし……」
口うるさい自分に、彼はおそらく良い印象を持っていないだろう。
男性の心の機微《きび》には無知な祐理だが、それについては何となく推測できた。こんな自分をあからさまに疎《うと》んだりせず、逆によく相手をしてくれていると思う。
……気恥ずかしくなってしまい、祐理はうつむいた。
多分、今の自分は頬《ほお》を真っ赤に染めて、熟した柿のような顔色のはずだ。
「ほほう。祐理さん、もしかして草薙護堂のことが嫌いではない?」
「嫌い!? いいえ。エリカさんに対してはだらしない方だとは思いますが、親切で大らかなお人柄ですし、あんな御力をお持ちなのに偉ぶらないで、謙虚《けんきょ》であろうするところは美点だと思いますし。…………嫌いだなんてことは、ありません」
「ふーむ。いや、なるほどそうでしたか。あ、ちょっとそのままでいてください。そう、恥ずかしげに頬を赤らめて、うつむいた表情のまま――ええ、実にすばらしい。萌《も》えます」
「あ、甘粕さん、いったい何を?」
いきなり携帯電話を取り出した甘粕は、内蔵のカメラで祐理の写真を撮影する。
なぜ、そんな真似をするのか理解できず、祐理はたじろいだ。
「参考資料です。委員会の会議に提出して、他の委員の賛同を得ます。ま、こいつの破壊力ならガチで祐理さんの圧勝でしょう」
「は? どういう意味ですか?」
「祐理さんとしては、よからぬ思惑で草薙護堂に女の子を近づけたくないのですよね? ……でしたら、あなた自らが彼と良好な関係を築くべきですよ。そうじゃありませんか?」
「ですから、私ではとてもそんなふうには……」
「なに、ご心配は無用です。われわれ正史《せいし》編纂《へんさん》委員会が全面的にバックアップいたします。だから自信を持って、草薙護堂を籠絡《ろうらく》してください!」
雷鳴のように宣告されて、祐理は驚愕《きょうがく》した。いきなり、何を言い出すのだ!?
「ろ、籠絡!? 私、草薙さんとそんな関係になりたくはありません!」
「ふふふ、やはり素直ではありませんな。ま、それもまた絶妙なスパイスになりえる素材です。そのままでいきましょうか」
訳のわからない文句をつぶやきつつ、甘粕は不敵に微笑む。
「こう言い換えましょう。草薙護堂に対する、祐理さんの影響力を大増量させるんですよ。彼がエリカ・ブランデッリの誘惑にぐらついたり、自分の権能《けんのう》に目がくらんで暗黒面に堕《お》ちそうなとき、あなたがやさしく諭《さと》して、正しい道へと導くのです!」
「私が、あの人を正しい道に?」
「はい。そうするには日頃から彼と親密になり、エリカ嬢よりも近しい関係になることが望ましい。そのための努力を惜しんではいけません。あなたがそうすると言うのなら、私どもも例の計画を中止いたします。ええ、約束しますよ」
甘粕の口ぶりは、たとえて言えばイブに智慧《ちえ》の実を食べろとたぶらかす蛇《へび》に近いものであったのだが、祐理は全く気づかなかった。
「……で、でも私、今まで草薙さんを叱《しか》ってばかりで、あまり良い印象を持たれてないはずなんです。こんな私がいまさら仲良くなろうとしても、無駄なのでは――」
あのエリカよりも親密になれるとは、到底思えない。
自信なく祐理がつぶやくと、甘粕は妙に人の悪そうな笑顔で答えた。
「ご安心ください。我に秘策あり、です。――今まで冷たくしてきたからこそ、打てる手もあります。なに、今まではただのツン期だったのです。これからたっぷりデレてみせれば、男なんてイチコロですよ!」
「――は? つん……でれ……何のことでしょう?」
「そうですねェ、まず手作り弁当などいかがでしょう? 『べつに、あんたのために作ったんじゃないからね! 余るともったいないから、あげるわ!』です。いい作戦でしょ?」
「はい?」
「僭越《せんえつ》ながら、この方面に関する資料なら、私の個人的なライブラリーから提供することが可能です。後で送りますよ。DVDとゲーム、どちらがいいですかねえ」
「あ、あの、甘粕さん? 勝手に話を進めないでくださいッ」
実はこの一幕が、護堂と祐理の人生に大きな影響を及ぼしていくのだが――。
当の祐理には、そんな自覚は皆無《かいむ》だった。
美しい日本庭園のなかに、そのホテルはあった。
かつては貴族の別邸であったという広い庭園は、クロアチア人を祖父に持ち、ミラノで生まれ育ったリリアナ・クラニチャールにとっては興味深い空間だった。
数万平方メートルの敷地内に詰め込まれた、自然の数々。
よく手入れされた木々が織りなす緑。そのなかを小さな川が流れ、池があり、橋までかかっている。奥まった場所には滝さえあり、古びた塔《とう》や祭壇《さいだん》らしきものまである。
しかし、このエキゾチックな箱庭にも、彼女の連れは感銘《かんめい》を受けなかったようだ。
東京《とうきょう》での宿をここに定めたデヤンスタール・ヴォバンは、すぐに居室へと引っ込んだ。庭園のコンパクトな様式美に後ろ髪をひかれつつも、リリアナもそれに従った。
ヴォバンの寝室は、ホテルの庭園内に造られた別棟のスイートである。
ごく小さな、そして伝統様式の日本|家屋《かおく》。
だが古風な外観の割に、中身は現代風だった。リリアナのような欧州人にも馴染《なじ》みやすい洋間を基本としながら、ところどころ畳《たたみ》や障子《しょうじ》を使って和の雰囲気《ふんいき》も採《と》り込んでいる。
「ところでクラニチャールよ、例の巫女《みこ》の消息はつかめたかね?」
唐突《とうとつ》にヴォバンが訊《き》いてきた。
天ぷらや刺身《さしみ》など、典型的だが個性に欠けるメニューの和食が並ぶテーブルにつき、酒杯《しゅはい》に注《つ》いだ日本酒を手酌《てじゃく》で飲み干しながら、完璧な日本語で[#「完璧な日本語で」に傍点]。
つい昨日まで、日本語のいろはも知らない老人だったというのに。
もっとも、カンピオーネと上位魔術師は、卓越《たくえつ》した言語の習得能力を持つ。だから、彼が日本語に堪能《たんのう》なリリアナとの会話を教材にして、この言語に習熟したことは驚くに値《あたい》しない。
だが、それに要した時間がわずか五、六〇分というのは異常だった。
これほど短時間で未知の言語を習得するなど、リリアナには真似できない。他の大騎士もそうだろう。もしかすると、ヴォバン以外のカンピオーネでさえ同様かもしれない。
「いえ。申し訳ございませんが、まだでございます。お許し下さい」
頭《こうべ》を垂《た》れながら、リリアナは謝罪した。
――万里谷《まりや》祐理《ゆり》。東京、港区《みなとく》在住。一五歳、極めてすぐれた霊視力を所有し、媛巫女《ひめみこ》と呼ばれる特異な宗教的指導者の立場にある。
実を言えば、彼女の所属する〈青銅黒十字《せいどうくろじゅうじ》〉はその程度の情報なら割り出していた。
それでもリリアナは報告しなかった。
四年前、オーストリアの山荘で震えていた少女の記憶が甦《よみがえ》ったせいかもしれない。彼女はいちばん無口で、いちばん控えめな性格だった。そして、いちばん華奢《きゃしゃ》でか弱そうだった。
だが、誰が最初にヴォバンと儀式の場へ赴《おもむ》くか。
それを決める場で皆が怖《お》じ気《け》づくなか、最初に自《みずか》ら進み出たのは彼女だった。怯《ひる》む他の少女たちを思い遣《や》って、先陣を切ってみせたのだ。
「……ふむ、そうかね。まあ、かまわぬよ。ちょうどいいことに、小鳥の方から籠《かご》のなかへ飛び込んできたところでな。すこし糸をたぐれば、どうとでも居場所は突き止められそうだ」
大ぶりな酒杯をあおりながら、ヴォバンはほくそ笑む。
――小鳥が寵に? 妙な言い回しに、リリアナは眉《まゆ》をひそめた。
「ついさきほどの話だがね、何者かがこのヴォバンを幻視していたのだよ。何がきっかけとなったかは知らぬが、この私の気配を霊感によって探り当て、常ならぬものを見通す眼力によって霊視したというわけだ。――たいした巫力《ふりょく》だと言えないかね?」
無論、祐理がかいま見た幻視のことなど、リリアナは知るよしもない。
だが戦慄《せんりつ》した。カンピオーネは人間離れした直感力を持つという。
危険を察知し、動物的な本能で宿敵たる神々の気配を感じ取るのだと、うわさで何度か聞いたことがある。だが、自分に対して行われた霊視術を見破るなど、初耳だった。
この老人の能力は、一体どこまで人間離れしているのだ!
「そやつが探していた巫女かは知らぬがね。捕らえれば十分、私の役に立つだろう」
微笑と共に、ヴォバンは水のように酒を飲み干す。
数日間のつきあいだが、彼に美食家の素養がないのは容易に見て取れた。
どんなものでも食べ、どんなものでも飲む。味も見た目も気にかけず、飢《う》えと渇《かわ》きを満たすために、ただ無造作に喰らい尽くす。
「さて、君は探し物が苦手なようだから、誰に探索をまかせようか? やはり、この手の仕事は魔女に限るかな。――マリア・テレサよ、来るがいい」
ヴォバンは女性の名前を呼んだ。
応えて虚空《こくう》より出現したのは、黒いつば広の帽子を目深《まぶか》にかぶり、同じく漆黒《しっこく》のドレスをまとった女性の死者――『死せる従僕《じゅうぼく》』のひとりだった。
「かつて魔女なりし死者よ。この私を幻視してみせるほどの霊視術者だ。居場所を探るのは難しくもあるまい。生前の技を駆使して、見つけ出してみせろ」
この横暴な命令にうなずき、死せる魔女はふたたび姿を消した。
いずれ万里谷祐理は囚《とら》われの身となる。そう確信したリリアナは、深くため息をついた。
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第3章 魔王来臨す
奇怪な幻視《げんし》をかいま見た夜の翌朝。
普段どおりに登校した万里谷《まりや》祐理《ゆり》は、アルミボディの携帯電話を所持していた。
昨夜、甘粕《あまかす》から緊急の連絡用にと渡されたのだ。マナーモードだったこの携帯がヴヴヴヴヴと振動し始めたときは、ちょうど昼休みだった。
着信表示を見ても、かけてきた相手の名前は表示されていない。
まっさらな状態で渡された端末に、祐理が何もデータを入力していないためである。甘粕の電話番号などは知っていたのだが、操作方法がわからなかったのだ。
「――ま、まあ、どうしましょう?」
表示された番号は、甘粕のものだ。祐理は一瞬、躊躇《ちゅうちょ》した。
緊急の用件かもしれないので出た方がいいだろう。たまたま校舎の外――中庭を歩いていたところだった。人目につかない端の方へ行き、電話に出ようとする。
折りたたみ式の携帯をいじるのは初めてだったので、すこし手間取ってしまった。
「も、もしもし、万里谷です!」
どうにか携帯との格闘を終えた祐理は、あわて気味の口調で電話に出た。
『やあ、どうも。甘粕です。そちらの首尾《しゅび》はどんな感じですか? 昨日の提案どおり、手作り弁当なんか渡しちゃってたりします?』
「そ、そんなことしていません! ご冗談はおやめください!」
『冗談じゃありませんって。……とにかく、今日のところは祐理さんにおまかせしますから、いろいろアプローチしてみてくださいよ。あとで本格的に作戦会議をしましょう』
「あ、甘粕さん!?」
ここで電話は切れた。
草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》と親密になるためには、何をすればいいのか。祐理には見当もつかない。昨夜、なし崩しで引き受けてしまった任務の難しさに、憂鬱《ゆううつ》な気分になってきた。
「――あれ、万里谷さん、それってまさか……携帯ですか?」
声をかけられたので振り向くと、そこには草薙|静花《しずか》がいた。
茶道部の後輩である中等部三年生、そして今話題になっていた人物の妹。偶然の出会いに、祐理の胸がどきりと高鳴る。
「ど、どうしたんですかっ? あれだけみんなに言われても、今まで携帯を持とうとしなかったのに? 興味とか全然なかったんですよね?」
静花がひどく驚いている。
クラスでも部活でも、電話番号やメールアドレスを訊《き》かれるたびに、祐理は『特に必要なものだとは思いませんので……』と答えてきたのだ。
「どうしても必要な理由ができてしまって、用意していただいたんです。やっぱり、連絡を取り合ったりするのには便利……みたいですし」
便利と言い切れない自分が悲しい。やや落ち込みながら祐理は言った。
今のところ、機能が豊富すぎる携帯電話の方に彼女がついていけていない。インターネットの仕組みすらよく理解できない機械|音痴《おんち》が、こういうときは恨《うら》めしくなる。
「れ、連絡を取り合ったり、ですか……。誰とするのか、訊いてもいいですか?」
「ごめんなさい、くわしくお答えできない事情がありますので、訊かないでいただけると助かります。申し訳ございません」
歳下《としした》の後輩相手ではあったが、祐理はていねいに頭を下げた。
正史《せいし》編纂《へんさん》委員会の存在や自分が媛巫女《ひめみこ》であることは、秘密にしなくてはいけない。適当にごまかせればいいいのだろうが、そういう手管《てくだ》に彼女は疎《うと》かった。
「ないしょ……なんですね。やっぱり、相手の人に口止めされてたり?」
「いえ、そうではないのですが……。でも、携帯電話とは、とても難しいものなのですね。みなさん簡単そうに使っていらっしゃるのに、私は全然さっぱりで――」
正直に告白すると、いきなり静花がすまなそうに頭を下げてきた。
「すいません、万里谷さん。うちの兄のせいで、そんなご苦労をさせて――」
「え、草薙さん……お兄さまはこの件には関係ない――わけではないですけど、一体どうなさったんですか?」
兄――護堂のことで謝罪される理由がわからず、祐理は目を瞬《まばた》きさせた。
「だって、それ以外にないじゃないですか。いきなり携帯が必要になる理由なんて、彼氏といつでも連絡を取り合いたいってぐらいしかありえないですし。……で、万里谷さんの場合、そういう相手の最有力候補は一応……うちのバカ兄貴、ですよね?」
草薙静花は頭のいい子だと、祐理はつねづね思っていた。
部活動でも何かを教えれば即座に呑《の》み込む、頭の回転の速い少女なのだ。なのに、この推測は的《まと》はずれが過ぎる。祐理は焦《あせ》って反論しようとした。
「ち、ちがいますっ。これはそう――仕事です。お仕事の関係で、必要なものなんです!」
「万里谷さんのアルバイトって巫女《みこ》さんでしたよね。神社の巫女さんが緊急で連絡を取り合うなんて、聞いたことありません。……いいんです、慣れないウソをつかなくても。あたし、わかってますから! あのバカ兄貴がぜ〜んぶ悪いんだって!」
ぷりぷりと怒りながら、静花が強い語調で決めつける。
いや、媛巫女である自分には、特にカンピオーネなどという破格の存在が身近に現れてからは、緊急の用件も結構あるのだ。……とは告白できず、煩悶《はんもん》する祐理であった。
「この前の春休みから、ずっと怪《あや》しかったんですッ。しょっちゅう外泊するようになったし、妙にコソコソしてるし! いつのまにかエリカさんや祐理さんとも仲良くなってるし!」
「だから草薙さんのせいではありませんから。そんなに興奮しなくても……」
「万里谷さん、さっき言ってましたよね。お兄ちゃんは関係なくもない――つまり、関係あるってことでしょう?」
やはり静花は聡《さと》い。つい口を滑らせた真実をしっかりと聞き取っている。
可愛《かわい》らしい顔立ちの割に、勝ち気で押しも強い。しかも、自分よりも遥《はる》かに弁が立つ。そんな相手との口論に、祐理は絶望的な不利を感じた。
「いいんです、わかります。お兄ちゃんの携帯に最近よく電話かかってくるみたいで、昨日も何か話し込んでましたから。あれ、きっとエリカさんが相手だと思います。自分の部屋に隠れてコソコソ話してました」
「えっ、そうなんですか?」
憶測による静花の決めつけを、素直に信じてしまう祐理。
護堂が電話で話していたのは色恋|沙汰《ざた》とは無縁のイタリア人青年なのだが、ふたりにわかるはずもなかった。
「そうなんです。学校でイチャつくだけじゃ飽きたらず、家に帰ってまで電話でイチャイチャ話し込んだりして――。そりゃ万里谷さんだって、携帯がないと対抗できませんものね」
「え、ええ……本当に。まさか、そんな事態になっていたなんて――」
思いもよらなかった情報を与えられて、祐理は打ちのめされた。
考えてみれば、学校以外の場所でエリカと護堂がどのような行動を取っているのか、気にしたことはほとんどなかった。
だが、むしろ真に注意すべきは校外での不純異性交遊だったのではないか?
本当に、世間知らずで浅はかな自分が恥ずかしい――。
(いいえ、今からでも遅くはないはず。駄目だと思ったところは、きちんと改めていかないと……エ、エリカさんよりも草薙さんと親しくなるためにも!)
祐理は口のなかでつぶやき、改善を心に誓った。
成り行きとはいえ、やると約束したからには最善を尽くさなければいけない!
「静花さん、お願いがあります」
「は、はい」
決然と顔を上げ、厳《おごそ》かに告げる祐理。
彼女の気迫を感じ取ったのか、怒り気味だった静花が急におとなしくなった。
「私に携帯電話の操作方法をひと通り伝授していただけないでしょうか? 電話のかけ方、受け方程度でしたら理解できるのですが、それ以外はまったく存じ上げないのです」
「そ、それぐらいでしたら、全然、かまいませんけど……」
何に気圧《けお》されたのか、やや狼狽《ろうばい》しつつも静花は了承してくれた。
……自分が真剣になったときの凜《りん》とした迫力を自覚していない祐理は、すこし不思議に思いながらもうなずいた。
「実はお兄さま――草薙さんのお電話番号も以前に教わったのですが、恥ずかしながら電話帳への登録という操作をどのようにすればよいのかもわかりませんし」
「お、お兄ちゃんのヤツ、万里谷さんにちゃっかり電話番号まで……」
「あと、もうひとつお願いがあります。――私に、男性と親しくなるためには何をすればいいのかを、詳しく教えていただけないでしょうか!」
「ええっ!?」
驚く静花に、祐理はさらに言いつのる。
「私は訳あって、お兄さまとの関係をより親密なものにしなければいけないのです。これは私や、私の周囲の人々だけでなく、お兄さまの将来のためにもなることだと思っています。でも、そのために何が必要なのか、私にはちっともわからないのです」
「そ、それは万里谷さんですし、仕方ないですよ……」
「わからないからと言って、無為《むい》に時間を過ごすわけにもいきません。私には、師となるべき方が必要なのです。……聡明《そうめい》な静花さんなら、きっと良き範《はん》を示してくださると信じてお願いいたします。どうか、私にお力をお貸しください」
悩んでいても仕方ない。まずは行動を――。祐理は深々と頭を下げた。
「う〜、よりにもよって、それをあたしに頼みますか? でもたしかにエリカさんよりも万里谷さんの方が……ああ、でも、あのお兄ちゃんにこんな人、釣り合いが――う〜ん……」
モゴモゴと相手がつぶやく間も、祐理は誠意を込めて頭を下げ続けた。
やがて静花は、ハァァと深いため息をついた。
「……万里谷さん、あのバカ兄貴のこと、本気なんですか?」
「はい。嘘《うそ》偽《いつわ》りなく、本気です」
ちなみに『本気で恋しているのか』という意味の問いを『本気で仲良くなるつもりか』と受け取ってのやりとりなのだが、その齟齬《そご》にふたりとも気づいていなかった。
「う、即答ですか。……まあ、そこまで言うのでしたら、アドバイスぐらいなら協力しても……本当にちょっとでよければ……」
静花は小声で、目を合わせないようにして言う。
この返答に、祐理は目を輝かせた。口元がほころび、自然と笑みがこぼれ出てくる。
「ありがとうございます! 暗闇《くらやみ》のなかで光明《こうみょう》を見た気分です!」
「そ、そんなにまぶしい笑顔を向けないでください。……ちょっと応援したくなっちゃうし」
「はい? どうかしましたか、静花さん?」
「何でもありませんっ。……あ、そうだ。万里谷さん、お兄ちゃんのメルアドとかは聞いてるんですか?」
静花が謎《なぞ》の単語を口にしたので、祐理はキョトンとした顔になった。
「める……あど? 何なのでしょう、それは?」
「やっぱり、そっちは知らないんですね。じゃ、いいアイデアがあります。これからお兄ちゃんの教室に行って、直接|訊《き》いてやりましょうよ。――あのバカ兄貴に、すこしは痛い目を見せてやらないと」
フフンと意地悪そうな含み笑いをして、静花が提案する。
その意図を呑《の》み込めずに祐理は小首を傾《かし》げたが、どうやら為《ため》になりそうな助言らしい。まずは提案どおりに行動してみようと決心した。
一年五組の教室で、エリカと護堂《ごどう》は昼食を食べ始める直前だった。
いつもエリカ――ではなく、そのメイド役であるアリアンナに昼食を用意してもらっているので、今日は護堂が弁当を持参してきていた。
たいしたものは用意できないが、世話になってばかりでは気が引ける。
そう護堂は主張し、アリアンナは鷹揚《おうよう》に了承してくれた。……ちなみに、自分で料理をするという発想のないエリカは「どちらでもかまわないわよー」と中立だったが。
意外な来客が現れたのは、そんなときだった。
「ねえ、お兄ちゃん。ちょっと用があるんだけど、いい?」
いつも家で聞いている妹の声で呼びかけられ、護堂は振り向いた。
そこには中等部の制服を着た静花《しずか》と、その後ろにはなぜか万里谷《まりや》祐理《ゆり》がいた。
「あら、静花さんと祐理じゃない? ふたり揃って来るなんて珍しいわね」
にこやかにエリカが声をかける。
それに祐理は会釈《えしゃく》で応《こた》え、静花は「こんにちは、エリカさん」とぞんざいに挨拶《あいさつ》した。
「静花、ここは高等部の教室だぞ。こんなところに来てもいいのかよ?」
「よくはないだろうけど、校則で禁止されてないし、許容範囲じゃないの? それよりね、万里谷さんが携帯電話を持つようにしたんだって」
護堂と親しそうな中等部女子、そして祐理の登場で、こっそりねっとりと聞き耳・盗み見を敢行していた五組男子たちが「何!?」と色めき立った。
――万里谷さんが携帯電話を導入だと?
――バカな! 今時ブログも知らない最後のアナログ美少女にIT革命が!?
――くっ、やはり女を変えるのは男ということなのか!
妙な感じで火がついた様子の彼らに、護堂は不吉な予感を覚えた。
ちなみに静花はにんまりと笑い、祐理はまったく周囲の変化に気づいておらず、エリカは「へえー」と面白そうに静観していた。
「でさ、お兄ちゃん。万里谷さんに携帯の番号とメルアドを教えてあげて。ちゃんと登録しておきたいそうだから」
「……あれ? この前、万里谷には番号教えてなかったっけ?」
護堂が気づくと、祐理は恥ずかしげにうつむきながら答えた。
「すみません、草薙《くさなぎ》さん。…………実は私、機械も苦手なのです。どう操作すれば登録できるかわからないので静花さんに相談したところ、直接交換すればいいと言われまして」
「まあ、その方がたしかに楽だろうから、全然かまわないけど」
意外と苦手なものが多い子だよなと思いながら、護堂は自分の携帯を引っぱりだした。
祐理もあわてて銀色の携帯電話を取り出す。
「じゃ、手っ取り早く赤外線で送ろうか」
「……はい? で、電話なのに、赤外線が関係するのですかっ!?」
赤外線通信でデータを送ってしまおうか。そう思いついた護堂の申し出に、祐理が思い切り不審そうな顔で聞き返してきた。
……まず、普通に電話機としての使い方を教えた方がいいのかもしれない。
思い直した護堂は、番号とアドレスを教わってから祐理の携帯に電話をかけ、メールを送る。彼女にその着信を電話帳登録すればいいと勧めて、やり方を教える。
祐理の携帯をふたりでのぞき込みながらの作業。
いつのまにか彼女との距離が縮まっていた。
――吐いた息が相手の顔に届きそうなほど近い。繊細《せんさい》な造りの美しい顔を凜々《りり》しく引き締めながら、祐理はたどたどしい手つきで携帯電話を操作している。
今さらながら、彼女がひどく綺麗《きれい》な少女である事実を意識して、気恥ずかしくなった。
ぷいと護堂が顔を背《そむ》けた瞬間、挑戦的に笑う静花と目が合う。
こいつ、何か企んでいる? 気づいたときには、すでに男子の暴動が起こる寸前だった。
「う、うおおおおおッ! 万里谷さん、おれにも携帯の番号を教えてください!」
左ななめ前の席で、唐突に名波《ななみ》が叫びだした。
いつだったか『おれ、実は巫女《みこ》さん萌《も》えなんだ』と真面目《まじめ》な顔で告白し、『だから、巫女さんのバイトをしてるらしい万里谷さんに、あれだけ意識されてる草薙を闇《やみ》に葬《ほうむ》りたいんダヨネ』と冗談に聞こえない冗談を言っていた、そんな男だ。
「俺も! 万里谷さんの番号を知りたいです!」
「そんな重要情報をひとりで独占するなんて、オレたちは絶対に認めない!」
「全ての男たちに愛を! チャンスを! プリーズ!」
「草薙に死を! 僕たちプロレタリアートは、不当に富を独占するブルジョワジーに最後まで抵抗することを誓う!」
名波の咆哮《ほうこう》を皮切りに、教室のあちこちで男子が絶叫する。
その必死さに驚いた祐理は、ぴくりと身を震わせて顔を上げた。恐怖に近い面持《おもも》ちで周囲を見回し、呆然《ぼうぜん》としている。
「あーあ、大変だねーお兄ちゃん。モテる男はつらいよねー」
これが狙《ねら》いで祐理を連れてきたのは明白な妹が、イヤミな口調で言った。
「し、静花……おまえ、何てことを……」
「ふんだ。女の子にモテモテでいいご身分みたいだから、たまにはいい薬でしょ」
妹よ、そんな動機で俺を窮地《きゅうち》に追い込むな。
兄への慈《いつく》しみに欠ける言葉に対して、護堂は思わず天を仰《あお》いだ。
「――皆様、申し訳ございません」
口を開いたのは祐理だった。
驚愕《きょうがく》からはもう立ち直ったようで、毅然《きぜん》とした声で呼びかける。
「私は草薙さん以外の男性と電話番号を交換するつもりは、一切ございません。ですから、ここは落ち着いて、騒ぐのをおやめ下さい。お願いいたします」
言葉|遣《づか》いこそ丁寧《ていねい》でへりくだってはいたが、反論を許さない凜《りん》とした力があった。
一瞬で男子たちは沈黙し、教室内は静寂《せいじゃく》を取り戻す。ただし全員、殺気のこもった視線を護堂に対して向けていた。
――また、おまえだけいい目を見るのか|YO《ヨ》。
――ひさしぶりにキレちまったぜ。屋上に行こうか……。
――戦場では背中からの銃弾に気をつけるんだな、ケッ。
無言のプレッシャーが渦《うず》を巻く。身の危険を感じて護堂は冷や汗をかき、静花は「うわ、こんな大勢の前で大胆《だいたん》発言。やっぱり本気なんだ……」と、もごもごつぶやいている。
そして成り行きを見守っていたエリカが、クスクスと笑い出した。
「もうその辺にしてあげなさい、祐理。いくらわたしたちの護堂が魅力的だからといって、男の子たちにあまり見せつけては気の毒というものよ。――ただでさえ、彼らはわたしが護堂を愛する日々を目の当たりにして、ストレスを溜め込んでいるんですからね」
教室中の注目が、一気に金髪のイタリア人少女に集まる。
それを優雅《ゆうが》に受け止めながら、エリカは主演女優のように朗々《ろうろう》と言った。
「今日も雨が降っていないことだし、昼食は屋上でいただきましょう。いいでしょう、護堂? 祐理も、静花さんもいっしょにいらっしゃい。食事はにぎやかな方が楽しいわ」
と護堂を促し、ふたりの来客に告げ、率先して席を立つ。
皆がついてくることを疑わない足取りで、まっすぐに教室の外へと歩いていく。
やはりエリカは、こういうときの場数がちがう。己《おのれ》の見せ方、発言の聞かせ方を十二分に心得ている。護堂はカバンから弁当の包みを取り出した。
妹と祐理に『ついてこい』と手振りで示し、エリカのあとを追う。
「なんだか面白いことになりそうじゃない、護堂?」
廊下《ろうか》でエリカに追いつくと、彼女は機嫌よさそうに話しかけてきた。
「……あいかわらず、自分が面白ければ何でもよしなヤツだな。多分、面白いのはおまえだけで、俺は変な苦労を背負い込むことになりそうだぞ。……静花が変な感じだし」
「安心しなさい。あの子が何を考えようと、そのうち力関係がはっきりしていくから」
「力関係? 何だ、そりゃ?」
訊ねる護堂に、エリカはあでやかに笑いかけた。
「小姑《こじゅうと》、あと側室や第二夫人がいくら騒いでも、いちばんの実力者はわたし――護堂の第一夫人であるエリカ・ブランデッリだってこと。ま、その辺の雑事であなたをわずらわせたりはしないから、大船に乗ったつもりでいて大丈夫よ」
「小姑とか言うな。おまえはどこでそんな日本語覚えてくるんだよ!」
この日、護堂が持ってきたのはおにぎりと各種漬け物というシンプルな弁当だった。
おにぎりの具は鮭《さけ》や明太子《めんたいこ》など、無難そうなものを選んだ。
……もっともエリカの場合、梅干《うめぼ》しのような日本人以外には難易度の高そうな食材でも、微妙な顔をしながら食べきってしまうのだが。いつだったか相当に酸《す》っぱい紀州《きしゅう》梅を「すごい味の果物ね」などと言いつつ、種まで噛み砕いて完食していた。
育ちがいいくせに、何でも食べる少女なのだ。
この辺りはもしかすると、食料は選《え》り好みせずに体力をたくわえるという騎士としての英才教育が実を結んだ成果なのかもしれない。
今も護堂が握ったおにぎりに、パクパクとかぶりついている。
女の子向けとは言い難い大きさなのだが、まったく気にしていないようだ。
「この前、護堂の家でお寿司をいただいたときも思ったんだけど、こういうのならわたしにも作れそうじゃない? 米の上や中に魚を混ぜるだけなんだから、絶対にかんたんよね?」
「そう思うなら、ぜひ一度やってみてくれ」
エリカがインスタント食品以外を用意する場面に、護堂は遭遇《そうぐう》したことがない。食に対する関心が、もっぱら『食べる』方面だけに傾いているせいだろう。
「んー、それはパス。めんどくさいもの」
予想どおりの回答に、護堂はうなずいた。
天気は曇《くも》り。屋上で食事をしているグループは、自分たち以外にも数組いる。
そして、傍《かたわ》らにいる祐理は自分の教室から持ってきた弁当を、静花は購買で買ってきたサンドイッチを食べていた。
「お兄ちゃん、今朝《けさ》は台所でゴソゴソしてると思ったら、そんなの作ってたんだ。……もう! そんなところまで面倒見なくてもいいじゃない!」
ぶつぶつと文句を言いつつ薄いハムサンドに噛みつく静花の横で、祐理は小ぶりの弁当箱に箸《はし》をのばしていた。
少なめのご飯と、ブリの照り焼き、卵焼き、ほうれん草の和《あ》え物《もの》。
プチトマトを添えて彩《いろど》りも綺麗《きれい》で、なかなか美味《うま》そうだ。
「……護堂の作ってくれたお弁当よりも、品数が多くて趣向を凝《こ》らしてあるわね」
「エリカ、正直すぎる意見を言って、興味|津々《しんしん》に人の弁当を見るな。悪い万里谷、気にしないで好きなように食べてくれ」
「よ、よろしければ、どうぞお好きなものをお取りください」
やや硬い感じではあったが、祐理がわずかに微笑《ほほえ》んで言ってくれた。
もしかすると、最初はギスギスするだけだったエリカとの仲もすこしずつ改善されているのかもしれない。
護堂がちょっと感心する横で、金髪の少女は遠慮なく手を伸ばしていた。
卵焼きを直接つまんで口へ運ぶ。行儀悪いくせに優雅《ゆうが》な手つきなのがエリカらしい。
「ん、悪くない味ね。もうすこしだけフワフワでトロトロなわたし好みの風味をアリアンナ並に出してもらえれば完璧《かんぺき》なんだけど、そこまで言うのは贅沢《ぜいたく》よね」
「おまえ、自分は料理しないくせに注文は細かいよな、本当に」
エリカに文句をつけながら、護堂も卵焼きをつまんでみる。
いい味の出汁巻《だしま》き卵だった。鰹《かつお》ダシのやさしい風味が舌に心地よい。
「あ、ほんとだ。美味《おい》しい。……作ったのは万里谷さんのお母さんですか? うちの母とちがって、お料理がお上手《じょうず》なんですね」
興味をそそられたのか、静花まで卵焼きを分けてもらって言う。ところが、この問いへの答えが皆を驚かせた。
「あ、いえ。母ではなく私が作ったものです。お口に合ったのでしたら、よかったのですが」
「万里谷は料理が上手《うま》いんだなー……。もしかして、毎朝弁当作ってるのか?」
「大体そうなりますね。もっとも、前の夜に母の作った夕食の残り物も入れたりしますので、全て私ひとりで用意するわけではありませんけど」
「いや、それでも十分だろ。俺……なんかとは大ちがいだ」
感心して護堂は言った。俺たち、ではなく俺と言ったのは気配りである。
そばにいる妹と相棒を、チラリと見る。
「何よ、お兄ちゃん。文句ありそうな顔をして」
「言っておくけど護堂、アリアンナが調理してくれる食事は、つまり主人であるわたしが用意したものだとも言えるのよ? そこのところを忘れないでね」
料理に関するセンスが今ひとつの静花は不服そうに言い、エリカはおそろしく手前勝手な理論をぶちあげてみせた。
このふたりに比べると、祐理が何と偉大に見えることか。
ついでに言えば、適当におにぎりを握るのが精一杯の草薙護堂とも桁《けた》がちがう。
「慣れれば、そんなに大変ではありませんよ? よろしければ今度、手早く作るコツを教えて差し上げます」
「それはちょっと面白そうだな。そのうち頼むよ。ふたりもよかったら――」
護堂が水を向けた途端に、静花はムーッと不満気に兄をにらみつけ、エリカは空を飛ぶ鳥の群れにわざとらしく目を向けていた。
思わず顔を見合わせ、くすりと笑い合ってしまう護堂と祐理だった。
『ほほう、お昼にはみんなで集まってお弁当を。すばらしいですね。まだ小さな一歩ですが、それがいずれ大きな一歩となるのです。その調子でお努めください』
「は、はあ……」
七雄《ななお》神社の自室で、祐理《ゆり》は甘粕《あまかす》と携帯電話で話し込んでいた。
すでに学校は終わり、夕暮れも近い。今日の成果を報告し、そして気になっていた件を相談するために、意を決して甘粕に電話してみたのだ。
『ゆくゆくは彼のためだけにお弁当を作り、ふたりっきりで食事なんていうトキメキなイベントに発展させていきたいものですね。そのためにも努力を怠《おこた》ってはいけません。……あ、預けておいた資料はご覧になりました?』
「は、はい、一応……」
放課後、祐理が七雄神社に来てみると、甘粕からの届け物だという封筒を渡された。
なかに入っていた分厚い書類。それは『素直になれない女性による異性へのアプローチ〜傾向と分析、および対策?』なる怪《あや》しげなタイトルのレポートだった。
『昨夜、取り急ぎまとめた文書なのですが、参考になりましたか?』
「あ、あれを書かれたのは甘粕さんですか!? あそこにあった台詞《せりふ》の数々をよく読んでみると、そこはかとなく遠回しに好意を伝えているように思えます! あんなの恥ずかしくて、とても言えません!」
甘粕|謹製《きんせい》のレポート。その内容を思い出し、祐理は赤面した。
――ほら、お弁当。作りすぎちゃったからあげるわ。捨てるよりはマシだものね。
――勘ちがいしないでよね! あんたのことなんか、好きでも何でもないんだから!
――お兄ちゃんのバカ、私の気持ちも知らないで……! 等々。
『ハハハ、そこが重要なのですよ。古来、われわれ日本人がこよなく愛してきた恋愛の機微《きび》というヤツです。ほら、源氏物語《げんじものがたり》の葵《あおい》の上《うえ》とか、あんな感じでしょう?』
「え? それはちょっとちがいませんか?」
『いえいえ。あれは光源氏《ひかるげんじ》がマザコンでロリコンという度し難い属性持ちだったから上手《うま》くいかなかっただけなのです。普通の男なら、ちょっと歳上《としうえ》のツンデレ幼なじみで許嫁《いいなずけ》のお嬢さまに転びます、鉄板で。たしかに桜野《さくらの》ヨーコは可憐《かれん》で愛らしい存在ですが、時代のトレンドは姉のタズサなわけですよ!』
「おっしゃる意味が全くわかりませんっ。通訳をお願いします!」
こんなバカな話だけをしているわけにもいかない。祐理は話題を改めた。
「ところで甘粕さん、昨日の魔導書《まどうしょ》の件ですが――」
『ああ、あれですか。何か気になる点でも?』
「はい。可能であれば、あの本をもう一度、視《み》てみたいのです。よろしいでしょうか?」
『……べつにかまいませんけど、もしかして昨日倒れられたことと関係がおありですか?』
さすがに甘粕は隙《すき》がない。問いただすべきところは見逃さない。
「はい。まだ詳しく申し上げられる段階ではないのですが、あのとき奇妙なものを視てしまったのです。念のため、もう一度だけ確かめておきたいと思いまして――」
さすがにデヤンスタール・ヴォバンの名前を出すと、大事になりすぎる。
そう配慮して、祐理は敢《あ》えて曖昧《あいまい》に言った。
『うーん、また何かあったら宮司《ぐうじ》たちに二日連続でお説教されちゃうんですけどねェ……。ま、いいですよ。もともと祐理さんを巻き込んだのはこっちの都合ですしね。あなたが協力してくださると言うのなら、拒む理由もありません』
意外とあっさり了承してから、甘粕は付け加えた。
『ただ残念ながら、私はこれから野暮用《やぼよう》がありまして。代わりの者に送迎と案内をまかせますので、お社《やしろ》の方でしばらくお待ち下さい』
――三〇分後。
祐理は七雄神社へと続く長い石段を下り、社の入り口まで出向いた。
待機していてくれた正史《せいし》編纂《へんさん》委員会の国産乗用車に、巫女《みこ》装束《しょうぞく》のまま乗り込む。霊視を終えたらすぐに戻るつもりだったので、着替える必要もないだろうと思ったのだ。
四〇分ほど車の後部座席で揺られ、青葉台《あおばだい》の図書館前に到着する。
祐理はここまで送ってくれた正史編纂委員に礼を言うと、車を降りて入り口へ向かった。
――何故《なぜ》だろう?
昨日よりも妙に静かな印象を、この建物から感じる。
もともとが図書館なので、周囲や館内が静かなのは当たり前だ。自分は神経質になっているのだろうか? 不安を覚えつつも、祐理は図書館に入った。
受付ロビー。
ここには昨日、正史編纂委員の受付役が何人か退屈そうに座っていた。部外者の入館を禁止し、時には実力行使で排除するためだ。
しかし、今日は姿が見えない。休憩にでも行っているのか?
違和感と焦燥感《しょうそうかん》にかられながらも、祐理は進む。
広い廊下《ろうか》。一階の閲覧室《えつらんしつ》。階段。そのどこにも、人影がない。
そういえば、甘粕の代わりに案内役を用意してくれると言われなかったか。なのに、祐理を出迎える人間はひとりもいない。
不安と孤独を追い払うように、祐理の足が自然と速まる。
万巻の奇書に埋もれた閲覧室を隅から隅まで見回り、人の姿を探そうとする。
だが、いない。昨日は少ないながらも図書館のスタッフが、そして甘粕がちゃんといた。だが今日は、誰の姿もない――。
二階に駆け上がり、さらに足を動かし、ついに人影を見つけた瞬間、祐理は安堵《あんど》した。
「あの、すみません。今日は一体、どうなさったんですか? どなたの姿も見えませんので、驚いて、しまい、ました……」
挨拶の言葉が、口のなかで小さくなっていく。
祐理が見つけた人物は白かった。文字通り、真っ白に変色していた。顔も手足も胴も、身につけている衣服も、何もかもが。
これはただの白さではない。
塩。――かつて神の怒りによって滅びた都をかえりみた者は、塩の柱と化したという。
いま祐理が見つけた人物もそうだった。以前[#「以前」に傍点]は三〇代前後の男性だったはずの彼はいま、塩の固まりでしかなかった。
恐怖にまかせて、祐理は走り出した。
もう館内のどこにいるのかもわからないほど、闇雲《やみくも》に、そして懸命《けんめい》に。
――そして、ついに見つけてしまった。
広い閲覧室。そこに林立する塩の柱――否《いな》、塩の像と化した十数人の正史編纂委員たち。
彼らを背景にたたずむ、背の高い老人。
もちろん、そうだ。
祐理は知っている。生者を塩の固まりに変え、生きながら無機物へと変化させるエメラルドの邪眼《じゃがん》。この権能を所有する人間は、地上にただひとりのみ。
「見つけたぞ、巫女よ――。おそらくは君ではないかと考えていた。出所も定かではない『狼《おおかみ》』の書を頼りに、近くに居合わせた最強の狼を幻視してみせる。そのような資質の持ち主が、そうそう転がっているはずもないからな」
老人に呼びかけられる。
忘れるはずもない、知的な風貌《ふうぼう》。しかし、これは彼の本質ではない。
凶猛《きょうもう》にして獰猛《どうもう》。猛々《たけだけ》しく荒々しき野性。それらを覆《おお》い隠し、統御《とうぎょ》するために彼が身につけた見栄えのいい外套。そう、彼の穏やかさはその程度のものなのだ。
「ふむ、懐かしいな。その面影に、なんとなくだが見覚えはある。――この娘、名は何といったかね、クラニチャール?」
老人が訪ねた相手は、祐理ではなかった。
彼の傍《かたわ》らに控える、細身の少女だ。銀褐色《ぎんかっしょく》の髪をポニーテールにまとめ、引き締まった表情をしている。東欧《とうおう》系らしい、硬質の美貌《びぼう》だった。
「万里谷祐理――そう申すようです、侯《こう》。……この少女ひとりを手に入れるためだとすれば、ここでのなさりようは少々お戯《たわむ》れが過ぎるのではございませぬか?」
「ふふふ、ミラノの青騎士は意外と頭が固いな」
青騎士。その表現が、たしかに似つかわしい。
長袖の黒いTシャツとミニのフリルスカート、やはり黒のタイツ。その上にまとう青いケープ――青地に黒い縦縞《たてじま》の入った上衣が、よく映《は》えていた。
エリカが着る|紅と黒《ロッソネロ》の上衣と似ているのは気のせいだろうか?
「まあ、うるさく言うな。――私は闘争が好きだ。狩りもいい。ゲームも悪くない。そして、その次ぐらいには横暴も好んでいる。だから、時には気ままに振る舞いたくもなる。理解してもらえるかな?」
やや不服そうな表情の少女に、老人は楽しげに言う。
「ああ、ちなみに言えば犬は好かんな。従順で、媚《こび》を売るだけの犬など反吐《へど》が出る。私は狼が好きなのだよ。時に逆らい、牙《きば》むく狼が好きなのだ。その程度の覇気《はき》もなければ、そばに置く気にもならん。……そういう意味では、君はなかなか私好みの狼だぞ、クラニチャール」
「――光栄、と申し上げておきましょう、侯」
堅すぎる口調での礼に彼はニヤリと笑い、そして祐理に向き直った。
「巫女《みこ》よ、今から君は我が所有物、我が資産のひとつとなる。了解してくれたかね?」
邪眼の所有者にして死人たちの帝王。そして狼を呼び、嵐を支配する男。
サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。
四年ぶりに最長老の魔王と再会を果たし、祐理はその身を恐怖で震わせた。
東京都《とうきょうと》港区《みなとく》、青山《あおやま》。
青山通りの小さな枝道をすこし入ったところに輸入雑貨店、胡月堂《こげつどう》はあった。
店内の印象は、雑多の一言に尽きる。台湾《たいわん》、香港《ホンコン》、中国《ちゅうごく》本土、東南アジアにインド、果ては欧州《おうしゅう》・北南米《ほくなんべい》など、店主があちこちで買い付けた雑貨を山ほど並べているからだ。
「じゃあ、あの本の出所はやっぱりここの連中ですか。何だってあんな危ない物を売りに出しますかね?」
レジカウンター付近の棚を眺めながら、甘粕《あまかす》冬馬《とうま》は言った。
ちなみに、なぜかここには薄っぺらいアメコミの冊子がぎっしり詰まっている。
「そこはほら、せっかくどこかの魔術師が遺《のこ》してくれた資料、ムダにしたらもったいないでしょ? お金にもなりませんしねェ。……あと少しでオークションも成功して、いい値段もついたってのに、そちらこそ余計な真似《まね》をしてくれたものですよー」
返答したのは、和服姿の女店主だった。
まだ二〇代前半程度、地味だが仕立てのいい銘仙《めいせん》を着ている。レジのなかで香港みやげだという中国語のマンガ雑誌を読みながらの応対であった。
この店主の本名は、甘粕も知らない。調べようとしたことがないからだ。
彼女は屋号の『胡月堂』を通り名とする怪しい商売人であり、オカルトにそこそこ造詣《ぞうけい》が深い呪術師《じゅじゅつし》くずれ。それだけ知っていれば十分だった。
「ところで甘粕さん、アレをどうやって鑑定《かんてい》したんです? あたしたちだって手を尽くして素性《すじょう》を確かめようとしたのに、結局危なくて何もできなかった。興味ありますねー」
「それについては守秘義務がありますので。ノーコメント」
「じゃ、あのうわさは本当ですか? 当代の媛巫女《ひめみこ》のなかに、なかなか目の利《き》く娘さんがいるってお話は。そんな人材がうちにいたら、お宝も探し放題なんですがねー」
「さて、どうでしょうねえ。それより、あの魔導書《まどうしょ》の件ですけどね」
探りを入れる胡月堂と、はぐらかす甘粕。
若いくせにテンションの低そうな女性と冴《さ》えない青年のやりとりにしか見えないが、これでも両名はそれぞれの陣営を代表する顔役同士であった。
正史《せいし》編纂《へんさん》委員会と、それに助力する呪術師たちは『官』の集団である。
対して『民《みん》』の呪術師――明治《めいじ》維新《いしん》の前までは流れの陰陽師《おんみょうじ》、まじない師などを営んでいた者たちの後裔《こうえい》が、この青山|界隈《かいわい》には数多く潜《ひそ》んでいた。
胡月堂は一応、そのなかでも中心人物なのだ。
人狼《じんろう》の魔導書以外にも危険な奇書を抱え込んでいるかもしれない。今回の来店は、彼女らに釘《くぎ》を刺す意味合いも含んでいた。
「じゃあ甘粕さん、別件でお訊《たず》ねしたいことがあるんですけど、ようございますかねェ? 教えてくれたら、いまご覧のそれ、差し上げますよー」
「……うわさ話への報酬《ほうしゅう》としてなら、悪かないですがね。内容にもよりますよ」
鋼鉄アーマーのヒーローと鉄仮面の天才的悪の科学者が六世紀のイングランドにタイムトリップして戦うコミックブックをめくりつつ、甘粕は言った。
「では遠慮なく。――エリカ・ブランデッリ、あんな大物が何で日本にいるんです?」
「ただの留学だって話ですよ」
「で、あの娘さんが来日した直後に、例の大停電事故が起きましたねー。正史編纂委員会のみなさんが躍起《やっき》になって情報操作して、ネットの書き込みにまで干渉《かんしょう》したアレが」
「偶然というものが、稀《まれ》に重なることもあります」
「偶然で首都高やビルがつぶされたらシャレになりませんよ。あの一夜の被害総額、何百億でしたっけ? ……結局、七人目のカンピオーネが日本人なのは、シャレでも冗談でもないってことでオーケーなのですかねー?」
「……ま、うわさが必ずしも信用できないわけでもありませんからね」
暗に正解だと認めつつ、甘粕はコミックブックを自分の鞄《かばん》にしまいこんだ。
草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》が隠しようのない本物である以上、この事実を識者にまで隠蔽《いんぺい》する意味はない。むしろ口コミで広めてくれるのなら、大いに利用したいところだ。
「じゃあ、リリアナ・クラニチャール――『剣の妖精《ようせい》』が来日しているのも、その関係ですかねー? またとんでもない大事件になっちゃうんじゃないですかァ」
「リリアナ・クラニチャール? あの〈青銅黒十字《せいどうくろじゅうじ》〉の?」
聞き覚えのある、そして思いもよらぬ名前が出たので、甘粕は表情をひきしめた。
ミラノの魔術界を支配する二大結社。
紅《あか》き悪魔たちが集う〈赤銅黒十字《しゃくどうくろじゅうじ》〉と、青き狂戦士たちが集《つど》う〈青銅黒十字〉。
前者を代表する天才児がエリカ・ブランデッリ――草薙護堂とも縁深い華麗な少女だが、この娘と張り合える好敵手が、同年代にもひとりだけいるという。
その名がたしか――。
「うちの情報網に入ってきた採《と》れたての最新情報。昨日、根暗そうなじいさまを連れたリリアナ・クラニチャールが成田《なりた》に到着し、東京入りしたとか。ご存じでしたかネ?」
胡月堂はニタッと、チェシャ猫のように笑ってみせた。
そして甘粕の携帯電話がポケットのなかで震え出したのは、このときだった。
「貴重な情報、感謝します。じゃ、私はこの辺で」
店主に挨拶《あいさつ》をしてから、甘粕は店を出た。すぐに携帯を取り出し、通話をオンにする。
「…………はい? デヤンスタール・ヴォバン?」
先ほど聞かされた魔女の名前よりも、さらに想定外の固有名詞に甘粕は絶句した。
万里谷《まりや》祐理《ゆり》が東欧のカンピオーネに拉致《らち》された。
委員会のメンバーから連絡を受け、らしくもないことに甘粕は一瞬だけ思考停止に陥《おちい》ってしまった。一体、そんな事態をどうやって解決すればいいというのか。
思わず天を仰《あお》ぎ、神に祈りたくなった。
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第4章 王たちは話し合う
魔術の本場は欧州《おうしゅう》である。
これは地政学的には正しい表現だが、文化人類学的には適切とは言えない。
魔術や呪術などという怪しげな技術《クラフト》は、どこの国にも文化にも存在するものだ。強力な魔術結社が数多く存在するのはたしかに欧州ではあるが、だからといって彼《か》の地の魔術だけが正統・主流であるわけではない。
事実、近代になって以降、多くの西洋魔術師が東洋精神文明の研究に取り組んできた。
たとえばヨーガ、マントラをはじめとするインド陰秘学《いんぴがく》。
タオ、つまり道教《どうきょう》や、風水《ふうすい》、五行《ごぎょう》思想《しそう》などの中国《ちゅうごく》呪術《じゅじゅつ》。
侍《さむらい》の国・日本も格好の研究対象であり、特に禅《ぜん》へ傾倒《けいとう》する西洋魔術師はすくなくない。また八百万《やおよろず》の神という日本特有の精霊信仰《アニミズム》も人気のある題材だ。
……意外にも、万里谷《まりや》家はそうした外来の研究者たちと親交が深かった。
万里谷家はもともと京都《きょうと》の公家《くげ》であった。だが、飛び抜けて高貴な家柄というわけでもなく、富裕《ふゆう》であったわけでもない。
代わりに、この家系からはしばしば霊力に優《すぐ》れた女子が生まれた。
当代の祐理《ゆり》もそうだが、そうした女子は社寺に預け、尼僧《にそう》や巫女《みこ》としてお勤めさせるのがここ数百年来の習わしであった。
このような血筋なので、宗教、および呪術の方面にはかなり顔が利《き》く。
そして明治《めいじ》から昭和《しょうわ》初期にかけて、男爵位《だんしゃくい》を賜《たまわ》って華族《かぞく》となった万里谷家の当主は、西洋好きの社交家ばかりだった。
西洋人――ことに魔術の心得を持つ者たちとつきあいが多かった。
フィールドワークのために日本を訪れた彼らを歓待《かんたい》し、その研究に便宜《べんぎ》を図った縁がいまも続いているのだ。ふらりと訪ねてくる欧州からの客もいれば、逆に機会があれば遊びに来いと招待されることもある。
だから純和風育ちに見えて、万里谷祐理は外国人とのつきあいに慣れていた。
日常会話ぐらいなら英語でこなせるし、何度か渡欧した経験もある。
……この家庭環境が四年前、デヤンスタール・ヴォバンに囚《とら》われる遠因《えんいん》となったのは皮肉と言えるかもしれない。
「君たちを招待[#「招待」に傍点]したのはオーストリアだったな。もう四年も前になる。懐かしい話だ」
目を細めながら、ヴォバンは語る。
無理やりに占拠した図書館の閲覧室《えつらんしつ》。彼が足を組みながら腰掛けているのは、その辺にあった粗末なパイプ椅子《いす》だ。だが、そのたたずまいは玉座《ぎょくざ》にすわる王者そのものであった。
傲岸《ごうがん》かつ不遜《ふそん》、尊大であり高貴――。
「あのころの私はひどく退屈していてね。ひさしぶりに狩り[#「狩り」に傍点]をしたいと思ったのだよ。ところが、私は少々有名になりすぎてしまった。『まつろわぬ神』どもですら、この私の前にはなかなか姿を現さない。これが私には頭痛の種だった」
聞き手は祐理とリリアナ・クラニチャールのみ。
ヴォバンの語り口は穏やかだった。だが、それは彼の人間性とは真逆《まぎゃく》のものだ。事実、その言い分は非常に身勝手で、そして冒涜《ぼうとく》に満ちていた。
「私にはいくつかの特権がある。狩りの獲物《えもの》を選ぶ権利は、その最たるものだろう。……私にネズミ狩りの趣味はないのだ。ヴォバンが狩り出し、討《う》つに値《あたい》するは常に強者《つわもの》のみ」
笑う。
幾柱もの神々を殺戮《さつりく》してきた魔王が、獰猛《どうもう》に唇《くちびる》をゆがめる。
痩《や》せた体からは不気味な力の波動が放散され、鋭すぎるエメラルドの邪眼《じゃがん》が虎《とら》の瞳のように爛々《らんらん》と輝いている。
「私の獲物となるにふさわしい神――問題は、常にそこだ。あのときの私は、それを解決する答えを手にしていた。『まつろわぬ神』を招来《しょうらい》する秘儀《ひぎ》……あの儀式さえ成功していれば、私は一時の愉《たの》しみを享受《きょうじゅ》できていたはずなのだが――」
四年前の顛末《てんまつ》――招来した神をサルバトーレ・ドニに横取りされたときの怒りを思い出しでもしたのか、ヴォバンの口元から笑みが消えた。
やや険しいまなざしを虚空《こくう》に向ける。
「私は今、四年前と同じ挑戦をしてみたいと思っている。あのときのように君たちの協力が必要なのだ。――ああ、拒否する権利はないぞ。ヴォバンが決めたことに抗《あらが》うなど、どんな人間にもできぬのだから」
四年前、数ある高等魔術のなかでも特に至難《しなん》とされる〈神の招来〉のために、ヴォバンは欧州各地から才能ある巫女《みこ》を集めさせた。彼女たちの巫力《ふりょく》で神を見つけ出し、惹《ひ》きつけるためだった。ちょうど夏休みで、オーストリアの知人に招待された万里谷家が渡欧していた時期だったのは、不幸としか言いようがない。
万里谷祐理ほどの才能ある巫女は、欧州でも稀《まれ》だ。
すぐれた巫力の持ち主を狩り集めるヴォバンの手勢によってすぐに見いだされ、魔王への献上品《けんじょうひん》とされたのだ。
「まあ、どのみち君には逃げる術《すべ》もあるまい。我が客人として、素直に歓待を受けてもらいたいところなのだが、どうかね?」
魔王の邪眼が緑の輝きを放つ。
祐理は戦慄した。彼女の両足――膝から下の部分が淡い光をまとい、白く変色していったからだ。その部分の感覚がなくなった。
人間を塩の固まりに変える邪視《じゃし》の権能《けんのう》。
彼女は今、それを行使されているのだ! しかもヴォバンは、体のごく一部だけを変えてみせた。己の能力をおそろしく精密にコントロールできる証明でもあった。
「侯、お戯《たわむ》れが過ぎましょう! その娘が壊れてしまっては、元も子もございません!」
「そのようなヘマはせぬさ。だが君の言い分には一理ある。せっかくの才ある逸材をこのような遊びに浪費《ろうひ》すべきではないな」
リリアナの諫言《かんげん》にうなずき、ヴォバンは一瞬だけ目を伏せた。
白い無機物となった両足が、すぐに元の色彩を取り戻す。膝から下の感覚がよみがえり、祐理は心の底から安堵《あんど》した。
「金の卵を産む鶏《にわとり》だ。すぐに首を切ったりはしない。私の命じる通りに鳴く間は、だがな。……君の持つような貴重な資質が死した後も遺《のこ》されるのか、あまり確信が持てないのだ。無用な実験はさせてくれるな」
またもヴォバンは笑う。
今度は彼のひねくれたユーモア感覚を示す、皮肉に満ちた微笑だった。
「我が下僕《げぼく》どもは、本来であればいずれも墓の下の住人だ。君もああなりたくはあるまい?」
ぱちりと、指を鳴らす。
それだけでヴォバンの背後に、ふたつの影が現れた。
どちらもすり切れ、ボロボロになった上衣《サーコート》と外套《がいとう》を着ている。かつてはきらびやかな戦装束《いくさしょうぞく》だったようで、何かの紋章らしき大きな刺繍《ししゅう》もあった。
腰に巻いた帯には、鞘《さや》ごと剣を佩《は》いている。
兜《かぶと》までかぶっており、まるで一三、四世紀頃の騎士を思わせる格好だ。
だが、最大の特徴は蒼白《あおじろ》い死相《しそう》だった。死人そのものに見える、表情のない顔。虚《うつ》ろな、そして瞳孔《どうこう》の開いた眼球。本物の屍《しかばね》と異なるのは、腐臭《ふしゅう》がないことだけだろう。
(――これが『死せる従僕《じゅうぼく》』たち!)
祐理は、ヴォバンの持つ権能《けんのう》のひとつを思い出した。自《みずか》ら屠《ほふ》った者を生ける亡者に化生《けしょう》させ、忠実無比な従僕に変えるという支配力。
彼に逆らえば、自分もこうなってしまうのだ!
これは塩の像となるよりも、あるいは恐ろしい仕打ちかもしれない。死人に寿命はない。この老魔王に囚《とら》われたが最後、永遠に安息を得られないまま蠢《うごめ》きつづけるのだ。
「死して尚《なお》、甦《よみがえ》りし神――。八つ裂きにされて尚《なお》、生を取り戻し、冥府《めいふ》へと降《くだ》る……」
不意に、言葉が祐理の口をついて出た。
『死せる従僕』たちが彼女の霊感を刺激したのか、ヴォバンの背後に神の御姿が見える。緑の肌に白い包帯を何重にも巻き付けた、王冠をかぶる神。そして、おそらくはこの老人が若かりし頃に討ち滅ぼした、死と生命の神。
命の連環《れんかん》を司《つかさど》る地母神《じぼしん》の配偶者にして、転じて冥府《めいふ》の支配者となった神だ。
「ほう? わかるのかね、これがいかなる神から奪い取った権能なのか?」
ヴォバンは目を細め、問いただしてきた。
「言ってみるがいい。君の力がどれほどのものか、私に示してみろ」
「い、いえ。ただ何となく思い浮かんだだけの言葉です。気にされる必要は――」
「それを判断するのは私だ! 沈黙は許さぬ。偽《いつわ》りもだ。言え!」
吠《ほ》えるように叱責《しっせき》されて、祐理は身を震わせた。
「……では申し上げます。御身が殺《あや》められた神はウシル。私どもがオシリスの名で知る、エジプトの神格でございますね」
並はずれた霊視の力が霊感に呼応し、言霊《ことだま》を呼び込む。
言霊のささやきにまかせて、聖なる神の名を言《こと》の葉《は》に乗せる。これを聞いたヴォバンは、満足げにうなずいた。
「たいしたものだな。やはり君を選んだことは誤りではなかった」
くつくつと愉快そうに笑う。その姿を見ながら、祐理は絶望感に打ちひしがれた。
オシリスは古代エジプトの神々のなかでも、かなり強力な一柱である。
神王ホルスの父にして、先代の王であった豊穣神《ほうじょうしん》。魔術に長《た》けた女神イシスを妻とし、一四の肉片に切り刻まれながらも復活を遂《と》げ、その後は冥府の支配者となった。
そんな神をも倒した怪物に、どう立ち向かえばいいのか?
ただ絶望感だけが、重く彼女の上にのしかかり――昨日言われた言葉を思い出した。
『もし今度ああいう機会があったら、もっと早く――』
眼前の老人と同じ存在である少年が、親切心で言ってくれた言葉。その名を唱えた人間のもとに、飛んで駆けつけるという飛翔《ひしょう》の権能を彼は持っている。
――だが、駄目だ。
祐理は自ら思いついた可能性にすがろうとはしなかった。
草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》では、デヤンスタール・ヴォバンに勝てない。ふたりの王と間近に接した彼女には、それが痛いほど理解できた。カンピオーネという同じ階層《ヒエラルキー》にありながら、両者の力量は劇的にちがう。
己の異能を掌握《しょうあく》し尽くした老人に対して、あの少年は未熟すぎる。
猫の子が虎《とら》に挑むようなものだと、祐理の霊感は告げていた。草薙護堂とヴォバンが戦えば、勝つのはまちがいなく老侯爵《ろうこうしゃく》の方だ。
護堂を殺させないためにも、祐理は彼の名を呼ぶわけにはいかなかった。
小降りの雨がふりだした夕暮れ時。
草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》とエリカ・ブランデッリは、城楠《じょうなん》学院《がくいん》から下校している途中だった。
先日の体育で、エリカは野球の――否、並み居る男どもを三振に打ち取るおもしろさに目覚めた。そして今日の放課後、いやがる護堂をひきずって、野球部に殴《なぐ》り込みをかけたのだ。
「――わたしのボールを打つことができるかどうか、賭《か》けをしましょう!」
高らかに宣言し、野球部のレギュラー相手に勝負を挑む。
おもしろがって挑戦を受けた野球部員たちに、護堂は心から同情した。
何しろ今日は、硬球野球《シ二ア》の名門チームで正捕手だった自分が女房役を務めるのだ。つまり、エリカは本気で投げられる。甲子園予選で一回戦敗退をくりかえす弱小野球部に、勝ち目などあるはずがない。
ひとりで好きにさせるよりも、自分がお目付役になった方がいいだろう。
そう判断して付き合っていた護堂は、エリカが八人連続の奪三振を成功させた時点でキャッチャーミットを外した。
「選手交代しましょう。俺、代打に入ります」
涙目になりつつ打席に入ろうとしていた野球部の九番に、護堂は告げた。
「あら護堂。何か企《たくら》んでるみたいだとは思っていたけど、そういうつもりだったのね」
「おまえの悪行|三昧《ざんまい》もこれまでだ。素人《しろうと》は所詮《しょせん》、素人だって教えてやるよ」
不敵に微笑《ほほえ》むマウンドのエリカと、金属バットを持った護堂が向かい合う。
捕手はおかず、一対一の勝負――。
一球目ファール。二球目空振り。三球目ボールで迎えた四球目。
それまで直球|一本槍《いっぽんやり》だったエリカが、スライダーを投げてきた。しかも、ストレートと同じ球速のまま縦《たて》に落ちる高速スライダー!
こんな変化球、真面目《まじめ》に甲子園を目指す野球部の投手だって普通は投げられまい。
エリカの規格外の運動センスに呆《あき》れながら、それでも護堂は打ち砕いた。鋭い打球が、三遊間を抜けていった。
……実は、このボールがあることを半ば予測していたのだ。
今朝《けさ》、ベッドのなかで寝坊するエリカの枕元《まくらもと》には、本格的な技術考証が売りの野球マンガがあった。しかも、スライダーの投げ方をていねいに解説するページが開かれたままだった。
――とはいえ、まさか本当に投げてくるとは。
彼女が真剣にスポーツをしたら、たいていの競技でワールドクラスに到達するだろう。つくづくうらやましい才能だった。
隣で不服そうにしているエリカを眺めながら、護堂は改めてそう思った。
「護堂ったら、せっかくの記録をふいにしてくれて……。本当に無粋《ぶすい》な人よね」
「九年まじめに野球をやってた俺に、あんな狼藉《ろうぜき》を見過ごせるわけないだろ? おまえがすごいヤツだってことは十分わかってるから、すこしは自重《じちょう》してくれよ」
雨の降る通学路を、傘《かさ》をさしながらふたりは歩く。
前はイタリアを訪れたときだけの相棒だったが、今はちがう。気づけば四六時中《しろくじちゅう》顔を合わせ、肩を並べて歩くようになっていた。腐れ縁の度合いが明らかに強まっている。
……この頃、護堂はひそかに自覚し、頭を抱えていることがあった。
ときどきエリカは同年代のどんな少女よりも異性を感じさせる存在になるのだが、普段は飄々《ひょうひょう》とそばにいるだけのときも多い。
風のように軽やかで、能天気で、身近にいることが当たり前に思えてくる。
これは良くない兆候《ちょうこう》だろう。この調子でエリカと親密になっていけば、彼女の求愛を拒みきれなくなる日がいつか来るかもしれない……。
「急に上《うわ》の空《そら》になって、どうしたの護堂? わたしの新しい魅力にでも気づいて、ボーッとしちゃった?」
不意に、エリカがにっこりと笑いかけてきた。
大輪の椿《つばき》が花開くような、あでやかで蠱惑《こわく》的な笑顔。やはり、頻繁《ひんぱん》にふたりきりになるのがいけないのか。護堂は一歩横にずれて、エリカとの距離を取ろうとした。
「べ、べつに、何でもないって。気にするなよ」
「ふーん……何でもないのか。あ、そうだ。いいこと思いついたわ」
意味ありげに護堂を見つめながら、いきなりエリカが言い出した。そして右手でさしていた傘を閉じ、なんと両手でへし折ってしまった。
「大変、傘が壊れちゃった。そっちに入れてくれる?」
「こら! 壊れたじゃなくて壊しただろ! 何言ってんだよ!?」
傘をさす護堂に密着して、エリカは雨を避けようとする。
それを押しのけようとするが、力でかなうはずがない。必死の抵抗など意にも介《かい》さず、エリカは護堂の左腕にしがみつき、耳元にささやきかける。
「いいじゃない。恋人とふたりで、こうして雨をしのぐのもいいものよ? わたしが濡れてもいいって言うの?」
「傘、俺のを貸してやるから! だから離れろって!」
「そうしたら、あなたが濡れるからダメ。いいから、ちゃんと傘をさして。あ、わたしの肩、雨がかかっちゃってるから、もっとくっついてもいい?」
いいかと訊《き》きながらもエリカは答えを待たず、さらにグイッと密着してくる。
しなやかで温かな肢体《したい》を押しつけられて、護堂は焦《あせ》った。
制服の上からでも凹凸《おうとつ》の激しさが見て取れる、女神のようなプロポーションなのだ。しかも、耳たぶに息がかかるほど唇《くちびる》が近い。
こういう雰囲気《ふんいき》のとき、エリカはいきなりキスをしてきたりする。早く離れなければ!
「あー、落ち着こうぜエリカ。ここは往来《おうらい》の真ん中だ。人目もあるし、登下校中の高校生にふさわしくない行動はすべきじゃないと思う。いかがなもんだろう?」
体力でかなわないなら、からめ手しかない。焦りを隠して護堂は言った。
「恋人同士には、この方がふさわしいわ。ねえ、雨のなかでキスするのって、わたし初めて……。護堂もそうでしょう? そうじゃなかったら、ひどいことしてあげるから――」
小賢《こざか》しい策が通じる相手ではなかった。
熱っぽくささやきながら、エリカが唇を寄せてくる。玉砕《ぎょくさい》覚悟で護堂が全身の力を振り絞り、魔女の手から逃れようとした、そのとき。
「傘が足りないようでしたら、私の車で送って差し上げますよ。その代わりと言っちゃなんですが、ひとつ頼みを聞いてもらえると助かります」
冷静な声で呼びかけられた。途端にエリカが護堂から身を離す。
準戦闘態勢――彼女の警戒心にスイッチが入ったことに気づき、護堂は驚いた。たいていの相手は、鼻歌まじりに料理してみせる少女なのだ。
彼女の視線の先には、ひとりの青年が立っていた。
「甘粕《あまかす》冬馬《とうま》と申します。――ご存じですか、正史《せいし》編纂《へんさん》委員会? その使い走りなどしてる者です。以後、お見知りおきください」
くたびれた背広を着て、黒い折りたたみの傘を持つ青年。
眼鏡《めがね》をかけ、いかにも昼行灯《ひるあんどん》という風情《ふぜい》だ。どこか人の良さそうな顔つきをしている。
「実は私たち、万里谷《まりや》祐理《ゆり》さんとは仕事上のお付き合いがある関係でして。この前のアテナの件では、陰ながらご協力させていただいたんですよ。いろいろとね」
護堂はうなずいた。
アテナとの戦いは、東京を闇《やみ》に沈め、数々の公共資産を破壊に至らしめた。あの前後、正史編纂委員会が情報操作に奔走《ほんそう》したことは、祐理から聞かされている。
「えーと、何て言うか……ご迷惑をおかけして、すいませんでした。それで、俺に頼み事って何ですか?」
「護堂、あまり甘い顔を見せない方がいいわ。あなたの力を利用するのが目的の連中よ」
「それについてはお互いさまと言いますか、同じ穴のムジナ同士、言いっこなしにしませんかね。それに今回は、私たちの利害は一致すると思いますよ」
護堂をたしなめるエリカに、甘粕が苦笑を向ける。が、すぐに真剣な表情になった。
「事態はかなり切迫《せっぱく》していましてね。一刻も早く、あなたの手をお借りしたいのです。――万里谷祐理さんが拉致《らち》されました。犯人はデヤンスタール・ヴォバン。ご存じですよね?」
「……何ですって?」
昨日聞いたばかりの名前と祐理の拉致。意外すぎる情報に、護堂は驚いた。
「ヴォバン侯爵《こうしゃく》? ちょっと信じがたい情報ね。仇敵《きゅうてき》の羅濠《らごう》教主《きょうしゅ》がおられる中国ならともかく、あの御方が極東の島国に来るなんて、変な話じゃない? それに、祐理をさらう理由がどこにあるの?」
小馬鹿にするような口調でエリカが言う。明らかに信用していない。
「理由に関しては、思い当たる節《ふし》がなきにしもあらずです。あのお姫さま、実はヴォバン侯爵《こうしゃく》と旧知の仲なんですよ。昔、いろいろあったそうで……。ともかく、事は一刻を争います。疑問は取りあえず脇《わき》に置いて、私たちに同行してはいただけないでしょうか?」
「いいですよ。どこへ行けばいいんですか?」
頭を下げる甘粕に、護堂は即答した。一瞬たりとも迷わず、詮索《せんさく》もしなかった。
「ええ、いきなりこんな依頼を持ち込んで、うさんくさいことは重々承知の上でお願いします。カンピオーネの相手ができるのはカンピオーネだけと申しますし――」
「だから、お手伝いします。万里谷がいるところに行きますよ、今すぐ」
「…………えーと、いいんですか?」
即答が意外だったのか、尚《なお》も口上《こうじょう》を続けようとしていた甘粕は不思議そうに言った。
うなずく護堂の隣で、エリカが眉《まゆ》をひそめる。
「護堂、こんな嘘《うそ》くさい話をかんたんに信じてはダメよ。もっと警戒心を持ちなさい」
「いいんだよ。友達がピンチだって聞かされて、そんな悠長《ゆうちょう》なことしてられるか」
エリカの忠告は、たしかに正しい。それを認めつつも、護堂に従う気はなかった。
何と言っても、昨夜の『情報』があったせいでもある。
「実は昨日、サルバトーレ・ドニの野郎から電話があった。ヴォバンってじいさんが日本に来てるって、お節介《せっかい》にも教えてくれたんだ。……ちょうどいいからケンカ売ってこいとかバカな話をしてたけど、ウソを言うヤツじゃないのはエリカも知ってるだろう?」
「サルバトーレ卿《きょう》が、護堂に?」
問題人物ではあれども、サルバトーレ・ドニは虚偽《きょぎ》を言う男ではない。
そんなややこしい真似とは対極に位置するダメ人間。困ったときには何でも剣でまっぷたつにすればいいと思っている人間失格男なのだ。
「まあ……そういうことなら、まちがいはなさそうね。――あの方、いつのまにか復活して護堂にちょっかいを出してきたのね。油断ならないんだから……」
「そうだエリカ。またカンピオーネと揉《も》め事《ごと》になったら厄介《やっかい》だから、ここで別れるか?」
ぶつぶつとつぶやく相棒に、護堂は提案した。
この前ドニと対決する羽目になったときは、エリカにずいぶんと迷惑をかけた。
何しろイタリアで『盟主』と仰《あお》がれるカンピオーネと、敵対関係になったのだ。所属する〈赤銅黒十字《しゃくどうくろじゅうじ》〉から護堂への協力をやめるよう指示されても、エリカはそれを無視した。
事なきを得たのは、ドニとの関係が膠着《こうちゃく》状態に陥《おちい》ったおかげである。
下手をすれば大問題になっていただろう。バルカン半島の魔王ともなれば、ドニほどではないにせよ〈赤銅黒十字〉への影響力も強いはずだった。
この地方とイタリアは意外に近距離なのだ。だがエリカは首を横に振った。
「まさか護堂、第一の騎士であるわたしを置いて、侯爵と会うつもりなの? そんなバカげた命令に従う気なんかないからね。あなたはこういうことには不慣れなんだから、素直にわたしの助けを受けていればいいの。生意気言わないで」
ツンと澄ました顔で言われて、護堂は頭をかいた。
こういうときのエリカはわがままを言うふりをして、こちらを気遣《きづか》ってくれる。それが照れくさくもあり、そしてありがたい。
「甘粕さん、でしたか。そういうわけなんで、俺たちふたりをそのじいさんと万里谷のところに連れていってください。できる限りのことはしますよ」
「ありがとうございます、王よ。あなたのご助力に大感謝ですよ、本当に」
護堂とエリカのやりとりを見守っていた甘粕は、芝居がかった仕草で頭《こうべ》を垂《た》れた。
それはまるで、王役の俳優に対する道化役のような所作であった。
甘粕《あまかす》の運転する車で、護堂《ごどう》とエリカは青葉台《あおばだい》までやってきた。
閑静《かんせい》な住宅街のなかにある図書館。
こんなところに祐理《ゆり》とヴォバンがいると教えられて、護堂は首を傾《かし》げた。何で図書館なんかに――というのが、正直な感想だったのだ。
甘粕には駐車場で待機してもらうことにして、護堂とエリカは図書館へ足を踏み入れる。
――襲撃は突然だった。
風を巻いて、ボロボロの着衣をまとった人影が剣で斬《き》りかかってきた!
「うわッ、敵なのか!?」
「わたしにまかせて。護堂は下がっていなさい!」
図書館のエントランス。
こんな場所でいきなり妙な剣士に襲撃されるとは、あいかわらず自分の人生は波瀾万丈《はらんばんじょう》すぎる。舌打ちしながら、護堂は敵が何者か見極《みきわ》めようと目を凝《こ》らす。
愛剣クオレ・ディ・レオーネをとっさに呼び出したエリカ。
その彼女と、みごとな剣さばきで斬《き》り合う敵。
ポロではあったが、裾《すそ》の長い上衣とマントのような外套《がいとう》を身につけている。幅広の長剣を操る技は、まさしく達人のもの。だが、兜《かぶと》の下からのぞいている顔には精気も覇気《はき》もない。
まるで死人のような――そう思い至って、護堂は戦慄《せんりつ》した。
ゲームやホラー映画でおなじみの、ゾンビという言葉が似つかわしく思える。ということは、まさか彼は……。遭遇《そうぐう》した怪物リストに新たな名称が加わったと確信した直後。
護堂の前に、もうひとり剣士が現れた。
「って、ふ、二人目!?」
一人目と同じ装束《しょうぞく》の、どう見ても動く死体にしか見えない剣士が奥の通路から駆けてきた。
ちらりとエリカを見る。
彼女と一人目の斬り合いは、エリカ優勢。だが、すぐに決着がつく感じではない。そして二人目が、護堂めがけて斬りかかってくる!
反射神経にまかせて、どうにかかわす。つづく二|太刀《たち》目。これは避けきれない!
確信した護堂は、とっさに足をのばした。
前蹴《まえげ》りの要領で、死人(もう断言していいだろう)の体を突き飛ばす。……こんな攻防のカンばかり自分は良くなっているなァと自己|嫌悪《けんお》を感じながら、護堂は二人目と向き合った。
「護堂、もうすこし持ち堪《こた》えなさい! そうしたらわたしが片づけてあげるわ!」
「なるべく早めに頼む。……俺、あの人(?)が本気になったら多分かなわないぞ」
エリカの激励に、護堂は難しい顔で答えた。軍神《ぐんしん》ウルスラグナから奪った権能《けんのう》には、使用するための厄介《やっかい》な条件があるのだ。
じりじりと二人目の死人がにじり寄ってくる。
彼は護堂など数分で始末できる剣の達人だろうが、ヒグマに匹敵《ひってき》する怪力の持ち主でも、実は体重が数十トンもある超ヘビー級でも、民衆を苦しめる大罪人でもないようだ。
これでは、勝つ見込みなど皆無である。
護堂はじりじりと後退しながら、一定の距離を保とうとした。
あと数歩で剣の間合いに入る。待ったがかかったのは、この瞬間だった。
「死せる騎士の御歴々《おれきれき》よ、先達《せんだつ》たるあなた方に剣を向ける非礼をお許しあれ。――その御仁《ごじん》は、我ら魔術師が王と崇《あが》める方々のおひとり。狼藉《ろうぜき》を見過ごすわけにはいかぬのです」
凜《りん》と涼やかな、少女の声が響く。
可憐《かれん》だが、媚《こ》びるような甘さはない。良質の鋼《はがね》に似た、強靭《きょうじん》なしなやかさを感じさせる。
「妙《たえ》なる調べを奏《かな》でし無冠の王よ。騎士リリアナ・クラニチャールの誓いを聞け」
声の主である少女が、悠然《ゆうぜん》たる足取りで近づいてきた。
銀褐色《ぎんかっしょく》のポニーテールと、西洋人形じみた硬質の美貌《びぼう》。そして、美しい妖精《ようせい》のような細身の体つき。どこか現実離れした雰囲気《ふんいき》を持つ少女だった。
「我は狂える碑《いしぶみ》の継承者、十字の騎士の裔《すえ》たれば、我が心のままに天を駆ける! 羽持つ匠《たくみ》の騎士王よ、幻想の精髄《せいずい》を我が手に顕《あらわ》し給《たま》え!」
リリアナ・クラニチャールと名乗りを上げた少女の手に、銀のサーベルが現れる。
刀身は長く優美で、緩《ゆる》やかなカーブを描いていた。
「さあ、我が武勲《ぶくん》の礎《いしずえ》となれ、イル・マエストロ!」
彼女が身にまとうのは、青地に黒い縦縞《たてじま》の入ったケープだ。エリカがよく着る|紅と黒《ロッソネロ》の上衣《バンディエラ》と酷似した、|青と黒《ネラッズーロ》の戦装束。
――リリアナが一息に踏み込んできた。
二人目の死せる騎士と護堂の間に割り込み、サーベルをかまえる。
「あらリリィ。あなた、いつのまに日本へ来てたの? ひさしぶりね!」
どうやらエリカは、サーベルの少女を知っているらしい。
一人目の死せる騎士をフェイントの一刀で惑わし、返す二太刀目で相手の胴を存分に薙《な》ぎながら、軽やかに挨拶《あいさつ》してみせた。
この斬撃《ざんげき》を受けて、死せる騎士の肉体は灰となって崩れ落ちていった。
「なれなれしく呼ぶな、エリカ・ブランデッリ。友人でもないあなたに、そんな口を利《き》かれる理由はない」
知り合いでも仲は良くないのか、固い口調でリリアナが言い返す。
「やっぱり、この死人たちはヴォバン侯爵《こうしゃく》の従者?」
「ああ。知っているだろう、『死せる従僕』たちを? 侵入者が来たとおっしゃられて、侯が解き放たれたのだ。――あなたがいると知っていれば、見に来たりはしなかったものを!」
エリカと話しながらも、リリアナは己《おのれ》の相手に油断なく目を配る。
二人目の死せる騎士は、正面から彼女に斬り込んできた。これにかぶせるようにして、リリアナもサーベルを真っ向から振り下ろす。
激突する剣と剣。
このまま鍔迫《つばぜ》り合いになるかと思われたが、そうはならなかった。いかなる妙技の故か、リリアナのサーベルは死せる騎士の長剣を弾《はじ》き飛ばしながら、直進する!
閃《ひらめ》く一刀。
サーベルで袈裟《けさ》懸《が》けに斬られた死せる騎士は、やはり灰となった。浜辺の砂像が崩れるように、サラサラと形を失っていく。
「……ありがとう、おかげで助かったよ」
「いえ、出過ぎた真似をいたしました。カンピオーネである御身《おんみ》にとっては、あの程度のことは危機とも言えぬと承知してはいましたが、『王』自らの御手をわずらわせるのも騎士として非礼に当たると思い、割り込んでしまいました。お許し下さい」
窮地《きゅうち》を救われた護堂が礼を言うと、逆にリリアナから謝罪されてしまった。
それを聞きながら、エリカがクスクスと笑っていた。
「何言ってるの、リリィ。どうせあなたのことですもの、溜め込んでいたストレスを発散させるつもりで、大喜びで乱入してきたんでしょう?」
「うるさい。わたしがストレスを溜めているとか、勝手に決めつけるな」
リリアナが顔をしかめながら言った。
一体、このふたりはどんな関係なのか。興味を持った護堂は、会話に耳を傾けた。
「わかるわよ。ヴォバン侯爵《こうしゃく》の居場所にあなたがいる以上、お供か何かで付いてきたに決まってるでしょう? あなたのおじいさま、たしか侯の信奉者《しんぽうしゃ》だったものね。孫娘のひとりやふたりを差し出すくらい、かんたんにしてしまいそうだし」
エリカの憶測を聞いて、リリアナはうっと顔色を変えた。図星だったようだ。
「でも、伝え聞く侯爵の気性とバカ正直なあなたが上手《うま》くやれるとも思えないわ。どうせ言いたいことも言えずに、ストレスを溜めてたんじゃないかなーって――」
「う、ううううるさいッ。見てきたみたいに言うな!」
声を荒らげて、エリカの語りをさえぎるリリアナ。
……もしかすると、この娘もエリカにもてあそばれているクチなのだろうか。思わず護堂は、リリアナに仲間意識を感じてしまった。
単純で一本気そうな彼女が、エリカとまともにやりあえるとは思えない。
「――草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》! あなたの愛人がいろいろと申していましたが、全て事実無根です。お忘れ下さい。わたしはたしかにヴォバン侯爵の供をしておりますが、騎士として何ら恥じるところはありません! ええ、絶対に、完膚無《かんぷな》きまでに!」
「あー、それはわかったよ、うん」
真っ赤になって主張するリリアナに、護堂は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
ついでに、気になった点を訂正しようとする。
「それと、エリカは俺の愛人でも何でもないから。それこそ事実無根なわけで……」
「体裁《ていさい》をつくろわずとも結構です。我らの情報網は、すでにあなた方の淫《みだ》らな――失敬、友情の枠《わく》を超える緊密な関係を把握《はあく》しております。……まあ、その雌狐《めぎつね》の手練手管《てれんてくだ》なら、若き王を骨抜きにするなど児戯《じぎ》にも等しいでしょうし」
「俺がエリカにたぶらかされてるみたいに言うな! その情報はまちがいだ!」
ひどい言われ様に、護堂は反射的に怒鳴ってしまった。
「失礼いたしました。ですが、サルバトーレ卿《きょう》も『僕と護堂の間に割り込もうとするあの娘が、とても邪魔《じゃま》なんだ』と発言されています。あまり説得力のない反論かと存じますが……」
リリアナが聞き捨てならない名前を口にした。
あのアホはどこまで自分を困らせるつもりなのだ。何となく、殺意めいた黒い衝動が護堂のなかに湧《わ》き起こってくる。
「リリィ、あなた最近サルバトーレ卿とお会いしたの?」
「だからリリィとか呼ぶな。ヴォバン侯爵とお会いする前日に、一度だけだ。――まだ療養《りょうよう》中の卿は、その原因となった夜のことを事細かに教えてくださいました。そして、あなたへの想いを熱く、ええ、とても熱く語られたのです」
あなた――つまり護堂から目を逸《そ》らしつつ、リリアナは語る。
いやらしいものを見まいとする、潔癖性《けっぺきしょう》の乙女《おとめ》のような仕草なのがすごく気になる。
「あ、あの野郎は何か変なことを口走ってたのか?」
「……『僕はあの夜の出来事を生涯《しょうがい》忘れないだろう。夏の日の花火のようにまぶしく、熱い一夜の夢を、僕は決して忘れない。僕は彼に全てをぶつけ、彼も全てを懸《か》けて僕に応《こた》えてくれた。あのとき世界は僕と彼のただふたりだけで満たされ、他の何物も要らない空間だった』とか、そのようなことを」
ここでリリアナは頬《ほお》をほんのりと赤らめ、目を伏せた。
「お、『王』であるおふたりが倫理的に不適切な関係にあるとしても、わたしごときがどうこう言う謂われはありません。ですが、ひとつだけ申し上げるとしたら、まだエリカと不純な行為に耽《ふけ》る方が男性として健全ではないかと。そもそも二股《ふたまた》というのも不誠実ですし……。あ、今のはお忘れ下さい」
「変な誤解するな! 俺とあいつはケンカしただけなんだから!」
吠《ほ》える護堂に、エリカが面白くなさそうに声をかける。
「言っておくけど、あなたに隙《すき》が多いから変な虫が寄ってくるのよ。いいこと? もっと毅然《きぜん》として、サルバトーレ卿なんか追い払わなくっちゃダメなんだから!」
「追い払いたいけど、向こうから近寄ってくるんだから、仕方ないだろ!」
言い返してから、護堂は深呼吸を一回した。
サルバトーレ・ドニはアホで腹の立つ男だが、今は重要ではない。とっとと忘れて、目下の問題に取り組むべきだ。そう決意して、リリアナに向かって訊ねる。
「なあ、この先にヴォバンってじいさんがいるんだよな。案内してくれないか?」
「もとより、そのつもりで参りました。こちらへおいで下さい」
リリアナが館内の奥へと進んでいく。最長老の魔王との遭遇が、間近に迫っていた。
図書館の二階に上がり、護堂たちは広い閲覧室《えつらんしつ》に足を踏み入れた。
そこには背の高い老人と、白衣《びゃくえ》と袴《はかま》をまとう祐理《ゆり》がいた。
狂犬のような数々の逸話《いつわ》とは裏腹に、老人の顔つきは知性の鋭さに満ちていた。秀《ひい》でた額《ひたい》と落ちくぼんだ眼窩《がんか》。痩《や》せてはいるが、不思議とひ弱そうな印象は皆無《かいむ》だ。背筋がすっきりと伸び、腰も曲がっていないせいだろうか。
仕立ての良いスーツを着ており、非の打ちどころのない老紳士に見える。
「クラニチャールよ、我が下僕《げぼく》を斬《き》り捨てるとはなかなか乱暴だな」
老紳士――デヤンスタール・ヴォバンがいきなり言った。
責めているのではない。むしろからかうような口ぶりで、リリアナに向けて問う。
「申し訳ございません。騎士として、『王』たる御方への非礼を見過ごしてはならぬと判断し、剣を振るってしまいました。後ほど、いかような罰でもお受けいたしましょう」
「なに、あの程度の者ならば、いくらでも代わりがいる。気にせずともいいさ」
冗談めかして答えてから、ヴォバンは退屈そうに護堂《ごどう》を眺めた。
尊大で、どこか気だるそうなまなざしである。
「ずいぶんと若いな。そういえば、私が『王』となったのも君ぐらいの歳頃《としごろ》であった。……名乗り給《たま》え、少年。我が名は名乗らずとも知っていようが、私は君を知らぬ」
「草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》だ。俺の友達を返してもらいに来た」
意識的に敬語を使わず、護堂は名乗った。
この老人の逸話をさんざん聞くうちに、敬老精神を発揮する気がなくなったのだ。
ちらりと、祐理《ゆり》の様子もうかがってみる。憔悴《しょうすい》していたが、痛めつけられた感じはない。護堂の顔を、ひどく心配そうに見つめている。
「草薙さん、どうして!? いけません、私などのためにこんなところへ来ては!」
「何言ってんだよ、来ちゃいけないなんてことはないだろ? それより万里谷《まりや》は大丈夫か? 乱暴とかされてないだろうな?」
「そのような愚行はせぬよ。その巫女《みこ》には役に立ってもらわねばならぬからな」
皮肉っぽく唇《くちびる》をゆがめながら、ヴォバンが口を挟んできた。
「ところで少年、その娘は君の何なのだね? 家族か妻か、それとも愛人か? すまぬが、私がもらっていく。まあ許せ」
「ふざけんなッ。神様を呼びたいなら、ひとりでやれ! 他人を巻き込むなよ!」
ここへ来るまでに、リリアナから事情はひと通り聞き出した。
ヴォバンの目的、祐理の必要性、『まつろわぬ神』を呼び出す儀式とやらの危険性。この老人の横暴を見過ごせる理由など、ひとつもない。
だから護堂は、ケンカ腰で怒鳴りつけてしまった。
それを気にも留めず、ヴォバンは退屈そうにあくびを噛《か》み殺した。
「少年よ、これは『王』同士の会合だぞ。君の所領へ無断で入り込んだ非礼は詫《わ》びよう。だが、私の目的を言葉だけで止められるとは思ってくれるな。『王』に何かを願うのであれば、然《しか》るべき代償《だいしょう》を用意すべきだ。そうではないかね?」
「代償だって?」
「ああ。この娘の代わりとなる巫女《みこ》でもかまわぬし、私の獲物《えもの》となる神を連れてくるのでもいい。そうでなくては取引にもなるまい」
この老人には、話をするつもりなどない。このままでは交渉にすらならない。
護堂は舌打ちした。力を見せない限り、ダメということか。ヴォバンが逸話通り『力』の信奉者なら、自分の持つ力――古代ペルシアの軍神から奪った権能《けんのう》を見せる他はないようだ。
悩みつつも肚《はら》をくくりかけた、その寸前――。
祈るようなまなざしで、祐理が自分を見つめていることに気がついた。何かを必死に、そして無言で訴えている。
――短気は起こすな、ということだろうか。
護堂は首を傾《かし》げて、思わず握りしめていた右の拳《こぶし》を開いた。肩の力を抜く。
祐理が大きくうなずいてくれた。当たりのようだ。
(だけど、どうしたもんかなァ……)
さっきから『実力行使』の四文字が、護堂の頭のなかで躍っている。
ヴォバンとの会話をこれ以上続ける意味はない。相手に歩み寄る意思がなく、こちらに切り札となる交渉条件がない以上、外交策としては最も愚劣《ぐれつ》で直接的な手段に訴えるほかはない。
だが祐理に止められずとも、たしかにこれは避けたいところだった。
常々エリカたちに『常識を持て、平和に生きろ』と唱えている身としては、安易な解決法に走るわけにもいかない……。
――エリカが動いたのは、このときだった。
今までリリアナと共に閲覧室《えつらんしつ》の隅に控えていたのだが、護堂の逡巡《しゅんじゅん》を見抜きでもしたかのように、『王』たちの前に進み出てきた。
「……悪い。話がややこしくなるから、下がっていてくれるか?」
「いいえ、我が君。おそれながら申し上げます。ここは盟友たるサルバトーレ卿《きょう》のお勧めに従われるのがよろしいかと――。ご決断なさいませ」
華麗な微笑で護堂の要請を退け、エリカは忠臣《ちゅうしん》めいた口調で提言した。
このセリフに反応したのは、ヴォバンの方だった。
「ほう、盟友だと? 聞き捨てならない言葉だな、少女よ」
食いついてきた老王に、エリカは優雅に一礼して名乗る。
「お初にお目にかかります。エリカ・ブランデッリ――〈赤銅黒十字《しゃくどうくろじゅうじ》〉の大騎士、当代の『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』でございます」
「パオロ・ブランデッリの後継者か。で、さっきの言いぐさは何だ? 説明してみろ」
「はい。では遠慮なく」
いたずらっ子めいた楽しそうな輝きが、エリカの瞳《ひとみ》に宿っている。
よからぬ企《たくら》みを抱いているのは明白だった。
「もうお耳に入っているやもしれませぬが、我が主《あるじ》、草薙護堂と我がイタリアの『王』サルバトーレ卿《きょう》は激しい決闘の末に引き分け、互いの力量を認め合った好敵手同士。そして、この闘いはふたりの『王』の間に固い友情のきずなを育《はぐく》んだのです」
護堂の背を冷たい汗が伝う。
たしか四年前、この老人の目的を最後のところで邪魔《じゃま》したのは、誰あろうサルバトーレ・ドニその人だったと、ついさっき聞いたばかりだ。
「育んでない! たしかにケンカはしたけど、仲良くなんかないぞ!」
「ふふふ、我が君は口ではこんなことをおっしゃいますが、サルバトーレ卿とは本当に昵懇《じっこん》の仲なのです。ねえ、そうよねリリアナ?」
「何でわたしに訊《き》くんだ? ええ、たしかにそのようです」
いきなり話題を振られて、不機嫌そうにリリアナは答えた。
エリカと友達でないなら律儀《りちぎ》に合わせるな! と護堂は叫びたかったが、遅かった。
「サルバトーレ卿は草薙護堂さまのことをとても気にかけておられます。……盟友というよりも、恋仲か弟とでもいう方がしっくりきそうなくらい、卿は熱烈でいらっしゃいました」
いつもこの調子なら、彼女はエリカのオモチャとして思うさま翻弄《ほんろう》されてきたはずだ。
リリアナに同情しつつも、護堂は天を仰《あお》ぎたくなった。
「……ふむ。〈赤銅黒十字〉の仇敵《きゅうてき》たる〈青銅黒十字《せいどうくろじゅうじ》〉の騎士まで認めるか。少年、君が――貴様がサルバトーレめの盟友だという話に、まちがいはないようだな」
「そして、もうひとつ。我が君がひと月前に得た勝利については、ご存じでしょうか?」
エリカがさらに燃料を投下しようとする。
この問いには答えず、ヴォバンはただ目を細めるだけで続きを促した。
「女神アテナ――改めて語るまでもない大神《たいしん》ですが、草薙護堂はひと月前に彼女と戦い、打ち倒しております。あと一歩のところで逃げられ、権能の簒奪《さんだつ》には至りませんでしたが……」
「ほう。ハッタリだとしても、大きく出たものだな」
変わった。
風評とは裏腹に、妙に知的だった老人の物腰が変わった。姿形はそのまま。刃物のように鋭く、野を駆ける獣《けもの》のように猛々《たけだけ》しく――。
帝王のごとく椅子《いす》に腰掛けていた彼は、ゆらりと立ち上がる。
しなやかな、まるでネコ科の猛獣のような身のこなし。絶対に老人のものではない。
「サルバトーレと引き分け、アテナに勝利したと申すか! まだ一柱の神しか屠っていない身で! ははは、あの剣以外に取り柄のない愚か者と、最強の闇の女神を敵として、そこまでやってみせたと? 『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』よ、サルバトーレめは何と言っていたのだ?」
老いた魔王は歓喜の表情で吠《ほ》え、笑いながら問いかけた。
「はい。卿はこう申されていました。『王』としては遥《はる》かな先達たる侯に御出いただいたのだから、ひとつ力比べなどに興《きょう》じるのも良いだろうと。老人に老いた身の悲しさをわからせ、若き力に屈服させるのも我ら若人《わこうど》の務めであろう、と……」
「言ってない! いくらあいつでも、そこまで無茶は言ってないぞっ」
あることないこと口にされて、護堂は精一杯|反駁《はんばく》した。だが、もう遅い。
ヴォバンは愉快そうに、そして酷薄に微笑んでいた。
「よかろう。『王』へと成り上がってから一年も経たぬ小僧の相手など、本来であれば私の役ではないのだが――敢《あ》えて誘いに乗ってやろう。光栄に思え」
エメラルドの双眼は、いまや爛々《らんらん》と輝いていた。
|虎の瞳《アイ・オブ・ザ・タイガー》。そんな言葉を思い出させる眼力に、護堂は息を呑《の》んだ。
「小僧――貴様の願い通り、この娘は返してやる。だが代わりに、貴様と娘には狩りの獲物となってもらう」
ヴォバンは祐理の腕をつかんで乱暴に立たせると、護堂の方へ突き飛ばした。
彼女の華奢《きゃしゃ》な体をあわてて抱き留める。
祐理は小刻みに身を震わせていた。顔色も蒼白で、血の気がない。相当な恐怖を感じているようだ。護堂は祐理の背を安心させるように叩いてやった。
「三〇分やる。その娘を連れて、どこにでも往《ゆ》くがいい。三〇分後、貴様の命と娘の体を奪うために、私はここを出る。……どこに隠れてもかまわぬぞ。地の果てまでも追いかけ、追いつめ、狩り立てるだけだからな。これが狩りのルールだ。了解できたかね?」
事ここまで及んでは、もうこのゲームに乗るしかない。
覚悟を決めて、護堂は静かにうなずいた。
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第5章 狩りの時
いつのまにか日は沈み、夜になっていた。
まだ小雨は降り続いている。
エリカと祐理《ゆり》を伴って図書館を出た護堂《ごどう》は、駐車場で甘粕《あまかす》と合流した。
「なるほど、そうなりましたか……。とりあえず、ここを離れますかね。移動しながら対策を考えましょう。じっとしていても埒《らち》があきませんし」
手短に経緯《けいい》を報告された甘粕は、そう言って護堂たちを促した。
結構な非常事態なのに飄々《ひょうひょう》としているのは、見かけによらず豪胆《ごうたん》なのか、それとも達観《たっかん》しているのか、どちらなのだろう。
当座どうするかも考えていなかった護堂は、彼の意見に従うことに決めた。
「何だかいろいろと、まずい事態になったよなァ……」
行く当てもないまま、首都高を港区《みなとく》方面に走る国産乗用車。
その助手席で、護堂はぼやいた。
運転席にはもちろん甘粕が、後部座席にはエリカと祐理がすわっている。
「言っておくけど、わたしは話を手早くまとめただけで、べつに護堂を陥《おとしい》れたわけじゃないからね。この件、ヴォバン侯《こう》との対決なしに片づくはずがないわ」
と、悪びれずに言ったのはエリカである。
護堂が自分の隣にすわらずに助手席へ潜り込んだので、すこし機嫌《きげん》が悪かった。
「それはわかるけど、もうすこし穏便《おんびん》な対決の仕方ってものがあるだろ!」
文句を言いながらも、護堂は心を切り替えた。済んだことを悔やんでも仕方ない。
なるべく周囲に被害が及ばないように心がける方が建設的だ。
「まあ、愚痴《ぐち》ってても意味がないし、今後の方針を考えよう。――あのじいさん、いろいろ権能《けんのう》を持ってるんだよな。全部でいくつあるんだ?」
「……七つでしたっけ? それとも八でしたか?」
「九、もしかしたら一〇以上という説もあったわね」
甘粕とエリカの回答がかなり曖昧《あいまい》だったので、護堂は眉《まゆ》をひそめた。
「はっきりしない答えだな。俺たちの能力って、どっかの魔術師たちが調査してレポートとか作ってるんじゃなかったっけ? 勝手に名前をつけたり」
「グリニッジの賢人議会ですね。ええ、その通りです」
ハンドルを握りながら甘粕が答える。
「でも、あそこの連中が活動を開始したのは、一九世紀の後半から――ヴォバン侯爵《こうしゃく》のように、それ以前からカンピオーネだった方々の情報はたいして持っちゃいないんですよ。サルバトーレ・ドニや黒王子《ブラックプリンス》アレクといった、二〇世紀以降の『王』については、それなりに詳しいようですがね」
「特にヴォバン侯爵の場合、最初に倒した神も不明なの。狼《おおかみ》に縁を持つ神――おそらく大地の属性を持つ神だとは言われているけどね」
エリカの補足を開いた護堂は、前に電話で教えられた情報を思い出した。
「そういえばドニのヤツも、いろんな権能があるって言ってたな。なんか脈絡《みゃくらく》のない、全然系統立ってない感じの力ばっかりだったけど」
思いついた感想を、素直につぶやく。
途端に説明をしていたふたりは黙り込み、何か言いたげな目を護堂に向けてきた。
「な、何だよ?」
「いえ……あなたがそれを言ったら、おしまいじゃないですか」
「ウルスラグナの化身《けしん》だって、てんでバラバラな能力ばかりよ。言わせてもらえばね」
たしかに、脈絡のなさではいい勝負だ。護堂はそれ以上のコメントを差し控えた。
「じ、じゃあ、さっきの話に戻るけど、今後の方針を決めよう。あのじいさんとの対決が避けられないなら、せめて被害の出ないところへ行くのがいいと思うんだ」
「そうですねェ。祐理さんを助けるのが大前提なら、他に手はないでしょうしねー」
進行方向を見つめながら、甘粕が言った。
車窓を叩《たた》く雨粒の勢いが強い。雨の降りがかなり激しくなっていた。
「ただ、祐理さんを人身御供《ひとみごくう》として渡してしまうって選択肢もあります。個人的には悲しい選択だとは思いますが、公共の利益を優先させるなら十分にアリですよ」
「本人の前で、バカなこと言わないでください。却下《きゃっか》に決まってるじゃないですか」
太平楽《たいへいらく》に言う甘粕に対して、護堂は即答した。
この青年、飄々としているくせに意外とひどいことを言う。
「でもそうしたらヴォバン侯爵は満足して、すぐ東京《とうきょう》から退散してくれるでしょう。余計な被害も出さなくて済みますから、非常に合理的です」
「理屈はわかりますが、俺は反対です」
取り合う気のない護堂に反論したのは、提案者ではなかった。
「……ですが草薙《くさなぎ》さん、甘粕さんの意見はまちがってはおりません」
今までずっと黙り込んでいた、祐理の発言だった。
ずっと暗い顔つきでうつむいていたのだが、急に顔を上げて話に割り込んできた。
「このまま私を引き渡さず、侯爵と草薙さんが戦うことになれば――東京は大惨事に見舞われるでしょう。ご存じですか? あの方が呼び寄せた大嵐で壊滅した都市や、解き放った狼の群れに蹂躙《じゅうりん》された村々の伝説を」
決意を込めて語る、祐理の凜とした声。
もう彼女はおびえていなかった。悲愴《ひそう》とさえ言える面持ちで、静かに語る。
「侯爵が執着しているのは、私ひとりです。私ひとりをあの方に差し出して収まる話なら――そうすべきだと思います。幸い、侯は私に儀式を手伝わせたいと思っていらっしゃるだけのようですから、酷《ひど》い目に遭《あ》うこともないはずですし、きっと大丈夫です」
と、安心させるように微笑《ほほえ》む。
気丈そうな、しかし儚《はかな》げな笑顔を見て、護堂は軽くため息をついた。スポーツや機械は苦手な彼女だが、どうやら演技はそうでもないらしい。
「ということなんだけど、どうだ? この話、危険はないと思うか?」
「四年前、侯が主催した『まつろわぬ神』を招来する儀式に参加させられた巫女《みこ》はたしか三〇名弱。儀式後、そのうちの三分の二が精神に重大な障害をこうむったはずよ。発狂して正気を保てなくなった巫女がほとんどだったらしいわ」
流暢《りゅうちょう》なエリカの回答を聞いた瞬間に、護堂の心は定まった。
――いいだろう、やってやろうじゃないか。
アテナとの戦いで、祐理は自《みずか》らの危険もかえりみずに力を貸してくれた。あの女神を東京から追い払うため、他にできる者がいないからと危険な役を引き受けてくれた。
草薙護堂は、万里谷《まりや》祐理に大きな借りがあるのだ。
「あの儀式は有名よ。その程度[#「その程度」に傍点]の犠牲《ぎせい》で『まつろわぬ神』を招来してみせたって意味でね。正直、あれに祐理が参加していたと聞いて驚いたわ。……多分、巫女としての資質がすぐれていたおかげで無事だったのでしょうけど、次もそうなると考えるのは楽観的すぎるわね」
「じゃあダメだな。悪いけど、万里谷の提案はやっぱり却下だ」
闘志に火がつくのを感じながら、護堂は静かに言った。
カンピオーネ――『王』だから何をしてもいいのか。ふざけるな。ヴォバンの横暴なやり口に、だんだんと反骨心が首をもたげてきた。
あんな老人のせいで、この少女が危険な目に遭う。どうにも許せそうにない。
「じいさんひとりのわがままで、何で誰かが犠牲にならなくちゃいけないんだ? そんなの、俺は認めないぞ。万里谷と甘粕さんたちには悪いけど、俺のわがままにつきあってもらう。あのじいさんと俺、どっちが自分のわがままを押し通すか、勝負してやるよ」
「い、いけません、草薙さん!」
「じゃあ万里谷は、あのじいさんについていきたいって本気で思ってるのか? 本当の本気で、心の底から?」
「……思っています」
短く答える祐理だが、わずかにうつむいている。
護堂は後方へ振り向き、彼女の顔を正面からのぞきこんだ。
「ウソだよ、それは。万里谷はウソをついている」
「そんなことはありませんっ。私はちゃんと考えて――」
「どうせアテナのときみたいに、自分が犠牲になればとか思ったんだろ? 俺はあのとき決めたんだ。こういうことがまたあったら、万里谷はきっと自分を犠牲にしようとするだろうから――絶対そんなふうにはさせないって」
体が熱くなってきた。
カンピオーネの肉体は、危地に飛び込むとき心身を勝手にベストコンディションへと近づけていく。この能力が、護堂に戦う力を送り込んでくるのだ。
「あなたと侯爵が争えば、またひどい被害が出てしまいます! 落ち着いてください!」
「落ち着いているよ、大丈夫。あっちがすごいカンピオーネでも、神様じゃないんだ。アテナみたいに闇《やみ》の世界を造り出したりはできない。何とかできるはずだ」
「でも、それでは草薙さんの方が……。もっとご自分のこともお考え下さい」
肩を落とし、祐理が力なくつぶやく。
「もし、それであなたの身に万一のことが起これば――いえ、侯爵と戦う以上、起こるに決まっています。私などのために草薙さんが亡くなられたりしたら、私は……」
声にならない声。言葉にならない言葉。
祐理は完全にうつむき、肩を震わせていた。涙の滴《しずく》が落ち、彼女の袴《はかま》を濡らす。
――この気丈な少女が泣いている。
自らの身をかえりみず、みんなのためにアテナにさえ立ち向かった祐理が今、明らかに泣いていた。おそらく、自分のために護堂が危険を冒《おか》そうとしているからだ。
己《おのれ》ひとりのことだけなら、祐理はきっと涙を押し殺して我慢《がまん》しようとするのだろう。
今までいつも、そうしてきたように。
これで逆に、護堂の心は定まった。万里谷祐理は自分が守る。あのくそじじいのわがままは、意地でも邪魔《じゃま》してやる。何としても、目にもの見せてやる!
「祐理、もう諦《あきら》めなさい。これは王の裁定よ。あなたが何を言おうと覆《くつがえ》ったりはしないわ。……忘れていたかもしれないけど、この人は『王』よ。とてもわがままで、横暴な人なの。普段がどうであれ、ね」
泣き崩れる媛巫女《ひめみこ》とは対照的に、隣のエリカは落ち着き払っていた。
余裕の笑みを含ませながら問いかける。
「もちろん、あなたの身柄を要求する侯爵も『王』である以上、どちらかを選択する自由はあるわ。どうするの? 侯爵と護堂、あなたはどちらを選ぶのかしら?」
「ですが、草薙さんではヴォバン侯爵に勝てませんっ。同じカンピオーネだといっても、権能の強さも数も、全《すべ》て侯爵の方が勝っています! 草薙さんは楽観しすぎです!」
祐理が涙に濡れた顔でたしなめる。
だが護堂の決意は変わらない。エリカも肩をすくめてみせた。
「だそうですけど、我が君?」
「何を今さらってヤツだよ、それは。勝てるかどうかで言えば、俺はアテナにも、そもそもウルスラグナにだって負けてたはずなんだから。今さら気にしたって仕方ない」
護堂は、運転席にすわる甘粕へ向き直った。
「そういうことですので、万里谷の身柄は俺が預かります。あのじいさんには絶対に渡しません。あと、このまま有明《ありあけ》の埋め立て地にでも向かってください。この辺で荒事になるよりは、まだマシでしょうから」
「了解です。カンピオーネふたりに続けて拉致《らち》されるとは、祐理さんも大物ですねェ」
「あ、甘粕さんっ、あなたまで何を!?」
ほくそ笑む甘粕を咎《とが》める祐理。
だが、不真面目《ふまじめ》な青年エージェントはどこ吹く風とばかりにハンドルを操る。
「残念ながら、私は正史《せいし》編纂《へんさん》委員会の一員でして。この業界の関係者としては、魔王様のご意向には逆らえないのですよ。……なんだか盗んだバイクで走り出す気分と言いますか、悪事に荷担するようでワクワクしますね」
「あ、あなたという人は、どこまで不謹慎《ふきんしん》なんですか!」
祐理がとうとう怒り出す。さっきまでの悲愴感も、涙も、ついに振り切ってしまった。
そんな彼女を見て、護堂はひそかにうなずいた。
全てのカタがついたあとで、またアテナのときのように説教されるのだろうが、べつにかまわない。この娘がどこか遠い土地に連れ去られて酷《ひど》い目に遭うよりも、一万倍はましだ。
ふと、エリカと視線が合う。
相棒は黙ってウインクをしてくれた。全て異論はないということだ。
「悪いな、また迷惑をかける」
「謝るなって前にも言ったでしょう? あなたに剣を捧《ささ》げた以上、こういうときの覚悟は決めているわ。それに、あのご老体も『王』は自分ひとりじゃないって理解してもいい時代だしね。わたしたちでそのことを教えてあげましょう」
軽やかにエリカは言い、そして皮肉な視線を前方――運転席の青年に向けた。
「……ま、わたしとしては、こうなる可能性を推測できたはずなのに、護堂へ話を持ち込んだ人がすこし気になってるんだけど」
「いやだな、私に企《たくら》みがあるみたいにおっしゃらないでくださいよ」
含みのあるやりとりが続くなか、ゴロゴロと雷鳴が轟《とどろ》いた。
かなり近くに落ちたようだ。窓の外を見れば、夜空にぶあつい暗雲が立ちこめている。雨の勢いも、さらに強くなってきた。
「……そういえば、もう三〇分|経《た》っていますな」
灰色の影が現れたのは、甘粕が時計をちらりと見た直後だった。
走る。
激しい雷雨のなかを、灰色の影の群れが走る。
影――否《いな》、よく見れば、それは狼《おおかみ》の姿形をしていた。その数は、三、四〇ほど。
濃いネズミ色の体毛を持つ狼たち。
だが、そのサイズが規格外だった。馬かと見まがうほどの巨躯《きょく》なのだ。
巨大な灰色狼《グレイウルフ》の一群がすさまじい速さで首都高の上を疾駆《しっく》し、護堂《ごどう》たちの乗る車を後方から追いかけてくるのだ。
……とんでもないことに、徐々に差が詰まりつつある。
今はまだ三〇メートルほどの間隔《かんかく》があるが、そう遠からぬうちに追いつかれそうだ。
「やっぱり、あのじいさんが呼び出すっていう『狼』か? 完全に化け物だな」
「わたしも初めて見るわ。……侯《こう》はあんなのを何百匹も呼び出せるんだから、そりゃ街や村の一〇や二〇、かんたんに滅ぼせるわよね」
後方の車窓から狼たちの狂態を見た護堂とエリカは、しみじみ感想を言い合った。
ようやく獲物《えもの》を見つけた、飢えきった獣《けだもの》。
そう説明されれば、すぐに納得しただろう。涎《よだれ》を流しながら猛追してくる狼たちの目は、それほどぎらつき、血走っていた。
「そういえば、すこし前から追い越す車がないなって気になってたんだ。あれが原因か……」
護堂は自分の不注意をぼやいた。
今日の交通量はそれほど多い方ではない。だが、首都高を走る自動車がゼロになるわけがないし、事実、前を行く車や併走《へいそう》する車、追い越しにかかる車はそれなりにあった。
なのに、五分ほど前から周囲の車は極端にすくなくなっていた。
それもそうだ。あんな怪物どもが爆走してきたら、まともなドライバーなら唖然《あぜん》として道を譲る。想像にかたくない。
「あの狼たち、ひどい悪さをしてなけりゃいいんだけどなァ……」
護堂は天に祈りたくなった。
灰色狼たちの標的は護堂と祐理《ゆり》だけなのか、他の車には目もくれずに追いかけてくる。だから、その心配はなさそうなのだが万一ということもある。
……自動車と正面衝突しても、あの『狼』なら逆に相手を撥《は》ねとばしてしまいそうだ。
「甘粕《あまかす》さん、車を止めましょう! 関係のない方々を巻き込むわけにはいきません!」
「止めるのは反対ですが、たしかにこんな場所での追いかけっこは避けるべきですな」
祐理に言われて、甘粕はハンドルを傾けた。
首都高3号線の谷町《たにまち》ジャンクション。
そこに設けられた一般道への出口へ、甘粕は車を走らせる。
「って、街中へ出るつもりですか!? 危ないでしょうが!」
「この速さで走りながら、あんな怪物に襲われたら大惨事ですよ! どうせ追いつかれそうなんですから、地面に足つけて逃げた方がましですって!」
なるほど、それも一理ある。甘粕の言い分に、護堂は即答した。
「じゃあ適当なところで、俺たちを降ろしてください。あとは何とかしてみます!」
――一〇分後、一般道に出た甘粕の車は六本木《ろっぽんぎ》界隈《かいわい》を走っていた。
高層ビルや高級ホテル、テレビ局、すこし離れたところには神社や寺院、大使館などもある都心のど真ん中だ。
「……すいません、そこで止めてもらえますか」
強い雨が窓を打つため、外は見えづらい。それでも良さそうな場所を見つけた護堂は、甘粕に声をかけた。
交差点の角にある、小学校の前だった。
都心の学校なので、決して敷地も校庭も広くはない。それでもここなら、自分たちが一暴れしても問題はすくないだろう。もう夜なので、子供たちもいないはずだ。
護堂は路肩《ろかた》に車を寄せてもらい、道路へ降りた。
風雨が激しい。
横殴《よこなぐ》りの烈風にいきなり体を叩《たた》かれる。雨の滴《しずく》を吸い込み、すぐに服が濡れてしまった。靴のなかにも雨が染みこんでいく。
これでは傘などさしても、すぐに吹き飛ばされるだけだろう。
「さあ、万里谷《まりや》も行こう。ちょっとヤな天気だけど、我慢《がまん》してくれよな」
後部座席のドアを開け、祐理に降りるよう促す。
だが、武蔵野《むさしの》の媛巫女《ひめみこ》は従おうとはしなかった。護堂の顔をまっすぐに見つめ、真摯《しんし》な瞳でゆっくりと訴える。
「草薙さん、あなたもご覧になったでしょう? あの『狼』も『死せる従僕』たちも、ヴォバン侯爵《こうしゃく》が持つ力の一端に過ぎません。あなたでは――あの方に勝てません。それに勝てないまでも全力で戦えば、必ず周囲にひどい被害が出るはずです」
だから、私を差し出せと。そう訴えられて、護堂は首を横に振った。
「俺はあまり頭が良くないから、そんな理屈はわからないよ。ただ、君は俺を助けてくれた友達で、これから多分ひどい目に遭《あ》う。そんな女の子を見捨てたら、あとで後悔するに決まってるだろ? ――だからさっきも言ったけど、これは俺のわがままなんだ」
かたくなな媛巫女の前に、護堂は手を差しのべた。
頼むからこの手を取ってほしい。心の底から、そう思う。
「あんなじいさんに、君を渡したくない。こう考えるのって、俺だけじゃないと思うんだ。わがままなくそじじいが、融通《ゆうずう》が利《き》かないけど勇気があって、思いやりのある女の子をひどい目に遭わせようとしている。この話を聞いたら多分、一〇人中一〇人が俺に賛成してくれるよ」
自分はやっぱり口が上手《うま》くない。
こんなことしか言えない気の利かなさを呪《のろ》いながら、それでも護堂は訴える。
「だから、ものは考えようで……たしかにあのじいさんと対決したら、いろんな人に迷惑かけると思う。でも、事情を話せばある程度はガマンしてくれるよ。事後承諾《じごしょうだく》ってのは申し訳ないけど、この際仕方ないわけだしさ」
誰よりもまじめな祐理に、この口説き文句はないだろう。
自覚しつつも、他に言うべき言葉を思いつけない。だから代わりに、彼女の無事を願う気持ちが伝わるよう、護堂は精一杯祈った。
「いろいろ心配なのはわかるけど、俺といっしょに行こう。頼むよ、万里谷」
「あなたの御力では、侯爵には勝てないのですよ。それを承知しているのですか?」
「べつに無理して勝つ必要はないだろ。要は負けなけりゃいいんだよ。俺は万里谷のことさえ守れたら、それで満足なんだから。――向こうの方が強くても、引き分け狙《ねら》いで戦うなら打てる手は結構ある。だからきっと、何とかしてみせるよ」
能天気な、むしろサルバトーレ・ドニなどの方が言いそうな楽観論。
半ば自分に信じさせるために、敢《あ》えて護堂は言った。
あまりにバカバカしい言いぐさ。およそ信用に値《あたい》しない調子のいい文句。これを聞いて、ついに祐理はため息をついた。
「まったく、もう……。あなたは本当に、仕方のない人ですね。普段はまじめそうなことを言っているくせに、こんなときは全くいいかげんなんですから……」
顔を上げる。まっすぐ護堂の目を見つめる。
「そんな人相手に理屈を言っても、何の役にも立たないことがよくわかりました。だからもう、あなたを説得しようなんてバカな真似《まね》はいたしません」
辛辣《しんらつ》な口ぶりとは裏腹に、護堂を見つめる表情に険はなかった。
おずおずと、祐理の手が伸びる。
護堂の差し出した手へ、その華奢な手がゆっくりと伸びていく。
「べつに草薙さんのお言葉を信じたとか、あなたに懸《か》けてみたくなったとか、そういう意味ではありませんからね。どうせあなたは、私をさらっていかれるおつもりなのですもの。抵抗しても無駄だと思っただけです。……本当に、それだけなんですから、勘《かん》ちがいなさらないで下さいね」
「うん、わかった。それで十分だよ、万里谷」
ギュッと、護堂の手を強く握りしめる祐理。
迷子の子供が、ようやく見つけた父親にすがりつくような仕草だった。
その感触をうれしく思いながら、護堂はうなずきかけた。頬《ほお》を紅《あか》く染めて、恥ずかしげに祐理はうつむいてしまう。
それでも腰を上げ、車の外へ――雨のなかへと踏み出してくる。
白衣《びゃくえ》と袴《はかま》はすぐに雨で濡れ、細くとも十分に女性らしい体に貼《は》り付いてしまった。
「……私、侯爵《こうしゃく》のところへ行くよりも、草薙さんとご一緒の方がまだましです。――だから、よろしくお願いいたします」
「全力を尽くすよ」
ひどい言われようだったが、護堂は笑顔で請け合った。
祐理も恥ずかしげに、桜の花がほころぶような微笑で応《こた》えてくれた。
「そうと決まったら、さっそく場所の準備をしなきゃいけないな。……万里谷はあの門を乗り越えるとか――無理だよな、やっぱり」
小学校の校門を指さす護堂に、祐理はハァとため息をついてみせた。
「多分そうだと予想はしていましたが、やっぱり不法侵入されるおつもりだったんですね。本当にもう、何て申し上げたらよいのか……」
「そ、そこはあまり責めないでくれよ。悪いとは思ってるんだからさ。エリカ、頼む」
「はいはい。口ではちゃんと反省するくせに、実行の段階でためらわないのが護堂のひどいところよね。ま、そこが頼もしくもあるんだけど」
意地悪く笑いながら、エリカも車から降りてきた。
彼女は前かがみになり、制服のスカートの端をつまんだ。
そのまま、勢いよく引き裂く。逆側にも同じことをして、スカートの左右に即席のスリットを作った。もちろん、動きやすくするための措置だろう。
「――鋼《はがね》の獅子《しし》と、紅き悪魔の楯《たて》よ。我が意志、我が言霊《ことだま》に応えよ!」
エリカは雨に濡れるのも気にせず、召喚《しょうかん》の魔術を使った。
その右手に現れるのは、獅子の魔剣クオレ・ディ・レオーネ。
その身をおおうのは、|紅と黒《ロッソネロ》の軍衣《バンディエラ》。
戦闘態勢を整えたエリカは、愛用の魔剣をVの字に大きく振るう。この斬撃で、小学校の校門は文字通りに切り開かれてしまった。
「あ、私は荒事が苦手なので、ちょっと距離を置いて応援していますよ。たいしてお役に立てず、申し訳ございません。みなさんの健闘をお祈りいたします」
とは、甘粕の言葉だった。
この期《ご》に及んでものんきそうに運転席に収まったままなのが、いっそ彼らしい。
「ふうん。荒事が苦手ねー。とてもそうには見えないけれど」
「いやだなァ、エリカさんは。あなたとチャンバラしたら、三〇秒で私の惨敗《ざんぱい》ですよ」
「そう? わたしの見立てだと、三〇〇秒くらいは保《も》ちそうな気がするわよ。いずれ機会があったら、試してみましょうか?」
毒花のように微笑《ほほえ》むエリカに対して、甘粕はとぼけた愛想《あいそ》笑いを浮かべた。
「勘弁《かんべん》してください。『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』のお相手ができると思うほど、自惚《うぬぼ》れてはおりませんので。それではみなさん、お元気で」
気の抜けた挨拶《あいさつ》に見送られて、三人は夜の学校へ侵入した。
時刻は夜の八時過ぎ。もしかしたら、教職員が残業しているかもしれない。もしそうなら校舎から出てこないでくれよと、護堂は祈った。
目指すのは、いちばん見通しの利《き》く校庭である。
鼻の利きそうな『狼』たちから隠れても、仕方がなさそうだったからだ。それよりも、相手の姿をすぐに視認できるところの方がいい。
校庭のまんなかで待つこと約五分――。
ついに、あの巨大な灰色狼たちが現れはじめた。小学校を取り囲む柵や壁を、巨体に似合わぬ身軽さでひらりひらりと飛び越えて、校庭内に入り込んでくる。
ゆっくりと近づいてくる『狼』の数は、優に三、四〇匹はいた。
「あの連中の相手は、わたしがやるわ。まさかこんなところで『白馬《はくば》』や『鳳《おおとり》』を使うわけにもいかないでしょうしね。ウルスラグナの化身は、できれば侯爵との対決まで取っておいた方がいいわ」
「まかせる。上手《うま》いようにやってくれ」
エリカの申し出に、護堂は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
ウルスラグナから奪った一〇の化身。その多くは「集団」との攻防に向いていない。
天空から太陽の劫火《ごうか》を落とす『白馬』は、数少ない例外である。だが、あまり軽々しく使いたいものではない。威力がありすぎるのだ。
そして『鳳』はもうすこし地味な能力なのだが、使ったあとに問題が起きる。
「――いざ来たりませ、異邦人《いほうじん》の救い主よ。処女《おとめ》より生まれ出《い》づる約束の主よ!」
銀の刀身を持つ愛剣へ、エリカが言霊をささやきかける。
クオレ・ディ・レオーネは見えない糸に引かれるようにして、空中へ浮かび上がった。
「聖なるかな聖なるかな、万軍の天主よ。我ら神なる御身を讃《たた》えん! 御名を崇《あが》め奉《たてまつ》る!」
ひとつ、ふたつ、みっつ――クオレ・ディ・レオーネが増殖していく。この魔剣と瓜《うり》二つの形状を持つ剣が、エリカの眼前の空中に次々と現れ出る。
たった十数秒で、銀の魔剣とその分身は一三振りにまで増えてしまった。
「さあ、決闘の時間よ、クオレ・ディ・レオーネ!」
この言霊が引き金となった。
一三の魔剣は一三の矢となり、稲妻《いなずま》のように飛翔《ひしょう》する。
飛びかかる好機を待ちかまえていた『狼』たちの眉間《みけん》に、ことごとく突き刺さった。
キャウンと痛々しい啼《な》き声をあげる灰色狼たち。
しかし、その傷口から紅い鮮血は吹き出なかった。代わりに青黒い液体を額《ひたい》からほとばしらせて、巨狼の屍《しかばね》は闇《やみ》に溶け込んだ。そのまま消失してしまう。
やはり死せる騎士同様、まともな生き物ではないようだ。
一気に狼の頭数を減らした一三振りのクオレ・ディ・レオーネは、宙を飛んでエリカの手中へと舞い戻った。
いつのまにか、もとの一振りだけになっている。
「我が猟犬《りょうけん》どもも、『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』の前には役立たずか。口惜《くちお》しいものだな」
聞き覚えのある声が響く。
知性の衣にくるんだ横暴の化身。古き魔王の吐き出すささやき声。
「待たせたな、小僧。私に押しつぶされる覚悟はできておるか?」
雷鳴が轟《とどろ》き、風が唸《うな》りをあげる。雨が激しく大地を打つ。それらの騒音を無視して、デヤンスタール・ヴォバンの声は届いた。
悠然と校庭の中央へと歩み寄ってくる魔王は、どこまでも傲岸《ごうがん》そのものだった。
「私は嵐の夜が好きだ。風と雨と稲妻《いなずま》、その全てが私を猛《たけ》らせる。貴様もそうであろう、小僧? 未熟とはいえ我が同胞《どうほう》であるならば、きっとそのはずだな」
背広の上に漆黒《しっこく》のコートをはおったヴォバンは、愉《たの》しげに雨を浴びながら言った。
護堂《ごどう》はムッと眉《まゆ》をひそめた。
実は、昔から台風の日は心が浮き立つ性癖《せいへき》なのだが、そこは無視して言い返した。
「だから何だよ? あんたが好きな嵐の夜でよかったとでも言いたいのか?」
「いや。これは私が[#「私が」に傍点]呼び込んだものだ。気が昂《たか》ぶると、自然とこうなってしまうのだな。貴様の趣味にも合うはずだから、べつにかまわんだろう?」
デヤンスタール・ヴォバンは嵐を呼ぶ。
その異能の片鱗《へんりん》をかいま見て、護堂は頭が痛くなってきた。
「勝手に決めつけるな! 何の根拠があって、そんなことを言うんだよ?」
「そもそも、お祭り好きでお調子者の資質がなければ、神と戦ったりはすまい。カンピオーネになるような輩《やから》には、おおむね同じ傾向がある」
隣でエリカと祐理《ゆり》が「ああ、なるほど」と得心《とくしん》のいった顔つきをしている。ふたりともこちらを見ながらなのが、なぜかむかつく護堂だった。
「本当に人間離れしたじいさんだな。じゃあ、第一ラウンドの開始といくか?」
「貴様がここで倒れれば、第一も第二もないぞ。せいぜい跳ね回って、私を楽しませろ」
ヴォバンが腕を振り上げた。
途端に、闇のなかから十数匹の『狼』が泡のように湧《わ》き出てきた。
「あんな調子で増産できるなら、とんでもなく鬱陶《うっとう》しい相手になるわね。数ばかり多い敵なんて、美しくなくてイヤな感じ」
「物量じゃ、完璧《かんぺき》にあっちの勝ちだな。――万里谷《まりや》は後ろに下がっていてくれ」
論評する相棒にうなずいてから、護堂は言った。
祐理を近くに置いて、巻き込んでしまってはいけない。まあ、ヴォバンの方も標的である彼女を傷つけないように留意するだろうが、念のためだった。
この乱戦の開始直後。
まずエリカが、クオレ・ディ・レオーネを宙に放り投げた。
「鋼《はがね》の獅子《しし》よ、汝《なんじ》に使命を授ける。七振りの太刀《たち》となり、囚《とら》われの王を守護せよ! 歌えブロンデル、応えよ獅子心王《レ・レオーネ》!」
銀の魔剣は七つの破片に砕け散り、地上に落ちてくる。しかも破片は膨張《ぼうちょう》し、変形し、鋼鉄造りの獅子となった。
魔術で命を吹き込まれた、七体の獅子像。
彼らは鋼の窮屈《きゅうくつ》さを感じさせないしなやかな動きで、護堂と祐理の周囲を取り囲んだ。
鋼の獅子たちがうなり、近づこうとする『狼』たちを牽制《けんせい》する。無限に増殖しかねないヴォバンの猟犬たちを見て、エリカは護衛を造ってくれたのだ。
――オオオゥゥゥゥンンンッッ!!
一斉に『狼』たちが躍りかかってくる。
エリカは珍しくクオレ・ディ・レオーネではない、いかにも重そうな分厚い剣を呼び出し、恐れることなく迎え撃った。
縦横無尽《じゅうおうむじん》、そして華麗なる剣舞。
続々と湧《わ》き出てくる『狼』どもを、エリカは次々と斬《き》り裂《さ》き、蹴散《けち》らしている。ヴォバンが評した通り、馬のような巨躯《きょく》を持つ猟犬たちも彼女の敵ではなかった。
ほとんど一刀か二刀で輪切りにされ、もしくは串刺しにされた。
だが、さすがのエリカもひとりでは限界がある。
数で圧倒的に勝る以上、『狼』たちはひたすら攻撃を繰り返せばいい。そう、エリカほどは手強《てごわ》くない、彼女の連れに対して――!
護堂と祐理を狙おうとする『狼』。
それを迎え撃つのが、クオレ・ディ・レオーネから生まれた獅子たちだった。
鋼鉄の体躯《たいく》と牙《きば》、そして爪で、灰色狼を引き裂き、打ちのめす。鋼の獅子の戦闘力は、『狼』たちのそれを凌駕《りょうが》していた。
危なげなく勝利を積み重ねていく。
それでも取りこぼしが出てしまうのは、物量差のためだ。
護衛の獅子たちをすり抜けてきた『狼』を迎え撃つために、ついに護堂はウルスラグナの権能《けんのう》を行使した。
たくましい『雄牛《おうし》』の姿をイメージし、言霊《ことだま》を発する。
「我は最強にして、全ての勝利を掴《つか》む者なり! 人と悪魔――全ての敵と、全ての敵意を挫《くじ》く者なり!」
我は立ちふさがる全ての敵を打ち砕く!
人間を凌駕《りょうが》するパワーの持ち主と戦うとき、無双《むそう》の剛力《ごうりき》を与えてくれるウルスラグナ第二の化身『雄牛』。ヴォバンが呼び出した狼たちは、この条件に問題なく当てはまった。
矢のような勢いで突進してくる『狼』の鼻面《はなづら》を、護堂は強く蹴り飛ばした。
下手《へた》に格闘戦などして、無駄な手傷を負いたくない。こんなのに咬《か》みつかれでもしたら、骨ごと喰いちぎられても仕方のないところだ。
なるべくふれないで済むよう、思い切り遠くへ吹っ飛ばす――!
護堂の前蹴りで『狼』たちは、サッカーボールのように空高く蹴り上げられた。自分と祐理を襲おうとするヤツは、全て同じ目に遭《あ》わせてやった。
だが、『雄牛』の化身は決して多対一の乱戦に向いてはいない。
「こいつら、次から次へと湧き出てきて、本当に切りがないな……! 万里谷、ちょっと訊いてもいいか!」
六匹目の『狼』を空の旅に送り込んでから、護堂は訊《たず》ねた。
護衛の獅子がしとめきれず、自分が相手せざるを得ないヤツが増えてきている。このままではじり貧《ひん》になってしまう。
「な、何でしょう、草薙《くさなぎ》さん?」
「この前、最後にアテナへ使ったあれ、あのじいさんに通用すると思うか?」
離れたところで『狼』を断続的に呼び出す以外、戦況を静観するだけの老魔王。
ニヤニヤと腹の立つ笑みを浮かべて、護堂を試している。
このままでは、終始ペースをヴォバンに握られたままだ。何とかして攻防の主導権をこちらへたぐり寄せなければ勝負にならない。
「……駄目かもしれません。あのときの焔《ほのお》でも、侯爵を打ち倒せるようには不思議と思えないのです。なぜかはわかりませんが、そう感じてしまいます」
霊視の力を持つ媛巫女《ひめみこ》が、不安そうに言う。
この託宣《たくせん》が逆に、護堂を決心させた。――だったら、やってみるか。
「わかった。それなら、ちょうどいいかもしれないな」
「え!? 草薙さん、何をなさるおつもりですか!?」
「万里谷、俺から離れるなよ」
このままでは埒《らち》があかない。護堂は勝負に出ることにした。
「――我がもとに来たれ、勝利のために。不死の太陽よ、我がために輝ける駿馬《しゅんめ》を遣《つか》わし給《たま》え。駿足にして霊妙なる馬よ、汝の主たる光輪を疾く運べ!」
ウルスラグナ第三の化身。太陽の象徴《しょうちょう》たる『白馬』を天より招来するための呪文《じゅもん》。
それを護堂は、高らかに呼ばわった。
「む?」
ここに来て初めて、ヴォバンが顔を引き締めた。
ようやく感じたのだろう、危険の兆候《ちょうこう》を。嵐の夜だというのに、暁《あかつき》の色に染まる東の空を食い入るように見つめている。
「太陽――天の焔、だと……?」
まるで暁《あかつき》の曙光《しょこう》が差す明け方のように、東の空から太陽が昇ろうとしている。
遥《はる》か彼方《かなた》から、護堂の求めに応じて太陽王の焔が天かけて来たる。
――民衆を苦しめる大罪人にのみ使える裁きの力。さすがは齢《よわい》三〇〇の大魔王、これの標的になるだけの悪行をたっぷりと重ねていたようだ。
天より降る白いフレア。
鋼鉄さえドロドロに融解《ゆうかい》・蒸発させる超々高熱の固まりが地上に迫る。
この瞬間、護堂とエリカ、そして獅子たちを悩ませていた『狼』の群れが消えた。
「……え?」
と祐理がつぶやき、護堂も驚愕《きょうがく》した。
ヴォバンの姿形が変わったからだ。人の形から、銀の体毛を持つ直立歩行する狼――人狼へ、そして完全なる狼の姿へと。
銀の狼に化身したヴォバンの体は、一気にふくれあがった。
体長三〇メートル前後。ありえないサイズの巨体にまで膨張《ぼうちょう》してしまった。
――オオオオオオオオオオオオオォォォォォンンンンッッッ!!
巨大な咆哮《ほうこう》が、嵐のなかに響き渡る。
太陽のフレアが凝縮《ぎょうしゅく》された巨大な白き焔に、銀の大巨狼は一気に躍りかかった。牙をむき、その巨大な顎《あご》で焔にかぶりつく。
「……何だよ、それは。常識はずれにもほどがあるぞ」
信じがたい光景に、護堂は呆《あき》れた。
呑《の》み込んでいる。
大巨狼が太陽のフレアを文字通りに喰らい、呑み込もうとしている!
「まさか『白馬』の焔を吸収……いえ、喰らってしまうだなんて。どういう怪物なの?」
ついにヴォバンが変化した巨狼は、『白馬』の焔を喰らい尽くしてしまった。
そばへやってきたエリカも呆《あき》れ、そして感嘆していた。
戦う相手を失った獅子たち――クオレ・ディ・レオーネはすでに再結合し、彼女の愛剣へと戻っていた。
「そんな、どうして?」
祐理が呆然とつぶやく。目の前の光景がよほど信じがたいのだろう。
「あのアテナでさえ防ぎ切れなかった焔を呑み込むだなんて、無茶にも程があります!」
「大地と闇の神格としては、最高ランクのアテナを倒した攻撃が通用しない……一体、どういう属性の神から奪った権能なの、あの『狼』は!?」
まあいい。唖然《あぜん》とする少女たちの傍《かたわ》らで、護堂は気を取り直した。戦局を変えるという目的は果たしたのだ。それで十分だと考えよう。
『――ク、ハハハハハハハ! これか! これがサルバトーレと渡り合い、アテナほどの女神に勝利した器量の片鱗《へんりん》か! 堪能《たんのう》したぞ! 堪能させてもらったぞ!』
――オオオオオオオオオオオォォォォンンンン!
巨狼の咆哮と同時に、ヴォバンの声が響く。何とも不可思議な現象だった。
『せっかくの馳走《ちそう》に返礼を喰らわせてやりたいところではあるがな。下手をすれば、貴様ごと巫女を叩きつぶしてしまう。――されば、我が従僕《じゅうぼく》どもを遣《つか》わしてやる』
またも、闇から魔性の者たちが湧き出てくる。
だが今度は『狼』ではない。図書館でも遭遇した、死せる騎士たち――彼らとよく似た雰囲気《ふんいき》の死人たちが、次々と闇の中から姿を見せる。
彼らが手にしているのは剣や槍《やり》、斧《おの》といった古典的武具。
彼らがまとっているのは鎖帷子《くさりかたびら》や、騎士団の紋章を刻み入れた装身具の数々。
四〇人前後はいるだろうか。その誰もが、五、六世紀ほど過去から呼び出されたとしか思えない、時代|錯誤《さくご》の衣装である。
『我が死せる従者どものなかでも、特に選《え》りすぐった勇士たちだ。猟犬どものようには片づけられまい!』
オオオオオオオオオオォォォォォン!
魔王の哄笑《こうしょう》と猛々《たけだけ》しい咆哮は、やはり同時であった。
そして押し寄せてくる。死せる騎士たちの集団が一斉に地を蹴り、それぞれの武具をかまえ、突撃を敢行《かんこう》してくる!
このゾンビたちは、どうやら緩慢《かんまん》さとは無縁のようだ。
俊敏《しゅんびん》で力強い。死相も露《あらわ》に肉薄する彼らは、凶猛な歴戦の騎士団そのものであった。
「護堂、あの方々には気をつけなさい。おそらく、生前は大騎士――わたしと同等の戦士だった御歴々《おれきれき》のはずよ。正直、今までのように護堂たちを守り切る自信はないわ!」
死せる騎士たちへ向けるエリカの目は、雑魚《ざこ》を相手にしているときとちがう。
遊びがない。かなり警戒している。
「図書館でもあの女の子――エリカの友達か? 彼女が何か言ってたよな。あの連中は一体何なんだ? ただのゾンビってわけじゃないのか?」
「草薙さん、『死せる従僕』たちは侯爵の手で殺害された人々の成れの果てなのです」
護堂の疑問に答えたのは祐理だった。
「自らの手で殺《あや》めた者を、忠実無比な下僕として召し使う力――侯がエジプトの神オシリスから奪った権能です。あの方々は生前の技をかなり覚えておられるようですから、狼たちを超える難敵のはずですよ!」
「つまり、わたしたちもああなるかもしれないの。そういう意味でも要注意よ!」
エリカも口添えする。
死せる騎士たちの想像以上に凄惨《せいさん》な境遇に、護堂は眉《まゆ》をひそめた。
「何て趣味の悪いことをしやがるんだ……。あのくそじじい、やっぱりどうにかして痛い目に遭わせてやらないとな」
大巨狼となった老魔王の偉容を見上げる。
これだけの巨体になれば、激しい風雨にもびくともしない。ふてぶてしく、そして憎々《にくにく》しい姿だった。
――その直後、死せる騎士たちが殺到してきた。
エリカが剣を振るい、そのひとりと斬り合う。二|合《ごう》、三合、四合と苛烈《かれつ》な斬撃《ざんげき》を応酬《おうしゅう》し合っている。なるほど、素人目《しろうとめ》にもその技倆《ぎりょう》がわかる。これは強そうだ。
もちろん護堂と祐理のもとにも、騎士たちは到来する。
(こりゃ、俺たちの負けか)
声には出さず、護堂はひとりごちた。甘かったと言えばそこまでだが、ヴォバン侯爵という未知の大敵と戦うに際して、あまりに準備不足だった。
敵の戦力、性格、目的。その一切を把握《はあく》しないまま戦い、敗れる。
必然の結果だと思う。自分の甘さ、非力さが招いた敗北だ。後悔の余地もない。
だが、それでも――。
「草薙さん……!」
「大丈夫だ、万里谷。ここは必ず切り抜けてみせるから、しっかりついてきてくれよ」
背後で震える少女だけは、絶対に守りきってみせる。
それが自分の責任というものだ。決意した護堂は、深く息を吸った。
――やや離れた場所で剣を振るうエリカと、一瞬だけ目が合う。それだけで互いの意思が呑み込めた。
短く、濃密なアイコンタクト。その間に死せる騎士のひとりが割り込んできた。
眼前で振り上げられる大ぶりな斧。このままでは間に合わない。もっと早く――!
もう一度、深呼吸する。
背後の祐理が、心配そうに訊《き》いてくる。「草薙さん、ちょっと変ですよ? どうなさったんですか!?」彼女の声が遠い。いや、遠いわけではない。遅いのだ。自分の感覚が普通でなくなってきたせいだ。速く、もっと速く。イメージするのは、何者の手も届かぬ高さを飛ぶ鳥。速く高く、誰よりも遠くに飛翔《ひしょう》する猛禽《もうきん》の姿。
棒立ちになった護堂の頭上に、戦斧《せんぷ》の一撃が振り下ろされる。
祐理が悲鳴をあげる。
イヤなところの多い『鳳《おおとり》』の化身だが、特にこの瞬間がイヤでたまらない。
並み外れた速さで攻撃されなければ、この化身を使えないのだ。たとえば銃弾《じゅうだん》とか、猛り狂った猛獣の突撃とか、武芸の達人が繰り出す一撃とか。
……全部喰らいそうになった経験のある自分に幻滅《げんめつ》しながら、護堂はささやいた。
「羽持てる者を恐れよ。邪悪《じゃあく》なる者も強き者も、羽持てる我を恐れよ! 我が翼《つばさ》は、汝《なんじ》らに呪詛《じゅそ》の報《むく》いを与えん! 邪悪なる者は我を打つに能《あた》わず!」
加速。そして減速。
加速するのは護堂自身。減速するのは己《おのれ》以外の全て。
あと数ミリで頭頂をかち割るはずだった戦斧を、護堂は余裕すら持ってかわした。
遅い。
エリカが己と同等かもと評した、死せる騎士たち。
その彼らでさえ、今の護堂から見れば遅かった。剣。斧。槍。剣。剣。ほぼ同時に繰り出される、五人の騎士による五つの武器の斬撃。
これも遅い。全部見える。どうにか全部避けた。
ついでに、死せる騎士のひとりを体当たりで突き飛ばす。素人の仕返しで、その騎士はみごとに転倒してしまった。おそらく護堂の動きが速くて避けきれなかったのだろう。
そのまま護堂は、祐理の手を引っつかんだ。
有無《うむ》を言わせずに抱きかかえてしまう。「きゃあっ!? く、草薙さん――!?」何か言っているが、よく聞こえない。説明はあとでしょう。
護堂は大地を蹴《け》って、祐理を抱えたまま跳躍した。
大荷物を持っているというのに、その跳躍は大きな弧《こ》を描く。
軽く一〇メートルは跳んだ。死せる騎士たちの包囲網を飛び越えてしまった。
――超加速、そして身の軽さの向上。
それが『鳳』のウルスラグナの能力だった。両手で持てる程度の荷物なら、抱えたままでも使えるのは便利なところだ。
自分でも速さを持て余してしまうので、あまり精密な動きはできない。
二〇センチだけ動くつもりでも、一メートル動いてしまうことなどはザラにある。もっとも、それを差し引いても恐るべき能力なのはたしかだった。
だが、代償《だいしょう》も大きい。
ずきりと心臓に走る痛みをこらえて、護堂はふたたび跳躍した。
あっという間に校庭の端へ到達した。もう遠くなった戦場へ目を向ける。
ここからでも、怪獣のような巨躯となったヴォバンはよく見えた。狼を呼ぶだけでなく、自ら狼に変化するとは何という怪物だろう。
逃げた自分たちを、死せる騎士たちの三分の二ほどが追いかけてくる。
一方エリカは、逆の方向にひとりで走っていた。
孤軍奮闘《こぐんふんとう》。彼女はクオレ・ディ・レオーネを振るい、独力での逃走を開始していた。
加勢してやりたいが、足手まといの自分と祐理がいてはかえってやりにくいはずだ。ひとりきりになった方が、彼女は存分に力を発揮できるだろう。
だからむしろ、死せる騎士たちの多くをこちらに引きつけた方がいい。
……『鳳』を使う寸前のアイコンタクトで、お互いの意図は呑み込めていた。この場での敗北は決定的。ならば、死力を尽くして戦場からの離脱を図るのみ、と。
護堂は相棒の無事を祈りながら、再度跳躍した。
学校の周囲をおおう壁も、やすやすと飛び越える。追跡者たちを引き離さないように注意しながら逃走。切りのいいところでスピードアップして振り落とすつもりだった。
無論、ヴォバンはあの狼どもをまた解き放つのだろう。
だがそれでも、この場を切り抜ければ最悪の展開だけは免《まぬか》れられるはず。
「くっ……やっぱりきついな、これ……」
心臓の痛みが、だんだん強くなってきた。あまり悠長にもしていられないようだ。
眉をひそめる護堂の腕のなかで、祐理が心配そうな顔をしていた。
「大丈夫ですか、草薙さん? 何だか、とてもつらそうなお顔ですけど……」
「ああ、何とか。悪いけど、もうすこしこのままでガマンしてくれよ。あいつらを振り切って、どこか隠れるところを見つけないといけないから――」
嵐の夜。視界も悪く、体もすっかり冷え切っている。
それでも護堂は、巫女姿の祐理と共に逃避行を続行するのだった。
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第6章 汝、闇より生まれ光を成す
エリカ・ブランデッリの習い覚えた魔術には、『跳躍《ちょうやく》』の術がある。
人間離れした跳躍力と身軽さを自《みずか》らに与える術だ。これを使えば、彼女が愛してやまない香港《ホンコン》製|武侠《ぶきょう》映画のワイヤーアクションじみた動きさえ可能になる。
助走なしの跳躍で、自分の背丈よりも高く跳び上がる。
垂直な壁を駆け上がったり、超一流の軽業師《かるわざし》にしか真似《まね》できない軽捷《けいしょう》さでアクロバットを披露《ひろう》したりもできるようになる。
――いま彼女は、この術を駆使した逃避行の真っ最中だった。
風雨にさらされた夜の都心。
立ち並ぶビルや家屋《かおく》の屋根から屋根へと飛びうつり、猫か猿《さる》でもなければ追走できないようなルートを使って逃げ回る。
エリカはこの術が得意な方で、本気の彼女についてこられる者はすくない。
だが、死せる騎士のなかには三人、それをこなせる使い手がいた。同じ『跳躍』の術を駆使して、死神の影のように追いすがる。
「さすがに手強《てごわ》い――」
エリカは口のなかでつぶやいた。
激しい風で体を揺さぶられ、雨で視界は悪く、しかも夜。あらゆる場所が濡れており、気を抜けば足がすべりそうになる。
その悪条件をものともせずに、エリカは逃げ回ってきた。
だが、そろそろ潮時《しおどき》かもしれない。完全に振り切るのはおそらく無理。ならば、この辺りで逆襲に転じるのも悪くない。
とある雑居ビルの屋上に飛び移ったエリカは、わざとスピードを緩《ゆる》めた。
追いかけてくる騎士は三人。
数で劣《おと》る以上、最初の一撃で確実にひとり以上を排除しておきたい。
右手の魔剣に『変形』の魔術をかけながら、振り返る。細身の長剣だったクオレ・ディ・レオーネは、一瞬で投槍《ジャベリン》へと姿を変えた。
短く、しかし重い投擲《とうてき》用の槍。
それを振り向きざまに、鋭く放る。投槍はエリカの手を離れるや否《いな》や、同じ姿と質量を持つ分身をふたつ、影のように生み出した。
合計で三本の投槍が、三体の死せる騎士へとまっすぐに飛ぶ。
槍の刃《やいば》は彼らの胸をあざやかに刺《さ》し貫《つらぬ》き、鎖帷子《くさりかたびら》におおわれた心臓をあやまたず抉《えぐ》る。
生ける亡者たちは塵《ちり》となって崩れ去った。
おそらく、死せる騎士たちは判断力――思考する能力が生前よりも弱まっている。行動の切り替えがいまひとつ遅い。
だからなのだろう。長く逃走を続けたあとの急な反撃に、みごとにはまってくれた。
――だが、まだ真打ちが残っている。
クオレ・ディ・レオーネを槍から剣へと戻し、エリカは残る敵へと備えた。
ここからが正念場。剣技、魔力、戦術、知性。そのどれもが自分と伯仲《はくちゅう》する敵手が、すぐそこまで来ているのだ。
「こんなところまで逃げてくるとは、派手好きなあなたらしくもない」
雨の夜に声が響く。
優美、そして可憐《かれん》でありながら、しなやかな強さを秘めた少女の声だ。
「ネズミのように逃げ回るのも終わりにさせてやる、エリカ・ブランデッリ」
「それを言うなら、ツバメのように飛び回ると言ってほしいところね、リリィ。あなたはどうも、詩的表現力が乏《とぼ》しくていけないわ」
リリアナ・クラニチャール。
嵐のなか、ずぶ濡《ぬ》れになりながら青と黒のケープをまとう妖精《ようせい》じみた美貌《びぼう》の少女へ、エリカは茶化すように言った。彼女がこの場に現れることは不思議でも何でもない。
この娘は、正統なる魔女《ストリガ》の末裔《まつえい》。エリカを遥《はる》かに凌《しの》ぐ、飛翔《ひしょう》の術の使い手なのだ。
「だからリリィとか呼ぶな。――力弱き王の配下にならなければ、そんな真似などせずに済んだものを。雌狐《めぎつね》らしくもない、思慮《しりょ》に欠ける行動だな」
「大切なのは打算よりも愛よ。あなたらしくもない、情に欠ける言い草ね」
ふたりの女騎士は、激しい風雨に打たれながら向かい合った。
互いの実力は知り尽くしている。勝つにせよ負けるにせよ、無傷で済む相手ではない。
「我が翼《つばさ》、幻影《げんえい》の刃を成す鋼《はがね》よ。――イル・マエストロ、我に力を!」
リリアナが天に手をかかげ、愛剣を高らかに呼ばわる。
銀色の長い刀身を持つサーベルが現れた瞬間、リリアナは地を蹴《け》った。
閃光《せんこう》の速さで接近してくる。
エリカも勝るとも劣らない速さで横に動く。剣術というよりも舞踏――フラメンコにも似た躍動的なステップで、仇敵《きゅうてき》の接近を避けようとする。
それを追うリリアナの足さばきは、すべるような摺《す》り足《あし》。
氷上をスケートで走るかのような滑らかさで、エリカの軽やかなステップに追いすがる。
「あなたの鈍足《どんそく》で、わたしから逃げられると思うな!」
「それもそうね。だったら、力ずくで突き放してあげる!」
エリカはクオレ・ディ・レオーネをまっすぐに突き出し、リリアナの心臓を狙《ねら》う。
単発ではない。一息に三つの突きを放つ、必殺の三段突き。
それをイル・マエストロが、楽器の調べにも似た美しい金属音を立てながらリズミカルに打ち落としていく。
リリアナの剣さばきは美しく、的確で、精妙《せいみょう》だった。
どれだけ重い武具、重厚な攻撃で打ち込まれようと、彼女が操る匠《たくみ》の魔剣はそれを軽やかにはじき、もしくは受け流してしまう。
だからエリカは、無理に攻めなかった。
剣ではなく、足を出す。狙いはリリアナの足の甲。そこをかかとで踏み砕こうと、エリカは思い切り足を踏み降ろした!
「ちっ、あいかわらず足癖《あしぐせ》が悪い!」
「リリィ。あなた、興奮すると口汚くなる癖が直ってないわよ。騎士たる者、もっと美しく戦うべきだわ!」
やや後退してかかとを避けたリリアナに、エリカは優雅《ゆうが》に微笑《ほほえ》んだ。
斬《き》り合い、打ち合いを続けていれば、互いの間合いは自然と詰まっていく。そうなれば組み打ち、足がらみを仕掛けるのは剣術の常道である。
そのまま、真正面から斬り込むエリカ。
獅子《しし》の魔剣をイル・マエストロが受け止める。鍔迫《つばぜ》り合いになった。そこからさらにエリカは体当たりの要領で踏み込み、軽量のリリアナを魔剣ごと吹っ飛ばした。
「このバカ力め! 何が美しくだ、すぐ馬車馬みたいな力業に走るくせに!」
「それを言うなら、獅子のように雄々《おお》しくと表現してちょうだい!」
悪態をつくライバルに、エリカは笑顔で言い返した。
するとリリアナは、鼻で笑って大きく跳びすさる。得意の飛翔術を駆使するための予備動作。鳥のごとく高みを舞うために、十分な距離を取ったのだ。
「なら、わたしは隼《はやぶさ》のように高く飛ぶ。覚悟はいいな。……ふん、もう追いついてきたか」
リリアナが不意に舌打ちした。
理由はエリカにもわかっていた。ガシャリガシャリと鎖帷子《くさりかたびら》、あるいは鋼の武具を鳴らして数人の騎士たちが『跳躍』してきたのだ。
ヴォバンの命でエリカを追ってきた死せる騎士たちだった。
その数は四騎。――彼らはひとところにまとまらず、ふたりの少女が刃《やいば》を交《まじ》えるビルを取り囲むように位置取りした。
周囲に建つ雑居ビルの屋上、家屋の屋根の上に散らばり、包囲網を作る。
「……どうやら要《い》らぬ邪魔《じゃま》が入るようだ。わたしは引き下がらせてもらうぞ。あなたがここをみごと切り抜けることができたら、機会を改めて決着をつけるとしよう」
イル・マエストロの切っ先をおろして、リリアナは言った。
一騎討ちを邪魔されることに興《きょう》を削《そ》がれたのだろう。互いを殺し、出し抜くためだけに戦うのではない。己《おのれ》の武勇《ぶゆう》が立ち勝っていると示すためにも、騎士は戦うのだ。
やはり我が好敵手《ライバル》。戦闘と決闘の区別をきちんとつけている。
……だが。
ここでエリカは、打開策をひとつ思いついた。
奇襲なしで、四体もの死せる騎士と正面から対決するのはさすがに厳しい。だが、自分と同等以上のパートナーがいれば、話は別だ。幸いにも切り札まである。
「ねえリリィ、あなたに折り入ってお話があるのだけれど……」
とっておきの猫撫《ねこな》で声で、エリカは呼びかけた。
「結構だ。あなたの話とやらに、ろくなものがあった例《ためし》はない。そんなことよりも目の前の危機に目を向けた方がよいのではないか?」
リリアナの返答はにべもない。
だが、この程度は想定内だ。エリカは包容力に満ちあふれた貴婦人の微笑を浮かべた。
「そんな冷たいこと言わないで。あなたにとっても悪い話じゃないの。――リリィ、あなたこのままヴォバン侯爵《こうしゃく》の命《めい》に従って、侯にお仕えするつもり?」
「まさか。わたしはただ、騎士として『王』への義務を果たしているだけだ」
なんだかんだ言いつつ、律儀に答えが返ってくる。
これだから、リリアナ・クラニチャールは弄《いじ》り甲斐《がい》があるのだ。
死せる騎士たちの動向に気をつけつつ、エリカはさらに言葉を重ねる。飛び込む機を図《はか》っているのか、彼らはまだ仕掛けてこない。ならば、今のうちに丸め込まなくては!
「そう……。だったら、もうひとりの王様に義務を果たすのもいいんじゃなくて? 侯に従う理由がその程度でしかないなら、問題ないはずよ?」
「……わたしに、草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》の側に寝返れと言いたいのか?」
眉《まゆ》をひそめるリリアナに、エリカは姉のように、歳上《としうえ》の親友のように語りかける。
「ええ。その方がきっと気持ちよく戦えるわよ。――リリィ、あなたは本心から侯の意に添おうとして、東京までやってきたの? わたしはリリィのこと、よく知っているわ。だから不思議なの。侯の横暴な為《な》さりように唯々諾々《いいだくだく》と従うなんて、あなたらしくもない」
「それもこれも、あなたのせいだぞッ。エリカ・ブランデッリ!」
いきなり声を荒らげられた理由がわからず、エリカは軽く驚いた。
「え、そうなの? 一体どうして?」
「あなたが草薙護堂をたぶらかして、愛人の座に納まったせいだ! これで我が家のおじいさまは、対抗心を刺激されてしまったんだ!」
この説明で、エリカは察しよく事情を呑み込んだ。
隠居したリリアナの祖父は、デヤンスタール・ヴォバンの信奉者《しんぽうしゃ》として有名である。
仇敵ブランデッリ家の令嬢が新たなるカンピオーネの愛人になったと聞いて、きっと彼は面白くない日々を過ごしていたのだろう。そんなところに、旧知の老王から孫娘を召し出せとお呼びがかかったのだから――。
「もしかして、自分の孫娘も『王』の愛人にでもさせようと目論《もくろ》んで、リリィを侯爵のおそばに送り込んだとか……。それってミスキャストもいいところじゃない?」
この真正直な少女に、色じかけなど望むべくもない。
怒りを露《あらわ》にするリリアナに、エリカは深くうなずいてしまった。
「まったくだ。孫のことをなんだと思っているんだ……」
「だったら、もういいんじゃない? リリィは自分の主義を曲げて、これだけ侯のわがままに付き合ったのですもの。そろそろ本当のあなたに戻ってもいい頃よ? リリアナ・クラニチャール、己の横暴を貫《つらぬ》くためにか弱き乙女《おとめ》を差し出せと要求する暴君と、その乙女のために強大な相手に立ち向かう若き王――どちらが正しいと思っているの?」
襲いかかる寸前の死せる騎士たち。安否も不明の護堂と祐理《ゆり》。
不確定要素は多く、解決しなければいけないことは山のようにある。だが焦《あせ》らず、エリカは余裕すら漂わせながら語りかける。
「侯に忠誠を誓っていないというなら、どちらの王に与《くみ》するかはあなたの判断次第よ。……でも時代遅れのご老体がどうおっしゃろうと、わたしたちミラノの騎士にとって盟主たる御方はサルバトーレ・ドニさま。草薙護堂はあの方の盟友でもあり、今回は弱き者のために戦う側でもある。――リリィが侯に与する理由の方がすくないと思うけど」
「ふん。聞こえのいいことばかり言って、またわたしをいいように弄《もてあそ》ぶ気か?」
ちらりと、リリアナがさりげなく周囲に目を配っている。
エリカも同じだ。傍目《はため》には優雅におしゃべりしているように見えるだろうが、さっきから警戒は怠っていない。いつでも応戦するかまえはできていた。
「あら、わたしがリリィを弄んだことなんてあったかしら?」
「わざとらしくとぼけるなっ。二年前、血迷っていっしょに映画を観《み》に行ったとき、あなたはためらうわたしを言葉|巧《たく》みにたぶらかし、の、濃厚なベッドシーンのある恋愛映画を無理やり観させて、愉《たの》しんでいたじゃないか!?」
「あんな映画だとは、わたしも知らなかったもの。それにリリィったら、途中から身を乗り出して、夢中で見入っていたじゃない」
「う、うそだ。去年、ミラノのブティックで服を選んでいたときもそうだ。あなたの口車に乗せられてしまった。背中や胸元が開いていたり、おへそが見えたりする破廉恥《はれんち》な服ばかり、山のように買わされて――!」
「リリィはスタイルがいいから、いろんな服が似合うの。自分にもっと自信を持つべきよ」
「う、うるさいっ。あと、半年前に偶然ヴェネツィアで会ったときも――。いつもいつも、あなたは調子のいいことばかり言って、わたしをオモチャのように弄んで!」
「あら、今回もそうだって言いたいの? せっかくリリィのために忠告しているのに」
この瞬間、ついに死せる騎士たちが動いた。
一向に斬りかかる気配を見せないリリアナに痺《しび》れを切らしたのか、まずは四騎のうちの二騎が剣の切っ先を向けて、エリカめがけて飛び込んできた!
数で劣る以上、この場に立ち止まったまま戦うわけにもいかない。
止まればそこで押し包まれ、多対一でなぶり殺しにされてしまう。だがエリカは、敢《あ》えて動かず、襲い来る二騎を迎え撃った。
一人目にクオレ・ディ・レオーネで牽制《けんせい》の斬撃を見舞って、腰を引かせる。
二人目の打ち込んできた剣を、わずかに上体をひねらせて華麗《かれい》にかわす。
そして、リリアナを一瞬だけ見やる。
交わる視線。苦々《にがにが》しくしかめられる人形めいた美貌《びぼう》。ふたたび振り上げられるイル・マエストロ。青と黒のケープをなびかせ、ついに駆け出すリリアナ・クラニチャール。
「いつか必ず、あなたに悪行の報《むく》いを与えてやるからな! 覚えていろ!」
短く恨《うら》み言《ごと》を吐き捨てながら、リリアナが迫る。
エリカが己をえさにして招き寄せた死せる騎士ふたりに、イル・マエストロで強烈な斬撃をつづけざまに打ち込む。
一閃《いっせん》、二閃。
リリアナをまったく警戒していなかった騎士たちは、かんたんに斬り伏せられた。
残る敵は二騎のみ。あとは一対一で始末すればいい。残った死せる騎士たちも、エリカたちと同じビルの屋上に飛び移ってきた。
先に仕掛けたのは、リリアナの方だった。
風と雨の降るなか天高く、鳥のように跳び上がる。そして青と黒のケープをなびかせて、猛禽《もうきん》のように舞い降りていった。
その真下には、死せる騎士のひとりがいる。
屍《しかばね》の握る長剣が、逃げ場のない空中にいる少女へ向かって突き出される!
――甘い。
そう言いたげな、不敵な微笑がリリアナの口元に浮かんだ。
彼女の使う『跳躍』は、エリカのそれを大きく上回る。より速く、より高く、より遠くに跳躍し、慣性の法則さえも半ば無視する。
いきなり落下の勢いが止まった。
空中でブレーキでもかけたかのようにリリアナの自由落下は急停止し、死せる騎士の剣は空を斬った。
その直後、ふたたび落下をはじめたリリアナがサーベルを振り下ろす。
跳躍の勢いと全体重を乗せた剣が、死せる騎士の右肩から左腰にかけてを深々と斬り裂き、抉《えぐ》り取る。
そして着地。すぐさま飛《と》び膝《ひざ》蹴《げ》り。今度はあごを真下から砕いてみせた。
たまらず、死せる騎士は塵《ちり》となって崩れ去る。
リリアナ・クラニチャールの跳躍術は、もはや飛翔《ひしょう》の域にまで達しているのだ。知らずに戦えば、達人といえどもこうなってしまう。
「さすがね、リリィ。昔からあなた、飛び回るのが上手《うま》かったわよね」
エリカは賞賛した。
古来、東欧《とうおう》と南欧《なんおう》には魔女《ストレガ》の文化が根付いている。
彼女たちは秘薬を調合し、森の獣《けもの》たちを魔術で従え、自在に空を飛び回ったという。これらの秘術は、生まれながらに資質を備えた者でなくては深く習得できない。
この方面の才能では、エリカはリリアナに遠く及ばない。
だが、その代わりに――。
鋼鉄《こうてつ》を操り、刀槍《とうそう》を呪力《じゅりょく》で鍛《きた》え、破壊と抹殺《まっさつ》の道具と成《な》す術においては、エリカの方が遥《はる》かに立ち勝《まさ》っている!
「クオレ・ディ・レオーネ、黒き騎士の鍛えし剣よ! 至高の剣の末裔《まつえい》よ! 我が祈りに応え、王者の鋼たれ!」
愛剣の斬れ味を最大限に高める霊剣《エクスカリバー》の秘法。
この言霊《ことだま》と共に、エリカは上段の一刀を打ち込んだ。防御のために死せる騎士がかざした長剣を、クオレ・ディ・レオーネはみごとに両断してのける。
リリアナが一気に間合いを詰め、とどめとばかりに胴を薙《な》ぐ。
紅と青の騎士ふたりに攻め立てられ、最後の死せる騎士も塵となった。
「あなたも昔から、力任せのゴリ押しが得意だった。本当に突撃バカだな」
「ねえリリィ、わたしは素直に賞賛しているのに、あなたはいつもそんなふうに人をおとしめて……。淑女《しゅくじょ》らしくないって言われるのは、そういうところが原因なのよ」
この批評に、思い切り不愉快そうにリリアナは顔をしかめた。
「うるさい! そんなことより、早くあなたの主に合流しよう。あの方は今も万里谷《まりや》祐理《ゆり》を助けるために戦っているのだろう? 手遅れになる前に急がなくては」
高潔《こうけつ》。そして義侠心《ぎきょうしん》に富む騎士。それがリリアナ・クラニチャールという少女だ。
その事実を再確認して、エリカは微笑《ほほえ》んだ。
こんな娘がヴォバン侯爵《こうしゃく》と上手《うま》くやれるはずがない。彼女が草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》に味方するのは、ある意味で必然なのかもしれない。
「そうね。……でも良かったわ、リリィが自分から協力する気になってくれて。やっぱり脅迫《きょうはく》とかって、わたしの趣味じゃないし」
「脅迫? まさか、わたしが剣で脅《おど》された程度で寝返るとでも思ったのか?」
バカにするなとリリアナが言う。
だが、エリカは満面の笑みで首を横に振った。そんな無粋《ぶすい》な真似などするわけがない。
「ねえ、あなたの寝室にある机の引き出し――上から二番目の。そこに入っているノート、なかなか素敵よね? とても叙情的《じょじょうてき》で、乙女らしくて」
「――――!?」
リリアナが険しいまなざしでにらみつけてくる。
それをさりげない所作でかわしながら、エリカはさらに言いつのった。
「まさか、あなたに小説を書く趣味があるとはね。『あんな冷たい人のことなんか大嫌い。でも、この胸の高鳴りは何? もしかして、これが恋?』なんて恋愛小説は、今時エンターテインメントとしてどうかと思うけど。もっと人が死んだり、殺されたり、アクションしたりカンフーしたりする方がわたしの好みよ」
「な! ななな、なぜあなたがアレの存在を知っている!?」
エリカはフフンと鼻で笑うだけだった。
実はクラニチャール家のメイドをひとり、秘密の情報源として抱き込んでいるのだが、わざわざ告白する必要もないだろう。
「ふふっ。リリィがこれからもわたしとの友情を大切にしてくれるのなら、あのノートの存在を忘れてしまってもいいのよ? だから、わかるわよね?」
「あ、あなたを殺して永久に口封じする手だってある!」
割と本気っぽいリリアナに、エリカは華《はな》やかに微笑みかけた。
よく護堂から悪魔の笑いだと言われる、あの笑顔だ。
「短慮《たんりょ》はいけないわ。わたしが死んだら開封される遺言状《ゆいごんじょう》に、あの小説のことはバッチリ書いてあるんだから。――いつか役立つ日が来ると思ってたけど、今日だったとは意外だわ」
「ここ、この悪魔! 人でなし!」
なじみの称号《しょうごう》で罵《ののし》られながら、エリカは今後の方策を立て始めた。
強力な味方を得た以上、早く護堂と合流したい。あの手がかかる王様は、今頃どこにいるのだろうか――?
エリカ・ブランデッリがリリアナ・クラニチャールを味方に引き込んでいた頃。
草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》と万里谷《まりや》祐理《ゆり》は、虎《とら》ノ門《もん》にある公民館の軒先《のきさき》にいた。
出入り口の扉は固く閉ざされ、照明もついていない。非常灯の緑の明かりがほのかに辺りを照らしているだけだった。
時刻は夜の九時半過ぎ。
職員も利用者も全《すべ》ていなくなるには、すこし早い気もする。もしかすると、台風じみた嵐が突然来たので、早々に引き払ったのかもしれない。
――祐理を抱えたまま、護堂はここまで飛ぶように走ってきた。
タイムリミットが近いと悟り、雨風をしのげる場所としてここを見つけ、たどり着くなり重病人のように倒れ込んだ。
「草薙さん!? 一体、どうなさったんですか!」
「……悪い、万里谷。しばらく放っておいてくれ。『鳳《おおとり》』を使ったあとは、必ずこうなるんだ。長く使えば使うほど、この辺が痛くなるんだよな……」
ぼやきながら、護堂は胸を押さえた。
『鳳』のウルスラグナは、護堂に超人的なスピードと身軽さを与えてくれる。その代償《だいしょう》がこれであった。使用した時間が長いほど、強い痛みが心臓を襲うのだ。
この激痛を消す術《すべ》はない。脂汗《あぶらあせ》を流しながら、ひたすら我慢《がまん》するしかない。
「体の力を抜いて下さい。痛みを和《やわ》らげる術を使います」
「いや、それ意味ないから……大丈夫」
せっかくの気遣《きづか》いを、護堂は断った。
だが祐理は取り合わず、勝手に治療に取りかかってしまった。手のひらを護堂の胸に当て、やさしく撫《な》でさすってくれる。
温かなぬくもりがじんわりと伝わってくる。おそらく、普通ならこれでかなりの激痛も和らぐのだろう。だが生憎《あいにく》と、カンピオーネの肉体は普通ではなかった。
敵性のものも友好的なものも、直接かけられた魔術は全て撥《は》ね返してしまう。
とてつもなく強力な魔力・呪力への耐性を持っているのだ。
「……効き目がない? どうして!?」
己《おのれ》の術が通用しなかったことを悟ったのだろう。祐理が驚嘆している。
護堂は痛みを堪《こら》えながら、笑いかけた。本当はそれどころではない痛みなのだが、痩《や》せ我慢をしてみせたのだ。
「ほら、前にも説明しただろう? 俺たちの体は普通に魔術をかけても効かないって。例外は体内に直接吹き込む方法くらいしかないってさ……」
「あ、あれは本当のことだったのですか!」
頬《ほお》を赤らめて祐理が叫ぶ。
前回のアテナとの戦い。あのとき護堂は、エリカから口移しで『教授』の魔術を受け、女神の知識を得た。その光景を目撃して、祐理はひどく憤慨《ふんがい》したものだ。
「わ、私はてっきり、エリカさんとその……いやらしい接触行為に及んだことを弁解するための言い訳だとばかり思っておりました……。も、申し訳ありませんっ!」
「もしかしたら、そうかもとは思ってたけどね。――痛たたたたたたッ!!」
心臓を針金で締め上げられるような痛みが、キリキリと襲ってくる。
祐理が心配そうに護堂の顔を見つめながら、尚《なお》も胸の辺りを撫《な》でつづけてくれた。
「それはもういいよ、万里谷。どうせ効かないんだからさ」
「いいえ。術でなくても、効き目はちゃんとあります。そんなわかったふうな口を利《き》いてはいけません。またこんな危ない力をお使いになって……本当に無茶をされる人ですね」
文句を言うくせに、祐理の手の動きはとてもやさしい。
本当にすこし痛みが和らいできた。彼女の手のひらの温かさが心地よい。
「昔、私の母が怪我《けが》したところをこうしてくれました。呪術《じゅじゅつ》など知らない普通の人でしたが、ちゃんと痛みは和らぎました。だから草薙さんにもきっと効くはずです」
「あー、うん。たしかにそうかも……」
無論、心臓の痛みはまだ引かない。
だが以前に味わったときよりも、すこしだけ耐えやすいような気がする。護堂はようやく体の力を抜き……そして、気づいた。
いつのまにか、祐理と密着してしまっている。
お互いに雨でずぶ濡《ぬ》れの衣服――護堂は学生服、祐理は巫女《みこ》装束《しょうぞく》を身につけている。たっぷり水滴を吸い込んだ布が肌に貼《は》りつき、容赦《ようしゃ》なく体を冷やしにかかる。
だが、おたがいの体がくっつき合っているところだけは温かい。
エリカとちがって、祐理は香水の類《たぐい》をつけていないようだ。それでも、こうして密着していると甘やかな匂《にお》いを感じてしまう。
これはまずい。護堂は心の底から気まずく思った。
「な、なあ万里谷、すこし離れよう。俺の方はだいぶ良くなってきたしっ」
「い、いけません草薙さん。すこしでも効き目があるなら、このまま続けた方がいいはずです。それに、こうしていた方が体も温まります……その、私たちふたりとも……」
祐理も同じ気まずさを感じているのか、目を合わそうとしない。
巫女の白衣《びゃくえ》で隠されてない部分――顔とうなじが紅葉《もみじ》のように赤くなっている。気のせいか、体温まで上昇してきたような気までする。
――一〇分ほど後。
痛みはだいぶ治まってきた。だが手足を動かそうとしても、上手《うま》く力が入らない。
一定期間の激痛。そのあとは全身に力が入らなくなり、しばらく行動不能になる。これが『鳳』の化身を使ったときの代償《だいしょう》だった。
あれだけ反則気味なスピードをもらえるのだから、仕方のないことかもしれない。
何か話題はないかと、護堂は必死に考えた。
この密着状態で、会話もないまま十数分をさらに過ごす。拷問《ごうもん》に近い責め苦だと思えたのだ。せめて、他のことで気を紛《まぎ》らわさなくては……。
「そ、そういえば、あのじいさんのことだけどさ。万里谷は言ってたよな。死体を操るのは何とか言う神様から奪った権能《けんのう》だって。あれ、何て神様?」
「オシリスです。古代エジプトの豊穣神《ほうじょうしん》であり、冥府《めいふ》を統治する神格ですね」
「……豊穣の神で冥府の神? 何だか、どこかで聞いたようなヤツだな」
地母神《じぼしん》にして闇の冥府神でもある女神アテナ。
ひと月前に戦ったばかりの彼女と同じではないか? 護堂はいぶかしんだ。
「おそらく、草薙さんがお察しの通りです。大地に縁を持つ豊穣の神が、冬と夜の到来に合わせて冥府の神に転身する。アテナと同じ理《ことわり》にもとづいて、オシリス神もふたつの顔を持つに至ったのでしょう。――もっとも彼は男神。地母神ではありませんが」
エジプトの太母神《たいぼしん》の名はイシス。オシリスの妻でもある大地の女神。
砂漠の神である弟セトに殺害されたオシリスの遺体は、バラバラにされてナイル川に放り込まれた。それを拾い集めたのが妻イシスであった。
バラバラの屍《しかばね》はアヌビス神によってつなぎ合わされ、復活を果たす。
こうして甦《よみがえ》ったオシリスは冥府の王となり、死者が生前に犯した罪を裁いたという――。
「つまり、エジプト版の閻魔大王か。だからヴォバンは、自分で殺した人たちを成仏させずにゾンビやミイラ男にして、この世へ縛《しば》り付けることができるんだな」
「す、すこし乱暴すぎますが、その要約でまちがってはいないはずです」
祐理の語る神話を聞き終えて、護堂は自分の右手を眺めてみた。
……まだダメだ。
神を滅ぼす黄金の剣。『戦士』の化身だけが使える力を行使できる確信がわかない。
「オシリスについて教えてくれないか。もっと知識を集めて『戦士』の準備をしたい」
「申し訳ありません。これ以上は詳しく存じ上げないのです。……ですが、ヴォバン侯爵《こうしゃく》は神ではありませんよ? 神を封じる力は必要ないように思えるのですが」
祐理が怪訝《けげん》そうに言う。
もっともな意見である。だが護堂は、首を横に振った。
「『戦士』の剣は、カンピオーネの権能を打ち消せるんだ。オシリスの権能を封じれば、ヴォバンは亡くなった人たちを手下にしておけなくなる。あいつも弱くなるし、あの人たちを成仏させてあげられるんだよ。……あ、でも厄介《やっかい》なのは『狼《おおかみ》』の方かもなァ。あんな怪獣みたいなのに化けられたら、始末に負えないぞ」
前にサルバトーレ・ドニと決闘したときに判明した、思わぬ効能である。
だが、先刻の戦いを思い出して、護堂は憂鬱《ゆううつ》になった。
大巨狼《だいきょろう》となったヴォバンと対決できそうな化身には『猪《いのしし》』がある。だが、あんな怪獣同士が都心で格闘戦を行ったら、どれだけの被害が出ることか。
「『狼』の権能は、どんな神様から奪ったんだろうな。あのじいさんが最初に倒した神……そっちは万里谷にもわからないのか?」
「はい、お力になれず申し訳ありません。あの『狼』には私も驚き――」
唐突《とうとつ》に、祐理が口ごもった。
虚空を見つめ、ぶつぶつと何事かをつぶやきだす。
「最強の光である太陽……それを呑み込み、同化する獣……決して闇に属する者ではない……もしそうなら、永遠の夜をもたらす神が存在したことに……」
「万里谷、どうかしたのか?」
様子がおかしいので、護堂は声をかけた。
それでも祐理は反応しない。手を動かせたら、肩を揺すってやりたいところだ。
「光を呑む神は、同じく光を内に秘めていなくてはならない……でも、それだけでは不十分……狼は大地と深き縁を持つ記号……大地であり、光たりうる神格は――草薙さん!」
祐理が正気の目に戻った。
動けない護堂の体に取りすがるようにして、訴える。
「わかりました! 私、わかりましたっ。侯爵が最初に討伐《とうばつ》された神――狼の権能をあの方に簒奪《さんだつ》された神が何者かが、視《み》えたんです!」
万里谷祐理は、並はずれた霊視《れいし》の呪力《じゅりょく》を持つ。
その事実を護堂は思い出した。おそらくヴォバンの権能を目撃したことで、その秘密を暴き出したのだろう。
「すごいな、万里谷。どんな神様なんだ? 名前は? 神話は知ってたりするのか?」
「オシリス神と同じです。彼は大地と深い縁を持つ神。いえ、大地より生まれし神です。大地とはすなわち闇と同義となります。闇の支配する世界――つまり地底の存在が、大地と闇を深くつなぎ合わせるからです。でも彼は、闇と大地より生まれて光となったのです!」
「彼? で、そいつの名前は何だい? 俺でも知ってそうな神様か?」
「彼の最も古い呼び名は光明《こうみょう》。鼠《ねずみ》でもあり、狼でもある神。銀と黄金の神格です!」
そこまで言って、祐理は肩を落とした。
自分がかなり支離滅裂《しりめつれつ》なことを口走っていると、自覚したようだ。
「申し訳ありません、もう頭の中ではすっかり理解しているのですが、上手《うま》く言葉にならないのです。名前も、もう喉元《のどもと》まで出かかっているのですが……」
つまり、自分の感じ取ったイメージを上手く言語化できないのか。
うなだれる祐理を見て、護堂は理解した。
数学の天才が直観的に得た解答を数式で説明できないことがあるように、神の本質を直観で解き明かした祐理には、それを凡人に伝える語彙《ごい》がないのだ。
何てことだ。せっかくの手がかりも、これでは意味がない。
「す、すいません、草薙さん。私のためにこんなことになったのに、何の力にもなれなくて……。私にはこの力しかないのに、肝心なところでお役に立てないなんて……!」
祐理がわずかに涙ぐんで、うつむく。
彼女も今の状況には引け目を感じているのだろう。
そんなこと、気にしなくても全然かまわないのに。体が自由になるのなら、肩を叩《たた》くか頭でも撫《な》でて慰《なぐさ》めてやりたいところだ。
せめて声だけでもと、護堂は落胆を表に出さず、わざと明るく言った。
「気にするなよ。俺の体が回復したら、エリカを捜しに行こう。あいつなら、今のヒントでどんな神様かすぐに見抜いてくれるよ。だから、そんなに落ち込まなくても」
「はい……。エリカさんは魔術師としても超一流ですものね。――あら、魔術?」
気を取り直したのか、祐理が力なくうなずいた。
そして、小首をかしげた。
「こういうとき草薙さんは、エリカさんとその……く、口移し、で、知識の伝達をされてきたのですよね? 今までさんざん、何度も何度も」
「え、まあ、その、必要に駆られて、うん、何度か」
何だろう、この危険な感じは?
護堂は名状《めいじょう》しがたい危険の予兆《よちょう》を察知して、後ずさりしたくなった。
が、体が動かせない。まだ力が入らない。――このままでは危ない気がする。
「今回もそうされるのですか?」
祐理の顔が冷たいのは、雨で体が冷えたせいではないだろう。
夜叉女《やしゃめ》のごとく、怜悧《れいり》で冷ややかな微笑を浮かべているためにちがいなかった。
「し、しないっ。しません! 俺はあんなこと、絶対にしたくないんだ!」
「その言葉に偽《いつわ》りはありませんね? もし嘘《うそ》だとしたら、あなたのことを軽蔑《けいべつ》します」
「しないでくれッ。ウソじゃないから! 神に誓って本当だから!」
「……そうですか。草薙さんは、いざとなったら平気で嘘をつく仕方のない人に思えてならないのですが、今日はそのお言葉を信じて差し上げます」
「あ、ああ。ありがとう……」
祐理の美貌《びぼう》が、いつもの清楚《せいそ》でやさしい面差《おもざ》しに戻る。
それを見た護堂は、心底ほっとした。――なぜだか知らないけど、助かった!
轟《ごう》!
雷鳴が激しく轟《とどろ》いたのは、このときだった。
轟! 轟!
さらに雷鳴。かなり近くで雷が落ちているらしく、音がひどく大きい。
風も激しくなっていた。
公民館の敷地に植えられた木々を揺らし、建物の窓にびりびりと震えまで走らせている。
護堂と祐理がいる軒先《のきさき》には、今まで雨は届いていなかった。それなのに、いきなり強い勢いで雨粒が吹き込んでくるようになった。
極めつけは、夜空を舞う見覚えのある物体。
思わず、護堂と祐理は「――あ」「――まあ」と声をそろえて賛嘆《さんたん》してしまった。暴風に乗って夜空を飛んでいったのは、どこかのプレハブ小屋の屋根だった。
よく見れば、ときどき看板や木材らしきものが強風に乗って飛んでいる。
「あ、嵐が強くなってきていますよね?」
「これって、ヴォバンのじいさんが呼び出したんだよな。あのじいさん、時季《じき》はずれの台風で東京を水没でもさせる気か?」
昔とちがって、現代は丹念《たんねん》な治水工事が各|河川《かせん》には施《ほどこ》されている。
東京を流れる荒川《あらかわ》、江戸川《えどがわ》、中川《なかがわ》などが一昔前のように大水害を発生させる可能性はすくない。それでも危険に変わりはないし、これだけの暴風雨である。
数多くの被害を生み出すことは、かんたんに予想できる。立派な災害になるだろう。
「エリカと早く合流して、じいさんを止めないと大変なことになるな」
「でも、彼女はどこにいらっしゃるんでしょう? ご無事ならよいのですが……」
心配そうに祐理がささやく。
それは護堂も不安だったことなので、気休めも口にできなかった。――このままで本当にいいのか? 焦《あせ》りが心を蝕《むしば》みだし、長い沈黙がふたりの間に横たわる。
それが五分も続いた頃、唐突に祐理が口を開いた。
「草薙さん……。報告しておかなければいけないことがあります」
「な、何?」
祐理の思い詰めたような表情――それがひどく可憐《かれん》だった。
羞恥《しゅうち》で顔を真っ赤に染めた彼女は、今まで見たなかでいちばん可愛《かわい》らしい。どきりと、護堂の胸が高鳴る。
「実は、私も使えます。『啓示《けいじ》』の法……私の霊感を他人様《ひとさま》に伝える術を」
「え!? ま、万里谷、早まるなよ? それは最後の手段に取っておくべきだぞッ」
ゆっくりと、祐理が護堂に身を寄せてくる。
決して護堂と目を合わそうとしない。それでも羞恥で首筋まで赤く染めながら、ゆっくりと身を寄せてくる。
彼女の髪が、顔にかかる。甘い芳香《ほうこう》に鼻孔《びこう》を占領されて、逃げ出したくなった。
だが、できない。まだ体は動かない。絶望的な状況だった。
「く、口移しでないと、草薙さんには術がかからない――のですよね?」
「そう、なんだけど。あの、万里谷? それだけはやめとこう!」
「私だって、できればやりたくはありません……。でもそうしないと、大変なことになりそうですし……。エリカさんを捜しても見つからないときに備えておくべきですし……。へ、変なふうに思わないで下さいねッ。これは決して、私が草薙さんをお慕《した》い申し上げているとか、そういう意味ではなく、巫女として、必要があって、他に方法がないからするだけで……!」
ついに祐理が、真っ向から護堂を見つめてきた。
潤《うる》んだ瞳《ひとみ》。
耐えがたい羞恥と、自分がしようとしている行為の大胆さに身を震わせている。
近づき、合わさる唇《くちびる》。
大胆で奔放《ほんぽう》なエリカの接吻《せっぷん》とちがい、かたくなで不慣れな、ぎこちない口づけ。
――ボイポス。
不意に、この言葉が護堂の脳裏《のうり》に浮かんだ。
言霊《ことだま》だ。祐理の唇から、言霊が伝わってくる。だが、これではまだ足りない。神を解き明かす叡智《えいち》、神秘の知識、神名とその本質――全てが足りない。
「く、草薙さん。私に――私に心を開いてください……。心をひとつに、私とあなたの心をひとつに合わせなくては、意味がないんです。私も――がんばりますから!」
ぐっと祐理が体重をかけて、上にのしかかってきた。
護堂の頬《ほお》を両側から手のひらで挟み込み、さらに強く唇を押しつけてくる。まるで彼女の決意を表明するかのような、不器用で力強い仕草だった。
――だが、それも一瞬。
すぐに祐理は力を抜いた。わずかに唇を開き、やさしく護堂の唇を包み込む。
「私を感じてください……私のなかにある神の御姿、私が観《み》ている神の形と本質を感じ取ってください……。私の観ている全てを――あなたにお伝えします」
体が熱い。唇がやわらかい。
恥ずかしさで泣きそうな顔になりながら、緊張で身を震わせながらも、祐理は行為をやめようとはしなかった。
一〇秒、二〇秒、どれだけ待っても彼女は唇を放そうとしない。
息苦しくなった護堂は、空気を求めて唇をすこしだけ緩《ゆる》ませてしまった。
その瞬間、祐理が控えめに開いていた唇と護堂の唇は、今までよりも深く合わさってしまった。貝殻《かいがら》の上と下が合わさるように。きっちりと、より深く。
ふたりの唾液《だえき》が交じり合い、溶け合う。
ただそれだけなのに、得も言われぬ充足感と一体感があった。お互いの存在が誰よりも何よりも近しく、あたたかく感じ取れる。
強烈な恍惚感《こうこつかん》に護堂は襲われた。おそらく祐理も同じ状態だろう。
ふたりが唇を合わせながら、お互いを熱っぽい瞳で見つめ合った――その瞬間。
ついに来た。
強烈なイメージの奔流が、護堂のなかに流れ込んできた。
――闇のなかで蠢《うごめ》く小さな獣《けもの》。これはネズミだ。
――鼠《ねずみ》、狼《おおかみ》、熊《くま》、鹿《しか》、猪《いのしし》。それら以外にも多くの獣がいる。獣の女王。森に君臨し、闇と大地をしろしめす母なる神がいる。
――母なる神より生まれし鼠は狼となり、やがて若々しい青年になる。
――彼は輝くように美しい。しかし、所詮《しょせん》は闇より生まれた者。その本質は暗く、ひねくれている。彼は闇より生まれた太陽。輝きと災厄《さいやく》をもたらす神なのだ。
――その称号はボイポス。すなわち光。鼠とも狼とも呼ばれた、美しき神の名。
「わかったよ、万里谷……。俺にも『狼』の正体が何か、はっきりとわかった」
「草薙さん……」
わずかに祐理が唇を離したとき、護堂はすかさず言った。
体のなかを言霊が駆けめぐる。右手には明確な力の感触が宿っている。『戦士』のウルスラグナが護堂の身中に宿り、黄金の剣が形となった証明だった。
だが、これではまだ足りない!
あの老人と戦うための武器が、もっと欲しい!
「……悪い。わがままを言ってもいいか? オシリス――万里谷が観たもうひとつの神様のことも教えてくれ。あのじじいに勝つために、できる限りの準備をしたいんだ」
「はいっ。草薙さん――護堂さん、私の観たものを、全て受け止めてください!」
勝てるか否かはわからない。
だが、強力な武器を得たという確信が、護堂の戦意を昂《たか》ぶらせていた。
ひしと抱きついた祐理が、また唇を押しつけてくる。緑色の肌を持つ豊穣《ほうじょう》と死の神――地母神の配偶者《はいぐうしゃ》たる神のイメージが伝わってくる。
同時に祐理の舌がちろりと動き、護堂の唇を舐《な》めた。
おそらく無意識の、しかし、ひどく蠱惑《こわく》的な動き。それを感じ取った護堂はとっさに自らの舌を動かして、彼女の舌へと絡ませた。
もっと深く。もっと強く。心と心をつなぎ合わせる――!
その思いにまかせての暴走だった。途端に祐理はびくりと身を震わせ、硬直してしまった。
かなり驚いたらしく、大きく目を見開いて唖然《あぜん》としている。
これだけじゃ足りない。もっと力を、イメージを渡してくれ!
そう念じながら、護堂は彼女を見つめ返した。
そのまま十数秒。やがて祐理は恥ずかしげに目を伏せ、体の力を抜いてくれた。護堂の唇と舌を、細やかに受け止めてくれるようになった。
荒々しく押しつけられる唇をやさしく受け止め、包み込む。口内で動き回る舌を、時に遠慮がちに舐め返し、時に自らの舌で丹念になぞり返す。
さらに護堂の唾《つば》を恥ずかしげに吸い、自らの唾液とひとつに溶かし合わせる。
「『狼』の神もオシリスも、同じ特徴を持つ神格です。共に、大地の女神と深い縁を持つ男神――原初《げんしょ》の昔、彼らと女神はもっとちがう関係にありました」
ときどき唇を離して息継ぎしながら、祐理は口早に語った。
それ以外はずっと護堂と唇を重ね、心を重ねて、己の心を伝えようと一心不乱であった。
「彼らはもともと女神の子供――地母神の生み出した幼き童子《どうし》。童《わらべ》の姿をした神でした。そこから転じて夫となり、愛人となり、兄弟になりました。故《ゆえ》に彼らは、大地と深いつながりを持つのです。だから『狼』の神は大地――闇から生まれた身でありながら、光の属性を持つ神格なのです。……わかりますか、護堂さん?」
「ああ、わかる。これで俺は、あのじいさんと戦える……!」
闘志が戦う力を呼び込むのは、カンピオーネの特性。
いつのまにか『鳳』のウルスラグナを使った後遺症《こういしょう》から回復していた護堂は、ゆっくりと身を起こした。
火でもついたかのように、体には力がみなぎっていた。
事が終わると、祐理《ゆり》はあわてて身を離した。
すっかり乱れてしまった白衣《びゃくえ》の襟元《えりもと》を、そそくさと直す。エリカほど豊満ではないが、十分にふくらみ、そして形の良い胸の谷間が見えかけていたのに気づいたのだ。
そのまま護堂《ごどう》に背を向けて、なぜか正座してしまった。
うつむき、肩を震わせている。
自分のしてしまった行為が恥ずかしくてたまらないのだろう。護堂の方もそうなので、彼女の気持ちはよくわかった。――気まずい。
護堂もあぐらをかいてしゃがみ込み、祐理の背をただ見つめるだけだった。
ひどく気まずい。何と声をかけたらいいのだろう? それでも意を決し、勇気を出して話しかけてみる。
「なあ万里谷《まりや》……」
「き、気になさらないで下さい! 今のは私が勝手にやったことです! 野良犬に噛《か》まれたとでも思って、お忘れ下さい!」
かなり混乱しているのか、祐理はそんなことを口走った。
「そういうわけにもいかないと思うけど……」
「で、でも、そうして下さらないと私、護堂さんと顔を合わすことができませんっ。こんなにはしたない真似《まね》をしてしまって、本当に恥ずかしくて……」
互いの顔を見ないまま、共に真《ま》っ赤《か》になりながら会話は進む。
ここで彼女のせいにしてしまっては、人として相当に問題があるだろう。
「い、いや、あのじいさんとの勝負のためにやってくれたことなんだし、万里谷のせいじゃないよ。ヴォバンと戦うのを決めたのは俺なんだから、俺の責任になると思う……」
「そんなことはありません。本当に、気になさらないで下さい!」
「う、うーん……。じ、じゃあ今回のはふたりの共同責任って形にしようか。ふたりでしたことなんだし、それが筋だと思う。何て言うか……俺も途中から我《われ》を忘れてしまったというか……こっちからお願いするような感じにもなってたし」
「そ、それはたしかに、そうかもしれませんけど……」
いま護堂のなかには、剣の言霊《ことだま》が二種類も眠っている。
どちらも祐理に授《さず》けてもらったものだが、ふたつ目――冥府神《めいふしん》オシリスを倒す言霊は、護堂の方から頼んで得たものだ。
これがなければ、ヴォバンには勝てない。
そんな予感にせき立てられて、ついわがままを言ってしまった。自分はどうも、勝負事になると周囲への迷惑を考えなくなるときがある。
反省しよう。護堂は改めて思った。
「そんなわけだから、俺も悪かったよ。申し訳ない……」
「い、いえ。では今回の件は、私たちふたりが軽率《けいそつ》だったということで……」
ようやく落ち着いてきたのか、祐理がやっと振り向いてくれた。
まだ顔は赤いが、混乱は収まったようだ。
「取り乱してしまって申し訳ありません。これからは計画性を持って、じっくり検討した上で行為に及びましょう。こんなふつつか者ですが、末永くよろしくお願いいたします」
「あ、うん。こちらこそ……?」
祐理は正座したまま、三つ指をついて深々と頭を下げた。
何だろう、今の挨拶《あいさつ》は?
嫁入り前の口上でも聞かされた気分になって、護堂は違和感を覚えた。この台詞《せりふ》にうなずいてしまうのは、結構問題がありそうな気もする。
「い、今のはお忘れ下さい! まだ落ち着いていないようですっ。変なことを申し上げてしまって、重ね重ね申し訳ありません!」
自分でも気づいたのか、祐理が声を張り上げた。
そんな気まずい雰囲気《ふんいき》を打ち破ってくれたのは、護堂の携帯電話だった。
防水機能など持たない普通の機種だが、この大雨にも負けずに健在だったようだ。
「は、はいっ。もしもし!」
着信メロディを聞くと同時に、護堂はすぐ電話機を引っぱり出した。
『――わたしよ。そっちは大丈夫? 祐理もいっしょにいるの?』
「あ、ああ。何とか逃げ延びたよ。エリカも無事そうだな」
すっかり聞き慣れた声。
黄金の華麗《かれい》さと吹きゆく風の軽やかさを併《あわ》せ持つ美少女。エリカ・ブランデッリの姿を思い出して、護堂はなぜか緊張感を味わった。
……背中を刃物でチクチク刺されるような、奇妙な怖さを感じてしまったのだ。
『こっちもいろいろあったけど、とりあえず今は平和なものよ。ただ侯爵《こうしゃく》の方がね……あの方、かなり遊んでるわ』
「遊んでる?」
『ええ。気づいてるでしょう? 嵐の勢いが強くなっているけど、まちがいなくわざとね。実は今、あの方を発見して遠くから見張ってるの。また『狼《おおかみ》』たちを解き放って、護堂たちを狩り出すつもりのようよ。そのついでに、この嵐。もしかしたら、演出のつもりなのかも』
「……趣味悪いな」
『そう? 嵐の夜に決闘なんて、盛り上がっていいと思うけど。とにかく、どこかで合流しましょう。侯の能力もだいぶわかってきたし、対策を立てないとね。『死せる従僕《じゅうぼく》』の方々は、わたしが何とかできると思う。だから『狼』の権能《けんのう》をどうにかしたいところよね――』
「あー……実は、そっちも何とかできると思うんだ」
『え、護堂が? どうやって?』
「まあ何て言うか、こっちもいろいろあったんだよ、うん」
『…………ふうん、いろいろかァ。何となく想像つくけど、あとで訊問《じんもん》してもいい?』
質問ではなく訊問。その言い回しに絶望感を覚えながらも、護堂は話題を切り替えた。
「そういうことだから、そっちに俺を呼んで[#「呼んで」に傍点]くれよ。すぐに飛んでいく」
『わかったわ。――護堂の報告、すごく愉《たの》しみ。あとでたっぷりいじめてあげるわね』
不吉な文句を残して、エリカからの電話は切れた。
爆薬の導火線に火をつけたような重い気分で、護堂は電話をしまう。
「エリカさんから、ですか?」
「ああ。あっちも無事で、じいさんを見張っているらしい。俺は向こうに行くから、万里谷はどこかに避難するといいよ」
そう護堂は提案した。
戦う力を持たない祐理を、危険な目に遭《あ》わせたくなかったのだ。だが、美しき媛巫女《ひめみこ》は決然と首を横に振り、それを拒んだ。
「いいえ、私も参ります。……護堂さん、さきほどの戦いで侯爵《こうしゃく》はおそらく攻撃の威力を抑《おさ》えておられました。その気になれば、あの方は街ごとあなたを吹き飛ばすこともできるはずです。そうされなかったのは、私がそばにいたからだと思います」
だから、自分がいればヴォバンも権能の全てを振るえないはず。
祐理の言わんとするところを察して、護堂は黙り込んだ。実は、その可能性にはうすうす気づいてはいたのだ。
だが、そんな理由で彼女を連れていくわけにはいかない。
「いいんです。何もできないまま危険が過ぎ去るのを待つよりも、すこしでもお役に立つ方を選びたいんです。……それに、お忘れですか?」
問いかける祐理の目は、ひどくやさしかった。
「あなたが侯爵に負ければ、どのみち私はさらわれてしまいます。だから、すこしでも護堂さんの勝ち目が増えるようにしたいんです。これは私のためでもあることですから、遠慮なさらないで下さい」
敢《あ》えて自分の利益を主張して、相手の心の負担を減らそうとする。
祐理の気遣《きづか》いを感じ、護堂は深くため息をついた。
あの老人よりも自分は弱い。勝つためには、こちらに優位となる全ての条件を利用すべき。そして何より必要なのは、仲間の協力。
草薙護堂は、デヤンスタール・ヴォバンやサルバトーレ・ドニとはちがう。
ひとりでは満足に戦いもできない、弱い『王』なのだ。
今までもそうだった。
エリカや祐理、そして幾人かの友人や仲間たちの助力がなければ、護堂はカンピオーネになることも、そのあとで勝利を重ねることもできなかった。
――いつか、こんな借りを作らなくともよくなる日まで。
護堂は決意した。
今はまだ、借りさせてもらおう。その代わり、自分の力を真に必要とする人がいるときは――ためらわずに力を貸そう。それが等価交換というものだ。
「悪い、お言葉に甘えさせてもらう。しばらく付き合ってもらえるか?」
「もちろんです。私たちは一蓮托生《いちれんたくしょう》――いっしょにがんばりましょう」
祐理の口元に、穏やかな微笑が浮かぶ。
彼女がときどき見せる、どんな女の子よりもやさしい、やわらかな笑顔だった。だが、その笑みが不意に消えた。
「――王よ。もしあなたが、その御心をお忘れにならなければ、新たな力をその手に掌握《しょうあく》されることでしょう。群れを成し迷える羊《ひつじ》たちを御身が導くとき、角を持つ導きの獣《けもの》は御身の頭上にて祭司の技を振るうはずです」
厳《おごそ》かに、虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》で祐理が語る。これは忠告、助言――いや託宣《たくせん》か?
「機敏にして聡明な山羊は、かつて騎馬の民が天を治める大神になぞらえた聖獣。迷える羊を導く、英明なる長《おさ》の御姿なのです。それをお心にお留めあそばしませ。――あら? 私、いま何を言っていたのでしょう?」
「……いや。たいしたことは特に何も」
おそらく巫女《みこ》の霊感が、今の言葉をささやかせたのだろう。
祐理が持つ潜在能力の底知れなさに、護堂は舌を巻いた。
それにしても、犠牲《ぎせい》の獣とは何だろう? 羊、そして山羊とか言っていたか? 護堂がつい考え始めたときだった。
――草薙護堂! 御身の騎士が呼び招きます。今こそ来たり、王の責務を果たし給《たま》え!
どこからか、風に乗って少女の声が届く。
エリカの呼び声だった。ついにヴォバンと決着をつけるときが来たらしい。
命の危機を迎えた知己《ちき》がその名を唱《とな》えるとき、護堂は『強風』のウルスラグナとなって飛翔《ひしょう》の力を得る。
「往《ゆ》こう。あのじいさんを痛い目に遭《あ》わせてやろうぜ!」
「はい、護堂さん! どこまでもお供いたします!」
護堂が差し出した手を、祐理はしっかりと握りしめた。
一蓮托生。
その覚悟を決めたふたりは、渦巻く強風に乗って飛翔した。
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第7章 風よ、雨よ、狼よ
嵐吹く夜、東京《とうきょう》タワーの程近く――。
まともな神経の持ち主であれば、外を出歩くなど思いつきもしない悪天候。
いや、かなり重大な用件のある者でも、今夜の外出は見送るしかない。それほどの風であり、雨であり、雷鳴であった。
そのなかに、嬉々《きき》としてたたずむ黒コートの老人がいる。
「ハハハハハッ、捜せ、狩り出せ! 今宵《こよい》はいい夜だ! 我が猟犬《りょうけん》どもよ、私の獲物《えもの》を見つけ出してこい!」
デヤンスタール・ヴォバンが吠《ほ》える。
すると、彼の背後の闇《やみ》から十数匹の『狼《おおかみ》』が形を取り、夜の市街を疾駆《しっく》していく。また、彼が笑声《しょうせい》をあげるたびに風は強まり、稲妻《いなずま》が光る。
風の唸りと雷鳴と、豪雨が激しく大地を打つ音が、夜の街を支配していた。
人の姿などない。道を走る車もついに消え失せた。
もはや無人の都と言っても大げさではない情景で、傲慢《ごうまん》に吠《ほ》えるヴォバンは廃墟《はいきょ》の王さながらであった。
「いや、もうノリノリですな。本当に楽しそうだ」
感心したふうにつぶやいたのは、正史《せいし》編纂《へんさん》委員・甘粕《あまかす》冬馬《とうま》だった。
そのそばにはリリアナ・クラニチャールがいる。一応は貴人と言われる老人を盗み見しながら、やや呆《あき》れ気味な面持《おもも》ちだった。
「特に趣味もない方のようだからな。ひさしぶりに娯楽を見つけて大喜びなのだろう。……まったく、時代遅れの暴君は楽隠居《らくいんきょ》でもすればいいものを!」
「でも、テラスで日なたぼっこしながら老後を過ごす……なんて、絶対ムリな方よねー」
と、エリカ・ブランデッリも旧友の発言に相づちを打った。
――港区《みなとく》、芝《しば》公園《こうえん》の近辺。
老魔王を発見した彼女たちは、とあるビルの物陰で様子見の最中だった。
三〇分ほど前、リリアナを自《みずか》らの陣営に引き込んだエリカは、数々の恨《うら》み言《ごと》を笑顔で黙殺しながらヴォバンの捜索《そうさく》を開始した。
占術《せんじゅつ》にも卓越したリリアナに占《うらな》わせ、侯爵《こうしゃく》の居場所を探る。
卦《け》の示す方向へ移動するふたりの前に現れたのが、甘粕だった。
「やあ、どうも。侯爵の行方《ゆくえ》をお捜しなら、私に当てがありますよ」
エリカとリリアナが連れ立って歩いていると、不意に車道に停《と》まっていた車のドアが開き、彼が姿を見せたのだ。
豪雨の降るなかへ、黒い傘をさしながら出てくる。
しかし、傘は暴風ですぐに吹き飛ばされてしまった。甘粕は「やれやれ」という感じで頭を振り、諦《あきら》めて背広が雨で濡れるのにまかせながら申し出た。
「ここであなたを見つけたのも何かの縁、いっしょに参りましょう。……ところで、エリカさんとごいっしょされている方をご紹介いただけますか? リリアナ・クラニチャール卿《きょう》とお見受けいたしましたが?」
このような一幕があった結果、三人は連れ立っているのである。
「ところで甘粕さん、ひとつ訊《き》いてもいい?」
「かまいませんとも、シニョリーナ。ただし、スリーサイズと体重は極秘事項ですよ?」
とぼけた答えを口にする正史編纂委員へ、エリカは皮肉な視線を投げかけた。
「実は、さっきから気になってたのよね。あなたが……いえ、あなたたち[#「たち」に傍点]が護堂《ごどう》に今回の件をゆだねた理由」
微妙にスパイスを効《き》かせた、辛《から》めの質問。
甘粕はとぼけた笑みと緊張感のない口調を崩しはしなかった。
「そりゃ私たちだって祐理さんが心配でしたから。いちばんどうにかできそうな方に相談するのは、普通でしょう?」
「どうかしら? 身近な人間が危険にさらされたとき、護堂がどう動く人間か見極めておきたい、多少の犠牲《ぎせい》は目をつぶろう。侯爵との戦闘になったとしても、逆に護堂の潜在能力を推《お》しはかる好機になる……とかね。これはわたしの考えすぎ?」
「考えすぎです。私たち正史編纂委員会は、れっきとした公務員ですから。東京都民および日本国民の幸福を第一に考えて仕事をしています」
優雅に皮肉のエッセンスを振りまくエリカ。
誠意が欠けているくせに、不思議と憎めない顔つきの甘粕。
ふたりのやりとりを横で聞きながら、リリアナは居心地悪そうにつぶやいた。
「キツネとコウモリの世間話みたいなやりとりは、余所《よそ》でやってほしいぞ。それより、これからどうする? 草薙《くさなぎ》護堂はこちらに向かっているんだろう?」
「向かっている、というか、これから向かうはずだけどね」
そうエリカは答え、さっき電話で交わした会話を思い出した。
……やはり、草薙護堂は油断ならない男だ。それほど社交的でもないくせに、妙に人を惹《ひ》きつけるときがある。
これもまた王の資質。頼もしい部分ではあるのだが、すこし面白くない。
万里谷《まりや》祐理をこちらの陣営に引き込む計画がここまで早く進むとは、予想外だった。……あとで釘《くぎ》を刺しておかなくては。
浮気はいい。それも王者の特権だ。でも、本気は許さない。
草薙護堂が本気で愛するのは、エリカ・ブランデッリただひとりでなくてはいけない。
「この鉄則を魂《たましい》に刻み込むには、やっぱり子供でも作っちゃうのがいちばんか……。あの性格なら、子煩悩《こぼんのう》になる可能性はかなり高いし……」
「何だ、エリカ? ぶつぶつとつぶやいて?」
リリアナに言われて、エリカは頭を振った。
今はヴォバン侯爵が最大の懸念《けねん》事項。集中しなくてはいけない。
「ああ、ごめんなさい。何でもないから気にしないで。――じゃあ始めましょうか。草薙護堂とデヤンスタール・ヴォバン、ふたりの『王』が相まみえる決闘の第二幕を」
エリカとリリアナは肩を並べて歩き出した。
彼女たちが向かう先では、老いたる魔王が風雨雷鳴を呼び、哄笑《こうしょう》している。
甘粕はひとりだけ残り、のんきに見送っていた。その緊張感のない顔を見て、エリカは肩をすくめた。――まあ、いいだろう。
腕に覚えはありそうだが、自分たちには所詮及ばない。この先はただの足手まといだ。
激しい雷雨のもと、ふたりの少女はついに老王と対峙《たいじ》した。
「おお、ようやく隠れ家から出てきたか。遅かったな。――おやクラニチャール、仇敵《きゅうてき》といっしょにいるようだが、どうした? 君は私の随伴《ずいはん》だったはずだが?」
エリカの隣に立つ少女へ、ヴォバンが目を細めて言う。
すでにリリアナの変心を見抜いているのはまちがいない。確信とひねくれたユーモアに満ちた目つきだった。
「おそれながら申し上げます。リリアナ・クラニチャール、ただいまを以《もっ》てその御役をお返しさせていただきたく思い、参上いたしました。か弱き婦女子の拉致《らち》に荷担《かたん》するなど、騎士の道にあらず。どうかご容赦《ようしゃ》を」
「横暴なる王に敢《あ》えて逆らうか。愚《おろ》かだが、それもまた騎士の鑑《かがみ》と言えよう」
ヴォバンは鷹揚《おうよう》に微笑《ほほえ》んだ。
「このうえは我が手にかかり、『死せる従僕《じゅうぼく》』どもの列へ加わるがいい。そのときは無論、そこの『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』もいっしょだ。さびしくはあるまい? 狼の資質を持つ娘どもよ、おまえたちは我が旗下《きか》へ迎えるに値《あたい》する戦士たちだ」
ふたたび闇《やみ》が蠢《うごめ》く。
古めかしい戦装束《いくさしょうぞく》で身を固めた武人たちが、闇から生まれ出てくる。
「勘違《かんちが》いしているといけないので、先に教えてやろう。この者ら――『死せる従僕』どもが我が軛《くびき》から解放されるのは、私が死するときのみだ。さきほど、貴様の手で打ち倒された騎士も、あれで安息を得たわけではない。一度は塵《ちり》となり、土に還《かえ》りはするが、時をおけば我が檻《おり》に舞い戻る。……私の支配は永久なのだよ」
嵐のなか現れた、幾十人もの死せる騎士たち。
たしかに、さっき倒した騎士と瓜《うり》ふたつの風貌《ふうぼう》を持つ者もいるように思える。さすがは神より簒奪《さんだつ》した権能《けんのう》、一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないようだ。
敵の強大さを理解しながら、エリカはそれでも尊大《そんだい》に微笑んでみせた。
「王のお言葉に偽《いつわ》りはございますまい。ですが、敢えて申し上げましょう。順番をまちがわれてはいけません。御身のお相手は我らにあらず。それをお忘れになられましたか?」
「そこまで耄碌《もうろく》はしておらぬさ。だが、肝心の小僧は何処《どこ》だ?」
ヴォバンの笑いの質が変わった。
己の絶対性を熟知する王者の笑みから、血のたぎりを持て余す闘士の哄笑へと。
「あんな小僧では、我が飢えの半分も満たすことはできまい。駆け出しの王など、そんなものだ。だが彼奴《きゃつ》が――サルバトーレめを追い込んだ器量を私にも見せれば、話はべつだ。私は今宵《こよい》、ひさしぶりに血を熱くすることができる。心ゆくまで闘争を堪能《たんのう》できる!」
神をも葬《ほうむ》る力は、支配し、君臨するためにあるのではない。
ただ戦うためだけに。
せめぎ合い、闘争するためにこそ、この力は存在する。
王として数世紀も生きた身でありながら、領土も家臣も捨てて孤独を選び、さまよいつづける老王の咆哮《ほうこう》に、エリカはうなずいた。
「ならば王よ、御自《おんみずか》らそれをお確かめあれ。――草薙護堂! 御身の騎士が呼び招きます。今こそ来たり、王の責務を果たし給え!」
一礼し、声高らかにその名を呼ぶ。
吹き荒れる風に乗せ、若き王を呼び招く言霊とするために。
――エリカのすぐ目の前で、風が渦巻く。
――横溢《おういつ》する呪力に、そばにいたリリアナが瞠目《どうもく》した直後。
風の渦《うず》の中心に、草薙護堂と巫女装束の万里谷祐理が忽然《こつぜん》と現れた。
「待ちかねたぞ、小僧。長上《ちょうじょう》をこれほど待たすとは、礼儀を知らぬヤツめ。さすがはサルバトーレめの盟友よな」
「そいつは悪かったな。でも、あんなアホと俺をいっしょにするなよ。不愉快だ」
突然に現れた敵を当然のように見下すヴォバンと、不遜《ふそん》な闘志で応じる護堂。
ふたりの王が、ついに再会を果たした瞬間だった。
「万里谷《まりや》は後ろの方で待っていてくれ。俺のそばよりはマシだと思うから」
「はい。どうか、ご無事で――」
護堂《ごどう》の指示に、祐理《ゆり》は素直にうなずいてくれた。
『風』のウルスラグナの力で飛ぶときにつないだ手を、彼女は名残惜《なごりお》しげにキュッと握りしめてから身を離す。迷いのない、いい表情だった。
小走りに祐理が駆けていく先には、エリカと――もうひとりいた。
「あれ? 君はさっきの……」
「リリアナ・クラニチャールです。草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》、あなたの旗下《きか》に加えていただきたく思い、馳《は》せ参じました。この雌狐《めぎつね》と主《あるじ》を同じくしたいなどとは全く考えませんが、今回の件ではあなたに義があると判断したのです。それ故《ゆえ》の行動だとご認識下さい」
古なじみを憎々《にくにく》しげに見やりながら、リリアナは口早に告げた。
その視線を軽やかに無視したエリカは、どこか悪魔的な笑顔で言い添える。
「そうね。とても大切なものよね、正義って。誰かさんのノートと同じくらい……」
「うるさいッ。……いつか本当に、悪行の報《むく》いを下してやる」
しかめ面《つら》でリリアナが言う。
何となく事情を察した護堂は、改めて彼女に同情した。あの悪魔と長い付き合いなのだから、さぞかし苦労も多かっただろう。
「俺に付いてもいいことはないんじゃないか。無理に付き合わなくとも大丈夫だけど……」
「それについては納得していますので、心配はご無用です」
きっぱりとリリアナは言い切った。
愚痴《ぐち》りながらも、その表情は明るい。儚《はかな》い妖精《ようせい》めいた美貌《びぼう》からは、何かを吹っ切ったように前向きな意志が感じられる。
「わかった、ありがとう。いっしょにあのくそじじいを叩《たた》きのめしてやろうぜ」
エリカが策《さく》を弄《ろう》して味方に引き込むほどの騎士。
実力だけでなく立場もあるだろうに、力を貸してくれる。本当にありがたい話だった。するとリリアナは、感謝する護堂から照れくさそうに視線を逸《そ》らした。
「礼には及びません。王に助力するのは騎士として当然の振る舞い、ましてあなたは友と婦女子を救うおつもりなのだから尚更《なおさら》でしょう。……まあ、あの雌狐の主というところで、わたし的にはかなり低い点数をつけざるを得ませんが、許容範囲の内です」
なかなか手厳しいことを言う。
初対面のときから思っていたが、この少女はバカ丁寧《ていねい》に見えて意外と口が悪い。人形のように整った顔立ちからは想像しにくいが、かなり気の強い性格なのだろう。
苦笑しつつも、護堂は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「それで十分だ。よろしく頼むよ。――じゃあ、じいさん。始めようか」
「ふん、貴様はくだらぬことに舌を動かしすぎだ。戦士たる者が、敵と対したときに為す振る舞いではないな。未熟者め」
毒を吐く老人を、護堂はふてぶてしくにらみつけた。
「未熟で結構だよ。その代わり、俺には頼もしい仲間がいるからな。あんたは独りさびしく孤高でも気取ってろ」
「小僧がよく吠《ほ》える。ならば、実力の方はどうだ!?」
ヴォバンが腕を振り下ろす。
すると、背後で控えていた死せる騎士たちが一斉に動き出した。
剣を抜き、槍《やり》をかまえ、護堂めがけて殺到する! それを迎え撃ったのは、それぞれ魔剣を呼び出した紅と青の騎士ふたりだった。
「リリィ、死せる騎士の方々を無理に討ち取る必要はないわ。わたしたちふたりで護堂を守りきる。それが最優先目標よ!」
「策があるのか? 承知!」
護堂の右にエリカが、左にリリアナが陣取る。
クオレ・ディ・レオーネとイル・マエストロ――二振りの魔剣が、立て続けに華麗な軌跡《きせき》を描き、死せる騎士から護堂を守る防壁となった。
戦闘力で言えば、彼女たちと敵方は同等に近い。
死人であるせいか主の命令を忠実に履行《りこう》するだけの亡者たちよりも、臨機応変《りんきおうへん》に判断し、俊敏《しゅんびん》に立ち回れるという点では勝っていたが、もともとの実力に大差はないのだ。
しかも、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》。
ふたりだけのエリカとリリアナに対し、死せる騎士たちは十数騎もいる。
さらにヴォバンが、駄目押しとばかりに従僕《じゅうぼく》たち――動く死体の軍団を、続々と闇から呼び出していた。
中世の騎士めいた武者もいれば、マスケット銃にサーベルで装備した兵もいる。
ロープと覆面《ふくめん》で身を包み、戦斧《せんぷ》を振り回す死人。二〇世紀の前半辺りのものか、やけに年代物らしいライフルを持つ軍服の死人。もっと現代風の、背広やアーミーシャツを着た死人もいる。逆に、どこの時代から紛れ込んだのか不明なバイキングのごとき大男や、中国服の死人たち、中東風《ちゅうとうふう》の装束の死人たちの姿もあった。
属した時代も国籍も人種もさまざまな、『死せる従僕』たち――。
彼らが持つ銃火器の類《たぐい》は、まともに動かなくなっているようだ。刃物も手入れが行き届いていないらしく、錆《さ》び付いたり刃こぼれがひどい。
それでも彼らは、手にした武器を振るって押し寄せる。
――エリカとリリアナは、『死せる従僕』たちを相手に全く退かなかった。
次々と殺到する死人たち。
エリカはクオレ・ディ・レオーネをまたも一三振りに分けて、操った。
獅子《しし》の魔剣は猛禽《もうきん》のように宙へ浮かび上がり、飛翔《ひしょう》し、『死せる従僕』たちに斬撃《ざんげき》を見舞い続ける。手強《てごわ》い死せる騎士には、エリカ自身が剣を振るって邪魔しに入る。
リリアナは地上にほとんど立っていなかった。
死人たちの頭、肩、ときには彼らの武器の上を足場にして跳躍《ちょうやく》し、縦横無尽《じゅうおうむじん》に飛び回る。上方から、空中から魔剣を次々と振り下ろし、敵の戦闘力を奪っていく。
決して無理はしない。
強力な死せる騎士は、牽制《けんせい》程度の攻撃で突き放し、長く打ち合わない。
だが、弱い従僕たちには容赦《ようしゃ》なく急所に魔剣を突き立て、すくない手数で戦闘不能に追い込む。ふたりの戦い方は実にいやらしく、手堅かった。
徹底してローリスク。
エリカは護堂のそばを離れない。リリアナは突出しすぎない。
常に護堂の守護を最優先。ふたりの実力と判断力が、それを可能にしていた。
「本当はこういうの好きじゃないのだけれど、仕方がないわ!」
「それはわたしも同じだ! で、これからどうする? 策があるんだろう!?」
この状況でも、悲壮感とは無縁のふたりだった。
エリカとリリアナが蹴散らす死人たちを見ながら、護堂は複雑な気分になった。
話を聞く限り、彼らはヴォバンの手で殺害された被害者たちだ。
あの魔王に逆らい、立ち向かった末に倒れた悲運の人々だったはずだ。それを従僕として地上につなぎ止め、死した後まで戦わせる。
ウルスラグナの権能もろくなものじゃないが、これは極めつけだろう。
――本当なら、彼らをまず解放してやりたかったのだが。
護堂はため息をついた。
戦術上、それはやはり望ましくない。エリカたちの力で『死せる従僕』に対抗できると実証された以上、切り札はべつの相手に使うべきだ。
『死せる従僕』の召喚《しょうかん》を終えたヴォバンが、悠然《ゆうぜん》たる足取りで近づいてくる。
この強大な老王を見据《みす》えながら、護堂は決然と口を開いた。
「……なあ。あんたが最初に殺した神様、覚えているか?」
「いきなり何だ、小僧? そのようなこと、貴様には関係あるまい?」
冷笑するヴォバン。
彼の姿が変わっていく。人から人狼《じんろう》へ、人狼から狼へ――。
やはり、そうか。大巨狼《だいきょろう》に変化《へんげ》する人外の力。ウルスラグナの『猪《いのしし》』が持つ破壊力を知る護堂には、この『狼』こそが最も警戒すべき能力に思えてならなかったのだ。
狼となったヴォバンの肉体がふくれ上がっていく。
ふたたび銀の大巨狼となり、すさまじい暴力の権化《ごんげ》となっていく。
――いま護堂のなかには、二種類の剣がある。
だが、『戦士』が振るえる剣は一振りのみ。選ばなくてはいけない。『死せる従僕』と『狼』のどちらを封じるか、決断しなくてはいけない。
最後の迷いを振り捨てて、護堂は言霊《ことだま》をつむいだ。
「俺は知っている。あんたが殺したひねくれ者の神――夜のように歩き回り、人に仇《あだ》なす狼の神を知っているぞ!」
光が燦《きら》めく。
神を斬り裂く言霊の『剣』。黄金の猛々《たけだけ》しい輝きが、無数の光球となって輝き出す。
「古くはボイポス――光を意味する称号で呼ばれた神だ。だが、同時に『|夜に酷似した《ニュクティ・エオイコス》』なんて言葉を贈られた神でもあった。上辺と内面が大きく矛盾《むじゅん》した、ひねくれ者の神を、かつてのあんたは殺したんだ」
黄金の『剣』が乱舞する。
見上げんばかりの巨体となったヴォバン――彼の銀に濡れる体毛を、精悍《せいかん》な狼の肉体を、縦横無尽《じゅうおうむじん》に斬り裂いていく。
オオオオオオオォォォォォンンンンンンッッ!!
『――何だ、その力は!』
咆哮《ほうこう》と驚愕《きょうがく》の叫びが、同時にこだまする。
「その最も古い呼び名はスミンテウス。――この意味は鼠《ねずみ》だ。そしてリュカオーン、リュカイオス……狼の名を意味する称号も持つ。闇と大地の獣である鼠と狼から、光の神への変化。この神を読み解く鍵は、そこにある!」
祐理が観た神の姿、本質。
それを分け与えられた護堂は、体の奥底から次々と言霊が湧《わ》き上がってくるのを感じた。
エリカの術で知識を授かったときとは、まるでちがう。頭のなかは空っぽなのに、勝手に口が開く。舌が動く。言霊がほとばしる。
心の目で捉《とら》えた神の形――それを思いつくまま語る。ただそれだけだった。
「鼠であり狼、光でありながら夜の属性を持つ神――すなわちアポロン。月の女神アルテミスの双子、闇に閉ざされた地下で生まれた太陽神! あんたが最初に殺した神の名だ!」
オオオオオオオォォォォンン!
『神力を斬り裂く言霊ッ。それが貴様の切り札か、面白い!』
負けじとヴォバンが吠えた。
銀の巨狼の体毛から、無数の『狼』が誕生する。毛の一本一本が形を変え、並のサイズではあったが狼の肉体へと変化して、空を駆けていく。
風雨渦巻く夜空を彩《いろど》る、黄金の『剣』。
星々のようにまたたく言霊の光へ、宙を飛び、躍りかかる銀狼たちの大群。
大巨狼の周りを飛び交う『剣』に喰らいつこうと、『狼』たちが次々と飛び込んでいく。そして、鋭い牙《きば》を突き立てる。だが『剣』の光球は『狼』の口腔《こうこう》へと逆に突進し、その精悍《せいかん》な肉体を両断してしまう。
上空で幾度も、いや幾十度も繰り返される勝利の光景に、護堂は闘志を燃やした。
このまま、一気にとどめを刺す!
「アポロンの双子の妹アルテミスは狩りの女神――もとは強力な地母神の一柱だ。この兄妹の母は大地の女神レト。アポロンはもともと大地の神殿に属する神だった」
アポロンの呼び名が次々と湧き上がってくる。
|光のアポロン《ボイポス・アポロン》。|鼠のアポロン《アポロン・スミンテウス》。|狼のアポロン《アポロン・リュカイオス》。|ひねくれたアポロン《アポロン・ロクシアス》。
この太陽神には、ひそかに矛盾《むじゅん》が多い。護堂は以前、家にあった『イリアス』の文庫本を暇つぶしに読んだことがある。あのときも妙に感じたものだ。
この叙事詩《じょじし》の冒頭で『アポロンの姿は夜の闇のごとく』と、ホメロスは謡《うた》っている。
しかも、アカイア軍に疫病《えきびょう》をもたらす災厄《さいやく》の神として描かれているのだ。永遠の美青年。恋多き美貌《びぼう》の太陽神。そのイメージと、何と噛《か》み合わない描写だろう。
「その証《あかし》として、彼の象徴《しょうちょう》となる獣《けもの》はどれも大地と深い縁を持つ。鼠、狼、白鳥――そして蛇《へび》だ。闇に蠢《うごめ》く小さなネズミこそが、アポロンの原型だったのかもしれない。妹アルテミスも下僕とした狼は、冥府の番犬としてのアポロンの姿だ。白鳥も大地と地底を往き来する性質の象徴。そして蛇は――多くの地母神も最大のシンボルとし、生と死の連環を示す!」
護堂の言霊でさらなる力を授かり、黄金の『剣』が縦横に天かける。
それを引き裂き、噛み砕き、抗《あらが》うために、続々と『狼』たちも大巨狼から飛び立っていく。
黄金と銀の燦《きら》めきが激突し、火花を散らす。
妖《あや》しくも熾烈《しれつ》な異能同士の空中戦が、嵐の夜空のあちこちで所狭しと繰り広げられていた。
「だけど、アポロンの神話に現れる蛇は、彼の仲間でも肉親でもない。彼が殺した怪物――それこそが蛇だった。神々の託宣所《たくせんじょ》である聖地デルフォイを守護する大蛇ピュトンがそうだ。その昔、若きアポロンはこの蛇を弓で射殺し、神託の神となった」
ウウウウオオオオオオオォォォォォォルゥゥゥゥゥンンンンンンッッ!!
護堂の言霊を蹴散らそうと、ヴォバンが咆哮《ほうこう》する。
『剣』に対抗できず、敗北を重ねていくばかりの銀狼たちの姿が空中からかき消えた。代わりに大巨狼の怪獣じみた肉体が地を蹴り、辺り一帯の地盤を大きく揺るがせた。
その駆ける先にいるのは、もちろん護堂本人。
武器に勝てないのなら、操る使い手の方を片づける。合理的な判断だ。だが、それだけに対応するのもたやすい。
「ピュトンは地母神ガイアが生み落とした大蛇だった。この蛇を殺してデルフォイの支配者となったアポロンの巫女はピュティアと呼ばれ、聖地を訪れる人々に神託を授けた。――つまり、アポロンは自分の同朋《どうほう》である大地の神霊を殺《あや》めて出世を果たした神なんだ」
護堂は黄金の剣をひとつに束ね、光を収斂《しゅうれん》させた。
一直線に突っ込んでくるなら、まさに好都合。このまま一太刀《ひとたち》でアポロンの神力を断ち切り、ヴォバンの武器を奪う!
「地底、つまり冥府と結びつく大地は、闇の象徴。闇を追い散らすのは光――太陽の光だ。アポロンは大地から生まれた神でありながら、その母を殺めたことで光の化身となった。だから、その本質は闇でありながら光の性質も併《あわ》せ持つ――|ひねくれ者の神《ロクシアス》となったんだ」
これまでに倍する光量で、黄金の一閃《いっせん》が大巨狼を薙《な》いだ。
直後、見上げんばかりの巨体は消え失せた。縮小し、痩《や》せた老人へ変貌《へんぼう》していく。
「……なるほど、我が権能を打ち破る言霊か。小癪《こしゃく》な奥の手を持っておるわ」
すくなからぬダメージがあるだろうに、ヴォバンは仁王《におう》のごとく立つ。
熱さと冷静さ。鋼鉄の意志と誇り。それらを併せ持つ、古強者《ふるつわもの》の瞳が護堂を射抜く。
「局面に応じて、自らの能力を変化させる。珍しい権能だ……今も生きている『王』のなかではジョン・プルートーぐらいだな、似たような力を持つのは。もっとも、この手の権能は行使に際する制限を持つ。貴様を縛《しば》るルールさえ知れば、たやすく勝利できそうではある」
ククッ。額《ひたい》から血を流しながら、ヴォバンは唇《くちびる》をゆがめて笑う。
護堂は気を引き締めた。あの老人が持つ『狼』の神力を完全に斬《き》り伏せたわけではない。手応《てごた》えの軽さから、それは理解していた。
言霊の『剣』の性質を見極めた彼は、手遅れになる前に自ら突進をやめたのだ。
「だが安心しろ。貴様ごときに、そこまではせぬ。あくまで正面から叩きのめしてくれる」
ヴォバンの言葉に応じて、『死せる従僕』たちが動きを変えた。
今まで無秩序《むちつじょ》に襲いかかるだけだったのが、急に整然と動き出す。護堂たちの周囲から一旦後退し、それから押し寄せる波のように突撃をかけてきた。
「ちっ、また厄介《やっかい》な真似を!」
「ま、今までが楽すぎたとも言えるけれど、たしかに面倒ね!」
リリアナとエリカがその対応に追われ、焦り出す。
まず、従僕たちのなかでも非力なものが突撃。彼らがエリカたちの手にかかった瞬間に、大騎士級の死者たちが斬り込んでくる。
ヴォバンの見えざる意思が、『死せる従僕』たちを操っているのは明白だった。
「貴様はさきほどアポロンの謎解《なぞと》きをしたな。いかにも、私が最初に葬《ほうむ》った神はアポロン。我が狼どもは、かの神より簒奪《さんだつ》せし聖獣の権能。さて、貴様の言霊――アポロン以外の神力に果たして効《き》くものかな?」
死人たちを操るのはオシリス神の権能。そうと知りながら、護堂には打つ手がない。『戦士』の化身は、あくまでアポロンの神力を封じるのみなのだ。
護堂の『剣』の限界を知るため、敢えて手を変えてきたのだろう。
エリカとリリアナが魔剣を振るい、奮戦するが、不利なのは否《いな》めない。ふたりの少女に守られながら護堂が歯がみした、そのとき――。
「護堂さん!」
背後から呼びかけられた。祐理の声だ。
「オシリスを討つ剣をお使いなさい! あなたはもう、その条件を満たしているはずです!」
「それはそうだけど、もうアポロンを封じるのに『剣』は使っているんだよな……」
答える余裕もないので、口のなかでつぶやく。
ひとつの化身は一日に一度しか使えない。そして、どの神に対して有効な『剣』を造るかは、『戦士』になる直前に決めるものなのだ。
「諦《あきら》めてはいけません! アポロンもオシリスも、元は極めて似た性質を持つ神格です。あなたのなかに眠る言霊を使って、ここで『剣』を造りかえるのです!」
祐理も無茶なことを言う。半ば呆《あき》れながら、護堂は戦況を見渡した。
自分を守るために、エリカとリリアナが力を尽くしている。冥府神の権能に縛られて、従僕たちが死した後も戦い続けている。そして、全ての張本人である老人がほくそ笑み――。
やってやろうじゃないか。
ヴォバンの余裕と、『死せる従僕』たちへの憐憫《れんびん》と、戦う仲間たちへの申し訳なさが護堂の闘志に火をつけた。
「アポロンがそうであるように、オシリスもまた大地の生んだ神だ!」
緑の肌を持つという冥府の神、死者たちの裁定者。
この神の本質は、ナイルの流れがもたらす作物の実り――穀物《こくもつ》の豊穣《ほうじょう》を表す大地の属性だ。
「だけど、大地から生まれながら、輝く太陽神になったアポロンとはちがう。彼はあくまで純粋な大地と冥界の神――地母神《じぼしん》の血族である穀物神だ」
アポロンとオシリスは、共に大地をルーツとする地母神の息子たち。
生まれた文化圏はちがえど、その属性にはある程度の共通項が存在する。そこを足がかりにして、『剣』に新たな力を吹き込む。
オシリスを討つ言霊を、冥界を司《つかさど》る穀物神を封じる呪力を――!
「太陽神になったあとも、アポロンには夜の気配がついてまわった。夜――闇が支配する世界。アポロンが鼠《ねずみ》として駆け回った地底も、闇の世界だ。これはつまり、冥府を表す記号なんだ」
命を育《はぐく》む大地の太母神《たいぼしん》は、慈愛《じあい》あふれるだけの女神ではない。
冬が来れば死をもたらし、夜と地底を支配する冥府神でもある。アテナとの戦いから、護堂はそれを学んだ。そして、オシリスは大地が生んだ穀物の神。
穀物もまた春に芽吹き、夏と秋に実り、枯れ、冬には死を迎えるもの。
その翌年の春には死から再生し、ふたたび生まれいずるもの。
――護堂の手に、黄金の刃を持つ長大な剣が現れる。幾度も死に、そして甦《よみがえ》る冥府の神を滅ぼすために造り上げた神剣だった。
『死せる従僕』たちによって、十重《とえ》二十重《はたえ》の包囲網がしかれて逃げ場はない。
遥《はる》か向こう――十数メートル先に、戦う死者たちをオーケストラの指揮者のように無言で操る老王の姿が見える。
狙いを定めて、護堂は剣を振り上げた。
「オシリスは一度、八つ裂きにされて死んだ。そこから復活を遂《と》げて冥府の神になった。春に命を与え、秋に収穫し、冬に刈り取るのが地母神の役割。そして春に生まれ、秋に実り、冬に死ぬのは、大地の子である穀物神の役割だ。――故に、殺す地母神と殺される穀物神は冥府神としての機能を共有するようになる」
死と再生のサイクル。
かつて護堂が戦ったアテナ同様、冥府の死神もであるイシスとアルテミス。しかし、アポロンは殺されない。殺されるのはオシリスのみ。
「アポロンが失ったのは、この殺される役割だ。引き替えに、彼は太陽の神になった。それでも『|夜に酷似した《ニュクティ・エオイコス》』と表現され、死――疫病を振りまく神なのは、その過去の痕跡《こんせき》なんだ!」
必殺の言霊を込めて、大きく『剣』を突き出す護堂。
刀身より放たれた黄金の閃光が戦場を照らし上げる。この光はエリカとリリアナを包み込み、『死せる従僕』たちを斬り裂いた。
そして、チェスのキングのように後方で控えるヴォバンへと疾駆《しっく》していく。
それを防ぐべく、骸《むくろ》の戦士たちが身を楯《たて》にして老侯爵をかばう。
護堂は獰猛《どうもう》に微笑した。べつにかまわない。自分の狙いどおりになるのなら、たとえ捨て身の防御であっても意味などないからだ。
はたして、上手くいくかどうか。結果はどうなる――?
いつのまにか雨がやんでいた。
嵐が去ったわけではない。まだ風は暴力的なほどに強く、天を覆《おお》う黒雲からはゴロゴロと雷の鳴る音が地上へ落ちてくる。
だが、雨だけはやんでいた。そのなかで老人の声が愉《たの》しげに響く。
「やってくれたものだな。我が『狼《おおかみ》』を斬《き》り裂き、『死せる従僕《じゅうぼく》』の軛《くびき》にひびを入れたか。なかなかに厄介《やっかい》な芸を持っておったではないか」
全ての言霊《ことだま》を注ぎ込んで放った、護堂《ごどう》の斬撃《ざんげき》。
手応《てごた》えから察するに、ヴォバンのなかに眠るアポロンの神力は完全に斬り裂いた。おそらく、あと数日は行使できないはずだ。だが、オシリスの神力は――。
やはり、対アポロンの『剣』をオシリス殺しに使うのは難しかった。
完全な成功ではない。だが、それでも『死せる従僕』たちの数は減らした。ざっと数えただけでも、半数は姿を消している。残った半数も動きを止めていた。
『剣』の言霊《ことだま》がヴォバンの支配力を斬り裂いたせいだ。
ずっと戦い続けだったエリカとリリアナも魔剣をおろし、一息ついている。
最後の『剣』を振るった直後、『死せる従僕』たちの半分が塵《ちり》となって崩れ去った。
あのとき護堂には、消えゆく従僕たちが何かを告げていたように思えた。あれは何だったのだろう。もしかしたら、礼でも言ってくれたのだろうか?
言霊の『剣』は、ヴォバンの支配力を断ち切った。
消えていった死者たちは形を失っただけではない。あれで彼らは真の死を――永劫《えいごう》の安息を得たはずだ。
『戦士』の能力は言霊の剣だけではない。神々の本質を見抜く眼力もふくんでいる。
だから護堂には、それがはっきりと理解できていた。
もし彼らが感謝をしてくれていたのなら、とても嬉《うれ》しいことだ。大きな代償《だいしょう》を払った甲斐《かい》もある。……震える足で地面を踏みしめながら、護堂は自分を奮《ふる》い立たせた。
二重の言霊を『剣』に与えたことで、体力を根こそぎ使ってしまった。
息が荒い。体に力が入らない。
あの戦法は、今の護堂にはまだ早かったようだ。まさか、ここまで負担が大きいとは。
…………! ……………………!
何だろう? 誰かが何かを叫んでいるような、そんな気がする。
そばにいるエリカもリリアナも、悲愴《ひそう》な表情でいつのまにか寄ってきていた祐理も、心配そうに自分を見つめているだけで無言だ。なぜ、こんなふうに感じるのだろう?
「まあ、善戦したと誉《ほ》めてやろう。期待にたがわぬ戦いぶりではあった」
と、ヴォバンがつぶやいた直後。
風が唸《うな》った。
護堂の体は吹っ飛ばされた。まるで質量を持つかのような、爆発的な風圧。
『戦士』の目で老王をにらみつける。……これは嵐の神力だ。ヴォバンの背後に、三つの人影のようなものがかすかに見える。
風伯《ふうはく》、雨師《うし》、雷公《らいこう》。そんな名前が心に浮かぶ。
中国《ちゅうごく》、それとも朝鮮《ちょうせん》の神か。ヴォバンに倒された嵐の神々なのだろう。彼らが所有していたはずの風雨《ふうう》雷霆《らいてい》を支配する権能は、いまやこの老人のものなのだ。
「暇《ひま》つぶしとしては、なかなか刺激的だったぞ。サルバトーレと引き分けたという話にも納得がいった。あと二年もあれば、ひとかどの戦士になったかもしれぬな」
また烈風が吹く。
護堂を守るように立ちはだかったエリカが、吹き飛ばされた。飛翔《ひしょう》し、ヴォバンとの距離を一気に詰めようとしたリリアナも、同じ目に遭った。
次は雷鳴。轟音《ごうおん》が響き、一瞬遅れて稲妻《いなずま》の光が天より降る。
あらゆる呪力をはねのける、カンピオーネの特性。護堂はこれに賭けた。
――我は最強にして、全ての勝利を掴《つか》む者なり。全ての敵と、全ての敵意を挫《くじ》く者なり。ウルスラグナの聖句を唱えて、全身の呪力を活性化させる。
これが功を奏したのか、護堂の頭上に落ちるはずだった稲妻は脇にそれた。
アスファルトが焦《こ》げる異臭。
雨粒を蒸発させる雷霆の高熱。……このままではやられる。
「ふむ、しぶとい。先刻から気になっていたが、小僧、貴様は昔の私にすこし似ておるよ。魔術など何も知らぬ身で『王』の権能を手に入れ、いかなる魔術師も修得できない力を闘志と智慧《ちえ》で使いこなす。それは私がかつて通った道だ」
また稲妻。もう一度、またも稲妻。
天より落ちる雷神の矛《ほこ》は、かろうじて直撃しなかった。だが、体が熱い。結構な火傷《やけど》を負っているのかもしれない。
今度は突風で体を叩かれた。綺麗に吹き飛ばされた。
――参った。
護堂は無力感に足を引っぱられながら、それでもヴォバンをにらみつけた。
たとえ五体が揃っていたとしても、風や稲妻など避けようもない。もともと絶望的な戦力差があったのだ。それでも疲れ切った体に鞭《むち》打って、立ち上がろうとあがく。
膝《ひざ》が震えて上手《うま》くいかない。このままではなぶり殺しだと、護堂は舌打ちした。
「護堂さん!」
「護堂!」
「立ちなさい、草薙護堂! ここまで戦ったのです、最後まで根性を見せなさい!」
…………! …………!
声が聞こえる。祐理、エリカ、リリアナ、みんなまだ無事のようだ。あとは誰だ?
…………! …………! …………!
やはり聞こえる。何者かが、大勢の者たちが遠くから呼ぶ声。
一〇人、二〇人、いやもっと多いか。こんなにたくさんの人たちが、どこにいたのだ? よく聞こえない。だが、立って戦ってくれと懇願《こんがん》されているような気がする。
…………! …………! …………! …………!
声はやまない。群衆の声。力を求める声。救済を求める声。護堂は顔を上げて、周囲を見渡した。その瞬間に、理解した。
力の存在を確信する。自らが得た、新たな化身の性質を把握《はあく》する。
この全能感。カンピオーネとして新たな段階《ステージ》に到達するたびに駆け抜ける、甘味で危険な感覚。負けてたまるかと、そのたびに思う。
こんな怪しい力にのめり込んでたまるかと、闘争心に火がつく。
「――義なる者たちの守護者を、我は招き奉《たてまつ》る。義なる者たちの守護者を、我は讃《たた》え、願い奉る。天を支え、大地を広げる者よ。勝利を与え、恩寵《おんちょう》を与える者たちよ。義なる我に、正しき路と光明を示し給え!」
闘志をバネにして立ち上がり、言霊を発す。
新たな化身――『戦士』に変わるウルスラグナ第九の化身『山羊《やぎ》』へと変わる。
その瞬間に、ヴォバンが稲妻を放った。
天より降る閃光。だが護堂は、それを受け止めた[#「受け止めた」に傍点]。
手のひらをかざし、ボールでも捕るようにしてつかみ取ってしまう。手のなかで光が弾け、熱がうねり、強大なエネルギーが解放されたがって身悶《みもだ》えしている。
雷を支配するのが自分だけだと思うな!
ついに反撃できる喜びで口元を緩《ゆる》ませながら、護堂は雷を投げ返した[#「投げ返した」に傍点]。
「――何?」
さすがに向こうも風雨雷霆の使役者。
老王を直撃するはずの稲妻は、轟音と共に彼の脇《わき》へと逸《そ》れ、駆け抜けていった。
「それも貴様の力か、小僧! まだ戦う力を残しておったとはな……!」
闘争の喜悦《きえつ》で、ヴォバンの表情が輝きを放つ。
護堂は無言でうなずいた。
これは、自分だけの器量では使うことのできない力だ。今も護堂に戦え、倒せと願う人々の想いがなくては目覚めることのない力だった。
――あの男を倒せという意志。
――あの老人を止めろという願い。あの魔王を封じてくれという祈り。
大勢の人々が願い、請《こ》い、念じ、祈る――想いの力、心の力がこの場に集まり、竜巻のように渦を巻いている。今の護堂には、それがはっきりと理解できた。
声が聞こえる。
この場に集まった迷える魂《たましい》の声。
ヴォバンによって殺され、今は『死せる従僕』として彼に付き従っている悲運の人々が発する怒りと嘆きと怨嗟《えんさ》の声が、護堂にはしっかりと聞こえていた。
それだけではない。
『剣』でオシリスの支配力を断ち切られ、土へと還《かえ》った従僕たちの魂も叫んでいる。
このあと彼らが何処《どこ》へ往《ゆ》くのかは知らない。
天国・地獄・冥界・浄土・救済の館《やかた》・約束の地……それぞれの宗教と文化に応じた落ち着き先があるのだろう、きっと。だが今は、かつての仇敵《きゅうてき》であり、長く自分たちを奴隷《どれい》としていた老王の末路を見届けようと、最後の執念を燃やしている。
そして、感じられるのは死者の想いだけではなかった。
――激しい雷雨と暴風を憂《うれ》える心。
――さきほどから鳴りやまない、恐ろしい雷の轟音におびえる心。
――窓から一瞬だけ見えた巨大な影……怪獣じみた犬の姿に、自分の正気を疑っている心。
――この台風のなか、妙な格好をした集団が暴れている。それに呆れる心。
この近隣に集《つど》う生者の想いも、はっきりと感じられる。
やっぱり天気と怪しい気配のせいで外に出てこないだけで、人が結構いるのだなァと護堂は心配になってきた。なるべく被害を小さくしなくては。
さらに護堂は、渦巻く念のなかから近しい人たちの想《おも》いを感じ取った。
――草薙護堂の身を案じ、その生還を一途《いちず》に祈るやさしい少女の心。
――草薙護堂の勝利を願い、そのために武勇の全てを懸《か》けんとする気高《けだか》い少女の心。
祐理とエリカの心にふれて、力が際限なく湧き出してくる。カンピオーネの肉体に、新たな息吹《いぶき》が吹き込まれる。ここで負けたら、彼女たちに顔向けできない!
「俺に力を! ヴォバンと戦うための力を貸してくれ!」
護堂は叫び、天に手をかざした。
都合のいいことに、上空にはヴォバンが呼び招いた雷雲が厚く層を重ねている。いくらでも武器[#「武器」に傍点]を調達できる!
雷の轟音。天より稲光が次々と降る。
ウルスラグナ第九の化身『山羊』。この化身の能力は、群衆の心の声を聞き、雷を武器として操ること。
護堂の眼前で、空から招いた稲妻の束が炸裂《さくれつ》の瞬間に備え、火花を放っている。
大地に落ちるはずの雷が空中にとどまり、とぐろを巻いている。
この熱と閃光のかたまりを、一気に解き放つ。
押し寄せる濁流《だくりゅう》めいた雷の波濤《はとう》に、老カンピオーネは自身の権能を行使。ほとばしり、爆裂《ばくれつ》する閃光を介して、ふたりの『王』が互いの支配力を競い合う。
雷で老人を押し流したい護堂。それをはね除けたいヴォバン。
結果は引き分け。
いや、やや護堂が優勢。駆け抜ける雷撃はヴォバンを呑み込んだ。
だが、老人の肉体はわずかに焼けこげた程度でこれに耐えた。骨まで焼き尽くすはずの雷光を、どうにかぎりぎりのところで直撃させなかったのだ。
「……避雷針《ひらいしん》みたいな真似をするじいさんだな」
ぼそりとつぶやく護堂。その瞬間に反撃が来た。
雨粒まじりの旋風がうねり、小さな竜巻となって護堂を呑み込みにかかったのだ。
「我は言霊の技を以《もっ》て、勝利の聖句を謡う!」
ウルスラグナの聖句で呪力を高める。
ヴォバンの送り込んだ竜巻の猛威《もうい》を凌《しの》ぐべく、この呪力を燃やす。これまでの護堂だったら、同じことをしても天高く巻き上げられ、大地に叩き落とされただろう。
だが今回は、この竜巻を凌いだ。
ヴォバンが稲妻を防いだように、護堂も風に呑み込まれながら、体を持っていかれるのを堪《こら》えた。足が数十センチほど浮き上がる程度で耐えてみせた。
遠くから放たれた術や権能を、呪力で逸らす。
今までも不器用にやっていたことだが、『山羊』の化身になったせいなのか。前よりもすばやく、そして器用にこなせるようになっていた。
「貴様……それは魔術師の技だぞ。そんな芸にいきなり目覚めるとは胡乱《うろん》なやつだ。貴様の権能には節操というものがなくていかんな」
「あんたにだけは、それを言われたくないぞ!」
不愉快そうに言うヴォバンへ、護堂も文句を返す。
共に互いを討つのはたやすくないと悟りながら、ふたりの王は同時に稲妻を放った。
灼熱《しゃくねつ》の雷撃戦。熾烈《しれつ》で不毛な撃ち合いの始まりだった。
「稲妻《いなずま》を操る力ですか……。草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》氏の権能《けんのう》はたしか、ウルスラグナ一〇の化身《けしん》に準じた能力を持つのでしたね? あれは何の化身なんでしょうねェ?」
「あ、甘粕《あまかす》さん!? いらっしゃったのですか?」
死人たちも動きを止め、護堂とヴォバンの一騎討ちとなった対決の場。
唐突《とうとつ》に姿を現した正史《せいし》編纂《へんさん》委員に訊《たず》ねられ、万里谷《まりや》祐理《ゆり》は驚いた。
「ええ。実は最初から全部見ていました。……あれ、グリニッジのレポートには書かれていなかった力ですよね?」
「そうでしょうね。わたしも初めて見る――多分、ついさっき目覚めたばかりの化身よ」
と答えたのは、エリカだった。リリアナもすぐそばにいる。
彼女たちは危険すぎる『王』たちの戦いから距離を取り、遠巻きに見守っていたのだ。
護堂とヴォバンは雷撃を激しく撃ち合っている。
雷以外にも雨と暴風を操るヴォバンの方が武器の数は多いが、それだけだ。向けられる攻撃をどれも護堂が巧《たく》みに防ぐので、武器の多さが効果的にならない。
逆に護堂が放つ雷撃も、百戦|錬磨《れんま》のヴォバンには全て受け流されてしまう。
火傷《やけど》や打ち身を負いはするが、共に致命傷《ちめいしょう》を与えるには至らない。大砲を撃ち合っている割に、不毛な消耗戦《しょうもうせん》であった。
「ということは『少年』か『山羊』のどちらかのはず。雷を操るのだから――」
「だったら『山羊』の方だろう。何となく、そんな気がする」
驚くべきことに、リリアナが決めつけた。
当てずっぽうらしいのに自信ありげで、そこが祐理には印象的だった。
甘粕やエリカのように知性で解釈するのではなく、神力を直観で把握《はあく》している。エリカの仲間らしいが、おそらく彼女は祐理の同類――巫女《みこ》の資質を持つ魔女なのだろう。
「その方のおっしゃる通りでしょう。あれは『山羊』の化身……人々の心を束ね、雷を操る祭司の能力を持つお姿です」
あれがどういう性質の化身なのか。
護堂が新たな力に目覚めた瞬間、祐理は霊感を得て即座に理解した。その場に居合わせる群衆が彼の戦いに助力したいと願ったときのみ、『山羊』の化身は行使できる。
群衆――生者だけではない。
死者の遺《のこ》した想《おも》いをも汲《く》み取り、力へ変える。今の護堂に雷の神力を与えているのは、『死せる従僕《じゅうぼく》』たちの怒りと憎悪、嘆《なげ》きと悲しみだ。
これはおそらく『戦士』『白馬』『猪《いのしし》』に匹敵《ひってき》する強大な化身のはずだった。
角《つの》を持つ『山羊』は、強大な呪力の象徴《しょうちょう》となる獣《けもの》。その神力の化身が最強の呪術師《じゅじゅつし》・魔術師をも超える呪力を持つのは不思議ではない。
――古来、『角』は特殊な呪力を示すシンボルだった。
原始宗教の神官《シャーマン》や王は、角をつけた帽子や兜《かぶと》をかぶって宗教的儀式を行う。要は、人ならざる力を所有する証《あかし》だったのだ。
鹿や牛、そして山羊。
聖獣として崇拝《すうはい》される獣の多くが角を持つのは、そうした古代信仰の名残《なごり》である。
「そういえば、インド・ヨーロッパ語系の騎馬民族は、伝承のなかで山羊をしばしば天かける稲妻《いなずま》にたとえていますな。彼らが生み出した最も高名な天空神ゼウスも、『山羊』と縁の深い神だ。太陽を運ぶ『馬』の神話と共に、雷となる『山羊』は印欧語族《いんおうごぞく》が大陸各地に広めた聖獣です。……なるほど、それであの力ですか」
あいかわらず甘粕が、どこかうれしそうにウンチク話を披露する。
そして不意に、興味深げに訊いてきた。
「ところで、草薙護堂氏の権能には使用するための条件があるんですよね? 今回は、何が引き金となって『山羊』を使えるようになったのですか、祐理さん?」
「それは――」
思わず祐理が答えかけたときだった。
悪寒《おかん》を感じ、口ごもる。これは何かと戸惑い、すぐに理解した。甘粕の背後でエリカが、こちらを注視している。この視線が祐理の霊感に警告を与えていたのだ。
険しいわけではない。冷たいわけでもない。
だが、ひどく厳格で、容赦《ようしゃ》のない意志を感じる。ここで祐理は気づいた。一〇の化身を操るための条件は、草薙護堂にとっては最重要情報なのだ。
これを熟知していれば、彼を殺《あや》めることも難しくはない。
甘粕は当然、承知の上で訊いているはずだ。そして、余計なことを言えば口を封じると、エリカが殺気と共に目を光らせるはずだ!
「……いえ。それは私にもわかりかねます。申し訳ありません」
エリカが恐ろしいとは思わなかった。
代わりに彼女の懸念《けねん》はもっともだと納得してしまい、祐理は偽《いつわ》りを口にした。
草薙護堂はまだ、直接的な暴力以外の悪意から自分の身を守ることに長《た》けていない。そんな彼を守るためにも、自分たちがしっかりしなければ。そう思ったのだ。
祐理の振る舞いに満足したのだろう。後ろにいるエリカが、あの目つきをやめた。
「それでは仕方ありませんね。気になさらないで下さい……ん?」
残念そうに言いかけた甘粕が、途中で怪訝《けげん》そうに目を細めた。
「どうしました、甘粕さん?」
「いえ、何だか急に体がだるくなってきたような……って、祐理さんこそ大丈夫ですか!?」
いきなりだった。急に膝《ひざ》から力が抜けて、祐理は倒れ込みそうになってしまった。
なんとか震える足で踏みこたえる。
体がだるくて仕方がない。全身の力が抜けていくようで、立っているだけで一苦労だ。
――目を凝《こ》らしてみれば、甘粕も似たような状態だった。夜目にも明らかなほど顔色が悪く、ひどくつらそうに見える。
ただエリカとリリアナには変化がない。だるそうな自分たちを、不思議そうに眺めている。
ここで祐理は直感した。自分たち――否、おそらくこの一帯にいる全ての人々の生命力が、一箇所にかき集められている。さきほどから雷撃を放って戦う草薙護堂によって。
これも『山羊』が持つ力。いや、副作用。
この化身は群衆の意志だけではなく、生命力も吸い取って護堂の力へ変えているのだ! エリカやリリアナが無事なのは、おそらく元の体力が桁《けた》ちがいだからだろう。
今はまだいい。だが、いずれ命に関《かか》わる事態になるかもしれない……。
「……まあ、あれだけのパワーを発揮する化身ですからねェ。相応の代償も必要になるということですか。いやはや、参りましたな」
「毎度のことだけど、ほんとに使いづらい力ばかりよね、護堂の権能は……」
祐理が事情を語ると、甘粕が珍しく本心から困ったような声音でコメントした。
隣でエリカも呆《あき》れている。
だが、ひとりリリアナだけが明るい表情だった。
「とはいえ、それだけの代償を要求できるのも『王』たる者の特権だ。草薙護堂、どうやらわたしが思っていたよりは器の大きな御方のようだな」
彼女の見つめる先では、護堂とヴォバンが激しい雷撃戦を繰り広げている。
呪力に対しては究極とも言える防御力を持つ『王』たちが、己の呪力を稲妻に変えて撃ち合っている。リリアナのような大騎士でも危険すぎて、そのなかには踏み込めない。
だから彼女やエリカも、こうして見守るしかないのだが――。
「あの方々の心に応えて、新たな権能と成す。……エリカに骨抜きにされている不甲斐《ふがい》なさは認めがたいが、ちゃんとマシなところもあるわけだ。すこしだけ、見直した」
不敵に微笑みながら言うリリアナ。
妖精じみた美貌を凜々《りり》しく彩る、騎士の笑顔だった。
祐理と同じく、巫女の資質を持つ彼女も気づいたのだ。あの『死せる従僕』たちの心に応えて、護堂が『山羊』の化身に目覚めたことに。
「エリカ! 今はまだ互角だが、わたしの見立てだと形勢はそのうち侯爵の方に傾いていくはずだ。そのときは、わたしとあなたで王をサポートする。覚悟はいいか?」
「誰に向かって言ってるの? それはわたしのセリフよ、リリィ?」
ふたりの騎士たちが、愛用の魔剣を手に言い合っている。
その瞬間、祐理は奇妙な感覚に襲われた。
――リリアナ・クラニチャール。東欧系らしい名前の少女。エリカと並び立つ姿が、ひどく自然に思える。紅と青。ひとりの王を守護する、双璧《そうへき》の大騎士。そんなイメージが頭のなかに勝手に浮かび上がってきたのだ。
祐理の視線に気づいたリリアナが、不思議そうに訊いてきた。
「どうした、万里谷祐理? わたしのことを思い出しでもしたか?」
「え? 私たち、以前にお会いしているのですか?」
「まあな。忘れているならいいが、前にちょっとした縁で顔を合わせているから、一応は顔見知りだ。――ああ、こんな話をしている場合じゃないな」
リリアナが険しい顔つきで戦場を見つめ直す。
彼女が予言した通り、徐々に戦いの趨勢《すうせい》が変わりつつあった。ヴォバン有利に――。
力量の大きく異なる者同士が戦う場合でも、戦況が膠着《こうちゃく》するケースはある。
攻撃側よりも防御側が有利な条件であれば、しばしば起こりうることだ。今の護堂とヴォバンがまさにそうだった。
一撃必殺のはずの攻撃が、共に機能しない。それゆえの膠着だった。
だが戦いが長引けば、徐々に強者の側に形勢は傾いていく。ヴォバンの顔つきから、護堂は己《おのれ》の不利を何となく察していた。
あの老人は、ポーカーフェイスとは程遠い。
強大な神力を力の限り行使するとき、ヴォバンは知的な老紳士の仮面をかなぐり捨てて、激情のままに猛り、大笑し、咆哮《ほうこう》する。
銀の大巨狼に変化したときなどが、まさにそうだった。
生まれついてのファイター。老いて尚《なお》、野性を失わない獣《けもの》のような男。それがデヤンスタール・ヴォバンの本質だと、護堂はすでに見極めていた。
そんな男が、さっきから冷静な顔で、手ぬるい雷撃ばかり放っている。
だが上空には、すさまじく厚い雷雲が集結しつつある。護堂が呼んだものではない。ヴォバンが嵐の権能を最大限に高めて、招来しているのだ。
護堂とぬるい撃ち合いに興《きょう》じながら、彼にはまだそんな余力があった。
最強の紫電《しでん》、渾身《こんしん》の雷撃を解き放つための下準備。
護堂にはそんな真似をする余裕はない。膠着した撃ち合いで手一杯だった。
――これが地力の差。
三世紀近くをカンピオーネとして戦い抜いてきた老王と、駆け出しの未熟者との、埋めることのできない実力差。
「小僧、今こそ貴様に感謝しよう。よくここまで戦ってくれた。我が倦怠《けんたい》と無聊《ぶりょう》の日々を、よく慰《なぐさ》めてくれた。あとわずかではあるが、この一時を堪能《たんのう》させてもらうぞ」
ヴォバンが微笑する。
大げさな言い回しで、己の勝利を宣言している。
ヤツの言う通りだ。攻撃の手段など他にいくらでもあるだろうに、今までと同じ雷撃でとどめを刺そうとする。雷使いとしても自分が勝っていると主張したいのだろう。
焦《あせ》りが護堂の心を蝕《むしば》む。
このままいけば、自分の敗北は決定的。
ヴォバンほどの魔王が全力で撃つ稲妻を浴びて、無事でいる自信は全くない。だが、他にあの老人に対抗できる武器は――。
いつしか、ふたりは雷の撃ち合いをやめていた。
ヴォバンは最強の一撃を放つ瞬間に備えて。護堂は攻撃を続けても無意味だと悟って。
「護堂。わたしのこと、忘れてないでしょうね。あなたの騎士であるエリカ・ブランデッリにも活躍の場を与えなさい。わたしはあなたの剣、あなたの楯《たて》。どこまでも共に戦うわ」
悩む護堂の右隣に、紅と黒の衣をまとった騎士が現れる。
クオレ・ディ・レオーネを手に、エリカ・ブランデッリが並び立つ。
「草薙護堂。あなたと人生を共にする気はございませんが、今このときはわたしも御身の騎士。この戦いが終わるまで、お付き合いいたしましょう」
左隣に、青と黒の衣をまとった騎士が現れる。
イル・マエストロを手に、リリアナ・クラニチャールが並び立つ。
「ふたりとも危ないだろ! さがっててくれよ!」
護堂は驚き、ふたりを怒鳴りつけた。だが反応は、ひどく冷淡だった。
「お言葉ですが、あなたの――カンピオーネの呪力を助ける形でエリカとわたしが結界を作れば、侯爵の全力にも耐えきれる可能性はあります。今は賭けに出るべき時です」
「駄目かもしれないけど、試す価値はあるってことね」
リリアナもエリカも、退く気配を見せない。ありがたい気遣《きづか》いだが、無謀すぎる。
護堂がさらに大声を張り上げようとした瞬間だった。
……! ……! ……! ……! ……! 声が聞こえる。
隣に立つリリアナとも目が合う。彼女は無言でうなずきかけてきた。
「リリィは祐理といっしょなの。見えないはずのものを見、聞こえないはずのものを聞く、巫女《みこ》の資質を持つ本物の魔女よ。この子がわずかでも勝算ありって言う以上、わたしはそれに賭けたいと思う。――護堂、わたしたちもいっしょに戦わせて」
エリカが真摯《しんし》に訴える。
そういうことかと、護堂は納得した。自分は独りではない。独りだけの力では、到底あの老人にはかなわない。ならば――!
「……これでもし失敗したら、俺はふたりの代わりに地獄行き決定だ」
「バカなこと言わないで。そのときはいっしょに往《ゆ》くに決まってるでしょう? わたしには、その方がうれしいわ」
エリカともうなずき合う。彼女の微笑みがやさしい。
考えてみれば、この娘には迷惑をかけっぱなしだ。こちらもさんざん迷惑をかけられているが、結局はお互い様になってしまう。
やはり、自分とエリカは良いコンビなのかもしれない。
漠然《ばくぜん》と思っていたことを再確認した護堂は、改めてヴォバンをにらみつけた。
老魔王は天に腕をかざし、振り下ろすところだった。
また、雨が降り始める。
それと同時に来た。雷雲よりほとばしり、空を裂き、地上へと落ちる極大の閃光。今日見たなかでも、最大強度の雷であることは疑いようのない一撃。
――我は最強にして最多の勝利を掴《つか》む者。人と悪魔の敵意を挫《くじ》く者なり!
護堂はウルスラグナの神力を最大限に燃やし、頭上に迫る雷を逸《そ》らさせようと念じる。
そこにエリカが、そしてリリアナが結界の魔術で見えざる防御陣を敷き、この念を助けようと呪力を合わせる。――だが、足りない。
満を持《じ》して放たれた最強の雷撃を押し返すには、三人の力ではまだ足りない。
勝利を確信し、老カンピオーネが哄笑《こうしょう》する。
そして護堂も強く願う。――我に力を。俺に力を貸してくれ!
応。
答えを聞き、護堂はうなずいた。
ひとりだけでもない。三人だけでもない。この場に集まったヴォバンの敵全てが、自分に力を貸してくれるのだ。
これで負けてたまるものか!
――土となり、塵《ちり》に還《かえ》りながらも、この場に留まっていた『死せる従僕』たちの魂《たましい》。
彼らがふたたび、闇から湧《わ》き出てくる。元の骸《むくろ》の姿に立ち戻り、地上へと舞い戻ってくる。
「――何! 従僕ども、だと!?」
ヴォバンが驚愕《きょうがく》で目を瞠《みは》る。
だが、もう遅い。彼らの存在を甘く見たツケだ。
老王への怒りと憎悪を糧《かて》にふたたび生ける死人となった元従僕たちは、数十名はいる。
その大半が、生前は魔術師だった。なかにはエリカたちに匹敵するほどの使い手もいる。そんな彼らも、護堂に呪力を合わせてくれるのだ。
ヴォバンの雷を拒む、護堂の呪力。それが爆発的にふくれあがる!
――ついに、極大の稲妻が逸れた。
護堂とエリカ、リリアナを灼《や》き尽くすはずだった雷帝の怒りは、大きく標的を外し、間近にあった巨大な鉄塔へと流れ込む!
ゴォォォォオオオオオオオオオオオンンンンッッ!!
この日、いちばんの雷鳴。
紫電に撃たれた東京《とうきょう》タワーが、程なく炎上を始める。
その焔《ほのお》が風雨のなか、地上を照らし出す。橙《だいだい》の明かりの下で、デヤンスタール・ヴォバンは憤怒《ふんぬ》で老いた顔を歪《ゆが》ませていた。
「――稲妻よ」
天に向けて、護堂は言霊をささやく。
「稲妻よ、稲妻よ! 我は百の打撃を以《もっ》て千を、千の打撃を以て万を、万の打撃を以て幾万を討《う》つ者なり。義によりて立つ我のために、今こそ光り輝き、助力せよ!」
雷雲が唸《うな》りをもって、呼びかけに応えた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ――。
不気味な轟音が天空より降ってくる。最大級の雷電が解き放たれる寸前の、天を震わせ地を揺るがせる神界の音が響き渡る。
本来であれば、ここまでの雷撃を操る力は護堂にはまだない。
だが、ヴォバンが集めた雷雲があれば、そして彼の気が緩《ゆる》んだ一瞬の隙を突くことができれば、話はべつだ。
老王が放った一撃をどうにか凌《しの》いだ直後、護堂は全ての呪力を振り絞った。
上空にわだかまる雷雲の支配権を奪取し、そして掌握するために言霊を吐く。『山羊』の化身が持つ全能力を傾ける。
(この瞬間、東京タワーから半径一キロ以内にいる人々はすくなからぬ生命力を奪われ、貧血に似た昏倒《こんとう》を起こしたのだが、それを護堂が知るのはもっと先の話である)
全力の攻撃を仕掛けたヴォバンが、一瞬とはいえ集中力を落としたからこそ可能だった。
「くっ、小僧め! 盗人のような真似をする!」
奪われた雷雲の支配権を取り返すべく、ヴォバンも上空に意識を向ける。
だが、もう遅い。その前に護堂が攻撃の意思を発すれば、もう間に合わない――。
「人と悪魔――全ての敵と敵意を打ち砕く。それこそ我なり!」
強大な黄金の稲光が、再び地上へと降る。
それは、数十秒前にヴォバンが落とした雷霆《らいてい》をわずかに上回る烈《はげ》しさであった。
極大の稲妻《いなずま》が生んだ閃光《せんこう》は消え、轟音《ごうおん》も途絶えた。
老カンピオーネの周囲を覆《おお》っていた白煙も、ついに霧散《むさん》した。
護堂が渾身《こんしん》の力で叩《たた》きつけた雷撃でも、ヴォバンに打ち勝つことはできなかった。やはり、三世紀のキャリアの差は伊達《だて》ではない。
――だが、疲弊《ひへい》の極《きわ》みにまで追い込むことはできた。
あの稲妻を受けて尚、老人はギリギリのところで防いでいた。『疾風怒濤《シュトルム・ウント・ドランク》』――風雨《ふうう》雷霆《らいてい》を支配する権能《けんのう》の全力を傾けて、押し寄せる雷を我が身から逸《そ》らさせようとしていたのだ。
そこへエリカとリリアナが、それぞれの魔剣を投槍《とうそう》のごとく撃ち込んだ。
老王はこの凶刃《きょうじん》を飛びのいてかわし、そして集中を乱した。津波のように襲い来る雷撃に呑《の》み込まれ、あえなく灼《や》き尽くされてしまった。
しかし、そのあと。
さきほどまでヴォバンが立っていた場所にいつのまにか積もっていた砂――いや、塵《ちり》か――が巻き上がり、いきなり人の形を作り、知的な風貌《ふうぼう》を持つ老侯爵《ろうこうしゃく》の姿となったのだ。
これがこいつの奥の手か。
自分が『雄羊』で死から復活するように、彼もこの権能で避けられない死神の手を回避するのだろう。護堂は気を引き締めた。
「これから始まるのは第三ラウンドということでよいか、小僧?」
「そっちがお望みなら、一二ラウンドの最後まで付き合ってやるよ」
今の復活劇は、ヴォバンにとってもかなりの負担だったらしい。
激しく息を荒らげている。呪力も明らかに大きく目減りしている。それを直感した護堂は、疲れた体に鞭打《むちう》って稲妻を呼ぼうとした。
今なら、互角以上の撃ち合いができる。勝負はまだわからない!
対峙《たいじ》するカンピオーネふたりの背後で、東京タワーが豪快に燃えさかっていた。
さっき護堂が繰り出した雷撃はヴォバンだけでなく、この鉄塔にまでとどめを刺した。全高三〇〇メートル余の鉄筋建築が、たいまつか何かのように大きく炎上している。
波乱の夜はまだ終わっていないのだ。どこまで被害が増すことだろう?
護堂が気を引き締めた、その瞬間だった。
「……いいかげんになさいませ! 侯爵さま、もし御身が戦いをおやめにならないのであれば、私もろとも草薙護堂とこの方々を吹き飛ばせばよいでしょう!」
にらみ合う『王』たちに、祐理が怒鳴りつけた。
なぜか彼女も衰弱《すいじゃく》しているらしい。エリカに抱えられるようにして、雨で濡れそぼった媛巫女《ひめみこ》はここまでやってきた。
「私がいなくなれば、御身が戦い続ける理由もなくなります。どうぞ、ご決断を」
何てことを言うのだ。
凜《りん》とした表情でささやく祐理をたしなめようと、護堂は口を開きかけた。だが、その前にヴォバンがフンと吐き捨てた。
「本気かね、巫女よ。ここで私に蹴散《けち》らされてもかまわないと申すのか?」
「はい。私のために街の方々が危険にさらされるのであれば、致し方ないことでしょう」
凜然《りんぜん》と言う祐理の顔を見て、ヴォバンは軽く舌打ちした。
「ちっ。狩りの愉《たの》しみも知らぬ小娘が、興《きょう》のないことを言う。……いいだろう、そこまで申すのであれば、デヤンスタール・ヴォバンの名にかけて宣言してやる」
ヴォバンの双眸《そうぼう》――虎《とら》の瞳《ひとみ》に似た邪眼《じゃがん》が燃えた。
抑《おさ》えきれない憤怒《ふんぬ》と、たぎる激情のためだ。いよいよ戦闘再開かと、護堂は身がまえた。
「小僧! 草薙護堂よ、貴様に勝利をくれてやる! この勝負、貴様の勝ちだ!」
実に忌々《いまいま》しそうに宣告されて、護堂は呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「俺の勝ち、だって?」
「この狩りが始まる前に、私は言った。貴様を殺し、娘を奪うのが狩りのルールだと! だが、私は貴様の力を見誤った。ここまで追い込まれ、疲弊《ひへい》してしまった。……このまま貴様との戦いを続ければ、その娘の安全を確保する余裕はなくなるだろう。だから、貴様の勝ちなのだ」
苛立《いらだ》たしげにヴォバンが吐き捨てる。
そういえば、そんなことも言っていた。この老人には、今までの死闘もゲームの一種だったのかと、むしろ呆《あき》れる護堂だった。
「自ら決めたルールを守れないのであれば、それは私の敗北だ! 貴様の力を見くびった、私の甘さが呼び込んだ敗北なのだ! ……私も耄碌《もうろく》したものだ。目の前の小僧がどれほど曲者《くせもの》か、初見で見抜くこともできぬとはな」
緑に燃えるカンピオーネの邪眼に見据《みす》えられ、護堂も不遜《ふそん》ににらみ返した。
このまま戦い続けても負ける気はしない。だが、この辺りで終わりにするというのなら、べつにかまわない。たしかにそろそろ潮時《しおどき》なのだ。
「次に相まみえるときこそ、貴様を全力で狩り捕ってやろう。そのときに備えて、腕を磨いておけ。修羅場《しゅらば》をくぐり抜けておけ。今のままの貴様でかなうほど、本気のヴォバンは甘い敵ではないぞ」
護堂たちに背を向けて、老カンピオーネは歩き出す。
焔《ほのお》に照らされて橙《だいだい》に染まる路傍《ろぼう》から、風雨渦巻く闇の奥へと突き進んでいく。
「覚えておくがいい。我ら『王』同士は互いを無視し合うか、不戦の盟約を結ぶか、終生の敵と決めて戦い抜くか――いずれかだ。今より貴様は、我が敵のひとりとなる!」
それがヴォバンの遺《のこ》した言葉だった。
彼の姿が見えなくなると、ふたたび形を取った『死せる従僕』たちもパラパラと塵《ちり》となり、今度こそ永劫《えいごう》の眠りへと旅立っていく。
願わくば、彼らの眠りが安らかなものになれば良いのだが――。
そう祈りながら、護堂はへたりこんだ。さすがに疲れていたのだ。
未来のことはわからないが、今日はどうにか生き延びた。だが、これで全てが終わったわけではない。
「あの塔《とう》、派手に燃えてるわねー。滅多《めった》に見られない絶景よね」
「あいかわらず悪魔みたいなことを言うな。あなたらしくて、実に嘆かわしい」
「鉄筋だし、雨も降ってるし、そんなに長くは燃えないと思うけど……。ああ、またやっちまった……」
頭を抱える護堂の隣で、エリカとリリアナもへたりこんでいる。
限界なのは、彼女たちも同様だったようだ。三人で赤と白の東京タワーが派手に炎上する様を、ぼんやりと眺めてしまった。
その高さ、三三二・六メートル。
電波塔として建造され、その後はむしろ観光施設として有名になった東京のシンボル。竣工から五〇年もの歳月が経過した、都民にはなじみ深いランドマークであった。
「そういえば、万里谷も大丈夫か?……どうしたんだよ、すごく疲れているみたいだけど」
やはりへたりこんでいた祐理に、護堂は訊《たず》ねた。
精神的にはともかく、肉体的にはそれほど重労働をしていなかったよなと不思議に思ったのだ。すると、三人の少女たちは一斉《いっせい》にため息をついた。
何故《なぜ》だろう。ひどく呆れられている、そんな気がする。
「護堂、あなた自分が何をしていたのか、気づいていなかったのね?」
エリカが言い、そして祐理やリリアナが『山羊』の化身が与える恐るべき副作用について口々に説明してくれた。
自分が近隣一帯の生命力まで吸い取っていたと聞き、護堂の背を冷や汗が伝う。
「だ、誰か命に別状があったりはするかな? なんてヤバイ化身なんだ……!」
「おそらく、そこまでの事態にはなっていないと思われます。体力のない私でも、貧血で倒れる程度で済みましたので。……一応ご報告しておきますが、護堂さんが最後の稲妻を撃ったとき、私、意識が遠くなって倒れてしまいました」
「だだだ、大丈夫か、万里谷? 他の人たちも無事だといいんだけど――」
炎上する東京タワーの明かりで橙に照らされる近隣を、護堂はせわしなく見回した。
……よく考えてみれば、あのタワーにいる人たちこそ無事なのだろうか。夜間といえども、無人ということはなさそうに思える。
「侯爵が嵐を呼んだおかげというのも何ですが、暴風と雷の危険を避けるため一時間以上も前に東京タワー内部の方々は避難を済まされていたそうです。さきほど甘粕さんが確認して下さいました。不幸中の幸いと言いましょうか……」
祐理が教えてくれたので、護堂はどうにか良心の呵責《かしゃく》をこらえることができた。だがそれでも、自分が引き起こした惨状を知り、暗澹《あんたん》たる気分になってきた。
毎回そうだが、今回も本当にシャレにならない。
落ち込む護堂を見て、祐理がため息まじりに寄り添ってきた。
「護堂さん、今回の件はあなただけの責任ではありません。あなたと私のいわば共犯なのですから、そこまで落ち込まないで下さい。問題になるのなら、私もいっしょに裁きを受けます」
「万里谷…………」
「どこまでもお供すると申し上げたじゃないですか。もうお忘れですか?」
まっすぐに護堂の顔を見つめる祐理のまなざしは、どんな女神様よりもやさしかった。そんな彼女の瞳に引き込まれ、思わず見つめ合ってしまった、そんなとき。
コホン。
後ろで小さな咳払《せきばら》いが聞こえたので、護堂はあわてて振り向いた。
エリカだった。けほけほと小刻みに咳《せ》き込みながら、うつむいている。
「どうした!? 大丈夫なのか、やっぱり俺の力のせいなのか!?」
「そうなのかも……。ねえ護堂、こっちに来て。胸が苦しいの……」
珍しく弱々しい相棒の姿に平常心を失った護堂は、怪しむよりも先に駆け寄った。
……あとから考えれば、これがこの夜最大の失策だった。
「俺にできることは何かあるか? 今すぐ病院に行こう。しっかりしろ!」
雨で濡れたエリカの体は冷たく、ぐったりとしていた。
そんな彼女の背をさすってやりながら、護堂は華奢《きゃしゃ》な体を支えてやろうと密着した。その瞬間に攻撃が来た。
手練《しゅれん》の早技でエリカの両手が伸び、護堂の頬《ほお》を包み込む。
妖《あや》しい色香《いろか》さえ感じさせる濡れたまなざしで、上目遣《うわめづか》いに見上げてくる。
「草薙護堂――私見を言わせていただければ、万里谷祐理でさえ無事だったのです。野牛よりも頑丈な悪魔女が、本当に弱っていると思われたのですか? どうやら、あなたには警戒心が足りないようだ……」
リリアナが呆れたふうに論評している。
ごもっとも。エリカに捕らえられたまま、護堂はうなずいた。でも仕方ないじゃないか。激しい戦いのあとで気が抜けていたのだから……。
「な、なあエリカ、こんな悪ふざけはどうかと思うぞ! ふ、不謹慎《ふきんしん》じゃないか!」
「だって祐理と護堂ったら、すっかり雰囲気《ふんいき》が変わっているのだもの。不安になっちゃって、つい。……ねえ、一体ふたりきりで何をしていたの?」
心を蕩《とろ》かすような魔女の微笑で、エリカが問いかけてくる。
両手でやさしく、ひどくやさしく護堂の頬《ほお》やあご、首筋を撫《な》でさすっている。どことなく秘め事めいた、なまめかしい手つきだった。
だが下手《へた》な回答をすれば、この繊手《せんしゅ》は自分の首を一瞬でへし折るのではないか。
そんな理屈抜きの不安にかられて、護堂はたじろいだ。隣では祐理も、うしろめたそうにうつむいてしまっている。
「侯爵に使った『剣』をどうやって準備したのかも気になるしね。さっき電話でも訊いたけど、改めて教えてくれる? ねえ、いいわよね、それぐらい?」
エリカは護堂の耳元でささやいた。
しかも耳たぶに軽くキスをし、さらに唇にも。最初は軽く唇を合わせるだけだったのが、やがて唇で唇をなぞり、吸いつき、大胆に舌まで絡《から》めだし――。
「ふ、不潔な……」
そばにいるリリアナが頬を赤らめながら、つぶやいた。
そんなことを言うくせに興味|津々《しんしん》の体《てい》で目を逸らさないのは、いかがなものだろう。護堂は遺憾に思ったが、エリカにされるがままの自分に言う資格はない。
恋人を膝《ひざ》に乗せて、人目を気にせず仲むつまじくするバカップル。
今の自分たちはそうとしか形容できない状態なのだ。だが、むしろ護堂の心境は蛇《へび》ににらまれたカエルのものであった。
心を満たすのは畏怖《いふ》と恐怖。動けば即殺されそうな、そんな気がする。
いつもなら真っ先にお説教する祐理も無言。
顔を真っ赤にして何か言いたげなのだが、ずっと唇を噛んでいる。おそらく、彼女も同種のうしろめたさと恐怖に苛《さいな》まれているのだろう。
「いやー、みなさんお疲れ様でした。取りあえず、消火活動その他の後始末はわれわれにおまかせください。雨で体も冷えたでしょう? 今日のところはゆっくり休んで――って、どうかしたんですか? 雰囲気が変ですよ」
唐突に現れた甘粕《あまかす》が、のんきな声で呼びかけてきた。
それでも護堂と祐理は、無言で硬直したままだった。リリアナは不機嫌かつ興味深そうに事態を見守るままだった。
そしてエリカは、護堂の膝の上でわざとらしく甘えかかるばかりであった。
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終章
「ははは、そうかそうか。護堂《ごどう》があのじいさまを懲《こ》らしめてくれたか。そうか。こりゃめでたいね、ほんとに。実に喜ばしい話じゃないか、すばらしい!」
――イタリア、トスカーナ州。
ゴシック様式の建築美で知られる小都市シエナの郊外で、その『謁見《えっけん》』は行われていた。
初夏の緑に覆《おお》われた、なだらかな丘陵《きゅうりょう》が見渡す限り続いている。
おおむね美しい緑の野と言ってよいのだが、ところどころに土がむき出しになった荒れ地が散在する。南トスカーナ独特の風景だった。
そんな丘陵を流れる小川のほとりで、その『王』はノホホンと釣《つ》り竿《ざお》など握っていた。
「もしかしたら、勝つんじゃないかとは思っていたけどね。しまったな、いくらか賭《か》けておけばよかったよ。さすがは僕のライバル……永遠の好敵手だ!」
やや興奮気味につぶやきながら、のんびりと糸を垂れるのはやめない。
長身だが線の細い、金髪の美男子。
その鞭《むち》のようにしなやかな肉体を包むのは、ラフなシャツとスラックス。
川辺に腰を下ろす彼のそばには、幾重《いくえ》にも布を巻き付けた長い棒が置かれている。
――リリアナ・クラニチャールは知っている。この布の中身が鋼鉄を鍛《きた》えた『剣』である事実を。イタリアの誇る『王』サルバトーレ・ドニは、いかなるときでも剣を手放さない。
それが彼の矜恃《きょうじ》であり、自己主張であり、特権なのだ。
「勝ったと言っても、半ば痛み分けのようなものです。とても美しい勝利とは呼べない内容でしたが……」
「美しくなかろうがゴミ溜めから拾おうが、勝ちは勝ちさ」
リリアナの指摘に、ドニは片目をつぶってみせた。
こういう仕草のひとつひとつが絵になる。人なつっこく、茶目っ気にあふれた青年なのだ。
「そうそう。君のところのおじいさんと〈青銅黒十字《せいどうくろじゅうじ》〉には、僕から連絡を入れておくよ。僕のお気に入りの騎士をあのクソじじいに差し出すなんて、絶対に許さんって」
「お、お気に入り!? わたしが、卿《きょう》の、ですか!?」
リリアナは驚いて聞き返した。一体いつ、そうなったのだ!?
――エリカ・ブランデッリから忠告を受けたのは、日本から帰国する前である。ミラノに帰参する前に、一度ドニのもとへ顔を出した方がよい、と。
今回リリアナが取った行動に、自国の『王』のお墨付《すみつ》きをもらう。
魔術結社〈青銅黒十字〉の重鎮《じゅうちん》である祖父の手前、たしかにそれくらいの根回しはしておきたいところだった。
かくして、東京でふたりの『王』が対決した日から三日後。
ドニが本拠地とするシエナを、謁見と報告のためリリアナは訪れたのだが――。
「そういうふうにしておこうってだけだよ。この方が話がわかりやすくて、いいだろう? ――ま、本当は僕が女の子を気に入ることってまずないんだけどね。ウソも方便」
聞き捨てならないつぶやきが、『王』の口から洩《も》れている。
これは聞かなかったことにしよう。そう決意しながら、リリアナは頭《こうべ》を垂《た》れた。
「いま僕が夢中なのは、やっぱり護堂だしね。あの坊やがどれだけの速さで成長するか、本当に楽しみにしているんだ。あと二年。いや一年? 半年じゃさすがに無理かな? 彼がウルスラグナの権能《けんのう》を掌握《しょうあく》しきったときこそ、僕たちがふたたび戦うべきときだ。その日がいまから待ち遠しくてたまらないよ、本当に……!」
来たるべき祝福の日を待ち受けるように、剣のカンピオーネはつぶやいている。
リリアナは身震いした。
もしかすると、サルバトーレ・ドニが草薙護堂の盟友というのは誤りではないのか。デヤンスタール・ヴォバンを凌駕《りょうが》する熱さで再戦を望む、おそるべき大敵なのではないか。
そんな想《おも》いに駆られたのだ。
城楠《じょうなん》学院《がくいん》高等部、屋上。そして昼休み――。
ヴォバンとの対決から、すでに三日が過ぎていた。あの戦いでこさえた火傷《やけど》もどうにか治り、護堂たちは昼食に取りかかるところだった。
顔をそろえているのは、護堂とエリカ、祐理《ゆり》、そして静花《しずか》の四人である。
「なあ静花。中等部のおまえが高等部の校舎にしょっちゅう出入りするのは、やっぱりマズイ気がするんだけど。その辺り、どう思うよ?」
と、護堂は妹に問いかけた。
昼休みになると、静花は妙に不機嫌そうな顔で兄の教室までやってくるのだ。
ときには放課後にも訪ねてきて、いっしょに帰ろうとする。
おかげで『草薙《くさなぎ》の妹はブラコン』などという変なうわさが、クラスの男子の間でささやかれるようになってしまった。つねづね『俺、二次元に一〇八人の妹がいるんだ』と意味不明なことばかり言っている同級生の反町《そりまち》からは、「やっぱり義理か? 義理なのか!?」と、さらに意味不明な詰問までされてしまった。
それもこれも、静花の不審な行動のせいである。
「あのね、お兄ちゃん。あたしだって、したくてやってることじゃないの。でも、我が家のだらしない兄貴が怪しい行動を取らないように監視しなくちゃいけないから、仕方なくやってるの。勘違《かんちが》いしないでよね?」
とげとげしい口調で静花は言う。
妹よ、俺のどこがだらしなくて怪しい? そんな兄の反論は、フンと笑い飛ばされた。
「だらしなくない? 怪しくない? どの口がそんな戯言《ざれごと》を吐くのよ! いまのその状況――四日前と比べて、何なのよそれは!? 静花がビシッと指を突きつけた先には、彼女以外の三人がすわっている。
ビニールシートを敷いて、あぐらをかく護堂が中央。右にはエリカが足を崩して横座り。左には祐理が、端然《たんぜん》と正座――。三人いっしょに並んでいる格好だ。
「特に変なこともないと思うぞ?」
「ええ。どうしたのですか、静花さん? ちょっと変ですよ?」
「わたしは何が気になるのか、大体わかってはいるけどね。特に改める必要も感じないし、べつにいいんじゃない?」
護堂と祐理がそろって首をかしげる横で、エリカが肩をすくめている。
皆の反応が、怒りに火をつけたのか。妹は可愛《かわい》らしい顔をひきつらせて怒鳴り出した。
「じゃあ訊《き》くけど、何で万里谷さんがお兄ちゃんの隣に、すっごく自然にすわってんの!? ふたりも女の人を侍《はべ》らせて、何、その王様ポジション!? それにほら、何でお兄ちゃんのお茶を万里谷さんが注いでるの!? それくらい自分でやりなさいよ!」
護堂が手にしていた水筒のフタには、冷やした緑茶が入っていた。
それを妹の話を聞きながら飲み干すと、隣にすわる祐理が脇に置いてあった水筒をさりげなく取り上げ、自然な手つきでまた注いでくれる。
その光景を目《ま》の当《あ》たりにして、静花がさらに目をつり上げた。
――ちなみにこの水筒は、祐理が持参したものだ。茶道の心得がある彼女が淹《い》れたという冷茶は、ペットボトルのお茶よりも味に数段深みがあって、美味《うま》かった。
「万里谷さん! 結婚したばかりの新妻じゃあるまいし、そこまでしてやる必要はないと思います! こんなバカ兄貴には、出涸《でが》らしのお茶のセルフサービスで十分です!」
「に、新妻――私が護堂さんの!? そんな恥ずかしいことおっしゃらないで下さいっ」
部活の後輩にさとされて、祐理は真っ赤になって言い返した。
「ううっ、そっちに反応しますか。しかも、呼び方もさりげなく変わってるしッ」
こんなやりとりが日常になりつつある、昼食の風景だった。
この日の放課後、護堂はエリカに誘われてブランデッリ家を訪れた。
いや、誘われたのではない。
「護堂、今日はわたしの家に来てもらうから、そのつもりでいてね。夏休みの計画を立てなくちゃ。……もちろん、断らないわよね」
最後の授業が終わるなり、隣にすわるエリカから通達されたのだ。
……ヴォバンと対決した夜、護堂と祐理は『|紅き悪魔《ディアヴォロ・ロッソ》』の追及からどうにか逃れた。だが、その翌日の学校でふたりいっしょに捕まってしまい、じっくりと訊問《じんもん》された。
静花のように怒鳴るわけでも、すごむわけでもない。
しかしエリカは、凄腕《すごうで》の訊問官《じんもんかん》だった。状況証拠を重ね上げ、ふたりの怪しい行動について詳細に指摘し、飴《あめ》とムチを使い分けて自白を引き出す。
気づけば、あの夜ふたりで何をしたか――あらかた白状してしまっていた。
「ふうん、そう……。祐理も意外に大胆なのねェ……護堂も意外と浮気性なのねェ……」
「ええと、浮気というのにはこの場合、ちょっと当てはまらないと思う」
「そ、そうですっ。私たち、他に方法がないのでああしただけですしっ」
「あら、いいのよ。わたし、前に言ったしね。もうひとりぐらいなら、愛人を作ってもかまわないって。それが祐理なら信用できるし、悪くない選択だと思うわ」
必死に言い訳する護堂と祐理に、エリカはにっこりと、満面の笑顔で言ったものだ。
愛情が大きいほど裏切られたときの反動も大きい……なんてフレーズが、護堂の脳内に浮かぶ。それほど華やかで、恐ろしいふくみのある笑顔だった。
以来、この数日。
護堂も祐理も、何となくエリカに逆らいがたい気分で日々を送っていた。
後ろめたい、心苦しい。ふたりそろって、そんな気持ちになってしまったのだ。あるいは、わざわざ芝居がかった訊問などをしたエリカの意図は、そこにあったのかもしれない。
そして、今日の放課後。
護堂をアリアンナもいる居間に連れ込むなり、エリカは言った。
「さ、それじゃ早速決めましょうか。海と山、どっちがいい? 二週間くらいは泊まりがけで出かけたいわよね。日本国内もいいんだけど、わたしたちの想い出の場所であるサルデーニャ島でバカンスもいいかしら? アリアンナはどれがいい?」
エスプレッソのカップを給仕《きゅうじ》する助手兼メイドに、女主人が訊ねる。
アリアンナはうれしそうに答えた。
「でしたら、わたしはひさしぶりに、日本の夏を過ごしてみたいです。楽しいですよォ、かき氷とか夏祭りとか、花火とか肝試《きもだめ》しとか。エリカさまもきっと気に入られると思いますよ?」
「そうなの? ああ、でもひさしぶりに香港へ行ってみるのも悪くないわね」
女性陣が楽しそうに、夏休みの計画を練っている。
これなら、自分が口を出すまでもないだろう。護堂が彼女らの話にぼうっと耳を傾けているときだった。
「護堂、あなたも意見を出してよ。このままだと、わたしたちだけで決めちゃうわよ?」
「べつに、それでいいんじゃないか。ふたりで旅行に行くわけだし、俺なんかがわざわざ口出ししなくても――」
エリカに水を向けられて、護堂は適当につぶやく。
だが、それに対する返答は、とんでもなく想定外のものだった。
「何言ってるの。これはわたしたちの婚前旅行の計画なんだから、ふたりで考えなきゃダメでしょう? ……この旅行でわたしたち、もっと愛を深める予定なんだから、しっかりして」
「何だって?」
「旅の間に赤ちゃん、できたりしてね。うん、それも悪くないわね。わたしと護堂の子供なら、きっと男でも女でも強い子になるわよ。将来がすごく楽しみじゃない?」
「……何だって?」
オウムのように同じ文句を繰り返す。
思考停止している護堂に、エリカはおなじみの悪魔めいた笑みでささやいた。ひどく艶《つや》っぽい、男を蕩《とろ》かす魔性の笑顔だ。
「だから、赤ん坊。いっしょに旅行するんだから、当然そういうことになるでしょう?」
「エ、エリカさま、大胆ですねっ。でも、そうですよね。おふたりともこんなに仲がおよろしいのですもの、そういうお話もそろそろ出てきますよね!」
女主人の隣で、アリアンナが熱心にうなずいている。
めまいを感じながら、護堂は必死に反論しようと智慧《ちえ》を絞った。こんな計画に付き合ったら身の破滅だ! 今まで必死に抗戦してきた甲斐《かい》がなくなってしまう!
「で、できるわけないだろ、そんな旅行! だいたい家族が認めないって、静花が聞いたら、きっと猛反対する。まちがいない。家族の祝福なしで子供なんて作れないだろ、な!?」
「大丈夫。もうおじいさまの許可を得ているから」
護堂がとっさにひねり出した言い訳を、エリカは大上段から切り伏せた。
「昨日相談に行ったら、『あいつもそういう経験をしても良い時期かもしれないね。羽目を外しすぎないように、程々に楽しんできなさい』って快諾《かいだく》してくれたわ。話のわかるおじいさまで、とっても素敵よね?」
「素敵じゃない! くそッ、じいちゃんのヤツ、何てこと言いやがるんだよ!?」
ヴォバンが去ってからの三日間。
この間いちばん忙しく働いていたのは、正史《せいし》編纂《へんさん》委員会の面々である。
丸ごと大炎上した東京タワーの消火活動を手配、時ならぬ暴風雨のせいで発生した被害の集計、後始末。及びに、芝《しば》公園《こうえん》一帯で生命力を奪われて、衰弱《すいじゃく》・昏睡《こんすい》状態に陥《おちい》った近隣住民の回収と治療。
そして、呪術まで駆使した情報操作にも取りかかる。
見てはならぬ存在・光景を目撃してしまった者がどれほどいるか、徹底調査。しかるのち箝口令《かんこうれい》を敷《し》く。怪奇現象を目撃して動転、あるいは興奮、もしくはノイローゼ等に陥った人々のもとを訪ね、余計な発言は身を滅ぼす旨《むね》を通達する。
穏やかな話し合い、もしくはカウンセリングで理解が得られれば問題なし。
以後は監視をつけつつも、市民生活に復帰してもらう。どうしても理解を示してくれない少数派には、催眠系呪術を用いた記憶操作などの対策を検討――。
今もこの作業のために、正史編纂委員会は忙しく立ち回っているらしい。
「いや、私らもそのうち悪ノリしちゃってですね。ほら、こんなふうに黒スーツを全員で仕立てて飛び回ってますよ。ははははは」
と、|MIB《メン・イン・ブラック》ばりの黒い背広を自慢げに見せる甘粕。
忙しいなか祐理に経過報告するために、七雄《ななお》神社に立ち寄ってくれたのだ。
「……私が申し上げるのも何ですが、悪ふざけが過ぎるのではないでしょうか?」
「大目に見て下さいよ。これくらい遊ばなきゃやってられないくらいに忙しいんですから。私、あの日から家に帰ってないんですよ。ずっと車のなかで仮眠です」
「す、すいません。本当に申し訳ありませんっ。私たちのせいでご迷惑をおかけして!」
甘粕にぼやかれて、祐理は平身低頭《へいしんていとう》、めいっぱい頭を下げた。
「ま、これも仕事ですから気にしないで下さい。それよりも祐理さんは、草薙護堂氏との個人的関係の発展に精を出すべきです。あんなふうに体を張って助けてくれたんだから、絶対に脈ありですよ!」
「脈? と言いますと?」
「だから、草薙さんも祐理さんを憎《にく》からず想っているということですよ。幸いもうすぐ夏休みです。ここらでふたりの仲を進展させるためにも、デートイベントを四つか五つぐらい盛り込みたいところですね。期待していますよ」
「デ、デート!? バカなことをおっしゃらないで下さい! 私たちにはまだ[#「まだ」に傍点]、そんな真似は早すぎます!」
甘粕の示唆《しさ》に、祐理が声を張り上げて抗弁したとき。
傍《かたわ》らに置いていた彼女の携帯電話が着信音を鳴らした。液晶画面を見てみると、なんと話題の当人――護堂からの電話だった。
「お、その電話、早速お役に立っているようですな。祐理さん、早く出ちゃって下さいよ。ふたりっきりで逢おうなんて、お誘いの電話かもしれませんよ?」
「そんなことありませんっ。き、聞き耳を立てないで下さい! ……はい、もしもし」
興味深げにニヤニヤ笑う甘粕から身を遠ざけ、祐理は通話ボタンを押した。
『ま、万里谷、急に電話して悪い。相談に乗ってほしい、助けてくれ!』
「どうなさったんですか? まさか、またヴォバン侯爵が現れたりしたのですか?」
『ちがう! エリカのヤツが、俺を婚前旅行に連れていこうと企《たくら》んでいるんだ。じいちゃんも味方に引き込んで、根回しもバッチリ済ませているらしい。夏休みの間、どこかに身を隠さないと無理矢理に拉致《らち》されて、とんでもないことになるかもしれない! どこか、良い当ではないかな!?』
「何ですって!? 駄目ですよ、護堂さんっ。そんな誘いに乗ってはいけませんからね!」
『そりゃそうだけど、あいっぱいざとなったら力ずくで来るんだ。だから、どこかに隠れる方がいいかもしれない』
「まったく、もう……。もっと毅然《きぜん》として下さい。備えは必要ですけど、肝心なのは護堂さんの意思なんですから。あいかわらず仕方のない人ですね!」
『うっ、申し訳ない……』
「私もいい場所がないか探しておきますから、まずはご自分がしっかりなさって下さいね?」
こんなやりとりのあとで、祐理は電話をオフにした。
まったく、あの慎《つつし》みが欠けるイタリア人の少女も、はっきり拒否できない護堂の方も、世話が焼けて本当に仕方がない。もっとしっかりしてくれればいいのに!
「どうしました、祐理さん? またトラブルですか? 相談に乗りますよ」
心のなかで愚痴《ぐち》をこぼす祐理に、甘粕がささやきかける。
たとえて言えば、格好のカモを見つけた詐欺師《さぎし》が手練手管《てれんてくだ》の全てを駆使して、獲物を搦《から》め捕《と》りにかかる。そんな偽《いつわ》りの優しさに満ちた声なのだが、祐理は全く気づかなかった。
「あ、はい。実は護堂さんとエリカさんが――」
「……ほほう、そんなことになっていましたか。でも祐理さん、これはチャンス。大チャンスですよ。……草薙さんとおふたりで、この夏の間どこかに身をお隠しなさい。場所は私たちが手配します」
「――!? ご、ご冗談でしょう!? 私と、護堂さんが、ふたりだけで!?」
にんまりと年長者の慈愛《じあい》(ただしパチモノの)に満ちた笑みで、甘粕が微笑む。
その笑顔に引き込まれて、祐理は思わず反論を呑《の》み込んでしまった。
「では、順を追って説明しましょうか。ふたりだけでの逃避行が加速度的にもたらす、男女の仲を進展させる魔性の効果を――」
梅雨《つゆ》も明けつつある六月の終わり。
まもなく夏への扉が開く、初夏の夕暮れ。
強烈なカルチャーショックと巧《たく》みな甘言《かんげん》に踊らされた祐理と、権謀術策《けんぼうじゅっさく》と武力の限りを尽くすエリカが火花を散らす季節は、あとすこしのところまで迫っていた。
[#改ページ]
あとがき
「主人公が一〇種類も特殊能力を持っているのは、やりすぎだと思うのですよ。なんとなく思いつきでハデな設定を作ってみましたけど、やっぱり半分くらいにしませんか? ぶっちゃけ、これ書くのめんどくさいです、僕が。主に僕が!」
「べつにこのままでいいんじゃないですか。ええ、このままでいきましょう」
[#地付き] ――某小説一巻執筆前の、著者と編集者の打ち合わせ風景より
おひさしぶりです。もしくは、はじめまして。
本作「カンピオーネ!」も皆様のご愛顧をいただきまして、二巻目が発売と相成りました。
ありがとうございます。……1の次の2が出るまで結構間が開いたのは、続刊が出ると本気で思っていなかったので、適当にしかプロットを考えていなかったから。なんてことはありません。ええ、ありませんとも。
利根川《とねがわ》に現れた謎《なぞ》のドラゴン風怪生物(通称トニー)と草薙《くさなぎ》護堂《ごどう》の、ローカル色あふれる死闘を描く――なんてプロットを提出したら、「いや、それはないから!」とボツにされたとか全くないのです。本当ですよ? このために利根川の歴史を調べて、プチ利根川博士になったとかもありませんから!
さて、シコルスキーさんの美麗《びれい》な巫女《みこ》さんイラストに心|惹《ひ》かれて、この本を書店で手に取った皆様。「何だ、一巻じゃないのか。買うのやめようかな」と思うのは早計です。
本作はヒロイックファンタジーの一種であると作者は考えていまして、このジャンルの泰斗《たいと》であるキンメリアのコナン氏、メルニボネのエルリック氏へのオマージュをひそかに折り込んであります。「決して一巻が物語のスタート地点ではないんだぜ?」というところに。
だから、一巻からでも二巻からでも大丈夫。安心してレジまでお持ち下さい。なに、僕もアメコミの原書を探していて前の巻が見つからない時がよくあります。すぐ慣れますよ?
……なんて思っていたのですが、そろそろ「始まりの物語」を語るべき時かもしれません。
というわけで、刊行予定があるらしい第三巻は「たのしい(?)夏休み」と「カンピオーネ・ビギンズ」がテーマとなりそうです。おそらく舞台は海。シコルスキーさんの水着イラストにも大いに期待しましょう。僕はしています。
[#地から1字上げ] 二〇〇八年一〇月 丈月《たけづき》城《じょう》