田中角栄 その巨善と巨悪
〈底 本〉文春文庫 平成十三年五月十日刊
(C) YMizuki 2002
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目 次
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田中角栄 その巨善と巨悪
降りしきる雪はびっしりと空間を埋めつくし、濃密な白い闇がどこまでも広がっている。男は上越線の鉄橋を渡っていた。
道も標識も白い闇に呑み込まれて消えていた。目的地に着くには線路をたどるしかない。
鉄道保線員の通る細い通路にも厚ぼったい雪片が絶え間なく落ちてくる。長靴の底で鉄板の固さを確かめながら、すべらぬよう用心して歩を進めていく。冷気が鼻孔をふさぐ。体中がふいごになって熱気を送り出し、白く短い息になる。
行く先は立ち会い演説会が催されることになっている|小千谷《おぢや》だった。昭和二十四年一月中旬、第二十四回総選挙の最中のことである。
吹雪のため列車が動いていないと知らされたが、ひるみはしなかった。「歩いていこ」と言ってのけて、みのとわら靴を着けた。白い闇におそれをなして、他の候補者は田中について来なかったのだ。
男の名は田中角栄。三十歳。窮地に立っていた。
昭和二十二年、新潟三区から初当選を果たした彼は、翌二十三年十月の第二次吉田内閣発足とともに法務政務次官のポストを射止めたが、わずか二か月後の十二月辞任せざるをえなくなる。片山内閣(昭和二十二年)が炭鉱国有化をねらって提出した臨時石炭鉱業管理法案(略称炭管法案)をめぐって議会は紛糾。田中はこの法案に反対する急先鋒となったのはいいが、業者から百万円を収賄した容疑をかけられ逮捕された。
選挙戦はすでに中盤戦に差しかかっていた。生まれ故郷に近い大票田の柏崎市では「田中はもうお終いだろう」という声がしきりで、後援者たちは選挙事務所を閉じようとしていた。法の番人である法務政務次官の汚職はなんとしてもまずい。風当たりが厳しかった。
ところが、獄中で立候補宣言をした田中は、保釈の身となり選挙区に戻ってきたのだ。
鉄橋の半ばに差しかかったとき、事件が起きた。遠くでこもったような金属音が鳴ったのである。白い闇の奥の、わずかに薄墨色がかった中に光るものがあり、手さぐりするように近づいてくる。凍った路線が震動している。動いていないはずの列車がやってくるのだ。
「あっきゃ……」
保線員なら身を隠す場所を知っているが、慌てた田中は橋桁にぶら下がった。列車は轟音とともに頭の上を通り過ぎる。両腕で橋桁にくらいつきながら、目を閉じる。ひどく長い時間があって、震動が弱まっていった。激しい息づかいとともに、再び橋の上に立つ。しびれかけた腕をなで、再び挑むように歩き始める。
雪だるまのような姿で現れた田中を見て、小千谷の人々は感嘆した。みのとわら靴を取ると、体中から湯気が立っている。そのまま田中は演壇に立ってぶち始めた。
「みなさん、新潟県と群馬県の境に三国峠があるでしょ。あれをダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。そうしますと、日本海の季節風は太平洋側に吹き抜けて越後に雪は降らなくなる。みんな雪で苦しむこともなくなる。出てきた土砂は日本海に運んでいって埋め立てに使えば、佐渡とは陸続きになるのであります」
人々は笑いころげて拍手をした。
田中は故郷の柏崎にはすぐには戻らず、選挙区の南端である雪深い南魚沼郡から攻め上がろうとしていた。
雪が止んでも、当時は除雪車はない。自動車もない。冬はバスも通らない。幅五十センチほどの道をせかせかとただ歩く。村落に入ればメガホンで「田中角栄が参りました。よろしくお願いいたします」と大声を張り上げる。
「石炭はどがんした!」
と意地の悪い野次の飛ぶこともあった。
真っ赤になって弁解しようとすると、支持者が、
「演説はもうええ! 浪花節をやらっしゃれ」
と叫ぶ。浪花節が得意だったのだ。
「それでは……」
としゃがれ声で浪花節を始める。回を重ねるにつれ堂に入ってきて、いかに拘置所で苦しい思いをしたかをうなる。題して「田中角栄小菅日記」。
やんやの喝采を浴びた。
こうして田中は周囲を圧倒する気迫で当選を果たす。得票数四万二千五百票は堂々の二位だった。
魚沼郡から大量の票が出た。選挙は雪のときにやるに限る、というのが以来田中の信条となる。
のるかそるかの大勝負を乗り切った彼は、一気に権力の階段を駆け上がっていく。自由党副幹事長(昭和二十九年)、衆議院商工委員長(同)、郵政大臣(同三十二年)、自民党政務調査会長(同三十六年)、大蔵大臣(同三十七年)、自民党幹事長(同四十年)、通産大臣(同四十六年)。そして、ついに昭和四十七年七月、衆参両院で総理大臣に指名される。
田中がたぐいまれなる力量の持ち主だったことを否む者はない。
若い頃の彼は精力的に議員立法に取り組んだ。その数三十三本。役人がほとんどの法律を作るこの国ではまれなことであり、その数で右に出る者はいない。
数だけではない。自動車の重量税やガソリン税を道路建設財源に充てるというのも彼の発案だったし、戦後日本の新風景となった公団住宅を出現させた公営住宅法も彼の手によるものだ。田中の議員立法には現在公共事業の法的根幹になっているものが数多い。今日でこそ公共事業は無駄遣いの代名詞になっているが、経済発展を目指す戦後の日本にとり道路、港湾、鉄道、住宅などの公共事業は欠かすことのできない骨格作りだった。
田中は三国峠を吹き飛ばしはしなかったが、谷川連峰の下をぶち抜く世界最大の山岳トンネル・大清水トンネルを貫通させ、上越新幹線を建設して日本海側と太平洋側の時間的距離を大幅に縮めた。東京から故郷近くの柏崎までいまは二時間余りで行けるが、新幹線開通以前はゆうに八時間はかかった。高速道路の関越自動車道にいたってはそれまでとは比べるもののない便利さである。
昭和三十七年、大蔵大臣だったとき豪雪に災害対策基本法二十四条を初めて適用、風水害などと同様の国家補助を引き出したし、道路の下から水を噴き出す消雪パイプを埋め込んで、いまではどのような寒村にも真冬にバスが通るようになった。雪はいまでも降るが、雪害は激減した。
のちに田中が世に問うた「日本列島改造論」はオイル・ショックによるインフレで吹き飛んでしまったが、その基本になった着想は引き継がれた。中央政府の資金を交付税あるいは補助金の形で地方に配分し、地方の経済活動を活発にして所得の差を埋めていくという着想である。
昭和三十二年、史上最年少の郵政大臣になった田中は、歴代大臣が手こずったテレビ放送の免許問題を大量予備免許を与えて一気に解決、各県にひとつずつテレビ局が生まれ、世はテレビ時代を迎えた。
大蔵大臣になると信用不安の嵐にさらされた山一証券に日本銀行の特別融資を電光石火決めた。通産大臣時にはこじれにこじれた日米繊維交渉をまとめ上げた。
総理大臣として官邸に入るやいなや自民党内の強い反対を押し切って中国に飛び、日中国交回復を実現した。
田中の業績は|赫々《かくかく》たるものがある。歴史はその価値までを否定できはしない。すべきでもない。
しかし、田中は日本の社会をゆがめもした。いや、正確に言うなら田中という政治家に社会のゆがみが影を映し、田中はそれを拡大した。田中が金目当てに議員立法を手がけたといえば事実に反するが、公共事業はいつの間にか聖域化し利権の巣になった。巨額な公共事業を発注する側と受注する側とを政治家が仲介し、闇の資金が政治家に流れた。その流れを作ったのが田中自身であったのはまぎれもない事実である。
また田中は土木工事を請け負う企業を所有していたから、受注側でもあった。受注する側と仲介する側が同じなのだから、ピッチャーと審判が同一人物のようなもので、そこにインサイダー取り引きにも似たうま味も生じ、それを十分に享受した。
田中の後援団体である越山会は新潟県内の公共事業を取り仕切る利益配分機構と化し、マスコミは利益誘導として批判した。
多数派工作のため多額の金を集め、そして散じた。刑務所の塀の上を歩く男、金権政治家、闇将軍と言われ、ついにはロッキード事件で本当に塀の向こう側に連れて行かれた。
ロッキード事件の裁判を担当し鬼検事と言われた堀田力氏は、田中を評してこう述べている。
「いい意味でも悪い意味でもきわめて日本的な政治家でした。日本社会のいい面も悪い面も非常に拡大した形で持っていた。だから、善悪双方において比類なく傑出した人物だったと思います。頭もいい。理解力に優れている。それに人の気持ちをつかむ感性にも優れている。右脳も左脳も日本的に発達した人でした」
田中派の人数はピークには衆参合わせて百四十名。公共事業の口ききはもちろんのこと、選挙民の子息の大学紹介や就職の面倒まで見る、いたれりつくせりの「総合病院」と呼ばれた。その政治手法は自民党内だけではなく野党にまで及び、いまでも受け継がれている。田中をおいて戦後の日本政治を語ることはできないと言われるゆえんである。
それだけではない。地方から野心に溢れた力量のある人材が続々と中央に集まり、東京という植民空間で混じり刺激しエネルギーを放射し、経済を押し上げ世界に拡大していったのが戦後の日本だとするなら、田中は戦後日本そのものである。
スケール大きく生きた、|毀誉褒貶《きよほうへん》相半ばの男。
善と背中合わせの悪。悪と共存する善。巨善と巨悪。
これから始めようというのは、小学校卒の学歴で峠を越えて中央に突入し、遂には永田町を平定して国家最高権力を握るに到った、型破りな男の、破天荒な人生の物語である。
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新潟県は総面積一万二千五百七十八平方キロメートル。全国第五位の大県で、その風土を特徴づけるのは大陸と日本列島の間に横たわる日本海、そして背後の山岳である。東部には朝日山地、越後山脈、三国山脈が、そして南西部には妙高山地が、それぞれ山形、福島、群馬、長野と県境を分かち、富山県との間には飛騨山脈、|親《おや》|不知《しらず》の険が横たわる。冬は大陸高気圧が湿っぽい寒気を運び、山に衝突して多量の雪となる。夏は山脈を越えて吹き下ろすフェーン風が熱気をもたらし、良質の米を育てる。
越後は新潟の別名。越後の越はコシとも呼ばれ、日本書紀には「越の国はまつろはぬ民(言うことを聞かぬ民)の住むところ」と記されている。古くは京の町を荒し回り源頼光に切ってとられたという酒呑童子、戊辰戦争では新鋭ガットリング銃を縦横に用いて官軍を一時は敗走せしめた長岡藩家老・河井継之助、天皇大権を発動してクーデターを行い国家を改造する構想を立てた論客・北一輝、日本国の起死回生のため真珠湾奇襲攻撃を実行した連合艦隊司令長官・山本五十六、そして敗戦の荒廃の中でふてぶてしくも「堕落論」を著した作家・坂口安吾など、多くの革命児を生んだ。
田中角栄はこの新潟県の日本海に面した上越の都市・柏崎近く、刈羽郡|二田《ふただ》村に生まれた。大正七(一九一八)年五月四日。
父親・角次三十三歳、母親・フメ二十八歳のときの子で姉二人に妹二人。田中は次男だが長男は幼くして死んだから、実質は長男坊。大事にされ育った。
二田村は米作を軸にする農村ではあったが、北陸の寒村に見られるような閉鎖性はなかった。日本石油発祥の地となった刈羽郡にあり、近くの町である西山周辺には当時は石油の採掘井が立ち並んでいたから、村民は農閑期には採掘を手伝いに出かけた。現金収入もあったし、県外からの人の往来もあった。夜ともなると西山の町からは芸妓たちの嬌声も聞こえた。一攫千金の夢を追う気風が流れ込んできて人々に多少の山っ気も植えつけた。
父・角次は田中の表現を借りるなら、|馬喰《ばくろう》。北海道に乳牛の牧場を持とうとして失敗したり、競馬馬を育成したりで、さまざまな仕事に手を出す、それこそ山っ気の多い男だった。酒を呑むと大言壮語する。頭の回転は速い。
田中が故郷を離れて上京するとき、母親のフメは三つのことを注意した。「大酒呑むな、馬持つな、できもせぬ大きなことを言うな」である。
この言葉の中にフメの夫に対する苦々しい思いがはっきりと表れている。フメは父親のようにはなるなと言外に忠告した。だが、田中は結局のところ母親の忠告を守らなかった。ウイスキーの水割りを浴びるように呑んだし、馬も持った。大言壮語はもちろんした。
フメは農家の嫁の模範ともいうべき女性で、風来坊の夫をよそに田畑を守って辛抱強く働いた。田中は母の寝顔を見たことがない。彼自身も早起きで夏は朝五時、冬は六時に起きたが母の姿は寝所にはなく夜も先に寝るのはいつも自分だった。
田中はその勤勉さを母から受け継ぎ、総理になってからも夜九時には床につくが十二時頃には起き出し二時三時まで資料や文書、選挙のデータなどを一心に読みふけった。
フメは辛抱強くはあったが、ただひたすら忍耐ひとすじの暗くじめついた女性ではなく、鼻っ柱も強くて面倒見もいい、明朗闊達な性格の持ち主だった。父の角次や田中のことを批判する向きは数多いが、フメの悪口を言う人は少ない。田中が生まれたとき角次は角太郎と名付けようとしたが、フメは生家の隣に同じ名前の犬がいたという理由で頑として聞き入れず、角栄に決めさせている。
少年の頃は決して丈夫な子供ではなかった。越後では昔から「杉の木と男の子は育たない」と言われた。田中は病弱で二歳のとき重いジフテリアにかかり高熱を発した。田中を可愛がった祖母のコメは仏間にこもって「この子だけはどうしても助けてくんなせ」と祈り、母のフメは近くにある諏訪神社に裸足で祈祷に通う、いわゆる「はだし参り」をして回復を祈った。
ジフテリアから回復すると、屋根から落ちてきた雪の下敷きになった。豪雪地帯ではいまでもこれによって命を落とす人がある。首の骨を折ったり窒息したりするのである。近所の人々が飛んできて雪を掘ったが姿が見えない。フメは息子が死んだとすっかり観念したほどだったが、般若心経を唱えながら鍬をふるっていた祖母が大声を上げた。鍬の先端あたりの雪が真っ赤になったのだ。鍬の先が田中の額に当たって血が噴き出したのだった。額にはそのときの傷跡が成人してからも残った。
腺病質の田中は真綿で輪を作ってもらい首が冷えないようにして小学校に通い始めた。その姿を級友はモグラと言ってからかった。
腺病質な子供はとかく引っ込み思案になりがちで、いじめの対象になりやすいが、田中は違った。抜群に頭が良い。とりわけその記憶力には大人も舌を巻くほどだった。
村にはよくチョンガリと呼ばれる浪曲興行の一団がやってきた。四年生のとき担任になった金井満男に田中は見物に連れていってくれといつもせがんだ。母親と一緒にという条件つきで連れていく。
すると、翌日の昼休み、一回聞いただけのチョンガリを本職顔負けの名調子で終わりまで級友に聞かせてみせる。しゃがれ声から語り方までそっくりで、金井は空恐ろしい思いがした。
学校の成績は文句なく一番。小学校の高学年に進むにつれ体も急に丈夫で大きくなり、子分を率いて隣の村の悪童たちと喧嘩した。統率力も十分で、ときどき駄菓子を買ってみなに分け与えていたという。のちに政治家になってまんべんなく金をばらまいた姿を彷彿とさせる。
だが、田中少年にとり最大のアキレス腱はひどい吃音だったことだ。従兄弟でいつも一緒に泥んこになって遊んでいた田中信雄によると、喧嘩でたんかを切るときは信雄の肩に右手を置き足でタップを踏むように調子をつけて言葉を放った。すると、なぜか口がなめらかになったという。
田中少年にとり人生最初の大きなイベントが五年生になって訪れる。
習字の授業のとき一番後ろの席で真面目に手習いをしていたら、前に座っていたいたずらっ子が何かおかしいことがあったらしく大声で笑った。このときの担任の笠原剛が「誰だ!」と叱ると、その子は田中の机をがたがた揺さぶり、罪を田中にかぶせた。
「おとなしく勉強せんか」
先生は田中を叱る。
「おらでネ!」
そう言おうとするが、頭に血が上り声が出ない。
「正直に言えて。なあして騒いだ」
先生はますます激する。喉に言葉の詰まった田中は真っ赤になる。ついに自分を制御できなくなりすりおろした墨を硯ごと床に叩きつけてしまった。
このことがあってからなんとか自分の力で吃音を克服しようとした。吃音の矯正本は役に立たないことが分かったから、裏山に行って浪花節を大きな声で歌う。みなに浪花節を聞かせるときには立板に水になるのだから、自分は吃音ではないと言い聞かせ、放歌高吟する。
この年の学芸会がヤマ場だった。出し物は「弁慶の|安宅関《あたかのせき》」。田中は弁慶役を買って出たのである。先生は田中の吃音を心配して舞台監督をするよう強く勧めた。だが、田中はどうしても弁慶をやりたいという。ついに根負けした先生はその大役を命じた。
当日、幕が開き田中の弁慶が現れると、場内は異様に静かになった。胸が圧迫されるような静けさである。みな田中の吃音を知っていた。失敗するに違いない。喉の奥に言葉の詰まった少年の苦しさを目の当たりにしなければならないと予感した。
ところが案に反し田中の唇から朗々とした台詞が流れ出した。
「お急ぎ候ほどに、これは早、安宅の関に御着き候……」
一番ほっとしたのは少年自身だろう。勇気がむくむくと湧き、勧進帳のくだりも見事にこなす。終わると満場の拍手だった。
失敗をしないよう事前に細工を講じていたのである。ひとつは台詞に節をつけて歌うようにしたこと、もうひとつは劇にいまでいうBGMを流し進行にリズムをつけたことだった。
人間は誰しも何かの点でコンプレックスを持っている。それに押しつぶされる者もいれば克服する者もいる。自らの手で吃音を克服した少年は、やればできるという自信をものにした。
もちろん吃音がこの出来事で完全に治ったわけではない。その後も緊張すると、言葉がなめらかに出てこぬ場面が何度も訪れる。
のちに越山会の金庫番となり田中の身の回りの世話もした佐藤昭子は、初めて選挙に出た頃の田中の演説を覚えている。上気した彼は言葉が詰まり、しどろもどろ。佐藤は早く演説が終わらないかと願いながら、思わずうつむいてしまったと語っている。
田中の演説上手は天性のものではない。また、演説が上手くなった後でも、しばし言葉が喉のあたりで詰まる様子で、斜め上を向きながら「エー」とうなるのが癖だったが、これはむしろ聞き手の耳を引きつける、ほどよい間となっていたし、人に親しみを感じさせる愛嬌の部類にもなっていた。弱点は長所となった。
吃音の克服についで訪れたのは|苦《にが》く悲しい出来事で、これがその後の人生を決定づけることになる。
六年生になった頃、父・角次は二、三頭の馬を持ち、地方競馬を回っていた。勝つこともあったが、新潟競馬で持ち馬がレース中に怪我をしてしまった。「五、六十円のカネ送れ」との電報が届く。当時の五、六十円は大金である。思案の末、親類の近藤という材木屋に借りにいこうと田中は思い立つ。近藤家には娘がおり、将来は田中の嫁にという話もあったほどの近しい間柄だった。
「お前には金を借りにいかせたくはねえ」と母は言った。田中が卑屈になるのをおそれたのだ。
だが、田中はそれほど気にもせず近藤の家にすたすた出向いた。
近藤は快く工面してくれはしたが、そのとき彼の放った一言が胸を突き刺した。
「お前のおやじもなかなか思うようにはいかんねぇ」
それまでさして深く考えもしなかったことだが、田中家の運のなさと惨めさを客観的に指摘されたのである。
田中は屈辱感で震えた。できることなら、目の前の近藤に飛びかかり打ちすえてやりたかったが、できるわけもない。相手の言うことは本当だったからだ。そのうえ相手は本当に田中家の現状に同情してくれているのである。
同情されることが屈辱感を増した。
のちに小学校を卒業した田中は、土木業を手伝いながらトロッコを押し泥まみれになっているところをその娘に見られたことがある。娘は田中を誘いにきたのだが、あまりの汚さに度肝を抜かれたのか、見て見ぬふりをして通り過ぎていった。その夜、娘に会った田中は「みなが一生懸命に働いているときに着飾ってぶらぶら歩くのはよくない」と言って激しく責め立てた。
近藤から六十円の金を受け取った田中は、父に届けるため越後線の汽車に乗った。
屈辱感は薄らぐどころか、時間がたつにつれ錆びた刃物が肉に突き刺さったようにじんじんと増してくる。窓に顔を押しつけながら外を見ていると、田んぼで働く母の姿があった。折から田植えの季節で、母は腰を伸ばし汽車を見た。田中は手を激しく振る。その姿に気づいて母も手を振った。
田中の目が潤んだ。ポケットの中の六十円は母がああやって働いて得る金の何倍になるのだろうか――そう思うと、やり場のない怒りを覚えざるをえなかった。
新潟競馬のある関屋で父は首を長くして金を待っていた。六十円を渡すと上機嫌になり、ゆっくりしていくよう言ったが、田中はふくれ面をしたままきびすを返し次の列車に飛び乗った。
担任の先生は「お前は五年修了で柏崎の中学校へ行ける」と進学を勧めてくれたが、母の苦労を思えばその気にはなれず、尋常高等小学校に進む。分家の長男は東大の農学部に、従兄弟は柏崎の中学校へ、分家の三男は教師になるため師範学校に行っていたが、田中は後二年小学校に通い社会に出ることを決意したのである。
ただし、当時尋常高等小学校だけで社会に出ることは別に特異なことではなかった。従兄弟の田中信雄によれば、二田小学校の一学年の生徒数は七、八十人。その中で中学へ行くのはせいぜい一人か二人だった。全国で見ても戦前の日本では、義務教育の尋常小学校六年だけで働きに出る子供たちの比率は全体の三四%。田中のように尋常高等小学校に進むのは五八%。その上の中学校に進むのはわずか八%だった。
新潟県は今日でも進学率の低い県で、平成七年度の大学進学率は二七・七%。全国で四十三位。全国最下位の年も過去にはあった。農業県のため県民意識が実学志向であると地元のマスコミは説明している。理屈を言うよりはまず体を動かして働く方が大事ということか。
ましてや戦前のことだ。地元の大勢の子供たちと同じような、ごく当たり前のコースをたどったに過ぎない。
自分の学歴が小学校卒に過ぎぬことにのちに田中が特別な感情を抱いたとするなら、社会に出てから周囲の大卒の秀才より自分の能力がはるかに勝っているのを発見したためだろう。田中には学歴についての劣等感があったと解釈する向きが多いが、これは正確ではないし常識的な解釈に過ぎる。むしろ、彼は社会の学歴主義を不公平とみなしたのではないか。凡庸な人間で保身に汲々とするだけの人間が高学歴というだけで重んじられ、能力・胆力ともに優れた人間が低学歴というだけで軽んじられる。そんなことがあっていいのか――この思いが彼の猛烈なエネルギーの源泉にもなった。
昭和八年三月、尋常高等小学校を卒業した田中は地下足袋をはき土方の手伝いを始めた。折からの不景気で県は国の補助により救農土木工事をしていた。村の老若男女がトロッコやネコ車と呼ばれる小さな車で土や石を運んでいる。これに加わり、朝の五時半から夕方の六時半までしゃにむにトロッコを押した。
そのとき面白い男がいて、こう語った。
「土方土方というが、土方はいちばんでかい芸術家だ。パナマ運河やスエズ運河で二つの海をつないだのもみんな土方だど。土方は地球の彫刻家だ」
地球の彫刻家。この言葉は長く耳にこびりつき、のちに土木事業に手をつける遠因にもなった。
新潟の夏は暑い。三十一日間一日も休まず働いて一月分の給料をもらうことになった。男は一日七十五銭。女は五十銭。十五歳の少年にしては田中は金のない辛さ、金のありがた味をよく知っている。体はもうすっかり大きくなっていた田中は、中を取って六十五銭はもらえるとソロバンをはじいていた。
ところが袋の中をのぞいてみると一日五十銭。合わせて十五円五十銭しかない。力の弱い女性並みに扱われたのである。
腹を立て、次の日から行くのを止めてしまった。よく働く田中がこないので請け負い業者は慌てて使いを寄越し、六十銭出すからと言ってきたが、「土方の仕事はもう分かったすけ、勉強して工事現場の監督になる」と言って追い払った。
ところが、田中は本当に現場監督になってしまったのである。その頃、柏崎市には県の土木派遣所があり人員を一人募集していた。県の役人は中卒以上の学歴が必要とされていたが、田中は履歴書を提出して応募してみた。すると、採用の通知がきた。
尋常高等小学校を卒業してから三、四か月、家で中学講義録を精読しただけでなく、漢詩を暗唱したり、中国の石摺りを手本に書道に熱中したりした。これからの進路を掴もうと必死で模索したのだが、これが思わぬところで役立った。履歴書にしたためられた田中の字は二十人ばかりの応募者の中で抜きん出てうまかったのである。
田中の能力の高さを物語るエピソードだが、驚いたのは請け負い業者である。五十銭しかやらなかったトロッコ押しが工事を監督する役人になって現れたからだ。
この頃から田中は周囲の者に盛んに東京へ行きたいと言い始める。母のフメは息子が国鉄柏崎駅の駅員にでもなってくれたらと思っていたが、この青年はおそろしく自己評価が高い。雪の新潟で埋もれる人間とは毛頭思っていない。それが何であるのかは分からぬが、なにやらもやもやとした、とてつもなく大きなものが三国峠の向こうで自分を待っているような予感がする。
昭和九年の三月、田中のところに隣村の役場の土木係をしていた土田という老人が息せき切って駆け込んできた。希望通り東京に行けるというのである。
その頃、科学者でもあり実業家でもある大河内正敏が柏崎にピストンリングや自転車、電線などの工場を建設していた。大河内は理化学興業の創立者でもあり理化学研究所の所長でもある。理研コンツェルンの生みの親でもあり、「農村工業」を提唱していた。科学技術による高能率低コスト・良品廉価を目指すとともに作業方法を単純にして農村の非熟練労働力を活用する。それによって貧しい農村地帯の所得も向上させるという構想である。
のちに田中は日本列島の各地域を鉄道その他の交通機関でつなぎ、地方に生産拠点を築いて中央と地方の所得格差をなくすという「日本列島改造論」を世に問うが、その発想の源になったのはこの大河内の農村工業論ではなかったか。
土田という老人は大河内に会い、田中が上京したいという希望を持っていると伝えたというのだった。大河内は承諾し大河内邸の書生として学校に通わせてやると言っているというではないか。耳寄りな話だった。
田中は上京を決意した。母は反対すると思ったが、意外にも喜んでくれ、相当額の金をくれた。息子が月給を全額渡していたのを積み立てておいてくれたのである。そして「大酒呑むな」で始まる三つの忠告をした。
その頃、初恋をしていた。相手は町役場の電話番をしていた三つ年上の女性だった。田中の勤めていた土木派遣所の電話は一番、警察が二番で役場が三番、四番が税務署、五番が郵便局で、三番から一番に日に何回も電話がかかる。派遣所で一番年の若い田中が出る。相手はいつも同じである。きれいな声の持ち主で、そのうち時間外の夕方でも電話を交換するようになり、デートへと発展する。
田中は彼女のことを「三番さん」と名付けた。この頃の田中は後年のようながっしりとした体躯ではなく、眉のくっきりした、すらりとした青年で、いまでいうハンサムの部類に属していた。女性が好感を抱いたとしても無理はない。
田中が東京へ行きたいという希望を抱いていることを知ると、「早く東京へ行けるよう神様に祈ってます」と励ましてくれた。二人は海岸に出て磯づたいに歩き、「米山さんから雲が出た、いまに夕立がくるやら、ピッカラチャッカラ、ドンガラリンと音がする」の民謡「三階節」で知られる米山の裾にある|番神《ばんじん》岬に行った。ここに番神さまを祭る神社があり、上京できるよう願をかけにいったのである。
昭和九年三月二十七日午前九時。田中は信越線回りで柏崎駅から上野駅へと旅立つことになった。もちろん鈍行列車である。
三月の新潟にはまだ雪がある。よく晴れた日で、あたりから孤絶した米山が白銀色に輝いていた。町村関係者が三、四十人見送りにきてくれたが、なぜか三番さんの姿はなかった。思いを残したまま汽車は動き始める。
次の駅は|鯨波《くじらなみ》。ホームにひとり人影があった。三番さんである。人目に立つことをおそれて次の駅を選んだのだ。停車時間はわずか三十秒。彼女の白い手が封筒を差し出した。汽車は再び動き出す。彼女はハンカチを小さく振った。
封筒の中には簡単な手紙が入っていた。
「よく勉強ができますよう、お番神さまに祈っています」
後日談がある。
戦後第一回の衆議院選挙に立候補した田中は柏崎小学校の講堂で第一声を上げた。数百人の聴衆が集まっていたが、その最前列に二人の子供を両脇にした一人の女性が座っていた。人妻の落ち着きが加わってはいたが、まぎれもなくあの三番さんだった。田中は目礼する。彼女も目礼を返す。それだけのことだったが、新米候補の自分を励ましてくれる彼女の心を感じ取り深く感謝した。ただし、このときの選挙では奮戦むなしく落選する。
汽車は鯨波駅を出て海岸線をひた走る。松の丘の向こうに日本海が横たわっている。風は強く白い波頭があちこちに立つ。見慣れた光景だったが、この日は泡立つ田中の心をそのまま映しているようでもある。
直江津から内陸に入り、高地へと登っていく。雪が深く、のっぺりとした白一色の世界になる。
空を鋭く切り取る山々の稜線の彼方に、まだ見ぬ東京が待っていた。
長野県を通り抜けると、関東平野だった。
田中はその風景に一驚する。雪がない。だだっぴろい平野を若芽の柔らかな緑が覆っていて、凍ったものがない。日本海側の陰鬱さにくらべ、なんという温和な光景であることよ。
のちに総理秘書官になった通産官僚の小長啓一は総理の田中から川端康成の『雪国』について意外なコメントを聞いたことがある。
「キミは岡山県出身だから分からないだろうが、新潟県人には雪はロマンなどでないね。憂鬱のタネだ。新潟県人ならあんな小説、書かないね」
考えてみればその通りで、雪国の人々にとり雪はおそるべき敵である。豪雪の中では三十分も外にいると凍えてしまうから、ただ家の中でじっとしているしかない。朝の雪かきを怠ると雪に閉ざされ外部とのコミュニケーションの道を断たれるからもっとひどいことになる。しかし、長時間雪かきをすると、腰がいたくなる。屋根の雪を下ろさぬと雪の重さで家がつぶれることもある。雪国では雪で家を潰されるのは最大の恥とされている。
田中の目から見ると関東平野は別世界だった。もし彼が小説家だったら「トンネルを出ると、雪のない国だった」と書いたことだろう。
高崎駅で途中下車した。高崎競馬に持ち馬を出走させるため父の角次が滞在していたのである。
父・角次は冴えない顔をしていた。持ち馬が思い通りに走ってくれない様子だった。
故郷を出るとき田中の財布には八十五円という結構な大金があった。
十五円もあれば、学校の入学金と初めの月謝に足りるだろうと思っていたから、五十円を父に渡した。桐生に嫁いでいた姉も一緒で、彼女に二十円渡す。「男は腹巻にいつも十円札一枚を入れておきなさい、事故にあって死んでも無一文では笑われます」と母に言われていた。十円を腹巻に入れ、ガマ口に五円札が残った。
高崎と言えば余談となるが、のちに田中の宿命のライバルとなる福田赳夫の出身地でもある。福田は故郷の上州をこよなく愛し、書を求められると論語の「身を殺して以て仁を成す」としたためたあと勝手に「是上州人」(これすなわち上州人)と付け加えた。国定忠治にみられるような上州任侠の精神を誇りにしていた。
福田は明治三十八(一九〇五)年一月生まれ。高崎中学を卒業後、天下の秀才が集まる一高から東大へと進み、昭和四年大蔵省に入省。翌昭和五年英国駐在。田中が高崎に立ち寄った頃は、二十八歳で、京都下京税務署長を務めていた。エリート中のエリート、将来は次官もねらえる有望な若手として嘱望されていた。
福田について触れたのなら、高崎出身のもう一人の政治家についても触れねばならぬ。
中曾根康弘。田中が福田と総理の座をめぐり苛烈な戦いを展開した昭和四十七年秋、中曾根は一転田中支持に回り田中政権実現に寄与した。風見鶏と言われたゆえんである。
中曾根の生まれは大正七(一九一八)年。田中と同じ年であるのみならず、同じ五月、田中より二十三日後にこの地で産声を上げている。
田中が高崎に立ち寄ったときは高崎中学の三年生。翌昭和十年旧制静岡高校へ進み東大へ。昭和十六年当時大蔵省に匹敵する権力を持つといわれた内務省に入省した。
田中、福田、中曾根。三人は濃淡は別としてそれぞれ高崎に因縁があったのだが、のちに政界において虚々実々のかけひきを展開することになるとは本人たちはもちろん知りもしない。
花の東京についた田中青年は、柏崎の知人が紹介してくれた井上工業という土建会社の支店を仮の宿にすることになった。支店長は同県人の吉田猛四郎。井上工業の本社は群馬県の高崎。社長は井上保三郎。高崎市を代表する経済人である。
次の日は三月二十九日。朝から大雪になった。
弁慶役の台詞による吃音の克服、父のための借金に次ぐ三度目の試練が待ち受けていた。
小さなトランクひとつの姿で室町三丁目からバスに乗る。行く先は下谷区谷中清水一番地。大河内正敏邸である。頼りはここしかない。
バスに乗ったはいいが、車掌の口が速くて何を言っているのかさっぱり分からない。
最初の小さな試練だったが、「えい、やっ」とばかり適当のところで飛び下りる。降りたのはたまたま不忍の池のそばで谷中清水まで雪の中を歩いていった。
大河内は千葉県の旧大多喜藩主の家に生まれている。殿様のお屋敷だから、いかにもどっしりとした、見ただけで気おくれしそうなたたずまいである。
大門が開いている。勇気を奮い起こして入って行き、案内を乞うた。中年の女性が出てきて、トランクを下げた田中を見下ろしながら何事かをさらさらと言った。田中がぼんやりしているのを見て、女性は繰り返した。
「殿様はお屋敷ではどなたにもお会いいたしません」
田中が来ることは伝わってはいなかったのである。
呆然としている青年を気の毒に思ったのか、女性は言葉を継いだ。
「殿様は午前十時までに本郷上富士前町の理化学研究所へお出かけになります。どうぞ、そちらの方へ」
それだけ言うと障子はするすると閉まってしまった。本郷上富士前町の理化学研究所と彼女が言ったと正確に分かったのは後のことで、ここでもまた東京弁の早口に阻まれた。全部を聞き取れなかったのである。それに、彼女の形の良い唇から流れ出したのはこれまで耳にしたことのない上品な言葉だった。殿様はお屋敷ではどなたにもお会いいたしません……。
本郷……。口の中でつぶやきながら、玄関の白っぽい障子をただ眺める。お上りさんの田中には本郷がどこにあるのかさっぱり分からない。
要するに、門前払いされたのだった。そのことだけがよく分かった。
東京でただ一か所知っているのは日本橋の井上工業だった。雪の中をとぼとぼと歩いて帰る。凍った水分が靴へにじみ込み、足先の感覚がなくなるほど冷たかった。
大河内邸に書生として住みつき学校に通うという夢は空しく散った。広い東京の中、大河内以外に頼るところを知らない。金は腹巻の中の十円札だけである。雪深い越後から出てきた青年の|顛末《てんまつ》はこのような場合どのようなことになるのだろうか。意気消沈し再び柏崎に戻るのか。あてどもなくさまよい、社会の底辺に沈むのか。
田中には東京への憧れと憎しみとが混在している。
思い出せば、数え年六つのとき関東大震災があった。小学校の庭で遊んでいたら突然上下動の激しい地震を感じた。関東大震災は新潟にまで及んだのだ。
翌日、たくさんの人々が東京から帰ってきた。越後では出稼ぎに行っている人が多い。
祖父は健在で、東京から戻ってきた人々に同情し山の木や田んぼを売って金を作ってやった。東京の人々は再び上京するとき、体がふらつくほどの大量の米や味噌をかついで行った。
田中は子供心にも、そういう東京の人々を憎んだ。母は朝まだ明けぬうちから田んぼに出て働く。東京の人々がかついだものはそういう母の汗の結晶ではないか。よくも無神経に嬉々として他人の汗の結晶を持ち去ることができるものだ。
地方から東京に出てきた人々には、大なり小なりこの大都会へのアンビバレンス(愛憎)がある。憧れと憎しみ。新しい刺激を受ける喜びと嫌悪。東京への違和感が地方出身者を結び付け団結力となり、上昇へのエネルギーとなる。気がついてみたら|恬淡《てんたん》とした東京出身者が押しのけられ権力の中心に地方出身者が座り、東京のダイナミズムの原動力となる。こんな風景があちこちで見られる。
田中の場合も例外ではなかった。
後年の田中は越後から出てきた若者の面倒をよく見て、多くの書生を目白の屋敷に住まわせた。新潟県人に会うと「おお、本県人か」と言って嬉しそうに握手を求めたものだ。
東京における新潟県人の団結力というのはまた格別で、『県民性』(中公新書)の著者・祖父江孝男氏は機関紙の発行状況、総会、忘年会、新年会、展覧会、親睦会、集団就職激励会、県人会の歴史の古さなど県人会の活発度を比較している。ミシュランのレストラン・ランキング風にそれぞれに★印を記しているわけだが、全項目について★三つの県が二つある。
新潟県と山口県。
しかし、両者は大いに性格が異なり、山口県人会の名は「防長倶楽部」。日露戦争直後に発足。最初のうちは会員を高級官僚、県の役人、少将以上の軍人に限ったエリート・クラブだった。
一方、新潟県人会は独立した建物を持ち、県出身者の寄り合い所のような性格を持つ。県人のための宿泊施設も整い、受験期には三、四十人の学生が泊まる。
もともと新潟県は浄土真宗の土地で間引きは罪としたから自然と人口は多くなり、江戸末期から出稼ぎが当たり前になった。江戸の米つきはほとんどが越後人だったと言われるし、公衆浴場や豆腐屋の主人も新潟県人が多かった。働き者の多い新潟県人は広いお江戸の空の下で肩を寄せ合い、ぬくもり合って生きてきたのである。
大河内家の書生になる夢を失った田中だが、次にとった行動は機敏だった。井上工業東京支店長の吉田に頼み込んだ。
「わたしは学校に行くため上京したんだから、故郷に引き返すわけにはいかない。ここに置いて使ってもらえませんか」
田中の必死の面持ちに押されて吉田はうなずいた。
こうして昼は井上工業の小僧として働き、夜は神田猿楽町の私立中央工学校の土木科で学ぶことになった。土建会社の小僧になったからでもあるが、柏崎で土方の手伝いをしていたとき見知らぬおじさんから言われた「土方は地球の彫刻家だ」という言葉も耳に残っていた。学校の科目は土木、建築、機械、製図などだったが、それほど難しくはない。数学が得意だったから、そのうち代講まで務めるほどになった。
田中の働き振りは本社のある高崎にも伝わっていたようだ。前出の福田赳夫は自筆による『回顧九十年』で、「田中氏の名は高崎でも知っている人がいて『角どん』と呼んでいた。田中氏が政界で頭角を現してきたころ、『角どんもえらくなったものだ』と言われていた」と書いている。
井上工業での日常は朝五時起床。食事をすませ工事現場に飛び出す。夕方五時頃まで現場を手伝って自転車を走らせ、始業時間にすべり込む。
労働は苦痛ではなかった。炎天下の土方仕事もやったし故郷の母の苦労を思うとどうということもない。
しかし、田中は持ち前の短気さがたたってこの井上工業を辞めてしまうことになる。
その年の夏、井上工業は三河島の第三|峡田《はけた》小学校の新築工事を請け負い、田中は強い日差しの中で屋根の上、スレートを並べる手伝いをしていた。スレートを重ねた部分にドリルで小さな穴を開ける作業なのだが、これがなかなか難しい。力を入れると割れてしまうし、慎重にやっていると時間に間に合わない。スレートがたまたま二、三枚続けて割れたところに現場監督がやってきて何やら大声で怒鳴った。
小学校時代、濡れ衣を着せられて硯を叩き割ったように田中には短気なところがある。
自分が一生懸命やっているのにその怒鳴り方はなんだ。こう怒鳴り返したかったが、言葉がなめらかに出てこない。無言で立ち上がりスレートの上をどしどし歩いた。スレートがばしばしと音を立てて割れた。おまけに積み重ねてあるスレートにドリルを強引に押しつけたためみな割れた。
監督は呆気にとられていたが、田中はそのまま自転車に乗って帰ってしまった。
かくなるうえは会社を辞めるしかない。
新聞広告を頼りに小石川の水道端にある保険の業界紙に書生として住みついたり、高砂商会という名の貿易商に勤めたり、転々と職は変わったが、土木学校の方は帰郷した数日を除いて一日も休んだことはない。これに加えて神田三崎町にある研数学館や英語学校に通い、商業学校の四年に編入してもらい猛烈に勉強する。手当たり次第に暗記する。
田中が終生尊敬して止まなかった人物に故郷の高等小学校校長をしていた草間道之輔がいる。この草間校長の言葉に「人間の脳は数多いモーターの集まりである」というのがあった。普通の人間はその中の十個か十五個のモーターを回しているに過ぎない。それで十分生きていける。しかし、脳の中のモーターは努力すれば何百個でも何千個でも回せる。それには勉強することであり、とりわけ暗記することである。自分たち一人一人の中に、世界的学者である野口英世になれるモーターのあることを忘れるな――というのだった。
草間校長には立派な口髭があった。のちに田中が同じような髭を生やすようになったのはその真似ではないか。校訓は「至誠の人、真の勇者」。西山町町役場正面には草間校長の顕彰碑があり、この校訓が記されている。|揮毫《きごう》したのは田中自身である。
暗記せよの言葉を真に受けて広辞林のページを一枚ずつ破りとりポケットに入れ全部暗記したら捨てるという作業を繰り返しもした。コンサイスでも同じことを試みた。
のちにコンピューター付きのブルドーザーと呼ばれるようになるが、天性の記憶力に加え若い頃の異常なほどの努力が彼の脳細胞の活動部分を拡げたのは間違いない。
田中はやがて土木学校での勉強ぶりが認められ、中村勇吉という経営者のもとで設計技術者として仕事をすることになる。宮仕えではあるが、以前のような小僧まがいではない。れっきとした技術者である。
中村事務所に勤めたことは思わぬ幸運をもたらした。事務所があの大河内正敏が所長を務める理化学研究所の仕事を請け負っていたのである。大河内は新設した理化学興業を軸に新しいプロジェクトをどんどん進めていた。これに対応して中村事務所も陣容を整える必要があり田中を雇ったのだった。
東京にやってきた翌日、下谷区谷中清水一番地の大河内邸で門前払いを食わされて悲しい思いをしてからおよそ二年半。再び大河内所長との関係ができることはあるまいと思っていたのが、ひょんなことで道が開けた。
理研コンツェルンの本社は本郷上富士前町から日比谷交差点の角の美松ビルに引っ越していた。田中はそのビルの五階にある理化学興業の企画設計課に足繁く通った。新しい工場の設置を立案する部門だったし、たまたま同郷の人間が技師をしていたこともある。
理研グループでは大河内は神格化されており、多くの博士の中で「先生」の名で呼ばれるのは彼一人。朝の出勤時にはエレベーターが混雑したが、大河内の乗っているときはみな遠慮して乗らない。
ところが、ある朝田中がエレベーターに飛び込んだところ老紳士が入ってきた。数人の社員が待っていたはずなのに彼らは乗らない。
この人があの大河内だと直感したが、エレベーターは動き出してしまった。大河内の部屋は六階。「五階」とエレベーターボーイに大声で告げ、大河内に目礼して降りた。
ただそれだけのことだったが、興奮してその夜小料理屋でお銚子を数本空けた。あの大雪の中を歩いてとぼとぼと井上工業に戻った日のことが思い出されてならなかった。大河内の放つオーラが身に染みわたるような気分にひたった。
それから一週間後、田中の前半生を決める出来事が起きた。
朝、エレベーターに乗ろうとしたら、大河内の姿を見た。同乗を避けるつもりで脇に一歩退いたら、「君も一緒に乗りたまえ」と声をかけられたのである。
一週間前の、無遠慮にも同乗した田中を大河内は覚えていたらしく微笑んでいる。恐縮して五階では降りず、大河内を見送ってから逆戻りするつもりでいたら、六階で大河内に尋ねられた。
「君はここじゃないの?」
「五階です」
と慌てて答える。
その日、大河内の部屋に呼ばれた。田中はこれまでの経緯を正直に話した。眼鏡の奥で柔和な笑みを浮かべながら、大河内は「君はいまでも理研に入りたいかね」と問うた。
「はい」と答えれば理研の社員に採用してくれたことだろう。しかし「はい」と答える代わりに、中村事務所に勤めていると告げた。いまの仕事も十分に面白くもあったのだ。
大河内はうなずいて、励ましてくれた。
「勉強しなさいよ」
以来、田中は理研と深い関係を持ち、多くのプロジェクトを引き受けることになる。
やがて田中は中村事務所を辞めて、会社を設立する。社長の中村が応召になったこともあるし、呑み仲間の一人が泥酔して溝に落ち、死んでしまったことへの責任を感じたこともあっての退社だった。
昭和十一年三月。中央工学校を卒業した田中は、神田錦町三丁目のアパートに「共栄建築事務所」という名の会社を設立した。弱冠十九歳の社長だった。
会社は機械の製図や機械基礎の計算などですべり出し、理研グループの工場建設、設備の設置などの仕事を手広く引き受けるようになる。設計から測量、試案の作成、計算、仕様書の作成、工事業者の選定、工事監督となにからなにまで全部自分でやる超繁忙の日々だが、充実していた。小千谷、柿崎、柏崎などにも頻繁に出張し、新潟の地理や風土の全体図を次第につかんでいった。これがのちに政治家になって地元の陳情を受けるときどれほど役に立ったことか。
この頃から青年実業家としての財政的基盤は固まっていく。
徴兵となり中国東北部(満州)に行くことになったのは、それから二年後の昭和十三年のことである。盛岡騎兵第三旅団第二十四連隊第一中隊付だった。盛岡騎兵第三旅団は在満勤務だった。子供の頃から馬に乗っていたと徴兵検査で答えたので騎兵科に配属された。
蘆溝橋をはさんで対峙していた日中両軍が銃火を交わし、全面戦争に突入していったのが前年の昭和十二年。中国大陸は風雲急を告げていた。関東軍が柳条湖の満鉄線路爆破を理由に満州での戦線を拡大したのが昭和六年。翌七年、満州国設立。次いで八年、国際連盟脱退。日本はずるずると中国大陸の泥沼に引きずり込まれようとしていた。田中はその真っ只中に放り込まれたのである。
第三旅団の面々は広島に集められ、|宇品《うじな》から貨物船に乗せられて関門海峡から玄界灘を通り朝鮮の|羅津《ナチン》港に入った。しかし、ここで三日待たされる。
みな玄界灘の揺れで参っていた。兵隊たちは船底にむしろを敷いて横になっている。炊事場は上にあり梯子を登っていかねばならない。当番が回ってきても行きたくないという兵隊も多かった。
このとき田中と同郷の横田正治がおり、むしろの上にひっくり返っている組に入っていた。ところが、いきたくないという人間と交代してやり気軽に上がっていく男がいた。元気なやつもいるものだと思った。
これが田中だった。
明日の命も分からぬ身。港の中で待たされているといらいらもする。すると、田中は帳面のページを破いてから周囲の者に色鉛筆はあるかと尋ねた。誰かが差し出すと普通の鉛筆と両方を用いて春画を描いてみせた。玄人はだしの見事さでみな息を呑んだ。サービス精神旺盛だったのである。
それから十年余りの歳月が過ぎ昭和二十五年の暮れ、横田は柏崎の駅でばったり田中に出会う。黒い中折れ帽子をかぶり駅の待合室でたった一人座っていた。「オー、元気だったかネ」とお互いに声をかけ合い再会を懐かしむ。
当時田中は炭管疑獄による獄中選挙を乗り切って一年後のころで、地盤はまだ固まってはいない。横田は喜んで助けることにし、彼を軸に「愛馬会」が生まれた。戦友による後援組織である。
新潟県にはほかにも戦友がいた。中隊で一緒だったのが栃尾市近くに住む今井光隆。兵隊当時の田中は体が痩せており八十キロ近くある飼料を運ぶのに苦しそうだった。兵役に取られる前まで農業に|勤《いそ》しんでいた今井にはそれほど重くはなく、よく田中を助けてやった。
昭和二十二年四月、田中の演説会が栃尾市の劇場であった。今井は懐かしく思い、劇場の入り口で田中の出てくるのを待った。すたすたと歩いてきた田中の足が今井を見てはたと止まった。
「今井じゃねかネ!」
田中は大声を出した。二人は近くの小料理屋に行き杯を交わす。田中は今井に頭を下げた。
「前回は落ちた。今度は是非とも当選したい。頼む」
今井の住所は栃尾のそばだが行政区の異なる北谷村である。しかし、田中のために一肌脱ぐことにした。栃尾にはやはり戦友で西川慶作という男がおり、応援に加わった。
戦友では松木正次という長岡の駅の案内係をしている男もいた。今日中にどうしても小千谷まで行きたいという田中のために、保線用のトロッコを走らせてやったこともある。公私混淆の行為で、いまなら到底許されることではないし、列車の便数も増えているから危険でもある。当時は牧歌的な世の中だったから、田中は松木の漕ぐトロッコに乗ってことんことんと小千谷まで行けたのだ。
こうしたエピソードからも分かるように兵隊時代の田中は朋輩から親しまれていたようだ。気前も良かったのである。入隊するとき二百円ほどの大金を持ってきたが途中で兵隊たちに大盤振る舞いするうちに財布の中が空になっていた。がき大将の子供の頃から人に振る舞うのが好きだった。
部隊の駐屯地は北満州・松花江のほとりにある富錦。
翌昭和十四年、ノモンハン事件が起きる。満州国とモンゴル人民共和国の国境ノモンハンで日ソ両軍が大規模な武力衝突を起こした事件で、日本軍は完膚なきまでに打ちのめされたが、その事実をひた隠しに隠した。
ノモンハン事件とともに田中の中隊は富錦からソ連との北部国境線である平陽鎮に移動し、命令があればウラジオストックに進む態勢をとった。
ノモンハン事件はうやむやのうちに終わったが、一年後の昭和十五年十一月の終わり、田中は肺炎で高熱を発し意識不明となって野戦病院に入院させられる。
二、三日で治ると思っていたのだが、とんでもない重症で右乾性胸膜炎併発。旅団本部の宝清に送られ、さらに内地送還になってしまった。着いたのは大阪の天王山にある日赤病院。
ところが入院中、下から二番目の妹・トシ江が肺を病んで悪化しているとの知らせを姉からもらった。自分の病状は少しずつよくなっていると勝手に決め込み、故郷に帰る。すぐ下の妹は田中が満州に駐屯している間にやはり肺を悪くして亡くなっている。
床に臥せていた妹は田中の姿を見ると、どこにそのような力が隠されていたのかと思うほどの勢いで立ち上がり、兄の胸に飛び込んできてしがみついた。体はすっかり痩せこけている。やがて力が抜けたらしく崩れ落ちた。荒い息づかいだけが残った。
軍籍にある者は長くはとどまれない。一晩で別れを告げ日赤病院に戻る。故郷に戻ったのが悪かったらしい。ひどい熱が出て二、三日後、関東、東北方面の陸軍病院に患者を転送する列車に乗せられ、仙台陸軍病院宮城野原分院に入れられた。盛岡騎兵隊に専属する病院である。
四月初旬だったが雪があった。下士官たちは担架の上の田中を残雪の上に置いたまま上官に輸送状況を延々と報告した。地面は凍てついている。その上に自分の体がある。寒いという感覚が消え、体は他人の持ち物のようだ。意識朦朧として空を見上げる。空は妙に澄んでいて美しい。吸い取られるような青さである。肉体が滅びようとしているとき、感覚だけが突出して、空の青さを写し取っている。その青さがのちになって不意に蘇ることがよくあった。
田中は個室に入れられた。ようやく事態の深刻さを悟る。陸軍病院では軽い患者は大部屋に、重病人は数人の部屋に、もっと病状が悪くなると個室に入れられる。
兵隊が病気をした場合、軍隊では三回電報を打つ。危篤のときは「病い重し」。死ぬ間際に「危篤」。死んだことが確認されると、「死す」。第一報の「病い重し」と第二報の「危篤」との間で一階級進級が発令される。遠くで聞こえた点呼から、自分が第一報患者であることを知らされる。
やがて妹トシ江の死の知らせが届く。若い身空で他界した娘に次いで今度は長男の「病い重し」の第一報を受け取った母の気持ちはいかばかりか。
二週間あまり四十一度の高熱をさまよう。軍医が衛生兵を連れてきて財布の中のあり金を数えたり紙幣の番号を調べさせたりした。最後に時計の番号を記録する。遺品の始末をするための準備である。これをやられると、患者は大抵数日のうちに病院の裏門から遺体となって出ていく運びとなる。
医者は最後に「食欲があるならなんでも食べていい」と言い残して出ていった。ドアが音を立てて閉まる。暗闇に残された田中は今度ばかりはもうお終いだと観念した。
しかし、よほどの強運の持ち主だったのか、それとも体の芯に本人も気づかぬ生命力が宿っていたのか。奇跡的に生き返った。二、三週間後、病状は回復を始めたのである。
妹のトシ江が兄の病気を背負っていってくれたのだと田中は信じた。
後年、活力溢れる男になる田中だが、その人生には近しい者の死の影が付きまとっている。田中がこの世に生を受ける前に亡くなった長男の角一。二人の妹。そして、妻・はな子との間にもうけた長男の|正法《まさのり》も数え年六つで亡くなった。
余談だが、田中が小沢一郎(自由党党首)を可愛がったのは、この正法と同じ年格好だったからだ。いつも小沢を見ながら秘書に、「生きていたら、あれくらいだな」と言っていた。死と言えば、田中自身も幼いときのジフテリアと屋根から落下してきた雪により、そしてこの肺炎によって死線をさまよった。
田中のエネルギーの奥底には、人生を全うすることもなく死んでいった者の分も生きたいという意識が強く働いていたのだろう。
昭和十六年十月五日、陽性の結核にかかったとされて除隊になった田中は、共栄建築事務所の仕事を大車輪で開始する。もちろん理研との仕事も復活した。
事務所として借りたのは内務省に出入りしていた土木建築業者の家で、坂本木平という名の主人が死んだあと事業を閉鎖し、六十歳近いおばあさんと娘が住んでいた。娘は十年前に一度婿をもらって娘一人を生んだが何かのわけがあり、不縁になっていた。
故郷では遠縁に当たる近藤家の娘が田中の嫁になるとまだ思われていた。父のために借金に行った家の娘である。
しかし、田中の気持ちはこの娘からすでに離れていた。仙台の陸軍病院に入院していたとき一度尋ねてくるようにと言ったにもかかわらず彼女は来なかった。除隊後、故郷からトンボ返りするときも一緒に来ないかと誘ってみたが煮え切らない態度だった。
坂本家のおばあさんに娘を誰かに引き合わせてくれないかと頼まれ、いつも身の回りの細かい気遣いをしてくれることに好意を感じ始めていたこともあってこの娘との結婚を決意した。これが|糟糠《そうこう》の妻となるはな子である。
翌年の三月、桃の節句のとき二人は一緒になった。その夜、はな子は夫に三つの誓いをさせた。第一は出ていけと言わぬこと。第二は足げにしないこと。第三は将来田中が二重橋をわたるときは彼女を同伴すること。それだけだった。いかにもつつましい願いだったが、彼女の初婚の苦労をそこはかとなく物語っている。
はな子は三十一歳。八歳年上だった。万事派手な田中と異なり控えめな女性で、後年田中が政界に打って出たあとも客に料理を出すだけで、話はせずに黙って引き下がった。田中も政治と家庭とは切り離しており彼女に選挙区の世話などは一切させなかったし、外遊に連れていくこともなかった。
昭和十六年十二月、真珠湾攻撃とともに日本は第二次世界大戦に突入。長男・正法についで長女・眞紀子が誕生。共栄建築事務所を田中土建工業株式会社に変更。年間施工実績では全国五十社に数えられるようになる。
しかし、時代は田中に平穏な生活を許しはしなかった。
敗色濃くなった昭和十九年の暮れから陸軍は何を思ったのか理研工業の王子、熊谷、宮内の工場を満州や朝鮮に移すよう軍令を出し始めた。敗戦はあったとしても、連合国の前で無条件降伏を強いられ海外の植民地を全て失うとまでは読んでいなかったのだろう。軍需関係の設備を外地に残そうとしたのである。
田中は王子神谷町にあった理研ピストンリングの工場施設一切を朝鮮の大田に移設する全工事を請け負った。現地工場の計画とその工場建設を一任され、会社の幹部六名を伴って朝鮮に出かけることになった。
現地に着いたのは二十年二月。工場建設のための資材を集めたが、八月になるとソ連軍が国境を越えて侵入してきた。その日から空気が変わった。朝鮮語が幅を利かし日本語が遠慮勝ちになる。
そして八月十五日の玉音放送。敗戦である。
田中は六名の社員とともに十八日の夜、大田駅から釜山に向けて引き揚げる。田中が日本経済新聞に連載した「私の履歴書」によれば、米の積み込みを終えた海防艦が舞鶴軍港へ戻るのでそれまで待つようにと言われ、行って見ると船に乗るのは女性や子供たちだけの集団だったとある。
ところがなぜか第一番に呼び込まれた。船が港を出てから聞いてみたら、「あなた方田中菊栄ほか六名です」と言って笑っていたというのである。乗船名簿には田中角栄と確かに書いたのに、角の字を崩して書くと菊と読める。
角栄を菊栄と間違われたことが幸いして女子供だけの船に乗れたというのだが、話が出来過ぎている。第一、船に乗る前にむくつけき男たち七人がやってきたら、乗務員たちはすぐ分かるはずだ。すぐチェックが入り後回しにされたろう。角栄を菊栄ということにして乗船させたというのが真相ではないだろうか。
それができたのは田中が巨額の資金を持っており、乗船者を決める権力のある人物に鼻薬を利かせたからではないか。
その資金源は理研の工場を移すため軍が支給したものであったかもしれないし、現地の資材を現金に換えたものかもしれない。あの時代、敗戦の知らせとともに民間人はもちろん軍の将校そのものが軍の資材を持ち去って現金に換えることもしばしばあった。全ての秩序がくつがえり、突如として金しか価値のなくなった異常な時代だった。
田中が巨額の資金を手にしていたのは、のちの立候補のいきさつから見ても十分に推察できることである。
ただし、田中が鼻薬を利かせて六人の社員とともにいち早く帰国してきたのを責めるのはいささか酷というものだろう。引き揚げの経験を持つ者なら分かることだが、みなが少しでも金目になる物を身に着け、本土を目指して殺到した。頭巾やモンペの中に宝石や時計を縫い込むこともあった。手段を問わず一刻も早く引き揚げ船に乗ろうとした。自分が助かりたいため、子供を大陸に残した例すらある。
戦争は終わった。民間人には軍規に則して行動する義務はない。田中は持ち前の機敏さを発揮してさっさと帰ってきたということである。
八月二十五日未明、東京へ到着した。
見渡す限りの焼け野原だったが、田中の資産は江戸川河岸の製材工場が焼けただけで飯田町の一、二丁目に点在していた十か所余りの事務所は全部残っていた。疎開のためという理由で買ってくれと頼まれた魚屋まで焼け残っていた。
この年の十一月、田中は以前から会社の顧問になってもらっていた大物代議士、大麻唯男に新橋の料亭に呼ばれる。
大麻は資金を出してくれぬかと頼んだ。話はこうだった。
占領軍が大日本政治会を解散。十二月三十一日には占領軍の命令で衆議院が解散となり、来年の一月三十日には投票になる。選挙に間に合うよう新しい政党として「進歩党」を作った。ところが二人の大物が総裁候補に名乗りを上げお互い譲らず困っている。そこで早く三百万円作ってくれた人を総裁にすることになり、自分は町田忠治を推している。
田中は快く承諾した。
それから半月ほどして、大麻は意外なことを提案してきた。今度の選挙に田中も立候補しないかというのである。最初は乗り気ではなかったが、大麻の側近が盛んに誘いをかけてくる。選挙にはいくらくらいの金が必要なのだと尋ねると、およそ十五万出してくれればいい、黙っておみこしに乗っていればきっと当選するという答えだった。
迷った末、進歩党公認候補として衆議院総選挙に立候補することになる。
昭和二十年十二月のことである。
このとき政治の世界に足を踏み入れたのは、別に国を憂いていたためではない。この点は早くから天皇の官僚としてエリート教育を施された福田赳夫や中曾根康弘とは異なる。上昇志向の強い青年が思わぬ気流をつかんだということだ。大金を持つこのような青年を大麻などの政治家が甘言を弄して利用しようとしなかったら、その後の田中はなかった。大規模な事業をやるような気分で立候補という冒険に打って出た。
しかし、選挙はうまくいかなかった。
このときの選挙は大選挙区で、猫も杓子も立候補した。田中土建の監査役をしていて田中の選挙を助けてくれるはずだった塚田十一郎(元新潟県知事)や長岡地区や三条地区の責任者と定めた者まで自分で立候補してしまった。
のみならず大政翼賛会系統の進歩党は、非翼賛系統の自由党や労働者を母体にした社会党に戦争責任を追及され、不利な戦いを強いられていた。
告示の前日、柏崎の小学校の雨天体操場で立ち会い演説会があった。髪もきれいにしモーニング姿で臨んだのだが、他の候補たちはゴム長靴に労働者風の詰め襟といった格好で労働者や農民の権利を強調したり、憲法を論じたりする。自信が大いにゆらいだ。
告示の日から四日間迷った挙げ句、やはり立候補することにする。これが人生の転機になった。
もしあのとき、立候補を思いとどまっていたら、みずからの土建会社を育て、のちに政治資金を受け取るのではなく渡す方に回っていたかもしれない。
田中は落選した。立候補者三十七名中十一位。得票三万四千六十票。次点だった。
追い込まれると猛然と闘争心を燃やすのが田中の特徴である。落選して初めて「何を」とばかり本気で政治を志した。ことさらに抱負・経綸があったわけではない。自分の才能を駆使して挑戦するに価いする、果てしのない広大な海を発見したのである。
年齢二十七歳。さまざまな変遷はあったが、ここにおいて青年政治家・田中角栄の人生の方向はきっちりと定まった。
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昭和二十年代初めのこと。柏崎の目抜き通りに「田中土建工業新潟支店」と大書した、とんでもなく大きな看板が立った。街行く人々はみなあれはなんだと振り返る。二田村の田中角次の伜が東京でえらく成功したらしいと話題を呼んだ。看板を掲げただけではなく田中土建は大量の若い社員を採用した。のちに越山会の国家老と言われた本間幸一も新潟鉄工から転じ田中土建にこの頃入っている。
田中土建は新潟に事業がないわけではなかったが、敵は本能寺。選挙だった。
落選した昭和二十一年四月中旬、支持者を前に「自分の力が足りませんでした。不徳のいたすところでありますが、次の選挙では|捲土重来《けんどちようらい》を期すつもりであります」と頭を下げている。
選挙区の新潟第三区は上、中越。沿岸部は柏崎から燕・三条にいたる越後線沿線、内陸部は長岡から小千谷、六日町、湯沢に至る上越線沿線周辺。とりわけ上越線沿線は新潟県が福島、群馬両県に向かって深く食い込んだ地帯で、四月でも雪の残る寒村が点在していた。
上越線在来線に乗ると分かることだが、浦佐あたりを過ぎると両側から山並みが次第に迫り、険しい地形になっていく。田中は地下足袋に脚絆の出で立ちでその奥の奥までどんどん入り込んでいった。後を追う者がついていけぬほど脚が速い。天候が悪くても「行けるとこまで行こ」と分け入った。騎兵の経験を生かして馬に乗って行ったこともある。
ほんの数人ほどの村人たちしかいなくても車座になって気軽に話し込んだ。酒が入るとだんだん気が大きくなり、「オラは将来、総理大臣になる」とのたまわった。誰もこの青二才が総理大臣になるなどとは信じなかったが、その豪気さを愛でた。
もちろん田中青年は総理大臣になれると信じていたわけではない。どのように凡庸な政治家でも、末は何になりたいか正直に言えと問えば「総理」と答えるだろう。だが、それは願望に過ぎない。しっかりとした実力と自信、戦略に裏付けられた意志ではない。願望と意志とは似て非なるものである。この頃の田中は単に願望を述べていたに過ぎない。
捲土重来のチャンスは意外に早くやってきた。昭和二十二年五月三日、新憲法施行を前に「内容を民意に問うべき」の声が高まり、第一次吉田内閣は三月三十一日解散に踏み切る。ちょうど落選一年後の選挙だった。
新潟三区は五議席。十一人が立った。激戦である。若さに物を言わせ一日九会場を駆けずり回り、全部で九十余りの言論戦をこなした。
選挙戦の最中、田中陣営には風変わりな応援団が目についた。詰め襟姿の学生たちである。
彼らは早稲田大学雄弁会の面々だった。
労農主義が盛んな時代で、どこに行っても労働者風の男たちが甲高い声で農民たちに社会主義革命の必然を説いていた。そこにやってきた角帽姿の学生たちは、「国破れて山河あり。いま日本に大事なのは家族である。そして、家族の延長が民族であり、その象徴が天皇制ではないか」とぶち上げた。
早大雄弁会の面々が応援演説に駆けつけたのは恩義があったからだ。当時、早大の校舎は老朽化し雨漏りで授業ができないほど傷んでいた。建築業者に頼んで修理してもらうのだが、資材不足のためか手抜き工事が多い。文句を言うとインフレを理由に工事費を上げる。最後に田中土建に頼んだところきちんと修理してくれ、安心して授業ができるようになった。
学生たちの目から見ると、田中はメリハリの利いたカンのいい、いかにも行動的な人物だった。すでにチョビひげを生やしていたからとても二十代には思えぬ貫禄があった。東京では、茶のソフトに茶の背広、茶の靴といった姿で、なかなかのダンディでもあった。
彼らの演説を田中は後方の席でじっと腕を組みながら聴いていた。学生たちは田中よりほんの少し若いだけだが、小学校卒の田中とは違いインテリである。
次の会場で演壇に立った田中は、ちゃっかり学生たちの演説を取り入れていた。ただし、田中風の味付けをして。
「みなさん、家族を大事にしましょ。家族を大事にしねと、この国はようなりませんよ。家族の誰かがこの田中でねえて別の候補に入れると言うても、喧嘩しねでくんなさい。選挙などで家族が喧嘩しねでくんなせえ。みなさんはただ黙って投票場に来てくんなさい。誰も見ていねから、そっと『田中』と書いてくんなせて。お願いします」
二十八歳の田中は初当選を果たした。
三万九千四十三票。堂々の三位である。
この選挙で明らかになったのは、田中の得票にはいちじるしい偏りがあったということだ。
故郷近くの都市、柏崎では一万五千もの票が出たのに、最大の票田である長岡では二千二百余りだった。あとは上越線も奥地に近い南魚沼郡から票が出た。故郷の支持を別とするなら、若い行動力と熱気で寒村地帯を駆け回った結果である。
いよいよ田中青年、国会の赤絨毯を踏んでの初登場である。
この二十二年の選挙では片山哲の率いる社会党が伸び百四十三議席。第一党になった。吉田茂の自由党は百三十一議席で第二党。
ただし、社会党は過半数に遠く、芦田均の民主党が百二十四議席を押さえている。田中はこの第三党の民主党に所属している。
片山は連立を目指し動く。自由党は最初から連立に不参加を決定。民主党の去就が焦点になっていた。
その民主党は連立に傾く芦田派と自由党と手を組もうとする幣原喜重郎派とに分かれていた。田中は社会党が嫌いで、幣原派に属している。そのはずで選挙では「我々農民と労働者は一致団結して保守反動を倒さねばならぬ」と声高に叫ぶ連中にさんざんいじめられたからである。
民主党内では連立派が大勢を占め、社会・民主・国協の連立政権がスタートするが、この内閣は基盤が|脆弱《ぜいじやく》だった。
にもかかわらず、理想家肌の片山首相は英国労働党に学んで石炭産業の国有化を目指し、「臨時石炭鉱業管理法案」(炭管)を提出。国会は紛糾した。その年の十月、同法案は骨抜きにされて可決されたが、幣原派は造反して反対票を投じ民主党を脱党。同志クラブを結成。田中は「黒い石炭を赤くするな」と叫び、反対の急先鋒に回った。衆議院の机をぽんぽんと八艘飛びして渡り相手の胸ぐらをつかむ。その行動力で一躍勇名を馳せた。
同志クラブは翌昭和二十三年三月、自由党と合同して民主自由党となる。同時に田中は選挙部長となったのである。
代議士一年生が選挙部長になれる波乱の時代だった。田中は異能異才振りを発揮した。民自党のみならず他党の議員も含め、選挙事情をも網羅した全国選挙地図を作り上げていたのである。
長い間事業経営に携わってきた田中のやることは具体的だった。民自党に属する議員の生年月日、学歴、家族構成、人脈、資金力、選挙区の人口構成、有権者数、支持率、はてはその地区の産業構造、所得水準まで調べ上げる。敵方の政党の政治家についても同じことをやった。
そのうえで、どこを攻めれば相手方の陣営を崩せるかを民自党の代議士に教える。
ずぼらで計数に大雑把な吉田は田中の能力を高く評価した。
昭和二十三年三月、片山内閣は倒れ芦田内閣へ。しかし、芦田内閣は昭電疑獄の表面化によってあえなく七か月で命運がつきる。民自党の青年将校として芦田を鋭く追及して窮地に追い込んだのが田中だった。
このとき大蔵省主計局長のポストにあり、昭電への融資で特別便宜を図ったとの理由で事件に巻き込まれたのが、福田赳夫だった。福田はこの事件で無罪となるが、次官目前のところで大蔵省を辞めざるをえなくなる。そして、やがて政界に打って出る。仮に民自党が昭電疑獄を追及せず大蔵次官に無事なっていたら、福田はエリート官僚として別の人生を歩んだことだろう。
田中は嗅覚が鋭い。吉田の先物を買った。
芦田内閣総辞職のあとを引き継ぐのは野党第一党の民自党だったが、GHQの意向は吉田にはないとの噂が流れた。吉田が保守反動だというのである。当時のGHQは革新的気風のニューディール派が全盛で日本の民主化に書生っぽい熱意を燃やしていたから、ありうる話だった。
民自党副幹事長の山口喜久一郎は「GHQは民自党幹事長の山崎猛を首班とするよう望んでいる」と言って回り、吉田に総裁引退を迫った。のちに白足袋のワンマンとして鳴らした吉田だが、その頃はまだ力がなく押し切られそうになった。党総務会で引退声明をさせられそうになったのである。
このとき再び田中が活躍する。蛮声を上げて「待った!」と反対を唱え、場内は大混乱。山口たちのシナリオはもろくも崩れ去ってしまう。
その年の十月、第二次吉田内閣発足。田中は数ある功績を認められ法務政務次官に抜擢された。
しかし、好事魔多し。翌月の十一月十一日、田中の自宅と田中土建工業本社が東京高検によって家宅捜索された。炭管法案を葬り去るため業者から運動資金を受け取ったという収賄容疑だった。炭鉱関係の事業を請け負うため関係者に金を渡していたという贈賄容疑も加わった。
当時の日本では経済の再建を一刻も早く実現するため、鉄と石炭の生産に国家資金を集中的に投入しようとしていた。いわゆる傾斜生産方式である。石炭を増産するには炭鉱夫とその家族の住む住宅を用意しなければならない。その住宅のことを炭住と呼び、田中土建工業はその受注に奔走していた。
田中は業者から百万円を受け取っていたことを認めた。しかし、これは「炭住工事の前渡し金である」と主張した。
だが、世論の批判は厳しく約二週間後、法務次官を辞任せざるをえなくなる。東京高検は田中の逮捕状を地裁に請求。地裁は国会に逮捕許諾請求の手続きをとる。民自党は国会が逮捕許諾決議をする前に辞任するよう田中に勧告。田中はこれを拒否。衆議院本会議で逮捕許諾を決議。田中は小菅拘置所内に収容されることになる。
一か月後、吉田は衆議院を解散した。
小菅拘置所内で立候補宣言した田中が、雪深い選挙区で凄まじい気迫で頑張ったことはプロローグで書いた通りだ。
付け加えるなら、この頃、田中は事業に生きるか、政治の世界でもう一度はい上がるかの瀬戸際に立っていた。田中土建工業の経営状態がきわめて悪くなっていたのである。
炭管事件で炭住の事業は回ってこなくなってしまったし、折からの猛烈なインフレで資材の不足をきたしていた。田中土建工業の役員の一人として田中の政治活動と事業の双方を支えていた入内島金一は、「ここに三十万円の金がある。これで選挙をやれば勝てるかもしれないが、使ってしまうと田中土建はつぶれる。どうする?」と迫る。その頃、田中土建工業は信濃川の長生橋上流で護岸工事をしていたが、金がなくて労災保険を払えず当局から差し押えまで食らっていたほどだった。
田中は政治の世界を選んだ。
やっとのことで当選。翌昭和二十五年四月、東京地裁は田中に懲役六か月(執行猶予二年)の刑を言い渡したが、田中は直ちに控訴。
二十六年六月、逮捕以来二年半、ついに無罪を勝ち取った。
炭管は実に苦い経験だったが、ひとつだけ収穫を得た。敏腕弁護士の正木亮の知遇を得たことである。正木とはその後長く付き合い、田中の金脈の一人と言われた国際興業社長(当時)の小佐野賢治を紹介される。
正木は明治二十五年生まれ。教育すれば重罪人も立派な社会人になれるという教育刑論の持ち主で市ヶ谷や小菅監獄に志願囚として体験入獄までした。死刑廃止論者としても知られており、小佐野の若いときから法律顧問となった。
炭管疑獄の大ピンチを乗り切った田中だが、事業は失敗。金はなし。恩師・草間道之輔の作ってくれた教育界の支持者はみなインテリだったから炭管汚職に嫌気がさして離れていく。満身創痍とはこのことで、失地回復のためには地べたからはい上がるような努力を迫られていたが、幸運なことに次の選挙まで三年七か月が与えられた。ほぼ任期一杯の期間である。ここで次の戦いのための力を蓄えることになる。
昭和二十五年の初め、東京・飯田橋の田中土建の事務所に二人の男が田中に会いにやってきた。名刺には「長鉄復興運営協議会会長・山崎豊吉」、「同副会長・風間信吉」とある。
田中土建は整理目前とあって田中の意気は上がらない。
二人が切り出したのは、新潟県三島郡を走る長岡鉄道の社長に就任して経営を再建してくれないかという頼みだった。
大正四年十月に開業した長岡鉄道は、昔懐かしの蒸気機関車を勢いよく黒煙を上げて走らせているが、時速十五キロ。わずか二両編成。車両は国鉄より小さく軽便鉄道のようだった。雪に弱くすぐ不通になる。機関車の破れ目に粘土を詰めているとまで言われた。
しかし、三島郡寺泊─西長岡三十二キロ、西長岡─三島郡越路町来迎寺間三十九キロを走るこの鉄道は、三島郡住民の大動脈になっていた。住民たちは長岡はもちろん隣村に行くにもこれに乗ったし、米などの出荷や肥料の入荷のため欠かすことのできぬルートでもある。
しかし、折からの石炭不足がたたり大赤字。廃線直前の状態に追い込まれていた。この会社を立て直すには蒸気機関車を止め、電化するしかない。電化には膨大な金がかかる。その金は地元だけでは調達できない。政治力に頼って国の資金を出してもらわねばならない。ここはどうか田中センセイに一肌脱いでいただきたいという頼みだった。
田中は断った。
「オレは刈羽郡の出だ。三島には縁がない。若輩のオレより三島郡には|亘《わたり》先生がいなさるだろ」
亘というのは亘四郎のことで、港町・寺泊の出身。名望家でもある。田中と同じ三区の有力代議士だった。
山崎たちは田中に言われるまでもなく亘にはすでに頼んでいたが、「その任ではない」とすでに断られていた。長鉄の電化はそれほどの難事業だった。
思いあぐんでとうとう社会党の代議士にまで頼みに行ったが、もちろん駄目。田中は最後の頼みの綱だったのだ。
山崎たちは七、八回田中のところに足を運ぶ。
その年の九月頃、田中はついにうんと言う。決め手は山崎の放った一言。「電化できれば三島郡から大量の票が出る」だった。
いったんこれと決めれば田中は徹底している。長岡鉄道の経営状況を事細かに調査して把握した。長岡鉄道の労組委員長の千羽幸治が上京して会うと、「沿線住民、株主、従業員が一丸となってくれるなら引き受けてもいい。組合には経理を公開してもいい」と大きな声で言った。
十一月のある午後、長鉄の臨時株主総会が開かれた。社長に就任した田中は大見得を切る。
「昨日オヤジ(角次)からオレの目の黒いうちは赤字会社の社長なんぞになるな、と叱られた。だが、私は社長を引き受けた。社長になったからには三島郡悲願の電化に全力を挙げて取り組む。私も男だ。もし失敗したら二度と故郷の土は踏まないつもりだ」
翌日から路線をくまなく視察するとともに役員全員を無報酬にした。
そして翌二十六年六月、どんなマジックを使ったのか、日本開発銀行から総工費一億三千万円のうち一億二千八百万円の融資を引き出してきたのである。
憶測だが、吉田茂に近く、のちに財界四天王と呼ばれるようになる小林|中《あたる》に頼み込んだのではないか。財界四天王とは小林のほか永野重雄富士製鉄社長(当時)、水野成夫国策パルプ社長、桜田武日清紡社長のことで、小林は当時、発足間もない日本開発銀行の初代総裁の任にあった。
ところが融資を引き出したのはいいが、開銀はその実行を翌年の二十七年に延ばしたいと言ってきたのである。その代わりに二十六年分については日本興業銀行など三行を紹介してくれたが、その三行は一億二千八百万円の融資のうち半分しか出せないと言う。
再びピンチが襲った。工事は二十六年の九月に起工式をしており、三島郡の住民に対してこの年の十二月一日に初電車を走らせると約束してしまったのだ。もし、電車が走らなかったら三島住民は落胆するだけではなく、残る半分の融資も開銀から来ないかもしれない。当てにしていた票もついて来ない。
難事業の工事を三か月でやると公約してしまうのだから、木下藤吉郎の|墨俣《すのまた》城構築にも似て無茶な話だが、陣頭指揮で夜も眠らぬ突貫工事を重ねた。
いよいよ十一月三十日夜、工事は一応完成して試運転開始。電車は六両。
ところが、パンタグラフが次々に故障する。五両目まで全て駄目。工事を急いだため架線と架線がうまく結合していなかったのだ。最後の一両を走らせるか。
田中は叫んだ。
「出せ! これが駄目だったら、あした、オレは土下座してみんなに謝るさ」
最後の一両は田中の気迫に呑まれたように走り出した。翌朝、沿線の全ての踏み切りに住民たちが立ち並び日の丸を振って歓迎した。万歳万歳の声が沸き上がった。
この電化によって長岡鉄道の営業時間も大幅に延び、運行本数も一日八往復から十六往復へと増えた。
翌二十七年八月、衆議院は抜き打ち解散となる。吉田茂率いる民自党は二年前の二十五年三月、民主党の連立派と合同し自由党に衣替えしている。
三島郡の住民たちと長鉄の従業員は電化の恩義に報いた。長鉄は盛んに野球の試合や釣り大会を催し優勝者に田中杯を授与した。田中の名前を広めるためだ。いまでいう企業ぐるみ選挙のはしりで労使が一体化して田中を担いだ。
得票数は六万二千七百八十八票。初のトップ当選だった。三島郡での得票は前回の二千六百二十六票から九千八百四十三票へと三・八倍に増えた。
ちなみにこのときの選挙で、福田赳夫が初当選を果たしている。福田と同じ選挙区の中曾根康弘は、田中と同じ昭和二十二年にすでに初当選している。以来、福田と中曾根は犬猿の仲となり、高崎市の工場に通う従業員たちは福田派と中曾根派に二分し入り口も出口も違うところを使うとまで言われるほどになった。地元の経済人たちも気を使い、福田派の人間が訪れたときは福田の、中曾根派のときは中曾根の書を応接間に掛け替えるというありさまだった。
さて、長鉄の電化は三島における田中の票を固めただけではない。のちに栃尾鉄道、中越自動車と合併して越後交通となり、越山会の総本山となるのである。
電化を果たし瀕死の状態から抜け出したとはいえ、長鉄はまだ赤字経営だった。田中はこの長鉄の定款にある鉄道、バス、ハイヤー営業に砂利採集を加えた。起死回生の一手である。
このとき、長鉄の砂利部長になり大いに働いたのが小林凡平だった。
小林は岡山県出身。田中との縁はひょんなことから生まれた。商業学校を出て三井物産の船舶部に配属されていたが、昭和十七年に応召。ニューブリテン島に送られた。ニューギニアの東方に浮かぶ、外南洋と当時呼ばれたはるか波濤の彼方の南の島である。
ここで小林は田中の従兄弟である田中信雄と同じ隊になった。明日の命も知れぬ身だったが、田中信雄は「もし、無事に帰還できたら従兄弟の土建会社を手伝おうと思っている」と語り、「お前も来ないか」と誘ったのである。「貴様、生きて帰るつもりなのか」とうつろな思いで苦笑したが、ある夜海岸で二人で黙って月を眺めているうちに、ふとその気になった。昭和十八年帰還。隊の半分が残ったがのちに全滅。
三井を辞めるというと親兄弟は反対したが、小林は戦友との約束の方を大事にした。
こうして小林は田中のもとで働くことになる。田中は疲れを知らぬ男でみずからもよく働いたが、人使いも荒かった。セメントを担がせたり馬車を引っ張らせたり、軍隊時代同様の肉体労働を強いられた。しかし、待遇は破格で月給は百二十円。物産を辞めたときの月給が六、七十円だったからおよそ倍になった。
肩書は庶務課長。信雄は経理課長。田中は「お前たちは中隊長だから頑張れ」と尻を叩いた。
小林が長鉄の社長になった田中と信濃川を眺めていた昭和二十六年の初め頃のことだ。田中が突然うなった。
「おい、小林。ここにすごい資源が眠っているぞ」
田中の目は川の流れではなく砂利に釘付けになっていた。それまでも建設会社が砂利は採集していたが、ふるいの両端を二人の労働者が持って砂を落とす作業しかしていなかった。ドレーザーを運び込み、機械を使った流れ作業で砂利を採集することにしたのである。
砂利は線路の下に使うだけではない。土木事業にいくらでも需要がある。これが長鉄の赤字縮小に大きく役立った。
三区でトップ当選を果たしたとはいえ、田中はまだ都市では支持層の薄い農村政治家である。郡部でも街部では弱い。
昭和二十二年の選挙から田中を助けた戦友の一人、今井光隆は選挙戦の最中、栃尾の街を歩いたときの辛さを振り返る。
栃尾は|機屋《はたや》の老舗が多い。機屋の下には糸屋や染物屋などがつながり、封建的なピラミッド構造をなしていた。ここは名門の出である大野市郎の地盤で、彼の後援会である大和会のメンバーでないとまともな扱いをされなかった。
うっかり機屋の前をスピーカーを響かせながら通ると、中から人が出てきて「うろうろしんな」と叱られた。機屋の前を通るときにはスピーカーを消し黙って足早に歩み去ったものだ。
栃尾が田中の地盤になったのはあとあとのこと。総理大臣になる直前、通産大臣を務めたとき日米繊維交渉の解決策として構造改善事業を打ち出し、多額の補助金を地元にもたらすまで待たねばならない。
三条市では、演説をしても猛烈に野次られるだけで、田中はついに頭から湯気を出して怒った。
「三条からは一票もいらね。だあすけ、人の言うことを黙って聞かっしゃい」
別表を見ていただきたい。新潟県と越山会の数字をもとに地区別・時系列別に田中の得票率を計算したものである。田中の故郷に近い柏崎は別として大票田の長岡、三条、栃尾の得票率は昭和三十年代の半ば、あるいは四十年代になるまで低迷している。
その代わり農村地域では田中票は安定的に伸びている。毛沢東にならったわけではないが、農村から都市を包囲したのである。別にそういう戦略を初めから立てて実行したのではない。それより他に方法がなかったに過ぎない。
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それまでの政治家とは金持ちの旦那衆が多く、田中のように村の民家で大あぐらをかき一緒に親しく話をする政治家などはいなかった。農村を固めるという政治は農民とじかに接するという方法でしか実行できなかった。
農村から攻め上がるしか方法のなかった田中ではあるが、そのことを積み重ねるうちに政治家としての個性と独自の方法とを確立していった。政治家としてのアイデンティティを獲得したと言ってもいいだろう。
一言で言うなら、「貧しさからの脱却」を目指す政治家である。田中個人もまた貧しさから抜け出すために血みどろの努力をしてきた男である。寒村の農民たちも理屈より先にまず「明日の飯」を渇望していた。新潟県は当時は裏日本などと呼ばれ、一年の三分の一を雪に閉ざされた恵まれない地域として知られていた。県民もまた太平洋側との格差をひしひしと感じていた。いや、敗戦の爪痕を深く残す日本にとっても最大の課題は貧しさからの脱却ではなかったか。
経済中心主義。実利を尊ぶ。これが田中の政治を貫くキーワードである。
大衆はイメージと中身とが一致する、言い換えるなら心の中が透けて見えるような人間を愛する。田中がその半生から身に着けた発想、行動パターン、言動は実に分かりやすかった。いくら偉そうなことを言っても、食べていけなければどうにもなりはしないではないか――。農民たちは田中の根本にあるそういう考え方に同感したのである。
田中を熱烈に支えたのがどのような人々だったのか、紹介してみよう。
平石金次郎、八十六歳。越路地区の越山会会長を務めたことがある。越路に本社を置く岩塚製菓の創立者。岩塚製菓は店頭市場に登録しており、米菓では業界第三位の優良企業である。
平石は自作農の家に生まれた。尋常小学校三年生まで学校に通う。学歴では田中に似ている。
この地域は貧しい土地で田の面積は平均三反しかない。米作だけでは食べていけない農家が多かった。一年の半分以上も家を空けて出稼ぎに行く。
平石は一人でも二人でも村に残って食べていけるようにならないものかと考え、戦後農産物の加工業を友人とともに始めた。水飴の生産である。しかし、経営は生やさしくなく、いつつぶれてもおかしくない薄氷を踏むような毎日が続いていた。昭和二十年代後半のことである。
平石は熱心な社会主義者だった。
しかし、日夜経営に頭を悩ますうち、社会党に対する疑念が頭をもたげていた。社会党は本当に庶民の党なのだろうか。逆に庶民を苦しめる党なのではないか。
水飴の生産には原料の澱粉を買いつけなければならない。ところが国鉄は日常品の輸送を優先する。それは仕方がないとしても、総評の指導で始終ストをやる。これがこたえた。兵糧攻めにされるようなものだ。代金の授受のため郵便局に行ってもストで閉まっている。「自民党は金持ち階級の|傀儡《かいらい》だ」と社会党は言うが、そう言う自分たちは総評の傀儡ではないか。資金カンパを受け票を集めてもらって操り人形になっている。
近くの小学校で社会党の時局講演会があった。参院の社会党議員である小林孝平(元長岡市長)や藤原道子がやってきて講演会の終わったあと懇談をした。
席上、平石は質問したのである。
「公平な社会をといわっしゃるが、いつ実現すんですかの?」
小林は答えた。
「政策には現在と未来のものがある。社会党の政策は未来のものです」
胃潰瘍になりそうな綱渡り経営を毎日余儀なくされている平石は、腹を立てた。
「未来、未来といわっしゃるが、明日のことより今日のことの方が大事ですがて」
そのとき四十五歳。血気盛んな年頃である。
小林らは平石の見幕に押され黙りこくった。平石はますます激し、言い放った。
「おら、へえ、社会党支持はやめた。これから自分でやる。おめえさん方の助けはいらね」
こうして平石は越山会に入り、のちに越路町(現在は市)の町長を務めることになる。
よく目白に陳情に行った。
田中は親切に耳を傾けてくれ、どこの役所の誰に会ったらいいか的確に指示してくれた。社会党の連中とは違い、何をしたらいいかだけではなく、どのようにしたらできるかまで驚くほど勉強していた。
「先生の偉いところは役人を動かしたこと」と平石は言う。町長の経験からしてもそのことはよく分かる。日本は役人が仕事をしている。役人がやる気を起こさないと何もできないと平石は思っていた。
当時、岩塚の駅には貨物列車が停まらなかった。田中の紹介で国鉄の営業部長に会った平石は、列車を停めろとすごんだ。
「蒸気機関車の煙突から火の粉が出て線路わきのうちが二軒も焼けたど。線路を渡ろうとしたもんが大人三人、子供二人これまで死んでる。国鉄はおれらに迷惑ばっかしかけてる。ほうだども、おれらは雪さえ降ればみんなで線路の雪ほげしてるだろ。そんなのに国鉄は何をしてくれた? 汽車停めねば、おら一歩も動かん。荷物の積み下ろしは荷主の責任でやるすけ停めろ」
こうして岩塚駅には列車が停まるようになった。岩塚製菓の経営にそれがどれだけ役立ったことか。平石は昭和三十年頃から水飴を米菓子生産に切り替え、岩塚製菓は新潟県のユニークな企業として成長していく。
平石のように、農民で社会党支持というのは当時の新潟県では別に風変わりなことではなかった。
新潟県は山形、秋田両県と並び日農(日本農民組合)の力が伝統的に強かった。日農は農民の社会主義団体で一九二二年四月、賀川豊彦、杉山元治郎、山上武雄などを指導者として神戸に創立。小作争議を指導した。戦後、全国的組織となり、片山哲や杉山が先頭に立ち農地改革、食糧供出制の強権発動阻止に動く。一時は会員百二十万人の大組織となった。
新潟県の農村で正義感が強く、村のリーダーになるような青年の多くは社会党を支持していた。
田中角栄は社会主義や共産主義が大嫌いである。しかし、まことに皮肉なことだが、田中を熱心に後押しし越山会のエンジン役になっていった若い人々の多くは、農民運動の支持者だった。極端な言い方をするなら、田中は日農の地盤を食い荒らすことによって農村から都市への包囲作戦を進めた。
「メシも食えない、子供を大学にも出せないという悲しい状態を解決するのが政治の先決だ」という田中の発想は、自らが大嫌いな社会主義の原点に限りなく似ていた。田中社会主義である。
正確に言うなら、田中は抽象論を振りかざす社会主義者は嫌いだったが、社会主義そのものが嫌いだったかどうかは分からない。というよりも、不公平な社会の現状を破壊して新しいものを創り出したいという、自分の中にある革命家の要素を多少は意識していたかもしれない。
後のことになるが、史上最年少の大蔵大臣に就任したとき、東京タイムズ記者をしていた早坂茂三を政治秘書にする。早坂は学生運動の猛者で公安に知れた名だったが、田中は早坂にこう言った。
「オレはお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。オレも本当は共産党に入っていたかもしれないが、なにしろ手から口にものを運ぶのに忙しくて勉強する暇がなかっただけだ」
新潟県は浄土真宗の伝統が生きており農民の結束が固い。歴史上において武士たちの心胆を寒からしめる事件はいくつも起きている。
田中の生まれ育った二田村にある物部神社前には「天明義民之碑」と題する石碑が立っている。天明から寛政にかけて起きた農民の封建領主への戦いを記念した碑である。
ここは天明から寛政にかけて堀家の統治する椎谷藩だった。藩祖の堀直之は慶長の大坂の陣で偉功のあった武将である。
領主・堀家の苛政に対し西山の十九か村が一丸となって二十年間にわたり江戸表への直訴を繰り返した。途中獄門、死罪、流刑などの極刑に処せられたが諦めず、とうとう幕府の最高裁判所であった評定所の裁断によって勝訴となる。封建社会にあって史上空前の出来事だった。
新潟の土の底にはマグマが渦巻いている。生存のためには権力にも敢然として立ち向かうという、農民の反抗精神である。田中はこのマグマに乗っかった。
入広瀬村は新潟県の南東部にある人口二千二百人余の小さな村である。長岡から東に向かって山岳地帯に入り曲がりくねった道をはい上がっていくと、新潟県のどんづまり、福島県との県境近くでしゃれた村に突如出くわす。アスファルト道路の脇に小綺麗に花壇などが|設《しつら》えてあり、リゾートホテル風の近代的な建物も立っている。この村の下水道普及率は一〇〇%。長岡市のそれを上回る。公共施設の整った村でもある。
この村の村長・須佐昭三が東京の田中邸に陳情に初めて出向いたのは昭和二十八年のことだった。
村の経済課長を務めていた須佐には夢があった。山地を整備して百ヘクタールの田圃を作る。そうすれば村民みんな白い飯を食べることができる。よそ目から見れば、つつましい夢だったが、村の古老や先輩たちは夢物語だと鼻先で笑った。農地整備する金がどこにあるというのだ。
その頃、四千人の村民がいたが、米がなく大豆やイモを食べていた。炭を焼いて売り、盆と正月にだけ白い米の飯を食べることができた。冬ともなると全ての交通が止まってしまい、雪の中に閉ざされる。文字通りの陸の孤島である。国鉄只見線は小出まで来てはいたが、入広瀬を通って福島県側に抜ける全線はまだ開通していなかった。
村に病人が出ると、親戚総出でそりに乗せ小出まで連れていかねばならなかった。あるいは小出まで出向いて医者を連れてくる。医者が間に合わず病人が息を引き取ってしまうこともある。雪の季節に重い病気になるということは、死と背中合わせの危機に直面することを意味していた。
なんとかして村民に飯を腹一杯食べさせてみたいという、若い須佐の心意気を田中はまともに受け取り、農林省の役人を紹介してくれた。田中は法務政務次官を務めた昭和二十三年から選挙運動で入広瀬にまで入り込んできており、村の実情をよく知っていたのだ。
農地整備は当初の百ヘクタールには満たず七十ヘクタールが実現しただけだったが、十分な米が取れるようになった。
陳情で会う田中はいつも気さくで、あるときなどは映画に一緒に連れていってくれた。そっと横目で見るとチョコレートをかじりながら少年のように感激して涙を流している。この人はいい人なんだと思った。
その後、国鉄只見線の全線開通、ダムの誘致その他の公共事業を田中はもたらした。現在、入広瀬の財政状態が良好なのは、これら公共施設から上がる固定資産税に負うところが多い。
年の瀬に除夜の鐘を聞きながら一家で囲炉裏を囲んで蜜柑の皮をむく。今年は去年よりは少しは生活もましになったなとしみじみ語り合う。そんな光景が村のあちこちに生まれるようにするのが本当の政治ではないか――と須佐は語る。田中はそれをもたらしてくれた。
入広瀬における田中の得票率はきわめて高く、昭和四十七年には七九%と驚異的な水準に達している(前出の別表参照)。田中の出身地である西山をはるかに上回る。
もうひとつ、熱烈に田中を支持した寒村を紹介しよう。
新潟県古志郡山古志村。上越線沿線の小千谷から一路北上、山また山の道をたどっていくと、もうこれから先は険しい岩肌を覆う森林のみで、栃尾市にいたるまでは人家はなく、動くものは野生の動物の影のみになると確信した瞬間、まことに不思議な光景を目にすることになる。村落が宙に浮かんでいるのである。
四方は山。谷間に向かって斜面は急角度に落ち、その途中に残ったわずかな平地に人家が不規則に点在している。上空にも家があり谷間にも家がある。見渡す限りの段々畑。光る池。上にも下にもある人家や池に垂直感覚が奪われて、村落がふわふわと山間の空間に浮かんでいるような錯覚を覚えるのだ。
池には無数の錦鯉が泳いでいる。岩山から湧き出す水を利用して昔から錦鯉が人間とともに生きている。
山古志の古志は、越の国のコシに通じる。コシは大和朝廷時代、日本海方面に住む蝦夷の別名でありアイヌと同系列の民族とされている。クシとも呼ばれ、いまでも千島アイヌは自らをクシと呼んでいる。コシは高志、古志とも書いた。新潟県にはアイヌ語を源に持つ地名が多くあり、山古志村は長く新潟県の人里離れた奥地だった。この村に住む人々がコシを名乗った人々の末裔であるとは限らないが、少なくともその地名には、自らの文化によりどころを求める山の民の気概が表れている。
山古志村の人々は錦鯉だけではなく動物を愛し、小さな村落に闘牛場が四つもある。しかし、彼らの闘牛の方法はあくまでも優しく他地方のように最後まで勝負をつけさせない。優勢かどうかを行司が判断してやめさせる。とことんまで闘わせると負けた方が自信を失うからだという。
宙に浮かんだようなこの村の光景は、要するに人家が山の傾斜にへばりついているということであり、きちんとした道路がなければおそろしく不便な生活を強いられる、厳しい条件にあることを物語っている。
積雪は年によって異なるが、昭和二十年代は五メートルを超すことがしばしばあった。いまでも厳寒の季節に訪れると、長岡や小千谷とは一変し白一色、全てが元の形状を失う。夜は石油ストーブを目一杯に燃やしても畳の上を重い冷気が這い寄ってくる。
この山奥の山古志村の中でもさらに山奥にあるのが小松倉である。
この集落の人々は目の前にある中山峠を越えて広神村や小出町に買い物に出ていた。峠の高さは二百メートル。七キロの距離だから、普段の日はさしたる脚力を必要とはしなかったが、豪雪のときは困った。峠の頂上にある薬師堂で夜を明かすこともあった。凍死寸前に追い込まれたこともある。
病人が出たときに困ったのは入広瀬と同様で、背中に負って峠を越えた。途中、病人が背中で息を引き取ってしまうこともあった。
中山峠の下にトンネルができないか。小松倉集落の人々は自らツルハシを持ってトンネルを掘った。昭和二十四年に貫通。
しかし、人力で掘ったトンネルは狭く、足元も悪い。
田中に陳情したのである。田中はトンネルを走る村道を県道に、さらには国道にまで格上げしてくれた。これによって国家予算で十分に広い頑丈なトンネルを造ることができた。
山古志における田中の得票率は終始高く、昭和三十三年に一回二九%になっただけで、後はずっと四〇%以上。高いときは六四・六%を記録している。
地図を見ると一目瞭然だが、国道二九一号線の終点を小出から柏崎まで延長させるのにわざわざ北西に迂回して山岳部を通し中山トンネルを経由させるというのは相当の無理がある。これはまさに政治道路だった。
入広瀬を通る国鉄只見線の全通も同じことで、赤字路線と知りながら敷設したと言われても仕方あるまい。
これぞ利益誘導そのものだった。
しかし、利益誘導は全て悪なのだろうか。
今日のように国家財政が危機的な赤字に転落し債務が累積している時代に、採算を無視した利益誘導がまかり通る事態は許されない。厳しい批判の的にさらされて当然だ。また、物価水準も割り引くと地方はすでにナショナル・ミニマムともいうべき生活水準を達成している。都市生活者の血税を補助金でそそぎ続けるのはむしろ公平ではない。
しかし、豪雪で陸の孤島として置き去りにされた入広瀬や山古志で重い病気になることは死をも意味していたあの時代、田中のとった強引な手法を全て悪と断じることはできまい。強引な手法をとらねばこれらの地域はいつまでも陸の孤島であり続けただろうし、かりにそこから脱出できてもずい分とのちになったことだろう。
田中の造った道路や線路を使って村民は都市へと流れ、村落はかえって過疎となってしまったと批判する者もある。しかし、雪に閉ざされ何処へも行けず貧しさに喘ぐ状態と、若者たちが職を求めてより豊かな世界に飛び立っていった過疎の状態と、どちらが幸せかと言えば答えは決まっている。個々人の選択の自由があるだけ後者の方がはるかに幸せである。
昭和二十三年頃、小千谷の住民が信濃川の堤防改修を陳情したときのことだ。
「よし、分かった。これから建設省に行こ」
田中はすぐに腰を上げた。
建設省の河川局長に向かって田中は、
「おい、局長、これも選挙運動だ。堤防造ってくれや」
と大声を上げたという。
びっくりした河川局長が、
「その地域は計画に入っておりません」
と答えると、田中は言った。
「だめなのをでかすのが政治ではないか」
田中は地元の陳情を受け入れ、だめなものをどんどん「でかして」いった。だめなものをでかすためには無理もする。ときには黒い噂も立つ。
田中はそういうもの全てを包含しながら、頼れる男として地盤を固めつつあった。
この頃の田中は若くて突進力のあるスタッフに囲まれていた。
のちに地元で采配を振るい国家老と呼ばれるようになった本間幸一は、当時の選挙運動を振り返ってこう語る。
「みんな同じような年頃で若かった。毎晩いろんなところに行って面白かったね。どんな山奥にも入っていった。いまみたいに握手だけして帰ってくるなどということはなかった。いったん行ったら二時間は話し込んだ。新幹線もなければテレビもない。第一、新聞も用紙不足だから、記事にしてくれない。いまのように歌手を連れていって人を集めるなどということもできない。自分の足で稼ぐより仕方がなかったのです。
選挙民の方も先生に上がって(当選して)もらわねば生きていけない。必死でしたよ。昔の農民は良い米を売って、だめな米を自分たちで食べた。いまは逆でしょう? 便利になり過ぎて選挙民との接点がなくなってしまった」
本間が考え出した選挙民サービスの傑作のひとつに、越山会の東京ツアーがある。選挙民を団体で東京に連れていく。二泊三日。新潟を夜行で出て翌朝、東京温泉(東京・銀座)で一風呂。バスに乗って田中の自宅を訪れたあと国会、皇居、浅草を見物。当時の庶民にとり旅行などは滅多にないから、これがうけた。宴会場には田中が姿を現し、浪花節・天保水滸伝などをうなる。
本間はしたたかだった。冬場は彼らを千葉方面にまで連れて行って菜の花を見せた。雪に閉ざされた世界からやってきた彼らは、あたり一面に咲き乱れる菜の花を見渡して異様な嘆息をもらした。本間のねらいは日本海側と太平洋側の格差を肌で感じ取ってもらうことにあった。われわれは恵まれていない――こういう思いが「だめなものをでかす政治家」、田中への熱心な支持につながっていく。同時に団体旅行をすることで、選挙民の間に連帯感が生まれ、強力な支持基盤を形成もする。
昭和二十年代の後半、田中の選挙区のあちこちで後援組織が固まっていき、越山会が姿を現す。しかし、越山会とは不思議な団体でいつどこで発会式が行われたといった正式の記録が全くない。のみならず、あちこちで越山会の元祖は自分たちだと主張している。
越山会という名の由来もあまりはっきりしない。上杉謙信の漢詩「越山併せ得たり。能州の景」の越山から取ったという説もあるが、これは多分違う。後援会にそのような強圧的な呼称は似合わない。田中は「越後の山という意味。それに東京に行くには上越国境の山を越えねばならないという意味でもある」と語っている。
いずれにせよ、あの強大なる越山会の発足の歴史がはっきりしないということは、それだけ自然発生的に生まれてきたということだろう。あちこちに生まれた後援会組織をあるとき「越山会」と総称することにしたということではないか。それだけにこの組織はグラスルーツの強さを有していた。
田中はこの越山会を限りなく大事にした。総理大臣になったとき親しい者が忠告した。
「これからは日本全体のことを考えねばならないのだから、地元の陳情を受けるのはおやめなさい」
すると田中は真っ赤になって怒鳴った。
「これだけは、やめられん。オレの支えだ」
米国では議員はロウ・メーカー(LAW MAKER)と言われる。法律を作る人という意味である。文字通り彼らはロウ・メーカーで、米国で生まれる法律の大部分は議員が提案する。官僚はその法律にしたがって仕事をする。法律は国民をしばったり、便益を与えたりするのだから、選挙で選ばれた議員が法律の大部分を自らの手で起草するのはごく当然なことだろう。
日本でも議員は法律を提案できるし、たまにそうもする。議員立法である。
だが、残念なことに日本では法律の大部分は官僚が起草して議会に提案する。行革など世間でわいわいと騒がれた問題でも、いざ具体的な法律を作る段になると官僚に頼らざるをえなくなり、気がついてみたら行政組織をリストラするはずが、いつの間にか官僚を焼け太りさせているなどといった事態も生じる。
また、大臣になれば自分でリーダーシップを発揮して役人に法案を作成させるべきだが、現実は役人のレクチャーを聞いて彼らの言葉をオウムのように繰り返しているだけ。大臣になって何かをするのが目的ではなく、大臣になること自体が目的になっている。
なぜこのようなことになってしまうのか。政治家の多くに法律を作る知識も力量も才覚もないからである。
ところが、戦後政治の歴史を振り返ると、例外が一人いた。それが田中角栄である。
初当選してから郵政大臣になるまでの無名の十年間、実に精力的に議員立法に取り組んだ。田中が議員の間に自らが起草して成立させた法律の数はプロローグでも紹介したように三十三本。ホームラン王の王貞治や最多優勝を誇る大鵬に似て不世出の記録保持者である。しかもその内容を見ると、その後の日本人の生活に大きな影響を与えることになる重要法案がきわめて多いことに驚く。
田中が成立させた法律のうち主なものを眺めれば、例えば住宅関連法。
昭和二十二年十二月の衆議院国土計画委員会で田中は、ときの片山首相に対して「コメもない、着物もない、住宅もない。衣食住がない。一家の団欒の場所の住むところがない。民主主義を標榜されている片山内閣は何をしておられるのか」とかみついた。
そして二つの法案を提出した。
住宅金融公庫法。住宅不足は深刻だったが、国民ひとりひとりに国家資金で家を造ってやるわけにはいかない。自己資金を持ち意欲のある人々に対して、新しく作る政府系金融機関から不足資金分を貸し付けるというアイディアだった。この金融機関ができたお陰でどれだけの人々が家を持つことができるようになったことか。その後、住宅金融公庫は政府の景気刺激策の重要な柱にもなった。
もうひとつが公営住宅法である。
当初は母子家庭や大陸からの引き揚げ者などに対する住宅を供給する目的で作った法律だが、次第に対象が普通のサラリーマン家庭にも広がり、あちこちに団地が出現した。いまでこそ住宅公団の団地は再開発の対象になろうとしているが、大都市の郊外に忽然として生まれた団地は大衆社会の文化の場にもなり、テレビ、電気冷蔵庫、洗濯機の三種の神器の大マーケットにもなった。
田中が作った法律の中で特筆されるべきは道路三法と呼ばれる道路関係法だろう。
雪国に育った田中は道路のないことによる不便さを痛いほどよく知っている。
昭和二十八年に成立させた「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」は固い呼称だが、要するに道路を造る財源のために自動車の使うガソリンに税金をかけようという法律だった。いわゆるガソリン税である。
この法案には大蔵省から猛烈な反対が起きた。当たり前だ。ガソリン税の分は予算を先取りされるようなもので大蔵省の査定の埒外になってしまう。自分たちの手の届かぬ聖域を認めることになる。
運輸・石油業界も反対に加わった。のみならず学会も論争に参加、政府固有の権限である予算編成権を拘束するのは「憲法違反である」との論陣を張った。
法律を提案したのは二十六人の議員だったが、衆議院の建設・大蔵連合審査会では田中がほとんど一人で答弁に立っている。
「自動車を走らせるには道路がいります。歩道なら別ですが、自動車道は舗装しなければならない。舗装するには金がいる。その金をどこから出すか。世界各国を眺めると日本は道路に出す金が極端に少ない。一人当たりの道路費用はインドが三十九円。日本はインド並み。こんなことでいいのでしょうか
(注1)」
どこから調べてきたか、インドの一人当たり道路費などを持ち出し質問者を煙に巻く。
「そこで自動車を走らせるにはガソリンが必要です。そのガソリンから税を取って道路財源に充てる。道路が良くなれば自動車の利用者が増える。ガソリンの使用量も増える。使用量が増えればますます道路が良くなるのであります」
拡大再生産の論理で運輸・石油業界の反対を抑えた。
問題は予算の編成権を拘束するという反対論だったが、田中は奇策を用いた。
当初提案した法案には「政府は当該年度の揮発油税(ガソリン税のこと)収入を、道路整備の財源等に計上しなければならない」とあったのを「政府は当該年度の揮発油税収入相当額以上を、道路整備の財源等に計上しなければならない」と変えたのである。
どこが変わったかというと、「揮発油税収入」が「揮発油税収入相当額以上」になっただけである。入ってきたガソリンからの税金をそのままそっくり道路財源に回せというのではない。だから大蔵省の猛反対する目的税ではない。道路に回る金はどこから持ってきてもいい。所得税でも法人税でも間接税でもいい。その代わり、ガソリンから上がる税に相当する額以上を道路建設に回しなさいというのである。
田中が「相当」という言葉を思いついたのは兵隊のときの経験による。兵隊は上官には敬礼をしなければならないし、しないとぶん殴られる。しかし、軍人には「相当官」というのがあって彼らには敬礼をしなくてもよかった。相当官とは医者などの専門職のこと。軍人のようであって軍人ではない。揮発油税収入のようであって揮発油税収入ではない。
田中の考えついた「相当」のアイディアは詭弁に近い。金には色がついていないから、「揮発油税収入相当額以上」と規定されれば毎年度その金額を道路建設に無条件で回さざるをえない。
しかし、この発想は役人の思考空間を超えていた。大蔵省も内閣法制局もびっくりしたのである。
田中が持ち出したもうひとつの条件は、この法律をその名の通り時限立法とし、その期限を五年としたことだった。物おじもせず単身で大蔵省に乗り込んでいって彼らを説得しようとした。
ときの建設大臣であり自民党の有力者でもあった佐藤栄作の強力な支持もあり、この法律は昭和二十八年七月成立した。
これによって建設省は道路の長期計画を作成することができるようになった。こと道路建設に関しては毎年、大蔵省と予算折衝をする必要がなくなり、税収見通しが確定したのである。
田中の予言通り道路が良くなると自動車も、ガソリンの使用量も増え、税収も伸びていった。
田中は建設官僚に恩を売った。田中は建設大臣を一回も務めたことがない。しかし、田中ほど建設省ににらみを利かせた政治家はいない。
田中が提出した中で、その建設省が反対した法案があった。
有料道路税。高速道路を造るべきだが、ここでも財源がない。そこで道路を通る車から料金を取ろうというのである。
建設省が反対したのは、それまで道路は無料という原則があったからだ。
ところが、役人の意表をついた。
「道路は無料とあんた方は言うが、有料な道路があるではないか」
「どこにそんなものがありますか」
「隅田川を渡る|勝鬨《かちどき》橋だ。あそこでは料金を取っている」
これには建設省も参った。役人は前例に弱いのである。それを十分に知った田中のパンチだった。
この二つの法律に加え道路法を提案した。これは大正八年に制定した法律がまだ生きていたのを作り変えたのである。
道路三法に意欲を燃やした田中の考え方は一貫している。利用した者がその代金を払う。応益負担の原則である。その資金で建設を促進する。日本経済のたくましい成長とともにその応益原則は見事に生き、経済発展のためのインフラが整った。
だが、田中の功績だけをほめたたえるのでは一面的であろう。
田中の作った法律は時代を経るにしたがって多くの弊害を生みもした。ガソリン税の法的根拠となった「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」は、いつの間にか恒久的な法律となってしまった。田中がいくら「相当」と言ってもこれは明らかに目的税だった。
日本の道路がすでに十分に整備されているにもかかわらずこの道路整備特別会計だけが一人歩きする。それほどの緊急度がなくなったにもかかわらず金だけがどんどん入ってくるので使わざるをえない。熊しか通らぬような奥地に立派すぎるアスファルト道路ができる。得をするのは土木業者と仲介をした政治家のみというありさまである。
巨額の資金をめぐって利権も渦巻く。
建設業者は工事を請け負うため建設省や自治体に接近し、政治家に頼んで特別な便宜を図ってもらおうとする。これにバスやトラックの路線許認可権を持つ運輸省がからみ、佐川急便から不正な政治資金である五億円を受け取った金丸信や収賄容疑で逮捕された新潟県知事などの例が示すように、道路特別会計はおどろおどろしい伏魔殿になってしまった。
多くの法案を成立させていったときの田中は、「貧しさからの脱却」を本気で考える政治家だった。田中が利権を目的に法律を成立させたと考えるのはうがち過ぎである。
しかし、制度が生まれ、そこに関係者の利害が複雑にからみ、その調整役を政治家が引き受けるようになるにつれて、制度がこのうえない政治資金の源泉になることを田中は発見していったに違いない。
田中は「貧しさからの脱却」を目指す国士としての顔と、関係者の利害を調整して政治資金を受け取るロビイストとしての顔とを備え始めた。
昭和二十三年のはじめの頃である。
福島県西部を流れる只見川の利用をめぐって福島県と新潟県の間に壮絶な戦いが始まった。只見川は福島・新潟県境に横たわる尾瀬沼に水源がある。両県の間を走る峡谷を通って会津盆地で阿賀野川に合流、新潟県に入り日本海にいたる。
福島県はこの只見川にいくつもの階段式のダムを造り、百九十五万キロワットの発電をしようと計画していた。
ところがそこに新潟県が割って入った。切り込み隊長になったのは初代民選知事の岡田正平。只見川の水をダムを造って溜め、信濃川水系に落として百七万キロワットの発電をするとともに農業用水としても使おうという壮大な構想だった。
福島県の計画は本流案と呼ばれ東北電力が、新潟県の計画は分流案と呼ばれ東京電力がそれぞれバックについた。のみならず福島側には吉田茂が、新潟側には鳩山一郎・大野伴睦が応援団としてつき、中央政界を二分する抗争となった。
岡田は新潟県出身で頼りになる政治家をつかまえ東京での支援部隊にした。俗に岡田御三家と呼ばれた人たちで塚田十一郎、渡辺良夫に加え田中が入っていた。
中央から視察団が来ると、芸者を総揚げして常軌を逸したどんちゃん騒ぎとなる。新潟県が宴席を張るのだが、中央財界や電力会社からも資金が出る。当時の金で四千万円は費消したと言われているから、いまなら官官接待でたちまちマスコミの餌食にされていただろう。宴席では岡田が行司役になり田中と県会議員が男性のシンボルの大きさを比べ合うイベントまで催された。野卑きわまりない光景ではあるが、山賊の酒盛りにも似たおおらかさもあった。
東京では、政治家たちに県が車代を配る。その金額が車代としては大金の三万円で、ためらう人もいたが、田中は「男は度胸。一度や二度監獄に入らんば男じゃねぇ」と言って受け取っていたという。
新潟県の猛烈な巻き返しが功を奏して岡田とすっかり仲良くなってしまった吉田は、昭和二十八年七月裁断する。福島県側の本流案を軸にし、新潟県には只見川から信濃川に分水するという仲裁案である。
もともと無から有を生じさせようと考えていた岡田はあっさり了承。福島県側は悔し涙を流した。
電源開発はすぐ工事に着手した。まず新潟県内に資材運搬のための道を切る。土木業者は潤う。砂利が大量に必要となる。田中の経営する長岡鉄道が受注する。この年、長鉄の砂利部門の売り上げは前年比二五〇%に膨れ上がった。
ところが、この分流案はまことに不思議なことに昭和三十七年になって突如、消えてしまう。電源開発は分流案によるダムの建設があまりにも高コストになるとの理由により、新潟県の関係する各町村に総額二億八千五百万円の補償を支払って工事を中止してしまった。しかも、この補償とその配分は密室で決定された。
関係者はこのとき田中が陰で動いたと感じ取った。工事費の一部が田中に流れたという噂もあった。新潟県警も内々捜査をしたが、強制捜査には到らなかった。
いずれにせよ只見川プロジェクトは、とんだ「ただ呑み川」と呼ばれるようになった。このとき裏でどのような金の流れがあったか真相は明らかではないが、田中は岡田を通じて関係者の経済人にも会い、利害調整の過程で多額の金が動くことを知ったに違いない。
昭和二十七年十月、田中は自由党総務になる。目白御殿と言われた目白の邸宅を買ったのもこの頃である。
ここは生まれ故郷の二田村の領主だった椎谷藩堀家の江戸屋敷の跡だった。総面積一万六千五百平方メートル。建坪四百十七坪。
旧領主様の屋敷跡を買う。田中の無邪気なほどの上昇志向が表れている。
地元では無理なことでも「でかす」、頼りになる政治家、永田町では選挙事情にやたらに明るくて行動力のある若手議員として頭角を現した田中だったが、その名はまだまだ全国版ではない。その彼が日本中に顔を知られる日がやってきた。
昭和三十二年二月、石橋湛山から政権を受け継いだ岸信介は五か月後の同七月、大幅な内閣改造をした。このとき、郵政大臣として入閣したのである。
弱冠三十九歳だったから話題を呼んだ。しかもこの政治家はチョビ髭を生やし、語尾に「ネ、ネ」を連発しながらダミ声で機関銃のようにしゃべる。どことなく憎めぬところがあった。相当のおっちょこちょいのようでもあり、NHKの人気番組だった「三つの歌」にゲストとして出演し故宮田輝の誘いに乗って得意の浪花節まで披露してしまった。「賭場に小判が乱れ飛ぶ」という文句が後で国会で問題となる。大臣がバクチを礼賛するのかというわけだった。これだけではなく、ニッポン放送の「十七万円の質問」にはゲストとして、NHKの「年忘れ紅白歌合戦」には審査員として、元日のNHK「新春閣僚放談会」にはスピーカーとして、日本テレビの「ワンワン大会」には浅沼稲次郎社会党書記長と対談のため、次々に出演した。売れっ子並みの登板回数である。
しかし、この大臣、愛嬌があるだけではなく、恐るべき決断力を示した。
初登庁した田中は郵政省の玄関で足を止める。郵政省の看板の左手にもっと大きな看板がかかっていたからだった。「全逓信労働組合」である。
「大家よりでかい看板を出すやつがいるか」と一喝し、ただちに看板を外させた。
翌三十三年春、全逓が勤務時間に食い込んで職場大会を開いたのに対して、田中は断固として組合員の一割に相当する二万二千人を処分してしまった。このときの全逓書記長がのちに社会党代議士になる大出俊である。
田中は大出と派手にやり合ったが、その能力を買っており、秘書にスカウトしようとしたこともある。大出も一時その気になったが、組合が猛烈に反対してつぶれた。
以来、田中と大出との間には近しい感情の地下水が流れていた。のちに社会党代議士になった大出は衆議院ロッキード特別委員会で疑惑を鋭く突き名を売るが、当時の田中派担当の記者によれば田中が嫌がるポイントは巧みに外していたという。大出の奥さんがなくなったとき、どこから聞いたのか社会党の議員よりも早く駆けつけ大出を驚かせた。田中の情の濃さを物語る一幕である。
郵政大臣の田中は前触れなしに職場を巡視したり、省内の派閥争いの息の根を止めるため二人の局長をいきなり勇退させたりして剛腕を発揮したが、特記すべきはテレビ局の開設に対する大量免許だった。
テレビの免許は歴代郵政大臣が頭を抱えていた難問だった。NHKと正力松太郎率いる日本テレビが始まって以来、テレビの人気は高く前途洋々たる将来性を示し、全国からテレビ会社設立申請がどっと押し寄せていた。郵政官僚は申請者全てにテレビ局を開く技術的背景があるとは思っていなかったから、免許数をしぼりたい。しかし、そうしようとすると、政財界や地方のボスたちがひしめき合って競い、らちがあかない。
ところが、田中は事務局の反対を押し切り、数ある申請者を地域別にひとつにまとめ一挙に民放三十六社、NHK七局に予備免許を与えてしまった。かくてテレビ局は雨後の筍のようにあちこちに生まれたが、郵政官僚の危惧をよそに技術的には十分な力を示し、日本列島はテレビ時代を迎える。
田中が郵政大臣になれたのは岸に多額の政治資金を渡したからではないかという噂もある。リュックに三百万円を詰めて行ったという話である。金で大臣の椅子を買ったと言われるゆえんだが、この話はあったとしてもおそらく因果関係は逆だろう。入閣することが決まってから謝礼を持っていくことは当時としては十分にありうることだった。
いくら政治資金の授受がいまと違って牧歌的で無秩序な時代とはいえ、金をもらったというだけで無能な人間を大臣にすることはありえない。無能な人間が大臣になる方法はいまも昔も変わりはしない。ただひたすら順番を待つのみである。
田中が若くして郵政大臣の金的を射止めることができたのは岸の弟である佐藤栄作の強い推挙があったためと言われている。佐藤は自らの不遇時代、変わらぬ態度で忠節を尽くした田中に報いた。
郵政大臣になってから得た最大の人脈は、東急コンツェルンの創始者・五島慶太との関係だった。
五島は明治十五(一八八二)年に長野県に生まれ、東大法学部を卒業後農商務省に入り役人の道を歩んだが、大正九年に退官して電鉄事業を営んだ。池上電鉄、玉川電鉄、京王電気軌道などを次々に買収・合併し事業を拡大していった。西武鉄道の堤康次郎と並ぶ凄腕の電鉄王で、その名をもじって強盗慶太とまで言われた男である。
東条内閣で運輸通信大臣を務めたことのある関係から、あるとき歴代郵政大臣を招き宴を張った。このとき現職の郵政大臣としてやってきたのが田中で、五島は精気溢れる彼に大いに興味を抱き、しばしば会うようになる。田中は顧問弁護士だった正木亮に紹介されて親しくなっていた小佐野賢治を五島に引き合わせ、三人で兄弟の杯を交わしたといわれている。
目を再び新潟に移すなら、その頃、田中が社長を務める長岡鉄道は長岡とその周辺で激烈なバス競争を展開していた。相手は路線が重なり合う中越自動車で、社長は西山平吉。
雪の新潟では冬はろくにバスを走らせることができない。雪が消える四月から十一月くらいまでに稼ぐだけ稼がねばならない。四月ともなると花見客目当てに両社が派手な客取り合戦を繰り広げる。
長鉄は銀色、中越は黄色。ふたつのバスが桜吹雪の下で抜きつ抜かれつ。停留所で相手のバスが停まって客を乗せているのを見ると、そのまま停まらずに追い越して次の停留所まで走り、客を奪ってしまう。ときには運転手が飛び出して殴り合いの喧嘩までする。朝十二円だった料金が黄色のバスにのると十一円になり、それではと銀色が十円になるといった具合で、いまでは考えられぬダンピング競争まであった。
腹を立てた田中はこの中越自動車を乗っ取ることにする。中越自動車の社長の西山が長岡市出身の代議士である大野市郎の大の支持者で、田中嫌いだったこともある。田中の悪口を書いたポスターを一晩で電柱という電柱に貼りつけたこともあった。
昭和三十三年五月の選挙で田中は八万六千百三十一票を取り、前回よりも三万票以上票を伸ばしている。三区で七万票以上取った政治家はそれまでいなかった。郵政大臣効果である。中越自動車乗っ取りは農村から都市へと攻め上がった田中の最後の勝負どころでもあった。最大の票田・長岡を押さえれば、三区全域を制覇することができる。
その年の八月から九月にかけ新潟証券取引所では異変が起きた。六、七月は七十三円だった中越自動車の株価がじりじりと上げ出した。十月になると一気に九十円台に乗せる。誰かが買い占めにかかっている。中越の西山が防戦買いに出て十一月には百円を突破。
赤字続きの長鉄には株を買い占める金はない。ひそかに資金源となったのが国際興業の小佐野賢治である。
西山も乗っ取り防止のため自社株を集め一本にする必要があると判断、その金づるを探していた。そこに救いの主が現れた。これまた小佐野だったのである。不幸にして西山は小佐野が田中の盟友であるとはつゆ知らなかった。
長鉄、中越両社から頼まれて中越株を買った小佐野は、これを東急の五島のところにそのまま持ち込んだ。
見事にあざむかれた西山は、万事休す。
かくて五島の指示のもと、長岡鉄道、中越自動車、これに栃尾鉄道を加えた三社の合併となる。
新会社名は「越後交通」。資本金五億七百五十万円。従業員千七百人。黒字の中越自動車、収支トントンの栃尾鉄道、赤字続きの長岡鉄道の三社が対等に合併するという奇妙な姿が田中の乗っ取りの成功を物語っている。しかも、田中は新会社の会長に就任する。社長は東急電鉄の常務だった田中勇が乗り込んできた。
新会社の合併記念祝賀会で小佐野は初めてみなの前に姿を現す。
色黒でつるつるの丸坊主。背の高さは一メートル八十近く。みなは彼をタコ坊主と陰で呼んだ。異形の持ち主である。
小佐野は大正六(一九一七)年二月、山梨県生まれ。田中より一歳年上で、尋常高等小学校卒は同じ学歴。野心を抱いて単身上京したところも似ている。開戦の年に自動車部品会社をつくり戦時下の統制経済下で巨利を得る。戦後、国際興業を設立、米進駐軍用ガソリンの不正流用で重労働一年の実刑を受けた。このとき弁護士・正木亮に弁護を依頼して田中との縁ができるきっかけとなる。
タクシー、ホテル、路線バスなどに手を拡げた、戦後経済の風雲児だった。彼こそが越後交通誕生の陰の主役だった。
新会社の社長になった田中(勇)もまた異色の人物だった。
マージャンが大好きで、徹夜で終わらず昼間にまで及ぶこともある。勤務時間になっても平気で続ける。これがボスの五島の知るところとなって頭ごなしに叱られたが、しれっとして「マージャンは経営に通じるのです」と答えた。
彼によれば、マージャンは夜明けまでやらねば絶対にだめ。夜明けになっても勝てねば昼まで頑張る。酒は一切口にしない。すると、眠気、疲労、アルコールなどが重なり相手に必ず気のゆるみが出る。そこを突く。だから絶対に負けない。これは戦国時代の企業経営に通じると言い張る。
五島は苦笑して彼の昼間マージャンを許した。泣く児も黙ると言われた五島だが、田中(勇)だけは特別扱いだった。田中が買収好きの五島の先兵となって身を粉にして働いたからでもある。
「あんな雪だらけのところに行ってもろくなことはできぬ」と最初はだだをこねたが、どうしても行けと命じられた。土曜日に夜汽車で長岡に行き、月曜朝東京に戻るという生活が始まった。東急常務は兼務のままである。東急からは誰も連れず単身で乗り込んだ。
社長を引き受ける前、会長の田中のところに行き「会社の経営を任せると言うが、上にはあなたがいて下にはあなたの子分がいる。ろくなことはできはしない」と文句を言ったら、「全て任せる」と答えた。それではと引き受けた。会長の田中はその約束を守り、経営には一切口を出さなかった。
のちに田中と五島の長男・昇の指示で赤字会社である東亜国内航空を手中に収め、経営を任せられる。東亜の再建は容易ではなかったが、初めて黒字を出したとき田中(勇)は役員報酬と賞与を断り、その代わりに見舞金として二百万円を引き出して目白の田中邸に行った。五島昇からもう百万円を引き出していたから合計三百万円。
目白の田中は脳梗塞で口がきけなかったが、田中(勇)の差し出す封筒を見て歪んだ口元から意味不明の言葉を吐き出しながら泣いた。
越後交通の社長に就任した田中(勇)は、強引な手法で労働争議を終わらせ、社員たちをぐいぐいと引っ張っていった。機を見るに敏で生まれながらの喧嘩強さがある。鼻っ柱が強いうえ、それまで社員が見たこともない予算制度や|稟議《りんぎ》制度を持ち込んで資料作りに徹夜をさせる。仕事にはきびしくみなぴりぴりしたが、面倒見のよい大工の棟梁のような温かさがあり、社員はついていった。
こうして越後交通の経営基盤は固まり、政治家・田中は新潟三区を制覇する。越後交通は越山会の総司令部となったのである。
田中(勇)は選挙活動にマーケティング手法を取り入れた最初の男であろう。
越後交通に秘書課を設置し、越山会全体の戦略・戦術を練る。田中(勇)は三区を越山会の地区別に分け、その得票率をパーセンテージで示す一覧表を作った。これを大書して壁に掲げる。票数ではなく得票率だから、有権者の少ない地区でもトップに躍り出ることはできる。
これで末端の越山会会員が奮い立った。
選挙の度に越後交通はジープを一台買い、乗りつぶす。入広瀬とか山古志とかジープの入らぬ奥地には馬で行く。秘書課は御大の田中がどこを訪問すべきか日程の調整をし、スタッフが田中の行けない分を補う。要するに会社の営業活動と同じことで、この方法はのちに自民党議員が取り入れ、さらに他の政党にも広がっていく。
田中(勇)は手の足りないときは、長靴をはき自ら応援演説に出向いた。素人演説だが、結構受けた。
「みなさん、米を作るのは大変ですね。用水の心配をし苗を植え、害虫も取り除き、片時も気が休まらない。人手がかかる。しかし、選挙は他人が勝手に自分の金を使ってやっている。みなさんは投票所に行って国が用意した鉛筆と紙を使って『田中』と書けばいい。いいですか。大臣なんてなんぼのものではない。センセイをもっと偉くしなければならん。総理大臣を出した県はみな経済が良くなっている。センセイを大物にするかしないかはあなた方にかかっています。国が用意した紙とエンピツ一本でみなさんが豊かになるのです」
国がただで貸してくれた紙とエンピツだけで暮らしが良くなるという論法が物を言った。
田中(勇)は|人心収攬《じんしんしゆうらん》の術に長けており、芸者やテキ屋の組織まで大事にした。彼らはいったん支持を決めると浮気はしないし、クチコミの力が絶大だというのが持論だった。田中(勇)は芸者の前でとぼけた調子でこんなことを言う。
「オレはサンマが好きだ」
「社長さん、あんな魚が好きなんですか。お座敷で匂うじゃないですか」
「オレの好きなのは、そのサンマじゃない。三マだ」
「?」
「ひとつ目はマージャン、ふたつ目はマンジュウ、みっつ目は……」
ここまで言って田中(勇)は嬉しそうにニタリと笑う。少々品のない冗談ではあるが、田中(勇)の口からこぼれると飄々とした味があり、座はなごんだ。酒は一滴も呑まないが、座持ちが抜群に良かったのである。
こうして田中(勇)の力が大きく物を言い、越山会は地盤が固まった。それまで地区別にばらばらだった同会はピラミッド型の確固とした組織となり、田中の次の飛躍のための土台となる。
昭和三十五年は激動の年になった。岸内閣はその年の一月、改定日米安保条約に調印、国会でもめにもめた末、五月二十日未明の衆院本会議で条約を強行採決、その自然成立を待つため会期を一か月延長した。
かくて安保反対の機運が盛り上がり、国会周辺には数十万人のデモ隊が押し寄せ「安保粉砕、岸を倒せ」のシュプレヒコールが満ちた。六月十五日には国会構内で警視庁機動隊とデモ隊とがもみあう中、東京大学の学生、樺美智子が圧死するという事件が発生。会期終了直後に予定されていたアイゼンハワー米国大統領の訪日は中止となった。
国内は安保反対と賛成の左右真っ二つに分裂し人心はささくれ立つ。岸内閣は総辞職。
代わって登場したのが「寛容と忍耐」のキャッチフレーズを掲げた池田内閣だった。
池田勇人は明治三十二(一八九九)年、広島県の造り酒屋に生まれ、大正十四年京大卒。東大卒でなければ人でないといわれる大蔵省にあっては二流のコース、いわゆる鈍行列車に乗せられたが、在野のエコノミスト出身である大蔵大臣・石橋湛山に重用され主税局長から大蔵事務次官に引き上げられる。大蔵次官は主計局長上がりが圧倒的に多かったから、ここでも異例の出世だった。
「寛容と忍耐」。このソフトタッチのイメージを演出したのが官房長官の大平正芳。明治四十三(一九一〇)年、香川県に生まれ、大蔵官僚出身。一橋大学卒。池田と同じ鈍行列車組である。
このとき田中は池田のライバルである佐藤派に属してはいたが、池田にも近く、佐藤・池田両派の連絡将校の役割を果たしていた。
かつて田中は吉田に「池田はできる」と強く推薦したいきさつがある。池田と田中はお互いの力を認め合っており、田中の妻・はな子の連れ子だった娘を池田の甥に嫁がせている。
佐藤派の連絡将校である田中と池田の懐刀である大平とはウマが合い肝胆相照らす仲になっていた。大平が田中の嫌いな金ピカの秀才ではなかったからでもあろう。
田中は先々を読む。機関銃のようにしゃべる。もどかしげに速足で突き進む。一方の大平は「アー、ウー大臣」と言われたように言語不明瞭。ゆっくり過ぎるほどの速度で慎重にことを運ぶ。
二人が対照的な性格だったことがお互いを引きつけ合う原因になった。財界人の集まりなどで田中は「大平とは義兄弟の契りを結んでいる。大平内閣実現のため犬馬の労をとる」と語った。事実、大平内閣実現のために死力をつくし、実現後も「犬馬の労」をとった。
年齢は大平の方が八歳年上だが、当選回数は少なかったから、大平は田中のことを「兄貴」と呼んだ。議員の世界では当選回数で序列が決まる。
池田は経済参謀に大蔵官僚出身の下村治を擁し「所得倍増計画」による高度経済成長政策を打ち上げる。「経済のことはこの私におまかせ下さい」と大見得を切ったのである。
このとき、池田に真っ向からかみついたのが福田赳夫である。幹事長、総務会長にならぶ党三役の政調会長のポストにあったから、政府与党内の造反と言ってもいい。福田は関西財界人との会合の席上、「高度成長は危険である。山高ければ谷深し」として「安定成長路線」を強く主張、周囲をはらはらさせた。福田は池田とは違い一高─東大卒の特急列車組。次官コースである主計局長をも務めたから大蔵官僚としては本流の意識が強かった。華々しく脚光を浴びる池田に対する対抗意識もあったに違いない。
折から訪米中だった池田首相は福田発言をハワイで知り、怒りのあまり手にした新聞を破り捨てた。
すでに福田は岸前政権で政調会長、幹事長、農林大臣など、日の当たる場所を経験していた。田中より一歩先んじて自民党の成長株にのし上がっており、岸派のクラウン・プリンスと呼ばれるようになっていた。
翌昭和三十六年七月の内閣改造で池田は造反分子の福田を更迭、その代わりに政調会長の椅子に座ったのが他ならぬ田中だった。福田から田中へ。のちに宿敵としてしのぎを削り合う二人の交代である。
田中はただ面白くて元気な政治家というイメージから昇格し、若手の実力者として注目されるようになっていた。田中と福田はまだお互いをはっきりとライバル視したわけではないが、なんとなく相手の動静を気にする関係にはなっていた。
田中と並んで党三役の総務会長になったのが川島正次郎派の赤城宗徳、そして幹事長が池田派の前尾繁三郎。世間は軽量党三役と評した。しかし、就任早々の田中は、「保険医総辞退」をかかげて政府と対決する日本医師会会長の武見太郎と堂々と渡り合った末、妥協を成立させ並々ならぬ腕力の持ち主であることを示す。
自民党総裁候補には佐藤栄作、河野一郎、石井光次郎、大野伴睦などの先輩が腕をぶしていたが、このあたりから田中は遠く彼方の靄の中にかすんで見える権力のいただきを感じ取り始めていたに違いない。同時に地元の新潟では「将来、田中は政界で大きな金がいる」と言われ始めてもいた。公共事業をテコにして自前の資金パイプをせっせと築き上げていた時期にもなる。
田中の資金づくりの手法を物語るひとつのよい例は、信濃川河川敷問題である。
信濃川河川敷は長岡の長生橋から蔵王橋にいたるまでの左岸四キロ。川の流れと堤防との間にできた七十四ヘクタールの広大な土地だった。
昭和三十三年、郵政大臣として初のお国入りをした田中は、河川敷の耕作権を持つ農民グループから陳情を受ける。堤防を川の流れに近づけ(送り出し)てほしい、もうひとつ橋を架けてほしいという二つの陳情だった。
河川敷は広大ではあるが三年に一回は大洪水に見舞われ、土を運び去られる。上杉謙信の昔から越後にとって最大の悩みはドカ雪と暴れん坊の信濃川だった。
信濃川を治めることは新潟県人の宿願で、河川敷問題はその象徴でもある。しかも、厄介なことにこの河川敷はツツガムシの棲息地でもあった。ツツガムシはダニの一種で幼虫のとき動物に寄生し刺す。そのとき病原体のリケッチアを感染させる。刺された者は高熱を発し死亡することもある。新潟、秋田、山形などの各県ではいまでも死亡者が出ることもある。昔から旅に出る者に「つつがなく」と言って送り出したことでも分かるように、おそるべき害虫だった。
この河川敷を洪水やツツガムシとは無関係の土地にしたい、土地を造成する企業や地元の発展に寄与してくれる工業を誘致したい、橋を架けニュータウンを開きたい――というのが農民たちの頼みだったが、田中は言下に断った。途方もない金がかかると判断したのである。
しかし、農民たちはあきらめなかった。再三再四の陳情に田中はついに「地区のみんなの熱意があれば努力をしてみよう。しかし、わたしは買えないよ」と答えた。
そのまま河川敷の行方は定まらぬまま時が過ぎたが、初陳情から四年経った昭和三十七年、田中は「全員が土地売却に同意するなら買おう」と言ってきた。こうして農民グループ全員が売却契約に捺印した。買い主は「室町産業」。土地の買い入れ窓口として田中が新しく設立した会社である。値段は坪当たり五百円。農民は河川敷を所有しているわけではなかったから売ったのはただの耕作権。かなり高い値段で売れたとみなが思った。
ところが売却後、意外なことが起きた。堤防の建設は十年先のことと言われていたのが、あっという間に測量も済み昭和四十年九月には着工。しかも、当初はたくさんのカマボコを斜めに置いていったような、不連続の「霞堤」を作る計画だったのが、一本に伸びる強固なコンクリート製の本堤防になった。四十二年六月には国道のバイパスとして長岡大橋も着工。広大な元河川敷は全くの浸水なき優良物件に化けたのである。五百円は高いどころか二束三文に思える値段になってしまった。室町産業は河川敷の半分を長岡市に高い値段で売った。
農民たちは河川敷の耕作権を売って損をしたわけではないが、田中になんとなくしてやられたという印象を持った。田中は建設省の堤防や長岡大橋の建設計画を事前に知っていたのではないか。知らぬ振りをして安く買い叩いたのではないか。
二人の農民が売却契約の無効を主張して裁判に持ち込んだ。田中金脈問題を国会に持ち込もうという、共産党の戦略が働いていたと言われている。
最大の焦点は、田中が事前に建設省の計画を知っていたかどうかということである。裁判もこの点をめぐって争われたが、一審二審とも「政治家の地位利用」を認めず最高裁へ持ち込まれた。
田中が知っていたという事実を法的に立証することは、本人が知らないと言う以上不可能に近い。
しかし、田中の建設官僚に対する影響力の強さを考えるなら、知っていて少しもおかしくはなかった。しかも、霞堤を本堤防に変えた建設大臣は田中の息のかかった橋本登美三郎である。むしろ新堤防の構築を決定させることすらもできたかもしれない。田中の一声で個別の公共事業プロジェクトが決定した例はいくらでもあるからだ。
仮に地位を利用しなかったとしても、結果として田中は巨利を得た。これが田中式錬金術である。
地方の駅に降り立つと駅前広場には銅像とか噴水があり、大きなスーパーやしゃれた飲食店が並ぶ。駅からまっすぐに延びる目抜き通りには銀行やら保険会社の看板が連なり、路上を闊歩していく若者たちの服装は六本木や渋谷のそれとさして変わらず、どこに行っても同じ駅前風景。のっぺりとした画一化がどんどん進んでいるような錯覚に陥るものだが、一歩中の地方社会に足を踏み入れると、さにあらず、人間関係は東京砂漠では想像もできないほどの湿度を保っているのがわかる。それは、大都会の真ん中ではポップスが流行り全国を席巻しているようでいて、地方では依然演歌が根強い人気を持っているのによく似ている。排他的で保守的。よそ者がなかなか入り込めぬ、無言の、目に見えぬ壁を張りめぐらせ、がっちりと自分たちで固まって利益を守る。食べるものも仕きたりも祭も言葉も違い、それぞれ固有の文化を意外にかたくなに維持している。
人々の関心は大都会から地方都市、地方都市から農村部に行くほど「世界」や「日本」のことから、目の前の「生活」に重心がかかっていく。都会に住む者はとかくポップスの世界から地方まで眺めようとするが、地方からの視点も交えた複眼を用いないと、ある人物の果たした役割とか、ある事件のマグニチュードとかを正確に知ることはできない。
昭和三十年代後半、田中は新潟三区に公共事業の山を築いた。それまで三区で仕事をする土建業者は雪に閉ざされると仕事が困難になり、従業員を解雇して失業保険で食べさせるほどだった。資本の蓄積などは望むべくもない。
ところが、田中は道路、トンネル、鉄道、河川、橋などの改修・新設事業や豪雪対策事業をどんどん引っ張ってきて彼らに膨大な仕事をもたらした。事業は三区の枠を超え新潟県全域に広がり、さらには他県にも波及効果を及ぼしていく。国道十七号線の三国トンネルがくり抜かれて新潟県と群馬県が太いパイプでつながる。昭和三十六年には新清水トンネル着工。四十二年には全線が開通。上越線は複線化を果たす。そして関越自動車道の完成。
田中は三区の市町村のみならず土建業者やその会社に働く従業員にとって、正義の味方ならぬ、三区の味方・黄金バットとなった。
田中の選挙事務所には土建業者たちが姿を見せるようになる。彼らは自社の従業員やその親類縁者はもちろん、下請けをも使って選挙の度に田中のために票を出した。その代わり、田中が持ってくる公共事業は談合によって配分した。いまでこそ談合は公正取引委員会の摘発の対象になるが、当時はほとんどが談合である。談合の場ではボス的存在の土木業者が仕事の配分を取り仕切り、調整のつかぬときは目白の裁定を待った。
田中は暇があるとヘルメットをかぶって三区の上空をヘリで飛び、公共事業の対象となる土地の地形を実地検分した。田中の手の回らぬ場合は、在京秘書の山田泰司が三区に出向き、越山会メンバーの陳情を受け査定した。俗に言う「越山会査定」である。
目白の田中邸には、県や市町村の首長たちが陳情に押しかける。目白の門は大きく開かれており、にぎわった。田中は陳情団と一緒に膝を交え朝食もとった。お膳の上には鮭の頭、大根の煮物、越後名物の油味噌、豆腐の味噌汁などが並び、陳情団を喜ばせた。田中は「役人は怖くないが、あんたら地元が一番怖い」と言って、隣の部屋に役人がご進講に来ていても平気で待たせていた。
入広瀬村の須佐昭三は助役のとき、同じ三区の代議士である大野市郎のところに陳情に行ったことがある。須佐が陳情書を差し出すと、大野は選挙のときの入広瀬村の票数を持ち出し、
「君のところは票が少ないな」
と言って陳情書を見もしないで秘書に渡した。
ここには二度と来るまいと須佐は思う。票数が少なければ増やしてやれというのが田中の発想で、三区の人間なら誰彼の差別はしなかった。
越山会は就職の世話もきめ細かく見た。田中のコネは官公庁から公社公団、さらには建設会社にまで及ぶ。就職と娘婿の世話で獲得した票は離れることはない。
陳情団の人数は膨らむばかり。そのうちさばき方も堂に入ってきて、中身を理解するや机の上のベルを叩いてチーンと鳴らす。これでみなが一斉に立つ。次の陳情団が入ってくる。田中が手に持った色鉛筆の赤の方を使ってメモをすれば陳情の脈あり。青のときはだめ。田中はその場でプロジェクトが可能かどうかを即断した。それだけの知識をあらかじめ仕入れていた。
これは大丈夫となると、関係各省庁の官僚を電話で呼び出す。秘書がその役割を受け持つこともある。目白に渡りをつけてもらった陳情団は、その省庁に出向くわけである。田中は権限を持つ行政組織をフルに使った。
役人を掌握していたのだ。とりわけ建設省や農林省の役人は田中が長い間取り組んできた議員立法の恩恵をこうむっていたし、田中は田中で役人のことを徹底的に調査していた。主要官庁の課長補佐以上についてはその略歴、家族構成、本人及び家族の誕生日、結婚記念日、彼の頭に描く人生コース、政治家との関係などこと細かにデータを作り上げていた。
役人にどれだけ気配りしたかを物語るエピソードがある。
三区内の郡部に舗装道路を通したときである。竣工式の予算のうち半分をオレに寄越せと田中が言ってきた。半分を村長から受け取った田中は、男物と女物の反物を半分ずつ買った。これを建設省の担当部門の役人にもれなく配った。女物はその奥さんが何歳か、太っているか痩せているかまで調べた。その反物は上等だったが、実は素人目ではわからぬわずかなキズがあり、値段は四分の一だった。こんなところにも田中の抜け目のなさがある。
越後人は長い間、中央の役人からないがしろにされてきたという意識がある。公共事業の恵みもほんのうっすら。経済発展の日の目を見ることができなかったという思いがあった。新潟出身者で官界で名を成した人間は少ない。新潟県人は中央官僚を恐れてもいた。
そこに登場したのが中央の役人を自在に使う田中である。悪代官をやっつけるロビンフッドのようなもので、新潟県人の|鬱積《うつせき》した心を揺さぶった。
陳情団(市町村の首長やそのスタッフ)から受け取った案件は目白を経由して中央官庁の役人に伝達され、事業が決定し国庫補助が出ることになる。ものによっては八〇%が国庫からの補助となるのだから、市町村にとっては打出の小槌のようなものである。事業計画が決まると、土木業者が指名入札を受ける。事業の配分は談合で決まる。
こういう手順ではあるが、そのうち陳情団に土木業者が同行するようになった。当たり前である。物事の決定ルートが暗黙のうちに固まったというのなら、そのルートの入り口に立ち、いち早く情報をつかんだ者の勝ちではないか。次年度どころか二、三年先の事業まで分かってしまうのだから、これほどありがたいことはない。
陳情について田中は独自の考え方を持っていた。
「現代は陳情の時代だ。陳情という言い方が悪ければ、主権者の提言といってもいい。マスコミは陳情をいけないことのようにいうが、これは旧憲法的思想で、ものの見方が逆立ちしている。国民が立法や行政府に対して、あれをしてくれ、これをしてほしいと陳情するのは、株主が取締役会に対して累積投票権を要求するのと同じこと。主権者の請願、陳情権は憲法上の大権といっていい
(注2)」
一理も二理もある考え方である。欧米の例を見てもそうだが、政治家の仕事はまず地元民の要望を聞くことから始まる。それのできぬ政治家は政治家ではない。米国議会、とりわけ下院の場合を見ると、日本をはるかに上回るドブ板政治が繰り広げられており、政治家は選挙民の直接的な利益のため粉骨砕身している。地元の要望を聞くことが良い政治家の必要条件だとするなら、十分条件はその上に立って国全体のことを考えることである。それができれば政治家は、ただのポリティシアンからステーツマンになれる。
陳情に対する田中の考え方は正しい。しかし、政治家が陳情を受けて政策に反映させるだけではなく、陳情からプロジェクトの執行にいたる過程で仲介者としての利益を受けていたとするなら、田中の言う「主権者の提言」も何やら怪しげな色彩を帯びてくる。
目白は陳情団や土木業者に見返りなしに一方的に情報を流し続けていたのだろうか。それほど寛大にして清潔無類の人格者だったのだろうか。
新潟日報社の取材陣が丹念に調べ上げて著した力作、『ザ・越山会』は、次のような土木業者の発言を紹介している。
「トップの連中(土木業者のこと)の政治献金は当然だが、このほか工事謝礼金があったと聞く。この金は労務者の水増しによる賃金差額で賄われ、謝礼は一説によれば工事額の〇・二%から〇・三%といわれていた。下請けはこんな金は出さなかったが、その分工事単価を切り詰められた。うまいシステムができていたものだ
(注3)」
また、同じ新潟日報社の『角栄残像』は、小出と会津をつなぐ小出只見線の全通を田中に陳情に行った者の証言を紹介している。昭和三十四年のことである。田中は言った。
「天下の代議士に頼むのだ。分かっているだろうな」
その意味を解さざるをえず、何がしかの資金を持っていったという。
昭和四十年代になると、越山会メンバーには土建業者が多く名を連ねるようになった。農村の、それも恵まれぬ人々の燃えるような熱情と地を這う努力によって自然発生的に生まれた越山会は、やがて土建王国の利益配分機構になっていった。農村から都市を包囲した田中社会主義は変質した。三区制圧とともに、田中社会主義はいつの間にかまことに日本的な田中資本主義に化していった。
越山会の力はやがて三区から新潟全県に拡大し、市町村の首長の人事にまで影響を及ぼすようになる。新潟県庁の土木行政は目白に牛耳られ、県の土木部長には田中の息のかかった人間が建設省からやってくる。
こうして税金は補助金に姿を変え、巨大な利益配分機構のバキュームカーに吸い込まれ、公共事業の洪水となって地元を発展させはしたが、田中の懐も潤した。懐に入った金はとどまることを知らず、政治家、官僚、芸者、キャディー、下足番、運転手にいたるまでキメ細かくばらまかれていくのだが、その話は後段に譲ろう。
戦後、吉田茂は田中をできる男として重用したが、いつしか警戒心を抱くようになる。「あの男は刑務所の塀の上を歩いているようなものではないか、まかり間違ったら向こう側に落ちてしまう」と言い出すようになる。
田中以外の政治家が金には恬淡としていたというのは嘘である。吉田自身も岸も池田も佐藤もライバルの福田も、そしてクリーンを自ら標榜したあの三木武夫ですら、派閥を維持するため、権力を奪取・維持するための多額の政治資金を必要とした。
しかし、田中と違っていたのは彼らが総じてきわめて用心深かったということだ。とりわけ福田は昭電疑獄に巻き込まれて目前の大蔵次官の椅子を棒に振った苦い経験があるだけに用心深かった。できるだけ多くの財界人から薄く広く金を集め、それも二重三重のトンネル機関を作って濾過していった。いまでいうマネー・ロンダリングである。エリートとして権力の中枢街道を歩み続けてきた福田にはそれが可能でもあった。岸の寵愛を受けるクラウン・プリンス。彼の先物を買う人間も多かった。財界本流からも政治資金が集まる。とりわけ金融関係者は福田を強く支持した。
しかし、田中は違う。三菱グループのトップの集まりである「金曜会」が初めて田中を宴席に招いたのは昭和四十年代も半ばを過ぎてからのことである。この席で田中は「天下の大三菱からはじめて御招待にあずかり無上の光栄であります」と皮肉たっぷりに挨拶している。
盟友の大平正芳が「刑務所の塀の上を歩く」田中に心から忠告したことがある。
「あんたは湯気の出ている金をつかみ過ぎる。危なくて見ておれない」
もう少し金を濾過して、利害関係のはっきり見えぬ“浄財”に変える努力をした方がいいという意味である。言い換えるなら、金を受け取ることにおいて大胆過ぎるということだろう。
この言葉を黙って聞いていた田中の頬に、やがて大粒の涙が流れ落ちた。
「大平君、キミは大蔵省でエリートではなかった。それでも天下の大蔵官僚だ。大蔵省の後ろ盾がある。経済人は金を出す。しかし、オレはただの|馬喰《ばくろう》のせがれだ。小学校卒だよ。大学時代の友達もいない。そんな人間が力を持つにはこれしかない。いいんだ。オレはあえて塀の上を歩く。向こう側に落ちればそれまでだが、きっと歩き切ってやる」
[#改ページ]
昭和二十二年に初当選して十年後の同三十二年、弱冠三十九歳で郵政大臣の金的を射止めた田中は、五年後の昭和三十七年、権力の頂点への登竜門である大蔵大臣になった。このとき、四十四歳。史上最年少の大蔵大臣だった。それまでの最年少は寺内内閣の勝田主計で四十七歳。四十代の大蔵大臣としては第一次近衛内閣の賀屋興宣四十八歳、岡田内閣の藤井真信四十八歳、阿部内閣の青木一男四十九歳などがある。
政治にクーデターはつきものである。高いポストは強い力を用いなければ獲得できはしない。クーデターなしに高いポストを求める者は官僚になればいい。
第二次池田内閣の第二次改造で実現した大平外務大臣、田中大蔵大臣のコンビはクーデターの名に相応しい人事だった。ちなみに大平はこのとき五十二歳。二人の若さに人々は世代交代の息吹を感じた。
この年の七月自民党総裁の公選があり、池田勇人は対立候補なしで当選した。早速の組閣となり池田は箱根にこもったが、構想がまとまらない。対立候補なしの当選ではあったが、事前に佐藤栄作や藤山愛一郎の立候補の動きもあったし、白票三十五票、佐藤ほか三十七票の批判票も出ている。池田は佐藤と異なりもともと人事は苦手だ。その夜、心身ともに疲れ果て、池田派の大番頭・前尾繁三郎と官房長官の大平正芳、それに政調会長の田中に組閣をまかせた。田中はかねて佐藤派と池田派のパイプ役を務めていただけではなく、今回の公選では佐藤の胸ぐらを掴んで出馬するなといさめたいきさつもある。次は佐藤という路線を敷くためには池田との関係を悪くしないことがベストと読んだからだが、池田とその側近はこれを多とした。
大平、田中の新世代は図々しい。組閣をまかせられたことをいいことに、閣僚名簿に「外務・大平、大蔵・田中」と自分たちの名を勝手に書き込んでしまった。前尾は幹事長に留任ということにした。
もっともこの陰には佐藤のリモコンが働いていた節もなくはない。次期総裁の対立候補として佐藤が警戒していたのが党人派の河野一郎と藤山愛一郎だった。党人派を閣外に追い出して出来るだけ力を削ごうと考えていた。
池田は田中の力を高く評価はしていたが、大蔵大臣にまでしようとは考えていなかったようだ。大平が田中を強く推したとき、池田は田中が品格に欠けるとして消極的な口ぶりだったが、大平が押し切った。田中が金的を射止めることができたのは盟友・大平のお陰である。
大蔵大臣のポストにあった水田三喜男は留任と思い込んでいたようで、記者団には「留任を要請されれば断る理由はない」などと語っていた。後日談があり、田中は見事に大蔵大臣をこなし、池田は親しい向きに「あれは水田よりいいよ」ともらした。昭和三十八年十二月の第三次池田内閣ではすんなり再任となっている。
翌日、組閣リストを見て党人派が激怒した。党人派の大御所である大野伴睦はすさまじい形相で組閣本部に乗り込んできて、池田の面前で大平と田中を面罵した。
「これはなんだ! お前らの陰謀か。田中・大平連合内閣ではないか」
大平と田中は黙って席を立ち、官房長官室に入って内側から鍵をかけ椅子を並べ、ふて寝した。
温厚な前尾は大野をとりなした。結局のところ、若い二人の行動力の勝利。党人派にとっては後の祭りだった。閣僚リストから外されそうになっていた河野が建設大臣に、川島正次郎が行政管理庁長官になり、一件落着した。このとき佐藤、藤山、三木の三実力者は閣外へと去っている。次期をねらう佐藤としては藤山や三木を道連れにしたことで、まずは成功だった。おまけに田中というくさびを池田内閣に打ち込んで去ることができた。
自民党本部から大蔵大臣室に移った田中は、政治秘書の佐藤昭子と二人きりになって初めて告げた
(注4)。
「おい、天下を取れるかもしれないぞ」
三区の山奥にまで足を運び村人たちと車座になって話し込んだ当時、「オレは将来、総理大臣になる」と豪語した。あのときとは言葉の重みが違う。「天下」は願望ではなく、はっきりとした意志になりつつあった。
東京タイムズの政治記者から田中の秘書になった早坂茂三は初登庁の日、目白から霞が関までの自動車に同乗する。
天下の秀才中の秀才、官僚中の官僚、別の言い方をするなら、煮ても焼いても食えない傲慢で意地悪な集団である大蔵省に乗り込む。大臣初登庁の日は大講堂に事務次官以下職員が勢ぞろいして大臣のスピーチを聴くことになっている。このスピーチでその大臣がどれくらい|与《くみ》しやすいかを省幹部は判断するらしい。
「連中はあなたの来るのを腕まくりして待っているでしょうね。小学校卒、土建屋の大将が来るとね」
早坂の言葉に田中は答えた。
「オレはあれこれ言わずに連中を参らせてやる」
大講堂に入った田中はすたすたと壇上に登り、さして緊張した様子もなく言ってのけた。
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒である。諸君は日本中の秀才であり、財政金融の専門家揃いだ。私は素人だが、トゲの多い門松をくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。大臣室はいつも開けてある。上司の許可を得なくてもいいから、いつでも大臣室にきてくれ」
結語は「できることはやる。できないことはやらない。しかし、全ての責任は、この田中角栄が負う。以上
(注5)」。
公共事業予算をめぐる長い間のやりとりから田中は大蔵官僚の泣きどころを熟知していた。理屈は超一流の連中だから、いくらもっともらしい理屈を振りかざしても感服はしてくれない。その代わりインテリが辟易するほどの堂々とした自信を示すこと。そして、逃げ隠れはしない、責任は絶対に取るという決意を示せばいいと考えた。
スピーチが終わると万雷の拍手。秀才たちの表情が笑みで明るく砕けていた。早坂は田中が勝ったと直感した。
だが、いざ仕事が始まると大蔵官僚は一筋縄ではいかなかった。
大臣になるとまず日程に取り込まれるのが「ご進講」である。各局長や課長が自分の所管事項をまとめ製本して大臣にレクチャーする。ひとつの局で一日か二日かかるから合計二週間はかかる。大臣のほとんどは素人だから、まずこのご進講で勉強をして国会答弁や記者会見に臨む。
ところが、田中はご進講を取り仕切る官房長の佐藤一郎に申し渡した。
「製本だけ届けてくれ。各局の説明は一時間くらいにして、文章になっていないところだけを重点的に説明してほしい。ご進講は一日でいい」
佐藤は抵抗した。各局長や課長は徹夜して報告書をまとめたのだから、その労をねぎらう意味で我慢して聞いてほしいと言う。
だが、田中ははねつけた。
「いますぐ必要でないものまで聞くわけにはいかん。暇がない」
佐藤は粘った。
「暇がないなら暇を作って下さい」
とうとう田中は大声を出した。
「いい加減にせい。ボクは本を斜めに読むから十分もあれば一冊の中身は分かる。それに、ご進講と言ったって、『あれはだめ』、『これは断ってくれ』ばっかじゃないか。この政策をやりましょうというのならいいが、そうでない限り説明はいらない」
ご進講は官僚が大臣をしばり、自分たちの土俵の中で仕事をさせるための有力な手段だったのを、田中は熟知していたのだった。こうしてご進講をしりぞけた。最近の大臣で、これほどの骨のある人物はそうはいない。
しかし、佐藤官房長とのこのやりとりで心は傷ついた。十分もあれば一冊の本は読めるという言葉を佐藤は信じようとしなかったし、なによりも自分をがんじがらめにしようとした。秘書の前で田中は「あいつらは、このオレを馬鹿にしている」と言って涙を流した。小学校卒ということで軽く見られたとも思った。
佐藤はその後、政界に出る。このときのいきさつがあったからでもないだろうが、田中と佐藤の関係は必ずしもうまくいかず、佐藤は田中のライバルである福田派に入った。
しかし、田中は持ち前の人心収攬術で大蔵官僚の心をつかんでいった。入省年次から学歴、誕生日、家族構成までを調べ上げ、節々にケタ外れのお祝儀や贈り物を渡す。それがまたまことにタイミングが良い。
カンも良い。大蔵大臣最大の仕事は言うまでもなく予算編成。大臣就任後初の予算編成(昭和三十八年度)では、まだ事務当局が査定する段階だったにもかかわらず記者会見で「一般会計規模は二兆八千三百億円から五百億円」と勝手に語り、大蔵官僚を怒らせた。まだ大蔵原案も出ぬ十一月初旬のことだった。
しかし、予算編成が終わってみると数字はぴたりとその枠内に収まる。このあたりから田中は「歩くコンピューター」と呼ばれるようになり、やがて「コンピューター付きブルドーザー」になる。
田中は「これまでのような秘密主義ではなく、予算編成の早い段階で党や世論の反応をさぐり、事務当局に腹積もりを固めさせる必要がある」と考えていたようだ。野放図なようでいながら、用意周到な作戦を立てていたのである。
この年の予算編成では建設大臣・河野一郎との復活折衝で百六十五億円を五分間で全額認め世間をあっと言わせた。のちに「一秒五億円の折衝」とマスコミに呼ばせたほどのスピード折衝だった。河野は田中に感謝はするが、その異能振りに次第に警戒心を持ち始め、池田に「佐藤派の田中を切れ」と進言するようになる。
大蔵省には財政研究会という記者クラブがある。新聞各社の経済部では花形のクラブで敏腕記者やうるさ型が集まるが、田中の評判は上々だった。なにしろサービスがいい。予算規模をいち早く教えてしまうだけでなく、日銀が秘中の秘にする公定歩合政策などもぽろりとしゃべってしまう。
大臣の旺盛なサービス精神を知る記者連は懇談会なるものを催して寿司などを取り、クラブに招待する。暑がりの田中は扇子をぱたぱた言わせながら寿司をほおばり、記者たちの誘導質問に乗って上機嫌で秘密をもらす。とうとう財政研究会のみならず日銀記者クラブの面々も大臣会見に顔を出すようにさえなった。
のちに通産大臣から総理の座を射止めたときのことだ。通産省の記者クラブである虎の門クラブの記者たちがお祝いパーティーを催そうということになった。記者連が会場の日本記者クラブに行くと、田中はすでに先に来ており、ひとりひとりの名を呼んで握手をして謝意を表した。記者の名と所属する新聞社をすっかり暗記していたのである。
とにかく話題の多い大臣で、ワシントンで開催したIMF(国際通貨基金)総会に出席するため初めて訪米したときには、一人娘の眞紀子が吹き込んだテープを聴いての猛勉強の末、英語で演説をした。中身を各国の代表が理解したかどうかは分からないが、汗をかきかきの新潟訛りの英語にみな親しみを感じたのだろう。かなりの拍手があったという。
帰途立ち寄ったニューヨークでは、ウッズ・ファーストボストン会長主催のパーティーで「王将」を歌い、やんやの喝采を受けたりもした。
池田首相からは「大蔵大臣は一日でも内閣を離れてはならない。僕は大蔵大臣在職中はもちろん総理になってからも郷里の広島には帰らなかった」と言われたが、この言葉を無視して勝手にお国入りしてしまう。三区では花火が上がり紙吹雪が舞い、郷里・西山町の人々は「田中蔵相歓迎歌」まで用意して合唱した。田中はこの歓迎に応え、「大蔵大臣にしてくれたのは池田首相ではない。あなた方選挙民なのであります」とやり、地元の人たちを喜ばせただけではなく同行記者に格好のネタを提供した。
記者たちにサービスが良かっただけではない。大臣室のドアを開いたままにしながら、不手際をおかした役人に対して聞くに耐えない罵声を浴びせかけることもあった。秘書課に記者たちが来ていることを知りながらの罵声だった。記者たちに田中の恐ろしさをそれとなく教えたのだ。恥をかかされた役人には傷心のため廃人同様になった者もある。
大蔵大臣在任中、田中は豪雪を公共事業補助の対象である「激甚災害」に閣議で指定させるべく動く。建設大臣の河野は「雪が災害に当てはまらないことは分かっているではないか」と渋ったが、田中は「今度の雪は異常豪雪だから特別だ」と譲らなかった。河野は「いつも金を出し渋る大蔵大臣の君が自分で言い出すのだから、金はいくらでも出すのだろうな」とすごんだ。田中はひるまず「金で迷惑はかけない」と答えて、とうとう豪雪を補助金のつく「災害」の対象にしてしまった。「従来財政は経済効率を重視して表日本中心だったが、この傾向を修正し、豪雪単作地帯、低開発地帯を重視したい」とかねがね語っていたことを実現したのである。
大蔵大臣を務めた三年間で最大の出来事は、昭和四十年の山一証券事件だろう。
前年の昭和三十九年は、先進国への仲間入りを目指して|驀進《ばくしん》してきた日本経済がひとつの高みに達した年になった。この年、東京オリンピックを開催。国際収支を理由に為替制限をしないことを約束するIMF(国際通貨基金)の八条国に移行。同時にOECD(経済協力開発機構)に加盟して先進国の資格を得た。東海道新幹線が開通。テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器はもはや必需品となり、代わってクーラー、カラーテレビ、カーの3Cが花形商品に躍り出る。九月初旬、東京で開催されたIMF総会で池田首相は「みなさん、日本の爆発的なエネルギーを見て下さい。みなさんから借りた資金はわれわれ国民の頭脳と勤勉によって立派に生きて働き、明治以来の教育の成果が驚異的な経済の発展の秘密となりました」と演説して胸を張った。
しかし、そのときすでに池田の喉頭部をガン細胞が蝕んでいた。オリンピックの最終日の翌日、十月二十五日、池田は退陣を決意し佐藤栄作に政権を禅譲することになる。昭和四十年八月、池田は帰らぬ人となった。
華やかなイベントがあった昭和三十九年だったが、経済には暗雲が垂れ込め始めていた。この年の一月、低迷する株価を支えるため市中銀行と証券会社による日本共同証券が生まれる。三月には国際収支の赤字がはっきりし日銀は公定歩合を二厘引き上げる。日本特殊鋼、サンウエーブなどの一部上場企業の経営不振が表面化。
明けて昭和四十年は未曾有の不況の年となった。経済の停滞とともに証券市場には信用不安の火がくすぶり、五月二十一日の西日本新聞が、「山一証券、経営難乗り切りへ。近く再建策発表」との記事を掲載するに及んで一気に燃え上がった。当時の証券会社は顧客から金融債を預かり、これを担保にして銀行から資金を借りて株式を売買していた。いわゆる「運用預かり」である。
ところが株価が下落するにつれ金融債を銀行に差し押さえられて返してもらえなくなるのではないかという不安が頭をもたげ、運用預かりの解約を求める行列が店頭にできた。一種の取り付けが発生したのだ。
同月二十八日、田中は日銀総裁の宇佐美|洵《まこと》から電話をもらった。山一証券のみならず日興証券その他の証券会社店頭にも長蛇の列が生まれているという。宇佐美は名古屋出張を途中で取り止め急遽帰京していた。
宇佐美は緊迫した声で告げた。
「早く手を打った方がいいですね」
「分かった、分かった。すぐやる」
田中は、日銀法第二十五条を発動して、市中銀行を通じて証券会社に対して無担保・無制限融資をすることを一瞬にして決めたのだった。二十五条の発動は昭和の金融恐慌以来の出来事となる。
田中と宇佐美はツーカーの仲だった。前の年の十二月、病身の山際正道に代わって三菱銀行頭取の宇佐美を日銀総裁に起用するよう佐藤首相に強く進言したのは田中だった。官邸に呼ばれ総裁就任の要請を受けた宇佐美は、外に出るや日銀差し回しの車が準備よく待機していたのに驚いた。田中の手配だった。
二十八日午後五時の日銀緊急理事会で二十五条の発動が決まる。しかし、これを実際に実施するには市中銀行の協力が前提条件になる。
この夜、赤坂の日銀氷川寮に七人の男が集まった。日銀副総裁の佐々木直、大蔵事務次官の佐藤一郎、銀行局長の高橋俊英、財務調査官の加治木俊道、日本興業銀行頭取の中山素平、富士銀行頭取・岩佐凱実、三菱銀行頭取・田実渉。
宇佐美が来なかったのは新聞社のマークをおそれたためで、副総裁の佐々木は緊急理事会の方針を伝えるとともに、三行に証券会社に対する支援とその再建に全面的に協力してくれるよう要請した。
だが、三行としては簡単に「はい、そうですか」とは言いがたい問題である。無担保・無制限の融資に協力するなどということは銀行経営の健全性を侵すに十分な行動となる。銀行業は慈善事業ではない。債権の棚上げや金利の減免も唯々諾々と応じるわけにはいかない。銀行に戻って説明したら部下に内心馬鹿にされるおそれが十分にある。話はなかなかまとまらず虚しく時間のみが過ぎていった。
大蔵大臣の田中が現れたのは午後九時頃である。
楕円形のテーブルを囲み、大臣を交えて再び協議が始まった。金融債を発行している興銀の中山は証券会社救済に熱心だが、富士の岩佐、三菱の田実は渋い。とうとう田実がつぶやいた。
「こうなったら、二、三日証券市場を閉めたらどうですか」
田中が不機嫌な声を出した。
「閉めてどうする?」
「様子を見るのです」
田中の顔に朱がさし、おそろしいドラ声が田実の頭上に飛んできた。
「手遅れになったらどうする! それでもお前は銀行の頭取か」
お前と言ったのである。田実のこめかみの血管も膨れ上がったが、何も言えなかった。ドスのきいた乱暴な声で「お前」などと言われたのは生まれて初めてだったのだ。
こうして大蔵省、日銀、主要な市中銀行の共同行動による証券会社救済策が決定した。深夜十一時、大蔵省・財政研究会と東京・六本木にあった宇佐美邸で緊急の記者会見があり、日銀法二十五条による無担保・無制限融資の方針が発表となった。証券市場に燃え上がった信用不安の火は急速に|萎《しぼ》み、田中と宇佐美の決断は金融・証券市場を救った。
昭和三十九年十一月、総理官邸入りした佐藤栄作は、官房長官を池田派の鈴木善幸から橋本登美三郎に代えただけで、閣僚および党三役メンバーをそのまま留任させ政権を発足させる。病床にあった池田から政権を禅譲の形で引き継いだからである。
佐藤が自前の内閣を作ったのは七か月後の翌四十年六月。このとき田中は初めて自民党幹事長の重責を担うことになる。ちなみに池田時代、不遇をかこっていた福田赳夫は日の当たる場所に躍り出て、田中の後の大蔵大臣に登用された。
自民党出身の総理大臣の圧倒的多数は幹事長を経験している。幹事長は権力の頂点を目指す者にとっては一度は上らねばならぬ階段である。
幹事長とは何か。一口で言えば、自民党総裁代行である。総理大臣は自民党総裁でもあるが、総理の職務が命を削るほどの忙しさだから、党務は幹事長まかせとならざるをえない。幹事長の下には数人の副幹事長がいる。各派閥から選ばれた者で、この他、総務局長と経理局長が幹事長を補佐する。二人とも幹事長の息のかかった子飼いである。
人事で最も大事なのは選挙時に誰に党公認を与えるかで、公認をもらえぬ場合はよほど選挙に強くなければ当選できはしない。その他、国会運営で各委員会の委員長人事も幹事長が采配を振るう。各派閥から候補が挙がってくるのだが、拒否権を持っているのだ。
自民党には多額の政治献金がなされるが、幹事長はこの資金の配分権を一手に握る。公認料は時代によって異なるが、田中の時代はおよそ三百万円から五百万円が通り相場になっていた。しかし、極端に言えば誰にどれだけやってもいい。幹事長の胸三寸だ。
人事と金を握られれば誰しも頭を下げ、言うことを聞かざるをえなくなる。絶大なる権力である。このほか、党三役としては政調会長、総務会長があるが、政治家の誰かが「党人事の刷新」を口にするときは、八、九〇%が幹事長の交代を暗に要求していると考えていい。
この幹事長ポストを田中は射止めた。ただし、佐藤はこのとき副総裁に党人派の川島正次郎を配置していたから、田中ひとりが党務を切り盛りしたわけではない。
田中は川島と息の合ったコンビを組み、気脈を通じ合う仲となった。
川島は明治二十三(一八九〇)年の明治生まれ。東京の下町育ち。現在の専修大学の前身である専修学校卒。毎日新聞に入社後、東京市商工課長を経て昭和三年の普通選挙に当選して以来、腕一本で政治の世界を歩んできた男で、年齢は田中とははるかに離れているものの政治の風向きを皮膚感覚で察知する点でよく似ていた。
ちなみに田中のライバルの福田はすでに岸内閣のとき、昭和三十四年一月、幹事長になっている。政界入りは田中の方が先輩だったが、幹事長としての経験は福田が先を越していた。
官邸入りした当初の佐藤は人気のない総理だった。自らの手で政権を獲得したわけではないからドラマ性に欠けていた。池田の高度成長政策に対して「社会開発」を口にはするが、池田からもらった政権だから強烈なアンチテーゼを打ち出すわけにもいかない。「社会開発」とは折から表面化しつつあった公害とか、工業と農業の所得格差拡大とかのひずみを是正するという意味だが、歯切れの悪い印象は否めなかった。
それに佐藤は風貌もぎょろ目で寡黙。暗い印象を与えた。彼をよく知っているはずの椎名悦三郎(当時は川島派)ですら「兄(岸信介)の方はおだてれば梯子のてっぺんに登ってしまうような、おっちょこちょいで人のいいところがあったから親しみが持てたが、弟の方は何を考えているのか分からない。腹黒なのじゃないか」などと記者団の前で平気で語っていた。
佐藤は明治三十四(一九〇一)年生まれ。東大卒後、鉄道省に入り、運輸次官を経て民主自由党に入った。第二次吉田内閣で議席なしの官房長官に抜擢されてから、吉田学校の優等生としての頭角を現した。
「|任怨《にんえん》、|分謗《ぶんぼう》」が佐藤の好きな言葉のひとつ。道にあたっては甘んじて人の怨みを受け、同僚が世のそしりを受けるのを分かち合う――という意味である。その姿勢は「待ちの政治」とも言われ、一石を投じて世間の反応をじっくりと見極める。機が熟してから初めて行動に出る。良く言えば手堅く、悪く言えば臆病。
佐藤政権発足時の最大のテーマは日韓の国交正常化だった。当時まだ、日韓はお互いを正式に国として認めていなかったのである。
交渉は十四年越しのマラソン交渉となっており、最も厄介な戦後処理案件に数えられていた。日本が韓国に対してどのような賠償責任があるかが最大の焦点になっていた。これを韓国の対日請求権と呼ぶ。
池田内閣時代の大平外務大臣は韓国の金鍾泌中央情報部長との会談で、いわゆる「大平・金メモ」をまとめ、両国の間では請求権問題に大筋の合意は成立していた。その内容は日本が無償三億ドル、有償二億ドル、民間信用十一億ドル以上を韓国に供与するというものだが、問題は両国内の政治情勢にあった。条約の発効のためには両国の国会が批准しなければならない。両国とも野党が簡単に呑もうとしなかったのである。
韓国側では野党や学生がこの「大平・金メモ」を屈辱外交だとして騒ぎ、日本側では野党の社会党が外相不信任案を提出した。「日韓国交回復は米国帝国主義のお先棒を担ぐものであり、朝鮮半島の統一を妨げる」としていた。
佐藤が自前の内閣を発足させて一か月後の七月、参議院選挙で自民党は負ける。改選前の議席が七十五だったのが、七十に減り、社会党は二十八から三十六に増えた。同じ月に都議会選挙もあったが、ここでも自民党の退潮が明らかになった。
この年の秋、佐藤内閣は命運を賭けての「日韓国会」を迎える。田中幹事長の初の大仕事でもあった。自民党の内部には「佐藤は日韓でつまずく」という読みもあり、党内にも不穏な空気が芽生えていた。
田中や川島はなんとかして野党を切り崩そうとするが、参議院選挙の勝利で気をよくした野党の姿勢は硬い。のちに田中は得意の人心掌握術で野党にも人脈の地下水を通し、重要法案を通していくが、このときはまだまだ幹事長としては青二才。お手並み拝見と皆が注目するのみだった。
佐藤とその側近、田中や川島は場合によっては総選挙も辞さずの気構えで臨む。ついに十一月初め日韓特別委員会で自民党は日韓条約批准案件を一括可決する強行手段に打って出る。本会議では社会党は牛歩や不信任案の提出などによって審議を遅らせる。途中デモ隊の国会乱入も発生。荒れに荒れた臨時国会となったが、またもや自民党は単独で批准案件を一括採決して条約は発効した。
日韓条約の批准はなんとか乗り切ったが、佐藤政権は一向に安定しなかった。思わぬところから足元を揺るがす事件が多発したのである。これが自民党の一連の不祥事、「黒い霧」事件だった。
黒い霧の第一号は吹原産業事件。吹原産業社長の吹原弘宣が三菱銀行長原支店から三十億円の預金通知書をだまし取ったとされる事件だった。池田内閣時代の官房長官、黒金泰美の念書を偽造し、昭和三十九年の自民党総裁選挙用の資金を預けると言って預金証書を事前にまんまと詐取した。
念書を偽造された黒金は犯罪とのかかわり合いが噂され、事実上政治生命を失う結果となってしまった。自民党総裁選挙にからんで巨額の闇資金が裏で飛び交っていると世間は受け取ったのである。
次が田中彰治事件。自民党議員だった田中彰治は、田中(角栄)と親しい小佐野賢治を脅迫した。小佐野の虎ノ門公園国有地の払い下げ問題が衆議院決算委員会で論議されたのに乗じ、田中彰治は委員長である自らの地位を利用して払い下げに不正があると小佐野を脅迫した。
田中彰治は恐喝・詐欺で特捜部に逮捕。議員を辞任しはしたが、現職の決算委員長の犯罪はなんとしてもまずい。自民党議員の汚染度を世間にさらす結果となる。
不祥事はこれで終わりはしなかった。佐藤内閣の荒船清十郎運輸大臣が自らの地位を利用して自分の選挙区である埼玉県深谷駅に急行列車を停車させるという事件が起きた。国会で追及された石田礼助国鉄総裁はこのとき「深谷駅への急行停止は理屈では断るべきだったが、情けにおいて認めた。これぞ武士の情けだ」と名答弁(?)をして議場の笑いを誘う。
悪いときには悪いことが重なって起きるもので、この他、共和精糖グループへの過剰融資問題、輸入バナナをめぐる利権疑惑などが続発し、野党は佐藤総理に衆議院解散か総辞職をしきりに迫った。閣内でも藤山経済企画庁長官が解散を要求、十一月には自ら辞任する。
当時の朝日新聞からこの頃の佐藤内閣に対する支持率を見ると、支持は三〇%、不支持は二六%に達している。ちなみに政権発足時は支持が四七%、不支持は一四%だった。
こうして佐藤はこの年の十二月一日、自民党総裁選に臨む。ライバルの河野一郎がすでに死去していたこともあり、佐藤の再選は確実視されていたが、問題はどれだけの批判票が出るかだった。
立候補した藤山は批判票が百五十を上回ることを期待していた。
結果は、佐藤が二百八十九票、藤山八十九票。佐藤は藤山を大きく引き離しはしたが、前尾繁三郎四十七票、灘尾弘吉十一票、野田卯一九票、小坂善太郎二票、岸信介、松村謙三、村上勇それぞれ一票、無効九票となり、非佐藤票は百六十九票に達した。佐藤にとってはかなりのショックの数字で、開票結果が発表されると、会場には「ほう」という声がもれた。
翌日の十二月二日、田中幹事長と川島副総裁は一連の黒い霧の責任を取って辞任することになった。田中や川島が黒い霧事件に直接かかわっていたわけではないが、自民党内の不祥事は党を取り仕切る幹事長と副総裁の責任だった。
田中にとってはわずか一年半の幹事長ポストで、うしろ髪引かれる思いがあったに違いない。不完全燃焼の一年半だった。
田中の後をついで幹事長の椅子に座ったのが福田である。福田はこのあたりから佐藤内閣の重鎮としての地位を確実に固めていく。
反対に田中には不遇のときが訪れた。なんの肩書もない無役の時代である。
飛躍の可能性は不遇のときの過ごし方によって決まる。その人の個性は得意の絶頂にあるときよりも、不遇のときに鮮明に表れるものだ。
たとえば福田の不遇の時代だが、池田に政調会長のポストから外されてから、「党風刷新連盟」の結成に動いた。党風刷新連盟の掲げた目標は、第一に国会議員の意識革命。議員は国家の運命を託されている崇高な立場であることを自覚すべしと言う。
第二は、派閥の解消。第三は、小選挙区制の導入である。このうち第三の小選挙区制は長期的な課題で、当時の自民党議員に異論はない。田中ものちにこれを断行しようとしたことがある。
福田の特色は一種古色蒼然とした精神主義にあった。党風刷新連盟にはこれが如実に表れている。東京オリンピックで建設ラッシュに湧く日本を眺めやりながら、福田はこう慨嘆した。
「東京中のあちこちがオリンピック施設や道路建設のため取り壊され、掘り起こされている。一方では、家、屋敷が道路にとられたりした代わりに補償金がころがりこんだ『にわか成金』たちがそこら中に誕生した。セックス映画が氾濫し、朝から晩まで『お座敷小唄』など浮かれ調子の流行歌が流れている。どこもかしこも物と金の風潮に覆われて『謙譲の美徳』や『勿体ない』という倹約の心掛けといった古来からの日本人の心が失われかけていた……池田内閣の所得倍増、高度成長の結果、社会の動きは物質至上主義が全面を覆い、レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任、無気力が国民の間に充満し、“元禄調”の世相が日本を支配している
(注6)」
こうして福田は「昭和元禄」という言葉を作った。
福田は見出しを作るのがうまい。たとえばのちのオイル・ショック時の物価高騰を評して「狂乱物価」なるものも造語した。行動するときより、世を嘆いたり批判したりするときの方が福田の面目は躍如となる。物事を抽象化する能力に優れている。
ところが古色蒼然たる福田の精神論に比較すると、不遇の田中が考えたことはきわめて具体的、実践的、工学的ですらあった。それが「日本列島改造論」の前身となった「都市政策大綱」だった。
日本の隅々にまでブルドーザーの音を鳴り響かせるような「列島改造論」は、土地インフレの代名詞のように受け取られ、芳しくないイメージを残した。田中は政権を取った直後、この列島改造論を高らかに唱えるが、折からのオイル・ショックや過剰流動性のあおりを受けてこの構想はうやむやになり、ついには福田の手によって葬り去られる運命にあった。
しかし、「都市政策大綱」を今日読み直してみれば、その先見性に誰しもが舌を巻く思いがするだろう。「列島改造論」は葬り去られはしたが、その後、政権についた大平正芳は「田園都市構想」を、竹下登は「ふるさと創生論」を唱えた。「東京一極集中の是正」はいまでも最大の課題である。工業と農業の、そして太平洋ベルト地帯とその他の地域との不均衡を公共投資によって是正していくという発想は、形を変えて生き残った。
経済が急テンポで成長するときには、豊かな者と貧しい者との格差が必ず開く。その格差を埋める手を打たないと、貧しい部門に不満が鬱積し社会は不安定になる。また成長の結果、公害、インフラ不足、物価高騰などが生じて、成長そのものの足を引っ張ることになる。
中央から地方への財政資金の流れは、この不均衡を是正するうえで大きな役割を果たしたのであり、その資金の仲介者となったのが自民党だった。五五年体制とは極言すれば、中央の金を地方に流す政治システムのことでもあった。
現在の悲劇はその資金の流れが役割を終えたにもかかわらず、つまり一部の地域は別として中央と地方の格差が埋まり、むしろ中央に住む者の税の負担感が増しているにもかかわらず、この政治システムにピリオドを打てるだけのエネルギーと構想力を持つ政治家が現れないことだ。田中のつくったものを、田中ほどのバイタリティーをもって崩すことのできる者がいない。
与党の自民党の中にはこの矛盾に気づいている者もいるが、悲しいかな、この資金の流れをせき止めようとすると、自民党の自己否定になってしまう。また、野党側にも、自民党のそうした構造に鉄槌を加えるに足る、総合的なビジョンを打ち出せる者がいない。
さて、田中の「都市政策大綱」に戻ろう。
昭和三十年代の末、共同通信社の政治部に麓邦明という名の記者がいた。長く佐藤派を担当したから、田中とも親しい。
あるとき酒席で田中が突然つぶやいた。
「オレは新しい国家改造論を作りたいのだ」
麓は田中の頭の中に漠然と宿るものが何であるかをとっさに察した。
若いときから議員立法三十三本を成立させ、道路、住宅、河川、防災など広範囲にわたる公共投資関連の法案を整備してきた田中である。その個別の政策を総合的にとりまとめ、ひとつの国家改造論にまとめ上げてみたいというのだろう。
よし、角さんと一緒にその国家改造論を書いてみよう――と麓は決意した。
麓は、田中の誘いを受けて昭和四十年、その秘書となった。いまで言う政策秘書、ブレーンである。麓は筆が立つ。知性的な男でもある。自身の中にひそむ国家への思いを田中という政治家に託して青写真を描いてみようと考えた。だから、田中と麓とのつながりは親分・子分の情緒的なものではない。これがのちに麓が田中と|袂《たもと》を分かつ一因となった。
昭和四十二年の初め、麓と早坂茂三は衆議院議員の坂田道太と原田憲に呼ばれる。二人とも日頃から田中と親しい議員である。
「おい、角さんを遊ばせておくのはもったいない。彼はこれまで国土政策に熱心に取り組んできた。何かまとめさせようではないか
(注7)」
麓は以前の酒席での話もあり、すぐに飛びついた。早速、早坂とともにプロジェクトをまとめるメンバー作りに入る。麓は米国務省の招待で米国を訪問することになっており、その日の午後打ち合わせのため米大使館に出向く予定だったが、電話を入れ、取り止めると告げた。
この年の三月、衆議院五十三人、参議院三十四人、合計八十七人のグループがたちまち出来上がる。「自民党都市政策調査会」、会長はもちろん田中である。
田中は麓に指示した。
「執筆は全部キミがやれ。役人に書かせてはだめだ。書くための情報は全部役人から集めろ」
このとき同調査会のスタッフに加わった男に経済企画庁にいた|下河辺淳《しもこうべあつし》がいる。
下河辺は大正十二(一九二三)年生まれ。田中より五歳若い。東大工学部卒。戦災復興院から建設省を経て経済企画庁に入る。のちに新全国総合開発計画(昭和四十四年)を立案することになり、別名「開発天皇」とも呼ばれるようになった。総理大臣・田中の肝煎りで設立した国土庁次官にもなる。
建設省の課長補佐だった時代、下河辺は代議士になったばかりの田中と会っていた。田中は建設委員会に所属し、昭和二十四年には同委員会の地方総合開発小委員会の委員長になっていた。役人はさまざまな政治家と普段から会ってルートを作っておかねば、通したい法案も通らなくなる。絶えずご進講を繰り返し、洗脳しておく必要がある。
政治家には表方と裏方とがある。田中は川島正次郎や大野伴睦と同じ裏方の政治家であると下河辺は考えていた。政治家の料亭通いが盛んな時代で、表方はもっぱら新橋とか赤坂を、裏方は神楽坂をそれぞれ利用していた。田中は神楽坂に出没していたのである。
裏方は多くをしゃべらない。じっと官僚の言うことを聞いていてツボを掴み、後は力で党内調整を進めていく。
ところが、田中は違った。人の話をじっと聞くどころではない。機関銃のようにしゃべりまくり、ぽんぽん新しいことを提案する。新聞記者が持っているような小さな紙をポケットに入れており、しゃべりながらエンピツを出し自分でメモを取る。そのメモを「これだよ」と言って手渡してくれる。中には土地への課税を累進制にしたらどうかなどという空論もあったが、多くは下河辺の意表を突いていて、しかも検討に価いする内容になっていた。この人は東大法学部的な発想領域を超えている、しゃべりながら知恵が湧いてくるようだ――と感心したものだ。
何よりも驚いたのは、田中が農村と都市とを対立するものと捉えていなかったことだった。農村の工業化、農村の都市化を提案し、同時に大都市の再開発を進めるべきと言う。国土の都市化である。
農村を可哀相なもの、助けの手を差し伸べてやらねばならぬもの、停滞の象徴とは把えてはいない。農村地帯を十分に発展しうるものと考えている。日本全体を都市国家にすることによって、過密と過疎とを同時解決しようという構想だった。発足した会が「都市政策調査会」と称したゆえんである。田中の都市国家論は都会に生まれ育った者には思いつくことのできぬ、総合的な視野の広さを備えていた。
都市政策調査会の会合の席上、田中は「都市政策の主人公は市民である」と発言して下河辺を再び驚かせる。「市民」などという言葉はハネ上がりの市民運動グループが用いることはあっても、自民党の辞書にはどこを探しても当時なかった。下河辺は田中を洗脳するどころか、すっかり洗脳されてしまった。
下河辺と並んで、「都市政策大綱」作成に参加した官僚がいる。自治省大臣官房企画課長のポストにあった武村正義だった。
武村は欧州を視察した結果を論文にまとめた。論文の主旨は「欧州は南部の気候が温暖で土地も肥沃だから農業地帯となっている。一方、寒冷地の北は地味も貧しいが、その代わりに工業地帯になっている。南農北工型である」。
田中はこれに目を留め、武村を目白邸に呼び詳しく話を聞いた。日本は欧州とは異なり、「南工北農型」だから、放っておくと北と南の所得格差が開いてしまう。武村の言葉に田中は大きくうなずき、武村を都市政策大綱のまとめ役に加えた。
武村は田中のプロジェクトに参加して初めて官僚の限界と政治家の力を感じ取る。その自由奔放な発想と多くの人々を引っ張っていくバイタリティーに打たれたのである。こうして武村はエリート官僚の椅子をすて地方政治からの出発を志す。郷里の滋賀県八日市市長となり、滋賀県知事を経て衆議院議員となる。その後、田中政治を「金のかかる政治」と批判する側に回るが、武村を政治の道に導くうえでは都市政策大綱は大きな役割を果たした。
都市政策調査会は議員の他に官僚、学者、文化人も巻き込んで一年二か月の間に精力的に会合を重ね、その数は七十回に及んだ。そして、昭和四十三年五月、自民党総務会は都市政策大綱(中間報告)を了承する。
日本列島改造論の土台になったこの大綱のアウトラインを紹介する前に、当時の日本の姿を描いておこう。
国民総生産はまだ米国の五分の一に過ぎず、外貨準備は二十億ドルから三十億ドルあたりをいつもさまよっていた。だから、国内の景気が盛り上がると輸入増を通じてすぐ国際収支が赤字になり、金融引き締めをせざるをえなくなる。外貨準備が増え始めたのは昭和四十六年末になってからだが、それでもその水準は七十九億ドルに過ぎなかった(いまは千億ドルを優に超える)。OECD(経済協力開発機構)入りとともに資本の自由化におっかなびっくり踏み出したばかり。
農村の次・三男たちは、花の東京を目指して上京。「南国土佐を後にして」、「ボクの恋人、東京へいっちっち」、「別れの一本杉」。望郷の歌が流行った。
上越新幹線も東北新幹線も、関越自動車道も、成田空港もない。地下鉄も銀座線や丸の内線はあったが、千代田線、東西線はない。東京都内を縦横に走っていた都電がようやく廃止となる。新宿に高層ビルの林立する副都心もなく、駅前広場の裏側には安酒場が軒を連ねる入り組んだ路地のみがあった。
そんな時代に都市政策大綱は次のように述べる。
いまのままでは近い将来人口の四分の三が太平洋ベルト地帯に集中し、地価の高騰、住宅不足、交通難、公害などを招くだろう。
道路や住宅が不足したから、投資するという形の「後追い投資」はするな。日本全体がバランスよく発展するよう「先行投資」をせよ。
太平洋ベルト地帯に集中し過ぎている工業を地方に分散する。大都市を改造するとともに、新しく地方都市を整備する。それぞれの地域を交通・通信ネットワークで結ぶ。できたら全国を一日通勤圏にしてしまう。
開発のための具体策――。
(一)私権の多少の制限はいたしかたない。公共の福祉のため土地を収用する。そのための計画を作成する。空中と地下を使う。
(二)土地所有者の協力を求め、土地の区画整理を進める。
(三)土地の値上がり利益の一部を社会に還元する。
(四)土地の基準価格を設定する。公的な地価評価の基準にする。
(五)土地有効利用のため税制を活用する。
(六)公害の発生源には防除の責任を負わせる。公害に対する環境基準を明確にする。
(七)民間のエネルギーを活用する。政府、自治体、企業、個人が一体となって都市国家を造り上げる。
大綱を読むとのちに実際の政策や制度改革に取り込まれたものの多いことに気づく。先見性があればあるほど時代はその内容を取り入れる。取り入れられるほど、目新しさが消えていく。これが優れた政策の運命というものであろう。
田中は大綱とその土台になった資料を印刷して、スタッフとともに新聞社を回り、丁寧に説明した。マスコミの取り上げ方も多くは好意的で、ニューヨーク・タイムズ紙も紹介するなど海外の反響もかなりあった。大綱は本となり、自民党の出版物としては初のベストセラーにもなる。
大綱が「日本列島改造論」に姿を変えて登場するのはそれから四年後の昭和四十七年になってからのことだ。したがって日本列島改造論は、都市政策大綱の段階の前期と、田中が政権構想の柱として打ち出した段階の後期に分かれる。
昭和四十三年十二月、再び幹事長に就任した。
二年間の無役の期間だった。しかし、衆参両院八十七人の議員を束ねながら都市政策大綱を仕上げたことによって、一回り大きくなった。新潟の田中だけではなく、国土全体の将来を眺めることのできる政治家と世間はみなした。二年間は無駄ではなかった。
この間、田中はゴルフを覚えた。
側近にゴルフを勧められると、「止まっているボールを打つのか」と渋ったが、プレーしながら長距離を歩くことができると知って始めることにする。そのときの言葉が面白い。「ゴルフの本を三貫目ほど買ってこい」と言ったのである。ゴルフは本で学ぶものではないと言われても、耳を貸さず、とうとう三か月で読破した。
それから東京・赤坂にある練習場で一日四、五百発打つ毎日となる。これも三か月。
初めて回ったコースは埼玉県の狭山カントリーで、決してやさしいコースではない。ここで五三と五四、グロス一〇七で回った。
以来ゴルフに病みつきとなる。一日に二ラウンドすることもめずらしくない。ときには四ラウンドもする。最多記録は四・五ラウンド。パートナーは疲労困憊。顎を出し、前半後半と交代する。
とにかくせっかちで歩くのが速い。田中が後ろから近づいてくるのを見ると、先発組は追い越させる。田中は左手を上げる例の仕種で「よう」と言ってどんどん進む。素振りは一回限り。すぐポンと打つ。結局は九〇前後のスコアで、すべり出しの一〇七に比べると、それほどうまくはならずハンディは一八止まりだったが、ゴルフは田中にとってなくてはならぬものになった。
そのせっかち振りは大変なもので、のちに総理秘書官になった小長啓一はよく田中の自動車から置いてきぼりを食らった。小長が乗らぬうちに車が走り出してしまうのである。
選挙の応援に行くとき、普通の代議士先生は秘書が先に降りてドアを開けるのを待ってから、おもむろに姿を現す。だが、田中は自分でドアを開けて転がるように降りてきて、出迎えの人々と握手する。親しみやすい先生だと人々は嬉しく思う。せっかちで得をしていた。
二年の無役を終えた田中は飛躍しようと翼を拡げていたが、その前に大きく立ちはだかる存在があった。それが福田だった。
田中は福田をライバルとみなしてはいなかったのではないかという見方をする人もある。確かに一本気で小細工のできぬ福田は、手の内を読みやすい相手だったのかもしれない。そういう点ではバルカン政治家と言われ変わり身の早い三木武夫の方を、田中はより強く警戒していた。事実、のちに三木は内閣総理大臣として異例の措置をとり、ロッーキード疑惑をかけられた田中を第一審有罪に追い込んでいく。三木は田中にとって|端倪《たん
げい》すべからざる相手だった。
だが、客観的に見るなら、福田はまぎれもなく田中の最大のライバルだった。昭和四十七年の自民党総裁選で正面からぶつかり合っただけではなく、あらゆる点で福田は田中と対照的だった。
田中は雪深い新潟の生まれ。小学校卒、苦労して腕一本でのし上がってきた。地べたを這いずり回るようにして票を集め、その思考方法はきわめて具体的で実利主義。会う者をころりと参らせる大衆性を備える。開けっ広げで、ざっくばらん。子分の面倒見もいい。
一方の福田は一高・東大・大蔵官僚の超エリート。思考方法は精神主義。気位が高い。スタイリストで、どことなく近づきがたい。近づけば十分浪花節的でもあり人間的温かみもあるのだが、口をへの字に結び、三白眼。ひとりで片意地を張っているようにも見える。子分をたくさん集めるというより、年長者に頼りにされ評価される。
最大の違いはその経済政策にある。田中は、日本人にとって豊かになることが先決であると考えた。経済成長のためには古い秩序を破壊しても仕方がない。現状を変更しなければ新しい可能性は開けない。
こうした考え方は田中の人生そのものでもあった。誰かが用意した道を歩むのではなく、自分で道を切り開いてきた。田中の精神風土の上に彼の政策体系が花開いていた。
政策思想で言うなら、田中は派閥の親分の佐藤栄作より高度成長論者の池田勇人に近い。池田もまた東大卒でなければ人にあらずの大蔵省にあって京大出の鈍行列車組であるうえ、途中、天然痘で死線をさまよう辛酸をなめてきている。だから、絶えず現状変更を求めて立ち上がる。共通点が多かった。
一方の福田は「昭和元禄」の造語で分かる通り、経済成長だけでは世の中はよくならぬと考える安定主義者である。というよりも、保守・革新という意味でははるかに保守に近い。現状を破壊するよりは秩序を重んじる。秩序を重んじぬ世間の風潮を嘆く。
別の言い方をすれば、田中の考え方は破壊と創造に挑む起業家に近く、福田のそれは債権の保全を考える銀行家に近い。実際のところ、多くの有力な銀行経営者が福田の強い支持者となった。福田の「安定成長論」に安心感を覚え、池田の「高度成長論」に眉をひそめたのだった。
こう考えてくると、田中・福田の対立には、戦後日本の二つの思潮が反映してもいる。
日本社会はあるときはひとつの方向に雪崩を打って突っ走る。軽躁で騒々しい変革である。
しかし、変革の弊害が生じると、旧秩序の良さを見直す精神主義が頭をもたげる。
走る者、引き止める者。対立しているようでいながら、このコンビが今日の日本を造ってきたと言えるだろう。
田中と福田。幹事長を田中に譲った福田は、大蔵大臣になる。内閣では福田、党務では田中が佐藤政権を支える柱となり、ライバル二人の切っ先は次第に間合いをつめていく。
ただし、昭和四十三年、佐藤三選前のあの時点で「佐藤の次は誰か」と問われたら、多くの人々は「やはり佐藤」と答えただろう。「では、その佐藤の後は?」と問われれば、圧倒的多数が福田と答えたに違いない。
党内には三木や前尾など次期政権を虎視眈々とねらう者もいたが、三木は小派閥、前尾は病気がち。佐藤の後を継ぐには佐藤派の支持が絶対条件であり、その御大の佐藤が福田と田中のどちらを指名するかと言えば、前者である気配がわずかではあるが漂い始めていたからだ。佐藤は田中の実力を買ってはいたが、何をしでかすか分からぬ危うさと身辺に漂う金権の匂いに警戒心を抱いてもいた。
つまり福田はじっと待っていればいいのであり、田中は奪い取らねばならなかった。
ここで福田の歩んできた道を振り返ってみよう。
生まれは群馬県群馬郡金古町(現在は群馬町)。父は善治、母はツタ。代々の地主の家である。兄一人、弟二人、姉一人、妹二人の七人兄弟。同じ農村地帯ではあるが、田中よりははるかに裕福な家に生まれている。
金古町小学校の同級生は六十人いたが、高崎中学校へ進んだのはわずか四人。同級生百五十人の中で一番背が低く、顔色も悪かったため付けられたあだ名は「青竹」だった。しかし、この青竹は出来が良く高崎中を卒業後、天下の秀才が集まる一高に進む。
高崎中での猛勉強が実った。家には子守の女性もいたが、ときには弟たちの子守も仰せつけられる。背でむずかる弟に自らの指をしゃぶらせて勉強をすることもあった。気がついてみると、指が白くふやけていたという。
一高から東大法学部へ。憲法学者である上杉慎吉に目をかけられる。上杉は福井県生まれで、国粋主義者でもある。神権的な憲法論を唱え、天皇機関説の美濃部達吉に強く反発していた。福田が卒業に当たって書いた「わが国憲法における三権分立」に着目して大学に残らぬかと誘った。
福田は一高野球部マネジャーの先輩で大蔵官僚でもあった青木得三から大蔵省入りを強く勧められ、その気になっていたから恩師の誘いを断った。先輩は「大蔵省は国家予算を決める。国会に対しても大きな力を持つ。役所の中で社会的に一番影響力のあるのは大蔵省だ」と説いた。象牙の塔にこもるには権力への野心が、この若者にはあり過ぎた。大蔵省を目指すことに決めたのである。
恩師の誘いを断りはしたが、福田の頭にはその教えが刷り込まれていた。のちに参議院議長となった河野謙三(河野一郎の弟)は、「福田の体質はタカ派だ。彼には日中国交回復はできない」と評した。
高等文官試験を突破した福田は大蔵省の面接試験を受け、トップで入省する。
いつの日かの次官候補とみなされた福田は入省一年も経たずして英仏に駐在、帰国後やがて陸軍兼鉄道担当主計官になる。うるさ型の陸軍担当を命じられたのだから、よほど有望視されていたのだろう。
陸軍からの予算拡張要求の激しい時代だったが、このポストを無事にこなし、中国大陸で成立した国民政府の顧問団になって南京に赴任。日米開戦の風雲急を告げる昭和十六年のことだった。
その頃の福田の写真がある。数人の若い女性に囲まれているのだが、笑っているのは女性だけで、中央に立つ福田の表情には緩みがない。痩身を黒の支那服に包んだ姿には、のちの飄々とした枯淡の味もない。口元をやや尖らせ小首をかしげた様子は、周囲の華やぎを拒絶しようとしているかのようだ。黒くて鋭い刃物のような雰囲気を漂わせている。
昭和十八年、文書課長として本省に戻る。南京時代の上司である石渡が大蔵大臣となる。同時に福田は文書課長兼秘書課長兼大臣秘書に抜擢された。文書課長は大蔵省の提出する法案をはじめ全ての文書をつかさどる。それだけでも省の要だが、そのうえ人事の世話をする秘書課長を兼ね、大臣秘書でもある。同期はもちろん前後の同輩の中では抜きん出た存在になっていた。
昭和十八年と言えば、田中が「田中土建工業株式会社」を設立して社長になった年である。苦労の末の独立だが、手にする権力の度合いは福田に比べるべくもない。
そして、終戦。福田は銀行局長を経て主計局長に就任した。主計局長は次の次官とされている。しかも、大物局長である。官僚最高のポストである大蔵次官を間違いなく手にするであろうと言われていた。
ところが、福田を見舞ったのが昭和電工をめぐる疑獄事件だった。昭和電工の社長である日野原節三は復興金融金庫から多額の融資を引き出すため賄賂で政界工作を進めたとされ、贈賄容疑で逮捕。収賄側として民主自由党幹事長の大野伴睦、前大蔵大臣の栗栖赳夫、副総理の西尾末広が逮捕された。
福田は日野原が一高・東大時代の先輩であり、特別の便宜を図ったとの疑いで逮捕され、東京拘置所に三十日拘置されることになった。
判決は無罪。「検事の所論はまさにかの鷺をカラスと言いくるめる論法に似たり」という判決文だった。福田はこの判決文をことあるごとに口にするが、官僚の世界はことなかれ主義である。たとえ無罪であっても、拘置所の臭い飯を現職の主計局長が食うことになったのは好ましくはない。
昭和二十五年、福田が次官目前で大蔵省を辞める羽目になったのはこういう事情からだった。
福田家は祖父、父、兄とも金古町の町長を務め、政治へのかかわり合いが深い。身の振り方は考えるまでもなかった。兄・平四郎も福田を代議士にしようとしていたし、母のツタも「大蔵省であそこまでいったのだから、政界に出るのもいい」と言っていた。
政界入りを決意して高崎市内に「福田経済研究所」をつくる。ただし、金はあまりない。徒手空拳に近い。頼りは祖父の代からの金古町の人々で、みな手弁当で自転車に乗り応援してくれた。
昭和二十七年十月の総選挙で無所属で立った。主張は「占領軍まかせではない、自主独立の経済運営」である。出だしからナショナリストの構えである。とりわけ貯蓄の大事さを説いた。演説は決してうまくない。
「戦争に負けた日本の経済を再建しましょう。それには貯金が大切です。苦しくても貯金しましょう」
これには応援している人々も頭を抱えた。言っていることは正しいかもしれぬが、「貯金」では票が集まらぬ。「私たちは暮らしにゆとりがなく、やっとこさ生きているのに、福田先生は『貯金、貯金』という。選挙運動がやりにくくてしょうがない」とぼやかれもした。
若い頃の田中が「あの三国峠をダイナマイトでぶっ飛ばしましょう。すると、雪雲が関東平野にも流れ、新潟は豪雪地帯ではなくなり、みなさんの暮らしは良くなる。出てきた土砂で日本海を埋めれば、佐渡まで地続きになる」と吹きまくって、大いに選挙民を沸かせたのに比べると、福田はなんとも渋い演説しかできなかった。
それに酒席が苦手で、人に頭を下げない。傲然と胸を張るのを、支持者たちが頭を押さえつけるようにしてお辞儀させる場面が再三再四あった。
金古町の人々のよほどの尽力があったのか、祖父、父、兄三代にわたる恩義を人々が忘れていなかったのか、定員四人のところを第二位で当選した。
自由党の吉田派、鳩山派、改進党、はては社会党からまで誘いがかかったが、無所属を通す。当時の国会には大蔵省出身者が参議院を入れて二十四名いた。だが、自由党に属さぬのは福田ひとり。衆議院の無所属議員を集めて「無所属クラブ」を結成する。この頃から剛直さが顔をのぞかせていた。
福田はやがて岸信介の動きに関心を持つようになる。
岸は明治二十九年生まれで、福田より九歳の年上。山口県出身で東大法学部時代、憲法学者の上杉慎吉に私淑する。福田にとり、岸は今風に言えば、上杉ゼミの先輩である。岸は右翼学生団体「七生会」の指導者でもあった。
卒業後、農商務省に入り、国家総動員体制の確立を推進する革新派官僚として頭角を現し、東条内閣の商工大臣として太平洋戦争開始の詔書に署名もした。敗戦後、A級戦犯になるが、昭和二十三年に釈放。ただちに「日本再建連盟」を結成する。やがて自由党に入党するが、新党結成のチャンスをうかがっていた。
昭和二十九年になり、保守勢力を結集しようという動きが自由党、改進党双方に盛り上がってくる。だが、その方法は人によって異なっていた。自由党の緒方竹虎は、自由・改進両党の対等合併を、池田と佐藤は自由党による改進党の吸収を、岸と石橋湛山は全く名前を変えた新しい保守党の結成を、それぞれ主張した。
自由党は臨時総務会を開き、岸と石橋を除名する。福田は岸の後に続く十三名の議員とともに脱党。赤坂の料亭「たか井」で脱党届を鳥ノ子紙に連署したところから、福田を入れた十四名は鳥ノ子組と呼ばれるようになった。鳥ノ子組には、川島正次郎、赤城宗徳、のちに福田を助けることになる坊秀男も入っていた。
これが岸派のクラウン・プリンスになった出発点である。無所属クラブの結成と言い、この鳥ノ子組参加と言い、福田は筋を貫いた。福田を「タカ派」と評した河野謙三は、一方で「福田の取り柄は根性のあることだ。我慢強くて、妥協しないところがいい」と評価もしていた。
昭和三十一年の自民党総裁選挙で岸は石橋湛山に敗れるが、石橋が間もなく病床に伏したことによって翌三十二年二月岸内閣が発足する。
照る日、曇る日は政界の常。福田が脚光を浴びるときがやってきた。自民党政調会長を経て昭和三十四年、幹事長となる。
その年四月の統一地方選挙と六月の参議院選挙は保守・革新二大政党下の初の選挙となったが、自民党の圧勝に終わった。幹事長としての務めを十二分に果たしたことになる。
岸内閣は昭和三十五年日米安保条約の改定を果たして終わる。このとき福田は農林大臣。
岸は池田に政権を譲った後、「岸派を解散して新しい政策集団を作ろう」と言い出す。そしてあからさまに岸派の後継者は福田という行動を示した。福田は岸派の事務所のあった赤坂プリンスホテルの事務所を受け継ぎ、福田派を発足させた。
岸派のうち川島正次郎、椎名悦三郎、赤城宗徳といった面々は福田とは別れ、川島派になる。福田派が七、川島派が三の割合で岸派は分裂した。
同じ岸派にルーツを持ちながら、のちに川島は福田ではなく田中支持に回る。その遠因はこのときのしこりにあると言っていいだろう。戦前から岸と行動を共にしてきたにもかかわらず、岸は新参者で秀才の福田を選んだ。百戦錬磨の川島は|腸《はらわた》が煮えくり返る思いだったに違いない。
党風刷新連盟の結成で反池田に回った福田だったが、佐藤内閣で再び浮上した。佐藤とは大蔵省の陸軍兼鉄道担当主計官のときから顔見知りだった。佐藤は運輸省次官だったのだ。それだけではなく佐藤は派閥は吉田派だったとはいうものの、実兄の岸をしっかりと支えてくれる福田を日頃から好ましく思っていたに違いない。佐藤が福田を副総理格の大蔵大臣に起用したのも無理からぬところである。
以後、福田は佐藤派には属さなかったが、その客分格として重きをなした。
福田は大蔵大臣のポストに異常なほどの熱意を燃やした。大蔵省は自分を育ててくれた第二の故郷だったし、昭電疑獄という不運によって事務次官目前で無念の思いで立ち去らねばならなかった。第二の故郷に錦をかざりたいという思いもあったろうし、大蔵官僚も先輩に秋波を送っていたことだろう。
念願の大蔵大臣のポストについた福田は、昭和四十年不況を初の国債発行で乗り切るなどして生き生きと仕事をする。大蔵大臣の仕事をもっとやりたかったのだが、昭和四十一年暮れ、佐藤から幹事長になるよう強く要請される。自民党は“黒い霧”騒ぎで揺れていた。幹事長を受けるとき側近に言った。
「平々凡々たる幹事長なら、やらない。党の危機が叫ばれているいま、総理から懇願されているのに、逃げ回るわけにはいかない。逃げ回ることは、『赤城の山』ではないが、任侠の道に反する
(注8)」
いかにも福田らしい、大時代な覚悟である。
この年の、いわゆる“黒い霧解散”では自民党の苦戦が予想されていたが、結果は自民が二百七十七議席と前議席の二百七十八をほぼ維持し過半数を占めた。無所属の加入もあり安定多数となる。福田の功績は認められた。
幹事長の後、再び大蔵大臣に就任。福田は『回顧九十年』で「佐藤政権は七年八か月の長期政権だったが、財政・経済については全てを任せてもらった」と心地よげに書いている。
佐藤三選前後の福田は自信満々。大蔵省の大臣室から大蔵省記者クラブの財政研究会に向かうときは肩を左右に揺すりながら大股で歩き、記者室に入る。ちょっと高めの声で自ら「会見、会見」と叫んで記者たちを集めたものだ。質疑応答は当意即妙。頭の回転はすこぶる速く、質問にはきちんと答える。嘘は言わない。しかし、田中のように余計なことはしゃべらない。役人の受けが悪かろうはずがなかった。
福田は佐藤の次を明らかにねらってもいたし、自信も持っていた。田中を断然リードもしていた。
最高権力をねらうにはただじっと待っていればよかった福田だが、死角がなかったわけではない。それはじっと待つしか方法がなかったことである。政治に限ったことではないが、有利な条件はひとつひっくり返ると、不利な条件になる。有利は不利、不利は有利。囲碁における駄目詰まりのようなものだ。
仮に福田が次期をねらって多数派工作を開始したら、佐藤は福田に不信感を抱いたに違いない。福田に譲ろうという自分を信用していないことになるからだ。
リードしていながら、自分では何もできない。福田はその死角に気づいていたのだろうか。
世はおぼろげながら、角福の時代を予感していた。福田は大蔵大臣として佐藤内閣で重きをなし、一方の田中は二度目の幹事長として一回り大きくそびえ立とうとしていた。誰しもが次は二人のうち一人が政権を握ることになるだろうと予測していた。二人は佐藤に対する遠慮から表立って野心を明らかにすることはなかったが、自民党内ではみながやがて訪れる一騎討ちの場面で自分がどちらにつくべきかを自問し始めていたに違いない。
田中幹事長が最初に取り組んだ大仕事は、大学運営臨時措置法の成立である。第二次大戦後の大学は「自治の学府」とされ、文部省といえどもその運営に容易に関与しないということが暗黙の了解事項になっていたのを破ろうというわけだったから、この法案審議はもめにもめた。
世界中で若者が暴れていたのである。
ときあたかもベトナム戦争たけなわで、米国では反戦運動の火が燃え盛っていた。ロバート・ケネディ上院議員、マーチン・ルーサー・キングなど人権運動のリーダーが相次いで暗殺され、反戦歌は太平洋を渡り、若者の胸をかき立てた。米映画「俺たちに明日はない」を上映する映画館の前に長蛇の列ができる。コミカルなフォークソングの「帰ってきたヨッパライ」が一世を風靡。天国でも酒を飲みまくり神様を呆れはてさせた男の歌で、若者たちは沖縄から飛び立つ爆撃機の音に死の匂いを嗅ぎ、それを笑いでごまかそうとした。
何かを壊したいという衝動は中国でも大きなうねりになっていた。昭和四十一年には北京・天安門で百万人を超える紅衛兵が集合、文化大革命の勝利を祝賀。「実権派」の烙印を押された大人たちが次々に追放されたり、胸に犯罪人の札をぶら下げられ街中を引き回されたりしていた。
国内では、早稲田大学の授業料の値上げ反対運動。全学共闘会議の指導でキャンパスは全学ストに入った。翌四十二年には、佐藤首相の東南アジア・大洋州訪問に反対した学生が羽田空港入り口で警官隊と衝突。警官六百四十六人、学生十七人が重軽傷。京大生の山崎博昭(十八歳)が死亡。昭和三十五年の安保騒動以来の最大の流血デモとなった。学生だけではなく、総評もベトナム反戦統一ストに動いた。
四十三年に入ると、学内紛争は東大に飛び火。医師法の一部改正に反対してキャンパスは無期限ストへ。全共闘は安田講堂を占拠。過激学生の行動はエスカレートし、国際反戦デーには国会や防衛庁に突入。新宿駅を押さえ、放火。国電の運転を不能にする。この新宿事件では、騒乱罪が適用され七百三十四人が逮捕。翌四十四年の国際反戦デーには、学生たちの火炎瓶の無差別ゲリラ戦術によって、首相官邸、自民党本部、自衛隊市ヶ谷駐屯地、交番、NHK放送センター、新宿駅、都心デパート、商店街などが攻撃の対象にされた。
こうした物情騒然とした中で国会に提出された「大学運営臨時措置法案」の内容は、紛争大学の学長は六か月以内で一時休校できる文部大臣は紛争が九か月以上経過した場合、閉校できる閉校三か月経過しても収拾が困難な場合は廃校措置をとる臨時大学問題審議会を設ける――などだった。大学への介入を強める内容である。
法案は衆議院で四泊五日の徹夜審議となる。野党はもちろん大学関係者も一斉に反対。しかし、園田直国会対策委員長と田中幹事長の強引な国会運営によって強行採決。法案は参議院に回った。
当時参議院を牛耳っていたのが重宗雄三である。明治二十七年生まれ。山口県出身の政治家で明電舎の社長から貴族院勅撰議員。昭和二十二(一九四七)年から連続五回当選を果たし、同じ山口県出身の岸信介、佐藤栄作とともに「長州御三家」と呼ばれた。参議院自民党の過半数を占める「清風会」を率いるボスで、自民党総裁選には参議院自民党の票をとりまとめ、閣僚人事にも介入した。
この重宗が参議院での強行採決に二の足を踏んだのである。重宗は首相である佐藤の腹の内が読めなかった。佐藤は例のごとく黙ったきりだったからだ。佐藤は法案の必要を認めてはいたが、慎重な彼は世論の動向をうかがっていた。文部大臣の坂田道太も躊躇し、あまり無理をしない方がいいのではないかと官房長官の保利茂に忠告していた。
強行採決するためには議長が審議の再開を告げねばならない。そのためには開会のベルを押さねばならない。しかし、重宗は野党に法案を継続審議にすると伝えた。次の国会でまた審議しようというわけだ。いわば棚上げである。
これを聞いた田中は烈火の如く怒り、記者会見で「この国会でしかこの法案は通らない。首相も同じ腹だ。野党の出方次第では国会に警察官を入れざるをえない」と発言。記者連の度肝を抜いた。
時間は刻一刻と迫ってくる。ベルは鳴らない。田中は唸り声を上げ、ゴルフ焼けの顔を赤黒く燃え上がらせてドアの外に飛び出した。議長室に入った田中は重宗の胸ぐらをつかむ勢いで迫った。
「じいさん、お前さんたちはもう子供が全部できあがってるから、そんな極楽トンボでいられるんだ。だけどな、学生を子に持つ日本じゅうの親たちはどうするんだ。自分たちの食うものを削って伜や娘に仕送りしているんだ。ところが、学校はゲバ棒で埋まっている。先生は教壇に立てない。勉強する学生は試験も受けられん。こんなことで卒業できるのか。就職できるのか……だから、じいさん、早くベルを鳴らせ。やらなきゃ、このオレが許さんぞ
(注9)」
そのすさまじい形相に重宗はたじたじとなり、
「佐藤はほんとにその腹なんだな」
と念を押してベルを鳴らした。
重宗はその後、河野一郎の弟であり親田中でもある河野謙三のクーデターによって議長の座を追われることになる。
こうして大学運営臨時措置法案は参議院でも成立して施行された。園田|直《ヽ》国対委員長と田中|角《ヽ》栄幹事長のあまりに強引な国会運営をからかい、マスコミはこの国会を「直角国会」と名付けた。
しかし、法案を契機に大学を覆ったスト騒ぎは次第に静まり、学生たちの跳ね上がり振りは世論の支持を失っていった。世の親たちが紛争に揺れるキャンパスに困りはてるか、眉をひそめているという田中の認識は正しかった。
この年(昭和四十四年)の十一月、佐藤は訪米。ニクソン大統領との会談の結果、「一九七二年に沖縄を返還する」との共同声明発表にこぎつける。「沖縄返還がなければ、戦後は終わらない」と言い続けてきた佐藤は、政治生命を賭けた大仕事の区切りをつけたわけである。
佐藤にとって次の課題は沖縄返還へのメドをつけたこの段階で、総選挙に打って出るかどうかだった。自民党内は、年内ないしは翌年(昭和四十五年)早々に民意を問うべきという声と、少なくとも六月二十三日の日米安保条約自動延長までは現体制のまま進むべきという声とに分かれていた。
田中は早期解散説。福田は慎重論。二人の意見は衝突した。
福田はなぜ慎重論を唱えたのか。
年内ないしは来年早々の総選挙を田中幹事長のもとで実施させたくはないと内心思っていたのだ。
選挙をすれば幹事長の力は増す。第一、選挙をしても勝つ保証はない。むしろ、このままの体制で年を越し、翌年の安保自動延長を花道にして佐藤に政権を譲ってもらいたいという魂胆だった。
福田がそう考えるなら、田中は逆。自民党が大勝すれば、佐藤政権の基盤はますます安定し「佐藤四選」が見えてくる。佐藤政権が長引けば長引くほど年長の福田は不利になり、自分が有利になる。
福田の期待に反して佐藤は年内解散に打って出た。
自分の後継者としての福田を、佐藤が見限ったわけではない。福田は依然唯一無二と言っていいほどの後継者だった。
しかし、佐藤にとっては福田の事情より自民党の事情の方が、と言うより自分の政権基盤の方が大切だったということだ。また、田中のもとで総選挙をしたところで、福田の地位がいちじるしく揺らぐことはあるまいとも思っていた。いざとなれば、自分が後継者の名を告げればいい。佐藤派は自分についてくる。後継者を指名しても派がついて来ないほど自分の力が弱まるとは、毛頭考えていなかったのである。
田中は選挙のプロだった。若い頃から選挙に苦労し、炭管汚職のときは獄中から立候補宣言をした。故郷の柏崎には田中を見る目が冷たかったため戻れず、雪深い山村の奥にまで分け入って票を集めた。
敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。対立候補の強さ、弱さ、その理由を徹底して調べ上げた。三区で苦労して得たノウハウを拡げて適用し、全国の選挙区のうちどこで自民党が強くどこが弱いか、その土地の有力者はどこにいるか、人口構成は、県民性はどうか――をつかんだ。田中の頭の中には、溢れるほどのデータが蓄積されていた。このデータをもとに実弾をつぎ込むべきところには思い切ってつぎ込む。顔見せパンダの自分が行くべきと判断すれば応援演説にも出向く。
投票は十二月二十七日。師走選挙である。
投票率は六八%台で低かったが、自民党は大勝した。三百三議席。戦前の昭和七年、政友会が三百三議席を取って以来の数字となった。自民党にとっては快挙である。
田中の戦略がうまかっただけではない。大学紛争の解決や沖縄返還にメドをつけた佐藤政権に対する選挙民の支持もあった。
田中への評価はうなぎ上りにならざるをえない。パーティーなどがあると、みな「角さん、角さん」と言って金魚の糞のようについて歩く。佐藤が同じ場にいるときですら、人は田中の方に集まった。田中にはパーティー会場に入ってきただけで、その一角が明るくなるような不思議な磁力がある。いま風の言い方をすればオーラだ。いわゆる華のある政治家だった。
佐藤はそのような田中を警戒した。「総選挙の勝利はみなが火の玉のようになってやったからだ。特定個人の功績ではないよ」と発言した。「特定個人」が田中を指していたのは言うまでもない。
大晦日から翌年(昭和四十五年)の半ばにかけて、党人事をめぐりさまざまな憶測が飛んだ。佐藤派の大番頭である保利茂の幹事長説が永田町一帯に走った。
保利は明治三十四年、佐賀県生まれ。東京日日新聞の政治記者から政界に入り、佐藤派の重臣の地位にある。田中と福田のうち保利は福田を高く買っていた。
保利の信条は「政治は最高の道徳である」である。修身斉家治国平天下。良き政治で天下を治めるにはまず自らを持さねばならぬという信念で、どろどろの権力闘争にひたりきれぬ福田に同情的だった。
佐賀県人には一種の潔癖性がある。明治以来、腐敗を排す司法の分野で多くの人材を輩出したのもその県人性と無関係ではない。佐賀藩は鎖国藩政のもと領民につねに戦闘態勢をとらせ、情報や物品の流出入を厳しく禁じた。「公私は峻別せよ」、「金銭に目を奪われるな」といった精神文化を受け継いだ保利は、筋を通すことの何よりも好きな上州人・福田と通じ合うものがあった。
「政治は最高の道徳である」という言葉が福田の口から漏れても、人々はそれほどの違和感を覚えはしなかっただろう。反対に、もし田中が「政治は最高の道徳である」などとのたまわったら、人々はどっと笑い、「角さん、いつから哲学者になったのかい」とからかったに違いない。
佐藤派は福田─保利のコンビと川島正次郎(このとき副総裁)─田中のコンビに分かれた。保利幹事長説は田中追い落としの工作を誰かが進めているということだった。
保利幹事長とワンセットで浮上してきたのが川島衆議院議長説だった。この年はたまたま万国博覧会が日本で催されることになっており、党の超大物が議長に座って外国賓客をもてなすべきだというもっともらしい解釈までついていた。
ところが、松のとれた一月八日のことである。川島は佐藤の秘書官である楠田實に突然の電話を入れ佐藤の週末予定を尋ねてきた。週末は鎌倉で過ごすと答えると、川島は佐藤への面会希望を伝えた。佐藤は静養中は誰にも会わないと言い残して鎌倉に行っていたが、案に相違して会うという
(注10)。
その日の夕刊に関係者を驚かせる記事が載った。
「川島氏就任断る。衆議院議長問題で首相語る」
記事は茅ヶ崎発。記者団に対して「明日、川島副総裁が夫人と一緒に鎌倉に来る。夕食をともにして話をすることになっている。川島君は議長を受ける気はないと思う。受けるくらいなら、わざわざ来ないだろう」と佐藤が語ったというのだった。
この談話は茅ヶ崎のゴルフ場でハーフを回って上がってきた佐藤を、佐藤番の記者たちがつかまえて引き出したものだが、聞いた記者たちの方がどきっとした。人事については石のように黙り続けるのが佐藤のつねである。人事構想がもれたというだけで当初構想を変えてしまうほどだ。それが、注目の人事を占う決定的な発言をした。記者たちは慌てて電話に飛びついて夕刊に原稿を送った。
佐藤の発言の意味するところは、田中幹事長留任だった。つまり川島が議長にならぬのなら、副総裁として留任することになる。そうなれば、川島が幹事長に推す田中も留任することになる。
川島の、老齢に似合わぬ俊敏な行動が功を奏して、田中の留任が決定した。
岸派の跡目争いで川島が福田に負け、自らの派閥を結成していたことは前述した通りである。福田との関係には因縁があった。
川島にはいつも面妖な雰囲気が漂っていた。七十九歳なのに、サイドベンツに三つボタンの背広を着こなす。歌舞伎役者のような、色白ののっぺりとした面立ち。明治の大風呂敷と言われた政治家・後藤新平の落とし胤という説すらあった。待合をこよなく愛し、夫人は芸者出身。
自らは権力の頂点を決して目指さず、二十人前後の派閥を率いてキャスチングボートを握り、人事での発言権を確保する。派閥の面々もなかなかの強者揃い。親分の川島も度胸満点。安保騒動時には任侠集団の松葉会を国会周辺に導き入れ警護に当たらせようとしたほどである。
「(政治の世界は)一寸先は闇」というのは川島が放った言葉で、動物的なほどの鋭い嗅覚を働かせる手だれ者。無類のマージャン好き。いつも昼間はホテル、夜は料亭で卓を囲んで動かない。動かないのは理由があって、子分やシンパ、自分に近い新聞記者などからおもて裏あらゆる情報が電話で入ってくるからだった。いまのように携帯電話やファックスはない。ましてやEメールもない。固定電話が唯一無二の双方向で速報性を持つ通信手段だった。
幹事長に残りはしたが、この時点で次期総理レースを眺めるなら、田中はまだ福田に並びかけるところまでいってはいなかった。競馬で言うなら、第三コーナーを回ったあたりか。田中という馬はどんどん間を詰めてはいたが、福田という先行馬との間にはなお二、三馬身の差があると見なされていた。
理由は簡単。佐藤の意中は福田にあったからである。佐藤派が分裂でもしない限り、派は親分の意を受けて後継者を指名するはずと思われていた。
しかし、田中の影響力は佐藤派のみならず他派、さらには野党にまでじわじわと広がっていたのである。それはメタンガスのようなもので、ときが到れば爆発する可能性を秘めていた。
幹事長は議員やその関係者に軍資金を配る。恩を売る。田中はその立場を目一杯利用した。金を盛大に集め、盛大に散じる。
献金の上限や報告義務を定めた政治資金規正法のなかった時代のことだ。幹事長・田中の金庫には自民党への政治献金がうなっていた。経団連や各種業界団体もおおっぴらに献金した。大企業も体制を守るためのコストと考えて寄付したり融資したりした。
党の金に、田中が自分の手で集めた金が上乗せになった。その中には、第二章の「田中社会主義」の信濃川河川敷事件でも紹介したように、二束三文の土地に“付加価値”を付けて売りさばいて得た金もあろうし、公共事業を地方に仲介して建設関係業者から吸い上げた資金もあったろう。小佐野賢治と組んだ利権で生じた金もあったに違いない。盟友・大平に「湯気の出る金をつかむな」とさとされても田中はそれを止めはしなかった。
党の金も自前の金も全て掌中にある。それを領収書いらずで自由に使えるのだ。「われわれも金は使ったが、角さんはケタが違った」と政敵の多くがのちに語っている。
福田は田中についてこう語っている。
「私が『角どん』(田中のこと)と懇意になったのは佐藤政権を支える二本柱になっていたからで、彼のノド笛(浪花節のこと)などもしばしば承った。さっぱりした人柄で大変優れた人だから、私は末は大物になると考え『昭和の藤吉郎』と呼んでいた。ただとにかく派手で、私なぞのまねのできない場面を色々散見した
(注11)」
「私なぞのまねのできない場面」とは、田中が派手に金を配っている場面である。「それほどでもない」と田中周辺の人々がいくら強調しても、田中の金の散じ方がケタ外れだったことは否定しようもない。田中という存在は金が轟々と音を立てて流れていく太いパイプのようなものだった。
政治には金が要る。例えば選挙である。
公職選挙法では選挙運動に関して一切の飲食物(湯茶と普通常識の菓子は除く)を禁じているが、これほど名ばかりの法律はなかった。地方に行けば選挙に酒はつきもの。各候補者の事務所には酒がずらりと並び、有権者が家族連れで候補者の事務所を訪れて夕食を食べるといった光景は日常茶飯事の時代だった。それが候補者への礼儀でもあった。中には梯子をする者もいたが、事務所はそれを知りながらもてなした。福田と中曾根がしのぎをけずる群馬三区では、「福田食堂」、「中曾根レストラン」とまで言われたものである。比較的清潔と言われた福田ですらそうだった。
候補者はそうした飲食費のため金を配る。配った金は中途で地元の有力者が懐に入れることもある。細分化された金は最後は一升瓶や幕の内弁当に化ける。飲み食いだけではない。ポスター、ニュースレター、応援員の人件費、事務所経費なども負担である。
それに、選挙のときだけ慌てて金を使っても効果は期待できない。普段から選挙区の面倒を細かく見ていなければならない。各種の祝賀会、入学・卒業式、葬式・結婚式、いろいろな団体の会合や行事の際に金一封や飲食物、花輪などを届ける。年賀状、時候の挨拶も忘れてはならない。少し大がかりにやるなら、農閑期に選挙民を東京見物させたり、スポーツ・イベントを開催して優勝者を海外に招待したり、流行歌手を連れてきてカラオケ大会を催したりで、効果的なイベントをやり対立候補を出し抜く。
買収行為をせずとも、金はざるに水を注ぐように出ていった。中央のマスコミは政治家が金を使うことをあたかも犯罪のように報道するが、永田町の常識は違う。政治に金がかかってなぜ悪いとは表立って言いはしないが、内心ではみなが金を政治のための必要悪とみなしている。
作家の石原慎太郎氏が政治家を廃業した後、政治と金について書いた一文がある。
「例えば何かの折に、とにかく金を渡す、金をもらうということが政治の世界ではよくある。べらぼうな額ではないがしかし無視出来ないような金をみんなが手にするような際に、自分はその必要がないというだけでそれを拒んだりすると、実はそれが自分を奇妙に孤立させてしまうということが多々ある。ということはしょせん政治という世界では、せいぜい金の縁だけしか信頼の指標になりえないということに違いない」(雑誌『諸君』に掲載された「国家なる幻影─わが政治への反回想」より)
政治には金が要るという詮方ない事情を、田中はこのうえなくよく理解していた。
金の渡し方は派手であっけらかんとしている。自分を支持してくれる者にだけ渡すのではない。例えば、福田派の代議士で大病を患った者がいた。わざわざ入院先に見舞いに来た田中は、足元にそっと分厚い袋を置いて去った。中を開けてみると、百万円単位の札束が入っていた。病気見舞いの相場をはるかに超えた金である。田中は彼が退院するまで五回来た。その度に同じ額の入った袋を置いていったという。
政治的な軍資金だけではない。誰にでも金を渡した。大蔵大臣のときは予算編成で秘書課の女性たちが遅くまで残業になったときは「帰りにそばでも食べなさい」と言って四、五千円を渡した。当時ならそば二十杯は食べられる金額である。
課長補佐、課長、局長にもさまざまな労をねぎらって渡した。料亭に行けば芸者へのご祝儀をはずむことはもちろんだが、仲居さんや下足番にまで一万円札を手渡した。
総理になったときは、目白の私邸に運転手用のたまりを建てた。自分で設計図を引いた。なかなかの気配りで、部屋は畳にした。ごろりと横になれるようにしたのである。寿司を桶で取り、将棋も揃えた。車が帰るときには運転手に三千円を包んで渡した。だから、運転手は目白に行きたがる。さて、今夜は誰のところに夜回りに行こうかなと新聞記者が悩んだりすると、「角さんのところに行きましょう」と運転手が勢いよく叫ぶ。目白邸が門前市をなした一因である。
目白邸の壁を塗り直すときには、塗装工に一人五万円ずつを渡した。渡した後、記者連に「ああすると、他よりも厚く塗ってくれるぞ」と言った。
金は現金で、しかも、できる限り自分の手で渡すこと、これが田中の方法だった。ゴルフ場では秘書がカバンの中に金を入れており、プレーが終わると、田中の手でキャディーに一万円を渡す。
田中は「金権主義」の権化と言われる。
しかし、たしかに盛大に金を散じはしたが、金で人の横っ面を叩き、言うことを聞かせたわけではない。ことはそれほど簡単ではない。
金は人間のつくり出したものではあるが、人間を刺す、魔性のトゲを有している。渡し方をひとつ間違えると、相手を傷つけ、恨まれる。正当な行為の代償として金を渡すのではないのだから、いわば慈悲である。渡された側は劣位を感じざるをえない。
自尊心のある者なら断りたくなる。にもかかわらず受け取る。受け取らざるをえない事情にある自分が惨めになり、場合によっては相手を憎むことになる。あるいは、相手の魂胆を勘繰りたくもなる。タダより高いものはないというわけだ。
田中は渡し方の天才だった。
他派閥の議員が外遊するとき餞別を渡す。「派閥が違いますから」と言って断ろうとすると、相手のポケットに封筒をねじ込みながら、「おい、おい、買収する腹などないよ。これくらいの金で動く男じゃなかろう。この金が少しでもキミの見聞を広げるのに役立てばいいと思っているのだ。党のため、国のためになる。使ってくれ」と言う。
自分の手で渡すことができないときは、代理の者に言って聞かせた。「金を上げるのじゃない。頭を下げてもらってもらうものだ。『上げる』が顔に出たら、もうおしまいだ
(注12)」
選挙のとき公認候補に軍資金を渡す。五百万円渡すとしたら、まず三百万円にする。普通ならこれが相場だった。
ところが、田中は出ていこうとする議員を呼び止める。「ちょっと待て。キミのところの選挙区は厳しかったな」。二百万円を追加するのである。
かねがね周囲の者に言っていた。これくらいが相場だと相手が踏んでいるときは、それより少なく渡すと金は死ぬどころか、マイナスになる。多く渡せ。
十人の人間がいたら、少なくとも過半数に渡せ。できるだけたくさんの人間に渡せ。やった金の半分はどこかへ消えてしまう。誰かがポケットに入れてしまう。無駄になる。それでもいい。残った金は生きた金になる。
相手が考えているより多く渡すのが田中だとしたら、福田や中曾根は違った。
福田はよく融資を斡旋した。名刺に主旨を書き、長期低利融資してくれる者を斡旋する。ありがたいことにはありがたいが、斡旋してもらった者にとっては面倒でもあった。|煩瑣《はんさ》な手続きを省いてくれたとしても、貸し借り関係がいつまでも残る。
中間派の代議士が語るエピソードがある。田中のところに行き、予想を超えた額をくれてしばらく息をついた。病いにかかり、病院のベッドで横になっていたら、福田が来た。
もそもそと不器用な仕種でベッドの下に何かを差し入れようとしている。
「君も不自由しているだろう。これはこころばかりのものだ」
と告げた。なんとなくぎくしゃくした雰囲気になり、思わず言ってしまった。
「先生、私もお陰さまで一人立ちができるようになりまして」
すると、福田は急にほっとした顔になり、
「そうか、それはよかった」
と言って、ベッドの下に差し入れかけたものを引き抜いて持って帰っていってしまったという。
次に、中曾根から金をもらう場面があった。中曾根はテーブル越しに封筒を差し伸べた。受け取ろうとしたが、中曾根は封筒の端をなかなか放さない。それから、「政治の要諦はだな、キミ……」と熱弁をふるい始めたという。中曾根の演説が終わるまで二人は封筒の端と端を持ったままだった。
多分に誇張が入っているだろうが、三人の性格がよく出たエピソードである。
田中は金で苦労をした。苦労は田中をいじけさせず、金の渡し方の天才にしたのだ。
田中は昭和四十一年二月一日から日本経済新聞紙上の「私の履歴書」に登場した。日本海側の厳しい風土に生まれ育ったひとりの青年が中央に出て政界に足を踏み入れるまでを生き生きと描いた青春物語になっており、数ある「履歴書」の中でも十指には入る出来栄えとなったが、他の人物の履歴書に比べひとつの特色がある。
それは、金についての記述がまことに多いということだ。金についてというより、金にまつわる喜びや悲しみの出来事が多く語られていると言った方がいい。
おもなものを拾い上げてみるなら、競馬で金が足りなくなった父に金を送るため親類の家に借りに行き恥ずかしい思いをしたこと、大人に負けぬ土方仕事をしたにもかかわらず給料は女性並みで腹が立ったこと、新潮社の雑誌「日の出」の懸賞小説に応募して佳作になり五円を稼いだこと、上京した最初の日タクシーにぼられてなけなしの五円を払わされたこと、大道五目並べに引っ掛かり有り金全てのみならず腕時計まで取られたこと、十九歳で独り立ちして総数百枚に及ぶ設計図を書き上げ初めて千六百円余の大金を報酬として得たこと、終戦直後の大物政治家の大麻唯男に三百万円の政治資金を用立てたこと、その大麻から十五万円もあれば当選させてやると言われて真に受け見事落選してしまったこと……。
「履歴書」は通常三十回前後だが、田中の場合は本人の強い希望もあり三十五回になった。原稿用紙にすると百三十枚ばかりの作品である。この中に現れる「円」、「銭」の数を数えると八十一回に及ぶ。福田や中曾根も履歴書を書いているから、同じ方法で数えてみると福田は九回、中曾根は三回。
福田の場合は金解禁や国債の発行に関する記述で「円」が登場するだけで、私ごとでは政界に打って出たとき三木武夫から三十万円の資金が送られてきたという話だけである。それも断ったと書いている。
一方、中曾根の場合の「円」も海軍時代の軍票保管に関する話で二回、私ごとでは内務省を辞めるときの退職金二千八百円で選挙運動をやったというくだりで一回だけである。
私ごとに関して田中がいかに金について多く触れているかが分かるというものだ。
閑話休題。大蔵大臣として激職の地位にあった田中には時間がなく、担当の政治部記者が田中の口述をもとに「履歴書」の最初の五回を書いて持っていった。ところが、原稿に目を通した田中は腕を組んで「ウーン」としばらく唸った末、「オレが書く」と言い出した。
履歴書の担当部は編集局の文化部である。文化部の記者は田中が自ら書くというのでいささか心配になった。「オレは若い頃、作家になりたかったのだ」と田中は言うが、ホラを吹いているのだと思った。
ところが、書き上がったものを見ると、きわめて具体的で面白い。波瀾万丈の青春物語になっている。少し甘い点をつけるなら、英国の国民作家であるチャールズ・ディケンズの小説を読むようですらある。
たまたま日経の文化欄を近代批評の大御所である小林秀雄が読んでいた。小林は田中の履歴書にも目を止め、文化部の記者に「面白い。良い文章だ」と告げた。記者は自分の感想も交え小林のほめ言葉を政治部担当記者に伝えた。政治部記者は早速田中のところへ飛んでいく。
「ディケンズの小説を読むように面白いそうです」
田中は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
「おお、そうか。そんなに面白いか。それで、そのディなんとかというのは何だ」
困った記者は、
「イギリスの作家ですが、それよりも小林秀雄さんがほめています」
と答えた。田中は続けて聞いた。
「その小林秀雄というのは何者だ」
「履歴書」は単行本になることになった。小林秀雄がほめてくれたことを覚えていた田中は、彼に後書きを書いてほしいと考えた。玄関で立ったまま田中の希望を伝え聞いた小林は、使いの者に一言告げ姿を消した。
「確かにほめはしたが、それは中学生がいい作文を書いたときによく出来たというくらいの気持ちだった」
田中は教養に欠けていた。しかし、教養に欠けているのは田中だけではない。日本の政治家は漢籍などを引用して一見教養ありげな風を装うが、それはどろどろとした権力闘争を覆い隠す方便のようなものでしかない。
というより、教養は政界を生き抜くための武器にはならない。それどころかマイナスにすらなる。そのよい例が宮沢喜一で、自宅では妻と英語で会話し、原文で書物・雑誌に目を通し、漢籍では当代一流と言っていいほどの知識を有す。
しかし、宮沢と話をした政治家はどこかで小馬鹿にされているような気分になり帰ってくる。両手を番頭のように合わせながら、かすかに首をかしげ、「ほー、そうですか」と言われると、そんなことも知らないのかと|揶揄《やゆ》されているように思えるのである。宮沢は決して馬鹿にしているのではないのだが、何でも知っていそうな雰囲気が親和力を削いでしまうのだ。
この宮沢が熱い思いをもって担いだのが池田勇人だが、その池田もまた「エチケット」のことを「エケチット」と言ったり、「能ある鷹は爪をかくす」というべきところを「能ある猫は……」といったりして新聞の囲み記事に書かれるような男だった。宮沢が池田のことを語ったことがある。
「池田は知性的でもなんでもない。教養もなければ、他人の神経に気配りする都会人らしい繊細さもない。ただオレは頭が悪いから、助けてくれと言うだけだ。いくら意地悪く観察してみても、ジェスチャーではなく、本当にそう思い込んでいるらしい。それなら助けてやろうかという気になる。池田の考えていること、感じていることは誰にでも見える。中身が虚だから、誰でも池田の胸の中に入っていける」
本題に戻ろう。
八十一回も「円・銭」のことに触れた田中の履歴書だが、いじましさがない。むしろ金にまつわる苦労や喜びを臆面もなく語る文章は明るくユーモラスですらある。
宮沢が池田のことを「虚の人」と評したように、田中もまた虚の人だった。田中の考えていること、感じていることは誰にも分かった。若いときから金のことで苦労し、少しでも豊かになって自己実現したいという半生が田中の体に歴史となって刻まれている。その自分の半生が物差しとなり、他人もまたそうであるはずだと素直に信じている。
金を渡すとき田中がよく口にしたのは「邪魔にならんから」という言葉だった。そう言って相手のポケットに金をねじ入れる田中には、気品のかけらもなかったが、嘘もなかった。
おそらく江戸時代あたりからだろうが、日本人には金のことを人前で口にすべきではないという気風が根を下ろしてきた。「葉隠」は佐賀藩士の山本常朝の座談筆記だが、その中で常朝は「若侍どもの出会への話に、金銀の噂、損得の考へ、内証事の話、衣装の吟味、色欲の雑談ばかりにて、この事のなければ一座しまぬ様に相聞え候。是非なき風俗になり行き候……」と述べている。若者たちが金の話やファッション、セックスの話ばかりするのは嘆かわしいと言っているのだ。
佐賀藩ではこの「葉隠」が手本となり、求められる武士像となった。武家社会では金銭は「|阿堵物《あとぶつ》」などと言われ、卑しむべきもの、人前では口にすべきものではないとみられていた。禅や儒教の影響だろう。
この精神風土はいまもなお残っているが、田中の履歴書にはそれがない。田中は金を汚い阿堵物などとは毛頭思っていなかった。そういう意味で日本人離れしていたのかもしれない。いや、禅や儒教の入って来る前の原日本人的であるというべきか。野卑で泥臭い本音の世界に田中は生きていた。
田中が金の渡し方がうまかったのは、人情の機微を心得ていたからでもある。
田中は毎年夏になると軽井沢でゴルフ三昧の毎日を送るのを楽しみにしていた。この間は結婚式の挨拶や会合への出席を一切断ったが、葬式にだけは必ず足を運んだ。
福田派の客分格、松野頼三は田中の政敵で鋭い舌鋒で田中の行動を批判していたが、その夫人がなくなったとき通夜の席に突然田中が現れた。ぎょっとした松野になんのこだわりもなく丁寧に弔意を述べた。それだけではなく行事の終わるまで残った。以来、松野の舌鋒は次第に和らぐことになる。
三区に社会党の代議士で三宅正一がいた。自民党の力が伸びたため落選の憂き目にあう。落選議員には議員年金が出るが、それだけでは大変だろうと田中は言って、第三者の手を通じて月々二十万円の支援をしたという。三宅自身は亡くなるまでその事実を知らなかった。
亡くなるまで田中の資金的援助を知らなかったという例ではもうひとつ、参議院議員の青木一男がある。のちに総理になった羽田|孜《つとむ》は駆け出しの代議士だった頃、同じ長野出身の全国区議員、青木一男が苦戦しているという知らせを受け田中に支援を頼む。青木事務所は完全に資金が枯渇してしまったというのだった。
青木は清廉潔白、一徹な男だった。羽田の電話を受けた田中は、
「彼には党としてすべきことはすべてしている。これ以上は無理だ。しかし、青木を落とすわけにはいかん。飯代もないというんじゃしょうがない」
と羽田を呼び寄せた。二百万円は入っていると思われる封筒を渡しながら言った。
「ともかくこれを持っていけ。ただしあの青木さんだからな。田中角栄からのカネだなんて一切いうな。お前がつくったカネだと事務方の人にいえ」
青木は石井派でつねひごろ田中に批判的だから総裁選挙になっても田中を支持してくれるかどうか分からないがと羽田が言うと、
「馬鹿者!」
と怒鳴りつけられた。
「青木一男は自民党の宝のような男だ。お前はこれから青木だけの応援にとりかかれ
(注13)」
三宅、青木の例だけを見ても、田中が全てが全て打算だけで金を渡したわけではなかったことが分かる。田中にとり金とは、気配りの手段だった。
羽田は言う。金を渡すのは相手にいろいろ説明するのが照れくさかったからではないか。相当の照れ性だった。もちろん打算もあっただろうが、あの人には溢れるような血の熱さがあった。その表現でもあったのではないか。
羽田の初当選は昭和四十四年の十二月、田中幹事長のもとで自民党が大勝したときの選挙である。
羽田は田中に挨拶すべくホテル・ニューオータニの「雲海の間」に出向く。田中はそこで選挙後の記者会見の最中だったが、羽田の姿を見ると大きな声で叫んだ。
「長野の羽田孜が来たぞ。あれが羽田武嗣郎の伜だ」
武嗣郎は朝日新聞記者から衆議院議員になり、田中の属する佐藤派と対立する石井派。長男の孜に地盤を渡して引退していた。
それまでに羽田は田中に一回会ったきりだったから、田中の記憶力の良さに驚嘆する。
羽田は福田赳夫のところにも挨拶に行った。
大蔵大臣の福田は大臣室のテーブルに両足を乗せ、細長い文鎮で首のあたりをとんとんと叩きながら、
「そうか、おめでとう。うんと勉強して成長するんだな」
と言ったきりだった。
羽田の思いがぐっと田中に傾いたのも無理はない。同じときに当選した小沢一郎とともに羽田は田中を支える青年将校として獅子奮迅の働きをするようになる。
田中の気配りの良さをもたらしていたのは、風貌に似合わぬ繊細さだった。豪放磊落に見える人間は、実は往々にして繊細な神経の持ち主であることが多い。田中はその典型で、座が白けるのを何よりも恐れた。少しでも沈黙が訪れるのが嫌でしゃべりまくる。サービスにこれ努める。終わってみると、「今日もオヤジさんの独演会だったな」とみなが思う。
家で食事をしていても気配りは騒々しいほどで鍋を箸の先で指しながら、「ここはもう煮えた。さあ、食べろ。それはまだまだ。母さん、だしが足りない。それ、卵……」としゃべりまくる。長女の眞紀子は、この人の神経の使い方は男ではなくて女だと感じたことが再三あったという。
福田も興が乗ると、股旅物などを唄い座を和ませはしたが、田中ほどのサービスはしなかった。どちらかというとマイペースで、知らぬ間にいなくなってしまうことがしばしばあった。中曾根になると、はるかに自分勝手で、ときにお座敷にごろんと横になって片肘をつくこともあり、座を白けさせることもある。
田中は書がうまい。しかし、その筆跡は野太いダミ声からは想像もできないほど尖っている。神経が剥き身のままひらひらとうごめいているような字である。ゆったりとした、のびやかな字では決してない。
書は正直である。田中には、相手がいま何を感じているのか、自分に敵意を持ってはいないか、何をすれば喜ぶかなどを神経を張って観察する習性が幼いときからついていたのではないか。
だから、対人関係の達人のようでありながら、対人関係に疲れることもあった。事務所に長い列を作る人々をみてときどきうんざりした顔を見せることもあったようだ。「年がら年中、何でオレのところばかり、人がこんなに来るんだ」とふてくされるのを、長く秘書を務めた佐藤昭子は「嫌だったら会わなければいいじゃないですか。人の来ないような事務所は、政治家の事務所じゃないですよ」と言ってなだめたものだ
(注14)。
気を取り直して「じゃあ、入れろ」と言ったとたん、田中の顔から一瞬のうちに雲が消え、「いや、どうも、どうも」といつもの底抜けの明るさで客を迎え入れた。
女性によくもてた。女性の多くはたとえどのようなマッチョであっても、内に秘めた繊細さを求める。とりわけ自分に対する繊細さを。マザコンの気配もあり寂しがり屋の田中は女性の母性本能をくすぐりもした。
赤坂、神楽坂方面はもちろん、あちこちにわりない仲となった女性がいることは周知の事実である。永田町のカサノバと呼ぶ向きもあった。
しかし、面白いことに田中を恨む女性は皆無に近い。十分な金を渡したこともあろう。だが、金だけでは妻ならぬ女性の心の中にひそむ、ささくれ立った思いはすとんと落ちはしない。どうせ私は日陰の花と思った向きは多くあっただろうが、それでも納得させる何物かが田中にはあった。
それが女性に対する繊細さであり、気配りであったのではないか。
例えば、秘書である佐藤昭子の母親の命日には必ず二人だけの食事に誘った。病いで倒れるまで毎年続けた。
昭子が田中と出会ったのが母の命日の二月二十三日だったのである。衆議院に立候補する田中が柏崎の佐藤の家に挨拶に来た。それから六年後の同じ二月二十三日は佐藤が女を作った夫との離婚を決意した日だった。その日もまた田中は雑司ヶ谷の佐藤の借り家に現れた。離婚話を選挙区で聞いて心配してやってきた。
夫婦仲が覆水盆に返らずの状態だと告げると、田中は自分の秘書にならぬかと言った。以来、三十余年、佐藤は田中に仕える。
田中は開けっ広げで正直でもあった。
再び「私の履歴書」に戻る。金についての記述だけではない。田中の「履歴書」には、女性が数多く登場する。異性として意識した女性である。
小学校のとき箒で追いかけられた女の子が、にわか雨に降られて困っていた田中にマントに一緒に入らぬかと誘ってくれたこと、上京するとき柏崎の次の駅の鯨波でひとり見送ってくれた初恋の君・三番さんのこと、いつも自分の係だった理髪店の美人理髪師・お仲ちゃんがいたずらで髭を剃り残し以来口髭が田中のトレードマークとなったこと、事務所を構えてからのある雪の晩、長岡の宿の離れの小部屋に忍んできた若い芸者のこと、出征前に同棲していた女性がいてハウス・キーパーになってくれていたが姉に強引に別れさせられたこと、除隊後事務所に借りた家の娘であるはな子と結婚したこと……。
福田の「履歴書」はといえば、女性はただ一人しか登場しない。京都の下京税務署長時代に結婚した同郷の三枝のことのみである。中曾根は二人。海軍士官時代結婚した蔦子。それに学生時代、伊豆に旅行した際、中曾根たち学生に好意を寄せてくれたうなじの美しい仲居さんのこと。
隠し事のできぬ田中を女性たちは許したのだろう。一種のセックスアピールもあった。地方の演説会に行くと老若を問わず女性がわっと集まり、田中に触ろうとした。演説が終わると、一番若い女性には見向きもせず最年長らしい女性に近づき真っ先に握手した。
田中と深い仲になった女性たちは恋人とか愛人というより、むしろ戦友のような気持ちで彼を支援しようとしたのだろう。
昭和四十五年の新春から夏にかけて、政界では佐藤首相が四選するかどうかが最大の焦点になっていた。自民党の総裁選は十一月末が予定されていたが、それまでのイベントとしては三月十四日の大阪万博、六月末の日米安保条約自動延長、十月十九日から二十四日までの国連創設二十五周年記念総会が控えていた。
このうち総裁選は二月中旬、サンケイホールで開かれた自民党定期大会で十一月末の予定を十月末か初めに早めて行うことが決まった。年末では予算編成に支障をきたすという理由からである。
前年末の総選挙による自民党大勝から、世間では「佐藤四選」の可能性がそれまでより高くなったと受け取る向きが増えてはいたが、確実になったわけではなかった。肝心の佐藤が例によって曖昧な発言を繰り返していたからである。新春恒例の伊勢神宮参拝に出向いた佐藤は、そこでの記者会見で後継者問題に触れ、
「総裁としての素質の問題もあるが、みずから総裁となるための努力も必要だ。しかし、それだけではなく、私自身も手を貸して後継者づくりをしなければならない」
と述べた。多くは佐藤の意中の人が福田であると嗅ぎとっていたから、福田や福田を支持する者は「私自身も手を貸して後継者づくりをしなければならない」という言葉を歓迎した。福田政権を佐藤の手で誕生させるという意味に受け取ったのである。
しかし、その時期がいつであるかはこの時点で佐藤は一言も触れず、「任期一杯はやる(十月の総裁選まで)」とくり返すのみだった。
このとき、福田六十五歳、田中五十二歳。
早くも総裁気分の福田は国会の答弁で「さきに施政方針演説で述べた通り……」などと答えて、はたと気づき、「いや、財政演説で」と言いなおしたりしていた。佐藤のいないところでは「私は総理ではありませんが、国務大臣の一員として」とか、「総理に代わってお答えします」とか発言してもいた。半分からかいながら、野党は福田を「次期総理」と持ち上げる。
六十五歳という年齢から考えると、佐藤四選は自分に有利には働かないとは分かっていたが、それでも四選になれば目が消えるわけではなく、佐藤の意中が自分にある限り、早晩政権は自分の掌中に落ちてくると信じていた。
一方の田中は、佐藤四選が権力奪取のための絶対の条件である。十月の任期一杯で佐藤が仮に自ら身を|退《ひ》くことがあれば、佐藤の党内の影響力から見て、まず一〇〇%次期総理は福田へ行く。この頃の佐藤の締めつけは強力で、例えば選挙に大勝した後の政府・与党首脳会議で「三十一日から一月五日まで、人事、政治の話はしない」と政治休戦のわくをはめたら、ものの見事にみなが人事の話をしなくなった。政治休戦はその後十二日まで延長になるが、これもまた守られたほどである。
田中周辺には、佐藤が福田を指名すると言うのなら、それでもいいじゃないか、福田に譲って、その後を確実にねらえばいいじゃないかという声がなかったわけではない。ごく近い側近の中にすら、そういう声はあった。
だが、田中は福田との戦いで政権を取るつもりを変えはしなかった。
田中に近い記者が「福田さんの後でということを考えないか」と尋ねると、「キミたちは政治を知らない。オレはマムシを飼っているようなものだ。ふところに入っていても、マムシはマムシ。すきを見せると、こっちを噛むか、勝手に箱から出ていってしまう」と言った。これまで苦労して自民党内はもちろん野党にまで人脈を耕し拡げてきたが、一言でも「福田さんの後でもいい」などと言ったら、たちまち噛まれるか、離れてしまうという意味である。勝機は時が運んでくるものであり、一度見逃したら二度と戻ってはこないかもしれないとも考えていた。
田中はつねづね「政治家としての自分の定年は五十五歳だ」と言っていたが、いつの間にかこれを「六十歳」まで自動延長していた。佐藤が四選を果たすと五十五歳のデッドラインぎりぎりになり、仮に首相になるとオーバーしてしまうからである。
三月初旬、大阪万博の直前、田中の盟友である川島副総裁が佐藤四選問題にからんで絶妙な球を投げた。記者会見でこう述べたのである。
「総裁選挙を一か月繰り上げて十月にすることでは、党内に異論はないだろう。十月中旬からの国連記念総会への首相出席とのかね合いで、総裁選挙を十月上旬にするか、下旬にするか、今後、党七役に検討してもらう……。国連総会に総理は出るべきだが、これと佐藤四選問題はからませてもよいし、からませなくてもいい。総裁選挙に選ばれた総理が国連総会に出席すればいいことで、佐藤四選とは関係ない。いずれにしても、この議論を党として実質的に考えるのは、国会を終えた段階になるだろう」
ただ読んだだけでは、なんの変哲もない発言である。総裁選はすでに十月末か初旬にすることは決まっていたので、川島に言われずとも党内に異論のあるわけがない。このときの国連総会には各国首脳が出席すると見られていたから、日本からも首相が出席すべきなのも当たり前のことである。
付言するなら、当時の国連は米国・ソ連ともに冷戦の表舞台ととらえており、いまよりもはるかに重要な外交の場だった。米国も南北問題に積極的に取り組む姿勢を示し、ソ連もまた対抗して国連を通じる経済援助を展開していた。
川島は国連総会に出席する首相が佐藤であってもなくてもいい。四選問題とからませてもからませなくてもいいと言ったのである。これではまるで右に行ってもいいし、左に行ってもいいと言っているだけである。総裁選を国連総会前に開けば、総会への顔見せになるし、総会後になれば、顔を見せた総裁が責任を持って内政に当たることになるか、あるいは引退となれば総会が花道だったということになる。
要するに全ての可能性があるということを述べたに過ぎなかったから、何も言わなかったにひとしい。
ところが、実は川島は大事なことを示唆していたのである。
総裁選と国連総会への出席。この二つのイベントを初めてみなの前に並べて置いて見せたのだ。それまではみなの頭の中にばらばらにあった総裁選と国連総会への首相出席とがこの発言でドッキングした。いわば高度の連想ゲームにみなをいざなった。
絶大な権力を誇る佐藤に対して、「国連総会にはあなたに代わって別の人間が出席すべきです」とは言えはしない。また、各国首脳と膝を交えて会談した佐藤が帰国後すぐに政権を放り出すのは国際的に見てもあまりに無責任である。要するに、佐藤には総理として国連総会に出席してもらい、そのあとも責任をもって政権を担当してもらいたいということだ。
川島の芸術的とも言える連想ゲームにみながはまった。川島は佐藤政権を自民党サイドにあって支える副総裁である。その彼が「四選支持」であるとみなが受け取った。内閣サイドの重鎮である保利官房長官もこれを機に「佐藤総理は出席すべきだ」と発言せざるをえなくなった。
佐藤はしかし、慎重だった。四月中旬、国連のウ・タント事務総長が来日、佐藤に出席するよう正式に招待したときも、「承知しました。自分が出席するかどうかは決めかねております。しばらく預かっておきます」と答えるにとどめたのである。
夏に入ると、政局はあわただしさを加える。
まず先陣を切って三木武夫が佐藤政治を批判した。沖縄問題と安保自動延長がすんだのだから佐藤政権は任務を終えたと言う。前尾繁三郎も、福田大蔵大臣の財政政策を鋭く批判。佐藤四選のない場合は、福田と戦う用意のあることを示した。
きわめつきは石井光次郎と川島との会談である。石井光次郎は朝日新聞出身の政治家で、このとき衆議院議長を経てすでに引退している身ではあったが、清廉潔白で知られ、政界の良識を代表する人物とみなされていた。
その石井が札幌のグランド・ホテルで川島と会い、
「後継者が育っているのなら、佐藤総理は十月の国連総会前に勇退を表明すべきだ」
と人心一新論を述べたのである。後継者とは福田のことである。
石井は地味な性格で言葉の切れがいまひとつである。なにやらもぐもぐと口の中で言葉を転がしている。そうした石井をのっぺりとした冷たい顔で見やっていた川島は、石井の言葉がとぎれるやいなや立て板に水で自説を述べた。
「人心一新が必要なときは政策が行き詰まったときとか、黒い霧に包まれたとき。国民の大多数が『変わった』という印象を受けるときだ。人が変わっても、たいして変わり映えしないような人心一新は意味がない」
そう言い残してさっと席を立ったのである。
この勝負は川島の完勝だった。というよりも石井から会いたいとの連絡があったときから、川島は佐藤四選問題に決着をつける好機とみなし、会談を利用した。川島派の記者をあらかじめ集めておき、会談が終わると、ただちにその模様を伝えて自分の発言を報道させた。かたや、石井の発言は虫眼鏡で探さねば分からぬほどの小さな扱いになった。石井は福田を強く支持していたのだが、さしたる応援団にならぬどころか、海千山千の川島に逆手を取られた。
政局は佐藤四選に向かって大きく動き出してはいたが、最後の見せ場が軽井沢のゴルフ場でやってきた。
八月二十日。なんとか福田の出番を決定づけようと子分の倉石忠雄農林大臣が田中と親分とのゴルフを企画したのである。福田側はこの倉石、田中には鈴木善幸総務会長がついた。
マスコミはこれを「ゴルフ巌流島」と名付け、この場で両雄が握手をして佐藤の後継者が決まるかもしれないとはやし立てた。二人が握手をすれば、年齢から言って後継者は福田、次が田中という順番にならざるをえない。
集まった報道陣は百三十人近く。いつ福田と田中がひそひそ話をするか目をこらして後をついていったが、何も起きはしなかった。
田中のゴルフは一回だけの素振りでポンと打つ。かたや福田は腰に日本手拭いをぶら下げて飄々と歩いていく。ただそれだけのことで、一ラウンドが終わった。田中は福田側の描いたシナリオに乗らなかった。
スコアは田中が五一と四二、福田が六一と五六。軽井沢で連日のように腕をみがいた田中の方の勝ち。二人が一緒にゴルフをしたのは後にも先にもこのときだけである。
十月二十九日、自民党総裁選で佐藤は三百五十三票の圧倒的多数で四選を果たした。
佐藤四選に当たり、田中と大平は前尾繁三郎に出馬しないよう働きかけた。圧倒的多数で佐藤を当選させ四選をもって花道とするという筋書きが必要だったからである。
前尾は出馬しなかった。その代わり法務大臣にすると川島と田中は内々に約束した。
ところが佐藤はしたたかで、四選後の内閣改造を見送ったのである。総裁選に出馬しないで佐藤の圧倒的勝利に協力した挙げ句、閣僚にもしてもらえない。前尾は生き恥を晒す結果になった。
これには川島が歯ぎしりをした。記者たちに感想を聞かれ、自嘲気味に「どうせ、私はバンザイ係の冠婚副総裁だよ」と吐き捨てるように言った。
川島は佐藤四選の十一日後の十一月九日、喘息による心臓麻痺で帰らぬ人となる。享年八十。
歴史に「れば、たら」は許されないが、もし川島がもっと早く他界していたら、佐藤政権の行方はどうなっていたことか。自民党副総裁─幹事長のコンビで党務を仕切ってきた田中の影響力はかくも大きくなることができたかどうか。
田中にとり川島はかけがえのない存在だったから、その死は打撃だった。
川島の死後、田中は佐藤に呼ばれて総理官邸に出向いたことがある。何やら深刻な顔をして出てきた田中を田中派の記者がつかまえて、
「(後継者問題について)総理に説得されたのではないですか」
と尋ねた。このとき、田中は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「二十五年議員を馬鹿にするな!」
議員歴から見ると、田中は福田はもちろんのこと、佐藤よりも二年先輩である。田中のみならず政治家には議員歴による序列意識がきわめて強い。権力の頂上へと気の急せく田中には、なんとか福田をと思案する佐藤に対して心中穏やかならぬものがあったのだろう。
川島の死で打撃を受けた田中だが、ひるみはしなかった。田中に近い記者が田中の車に乗り込んで「(川島の死によって)これで不利になりましたね」と尋ねたことがある。田中は即座に答えた。
「そんなことはない。中間派(川島派や中曾根派のこと)は最後は必ず権力につく。力だ。力を握ればいいのだ」
昭和四十六(一九七一)年は激動の年になった。六月には公明党の竹入委員長が周恩来中国首相と会談、日中国交回復促進で合意、日中間に雪解けの気配が漂い始めた。七月、キッシンジャー米大統領補佐官が極秘で訪中、ニクソン大統領の訪中決定を発表した。長い間、日本外務省の懸念していたことは、米国が日本の頭越しで勝手に中国との関係を正常化することだったが、その悪夢通りになったのである。ニクソン政権は同盟国の日本に事前に一言も知らせずに中国と手を握った。
いわゆるニクソン・ショックはそれだけでは収まらなかった。八月、ニクソン大統領はドル防衛策を発表、ドルと|金《きん》との関係を断ち切り、金ドル本位制からただのドル本位制に移行することにした。同時に米国への輸入品に一五%の課徴金を賦課することにしたのである。為替市場は大混乱し、東京証券取引所は史上最大の暴落となる。
佐藤が本格的な内閣改造に乗り出したのは七月初旬。一連の大ニュースが日本を揺るがすことになる直前のことだった。
佐藤の人気は低迷している。マスコミは佐藤のことを佐藤栄作ならぬ「佐藤無策」と酷評し、佐藤は佐藤でそういうマスコミととげとげしい関係になっていた。
起死回生の内閣改造だが、もうひとつ隠されたねらいもあった。政権を円滑に福田に譲り渡す布石にもしたかったのである。
まず福田を大蔵大臣から外務大臣に横すべりさせた。佐藤は事前に福田に「今度、外務大臣になって秋の天皇陛下のご訪欧のお供をしてもらいたい」と言う。天皇のお供をするということは栄誉であり、次期総理・福田のイメージを定着させることにもなる。
次に佐藤は田中を幹事長から官房長官に動かそうとした。官房長官は総理のスポークスマンであり、一心同体の関係に立たねばならない。首相官邸に同居して毎日指示を仰ぐことになる。昼食を共にすることも多いから、首相にしてみればコントロールがしやすい。毎日の仕事も多忙で、党内の自分の勢力を拡大する暇もあまりない。
要するに佐藤は田中を自分の手元に取り込んでしまおうとしたのだが、田中はその手をするりと逃れた。断ったのである。佐藤の魂胆を先刻承知だった。
その代わりに通産大臣に就任した。通産大臣は財界人との接触も多いし、議員との会合も頻繁にある。佐藤にすれば虎を野に放ったような結果になった。
しかし、佐藤には通産大臣以外のポストに田中を起用するつもりはなかった。官房長官に取り込むことができないとはっきりすれば、田中のブルドーザーのような力を使わねばならぬ事情があった。
積年の懸案が日米間に横たわっていたのだ。日米繊維交渉である。
話はさかのぼって一年半前の昭和四十四(一九六九)年十一月のことになる。佐藤はニクソン米大統領とワシントンで会談した。ニクソンは前年の一九六八年十一月の大統領選挙でホワイトハウス入りしている。佐藤は日米会談の第一日を沖縄返還問題に充て、次の日はニクソンの強い希望によって日米繊維問題が取り上げられた。大統領選挙の際、ニクソンは南部の大票田である繊維業者および労働組合の票を取るため、日本に繊維輸出の自主規制をさせる、だめな場合は輸入規制すると公約していたのである。
会談では沖縄問題については返還の道筋がついたが、繊維問題では「ジュネーブでの二国間の予備交渉の進展を待つ」といった抽象的な合意で終わったとされていた。しかし、本当は沖縄で米国側が譲る代わりに繊維では日本が譲るという取り引きが成立していたと見ていい。共同声明には載っていなかったが、佐藤は繊維問題の解決について「善処する」と答えた。佐藤は「検討する」程度のニュアンスで「善処する」と答えたのだが、ニクソンはそう理解していなかった。「実施する」と受け取ったと思われる。
沖縄の縄と繊維の糸。米国の政治を見ていればよく分かることだが、二つの全く異なるテーマをつなげて取り引きすることはままあるし、決して恥ずべきことではなく、むしろ政治家の能力は妥協と取り引きのうまさによって評価されることが多い。縄と糸はあからさまではないにしても、取り引きされたと考えて少しも不思議ではない。
ところが、日本は縄はとりながら、糸では容易に妥協しようとはしなかった。業界が猛烈な抵抗をしたし、通産省も応援団に回った。交渉の最高責任者である通産大臣は大平から宮沢と二人も変わっていたが、妥協は成立しなかった。ニクソンとしては日本側に裏切られたという印象を抱いていたのではないだろうか。
日米間の交渉の経緯は新聞に次々にすっぱ抜かれた。米国の高飛車な要求にカチンときた通産官僚がリークしたこともある。米国側の要求が新聞にでかでかと報道される度に両国の業界や政治家が声を荒立てて両者を攻撃したから、交渉はどろ沼にはまり、決裂しては再開をくり返していた。
「繊維問題を頼む」と言って佐藤は通産省に田中を送り込んだのだった。通産大臣になるに際して、側近たちの間には「オヤジ、どろをかぶることはないじゃないか」と反対する者もいた。
だが、田中は「あえて火中の栗を拾う。佐藤政権の最後の責任は自分が取る」と言って通産省入りした。
田中はこのこじれにこじれた日米繊維交渉を鮮やかな決断で一気に解決するのだが、その前に、田中─福田の両雄の立つ政治基盤を構造的に変動させる、きわめて大きな事件が内閣改造直前に起きたことを紹介しておこう。
それはまさに事件と言っていいほどの出来事だった。参議院議長を三期九年務め、参議院を牛耳っていた重宗雄三がクーデターにより追い落とされたのである。クーデターを仕掛けたのは同じ参議院自民党で河野一郎の実弟である河野謙三である。
河野は明治三十四(一九〇一)年生まれ、早稲田大学時代は駅伝の選手として鳴らし、兄・一郎の公職追放を受けて神奈川から出馬、兄の復帰とともに参議院に移った。早くから「自民党の左、社会党の右」を標榜して幅広い立場で活動していた政治家である。
この河野が、参議院議長の四選出馬を表明した重宗に反旗をひるがえした。「参議院改革」の書簡を印刷して参議院議員全員に送ったのである。
参議院はかねてから「半議院」とか「第二衆議院」とか言われ存在感が薄かった。その年の参議院選挙も世間の関心は小さく投票率が六割を切った。河野を改革に立たせた直接の原因である。
書簡は正副議長は党籍を離脱する参議院から大臣や政務次官は出さない党議拘束をゆるめ、自由な議論ができる場にする――の三つを内容にしていた。つまり参議院議員は党利党略、ときには派閥の事情にとらわれて行動するのではなく、参議院本来の使命である大所高所に立った視点を持って事に当たるべきという趣旨である。
河野の改革には重宗四選阻止の刃がちらちらしていた。重宗は参議院自民党の過半数を押さえる「清風会」を根城にして、内閣改造時には発言力をふるい、大臣を送り出すパイプになっていた。自民党総裁選のときは議員の票は衆参両院を問わず一票だから、ときの総裁も参議院のボスの意向を無視はできない。重宗には、大臣になりたい一心で金品を運ぶ向きもあり、腐敗の匂いも立ち込めていた。
しかし、党籍がなくなると、あからさまな大臣送り込み運動はできなくなる。また、大臣や政務次官を送り込むことをしないというのは、そのまま重宗への批判でもある。
河野書簡には意外な反響があった。清風会以外の自民党議員の集まりである「桜会」はもちろん河野支持。野党も共産党まで参加。与野党の差はわずか二十一票。自民党から十二名の造反者が出ればクーデター成立となるから、重宗にとって容易ならざる形勢になってきた。
重宗と河野の対決にはもうひとつの背景がある。重宗は同じ山口県出身とあって佐藤を強く支持しており、佐藤長期政権のひとつの柱にもなっていた。当然のことながら、田中・福田の総裁レースでは福田支持である。
参議院の不穏な空気に慌てた保利幹事長は巻き返しに出た。反佐藤から重宗追い落としに加わった三木武夫に対抗し、三木派の鍋島直紹を副議長にすると言って切り崩しにかかった。
対抗して三木は河野に電話を入れ、「君、絶対に降りるなよ」と励ました。
重宗は七月半ばになって出馬を断念、代わりに息のかかった木内四郎を立てたが、時すでに遅し。投票の結果、河野の勝利。河野議長が誕生したのである。この間、派閥の領袖である大平正芳、中曾根康弘は見てみぬ振りをした。
佐藤を支える重宗の危機なのだから、佐藤派の有力者である田中は救いの手を差し伸べるべきだっただろうが、音なしの構えをとった。いや、むしろひそかに河野を支持していた。河野と国会の廊下で会うと、黙って近寄ってきて手をぎゅっと握りしめたりした。
参議院議員の票が総裁選で重みを持つことは田中は十分に認識しており、早くからシンパを作るべく手を打っていたのである。
たとえば和歌山県出身の世耕政隆は「キミは参議院向きだよ」という田中の一言によって衆議院から参議院に移っている。衆議院から参議院への鞍替えは珍しい例だが、世耕は近畿大学総長の長男として生まれ、医者でもあり詩人でもある。彼の知性を指して「参議院向き」と言ったのだろう。昭和四十年代の初めから田中は世耕に目をかけ、選挙区に足を運んでくれたりした。
一年後のことになるが、総裁選でいよいよ田中が福田との一騎討ちに臨むとき、この世耕はインテリらしからぬ行動力を発揮し大森久司、前田佳都男、一龍斎貞鳳などの若手とともに火の玉のようになって多数派工作をした。議員を連日、新橋、赤坂、柳橋などに招いて票を固めた。
田中が河野の手をぎゅっと握ったのは、二人が気脈を通じ合っていたからである。
のちに河野はその回想録『議長一代』(朝日新聞社)で、「(田中は)よく先の見える、決断の速い逸材だったよ。ロッキード事件がああなって、あまりほめるのもどうかと思うが、百年二百年に一人といった男だったと思うよ」と語っている。
河野は兄譲りの反官僚で、党人中の党人を自ら任じていたから、小学校卒で政界にのし上がってきた田中に熱烈なエールを送っていた。総裁レースで佐藤が田中を降ろそうとあの手この手を用いる気配のあったとき、河野は田中を励ました。
「絶対に降りてはいかん。この俺が議長になったのは田中政権を作るためなんだからな」
重宗王国の崩壊、河野議長の出現は参議院の地殻変動にもひとしい出来事だった。
この時点において、田中と福田の総裁レースはいよいよホームストレッチに差しかかり、二頭の馬はほぼ肩を並べたと見ていい。
さて、日米繊維交渉に戻ろう。
日本側は、当初は米国の事情を調査した結果をもとに「深刻な被害はない」と結論を出し、「被害なきところに規制なし」と突っ張っていたが、途中で「規制もやむなし」と折れていた。
日米の対立点は、規制の対象をどれだけ拡げるか、規制の期間をどれだけ長くするか、規制した場合の年間輸出(米側からみると輸入)の伸び率をどれくらいに抑えるか――の三つだった。
この年の九月、日米の経済閣僚が一堂に会する日米貿易経済合同委員会が米国の観光地・ウィリアムズバーグで開かれた。米側の閣僚は足並みを揃えて日本に繊維の規制を求める。テキサス出身のコナリー財務長官などはテーブルをどんと叩き、大声を出して日米間の貿易不均衡を攻めたてる。
新しい大臣が何を言うかと通産官僚たちが固唾を呑んで見守っている中、田中は米側の攻勢を受けて立ち、堂々の論理でやり返したのである。繊維問題では「日本の繊維業界は農民と同じで、団結が固く、妥協させることは至難である。それに米国にはこれと言った被害が出ていないではないか。被害なきところに規制なしだ」と熱弁をふるった。
貿易不均衡では、「貿易は多数国を相手にするものであり、黒字のところもあれば赤字のところもある。いつも二国間でバランスを取らねばならないというのは無理がある。日本は米国に対しては黒字かもしれないが、産油国に対しては大幅な赤字になっている」と反撃した。
この田中の応答ぶりを見て通産官僚は「新しい大臣はよくやってくれる。総理以上の発言をしてくれた」と感激した。胸につかえていたものが快く落ちていった。
ところが、ウィリアムズバーグから帰ってきて一週間ほど経つか経たないうちに通産省幹部は大臣室に呼ばれた。
田中は言う。
「このままではどうにもならんだろう。局面打開を図らねばならんな」
ナショナリズムに燃える通産官僚だったが、心の底に田中の言葉と同じ思いがなくはなかった。誰も言い出しはしなかっただけだ。それを田中がすぱっと口に出したのである。
みなは沈黙した。日米貿易経済合同委員会であれほど頑張ってくれた大臣の言葉だったから、胸にこたえるものがあった。
二、三日して田中はまた幹部を大臣室に集めた。そして、思いがけない案を示したのである。
繊維輸出は一定の伸び率を確保する。ゼロにはさせない。放置しておけば伸びる率を一方で計算する。その伸び率から一定の伸び率を差し引く。それが日本側業界の受ける損失だ。得べかりし利益と言ってもいい。それを金額で計算し、政府が補償する。
みな唖然とした。官僚の発想では思いつかぬ妥協案だった。
繊維局長が頭の中で補償金額を計算し、すぐ反論した。
「大臣、そんなことをしたら、数百億円ではすみませんよ」
予算は八月末に概算要求を終え、要求の上限はすでに決まっている。藪から棒に千億円単位の金を要求しても大蔵省が出すわけがないではないか。
だが、田中は胸を叩いてみせた。
「オレにまかせろ。さあ、主計官に電話するんだ」
官房長が主計官に電話を入れる。田中は受話器に向かってだみ声を張り上げた。
「おい、こっちの事務局からケタ違いの予算要求が出るぞ。驚くなよ。水田さんにはもう言ってあるから」
水田さんとは水田三喜男のことで、大蔵大臣である。通産官僚は度肝を抜かれたまま退席した。
だが、田中は水田にはまだこの案について説明してはいなかった。みなが退席した後、水田に電話を入れ、主計官には説明済みだからと内容を話した後、「あとで総理からも頼みがあるはずだ」と付け加えた。
だが、田中はその佐藤にも説明はしていなかった。翌日の閣議後、佐藤に会い、大蔵事務当局と水田の了解は得てあるとして、局面打開策を説明、了承を得る。
これまで「被害なきところに規制なし」を原則とし、妥協するとしてもほんのわずかという立場をとってきた日本側の大転換である。
業界からは轟々たる非難が巻き起こるが、田中は委細構わず補償のための作業に入るよう通産官僚に命じる。通産官僚も田中マジックにかかったように仕事を進める。こうして二千億円の補正予算をあれよあれよという間に編成してしまったのである。
この補償方式はのちに貿易摩擦が生じたときの解決パターンになった。
田中はなぜこのような解決策を立てるに到ったのか。
日米貿易経済合同委員会で訪米した折、ニクソン大統領の特使であるデイヴィッド・ケネディやジューリック補佐官と極秘裏に会っていたのである。ここで田中は米国の意志がきわめて固く、日本が意地を張れば繊維のみならず他の輸出品目にも波及することが必至との感触をつかんでいた。繊維問題は業界にとっては確かに死活の問題かもしれないが、日米関係全体を考えるなら、一刻も早く抜いておかねばならぬトゲである。しかも、米国は沖縄返還で譲っている。戦争による勝利なしで領土の返還を実現できるとはいかに異例のことであるか。田中は一流の勘で瞬時に日米関係に占める繊維問題の位置を掴んだ。
こうして繊維の輸出についての政府間協定が結ばれることになった。規制期間は三年。対象は全ての毛、化合繊。年間伸び率は化合繊は五%、毛一%。
田中の強引なやり方には批判も強く、第六十七臨時国会では田中通産大臣の不信任案が上程された。だが、振り返ってみると、繊維協定で決められた枠はのちに余るほどになり、協定はやがて形骸化していく。死ぬの生きるのと言って大騒ぎはしたものの、大局的に見れば日米間の信頼関係を犠牲にしてまで争う問題ではなかった。田中の勘は正しかった。
巨額の補償はしたが、田中は徹底していた。行政当局に命じたのである。
「業者の持つ織機を倉庫にしまわせてはならぬ。しまったものはまた出てくる。全部廃棄させよ」
このため田中は行政訴訟までされている。
明けて昭和四十七年、いよいよ決戦の年である。
前年末、佐藤はニクソン大統領から親書を受け取っていた。キッシンジャー補佐官の突然の訪中で日本は大きなショックを受けたわけだが、親書には同補佐官の訪中が急遽決まったことなどの事情がしたためられており、これからは一切の問題について密接に協議したいとの意思を伝えていた。繊維問題は片づいたが、日米間には多くの懸案があった。ニクソンは訪中に当たって日本と突っ込んだ協議をしたい意向だったし、通貨も揺れていた。沖縄返還の最終的な日取りも決めねばならなかった。
こうして、一月初旬から中旬にかけて米国・カリフォルニア州サクラメントにおいて日米首脳会談が開かれることになる。
外務大臣の福田が佐藤に随行するのは当然だったが、ある日、佐藤は福田にひとりごとでも言うように尋ねた。
「そろそろ田中君に話すか。いつ、どういう風に言うかな」
福田はただちに後継者のことと解釈して答えた。
「田中君の同行を求めたらどうでしょうか」
「それはいいな」
こうしてサクラメントに田中も随行することになった。福田は佐藤の発言からサクラメントから帰ったら佐藤は辞意を表明し、後継者に自分を指名するのではないかと推測した。
田中の随行が決まると、この訪米中に佐藤が福田と田中の間に割って入り、福田を後継者に指名するという噂が流れた。マスコミもすっかりその気になり、日米会談の取材に加えて佐藤の調停がいつ行われるのか大いに注目したのである。
ところが、田中は佐藤と福田の間の怪しげな動きをいち早く察知しており、逃げに回った。佐藤が田中を官房長官にして取り込もうとしたのを断ったのと同じで、随行はしたものの佐藤と福田との三人きりになるのを徹底して避けた。
日米会談も無事すみ、公式日程を終えた八日、一行はニューポートからロングビーチまでヨットに分乗する。ニクソンの友人の取り計らいだった。ヨットの収容人員は限られているので、ひとつのヨットに佐藤、福田、水田、田中が乗り、記者団は別のヨットになった。
このヨットの中で例の調停が行われるぞとの観測が飛び、記者団は百メートルほど離れて帆走するヨットを穴の開くほどみつめ続けた。
ところが、田中が甲板に姿を現し、なかなか中に引っ込まない。引っ込まないどころか、背伸びをしたり直立不動の姿勢を取ったり敬礼をする真似をしたりで、とうとう一時間余りの間、船室に入らずじまいになった。田中は密室での話し合いには応じないぞとのゼスチャーを示したのである。「うまく逃げたよ」と田中は田中派の記者たちに帰国して告げた。
ロサンジェルスの日本料理店「インペリアルガーデン」の座敷で佐藤、福田、田中の三人が交わした会話がある。佐藤夫人である寛子が佐藤の秘書から聞いた話である
(注15)。
沖縄返還の日程も最終的に決まり、みながほっとして料理をつついていたとき、日本中を騒がせた連続殺人事件が話題になる。犯人は群馬県出身の大久保清という名の男だった。
「大久保清というのはひどいやつだねぇ。群馬県というところはほんとうに悪い人間の出るところだよ」
と田中は福田をからかった。
福田はやり返す。
「お言葉ながら通産大臣、ちと誤解があるようだねぇ。大久保一家は三代前までは新潟県に住んでいたそうですぞ。どっちが悪者を育てたのかねぇ」
佐藤が割って入った。
「福田君も三代前とは大分遠慮したもんだね」
佐藤が少し福田の肩を持った形の会話だったが、福田と田中の間に笑い話でごまかしながら目に見えぬ火花が散った前哨戦の一幕である。
佐藤は福田の期待に反し帰国してからもすぐには辞意を表明しなかった。辞意表明は五月十五日に沖縄返還の批准書を交換し通常国会を終えてからのこととなる。
最後には自分の力で福田を後継者にできるという過信が佐藤にはあったのではないだろうか。
佐藤にはジレンマもあった。権力というものは浮気者だ。掌中にあっても、少しのすきで逃げていく。他人に譲ると一言でも言った瞬間、さっと消えてなくなる。人心が離れていく。すると、意中の後継者を指名して実現する力すら失われてしまう。
だから、権力を意中の者に譲るには、最後の瞬間まで権力を手放さないという構えを取らねばならぬ。これぞ最大のジレンマである。
もう一度、「れば、たら」の話をすれば、佐藤が四選に臨まねば、ほぼ一〇〇%福田政権が誕生していた。四選しても参議院の重宗体制が崩壊する前だったら福田の目は堅かっただろう。重宗体制が崩壊しても昭和四十六年中に佐藤が福田の手に政権を渡そうとすれば、田中がどれだけ抵抗できたかは分からない。
佐藤は福田と似たところがあり、強引で格好の悪いことを嫌った。「|啄同時《そつたくどうじ》」という言葉が好きだった。卵が孵化するとき親鳥と雛が内外からカラを砕こうとするタイミングが一致することを言ったもので、自然の絶妙な摂理を表している。
夫人の寛子によれば、佐藤はいつも流れのままに身を任せる主義で、昭和十九年に鉄道省で大阪鉄道局長に左遷されたときも愚痴ひとつこぼさなかった。運命というのは不思議なものだ。この左遷のお陰で戦後、占領軍によるパージの対象とはならず次官にのし上がり、あとは順調に政界で地歩を固めていった。
佐藤としては「啄同時」の摂理にのっとって福田が自然に次期総理になることを願っていたのだろう。
だが、「啄同時」は福田には分かっても田中には通じはしない。
サクラメントから帰ってきた田中は上機嫌だった。ホワイトハウスの庭を使った野外パーティーで田中を喜ばせる出来事があった。
広い庭にはテーブルが五つか六つ置いてあり、主賓の座るテーブルにはニクソンと佐藤、それから福田の名があった。田中は少し離れた別のテーブルにいったん座る。
ところが、ニクソンが田中の姿を見つけ、手招きしたのである。こうして田中はニクソンの隣に座った。この出来事については、田中が強引に隣に座ったとか、あらかじめ工作していたとか言う向きもあるが、実際はニクソンが田中の労をねぎらう意味で手招きしたのである。
日米繊維交渉は数日前に調印になっており、ニクソンはその功労者である田中を知っていた。田中側が宣伝したように、ニクソンが田中を佐藤の後継者として認識していたということではない。しかし、田中側はこれを大いに使ってPRにこれつとめた。
田中の猛烈な勢いによって次期総理は佐藤の推薦ではなく、公選で決めずにはすまされない空気が次第に充満していった。
五月十五日、沖縄返還協定の調印が終わる。
この年の通常国会は荒れた。衆議院では佐藤の不信任案が、参議院では佐藤の問責決議案がそれぞれ出たし、国鉄運賃値上げ、健保法の改正案などの重要法案の成立のめども立っていなかった。佐藤はつくづく自分の力が衰えたと実感したのだろう。
通常国会が幕を閉じようとしていた六月十六日の朝、佐藤は首席秘書官の楠田實に「明日やろう。準備してくれ」と告げた
(注16)。辞意を表明するという意味である。そして、楠田の意表をつくことを言った。
「新聞記者会見はやりたくない。テレビを通じて国民に挨拶しよう。最後はおれのわがままを通させてくれ」
エイちゃんと呼ばれたいと佐藤が言ったことがある。自分に大衆人気の沸かぬことを嘆いたのである。佐藤は新聞記者受けが悪かった。「淡島(佐藤の私邸のあるところ)に特ダネなし」とは佐藤が政界で頭角を現した頃から言われたことで、佐藤の家に夜回りに行ってもろくなことはしゃべらないし、ときに本心とは逆のことを言われミスリードされるという意味である。
実際は佐藤は腹黒いというよりも、とっさに口の回らぬ、照れ性の男だった。これが誤解を招いた。佐藤の首席秘書官を務める前は産経新聞記者だった楠田實は、佐藤の心の動きを読むのはそれほどむずかしいことではなかったと振り返っている。
例えば、池田政権が最後の内閣改造をしたとき、佐藤派内は「入閣すべき」と「入閣すべきではない」で真っ二つに分かれた。このとき感想を求められて佐藤は、「入閣したくないんだ」と答えた。それをまともに受けた記者は「入閣せず」と書いた。
だが、佐藤の場合、「入閣したくない」は「入閣しない」を意味しない。入閣したくはないが入閣せざるをえない場合があるわけで、そういうときは言葉じりに惑わされずに佐藤の顔を見る。すると、いかにもぎこちなくなっている。不器用なため、何かを答えなければならない場合、とっさに逆のことを言ったりする。楠田は佐藤の顔をじっと見つめることによって、何度も特ダネを取ることができた。
しかし、それは佐藤のふところに飛び込んで初めて分かることだ。大勢の記者には佐藤は腹の読めぬ、好きになれない政治家だった。
退陣表明の会見は、手違いがあり、新聞記者も入ってしまった。それを見て佐藤は色をなした。
「偏向的な新聞は大嫌いだ。新聞記者の諸君は出ていってくれたまえ。テレビカメラはどこにいるんだ! 私は国民に直接話したいんだ」
新聞記者は抗議して全員退場。会場のテレビカメラに向かって佐藤はひとりぽつねんと退陣の弁をふるうという異例の事態になった。
佐藤の退陣表明とともに、田中と福田との間の合戦が表立って火を噴くことになる。
田中は前年の九月、すでに政権構想に入り、かねてからの持論である「日本列島改造論」を体系化していた。この構想の土台になった「都市政策大綱」についてはこの章の(三)で詳しく取り上げたので重複は避けたい。
「日本列島改造論」は佐藤が退陣を表明した三日後一冊の本として発売になり、たちまちベストセラーにのし上がった。
列島改造論は前の都市政策大綱が一年二か月もかかったのに対して、四か月くらいの期間で一冊の本に仕上げた。田中に近い佐藤派議員で政策通で知られる愛知揆一がキャップとなり、通産官僚が徹夜で作業をした。
余談になるが、都市政策大綱を作り上げるうえで中心人物となった秘書の麓邦明は、その頃、田中のもとを去っていた。
麓とのいきさつは、田中の情の濃い、湿気をたっぷりと含んだ、浪花節体質と麓の理性的でさっぱりとした性格を物語るうえで格好の材料である。
麓は宮崎県に生まれ、海軍兵学校に入校。終戦後、東大に進み、卒業後、共同通信記者となる。一貫して政治部記者を務めた後、佐藤栄作にほれこんで、池田内閣の後の佐藤政権発足前に政権構想をまとめる役割を担った。佐藤のイニシャル、Sを取った「Sオペレーション」に参加したのである。
寡黙で誠実な人柄で、政治家の人的関係に関心を示す従来型の政治部記者ではなく、政策立案能力を持つ論理性の高い記者だった。田中の経済開発論に興味を抱き都市政策大綱をまとめ上げたのもそのせいで、幹事長四期目を迎えた田中の秘書になってから政策ブレーンの役割を果たした。政治家の秘書を務めながら、クールな物の見方のできる男だったから、政治部記者連は企画記事を書くときには彼のところによく取材にいって話を聞き、ヒントをつかんだ。
そういうタイプの麓だったから、田中を担ぎながら、田中に危惧の念を抱いていた。田中が通産大臣になり、いよいよ天下取りの野心を明らかにした段階で、麓は同じ秘書の早坂茂三とともに田中に会って二つのことを申し入れた。田中が佐藤に随行してサクラメントに行く直前のことである。
第一は、かねて噂のある小佐野賢治との関係を断ち切ること。
小佐野を切って金づるがなくなるというのなら、自分と早坂が頭を下げて、あちこち走り回ってもいい。首相の佐藤やライバルの福田は広く浅く金を集め、後ろ指さされぬよう万全の注意を払っているではないか。
第二は、越山会の金庫番をしていた佐藤昭子をもう少し人目につかぬ場所に下げてほしいということ。
当時、田中の事務所は砂防会館三階にあった。エレベーターを降りて正面の部屋に麓や早坂のいる部屋があった。二人はマスコミおよび政策担当だから、自然と新聞記者のたまりになる。向かって右の奥が田中の部屋。反対側の左手に佐藤昭子の部屋があった。
田中のところに人が来て、軍資金をもらうことが再三再四ある。田中は佐藤を呼ぶ。佐藤は風呂敷包みに金を入れて新聞記者の前を走っていく。田中と佐藤の関係は人も知る仲だったから、あまり格好のよい光景とは言いがたい。
麓は田中に言った。
彼女のことについては、私たちの知らないこともあるだろう。しかし、いまのやり方は総理総裁を目指す者にとってはあまりにもすきがあり過ぎる。彼女が前面に出過ぎる。金庫番だから、人におだてられることもあるだろう。女性だから、気持ちがたかぶり判断が狂うこともあるかもしれない。彼女のくつろげる場所は自分たちがなんとかして探す。どうか善処してほしい。
麓と早坂の二人は親分に物申すわけだから、事前に覚悟を固め辞表をふところにしていた。田中は二人の言葉を黙って目をつぶりながら、聞いていた。一を言えばたちまち十の答えが機関銃のように返ってくる彼にしては珍しいことだった。
麓が話し終えると、田中は答えた。
「小佐野のことは心配するな。あれは、シャイロックみたいなもんで、オレの方が面倒を見てやっているんだ。こっちに金をくれるわけじゃない……お前たちは、金のことなど心配するな。佐藤や福田は東大卒だろ。オレは小学校の同窓会、仲間は戦友が集まる『愛馬会』、森繁たちと作っている大正九年生まれの会の三つしかない。だから、血のションベンを流してでも金は自分で集める。なる者になれば、そのうち受け取ってくれとわんさとやってくるさ。当分はこの線でいくしかないじゃないか」
そこで田中は、
「二つ目は……」
と言葉を切り、ちょっと間を置いてから、
「厄介なんだ。仰せの通り、お前たちの知らないこともあるからな」
とつぶやいた。
一週間後、田中は二人を呼んだ。後頭部を両手で支えながら、天井を見て告げた。
「あの件(佐藤昭子のこと)はだな、だめだ。お前たちのオヤジの道楽だと思って、背負って連れていってやってくれ」
「それでも……」
と麓が何かを言いかけるのを、早坂はとどめた。田中は無理を承知で自分たちに頼んでいると感じたからだ。早坂は、
「分かりました。おっしゃる通りにしましょう」
と答え、麓のズボンの端を引っ張って部屋を出た。
自分たちの部屋に戻ると、麓は「俺は辞める」と言った。「それなら、私も辞めます」と言う早坂を麓はたしなめた。
「君は辞めてはだめだ。二人が辞めてしまったら、理性的な判断のできる者が田中の周囲からいなくなる。田中はどこへ行くか分からない。俺が辞めれば、田中も少しは分かってくれるだろう。去るも地獄、残るも地獄だ。お互いオヤジに惚れたのだから、これも仕方がないではないか」
こうして麓は田中のもとを去っていった。
信頼する秘書の身を賭しての忠言だったが、田中は聞き入れなかった。越後人は昔から「アバラッ骨が一本足りない」と言われている。理性よりも情に流されることが多く、器用には立ち回れないという意味である。田中は麓の理性より、長年の付き合いを取った。
後日談がある。麓はその後、自民党代議士の集まりである「平河会」の政策ブレーンとして地味ではあるが中身の濃い報告書をまとめたりして過ごしたが、心筋梗塞で倒れる。
田中はすでに首相の座をしりぞいていた。
目白で知らせを聞いた田中は、
「なに! 麓が倒れた?」
と大きく叫び、午後からの予定を全部キャンセルした。百万円を早坂に用意させて、病院に走る。元首相が来るというので、病院は気をつかい、応接室で院長が迎えた。田中はテーブルに両手をついて深々と頭を下げた。
「先生、あの男を死なせないでください。子供も小さいし、まだ若い。私ができることならなんでもします。何かありましたら、この男(早坂のこと)に言い付けて下さい。お願いします」
病室には、管を喉に通された麓が横たわっていた。血の気はなく、ぐったりとして天井を見やっている。身動きできずにいる。
田中は部屋に入るなり声を張り上げた。
「こら! しょぼくれた顔をするな。必ず治る。病気なんか気力ではね返せ」
軍隊にいた頃、肺炎にかかった田中は死線をさまよったことがある。一度そこに入ったら出てくる者の少ない重病人用の病室で、たった一人で病魔と闘った。その記憶が蘇っていたのかもしれない。田中の声にはずしんとした重みと、悲しいほどの温かさがあった。
ややあって、天井を向いたままの麓の目からふた筋の涙が流れ落ちていった。
麓は回復した。政策マンとしての地味な仕事を続け、田中の死を見送って平成八年、帰らぬ人となる。
「日本列島改造論」で、華々しく出馬宣言した田中は福田と激しくもみ合いながら、最後の差し足を競うことになる。
引退表明をした記者会見のあと挨拶にきた福田に、佐藤は言った。
「一度、決意をしたからには、必勝を期してくれ」
明らかに激励だった。続いてやってきた田中には、
「君子の争いでやってほしい」
と注文をつけた。田中は神妙な顔で話を聞いたが、佐藤の言葉は頭の上を通り抜けていった。
田中は総裁選を君子の争いなどとは思っていなかった。権力の座は力で奪い取るものだと信じていた。戦いを挑むにはまず足場を固めることである。佐藤派内の田中支持者を確定的にしておかねばならない。
すでに手を打っていた。佐藤派の長老である二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、愛知揆一、木村武雄、植木庚子郎にはその年の早い機会に出馬の意思を伝えた。彼らは揃って田中シンパで、沈黙を守り続けた。
次に佐藤には秘密裏に田中支持グループの旗揚げを行った。場所は柳橋の料亭「いな垣」、時は五月初旬。呼びかけ人は大陸浪人出で「元帥」の名で呼ばれる木村武雄。肝の座った男である。
田中はこの会合には顔を出さず、目白の私邸で待機している。親分の佐藤の許しを得ずして佐藤派内に田中派を作ってしまおうというのだから、大げさに言えば命がけだった。万一、佐藤が知れば叱責どころですむ話ではなくなる。木村はそのリスクを背負った。佐藤の知るところとなっても、田中には傷を負わせまいという配慮である。
それまで、それとなくXデーありうべしと関係者に内々に知らせはしていたが、いよいよこの日をそれと定め、一週間で衆参両院の佐藤派の中のシンパを集めた。
いな垣の玄関脇には小部屋がある。ここに田中の秘書である早坂茂三が人名リストとエンピツを持ってひそんでいた。部屋の明かりは暗くしてある。小部屋の|櫺子《れんじ》窓を少しだけ開けて、誰が入って来るかチェックしている。五人、十人とまとまったところで、電話で目白を呼び、知らせる。目白では田中が同じリストを持って赤エンピツで出席者の名前を消している。
八十一人揃ったところで、田中は電話口で短く言った。
「よし、これでいい。予定通りだ」
木村の挨拶で、田中支持グループが発足した。衆参両院合わせて佐藤派総勢百二名のうち八十一人集まったのだから、大きな収穫だった。この全員が田中に投票するという保証はない。事が明らかになれば、親分の佐藤や福田陣営からの切り崩しもあるだろう。しかし、八十一人が集まったという事実がじわじわと漏れていくと、相手や態度を決めかねている中間派の連中には強力な衝撃を与えるに違いない。
因果はめぐる風車。運命の皮肉というべきで、その十三年後、今度は田中が佐藤と同じ目に遭っている。竹下登をかつぐ金丸信たちが、築地の料亭「桂」で竹下を総理候補とするグループの旗揚げをしたのだ。田中の全く知らぬ間のクーデターだった。
佐藤派内の足場を固めた田中だが、これだけで勝てるわけではない。宏池会を率いる大平正芳は盟友だから、共同歩調を取ってくれるに違いない。問題は、三木派と中曾根派などの中間派と、態度を決めかねている地方代議員である(総裁選には地方代議員にも投票権があった)。
田中は、中曾根派などの中間派に手を伸ばしていった。実弾を打ったのである。福田も実弾を打っていたが、その金額は田中に及びもしなかった。中間派の議員や地方の代議員には現金がばらまかれた。議員一人に二百万円、中間派のボスには五千万円。それも田中派は「ほんの手付けだ」と豪語していた。
田中陣営には勢いはあったが、この時点ではまだ勝敗がどちらに転ぶかは流動的だった。相手の陣営から一人引き抜けば、票は相手の減とこっちの増で往復二票の差となる。|旗幟《きし》鮮明にせぬ者も多かったのだ。
福田はこの頃どうしていたか。大いに自信を持っていたのである。
田中に「君子の争いを」と注文をつけたあと、佐藤は田中と福田を呼び寄せて提案した。
「君ら二人、どっちがどうなるか分からんが、おれを支えてきた二人じゃないか。二人のうちどっちかが(第一回投票で)一位になったら、二位になった方が一位に全面的に協力するということでやったらどうだ。それで異存がないなら、この場で約束しておこうじゃないか」
福田は即座に賛成した。
「分かりました。私が二位になれば、田中君に協力します」
田中はしばらく考えて答えた。
「そういたしましょう」
それから、付け加えた。
「このことは、そっとしておいて下さい。これが漏れると、できるものができなくなります
(注17)」
田中の言葉に佐藤、福田は満足げにうなずいた。二人ともこのとき田中が脳細胞を全回転させて、恐ろしい戦略を模索していたことを知るよしもない。
福田は福田で票勘定をした結果、佐藤派の非田中派と自派である紀尾井会の票を基礎票とし中間派を切り崩していけば、確実に一位を取れると確信していたのである。田中が約束を守れば、当然のことながら政権は自分の手に転がり込む。
田中の攻勢は続いた。六月中旬、ホテル・ニューオータニに衆参両院議員七十二名を集め、「田中擁立大会」を開く。若手では衆議院に「きさらぎ会」、参議院に「やよい会」ができた。
六月も半ばを過ぎて、福田にとって青天の霹靂と言ってもいい出来事が起きた。
総裁選に出馬すると踏んでいた中曾根が変身したのである。これぞ、田中が打ったウルトラCの戦略だった。
福田陣営の最大のねらいは第一回投票で何がなんでも一位を取ることだった。そのためには中曾根を出馬させねばならない。中曾根派には田中シンパが多いから、第二回投票では、中曾根が一位、二位にでもならない限り(その可能性はゼロに等しい)、田中に投票するだろう。しかし、第一回投票では中曾根に投票するだろうから、その分、田中の票は削がれる。
田中シンパの多い中曾根派の中で、福田が頼りにしていた存在があった。早くから熱心に福田支持を唱え、中曾根派の城代家老と言われていた長老の野田武夫である。
福田にとって痛かったのは、その野田が突然亡くなったことだ。中曾根派はそれとともに崩れ始め、六月二十一日、とうとう中曾根は総裁選不出馬を宣言、合わせて「田中支持」を正式表明したのである。のみならず、「田中角栄君を励ます会」に姿を現した中曾根は挨拶に立ち、「田中候補はキリン児であります」と持ち上げ、将棋の中原名人の|揮毫《きごう》による「五五角」の扇子を贈った。「五五角は、攻めるも守るも強い角。GOGO角さん」とまで叫んでサービスこれ努め満場を沸かしたのである。
中曾根の不出馬には、黒い噂が流れた。
田中派から中曾根に七億円の資金が渡り、派内の議員に千万円ずつ配られたというのである。「週刊新潮」の記事で自民党議員の中川俊思議員の談話を中心にしてまとめてあった。また、ほぼ当時に毎日新聞のインタビューに答え、北炭社長の萩原吉太郎が中曾根に多額の資金を渡したと語った。萩原は政界のフィクサーと呼ばれた男で、資金受け渡しの仲介役をしたというのだった。
週刊新潮と毎日新聞の記事は、自民党総務会で取り上げられ、大荒れとなった。総務会に中川議員を呼ぶべきだという意見も出たが、同僚議員をそこまで責めるのはどうかということになり、結局、中曾根派幹部会は週刊新潮を告訴する方向で事をまとめた。
中曾根が七億円をもらったかどうか真偽のほどは明らかではない。ただ、この時期に田中が巨額の資金を手にしていたことは事実である。田中は自分の持つ不動産会社である新星企業を小佐野に売却した。折しも地価が高騰に転じたときだった。
いずれにせよ、中曾根は天下分け目の関ケ原の戦いにおいて徳川方に勝利をもたらす一因となった、小早川秀秋にも似た役割を果たした。
中曾根は風見鶏だと言われる。自身もそう呼ばれていることを知っており、日本経済新聞の「私の履歴書」では、「風向きを知ることは操艦の第一歩である。風によって身体は動かすが、足は一点にしっかり固定している。これが風見鶏である。条件の変化に対応できない頑迷硬直の政治と、適切柔軟な政治のどちらが国益を守るか」と書いている。
海軍主計将校として勤務したことが誇りの中曾根だから、操艦にたとえて自分の政治を語ったわけだが、中曾根は風によって身体を動かすだけではなく、足も二点、三点融通無碍に動かした。風見鶏というより、宙に漂う風船である。
佐藤の再選を支持するかどうかで自分の属していた春秋会(河野派)が割れたときがあった。そのとき中曾根は再選を阻止し反佐藤を貫こうという姿勢をとった。ところが、一年後、中曾根は佐藤の懇望をいともあっさりと受けて運輸大臣として入閣した。
「変節漢」との非難に対して、中曾根はうそぶいた。
「切っ先の触れ合う距離に入らねば、勝負はできない」
中曾根は初めての選挙のとき白い自転車を乗り回し、「恋人と首相は自分で選びましょう」と遊説した。首相公選制を唱えたのである。「三国峠をダイナマイトでぶち壊せば、新潟から豪雪は消える」とぶった田中や、「日本再建のためにはまず貯金が大切です」と説いた福田とは違い、スマートで耳当たりがいい。なかなかのハンサムだったから、女性に人気があった。女性票を集めるため、妻子のいることを隠した。
田中は中曾根のことを、権力からいつも離れようとしない“ひまわり”とみなしていた。
頼りにしていた川島が死んだとき、「力だ。力さえ持てば中間派はついてくる」と言い切った田中の目は鋭い。自派を固め、中間派に実弾を打ち込み、大平との盟友関係を確認して、徐々に中曾根を追い詰め田中を支持せざるをえなくしていったのである。
総裁レース最後のヤマ場は七月になってから訪れた。佐藤と福田を激怒させる事件が起きたのだ。田中、大平、三木の三派が連合を組んだのである。
三人は七月二日、合同記者会見をして正式に三派連合を発表した。事前の話し合いでは、三木が「日中国交回復」を政策協定の柱にしたいと主張したが、田中と大平はしりぞけた。外交問題で手足をしばられることを恐れたからだ。このため、政策協定はきわめて抽象的な表現となり、「清新にして実行力のある政治」。文言は三木が書いた。
「決戦投票になったら、三派はどういう行動をとるのか」との質問に対して、三木が明確に答えた。
「三人のうち一人が一位か二位になれば協力する。二人が残れば堂々と勝負する。その場合は三人目の行動は制約しない」
時の勢いから見て、一位か二位になるのは田中か福田しかなかったから、これは実質的には田中を支持するということだった。
三木が恐れたのは、田中、福田、大平、中曾根いずれの組み合わせにしても、自分が除外され冷や飯を食わされることだった。一方の田中は三木が福田と組むことを警戒した。田中と三木の双方の警戒が連合を実現させた。
福田は直ちに記者会見を開き、「三派連合は政策協定に名を借りた野合である。こういう連合ができたのは、どう計算してもわが陣営に勝てないということが分かったからだろう」と述べた。
しかし、内心は大変困っていたのである。
福田は佐藤に会い、
「あの約束と三派連合との関係はどうお考えになりますか」
と意見を聞く形で危機を伝えた。あの約束とは、佐藤の前で福田と田中がふたりのうち第一回投票で一位になった方に協力しようと約束したことである。三派連合にもとづけば、例えば田中が二位になっても、福田には協力せず、他の二派が田中に投票することを意味する。しかも、中曾根はすでに田中支持を表明していたから、これは四派連合ではないか。
佐藤は田中と福田を再び呼んで、田中を激しく叱った。
「この間、『一位に協力する』と言ったじゃないか。一体何を考えているのか!」
しかし、田中はしれっとした表情で答えた。
「いや、選挙というものは、これはもういろいろの経過をたどるもんです。総理も選挙となると、お兄さんの岸さんとの間ですら、あれほど激しく張り合うじゃありませんか」
行きがかり上、三派連合もやむをえなかったと述べたのである。
佐藤は電話攻勢を掛け、愛知揆一や橋本登美三郎などの長老に福田を支持してくれと頼むが、言うことを聞くわけがない。しまいには口論になる始末だった。親の代から面倒を見てきた橋本龍太郎や小渕恵三を呼びつけもしたが、彼らには「わたしたちはもう大人になりました。自分のことは自分で決めます」と言われる始末。
かくも雪崩のように自分の力が消滅していくとは、佐藤も予想はしていなかったのだろう。
佐藤よりもショックを受けたのは、福田をクラウン・プリンスとして育て上げてきた岸信介だった。福田が田中に負けたと知ったとき、岸は外遊中のパリから電話を入れ、
「お前が四選なんかするから、こんなことになった。いい加減にせんか」
と佐藤をなじった。
さて、投票前日の七月四日、国会周辺のホテルは夏枯れにもかかわらず時ならぬ満室となった。各派が部屋を借り切り、議員や代議員を閉じ込めたのである。下手に泳がしておくとどこにいくか分からぬ。敵方の夜討ち朝駆けも怖い。料亭も一杯で、夕方から飲み食いをさせてホテルに送り込んだ。
それでも本当に予定通りの投票をしてくれるかどうか疑心暗鬼。そこで、投票の際は字体や書き方を工夫させる。投票用紙の上の方に小さく名前を書くとか、姓は漢字、名は平がなにさせるとか妙案珍案が続出。草狩場にされそうな弱小派閥では、みなが共通のボールペンで候補者の名を書こうと親分が呼びかけたため、それほどまでに俺たちが信用できないのかと反発をくらったりした。
朝になると、各派とも威勢のよい出陣式。田中派の朝食会のメニューは梅干しとカツオブシ入り紅白おにぎり、かち栗、カツサンドとカチずくめ。飲み物はビールとジュースで、お茶はなし。お茶をひいたら困るという理由からである。
ホテルの前には各派のバスがずらり。どの派も百票から二百票出すと豪語しているから、席を少なくするわけにはいかない。中には六十人乗りを六台揃え、投票総数の八割近くを占める勘定の計三百六十人という派もあり、これは少しやり過ぎではないかと関係者は頭をかいた。
こうして五日、自民党は日比谷公会堂で臨時党大会を開き、総裁選を行った。
開票は午後零時二十分過ぎ、開票結果の発表。投票総数四百七十六。有効投票も四百七十六。
田中角栄、百五十六票。
福田赳夫、百五十票。
大平正芳、百一票。
三木武夫、六十九票。
第一回の結果、福田との差がわずか六票というのは、田中にとって意外な結果だったようだ。
「おっ!」と声を上げ、椅子から三十センチほども飛び上がったように見えた。三人が向こうに寝返ったら同数になったところだった。新聞は少なくとも二十五票以上の開きになると事前に予想していたし、田中はもっと開くと胸算用していたに違いない。
福田陣営が予想を超えた追い上げを見せたということだ。その陰には、佐藤の死に物狂いの巻き返しがあったのだろう。総裁選前夜、福田は「クチ田、ハラ福を信じる」と語った。口では田中と言うが実際の投票では福田に入れる人間に期待するという意味だ。実際にハラ福がかなりいたことになる。田中は背筋に冷たいものを感じたに違いない。
決戦投票は直ちに行った。総務会長・中曾根が決めた段取りだった。第一回投票と決戦投票との間になんらかの調整が行われるのを恐れたのだ。
第二回投票の結果を選挙管理委員会のメンバーが読み上げる。
「田中角栄君、二百八十二票」
一瞬拍手が沸き、オーッというどよめきに変わっていった。
「福田赳夫君、百九十票」
アーという嘆声の合唱となった。
田中は扇子を盛んにあおぎ、眉間にしわを寄せたまま口を閉じる。落ち着かぬ様子だ。
一方の福田は、青ざめたまま壇上をにらみつける。
勝負はこうしてついた。昭和四十七年七月五日午後零時四十二分、わずか五十四歳、小学校卒のみの総裁が誕生した。
雪深い新潟を後にして三国峠を越え、大都会にもまれながら独力で事業をなし、一度は小菅拘置所に放り込まれながら立候補を宣言、人里離れた山村を這いずり回るようにして票を集め、徒手空拳で金を集め政治家としての基盤を固めた田中角栄は、遂に権力の頂点に立った。
かくて、正邪すべてを呑み込んで濁流のように日本を未知の世界に運んでいった、田中の時代が始まる。
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田中は圧倒的とも言えるほどの熱っぽいムードに迎えられて、総理官邸に入った。
新聞の見出しが躍動する。「今太閤」、「庶民宰相」、「コンピューター付きのブルドーザー」……。
総裁選のあった翌月の朝日新聞の世論調査では、内閣支持率が六二%と空前の水準を示す。その他の大新聞の調査もほぼ同じ結果になった。それまでの一番高い支持率は、サンフランシスコ講和条約調印直後の吉田内閣に対する五八%である。
ところが、この支持率が二年三か月後にわずか一二%(同じ朝日新聞)にまで落ちる。田中本人はもちろん誰がそのことを予想していただろうか。大衆は英雄の出現を好み、また容赦なく引きずり落とす。
その人物に「華」があるということはハレ、つまり祭りの性質を備えているということのようで、文化人類学者の山口昌男氏は雑誌「中央公論」(昭和五十七年七月号)の座談会で興味ある説明をしておられる。
「(華のある人物というのは)どちらかというと躁状態の人間で、なんとなくうさんくさい。そして時代を挑発し活気づけ、新しい時間を作り出す。そういう役割を歴史の中で演じて、最後には〈|犠牲の山羊《スケープ・ゴート》〉となって祝祭を完成させる」。田中はまさにこの祭りの性質を具現した人物だった。
五五年体制の崩壊(一九九三年夏)後は別として、政権担当期間二年五か月という期間はそれまでの政権に比較すると短命だった。だが、田中政権のダイナミズムは比類がなく、まさにジェットコースターのような、落差の大きい激動政権となって昭和四十年代末を駆け抜けていくことになる。
「決断と実行」をキャッチフレーズにして官邸入りした田中は総裁に選ばれたわずか一時間余の後、自民党総裁として記者会見に臨んだ。
総裁選の興奮も冷めやらず、福田に近い記者からは鋭い質問が相次いだ。
「多額の金が動いたと言われている。どうなのか」
田中は小首をかしげ、目を細め、汗を拭き拭き答える。
「動いていない。ポストの取り引きもない」
「あったと言っている議員もいるから、認めたらどうだ」
「ない。どの代議士が、どこで言ったか指摘してくれれば、調査する」
「四派連合を組んだことは今後のしこりにはならないか」
「連合が反福田だと書かれて私もいやな感じがした。これでミゾが生じたとすれば、埋めるため全力を傾ける」
「百九十票の支持勢力のある福田さんをどう処遇するのか」
ここで田中はきっぱりと言い切った。
「全く一視同仁。不公平は考えていない」
百九十票を集めたとはいえ、福田を他の候補とは区別しないという意味である。強気の姿勢だった。
続いて新聞各社政治部長との懇談になる。テレビのカメラがないせいか、大いにくつろいで、どっかり腰を下ろすなり、
「まだ実感が湧かないんだよ。どっちかと言えば幹事長と総裁の間くらいの気分だな」
と笑って扇をせわしなく動かした。
佐藤の引退会見がテレビだけの異常な事態になったことについて、
「あれは私が補佐しなければならなかった。悪かった」
と率直に謝り、付け加えた。
「育ちの問題ですよ。私などは、新聞にさんざんいじめられっぱなしできたから、大いに新聞を尊重しますよ」
マスコミとの協調をしきりに訴え、少なくとも二か月に一回は記者会見をやると約束した。野党とも首脳会談をひんぱんに開き、国会の機能を復活させ、議員提出の法案をふやしたいと意欲を燃やした。
口では「佐藤政権の路線を継続する」とは言いながら、全く違った清新な内閣が登場したという印象を強く世間に植えつけたのである。
野党は例によって新政権をこき下ろす。
「出鼻を徹底的に叩く。自民党が変わるというのは幻想だ」(矢野公明党書記長)
「田中ムードで国民はごまかされない」(石橋社会党書記長)
「新味を出そうとしても、結局は佐藤と同じ」(不破共産党書記局長)
しかし、言葉の端々に、やりにくい内閣が登場したという困惑が受け取れる。民社党の佐々木書記長のコメントだけが異なり、「田中氏の現代的時代感覚と庶民的人気が買われた」。
これが野党の正直な胸のうちではなかっただろうか。
故郷の新潟は大騒ぎだった。なにしろ新潟県初めての総理大臣の出現だ。生まれ故郷の西山町では提灯行列が夜っぴて止まず、新潟三区からは興奮した選挙民で一杯になったバスが目白へと押しかける。目白の私邸にはおさまりきらず近くの椿山荘へ導くが、それでも溢れ、庭にテントを張って収容した。
息子が権力の頂点に立ったときの母親フメの反応が面白い。
総裁選が終わった直後、フメは新潟県刈羽郡西山町坂田の実家でテレビを観ていた。額から汗を盛んに流す息子の顔がテレビに映ると、フメはハンカチを取り出し画面に近寄って息子の汗を拭いた。
耳が少し不自由になってはいたが、畑には出ていた。普段は息子の話はせず、尋ねられると、
「八十のばあさんに政治が分かりましょうか」
とぶっきらぼうな答え方をした。
「失敗したら、いつでもいなかにけえってこい」
とも言った。
息子が総理大臣になった感想を求められると、
「総理大臣がなんぼ偉かろうが、あれは出稼ぎでござんしてね。アニ(田中のこと)もそう思うとります。政治家なんて、喜んでくれる人が七分なら、怒っている人も三分ある。それを我慢しなきゃ。人間、棺桶に入るまで、いい気になっちゃいけねえ。でけえこともほどほどだね」
と答えた。
母の直感は息子の、波瀾万丈の行く末を捉えていたのかもしれない。「喜んでくれる人が七分なら、怒っている人も三分ある」というのはまさに至言で、その三分の人たちに手こずった。
組閣でつまずいた。福田派が入閣を拒否したのである。
総裁選のあった五日の午後のことだ。
福田は赤坂プリンスホテルの事務所で記者会見をして、
「自民党の統一と団結がいま最も求められている」
と語った。田中の初会見で「四派連合を組んだことは今後のしこりにはならないか」との質問が出たことに対する、福田なりの懸命の答えだった。しこりを残すはずの側が、「党の統一と団結が必要」と強調したのである。福田は総裁選をあくまでも武士の戦いとし、その結末をきれいに終わらせたかった。死力をつくして戦いはするが、戦いが終われば、潔く握手する。これが武士の戦いである。
実は、その午後、福田は田中の来訪を待っていたのである。福田が最初に田中のところへ出向けば、屈伏を意味しかねない。勝者の田中が福田のところに来る。これが、武士の情けというものではないか。
のちに田中内閣で三顧の礼をつくして大蔵大臣に迎えられた福田は、こう述懐している。
「あの日、角さんが会いに来てくれると思っていた。夕方まで待っていたが、ついに現れなかった。あの時、来てくれたら、こんなしこりを残すこともなかったんだよ」
第一回投票で百五十六票対百五十票。決戦投票では二百八十二票対百九十票。
百九十票の支持に対しては、それ相応に扱ってくれるはずと考えていたのである。
もし、田中が赤坂の福田事務所に来訪して、いつもの調子で「やあ、やあ」と握手していたら、福田は副総理格で入閣していたかもしれない。一徹な福田という男の矜持を田中は理解しなかった。あるいは、総裁選の興奮で忘れ去っていたのか。それとも、知っていてあえて無視したのか。気配りの良い田中にしては大きな失敗だった。その後の角福間の因縁試合にも似た陰湿な戦いは、田中の方により多くの責任があると言わざるをえない。
翌日午後二時、首班指名があり、同四時、田中は党内実力者を次々に招いた。新しい党役員、閣僚人事を相談するためである。大平正芳、中曾根康弘、三木武夫、椎名悦三郎、水田三喜男、福田赳夫の順で官邸に入っていく。盟友の大平との会談は一時間以上にわたったが、福田とのそれはわずか十三分で終わってしまった。
それには理由がある。
首相執務室には三つの入り口がある。正面は首相が出入りする。左手は秘書官が使う。もうひとつ右手にあるのは来客用の入り口で、その向こうには客を待たせる小さな応接室がある。新聞の写真やテレビの画面で首相と客とが並んで映っているのは、この部屋を用いている。
水田が去った後、この部屋には早々と福田がやってきていた。ところが、秘書官の不手際からか福田が来ていたことを田中は知らされていなかった。カメラのフラッシュは容赦しない。福田はさらし者にされた格好だった。
副官房長官の山下元利が応接室をのぞいて腰を抜かした。福田が口をへの字に結んで座っているではないか。
一方、隣の首相執務室では田中が所在なげに資料に目を通している。
山下は叫んだ。
「福田さんが見えてますよ」
「なに!」
田中は慌ててドアに走った。
行き違いを弁明しただろうが、福田には言い訳に聞こえたことだろう。かくて二人の会談は冷え冷えとした雰囲気であっという間に終わってしまった。田中があと少し遅れたら福田はそのままきびすを返して帰っていってしまったのではないか。
党役員はこの日決まった。幹事長は橋本登美三郎。官房長官は二階堂進。二人とも腹心中の腹心である。連合した四派の長である大平は外務大臣、中曾根は通産大臣、三木は無任所の副総理格として入閣する。
翌七日、官邸に組閣本部が設けられ、次々と閣僚が決まっていった。「決断と実行」のキャッチフレーズに相応しく組閣は一見まことに順調で、二階堂官房長官は新聞の夕刊の締め切りに間に合わせるべく閣僚名簿を発表してしまった。その中に経済企画庁長官の有田喜一と郵政大臣の三池信の名があった。福田派からの起用である。
ところが、この二人が入閣を拒否したのである。田中は大きなミスを犯した。二階堂の発表前に、福田はもちろん有田、三池にも事前の承諾を取り付けていなかったのだ。
福田は自派からだけではなく、自分を支持してくれた保利茂の率いる周山クラブや園田派からも入閣させたいと願っていた。これが完全に無視された。福田派はその日の昼、総会を開いていた。その席に有田、三池が一方的に指名されたという知らせが入ったのである。総会に険悪な空気が走ったのは無理からぬところである。
結局のところ有田、三池の入閣は実現したが、最終的に決定したのは四日後だった。大衆人気に沸いた田中政権だが、足元の党内基盤にはすでに危険な亀裂が生じ始めていたのである。
総裁に選ばれた直後の記者会見で、「政策は?」と聞かれ、田中は二点を挙げた。
ひとつは言うまでもなく「日本列島改造」である。「これが実行されない限り、公共投資のメリットは低く、日本経済は均衡ある発展はできない。公害防止、物価安定、都市問題の解決など年次計画をきちんと立てて具体的な青写真を提供したい」と数字をぽんぽんと並べ、分かりやすく説明した。
もうひとつが「日中国交回復」である。党内には岸信介、灘尾弘吉、椎名悦三郎、それに福田も加え、台湾との断交を伴いかねない日中国交回復に慎重論が根強かった。しかし、あえて「日中国交回復の機は熟した。政府間交渉に臨む基本的な姿勢を検討し、責任をもって対処したい」と明言した。
田中政権の二年五か月を点検すると、政策面では数多くの実績を残している。項目だけを列挙してみるなら、例えば電源開発のため電源三法制定、公共用地確保のための土地開発公社設置、国土庁の発足と国土利用計画法の公布、人材確保法の制定と義務教育にたずさわる教師の給与を大幅に引き上げ、医大のない県の解消、NIRA(総合研究開発機構)の設立、国際協力事業団の発足、一兆七千二百七十億円の大幅所得減税などである。
だが、田中内閣の業績のうちひとつを選ぶとするなら、言うまでもなく日中国交回復である。というよりも、田中内閣は日中国交回復によってこそ後世に名を残すことができた。ロッキード事件や、いわゆる「金権政治」などを引いて田中に大罪人の烙印を押す人々でも、彼の断行した「日中国交回復」の業績までを否定できはしない。
田中の業績を否定しないまでも、ニクソン訪中の実現したあの時代、誰が首相になっても日中国交回復はできたはずだと言う向きもある。また、日中関係を正常化したかったのは中国だから、日本側は受けて立てばよかったのだと言う向きもある。
しかし、この見方は決定的に誤っている。
あの時点、あの国内外の環境下で日中国交回復をなしうる人間は田中をおいてなかった。日中関係の改善に熱心だった大平や三木でもなしえたかもしれないが、彼らには権力がなかった。少なくとも福田には絶対と言っていいほどなしうる仕事ではなかった。
福田は回想録で田中が日中国交回復に踏み切ったことについて、「(田中が)組閣後わずか二か月くらいで北京に出向くとは夢にも考えなかった。もう少し諸般の環境調整をしてからだろうと見ておったのだが、田中氏はやってしまった」とそのときの驚きを率直に吐露している。日中問題では、佐藤体制のもとで保利は積極派、福田は慎重派だったとも述べている。福田は前述のように戦時中大陸で南京政府の顧問を務めたこともあり、戦後賠償も取らず日本人全員を無事本土に送り返してくれた国府(台湾政府)に恩義を深く感じていた。その国府を切って捨てるようなことはできないというのが福田の心情で、これが日中国交回復への足かせになっていた。
日中国交回復は多くの政治家が望んでいたことは事実で、田中が首相になる前からも日中間でいくつかの隠された動きがあった。
昭和三十九年の十月頃のこと。佐藤がまだ政権を取る前のことである。佐藤派で親中派である久野忠治から佐藤のところに電話が入った。北京からの電話で、周恩来首相が「佐藤が望むのなら、第三国で佐藤と会ってもいい」と言っているという内容だった。中国側の実質的な対日窓口になっていた廖承志を通じての打診だった
(注18)。
佐藤の心は動いたが、間もなく池田が喉頭ガンであるという事実を知らされた。目の前に政権がぐっと近寄ってきたのを察知した佐藤は、久野に「しばらく待ってくれ」と答えた。こうして、最初のチャンスは過ぎていった。
もし、池田政権がいましばらく続いていたら、佐藤は周に会っていたことだろう。ニクソンの意を受けたキッシンジャーがひそかに北京入りする七年も前のことである。その結果、日中関係はどのように展開していただろうか。ひとつだけ言えることは、その当時の日米の力関係から見て佐藤は政権を取ったあと、米側の暗黙の了承を得なければならなかっただろう。ベトナム戦争たけなわの情勢下、その北ベトナムを背後で後押しする中国との国交回復について、米国から了承を得るのは至難の業だったに違いない。
佐藤は政権についたが、その最大の外交案件は日米関係、とりわけ沖縄返還問題となり、佐藤はこれに全力をそそぎ込んだ。佐藤政権にとり、中国との距離を決定的に引き離す事件が昭和四十六年に起きる。
国連における中国の長年の多数派工作が実り、中国と国府の「二つの中国」が席を置くのは不自然であるとの空気が広がり、国府追い出し決議が出る。これに対して米国は、国府の追い出しは総会の三分の二の決議を必要とするという、いわゆる「逆重要事項指定方式」を提案する。
米国からの強い要請を受けて、佐藤はこの「逆重要事項指定方式」の共同提案国になる決意をする。この瞬間から佐藤政権における日中国交回復はほぼ不可能になった。
佐藤は日中国交回復に不熱心だったわけではない。久野の働き以降にも中国との接触はあった。
昭和四十六年夏の米中接近は佐藤政権を大いに動揺させた。自民党内のハト派は佐藤の中国に対する「硬直的な姿勢」を激しく批判する。福田外相はその度に「アヒルの水かき」論を展開した。「アヒルは水面に首を出し、じっとしているように見えるが、水の下では盛んに足を動かしている」というのだった。
その「アヒルの水かき」のひとつに保利書簡がある。佐藤を支える保利幹事長は北京を訪問するという美濃部都知事に数回会い、周恩来への書簡を託したのである。その内容は、日中の不自然な関係にピリオドを打ちたい、古来中国はひとつであり中華人民共和国は中国を代表する政府であり、台湾は中国国民の領土であると認識する、日本は軍事大国への道は決して歩まない――というものだった。
この書簡は極秘裏に中国側に届けられたが、周恩来は美濃部との会見の席上、「北京政府を中国の正統政府と認めているが、唯一とは言っていない。台湾を領土と認めているが、独立運動に対する考え方が定かではない」として突っぱねる。
中国の佐藤政権への不信感がいかに強かったかが分かるというものだ。中国は確かに日本との国交回復を望んではいたが、それには譲ることのできぬ絶対の条件があった。「二つの中国は絶対に認めない」である。事の現実性、妥当性は別として、今日になっても中国の原則にはなんら変化はない。
田中の日中国交回復劇には、当の田中、外務大臣の大平のほかにキーパーソンが二人いる。
一人は外務省中国課長のポストを六年間の長きにわたり務め上げた橋本|恕《ひろし》。もうひとりは公明党委員長の竹入義勝である。
まず橋本から登場を願おう。昭和四十六年、田中が通産大臣に就任する前、幹事長をしていたときのことだ。田中の秘書の麓邦明と早坂茂三とが橋本のところに連絡してきた。田中に会ってほしいという。
当時、橋本は外務省の中で孤立無援に近い立場にあった。大ボスの牛場信彦(当時は駐米大使)をはじめ省内は、北京政府と台湾の国府の双方を認めるという「二つの中国論」が圧倒的に有力だったのだ。
橋本は入省後、将来は英語圏の外交官として活躍すべくワシントン・スクール生として育てられたが、途中から中国スクールにスカウトされ、外務省アジア局中国課で事務官を八年務めた専門家である。「二つの中国」では、中国は絶対に交渉に乗ってこないと主張していた。一徹な男で、上司がなんとか説得しようとしても、「日本を二つに分けろと言われたら、なんとお答えになりますか。一つか、二つかはわれわれではなく、中国が決めることでしょう」と言い続けた。あまりの剛直さに手を焼いた幹部や官邸筋は彼を更迭しようとさえしたほどだ。
この橋本の存在に田中は目をつけたのだろう。自分に会いたいと言ってきたのに、田中は一方的にしゃべった。
「あのなあ、中国はなあ、八億いるんだ。手拭い一本ひとりひとりに渡しても八億本売れる。いまは共産主義だから、働かないが、働き出したら、そりゃ、日本の輸出はうんと増える」
田中独特の実利主義である。
余談になるが、田中は日中間の領土問題である尖閣列島を共同開発するというアイディアを持っていた。通産次官の両角良彦にもらしたアイディアである。両角が、「無理ですよ。中国とは国交がないではないですか」と言うと、田中は即座に「それではフランスと一緒にやればいいじゃないか」と言った。通産省は一時、尖閣列島を日中仏で共同開発するという案を真剣に検討したことがある。
また、のちに外務省から派遣されて総理秘書官になった木内昭胤は、日韓間でもめていた大陸棚の線引きについて田中がきわめて現実的な意見を吐くのを聞いて驚いたことがある。当時、外務省は一メートルも譲らぬとの構えで頑張っていたから、同意を求めるつもりで「どうお思いになりますか」と田中に尋ねた。
「問題は油が出るかどうかだな。出れば一緒に開発すればいいじゃないか。日本のものでも韓国のものでもいい。出さえすれば、こっちも潤うのだから」
というのが田中の答えだった。観念や|面子《メンツ》にこだわることはない。実利を取ればいい、というのが田中の考えだった。外交にも田中の経済主義が顔をのぞかせているという例である。
あのなあ、中国には八億人いるんだ、と言って忙しく扇子を動かす田中を見ながら、橋本はざっくばらんな人だと感心し、親しみを覚えた。
昭和四十六年七月、田中が通産大臣になる直前、橋本は麓や早坂と一緒に食事をしながら尋ねた。
「角さんは天下を取れるだろうか」
「取れる」の返事が即座に二人から返ってきた。
「いつ?」
「関ケ原は一年後」
日中国交回復をなしうる政治家は田中しかいないという点で三人の意見は完全に一致し、橋本は半年の期間をかけて一人で報告書をまとめ上げた。国交回復のためのシナリオである。制度的に言えば、上司は外務大臣の福田であり、官僚を統括する保利官房長官である。だが、橋本は一切の仕事を彼らには伏せ極秘裏に作業を進めた。途中、ひそかに中国へ二度入っている。自民党内には、国府と断交することなど頭の片隅にもない保守派がかなりいたが、田中は会う度に「オレが責任を取る。心配するな」と励まし続けてくれた。
翌年の一月、橋本は報告書をまとめ、田中とその政策ブレーンである愛知揆一に手渡した。日中国交回復を実現する手立てだけではなく、米国、ソ連、欧州、その他アジア各国との関係も分析した。例えば、米国は「二つの中国」にこだわる国務省とホワイトハウスの二つに分かれているが、ホワイトハウスはベトナム戦争の終結を真剣に考えており、すでにキッシンジャーを送り込んでいるから文句は言わない。ソ連は内心歓迎はすまいが、建前としては文句は言えない状況にある――などである。
二月、ニクソン米大統領は訪中する。
三月、通産大臣の田中は衆議院予算委員会で注目すべき答弁をした。
「中国に対しては大きな迷惑をかけ、心からおわびいたしますという気持ちが正常化の大前提であります」
このときはすでに田中のふところの中には橋本からもらった報告書が入っている。
ここで第二のキーパーソン、竹入が登場する。
竹入は一九二六(昭和元)年長野県生まれ。陸軍航空士官学校在学中終戦を迎え、国鉄機関区職員から身を起こした苦労人。公明党結成以来の党員で、昭和四十二年公明党第三代委員長となる。野党と太いパイプを持つ田中とは気脈を通じ合っていた。
昭和四十六年の夏、竹入は北京入りして初めて周恩来首相と会い、国交正常化について議論する。当時、竹入は四十五歳で怖いもの知らず。周恩来に「中国が日本の対中政策や安全保障政策について、いろいろ批判するのは内政干渉だ。中国は意見が同じではないとちゃんと話ができないのか」と噛みついた。後日、竹入が周恩来夫人から聞いたところによると、竹入に会った後、周は「若くて威勢のいいのが来た。話ができそうだ」と語ったという。周の懐の広さである。
翌年の二月、公明党副委員長の二宮文造が訪中したとき、周恩来は「国を挙げて田中を歓迎するから、首相になったらぜひ訪中してほしい」と語った。田中が衆議院予算委員会で「中国には迷惑をかけた……」と発言した直前のことである。二宮は周の言葉を伝えた。「そうか」と田中は相好をくずした。
七月五日、自民党総裁としての初の記者会見で「日中国交回復」を「列島改造論」と並んで最大の政策課題として取り上げた田中に対し、中国側から早速反応があった。周恩来首相は七月九日、イエメン大統領の歓迎宴で演説し「長年にわたって中国を敵視してきた佐藤内閣が終わった。田中新首相が日中国交回復の早期実現を目指すという意向を示したことは歓迎に価いする」とエールを送ったのである。
竹入は再び訪中することになり、大平外務大臣に四、五回会い、日本の立場を問うた。しかし、大平の返事ははっきりしない。そこで竹入は夜中、目白の田中邸に押しかけ、考えを聞かせてくれと迫ったが、「いまは中国のことを考えている余裕はない」と答えるのみだった。
考えていなかったわけではない。大いに考えていた。考えてはいたが、はっきりとした成算はなかった。のちに田中は、あのときどれくらいの確率で成算があると思っていたかと新聞記者に問われて、「五分五分だった」と答えている。
日中国交回復はしたかったが、国府との関係、賠償問題、日米安保とのからみなどあまりにも未解決な問題が多過ぎた。橋本はこの時点ですでに「二つの中国論では国交回復できない」と割り切っていたが、田中はそう踏み切ったわけではない。踏み切ったとしても党内のタカ派をどのように説得するか厄介な問題を抱えていた。
竹入が勝手に動くなら別だが、いくら親しいとはいえ、野党の委員長に外交の代行のようなことを依頼するわけにはいかない。
竹入は突っ込んだ。
「いま考える余裕がないのなら、せめて竹入は私の友人だと一筆したためてくれ」
だが、田中は首を横に振った。事が事だけに慎重を期していたのだろう。
竹入は仕方なく党の幹部と話し合い、日中国交回復のための公明党案を作成した。その基本は、日中が国交を回復したとしても日米安保は廃棄できない台湾と日本の関係はいまのままにする――というのである。
の日米安保について、わざわざ「廃棄できない」と強調したのは、日本から社会党などの野党が行く度に中国要人が「米国は日中共同の敵」と繰り返していたからである。
こうして竹入は七月二十五日、北京入りした。「考える余裕はない」などと田中が答えたとはつゆ知らぬ周恩来首相は、竹入を田中の特使と信じきっていた様子で、四日後の二十九日、面白いことを言った。
「あなたは花にたとえれば桜の花です。桜の花にはぼんぼりが必要です。私がそのぼんぼりをつけてあげましょう」
桜の花が咲いた(日本から来た)のだから、ぼんぼり(中国側の対案)をつけようと言ったのだ。
「今日は中国側の考えを申し上げる。これは毛沢東主席の承諾を得ているものだ」
と周恩来は告げ、用意した紙を読み上げ始めた。
竹入は覚え切れず、詳細なメモを取った。これがのちに「竹入メモ」と呼ばれるようになったもので、日中国交回復交渉の中国側の、相撲で言うところのしきり線になった。
その内容は次の通りだ。
一、中華人民共和国を中国を代表する唯一の合法的政府として認めよ。
二、両国首脳による共同声明を発表して、日中間の戦争状態を終わらせる。
三、日中は平和友好条約を締結する。
四、日本と国府との間に結ばれている日華条約は終了させる。
五、台湾問題は中国の内政問題であると日本も認識する。
六、日米安保は交渉とは切り離す。日中間で平和友好条約が結ばれれば、安保条約の中国への効力は失われるから、問題にはしない。
七、日中両国は太平洋で覇権を求めない。
八、中国は日本に対する賠償請求権を放棄する。
九、通商航海条約、航空協定を結ぶ。
中国側のしきり線を見て、竹入は困った。正直言って、中国側はずい分と譲ったように思えた。とりわけ賠償権を放棄すると言っていることには驚いた。これを日本に持ち帰って、田中が呑まないと大変なことになる。
帰国した翌日の八月四日、総理官邸で田中と大平に会う。田中が読むと、大平が奪うように手を出した。
「ちょっと、それを見せてほしい」
大平は中国案に目を通すと、
「竹入さん、これ頂戴していいですか」
と言って、竹入と田中を残してさっさと外務省に飛んで帰っていった
(注19)。
大平は竹入メモを橋本に見せたのである。橋本はそのメモを見て、これならいけると直感した。周恩来は日米安保条約を認めている。後は田中が「一つの中国」に踏み切ってくれればいい。日米間の差し違いで、共同声明の原案が書けるではないか。
田中内閣が発足した翌日の夜、橋本は赤坂の料亭「千代新」に大平から呼ばれた。席には田中も座っていた。大平は思いつめたような表情で橋本に告げた。
「この内閣は日中の国交回復をやるつもりです。いよいよ交渉をまとめる作業に入って下さい」
大平は大蔵省に入った四年目に興亜院蒙|疆《きよう》連絡部に勤務した経験がある。軍部の嫌がらせにあいながら民生の安定に努めた。軍部の中国人に対するひどい扱いを目撃する場面もあったに違いない。クリスチャンである大平の心は大いに痛んだはずだ。橋本の目から見ると、大平には中国に対する一種の贖罪意識があるように思えた。
大平の横で田中は腕を組んだまま黙っていた。田中の日中国交回復論は先にも述べた通り、実利主義である。
だが、「日中国交回復」への思いは田中の中にいまや炎になって燃え上がっていた。自らの政治生命を賭けるつもりになっていた。
大平は言った。
「省内や自民党内には二つの中国論が強い。政権は取ったが、このことは誰にも言うな。内部で潰されないようにしろ。ひそかにお膳立てしてくれ」
お膳立てのチャンスは意外に早くやってきた。
竹入の動きとほぼ並行して、もうひとつの動きがあったのだ。
竹入が中国案を持ち帰った一か月前の七月四日、田中が政権を取る前日のことである。長く日中間の連絡役となっていた孫平化が中国上海バレエ団の団長として日本に旅立った。孫は周恩来から密命を受けていた。田中と大平に会えという指示である。
日本での興行日程をほぼ終えた七月末、孫は橋本に連絡を入れてきた。紀尾井町のホテル・ニューオータニに泊まっているという。
この頃になると、新聞記者は橋本の動きに注目し、後を追うようになっている。外務省前から何気ない様子でタクシーに乗る。ホテルの前まで行かず手前から歩いて入る。部屋に行くと、孫と他にもう一人がいた。
ここで橋本は孫と大平との会談の段取りをつける。まずホテル・オークラに部屋を取った。このホテルの理髪店を大平が使っているのを知っていたからだ。
外務省詰めの記者たちがいる霞クラブの黒板には大臣の日程を全て記さねばならないことになっている。「三時、散髪」と書いた。
大平は理髪店の前まで行き、そのまま素通りして予約した部屋に入った。孫には部屋番号をあらかじめ教えてある。
ドアをノックする音がして、間もなく孫が入ってきた。孫は大平に周恩来の親書を渡した。中には「できるだけ早い機会に田中首相と大平外相に訪中してもらいたい」と記してあった。
その後、孫はもう一度、大平とニューオータニで会う。このときは半ば公けになっており、大平は「田中首相と私とは一心同体です。外交の全権を任せてくれています。日本政府首脳が訪中し、国交正常化を解決する機は完全に熟していると考えます」と告げた。
孫は、「中国側は田中首相が北京を訪問し、周首相と会談することを歓迎する」と答えた。
八月十五日午後四時半、晴れて孫は帝国ホテルで田中首相と会談した。日本の現職首相が中国の代表団と公式会見したのはこれが初めてだった。
孫は日本語が堪能である。通訳なしで周恩来の意向を伝えた。
「訪中を歓迎する」
田中は答えた。
「訪中はすでに決めています。北京の気候はいつが最もよいでしょうか」
「九月か十月が空が晴れわたって最も良い季節です」
この瞬間、田中の訪中が決まった。日中は第二次大戦の不幸な過去に決着をつけるべく、交渉の土俵に上ったのである。
九月一日、田中はハワイでニクソン米大統領と会談する。会談の成果をまとめた共同声明では、日米両国の協力関係維持、日米貿易収支改善のための日本の一層の努力などのほかに、「田中首相の訪中はアジアの緊張緩和に役立つ」と特記した。こうして米国への根回しは終わった。
後は出発するばかりである。
田中の訪中決定で、自民党右派や右翼団体は騒然となっていた。岸、灘尾、椎名などの親台派は顔をしかめ、福田は時期尚早を唱える。外務官僚も田中の動きについていけない。彼らのボスであり福田に呼応する駐米大使、牛場信彦の首を田中はついに切る。それでも同省の最高幹部は、田中が北京に旅立つ朝、羽田空港にまで駆けつけて「どうか今回は話を聞くだけにとどめて下さい。話をまとめないで下さい」と陳情したほどだった。
右翼の街宣車は官邸、事務所のある砂防会館、目白周辺にも連日のように現れ、街中に「国賊、田中角栄」のビラを張った。
田中の車の前にいきなり飛び出してきて寝ころぶ男もおれば、断りもなく事務所に入ってきて「田中に会わせろ」と言って聞かぬ者もいた。右翼が命をねらっていたことは確かなようで、街頭で演説していたとき、拍手を繰り返して「田中総理、万歳」を唱えていた男がいた。視線に落ち着きがなく、あちこち見回す。不審に思った警備員たちが取り囲み、職務質問をした結果、新聞紙に包んだ刃渡り三十センチほどのナイフを隠し持っていた。
大平も身の危険を感じ取っていたらしく、親しい記者と地方に応援演説に行くとき汽車の中でふともらしたことがあった。
「君と旅をするのもこれが最後かもしれないな。僕は反対勢力に殺されるかもしれない。もし、天が僕を助け、北京に行かせてくれたら、この交渉は成功するだろう」
九月二十五日、彼岸だった。午前八時五分、田中首相一行を乗せた日航特別機は与野党幹部こぞっての見送りを受けて飛び立った。野党幹部の見送りは鳩山一郎の日ソ交渉当時以来のことである。
出発前、佐藤昭子に語っている。
「日本の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。国益を最優先して、向こうと丁々発止やる。決裂するかもしれないが、すべての責任はオレがかぶる
(注20)」
北京秋天。晴れ渡っていた。空港には日の丸が高々と掲げられ、周恩来首相をはじめとする中国側幹部がその空を見上げる。中国国営通信の新華社は「田中首相一行が午前九時(中国とは一時間の時差がある)、日本を出発した」と報じた。北京放送も同じニュースを流す。その年二月のニクソン米大統領の訪中のときにはなかったことで、田中の訪中を取材する各国記者連も驚いた。それだけ中国側が歓迎していたということだ。
田中を乗せた日航特別機が上空に姿を現すと歓声が起きた。午前十一時三十分。ドアが開き、片手を上げた田中が姿を現す。周は急ぎ足でタラップまで行き、田中と固い握手を交わした。君が代と義勇軍行進曲の演奏。
歓迎式典を終え紅旗に乗る。中には周首相がいた。北京市内まで同乗するというのだ。これも異例のことだった。
第一回会談はその日の午後二時五十五分から人民大会堂の「安徽省の間」で開かれた。
出席者は日本側が田中首相、大平外相、二階堂官房長官、吉田アジア局長、高島条約局長、橋本中国課長。中国側は周恩来首相、姫外相、廖中日友好協会会長、韓外務次官、陸アジア局長である。
のっけから、田中が言った通りの「丁々発止」のやりとりとなった。
お互いに相手の出方をうかがい、相手の意向を打診するだけで帰ってくるという考えなどは田中にはなかった。
「国交回復の機は熟しました。一気に国交回復を実現したいのです」
と身を乗り出した。
「一気呵成にやりましょう」
周も応じた。
田中がまず注文をつける。
「困難な問題がいくつかあります。私は総裁選挙もやらねばならない。総選挙もある。あなた方にはない。あなた方はなんでも思い通りでしょうが、私どもはそうはいかないのです」
周は反論する。
「私の国にも反対するグループがいないわけではないのです。日本国民全体とは言いませんが、かつては日本には軍国主義者たちがいて、彼らのお陰でたくさんの人民が死にました。中国人民は大変な迷惑をこうむっており、その事実をみなが忘れ去っているわけではありません」
「たしかに日本は大変なご迷惑をおかけしました。しかし、あなたたちはいまでも口を開けば『日本は軍事大国になる』と言っておられる。この点はどうなんですか」
「日本は今日、核兵器を持つ能力が十分あると承知しています」
「日本は軍事大国になる考えなど毛頭ありませんよ。核兵器も持ちません。非核三原則をご存知でしょう。憲法の制約から見ても軍事大国などにはなれません。これからは軍事大国になるなどとは言わないで下さい」
周は沈黙する。田中は続ける。
「日本には台湾グループというものがあります。反対派は中国と国交回復したら、中国が日本に共産主義を輸出してくるとか赤化を図ろうとするとまで言っています」
「どうしてそんな心配をするのですか。中国が一度でも日本に攻めていったことがありますか。元寇の事件がありましたが、元は中国の国ではなかったのです」
「申し上げたいのは自民党内には台湾への強い思いがあるということです。事と次第によっては私は帰国後、殺されるかもしれません」
周は再び黙る。
「私は日中国交回復を実現するために中国に来たのですが、どうしても譲れない線があります。日米関係にマイナスになるような国交回復はできません。安保を脅威だと感じないで欲しいのです」
「そういうことにしましょう」
ここで、周は三つの点で日本側に譲った。
第一は、賠償の苦しみを日本国民に味わわせたくないこと。第二は日米関係にマイナスになるようにはしないこと(安保の存在を認める)。第三は思想は人間が選択するもので、革命の輸出はできないこと(日本の赤化など考えない)。
最後に残ったのは台湾問題だった。田中は「この問題の決着の仕方によって今回の訪中の成否が決まります」と強調した。
この時点で、両者には「日中間に戦争状態が続いているかどうか」について溝があった。
日本は「もう戦争状態はない」との解釈に立っている。一九五〇年の朝鮮動乱とともに米国の対日政策が変わり、「弱い日本」から「強い日本」にすべく対日講和条約を結んだ。このときソ連と中国は米国の姿勢を不満として交渉の場から退席している。日本は、米国の政策に則って国民党政府と日華平和条約を結んだ。この時点で、中国との戦争状態は終わったと解釈していたのである。
ところが、中国は日華平和条約を無効とみなし続けてきたから、日本との間にはまだ戦争状態が続いていると考えていた。
日華平和条約の効力をめぐる見解の相違だが、要は中国を唯一の合法的政府と認めたうえで、台湾を中国の一省に過ぎない地域とみなし日華平和条約を廃棄するかどうかの違いだった。
第一回会談を終え記者会見場に現れた二階堂長官は上気した表情で会談の模様を、
「驚くほど率直でした」
と語った。
記者団から質問が出る。
「それは日中復交に向けて一歩前進したということですか」
記者の間には、今回は交渉というよりも顔合わせと腹のさぐり合いに終始するのではないか、という見方が多かったのだろう。
二階堂はきっぱりと答えた。
「国交復交するつもりで、最初から話し合っているんです」
その夜は周首相主催の夕食会が盛大に催された。
演奏されたメロディーは「佐渡おけさ」、「金比羅船々」、「鹿児島小原節」。田中、大平、二階堂のそれぞれの故郷の歌である。
中国側の気づかいは大変なもので、事前に橋本や田中の秘書のところに関係者が取材に来て、汗かきの田中にとり室温はどれくらいがちょうどいいか、おしぼりは何本くらい用意したらいいか、田中の好物は何かを調べ上げていた。田中の好物は台湾バナナ、木村屋のアンパン。味噌汁の味噌は柏崎製。台湾バナナが出たかどうかは分からぬが、折にふれ田中の好物が差し入れされたことは言うまでもない。
日本側もお土産には気を配った。中国人民には日本政府からオオヤマザクラとニホンカラマツ千本ずつが、毛沢東主席に東山魁夷画伯の、周恩来首相に杉山寧画伯の二十号の絵が、その他さまざまな陶磁器が贈られる。公式のお土産ではないが、日本で暮らしたことのある周首相と廖中日友好協会会長に田中は冷凍のマグロを数本用意した。トロにして食べてほしいという心遣いである。
和気|藹々《あいあい》の雰囲気で始まった夕食会だったが、宴の終わりになって波瀾が起きた。
周首相の挨拶についで田中が挨拶に立った。田中のスピーチのひと区切りごとに中国側は盛大な拍手を送っていたのだが、ひとつだけ拍手をすっぽかしたところがあった。のみならず、不快げなざわめきが広がった。
田中が「わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、深い反省の念を表明するものであります」と言ったときである。日本側の通訳は「中国国民にご迷惑をおかけした」のくだりを「給中国国民添了麻煩」と表現した。
「添了麻煩」とはどのような意味か。
田中の挨拶は日本語と中国語しかプレスリリースがなかったから、英語圏の記者たちは騒ぎとなった。
「プライム・ミニスター・タナカはリグレット(遺憾)と言ったのか、それともアポロジー(詫び)を入れたのか」
実際はリグレットでも、アポロジーでもなかった。「添了麻煩」とは道路脇の女性にうっかり水を掛けてしまったときに言う「すみません」程度の意味しかなかったのである。英語で言うなら「ソーリー」である。
このあたりから日中交渉の雲行きが怪しくなってくる。
翌日午前十時からは大平・姫両外相会談が開かれた。場所はやはり人民大会堂。「接見庁の間」。
席上、高島条約局長が発言した。
「中国を唯一合法政府と認めるのはいいとして、かねて中国が言っている『台湾は中国の一省』という事項は認めるわけにはいかない。日本はサンフランシスコ条約で台湾の領有権を放棄したのだから、それ以上踏み込んで台湾がどこの国の一省に過ぎないなどという意思表示をするわけにはいかない。日本は台湾にある国府と日華平和条約を結んだし、これは否定しようのない歴史的事実だから、中国の言う通りを認めると、日本は中国の一省と平和条約を結んでいたことになる。日本外交の一貫性が失われてしまう」
発言の間、姫外相はあからさまに不愉快な表情をした。高島発言の意味するところは、日本はいったん日華平和条約を結んだのだから、中国との戦争は終結しているし、賠償問題も解決済みであるということだった。
日本に賠償を求めないというのは、中国から見るとこれ以上ない譲歩のつもりだったのだが、高島は譲歩にもプレゼントにもならないと断定したのである。日本側は国府との関係をできるだけ決定的には傷つけず、あわせて日中国交回復を果たしたかった。高島はそのために相手の切るカードの価値をできるだけ減じようとしたのである。
中国側がよほど頭に来たらしいことは、その夜、高島に国外退去命令の出たことでも分かる。
外相会談の直後、迎賓館で第二回首脳会談が開かれたが、雰囲気は第一回とうって変わってとげとげしいものになった。
周首相は切り出した。
「高島発言は田中、大平両先生の本心とは思えません。日中国交回復は政治問題であり、法律論では処理できません。こういう問題を法律論で処理しようという人間のことを、中国では『法匪』と呼びます」
後のこととなるが、周は高島発言にいら立つと同時にその精緻な論理構成には参ったようで、夫人に「中国にも高島のような人物がほしい」と語ったという。高島の発言には一理も二理もあったのだ。
高島を法匪と言われた田中の応対は人を喰ったものだった。
「私たち日本人は中国文化の中で育ってきました。だから、たとえ恋人が中国人であって会話ができなくても筆談で意思を交わすことができると思っていたし、広告も充分読めると思っていたのです。ところが、当地に来てたまげたのはそれが全然できないということです。いまの中国文字は私たちの習った漢字とは似てもにつかぬものを使っている。それに対して、日本ではまだ孔子や孟子の教えを守っています。もっとも日本に渡って来る途中で字の順序がひっくり返ってしまった漢字もあります。提灯、行灯、豆腐、納豆などがそうです……」
延々と話す田中を周が不機嫌な顔でさえぎった。
「先生、何が言いたいんです?」
「それでは」
と田中が向き直った。
「お答えしましょう。お客に来てお供を非難されれば、おやじにも帰れということではないですか。それが日中双方の文化だと思っていました」
周は高島に退去命令の出ていることを知らなかった。そして、「そういう事実は全くない」と言い切った。これで高島は残ることになる。
しかし、周は法律論をもって賠償責任が済んでいるという論理に対して、何年にどこそこで何人の中国人が殺されたかをひとつひとつ例を挙げ、メモなしで詳しく話し始めた。記憶力のいい田中も舌を巻く詳しさだった。
周の話を全部聞き終わったところで、田中は言う。
「お話はよく分かっています。だから、この私が北京に来たのではないでしょうか。あなたが東京に来られたのではない」
二日目の夕食は日本側の田中、大平、二階堂、橋本の四人だけが共にした。田中はマオタイ酒をぐいぐいと呑む。大平は交渉不調のためかしゅんとなっており、食事に箸をつけなかった。田中はそんな大平に言う。
「食べろよ。冷めてしまうぞ」
大平は深刻な顔をし続ける。田中はからかった。
「大体な、大学を出たヤツは修羅場をくぐってないから、だめなんだ。こんなときにすぐそうなる」
大平が答えた。
「しかし、明日からはどうするんだ?」
田中はにやっと笑った。
「明日からどうするかは、大学を出たヤツが考えろ」
しばしの沈黙があって、大平がしんみりした口調で言った。
「なあ、田中君、君は越後の田舎から出てきたとき、総理になれると思ったかい?」
「冗談じゃない。食えんから出てきたんだ。お前だってそうだろ」
「オレもそうさ。讃岐の水呑み百姓の小セガレじゃ食えんからのう」
香川県の貧しい農家に生まれ育った大平は、学校から帰っても家の手伝いに追われ、懐に本を入れて盗み読むようにして勉強した。毎朝夜明けとともに田んぼを見回るのが少年に課せられた義務で、朝一番の汽車に乗って学校へ通った。学資がなかったから給費生になり、ときに学資を借りて大学を出た。辛い状況に置かれると、大平も田中も貧しかった時代の原点に思いを馳せるのがつねである。ふたりはしばししんみりした気分に浸っていたが、田中が急に大声を出した。
「それなら(水呑み百姓の小伜なら)、当たって砕けても元々じゃないか。決裂なら決裂でもいい。オレが責任を取る」
「しかし、手ぶらでは帰れないぞ」
「そんなことはこのオレに任せろ。オレがなんとかする。それがオレの仕事じゃないか」
凄い人だ、と橋本は思った。田中はこの時点で国府とは政府間の関係を断ち切ることを決意していた。日中共同声明でそれを具体的にどのように表現するか、どのような手順で国府との関係を整理していくかは、外務省に全部まかせてくれた。この大仕事はこの人にしかできない。橋本はこのとき痛感したのである。
田中が脳梗塞で倒れた後、橋本は田中を見舞っている。そのとき田中は橋本の手を握ってから片方の手を離し、自分の口のあたりに持っていき口が利けないという仕種をしてみせた。それから顔をくしゃくしゃにして泣いた。あの颯爽としたリーダーの見る影もない姿に橋本も涙した。
田中は豪胆さを示しはしたが、実は必死の思いでいた。このとき田中の血圧は二〇〇にハネ上がり、血尿が出ていたのである。
第三回の首脳会談は翌二十七日午後四時から開かれた。
日本側は中国との「戦争状態」について中国の言い分を相当程度受け入れ、「一九四五年から七二年まで、日中間には不自然な状態が続いた」という表現にすることにした。また、日華平和条約は廃棄するのではなく、日中国交回復と同時に「自然消滅する」ことにした。最後に日本と台湾との民間経済関係についてどうするかが残ったが、田中は周に台湾と日本の経済界との切っても切れぬ関係について説明。周は「結構でしょう」と答え、ピリオドを打った。
これで日中交渉は峠を越した。中国は賠償を要求せず、日米安保を認め、日本は国府との政府間の関係を一切断ち切り中国を「唯一合法的な政府」として認めることで、両国は国交を回復することになったのである。
翌二十八日午前十時から外相会談が開かれ、共同声明の案文を作るため日中事務局間の詰めが行われた。日本側は田中がすっかり事務方に仕事をまかせていたが、中国側はいちいち人が立ち次の部屋に行く。そこに周首相がいることは確かだった。
第四回の首脳会談は午後三時四十分から迎賓館で開かれたが、正味五十分で終わった。日中双方ともに共同声明の案文を確認するだけで、後は周が留学時代の日本の思い出に触れ、神田の古本屋や上野の西郷さんの銅像はまだあるかなどと尋ねたりした。
その夜は田中首相の返礼夕食会が人民大会堂で開かれた。
挨拶に立った周は日中関係について「戦争状態は終結し、両国の国交正常化を実現する」と表現、一方の田中は「日中間の不自然な状態に終止符を打つ」と述べた。
二十九日午前十時十八分から人民大会堂の「西大庁の間」で共同声明の調印式が執り行われる。日本側は田中と大平、中国側は周と姫がサインをすませた。かくて日中間の国交は回復した。
その直後の記者会見で、大平は「日中国交正常化の結果として日華条約は存続の意義を失い、終了したものと思われる」と発言。
これによって、国府との外交関係は実質的に終了し、日華条約も失効したことが明らかになった。日本は田中の決断によって、はっきりと「ひとつの中国」に踏み切ったのである。
三十日、田中の一行は北京から上海に着き、空港に向かった。道路には「ホァンソン、ホァンソン、リーベン、キヒン(歓迎、歓迎、日本貴賓)」の大合唱の列が一キロ以上も続く。空港では五千人を超える子供たちが民族衣装を着て笛、太鼓、シンバル、アコーディオンを鳴らしたり、花束を振ったりして田中を送る。
日航特別機に乗ろうとする田中と周とは握手を交わした。周は長い間田中の手を握ったきりで、離そうとはしなかった。手を離すとき周は「天皇陛下によろしくお伝え下さい」と言った。「必ず伝えます。本当にありがとう」と田中は応えた。
これ以降、田中は中国政府にとっては特別の人となる。井戸を掘った人である。ロッキード事件があって田中が政権の座を降りた後でも中国は田中を大切にし、その後訪日した小平はわざわざ目白の田中邸を訪れたほどである。
日中国交回復を実現はしたが、大仕事は帰国後にあった。当時、田中派の青年将校だった羽田孜のところに中国から田中の連絡が入る。帰国したら、ただちに党本部に行く。自民党議員を集めておけというのだった。
田中が「一つの中国」を認め、国府との縁をきっぱり切ったことに対する反発はすさまじかった。日本を出るとき、田中は「とにかく中国と話し合うことは認めてくれ」と言い残して飛んでいった。だから許したのに、恩義のある介石を裏切り国府を切って捨てることまで決めてくるとは何事か。殺してやると息巻く者もあった。中川一郎、石原慎太郎、渡辺美智雄など右派の青年議員を中心に青嵐会が生まれており、ただでは済まない空気だった。
だが、田中は逃げ隠れもせず、策も弄さなかった。外務省から出向した総理秘書官の木内昭胤は羽田から都心への車に一緒に乗っていた。片方に田中、もう一方に橋本登美三郎幹事長が乗り、木内は真ん中に挟まれていた。橋本が困惑した様子で「党が大変です」と報告している。田中は「そうか」と言ったきりで黙っている。動じた気配はなかった。
皇居での帰国の記帳とテレビ記者会見をすませると、田中はそのまま真っ直ぐに党本部の九階講堂に入った。両院議員総会に臨んだのである。怒号の中を田中は颯爽と演壇に向かって歩いていった。その体からは他を圧する磁気が放たれている。羽田はその度胸のよさに度肝を抜かれる思いだった。このとき以降、どのようなことがあっても政治家は逃げてはならぬということを肝に銘じる。
演壇に立った田中は全員をにらみつけるようにして話し始めた。
「日中国交回復をなし遂げていま私は帰国しました。党の中にいろいろ議論のあることは承知しております。相手との間には隔たりもありました。途中で帰ろうと思ったこともありました」
怒号は次第に収まり、みなが田中の言葉に耳を傾ける。
「しかし、中国は動かすことのできぬ隣国であります。いかに体制が違っていても、日本との関係がどうであっても、隣の大国であります。そのことは永遠に変わらないのです。中国が嫌だからと言って引っ越すわけにはいかない。しかるに、そのような国といさかいがあっても、政府間で話し合えるルートがない。一部の党とか赤十字を通じてしか話し合えないのではどうにもならないではありませんか。中国は大変な人口を抱える大国であります。毛沢東や周恩来が権力を掌握しているいまがチャンスなのです。中国とは良いことでも悪いことでも話し合えるようにする。何でも物を言えるようにする。私は決断して国交正常化に踏み切ったのです」
演説が終わると誰も粛として声を上げる者はいなかった。舞台の袖に座っていた木内は、体の震えが止まらなかった。訪中に同行したが、この瞬間の感動が最も強烈に焼きついた。
田中政権が誕生してからわずか三か月。しかし、考えてみると、このときが田中政権のピークだったのかもしれない。田中が本当にやりたかったのは日中国交回復よりも「日本列島改造」だったに違いない。政策としては列島改造の方がはるかに歴史が古いし、田中の経済主義の象徴でもある。
政権は発足したときに最大のエネルギーがある。皮肉なことに田中政権の最大のエネルギーは日中国交回復にそそがれ、田中の名はそのことによって歴史に刻み込まれることになったのだ。この時点で、田中は日中が自身の最も華々しい功績になるとは思っていなかったことだろう。
日中国交回復を終え、待っていたのは、国内の解散風だった。田中は内政問題、とりわけ日本列島改造論の実現に向けてこれからが正念場と思っていたから解散にはあまり積極的ではなかったが、自民党内には「日中」の成果で追い風が吹いていると見る向きが多かった。とりわけ幹事長の橋本登美三郎が先頭を切って走り始めた。幹事長が走るのだから他は追随する。議員たちは選挙区に帰り、勝手に金を散じた。実弾を使い切ってしまった、この期に及んで選挙がないと言われたら困るという陳情が相次いだ。
野党も呼応した。最早解散への流れは止めようがなく、十一月十三日解散、十二月十日選挙が決定した。いわゆる話し合い解散である。
しかし、この選挙は自民党の負けとなった。
自民党の議席は二百七十一。選挙前に比較して十三のマイナスになった。社会、共産などの革新政党の伸びが目立った。
戦術面でのまずさも敗因のひとつだった。自民党は前回の昭和四十四年を十一人上回る三百三十九人の公認候補を立てた。候補者が乱立して票を食い合った。
しかし、より大きな敗因があった。物価が上昇に転じていたのである。消費者物価の動きを見ると、佐藤内閣の末期からじりじりと上昇に転じ、消費者物価指数でみて昭和四十七年は同四十五年に比べると一四ポイントも上がっている。やがて来る石油危機によって物価の騰勢は怒濤のようになるのだが、それ以前に不気味な地鳴りが始まっていたのである。
国内に金がだぶついていたのがたたった。円買いの大波に対抗して日銀は大量のドル買い・円売りの介入を展開、ついには円は切り上げざるをえなくなるのだが、この外国為替市場への介入によって巨額の円が国内金融市場に溢れた。手元に思わぬ現金が転がり込んだ企業は、土地その他の資産購入に走った。折から田中の「列島改造論」がブームとなり、不動産市場の活況に拍車をかけた。
野党はこれを突いた。例えば社会党は「田中内閣に物価政策を期待するのは泥棒に留守番を頼むようなものだ」と批判した。日中国交回復は確かに大きな業績だったし、マスコミはその意義を讃えはしたが、選挙民の関心はより身近なところにあった。
選挙は田中が得意としたはずのものだが、その得意技でつまずいた。田中内閣への支持率は発足直後、六〇%台と空前の水準に達したのに、政権にさす翳りは次第に濃くなり、一年も経たぬ昭和四十八年五月にはわずか二七%に落ち込んだ。
党人派の政治家は、世論に対して官僚出身の政治家よりも敏感である。焦りが生じたのだろう。小選挙区制の導入に動いたのである。かねてから中選挙区制は同じ党の候補者同士の戦いになり派閥政治の原因になるから望ましくないと言われており、選挙制度審議会も第七次報告で小選挙区制の導入を進めてはいたが、実現できると本気で考えていた者は少なかった。
今日、選挙制度は小選挙区比例代表制が実現しており、その意味では田中には先見性があったと言えないわけではないが、急ぎ過ぎた。望ましいと分かっていても、人の心が熟柿のように落ちぬ限りは事態は動きはしない。それが政治である。総論では賛成でも、いざ自分の選挙区がどうなるかを思うと、自民党議員の足はすくむ。
党内の消極的な空気と野党の猛然たる反対を前に中村衆議院、河野参議院両議長は田中に法案の提出の断念を要請した。かくて小選挙区制で自民党の確固たる地位を築こうとした田中の意図は挫折した。世は田中の選挙制度改革を「カクマンダー」(自分の都合の良いように区割りを変える「ゲリマンダー」をもじったもの)と呼んだ。田中人気は冷め始め、強引さだけが目立つようになる。
次に取り組んだのは、日ソ平和条約締結のための交渉である。
日中国交回復を終え帰国した直後の記者会見で、田中は質問に答え、「最大の懸案の日中が終わった。残っているのは日ソ間の領土問題だ。歯舞、色丹、国後、択捉の四つの島の返還がソ連との平和条約締結の最大のポイントである。平和条約の下交渉は外務省がすでに進めてくれているはずだ」と語り、日ソ交渉に意欲を示していた。
昭和四十八年十月七日。日中が国交を回復してからちょうど一年後、田中は鳩山一郎に次ぐ二人目の首相としてモスクワ入りした。
首脳会談は翌八日の午前十一時から、クレムリン宮殿内のエカテリーナ広間で開かれた。
ブレジネフ書記長、コスイギン首相、グロムイコ外相、バイバコフ国家計画委員会議長らソ連側要人が窓を背にして座る。これはソ連の常套手段で、窓に向かって座る側の方が顔を光で照らされて表情を読まれやすい。
日本側は田中の他、大平外相、新関駐ソ大使、鶴見外務審議官。
冒頭、田中は日中と同じようにいきなり本題に入った。
「今回の交渉で、北方領土の一括返還をなんとしても実現したい」
「いよいよ交渉ですな」
ブレジネフが応じた。
日本国内には、例えば外交評論家の平沢和重のように「二島返還で手を打つべき」と主張する向きもあったが、田中は「四島返還」を断固たる態度で主張した。
第二回会談はその日の午後七時から九時四十分まで開かれた。
田中が領土問題のボールを投げたにもかかわらず、ブレジネフははぐらかすように問題をすり替えた。テーブルの上にシベリアの地図を拡げ、どこにどんな資源がどれくらいあるかを延々と説明し始めたのである。金、石油、ガス、粘結炭、非鉄金属……。国家機密であるはずの第十次五か年計画(一九七六年から開始)にどの資源開発計画を組み入れるかまで明らかにしてから、「日本が協力してくれるなら開発参加を拒む考えはない」と言った。
田中は「日本以外の第三国が参加することを歓迎したい」と述べたくらいで、二時間四十分の九割方をブレジネフがしゃべりまくった。ブレジネフはこの年の五月、米国やドイツを歴訪し資源開発についての資金協力を求めたが、ほとんど空振りに近い結果で終わっている。日本をなんとか引き入れたいと思っていたのだろう。勢い余って、テーブルをどんどんと叩いた。田中は黙ってメモを取り続け、ブレジネフにしゃべらせ続けたが、テーブルが鳴る度にいらいらした表情を見せた。
ブレジネフの長広舌が終わると、田中はドスの利いた声で告げた。
「私はあなたの話をメモに取った。あなたもいまから私の話をメモに取ってほしい。私がはるばるモスクワまでやってきたのは、北方領土の話をするためである。首脳同士でしか話せないことを話そうではないか。日ソが国交を回復してから十七年の歳月が流れた。いまが平和条約を締結する絶好のチャンスではないか」
ブレジネフは鼻白んだ。資源開発の話など「首脳同士でしか話せないテーマ」ではないと言われたようなものだからだ。
その夜、田中は宿舎の迎賓館でウオッカを呑みながら、大いに荒れ、ブレジネフの非礼を非難した。盗聴されているかもしれませんよとお付きの者が注意すると、
「どうせ盗聴されている。聞かせてやるんだ」
と叫んだ。
第三回は九日午前十一時から開かれた。この会談の内容は明らかになっていないが、田中はかなり執拗に領土問題を追及したようで、ブレジネフはすっかり嫌気がさし、その日の午餐会をさぼってしまった。日中国交回復交渉のときも田中と周恩来との間に激しいやりとりはあったが、このときは日中両国になんとかして復交を実現したいという建設的な熱気があった。しかし、日ソ交渉ははるかにとげとげしい雰囲気になってしまったのである。
会談後の記者会見で、外務省当局は質問に答え、「徹底的に論じ合った。激しいやりとりがあった。首相の発言は辛辣で鋭かった」と述べた。「共同声明は出るのか」との質問に「共同声明を出すことには合意していないので、理論的にはないこともありうる」とまで言った。首脳会談まで開いて共同声明が出ないということは決裂を意味する。記者団の間に緊張が走った。
ヤマ場は第四回会談になって訪れる。
共同声明に「領土」の表現を入れるか入れないかをめぐり日ソ間で激しいやりとりがあった後、田中が尻をまくった。
「これでは共同声明は出せない。われわれは共同声明なしで帰るしかない」
ブレジネフが驚いたところで、田中はすかさずペーパーを取り出してみせた。
「われわれの最終案だ。これを承知してくれるなら、共同声明は出る」
それまでの日本案は「領土問題を解決して、平和条約を締結……」とあったのだが、これを田中は「第二次大戦の時からの未解決の問題を解決して、平和条約を締結……」に書き換えていた。
ブレジネフはそのペーパーに目を走らせると、「ちょっと待ってほしい」と言って席を立った。党の中央委員会にはかったのだろう。
一時間ほどして戻ってきたブレジネフは、
「これでいい。ただし、『未解決の問題』を『未解決の諸問題』と複数にしてほしい」
と述べた。田中は反論する。
「日ソ間の問題とは、領土問題しかないではないか」
「いや、経済協力問題などもある」
なんとかして領土問題をぼやかしてしまいたいというソ連側の意図が見え見えだった。
「分かった。それなら、口頭了解で確認しておこう。『未解決の諸問題』の中には、四つの島の返還問題が含まれるか」
と田中が尋ねる。
「ヤー・ズナーユ(そう理解する)」
ブレジネフが曖昧に答えた。
田中は突っ込む。
「それでは弱い。含まれるのか、含まれないのか。イエスか、ノーか、ご返事いただきたい」
ブレジネフは渋々答えた。
「ダァー(イエス)」
こうして日ソ共同声明は発表となった。
「第二次大戦の時からの未解決な諸問題を解決して、平和条約を締結することが両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。双方は、一九七四年の適当な時期に、両国間で平和条約の締結交渉を継続することを合意した」
しかし、ソ連側はこのときの共同声明をその後、消しにかかる。昭和五十年代半ばになると、「日ソ間の領土問題は解決済み」と繰り返し発言するようになった。ブレジネフの「ダァー」の発言はしっかりとメモされて外務省の倉庫にしまわれてある。田中の訪ソの成果ではあるが、日ソ両国の合意にもとづく公式の記録ではない。あくまでも口頭による了解事項であり、ロシア側がなかったことにしてしまえばそれまでのことだ。田中の訪ソはそういう意味で中途半端に終わった。
田中の訪ソと相前後して世界を震撼させる出来事が起きていた。その後の田中に二重三重の災厄をもたらす事件でもあった。
第四次中東戦争である。この年の八月、サダト・エジプト大統領はサウジアラビアを訪れ、ファイサル国王と綿密な打ち合わせをするとともに、カイロでシリア、ヨルダン、エジプトの三国首脳会談を開いた。イスラエルが国連の決議を無視してゴラン高原、エルサレム、シナイ半島、ヨルダン川西岸を占領し続けるのみならずユダヤ人の入植を進めていることに対して、アラブとして一致して行動しようという合意が成立。十月六日、田中がモスクワ入りする一日前、南北からエジプト、シリア軍がイスラエル軍を攻撃した。不意を突かれてイスラエル軍は後退したものの、同じ月の十五日には反撃に転じ、スエズ運河を渡ってエジプト領に侵入した。
翌日の十六日、ペルシャ湾岸六か国はクウェートで閣僚会議を開き、石油を戦争の武器として使うことを決めた。中東原油の公示価格をアラビアン・ライトで一バレル=三・〇一一ドルから五・一一九ドルと七〇%引き上げることにしたのである。
値上げだけではなかった。アラブ産油国から「非友好国」とされた国は石油の供給制限を受けることになる。こうして、アラブ側は自らの「大義」を第三国に認めさせようとしたのである。
同月二十三日、国連は停戦決議を採択しはしたものの、アラブ産油国の石油を通じる戦争は続いた。下旬になると、全世界に石油を販売するメジャーは、日本の石油会社や商社に原油価格の値上げと供給制限を続々と通告してくる。
当時、世界の一次エネルギーに占める石油の比率は四七%。日本は七七%。よもや石油価格がこのように跳ね上がるとは誰も予想してはいなかったから、産業、民生両面で石油ガブ呑み体質が根を下ろしていた。あちこちでパニックが起きた。物不足、買いだめ、売り惜しみが起き、石油関連商品だけではなく日用品の価格も高騰した。
十一月、政府は十一業種に対する電力・石油の一〇%供給削減を決定。同時にマイカーの自粛、室内温度の適正化(摂氏二十度)、広告用ネオンサインの自粛、週休二日制の実施、第三次産業の営業時間の短縮、エレベーターの運転台数の抑制、街灯やビル内照明の節約を要請した。
それだけではパニック状態を収めることはできず、石油の消費節約、適正配分、価格の安定を目指した「石油需給適正化法」と「国民生活安定緊急措置法」とを制定した。統制色の強い法律である。
アラブ産油国の石油戦争に真っ向から立ち向かったのは米国である。
十一月中旬、キッシンジャー国務長官(当時)が来日、首相の田中、外相の大平、蔵相の愛知、通産相の中曾根に相次いで会い、アラブとは安易に妥協してはならぬと強く迫ってきた。「近く予定されているイスラエルの選挙までせめて待つことはできぬか」とも言う。
日本政府はアラブ産油国と米国との板挟みになっていたが、国内にはこの際はアラブ寄りに路線を変更するしかないという意見が次第に強まっていた。
田中はキッシンジャーに尋ねた。
「日本は石油輸入の八〇%を中東に頼っている。これを切られては日本経済の命脈はつきる。米国は日本に石油を代わって供給してくれるか」
キッシンジャーは答えた。
「石油の供給は、国務長官の自分のかかわる問題ではない」
政府と民間との距離が開き、簡単には行政指導などできない米国では、日本のためにメジャーを動かして石油を優先供給することなどできない。米国政府高官としてはごく当然の答えだったが、田中の耳にはいたく冷やかに聞こえた。
中曾根はキッシンジャーに具体的な対案を示した。
まず石油メジャーの備蓄を日本に回す。次に在日米軍の石油を本国から直送する。
キッシンジャーは在日米軍の石油についてはなんとかしてみると述べたが、メジャーの備蓄を回すことについては田中に対するのと同じ答えをした。
政府部内では、米国との関係を重視する外務省と資源派の通産省とが対立していた。石油業界の強い突き上げもあり、中曾根が頑張った。閣議は中東政策を協議することになったが、外務省が米国寄りの政策を持ってきたら、ただちに握りつぶすと中曾根は発言、十一月二十二日、日本はアラブ支持を明確にした新中東政策をとうとう発表した。
その骨子は、武力による領土の獲得及び占領に反対する一九六七年戦争の全占領地からイスラエルの全兵力を撤退する同地域のすべての国々の安全を保障するパレスチナ人の正当な権利を承認し尊重する――の四原則から成っていた。
これにもとづいて政府は中東に三木武夫副総理を特使として派遣、アラブ各国は日本を「友好国」と認めた。
これは、戦後日本外交のひとつの転換点となる。日米安保体制にもとづく日米関係が基軸であることに変わりはなかったが、そこにアラブ寄りというひとつの異質な要素が加わったのである。
キッシンジャーにとっては不快な決定だったに違いない。翌年のことになるが、昭和四十九年の九月、田中がメキシコ、ブラジルを訪問した後、米国に立ち寄ったとき、キッシンジャーはしっぺ返しを食わせる。
大統領はウォーターゲート事件で失脚したニクソンに代わりフォードになっていた。会談の席上、フォードは田中に「もう少しひんぱんに米国を訪れてもらいたいものです」と要請したうえで、「それにしても、同行記者を随分たくさん引き連れておいでですね」と皮肉を言った。米国の後、田中はカナダを訪れる予定でいた。中南米の資源国から同じ資源国であるカナダを訪れる途中で米国に立ち寄った形になった。これが気に入らなかったのではないかと憶測されている。
そのとき、フォードの隣にいたキッシンジャーが聞き取りにくい英語で大統領に話しかけた。
「大統領閣下、日本で私がオフレコ会見をしましたら、あくる日の朝刊にその内容が全部出ていました」
唐突だが、嫌味たっぷりの発言だった。
ユダヤ人は記憶の民である。一部で囁かれるようにユダヤ人がひそかに謀議して陰謀をめぐらすなどということはありえないし、そうしたグループ行動を何よりも嫌うのが彼らの特性でもある。自らの力を頼んで逆境を切り開いて行こうとするからこそ個人的に優れた人物が輩出しているのだが、特定の国や民族に対して彼らが全く別々のイメージを抱いているかとなると、そうとは言えない。地下水のように共通のイメージが流れている。
戦後の米国ユダヤ人社会の中で日本のイメージは決して悪くはなかった。第二次大戦でナチス・ドイツと同盟関係を結んだ日本ではあったが、日本人の中にはナチスの手からユダヤ人を自由の地・米国に逃すことに貢献した者も何人かいた。また、少数民族である彼らは米国社会の民主性を何よりも大事にしたから、第二次大戦後、米国の民主主義を忠実に学んだ日本は優等生でもあった。米国社会の中でのし上がっていく彼らの軌跡は戦後の荒廃の中から経済的に復活していく日本のそれともよく似ていた。ユダヤ資本はまた日本からの輸出商品を米国内で売りさばくことによって利益も得た。日本企業の対米進出の代理人でもあった。
しかし、田中政権による「アラブ寄り」への変更は彼らの対日イメージに翳を落とす結果になった。米国はまだユダヤ人の大統領を生んではいないが、政府高官、有力金融機関、学界、マスコミにおける彼らの影響力は隠然たるものがある。とりわけ東部においてはそうだ。
彼らはいまでも田中政権の新中東政策を忘れてはいない。イスラエルに不利な決定を下したというだけではない。油(経済)のためなら、外交方針をくるりと変えることもあるという不信感を残している。
事情が許すなら、田中は石油危機などという異常事態のもとではなく、平時にあって独自の資源外交を展開したかったことだろう。その現れとして、石油危機の起きる直前、昭和四十八(一九七三)年九月の訪欧では、フランスで石油資源の共同事業展開、第三国におけるウラン鉱石の共同開発、濃縮ウランのガス拡散方式の導入、西独では天然資源・エネルギー供給における協力を協議する資源合同委員会の設置、石油のスワッピング構想検討、英国では北海油田の開発などを話し合っている。
経済を何よりも重んじる田中にとり、資源の確保は発展の根幹だったが、残念ながら、資源外交は石油危機という異常事態のもとでしか展開できなかった。産油国に「石油がほしいか、それなら言うことを聞け」と首根っこを押さえられての資源外交になってしまった。いたし方がないこととはいえ、そのコストは大きかった。田中を見る米国のユダヤ人社会の目は冷え冷えとしたものになった。
これが石油危機の、田中にもたらした第一の災厄である。
第二の災厄も甚大だった。
政敵の福田赳夫が「狂乱物価」と名付けた、猛烈な物価上昇によって、あれほど心血をそそいだ「日本列島改造論」を葬り去らねばならなくなってしまったのである。
国内の物価高騰を目の当たりにしながら、田中は記者会見で「日本の物価上昇は主要工業国の平均以下に抑えることができる。いま進めている金融引き締めや財政支出繰り延べなどの総需要抑制を続けていけば物価高騰はやがて収まるだろう」と発言した。
人の意見に耳を傾けるゆとりを失っていた。閣議では一方的にしゃべりまくり、他の閣僚は黙り込み、田中の独演会となる。なお、昭和四十七年十二月の総選挙後の第二次田中内閣で福田赳夫は行政管理庁長官に、三木武夫は環境庁長官になっている。
独演会への不満は田中が訪欧中に噴出した。四十八年九月二十八日の閣議で福田が全国新幹線網建設基本計画に対して「待った」をかけたのである。同計画は日本列島改造論の骨格ともいうべきもので、鈴木善幸自民党総務会長が鉄道建設審議会に諮問する寸前だった。
「地価上昇ムードを煽るから慎重にやらねばならない」と注文をつける福田に、臨時首相代理の三木や小坂善太郎経済企画庁長官も同調した。
帰国した田中のところに渡辺美智雄、中川一郎、石原慎太郎などの若手議員が押しかけ、「物価問題では、閣僚も党三役もあなたの前では口もきけぬそうではないか」と詰め寄った。彼らは福田派別動隊とみなされていた青嵐会のメンバーで、「福田さんは下野すべき」と盛んにアジりもした。
「やがて物価高騰は収まる」との田中発言を裏切り、物価は奔馬のように跳ね続けた。昭和四十九年一─三月の卸売物価は三五・五%、消費者物価は二四・五%の上昇。日銀は強烈な引き締め政策で物価を鎮静させようと努力したが、簡単には収まらず、景気の方がどんどん悪くなっていく。「物価高、不況、国際収支赤字」のジレンマならぬトリレンマ状態になってしまった。
昭和四十八年十一月、大蔵大臣の愛知揆一が急死した。
愛知は明治四十(一九〇七)年、宮城県に生まれ、東大法学部を卒業後、大蔵省に入省。銀行局長を最後に政界入りした。佐藤内閣では外務大臣も務めた大物で、同じ大蔵省出身ということで福田に対抗心もあったのだろう。田中政権の誕生に大いに力を貸し、以後、大切なブレーンになってきた。通貨変動の最中、世界中を飛び回り、国内にあっては「トリレンマ」に苦しんだ。死因は肺炎。過労である。
愛知の死の直前、福田は群馬県伊香保温泉の横手館に滞在して休養をとっていた。田中から電話が入り、「愛知君が危篤だ」と告げてきた。
翌日、群馬県内の甘楽町で講演している最中、壇上にメッセージが入った。
「総理が電話に出てほしいとのことです」
演説を途中で打ち切り電話に出ると、田中のうちひしがれた声が待っていた。
「愛知君はとうとうだめだった。ついては、相談したいことがあるので、至急帰京してほしい」
愛知は病死ではない。悶死だ。とっさに福田はそう思った。
パトカーの先導で官邸に入る。福田を待ちわびていた田中が頼んだ。
「大蔵大臣を引き受けてくれないか」
福田は口をへの字に結び返事をした。
「総理、経済の運営は乗馬と同じで、手綱が二本あるのをご存じか。一本の手綱は物価であり、もう一本は国際収支だ。人体で言えば物価は呼吸。国際収支が脈拍。この二本をしっかり握っていなきゃならん。今はその二本がめちゃくちゃになってきた。こうなった根源はなんだ? あんたはどう思う」
「石油ショックがね……」
「そうじゃないんだ。あんたは石油ショックというけれど、あれは追い打ちなんだ。あんたが掲げた日本列島改造論だよ。昨年七月に内閣をつくって以来一年しかたたないのに、物価は暴騰につぐ暴騰で、国際収支が未曾有の大混乱に陥っている。この(日本列島改造の)旗印に象徴される超高度成長的な考え方を改めない限り、事態の修復はできない」
田中はひどく不機嫌になった。金科玉条に泥水を浴びせかけられたようなものだ。大蔵大臣という要職中の要職に頭を下げてなってもらおうというのに、福田は条件をつけている。
田中はよく福田の経済哲学を批判したものだ。「オレは若いとき苦労したからルンペンの苦しみは分かる。デフレなどにはしたくないよ。この点が福田なんかには分かりはしないのだ」
路線変更を求める福田と考え込む田中の姿は、豊かさを求めた経済主義が秩序を優先する精神主義の攻めに遭い、受け身に立たされた光景でもある。
「そうか。では、列島改造の旗を下ろす」とは田中は言わなかった。その代わり、「明日また会おう」と応えた。
田中は眠れぬ夜を過ごしたのだろうが、いかんせん物価の嵐は凄まじ過ぎた。潔く福田に告げる。
「キミの言うことは、分かった。列島改造論は見送ろう。経済問題についてはキミにまかせよう。そういう前提で大蔵大臣をやってくれないか」
福田はおもむろに答えた。
「そこまであんたが言うのなら、引き受けましょう」
こうして福田は意気揚々と大蔵省入りしたのである。記者会見で福田はやや高めの声でぶった。
「日本経済の病は全治三か年だ。これからは総需要管理政策をやる。新幹線、本州・四国連絡架橋、二兆円減税、四十九年度予算編成などの経済政策は再検討することにした。これについて、総理の了承は得た。全部白紙に戻す」
「総理の『日本列島改造論』はどうするのだ」
記者団が勢い込んで質問した。
福田はひと呼吸おいてから、きっぱりと言い切った。
「あれは、総理の個人的見解であり、私論である」
「総理の公約ではないか」
「いや、政府の構想として決まったものではない。『日本列島改造論』という本は非常にいいことも書いてある。ただ、実施のタイミングが問題だ。いかに良いプロジェクトでも、物価高に油をそそぐようなことになってはいけない」
こうして「列島改造論」は福田の手で葬り去られたのである。「都市政策大綱」を基礎にした「日本列島改造論」は、日本経済のボトルネックを正すもので、むしろインフレの発生を抑制しようという内容だったが、世の中はそうは受け取らず、不動産買いへのゴーサインとなってしまった。その後、「列島改造論」は形を変え、さまざまな姿で自民党首脳の政策となって取り入れられていくが、誰も「列島改造」という言葉を口にしなくなった。インフレの代名詞のようになってしまったからだ。石油危機が田中にもたらした第二の災厄である。
昭和四十八年十二月の中旬のことだ。参議院の田中派である世耕政隆は予算委員会で質問に答える田中の様子を見て「変だ」と感じた。口元がやや曲がっている。詩人の世耕は直感が鋭い。人の容貌の特徴をつかむのが早く、あだ名をつける名人だ。おまけに医者の出身である。
田中はいつも右の上唇の端をちょっと上げてしゃべる癖があるから、誰も異状に気づきはしなかった。総理も疲れているなという程度の印象しか持たなかった。だが、世耕はその言葉がいつもより不明瞭になっていることにも気づいていた。
東京逓信病院に入院して判明した。田中は疲労とストレスのため顔面神経痛にかかっていたのである。
側近たちは外遊を中止したらどうかと忠告した。だが、田中は答えた。
「いかにゃならんのだ。一番つらいのはこのオレだよ。口のひん曲がった顔を世界中のテレビにさらされるのだから」
訪問先はASEAN(東南アジア諸国連合)だった。フィリピン、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア。散々な目に遭った。行く先々で「日本による経済侵略」に反対する学生や市民のデモにぶつかった。ちょうど日本企業が東南アジアへの資本進出を本格化し始めたときでもあったのだ。
それにしても田中はよく外国を訪問した。米国、中国、ソ連、欧州各国、中南米、カナダ、東南アジア、豪州、ニュージーランド……。外国が好きだったわけではない。大根とブリの煮つけをなによりも好んだ田中は、ナイフとフォークの食事が嫌いだったし、面倒な儀式を省こうとして外務官僚を困らせもした。
外国とさまざまなパイプを拡げておかねば日本経済の未来はないと、人一倍強く感じ取っていたのだろう。しかし、度重なる外国訪問はその体を蝕んでいった。疲労は澱のように知らず知らずのうちに溜まっていったのである。
昭和四十九年七月七日、参議院選挙を迎える。「七夕選挙」である。
ここで田中は致命的な打撃を受ける。
例のごとく強気の作戦を立てた。改選議席数全国区十九に三十五人を、地方区五十一人に六十人を送り出した。全国区三十五人への票は宗教団体を除いて有力企業やそのグループに割り振った。新潟三区の選挙で、自らがオーナーである越後交通を用いてすでに実施していた作戦を、全国に拡げたのである。ヘリをチャーターし、全国二百か所を遊説して回った。山口淑子、山東昭子、宮田輝などのタレント候補が登場した選挙でもある。
金も使った。「十当七落」という言葉が囁かれた。十億円なら当選、七億円だと落選という意味である。金権政治という言葉はこのとき生まれた。
投票日間近になって時限爆弾が炸裂した。
中央選挙管理会委員長の堀米正道が自治省で記者会見し、「『企業ぐるみ選挙』は雇用や取り引き関係を通じてなんらかの強制がある場合は、思想・信条の自由や投票の自由が阻害されるおそれがある」と発言した。有力企業に票を割り振ったやり方を「企業ぐるみ」選挙と称したのである。
堀米は社会党書記だった。現職の党員が中央選挙管理会委員長を務めるというのは、ピッチャーが審判を兼ねるようなもので、制度上疑義があったし、社会党もまた労働組合の組織票にフルに依存していたのだから、この発言は公正さを欠くきらいがあったが、新聞は「企業ぐるみ選挙」という言葉に飛びついた。これほどのタイミングはない、見事なほどのコピーとなったのである。「企業ぐるみ選挙」はたちまち流行語となる。
選挙の結果は惨敗だった。全国区は改選議席数と同じ十九。地方区はがたっと減って五十一人が四十三人になってしまった。
田中は好機に回ると想像を超えた力を発揮する。だが、弱点は攻めが一本調子になることだ。退くことを知らない。情勢不利と判断すれば、いったん兵を退けばいいのだが、それができない。遮二無二中央突破を図ろうとして破綻を広げる結果になる。親分の佐藤栄作とは対照的な政治家だった。
佐藤は退いたり待ったりすることを知っていただけではなく、ときにアドバルーンを揚げ、世の中の反応を探ってから、おもむろに腰を上げた。だが、田中はアドバルーンを揚げることをしなかった。それどころかアドバルーンよりも数百メートル先を自ら突っ走っていった。
用件は説明を受けずとも直ちに分かってしまう。困ったことがあって人はやってくる。その困ったことを解決する費用も分かってしまう。そこで即決、金を渡す。
政治にはきちんとした目標が必要である。
しかし、いかに目標が結構なものであっても、それを実現する手段が適切でなければ、人々はついて来ない。手段は、手順と時間の要素が組み合わさって初めて適切になる。
田中は手順を考えるのは得意だったが、時間の要素を軽視し過ぎた。人々の意識が十分に熟するのを待つことができなかった。
選挙の結果、参議院の勢力地図は保革伯仲になる。
「これは大変なことをしてくれた」
回想録で、福田はそう書いている。
「私が岸内閣、佐藤内閣で幹事長をしていた当時、自民党が国政選挙に必要とした金額はせいぜい三十億円から四十億円だった。田中政権になって完全に一桁上がってしまったわけだ……。しかも『企業ぐるみ選挙』で、大会社がみな職員まで動員しての選挙である。にもかかわらず、選挙の結果は自民党公認の当選者が六十二人と改選議席の過半数を割り込む惨敗であった」
福田の政治家としての本能が潮の流れの大きな変化を嗅ぎとっていた。出番である。田中にこれ以上協力する義理はない。総裁選のときのしこりも解けてはいない。田中にはまかせておけない。
そう思ったとき、三木から連絡があり、二人は上野・池之端にある梶田屋という旅館でひそかに会った。
バルカン政治家、大衆政治家とも言われる三木もまた世の空気の変化に敏感である。それに田中には怨念もあった。
このときの参議院選挙で、田中はこともあろうに三木のお膝元である徳島で断りなく新人の後藤田正晴を公認候補にした。三木に子飼いの久次米健太郎がいるにもかかわらずである。マスコミはこれを「三角阿波戦争」と呼んだ。三木派は総動員で久次米を助け、無所属当選を果たさせはしたが、三木の怒りは収まりはしなかった。
それに、田中内閣で副総理にしてはくれたが、形式だけのことで、三木が望んだにもかかわらず総理官邸内に三木の部屋を用意しなかった。仕方なく三木は総理府内の部屋に通う。おまけに石油危機の最中には、中東へ特使として派遣され汗もかかされた。誰が見ても損な役回りだった。
三木は明治四十(一九〇七)年に徳島で生れ、明治大学を卒業後、政界に出た。戦後、国民協同党を結成、その後、自民党に属したが、つねに少数派閥で多数派を牽制。独自の立場を貫いた苦労人だ。粘着質で、執念深い一面がある。怒るとき田中は火山のごとく爆発するが、一夜明けると嘘のように収まる。だが、三木のようなタイプは怒りは深く沈殿する。とりわけ自尊心を傷つけられたときはそうだ。三木のこのときの怒りは、のちにロッキード事件における異例の捜査協力という形ではね返ってくる。
三木は低くこもるような声で福田に言った。
「この内閣のひさしの下ではいたたまれない。私は辞める。福田君、どうだ? 一緒に辞めようじゃないか」
決意はしていたが、慎重な福田である。
「とにかく何か方法を考えなければならないな」
と返事はしたが、一緒に行動するとは確約しなかった。
ところが、三木はその翌々日、目白の田中邸に勝手に行ってしまったのである。
「つらつら見るに、党の近代化は一向に進まない。派閥争いのみならず、巨額の金が使われている。この際、自分で運動の核を作り党近代化のため働いてみたい」
こう言う三木に対して、田中は尋ねた。
「あなたは閣僚だ。党近代化は内閣にとどまってやるのか、それとも辞めるのか」
「辞める」
「それなら、お引き止めはしない」
いわば喧嘩別れである。というよりも、目白に出向いたときから、こうなると三木は踏んでいた。
三木はマスコミを使うのがうまい。田中のところを引き払ってすぐに、なぜ自分が辞めるかを堂々と新聞記者の前で述べ立てた。
三木が辞めると聞いて、福田のところにさまざまな人々がやってきて、大蔵大臣のままとどまるよう説得を試みた。
だが、福田は辞任に踏み切った。
福田派の総会では、「自民党は選挙に完敗した。いまのままの体制で、本当にそう認識し、総反省ができるのだろうか」と演説した。三木は辞めても閣外協力をすると盛んに繰り返していたが、福田の発言は体制の変更を求めており、より過激で挑戦的だった。
いったんは福田に辞任を思いとどまらせようとした保利茂も続いた。かくて、大蔵大臣の福田、副総理で環境庁長官の三木、行政管理庁長官の保利が辞めた。
応急の閣僚人事はしたが、田中内閣の屋台骨は大きく揺らいだ。参議院選挙後の臨時国会は七月下旬に召集されたが、田中は所信表明演説をすることを拒んだ。選挙中百四十七回も演説して自分の考え方を説明してきたから、いまは石の地蔵さんになるというのである。
落ち目の政権を叩きに叩いてやろうと手ぐすねを引いていた野党だったが、攻め手がない。所信表明を求める決議案を出したが、賛否同数。委員長権限で否決。衆議院の内閣不信任案も否決。参議院の首相問責決議案も否決。首相が何も発言をしないという、まことに変則的な臨時国会は終わった。
夏は山中湖畔にこもる。表向きは「物価問題を徹底して勉強している」とのことだったが、相当に参っていたのではないか。国会答弁をしない首相をマスコミは見限った。論調はきわめて冷たく刺々しくなっていく。
九月、中南米、米国、カナダへの旅に出る。途中、十一月の内閣大改造を同行記者団に語りはしたが、田中内閣は最早死に体だった。
十月中旬。雑誌「文藝春秋」が「田中角栄研究─その金脈と人脈」と題して、田中の錬金術をことこまかに調査した特集を出す。これには、田中と佐藤昭子との関係を書いた「淋しき越山会の女王」の特集もおまけとして付いていた。前章の(十)で紹介したように、通産大臣になる直前、政治秘書の麓と早坂は小佐野賢治や佐藤昭子との関係を整理できないかと迫った。田中はこれを拒んだのだが、そのツケがとんだ形で回ってきた。
この特集が出た直後、田中は外人記者クラブのリクエストに応じて記者会見に出た。出たくないと佐藤昭子にはもらしたという
(注21)。もし、佐藤栄作や福田赳夫のような官僚出身の政治家だったら、このような場合、のこのこと出ていくような不用意なことはしなかったに違いない。
しかし、田中は逃げたと言われるのを極端に嫌った。物事を真正面から受け止める性格が、良くも悪くもそれまでの田中を築き上げ、多くの信奉者を生んできたのだから、いたしかたがない。田中は待ち構える外人記者の餌食になった。
司会をした外人記者クラブの副会長でありハンガリー通信の東京支局長でもあるエリアス記者は、
「田中首相について、いまさら紹介する必要はないでしょう。最近の『文藝春秋』でも詳しく紹介されていますから、お読み下さい。最近の世論調査によると田中人気は一八%。でも、誰も人気だけで政治をするわけではありません」
と皮肉たっぷりの挨拶をした。
こうして「文藝春秋」の特集についての質問が相次いだのである。個人の経済活動と政治活動を混同していない、所得は税務署にきちんと申告して納税してきたなどと田中は答えたが、一国の総理大臣が外人記者たちにかくもあからさまに私的なことで追及されたのは初めてである。田中の権威は消え失せた。
十月下旬、再び外遊に出かける。行く先はニュージーランド、豪州、ビルマ。
出発前、田中政権誕生に参議院にあって大いに力を貸した河野議長に会う。
議長公邸に入った田中はひどく憔悴している様子だった。河野はそんな田中をなぐさめた。
「これは災難だ。そう思ってあきらめるよりほかないじゃないか」
田中は悲しげにうなずいた。応接間には、河野の兄の一郎の写真がかけてあった。それを見上げながら、しんみりした口調でつぶやいた。
「この兄貴がいれば、オレの気持ちを分かってくれたんだがなあ」
「金脈」のことで相当に参っていると河野は思った。天下国家のためにやったことで、私利私欲のためではないと言いたいのではないか。そう察した。政治には金がいる。現実、政治家としては、あのような道をとらざるをえなかったのではないかとも思った。
二人はどちらからともなく手を握った。
「元気出せよ」
河野は励ました。二人の目に涙が浮かんでいた。
このとき、田中は「辞めたい」と言ったわけではない。実際のところ、外遊に旅立つ前、金庫番の佐藤昭子に、
「帰ってきたら、解散するかもしれない。用意しておいてくれ」
と言い残している。
だが、田中の退任を決定づけたのは、この後の河野の発言だった。議長公邸での会談後、河野は記者団に、
「田中総理は現在の時局を非常に深刻に受け止めている。私の感じでは、腹を固めているようだ」
と語ったのである。田中に近い河野の発言である。新聞は飛びついた。「田中首相、退陣を示唆」の見出しが躍った。
河野も自分の発言がこうも大きな衝撃を与えるとは予想していなかったようだ。日本がいつかもう一度田中を必要とする日が来るだろうし、ここはさっと身を引いて深手を負わない方がいいと思っていた。そういう思いを世間がどう受け止めるか、半ばアドバルーンのつもりでしゃべったのだ。
しかし、これはアドバルーンにはならず、田中政権終焉の引き金になった。田中は世間に|澎湃《ほうはい》として広がる「退陣ムード」に半ばあきらめに近い気持ちで、「どうして河野さんはあんなことをしゃべってしまったのだろうな」とこぼした。こたえたのは|刎頸《ふんけい》の友と言われた入内島金一や佐藤昭子に対する証人喚問の要求が出ていたことである。
入内島は田中が三国峠を越えて上京して初めて勤めた井上工業で働いていた人物で、大正五(一九一六)年、群馬県群馬郡古巻村生まれ。田中より二歳年上だが、ともに貧しい農家出身。井上工業では、鳥打帽に印半てん、ニッカボッカ・ズボンにゲートルと地下足袋という姿で工事現場で汗水たらして働くうちに離れることのできぬ友人となった。ゆっくり眠りたい、腹一杯飯を食べたい、一本立ちして親を助けたいとの願いをともに分かち合った、友人というより分身同士であると言ってもいい。
入内島は戦後、田中土建を助け、選挙でも身を粉にして働いた。田中より一年早く泉下の人となるが、生前、「俺は田中角栄という友達を持って幸せだった。彼を見て自分も発奮した。ああいう男と人生を共有できたのは、人生最大の幸せだった。この世に思い残すことはない」と言ってはばからなかった。
この入内島を国会の証人喚問の席に座らせ、文化大革命の人民裁判のように精神的三角帽をかぶらせる。そのようなことに我慢できるわけがない。
この頃、秘書の早坂にこうもらしている。
「オレは日本武尊が枯野で火に囲まれたようなものだ。草薙剣を振るえば血路は開けるのだが……やはりできることと、できないことはあるものだ」
辞任を決意したのである。
フォード米国大統領の訪日が終わった十一月二十六日の朝七時四十分、濃紺の背広にゲタばき姿の田中は目白の居宅から玉砂利を踏んで二十メートル離れた事務所に向かって歩き始めた。事務所にはいつものように陳情団が待っている。
報道陣に囲まれ「心境は?」と問われた田中は、顔をぐっと上げた。
「めずらしく仏壇に参ったよ。いなかの母にも電話した。私の心境は淡々としたものだ。それは当然のことですよ」
「お母さんはなんと言っていましたか」
一瞬遠くを見つめ、答えた。
「ご苦労さま、と言ってくれました」
それから間を置いてつぶやいた。
「やっぱり母は母だ」
八時三十五分、秘書を連れて公用車に乗る。そのとき目白通りを挟んで私邸の真向かいにある日本女子大付属中の窓から二、三十人の女子中学生が顔を出し、「田中サーン、ゴクローサン」と一斉に叫んで手を振った。終始固く結んだままだった田中の口元が急にほどけ、何度も手を振った。
九時半、田中は官邸に椎名副総裁、二階堂幹事長、鈴木善幸総務会長、山中貞則政調会長を呼び、自民党総裁を辞任すると正式に告げる。
官邸記者クラブは記者会見を要求したが、田中は十分だけと時間を区切り、しかも質問を受け付けないという条件をつけた。官邸の主になったときは「私などは、新聞にさんざんいじめられっぱなしできたから、大いに新聞を尊重しますよ」と言い、マスコミとの協調をしきりに訴えたうえ、少なくとも二か月に一回は記者会見をやると約束したのに比較すると、様変わりである。砂を噛んだようなその胸の内が分かるというものだ。
官邸クラブは会見をあきらめる。官房長官の竹下登が記者たちの前で、「私の決意」という一文を代読した。田中の心境を吐露したものである。
「ひとりの人間として考えるとき、私は裸一貫で郷里を発って以来、一日も休むことなくただ真面目に働き続けてまいりました。顧みまして、いささかの感慨もあります。しかし、私個人の問題で、かりそめにも世間の誤解を招いたことは、公人として、不明、不徳のいたすところであり、耐えがたい痛苦を覚えるのであります。私は、いずれ真実を明らかにして、国民の理解を得てまいりたいと考えております……わが国の前途を思いめぐらすとき、私は一夜、|沛然《はいぜん》として大地を打つ豪雨に、心耳を澄ます思いであります。自由民主党は、一日も早く、新しい代表者を選出し、一致団結して難局を打開し、国民の負託に応えるべきであります。私も政治家の一人として、国家、国民のため、さらに一層の献身をいたす決意であります」
いよいよ官邸を去る日が来た。田中は記者団に、
「仕事をひとつ終わった。人生における、これは一つの定年だよ」
と感慨深げに語る。
政権八百八十六日。風神のように走り抜けた二年五か月だった。身近な者にいつも言っていた。
「オレは二期六年なんかやらん。人の倍働いて一期三年で辞めるよ」
その三年にも満たずして官邸を去ることになった。
田中は、しかし、「定年」を迎えはしなかった。「私の決意」の中で述べた「新しい代表者」が、三木武夫になるとは、この時点で想像もしていなかったに違いない。文藝春秋の「金脈」特集どころではない、おそろしく巨大な波が近づきつつあったのだ。
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退陣してからの田中は目白の自邸にこもり切りとなり、姿を現さなかった。「金脈問題」で世間を騒がしたことについて謹慎していたわけでもないし、意気消沈していたのでもない。秘書を使い、猛烈な電話攻勢をかけていた。次期総裁の決定は「公選にしろ」と檄を飛ばしていたのだ。田中の命を受けた秘書や田中派議員があちこちに出没して「公選」をぶちまくった。
次期総裁を自民党議員による公選で決めるとなれば、盟友の大平の目が強まる。中曾根などの中間派がどう動くかがカギにはなるが、そのときは田中が福田に勝ったときのようにやりようはいくらでもある。
一方の大本命である福田は、話し合いによる決定を主張していた。札束が乱れ飛ぶ公選をしたら、自民党のイメージは決定的に地に墜ちる。田中が辞任を発表した日、「来るべきものが来た。今日はビッグ・デーだ」と自信満々の様子であちこちに電話をかけまくった。自ら「昭和の勝海舟」を称し、「出直し改革」を主張して止まない。その決意は相当なもので、もし主張が入れられない場合は新党の結成も辞さない覚悟だとの情報が党内に伝わる。この激しさが結局のところ自身を政権から遠ざける結果になるとは、この時点で本人は思ってもいない。
党執行部は目下の混乱を招いた当事者だから田中と同罪、いまや発言力はない。田中、大平、福田の大派閥の親分は「公選か、話し合いか」で正面からぶつかり合っており、両者の不信感は憎悪にまで高まっている。妥協困難である。
となると、調整役は党の長老しかない。永年勤続二十五年で勲一等受章組の長老六十人から成る顧問会議があったが、その長老がそれぞれ派閥の親分を担いでいる。そんなこんなで、行司役として浮上してきたのが七十六歳の副総裁、椎名悦三郎だった。
椎名は明治三十一(一八九八)年、岩手県生まれ。東大卒後、農商務省に入り、上司だった岸信介の引きで政界入りした人物。後藤新平の甥という毛並みの良さを誇っていたが、官僚上がりには珍しい洒脱な人柄で派閥を超えて静かな人気があった。
田中の任期は翌年の七月まで残っていたから、それまでの暫定政権を作ったらどうかとの構想が最初に有力になった。候補は保利茂、灘尾弘吉、それから椎名自身である。だが、保利、灘尾は椎名の打診を断る。最後の候補として椎名が残ったのが、ハプニングの原因になった。
田中が退陣して三日後の十一月二十九日、椎名は三木、中曾根、大平、福田の順で実力者を呼び、さしで会談した。三木は「党の近代化が焦眉の急」と相変わらず抽象的な言葉を繰り返す。中曾根は椎名暫定政権での幹事長をねらっているから、「おまかせします」の一言。大平、福田は公選と話し合いで対立したまま。
だが、大平との会談で椎名はうっかり口をすべらせた。
「来年夏ごろまで暫定政権を作る方法もありうる」と言う椎名に対して、間髪を入れず大平が尋ねた。
「ということは、副総裁の立場上、椎名さんということも考えられるが……」
椎名はもそもそと答える。
「体が弱いから積極的にはやる気はないが、みんなから是非と言われれば逃げるわけにもいくまい」
大平は反対した。
「重大な局面だから、経過的な政権を作るのは適当ではない
(注22)」
このへんのやりとりは、「アーウー」しか言わぬといわれた口下手の大平にしては、手際がよかった。田中あたりの入れ知恵があったのかもしれない。
実力者会談が終わると、大平は待たせておいた記者連を相手にオフレコ会見をして会談の内容をしゃべってしまったのである。
「椎名は色気を出している。行司がまわしを締めた」
こんな噂がたちまち党内を駆けめぐった。
権力に|恬淡《てんたん》としていることが売り物の椎名は、これで自らが暫定政権の主となることをあきらめざるをえなくなる。
暫定政権構想をつぶし、公選に持っていこうとする大平─田中コンビの仕掛けたワナにはまったという見方がしきりだが、大平はこれによって自らのチャンスをもつぶした。椎名はあらかじめ絶対に大平には政権を取らせないと決意していたのである。
大平は心が悪い、と椎名はつね日頃言っていた。深い恨みがあった。日中国交回復交渉のとき、椎名は外務大臣の大平に台湾に特使として派遣され、「日中は話し合うだけ」と説明している最中、北京で国交回復が成立した。椎名は赤恥をかかされた。
大平、福田は喧嘩両成敗にするしかない。暫定政権構想もつぶれた。残るのは誰か。
その頃、椎名の背筋を冷たくする情報が流れてきた。民社党の佐々木良作や春日一幸が三木や河野謙三に接近し、保革連合政権を作ろうと囁きかけたというのである。これは実際にあった動きだが、三木はバルカン政治家の真骨頂を発揮し、佐々木らの誘いにはすぐには応じぬ代わりに、拒否もしなかった。判断を示さなかったのである。
椎名は保革連合の影におびえた。佐々木らの動きは早耳の佐藤栄作にも届いた。佐藤は椎名に進言した。経歴などから見て、この際は三木でいくしかない。
たまねぎの皮をむいていき最後に残った候補として、三木の名は椎名の頭の中にも去来していた。かくて椎名の裁定は三木武夫を選んだ。世に言う「椎名裁定」である。大平は椎名によってはじき飛ばされ、中曾根は三木内閣での幹事長を射止め、福田はみずから「話し合い」を主張していたいきさつから椎名裁定に同意せざるをえなくなり、十二月九日、第一次三木内閣が発足することになる。
佐々木良作らの誘いには乗らなかった三木ではあるが、その政権の足取りを振り返ってみると、自民党ニューライトですら躊躇するような政策を次々と実行している。今風に言うなら、バーチャル(仮想)な保革連合だったと言えなくもない。
まず独禁法の改正。合併で規模の拡大を図り国際競争力を高めようとする大企業の手足をしばろうというのだから、土光敏夫を長とする経団連が怒った。当然、経済界の反発は自民党にも伝えられる。しかし、独禁法改正法案は成立。
次が政治資金規正法改正案。「党の近代化」を最大の目標に掲げる三木の肝煎りの法案だが、もめにもめ参議院本会議では可否同数となってしまった。河野議長が議長決裁で可決し成立する。
何よりも自民党長老を激昂させたのが、昭和五十年暮れ公労協ストが発生したときの三木の姿勢である。これはスト権奪還のための、違法覚悟のストで、国鉄は八日間も全面ストップした。政府与党は態度を硬化させ対決姿勢を強めていたが、三木は社会党を窓口にひそかに妥協の可能性を探った。これが漏れ、党内タカ派の椎名や灘尾は怒った。
三木は、良く言えば民意吸収型の柔軟な政治家、意地悪く言えば大衆や世論の動向におもねるポピュリストである。それに、実力で奪い取ったのではなく|瓢箪《ひようたん》から駒の政権だったから、副総裁の椎名をはじめとして小姑、大姑が周りにうようよしていた。これが三木をいら立たせ、独自色を出そうと焦らせたこともある。
結果として、政権生みの親である椎名と三木との間の距離が開き、椎名は自分の裁定が誤りだったのではないかと|臍《ほぞ》をかむようになっていく。
明けて昭和五十一年二月初めのこと。とてつもなく大きなニュースがワシントンから飛び込んできた。ロッキード社の海外不正支払いを追及していた米上院多国籍企業小委員会の公聴会で、突如、日本人の名前が転がり出たのである。
国際興業社主、小佐野賢治。
ロッキード社のコーチャン副社長は公聴会での尋問に答え、ロ社の機種トライスターを全日空に購入してもらうため、小佐野、右翼の大物である児玉誉士夫、総合商社の丸紅を仲介として、日本政府高官たちに千万ドル(当時の円換算三十億円)の政治資金を渡したというのだった。
政府高官とは誰か。小佐野と聞けば、誰しも田中を連想せざるをえない。
日本は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。ロ社の政治資金、というよりワイロは、丸紅と児玉の二つのパイプを通じて渡され、このうち丸紅を通じたワイロの金額は二百万ドル(六億円)とコーチャンは証言した。誰か強い権限を持つ政府高官がロ社機種の購入を強引に決めたに違いないという状況証拠はあった。それまで全日空は三井物産を通じてマクドネル・ダグラス社のDC10十機を買うことを決めており、ダグラス社の工場には全日空のマークを付けた飛行機がすでに並んでもいた。それがくつがえっていたのである。
二月六日、衆議院予算委員会はこのロ事件を取り上げる。田中は自派の七日会総会で、事件とのかかわり合いを全面否定する。
だが、憶測は憶測を呼ぶ。田中が首相になった後の初の日米会談で、ニクソンの要請を受けてロ社のトライスターを買う密約があったのではないかという説も流れた。
そもそも米上院の多国籍企業小委員会のねらいは、ニクソンの不正政治資金を暴くことにあった。大統領権限を用いて外国にロ社の機種を買わせることにより、ロ社からニクソンが政治資金を受け取ったのではないかという疑いである。
三木は異常なほどの熱意をもってこの事件に取り組んだ。「事件の解明はすべての政治課題に優先する」とまで言い切った。総理でしか知りえない何かをつかんでいたのか、長い間政界の荒波をくぐってきた者に備わったカンのなせるわざか、それとも思い込みか、怨念か。
米上院多国籍企業小委員会は日本政府高官の名を暴くことが目的ではないから、検事の尋問による米司法省や連邦証券取引委員会の内部資料の詳細は分からない。しかし、三木はフォード大統領にわざわざ親書を送り、資料の提供を要請した。キッシンジャー国務長官は「政府高官の氏名が公表されることは、相手国の安定を損なう」として難色を示す。
だが、地検特捜部はあきらめず、ねばり強く交渉して、ついに米側資料を手に入れた。
資料は極秘扱いされたが、ワイロを受け取った政府高官の名が記されていた。丸紅ルートの五億円の受け取り人の名は「TANAKA」。
これだけで地検は立件するわけにはいかない。どうしてもコーチャン副社長の尋問が必要だった。ここで、日本の捜査史上、例のない手段に訴えることになる。
本来ならコーチャンを日本に呼んで尋問すべきだが、コーチャンとしてはのこのこ日本にやってきてワイロを出したことを認めたりしたら、日本の法律が適用され贈賄罪になり、その場で逮捕されてしまう。そこで、三木内閣は米国の連邦地裁が代わりになってコーチャンを召喚し、日本へのワイロについて供述を取ってくれと依頼したのである。これを専門用語で嘱託尋問と呼ぶ。
それでもコーチャンが真相を全て話してくれる保証はない。米側司法当局は、十分な供述を引き出すため条件を付けた。贈賄の罪が明らかな証言をコーチャンがしても、彼を罰しないという刑事免責を保証してくれと日本の最高裁に要請したのだ。そうすれば、証言記録を日本側に引き渡すという。
ありていに言えば、証人との取り引きである。知っていることを全部しゃべれば罰しないというやり方で、米国ではしばしば用いられる方法だが、日本では違法である。
だが、最高裁はコーチャンの刑事免責を決議、「嘱託尋問された人々は日本では刑事的な問題にかかわらなくてもいい」という、異例の「宣明書」を出した。最高裁の「不起訴宣明」である。
こうして嘱託尋問は行われ、地検はコーチャンの証言を取った。
地検はワイロの仲介役を担った丸紅元専務の大久保利春を逮捕、その自供を得る。大久保は明治の元勲・大久保利通の孫で、古武士のような男である。良心の呵責に耐えかねたのか、社長(当時)の檜山広とともに田中へのワイロのことを話し合い、五億円を渡すことにして、その打診のため昭和四十七年の夏、目白の田中邸を訪れたと語った。
大久保に続いて逮捕された檜山は、大久保とともに田中邸に行った折、ロ社が五億円の献金をする用意があると伝えたと述べた。なお、このとき大久保は檜山の合図で席を外したとしている。
ロッキード社の飛行機を全日空に買ってもらいたい、丸紅を支援してほしい、総理から閣僚に働きかけてほしいと頼む檜山に対して、田中は「よっしゃ、よっしゃ」とうなずいたというのが檜山の供述である。
檜山と大久保の訪問後、同じ丸紅の元専務である伊藤宏が窓口になり、ワイロは数回に分けて田中の秘書である榎本に渡したという自供を特捜部は得る。
こうして、特捜部はとうとう最後のターゲットにたどり着いた。田中逮捕の決断を下したのである。
昭和五十一年七月二十七日午前五時半のことだ。東京地検特捜部検事の松田昇は部下三人とともに黒塗りの車に乗って検察庁の庁舎をすべり出た。
松田は前夜、庁舎のわきにある鳩小屋と呼ばれる小さな宿舎に泊まった。新聞記者の夜討ち朝駆けをかわすためである。検察庁の守衛は前夜、某大新聞社会部の記者に「松田さんが庁舎から出てきませんが、どうしたのですか」と尋ねられている。庁舎の前で張り込みされてはまずいと判断し、早く出た。
目白に向かう途中、靖国神社に寄る。両手を合わせ、「民主主義の原則を貫くためにはやらざるをえません。どうか力を貸して下さい」と英霊に祈った。その日も盛んにセミが鳴く真夏日になろうとしていた。
目白の田中邸の前で部下三人は車を降り、素知らぬ顔をして近づく。警備に当たっていた巡査に松田は車の中から短く「地検の者だ」と告げた。門が開く。母屋の玄関をくぐる。書生が出てくる。
名刺を渡し、
「ちょっと用があって参りました」
と言うと、書生はすさまじい音を立てて二階に駆け上がっていった。
応接間に通される。長い時間が経過した。部下のひとりが、
「上がって見てきましょうか」
と指示を求めた。逮捕に来た検事を待たせておいて容疑者が自殺するケースがたまにあるからだ。
「待て」
松田は首を振った。
やがてしっかりとした足音がして背広姿の田中が降りてきた。松田らは立ち上がる。
「松田君だね?」
立ったまま田中は尋ねた。
「そうです」
「今日は早いね」
「ゴルフに行かれてしまうと大変だと思ったものですから」
田中に動揺はなかった。静かな、動かぬ覚悟のようなものが異様な迫力になって伝わってくる。
「キミは入省何年?」
検察では普段「入省」という言葉は使わない。ちょっと戸惑ってから松田は答えた。
「任官十三年です」
「そうか。十三年か……。偉いもんだな」
「先生、これからちょっと地検の方にいらしていただけませんか」
田中は松田とともにゆっくりと歩き出しながら言った。
「わざわざ出向いてくれなくても、電話一本くれれば、こちらから行ったのに」
政治家を連行するとき、普通はこうはいかない。多くの政治家は「なんの理由があって行かねばならないのか」とか、「容疑はなんだ」とか、「令状を見せろ」と言い、居丈高になる。しかし、田中の態度は堂々としており、見苦しさがいささかもなかった。
家の者は動揺している様子だったが、田中は靴をはきながら後ろを振り向いて鋭く言った。
「かりにも一国の総理大臣だった人間の家族だろ。うろたえるな。留守はしっかりやれ。すぐ帰るから、心配するな」
田中を両側からはさむようにして車に乗る。部下の一人は目白に残る。途中で松田は電話を入れ、どこに連行するか上司に指示を仰ぐ。人目につかぬ場所で尋問する場合もあるからだったが、上司は検察に連れてくるようにと命じた。
車は検察庁の庭に入る。「立ち入り禁止」の縄の前で車を止め、外に出る。多くのカメラマンがいたが、シャッターの音がしなかった。みなが呆気にとられていたのである。この瞬間を松田は「白い時間だった」と振り返っている。もしかしてとは思っていただろうが、まさか本当に前首相が逮捕されてやってくるとはみな想像していなかったのである。田中の逮捕はそれほど衝撃的だった。
遠くから走り寄ってくるカメラマンの一群があった。そのとき気がついたように誰かがシャッターを押した。せきを切ってフラッシュの嵐が起きた。
だから、田中が車から出てくる写真は残っていない。白い時間があった証拠である。
その日の午後、松田は田中を検察庁から小菅の拘置所に連れていくことになった。被疑者を拘置所に連れていくのは検事といえども気持ちの良い仕事ではない。しかし、上司は松田をとことん使うことにしたようだった。
午後二時頃、松田は検察庁五階の五一二号室に出向いた。大きな調べ室で、ここで田中は簡単な尋問を受け拘置所に行くことになっていた。
調べ室に入ると、机の上に二通の紙が置いてあった。目を走らせると、「離党届」とある。ひとつは自民党へ、もうひとつは田中派の木曜クラブ宛だった。その手回しのよさに松田は舌を巻く。
「さあ、参りましょうか」
と促して部屋を出る。道中長くなるおそれがあるので、トイレに誘う。二人は並んで用を足した。
出てきた田中はハンカチを忘れたらしくティッシュ・ペーパーで手を拭いた。手についた紙の残滓を払い落とす姿を見て、松田は前日、タオル地のハンカチを一枚余分に買って内ポケットに入れていたことを思い出し、
「これをお使い下さい」
と差し出した。拘置所に入ってしばらくは差し入れはきかない。田中が汗かきなのを知っていたのである。
「いや、ありがとう」
田中は受け取った。
拘置所で尋問を受けたあと、田中は保釈で出所する。間もなく松田は田中の秘書の早坂の来訪を受けた。早坂は、「松田昇様」と記した封筒と綺麗に洗濯したタオル地のハンカチを手渡した。封筒を開くと田中の直筆の礼状がしたためられてあった。
「御高配いただき心からお礼申し上げます。借用のタオルお返しいたします。いずれの日か御拝眉のおり、お礼申し述べ度いと存じます。ご自愛祈り申し上げて。不一」
のちのこととなるが、ロッキード裁判は田中側が控訴して東京高裁の第二審に移る。検察はこの事件に総力戦をしかけていたから、事件の特別公判部を設置していた。この特別公判部長に就任した松田は、法廷に姿を現さざるをえなくなる。
田中は松田の姿を見たら、すたすたと近づいてきて「あのときはハンカチ、ありがとう」と言って握手を求めるかもしれない。松田は田中の人物の大きさを感じ取り、その気さくな人柄に親しみも覚えていたから、握手に応じてもいいような心境だった。しかし、他者の目から見ると、二人の握手はいかにもまずい。マスコミの格好の餌食にされる。困ったことになったなと思ったが、その田中と目を合わす場面は幸い訪れなかった。
さて、田中逮捕の理由は「外為法違反」。いわゆる別件逮捕だった。日本中に衝撃が走っていった。
そして、翌月十六日、東京地検は田中を外為法違反に加え、本命の「受託収賄罪」で起訴した。
拘置所内での田中は容疑を否定し続けた。司法記者の用語を使うなら、落ちなかった。尋問をした検事を、人並みはずれた頭脳と気迫で終始圧倒したのである。
一方、田中が逮捕されても三木の熱情は収まりはしなかった。米側の内部資料に記録されている政府高官の複数名を公表するというのである。丸紅、児玉誉士夫の双方のルートでワイロを受け取ったとされる者たちだが、それだけで本当にワイロを受け取ったかどうかを確定するわけにはいかない。これが当時、はやりの言葉になった「灰色高官」である。
刑事訴訟法の第四十七条は「訴訟に関する書類は公判の開廷前には、これを公にしてはならない」と定めている。裁判が始まる前に「灰色高官」の名を公表することはこの条項に違反する。しかし、この第四十七条には、「但し書き」があった。
「公益上の必要その他の事由があって、相当と認められる場合はこの限りではない」である。
三木はこの「但し書き」にもとづいて名前を公表しようと司法当局に圧力をかけた。
そして、十一月、衆議院ロ特別委員会秘密会で「灰色高官」の氏名は明らかにされた。灰色高官の中には、丸紅ルートと並ぶ児玉ルートを通じてワイロを受け取ったとされる政治家の名があり、その中には中曾根の名もあった。
この間、ロ事件の対応について三木は政府・与党の首脳にも一切相談をすることはなかったのである。
ことここに到り椎名は行動を開始した。三木を政権の座から引きずり下ろそうというわけだ。自民党の幹部の目から見ると、三木のやり方はあまりだった。いくら疑わしい存在とはいえ、また権力闘争を繰り返してきた者同士とはいえ、同じ自民党という名の釜の飯を食べた仲である。|惻隠《そくいん》の情というものがあるはずではないか。
ロ事件に関しては、司直の手に任せればいい。議員の本来の仕事は国会審議にある。円高による不況は長く尾を引いている。経済の建て直し策を最優先すべきときである。五十二年度予算を上げることに全力を尽くすのが内閣の仕事のはずだ。それにもかかわらず、「三木はロ事件ではしゃぎすぎている」と椎名は断じた。
田中は保釈となり、この年の十二月、任期満了の総選挙が行われる。ロ事件で自民党は不利な戦いを強いられたのと、自民党から河野洋平ら六名が離党して「新自由クラブ」を結成したこともあり、衆議院は参議院同様の保革伯仲となった。
だが、田中はトップ当選を果たした。大久保、檜山、伊藤らの自供に対して、田中は真っ向から事実を否定した。渡した方は「イエス」と言い、渡されたとされる側は「ノー」と言う。どちらかが虚偽を申し立てていることになる。
ロ事件の判決を控えた時点で朝日新聞の実施した世論調査がある。「田中元首相は無実か」の問いに対して全国レベルでは八一%の人々が「ノー」と答えている。それに対して新潟県の人々のうち同じ答えをしたのは、五六%。無実ではないと思っている人は過半数を超えてはいるが、全国との開きは大きい。
全国では五〇%が「田中は嫌い」と答えているのに、新潟県では二〇%。新潟県で田中は圧倒的な人気があり、「明治以来、新潟県出身で自慢できる人は誰か」の質問のうち、「田中角栄」と答えた人々が五〇%もあった。次が連合艦隊司令長官の「山本五十六」である。その数は二二%。
これが選挙区の現実だった。
自民党の三木降ろしの動きは本格化し、これに福田も乗る。福田と大平が手を握り、三木は孤立。さすが手練の政治家も政権をあきらめざるをえなくなった。こうして昭和五十一年十二月七日、三木は退陣となった。
代わって登場した新首相が本命の福田だった。十二月二十三日、福田は自民党大会で満場一致によって同党総裁に就任。党では満場一致だったが、国会の勢力地図は与野党伯仲である。クリスマス・イブの衆議院で過半数を上回ることわずか一票差で、福田は首班に指名された。僅差中の僅差で、自民党は病気入院中の者まで議場に引っ張り出して投票させた。参議院でもわずか一票の差だった。
このとき福田、七十一歳。勇躍とはこのことを言うのだろう。
「異常事態のいまこそ、わが輩の年来の経綸を行うとき」と痩躯にファイトをみなぎらせていた。長く、本当に長く、待たされた出番だった。
田中と福田。前者は力で権力をもぎ取り、後者は満場の拍手に迎えられて花道から登場する。年下の田中が政権を取ったときには、福田の芽は摘まれたと見る向きもなくはなかったが、運命の女神は見放しはしなかった。
二人の順番が逆だったら、時代に最も相応しい経済政策が展開されたのではないかという見方もある。
田中が辞任した日の朝、大平は瀬田の自宅で記者団に語った。
「彼の持ち味はものごとを観念的に構想するのではなく、実践的な立場から展開していくことだった。鬼才だ。彼の本質は『成長』をめざしたものだが、時代は『低成長』に転換し、首相の体質に合わないものに変化してしまった」
石油ショックの物価高のときに自ら火消し役を任じる福田が、またその後の不況時に「日本列島改造論」を引っさげる田中が政権の座にあれば、確かにはまり役だったろう。双方ともいずれ権力の座につくことができるとあらかじめ分かっていたのなら、また狂乱物価の後に円高不況が訪れると知っていたなら、そうしたことだろう。
しかし、「if」の利かぬのが歴史というもので、権力の座は誰かに譲る姿勢を見せたとたん最終列車のように遠ざかり消え去ってしまうものなのだ。総理の座にあくなき執念を燃やしたからこそ、昭和五十一年十二月のあの時点で、福田は総理官邸の主になることができた。
福田を党側から支えるのは幹事長の大平正芳。いわゆる大福体制である。福田は例によってキャッチ・フレーズをつけるのがうまい。自らの内閣を「さあ、働こう内閣」と名付けた。円高不況を克服し、ロ事件で広がった政治不信を払拭する。「清新にして強力内閣」とも称し、外務大臣に参議院から鳩山威一郎(鳩山一郎の長男)、文部大臣に三木派のホープ、海部俊樹、厚生大臣に中曾根派の行動派、渡辺美智雄、環境庁長官に自派の青年将校である石原慎太郎を配した。
福田内閣への支持率は低かった。
その数字はわずか二八%。田中政権発足時の六二%の半分にもならない。五五年体制では最低の数字である。福田に大衆人気は沸かなかった。
だが、その政策はまことに手堅く、失政のない政権となった。
国際収支の大幅黒字と米国からの圧力を背景に、円相場は急テンポで上昇し、昭和五十三年末には一ドル=百八十円にまで達した。この時点で言うと未曾有の円高である。
福田は陣頭指揮を執り、内需拡大のため財政政策を活用する。建設公債、政府保証債を増発し、国庫債務負担行為を積極的に使う。財源を確保した上で公共事業を拡大する。また、経常収支黒字削減のため、東京ラウンドの関税引き下げの前倒しを実施、ぎくしゃくする日米経済関係を修復するため、元駐米大使の牛場信彦を対外経済担当相に起用した。こうして年率七%近くの成長を実現したのである。
順風満帆の足取りに見えたが、福田政権は発足わずか二年でつまずいた。田中政権よりも短い命となって散ったのである。
原因は福田自身の肝煎りで作った自民党総裁予備選にある。「開かれた選挙」、「あなたも総裁が選べます」のキャッチ・フレーズのもと、福田は自ら党改革実施本部長につき、全国各地で党員を募集、彼らに総裁を選ばせる予備選制度を導入した。予備選で候補をしぼり、議員による本選挙で最終決定する。全国を地域毎に分け、党員の数に従って点数を割り振るというやり方だった。札束の乱れ飛ぶ公選を再現しないため、まず候補を透明な制度のもとでしばってしまおうという仕組みである。これなら、田中に総裁選で負けたときのように、数億円をふところにしたとされる中間派が特定候補に票を売るなどというシーンは防げるというものだ。
初の予備選は五十三年十一月二十七日実施となった。このとき、党員は百五十八万人、党友十九万人。郵便による投票である。
告示は同月一日。福田は「全国津々浦々、国民はわが輩を支持している」と豪語した。豪語した勢いで、ひとつ重大なミスを犯した。「もし、予備選でトップになれなかったら、本選には出馬しない」と約束してしまったのである。それほど自信があったということだろう。ここに福田の甘さがある。「本選には出馬しない」と言ったのは暗に大平に同様の行動を迫ったものだが、大平は黙したままだった。
立候補したのは福田の他、大平、中曾根、河本。この時点で三木は河本敏夫に派の領袖の座を譲っている。
田中の得意とする攻めの局面がめぐってきた。
十月中旬の読売新聞の調査によれば、福田が断然リードしており、その点数は九百点(支持率三五・四%)、大平が三百七十点(同二一・五%)、中曾根二百二十九点(同一三・七%)、河本二十九点(三・四%)だった。調査は他紙も大同小異で、大平は消沈した。
だが、田中は逆転可能と踏んでいた。
いま考えれば当たり前のことだが、田中は党員が最後の最後まで候補者の名前を書き記さないと考えた。福田や他の候補は大半がただちに書き記して投票用紙を投函すると思い込んだ。だから、十一月中旬あたりで各地での演説を止めてしまった。だが、田中は最後まで頑張った。そのうえ、ぎりぎりまで電話攻勢をかける。どの県のどこに誰がいるか知り尽くしている。小さな町の町長のところにまで「自民党の田中ですが」といきなり電話が掛かってくる。それだけで町長は感激して投票用紙に「大平」と書いてしまう。
田中が最も力をそそいだのが大票田の東京だった。東京地区の責任者にやり手の後藤田を据えた。後藤田は都議会議員を当てにしなかった。頼むと言っても「はい、分かりました」といい加減な返事をするだけで、実際に行動してくれはしない。その代わりに区会議員に照準を定めたのである。田中派秘書を総動員し、区会議員と連絡を取り合い、党員のところを戸別訪問させる。
金をばらまくなと厳命を下した。今度こそは「金権選挙」と言われてはならぬ。金の代わりに足を使え。靴底をすり減らしたじゅうたん爆撃は物を言った。党員にはなったものの、無機質の投票用紙に名前を書いて郵送するだけではもうひとつ実感が湧かぬところに、秘書や区会議員が現れて握手してくれる。末端の党員から「来てくれてありがとう」と感謝されるほどだった。スキンシップが利いた。
結果は大平の快勝。その点数は七百四十八、福田赳夫は六百三十八、中曾根九十三、河本が四十六。
スタイリストの福田は前言を翻すことができない。引退声明を出すために記者会見に臨もうとする福田の前に、石原慎太郎や中川一郎の若手が両手を広げて立ちはだかった。国会議員による本選挙に挑むべきだと言うのだ。
だが、福田は彼らを払いのけて、会見場にすたすたと歩いていった。
「敗因について」と問われ、答えた。
「天の声も、たまには変な声がある。敗軍の将、兵を語らずだ」
そして精一杯胸を張って言ってのけた。
「総理・総裁は辞めたが、政治家を辞めたわけではない。これからも党改革に関心を持って進んでいきたい。私は『昭和の黄門』として全国を駆けめぐる。清く、正しく、たくましく、自民党をこんな風に作り上げたい」
この期に及んでもキャッチ・フレーズを忘れない。「昭和の黄門」である。だが、この黄門は生臭い。こんなことであきらめたわけではない。田中─大平連合戦線に対してあくなき執念の戦いを挑むのである。
大福逆転により昭和五十三年十二月七日、第一次大平内閣が発足する。田中によるリモートコントロール政権の始まりだ。田中はこれより先、一切の公職につかず、もっぱら田中事務所と私邸の目白から政治を動かすことになる。実際の権力と官邸における公的な権力とが二分する、いびつな構造が定着していく。それはまた田中─大平と福田─三木との、執念と怨念のまとわりつく、壮絶な権力闘争でもあった。仁義なき戦いと言ってもいいかもしれない。
その戦いの第一幕は、昭和五十四年九月の衆議院解散直後に訪れる。首相の大平は大蔵官僚の描いた「財政再建構想」に乗せられて一般消費税の導入を口にした。後の平成元年、竹下登が実現にこぎつけた消費税だが、大平の場合は時期が悪かった。鉄建公団のカラ出張やヤミ給与など政府機関の不正経理が相次いで暴露され、世間の反発が強まった。大平は慌てて消費税構想を引っ込めはしたが、野党は「増税構想を隠しただけ」と食い下がった。これに加えて「政治浄化」が争点となる。
結果は自民党の惨敗。前回の二百四十九議席すら割る二百四十八議席を獲得したに終わった。大平が目指した二百七十一議席の安定多数はおろか、過半数の二百五十六をも割ったのである。無所属追加公認を入れてやっと過半数を維持するという体たらくだった。
「なぜ負けたのか分からない」とうなだれる大平に対して、まず三木が責任追及に立ち上がった。中川や石原などの福田派の別動隊は「このままだと翌年の参議院選挙は戦えない。大平は辞めるべきだ」と福田を突き上げる。党内には「福田再登場説」が流れ、総裁選どころではなくなった。
十月中旬、大平は例によって実力者と次々に会談する。
三木は厳しい口調で、
「選挙結果を厳しく受け止め、ケジメをつけるべき」
と退陣を迫った。
口を尖らせて官邸に乗り込んだ福田は、風変わりな切り出し方をした。
「今日はあなたはキリスト、私は神だ」
「?」
クリスチャンの大平はきょとんとする。福田は攻めにかかった。
「時局は重大だ。まかり間違うとイタリアのような混乱になる。二人で腹を割って話し合おうではないか」
大平は答えた。
「あの(選挙)結果だが、私に辞めろというほどの判断が下されたとは思えない。その証拠に自民党の得票率は増えている。あなたが言うように難問が山積している。全力投球で解決に当たるつもりだ。辞めることは責任を放棄することになる」
政権続行に対する大平の決意が固いと見た福田は、苦々しい顔でつぶやいた。
「意見は平行線だな」
大平も憮然としている。
「責任を取れとは辞めろということか」
「恐れ多いがね……」
「辞めろということは私に死ねということだよ。今日のところは平行線だが、話し合いは続けようじゃないか。何か次善の策はないかね」
「次善の策は、ない」
こうして実力者会談はいずれも物別れに終わり、自民党は次期総裁を選べずに四十日もの抗争を続けることになった。大平の支持率は一七%に落ちる。党内には「総理・総裁分離論」も出る始末である。大平を総理に、福田を総裁にというわけだ。
抗争は十一月にまでずれ込み、大平は予定されていた訪韓を取り止め、代わりに岸元首相を特使として送る羽目になった。こうして自民党は総裁を決めることができぬまま衆議院本会議で、大平か福田かの首班指名の選挙を行うという、憲政の常道に反する異例の事態となった。
福田、三木、中曾根の非主流派が戦った真の相手は大平というより田中だった。田中はとかく弱気になる大平の尻を叩き、自民党分裂も辞さずという強気の勝負を続行させた。田中はいつものように議員一人一人に電話で攻勢をかけ、一本釣りしていく。つり上げた議員が福田側に寝返らないように二人一組で行動させて相互監視させる。
首班選挙のある十一月六日の朝、福田は自信満々の様子で自宅を出た。待ち受けた報道陣に片手を挙げて挨拶し、
「さあ、川中島の決戦だ。勝算はわが方にあり。国民がついているからな」
と語った。
大平はぼそぼそと、
「やってみないと分からないよ」
と言うのみだったが、結果は大平の勝ち。わずか四票差だった。
すったもんだの挙げ句、十一月九日、第二次大平内閣が成立した。
仁義なき戦いの第二幕は半年後の昭和五十五年五月に開く。
きっかけは野党の大平内閣不信任案の提出である。
この月の中旬、ワシントンでの日米首脳会談に臨んだ大平は「同盟国の役割を真剣に検討」を約した。今日では「同盟」と口にしてもごく当たり前の響きしかないが、当時はきわめて刺激的な言葉で、防衛面から日米安保体制を質的に強化していこうという意図がはっきりと現れていた。対米協調を重視する大平らしい用語だが、野党は「日本を軍事大国にしようとしている」として反発した。
これに「綱紀粛正」が抱き合わせになる。自民党議員の浜田幸一がラスベガスで大金を投じて博打をしたことが暴露されていた。この機に乗じて自民党を追い詰めようというわけで、最初は消極的だった民社党も内閣不信任案の上程に乗った。翌月の六月下旬に任期切れによる参議院選挙が予定されており、それに向かって有利な情勢を築き上げていきたいと考えていた。
与野党の勢力は拮抗しており、自民党議員十一、二人欠席すれば不信任案は可決してしまう情勢である。再び福田、三木、中曾根の非主流派はキャスチングボートを握ったかに見えた。大平─田中組をぎりぎりまで痛めつけ、内閣や党人事で主導権を握ろうとしていた。
五月十六日、大平内閣不信任案が上程される。
非主流派の面々によって結成された自民党刷新連盟は、大平に「党の綱紀粛正、抜本改革」を求め、具体案を示せと迫る。本会議開会の時刻は午後五時。
第一議員会館の会議室には福田、三木、中川、中曾根が揃い、大平からはっきりとした回答があるまでは動かないと座り込む。この時点で、非主流派はよもや本会議開会のベルが鳴るとは思ってもいない。ましてや、自分たちの欠席で、不信任案が可決してしまうとは夢想だにしていなかった。あくまでも条件闘争のつもりだったのだ。
ところが大平の返事は曖昧だった。電話をかけて寄越した大平は、
「綱紀粛正や党の改革は執行部の協議にまかせる」
とだけ返事してきたのである。
電話を受けた者がその内容を報告している最中のことだった。突然、本会議開会を知らせるベルがけたたましく鳴ったのである。
これでは非主流派も、「はい、そうですか」と出席するわけにはいかない。態度を硬化させた。これがハプニングの真因である。
内閣不信任案は可決となった。昭和二十三年十二月の第二次吉田内閣、昭和二十八年の第四次吉田内閣に次ぐ戦後三回目の内閣不信任案の可決である。
第一議員会館の会議室から赤坂の事務所に戻った福田は、「感想は?」と記者団に尋ねられ、下唇を突き出した不機嫌な顔で、
「おごれる平家は久しからずだ」
と答えた。
三木のコメントは、
「ひと晩眠ってから、ゆっくり考えるよ」
三木派の幹部である井出一太郎は、
「まったく思いもかけない展開だった。政治は本当に恐ろしい」
と正直な感想をもらした。大平に致命的な打撃を与えた二人だが、よもやこのような事態になるとは思ってはいなかったのである。
もう一人の非主流派である中曾根の行動について述べておかねばならない。第一議員会館の会議室からいつの間にか抜け出した中曾根は、採決の直前、本会議場に滑り込んだのである。いかにも風見鶏らしい変わり身の早さで、これ以降、中曾根は非主流派から離れ、田中に接近していく。
その田中は意気軒昂たるものがあった。
青ざめた顔で内閣不信任案可決の報告に来た衆議院議運委理事に、田中は言い放つ。
「しめた、彼らはひっかかったぞ。即刻解散だ」
大平内閣総辞職だと信じていた理事はびっくりした。田中は衆参両院同時解散をねらっていたのである。
こうして六月二十二日、史上初の衆参同時選挙が行われる。結果は自民党の大勝。同党は両院で安定多数を握った。
田中の読み通りに事は進んだものの、思いもかけぬことが投票日の十日前に起きた。
大平の急死である。五月末、狭心症のため虎ノ門病院に入院していた大平は、六月十二日午前五時五十四分、心筋梗塞による急性心不全のため死去した。
前日、新潟で遊説していた田中のところへ大平の秘書から緊急電話が入る。
「総理が先生に会いたいと言っています。すぐ戻っていただけないでしょうか」
夕刻、飛行機で帰京。突然の見舞いで新聞ダネを提供してはとおもんぱかり、翌朝一番で行くことにする。
だが、これが失敗だった。早朝、再び大平の秘書から電話。容態の急変を知らされる。虎ノ門病院に駆けつけたときには、すべてが終わっていた。盟友、大平の変わり果てた姿にとりついた田中はあたり構わず声を上げて泣いた。約一時間、大平の遺体のそばにいた田中ははれぼったい顔をして出てきて、何ものかに怒りをぶつけるようにつぶやいた。
「ハードスケジュールなんだよ。総理は。人間わざじゃなかった」
大平の追悼文集に田中は書いている。
「お互いは三十年余の交友であり、彼もまた最後に何事かを伝えんと求め、われもまた、そのために帰京しておりながら、生あるうちに会い、また語ることのかなわなかったのは何故なのか。このことは時が経つほど私の脳裡を去らない。このことは私の生涯を通じて消えることのないものであろう。今はただ心から亡き友の冥福を祈るのみである」
大平の死に目に会えなかった無念さがにじみ出る文である。
非主流派の攻勢を逆手にとって選挙の勝利を導き出した田中だったが、田中の強引な戦いに最も憔悴していたのは実は大平だったのではないか。
シーンは内閣不信任案の採決が終わったときにさかのぼる。
「大平内閣不信任案が可決いたしました」
と議長の灘尾弘吉が述べた瞬間、すぐ下に座っていた大平は椅子に置いた両手を突っ張って体を硬直させた。それから、野党席と自民党席を虚ろな目で見やった。のろのろと立ち上がり議場から出る。
報道陣の輪が待ち受けている。テレビカメラに照射され、一瞬よろけたように見えた。目の下に黒いクマができている。
「いまの心境は?」
と尋ねられ、十秒ほどウーとうなってから、悲しげな笑みを浮かべ、
「どうしてああいうことになったのかねぇ。私にはよく理解できない。今晩ゆっくりと考えるよ」
と言い残して去っていった。
入院してから周囲の者に、
「こういうときに偉い人は|高邁《こうまい》なことを考えるのだろうが、つまらんことしか浮かんでこず、情けない」
ともらす。
見舞いに来た三男の明に、
「夜が長くてねぇ……じっとしているのはつらい。でも、朝の来ない夜はないからね」
とも言った。だが、大平の朝はやってこず、訪れたのは永遠の夜だった。
衆参同時選挙の勝利は自民党の物量にわたるエネルギーが物を言ったためだが、大平の突然の死に対する有権者の同情も働いていたに違いない。
この頃、永田町に新語が生まれた。
「唯角論」である。マルクス・エンゲルスの唯物論をもじった言葉で、自民党内における不可解な出来事は全て田中の力によるものだというのである。福田を政権の座から引きずり落とし「天の声も、たまには変な声がある」と言わしめた大福逆転劇、わずか四票差で大平の勝利をもたらした四十日抗争、内閣不信任案を逆手に取って衆参両院での勝利をもぎ取った初の同時選挙……。全部、目白の魔法によるものと言うのだ。
田中と福田はこの時代を代表する実力者であり、二人の経歴、哲学、政治手法は対照的である。田中は自身が言うように「越後の|馬喰《ばくろう》の伜」、福田は一高・東大の金ピカの秀才、かたや「豊かさの実現」を軸に置く経済主義、もう一方は秩序を大事にする精神主義、政治手法においてはかたや結果さえよければいいという強引さを誇り、一方は話し合いを何よりも好むスタイリストである。二人はまぎれもなくライバル同士だった。
だが、戦場における力は福田は田中の敵ではなかった。正面からぶつかり合っての戦いでは福田は全て田中に負けている。
負け続けた福田ではあったが、政権の座を退いてからは田中とは全く異なり、文字通りの功成り名遂げた後半生になった。福田派を岸信介の女婿である安倍晋太郎に譲り、各国首脳と親しく交わる。元西独首相のヘルムート・シュミットなどとともにOBサミットなどを開催、「明治三十八歳」(その年生まれ)を称し、昭和天皇のご信頼も得て九十歳の人生を全うした。
反対に脳梗塞で倒れるまでの田中は、阿修羅の如く戦い続けた。それほどまでに死力を尽くして一体、なんのために誰と戦い続けたのだろうか。真の敵はどこにいたのか。
田中が戦い続けたのは、実は自分自身の影ではなかったか。
福田と三木は田中という存在がなければ大平とあれほど苛烈な戦いを展開はしなかっただろう。大平もまた自身の心身を消耗しきるほどの戦いには応じなかったに違いない。
唯角論の筆法を用いるなら、存在するのは田中ひとり。田中は自分自身が生み出した化け物と戦っていたのである。
岸壁に突き当たっては跳ね返ってくる大波にも似て、あるいは強く投げれば強く戻ってくるブーメランにも似て、田中が戦いのボルテージを上げれば上げるほど相手のボルテージも上がる。唯角論が現実味を増すほど、田中は壮絶な戦いを挑まねばならなくなり、傷つき、孤独になっていった。
自分よりも力において勝る者のいない不幸である。力の勝る者がいれば頭を叩き行き過ぎを抑制してくれもしようが、それがいない。奔馬に引きずられる無人の馬車のようにどこまでも荒れ狂う自分の分身についていかねばならない。
大平が無念の死を遂げた時点で、自身の政治の名分が喪失したことに田中は気づいていなかった。日中国交回復は実現し、大義は成就した。最大の政治目標だった「日本列島改造論」はインフレの波にさらわれ消え去った。
政権の座を去った後に残った名分は友情である。義理と人情。大平に政権を取らせ、その行く手を阻む者を退ける。そのためにあらゆる手段を用いた。
だが、お互い相手のためなら犬馬の労をいとわぬ盟友は、この世から去った。
大平が死んだ、そのときを区切って、田中は政界の第一線から退き、三国峠の向こうに戻っていくべきだったのかもしれない。
だが、それができなかった。できないどころか、田中派はブルドーザーのようにあたりのものを蹴散らし、膨れ上がっていった。
田中のあくなき権力欲のなせるわざではあるが、同時に田中をして引くに引けない思いにさせたのがロッキード事件の裁判である。
一国の首相が、外国の一企業からワイロを受け取ったなどということを法的に認知させるわけにはいかない。田中は戦い続けなければならなかった。
田中がロ社からのワイロを丸紅を通じて受け取ったかどうかを立証するのはこの本の目的ではない。だが、ロ事件は田中とのかかわり合いによって起きた。少なくとも世の中はそう受け取った。ここにおいてもまた、田中は自分の影と戦っていたことになる。
ロ事件裁判で三十人を超す大弁護団を結成し、検察と対峙した。田中を起訴して法廷での争いに臨んだ検事の堀田力は、しかし、戦いやすい相手だったと回想する。
田中は持ち前の記憶力の良さと猛勉強によって事件を研究しつくしていた。実質的な弁護団長は田中だったのではないかと堀田は振り返る。だから、裁判中、堀田は田中の表情をひたすら観察した。検事側の発言に対して田中は正直に反応する。表情を変えたり、変えなかったりで、急所を突かれると顔に朱がさす。どこが痛いポイントかが手に取るように分かる。
裁判は田中の予想に反して被告側に不利に展開したが、その一因はここにあった。
とすると、田中は自分の影と戦っていただけではない。自分の影に復讐されていたことにもなる。
大平の後を継いで政権を引き継いだのは鈴木善幸。大平派の大番頭である。
鈴木は明治四十四(一九一一)年一月、岩手県の網元の家に生まれ、農林省水産講習所を卒業、漁業団体に勤めた後、総選挙に出た党人派の政治家だが、手堅い行政手腕が買われ池田内閣では官房長官もこなした。何よりもその温和な人柄が敵を作らなかった。
大平のピンチヒッターとして田中に押し立てられての登場である。党内は相次ぐ政争に疲れてもいたし、大平が悲運の死を遂げたこともあって、大平派の鈴木の登場に異を唱える動きはなかった。
昭和五十五年七月十七日、鈴木内閣発足。
世間は鈴木の名を知らず、官邸に入ったときには「ゼンコー・WHO?」の言葉が流行ったほどだ。本人は「和の政治」を唱えて、ささくれ立った自民党内の空気を修復しようと努めたが、その政権は一年半足らずで終わることになる。
自ら政権を投げ出したのだ。きっかけはワシントンでの日米首脳会談にあった。ここで鈴木はレーガン大統領の対ソ強硬路線に引きずられ、現地での記者会見で「シーレーンの防衛」を公約したかのような発言をしてしまう。これが大々的に取り上げられ、窮地に立つ。実際は防衛問題にそれほど詳しくはないうえ、初の日米会談後の記者会見とあって緊張気味なところを猛者連の揃ったワシントン記者会につつき回され不用意な発言をしてしまったわけだが、世間はそうは取らなかった。
帰国後、伊東外相とも対立。「人心の一新」を唱えて、あっさり辞意を表明した。鈴木には権力の座にしがみつく田中のようなアクの強さは望むべくもなかった。
鈴木の放り投げた政権の座を誰が取るか。いや、誰に取らせるか。
田中は動いた。大平内閣不信任案の採決直前に衆議院本会議場に走り込んだ中曾根に、白羽の矢を立てたのである。
中曾根にひそかに連絡を取り、彼を支持する代わりに党三役と閣僚人事に条件を付ける。その条件たるや、驚くべき内容だった。
次は自分と踏んでいた中曾根は、田中から連絡があったときには官房長官を自派からではなく田中派から起用するつもりで、その候補を後藤田正晴とすでに決めていた。後藤田は自分と同じ内務官僚出身で気脈を通じている。
官房長官は内閣のスポークスマンである。総理と一心同体の立場になれる人間でなければならない。総理派閥からの起用が常識だが、それをあえて破ろうとしていた。そうすれば、田中は満足してくれると考えたのだ。
だが、田中の要求はそれどころではなかった。後藤田を官房長官にするという中曾根の言葉に田中はうなずきはしたが、幹事長に二階堂進の留任を、法務大臣に参議院議員の秦野章を指名した。
後藤田と秦野はともに警察関係の出身だ。中曾根には、田中の腹が読めた。ロッキード事件公判が進展している。翌年早々には論告求刑も予定されている。田中は司法関係者ににらみを利かせようとしている。
中曾根は田中の要求を呑んだ。
ところが、田中はそれでも満足しなかった。
「わが派からは少なくとも六人の閣僚を送りたい」
と告げたのである。これにはさすがの中曾根も頭を抱えた。秦野は田中派ではないが、親田中系議員として知られている。そうすると、田中勢力は新内閣で七人を占めることになるではないか。
だが、中曾根は結局のところ田中の法外な要求を拒まず、予備選に臨んだ。とにかく政権を取りたかったのだ。
昭和五十七年十一月二十四日、東京・晴海の国際貿易センターで行われた予備選で中曾根は、田中派と鈴木派、それに無派閥議員の一部の支持を受け、圧倒的多数で二位の河本敏夫を引き離し、自民党総裁に指名される。
官邸に入った中曾根は、一人で総理室にこもり、電気もつけぬまま二時間、人事構想を練った。秘書官が心配になり覗いて見ると、闇の中に微動だにせぬ中曾根の大柄な姿がある。秘書官は「鬼気迫るものがあった」とのちに述懐したほどだ。
人事構想を練っていたというより、覆いかぶさろうとする田中の影と中曾根は闘っていたのである。幹事長に二階堂の留任、官房長官に後藤田の起用、法務大臣の秦野に加え、田中派から六人の閣僚を迎える。それで世の中は納得するだろうか。いや、するはずがない。だが、田中の力なくして政権は維持できはしない。いくら考えても、道はひとつしかない。田中の要求通りの内閣を作る。その後できることなら、田中の力を徐々に削いでいけばいいではないか。
そう結論を出した中曾根は田中の要求通りの政権を作ることにした。中曾根から閣僚候補名簿を渡されたとき、田中派の二階堂ですら、えっと大きな声を出した。総理の派閥である中曾根派からは党三役はゼロ。閣僚も通産相の山中貞則と郵政相の檜垣徳太郎の二人だけだ。
余談だが、政治家とは大臣病患者のことである。いついかなるときに大臣になれるか分からぬから、政権発足や内閣改造時には、フロックコートを洋服ダンスから出してナフタリンの匂いを抜く。大臣に内定の情報を聞かされフロックコートを着て自宅で待機するなどということはざらである。他者にその機会を奪われた政治家が、憤慨のあまり奇声を上げ、フロックコートのまま自宅の池に飛び込んだというエピソードすらある。
中曾根政権発足の瞬間、何人の中曾根派議員がフロックコートを用意したことか。
だが、フロックコートのはかない望みは、田中によって破られた。
十一月二十七日、中曾根内閣発足。
轟々たる批判の中の政権発足だった。
新聞の見出しが躍る。「屈角内閣」、「角営体制」、「田中曾根内閣」、「ロッキード・シフトで“角噴射”でスタート」……。
中曾根は精一杯に胸を張った。
「戦争が勃発したか、大震災が発生したかのような新聞の見出しだが、それは覚悟の上。仕事のできる人材を集めた。私の全責任でやる。これは『仕事師内閣』だ。猛烈なスタートダッシュでいく。来年で勝負をつける。それで倒れてもいい」
だが、中曾根政権は一年などで倒れはしなかった。それどころか、終わってみれば五年、戦後三番目の長期政権となったのだ。「中曾根は少なくとも三、四年はやるぞ」と当初から予言していたのは、政権生みの親となった田中だった。この頃、田中は「総理・総裁なんていうのは(いつでも代えられる)帽子みたいなもの」と豪語していた。自分たちに都合の良いかぎり中曾根にやらせてやるという意味でもある。
明けて昭和五十八年一月二十六日。ロッキード裁判丸紅ルートの論告求刑公判。
東京地裁七〇一号法廷で検察側は、田中に対して受託収賄罪の最高刑を求刑した。懲役五年、追徴金五億円である。
予想されたことではあるが、厳しい求刑だった。
目白に詰めかけた田中派代議士がいきり立つ。
「論告・求刑は通過点に過ぎない。田中はこれまでも厳しい風雪に耐えてきた。無罪を勝ち取るまで頑張る」
「田中軍団は微動だにしない。オヤジが逮捕された後だって、田中派の結束は守れた。派を割って結束を乱すようなことはしない」
田中はその一人一人と握手をした。
「ありがとう。頼むよ。オレは無罪だ」
それから九か月後の十月十二日、起訴から数えて七年目、東京地裁は丸紅ルートの第一審判決を下す。田中には懲役四年、追徴金五億円。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役二年六か月、専務の伊藤宏が懲役二年、同じく専務の大久保利春が懲役二年・執行猶予四年である。求刑とさして変わらぬ判決だった。
田中はただちに保釈の手続きを終え、目白の私邸へとまっしぐらに戻る。濃紺のクライスラーは新聞社の社旗を立てた車を振り切った。
玄関には田中派代議士十数人が出迎える。紺の背広にグレーとブルーのネクタイを着替えることもなく、そのままどかどかと奥のホールに入る。ここでも田中派代議士が待ち受けており、なぜか一斉に拍手が起きた。厳しい判決を喜ぶわけがない。「オヤジよ、よくぞ屈辱に耐えた」という意味の拍手なのだろう。
田中はだみ声を張り上げて挨拶した。
「心配をかけて、悪かった。もちろん判決は承服できない。こんなのは判決じゃない。とんでもないことだ」
この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三は、憤りに満ちた「田中所感」を読み上げた。
「本日の東京地裁判決は極めて遺憾である。私は総理大臣の職にあったものとして、その名誉と権威を守り抜くために、今後も不退転の決意で闘い抜く。私は生ある限り、国民の支持と理解のある限り、国会議員としての職務遂行に、この後も微力をつくしたい。私は根拠のない憶測や無責任な評論によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を守り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続ける」
居直りとさえ受け取られかねない激越な調子である。
この頃、田中は書を頼まれると、「|櫛風沐雨《しつぷうもくう》」としたためた。風に髪をくしけずり、雨に体を洗う。いかなる艱難にも負けはしないという意味だ。ひたひたと押し寄せる運命の寒気に髪振り乱して立ち向かう。その姿は凄惨ですらあった。
新潟県・長岡中学卒業の、歴史家の半藤一利氏に新潟県人論をうかがったことがある。新潟県人には鬱積したものがあり、追い詰められた状態で武器を持たせると狂気のような行動に突入するというのだ。
たとえば長岡藩家老の河井継之助。戊辰戦争で官軍に追い詰められた。河井はいまでいう機関銃に相当するガットリング銃を手に入れていた。当時では、政府軍にもない最先端の武器である。
和平を申し入れたにもかかわらず官軍本部にいた土佐藩士の若い軍監、岩村精一郎ににべもなく要望を退けられた。談判は決裂となり、ガットリング銃は火を噴いて官軍兵士をなぎ倒しはした。徹底抗戦に挑んだため長岡の町並みは焼き尽くされた。やがて刀折れ矢つき、長岡藩は完膚なきまでに叩きのめされる。
また、たとえば山本五十六。やはり長岡市の出身。昭和十六年、米英中のABCに包囲され、経済封鎖された日本は対米開戦に追い込まれる。御前会議で「勝算は?」と問われた山本は、それまで対米戦に消極的だったにもかかわらず、「一年くらいなら、暴れまわってみせましょう」と答える。山本を狂わせたのは、優秀なる戦闘機のゼロ戦と魚雷だった。米軍は山本五十六の国民的な人気をよく知っており、日本人の心をくじけさせるため、長岡に爆弾の雨を降らせた。
新潟県人には宗教家や革命家が多い。合理的に物事を考えるより、情念に生き、ときに非合理の世界に自身を燃焼させ爆発させていくところがある。
追い詰められた田中が手にしていた武器とは何か。それは数であり、数を実現する金だった。数は力なり。田中は数の獲得に異常なほどの執念を燃やした。
追い詰められれば追い詰められるほど、数を獲得してはね返そうとする。その姿は相場の下落で損失を出し、これを取り戻そうとして買い占めに買い占めを重ねる投機家の悲愴な姿に似ている。買い占めで相場は上がるが、池の中の鯨になったようなもので、市場で自身の占める割合が巨大になり、益を実現しようとして売ろうとすると相場がそれだけで下落してしまう。だから、永久に買い続けるしかない。
昭和五十八年元旦の目白邸の風景を描いてみよう。
正門右側のポールには日章旗がはためく。奥のホールは詰めかけた代議士や後援会で溢れるばかり。この時点で田中派木曜クラブのメンバーは衆議院が六十五名。参議院が四十四名。合計百九名の多きに達していた。
ホテル・ニューオータニからやってきた出張宴会用の二トン車が門をくぐる。オードブルの到着だ。テーブルの上にはすでにビール、オールドパー、レミーマルタンが並び、お節料理が色とりどり。ブリと大根の煮つけも皿一杯に置いてある。田中の好物だ。
朝からひっきりなしの客は午後四時頃までに四百人を超える。
もちろん陳情はオーケー。田中派には建設、郵政、運輸、財政、厚生、全ての専門知識を持つ議員とそのスタッフがおり、総合病院と称している。困ったことがあって持ち込めば、たちどころに解決策を教えてくれるだけではなく、適切な人を紹介してくれる。
あちこちで爆発する笑い。ホールを遊泳する人々。田中の周りにはつねに人の輪ができる。握手を求める何本もの手。まさに我が世の春だが、この光景の底辺にはどこかひんやりした虚しさがあった。派手に叩いても、音が抜けていく、破れ太鼓のような虚しさである。
圧倒的な数とバイタリティーと知識と人脈を有しながら、この派閥には総裁候補がいなかったのである。親分の角さんは言う。
「この世はかごに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人から成り立っている。そのワラジを作っているのが諸君だ」
でも、いつまであんなボロみこし(中曾根のこと)をかつがされるんだ――笑い興じた風をしてはいるものの、虚しさが各人の胸をよぎっていた。
権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗するとは英国人の言葉である。権力はどのような理由で腐敗するか。目的を失ったときである。権力は目的を達成するための手段に過ぎないが、いつの間にかその目的を失い、手段である権力が目的そのものになる。
腐敗とはワイロが横行するという意味だけではない。目的を失った権力は、何かをやり遂げようというロマンを失い、ただ利権を追うだけの組織になってしまう。組織は自分たちにしか分からない言葉や掟をつくり出し、自己増殖を繰り返す。やがて適正規模を超え、活動を維持できなくなり、突然、崩壊する。
このうえなく華やかな田中邸の光景だったが、腐敗が深く進行していた。リーダーの田中が目的を失っていたからだ。大平他界後、田中には最早政治家であり続ける名分がない。予測しうる将来、官邸の主になる見込みもない。
では、この強力なる百九名の集団はなんのために存在しているのか。最大派閥として膨張するためだけにあるのか。親分の田中のロ事件裁判を有利に導くためだけにあるのか。
はたはたと、破れ太鼓の虚しい音が人々の胸の中で鳴っていた。
だが、親分の田中は負けまいという情念に凝り固まったまま突き進もうとしている。
昭和五十八年の十月下旬、田中の一審有罪判決があった後のことだ。田中の秘書である佐藤昭子は中曾根の手紙を代理の者から受け取った。表には「田中大兄」とだけ記されており、封はしていない。中を読んでくれという含意である。
代理の者は言った。
「この手紙を大先生に見せようが見せまいが、あなたの意思に任せます」
中を読むと、中曾根は田中に議員の辞職を求めていた。議員バッジを外してさえくれれば、自民党は選挙で大勝できる。田中も勝てば復権できるではないか。丁寧な文面でこう訴えていた。
ロ事件の第一審判決で有罪になれば田中は議員を辞めてくれるだろうと中曾根は期待していた節がある。ところが、田中にその気配はなかった。この間、中曾根が「角さんは育ちが悪い。百姓の小伜ではないか」と言ったという風評が流れたりして、田中も中曾根への不快感をつのらせていた。
佐藤は返事を書いた。
「田中の気持ちは私が一番知っている。自分が無実だと信じている田中は辞めるつもりなど毛頭ない。手紙を見せても田中の血圧が上がるだけだ。手紙は田中には渡さない
(注23)」
田中に総理にしてもらった中曾根だったが、徐々に田中とは距離を置き始めていた。田中派が衆参同時選挙をと息巻くのを抑え、年末ぎりぎりまで総選挙の時期をずらしもした。
しかし、国会は野党の審議ストップがたたり、重要法案が進まない。法案を通すという条件で解散に打って出るしか他に手のない情勢になっていた。
だが、田中問題に決着をつけぬまま解散などしたら、党の足並みはばらばらだし、野党にサンドバッグのように叩かれたままの闘いになってしまう。田中とは心中したくないの一心で手紙を書いたのだが、佐藤ににぎりつぶされた。かくて、議員は絶対に辞めないと頑張る元首相・田中とともに、自民党は十二月十八日の総選挙を迎えざるをえなくなったのである。
結果は惨敗だった。自民党の議席は二百五十を割り込み、追加公認の九名を加えてやっと過半数を押さえるという体たらくだった。
しかし、新潟三区の景色だけは違った。田中の得票数は二十二万七百六十一票。得票率四六・六五%。ほぼ二人に一人が「田中」と書いた。「先生に恩返ししよう」の意識のもとで選挙民が結束した。首相在任のときの十八万二千六百八十一票をもはるかに上回る得票で、田中は上機嫌。ウイスキーをぐいぐいあおり、「この得票は、県民の声なき声が爆発したものだ。私も心を新たに県のため国のため全力を尽くす」と怪気炎を上げていた。
なお、このとき作家の野坂昭如が立候補して敗れている。
田中がいくら気炎を上げても、中曾根の気分は沈むばかりだ。思えば、このときが中曾根最大の政治的危機だったのではないか。組閣どころか党三役もなかなか決まらない。
五日後の二十三日、自民党本部の四階にある総裁応接室に二階堂幹事長、田中六助政調会長などのほか、党の最高顧問会議の面々が集まった。岸、三木、福田、鈴木の総理経験者に議長経験者が加わる。
会議は三木が口火を切った。
「今回の結果について総理はどう考えているのか」
「力及ばずで、大変申し訳なく思っている」
「総理が詫びて済む話ではない。本来なら総理・総裁の辞職を表明すべきだ」
三木はひそかに計略を練っていた。新自由クラブの田川誠一や河野洋平などと組み、自派の河本敏夫を首相候補にかつごうとねらっていたのだ。だから、会議を意図して決裂させようとしていた。途中、何度も腰を浮かして席を立とうとしたほどだ。
三木の発言に二階堂が怒った。
「そこまで言われるのなら、三木先生、あなたがやられたらどうですか。その決意はありますか」
それでは自分がやろうとは三木は言えない。三木派の領袖の座をすでに河本に譲っている。
出席者が沈黙したところで中曾根がポケットからメモを出した。
「こういう総裁声明を出そうかと思っているのですが」
メモの内容は田中(六)とあらかじめ打ち合わせたもので、岸には田中(六)が根回ししてある。中曾根はメモを読み上げた。
「今次選挙において多数の議席を失ったことにつき、総裁として責任を痛感しております。敗北の原因は、政治倫理への取り組みについて、国民に不満を与えたことなどであったと考え、ついては党外の人の影響力を排除し……」
党外の人とは田中のことに他ならない。そこまで読んだとき、福田がしょっぱい声で、
「ちょっと待った」
と叫んだ。
「党外の人とはなんですか。生ぬるい。田中氏とはっきり書いたらどうです」
福田に三木が同調する。ところが、岸が田中(六)との打ち合わせ通り中に入った。
「総裁声明で党内の結束が保たれるのなら、異議はない。あとは文案でしょう。福田君たちでまとめてくれよ」
岸は福田の師匠格に当たる。こう言われると、無下に駄目だとは言いにくい。岸はボールを福田に投げ、さっさと席を立ってしまった。
三木も続こうとする。だが、二階堂が身を投げ出すようにして三木を止めた。
「三木先生、あなたも一緒に内容を検討して下さい」
三木は外に飛び出すタイミングを失した。
二階堂が今度は声明の文案を作った。
「党外の人の影響力を排除し……」を「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」とはっきり書いた。田中派の重鎮である二階堂がそこまで書くなら福田も三木も文句が言えない。こうして中曾根の「田中排除」を謳った総裁声明は出来上がり、三木の描いた連合政権は幻となって終わった。
正面切って「田中排除」の総裁声明が出たにもかかわらず、田中は組閣に当たろうとする中曾根に、党三役のひとつと閣僚ポスト六つを田中派に割り振れと要求した。
田中は退くことを知らない。その強引さが墓穴を掘る結果になる。強引さは成功すれば「唯角論」などと言われ神秘的な力になるが、一度失敗すればたちどころに神通力を失う。
政治とは大きな竜巻のようなもので、その中心に力があるかぎり人を吸引するが、少しでも衰えたと見られると、人は離れていく。昭和四十七年夏、田中が福田を蹴落として政権を握ったときもそうだった。あれほど強い影響力を持った佐藤だったが、四選で終わりとみなが確信したとたんに力を失い、意中の人である福田にバトンをタッチすることができなくなってしまった。
中曾根は表面上は田中の要求を受け入れ、党三役のひとつである総務会長に金丸信を充て、閣僚に田中派から六人を起用しはしたが、田中の顔をしかめさせるような人事をやってのけた。田中が強く押した後藤田の官房長官留任を退け、自派の藤波孝生を登用したのである。内閣最大の課題は「行政改革」だから、切れ者の後藤田の手腕に期待したいという理由をつけたが、中曾根の田中に対する反逆と言ってもいい人事だった。あんなチンピラ(藤波のこと)に何ができると田中は叫んだが、中曾根は自分の案を通した。
政治のダイナミズムが次第に目白から離れつつあった。田中の足元である木曜クラブの中で、不気味なマグマが動いていた。総裁候補を持たぬ最大派閥。人々の心の中で鳴った虚しい破れ太鼓が、何か別のものを渇望していた。
それが竹下登であり、金丸信だった。
第二次中曾根内閣で、竹下は蔵相として留任した。「藤波官房長官」とあわせ、田中の神経をいら立たせたもうひとつの人事である。田中は竹下をかねてから警戒していた。
敵対関係に入る前、三木に言ったことがある。「キミのところに海部というのがいるだろう。あれをうちの竹下のようにしてはだめだ」
海部俊樹と竹下は同じ早稲田大学卒。同窓会に手を握らせるなという意味だけではなく、寝首をかかれぬよう用心しろという意味も含められていた。
竹下と金丸はたとえば若い小沢一郎や羽田孜などと異なり、子飼いの田中派ではない。元は佐藤派に属し、佐藤政権の末期、まさに田中が佐藤から権力を奪おうというとき、最終列車で田中派に飛び乗った。だから、彼らにとり田中は兄貴分であっても、師匠とはいえない。心服し切ってもいない。
田中はそれを知っていたから、竹下には心を許さなかった。
竹下は大正十三(一九二四)年、島根県に生まれ、早大商学部卒後、中学校の教師になる。青年団活動を足掛かりに島根県県議に当選、やがて中央政界に駒を進める。「明治以来、県議上がりで総理大臣になった者はいない」というのは田中の言葉で、竹下を指していることはみな分かっていた。
竹下は同じ党人派ではあったが、田中とは肌合いが異なった。両人をよく知る羽田は、『小説田中学校』で、「竹下は用心深い政治家だ。田中流の剛胆なカネ集めや、ばらまきとは一線を画していた。この竹下の慎重さはむしろ官僚出身の佐藤に近い」と述べている
(注24)。
竹下の凄味は目的のためなら、どんな屈辱にも耐えてみせるところで、願いをかなえてくれるというのなら土下座でもなんでもする。「気配りの竹下」と言われる苦労人そのものの男である。
肌合いは異なるが、田中の手法をそっくりそのまま真似もした。四十七都道府県の政界人脈のみならず、中央官庁の課長以上の入省年次・血縁はもちろん、どの派閥につながっているか、親しい同僚は誰かまで|知悉《ちしつ》していた。暗記力も田中に似て、現職議員全員を年齢順にぴたりと並べてみせることもできた。
竹下を警戒はしていたが、まさか田中派を乗っ取るまでのことはできまいと田中は思い込んでいた。
田中の直感はある意味では正しい。竹下は田中の前に行くと、蛇ににらまれた蛙のようにすくむ。迫力ではかなわないのだ。
竹下を助ける、いや、飛び込み台から突き落とす男がいなかったら、竹下は行動を起こしはしなかっただろう。その男がいた。
それが金丸信である。
大正三(一九一四)年生まれは竹下より十歳、田中よりも四歳上である。
山梨県生まれ。東京農大専門部卒。中学校教師のあと家業の醸造業を継ぎ、選挙に打って出る。佐藤内閣で国対委員長。もっぱら野党との切ったはったや取り引きに明け暮れた猛者である。将棋の駒のような四角い顔をして、何を考えているのか分からぬような茫洋とした容貌だったが、なかなかのやり手で、しかも豪胆な男だった。金の集め方も田中流で派手だった。それがたたり、のちに佐川急便から五億円の不法な政治献金を受けていたことが明らかになり、失脚する。
竹下の娘は金丸家に嫁いでおり、二人は運命共同体の関係にある。竹下を可愛がり、いつの日にか総理にと夢見ていた。金丸の強さは自身に総理への野心のないことだ。自民党の歴史は、保守合同を実現させた三木武吉、田中に権力を握らせるうえで大いに力を貸した川島正次郎、三木政権を実現した椎名悦三郎の例でも分かる通り、裏方に徹しようとする、この種の男によって動かされる。
金丸は丸い小さな目の奥で思案する。竹下を総裁候補に押し立てるには、田中のお墨付きをもらわねばならないが、どうやら竹下は田中のお眼鏡にはかなわないらしい。それならば、田中派を乗っ取るしかないではないか。
金丸と竹下の謀略を急がせる事件が二、三起きていた。最初は鈴木内閣が発足したときである。金丸は何気なく「世代交代論」をぶった。年寄りが政権をたらい回しするのではなく、若手にチャンスを与えたらどうだという程度の軽い意味だったが、田中が怒った。この頃は田中の神通力も大したものだったから、ただちに竹下を蔵相の座から外した。ついでに金丸も冷遇した。これで金丸と竹下はかえってファイトを燃やした。
次が田中派の長老の二階堂進擁立論の台頭である。これは当初田中も知らなかったことで、派内の田村元などが動いていたし、鈴木や非主流派の福田もひそかに連絡を取り合っていた。田村らは田中派を総裁候補のある派閥にしたいと思っていたし、福田は田中派を分裂させたかった。
この動きは田中の知るところとなり、中曾根再選の実現でつぶされるが、金丸と竹下にとっては田中派乗っ取りを急がねばならぬ事情となった。木曜クラブを二階堂に渡すわけにはいかない。
昭和五十九年十二月中旬。立つときが来たと金丸は決意する。田中派の行動派である梶山静六にそっと秘中の秘を打ち明ける。血の熱い梶山はうなずいた。
十三日、衆議院本会議。梶山は席を離れると、田中派の何人かに耳打ちして回った。議員は内緒話が好きである。たくさんの人のいるところで、わざと他人の耳に口を寄せ、何事か囁く。その人間との近さを示すことにもなるし、耳打ちされた者は自分がそれだけ重視されているわけだから、悪い気はしない。本当は「昨日はあれからあいつにマージャンで勝ってな」という程度のことしか囁いていない場合が多いことはみなが知っていたから、また梶山が何かやっているなと見過ごした。
ところが梶山は重大なことを囁いていたのである。
「あのなあ、近く竹下さんのための集まりをやるからな」
村長のような風貌に似合わず、金丸はなぜか料亭よりは高級フレンチ・レストランが好きである。そのレストランは赤坂東急ホテル近くにあり、値段の高いことでも知られていたが、専用のエレベーターがあり、地下から誰にも見られずに店内に直行できる利点があった。
十二月十九日、金丸は竹下、梶山、小渕恵三など数人をここに集め、ついに禁句を口にした。
「オレはもう竹下が決意すべきときが来ていると思う。オヤジはあと十年間は頑張ると言っているが、それではいつまで経っても若いもんの時代は来ない」
そして次回会合の日取りを決めた。十二月二十五日。クリスマスの夜。場所は築地の料亭、「桂」である。
ここにフレンチ・レストランのメンバーに加え十八人が集まった。橋本、小沢、羽田などの若手の顔も見える。
金丸が呼びかけた。
「オヤジに歯向かうつもりはないが、世代交代のときだろう。竹下を育ててくれないか」
オヤジに歯向かうつもりはないとは言ったが、明らかに謀叛である。
竹下は青ざめた面持ちで挨拶した。
「一身を国家に捧げる所存だ。ついてきてほしい」
ここで事を極秘に進めることを誓い合い、そのうえで、グループを中堅、若手議員中心にすること、後で木曜クラブに加わった|外様《とざま》は秘密をしゃべるおそれがあるので外すこと、新潟県選出議員はもちろん加えないこと、などを決めた。
六十年の元旦。目白はいつもの通りの賑わいである。田中派議員が続々と年始の挨拶にやってくる。だが、金丸の姿はなかった。体調が優れないとの理由だったが、さしもの剛の者の金丸も恐怖を覚えていたのだろう。
挨拶に立った田中は上機嫌だった。
「沈黙は金なり。酒を前にして長い挨拶をするバカはいない」
と言ってから、
「謹賀新年、正月元旦」
とだけ叫んだ。どっとみなが笑うと、竹下の方を指して命じた。
「あとは竹下君、キミがやれ」
竹下はやや緊張気味に通りいっぺんの挨拶をした。田中はこの時点で何も気づいていない。竹下はそのことを察知し胸を撫で下ろしたに違いない。
この頃、竹下がよく口ずさんだ歌は、
「行こか、戻ろか、迷うが坂を、ままよ越えなきゃ……」
二十四日、田中派恒例の新年パーティーがホテル・ニューオータニで開かれた。宴たけなわになって竹下が駆けつけた。蔵相の仕事が忙しかったのだ。
田中はそんな竹下を見やり、からかい気味に叱った。
「金も出さない。歌も歌わないではだめだ」
竹下はマイクの前に立った。歌ったのは、「行こか、戻ろか……」ではなく、「ズンドコ節」である。金丸─竹下の動きを密かに知るものは、その歌を聴いてひやっとした。
歌の文句は竹下十年余前の自作である。
「講和の条約吉田で暮れて、日ソ協定鳩山さんで、いまじゃ佐藤で沖縄返還、十年たったら竹下さん、トコズンドコズンドコ」
その場にいた羽田は竹下が佐藤内閣の官房長官を務めていた当時の言葉を思い出した。竹下は内閣官房副長官だったこともある。
「官房副長官の部屋から官房長官の部屋まで歩いて数歩しかない。しかし、部屋が変わるまで七年かかった。官邸の主である首相執務室に入れるまで何年かかることやら……」
その頃から竹下は野心を隠さなかったのである。「十年たったら竹下さん」。その十年余が過ぎた。竹下が冗談まじりでいつも歌う歌だが、この日だけは秘密を知るユダたちは怯えて田中の表情をそっと盗み見た。しかし、田中の表情は相変わらず上機嫌で、竹下の後に「湯島の白梅」を歌った。
実は前日の夜、築地の料亭「桂」で重大な第二回会合があったのだ。
この日は二十五人が集まった。そして、竹下の後援会雑誌の「創政」の名を取って「創政会」を結成することを決めていた。提案したのは梶山である。
竹下は神妙な顔で「これからは私の身柄をみなさまに預け、全力をつくしたい」と挨拶した。
ところがこの動きを政治記者の一部が知るところとなった。「十年経ったら竹下さん」を歌った四日後の二十八日の朝刊にすっぱ抜かれそうになった。
慌てた竹下はその前日の二十七日、目白邸に出向く。おそるおそる田中に告げた。
「そろそろ政策勉強会を始めたいと思うのですが。決して派中派を作るものではありません」
田中は意外なことにあっさり認めた。
「分かった。結構だ。しかしな、稲門会(早大の同窓会)みたいなのはだめだぞ。大いに勉強しろ。最初の講師は田中角栄がなってやる」
あっさり認めはしたものの、「あれは勉強会なんてものじゃありません。竹下派の旗揚げですよ」とご注進に及ぶ者が続々と田中のところにやってくる。田中もだんだん心中が穏やかではなくなっていった。
二日後の三十日、事務所に姿を現した田中は、自派議員の前で荒れ狂った。
「竹下はまだ十年早い。あと二、三回選挙をやらねばだめだ。二十三日の会合でカネを配ったそうだ。けしからん」
佐藤政権の末期、昭和四十七年、派中派を自ら作ったことを田中は忘れていた。やはり因果はめぐる風車。権力は力でもぎ取るもの。竹下もまたその後、小沢や羽田に捨てられていく運命にある。
二月七日、「創政会」は平河町・砂防会館にある田中派の木曜クラブ事務所で旗揚げの会を開いた。集まったのは衆・参議院合わせて四十人。入会届を出したのは八十三人だったから、四十三人が田中の切り崩しにあって抜け落ちたことになる。だが、四十人は中間派閥をも上回る上々の人数だった。
竹下は童顔を紅潮させて挨拶した。
「この日を深く心に刻みつけて、さわやかな勉強会として進んでいきたい。これからの生きとし生ける身柄を燃焼していかねばならない」
旗揚げが終わってから竹下は目白を再び訪れた。
「創政会は木曜クラブと別の組織ではありません。木曜クラブの中にある小さな円です。同心円のつもりです」
竹下の必死の説明を田中はろくに聞きもせず、全国百三十の衆議院選挙区の詳しい事情をひとりでぶった。選挙区事情など百も竹下は知っている。それでもあえて田中がぶったのは、派中派活動を続けるなら、創政会議員の選挙区に対立候補を立てるぞという脅しのためだった。
この頃から田中の酒量はぐんぐんと上がっていく。朝から濃いウイスキーの水割りを呑む。事務所に現れるときには、顔は真っ赤。千鳥足のことすらある。
創政会の発足は田中の心身に想像以上の打撃を与えたのだ。これまで何人もの敵と闘ってきた。生死の境をくぐり抜けたこともある。しかし、身内に裏切られたのは初めてだった。まさに人情紙風船。悲しみと虚ろな思いを忘れさせてくれるのは酒しかない。
二月二十六日、田中派の閣僚経験者の集まりである「さかえ会」が赤坂の「川崎」で開かれた。
田中はすでにきこしめしていて赤い顔でやってきた。田中派は五十八年正月時点の百九名からさらに増え、百二十二名。翌年の参議院選を控えて田中は憑かれたように数を増やそうとしている。
田中の隣に田村元が座っていた。勧められると断らずにどんどん杯を傾ける田中を見て、田村はいさめた。
「あまり呑みなさんなよ」
田中は首を振った。
「お前だってガブガブ呑んでいるくせに何を言うか」
賑やかな宴会ではあるが、なぜかくつろいで酔えぬ重い空気が横たわっている。
田中が叫んだ。
「歌わせてくれ」
みなが救われたように拍手をした。
田中が歌ったのは「夫婦春秋」。「花は大事に咲かそうよ」という文句である。
誰に対して歌ったのか。早咲きで散るなと竹下をかつぐ者に忠告したのか。それとも、心身ともに荒廃しそうになる自分に言い聞かせるつもりだったのか。
やがて田中は立ち上がる。座敷から去る前にみなに言った。
「賢者は聞き、愚者は語る。今日から賢者になる。何でも言ってこい」
機関銃のようにしゃべって走り続けてきたのを改め、これからは寡黙になるというのだ。田中は何を予感していたのだろう。
翌二十七日、東京の空は曇り。南の海上を通る低気圧のため、夜になって氷雨のようなものが降った。最低気温は摂氏三・二度。寒々とした日だった。
午後五時前、田中は私邸の目白で新潟の後援者たちと杯を交わしていたが、急に気分が悪いと言い出し、ひとりで事務所のトイレに入った。このところ、少し無理をしていた。三日前の日曜日、寒い中をゴルフをして、一・五ラウンドも回った。冬のゴルフは疲労のたまった者にはこたえる。連日の飲酒で体が弱っていたが、ゴルフに打ちこまざるをえない心境だったのだろう。
トイレに行って、突然倒れた。
秘書たちは田中をかつぎ、母屋に運ぶ。意識ははっきりしており、東京逓信病院に行くと告げた。千代田区富士見にある、かかりつけの病院である。主治医である加島政昭も勤務していた。
診断の結果は軽い脳卒中。ただちに入院する。翌日、医師団は「可逆性虚血性神経障害と呼ばれる、ごく軽い脳卒中で、三、四週間で回復する」と発表した。
しかし、日を追うに連れ、病状への認識は重くなっていき、病は「軽い脳卒中」から「脳梗塞」に変わった。仕事に復帰するには二、三か月かかると診断された。
だが、田中はついに政界に復帰することはなかった。体調も良くじっくりと静養して捲土重来を期しているという噂が流れもし、その度に首相の中曾根や、創政会の面々は戦々恐々としたものだが、田中は簡単なことしかしゃべれぬ、半身不随の、ただの老人になっていた。
娘の眞紀子をはじめ家の者は田中のリハビリのためあらゆる手立てをつくした。
田中は映画が好きである。
眞紀子が小学生の頃、夜ふとんに入ろうとすると、父の田中から電話でよく呼び出しがかかったものだ。これから映画を観にいく、車を迎えにやるから来いというのである。映画館に行くと父は切符を買って嬉しそうに娘を待っていた。ラブシーンなどがあると、体を乗り出して観ようとする娘に盛んに他の話を投げてよこし邪魔しようとした。
父がまだ政界で名を売る前のことである。「八十日間世界一周」の試写会があった。三木武吉や緒方竹虎など錚々たる人々が観に来ており、映写前に次々と紹介され、カメラのフラッシュがたかれた。
「どうしてお父さんの名前が呼ばれないの?」
と父の顔を怪訝な顔で見上げる娘に、田中は淡々とした表情で答えた。
「いまに日本中が田中角栄の名前を知るようになるよ」
父は別にくやしそうでもなく、日本中が自分の名を知るようになると確信し切っているように見えた。
確かに良い意味でも悪い意味でも日本中が田中の名を知らざるをえない時代が訪れたが、入院してからの父は慰めるとすぐ泣いてしまう、心の弱った男になってしまった。
リハビリのため映画を見せた。何度も見せたのは記憶を喪失した男が主人公の「心の旅路」である。数ある好きな映画の中で田中が最も愛した映画だった。その映画を観ながら、田中はやはり涙を流した。
だが、その涙には痛みはなく、母の胸に顔をうずめて泣きじゃくるときのような、甘酸っぱいぬくみがあるように思えた。
田中はやがて眞紀子の手で病院から目白に移される。イトーピアの事務所は昭和六十年閉鎖。
二年後の昭和六十二年七月、竹下をかつぐ「経世会」が発足する。メンバーは百十三人。かくて田中軍団は完全に崩壊した。それから間もなく竹下は中曾根から政権を譲り受け、総理の座を勝ち取ることになる。
田中の姿はだんだん人々の視野から遠ざかり、政界の水平線から消えていった。
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平成五年九月二十日、田中は東京逓信病院から東京・信濃町にある慶応病院に転院した。甲状腺機能の低下で病状が一時悪化したためだが、間もなく回復し個室でリハビリに励むほど元気になった。朝の回診で医師団が病室に入ると、得意のポーズで手を挙げて「おはよう」と答えることもあった。新潟三区から立候補して当選した娘・眞紀子が国会で質問に立つ姿を見て、医師が「活躍していますね」と声をかけると、うれしそうに、「ええ」と相好をくずしもした。
しかし、十一月初め持病の糖尿病のせいで足の機能が著しく落ち、容体が急変した。集中治療施設(ICU)に入ったのである。
平成五年十二月十六日。この日もまた寒い日だった。午前中は晴れ間もあったが、午後になると雨。最低気温は平年の摂氏三・八度を一・四度も下回る二・四度。
朝の回診で田中は医師団にひとこと、「眠い」とつぶやいて眠り込んだ。その後、娘婿の田中直紀代議士が見舞いにきて目を覚ましたが、喉にタンをからませて苦しみ出した。
前日の十五日は見舞いに来た眞紀子に、
「お父さん、快くなったらドライブに行こうね」
と励まされて嬉しそうに、
「行こう、行こう」とうなずいていたのである。医師に「何が好きですか」と問われると、不自由な口を動かしながら、「車に乗るのが好きです」と答えたものだった。
容体急変の知らせを受けて家の者が駆けつけたが、呼吸困難が続き、午後二時四分、甲状腺機能障害による肺炎併発のため、息を引き取った。
享年七十五。
雪深い新潟県刈羽郡の寒村に生まれ、青雲の志を抱いて三国峠を越えてから政界に打って出る。天下を取り、天下を動かし、ついに倒れる。波瀾万丈、疾風のように駆け抜けた人生だった。
新聞は再び派手な見出しで田中の死を伝えた。人々の目に再び田中の姿が大写しになった。
大新聞の社説や評伝は、日中国交回復などの田中の功績を讃えながら、一方で「数と金で支配。進んだ腐敗と退廃」(朝日新聞)、「金権政治、田中的なものへの決別」(毎日新聞)と筆を揃えた。ロッキード事件の被告のままの死であることから、「首相の犯罪」を改めて取り上げるところもあった。
生前田中とかかわり合いのあった人たちは新聞社の質問に答え、次々と感想や談話を発表した。
終生のライバルだった福田「はからずも佐藤首相退陣後の日本政界の体制を二人で争うようなことになったが、それは政界のことで個人的には終始良好な関係を維持し続けた。道半ばで傷つき、健康にも恵まれず不運なことになったが、内外時局危急のこのとき、そのご逝去はまことに残念だ」
田中派を瓦解させた直接の責任者である竹下「偉大な天才政治家でした。田中内閣の官房長官を務めさせていただくなど、公私にわたってお世話になりました。心からご冥福をお祈りします」
その竹下をかついだ金丸信「誠に残念で、寂しい気持ちでいっぱいだ。田中先生は庶民の宰相として日本国に尽くし、多大な功績を残され、私自身も大変なご指導を受けた」
田中政権実現に力を貸した中曾根「大した政治家でした。批判を受けた日本列島改造論にしても、地方開発、国土計画の先べんをつけたと思う。政治と大衆を身近にした」
田中派の重鎮だった二階堂進「言葉もありません。残念な思いです。私は『人間田中』に限りない魅力を感じていました。晩年は、そりゃあもう病気には勝てないよ」
大平とともに池田内閣を支え、のちに首相となった宮沢喜一「天才的な発想ができる人だった。役人出身の私たちとは発想が違う。どの登山口から登ろうが、富士山の頂上に行ってしまうようなところがあった」
田中が幹事長を務めた当時、社会党書記長だった石橋政嗣「田中さんは保守政治の中で『政治は力』、『力は数』、『数はカネ』という風潮を生み出し、政治を大きく狂わせた。しかし、約束したことは守る数少ない政治家だった。そしてなによりも気さくで、あれだけの派閥を率いたのもそんな性格だったからこそだろう」
社会党委員長(当時)の村山富市「戦後日本をリードした保守政治家の代表で、社会党にとっては大きな政敵だったが、日中国交回復に尽力するなど共感できるところもあった。一方で、金権腐敗を拡大した人物でもあり、戦後日本の『光と影』を象徴している人物だった」
日中国交回復の主役のひとりとなった孫平化中日友好協会会長「その功績は永久に歴史に残る。思い出のひとつはロッキード事件当時に目白の自宅を訪問しての帰りに門まで送っていただいた時、先生が『臥薪嘗胆、面壁九年』とはっきりいわれたことです。目白に行くことについて日本でいろいろ議論があったことはよく知っています。しかし、事件は日本の国内問題であり、われわれにとっては中日関係の大功労者に変わりはないわけです」
地元の平山征夫新潟県知事「感無量。政治家として雪国のハンディ、日本海側の後進性を克服するため尽くしてくれただけに後に続く者として同じテーマを考えねばならない」
田中の秘書として目白を取り仕切った早坂茂三(記者の質問に答えて)「がっくりだよなあ。まだ七十五歳だから……。しかし、手塩にかけた小沢(一郎)や、やがて自民党を引っ張るだろう橋本政調会長(当時)、それに因縁浅からぬ細川首相ら田中学校の卒業生が金のかからぬ政権交代も起こりうる体制を目指して汗を流している。その意味で田中角栄は生き続けるのではないか」
同じく秘書として金庫番を務めた佐藤昭子(赤坂の自宅の寝室にこもったあとの、事務所を通したコメント)「私自身が人生の半生を通じて仕えてきた方を亡くし、過ぎ去った長い道のりに想いをはせています。安らかにお眠り下さい」
四千人を超える会葬者を前にしての長女・眞紀子の挨拶「本当にすばらしいクリスマスプレゼント(田中家・自民党の合同葬儀は十二月二十五日)をいただき、父は幸せ者です」
最後に詩人の二界友理子さんの言葉を紹介しておこう。
「あの日(脳梗塞で倒れた日)以降、彼を見るのが実につらかった。わけてもテレビに映るのは正視に堪えず涙ぐむことが多かった。学歴がものをいう政界にあってそれらをものともせず、ワッと躍り込んできた勢いこそ彼の生き方そのものだったのだろう……庶民から言わせてもらうなら正論を吐いても何もできない人より角栄さんが好きである。あれだけの夢を掲げて突進した意志を持つ政治家が現在、どれほどいるだろうか。やり過ぎたことは悔やまれるが、角栄さんが好きであることは変わらない」(当日、朝日新聞)
田中を表現する言葉はあまたある。
|馬喰《ばくろう》の伜、角どん、昭和の藤吉郎、今太閤、角さん、オヤジ、田中先生、大センセイ、コンピューター付きブルドーザー、大ぼらふき、陽気な大悪党、|梟雄《きようゆう》、乱世の雄、裏日本のロビンフッド、永田町のカサノバ、小菅の塀の上を歩く男、金権マシン、闇将軍、果断な宰相、孤独な独裁者……。
これらのひとつひとつが真実である。
しかし、それらは真実の一部であって、全部ではない。田中のスケールはそれほど大きい。
もう一度、ロッキード裁判の検事を務めた堀田力の言葉を紹介しておこう。
「良い意味でも、悪い意味でも、きわめて日本的な政治家でした。善悪双方において比類なく傑出した人物だったと思います。頭もいい。理解力に優れている。それに人の気持ちをつかむ感性にも優れている。右脳も左脳も日本的に発達した人でした」
田中は、私たち日本人が大なり小なり内に持っている良い部分、悪い部分の拡大鏡だった。
だから、自らが日本人であることを全面的に否定でもしない限り、好むと好まざるとにかかわらず、善悪の次元を超えて、田中角栄は私たちの中にいまも棲んでいるのである。
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『田中政権・八八六日』
中野士朗(行政問題研究所)
『田中角栄回想録』
早坂茂三(集英社)
『政治家 田中角栄』
早坂茂三(集英社)
『田中角栄と「戦後」の精神』
早野透(朝日新聞社)
『田中角栄研究(上)(下)』
立花隆(講談社)
「発掘・田中角栄」
新潟日報一九九四年六月二十三日〜七月二日
「総理訪中」
外務省資料
「田中総理訪ソ」
外務省資料
「田中総理大臣の中国訪問」
外務省資料
『田中角栄戦国史』
中村慶一郎(ビジネス社)
『田中角栄の三分間スピーチ』
小林吉弥(光文社)
『椎名裁定』
藤田義郎(サンケイ出版)
『回顧九十年』
福田赳夫(岩波書店)
『宰相 田中角栄の真実』
新潟日報報道部編(講談社)
『佐藤寛子の「宰相夫人秘録」』
佐藤寛子(朝日新聞社)
「中曾根康弘の『私の履歴書』」
日本経済新聞
『戦後政治の覚書』
保利茂(毎日新聞社)
『議長一代』
河野謙三(朝日新聞社)
『私の田中角栄日記』
佐藤昭子(新潮社)
『首席秘書官』
楠田實(文藝春秋)
「大平正芳回想録」
(大平正芳回想録刊行会)
『政治家とカネ』
毎日新聞政治部編(毎日新聞社)
『自伝・わたくしの少年時代』
田中角栄(講談社)
『ザ・越山会』
新潟日報社編(新潟日報事業社)
『県民性』
祖父江孝男(中央公論社)
『大臣日記』
深谷隆司(角川書店)
『酒呑童子と田中角栄』
桐生源一(玉源書店)
『角さんや、帰っておいで越後へ』
北川省一(恒文社)
『田中角栄は死なず』
蜷川真夫(山手書房)
『田中角栄再評価』
田中角栄を愛する政治記者グループ(ブレーン出版)
『田中角栄と日本人』
岡野加穂留、加瀬英明、B・クリッシャー、A・ホルバートほか(山手書房)
『西山町物語』
江波戸哲夫(文藝春秋)
『越山 田中角栄』
佐木隆三(朝日新聞社)
『私の履歴書』
田中角栄(日本経済新聞社)
『佐藤政権・二七九七日(上)(下)』
楠田實編著(行政問題研究所)
『角栄残像』
新潟日報社編(新潟日報事業社)
『小説田中学校』
羽田孜(光文社)
『志』
羽田孜(朝日新聞社)
『蔵相』
一木豊(日本経済新聞社)
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作家の関心は、対象になる人間の磁力の強さにある。平たく言えば面白さだ。その人間のなした善悪などはどうでもいい、とは言わないが、少なくとも善悪は最大の関心事ではない。そうでなければ、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」も、カミュの「異邦人」も、ツワイクの「ジョゼフ・フーシェ」も生まれはしなかっただろう。
面白さとは数学で言うところの絶対値のようなもので、プラス一もマイナス一も同じ値であり、大事なのは絶対値が一に過ぎないのか、一〇なのかという、ただその一点である。人生がどれだけドラマに富んでいたか、他者や社会に及ぼしたマグニチュードが大きかったか、善と悪の双方でどれだけスケールが大きかったか、そこに限りない興味を覚えざるをえない。
あるとき仲間と呑みながら、戦後日本の生み出した天才三人を挙げるというゲームをした。美空ひばり、長谷川町子、三島由紀夫、長嶋茂雄、大下弘、手塚治虫、黒澤明、本田宗一郎など数多くの名が挙がったが、田中角栄を外した者はいなかった。好悪は別としてである。
田中は戦後日本の生んだ、まぎれもない天才である。比類のない、強烈な磁力を放射した人物だった。
ところが、というより、そのためにというべきか、田中について書かれた本はまことに多いにもかかわらず、評価が両極端に分かれる。田中への深い思いを語ったり、その業績を讃えたりしたものがある一方で、諸悪の根源のように断じている。田中を善悪の視点で見ているのだ。だから、田中という人物は歴史の中で自らの納まりどころを見いだすことができず、その亡霊は時空をいまなおさまよっている。
のめり込むわけでもなく、拒絶するわけでもなく、あるがままの田中像を客観的に描くことはできないか。そう考えて取材を始めた。善悪すべてを包含した、彼の行動をひとつひとつ具体的に描いていこうと思い立ったのである。そのためできるだけたくさんの本や資料に目を通すだけでなく、新潟三区もくまなく回った。田中を生んだ風土を知るため、真冬の山村でも夜を過ごした。そうするうちに田中は私のイメージの中でだんだん呼吸を始め、あのドラ声が耳元で聴こえるような錯覚すらしてきた。
昭和四十七年、日本に小学校卒の総理大臣が生まれたというニュースに接したのはロンドンである。新聞社の特派員をしていた。
快い衝撃があった。痛快とはあのことを言うのだろう。角さんはとうとうやったんだという思いがして祝杯をあげたものだ。
角さんと呼べるほどの知り合いではなかったが、ごく近くで二、三度見たこともあるし、一言二言口をきいたこともある。ロンドンに赴任する前、経済部記者として日銀、大蔵省の記者クラブにいたからだ。昭和四十年、山一証券への日銀特融があって日本は不況の真っ最中だった。記者クラブでの会見だけではなく、目白の私邸に政治部記者に連れていってもらって取材したこともある。
田中角栄は背の高さが一メートル五十二、三センチほどではなかっただろうか。しかし、大きく見えた。いつも背をしっかりと伸ばしていたし、四方八方に何やら怪しげで陽気な磁気を放っていた。彼のいるところには二、三分置きに爆笑が起きる。頭の回転が早くて人をそらさない。それに、イとエがごっちゃになる越後なまりがあって憎めない。いつも扇子をパタパタいわせ、生え際でとぐろを巻く黒い毛のあたりにせわしなく風を送っていた。
昭和四十七年頃の日本は、世界のマーケットに急浮上していた。輸出は伸び、外貨準備は増え、円は切り上げを迫られる。はるかロンドンから眺めていると、はらはらするような急浮上ぶりだった。日本からやってきた代議士がダンヒルの店に行き、「ここからここまで、オール・プリーズ」とショーケースまるごと買い上げて、ひんしゅくをかったりしていた。ノーキョーさんの大軍がやってきてホテルの廊下をステテコで歩いたりもしていた。
しかし、ソニーやホンダは海外ではまだそれほどの有名ブランドではなく、日本商品には「安かろう、悪かろう」のイメージが残っていた。戦争を仕掛け、大英帝国の植民地を独立させるきっかけを作ったのは日本人だという記憶が英国人の間に深く根を下ろしており、日本人はあからさまに、あるいはさりげなく差別されることがままあった。
要するに日本は新参者であり、ロンドンの日本人は既存の市場に穴を開けるドリルの先端のような役割を背負わされていたから、決して楽な海外生活ではなかったし、相当に突っ張らねばやってもいけなかった。欧米の既存秩序に変更を求めて闘ったという点では、私たち日本人の一人一人が、国内の現状変更を求めて阿修羅のごとく突き進んだ田中角栄によく似ていたのかもしれない。
高度市民社会は英国にしかないなどという顔を英国人にされて、傷ついたり、しおれたりすることもあった。日本人であることを否応なしに意識させられる場面が多かった。
だから、「庶民宰相」の出現に快哉を叫んだのである。お前さんたちの国は小学校卒の総理大臣を生み出すことはできるかい、口を開くと民主主義、民主主義とおっしゃるが、こっちの方がずっと民主的じゃないのかい、と意地の悪い英国人に言い返してやりたくなったものだ。
ロンドン在任中に田中が総理としてやってきた。いまから考えると政権に翳がさしていた頃だが、一流ホテルのパーティー会場に姿を現した田中は、まるで燃え盛る大きな焚き火の輪を運んできたような勢いのよさと華やかさがあった。日本人だけではなく英国人たちも吸いよせられるように彼の周りに集まった。あとで英国人の女性に印象を尋ねたら、「ヒー・イズ・セクシー」と言ってのけたものだ。
昭和四十九年、帰国して呆気に取られた。わずか三年間だったが、日本が様変わりしていたのだ。新しい道があちこちにできていて、深夜タクシーで自宅に帰る途中迷ってしまった。切符の出札が自動になっていて、使い方が分からずとまどっていたら、「早くしないか」とうしろからどやされた。地下鉄丸の内線、西武池袋線、東武東上線が交差する池袋駅の構内に立ち、人の群れの濁流を目の当たりにしているうちに本当にくらくらとめまいがして倒れそうになった。実家に帰って押し入れを開けたら、トイレット・ペーパーがたくさん落ちてきて頭の上でバウンドした。真面目な銀行員だった親父まで買いだめをしていたのだ。列島改造ブームや狂乱物価の竜巻が起きていて、その中心に田中角栄がいた。
日本経済の軽躁なエネルギーに圧倒されながら、この渦に巻き込まれていって本当に自分はやっていけるのだろうかという不安があったが、他にどうすることもできず、いつの間にか騒々しさが当たり前の生活に浸かってしまった。
それから二年後の夏休み、榛名湖の湖畔にあるレストランで昼食をとりながらテレビを観ていたら、「田中前首相逮捕」の臨時ニュースが流れた。呑み込んだワカサギの天ぷらを吐き出したくなるほどの衝撃だった。「庶民宰相出現」の衝撃とは全く異質の、何か大きな石を胸のあたりにたたき込まれたような、重くて冷たくてざらざらした衝撃である。心地よさのかけらもない、実にいやな感じの衝撃だった。
正直言って、検察はそこまでやるのかという思いがしないでもなかったが、一方では、田中が生きてきた、おどろおどろしい闇の世界が白昼にさらされ、見たくもないものまで見せられたような不愉快さも十分にあった。
以来、私の中の田中角栄像は未整理のまま残ってきた。というより、異なる衝撃の残響が不協和音になっていつまでも尾を引いていた。
田中が脳梗塞で政界から姿を消してから十三年、亡くなってから五年が経つ。私の中の残響はようやく収まりつつあるようだ。田中というテーマに取り組んでも良さそうな年齢にもそろそろ達した。
この本をお読みになって、田中角栄という男の嫌なところも、好感の持てるところも、面白いところも、凄味も、駄目なところも、全てまことに日本人そのものではないかと感じていただければ、私の意図したところは成就する。物書き冥利につきるということだ。
最後に取材に協力していただいた方々、執筆をたえず励ましてくれた日本経済新聞社出版局編集部の白石賢氏に心から感謝したい。
平成九年大晦日
[#地付き]水木 楊
本書は一九九八年三月、日本経済新聞社より刊行されました
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文春ウェブ文庫版
田 中 角 栄
その巨善と巨悪
二〇〇二年十二月二十日 第一版
著 者 水木 楊
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
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郵便番号 一〇二─八〇〇八
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