エベレストを越えて
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年十二月二十五日刊
(C) Kimiko Uemura 2002
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目  次
第一次偵察隊
第二次偵察隊
ヒマラヤ越冬
日本エベレスト登山隊
国際エベレスト登山隊
日本冬期エベレスト登山隊
エベレストの魅力と南極の夢
あ と が き
エベレスト年表
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エベレストを越えて
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この本を亡き山の友に捧げる

第一次偵察隊
一九六九年四月二十三日――六月二十一日
舞いこんだチャンス
私とエベレストとのかかわりは、一九六九年四月、私が日本山岳会の第一次エベレスト偵察隊に参加したときから始まる。
当時の私は、北米、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南米と冒険を求めて渡り歩いたのち、アラスカの山に登ったのを打ち止めに、四年間にわたる無銭放浪の旅から帰ったばかりで、いわば旅行ボケの状態にあった。
前年の十月に帰国したものの、私にはすぐに仕事がなかった。ぶらぶらしていると、ほどなく大学時代のクラスメートが、自分の勤める牛乳会社の夜間アルバイトの口を世話してくれた。それは、夜八時から翌朝の八時まで、送風管のようなパイプを通して送られてくる粉末牛乳をつぎつぎと紙袋につめ、四キロになるとミシンをかけて密封するという仕事だった。世界中を自由気ままに歩きまわってきた身にとって、かぎりなく続く反復作業は、その単調さゆえにつらかった。しかし、白いワイシャツにネクタイを締めたオフィスマンは、私にとって、まったく別世界の人間に見え、とても勤まりそうもなかったし、私は放浪の旅の中で自信をつけた肉体労働だけが自分にもっともふさわしいことを承知していた。
深夜の工場で、作業衣を白い粉で染めて黙々と働く日が続いたが、私は早くも自分がこうした生活に耐えられなくなっているのを感じていた。そして、無性になつかしく思い出されるのは、無銭旅行のはずみで敢行したアマゾン河のイカダ下降のことだった。
それはジャングルの中を行く六一〇〇キロの大河の上の一人ぼっちの生活であった。太古そのままのアマゾンの神秘な姿。河面に出没するピラニア、ワニ、毒ヘビ。丸木舟で武器を手に襲ってくる原住民。つねに恐怖心と孤独にさいなまれつづけた旅であった。しかし、無謀とも思える冒険心にかきたてられて必死に河を下ったことは、いまや苦しみとつらさが薄められて、楽しい思い出に変わっているのだった。
粉末牛乳が袋に満杯になるまでの数分の間にも、目は落ちてくる白い粉を見ていながら、頭はすっかり旅の思い出の中にとんでいた。
「よし、こんどはアコンカグアの冬の単独登山と、アマゾン河を河口からボートでさかのぼる旅をやってやろう」
そんな計画が浮かんだのも仕事中のことだった。計画は頭の中でだんだんふくらみ、資金を稼ぐ目的が生じた夜のアルバイトにも力が入った。計画を具体化するため、人と会って交渉したり、準備したりするので、睡眠時間をとれないこともあったが、私は充実感のある日々がふたたび戻ってきたので少しも気にならなかった。
一番の問題は金策だった。人に会うごとに南米行きの企画を理解してもらおうと、アマゾンのイカダ下降の話や、無銭旅行で世界各地の山を登ってきた話をした。人々は一人残らず私の話に耳を傾けて面白がってくれたが、資金を援助しようとまで言ってくれる人はなかなか現われなかった。たしかに、ただの放浪と言ってしまえばそれまでの話にたいして、よしスポンサーになろうという人がいたら、そっちの方がよほど酔狂な話かも知れなかった。
そうこうしていたとき、NETテレビ(現在のテレビ朝日)に勤める先輩の中尾正武さんから、「朝日新聞社で君のことを話したら、協力してもいいというような反応だった。一度、運動部長を訪ねたらどうか」
という話があった。
私にとっては南米に渡る旅費と少々の滞在費、それだけ援助してもらえたら十分だと思っていた。旅費も飛行機を使う必要などさらさらない。一九六四年、最初にアメリカヘ渡ったときには、横浜の桟橋からいちばん金のかからない移民船「アルゼンチナ丸」に乗って出かけたのだった。それに滞在費にしても、ホテル生活をするわけではない。軒先が借りられて雨露をしのげればたくさんだし、テントの夜営も私にはなんの不自由もない。だから、いざとなれば南米までの旅費の援助が得られるだけでもいい。向こうへ行けさえすれば――学校を出てからつねにそうしてきたように――無手勝流でどうにでもやれる。私にその自信はできていた。最初のアメリカにしても、丸裸同然で日本を飛び出したのだった。そしてカリフォルニアの|葡萄畑《ぶどうばたけ》へ行き、三カ月間一日も休まず働いて、ちゃんとヨーロッパヘ渡る費用を作りだした。朝六時から十時間の苦しい仕事だったが、早くヨーロッパヘ渡ってアルプスヘ登りたいという学生時代からの夢が、どんな苦しさをも克服させた。私は、つねづね自分の中に夢さえあればほかに怖いものはないと思っている。
先輩の中尾さんの話に私は小躍りした。ところが、すぐにも運動部長に会いに行こうとしていた矢先だった。四月上旬、粉末牛乳の夜間アルバイトから帰ってきて、昼間寝ているときだった。突然電話が鳴って、明大山岳部先輩の大博美さんの声が、私の寝ぼけた耳に飛びこんできた。
「なんだ。十時だというのにまだ寝ていたのか。お|天道《てんとう》さまにバチが当たるぞ。ところで急だが、重要な話があるので、会社まですぐ来てくれないか」
「はい、すぐ行きます」
私はいきなり起こされ、しかもお天道さまにバチが当たると言われて、夜中に働いているのにと|憮然《ぶぜん》としたが、何か重要な話があるという大さんの声に押されて、内容も聞かずに「はい」と答えてしまった。しかしもしかしたら、南米行きの話がうまくいくような、良い知らせかもしれないと思うと、だんだん気持がはやってきて、ふとんも上げずに飛び出した。
大さんは、日本山岳会の槇有恒さんを隊長とするマナスル隊、ヒマラヤ雪男探険隊などに参加して、戦後の日本の山岳界を復興させた大先輩であった。また明治大学山岳部の大先輩でもあり、何度か一緒に登山をさせてもらったが、私とは単に二十近くも年が離れているだけでなく、人間性、経験、あらゆる点でもあまりにかけ離れすぎていて、文句なしにおっかない存在だった。しかし、四年の放浪から帰ってきてからは、私の気持をいちばんよく理解してもらえる先輩のようにも感じられた。大さんの勤務先も、中尾さんと同じNETテレビであった。
大さんは私をつれてNETの社屋を出ると、近くの西洋風の喫茶店に入った。私のことをいつも学生時代からのあだ名で「ドングリ」と呼ぶのだが、
「ドングリ君、寝ているところを起こしてすまなかった。毎日夜勤をやっているとは知らなかった。体の調子はどうですか」
「少々の寝不足なんか、こたえるような体ではありませんよ。運動が足りないせいか、もてあまし気味です」
「ところで、今のアルバイトはいつでもやめられるの」
「はい。短期間ということで、時間制ですし、申し出ればいつだってやめられます」
大さんがそんな話をするということは、これはいよいよアルバイトをやめて南米行きの計画に取りかかれという相談かな、と私は早合点した。
「実はね、ネパール政府から日本山岳会に通知があって、外国人登山の禁止を解くというんだ。それで、会から一番にエベレスト登山の申請を行なったら、すぐ許可してきた。というわけで、ドングリ君、これからエベレストヘ偵察に出てくれないか」
てっきり南米行きの話だと思いこんでいた私は、意外な要請に胸がドキーンとした。一九六五年、明大山岳隊がヒマラヤのゴジュンバ・カン(七六四六メートル)に遠征隊を送ったとき、フランスのモン・ブランのスキー場で働きながらマッターホルン|登攀《とうはん》の機会をねらっていた私も遠征隊に加わり、山頂を極めることができたが、たまたまその年からネパール政府はヒマラヤを閉鎖してしまった。世界最高峰であるエベレストを、私はゴジュンバ・カンを目指していたとき、ナムチェ・バザールの丘の上で初めて眺めることができた。重なりあう岩尾根の奥の奥に頭をチョコンと出していた。ゴジュンバ・カンの頂上に立ったときにも、夕闇のせまる四方の山稜を圧して、エベレストはひときわ高くそびえていた。その偉容は目に焼きついている。しかし、その山は私にとっては夢のまた夢、まさか五年後に行けるなどとは考えたこともなかった。
大さんの真剣な目にぶつかって、私は何か言おうとしたが言葉にならなかった。なぜ自分のような者が選ばれたのだろうか。私に山のことを教えてくれた先輩、尊敬する優秀な先輩がまだまだたくさんいるというのに。あるいは、私がゴジュンバ・カン登頂のあと、アルプスのマッターホルン(四四七八メートル)、アフリカのキリマンジャロ(五八九五メートル)、南米のアコンカグア(六九六〇メートル)に単独登攀してきた実績を少しは買ってもらえたのだろうか。私は、
「私でいいなら……、いつでも、行かせてもらいます」
と、どぎまぎして少々どもったが、大さんの耳にきちんと届くように強い声で答えた。返事をしてしまうと、心臓がまたグラグラと揺れだした。エベレストに登山できるなんて、山を志す者にとってこれ以上のよろこびがどこにあろうか。大さんの顔が神さまのように見えてきてならなかった。
「でね、日本隊は来たる一九七〇年の春、エベレストの南壁、世界未踏の大岩壁から登頂しようという計画なんだ。その可能性がはたしてあるか否か、まだいっさいわからないわけで、第一次偵察隊として、ぜひ君に南壁周辺の状態を調べてきてもらいたい。急ぐんだ。一週間後には日本を出発して、一日も早くエベレストヘ入ってもらいたい」
大さんから一週間後の出発を言い渡されて、これまた驚いた。まるでちょっとした山に軽装で行けというような調子だった。しかも、大さんはけっして冗談を言っているのではなかった。
「時間が足りないのはわかっている。しかし、エベレストでは早ければ五月中旬にモンスーン(季節風)が始まるんだ。その前に入ってくれないと偵察はやれない。ぼくらも手分けして準備に全力をあげるが、どうだい?」
「でも、登山期間だけを考えても一カ月はかかりますよ」と私は言いかけてやめた。ここでノーと主張することは、エベレストヘは行けませんと言い張るのと同じに馬鹿げていると気づいたからだ。それに、そんな問題は大さんの方でとっくに検討ずみだろう。また、ヒマラヤ級の山では登山者を高度に適応させる“高度順化”の時間が相当に必要だが、短期間の偵察にはそれもいらないかも知れない、と私は私なりに|咄嗟《とつさ》に頭の中で計算した。
エベレストは、一九五三年にイギリス隊のヒラリーとテンジンが世界初登頂を行なってから後、十五年間にスイス、中国、アメリカ、インド隊が登頂に成功していた。イギリス隊のルートは、ネパール側から東南稜を経てのアタックで、スイス隊(一九五六年)、インド隊(一九六五年)もこれに従った。中国隊はチベット側北東稜から(一九六〇年)、アメリカ隊はネパール側の東南稜とチベット国境を走る新しい西稜の二ルートから登頂(一九六三年)という、それぞれ輝かしい足跡を残していた。そしていま、これまで世界中の誰もが考えてみたこともなかった南側に|屹立《きつりつ》する大岩壁からの登攀計画を、日本人が始めようとしていたのである。
ベース・キャンプまで
大さんと会ったすぐ翌日、偵察隊メンバーとして明大OBの菅沢豊蔵君が決まり、さらに二日後にこれも明大OBの藤田佳宏先輩が隊長に決まり、同行記者の毎日新聞運動部の相沢裕文記者とともに四人の編成が固まった。日本山岳会には、海外遠征の経験豊かな慶応、京大、早稲田、学習院大、立大、日大……といくらも名パーティーがある中で、とくに明大OBで固めたについては、大さんの深く考えるところがあったのだろう。われわれも責任は大きいと感じた。
私はただちにアルバイトをやめた。藤田隊長は隊員を東京・神田にある自宅に招集して、具体的行動、分担、予算などの検討に取りかかった。隊長は総務、渉外、記録、菅沢君は装備、私は食糧と分担も決められた。装備については一つ一つに当たる点検や、特注する時間的余裕もなく、前のゴジュンバ・カンのときの装備リストに基づいて必要なものがととのえられ、|梱包《こんぽう》された。私の担当の食糧も、一日一日のレーション・パックにする暇などとてもなく、数量計算のあと集まったものから梱包して、とにかく五日目にはなんとか発送に漕ぎつけた。ただし重量オーバーから、最後のところで目方のかかる缶詰、びん詰類を大幅に除かなければならなかった。そのため現地に行ってから毎食のようにヒジキの煮付け、高野豆腐、干物が出てくるので、相沢記者から「うちの隊はヒジキ隊だ」と冗談も飛ぶことになったのである。
一九六九年四月二十三日、一行はさすがに寝不足で、みんな目を充血させて羽田を発った。この日は奇しくも四年前、私がゴジュンバ・カンの頂上に立った日であった。話があってから一週間、無我夢中でキリキリ準備に走り回った間にも、モンスーン前に任務を果たせるだろうか、間に合うだろうかという心配が心の底にいつもあった。しかし、最初から不可能に思えた装備、食糧、合わせて数トンという物資の収集・梱包も、予定内にやり遂げることができた。これで第一関門は通り抜けたのだと思うと、機内で初めて、「よーし、やるぞ」という意気ごみが湧いてくるのだった。
インド経由でカトマンズに入った。ただちにネパール国の外務省に顔を出し、その日からシェルパの雇用、現地での装備、食糧の買付けにかかった。キャラバンの日数も短縮しなければならない。ヒマラヤの登山期は終わろうとし、モンスーンもインド洋まで近づいていた。カトマンズからルクラまでキャラバンなら二週間かかるところを飛行機で飛ぶことにしたが、定期航空路は一日数便があるだけで、しかも小型プロペラ機だった。その間に特別機を割り込ませるのは至難のわざであったが、そこのところを、出来て間もない日本大使館の松沢憲夫さんや、奈良県の天理大で七年間勉強したというネパール人のラム・クリシュナンさんが協力して必死に交渉に当たってくれた。
その間の数日をつかって、私たちは重要なシェルパの面接試験を行なった。四年間もの閉鎖の後だったからどうかと心配したが、ホテルの前庭には次々と話を聞き伝えた志望者が集まってきた。中には各国の登山隊に参加、優秀な働きぶりを発揮したとして、そのときの隊長から書いてもらった証明書を持っている者もいた。みんなインド人の顔つきだ。ネワールとかチェトク・ライとかの部族の違い(われわれが見ただけではその区別はつかない)はあるようだが、それらシェルパ族は、いったいに背が低く、黒い髪、細い目、丸顔なところは日本人によく似ていた。体が細身で固く緊まっている点は、ヒマラヤの山岳民族の特徴だろう。彼らはカトマンズの市内でもハダシだった。思い思いに短ズボン、フンドシ、白シャツ姿である。それらのどれもが|垢《あか》とシミで真っ黒に光っていた。風呂に入らないから、垢のために皮膚の色が隠れてしまっている。ただ、どの顔も人なつこく、にこにこしていて、言葉は通じなくても不安を感じさせることはなかった。ゴジュンバ・カン遠征に協力してくれたシェルパを探したが、見知った顔は一人もいなかった。頂上に私と一緒に登ったペンバ・テンジンはどうしているだろうか。
飛行機を使ったおかげで、ルクラ(二七〇〇メートル)までは一気に飛び、ただちにクーンブ氷河の奥のベース・キャンプ(五三五〇メートル)へ向かった。隊員四人に一人ずつシェルパが付き、荷物は地元雇いのポーターがかついでくれた。無銭旅行に慣れ、一銭の金さえ惜しんできた私には、すべてが大名旅行だった。山中の茶店ではお茶が十円とかからず、昼食のジャガイモも二十円も払えば食べきれないほどの量だ。しかも費用はいっさいが隊から支払われる。そのうえ一日の行程が終わり、テント場に着くと、シェルパたちがテントを立て、炉を作り、薪を集め、われわれの寝床まで用意してくれた。
シェルパといえば、ナムチェ・バザールの村を通ったときには、ご当地のシェルパたちがご馳走するからといって素通りさせてくれなかった。おかみさんたちも迎えに来ていて、夫婦で家へ引っ張って行き、地酒のチャンやロキシーでご馳走攻めである。強い酒だから「もう飲めない」と言っても、「他の家の酒は飲めて、なぜうちのは飲めないか」とやや強引にすすめてくる。高度三〇〇〇メートルを越すと、酒の酔いは急速にまわりが早くなるようで、一度などは、かけつけ三杯みたいに無理矢理すすめられ、ついに両側からささえられてテントまで帰った夜もあった。シェルパたちとはたがいに言葉はわからないが、そうやって五日十日と一緒に暮すにつれ、何か言葉以上のところでしっかり通じあう気持になっていくのは不思議だった。
キャラバンの楽しみ
四〇〇〇メートルを過ぎるころから、昼間の陽射しは強いが、少しでも陽がかげると鳥肌が立つ寒さを感じだした。クーンブ氷河の下まで来たころには、五人いるシェルパたちともすっかり親しくなった。ポーターの中には、荷物をかついだうえにまだ一歳にもならない赤ん坊を籠に入れて背負っている母親もいた。十歳くらいの坊主頭の子供もいた。若い娘のグループもいた。テント場に着いたとき、うちとけた娘さんたちにいたずらのつもりで赤マジックでマニキュアをしてやったところ、みんな手をかざしてキャッキャッと喜んだ。初めは垢だらけでなんて汚ない連中だろうと思っていたのが、キャラバンをしている途中で川を見つけると、ひょいと隊列を離れて体を洗っている者たちもいて、いつの間にか娘たちがきれいになっていくのがおかしかった。その反対に、今度はこっちの体にシラミがたかるようになり、休憩になると娘たちに膝枕させて、頭の中のシラミをとってもらうのが新しい日課の一つになった。もっとも一匹つぶさせる間に、二、三匹が彼女たちの方からこちら側へ移動してくる感じだが、だんだんそれも気にならなくなった。こうしてなごやかな雰囲気で進めていくキャラバンの楽しみというものは、ひとり旅では絶対に味わえない。私はポーターたちとの間に生まれるそういった親密さを、忘れがたいものだと思った。
ある夕方、キャンプした近くの氷河の水で体を洗った。身を切るような冷たさにふるえ上がった。遠巻きにしてわれわれを見物する娘たち。私はそんな見物客には慣れないので、あわててセーターを着こんだが、菅沢君は反対に自信満々のようで、レスラーのような筋骨たくましい体を、四二〇〇メートルを越す氷河の前でさらし続けるのであった。もともと二枚目で好男子なうえに肉体美の持ち主だから、娘たちのざわめいたこと。彼は日本にいても宴会があったり、友人の結婚式によばれると裸になるのがいちばんの趣味だとのたまう御仁だっただけに、このときもポーターの娘たちの賞賛を前に、とうとうフリチンのご披露に及んだのである。申すまでもなく私などは短足、出っ腹、披露する何物も持たないが、娘たちばかりかシェルパたちもまた菅沢君の氷上ショーには圧倒され、しばし仕事も忘れて静まり返ったのであった。
彼は久しぶりについついハッスルしすぎたためだろうか、次の朝から体調を崩してしまった。まわりに群がって離れない娘さんたちにたいしても、冗談がとばなくなった。明日はベース・キャンプ到着というとき、彼はほとんど口もきけないくらいで、ますます痛々しい姿になった。呼吸困難を招く高山病にかかったのだ。医療用の酸素ボンベを吸うようになった。たった四人の中の一人だから、隊長もあれこれ迷ったようだが、ついに相沢記者に付添わせて、一時下へおりるよう指示した。
われわれは時間を惜しんで、高度順化も十分にとらずに上へ上へと登った。しかし高度障害は五〇〇〇メートルを越せば当然出てくる。菅沢君はそれにやられたのだ。私も朝起きるとなんとなく頭が重く、首を振ると頭に痛みを感じた。
エベレストから流れるクーンブ氷河の幅は四、五キロの広さであった。シェルパの一人がラクダの背のような丘に登って、「ここへ来い」と手招きした。しきりに呼ぶので、「なんだろう」とカメラと双眼鏡だけ持って急斜面を登りかけたところ、体がだるくて足が上らない。やはり高度順化のできていないせいだ。シェルパは「ビスタリ、ビスタリ(ゆっくり、ゆっくり)」と言う。私は腹這いのような格好で、丘の上へやっと頭だけ出した。
「ほら、あれ!」
とシェルパの指さす方に、なんとエベレストがくっきりと現われていた。
「おお、エベレストだ!」
私は思わず叫んでいた。急峻な氷壁の上にノコギリ状の頂きを見せるヌプツェ(七八四一メートル)を前衛とし、エベレストは頂上まで左右対称の山稜をそそり上げていた。西稜の肩の奥はチベット側だ。サウス・コルのすぐ右隣にローツェが見える。これも八五一一メートルの雄峰だが、エベレストの前では小さく見えてしまう。
地図を広げた。われわれの正面が目指す南壁だとわかる。南壁の大岩壁は、他の氷におおわれた高峰とは対照的に氷も雪もつけず、黒々と垂直に近く立っていた。その大岩壁は頂上から標高差三〇〇〇メートルはある。上部に少し赤味を帯びた層があるが、イエロー・バンドであろう。それを境に上部と下部に縞模様の雪田らしいものが見える。
「こんな大岩壁を、本当に登れるのかな」
と私は茫然となった。われわれの偵察任務はその南壁に登頂ルートを見つけることだ。双眼鏡でのぞくが遠すぎる。壁面の細かい凹凸はもっと接近しないと見えてこない。
私はこれまで何度かエベレストを見た。そしてつねに言葉もなく打たれ、目の底に痛いほどに焼きついた。しかし、これまでは自分がそこに登るのだと思って見たエベレストではなかった。それが、今度は、現実に登るために、いまこうして向かい合っているのだ。見る感覚がまったくちがっていた。私には、これから越えて行かねばならないアイス・フォール(氷の瀑布)、さらにその上方、南壁にたどりつくまでの氷雪とのたたかいという、まだ見ぬ困難ばかりが目の前をおおった。丘の上からは第一の難関であるアイス・フォールも見えていた。全体これ氷の|瓦礫《がれき》の急斜面であった。青々とした氷塊群が、上部のウエスタン・クーム氷河から流れ落ち、巨大なブロックとなって一面を埋めつくしている。双眼鏡に入るブロックの一つ一つは丸ビルほどもある大きさで、それらはぶつかり合い、ひしめき合って立っているのが見えた。
「どこにもルートなんてないぞ」
と私は独語した。当たり前である。エベレストに道なんかない。しかし、ないところに見つけるのだ。アイス・フォールにルートがないため、南壁の下部まで行けませんでしたでは、帰っても報告にならない。隊長も同じことを考えていたのだろう。
「これは厳しくなるよ」
と私の横に立って言った。
オムマニペメフム
クーンブ氷河の最奥部、ベース・キャンプに着いたのは五月十八日だった。アイス・フォールの取付点近く、氷河の上にキャンプを建設した。四年前の一九六五年、インド隊が東南稜から登頂したときも、ここにベース・キャンプを設けたはずだった。インド隊は一九六〇年、六二年と挑戦して敗退し、三度目の正直で成功をかち得たのだった。彼らのキャンプ跡を探したが見当たらなかった。氷河の移動は一年前の足跡さえ消してしまうのだろう。わずかにモレーン(堆積)の石と同色に変色した空き缶がころがっているのを見つけただけであった。
ポーターたちは氷河の上にテント二張りと、べつに炊事用テントをつくると、日が暮れる前に下りていった。残ったのは隊長と私、ネパール政府から派遣された連絡将校、それにサーダー(シェルパ頭)とシェルパ四人だけである。
私たちはかなり疲労がたまっていたが、テントの中にひっくり返るわけにはいかない。隊長の指示で、日が暮れても梱包をとき、キャンバス袋をひろげ、さっそく登攀準備にかからねばならなかった。アイス・フォールを越えるためのジュラルミン梯子、ザイル、ピトン、細引、ハンマー……。シェルパのアドバイスを受けて、アイス・フォールのどこに口を空けているかわからないクレバス工作のために丸太も準備してきていた。
次の日も登攀準備に追われた。昼夜を問わず、ドドーンとアイス・フォールの崩壊の音、それにエベレスト西稜のロー・ラ(鞍部)からのハンギング氷河が大雪煙をあげてクーンブ谷へ落ちていく音の反響は、大砲を撃たれている感じで、いったん気にしだしたら、恐ろしくなって何も手につかないほどだった。
アイス・フォールの登攀は、まず双眼鏡で見当をつけ、見える範囲のルートを進むのだが、見ると実際とでは大違いで、クレバス、ブロックを避けながら行くと、突然その裏に大氷塊が出現したりした。
登攀第一日、私は、エベレスト遠征のインド隊、アメリカ隊にも参加したというサーダーのチョタレイと、ハクバ・ノルブ、アン・パサンの三人をつれて、先行した。シェルパ二人は五、六メートルの丸太と標識用の赤旗をつけた竿をかついでいる。私とサーダーは、サブザックの中に予備のアイスピトン、ハンマー、カラビナ(ハーケンなどにザイルをかける際、その仲介をする金属製の輪)、縄梯子、ザイルをつめた。靴にアイゼン(登山用かんじき)をはき、腰に安全ベルト、腰のまわりに五〇センチのアイスピトンを五本ぶら下げ、アイスハンマー、カラビナをつけ、それにピッケルを持つと、歩くたびにいろんなものがガラガラとぶつかって音をたてた。二人ずつザイルで結び合った。
取付点から三分の一まで登ると、大きく崩れかけたブロックの壁に直面しだした。氷塊の下をくぐり、埋まったクレバスの上を越えて登る。高度が上がるにつれ、氷の肌は青く、年輪のように縞模様をつくったものも見かけられた。
「オムマニペメフム」
と後ろのシェルパたちが口の中で唱えだした。ラマ教のお経である。私はハンマーをふり、ハーケンを打ち、ザイルを張るのに無我夢中だった。ずっと作業のことだけ考えるように努めた。お経を唱えるかわりに、そうやって私も恐怖を追い出したかったのだ。
「しっかり確保してくれよ」
と、崩れかけたブロックの上を登るときには、サーダーに叫ぶ。そうしながらも落ちるのを覚悟で――という言い方は変だが、そのくらい命を賭けて――一歩また一歩渡っていった。
二日目にアイス・フォールの半分まで登った。突然、後方で大崩壊が起こり、ドドーンという耳を圧する音響とともに足元がぐらぐら揺れだした。逃げるにも、すがりつくにも氷塊があるだけだ。シェルパたちは丸太を放り出して私の肩にすがりついた。私も無意識の中で、下から吹き上げてきた雪煙をかぶっていた。たったいま私たちが迂回してきた丸ビル以上に大きなブロックが付け根から崩れて落下し、そのあとには巨大な穴のほか何もなくなっていた。落下したブロックもどこにとび散ったか、すでに下方のブロック帯の一つに化してしまっていた。崩壊がもう二、三十分早く起こっていたら、私たちもブロックと一緒に落下していただろう。ちょうどみんなが窪地に出たところだったから助かったのだ。恐怖は後からくるものだが、私の足は初めてガタガタとふるえた。シェルパのお経の声もいっそう大きくなった。
頭の上のウエスタン・クームから押し流されるアイス・フォールを、われわれの力で食い止めることは出来ない。崩壊にあうかあわぬかは運だけだ。運が凶の方へ振られるか、吉の方へ振られるか。だがわれわれは、その運命がどんなに酷薄だろうと、黙ってそれを受け入れなければならない。山に登るとはそういうことだ。新しい記録を追うにしろ、名誉のためにせよ、特殊なスポーツと考えるにせよ、登山が目的である以上、登山隊のメンバーにかりに犠牲者が出てもそれはやむを得ない。その点についてシェルパはどう考えているのだろう。彼らは生活の|糧《かて》のため、家族を養うために雇われてきているだけだ。登山のために万が一にも命を落とす理由はどこにもない。そう考えるにつけ、せめて彼らに出す指示は、慎重を期さねばならないと反省した。
ベース・キャンプに戻ると、菅沢君が元気になって帰ってきていた。
そそり立つ大岩壁
登攀七日目は、アイス・フォール突破を予定した日だった。私は初めて相沢記者とザイルを組んだ。相沢記者は学生時代に立大山岳部で活躍した人で、私たちもその技術と知識と厳しさに注目していた。前日に到達した中腹の窪地を中継点として、さらに完全な氷になりきらない雪の層のある垂直な壁面を一〇メートルほど登り、視界が急にひらける地点へ出た。ブロックそのほか障害になりそうなものは何もない。
「相沢さん、ウエスタン・クームに出ましたよ。氷河前方にローツェが見えます」
「エベレストは見えるかい」
「西稜の肩の側壁がさえぎっていて見えません」
そう答えながら、先頭だった私は相沢記者を、次いでシェルパたちを引っ張りあげた。
「おお、いよいよエベレストは目前か」
と相沢記者も満足そうだ。私も高度障害で少し頭の痛かったのも忘れた。平坦な雪の上を選んで、みんなで一気に最初のキャンプを建設した。標高六一〇〇メートルだった。
ともかく第一の危険地帯を抜けた。私は夕やけがプモリ(七一四五メートル)の三角帽子のような頂きの雪を紅く染め、次第に色を濃くしていく姿をほっとした気持で見続けた。太陽が傾くと、天に浮遊する白い雲の片々は赤く色づき、太陽が沈んだあとしばらくして、少しずつ闇に融けていくのであった。しまいに手前のローツェだけが黒い影を残し、辺りが暗さを増すごとにその影も濃くなり、刻々と遠くへ遠ざかっていくようにして消えた。何も見えなくなった中で、私は神秘というものを感じていた。
ここのキャンプからは、|雪崩《なだれ》の音も、石屋がハンマーを叩くようなブロックの崩壊する音も遠かった。時たま、どこか奥の方で起こる雪崩の音が遠雷のように聞えてくるだけで、私は久しぶりにぐっすりと眠った。
まだ外は暗いが、五月二十七日の朝だ。狭いテントの奥に相沢さんと私、入口近くに二人のシェルパが寝ていたが、私はそっと外へ出て、星がまだ空一面に残るのを見上げながら、小便をした。マイナス十度以下だろう。起き出すには早いので、テントに戻って目をつぶった。頭痛はない。改めてアイス・フォールでブロックが落下したときの恐怖を思った。すると、ヨーロッパ・アルプスでクレバスに落ちかかったときのこと、アマゾンのイカダ下降で、出遭った危険……と、前後の区別もなくいろんなことが次々に思い出された。
「しかし、エベレストに来られるなんて思ってもみなかったなあ。本当に夢じゃないのか」
私は不安になってそっと頭をあげてみた。シェルパの軽くいびきをかく頭が隣にあった。夢じゃないんだ、と確かめてようやく安心した。今度の偵察に成功したら、次の本隊にも選んでもらえるだろうか。そのためには任務は是が非でもやり遂げなければならない。私は少し早いが起きると、石油コンロをつけ、雪をとかして、朝食の支度にかかった。
この日もヒマラヤは雲一つなく紺碧の中にあった。もういつ天候が崩れ、モンスーンに入るかわからない。そうなったら山はガスで視界をとざし、雪を降らし、エベレストは姿を隠してしまう。ぐずぐずできない。
私、相沢記者、パサン・ノルブ、ハクバ・ノルブの順に、四人が五〇メートルのザイル一本につながってスタートした。今度はブロックがないので直登できる。問題は氷河のクレバスだ。だから誰がクレバスに落ちても不安のない態勢を最初からとり、距離を伸ばすことに専念しようとした。クレバスを避けているうちに西稜から対岸のヌプツェ寄りに出てしまった。雪が足首まであるが、時速二キロで快調に進んだ。景観はどんどん変わる。クームの谷に入ると、雪崩の通路となっている凹んだ部分が、雪崩がこするためか磨かれたような青い氷となっていた。双眼鏡で見ると一条の線のようなクレバスでも、近づくと幅一〇メートルのものであったりした。ここまで登ると、ローツェをはじめ、どの山もただゴツゴツした岩峰で、何でもない山のように思えてしまう。
いつ南壁が見えてくるか、われわれの期待はそれだけだった。シェルパの顔から恐怖の色は去り、お経も聞えない。
西稜の側壁を抜け出たとき、われわれの立つウエスタン・クームの氷河の先に、急な氷壁と上部に黒々とした岩肌を見せる一大岩壁が仰ぎ見られた。
「これはデカい壁だ」と突然姿を見せた直立する南壁に相沢記者は息をのんだ。
「この岩壁を本当に登れるんですか」と私も立ちすくんだ。岩登りが専門でない私には成否の見当もつかなかった。
さらに前進した。六四〇〇メートル。もう南壁の基部であった。近づけば近づくほど大きくて、どんな言葉でも形容しがたく思えた。しかも、その基部に始まる雪氷の急斜面は、岩壁の中央部に行ってY字形にわかれ、一方は西稜寄りに大きなルンゼ(切り込み)をつくり、もう一方は東南稜寄りに入って雪田をつくり、いずれもわれわれのアタックを拒否しているような構えであった。傾斜度は、手前の氷壁で四十五度だが、中央岩壁から上はオーバーハングそのままの急傾斜をなしていた。中央バンドは他の岩と違って褐色をしていて、これがイエロー・バンドだとすぐにわかった。その上にも雪田が白くのぞいていた。
南壁は基部から上まで三〇〇〇メートル。私たちはそこでスケッチしたり、検討したりしたが、ルートの可能性として私の想定では、まず氷壁の途中の突起した岩の下に特殊テントを張る。さらに先は、壁にザイルを固定しながら、雪崩コースをはずして登り、Y字形のところから右方の雪田まで行って次のテントを設ける。そこが八二〇〇―八三〇〇メートル。その上の状態は岩に隠れて不明だが、体の通るほどのルートならあるだろうという感じが持てた。そのルンゼを越えるむつかしさにたいし、右手の東南稜は、これなら私にも登頂の可能性は十分にありそうに思えた。そう考えると、今度の本隊のメンバーからはずされても、自分一人でもいい、どうしてももう一度来たいという気持が、胸の底から突き上げてきてしかたがなかった。
とにかく日本山岳会にたいする報告には、南壁登頂の可能性ありとしていいだろうと思った。私には自信がなくとも、岩登りの専門の人、岩に強いメンバーは日本にたくさんいるのだ。
「相沢さん、取付の六五〇〇メートルから八〇〇〇メートルの中央岩壁まで、特にY字の地点からが問題だと思いますが、左右両ルートとも可能性は十分にありますね」
私は相沢記者に同意を求めるとも、自分に言い聞かせるともなく言った。氷河から吹き上げてくる風の中で、大岩壁をにらんで、帰国したら強気の報告をしようと思った。
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第二次偵察隊
一九六九年八月二十日――十一月二十五日
一匹オオカミたち
六月半ば、第一次偵察隊が帰国したあと、私は東京・神田錦町にある日本山岳会へ毎日のように足を運んだ。秋には第二次偵察隊が予定されていると聞いて、気持が落着かなかった。
職業を持たない私は、板橋区の三畳の狭い下宿にごろごろしていてもしようがなかった。下宿には何もなく、持ち物といえるのは第一次偵察で使用したシュラフ(寝袋)くらいのもので、帰国後はそのシュラフで寝ていた。どこといって行くあてとてないので、足は自然に山岳会へ向かった。行けば冷房が入っているし、事務の人たちもとても親切にしてくれた。
理事たちは連日会合を重ねていた。しかし人見知りする私は、夕方理事たちがやって来だすと、いつもするりと逃げ出した。そうするうちに、山岳会へ出入りするOBの顔も増え始めた。
第二次エベレスト偵察隊のメンバーは、山岳会員からの一般公募ということに決まった。私は第一次隊の一員だったということで、役員でもないのにベテランの役員たちにまじって、実際の準備に取りかかる仕事を手伝った。応募者の願書は二十通、三十通とみるみる増えていった。大学の山岳会OBばかりか、岩登りでは気鋭の山学同志会、RCCなどからも、「山と渓谷」「岳人」といった山の雑誌で名前を見たことのある人たちが参加を希望してきていた。大学のOBの応募者でも、経歴欄に書ききれないほどすでに多くの山を経験している輝かしいベテランたちが多かった。
考えてみると、日本の山岳史は世界のそれに比べて歴史こそ浅いとはいえ、昔からの信仰の登山は別としても、一九〇二(明治三十五)年ごろには日本アルプスヘの登山が始まっていた。案内人付きの登山に始まり、冬の登山、岩場、海外登山へと、日本の登山は大衆化すると同時に、高度な技術をもつ人々をもたくさん生みだしたのである。
第二次偵察隊のメンバーが、日本山岳会会長三田幸夫氏から発表されたのは、一九六九年八月二日であった。私はそれより一週間ほど前に、理事から面接され、打診を受けていた。むろん、その場で言われてから考えることではなかった。
「ぜひとも行きたいです」
と体を乗り出して即座に答えた。面接は何人も受けたのだから、それで決まったわけではなく、この数日間くらい発表が待ち遠しかったことはなかった。
隊長は宮下秀樹氏、隊員は中島寛、佐藤之敏、小西政継、井上治郎の諸氏、それに私。ドクターの大森薫雄氏を入れて計七名であった。
私には全員が初めて一緒に登る顔ぶれであった。それぞれの横顔を紹介しておくと、
隊長・宮下秀樹(三十八)東京都出身、慶大出、一九五九年慶大ダウラギリ偵察隊、六〇年慶大ヒマルチュリ隊隊員。
中島寛(三十一)埼玉県出身、一橋大出、一九六一年一橋ペルー・アンデス隊隊員。総務担当。
佐藤之敏(二十六)東京都出身、一橋大出、一九六五年・六七年一橋大ヒンズークシ登山隊隊員。渉外担当。
小西政継(三十一)東京都出身、麹町中学出、一九六七年マッターホルン北壁冬期登頂。装備担当。
井上治郎(二十四)兵庫県出身、京大出、一九六八年京大パタゴニア学術調査隊隊員。気象担当。
植村直己(二十八)兵庫県出身、明大出、食糧担当。
大森薫雄(三十五)東京都出身、慈恵医大出、医療担当。
第二次偵察の日程は、第一次と違って時間的にもゆとりがあった。八月下旬に出発、カトマンズからは約三週間のキャラバンをして、九月中旬ベース・キャンプ入り。南壁にはその基部にアドバンス・キャンプを設け、八〇〇〇メートルまで試登する。登山期間四十五日というものだった。
一次、二次とも選ばれたのは私だけである。菅沢君は第一次で体調をくずしたからというのが理由でなく、家業の都合という個人的理由で見送った。しかし、一緒にザイルをつないだ仲間が一人もいないというのは何か淋しかった。新メンバーの話をきいても、経歴から想像しても、私なんかよりはるかに優れた人たちばかりだ。しかも、私だけがエベレストに賭けているわけではなかった。佐藤君は将来を保証されていた住友信託銀行の職を捨てて参加したし、彼の先輩の中島さんも日本軽金属工業の優秀な中堅社員を棒にふってエベレストを選んだのだった。みんなエベレスト登山に食らいついた一匹オオカミであった。
出発前に田辺寿(三十七)氏が副隊長に決まった。田辺さんは宮下隊長の慶大における後輩で、ヒマルチュリ隊にも参加し、頂上に登った経験豊かな人である。
八月二十日、第二次偵察隊は羽田空港から日航のロンドン行で出発した。新たに報道記者として毎日新聞の木村勝久カメラマンが加わり、渉外の佐藤君だけは準備のために先に飛んでいた。
空港は山岳関係者、家族の人たちの見送りでごった返した。宮下隊長、田辺副隊長が奥さんや子供さんに囲まれて、目をうるませているのが印象的だった。見送りが多すぎて一人一人と話もできない小西さん。関西からわざわざかけつけた人々と握手をくり返す井上君。両親、兄弟の見送りがなかったのは私一人だけだったが、私の唯一の世話人で、郷里では家が隣同士だった赤木正雄さん(ご子息の健一さんが慶大野球部OBで国鉄スワローズの選手だった)が見送りに来てくれたのはうれしかった。
山行の別れはふつうの旅の別れと違う。登山には遭難がつきものだから、そこに一抹の不安が漂うのだ。宮下さんも田辺さんも、山の危険を知りつくし、しかも仲間を山で亡くしてきたからこそ、家族との別れにも万感胸に迫るものがあるに違いない。それでも登山という危険で、人が見たら遊びみたいなものにいったん魅入られた者は、すべてを投げ出してチャレンジしていく。
第一次隊が四人の編成だったのにたいして、第二次隊はさらに報道班にNHKから白井久夫記者、野口篤太郎カメラマン、毎日新聞から佐藤茂記者を加えて、十二名の大編成となった。
その意気ごみをみても、日本山岳会が来年の本隊遠征にどれだけ期待をかけているかが理解できた。同じことは予算面についても言えると思った。第一次のときは、むろん隊員の滞在費も隊持ちには違いなかったが、予算がよほど少なかったようで、藤田隊長の苦心していた様子が目に浮かぶ。私は食糧係だったから、キャラバンの途中でもよく現地人から物資を買付けたが、あるとき一個三十円の卵を買ってきたら、「一食二、三十円あれば食べられるのに、それが一個分とは高い」と言って、もう一度自分で交渉しに行き、どうしてもまけないと言われると卵を全部返してきた。そんな話はいくらでもあり、それでも足りずに、隊長はだいぶ自腹を切っていた。
そんなわけだから、第二次隊はいろんな面でゆとりがあった。人数が多く、仕事の分担もはっきりしていたから、自分の担当する仕事をすませてしまえば、他の隊員が何をやっていても気をつかわなくていい。隊員には一人ずつシェルパがついて、身のまわりの面倒は彼らが見てくれる。したがって、こちらが勝手に手を出すことは、シェルパの仕事を取り上げることにもなった。
山に登るのに、すべてが分業となると、私などは何か物足りず、これでいいのかなと考えてしまうが、そうやって毎日進行していくうちに、分業システムも当たり前になっていく。良いことか悪いことかわからないけれども、こうして登山の世界もずんずん組織化され、職分化されて変わっていくのだ。しかし、登りたい山を自分で計画し、準備し、登る――それをするにはたった一人でやるしかないし、一人でやることに意味のある山も依然としてあるだろう。このとき私を生き生きとさせていたのはそのどちらでもない。私の頭の中は、エベレストという唯一の山が占めているだけだった。
ルクラ飛行場
モンスーンの過ぎたカトマンズには、夏の暑さがまだ残っていたが、郊外は一面の緑で、それが雨あがりのように美しく濡れていた。隊長と副隊長は、先発の佐藤君と一緒に、連日正装してネパール国の外務省、登山局、登山協会、日本大使館を回っていた。私たちは日本から空輸された装備、食糧、医療品の再梱包、現地買付け、その他をてきぱきと片付けていった。
ちょっと話は脇道にそれるが、カトマンズ市内を自転車で回っていたとき、話に聞いていた火葬風景を見ることができた。市内をすこしはずれた聖なる地パシュパチナートヘ立ち寄ったときだ。常緑樹の大木と芝生が続く傾斜地を下りると、幅二〇メートルもある濁流をいっぱい抱えた河に出た。両岸に金色の塔をもった寺院が並んでいて、河面に二メートル四方に張り出した石畳が六、七カ所見え、それが遺体を焼却する所だった。三カ所で煙が上がっていた。
折りも折り、遺体が運ばれてきた。空いた石畳の一つに稲束が敷かれ、みるみるうちに薪が積み上げられた。その上に白い布で包まれた遺体が載せられ、火がつけられた。燃え上がる赤い炎。よく見ると、焼かれる遺体は生き返ったのではないかと思えるくらい、炎上する火の中で手と足をのばし、反りかえっていた。そういういっさいが河岸の私にもよく見えたのだが、白い油煙もはぜる音も一瞬のことのように、火が燃えつき、跡には黒い灰と骨だけが残っていた。灰も骨も川の中へ捨てられた。死んだ者は灰となって河へ帰っていったのである。
そこからすぐの河下では、子供たちが石畳を飛び込み台にして、素裸になって泳ぎまくっていた。国によって宗教も風俗もいろいろだから、このような死生観に何も口をはさむことはないが、これから危険な登山に取りかかろうとする私には、何か非常に怖いものを見てしまったという気持をぬぐえなかった。強烈な印象だった。ついにその晩は昼間見た情景が頭から離れず、|輾転《てんてん》として夜を明かしてしまった。私にとって必要なのはあくまでも生きること以外にないと思いながら、生のすぐ背後にはあんなにも強い恐怖が住んでいるのかと、人間というものを見直したような気がした。
現地採用のシェルパたちも決定した。
連絡将校 一名
サーダー 一名
高所シェルパ 十名
ローカル・シェルパ 八名
彼らの顔をみていて、なつかしい顔見知りを一人見出した。
その前にもう一つうれしかったのは、第一次偵察隊のときの連絡将校だったロハニーさんが、私が来ていると聞いて宿舎に訪ねてくれたことだ。彼は私より若いが、ネパールでは最高クラスの坊さんの位「ブラーマン」に就いていて、広い額にはどれほどの|叡智《えいち》と思慮が隠されているかといつも思わせる人だった。背は私より低いが、腹の出ていることは私以上で、思わず第一次隊のときの大食漢ぶりを思い出させた。彼のために土産を持参してこなかったので、持ち合わせの釣り道具をプレゼントした。
さて、シェルパの中のなつかしい顔とは、サーダーに決まったミンマ・ノルブだった。ミンマとは、一九六五年の明大山岳部のゴジュンバ・カン遠征隊のとき一緒で、ともにザイルをつないだ仲であった。彼はその当時から信望があり、ゴジュンバ・カンのときには第一次アタック・メンバーに選ばれた。しかし、頂上近くまで進みながら届かず、悲運のシェルパとなった。それを受けて第二次アタック・メンバーとして彼らのつけたトレースをたどったのが、私とペンバ・テンジンの二人で、つまり彼らが引き返したおかげで、私たちはゴジュンバ・カンの頂上に初登攀できたのである。
また、第二次偵察隊が事をスムーズに運べたのは、第一次のときと同じく、日本大使館の松沢さんの力によるところが大きかったことも書きもらすことはできない。
九月一日、先陣として田辺副隊長、私、連絡将校、サーダーのミンマとシェルパ二名が、カナダの双発機ツインオッターでルクラヘ飛んだ。機内には最初に必要な装備と食糧を積みこんだ。前回は晴天でよく見えたが、ルクラ飛行場というのは深い谷間の段々畑を切り拓いた、幅二〇メートル、滑走路四〇〇メートルという施設しかない。滑走路が短いから、一つ間違えば谷か山に突っこむことは明らかで、すでに何度も翼をもいだり、機首をへし折る事故があったという。だから四十分ほど飛んで下りぎわに雲海に入り、わずかな雲の切れ間から急降下に移ったとき、思わず両手で前席の|背凭《せもた》れの上を固く握りしめた。機が着地して二度大きくバウンドし、ギギギーッと急ブレーキをかけたときには、体をつんのめらせながら一瞬目を閉じたが、事故も起こさず止まった。
ところが、二番機が私の目の前で前輪を飛ばして胴体着陸する騒ぎとなったのである。
続いてくるはずの二番機は、曇天から雨となった悪天候のために三日間飛行を中止した。そしてやっと晴れ渡った四日目の朝、爆音とともに機影が見えてきた。私たちは第二便のためにテントを張り終え、私は滑走路の脇でカメラを構えていた。一度旋回し、軽業飛行のように谷間を縫って飛んできた飛行機は、コース上に着陸したと思われたが、突然前輪を横にふっ飛ばし、機首を地面に直撃させ、そのままガリガリッと地面を這っていって止まった。
「あッ、大丈夫か」
と私たちは走った。ひしゃげた機体から毎日新聞の木村カメラマンが逃げ出すように降りてきた。幸い機体の破損だけで、中の隊員たちは無事だった。こんなことがあるうちに、寄せ集めみたいなチームにも、次第に心の通い合いが生まれ始めた。
食糧係の苦心
空輸完了と同時に、私たちはルクラからベース・キャンプヘ向かった。モンスーン明けのエベレスト街道にはヒマラヤ・エーデルワイスの白い小さな花が咲き乱れていた。この花は花弁の毛深いのが特徴だ。ピサの斜塔を思わせるちょっと傾いたアマダブラム(六八五六メートル)の対岸を迂回して登るころには、眼下のクーンブ谷一帯はつやつやした緑のじゅうたんで敷きつめられ、アルプスの牧場そっくりに見えた。高度が三〇〇〇メートルから四〇〇〇メートルヘと上がるにつれ、緑と積雪が描く接線が近くなり、その辺りのエーデルワイスはほとんど茎を伸ばせないままで冬を待つのだ。
食糧係の私の仕事は、キャラバンをしながら村を通るたびに、生野菜を確保するのも重要任務であった。前回は干物ばかりでヒジキ隊と言われたが、今回はだいぶ慣れて、入手のむつかしい卵を分けてもらったり、シェルパの漬物ショーチを手に入れたりした。山椒の新芽や、名もない青草でも食べられそうなものを見つけると、摘んでは天ぷらにして出したりした。
次第に高度を増すと、もうほとんど新鮮な食物は諦めなければならない。それに隊員の中にはちらほら高山病の気配を見せる者も出てきて、食欲減退を訴えだした。現地食だけでなく、日本から用意していったインスタント・ラーメン、乾燥米、そんなものも体が寄せつけなくなる。シェルパたちは日本製のラーメンでもカレーライスでも乾燥野菜でも何でもおいしがり、隊員の食欲減退と反比例して、その食欲はますます旺盛となった。食糧係としては食欲減退がいちばん困るので、限られた材料ながら、シェルパのコックにあれこれ指示して工夫するのだが、
「なんだよ、これは。こんなものを食えというのか」
とコックがどなられるのを聞くと、私は自分がどなりつけられたようにつらかった。そこで、食事になると、私はなんでも「とってもおいしい、とってもおいしい」とみんなの前で連呼して食べた。少しでもみんなの食欲がそそられればいいと考えたからだ。もっとも、家族持ちの人からすると、奥さんによっていつも口に合うものが卓上に並べられ、何不自由ないのだろうから、不満が出るのも無理はない。それに引きかえ、放浪の中で四年も暮してきた私は、人が与えてくれるものならなんでもおいしいと思って食べた。またなんでもおいしく食べるのが放浪者の鉄則でもあった。それを破ったときには餓死しかない。放浪者の資格だってないのだ。アマゾンのイカダで立ち寄ったぼろぼろの一軒家で、主人がピラニアを焼いて出してくれた。人肉を食べるピラニアはさすが現地でも誰も食べたがらないが、それを断われば、相手の好意を無にするばかりか、自分の破滅だと思って、感謝して食べた。世界最北のシオラパルクのエスキモー村に辿り着いたときにも、何の肉かわからない血だらけの生肉を出された。そのときも、もし食べられないと拒否したら、きっと私は餓死しただろうし、エスキモーの社会に入れてもらうことも出来なかっただろう。集まってきた村人の前で、私は目をつぶって肉を飲みこんだ。そして、涙のにじむ顔でとてもおいしいという表情をつくった。その一瞬によって私たちは他人同士でなくなったのである。
そんな話を、私は自慢して言っているのではない。まして、同行した隊員の悪口のつもりで言っているのでもない。たしかに「なんだ、こんなものを食わせて」とどなられれば、食糧係の私だってカチンと来なかったわけではない。しかし、そんなことを洗い出せば、長い道中にはおかしなことはいっぱいあるし、それは不思議でもなんでもないだろう。人間社会が凝縮されたような遠征隊の姿は、喜怒哀楽を集めた劇の舞台をみるようでもある。いさかいがある方が当たり前で自然なのだ。そうやって共同生活を続けているうちに、不思議なもので固い結束も生まれてくる。
ただ、私が言いたかったのは、食糧係というのは別にむつかしい仕事ではないが、大変な任務だという一事だ。私は二度の食糧係の経験からいって、食欲不振は絶対に克服しないといけないと思った。なぜなら、食欲不振が続けば、それは必ず登山意欲の減退となってわが身にはね返ってくる。また栄養のアンバランスは当然健康障害の引きがねになる。したがってそれを防ぐのが私の任務だと思った。
むろん、食糧係は私が希望して引き受けたのでもなければ、私に自信があってやったのでもない。いや、隊長に命じられたから一生懸命やったに過ぎない。
隊員の大部分の人は、それぞれ適材適所の任務を分担していた。井上君は気象学を専門としていたから、気象を担当することを誰もが疑わない。大森ドクターはもとより医療を分担して、隊員の健康管理と治療に目を光らせていた。岩登りのスペシャリストの小西さん、語学力抜群の佐藤君の渉外、六〇年安保闘争に一橋大の自治会委員長だったという中島さんの総務担当。こうしてみると、大森さんはじめ本部ではよくぞ人材を集めたものだと感心しないわけにはいかない。ただし、栄養学の専門家が一人欠けていた。そして、第一次も、第二次も、専門でも何でもない――まあ何を食べても食いつなげる――私が食糧係を命じられた。私とすれば、「それは出来ません」ではヒマラヤに来られなかった。命じられたのを幸いに引き受けたのである。だから、いちばんひどい目にあったのは他の隊員たちかも知れないのだ。だが、みんなの食欲を増進させることだけに専心これ努めた私を、私自身けっして恥じていない。
食糧の話が出たついでに、みんなにいちばん好評だったのは、シェルパの村でとれるピンポン玉ぐらいにしかならないジャガイモの特別料理だった。ヒントはシェルパの料理にあったのだが、その小さな高原のジャガイモをふかし、ニンニク、玉ネギ、オレンジの皮、山椒の芽、ニンジンと一緒にすりつぶし、トウガラシを真っ赤になるまでふりかける――と、ここで驚かないでほしい、さらにそれをサラダ油、味噌、しょうゆ、塩といった日本の調味料を練ってミックスしたタレにつけて食べる。そうするとヒマラヤ料理の口のひんまがるような辛さの中に、ほんのりとふるさとの味噌やしょうゆの味がただよう。そこが味付けのポイントなのだが、さすがにこれはみんなに大人気であった。
あるとき、「うまいのはいいが」と、トウガラシを基調とする辛さに汗をかきながら、「トイレのとき尻から火を噴く」と言い出した者がいて、大笑いになった。この料理には「ハイキュラス」という名前がつけられた。語意はうまさの点で最高の「ハイクラス」。これを、最高に辛いときのしかめた口で発音すると「ハイキュラス」となるのであった。
恐怖と麻痺と
第一次偵察のときに苦心したアイス・フォールを前にして、前回と同じクーンブ氷河の上部にベース・キャンプを置いた。九月十二日、東京を出て三週間とちょっと過ぎていた。
私たちより少し遅れて、スキーヤーの三浦雄一郎さんが、エベレストの八〇〇〇メートルからスキーで滑降する冒険のためにやはり偵察に登ってきて、五〇メートルも離れない氷河の一角にキャンプを張った。おかげでベース・キャンプは、二隊合わせて五十名以上の住民が暮すこととなり、下からベースヘ往復するポーターたちもふくめると、ちょっとした村ができた格好だった。われわれは飲料水はテントの右側、トイレは反対の左側と決めていたが、その左の方に三浦さんたちのキャンプができたので、お尻を出すと、向こうからは丸見えで、ほかに見るものとてない氷の中だから、向こうの連中もついつい見物の垣根をつくり、こっちの方があわてることもあった。
しかし、ベース・キャンプに入って数日すると、高度順化ができたのか、みんなも高度障害が消えて元気になった。
ある夜、登山隊とスキー隊の親睦会が開かれた。酒は日本から持ってきたビール、ウイスキー、ワイン、それから地酒のチャンとロキシーといくらでもあった。つまみもスルメ、せんべい、あられ、ウニ、卵焼……とテーブルいっぱいに並んだ。
「両隊がこの先、偵察登山を無事果たせることを、ただただ祈って、乾杯!」
と宮下隊長が音頭をとった。
ここに来るまではたがいに自粛していたが、「今夜ぐらいはいいだろう」という空気が流れ、もともと酒といえば酒豪級の宮下隊長、田辺副隊長、中島さん、大森ドクター、木村カメラマンは当然のこと、私たちも大いに飲んで発散した。私は酒がけっして嫌いではないけれども、量はたいしてやれない体質だったが、この夜はビールも洋酒も嘘のように喉を通った。しかし高度五〇〇〇メートルを越えるベース・キャンプでは酒のまわりは極度に早く、いつと覚えもなく眠りこんでしまった。ありったけの声を出して、高々と歌をうたっていたところで記憶はプッツリ切れて、朝方、胸が苦しくて目が覚めるまではきれいに空白だった。誰がテントにかつぎこみ、シュラフに押しこんでくれたのかと、意気銷沈していると、後で判明したことには田辺さんはじめ何人もの人が、ベロベロになった酔っぱらいの面倒をみてくれたのだという。
ベース・キャンプの朝は早かった。当面の目標は目の前のアイス・フォールの突破だが、第一次の経験者だということから、私とサーダーのミンマが第一陣をうけたまわってルート工作に取り付くことになった。第一次のときと違い、今回はベース・キャンプでゆっくり高度順化と休養の時間がとれたので、気持にも体力にもゆとりが持てた。
日中、太陽が高くなるとどうしても氷がゆるんでアイス・フォールの動きが活溌になる。その危険を避けるために、ルート工作の出発は五時半から六時と決められた。たいていの朝はシェルパがやかんをぶつけたり、薪を重ねる音、水をくむ音、あるいは火のはぜる音などで目が覚めた。私は時々炊事テントをのぞき、朝食の出来上がるのを見守ったりした。シェルパはみんな料理が上手だった。コックの指示で、荷揚げにきて前夜泊まったポーターたちも粉を練って主食のチャパティを焼いたりしているが、手つきが実に器用だ。それにキッチンで働いているときは、重い荷をかついで急傾斜を登るときの彼らの顔付きからは想像もできないほど柔和な表情が見られて、私の方も心がなごんだ。
一週間の休養のあと、いよいよ九月二十日の早朝からアイス・フォールに取り付いた。いつ頭上の氷の大ブロックが崩壊して落下してくるかという危険は変わらなかったが、一度経験したことというのは強いもので、慎重でこそあれ、恐怖心も前回ほどには湧いてこなかった。モンスーンの間に雪が積もり、クレバスの雪溝も雪が埋めていてくれて、前回よりは苦労が少なかった。むろん前回のルートは跡形もない。チベット国境の方から遠雷のような雪崩の轟音が伝わってくるのも春と同じだったし、近くでも雪崩はしょっちゅう起こっていた。しかし、
「またやってるよ。でも、たいしたやつじゃない」
と、うしろのミンマに話しかけて平然としていられた。
たしかにヒマラヤは生きていた。氷に閉ざされて変化のない世界かといえば、すべてがその逆で、きのうデポした丸太が、きょうはどこかへ飛ばされて見えないなどということは珍しくなかった。だから恐怖に慣れたといっても、それに|麻痺《まひ》してしまったら怖いことになる。一日目には異常がなかった、二日目にちょっと亀裂が入っていた、で、次の日もたいしたことじゃないだろうと思ったら、それはすでに麻痺である。現に何でもない亀裂が次の日には大クレバスに変わっていたという例をいくらでも見てきた。
それから麻痺は精神と体力の衰弱からも生じる。私は今度の隊で“ジ・アニマル”というニックネームをいただいた。その意味は、付けられた当人にもわかる気がするが、自分ではそれほどたくましいとも思っていない。なるほど私は考える前に走ってしまう方だ。しかし、消耗するときには人並みにバテるし、高山病にもかかるし、悲観落胆するときもある。だから、遮二無二突っ走って、人より先に消耗し、麻痺し、しまいには大きな危険を招くこともあるということを、よほど警戒しておかなければいかん、その警戒ができるのが本当のアニマルなのではないか、とつくづく考えた。
幸いにして、アイス・フォールは三日で突破することができた。ここはシェルパたちのもっとも嫌がる個所だったが、ミンマ・ノルブがサーダーに昇格して最初の遠征隊というので、とくにはりきって乗り切ってくれた。
その前日の九月二十二日、アイス・フォールの中腹に中継キャンプを設置した。そして一方ではルートを伸ばし、もう一方では中継キャンプヘの荷揚げにかかっていた。ちょうど私がベース・キャンプヘ戻っていたときだった。シェルパたちが何やら騒々しく、駈けて行く者もいるので、私たちも|蹤《つ》いて行くと、氷河の中央近い青氷の上に、ヤッケを着た一体の遺体が転がっていた。近寄ると、外国人で、顔はミイラ化して扁平状になっていたが、まだ髪の毛をつけ、登山靴をはき、胴にはザイルをつけたままだった。
そう言えば、二時間ほど前から荷揚げのポーターたちがふだんと違ってそわそわしていた。そして隊員に断わるでもなく隊列から離れたり戻ったり、何をしているんだろうと私も気になっていた。ザックの上に見かけない|銹《さ》びたスコップをのせた者、ジュラルミンのスノーバーを持った者、フランス製の使い古したキャンピング・ガスを持った者、折れたピッケルを持った者もいて、いよいよ変だった。私はどこかで先行登山隊が置き去りにした品でもひろったのだろうぐらいに思っていたのだが、それらはいずれもミイラの遺留品であったのだ。
彼らがひろった品は、ほかにアイスハーケン、ピッケル、オメガの腕時計、水筒、ヤッケなどで、よく調べると、水筒にマジック・インキで「JAKE」と書かれたのが見えた。
「JAKEというと、アイス・フォールで死亡したアメリカ隊のジェーク・ブライテンバッハではないかな」
と中島寛さんが言いだした。さすがに登山よりも、山登りの本を読む方が好きだという中島さんだ。ジェークのことなら、私もベース・キャンプに登る一日前にキャンプしたゴラク・シェップという氷河の入口に当たるところで、岩の上にその男のメモリーを刻んだ石碑があるのを見た。
シェルパたちに聞いてみると、発見時の模様は、
「氷河の上に、カチカチになった死体があった。あたりにピッケルや水筒がころがっていた」
というだけで、どうやら私たちが見た状態と変わりないらしかった。
ベース・キャンプに持ってきてあった一九六三年春のアメリカ隊の報告書「American on Everest」を探すと、事故報告の項に彼のことが出ていた。ノーマン・ディレンファースを隊長とするアメリカ隊は、このとき東南稜と西稜の二ルートから六人が登頂に成功したのであったが、その往路、全隊員がベース・キャンプに到着する前に、先行隊員のジェークはアイス・フォール登攀を開始し、私たちが中継点としている近くで、ブロックの崩壊に遭い、クレバスの中に埋もれて死亡した。二十七歳。遺体は引き揚げることができなかった――と書かれてあった。
われわれがルート工作中の同じ場所で、六年前にブロックの崩壊に遭って生き埋めになった彼は、その後も繰り返す雪崩と崩壊によって、おそらく氷塊の上になり下になりしてゆっくりと流され、九〇〇メートル下ってたまたま氷上に出たところをシェルパに発見されたのだろう。私たちは、彼の遭難の模様を想像しながら、思わず気持を引き締め、下山したらさっそくアメリカヘ知らせようと話し合った。
九月二十八日、ウエスタン・クームに達し、十月一日、南壁下部、六六〇〇メートル地点にアドバンス・ベース・キャンプ(ABC)を建設した。
モンスーンの後とはいえ、まだその名残りがあるのか、ウエスタン・クームに出ても、いったん天候が崩れると吹雪となり、ラッセル隊の出動を必要とした。しかし概して順調に運んだのは、宮下隊長の名リードがあったからだ。宮下隊長は笑顔を絶やさない人だが、采配はてきぱきしていて、しかもこうと決めたらテコでも動かぬという、頑固なくらいな意志の強さをもっていた。それと田辺副隊長が、関取りのような太鼓腹を波打たせながら、いつも隊のしんがりからわれわれを追い上げた力も大きい。そういう隊長、副隊長のコンビネーションのよさは、隊員にはきつい面もあったが、また日程をとんとんと進行させる推進力ともなった。
シェルパたちも誠実だった。隊で支給した登山用ニッカズボン、シャツは、いずれも彼らには大きく、そのダブダブな様子はなんとなくサエなくておかしかったが、いざ行動にかかると、私たちの荷物は十―十五キロの軽さなのに、シェルパたちは十五―二十キロの荷物をかつぎ、同時に出発してもどんどん先へ行ってしまうのだった。荷揚げにしても私たちの倍の量を倍の早さで運んでくれた。そして危険な所に長くいるのはヤバいと思うのか、仕事がおわると逃げるように下へおりて行った。
しかしそんなにとんとんと進みながら、ベース・キャンプから南壁取付までに二週間以上の日数を費やしたのは、その間に高度順化をきちんと行なったからである。南壁に荷揚げを終えたころ、エベレストは秋から冬へ入りかけていた。午後になると雲が出て、降雪が来た。気温もマイナス二十―二十五度がふつうとなった。ベース・キャンプではマイナス十度だったが、一〇〇〇メートル高い所でのマイナス二十度は比較にならないほど寒く感じられた。単に感じただけでなかったのは、一眼レフのカメラのシャッターがおりなくなったことでも説明できよう。
南壁の偵察開始
第二キャンプには行動派の宮下隊長自身が入りこんだ。登攀隊員は入れ替わりに入った。
二度目の南壁が目の前にあった。第一次のとき、初めてみた南壁は黒々とした岩ばかりの雄姿を見せていたものだが、モンスーンが過ぎた初冬のそれは、所々に雪化粧をし、白々としてむしろ女性的な感じを与えた。表面はなよなよとして、実際には男よりも恐ろしいものを秘めていそうなところは人間の女性(?)も山も同じであった。
南壁の下部から岩肌の見える取付までの間、厚い雪氷のルンゼが青々と広がっているのは、春と同じだった。途中南稜寄りに大きく軍艦の形をして、|舳先《へさき》を突き出している岩壁があり、われわれはそれを軍艦岩と呼ぶことにした。
十月五日、南壁に向かって最初に取り付いたのはまたまた宮下隊長だった。田辺副隊長、佐藤隊員が続いた。いよいよ本格的な偵察の開始である。一日置いて中島隊員、小西隊員、私がバトンタッチ、さらに足を伸ばし、六七〇〇メートルの南壁取付点に達した。小西さんは、来る者をふるい落としそうな急傾斜四十度の雪氷面に、左手に鋭い刃のついたアイスメス、右手にピッケルをにぎり、十二本の爪とさらに前部に二本のツァッケ(爪)をもったアイゼンに全体重をかけ、ガシッガシッと一歩ずつ、体を上部へしなやかに押し上げていく。彼のうしろにつながる赤いザイルは下方の私と結ばれ、万一彼が落下した場合には私が支点となって彼を確保するのである。しんがりの中島さんは先頭の小西さんにルートを指示してやる。ザイルの太さは九ミリ。それを四〇メートル伸ばすごとに、腰にぶらさげてきたコ型ハーケンやスクリューハーケンをかちかちに凍った青氷の中に打ちこみ、ザイルを固定して進む。七本のザイルを固定したとき、軍艦岩の真下に到達した。時々疾風が雪煙を舞い上げ、吹きつける。気温がぐーんと下がる。そこは中央岩壁がまっすぐに落ちてきて、下部から伸びる氷壁帯と交わる中央ルンゼのすぐ脇の地点だった。頭の上にはほとんど垂直といってもいい大岩壁がどこまでも伸びていた。
軍艦岩の下の雪氷を削り、四、五人用のテントを二張り張った。急傾斜の斜面にそれだけの平坦なスペースを確保するのは一仕事だったが、ふつうのテントを持ってきたのでは、突風、吹雪によって簡単に吹き飛ばされてしまう。しかしながら、本部から命じられた八〇〇〇メートルまで登るためには、ここにどうしても第三キャンプを置かねばならない。そのために今回の南壁隊は、傾斜した氷壁上に張れるよう特別に創案されたテントを持ってきていた。第一次偵察隊の私たちの報告に基づいて、山岳会員の中の専門家が設計し、実験を重ねて作ったものだ。簡単にいうと、アルミニュームのポールを骨組みとして、まずそれを氷上に組み立て、床に網を張り、ミード形のテントを張る。そして網綱を軍艦岩の壁にロックハーケンを打って留め、氷壁にはアイスピトンを打ちこんで留める。結果は上々で、これなら何が来てもびくともしないというものが組み上がった。
われわれは、さらにメンバー・チェンジしながら一本、一本とザイルを伸ばし、軍艦岩にテントを張ってから九日目の十月二十九日に、中央ルンゼのど真ん中まで登った。七五〇〇メートル、傾斜は四十五度と急になるばかりだ。第四キャンプをそこへ置くこととし、また特殊テント二張りを張った。テントの中から首を出すと、目の下は氷壁が一気に一〇〇〇メートル、ウエスタン・クームまで連なり、第二キャンプのテントも豆粒ほどである。体をひねって頭を上へふり向けたとき、
「うヘー、小西さん、見てよ」
と、思わず奇声をあげた。ルンゼの上に中央岩壁そのものが、黒い岩肌をもって覆いかぶさってきていたのであった。
ルート工作中、何度もヒューンといって落石の飛ぶ音をきいたが、私たちは落石の通路に、それを防ぐ手だてを何も持たずにいるわけだった。これから先は落石ルートである中央ルンゼを迂回したいと思うが、前方にはもう雪氷が見当たらない。ということは、雪氷がないと完全に岩場の登攀になり、登攀自体も困難をきわめるが、岩壁ではテントを張ることも、張るスペースの確保も不可能に近いということだ。
みんなで相談したが、ここまで来た以上、さらに登って行くほかない。十月三十日、小西さんと私は第四キャンプに泊まりこんだ。明朝からふたたび登攀に取りかかるためだ。私は便意を催してテントの外へ出た。テントを固定させたザイルを片手でにぎり、尻を下方へ向けたとき、排泄物は音もなく落下して行って行方を見失った。遠くまで来たなというヘンな実感が迫った。
翌十月三十一日の朝は、八時を回っても陽が射さず、気温もマイナス三十五度を指していた。ひえびえとする中で、完全装備をし、再度点検した。セーター、ズボンの上に、厚い羽毛服の上下を着こみ、足には二重靴の高所靴の上にオーバーシューズ、さらに先端に二本の爪を突き出させた十二本爪のアイゼンをはいた。サブザックの中は四〇メートルのザイルを一人五本ずつ、ロックハーケン、アイスハーケン、スノーバー、ハンマー、捨て縄、テルモス(魔法瓶)、ほかに予備の靴下、手袋、食料のビスケット。肩にはザックと酸素ボンベ一本を背負った。重量は十五キロをはるかに越え、立ち上がると、背中にぐっと重みがかかる。背で背負うというよりは、腰に背負って登るのである。頭の上には落石防止のヘルメット、顔には天狗も驚くような高鼻の酸素マスクをかぶった。
いつの間にか紺碧の空になっていた。黒々と無表情なだけに威圧感のある大岩壁、その割れ目にわずかに貼りついた白い雪氷、そこをたどる赤いザイル、真っ赤なヤッケ、ブルーのオーバーシューズ、白いヘルメット。私は色というものが、こんなに人間の気持をほっとさせる力があるとは知らなかった。未踏の南壁に一歩一歩トレースをつけていく気迫はわれながら厳しい。しかし、色鮮やかな天然と人工の配色は、時として直面する困難をも、高度と寒さによる険しさをも忘れさせた。
小西さんの表情はマスクの上からではのぞけないが、目にはやはり明るいものが感じられた。マスクをつけたために、ふだんのように自由に話せない。しかし、目と目の合図でたいていの話は通じた。息が合うとはこういうことなのだろう。二人は交互に先頭に立ちながら、尺取り虫のようにザイルをのばし、五〇メートルから一〇〇メートルごとにピトンを打ち込んで固定させた。だんだん岩壁が増え、ロックハーケンを打つことの方が多くなった。高度が上がるにつれ、雪氷地帯が狭まっていくのは、下から見上げた通りであった。
小西さんは、酸素マスクの調子が悪いのか、マスクを取りはずしたり、つけ直したりしていた。登攀もそろそろむつかしさを加えてきた。まわりの岩壁はますます黒ずんで、垂直に立ち、中央岩壁へと続いている。時間はまたたく間に過ぎていく。太陽はすでに西へ張り出してきた雲海の上にあり、やがてかげり出した。日が薄れると同時に気温の急速に下がるのがわかった。背中に受けていた太陽のぬくもりが、たちまち冷たい金属板を押しつけられた感じに変わった。ルンゼの終点まで来た。それは中央岩壁の基部を意味した。
出発してすでに八時間が経過していた。ザイルもあと二本を残すだけであった。
「八〇〇〇メートルに達したかなあ。もう達してるんじゃないかなあ」
小西さんの声がうしろから聞えた。私はふり向いて、マスクをつけたままでうなずいた。あるだけのザイルをフィックスしたいと思ったが、帰路のことを考えると、これ以上進むのもためらわれた。
「どうしましょうか」と口には出さなかったが、私も疲労がはっきり動作に表われていた。小西さんも引き返すことに同意していると思われた。それならこの先の状態をよく見ておこうと、二人は目に見えるものを懸命に記憶した。
南壁を遠望した際、中央岩壁のY字形の基部から、西の切れ込みへ向かうよりは、東寄りに見える雪田を抜けて行くことの方が有利に考えられた。机上のプランでも、討議でもその線が有力だった。だが、いざ基部に立ってみると、確かにルートを取るなら東寄りだが、雪田へ行くまでが傾斜五十度はあり、逆層も見られ、しかも上部の雪は氷でなくて新雪である。もし新雪が続いているとしたら、鉄の爪は役に立たない。しかも雪田までの足がかりは見つかりそうもなかった。
私は念を押すつもりで、
「どうしますか、持ってきたザイルを、全部フィックスするまでやってみますか。もう少し偵察しますか、それとも引き返しますか」
と、マスクをはずしてうしろへ叫んだ。
「これで下りよう。ザイルはあすの中島・佐藤組にとっておけばいいから」と小西さん。
それで決まった。どこまで登ったからいいという偵察ではない。むろん八〇〇〇メートルまで登ると、引き返すのは惜しい気持だったが、未踏の南壁をここまで登ったぞという満足感があった。八〇〇〇メートルは、私にとってこれまでの最高高度だった。ゴジュンバ・カンの頂上は七六四六メートルだったから、その頂きよりも登ったのだ。私はこれでますますエベレストの魅力にとりつかれていくと思った。
あと八四八メートル
第四キャンプから八〇〇〇メートルまでの五〇〇メートルの間に、費やしたザイルは二一九〇メートル。またアイスハーケン四十八本、ロックハーケン四十一本、スノーバー十本を打ちこんだ。全体的に見て、今回の登攀は岩登りというより、雪氷、氷壁にたいする挑戦で、グレードにして三―四級といったところだったろう。また登攀自体のむつかしさよりは、平地の三分の一から半分近くも稀薄な酸素と低温とのたたかいの方が厳しかった。落石の危険もあった。とくに第四キャンプから上では酸素ボンベを使用するため、背中に背負ったボンベから管を通したマスクを着用する必要があり、それがハンマーを振り上げるにも何をするにも引っかかって邪魔になった。
そういった多くの困難をともなう登攀の中で、目ざましかったのは小西隊員の活躍であった。小西さんはアイス・フォールあたりまでは、人の陰にかくれていてまるで目立たなかった。それが岩壁を前にするや、がぜん一年前(一九六八年)のマッターホルン北壁冬期登頂の経験者としての本領を発揮してみせたのである。口数こそ少ないが、彼の行動は沈着そのもので、宮下隊長の信頼も厚かった。岩登りの経験の浅い私にとって、彼と一緒にザイルを結び合えたのは、とても勉強になったし、ありがたかった。
小西隊員とともに、私たちと交替で最後のルート工作をした中島隊員、佐藤隊員の活躍も見落とすわけにいかない。二人はそれぞれアンデスとヒンズークシの登山経験をもつ人たちだった。どちらかというと、行動よりも理論にうるさく、私などは登山に理論なんかいらないと思いたがる方だったから、初めは二人が異質に見えた。しかし、理論の緻密さは、南壁登攀の中でみごとに威力を見せた。とりわけ単独でない団体登山の場合、一人よがりのプランはけっして通らない。自説を誰にでも納得させるには理論の裏付けが絶対に必要だった。そういうことを二人は教えてくれたのだった。
隊員の話になったついでに言えば、第二キャンプに陣取ってがんばっていた大森ドクターも忘れがたい人だ。大森さんはドクターというより、たとえば私なら私が不調を訴えると、よしおれが代わりに、とすぐに自ら飛び出しかねない山好きで、登攀隊員もうかうかしておれなかった。
ある日、第二キャンプに下りたときのことだった。しばらく寝つきがよくなくて困ると言うと、ドクターは睡眠剤を二錠くれた。ところがそれを飲んで寝たところ、なぜだか逆にますます目が冴え、おまけに朝方になって急に眠くなってきた。みんなと一緒に起きたのだが、目が覚めているんだか眠っているんだか自分にもわからなかった。隊長は私の様子をみて、行動にストップをかけたそうだ。「そうだ」というのは無責任だが、隊長の命令も夢の中で|朦朧《もうろう》ときいていたらしい。そのとき、私は、
「はい、きょうはどうも体がおかしいです。休ませてください」
と頭を下げたというが、それは午後になって本当に目があいたときに聞かされた話にすぎない。
こんな失敗談を、大森ドクターのせいにしようとして書いているのではない。ドクターにはなんら責任はない。原因は私の元来の薬ぎらいにあった。山に入っても薬は一度も飲まなかったのに、珍しく寝不足なのが心配で、熟睡したいがために飲んだ。それが裏目に出たのである。もっともこんな失敗が明日は登頂という日にでも起こったらどうなったかと思うと、後でひやっとした気持に襲われた。
十一月一日、中島・佐藤隊が前日の私たちの先へと高度を伸ばした。しかし彼らもすぐに行き詰まった。八〇〇〇メートルから上の壁は厚かったのである。
討議が重ねられた。われわれの到達した八〇〇〇メートルより上部はどうなっているのか。何があるのか。Y字形の分岐点を、右方の雪田にとるとして、その先が頂上へつながっているのかいないのか。また左寄りのガリー(急峻な岩溝)を登るしかないと主張したのは中島さんと小西さんだが、二人が考えているのは中央岩壁への直登だった。いずれにせよ残るは八四八メートルの間の問題だったが、結論を出すのはむつかしかった。実際問題として一ピッチか二ピッチならともかく、重い酸素ボンベを背負った何百メートルもの直登がはたして可能なのかどうか、私には理解しかねた。
それ以上の議論は架空のものであり、それは「私に羽根が生えていたなら一飛びだ」と思うのとどれほどの違いもなかったが、ただ肉体を使うことにかけては私は誰にも負けないつもりだった。最後は体力である。それなら今後鍛練することで、頂上への道もけっして不可能とは思えなかった。道はどこかにきっとあると思った。
十一月一日の試登を最後に下山することになった。次々にキャンプをたたみ、アドバンス・キャンプヘ下りた。十一月七日にはベース・キャンプを撤収した。
ベース・キャンプを去るにあたって、一つだけ書き留めておきたいのは、後からきた三浦雄一郎スキー偵察隊の雪崩事故のことと、そこでの経験についてである。それはわが登攀メンバーが第二キャンプまで来たときだった。午後一時の定時交信が始まると、ベース・キャンプからせきこんだ声で、いまアイス・フォールの第一キャンプ直下でクレバスが崩壊し、スキー隊に生き埋めが出たという知らせが入った。私とサーダーのミンマはすぐ事故現場へ急いだ。第一キャンプ近くにいたシェルパ、ポーターたちも集めて、崩壊したばかりの氷塊の上に新しいルートを拓きながら救助に向かった。私たちが数日前につけたルートは、もはや氷の下だった。犠牲者はシェルパのフードルジェ一人だったが、犠牲者のために大勢の者がなんとか救助できないかとあがいた。私も夕方まで走り回った。それは一見無駄な努力のように見えて、その無駄にこそエベレスト登山の深い意味があるのではないかと思った。そういう意味で、私には印象に残った事件であった。何度も言うことになるが、私のエベレストヘの魅力が頂上を極めるところにあるのは、そこに一点の疑いもない。しかし、エベレストに自分のすべてを賭けるという中には、シェルパの救助に自分の全力を燃やすことも含んでいる。そしてそれらもろもろの総和の上にエベレストはあり、そうしたことを避けて私のエベレストはないと思った。
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ヒマラヤ越冬
一九六九年十一月――一九七〇年二月
登山家シプトン
第二次偵察隊は予定の任務を果たして、日本へ帰って行った。
気象担当の井上治郎君と私の二人は、来春の日本山岳会隊が来るまで、現地の準備対策係として残されることとなった。本隊が来るまでの越冬である。
井上君はひき続いてヒマラヤ気象の調査が任務で、私は本隊のための現地調達、シェルパやポーターの確保、酸素ボンベのフランスからの輸入……と任務はいくらでもあった。佐藤君にも本部から越冬指令が届いていたのだが、家庭の事情ありということで残らなかった。
「越冬の指令を受けたということは、本隊のメンバーとして約束されたも同じだ。がんばって体調をととのえておけよ」
と帰って行くみんなに励まされた。私も、そのつもりで、高度順化と、高所で働ける肉体をつくることを自分に課した。南壁へのルート工作に求められるのはこの二点だと思った。しかしそれだけか。
私の心にわだかまっていたのは、もう一つ技術の問題だった。ふと一人になると、第二次偵察隊の中での私の役割は何だったのかと考えざるを得なかった。私は南壁登攀のための主体ではけっしてなかった。第一次の経験者であり、アイス・フォールのルート工作要員、それだけだったのではないか。南壁のアタックには、隊長が信頼を置いた小西さんという岩場の専門家がいた。タクティックスには中島さんというベテランを得ていた。それはみんなが認めている。したがって、「ジ・アニマル」と名付けられた私が、ただ馬力と負けん気だけでエベレストに登りたいと思いつづけるのは、少し単純すぎるのではないか。私の存在なんて、登山隊の付属品なのではないか。
そこで思い浮かんでくるのは、ベース・キャンプから下山の途中、シェルパの村ナムチェ・バザールで偶然に出会ったイギリスの登山家エリック・E・シプトンのことであった。彼は見たところ何でもないような白髪のお爺さんになっていたが、この人こそ一九五一年、英国踏査隊の隊長として初めてウエスタン・クームに入り、エベレスト登山史に不朽の名を留めたあのシプトンその人だった。イギリス隊のエベレスト挑戦史は一九二一年に始まり、戦前までに七次の登山隊を派遣、いずれもノース・コルから攻めて、もう一歩のところで失敗した。シプトンは初めてルートをネパール側の南から探り、私たちも通ったアイス・フォールを突破して、その上部のウエスタン・クームの入口ヘ出たのである。
彼はいまはヒマラヤの案内人として現地に住み、私が会ったときは「ヒマラヤ観光団」のガイドで登ってきていて、日本隊が下りてきたというので訪ねてくれたのだった。彼の名がなぜ登山史に不朽かというと、彼が通過不能といわれたアイス・フォールを突破したからこそ、それから二年後の一九五三年、英国隊のヒラリーとテンジンは初登頂を果たし得たのだ。
では、なぜ彼は一九五三年の遠征隊に選ばれず、新しくジョン・ハント卿が隊長として選ばれたのだろうか。だがそれは彼自身しか知らないか、彼自身にもわからないことかも知れない。シプトンは戦前には三度、チベット側からアタックし、若くして隊長となったこともある経験者だった。だから彼の不参加はなんらかの事情ではずされたか、本人が希望しなかったか、どちらかなのだろう。その結果、一九五一年のとき、シプトンの隊にいたヒラリーが頂上に立つことになった。
私はすっかり老人になったこの偉大な先輩を見ながら、歴史の非情さを感じつづけた。本人は何を思っているか外からはわからないが、かりにいくら登りたいと思っても、組織の方に別の考えがあったとしたら、それから先は個人の手の届くところではない。彼は栄光への道を拓きながら、それを他人に譲った人だ。しかしそういう人をも呑みこむのがまたエベレストなのだろう。だから、彼はヒマラヤを離れず、エベレストを見守りつづけているのだろう。それなら私はどうなのか。付属品でもいい、歯車の一つでもいい。私にとって、もう後へは引き返せない何かが始まっているのだ。
第二次偵察隊が中島さんを最後としてみんな発ってしまうと、井上君と私はカトマンズからふたたびエベレストの麓へ戻った。
彼は標高四二〇〇メートルのペリチェに居すわり、シェルパの助手を相手に、ヒマラヤ気象の本格的な研究に取りかかった。第二次偵察では、アイス・フォールでザイルを組み、ブロック壁にぶつかると、一緒に突破口を切り拓いた仲だ。彼は雪氷の研究が専門なので、氷の中にいると「素晴らしい、素晴らしい」と叫びつづける。京大出身、同大防災研究所に残った少壮研究者で、ヒマラヤでの研究テーマは、エベレストにおける氷河の溶解の実態調査、百葉箱を設置しての湿度、気温、気圧変化の観測、山岳気象の調査、太陽放射熱の調査、ファクシミリの機械を通してインドから送られてくる広範な気象天気図によるヒマラヤ気象の予報など、山ほどかかえていた。
私は越冬する村を、標高三八〇〇メートル(富士山よりほんの少し高い)にあるシェルパの村クムジュンに決めた。
私の越冬中の仕事といっても、そんなに毎日あるわけではなかった。本隊がカトマンズヘやってくるのは来年二月末である。それまでにアイス・フォールのルート工作のための丸太の確保や、シェルパ、ローカル・シェルパの予約、カトマンズに送られてくるフランスからの酸素ボンベの受け取りと保管、そのほか、本部と地元との連絡員をつとめるといったところだった。エベレストの見える丘にホテル建設のプランを進めていた宮原さん、カトマンズ在住の日本工営の津田さん、日本大使館の松沢さん、コロンボプランで技術指導にきていた柴田さんなどにはずいぶんお世話になった。皆さんで世話のやける私を何かと助けてくれた。
子連れの尼さん
井上君をペリチェに送ったあと、急ぐ旅でもないので、クムジュンに宿をとることだけ決め、祭りがあると聞いた村へ回ってみることにした。私はシェルパは雇わなかった。その方が気がねなく、自分の意のままに動ける。ポーターは必要な時に雇えばいい。いまや通いなれたエベレスト街道であった。
第二次隊の残りの食料カートンが二個あった。これは私の越冬のための食料でもあった。それと個人の登山装備を主としたトランク。これは街道にたむろしていた三人のシェルパニ(シェルパの女)にポーターをたのんだ。彼女たちはなまじなガイドよりはよっぽど親切だったし、陽気だった。そんなとき、言葉はどうするんだと人によく聞かれるが、自慢にならないけれども私はこれまで外国で四年間生活しながら、英語も片言しか出来ないし、外国への第一歩だったアメリカのカリフォルニアの葡萄園で働いたときにも、葡萄をもぎながら覚えたのはメキシコ人が使うスペイン語を少々だった。出かせぎに来ていたのがメキシコ人で、私は彼らと一緒に働いていたのだから、最低必要だったのは彼らとの会話だった。そのあとフランスのスキー場に足かけ三年いたが、そこでも耳で覚えた片言でたいていの用なら足せた。南米を放浪したときも使ったのは葡萄園で覚えたスペイン語で、その言葉が相手に通じていたかは怪しい。しかし、私は持ち前の図々しさで、相手の気持をつかんだら離さなかった。
そんなわけだから、四年も外国にいて、言葉だけでなく、身についた技術も特技もなかった。だからといって、私はその期間をブランクだとは考えない。別に楽観的に言うのでも、ずぼらで言うのでもない。いまは自分でもまだわからないが、四年間、いやエベレスト偵察をふくめればもう五年になる間、つねに一生懸命やってきたことだけは、悪いことではなかったと思いたい。
したがってシェルパニたちとも言葉が通じたわけではない。ただ、前にもちょっとふれたが、言葉以上のものが通じあえたら、それは人間最高のよろこびではないだろうか。
お祭りのあるのは、私が越冬する村の対岸にあるラマ教のタンボチェ寺院であった。標高四〇〇〇メートルの高所なのに、あすの当日にはカトマンズから皇太子殿下がヘリコプターで臨席されるという話だった。私たちは寺院の登り口にあるディボチェという村で泊まることになった。聞くところによると(これも片言でなんとか聞き出したのだが)、この村は尼僧だけが住んでいるという。それでは男子禁制なのかというとそうでもなく、十五軒ある一軒から顔を出した若い女もシェルパニと一緒になって、しきりに泊まれと言ってきかなかった。
家の中は土壁で囲んだ十畳ほどの広さで、入ると尼僧であるはずの若い女は赤ん坊を抱きかかえていた。土間と床の部分と半々で、家具らしいものは何もない。ただ大きな水がめが三つ棚の上にあるのと、薄暗い土間の隅に土盛りのかまど、その上に平たい鍋が一つ載っていた。子供は破れて綿のはみ出したシャツに、パンツのようなものをはかされ、鼻をたらし、それが口の辺にこびりついて、お世辞にも「さ、おいで」と言えないが、目はぱっちりしていて可愛かった。やっと歩けるころで、一歳前後だろう。
子連れの尼さんといえば、いずれは長い物語もあるのだろうが、この母親がまた黒い|襦袢《じゆばん》ふうの肌着の裾は破れ、顔も手も垢で黒ずんでいて、仏につかえる尼さんとはとても思えないほどだった。
夜は空き缶で作った石油ランプの明りの下で、ジャガイモをゆでてもらった。かまどを囲んで、ゆでたジャガイモを辛いトウガラシと岩塩のタレで腹一ぱい食べながら、シェルパニたちと尼僧の話をきいた。話題はどうしてもそこへいってしまうのだった。悲しい話だった。赤ん坊の父親というのは、あす祭りのあるタンボチェ寺院の|活仏《いきぼとけ》であるヘッド・ラマの、なんと弟であるという。その弟が山を下りて尼僧村に夜這いをし、二十三歳の彼女を|身籠《みごも》らせた。しかも、結婚しようというのではない。まったくもってけしからん話である。彼女は近在の村人から笑いものにされ、だれからの助けもなく、ひとりで子供を産み、細々かつかつに生きている。まだ若いのに三十代に見える老けようで、同情しないではいられなかった。それで食料の入ったカートンをあけ、インスタントの味噌スープ、乾燥米を出してみんなにご馳走した。子供もおいしそうにスープを飲んだ。このとき初めて尼僧のにっこりする笑顔を見た。
夜がふけるころ、それぞれに横になったが、彼女は自分がかける羊毛の毛布を、シュラフの上から私にかけてくれた。三人のシェルパニたちも毛布をかけてもらい、彼女は自分の着物の袖をはずして赤ん坊をくるむようにすると、そのまま横になったのであった。
翌朝、お礼に食料を少し置いた。私たちに|蹤《つ》いて、彼女も赤ん坊を抱きながら祭りを見に山を登った。多くの村人は祭りというので新しい着物に着飾り、髪に油をつけ、何かとおめかしに心を配っているのに、この尼僧は半年以上も洗濯しないようなふだん着の襦袢の背に、子供をくくりつけ、哀れな姿だった。ヒマラヤに何度やって来ても、もし山に登り、下りたらすぐに帰国するような旅ばかりだったら、シェルパを見るのも通り一ペんなものとなり、一人一人の身の上にこんなドラマがあるなどとは、とても考えてみることは出来なかったろう。そういう意味でも、シェルパと一緒に暮す機会を持てたことは、深く感謝しなければならないと思った。
タンボチェ寺院の祭りは、ネパール皇太子が空から到着するのを待って始まった。皇太子は襟に金箔の|刺繍《ししゆう》の入った裾の長い茶色の立派な礼服を着て、ヘリコプターから降り立った。ただちに境内に案内されるのを、群衆と一緒に近づいて取り囲むと、プリンスは礼服の長チョッキの下に黒い背広を着、アメリカの軍帽に似た黒いネパール帽を少し斜めにかぶり、薄く色のついた眼鏡をかけていた。
ヘッド・ラマは、皇太子を先導して、本堂の前の色模様のチベッタン・テントに案内した。するとラマ僧の奇妙な楽器による音楽が鳴りはじめ、うしろに控えた五十人近い正装のラマ僧たちが前に出て、一人が皇太子の首に白いカッターというマフラーのような布をかけた。その儀式がすむと、皇太子は本堂に招じ入れられ、最上段に坐って、庭前の村人たちのチベット・ダンスを観覧された。一時間後、皇太子のヘリコプターはまたカトマンズヘと飛び去った。
ペンバ・テンジンの家
私の越冬するクムジュンの宿舎は、前にも話した一九六五年ゴジュンバ・カンにともに登頂したペンバ・テンジンの家であった。ペンバはヒマラヤにトレッキングに来たアメリカ人をガイドして、西ネパールのポカラ方面まで出かけているそうで、そんなこととは知らずに訪ねてきたのだったが、留守を守るおかみさんは、私のことは聞いていると言って、快く家へ入れてくれた。
こういう点が私の間抜けなところだ。何も宿を予約して来たのではない。主人のペンバの諒解を得ていたのでもない。事前に彼に連絡をとってもらったところ、おかみさんの言う通り、彼は秋から出稼ぎに出ていて話がつかなかった。しかし冬には帰るだろうと、私の一人合点で勝手にやってきたのだ。何しろネパール語はほとんど話せないので、ジェスチャーを交えて右のような意味のことを説明したところ、おかみさんの方もどこまで話がわかったか、おそらく何も通じなかっただろうが、昔の友人だということで入れてくれたのだと思う。
主人の留守中に上がりこむのもどうかと考えたが、ここまで来てしまって、ほかに当てはなかった。しかしペンバも外ならぬ私の事なら笑って許してくれるにちがいない。
ペンバとは、ゴジュンバ・カンの頂上を目ざしてキャンプを出発してから、登頂までに十二時間も一緒に苦闘した。もう諦めるしかないかと思って、急なルンゼを出きったとき、頭の上に頂上があった。頂上までペンバに引っぱり上げてもらった。
「ウエムラ・サーブ、ここが頂上です」
と言って、最初の一歩をまず私に踏ませてくれた彼の友情はけっして忘れられない。
それだけではない。登頂は午後五時五分をまわり、夕闇が迫っていた。私たちはすぐ下山にかかったが、間もなく足もとも見えなくなり、浅いクレバスの底に下りたきり、力を使い果たしてぶっ倒れた。隊ではすぐ下まで迎えに出てくれたが、もうクレバスを上る力はなかった。夜中に、目が覚めて、あまりの寒さに、思わずペンバの羽毛服に抱きついた。そうして、たがいに多少ともぬくもりを分かちあえたからこそ、もう一度朝を迎えることが出来たのである。私はいまでもそう思っている。だから初対面のペンバのおかみさんにたいしても、五人の子にたいしても、他人だという気は少しもしてこないのだった。
おかみさんの方も、突然の|闖入者《ちんにゆうしや》をさして怪しむでもなく、さっそく私のために場所を空けてくれた。
ペンバの家は村の東端にあった。石を積み上げた長屋が壁で二つに仕切られていて、一方の側には彼の両親と弟が住んでいた。一階がヤクを飼う小舎やら納屋やらになっており、家族は二階に住み、居間も寝室も台所も上にあった。他のシェルパの家も似たようなものだと思うが、頭を低くしてしゃがまないと入れない入口を入ると、すぐの所が枯葉を敷いた納屋で、明り取りがないから真っ暗だが、そこへ夜になるとヤクを入れて休ませるのである。二階には床に分厚い板が敷かれ、奥行五メートル、長さ一〇メートルの広さの片側に、壁にそって水がめを並べた棚、戸棚が置かれ、反対側にかまど、長椅子と脚の低い長テーブル、そして中央に大黒柱が一本あって、奥に木でつくったベッドが置いてあった。かまど寄りに明り取りの窓が三つ。そんな間取りだから、おかみさんは隣の家族と話すときには仕切りの壁越しに大声で叫び、聞えないことでもあれば、窓から首を出して話していた。
私がおかみさんと交わした会話というと、シェルパニの女たちに荷物を二階まで運んでもらったあと、
「ナマステ(今日は)」
と言って、ニヤニヤと笑うと、
「ナマステ」
とおかみさんも笑った。
もうあとは続かない。私の知っていた言葉は、「アズ(今日)」「ボリ(明日)」。それから「ターツァ?(わかりますか)」はよく使った。手を頭にあてがって、手枕で寝る格好をして「ターツァ?」と繰り返すと、「ターツァ、ターツァ(わかった、わかった)」という返事が返ってきた。
私は食料のカートンから当座の分に登山食料を渡し、私も家族と一緒のものを食べることにした。最初の夜は、ジャガイモと麦こがしのツァンパを混ぜたロティというバター焼が出た。バターはヤクの乳からとったもので、ロティにはギー(バター)と辛いトウガラシをつけて食べた。現地の食べ物を家族と一緒に食べる方が、食事も楽しかった。私はどこへ行ってもその土地のものがおいしく食べられるので、ありがたい。
ペンバのおかみさんは親切で、主人の留守中に若い独身男がまぎれこんできたのに、迷惑な顔も見せなかった。隣の両親や弟も、私の来訪を喜んでくれ、私もみんなとすぐ親しくなった。
子供は十歳、八歳、五歳、三歳、一歳と間隔をあけてうまく作っていた。上三人が娘、下二人が息子で、上の娘たちが実によく働いていた。
ちょっと彼女たちの労働を紹介しよう。
長女のカミシタと次女のアンプラは、夜明けより早く、六時前に起き出すと、一階に静かに休んでいる七頭のヤクを一〇〇〇メートルも上の山に放牧に出かける。ヤクは五〇〇〇メートルの高地を好むのだという。同時に彼女たちは体の数倍はある大きなからの竹籠を背負っていく。姉が口笛をうまく吹き、ヤクはその笛に追われて登っていく。彼女らはふところに|煎《い》りト
ウモロコシを突っこんでいる。夜のうちに母親が煎って木箱に入れておいたものだ。娘たちは町場の子供より色は黒いし、身なりは少しも構わないが、丸顔といい、黒い髪といい、細いが切れ長の目といい、きりっとした感じでとても可愛い。日本の子供と似ているが、年齢より幼く見える。走ったら、きっとカモシカのように野を越え谷を越えていくだろう。日本で問題になるブクブクした過保護の子供などよりどのくらいすばらしいことか。
彼女らには過保護などというおかしな言葉は無関係だ。昼になるとふところからトウモロコシを出してポリポリかじる。それが昼食で、ヤクを遊ばせながらも、二人はせっせと枯葉をひろい集め、細い枯枝を薪にするため精一ぱい探す。そして枯葉を籠に山盛りに詰め、その上に薪をのせ、ヤクを追って帰ってくるのだ。そういう日課に加えて、時たま次女のアンプラは三女のハプティをつれて、やっぱり大きな竹籠を背負って出かけていく。これは夜明けよりよほど早い時間で、彼女らが出かけてだいぶ経つころに、外はようやくほの白く明けてくる。そして太陽が山から顔を出すころには、凍てついたヤクの糞を籠一ぱいにつめて帰ってくる。
シェルパ族の子供にとっては毎日の労働が何よりの先生であり勉強なのである。そして労働の中に喜びを見出す社会が少なくともここにはある気がした。私には、背広にネクタイをしめて一日を過ごす息の詰まりそうな都会生活よりは、シェルパの村の自然と人間が融けあったような暮しの方がはるかになごむというか、ぴったりしているように感じた。
朝、仕事から帰ってくるアンプラたちは、私と顔を合わせると恥ずかしそうにして、にっこり笑う。偵察隊の残したあめ玉をあげると、うれしそうに母親のところへ見せに走っていった。十二月、明けて一月ころの朝は気温がマイナス十五度にも下がることがあったが、霜が雪のように真っ白におりた道を、彼女らは破れた運動靴をはき、手袋をつけず、いつもと変わらぬ格好で出かけていく。そして頬を霜焼けみたいに真っ赤にさせて帰ってくる。私は彼女らの生活を見るにつけ、シェルパ族の生活のきびしさを感じた。山岳民族として生まれた彼女らが、そのことになんの疑いももっていないから、なおさら強い印象を受けたのかも知れないが。
彼らの生活には電気もない。代わりに石油ランプを使っているが、燃料がふんだんにあるはずもないから、日が暮れたら、遅くとも七、八時にはみんな寝てしまう。ぐっすり眠って目を覚ますと、夜明け前の五時ごろだろう。また一日が始まる。まことにもって自然な生活である。
村には水もない。近くに川も水道もない。したがって村人は二斗樽ほどの桶を背負って、山の裏のクンビラ山の沢の水を汲みに行くのだ。これも十歳のカミシタと、八歳のアンプラの仕事だった。当然水は貴重なもので、われわれのように顔を流ったり、手を洗ったりしても、そのまま捨てるようなことはしない。だいたい顔なんて朝も晩も洗っているところを見たためしがない。風呂もない。そんな設備がない。下の村に買い物に出かけるときとか、よほど汚れることがあったときは、ボールにわずかな水をとり、それで顔も手も足も洗ってしまう。禅宗のお坊さんの修行を、修行と思わないでやっているようなものだ。食器を洗ったあとの水はバケツに貯めておいて、ヤクに飲ませるし、汲んできた水をむだに捨ててしまうようなことはまずない。
私は越冬させてもらうお礼のつもりで、日本から持ってきたホウレン草、大根、かぶら、春菊、小松菜の種子を、家の前に|畦《うね》をつくって|蒔《ま》いてみた。この辺では夏のモンスーン期(雨季)を利用して、畑にジャガイモ、ソバを植え、それが一年の主食となるが、冬に入ると降雨量は一カ月十ミリ弱となり、乾燥する上に気温が下がるので、ほとんど何もできない。私の郷里は兵庫県(城崎郡日高町)の農家だから、もしも冬に青野菜が収穫できたら、ペンバ一家はどんなによろこぶだろうかと、内心楽しみにして蒔いたのだった。
納屋からヤクのつくる|厩肥《きゆうひ》を持ち出して埋め、水をやり、ビニールシートをかぶせて温室状態にした。ビニールの覆いの上には霜や雪が降り、またビニールの裏側に付いた水滴が凍ったりしたが、それでも半月もたつころ、ホウレン草、大根、かぶらがぽちっとした芽を出し、また一カ月もたつうちにそれぞれ数センチになるまで生育してきた。順調にいっているようでうれしかった。
ところが、私が用足しにちょっと留守にした間に、雪にやられてしまった。気温が気温だから、どうせ大きくするのは無理だろうと思ったが、もう少しで新鮮なところが食べられると期待し、子供たちにも不足する生野菜を多少は補給してあげられると思っていたのに、すべて捕らぬ狸の皮算用に終わってしまった。長女のカミシタも、大事な水を毎日のようにかけてくれたのに、実に残念であった。
峠のトレーニング
越冬の間、本部から連絡が入れば別だが、それがなければ体は春まで空いていた。これは最初からの計画だったが、私のいちばんの任務は体力強化と高度順化につとめて、本隊の行動の先頭に立つことと自分で決めていた。
私が行なったのは村の周辺を走ることだった。毎朝六時半に起床、トレーニング・シャツで身支度すると、家を出て石垣の畑道にそって一〇〇メートルも上ると峠に出る。牧場の外縁を回り、クンデ村を抜けて大きく一周すると、クムジュンに帰ってくるまでに七キロの山道を走ることになった。日の出前の山道は、めったに積雪はないが、万物が|凍《い》てついているという感じで、何の音もしない空間を走っていると、振る手が刃物で切られるように痛かった。登山靴も重かった。
七キロの山道を最初の日から完走できたわけではない。四〇〇〇メートルという高度のせいだが、最初は一〇〇メートルも走ると息が切れてきて、そのまま心臓が止まりそうに胸に圧迫を受けた。それが一週間もすると、ゆっくりではあるが全コースを走り抜けられるようになった。体というものはこんなふうにして順化されるのか、毎日少しずつでも続けないとだめだ、と思った。毎日のことだからつらくないといえば嘘になる。それに第二次偵察が終わったばかりで、夜はいくら眠っても寝足りないほど眠かった。
しかし、ペンバのおかみさんは、六時半になると、
「サーブ、チャン」
と言って、枕元に温かい地酒のチャンを持ってきて飲ませてくれた。起きがけに酒とはと思ったが、おかみさんにすればお茶代わりの親切だった。ドブロクのような地酒はたちまち体にエンジンをかけさせた。
しかしいつも走り始めがきつかった。家を出てしばらくは下りだから、足を出せばいやでも体は前へ運ばれたけれど、畑から村道に出ると峠までは長い上りで、そこでは必ず一度は胸がはじけんばかりに息切れがした。毎日、勝負のしどころだと思い、歯を食いしばって峠まで走った。峠まで来てふり向くと、エベレストの南壁と頂上がくっきりと顔を出している。白い雲とも雪煙ともつかぬものが頂上から東方へたなびいて見えることもあった。ヌプツェやローツェを従えて、物静かにそそり立っている雄姿は、さすが世界最高峰という名に恥じない。
私は息切れする胸の鼓動をととのえながら、エベレストを見るたびにしばし|魅《ひ》きこまれた。
「いいなあ。おれは是が非でも登るぞ。チャンスさえ与えられたら、しがみついても登っていくぞ」
と心の中で思った。この峠まで来て、エベレストを見ると、走る苦しさも、上るときの苦しさも消えていくようであった。
「もしさぼったり、苦しさに負けたら、エベレストの頂上は自分にはつかめない」
と自分に言い聞かせた。
ヒマラヤにいても、エベレストはどこからでも見えるというわけではない。私も出来るかぎり周辺の村には出かけてみたが、私のいる村の近くで見えるのはこの峠と、対岸のタンボチェ寺院からだけであった。しかも、ネパールの中でエベレストの眺めのいちばんいいのも、この峠をおいて他にはあるまい。
「エベレストが見えるというより、本当の山というものがあるんだ。山を見ているんだ」
と、私は思った。
それはアルプスのシャモニーや、グリンデルワルドからの眺めの比ではなかった。シャモニーからみるアルプスも世界有数だとは思うが、このクムジュンからのヒマラヤの山々の眺めは、他に比べるものがないと思った。
峠からまっすぐ前にクーンブ谷、その奥にヌプツェ、左右には七〇〇〇メートル級のタムセルク、カンテガ、ピサの斜塔に似たアマダブラム、さらに北ヘイムジャ、その奥に八〇〇〇メートル級のローツェ、ローツェ・シャール、そしてそのまた奥に天に鋭く頭を突き入れているエベレスト。
日大山岳部出身の宮原|巍《たかし》さんがシャンボチェにヒマラヤ最高所のホテルとして「ホテル・エベレスト・ビュー」を建設したのは、せめてエベレストを見たいと願う世界の人々に、夢をかなえてあげたいと考えたからだろう。そこを訪ねる人々が、山に登らないまでも、エベレストを見ることによってどれだけ大きなものを得るかと想像すると、宮原さんの事業の意義は計り知れないものがあると思った。私にしても、もしエベレストを見なかったら、見られる場所にいなかったら、越冬中のトレーニングは一週間も続かなかっただろう。
朝の六時半といえば、小さな窓しかないシェルパの家の中はまだ真っ暗だ。そんな中を起き、冷たい外気に体をいじめられて、「いったいおれは何をやっているんだろう」という疑問が頭をもたげても不思議はなかった。しかし、峠を登りきるたびに、私はそんな疑問を拭い去ることができた。もともと私は三日坊主だ。自分のことは自分がいちばん知っている。学生時代から、目標を立てて勉強にかかっても、二、三日で情熱を失ったものだ。
自分で言うのもおかしいけれど、それがこのトレーニングに関しては、人が変わったように持続した。同時に私のなかに心境の変化らしいものも起こっていた。
第二次偵察隊のとき、「ジ・アニマル」というあだ名を頂戴した。むろん隊員たちは意地の悪い意味でつけたとは思わない。しかしその由来を私なりに手繰ってみると、たとえばこんなことが考えられる。私はとにかく八〇〇〇メートルまでの試登であっても、なんとかして先陣に入りたかった。そのため、人前で疲れたという態度は見せないこと、高山病の気配があって頭痛がするときでも、それを外に出さないで平気をよそおうこと、そして出来ることなら自分の力のあることを誇示すること――そういう戦略を固めていた。しかし、このようなジェスチャーは案外見る人の目には簡単に見抜かれてしまう。見抜かれないまでも異常にうつるだろう。どうも「ジ・アニマル」には悪意でなくてもそのようなニュアンスが含まれていたのではないか。そして、それはあくまでも私に責任がある。
「もっと素直になろう。虚心に生きよう」
という気持が、実に素直にそれこそ虚心に心に浮かんだ。それもエベレストのおかげ、エベレストこそが私の目を覚ましてくれたと言えるかも知れない。
それと、ペンバ・テンジンのおかみさんのやさしさが、私の心を素直にさせていったのかも知れない。おかみさんは陰も日なたもなく、起床時に必ず温かいチャン酒を出してくれるような心遣いを見せつづけた。シェルパ族のご馳走をこまめに作ってくれた。また昼間退屈しているのではないかと、私を隣の親の家や、彼女の姉妹の家へ案内してくれたりもした。そういう家庭の安らぎ、人間味のようなものと、私は長い間無縁なところで暮してきた。これも私に心境の変化をもたらした重要な点にちがいない。
さて、おかみさんの作るシェルパ料理に慣れてみると、私が持って行った日本のラーメンや乾燥米、うどんの類よりもよほどうまかった。時たま新鮮な野菜や刺身を食べたいと思わないでもなかった。また日本食がまずいわけではけっしてなかったが、トレーニングから帰ったり、足ならしにナムチェ・バザールを往復して来て空腹だったときには、麦こがし、煎りトウモロコシ、茹でたジャガイモなどの方がうまかった。塩とバターの入ったチベッタン茶も疲れた体にはとてもよかった。おかみさんは食べたいだけ食べさせてくれた。シェルパ族には肥満体はいないが、私もいくら食べても太らなかった。ただ胃が大きくなったせいか、食後にはヘソの上が異常にふくらんだ。
食べる話のついでに出る話を一つ。
シェルパ族の家の例にもれず、ペンバの家もまたトイレは家の中にはなかった。それで小用は外に出ないで一階の納屋から失礼した。夜は真っ暗な中を手さぐりで行くので、どうかすると間違えて寝ているヤクの上へひっかけてしまうことがあり、大きな体のヤクがあわてて起き出して、かえってこちらが驚いたこともあった。
トイレは家の前の一段下がった畑の隅にあり、ヤグラを組み、床の真ん中に切り込みがある簡単なものだった。横に子供たちが山からかき集めてきた枯葉がおいてある。人目を隔てる囲いもなく、すべて自然のままだ。私は越冬生活に入って以来、便は柔らかいものから次第に固く太いものに変わった。すっかりシェルパのものに右へならえし、しかも、初めはトイレットペーパーを使っていたのに、そのうち使わなくなり、そこまでシェルパと同じになった。シェルパたちはだれも紙など使わない。それはなぜかというと、毎日の調味料が刺戟性の強い真っ赤なトウガラシと山椒のため、排便時に口がひりひりすると同じような感覚を下で味わうのだったが、その代わり出るのがいまも言った固いやつだ。つまり、トイレットペーパーの必要は全然ない。少し柔らかいときにだけ枯葉を使えばすむ。だんだん臭い話になったので、もう切り上げるけれど、畑に落ちた糞尿は、枯葉とまぜて堆肥にし、ジャガイモ畑に使われる。つまりすべてが自然に循環していて、一つのロスもないのである。
ペンバの家族は、主人が山のガイドをして現金収入を得ていた。ヤクとゾッキョ(ヤクと雌牛との雑種)は七頭いるが、荷運びと乳を取るのに使われていた。乳からヨーグルト、バター、チーズを自家製するが、売りにいくだけの量はなく、自分のところで消費する。主食のジャガイモ畑は五反歩以上もっており、クムジュンの村では中農の部類に入る。この土地はペンバ・テンジンの親の土地を弟と二分して得たものと、おかみさんの実家から分けてもらったものだという。ジャガイモはソバ、ツァンパとともに貴重で一年中食べるため、穴を掘って埋めておき、食べるときに必要な分だけ取り出している。また、お金を必要とするときは、このジャガイモを袋につめて、下のナムチェ・バザールまでかついで行き、週一回立つ市場で売り、帰りに欲しい生活用品を買うのである。物々交換を何歩も出ないような生活だが、ほかにお金を必要とすることはほとんどなく、自給自足でやれるのである。
遠征隊に参加すると、三カ月で一年間の生活費は稼げるときいたが、実際にそうだろう。ヒマラヤ・ラッシュで世界の登山家でにぎわうネパールには、役所に登山局までできているが、年間にして登山隊が落としていく金は大変な額に上るだろう。シェルパ族にとっても、遠征隊に参加できるか、人選にもれるかでは大違いである。もしもれたらローカル・シェルパと呼ばれる地元採用の荷揚げのポーターをやる。これには許されるかぎり家族総出で出かける。保育所なんかないから、赤ん坊は荷物の上にくくりつけて母子で行く。そのほか腕のいいシェルパになると、ヒマラヤ観光や、短期小旅行の外国人相手にトレッキング・ガイドをやったりする。したがって、遠征隊に行ける若い青年がいる家といない家では、現金収入に大きな差が出る。そのうえ、遠征隊に参加すると、服も靴も装備一式を支給される。そうでなくて、外国の衣服を買おうとしたら高額なために手が出ず、ぼろのチベット衣をぞうきんになるまで着ていなくてはならない。足は素足が多いが、冬はヤクの皮で作った長靴をはく。運動靴一足買うのが大変なのだ。そういうわけで、遠征隊は彼らの貧富の差を大きくしていくのを手伝い、つねに新製品を持ちこむために、自分たちの生活がいちばんいいと思っていた彼らの暮しを少しずつ変えていく。いったい、ヒマラヤの人々の未来はどうなるのだろう。
これは後に出かけた北極のポーラ・エスキモーの社会でも同様で、それまでの原始的といってもいい生活の中に入りこむ文明の力によって、便利にはなる一方、彼らにますます後進性を感じさせ、自分たちは取り残されたというみじめな気持から、それまであった安らぎが失われていくようだった。またケニアヘ行ったときには、タンザニア国境辺に住むマサイ族が観光客のカメラの対象になっているのも見た。まるで博物館に陳列された人形を写すようなそんな文明人の|傲《おご》りを考えると、考え過ぎかも知れないが、私は深くつきあったシェルパやペンバ一家の人たちには、気軽にカメラも向けられなかった。
病気とまじない師
ある日、クレバスに渡す丸太を五十本、近在で買いこみ、ペリチェまで運んで、タ方クムジュンヘ帰ってきたところ、隣のペンバの弟カミ・パサンの家で、七カ月になる赤ん坊が咳がとまらないといって、母親が心配していた。だいぶ咳が続いたらしく、喉をぜいぜい鳴らして泣いていた。私は一通りの薬は用意していたから、病名さえ判明すれば役立ててあげられるが、原因がわからなくてはどうにもならない。相手が赤ん坊だから、軽はずみはいけないと思って、薬は出さなかった。隣村のクンデにヒラリー病院があるのだから、医者を呼んでみたらどうかと提案してみたが、うんと言わない。
カミ・パサンは兄に劣らぬ優秀なシェルパで、遠征隊にも何度も参加していた。それなのに、医者を呼ぼうとせず、ハワーというまじない師を連れて来た。このハワーはとっくに六十を越した皺だらけのどこにでもいる爺さんだった。シェルパがふだん着ている黒い毛織りのチベット衣を着て入ってきた。彼は手垢で黒光りした|頭陀袋《ずだぶくろ》の中から、赤や白のぼろ切れを裾にぶら下げたおかしな長衣を取り出して着替え、黒いチベッタン帽をかぶり、長テーブルの上に|真鍮《しんちゆう》の大皿、小皿、お椀をのせ、皿にトウモロコシ、生米を山盛りに盛り、椀に水を入れ、麦こがしの練り餅を三重に積み重ねて――と、これだけのことを素早くやると、さらにテーブルの手前に小さな木作りの台を置き、上にはチルグー(鈴)と王冠形の容器に米粒を少し入れたものをのせた。台の横に|太鼓《たいこ》を置いた。
爺さんは台の前に座り、病人の赤ん坊と一家の者と私たちが居並んだのを確かめると、改まったようにチベッタン帽をかぶり直し、首に|数珠《じゆず》をつるし、えへんと咳ばらいをして、太鼓を叩き始めた。赤ん坊は|囲炉裡《いろり》の端で、母親に抱かれておっぱいを飲んでいたが、ハワーは患者に触れもしない。見て原因を探ろうともしない。そんなことは超越している風で、徐々に体をゆすりはじめ、太鼓を叩き、何かを唱え、まるで舞いださんばかりだ。頃合いをみてカミ・パサンと彼の父親がハワーの前に出て、子供の病状を伝えているらしい。そうしながら、一区切りへ来るたびに、白い布切れに米を包んでは差し出し、ハワーは祈祷に一心不乱に見える中にも、出される米包みの数をかぞえている。そして包みの出方がいいと気をよくして、鈴を鳴らし、体の揺らし方も前後左右にオーバー・アクションの熱演を見せるのだった。かれこれ一時間もたったころだろう。ハワーは病気の悪魔が赤ん坊から自分に乗り移ったかのように、ぴたっと体を振るのをやめると、おんおんと苦しみ出した。すかさずロキシーが出されるとそれを飲み、灯油に手をひたして火にあぶると思うと、その手をしゃぶり(冷静な私には彼の異様な動作ははなはだ理解に苦しむところだったが)、しまいに焦点の合わない目になって、
「この病気はたいしたことはない。母親のドウット(母乳)をやって寝かせておきなさい。四五日後には悪魔は子供から逃げだしていく」
と、どこから出てくるかわからない唸るような声で言い、太鼓を一つ叩くと、
「家族のものは、その間よその家に泊まってはいけない」
と言って、もう一つ太鼓を叩いた。
このご託宣をきく一家の人たちは、あたかも神のそれを拝聴するように、|敬虔《けいけん》な表情でハワーを注視していた。
ハワーはといえば、ついに患者には一度も触れず、薬を与えるでもなかった。祈祷はたっぷり二時間半かかった。室内の明りは、ヤクの糞(これがまたよく燃える)を燃やす炎と、バターの|脂《あぶら》を使ったろうそくの明りだけなので、ハワーの顔の表情はほとんど見えなかったが、祈祷が最高潮となって狂人のように太鼓を叩き、体をのたうたせる姿は異様で、私も理由もなく引きこまれた。
彼の唱える意味が知りたくて、私は途中で何度もカミ・パサンに「なんて言っているのか」と尋ねたが、「アイ・ドント・ノー」の答えしかきかれなかった。しかしカミ・パサンは、
「このハワーは必ず子供の病気を直す」
と言って、信じて疑わない様子だった。
さっきちょっと書いたヒラリー病院というのは、エベレストに初登頂したエドモンド・ヒラリーが、文明からあまりにかけ離れたシェルパ族の生活を憂慮して一九六五年に建てた。ニュージーランドからドクターを常駐させて、健康管理、治療に当たらせている奉仕事業である。しかし、病院という施設に不案内なこともあろうし、ハワーヘの信頼が絶対なため、病院の門をくぐろうとする者は少ないようであった。
祈祷がまだ続いているうちに、よその赤ん坊が母親に背負われてやってきた。また赤子の患者かとふり返ると、付き添いの夫の話では、体の具合の悪いのは奥さんの方で、
「どうかどうか、妻から病いを取り除いてくださいませ」
とハワーに頼みこむのだった。
私はそれをしおに引き上げて、帰って寝たが、隣とは板張りの仕切りしかないので、太鼓の音はまだまだいつ止むともなく聞えていた。
以前は、この地方に六、七人のハワーがいたという。しかし、さすがに病院が建つ世の中になったためか、今ではクンデ村に二人、ナムチェ・バザールに一人と減ってきたという話だった。これらのまじない師、私に言わせると「呪い師」は早晩消えていくだろう。いずれにせよ、私にはタイムトンネルをくぐって、昔の時代をのぞいたような経験だった。
ヘッド・ラマの話
第二次偵察隊と同じ時期に来た三浦雄一郎さんのスキー隊が、大氷塊の崩壊に遭った話は前にしたが、そのときの犠牲者のフードルジェのための五十五日の法事があるというので、私はペンバのおかみさんに|蹤《つ》いて彼の実家へ行った。
私はその時まで知らなかったが、フードルジェはクムジュン村の一番の地主の跡取りで、ペンバのおかみさんはその妹であった。儀式にはタンボチェ寺院の活仏とされるヘッド・ラマもやってくるので、昼食はその席で一緒にしようと、私も招待される形になったのである。
話にきくと、フードルジェはスキー隊にサーダーとして参加して事故に遭ったが、生涯不幸な人のようであった。九人の子供をつくったが、十歳になる少年のほかは、みんな栄養失調や病気で死なせた。しかし登山歴はペンバとともに抜群で、早くからシェルパ頭のサーダーとなり、一九六五年のインド隊のエベレスト遠征隊では頂上に立った。四十歳を過ぎていたというから不屈の闘志の持ち主だったといえよう。エベレスト登頂ではネパール政府から勲章を受けた。彼がみんなに愛され、信望があったのは、単に性質が温厚というだけではないらしい。エベレストの頂上に立ったシェルパの多くは、つまり名が出ると故国を捨ててさっさとインドヘ行くのをつねとした。テンジン・ノルゲイにしても、イギリス隊でヒラリーとともに登頂に成功すると、まもなくインドのダージリンヘ去ってしまった。アメリカ隊、インド隊と二度も登頂したナワン・ゴンブも同じだった。彼らはいずれもこのソロクンブ地方に育ったが、登頂の栄誉の大きさは、いつまでもこの地に踏みとどまることを許さなかった。二人とも今はインド国籍をとってインド人として生活しているという。それに比べて、フードルジェは、やはりインドから迎えられたのを拒否して、山へ帰ってきた。そのためネパール政府も、彼のためには勲章と一緒に山岳兵の上の方の位に任命し、一方ではネパール唯一のヒマラヤン・ソサイエティの相談役の席を与え、外国からの遠征隊にアドバイスをさせていた。そういう彼の誠実さに、多くの信望が集まったのだろう。
私も彼とは偵察中に親しくつき合っていた。まさか、彼が悪いクジを引くとは考えられなかった。
法事にはたくさんの村人が押しかけた。広いテントが家の前に張られ、人でいっぱいに埋まり、司祭ともいうべきヘッド・ラマはチベッタンじゅうたんを三枚重ねにした正面の椅子に坐り、その横に弟のラマを付き添わせ、集まった人々の方をじっと黙って見ていた。私もヘッド・ラマの横に席を与えられた。
新しく入ってくる村人たちは、必ずラマの前に出て、みんな同じように、
「ナマステ(今日は)」
と頭を下げると、ラマはその頭に手を触れた。そうすると、
「トウチェ(ありがとう)」
と、人々はふたたび深々と低頭し、合掌して下がっていった。
活仏の威厳たるや、大変なものだった。
このヘッド・ラマの両側に五人の僧が太鼓や鈴を用意して控える。ヘッド・ラマの前には経文台と、燭台、祭台が対になってしつらえられ、祭台の上には米、バター、トウモロコシ、チャン、ロキシーの地酒が盛られてあった。やがて線香に火がつけられ、五人の僧がドンチャンドンチャンとにぎやかに鳴らしてお経を上げ始めるところは、日本の法事とさして変わらなかった。お経が始まると、テントの前にムシロゴザを敷いて、入りきれない人々が坐っていたが、これも合掌して一斉にお経を唱え、一人一人前へ進んではヘッド・ラマの前でお祈りをした。
昼食はヤクの肉のこま切れが入ったヌードル(肉うどん)だった。シェルパは肉を食べることがめったにない。肉は大変なご馳走なのだ。スープの味つけは塩とバター、それにトウガラシの辛さがよくきいていた。私はペンバの奥さんに言って、偵察隊の残りのカートンから、牛缶と紅しょうがを出してもらって持ってきていたので、食事のときにヘッド・ラマにすすめた。ところがラマは、ヌードルにも牛缶にも口をつけようとしなかった。ネパールでは牛は神聖な動物なのでお坊さんは食べないのかと思ったが、ラマは、
「ラマ教では牛肉は問題ないです」
「それでは菜食主義ですか」
「ノー、肉も卵も食べますが、どうも急に腹具合が悪いのです」
と、理由が別なところにあるらしかった。
「腹が痛むのですか」
「ここへ来る途中、コーヒーを飲み、つづけてチャパティにギーをつけて食べたのが悪かった。君もギーとコーヒーを一緒にやっちゃいけない」
とラマは英語を使う。
「イエス」と答えたが、私はギーとコーヒーを毎朝食べて飲んでいるので、ラマの言うことが滑稽だった。
それで、ヘッド・ラマに出したものを、彼の弟へ回すと、弟は長い中国箸を出して一口つまんでみて、「うまい!」と言うなり、箸をピストンのように往復させて、またたく間に三分の二ほどを胃の中へ入れてしまった。ヘッド・ラマの弟といえば、クムジュンヘ来る前に一泊した若い貧しい尼僧のことを私は思い出して、
「こんな奴に食わすことはなかった」
と内心残念だった。可哀相な尼僧はヘッド・ラマの弟に夜這いされて、赤ん坊を産んで、捨てられたのだ。
「少し腹が痛い」
とヘッド・ラマは、食欲がないうえに、胃がキリキリ痛み始めたようだ。私は席を立つと、一〇〇メートルも離れていないペンバの家へ戻り、「三共胃腸薬」と、「新グレラン」の瓶を取って帰って、ラマにあげた。ラマはもう我慢がならないように、背骨を曲げ、赤い僧衣の上からおなかを押えているようだったが、薬を飲んで半時間もすると、急に、
「デリ・ユムロ・メディシン・ストマック・シック・セデオ(とてもよく効いた、腹痛はなくなった)」
と、英語とネパール語をチャンポンにして言った。
私もこんなに早く効くとは思いもしなかったのでびっくりした。しかし、痛みが止まっただけで、腹の調子までよくなったとは思えないので、明朝の分も渡した。
ここで活仏として人々から絶対的信頼を受けるヘッド・ラマについて説明しておくと、現在のヘッド・ラマは、タンボチェ寺院の先代ヘッド・ラマが亡くなったとき、ちょうど同時に|産声《うぶごえ》を上げるという幸運な星の下に産まれてきた人なのである。ラマ教のいわば総本山のダライ・ラマも、先代の十三代のラマが逝去したときに、先代が顔を向けていたと同じ方向に同時刻に生まれた赤ん坊で、生まれたときからダライ・ラマとして育った。つまり先代の霊が赤ん坊に乗り移って生きると信じられているのだ。私は後に中国政府から招待を受けてチベットの主都ラサを訪問したとき(一九七八年)、ポタラ宮殿に案内され、ダライ・ラマを決めるのに用いられたという金の壺を見せてもらった。このいかめしい壺は、たまたま先代の死亡時刻に同じ方向に生まれた赤子が二人以上いたとき、真の後継者を見分けるのにクジ引きが行なわれ、そのクジ棒を入れたものだと聞いた。
タンボチェ寺院の先代が死亡したとき、今のヘッド・ラマはナムチェ・バザールで生まれ、活仏の再来とされた。三歳のときにヘッド・ラマとして人前に出てから、今日までに三回、ラサの総本山へ行って勉強してきたという。私が会ったときは三十六歳だと言っていたが、本名はナワン・テンジン・ザンビュといい、尋ねるとソロクンブ地方はもちろん、ネパールの西側約半分にわたる地域を管轄しているのであった。彼自身は結婚はしない。彼の兄弟は六人で、男は四人いていずれもタンボチェ寺院のラマ僧となっている。すぐ下の弟がパサン・テンドラといい、結婚できない身でありながら、例の下の村の若い尼僧のもとへ夜這いをし、子供を産ませた男である。これを知ってヘッド・ラマの一門は非常に怒り、ひそかに三千ルピー(約五万五千円)の慰謝料を払う一方、次弟のラマを外へ出さずに事を収めようとした。しかし、世間の口に戸をたてることはむつかしく、ニュースはたちまちソロクンブ地方全域に広まってしまったという。話がわかってみると、掟を破ったことはともかく、次弟ラマも可哀相に思われてくる。尼僧母子もますます哀れに思われてくる。あの朝、彼女は私たちが祭りを見に寺院へ行くのに蹤いてきたが、人ごみの祭りの中で何を考えていたのだろう。むろん事件以来、パサン・テンドラは寺院の祭典にはいっさい出られなくなり、ヘリコプターで皇太子が訪れたあの日も謹慎の身であったはずだ。
三番目の弟のケンサンはダージリンで英語の勉強をして帰り、ヘッド・ラマの通訳も兼ねるいちばんの相談相手だという。四番目の弟のウルケンもタンボチェ寺院にいるがここへは来ていない。そうすると、ヘッド・ラマに付き添ってきて牛缶にむしゃぶりついたのは三番目なのだろう。ほかに姉二人は結婚してナムチェ・バザールにいるという。また両親もナムチェに健在だが、僧籍はないそうだ。
私のあげた薬が効いて、午後は調子を取り戻したヘッド・ラマであったが、何度となくトイレに通った。というのは、何しろ夕方まで続く法事だったから、間に休みが入り、そのときは家の中に案内されたが、私たちのように一階の納屋からは入らない。神聖なるラマはヤクのいる小舎は通らないらしい。それでたぶん、故フードルジェが持って帰っていたと思われるインド隊が使ったジュラルミンの梯子をかけて、五〇センチ四方の窓から二階へ出入りした。窓が小さいから初めに頭を突っこみ、胴を入れ、四つん這いになって入る。外へ出るときはその逆だが、まるで盗賊が空家をねらっている姿が想像されて、高僧のその滑稽な姿に笑いをこらえるのが大変だった。
さて、ようやく日も暮れかかり、これからお発ちというとき、ヘッド・ラマは皮カバンから小瓶に詰めてあった正露丸ほどの小粒を三つ取り出して、紙に包むと、
「This is on God help you」
と言って、私にくれた。
「何ですか?」と尋ねると、「ダーバンです。お守りです」と言った。
それでも、私にはわからないので、首をひねっていると、祭壇の上にあった弁当箱大の銅製の箱を無造作に開け、中の白布に包んであったのをほどき、ガラス箱を取り出して「これ」と指さした。|釈迦仏《しやかぶつ》を写した写真が入っていた。
「これはお釈迦さんですね」
「オー、イエス」
「お釈迦さんのお守りですね。日本にもありますよ」
「チベットでは、シャカのことを、ダーバンと言います」
私は「お守り」をいただいて、ヘッド・ラマを見送った。
暗い思いの年の暮
その年一九六九年の暮、東京の日本山岳会本部から一通の手紙を受け取った。大博美さんからのもので、内容は本隊のための酸素ボンベがフランスから送られてくるから、通関して、先に現地へ運んでおいてほしいということだった。
久しぶりにカトマンズヘ下りて行った。山奥に慣れた目で見る街は大都会のようで、通りを行くサリー姿の娘たちが、どれもこれもみな美人に見えた。ネパールの女は彫りも深く、化粧していると二十代なのか、もっと上なのか年齢の見当がつかない。ネパールでは土曜日が休みで、私が下りて行ったのが金曜日だったから、休日前とあってよけいに人通りが多かったのだろう。
さっそく大使館の松沢さんのところへ挨拶に出向いた。松沢さんには世話のかけ通し、かけっ放しだった。大さんからの手紙の用件を言うと、酸素ボンベが届いたという連絡はまだ入っていなかった。「それより」と松沢さんは私の顔を見て、
「大さんのことだけれど、どうも本隊では来ないようですよ。別の人になるようです」
と言った。
思いがけない話だった。私は突然なので、最初は嘘だろうと思ったが、だんだん「これは困ったぞ」と心配になりだした。大さんは本隊の隊長として来るとばかり思っていた。第一次偵察隊のとき「行ってみる気持はないか」と打診を受けて以来、なんでも大さんに相談してきた。そして、大さんを隊長とするエベレスト遠征の日を夢に見てきた。山で受け取った手紙は十二月一日付けになっていたから、まだその時は本隊の準備は大さんの下で進行していたのだ。すると、それから一カ月そこそこの間に、本部で何か急変があったのか。松沢さんは何も知らなかったし、山にいる私はまして何も知りようがなかった。手紙には酸素ボンベの用件のあとに、
「本部の方は準備に追われています。君は心配しないで、そちらの方で休養し、体を鍛えておいてください」
と簡単ながら、激励の言葉が書き添えられていたのに。
そのころ、毎日日記を書いていたので、当時の様子を摘記してみる。私は相当に興奮していたことがわかる。

十二月二十九日。
松沢さんから「大さんは登攀隊長でなくなった」と聞いたとき、まさかと、エベレストヘ賭けていた自分の思いにポッカリと口があいて、体から血がドクドクと流れ出るような気がした。大さんは私を育ててくれた大先輩である。その大さんが来れないとはまったく青天の|霹靂《へきれき》だ。
私は卒倒しそうになり、目の前がくらくらと|昏《くら》くなった。しかし思い返し、ここで取乱してはいけない、日本大使館も関係なく、松沢さんも局外者だ、迷惑をかけてはいけないと自分の気持を|叱咤《しつた》した。私は越冬要員として残してもらった。そのことを考えれば、任務に忠実でないときにはすべてが大さんにはね返る。
しかし、いったい、おれはこれからどう行動すればよいのか。ひそかにエベレストヘの夢を燃やし、その実現のためにこそ霜を踏み、雪の山道をただ一途にトレーニングに励んできた。それももう、きょうから気力が抜けてしまいそうだ。
日本山岳会に、また大さんにどんな理由があったか知らない。それに大さん一人しか隊長がいないというのではない。第二次偵察隊の宮下隊長も、終始隊員のためを思って面倒をみてくれた。宮下氏がいなければ、あんなに楽しい山行にはならなかったと思う。だが、おれにとって大さんの場合は意味がちがう。
このあと、いっそ越冬を切り上げて帰国しようかとか、大さんに隊長でなく隊員ででもいいから来てもらえないかと嘆願してみようかとか、日記に書きつけている。別の日の日記をみる。

十二月三十一日。
何も手につかず、一日中ホテルのベッドに横たわって過ごした。どうすることも出来ないと知りつつ、大さんの復活はないものか、自分に出来ることはないのか、と考えた。
大さんが来られない本隊なら、私はやっぱりここで辞めて、この冬はアルプスを登るか、あるいはアメリカヘ渡り、一九七一年に予定されているエベレスト遠征国際隊に志願してみようか、そんなことまであれこれ考えた。国際隊の隊長は、一九六三年のアメリカ隊隊長ノーマン・ディレンファースとされている。しかし、そこに加わるには私の登山歴ではキャリア不足で、とても相手にしてはもらえないだろう。
いずれにせよ、エベレストに来て、登山せずに帰ってきたと言ったら、フランスのスキー場でさんざん世話になり、遠くから私のことを見守っていてくれるジャン・バルネさんは、なんと言うだろう。私はなんと言い訳すればいいだろう。エベレストをやめるなら、代わりに南極の単独横断ぐらいをやり遂げないと、誰も私のことを認めてくれないだろう。
大さんの一件は私を打ちのめし、ベッドにころがってみる夢は、私を途方もない方向へと走らせた。もう少しだけ抜粋する。

南極の単独横断――このくらいやり甲斐のある冒険といったら他にないだろう。フランスのスキー場でアルバイトをしながら、グリーンランドの単独横断を真剣に考えたことがあった。あのときはグリーンランド西海岸に偵察にまで入ったが、一九六八年に日大隊によって先を越されてしまったのだった。
第二次偵察の後、ネパールに取材に来ていた朝日新聞西日本支社の|百々《もも》信夫記者に、そのグリーンランドのいきさつを話したところ、「北がだめなら南極で行くさ」と言われた。そんなふうに、いとも簡単に南極横断の話は飛び出してきた。私にとって「話」はつねに「夢」になる。それから世界地図を広げて、何度も何度も見た。エベレストをやめるなら、これぐらいの行動をやらないと気が納まらない。
そして、日記の最後に、

一九六九年もこうして今日で終わる。絶望を味わうほか、何をする気持にもなれない。せっかく第一次、第二次偵察隊に参加できたという今年の足跡も、何か空しくなって、気が滅入る。
とあらぬことを書きつけて、そこで切れている。あとで読み返しても恥ずかしいが、この|大晦日《おおみそか》の日に私の心に燃えついた南極横断の夢は、その後一度も立ち消えになることなく、やがて私の頭の中に大きな場所を占めつづけることになるのだから面白い。
新年が明けても心は少しも弾まなかった。一年の計は元旦にありというが、私はわりと一年の計を立てて、そこに情熱を燃やす性分である。ところが、この正月は憂鬱で、依然としてショックが消えなかった。これまで単独でなんでもやってきて、エベレストもその延長上で考えていた。だがこうなってみると、エベレストヘは登りたいが、いまの自分の力では一人では登れない。うかつだったが、私はここで初めて人間社会の壁、組織の壁というものにぶつかった気がした。そして感じたことが二つあった。一つは、自分では単独行だったと思っていたマッターホルンもアマゾンの冒険も、そう思うのは思い上がりで、結局は大なり小なり社会の力を借りていたということ。もう一つは、山岳会の決定がそうであっても、もし自分に力があったら、なおかつ一人でエベレストヘ登ろうという夢は捨てまいということ。
依然として気持は白けていたが、時間の許すかぎり大使館に松沢さんを訪ねて情報を待った。そしてホテル建設中の宮原氏、日本工営の津田所長、ヒマラヤン・ソサイエティのパラジュリー氏、AP通信のビナヤ氏、天理大で勉強されたバルマ氏らとも、連絡を切らせないように訪ねて回った。
そうでなくてもフランスから送られてきた酸素ボンベの通関、現地輸送、本隊が一時宿泊することになるカトマンズ市内の借家、シェルパの掌握など、仕事はたくさんあった。ネパール語も英語もろくに出来ず、足の便、通信事情も悪いカトマンズで、いろんな準備だてがスムーズに運んだのは、いま名前を挙げた方々の甚大なる協力のおかげによるものである。
本隊決定の吉報
下山して一週間目、ホテルでまだ朝食もとらずにいた昼近くに、AP通信のビナヤ記者から電話があった。
「今朝のネパールの英字新聞を見ましたか。日本山岳会のエベレスト登山隊のメンバーが発表になりましたよ」
「そりゃ知らなかった。それで、大さんの名前は見えませんか」
「ジャスト・モーメント」
そしてビナヤ記者はすぐに、
「はい、彼はクライミング・リーダーとなっています」
「ああ……」
私はビナヤ氏に頼んで、すぐに新聞を持って来てもらった。ネパールの唯一の英字新聞である「Rising Nepal」で、彼に指さされたところには、
「(東京一月四日発)日本は女性一名を含むエベレスト登山隊のメンバーを選考した。遠征隊は世界最高峰のアタックにたいし、今までにない大規模な編成を行なった。JMEE(日本エベレスト登山隊の略)・大博美(四十五歳)の率いる本隊は、南壁からの登頂を目指す。ただ一人の女性はパキスタンのヒストロナール(七三〇〇メートル)に登頂した人」
ざっとこういった内容の記事が載っていた。驚きが津波のように、三度も四度もやってきた。私にとってこんな吉報はなかった。冷えきっていた私の胸がふたたび意欲でみるみる|膨《ふく》らんでいった。自分でもあきれるくらい単純だが、うれしさこのうえなかった。ホテルを飛び出すと、さっそく本隊が来るまでに仕上げておく仕事に取りかかった。
新聞のニュースを見てから数日たって、本部からメンバー決定の手紙が届いた。
松方三郎(七十一)を筆頭として、大博美(四十五)、松田雄一(三十九)、住吉仙也(三十九)、藤田佳宏(三十七)、松浦輝夫(三十五)、平林克敏(三十五)、田村宏明(三十二)、中島寛(三十一)、平野真市(三十一)、土肥正毅(三十一)、小西政継(三十一)、渡部節子(三十一)、加納厳(二十九)、神崎忠男(二十九)、錦織英夫(二十九)、植村直己(二十八)、成田潔思(二十八)、鹿野勝彦(二十七)、神山義明(二十七)、吉川昭(二十七)、安藤千年(二十六)、嵯峨野宏(二十五)、伊藤礼造(二十三)、中島道郎(三十九)、広谷光一郎(三十七)、大森薫雄(三十六)、河野長(三十)、長田正行(二十九)、井上治郎(二十四)の三十名であった。
私はこのメンバーの中で、明大OB、偵察隊に関係した人以外は、ほとんどの人を知らなかった。いずれも全国から選り抜かれた|錚々《そうそう》たる人たちばかりにちがいない。こういう人たちにまじって、自分はエベレストの頂上に立ちたい、と堂々と言えるだろうか。しかしそれは、個人的希望というより、最終的には実力が決めることだ。
ちょうどその頃、私は一冊の本を読んだ。アーノルド・ヤコービー著『キャプテン・コンチキ』という単行本で、非常に面白かったと同時に、私にすごい勇気をもたらしてくれた。
内容は、トール・ハイエルダール博士が、自分の研究してきた古代の民族移動の学説を、科学者として体を張って実証しようとする。実際にペルーから太平洋へイカダで乗り出し、命がけの漂流を試み、見事に南洋諸島まで辿りついて自説を証明した記録である。
私はハイエルダールの成功を最後は意志の力だと思うが、感銘を与えられたのは、冒険というものは平凡な思いつきとか、ありきたりの態度をもってしてはけっして生まれるものではないという一事であった。博士はイカダによる実験を決意するまでに、多くの人から非難され、侮蔑を受け、欺かれ、実に孤独な状態へ追いこまれたとある。コンプレックスにさいなまれたともある。それでも自分の信念を貫き、漂流を敢行し、しかもやり通したのだ。実に素晴らしい。
ハイエルダール博士の前に、私などは比較にならないちっぽけな存在である。だが私もそれに非常に似た経験を繰り返してきた気がする。アマゾンの上流から六一〇〇キロの河口までの単独イカダ下降を試みたときも、アンデスの裏側にあるユリマグアスに飛び、河岸に打ち上げられたパルサ(イカダ)を安く手に入れて補修にかかった私のまわりで、村人は私が途方もない冒険の夢に取りつかれていると言って、寄ってたかって笑いものにした。軍隊の駐屯所長は、下降を許可する証明書をわりと簡単につくってくれたが、信用しないふうで出来上がったイカダを確認に来た。町の警察も、私のガラクタな所持品に呆れかえりながら、ピストルがないかと目を光らせた。海賊とでも思ったのだろうか。そして、武器を所持していないとわかると、今度はそれでは危ないと言って、中の一人はおもちゃのピストルを用意してくれ、もう一人はイカダに「ナダ・デ・ノボ(アホダラ号)」という名前を考えてくれた。
その間私は、好奇の目で見られ、自殺行為と怪しまれ、からかわれながら、孤独をじっと噛みしめていた。冒険というのは実現するまではいつでも荒唐無稽のお笑い草だ。失敗すればなおさら笑いの種だ。しかし、冒険がいつも成功するとはかぎらない。いや成功しない場合の方が多いに決まっている。中にはお笑い草にもならず、冷たく無視されることもある。まるでそんな冒険は存在しなかったように。けれども冒険というのは、あえて決行されるのだ。そこに孤独を知った者でしか分かちあえない大きな喜びと悲しみがあるはずである。私は博士の本を読み終えて、世界に自分の先を行った人がいたのを知って、深い感銘を受けた。南極横断も不可能ではない。このことは忘れないでおこう。そしてその前に、いまはエベレストがある。一冊の本のおかげで、なんだか|凛々《りんりん》として気力が充実していったのであった。
カリパタールの丘
カトマンズで本隊を待つあいだ、当面心がけねばならないのは気持をリラックスさせることと、体への栄養補給だと考えた。それで、体が要求するまま、朝は卵を三個、生のままご飯にかけたり、焼いたりして腹の中へ放りこんだ。午後は自転車で郊外を走り回った。
むろん、本隊のメンバーが決まるとにわかに忙しくなり、東京の本部からは連日連絡が入るようになった。私の仕事を列挙すると、
○郵便局に私書箱を確保すること。
○電報局で専用ケーブルを開設すること。
○ネパール国の皇太子御成婚の際のカトマンズの混み具合の予想。
○本隊が持ちこむ荷物のインポート・ライセンスの用意。
○二月十三日までに、酸素、石油その他の燃料をルクラヘ空輸、保管を完了させる。
○ネパール政府から正式な登山許可証、通行証の交付を受けること。
○サーダー三名の確保。
○気象担当の井上君をカトマンズまで下ろすこと。
○シェルパに保険をつけること。
○本隊より前に空輸されてくる装備、食糧の保管。これらは合わせて二十トンになるという。
○四十人分の寝具を借家に用意する。
その他その他。
本隊の出発が近づくにつれ、私は体がいくつあっても足りないようになった。中にはダージリンに行ったシェルパが市内に帰ってきているはずなので、捜して一名を確保せよという、探偵にまかせた方がいいような指令まで届いた。
シェルパの確保もいざとなると大変だった。あらかじめ手は打っておいたのだが、最終的に優秀な連中を集めるのは私の重大な任務となった。とくに一九六九年ネパール政府がヒマラヤ登山を解禁してからは、日本隊のほか、アメリカ、イタリア、オーストリア、ドイツ、ユーゴスラビアなど海外十五隊が名乗りを上げ、それぞれに許可が下りていた。また七〇年に入っても、韓国はじめ数隊に許可が下りた。そのため優秀なシェルパは各国から引っぱりダコで、私も交渉していると、しばしば外国隊と鉢合わせして困ったことがあった。
むろん、さまざまな対外交渉にはカトマンズ在住の方の世話になった。本部と連絡をとりながらだが、こうしたヒマラヤ・ラッシュの最中に、サーダー三名、シェルパ十七名、ローカル・シェルパ十名、コック二名と契約できたのは、多くの方々の協力があったればこそであった。
例によって、酸素ボンベなどを空輸するための飛行機をおさえることも一仕事だった。飛行機の便が少ないのと、小型のために、積載量は五百キロを限度とした。空輸の件は、さいわい国連の仕事をしている日本工営の人の助力で、ネパール外務省や航空局の許可をとることができ、国連のパイロットがピラタスポーター機を何回も予定外に飛ばしてくれて、どうやらルクラまでの輸送を完了させることができた。
一月下旬、荷物の空輸をすませた私は、シェルパとの最後の雇用確認と、ペリチェにいる井上君を下山させるため、ふたたび山へ入った。ルクラまでは飛行機を使ったが、そのあと高度差一〇〇〇メートル、距離一五キロという二日コースの雪路の上りを一日で歩いて、なつかしのクムジュンに戻った。カトマンズでは春の陽気だったが、四〇〇〇メートルのヒマラヤ山麓はさすがに真冬で、道々汗をかくと、その汗が凍って顔を刺した。
次の日にペリチェに下り、一夜井上君と打ち合わせをし、また次の朝は逆に上りとなる二日コースをまたまた韋駄天のように一日でかけ上り、その日のうちにクムジュンヘ帰った。
カトマンズでの仕事をすませた私は、本隊到着までに約三週間の余裕ができた。そこで越冬隊員最後の仕上げとして、トレーニングにはげむことを自分に課した。またペンバの家に厄介になり、山道や牧場のまわりを走った。五五〇〇メートルのカリパタールの丘へも行った。第一次偵察のとき、この丘に登って、目の前にエベレスト南壁を見渡した感激は忘れられない。ところで真冬に見る南壁は、今までになくいちばん黒々とした姿で立っていた。雪が少ないのだ。私たちが秋に登った八〇〇〇メートルの中央ルンゼ付近にも雪はほとんどついていなかった。雪煙が雲のようにたなびいていた。おそらく強大なジェット・ストリームが積雪を吹き飛ばしてしまうのだろう。
それにしても、見るたびに姿を異にするエベレストであった。
「間もなく、登っていくのだぞ」
と思うと、胸がジーンと鳴った。私にははっきり言って、自信は何もない。あるのはあの垂直に切り立った岩壁登攀はさだめし困難であろうという、待ち受けているはずの苦しみの予感だけである。こんなことを言うと生意気にきこえそうだが、私に南壁を突破する技術があるかどうか、その点にはつねに不安を感じる。けれども困難がもたらす苦しみにたいして|厭《いと》わしいと思ったことは一度もない。むしろその点ではますます自信が加わっている。現にペリチェからカリパタールの丘までの高度差は一三〇〇メートルあるが、そこを一気に上ってきても息も切れない。第一次、第二次偵察のときに感じた高山病の兆候もまったくない。
上りだけでなく、帰りに五〇〇〇メートルまで下ったところで走ってみた。これだけの高度だから、走れば苦しいに決まっているが、胸が息苦しくなるようなことはなかった。これも越冬したおかげで、高度順化が自然に行なわれたものとみていいだろう。クムジュンでのトレーニングが、やっと自分の体の中で力になっているな、と実感できた。
二月上旬、クムジュンに別れを告げ、井上君と一緒にカトマンズヘ下りた。待ちに待ったエベレストヘの本番が目前にあった。[#改ページ]

日本エベレスト登山隊
一九七〇年二月十五日――六月二十日
エベレスト街道
一九七〇年二月初め、山を下りると、カトマンズには酸素ボンベや燃料が届いていた。本隊が来るまでの十日間、またまたキリキリ舞いの毎日が続いた。最後に残ったのが、この酸素ボンベ百五十本の空輸の仕事だった。これを九つの荷物に梱包したが、荷出ししてもルクラには隊員が誰もいない。シェルパに見張りをさせるだけでは心配だった。二月十三日、私はまた一人、ルクラ飛行場まで飛んだ。一本六万円もする酸素ボンベだし、引き抜かれても困るが、破損でもしたらと、それが気が気でなかった。
二月十七日、またカトマンズヘとんぼ返り。山から市内へ入るたびに、文明のあまりの開きにいつも圧倒されるが、初めは異様でなじめなかったネパールの娘たちのサリー姿も、鼻輪をつける風習も、額のティカ(赤点)も、慣れてしまうと別になんとも思わなくなった。
飛行場から日本製の小型タクシーを拾って、市内の中心を少しはずれたところにある借家へ戻った。すると何もなかった前庭にいくつもの赤色のテントが足の踏み場もないくらいに張ってあった。日本隊が十六日に到着していたのだ。
見知らぬ隊員たちが、白い帽子、黄色いポロシャツ、白ズボンと思い思いの格好で、テントの間を動き回っていた。その中に、第二次偵察隊の大森ドクターの顔を見つけた。
「ドクター!」
「おお、ご苦労さんでした」
と、たがいに走り寄った。
三カ月と少々ぶりの再会だったが、挨拶をすませてしまうと、もう毎日会っていたように打ちとけあった。
小西さんとも顔が合った。第一次のときの藤田隊長、毎日の相沢記者、明大OBの田村さん、平野さん、土肥さん、見慣れた顔がにやにやしながら集まってきた。数日前までここの家の|主《あるじ》は私だと思っていたのに、留守の間に三十名を越す隊員にわがもの顔に占領されてしまうと、何だか一足帰りが遅かったためによその家へ上がりこんだような気恥ずかしさと気がねを感じて、変な気分になるのだった。
昼食後、挨拶回りから大隊長が戻ってきた。
「うっ」と私は懐かしさで言葉が詰まった。
「お、植村。長い間ご苦労さん」と大さんは、私の背をぽんと叩いた。
山登りをする人間がいいなあと感じるのはこういうときだ。久しぶりに会った先輩、後輩なら、もっと挨拶だって幾通りものしかたがあるだろう。それが「うっ」「ご苦労さん」でみんな通じてしまうのだ。私自身、大さんに会ったとたん、この日までの疲れはどこかへ行ってしまった気がした。隊員たちへの気恥ずかしさも気がねも一気にすっ飛んで行く気がした。これでなくては、おれではない。
午後はすっかり自分のペースになって、大さんと同行して、これまで世話になった人々のところを挨拶回りした。その間私は、越冬の報告を一人でしゃべりつづけた。考えてみれば長い間話し相手がいなかったのである。
本隊の主力二十七名は十五日に日本を発ち、ダッカ経由で到着したが、それより前に先発、中発した連中も、船荷をカルカッタで受けとると、陸上輸送のトラックに分乗して、追い追い集結してきた。総隊長の松方三郎さんと中島ドクターは半月遅れた三月中旬に現地で合流するとのことだった。いよいよ本番のスタートが迫った。
日本から送られた荷物のうちルクラまで空輸出来ないものは、すでに二月十二日に第一便として、ポーターにかつがせて送り出していた。十二トンの装備を四百人のポーターが分けてかつぎ、クムジュン村のペンバ・テンジンに第一便を引率してもらった。彼とはゴジュンバ・カンに登頂し、下山の折り二人して危うく凍死をまぬかれた仲である。彼にはセカンド・サーダーを依頼した。
本隊は到着三日後の二月十九日、雨の中をトラックとバスに分乗してキャラバンの途についた。ベース・キャンプまで一カ月余をかけて、ゆっくり登って行く予定だ。大隊長はその間に全員の体力の強化と高度順化の完璧を期していた。
カトマンズを出ると、しばらくは水田地帯を進み、盆地を抜ける辺りから幾重もの山が迫ってくる。田も急勾配の段々の山田となり、次第に上り一方の道へさしかかる。どの山も頂きまで田畑が耕されていた。農機具は日本で言えば半世紀前のものだろう。日本の先祖も山という山に田畑を広げていったが、ネパールでも何代かかったか知らないが、ついに耕して天に至っているのである。その光景は農村育ちの私にはなつかしくて、やはり胸を打った。
段々畑の中に一軒、また一軒と白い石造りの家があり、それらは孤立しているようにみえるが、ある角度から見上げると、散在してみえる各戸が一つの集落を形成しているのであった。そういう空間的に広がった集落の発想は、日本人には珍しかった。カトマンズからチベットヘ抜ける自動車道路を四時間走り、ラムサンゴの宿場町からはいよいよベース・キャンプまで三〇〇キロの歩行となる。
他の季節とちがい、冬の道は草もなく、赤茶けた岩肌がむき出しになって続く。尾根にそって上り、下り、畑の畦道を抜け、時々道をまちがえたりしながら、来る日も来る日も登っていく。先頭のシェルパは道路標識も何もない道を、何を頼りにしているのかどんどん進んで行く。エベレスト街道と呼ぶから大名行列でも出来そうに思われるが、人がやっとすれちがえるほどの道幅で、むろんすれちがう人もめったにいない。
キャラバン中、隊員はただ歩けばよかった。あとは昼飯を食い、そしてその日のキャンプ地へ入る。キャンプの設営も食事もシェルパ任せである。朝はテントの外でシェルパの炊事の物音、呼び声で目が覚める。というより、本当は寒さで目が覚めるのだった。カトマンズより気温もだいぶ低く、朝方にはマイナス五度にまで下がった。私たちはエアーマットと高所用のダブル・シュラフを使っていたが、それでも寒さで目が覚めた。六時に起床のドラが鳴る。七時に、テントごとに配られてくるモーニング・ティーをシュラフの中ですすり、それから登攀具を入れた木箱を食卓にして朝食になる。ライス、コーンスープ、乾燥ネギをもどしての卵焼、ハム。みんな食欲旺盛で、朝からガツガツといった形容がぴったりなほど遠慮なく食べた。もっともキャラバンの楽しみといったら食べることと休息だけだ。
さて腹ができると、めいめいにお茶の入った水筒と昼の弁当のチャパティをザックに詰め、首にはカメラを下げて出発する。朝日が出て、気温が上がりだすと、セーター、ズボンを脱いで、半ズボンの軽装になる者、ニッカズボンになる者、服装は好きにしていい。早くも新品の軽登山靴や高所靴をおろして、慣らしにかかる人、かと思えば半ズボンにゴムぞうりのリゾート・スタイルもいる。はち巻とステテコの人もいる。みんな口には出さないが、目的はエベレスト、当面の目標は少しでもリラックスして消耗を避けるということ。各自することはまちまちながらけっこう神経を使っているのであった。
虚心になって
私たちの感覚では、ベース・キャンプまでは下界のうちだ。登攀が始まれば緊張の連続になるのは目に見えているから、それまでは疲労の蓄積がいちばんの敵とばかり、みんな気力体力をセーブしていたので、きっと知らない人が見たら怠け者のブラブラ集団と見えたことだろう。食事のときも、テントで一緒に寝るときも、歩行中も、みんな努めて陽気に振舞っていた。地酒のチャンやロキシーを引っかける人もある。それでいて、それぞれに毎日のコンディションには敏感で、怠け者どころか、緊張しっぱなしのキャラバンなのである。私は体験から、茶屋に着けばチャンを飲む組に入り、隊の後からついてくる現地の子供たちにはサブザックを背負わせ、その代わり茶店で休むときにはジャガイモを食べさせてやる。つまり、なるべく緊張をほぐすべく、気楽な旅を楽しもうと思っていた。
「まるで参勤交代の大名だ」
と誰かが言ったが、一日一〇キロコースをこうしてキャラバンしていったのである。
一方、同行した二百名のシェルパやポーターたちは、仕事とはいえ夜明けとともに起き出し枯木を燃やし、料理をつくり、そして私たちが食べ始めるとじっとまわりで見守っている。食事が終わるとたちまち片付け、これからまる一日かつがなければならない二十キロの荷物のところへ駈けていく。一事が万事、生真面目そのものだった。それでも引率のシェルパにはまだのんびりして見えるのか、携帯スピーカーで「チトチト(早く早く)」と急がされ、笛で追い立てられていた。
カトマンズからきた素足にフンドシ・スタイルのポーターたちは、峠ごとにあるチョルテン(石塔)も無視して素通りしていく。しかし、シェルパ族じゃないかなと思うポーターは、見ているとチョルテンの前に赤いしゃくなげの花などを供え、口で何か言って祈っている。その石塔はシェルパたちのラマ教に関係したものなのだろうか。少なくとも石塔を無視した連中はヒンズー教徒か、他の宗教なのだろう。少数多民族の集合なので風俗習慣もいろいろなようだ。キャンプで朝食をとる連中もおれば、最初の休憩時に道端で焚火をして、ツァンパを焼いて食べているグループもあった。むろん酒好きは世界中共通で、茶店でお茶代わりにチャンやロキシーをすすっている連中もいた。私もクムジュンでのトレーニング期間には、走る前にペンバのおかみさんが枕元へおいてくれたチャンを毎朝飲んだ。高所のせいか、アルコールのおかげで体がいっぺんに燃えだし、トレーニングも快調に運んだ。だから重労働のポーターたちにも、チャンは酒というより、体にとって、車のガソリンと同じ役割をするのだろう。
二五〇〇メートルの高さになると、さーっと通り抜けていく|驟雨《しゆうう》が|霰《あられ》に変わった。日の射さない北側の斜面は白い雪をかぶっていた。この辺りから尾根を越えるたびに、谷は深まり、山もけわしくなり、時たますれちがう村人もサリーを巻いたネパール人から、着物に似た長衣に前掛けをした山岳民族のシェルパ族に変わっていった。
三月一日、標高二九五〇メートルにあったタキシンドの寺院の境内にテントを張った。カトマンズを出て十一日目、ちょうど半分の道のりであった。
前日の雨で水気を吸っていたテントは、夜が更けるとバリバリに凍り、シュラフ一枚では寒くてどうしようもない。しぜんに隣の隊員とシュラフごと体を寄せあうが、朝方の四時、朝食を用意するシェルパたちの声で完全に目が覚めてしまった。この辺は最初ゴジュンバ・カン遠征のとき、二度目は第一次偵察隊の帰路、ちょうど雨期に入っていたために飛行機が飛ばず、キャラバンして通った街道だ。街道といっても、この先は一五〇〇メートルもの下り、そしてまた上りとなるのだが、道は段々畑の畦道のようなもので、迷路になっていて、昨年は先行者がとんでもないところへ連れて行き、引き返したことがあった。そんなことも過ぎてみれば楽しい思い出である。
さて翌朝、マイナスの気温の中を出発。ここまで来ると、半ズボンにぞうりというスタイルはなくなり、みんな登山の装備だ。一五〇〇メートルをどんどん下って谷底のボーテコシまでくると、直射日光の下では気温が二十度を越し、全身から汗がふき出した。対岸へ渡ると今度は上りになるので、その前に、私たちはてんでに素裸になって川岸で体を洗った。吊橋の上からポーターたちは見物している。
「ううっ、冷てえ」
「そうだよ、この谷川はエベレストにつながっているのよ」
「じゃ氷河の水だな。手が切れそうだ」
隊員は冷たい冷たいと言いながら、久しぶりに体を拭いて、せいせいした気分を味わった。
しかし、気温差、高度差のめまぐるしく変わる連日の道中で、中にはそろそろ体の不調を訴える者も出てきた。土肥さんは一日前から食事をとっていない。平林、錦織、神山、中島さんたちは足の関節を痛めている。足の故障は山行にはいちばんつらい。タキシンドから一五〇〇メートルを下るときも、関節を痛めた人たちは、出来るだけ足を曲げないように体を横向きにして下っていた。
本当ならここで一日の休養を取りたかった。その日の日程はまだ三、四時間残っていたが、ここで休めば体の不調者には何よりのプレゼントだし、高度順化にもなるし、疲れもとれるだろう。私自身も昨夜の寝不足もあって、体を洗い終わると、そのまま休みたかった。動きたくなかった。中には神崎さんのように、行動のときはいつも先頭をきるし、茶店があってもノンストップで先へ歩いていく元気な人もいた。エベレストをめざす者にとって、落伍者が一人出れば、その分だけ自分が頂上に立つ確率は高くなるのである。第二次偵察のときなどは、隊員はたがいに自分の体力のあるところを見せ合った。多少高山病にかかっていても、そんなマイナス・データを人に見せたりしたら、それだけで頂上から遠くなると思った。誰だってここまで来たからにはエベレストの頂きに立つ機会を得たい。その中の一人に選ばれたい。体力のあるところを見せ合い誇示し合うなどというと、知らない人は陰湿な競争を想像するだろうが、そうではない。|娑婆《しやば》のじめじめした腹の探りあいとか駈引きとはまったくちがう。山で体力をいうときには実力しかないのだ。どんなに元気なことを言っていても、高山病にやられて行動不可能になれば、その先|蹤《つ》いて行けないのだ。私は、第二次偵察までは確かに強がりもあり、無理して高山病の頭痛をかくしたこともあった。しかし、いまの心中は人がどう見ようが自分の体は自分のもので、何をおいても自分の体をエベレストに向けてベストに持っていく、そのための一日一日であって、それしかないという気持だった。虚栄心とか功名心とか、そういうものからは自由なところにいると思った。
「おれは虚栄心とか人目を気にすることをどこで卒業したんだろうか」
とふと考えてみた。そして独り言を繰り返した。
「別に卒業したわけじゃない。ただおれの志が虚栄心とか何とかでは間に合わなくなってきたんだ。そうだ、エベレストだ。エベレストの山がいろんなことを教えてくれたんだ」
越冬中にトレーニングしながら峠の上から見たエベレストの偉容は、私がいかに無力な存在であるかを教えてくれ、虚心に帰らせてくれた。
「おれは自分よりはるかに大きなもの、立派なものを見てしまったんだ」
私の心はいつからかなごんでいた。それはとても幸せなことであった。
大隊長から「さあ、行くぞ」の命令が出た。さっきまで今日ぐらいは休みたいと願っていた。しかし、一日の予定は予定だ。楽をしようと思ったら、その時から予定は崩れる。ベテランの隊長は隊員に忍び寄った怠け心をいち早く察知して、ハッパをかけたのだろう。私は素直に立ち上がった。
ご馳走攻め
私たちがようやくルクラヘ着いたとき、当然出迎えるはずの田村、小西隊員は、勝手にベース・キャンプの偵察へ行ってしまったということで留守だった。このときは隊長もカンカンになった。二人はわれわれがカトマンズを発つとき、最後に残って荷物を空輸し、先に揚げた荷物も合わせて、ルクラで監視をしながら本隊を待て、という指示を与えられていた。それを待ちきれずに、荷物はシェルパに任せて、ベース・キャンプに行ってしまったというのは、考えられない話だが、私は内心でおかしかった。というのは、ルクラで|阿呆《あほ》づらしてわれわれを待てというのがそもそも罪な指示なのだ。エベレストとは目と鼻の先まで来て、何日もお預けをくらったら、誰だって我慢しきれないだろう。私だったらどうするだろうか。やっぱり我慢できないで先へ行くだろうと思って、大さんの顔を見ながらまたおかしくなった。
ルクラからベース・キャンプまでは、私には通い慣れた道だった。急な長い上りを登りつめ、森林地帯を抜けると、シェルパの故郷ナムチェ・バザールの村が見えてくる。野外円形劇場のようにちょうど半円をえがいて石造りの人家がぎっしり立ち並んでいる。私も故郷へ帰ってきた気分になった。
シェルパのおかみさんたちがお酒の入ったボトルをもって出迎える風景は、前の偵察のときの歓迎ぶりと同じだ。まずヘッド・サーダーのおかみさんが、私たちを自分の家へ案内してくれた。例によって、チャン攻めだが、疲れて登ってきた者にはなんともうまい。喉を通るとき、渇きと疲労が一時にいやされる感じだった。一息つくと、「もっとお空けなさい」とすぐお酌をしてくれて、木椀の空くひまがない。ここでまた「もうたくさんです」と逃げ腰になろうものなら、おかみさんの顔が不機嫌そうに見えたり、悲しそうに見えてくるので、つい飲んでしまうと、すぐまた差されるのできりがなく続くのである。
その日、私たちは村はずれの丘の上にテントを張った。夕食はサーダーのチョタレイが家へ招待してくれた。四十名近い隊員がご馳走になる。チャンとロキシーで始まるのは昼と同じだ。五人の女たちが長い着物の|裾《すそ》をひきずりながら立ち働いている。中にサーダーのおかみさんもいるはずだが、サーダーが紹介しないからどの人がそうかわからない。そのうち村人が見物がてら入れかわり立ちかわりやってくる。見物の男衆にもサーダーはそのつど「シェー、シェー」と言って酒を飲ませてやっているので、大変な物入りだろう。あまりやらない私でさえ一升は飲んだから、四斗樽一本では足りなかったのではないかと思う。食事はご飯とヤクの乾肉入りの辛いカレーだった。
ご馳走攻めの話ついでにもう一つ。
翌日、本隊はタンボチェに向かい、私は田村、小西、吉川隊員と四人で、わが越冬の地であるクムジュンヘ寄り道することにした。道で会う村人には知った顔もいたし、一度も話したことのない者もいたが、私が誰にでも親しげに「ナマステ」と声をかけるので、田村隊員などは、
「おい、いつの間に顔を売りこんだんだ」
と不思議がり、いよいよ私は得意だった。
実はキャンプで、みんなにこの近くにエベレストの見える峠があると話すと、三人がぜひ連れて行ってくれと同行を申し出たのである。私はわざと詳しい話を伏せておいたので、みんなが私の顔の広いのを不思議がるわけであった。小西、田村隊員は、例のルクラで待機中にべース・キャンプに偵察に出かけて隊長を怒らせたが、さすがに二人だけではと途中から思い直して引き返していた。そんな二人だから、本物のエベレストが早く見たくてたまらない。写真や地図の上のエベレストは頭にぎっしり詰めこんでいても、写真はどこまでも写真だ。しかも私が案内しようというのは、ヒマラヤ一の最高の展望場所なのだから、案内し甲斐があった。ところが峠に来たが、あるべきところには白雲しか見えなかった。私は、
「ここから、あの方向に見えるんですがね」
と言うしかなかった。
「いやいや、なんとなく匂ってくるよ。わかるわかる。そうかこれがエベレストの匂いか」
と、気のいい小西隊員は、私のがっかりしているのを慰めるように言ってくれた。私も気を取り直して、峠の下方のトタン屋根を指さし、
「あれがクムジュン・スクールですよ。ヒラリーが文盲のシェルパたちに学校をと、この地方に七つの学校を建てたんです。それにクンデに病院と。学校では英語を教えていますが、まだまだ親が教育を理解しないので、生徒は少ないようですけれど」
などと熱心にガイドした。
峠を下りると、まずフードルジェの家へ立ち寄った。彼はスキー隊に加わって雪崩で遭難した名サーダーだった。家の前で父親のシマテンが、私たちを見かけると「ガルマ、ガルマ(はいれ、はいれ)」とにこにこして、家の中へ招いた。声をききつけて未亡人と娘さんも出てきた。本来ならフードルジェがもてなすはずのところを、奥さんがトウモロコシのチャンを出してきて勧めてくれるのは、見ていてなんだか痛々しかった。空腹にチャンはよくきいた。言葉はたがいに通じないから、酒を飲み、酒を勧めるしぐさにこめた親愛の情が唯一のコミュニケーションといってもいい。つい飲み過ぎ、とくに土産も用意してこなかったので、ナムチェの売店で買ったインド製のあめ玉を一袋、娘さんにあげた。
次にそこから一〇〇メートル先の、そもそもの目当てであったわが下宿先のペンバ・テンジン宅を訪問した。今度の遠征隊ではセカンド・サーダーをつとめ、本隊より先に四百名のポーターを率いて、タンボチェに先着していたペンバは、私たちが赤い顔をしているのを見てか見ずにか、
「お待ちしておりましたよ」
と、挨拶もそこそこに二階へ招き入れた。
そしてやかんとコップが運ばれた。またもやおかみさんの出番である。吉川隊員が「おれ、もうだめだよ」と言いながら、またまたコップいっぱいなみなみと注がれている。
ペンバは本隊がそっくり立ち寄ってくれるものとばかり思って、酒もご馳走もたっぷり用意していてくれた。その分を全部でもいいからやってくれというのだから、好意には本当に感謝したが、これはもう無茶である。しかし、こちらの思惑などそっちのけにジャガイモのふかしたのから、それをつぶしてロティ(餅のように焼いたもの)につくったのから、次々山盛りになって出てきた。中でもロティは私が越冬中の大好物だった料理で、おかみさんもとくに念を入れて焼いてくれたのだが、いったんカトマンズに下り、レストランで口をおごらせてしまった私には、食べようと努力しても、どうしても喉を通らなくなっていた。
ペンバからは、四百人のポーターを率いた道中の報告をきいた。私たちは雨に遭ったが、彼らは出発が少し早かっただけにだいぶ雪にやられて立往生したという。しかし、一個の荷物も失わずに運び上げたそうで、ペンバの任務遂行はわがことのようにうれしかった。彼はもともとおとなしい人柄だが、仕事は確実だし、登山の知識も経験も抜群だ。私は彼がずっとトレッキングに出かけていたのを、シェルパの選考をぎりぎりまで延ばして帰りを待ち、サーダーに推薦したのだった。その最初の任務をきちんと果たしてくれたのだから、私も鼻高々である。
さんざんご馳走になり、シェルパに先導してもらってタンボチェに着いたときには、もうとっぷりと日が暮れていた。道の途中で、荷揚げをすませて家路につくポーターたちとすれちがった。
「ナマステ」
と私たちと言葉を交わしながらクムジュンヘ帰る者、ナムチェヘ帰る者、それぞれに夜道を下っていった。
その中に、娘のポーターもまじっていたが、一人がふところから煎りトウモロコシを出して、「食べて」と私にくれた。暗くてたがいに顔もはっきりしないくらいだから、トウモロコシを私の手のひらにのせてくれようとする手が触れあった。日中は恥ずかしがって逃げ回る彼女たちだが、暗いから一瞬触れられるままでいた。そしてクスクス笑うと、
「ナマステ」
と澄んだ声で言って、暗闇に消えていった。現地で採用され、数日間のポーターの役を果たした彼女たちだったが、私には手のぬくもりと娘らしい可愛かった声が忘れられない。
ポーターといえば、まだ骨格も固まっていない子供もまじっていた。昼食のときなど、みんな大樹や石垣の日蔭を探して休むのだが、子供や娘たちは隊員でも私たちのような若手組のまわりに面白がって群れてきた。私たちだけで食べるわけにもいかない。少しずつ分けてやる。缶が空になると、子供はそれを掴み合いでひろう。ひろった子は缶の底に少しでも残っている中身を、汚い手ですくっては口に入れ、それがすむと袋の中にしまってしまう。昼食時に隊員に配られるあめ玉やチョコレート類は、たいてい蹤いてくる子供や娘に分けてあげた。
みんな三十キロの荷物を背負って、急な上りにも隊列を乱さずに続いてくる。苦しくなると笛を鳴らしたり、みんなで歌をうたって、うまく乗りきっていく。十歳くらいの子供もいる。まだあどけない娘もいる。しかし、私たちのような文明人のもつ甘えはどこにもない。高地民族にとって道というのは上りか下りがあるのみで、平坦な道なんかないのだ。ヒラリーの建てたクムジュンの学校へ通う子供は、ナムチェからなら雨の日も雪の日も三〇〇メートル上の峠を越えて往復しなければならない。子供の仕事である薪ひろいには五〇〇メートル下のドウドコシまで下り、籠いっぱいにしてかつぎ上げてこなければならない。車を使うとか、何か便利な機械を欲しがるという発想は全然なさそうである。生まれたときからが労働で、その一生は山に生まれ山に帰っていくことがすべてである。
だから、軽いサブザック一つのわれわれが、ちょっとした坂道でアゴを出す格好を見たら、なんと思うだろう。あれでよくもエベレストヘ登ろうという気をおこしたものだと驚いているのではないか。それにエベレストに宝がかくされているわけじゃなし、命を賭けて遊びに来る連中の気が知れぬとでも思っているのではないか。しかし、そういう問題になると、おたがいにどこまで理解しあえるかわからない。また私たちを見て、さぞ金持なんだろうと思うかもしれないが、なんぞ知らん、私などは日本へ帰れば三畳の一間があるきりだ。遠征隊の三十万円の個人分担金だってもっていなかった。日本なんてどこに存在するのかも知らないヒマラヤの人たちと、彼らにとってはどこまでも通りすがりの旅行者にすぎないわれわれとが、それにもかかわらず一緒に笑ったり、歌ったり、酒を飲んだりしている。人間とは考えれば考えるほど不思議な生きものである。
心の葛藤
タンボチェに着いた夜、夕食後のミーティングで、大隊長から当地に十日間滞留することが発表された。その間に各自が休養をとり、小旅行をして、高度順化を行なうためだ。それから装備、食糧、気象、医療の担当者は、たとえば私の場合はペンバ・テンジンたちが運び上げた第一陣の荷と、本隊が持って来た荷を一カ所に集結させ、点検し、これから先の準備をして再梱包するという任務が与えられた。
私は小西さんを誘って、キャンプ地の寺院の広い境内を後ろに回って、ヘッド・ラマのところへ挨拶に行った。このお坊さんとはクムジュンのフードルジェの法事のとき以来の知り合いで、近くを通るたびに顔を出していたため、今では顔なじみである。しかし、手ぶらでは挨拶にもいけまいと、小西さんのまだ新品同様のマジックペン十二色入りを提供してもらい、土産にした。小西さんはキャラバン中、それで時々スケッチしていたのだが、この先登攀にかかったらそれどころではないというので、快く出してくれた。
ヘッド・ラマは大よろこびで迎えてくれた。たがいに片言の英語だが、慣れればそれでもよく通じ、冗談まで出るのだからたいしたものだ。この人がシェルパの崇拝する活仏なのである。事実、これで信徒の前に出ると、別人のような威厳を保ち、近寄りがたい存在になる。彼の弟のように尼僧のところへ夜這いをして、赤ん坊を産ませてしまう|ダラ《ヽヽ》僧もいるし、聞いた話では古い経文などを持ち出してトレッキングの観光客に売りつける悪いのもいるらしい。しかし、このヘッド・ラマは三歳から宗門に入り、修行して、一生性の欲望を抑えるような戒律を守って、ここまでになった人である。俗人である私などは、越冬中、人の奥さんと一緒にざこ寝したときも、尼僧の家へ宿を借りたときも、理性を守るのが本当にきつかった。だから、私はヘッド・ラマの弟のような|ダラ《ヽヽ》僧のことも理解できるし、活仏として崇める村人と同じように、ヘッド・ラマも尊敬することができる。大隊長がまだ正式に挨拶もしていないのに、私たちが先に来て長居するのもよくないと思ったので、明日隊長を案内するからと伝えて引き下がった。ヘッド・ラマは岩塩入りのチベッタン茶を念入りにいれてご馳走してくれた。
タンボチェの寺院は、標高四〇〇〇メートルという天と地の境に建っている。まだ日の出前の六時に、二十五人の僧による音楽のような|読経《どきよう》の声と太鼓を打つ音が鳴り響いてくる。それを合図に村の一日は始まる。ここにもエベレストの見える丘があり、みんなで見に行った。この丘の眺望はクムジュンの峠のそれとはまた趣きを変え、イムジャ・コーラ峠の奥にその頂上を見せていた。
私は境内いっぱいに集結した荷物をほどいては広げた。さらに必要に応じて分類し、再梱包していく。また私は設営も担当したので、隊の運行をみるために、現地食を集めたり、台所をのぞいたり、何もしてないようでもけっこう忙しかった。設営班は松浦さんをはじめ、神崎、錦織、成田隊員と私で五名。クレバスを渡るときの丸太を用意したり、標識の赤旗をくくりつける竹竿の手配をしたり、夜の焚火を囲んでのシェルパ・ダンスの設営をしたり、何でもやった。隊員とシェルパの間で話が進まないときには、誰かが私を呼びに来た。私だってネパールの言葉はからきしだめだが、そこはシェルパと生活した時間が長いので、たいていの話なら解決した。シェルパたちはサーダーを信頼すること絶対で、サーダーさえ「うん」と言えば、あとは一言の愚痴も言わずに動いてくれた。
サーダーのほかに力を持っているのはネパール政府から派遣された連絡官で、カトマンズの警察官である。この連絡官が外国の遠征隊には必ず一名同行する。私たちと一緒に来た男は私と同年輩で、すぐに隊の空気に融けこんできた。その連絡官がタンボチェでサントリーの角瓶を離さずに、
「日本隊は世界最高のエクスペディションである。それは四十名を越える隊員が六十名のシェルパ、千百名のポーターを動員し、一糸乱れずやってきた点だけみても断言できる。隊員のみなさんはジェントルマンです。エベレスト登頂成功を、私は|塵《ちり》ほども疑わない」と、陽気なジェスチャーをまじえてなかなか達者なスピーチをした。
連絡官やサーダーが隊員を理解してくれるときの遠征は必ずうまくいくものだ。
寺院の境内には十張りのテントが張られ、隊員は一つのテントに六人ずつが分宿した。一日の日課が終了すると、カードや将棋や花札をしてくつろいだ。娯楽はそれらのほかにはない。隊には囲碁なら二段の広谷先生、将棋では三段の平野さんがいた。私は何度挑戦しても、飛車、角、香車抜きの平野さんに勝てたことがなかった。いつのパーティーでも花札で新聞記者にかなう者はいないものだが、今回も私は相沢記者に挑戦して、私のポケットに入っていたルピー(ネパールの通貨)を全部彼のポケットヘ引き渡す羽目となった。要するに、勝負では勝つことがなかったから、私は台所へ行ってシェルパたちと火に当たって話すことが多かった。その方が気楽だったし、性にも合っていた。
装備関係では酸素担当の平林さんが、三十歳以上に一つずつ、二十代の若者には二人に一つのマスクとボンベを配り、講習会を開いてくれた。高所靴にアイゼンをつける練習もした。さすがにみんなが真剣になる。エベレストヘ行ったら「待った」はいっさいきかないからだ。みんなプロだから、そういうことはいちばん承知している。十日間の滞留で、おそらく全員が気を抜いているはずだが、|肝腎《かんじん》なところへくるとピシッと電流が走ったように心が引き締まるのは気持がよかった。
そんなとき、特殊テントの組立てテストをしていた加納さんが私を呼びに来た。
「何の用ですか」
「うん、テントの台なんだが、組み立てたまま上げるか、それとも上へ行って組み立てた方がいいのか、どっちがいいだろう」
私としては第二次偵察のとき、南壁用に考案されたこのテントを、苦労して氷壁の急傾斜に組み立てたことはあった。しかし、どっちがいいかと言われるとわからない。私が、
「わかりません」
と答えに窮すると、加納さんは、
「いや大さんがね、君か小西君にきいてくれと言われたんでね」
と困った顔をした。
私はそのとき、そわそわと別のことを考えていた。大隊長がその件なら植村にきいておけと言ったとすると、単に私が経験者であるというより、隊長は腹の中で南壁メンバーに私も入れてくれているのだろうか、と期待したからだった。
同時に、いつも私の胸の中でつかえ、表面に出てくるのを必死でおさえていた一つの心配がまたもや頭を持ち上げてきた。それは南壁からの登頂を目指す以上、私も登頂メンバーに選ばれたい。むろん誰もが願うことだ。ただ心配なのは(それが胸につかえているのだけれど)、私の登山技術では、正直言って南壁の直登はむつかしいと思う。第二次偵察で八〇〇〇メートルまで登ったが、そこから先の垂直に近い岩壁を登る方法は、私には見つけられなかった。また同じことを繰り返すのであれば、私には成功のチャンスはほとんどないと言っていい。メンバーに選ばれればもちろん私は登っていく。登りたいという気持と、しかし成功できるのかという不安――この二つのせめぎ合いはしばらく続く。
私は同行した毎日新聞のカメラマンに十六ミリ用の超望遠レンズを借りて、エベレストをのぞいた。手前の連峰に妨げられて、ちょうど八〇〇〇メートルから上部しか見えないが、ここからでも色が変わって見える頂上に近いイエロー・バンドには依然として雪はなく、ただ雪煙がゆっくりとチベット側へとたなびいていた。南壁はにべもなく私を拒否している。それよりは、ここから眺めてもゆるやかに頂上へとつながっている東南稜ルートを選ぶなら、私にも可能性があるように思えた。ヒラリーの初登頂も、そのあと続いたスイス隊、アメリカ隊、インド隊もすべて東南稜ルートをとったのだ。天候にさえ恵まれれば、私にも登れるにちがいない。むしろ隊員のうちの何人が南壁への成功を信じているのだろうか。しかし、それとなく隊員を見渡すと、そんな危惧の念を抱いていそうな人は一人も見当たらなかった。
「おれの弱気、これはなんだ。おれも志願者の一人ではないか。それより何より第一次、第二次偵察の報告に基づいて、本隊がここまでやってきたのだ。それを今になって当の報告者が気持をぐらつかせるとは何事か」
私は人には言えない心の動揺をもてあました。
キャンプ村づくり
タンボチェにテントを張って四日目、第一回目の小旅行の日だった。全員で対岸のタウチェの山裾から尾根まで四四〇〇メートルを登った。体を高所に慣らすのが目的だから、ピッケル、弁当、カメラを持っただけで、服装も自由ということだった。私は新品の高所靴をおろし、長ズボンをはいた。田んぼの蔭にはまだ雪が残っているので、さすがに半ズボンの人はいなかったが、みんな支給された登山用の衣類を思い思いに着ていた。私は新品だろうと使い古しだろうと、何を身につけてもシェルパ・スタイルになってしまう。自分でもパッとしないと思う。胴長、短足のなせるわざか。しかし、着るものがこんなに何一つ似合わない人間も珍しいと思うと、今さら驚きも嘆きもしない。
タウチェからの山道はジグザグの登りだった。夏にヤクを放牧しに行くとき追い上げる道なのだろう。一列になっていくと、峠に出るはずが、だいぶそれてカルカ(放牧小屋)へ出てしまった。隊長はここから先は自由行動にしようと指示した。登りたい者は登る。休みたければ休む。私はゆっくりと昼寝をすることに決めた。四三八〇メートルのところだ。しばらくして静かになると、カルカに残ったのは井上隊員と私だけで、あとは全員上へ登っていったのだった。井上隊員も荷物の整理が残っているとかで、下りていってしまった。メンバーの中には、まだヒマラヤ経験のない人もいた。四〇〇〇メートルの高度を初体験という人もいた。ましてみんな一度もザイルを結びあっていない。選抜遠征隊のむつかしいところだ。
四〇〇〇メートルから四四〇〇メートルまで一気に登れば、それなりに負担がかかる。頭が痛いとか、頭を振るとガンガン鳴るという初期の高山病にかかる者が出ないと言ったら嘘だ。それを大部分がさらに上へ登っていってしまったというのは、気持がはやるのか、強気なのか、あるいはこちらが弱気なのか。私は隊員の中では高度順化が出来ている方だが、それでも焦ってはいけないと思って、昼寝することにしたのだ。しかし、残ったのが自分一人だとなると、私の方が慎重過ぎるのだろうか。心配が頭をもたげた。後で追いつけない差をつくってしまうとしたらどうしよう。私はごろんと寝たまま、眠るでもなく、じっと山の中の空気を吸っていた。
二回目の小旅行は三グループにわかれることになった。Aグループはベース・キャンプまでの往復、Bグループはイムジャ・コーラヘ、Cグループはアマダブラムに近いニンボ・ラ(峠)へ、それぞれ四、五日の行程である。私は藤田さんをリーダーに、松浦、神崎、安藤、伊藤隊員、大森ドクターと一緒のAグループとなった。こうして五〇〇〇メートル以上の高度をみんなが体験した。適度の休養と行動で、私も少し陥りかかった弱気を追い払い、ベース・キャンプから戻ったときには気力が十分に充実していた。あとはゴーサインを待つばかりだ。大隊長はこういう隊員の調教(?)が実にうまい。四十人もの大世帯を大づかみに料理して、それでいて一人一人の味を出すように持っていく。
三グループが無事に戻った夕方、シェルパたちのサービスで赤い色のついたロキシーが配られた。一日おいて出発だが、前途を祝してという彼らの心遣いであった。歩きづめに歩いてきたあとの体には、酒は何にも代えがたくうまかった。風呂上がりのビールと同じだ。ロキシーを飲み終えぬうちに、今度はクムジュンの村長クンジェチュンビが奥さんと一緒に、ひと抱えもある大樽にチャンを入れて、
「飲んでください。成功を祈ります」
と持ってきてくれた。村長はここからベース・キャンプまでのポーターのアレンジを全部やってくれていた。
ロキシーからチャンにかわり、飲み口も軽いので、二杯、三杯と空けるうちに、たちまち陽気な宴になった。テントの外では、同じようにシェルパが焚火を囲んでチャン樽から飲み放題にやっている。シェルパたちは一人五ルピーずつ自腹を切って、われわれの歓送会を計画してくれたのである。まもなくシェルパ・ダンスが始まった。私はピンゾウというシェルパから彼らの好意をきいて、ポケットを逆さにすると、現地食を買った残金四十ルピーを総ざらいカンパした。
大森ドクターが、昼間の疲れもどこへやら、シェルパ・ダンスの輪の中に入り、肩を組んで、「チイ、ニ、スン、シー、ガ、シェッシェッ」と踊り始めた。ドクターがやるならと、私も輪に入って、肩を組んだ。これでタンボチェの休日も終わりかと思うと、いくら飲んでも酔わず、夜の寒気もむしろ塩からいように感じられ、宴はいつ果てるともなく続いた。
ベース・キャンプヘ向けての短いキャラバンが始まった。三月中旬ともなれば厳しかった冬もようやく去り、昼間の温かい陽気は春の訪れを告げていた。だが、寒さは依然として残り、手袋をはめていてもまだ痛いくらい厳しい。しかも標高五〇〇〇メートル、クーンブ氷河の末端までさしかかったとき、一天にわかにかき曇って、吹雪が襲ってきた。湿気をふくんだ雪だったためか寒くない。たまたまある村を通ったとき、シェルパからスピッツによく似た小型のチベット犬の仔犬を手に入れた隊員がいた。鼻ひげを長くのばし、愛嬌があって、たちまち隊員のペットになった。隊員と一緒の食物が与えられるので、すっかりなついて、われわれの気持をやわらげるのにも役立った。その仔犬もキャラバンに同行したが、おとなしく隊員の肩に乗っていて、雪になっても騒ぐ様子もない。山岳民族と同じように、いやそれ以上にヒマラヤの動物はいつもいちばん原始の自然と直面して生きている。ヒマラヤの自然とて微笑するときもあろうが、大体において荒れ狂うほうが多いだろう。それにたいして生物はじっと受容して耐えるだけだ。それが生存だ。隊員の肩の上でじっと雪を受けている仔犬は、私にそんなことを感じさせた。
三月二十三日、ベース・キャンプに到着した。後発の松方三郎総隊長、中島ドクターを除けば、全員が支障なく五三六〇メートル、アイス・フォールの先端にたどり着いた。氷河の上である。隊員三十九名、シェルパ六十余名の大部隊である。カトマンズを出発して三十五日間のキャラバンだった。この時期は、私が第一次偵察に入ってモンスーン到来を目前にして追い立てられる気持でいたときより一カ月半も早い。そのかわり、第一次偵察のときは氷河の上を川が流れていたが、四十五日早いためにまだ氷河の全面が氷のままで、日蔭には雪が消え残っている。モンスーンの心配がないからといって、それで安心できる山ではない。
山は絶えず動いている。しかし一方では不動である。一望すれば、プモリの側壁から尾根続きのリントレンの峰、ロー・ラ、そのハンギング氷河が今にも崩れんばかりに見える。正面から左に目を移せば、西稜、その手前のヌプツェの稜線も、昨年と少しも変わっていない。
「あ、落ちる、落ちる」
と横で誰かが右方の山を指さした。ロー・ラの上方に雪煙が立ち昇っていた。同時にドドドーンという、大きな長く尾をひく轟音がテントの近くまで押し寄せてきた。たったいま、変わりないと思って眺めたロー・ラのハンギング氷河が崩れ落ちていったのだ。雪崩の大音響には耳慣れしていたのでそれほど驚きもしなかったが、目の前を何十年か何百年かの歴史がいっぺんにめくられて、別の世界に来たような不思議な気持になるのだった。動くものと動かぬもの。エベレストまでの道にはまだどれだけの手ごわい敵が待ち伏せていることか。
それより前、私と神崎、吉川隊員は、ベース・キャンプの設営のために先乗りした。私たちより早く、セカンド・サーダーのペンバ・テンジンが二十名のシェルパと先着していて、氷河の上の石ころを取り除いたりしていた。氷河が押し流してきた五百キロもある石があちこちに点在している。それを数人がかりでどけるのだが、これがひと苦労だ。平地の半分の空気の中での肉体労働は、やってみないとその苦しさがわからない。シェルパたちも一つ石をどけると、呼吸を整え直すのが大変なようだった。こうして石と氷柱の氷河上を平坦にするのがいちばんの難作業だ。
「トイレはちゃんとしたのを作ろうや」
と突然言いだしたのは吉川昭君だった。彼は日本の岩登りでは伝統をもつクラブの第二RCCに属し、小西、伊藤隊員とともに社会人の団体から選抜されてきた。ヨーロッパ・アルプスのドロミテ地方の岩壁を登りまくったという経歴の持ち主で、その力は高く評価されていた。体格は私とそんなに変わらないが、登山靴をはき、登攀具を付けると、クライマーとしてのスタイルがみごとに決まった。私のような百姓スタイルではない。デパートに勤めているせいか、アカ抜けしている。はきはきしているし、いいところのたくさんある男だ。その男がキャラバンの途中で痔にかかったのだ。ひどいときは馬に乗って後からついてきた。公衆トイレなどあるわけもない街道だから、痛みだしたらその場所にお尻を出してしゃがむしかない。長い間そうやっていると、後続のシェルパやポーターの女や村の子供が彼のまわりを囲んで、熱心に見物するのだそうだ。それにはよほど困ったらしく、それで真っ先にトイレのことを心配したのだろう。
「痔はまだ悪いの」
「いや懸命に直したから、もう薬を飲めばいいだけに治ってきた。しかし、トイレは人に見られていると調子が出ないからね」
「今度はクレバスを利用した水洗式になり、囲いもできるそうですよ」
私の説明に、吉川君はそれなら安心だが、という顔をした。
もう一人の先乗りの神崎忠男さんは日大OBで、私より一年先輩。学校は別だったが、日本山岳会学生部でよく面倒を見てもらった人だ。八方尾根にある明大山寮にも泊まりにきて、スキーを一緒にしたこともある。先年、日大隊の極地グリーンランドのフォーレル峰遠征にも参加した。酒は一滴もやらないが、酒飲みよりも酒宴に強く、飲む者以上に座を盛り上げる特技がある。信頼のおける先輩で、この人の「さて場割りを決めようか」の声で、私たちは食堂はどこ、女子隊員のテントはどこと、キャンプ村の設計に取りかかった。ちょっとした町作りの気分だ。一〇〇メートル四方の中に、まずみんなに便利なようにといちばんの中心に食堂用の大テント二張りを設ける。続いて隊員のテント五張り、司令部と女子隊員テントは別に|一劃《いつかく》を確保、シェルパたちにテント四張り……。
そうこうしているうちに、ポーターたちが上がって来、続いて本隊も到着した。
荷揚げのポーターたちは、クムジュンの村長に率いられてきた顔見知りのシェルパがほとんどで、十歳以上の村人は総出で来た。そして私たちの指示で、たちまちキャンプ村が出現した。
テントの入口はすべてアイス・フォールの方へ向けた。つねに多くの目で氷の状況を観察できるためにである。アイス・フォール側には気象観測所、発電室、シルバー・ヒュッテを設けた。ヒュッテはアルミニューム製で、中に酸素室、診療室、薬品倉庫が置かれた。ヌプツェ側に報道村のテント四張り。中央の食堂兼娯楽室のまわりにはスレートを敷いて広場を作った。住人は百人を越すので、案内標識も立てた。石を積み上げて石垣囲いにしたキッチン・テント、食糧倉庫用テント、国旗掲揚塔。それにサーダーのテント、入口の門の脇に連絡官のテント。テントだけで二十張りにもなった。吉川君待望のトイレは、錦織、嵯峨野、伊藤隊員が氷河上にピッケルで穴を開けた。氷の堅さにみんなびっくりしていたが、これは露天で、もう一つはクレバスの割れ目を利用することにして、ほどよい割れ目を見つけてまわりをシート囲いにした。
出来上がると、なかなか立派だった。ここへ総計百十七名が入居、三十トンの荷物が荷揚げされて納まった。ネパール政府派遣の連絡官がしきりに史上最大だと言っていたが、中国チベット側からの中国遠征隊(一九六〇年)の詳細は不明だからそれを入れなければ、ネパール側からの遠征隊規模としてはたしかに史上最大の隊であろう。
ルート工作隊
翌三月二十四日、気温は日の出時でマイナス十一度だったが、晴天で日が射しだすと少しずつ上がった。昨秋のベース・キャンプの朝がマイナス二十度だったことを考えればなんのことはない。朝日にシルバー・ヒュッテがまばゆいくらいに光っていた。テント村を一巡すると、入口の石垣の門柱には「日本エベレスト登山隊ベース・キャンプ」と真新しい看板がかかっていた。
全員が集まり、国旗掲揚塔に日の丸と、ネパール国旗、日本山岳会旗、シェルパの旗を揚げるのに注目した。シェルパの旗は黄色や白の縦長ののぼりであった。
この儀式が終わると、最初のルート工作隊はアイス・フォールに入って行った。藤田、松浦、錦織、小西隊員、それに私も選ばれた。キャラバンを終えるとすぐ村づくりがあって、私も内心では休養が欲しかったが、多くの隊員の中から最初の日のルート工作に選ばれたのはそれ以上にうれしかった。
われわれの行動スケジュールは前の日の夕食後のミーティングの席で発表される。決めるのは大隊長を中心に、幹部クラスの住吉さん、松田さん、それに中堅クラスの藤田さん、平林さん、松浦さん、田村さん、中島さん、大森ドクターも加わった会議である。ベース・キャンプ第二日目からルート工作に入るのは、相当ハード・スケジュールだとも思われた。しかし、考え方を変えて、たとえば単独で行動しているとしたら、私は二日目を休養したいからといって休みにするだろうか。本心は休みたくても、やっぱり起き上がって行動に取りかかるだろう。団体行動だとつい人頼みになって、今日は骨休みするかという気にもなる。そこが団体と個人のちがう点で、むつかしいところだ。だから、二日目にさっそく行動開始と決めた指導部の決定は、ハードに見えても正しいのだと、私は思い直した。
私たちはアイス・フォール・シェルパ三十名を招集した。シェルパには登山要員二十七名のほか、ローカル・シェルパという多くが地元採用のポーター二十一名、それに第一の関門であるアイス・フォールの中にルートをつけていく工作要員として、ベース・キャンプまで荷揚げしてきたローカル・ポーターの中から馬力のありそうなシェルパを採用したもの、その三種類があるのである。
さて、ここまで登るのにシェルパたちは、素足こそいないが、自家製のチベット靴をはいたのがほとんどだった。シュラフも靴下も下着も持っていないから、それらと、ヤッケ、靴、ズボン、手袋、アイゼン、ピッケルなど、アイス・フォール登攀に必要な登山装備を支給した。装備担当の平野さんが、彼らに丁寧に靴のはき方、アイゼンのはき方を教えている。サーダーのチョタレイもみんなの仕上がりを見て回っている。とくにアイゼンは念入りに点検している。まさか脱げることはなくても、体の一部になっていないと、いざというときに何が起こるかわからない。
大隊長の目算では、三月中にルート工作を終わり、四月一日から第一キャンプヘの荷揚げにかかりたいという。従来は中継キャンプを進めながら少しずつ荷揚げしていく方法がとられたが、今回は危険なアイス・フォールを何回も通ることは出来るだけ避けたい方針だった。第一キャンプまで荷揚げする量は十三トンを越える。一人のポーターが二十キロずつかついだとして六百五十人の人力を必要とする。隊長はそれをとにかく一気に短時日で揚げてしまい、雪崩や氷ブロックの崩壊の危険を回避しようという作戦を打ち出した。主にそのために三十名のアイス・フォール・ポーターの力が必要だったのだ。もう一つは、われわれの後から入ってくる三浦雄一郎さんのスキー隊との混乱を避けるために、アイス・フォールは出来るだけ早く通過しなければならないという配慮もあった。
最初のルート工作隊は、小西―ダワ・ノルブ、植村―ハクパ・ノルブのザイル・パートナーが先行し、藤田、松浦、錦織隊員と七名のシェルパが、丸太、ザイルを用いて先行者のつけたルートを補強していった。
アイス・フォールの取付まで行くと、固い細かい雪氷のしぶきが顔に吹きつける。エベレストが呼吸しているのが聞えるようだ。私たちはここでアイゼンをはき、ザイルを結び合い、登攀具のスノーバー、アイスハーケン、ハンマーなどを体にぶら下げた。
氷河の固さは春も秋も変わらない。ブルーアイスの上だとアイゼンの爪もほとんど入らない。冬に雪が少なかったためか、積雪がなく小さな亀裂までむき出しに青氷をのぞかせている。秋と同じに西稜から入ることにした。高度を上げるにしたがって障害が立ちはだかるが、まず最初に通行不可能な五メートル幅のクレバスにぶつかった。中央側には大氷塊、クレバスが見え、左の方には雪崩の跡がまだ生々しい。私たちはベース・キャンプでポラロイド写真を撮って持参し、参考にしながらルートを開いていくが、接近しないとわからない状況の方が多い。
私は一メートルほどに狭まったクレバスを越して先へ進むことにして、ハクパ・ノルブに彼からザイルを確保させ、足のバネをきかせて飛び越えた。次にハクパ・ノルブが体に反動をつけて飛んだ。ところが着地した氷面の下が空洞だったため、踏みはずして三メートル落ちて、クレバスの中に宙吊りになってしまった。私は彼を確保するのにピッケルが氷に突き刺さらないまま、アイゼンをフラットにして、背中からザイルをかけてふんばった。しかし、この姿勢では無理で、彼が落ちた瞬間、ザイルが手袋を滑って、ずるずると持っていかれ、彼の体が見えなくなった。幸いにしてケガはなかったが、私もこんなにキモを冷やしたことはなかった。ハクパ・ノルブも気の毒に気力をそがれた様子だ。私は功を急ぐのではないが、少しでも先へと思うので、小西さんとザイルを結んで、さらに八〇メートル登った。ところが、そこに一〇メートルの大クレバスの障害が横たわっており、引き返すほかなかった。ハクパ・ノルブの落ちたクレバスは、藤田さんらによってジュラルミンの橋が架けられ、|手摺《てすり》もつき、安全なものになっていた。その日はこの地点までで二〇〇メートルを登って終わった。
キャンプに戻って、隊長ら首脳をまじえての検討会があった。藤田さんはルートの取り方に不満で、なぜ西稜寄りに行かなかったかと主張した。つまり、結果としては先行者が危険な方へばかり進んだことになったのだが、好んで危険を招き寄せたわけではない。検討会では、工作二日目は一日目の先と西稜寄りと二手にわかれてみることにした。二手案を出したのはナイケである。ナイケとは、中堅クラスの人を私たちがそう呼んだのだが、本当の意味は現地語でポーター頭、つまり荷物を背負わないで監督する役の連中のことをいう。ナイケの二手案は、私たちの意見にも、藤田さんの意見にも、それぞれに捨てがたいものを感じ取ったからだろう。
翌二日目は、西稜寄りに新ルートを探す藤田さんをリーダーに、秋に偵察で入った大森隊員に加えて、錦織隊員、優秀なシェルパのピンゾウ、イラツェリン、プルキイパが一班となって出発した。名誉挽回をはかる中央パーティーは、松浦さんをリーダーに、小西隊員、私、それに新しく平林、加納、神山、安藤隊員、シェルパ七名の班を組んで、朝八時半出発した。きのうの一〇メートルの大クレバスまで二時間で登り、加納さんが開発した軽量組立て梯子で橋を架けて、その先を行ってみようというのである。アイス・フォール内は地形などというものはなく、巨大なトラクターのキャタピラで踏み荒したような氷河の氷と氷の押し合いだから、昨秋のルートが残っていると考えるのはまず甘い。事実、前回のルートの跡はどこを探してもなかった。ただ、昨年の経験で役に立ったのは、二度もこの手でもって道をつけたことがある、だから道がないわけはけっしてない、という自信だった。
アイス・フォール突破
一〇メートルのクレバスの前で、私たちは新考案の梯子の組立て作業にかかった。一本二・五メートルの梯子をボルトで留めてつないでいこうというものだ。狭い氷の凹凸の中を、全員ザイルで結び合っているからそれが絡みあったり、絡んだのをほどいたりの繰り返しのあと、とにかく四本をつなぎ合わせた。次に対岸に梯子を渡す作業だが、そんななんでもないことが氷の上だと簡単にはいかない。深さ四〇メートルのクレバスの両岸には、橋を固定させる足場もない。まあ、やってみようと、梯子の端にロープを結び、ハーケンを打ってまずこちら岸を固定した。次に、梯子のもう片方に三本の長いロープを結び、梯子を立て、ロープを徐々にゆるめて、向こう岸まで倒していく。みんな足場が不安定で、体を支えるものがない。いわばスケートをはいた綱引きみたいな作業なので、極度に緊張した。
「足場に穴を掘れ!」
「ザイルを張って!」
と、松浦リーダーがシェルパに声をかける。みんな興奮気味になると、英語でなく日本語で叫ぶから、困惑するのはシェルパたちだ。しかし、こういうときには多くの言葉は不要だ。失敗したらクレバスを落下するしかない。そのことだけで言葉は通じる。ロープを張り、じりじりと梯子を向こうへ倒していった。
「あっ、おい、梯子が足りない」
と小西さんの慌てた声が先頭から飛ぶ。小西さんに言われなくとも、梯子の先端は対岸に届かないで浮いているのが見える。どうしてこんなことになったのか。もう一度場所を変えるか、梯子の継ぎ足しをやるか、どちらにしてもやり直しだ。松浦さんと、創案者の加納さんは、戻すときに梯子をクレバスに落としてはと、二人で梯子を固定してある根元に食らいついていた。
結局、幅一〇メートル未満の場所を見つけて、辛うじて対岸へ架け終えたが、この作業だけに二時間を費やした。しかし、エベレスト登山隊で一〇メートルのクレバスに橋を架けたのはわが隊が初めてだろう。小西、平林組が橋を渡って、さらに上部ルートの工作に入り、私たちはシェルパとともにルートの補強にかかった。問題は、記録としては留められる価値があっても、橋そのものの強度がどこまでもつかだ。危険をおかして、やや強引に架けてしまったが、一日に早ければ四、五〇センチは移動するというアイス・フォールが、一カ月、いや一週間そのままでいる保証はどこにもない。けっして長期使用に耐える状態になかった。それにクレバスの上には今にも落ちそうな雪氷壁が迫っている。
途中で松浦さん、私、カミ・ノルブがバトンタッチして先頭に出た。丸ビル大の氷のブロックを西稜の方へ回りこみ、崩壊したばかりの氷の|瓦礫《がれき》の中を通ったりして、アイス・フォール中央の凹型地形のところまで来た。
「ここですよ。昨春と昨秋にデポした中継地点は」
私は辺りの山を見、崩れたばかりのおびただしい青氷の欠片を見ながら、憶い出すことがあった。紅茶とビスケットを腹に詰めながら、昨秋のベース・キャンプ近くで発見したアメリカ隊のジェーク・ブライテンバッハのミイラの話をみんなにした。彼はこの凹部近くで氷の崩壊に遭って生き埋めとなったのだ。
「ふーん、ここからベース・キャンプまで流されたのかね」
松浦さんは私の話に何度もうなずいていた。私はまた、昨秋のスキー隊の犠牲者、サーダーのフードルジェがもう少し上で遭難した話もした。
「本当かね。いやだね、おれはまだ死にたくないよ」
と松浦さんは、今度はいやいやをするように首を横にふった。
雪崩や雪氷の崩壊は、われわれの技術を超えた問題である。だがもし、技術がすべてを征服してしまったときには、われわれがいまやっているような登山はもはやないかも知れない。雪崩を思うと戦慄が走るが、その戦慄に誘われてわれわれは好き好んでここへやってきた――そんな逆説を認めたくはないが、さりとてまったく否定もできない気がする。
この日は凹型地まで五〇〇メートルを進んだが、行手には青氷がごろごろと入り乱れて転がっていた。氷の崩壊の跡なのだろう。雪崩の恐ろしさを話題にした直後なので、誰からも「さて、行きますか」の声がかからない。帰りはみんななんということなく押し黙って、ともすれば足早に、追われるようにクレバスに架けた橋のところまで下りてきた。
「おい、植村、危なかったのォ」
と、松浦さんはようやく私に話しかけたが、氷塊群の中をよほど必死に下ってきたためか、ハアハア息がきれて、それだけ言うのが精いっぱいのようだった。何度も大きく深呼吸している。
「ああ、助かった。おれはもう二度とこんなところは通りたくないよ」
松浦さんの言うのを、後から追いついた加納、神山、安藤隊員も、同じように血の気のうせた顔で、下りてきた中央部を見上げながら、「そうだ、そうだ」と同意するのだった。これは彼らが初めてアイス・フォールに入ってその恐ろしさを見たというだけのことではない。私も下りながら背中に何度となくゾクゾクするものを感じた。あれ以上進まなくてよかったと思った。そこには、単に雪崩の恐怖という以上の不気味さがあった。私が遭難者の話などをしたからいけなかったのか。しかし、あのときみんなを襲ったのはそんな話程度の恐怖感ではなかった。世にも不思議な何かに追いかけられたのだと思う。いつの間にか午後三時を回っていた。
西稜寄りルートを偵察した藤田、大森、錦織チームは、十二時には凹型地の西側手前まで登り、そこから引き返してきていた。私たちが六時半に戻るのを待って、夜はふたたび検討会になった。
西稜寄りルートを偵察した組には、進んで同ルートを推薦しようとする者はいなかった。私たちの方もぐったりして、意見が出ない。松浦リーダーは「おれはもう右ルートは二度と通りたくない。なんとか西稜寄りを突破しませんか」とはっきり言った。西稜寄りの班に積極的な意見がない以上、それを拒む理由もないということで、もたついた進路は二日ががりで西稜寄りと決まったのだった。
ルート工作三日目には、藤田、松浦、平林、大森隊員、それに新たに松田隊員が加わって出発した。藤田さん、松浦さんは三日連続の行動である。いずれも三十五歳以上のナイケ組だが、口先だけでないことを見せつけられる思いで、私たち若い者にはショックだった。むろん松浦さんは明大がゴジュンバ・カンに遠征した同じ一九六五年に、早大ローツェ・シャール隊に参加し、登頂こそできなかったものの、最高到達点八一五〇メートルに登り、日本の高所最高記録の保侍者だ。藤田さんも、明大ゴジュンバ・カンのときの副隊長で、私も尻を叩かれた口だし、第一次偵察隊の隊長としてアイス・フォールを通過している。大森ドクターは第二次偵察隊でやはり経験している。そういうベテランがルート工作の先頭に立つのだから、力強いことこのうえない。
「順調に凹型地に達し、さらに高度を五九〇〇メートルまで稼いできたぞ。アイス・フォール突破まで残り五一〇メートル。昨秋、フードルジェが遭難したすぐ手前で引き返してきた」
と大森ドクターは話してくれた。第二次偵察に使った赤いザイルがアイス・フォールの中で見つかったとも言った。
ところで、ベース・キャンプに入ってから体調を崩す者が出てきた。それまでは隊随一の|強者《つわもの》ともてはやされた慶大出身の成田隊員は、キャンプ入りと同時に高度障害で病床入りとなった。あんなに強い男だったから、口にこそ出さなくとも、どんなに口惜しく思っていることだろう。平野隊員も熱を出して頭痛を訴えた。三日目には、土肥、神崎、安藤隊員が頭痛。私も倦怠感はおおうべくもない。後頭部にも痛みがある。足も重い。しかし、そのくらいでは誰も医療室の戸は叩かない。
ルート工作は連日行なわれ、三月二十七日、四日目には錦織、鹿野、井上隊員が入り、さらに前進し、そのまま突破できるかと思われたところ、氷壁で行き詰まり、時間切れに終わった。その間、他の隊員は何をしていたかというと、住吉、松田、河野、長田隊員、それに世界初のエベレスト女性隊員となった渡部節子隊員も、アイス・フォールヘ入って高度順化に怠りなかった。
三月二十八日、私は三度目のルート工作に選ばれた。二十七日の延長で、氷壁の最後の登攀口を見つける任務だ。フードルジェの遭難地点を左方に見て、少し強引に進んだ。しかし縦に割れ目をもった二、三〇メートルの氷の絶壁が続き、どこにもルートがない。横へ横へとトラバースしていって、壁に一メートル幅の亀裂の入った場所を見つけた。同行の井上君にうしろから確保してもらい、アイスピトンを打ちこみ、背中とアイゼンをきかせて、尺取り虫のように少しずつ登った。ついに氷壁を登りきった。上に立つと、ウエスタン・クーム氷河は一望妨げるものもない。すぐに昨秋の第一キャンプの跡を見つけた。八〇〇〇メートル級のローツェ・フェースとローツェも見えた。
「やったァ」
と井上君と二人で握手した。突破できないことはないと思っていても、いざ突破したときの気持は感無量なものがあった。
その日は第一キャンプまでルートをつけた。いったんルートがつくと、大人数だから、ルート補強、荷揚げと、機動力はすごい。五日目にしてルートを確保した本隊は、予定より二日早い進行に気をよくして、さらに四月一日から一週間で、第一キャンプヘの荷揚げを完了させることに決まった。折りしも、スキー隊の先遣隊がベース・キャンプに到着、モレーンを一つ越えた五〇メートル手前のところにベース・キャンプを建設しはじめた。スキー隊の本隊とかち合えば、氷河上は大変な混雑になるので、それまでに第一キャンプを完成させて先へ進まねばならない。
四月一日から、コックとキッチンボーイを除くシェルパ五十名は、全員総出で荷揚げに取りかかった。一人十五―二十キロの荷物だ。隊員も高度順化をベストに仕上げる努力をしながら、ルートの保全に力を注いだ。
成田隊員は体調復せず、四月二日に大森ドクター、中島さんに連れられて、ロブジェまで下って行った。
私たちの荷揚げの最中に、後続のスキー隊もわれわれが敷いたルートを使って第一キャンプヘ上ってきた。われわれの本隊百名が一時にアイス・フォールに入るだけでも危険だが、そこヘスキー隊のメンバーとシェルパが移動すれば、危険が倍加するのはわかりきったことだ。日本山岳会隊とスキー隊の首脳たちは、この件について話し合いを行なった。しかし、アイス・フォールの長さは二キロあるとしても、そんなに幾通りものルートがとれるはずがない。だから日本山岳会隊が先に工作したルートだからといって、スキー隊の使用を許さぬなどという権限はどこにもない。またスキー隊もネパール政府からスキー滑降の許可が交付されているのだから、おたがいに協力しなければならない関係にあるのだ。われわれが心配するのは、危険の発生だけで、そういうものが何も起こらなければ、心配しただけ無駄で、よかったことになる。ただ、アイス・フォールの危険は、技術の問題でなく、いつどこで崩壊が起こるかという心配だけだから、早く通過する以外に対策はない。結果として、われわれも急いだが、後続のスキー隊も通過を急いだのであった。
スキー隊の事故
四月五日、私たちはスキー隊と一緒にアイス・フォールを通過していた。私は凹型地形に張った中継キャンプに前夜から泊まり、この日は松浦、土肥、神山隊員とともに、氷壁にかけた梯子を上り下りして、荷揚げするポーターたちの安全確保に当たっていた。
と、五〇メートル下でベース・キャンプと交信中だった松浦さんが、上にいる私たちを大声で呼んだ。
「おーい、早く来てくれ。たったいま、中継点の下の“廊下”で氷が陥没した。氷が崩壊してスキー隊のシェルパが六名死んだ。いま遺体を引き揚げ中だ」
その声をきいて、下方を見る。
「あそこだ、あそこだ」
と土肥隊員が指さした。相当下方だが、いままで見えなかった白い氷の山の上に、黒い影がアリのように動き回っている。
「下で雪氷が崩れた」
と登ってくるポーターに伝えると、彼らは「オムマニペメフム……」とお経を唱えだした。
松浦さんが、“廊下”と呼んだのは、西稜寄りに二つの大きなクレバスにはさまれて、ちょうど細い廊下のように氷の道が続いているところで、アメリカ隊が遭難した場所に近かった。
その近くなら、スキー隊ばかりか、わが隊の隊員やシェルパもいるはずだ。私たちは松浦さんのいるところまで下りて、登山隊の安否をきいた。
「三〇〇メートルほど手前に藤田さん、平野、渡部がいたが、無事だったそうだ」
確かに私も「ドドン」という音響をきいた。しかしベース・キャンプに来てからは、雪崩の音には耳慣れていたので、耳のそばででも起こらないかぎり、「あ、またどこかでやってるな」くらいに思い、気にもしなくなっていた。
犠牲者の名前を知って驚いた。私の知ったシェルパがいた。その中の一人、ミンマ・ノルブは、わが隊のヘッド・サーダーの実兄であった。またクンデのシェルパで、クンガ・ノルブ。それから昨秋、ちょうどこの中継地へ登ってくる途中、クレバスに渡された三本の丸太の橋が渡れなくて、
「サーブ、ヘルプ・ミイ」
と私にピッケルを伸ばしてきた男、タメ出身のタルケイも含まれているという。
思えば、何か事故が起こりそうな気配を感じていたのは私一人ではないだろう。その矢先にシェルパ六名が死亡という、エベレスト登山史上でも最大に位する事故が起こってしまった。私はベース・キャンプからの連絡で、神山隊員と一緒に事故現場にお茶を用意して下ったが、その途中で事態の大きさを思ってショックだった。スキー隊は昨秋もサーダーのフードルジェを遭難で失った。昨春はアメリカ隊が隊員とシェルパ七名を、昨秋はオーストリア隊が六名を失った。とくにシェルパの犠牲は悲惨だ。好きで登るわれわれとちがい、生活のために山へ来て死んでいくのだ。私は残されたおかみさんや小さな子供たちを見ているから、いっそう悲しみが募る。登山家にとって、シェルパの死は本当に詫びようがないと思った。
当然ながら、シェルパの動揺は大きかった。スキー隊のこととはいえ、サーダーの兄が亡くなったとあっては、わが隊のシェルパたちも暗い顔をして、少しずつ固まってはひそひそと話していた。事故を知ってシェルパのおかみさんたちもベース・キャンプヘ登ってきた。
「夫を下ろしてくれ」
とサーダーや私たちに懇願した。彼女たちの気持も、シェルパの不安ももちろんよくわかった。しかし、ここで「はい、そうですか」と言ってしまえば、私たちの行動は挫折である。
ヘッド・サーダーは兄の葬儀のために山を下りた。私も知己を得た犠牲者の葬儀には出席したかったが、「行動を続行せよ」の指示に、松浦さんたちと中継地点のキャンプに戻った。ベース・キャンプではスキー隊と日本山岳会隊との合同慰霊祭が執り行なわれた。
第一キャンプヘの荷揚げ最後の日であった。松浦、土肥、中島、安藤、長田隊員と私は、中継地と第一キャンプを何度も往復したが、一息入れるときには事故の恐ろしさの話が出た。奥さんと二人の息子さんのいる松浦さんは、
「おれが死んだら、うちの奴はどうなっちゃうだろうな」
と言うと、土肥さんは、
「大丈夫ですよ。きっと奥さんが祈ってますよ。ぼくんところも女房と娘で毎日無事を祈っていてくれるそうですから」
「中島さんも、昨年結婚したばかりじゃ、死ねませんね」
と私も口をはさんだ。しかし、みんなに家族があるのに、私には心待ちにしてくれる恋人もいない。「奥さんを持つってことは幸せなことなんだな」と、みんなの話をききながら淋しくなった。
そんなとき、今度はわが隊のアイス・フォール・シェルパの一人が落ちてきた氷塊に頭を一撃されて、クレバスに落ちるという事故を無線連絡で知った。キャク・ツェリンという男だ。荷揚げをしている最中は、神経を足元に集中しているので、頭上を飛んでくるブロックに気づかない。うしろにいたポーターは、前のキャク・ツェリンの体がブロックごと落ちていくのを、まるで高速度撮影のように見ていたという。誰にもどうしようもできない一瞬であったろう。しかしベース・キャンプからの通信は、私たちに第一キャンプの確保、さらに第一キャンプにいた小西、神崎隊員へは第二キャンプの建設を指示してきた。私たちはシェルパの遭難に涙を流しながら、仕事を続行したのである。小西隊員らはその日のうちにウエスタン・クームから南壁手前の地点、標高六四〇〇メートルヘ達して、第二キャンプを建設した。
四月十一日、総隊長松方三郎さんが中島道郎ドクターとベース・キャンプに到着した。全員がベース・キャンプに集結した。
七十歳になられる、きれいな白髪の松方さんは、稀薄な空気がさすがにこたえるのか、顔色はあまりつやもなく、挨拶するにも呼吸が荒そうだったが、総隊長の声に接して、やはり一同の気持は引き締まった。松方さんはその後、食堂前の広場に椅子を出して腰をかけ、双眼鏡でじいっと観察していた。
「アイス・フォールはなかなか厳しいもんだね」
と一言、われわれに言われた。その厳しい関門を私たちは突破していよいよ南壁に向かおうとしている。松方さんの一言は私に勇気を与えた。幸い四月に入ると、気温はいちだんと高くなり、昼ごろには零度を上下するようになった。とくにアイス・フォールの中では直射光と反射光を全身に受けるので暑いくらいだ。私は白い縁のある帽子をかぶっていたが、それでも顔に炎症ができた。さらに中継地、第一キャンプの日中の気温は四十度を越すこともあった。テントの中は暑過ぎ、銀張りの反射シートをテントの上へかけて熱を逃すのだった。ところが、これが太陽が雲にかくれたり、日蔭に入ると、信じられないがマイナス温度に急降下する。日の出前はマイナス十度。その極端な気温差のため、私たちはセーター、羽毛服をつねに素早く着替えのできるようにしておかねばならなかった。
登頂メンバー決まる
松方さんを迎えたことで、スキー隊の事故、キャク・ツェリンの遭難などで意気銷沈気味だった隊員も、また気持が改まった。二度の事故を身近に経験して、私は自分の命は山の神へ預けようと思った。そして「預けました」と口に出して言った。
アイス・フォールの上、ウエスタン・クーム氷河の入口に建設した第一キャンプから第二キャンプヘ。その間は一面の雪氷原だから、ところどころにあるクレバスと、ヌプツェ寄りに起こる雪崩の余波を警戒すればよかった。昨秋より少し手前、西稜寄り六四〇〇メートルに第二キャンプをつくり、昨年同様これをアドバンス・キャンプ(ABC)と呼んだ。さらにウエスタン・クームの最奥部まで行って、ローツェ直下の六九〇〇メートルに第三キャンプを建設した。これは東南稜コースをたどるための第三キャンプである。同じく、南壁コースとしてそれより少し上、つまり、昨秋と同じ地点に第二キャンプを建設、それを南壁ABCとした。
本隊とすれば、世界未踏の南壁を突破することが第一目標だったが、八〇〇〇メートルから上部にルートがつかなければ、いかんともしがたい。そのときには、第二目標である東南稜コースを詰めるという初めからの計画だった。なんとしても頂上を極めなければというのが最終目的である。しかし、本部は慎重で、南壁、東南稜両メンバーの発表がなかなか出されなかった。発表がないまま、それぞれのABCからルートを先へ伸ばしていった。私の場合は、四月十五日に中島、錦織、井上隊員とシェルパ二名でABCへ入り、翌十六日、昨秋のコンビの井上君と東南稜ルートを、ローツェ・フェースの取付点まで偵察した。その日は引き返し、次の十七日、その取付点(六九〇〇メートル)に第三キャンプを建設した。第三キャンプからさらにサウス・コルまで登って行って東南稜より頂上をねらおうという作戦で、一方の南壁ルートは南壁から一直線に頂上に出ようというのである。東南稜ルートがABC、サウス・コル、頂上を結ぶ三角形を描くとすれば、南壁ルートはその一辺である。その代わり垂直な一線である。中島、錦織隊員はABCから南壁取付点を偵察、南壁ABCからは小西、中島、吉川隊員が南壁を取付から七〇〇〇メートルの軍艦岩まで偵察した。
その間に大隊長もベース・キャンプからABCに到着し、ようやく緊張と慌しさがキャンプに漂いはじめた。今度こそメンバーの発表である。登攀態勢もじりじりと調子を上げ、本格的に気合いが入ってきた。しかし、南壁取付地点で錦織隊員が体の不調を訴え、神山隊員とともに第一キャンプまで下りた。かわりにロブジェで休養中だった成田君が復調して第一キャンプに入り、高度順化中だというニュースが届いた。高山病だけは、どんなに注意していても、いったん|罹《かか》ったらすぐなおる病気でないから、罹った者の胸中は無念の一言に尽きるだろう。
井上君と二人でローツェ・フェースの真下に第三キャンプを建設しはじめた日(四月十七日)の夜、テントの中で夕食のラーメンを食べ終わり、あすの計画を相談しているときだった。定時の八時の交信で、大隊長からメンバーの発表をきいた。
▽本部リーダー 大、住吉、松田
▽南壁隊 リーダー 小西
藤田、田村、中島(寛)、加納、錦織、吉川、嵯峨野、伊藤、(科学班)大森
▽東南稜隊 リーダー 松浦
平林、平野、土肥、渡部、神崎、植村、成田、神山、鹿野、安藤、(科学班)中島(道郎)、広谷、河野、長田、井上
本部三名、南壁十名、東南稜十六名の割りふりである。
次いで隊長は、南壁を優先するということでなく、平行して東南稜からも登頂する、とつけ加えた。あっちかこっちかでなく、両方から行こうというのだ。
さらに隊長の発表は続いた。東南稜隊は三つのグループに分ける。松浦をリーダーとする渡部、植村、神山、安藤、井上の六名、平林をリーダーとする平野、神崎、長田の四名、そして広谷をリーダーとする土肥、鹿野、河野の四名。以上の三班がローテーションを組んで登攀を進めよ、というものだった。
交信を終えたあと、井上君が口をきいた。
「とうとうメンバーが決まったな」
「うん、おれは東南稜で不満はない」
「これからどうなるのかね」
「ベストを尽くすだけだよ。チャンスは二度と来ないんだから、与えられた任務に最大限力をふりしぼるんだ。チャンスを逃す手はない。掴み取るんだ」
私は自分自身に言いきかせるように言った。なんだか次から次へと言葉が出てきそうで困った。
「今度も一緒だ。よろしうお頼みしますゥ」
と井上君は京都弁で言った。私はどちらかというと興奮する方だが、彼は何がきても平然としている。もともと科学班として第二次偵察隊では気象の研究で来たが、私と一緒に越冬した仲で、他の隊員と比べてザイルを結ぶ機会も多かった。現に今度のアイス・フォール突破も、行き詰まった氷壁を最後に登りきったのが二人であった。高所には誰よりも強く、みんなが頭痛をこらえているときでも、一人で本を読んだりしている男だ。
私は東南稜隊に選ばれてよかったと思った。私にはまだ昨秋の南壁八〇〇〇メートルの直立した黒い岩肌に遮られたときのにがい気持が、目の前をチラチラする。とくに春になって見る南壁はところどころにあった雪もどこかへいってしまい、巨大な岩ばかりの壁だ。昨秋は多少とも雪があったからあそこまで登れたのだと思う。その証拠に、雪が途絶えた上部へは歯が立たなかった。だからメンバーの発表前に、私と井上君が東南稜ルートの偵察を指示されたときはうれしかった。本当にチャンスは二度と微笑んでくれない。
「ここまで来たんだ。せっかく越冬して、頑張って、アイス・フォールも突破して、ここまで登ってきたんだ。ここで力を出さなくては、すべてが水の泡になってしまう」
井上君も同じような夢をみているのだろうか。私はシュラフの中に入ると、輾転としていろんな夢をみた。
私の夢は、いつの間にか現実から離れて、二年前に単独登攀を試みながら許可を受けられなかった北米の最高峰、マッキンリー(六一九一メートル)へと飛んでいた。今度下りたら、次にもう一度申請しよう。マッキンリーに登ったなら、五大陸の最高峰に登ったことになる。いや、と私の夢はまた現実に戻る。いや、そのためにこそエベレスト登頂を成功させなければならない。エベレストに登ってきたと言えば、アメリカ大使館でも認めて許可を出すのではないか。もし、エベレストの頂上に立てなかったら、マッキンリーばかりか、私の人生の進路は百八十度も変わってしまうかも知れない。エベレストはわが人生の岐路になるのだと思った。理想が空想に終わるならば、それははかない夢と変わらない。理想を抱いたなら、そこから何らかのものを生み出さなければ意味がない。
「そうだ、現実には一本でも多くのアイスハーケンを打ちこむんだ」
そう心に誓った。
次の日、ローツェ・フェースに一五〇メートルのザイルを固定したあと、第三キャンプに入ってきた平林グループにバトンタッチし、私と井上君は休養のために第一キャンプヘ引き返した。キャンプにはNHKや毎日新聞の報道班の人もいた。成田隊員も元気を取り戻して、第二キャンプヘの荷揚げの指揮に当たっていた。神山隊員は住吉ドクターから薬をもらって飲んでいた。南壁の取付に一番乗りした錦織隊員も調子を崩して下りてきていたが、彼は寝たまま成田隊員などの世話で酸素を吸わせてもらっており、神経をやられたのか、「ここはどこだ」と突然言い出したり、出されたお茶を自分のシュラフの上にこぼしたり、あまり容態がよくない。住吉ドクターが懸命に看病していた。上の前進キャンプにいると、ルート工作に否応なく追い立てられて活気があるが、直接の行動の機会がなく、しかも病人を抱えた第一キャンプの空気というのはどこか重苦しかった。上では発散もできるが、その全活動、つまり全重量を一手に支えているような第一キャンプの仕事は、文字通り、縁の下の力持ちだ。エベレストを一手に支えているんだから、世界一の力持ちだが、それだけに隊員個々にはどれほどのプレッシャーがかかっていることだろう。私たちは休養という名目で下りてきたが、そんな悠長な気持にはとてもなれなかった。
遅れた昼食をとってすぐ後だった。住吉ドクターが、テントの入口にいた私を呼んで、
「おい、植村、ちょうど二時の交信時間だ。別に何もないと思うけど、定時交信だからやってくれ」
と指示された。私はすぐテントを出て、交信のトランシーバーにスイッチを入れた。
「C3(第三キャンプ)広谷君、応答してください。こちらABCサクラ基地」
と、すぐに本部の松田さんの声がとびこんできた。サクラ基地とは第二キャンプのABCを、それだけでは味もそっけもないので、日本のサクラを思い出すことにして、そう名付けたのである。本部の松田さんは、本部リーダーの一人で、ABCサクラ基地に詰めているのであった。本部がC3を呼んでいるので、私は少し待った。応答はない。十分もたたないうち、
「C3、広谷君、応答せよ、応答せよ」
と、また本部で続けざまに呼んでいる。C3からは何も入らない。
私は、C3が出るまでに、本部との交信をすませられると思った。こちらからの用件は何もないのだ。
「こちらC1、ABC感度ありましたら、応答願います」
と呼んだところ、
「C1、ただいま交信やめろ!」
と松田さんからきつい声が返ってきた。私は何もどなられることはないのにと思ったが、なんのことか事情がわからないのでポカンとして、十分たった。二時十分過ぎ、
「こちらC3、広谷です」と入ってきた。本部の応答を確認すると、
「先ほど、ローツェ・フェースのルート工作に向かった平林、神崎にアクシデントが発生しました。ルート工作中、二人が氷壁で滑落、神崎が平林を確保した模様。しかし、平林、かなりの重傷の模様です。広谷隊はこれからC3を離れ、事故現場へ急行します。援助を頼みます」
私はこの交信を傍受して、びっくり仰天した。住吉ドクターは、
「またやってしまったか」
と居ても立ってもいられない様子だった。
もし私が休養に下りていなかったら、平林さんが私だったかも知れない。ABCの松田さんが緊張していた理由が初めてわかった。重傷とはどの程度なのか。どの辺でやったのだろうか。平林さんは私たち若い者の前では「アイス・テクニックというものはな」と一席弁じるのが得意だった。それもサイ・パル(七〇三四メートル)やアピ(七一三二メートル)のアイス・フォールを突破した実体験を元にした話だし、話も面白かったので、私はきいていて勉強になることが多かった。まさかあの平林さんが氷壁で事故を起こすとは……。
その日の第三キャンプは、平林、神崎隊員、それに平野、長田隊員の二班のザイル・パートナーでローツェ・フェースのルート工作に出発した。平野組は平野隊員の不調から昼前に引き返し、長田隊員に抱えられてABCまで下った。平林組は酸素マスクをつけたうえ、私と井上隊員が固定した一五〇メートルのザイルを越え、さらに前進、七三〇〇メートルの辺りに達した。そこまでザイルを固定し、引き返そうとした直後、先を下りていた神崎隊員は、突然上から平林隊員が氷壁を滑落してくるのを見て、慌ててアイゼンの爪を立て、ピッケルで確保しようとした。しかし、|咄嗟《とつさ》のことだし、平林隊員の落下が早かったので、神崎隊員も胸にザイルのグーンと引っぱられるショックを受けると同時に引きずられ、一緒に滑落しかかった。神崎隊員は三、四〇メートルを滑落し、途中ピッケルが氷面に引っかかって辛うじて止まった。うつぶせになった平林隊員は、神崎隊員と結んだザイルの先で、ぶら下がるようにだらんとして止まった。そのすぐ下が大きな氷壁で、その手前で止まったのだった。
「大丈夫ですか、大丈夫ですか」
と、神崎隊員はすぐ声をかけたが、平林隊員は意識不明で、応答しなかった。
神崎隊員はそのすぐあと、本部に連絡を入れた。
「生死の確認はできません」
その報が本部から第三キャンプに入り(そのあとで私が本部へ交信したのだが)、続いて広谷リーダーからの事故報告が入ったという次第だった。
本部は神崎隊員の第一報でただちに行動を起こし、テント、医療品、炊事用具まで用意して現場に急行した。松浦班、さらに南壁隊からも田村、嵯峨野隊員が続々と救援に向かい、事故から二時間半後には救援第一陣が到着した。そして近くのテラスをピッケルで平坦に削り、緊急テントを建て、二人を収容した。
平林さんは一時的に気絶したが、意識は回復した。神崎隊員は無傷だった。不幸中の幸いとはこのことで、キャンプに大森ドクターと広谷、安藤隊員を残すと、他の者は第三キャンプヘ、ある者はABCへと、日の暮れた中を下っていった。私たち第一キャンプにいた者はどう焦っても手が届かず、情報が入るたびに「よかった、よかった」とよろこびあったが、事故と知るや|急遽《きゆうきよ》援助に向かう隊員の態度は、遠くにいてもじかに伝わってくるようで、人間の心の通い合いというものに、私は改めて美しいものを感じていた。
成田隊員の死
事故は重なるものだ。翌四月二十一日夜、今度は取り返しのつかないことが起こってしまった。第一キャンプで体調を整えていた成田隊員が急性心臓麻痺で、突然亡くなったのだ。
この日の日記に私はこう書いた。
第一キャンプでの二日の休養を終え、ABCへ入ることになった。休養にはベース・キャンプまで下りるに越したことはないが、危険なアイス・フォールを通る不安と、時間のロスを思えば、ここで良しとしなければならない。また、七〇〇〇メートルと六〇〇〇メートルの高度差は体にずいぶんちがう。体の疲れはほぼとれた。
朝から天気がよかった。朝方、風が強くてテントがバンバン鳴っていたが、八時、日が射すころからすっかり晴れ上がった。最初にスタートしたのはシェルパ二十名。いつものように成田隊員の指揮で食料カートン、酸素ボンベをかつぎ、ABCへの荷揚げに出ていった。例によって二人ずつザイルを結び、足元を確かめ確かめ、キャンプを遠ざかっていった。
井上君は住吉、成田、錦織隊員のテントにおり、私はきのう南壁から休養に下りてきた小西、吉川隊員、毎日新聞の相沢記者と同じテントに入っていた。食事はコックのアン・ハクバが、テントごとに朝食を配膳してくれ、テントで食べた。
成田隊員は、
「一日も早くABCまで出たかったが、やっと高度順化へ行ってきてもいいと許可が出たので、今日はとりあえずABCを往復してくる。明日はABC入りするぞ」
と言って、私たちと同行することになった。午前十一時、成田隊員はシェルパのダワ・ノルブとザイルを結び、後に私と井上隊員が続いた。ダワ・ノルブは第一キャンプのシェルパ頭で、住吉ドクターの厚い信頼を受けていたが、この日は熱があると言い、うつむき加減に歩き、時々止まって咳をしていた。
私はシュラフ、羽毛服、私物を背負った。
成田隊員は、
「|空身《からみ》でABCへ行くと叱られるかな」
と、無理しなくてもいいのに、高所用酸素のための|背負子《しよいこ》に酸素マスク一個を入れ、自分の飲むテルモス一本を持った。彼は支給品でなく、昨秋の偵察副隊長田辺寿氏が愛用したスイス製の真っ赤な羽毛服ズボンを譲ってもらい、ふっくらと着こんでいた。伸びきったアゴひげ、鼻ひげは、どこかのおっさんというスタイルだった。そして、最初のABC行きだという不安も、病気上がりだという弱味も見せず、かえってせきこむダワ・ノルブを、
「おい苦しいか、元気を出すんだ」
と励ましていた。
ABCへ着くまでに、少し登りが入ると、立ち止まったまま三、四回休んだ。休むたびに成田隊員は「このコースは長い」といってピッケルに寄りかかっていた。久しぶりの行動だし、最初の道は長く感じるものだ。それを見て、私は彼がそんなに疲れているとは思わなかった。ウエスタン・クームの中央まで来ると、南壁とローツェ・フェースが見え始める。
成田隊員は私に訊いた。
「おい植村、平林さんの事故はどの辺りで起きたのかな」
「取付から二〇〇メートルくらいの地点だろう」
「うーむ。しかし、先はまだまだあるなあ。C3はどこですか」
彼は歩きながらよく喋った。そして午後二時、ABCの手前まで来たとき、空身で登ってきたことがまだ気にかかるのか、口の中で何やら呟いていた。彼が気にしたのはそんなことでなく、自分だけ高山病のために後退しなければならず、満足に働けなかった、みんなに迷惑をかけたという気持が負担だったのだろう。本当に、彼の身になれば、忙しそうに働いている隊員を見るのは堪らなかったにちがいない。キャンプに着いても、彼はシェルパのテントに首を突っこんだきり、なかなか私たちの方に来なかった。元気になったんだから、それでいいじゃないか、なんとも思っちゃいないよ、と私は励ましてやりたかったが、口に出して言わなくても、みんながそう思って彼のことをかばってやればいいんだ、と思い直した。
ABCは、きのうの事故で、多くの隊員が救援に出かけてがらんとしていた。
一時間ほど、お茶とビスケットで休んだあと、三時になると、彼はまたダワ・ノルブとザイルを結び、
「では遅くなるから、C1へ帰ります。明日はここへ入らしてもらいます」
と|律義《りちぎ》に挨拶して下りていった。
平林さんの救援に行った連中は日が暮れてから帰ってきた。平林さんは、重傷ときいて案じていたが、意外に元気で、むしろあんな大騒ぎになったことが恥ずかしいといったふうに、われわれの出迎えに頭を下げるなり、本部のテントヘ走りこみ、
「自分の不覚によって、人騒がせをしでかし、申し訳ありませんでした」
と平謝りしていた。
「しかし、無事だったからいいんだ。もし大ケガでもしてみろよ、今ごろみんなこうしておれないんだから」
と隊員に励まされて、本人の気持もようやくほぐれたようだった。
夜九時過ぎ、本部テントにいた松浦さんが、私たちのテントに入ってきた。
「みんな、いいか。成田が二時間前、死んだ」
「えーッ」
「成田がC1で心臓麻痺で死んだと、いまC1の住吉ドクターから連絡があった」
「そんな……」
ついさっき、元気に下りていったのにと、誰も信じられず、顔を見合わせるばかりだった。
「明日はここへ来ると言って、あんなに張り切っていたのになあ」
と河野さんが大きな目をぎょろぎょろさせて言った。悲しいというより信じられなかった。松浦さんは、
「いま、これから成田の冥福を祈って黙祷をする。みんなテントから出ろ」
と私たちをうながした。
信じられないと言っても、それが本当だとわかると、私は次第に目頭が熱くなった。きょう、一緒に第一キャンプから登ってくるとき、どこにも不調は見えなかったのに。キャラバン中はいちばん元気で、本隊一の強者だったのに。それにしても高山病で倒れたことをあんなに気に病んで可哀相だったな。
成田隊員はあれから第一キャンプに帰り、テントで食事を始めたところ、突然「うーん」と低く唸ったきり、横になり、息を引きとったという。
以上日記から引き写した。
翌日、ABCの全員は遺体を安置する第一キャンプヘ下りた。いつもならアイゼンが堅雪を切る音が快いリズムとなって耳に鳴り響くのだが、きょうはやりきれない、憂欝な足音がつづいた。私は松浦さんとザイルを結んでいたが、おたがいに言葉がなかった。時たま、クレバスを渡るとき、何げなしに松浦さんの顔をのぞきこんだが、ショックは隠せないようで、目がうるんでいた。
第一キャンプから少し離れた小高いところに、一張りの黄色いテントが張られ、その前に十人ほどの隊員とシェルパが頭を垂れて、じっとしていた。成田君の遺体が安置されているのだ。テントの入口は開けてあった。成田君は目を閉じて眠っていた。黒くのびたひげづらがいまは安らかであった。シュラフの上にピッケルが載せてあった。われわれの後から大隊長が到着した。大さんはテントにかけ寄ると、
「成田、成田、なんで死んだのか」
と、遺体にしがみつくようにして号泣した。
焼香をした。隊員一人一人、彼の冥福を祈った。
彼は「元気になったよ、もういい」としきりに言っていたが、本当に十分な回復をしていたのだろうか。私も負けん気では人に劣らないが、成田隊員も人前で無理をしていたのではなかったか。
キャラバン中の彼は体格は秀でているし、食欲は旺盛、力はあるで、みんながひそかに舌をまき、|一目《いちもく》置いていた。大食漢にはほかに大柄な中島、神山隊員、最年少の伊藤隊員、それに小柄だが私と、たがいに誰にもひけをとらぬつもりだったが、成田隊員の食べっぷりは|桁違《けたちが》いだった。闘志もすぐれていた。それを思うと、彼はたとえ高山病に罹っても、下のロブジェで回復を待ちながら、居ても立ってもおれず、ゆっくり体を治すゆとりを持てなかったのではないか。
しかし、人の死というものは、なんとあっけなくやって来るのだろう。私は内心では成田を登頂の大きなライバルと考えていた。キャラバン中から、彼に負けては登頂はおぼつかない、と思っていた。その彼が今や帰らぬ人なのだ。
大隊長は「成田君の尊い命の犠牲にたいし、われわれが報いるのは、この遠征隊の成功以外にない」と弔辞を述べた。私もそうだと思った。頂上に日の丸を立てることだ。純粋に山に生きた一人の若い男の死に、われわれは力を合わせて応えなくてはと痛感した。
遺体は隊長以下十二名の隊員、七名のシェルパに守られて、ベース・キャンプヘ下りていった。体調の戻らない錦織隊員も隊員に支えられて下りた。
遺体はベース・キャンプから下のトウクラヘ運ばれ、|荼毘《だび》に付された。なお遺骨は松方総隊長、井上隊員に抱かれて、五月二日にヘリコプターでカトマンズに運ばれた。そこに第二次偵察隊隊長で、彼の慶応の先輩である宮下さんと彼のお父さんが待っており、松方さんも同行の上、五月八日に日本に帰っていった。
サウス・コル
ルート工作は続行された。
それまでに井上・河野組がローツェ・フェースの七五〇〇メートルに達していた。松浦さんと私は河野、鹿野隊員のサポートを受けて、その地点に第四キャンプを建設した。ローツェ・フェースはローツェ(八五一一メートル)の前衛としてウエスタン・クーム氷河に続いて氷壁となってそそり立っている。氷壁は一〇〇〇メートルの高さだ。ハンギング氷河がこぶ状にデコボコと至るところに突き出し、太陽の光を受けると青くキラキラと輝きを放った。まるで海面のさざ波が光を受けたときの輝きを、逆さに見ているような光景だった。
松浦さんと私は、ハンギング氷河の一つにわずかなテラスを見つけ、堅い青氷を砕いてキャンプするスペースを確保した。テントを張り、風にもっていかれないようにがっちりとハーケンで留めた。
第四キャンプが出来ると、また松浦さんと一緒に、ピンゾウ、イラツェリンの二人のシェルパを伴い、ローツェ・フェースから北方ヘトラバースするようにザイルを固定して進んだ。元気で優秀なピンゾウたちは、先頭の私たちの進み方が鈍ったとみると、すぐに先頭を代わって前へ出てルートを伸ばしてくれた。この日は手持ちの四〇メートルザイルを十二本張り、余裕を残して第四キャンプヘ戻った。
さらに翌日、同じ四人でルートを伸ばし、氷壁から岩場に変わるところに最後のザイルを固定した。ここジュネバスパーから仰ぎ見るエベレストは、チベット側へ吹き流れる雪煙に身じろぎもせず直立している絵のような姿だった。世界中で、その頂上以上に高いものは何もないのである。岩稜を少しまわると、サウス・コルに出た。標高八〇〇〇メートル、エベレストとローツェの鞍部である。私たちはサウス・コルという高い高い高下駄をはいて、エベレストと背くらべをしているのであった。
サウス・コルは幅一キロもある広い河原のような感じで、登ってきたローツェ・フェースとちがって雪がない。大きな岩もなく、大きくても人頭大、多くは風化した小石で、そのなだらかな鞍部はゆったりと波を打って、一方はチベットの方へ傾斜し、一方はウエスタン・クームの方へ向かっている。ローツェからエベレストにかけた分水嶺の稜線上にあるこの場所は、国境線でもある。つまり手前がネパール、向こうは中国だ。もっとも中国側をのぞこうとするなら、小石の原をもう一キロほど歩かないと何も見えない。
同行のピンゾウが、
「何か見える、なんだあれは」
と言う。ピンゾウはキョロキョロと小石の原を見ていたが、何を指しているのかわからない。四人は四〇メートルのザイルで結び合っているので、一人で勝手に走っては行けないのだ。ピンゾウが見つけたのは、使い古しの酸素ボンベだった。フランス製だ。見ると、辺りに二、三十本は転がっていた。ほかに何か落ちていないかと、ザイルで引っぱり引っぱられしながら移動すると、石ころの蔭にテントのポールがあった。テントの跡地なのだろうか。缶詰が転がっていた。レッテルはすでにボロボロで、表面の一部は赤サビが出て盛り上がっていた。
イラツェリンがピッケルの先で叩くと、中から白いコンデンスミルクが吹き出してきた。缶詰が何個かと、プロパンガスの空ボンベ、皮製のオーバーシューズの片方。ピンゾウがやたらにザイルを引っぱっていたが、フランス製の重そうな通信機をひろった。受話器もアンテナもそのままだ。彼はスイッチを入れ、受話器をとって「ハロー、ハロー」と呼んだ。彼はおどけて大笑いをしながら、自分がインド隊に参加したとき、これと同じ機械をみた、これはインド隊のものだと言い、インド隊ではこうしたと言って、また「ハロー、ハロー」と呼んでみせた。インド隊は東南稜へ三度挑戦しているが、登頂成功のときのものだとすると一九六五年、私たちより五年前の遺棄物ということになる。それより早い一九五六年、スイス隊がこのサウス・コルに到着したとき「死の臭いがする」と言ったというが、私の第一印象では「酸素ボンベの墓場」という感じだった。世界最高所のゴミ捨て場だ。もし、こうした環境破壊を目にしなければ、私ももう少しましな印象を持てたであろうにと残念だった。
しかし、一概にインド隊を非難することも当たっていないかも知れない。スイス隊のころはまだ登山装備も発達していなかったから、途中で遺棄するほどのものも、また遺棄しても今日まで残骸をさらすほどのものも所持していなかったのかも知れない。またインド隊がたまたま悪天候に見舞われでもして、急速下山という事態に遭遇していたとしたら、キャンプを捨てて逃れ去ったこともありうる。
私たちは幸運にも天候に恵まれた。風もほとんどなかった。カメラのフィルムを取り替えるのに手袋をとっても、それほど冷たいと思わなかった。太陽の下だからマイナス十五度前後だったろう。
雪煙のたなびく頂上からここまでの間には、稜線の下部に二本の雪のルンゼが突き上げており、それから下は手前の南峰がピラミッド状に立っているので見えない。しかし、私には「行ける」という確信が持てた。八〇〇〇メートルのサウス・コルから八八四八メートルの頂上までの高度差は八〇〇メートル少々、日本の山だったら、二、三時間で登れる見当だ。もちろん、そこには高度を頭に入れなければならない。まずサウス・コルに最後のキャンプを設け、そこからアタックする計画で、それが当然の手順である。しかし、登れるという確信は、登りたいという願望に変わって、私を駆りたててやまなかった。
サウス・コルに二十分ばかりいた。「さあ帰ろう」とふり向くと、今までの晴天が嘘のようにウエスタン・クームから雲が湧き、たちまち雲海となって、私たちはガスに包まれた。ちらっと黒い点に見えたのは、雲の一瞬の切れ間から、眼下にABCと南壁ABCが見えていたのであった。そしてまた一瞬のうちに深い雲は私たちを通り越していった。
帰路、ジュネバスパーを越えたところで、松浦さんの酸素ボンベのゲージが0を指し、|空《から》になってしまった。そのうえ、悪いことに松浦さんのアイゼンの金具が折れ、用をなさなくなった。どちらも予備はない。岩の上は靴底がゴムのビブラムで滑ることはなかったが、問題はその下に続く氷壁である。私たちは松浦さんを真ん中にして、もう一度四〇メートルザイルに四人がしっかり結び合った。慎重に一歩ずつ下りた。一人が動くときは他の者が確保する尺取り虫のやり方である。時間はずんずん経っていくが、その他に方法はなかった。私の酸素も切れた。
第三キャンプに帰り着いても、正気に戻ったのはしばらくしてからだった。横に松浦さんがいた。シェルパたちもいた。無我夢中、必死に頑張ったのだ。みんな神経の極度の緊張から、失神したようになっていた。
初めて背中につけた酸素ボンベが、帰りの垂直な氷壁下降では、もろに六キロの重量としてのしかかり、一歩進むたびにズシッと背に食いこんだ記憶が、恐怖とともによみがえった。
「無事に着いてよかった」
と松浦さん。
「八〇〇〇メートルに到着した、よし行けるぞ、という気持があったから、頑張れたんですね」
と私も素直に本音をのべた。
亡くなった成田隊員にも八〇〇〇メートルからのエベレストを見てほしかった。成田君の遺骨をもってカトマンズヘ下った井上君には申し訳ない。なぜなら、彼とは最初にローツェ・フェースに取りついた晩、第三キャンプでメンバーの発表を聞きながら、おたがいに頂上を夢みて語りあった。それが彼は酸欠と視力低下という高度障害のため、一時的にドクターから下で休養するよう指示されたのだ。考えてみると、井上君は高所にはいちばん強かった。いちばん強い者ほど悪魔には餌食としてねらわれるのか。井上君もきっと残念に思っているにちがいない。
成田隊員の死後、一斉に健康診断が行なわれた。住吉、中島、大森の三ドクターがフル回転で、心電図をとったりした。結果は、多くの隊員に異常が見つかり、ベース・キャンプでの休養の要ありということだった。本部のリーダー陣もいずれも危険信号を出された。
私は高度順化がうまくいっているのか、なんでもなかった。しかしサウス・コルに達したとき、初めて酸素ボンベを使ったせいか、あるいは帰路に酸素が空になって悪戦苦闘したせいか、あれから喉をやられて声がかすれ、うまく人と話が出来ない。高度差一六〇〇メートルも下って六四〇〇メートルのABCまでくると、空気の稀簿なことには変わりないが、それでも空気の濃さを感じた。血圧は上が一四五だった。ふだん一三〇なのだから、少し上がっているわけだが、中島ドクターは「異常なし」と言ってくれた。
稜線の眺め
ところで、隊員の健康不良は思わぬ議論を巻き起こした。本部の住吉ドクター、南壁隊リーダーの小西さん、相談役の藤田さん、あるいは隊員もまじえての議論の中で、南壁ルートを中止してはどうかというものだった。住吉ドクターは、
「先の井上君の例をみても、彼は第三キャンプからABCへ下りてくる途中で視力がまったくだめになり、先行のパートナーの姿が見えないために三度もクレバスに落ちた。これは単なる雪盲でない。錦織君と同じく神経がやられて視力ヘ来たものだ。これはどうかすると失明の心配さえあるんだ。そのほか、今度の検査でも、ほとんどの隊員が赤信号だった。こういう状態では、医者としては、続行してほしくない」
南壁ルートヘの懸念は健康上の問題だけではなかった。
東南稜隊がすでにサウス・コルに達したのに対し、南壁隊は七五〇〇メートルに予定される第四キャンプの建設もまだなされていなかった。ルートの困難もあったが、キャンプを上へ伸ばそうにも、荷揚げをサポートする人手に不足していた。休養をとる必要のある要注意者が続出していたからである。
南壁隊リーダーの小西さんは、
「隊員はみな懸命にやっていてくれるが、こんな不調な状態では八〇〇〇メートル以上になってどれだけ動けるか……」
と、暗に南壁の可能性に疑問を投げかけた。
ルートを異にした私には何も言えなかった。ただ心の中では反対だった。第四キャンプの建設もしないうちから弱音を吐くのはどんなものかと、ちょっと淋しかった。みんな弱気で悲観論を言っているとは考えないが、南壁からの登頂は、いわば日本隊の表看板だったのじゃないか。諸外国の人々も、世界有数のビッグ・パーティーである日本隊が南壁を征服するかどうか、その点に注目しているのだ。松方総隊長もベース・キャンプまで登ってきて、「君たちキャリアのある優秀なメンバーによって、堂々と目的達成に努力してもらいたい」と言われたじゃないか。しかし、これだけ南壁ルートに批判が出たとあっては、たとえ続行されても成功はむつかしいかも知れない。
隊員の動きはルートが先へ伸びるにしたがって複雑になってきた。成田隊員の遺体を見送って下へ下りる者、上のキャンプヘ戻る者……。全体の動きは私などにはどうなっているのかさっぱり掴めなかった。第一キャンプには元気になった平野、土肥、神崎隊員が上がってきていた。報道班のメンバーも初めて第一キャンプ入りをし、カメラマンはシャッターを押しまくり、記者はメモをさかんにとりつづけた。
四月二十九日から私はべース・キャンプで休養に入った。大隊長から東南稜第一回登頂態勢と頂上アタック・メンバーが発表されたのは、五月三日の夕食後であった。第一次の頂上アタックは松浦、植村と呼び上げられた。私は名前をきいたとき、がくんと体が揺れたように思えて、耳を疑った。目がうるむのを必死でこらえた。こんな複雑な思いはめったにない。事故が次々と続いた中で、最初の登頂メンバーに選ばれたというのは何物にも代えがたい喜びだった。だが、元気で力のある人はまだまだいたし、とくに南壁隊の人々は中止論も聞かれる中で、どんな気持でこの発表を受け止めたかを考えると、一人で嬉しがっている場合ではなかった。
目標は五月十日以後に第一回登頂、東南稜隊のメンバーはそれに全力をあげて当たれ、という指示だった。
登頂のためにベストを尽くす、私に出来ることはそれだけであり、それがすべてだ。天候に恵まれてほしい。東南稜を吹く強風に出会っては、いくらもがいても勝てない。
折りも折り、バウダ峰に挑んでいた慶大隊に滑落事故があり、隊員一名が行方不明という情報がカトマンズから届いた。またツクチェ峰にアタックした早大隊が、帰路、登頂隊員の一名を滑落事故で失ったと、これはラジオ・ネパールのニュースが伝えた。そういう知らせに不吉なものを感じたりもしたが、それくらいで動揺するようではしかたがない、と自分を叱咤する私であった。もう登頂は私の心の中で開始されていた。
ベース・キャンプを発つ前に、大森ドクターから身体の精密検査を受けた。「異常なし」であった。ちょっと心配なのはサウス・コルで冒された喉の異常で、声は依然かすれていた。時々咳が出て喉が痛んだ。しかし、それを言い出して、ドクターがチェックすれば、アタック・メンバーからはずされてしまう。だから、かすれた声で平気をよそおったのである。
出発の朝が来た。アイス・フォールは氷結が多少ゆるむのか、週に二度はルート補強をしなければならないほど動きだしていた。したがって、出発は気温の上がらない朝五時半だった。喉がまだよくない。私はトローチだとか氷砂糖をなめ、冷たい空気を避けるために腹巻のような防寒帽でしっかりと首を巻いて歩いた。
第一キャンプに一泊し、翌五月六日ABCへ向かう。それから先、河野、平野、神崎隊員らのサポートを受けて、松浦さんと私は毎日一つずつキャンプを建設し、五月九日に第五キャンプに入った。サウス・コル、七九八五メートルである。
スキー隊の雪崩事故のあと、シェルパの動きが遅れがちだった。それで第四キャンプから上の荷揚げには、一回に百ルピーとか、三回で腕時計とか、チップをつけた。アタック・メンバーは第三キャンプから酸素を吸わせてもらい、持ち物も着替えと小間物だけで体力の温存を優先的にさせてもらった。サウス・コルに第五キャンプを建設したときには、土肥、神山隊員の指揮で荷揚げが行なわれたが、サポートする河野隊員らとともに、荷揚げ作業を通して必死に援助してくれる姿には何ともいえず頭が下がるばかりであった。サウス・コルの小石原に六人用のテントを張った。地球物理の河野隊員は風速計を上げて、調査に取りかかり、平野、神崎隊員はシェルパを連れて下のキャンプヘ下りていった。私は最終キャンプヘの荷揚げの点検をしていて、明日に予定する第六キャンプ用のテントが異常に軽いのに気づいた。下で点検したはずだがと調べると、折り畳み式のポールとフレームが入っていない。
「松浦さん、ポールが入っていません。これではテントが立ちません」
「……しかたない。明日はこのテントを上げよう」
「でも、明日は第二次アタック隊の平林さんたちがここで泊まるんですよ」
「じゃ、他の方法を探すんだ」
私は、前回登ったときインド隊の残したポールが遺棄されていたのを思い出した。行ってみるとそのまま小石原に転がっていた。そのポールを隊のテントに合うように切って、この問題はくぐり抜けた。
残る最大の問題は天候だった。ベース・キャンプが伝える予報では、あすは気圧の谷が通過、一時スノーシャワーがあり、風が強いことも予想される。しかし、風は残ってもその後は晴れだろうということだ。私の喉は痛みも気にならなくなっていた。松浦さんは私より七つ上の三十五歳だが、元気だし、自分でも快調そのものだという。私もそうだ。だから、本当にあとは晴天を神に祈るのみだった。
下界は雲海に覆われていた。風の音と、風でテントが鳴る音とで、私たちの声はよく通らない。テントの一張りにシェルパ五人、もう一張りに松浦さん、河野さんと私が入った。シェルパが紅茶を入れてくれたが、いつもより喉が渇くので、第六キャンプ用のコンロをテントに入れ、雪をとかし、また紅茶をのんだ。コンソメのスープを作り、乾燥肉を食べ、チーズをコンロのバーナーであぶって口に入れたりした。食欲は少しも減退を見せない。
私たちはテントの中でも羽毛服を着、酸素マスクをつけて、毎分〇・五リットルの酸素を吸った。食事のためにマスクを三十分もはずすと、息苦しくなった。ただ、下のキャンプとちがって、氷上でなく石の上に張ったテントなので、少しでも温かいのが助かった。
五月十日。河野隊員、シェルパ四人にサポートされて、最後の第六キャンプ(八五一三メートル)に宿営した。予報通り風はやみ、絶好の日和となった。サウス・コルのガレ場を抜けると、ふたたび青氷上の登攀だった。途中ふり返ると、あれほど高かったローツェが、同じ目の高さに見えた。その後方にピラミッド型のマカルー(八四八一メートル)が聳えていた。最後の雪つきの急斜面を登りきって、南峰から下る稜線に出た。サウス・コルを八時半に出て、十一時四十分に着いた。ここにテントを張った。
上部には二〇〇メートルほどに南峰、その右側にどこがピークかわからぬ稜線が続いている。眼下に中国側が見下ろせる。
一時間して、テントを張り終わると、サポートしてくれた河野隊員とシェルパの計五名は下りて行かねばならなかった。この分なら、予定を変更して、河野隊員も一緒にアタックできないものかとしきりに思い、彼もそういう気持ではないだろうかと思った。しかし、本部の指示を隊員が勝手に変えることはできない。
「ぜひ、明日は成功してください」
河野隊員は私たちと握手すると、男らしく笑って下りていった。
残った二人は、首をすくめないと入っておれないテントの中より、紺碧の空の下の方が気持も晴れるので、外に出て眺望を楽しんだ。チベット高原、ローツェ、マカルー、遠くネパール・シッキム国境のカンチェンジュンガ(八五九八メートル)、ヌプツェ……天然の大パノラマに堪能し、時のたつのも忘れた。
テントの中は、太陽を直接受けてポカポカと暖かい。午後二時の交信で、第五キャンプに平林隊員ら第二次アタック隊が入ったのを知った。河野隊員も無事に下りたという。平林隊員は安藤隊員のサポートで登ってきたが、登頂にはサーダーのチョタレイと組むことになっている。日本隊としてはシェルパの代表をも頂上に上げ、ネパール国にたいして礼を尽そうというのだ。
第六キャンプでも喉が渇き、酸素マスクをはずしては、紅茶、コーヒーに砂糖をいっぱい入れて飲んだ。寝るまでに飲み物のほか、マッシュケーキ、乾燥米、品川巻、貝の塩漬、うなぎの蒲焼の缶詰、コンソメ、葡萄糖湯などを腹に詰めた。私は食べるとき以外に酸素マスクを離さないから、松浦さんともあまり話さない。松浦さんは横になってじっと酸素を吸っていた。急に松浦さんが、
「お前、ゴジュンバ・カンのアタックでは、テントに帰らず、ビバークしたんだったかなあ」
と五年前の話をはじめた。
「おれもアタック隊で井ノ口とピンゾウと三人で、朝の二時に飯も食わずに、月明りの中をアタックに出たが、ギャップがあったり、酸素が空になったりして断念した……」
としみじみした口調で言った。松浦さんは私がゴジュンバ・カンに登頂した年、早大隊ローツェ・シャール遠征で来ていたのだ。そして私が八六四六メートルの頂上に立ったのにたいし、松浦さんは八一五〇メートルまで登りながら、頂上をあきらめたのだった。
静かな夜だった。無風で、酸素ボンベから酸素の流れる音だけがしていた。私は、長い間エベレストを思いつづけて、いまその目と鼻のところまで来た。アタック前の不安は何もない。松浦さんと枕を並べて寝ながら、寝息をきいていると、私の手は厚い羽毛服を着こんだままの窮屈なシュラフの中で、自然にズボンの下へ行った。松浦さんに気づかれたかも知れない。こんな高所で……。しかし、それも若さの|証《あか》しであると思った。
頂上を踏む
五月十一日。
出発は五時と打ち合わせておいた。ところが、目を覚ましたのが五時過ぎだった。松浦さんはまだ眠っている。私が先に起きて、朝の用意をする役目だったのに寝坊したのだ。幸いテルモスにはお湯があり、ガスコンロもマッチ一本で火がついた。テントの入口を開けると、空には雲一つなく、太陽の白い光が射しこんできた。隊員の期待を受け、使命を帯び、命をかけねばならぬ朝に寝坊をするとは、われながら何事だろうと思った。
「この天気なら登れるぞ」
と、私はいつもより多く砂糖を入れた紅茶をつくって、急いでテルモスにつめた。
物音でやっと起きた松浦さんは、私が寝坊をあやまるのをたいして気にもとめず、まず天気の具合を見た。私は食欲がなく、マシュマロを紅茶で流しこんだ。|背負子《しよいこ》に新しい酸素ボンベ二本を取りつけ、テルモス、手袋の予備、カメラ、それにポケットにマシュマロを一掴み入れた。今日のために持ってきた靴をはく。内靴、高所靴、オーバーシューズと次々にはいた。希薄な空気のために少し動いても体が重い。テントを出てからアイゼンをはき、色鮮やかな赤い三〇メートルの九ミリザイルを松浦さんと結びあった。
「おー、行こう」
を合図に、六時十分出発した。私が先に出た。うしろに松浦さんがいると思うと、何一つ恐怖は感じなかった。チベット側に切れ落ちる雪稜にルートをとる。雪が膝近くまである。二、三歩ずつ歩いては、止まって呼吸を整えた。眼下にヌプツェの恐竜の背のような稜線が見えた。マスクをかけているので、松浦さんとはすべて目による合図だ。雪稜はどんどん急になるし、雪氷の下にはもろい岩もあるので、雪稜を忠実にはたどれない。私がチベット側を指さすと、松浦さんは眼鏡の下からOKのサインを出した。チベット側の雪の急斜面にルートを変えると、雪はいっそう深くなった。
呼吸と汗でサングラスが曇り、いちいち拭くのが面倒なのではずしてしまった。雪盲になっても構わない、今日一日が全力投球だと思った。右手でピッケルを刺し、左手を雪面についてよじ登る。一度落ちたら這い上がれないだろう。真下は何千メートルの奈落の底である。一〇〇メートルほど登ると、また南峰から下っている東南稜に出た。雪はない。アイゼンの爪がよくきく。出発して二時間弱で南峰のピークに出た。一時間に一五〇メートル、二時間で三〇〇メートル登ったことになる。今までにない早いスピードだ。疲れはひどかったが、もう一〇〇メートルもないところに主峰が顔を出している。
南峰を出発するとチベット側から風が出てきたが、体温を奪うほどではない。ユニオンジャックのマークの入った酸素ボンベを一本発見した。一九五三年のイギリス隊のものだろう。ヒラリーとテンジンが使用したものか、第一次アタックを試みて失敗したエバンス隊員のものか。
私たちの酸素はまだ半分以上残っていたが、新しいのに取りかえた。ここで初めてザックを下ろして休んだ。だが頂上を目前にして腰を据える気にはなれない。二人は立ったまま紅茶を分けあって飲んだ。
いよいよ最後の、ナイフ・リッジの稜線へ取りついた。南峰と本峰の間にある切れ落ちたギャップは簡単に抜けた。ヒラリーの苦闘したチムニー(縦状の割れ目)も、松浦さんの確保で抜け出ることができた。ナイフ・リッジの雪稜は|雪庇《せつぴ》となってチベット側へ張り出しているから、雪庇の真上を歩くわけにはいかない。その南壁側をトラバースするように、ピッケルを確実に刺して、アイゼンをきかせながら二歩進み、足場を固め、また二歩進むというように、カニが横這いするように慎重に進んだ。頭の上は雪庇だから先が見えない。ヒラリーたちもここを通ったのだろう。頂上かと思うと、またすぐ先に高いこぶがある。ここで挫けては終わりだ。「慎重に、慎重に」と、自分では急ぎたい手と足を、必死で抑えて、ピッケルに力を入れた。
「百里の道は九十九里をもって半ばとす」
という諺が頭に浮かんで消えた。
とうとう最後のこぶが見えた。私たちは頂上の下一〇メートルのところで息を入れ直した。深い興奮した呼吸であった。
九時十分。
松浦さん、続いて私と、世界最高峰の頂上に立った。最終キャンプを出てから三時間経っていた。私たちはお互いに抱き合って、「やった、やった」と喜びをわかちあった。松浦さんの眼鏡の下から涙が流れている。私の頬にもとめどなく涙が伝った。
さっそく松浦さんは無線機を入れて、
「ただいま、エベレストの頂上に着きました」
と、前進キャンプに報告した。
私はNHKに依頼された十六ミリカメラを回した。頂上は二人がやっと立てる程度のちょうど馬の背であった。真っ白な雪の上だ。
視界はぐるっと三百六十度、何も遮るものがない。六、七〇〇〇メートル級の山は頭に雪をかぶり、北側にはエベレストの足元からロンブク氷河の流れが下っている。サウス・コルの真下を流れるカシュ氷河は谷間にそってチベット側へ下りていた。地平線のかすむ果てまで赤茶けた山なみが砂漠のように広がって消えている。南側のネパール方面はノコギリのような岩と氷のピークが折り重なり、深い谷には氷河が見える。眼下にクーンブ氷河。東にははるかカンチェンジュンガからマカルー、ローツェが他を圧して聳え、西にはゴジュンバ・カン、チョー・オユー(八一五三メートル)と続く。雲一つない。
またたく間に三十六枚操りのスチールカメラで六本のフィルムを撮った。松浦さんは、ポケットから成田君の写真を取り出し、タバコとマッチを一緒にして埋めた。私は明大山岳部の亡き同僚小林正尚君の写真を一枚埋めた。頂上での一時間は一瞬のように過ぎていった。ラスト・ランナーとして送ってくれたみんなへの感謝と、湧いてくる登頂の感激を、私は一生忘れないだろうと思った。
翌五月十二日、平林隊員とチョタレイによって第二次登頂も成功した。南壁隊は南壁八〇〇〇メートルに達して断念した。わがエベレスト登山隊は、日本人として初めて登頂を達し、日の丸を立てることができたが、主目標であった未踏の南壁には無念の涙をのんだのであった。
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国際エベレスト登山隊
一九七一年二月二十八日――五月二十四日
世界のベテランたち
一九七一年二月、国際エベレスト登山隊に日本から選ばれ、世界十二カ国のアルピニストとともにふたたび未踏の南壁に挑むことになった。隊長のノーマン・ディレンファースはアメリカ人で、日本山岳会隊が南壁に失敗すると、すぐその年に国際隊を組織して、南壁への名乗りをあげ、日本にも参加要請があったのである。
まず隊員を紹介しておくと、隊長は五十二歳、一九六三年にはアメリカ隊の隊長としてエベレストを西稜と東南稜から登って頂上で合流するという放れ業をやってのけた大ベテランである。隊員もいずれ劣らぬ|猛者《もさ》ぞろいだった。ドン・ウィランスとドゥガール・ハストンは七〇年にヒマラヤのアンナプルナ南壁を初登頂したイギリス人コンビ。ドイツのトニー・ヒベラーは冬期アイガー北壁の初登頂者として有名。スイスのミッシェル・ボーシェとイベット・ボーシェは名ガイドの夫婦連れで、夫人はマッターホルン北壁の初の女性登攀者であった。オーストリアのレオ・シュレマーは同じくマッターホルン北壁の冬期登頂者として知られる。ほかにアメリカのゲリー・コリバー、ノルウェーのオッド・エリアッセン、ヨン・ティグランド、アメリカから南極最高峰に初登頂したジョン・エバンス、オーストリアからウォルフガング・アクスト、インドからハッシュ・バフグナ。そして日本からは私と伊藤礼造君が加わった。英国BBC放送がスポンサーだった。初め日本からは小西政継さんと私が指名された。それが伊藤君に変更になったについては次のような経緯があった。
その前に、エベレスト登頂後の私のざっと十年をメモ的に記しておく。越冬中にエベレストは自分の人生の岐路になるだろうと思ったということは前にのべたが、幸い登頂に成功し、そのとき「よし、今度は北米の最高峰マッキンリーを単独登頂だ」と決意した。この山にはかつて無銭旅行でアラスカまで行き、登頂を希望したところ、アラスカ州国立公園管理局で四人以下の登山は許可しないという法令を見せられ、入れてもらえなかったことがあった。しかし今度は私はエベレストを経験していた。南米アコンカグア、ヨーロッパのモン・ブラン、アフリカのキリマンジャロ、それにエベレストを登り、北米のマッキンリーをやれば、五大陸最高峰の最初の登頂者となるのだ。細かないきさつについては別の機会に譲るとして、七〇年八月二十六日、マッキンリーの六一九一メートルの頂上に立ち、お椀を伏せたような丸い雪の頂きに日の丸と星条旗を立てた。そしてそのとき、次は南極だと思った。日本を発つ前、大さんが元南極越冬隊長の村山雅美さんと引き合わせてくれたとき、オッチョコチョイの私は南極の夢を持ち出したことがあった。南極の先駆者である村山さんは、
「君、ブリザード(地吹雪)を知っているかね」
「知りません」
「南極がどこにあるか知っているの」
「いえ……」
私は地図でしか知らない南極を、知っているとは言えなかった。
「君、冗談じゃないよ。ワッハッハハ」
話はそこまでだった。用意も準備もなしに自分の夢なんかしゃべるもんじゃないと、私は恥ずかしかった。しかし、一笑に付されたことでかえって夢は大きくふくれていくようで、マッキンリーの帰りにアメリカで南極関係者にも会い、話をきき、横断の可能性を検討した。そして「大丈夫、やれる」と実現への確信をもったのだった。
さて、帰国して、エベレスト国際隊に小西さんと私が選ばれた。小西さんは所属する山学同志会によるフランスのグランド・ジョラス遠征に私を誘ってくれた。七〇年十二月から七一年一月にかけて、厳冬期の北壁に挑もうというのだ。私はアルプスの冬期登攀の経験は一度もなかったし、国際隊参加の前の登攀訓練にはうってつけだと思った。しかし、この年は四十年ぶりという大寒波がヨーロッパを襲った年で、登攀開始後十日かかって、一九七一年元旦に登頂を果たしたが、その無惨な代償として隊員六人のうち四人が手足の凍傷にかかった。小西さんは両足指全部と手の小指一本を切断する不幸に見舞われたのである。この詳細についてもまた別の機会に譲りたいが、小西さんの希望で後輩の伊藤君が国際隊のメンバーに入った次第であった。
国際隊は前回の日本隊と同様、カトマンズを出て、キャラバンしながらの隊員の交流と体力調整が図られた。出発は日本隊より十日遅い二月二十八日で、なつかしいタンボチェ寺院の境内とペリチェの谷間で高度順化を行なった。
隊員を国別にみると、英国人九名、米国人六名、ノルウェーが三名、オーストリア、スイス、日本、ネパールが二名ずつ、仏、西独、伊、インド、ポーランドが各一名で、言葉はやはり英語が中心だった。ミーティングは英語で話されたが、隊長によって独、仏語に通訳される。私たち日本人二人は田舎英語しかできないが、活動するのに不便はなかった。
隊の中で、伊藤君は最年少の二十四歳、私は身長百六十二センチ、体重六十キロと最小。最年長は五十四歳の副隊長のジェームス・ロバーツ。平均年齢三十四歳だったから、二十九歳になった私は平均より五歳若かった。隊の最高身長はウォルフガング・アクストの百九十センチ、私とは三十センチもちがった。何かにつけ私はとかく押されがちだった。
ヒマラヤのキャラバンは五〇〇メートル上ったかと思うと五〇〇メートル下り、川を渡り、また六、七〇〇メートル上るというアップ・ダウンの行程である。私は途中で胃をやられ、下痢が二日も続いた。そのせいか、上下を繰り返す下り坂で足を挫いた。前回は越冬してトレーニングをやったが、今回はそれがないし、グランド・ジョラスで冷やし過ぎたのが原因かも知れなかった。
最多重量のカルロ・マリーも両膝の関節を痛め、スキーのストックを両手に持って歩いていた。私もカルロも、下りは顔をしかめて下った。私より若いノルウェーのオッド・エリアッセンや、アメリカのジョン・クリアーたちは、私たちを追い越して行き、川があると素裸になってフリチンでドブーンとやっている。若い娘のポーターたちはニヤニヤ笑いながらも、ちゃんと見るべきものは見て通って行った。なんといっても慣れたエベレスト街道だから、足の痛みがとれるにつれて、私もゆとりを取り戻した。
国際隊でよかったと思うのは、日本隊と違ってみんな急がなかったことだ。そのいちばんが食事時で、夕食には折り畳みのテーブルにまずビールが出る。二本でも三本でも好きなだけ飲める。BBC放送ディレクター、ネッド・ケリーが「インタナショナル・ドリンキング・アンド・イーティング・エクスペディション」と言ったが、誰一人食事に不満を言う者もなく、雑談し、ビールを飲み、いつ果てるともない有様だった。シェルパのつくるメニューは、ポタージュ、マカロニ、人参、玉ネギ、キャベツ(いずれも乾燥野菜)のサラダ、デザートにプディングだ。
キャラバンは日本隊と同じく、隊員は身のまわりのものを背負うだけで、あとはすべてシェルパ任せである。ヒマラヤもだんだんと開け、トレッカー相手のガイド会社ができ、そこがシェルパを抱えるようになり、今度のシェルパもその会社から派遣されているのだ。万事てきぱきと運ぶのはいいが、日本隊のときのように一人一人面接するような手続きがなかったので、シェルパの名前を覚える機会がない。
日本でいえば学生アルバイトか職安みたいなもので、登録しておけば、パーティーの必要と条件によって口がある。大がかりな遠征のないときでも、トレッキングの外国人は年々引きもきらずなので、慣れてくれば言葉にも通じ、それに機敏で頑健で若くさえあれば、職業としても立派に成り立つのだろう。またヒマラヤにも先進文明がどんどん入ってくる。それにしたがって、シェルパの素朴な良さも次第に失われていくようであるが、外国人のわれわれがそれを批評する資格は一つもない。顔見知りを探すと、昨年一緒だったシェルパのソナ・ギャオが一人だけ見つかった。
隊員同士は国も言葉も違うだけに、神経を使いあって出来るだけ円満にいくように努力していた。私にとって学ぶべきことも多く、キャンプ地ごとに、テントを畳んでいざ出発というとき、隊員がきれいにゴミをひろうのにも感心した。私はヨーロッパ人のそういういい点を大いに取り入れたいと思った。日本を発つ前に、松方三郎さん、日本山岳会会長三田幸夫さん、マナスルの槇有恒さんからいただいた訓示が耳にこびりついている。
「日の丸意識を捨てて、のびのびと登山を楽しんできなさい」
今度は、自分が頂上に立ちたいという気持は強く表に出てこなかった。むろん、その気持は心の中にあるが、それよりも世界の優れた隊員と仲間になれ、融けあえることの方がうれしかった。隊員の多くは、私が前から名前を知っている大ベテランたちだった。そういう人たちから学ぶことはたくさんあると思った。
スイスのボーシェ夫妻も、私が三年暮したときの片言のフランス語につき合ってくれ、こちらから話しかければ話題は絶えることがなかった。私は自分の経験したエベレストを、進んでみんなに話すようにした。
ナムチェ・バザールを通過するとき、私と伊藤君は例のエベレストの見える丘に立ち寄った。そこに成田隊員のチョルテン(石塚)が立っているので、|詣《もう》でたのである。村人が放牧に登ってくる以外、人の訪れることもない丘に、石を積み、エベレストの方を向いてチョルテンは立っていた。線香を上げ、野の花を一輪供えて合掌した。彼の元気だった姿が走馬燈のように思い浮かんだ。彼が「お前はもう頂上まで登ってしまったのだから、エベレストなど来なくてもいいんだよ」と話しかけるのを聞いたように感じた。それは私の本心でもあった。だがもう一つ別の本心は、南壁を他国に渡したくなかった。イギリスは三十年以上もエベレストヘの執念を燃やし続けている。BBCがスポンサーについているのもそのためだ。日本も世界で初めて手がけた南壁には執念を持っている。私は参加するかぎり、南壁征服の義務を課せられていると思った。キャラバンが後半に入るころから、私の心にまたエベレスト登頂への意欲が頭をもたげはじめたのであった。
南壁ディレクトシマ
三月十五日夜、タンボチェ寺院の境内に張られた食堂用の大テントで、重要な集会が持たれた。隊長から、南壁隊の登攀リーダーにアメリカのジョン・エバンス、またそれと平行して行なわれる西稜隊リーダーにオーストリアのウォルフガング・アクストが提案され、全員の承認をえた。そのうえで、二隊のメンバーが決定した。
南壁隊
ジョン・エバンス(三十二、米)
トニー・ヒベラー(四十、西独)
デビッド・ピーターソン(二十八、米)
伊藤礼造(二十四、日本)
植村直己(二十九、日本)
ドン・ウィランス(三十七、英)
ドゥガール・ハストン(二十九、英)
ゲリー・コリバー(二十八、米)
レオ・シュレマー(三十三、オーストリア)
以上九名。
西稜隊
ウォルフガング・アクスト(三十五、オーストリア)
カルロ・マリー(四十、伊)
オッド・エリアッセン(二十六、ノルウェー)
ミッシェル・ボーシェ(三十四、スイス)
イベット・ボーシェ(三十、スイス)
ハッシュ・バフグナ(三十二、インド)
ピエール・マゾー(四十一、仏)
デビッド・アイルス(三十五、ノルウェー)
ヨン・ティグランド(二十六、ノルウェー)
以上九名。
両隊メンバーはすべて事前に決まっていたものを承認したのである。私と伊藤君は初めから南壁登攀を言われて、それを目標にして来て、そのメンバーとして承認された。西稜隊のメンバーは初めから西稜登攀のつもりで参加したのだろう。ところで、この先、両隊はべース・キャンプ、アイス・フォール、ウエスタン・クームの南壁下部に前進基地(ABC)を設けるまでは同一行動をとり、そこから二手にわかれる。西稜隊はそのまま西稜の肩から稜線にしたがってアタックする。南壁隊は今回のキャッチフレーズともなった「南壁ディレクトシマ(直登)」を断行するという。私や伊藤君のようにすでに南壁に入っている者からすると、隊長の計画はやや卓上のプランに過ぎるのではないかという危惧が持たれた。リーダーのエバンスはアメリカでヨセミテやチタンの岩場を登り、南極最高峰ヒンソン・マシフ(五一四〇メートル)にも初登頂した。職業は電気関係の技術者で、人工衛星で有名なNASAの研究員をしている。私より三歳上だが、隊の中でもつき合いやすく、好感の持てる人だ。しかし、彼も南壁はまだ一度も見たことがない。南壁隊には冬期アイガー初登頂のトニー・ヒベラーや、ほかにもウィランス、ハストンという達人もいて、自信満々な様子だが、そんなに甘いとは思えない。かつて勇名をはせたヒベラーもいまや中年太りして、筋肉はゆるんでいる。ウィランスも「成るようになるさ。そんな心配より私はウイスキーだ」と言って人を笑わせ、余裕を秘めているが、実際の南壁を見たらなんと思うだろうと、私は気が気でなかった。
隊長はベース・キャンプから指揮をとるが、主要なことは登攀リーダーに任せると言い、
「両隊の全員に登頂してもらいたいが、過去の登山隊を見ても、登頂できたのはイギリス隊二名、スイス隊四名、アメリカ隊六名、インド隊九名、日本隊四名という数字である。そこでみんなに強く言いたいのは、絶対にナショナリズムを出さない、自国と他国を差別しない、この点をぜひ守ってもらいたいことだ。したがって、メンバー中いちばんコンディションのよい者が登頂メンバーとなるであろう」
と述べ、さらに最後に、
「もし人を出し抜いても自分だけは、と考える人がいたら、いますぐ隊を離れてほしい。あくまで一つのチームのもとで、両隊は登頂を試みるのである。成功を祈る」
と訓辞し、英語のそれをゆっくりと独、仏語で繰り返した。
私も隊長の言葉に異存はなかった。自分でも力いっぱいやれそうだと感じた。
最後の高度順化に、各自がタンボチェからペリチェ(四二〇〇メートル)へ登り、五日間を過ごすことになった。いわば自由行動である。そこでドクターのピーターソンはペリチェの裏山へ登り、伊藤君はデンボチェからイムジャ・コーラを詰め、アマダブラムの東側まで往復八時間の行動に出かけた。最多重量のカルロもまだ足が痛むというのに、スキーのストックをもってタウチェヘ登っていった。
中にはイギリスのドン・ウィランスのように、折り畳み椅子に腰を下ろしたまま、
「おれはのんびり昼寝をするよ。この方が体が疲れない」
と動かない者もいた。
私は経験者だというので、インドのバフグナと一緒に、アイス・フォール突破の責任者となり、登攀用装備の点検や、アルミ製梯子の組立てなどを試験したりした。バフグナとは、私が一九六五年の明大ゴジュンバ・カン遠征のとき、彼もインドの登山隊で来ていて、キャラバンをともにした仲だった。同じ東洋人だし、何かと親しみを持ちあった。
人種というのは不思議なものだ。インド人は歴史的にも感覚的にもどちらかというと、ヨーロッパに近いだろう。ヨーロッパ人にたいして自国の誇りを持っている。その点では日本人も負けないつもりだが、ヨーロッパ人がインドにたいするほどの認識を、日本にたいしても同様に持っているかというと疑わしい。しかしそういう中で、バフグナは私と旧知であることもあって、何かにつけて親愛の情を示した。両者にとって、それは国とか歴史とかいう以前の血のつながりのようなものであった。
南壁リーダーのエバンスと私たち二人はベース・キャンプの建設先乗りを言い渡され、本隊より早く、しかも二日コースを一日の早さで進んで、アイス・フォールの取付近くに入った。そのため高度順化をしなかったエバンスは、ゴラク・シェップまできて頭痛を訴え、一〇〇メートル歩くごとに氷の上にうずくまるようになった。
ベース・キャンプは前年の日本隊より五〇メートル上の場所に決められた。私は日本隊の跡が四〇〇メートル四方にわたって、空き缶、紙くず、ビニール、板切れなどが散らばっているのが恥ずかしくて、ポーターに一人五ルピーずつ支払い、ゴミひろいをしてもらった。日本山岳会も三浦スキー隊も引き揚げるときにはゴミを燃したはずだが、一年たつうちに氷に埋まっていたものが浮き上がったのだろうか。だが、それは言い訳にすぎない。何も知らない国際隊の連中が上ってきて、このゴミは日本隊が残したものだと知ったらどう思うだろう。国際隊の諸国のメンバーをみていると、先にもちょっとふれたが、ゴミは必ずひろう。第一やたらに捨てない。それを各人が別になんでもなくやっている。だからヨーロッパの町は綺麗なのだ。日本では空き缶公害、毒物たれ流し、粗大ゴミ遺棄が社会問題になっているが、外国人がきいたら目を丸くするだろう。都会だけでなく、道路沿いのきたないこと。それは公徳心などというご大層なものの欠如でなく、みんなに国土を大事にする気持がないからだと思う。日本にいるときにきいた話だったが、道路沿いでも自分たちの町の範囲内ではポイ捨てをしないが、他の町、他の県に出たらどんどん捨ててお構いなしだという。その話に私はなるほどと思った。日本人の|くに《ヽヽ》意識は小さなおらが国、郷土、村だけなのだ。その周辺は大事にするが、一歩外に出たら他国で、他国はむしろ憎いのとちがうだろうか。都会などはおらが国を出た連中が集まってふくれ上がったところだから、いわば他国だ。他国ゆえにむしろ汚してしまえという気持が働くのではなかろうか。そこのところから考えていかないと、いくら空き缶公害のポスターを貼っても、イタチごっこで、いつまでも問題は解決はしないだろう。国際隊で四六時中生活していると、やはり何かにつけて勉強になることが多く、世界の人間を知るのは重要なことだとつくづく思うのだった。
エバンスばかりでなく、翌日着いた本隊の多くの隊員も、高山病の兆候を見せ始めていた。二十キロの荷物を背負ったポーターたちより数時間も遅れて、バラバラに到着するのだった。みんな弱味を見せまいと、必死で頭痛をこらえている。私も以前はそうだった。正直にウンウンいっていたのは、ドン・ウィランス、ドゥガール・ハストンくらいだったが、いまの私はむしろ二人の飾らない態度の方が自然で好ましかった。
隊員たちにはアイス・フォールを初めて見る者が多かったから、話に聞くと見るとの違いに絶句したり、私のところへ寄ってきて、昨年と今年とでは状態はどっちがいいかなどと訊いたりした。
ここを三度突破した私だが、常に流動するアイス・フォールについていい加減な批評は下せない。「入ってみる以外にない」と答えるしかなかった。私が経験者だというので、みんなが私のまわりに垣をつくって取り巻いた。これまで体は大柄だし、口達者だし、とにかく私などには構っておれないという態度だった連中も私の話をきいている。
「ウエスタン・クームまでの二キロを、十日で突破できるか、五日で突破できるか、それはルート工作者がどの道を選ぶかという|勘《かん》にかかっている」
「勘? 科学じゃないのか」
「むろん気象も無線も写真測量も必要だ。しかし、アイス・フォールの中には地図がないのだ。地形もない。氷柱や氷の大ブロックが一夜で消えたり運ばれてきたりするところだ。写真でいくら見当をつけていっても、|屏風《びようぶ》の蔭は見えないと同じで、本当に踏みこんでいって、初めて何もかもがわかるところなのだ」
「それじゃ人生とそっくり同じじゃないか」
そこで私はいささか自信たっぷりになって言った。
「そうだよ、人生の縮図だ。またエベレストの象徴だ。頂上は高いが、そこへ行くまでにいくつもの難関が待っている。人類もこのアイス・フォールを突破したからこそ、登頂が実現したんだ」
「おお、エベレスト!」
と誰かが叫んだ。
ベース・キャンプからはエベレストは見えない。アイス・フォールを登って、さらにウエスタン・クームの氷河を登っていくと、やっと頂上が見えてくる。それまではエベレストという見えないゴールを目指して、前進するほかない。私の言葉を神妙にききながら、みんなは哲学者のような顔になって、「フーム」と相槌を打つのだった。
三月二十四日。一日も休まず、第一日からアイス・フォールのルート工作を始めた。イギリス組のドン・ウィランス、ドゥガール・ハストン、それにイタリアのカルロ・マリーと私の二組が先陣となった。二十五日には伊藤君も指名され、二人ずつ三組でかかった。三日目にはカルロと私のコンビのほか二組に、BBCのカメラマン二名が入った。工作は順調に進んだ。
カルロはアルプスの壁を登りまくったワルテル・ボナッティのパートナーで、山だけでなくハイエルダール博士の「ラー二世号」大西洋横断にも乗り組んだ冒険家だった。関節の痛みをものともせずに、ピッケルの代わりにストックをついて頑張った。技術は古いようだった。しかし、ベテランのすごいのは技術の新しい古いではなく、山にたいする慣れと鋭い勘にある。私は彼とザイルを結んでいて、不思議な安心感を抱いたものだ。
変わりダネといえば、フランスのピエール・マゾー。彼はドゴール派の現役国会議員だった。登山の方はモン・ブランで遭難しながら、十一日間苦闘して、多くの隊員が凍死した中を生き残った。国会議員によく山登りの時間があると思ったが、それで落選しないのは、よほど手腕があるのだろう。そんなひと癖もふた癖もある連中ばかりだから、討論になると自説を曲げない。隊長に対しても納得がいくまで意見をのべる。その最たる代表がやはりピエールで、国会で鍛えた弁舌だから、言い出したらテーブルを叩いて他者を寄せつけなかった。
イギリスのナンバーワンであるドゥガール・ハストンとザイルを結ぶ機会が一日だけあった。そんなに危険なクレバスやブロックの崩壊にも遭遇しなかったが、彼の細身の体が見せる身軽さと、ピッケルによる氷さばきはほれぼれするほど見事で、平地では得られない勉強をさせてもらった。彼が講師で、シェルパのための氷雪登攀の実技講習が行なわれたときも、その華麗な技に私たちは舌を巻いたが、無口な人で、私との行動でも、難関を克服するたびに、にやっと笑いを送ってくるだけだった。一途に山へ賭けるハストンの態度に一芸に秀でた人の謙虚さをみて、私は好感を持った。
アイス・フォールに取り付いて一週間目、伊藤君とハッシュ・バフグナ組が最後の氷壁を突破した。ルートは途中何度も変更されたが、結局、日本隊と同じ西稜寄りから中央部へ出るルートをとったのだった。日本隊の名残りを探したが、一〇〇〇メートルもの間を固定してあったザイルもアルミの梯子も、影も形もなかった。
勝手気ままな隊員たち
アイス・フォールを抜けるころから、隊員はそろそろ個性をむき出しにしはじめた。意見の交換も、議論もすさまじくなり、私などの出る幕はないほどだった。たとえばキャラバン中下痢に悩んでいた西独のトニー・ヒベラーは、ルートが完成するや、自分のザックに酸素ボンベを二本入れ、さっさと第一キャンプヘ向けて登っていった。彼はこの国際隊のあと、西独エベレスト登山隊のアドバイザーのポストが決まっており、自分が編集する「アルピニズモ」の取材もあって、独自の計画があったのかも知れないが、これが日本隊なら即刻除名となるだろう。彼にかぎらず、アイス・フォール以後は、隊の統制もなにもなく、各自勝手に第二キャンプヘ進み、そこでやっと前から指定の二隊にわかれるというふうだった。
見ていると、要するに全員が登頂するつもりなのである。ザックの底にはそれぞれ自国の旗や所属する会社の旗を頂上に立てるために持ってきている。何でもいいから自分が先に登るんだということになると、隊長の命令なども都合のいいところだけ耳に入れて、あとは知らんぷりでいる。しかし、彼らの多くが誤っていたというか、ヒマラヤを知らなすぎたのは、高度順化は人間の意志やファイトではどうにもならないということと、エベレストは一人ではけっして登れないということを失念していたことだ。
各自が自主的にやるのならと、私は急がず遅れず、マイペースで登った。南壁隊は四月九日に第三キャンプを建設した。およそ七〇〇〇メートルの地点だ。しかし、建設してから待てど暮せど、隊員九名のうち先に到着したイギリスのウィランスとハストン、伊藤君と私の四名を除くと、残りは一人も来なかった。高度障害で第二キャンプから動けなかったのだ。高山病についてはまだ研究が浅く、原因についても主に低気圧と低酸素状態による生理的変化だとされているが、そこに氷点下の寒さ、強い紫外線の影響なども加わってくるため、未解決の問題も少なくない。その症状は初期だと頭痛、息切れ、不眠、倦怠感などが表われる。大体四〇〇〇メートルあたりで症状が出始めるから、ベース・キャンプで隊員の大半がポーターより遅れて着いたときには、要注意だったのである。しかも高度順化には一、二週間の時間が必要だが、そうも出来なかったから、七日目にアイス・フォールを抜けると、第二キャンプ(六五〇〇メートル)までの高度差一二〇〇メートルを一気に登ったのだ。高度順化の全然できていない者にはこの一二〇〇メートルは死をも意味する。それをわれ先に飛ばしたのだから、高山病にやられない方がおかしいのだ。それとも岩場のベテランが揃った隊だったから、みんな不気味なアイス・フォールさえ抜けてしまえば、後には怖いものは何もないと早合点したのか、それとも先へ行く者のペースにまきこまれてしまったのか。それにしても大半が第二キャンプまででストップとは、専門家らしくもなく、なんとも情けない話だった。しかも、高山病が進むと集中力や判断力もにぶり、動作は鈍化に向かうし、倦怠感はいっそうはげしくなって、無気力にもなる。そうなったら登山どころではない。それを防ぐには酸素吸入と安静しかない。ということは、少なくとも一〇〇〇メートルは下山する必要があるわけだ。私にも何度か経験があるが、高山病は下山してしまうとけろっと直るのである。だから高山病から併発する病気は別として、高山病そのものを病気と呼ぶかどうかにも問題があるらしい。
そんなわけで、西稜隊の方も進行が遅れた。西稜の肩に悪戦苦闘して第三キャンプを建設したとき、インド人のハッシュ・バフグナが遭難したのだが、そのニュースを私たちは二日も知らずに過ごした。
事故の前の三日間、私と伊藤君は第三キャンプから次のルートヘと工作中だった。十七日は午前中から予期せぬ悪天候となったため、視界がゼロに近い中を、固定ザイルをたどってキャンプヘ引き返した。サポートするシェルパも上がってこない。夕方、吹雪の中を一人の人影が現われた。リーダーのエバンスで、眉毛にまで氷玉をつけて、
「今日はこんな天気なので、シェルパは途中で第二キャンプヘ引き返した」
と言うと、私たちが何も言わないうちに、また固定ロープにカラビナを通して急いで下りていった。結局、私たちは第三キャンプに閉じこめられたまま、ろくに眠らずに十八日を迎えた。しかし、もはやスープを温めるガスもなくなり、シェルパの荷揚げも来ず、交信も途絶えた。この分だと餓死か凍死をまぬがれないので、私たちは羽毛服にウインドヤッケの完全装備で、風に吹き飛ばされかかりながら、やっとの思いで第二キャンプヘ下りてきた。そして隊の無統制を抗議してやろうと思った矢先、そこに待っていたのがバフグナの悲報だった。彼は西稜リーダーのウォルフガングと二人で第三キャンプを建設し、さらに西稜の肩にルートを進めようと、休みもせずに登高を続け、私たちも遭った悪天候をもろに受けたのである。そして第二キャンプヘ下りかけ、バフグナはリーダーの後から続いたが、考えられないことに二人はザイルを結び合っていなかった。ただし固定ザイルが打ってあったので、それにカラビナを通して下りればよかったのだが、バフグナはしだいに遅れ始めた。小柄な彼はウォルフガングの足に蹤いて行けず、ウエスタン・クームが吹雪の絶頂に達したとき、疲労で凍死した。遺体は下ろすことも出来ずにザイルにぶら下がったままだという。
私たちが第二キャンプに下りたとき、隊長のディレンファース、エバンス、ウォルフガングはじめ、隊員は大型の円形テントの中に集まって、じっと首をうなだれていた。ウォルフガングは吹雪の中でバフグナを三十分も待ったが、自分の手足の凍傷が心配で、午後四時半、一人で第二キャンプヘ帰ってきたというのだ。そのころバフグナは固定ザイルにしがみついたまま動けなかったのだろう。「オーイ」と助けを求めて呼ぶ声がキャンプにも風に乗ってわずかに聞えてきたという。キャンプではウォルフガングが帰り着くと同時に、ドン、カルロ、ミッシェル、ピエール、オッドらがただちに救助に向かい、ドクターのスティールも医薬品をもって後を追った。救援隊は一時間半後、現場に着いた。そのときバフグナは固定ザイルにぶら下がり、顔を雪におおわれ、白く凍りついていた。なぜか羽毛服はザックの中だった。両眼を開けた目に、ドンが懐中電灯を当てても反応は返らなかった。
隊長は人が変わったようにうなだれたままだ。パートナーだったウォルフガングもがっくりと黙したままだった。他の隊員も、シェルパたちも、彼の死を悲しんで誰も口をきかなかった。
ハッシュ・バフグナは三十二歳、インドの陸軍少佐だった。私と親しかったことは前にのべたが、彼にきいた話では、国には愛妻と二児がいて、メイルランナーが登ってくるたびに彼の妻からの手紙がいつも二、三通ふくまれていた。それを読んでいた元気なころの彼の顔が目に浮かぶ。彼はインド隊エベレスト遠征時には二十六歳でアタッカーに選ばれたが、八五〇〇メートルの最終キャンプで体調を崩して望みを放棄しなければならなかった。それだけに国際隊への意欲は大変なもので、西稜ルートをトップに立って工作していたのもその表われだったと思う。
隊にはバフグナや私、伊藤君と、エベレスト体験者がいるにもかかわらず、すべてヨーロッパ人が主導権をにぎり、われわれ東洋人に対する扱いはどうも登攀のための基礎工事人扱いなのが気になっていた。バフグナの運命がわが身に重ねられて可哀相でたまらなかった。翌十九日、風の弱まった中での遺体収容に、私は進んで加わった。
この遭難事件が国際隊の流れを変えてしまったように考えられる。それまでは三十人の隊員に露骨なナショナリズムは感じられなかった。隊長もその点はくどいくらい配慮していた。女房役のロバーツ大佐は主にシェルパの管理に当たっていたが、やはり隊員のパイプ役になろうと心を砕いていた。しかし、その日を境に、チームワークに見えないヒビの入ったのを見たのは私だけではないだろう。
南壁隊が隊員の不調で行き詰まったころ、西稜隊も、西稜一本で押すというウォルフガングと、西稜を中止して、東南稜に変更すべしというカルロ・マリー、ボーシェ夫妻、マゾーらに意見が分裂した。ゲリー・コリバーは気管支炎で再起困難な状態だった。トニー・ヒベラーも体調を崩したままだ。隊長は隊員の病気と事故と進行の遅れから、二隊に分けることを諦め、最終的には南壁一本にしぼって全力を尽くしたいと指示した。
誰もが登頂を希望していた。国会議員のピエール・マゾーはフランス人としての初登頂を夢に見、イベット・ボーシェも世界初の女性登攀を意識していたのは明らかだ。しかし、ルートを一本にしぼられると、その望みも非常に少なくなる。とすれば当然彼らの国際隊に対する魅力も半減しよう。現に「おれはイギリス人と日本人のサポートに来たんじゃない」と隊長に食ってかかった者もいたという。ボーシェ夫人も東南稜への意見が容れられないと知ると、隊長のテントヘ石を投げつけた。キャラバンではあんなに思いやりのあった夫人なのに。さすがにそこまでしてしまっては隊にはおれず、彼ら夫妻は私物をまとめると山を下りていった。国会議員のマゾーも下りていった。私はそのなりゆきを見ながら、彼らのはっきりした態度も立派だと思い、別に非難する気持も起こらなかった。伊藤君と私は、彼らの言語圏の外にいたため、私たちに不満や文句や感情のしこりをぶつけてくる者はおらず、山を下りたボーシェ夫妻も、途中から「あなたたちとは一緒に登山を続けたかった。スイスヘ来たときにはぜひ寄ってほしい」と連名で手紙をよこしたくらいだ。ボーシェ夫人は小柄だが、いかにもスイス人らしい女性だった。山に生まれ、山を友として育ったやさしさと、強靭なところをもっていた。またノルウェーのオッド・エリアッセンも下りていったが、彼は山だけでない冒険家で、私ともエベレストが終わったら、アフリカ西海岸のニジェール川へイカダ下降に行こうと話しあった。上流の山岳地帯、中流の砂漠地帯、河口のジャングル地帯、どこをとっても変化に富み、面白味があるんだ、と彼は熱をこめて語ってくれた。彼がニジェール川を持ち出せば、私は私でまた南極の冒険の夢を語った。国柄からいっても極地に敏感な彼は、南極探険にもまた膝をのり出して、「アムンゼンだ、二人は現代のペアリー、アムンゼンだ」と目を輝かしていた。しかしその彼も高山病にかかって調子を出せないまま、下山していく一人となった。
後から思うことなのだが、この対立はイギリス人に対するラテン系の人間の複雑な感情があったのだろう。BBCがスポンサーだし、とくにエベレストには伝統をもつイギリスが、ここでも主導権を取ろうとした気持はわからなくはないが、そのやり方には確かに行き過ぎもあった。また南壁隊をイギリス人を中心に固めたことも、結果としては分裂を深めたのである。いずれにせよ、力の結集がいちばんの要となるのに、第三キャンプまで来ての分裂、しかも西稜隊の放棄というのでは、隊全体にとって空中分解寸前のショックとなった。目の前に展開した分裂劇は、もちろんシェルパたちにも動揺を与えた。命がけの仕事に内輪もめがあったのでは危なくて協力できないというのも当たり前である。南壁隊のシェルパ頭が腹痛を理由に下山したのをきっかけに、彼に代わるべき西稜のサーダーもまた下り、荷揚げのシェルパも人数がいなくなってしまった。
仲間割れに終わる
そんな中で、南壁登攀を再開した。イギリス組のウィランスとハストン、伊藤君と私の二組は第四キャンプを建設し、さらに八〇〇〇メートルヘ向かった。シェルパが足りず、荷揚げも自分たちでしなければならなかった。おまけに、リーダーのエバンス、トニー・ヒベラー、ゲリー・コリバー、オッド・エリアッセン、デビッド・アイルス、ヨン・ティグランドらが続々高山病の重症にかかり、三々五々隊列から離れていった。隊長ノーマン・ディレンファースも気管支炎で咳がとまらずに下山し、副隊長のジェームス・ロバーツ大佐に指揮を交替した。
残ったのはドクターのデビッド・ピーターソン、ドン・ウィランス、ドゥガール・ハストン、レオ・シュレマー、伊藤、植村の六人だった。このうち、シュレマーは早くから体調を崩し、万事に消極的で、「インポシブル」をよく口に出した。ドクターも第二キャンプが仕事場だったから、ほんとに登攀隊として残ったのはイギリス組と日本組だけだった。ところが、リーダーのエバンスが下山すると、副隊長は代わりのリーダーにドン・ウィランスを任じた。するとそれをいいことに、彼らの組がいつもトップに出、日本組は彼らのための荷揚げ役となり、仕事はポーター代理に回されたのである。人手不足は明らかで、たとえば第五キャンプ建設に当たり、私たちは八〇〇〇メートルまで酸素ボンベを運び上げたが、自分らの酸素まで用意できないので、そこで一泊もせずに下りねばならなかった。消極派のレオ・シュレマーも傍観しておれず、自分でも荷揚げをする気になっていた。ところが上部のウィランスが、彼独特の命令口調で無線を通じて、
「第五キャンプから上部に使用する酸素、ザイル、ガス、カートリッジ、食料が不足気味だがら、レオに至急持たしてくれ」
と言ってきた。副隊長の横で聞いていた彼は、言われなくてもせっかく荷揚げの準備にかかっていたのに、この言い方にむっときて、
「お前らイギリス人に荷揚げするために南壁へ来たんじゃない」
と一気に叫ぶと、さっさと私物をまとめてベース・キャンプヘ引き揚げてしまった。
またリーダーのウィランスは、ある日、第五キャンプでの夕食後に突然自分のザックからブラック・アンド・ホワイトのウイスキーを取り出し、「今日はおれの三十八歳の誕生日だ。乾杯してくれ」と、食器に注いだ。彼の酒好きを知らぬ者はなかったが、やや度を越していた。相棒のハストンはさすがに一滴も飲まなかったが、私たちが彼らのために酸素を荷揚げにいくとその|体《てい》たらくであった。彼は食料の一食分よりも酒を好んだ。おそらく八〇〇〇メートルで酒を飲んだのは彼が世界記録だろうが、われわれにしてみれば、彼を高所酒飲み記録でギネスブックにのせるためにサポートしているのではない。しかし、下山者が相次ぐ中で、伊藤君と私には下りる意志は毛頭なかった。ウィランスらがつねにトップを奪って放さなかったのには、彼らに技術の優越、登頂独占欲、東洋人に対する優越感がなかったとは言えないだろう。スポンサーのBBCスタッフも、明らかに二人の登頂に総力をかけていた。私たちも構わずにトップに出ようと思えばそれは出来た。国際隊はみんな自分の意志で行動し、休みたいときには好きなように休んだ。それ式に割り切ればよかったかも知れない。しかし、日本の山岳界で育った私たちには、リーダーに反する行動はとれなかった。むっとくるものを抑えて、とにかく南壁を登頂すればいいのだと思うようにした。
ただし、黙ってばかりいたわけではない。私はトップを交替にして高度順化をやりながら進んではどうかと提案した。しかし英国人の副隊長ロバーツもウィランスも、かたくなにそれを拒んだ。さらに、隊員は四人しかいないのだから、装備や食料の荷揚げも遅れがちになるし、第六キャンプはあと一、二日延ばして、先に補給を完全にしてから建設してはどうかとも提案した。しかし、これもウィランスらは受けつけなかった。そのため私たちは自分の吸う酸素もなしに高所のサポートをする状態に追いこまれ、さすがに心中穏やかでなくなってきた。だが、それでも隊の登頂成功を願っていた。
いよいよ第六キャンプを建設する日、私はマスクなしの荷揚げを終えると、早く高所を脱出しようと戻りを急いだ。第五キャンプとの高度差三〇〇メートル、行程にして数時間だ。ところが下りてくると、ただ一人のシェルパ、ソナ・ギャオが酸素ボンベの故障で立ち往生していた。彼はガスコンロ、通信機、登攀具をかついでおり、それらが届かねば第六キャンプは活動できない。私は最初から無酸素だったが、ギャオのザックを背負うと、ふたたび第六キャンプヘ引き返した。午前十時に出発して、第五キャンプヘ戻ったのは午後七時半だった。長い苦しい一日だった。酸素なしで八〇〇〇メートルにいると、食事のために手を動かすのも大儀になるし、素肌をさらせば外気はマイナス二十度から二十五度の厳寒だから凍傷はまちがいなしだ。幸い、私にはそんなにしても高山病の兆候は表われなかった。伊藤君も無口になりながらよく頑張っていた。私は日本人として彼の姿を見るたびに誇りに思えた。その日が五月十九日だった。
翌二十日、私たちは荷揚げも終わったし、ともかく連絡のため、伊藤君を第五キャンプヘ残して、ギャオと第二キャンプまで下りた。下ではBBCのスタッフが、ウィランスらの登頂を待って興奮していた。八二五〇メートルの第六キャンプから、きょうにもアタックをかけるかと、カメラマンは三脚に二千ミリ望遠レンズを据えて目を離さないでいるのだった。
しかし翌二十一日、ドン・ウィランスから「われわれの登攀は終了した」という無線連絡があった。第六キャンプから上部へ登れないまま、力尽きたという報告だった。
あっけない終わりだった。「サンデータイムス」の派遣記者マレー・セールの落胆ぶりはいまでも忘れられない。彼はボリビアで革命家チェ・ゲバラの隠れ家を発見したスクープや、ベトナム戦争、中東の六日間戦争にも数々の国際的スクープをつかんだ花形で、今回もイギリス人による未踏南壁の登頂記を独占しようと登ってきていた。
私は落胆したり絶望するより、くたびれ過ぎていた。前日のインド放送が流した三日間にわたって悪天候が続くという予報をきいていたので、ウィランスらの登攀断念にもさして驚かなかった。ただ、気持にはいろいろな欝屈したものがたまって、はけ場のない思いがつき上げた。エベレストヘ登ることより、ともすれば“人種戦争”に終わったような国際隊だった。私たちの経験がどんな意味をもつのかは、自分でもわからない。すべては後日の登山記録が明らかにするだろう。
国際隊解散後、私は一人でインドを通り、ハッシュ・バフグナの遺族を訪ねた。三カ月ぶりの|娑婆《しやば》だったが、私の目にはほとんど何も入らなかった。ニューデリーではインド山岳隊のサリン会長に会って今回の報告をし、すぐ夜汽車でウッタル・プラデシ州に向かった。バフグナの遺族は、彫りの深い美人の未亡人と三歳と一歳のお嬢さんであった。彼の遺骸の灰はヒンズー教のしきたりでガンジス河へ流された。遭難した四月十八日は、一歳の娘さんの誕生日だったそうだ。なんと言っていいか私にはお悔やみの言葉もなかった。
国際隊をふくめて、私は四度エベレストに取り組んだ。だが国際隊のあと、|憑《つ》きものが落ちたように、山への魅力というものが自分から遠ざかっていくのを感じた。四度の経験によって、登山技術にたいする自信がついたとも、岩場の技術が向上したとも思えなかった。岩場は依然として好きになれなかった。
山を下りた直後、私がカトマンズのホテルでぼさっとした気持で過ごしていたときだった。同宿した客の一人に山のカメラマンの安川一成さんがいた。私が日本山岳会のエベレスト隊に参加したとき、氏は三浦スキー隊のサポートをしていたのでよく知っていた。その安川さんが、ホテルの庭の木蔭で一緒にお茶を飲みながら、「来年は、韓国隊のマナスル遠征にカメラマンとして同行することになった」と何げなく言った。この一言が、眠りかけていた私を目覚めさせたのである。
「そうだ、おれは南極の夢をどうしたんだ」
と、どこかでもう一人の私がぼけっとした私に呼びかけた。
私という人間は夢を抱いているときだけに生きている。国際隊のにがい経験はその夢を私から持ち去ろうとしていた。「おっと、危なかった」――私はボケかけた自分に活を入れ、新たな夢に火をともして日本へ帰ったのである。
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日本冬期エベレスト登山隊
一九八〇年十月三十日――一九八一年二月十四日
山の夢ふたたび
安川さんの一言が効いたというのは、少し前後を説明しないとわかりにくいが、翌一九七二年アルゼンチン隊のエベレスト登山がネパール政府によって許可されたという話をきいていた私は、安川さんの韓国じゃないが、アルゼンチン隊に自分を売りこむことが可能ではないかと考えたのだ。そしてその実績でアルゼンチンの南極基地に入れてもらおうという大構想をたてた。南極探険について、私は極点をはさんでアメリカ基地とアルゼンチン基地を結ぶ線を、横断するコースにしようと考えたからである。
さっそく大構想に着手すべく、帰国すると休むひまもなくアルゼンチンヘ飛んだ。そして、そのときからざっと十年をまるまる南極横断を夢みて、北極をふくむ極地で暮すことになってしまった。私としては一九八〇年のエベレスト冬期登攀を語る前に、駈け足にしても、やはり極地の十年にふれておきたい気がする。
それはついに夢が夢に終わった歳月なのだが、私なりに非常に真剣だったことは、国際隊から帰るとすぐにも南極横断にかかるつもりで、アルゼンチンヘ向かう直前に、|稚内《わつかない》から鹿児島まで三〇〇〇キロの徒歩横断をしたことでも認めていただけると思う。南極横断は三〇〇〇キロなので、同じ距離を体で感じておきたいと思い、八月三十日から十月二十日まで五十二日間を歩き抜いたのである。そして足の裏をマメだらけにしたまま、一週間後にはアルゼンチンのブエノスアイレスにいた。同国登山隊本部を訪ね、日本から来た登山家でカメラマンだと、安川さんと同じ手でふれこみ、エベレストヘの同行を交渉してみた。その話は不調に終わったが、南極基地へ入る許可をとることには成功した。それが最終目的だったのだから、私に異存はなく、同国軍隊の船でベルグラーノ基地へ送られた。しかし、再三交渉してももう一方の米国側の許可は出なかった。多くの人が心配して、駐日アメリカ大使をも動かしてくれたけれども、断念しなければならない結果に終わった。
その帰り、アンデスの最高峰アコンカグア南壁を途中まで試登した。この山は一九六八年にめざして、ふつう二十日の行程をわずか十五時間で登り、地元の関係者を仰天させたことがあった。そのとき、途中の山小屋で休もうとして、入口をあけて手探りで入ると、踏みつけた何やら柔らかいものがぴくりと動いて、「ギャー」ととてつもない大声を出したのにはこちらが驚いた。話をきくと、登山無許可のドイツ人の二人組で、彼らはそうまでして南米最高峰に登りにきていたのである。
私はこのエピソードを折りにつけて思い出した。登山許可を持たなくても、登りたい気持さえあれば登れないことはないのだ。アコンカグアには過去に三十八人の犠牲者が出ているため規制が厳しく、私も初めは「お前のように何も持っていない者の登山は許可できない」とすげなく断わられたが、何とかねばったすえに書類をもらうことができた。
南極だって必ず許可になる、許可させてみせると信じることにした。
私が北極へ入ったのも、いつか南極横断を実現できるものと信じ、そのためには、|犬橇《いぬぞり》にも慣れる必要がある、犬の訓練も必要、物資補給の方法を解決することも必要……と一つ一つ問題を克服するための予行演習のつもりだったのである。そのため一九七二年に三〇〇〇キロの犬橇ひとり旅、一九七四年に単独行一万二〇〇〇キロと、いずれも極地の氷原を踏破した。その間の一年はグリーンランドのエスキモーと生活して、極地の人間に近づこうとした。そして一九七八年、北極点到達とグリーンランド縦走を果たした。そのあと、十年たってもなおかつ米国の壁は厚いと知って、「さて、この先どうしようか」と、アメリカ西海岸のシアトルで時を稼いでいたとき、中国政府からチベットヘの招待状が届けられたのだった。それが縁で、チベットのラサ市を見せてもらったり、希望がかなって農家に泊めてもらったりした。行きに日本山岳会からの依頼で、チベット側からのエベレスト登山を許可してほしいという山岳会の意向を伝えた。そのためかどうか知らないが、私が帰国して十日目に、中国から日本山岳会へ正式にエベレスト登山の許可が届いたのである。私としては、日本山岳会によってエベレストヘ登らせてもらった者として、それから十年もたってではあるが、少しでもお返しができたことはうれしかった。
ところで、チベットを見て回り、久しぶりに山に接した私に、気がつくとまたエベレストヘの夢が戻ってきていたのである。最高峰から極地へ、極地から最高峰へ。つまり垂直、水平、そしてまた垂直へと、私の夢の振子は地球の極点をぎりぎりからぎりぎりに振れる。その振子が振れ、自分の前に来たときに黙って見逃すことはできない。
この十年間というもの、いわば私は北極に氷漬けになった格好で、マイナス四十度の場所で氷上技術のみをみがく行動に終始した。そのため、山にたいしてはまったくのブランクができてしまっていた。私は山への夢が戻ってきたとき、ごく自然に今度は未踏の冬期エベレストをめざそうと思った。それもネパール側の多少とも慣れたルートをとろうと、なんの迷いもなく思った。ルートを変え、手を変えて登るよりも、自分の可能性を確かめるというか、能力の限界に挑戦する方に、私は重きをおきたかった。冬期という条件の中で、どこまで自分の能力が引きだせるか。折りしも世界の登山の|趨勢《すうせい》も、最も困難な冬期登攀に向かおうとしていた。
水平から垂直への転換は、私にとっていろんな意味で出直しを意味した。国際隊のときのように八〇〇〇メートルを無酸素でやってもなんでもなかった高度順化が、はたしていまでも体に生きているだろうか。その辺については医学的にも諸説があるようで、行ってみるまではなんとも言えない。体力は心配ないが、北極では使わなかった登攀のための筋肉が以前と同じだろうか、もしや落ちているのではないだろうか。足の力はどうなっているだろうか。
日本山岳会が中国側からのエベレスト遠征を決め、西堀栄三郎会長から「どうだ」ときかれたとき、私の気持が揺れなかったといえば嘘になるが、やはり私には厳冬期のヒマラヤ登山にひっぱられる力の方が大きかった。
私は準備にかかった。過去十年の北極のように、またアマゾン、キリマンジャロ、マッキンリーのように、単独でエベレストをやるわけにはいかない。まず同志を得ることから始めるしかなかった。動き始めたのは、一九七九年夏のことだった。
偵察隊の派遣は絶対に必要だった。エベレストの地形が変わるわけはないが、雪氷の変化は季節により、年によってちがう。そこで足かけ三年の計画を立て、第一年度の七九年に偵察、第二、三年度にかけて、つまり八〇―八一年にまたがる冬期に決行と決め、ネパール政府へも登山申請を行なった。
予定通りの一九七九年十二月に私は一人でヒマラヤに偵察に入り、例のエベレストの見えるカリパタールの丘の上に閉じこもった。そしてネパール気象庁の過去の高層気象調査を参照しながら、私独自の気象調査をした。エベレストの毎日の風の動きも調べた。ただ、心に引っかかりのあったのは、八〇年春にエベレスト登山の許可を取っていたポーランド隊が、春と同時に冬期登山の許可まで取ってしまったことだった。私が申請したとき、ネパール政府には、冬の登山規約などといったものはなく、私の申請をきっかけに観光省と登山局で新たに冬期登攀規約が検討され、作られた。その規約の適用第一号が、八〇年春を予定したポーランド隊の追加申請によって、八〇年一月にさかのぼって許可されたのだった。そうなると、私の計画を一年早くやられてしまうわけで、なんだか出鼻をくじかれた格好だった。そして一九八〇年一月になると、ポーランド隊が入ってきた。同隊は前年にローツェ登頂に成功して意気さかんだった。社会主義国独特のものか、彼らの行動には他の外国隊には見られない精神力の強さといったものを感じさせた。私の単独偵察は、シェルパをアシスタントに使う金銭的余裕もなく、食事も主食は現地食の麦こがしのツァンパ、ジャガイモで我慢していたから、万事につけて国家が組織したポーランド隊が立派に見えた。
冬のエベレストはさすがに寒さが最大の敵であった。キャンプ地にあって気温はすでにマイナス二十度。頂上付近はマイナス四十度まで下がることがわかった。ジェット・ストリームが相当早い速さで吹きさらすのか、頂上には雪煙がいつもたなびいて見えた。北極の経験では、マイナス四十度だとほんの微風でも体感があり、つねに凍傷とは紙一重のところにいることになる。それが、同気温で風速二〇メートル以上のジェット・ストリームの下ということになるとどうなるのか。それは私の経験をはるかにとび越えた問題だった。しかし、毎日観察していると、風の止むときがあった。そのときこそが登攀のチャンスにちがいない。そのチャンスをとらえれば可能性はあるだろうと思った。
二カ月の偵察を終えて日本に帰ってきてから、ポーランド隊の冬期登頂成功のニュースをきいた。二月十八日、苦戦を重ねての成功だったと報じられていた。私の気持は複雑だった。夢の芽が摘まれた思いだった。それは先年の北極探検のとき、極点を日大隊にわずかに越されて味わった気落ちに似ていた。昔の私だったら、人の二番煎じになるような計画ならその場で捨ててしまっただろう。しかし北極点での経験はにがかったが、いい勉強になった。ポーランド隊の成功に素直に拍手を送れないのは自分の心がまだまだ歪んでいるのだと思った。同じ企てでも、二番煎じでなくやる方法を考えれば、やましいどころか新たな意義ある挑戦になるのではないか。
意義――そこまで考えて、私はハッとした。ややもすると登山は遊び、スポーツと見られている。もちろんそれでも十分な存在価値があるが、例えば学術とドッキングすれば新しい意義が生まれよう。「そうだ!」と私は思わず手を|拍《う》った。
その「意義」のもとに同志は集まってきた。隊の名称は「日本冬期エベレスト登山隊」と決まった。
そして厳冬期のエベレスト登山を成功させるため、一九八〇年七月、同志四人で南米アコンカグアの冬期登頂を行なった。これは高度順化と高所低温訓練、および装備などの耐寒テストを目標としたものであったが、ほぼ満足のいく結果を得た。
冬期エベレスト登山隊のメンバーを紹介すると、
〔登攀〕 植村直己(三十九、明大出身)=隊長
土肥正毅(四十二、同)
菅沢豊蔵(三十七、同)
竹中昇(二十七、早大学生)
松田研一(二十六、明大中退)
三谷統一郎(二十四、明大出身)
〔学術班〕 |小疇《こあぜ》尚(四十五、明大出身)
岡沢修一(三十一、同)
吉田稔(二十七、名大大学院)
〔高所医学〕 植木彬夫(三十三、東京医大出身)
武井滋(三十一、同)
登攀隊員六名、学術(地質一名、雪氷二名、高所医学二名)五名、計十一名。このほか報道班として原田益夫(毎日新聞)、能勢順、西村秀樹、北川高、島津正治、阿久津悦夫(いずれも毎日放送)の諸氏が同行した。
なお現地のシェルパは、サーダー二名、シェルパ二十五名、コック二名、キッチンボーイ四名、メールランナー二名。
それにネパール政府からの連絡将校にC・P・ラナ氏が派遣されてきた。
太陽村の明り
十一月二十六日、私たちはベース・キャンプに入った。氷河調査のため寄り道した吉田隊員と、遅れてくる岡沢隊員を除く全員が勢揃いした。クーンブ氷河の上にテントを張ったが、まだ秋の延長なのか、キャンプの傍らを水が川となって流れている。モレーン状の石ころが散在する。まだ雪はなかった。それでも朝夕の気温はマイナス十三度、昼間の川は凍結してしまう。ベース・キャンプからではエベレストは見えないが、初めて登る松田隊員は、
「デカイなあ。近づけば近づくほど大きいって感じる。あれがアイス・フォールですか」
と感心してばかりいる。隣で菅沢隊員が、
「あの中はクレバスと氷ブロックでいっぱいだけれど、そこを突破しなきゃ、なんにも始まらないんだよ」
と十三年前の日本山岳会隊第一次偵察のときの話をしている。
「あんな氷の瓦礫の中のどこにルートがあるんですか。見れば見るほど気味が悪いなあ」
と言ったのは報道の能勢さんだ。
私も初めはそうだった。ウエスタン・クームから押し出された大量の氷の塊が、滝のように崩壊しながら流れ落ちている。目に見えて落ちているわけではないが、時たま大小の崩壊を示しながらも、多くの場合はジリジリと上から押され、長い時間で見れば休みなく刻々と流れている。そのスケールの大きさを想像したら、たいていの人間は見上げて息を飲むだろう。私はみんなの話をききながら、私が知っているだけでもここで遭難した十人近いシェルパのことを思っていた。彼らはクレバスに落ち、雪崩の下になったまま、いまだに発見されていないのだ。私は死んだシェルパたちの顔を思い浮かべながら、合掌すると同時に、
「今度のわが登山隊を、どうか無事に通してください」
と祈った。
昨年の偵察時に比べて、陽気が暖かだった。日中、太陽の下にいると、ここがヒマラヤであることも忘れそうで、ずっとこのままであってくれたらと思うほどだった。
私たちは冬期登山であることから、テント会社の太陽工業の協力によって特別製の防寒テントを持ってきていた。隊員用と、シェルパ用と二張り張ったが、それは長方形(八メートル×一二・五メートル)の大型テントで、中に内張りを張り、両側にカーテンで仕切った二人一部屋の個室を設け、中央を広場にして薪ストーブが焚けるように設計されていた。そのため、ベース・キャンプは寒さ知らずで、北極に慣れた私には場違いなところへ来たとさえ思えた。
カトマンズから飛行機でルクラに入ったのは十一月五日で、そのあとゆっくりとキャラバンして高度順化したせいか、隊員に異常を訴える者もいなかった。これまでの隊には高山病になっても強がりから言わない者がいたが、私は、
「少しでも症状があったら言ってください。下におりればすぐ回復するのだから、よくなってからまた登ってきてもちっともさしつかえない。むしろ我慢してこじらせない方がいい」
と再三注意した。それは私の過去六回のヒマラヤ体験による教訓だったし、加えて今度は高所専門の研究家がついているので、高山病で隊の力がそがれるようなことはもう繰り返したくないと思った。幸い、空輸能力の限界のために、荷物十二トンの大半はカトマンズからシェルパの力を借りねばならず、荷揚げの日程に合わせるために、先にルクラに来たわれわれは、高度順化をする時間をたっぷり持てたのであった。
標高四二〇〇メートルのペリチェでも、着いて十日間の待機時間があり、各自に高度順化を行なった。私も松田、三谷隊員、阿久津カメラマンとイムジャ・コーラの奥、アイランド・ピーク(六一八九メートル)を往復して体を慣らしたりした。そしてペリチェにある東京医科大の高所医学診察所で検査した結果、全員異常なしであった。報道の西村さんは高い山の経験は初めてだったが、彼も検査結果は何でもなく、高度順化がうまくいっていることを思わせた。
ネパール政府から得た登山期間は、十二月一日から翌年一月末までの二カ月間であった。そのためベース・キャンプで十二月一日まで五日間待つことになり、これも登攀者には有利なことで、おかげでキャンプ建設も入念に仕上げられた。
設営の指揮をとる菅沢隊員は、まず大型テントを張るための平坦地を作るのに、声をからして動き回った。総員が出てピッケル、ツルハシで氷を削り、バールで岩をどかした。土肥隊員はキッチンの裏の丘の上にアイス・フォール展望台をつくり、丸太を組んで国旗掲揚塔を立てた。シェルパはその高台の登り口に焼香炉を構えて、さっそく|這松《はいまつ》の葉をくべて香をたいた。発電機を据える石垣も積み上げられ、小ぢんまりとはしていても、きちんとした村が建設されたのである。私も懸命に働きながら、冬のエベレストに来てよかった、自分の選択は間違っていなかった、という気がした。
村が出来ると、また次々に各自の任務があった。
松田隊員は食糧担当で、ポーターが運び上げたカートンを分類して倉庫に格納する。かつて私がさんざんやった担当で、松田君の仕事を見ているとなつかしかった。武井ドクターはテント場の下方のクレバスを利用してトイレを作った。また報道の島津さんはホンダのポータブル・ジェネレーターを据えつけ、電灯線を二つのテントとキッチンに引いた。そのために夜には氷河の上に明りがともることになった。
十年という歳月の間に、登山界にも技術革新が行なわれていたのである。ファクシミリも新型装置だった。小疇先生と私は、テント内の個室にそのファクシミリの機械を設置した。これによって、インド気象庁から送られてくるヒマラヤを中心とする各地の気象情報が定期的に正確に入手できることになるのだ。テントの外にアンテナも張った。吉田隊員は百葉箱を組み立てて、早くも気象観測にかかった。
渉外担当の竹中君は、フランスから届くはずの酸素ボンベの遅延処理のため本隊から遅れていたが、二十八日に到着。また氷河調査に出ていた吉田隊員も追いつき、岡沢隊員を除いてここに登攀態勢は完了した。
われわれはベース・キャンプを「太陽村」と呼ぶことにした。冬期登山隊にとって太陽は希望の象徴であったからである。村長には土肥隊員が選ばれた。測候所長は小疇教授、発電所長は毎日放送の島津さんと決まった。
キャンプ村の開所式が行なわれた。ラム教徒のシェルパの習慣にしたがい、国旗掲揚は日の丸とネパール国旗と、彼らの経文を書いたハンカチ大の色とりどりの布を長々とつないだ一種ののぼりを揚げた。これも彼らの習慣にそって、掲揚塔の前に祭壇を設け、香を焚く中で、ザイル、ヘルメット、酸素ボンベなど登攀具を並べ、米、ジャガイモを供えて祈祷した。お経はラマ僧であるコックのアン・ツェリンが「オムマニペメフム――」と唱えた「オムマニ……」はオム・マ・ニ・ぺ・メ・フムという日本でいう仏教の六道の意味だともきいた。そうだとすると、生前の行為によって死後に必ず行かねばならない地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の三悪道・三善道を、お経を念ずることによって善の方へ導かれるという思想である。お経がすむと、両国歌を歌い、地酒のチャンが配られ、連絡将校ラナ氏の音頭で、エベレストヘ向かって乾杯をした。
私は隊長として簡単に挨拶をさせられた。
「隊員とシェルパの皆さんの協力で、こんな立派なベース・キャンプが実現しました。十二月一日を期して、厳冬の登山と学術調査活動が始まりますが、冬のエベレストは春、秋と違って、あらゆる点で非常な困難と危険がともなうと思います。私としては、第一にみなさんの生命の安全を願います。これはどんなことがあろうと片時も忘れてほしくない。第二に絶対に軽率な行動はとらないでほしい。そのうえで各自の山への情熱をエベレストヘ向かって存分にぶつけてください。最後に私たちはうしろにいる家族、友人、知人、この隊の派遣に尽力してくれたスポンサーによって支えられていることに感謝し、無事登頂に成功して、ふたたび全員がこの高台で乾杯できるように祈ります」
ざっとこういった意味のことを話した。
開所式のあと、隊員もシェルパもなく、チャンとわずかだが用意したワンカップの日本酒を交わして「チェス」「乾杯」を繰り返し、夕食後は広いテントの中でシェルパ・ダンスに興じた。
氷河と学術研究
十二月一日当日がきた。その日の日記にはこう書いてある。
マイナス十度。快晴。松田隊員と私は、サーダーのアンパサンと五人のシェルパを連れて、アイス・フォールのルート工作を始めた。二人ずつザイルで結び、シェルパはアルミ梯子、ナイロン六ミリザイル、スノーバーをかついで従った。秋に入った隊の目印を見つけ、とっかかりの見当をつけたが、クレバス、氷塊の錯綜するさまは相変わらずだ。松田隊員は初めてのエベレストだが、底の見えない大クレバスにもさして慌てず落ち着いて、後続のシェルパをリードしているのが頼もしい。彼は明大山岳部で山にばかり入っていて、中退後は八ヶ岳山麓の牧場で乳牛の世話をしていたという、机の前よりは自然や動物の方がよほど好きな、いい男だ。アイス・フォールの中は冬も秋もなく、日中太陽の下では羽毛服を脱ぐほど暖かい。またほとんど新雪がつかないため、どんな小さなクレバスも雪に隠れておらず、危険はない。時たまブロックの崩壊が轟音をひびかせ、足下の氷河を振動させるのは、四季を通じて変わらない。そんなときは逃げるにも逃げ場がないから、助かるか助からないかのどちらかだと、運を天にまかせて心を澄ませている以外にない。誰もが一人きりでいたくないのはこういうときで、轟音がやむと、たがいに目と目で「よかったァ」と合図を送りあうのだ。
二日目は菅沢、竹中、三谷、そして私と隊員四名、シェルパ十名で出かけた。スキー隊の事故の辺り、フードルジェがブロックの下になった辺りを越える。菅沢隊員とはかつて一緒に登った仲だ。彼のことというと、第一次偵察のとき、河原で体を拭く際に、シェルパの娘たちに肉体美を見せすぎて体調をくずし、下におりてクサっていたのを思い出すが、実力はある男だ。もう二児のパパだが、今回の遠征に何をおいてもと馳せ参じたについては、前回の雪辱の意味があるのではなかろうか。山男の執念とはそういうものだ。
三谷隊員は菅沢君を隊長とした明大ヒマルチュリ隊に学生で加わり、前年には日本山岳会のチョモランマ(エベレスト)登山隊に二十三歳の最年少で参加したラッキーボーイだ。若さをみなぎらせている。口には出さぬが、チョモランマではアタック・メンバーに選ばれて頂上近くまで登った彼だから、今回はネパール側からぜひともという意欲を持って来ているのだろう。二十四歳といえば、私が海外無銭旅行を始めた年だ。エベレストをスタート・ラインとして、今の闘志を持ちつづければ、どこまで成長するか計り知れないものがある。私も十一年前にエベレスト頂上に立たせてもらったために、考えも大きく変わり、五大陸最高峰の登頂も北極探険もできたのだと考えている。
当初、私は冬のエベレストにどうしても立ちたいと考えた。それ以外に今回の冬山の発想はなかった。しかし私が隊長となって、いざメンバーも集結してみると、隊長自身が隊員のサポートで頂上に立つのは間違っていると考えはじめた。隊を成功に導き、五人の隊員をなんとかして登頂させるのが私のいちばんの務めだろう。隊は個人のものではない、チームのものだ。
二日目は西稜に寄りすぎ、一〇メートルの大クレバスに直面して退却した。十二月三日の三日目は、松田隊員と私、シェルパ八名で前日のルートを修正して、ヌプツェ寄りから滝壺に当たる氷壁の下に届き、そこを登ってウエスタン・クームに出た。三日でアイス・フォールを抜けたのは、私にはいちばん早い経験だ。しかし、標高差六〇〇メートル、延べ二キロのこの道程は、いつ来ても極度に緊張する。ちなみに国際隊はここを突破するのに七日かかった。
さて、われわれはここから頂上アタックまでを四ステージに分け、第一ステージは第一キャンプ(荷物を集積させる)、第二ステージは第二、第三キャンプ(ルート確保)、第三ステージは第三キャンプ(最終キャンプヘの荷揚げ基地)、そして第四ステージである第四キャンプを十二月二十四日から一週間の間に建設、アタックは二班、二日にかけて行なうという予定を立てた。
ベース・キャンプは活気づいた。そしてベースで指揮に当たる土肥さんと相談して、コックを除く総動員で、アイス・フォールのルートを補強して、第一キャンプヘの荷揚げを二日でやってしまった。学術班、報道班も高度順化をかねてアイス・フォールヘ入り、登攀隊員も第一キャンプで高度順化を行なった。
十二月九日から行動再開、菅沢、松田隊員が二日間で第二キャンプのルート工作完了。続いて十七日に竹中、三谷隊員、私で、第二キャンプ(六五〇〇メートル)を建設、その間にはクレバスが三カ所にあったが、固定ザイルを張っただけで通過した。この辺はゆるやかな登りが続いた。少しでも危険と思われるところには固定ザイル、梯子、橋をかけた。ベース・キャンプから第一キャンプまでに、固定ザイル一〇〇〇メートル、アルミ梯子七カ所、スノーバー五十教本を費やした。結果としてはこれだけの安全確保が、ルート工作の|進捗《しんちよく》をスピードアップしたともいえるだろう。われわれは、いちいちザイルで結び合わず、ほとんどのルートを個々にカラビナを使って渡ったので、さらに時間を短縮できた。
第二キャンプからローツェ・フェースの取付までくると、周囲にはブルーアイスの壁が現われ、アイスピトンやスクリューハーケンを打ちこんで、ザイルを固定しながらルートを伸ばす必要があった。三谷隊員が不安定な急斜面に体をぶら下げて、ルートを少しずつ少しずつ上へ伸ばした。少ない隊員が全力をあげて進む場面が展開した。
二十三日から悪天候となり、七三〇〇メートルまで行きながら、第二キャンプに戻って天気回復を待った。四日後、菅沢、松田隊員が第三キャンプを建設、翌二十八日からサウス・コルへの工作を開始した。
「こんな快調ペースで行けるなら、冬の方が秋より有利だね」
と、ベース・キャンプの土肥さんが交信のたびに激励してくれる。学術班がついているので、気象の観測報告にも信頼していられる。その点は気分的に非常に楽だった。
学術班の仕事の一つに、ヒマラヤの氷河の地形調査と、その氷を氷のままで日本へ運ぶという計画があった。遅れてベースヘ入った岡沢隊員もただちにゴジュンバ氷河へ向かい、吉田隊員は第一キャンプヘ登ってきた。吉田隊員はウエスタン・クームの氷河にボーリング用の機械を据えて、第一回のボーリングを開始した。ハンドルの回転でドリルの先端が青氷の中に入っていく。鉄パイプが足りなくなるとつないで一〇メートルまで掘ったところ、先端が凍りついて進まなくなった。抜くこともできない。この機械がだめになったら、この後の研究はストップである。しかも、この機械は吉田隊員の所属する名古屋大学の氷河科学研究所から借りてきたもので、先端の部分だけで百万円以上もする特殊なものだという。彼は真っ青になって、シェルパに鉄棒を引っ張らせたり、ハンマーで叩いたりしたが、ビクともしない。時間が経つほど氷の中で鉄棒は固く凍りついてしまうだろう。最後の手段として、シェルパに一〇メートルの穴を掘らすことにした。しかし、この固い氷層に一〇メートルもの穴が簡単に掘れるとは誰も思わなかった。私も不可能だと思ったが、吉田隊員はやるといってきかなかった。彼としてはそうやってみるほかなかったのだろう。
その夜、吉田隊員は寝ていて突然鼻血を出した。同じテントの阿久津カメラマンが懸命な看病を続けたが、なかなか血が止まらなかった。
翌日は十七日だった。穴掘りを命じられていたシェルパも、それの無駄を知り抜いていたのか、ツルハシをとる前に、熱湯を鉄パイプの中へ流しこんでみた。すると、どうしても動かなかったボーリングが簡単に動き出したのである。毎日氷を割って融かしては水を作っているわれわれが、どうしてこんな簡単な知恵が浮かばなかったのだろう。ヒマラヤの生活に慣れているとうぬぼれていても、シェルパに比べたらまだまだヒマラヤのことは何も知らないと言っていい。しかしおかげで、一同胸をなで下ろした。中でもおかしかったのは、ボーリング機械が動き出したときいた吉田隊員の鼻血が、そのとたんにぴたりと止まったことだった。彼は鼻血が出るくらい心配したのだと思うと、笑いごとではなかった。彼は休養のためいったん下り、そのあと第二キャンプに来て、第二回目のボーリングを行なった。そして十何メートルも下のアイス・コアを、直径七、八センチ角に切りとり、持ち上げるのに成功した。その固い青い宝石のような氷は銀紙に包まれ、容器に納められ、ベース・キャンプヘ運ばれた。この氷河の氷は、さらにヘリコプターでカトマンズヘ下り、アメリカ大使館の協力で冷凍庫に一時保管され、バンコク経由、成田へと、無事氷のままで日本へ届けられた。南極、北極と同様、第三の極点エベレストの氷から、何か人類に寄与される発見があったらどんなに素晴らしいかと、私たちは始終そのことを話しあったものである。
ほかに学術班では高所医学の植木、武井両医師がわれわれの健康管理とデータ集めを行なった。東京医大では早田教授の指導で、一九七三年からネパール高地に二カ所の診療所が置かれ、診療と患者のデータ収集がつづけられている。一つはホテル・エベレスト・ビュー内に、もう一つはペリチェにある。そこでは、シェルパだけでなく、年々増えているトレッカーたちの高山病が診察され、中には生命を救われた観光客もいた。
今回は隊員もペリチェの診療所で高圧室に入れられたし、上部キャンプからベース・キャンプヘ下りるたびに採血を受け、血液の濃度測定のデータを提供した。冬山の登頂は、事実上ポーランド隊に一歩出し抜かれた。しかし私たちが行なった学術研究は他のパーティーに見られない新たな意義をもつもの、少なくともそのための第一歩であり、これは誇ってもいいことだと思った。
もっとも両医師をわずらわせたのは、データ収集よりは、隊員の訴える気管の故障、後半に増えた凍傷の手当であった。私も誰から移ったのかいちばん最後になって咳が止まらなくなり、薬ぎらいを言っておれなくなって、ビタミン剤、カゼ薬、解熱剤、抗生物質、あめ玉と、渡されるものを片っぱしから飲みまくり、なめまくった。
アタックの順序
ルートは第二から第三キャンプヘと順調に伸び、この分なら年内の登頂も夢ではないと話し合った。ところが、二十日の午後から天気はにわかに崩れ、ウエスタン・クームの南壁下部に張った第二キャンプは、風雪の吹くがままにもみくちゃになった。シェルパのテントは三張りとも中心のポールを折られ、炊事場の屋根を覆ったビニール・シートは破れ飛んだ。気温は急速に下がり、秋のつづきを思わせていた気温が冬型に定着した。私は昨年の偵察時にカリパタールの丘から眺め暮したジェット・ストリームの脅威を思い出していた。テントに|釘付《くぎづ》けとなった私たちに出来ることは、食べることだけだった。日本の食品会社がこういうときのために作ってくれたお湯で温めるだけでいいレトルト食品がありがたかった。赤飯、まぜご飯、うなぎの蒲焼……。白米のご飯にはインスタントの納豆、大根おろし、とろろ。それにかちかちに凍った漬け物をかじるようにして食べるのもオツなものだった。平地では味わえないうまさである。登攀隊員の食欲は旺盛で、悪天候が休養になればかえってプラスだと思えたくらいだ。テントの中に居続けの間に山の話、故郷の話がいろいろ出た。そして話が尽きると、なんだかんだとまた食べるのだった。
悪天候は四日目に回復した。
十二月二十六日、菅沢、松田隊員が第三キャンプを建設、さらに第四キャンプヘのルート工作を終えた。これで最終キャンプのメドもつき、全員はいったんベース・キャンプヘ引き揚げた。下山して、いよいよアタックのための準備に取りかかるのだ。
ベース・キャンプの大型テントに入ると、さすがにほっとするものがあった。太陽村の村長の土肥さんとは毎日交信しあっていたが、この人がいて初めて私は登攀の先頭に立つことが出来たのである。土肥さんは明大山岳部の三年先輩で、私はこの人に山を一から教えてもらった。日本山岳会のエベレスト隊のときも、一九八〇年南米アコンカグア登頂のときも一緒だった気心の知れた仲間である。今回も私が計画を切りだすと、学校の先生の仕事を休暇をとる形にして参加してくれた。私が隊長だといっても、隊の中心であり蔭の隊長であるのは彼だった。
報道班では毎日新聞の原田記者が日本山岳会隊の遠征のときに一緒で、カメラマンとして八〇〇〇メートルの経験者だった。K2、カンチェンジュンガに遠征し、登山家をしのぐ力量の阿久津カメラマンとともに、先行する登攀隊のために無人のテントを守ってくれた。原田さんは神戸外語大出身だけあって、隊の中で英語をいちばん達者に操ったから、シェルパとの交渉には彼の力に頼るところが大だった。
毎日放送の人たちの多くは、初めて経験する五〇〇〇メートルの高所と、マイナス二十度以下の低気温に喉をやられ、夜中になると申し合わせたように血の出るような咳の音を立てた。それを聞くと、みんながいかに苦しい思いをしてキャンプを支えているかに思い至り、私は本当に申し訳ない感じになるのだった。
クリスマスを過ぎて本格的な冬場がやってきた。大型テントは極寒の中での耐風、耐寒に気を配った設計がなされていて、ここへ帰ってくればという安心感があった。中央には煙突のついたストーブが燃えていて、その空間はいわばロビーである。夕食後はそこでヤクの肉、餅、するめ、目刺を焼いて食べては|団欒《だんらん》した。囲碁、トランプに興ずる者、手紙を書く者もいた。メールランナーが登ってくるたびに奥さんから手紙が届く土肥さんは、せっせと返事の手紙を書く一人だった。寝たい者は勝手に自分の個室のシュラフに潜りこめばよかった。竹中隊員は活字を見ないと眠れないタイプの男で、個室には本が山となって散らかっていた。わざわざもってきたタイプライターで山岳雑誌に頼まれたという原稿を打ったり、世話になったネパールやインドの人へ礼状を打ったり、忙しそうだった。こういう男を筆まめというのだろう。
ベース・キャンプは氷河上の孤島だと思われそうだが、真冬だというのに訪問客も多かった。ほとんどはトレッキングの客で、クーンブ氷河の最奥にある私たちのベース・キャンプと、名にしおうアイス・フォールを見物するためにやって来た。太陽村の黄色のテントは四、五キロ離れた下からでも見えたと話す人もいた。オーストラリア、アメリカ、ドイツ、カナダの観光客が多かった。ヒマラヤのトレッキングはモンスーン期を除けば春も秋もよく、さらに冬も好天が多いから、彼らのようにわざわざこの季節をねらう人も増えているのだろう。ベース・キャンプヘはゴラク・シェップ(五二〇〇メートル)から訪ねてくるのだが、大景観に満足し、写真を撮って、それがすむとたいていはそそくさと下山していった。理由は高山病の懸念からであった。高度順化の余裕をとれない観光客としては当然だろう。しかし、中には一泊させてほしいと、シュラフを持ってくる連中もいた。日本人もいたがアメリカ人がいちばん目立った。私たちは村まで入ってくる人々には紅茶をご馳走したりした。トレッカーの大半は男性で、シェルパのガイドを連れている人も、一人の人も、団体もあってさまざまだが、ペリチェの上のところで日本人の一人旅の若い男が高山病で死亡する事故があり、武井医師が検視の立ち合いに飛んで行くようなことも起こった。
結局年内の登頂は実現せず、ベース・キャンプで正月を祝ったあと、いよいよアタックにかかることになった。
登攀隊員五人は第四ステージに入り、自由に小休養をとったあと、第四キャンプのルート工作に取りかかった。私は五人の全員登頂をぜひ実現させたく、そのことばかりに頭を悩ませていた。ところが、菅沢隊員が顔と左手の指を凍傷にやられ、ベース・キャンプヘ下った。植木、武井両医師の治療で顔はなんでもなかったが、左手の中指第一関節が凍傷で、手を使えず、登攀ができなくなってしまった。
あとの四人は元気だった。竹中、松田、三谷、私は二人ずつ二組にわかれ、二日にわたって登頂しようと話し合った。最終キャンプの収容人員と荷揚げ能力を考えると、一日に二組の登攀は不可能だったのである。第一次アタック隊に植村、松田、第二次に竹中、三谷と決め、一月九、十日に決行を予定した。
第一次に私が入ることはどんなことがあっても反対で、この点で指揮をとる土肥さんと対立した。隊長である私は第二次に控え、若い隊員に一着をとらせたいという私の気持に対して、土肥さんはしまいに、
「この隊のそもそもの発想、成り立ち、また諸事情からいっても、植村が一次隊で立たないとどうしてもいけない」
と一方的に指示した。
私は自分の気持をもう一度、土肥さんに初めから理解してもらわねばと言いかけると、
「もう言うな」
土肥さんはいつになく厳しく私の言葉を封じた。
私は三人の隊員を前に、自分が第一次に立つとは言いづらかったが、こちらの心配をよそに三人は素直に受け入れてくれた。それならば、と私もようやくふんぎりをつけた。
四人は一斉に各自準備にかかった。靴に油をぬったり、アイゼンを靴に合わせたりした。竹中君などは今までのアイゼンをやめて、新しいのを取り出していた。そのあと、親や家族や友人に少し遅いが年賀状を書いたりした。報道班もアタックのメンバーが決まると、急に慌しい動きを見せ、私たちのスナップを何枚も撮るのであった。
竹中隊員の死
一月五日、松田隊員と私が、翌六日には竹中、三谷隊員がベース・キャンプの総出の見送りを受けながら出発した。みんなが待つのは登頂成功のニュースのみである。クリスマス以来、晴天の日はろくになく、ゴーッという風が上から吹き下ろしてくるのをきく日が数日続いたので、何か不安が先立ち、威勢よく「やって来ますよ」と言うのもはばかられる気がした。ただ、昨年の偵察でメドをつけたように、ジェット・ストリームの合間に必ず静かなときがあり、そのチャンスを逃さないことが勝負だと思っていた。それがいつ来るか誰にもわからない。そう思うと、いつになく出発から緊張のしっぱなしで、多分私の顔は引きつっていたのではないだろうか。
第一、第二、第三キャンプと登っていった。天候は上へ行くほど悪く、強風が吹き荒れた。吹雪で視界もきかず、それが地吹雪になって襲った。サウス・コルに予定した最終キャンプがどうしても建設できない。第一次の私と松田組に代わり、後続の竹中・三谷組が前へ出た。彼らが第四キャンプを建設したら、その足でアタックに向かい、私たちはそれをサポートしようと決めた。
「ジェット・ストリームはきっと途切れる。そこを狙うんだ」
と私は、依然として荒れ狂う中を出ていく竹中、三谷隊員に言いきかせた。天候が回復してくれることを祈った。竹中組にアタックの機会の恵まれることを祈った。
ところが、天候はいっこうによくならず、彼らの姿を少しでも近くで撮りたいと願って登ってきた阿久津カメラマンも、十数名のシェルパも、第三キャンプまできた私たちと一緒に足留めを食ってしまった。ベース・キャンプの付近にはほとんど風はないという。それがこちらは風で立っていられないくらいだ。気温も下とは十度以上違って、こちらだとマイナス三十度以下に下がっている。第三キャンプはローツェ・フェースの氷壁にそい、ハンギング氷河の覆いかぶさっている下に三張りのテントを設営したが、狭い中にじっと居心地悪く待機するのは、体力を消耗させるばかりだった。
これではいざアタックというときに十二分の力は出ないと私は判断し、いったん下部キャンプに下りて、次の機会を待つことに決めた。
次の一月十二日の朝、強風は少し弱くなったものの、一気に回復するとは思えなかった。風が少しおさまり、太陽が高くなるのを待って、テントが風に飛ばないよう張り綱をはずしてたたみ、中に装備や食料を収めた。そしてそれぞれ自分のシュラフだけをかついで、ベース・キャンプヘ下り始めた。
朝十一時ごろ。各自靴にアイゼンをはき、体に安全ベルトをつけ、隊員、シェルパと三々五々にテントを出た。竹中君は羽毛服に身を固め、防寒帽をかぶり、安全ベルトを確認すると、固定ザイルを伝って下りていった。阿久津カメラマン、三谷君、松田君と続いた。
私は凍傷にかかって具合の悪いザンブー、ドルジュの二名のシェルパをかばいながら、最後にテントを出た。それが十二時少し前だった。ところが高度にして一〇〇メートルも下りないところで、竹中隊員に出会った。みんなに追い抜かれながら、彼は右のアイゼンがはずれたのを締め直している最中だった。
「どうしたんだい? 何かあったのか」
「アイゼンの調子が悪いんです」
彼は口の中でボソボソ言いながら、アイゼンの紐をいじっていた。
天候は昨日のようにテントのポールを曲げてしまうほどではなかったが、おさまったとはいえず、地吹雪があり、気温も低かった。地吹雪が襲うたびに、氷片が顔に叩きつけられ、目を開いておれない痛さだった。私は竹中君を少し平らなところへ導き、彼がアイゼンをはくのを手伝って、締めてやった。彼は登頂アタックのためにわざわざ新調のアイゼンをはいたのだが、それが完全に合っていない感じだった。
しかし、第三キャンプまでのルートは、一本一本ザイルを固定してつけてあったから、竹中君がみんなより少し遅れたからといって不安を抱くようなことはなかった。私はそれより凍傷の二人のシェルパの方が心配で、ピトンがあるたびに凍傷の手を使ってカラビナを付けかえている彼らを早く下ろしてやらなくてはと気が焦った。
「まだ昼前だ。急ぐことはないぞ」
と竹中君を励まして、私はシェルパ二人にかかりきって下りていった。
私たちが距離にして一〇〇メートルばかり下りたとき、後方から異様な声にならないような声をきいた。振り返ると、四、五〇メートル上方で、竹中君が固定ザイルのピトンのところで足を踏み滑らせたように、だらんとぶら下がっているのが見えた。彼が固定ザイルの途中で落下、ピトンのところで止まったのだと判断した。すぐにシェルパをそこへ置いて、自分のザックを下ろすと、彼のところへ急いだ。こんなところで遭難など起こるわけがないし、また起こしてはいけない。標高七一〇〇メートル、勾配は三、四十度。ザイルは五メートル間隔で固定しているので、彼が落下したとしてもその範囲内であるにちがいない。おそらく新調のうまく合わないアイゼンがはずれ、それで足を滑らせたのだと思った。
私は現場に着くや、
「大丈夫か」
と声をかけ、急いでピッケルで氷を砕いて足場をつくった。そのとき、彼は握力を出しつくしたのか、私の肩にあてていた手の力が急に脱けたようだった。
「おい、大丈夫か」
彼は声は出さなかったが、首を前後に振って大丈夫だと反応した。足場を作ってやって、両足で立たせると、彼は大きく何度も溜息をついた。
私は彼の背負っているザックをとってやろうとすると、背と腰にバンドでしっかりと止めてある。ナイフを出して、両肩のバンド、腰バンドを次々に切った。ザックは十キロもなく、シュラフとテルモスが入っているだけだったので、私の胴バンドにくくりつけた。
ザックをはずした彼は、楽になったという表情をみせた。しかし、そうする間にも、体の重心がとれないのか、足場から足を滑らせて何度も転び、そのたびに固定ロープにぶら下がった。そしてそのショックのたびに、胴バンドで強く体を締めつけられて、苦しそうにもがいた。
このまま時間を費やしては危ないと思った。一刻も早く安定した所に移して休ませなくてはならない。またこのままの状態で、彼のはずれたアイゼンをはき直させることも困難だった。なぜなら、私も固定ザイルに通したカラビナだけで支えられ、足場はアイゼンの先端の二本の爪を氷壁に打ちこみ、やっと立っているにすぎない。この状態で竹中君に転ばれたら、私も一緒に落下することは目に見えている。
そう思ったとき、彼が転んで私の上にのしかかってきた。私も支えるものは何もなく、他愛なく転げて、二人はもつれ合うようにピトンのところで折り重なった。
私は固定ザイルに絡みついた彼のユマール(自己吊り上げ機)と下降器のひもを切り、彼のカラビナを次のザイルにかけ直してやった。彼は次のピトンまでの五メートルを、ゆっくりと下がった。私もユマールをはずして彼を追って下がった。
傾斜は二十五度ばかりに少し勾配がゆるくなり、ふつうなら片足だけで十分に重心を保って立てるところだ。しかし、彼は右側のアイゼンの脱げた靴でしきりに立とうとした。無意識にそうしているのだ。
「竹中、ザックの上に足を乗せなよ」
私は彼のザックを彼の足元に置いてやった。そうすれば滑ることもない。
だが彼は私の言葉を聞いていたかどうかわからない。無意識に足を滑らせては転び、一度頭を氷に打ちつけてから、その動作を止めた。彼の様子はただならなかった。動きの止まったとき、すぐ彼の目を見た。半開きになった目の上に手を上下させても、反応は何もなかった。口から吐いていた唾液のような白い泡もいまは止まり、呼吸も止まった。私は呼吸が止まったのを確かめ、さらに手袋をはずし、彼の羽毛服の下に手をつっこみ、胸に当ててみた。胸にわずかな鼓動でもあるかどうか。しかし私の冷えきった手ではその鼓動をとらえることはむつかしかった。
「竹中、竹中」
私は彼の耳元で叫んだ。応答がない。「まさか」と私はそんなことが起こるとは信じられず、彼の体内にまだ温かいぬくもりが動いているように感じられてならなかった。
彼の安全ベルトが胸を締めつけているのではないかと思って、彼を固定ザイルからはずし、すぐそばの雪の斜面に下ろしてやった。そして口うつしに、大きく息を送りこんでやった。吸ってやった。
「竹中、死んではだめだ。生きてくれよ」
心の中でそう言っては、十回、二十回と人工呼吸を繰り返した。心臓に手をやってみると、どうしても止まったとは思えない。わずかにでも鼓動する感じがしてならない。懸命に人工呼吸を続けた。
しまいに身動きしない彼の両頬を平手打ちしてみた。ショックで生き返るかもしれないとやってみたが、とうとう彼は息を吹き返さなかった。午後二時を少し回っていた。
無言で横たわる彼の上に吹雪が舞い狂っていた。彼の若い生命を持ち去っていくように、ゴーゴーと吹き荒れた。私は全身の力が体から抜けていく感じで、どうしていいかわからず、ずいぶん長いことそうしていた気がする。しかし、厳寒の中でそんなことが長く許されるわけはなかった。私は彼の家族のことを思い、どうお詫びしていいか、目の前が真っ暗になった。夢ではないかと思いたかった。夢ならすぐにも覚めたいと思った。
ザックから無線機を出してベース・キャンプにコールしようとしたが、交信時間でないときに連絡のつくはずもなかった。定時交信までには時間があった。
「ひょっとしたら」
と、私はまた彼の体をゆすり、口移しに深呼吸を送りこんだ。
三時の定時交信を待って、ベース・キャンプに連絡し、遺体を近くの雪の中に安置し、その日は出迎えに上ってきたシェルパとともに第二キャンプヘ下りた。
登頂を断念
遺体は翌十三日に松田、三谷隊員がシェルパを動員して第二キャンプヘ、十四日に第一キャンプヘ、そして三日目にベース・キャンプヘと下ろされた。
竹中隊員は早大山岳部に八年在籍、全国大学山岳部会の学生部委員長をつとめた。今度の隊では渉外を担当、一人先発して、カトマンズで通関や役所との事務、荷物の輸送のいっさいを切り回してくれた。シェルパの雇用もスムーズに果たしたし、プロパンガスの入手がむつかしいとなると、インドに行って、石油会社と直接交渉して調達してくる腕ももっていた。大学八年生というのは、もう卒業しないと資格がなくなるぎりぎりだそうで、そのため「芭蕉についての卒業論文をカトマンズで書き上げた。三月にはいよいよ卒業だ」と言っていた。大学にぎりぎり八年もいたのは、山が好きで、そのために卒業しようとしなかったのだ。その間に大学山岳部のインド・ヒマラヤ遠征や、パキスタンのバツーラ(七七八五メートル)に挑んだりした。彼は私のところへ来て、バツーラでは隊員二人の一人が先に下り、彼一人が居残って七六〇〇メートルまで登ったのだから、その実績を認めてもらいたいものだと言っていた。いかにも彼らしい挿話だと思った。それからもう一つは、彼は日本山岳会の中国側からのエベレスト隊のメンバーに決まりながら、出発間際になってなぜか隊員からはずされたことがあり、それにたいする気持が今回の登山隊への意地をかきたてたということもあったのだろう。事情は何も知らないが、何か執念みたいなものが、エベレスト登頂へと彼を駆り立てたのではないか。すべて後になって感じるわけだが、彼は自分の体力以上に行動していたというふうにも思われるのだ。しかし、このエベレストに成功したら、次はパキスタンの山の調査に行きたいと話したりしていたので、エベレストが終わったらどうとでもなれといった捨て鉢なものでなかったことは、ぜひ書き留めておきたい。
ベース・キャンプに下りた遺体は、植木、武井両医師によって検視を受けた。
マイナス二十度前後の中を通ってきた遺体は全身凍結し、そのため頸椎はじめ、肋骨、四肢、その他、骨折の有無については不明ということだった。全身に大きな外傷はなかった。皮下出血、内出血の跡もなく、ザイル等による|絞扼《こうやく》関係も見出せなかった。鼻尖部に軽い凍傷(二度)が認められた。ほかに指、耳介部、頬には凍傷の跡はなかったという報告を聞いたが、直接の死因が滑落によるものか、疲労による凍死か、私にはわからなかった。
遺体はさらに下部に下ろされ、トウクラの丘で荼毘に付された。遺骨は菅沢君が抱いてカトマンズまで下り、受け取りに見えた竹中君のお父さんと妹さんに抱かれて故国に帰っていった。
その間、私は|慚愧《ざんき》の念に打ちのめされていた。隊長として、足らないところ、欠けるところがなかったか。判断に甘いところがなかったか。竹中君の状態をもっとよく把握していたら……。とり返しのつかないことをした。胸が痛んでならなかった。
しかし私たちは、呆然としていることはできなかった。登攀の続行か中止かを検討しなければならなかったからだ。中止の声は出ず、私もそうだが竹中君の遺志を継ぐためにも、さらに再度のアタックに向かうべきだという意見が強かった。遺族の方もそれを願ってくださるにちがいないと思った。
だが、みんなで再アタックを決めたあと、私の頭の中を占めたのは登頂のことより、隊員の事故をいかにして防ぐかという心配だった。かつて日本山岳会のエベレスト登山のときには成田隊員の高山病による急死を目のあたりにして、ずいぶん悲しい思いを味わった。しかし、今度は隊長として竹中君の死を思うとき、おそらく私の胸は一生消えない刻印によって痛みつづけることになるだろう。私は彼の十字架を背にして生涯を生きるだろう。またそういう誓いが、逆に私を臆病にしたり、決断を避けたりすることがなければいいがと思った。竹中君の死後、私は夜も|輾転《てんてん》反側して、ああでもないこうでもないと考えた。一週間が経った。もし決定通り再アタックするなら、もうぐずぐずしておれなかった。ネパール政府からの冬山登山の許可は一月末日で切れてしまう。私自身、ふんぎりをつける時がきていた。
「山では絶対に死んではならない」
そういう声が聞えた。私は自分の中からふっと出てきたその言葉を啓示のように受けとり、そうだ、それでいくんだと心に決めた。
一月二十日、最後のチャンスを求めてエベレストに向かった。松田隊員、三谷隊員、私の三人は、天候の回復を得られないまま、荒れる空模様のわずかな間隙を縫うように登った。第二キャンプに入って吹雪がとくに烈しくなり、五日間というもの、テントから一歩も外へ出られなかった。ネパール気象庁の天気予報がまるで当てにならなかった。
吹雪がやみ、まだ強風の残る二十七日、私たちは一気に八〇〇〇メートルのサウス・コルに登った。しかし第四キャンプをどうしても建設することができなかった。
この分では、天候の回復は望んでも無理な状況だった。たとえ回復したとしても、最低三日間晴れてくれなければ、頂上をめざしても戻ってこれない。断を下すべきだと思った。
第三キャンプに戻った。私は隊員二人の前で黙って無線機をセットし、
「力いっぱいやりましたが、力尽き、エベレスト登頂を断念します。長い間……」
と息も継がずそこまで言った。つづけて、
「長いこと大変苦労をかけまして、申し訳ありませんでした」
と、言いきった。ベース・キャンプではしばらく沈黙していた。いや、私にだけそう思えたのだったかも知れない。
「山では絶対に死んではならない」
私はもう一度自分の心の声に耳をすませていた。気持は落着いていた。
ネパール政府の期限はまだ三日残っていたが、全キャンプを引き揚げた。私はこれでいいんだと思った。竹中君の遺骨の灰をクーンブ氷河の末端、トウクラの丘の上に理めた。そしてエベレストヘ向けて墓石を積んだ。
「これですんだ」
私には、何か一つ、いま幕が下りたのだと感じられた。体の奥深く、虚脱感と痛みが残った。
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エベレストの魅力と南極の夢
エベレストに登頂したという経験は、その人間を幸福にするか不幸にするか。
なぜこんな問いを発するかというと、私は山といえばエベレストのほかは考えられなくなっているからだ。といって、ほかの山に登らないわけではない。一九八〇年の冬期登山の前にも、隊員と一緒に、南米のアコンカグア(六九六〇メートル)に登った。南米の七月は真冬で、山の上はマイナス三十度、風速二〇メートルの突風が襲い、簡単に登れたわけではない。三目目のトライでやっと登頂できた。しかも、地球の裏側からやってきたというので、アルゼンチンの軍隊が好意をもって迎えてくれ、山岳部隊がベース・キャンプまでの荷物の運搬、補給、通信事務を支援してくれた。そういう思いがけない協力によって、初めて私たちは登頂できたのである。また、このことが機縁となって、私の宿願の南極への道が開け、一九八二年一月から私は犬と犬橇をもって、アルゼンチン軍のサン・マルティン南極基地に入ることになった。
そのアコンカグアだが、この山は私にとってどこまでも冬期エベレストのための訓練の場でしかなかった。こういう言い方は、よほどうまい説明がないと誤解のもとになるだけだが、例えばエベレストをいったん知った人間は、隣のローツェ(八五一一メートル)に登ろうという気持は湧いてこない。ローツェだけでない。世界第二峰のK2(八六一一メートル)にせよ、カンチェンジュンガ(八五九八メートル)にせよ、登ろうという気はしない。言われるまでもなく、エベレストだけが山ではないし、難易度ということになればもっとむつかしい山はいくらでもあろう。しかし、こんなことを言えば、ヒマラヤに向けて一生を賭けている登山家には失礼になるが、私にはエベレストによって地球上第三の極点の魅力を見てしまったという気持が強いのである。
いろんな山ということになれば、私は日本の山だってろくに知らない。だから自分でも言い方は気をつけているつもりだが、私にしてもエベレストヘ登頂できたのは日本山岳会による一九七〇年の一回きりだ。その後は国際隊によっても、日本冬期登山隊によっても失敗した。だが私にとってのエベレストは成功も失敗も越えている。そこへ向けて新しいものを見つける、新しいことをつけ加える、そのための努力がすべてであり、そういう対象であることが、私にとってエベレストの魅力のすべてなのである。
生意気なことを言いながら、私は同時に自分の山に対する無力さをも痛感している。K2もノー、カンチェンジュンガもノーと偉そうに言うのは、私にそこまで登る技術がないからで、その裏返しの表現と解されても致し方ないだろう。
一言で言うと、山というのは、人それぞれに自分の山登りが出来ればそれがいちばんだと思う。人にあの山はいいとすすめられて登っても、その山の本当の良さは見つけられないかも知れないし、その山がその人にとって良い山だったかどうかもわからない。どの世界、どの道もそうだろうが、山というものは結局、自分で見つけていくものであろう。
私にとって、良い山というのは一つの極限を意味しているといってもいい。私が何度もエベレストヘ行ったのは、登りたい、頂上に立ちたい、という欲望もむろんあったが、国際隊のときには日本山岳会隊が手こずった南壁にもう一度挑みたかったからだし、冬山登山隊の場合は一月のいちばん厳しい状態の中で登頂に挑むというところに何ものにもかえがたい魅力があったからだ。そういう極限の中での発見が、私にとっては新しいものなのである。
ふり返ってみると、私は無性に山に登りたくて、初めは尻に火がついたように急いだのである。早くどんどん登らねば一生のうちに世界の山々をとても登りきれないと思った。それが無一文で日本を飛び出させたいちばん大きな理由だった。アルプスのモン・ブランでは最初に足を踏み入れた氷河で、ヒドン・クレバスに落ちて宙吊りになった。あのとき這いずり上がれなかったら、その後の私はなかったのだ。そのほか山のために死ぬほどの目に遭った。アメリカではブタ箱に入れられ、ケニヤでは野獣におびやかされた。何人もの仲間が死に、凍傷にかかり、私の前から去って行った。すべて悲しい思い出である。
あるときは人に負けたくない気持から、仲間にたいしても対抗意識を燃やした。娑婆の人間社会のような足の引っ張り合いや、えげつない|謀《はか》りごとがないのが救いだが、しかし、この競争心は私だけに特有なものだったのだろうか。人が新しい山を開いたと聞けば、そこから数メートルも離れていないコースでも、何とか趣向を変えて登り、おれは新しいコースを登ったのだと思おうとした。それは山への|醍醐味《だいごみ》というよりあらわな競争心以外の何ものでもなかった。AグループがB峰へ行けば、Cグループは負けじとD峰へ行く。これは日本の登山界だけの話ではないだろう。現に日本山岳会が南壁登攀を打ち出したとき、国際隊はすぐその二番手についたのだった。そして、そういう競争によって世界の登山水準が目に見えて向上したことも否めない。
それではその競争とは何なのだろう。
エベレストの登頂にしても、イギリス隊は一九二一年から登頂までに九回の遠征を行なった。しかも登頂に成功する前年の一九五二年に、それまでイギリス隊が初めて到達したウエスタン・クームの先を、スイス隊がさらに伸ばして東南稜から八五九五メートルまで登った。一九五三年、ヒラリーとテンジンはその東南稜をさらにたどって頂上に達したのである。こうした競争の|熾烈《しれつ》さ、ダイナミックスを考え合わせると、山に登るという行為は、登頂記録でも登頂者の名誉でもなく、そんなものはちっぽけなものにも思え、真の意味はもっと別のところにあるようにも思えてくる。
しかしこの問題は、競争はだめ、山を愛するなどということは子供だましだ、単純なスポーツとはちがう……とあれこれ条件をつけていっても答えはなんにも出てこないだろう。第一、私自身一緒にザイルを結びあって登っていく同志にたいしてもライバル意識をもったことを告白する。同時に、中国の招待でチベットヘ行ったとき、北極からいきなりエベレストの裏側に来てみて、ああ、山はいいなあと思ったことも告白する。山というものを窮屈に考えることはないのだ。山に向かって競争するのも、山の自然を愛するのも、山をスポーツの対象、あるいは哲学や学術の対象とするのも、それはそれでみんないいのではないかと思う。
したがって、山に登りたいと思ったときには登ればいいし、登りたくないと思えばやめればいいということにもなろう。
さて、私も人相応に年齢を重ねてきたし、出来ればもっと重ねていきたいと思うが、近ごろ感じるのは、経験の一つ一つが、ずいぶん時間のたったいまごろになってひょいと帰ってきて、私を勇気づけてくれることだ。
私が十年近く北極で犬と一緒に暮しながら思ったことは、結局、人間は一人だなあということだった。しかし一人で暮しているとき、改めて大勢で登ったあの山この山での人間同士の協力のありがたさを噛みしめたものであった。私がこの先一人で世界の極限をめざして生きていけるのは、私に山があり、山の友人がいるからだともいえよう。
さて、いま私をとらえているのは新たな南極への一人旅である。海である北極と違って、大陸である南極は想像を絶するむつかしいところだと思っている。北極には七年いて、北極点への遠征が実現したが、さて、今度はどうなることか。初めての南極では、また犬の訓練、犬橇技術の向上、その他その他の難問を最初からやり直しすることになる。だが、そうした困難の彼方に、南極横断、南極最高峰ビンソン・マシフ(五一四〇メートル)の登頂という夢の実現が虹のように見えている。
いまの私はK2やカンチェンジュンガより、ビンソン・マシフを選ぶ。いやもう選んだのだが、その前途にあるものといえば、氷また氷、ブリザードの中の酷寒と孤独のみである。その南極の氷原をどこまでもどこまでも進むのだ。どこまで進めばいいのか。その答えは南極の極限のみが知っていることだろう。
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あ と が き
厳冬期エベレスト登頂に失敗したにもかかわらず、山の本を出版してくださるという文藝春秋の好意に甘えて、この十二年間にわたるエベレストと私のかかわりのすべてを書いてみた。
執筆にあたり、十年前の資料、日記を取り出して読み返したが、その頃から「南極」という言葉がとび出してくる。私の南極の夢はエベレストをめざすさ中に生まれ、ずっと私から離れることがなかった。その夢が今度ついに実現に向かって一歩ふみ出す。思えば感無量である。この本が出版される頃は私は南極にいることになるが、エベレストの体験、北極での苦労が、新たな困難の中で私を支え、奮い立たせてくれることを願うばかりだ。
ひとつの旅が終わると、さらに次の行動にわが身を追いこんでいく。この性分はなおりそうもない。ただ最近は、旅を重ねれば重ねるほど、満足する度合がうすくなっていくように感じられるのは困ったことだ。
原稿を書くということは山登りより苦しい。私にとっては、岩を相手に、氷を相手に格闘しているほうがはるかに楽である。正直言って、私はこの本を書いている間に、目前の原稿用紙から逃げだしたいと、何百回思ったか知れない。だから、この本をどうにかまとめることができたのは、ひとえに出版部の小嶋一治郎さんの根気によるものである。私が南極へ出発したのち、読みにくい生原稿、ゲラ刷りの校閲をお願いした土肥正毅先輩のご好意とともに、記して厚くお礼申し上げます。なお冬期エベレスト遠征の際、ご支援いただいた車両競技公益資金記念財団はじめ多くの企業にたいして感謝いたします。
一九八二年一月二十三日南極出発の前夜
[#地付き]植村直己

エベレスト年表
1852年
世界最高峰と確認される。
1855年
「ピーク15」といわれていたが、インド測量局長官として功績のあったG・エベレストの名をとり、エベレストと命名。地元民はチョモランマと呼ぶ。
1921年
英国偵察隊(C・K・ハワード・バリー隊長)北方ルートから入り、マロリーらノース・コル(6985メートル)に登る。
1922年
英国第2次隊(C・G・ブルース隊長)8225メートルに達す。ポーター7人雪崩で死亡。
1924年
英国第3次隊(E・F・ノートン隊長)のノートン、酸素なしで8572メートルヘ。マロリーとアービン最終攻撃から帰らず。彼らが頂上に達したかどうかは永遠の謎となる。
1933年
英国第4次隊(H・ラトレッジ隊長)8570メートルに到達。マロリーらのピッケル発見。
1934年
英国人M・ウイルソン、飛行機による単独登山を計画。不許可となったため徒歩の非合法登山を敢行したが、東ロンブク氷河で凍死。
1935年
英国第5次隊(E・シプトン隊長)ノース・コルまで。偵察が目的だった。
1936年
英国第6次隊(H・ラトレッジ隊長)モンスーンが早かったのでノース・コルまで。
1938年
英国第7次隊(H・W・ティルマン隊長)8290メートルヘ。
1947年
カナダ人E・L・デンマン、非合法の単独登山に失敗。
1950年
戦後チベットからの北方ルートは閉鎖されたので、米国人C・ヒューストンら初めて南側のネパールから入り、アイス・フォール偵察。
1951年
デンマーク人K・ベッカー・ラルセン、南からチベットに入る非合法の単独登山に失敗。
英国隊(E・シプトン隊長)南方ルートからアイス・フォールを突破、ウエスタン・クームに入る。E・ヒラリーも参加。
1952年春
スイス隊(E・ウイス・デュナン隊長)のR・ランベールとテンジン・ノルゲイ8540メートルへ。
1952年秋
スイス隊(G・シュバレー隊長)8100メートルヘ。ソ連隊北方ルートで6人遭難(未確認)。
1953年
英国隊(J・ハント隊長)のE・ヒラリーとテンジン・ノルゲイ5月29日初登頂。
1954年
標高はこれまで8840メートルとするものが多かったが、公式に8848メートルとされる。
1956年
スイス隊(A・エグラー隊長)が5月23、24日の2度にわたって4人登頂。
1960年
インド隊(G・シン隊長)8625メートルまで。
中国隊(史占春隊長)北方ルートから5月25日3人登頂。
1962年
インド隊(J・ディアス隊長)8717メートルへ。
1963年
米国隊(N・ディレンファース隊長)5月1日2人、5月22日初の西稜からを含め4人登頂。
1965年
インド隊(M・コーリ隊長)5月20、22、24、29日の4回、計9人登頂。
1969年春
日本山岳会第1次偵察隊(藤田佳宏隊長)ウエスタン・クームから南壁偵察。
1969年秋
同第2次偵察隊(宮下秀樹隊長)未踏の南壁試登、8000メートルヘ。
1970年
日本山岳会隊(松方三郎隊長)5月11日松浦輝夫、植村直己、5月12日平林克敏、チョタレイ登頂。
1971年
国際隊(N・ディレンファース隊長)5月南壁の途中で失敗。
1973年
イタリア隊(G・モンジーノ隊長)が5月5、7日の2度にわたって8人登頂。
日本第2次RCC隊(水野祥太郎隊長)の石黒久、加藤保男が10月26日、ポスト・モンスーンの初登頂に挑んで成功。南西壁は登頂できず。
1975年
日本女子隊(久野英子隊長)の田部井淳子とアン・ツェリンが5月16日に登頂。田部井は女性初。
中国隊(史占春隊長)が5月27日9人登頂。
英国隊(C・ボニントン隊長)が9月24、26日に5人登頂。そのうち24日のD・スコットとD・ハストンは南西壁ルートから初登頂。26日のM・バークは単独初登頂後行方不明。
1976年
英・ネパール陸軍合同隊(T・ストリーザー隊長)が5月16日2人登頂。
米国隊(P・トリンブル隊長)が10月8日2人登頂。
1977年
韓国隊(金永棹隊長)が9月15日2人登頂。
1978年
オーストリア隊(W・ナイルツ隊長)が5月3、8、11、13日にかけて9人登頂。8日のR・メスナーとP・ハーベラーは無酸素初登頂。
西ドイツ隊(K・ヘルリヒコッファー隊長)が10月14、16、17日に合計12人登頂。
フランス隊(P・マゾー隊長)が10月15日4人登頂。
1979年
ユーゴスラビア隊(T・シュカリヤ隊長)のJ・サブロトニクとA・ストレムフェリが5月14日に西稜直登ルート初登頂。
西ドイツ隊(G・シュマッツ隊長)が10月2日3人登頂したが、下山途中で凍死。
1979年秋
日本山岳会が中国側の協力を得て北方ルートに偵察隊を送る。
1980年
ポーランド隊(A・ザワダ隊長)のレゼク・チヒとクルツィシュトフ・ビエリツキが2月17日に厳寒期初登頂。
日本山岳会隊(渡辺兵力隊長)が北方ルートから挑戦。5月3日北東稜から加藤保男が単独登頂。10日北壁から尾崎隆、重広恒夫が初登頂。
オーストリア人R・メスナーが8月20日北方ルートから無酸素で単独登頂。
1981年
日本冬期隊(植村直己隊長)1月登頂成らず。
日本明治大学隊(中島信一隊長)が5月20日8750メートルまで。
米国医学調査隊(L・ライカート隊長)の2人が10月21日登頂して、心肺機能調査を行なう。東壁は失敗。
1982年
中国解放軍が4月高度8848・13メートルと測定。
ソ連隊(E・タム隊長)が南西壁の未踏ルートより5月4日E・ムイスロフスキー、V・バリベルジンの2人で初登頂。9日までの間に計11人登頂。
東京・イエティ同人隊の加藤保男隊長が12月27日、初の厳冬期単独登頂を果たしたが、同行の小林利明隊員ともども遭難。加藤は春、秋、冬の3シーズンに成功した初の登山家となった。
1983年
東京・イエティ同人隊の吉野寛(隊長)、禿博信、遠藤晴之が10月8日無酸素登頂したが、吉野、禿の2人は遭難。
同月同日、山学同志会隊の川村晴一隊長と鈴木昇巳隊員が南稜より無酸素登頂。
カモシカ同人隊(高橋和之隊長)の山田昇、尾崎隆、村上和也の3隊員とシェルパ1人が12月16日登頂。
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[#地付き]
地図 高野橋 康
写真 植村 直己
相沢 裕文
木村 勝久
阿久津悦夫
設楽 敦生
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単行本
昭和五十七年七月文藝春秋刊
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文春ウェブ文庫版
エベレストを越えて
二〇〇二年十月二十日 第一版
著 者 植村直己
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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bb021003