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鹿島 茂
セーラー服とエッフェル塔
目 次
SMと米俵
出世牛
セミとキリギリス
ビデ
皮と革
他人のくそ
由緒正しい戦争
フロイトと「見立て」
牛肉食いvs.カエル食い
売られたエッフェル塔
消えた便所
愛とはオッパイである
長茎ランナウェイ学説
ナポレオンの片手
情死はソフトの借用?
平均顔
ウソは夢を含む
セーラー服の神話
緑の妖精
黙読とポルノ
「グサッ」と聖性
贋作の情熱
パリの焼き鳥横丁
「男」はつらいよ
ティッピング・ポイント
紅茶vs.珈琲
単行本あとがき
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SMと米俵
私の悪癖のひとつに、やたらに仮説を立てたがるというのがある。なにかを見たり聞いたりすると、それがどのような原因で、どのような経路をたどってそうした状態に立ち至ったのか、自分と縁もゆかりもないことなのに、想像力を働かせて、因果関係を推測して、整合性を求めたくなるのである。
これを話すと、たいていの人は、結構なことじゃないですか、それこそまさに鹿島さんの知の原動力じゃないですかといってくれるのだが、実際には、それほどほめられたことではないのだ。なぜかというと、この仮説癖が、じつにじつにくだらない事象にまで発揮されてしまうからだ。
例をあげよう。その昔、神田の芳賀書店で、団鬼六氏監修の緊縛写真集を見たとき、私は、そこに展開されている亀甲縛《きつこうしば》りというものにいたく好奇心を刺激された。といっても、誤解のないように言い添えておけば、私の好奇心というのは、性的興奮ということではいささかもない。私は、残念ながら、Sっ気もMっ気もまったくない、いたってノーマルな人間なのだ。
私が好奇心をかきたてられたのは、亀甲縛りという縛り方そのものである。いったい全体、なんでこんな複雑で面倒臭い縛り方をする必要があるのだと、SM本来の「目的」を逸脱したその「手段」の過剰さに、例の仮説癖が反応したからである。
M女を縛って自由を奪うということだけだったら、手足の拘束だけで十分なはずではないか? 事実、SMの他の本には、亀甲縛りではない普通の拘束のポーズも載っている。また、外国のSMには、こんな拘束の仕方は絶対にありえない。第一、外国人は手先が不器用だから、こんな複雑怪奇なかたちに縄をめぐらせるなどということができるわけがない。そこで、導きだされる第一の仮説。
「亀甲縛りは日本独特の文化である」
だが、この仮説だけでは少し不足している部分があるように思う。そこで多少補って、第二の仮説を立ててみよう。
「亀甲縛りは、日本の一部にある伝統・習慣を反映したものである」
というのも、日本のSM文化の全部が全部、緊縛を旨とする亀甲縛り系統ではないことは明らかだからである。それは、SMを歴史的に跡づけてみればすぐにわかる。亀甲縛りは、歴史のある一時期から出現したものなのだ。
しかし、この第二の仮説に深入りするには、まだ資料が少なすぎる。とりあえず、第一の仮説「亀甲縛りは日本独特の文化である」の証明から始めてみよう。
この第一の仮説というのは案外簡単に証明できる。なぜなら、欧米系のSMには縄とか紐という要素は、ほとんど登場しないからである。欧米系SMの主要な要素は、「革」と「鞭」であり、縄や紐では決してない。すなわち、M女を拘束するのは、囚人用の手かせ足かせに似た「革」製の拘束具であり、このM女を、同じく「革」製の鞭で打ちすえるというのがSMの基本である。ひとことでいえば、欧米系SMの基本グッズは、「革」を主体とする動物系であり、繊維から作った縄・紐の植物系ではない。
これは、遊牧民が土着して作った家畜中心の文明である欧米文化と、農耕中心の日本文化との根本的なちがいといえる。つまり動物文明の欧米文化は、SMにおいても動物系であり、植物文明の日本文化はSMにおいても植物系だということである。
だが、この議論はいかに説得的に見えても、その実、SMの本質を大きくはずしている。唯物論的にすぎるのである。SMというおよそ脳髄的なセックスを説明するのに、その上部構造(精神)を無視して、下部構造(物質)にのみこだわっているからだ。すなわち、動物系の欧米では、SMに革が採用され、植物系の日本では縄が使われたという議論は、そこにはたらく精神の動きというものを見ずに、あまりに物質的規定にとらわれているのではないかということである。SMとは、なによりもまず精神の動きであるという事実を確認しておかなければならない。
ではあらためて問おう、欧米のSMと、日本のSMはいかなる精神の反映であるかと。
欧米のSMは、なにを参照対象にしているのか? これは非常にはっきりしている。
Mは馬、Sは御者である。つまり馬具でギチギチに拘束されて自由を失った馬を、御者が革の鞭で思うさまにひっぱたくというあの絶対的支配・絶対的服従のイメージが、セックスのファンタスム(幻想)に投影されているのだ。Mの衣装が、どれをとっても馬の拘束具に似ている一方、Sの基本アイテムが鞭だけというのは、いかにも象徴的である。欧米SMでは、Mになるとは馬になることを意味しているのである。
では、日本SMの縄のファンタスムはいったいどこから出てきたのだろうか?
これが意外にわからなかった。というのは、家畜文化でない日本には馬と人間のような歴然とした支配・服従の関係を見いだすことができないからだ。それでも私はひそかに第三の仮説を立てていたのだが、それはあまりに突飛なものなので、公言するのが憚られた。
ところがあるとき意外なところにヒントを見いだした。コラムニストの中野翠さんが着付けをされたときの体験から女性のM感覚というのは、キモノを着たとき伊達《だて》巻きやら帯やらでギュウギュウに縛られることの快感に通じているのではと指摘していたのである。そうか、日本のSMというのは、キモノと帯に原点があったのか。私の考えていた仮説とは少しちがったが、どう見ても、こちらのほうが正しそうだ。
そこで、「月刊プレイボーイ」で団鬼六さんと対談したときに、日本SMキモノ説をぶつけてみた。すると、予想通り、団さんのSM小説に関してはそれが正解ということがわかった。この対談から少し引用させていただく。
「鹿島 原点は帯と伊達巻きですか。
団 小町娘の腰紐をきゅっきゅっと雲助がひっぱって脱がしていく。あれに感じたものです」
団さんは、さらに、これを補足して、自分のSM美学は、亀甲縛りのようにガッチリと縛ってしまうタイプの縛りではなく、ソフトな縛りの落花狼藉《らつかろうぜき》の美学にあるという。
「団 おっしゃるように日本のSMは帯。豆絞りの猿ぐつわをしたところに黒髪がはらりと流れるエロティシズムです。西洋の猿ぐつわはギャグといって、革でしかも玉がついているから声がでない。反対に声が出ないよう猿ぐつわをしたところで、何かの拍子でゆるんで『助けてーっ』と声が漏れるのが何ともいえん日本のエロティシズムやと思うんです」
団さんによれば、日本のSMの縛りを担当する緊縛師には二つの流れがあって、団さん好みの浪漫的でソフトな縛りをしたのは、大阪でSM雑誌の走りである「奇譚クラブ」を創刊し、東京では「裏窓」の編集長になった美濃村晃一氏であるという。美濃村晃一氏は、責絵の絵師伊藤晴雨の弟子で、みずから喜多令子のペンネームで叙情的なSM画を描いていた。
これに対し、M女にキリキリと縄かけて亀甲型に緊縛してしまうタイプのハードな縄師は、大阪でその名を知られた辻村隆氏である。
「この両人の縛りには根本的な違いがある。一口にいうなれば辻村さんは縄のリアリストであり、美濃村さんは縄のロマンチストという事になる。辻村さんは客観的であり、美濃村さんは主観的であった。辻村さんは縄によって残酷をひっぱり出そうとするが、美濃村さんは官能をひきずり出そうとする。
だから、緊縛構図でいえば辻村さんはハードの巨頭であり、美濃村さんはソフト派の巨頭であった」(団鬼六『蛇のみちは──団鬼六自伝』幻冬舎アウトロー文庫)
なるほど、これである程度は理解できた。団=美濃村のソフト派のイメージの原点にはキモノの美学があるわけだ。
だが、それでは、ハード派の辻村隆氏の亀甲縛りの原点にあるものはなんなのか?
これが、私が最後に突き当たった大きな疑問であった。というのも、辻村的な亀甲縛りの縄は、あきらかにキモノの帯や伊達巻きとは出自を異にしているように思われたからだ。
このキモノ説の行き詰まりに遭遇したとき、私の脳裏に再び浮かんできたのは、いったんは撤回してしまったあの第三の仮説である。ええい、笑われるのを覚悟で思い切って言ってしまおう。
「亀甲縛りの原イメージとは米俵である」
そう米俵である。いくらなんでもそんな色気のない、と言うなかれ。女体のような円筒形の物体を力学的かつ合理的に縛る縛り方といったら、あの米俵の縛り方しかないのではないか? それに米俵というのは、あれはあれでなかなかエロティックなものなのだ。どこにエロティシズムがあるかというと、縄でキリキリと締め上げられて、少し凹み、そのことで逆に丸みを帯びたあの部分である。江戸時代には、この米俵が貨幣単位となり、豊饒の象徴となっていたのである。
しかも、ここには馬と人間という支配・服従の関係とはまったく別の関係がある。それは、縛ることで、本来はアモルフ(不定型)な米(女体)にきっちりとしたかたちを与え、モノとして客体化するという関係である。緊縛することで女性から個性を奪い、事物化、客体化するというのが日本的ハードSM、亀甲縛りの本質なのである……。
と、本当に埒《らち》もない、世にもくだらない仮説をもてあそんでいい気になっているとき、偶然、手にした下川耿史氏の『極楽商売──聞き書き戦後性相史』(筑摩書房)の一節を読んで仰天した。私の「亀甲縛り=米俵」説はかなりいい線まで行っていたのである。
「当時『奇譚クラブ』関係者で女性を縛ることができるのは辻村さんと須磨(鹿島注:美濃村氏と同一人物。おそらく美濃村氏の本名)さんしかいなかった。陸軍の輜重兵《しちようへい》として武器や食糧などの運搬にあたっていた辻村さんは役目柄、物の縛り方のベテランとなり、女性の縛り方にも兵隊時代の技をいかした。一方の須磨さんは海軍の出身だが、こちらは甲板などに貨物を積んで縛っておく技術を応用した。陸軍流はガッチリと、決して物が動かないように縛り、海軍流は船が嵐や敵に遭遇して沈没しそうになった時を想定して、一カ所をポンとゆるめると、たちどころにほどけるような結束法である。結びの思想が違うように結び目や結んだ形も違う。SMという性の夜明けは、旧陸軍と海軍の伝統によっていたのである」
やはり、そうだったのか。辻村氏が陸軍輜重兵として扱っていた最大の品目はまちがいなく米俵だっただろう。もしかすると、辻村氏は米俵を緊縛しながら、そこに女体の幻影を見ていたのかもしれない。亀甲縛りの原点が米俵にあるという私の仮説はまったくの見当はずれではなかったのだ。
時として、こういうことがあるから、仮説立ての遊びはいつになってもやめられないのである。
[後記 本書が出て三年余りたった今年(二〇〇四年)の一月、オサダ・ゼミナールを主宰しておられる緊縛師の長田一美氏から次のような文面の手紙を受け取った。年末、テレビ朝日から縛りに関して、「へェー」と驚くような話はないかと尋ねられたので、亀甲縛りのルーツなどはどうかと提案し、それは「行李」結びだろうと答えたところ、テレビ局員から『セーラー服とエッフェル塔』のこのエッセイを示され、次のように言われたという。
「亀甲縛りのルーツは米俵であろうという記述があるので、私に亀甲縛りのルーツは米俵であると言って欲しいと云われました。少しでも縛りをやったものなら誰でも米俵と亀甲縛りでは縄のかけ方が異なるため、全く違ったものだと感じる筈なので、それでは私の緊縛師としての立場がないと主張もしましたが、大学の先生が書いているという権威、この本に書いているためTV局としてはこの件のクレームが来たら、先生の著書を根拠にするとのこと、映像的には行李より米俵の方が一般に知られているためインパクトが強いとの理由により(中略)亀甲縛りのルーツは米俵という話が一月二日二五時からの番組で放映されてしまいました。ですが……縛り方の順序からして、米俵と亀甲縛りは全く別のものであるといわざるを得ないということを申し上げておかなければと思いペンをとった次第です」
まったく、ひどい話といわざるを得ない。テレビ朝日の連中はおそらく「仮説」という言葉の意味を知らないのだろう。仮説とはいまだ証明されざる仮の説ということである。私が亀甲縛りのルーツは米俵であるなどと断定してないことは読めばすぐにわかるはずである。あくまで見当はずれではない仮説と言ったにすぎない。
しかし、私にも落ち度がないわけではない。亀甲縛りのルーツは陸軍輜重兵の縛り方にあるという点までは突き止めたが、「陸軍輜重兵として扱っていた最大の品目はまちがいなく米俵」という補助線を導入したため、正解からはずれてしまったからだ。たしかに、行李もまた陸軍輜重兵の主要取り扱い品目の一つだったのである。本来なら、ここで縛りの専門家の意見を聞くべきところだったのだが、近辺にそんな人はいなかった(だれだってそうだ)ので、仮説をそのまま記してしまったという次第である。
というわけで、ここで、あらためて長田氏の指摘を受け止めて、喜んで、修正を行いたい。亀甲縛りのルーツは米俵ではなく行李であろうと。
なるほど、そういわれて見れば、行李結びを原点とする亀甲縛りというのは、女性にガチガチに縛られているという羞恥の念を喚起しはするが、痛みという点ではこれを与えないようになっている。
とすると、ここから、日本のSMの特徴は、痛みではなく羞恥であるという仮説が生まれるが……。
まあ、これぐらいにしておこう。仮説遊びは、本書でこれから飽きるほど行われているのだから]
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出世牛
先日、田園都市線に乗っていたら、同じ電車なのに、田園都市線→新玉川線→半蔵門線と都心に近づくにつれて路線名が変わった。こういうのを私は出世魚になぞらえて、「出世電車」と呼んでいる。同じボラが成長するにしたがって、スバシリ→イナ→ボラ→トドと呼び名を変えるのと似ているからだ。最近では相互乗り入れの影響か、こうした「出世電車」も増えているようだ。
それで思い出したのだが、ヨーロッパでは、出世魚ならぬ「出世牛」「出世羊」「出世鶏」というのがある。たとえば、フランス語では牛はこんな具合に出世する。
「生まれてから一年は veau《ヴォー》 と呼ばれ、それから bouvillon《ブヴィヨン》 と呼ばれる。ついで雄牛 taureau《トロー》、雌牛 vache《ヴァッシュ》 となるのだが、雄牛は去勢 chatrer されて boeuf《ブッフ》 となる。雌牛は子を生むまでは本来は genisse《ジェニス》 という。五歳から十歳まで働き盛りであり、十二歳になると労役から解放し、食肉とするために太らせようとする。最近は自動車の発達でもっぱら食用とミルク用になるが、動力としてたいへん有用な動物であった」(松原秀一『フランスことば事典』講談社学術文庫)
つまり、雄牛ならばヴォー→ブヴィヨン→トロー→ブッフ、雌牛でもヴォー→ブヴィヨン→ジェニス→ヴァッシュと、それぞれ三回「出世」するわけである。これは、日本人が魚を糧として生きる魚文化民族であるのと同じくフランス人が牛を糧として生きる牛文化民族であることを雄弁に物語っている。出世○○があるところ、かならず○○文化があるのだ。
ところで、いま私は、いささか不用意に「牛文化」という言葉を使ってしまったが、厳密にいうと、これは「雄牛・雌牛文化」といいなおさなければならない。というのも、雄牛と雌牛を総括した「牛」という概念は、日常語のフランス語にはないからである(文語には bovin という言葉がある)。
これについては、一度、直接的な経験をしたことがある。フランス人の友人と車で田舎をドライブしていたとき、草をはんでいる牛を見つけたので、私が、ただ「牛」というつもりで、「ああ、あそこにブッフ(雄牛)がいる」といったら、「あれはヴァッシュ(雌牛)だ」と笑われた。「そんなに簡単に区別がつくのか」とたずねたら、「そんなこと見ればわかるじゃないか」と一蹴された。さすが、牛文化圏の人間である。なるほど、そういわれてみれば、巨大な乳房が外目にもはっきり目につく。雌牛は、乳房のために体が台形になっているが、雄牛は長方形の体型なのである。
しかし、それでもなお納得しないものを感じたので「じゃあ、ブッフとヴァッシュが混在しているときには、どっちの名詞を使うのか?」としつこく尋ねたら、フランス人の友人は一瞬考えたのち、「やっぱり、ヴァッシュだ」と言った。なるほど、フランス語では、牧草地などの「生きた」牛の集団を指す場合は、乳牛のイメージを優先させて、ヴァッシュというものらしい。
ところが、肉屋に行くと、また不思議なことが起きる。ヴォー(子牛)とブッフ(雄牛)はあるのだが、ヴァッシュ(雌牛)はない。レストランのメニューなどでも同じである。しからば、フランス人は雌牛は食べないのかといえば、肉牛用の雌牛というものもあり、乳牛も齢をとれば、殺して食べる。ただ、いったん肉となってしまうと、もとがヴァッシュでも、それはブッフ(雄牛)というものになるようだ。英語で牛肉を示すビーフ beef はこのブッフ boeuf から派生した単語である。
この二つの事実から浮かび上がってくるのは、おおよそ、次のようなことだ。
すなわち、牛に生活の多くを依存しているフランス人は、もっぱら牛を用途の面からしか見ないので、乳をとるためのヴァッシュと、肉用および役用に使うブッフを、まったく別の動物として扱う。だから、牧草地でヴァッシュの中にブッフが混在していても、それは、乳をとるために奉仕している牛という概念でくくってヴァッシュだし、またヴァッシュの肉でも、肉用ということでブッフなのである。たしかに用途が全然異なるものを、同一の概念で一括して、それに統一的な名前を与えろといっても無理な話である。
これに対して、殺生が禁じられていた上に、牛乳も天皇や大名に供する薬用としてしか用いられていなかった日本では、牛は、とりわけ西日本では農耕用の動物として使われていた。いいかえれば、日本では、牛の用途は役用に限られていたわけである。これでは、雄牛と雌牛の区別が生じるわけがない。牛は牛でしかない。
したがって、ひとまず、雄雌による名詞の明確な分化は、はっきりと用途が分かれている場合に限られると仮説を立てておくことができる。
用途によって、それぞれ雄雌が独立した名詞を要求するというこの仮説は、猫とか犬に例をとってみるとかなりの程度まで説明できる。
たとえば、雄猫と雌猫、雄犬と雌犬だ。どちらも用途(猫に用途があればの話だが)には、ほとんど区別がない。ゆえに、猫は猫、犬は犬なのだ。これは、名詞に男女の区別があるヨーロッパ言語でも、それほど変わらない。もちろん、フランス語を例にとれば、雄猫 chat《シャ》 と雌猫 chatte《シャット》、雄犬 chien《シャン》 と雌犬 chienne《シェンヌ》 の区別はあるが、総称としてはシャ chat とシャン chien を使っていっこうにかまわない。第一、外目では区別がつくはずがないから、フランス人でも、自分の飼っている猫や犬以外は、全部、男性名詞で代用している。
同じようなことは、豚についてもいえる。豚の場合も、雌豚が乳用ということはないから、雄も雌もすべて食用である。そのため、フランス語でも、雄豚の porc《ポール》 ないしは cochon《コション》 を豚の総称として使うのが普通で、特別に区別する必要のあるときにだけ、たとえば種付け用の雌豚を示すときにしか、雌豚 truie《トリュイ》 という言葉は使わない。なお、cochon には、女性名詞の cochonne《コションヌ》 というのがあるが、これは豚ではなく、もっぱら人間の女、すなわち「助平女」、「淫売」という意味で用いる。
鶏の場合は、この正反対である。なぜかといえば、雌鶏には、卵を生むというはっきりとした用途があるからだ。したがって、フランス語では、雌鶏は poule《プル》、雄鶏は coq《コック》 とまったく別の言葉を使う。牛の場合と同じく、両者を総括する名詞はなく、雄・雌どちらも総称にはならない。
それでは、日本語ではどうなのかといえば、鶏というと雌鶏のことをイメージに思い浮かべるのが普通ではなかろうか。鶏のイメージの中に鶏冠《とさか》のある雄鶏を含めて考える人はあまりいない。これは、卵は食べてもいいが鶏肉は仏教で(原則的に)禁止されていたことの影響だろう。
では、魚を糧として生きる日本人は、ヴァッシュとブッフ、プルとコックのように、用途の異なる雄・雌にちがう名前をつけるということはないのだろうか。
知り合いの魚類学者にたずねてみたら、雄のサケを形態からハナマガリと呼ぶようなことはあるが、ヴァッシュとブッフのような雌雄別名のケースはまったくないという話だった。
さて、話が「出世牛」から少しずれてしまった。もう一度ヴォー→ブヴィヨン→トロー→ブッフ、あるいはヴォー→ブヴィヨン→ジェニス→ヴァッシュという牛の出世に戻ろう。
この出世の過程で、案外重要なのは、ヴォー→ブヴィヨンの変化である。なぜかというと、牛が雄・雌問わず、ヴォーの段階、つまり一歳未満だったら、これは食べていいことになっているからである。
フランス料理に多少とも詳しい人なら知っていると思うが、フランス人というのは、この子牛《ヴォー》の肉を好んで食べる。特にブランケット・ド・ヴォーという子牛のホワイト・ソース煮込みや、エスカロップ・ド・ヴォーと呼ばれる子牛の薄切りカツレツはフランス料理の定番だ。またリ・ド・ヴォーと呼ばれる子牛の胸腺《きようせん》は炒めたり煮たりして食べるが、これは子牛にしかない部位である。なぜかというと、胸腺というのは生まれたときには大きいが、成熟すると消滅してしまうからである。
ヴォーの普通の部位は、ビーフのような匂いがなく、ピンクがかった白色で、歯ごたえも柔らかい。脂肪が少ないから味も淡泊。ソースで腕をふるうには最適の素材である。値段はというと、部位にもよるが、フランスでは意外に安く、ビーフと豚肉の間ぐらいの価格である。ビーフとちがって、育てる手間がかかっていないからである。
しかし、それはそれとして、日本では、なぜ、一部の高級スーパーを除くと、この子牛肉というのをあまり売っていないのだろうか? かわいらしい子牛を食べてしまうということが、日本人のメンタリティーに反するからなのだろうか? どうもそうではないらしい。おそらく、すき焼き、シャブシャブ、焼き肉、ステーキ、それにシチュー、カレーといった日本人の牛肉の食べ方のバリエーションの中に、ホワイト・ソースなどを多く使うヴォーの調理法が含まれていないからだろう。
と、ここまで書いてきて、ふと、アメリカやイギリスといったアングロサクソンの国にも、子牛肉(veal)を好んで食べるという習慣がそれほどないのに気づいた。もちろん、まったくないことはないが、あってもフランス料理からの輸入レシピが多く、アングロサクソン特有の子牛料理、とくに家庭料理は少ないような気がするが、どうなのだろう。
それでも、イギリス人はまだ子牛を食べる。ところが、アメリカ人に至っては、ほとんどビーフ・オンリーである。アメリカの食肉業というのは、シカゴやシンシナティのような大規模工場が多いので、扱う品目が少ないほうが儲かる。そのため、解体に手間のかかる子牛が敬遠され、ビーフだけになったにちがいない。
とすると、その影響が日本にも及んでいるということは十分に考えられる。というのも、日本の洋食というのは基本的にアメリカ経由の料理が多いからである。日本に子牛肉を食べるという習慣が根付かなかったのは、このアメリカの影響なのだろう。
しかし、このことから逆に考えると、一歳未満の子牛の肉をあえて食べてみて、それにビーフとはちがったおいしさを発見し、料理法を考えだしたフランス人というのは、やはりたいした連中だといわざるをえない。ようするに、フランス人というのは、中国人と同じく、それがなんであれ、とりあえずは食べてみることをモットーとする究極の食いしん坊民族なのである。
こんな民族だから、フランスでは、牛も豚も羊も鶏も、子供だからといって安心はしていられない。子供だからこそ食べられてしまうのである。
したがって、牛に関していえば、食べられる心配がなく、しばらく安閑としていられるのは、ヴォーの時期をすぎてブヴィヨンでいる期間だろう。辞書によると、ブヴィヨンというのは、離乳期から乳歯を失うまでとあるから、人間にすれば幼稚園から小学生までである。この時期を過ぎてしまうと、雄牛はトローになったのもつかの間、種付け牛を除いて去勢されてブッフになり、食卓に供されることになる。いっぽう、雌牛は生娘牛ジェニスとしてしばらく青春を謳歌しようとしても、無理やりトローに種付けされてヴァッシュとなり、ミルクづくりの人生を始めることになる。
となると、果たしてこれを「出世牛」と呼んでいいものか? 牛の意見を聞きたいところである。
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セミとキリギリス">[#2字下げ] セミとキリギリス
大学の授業で『ラ・フォンテーヌの寓話《ぐうわ》』を取りあげたときに、「君たちが子供のころに絵本で読んだイソップ寓話なんかでは≪キリギリスとアリ≫ということになっているけど、ラ・フォンテーヌの寓話では≪セミとアリ≫なんだよね」といったら、一人の女子学生が頓狂な声をあげて「キリギリスって、あの茶色くて小さな虫のことですか?」と質問した。
「おいおい、それはコオロギだろ」「じゃあ、茶色くて、空とぶやつですか?」「それはバッタ。キリギリスっていうのは、緑色をしていて草むらなんかでチョンギースと鳴く虫のこと。キリギリスとコオロギとバッタの区別もつかないんだね、君は」「だって、キリギリスなんて一度も見たことないんですもの」
なるほど、大都会に暮らしていれば、虫など、ゴキブリぐらいしかお目にかからないかもしれない。理科の時間にバッタの不完全変態などと習っても、現実には、バッタもキリギリスもコオロギも見たことがないのだから、正確なイメージを知らないのは当然といえば当然だ。
「じゃあ、いくらなんでも、セミは知っているよね」「セミなら知ってます」「本当かな?」「セミぐらい知ってます」「それじゃ、ためしに、黒板に絵を描いて見せてくれないか」
女子学生はセミの絵を描いたが、どう見てもゲンゴロウにしか見えない。そこで、私が模範を示そうとしたが、いざ、自分でやってみると、案外、はっきりとしたイメージがつかめないものだ。こりゃ、困った。「ほら、先生だって、描けないじゃないですか」「うーん、これは一本取られたな」
その日の夜、家に戻った私は、さっそくグランヴィルの挿絵入りの『ラ・フォンテーヌの寓話』を開いて、「セミとアリ」の話のページを開いてみた。セミの細部がどうなっているか確認しておきたいと思ったからである。
腰が抜けるほどビックリした。これだけの驚きは近ごろ味わったことがない。というのも、「セミ cigale」としてグランヴィルが描いているのは、どうみてもセミではなく、キリギリスだったからである。
これは、いったい、どう解釈したらいいのだろう。
私は、これまで「セミ」が「キリギリス」に変わったのは、ラ・フォンテーヌが焼き直したイソップ寓話が、少年少女文学全集という形で日本に入ってきたとき、なんらかの誤解が生まれて、取り違えが起こったものと考えていた。ところが、すでに、十九世紀前半のフランスで、この変容は起こっていたのである。
しかし、それにしても理解できないことがある。挿絵の虫はキリギリスだが、タイトルにはしっかりと、cigale と書いてあることだ。つまり、十九世紀のフランス人は、cigale という言葉でキリギリスの映像を思い浮かべていたのである。
では、フランス語の cigale は、セミの意味ではなく、キリギリスの意味だったのか? これはとんでもない発見だぞ、と思って十九世紀の絵入り辞書で、cigale を引いてみた。すると、ちゃんとミンミンゼミに似たセミの絵が出ていて、セミについての詳しい解説がついている。うーん、ますますわからなくなってきた。辞書のレベルでは十九世紀のフランスでも、cigale はセミと理解されていたのである。ちなみに、最新のラルースを引いても cigale の項にはセミの絵が掲げてある。
ということは、グランヴィルだけが、cigale をキリギリスと思い込んでいたということになるのだろうか? そんなはずはあるまい。なぜなら、もしそうなら、読者がすぐにでも誤りを指摘したはずだからである。やはり、グランヴィルばかりではなく、読者も cigale はキリギリスと理解していたのである。
このことは、二十世紀初頭に出たブテ・ド・モンベル挿絵の『ラ・フォンテーヌの寓話』でも確認された。やはり cigale はキリギリスかバッタのようなものとして描かれている。逆に時代を溯って、十八世紀に描かれたウードリの挿絵でも同じである。ということは、十八世紀から二十世紀まで、cigale はキリギリスなりと思いこんでいる人々が民間レベルではかなり広範に存在していたのである。
では、肝心のラ・フォンテーヌ自身はどうなのだろう。案外、誤解はラ・フォンテーヌからすでに始まっているのではなかろうか。そう疑ってラ・フォンテーヌのテクストに原文で当たってみた。睨んだとおりだった。
「夏のあいだじゅう歌いくらしたセミは、北風が吹くころには、なにひとつ食べるものがなくなった。ハエやウジのひとかけらものこっていない。そこでセミは隣のアリのところに物乞いにでかけた。次の季節がやってくるまで、麦かなにか食べ物を貸してくれないかと頼んだ。(中略)『あんた、暑いときにはなにをしてたの?』とアリはこの物乞い女に尋ねた。『夜も昼も、だれかれなしに、歌いかけていました。いけませんか』『そうなの、ずっと歌ってたのね。そりゃ、またけっこうなことで。じゃあ、こんどは、踊ったら』」
セミがハエやウジなどの小さな昆虫を食べるわけはない。それに夜も昼も鳴いていたというのもセミの鳴き方とは反する。やはりラ・フォンテーヌ自身も、cigale をセミとは理解せず、鳴く虫ということでキリギリスあたり、しかも、これにカマキリなどの食虫昆虫のイメージを付け加えていたのである。つまり、ラ・フォンテーヌの生きた十七世紀の時代から、挿絵画家だけではなく、ほとんどのフランス人が cigale をキリギリスないしはそれに類した「秋の虫」と思いこんでいたのである。
しかし、こう書いてから、そういえばあのファーブルはセミのことをどう描いていたんだろうと思い返したので、ファーブルの『昆虫記』も開いてみた。すると、意外なことに、ファーブルはラ・フォンテーヌの寓話のあやまりを指摘しているが、それは、セミが冬まで生きているはずはないし、セミが麦を乞うたり、アリの集めたものを食べるわけがないという類のリアリズムの批判で、セミは決して怠け者ではないと反論して、詳しくセミの生態を描いているのである。つまり、ファーブルはラ・フォンテーヌが cigale をセミでない他の「秋の虫」と理解していることには気づいていないのだ。
うーん、これは何重にも捩《よじ》れた誤解がありそうだぞ。要約すると、ラ・フォンテーヌやグランヴィルをはじめとする相当多くのフランス人が、cigale のことをセミではなく、キリギリスに類した草むらの虫と思いこんでいる。なのに、cigale はセミだと知っているファーブルは、その誤解に気づいていない。これはいったいどういうことなんだ?
こうした疑問にさいなまれているとき、大学の先輩でフランス語の先生をしている大矢タカヤスさんから『バイカルチャーものがたり』(近代文芸社)というエッセイ集が寄贈されてきた。日本人のフランス文学研究者(大矢さん)とフランス人の日本文学研究者(奥さん)の間に起きるカルチャーショックを描いたおもしろい読物だが、「虫」と題された最初のエッセイを読んでアッと叫んだ。そこにはこんなことが書かれていた。
「われらが新居はいわば住宅地とキャベツ畑の境界に位置しており、敷地内にも白樺などの木が植えられていて、草も生えている。それで季節は秋、となると夜は家の中にいても虫の音がよく聞こえて来る。そんな時に妻が『蝉《シガール》!』と言ったのである。私は初め何のことかよく分からなかった。暫くしてようやく外から聞こえる『リーン』とか『ジージー』という音のことだと理解できて彼女の愚かさをわらった。『こんな時刻に蝉が鳴くわけがないだろう、あれは虫だよ、虫』と言っている内にふっとある光景が私の胸に浮かんで来た」
どんな光景かというと、真夏の真昼時に、パリ近郊のシャンティイーの森にピクニックに行ったときに出会った、しんと静まりかえっていた音のない光景である。フランスの、それも北フランスの森にはセミがいないのだ。だから森は静寂に包まれているのである。
そう思った大矢さんは、私とまったく同じように『ラ・フォンテーヌの寓話』の挿絵を見て、そこに描かれている cigale がコオロギかゴキブリにしか見えないことを発見する。そして、そこからバルザックやサガンの小説に出てくる cigale が茂みの中や川原の足元で鳴いていたことを思い出す。ようするに、パリを中心とする北フランスにはセミはいないので、この地域出身の作家は、cigale というと、キリギリスやコオロギのような日本の「秋の虫」のイメージを思い浮かべるのである。ちなみに、ラ・フォンテーヌは北フランス、シャンパーニュ地方の出である。
なるほど、これで謎は解けた。同じフランスでも、ラ・フォンテーヌの北フランスにはセミはいないが、ファーブルの南フランスにはセミはいる。ところが、ラテン語で「鳴く虫」という意味の cicada がフランス語に入ってきて、これが言わば機械的に cigale となったため、同じ言葉が、「鳴く虫」という点では同じでも、実際にはまったく違う昆虫をさすに至ったのだ。しかも、二十世紀の後半になるまで、南北の交流はあまりなかったから、お互いに cigale が別のものをさしていることに気づきもしなかったのである。
ただ、それでも、ひとつだけ疑問が残る。ラ・フォンテーヌないしはイソップの寓話が日本に入ってきたとき、どういう経緯で cigale がセミではなくキリギリスになったのか?
第一の仮定。安土桃山か江戸時代の初め、ないしは明治時代に、ラ・フォンテーヌがアダプトしたイソップ寓話が翻訳されたとき、それを日本人と共同で翻訳したフランス人の神父かなにかが北フランスの出身で、cigale といって、キリギリスの絵を描いた。それを見た日本人の翻訳助手が cigale はキリギリスであると理解した。
第二の仮定。挿絵本から寓話の翻訳を行った日本人の翻訳家が、挿絵本に描かれているキリギリスを見て、「cigale=キリギリス」と単純に解釈した。
答えは、『伊曾保物語』の異本をすべて当たって、それを『ラ・フォンテーヌの寓話』の原本と引き比べ、さらに明治期の『ラ・フォンテーヌの寓話』の翻訳についてもこれをやらなければ出てこないだろう。
ただ、いずれにしても、「cigale=キリギリス」という誤解が日本側のフィルターにではなく、フランス側のフィルターにすでにあったことは紛れもない事実である。しかも、その誤解が、大矢さんの言葉を信じるなら、過去ばかりでなく、現在も引き継がれているわけだから、これからは、フランス語で、cigale が出てきたときには、これを「キリギリス」と訳さなければならないケースもあるわけだ。
これはちょっとした発見である。
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ビデ
明治から大正にかけてフランスに渡った日本人の滞仏日記の類を調べると、ハンで押したように、ホテルの部屋になにやらわけのわからないものがあったという記述にぶつかる。便器のような形をしていて水が流れるが、便器は別にあるのでいったいなにに使うものなのかわからない。顔でも洗うのかとも思うが洗面台は別にある。いったい、これはなんなんだというのである。
もちろん、ビデのことである。このビデに関しては『クラウン仏和辞典』(三省堂)に傑作な定義が出ているからこれを掲げておく。
「bidet @ビデ(またがって局部を洗う洗浄器)A小さな乗馬馬」
他の仏和辞典には「女性用局部洗浄器」としか出ていないのに、ここではわざと五・七・五と音をそろえて洒落のめしている。編者が関西の人だからかもしれない。
それはさておき、ビデについては私自身もいろいろと思い出がある。
ひとつは、当時二歳の長男を連れてパリに行ったとき、「これなに?」と聞かれて説明に窮したことである。「たぶん、これは子供がオシッコをするときのためのものだよ」と答えたら、「じゃあ、ウンコはこっちのトイレでするの? だったら、オシッコもいっしょにすればいいじゃない」と鋭く突っ込まれて、「うーん、それはそうだね」としか答えられなかったことを覚えている。
このとき返事に困ったのは、じつは、こちらにビデとは性交後に女性が局部を洗浄するものという思いこみがあったからだが、そのうちに、いやこれはちょっと違うぞ、と考えを改めるようになった。というのもモンペリエに研修に行ったときの宿舎が女子寮で、その部屋にビデがちゃんと備え付けられていたからだ。バスもトイレもシャワーもないのにビデだけはついているのである。
この女子寮のビデを見たとき、最初に頭に浮かんだのは、さすがはフランス、女子寮でも、初めからそこでセックスが行われることを想定して設計がしてあるという感想だった。フランスでは一九六八年の五月革命以来、学生寮のオープン化が進み、女子寮に男子学生が泊まっていくというようなことはごく普通の情景になったからである。
しかし、この仮定はフランスのビデの使い方に思いを巡らすうちに、少しおかしいのではと疑問に思うようになった。というのも、フランスのビデはいささかも避妊用にはできていないからだ。
多少のヴァリエーションはあるが、フランスのビデは、陶器でできた容器のなかに、温水と冷水がチョロチョロと流れ込むようになっているだけである。使用するときには底の蓋を閉じ、使用後は蓋をあけて水を流す。つまり、使用するには、またがって局部を手で洗う以外にないのだ。これでは洗浄はできても、避妊にはならない。それとも、フランス人は、このやり方で避妊できるとでも思っていたのだろうか?
そうではあるまい。というのも、フランスでもっとも一般的な避妊方法は、過去も現在も膣外射精と決まっているからである。これはゾラなどの小説を読むとよくわかる。フロイトが精神障害の何パーセントかは、膣外射精による性交の中断から来ていると分析していることも、この避妊法がヨーロッパでもっとも一般的だったことを物語っている。これはまったくの仮説にすぎないのだが、ポルノビデオで、最後に男がペニスを抜いて精液を女にかける「儀式」があるのは、案外ヨーロッパにおけるこの避妊法の伝統を受け継いでいるからではあるまいか? ちなみに、日本のポルノは完全にヨーロッパのそれを儀式的にまねている。
閑話休題。
それでは、避妊用ではないとすると、ビデはいったいなんのためにあるのか? 文字通り「局部洗浄」のためである。セックスの前に洗い、セックスの後にも洗う。とりわけセックスの終わった後には念入りに洗う。なぜかというと、ビデが登場した十九世紀の末には、性病は不潔なセックスからうつると信じられていたからだ。ビデは性病予防用器具としての側面ももっていたのだ。
しかし、ビデが広くフランス人の家庭やホテルに広まったのは、むしろ、それが身体衛生のための器具と見なされていたからである。すなわち、女性が、体の中でもっとも汚れやすい局部を簡単に洗える道具としてビデは喝采をもって迎えられたのだ。
だが、それなら、と、われわれ日本人は考える。局部を洗うためだったら、ビデなどという変なものを発明しないで、風呂に入ればいいではないか、と。たしかにそれはそうだ。しかし、この日本人の疑問には、ひとつの重要な前提が欠けている。風呂というものがないならどうするのか?
そう、すべての問題はここにある。フランスという国は、つい最近まで、よほど裕福な家庭でないと風呂がない国だったのである。私が最初にフランスに行った一九七〇年代の後半には、二つ星のホテルではまず風呂のある部屋はなかった。シャワーすらもなかった。
ところが、どんなぼろホテルでもビデだけはあった。「水道あり」となぜか自慢げに書かれた安ホテルの部屋には、ビデと洗面台だけがあり、女性が体をきれいにしようと思ったら、洗面台でタオルを濡らして体をぬぐい、ビデで局部を洗浄するほかなかったのである。もちろん男性もこれを使ったにちがいない。ひとことでいえば、ビデとは腰湯に等しい機能をもっていたのである。
おそらく、ビデが登場する以前は、女性はずいぶんと不便だったのだろう。だから、ビデができたときは大歓迎されたのだ。デパートの通販カタログにも各種のビデが身繕い用品として堂々と掲げられている。もしビデが避妊用のものだったら、避妊を認めないカトリック教会が大騒ぎしたはずではないか。さきほどの女子寮のことに話をもどせば、ビデが備えつけられているのは、そこでセックスをしてもいいということではなく、あくまで女子学生の身繕い用としてなのである。
とするなら、ビデは避妊器具なりという、われわれの思いこみはどこから来ているのか? 少なくとも、私の場合ははっきりしている。大江健三郎の『われらの時代』からである。あの小説の中で、セックスのあとに、主人公の愛人であるオンリーさんは、あくまで避妊用にビデを使っていた。しかも、そのビデは、局部の当たる部分で温水が噴水のように飛び出し、膣から精液を洗い流すようなものとして描写されていた。つまり、大江健三郎が『われらの時代』で描いたビデと、フランスのビデとは、形態も使用法も目的もまったく異なるものなのである。
これはいったいなにを意味しているのだろうか?
仮説その一。大江健三郎はビデというものがなんであるか知らないで小説を書いた。おそらくサルトルやジュネの小説に出てくるビデという言葉から、彼特有の想像力を働かせて、これはセックスのあとに使うのだから避妊具だ、避妊具であるとすれば、噴水のような構造になっていなければならないと結論してあの小説を描いた。
仮説その二。大江健三郎はビデを実際に見て描いた。ただし、そのビデは、フランスのビデとはちがうタイプの噴水型だった。
私は初めてフランスに行ってビデを見たとき、てっきり、一のほうの仮説が正解だと思った。同じビデでも、大江健三郎のビデとフランスのそれとでは、あまりにちがいすぎるからだ。
ところが、結果的には、どうやら二の仮説が正しかったようなのである。なぜかといえば、ドイツに旅したとき、ついに噴水型のビデに遭遇したからである。
それはまさに、『われらの時代』でオンリーさんがまたいでいたのと同じタイプのビデだった。中央の部分からかなりの勢いで温水が噴出する。なるほど、これなら避妊用に使えるかもしれない。大江健三郎は想像力でビデを描いたわけではなかったのである。『われらの時代』のビデはちゃんと実在していたのだ。
となると、ここでまた問いを立てる必要が生まれてくる。
すなわち、大江健三郎がビデを見たのは駐留軍住宅の浴室だったにちがいない。とすると、戦後、アメリカ軍とともに日本に持ち込まれたビデは、すでにアメリカにおいて避妊具へと変身をとげていたことになる。その変身はなぜ起こったのか?
この問いに答えを出すには、両次大戦間のアメリカの文献を片端から調べていくしかない。ビデは、おそらくその発祥地であるフランスから二十世紀の初頭にアメリカに渡ったと思われるが、そのとき、構造ばかりか使用法と目的まで変わった。その変容にはいかなる経緯があったのだろうか?
この問題に頭を悩ませていたとき、フランス文学の大先輩であるS先生がこんな話をしてくれた。イサドラ・ダンカンが長いヨーロッパの旅を終えてアメリカに帰ったとき、あるホテルでビデを見つけたので大喜びして使ってみると、なんといきなり熱湯が噴出してイサドラは局部に大やけどを負ってしまったというのである。うーん、そうか、イサドラがいない間にアメリカにもビデが普及して、しかもすでにちがう構造になっていたわけか。
しかし、イサドラ・ダンカンとビデに関しては、もうひとつ別の話を聞いたことがある。それはヨーロッパ暮しですっかりビデ愛好家になったイサドラが、アメリカに凱旋公演するというので、わざわざ陶器でできた携帯用ビデを持っていったところが、あるとき、使用中に割れてしまい、イサドラは大ケガをして入院した。するとこの話を伝え聞いたアメリカの民衆が、ビデなどという猥褻なものを持ち歩くなんてよほど淫乱な女にちがいないと憤慨したというのである。
この二つのヴァージョンの話のどちらを信じてよいのかよくわからないが、それでも、いくつかの真実は伝わってくる。ひとつは、イサドラがアメリカでビデを使って大ケガ(大やけど)をしたというその一点だが、これはこの際どうでもいい。注目したいのは、アメリカではビデは避妊用の器具とみなされていたという事実の方である。なぜ、この事実が明らかになるかといえば、第一のアネクドートからは、ビデが構造的に噴出型の避妊用になっていたことがわかるし、第二のアネクドートからは、ビデは「猥褻なもの=避妊器具」という認識がアメリカではできあがっていたと結論が導きだされるからである。
ではこの使用目的の変容はどこから来たのだろうか? おそらくバスルームというものがあるのが当たり前のアメリカ人はビデを見たとき、それが局部の衛生用であるという発想は浮かばず、これは避妊器具にちがいないと結論してしまったのだろう。そして避妊器具なら、こんな構造ではダメだから噴出型にしようという改良の精神が働いたのではなかろうか?
では私がドイツで見た噴出型のビデはなぜそこにあったのか? ドイツも日本と同じでアメリカ軍の占領が長かったのでビデもアメリカ型になったものと思われる。それに、ドイツ人はフランス人とちがって風呂によく入る国民なので、わざわざ局部洗浄用にビデを輸入する必要がなかった。ドイツのビデはあくまでアメリカの置き土産だったのである。ビデという、とるに足りない事物にも、国民性はかならず現れる。この点は忘れてはならない。
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皮と革
自分が日常的に親しんでいる事物の由来については、みな案外と知らないものである。かくいう私も例外ではなく、商売道具の最たるものである革装丁の洋古書のモノとしての側面についてまったく無知だった。つまり、初版初刷がどうだこうだとか、装丁家はだれでなければいけないなどとさんざんに蘊蓄《うんちく》を傾けていながら、紙と革という洋古書を構成する二大要素の由来についてあまり深く考えたことはなかったのである。
それでも、紙に関しては、ある程度のことは理解していた。というのも、バルザックの『幻滅』という小説に、ヨーロッパの紙についての解説が書かれていたからである。それによると、ヨーロッパの社会は、木や竹などの植物繊維から直接的に紙を作る方法を知らなかった。いつまで知らなかったかというと、驚くなかれ、十九世紀の後半まで、その製法は解明されなかったのである。日本の開国と同時に和紙が主要な輸出品目となり、また明治に入って大阪の造幣局の「局紙」が欧米各国でもっとも高級な紙として珍重されたのはこうした背景があったためである。
では、ヨーロッパでは紙はなにから作っていたかというと、これがぼろぎれからなのである。つまり、廃品回収業者が拾い集めたぼろぎれ、とりわけ亜麻《リンネル》や麻などのぼろぎれを裁断して、もう一度繊維に変え、そこから紙を漉《す》いていたのだ。しかし、この方法だと、絶対的に解決できない問題があった。それをバルザックは次のようにいっている。
「こうしたぼろぎれは無理につくられるものではない。ぼろは布地を使ったあとにできるもので、一国の人口からは一定量のぼろしかできません。この量をふやすには、人口増加によるしかしかたがない」(生島遼一訳)
なるほど、これで、十九世紀の前半まで本の値段が高かった理由がわかった。人口が二倍にならない限り、紙の供給量も二倍にはならず、逆に需要が二倍になったら、紙の原価も二倍になってしまう原理である。ところが、現実の事態はさらに複雑なことになった。人々の着る服が亜麻や麻から綿に代わったため、紙の原料が払底してしまったのである。その結果、綿織物のぼろぎれからも紙を作り出す方法が考えだされたが、綿からできる紙というのは繊維が短いので新聞紙か雑誌、あるいは廉価版の本にしか使えない。いっぽう、亜麻や麻から作った上質紙は価格が暴騰し、よほど高級な本でなければ採算があわなくなってきた。つまり、亜麻や麻などの不足によって、本が豪華本と廉価本(あるいは新聞)に二極分解してしまったわけである。一八四〇年代に起きた豪華挿絵本ブームと新聞の興隆はこうした下部構造からも説明できる。
ここらへんまでのところは私の頭にも入っていた。ただ、亜麻や麻のぼろぎれといっても、あまり現物に接したことはなかったから、それがなんのぼろぎれであるかまでは突き止めてはいなかった。
ところが、月村辰雄『恋の文学誌──フランス文学の原風景をもとめて』(筑摩書房)という本を読んでいて、ハタと膝を打った。亜麻のぼろぎれとは、その多くが下着、それも女性の下着の成れの果てだったというのである。ぼろぎれの回収業者は、ヘアピンや櫛などの小間物を携えて、女衒《ぜげん》まがいの手口で農婦からいらなくなった下着を手にいれたという。月村辰雄はこう書いている。
「したがって、たとえば私のフォリオ版の書物のページが、ふくらみのあるしっとりとした手触りを与えるのも、また時代を経るにつれて心なしか黄ばみだすのも、考えてみれば当然の話であった。というのも、材料にはきわめて人間くさい下着がもちいられているからである」
私が十九世紀の豪華挿絵本の紙にあれほどまでにひきつけられ、ほとんどフェティシストのように、紙の手触りと匂いをいとおしんでいたのも、すべて、これで説明がつく。フランスの古書収集家といえばいかにも聞こえはいいが、わかってみれば、なんのことはない、ブルセラ(注:女子高校生のブルマーや制服を買い取ってフェチ男に売る店)通いの下着フェチとあまりかわらない動機がその根底にあったのである。
では、もう一つの要素である革はどうか? こちらもいかにもなにかありそうである。まず、その匂い。そう、革の匂いというのは、香水の一要素としても重要なもので、人の嗅覚をエロティックに刺激するのだ。
次に、その手触り。シャグラン革の粒起のザラザラとした感触、あるいはモロッコ革の肌理《きめ》の粗い独特の手触り。どちらもかなり官能を刺激する。
それでは、革の匂いや手触りはどうやって生まれてくるのか? この点は長いあいだ不明のままだったが、つい最近、パリ万博に出品された皮革製品の皮なめしの工程を調べているうちにその概要をつかむことができた。そして、天と地がひっくりかえるほどに驚いた。
皮なめしというのは、基本的に、皮の中のコラーゲン(繊維状のタンパク質)になめし液(多くは柏や漆からとるタンニン)のコロイドを付着させてしなやかにし、細菌や酵素などによる分解を防ぐ方法のことである。
まず、原皮の内側の脂肪をナイフではぎとり、次に外側の毛を抜くが、この毛抜きの過程があの革独特の匂いとおおいに関係があるのだ。なぜかというと、毛抜きには、皮を石灰乳の溶液につけてから、塩酸や動物の糞尿あるいは人尿などをまぜた溶液の壺に浸して化学的に毛を抜く方法と、密封した室《むろ》に入れて発酵を起こさせて毛根をゆるくする物理的方法があるが、いずれにしても、このとき強烈な匂いが皮に付着するからである。
人間の髪の毛も、シャンプーしすぎや、帽子をかぶりっぱなしだと抜けやすいというが同じことだろう。
毛抜きが終わると、次は皮にタンニンを染み込ませるもっとも重要な過程に入る。伝統的な方法は、深いタンクのなかに皮とタンニンを含む樹皮を交互に重ねてから水を入れ、これに重い蓋をのせて十週間放置する。この作業を一年から三年くらいかけて繰り返してようやく、タンニンが「皮」に染み込み、「革」となるのである。最近ではこれを化学薬品の使用で短縮しているが基本的な作業は同じである。
しかし、これだけで革が完成するわけではない。仕上げなめしの工程が必要である。すなわち、繊維を引き締め、表面をなめらかにするため、ハンマーでたたいたり、回転式ノコギリで削ったり、あるいは、ナイフでそいだり、マルグリットと呼ばれる木の道具で表面の粒《しぼ》をならしたりして、手触りと見た目をよくする。
ここまではある程度予想がついた。驚いたのは、この先である。とくに、シャグラン革という、鮫肌のように表面がつぶつぶになった粒起革の作り方には仰天した。
シャグラン革の原料となるのは、西アジアやダニューブ川沿いの東欧諸国で産する野生のロバの背中の皮である。このロバの皮をタンニンやミョウバンでなめしたものをシャグラン革にするのである。
ところで、私は、これまでじつにじつに長いあいだ、このシャグラン革の粒起はロバの皮の自然の粒《しぼ》だとばかり思っていた。いかにも、ロバの皮らしいザラザラとした感じがしたからである。だが、それは完全な思いちがいだった。というのも、ものの本には、しっかりと粒起のつくり方が書いてあったからだ。
すなわち、シャグラン革をつくるには、なめしたロバの皮の内側に野生のハマアカザの種子を一面にびっしりとのせ、それを上から足で踏んだりプレス機で押したりして、種子が皮に食い込むようにする。そして、これを太陽のもとにさらして化学変化を起こさせ、最後に種子をどけると、あのシャグラン革の粒起ができあがるのである。この製法は、シャグラン革が誕生したときから用いられていたというから、初めから、シャグラン革の粒起は自然のそれに似せた人工的なものだったのである。いやー、驚いたのなんのって。あのシャグラン革のつぶつぶは、そこに自然が感じられるからこそ、いとおしいのだなどと思いこんでいたのだが、あれも人工のものだったのである。
驚きはそればかりではなかった。じつは、シャグラン革ばかりではなく、およそ、革と名のつくものの粒起のほとんどは、人工的なものなのである。いや、ときには、いったん削り取った自然の粒起を、溝のあるノシ板でなでて、再び出してやったりするから、全部が全部人工的なものとはいえないが、いずれにしても、自然そのままではない。粒起はやはり、自然を真似て人間が加工したものなのだ。
とりわけ、十九世紀以後は、革の粒起はますます人工的なものとなった。というのも、なめしの最後の過程で、凹凸のついた二つのシリンダーの間に挟んで、人工的な粒起をつけるのが普通になったからである。シャグラン革もモロッコ革も全部、最後は、このシリンダーで仕上げをするのだ。
しかしながら、こうして、シャグラン革やモロッコ革のあの微妙な手触りの正体がわかってみると、なぜ、あれほどに魅力的だったのか、逆に納得がいくような気がしてくる。
一般に、男が女にひかれるのは、入念にメークしてドレスアップした姿に魅力を感じるからであって、朝おきがけの素顔に惚れるからではない。同じように、いくら革が自然だから好きといっても、それは、加工された自然だからこそ好きなのである。自然そのものは案外不細工で、味気ないものであることが多いのだ。自然に加工をほどこし、さらに自然に見せかけた人工、これにわれわれはひかれるのである。
革の匂いの場合もそうだ。その匂いのどこかに糞や尿の匂いがするような気がして、ある種のなつかしさを感じるにしても、それはその匂いを隠すために大量の芳香剤を含ませてあるからそういえるのであって、もし、そのままだったら、とても顔の近くにもってくることなどできない。
紙についても、似たようなことがいえる。いくら十九世紀の高級紙が女性の下着から作られるといっても、それは、下着が完全に煮沸され、発酵させられ、くたくたにすりつぶされたあとだからこそ、好ましく感じられるのである。もし、素材の匂いがそのまま保存されていたりしたら私の書斎など大変なことになってしまうだろう。
いいかえれば、われわれが自然の素材に慈しみをおぼえるとしても、それは、自然そのままだからではなく、人工的な加工をほどこされて、より見栄えよく化粧され、ドレスアップされているからなのである。これをフランス語では vrai(真実の)ではなく vraisemblable(真実らしい)という。そして、フランスの古典主義の文学理論においては vrai は醜いが、これに人工の手を加えて、vraisemblable にまでもっていくことのできた芸術作品は美しいと考える。いわゆる vraisemblance(真実らしさ)の理論である。
日本の和本の横に、ヨーロッパの革装丁の本を置いてみると、なおのこと、この理論のいわんとすることが理解できるだろう。本はまさに、その文化の美学を体現しているのだ。
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他人のくそ
学生の頃、仲間うちだけで通じる符丁として「他人のくそ」という隠語がはやっていた。たとえば、「あいつは他人のくそだ」というふうに使う。そのココロは「どうしても好きになれない」である。
なぜこんな言い方が生まれたかというと、友人のI君が大学の構内にあった学生寮に住んでいて、この「他人のくそ」の問題に悩まされていたからである。
当時、ということは一九六八年頃、日本の水洗普及率は極めて低く、都市部、農村部に限らずたいていの家がくみ取り式だった。ましてや、学生寮に住む学生は地方出身者ばかりだから、便所といえば、田舎の実家の、金隠しの下に黒々とした空間のひろがるあのボットン式しか体験したことがなかった。家ばかりか、学校でも高校まではすべてくみ取り式だったという。
ところが、大学の学生寮は、戦前の住宅改良思想の流れを汲むコンクリート集合住宅だから、当然、水洗式である。ただ、現在のように洋式ではなく、しゃがみこんでするクラウチングスタイルの和式のタイプだった。この実家と寮の便所のちがいが、友人にある種の異文化ショックを与えたのである。
なんのことかといえば、匂い、より直接的には便臭の問題である。それまでは、くみ取り式だから、排泄した大便は堆積した便の上に落ちる。ゆえに、自分の便も他人の便もまじりあって、「自分のくそ」と「他人のくそ」のちがいは意識にのぼらなかった。
これに対して、寮の和式水洗だと、まず「自分のくそ」との直接対決を強いられる。鼻のすぐ下にあるのだから、匂うのは当然である。しかし、この場合はよくしたものでそれほどの不快感はなかったという。
だが、ときとして、便所のドアをあけると、その「他人のくそ」が流されずに放置してあることがあり、これが猛烈な嫌悪感をそそったのである。おそらく、水洗になれていない学生が多かったので、流すのを忘れたのだろう。また、たとえ、流されていても、直後に入れば、「他人のくそ」の匂いが残っていることは当然である。
I君はそれまで共同便所でもくみ取り式のものしか使ったことがなかったので、この寮ではじめて、「個」としての「他人のくそ」との対決を余儀なくされたのである。そして、そこから、激しく嫌悪をそそるもの、どうしても好きになれないもの、ということでこの「他人のくそ」という隠語が生まれたというわけだ。
さて、いきなり尾籠《びろう》な話を連発してしまって恐縮だが、いったいなんでこんな話をもちだしたかといえば、鈴木隆氏という、高砂香料で調香師《ちようこうし》をしておられる方の『匂いの身体論──体臭と無臭志向』(八坂書房)を読んでいて、匂いと自他認識の問題に興味をそそられたからだ。
この本によると、糞便特有の匂いというのはもともと食べ物にも含まれている硫化物の匂いだから、人間が糞便を嫌うのは本能的なものではなく、文化的な刷り込みによるものだという。その証拠に動物は異性の肛門の匂いを嗅ぐし、二歳半から四歳の人間の幼児に糞便や体臭を嗅がせたところ、六〇〜八〇パーセントはそれらの匂いを好ましいと感じたというデータがあるそうだ。つまり、糞便それ自体に対する嫌悪感は本能的に備わったものではないのだ。とりわけ、糞便臭が共同体として共有されているときには、便臭というものへの嫌悪はそれほどあらわにはならない。
そういわれれば、昭和の三十年代まではちょっと市街地を離れればすぐに肥溜めの匂いが鼻をついたが、日本人はことさらそれを不快には思っていなかったようだし、また十八世紀の中頃まで、フランスには、公衆トイレというものが宮廷にも繁華街にも存在していなかったので、どこでも、便臭が満ちていた。ヴェルサイユ宮殿の匂いはすさまじかったが宮廷人は平気だったと外国人の旅行者は書きとめている。アラン・コルバンという歴史家はこれを「嗅覚の共同性」という言葉で表現している。I君も田舎にいたときには、嗅覚の共同性に関与していたから、あまり「自分のくそ」vs.「他人のくそ」という問題は意識に浮上してこなかったのだ。
ところが十八世紀の中頃から、「個」の確立ということが取り沙汰され、それが住空間にも反映されて「個室化」が起こり、便所もプライベート化する。と同時に、嗅覚も共同的なものから、プライベートなものへと変化する。そして、この嗅覚のプライベート化はトイレがくみ取り式から水洗式になると一段と進む。「自分のくそ」にはより馴染むかわりに、「他人のくそ」がより不快に感じられるようになるのである。
「人間の鼻は、嗅いだことのない匂いには敏感にできている。逆に、いつも嗅いでいる匂いやずっと嗅ぎ続けた匂いに対しては感度が鈍くなることが知られている」(前掲書)
すなわち、トイレがプライベート化するにつれて、「自分のくそ」は嗅ぎなれているから寛容になるが、「他人のくそ」については嗅ぎなれないから、不寛容になるということだ。人類はこれを一世紀かけてやったが、I君は、極めて短期間に体験してしまったからショックが大きかったのである。
ところで、問題は、嗅覚のプライベート化によるこの自他の峻別が、便臭にとどまってはいないことである。
環境が無臭化して、個室化が進むと、体臭までがその対象となり、自他できっぱりと区別されるようになる。嗅覚がプライベート化すれば、自分の体臭はいつも嗅いでいるからくさいと感じない。しかし、その分、他人の体臭にはひどく敏感になり、嫌悪を感じるようになるということだ。
ここから生まれる問題は案外根が深い。
まず大きなところでは体臭による人種差別、民族差別というものがある。異文化の人間はより強く「匂う」のである。これは、地球全体が無臭化し、嗅覚がプライベート化すればするほど、より先鋭化すると思われる。
次に、他人の体臭への嫌悪が自分に反転して、自分はくさい匂いを発しているのではないかと悩む自己臭症の問題が起きる。自分は匂わず、他人は匂うと思っていた人間が、なにかのきっかけで自分も他人のように匂うのではと考えだすと、その自分の匂いを嗅ぐ鼻は、本来、他人には不寛容であった自分の鼻であるから、絶対に他人たる自分を容赦しなくなってしまうのである。つまり、自分が自分にたいして馴染めない存在、「他人のくそ」となるのだ。
ところで、この『匂いの身体論──体臭と無臭志向』でもうひとつ興味深いのは、フロイトのエディプス・コンプレックスを匂いの観点から考察したアービング・ビーバーという分析医の考え方が紹介されている点である。ビーバーによれば、乳幼児はフロイトのいうように眼で父母を見てペニスの有無を判定しエディプス・コンプレックスに陥るのではなく、父母の区別をまず匂いで行うという。
つまり、乳幼児は、自分にオッパイをふくませて身の回りの世話をしてくれる母親の匂いをかぎわける本能を持っているから、そこに、母親と異質な匂いをもつ父親が入ってくると、この匂いを嫌うようになる。母親の乳房の回りにはアポクリン汗腺といって匂いを出す汗腺があるので、乳幼児は母親の匂いを覚えているのだ。おそらく、乳幼児は母親の匂いを自分の匂いと同一視し、それとの対比で、父親の匂いを「他人のくそ」と見なすようになるのだろう。じっさい、我が子を観察していたときにも、やはり、乳幼児のときには、男女の区別なく、みんな母親のほうが好きであり、私がいくら世話してやっても、しょせんは「他人のくそ」だった。
しかし、それでは、乳幼児は男女の区別なく、全員が母親を好み、父親を嫌いになるではないかという疑問が生じる。男の子の場合には、フロイトの理論と同じくうまい解釈のように思えるが、女の子の場合にはあてはまらないではないか?
ところが、よくしたもので、ある時期から、女の子は、父親の匂いを好ましく思うようになるらしい。それは、人間の嗅覚というものが、男性の汗腺から発散される匂いのアンドロステノンに対して、男は鎮静《マイナス》の反応を示すのに反して、女は覚醒《プラス》の反応を見せるようになっているからだという。これは実験で証明済みの事実で、歯科医の待合室の椅子にアンドロステノンを吹きかけておくと、女性はこの椅子に座ることが多いという。ようするに、女の子は、匂いで父親を好きになるようだ。フロイト式にいえばエレクトラ・コンプレックスである。
ところが、この関係がそのまま大人になっても続くと、それは近親相姦へと発展してしまうから、どこかで抑圧が働く。ビーバーを解釈した鈴木隆氏の考えによると、それは嗅覚の抑圧だという。
「これを拡大解釈すれば、近親相姦の回避のためには嗅覚を抑圧して、性的な匂いに不感症になることが必要だということになるだろう。この時期に確立された匂いへの不感症は当然のことながら成人してからも続き、かくしてフェロモンへの感度は文化が摩滅させているのである」(前掲書)
なるほど、これはなかなか説得力ある理論だ。動物のセックスと人間のセックスで一番ちがう点は、嗅覚の役割と近親相姦であるから、その二つに関連があることは素人目にも確かなように思われる。人間が嗅覚によるセックスから視覚を媒介としたセックスに移行したとき、近親相姦の回避が起こり、次に近親相姦が回避されるようになると、今度は、さらなる嗅覚の抑圧が始まったのだ。これは、どっちが先ということでなく、ほぼ同時だったのだろう。そして、鈴木氏によれば、嗅覚の抑圧に、カントやヘーゲルなどの視覚優先の観念論も積極的に手を貸したという。人間の悟性を持ちあげ、動物性を否定する立場からすれば、それは当然のことだろう。
このように解釈すると、フェティシズムの問題や同性愛の問題も、主に嗅覚の抑圧の失敗と、それに連動する近親相姦願望という観点からとらえかえすことができることになる。すなわち嗅覚が抑圧されぬまま思春期に入ると、近親相姦願望が出てくるから、それを抑えるために同性愛やフェティシズムにシフトするということだ。
例を文学者に取れば、同性愛者のマルセル・プルーストやトルーマン・カポーティはその小説からもわかるように非常に匂いに敏感だったし、足フェチでマゾヒストの谷崎潤一郎は、『陰翳礼讃《いんえいらいさん》』の中で便臭について、いかにもうれしそうにページを割いている。
女性文学者についてはそれほど確証はないのだが、レズビアンの小説家デューナ・バーンズの『夜の森』は、全編匂いたつような小説だったと記憶する。バイセクシュアルのコレットなどもいかにも嗅覚がするどそうだ。
こう考えてくると、匂いというのは、個体においても社会全体においても、思いのほか深いところまで根を下ろしていることがわかってくる。匂いと嗅覚の中にこそ新しい学問の可能性があるのかもしれない。
匂いとは、端倪《たんげい》すべからざる領野なのである。
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由緒正しい戦争
戦争中、日本の軍部は、もし戦争に負けるようなことがあったら、相手は鬼畜《きちく》米英だから、まちがいなく男は虐殺、女は強姦の運命にさらされるだろうと国民の恐怖感情を煽《あお》り立てていた。将兵たちも、天皇陛下のために死ぬという表向きの大義よりも、妻や母や妹をこうした目に遭わせたくないという思いで戦場に赴いて玉砕していった。
ところが、いざ、連合軍に占領されてみると、軍部が予告していたような事態はほとんど起こらなかったため、男も女も拍子ぬけして、戦争に負けるとはこの程度のことだったのかと、たかをくくるようになった。敗戦・占領のイメージが「虐殺・強姦」から「民主主義」へと百八十度回転すると、日本人は、アメリカ型の占領の仕方が当たり前のことで、「虐殺・強姦」などは好戦気分を煽るための軍部のデマだったと思うようになったのである。
思うに、戦後の世論の分裂はすべて、この誤解に端を発している。すなわち、戦後民主主義を守れという護憲派の発想も、お仕着せの日本国憲法で戦後の日本人は腑抜けにされたという改憲派の発想も、いずれも、アメリカ型の平和占領は当たり前という考え方に基礎を置いている。つまり、あるのは、その占領を「ありがとう」と感じるか、「迷惑」と感じるかのちがいだけであり、こんな占領の仕方は「例外的」とする考え方はどこにもない。無理もない。日清・日露の戦争で日本人は本土で戦うという体験をしたことがなかったから、初めて与えられた例外的なものを当たり前と感じてしまったのである。
とはいえ、日本人でも、これ以外の占領の仕方もあるのだという事実をいやというほど思い知らされた人たちもいた。いわゆる満州に送り込まれていた開拓民の人たちである。彼らは、日ソ不可侵条約を破棄してなだれ込んだ赤軍に文字通り「蹂躙《じゆうりん》」されたが、そのとき「男は虐殺、女は強姦」という軍部のプロパガンダは一〇〇パーセント正しかったと悟ったにちがいない。それどころか、軍部の宣伝は甘かったとさえ思ったことだろう。なぜなら、「虐殺・強姦」のほかに、まるでイナゴの大群が通ったあとのような「略奪」が加わったのだから。当時の証言を読むと、「なんでこんなものまで攫っていくの?」と、不思議に感じたほどの徹底した略奪ぶりだった。
しかし、なんといっても凄かったのは、やはり「強姦の軍隊」としての赤軍の有り様だろう。生き証人の話を聞いた限りでは、対象の老若を問わぬソ連兵の「律義な」強姦の仕方は、よくぞここまでと感じ入るほどだったという。しかし、いかにも日本人的な恥の意識からなのだろう、日本には正式な被害の記録がまったく残されていない。
ところで、これは、日本ではあまり知られていないことなのだが、この強姦の軍隊はヨーロッパ戦線でもまったく同じように振る舞って、ドイツ人やドイツ占領下の人々の間に多数の犠牲者を出していたのだ。そして、こちらには正式な記録が残っている。というよりも、正式な記録に残そうという運動がドイツのフェミニストによって進められた結果、とんでもない数字が明るみに出たのだ。
「ライリングによれば、赤軍の男たちがベルリンまで進行してくる間に、一九〇万人の少女・女性が強姦された。そのうち一四〇万人は旧ドイツ東部領と国外追放・避難途上において、五〇万人は後のソ連占領地域において強姦された」
「一九四五年にベルリンで赤軍兵士が戦ったとき、そこには一四〇万の少女・女性がいた。一九四五年初夏から秋にかけて、そのうち少なくとも一一万人の少女・女性が赤軍に強姦された(七・一%)。強姦の大半、少なくとも一〇万人の強姦は一九四五年四月から六月に起こった。ベルリンにいた女性のうち六〇万人は出産可能な年齢であった。そのうち五万七〇〇〇人が強姦され(九%)、一万一〇〇〇人強は妊娠した(二〇%)」(ヘルケ・ザンダー&バーバラ・ヨール編者『1945年・ベルリン解放の真実──戦争・強姦・子ども──』寺崎あき子・伊藤明子訳 パンドラ)
これがまさにソ連赤軍の戦い方であり、占領の仕方だったのである。ジューコフの軍隊がベルリン陥落後、そのままソ満国境に送りこまれてきたので、これと同じことが満州でも繰り返されたにちがいない。だから、被害の程度もほぼ同じようなものだったのだろう。なんともすさまじいというほかはない。
ところで、これまで、私は、こうした「虐殺・強姦」はソ連軍という、「共産主義の軍隊」の特殊な性格から来ているのだとばかり思いこんでいたのだが、最近になって、どうもそうではないらしいということがわかってきた。というのも、ヨーロッパの戦争の歴史を遠く中世にまでさかのぼってみると、ソ連軍の戦い方と占領の仕方は、古式にのっとった、「由緒正しい」戦争の方法ではなかったかという気がしてきたからである。
たとえば、一九九八年度のサントリー学芸賞を受賞した山内進『北の十字軍「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社選書メチエ)を読むと、ソ連軍のこうした戦い方は、十字軍以来連綿として北東のヨーロッパに伝わってきた戦争の伝統に棹さすものだということがわかる。
一〇九五年、ウルバヌス二世は、クレルモンで行ったエルサレム奪回のための十字軍結成の呼びかけにおいて、異教徒を絶滅した者には「罪の赦免」が与えられるとしたが、これを受けた中世キリスト教会の大オルガナイザー、クレルヴォーのベルナールは、反応のにぶいドイツ諸国をこの動きに引き込むために、エルサレムにまで行かずとも、連接地域に住む異教徒ヴェンデ人を抹殺した場合にも同じように「罪の赦免」が与えられるとした。この餌に、ドイツ諸国は待ってましたとばかりに飛びついた。こうして開始されたのが「北の十字軍」である。やがて、「北の十字軍」を専門に請け負う刀剣騎士修道会やドイツ騎士修道会が登場するに及んで、北ヨーロッパの異教徒の征服は着実に進行したが、そのときの十字軍の戦闘の様子はおおよそ次のようなものだった。
「怒りに燃えて兵士たちは彼らを攻撃し、男たちをみな殺しにした。(中略)彼らは無数の人々を殺し、幾らかの女たちや子供たちを虐殺した。彼らは、野原や村にひそむ者たちの命を一つも救おうとは思わなかった。街路が、そしてあらゆる地点が異教徒の血で濡れた。(中略)彼らは、捕らえた異教徒たちをただちに殺し、彼らの持ち物やすべての物を奪い取った。(中略)最後に、その四日目に、彼らは全戦利品をもって一箇所に集まった。馬や多数の家畜を追い立て、女たち、子どもたちや少女たちそして多くの戦利品を伴って、彼らは大いなる喜びのうちリヴォニアへと帰還した。異教徒たちに復讐された主を讃えつつ……」(山内進 前掲書に引用)
これはハインリッヒという年代記作者の伝える『リヴォニア年代記』の一節だが、どの年代記にも、正確に判で押したように、北の十字軍が「男たちを殺し、女と子どもを捕らえて連行した」とある。つまり、これがキリスト教を北に広める十字軍の正式な戦いと占領の仕方だったのである。多く殺せば殺すだけ、激しく強姦・略奪すればその分だけ「主」の御心にかない、「罪の赦免」を得るのだから、兵士たちが熱心に殺戮・強姦・略奪に励んだのも無理はない。オウムのポアと同じ原理である。
そして、この戦法は、ドイツ騎士修道会から、当時は異教徒だったスラブ人にもすぐに伝わった。やられたら同じことをやり返すのが戦争というものだからである。スラブ人たちがキリスト教化すると、今度は、蒙古人、トルコ人などの異教徒に対して同様のことが反復されたのはいうまでもない。この大陸的な戦争の伝統は、西ヨーロッパが近代化し、三十年戦争を境に「戦争と平和の法」を了解事項とするようになったあとも、北と東のヨーロッパでは生き続けた。それは、クリミア戦争や露土戦争などの記録をひもとけば容易に理解されるはずである。
日本の軍部が明治時代にロシアに対して潜在的警戒感を常に抱いていたのは、あるいはヨーロッパ、とくにドイツ経由で、対露恐怖症が伝わっていたのかもしれない。ありえない話ではない。
二十世紀に至って、この大陸的伝統に新たな要素が付け加わった。ロシア・マルクス主義という新たな狂信的「宗教」である。この宗教によれば、共産化していない地域の住民はすべて異教徒である。異教徒は抹殺するか、さもなければ同じ宗教に帰依させなければならない。帰依させるにしても、いったんはこれを完全に征服する必要がある。ようするに男は虐殺、女は強姦、ものは略奪というのが原則である。スターリンは赤軍兵士がユーゴで犯した強姦について政治家のミロヴァン・ジラスが抗議すると、こう言ったと伝えられる。
「自分自身も文筆家だろうに、ジラスは人間の心や悩みを知らないのか。何千キロも流血と戦火や、死をくぐりぬけて進んでいる兵士がときには女と楽しみたい、あるいはちょっとしたものをくすねる、その行為を理解できないのか」(ヘルケ・ザンダー&バーバラ・ヨール 前掲書)
歴史家によっては、スターリンという粗暴な人間の特殊性を強調する人もいるだろうが、私はそうは思わない。これはやはり、ドイツ騎士修道会からスラブ民族に伝わった大陸的な戦争の方法なのである。ヘルケ・ザンダー&バーバラ・ヨールもこう述べている。
「この赤軍兵士の『凌辱』は、何百年と続いた伝統の鎖のうちの一環にすぎない」
この「伝統」がロシア・マルクス主義という新しい宗教によって、より強固なものとされたのだ。ロシア人と何度も戦火を交えているドイツ人たちは、彼らがかつて行ったのと正確に同じことをロシア人からされることを確信していた。ナチの宣伝相ゲッペルスはこの恐怖をラジオで強調していた。ただ、ナチに抵抗するグループの女性の中にはそれを信じまいとしたものもいる。
「これまでの四年間、宣伝相ゲッペルスは、ソ連兵が入ってきたら、私たちを暴行するだろうと言ってきた。凌辱し、略奪し、殺害し、放火するだろうと。誇大宣伝だ──と私たちは憤慨し、東西連合軍の解放を待ち望んできた。私たちはいま、失望したくない。ゲッペルスの言ったことが本当だとはどうしても思いたくない」(ヘルケ・ザンダー&バーバラ・ヨール前掲書に引用されたルート・アンドレアス‐フリードリヒ「舞台・ベルリン 占領下のドイツ日記」)
だが、やんぬるかな、ゲッペルスの言ったことは一二〇パーセント本当だったのである。そして、もし、日本がドイツと同じように、アメリカではなく、ソ連に占領されていたら、戦争中に軍部が宣伝していたことは、デマではなく、全部真実だったことが証明されてしまったことだろう。軍部の仮想敵国が当初はソ連だったのだから、この意味では軍部の予想はかなり正しかったわけである。
日本がアメリカに占領されて、民主主義を「押し付けられた」ことを憤っている人たちが多いようだが、それなら、彼らは、ソ連式の「由緒正しい」戦争・占領の方の選択肢を選びたかったとでもいうのだろうか? 一度、このことを彼らに尋ねてみたいものである。
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フロイトと「見立て」
文藝春秋のPR誌「本の話」に連載されている丸谷才一氏のロング・インタビュー「思考のレッスン」(文藝春秋で単行本化された後、文春文庫に収録)は毎回、知的刺激に満ちていて、学問を目指すものにとって、実践面でも、巷に出回っているどんな「論文・レポートの書き方」の類よりも有益な指南書となりそうな気配だが、とくに一九九九年一月号の第九講「比較と分析で行こう」は、感嘆これおくあたわずという感じで、何度も何度もひざを叩いた。
丸谷氏は思考のレッスンにとって、とくに「仮説を立てる」ことの重要さを強調し、仮説を立てるには「多様なものの中に、ある共通する型を発見する能力」が必要だと言っている。そして、その際に重要なことは「見立て」であるとして、きわめて大胆な指摘を行っている。
「同種のものが別の外観で存在することを発見する、同類を見つけて同類項に入れる。これは他の言い方でいえば、『見立て』ですね」
論文の指南書にも、「比較と分析」「共通する型を発見する」「仮説を立てる」というところまでは書いてあるかもしれないが、この「見立てをする」などということは絶対にどこにも出ていないはずだ。なぜなら、アナロジーを働かせて、一見掛け離れたところに同じ構造を見抜く「見立て」などという方法は、よほど詩人的な直感力のはたらく人でないと無理だと考えられているからである。だが、この「見立て」こそが学問上の偉大な発見にとってもっとも必要不可欠な方法論であることはあまたの実例が証明している。
一例をあげると、ラヴォワジエによる燃焼の理論の確立がある。ラヴォワジエは燃焼実験をするときに、その前後の重さを厳密に計ることで、燃焼とは、プリーストリのいうように燃えるものからフロンギストン(燃素)が抜けたのではなく、空中の酸素が燃えるものと化合した現象であるという数量的化学理論を打ち立てたが、この理論の確立には、じつは、ラヴォワジエが徴税請負人という職業についていたことが大いに関係している。
徴税請負人というのは、財政難に陥ったブルボン王朝の政府が大金持ちに税金を立て替え払いさせ、徴税をその人間に任せる方針をとったところから生まれた職業である。ラヴォワジエは母の遺産でこの徴税請負人の株を買い、パリ市の入市関税の徴収をやっていたのだが、あるとき、税収を計算していて、不可解な事実に気づいた。パリ市の人口をもとにして、パリの全市民に必要な食料を計算すると、それは入市関税収から割り出した数字よりもかなり多い。つまり、実際には、入市関税を払ってパリ市に入ってくるよりも多くの食料がパリ市民によって消費されているのだ。いいかえれば、入市関税を払わずにパリ市内に密輸されている食料が相当量あるということである。そこで、ラヴォワジエは密輸防止のためにパリ市を城壁で囲むことを提案したのである。この提案は数年後に実現し、密輸は劇的に減少した。ところが、この壁の建設は物価の上昇を招いて民衆の怒りを買い、フランス革命の導火線となった。そして、あげくの果てに徴税請負人だったラヴォワジエもギロチンの露と消えることになるのだが、それはさておき、ラヴォワジエがこの徴税請負人という職業から得た知識を使って、燃焼における量的不変性を「見立てる」のに成功していることは明らかである。税収と化学の定量変化という法則がアナロジーによって通底され、そこに同じ構造が「見立て」で発見されているのである。
これは職業からの「見立て」で科学の原理が発見された例だが、最近読んだジョン・エルスナー&ロジャー・カーディナル編『蒐集』(高山宏・富島美子・浜口稔訳 研究社)収録のジョン・フォレスターの論文「『一〇〇三』──フロイトと蒐集」では、蒐集という趣味からの「見立て」によって、人類史上もっとも重要な「無意識」の発見がなされたのではないかという仮説が提起されている。すなわち、フォレスターは、フロイトの古代ローマやエジプトの骨董品のコレクションがフロイトの書斎と診療室だけに飾られていたことに注目して、フロイトによる無意識の発見と、古代遺跡から発掘された骨董品のコレクションが「見立て」の関係にあったのではないかという仮説を披露している。
「終生『先史』の研究者でありつづけた──『先史』は自分の患者の、忘れられた幼児期の過去を表すのにフロイトが好んで使った言葉だった──精神の考古学者フロイトは、考古学的な類推に完全に傾倒し、掘り出し、破片を繋ぎ合わせ、年代を定め、もともとの文脈のなかに戻すべき多くのものや、後からやってきた墓荒したちによって立てかけられた多くの間違った道標を、精神の内容物のなかに見いだした」(富島美子訳)
フォレスターは、傍証として、フロイトによる無意識の構造の発見が骨董品蒐集の開始と時期的に一致している点をあげ、さらに、この二つが彼の父親の死とも重なっている事実を指摘して「蒐集」が実は父の死という喪失を乗り越えるために、無意識のうちにフロイトによって生みだされた行為であり、そして、それが次には、性的神経症の症例や夢の実例の「蒐集」というフロイト独自の方法論へと発展していくと結論している。
ようするに、フロイトは、まず蒐集という行為を父の死をきっかけにして無意識から作り出し、次いで、この行為からの見立てによって無意識の構造を発見し、さらには、蒐集そのものを自らの研究の方法論に昇華してしまったというわけだ。なかなかおもしろい仮説ではないか。とくに、蒐集というきわめてプライベートな行為が、研究対象の「見立て」ばかりか、方法論の練り上げにも同時に役立ったとする点が興味深い。世紀の発明、発見などというものは、案外、個人的な資質から生まれることが多いのかもしれない。
ところで、フロイト理論に関しては、私自身も、ひとつの仮説をもっている。それは、いわゆるフロイトの経済論的観点に関する仮説である。経済論的観点とはラプランシュ&ポンタリスの『精神分析用語辞典』(みすず書房)によれば、「『興奮量のなりゆきを追求し、少なくともその相対的な計量をめざすものである』経済論的観点は備給を、その可動性、強度の変化、備給間に生ずる対立(逆備給)などから考慮する」とあるが、これを読んで即座に理解できる日本人は皆無に近いはずだから、私なりに言い換えてみる。
フロイトの経済論的観点とは、ようするに心の動きというものを株式市場のようなものと捉えるということである。株式市場では、一定の金銭が流通して、A社に投資が行われたかと思うと、その分がB社の投資から撤収されたりする。同じように、心の動きでは、無意識の欲動エネルギーが金銭のように流通し、Aという表象に欲動エネルギーが投資されると、その分がBという表象から撤収される。前者をフロイトは「備給」、後者を「備給の撤収」とか「逆備給」などと呼んでいる。
この「備給」「備給の撤収」は、具体的にどういう場合に起こるか? 夢の例で説明すると、夢の中に、昼間に出会ったどうでもいいような人が出てくることがある。その人が好きでもなんでもないはずなのに、過剰に情動が働いて、妙になまなましく感じられるようなことがある。これは、無意識という株式市場のディーラーが、一番の投資の狙い目である株(もっとも固執する表象)を隠しておくために、フェイントとして、そこから投資を撤収して、どうでもいいような株(無意味な表象)に投資を集中するためだと説明される。昼間に出会った人は、じつは、フェイントとして無意識が投資資金を移動した株にすぎず、本来の無意識の投資対象は、その人によって覆い隠された別の人物にあるというわけだ。
フロイトがこの経済論的観点をどこから得たのかについての公式な説明はこうである。
「フロイトがこう考えざるをえなかったのは、一つには、当時の科学的精神および彼の使用した概念がエネルギー論に浸透されていたためであり、また一つには、臨床経験において直面せざるをえなかったいくつかの与件を説明できるのは経済論的表現だけであると彼には思われたからである」(『精神分析用語辞典』)
私は、これとは違った、もっと下世話な仮説を立てたい。それは、フロイトが暮らしていた世紀末からベル・エポックにかけてのウィーンで、一種の経済的なバブルが発生し、フロイトも父の残した遺産のいくばくかを株式市場に投資してみたことがあるのではないかということである。なぜなら、株の取引というものを実際にやってみないと、投資方法や資金の動き、さらには仕手株を吊り上げたり、下落させたりする際のフェイントのかけ方などということはなかなか学習できないからだ。いいかえれば、株式市場には、金銭という「量的なエネルギー」の循環と配分があり、しかも、それは人間の真理、なかんずく、無意識の欲動の動きを如実に反映している。この株式市場で学んだ原理をフロイトは、無意識の欲動エネルギー(リビドー)の動きに「見立て」、「リビドー経済」という画期的な理論を打ち出したのではないだろうか。
もちろん、これは完全な仮説にすぎず、フロイトが株式投資を実際にやっていたか否か、あるいは、当時のウィーンでバブルが発生していたか否かということの裏付けはまったくなされていない。あるいは、フロイトの伝記関係の資料を丹念にあたれば、調べがつくかと思うが、その暇がない。
ただ、それでも、これは案外当たっているかもしれないなという予感はある。なぜかというと、フロイトがこのリビドー経済で無意識を説明するときの比喩が、妙に具体的にすぎるのである。これは株に手を出したことのある人の理解の仕方だなという気がする。
もう一つは、蒐集についてフォレスターが証明したように、フロイトにはあきらかに、アナロジー的思考、つまり「見立て」癖があったということだ。たとえば、有名な無意識と前意識の間にある「検閲」とその「回避」という概念だが、これは、フロイト自身が明らかにしているように、ウィーンで流行していたカリカチュアによる検閲回避の仕方からヒントを得たものである。すなわち、下手なカリカチュリストだと、直接的に体制批判をして検閲でバッサリやられてしまうが、上手なカリカチュリストは、検閲に尻尾をつかませないようにうまくカムフラージュするすべを知っている。無意識も同じように、己の欲動をなんとかして夢に出すために、イメージの圧縮だとか置き換えという方法をつかって「検閲」をかいくぐろうとする。ようするに、フロイトはここでもまた、カリカチュアからの類推で、無意識の構造の「見立て」を行っているのである。
したがって、もし私がフロイト論なりフロイトの伝記を書くとしたら、まず世紀末ウィーンの社会を徹底的に調べて、フロイトが「見立て」をした可能性のある事象を列挙することから始めるだろう。フロイトというのはユダヤ的な論理の人であると同時に詩人的な直感の人でもあった。ゆえに、そのイメージ・ソースは、詩人の常として、案外、卑近なものの中にあったにちがいないのである。
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牛肉食いvs.カエル食い
最近、フランスに渡って異文化体験をしたイギリス人ばかりを主人公にしたジュリアン・バーンズの短編集『海峡を越えて』(白水社)を読んでいたら、その中の一編「ジャンクション」にこんな一節があった。
「フランス人の一行はこの獰猛な牛肉食い人種を、この頑健な腐食動物を、もう一度しっかりと観察した。現場監督はフランス人とまったく違う服装をしている。(中略)現場監督のほうも、じろじろ見られて満足だった。(中略)こちらをじろじろ見ているカエル食い人種を観察できるからだ」(中野康司訳)
これは、十九世紀の前半にフランスで鉄道敷設工事を請け負ったイギリス人工夫たちの生活をフランス人たちが好奇心から「観察」にやってくる部分だが、ここでちょっと驚いたのは、イギリス人がフランス人のことを「カエル食い人種」と馬鹿にしているのに対して、フランス人がイギリス人を「牛肉食い人種」と軽蔑していることである。しかも「牛肉を食うイギリス人」に対するフランス人の驚き自体がこの短編のモチーフとなっている。牛肉を食べるということが、十九世紀のフランス人にとってそれほどに珍しいことだったのだろうか?
もちろん、この作品は現代の小説だが、バーンズという作家は『フロベールの鸚鵡』でも本領を発揮したように、大変な十九世紀フランス通で、資料を徹底的に調べ上げてから小説を書いているので、こうした具体的な箇所はノンフィクションと思ってよい。
事実、少し大きい仏和辞書で、「mangeur 食べる人」の項目を引くと、「カエル食い=イギリス人がフランス人につけたあだ名」、「ザウアークラウト食い=ドイツ人のあだ名」「マカロニ食い=イタリア人のあだ名」と並んで、「ローストビーフ食い=イギリス人のあだ名」と堂々と出ている。また、マグロンヌ・トゥーサン=サマの『世界食物百科』(玉村豊男監訳 原書房)には、「イギリス人の牛肉好きは、なにかにつけて知られてきた。彼らは『牛肉食らい(beefeater)』と呼ばれる」とある。
つまり、「ローストビーフ食い」とか「牛肉食らい」という言葉が残っているくらいだから、十九世紀のフランス人はあまり牛肉を口にせず、牛肉を食べるイギリス人を異様な人種と眺めていたことになる。今日のフランスでは、フライド・ポテトを添えた牛肉のステーキやローストビーフはもっともありふれたフランス料理の一つに数えられるのだから、これはなんとも意外な事実というほかない。この本でも牛に親しむフランス文化と書いたことがあるから、これは真偽のほどをはっきりと解明しておく必要がある。
しかし、事実は意外でも、言葉自体がそれは真実だと物語っている。なんのことかといえば、フランス語ではローストビーフは rosbif、ビーフステーキは bifteck と綴るが、これは当然、英語の roastbeef、beefsteak からそのまま取り入れられたものであり、これらの言葉の登場以前には、食べ物そのものがフランスには存在しなかったことの証明になっているのである。ちなみに『ロベール辞典』によれば、rosbif は一七二七年、bifteck は一八〇六年がそれぞれフランス語初登場の年であるという。もっとも、実際には、一八一五年のナポレオン没落で英仏の敵対関係が解けて、イギリス人が海峡を渡ってから定着した言葉らしい。なお rosbif には「イギリス人」という意味さえある。
だが、こう書くと、ローストビーフやビーフステーキは知られていなくても、ほかの調理法なら、フランス人も牛肉を食べていたのではないかという反論が出てくるだろうが、調べてみると、十九世紀の前半までは、一部の都市住民を除いて、フランス人が牛肉を食べる機会は決して多くはなかったのである。
まず、農民は牛肉をほとんど口にする機会がなかった。たとえば、エクトール・マロは『家なき子』で、牝牛を売らなければならなくなった農家の心理をこう描写している。
「いなかで、農民といっしょに暮らしたことのある人たちでなければ、『牝牛を売る』ということばのなかに、どれだけ辛い思いがこめられているかがわかるまい。(中略)どんなに貧乏で、どんなに大家族でも、その家の小屋に牝牛がいるかぎり、飢えずにすむものなのだ。(中略)夕べには、家族ぜんぶが、スープにバターを入れ、じゃが芋を牛乳にひたすことができるのだ。父も、母も、子どもたちも、おとなも子どもも、みんなが牝牛のおかげで生きてゆけるのだ。バルブランおばさんもわたしも、二人とも、わたしたちの牝牛のおかげで、りっぱに生きてこられたので、わたしは、それまでほとんど一度も牛の肉というものを食べたことがなかった」(佐藤秀吉訳)
牛がいる限り、その農家は、食べるもの(スープに入れる牛乳、チーズ)も、肥料(堆肥)も、労働力(牽引)も安泰なのである。だから、農家ではよほどのことがない限り牛を食べることはなかったのだ。
労働と結び付いた家畜を食べることの禁忌は、牛ばかりではなく、馬についてもいえる。馬が野生だった時代、ヨーロッパ人の祖先は盛んに馬を食べていた。ところが、馬が飼い馴らされて「人馬一体」となってからは馬肉を食べる習慣はぴたりとなくなる。「馬肉の消費はどこか人肉食いの風習に通じるものが感じられた」(『世界食物百科』)からである。
これに対して、どうやっても労働に役立てることができず、かといってその乳も飲用に適さない豚はまっさきに食用に供された。近世まで、ヨーロッパで肉といえば、それは豚肉か、あるいは羊肉と決まっていたのである。
だが、こう書いてから、私自身がひとつの疑問を感じた。というのも、フランス語の肉屋 boucher《ブシェ》 は豚肉ではなく、牛肉と羊肉を扱う商人で、豚肉はハム・ソーセージ屋 charcutier《シャルキュティエ》 が売ることになっているからである。しかも、boucher は非常に古くからある言葉で、十二世紀にはすでに同業組合ができあがっている。フランス人は牛肉を食べなかったといっておきながら、牛肉を売る商人 boucher が存在するというのは変ではないか?
しかし、この点も、語源を調べることで氷解した。boucher とは、もともと「bouc 牡ヤギ」から来た言葉で、牡ヤギの肉を売る商人という意味だった。「bouc emissaire スケープ・ゴート」という言葉があるように、牡のヤギというのは、豚と同じく労働にも乳搾りにも使えないので、古くから食用に供されていたのである。したがって、boucher も、最初はヤギや羊の肉が営業品目で、牛肉中心になるのは後のことなのである。
しかし、それでは、フランス人は十九世紀まで牛肉をまったく食べなかったかというと、労働に使えなくなった牛はこれを食べてもいいことにはなっていた。少なくとも、インドのように、宗教的禁忌があったわけではない。また馬肉の場合のような法律的な規制が存在していたのでもない。ただ、その機会がきわめて限定されていたのである。とくに農民の場合はそうで、カーニヴァルの最終日のマルディ・グラ(肉食火曜日)を除くと、あとは九月二十九日の聖ミカエル祭ぐらいしか牛肉を食べるチャンスはなかった。しかも、聖ミカエル祭に牛を食べるのは、冬に牛に食べさせる飼料がなく、放っておけば冬には痩せて死んでしまうので、いっそ太っているうちに食べておこうという悲しい習慣だったのである。
ところが、近世の初めに、クローヴァーやカブを休耕地に植えて輪作をする習慣が生まれてからは、冬の期間にも牛の飼料が確保されるようになったため、殺す必要がなくなり、聖ミカエル祭の牛肉食いの習慣も次第に消滅するようになった。
その結果、フランスでは、農村部はおろか、都市部でも牛を食べる機会はまれになった。それを示すエピソードがリシュリュー枢機卿の甥の子に当たるリシュリュー元帥が一七五五年に占領地のハノーバーで催した「牛ずくめの宴会」である。元帥が食膳係に宴会の材料がなにかあるかと尋ねると、食膳係が牛が一頭と根菜が少しばかりしかないと答えたので、元帥はみずからレシピを書いて、牛のあらゆる部位を使った牛ずくめの宴会を催したというのである。宴会は大成功で、これを機会に牛肉料理がパリでも盛んになったという。このエピソードは、ロミの『悪食大全』(高遠弘美訳 作品社)から引いたものだが、これひとつをとっても、十八世紀にはまだ牛肉というのがフランス料理の基本アイテムに入っていなかったことがわかる。実際、この『悪食大全』に引用された歴代の大宴会のメニューを眺めていると、ジビエ(野鳥や鹿)ないしは豚、羊、鶏が主体で、牛肉というのはごくたまに登場するだけである。やはり、フランス人は都会の人間でも牛肉はあまり口にしなかったのである。
ただ、この「牛肉」の中に子牛は含まれない。子牛は十九世紀のフランス人もよく食べていた。問題は、成牛の肉、つまりビーフなのである。
では、なぜ、十九世紀まで、フランス人はビーフを口にせず、イギリス人だけが積極的にこれを食べるようになったのか? あらためて、この現象のよってきたるところを問うてみると、はたと答えに窮する。というのも、牛が労働や搾乳に必要不可欠の益獣であることは、イギリスでもまったく同じはずだからである。
ヒントはおそらくフランス料理の調理法にある。フランス料理の基本は煮込みである。そのためには、肉自体の味は少ないほうがいい。この点、子牛の肉は煮込み向きだが、牛肉はブッフ・ブールギニョンのように赤ワインで匂いを消さないかぎり、無理である。だから、牛肉を調理の基本アイテムにしようという発想は出てこなかったのだろう。
しかし、それはフランス人が牛肉を食べない理由にはなっても、イギリス人が食べる理由の説明にはならない。なぜ、イギリス人だけが牛肉を食べるようになったのか? フランス人にいわせるとこうである。すなわち、牛肉をなんの工夫もせずにグリルしたりローストしたりという発想はあまりに野蛮すぎて、グルメのフランス人には思い浮かばなかったというものである。そんなものが料理といえるのか?
これは乱暴だが案外、正鵠《せいこく》を射た理由かもしれない。ただ、若干、最初の考え方を部分的に導入して補正する必要がある。すなわち、煮込み中心のフランスでは、牛肉をグリルしたりローストしたりという発想がなかったので、そのための肉牛を育てることを怠った。いつまでたっても、牛は乳牛と役牛に限られていたのである。ゆえに、グリルしたりローストしただけのフランスの牛肉は、さっぱりうまくなかった。
これに対して、複雑な料理法をもたないイギリスでは、もっとも単純な料理法であるグリルやローストに耐えうる牛の肉、つまり、そのための専用の肉牛を開発せざるをえなかった。その結果、イギリスのステーキやローストビーフはおいしくなったというのである。
これは、肉牛のほとんどがイギリス原産であることを考えにいれるなら、それほど的をはずしてはいないと思う。肉牛の育成こそが、牛は益獣だから食べてはならないという農民的発想からイギリス人を解放したのである。しかし、その肉牛の開発には、グルメならざるイギリス人の特性がかかわっていた。歴史はつねに逆説に満ちている。
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売られたエッフェル塔
テレビの通販番組を見るたびに感じるのは、商業において重要なのは、売りもの(商品)ではなくて、売り方であるということだ。ようするに、売り方さえうまければ、どんなものでも売ることができる。たとえ、それが、絶対に売却不可能なものでも。
カール・シファキスの『詐欺とペテンの大百科』(鶴田文訳 青土社)によると、巧妙な詐欺師の手にかかったら、この世に売れないものはないということになる。たとえば、パリの象徴であるエッフェル塔。これがなんと二度も売りに出されたのである。
一九二五年、フランスの代表的な六つの金属スクラップ会社に「フランス逓信省長官代理」と称する人物から親展の印の押された封筒が届けられた。重大な取引の話があるので、パリの豪華ホテルの一室まで内密に集まってほしいという内容である。
スクラップ会社の担当者がホテルまで出向くと、いかにも高級官僚然とした人物があらわれ、じつは、近々、エッフェル塔が解体され、スクラップとして売りに出されることが閣議決定されたと話し始める。エッフェル塔も築後三十六年を経過し、傷みがひどくなってきたので、修繕費を見積もらせたところ、それがあまりに巨額なものなので、この際、取り壊して新しいモニュメントを建てることに決まったというのである。
実際、エッフェル塔は一八八九年の万博の呼びものとして建てられたときには知識人たちから建設反対の声があがったこともあって、エッフェルと万博当局とのあいだで、二十年後の一九〇九年には解体するという約束がかわされていた。ところが、エッフェルがみずからの名前を残すため、解体回避を各方面に働きかけた結果、無線電信に役立つことが証明されて、からくもそのままの姿でシャン・ド・マルスに残ったのである。
一九二五年にはパリでアール・デコ博覧会が開催され、エッフェル塔もアール・デコ風の電飾のもとに姿をあらわしたが、その際、鉄骨の状態を検査した技師たちによって、全面的な修理が必要だという報告がなされ、新聞にも、エッフェル塔の化粧直しの記事がちらほらと出るようになっていた。
そのため、スクラップ業者たちは、「フランス逓信省長官代理」の話を完全に信じた。エッフェル塔を愛する大衆が猛反発することが予想されるので、政府は極秘裡に計画を進め、入札も完全部外秘で行われるという言い分もいかにももっともだと思われた。しかし、そんなことより業者の目をくらませたのはこの利権を手にしたときの儲けである。エッフェル塔といえば、使われている鉄骨が半端な数ではない。どの業者もソロバンをはじいて儲けを計算し、入札にはなんとしても勝たねばならないと思いこんだ。
そんな業者の心理を見抜いたのか、「フランス逓信省長官代理」は、会合が解散するときに一人の業者をわきに呼んで、こっそりと耳打ちした。じつは、こうして、一応、公開入札の形を取っているが、どの業者が「最適格」かは重々承知している。しかし政府部内には、別の意見の人間もいるから、どうしても工作資金が必要だ。これさえクリアーできれば、入札業務は私がすべてを取り仕切るので、あなたの会社にほぼ決まったも同然である。しかし、私自身には工作資金はないので、云々。
これを聞いた業者は、即刻、賄賂の要求だと解釈して、一時間もしないうちに、五十万フラン相当の金を用意し、「フランス逓信省長官代理」に札束を直接手渡した。
金を手に入れた「フランス逓信省長官代理」は、その足でウィーン行きの急行に飛び乗って、ヴィクトール・ルースティックというチェコスロバキア生まれの男に戻った。ルースティックは第一次世界大戦を挟んだ時期に、ルースティック「伯爵」を名乗り、おもにフランスを舞台にしてさまざまな詐欺を働いたあと、司直の手を逃れて、しばらくのあいだアメリカに渡っていたのである。それが、一九二五年にエッフェル塔改修の記事を新聞で読み、ひらめくものを感じてフランスに舞い戻ってきたというわけである。
ウィーンのホテルに着いたルースティックはフランスの新聞をすみからすみまでチェックし、自分が引き起こした詐欺事件のことが報じられていないかどうか調べたが、それらしき記事はまったく見当たらなかった。そこで、彼はこう結論した。被害に遭ったスクラップ業者は、事件が公になってみずからのマヌケさが物笑いの種になることを恐れ、泣き寝入りしたのだろう。警察に訴えていないのはもちろん、同業者にも連絡を入れてはいないはずだ。ならば、あと何匹かカモがいるにちがいない。
そこで、ルースティックはパリに舞い戻ると、同様の手口で別の業者と接触し、ほぼ同じ金額をせしめ、もう一度、身を隠したが、しかし、カモはそれ以上は見つからなかった。今度の被害者はしっかりと警察に訴え出たからである。
じつは、こうした公共建築物の売却話を捏造して、欲に目のくらんだ人たちから金をだまし取る手口はきわめて古典的な詐欺の方法で、ルースティック以前にも、世界各地でさまざまな公共建築物が「売り」に出されていた。
とくに有名なのは、二十世紀の初めにアメリカで「活躍」したジョージ・C・パーカーで、彼は、ブルックリン橋、メトロポリタン美術館、マディソン・スクエア・ガーデンなどニューヨークのあらゆる公共建築物を売りまくった。
もっともパーカーの使った手口は、解体決定・スクラップ処理ではなく、管理権の譲渡である。すなわち、ニューヨーク見物にやってきたお上りさんに近づき、自分はブルックリン橋やメトロポリタン美術館の所有者だと偽って、通行料や入場料の料金所管理の仕事をもちかける。そのさい、いかにももっともらしい偽造証書や文書類を示したり、一日の通行者や入場者の数を示して「あがり」の計算をして見せることはいうまでもない。
なぜそんな有利な管理権を売るのかと尋ねられれば、自分は歳だから隠退を考えているといえばそれで済んだ。欲に目がくらんだカモたちが言い値を払えないときには、パーカーは分割払いにも応じるという鷹揚ささえ見せたが、一刻も早く営業権を手にしたいカモたちは、ほかから資金を調達してきて残金を払い込んだから、パーカーが譲渡金を取りはぐれる恐れはなかったのである。
同じような手口で一九二〇年代にロンドン・トラファルガー広場のネルソン提督の記念碑やビッグ・ベン、バッキンガム宮殿をアメリカ人の観光客に売ったスコットランド人の詐欺師もいた。アーサー・ファーガスンという俳優で、この男は、ロンドンの記念建築物だけではあきたらずに、わざわざアメリカまで出向いて、今度はイギリス人の観光客相手にホワイトハウスを売った。それどころか、自由の女神も彼の売却の対象となった。オーストラリア人がこれを十万ドルで買わされたのである。ニューヨーク湾の改修工事のために自由の女神が邪魔になるため、撤去されることに決まったので、これをオーストラリアにもって行けば、観光名所を作れるし、またそれがだめでも、破片をお土産として売れば、大儲けは確実だと持ちかけたのである。この手口など、世界のモニュメントに弱い日本人などには極めて有効だと思うのだが、案外、すでにやられた人間がいるかもしれない。
一般に詐欺師の手口には画期的なものはなく、たいていは、過去の事例を刑務所の中などで学習した結果であるといわれる。前述のルースティックがエッフェル塔を売ったのも、ブルックリン橋や自由の女神売却の手口をエッフェル塔にすり替えたにすぎない。しかし、詐欺師の巧妙な話術にかかると、どんな途方もないものでも買いたくなるものなのである。
ルースティックがパリからアメリカに渡って売りまくり、百万ドルを稼ぎだした「新製品」もこの例にもれない。というのも、彼が売ったのは偽札製造機という、ある意味では古典的な詐欺商品だったからである。
ルースティックは偽札製造機にまずただの白い紙を入れ、数時間後にそれが偽札を吐き出すまで、カモとともに機械の作業に立ち会い、インチキは一切していないことを証明する。偽札ができあがると、ルースティックはその偽札の完璧さを示すために、カモにそれを銀行に持っていって両替してもらってくるようにという。カモの中にも用心深い人間がいて、もしかすると出来の悪い偽札をつかまされたかもしれないと思い、これは偽札の疑いがあるので念入りに調べてくれと銀行に頼むこともある。しかし、判定の結果は、常に完全な本物と出る。銀行の人間は、冗談めかして、「お宅の持っている≪偽札≫なら、いくらでも引き受けますよ」とさえ断言する。ルースティックが製造した偽札製造機には、あらかじめ「本物」の札を仕込んであったのだから、銀行が保証するのも当然なのである。
しかし、こうなると、カモはもう我慢してはいられない。ルースティックの言い値で偽札製造機を買い取りたいと申し出る。ルースティックは最初、いかにも機械を売りたくないようなそぶりを見せる。というのも、もし容易に取引に応じたら、自分で偽札を作るほうが儲かるのになぜ金の卵を売るのかと、かえって不審を抱かれる恐れがあるからだ。
そこで、ルースティックは偽札製造機売却のもっともらしい口実を語り始める。じつは、自分はいまこの機械よりもはるかに性能のいい機械を設計中なのだが、この機械の開発にはまとまった金がかかる。いまの機械だと六時間に二十ドル紙幣が一枚しかできないが、その新製品なら時間は半分で済むので偽札の生産量は倍になる。だから、金額さえ合えば、この旧式の機械は譲ってもいいというのである。
かくして、めでたく取引が成立し、カモから代金を受け取ると、ルースティックは本物の二十ドル札をこっそりと機械にセットし、六時間たったら機械のトレーをあけて「偽札」を取り出し、すぐに次の白紙をセットするように言い置いて、そのまま逐電する。こうしておけば、逃走に必要な十二時間が稼げるからである。
今日、この偽札製造機の詐欺はいっそう巧妙になり、コンピューターや高性能のカラー・コピーを使った「高性能機」も続々と登場していると聞く。もちろん、仕込まれているダミーの偽札は「本物」なのだから、機械がいくら高性能になろうと関係はないのだが、コンピューター内蔵といわれると、カモはそれだけ簡単にだまされてしまうのである。しかも、被害者になるのは、銀行、証券会社、金融会社、不動産会社など「金」のプロが多く、社会的信用もあるため、偽札製造機で詐欺に遭いましたとは訴えにくいという側面がある。バブル崩壊で、ワラをもつかむ気持ちでいる日本の金融関係者などの中には、この偽札製造機を見せられたら、ひとたまりもなくだまされてしまうものが相当にいるのではないだろうか? 詐欺の被害者は、困窮している者と、欲に目がくらんだ人間の二種類だから、いまの日本には、この両方の条件にピッタリはまるカモがひしめいていることになる。偽札製造機にはくれぐれもご用心を!
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消えた便所
過日、パリ近郊にあるフォンテーヌブローやヴォー・ル・ヴィコントなどの城郭を見てまわったが、そのとき、前々からうすうす感じていた疑念が「?」のかたちをとってはっきりと現れた。なぜ、こうした城には、便所がないのだ?
といっても、それは便器がないという意味ではない。人間が日常的に生活していれば、用便の必要は必然的に発生するから、便器がないということは考えられない。事実、どの城郭にも、王や王妃が使ったとおぼしき便器が寝室や化粧室の片隅に展示されていた。
それは、具体的にいえば、穴あき椅子《シェーズ・ペルセ》というやつである。つまり、椅子の腰掛けの部分に円形の穴があいていて、その下に陶器製の便壺が置かれている。外見的には、穴はふさがれていて、何冊もの本を椅子につみ重ねたような形をとっていることが多い。使用後は、召し使いが便壺だけをとりだして、中身を捨ててくるのである。
この点は、上下水道が完備していなかった当時のことを考えればなんら問題はない。
問題があるのは、穴あき椅子が置かれていた場所とそれが使用されるときの状況だ。
一般に、王侯貴族が目覚めると、最初に行われるのが排尿排便であることは一般の人間と同じである。彼らはそのまま寝室や化粧室の穴あき椅子で用を足す。ここも、とりたてて問題はない。
しかし、王侯貴族が現代のわれわれと決定的にちがうのは、目覚めたときには、そこにお付きの下男下女という他人がいることである。彼ら王侯貴族はなにひとつ自分ひとりではやらない。つまり穴あき椅子での排尿排便も、当然ながら、この下男下女の見ている前で行うのである。排泄が終わると椅子係の者が綿を差し出す。王侯貴族は、その綿で尻をふいて、それをまた相手に戻す。椅子係の者は、その綿と便壺をもって居室を立ち去る。
これが一般的な朝の「儀式」のようだが、なかには、自分でふかずに、椅子係にやらせる王様もいた。ブルボン王朝の開祖で名君の誉れ高いアンリ四世である。なぜ、そんなことがわかるのかというと、アンリ四世の長男のルイ十三世の侍医エロアールが詳細な育児日記をつけていて、その中に、ルイ十三世とその家庭教師のこんな会話が拾われているからだ。
「殿下、お父上がおっしゃったでしょう、殿下は一人で手を洗い、お尻を拭くことを覚えなければならないと──うん──お父上もご自分でお拭きにならないのに、となぜ申し上げなかったのですか?──そんな勇気なかったよ、きっと鞭で打たれてしまうもの」(ジャン=クロード・ボローニュ『羞恥の歴史──人はなぜ性器を隠すか』大矢タカヤス訳 筑摩書房)
尻を係にふかせる習慣は、アンリ四世からルイ十三世、さらにその子供のルイ十四世にまで伝わったらしい。あるとき、この係を務めていたラフラネルという従者が巧みにことを処理したので、ルイ十四世が感嘆して、「そちは、なんてうまいんだ」とつぶやいたところ、ラフラネルは「なにしろ、わたくしめは綿より上等なラフラネル(ラ・フラネル、つまりフランネルのこと)でございますから」と当意即妙の返答をしたので、以後、この重要な職務は代々ラフラネル家に与えられることになったという。
ところで、今日のわれわれから見て大いに疑問なのは、王侯貴族は、このように人前で排泄して恥ずかしさを感じなかったのかということである。これは、当時でも下々《しもじも》の人間には同じことだったらしく、ルイ十三世の道化は国王にこういっている。
「陛下のお仕事でどうしても私めにはできそうもないことがございます──ああ、そうか。それで何じゃ?──一人で食事することと人前でうんこをすることでございます」(同書)
そう、まさに、この道化のいうように、平気で「人前でうんこをすること」が、王が王たるゆえんだったのである。なぜかというと、王権が強くなるにしたがって、「裸体はそれを見せる側には少しも屈辱的ではなく、それを見る側に屈辱的」という原則が発生したからである。
その結果、国王が朝起きて排便の儀式を執りおこなうとき、椅子係の人間や道化だけではなく、国王の臣下たちもそれに立ち会うことを強いられるようになる。というよりも、正確には、穴あき椅子にすわった国王に接見を許された臣下だけが忠臣と認められるという不思議な「お目見えの儀式」が生まれるのである。
アンリ三世の暗殺者ジャック・クレマンはこの「お目見えの儀式」をまんまと利用した一人だった。というのも、接見希望者として宮廷に入り込んだクレマンは、穴あき椅子にすわっているアンリ三世が立ち上がってパンツをはくすきも与えずに一気に剣を下腹部に突き刺したので、致命的な傷を負わせることができたからである。
やがて、この「穴あき椅子での接見」は、なんでもかんでも国王に右にならえする貴族たちのあいだにも広まってゆく。アンリ四世の孫のヴァンドーム公がこの習慣に固執したことはサン=シモンの『回想録』に出ている。
「軍隊で彼はかなり遅く起床し、穴あき椅子に腰掛けるとそこで手紙を認め、朝の命令を下すのだった。彼に用のある者、つまり将官達や高貴な人々にとってこの時が彼と話す時間であった。彼は軍隊全体をこのおぞましい習慣に慣らしてしまったのである。この恰好で彼はたっぷりと、多くの場合二、三の内輪の人間と一緒に、朝食をとり、報告を聞いたり命令を与えたりしながら同じくらいたっぷりと排泄した。そして常に大勢の人間が立ってそれを見ていたのである」(ボローニュ 前掲書に引用)
ヴァンドーム公はあきらかに、自分が王太子と同じくらいに偉いということを見せつけるために、この接見方法を採用していたのである。だから、初対面の人でも、彼我の身分の差を思い知らせる必要があるときには、穴あき椅子にすわったまま接見した。しかし、なかにはこれをはなはだしい侮辱と感じて憤る正常な神経の持ち主もいた。パロマ公から派遣された高位の司教がそれで、司教は、ヴァンドーム公が穴あき椅子にすわっているのみならず、立ち上がって尻をふいたので、怒り心頭に発し、使命を果たさぬままに、その場を立ち去った。そこで、パロマ公はアルベローニという若い司教を派遣したが、アルベローニは前任者の失敗をよく心得ていたので、同じ歓待をされると、いきなりヴァンドーム公に近づき、「おお、天使の尻よ!」とその尻に接吻したと、サン=シモンは書いている。アルベローニが首尾よく任務を完了したのはいうまでもない。
この穴あき椅子での接見がひろく行われていたことは、さまざまな文献に出ているらしく、ジャン=クロード・ボローニュは、ご婦人方もその例外ではなかったと記している。アンリ四世の妻マリー・ド・メディシスなどは、椅子係にニコラ・ギヨワという男を採用していたという。
しかし、これは非常に不思議なことだが、プライベートな空間での高位の者の排泄行為が大っぴらになるのに反比例するように、パブリックな空間での低位の者の排泄行為は厳しく制限されるようになる。なぜかというと、王にならって貴族たちも目下の者の前で排泄の儀式を行い、みずからの権威を見せつけるようになると、宮廷のだれひとりとして孤独のうちに排泄しなくなるから、公的な便所というものは次第に数が少なくなってしまうのである。それは、第一に便所を直接的に指す言葉が上流階級のフランス語から消滅したことに現れでた。人々は「汚くて名を言ってはならない場所」とか「名ざすのは上品ではない家の一部」という言い方で、なんとかそれを表現しようとしたが、やがて、それも必要なくなる。なぜなら、実際に、宮殿から便所が消えたからである。
中世の古城や僧院を見学するとわかるのだが、あきらかに、共同の便所として使われていたとおぼしき空間が残されている。ところが、時代が下って、王権が強化され、宮殿が豪華になるにつれて、そこから便所が排除されるようになる。これをボローニュは「その消滅は、見かけや外的装飾に心を奪われ、建築的に完璧な構成の中で人体の屈辱的欲求の否定へと向かう一つの文明の予兆である」と言っている。わかりにくい表現だが、外見的に美的な面ばかりにこだわるようになると、けがらわしい排泄行為の場たる便所が消える方向に文明が進んでゆくということである。
その最たる例がルイ十四世が完成したヴェルサイユ宮殿である。ヴェルサイユ宮殿には、王侯貴族の寝室のようなプライベートな空間にこそ便器はあったが、パブリックな空間には、便所は設けられていなかった。そのことを知っている貴族たちは宮殿内の自室や宮殿の外の自宅であらかじめしっかりと排泄をおこなってから宮殿に参内するのだが、儀式や宴会が長引けば、自然の欲求が激しくなって、我慢も限界を越える。しかし、他人のプライベートな穴あき椅子を貸してくれとはいいだせない。その結果がどうなるかは火を見るよりもあきらかである。
「構うものか、暖炉の中やドアの陰、あるいは壁掛けに向かい、あるいはバルコニーで人は放尿した。中庭の舗石の一個一個、今日誇らしげに示される賓客用大階段の一段一段に糞便が残されていたのである」(ボローニュ 前掲書)
これは事実のようで、当時の風刺画を見ると、貴婦人が木陰でスカートをたくしあげて立ち小便している図(この頃にはパンティはなかった)が描かれているし、フランス宮廷に嫁いだパラチナ選挙侯王女も「私達のうんこするのが誰にでも見えるのです。男も通れば女も通り、女の子も男の子も通り、神父もスイス人傭兵も」(同書)と故郷に手紙を書き送っている。
歴史家のアラン・コルバンも『においの歴史』で「大庭園も庭園も、そして宮殿さえもが吐き気を催すような悪臭をはなち、連絡通路、中庭、両翼の建物、廊下などは小便と大便がいたるところに撒き散らされている」(拙訳 藤原書店)というラ・モランディエールの言葉を引用している。
この調子で宮廷生活が続けば、宮殿全体が悪臭漂う巨大な便所と化すのは理の当然で、そのたびにいくら処理しても追いつかない。そこでルイ十四世は奇妙な解決策を考えだす。
「ルイ十四世はヴェルサイユ宮やルーヴル宮、フォンテーヌブローの城に溢れる糞の山から逃れるただ一つの策しか思い当たらない。巡回宮廷という古い慣習を復活させて毎月引っ越しをし、一つの城を汚している間にもう一つを洗わせるようにしたのである」(ボローニュ 前掲書)
そんな面倒なことをやらずとも、共同の便所を設ければそれで済むことなのに、言葉が消滅してしまうほどに禁圧された事物を新たにつくりだすことは、誰にも、国王にもできなかったのである。
言葉を抹殺し、事象や事物を消滅させたと思いこんでも、それにまつわる現象それ自体はなくならない。ゆえに便所という言葉と共同便所がなくなれば、宮殿が共同便所と化すことになるのである。これ、マスコミの言葉狩りの構造と似てはいないだろうか?
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愛とはオッパイである
愛ってなんだ?
いきなりこんな問いを発したら、「おいおいどうしたんだよ、いい年こいた中年男が、頭おかしくなったんじゃないか」とでも言われそうだが、考えてみれば、これほどに根源的で、これほどに解答不可能な問いはない。ゆえに、ぜひ、この本で一度はとりあげて見たいと思っていたのだが、サル学者の榎本知郎氏の『人間の性はどこから来たのか』(平凡社)を読んでいたら、榎本氏は、仮説ではあるがと断った上で、大胆にも、この問いに答えを出そうとしている。
その答えを私なりに要約すると、「愛とはオッパイである」ということになる。これは意外というか、あまりに直截的というか、いずれにしても予想だにしなかった答えであることだけは確かだ。しかし、その「愛とはオッパイである」という説のよってきたるところを子細に検討すると、なるほどその通りかもしれないという気がしてくるのである。
榎本氏がオッパイ、すなわちヒトのメスの乳房に注目するのは、第一に、授乳時以外にも乳房が膨らんでいるのはヒトのメスだけであり、第二にセックスのさいにオスがメスの乳房をまさぐったり口にふくんだりするのは、これまたヒトだけだからだそうだ。
「ヒトの性行動を見ると、オスによる乳房や乳首への愛撫が繰り返される。ここはオスにとっても触りたいところだし、メスにとっても触ってもらいたい、いわゆる性感帯のひとつになっている。(中略)乳房の感覚が鋭敏なのは、ヒトに限ったことではない。ところがオスが乳房を愛撫する行動は、ほかのサルでは見られないのである」(前掲書)
ボノボ(ピグミーチンパンジー)というもっともヒトに近いサルは、セックスの面では人間とよく似ていて、売春もすれば、オス同士、メス同士の同性愛もあり、セックスも半分は対面位で行うのだそうだが、それでもオスがメスの乳房を触ることはないのだという。もちろん、授乳時以外にも乳房が膨らんでいることはない。
というわけで、ヒトのセックスにおいては、乳房はきわめて特殊な機能を果たしているということになるのだが、とりあえずは、問題を二つに分けて考えてみよう。
まず第一は、ヒトの乳房は授乳時以外にもなぜ膨らんでいるかという問題である。これに対しては、デズモンド・モリスが唱える「乳房=発情信号」説がある。
普通のサルの場合には、排卵期が訪れるとメスは発情してそれを示す信号を発する。尻の皮(性皮)が赤くなるのがそれである。ところがヒトのメスにはこの発情を知らせる性皮がない。しかも、排卵の時期におかまいなくいつでもオスを受け入れることができる。だから、そのOK状態であることを知らせる信号が必要になる。ヒトのメスの膨らんだお尻はその信号の一つだが、乳房も第二のお尻なのだという。
しかし、この説にはひとつ欠点がある。それは乳房という発情信号によって引き寄せられたオスが性交をしてメスが子づくりに成功しても、そのとたんに乳房が小さくなるわけではないから、亭主以外のオスもあいかわらず寄ってくるということである。つまり、「乳房がお尻のイミテーションとして大きくなるようなメカニズムは、オスがセックスの相手を比較的自由に選べる社会でなければ、働かない」のである。
いいかえるなら、この「巨乳=発情信号」説では、乳房の大きいこと、つまり巨乳は、発情信号という外見の面で優れていても、メスとして、いいかえれば妊娠・出産の機能が優れていることを意味しないから、オスが子づくりよりも、セックスの快楽のほうを優先する乱婚型社会が前提になっている。
第二の説は、自分は「赤ちゃんが生めて立派に授乳できる」というメッセージをオスに伝えるために、メスが大きな乳房を利用するという「巨乳=皮下脂肪」説である。原始時代で、常に飢えに脅かされていたときには、オスは自分の子孫を作ることを第一義にするはずだから、子供が生めて丈夫に育てられるようなメスを選ぶことは必然である。その場合、巨乳のメスと小乳のメスを比べれば、機能的に前者のほうが優れているとオスは判断する。このように、「巨乳=妊娠・授乳のシンボル」説は、子づくりを第一義とする一夫一妻社会を前提にしている。
いずれの考えをとるにしても、オスは乳房の大きなメスを選ぶ。乳房の大きくないメスは子供を作れないから子孫に形質が残せない。反対に巨乳のメスはどんどん子孫を増やし、次の世代でも、同じことが繰り返されるから、適者生存で、メスは全員、乳房が膨らんできたということである。
だが、適者生存で、巨乳のメスだけが生き残り、オスが巨乳のメスにひかれるようになったとしても、これだけでは、もう一つの根源的な問題を解決することはできない。それは、オスがなぜ乳房それ自体にひかれるのかという問題である。オスが発情信号として、あるいは妊娠・授乳のシンボルとして乳房を認識したとしても、だからといって、乳房そのものに愛着をもつということにはならないからだ。それは、オスのサルがメスの性皮そのものにひかれて、性皮をいとおしむということがないのを見ればよくわかる。結論すれば、ヒトのオスがメスの乳房そのものに魅力を感じて、セックスのときにそれをまさぐったりなめたりするというのはヒトだけに特殊な現象であり、これがサルとヒトを区別する大きな特徴なのである。
榎本氏は、この点に注目して、ヒトのオスが乳房そのものにひかれるのは、ヒトがネオテニー(幼いままに大きくなってしまう幼態成熟)的な性質をもっているためであるという新説を披露している。すなわち、ヒトの赤ん坊は一人では歩けず餌も一人では手にいれることのできない「寄る辺ない」期間が、サルに比べて異常に長い。さらに、成年に達しても、サルなどよりも、子供っぽい精神を多分に引きずっている。いいかえれば、体は成熟しても心は母親の乳房が好きな赤ん坊のままなのだ。
「乳房が進化する前のメスには、扁平な胸にちょこんと乳首がついていた。そんな若いメスのなかに、乳首のまわりが、まるで母親であるかのようにちょっぴり膨らんだメスがいたのである。もちろん、そのころには衣服がなかった。たとえあったとしても、膨らんでもいない乳房を隠す気は、さらさらなかった。
どんなサルでも、まだおとなになりきらない若者のうちは、活発にいろんな異性とつきあうものである。ヒトの祖先の少年も、多くの少女とつきあったことだろう。そして、オスたちは、ぷっくり膨らんだ乳房を見て母への想いを刺激され、オスはそのメスが好きになる。そのメスはいろんなオスから『求婚』されるようになる。もっとも、そのころにはまだ、『結婚』という制度はなかっただろうが」
つまり、ヒトは幼さを引きずったまま成熟するため、オスは、母親を思い出させるような大きな乳房を突然変異で持つようになったメスを見るとこれにひかれるようになり、乳房そのものにも魅力を感じるようになったというわけだ。ヒトのオスがセックスのときに乳房をまさぐるのは、母親の乳房をまさぐっていたときの記憶なのである。
さて、ここからが本題である。なぜなら、榎本氏は、ヒトのオスが母親の乳房の記憶から巨乳のメスにひかれるようになるところに「愛」の発生を見ているからだ。
「ヒトの祖先も、ネオテニー的な性質をもっていた。大きくなっても、母親への思いが抜けきれない。オスにもメスにも、かけがえのない母親に執着する心がある。そして、成長してからもメスとオスは、サルにふつうに見られる遊び、つまり育児遊びを続けたのだろう。そのとき、母親への執着が、異性の相手に投影される……」
なるほど、オスに関しては、母親への「愛」が巨乳のメスへの「愛」に変形していったということは十分にありえる。ようするに、ふくらんだオッパイを介して、母親への愛が異性愛へとすりかえられたということである。「愛」とはオッパイのことだったのである。
しかし、メスの「愛」の発生に関しては、果たして、この説で説明しきれるかどうか? つまり、巨乳のメスのところにひき寄せられてきたオスがいたとして、そのメスは、かつて母親の乳房をしゃぶっていたときのみずからの記憶を蘇らせて、今度はその役割を自分がオスに果たしてやろうとするのだろうか? たとえ、そうしたことがあったとしても、それによってメスがオスに「愛」を感じるようになるのだろうか? 換言すれば、メスの場合、みずからのオッパイを介して、母親への「愛」が疑似的母性愛に変わって、それがそのまま異性愛に移行することになるのだろうかという疑問である。
このように、愛とはオッパイであるという榎本氏の説は、オスには見事に当てはまるが、メスにはいささか無理があるような気がする。あるいは、どこかしらに何か別のファクターを導入しないかぎり、メスがオスに感じる「愛」をうまく説明しきることはできない。
ならば、フロイトがエディプス・コンプレックスの裏返しとしてのエレクトラ・コンプレックスを想定したのと同様に、メスにとっての父親の存在を新しいファクターとして導入してはどうか?
ただ、父親という存在は、ヒトが乱婚形態から一夫一妻形態に移行したあとでなければ、現れてこない。乱婚形態だったら、どれが自分の父親かわからないのだから、子供のメスが父親になんらかの執着を持つことはありえない。一夫一妻になって初めて、子供のメスにとって父親が意識されてくるのである。そして、そうなって初めて、メスは父親への「愛」の代理物として異性愛を感じるのではないだろうか。
榎本氏も、「愛」が一夫一妻のもとで成立したことを認めているが、ただそれは、私の考えとは順序が逆である。
「愛を成立させたその状況とは、おそらく干ばつだったろう。
猿人から原人が生まれた更新世のはじめは、地殼変動の影響で繰り返し地球が寒冷化して、熱帯地方でひどい干ばつにみまわれた。もちろん、餌も少なくなった。餌が少なくて広い範囲に散らばっているときにはより小さな集団で生活をした方が有利である。それまで猿人たちは、一夫多妻の家族群で生活をしていた。しかし、こんな気候の激しい時期には、より小さな一夫一妻的な家族で生活をしたほうが有利だった。そして、愛は、一夫多妻ではなく、ひとりのオスとひとりのメスをかたくつなぎ止める力として機能したのだとわたしは考えている」
「愛」が一夫一妻を導いたのか、一夫一妻が「愛」を生み出したのか、その因果関係は卵とニワトリのようではっきりしない。だが、この二つが密接な関係にあることだけはたしかなようだ。そして、その中心にオッパイがあることも。
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長茎ランナウェイ学説
昔から不思議でしかたがないのだが、自動車雑誌の表紙はなぜ、肌もあらわな美女がクルマにからみついて頬ずりしている絵柄が好まれるのだろうか? とくに、このジャンルの低級誌ではこれ以外の表紙はほとんど考えられないほどに一般的な「文法」になっている。私の記憶が正しければ、この表紙の「文法」はこうした雑誌が誕生した時点から確立されていた。あるいはアメリカの同種の雑誌を真似たのかもしれない。とすれば、これは全世界的な傾向といえる。おそらくクルマ好きの男は自分が最新流行のモデルを買うと、そのクルマの格好よさにひかれて、女がひとりでによってくると思いこんでいるにちがいない。さもなければ、こんな絵柄が何十年ものあいだ表紙を飾っているわけがない。
もちろん、精神分析的にいえば、クルマはペニスの象徴ということになる。だが、ここで疑問が起きる。なぜ、クルマはペニスの象徴なのか?
もっとも容易な答えはクルマの形から説明するものである。すなわち、クルマが馬車から進化して、流体力学の法則にのっとって流線形になったとき、その形状がペニスを連想させ、クルマはペニスの象徴=代理物となったという説である。なるほど、フェラーリとかポルシェのようなスポーツカー、あるいはベンツやBMWのような大型高級車、さもなければ、4WDなどのバカでかいクルマなどが好まれるという事実は、ペニス形状説の有力な根拠となっている。八〇パーセントはこれで正鵠を射ているといえる。しかし、残りの二〇パーセントの疑問を解決するだけの説得力にはまだ欠けているように思える。なぜかというと、クルマに限らず、すべての事物において、男は同じことをしているからである。
たとえば、クルマが登場する以前の馬車の場合がそうだ。これは私が馬車の専門家だから確信をもって断定できるのだが、馬車はペニスと形が似ているわけではないが、男性にとって常にペニスの代理物として扱われてきた。つまり、大きくて、豪華な馬車であればあるほどそれは女性を興奮させ、性的にひきつけると男は幻想を抱いていたのである。
では、自家用の乗り物一般がペニスの象徴なのかというと、そうとも限らない。なぜなら、馬車とは移動する宮殿として生まれたことからもわかるように、最初は宮殿すなわち、豪華な家こそがペニスの象徴であったからである。
それだけではない、宮殿に住む王たるものは、豪華絢爛たる衣装をまとい、玉座に座り、王冠を戴き、王杖を持たねばならないのだから、住居も衣服も、持ち物も結局はすべてペニスの象徴なのである。いいかえれば、男が「所有する」ものはことごとくペニスの象徴だと見てさしつかえない。これは、フロイト先生が繰り返し指摘している事実である。
しかし、それならば、なぜ、また、いつ、こうした象徴化が起こってきたのだろうか? この問いにはフロイト先生も答えていない。ゆえに、自分で仮説を立てるほかない。
ペニスの象徴化が起こったのは、なんらかの原因で男がペニスを隠すようになったときからであるのにはまちがいない。
その証拠のひとつとしてあげられるのが、ニューギニア原住民の男が身につけているペニスサックである。われわれの常識では、このペニスサックはたんにペニスの大きさを強調する道具のように思われているが、これは、完全に逆なのだという。なぜなら、ペニスサックはニューギニア原住民の公共の場における正装だからである。進化生態学のジャレド・ダイアモンドは『セックスはなぜ楽しいか』(長谷川寿一訳 草思社)で次のように述べている。
「各人がいくつかの種類を所有していて、サイズや装飾、さやの向きなどが違っている。そして毎日、その日の気分に応じてどれをつけるかを選ぶのだが、それはちょうどわれわれが毎朝その日着るシャツを決めるような感じだった。どうしてペニスサックを身につけるのかという私の質問にたいし、ケテンバンの男性は、それをつけていないと裸のような気がするし慎みがないと感じるからだと答えた。西洋人としての私の見方からすると、その答は驚きだった。ケテンバンの人びとはペニスサック以外は完全に裸だったし、睾丸さえもさらしていたからだ」
これからも明らかなように、ペニスサックというものは、ペニス自体を隠蔽するものであると同時にペニスの象徴=代理物でもあるのだ。より正確にいえば、人類は、ペニスを隠したい気持ち(羞恥心)を抱くようになるのとほとんど軌を一にして、ペニスの象徴=代理物を出現させたのである。そして、この象徴=代理物にたいしては羞恥心を抱く必要はないから、それはたちまちのうちに肥大化・巨大化して、ひとつの文明・文化にまで成長したのである。げんに、ペニスサックは最大のものは長さ六十センチで直径十センチ、たいていは色が赤や黄色に塗られて、先端には毛皮や葉の飾りがしてあるというから、まさに文明・文化の誕生である。このペニスサックがベンツやフェラーリに代わるまでの数万年の間、人間の男たちは、おのれの全精力を傾けて、ペニスの象徴=代理物の改良・改善に取り組んできたわけである。これが世にいう「進歩」の実態なのだ。
さて、以上で、いつ、どのような経過でペニスの象徴化が起こったかはわかったが、しかし、なぜそうなったのかという一方の疑問はまだ解かれないままでいる。つまり、なにゆえに、人類はペニスを隠蔽し、それを象徴化する方向へともっていったのかということである。
この疑問に対するヒントは、人類のペニスの長さにあるような気がする。
先のジャレド・ダイアモンドによると、人類のオスは人種、民族などによる微差はあるものの、平均すると十三センチのペニスをもっているのだが、これは他の類人猿に比べると異常に長いのだそうだ。
「われわれの近縁種である類人猿と比較すると、ヒトのペニスのサイズはたんに機能的な必要性を超えており、その余分なサイズはシグナルとしての役割をはたしているようだ。勃起したペニスの長さはゴリラではわずか三センチ強で、オランウータンは四センチ弱であるのにたいして、ヒトは十三センチに達する。ゴリラとオランウータンのオスはヒトの男性よりもずっと大きな身体をしているにもかかわらずだ」
なんと人類のオスは、類人猿の共通の祖先においては四センチ弱だったペニスをじつに十センチ近くも伸ばす方向へと進化を遂げたのだ。その進化のプロセスはランナウェイ淘汰と呼ばれるものである。すなわち、まず、いささかペニスの長いオスが突然変異で生まれる。すると、それを見たメスたちはこのオスはより高い生殖能力を持つと判断するため、メスたちの人気がそのオスに集まる。すると、そのオスの遺伝子を持った子供が多く生まれる。それが何十世代も何百世代も繰り返されるうちに、オスのペニスは十三センチにまで達したのである。
ではなぜ十三センチでストップしたのか? それ以上に長いと、ペニスがメスの膣に収まらないので、長さがそこで制限されたからだという。「いくら長いのがいいといったって、限度ってものがあるわよね」という声がメスたちの間で上がり、ロング・ペニスのオスは人気を失って、逆ランナウェイ淘汰が起きたのだ。
おそらく、人類のオスがペニスを隠すようになったのは、この逆ランナウェイ淘汰が始まった瞬間だろう。それまでは「長いこと=良いこと」だったのが、「長いこと=迷惑」になったのである。おそらく、ペニスを隠す習慣は、十三センチを超えたロング・ペニスのオスから始まったのだろう。そして、それが次第にオス全体に広まっていったのだ。
だが、この説には当然ながら、強力な反論が起こるにちがいない。
長いペニスを隠すのはわかるにしても、では、その代わりに生まれた象徴=代理のペニスサックがなぜかくも巨大なペニスを模しているのか?
ジャレド・ダイアモンドはこの問いに直接答えてはいないが、ひとつの極めて興味深い示唆を行っている。それは、十三センチに達するまでのペニスのランナウェイ淘汰においても、かならずしもそれはメスだけを観客にして行われたのではないということである。
「男性の大部分は、それによって感銘を受けるのは女性だと思い込んでいることだろう。しかし、実際に女性が引き付けられるのは男性の別の特徴である場合が多く、ペニスの外観については、どちらかと言うと、見苦しいと感じている。対照的に、実際にペニスとそのサイズに魅せられるのは男性のほうだ。男性用ロッカールームのシャワーでは、互いの持ち物の大きさを比べ合うのが当たり前になっている」
これは重要な指摘である。ロング・ペニスへのランナウェイ淘汰はメスよりもむしろオスを観客にして起こったというのだ。なぜかといえば、ロング・ペニスはメスに対するアピールもあったにはちがいないが、それ以上に、同性のオスに対して、より自分が優位にあってメスを独占できる状態にあることを示すシグナルとして機能していたからだという。つまり、最初のうちこそ、ロング・ペニスのオスがメスの人気を集めたとしても、あとは、長ければ長いだけ魅力があると思いこんだオス同士の対抗心によってランナウェイ淘汰のプロセスが自動的に進行したというわけである。
だが、そのランナウェイ淘汰にも終わりの日がやってくる。ロング・ペニスが限度を超えたのだ。しかし、一度始まったオス同士の長茎化競争は脳髄に深くインプットされているから、たとえ、現実のペニスが隠されるようになったとしても、なんらかのかたちでその象徴=代理を作り出さないわけにはいかない。ペニスサックは、それがペニスの隠蔽器具でもあるという意味で、そのもっとも原始的な形態である。だが、やがて、隠蔽器具と象徴=代理器具は機能を分担するようになり、後者がさまざまに形を変えてゆくうちに、文明や文化が生まれてきたのである。
「動物学者は、性的な装飾が二つの機能──配偶の可能性のある異性を引きつけることと、同性のライバルにたいして優位に立つこと──をはたすことをたびたび発見している。この点で、他の多くの動物と同様、われわれヒトも、何億年にわたる脊椎動物の進化から受け継いだものを、われわれのセクシュアリティのうちに深く刻みこんでいる。この遺産の上に芸術や言語や文化が上塗りされたのはごく最近のことにすぎない」
なるほど、これでようやく、自動車雑誌の表紙で、クルマにまとわりつく美女の謎が解けた。編集者は、男性読者たちが、大きくて高級なクルマを手に入れれば、それでメスをひきつけられると信じていると想定しているわけではないのだ。むしろ、そう信じ込んだオス同士がクルマの大きさや高級さを競いあってランナウェイ淘汰を引き起こすことのほうを狙っているのである。そして、この編集方針は、男向けのすべての雑誌やマスコミに当てはまる。
文明・文化とは、ペニスの象徴=代理物をめぐって繰り広げられるオス同士の壮絶な戦いの結果にすぎない。悲しいが、これはまぎれもない真実なのである。
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ナポレオンの片手
スーパーのエスカレーターのわきにナポレオンの肖像が張ってあった。いったい、なんでこんなところにナポレオンがと目を凝らしたら、ガン保険の勧誘ポスターだった。二角帽をかぶったナポレオンが片手の指先をボタンとボタンの隙間に差し込んでいるあのポーズが描かれ、「ナポレオンは胃癌だった」とキャッチ・コピーが刷り込んである。たしかに、ナポレオンの片手差し込みポーズは、じつは胃癌の痛みをこらえるためだったという説がある。しかし、それがこんなガン保険のポスターに援用されているとは! ナポレオンもビックリだろう。
ナポレオンの死因が胃癌だったというのは、ナポレオン毒殺説に対する歴史家のいわば公式見解のようなもので、つい最近翻訳されたばかりのティエリー・レンツの『ナポレオンの生涯』(福井憲彦監修 遠藤ゆかり訳 創元社「知の再発見」双書84)にも「毒殺されたという説もあるが、本当の死因は胃癌だった。ボナパルト家ではナポレオンの父をはじめとして、この病気で亡くなった者が多い」と出ている。
いっぽう、ナポレオン毒殺説のほうもあいかわらず根強くあって、ルネ・モーリというモンペリエ大学の名誉教授の経済学博士は、過去のあらゆる証言を再検討したあと、ナポレオンは砒素によって毒殺されたというスウェーデン人医師フォシュフーヴド博士の説をさらに一歩進めて、犯人は随員のモントロン伯爵であると断定している。日本でも例の毒入りカレー事件で砒素殺人が話題になっていることもあって、私もさっそくこのルネ・モーリの『ナポレオン暗殺──セント=ヘレナのミステリー』(石川宏訳 大修館書店)を読んでみたが、推論はたしかに厳密で、ルネ・モーリ説を支持したくなった。とりわけ、興味を引いたのは、次のような箇所である。
「ナポレオンはとくに痩せはしなかったと述べても、だれも驚くことはないだろう。胃にがんができればつねに痩せるが、逆にナポレオンは肥満し続け、それが悩みの種になったほどである。一八一五年から一八二一年にかけてナポレオンを描いた一連のクロッキーによっても、ともに生活した人間の観察によっても、解剖の調書によっても、それは明白である。
そして、肥満もまた、砒素による慢性中毒の顕著な兆候なのだ」
なるほど、胃癌なのに肥満し続けるというのは理にあわないし、砒素の慢性中毒が肥満をもたらすというのも事実のようだ。ルネ・モーリが指摘しているように、セント・ヘレナ島で描かれたスケッチもナポレオンの肥満をしめしている。
しかし、このルネ・モーリの言葉で私がはたと膝を打ったのは、じつは「胃癌vs.砒素毒殺」の論争と直接関係ないもう一つの問題のほう、つまり、片手差し込みポーズの原因のほうである。
なぜなら、ルネ・モーリの指摘で、あらためてセント・ヘレナ島でのスケッチを調べたら、例のポーズは一枚も発見できなかったからである。死の直前の「グルゴーに遺言を口述するナポレオン」のシュトイベンのスケッチでは、たしかにナポレオンが右手を差し込んでいるところが描かれてはいるのだが、肝心の差し込み「場所」が、チョッキや上着の隙間ではなく、シャツとモモヒキのあいだなのである。なんとも興ざめなポーズというほかない。
ただ、興ざめではあるがこのポーズは、ナポレオンは胃癌だったからその痛みを抑えるために片手を胃の上に置いているという説を一気に葬り去るものである。すなわち、まず第一にナポレオンは胃癌で死んだのではなさそうだし、第二に、例のチョッキのボタンのあいだに片手を差し込むポーズは必ずしも習慣的なものではなかったということである。
とすると、あのポーズはいったいなんなのか?
まず確認しておかなければならないのは、片手差し込みの姿勢は、十九世紀には、むしろ肖像ポーズの定番になっていた点である。有名なのは、七月王政で首相をつとめたギゾー率いる正理論派《ドクトリネール》の一統で、肖像や写真のさいには、みなこのポーズで決めている。そればかりか、ナダールやカルジャが撮影した肖像写真には、同じポーズを取っている者がきわめて多い。ボードレール、ドラクロワ、ミシュレ、ロッシーニ、新聞王ジラルダンなど、数え上げたらきりがない。だから、片手差し込みをしているのはナポレオンだけではないのである。
とはいえ、ギゾーをはじめとする十九世紀の文人たちは、当然、ナポレオンの後に生まれてきているわけだから、写真や肖像画家の前でポーズを取るときには、みなナポレオンの真似をしたという考えは十分に成り立つ。ただ、ボードレールのようにナポレオンが好きだったとは思えない詩人までが片手差し込みをしているのはちょっと引っ掛かるところである。おそらく、十九世紀も後半になると、ナポレオンをレフェランスとするという意識は薄れていたのだろう。
しかし、いずれにしても、ナポレオンがこのポーズの源流に近いところに位置することはたしかだから、この源をもう一度洗い直してみる作業は必要不可欠である。
片手差し込みポーズのナポレオンの肖像画は実にたくさんあるが、このうち、ナポレオンの死後に描かれたものは、資料としては除外する必要がある。たとえば、メソニエ描くところの「フランス戦役のナポレオン」やドゥラロッシュの「アルプスを越えるナポレオン」は爾後の制作なので対象に入れることはできない。こうして、より分けていくと、残るのは、ナポレオンのお気に入りの画家だったダヴィッドの手になる肖像、およびジェラールとアングルの肖像ということになる。
このうち一番古いのはアングルの描く「第一執政ボナパルト」(一七九九年ころ)だが、これは左手を上着の隙間に差し込んでいる。一方、ジェラールの「マルメゾンのナポレオン一世」(一八〇四年)はチョッキの隙間に差し込んでいる手が右手に変わっている。ダヴィッドの「執務室のナポレオンの肖像」(一八一二年)もまったく同じポーズである。
ここからわかるのは、生前の肖像でも画家の前でキッチリとポーズを取るときには、ナポレオンはすでに第一執政のときから、左右の違いはあるにしても、片手差し込みのポーズを取っていたということである。これは記憶にとどめておくに足る事実である。ナポレオンは皇帝になる前からこのポーズを好んでいたのだ。したがって、胃癌説は完全にここで消える。
では、片手差し込みのポーズはいったいどこから来ているのだろうか?
日本語で読める伝記としてはもっとも浩瀚《こうかん》なナポレオン伝を書いた長塚隆二氏は、その『ナポレオン 人心掌握の天才』(文春文庫)の中で、この疑問について触れている。
それによると、フランスには「研究者と好事家の媒体」という雑誌があり、だれかが質問事項を送ると読者から回答が寄せられるようなシステムになっているが、この雑誌に長塚氏の知人の学者が質問を送ってくれたそうだ。すると、ド・カザバンという南フランスの医者が次のような回答をよこしたという。
「ボナパルトは極度の緊張症で、本文でのべた霧月《ブリユメール》十九日の五百人会議での騒ぎの時に、自律神経失調から腹部に異常皮脂分泌症をおこして、かゆみをおぼえた。そのとき左手はサーベルのつかを握っていたので本能的に右手をチョッキのところから入れて腹部をかいたのがはじまりで、それいらい、それがくせになったというのである。横光利一の『ナポレオンと田虫』という短編は、はからずもド・カザバン博士の説と符節を合わせたようである」
なるほど、私も冬になると、皮膚が乾燥してかゆくなりいつも同じところをかくくせがあるので、この説はいかにもありそうな気がする。ただ、問題は、片手差し込みポーズの肖像のうちもっとも古いアングルの「第一執政ボナパルト」は、右手ではなく左手を上着の隙間に差し込んでいることである。つまり、「左手はサーベルのつかを握っていたので本能的に右手をチョッキのところから入れて腹部をかいた」というのと一致しないのである。しかし、この肖像は右手で布告を指さしているので、しかたなく左手を差し込んでいると考えれば、辻褄があわないことはない。腹部のかゆみ説はかなり有力である。
ところが、ここまで書いた時点で、別の必要から過去のオークション・カタログをあさっていたところ、大変な発見をして、腹部のかゆみ説はあっさり覆《くつがえ》されてしまったのである。
発見は、二年前にタジャンというフランスのオークション・ハウスから送られて来たカタログの表紙に載っていたゴーティエ・ダゴティという画家の描くところの最晩年のヴォルテールの肖像にあった。ゴーティエ・ダゴティというのはカラー銅版画の発明者として知られ、カラーの人体解剖図などで評判を取った画家だが、オークションに出ていたのは、そのゴーティエ・ダゴティが自分の発明の素晴らしさを知ってもらうために、当時の有名人ヴォルテールやルイ十五世、プロシャのフリードリッヒ二世、オーストリアのマリア・テレジアなどの肖像をカラーで複製してみせたアルバム『世界のギャラリー』(一七七二─一七七三年)である。もちろん、私もこれまでに一度も見たことのない大変な稀覯本《きこうぼん》で評価額は四万フランとある。
しかし、問題はそんなことより、描かれているヴォルテールのポーズにあった。なんと、ヴォルテールは、ダヴィッドやジェラールのナポレオンの肖像とまったく同じように、右手を上着のボタンの隙間に差し込んでいるのである。
証拠となるのは、この一枚しかないが、それでも、ヴォルテールの肖像画というこの証拠から導きだされる結論は決定的だと思われる。すなわち、右手なり左手なりを上着やチョッキのボタンの隙間に差し込むのは、なにもナポレオンが始めたポーズではなく、少なくとも十八世紀半ばすぎからは、肖像画を描いてもらうときのお決まりのポーズになっていたということである。ナポレオンは、腹部がかゆかったから片手を差し込んでいるのではない。その時代の共通のスタイルに従ってポーズを取ったにすぎないのだ。
そう思って、ナポレオン関係の図版を見直してみると、腹部かゆみ説はいかにもおかしいことがわかる。なぜなら、ナポレオンの不倶戴天《ふぐたいてん》の敵で、常に対立していたシャトーブリアンにも、ナポレオンと同じように右手を上着の隙間に差し込んでいる肖像画(ジロデ作 一八一一年)があるからだ。もし、例のポーズがナポレオンの専売特許だったら、あの誇り高いシャトーブリアンが天敵と同じポーズをするわけがない。やはり、ポーズのほうがナポレオンよりも、またシャトーブリアンよりも古くから存在していて、両者ともその「様式」に従ったまでなのである。
一つの時代に共有されていた不文律は、それが必ずしも合理的なものでないために、その時代が終わると、とたんにわからなくなる。合理性からする後代の解釈がしばしば誤りを犯すのはこのためである。証拠は広く偏見なく集めよ。これがさしあたっての歴史研究の教訓だろうか。
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情死はソフトの借用?
文化のハードウェアーが劇的に変化するとき、不思議なことに、ソフトウェアーのほうは前時代のソフトウェアーの様式をそっくり真似るという現象がしばしば観察される。
たとえば、紙と筆記用具の時代からパソコンの時代に移っても、メールは手紙の形式をそのまま継承する。またテレビが登場した当座は、テレビ受像機の箱の前面には映画館と同じ緞帳《どんちよう》がかかっていた。さらにいえば、自動車が出現したとき、それは馬車から馬をはずしたような形のままで、御者《ぎよしや》台と乗客席に分かれていた。
ところで、このようなことはなにも物質的な変化に限らず、人間の心的現象、たとえば恋愛感情や性愛表現においても起こるらしい。そのことを教えてくれたのが氏家幹人氏の『江戸の性風俗──笑いと情死のエロス』(講談社現代新書)である。
江戸時代、とりわけ中期以降に多発したのが情死であり、それが日本独特の「風習」であることはだれでも知っている。では、なぜ、情死がこの時期に集中的に生まれたのかというと、どうも納得のゆく答えが出されたとはいいがたい。仏教思想の影響、社会経済的背景、義理人情、文学の影響、等々、さまざまな説があるがどれも今一つ説得力に欠ける。そこで、氏家氏は、私が先に例を引いたメールの手紙形式、テレビの緞帳、自動車の御者台のような「前時代のソフトウェアーの様式の借用」説を持ち出してくる。すなわち、情死とは、江戸前期、あるいは戦国時代の性愛において盛んだった決着の付け方が、性愛の中身は変わったにもかかわらずそのまま継承されたのではないかという説である。
しかし、それにはまず、江戸中期以後に変化した性愛の中身とはなんなのかという問いに答えておかなければならない。いったい、なにが変わったのか?
戦国時代から江戸前期にいたるまで、「恋」といえば、なんと、それは、男同士の同性愛のことときまっていたらしい。これが、江戸中期からは、男女間の「恋」に変わったのだという。
戦国時代、武士たちはいつ死ぬかわからぬ戦場で、勇気と友情の誓いとして性的な契りを結び、連帯を強め、戦いに臨んだ。戦いを回避させる要因である女に対する不信感はすさまじく、女に対する性愛は、あくまで生殖のための行為であって、純粋な恋愛とは認められていなかった。男色こそがまことの恋であったのだ。この恋愛観は、メンタリティーにまだ戦国時代の荒々しさが残る江戸初期まで持ち越された。
ところが、太平の世になって、戦いよりも家の存続のほうを優先させなければならない事情が生まれてくると、子孫を残さぬ男色は次第に忌避されるようになる。しかし、相手が女に変わったとはいえ、武士の心の底には女への不信感と蔑視があるから、いきおいその性愛は精神的なものとはならず、フィジカルなものに終始する。
「江戸時代の武士は恋を蔑み、したがって近代以降に恋愛の思想が西欧から輸入されるまで、恋愛は社会の中で不当に貶められていたというのが、日本恋愛史の常識のようです。でも、少なくとも江戸初期については決してそうではありませんでした。それはたしかに男性同士の恋であって、男女間の正常な♀ヨ係ではありません。とはいえ恋は恋。憧れと優しさ、そして疑いと苛立ちの香辛料で味付けられた、まぎれもない恋だったのです。
江戸中期以降の男色の衰退は、同時に武士の世界から恋の拠り所を奪う結果になりました。恋する相手に対して持てるだけの情熱と優しさを注ぎかける機会を失った武士(男)たちは、だからといって体と頭に染みついた女性蔑視を完全に拭い捨てることはできませんでした。女性を蔑視しながら、その女性だけを恋の相手としなければならなくなった男たち。おのずと恋は色(色情)に紛れ、その作法(色道)ばかりが洗練されていったのでしょう」(氏家幹人 前掲書)
つまり、ここには大いなる転倒があるのだ。男女間の性愛がモデルになって、男色が普及したのではない。その反対である。戦国時代の男性同士の性愛をモデルにして、平和な時代の男女間の性愛がなぞられたのである。しかし、もともと、男女のセックスはたんなる生殖のためという蔑視があったから、男女間の性愛が主流になってもそれは精神的なものとならず、フィジカルなレベルを越えなかったというわけである。
しかし、江戸の性愛がたんなる色情で、フィジカルなものに終始したというだけなら、解釈はたやすいのだが、ここに情死という要素がはいりこんでくるから事態がややっこしくなる。つまり、近代的な男女の恋愛感情がまだ存在しないはずなのに、恋愛感情の究極の姿ともいえる男女の情死が突然のように出現するのはなぜなのかという問題である。
いきなり答えを出すと、江戸中期以後、男色から男女間の性愛へと、ハードウェアーが移行したとき、ソフトウェアーだけはそのまま持ち越されたからということになる。だが、その性愛のソフトウェアーとはどんなものだったのだろうか?
「戦国時代以降江戸時代には、恋といえば『陽々相愛』(男色、少年愛。当時は衆道と呼ばれることが多かったようですが)を指し、男女間の恋愛(生殖手段としての必要性を別にすれば)には重きが置かれていなかったというのです。
恋の手本はあくまで少年愛の世界に……。ところがこの世界ときたら、前にもお話ししたように、少年の愛と身体を争奪して頻繁に流血を繰り返す、死と背中合わせの危険極まりない世界でした」
武器をもった男(武士)同士の性愛では、恋が激しくなればなるほど、その決着に暴力が使われることは容易に想像がつく。男色は、切った張ったが日常茶飯事の「危険な愛」であり、最後は血をみなければすまない世界だったのである。ようするに「刎頚《ふんけい》の仲」は、レトリックではなく文字通りに解釈されねばならない言葉であり、男色の恋愛感情は『葉隠』にあるごとく「互に命を捨る後見なれば」だった。任侠映画の歌詞ではないが、「死ぬときゃ一緒」が男と男の契りを核とする衆道の基本であって、互いの愛を確認するには、死をもってする以外になかったのである。
この「死ぬときゃ一緒」という究極の恋愛感情が、性愛のハードウェアーが「男男」から「男女」に変わっても持ちこされ、「情死」の流行へと至ったというのが氏家氏が唱える仮説である。
「美少年から美女へ。性の嗜好の変化といってしまえばそれまでです。しかし衆道の世界で彫琢された恋の作法は、それが完成度の高いものだっただけに、対象が美少年から美女に変わったからといって、容易に新しい作法を生み出し切り替えることができなかったのでしょう。
かくして男と女の色恋の世界が本格的に花開くようになってからも、究極の恋のゆくえはいつも死にむかわざるをえなかったのだと思います」
情死が、テレビの緞帳と同じだというのはいささか興ざめかもしれないが、「前時代のソフトウェアーの様式の借用」というのは、下部構造的にハードウェアーが変化するときに必ず起きる現象ではあるので、氏家説はかなりの説得力を持っていると考えていい。
さて、時は移って、二十世紀も末の末のニッポン。もはや情死という現象は、太宰治と山崎富栄の玉川上水心中あたりを最後として完全に消え去っている(『失楽園』はたんなるノスタルジー)。それの代わりに登場した性愛の「最終的決着の様式」はといえば、これは金銭であるとしかいいようがない。つまり、セックスという労働に対する代価として、慰謝料なり手切れ金という名目で支払われる金銭である。もはや道ならぬ恋などというものがなくなってしまった現代において、不倫を制裁する刑事罰はないから、民事の「金銭」が幅をきかせることとなったのである。いいかえれば、江戸中期から第二次大戦後まで続いた情死という形式のあとは、「金銭」という形が支配的となったのだ。小林よしのりの『おぼっちゃまくん』の歌詞にならっていえば、「金で解決、バイヤイヤイ」が二十世紀後半の恋愛の最終決算の様式なのである。
ところで、いま「様式」ばかりでなく、その「内容」も猛烈な勢いで変わろうとしている。江戸中期に「男男」の純愛から「男女」のフィジカルな愛へと変化した恋愛のハードウェアーは、戦前までほぼ数百年続いたが、戦後、アメリカから直輸入された「恋愛」によって大きくゆさぶりをかけられたあと、ここにきて、さらに一段と変容を被り、ホモ、レズ、SM、フェティシズム、オナニズム、ロリコンなど「多形的な性愛」とでも呼ぶほかない複雑怪奇なものに変わってきている。この傾向は今後もますます激化し、もはや元の単純な男女間の性愛に戻ることはあるまいと思われる。
では、多形的な性愛における決着の様式はどんなものなのか?
この場合にも、ソフトウェアーの「様式」は同じものが借用されている。つまり「金銭による解決」である。ホモも、レズも、SMも、フェティシズムも、オナニズムも、ロリコンも広義の解釈における「買売春」という形を取らざるをえないということだ。ここ当分は買売春の黄金時代が続くだろう。
だが、歴史的変化の過去の事例に照らして、このソフトウェアーの様式の借用という現象にもまたいずれ終わりが来ることはまちがいない。情死がすたれたように金で解決という様式が用いられなくなるときがかならずやってくる。いまは金銭を媒介にして行われている多形的な性愛も買売春の対象ではなくなって、普通の性愛としての地位を確保してしまうわけだ。しかし、そのときでも、なんらかの形で性愛に決着を付け、決算をしなければならない事態は生まれる。その未来的解決方法とはなんなのか?
おそらく、それは「情報」という形を取るだろう。ホームページを使った暴露合戦を見れば、ある程度予想がつく。「私とAはホモだった」「私とBはSMの関係だった」。こうした極私的情報がインターネットで瞬間的に暴露される。たしかに死も金も介入しない。しかし、それは情死による最終決着よりも数段恐ろしい。いっそ、情死を復活させようという動きが起こってくる可能性もある。案外、その日は近いかもしれない。
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平均顔
「十人並」という言葉がある。普通、とりたてて美人でもないが、さりとてひどい不美人でもない、平均的な容姿の女性について用いられる。私もそう思っていた。
ところが、いまから二十二年前、女子大の教師になったとき、この言葉の隠されたもう一つの意味を発見した。
女子大の教室に入ったとき、男の教師であれば真っ先に美人の学生のほうに目がいくのは当然である。そして、このクラスには美人が多いとか少ないという判定を下すのもだれもがやることである。私も当時は若かったからこの例外ではなかった。瞬間的にクラスの美人含有度を弾き出して楽しんでいたのである。
しかし、そのうちに、ある否定しがたい事実に気づいた。美人の数は、クラスの人数に正比例するということである。二十人のクラスよりは三十人のクラスのほうが、また三十人よりは五十人のクラスのほうが、美人の数は多い。そして、その割合は、ほぼ十人に一人なのである。
この事実に突き当たったとき、私は不思議なことを考えた。「十人並」というのは平均的な容姿ということではなく、じつは、十人に一人は美人がいるという言外の意味を含んでいるのではないだろうか?
ただ、このときには、十人に一人の美人は「例外」的存在であると見なしていたので、そこから一歩も思考が先に進まなかったのであるが、コンピューターによる顔の平均値というものを知ってから、自分の発想はかなり当たっていたのではないかと思いかえすようになった。コンピューターによる顔の平均値とは例えば次のようなものである。
「養老 ところで、東京理科大学の原島文雄先生の仕事はご存じですか。コンピューターの中で、一〇〇人分の学生の顔の画像を重ねていく。すると、これが美男美女になるんです。
仲 重ねると平均的な顔になるという話ですね。
養老 平均顔が美男美女になるというのは、直感的にはおかしい感じがするんです。美人とか美男は希少だと思われているから、プラスの重みが与えられているはずです。それが実は平均的なものだとしたら、なぜプラスの重み付けがなされるのか、その論理がよくわからない」(『養老孟司・学問の格闘──「人間」をめぐる14人の俊英との論戦』日本経済新聞社)
十人に一人の確率で存在する美人は、例外的なものではなく、じつは十人の平均値としてそこにいたわけなのである。いいかえれば「十人並」なのはその美人のほうだったのだ。私の予感は正しかったのである。
しかし、そうだとすると、養老氏のいうように、平均顔に「なぜプラスの重み付けがなされるのか、その論理がよくわからない」ということになる。どうしてまたわれわれは平均値の容姿に惹かれるのだろうか?
これに対する答えでもっとも一般的なものは、進化的淘汰からする説で、平均的なものに収斂《しゆうれん》していくほうが種の保存に適しているから、われわれは平均的な容姿(つまり美男美女)に惹かれるのだと説明する。
「仲 平均顔を好ましく思うのは、生物の場合、特異なものよりもバランスのとれた個体のほうが優れているということと関係があるのではないでしょうか。
養老 そうですね。種を保つという意味では、平均的な性質に収斂していくほうが安定感があります」(同書)
このお二人はかなりソフィスティケイティッドされたものの言い方をされているが、『顔を読む──顔学への招待』(羽田節子・中尾ゆかり訳 大修館書店)の著者レズリー・A・ゼブロウィッツの表現はもっと直截的である。
「このような人[平均顔の人]は有害な遺伝的突然変異をもつ可能性が低いのである。顔が集団の平均からいちじるしくかけはなれた人には遺伝的不適応がみられることがあるが、正常な範囲内の顔ならそれが平均に近いかどうかによって適応度が変化することはありそうもない。したがって、正常の範囲内の顔で魅力と平均性がむすびつけられるのは、集団の平均からいちじるしくかけはなれた顔に対する適応嫌悪の過般化を物語っている」
つまり、平均から逸脱する度合いの大きい顔には「遺伝的不適応」、「有害な遺伝的突然変異」の可能性があり、それが本能的に嫌われるというわけである。しかし、ここまではっきり言われてしまうと、決して平均的とはいいがたい顔の持ち主である私としては、すくなからず不愉快な気持ちになる。「遺伝的不適応」ねえ、そりゃまあ、そうかもしれないけれど……。
ところで、ゼブロウィッツは、ここからさらに進んで、平均的な顔を魅力的なものにしているのはどんな特徴かと問うて、左右対称性とともに「丸み」をあげる。
「平均する顔が多くなるほど、対称性が大きくなるだけではなく、丸みをおびた、角のない顔になる。(中略)平均顔を魅力的にしているのは、典型性そのものよりもむしろ丸みであると思われる」
丸みというのは、骨張っていないということで、必ずしも丸顔ということではない。では、丸みとは、いったいなんの表象なのか? ゼブロウィッツは結論する、丸みとは健康のしるしであり、健康的であるとは若さのことであると。
「若く見えることが平均顔をいっそう魅力的にしていることは察しがつく」
なるほど、平均顔の美男美女は、平均から逸脱した顔よりも若く、健康に見えるから、われわれにとって魅力的に映るのか。進化的淘汰説では、若く健康であるということは、男女とも生殖能力が高いということを意味する。
「若者は一般に高齢者よりも繁殖力が旺盛で健康的なので、この設計によって若々しい顔にたいする好みが生まれたのである。男女ともに年齢を重ねると魅力がおとろえることは、この仮説を考えればうなずける」
若く見えることこそが平均顔の魅力ということで思い出すのは、デズモンド・モリスの説である。モリスは、女の化粧は二十一歳を目指すと指摘している。すなわち、化粧している女性を子細に観察すると、幼い少女は、より自分を年上に、年をとった女性はより若く見せるように工夫するが、その際、化粧によって化けようとするその年齢というのは、いずれも「二十一歳の自分」なのだそうだ。少女は早く二十一歳になるよう老けた化粧をし、反対に年配者は二十一歳に若返る化粧をする。なぜなら、とモリスはいう。二十一歳の女性は一番繁殖能力が強いからだと。
以上の説をひとまとめにすると、われわれが平均顔(美男美女)に惹かれるのは、それが繁殖にもっとも適している肉体であるからということになる。平たくいえば、美男美女というのは、相手に繁殖への誘いをかけるもっとも淫猥な、助平な顔なのである(この部分憎しみがこもっているな)。
しかしながら、ここで大きな問題が生じる。たしかに、われわれは、平均顔を、若く健康でもっとも繁殖に適した顔であると判断し、求愛行動を発動させるかもしれない。だが、実際には、平均顔の男女が健康で繁殖力に富んでいるという証拠はどこにもないのである。けっして美人とはいえない女性が、さながら繁殖力の強いウサギのようにたくさんの子供を引き連れていることもあるし、美男には程遠い男が、やたらと女を孕ませることもある。逆に、美男美女が子沢山というのはあまり見たことがない。もし、美男美女が繁殖力旺盛なら、その子孫が飛躍的に増えて、美男美女の比率が高くなり、ジェネレーションを経るごとに、人間はより平均顔に近づくはずだ。
ところが、現実はそうはならない。ひとことでいえば、われわれを求愛行動に誘う平均顔への欲求というものは、必ずしもそれに見合った結果を生まないのだ。いや、実際には生んでいるのかもしれないが、われわれに数世代を経た顔の研究ということは許されていないので、比較検討ができないのである。
しかし、比較検討はできないにしても、ある種の変化が、日本人の顔にあらわれてきていることはたしからしい。どのような変化かというと、これが童顔化現象だという。戦前の日本人に比べて戦後の日本人はあきらかに童顔化している。つまり、戦後の日本人は、美男美女化はしなくとも、顔が大人顔に変化せず、子供のときの童顔のままにとどまっているのである。
これは何を意味するのか?
先のゼブロウィッツによれば、童顔の人は、基本的に赤ん坊の顔を原形に残しているので、純真で率直な印象を与え、だれにでも親しまれ愛されるが、その反面、依存心が強く、指導力に欠け、意志が弱く、信頼感が薄く見られる。
戦前に、もし、こうした童顔タイプの男がいたら、まず軍隊では出世しなかっただろうし、会社でもリーダーの地位にはつけなかっただろう。女性でも、童顔の人は、良妻賢母にはふさわしくないと敬遠されていたことだろう。
ところが軍隊が解体され、会社でも社長を目指すのはアナクロニズムになり、良妻賢母はとうの昔に忘れられた観念と化した戦後社会においては、とりわけこの二十年には、大人顔であることのメリットはすっかり失われてしまっている。もはや人から信頼され、指導力を要求される時代ではないから、大人顔でいる必要はまったくない。
それならば、みんなに親しまれ、愛される童顔であったほうがいい。現代の日本では、童顔のほうが男女ともにはるかに得なのだ。だから、一億総童顔化が始まったのである。美男美女に変わることはできなくとも(整形は除く)、顔を幼いままに保つことは、無意識の働きさえあれば不可能ではないのだ。
この童顔化現象はまっさきにテレビにあらわれた。視聴者一億人に親しまれ愛されるには童顔でなければならない。
かくして、テレビタレントは、男も女も、老人さえもが童顔化した。そして、その影響は、もっとも童顔から遠いはずの政治にも現れた。テレビに頻繁に登場する政治家は強面《こわもて》の大人顔よりも童顔のほうが有利である。三角大福以後、竹下、海部、宮沢、小渕、みんな童顔である。対して大人顔の小沢はいまだに総理になれないでいる。大人顔の聖域は、いまや極道の世界にしか残されていない。
行動心理学では、そうなりたいと願っているとそういう顔になることを「ドリアン・グレイ効果」というらしいが、軍隊を失いテレビを得た戦後の日本人はまさにこの「ドリアン・グレイ効果」で全員が童顔へと雪崩を打って変化しはじめたのである。では、その童顔ばかりの平均値、つまり、美男美女はどうなるかというと、これがアニメ顔なのである。
「仲 平均顔に思春期の顔の要素を加えると、もっと美しくなるそうです。大人の顔より顎が細く、目が相対的に大きくて、ちょうどアニメの主人公みたいなかんじになる」(『養老孟司・学問の格闘』)
世界に冠たるアニメ王国ニッポン、それはまさに潜在的にアニメ顔の戦後型日本人が生んだ必然的結果にほかならない。
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ウソは夢を含む
日本に帰るため、シャルル・ド・ゴール空港からエール・フランスに乗ろうとしたときのこと。航空券に記されている出発時間の五時三十分よりも一時間半早く空港に到着し、搭乗手続きをしようとしたら、カウンターがやけに閑散としている。おかしいなと思ったが、そのまま係員に搭乗券を渡すと、男の係員が、出発まであと三十分しかないから、トランクをチェックインする暇がない、急いでそのまま搭乗口まで行ってくれとのこと。
えっ、そんな馬鹿な、まだ出発に一時間半はあるではないかといって、航空券を見せると、係員が、これはプリントミスで、最初から四時三十分出発の予定であるという。
この言葉に、搭乗時間が迫っているにもかかわらず、私は切れた。ふざけるな、一時間半前に来たからいいようなものの、一時間前に着くつもりで来ていたら、飛行機はもう出てしまっていたではないか? こんないい加減なことがあるか? もし、そうだったら、エール・フランスはどう責任を取るんだ?
こうした怒りの抗議に対して、日本の航空会社だったらとりあえず、「なんとも、申し訳ありません。当方のミスでたいへんご迷惑をおかけいたしました」とだけは答えるだろう。
ところが、フランス人の職員は厚かましくもこういった。「私の責任じゃない」。それは確かにそうだろう。プリントミスしたのは日本で発券した職員だ。しかし、日本の企業の場合は、ミスしたのが同じ企業の一員であれば、たとえ自分に落ち度はなくとも謝ってみせるというのが常識である。だが、この常識はフランスではまったく通じない。男の職員はさらにこういった。
「飛行機に乗るには、出発時間の二時間前に空港に着いていることになっているんだから、出発時間が一時間早まっても問題はないだろう」
口あんぐりの論理だが、フランスでは一事が万事この調子なのだから始末が悪い。そしてこうしたフランス人の身勝手な論理に閉口する点においては、アメリカ人やイギリス人のアングロサクソンもまったくわれわれと変わらないらしい。フランスに滞在したためにストレスに悩むようになったアメリカ人を相手にパリでコンサルタント会社を経営しているポリー・プラットの『フランス人この奇妙な人たち』(桜内篤子訳 TBSブリタニカ)には、この手のフランス人の身勝手さが満載されていてなかなか楽しい。
ポリー・プラットによると、アメリカではミスを認めるのは誠実な証拠、フェア・プレーの精神と評価され、逆に認めないと卑怯なやつと非難されるが、フランスではミスは、恥、弱みと見なされる。だから、自分が間違っているとわかっていても絶対にそれを認めようとはしない。ミスを認めることは人間失格に通じるからだ。さらにいえば、フランスにはミスを犯す権利がない。フランス文化が、そもそもミスというものを認めていないからだという。
だから、社会の上から下まで、ミスをしてもそれは自分の責任ではないと言い張る人間ばかりになる。そして、そうした責任転嫁の光景は日常茶飯事、どこでも見られるし、体験できる。
「リヴォリ通りのしゃれた喫茶店アンジェリーナで、フランス人女性が席を立ってケープを体に巻きつけた瞬間、テーブルの上の砂糖入れが床に落ち、角砂糖が散乱した。その女性は詫びもせず堂々と『変なところに砂糖を置くからよ』と言って去っていった」(同書)
ようするに、フランス人というのはみなこうした身勝手な行動様式をもっているわけである。
過日、テレビでショパン・コンクールに参加した子供たち数人の映像が流されていたが、その中にいたフランス人の少年は、決勝に残れないことがわかると、いかにもフランス人らしく最後に「どうせ適当に選んだんだろう」と捨てゼリフを吐いて帰っていった。
しかし、冷静に考えると、こんなふうに全員が全員、ミスを認めないような国で、果たして社会がうまく機能するのだろうかという疑問がわいてくるが、それが、けっこううまく動いているから不思議なのである。
機能する第一の理由。ミスは共同体の内部ではなく外部にあるという論理を働かせる。たとえば、企業だったら、悪いのは従業員ではなく客だとする。
「店員にしてみれば、客は見知らぬ人にすぎない。そして前にも言ったように、見知らぬ人には親切にすることはない。むしろ警戒すべきだと思っているのである。客は神様どころかトラブルの元凶、敵なのだ」(同書)
客は敵だから、なによりも万引きを警戒しなければならない。ポリー・プラットがなじみのスーパーで買い物をしているとき急に寒気がしたのでオーバーの下に着ていたジャケットのボタンを締め、ふたたびオーバーのボタンを閉じてからレジに行くと係のおばさんからオーバーのボタンを外せと要求された。ポリー・プラットが驚いて「ここで十四年も買い物をしているのですよ」と声を荒らげると、おばさんはこう答えたという。「だから、驚いたんです」
また、彼女が別のスーパーに行くと、従業員が通路に脚立を立てて宣伝ポスターを張っている。おかげでいつまでも通れない。「ちょっとどいてくれません?」と頼むと「待ってもらうよりしかたないですね」という返事。頭にきて「では客はどうでもいいんですか」と詰問すると、なんと「ええ、お客さんなんてどうでもいいんです」と答えがかえってきた。
こんな調子だから、客が店の従業員に、ミスを指摘したり苦情をいったりしてもまったくとりあってくれない。あるとき私が、クリニャンクールのカフェで茹でたソーセージを食べたところ、あきらかに腐敗していた。それはブダンやアンドゥイエットなどのもともと腐敗臭のあるソーセージではなく、ソシス・ド・ストラスブールといって日本のウインナ・ソーセージに当たるものだったから、まともな鼻の人間ならすぐに腐敗とわかるのだ。
そこで、ガルソンに文句をつけたら、コックが出て来て、うちのソーセージは今朝買ってきたばかりのものだから腐っているはずがないといいはる。なら、匂いをかいでみろというと、鼻をクンクンさせたあと別に臭くないではないかと生意気な返事が返ってきた。「よし、わかった、そこまでいうならば、端を切って自分で食べてみればいいではないか」と切り返すと、さすがに観念したのか、これがいやなら別の料理に取り替えてやろうと申し出てきた。しかし、それでも腐っているとは認めなかったのだから、さすがである。
ミスを認めないのは、下っ端の店員だけではない。上役もまったく同じなのだ。
「スーパーやデパートの店長と従業員の間には、強い仲間意識がある。人間関係は簡単に切れるものではない。したがって、店長は常に客よりも解雇するのがむずかしい店員の肩を持つ。当てにならない客などどうでもいいのである。客がどんなに店員に腹を立てようが、店長はじっくり客の言い分を聞いて同情したりしない。店員のほうが常に正しく、それが気に食わないならもう来なくても結構だという態度をとる」(ポリー・プラット 前掲書)
ポリー・プラットのこの指摘は誇張だと思う人がいるかもしれないが、それは誤りである。まさにこの通りなのだ。フランスでは「責任者を出せ!」は意味をなさない言葉なのだ。というよりも、責任者を出させたりすると、余計問題がこじれてしまうことがある。
しかし、外部に対しては客を敵として扱えばいいが、内部ではいったい、ミスの処理はどうやっているのだろうか?
驚くなかれ、これが「ウソをついてごまかす」というのである。
「だいたい事実というものは退屈きわまりないことが多く、それを認めるもっともな理由もなく、認めないほうが都合がいい場合、想像力豊かなフランス人は事実を多少曲げたり、色をつけたり、無視したりする。人生なんて、多少演出したほうが楽しいのだ」(同書)
ただし、同じウソでも、できの悪いウソや、エスプリのきいていないウソはだめなのである。いかにもと他人も納得のいくウソをでっちあげる能力が必要なのである。それどころか当意即妙のウソがつければ、評価は逆に高くなるというのだからおもしろい。ウソも方便ではなく、ウソこそ方便なのである。
昔、ジャン=ポール・ベルモンドが出ていた『ベルモンドの怪盗二十面相』という変な映画を見ていたら、こんな場面があった。ベルモンドがホテルのロビーかなにかで、実業家と若い女性を同時に騙そうと、実業家の前には付け髭で、若い女性の前には付け髭なしで現れる。ところが、あんまり行ったり来たりしているうちに、実業家が相手なのに付け髭を忘れてきてしまう。実業家が驚くと、ベルモンドが居直って答える。「あなたという人に失望しました。そんな瑣細なことで人を判断なさるのですか」
さらにフランス人にはどうしてもミスを認めざるをえなくなったときに出す奥の手というのがあるらしい。曰く「ミスは犯したが過ちは犯してない」。
この手の当意即妙のウソつき能力というのは、フランス人の内部だけでなく、外国人がフランス人と付き合う上でも絶対に必要不可欠なものだと、ポリー・プラットは主張する。たとえば、空港で飛行機に乗せる乗せないの押し問答をして「残念ながら、あなただけを例外扱いするわけにはいきません」と断られたとき、彼女は、「でも、私はまさにその例外なのです」というエスプリあふれるウソをついて、まんまと飛行機に乗ることに成功したと得意げに語っている。
ポリー・プラットが分析するところによると、フランス人の「ノン」はむしろ「説得してごらん」「笑わせたり、喜ばせてくれたら許してやる」と解するほうが正解らしい。
たとえば、ホテルで「満室です」と断られても、「以前このホテルに泊まったとき、たいへん快適で、おおいに満足したのだが、なんとかもう一度、あの快楽を味わえないものか」などと口から出まかせにいって誉め上げると、「ちょっと、待っていてください。あっ、満室だと思ったら、一部屋空いていました」ということになる。これは本当で、私も何度かやったことがある。とくに効果があるのは、「ホテル・ジャーナリストの友人が、おたくは一つ星だけど、内容は完全に二つ星だといっていた」というウソで、てきめんに効くから、ぜひ一度お試しあれ。
このように、フランスでは、商店や銀行、ホテル、空港などの窓口での事務的な会話にさえ、エスプリの能力が要求されるのである。いってみれば、人が出会うところでは、かならずといっていいぐらい演劇空間ができあがって演技力が必要となるから、上手なウソさえつければ、人間関係も案外滑らかなものになるのである。
そういえば、フランスには「ウソ mensonge は夢 songe を含む」という言い回しがあったが、たしかに夢見る力がなければウソはつけない。
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セーラー服の神話
日本人というのは、なぜあれほどセーラー服が好きなのだろう?
以前、ある新聞のコラムを担当していたとき、セーラー服を取り上げて、いくつかの疑問を呈示したら、たちまちたくさんの回答が読者から寄せられた。
その疑問というのはこうである。
一つはセーラー服の襟、つまりセーラー・カラーはなぜあのような格好をしているのだろうか、というものである。
素人の私にもわかったのは、あの形なら、船が沈没したり、あるいはなにかの事故で水兵が水に落ちたときに、上着を脱ぎやすいだろうということである。
しかし、現実に水兵のセーラー服を見てみると、はたして本当に脱ぎやすいのかという疑問がわいてきたのも事実だ。というのも、ミュージカル『踊る大|紐育《ニユーヨーク》』や『錨を上げて』などでジーン・ケリーとシナトラが着ていたアメリカ海軍のセーラー服はパンパンに体に密着していて、陸《おか》の上にいてさえも、そう簡単には脱げそうに見えないからだ。
ところが、この脱着容易性の問題は、セーラー服の描かれた絵を過去に溯って調べてみることであっさり解決した。すなわち、十九世紀前半のセーラー服は、イギリスのものもフランスのものも、相当にゆとりのある裁断の仕方をしているので、これなら確かに脱ぎやすかろうと判断できたのである。
つまり、起源においては、セーラー服はあくまで脱着容易なようにできていたのである。ミュージカルでジーン・ケリーとシナトラが身につけていたセーラー服は、もしかするとたんに外出用のものにすぎず、作業中にはもう少しゆとりのあるものを着ていたのかもしれない。
また、初期のゆったりタイプのセーラー服に関しては、こんな説もある。すなわち、セーラー服というのは水に落ちたときに脱ぎやすくしてあるわけではない。反対に服の内側に空気を入れて「救命胴衣」として使えるようになっているのだというものである。なるほど、言われてみれば、その通りで、襟があのような形に開いていれば、水面に仰向けに浮かんで、服の中に空気を入れることは容易だろう。手首と胴の部分はしまっているから空気は逃げにくい。そうすれば、たんに浮袋として機能するばかりか、保温にもなる。海で水中に落ちたときに大切なのは、体温が下がらないようにすることと、水面に浮かんでいることだから、これは説得力ある説かもしれない。
しかし、読者から寄せられた回答の中で一番多かったのは、水中に落ちたときのことよりも、甲板にいるときのセーラー服の用途である。セーラー服のカラーがあのような形になっているのは、「通話確保」のためだという。海上では風が強く、波の音もあるので、伝言、命令がよく聞き取れない。ところが、セーラー・カラーを耳のうしろにピンと立てるとこれが反響板となって音が耳によく聞こえる。この使用法は帝国海軍で実際に行われていたとのことである。
そういわれれば、確かにそうかもしれない。その昔、鶴田浩二が歌を歌うとき、自分の声がよく聞こえるように、掌を開いて耳のうしろにかざしていたが、あれと同じ原理なのである。
ただ、現実の用途はそうだったにちがいないが、セーラー・カラーの起源を、描かれた資料に依って調べてみると、この反響板としての使用法は後の時代になってから現れたものだということがわかる。というのも、一八四〇年代に出版された『フランス人の自画像』という職業づくしに描かれているセーラー・カラーは、今のそれに比べてはるかに小さく、むしろピーターパン・カラーと呼ばれる幅広の折り返しカラーに近くて、とても反響板に使えるようなしろものではないからだ。
しからば、セーラー・カラーは、なぜこのような折り返しのものとして登場したのか?
今日のわれわれが一つ見落としている大きな事実がある。それは、衣服というものは、めったに洗濯されなかったということである。石鹸が貴重品だったばかりか、洗濯に適した水自体がなかなか手に入らなかったからである。ゆえに、服は一年中着っぱなしというのが普通だった。
しかし、そうなると、襟が汚れてしかたがない。ならば、襟だけを取り替えるようにしたらどうだろう? こうして登場したのが、フランス語でフォ・コル faux col と呼ばれる取りはずしのきく襟である。初期のセーラー・カラーはまさにこの取りはずしのきく襟だったにちがいない。
しかし、取りはずしがきく襟が必要だということはわかっても、それだけではセーラー・カラーのあの形態を説明できない。幅広の折り返しをなぜ後ろに大きくたらしているのか?
その答えは、当時の水兵のヘアー・スタイルにある。この時代(十九世紀以前)、水兵たちは髪を今のロック歌手のように長髪にして後ろで束ねていた。何カ月、何年にも及ぶ航海を続けていれば髪が伸び放題になるということもあるが、それ以上に、この束髪にしていると、延髄を打撲から保護するのに役立ったのである。船の上はマストや索具など、延髄を打つ可能性のあるものに満ちている。延髄保護には束髪が一番で今日のヘルメットのような役割を果たしていたのである。
ところで、束髪を後ろに垂らしていると、当然だが、服の背中が汚れる。だが、取りはずし式の折り返し襟をつけておけば、汚れるのは襟だけですむ。おそらく、セーラー・カラーはこのように、まず束髪による汚れ防止の観点から採用されたものと思われる。
私が解けなかったもう一つの疑問というのは、セーラー服というのは、それが十九世紀のヨーロッパで一般の服として流行したときには、あくまで男の子が着るおしゃれ着だったはずなのに、なぜ、日本では、女学校の制服として定着してしまったのかというものである。
これに対しては、じつにさまざまな回答が読者から寄せられた。
たとえば、戦前に、中学校と女学校の制服を和服から洋服にするとき、男子は陸軍、女子は海軍という棲み分けが行われたという「男女陸海軍棲み分け説」。ただ、この説は、なぜそうした棲み分けになったのかという理由を説明していない。
それに対して、戦前の男子中学校の詰め襟の制服は、陸軍というよりもむしろ海軍のものであり、その始まりは、海軍士官の制服を模した学習院に求められるという意見があった。これは明治の洋服のほとんどは天皇が率先して洋装したことで定着したという定説から考えても、十分にありえることだろう。
では、女子の制服はというと、女子には、第一に従順さが要求されたため、水兵のセーラー服が採用されることになったというのである。男子には指導的立場である将校の役割を、女子には従属的立場である水兵の役割を、というわけである。こちらは「性別・役割分担説」とでも呼ぼうか。
私は、後者の「性別・役割分担説」がいかにも戦前的な男尊女卑の思想にかなっていると思ったので、「とは知らなんだ」と感心し、さっそくこれを新聞紙上で紹介してみた。
すると、これにただちに反論が寄せられた。それによると、女学校の制服にセーラー服が採用されたのは、なにも役割分担からではなく、ただ、一九二〇年代にセーラー・カラーがヨーロッパで女性服として流行したのを日本のミッション・スクールが取り入れたにすぎないというのだ。
そして、さらに、九州の女性読者からのお便りで、日本におけるセーラー服は、九州の福岡女学院が制服に採用したのが最初で、それがイキでハイカラだったため、瞬く間に日本中に広がったのだと御教示いただいた。
私はこれらの手紙を読んで、なるほど、これは十分ありうることだと思った。というのも、いかに統制的であったとはいえ、戦前の全国の中学校や女学校の制服、それも私学の制服が、一元的な「性別・役割分担」の思想で決まるはずはないという気がするからだ。一般に、われわれは、戦前という時代を、「自由な戦後」と対比して、「不自由な戦前」と見なしすぎるが、これは厳に戒めなければならないものの見方である。
そう考えると、戦前においても、統制よりもむしろ流行がセーラー服をはやらせたと見るほうが理にかなっている。統制だと抵抗する力が生まれるが、流行にはどんな力も逆らえないからだ。
そう思っていた矢先、この説を強力に補強するような文章に出会った。深井晃子『名画とファッション』(小学館)の中の「皇太子のセーラー服」という絵に添えられた次のような一節である。
「ロイヤル肖像画家として知られたヴィンターハルターが、セーラー服姿の皇太子を描いたこの絵[一八四六年]は大変な評判となり、セーラー服が男児用の服として流行するきっかけをつくった。これは後に女児、そして大人の女性に取り入れられることになる。(中略)
セーラー服は一九二〇年代になり、セーラー・カラーのブラウスとプリーツスカートという組み合わせで欧米の女性の間に流行し、日本には大正時代に女学生の制服として入り、現在まで生きながらえている」
やはり、そうだったのか。女学校のセーラー服は統制思想によってではなく、あくまで流行として取り入れられたのである。
しかし、一時の流行によるものだったとすると、ここでまた疑問が湧いてくる。なぜ、セーラー服は戦後にまで生き延び、おまけに、男たちの性的オブセッションの中心的なイメージとなって、「ブルセラ・ショップ」まで誕生させたりしたのか?
これは私なりの仮説だが、それはセーラー服の「デザイン」ではなく「色彩」にある。すなわち、清楚、純潔のイメージ喚起のために、セーラー服を地味の極みの「濃紺」(夏服は白)にしたことが、逆に、それによって覆い隠された女学生の「肉体」を意識させる結果になったのである。
このエロティシズムの逆説は、未亡人の喪服、あるいは尼僧服を見ればよくわかる。エロティシズムというのは、肉体そのものではなく、それを隠蔽するものにむかって発動されるのである。
だから、もし、戦後の自由化の過程でセーラー服の色彩がカラフルになっていたら、かくも長きにわたってセーラー服神話が生き延びることはなかったにちがいない。げんに、女子高校生の制服がカラフル化した今日では、セーラー服のエロティシズムは男たちの空想の中にしかなくなっている。
とすると、戦前の統制は、セーラー服という「デザイン」ではなく、むしろ濃紺という「色彩」において機能していたことになる。デザインは流行だが、色彩は制度なのだ。
制度が変わるのには長い時間が必要なものなのである。
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緑の妖精
ある男が別の男に対して優位に立つ、あるいは一人の男が男の集団の中で抜きん出る。それにはしかるべき理由がある。
原始的な順に言うと、まず腕力、ついで性的能力を含む呪力。腕っ節が強くて、屈強な肉体を持ち、大きなペニスで女を屈従させ、子孫を増やす力のある者が族長になるのは原始部族の常である。また、多少文明が進んでも、王や皇帝たる者この二つの能力には秀でていなければならないとされる。
次にくるのは、言わずもがなの金力、財力である。ただ、これは文明の程度がかなり進んで、ブルジョワジーというものが現れてきた段階のことである。
あと、見逃すことのできないのが知力、つまり頭のよさ、回転の早さである。頭がよい者は、腕力の強い者を家来にすることができる。暴力団やアウトローの集団の中でも最終的には、頭のよい人間が勝ち残る。ただし、頭がよいだけでは集団の指導者にはなれない。すなわち、最後の決め手となるのは、肝っ玉の座り具合、「胆力」である。この胆力があってこそ、集団の中で指導力を発揮できるのである。
政治力というのは、このような複数の要因から派生する総合的な力なのである。
ところで、こういったさまざまな弁別要因の中で、つい最近まで、意外に無視できなかったのが、酒の飲みっぷり、あるいは酒に強いこと、すなわち「酒力」とでもいえるような力で、これが文明によっては、大きな出世要因となっていた。
たとえば、中国である。中国文明では、斗酒なお辞せずの大酒のみや、いくら飲んでも乱れない酒豪は強者として崇められるが、反対に、酒に弱くて、すぐに酔っ払って醜態をさらけだしてしまう者は弱者とされて、軽蔑の対象になる。中国で乾杯や返杯を何度も繰り返すのは、こうすることで、強者と弱者を見分けるためであるという。
同じようなことは日本でもいえる。日本の文壇などでも、文壇酒豪番付なるものがあり、酒豪作家のほうが下戸作家よりも大物とされる風潮がある。たとえ、酒に「呑まれ」てしまう酒乱作家でも、かつては、人間的魅力などというわけのわからないものを持ち出してきて、これを高く評価するむきさえあった。
学生でも、われわれの世代までは、大学に入ったとたん、さまざまなかたちでこの酒力を試される機会に遭遇したが、そうしたときには、やはり、いくら飲んでも一糸も乱れず、理路整然とおのれの思想を開陳できる学生がみなの尊敬を集めたものである。しかも、その場合、飲む酒がアルコール度数の大きいほうが、酒力をアピールするのにより適していたことはいうまでもない。ビールよりも日本酒、日本酒よりもウィスキー、ウィスキーよりもウォッカ、ジン、テキーラといった歴然とした「酒力」ランキングがあった。あいつはすごい、ウォッカを飲んでも顔色一つ変えないんだから、と、尊敬を込めた口調で酒豪の友人のことを語り合ったものである。
そして、そうしたときに必ず話題となったのが、アブサン、正しくは「アプサント」と発音するあの伝説の酒である。どこそこの酒場で、本来は禁止されているはずのアブサンを飲んだことがあると言えば、その人への評価は一気に高まったものである。
だがなぜ、アブサンは伝説となったのか?
一つは当然、世界の酒の中でも最高といわれるアルコール度の高さである。七十度を越えるというから、ウォッカの最強のもの(六十度)よりも上である。だから、アブサンを平気で飲めるということは、酒力に関して圧倒的な強者のしるしとなった。おまけに、アブサンは、成分のニガヨモギが強い毒性をもっていたので、生命にかかわる酒を平気で飲むのは「剛の者」にちがいないという神話まで生まれたのである。
しかし、アブサンの場合、伝説化、神話化を強めたのは、ニガヨモギの成分のつくり出す「緑」という色であったと思われる。というのも、「緑色」という意外な色彩が大酒のみの詩人たちをひきつけ、アブサン賛歌を奏でさせたからだ。
「都市では、芳香をつけたアルコールを飲む風習が、十九世紀後半に抗い難く広がる。とりわけアブサンは、どの店の主人も客に勧めることができねばならない『緑の妖精』となる。アブサンの色の輝きが幅を利かせ、数多くのアペリティフの色の中でもいたる所で優位を占めるようになる。時流に乗るには、『緑のリキュール』が文学の中に入らねばならなかった。ヴェルレーヌは、セーヌ左岸のカフェ『フランソワ一世』や『プロコープ』や『スルス』で、アブサンを日々の友とし、いくつかの詩を捧げている。『ああ、おれが飲むのは、酔っ払うためで、ただ飲むのではない。忘れ、思い出し、知らず、しかも知っている……。来世の縮図のようなもの』」(ディディエ・ヌリッソン『酒飲みの社会史──19世紀フランスにおけるアル中とアル中防止運動』田中正人・田川光照・柴田道子訳 ユニテ 以下引用は同書による)
つまり、アブサンは、その緑色ゆえに、詩人にインスピレーションを与え、詩にうたわれることで、伝説、神話となったというわけだ。アブサンが、たとえば、ウィスキーのような琥珀色だったら、こうはいかなかっただろう。
ところで、ディディエ・ヌリッソンの指摘でおもしろいのは、ヴェルレーヌが飲んでいたような流行のカフェで供される純粋なアブサンは、われわれが考えているよりもはるかに価格が高かったということである。
「そこでのアブサンは七二度のアルコール度で、しかもグラス一杯が六五サンチームもするものであり、大通りで見られる三スーのアブサンではない」
ヌリッソンによれば、アブサンの神話化には、この高価格がなにぶんにも影響していたという。アブサンが高い酒であるということは、それを飲むことのできる人間は金持ちであることを示す。ベブレンのいう「衒示的効果」である。ドガの絵などから連想して、アブサンというと、貧者が早く酔っ払うためにあおる安酒というイメージはこれで崩されたことになる。
さらに、アブサンの場合には、その飲み方を心得ていることが重要な要素となる。
「上流の酒飲みは、飲み方によって自分の礼儀作法を示さなければならない。これはとくにアブサンを飲む場合に顕著である。ブルジョワは人々から注視され、自分の飲んでいるアブサンと周囲の人々を『揺るがせる』──これは専門用語である──ことになる」
この「飲み方によって自分の礼儀作法を示す」というのは、昨今のワインブームで、突如ワインに目覚めた連中が訳知り顔にワイングラスをクルクルやっている姿を連想させて、なかなか興味深い。いつの時代でも、高くてスノッブな酒には、こうした礼儀作法の難しさと階級意識がついてまわるのである。
アブサンにはまた、その緑色の液体に水を注ぐと、白濁して黄緑色に変化するという性質があったので、たんにアブサンを飲むという過程だけでなく、その前段階の「水を注ぐ」という行為も重要視されるようになる。ヌリッソンは、アンリ・バレスタのこんな証言を引用している。
「アブサン通はすべての視線が自分に注がれているのを感じ、自分が引き起こしている感嘆を心密かに楽しみ、その感嘆にふさわしく振る舞おうと努める。彼は、さりげなく水差しをつかみ、それを目の高さまで持ち上げると、腕を優雅に丸く曲げてから、すべてのグラスに水をゆっくり一滴一滴したたらせ、二つの液体が徐々に混ざるようにする。それがアブサン飲みの決め手(その人の腕前を判断する決定的な試金石)なのだ。この人は本物のアブサン飲みだと通が見抜くのは、その人が右の微妙な操作をどれ程粋にやってみせるかによるのである……。下手な未熟者には災いあれ。ボーイまでが、その客について意見をいうためにその操作に立ち会う。ボーイまでが、さげすんだように肩をすくめて、これ以上軽蔑に値することはないとでもいうような口調で『間抜けめ。アブサンを注ぐこともできないなんて』と、つぶやくこともありうる」
ようするに、アブサンには、そのアルコール度の高さや緑色の色彩といった「実質」を超えて、「名人」「達人」の飲む酒という一種の記号的な神話性が付け加わったのである。その神話性を遠いレフェランスにしていたのが、ほかならぬ水島新司の漫画『あぶさん』である。
アブサンのこの「神話性」に痺れたのは高級カフェの常連であるブルジョワや文学者ばかりではなかった。彼らが儀式に熱中するのを、ガラス張りのカフェの外側から眺めていた労働者階級もまた、アブサンの緑色に「染まった」。つまりアブサンは階級的な模倣によって労働者階級にも広まっていったのである。
その証拠に、アブサンはもっとも実入りのよい労働者たちの間にまず浸透した。
「ブリュノンがもっとも知的な労働者と見なしている印刷所の労働者は、『露骨には酔っ払わず』、ブルジョワのように顰蹙《ひんしゆく》を買うことなく痛飲する。彼らは、アブサン、アメール、アペリティフや他の『上品な飲み物』を好んで飲む。したがって、一九世紀のアブサンの『爆発的消費増』について、ひけらかしの効果以外の理由を求めてはならない」
ブルジョワ階級とまったく同じように、労働者階級も、「衒示的効果」を狙って、アブサンを飲んだのである。まず、アブサンが高い酒であることから、おのれの懐具合のよさを示すために。ついで、その酒が強い酒であることから、自分の「酒力」の強さを見せびらかすために。そして最後に、その独特の飲み方を知っている達人であることを教えるために。
この意味で、アブサンは、男が別の男に対して優位に立っていることの証明となる酒といえた。戦う動物であることを運命づけられた男にとって、アブサンはよき試金石となったのである。
とはいえ、労働者たちがアブサンを飲むことで、階級が上昇したと思いこむのは、日本のOLたちがヴィトンやグッチのバッグを買ってワンランク上の暮らしをしていると感じるのと同じような完全な錯覚にすぎなかった。
第一に名前は同じアブサンでも労働者たちが飲むアブサンは低温で蒸留されているため、アルコール度が低く、味も薄かった。それに、決定的にちがっていたのは、その飲み方である。労働者たちは、ブルジョワの飲み方を真似たつもりで、じつはまったく違う飲み方をしていたのである。ヌリッソンはこう指摘している。
「仕事に追われる労働者は、緑色のリキュール[アブサン]を少量入れたグラスがすでに並べられているカウンターに、必要な二スーなり三スーなりを置く。次に、蛇口の前に並んで自分のアブサンに水を注いで黄色く薄め、大急ぎで『あおる』。酒浸りの形態が階級を区別し続けるのである」
ブルジョワの儀式張った飲み方なら量は進まないが、労働者の飲み方で行けば必然的に酒量は増える。そして、そのあげくに、ニガヨモギの毒性による脳のマヒ。それでも、アブサンの消費は衰えず、「酒力」の、いいかえれば「男力」のメルクマールとしてとどまったのだから、男というのは、まったくもって、どうしようもない生き物というほかはない。
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黙読とポルノ
以前、フランス文学研究室につとめていた助手が、フランスの夏期語学講座で知り合ったイタリア人の友達から手紙をもらったはいいが、全然読めないので、どうにかならないかといってきたことがあった。「僕だってイタリア語なんて読めないよ」と答えると、「いえ、イタリア語じゃなくてフランス語なんです」という。
「フランス語なら読めるだろう?」
「そうなんですけど、そのフランス語がイタリア語風に綴られていて、なにがなんだかわからないんです」
「とりあえず、見せてごらん」
というわけで、その手紙を読んだのだが、たしかにフランス語にしては異様な綴りである。ところが、しばらく眺めていて、わかった。声を出して読めばいいのである。綴りはフランス語ではないのだが、文字をなんとかローマ字風に発音するとフランス語に聞こえる。その調子で解読していったら、なんのことはない、今度、ローマに来ることがあったら是非一度寄ってくれという紋切り型の内容が書いてあるだけだった。
ここからわかったのは、アルファベットというのはヨーロッパの人間にとって、あくまで音声言語を再現するための表音記号、さらにいえば発音記号に近いものだということである。だから、外国語を学び始めたころには、どうしても自分たちが慣れ親しんだ綴字法で外国語を表記しがちなのである。
このことで思いだすのは、イタリアのホテルに電話で予約を入れたときの体験だ。ホテルに着いて、予約してある KASHIMA だと名乗ったら、そのような名前の人物の予約は受けてないという答えが返ってきた。そんなはずはないと押し問答になったが、しばらくしてトラブルの原因がわかった。ホテルの予約係が私の名前を CASSIMA とイタリア語風に綴って、KではなくCの欄に記していたのだ。「カ」といえば KA と書くものと考えるのは日本人だけで、Kの文字になじみのないイタリア語やフランス語では CA と綴るほうが当たり前なのである。
これに合点がいって以来、このイタリア風の綴りがすっかり気に入って、戯れに自分の名前をアルファベットで綴るときには CASSIMA と書くようにしている。
表音記号としてのアルファベットということで、もうひとつ記憶にあるのは、フランス人の同僚が着任したての頃に漏らしていた学生の能力についての感想である。彼女にいわせると、他のヨーロッパ人の学生に比較して、日本人の学生は驚くほどフランス語の綴りを正確に書くことができるのだそうだ。動詞の活用などでも、テストをやると日本人はダントツで必ずトップになるという。ところが、口頭で発表させると愕然とするほど能力が低い。この落差はなんなのかというのが日本に来たてのフランス人教師の疑問だった。
これに対して、私は二つの仮説を披露してみせた。一つは日本における読み書き重視の外国語教育法の伝統の影響。もう一つは日本における文字というものの本質から来る影響である。前者については説明不要だが、後者にかんしては少々、解説しておかなければならない。
日本語の文字にも表音文字のひら仮名とカタ仮名があるが、中心となるのは漢字である。ところで、この漢字という表意記号は、眺めていただけでは記憶にとどまらない(このことはワープロを使うようになると漢字が書けなくなることからも明らかである)。その結果、小学校の国語の学習では、漢字の書き取りがかなりのウエートを占め、小学生は字を「書いて」覚えることになれる。逆にいえば、書かないと覚えないという癖がつく。
だから、中学校で英語の学習が始まっても、この伝で、発音などより、字を書くことにばかり神経が向かう。教師も同じ教育法で育ってきたから、この傾向を妨げるどころか助長する。外国語は口で発音するだけにとどめるべきで、綴りを覚えてはいけないという教師はひとりもいない。ひとことでいえば、右の第一の仮説は第二の仮説から説明できるわけである。つまり日本人はその使用文字の本質からして、「視覚的」な学習を得意とし、いささかも「聴覚的」ではないために、必然的に外国語学習も「視覚的」になってしまうのである。日本人の学生がアルファベットでフランス語を綴っていても、それは本質的には漢字の書き取りの延長にすぎないのである。動詞の活用がよくできるのは頭脳に蓄積された漢字の書き取りのノウハウを活用しているからなのだ。
おそらく、この傾向は、日本人よりもはるかにヨーロッパ語学習の得意な中国人においても観察されることだろう。視覚的な表意文字出身ゆえの聴覚的な表音文字言語学習のハンディキャップというのはあきらかに存在しているのだ。
ところで、表意文字=視覚的、表音文字=聴覚的という対立にかんして、最近読んだ本の中にきわめて興味深い記述があったので、それを紹介しておく。盲目のボルヘスの本読み係をしていたというアルゼンチン出身の大知識人アルベルト・マングェルの語る聖アウグスティヌスの次のようなエピソードである。
マングェルによれば、カルタゴから四世紀の後半にミラノにやってきた聖アウグスティヌスは当時多くの人々から尊敬されていた学僧聖アンブロシウスに初めて面会したとき、聖アンブロシウスが黙読をしているのを見て、最初なにをしているのかわからず、次におおいに驚いたという。黙ったままページを追うこの黙読という読書法は彼の故郷ばかりか文化の先進国イタリアでも一般的なものではなく、文字はすべて声を出して読むのが普通だったのである。この伝統は意外に長く続き、十九世紀でもバルザックやフロベールの時代まで、かなりの人々が声を出して読んでいた。もちろん、この時代には黙読する人もいたのだが、音読する人がいても奇異ではなかったのである。
こうしたことなら私とて、多少は読書行為の歴史をかじっているので知っていた。ただ、次のような記述は予想外だった。
「中世もかなり時代を下るまで、文筆家は、自分が文章を書いている時にそれを声に出しているのと同じく、読者も、たんにテクストを見るのではなく、それを聞くものだと考えていた」(『読書の歴史──あるいは読者の歴史』原田範行訳 柏書房)
ようするに、アルファベットで書かれたテクストとは、口と声を使って行われた弁舌や説教を「そのまま」記録するテープレコーダーのようなものであり、テクストを「読む」とはそのテープレコーダーのスイッチを入れるに等しい行為だったのである。テープレコーダーとちがうのは、再生の声が自前のものだということだけであり、アルファベット文字はあくまで元の音声を忠実に復元するための再生「装置」にすぎなかったというわけだ。
「銘板や巻物、写本に表現された文字の音は、目で知覚され口で発音されてはじめて論理的なものとなっていったのであり、ものを考えそれを発話することが読書だったのである」(マングェル 前掲書)
アルファベット文字が音声を記録した表音文字であることは、こうした背景にまで踏み込んで理解されなければならない。つまり、説教者や雄弁家はまず声を出しておのれの思想やエモーションを表現する。次にそれを表音文字で書き写す。すると、今度は、その声を記録した表音文字を、「読者」が自分の声を出して読む。そして、その自分の声が空中に現れ、元の雄弁家や説教者の声を「再」「現」することによって初めて「意味」が出てきて、「読者」はそれを理解する。「表現する」「表出する」の意味のラテン語 repraesenre(フランス語 representer や英語の represent の語源)は、あくまで声を「再 re」+「現 praesentare」するということだったのであり、意味はあとから来たのだ。
しかし、そうだとすると、ここで、新たな疑問が生じる。なぜ、ヨーロッパの言語は「意味」よりもまず「音」の再生に心をくだき、表音文字を発明し、発達させたのだろうかという疑問である。
それはおそらく、彼の地での宗教が音声の呪術性に頼ったものだったからだろう。
「書き言葉に対峙した読者は、その黙した文字に声を与え、聖書においては厳密な意味の違いを持つ、話し言葉、すなわち精神となるようにする義務があるのだ。アラム語やヘブライ語といった、聖書の内容を記した原初の言葉においては、読むという行為と話すという行為に区別は与えられていないが、これは、同じ言葉で両方を意味するものとして使われていたからである」(同書)
なるほど、表音文字には、表意文字以上の宗教的呪術性がこめられていたのである。だからこそ、音読されねばならなかったのである。
では、時代が下って、音読が黙読に変わるようになると、どういう変化が現れるのだろうか? マングェルによると、それは異端の大量発生であるという。音読時代、異端は発生しても、個人か小さな集団に止まっていた。それはそうだろう。異端者の本を音読していれば、たちどころに露見してしまう。音読が異端の出現を妨げていたのである。
ところが十二世紀頃から黙読時代に入ると異端が広範囲にわたって出現し始める。黙読しているかぎりは異端の書を読んでいるとはわからないからだが、もうひとつ原因があった。黙読では書物と読者との関係が、いわば公的なものからプライベートなものになり、読者以外の人間がその関係に異議をさしはさめなくなったのだ。ここに異端が発生したのである。印刷術の発明はこの傾向に拍車をかけた。その行き着いた先がルターやカルヴァンのプロテスタンティズムであることはあらためて指摘するまでもない。
しかし、私にいわせれば、音読から黙読に変わったことで出現したもう一つ重要なものをマングェルは見逃している。ポルノである。音読時代にはどうあってもポルノは生まれない。ポルノを音読していたら、すぐに周囲にバレてしまう。いくら破廉恥な人間でも、「ああ、そこそこ、もっと」なんてテクストを声を出して読むわけにはいかないだろう。これはポルノ解禁の現在でも同じことだ。
しかし、黙読時代になって、なにを読んでいるか傍目にはわからなくなると、ポルノが生まれる。しかも、黙読はプライベートな要素を強めるから、語る主体よりも描かれた対象との距離がより短くなる。つまり、黙読というその読書形態の心の動きがよりポルノに向いていたわけである。
私見では、ポルノの発生は十二世紀における宮廷風「恋愛」の発明と軌を一にしているから、異端の蔓延とまったく同時期であり、このふたつがともに黙読によってもたらされたものであることは歴然としている。
異端とポルノ。そしてついでにいえば小説。この三つはいかにも黙読と相性がよかったのである。
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「グサッ」と聖性
すこし前のことになるが、上野にギュスターヴ・モローの展覧会を見に行ったら、会場にいた小学一、二年生くらいの子供が、ギリシャ神話に題材を取った絵をさして、母親にこう質問しているのが聞こえた。
「ねえねえ、おかあさん、どうして、みんな裸なの?」
たしかに、その通りだ。現実の中では、人間が裸になるのは、入浴時かセックスのときぐらいしかない。ギリシャ・ローマの古典古代だろうと、こんなに自然のなかに裸が氾濫していたわけはないのである。
もちろん、ヌードというのは、泰西名画の約束事の一つであり、現実を反映しているわけではないということぐらいは承知している。すなわちルネッサンス以来、ギリシャ・ローマ美術にならって、ヨーロッパ美術では神話や聖書を題材にした絵画や彫刻の場合には、ヌードこそが自然というルールができあがったことは知らないわけではない。
しかし、よく考えてみれば、この約束事自体が不自然なのである。神話や聖書の中の人間(神々)はなぜ裸になっていなければならないのか? 第一、ヨーロッパ以外のどこの文明に、こんな約束事があるだろうか? ケネス・クラークの『ザ・ヌード──裸体芸術論・理想的形態の研究』(高階秀爾・佐々木英也訳 美術出版社)を読んでも、そこのところはもう一つはっきりしない。
しかし、今回取り上げようと思うのは、このヌードの問題ではない。ヨーロッパの絵画や彫刻にとって、より根源的なもう一つの問題のほうである。というのも、私は、この「なんで裸なの?」という子供の率直な質問を耳にしたとき、ゆくりなくも、まだ小学生だった長男がブリュッセルの美術館で放った、ある意味では極めて本質的な問いのことを思い出したからである。長男はこういった。
「どうしてこんなにグサッとやられている絵ばっかりなの?」
キリストの磔刑図のことである。なるほどそういわれてみれば、美術館のいたるところで、グサッ、グサッ、グサッと、キリストの脇腹に槍が突き刺さり、血が飛び散っている。掌にはクギが刺さり、荊冠をのせられた頭からも血がたれている。そればかりではない。サン・セバスチャンの殉教のように全身に矢が刺さっている絵もあるし、ボッシュやブリューゲルの地獄図のように手や足を切断された人間がもがいている絵も少なくない。スプラッター・ムービーも顔負けの残酷この上ない絵画ばかりで、これがヨーロッパの名画というものだから、よく見ておくようにと子供にいえるような代物ではないのである。むしろ未成年禁止に指定すべき残酷絵画のオンパレードといっていい。
われわれはすでに、キリスト教絵画に慣れてしまっているから、とくに不思議とは思わないが、子供のように、初めてこれに接するものにとってはやはり大きな驚きなのである。かつてフランスでグリューネバルトのおどろおどろしいキリスト磔刑図を見た横光利一は「これが毛唐の宗教か?」とつぶやいたと伝えられるが、たしかに、改めて考えてみれば、キリスト磔刑図で敬虔な宗教心を喚起されるほうが、どうかしているのである。あんなに怖いものを見て、「愛」が生まれてくるのだろうか?
そう思って、西洋の美術を全一巻で一瞥した『西洋美術館』(小学館)を開き、キリスト教美術の変遷をたどってみたら、ある重大な事実に気づいた。
三一三年にコンスタンティヌス帝によってキリスト教が公認されて以来ほぼ七百年の間、キリスト教の美術といえばビザンチンが中心だったが、このビザンチン美術においては、キリストとマリアの聖画像《イコン》が主で、キリスト磔刑図があっても、それは決して残酷なものではなかったのである。つまり、東方教会がキリスト教の中心だったころまでは、スプラッター絵画は登場しないのである。
ところが、カール大帝の戴冠を機に、キリスト教の中心がフランスやドイツなどの西方ヨーロッパに移り、教会の建築様式がロマネスクからゴシックに代わるころから、キリスト磔刑図がにわかに増え、残酷度も激しさを増してくるのである。ようするに、ゴシックの登場とともに「グサッ」が美術の主流になるのだ。
とすると、残酷磔刑図は、ゴシック美学を生んだ西ヨーロッパの風土と関係があることになるのか? だが、それはいったい、どんな因果関係なのか?
この問題に一つの解答を与えてくれたのが酒井健『ゴシックとは何か──大聖堂の精神史』(講談社現代新書)である。
著者に従えば、第一回目のミレニアムを迎えようとしていた西欧世界はバイキングの襲撃と疫病で人口が激減し、農耕も商業もまったく振わない状態にあった。国土の六割は森に覆われ、農民の多くはケルト・ゲルマンのアニミズムを信ずる異教徒で、森は地母神信仰の聖地として崇められていた。
この現状に対して立ち上がったのがシトー会の修道士たちである。森への信仰をもたない彼らは、みずから先頭に立って次々と森を切り開き、それを農地に変えて、収穫高を倍に増やした。ところが、収穫高が倍増すると、人口のほうは三倍になってしまったので、剰余人口は都市に流れ込み、そこで、失われた聖なる森の代わりになるものを求めるようになったが、そのとき、教会側が用意したのが、神聖な森の雰囲気をそっくり再現したゴシック様式の大聖堂《カテドラル》だったというわけである。つまり、ゴシックのあの荘厳な大聖堂は、ケルト・ゲルマン系の森のアニミズムを信ずるフランスやドイツの異教的農民の信仰を吸い上げて、そっくりキリスト教世界に移し替えた、森の代置物だったのである。
ところで、われわれにとって問題となるのは、この聖なる森の代用品としての大聖堂の中にあった「もの」である。
ゴシックの時代の前まで、ビザンチンやロマネスクの聖堂にあったものは「勝利のキリスト」といって、十字架にかけられても復活を果たす元気なキリスト像だったという。目は大きく見開かれ、力がみなぎり、脇腹の傷口も見えない。
だが、十二世紀以後のゴシックの時代になると、「苦悩のキリスト」と呼ばれる、例の「グサッ」系統の残酷な磔刑図が大聖堂の中に飾られるようになる。
「目は閉じられ、頭は横に倒れ、手足から力が抜けて、身体全体が釘打ちの個所に吊るされている痛々しい姿なのだ。衣服といえば、腰にわずかに布をまとっているだけで、脇腹の傷口と出血は露《あらわ》である」(酒井健 前掲書)
だが、なぜ、ゴシックの時代になると、「勝利のキリスト」から「グサッ」の「苦悩のキリスト」に変わったのか? それは、容れ物としての大聖堂が聖なる森の代わりとなったのとまったく同じ変化が、その内容物のほうにも現れてきたからである。すなわち、「苦悩のキリスト」は、聖なる森の中で異教徒であるケルト・ゲルマンの農民たちが大地母神に捧げたサクリファイス(生け贄)の代用品として登場したのである。
「パリの大聖堂の地下からはケルト神話の大神で大地の神エスス=ケルヌノスの石像が発掘されたが、この神は人間の犠牲《いけにえ》を欲し、しかも人間が樹に吊るされて供されるのを望んだという。(中略)そしてまた、ゲルマンの神話世界では、男性神のように旅や戦《いくさ》で移動しない大地母神こそ人間の犠牲が供される対象になっていた。とすれば、石柱の林立するゴシックの大聖堂に集った新都市住民たちは、十字架上のイエスの処刑に、森林のなかの供犠を感じていたのではないだろうか」(同書)
ようするに、フランスやドイツなど森の大地母神を信ずるケルト・ゲルマン系統の西ヨーロッパの国々に宣教を行おうとしたとき、カトリック教会は、彼らの土着信仰の形態によく似せた形にキリスト信仰を変容させ、その上に被せて覆い隠すように、大聖堂と「苦悩のキリスト」像を置いたのである。カトリックの中心が東方から西方に移動するにつれて、「勝利のキリスト」が薄れて、「苦悩のキリスト」が色濃く現れてきたのはこのためなのである。したがって、われわれは、フランスやドイツの大聖堂の「苦悩のキリスト」の中に、キリスト教信仰によって覆い隠されたケルト・ゲルマンのサクリファイスという古層の蘇りを見ていることになる。
バタイユ研究者である酒井健氏は、この供犠のメカニズムを宗教社会学の左右二極の「|聖なるもの《ヽヽヽヽヽ》」の理論とバタイユ理論からつぎのように説明する。
一般に、宗教社会学では聖なるものを左右二極に分けて捉え、不浄で不吉な聖性を左極の聖性、清浄で吉なる聖性を右極の聖性と考える。左極の聖性は暴力、残酷、死など、人々を畏怖させる神、ひとことでいえば地獄の聖性である。いっぽう右極の聖性とは人間が超自然的に救済されて赴く天上の聖性である。
バタイユによれば、サクリファイスの儀式において、供犠参加者は、犠牲者が残酷に殺されるのを見てその犠牲者と同じように死の恐怖に引き裂かれるが、まさにその恐怖を介することで永遠をかいま見て、左極の聖性を右極の聖性へと変容させるのだという。バタイユは『エロチシズム』でこんなふうに説明している。
「犠牲者は死につつある。このとき、供犠の参加者たちは、この死が開示するある要素を共有するのである。この要素は、宗教史家たちとともに、聖なるものと呼びうるものなのだ。聖なるものとはまさに、荘厳な儀式において、一個の非連続な存在の死に注意を注ぐ人たちに開示される存在の連続性のことなのである」(酒井健 前掲書に引用)
むずかしい言い方だが、「一個の非連続な存在」、つまりバラバラに生を享《う》け、バラバラに死んでいくわれわれのような個体は、自分と似たような「一個の非連続な」個体が死ぬのを見るとき、バラバラの個体と個体をどこかで連続的につないでくれる見えざる存在、つまり神とか聖なるものとか呼ばれる「向こう側の存在」を開示されるということだ。
では、これを「苦悩のキリスト」に即していうとどうなるのか? 酒井氏はいう。
「十字架上の『苦悩のキリスト』は、イエスという一個の非連続な個体が死に処されている状況を表している。この像を前にしてゴシック大聖堂の会衆は、不安感で精神を揺さぶられ、自分たちの非連続的な個人の在り方を破壊されていた。イエスと会衆、そして会衆相互は、左極の聖性に成り変わって連続し、深く交わっていたのである」
とすると、美術館や教会で残酷な「苦悩のキリスト」を見て、「不安感で精神を揺さぶられた」幼い長男や横光利一は、まさにそのキリスト像の制作者が意図したとおりの反応を示したことになる。ようするに、「グサッ」を見て薄気味悪さを感じたということは、いたって正しい鑑賞態度であるばかりか、聖なるものに近づく王道を歩んでいたことになるのである。
「左極の聖性」にゾッとせよ、神はその瞬間にあらわれる、である。
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贋作の情熱
古書のコレクターとして通っているせいか、よく古書には偽物はないのですかと尋ねられることがある。そういうときには、次のように答えるようにしている。
原則として、古書に偽物はきわめて少ない。なぜなら、絵画の場合とちがって、経済効率が悪すぎるからだ。
絵画の偽造の場合、フェルメールなりゴッホなりの一点物の完璧な贋作《がんさく》をつくれれば、何十億円、ときには何百億円の値段で売れることさえある。手間と技術はかかるだろうが、投資額は容易に回収できる。エリック・ヘボーンという贋作者の自伝『お騒がせ絵師自伝──わが芸術と人生』(立原宏要訳 朝日新聞社)によれば、画商兼贋作者の彼が売り込んだコロー、マネ、ティエポロ、ブリューゲルなどの「名画」はルーヴル、メトロポリタン、大英博物館などの世界的美術館を飾っているという。自身、投資にたいする回収率は悪くなかったとうそぶいている。
ところが、古書では、回収できる金額がいくら高くてもせいぜい数千万円どまり、写本などの特別の例外でも数億円であるのに対し、贋作の製作費用が思いのほか高くつく。なぜなら、本というのは、紙にしろ、インクにしろ、また装丁用の革にしろ、素材が工業製品なので、過去の失われた技術を再現するのには、とてつもなく手間暇がかかるからである。過去の時点で安価な工業製品であればあるだけ、それを後の時代に復元しようと思ったらたいへんな金がかかるのだ。昭和三十年代の初期テレビの正確なレプリカを作ろうとすれば、今のテレビよりもはるかに高くつくことからもそれはあきらかだろう。
しかし、古書の偽物は少ないというだけで、絶対にないわけではない。
その一例として、部分的入れ替え、ないしは部分的模造というのがある。
部分的入れ替えは、げんに日本の古本屋でもよくやっているし、私だってやったことがある。箱入りの古書の破れたパラフィン紙を自分できれいにつけかえるという初歩から、二冊の古本の函と中身をすりかえて、よりきれいな一冊をつくるということはだれでも考える。あるいは、腰巻きのない美本に他の汚れた一冊についていた腰巻きをつけるというのも同趣向である。私は学生時代に、図書館の裏口に大量に捨ててあった本の函を拾って来て、これに自分のもっていた函なしの中身をつめて古本屋に売ったことがある。しかし、これらはむしろ「工夫」とでも呼ぶべきもので偽造ではない。
だが、もうすこし程度が進むと、あきらかな偽造になる。とくにヨーロッパの場合、二十世紀の前半までは、仮綴じに自分で革装丁《ルリュール》を施してはじめて古書として流通するという伝統があったから、偽造品がより出現しやすかった。つまり、本の中身(テクスト部分)は本物でも、外側の革装丁が、マリユス・ミッシェルなど過去の有名な装丁家の作品そっくりの偽物というケースはよくあるのだ。とくに装丁家のサインまで真似していれば完全な贋作だ。また装丁家が芸術家として自立していない古い時代の装丁でも、それを完全にコピーして、レプリカと名乗らず本物として売れば、こちらも偽物ということになる。
こうしたケースで名高いのが、十六世紀のフランス国王アンリ二世が二十歳年上の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエのために作らせた自分たちのイニシャルDとHを組み合わせたイニシャル入りの装丁本の偽造品である。このイニシャル入りの装丁本は二十二部しか現存が確認されていない稀覯本なので値段も特別だったから、贋作者としても投資のしがいがあったのだろう。このディアーヌ・ド・ポワティエ本の贋作者として有名なのが十九世紀ベルギーに現れたルイ・アゲという人物である。ルイ・アゲの手口はこうである。
「十六世紀の書物の製本を剥がして、豪華に装飾した皮革で再製本するのが、彼のやりかただった。表紙には法王や国王、ルネッサンスの著名コレクターの紋章やイニシャルを入れた。しかも元の花ぎれ(書物の背の内側の飾り帯)、見返し、効き紙(表紙の内側に糊付けされた紙葉)を傷つけることなく保存し、偽作に再使用した」(高宮利行・原田範行著『図説 本と人の歴史事典』柏書房 高宮氏執筆の「誠実にして勤勉なる偽作者」)
アゲの技術は実に見事だったから、これを完全に十六世紀の本と思い込んで百冊もコレクションしていたジョン・ブラッカーという十九世紀のコレクターがいた。ブラッカーはこのコレクションに三万ポンドという大金を費やしたが、あるときサザビーで競売にかけようとしたところ、すべて偽物と断定され、そのショックでピストル自殺したといわれる。一説に死因は気管支炎だったともいわれるが、いずれにしろ、相当な打撃を受けたことはたしかで、アゲがコレクターを一人殺したことに変わりはない。
ではなぜ、サザビーが偽物と見破ったかというと、本物よりもはるかに立派だったからである。これが偽作、模作の一般的欠点らしく、アゲも、仕事をおろそかにできない職人気質だったがゆえに墓穴を掘ったのである。そういわれてみれば、私がもっているレプリカ本というのは、みな、ピカピカ、キラキラしていて、素人の人に両方見せると、みなレプリカ本のほうがきれいだという。本物はあんがい、みすぼらしく見えるものなのである。
アゲの失敗は、もう一つ、装丁の素材に使う皮革まで完全に複製できなかったことにある。外見は同じように見えても、十六世紀の皮革に比べて十九世紀のそれは品質が落ちていたため、「アゲ製本は外側の溝が壊れやすいが、十六世紀の本物はずっとしっかりしている」(前掲書)のである。
このように、古書の偽物というのは、全部が全部、偽物というわけではなく、一部を本物にしておいて、他の部分を偽造するというケースが多い。しかし、なかには、一から十まで完全に偽物をつくってしまったきわめて珍しいケースも存在している。ロンドン書誌学会会長という古書コレクターとしては最高の名誉に輝いたトマス・J・ワイズ(一八五九─一九三七)がその人である。
ワイズは庶民階級の出身で、書誌学の知識もまったくの独学で得たものだった。すなわち、精油業で稼いだ金を稀覯本に費やし、優れたコレクターとして知られるようになったのである。ワイズが他のコレクターとちがっていたのは、そのころだれも見向きもしなかったコールリッジ、ワーズワース、バイロン、ブラウニングなどのイギリス・ロマン派に注目して、当時まだ存命だった未亡人や友人に接近し、初版本の完璧なコレクションを完成したことである。だが、ワイズはそれだけでは満足できず、詩人・作家別の著作目録を作り、それに詳細な書籍解題を付すようになった。この部分まではたしかに、ワイズは偉大な書誌学者といえたのである。
しかし、病膏肓《やまいこうこう》に入ったコレクターによくあるように、ワイズも、自分しか所有していない究極の稀覯本がほしくなった。そして、それを書籍解題の中でおおいに自慢してみたいと思った。この心理はコレクターのはしくれである私としてもわからなくはない。ただ、ワイズが異常なのは、コレクターとしての夢が行き過ぎて、絶対に他人には所有できない古書、つまり「私製」古書の製造に手を染めたことである。
といっても、いかにワイズが大胆とはいえ、ロマン派の詩や散文まではでっちあげることはできない。だが、そうした詩や散文の「オリジナル」をつくりだすことは不可能ではない。では具体的にワイズはどうやったのか? ふたたび高宮氏の筆を借りると、それは次のようなものだった。
「彼は、十九世紀には詩人が作品をきちんと出版する前に、友人にだけ配布する目的で『私家版』を小部数で印刷させる習慣があったと称して、次々と小冊子を個人別書誌で紹介したのである。その好例は、一八四七年にレディングで印刷されたという標題をもつ、ブラウニング夫人の『ポルトガル語からのソネット集』である。本来は一八五〇年にロンドンで出版された『著作集』二巻に含まれる三年前に、友人たちのために出版用ではなく印刷されたというわけだ」
ワイズは書誌解題でこの小冊子を紹介しただけでなく、実際に、それを作ってしまったのである。おそらく、ブラウニング夫人の詩集とよく似た紙を使い、それをなんらかの方法で古びさせて、これまたよく似た活字を用いて印刷したのだろう。
だが、ワイズが本当にその『私家版』の小冊子を私家版として作り、他のだれにも見せなかったら、あるいはその権威により、だれひとりとして疑いを持たなかったかもしれない。つまり、文字通り、この世で一冊だけの本として終わっていた可能性もある。
ところが、ワイズはコレクターの常として手元不如意だったのだろう、小部数印刷したその小冊子を大金持ちのアメリカのコレクターの求めに応じて譲ったのである。その金額は決して少ないものではなかったはずだ。また、一度、味をしめてしまったことから、この錬金術をやめられなくなったにちがいない。かくして、ロマン派の小冊子が続々と「発掘」されることになり、ワイズはその一々にお墨付きを与えた。贋作者と最高権威が同一人物なので、こんなに簡単な詐術はなかったのである。
もっとも、長年の経験をもつ古書店主の中には、この小冊子に疑いの目を向けるものもいた。彼らのカンは思いのほか鋭いのである。だが、決定的な証拠はつかめないまま年月がたってしまった。
しかし、一九三四年に至って、『ある十九世紀小冊子の本質に関する調査』がジョン・カーターとグレアム・ポラードの手によって出版され、ワイズは窮地に追い込まれることになる。すなわち、カーターとポラードは、ワイズの小冊子に使われているロングプライマー三号という活字がリチャード・クレイ・アンド・サンズ印刷会社の活字であることを突き止め、それが一八四七年以前には存在していなかったことを例証したのである。のちに、別の研究者が、小冊子につかわれている紙にアフリカハネガヤという、一八六七年以降にしか現れない植物の繊維が混じっていたことを証明し、この問題に決着をつけた。
しかし、カーターとポラードはワイズから名誉毀損で訴えられることを恐れて、小冊子の偽造犯人がワイズその人であると断定することは避け、ほのめかすだけにとどめたので、ワイズは決定的な汚名を着せられることなく、なんとか天寿をまっとうすることができた。
このように、ワイズのようなケースはままあるものの、それでも、古書の完全な偽造という事件は、経済的な投資効率ということから、さほど頻繁には起こらない。ワイズの場合も、経済的理由よりも、比類なきコレクターという名誉心が先行した部分が多いと思われる。
しかし、逆に考えれば、この経済的理由という条件さえ外れれば、古書の偽造は絶対的に不可能とはいえないのである。たとえば、偽造の理由が愛憎であったり復讐であったりするなら、経済的な要因は考えずにすむし、その時代の紙とインクと活字がどこかに保存されていさえするなら、偽造に取り掛かることは十分に可能なのである。数年前に日本でも公開されたテレンス・スタンプ主演のフランス映画『私家版』は、こうした仮定をうまく使った秀作だった。なにごとも、やる気さえあれば、人間にとって不可能なことはないということなのだろうか。
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パリの焼き鳥横丁
私がパリで定宿にしている二軒のホテルは、ともにオデオン座近くのカジミール・ドラヴィーニュ街という小さな通りにある。片方は二つ星、もう片方は三つ星だが、どちらもその星のランクにしては最底辺の価格帯にあるにもかかわらず、こぎれいで清潔で、しかも感じがいいから、大分前からこの二軒のうちのどちらかに泊まっている。オデオン座界隈を選んだのは、近くに古本屋が固まっているためだが、もう一つ、このあたりには安くてうまいレストランがたくさんあることも選択の大きな動機になっている。
ところが、十年ほど前から大きな変動が起きて、レストラン事情がだいぶ様変わりしている。焼き鳥、寿司などを売り物にする日本食レストランが猛烈に増えて、カジミール・ドラヴィーニュ街とT字路になっているムッシュー・ル・プランス通りなどは「パリ焼き鳥横丁」とでも命名したいほどのにぎわいである。似たような店が全部で七、八軒はあろうか。「ヤキジャポ」「ニポヤキ」「トォキョヤキ」。いずれも、焼き鳥の「ヤキ」と日本関連であることを示す「ジャポン」「ニッポン」「トォキョ」などの固有名詞を組み合わせているのを特徴としている。
日本人街といわれるオペラ座周辺ならいざしらず、こんなオデオン座界隈に焼き鳥横丁とは、はて面妖なと思ったが、どこもかなり繁盛して、外側に順番待ちの行列ができている。店内の様子はと見ると、日本人の客はほとんどいない。フランス人ばかりである。
この「客層がフランス人」というのは、パリのレストランでは「良いしるし」である。というのも、世界でも一、二をあらそうほど経済観念のしっかりした国民であるフランス人は、料理の質と値段の関連にきわめて敏感だから、観光客相手のまずくて高い店にはぜったいに行かない。だから、フランス料理だろうと中国料理だろうと、フランス人ばかりという店はリーズナブルなレストランということになる。
実際、表に掲げられたメニューを見ると、驚くほど安い。焼き鳥三本に、すまし汁に、キャベツのサラダ、それにご飯がついた「トリドン」なるセット・メニューで三十五フランである。セット・メニューの形式はパリの焼き鳥レストランの元祖「ヤキトリ」のそれを踏襲したものであるが、「ヤキトリ」では「トリドン」が五十五フランで、ランチのみだったのに対し、ムッシュー・ル・プランス街のほうは、どこもディナー・タイムでも同じ値段だから、かなり割安な感じである。ちなみに、四年ほど前までは一フランが二十五円[後記 現在は一ユーロ約百三十二円くらい。ちなみに一ユーロは約六・六フランとして換算された]くらいだったから、日本円に換算すると八百七十五円。日本では安いどころか高い部類に属するかもしれないが、パリの日本食レストランではセット・メニューの最低が百フランはするから、三十五フランというのは驚異的な安さなのである。
この安さなら入らない手はない。三十五フランなら、たとえまずくても話のタネにはなると、暖簾をくぐったのだが、ハッピを着たウエイターの「イラサイマセ」との掛け声にまずは出端《でばな》をくじかれる。店員は全員、中国系のアジア人(ベトナム、ラオス、カンボジアからの難民、およびその子供たち)である。もっとも、これはパリの日本食レストランでは珍しいことではない。労働許可証の関係で日本人従業員は使えないため、ウエイターには定住権のある中国系難民を採用せざるをえないのだ。
おそらく、この店もそうなのだろうと思ったが、それにしても、なんとなく違和感がある。元祖「ヤキトリ」そっくりな造作でジャポニズムを強調しているのだが、どこかおかしい。たとえていえば『ボディ・スナッチャー』というSFに出てくる人間そっくりの宇宙人に遭遇したような雰囲気といえばいいのか。メニューは日本語とフランス語で書かれているのだが、そのひら仮名やカタ仮名もいかにも真似して書いたような変な字である。字ばかりではない。箸は細い方ではなく太い方が箸置きに置いてある。それに、サケ(酒)サービスと称して、オチョコに入れて出してきたのは味醂《みりん》に似た中国酒だった。
しかし、いくらなんでも料理人だけは日本人なのだろうと思ったが、それも裏切られた。第一にトリドンと称しながら、ドンブリなどどこにも見当たらず、皿に盛った焼き鳥三本に普通の茶碗飯が添えられているだけの「焼き鳥定食」である。おそらく、元祖「ヤキトリ」につとめていた中国系アジア人が独立して店を開いたとき、なにからなにまで「ヤキトリ」とそっくりにしようと「トリドン」の名前も拝借したのだが、客であるフランス人にドンブリはなじまないので普通の定食の形にしてしまったのだろう。
だが、このさいそれは我慢しよう。三十五フランなのだから。しかし、米がジャポニカ米ではなく、インディカ米だったのには参った。日本食レストランでインディカ米に遭遇するとは! 客に日本人が一人もいない理由がこれでわかった。おまけに、すまし汁はチャーハンについてくるスープである。極め付きはツクネだった。臭み抜きをするということを知らないらしく、かなり臭うのである。他の二本はまあまあ食べられたが、インディカ米に臭うツクネでは、「コレハ日本食デハナイ」といわざるをえない。中国系東南アジア人がフランス人のために作った擬日本風ヤキトリ定食なのである。
ことほどさように、突如、ムッシュー・ル・プランス街に出現した「焼き鳥横丁」のヤキトリ・レストランは全部が全部、中国系だったが、こういうことは、日本料理にかぎらず、パリの他のエスニック料理にも起こっているようだ。
たとえばコリアン・バーベキューである。ある韓国人から聞いた話では、彼もまったく私と同じような体験をしたらしい。つまりパリの韓国焼き肉店に入ったら、ハングルで書いたメニューをはじめとして何から何まで韓国風なのだが、ウエイターも料理人も中国系東南アジア人なので、キムチも焼き肉も韓国のそれとはまったく似て非なるものであったという。これまた擬韓国風焼き肉定食なのである。
それどころか、パリでは中国料理さえも擬中国風なのである。つまり、ベトナム、ラオス、カンボジアからやってきた中国人がレストランを始めたので、中国料理店とは名乗ってはいても正統派の広東料理や北京料理なのではなく、ベトナム風中国料理、ラオス風中国料理、カンボジア風中国料理なのである。したがって、パリでは、日本料理も韓国料理も中国料理も、本場物はほとんどなく、たいていが中国系東南アジア人による極東のイメージ料理といっていい。
ところで、こうした、その国の人間ではない近隣国の人間による擬エスニック料理はなにも極東にかぎったことではないらしい。最近、パリに定住して雑誌を発行している若い二人の日本人ギャル石橋美砂とにむらじゅんこb.が共著した原寸大のパリ案内『パリを遊びつくせ! ──お店・雑誌・レーベルを作った体験的カルチャーシーン潜入記』(原書房)を読んでいたら、こんな一節に出くわした。
「トルコ人は都会好きなのでしょうか。移民の3分の2以上がパリ地区に住んでいます。パリに住む彼らトルコ人は、なぜかピザ屋やスパゲッティー屋といったイタリア料理店を開いている人が多いです。まあ、同じ地中海に接している国ではあるのですが……正直言って、大味でお世辞にも美味しいとはいえません。これは、パリの日本料理屋の九割りがたが華僑たちによって経営されているのと同じような理由なのでしょう。が、もうちょっと研究して、安くて美味しいパスタを作らなければ、イタリア人に申し訳ないというものです」
なるほど、これで積年の疑問が解けた。パリのイタリア料理はなぜあれほどまずいのかという謎が。
イタリア料理というのは最近のイタリアン・ブームでもあきらかになったように本当においしい。事実、私も、イタリアに足を運ぶたびに、日本人にはフレンチよりもはるかに舌にあうんじゃないかとさえ思う。とくに、同じレベルの安いレストランを比べたら、断然、イタリアンに軍配があがる。
ところがである。この美味なるはずのイタリア料理がフランスに、とくにパリに来るととたんにまずくなるのである。一方に、フランス人は世界に冠たるグルメ国民であるという与件があり、もう片方にイタリアのイタリア料理はおいしいという与件。この二つの与件を合わせれば、パリのイタリア料理がまずいはずはない。これが論理的な結論である。しかし、現実はこの論理的結論を見事に裏切ってくれているのだ。
たとえばスパゲッティである。パリで食べるスパゲッティは例外なくクタクタに煮込んである。あとすこしでウドンになりそうなほどだ。またピザはピザで、ピザ地が極端に厚く、ときには、噛むと中から小麦粉がこぼれでることすらある。それでも、パスタにかけるソースがうまければいいのだが、これがとてつもなくまずいときているから救いがない。ただ一つの長所は安いということだろうが、最近は、かならずしもそうとはいえなくなってきている。ひとことでいえば、パリのイタリア料理はどうしようもないの一言につきるのである。
私は長いあいだ、この現象は、イタリア人の料理人がフランス人の料理法に妥協した結果だと思ってきた。つまり、クタクタのスパゲッティや厚いピザは、フランス料理の調理法の伝統にのっとったために生まれたものであり、イタリアの料理人は郷に入って郷に従ったとばかり思っていたのである。
ところがそうではなかったのだ。パリのイタリア料理はイタリア人ではなくトルコ人が作る擬イタリア風トルコ料理だったというわけだ。おいしくないのも道理である。
しかし、そうなるとここで大いなる疑問が生じる。すなわち、擬日本風東南アジア料理や擬イタリア風トルコ料理をフランス人はうまいと思って食べているのだろうかという疑問である。きっとうまいと感じているにちがいない。なぜなら、擬日本風東南アジア料理店も、擬イタリア風トルコ料理店も、多くは満員の盛況だからである。
もちろん、どちらもフランス料理に比べれば安いということはある。しかし、いくら安くても、おいしくなければ流行するわけがない。やはり、フランス人はこうした擬日本風、擬イタリア風の料理を「うまいと感じて」いるのである。
となると、「フランス人というのは世界に冠たるグルメ国民である」という与件自体を問題視しなければならなくなる。擬日本風東南アジア料理や擬イタリア風トルコ料理をうまいと感じるフランス人の舌に問題はないのか、フランス人は本当にグルメなのかということである。
答えはウイでありノンである。フランス人がグルメであり、フランス料理がうまいというのはまぎれもない事実である。それはイギリス人と比較すれば歴然とする。しかし、擬エスニック料理に関しては、フランス人の舌はかなりいいかげんだといっていい。そこで最終的結論。
どの国民も判断がつくのは自国料理だけであり、外国の料理に関しては、絶対的な舌はないと。
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「男」はつらいよ
世にわからないものは多いが、ごく普通のヘテロ・セックス(異性愛)の人間にとって、最近、性同一性障害という言葉で括られるようになった人々の心理ほど理解のむずかしいものはない。なぜなら、彼ら・彼女らは、われわれが知っているホモやレズの人々とは異なり、形態的にはともあれ、心理的には完全なヘテロ・セックスだからである。そのことを教えてくれたのが、外山ひとみ『Miss・ダンディ 男として生きる女性たち』(新潮社)である。
具体的に示してみよう。「妻の死 晃樹《こうき》二五歳」の章はこう始まっている。
「『亡妻 聖子儀、告別式に際しまして……』
会葬状の差出人は、喪主である夫の晃樹だった。
ただ、二週間前の婚姻届には聖子が夫で、晃樹が妻と記されていた。それが一般的な性別としては正確だったからだ。
『夫と妻が逆なんやね!』
褐色の縁取りがある婚姻届用紙に記載された二人の名前を見て、聖子はちょっとおどけたように笑った」
これを読んで一度で理解できる人がいるだろうか? 少なくとも私は何度も読み返してしまった。ようするに、「夫の晃樹」というのは、生まれたときの性別は女で心は男のオナベ(注:オカマの対語だが、女を女として愛するレズとは区別される)、逆に「妻の聖子」というのは性別は男で心は女のニューハーフ(注:オカマはペニスがまだあるが、ペニスを取るとニューハーフとなる)で、二人は正式な夫婦だった。なぜなら、男・男、女・女のカップルの婚姻は認められないが、男が「女」で、女が「男」であっても、異性間なら婚姻は可能だからである。文中で最もわかりにくい「ただ、二週間前の婚姻届には聖子が夫で、晃樹が妻と記されていた」という文章は、パラフレーズすれば、婚姻届の夫の欄には妻役のニューハーフの「聖子」の本名が、妻の欄には夫役のオナベの「晃樹」の本名がそれぞれ記されていたということだ。気の毒なことに、聖子が癌で亡くなってしまったので、戸籍上は「妻」である晃樹が、「夫」として会葬状をだしたというわけである。
では、このカップル、肉体的には男と女のままだったかというと、そうではない。
「夫の晃樹」は乳房を切り落とし、男性ホルモンを注射して「男」に、「妻の聖子」はペニスを切り落とし、女性ホルモンを注射して「女」になっているから、見た目にも異性愛のカップルだったのである。ないのは「夫の晃樹」のペニスと睾丸、「妻の聖子」の子宮・卵巣だけである。そして、ここが肝心なところだが、二人はともに、相手を「異性愛」の対象として選んだのだ。
「『おっ、かわいい子がおるな』
というのが第一印象で、晃樹の目には聖子が本物の女性に映った。
聖子の方もいまどき珍しいぐらい生真面目で男っぽい晃樹をすぐに気に入って、ワイシャツとネクタイを見立ててプレゼントした」
自分の女としての肉体に違和感を感じて男に転換した晃樹は、「男だから」当然、普通の女の子が好きであり、男の体がイヤで女になった聖子も「女だから」、普通の男の子が好きなのである。事実、双方とも、ガールフレンドとボーイフレンドがいた。したがって、あくまで、晃樹は聖子を「女」として、聖子は晃樹を「男」として選んだのである。
では、われわれ下世話な人間にとってもっとも興味深いオナベとオカマの間のセックスは、二人の間でどう行われたかというと、こうである。
「初めて聖ちゃんを抱いたときはですね、いくら性転換をしているといっても元々男だったんだし、自分は男とセックスをしたことはなかったから、どうしたらいいんかほんとうにわからんかった。で、『どうしたらいいの?』って聞いたら、『フツーに……』って言われた。そのひとことで自然にこの人を抱けたんや」
この時点では、聖子のペニスはなかったが、晃樹の乳房はあったから、晃樹は「オトコのけじめ」として乳房を切り落としたという。
しかし男→女の転換の場合は、ペニスを切り取って膣を作り、乳房を膨らませればいいが、女→男の場合は乳房の切除は可能でも、ペニスを取り付けることは容易ではない。だが、金さえつめば、外国での手術は不可能ではない。自分の肉体の一部を切ってそれをペニスに加工して取り付けるのだそうだ。オナベたちはみな、もしそれが可能なら、ぜひペニスをつけたいと願っている。以下は同じ本に登場する、弦樹、哲也という二人のオナベの話である。
「あとは(乳房切除後は)下のチンチンもつけて、完璧な男の体になることだな。そうすれば天下無敵でもっと精神的に楽になると思う。胸を取ってからよけいそう感じるんだ。今は男トイレに入れるけど立ちションはできないから大便の方だし、公衆トイレの大は汚くて臭い。男と並んで普通に立って小便がしたいんだ」
「自分もそう、立ちションがしたいっスね」(中略)
「立ちションもそうだけど、何よりも彼女のなかに自分のものを入れてみたい。チンチンは腕の肉を切り取って作るみたいだけど、でも色が白くてただポッテリした肉団子みたいなのは嫌だな。やっぱり赤黒いっていうか、それ風のものがいい。まあ、だけど欲を言えばきりがないし限界もあるだろうから、裸になってパッとニセモノだとバレないものがつけられるんだったら、それでいいと思わなきゃいけないんだろうな。今の自分の夢は、とにかくチンチン、それだけ」
大変なこだわりようだが、オナベの究極の願いというのはおおむねこういうものらしい。とにかく、自分の中の女性的性徴は全部嫌いだから、乳房はもとより、膣もふさいでペニスをつけたいし、膣で快感を得たくないということなのだ。したがって、当然のように、オナベの多くは処女なのだという。最悪なのは生理だが、これは男性ホルモンの注射でなくなる。女の子とのセックスでは、上半身は裸になるが、下はペニスがないからトランクスは絶対に脱がないで、相手を口と指でイカせるだけにする。自らの巨乳の乳房を切除した三平というオナベは、巨乳の女の子が好きなのだという。
では、それほど男になりたくて、ノン気の女の子を抱きたいと思うオナベが、なぜ、晃樹・聖子のカップルのように、ニューハーフやオカマと結びつくことがあるのかといえば、オナベは男よりも男らしい「超男性」を目指し、ニューハーフやオカマはその逆の「超女性」になろうと励むから、「超男性」と「超女性」は普通のカップルよりもしっくりと合う「超カップル」となりえるのだという。マックスというオナベはそこのところの微妙な心理をこう説明する。
「普通の女の子より自分の気持ちを理解してくれて、女以上に女として生きたいと思っているニューハーフに眼が向いていった。同じ心の痛みを抱えているから、気が楽だと思うようになった」
ただし、オナベにとって、相手がオカマかニューハーフでは、現実面でのセックスでかなりの違いが出てくる。なぜなら、オカマにはペニスがついているからである。ニューハーフではないオカマの「彼女」を愛したときのオナベのマックスのセックス体験はこんな風になんとも摩訶不思議なものになった。
「相手は男としてのオナベのマックスを愛して、マックスは美しい女性としてのオカマの彼女を愛した。マックスの理論からいくと愛するという点では、精神的にそれは成立する。
男としてタチ役としてのセックスは、オカマの彼女の上で騎乗位の行為をして、当然のように征服感もあったが、肉体的にはそれは逆転していた。マックスの場合は挿入するはずが逆に入れられていたし、彼女の方は入れられるはずが挿入していたのだった。
征服感と陶酔感も時間がたつにつれて、男から女へと微妙にズレが生じ始めた。お互いの生まれもった肉体の性が本来の精神の性を上回って、彼らはそれに支配されてしまったのだ。彼女はやがて本物の男の方へ走っていった」
これに対して、ニューハーフではこういうことが起きない。だからマックスはニューハーフを選んだのである。ただ、そうなるとよけいにペニスがほしくなる。やはり、精神面だけではなく、セックスの面でも完全に男としてふるまいたいからである。
しかし、オナベとニューハーフのカップルは、精神的にもセックスの面でも、また戸籍の上でも、努力次第でやっていけることはいけるが、絶対にクリアーできない壁がある。生殖の問題である。「超男性」であれば、相手に子供を生ませたいと思うし、「超女性」であれば人一倍母親になりたいと思うだろう。ところが、性器は性転換できても、生殖器までは不可能だから、子供をつくることは無理なのだ。われわれの素人考えでは、なら男と女に戻って正常なセックスをして子供をつくればいいじゃないかと思うのだが、もともと、女(男)の肉体がいやでいやでたまらず、男(女)になったのだから、その根源的嫌悪感の元である性器を使ってセックスしたり、妊娠したりするのは絶対に避けたいのだそうだ。
とはいえ、なかには、その根源的嫌悪感を克服して子供をつくったオナベとオカマのカップルもいる。オナベのつばさとオカマのミーのカップルである。
「九月二十八日に教会で結婚して、その直前に約束である子どもを生む儀式のセックスをしたらすぐにつばさは妊娠した」
本来の男と女のセックスはそれ一度きりで終わり、二人は子供の舞衣(女の子)を挟んだ「セックスレス夫婦」になった。では、生まれてきた子供の頭の中では両親はどんな関係になっているかというと、オナベのつばさが父親で、オカマのミーが母親なのだ。
「舞衣の頭の中では一番怖い存在がお母さんのパパで、髪を編んでくれる優しいお父さんがママ」
もっとも、こうした逆転夫婦の間で子供が作られるケースはきわめてまれで、オナベとニューハーフの夫婦では、生殖の問題は養子をもらうことで解決する方向に向かうようだ。
しかし、では養子をもらってなにもかもが解決するかというと、最後に思いがけない難題が待ち構えている。経済問題である。
一般に、オナベもニューハーフも、いわゆるカタギの仕事にはつきにくいので、水商売で生活費を稼ぐことになるが、その場合、女を相手にするオナベよりも、客が男のニューハーフのほうが絶対的に収入が多い。これが「超男性」で、なにもかも男原理で運ばなければ気が済まないオナベにとってはシャクの種である。本当なら、自分の稼ぎで二人分の生活費をまかない、「妻」のニューハーフは専業主婦にしておきたいが、それは難しい。そういう不満があるから、水商売を続ける「妻」になにかとつらく当たる。すると、嫌気のさした「妻」は本物の男の愛人をつくって出奔してしまう。意外な躓石だが、これが、男社会のなかで生きるカッコつきの男であるオナベにとっては、現実的にはもっともクリアーしにくい問題のようだ。
まさに「男」はつらいよ、である。
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ティッピング・ポイント
まったく自慢にならないが、私はベストセラーというものを一度も出したことがない。私の本は、中小出版社だと初版が三千部から五千部、大手でも七千部から一万部といったところで、たいていは増刷なしの初版のみである。もちろん、文庫や新書はこれよりはずっと多いがその分、定価も低いから手にする金額は常に一定している。
これは、私が理想とする印税生活、つまり、一冊出した本が永遠のベストセラーになり、一生遊んで暮らせるという生活からはほど遠い。そこで、なんとかベストセラーを出せる方法がないかと考えて、その種のマーケッティングの本を何冊か読んでみた。中に一冊、なかなか説得力ある議論を展開している本があった。マルコム・グラッドウェルというアメリカ人が書いた『ティッピング・ポイント──いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか』(高橋啓訳 飛鳥新社)である。
この本の主眼は、ベストセラーやさまざまな流行現象を、伝染病の蔓延の過程として把握し、そこから、ティッピング・ポイント(ある現象が臨界面を越えて燎原の火のように広がる決定的瞬間。tip とは何かが傾くこと)に関する一定の法則を導こうとするものである。
グラッドウェルは、ティッピング・ポイントの例として、ハッシュパピー(そう、あの耳垂れ犬のマークのスウェード靴)の再流行をあげる。ハッシュパピーは、われわれの時代には流行したこともあったが、それ以後、完全に見捨てられたブランドとなり、売上げは年間三万足にまで落ち込んでいた。ところが、一九九四年のある日を境に、突然このダサイ(と思われていた)ブランドが売れ始め、翌年には売上げが四万三千足に伸び、翌々年にはその四倍の売上げを記録して、全米でもっともトレンディーな商品となったのである。これは会社側がなにか努力したとかいうのではない。ただ、あるときから突然、ハッシュパピーが狭い消費のサークルを抜け出して、ティッピング・ポイントを越えたのである。
同じく、グラッドウェルはボルティモアにおける梅毒の爆発的な伝染を例に取り上げる。ボルティモアでは一九九五年から一年間に先天性梅毒にかかった新生児が突然、五〇〇パーセントも増えた。それまで、梅毒はボルティモアのもっとも貧しい地域に囲いこまれたかたちになっていて、ずっとそこを出なかったのだが、いくつかの要因が重なった結果、梅毒は限定された地域を抜け出し、ティッピング・ポイントを越えて全市域に蔓延を見たのだという。
この二つの例から、グラッドウェルは、ティッピング・ポイントの第一の法則を引き出す。「活発に活動する例外的な少数者の法則」である。
すなわち、ハッシュパピーが爆発的に売れ始めるきっかけとなったのは、イースト・ヴィレッジの何人かの若者がなぜかダサイはずのハッシュパピーをカッコいいと感じて、これをマンハッタンのクラブやバーに履いていくようになったことである。すると、それを見たマンハッタンのデザイナー、アイザック・ミズラヒとアナ・スイ、それにロサンゼルスのデザイナー、ジョエル・フィッツジェラルドがハッシュパピーをファッション・ショーに取り上げたり、自分のブティックで売るようになった。やがて、人気コメディアンのピーウィー・ハーマンがハッシュパピーをその店に買いにきたりする。ここでティッピングの現象が起こったのである。
同じく、ボルティモアでも、最初、貧困地域に住んでいた性的に活発な活動をする少数者が、その居住地域を越え、他の地域でも活動を始めたことが梅毒蔓延のきっかけになったのだという。
グラッドウェルにいわせると、流行や疫病の蔓延の過程においては、この活動的な少数者の力というのが馬鹿にならないのだそうだ。
「経済学者はよく『80対20の法則』ということを口にする。これはどのような状況にあっても、『仕事量』のほぼ八〇%がそれにかかわった人の二〇%によって達成されるという考えである。一般的に、犯罪総数の八〇%は二〇%の犯罪者の手でなされている。ビールを飲む人の二〇%がビール消費量の八〇%を占めている。これが伝染病の場合になると、アンバランスはさらに極端になる。ごくわずかな人々が大半の『仕事』をしているのである」
しかし、活発に活動する少数者があれば、かならず流行や蔓延が起き、ティッピング・ポイントを越えるかといえば、かならずしもそうはならない。もし、そうなら、流行を容易に人工的に作り出すことができるはずだからである。
問題は、その少数者の性質にある。グラッドウェルは流行や蔓延を起こす能力のある少数者を「メイヴン(通人)」「コネクター(媒介者)」「セールスマン」に分ける。
メイヴンというのは、いまなにがカッコいいか、あるいはなにがおもしろいか、常にアンテナを張り巡らしている鑑識眼のある情報収集家のことを指す。このメイヴンの特徴は、受け身の情報収集家ではなく、積極的に行動する好奇心の人である点にある。もう一つ、メイヴンは手に入れた情報を他人に教えたいという、悲しいまでに奉仕的な性をもつ。メイヴンはようするに流行の発信者なのた。疫病の蔓延なら、最初に疫病をもたらした一次感染者ということになる。ハッシュパピーをカッコいいと思ったイースト・ヴィレッジの若者はこれに属するだろう。
私などは、書評家として、さしずめこのメイヴンに当たるだろう。私が、書評という、はなはだ割にあわない仕事をしているのは、自分の見つけたおもしろい本を人に知らせたいという、お節介きわまりない性質があるためだ。
しかし、メイヴンだけではティッピングの現象は起こらない。もしメイヴンだけで流行を起こせるなら、私が書評に取り上げた本はことごとくベストセラーになっていなければならない。
ティッピングが生じるのは、情報がメイヴンからコネクターに引き渡されたときである。ではコネクター(媒介者)とはどんな人間なのか? コネクターとは、交際の輪が広く、知り合いが多い人である。
「世界を束ねる特殊な才能を持っている人々を本書では『媒介者《コネクター》』と呼ぶ」
グラッドウェルはさまざまな実験結果を引いて、このコネクターの重要性を強調する。たとえば、マンハッタンの電話帳から任意に二百五十人を拾いだし、それを被験者に示して、自分の知人の名前にぶつかったら印をつける作業を行わせ、その知人の人数を一人一人合計してゆく。ポイントの高いものが顔が広いコネクターというわけだ。すると、社会のどのグループを被験者にしても、かならず高得点者がいるという。
「テストをお願いした人の合計は四〇〇人にのぼる。そのうち二〇点以下の得点者は二〇数名、九〇点以上は八名、一〇〇点以上は四名だった。もうひとつ驚かされたことは、どのグループにも高得点者がいるということである。シティ・カレッジの学生たちの得点は、平均点では中年層の得点より劣る。だが、このグループにも他のメンバーより四倍から五倍も交際範囲の広い人がいるのだ。言い換えれば、どんな人の人生経路にも、友人や知人を作る並外れたコツを体得している一握りの人がそこかしこにちりばめられているということである。こういう人がコネクターなのである」
コネクターとは、人間関係における結節点、人間交差点のような人物で、十九世紀のフランスだったら写真家のナダールや作家のシャンフルーリに当たる人だろう。つまり、彼自身は一・五流の人物でも、あらゆる一流の人と知り合いで、その一流の人たちを結びつける働きをしたのである。
このコネクターが他人と結びつく絆の力はかならずしも強いものではない。もし強ければ、そんなにたくさんの人とは結びつけないからだ。いいかえれば、コネクターとは弱い絆を多く持っている人なのだ。だが、とグラッドウェルはいう。この弱い絆がたくさんあるがゆえに、コネクターの力は逆に強いのだと。
「コネクター──弱い絆の達人──の場合は、群を抜いて社会的力が強い」
自民党の代議士で出世するタイプの人間のほとんどは、この「弱い絆の社会的力の強い人」、つまりフィクサーであり、その社会的力で票を集めるのだ。
話がそれたが、グラッドウェルが指摘するように、こうしたコネクター的人物は、なにも政治の業界のみならず、社会のどの階層にもいる。たとえば、流行に敏感な若者の世界でも、コギャルの世界でのコネクター、プータローの世界でのコネクター、というように各ジャンルのコネクターは多数いる。そして、これらコネクターは例外なく、口コミの人である。したがって、メイヴンからの情報がコネクターに伝わると、そのコネクターの情報網を使って情報は一気に拡大するのだ。
「言うまでもなく、この原則は職探しにだけ当てはまるのではない。レストランや映画、ファッションの流行など、口コミによって伝わっていくあらゆる分野にあてはまる。(中略)着想なり製品なりがコネクターに近づけば近づくほど、力と機会が増えるということも意味する。ハッシュパピーが突如としてファッションの主流になった理由の一つはここにあるのではないだろうか? ニューヨークのイースト・ヴィレッジからアメリカ中部まで、一人のコネクター、あるいは一連のコネクターが突如としてこの靴を気に入ったのにちがいない。彼らはその途方もない社会的連帯の力や弱い絆の膨大なリスト、様々な世界やサブカルチャーを横断する役割を通じて、一挙に無数の方向へと自分たちの思いを広げていったのだろう」
もちろん、コネクターを通じて広がる情報は良いものばかりではない。都市伝説のようなものもあるし、疫病の場合もある。性的なネットワークの広いコネクターが一人性病にかかれば、性病は一気に流行病となる。しかし、いずれにしても、コネクターの果たす役割を軽視すべきでないというのは事実のようだ。
しかし、メイヴンがいて、コネクターがいればティッピング・ポイントが訪れるかというとそうでもない、とグラッドウェルはいう。もう一つ、セールスマンという説得術に長《た》けた人間の介在が必要なのだそうだ。グラッドウェルはこのセールスマンこそが広告宣伝における技術の見せ所だと考え、情報を際立たせるための工夫として「粘りの要素」がティッピング・ポイントに大きくかかわると議論を展開するのだが、正直いって、ここからは、ありきたりなマーケッティング理論になってあまりおもしろくない。いいかえれば、グラッドウェルの本で記憶に止めるべきは、コネクターの役割という要素の強調までである。なぜかといえば、このコネクターというのは、なかなか正体を突き止めることのできない特定不可能な存在であるにもかかわらず、確実に存在し、ティッピングの現象を生じさせる主要要因となるからである。
では話を元に戻して、ベストセラーが起こるときのコネクターとはどんな人間なのか考えてみよう。書評家や本屋に毎週通っている読書好きがコネクターでないことは確かである。もし、そうなら、東京堂や青山ブックセンターで売れる本がベストセラーになるはずである。
それならベストセラーにおけるコネクターとはいったいだれなのか? 本質的に本が好きではなく、普段は本など読まないくせに、本というものに過剰な幻想を抱いているお節介で人付き合いの広い人、このあたりになるのではないか?
しかし、こうした人は捜し出すのが難しい。ゆえに、ベストセラーというのは常に水物なのである。
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紅茶vs.珈琲
フランスに初めて行ったときにまず感じたのは、この国は紅茶に対してなんと神経を使わない国だろうということである。紅茶といえばただの一種類、それもリプトンのティー・バッグしかない。かなりきどったカフェやレストランでも、ティー・サーバーにティー・バッグを入れて平気でもってきた。メニューを見ても、the と書かれているだけで、ダージリンとかアッサムとかいう産地別の種類があるということさえ知らない。もちろん、最近では、街角のカフェでもこれぐらいのバリエーションは備えるようになったが、それにしても、イギリスと比べると、なんたる紅茶音痴の国であることか。イギリス人がフランスは暮らしにくいと嘆くのもむべなるかなである。紅茶の国イギリスに対して、フランスは基本的にコーヒーの国なのである。
だが、歴史をひもとくと、一七〇〇年前後には、現在とは逆にイギリスこそがコーヒーの国であり、フランスはまだそこまで行っていなかったことが判明する。
「一七〇〇年頃には当時の記録によれば、コーヒーハウスの数はロンドンだけでおよそ三千を数えたという。人口六十万とすると、二百人に一軒の割合である。この数字は、にわかに信じがたい印象を与える(ビールが文句なく第一の国民飲料だった百年足らず前のロンドンでは、居酒屋の数は一千と記録されている)。この三千という数字がたとえ誇張であるとしても、コーヒーハウスが世界商業の中心地ロンドンにおいて重要な役割を果たしていたことだけは確かである」(ヴォルフガング・シヴェルブシュ『楽園・味覚・理性──嗜好品の歴史』福本義憲訳 法政大学出版局)
この時代のロンドンのコーヒーハウスはたんにコーヒーを飲ませる場所であっただけでなく、政治、経済、芸術、文学のすべての相談事が行われる場所でもあった。コーヒーハウスはまた情報の交換の場であり、何種類もの新聞が置かれ、証券取引所と新聞・雑誌の編集所を兼ねた特殊な場所だった。ようするにすべてはコーヒーハウスから生まれていたのである。
同じような状況は数十年のタイムラグをともなってパリでも観察された。十八世紀にはパリのカフェも同じく談話と情報の場となり、啓蒙思想とフランス革命はパレロワイヤルのカフェから誕生した。フランスがこのときからカフェ文化の国となり、コーヒーがワインと並ぶフランスの国民飲料となったことは改めて指摘するまでもない。
一方、世界最初のコーヒー国となったイギリスでは、十八世紀に入ると、国民飲料としてのコーヒーの王座がにわかに揺らぎ始め、あっと言う間に紅茶に取ってかわられてしまうのである。シヴェルブシュはこう語っている。
「一七〇〇年頃には、イギリスはヨーロッパにおける最大のコーヒー消費国の一つであった。それから半世紀後、コーヒーのはたす役割はほとんどとるに足らぬものにまでなる。ティーがコーヒーにとってかわったのだ」
数字で具体的に示すと、一六五〇年から一七〇〇年までのイギリスの茶輸入量は約十八万ポンドだが、一七〇〇年から一七五〇年までのそれは四千万ポンドに達する。なんと二百倍以上の伸びだが、これは関税をかけられた分だけだから、密輸を含めると、この倍率はもっと拡大する。十八世紀の中頃にはイギリスはもうコーヒーから紅茶へと国民飲料を転換していたということである。
この急激なシフトはいったいどうして起こったのか? じつは、これこそが近代社会史の大きな謎とされ、いまだに説得力ある答えが出されていない問題なのである。
謎が謎である第一の理由は、イギリス人がコーヒーから紅茶に乗り換えるべき内発的理由が見当たらないことである。コーヒーが入ってきたとき、イギリス人の医者や学者たちは、覚醒作用がある一方で、性欲を抑制させる働きがあるという理由で、これを歓迎した。つまり、コーヒーは勤勉なピューリタンであるイギリス人にはぴったりの飲料と考えられていたのである。
「酔わない飲料コーヒー、そして性衝動を抑える手段としてのコーヒー──この方向でコーヒーを定義するのにどのようなイデオロギーが関与していたかを理解するのは、もはや難しくない。醒めと禁欲、これは清教徒的禁欲主義のいつも変わらぬスローガンである。イギリスの清教徒主義、ひいてはプロテスタンティズムの倫理、これこそコーヒーを先の意味で定義し、そして己の身と心の飲み物としたものだった」(シヴェルブシュ同書)
したがって、論理的にいえば、イギリス人は今日もなおコーヒー国民であり続けていなければならないはずなのである。イギリスで紅茶がコーヒーを駆逐したのは、国民性からいったら理屈に合わないのである。
ここで登場するのが、社会・経済的観点である。十七世紀までコーヒーはイスラム世界からの輸入品であった。ところが十八世紀に入ると、フランスがアンティル諸島に、オランダがジャワ島に、という具合にそれぞれ植民地にコーヒーのプランテーションを開拓するのに成功する。銀貨がイスラム世界に流れるのを防ぐためである。これに対して、イギリスはこれといったコーヒー生産地となる植民地をもたなかった(ブルーマウンテンで知られるジャマイカがコーヒー産地となるのはだいぶ後の話)。そこで、イギリスは銀貨の備蓄のためコーヒー輸入を控え、植民地のインドで栽培される紅茶にシフトした云々。
これはいかにももっともらしい説だが、しかし、少しでも歴史的事実を年代的に調べれば、完全なアナクロニズムであることがわかる。なぜなら、イギリスがインドを植民地として手に入れるのは、七年戦争でフランスに勝った一七六三年のことであり、しかも、その時代にはインドでの茶の栽培は行われておらず、茶はほとんどが中国からの輸入だったからである。つまり、コーヒーが通貨流出の原因になったとしても、紅茶もまた中国へその代価として大量の銀を流出させていたのである。その額があまりに大きかったので、イギリスが銀貨の替わりにアヘンを用いた結果、アヘン戦争が起こったことは周知の事実である。
ひとことでいえば、通貨流出を避けるために、コーヒーから紅茶へのシフトが行われたというのは理屈にあわない。ただ、通貨流出という点では同じでも、その貿易を担当していた業者の間の力関係という無視できない要素があったことは確かである。
「イギリスの茶貿易は、国家のなかの国家とまでいわれた東インド会社の独占であった。それ以前のコーヒー貿易は、個々の自営商人たちによって営まれた。この二つのあいだの競争は、現代風にいえば、国際的大企業と中小企業との競争である。どちらに軍配があがるかは火を見るよりも明らかである。東インド会社の強力な力がイギリスの市場でティーを普及させ、ついには今日みるようにイギリス人の嗜好にしっかりと根を下ろさせた大きな要因であったことは、間違いないであろう」
この議論はシヴェルブシュにしてはいささか雑だと思う。というのもいくら東インド会社が巨大企業だろうと、もしイギリス人が紅茶を嫌っていたら、輸入はしないだろうからである。コーヒーから紅茶へ、味覚の転換が起こったからこそ輸入に精を出したのである。
では、この問題、どう考えれば解決の糸口が見つかるのか?
コーヒーと紅茶の飲料としての性格の違いである。イギリスにおいてはコーヒーはコーヒーハウスというパブリックな場で、しかも男たちに飲まれていた。つまり、コーヒーは「外なる」飲み物だったのである。これに対し、パブリックな場という「市場」をコーヒーにふさがれていた紅茶はプライベイトな場としての家庭に活路を見いだした。紅茶は初めから「内なる」飲み物として登場したのである。コーヒーに比べて、いれ方が簡単だったということも「内なる」飲み物として生きるのに幸いした。
もう一つ重要なのは、「内なる」飲み物として、紅茶が女性に支持されたことである。コーヒーがタバコの煙と喧噪といった、女性から見れば否定的なニュアンスに包まれた飲み物だったのに対し、パブリックな場に登場しなかった紅茶にはこうしたマイナス・イメージが付かなかった。
しかし、こうした「外と内」「男と女」という二分法だけでは、コーヒーの没落と紅茶の隆盛は完璧には説明できない。なにか別の切り口はないものか? マグロンヌ・トゥーサン=サマ編『世界食物百料』(玉村豊男監訳 原書房)で「紅茶」の項目を引いたら次のような説が出ていた。すなわち、紅茶が一七三〇年頃から急に流行しはじめ、コーヒーを蹴落とした背景には、その前の時代にクロムウェルが国庫の利益を考えて茶に高率の税金をかけた事実が効いてきたというのである。
「以後、密売品となった茶は、非合法の飲み物だということでかえって人気が出る。聖職者たちが茶の普及に拍車をかけた。(中略)税金を払わずに茶を飲む……これは是非ともやりぬかねば……クロムウェルをだしぬくためにも……『クロムウェル時代』が終わったとき、喫茶の習慣は確立していた。欲求を生み出すことにおいて、禁止にまさるものはない」(同書)
禁止が欲求を生む。確かにこれはありそうな話である。だが、まだなにかが足りないような気がする。なんだろう?
それはブルジョワジーの勃興と関連した要因ではないか? 世界で初めて、ブルジョワジーがイギリスで権力を握り、貴族の衒示的余暇(つまり働かないでよいことを示すために狩りやスポーツなどの労働とは無縁のことに時間を費やすこと)に対抗して、衒示的消費(富を見せびらかすために高価なものを買うこと)という考え方を持ち出したとき、関税ゆえにコーヒーよりもはるかに高い飲み物だった紅茶は、この路線にぴったりだったのである。しかも、コーヒーとちがって、紅茶はカップやサーバーなどの磁器にも凝ることができるので、衒示可能な贅沢アイテムは一層バラエティ豊かである。
紅茶普及の要因はもう一つあった。それは「内なる」飲み物で、女性が主体になっていたため、アフタヌーン・ティーへの招き招かれという儀式を通して、「模倣」というファクターが強く前面に出たのである。この「模倣」というファクターは次には階級間で強く働いた。なぜなら、興隆期のブルジョワジーにおいては、下が上を真似て価値の順送りをするという現象がしばしば起きるからだ。七年戦争で手に入れたインド植民地で茶の栽培が成功したこともこの階級間模倣に拍車をかけた。西インド諸島のプランテーションで取れた砂糖が紅茶に加わると、甘いものを上等と考える下層階級が紅茶を崇めるようになる。かくして、イギリスは紅茶の国となったのである。
では、同じことがフランスではなぜ起きなかったのか? こちらの答えは案外簡単である。イギリスに遅れること数十年でブルジョワジーの勃興が始まったときには、インドを失ったフランスには紅茶を供給する植民地がなくなっていたからである。
紅茶のイギリスとコーヒーのフランス。この枝分かれは案外と複雑な構造になっているようである。
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単行本あとがき
見渡せば、世の中、じつに多くの不思議や謎に満ちている。
ただ、大多数の人はそれを不思議とも謎とも疑ってみないだけである。
たとえば、女性の乳房はなぜいつも膨らんでいて、男性はそれに愛着を覚えるのかという不思議、また男性のペニスはなにゆえに、勃起時に平均十三センチにも達するのかという疑問。
これらの問題は、それ自体しか見ない人間にとっては、疑問でもなんでもない、まったく自明の事柄だろう。だが、しかるべき本を読んでみると、それらは、ほとんど永遠に解けないような巨大な疑問として研究者の前に立ちはだかっていることがわかる。なぜなら、人類以外で乳房が常時膨らんでいる哺乳類はほとんどいないし、またゴリラのペニスは勃起時でもわずかに三センチであると調べがついているからである。
また、日本だけに定着して、いまだに根強い人気を誇っているセーラー服というもの。これも、いったん考え出すと、いかにも多くの謎に包まれていることが判明する。なぜ、日本でだけセーラー服が女学校の制服となり、男たちのエロチックな夢想の対象となったのか、その経路がよくわからない。
さらに、日本でだけ独自の発達を遂げたSMの亀甲縛りというもの。いったい、このいとも珍奇なる緊縛法は、なにを契機として日本に誕生したのか? あるいは、情死・心中という過激なる愛の解決法が日本特有なのはなにゆえなのか?
疑問が湧いてくるのは、むろん、こうしたエロスと結びついた領域にはとどまらない。日本人が外国語の会話が下手な原因はなんなのか? イギリス人とフランス人は、なにゆえに、牛肉の食べ方やコーヒー・紅茶の飲み方でかくも対照的なちがいをみせるのか?
さらには、キリストが血まみれの残酷な姿で十字架にかけられているのは、いったいなんのためなのかという大疑問に至るまで。
このように、自明の事象として、多くの人にとっては問題とさえならないことが、本を読むことで、まず大きな疑問としてあつかわれているのを知ることができる。さらに、著者たちが懸命に仮説を構築し、答えを出そうと努力している姿に接することができる。
もちろん、いくら本をあたっても未解決のままの疑問も少なくない。しかし、最低でも、それらが、だれかの手によって疑問として呈されていることを知ることは可能だし、それを手掛かりに、独自の仮説を大きく膨らませることも許されるのである。
ことほどさように、本というのは、まことにもってありがたいものであり、かけがえのない人類の財産なのである。私は、これらの大問題をあつかった本に接するたびに書評にとりあげ、できるかぎり紹介につとめてきたつもりである。
しかるに、昨今では、どうやら、こうした努力はすべて空しく、本は一カ月もしないうちに書店の棚から消えてゆく。
それとともに、あらゆることに疑問を抱き、まず前提を疑ってかかる懐疑的精神も衰えていくように思える。
どんな矮小な事柄にも、またいかに壮大な事象にも、ひたすら懐疑的精神をもって臨むべし、これが近代合理精神の出発点ではなかったか?
こうした危惧から執筆を思い立ったのが本書である、と、いいたいところだが、じつをいえば、そんなに大それたことではなく、冒頭でも触れたように、私自身、妙なことに対しても仮説癖が働いて、そのたびに、手あたり次第に本を乱読して、センス・オブ・ワンダーを味わってきたにすぎない。
ただ、ひとつだけいいたいのは、仮説への手掛かりも、センス・オブ・ワンダーの発見も、たいていは本のうちにあるということである。
したがって、本書は、少し時間差をおいた、真におもしろい本への案内・紹介であるということができる。
本書のもとになった原稿が『とは知らなんだ』として「オール讀物」に連載されたときには、編集部の羽鳥好之さんから貴重な助言と励ましをいただいた。また、書籍化に当たっては、書籍編集部の岡みどりさんにお世話いただいた。記して、感謝の意を伝えたい。
二〇〇〇年九月十八日
[#地付き]鹿島 茂
初出  「オール讀物」一九九八年六月号〜二〇〇〇年七月号
単行本 二〇〇〇年十月 文藝春秋刊