[#表紙(表紙.jpg)]
オール・アバウト・セックス
鹿島 茂
目 次
まずは、女の性欲について
失われた「風俗」を求めて
堅忍不抜のエロ事師、官憲と闘う
エロティックなキューティーハニー
SMもまたセラピーである
オナニストはとことんシュールに突き進む
コーンフレークは性欲を鎮める?
繁殖から遠く離れて
欲望のためならゲロも食いたい
fの探究
不倫妻はサイバー空間もお手のもの
セックスは「ごちそう」じゃない
つまりセックスしてくださるのですね
エロティック・アートの極致
ブラジャーとコルセットの無意識
「女男男」がお江戸でござる
売春|しない《ヽヽヽ》理由
サルだって「ホカホカ」くらいする
「性の防波堤」からフーゾクまで
いまや懐かしい性豪の自慢話
縄が私を抱き締めてくれる
なんと纏足が××の代わりに!?
「短」か「長」か
エロはやっぱりコテコテがいい
会話でいかせて!
全篇Hの名作
やわらか対談の名手
たまにはお勉強しましょ※[#ハート白、unicode2661]
やあねー、ノーマルなんて
初体験のジェネレーション・ギャップ
若い頃のセックスなんて遊びさ
AV男優かく語りき
AVのコゼット
風俗嬢のアリバイづくり
ストリップは男が集うタカラヅカ
正しい「変態人」とは
男と女、結局どうすればいいのか
初めて会った人とその日のうちに……
女が「買う」と
女は「する」けれど男は「見る」だけ
あちら側の愛、こちら側の愛
ああ 我がエロスの原点
あとがき
文庫版のためのあとがき
書名・著者名一覧
[#改ページ]
まずは、女の性欲について
おそらく、後代の歴史家は、二十世紀末の日本を振り返って、こう記するにちがいない。「二十世紀末の性革命は、六〇年代のそれとは異なり、女による、女のための、女の性欲の肯定を特徴とした」と。
事実、書店の性愛関係の書物を一瞥すると、男による男のための男の性欲に奉仕する従来型の本のほかに、「女による、女のための、女の性欲」を扱った本が目につく。進行中の第二次性革命は自らのドキュマンを必要とする段階に達したようだ。
この手の「女の性欲」肯定本は、共通した特徴をもっている。それは男女の性器を剥き出しの卑語で即物的に語ることだ。斎藤綾子の短編集『フォーチュン クッキー[#「フォーチュン クッキー」はゴシック体]』(幻冬舎 一四〇〇円/幻冬舎文庫 四九五円)はその典型だ。
「どんなに素晴らしいチンコをもっていても、持ち主がチンコに胡座をかいていたり、宝の持ち腐れで性に意欲がなかったりすれば、セックスはたちどころにつまらないものになってしまう。
愛よりも何よりも、真っ直ぐに女好きなスケベエな好奇心だ。それがマンコをグショグショに濡らし、満開のぼたんのようにパックリ見事に陰唇を開かせる」
(「求めよ、さればあたえられん」)
こうしたザッハリッヒ(即物的)な感覚は、男の情緒的ポルノ作家にも女流の子宮感覚の性愛作家にもなかったもので、これが斎藤綾子が若い女性にも人気がある秘密だろう。斎藤綾子にあるのは、性行為でもそれにまつわるイメージでもなく、ただただ「女の性欲」だ。女の性欲だけが他を圧して屹立している。ヤリたいからヤッたんだ! 文句あっか! 愛だとか恋だとかいった七面倒くさいことに女の性欲を回収されてたまるか。この、ほとんど爽やかとさえ言える性欲肯定からは、世紀末の新しいセックス哲学さえ生まれてくる。
「女が自分の体を十分に堪能し、その恍惚の深さを知ってしまえば、遅漏男の十人や二十人、楽に相手にできる。いや、『もっとちょうーだいッ』というふうになるかもしれない(……)
だが、そうなると、男は自分専用の女をもてなくなる。つまり女ひとりに、ひとりの男じゃ足りなくなるのだ。女が複数の男と交わる、それが当然のことになれば、女の下半身はもはや男の管理するものではなくなる。財産は男の手からはなれ、誰の種だかわからない女の腹に宿った生き物に引き継がれてしまう」(同)
要するに、女の性欲は男の性欲よりも強しという認識は、父権社会から母権社会への回帰をも可能にするということだ。
これと同じ認識を社会学的・人類学的な用語で語ったのがアメリカン・フェミニズム第一世代のリーアン・アイスラーの『聖なる快楽──性、神話、身体の政治[#「聖なる快楽──性、神話、身体の政治」はゴシック体]』(浅野敏夫訳 法政大学出版局 七六〇〇円)。先史時代までの性構造の変化を概観した膨大な研究書だが、言っていることは案外単純である。すなわち、男による女の支配は、男が女の性欲を恐れてこれを様々な形で抑圧したところから生まれる。したがって、こうした支配形態社会を打破するには、女の性欲を男の性欲と等価に置く性革命を成し遂げ、性の協調形態社会を実現しなければならない。
ただ、全体的な印象からいえば、アイスラーの主張はその根底にユダヤ・キリスト教的な「愛」というものを置いている分だけ、斎藤綾子などよりも穏健である。ゆえに、アイスラーのいうような性革命が「神なき国」の日本で可能かどうかは疑問だ。
いっぽう、同じアメリカン・フェミニズムでも、第三世代に属するナオミ・ウルフとなると、六〇年代の性革命の影響を直接に被ったジェネレーションなので、女の性欲を認める社会の実現という問題に関して、『性体験[#「性体験」はゴシック体]』(実川元子訳 文藝春秋 二三八一円)の中で、具体的なサジェスチョンを提示する。というのも、女の性欲を単に観念的なレベルで肯定するというだけでは、解決できない問題があるからだ。
性革命後の社会では、少女から女に変身するのは、かえって難しいとウルフは言う。なぜなら、処女を早めに捨てなければカマトト扱いされるし、かといって社会の解放度を信じて性体験を積めば「誰とでも寝るあばずれ」と後ろ指さされるからだ。
それだけではない。初体験の容易さは、ある種の心的ショックさえともなう。ウルフは初体験を振り返ってこういう。
「これでおしまい? 私は最初から最後までを反芻し、拍子抜けしてつぶやいた。ほんとにこれでおしまい?(……)『私の処女ってこんなに価値がないものだったの?』」
なぜ、こうした驚きが生じるのか? 性的幻想と現実の落差が大きすぎるからなのか。それもある。だが、それだけではない。処女喪失のあっけなさは、少女から女への通過儀礼が廃絶されたにもかかわらず、それに代わるべきものがいまだに用意されていないことからくる。性革命後の社会では、少女が女になる決定が少女自身に任されているのに、そのための手助けをしてくれるものがいない。性欲を肯定し、それへの準備をする教育はなされていない。
「たぶん女性たちは本当に、強い性欲を持った神秘的な存在なのである。
(……)過去に見られたように、女性の欲望を抑えつけないこと。今日よく耳にするように、女性を嘲笑して、その欲望をジョークのタネにしておとしめないこと。そのかわりに女性の性欲を私たちの文明の中に組み入れること。女性の性欲の本質を正直に認めないと、社会の破滅を招くだろう」
私はフェミニストではないが、この提案には賛成だ。「神なき国」日本での性革命の進行度は思っているよりもはるかに速い。ゆえに、破滅もまた近いのである。
[#改ページ]
失われた「風俗」を求めて
歴史とはなんとも不思議なものだ。その時代にはおぞましい異端とされたものが、時の経過とともに異端でなくなり、逆に正統とされたものを「価値なし」の項目に放りこんでしまう。だが、そうなってから歴史家が乗り出しても時すでに遅く、資料は散逸し、証人たちは鬼籍に入っている。なかでも異端の性風俗は「背日性」を運命づけられているから、歴史には残りにくい。
しかし、それでも奇跡は起きる。下川|耿史《こうし》『極楽商売 聞き書き戦後性相史[#「極楽商売 聞き書き戦後性相史」はゴシック体]』(筑摩書房 一五〇〇円)は、SM、性具、スワッピングなどのセックス産業のパイオニアたちから聞き書きした「性の証言集」である。中で興味深いのは、昭和四年から親子二代で『あか船薬舗』を開いている性薬具商の草分け加茂氏の話。
大陸雄飛の資金稼ぎに横浜桜木町で「性薬具専門店」の看板を掲げた加茂氏の父は、その看板まかりならんと当局のおしかりを受けたので、「セックス・ストア」と変えたところあっさり許可が下りた。SEXという英語が効いたのか、戦後にはマッカーサー元帥が『あか船』に現れた。これがきっかけとなりGIたちが続々と詰めかけた。朝鮮戦争が始まると、画用紙にペニスの絵を描いて同じものを作ってくれという注文が激増した。出征中にオンリーさんが浮気しないように代理ペニスを置いていこうとしたのである。だが、せっかく作ってやったペニスを受け取りにこないGIが多い。そのまま戦死してしまったのだ。残された張り形はお寺の坊さんに頼んで供養してもらったという。張り形と軍隊の関係はアメリカ軍に限らない。戦時中、陸軍病院からの注文で、股間を負傷した将兵のために、義肢ならぬ「義茎」を開発したこともある。その名も「助け船」。やがてモータリゼイションの時代になると交通事故で不能に陥った人が助けを求めにやってきた。だが当局の目が厳しいので断ると、その人は一礼して出ていった。「その姿を見ながら、つくづく性ってのは人間の業だと思ったね。セックスは卑しい、と決めつけている人々がこの光景を見ていたらどんな態度をとるだろうか」。とにかく、どの聞き書きも面白いの一語に尽きる。
この本には、日本におけるSMの開祖の証言も出てくるが、これをもっと大規模にして本格的な通史を試みたのが秋田昌美著・濡木痴夢男《ぬれきちむお》監修・不二秋夫写真監修『日本緊縛写真史[#「日本緊縛写真史」はゴシック体]』(全三巻予定 自由国民社 四六六〇円)。歴史は伊藤晴雨から説き起こされているが、関心を引くのは、なんといっても、戦後の二大SM雑誌『奇譚クラブ』『裏窓』の両方に関与した須磨利之の巻。というのも「彼こそ戦後のSM雑誌界を大成させた責め絵画家の喜多玲子、縄師であり小説家、また緊縛写真家でもあった美濃村晃であった」からだ。京都の裕福な家庭に生まれた美濃村少年は、土蔵にしまってあった祖父のコレクションでSM趣味に目覚めたが、決定的な体験をしたのは、土蔵の柱に全裸で縛られている母を目撃したときのことである。母は役者遊びを祖父に発見され、折檻されていたのだ。床には水の跡が描かれていた。母はオシッコを漏らしていたのだ。この原光景がSMの開祖の原点となる。戦後復員した美濃村晃は大阪で発行されていたカストリ雑誌『奇譚クラブ』の編集に参加して、喜多玲子の筆名で縛られた裸女の絵を掲載し、同誌を史上初のSM雑誌に変身させる。次いで昭和二十九年に上京すると今度は『裏窓』を創刊、縛りから撮影、挿絵、執筆、編集まで一人でこなして、ついにイメージ通りのSM雑誌を立ち上げることに成功する。
『日本緊縛写真史』と銘うつとおり、よくこれだけ審美的な緊縛写真を集めたと呆れるほどの充実ぶり。考証にも念が入っている。ヘアー解禁の恩恵はこうした歴史的ドキュマンの出版にこそ現れているようだ。
コレクションといえば、ビニ本、裏本、AVの類いはどうなっているのか気になるところだ。「資料」がものすごいスピードで「消化」されて残らないと思われるからである。しかし、この業界の裏面史に関してはこれ以上はないというほどに貴重な証言が現れた。本橋信宏『裏本時代[#「裏本時代」はゴシック体]』(一六五〇円)『アダルトビデオ 村西とおるとその時代[#「アダルトビデオ 村西とおるとその時代」はゴシック体]』(一七〇〇円 ともに飛鳥新社)である。近年まれに見る面白さで、二晩徹夜して読み終えた。そして、現代にもこれだけ桁外れの男がいたのかと心底驚いた。あのAVの帝王の村西とおるである。
一九八二年、駆け出しの風俗ライターだった著者は新英出版会長の草野博美という人物と知り合う。後の村西とおるで、この頃には北海道の裏本製造流通チェーン「北大神田書店」で巨万の富を得て、表のビジネスとして新英出版を作っていたのだ。「ゴージャスな本をこれからどんどん作ってもらわなければなりません。ね、局長、そうでしょ、ナイスな本作ってよ」。著者も『スクランブル』という写真スクープ雑誌の編集を任されるが、裏本チェーンの摘発で資金繰りがつかなくなり廃刊に追い込まれる。会長は起死回生の策としてポルノビデオに乗り出すが、こちらも倒産。
ところが、それから一年後、会長はアダルト・ビデオの監督村西とおるとして戻ってくる。名前はクリスタル映像の社長西村をひっくりかえして、村西でとおっているとの意味。著者は村西の憑かれたような不可解な情熱に煽られてAVの世界に入りこむ。村西はやがて黒木香の『SMぽいの好き』で大ヒットを飛ばしAVの帝王となるが、今度も狂ったような拡大政策に出て、あえなく破産。振り出しに戻る。
読み物としては前者のほうが優れているが、村西とおるという現代の大奇人の肖像を残したという点で後者も殊勲甲。これぞ「人間喜劇」と呼ぶにふさわしい。
[#改ページ]
堅忍不抜のエロ事師、官憲と闘う
ここのところ、北京、上海、ホーチミンと共産圏の都市を旅しているが、その風俗を観察していてつくづく思うことは、男のスケベと女のオシャレはどんな強圧的な体制でも弾圧できないということである。とりわけ、男のスケベは、たとえ死罪をもって抑圧しようとしても、必ずや法網をかいくぐって活路を見いだそうとする。しばらく前の中国では、売買すれば死刑になるはずの裏ビデオが高官によってワイロとして要求されたというのだから。
『別冊太陽 発禁本[#「別冊太陽 発禁本」はゴシック体]II 地下本の世界[#「地下本の世界」はゴシック体]』(平凡社 二六〇〇円)は、一般書として発行されながら発禁となった本を集めた『発禁本I』とは異なり、初めから非合法で出版された猥褻文書を中心にグラフィックな編集をほどこしたもので、その変遷を眺めていると、弾圧をものともしない男のスケベの本源的な力というものを実感することができる。
もっとも、明治の初めは、非合法どころか、合法も合法の医学出版がエロとして利用されていたようだ。それは、明治九年に男女性器の図解を載せたゼームス・アストン著『通俗造化機論』が翻訳出版され、すでにこの頃から性医学書をエロ本として活用する流れが確立されていたことからも明らかである。
「克明に描き込まれた銅版による女性器、男性器の挿絵はリアルで、それまでの木版の春画とは違った新しい時代のエロチシズムを大衆に感じさせ、科学知識の普及の名の下に、全国に広まっていった。書店だけでなく、薬局や雑貨屋でまで売られたと伝えられる公認のH本、『造化機論』は明治十年から三十年頃まで、様々な形で刊行され『明治期性典物』として広く読まれた」
掲げられている図版を見ると、たしかにリアルなそのものズバリの性器で、明治という時代のおおらかさを伝えている。この流れから生まれたベストセラーが『衛生交合条例』(明治十六年)と『男女交合得失問答』(明治十九年)というものすごいタイトルの性交解説書。思えば、この時代は西洋一辺倒の鹿鳴館時代。セックスでさえ、西洋に価値を置く啓蒙が大手を振って歩いていたのである。
しかし、時代が進んで、明治末から大正初めにかけて道徳の反動が起きると、スケベは今度は科学の鎧を借りて、性科学雑誌へと姿を変える。そのキャッチフレーズはなんと「変態」。『変態心理』『変態性慾』などのまじめな研究雑誌が創刊され、一種のブームとなるが、しかし、「その大半は、大衆の好奇を刺激し、弱みに付け込むような『科学』の名を借りた通俗エロ雑誌だった」
この性科学雑誌の中から派生してきたのがかの有名な小倉清三郎夫妻の相対会雑誌だが、この相対会が出版の歴史において画期的だったのは、会員制限定販売という頒布方法を編み出した点にある。というのも、これこそは官憲の目をかいくぐってスケベを売るエロ・ゲリラにまたとない地下出版の方法を提供することとなったからである。この方面でのパイオニアが不撓不屈、堅忍不抜のエロ事師、梅原北明と伊藤竹酔。「公刊本では許されない性研究や資料を発表していく会員内研究雑誌は、だが商売にも結びついており、一山当てることを狙う珍書屋たちの群によって次々と、好事家たちを甘言で誘っていった」
本書で一番の見物《みもの》は「予約限定会員制猟奇雑誌」がズラリと並べられているページだろう。なぜかといえば、この部分にこそ、何事も創意工夫によって「極めなければ」すまない日本人の気質がよく現れているからである。エロにおいてさえ、日本人は勤勉で、キッチリとした仕事をするのだ。
まず、会員制であるにもかかわらず、雑誌のデザインとレイアウトが優れているのが興味を引く。雑誌のデザイン史の観点からもこの部分は貴重な資料である。しかし、なんといっても圧巻は、芋小屋山房の職人仕事。この芋小屋山房が昭和二十三年に限定三十部で発行した『南無女菩薩』(昭和二十二年の初版題名は『女礼讃』)は、世界に類のない装丁として書物史に残るかもしれない。「上部四センチを白色に残し桃色に染分けて腰巻と見立てた帙《ちつ》入り本で、その腰巻を脱ぐと、純白の和紙に女性の下腹部が迫真的に彫られ、その中央部には何やら黒くてふさふさしたものが逆三角形に一本一本丹念に移植されていて、本物と見紛うばかりの表紙」。この好評に気をよくした芋小屋山房主人は昭和二十八年に『女礼讃』二号《おめかけ》版を世に問うた。これは外側の袋がズロースそっくりのピンクの布地で、中は表裏に女性の下腹部の拡大写真を点描したもの。「この本は、無修正写真が表紙に使われたとして芋小屋山房主人、検察庁送りとなった」
ただし、こうした豪華限定本志向は戦後は少数派で、地下出版の主流はむしろ、ガリ版、孔版などの簡易印刷による素人出版だった。「戦後、地下本は、食うに困った人間たちや戦前の趣味人、好事家の生き残りといった素人たちによって、ガリ版の粗末な小冊子で始まったようだ」
しかし、生活の安定とともにそうした素人出版は専門職人による孔版、さらには活版へと移行し、それとともにイラストにも多色刷などの工夫が凝らされ、なかには芸術的な鑑賞に堪えるものもあった。こうしたプロによる戦後の地下本には一つの共通した特徴があった。それは装丁は地味な一般書そっくりでタイトルも『哲学物語』とか『聖雲』など堅そうな表題がついていること。「内容がそのものズバリであるが故に、人目についても安心できるような外側《パッケージ》が求められたのだろう」。これなど、ビニ本で裏本が登場したときに『信濃川』といったようなおとなしいタイトルが使われたのに似ている。中で傑作は、岩波文庫そっくりな装丁の「秘文庫」(昭和二十五─二十七年)だろう。内容も『四畳半襖の下張』などポルノの古典が選ばれていた。
このほか、個人的に感慨を誘われるのは、昭和二十年代から三十年代にかけて駅売りされていたエロ系のカストリ夕刊紙が多数収録されていることである。とくに、ヌード満載の『東京毎夕新聞』と『日本観光新聞』は感動的だ。これらを中学生のときに初めて買って、このようなステキなものがこの世にあったのかと、心ときめかせて読んだことを思い出す。
いずれにしても、劣情よりも、郷愁をそそられる一冊であった。
[#改ページ]
エロティックなキューティーハニー
六本木通りの青山ブックセンターは、本好きのスノッブにはこたえられないアヴァンギャルドな本がそろっていることで有名だが、入って右側の棚(現在は店奥左にも)にあるエロティック関係本の充実ぶりも見事である。といっても、あるのは、いわゆるエロ本ではなく、あくまで、エロスに関しての本と高級なビジュアル本である。パリのムッシュー・ル・プランス通りには『スカラベ・ドール(黄金虫)』という専門店があったが、東京では青山ブックセンターだけが頼りである。
で、どんな本を買ったのか? まずタイミングのよい問題提起の書として『永井豪※[#ハート白、unicode2661]けっこうランド[#「永井豪※けっこうランド」はゴシック体]』(マガジン・マガジン九五二円)を推す。なぜなら、近ごろグラフィック関係で独特の才能を発揮しはじめた若き男女の多くが「もっとも衝撃を受けた作品」として永井豪の「けっこう仮面」「キューティーハニー」「イヤハヤ南友」などを挙げているからだ。しかも、その影響というのがエロスの最も深い部分を直撃する体《てい》のものだったらしい。「らしい」というのは永井豪の作品が『少年ジャンプ』等の少年誌に掲載された七〇年代には、私はとうに可塑的年齢を越えていたから、少年少女の蒙った深刻なトラウマについては知るよしもなかったからだ。それが、永井豪の主要作を再録すると同時にその影響を追跡したこのムックで明かされて、初めてわかった。
たしかに、この方面にはまったく鈍感になっている今の私が読んでも「けっこう仮面」や「イヤハヤ南友」は本当にスケベだ。というのも、掲載誌が少年誌だった関係で直接的な性交描写が回避され、その分のエネルギーがSMっぽい美少女いじめに向けられているからだ。そのため、世紀末に至ってもエロの質がいささかも古びていない。ヘビ責めあり、木馬責めあり、要するにSMの基本パターンはすべてそろっているのだ。これでは純情な少年少女がおかしくなるはずである。
収録の「リビドー師弟対談 永井豪×西炯子」はそのあたりの事情をよく物語っている。同級生の男の子とマンガを交換して『少年ジャンプ』を借りた西炯子は、例の「顔をかくして、からだかくさず」の「けっこう仮面」に釘付けになる。ネコを解剖しようとする教師を美少女高橋真弓が制止すると、それではお前を解剖してやろうと、解剖台に拘束されて、次々に衣服をはぎとられていくというあの有名な巻である。
「返すのが惜しくて、なんとかして返すのを延ばそう延ばそうとして、二ヶ月ぐらい借りっぱなしにしたんですよ。そのあいだほとんど高橋真弓の解剖シーンばっかり見てて。返す日、すごい寂しかったですよ(笑)。それから例の解剖シーンを頭にインプットしまして、似たようなシーンを描いてみたのがマンガの描き始めだったんです」。巻末には西炯子自身がリメークした「けっこう仮面'98美しき勇者」が載っている。さすが二十年以上トラウマにとらえられてきただけあって、こちらも十二分にスケベだ。
このムックには永井豪のマンガから生まれたフィギュア(人形)が紹介されているが、中で圧倒的にエロティックなキューティーハニーをつくっている空山基も確実に永井豪の影響から生まれた異端の才能である。
その空山基がハイパーリアリズムの筆で究極のSF的SMボンデージに挑んでいる画集が『トルクェーレ─拷問─[#「トルクェーレ─拷問─」はゴシック体]』(作品社 六九〇〇円)。
これはすごいぞ! 発売と同時に売り切れというのも宜《むべ》なるかな。ヨーロッパのボンデージと日本の緊縛が融合し、これに隠し味として永井豪の変態、それに空山アートの精髄である金属的SFが加わって生まれたのがこの超SMの世界。日本のエロティック・アートもついにここまで来たかという感慨さえ浮かぶ。気がついたら、世界一、後に誰もいなかったというのが空山アートだ。「エロスの美術館」の二十世紀ギャラリーには、ベルメールやトゥルーユなどのあとに、同格の巨匠として空山基が並ぶことだろう。いずれ、「フジヤマ、ゲイシャ、ウタマロ、ソラヤマ」という言葉が誕生することはまちがいない。これ以上は言わない。とにかく、すぐ書店に直行することだ。さもないと手に入らなくなる可能性がある。
ウタマロといえば、今日では春画をハイ・カルチャーとして位置づけようとして、様々な口実を設ける動きが主流となっているらしいが、これに断固として反対し、春画をあくまでポルノグラフィーとして、つまり性幻想解読の素材として見直そうというのが、タイモン・スクリーチ『春画 片手で読む江戸の絵[#「春画 片手で読む江戸の絵」はゴシック体]』(高山宏訳 講談社選書メチエ 一八〇〇円)である。
著者はまず問う。春画は何に使われていたのか? マスタベーションのため以外のなにものでもない。三人のうち二人が男だった独身男の都「江戸」では、売春文化とならんで手淫文化も花盛りだった。そのため、従来春画とは峻別されてきた役者絵や美人画でさえマスタベーションに使われていた。今日のアイドル写真集と同じである。
こう解釈するとなにが見えてくるのか? 江戸の人間たちが抱いていた性幻想の構造である。なぜなら、春画に表現されているのは当時の性の実相ではなく、江戸の人間が欲情するための仕掛けだからである。たとえば、春画に、性器は大写しされていても、裸が描かれず、着物の描写のほうが多いが、それは高級な着物を着ている女は高級な遊女という約束事があったからであり、着物のほうが「|なま肌《ヽヽヽ》の感触よりもっとそそるものとされた」からである。
また春画では衆道が女道と二項対立的なものとして見なされていないが、それは性的役割が固定されていなかったからである。すなわちヨーロッパの男色では男役女役が決まっているのに対し、江戸では「入れる役」と「入れられる役」は年齢によって変化した。「若い方が入れられたのだが、彼も年上になると入れる側になる」。男女のイメージではなく、主君と家臣のそれとしてとらえられていたからだ。三代将軍家光が顰蹙を買ったのもこの性の関係を守らなかったためだという。「彼は少年たちに入れてもらいたがったのであって、その逆でなかった点がうとまれたのであった」
二十世紀の永井豪や空山基も、ウタマロの春画と同じように、何世紀か後には、このような学術的解読の対象になるにちがいない。それだけ彼らの性表現は世界に類を見ないユニークなものなのである。
[#改ページ]
SMもまたセラピーである
風俗という言葉がある。これ自体には売春という意味はない。ところが、一九八五年に直接売春を規制する改正風俗営業法が施行されたことによって、あらゆる形態の「疑似売春」が百花繚乱のごとく出現して、この言葉が広い意味での売春をさすようになった。そして、それにともなって、女たちの気質も変わり、客層も変化した。だが、この新風俗産業が実際にはどのようなシステムで機能し、どんな女が働いていたのか、具体的なディテールを伴った記録はなかなか現れなかった。
ところがここに超弩級の本が出現した。平口広美『フーゾク魂[#「フーゾク魂」はゴシック体]』(イースト・プレス 一三〇〇円)。著者の名前を聞いてピンとこない人も、折り返しに掲げられたスキンヘッドに口ひげという顔を見れば、ああこの人かと納得がいくだろう。そう、AV男優・監督として大活躍のあの人物である。この平口氏、実は漫画家が「本籍」でAV男優は「現住所」にすぎない。本書は「本籍」の漫画家として雑誌に十五年連載した「ヤラセなし! コネなし! ハズレあり(泣)!!」(帯)の風俗体験イラストルポを一巻にまとめた偉大なる人類学的記録である。
どこが「偉大」なのかといえば、それはどんなにものすごい女が現れても絶対にチェンジを要求せず、可能なかぎり射精を追求するというその「誠実」な姿勢ゆえである。たとえば柴又のソープのお相手は五十歳ははるかに越えているおばさん。「いきなりしぼんだままのチンポにコンドームをはめられ しわしわの手のみでしごかれるのであった」。鶯谷のタイワンおばあさんは「やっぱこの肌はなァ六〇才いってるかも……トホホホ」。この手のおばさんやおばあさんとの遭遇は実に多いが、なぜか「おばあさんとは相性がよいらしく、だいたいすぐ立つ」のである。
また鶯谷のDカップクラブで現れたのは「私の想像のイキをはるかに超えた小錦体型のりっぱなおねえさんであった」「ほとんどトドである」「わき毛には毛玉がからみついていた」「肉が肉をよぶ奥の深い女陰 よく臭う 風通しが悪いためか」「80分たって私は一度もボッキしなかった これでボッキしたなら私はケダモノだといい聞かせつつ触ってもらったりしてた」
あるいは大塚の人妻クラブでは逆にガリガリの女が現れる。しかも体全体にボツボツが広がっている。「触るのも舐めるのも危険すぎた。ただひたすら突くのみ」
しかし、そんな突撃精神にあふれ、慈愛の心を持った著者でもただ一度だけ服を脱ぐのがためらわれたことがある。所は巣鴨のSMクラブ。「私は一瞬 言葉を失った ひどい……ひどすぎる どうしてこんな……」「正直いって私は触りたくもないしまた触られたくもないと思った いくら仕事とはいえ!」。どれぐらいのヒドさかはマンガに詳しく描かれているから、猟奇心《ヽヽヽ》のある方は一読を。
マンガという特性をフルにいかして女やポン引きや現場の細部を徹底的に描きこみ、最後にかかった費用がきっちりと書いてあるので、「昭和の終りから平成にかけて、こういう場所と女たちがいた」というまたとない貴重な証言となっている。俗も突き抜ければ聖になるということを示した大傑作である。
いっぽう、同じ風俗ルポでも、体験よりは関係者の証言から事象の核心に迫る姿勢を見せるのが、ここのところ『別冊宝島』で快調な記事を連発している永江朗の『アダルト系[#「アダルト系」はゴシック体]』(アスペクト 一五〇〇円)。狭い意味での「風俗」に限らず、ブラックジャーナリズム、盗聴、結婚調査、死体洗いなどの裏ビジネス、あるいは刺青、女装、ブルセラといったマニア関係、さらには風俗情報誌やエロ漫画、エロ本、フケ専のモデル募集などのエロ・メディア関係と、幅広い「風俗」を扱っているが、どれも、「オトナじゃないとわからない世界にハマる、いまいちオトナになりきれない人々」への人間的興味という形の問題設定が明確なので、現代というわけのわからない時代を見事に切り取ったノンフィクションになっている。中でも圧巻は、エロ本出版の起源をたどった「アダルト系出版社のルーツを探せ!」である。この記事は「初期のアダルト系出版社のパトロンといえば、ゾッキ本屋か紙屋だった。ゾッキ屋は流通ルートを持っていたし、物のない当時は、紙の供給ルートをまず押さえないと出版はできなかった」というベテラン編集者の証言を引き出しただけでも、出版文化史に残る。正直、これは「ヤラレタ!」という嫉妬の感情を私に抱かせた。
もう一つこの本で白眉なのが、真性M女と調教師志摩紫光氏にインタビューを試みた「針刺し! 尿浣腸!」。これを読むと、SMというのはセックスとは関係のない精神的なセラピーであることがよくわかる。優れたS男は、精神を病んだM女に対して、どんな精神分析医も真似できない心の治療を行う。「志摩氏はマラソンの例で説明する。走っていると苦しくなる。苦しくなって、そこでやめるとおしまい。苦しくても頑張ってると、すっと楽になる瞬間がある」。つまり苛酷な責めに耐えられたと感じた瞬間にM女は心を全面的に開き、「自分をよく理解してくれる絶対的存在の腕の中で、庇護されつつ、何も考えなくていいような状態に」入るのである。
最後にSMは本質的にメンタルな治療だということを認識させてくれる風俗ルポをもう一つ。大谷佳奈子『ある日突然、縛られて[#「ある日突然、縛られて」はゴシック体]』(大和書房 一三五九円)。タイトル通りある日偶然出会った男に縛られて「あれっ、これって結構気持ちいいじゃん」と感じてしまった若いライターの著者が様々なSM関係者にインタビューをおこなった報告書である。SM嬢が概してノーマルなのに対し、プライベートなセックスにSMを導入している人たちは「SMはこの人とだけ」と精神性を強調する。特におもしろく読んだのは、SM雑誌に「女性の為SもMも」と顔写真入りの広告を出している花公路夏男氏へのインタビュー。妻を亡くして絶望していた花公路氏は「最後にSMを思いっきりやって死のう」と決意し(氏はMだがSもこなす)、同志を求める広告を出して「SMを純粋に愛好し、その素晴らしい快楽を体験研究(性行為は一切伴わない)することを目的とする」同好会を組織する。「(SMっていうのは)セックス抜きでやるのが本道だと思うんですよ」という花公路夏男氏の言葉には重みがある。
ようやく世紀末に至って、風俗ルポが市民権を得る時代になったようである。
[#改ページ]
オナニストはとことんシュールに突き進む
人間の性的欲望はじつに様々なかたちを取るが、男の欲望はときとして、相手との接触をいっさい含まない純粋に一方通行的な、というか自己完結的な形態を帯びることがある。と、まあ、やけに難しい言葉を使ったが、わかりやすくいってしまえば、セックスそれ自体よりも、ノゾキや自慰のほうにはるかに強い欲望を感じて、それにのめりこむタイプの男が少なからずいるということである。そうなると、性的刺激のためというよりも、うまくいったという達成感から「次」を目指し、ついには己の素晴らしい「成果」を発表したいという欲求に駆られるものらしい。
原翔『盗撮狂時代[#「盗撮狂時代」はゴシック体]』(イースト・プレス 一四〇〇円)は、電子機器の発達でマニアとファンが急増している盗撮ビデオの世界をかなり興味本位にルポしたものであるが、そのエゲツなさがかえって実態の深刻さを伝えている。
とりわけ強調されるのは、不振が続くアダルト・ビデオ業界で唯一成長を続ける盗撮ものでヤラセの割合がどんどん減り、本物が増えているということ。これは盗撮マニアからの売り込みが激増しているからである。
ではなぜ、それほどにマニアが増えているかといえば、ビデオ・カメラの小型化に加えて電波盗撮が可能になったため、自分がその場にいなくとも機材をセットしておけば、遠隔操作で一部始終を撮影できるからだ。その結果、女子便所、更衣室、女風呂といった定番の場所ばかりか、ラブホテルなどに機材を仕掛けて撮影したものをビデオ会社に売り込む本格派マニアも多い。恐ろしい時代になったものである。
この本にはそうしたラブホテルでの盗撮が採録されているので、ナマの姿がうかがえて興味深いが、それ以上におもしろいのはプロの盗撮師の数々の失敗談で、これがなかなか笑わせる。都内のデパートのレストラン街のトイレで盗撮を行ったところ、次々に美人が出入りするので大いに期待していると、最初に映ったのは野村沙知代のようなオバサン。
「しょうがないなと思いながら次の人に期待したら、このオバサン便秘らしく、いつまでも座っている。テープを早送りしてもずーっとそのまま。アレッと思ったらそのオバサンが45分間座っていた。あと誰も映ってない。さっきのオンナのコたちはみんなほかの個室を使ってたんですね。これにはさすがに落ち込みましたよ。マジメ(?)に盗撮している自分がなんでこんな目にあわなきゃならんのかって」
大笑いといえば、近ごろこれだけ笑わせる本はないというのが辰見拓郎『自慰マニュアル[#「自慰マニュアル」はゴシック体]』(データハウス 一四〇〇円)。多くの若者にパソコン・ネットで呼びかけ、どのような方法で、どのような器具を用いて自慰の快楽を得ているか、その創意工夫のほどを投稿するよう頼んだところ多数のオリジナルオナニーの方法が寄せられたので、「日本男子オナリンピック」を開催して、優秀者を選んだというのである。
まず、昔からよく使われたコンニャクなどの食物編から行くと、伸び切ったラーメン、育ち過ぎのオクラ、蓮根、卵の白身、キクラゲ、板カマボコ、チクワ、糸コンニャクなど様々だが、なかで変わっているのが食パン。いろいろなパンをペニスに「試食」させてついに究極のパンを発見する。「食べて美味しくペニスに気持ちいい、最高の食パンなんです。一斤で買ってきた食パンを半分に切ります。半分は僕が食べて、半分はペニスに食べさせます」
次はモノ編。セロテープ、ドラムの振動、水道ホース、掃除機、電動歯ブラシなどは理解できるが、少し変わっているのは二槽式洗濯機の蓋の振動を利用するというもの。「洗濯槽の微妙な揺れと、脱水槽のガタガタした揺れが交じって何ともセクシーな振動がペニスに伝わるんです」
しかし、圧倒的にすさまじいのは動物編と昆虫編。父親が大切にしていた一千万円の錦鯉にフェラチオさせて殺してしまった少年。イナゴを詰めた袋にペニスを差し込んで昇天した会社員は、次に亀頭を藪蚊に刺させてかゆみと痛みの中で悶絶する。聞くだに恐ろしいのは、ペットボトルの中に蟻を入れて試したコピーライターである。「亀頭に群がる蟻たちはザワザワとして、言葉では表現できない、何とも言えない快感を与えてくれるんです」。いやー、ここまでやればご立派と言うしかない。
もっとも、中にはこうした事物では満足できないというマニアもいる。どうするかというと、自分の体を使うのである。一人の自分に風俗嬢を演じさせ、もう一人がこれを楽しむという「一人風俗」がそれだ。説明するのが大変なので本を直接読んでもらいたいのだが、もしこれを究極まで推し進めていけば、シュルレアリストのピエール・モリニエの芸術になる。
シュルレアリストといえば、ハンス・ベルメールのような人形作りが多かったが、本書のオナニストの中にもマイドールの製作に挑戦したものもいる。これは作り方が紹介されているから、興味ある方は一度お試しあれ。その他、野外で女性を見ながら自慰するためのオナマシンの創意工夫もいろいろと図解されている。それにしても、ここまでくると、男というのは自慰する動物だと結論したくなってくる。ゴクロウサマでした。
それでは、女には、こうしたヘンテコリンな情熱はないのかと、本屋の棚を探ったのだが、どうもいい資料が見つからない。そこで女性のファンタスム研究になるかもという期待から、『レディースコミック愛の世界[#「レディースコミック愛の世界」はゴシック体]』(宝島社 五五二円)を買ってみた。矢萩貴子、渡辺やよい、堀戸けい、石川恵子、松久晶といったレディース・コミック界の巨匠のアンソロジーなのだが、これを見る限りでは、男より女のほうが視覚面でも圧倒的に性交至上主義のようだ。とにかく、レディース・コミックでは、男の変態のように、マニアの度合いが進むと、限りなく性交から遠ざかってゆくという傾向は皆無である。レディース・コミックやレディース・マガジンに、笑いが生まれないのもそのためなのだろう。
だが即断は禁物である。今後、レディースのほうも独自の進化を見せるかもしれない。なにしろ、こんなジャンルがあるのは世界広しといえども日本だけなのだから。
[#改ページ]
コーンフレークは性欲を鎮める?
ほとんどのセックスは相手があるから、場合によっては、犯罪になったり、社会的糾弾の的になることもある。ところが、マスタベーションは自分だけで完結するので、誰にも害を与えない。ゆえに、他人からとやかくいわれる筋合いはなさそうなものだが、実際はこれほど害毒が喧伝されてきた性行為はない。もちろん、いまでは害はなしということに落ち着いているが、我々が高校生だった時代まではマスタベーションをするとバカになって大学に受からないとか、発狂するなどとまことしやかにささやかれたものである。
ところで、なにものにも歴史があるように、マスタベーション論にも歴史があり、これを調べていくと、ある種の社会的想像力のようなものが見えてくる。石川弘義『マスタベーションの歴史[#「マスタベーションの歴史」はゴシック体]』(作品社 二二〇〇円)は、マスタベーション害悪論の歴史をあとづけた意欲作である。
マスタベーションがオナニーと呼ばれるのは、旧約聖書でユダの子オナンが、未亡人となった兄嫁との性交のさい「地に流していた」ことにちなむ。事実は中絶性交だが、転じて手淫の意味となる。
著者はミシガン大学図書館でマスタベーション論の古典である十八世紀のスイス人医師ティソの『オナニスム』と出会い、そこから溯って『オナニア』という奇書に突き当たる。
『オナニア』が興味深いのは一種の通信販売の前口上であることだ。すなわち、『オナニア』は、さんざん、マスタベーションの道徳的、肉体的、精神的な害悪を列挙し、読者の不安を煽っておいて、最後に精気増強剤と強壮剤を勧める文章で締めくくられているのだ。「世界で最初の本格的なマスタベーション論が、じつはこんな仕掛けの上に乗っていたということ。これはまことに面白い事実ではないか。不安産業的戦略ともいえよう」
では、この『オナニア』を「神学と道徳の教義のきわめて幼稚なごちゃ混ぜ」と批判したティソの『オナニスム』の意図はというと、こちらは、マスタベーションの害悪を「医学的」に証明しようとすることにある。その基本は「精液=エネルギー」論で、思春期にこのエネルギーを放出しすぎると、ありとあらゆる病気を招くというのである。
ここで重要なのは、なぜこの時期に、マスタベーション害悪論がにわかに浮上したのかということだ。一つは、病気、とりわけ精神病が悪魔憑きや魔法によるものであるという考えが捨てられ、肉体的障害に原因が求められた結果、マスタベーションが犯人としてあげられたとするもの。もう一つは、ルソーと一脈通ずる文明害悪説。つまり、文明の進歩がストレスを生み、マスタベーションとして現れたとする「マスタベーション=文明病」説にティソは立っていたと考えるのである。
しかし、著者は、これらを踏まえた上で、もう一つの可能性を示唆する。それは、他人の行為を害悪と決めつけ脅すこと自体を楽しむ「ティソ=サディスト説」である。「ティソというと、真面目な医学的脅しの専門家というイメージが強いのだが、実はこの脅しの裏には、それをひそかに楽しんでいるもう一人の顔があったということではないのか」
この密かな楽しみは十九世紀に入ると、たちまち世界中に伝染する。いたるところでおどろおどろしい害悪論が書かれる。イギリスのアクトンやフランスのラルマン、アメリカのラッシュなどがマスタベーションは発狂を招くと脅し、マスタベーション防止のいとも珍奇なる療法や器具が発明される。男性版の貞操帯のような防止ベルト、夢精防止のための爪つきリング。これをはめて寝ると、勃起したとき鋭い爪が食い込む(あな恐ろしや)。
だが、それよりも興味深いのは、邪《よこし》まな想像力が働かないようにする食餌療法が様々に考え出されたことだろう。たとえば、アメリカのグレアムが開発したフスマを除かない全粒粉。これはグレアム・パウダー、グレアム・クラッカーの名で今日まで残っている。
もう一人のアンチ・マスタベーション食品の開発者はというと、なんと、こちらは今ではシリアル食品の代名詞となっているケロッグである。ケロッグは「性器をはたらかせることに伴う神経のショックは、神経系に非常に大きな影響を及ぼす」との信念に基づいて、シリアルを薄いフレークにした健康食品コーンフレークを発明したのである。これは性欲を鎮め、マスタベーションを防止する働きがあると信じられ、たちまち全米の家庭に普及した。
こうしたマスタベーション害悪論は、十九世紀の末、一人の性科学者の手によって集大成され、決定的な影響を与えるようになる。日本でも名高いクラフト・エービングである。クラフト・エービングはものすごい異常性欲の例を九十二もあげ、そのうちの四十七がマスタベーションと関係すると断定した。その論拠は次のようなものだ。「クラフト・エービングにとっては、(1)彼の患者は病気である、(2)彼らはマスタベーションをした、(3)したがってマスタベーションは病気の原因であり、それは不道徳なものなのだ。このように彼は考えたにちがいない、というのが、ヴァン・デン・ハーグの見方なのだが、このような単純な論理は、多くの読者にとって、とても気持ちのいい断定であったと思われる」
この影響がじつに大きく、我々の世代まで尾を引いたのである。エービングの影響を覆すに最初にあずかって力あったのがイギリスのハヴェロック・エリス。「最近の権威者は、事実、マスタベーションを精神異常の原因として受け付けないことでは、ほとんど意見が一致している」。いっぽう、ハヴェロック・エリスのライバルであるフロイトはというと、こちらは意外や、マスタベーション有害説に立っていた。フロイト派でマスタベーション無害論を展開したのはシュテーケルで、シュテーケルはマスタベーションの危険は無知な医者の想像力の中にだけ存在すると喝破した。
しかしそれ以後もマスタベーション有害論は根強く、これが害悪ではないと断定され、マスターズをはじめとするセクソロジストからむしろ積極的に容認されるにいたるには、一九七〇年代の性革命を待たなければならない。
オナンの受難から数えればほぼ三千年。人間はなんと長きにわたっていらぬ罪悪感を抱いてきたことだろうか!
[#改ページ]
繁殖から遠く離れて
男と女。それは生殖のために交尾する雄と雌ではない。だが、この男と女、生殖とセックスとの関係の本質はなにかというと、これがいまだによくわからない。ならば、この際「男と女、生殖とセックス」との関係を動物の生態を観察するように観察してやれ、というのが、アニマル・ウォッチングの権威デズモンド・モリスの『セックス ウォッチング[#「セックス ウォッチング」はゴシック体]』(日高敏隆監修・羽田節子訳 小学館 三八〇〇円)である。
動物行動学者であるモリスがなによりも強調するのは、雌雄から男女への変化は、狩猟と採取という原始的労働分担によって生まれたという考えである。男が筋肉隆々で、モノ作りがうまく、大胆なのはハンターとして適しているからで、また女が体脂肪が多く、言葉を早く覚え、慎重なのは採取と出産と子育てに適応するためだという。ただし、これらは「異なるが等しい」生物学的性差であり、それが文化的性差《ジェンダー》に変わるのは人間が文明生活に入ってからである。ここまでは我々にもわかる。
モリスの面白いところは、ジェンダーだと思われている性差がじつはちゃんと生物学的な根拠をもっていると説明している点である。たとえば、男が若くてグラマーで肌のすべすべした女を選ぶのも、女が肩幅の広い、敏捷で元気のいい男を選ぶのも、それらの条件がすべて「繁殖に適している」というところから生まれる。また、年とった女が化粧や美容整形で自分を若く見せたがったり、逆に小さな女の子が化粧をしたがるのは、二十一歳の自分、つまり最も繁殖に適した年齢に見せようとする女の本能なのである。さらに、男にとって女の理想のウェストとヒップの割合は0・7だが、この0・7こそは、女が二十一歳のときに最も近づく数値であり、しかも、最も妊娠しやすい体型の割合なのだそうだ。このように、我々が異性の美の基準と認識している特徴は繁殖を目指した本能からみちびき出されたものにすぎないことが多いのだ。
ところで、現代における最大の問題はこうした繁殖への遺伝子プログラムが変化しないにもかかわらず、社会の変化で、女性が出産の義務なしの性的自由と労働の権利を得たことである。なぜなら女性がいくらセックスと妊娠は別と頭では考えても、繁殖への遺伝子プログラムは生きているため、心の中には「母親の衝動が今なお根強く生きている」。ところが「たいていの仕事は、たった一人のこどもを産むこととですら両立しない」。生殖とセックスが切り離された影響はこれからますます大きくなるだろう。
モリスは現代の地球の「男と女、生殖とセックス」を同時代的に観察したが、これを歴史的に見ようとしたのがトマス・ラカー『セックスの発明──性差の観念史と解剖学のアポリア[#「セックスの発明──性差の観念史と解剖学のアポリア」はゴシック体]』(高井宏子・細谷等訳 工作舎 四八〇〇円)である。
ラカーは、ペニスやヴァギナすらも時代によって異なった考え方でとらえられてきたと主張する。たとえば、ガレノス以来、西洋では、男と女は同じ性の完成されたモデル(男)と不完全なモデル(女)にすぎないとするワン・セックス・モデルの考え方が主流を占めてきた。「ヴァギナは内側に入ったペニスであり、陰唇は包皮で、子宮は陰嚢、卵巣は睾丸である」と考えられ、女も男と同様にオルガスムで射精し、その物質が混じり合って子供が産まれると見なされた。これは一見、男尊女卑のようだが、女が絶頂に達しない限り子供はできないと考えられていたから、男もそれなりに励んだわけだ。
ところが十八世紀になって、クリトリスの機能が「発見」され、精子と卵子が区別され、ツー・セックス・モデルが確立されると、男女同時絶頂イコール妊娠説は否定され、男だけが射精すれば子供はつくれるということが明らかになる。すると女の快楽はどうでもよくなり、女とは子宮と卵巣のことであると見なされて性欲から遠ざけられ、「女らしさ」の神話を押し付けられる。フェミニズムが断罪するジェンダーはここから生まれたのである。
なるほど、自明の前提のはずの生物学的性差にも多分に文化的フィルターがかかって、時代によっていいように解釈されてきたわけだ。しかし、これがわかったからといって、「男と女、生殖とセックス」の難問に解決の糸口が与えられたわけではない。
ならば、ここはもう一度、個々の体験の分析に立ち戻るほかはないのではないかと手に取ったのが、谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンス[#「潤一郎ラビリンス」はゴシック体]II マゾヒズム小説集[#「マゾヒズム小説集」はゴシック体]』(中公文庫 八三八円)。なぜなら、ここに収録されている谷崎の初期中短編は、文学的には完全なカスだが、自己の性欲の分析例としてはなかなかに見事なものだからである。
周知の通り、谷崎潤一郎は典型的なマゾである。そして、それを文学表現にまで高めることで小説を完成させた人だが、中編「饒太郎」はまだ谷崎が自己の性欲の有り様を突き止めることにしか関心をもっていない時代のもので、それゆえに告白は剥き出しだ。
「彼は文学者として世に立つのに、自分の性癖が少しも妨げにならないばかりか、自分は Masochisten の藝術家として立つより外、此の世に生きる術のない事を悟った」。要するに「饒太郎」はマゾヒスト谷崎の自己形成小説なのである。
ではその自己形成はどのようにして行われたのか? 逆説的なことにまず自ら教育者となることである。「多くの Masochisten は残酷な獣性を具備する婦人に邂逅する事を望んで居るのだが、そのような婦人は実際世の中に存在して居る筈はないので、つまり、成る可く鉄面皮な、利慾の為めにはいかなる行為も辞しないような Prostitute を手なずけた上、自分に対して能う限り残酷な挙動を演じてくれるように金を与えて注文するより外はないのである」
谷崎の自己分析は確かで、マゾヒストの生態がよくわかる。だが、決定的なことがわからない。なぜマゾになるのか? 繁殖をめざすはずの男女のセックスが、文明が進むほど、必然的にそこから逸脱した形態をとるのはなぜなのか? 人口爆発の本能的回避なのか? ならば、中国のような人口爆発国では、少子化のためにSMや同性愛を奨励したほうがいいのではないか? 結局、いくら本を読んでも、「男と女、生殖とセックス」の間の謎は解けぬままである。
[#改ページ]
欲望のためならゲロも食いたい
なにごとも極めれば向こう側に突き抜ける。変態も徹底すればアートになる。かつて、こうしたオブセッショナル・アーティストや小説家が一堂に会していた変態文芸の総合誌が日本にも存在していた。いわずと知れた『奇譚クラブ』である。三島由紀夫、川端康成など錚々たる顔触れが愛読者だったこの『奇譚クラブ』についてはいずれ本格的研究がなされねばならないと考えていたら、ここに来て、ようやくいくつかアンソロジーや関係者へのインタビュー集が現れてきた。
なかでも注目すべきは『秘密の本棚[#「秘密の本棚」はゴシック体]I 縛りと責め─幻の雑誌1953〜1964の記録[#「縛りと責め─幻の雑誌1953〜1964の記録」はゴシック体]』(高倉一編 徳間文庫 九五二円)。編者の高倉一氏は知る人ぞ知る風俗資料館の館長で、SM、フェチ、ポルノ等の雑誌ビデオを収集して好事家の便に供している奇特な人物である。この高倉一氏が、伝説の雑誌『奇譚クラブ』から小説、告白、論文の代表作を選んで集めたのが本書である。
内容からいくと、まず、後の団鬼六が、花巻京太郎というペンネームで「お町の最期」という時代短編を発表しているのが興味を引く。「本誌百号突破記念『懸賞募集原稿』入選作品」とあるから、これが団鬼六のSM処女作のようだ。処女作には作家のすべてがあるという理《ことわり》通り、団鬼六が後に展開するテーマが出揃っている。きっぷがよくて美人の水茶屋の女お町は、盗っ人を捕らえたために、その情婦の恨みを買う。情婦の配下に誘拐された恩人の娘を救い出そうと敵地に単身乗り込んだお町は逆に捕らえられて、男数人によってさんざんに嬲《なぶ》り物にされる。だが、最後までお町は廉恥心を失わず、サディスティックな責めに耐える。それが余計に男たちの欲望を刺激する……こう書いただけで、団鬼六の読者はSM長編『花と蛇』の原型がここにあることを知るだろう。SM作家やアーティストというのは、少なくともそのデビューにおいては、他人を喜ばせるためというよりも自分の欲望に満足を与えるために筆を執っているのである。
SM・変態芸術のおもしろさというのはあげてここにある。すなわち、あくまで自己満足のためのオブセッションの追究であるから、他者の目というものをまったく意識していない。ゆえに、題材をいくら変えても構造は常に同じで、永遠の自己反復となる。この永遠の自己反復こそがSM・変態アートの本質である。逆にいえば、この自己反復性を持っていないものは、本物のSM・変態アートとはいえないのである。
これをよく証明するのが、SMパフォーマー早乙女宏美が斯界のプロたちにインタビューを試みた『性の仕事師たち[#「性の仕事師たち」はゴシック体]』(河出文庫 五四〇円)である。ここには『奇譚クラブ』や初期のSM雑誌で活躍した挿絵画家や縄師、緊縛写真家などがその作品ともども紹介されているが、いずれも自分の欲望の具現化のために努力を惜しまなかった芸術家ばかりである。
中で、これは世界にも類がない究極のオブセッショナル・アートではないかと思われるのが、巨尻女に圧迫責めをされる貧弱M男を描く春川ナミオのM画である。以前から、どういう人が描いているのか興味があったが、春川ナミオとは、一九四七年生まれで、独学で学んだ絵を『奇譚クラブ』に投稿し、それがきっかけとなってM画ひとすじに打ち込んできた男性画家らしい。
この春川ナミオの絵の魅力は女主人の巨大な尻の怪しい光にあるのだが、これはすべて鉛筆一本で効果を出すという。「やっぱり鉛筆が一番面白い。それも、僕は6Bを使う。やわらかい感じが出るんですよ。線を縦と横交互に入れて質感を出す。女の方はていねいにやっていくけど、男の方は荒っぽくやった方が、肌の感じがいいですね」
このほか、鎖につながれて飼育される「おんな犬」ばかりを描く室井亜砂二、ハイパーリアリズムのような精密画で江戸の風景を再現し、その中に縛られた裸女を置く「路地裏の絵師」前田寿安。お化け屋敷に迷い込んだ女学生の図柄にこだわる変態画の第一人者佐伯俊男など、いずれも、オブセッショナル・アートここにありという充実ぶりである。著者の人選の確かさと勘所を押さえたインタビューが光る。文章もうまい。
オブセッショナル・アートといえば、最近の官能小説界で年間十数冊という量産で名をはせる一方、『ケンペーくん』というカルト漫画で人気の睦月影郎が、自らのフェチ的性体験をオナニー日記付きで綴った自伝『哀しき性的少年──ある官能作家の告白[#「哀しき性的少年──ある官能作家の告白」はゴシック体]』(二見書房 一四〇〇円)は、これまた世界でも珍しいほど赤裸々なヰタ・セクスアリスの本である。四歳のとき、友達の美人の母親に「食べられたい」という願望を抱いた「私」は、女性の吐息を吸い込み、唾液や洟《はなみず》を飲み込むことに強く執着する少年に成長する。
「『松原智恵子のゲロ、食べてみたいな』あるとき、私はそう言った。『いくら好きでも、そんなことまでしたくないな』友人はそう答えた。こうした気持ちがわからぬとは、何てつまらん奴だと私は思った」
やがて、フェティシズムの範囲は、尿、便などにも拡大し、さらには下着、衣服、靴などの付属物にも対象が広がる。塾の先生のパンティをなめては興奮し、伯母さんの入っている便所を覗く。オナニーも覚え、「ヌキ狂いの日々」となる。「私は、みなと一緒のときは明るく、一人になると途端にスイッチが切り換わり、目を光らせていた。女子が使った後ですぐトイレに入り、スリッパの温もりや後架の底に沈む白い紙を眺めたり、台所に立って、女子の使ったフォークを舐めたりした。光と影の、二人の自分を使い分けていたのだ」
その反面、純愛にあこがれ、好きな女の子とは口もきけない。二十歳前に包茎手術をしてトルコ(現在のソープ)に通うようになるが、そこでも正常な性行為よりもキスしてもらうほうを好む。姉のような従姉へのフェチ少年の話「蘇芳曼陀羅」を書いてSM雑誌に投稿し、そこから、変態チックな作法を売り物にした新しい官能小説家へと育ってゆく。
現代の官能作家は、川上宗薫や富島健夫など旧世代の官能作家とちがって、欲望をヴァーチャルな形で処理するオナニストが多いことを教えてくれる一冊。「妄想の中では何でもできる。いや、妄想ならではの相手、実際に会うことはない美人女優や歌手、あるいは法に触れるような少女と何をしようと自由だ」。ここにも、向こう側に突き抜けてしまった人がいる。
[#改ページ]
fの探究
一九七〇年代初めに日本を訪れた欧米のジャーナリストが、ピンク・サロンやトルコ風呂(当時の呼称)などの風俗現場を歩いて、もっとも驚いたのは、欧米でオプショナル・サービスとして最も値段の高いフェラチオが日本では最も安く供給されていることだった。それゆえ、彼らは、日本の風俗を天国と信じたのである。
フェラチオに関する異文化ショックをもう一つ。一九八〇年代初め、中国から日本にやってきた研修生たちは、ホテルのアダルト・ビデオでフェラチオ場面を見て、ショックを受けた。日本人はなんて不潔で汚いことを平気でするんだ、というのが彼らの感想だったという。
ことほどさように、女性ないしは男性が口で相手のペニスをくわえるフェラチオという行為は、直接の性行為以上に、異文化間で、その受け取り方が異なり、文化そのものの禁忌事項と重なり合う。
このことを、広く古今東西の文献を集めることで証明してみせたのが、ティエリー・ルゲー『f─口でする─の性愛学[#「f─口でする─の性愛学」はゴシック体]』(吉田春美訳 原書房 二〇〇〇円)。
キリスト教文化圏およびイスラム文化圏で、フェラチオが厳しく禁忌されたのは、子作りのもととなるべき精液が、膣以外のところに放出されることを恐れたからで、オナニー、肛門性交の禁止も、これと同じ理由による。このキリスト教やイスラム教の教えはいまもなお健在であり、アメリカでは、アラバマ州、アリゾナ州、フロリダ州、ジョージア州、マサチューセッツ州など我々のよく知る大きな州の法律で禁じられ、「禁固二〇年から罰金五〇〇〇ドル」までの罰則が定められているという。現実にはアメリカ人の男性の半数以上が日常の夫婦生活でフェラチオを経験しているのだから、彼らはセックスのたびに犯罪者となるわけだ。日本人でこれらの州に旅行する人は、くれぐれも相手にフェラチオを強要しないように。相手が訴えれば最悪二十年の禁固刑ですから。
もちろん、日本をはじめとして、フェラチオというものをまったく禁止していない文化もある。その代表は古代ローマ文化で、異性間、同性間を問わず、フェラチオはさかんに行われたが、それでも不思議なことに、ここにも嫌われている事項があった。ペニスを口に含ませるのはまことに結構なことだが、みずから口に含むのは恥ずべきことと考えられたのである。吸わせるのは能動的で男らしいことだからよいが、吸うのは受動的で女々しいことであるからよくないと見なされたのである。「人々はだれがそうである≠フかうわさしながら一日をすごした」
同じく性に関する禁忌がなかった中国においてフェラチオはどのように扱われていたかというと、これがあまり重視されていなかった。なぜなら、中国の道教的な陰陽説では、男の原理である陽と女の原理である陰を巧みに交換することが健康と長寿の秘訣と考えられ、性交はもっとも確実な健康法であったから、より効率の劣るフェラチオが避けられたのは当然だったのである。
しかし、フェラチオに関するもっとも驚くべき習俗は、モーリス・ゴドリエが観察したニューギニアのサンビア族とバルヤ族のケースである。彼らの間では、精液はあらゆるもののうちで最高のエネルギー源であるゆえ、精液を飲むのはより力の強いものからパワーをもらうことと見なされる。
「儀式を受ける若者は、男たちの家に入るとすぐ、年長者の精液を飲まされる。女よりも大きく強く、女よりも優れた人間に成長させるために、そして女を支配し導くことができるように、精液の摂取は数年にわたって繰り返される」
しかし、反対に、年上の男が年下の男から精液を受けることはおぞましい行為とされ、成人同士のホモセクシュアルは厳しく禁止されていたのである。
さて、話は現代に飛ぶ。キンゼイ・リポート、ハイト・リポートを皮切りに、より完全を目指した様々なセックス・リポートが現れた現代において、フェラチオは男女によって、いかに受け止められているのか?
アメリカのリサーチ・イン協会は、異性愛の男女が好む性行為の統計を取り、それを一位から十位まで男女別に並べてみた。
その結果はというと、男の側では、「フェラチオでオルガスムに達する」というのが堂々第一位、「規則的に間を置いて体位を変えながら性交する」が第二位、「女性と肛門性交をする」が第五位、「基本的なクンニリングスをする」は第九位、第十位は「マスターベーションをする」である。
これに対し、女性のほうはというと、「クリトリスに軽いクンニリングスを受ける」が第一位、「指でクリトリスに軽いマッサージを受ける」が第二位、「男性の上に馬乗りになって行為をする」が第三位であるのに対し、「基本的なフェラチオをする」はドンケツの第十位である。
つまり、男も女も、相手から口で奉仕を受けるのは最高の快楽であるが、自分のほうからするのは、ちっとも面白くないという、はなはだ身勝手な結果が出たのである。
ならば、フェラチオとクンニリングスを同時にすれば、つまりシックスナインをすれば共に楽しめていいのではないかと思うが、意外や、これは上位には食い込めず。男性で第六位、女性で第五位。自分が奉仕するとなると気分も半減するらしい。
ここから、著者が導きだしたフェラチオの性愛学の結論は以下のとおりである。
「ご承知のように、多くの女性はフェラチオをほとんど(というよりまったく)好まない。しかし、いったい何人の男性が認めるだろうか。フェラチオが男性にとって快楽の真髄となるのは、おそらく、自分に力があると仮定して、その力のシンボルを完全に称える行為となっているときであることを」
しかし、女性が快楽を追求するタイプの女性向けポルノにおいてもフェラチオから入るのはどうしたことか? 女も淫乱系はフェラチオが好きなのか? まさか。男が好むことを最初にやってやれば、あとはいかようにも料理可能という計算が働くからにすぎない。フェラチオこそは性の男女非対称性の格好の例なのである。
[#改ページ]
不倫妻はサイバー空間もお手のもの
フランス語では、一切の倫理観に縛られずに積極的にセックスを楽しむようになった女のことを「解放された女」という意味でファム・リベレ、あるいはたんにリベレと呼ぶ。いまこのリベレが世紀末の日本で猛烈な勢いで増殖している。しかし、いかにも神なき国ニッポンらしいのは、そのリベレの増加が精神的な解放運動(要するにウーマン・リブ)を経たあとに起こったのではなく、テクノロジーの発達でもたらされたことである。
一つは携帯電話の普及である。すなわち、携帯がテレクラとレディース・コミックと結びつくことで、女はどんなところにいても自己の欲望を男のそれと直結できることになった。これまでは浮気願望を抱えていても、いきなり男に話しかけることもできず、願望を潜在的なものに止めておくほかなかった女たちが、自分だけが自由に使える通信手段を持つことで、いとも簡単に障害を克服したのである。
このことをかなりリアルな形で教えてくれるのが人妻性風俗調査会編『人妻SEX百科[#「人妻SEX百科」はゴシック体]』(データハウス 一四〇〇円)。テレクラの活用法とか人妻風俗の案内、さらには「妊婦の世界」など、そうとうエグい内容の本だが、第一章「欲求不満の人妻たち」は、いわゆる普通の人妻の「解放」の度合いを垣間見せてくれて興味深い。
たとえば、ライターがテレクラに電話してきた人妻ミキと会話する場面。
「──何かハァハァ言ってるけど、何してるの?」
「ああっ、ゴメンゴメン。今ね、布団を片づけてるんだ」
次いでライターの耳に「ごちそうさまでした」という子供の声が聞こえる。これから子供を保育園に連れていくところなのだという。ミキと名乗った三児の母でもある人妻は、いきなり援助交際を切り出し、二万五千円で交渉が成立。セックスのあと、インタビューを申し込んだライターに、今日は忙しいからと、別の日を指定する。ライターがファミレスで待っていると、現れたのはミキの援助交際仲間だという三十九歳の人妻真理。ミキの子供が中耳炎で病院に駆けつけたので、同じ保育園に子供を通わせている自分が代わりにインタビューを受けにきたのだそうだ。そこに、ミキが駆けつけてくる。
「僕は一瞬凍りついた。/なんと、ミキはインタビュー現場に自分の子供を連れてきたのだった」
恐縮するライターを尻目に、ミキは「全然大丈夫。この子口堅いし、それに、今日は耳聞こえないし」とアッケラカン。ミキは一年前からテレクラと携帯を利用して顧客を百人も作っている。旦那は月収四十万円だからテレクラ売春は道楽だ。罪悪感はまったくない。「私が援交で稼いだお金で子供の服を買ってあげたりとか、習い事させたりとか出来るわけじゃない?」
このようにテレクラ利用の人妻は、どうせならお金をもらったほうがいいと援助交際に行き着くようだが、その反対に、女が金を払うシステムの「女性用風俗」が登場してきて、人気を呼んでいるという。いかにもリベレの時代らしい現象である。システムは女性の指定した場所に派遣男性が出向くという形をとる。派遣料は五千円だが、登録男性はボランティアで取り分はナシ。名付けて「御奉仕会」。場所はシティーホテルが多いが、自宅を指定してくる客もいる。要求はシビアーで、SM希望者もいるようだ。ライターはこうしめくくっている。
「写真指名もできる店舗をもった女性用風俗店ができる日も近いかもしれない」
テクノロジーの進歩といえば、パソコンのEメールで欲望を全開にする女も少なくない。会社でパソコンをいじっているうちにSMのホームページに興味を持ち、ご主人様の命ずる言葉の「お仕置き」に従うようになったM女たちのメールを集めたのが日下部義男『羞恥の館[#「羞恥の館」はゴシック体]I』(双葉社 一五〇〇円)。パソコンのSMなので、ご主人様の命令はどれも「今夜、コートの下に下半身は何もつけずに外に行ってきなさい」とか「マンションの階段でオシッコをしてきなさい」とか「股縄をして過ごしなさい」という羞恥プレイが中心だが、メールをやり取りする女の子たちの反応がそれぞれ違っているのがおもしろい。たとえば「犬になりたければ首輪を買ってきなさい」という命令に「大型犬の首輪でよろしいでしょうか。なにぶん田舎なもんで、SMショップはないと思うのです」と、奴隷の答えにも地域性があらわれているのが笑いを誘う。ポルノ度もなかなかのものだ。
思えば、パソコンのインターネットは身分を一切明かさずにどんな破廉恥な会話も可能にするという意味で、女がひそかに空想している欲望《ファンタスム》を最も容易に解き放つことのできる場所なのかもしれない。これからは、「御奉仕会」ではないが、M女が金を払って、S男を買う時代が到来しそうだ。
ところで、私のような懐疑派はこうした人妻ルポだとかインターネットのSMメールなど男が勝手にデッチあげたガセネタなのではないかとまず疑ってかかるが、どうもそうではないらしい。
そのことは、大宅賞受賞者久田恵が女たちの意識の地滑り的変化を描いた『欲望する女たち 女性誌最前線を行く[#「欲望する女たち 女性誌最前線を行く」はゴシック体]』(文藝春秋 一四七六円)を読むとよくわかる。すなわち、これは現代の女の欲望が露呈している、セックス、ダイエット、出産、受験、カラオケなどの分野の徹底取材を試みたもので信用度は十分だが、この本を鏡にして右にあげた二著を映すと、それらが決してウソはついていないことが明らかになるのだ。その証拠に「大不倫時代がやってきた!」と題した章の久田恵の結論はこうだ。
「『不倫』ツールの携帯電話を中年妻たちまでが手にし始めている今、その使用率が拡大し十分使い切る前にはリタイアはしないだろう」
また「パソコンが家庭をオフィスにする」という章は、OA革命で末端操作に慣れ親しんだOL世代が家庭の主婦となったとき、パソコンを使って彼女たちが欲望を解放することを暗示している。
テクノロジーが人間を解放すると予言したのはサン=シモンだが、そのサン=シモンもまさかテクノロジーがここまで女の欲望を解放するとは予想していなかったにちがいない。二十一世紀の日本のリベレはいったいどこまで行くのか、これだけは誰にも予測不可能だ。
[#改ページ]
セックスは「ごちそう」じゃない
セックスというものに対する社会的タガがはずれてしまった現代で、誰が一番大変な思いをしているかといえば、それはいうまでもなく若い女の子たちだ。セックスが黙っていても外部から与えられるものではなくなり、自分で選び取らなくては「ならない」ものになってきているからである。いいかえれば、かつて大衆が政治で体験した「自由選択権の不自由」を今、彼女たちは性の領域で味わっているわけである。だから、若い女の子たち(というか、表現者に回ったかつての少女たち)による性体験を読むとき、最初に感じるのは選び取る喜びではなく、選ばなければ「ならない」ことへの先験的な疲労感である。
ポスト岡崎京子をうかがう榎本ナリコ『センチメントの季節[#「センチメントの季節」はゴシック体]』(小学館 1・2 各八七六円)は、思春期の少女に訪れるこの性の「自由からの逃走」を巧みに掬いとっている。ここに登場する少女たちは、なしくずし的に訪れてしまったセクシュアル・レボリューションの大洪水のあとの荒地の中で生きていくというしんどさに耐えている。岡崎京子においては、まだ、大洪水以前のチルチル・ミチル的なノン・セックス少女幻想が幸福感のレミニッサンスとしてあった。だが、榎本ナリコにおいては、それすら、すがりつくべき岸辺ではない。
ボーイフレンドと一線を越えることのできない少女は、偶然知り合った男にホテルで「誰でもいいだろ。…セックスするだけなんだからさ…」と言われ、目かくしプレイを強要される。「あたしはまっ暗な闇に向かって脚をひらいた」「暗闇の下のほうから、にぶい痛みがゆっくりとやってきた」。暗闇の中からやってくる痛みは、共同体の規範でもなく自由意志でもない。それは選ばないための選択でしかない。「あとがき」にはこうある。
「私はマセて老成したイヤなガキでした。(……)少年少女の淡い初恋とか初めてのキスはレモン味とか、そういうことを全部すっとばして生きてしまいました。もう大失敗。初恋の相手はいきなりオヤジだったし。とにかく妙に客観的だったことを覚えています。だからよけいに『あの感じ』を記憶しているのでしょう。それゆえに、過ぎた瞬間から少女期は私の憧れでした。それを忘れないという執念は憧れの別名です」
いまや、初体験をどうにかしてやりすごさなければならない少女にとって、思春期《アドレサンス》はただの鬱陶しい経過期間としか感じられていないのである。
それでも、少女たちがこの関門をクリアーしたとき、次に待ち構えているのは、普段の生活の中でセックスとどう折り合いをつけていくか、いいかえれば、結婚というものを前提としない生活の中に、セックスをどのような質で織り込んでゆくかという問題である。夏石鈴子の短編集『バイブを買いに[#「バイブを買いに」はゴシック体]』(リトル・モア 一六〇〇円)は、もはや特権的な瞬間ではなくなったセックスとの距離の取り方に腐心する。
「一緒に暮らし始めた頃、朝ごはんってなんていやらしいんだろうと照れてしまった。(……)でも照れていてもしょうがないって決めてから、わたしはどんどん楽しくなってきた。セックスした人と一緒に、向かい合って朝ごはんを食べる。そしてまたセックスする。セックスが『ごちそう』じゃなくて、普段のことになったのが嬉しくなった」
夏石鈴子にとって、セックスはめくるめく快楽を与えてくれる「ごちそう」ではなく、それを介して伝達される「気持ち」、「気分」なのだ。「気持ちは、おちんちんを伝わって、わたしのハートにたどり着く。そんな風に思うようになったのは、むぅちゃんと暮らすようになってからだ」「わたしは、いくふりなんかしたことがない。だって、いかなくても気持ちいいんだから。いく、いかないは重要じゃない」。だが「いく、いかない」の二元論でしかものを考えない男はそこのところがわからない。「おちんちんを使うということがセックスじゃないのよ。男におちんちんが付いているの。おちんちんに、男が付いているわけじゃないんだから」。ここには、オルガスム至上主義(男の男根至上主義の裏返し)ではない性愛表現の萌芽がたしかにある。今のままの「気分」を失わずに言葉を磨けば、この新人、大化けする可能性もある。
これと反対に、『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険[#「風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険」はゴシック体]』(洋泉社 一六〇〇円/知恵の森文庫 五一四円)の菜摘ひかるは、セックスのプロであると同時に言葉のプロだ。それもそのはず、高校生のときにレズSMのモデルとなって以来、風俗業界のありとあらゆる職業をわたり歩きながら、マンガや文章をジャーナリズムに寄稿し、自己表現の修業を積んで来ているからだ。そのせいか、文章も意識も驚くほどに明晰である。だが、この硬質の文章から伝わってくるのは、やはり、性を持つことのしんどさ、疲労感だ。菜摘ひかるは繰り返す。文筆でも食べていけるのに風俗をやめないのは男を射精に導く仕事に存在する充実感、達成感のためだと。
「自分の努力が収入や周囲の対応に確実に反映する、頑張ったら頑張っただけ大事にされる、最も原始的で厳しくやり甲斐のある仕事。だから面白い。手応えがたまらない。私が『この店』を辞めたいと思うことはあっても、『この仕事』を辞めたいとはなぜか思えない理由はきっとそれだ」
しかし、このプロとしての生きがいの裏には、それで蓋をする以外にない空虚と倦怠が広がっている。それはおそらく、あの思春期に乗り越えなければ「ならなかった」しんどさとつながっている。菜摘ひかるは、自分が風俗に飛び込んだ理由は父親に可愛いと一度も言ってもらえなかったトラウマにあると分析する。だから、初めてヘルスに勤めたとき、客を射精させてやって「ありがとう」という言葉をもらったときは耳を疑い、同時に自分の天職がここにあると悟る。「私にとって、相手がいくのを目の前で見届けるのは、自分がいくよりもなによりも気持ちがいいことなのだ」。職業としてのセックスは思春期に味わったしんどさに耐えるためのスタミナ・ドリンクとして機能しているのである。
二十一世紀の課題が露呈している三冊である。
[#改ページ]
つまりセックスしてくださるのですね
セックスをテーマにして、読者を大笑いさせ、しかるのちに哀切な余韻を残す。イヴリン・ウォーのイギリスならまだしも、ストレートに不幸の実況中継をすることがなによりも受ける日本的風土で、これは最も困難な試みであり、もし成功すれば、それは、奇跡に近い。
姫野カオルコ『不倫《レンタル》[#「不倫《レンタル》」はゴシック体]』(角川文庫 五五二円)は、この不可能な超絶技に挑戦した果敢な小説である。
力石理気子《りきいしりきこ》は派手な外観にもかかわらず、まったく男が寄り付かない三十四歳の高齢処女。その職業はというと、これがSM系のポルノ作家なのである。十九世紀のフランスで『ヴィーナス氏』という変態小説を書いた処女作家ラシルドを思わせるこの設定がおもしろい。
力石理気子は「剃毛」「肛門」「お仕置き」「ひくひくと」「むっちり」「見ないで」などという言葉の順列組み合わせによって日々の糧を得ているが、切実に実体験を願っているにもかかわらず、一度もその機会が訪れたことはない。男友達はいても、「あなたはだいじな友人です。性差を超えて」と友情のエールを送られるだけである。
「≪前よりケツがでかくなったぜ。あぶらがのった。男の味をおぼえたせいだな。/いや、恥ずかしい。じっとお尻を見るのはやめて……≫
こんなふうなことも、ずいぶんと書いたけれど、ほんとうにこんなことがあるのかどうか、私にはわからない。
私はセックスをしたことがない。そもそも『男の味』というのはどういったものなのであろう。辛いのか甘いのか酸いのか」
身の上相談で、男とずるずるとした不倫関係を続けていることを悩む読者の手紙を読むと、ついこんな回答ならぬ質問を発したくなる。
「名古屋市のU・Oさん、どうしたらずるずるヤッてもらえるんでしょうか。ずるずるどころか、まず初回はどのように事を運べば行為に至るのでしょうか」
小説の設定では、理気子に男が寄り付かないのは、アナクロな祖父から武道と大東亜共栄圏的精神をたたき込まれ、男の子のように育てられたためということになっているが、これは、読者を納得させるための「口実」に過ぎない。理気子が「ヤッてもらえない」真の理由、それは、世間一般で流布している恋愛神話、ボーイ・ミーツ・ガール式の恋愛があって、しかるのちにセックスが来るという神話を信ずるだけの通俗性を欠いているためである。
理気子は、つねづね、恋はいらない、セックスがほしいとだけ思っているのである。理気子の理想の男性は「コンセプトが武田久美子みたいな男」つまり「モ×モウに近くて、本を読まなくて、毛深くて……」要するに、いきなり飛びかかってきそうな動物のような男なのだ。
そんな理気子の前に二人の男が現れる。一人は理想のタイプで、パーティでいきなり「よう、いいケツしてるじゃん」と声をかけてきた一九〇センチの野獣。その名がなんと澁澤龍彦。理気子はこの野獣にしびれ、「なに、こいつ。なんてかっこいいこと言うの」と感じるが、なぜか、体が拒否してしまう。
もう一人は理想とは対極のタイプで、文節ごとに「フ」と息を漏らし、おふらんすな言葉を並べて恋愛から入らなければ気がすまない美男子、霞雅樹。霞は「おそらく、あのときふたりが出会えたのは、もはや世界のなかにある三次元の空間ではなく、さながら時空を超越したテクスチュアのようであるとするならば、たがいにもとめあうふたつの意思はよびあうものだという……」といったような、「。」で切れずに「、」が永遠に続くセリフで理気子を口説く。これに対して、理気子は(つまりセックスしてくださるのですね)と、心の中で二十字以内に要約してしまう。
小説のコミックはこの逆転にある。ただ、ヤリたくて、手間暇かけたくないのが女の理気子で、ただヤルということに妙な罪悪感を感じて、恋愛というわけのわからぬものでそれを覆い隠そうとするのが男の霞。
最後、めでたく処女を失い、なんでもいいから回数を重ねて、早く「ずるずるとした関係」に入りたいと思っている理気子に、霞がいう「ぼくはきみのなんなんだ」。理気子はトホホな気持ちで考える。
「『週刊文秋』を出してる会社の出版物に高齢処女と書かれてほそぼそと売文してきた女に、世にいう『妻子ある男性』が質問しないでおくれよ。(……)
(うるさいっ。バイブが悩むな!)
こう言ってのけられたら、どんなに世界は理路整然とするだろう。だが、ボンジュール・トリステス、まぶたを閉じる。
『私は……レンタルでじゅうぶんなの』」
興味深いのは、語り手が、この男女の倒立現象を「大阪万博以前的」「以後的」というエートスの二分法で説明している点である。いわく、大阪万博まで日本人はいかに時間を省くかを競ってきた。セックスもしかり。とりわけ男はそうだった。だが女はちがった。女は時間の節約に反発し、反対の時間の使い方を子供に託した。この母親のエートスが膣の内部で不思議な伝わり方をした。
「膣は出産器官でもあるがセックスの器官でもある。その器官から出てきた同性よりも異性のほうが、膣の持ち主の意識を享受しやすいのではないか。同極反発がない。娘たちは成長とともに母に対抗する。時間を省こうと。かたや息子たちは成長とともに、いかに時間をかせぐかに夢中になる。(……)今までの私の男女交際の失敗は、ターゲットが元・万博少年であることをすっかり忘れて、時間を省こう省こうとする産業革命的父親的態度にあったのだ、きっと」
分析、お見事! こうした逆転した男女の関係は今後ますます増えてゆくのではないか。
ゆえに、これは女性の手になる新しい性愛小説の嚆矢《こうし》として長く記憶さるべき作品なのである。
[#改ページ]
エロティック・アートの極致
かりに、ある人が非常にエロティックな妄想を抱いていたとしよう。そして、その妄想が現実にはありえないようなもので、絵画表現によってしか具現化しえないものだとしよう。この場合、選択肢は基本的に二つしかない。ひとつは、絵画のテクニックを学んでその妄想を自分で絵にしてしまうこと。もうひとつは、抜群の技量を誇る画家に注文を出してこれを描かせることである。
このうち、金さえあれば、後者がいいに決まっている。なぜなら、テクニックのある画家ならどんなありえないイメージも絵の中で実現してくれるからだ。事実、淫蕩な十八世紀と呼ばれたロココ時代の王侯貴族や金満家たちは、ヴァットー、ブーシェ、フラゴナールなど当代の大画家を雇い入れ、おのれの妄想をキャンバスに定着させた。しかし、こうしたロココのエロティック・アートはその後、二世紀にわたって猛威を揮《ふる》った謹厳なブルジョワ道徳によって弾圧され、破棄されたり散逸したりして今日に伝わっていないケースが多い。
田中雅志『エロティック美術館 貴婦人たちの夢想[#「エロティック美術館 貴婦人たちの夢想」はゴシック体]』(河出書房新社 二八〇〇円)は、こうした失われたエロティック絵画を、古書蒐集をはじめとする様々な手段で、みずから復元しようとした試みである。
ロココの妄想絵画の特徴をひとことでいえば、しどけない姿の女性を覗き見する構図を取っていることである。直接の性交描写は優雅でないとして避けられる。題材としては眠る美女、ビデによる身繕い、浣腸、それにブランコなどである。絵画の端のほうには犬やキューピッドが描きこまれていて、見る者に、格好の覗き見の「視点」を提供する。さらにフレーム自体も覗き見的な構造を持つ。「この閨房図にいっそうの趣を添えているのが縦長の楕円形のフレームである。それは、女性のプライベートな行為をあたかも鍵穴から覗き見しているような効果を与えていよう」
ロココのエロティック絵画には、もうひとつの特徴がある。それは、ブーシェのような売れっ子画家に注文が殺到したため、画家はデッサンに頼らず、脳裏にストックされたイメージで描くことを余儀なくされた結果、それが逆に幸いして、女体が一つの理想的なタイプに収斂《しゆうれん》したことである。これがロココの裸体の美しさを作り出したのだ。
また、これらの作品は、それまでの絵画のように神話や聖書に題材をとっていないが、それは、鑑賞者が注文主とイコールであるため、そうしたカムフラージュを必要としていなかったからである。この要素がフラゴナールをして歴史画から風俗画に向かわせるきっかけになったというのだから、おもしろい。
ところで、ここで興味深いのは、これと同じような過程が一九七〇年代の日本でも観察されたことである。といっても、この時代のパトロンは、金持ちの王侯貴族ではなく妄想する大衆であった。一九七三年に創刊された『漫画エロトピア』を中心とするいわゆるエロ劇画は、一人の金満家が金を提供するのでなく、何十万人という大衆が百数十円を負担することで、おのれの妄想を漫画家に託したものと見ることができる。
山田裕二+増子真二編『エロマンガ・マニアックス[#「エロマンガ・マニアックス」はゴシック体]』(太田出版 一五〇〇円)は、今では歴史の闇の中に消えてしまったこの昭和のヴァットー、ブーシェ、フラゴナールたる榊《さかき》まさる、上村一夫、安部慎一などのエロ劇画家たちの幻の作品を採録したものである。なかで、編者たちが熱い眼差しを注いでいるのは、エロ劇画のスタイルを築いたパイオニアとされながら、八〇年代初頭に筆を断ち、今では杳《よう》として行方の知れない天才劇画家榊まさるである。
榊まさるは、貞淑な貴婦人が淫猥な夢想にふけって、むくつけき男どもに凌辱される夢を見るというパターンの劇画を『エロトピア』に無数に描きつづけ、寺山修司もその才能を高く買っていたが、なにを隠そう、この私も榊まさるの大ファンで、「榊まさるは世界的水準のエロティック・アーティストだ」と固く信じて、その作品集『愛と夢』をせっせと買い集めていた。しかも、いずれ榊まさるが忘却の淵から救いだされる時がくることを信じて、この二十年間、数度の引っ越しにも耐えて『愛と夢』の三巻から八巻までを保存しているのである。いま改めて榊まさるの絵を眺めてみると、禁忌が完全になくなった現代の成人マンガなどよりもはるかに扇情的である。特に同じ妄想を何度も描いたために「一つの理想的なタイプに収斂した」お尻の描写は見事というほかない。若い編者二人はリアルタイムでは榊まさるを知らず、後に発見して驚愕したようだが、たしかに彼らが言うように「その実力は、このまま埋もれるには惜しいものがある」。ともに祈ろう「蘇れ、榊まさる」と。
榊まさるは、このように七〇年代後半のヴァットー、ブーシェであるわけだが、おそらく自身でも妄想を絵にすることに執着していたことはまちがいない。つまり「絵画のテクニックを学んで自分で絵にする」という選択肢の(1)を選んだのだろう。
しかし映像テクノロジーの発達した現代では、妄想をイメージ化するために、絵画に頼る必要はない。写真という手段がある。
この手段を選んだのがエロティック・アート評論の第一人者である伴田良輔である。写真集『EROVOGUE[#「EROVOGUE」はゴシック体]』(新潮社 三二〇〇円)の際立った特徴は、エロティックな妄想が先にあり、それが顕在化を求めて写真となってあらわれたという点にある。そのため、スレンダー・タイプで乳房の大きいモデルに対する視線が、プロカメラマンにないようなエロスをたっぷりと含んでいる。写真に添えられたファンタスム丸出しの文章がそれを証明している。とくに、水野はるきと濱田のり子がいい。
では伴田良輔がこれらのモデルを媒介にして表現しようとする妄想とはなにかといえば、彼が惑溺していた欧米のボンデージ・アートのバタくさいエロティシズムである。どのモデルにも、全裸に犬の首輪ひとつの姿を求めるのは、これが欧米のボンデージ・アートの「制服」だからである。ちなみに、この首輪のエロティシズムは『007危機一発』のダニエラ・ビアンキあたりから来ているとにらんだが、少し古すぎるだろうか?
[#改ページ]
ブラジャーとコルセットの無意識
聞くところによるとメスの乳房が常時ふくらんでいるのは、哺乳類の中でも、人間だけだそうだが、そのふくらんだ乳房に対する人類の反応はまことに複雑なものがあり、それを覆い隠すか、あるいは見せびらかすかで、文化の成熟度が測れることすらある。ただ、隠蔽するにしろ強調するにしろ、それには、乳房のために特別に考案された下着というものが必要である。ゆえに、その特別な下着の変遷を見れば、乳房そのものに対する人類のオブセッションも明らかになってくる。ベアトリス・フォンタネル『図説 ドレスの下の歴史[#「図説 ドレスの下の歴史」はゴシック体]』(吉田春美訳 原書房 二八〇〇円)は、この乳房のための下着、すなわちコルセットとブラジャーに関するモノグラフィーである。
フォンタネルによると、およそ、文化や文明と名のつくものは、乳房に対して敵対的なものと好意的なものがあるらしい。古代のクレタ文明は、出土した地母神の像からすると、あきらかに後者だ。なぜなら「紀元前二千年紀の初めにクレタ島の女性は、乳房の下でバストを支えるコルセットをつけ、乳房をむき出しにして堂々と人目にさらしていた」からである。たしかに収録されている図で見る限り、このクレタの地母神は、現代のSM女王のボンデージ・ルックに近く、大きく飛び出た乳房をこれ見よがしにさらしている。エジプトでも身分の高い女性は乳房をむき出しにしていた。
ところが、これがギリシャ文化になると、乳房は覆い隠すべきものとなり、ブラジャーの原型のようなものが登場する。「ギリシアでは胸を強調するなどもってのほかで、乳房はきちんと抑《ママ》え、歩いているときぶらぶら揺れるのを見られないようにしていた。ギリシア人が美と調和を熱心に求めたことから、このような羞恥心が生まれたと考えられている」
この乳房敵視は、そのままローマ文化に受け継がれた。ローマでは大きすぎる乳房を押さえ付ける布や薬が発明された。セックスのときも、乳房を見せることは、尻をさらすことよりもはるかに大きなタブーだった。
こうしたギリシャ・ローマの乳房敵視は、ゲルマン民族の侵入によって西ローマ帝国が滅亡するとともに消滅した。ゲルマン民族は乳房をさらすことはなかったが、押さえ付けることもなかったからである。
乳房を押さえ付けることが再びはやり出したのは、体のラインを見せる衣服が流行した中世ゴシックの時代からである。
ところが、ペストと戦乱で人口が激減した十五世紀に入ると、聖母マリアとして描かれた王妃や愛妾を見ればわかるように、堅い布地で乳房の下半分を支えながら、上半分を露出するデコルテが大流行する。「婦人服は上半身をぴったりとおおい、ウエストで細くなって、引き裾が長くのび、身をかがめても足首やふくらはぎが見えることはなくなった。しかしその理屈からいえば奇妙なことに、そのころ襟ぐりはますます深くなっていった」。つまり、下半身がすっぽりと覆われれば覆われるだけ、上半身、とくに乳房の露出は大きくなっていったのである。
こうした乳房の露出に対して、謹厳な聖職者たちは当然、激しい非難を浴びせた。しかし、聖職者がいくら論難しても、貴婦人たちが襟ぐりの大きくあいた衣装で教会に来るのを防ぐことはできなかった。神父の中には破廉恥なデコルテの女性を見つけると、祭壇の後ろで尻をたたかせた者もいるというが、それでも効果はなかった。
この乳房露出の傾向はルネッサンスの期間に一時すたれるが、十七世紀になると再び大流行し、厳格な道徳観の持ち主だったルイ十三世は、宮廷の貴婦人のデコルテの大胆さに我慢できなくなり、「そのひとりのあらわな胸元に一口のワインを吐きかけたという」
このように乳房がデコルテで大きく露出されると、その丸みを強調するには、胴体の部分をきつく絞らなければならなくなる。コルセットである。コルセットは初め、布地に縫い付けられた張り骨というものによって支えられていた。この張り骨は、木や象牙、あるいは銀の薄板などでつくられていたが、十八世紀になると、より弾力性のある鯨のひげに変わる。この時代に捕鯨が盛んになるのは、この鯨ひげの消費量が急増したからだという。
この鯨ひげ入りのコルセットが登場すると、女性の胴はますますきつく締め付けられるようになる。この傾向は、一時的な中断はあっても、二十世紀まで続く。だが、なぜ、病気や奇形の危険性があっても、女性はコルセットで肉体をさいなみ続けたのか?
「おそらく、コルセットが第一に身分の高いしるしとなっていたからであろう。コルセットは支配階級の威光を示すものだった。肉体労働をするには、コルセットは絶対的な障害になったからである」
では、いつコルセットが廃れ、ブラジャーが登場したのか? 一八八九年のパリ万博にアルゼンチン出身のマダム・カドルはコルスレ・ゴルジュという一種のブラジャーを出品した。これは下から乳房を支えるコルセットとは逆に、肩にかけた紐で乳房を吊りあげるというものだった。
しかし、それでもまだ女性はコルセットにこだわり続けた。コルセットから女性が解放されるのは、第一次世界大戦を待たなければならない。女性が働く必要が生まれ、ギャルソンヌ風という、平らな胸の男の子っぽいスタイルが流行したのである。一九二〇年代には、「彼女たちは、古代ローマの女性が使っていたものに近い、胸を平らにする特別なブラジャー、ブラシエールをつけていた」
ところが、第二次世界大戦後は、一転して砲弾型の乳房がもてはやされるようになる。飢餓に瀕した人類の無意識の反映だろうか。それにともなって、ブラジャー業界は人工繊維、ゴム、それに渦巻きステッチなどの導入によって、砲弾型の乳房を強調するブラジャーを開発し、この無意識に応える。以後、時代の無意識とともに、ブラジャーは進化し続けることになるのである。
コルセットとブラジャーを見れば、時代の無意識がわかる。そんな本である。
[#改ページ]
「女男男」がお江戸でござる
いまや我がニッポン国のタブーはすべて消え去り、性の文化は爛熟の気配を見せている。神なき国のセックスの行く末は予言者にも予想がつきそうもない。だが、本当にそうなのだろうか? 現代の爛熟は前代未聞、空前絶後のものなのだろうか? この問いに対して、真っ先に「とんでもない」という答えを返してくるのが江戸文化の研究家たちだ。彼らにいわせれば、日本が石部金吉の国になったのは、たかだか明治以後の百数十年にすぎず、江戸時代までは、セックスこそ人生の喜びと考える快楽主義の国だったということになる。しかも、ごくまっとうな人たちもそうだったのである。
氏家幹人『江戸の性風俗 笑いと情死のエロス[#「江戸の性風俗 笑いと情死のエロス」はゴシック体]』(講談社現代新書 七〇〇円)は江戸時代の書簡、日記などの私的文書の解読から進んで、武家階級の性道徳がきわめて大らかなものだったことを明らかにしている。全編の柱に据えられているのは、幕末の名奉行|川路聖謨《かわじとしあきら》。清廉潔白な人格者として知られる川路は江戸に残してきた生母に日記風手紙をこまめに書いたが、それを見ると、川路がセックスに関する話題を頻繁に取りあげているのが目につく。裁判で立ち会った情痴沙汰、部下たちの猥談などから、みずからの性生活や性交回数まであけすけに報告している。母も母でその手紙にかなり猥雑な表現で返事を書いている。ではこの母子は特殊な関係にあったかというと、さにあらず。母は貧しいながらも息子たちを立派に育てあげた典型的な良妻賢母。「にもかかわらず、息子がこれらの話を日記に書いて送ってくるのを心から喜んでいた様子なのです」。しかも、他家から嫁いだ川路の妻もそれを嫌がるどころか、性的な話題にいささかもたじろいでいない。とすると結論はこうなる。
「旗本の家庭においては、今日私たちが想像できないほど、性的な会話や猥談が豊富にやりとりされていたのです。武士の家庭というと、私たちはどうしても謹厳剛直な雰囲気を思い描くきらいがありますが、そんな印象の多くは、現状批判の具や懐古趣味として武士道が実態以上に礼賛されるようになった近代以降の所産ではないでしょうか」
その大らかさの一例として、著者は武家の家庭ではしばしば春本や春画が贈り物としてやり取りされたことをあげているが、では、なぜそれほどに春本、春画が喜ばれていたかというと、中国の性医学の影響で、セックスが健康の秘訣、すなわち「房中補益《ぼうちゆうほえき》の術」と見なされていたためである。とりわけ老人の健康にとってはセックスは大切とされたが、最も効果的なのは寒さ厳しいおりなどに「『肉屏《にくへい》』といって若くて肥えた女中を左右に添い寝させる」ことだという。なるほどこれなら絶対に「健康にいい」にちがいない。私も冷え性なので、できるものなら実行したいものである。
このように、江戸の性文化の特徴はセックスを健康法ととらえて、これに励むことこそ善なりという考え方があったことだが、それがよくあらわれているのが江戸時代にたくさん書かれたハウ・ツー・セックスものである。この面での日本人の徹底性を知るには、蕣露庵主人『江戸の色道指南書の系譜─凄絶なる性愛文化を探る─[#「江戸の色道指南書の系譜─凄絶なる性愛文化を探る─」はゴシック体]』(葉文館出版 一八〇〇円)がいい。色道指南書の目的はひとえに、いかに女を悦ばせながら、自分の射精をコントロールして腎虚(射精過多による疲れ)を防ぐかにある。例えば『好色旅枕』では、前技をたっぷりとほどこして、女が「目には涙を浮かべ、口に涎を流し、手足をもがき、涕《はな》すすり、早く行へかしと言はぬばかりに、男にひしひしと抱き付き、身を悶え」るような状態にしてから、「なるほど柔らかに、玉茎の半ば浅く差し込み、九度突くべし。女悦び、脅え上がる事、冬の夜に水を注ぐが如くにして、深く入れよ、と腰を持ち上げ、両の足を男の腰へ打ち掛け、もがく時、根元まで深く差し込み、三度突くべし。これを九浅三深と言ふなり」。これを繰り返せば、必ずアクメに達するから、「女いつまでも忘るる事無く、縁深く、夫婦仲良く、比翼の契りとなるが故に、比翼軒と額にしるす」
では、腎虚を防ぐにはどうするかというと、こちらは「すでに行かんとする時に身を伸べて、左の手の人差指にて、睾丸《きん》の根を押さへ、両足《りようそく》の親指をなるほど強く反らし、十度重ねて、息をつくべし。行きかかりたる淫精も、そのまま止まるもの也」。これはまた、ずいぶんと実践的な方法ではないか。また射精するにしても秘訣があり「洩らす時、浅く抜き、一二寸の間遊ばせて、目を塞ぎ背骨を少し屈めて、肩を窄《すぼ》め、口を閉じて洩らせば、一入《ひとしお》心地よくして、精汁の洩るるは、十分の一つにも及ばぬほど少なき故、男の五体くたびるる事無く、一夜に十度も行なはるるもの也」。この秘術をマスターすればあなたはもうバイアグラいらずである。
ところで、江戸の性文化のもう一つの特徴は「女色」のほかに「男色」にも同等の重要性を与えていたことである。すなわち、この二つが互いに排除しあうことなく性の文化をかたちづくっていたところに特色があるのだ。この事実をあらためて認識させてくれるのが菱川師宣から溪斎英泉までの男色図を網羅してコメントを加えた早川聞多『浮世絵春画と男色[#「浮世絵春画と男色」はゴシック体]』(河出書房新社 二四〇〇円)である。
図録から察するに、江戸の男色が欧米のホモセクシュアルと決定的に違うのは、女を一人加えた女男男という組み合わせが相当に多いことである。「兄分の男が仰向けになつて後茶臼の若衆の後門に挑み、若衆は座位の形で女性と抱き合ひ前門に挑ませてゐる」
こうした構図が登場してきた背景には、江戸初期には強かった刎頸《ふんけい》の契り的な男色の連帯が平和の訪れとともに薄れ、女色に押され気味になった事実があげられる。つまり、男が戦わなくなると、セックスを介した男色的主従関係が緩み、そこに女色が入り込んできて、やがて男色と女色が選択自由の関係に入ったことがこの女男男図によって象徴されているわけである。
なんという無葛藤の併置性。これだけはまだ世紀末の現代性風俗にもない。
[#改ページ]
売春|しない《ヽヽヽ》理由
書店のフィクションやノンフィクションのコーナーを歩くと、最近とみに、若い女性による性愛小説やセックス体験手記が目につく。しかも、それらは、男の読者を想定したものでなく、初めから女の読者のために作られているのだ。いまや、「女による、女のための、女の性愛文学」が書店で一ジャンルを形成するまでに、性の社会的タガは緩んでいる。
とりあえず、「すばる文学賞」を受賞して芥川賞の候補ともなった安達千夏『あなたがほしい[#「あなたがほしい」はゴシック体]』(集英社 一二〇〇円)をのぞいてみる。
主人公のカナは住宅展示場の営業係で、中年の建築家をセックスパートナーとしているが、それは二人の仲が友人以上には進まないことを前提にしているからで、カナが恋愛感情をともなって欲情している相手は、年下の美術史の女子学生だ。男とのセックスも女とのセックスのシミュレーションとしてしか機能していない。
最初、帯に「率直な共生空間とやすらう性愛関係。優しいポルノグラフィ」とあるので、新しい形の性愛関係を追求した女性ポルノなのだろうと思って読み始めたが、受けた印象はどうもちがう。たしかに「満たされた身体の内部に、声の振動が伝わる。頬を軽く張ってやろうかと思うのを寸前でやめ、膝で立つ。互いを繋ぐものが外れる。所在なさそうに揺れながら」(「いい音」)といった描写は直接的ではある。だが、これまでの女性の手になる性愛描写とはなにかが大きくちがっている。それは、セックスが、物語が上りつめていく中心からはずれたところに置かれていることである。つまり、女性による従来のセックス描写は特権的な瞬間である「ハレ」に属するが、この小説のそれは日常の中の「ケ」のものでしかないということだ。極端にいえば、そこにあるのは、現代の一人の女性の日常を描いていけば、ごく必然的にセックスが登場してこざるをえないという程度の「ふだん着セックス」なのである。ゆえに、そこにはポルノの必須条件である高揚感へと向かうベクトルはない。これがこの「優しいポルノ」(帯)の新しさといえばいえる。
これに対し、モデル、女優、レースクイーン、銀座ホステスなどの職業をへて作家となった室井佑月の短編集『血《あか》い花[#「血《あか》い花」はゴシック体]』(集英社 一四〇〇円)は、セックスを「ハレ」として設定し「なければならない」というような一種の意地が感じられる。安達千夏がセックスを描いても性的強度が薄いのと反対に、室井佑月はセックス描写以外のところでも、性的強度が濃い。換言すれば、室井佑月の小説はどんなときでも「ほてって」いるのだ。
ただ、それは性愛描写がポルノ的だということを意味しない。セックスの描き方はむしろ即物的だ。「彼の知っているあたしは、このおまんこだけだ。温かくて、柔らかくて、いつも腐臭を漂わせながらコウのペニスを欲しがっている。臀《しり》に爪が食いこんできた。合図だ。彼はいつもあたしより早い。だけどあたしは背中を反らせた。どくどく、どくどく、精液が送られてくる。とてもたくさん」。とはいえ、室井佑月の場合も、これまでの女流文学ならセックス描写なしで済ませたものが、いいかえれば、本来なら隠れているものが、社会的な性のタガの緩みで露呈するようになったという印象を受ける。なぜかといえば、性愛だけをテーマとして掘り下げて、新しい「女の性の文学」を作り出そうというところまでは踏み切れていないからである。この意味では室井佑月の小説はセックスへの執着は強くとも、それ以外の「不純物」が多すぎて、ポルノ度は高くない。これは文学評価としては誉め言葉だが、この本としては貶《けな》し言葉である。
このように、「女による女のための女の性愛文学」が成立してくると、交通整理をする係、つまり評論家というものが必要になってくるのだが、その役割を一人で担っているのが藤本由香里である。藤本由香里は最新作『快楽電流[#「快楽電流」はゴシック体]』(河出書房新社 一六〇〇円)の中で、ポルノ小説を披露すると同時に、自分の性体験を核にすえた評論を展開している。あたかも、性を語るにはみずからを露出せずにはいられないというように。
「小さい頃から私は売春婦に憧れていた」。この言葉はじつは、女性の物書きが使う常套句である。つまり、いかにも思わせぶりなコピーを使いながら、話を抽象的レベルのきれいごとにとどめて「私も売春婦の一人」と結ぶのだが、藤本由香里はより大胆に、自己処罰願望につかれていた思春期の自分が売春婦になる可能性が十分にありながら、なぜならなかったのかを率直に語る。さらに、いまでもどんな条件がそろえば売春婦になってもいいか、それを列挙する。「相手が万一変な人だった場合の直接の危険と性病の危険、そして周りにばれる、という危険さえ回避できれば、私にだってなんでそうして悪いのかわからないのだ。職業売春婦でその収入に頼らなければ生活できないのなら、嫌な客にも我慢しなければならないし、精神がすり減っていくこともあるだろう。だが、この人とならまあ寝てもいいかな、という相手を選び、相手がそのお礼にお金をくれるというのなら、どうしてそれを拒否する理由があろう」
では、それにもかかわらず、なぜ売春をしないのか? ひとつには売春は長期的にみれば経済的に割に合わないからだ。しかし、売春が割に合わない最大の理由は「売春が、特に女性にとって、その尊厳を売り渡す行為だと社会的に解釈されている」ことである。つまり、いったん「あいつは売春婦だ」というレッテルを張られたら社会から尊重されなくなるということ。要するに、売春は社会的にリスキーすぎるのである。これが、大部分の女性が売春しない身も蓋もない理由なのだ。
ということは、この最後の社会的タガがはずれたら、女性は誰でも売春婦になってしまうのだろうか? その前段階のタガの緩みで、女性が大胆に性の告白ができるようになったのと同じように。
[#改ページ]
サルだって「ホカホカ」くらいする
この特異な書評欄を引き受けてもうかなりになるが、セックスをテーマにした本を読めば読むほど気になるのは人間にとってセックスとはなにかという根源的な問いである。本来、生殖目的だったセックスが快楽目的のものに変わったとき、どのような変化が生まれたのか? わからないことは多い。榎本知郎『人間の性はどこから来たのか[#「人間の性はどこから来たのか」はゴシック体]』(平凡社 二二三三円)は、サルとヒトの性行動を比較することでヒトのセックスの本質について教えてくれる。
一般に、サルはヒトと異なり生殖のためにだけ交尾すると考えられているが、これはどうもちがうらしい。なぜなら類人猿のメスにもオルガスムが観察され、あきらかに快楽のためのセックスが行われているからである。ヒトと同じように排卵の時期をメスが示さず、年中セックスしているサルもいる。チンパンジーの一種ボノボは、このセックス狂のサルだが、なんと「売春」までする。
「ボノボのメスは、オスの手元の餌が欲しいとき、オスのそばに行ってお尻を差し出して交尾を誘い、交尾をせがむ。オスは単純だから、据え膳を断ったりしない。交尾が終わると、メスは、その餌をひとつ手にしてあたりまえのことであるかのように立ち去るのである」
ベニオナガザルは、オス同士が肛門性交をするし、メス同士でもセックスしてオルガスムに達する。ボノボのメスも「ホカホカ」という人間そっくりのレズビアンテクニックを披露することで有名である。チベットモンキーに至っては、劣位のオスが優位のオスに近づき、お互いに「フェラチオ」し合う。
著者は、こうした生殖行為から離れた性行為は、サルたちがオルガスムという新しい通貨を手にしたときに生まれた一種の社会的な「会話」、新しいコミュニケーションの手法であると考える。たとえば、オス同士のフェラチオは無用のケンカを避けるのに役立つし、「ホカホカ」はメスが別の群に移籍するときの入会儀式の代わりをつとめる。
では、こうした「オルガスムを得たサル」と人間はどこが最も違うのか? 著者は意外にも乳房に注目する。というのもヒト以外のサルではメスでも乳房は平らで、セックスのときにオスが乳房をまさぐるようなことはないからだ。つまり、乳房がオスにとって性的な魅力を持つのはヒトだけなのだ。著者によれば、ヒトは、幼い形のままで大きくなるネオテニー的な性質をもっているため、母親の乳房をまさぐっていた子ザルの心を持ち続け、「母息子関係の変形として愛が生まれた」というわけである。この「愛」が自然の厳しさという条件とあいまって、人間を一夫多妻から一夫一妻へと導いたのではないか、というのが著者の仮説である。
同じく動物行動学者のジャレド・ダイアモンドは『セックスはなぜ楽しいか[#「セックスはなぜ楽しいか」はゴシック体]』(長谷川寿一訳 草思社 一六〇〇円)で、問題を一つ溯って、ヒトのメスが自分の排卵をオスに知らせないばかりか、自身も排卵時期を知らないのはなぜかという最も根本的な問題について徹底的にこだわる。この場合も、人間はネオテニーゆえに子育てが大変で、男の協力なしには不可能だという事実が議論の前提になる。仮説は二つある。一つは「マイホームパパ説」。排卵の隠蔽が進化して、セックスが排卵期と関係なく行われるようになったのは、男を家にとどまらせ、自分の産んだ子供は男の子供だと確信させるためであるという説である。もう一つは「たくさんの父親説」。こちらは、排卵の隠蔽の進化は、女にたくさんの男と交わらせ、その結果、多くの男に子供の父親は自分かもしれないと思わせることから生じたと考える。後者はサル社会でもオスが自分の子供ではない子ザルを殺す現象が起こるのを踏まえたものである。
どちらの説が正しいのか? 結論だけを言うと、じつはどちらも正しいのだ。発生的には後者の「たくさんの父親説」で考えたほうがよい。すなわち、女は排卵を隠すことで多くの男たちに性的恩恵を与え、そのことで子殺しを減らし、男を家にとどまらせるのに成功する。これが第一段階である。しかし、そこからは前者の「マイホームパパ説」を採用すべきであるという。「今度はそれを利用して、優秀な男を選び、誘惑したり脅したりしながら男を家にとどまらせ、自分の産んだ子にたくさんの保護や世話を与えさせた。男は自分がその子の父親であることを知っているから、安心して子育てに励む」
では、今後、科学の発達で妊娠の負担が減少し、子育ての重荷からも女が解放されて、人間のセックス形態についての大前提がなくなったら、未来のセックスはいったいどうなるのか? やはり変わるのは女のほうだろう。なぜなら、妊娠、子育てという負担なしに得られるようになったオルガスムという「新しい通貨」を手にした女は、これによって新型のコミュニケーションを実践するにちがいないからだ。少なくとも婚姻形態は一夫一妻から、多夫一妻、つまり「たくさんの父親説」へと向かうだろう。このことを予感させるのが、『別冊宝島』のようなムック形式の『特集アスペクト63 セックスマニアな女たち フツーの性の最前線[#「特集アスペクト63 セックスマニアな女たち フツーの性の最前線」はゴシック体]』(アスペクト 一二〇〇円)。体裁のケバさにもかかわらず、取材の姿勢は案外まじめだ。「旧来の男性に従う女性の性≠ニいう観念は影を潜め、自ら選ぶ性、男性をリードする女性の性が擡頭しています。/単なるメディアの誇張? それともこれが、本当にすべての女性の性の傾向なのか? こうした性行動や価値観の変化の源には何があるのか?……/本書の取材はそんな動機から始まりました」。聞き込み調査は全国にまたがり約百件。対象は、いわゆるフーゾク関係者ではない学生、OL、主婦など、社会的な役割を果たしている普通の女性。そこから女性の性の最先端を示すものだけを選んで「売る女」「買う女」「貸す女」「借りる女」「あげる女」「貰う女」それに番外編として「影で泣く男」が付く。一読、日本の女性が「たくさんの父親説」を果敢に実行していることが手に取るようにわかる。「けれど」と編者はいう。「一方で彼女たちの性のありようの背景には、彼女たちなりの価値観や哲学があるのです。より奔放な人ほど、より確固としたものがありました」。たしかにそうかもしれない。ヒトがサルから自立したときも、こうした「たくさんの父親説」を率先して実行に移した女たちが大変化の口火を切ったのだから。
[#改ページ]
「性の防波堤」からフーゾクまで
京浜急行で大森海岸駅を通りすぎるとき、いつも不思議に思うのは、周囲に繁華街があるわけでもないのに、なぜこんなところにラブホテルがかたまって存在しているのだろうということだった。
この疑問を解決してくれたのが、広岡敬一『戦後性風俗大系 わが女神たち[#「戦後性風俗大系 わが女神たち」はゴシック体]』(朝日出版社 二四〇〇円)。戦後の性風俗を彩った女性たちを取材した経験を自分で撮影した写真とともに回想した貴重なドキュメントだが、その冒頭に記されているのが大森海岸にあったRAAという施設。Recreation & Amusement Association の略語だろう。日本名は「特殊慰安婦設備協会」。昭和二十年八月十五日の敗戦のすぐあと、米軍が進駐してくるよりも先に政府と警視庁が音頭をとって、花柳界の代表につくらせた進駐軍相手の売春施設である。大和撫子を米兵の強姦から守るための「性の防波堤」として、大蔵省が保証人となり勧業銀行が設備資金を融資し、慰安婦の衣服や百十万ダースのコンドーム等の備品は東京都と警視庁が提供した。いわば、敗戦ニッポンが米軍のために国家総動員でつくった慰安所である。その第一号が、当時花街だった大森海岸の料亭『小町園』。大森海岸が選ばれたのは横浜に進駐するであろう米軍が東京に向かう京浜国道沿いにあったからだ。
連合軍司令部の東京進駐の日程は、九月八日だったが、米兵がジープで『小町園』に乗りつけたのは予定よりも十一日も早い八月二十八日。厚木飛行場の先遣隊がどこからか情報を収集して、独断専行したらしい。
「『五、六人の大男が目をギラギラさせて土足のまま飛び込んできたけど、本当に鬼みたいだった……』メアリーもそのうちの一人に捕まり、小部屋に放り込まれて、布団の上に押し倒された。モンペを破られ、股を押し開かれた。苦痛と恐怖でほとんど失神しそうになりながらも、よその部屋の女たちの悲痛な叫び声を耳にしていた……。嵐は三十分ほどで去った。犯された女たちはお互いに抱き合って泣き崩れ、襲われなかった女たちも震えていた」
そんな悲惨な状況でも仲居はしっかりと米兵から一人百円ずつ集めた。当時の遊郭の相場が五円程度だったから二十倍もふんだくっていた計算である。
次の日から米兵が押し寄せ、慰安婦は一人平均三十人を相手に、「性の荒波」を挺身して防いだのである。このRAAも翌二十一年には「性病の蔓延」を理由にGHQ命令で廃止される。
著者は、昭和二十二年に中国から帰国したからRAAのことは知らなかったが、洋モク(外国煙草)の闇屋をやっているときに、立川で働くメアリーと知り合って打ちあけ話を聞かされる。メアリーは仮祝言だけで出征した夫の帰りを義母と義妹と待っていたが、終戦十日後に新聞に載った「駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性≠フ率先参加を求む」という広告を見て応募。体を売る仕事だと知らされたときは息がとまるほど驚いたが、飢え死にするよりはましだと、働くことを決めたのである。
軍隊時代には写真班員だった著者は、やがて、吉原で流しの写真屋を開業、女給が客にプレゼントするためのポートレートを専門に撮るようになる。この時から風俗の女たちを写した六万点の写真が貴重な時代の証言となる。吉原では、女給たちの信頼を得て「ナカ」つまり売春をする側の人間扱いされ、相談事を持ちかけられたりする。
「ほかの元遊郭も同じだと思うが、ナカ≠ニソト(一般社会の人間)≠フ人別が厳しい世界だ。(……)彼女たちは『世の中が悪いから、私はこんな苦しい世界に放り込まれた』と、社会への怨念にとらわれている」
客でさえもソト≠フ人間で、客を送り出した途端に憎々しげな顔に変わる。
「そして、|気をやる《ヽヽヽヽ》(達する)のは演技だけにとどめ、演技を超えてはならない。もし、本気になったことをほかの花魁に悟られると、『色情狂』と蔑まれて仲間外れとなる。私はこれらのルールを苦界≠フ女性たちの精いっぱいの抵抗≠ニ解釈した」
当時の娼婦のほとんどは戦争で夫を亡くした未亡人だったが、意外に多かったのが米兵に強姦され、この道に入った女性。本牧のチャブ屋(外国人相手の娼館)で知り合ったミツコもその一人。これら終戦直後の娼婦に共通しているのが、米兵ならかまわないが、日本人だと恥ずかしさを感じるという心情である。憂い顔の美人ミツコはこの典型だが、RAA出身のメアリーですら「でもね、日本人とはヤラないの。だって、(夫に=筆者注)なんか悪いみたいな気がするじゃないの」。まだ大和撫子は健在だったのである。
時は移り、昭和三十三年の売春防止法の施行で吉原の遊郭は修学旅行用の旅館に転身を図るがうまく行かず、トルコ風呂(現在のソープ)なる新商売が現れると、一斉にこの業種に転換してゆく。本書にはソープの変遷も詳説されていて、椅子洗い≠発明した吉原のアズマ嬢、泡踊り≠開発した浜田嬢が顔写真入りで載っている。
泡踊り≠ヘ「手振りと足の動きが阿波踊り≠思わせたところから、やがて石鹸の泡と引っかけ、自然発生的にこの名で呼ばれるようになったらしい」
浜田嬢は、泡踊りの開発のおかげで一年で一億四千万円を貯め、自らトルコ経営に乗り出すが、七年後にガス自殺。愛人に女ができたのが原因だという。
「トルコで働いた女は、いくら相手が承知していても、惚れた男にいつも引け目を感じるもの。あの娘は気が強いけど、人がいいから、自棄《やけ》になったついでに身を引いたのよ」とは浜田嬢の同僚だったソープ嬢の話。
この時代までは風俗で働く女には「影」と「負い目」があったが、バブルが到来し風俗がフーゾクに変わると、そんな意識も完全に消えてゆく。
写真には、そのときどきの「女神」たちの内面までが写し出されているようで、感動を誘う。まことに、他に類を見ない超A級の風俗資料である。
[#改ページ]
いまや懐かしい性豪の自慢話
このエロス本の書評も、はや数十回を迎えるが、これまで一度も登場していないジャンルのエロス本というのがある。性豪の女遍歴自慢というやつである。最近は、セックス本の分野に女性の進出著しく、この手の本はもはやありえないのかと思っていたが、どっこい、見事なものが現れました。伝説の安藤組組長安藤昇の『不埒三昧 わが下半身の昭和史[#「不埒三昧 わが下半身の昭和史」はゴシック体]』(祥伝社 一五〇〇円)である。
私の記憶が正しければ、安藤昇には、すでに映画の原作になった自伝のようなものが数冊あるが、それは主に安藤組の抗争史を扱ったもので、「下半身」の自伝は初めてである。
「人生の悲喜交々は──男も女も──元をただせばヘソ下三寸にあると思っている。思春期の恋煩いから結婚、不倫、離婚。わずか十数センチのイチモツを女性の股間に抜き差しするだけで、人生は天国にもなれば地獄にもなる。まったくセックスってやつは、面白くて、そして実に厄介なものじゃないか」
まことにお説ごもっともの述懐で、「六根(目・鼻・耳・舌・身・意)清浄、一根(男根)不清浄」を地でいくかたちで、七歳のときに割れ目に突入を図った幼なじみ六歳の少女から、俳優に転じてから接した女たちまで、印象に残るセックスの思い出が次々に語られていく。
最も早い時期に属するのは川崎中学(現川崎高校)一年のときに便所の窓から真向かいの部屋で着替えをのぞき見たバスガール。最初、裸を見ながらオナニーをしていたが、あるとき銭湯帰りに神社に誘ってついに思いを遂げる。このときの感想がおもしろい。
「妄想を逞しくしてセンズリをかいたバスガールであったが、実際にやってみて感じたのは、センズリのほうがはるかに気持ちがいいということだ。絞め具合、刺激の強弱、イキそうになったらスローダウン……等々、思いのままなのである。『五指にまさる快感なし』このとき悟ったことである」
同じ感想は、横井英樹襲撃で懲役をくらって六年ぶりに出獄した日のセックスについても語られる。
「夢にまで見た女の肌は柔らかく、六年ぶりに嗅ぐ体臭は鼻腔をくすぐった。二度、三度、オレはぞんぶんにセックスを堪能した。いや堪能した|つもりだった《ヽヽヽヽヽヽ》、と言うべきだろう。正直言って、ムショで悶々と妄想していたほどの満足感は得られなかった。女が悪いわけじゃない。あまりに期待が大きすぎたのである。セックスは、いや何事においても、期待のし過ぎは禁物であることを、このとき悟った」
しかし、いかに「悟った」としても、目の前に絶世の美女が現れれば、すぐに然るべきところが反応してしまうのが男の悲しさである。だが、それは男であれば誰でも同じこと。著者が普通の男と異なるのは、いいかえれば性豪たるゆえんは、とにかくいい女だと思ったらためらわずに声をかけることにある。「いい女と見ると、とりあえず声をかけてみるのがナンパのコツで、気取ってて女が引っかかるほど、世のなか甘くはない」
たしかに著者は不良中学生の時代でも大親分になってからも実に小まめに声をかける。すると、女たちは素直についてくるのである。戦後の食糧難の時代に、小田急線の向かい側のホームに若い二人連れの女がいる。「ねえ、どこ行くのー」と声をかけると「箱根行くのォ」という返事。「(オッ、これは脈があるな)と、思ったオレは即座に新宿行きの予定は変更である」。その夜は結局、二人を同時に相手しての獅子奮迅の大活躍となる。
「そこで、片手で愛子のパンツをお尻のほうからクルリと脱がせ、指で股間をいじってやりながら、君枝とキスをするという、オレにとっては曲芸まがいのことをやってみた。(……)やっと一人がイッタと思ったら、もう一人がすっかりできあがってスタンバイしているのだから、こっちは休むヒマもない。あっちの枝から、こっちの枝へと、ホー、ホケキョ。まさに鶯の谷渡り≠ナあった」
典型的な性豪のセックス自慢だが、しかし、これが読んで不愉快なものになっていないのは、著者の根本のところにある女に対する一種の優しさゆえだろう。
「しかし、彼女たちを誘ったのはオレのほうだ。『こっちのほうが面白い』と言って箱根行きを中止させたのだから、それ以上の楽しい思い出をつくってやる責任があろうというものだ」
誘った以上はきっちりと楽しませるという責任感。自分だけ楽しめばいいという身勝手男とはちがうのだ。だから、安藤組時代のある年の大晦日に、いかにも性豪らしく一日に七人の女を全部回ってみようと思い立ったときにも、ついこの責任感が出てしまう。
「だが、このハイペースがまずかった。調子がいいので、ついその気になって、彼女たちを何度もイカせているうちに、一人一時間のつもりが二時間以上になってしまったのである。とっぷり日が暮れた時点で、ようやく三人目が終わったところであった。(……)そして七人目、モデルのG子が白目を剥いて昇天したときは、すでに外は白み始めていた。なんとか完走≠ヘしたものの、セガレはすりむけてヒリヒリするし、腰はふらふら、眼はチカチカ。這うようにしてクルマに乗り込んで帰宅したのである」
いったい、この死にかけるまでセックスするという情熱はどこから来るのか? 「拳銃《ハジキ》を抱くか、女を抱くか」という限界的状況がそうさせたのか、それとも著者の生まれついての本能か? いずれにしても、男にとってのセックスというものの本質を知る上で貴重な証言である。
[#改ページ]
縄が私を抱き締めてくれる
いいS男がいない、とM女が嘆く声が聞こえる。自称サディストのほとんどはSMというものを誤解している。SM雑誌の大半は男たちの勝手な空想の産物だ。こうなったら、自分たちの手で理想のS男を育てるしかない。
はるの若菜と組んで女のスケベを徹底追求し、往復書簡『御開帳』『もっと奥まで』(ともに河出書房新社)を出した早瀬まひるが、さらに羞恥をかなぐり捨ててマゾヒズムの実践をあけすけに告白した『まひるのM日記[#「まひるのM日記」はゴシック体]』(河出書房新社 一三〇〇円)は、M女によるS男育成日記である。
「このあいだ、Rに手紙を渡したでしょ。Rはこう言ったわ。
『SMって、MがSを教育するんだな』
『本にもそう書いてあったよン』
と私。
こんなこと書いたら、Sの人が怒りだしたりしてね……」
ではM女の夢想するSMと、男のSMとはどこがどうちがうのか? まひるさんは考える。
「男向けのポルノは、どぎつくて、不潔っぽくて、女を貶《おとし》めるようなストーリーで、読んでいるととっても神経に障る。なんで男って、こんなものが好きなの? って思っちゃう。ロマンティックなものを、男は軽蔑して嫌っている。(……)
ロマンティックか、ロマンティックじゃないかの相違点ってのは、結局『愛情』のあるなしなんじゃない? 男は、愛情を持つこと自体が女々しくて、男らしくないって思っているのかな。だから、SMプレイを行う動機も、愛情ではないんだろう。それじゃ、何が動機なんだろう? 謎だな……。単なる性欲か? 支配欲か?
たぶん、そうだな(勝手に断定する)。性欲と支配欲なんだ。(……)
SMって言葉は同じでも、女が想うものと男が想うものは、正反対なのかもしれないな。恋愛と一緒だね。男はヤリタイ一心。女は愛されることを夢見ている」
M女にとっては縛られたりぶたれたりすることが同時に愛されていることでなければいけない。あるいはそう感じられるのでなければならない。ここがポイントだ。SM行為がどんなにエスカレートしても、それが愛の表現でなければ快楽はないが、逆に、愛されていると感じられれば、SM行為がエスカレートするほどに快楽も増進する。
「挿入されると、感じますが、感じ方が、何か違うんです。性的快楽というより、彼の思いのままにされているという快楽の方が勝っているんです。惨めな姿勢で好き勝手にされているという快感。私はずっと声を上げていましたが、タオルが次第に濡れてくるのがわかります。抗議の言葉一つ上げられないことを思い知らされ、それがますます、私をMの快楽に押しやるのです」
なるほど、わかりやした。これからは気をつけます。
では、まひるさんがヤリ玉にあげているSM雑誌でほとんどの緊縛を担当している濡木痴夢男氏はどう考えているかというと、これが意外や、ほぼ同じことをいっているのだ。濡木痴夢男『緊縛の美 緊縛の悦楽[#「緊縛の美 緊縛の悦楽」はゴシック体]』(河出文庫 五七〇円)にはこうある。
「プレイとはお互いに余裕のある心から生まれる、つまり『遊び』なのですから、ドラマの中の男と女も、お互いに愛情をもって快楽的に、この遊戯を実行します。そこでやはり、美しく縄をかけることが必要になってくるわけです。(……)
『SMドラマ』の中の男は、縄による拘束テクニックによって、相手の女の肉体に、さらに魅力ある輝きを加え、女体のもつエロチシズムを倍加させて歓喜し、激しく欲情します。この場合は、女性の側にも、その縄を受け入れ、縛られることによって自分自身の中に新たなエロチシズムを生じ、美しくなったと自覚する感覚が必要です」
この相互の愛情とエロティシズムの交換がなく、一方的な暴力によって女の抵抗力を奪うと、男の征服欲は満たされるかもしれないが、そのときには女の表情に拒否と嫌悪が生まれ、単なる「女体いじめ」になって、逆に「緊縛美」は消えうせる。
「私たちが望むものは、あくまでも縛る側と縛られる側の心が同調し、一体化して、エロチシズムの中に陶酔し、快楽を味わいたいというムードです」
しかし、そうなると、濡木氏の追求する緊縛美は、SMを性交への助走としか見なさないSM雑誌とは齟齬をきたすようになり、ストレスがたまってくる。
そこで濡木氏は、同志のカメラマン不二秋夫とともに性交とは関係ない緊縛美をめざす「緊縛美研究会」を発足させ、機関誌『緊美研通信』を発行する。いまから十数年前のことである。本書はいわばそのダイジェストで、写真とともに、やむにやまれぬ衝動から会員となった女性の手記が載っている。とりわけ、近江亜紀という既婚女性の手記は女性の願うSMの本質がわかって興味深い。
「私は、これまでに、縛られたくて、SMクラブと称するところを幾つか当たりましたが、残念ながら、ほとんどのところは、プレイの仕上げは、こちらは希望していないのに、フェラチオや、レイプまがいの事を、必ずしようとするのです」
亜紀さんにとってはSMにセックスは必要ない。ただ、縄で縛られることだけが快楽なのだ。
「SMに関心のない人には、理解し難いことかもしれませんが、私は、人を好きになるというより、縄と、それを自在に操る縄師に恋い焦がれるのです。
男の人の腕に抱かれる代わりに、縄が私を抱き締めてくれるのです。(……)
だから、縄と巧みな責めとがあれば、Mの女性はもうそれで十分満足できるのです。ときどきM女性は、縛ったまま犯してやらないと満足できないんだと思い込んでいる、自称Sの男性がいますが、これは、迷惑なのです」
では、S男がM女の切ない願望をかなえるためにはどのような努力をすればいいのか? 先の早瀬まひるさん曰く、M女のバイブル『O嬢の物語』を読めと。この小説はS男の欲望をそそらないが、M女の理想を語っている。ちなみにポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語[#「O嬢の物語」はゴシック体]』は澁澤龍彦訳で、これまた河出文庫(五六〇円)から出ている。全国のS男諸君、これを読んでSMを勉強したまえ。
[#改ページ]
なんと纏足が××の代わりに!?
十六世紀のルネッサンス期のフランスには「ブラゾン」というなんとも風変わりな詩の形式があった。女性の目、眉、鼻、耳、舌、髪、乳房、腹部、へそ、尻、手、足などの各部位のフェティッシュな魅力をたたえる詩である。とくに多かったのは、乳房のブラゾン、尻のブラゾン、足のブラゾンなどで、これには専門の詩人がいた。
それから四百年以上たった二十世紀末、オタク化傾向が行き着くところまで行き着いた男の欲望は、いまや「全体としての女」よりも、「部分としての女」に向かい、オッパイフェチ、尻フェチ、足フェチなどの「パーツ欲望」がそれぞれに自己の存在を主張して、各パーツの専門エロ雑誌が花盛りである。まさに「ブラゾン」の大流行というほかない。
この傾向を反映してか、文化史や社会史の領域においてもブラゾン的性的パーツ研究が盛んになっている。マリリン・ヤーロム『乳房論 乳房をめぐる欲望の社会史[#「乳房論 乳房をめぐる欲望の社会史」はゴシック体]』(平石律子訳 リブロポート 二九〇〇円)は、女性の性的象徴ともいえる乳房に対する男の欲望の変化を社会史的に位置づけた労作である。
十四世紀初め、トスカナ地方の画家の作品に突然、乳房をあらわにした聖母マリアが幼子イエスに授乳している姿が登場した。幼子イエスを抱く聖母像は二世紀からあったが、授乳像は初めてだった。このマリアの乳房は人々に大きな衝撃を与えた。
だが、なぜこの時期に? 凶作による食糧危機が原因だと著者はいう。よく肥えた幼子イエスが聖母マリアの乳房を吸う姿は食糧危機に脅かされる民衆の慰めとなったのである。
ところが、母性信仰へとつながるこうしたふくよかな乳房は十五世紀に入ると姿を消して、今度は、小さくて張りのある乳房がエロティックな視線の対象となる。上流階級の女性が、乳房は子供より夫のためのものと考えて、母乳による育児を行わなくなり、乳母にわが子を預けるようになったからだ。
「ルネッサンス期の社会には二種類の乳房が存在した。男性の喜びのために存在する小振りな『上流階級』の乳房と、自分の子供たちと裕福な雇い主の子供たちを養う、大きくて、乳の良く出る『下層階級』の乳房である」
王侯貴族は自分たちの愛人の小さくて美しい乳房を自慢するために、マリアやギリシャ神話の女神に扮した彼女たちの肖像を画家に描かせた。
この小さい乳房の流行が数世紀続いた後、フランス大革命から再び大きな乳房が持て囃されるようになる。自分の乳で子供を育てる民衆の母の乳房が共和国の象徴となったからである。「自由の女神は性的な関心ではなく政治的関心を喚起しようと乳房を出している」
このように女性の象徴である乳房は常に政治的・社会的力関係とかかわりをもっているのである。
十九世紀まで乳房よりもはるかに念入りに視線から隠されていた部位がある。足である。ウィリアム・A・ロッシ『エロチックな足 足と靴の文化誌[#「エロチックな足 足と靴の文化誌」はゴシック体]』(山内昶監訳 筑摩書房 三三〇〇円)は、人類の歴史において、靴という隠蔽用具の登場によって、にわかに足がエロティックな対象となった事実を様々な事象から解き明かしている。なかで、圧巻なのは、中国の纏足《てんそく》についての記述である。
金蓮と呼ばれた纏足された足は「究極の性的エクスタシーを生みだす器官として、ワギナそのものと競いあっていた」が、では金蓮のどこがエロティックだったのかというとこれが案外複雑である。まず、纏足とはどうやって作るものなのか? 女の子が幼いうちから、親指を除く四本の指を布で緊縛し、深く折り曲げて甲が弓形になるようにする。こうすると弓形の足の裏に柔らかいくぼみができる。このくぼみが重要なのだ。「この柔らかでふくよかな裂け目の部分は、中国の男性にとって、陰唇に等しいものとされていた。そのうえ、これは、交合前の性愛で男性が普通ワギナの代りに用いてもいた。こうしてワギナの代りに足を使ってペニスを刺激すれば、男女どちらもきわめて強烈な性的興奮を味わえたのである」。男ばかりか女もまた纏足で強烈な性的刺激を得ていたのである。
金蓮が刺激的だったのは、皮膚感覚だけではない。その匂いもまたエロティックだったのである。「夜毎、私は彼女の足の匂いをかいでいます。鼻先をあの匂いのそばによせてゆくと、どんな香水の薫りにもたとえられないよい匂いがします」
肌触りと匂いのほかに、纏足のせいで生じる歩き方と、それによってもたらされる太ももと性器の変化も大切だった。「纏足こそあの部分を集中的に発達させる唯一の方法なのです。その結果、(ワギナの内側の襞《ひだ》が)次々と層をなして発達してきます。(性交のとき)身をもって味わった人々は、ある種の超自然的高揚感を抱くのです」
纏足を非難するヨーロッパでも、じつは、この纏足と似たような装置が開発されている。ハイヒールである。ハイヒールをはいた足と纏足をレントゲンにとるとほとんど同じ骨格になっているのだ。
ところで、人類が直立姿勢で歩けるように足が進化したとき、大きく変わったのは臀部である。サルは尻が突き出ていない。ハイヒールが出現するとこの傾向はさらに強まる。
「ハイヒールをはくとお尻がぐっと突き出るだけではなく、素足や平らな靴をはいて歩いているばあいより、少なくとも臀部が二倍は自由に動くようになる」
では、尻についての文化史はないかと探したが、こちらは、乳房や足に比せられるほどの包括的かつ刺激的なモノグラフィーがない。山田五郎『百万人のお尻学[#「百万人のお尻学」はゴシック体]』(講談社 一五五三円)にしても、ジャン=リュック・エニッグ『お尻のエスプリ 華麗なるヒップの物語[#「お尻のエスプリ 華麗なるヒップの物語」はゴシック体]』(江下雅之・山本淑子訳 リブロス 二二〇〇円)にしてもいまひとつ食い足りない。むしろ、症例研究としてはマドンナメイト文庫の『巨尻の快楽 禁じられた投稿[#「巨尻の快楽 禁じられた投稿」はゴシック体]』(二見書房 四九五円)のほうが尻フェチの投稿で構成されている分、興味をそそる。
いずれにしても、時代はますます「ブラゾン」に向かって走っていることだけはまちがいない。
[#改ページ]
「短」か「長」か
かつては、どこの本屋の一角にも、セックスのハウ・ツー本のコーナーが常設されていた。ところが、アダルト・ビデオが普及し、性の情報が氾濫してしまった今日において、このコーナーは縮小の一途をたどりつつある。いまさら誰もハウ・ツー本を手本にしてセックスしたりしないからだ。
だが、本当に、セックスはそんなに簡単なものになったのだろうか? どうもそうとは思えない。とりわけ、男である私は女の性というものがいまひとつよく理解できないでいる。たとえば、単純な話、女は、男がそう信じているように、短茎よりも長茎を好むのだろうか? それとも、女がよく口にするように「男」の価値はペニスの長短ではないのだろうか?
この長年の疑問を一刀両断してくれたのが、久々に手にした性のハウ・ツー本であるセックスメート℃R村不二夫『性技実践講座[#「性技実践講座」はゴシック体]』(河出文庫 六二〇円)。これは、真に驚くべき本である。男たるもの、絶対に一読されるようお勧めする。
著者の肩書にある通り、山村不二夫氏はスワッピング雑誌『ホームトーク』を舞台にして長年、実践的に(つまり自らが参加して)セックスカウンセリングを行ってきた人物である。ゆえに、その証言は千鈞の重みを持つ。山村氏が断言するのは、女性はヴァギナの内部でペニスが抽送されるだけではほとんど快感は得られないという事実である。すなわち、女性のオルガスム発生源はクリトリスを中心とした神経叢と外陰部であり、そこを「オシオシ」「モミモミ」されることで初めてオルガスムに達することができるというのだ。
「つまり、女性はペニスの抽送で膣壁をこすられるよりも、ペニスを根元までしっかり膣に納めたまま、外陰部全体を男性の恥骨やペニスの根元に強く押し付けながら、こすりつけるように腰を前後に揺すり動かすほうが感じやすいのです」
肝心なのは、ペニスが「根元まで」入り、男女の恥骨同士がピッタリと圧着していることなので、ペニスが長い必要はまったくない。それどころか、膣に入りきらずに根元の部分が余ってしまうような巨根では、恥骨の触れ合いがないから、女性の快感は永遠にやってこないのだという。なるほど、そうだったのか。全国の短茎諸君、これで大いに自信がついたのではないかな?
それともう一つ重要な指摘は、正常位では女性はなかなかオルガスムに達しないということである。
「正常位で女性が喜ぶやり方は、女性の開脚位でなく、ペニスを受け入れた後、両脚を閉じて伸ばし、陰阜を突き上げるようにする姿勢です。男は女性の両脚を挟んで、恥骨とペニスの根元で陰阜をこすり上げるようにして腰を使います」
これは、女性がなかなか真実を告げてくれないので知らない男が多いのだが、かなりの確率で本当である。その証拠に、過激な平成好色女のトークを売り物にした、はるの若菜・早瀬まひるの『もっと奥まで[#「もっと奥まで」はゴシック体]』(河出書房新社 一二〇〇円/河出文庫 五四〇円)では、膣オルガスムを得たことのない若菜さんがこんなことを言っている。
「まひるさんの手紙を読んでいて、私の周りの女友だちも皆つくづく同じようなこと言ってるなあと思った。『脚を閉じて、まっすぐに伸ばさないとイケない』とか『オナニーでは(脚をまっすぐに閉じているから)イケるけど、性交ではイケない』とか……。これって、女友だちの間で実によく聞く話(悩み?)。でも誰もこの話題を普遍化させて語らないのよね」
まさに、その通りで、女性の側にもピストン運動でイケない自分は例外的な存在なのかもしれないという誤解があるのだ。では、どのようにしてもらえれば、こうした女性も膣オルガスムを得られるのかといえば、それはまさに山村氏のいう方法である。ふたたび若菜さんの言葉。
「わたくしとしましては、ペニスが絞り出されないように、正常位で二人の上体が開かないようにして、恥骨を擦り合わせたまま締め、彼にはペニスが押し出されないようがんばって突き立ててもらって、ぜひとも性交でイッてみたいのです。あと、私が脚をなるべく閉じられるような体勢であればサイコーなのですが……。
私が彼の腰を膝で挟んでいる、今の体位ではダメなのかな? 男の脚を自分の脚の外に置いてもらわなければ……。そうしたら男は動きにくくなるのではないかな? よく分かりません」
これだけ確実な証言があるのだから、男として試みない法はない。「正常位、女閉脚、男開脚」である。さっそく今日からお試しあれ。
しかし、体位のほうはこれで解決ついたとしても、女性が長茎を好まないというのは本当に本当なのだろうか? というのも、女性が書いたポルノには、反り返って、鎌首をもたげた立派なペニスへの賛歌がしばしば登場するからである。慈安眠『セカンドナイト[#「セカンドナイト」はゴシック体]』(河出i文庫 四七六円)。
「(この男、ペニスが長めだわ)口を離すと、勢いよく反り返り、男の腹へ戻る。(角度もいいかも)」
「ズンとペニスは突き刺さり、子宮の入り口まで擦れる。あたる」
なんだ、女だって、やっぱり長茎のほうが好きなんじゃないか。が、しかしである。さらに先をよく読むと、こんな描写にぶつかる。
「男の指を強引に引っ張り、クリトリスにあてがう。前後左右に腰を振るたび、指がクリトリスを刺激する。自分で乳房をゆすり立て、勝手にオナニーする。ただただ、自分のためにだけ腰を振る。オーガズムが近い。『あー、あーっ、イク……ッ』」
要するに、ペニスの長短は関係なく、指でクリトリスを刺激してもらって、「勝手にオナニー」しているわけである。やはり、山村氏のいう通り、正常位・女開脚ではオルガスムは簡単には訪れず、長茎はむしろオルガスムの妨げになるということのようだ。
最後に、もう一度山村氏の言葉を引用して「締め」にしよう。
「ポルノ小説、ポルノ映画、セックスのハウツー物等、セックスについては全てが男本位に語られすぎています。それ故に、女性からすれば、全てが間違っているというのが真実の叫びです。どうか原点に立ち戻って考え直してください」
[#改ページ]
エロはやっぱりコテコテがいい
その昔、サルトルの『想像力の問題』というこむずかしい本を読んでいる最中、「あまりに美しい女は男の欲望を萎えさせる」という一文に出会って、なるほどそういうこともあるのかと感心した覚えがある。あまりに美しい女だと、男は性欲モードではなく芸術モードに入ってしまい、対象を一つの芸術品としてしか眺めることができないのだという。
エロティック・コミックについてまわるのがこの問題である。漫画家の描線があまりに洗練され、美しくなりすぎると、絵柄がいかに猥褻だろうと、それはエロティシズムを喚起せず、「美」への途をたどることになるからだ。芸術が目的ならそれでいいが、エロが狙いなら、これはあきらかに失格である。
「オトナのためのエロティック・コミック」と銘打たれて創刊された『MANGA EROTICS Vol. 1, Vol. 2[#「MANGA EROTICS Vol. 1, Vol. 2」はゴシック体]』(スーパーバイザー・山本直樹 太田出版 各七八〇円)は、現在の日本のコミック界のもっとも良質な部分をよりすぐった非常にレベルの高い雑誌であるが、反面、日本のマンガが進化しすぎたため、エロを意図して「美」に堕する危険の匂いが漂いはじめている。
たとえば、表紙絵にも使われているやまだないとの「日曜日」(『Vol. 1』)はストーリーだけを記せばかなりエグい話である。全寮制高校の寄宿生であるボクは、日曜日になると家族のもとに帰って、父の運転する車で姉とプンスケ(犬)と一緒にあてもなくドライブする。姉の美貌に目をとめた同級生が「週末、オレを君の家に招待しろよ」と強要する。ボクの家にやってきた同級生は、赤ん坊なみの知能しかない姉がその場で父と交わるのを見てショックを受ける。父はむずかる姉をあやすように優しくセックスしてやっているのだ。同級生がトイレに入っていると姉がペニスをしゃぶりにきたりする。最後は、寄宿学校に帰るボクが電車の中で「日曜の夜、僕はさみしい」とつぶやくところで終わる。
これが文章でつづられていれば、どうみてもポルノだろう。だが、やまだないとの叙情と暴力、投げやりと繊細さのまじりあった不思議なスタイルでこれが描かれると、もはやエロはエロであることをやめて、「美」に転化してしまう。要するに、やまだないとは、「作品」しか描いていないのだ。
いっぽう、砂(これがペンネーム)の「セクスパレイト」は巧みな描線ながら、エロのこちら側にとどまろうとするプロ意識が「作品」になることをぎりぎりのところで拒んでいる。
セクスパレイト(分離セックスとでも訳すのか?)と呼ばれる売春装置では、女は壁にあいた穴から尻だけを向こう側に突き出し、その尻で売春をする。男たちは、三十分一万円ほどの料金を払い、男子便所仕立てで壁から生えているこの「肉便器」で欲望を処理する。「壁が売春婦を穴としての女と人間としての女に分け、そうして女と男の天国を同時に造り出す」「女は壁向うの客にセックスを売りながら壁のこちら側では自由に過すことが出来る」。確信的フェミニストである大学生涼子はこのセクスパレイトで、肛門部分だけに穴のあいたホットパンツをはき、一日に十数人も客を取る売れっ子として働いている。今日も、大学で売春を巡る論争をした相手の大学教官がやってきて、涼子と知らずに尻を犯していく。
フェミニズムの言説を取り入れながら、それへの罵倒をエロティシズムへの刺激剤として取り入れた奇妙な構造が独特の魅力を生んでいる。この雑誌の中でもエロ度は高い。
独特の魅力というのであれば、駕籠真太郎をあげないわけにはいかない。どの程度のキャリアの人か知らないが、すでにして他のまねのできない摩訶不思議な世界を築きつつある。
『Vol. 1』収録の「大葬儀」はとくにおもしろい。同じような平屋建ての公営住宅が並ぶ道に、方々から葬儀の参列者が集まってくるが、みな、いっこうに葬儀場にたどりつけない。故人の遺影の前で未亡人を犯す「未亡人荒らし」の男がいるかと思うと、その未亡人荒らしに襲われることを目的として、葬儀にまぎれこむ偽未亡人もいる。女の死体をさらう死姦マニアの霊柩車運転手が盗みだしたと思った死体は「死体のふりして死姦マニアに犯される被死姦マニア」だった。死後硬直したペニスを狙う女が見つけた死体はニセ死体で精液をほとばしらせる。
すべてがこの調子で進行し、さながらベケットやイヨネスコの不条理演劇に近いブラック・ユーモアの世界が生み出される。日本には珍しいテイストの文体である。
このように、『MANGA EROTICS Vol. 1, Vol. 2』のどのマンガも、エロの要素をふんだんにとりいれながら、エロそのものからは離脱して「作品」として飛翔する傾向があるが、果たしてこれは祝福すべき現象なのだろうか、いまひとつ自信がもてない。
なぜなら、もしこの方向に日本のマンガが行ってしまうと、かつて小説や映画の分野で起こったようなエネルギーの衰弱がかならず始まるからだ。つまり、猥雑なサブ・ジャンルであったがゆえに許された混沌が、ジャンルの洗練とともにきれいに整理されてしまう恐れがあるのだ。フランスのヌーヴォー・ロマンやイギリスのニューウェイブSFに起こったことが日本のアヴァンギャルドなマンガにも起こらないとはかぎらない。杞憂であればいいのだが。
この点、SMエロ漫画として一世を風靡した笠間しろうの代表作の『淫虐の貴婦人[#「淫虐の貴婦人」はゴシック体]』(発行ソフトマジック 発売青林工藝舎 一五〇〇円)では、かつてのハリウッド映画のようなウェルメイドの職人芸を楽しむことができる。要するに、ここには「芸術」や「作品」には絶対に転化しえない猥雑さがあり、それがエロをしっかりと支えているのである。「読むバイアグラ」とは言い得て妙である。こうした永遠に失われてしまったかに思われたコテコテのエロが復権しはじめているのはまことに喜ばしいかぎりである。
この本の帯に「官能劇画大全第3弾!」と銘打たれているからには、失われていた幻の名作エロ漫画が続々と復刻されるのだろう。期待しよう。
(「官能劇画大全」はその後も順調に刊行され、先述の榊まさるの巻も出ている。一方『MANGA EROTICS』の方も二〇〇四年現在 Vol. 26 まで刊行されている。)
[#改ページ]
会話でいかせて!
すでに読者諸氏も御存じかと思うが、ここのところ日本において、女性のための、女性によるポルノが急速に市場を拡大している。ただ、この手のポルノはポルノとは呼ばずにエロチカと称するらしい。つまり男性用はポルノ、女性用はエロチカということになる。
ところで、この区別、日本で勝手に発明されたのかと思っていたら、さにあらず、外国のフェミニズムの用語だそうだ。ならば、当然、外国でもエロチカが登場しているはずと思ったが、なぜか、これまで紹介が少なかった。しかし、最近、この外国エロチカもじょじょに翻訳されつつある。書店を回ると何点か翻訳もののエロチカが目についた。
そのトップバッターを務めるのは、エロスの国フランスのベテラン作家フランソワーズ・レイの短編六作を集めた『初夜[#「初夜」はゴシック体]』(阿南留美子訳 読売新聞社 一二六二円)。一番長く、かつ巧く書けているのは表題ともなっている「初夜」である。ベルギーの古都ブリュージュの最高級ホテルに新婚のカップルが初夜を過ごしにくる。二人は婚前に四回試みているが、いまだにうまくいっていない。「わたしとしては、処女を残しておいてあなたへの結婚の贈り物としたかった。と同時に、わたし自身への贈り物だった」。なんとまあ古風な、しかし、ある意味では最高にエロティックなシチュエーションではある。
女はまず脚の愛撫を求める。「ふくらはぎに沿って、膝の後ろまでさかのぼるの」「膝の後ろまでね……」。いかにもフランス的なのはこうした言葉のやりとりそのものが二人の興奮を高めてゆく点だ。
やがて二人はうまく結ばれ、やりとりも大胆になる。「ミルクが欲しいの」「きみの尻をぼくにゆだねるんだ……精液をふりまいてあげるから」。リラックスした二人は互いの幻想を語り合い、大胆な振る舞いに及ぶ。「ぼくに見せてほしい。おしっこをするところをアップで見せてほしい」「よかった? もう十分に見たわね? これで少年時代の夢がかなったでしょ」「きみのなかに残っている水をすべてぼくに垂れ流すんだ」「こんなことって初めて。わたし、これが病み付きになりそう!」
二人はついには肛門性交にまで及ぶ。「引き抜いたほうがいいかな?」「そのままにしておいて。なじませてみるから」「なぜ?」「痛いけど、好きだから」「抽送してもいい?」「抽送して!(……)あなたのものがもっと大きくなったとしても、わたし、くわえ込めるわ。樹の幹でも大丈夫よ」「それなら、なんでも好きなだけくわえ込むがいい。ほら、尻のなかがぼくの肉根でいっぱいになったぞ、ぼくのかわいい生娘、蝶番《ちようつがい》を引き裂かれたかわいい娼婦!」
日本のポルノ、とくに視覚型の男が書いたポルノでは、こうした言葉によるまさぐり合い、つまり会話のエロティシズムは期待できない。ここでは翻訳調のぎこちない会話文が逆に効果を生んでいる。夫は言う。「そういうきみの要求が、激情が、想像力が、ぼくは好きだ」。フレンチ・エロチカとは会話による欲望の昂進と見つけたり。
ではポルノとエロチカのちがいとはなんなのか? この問いに実践で答えようとするのが、オーストラリアを舞台に活躍するアメリカのジャーナリスト、リンダ・ジャーヴィンの『イート・ミー[#「イート・ミー」はゴシック体]』(井手萌訳 リトル・モア 一五〇〇円)である。物語は主人公フィリッパが自分の書いたエロチカ「わたしを食べて」をレストランで三人の女友達(フェミニストの大学教授、ファッション雑誌編集者、カメラマン)に見せるところから始まる。全体の調子を一言でいうと、饒舌なインテリ会話が横溢するウッディ・アレンのエロチカ版といった趣で、四人が順番でエロティックな体験を披露する形で進行してゆく。中で、いかにもエロチカらしいのは「三十三年間生きてきて、最終学歴が修士号以下の男とは一度も寝たことがない」大学教授のヘレンが語るトラック運転手とのセックスだ。
「彼は乳首を舌で転がし、吸い、時に痛いほど強く噛んだ。でも、わたしはそれも気に入ったわ。そのすべての荒々しい激しさが。そして、今度はわたしがスカートをお尻まで引きあげて彼に跨がった」
なんだ、なんだ、女が書くエロチカだって、男用のポルノと同じように、インテリ女が粗野な男にくみしだかれて、「ああ、体が、体が」とあえぎ出すシーンを好むのかい? そうツッコミを入れようとしたら、すかさずこんな自問自答が出てきた。「あまりにポルノじみている?(……)わたしたち女性がポルノを書く場合はどうなるの? 自分で自分をレイプできる?」
しかし、よく読むと、エロチカのレイプ的場面には一つの特徴があることがわかる。粗野な男もまた優しいのである。「彼もまた、力強い獣のような呻き声をあげて、果てた。しばらくのあいだわたしたちは、じっと動かなかった。彼は腕をわたしのウエストに巻きつけ、熱い汗にまみれ、ひげでチリチリするあごを、わたしの首の後ろに押しあてたままだった」。男から見れば、そんなの女の幻想だよ、ということになるかもしれないが、これが紛れもなく女の望むエロスの本質なのである。激しく乱暴に、でも優しく、愛をこめて。
エロチカには日本の女性たちも挑戦を始めている。河出書房新社が出している「河出i文庫」がそれだが、ただ、英仏のエロチカと比べると、会話部分がどうしようもなく陳腐だ。「どうだ。いいだろ。いいって言えよ」「いい……わ」「もっと言え!」「いい……いい……いいの……」(日比野こと『虹の雨[#「虹の雨」はゴシック体]』四七六円)
たしかに、現実ではこれと同じ会話が交わされているのかもしれない。しかし、だからといってそれを引き写しただけではエロチカにはならない。女性がエロチカに挑戦するのだったら、まずこうした男性用ポルノのような紋切り型のセクシュアル・カンヴァセイションを避けることから始めなければならない。なぜならば、女性のエロスというものは、自分をモノとしてではなく、一人の人間として扱ってくれる男性とのコラボレーションが成り立ってこそ発動されるものだからだ。そして、そのコラボレーションはまずカンヴァセイションという形を取る必要がある。
会話でいかせて! である。
[#改ページ]
全篇Hの名作
「淫らで、ふしだら。全篇H。性だけにこだわった鬼才初のエロ小説」という腰巻きの惹句にひかれて、花村萬月の『|♂♀《オスメス》[#「|♂♀《オスメス》」はゴシック体]』(新潮社 一六〇〇円)を買ってみた。これはなかなかいい。というよりも、今日の日本の文学状況から言ったら、エロという限定なしでトップレベルの小説かもしれない。
「情さん」と呼ばれる中年の小説家の「私」は、恋人関係にある日仏混血の美女沙奈とセックスしたあと、その足で歌舞伎町に出向いて、覗き部屋をひやかし、そこで美和という若い女と意気投合して焼肉を食べに出掛ける。
覗き穴の向こうでオナニー・ショーをしていた奈々という女がこれに合流し、店を出たあと、二人が暮らす吉祥寺のマンションで3Pをする。三人は疑似親子の気持ちになって井之頭公園を散歩するが、その途中「私」は外資系OLをトカレフで脅して便所に連れ込み、強姦殺人する夢想にふける。
年が明け、風邪をこじらせた「私」は、見舞いにきた沙奈と、高熱にもかかわらず激しいセックスをし、その最中に「性の自由と、殺人の自由は、類縁関係にある」という啓示を受ける。
春になり、桜が咲き乱れる井之頭公園を抜けた「私」はCDショップで芸大の女子学生律子をナンパし、その子の部屋に行って関係を結ぶ。その娘は処女で、浴槽の中で抱き合っているときに自分から進んで挿入させる。
娘の部屋を出た「私」は、美和と奈々の暮らすマンションに足を運ぶが、美和は実家に帰って不在である。一人残っていた奈々の乳房をたわむれにTシャツの上から咬んでいるうち、乳首を食いちぎりそうになる。それがきっかけで、奈々と「性の自由と、殺人の自由」について語りあうが、やがて奈々から「美和ちゃんを殺してみてはいかがですか。殺して食べてみればいいんです」と誘導を受ける……。
以上が、おおよそのストーリーで、セックス描写も暴力的な行為もふんだんにちりばめられているが、不思議とエロの感じはしない。その原因の一つは、ポルノにおなじみの性器の比喩を使わず、またグチョグチョとかヌメヌメなどというオノマトペも回避していることにある。つまり、セックス描写は情緒性を排除したハードボイルドなのである。
しかし、では、その性描写が乾いて即物的な感じがするかというと、むしろ逆で、ある種の優しさと情感をたたえている。ここのところが、意外にもといっては失礼だが、自ら亀頭原理主義者を名乗る花村萬月が女性読者に強く支持されている理由だろう。彼の描く暴力的なセックスは、不可能と知りつつ行う女性との相互的コミュニケーションの試みであり、凡庸な男根中心主義《ファロサントリズム》とは無縁なのである。その秘訣は、おそらく花村萬月にしかできない会話の妙にある。
「これが律子のダイヤモンド」
「ああ。それは苦しいです」
「苦しいの?」
「はい。居たたまれません」
「自分では、こういうことはしないの」
「──したことは、あります。でも」
「でも?」
「でも、なんだか苛々してしまうだけで」
「いまは苛々している?」
「いえ。なんだか苦しいんです」
「正確にはね、それは、切ないっていうんだよ」
「切ない──」
「そう。いま律子が感じている旋律は、女の主旋律なんだ。テーマは切なさ」
「ああ、先生。切ないです」(……)
「あたし、はしたない声を洩らしてしまいそうでいやです」
「はしたない声は、切ない声なんだよ。はしたなさに嘘さえなければ、切実な、愛おしい喘《あえ》ぎになるからね。大切なことは」
「大切なことは」
「うん。じっと、こらえること。狂おしい声を抑えきれなくなるまで、じっとこらえるんだ。限界までこらえて、それでもしかたなしに洩れてしまう声こそが、切なさ、なんだ」
あるいは、浴槽の中で律子と接吻しているうちに、ヴァギナにペニスが入りこんでしまったときの会話。
「俺が無我夢中になって、無理やりねじ込んだのか」
「ちがいますよ。あたしが慾しくなったんです」
「律子は処女だろう」
すると挑むような眼差しをむけてきた。
「処女が慾しくなったら、いけないんですか」
「ちがう。そんなことじゃない。痛くないのか」
「痛いです。ちょっと思っていたよりも、かなり痛いです」
「私」が痛いなら抜こうかとたずねると、律子は「いやです。なかにいてください」と懇願し、しまいにはこんなことを口走る。
「いやです。絶対に、いやです。あたしは痛くして慾しいんです。あたしを裂いてください。切り裂いていいんです」
女性読者がこれを読んだら、わたしも、この「情さん」に処女を破ってほしい、あるいは破ってほしかったと思うだろう。そして、しまいには、「情さん」になら、切り裂かれて、殺されてもいいと思うにちがいない。
最後には死へと通じる究極の性のコミュニケーションがこの小説の、それこそ「主旋律」なのである。
いまや、従来の性愛文学の領野から一頭地を抜いた地平へと、花村萬月の文学は到達しつつある。
[#改ページ]
やわらか対談の名手
最近、『オン・セックス』というタイトルで、セックスを巡る対談・座談会をまとめた対話集を出した(飛鳥新社)。この本作りのコンセプトのもとにあったのは、吉行淳之介がホストとなって一九六五年から『アサヒ芸能』で行った連続対談「人間再発見」(『軽薄対談』として講談社から刊行)である。こちらがセックスへの興味が一番強い年齢だったからかもしれないが、とにかく面白かった。ゲストも多彩だったが、吉行淳之介の話の運び方がなんとも巧みで、ホストの腕次第で対談というものがこんなにもエキサイティングになるのかと驚いた記憶がある。吉行淳之介は短編作家としてばかりか、対談の名手としても歴史に残ると思った。
講談社文芸文庫から出た『やわらかい話 吉行淳之介対談集[#「やわらかい話 吉行淳之介対談集」はゴシック体]』(一四〇〇円)は、名アンソロジスト丸谷才一が吉行の対談十二編(金子光晴、和田誠、淀川長治、加山又造、山口瞳、寺山修司、開高健、田村隆一、桃井かおり、大村彦次郎、徳島高義、丸谷才一)を選び出したもので、対談の名手吉行淳之介が久しぶりに蘇った感じがする。
なかでも冒頭の金子光晴との対談が抱腹絶倒で圧巻である。まずは金子が見た石像に犯されるという色っぽい夢の話からマスタベーションの話になる。
「金子[#「金子」はゴシック体] ぼくは、あるとき大々的にマスターベーションをやろうと思って……。
吉行[#「吉行」はゴシック体] 大々的ですか。大々的マスターベーションというのは、どんなんですか(笑)。
金子[#「金子」はゴシック体] へ印がね、ぐわんとおっ立って。
吉行[#「吉行」はゴシック体] へ印とはへのこ印ですね。はあ。
金子[#「金子」はゴシック体] ピタピタと腹を叩くような奴ね。うんそれで、こう指を肛門に入れて。
吉行[#「吉行」はゴシック体] ああ、肛門へね。なるほど。
金子[#「金子」はゴシック体] よくやるでしょ、みんな?
吉行[#「吉行」はゴシック体] みんなよくやるかどうかは知りませんが(笑)。(……)若いころのマスターベーションは、まあ大々的ですね。天井まで飛んでバリッと音がした記憶があります。淋病やってからは飛ばなくなりましたけど。
金子[#「金子」はゴシック体] おれのはなくなっちまうんだ。
吉行[#「吉行」はゴシック体] え?
金子[#「金子」はゴシック体] どこいったかわからなくなっちゃう。
吉行[#「吉行」はゴシック体] 何がですか、それ?
金子[#「金子」はゴシック体] ドーンと飛び出したやつが、見つからねえの。
吉行[#「吉行」はゴシック体] なるほど(笑)」
ここから脱線につぐ脱線のすえ、オカマ体験やら兄妹相姦やらと話が飛んで、やがては自分の体へのナルシシスムと触感の快楽へと発展する。
「吉行[#「吉行」はゴシック体] きれいな手ですねぇ。皺もシミもない。
金子[#「金子」はゴシック体] 女の子と同じでしょう。これは、静脈注射の痕ですよ。
吉行[#「吉行」はゴシック体] 青年の手ですね、これは。稲垣さんに迫られなかったですか。
金子[#「金子」はゴシック体] 何の話してんだ、おれは(笑)。まあ、いいや、うん。自分のからだが、いとしいの。だからね、しまいには、鏡もってね、トイレへ入って、こう、うんこが丸まって出てくるの眺めたりね、まだ痔じゃあなかったから、うんこのまわりに桜色の肉が押し出されてきてねぇ、まあるく盛り上がってまわりに出てきて、きれいだったですよねぇ、あれは。それで、うんこを撫ぜてみたり、あれは、すべっこくて、何というか、実にチャーミングな感触ですよねぇ。うんこというものは。
吉行[#「吉行」はゴシック体] 自分のものは、ウンコまで、いとしいと。
金子[#「金子」はゴシック体] ええ、楽しいの。とにかくね、触るてえことが好きですね、ぼくは。だからね、大人んなってからもデパートやなんかへいって、毛布やネルん中へ手突っこんだり」
一見すると、金子光晴だけが一方的にしゃべっているように見えるが、実際は吉行があいづちをいれるタイミングが絶妙なので、金子の口からとんでもない話が次々と湧いてくるのである。というよりも、相手が吉行だから、金子はなにもかもあけすけに語っているのである。対談の最後は、女性器をしみじみと見てみたいという述懐で終わる。
「吉行[#「吉行」はゴシック体] なるほどねぇ。しかし、なぜ今まで、その即物的なものを、ごらんにならなかったんですか。
金子[#「金子」はゴシック体] いや、そりゃあ、一般には見てますよ。一般には見てますけどね。あの部分の横のほうの壁がツルツルになるやつがありましょう。なぜああなるのか、普段はヒダヒダなのに。それからお水の出る穴があるてぇますが、それも見てみたいしね、どんな具合いに出てきやがるのか。それに、ツブツブのあるやつが出たり引っこんだりするでしょう。ゲンコみたいのが奥からウニューと出てくるやつもありましょう。マラの先に蝶々がとまったようなのもありましょう。そういうカラクリをね、まあ微細に見てみたいと、目が悪くならないうちにね、ということです。今まではやることばっかり考えてた。不覚でした(笑)。
吉行[#「吉行」はゴシック体] すごい描写力ですね。
金子[#「金子」はゴシック体] やることよりもね、ひとつしみじみとねぇ……。
吉行[#「吉行」はゴシック体] しみじみとねぇ。番茶でも飲みながら(笑)。
金子[#「金子」はゴシック体] 眺めてみたいねぇ」
対談のすべてがエロスを語っているわけではないが、どんなテーマでも吉行淳之介だと、話が「やわらかく」なる。こんな対談手はいまどこをさがしてもいない。
巻末に、編者の丸谷才一と、多くの対談相手の似顔絵を担当した和田誠との「あとがき的対談」があり、吉行淳之介の対談の魅力が縦横に語られている。特に次の丸谷才一の吉行評は的確である。
「要するに、座談会、対談っていうのは、雰囲気を盛り上げてつくるものだ。(……)ただ単ににぎやかに話するだけのおめでたい人じゃなくて、心の中に、孤独とか何かをいっぱい抱え込んでいる。だからかえって社交的になる。そういう人でしょう」
続編が読みたいものである。
[#改ページ]
たまにはお勉強しましょ※[#ハート白、unicode2661]
大学時代、というからもういいかげん昔になるが、社交ダンスをならったことがある。わけもなく「女の子が抱ける」というただそれだけの理由であった。男女がそれぞれ向き合って一列に並び、講師の模範ステップを見てから、自分たちも試技をしてみるのだが、これをやっている最中に、どうせ男女とも最終目的はほかのことにあるのだから、いっそ、こういうかたちでセックスの講習会をしたほうが合理的なんじゃないかと考えた。何十年か後には、この形式で「セックス講習会」が開かれるかもしれないと空想しながらダンスのステップを踏んでいるのは、これまた奇妙な体験ではあった。
さて、時代はすでに二十一世紀。さすがに、今でもおおっぴらにはこうした講習会は開かれていないようだが、少なくとも、活字の世界では、私の空想に一歩ちかづいているらしい。というのも、セックスのハウ・ツー本がここに来て、完全に装いを新たにして出始めたからだ。ひとえに、女の側から、ここをこうしてくれると気持ちよくセックスできるという発言が積極的になされるようになったためである。
さかもと未明『女流マンガ家が教える─女が歓ぶABC[#「女流マンガ家が教える─女が歓ぶABC」はゴシック体]』(日本文芸社 一二〇〇円)は、レディコミの漫画家である著者がみずから描いたスケベなマンガをたねに、女がほんとうにやってほしいセックスのテクニックを披露したもの。
「レディコミ流のキスの描き方も、AVや男のエッチマンガとちょっと違うかも。まず、キス以外のところで、男がどんな愛撫をしているのかがよーくわかるように描くの。(……)舌のからませ具合も大切だけど、手の動きが大事。額、髪、頬、うなじなどを激しく、そして優しく愛撫してあげて。女のコがまるで小さな子猫になったような気分になれるように、男らしい力強い手のひらで、そして指で、しっかりと顔全体や髪の生え際をつかんで愛撫するのが大事。そういうとき、女は髪の毛一本一本さえ性感帯。すごく感じてキスのパワーをチューンナップするから、絶対唇以外も存分に動かしてね。(……)レディコミで丹念に描かれるキスシーンでこのあたりをお勉強してねン※[#ハート白、unicode2661]」
なるほど、レディコミというのは男が見ても全然興奮しなくてつまらないと思っていたが、セックス教材としては最適であったのか。これは不覚である。
「アソコの愛撫でも、レディコミ読者は局部のアップが大好き。(……)ここで大切なのは一か所への刺激を同じペースでしつこく長く繰り返すことです。男は次々技を変えたがりますが、それはかえって効果減。一つの刺激に浸ることが女を高めるからです。でも、直接、クリばっかりいじっているのもダメ。クリ直撃よりも皮の上からや、まわりを攻め、大陰唇を撫でたり、摘んだり。閉じるように手のひら全体でこすったり、揉んだり……。(……)でもこーんな愛撫のあとでクリをいじられたら女は最高※[#ハート白、unicode2661]。カエルみたいにお股を大きく広げて、『いい、いいい───っっ。こんなのはじめてえええっ』って腰を振り出すこと請け合いよ」
しかし、レディコミでなにが一番勉強になるかといえば、それはクンニである。クンニリングスこそは女が男に一番ねちっこくしてほしいセックス・プレイであるらしい。
「女は本当にクンニが好き。(……)まず、皮の上から吸うように、豆の回りを円を描くように舐め、それからやっと皮を剥く。そして、舌先でチョンチョンと突き、女が『ひっ!』と叫んでマ○コをびくびくさせ、汁がわき出る描写。しばらく舌先でつついたり、唇の先ですったり転がしたりした後、指を大陰唇と小陰唇の間の溝にはわせながら、こんどは膣の中に熱い舌を差し入れるの……。このへんで女は、もー大コーフンよ」
どうです、微に入り細をうがち、なかなかいいお勉強になったでしょう。レディース・コミックは、外人モデルが表紙になっているのが特徴の女性マンガ雑誌ですから、一度、書店でごらんになったらいかがでしょうか。
というわけで、そうか、クンニなのか、クンニ、クンニとつぶやきながら、この手の専門ガイドはと書店を探したら、なんとこれがあったのです。辰見拓郎&風俗嬢レイ『フェラチオ&クンニリングス─絶頂マニュアル[#「フェラチオ&クンニリングス─絶頂マニュアル」はゴシック体]』(データハウス 一四〇〇円)。
フェラチオはさておいて、クンニリングスのほうだけをいうと、これはなかなか役に立つ本である。というのも、私の空想したセックス講習会のノリで、モデルのからみ写真を載せると同時に、図解でじつに詳細にわたって解説をほどこし、男女のセックス・プロの著者が本音まるだしで語りあい実験しあって、より気持ちいいセックスの徹底追求を行っているからだ。勝手な思い込みの入る余地がない。
「イラストでのクンニの復習は、実は辰見さんが私にしてくれたクンニなんですぅ〜。女の私がこうして欲しいって注文にもいっぱい応えてくれて、最後にクンニでイカされた私でした」
で、実際上の一番大切なアドバイスはというと、まず女からの注文。
「クリトリスを蔑《ないがし》ろにして他を舐められていると白けちゃうから、ビラビラを舐めたらすぐクリトリスに戻って吸い舐め擦りが気持ちいい。大陰唇をペロンと舐めてすぐクリトリス、という具合にね」
男からの答えも同じである。アナル舐めもいいが、クリトリスをお忘れなく。
「クリトリスは究極の快感を長く得ていられる。その分、クリトリスを疎《おろそ》かにすると昂まりが引き始める。アナルを舌で愛撫しながらクリトリスを指で愛撫する、W快感を与える」
いちいち細かい説明の苦手な人は、次のことだけを記憶しておくといい。
「クリトリスからオマンコを時計回りで舐め擦り」
こうなると、もう受験参考書の七・五調の「試験直前の一句」である。
応用編はセックス・プレイの中でも意外に難度の高いシックスナインに当てられている。というのも、シックスナインでは相手に快感を与えようとする努力が快感を得ようとする意識を妨げるからだ。ではどうするかというと、「快感を得ることに意識を集中しながら相手の性器を味わう感じで行う」ことだそうである。
「シックスナインでもクリに意識を集中させながら、チンチンは無意識に味わって興奮する吸い方、舐め方をすればいいの」
あとは、「発表会」を待つだけである。
[#改ページ]
やあねー、ノーマルなんて
少子化が進んで人口が半減する二十一世紀に、確実な増加傾向を見せているジャンルがある。SMである。いずれ「やあねー、あの人、ノーマルなんだって」というような会話がかわされて、今日の正常多数派が少数派に転落し、弾圧を受ける日も来るかもしれない。
馳星周の『M《エム》[#「M《エム》」はゴシック体]』(文藝春秋 一五二四円/文春文庫 四七六円)は、いかにも都市風俗の最先端を描く作家らしく、SMを巡る様々な短編を集めているが、一読したかぎりでは、この作家の興味はSMそのものにはない。オブセッションとなっているのはSMと似てはいるが別物の追跡・被追跡願望である。匿名性が支配する雑踏の中で、SMという糸でどこかでつながっているかもしれない他者のあとを追いながら、同時に自分を追う作業。それは、中世の聖杯伝説にも似て、決してたどり着くことのない目的地への旅である。表題作の「M」は、SMプレイに熱中していた父母の姿を目撃し、父を包丁で刺した少年が、出所後、SMクラブで、真性Mのファザ・コン娘まゆみと知り合い、彼女のあとをつけることで自分自身にたどり着こうともがく物語である。
「それじゃだめなんだ──喉でつかえる言葉。悲しみがぼくの口を塞ぐ。まゆみはぼくのことをこれっぽっちもわかっていない。ぼくがまゆみのことをわかっていないのと同じように。──稔、いやらしいことを命令して。まゆみがいう。すると、ぼくは悲しみを忘れる」「まゆみの後を尾《つ》ける。まゆみは気づかない。(……)電話はすぐに終わった。ホテルのすぐそばまで来ていた。ぼくがまゆみを縛るホテル。同じホテルで、まゆみは他の客に縛られる。嫉妬──気が狂いそうな嫉妬。毛穴からなにかが噴き出してきそうだった。まゆみがホテルに入っていく。無力感と嫉妬に苛まれて、ぼくは路地に立ち尽くす」
しかし、稔はまだSMの初心者だ。なぜなら、SM上級者になると、愛する人が他者に所有されて嫉妬に気が狂いそうなその状態、それがいい、ということになるからだ。宗教学者でサクリファイス(供犠)と歓待を専門にする植島啓司の『オデッサの誘惑[#「オデッサの誘惑」はゴシック体]』(集英社 二二〇〇円)は、妻または恋人を見知らぬ他人の手にゆだねることで自らも最高の快楽を得る男の心理を一貫して追求した高級ファッションSM小説だ。ニューヨークのカフェ・レストラン『オデッサ』でCという日本人女性と出会った宗教学者の「ぼく」は、日本に帰国後もCと交際を続けていたが、あるときCから数人の男に入り代わり立ち代わり凌辱されたということを知らされ、かつてないような興奮を覚える。それ以後、Cに向かって「きみの歓びこそがぼくの歓びなんだ」と説き伏せ、ついに同意を引き出す。
「彼女は(ぼくから見ると)恍惚の表情を浮かべているように見えた。明るい照明の下、彼は背後にまわってCを愛撫し、そのまますぐに挿入しようとした。一瞬|眩暈《めまい》のようなものに襲われた。彼女はぼくの存在にはまったく気づいていない。(……)Cの太腿は大きく開かれ、彼女の性器がすぐ目の前に剥き出しにされた。よく見慣れたはずの彼女の身体が得体の知れないもののように見えた」
やがてCは「ぼく」を歓ばせるために、積極的に見知らぬ他人に身を委ね、その有り様を携帯電話で実況中継するまでに成長する。「彼らは交替でCを責めたあとで、彼女に受話器を握らせた。それから、彼女は受話器を持ったまま、一時間以上自分がされていることを言わされ続けた」
ところどころにバタイユやクロソウスキーのテクストが挿入されるのは、エロ本をレジに出すときに哲学書を上に置くような感じでいただけないが、とまれ、日本でもクロソウスキーの『歓待の掟』『生きた貨幣』を絵解きしたグレードの高い理念的SMが誕生したことを喜びたい。
SMといえば、S男とM女の心理、それにM男の快楽を扱ったものは多いが、S女の心の動きを描いた作品というのは極めてまれである。津原泰水監修『エロティシズム12幻想[#「エロティシズム12幻想」はゴシック体]』(エニックス 一四二九円)は、有栖川有栖や京極夏彦など売れっ子のミステリー作家から無名の作家まで十二のエロティックな短編を集めた小説集だが、なかで、風俗嬢をつとめるかたわら漫画や小説にも手を染めている南智子の「FLUSH(水洗装置)」はこのS女の心の深層に淀むファンタスムを上質の文体で描き出した佳作である。
パソコン会社でOLとして働く|※子《しょうこ》は、毎日寄って化粧を整える公衆便所で、鏡に映った四つの個室の一つが閉まっているのを見た瞬間、唐突に記憶が疼くのを感じる。少女のときに見た地下牢に幽閉された男のファンタスムが蘇ったのだ。
「被膜の震えと吐息が、少女を愉しませた。格子越しに露の滴る勃起を握り締めて、もう一方の手で濡れた先端を擽《くすぐ》る。張り詰めた鰓《えら》に雫を塗り広げると、斑紋のある腰に震えが走った。欲情に掠れる声で少女がくすくす笑う『すごくいやらしい形してるね……これ……』」
その日、|※子《しょうこ》は、設計事務所の出向社員川村に紹介され、異様なデジャ・ヴュ(既視感覚)に襲われる。なんの特徴もない平凡な三十男だが、その視線を受けたとき「なぜか強烈な罪の意識が湧きあがる」のを覚え、同時に下腹のあたりに熱いものを感じる。熱いお茶を川村に浴びせかけたことがきっかけとなって、給湯室でSM的接触が始まる。
「がちがちになってジーンズの中に有るものが、小気味よく靴裏を押し返してくる。革底を貫いて弾力まで伝わる気がして、腿の内側を震えが走り抜けた。覚えず爪先の力が強くなる」
やがて川村はM男の本質をさらけ出し、腹の巨大な裂傷を示しながら、指を差し入れるように※子に迫るようになる。
「半ば口をひらいた粘膜が物欲しげに纏いつき、赤い蜜で自分の指を濡らすさまを、※子は惚けたように見守った。陰核でしか感じ得ない鋭い感覚が、今は五本の指すべてに生まれて手首の方まで這い上ってくる」
最後に、二人は「約束の場所」である公衆便所の四つ目の個室で交わる。
「歓喜の柱を絞り上げながら、|※子《しょうこ》はこの怪物の細胞のすべてに歯形を刻みつけたいと深く願った。小さな渦が巻き起こって、飛沫と共に迸《ほとばし》る。便器に水の流れる音が響いた」
ようやく、日本にも、女流による、読むに足る幻想的ポルノグラフィーが誕生したようである。この作家、いけるぞ。
[#改ページ]
初体験のジェネレーション・ギャップ
誰にでも物語はある。ヰタ・セクスアリスという物語が。
ときに悲惨だったり、感動的だったり、間抜けだったりするが、オスとメスとに分かれた生命体にとって、とにもかくにも、それは絶対に避けえぬ体験であり、ゆえに、おいそれとは記憶の底から消し去ることはできないのである。
日刊ゲンダイ編集部編『私のヰタ・セクスアリス[#「私のヰタ・セクスアリス」はゴシック体]I』(河出文庫 五六〇円)は、各界の著名人にインタビューした記事をまとめたものだが、不思議なことに、平凡は平凡なりに、劇的は劇的なりにおもしろい。
この本を読むポイントは、生まれた年にある。つまり、世代によって、ほぼ初体験の質が似通っているということだ。
一九三二年生まれの作家勝目梓は、九州の炭鉱で働いていたとき、先輩に連れられていった伊万里の遊郭で初体験する。「昔の女は決してスッポンポンにはならなかった。必ず肌襦袢を着てて、床の中で帯ひもをゆるめて……というね。(……)余裕がないのはこっちだから、そうアレコレ観察もしてないわけだけど、女の肌襦袢が樟脳というかナフタリン臭かったのを鮮烈に覚えている」
ベストセラー『血と骨』の作者|梁《ヤン》石日《ソギル》は一九三六年生まれで、これまた大阪、飛田遊郭で初体験。「その子には二回させてもらって(そりゃ、アッという間ですよ)、終わった後、二階の窓から街並みをのぞいたら、これがもう圧巻。裸電球で照らされた街並みに、客引きの娼婦たちと男たちがあふれかえって、まるで一大絵巻ですよ。セックスっておおらかなもんだなぁ≠ネんて感心したのを今でも鮮明に覚えてます」
このように遊郭とか赤線というのはそれなりに情緒があるが、赤線もどきの怪しい場所となると、その分、体験も悲惨である。
一九三五年生まれの作家小林久三の敵娼《あいかた》は仙台近くの飲み屋街の居酒屋の酌婦。「相手はワンピース姿でズロースを下ろしただけ。ぼくもズボンを下ろしただけ。それでまさに牛のひと突き、挿入して十秒ももたなかった。女の人に『あんた、ダメね〜』と、シリをポーンとたたかれてね」
一九四三年生まれの作家朝倉喬司となるともう赤線世代ではないが、名古屋の旧色街には昔の名残があって、ヤリテ婆がそでを引く。「出てきた女はヒドイもんで、当時の自分の印象でいえば、完全に婆さん。それが股おっ開いたのを見たとき、女とはわかっていても股間に何もないのが不思議な感じがした。しかも妙にうら寂しくて、アア、女というのはこんな感じで生きているのか、という感慨だった。同時に、アア、これがオレのセックスライフの口開けじゃ、後々ろくなことはないんじゃないかと暗澹たる思いだった(笑い)」
われわれ団塊世代にまで下ってくると、商売女相手というのはなくなって、同世代の女の子が相手だが、この場合は、最終ゴールに行き着くまでのドタバタが甘ずっぱい思い出となって残っているようだ。
一九四八年生まれの作家(故)永倉萬治は夏休みの房総の海水浴場でフォークダンスがきっかけとなって、同い年の彼女のリードで初体験へ。「『私たち向こうのテント村でテント張ってるの。行こ?』で、彼女に手を引かれてテントの一つに入って行った。彼女の顔がグーッと迫ってきて、歯と歯がぶつかった。キスの間中、血の匂いがしましたですね。もう何がなんだか体中が暴風雨みたいなもので、三コスリどころか、何ダ? 入ッタのか? エッ? てなもので、イヤー、実に早かった」
詩人の野村喜和夫(一九五一年生まれ)は、おのれの妄想と現実の落差に愕然とする。「そんな中、初体験は二十歳のときに僕の下宿で。同郷の一つ年下の女性と。なにしろ妄想型で知識先行ですからプレッシャーがありましてね、相手も初めてでしたから、なかなかちゃんとできない。なにしろアソコの場所がわからなくて。何日かかけてやっとできたのですが、実はなんの感動もなかったんです。『なんだ、こんなもんか』って。つまり、妄想には匂いも温度もないわけですが、現実の女性にはあってほしくない匂いがあったりして……それもこれもみんな膨らみ過ぎた妄想のせいなんです(笑い)」
一九六一年生まれの漫画家杉作J太郎になってくると、あふれる性情報で知識だけは豊富だが、実体験ゼロのヴァーチャル・セックス世代となる。
「初体験はわりと遅めで二十六のとき。場所はアパートの自室で、相手は二十一、二の同じ業界の女。もう話すこともなにもないんで始めたって感じで、黙々と足の指でパンティー脱がしたり。そういうのはエロものでイヤというほどインプットされてますからよどみなくできるんです(笑い)」
一方、女性はというと、男の場合のように初体験という「義務」を果たしたという安堵よりも、自分の肉体の「感覚的」発見の驚きがあるようだ。
「十六から十七歳ぐらいのときに、ムチャクチャ痴漢にあってまして、そのときに私の体が女だからだ、と気づくんですね。私が嫌悪していたものが、なんだ実はゴチソウ≠カゃないかって(笑い)」(作家斎藤綾子。一九五八年生まれ)
「自分の性器のコンプレックスも忘れるほど夢中で、覚えているのは痛みだけ。帰りの電車の中で、足を広げて座っているおばさんを見て、この人にも初体験があったのかなあと思うと変な感じでした」(作家|若合《わかい》春侑《すう》。一九五八年生まれ)
「嫌だなぁって思ったのは男の人の熱い股間が私のおなかの上に乗ってるって感覚。コレかぁって感じ。パンツ脱がしてもいい? って聞かれたから好きにしてって、後はマグロ状態でおまかせ」(漫画家さかもと未明。一九六五年生まれ)
しかし、男女を通じて、もっともすごいのは、なんといっても芸術家の草間彌生(一九二九年生まれ)だろう。
「彼とは恋人として十年付き合ったわ。ところが彼は直接的なセックスをしない人で童貞だったの。私ともセックスなし、大事なところを触りもしない、(……)実は……、いまだに私、処女なのよ(笑い)。セックスは今もしてみたい。オナニーももう二十年もしてなくて、いろいろとたまりにたまってる。(……)今でもしてみたい。でも日本って、女はなかなか手軽にセックスできない国なのよね。男もみんな、カタブツばっかりだし(笑い)」
どなたか、草間彌生さんの期待に応えるニッポン男児はいないのだろうか?
[#改ページ]
若い頃のセックスなんて遊びさ
二十数年前、生まれて初めてパリの映画館でハード・コアのポルノ映画を見たとき、そこに少なからぬ老年のカップルがいるのに驚いた。杖をつき、足をひきずるようにしてヨタヨタと席についたジイさんとバアさんのカップルが息を殺したように画面を見つめ、最後に「また来ようね」とうなずきあうようにして帰っていく姿に、思いがけず、深く感動してしまった。このとき、人間にとって「性」は「生」であることを理解した。「性」が涸れるとき「生」も終わる、なら、男も女も「性」をできるかぎりみずみずしく保つべきではないか?
小林照幸『熟年性革命報告[#「熟年性革命報告」はゴシック体]』(文春新書 六六〇円)は、まだ三十二歳の若い著者が日本では長年タブー視されてきた高齢者のセックスを正面からとりあげた興味深いルポルタージュである。介護保険制度の問題点を探るため特養老人ホームでボランティアとして働いた著者は、そこで入居者のセックスが大きな問題となっているのを知る。老人ホームの行き届いた食事で、男も女も肉体的に元気を回復し、性欲が復活するのだ。
男女混在の特養に、あるとき八十歳の大久保という女性が入所する。車椅子に乗ってはいるが、下着は上下そろいの派手なものを身につけ、化粧にも服装にも気を配っているプライドの高い女性である。大久保が来てからは男たちはみんなウキウキした気分になる。中でもボス格の二人が大久保の「恋人」となる。職員たちは、二人がしばしば小銭の両替を要求するので不思議に思うが、あるとき、彼らが代わる代わる大久保のベッドで同衾しているのを発見し、小銭の意味を理解する。大久保は一回三百円で「援助交際」をしていたのだ。施設長に詰問された大久保は悪びれずにこう答える。
「妊娠をまったく気にしないセックスというものが、こんなに気持のいいものとは思いませんでしたよ。(……)一回、一回がこれが最後かも知れない、人生最後のセックスかもしれない、大切なものになっているの。気持がいいに決まっているでしょう? 最後は人間らしく、死んで行きたい」
大久保に苦言を呈するつもりでいた施設長は逆に大久保のセックス講演会を傾聴するような姿勢になってしまう。
「あいつも今、言っているよ。若い頃のセックスなんてさ、遊びだった。今は頻繁にできない分だけ、一回一回が味わい深い。今、あんたとやれるようになって、本当にセックスって気持がいいとわかった。ありがとう≠チてね。これ、あんたらわかるか?」
「互いに、朝、顔を合わせるとき、体調はどうかといたわりあって、今日できるかどうかをたしかめてからやる。だから、本当にできるときしかできないんだ」
施設長がなぜ金をとるのか、いくらもらっているのかと問い詰めるとこう答えた。
「教えてやるよ。侘しいものだよ、一回につきね、小銭三枚だよ。三百円。わかる? 今の自分なんてさ、その程度のものよ。この程度でなければ、何度も相手にしてもらえないじゃないの……」
この「援助交際」は意外な結末に終わる。大久保を独占したがった男二人が車椅子に座ったまま竹ボウキと傘で決闘をし、一人が入院したのだ。そのことで三人の関係はあっけなく消滅し、一年後に三人ともホームで病死してしまった。「性」がなくなったとき「生」も消えたのである。
このような観点から、最近、老人むけの衛星チャンネルではポルノ映画の導入を検討するところまで現れている。高齢者はやはりビデオ・ショップやコンビニでアダルト・ビデオやポルノ雑誌を購入することに抵抗があるからだという。それに、いきなり、そのものズバリが始まってそればっかりのポルノビデオは高齢者には人気がないらしい。しっとりとした情感のあるロマン・ポルノのほうが好まれるようだ。同じことはポルノ漫画についてもいえる。ロリコン風のポルノ漫画では高齢者は「勃たない」のだ。
この点、高齢者のために、特筆大書で推薦するのが「日本が誇るオリジナル・エロス・ペインター、現代の緊縛絵師」と帯に書かれた前田寿安の官能劇画と責絵を収録した『愛奴[#「愛奴」はゴシック体]』(発行ソフトマジック 発売青林工藝舎 一五〇〇円)である。劇画のほうはさておいても、「純和風」の情緒|纏綿《てんめん》たる筆で描かれた責絵は、一部のファンのあいだで長らく伝説になっていたほどの素晴らしさである。とくに、「野外露出プレー」の先駆的絵画である「墨田の渡し場で晒された緊縛美女」は名作中の名作である。墨絵のタッチで微細に描きこまれた古い日本の家屋の「木」の美しさが、縄と美女の白い肌にじつにしっくりとあって、日本人の理想とするエロスここにありという印象を受ける。これ一枚だけでも千五百円払う価値がある。巻末に付せられた著者インタビューも興味深い。
同じ「官能劇画大全」シリーズの4に収められた榊まさる『淑女の淫夢[#「淑女の淫夢」はゴシック体]』は、以前にも紹介したことのある幻の官能劇画王の傑作『愛と夢』の待望久しい復刻だが、巻末インタビューには、ついに編集者が執念で探しあてた「行方不明」の榊まさるが登場している。それによると、八〇年代にマンガが描けなくなり、レンタルビデオ屋に転職し、その後は焼鳥屋や食堂を経営していたというから驚きである。
だが、もっと驚いたのは榊まさるが再び筆を執って現役に復帰し、昨年(二〇〇〇年)から『漫画オリンピア』と『別冊週漫スペシャル』に作品を発表し始めたという知らせである。ありがたや、榊まさるがまた読めるようになったのだ! おっと、個人的感慨はこれぐらいにとどめておこう。それよりも、エロ漫画、ポルノ漫画と馬鹿にしていた方々に、ぜひ一度、この榊まさるの官能劇画をお試しあれと言いたい。写真などでは絶対に味わえない圧倒的なエロスがそこにはある。私などは、長い間、この榊まさる描くところの美女に恋していたほどである。
誌上を借りて、最後に断固、進言したい。老人ホームには、榊まさると前田寿安の官能劇画を標準装備することを!
[#改ページ]
AV男優かく語りき
まだアダルト・ビデオはおろか、にっかつロマン・ポルノさえなかった一九六〇年代後半、大蔵貢の残党たちが作っていたピンク映画を横浜のイセザキシネマ座や渋谷地球座でよく見たものだ。そのとき気づいたのは、こうしたエロ系統の映画では女優《いわゆるシロ》は様々に変われども男優《クロ》はいつも同じだという事実である。初期ピンク映画ではたしか里見孝二とかいった二枚目俳優が犯し役を一手に引き受け、すばらしいスピードで女優の服を剥いでいった。にっかつロマン・ポルノになると、この役は高橋明や、先頃亡くなった粟津號に受け継がれた。女優がゲストなら彼らはホスト、女優が酒なら、彼らはグラス。ゆえに一本だけ見ると印象は薄いが、何本も見ているうちに彼らのほうが強く記憶に残る。私はこの現象を「クロ残像」と命名して、一人悦に入っていた。
一九八〇年代に始まったアダルト・ビデオでもまたこの「クロ残像」現象が起こった。速水健二、日比野達郎、加藤鷹、チョコボール向井、山本竜二、栗原良、清水大敬、平本一穂、辻丸耕平、いずれも、多少ともAVを見たことのある読者なら、名前は知らなくとも、顔を見れば、ああ、この人か、とうなずくAV男優たちである。本番が当たり前になったAVで「さお師」と呼ばれる彼ら「クロ」たちの残像が、いまや二十年近い歴史をもつにいたったAVにおいてなにものかを語りはじめている。
自身AV監督であった東良美季の『アダルトビデオジェネレーション[#「アダルトビデオジェネレーション」はゴシック体]』(メディアワークス 二八〇〇円)は、一九八〇年代後半に突如花開いたAVで、「クロ残像」現象を起こした男優たちを中心に、AV監督、それにAVでは例外的に強烈な印象を残した女優たちへのインタビューで構成された読みごたえ十分のAVクロニクルズである。
まず、どういう類いの男たちがなにゆえにAV男優になったのかという疑問。出自、多様。動機、様々。契機、偶然。要するに、一人一人、全部がちがうのである。
たとえば「この国で最も有名なAV男優」であるチョコボール向井はなんと新日本プロレスの出身である。喘息持ちのひ弱な少年が、強くなりたい一心で極真空手を始め、やがて新日本プロレスに入るが体力が続かず逃亡。風呂なしアパートに住んで、牛丼をいっぺんに二つ食べながらボディビル道場のインストラクターを務めているときに『男優さんいらっしゃいスペシャル/樹まり子』で素人男優としてデビューする。「そう、しょっぱなから樹マリ子(笑)。人気絶頂の頃ですよ。加藤鷹さんだけがプロの男優でいて、あと五、六人は素人ばかり。結局、立って、挿入して、射精できたのは僕だけだった(笑)。このキャラクターもウケたんでしょうね、次の日から仕事依頼の電話が鳴りました」。ではなにが彼をしてAVに向かわせたのか?「レスラーになりたかったっていうのもやはり目立ちたい、自分の強さをアピールしたいんだっていう部分がありましたからね。そう、考えてみれば僕、あんなに何年も苦しいトレーニングを積んできて、誰からも注目されたことってほとんど無かったんですね。だから冗談でよく言うんですよ、俺は四角いリングには上れなかったけれど、四角いベッドには上ったぞって(笑)」。しかし、目立つというだけではこの仕事続けてはいかれない。「でも各メーカーをひと廻りして、もう一度次の撮影にも呼んでもらおうと思ったら、とにかく真面目にしっかりと仕事をしなくちゃダメなんです。(……)ハンパにやってたらダメだと思うんです。真面目に、やることやってれば、AV男優だからって嫌味なことは言われない、むしろ逆じゃないですか。(……)少なくともやってる本人がひけめを感じることはないと思うんですね。(……)僕らもプライドだけは持っていないとね」
チョコボール向井は樹マリ子といきなりからむことでデビューしたが、反対に百戦錬磨のAV男優でありながら、樹マリ子とからんだとたん立たなくなったのがこの世界のスーパースターである加藤鷹。AV男優でありながらAVに出る女の子を軽蔑していた加藤鷹はAV女優に恋愛感情を持つことができなかった。「多分それはオレがセックスすることを男優の仕事だと考えてるからだと思う。それが、樹とのカラミで、ある日ダメになったんだ。要するに、立たなかったんだ(笑)。変に思うでしょう? でもね、男優ってそういうところあると思うんだ。セックスしながら実は何処か冷めてる。だけど、本当にその子にのめり込んでしまうとだめなんだ、男優としての仕事が出来なくなる、つまり立たない。アイビックの現場だったよ。『ああヤバイ、オレ、惚れたかな?』って思った」。やがて二人は同棲し、愛の巣を構えるに至る。
加藤鷹は警察官を父として秋田に生まれ、一流ホテルの営業マンをしながら五百人の女と関係を持ったが、恋人に振られて上京。カメラマンを目指す。ところが世の中甘くはなく、アパートで餓死寸前に追い込まれる。そのとき母親から三万円の送金が届き、一命を取りとめる。やがてAVのカメラマン助手となり、そこからAV男優の世界へ。一躍、人気男優となるが、代々木忠監督の作品に出演したとき、大きな転機が訪れる。「いろんな女とセックスしてることを楽しんでるつもりが、実は全然楽しんでなかった。本当は不安で不安でたまらなかったんだよね。だから数をこなしてまぎらわそうとする。もしも男優になっていなかったら、そして代々木さんに出会っていなかったら、オレは一生それに気づかなかっただろうね」。この出会いで加藤は仕事としてのセックスの向こう側にあるものを見た。それは心を解放し、あらゆる束縛から自由になることだった。「オレにとってAVとは? うん、いちばん人間ぽい仕事だね、今までやってきた中で。例えばさ、女の子が不特定多数の男に股を開くと、世の中のほとんどはさげすむよね。あいつはコーマン女だってさ。だけどそんなの古い男社会がデッチあげてきたインチキでしょ? オレにそれを気づかせてくれたのはAVだよ。いまだにそれに気づいてない奴がいる。世の中のほとんどの人がさ、田舎の遊び人だった頃のオレのレベルなんだ。そういう人は、むしろ可哀想だよね。だから誇り持ってるよ、AV男優って職業にね」
人間の最も根源的な部分を職業にする男たちを支えていたのは、人間としての誇りだったのである。これは名著である。
[#改ページ]
AVのコゼット
エロス本の一ジャンルとして風俗の本がある。私はかつてこのジャンルがあまり好きではなかった。ところが、最近、風俗関係の本を続けざまに読み、だいぶ考えが変わってきた。いまや風俗にこそ、変わりつつある性のコアが露呈されているのではないかという印象を持つようになったからだ。
まず、酒井あゆみ『東京夜の駆け込み寺[#「東京夜の駆け込み寺」はゴシック体]』(幻冬舎アウトロー文庫 四九五円)。父の事業の失敗で借金を負い、おまけに同棲していたバンドマンにヘルスに「売られた」著者は、風俗のフルコースを経験したあと、貯金で愛人とともにAV女優のマネージメント業を始めるが、うまくいかない。AV嬢の中に自分の姿を見てしまい、AV嬢紹介業変じて「性の駆け込み寺」になったからだ。しかし、その経験は逆に風俗嬢たちの内面をうかがう機会を与えてくれた。マネージメント業での弱点が物書きとしての強みに転じたのだ。
風俗嬢たちがこの道に飛び込んだ原因の第一は、博打、飲酒、暴力、病気、浮気等による両親の離婚と再婚、それに加えて自身の男運のなさなど、昔ながらの不幸な家庭環境によるものだが、昔と違うのは、今の風俗は割り切ったビジネスになっているからまじめに働けば貯蓄はすぐにできるということ。ただし、金を手にしたあとのやり直しの人生こそが難しい、と著者はいう。
「私もかつてそうだったように、お金さえあればすべてうまくいく、何でもできるという幻想は誰もが陥る罠だ。これだけお金を貯めたらこの世界から抜け出して……と、夢を描く。けれど、お金にしがみつく度合いが強まれば強まるほど、風俗のより深い淵にズボズボと足を取られていくのだ。(……)そして、ここが肝心なのだが、幸運にも脱出できたとして……その地点がゴールではないということ。スタート位置なのだ」。とすると、ケアが本当に必要なのは風俗に「入る」瞬間に対してよりも、「出てゆく」瞬間に対してなのかもしれない。
とはいえ、性風俗に対する劇的変化が最も端的にあらわれているのはやはり「入る」瞬間の心の敷居の低さだろう。ユニークなAV監督として知られるバクシーシ山下編『私も女優にしてください[#「私も女優にしてください」はゴシック体]』(太田出版 八〇〇円)は、調査対象としたAV嬢八十一人という「量」ゆえに、その「心の敷居の低さ」の平均値をあぶり出すのに成功している。本はAV女優を志願してきた女の子たちにプロフィールカードに記入させたあとヌードで写真撮影して面接し、それをもとにバクシーシと編集者が語りあうという構成になっている。
「──この子がなぜスカウトマンについて行ったかというと、テレビの隅の方にでも映りたかったから。(……)
山下[#「山下」はゴシック体](……)僕がイメージするB級AVギャルはこうですけどね。さえない隣のお姉さんだらけって感じ。これこそB級AVギャル」
確かになんでもない「隣のお姉さん」が深刻な理由もなしにAVギャルになりたがっているのである。しかし、潜在的動機はいずれも共通している。すなわち「いきなり目標に」というやつである。
「山下[#「山下」はゴシック体] こういう人って、こういう素《す》の、何もない状態からパッと有名になりたいわけですよね」
ただ、かならずしもその「夢の世界=芸能界」というわけではない。多いのは、ニューヨークで勉強したい、外国で暮らしたいという「ここよりほかの場所」派である。この系列にはトラベル専門学校に通っている子が多いという。
「──AVギャルは旅が好きな人種?
山下[#「山下」はゴシック体] そう。だから、どこかに行く旅なんですよ。これも」
女子大生やデパートガールに多い志願理由に、ただドキドキする経験をしたかったという「アンニュイ脱出派」や、若いうちに奇麗な自分を撮ってもらいたかったという「記念撮影派」が多いのも、彼女たちがAVを「非日常」への旅と見なしているからと解することもできる。だから、現実に、AVをやっている友達から誘いがあるといとも簡単にその世界に踏み込んでしまう。しかし、確たる理由もないから、理由は後付けで、『JJ』に載っているようなバッグを買うお金がほしいからということになる。
「山下[#「山下」はゴシック体] こっちが『なんでAVやってるの?』って聞いても、『なんとなく』って言葉以外に出て来るのは『ギャラがいいから』ってことになっちゃうから。その『なんとなく』をちゃんと言葉にできる人は、あんまりAVには出ないのかも知れない」
しかし、これだけ簡単な理由からAV志願者が集まってくるようになると当然競争が激しくなるから、単体(AV嬢の魅力だけで一本撮ること)ではダメで企画物(SMやスカトロ等のテーマで見せる)にしか使えない、いやAV出演は初めから無理という子も出てくる。間口が広がりすぎて、AV嬢も過当競争の時代に入ったのだ。
こう見ると、永沢光雄『AV女優[#「AV女優」はゴシック体]』(文春文庫 八〇〇円)と続編『おんなのこ[#「おんなのこ」はゴシック体]』(コアマガジン 二八〇〇円/『AV女優2──おんなのこ』と改題して文春文庫 七七一円)に登場するAV女優はみな「単体」だから、相当のエリートということになる。だが、インタビューを読むと、その経歴の凄まじさには絶句するほかない。AVの世界でも、スターになるにはそれなりのバネが必要なのだ。
ソープ嬢の母親につれられて全国を転々とし、転校する先々でイジメに遭い、中学一年で母の愛人を相手に処女を失ったみずしまちはるの言葉。
「今から思うと、小学校時代のわたしって……一番かわいそうだったな……今ね、あの頃のわたしがいたら、ギュッって、ギュッって、抱き締めてあげたい。わたしは今、たった一人で暮らしていてとっても幸せなんだから、今を乗り切れば絶対にあなたも大丈夫よって……」「個人的にはとっても男性不信なのね。恋愛ができない。恋愛ってわたしさ、手を握っただけで胸がドキドキしてその人の前では御飯も食べられないみたいな……プラトニックなものだと思うの。セックスしちゃいけないと思うの。でも、ちはるちゃんと会う男の人たちって、みんな、『もう子供じゃないんだろう』って言って、いきなりパンツ脱がすんだもの」
現代のレ・ミゼラブル(悲惨な人々)にとって、コゼットを救ったジャン・ヴァルジャンはいないものなのだろうか?
[#改ページ]
風俗嬢のアリバイづくり
古本集めをやっている関係で、どうしても現在の本を未来の視点から古本として眺めてしまう。あと三十年たったら時代の貴重なドキュメントとなるのではないか、などと思うのである。その観点から見て、掛け値なしの傑作が松沢呉一『風俗就職読本[#「風俗就職読本」はゴシック体]』(徳間文庫 六二九円)。
著者は風俗情報誌のコラムライター。この類いの雑誌は風俗嬢の写真(全裸で顔まで出ている)が満載された「実用」カタログなので、読者はコラムなど読みはしない。しかし、風俗嬢と付き合ううちに、様々な社会的な疑問がわいてきて、答えを追求せずにはいられなくなる。たとえば、儲かるといわれている風俗嬢は本当はどの程度の収入があるのかとか、入店の目的やきっかけは、という疑問である。要するに「売春の社会史」を志す未来の学徒には最も必要な情報なのだが、現在の時点では誰も知ろうとしない類いの裏情報である。ゆえに、それに答えを出した本書は、比べようもないほど貴重なのである。
まず風俗嬢の収入。最高の稼ぎは本番のあるソープ。八万円の最高級ソープで風俗嬢の取り分は通常六割だから、五万円。超売れっ子が一日六人こなせば三十万円になるが、ここらが肉体的限度。週に一日休みをとり、出勤した日の半分は五人として雑費を引くと月六百万円が上限だという。しかし、これはあくまで例外で、普通は体がもたないので六人も相手にできず、一日働いて翌日は休むから、ソープ嬢の収入は頑張っても百万円台といったところ。
一方、本番なしの性感ヘルスは単価は安いが数をこなせば二、三百万に届くこともある。たとえばAF《アナル・ファック》のオプション料金は、一万円だから、これを厭わない場合、数字は伸びる。「ちなみに私が知っているアナル・ファックの最高記録は一日二十本。『頭の中が真っ白になって、わけがわからなかった』とそのコは言っていた」。もっとも、お茶ばかりひいているヘルス嬢だとパート以下の収入のケースさえもある。
一番安いのはピンサロで、客単価が安いから上限で一日五万円。おまけにピンサロは不潔で、客柄も悪く性病の罹患率が高い。にもかかわらず、応募者があるのは、まったく風俗というものを知らない女性が最初に女性週刊誌などの広告を見て入店するケースが多いからだそうだ。したがって、ピンサロは風俗の入り口的色彩が強い。「ピンサロ嬢は地方出身者の率、風俗未体験の率、子供がいる、借金があるといったワケありの率が高い」
その結果、ピンサロで風俗入門してもすぐにヘルスやソープに移ってゆくが、そのときに彼女たちが利用するのが、風俗就職情報誌。東京地区には三誌もある。「いずれも女のコたちが買いやすいように、かわいいイラストの表紙で、表紙だけ見ればごく普通の求人誌にしか見えない」。コンビニで売られている。なかには怪しい広告もある。たとえば「風俗じゃありません」と書いてあるのはじつは、法律で認められる風俗店ではないというだけで、業界情報に詳しい竹子ちゃんに言わせると「だいたい本番の店だよ(笑)」。竹子ちゃんの指導では「許可店は比較的はっきりと業種を書いているから、素人さんはそういうところを探した方がいいかも」
就職情報誌で当たりをつけると電話確認のあと面接ということになるが、このとき、経験者の風俗嬢たちがもっともこだわるのは、意外なことに個室待機か控室待機かということだという。というのも、控室で客の来るのを待っていると、どうしても他の風俗嬢と人間関係を作らなければならず、それがいやという子が多いからだ。先輩によるイジメもある。ソープでは上下関係が厳しい。個室待機ならこれがないというわけだ。風俗嬢にとって、金もさることながら、店の雰囲気と人間関係が重要なのだ。最近は密な人間関係を嫌う子が増え、個室待機でないと人が集まらないという。それに、控室待機だと風俗嬢同士が情報交換するので、これを嫌う店もある。
一方、店のほうで一番気を使うのは年齢の確認だ。十八歳未満を働かせれば児童福祉法違反で一発で逮捕されるからである。そのため身分証明書の提出を義務付けるが、姉のものをもってくる子がいる。そこで有効になるのが高校の卒業アルバムなのだそうだ。なるほど、これならごまかせない。
こうして身元チェックが終わっても、店が雇わないことがある。ルックスの良さはもちろんだが、それだけではない。「一般的によくイメージされる風俗嬢タイプは歓迎しません」。勤務態度がよくないからだ。向き不向きもある。「熟女を売りにしている店でコギャル風はまずいし、SMクラブの女王様で清純可憐な少女風もまずい」
では、どのような子が風俗に向いているかといえば、やはり風俗の仕事が好きで、なにかしら楽しんでいる子だ。「何も喜びがないまま続けられる仕事でもない」
その点は客のほうから見ても同じで、美人でも性格が悪い子には、雑誌を見た客の指名はついても、本指名つまりリピーターはつかない。ソープのマネージャーは語る。「どの風俗でも同じでしょうが、最後はルックスじゃなく、スタイルでもない。行き着くところはハートです」。ソープの客が求めているのは「疲れた心を癒してくれる包容力とか優しさとか思いやりとか、昔から言われている情の部分ですよね」
風俗はホステス稼業とちがって、客に対する営業努力をあまり必要としないが、それでも、基本的には接客業なので、情と心の触れ合いが必要なのである。
このように、今の風俗は恐ろしいほど開放的になっているが、それでも親や夫にバレるのを心配する女性は多い。そのために、店はアリバイ専用の別回線を用意しておくという。もっとすごいのはアリバイ専門の会社があることだ。「この会社はまるっきり別の業種が本業になっていて、その会社で働いていることにしてくれる」。なんと、名刺や社員証まで発行してくれる。
未来の歴史家のみならず、現代の読者にとっても、風俗という秘境への最高のガイドブックである。タイトル通り、これから風俗に就職しようと思う女性にも最適である。
[#改ページ]
ストリップは男が集うタカラヅカ
あるとき同年配の編集者と新宿で飲んでからストリップ劇場の前を通りかかると、その編集者がやおら出演予定表(業界用語では香盤表というのだそうです)をのぞき込んで「〇〇ちゃんは明日か」とつぶやいた。
「あれ、ストリップに詳しいの?」と尋ねると、なんと「関東近県のストリッパーでぼくのこと知らなきゃモグリだよ」という驚くべき返事が返ってきた。なんでも、体が空いているかぎりはストリップ小屋巡りをして、好きなストリッパーの追っかけをやっているのだという。最近のストリップ事情に疎い私が「まさか生板《ナマイタ》で舞台にのぼるってんじゃないだろうね?」とツッコミを入れると、「まさか」と一言のもとに否定し、最近のストリップではそういう過激路線は時代遅れで、一昔前の歌謡ショーみたいな雰囲気になっていると説明し、最後にこう締めくくった。「一度行ってみなよ、すぐに良さがわかるから。一人じゃいやだったら、今度、ぼくが連れてってやる」
残念ながらその編集者は癌で亡くなり、ストリップに連れていってもらうことはできなかったが、以来ストリップはどうなっているのか、ずっと気掛かりになっていた。
星野竜太『ストリップパラダイス[#「ストリップパラダイス」はゴシック体]』(新紀元社 一六〇〇円)は、帯に「手拍子、ポラ撮影、差し入れ、リボン投げ、タンバリン/日本で初めての、大まじめな、ストリップ入門書」とあるように、いかにして、今あるような形のストリップを楽しむかについてのハウ・ツー本であると同時にストリップの現状に対する貴重なドキュメントとなっている。「まえがき」に簡単なストリップ通史が出ていて、我々が知っている「生板」などの「観客参加型」のストリップは七〇年代までの過去のイメージであると解説される。
「一旦、その過激さが行き着くところまで行った『ストリップ』は八〇年代中頃の『アイドルストリッパー』ブーム(美加まどか、清水ひとみ、影山莉奈などが登場)により、再び『見るストリップ』として活路を見いだすことになる。九〇年代に入ると、『AV女優』たちがストリッパーとして数多くデビューするようになった。この傾向は現在でも強く、どこの劇場でもトリはだいたいAV出身の踊り子だ」
どうやら、最近のストリップの変容のカギは、「アイドル化」と「AV女優」にあるらしい。それを理解させてくれるのが、常連ストリップ・ファンへのインタビューである。たとえば、東京都在住のG・S氏は、ストリップ劇場など一度も足を踏み入れたことがなかったのにビデオで見たAV女優のS嬢が出演していることをスポーツ新聞で知ると、生《なま》のS嬢が見たくて新宿に駆けつけ、以後S嬢の追っかけとなったという。ストリップ劇場は初めは暗いところというイメージだったのが、実際行って驚いた。「踊り子さんはみんな若くてかわいいし、応援なんかも賑やかだし、ショックを受けたというか、世界観が変わりました」
こうしてストリップの魅力に開眼した人がより完全なマニアに変身するのは、たいていは「ポラ」すなわちストリッパーをポラ撮影する「ポラロイドショー」に参加したことがきっかけらしい。もちろん、ポラ撮影には千円なりの割増が取られるが、一度、好きなストリッパーのポラを撮ると、そこからコレクションの情熱がスタートして、ポラマニアへの道を歩むことになる。この人たちはストリップそのものよりも「『ポラ』を撮ることを最大の目的として劇場に足繁く通っている」。そこでもコレクターの性癖がもろに出て、一人の踊り子のポラだけを集める人、ありとあらゆる踊り子のポラを撮る人と様々だ。大阪在住のポラマニアはすでにコレクションが一万枚を越えている。「なんと、今までにFさんは『ポラ』だけで数百万円を費やしている計算になる。劇場の入場料を合わせると安いマンションなら買える額、まったく頭が下がる思いだ」。なかにはMOに落としてパソコン管理している人もいるという。
この「ポラ段階」を卒業すると、次は「タンバリン段階」に入る。なんのことかといえば、踊り子の私設応援団として少しでもステージを盛り上げようと、拍手の代わりにタンバリンを叩くのだそうだ。この本には「タンバリン段階」にまで進む人のために「タンバリンの正しい持ち方」まで図解されている。そこからさらに進むと、今度は「リボン投げ段階」に到達する。要するに、歌手にテープを投げるようにストリッパーにリボンを投げて応援するのだ。ここでも「リボンの巻き方、持ち方、投げ方」が懇切丁寧に図解されている。
はて、これはなにかに似ているぞ。そう、今のストリップというのは女のタカラヅカに相当する幻想共同体なのである。いや、正確にいうと、これはすべての劇場芸術に共通する疑似恋愛幻想のパターンを踏んでいる。それを最もよく示すのが、片想いをしていた恋人、応援しているストリッパーN嬢、M嬢の三人がすべて同じ名であると気がついてそこに必然の糸を感じた岡山在住の高校教師K・H氏の言葉である。
「最初は一日だけのつもりだったのが、結局四日通って、楽日になる頃には、これから僕はこの人のために生きよう、と思うようになったんです。立て続けに同じ名前の人が三人目というのも、偶然にしてはでき過ぎ。神の導きじゃないか、とも思ってね。どう考えても、見えない糸で引っ張られて出会ったとしか思えない。というか、そう考えれば全てのつじつまが合う、ということなんです。(……)もう何年も前から、いずれ出会うことが決まっていたに違いないと……」
これを読んで、仏文系の人はまずジェラール・ド・ネルヴァルの『シルヴィー』『オーレリア』を連想するのではないか、つまり、「永遠の女性」のイメージを女優の中に見て、そこに運命の糸を感じたあのネルヴァルの夢想のパターンを。だが、狂人となったネルヴァルと異なって、K・H氏の理性は意外や健全である。
「とにかく僕は、縁の下の力持ちとして史上最強の『横綱』になりたい、というのが大きな目標ですからね。彼女を応援することによって、ステージを通して一体感を得られることが、現時点での最高の喜びです」
ふーむ、ストリップとは、かくも端倪すべからざる芸術なのであったのか。今度一度のぞいてみることにしようか。
[#改ページ]
正しい「変態人」とは
「欲望のためなら……」で紹介した睦月影郎氏と、ある雑誌で対談した。変態こそが正常と信じる睦月氏の定義を信じるなら、「変態人」とはフィニッシュを性交に求めず、おのれの性的幻想の充足をもって完遂と見なす人々のことを指すらしい。ゆえに、性交の興奮剤として変態行為を用いる連中は、正しい「変態人」とはいえず、「変態人」の邪道なのだという。「変態人」にとって、正常人こそが変態なのである。
こうした話を聞くと、なにがなんだか解らなくなってくるが、その解らなさを正常人の側から追究してそれなりに納得いく答えを見いだそうとしているのが別冊宝島編集部編『変態さんがいく[#「変態さんがいく」はゴシック体]』(宝島社文庫 六五七円)。九年前にムックで出た版の文庫化だが、変態は永遠に新しいのか古びた感じはまったくしない。肛門狂、猿ぐつわ狂、SM、切腹マニア、オナニー狂、女装マニア、ピアス狂、それにフェチ代表として睦月氏など多士済々だが、変態歴何十年のベテランが多いせいか、伝説の雑誌『奇譚クラブ』が原点にあることと、性交への興味が起きる前に変態性欲に目覚めてしまった点が共通している。
アナルマニアの横田氏は小学校六年生のとき、捨ててあった雑誌の「お尻の花電車」という記事と挿絵でアナルへの興味を抱く。
「小学生の子どもにはまだまだセックスなんてどういうものなのか分からへんかったからな。そやから、幼年期の子どもが初めて抱く性意識っていうのは、アナルへ向かうわけや」
要するにフロイトのいう典型的な肛門期固着だが、横田氏の例が興味深いのは、オナニーを覚えてもそれがアナル感覚とは結び付かなかったことだ。
「アナルに異物を挿入しながらオナニーをしたことはないというのだ。アナルの感覚はそれ自体で独立していて、前のほうとは切り離されているらしい。頭の中でアナルを責められている図を想像しながらオナニーをしていても、決して前と後ろを同時に刺激することはしなかった」
初体験で下宿の奥さんと関係してもなんの感動もない。これに対して、アナルではロシアとオーストリア混血のバレリーナが自宅で催した浣腸ショーで卵を肛門に入れて吐き出すプレイを女性観客の前で演じるという体験をして、これがその道に深入りするきっかけとなる。あとはひたすら探究心でアナル道に邁進。
「セックスは腰の辺りがほてってくるだけで、全身的な快感がないのな。それがアナルでやられると脳天まで響いてくるって感じやな。内臓が口から吐き出されるくらい押し上げられる感覚や。その圧迫感といったら、ふつうのセックスが馬鹿らしくなってしまう」
横田氏はアナルを責められるのも好きだが他人のアナルを責めるのも好きだから、雑誌の読者交換欄で知り合った女性とアナル・プレイも楽しんだが、この場合もセックスはナシ。
「浣腸された女性が苦悶している姿を見ていれば前のほうがオッタッテくることもあるけど、あんまり熱中していると勃起するのも忘れてしまうな」
こんな横田氏にとって昨今のアナルのファッション化は神聖なる肛門愛に対する冒涜と映る。
「本当のマニア同士がしのぎを削り合って探究し高め合っていくのが本来の姿やろ。それがいまの人たちはふつうのセックスにも飽きて、退屈やからアナルでもやってみようか程度の発想しか持ってへんのや」
性交への侮蔑と飽くなき探究心、これが由緒正しき変態の王道なのである。
このように、現在、性交はたしかに分が悪い。変態パワーが強まり、変態人の市民権が確立されると、性交はなんだか動物と同じ次元の本能充足でしかないようにさえ思えてくる。しかし、これに対して「待った!」をかけている人がいる。AV監督の代々木忠氏である。代々木忠の代表作ともいえる『プラトニック・アニマル SEXの新しい快感基準[#「プラトニック・アニマル SEXの新しい快感基準」はゴシック体]』(幻冬舎アウトロー文庫 五三三円)は、性交がつまらなく感じるのは、男も女も本当のオルガスムを感じていないからだと主張する。かつてのヴィルヘルム・ライヒのような思想だが、代々木忠のアドバイスはもっと実践的だ。それは精神のヨロイ、つまり男(女)はかくあらねばならないというエゴを捨てることから始まる。
「イケない女たちが増えている。だが、男たちはそれ以上にイケないのである」。射精はオルガスムではないのである。
「なるほど男にとっては、射精も快感には違いない。しかし、オーガズムは単なる排泄行為の一種ではない。普通の射精とは、快感の深さが比較にならないほど違うのである。だからオーガズムを体験すると、男が失神してしまうことも起こりうる」
ほんとかしら? そう思った方は、この本を読むと、そうかもしれないと思えてくる。本の構成は第二章が「SEXで女を失神させる方法」。第三章が「SEXで男も失神する方法」だが、いずれにも共通しているのは言葉の重要さである。言葉によって、相手のエゴをほどき、自分のエゴも取っていくのだ。だが、いったいどうやるのか? 答えはセックスの前に、お互いにエゴを崩壊させようという提案をしてみることだという。
「たとえば、オレがキミのお尻をなめたとしよう。そしたら(あっ、ふだんあんなにカッコつけてる人が見栄もプライドも捨ててくれてるんだ)ととりあえず思ってくれる? そこでキミが『オマンコもお尻の穴もなめて』と言ってくれたら、(もう全部捨ててくれたんだなぁ)とオレは感謝の気持で喜んでなめるよ。こういうことがすごく大事なんだよっていうことを読んで、オレ、そのとおりだと思うんだ。だからそういう気持で、きょうは言葉も行為もやってみようよ。それで何が発見できるか二人で確かめてみようよ」
セックスが究極のコミュニケーションならば、そのコミュニケーションを支えるのは言葉なのだ。
「言葉はSEXの基本である。それは本当の快楽への第一歩であり、その延長線上には間違いなくオーガズムが待っている」
[#改ページ]
男と女、結局どうすればいいのか
いやはや、たいへんな時代になったものである。セックスにおいて、男は女を楽しませるだけでは足りない。女に抱かれ、肛門をいたぶられ、女のように悶え、よがる存在にならなくてはならなくなったのだ。つまり、男はたんに男としてセックスに能動的に臨むだけではなく、女として、受動的にふるまうことまで要求されるようになったのである。
斎藤綾子・南智子・亀山早苗の鼎談集『男を抱くということ[#「男を抱くということ」はゴシック体]』(飛鳥新社 一四〇〇円)は、バイセクシュアル(男も女もOKということ)の作家斎藤綾子と性感マッサージで三万人あまりの男を悶絶させてきた作家・風俗嬢の南智子の二人に、ノーマルな「挿入至上主義」の性欲の持ち主である亀山早苗が、新しい時代の新しいセックス形態をたずねるというかたちを取った本だが、その中で主張されているのが、右の「思想」なのである。
男も「男」を脱いで「女」としておのれをさらけ出すべしというこの思想の前提にあるのは、男はペニスによりかかりすぎているという観察である。
「カメ[#「カメ」はゴシック体] 男の人のアイデンティティは、やはりペニスなんでしょうか。
南[#「南」はゴシック体] そうでしょう、きっと。でも、それに凝り固まっちゃうとまともなコミュニケーションをはかれなくなるんだけどね。『おれには、このでかいペニスがあるんだ』と誇りにしている人は、インポになったり、事故でチンチンがなくなったりしたら、きっとカクッと老け込むわね。
カメ[#「カメ」はゴシック体] 女は、それほどまでに男がペニスによりかかっていることを知りませんよね。実感としてわかりようがない」
南によれば、このペニス依存はあくまで社会的な刷り込みにすぎない。育つ過程で、男らしくあれ、たくましくあれという社会的命令が、屹立したペニスのイメージとしてインプットされるのである。
「南[#「南」はゴシック体] (……)自分自身の身体に聞いているんじゃなくて、社会的な常識、通念で自分の身体をはかってる。例えば、『男はペニスしか感じないものなんだ』とか、『男が身体を愛撫されてよがるのは変だ』とか、そう言われ続けてきて。
斎藤[#「斎藤」はゴシック体] それと、女をいかせるってことで、自分の『男』としての価値をはかっている人も多いよね」
この観察はきわめて正しい。まさに男はペニス信仰で生きている。世の多くの男性もこれには同意されることだろう。
ところが、この前提から導き出される結論は、これまでのセックス論とは相当にかけ離れている。すなわち、セックスとは、男がペニスで女をいかせて終わりなのではなく、次には女が男の他の性感帯、具体的にいえばアナルを指やペニスバンドで責めて、男をペニスとはことなる部分で悶絶させる、つまり女が男を「抱く」ところまで行かなくてはならないというのである。なぜなら、そのほうが、よりよく男女のコミュニケーションが成り立つから。
「カメ[#「カメ」はゴシック体] 男性たちも、もっと好奇心をもてばいいんですよね。ただ射精するためのオナニーを楽しむのではなく、相手とともに自分の身体を、より楽しもうとすることは自然なことだという認識が広まってほしいですね。
斎藤[#「斎藤」はゴシック体] うん。そのためにもちゃんとした情報を流すことが大事だよ。男性たちの中には、試してみたい、入れられたらどんな感じだろうという好奇心や欲求はあると思うんだ。お尻に何か入れられるというと、闇鍋みたいな恐怖があるかもしれないけど、最初は周辺を優しくなめるだけとかさ。『入れてみて』と本人が言うまで、マッサージする程度で絶対に指も入れないとか。そういう行為だと認識できれば、怖さは乗り越えられると思うんだよね。
南[#「南」はゴシック体] 私は、身体の中に侵入されるという体験をし、それを乗り越えてこそ、人は大人になると思うのよ。だから、怖くてできない人というのは幼いよね。それがコントロールできるくらいにならないとね。『男がいい年して、アナルバージンなんて恥ずかしいよな、子供っぽいよ』っていう時代が来るといいなとか思ったりして〈笑〉。
カメ[#「カメ」はゴシック体] それはすごい時代かも」
たしかに「それはすごい時代」だが、しかし、そんな時代が間もなく、本当に来るかもしれない。なぜなら、この先、男のペニス至上主義を弱めるものはどんどん増えてゆくだろうが、それを強めるもの、たとえば戦争や階級闘争などはどんどん少なくなってゆくにちがいないからだ。したがって、この点は、斎藤・南・亀山の三氏は心配なさらなくてもよろしい。
問題は、むしろ、逆のところにあるような気がする。男がペニスから撤退し、アナルに引きこもったとき、果たして、女はそれを我慢できるだろうか? より正確には、男が男をやめて女になりたがったとき、女に男の代理がつとまるのだろうか、また、女はたんに悶えるだけではなく悶えさせ「ねばならない」となったら、今度は逆のかたちでストレスが強まるのではないか。そして、そうなったら、問題は同じではないのか。
この点に関しても、実は、この鼎談には答えが用意されている。
「斎藤[#「斎藤」はゴシック体] 相手に対してどれだけ安心できるか。自分もリラックスできて、相手が自分の身体を楽しんでくれてることを幸せに感じられるかどうか。それが大事だよね。ただもてあそばれた、ひどいことされたと思うか、彼がすごく喜んでくれて、私もそれがすごく嬉しかった、と思えるか。そのへんは男も女も同じじゃないかな」
要するに、「かくあらねばならない」と社会・心理的な鎧を心にかぶせてセックスするのが、男女のいずれにとっても一番よろしくないというわけだ。
「南[#「南」はゴシック体] 結局、どうしていけばいいのかというと、相手を真剣に見ていく、観察していくということしかないと思うのね。すべてのカップルに共通の、こうすれば絶対いい、うまくいくというテクニックなんか本当は存在しなくて」
セックスにおける絶対的相対主義。解決はどうやら、これしかないようだ。
[#改ページ]
初めて会った人とその日のうちに……
以前、この連載でもとりあげたと思うのだが、ボノボとよばれるピグミー・チンパンジーは本当にセックスが好きで、発情期でなくとも年中セックスをしている。しかも、ホモもレズも、アナル・セックスもフェラチオもあって、セックスが生殖とは切り離されている点で、人間とまったく同じなのだそうだ。そして、そのボノボの行動を観察していると、ボノボにとってセックスとは、お互いに円滑にコミュニケーションを図るための「通貨」のような役割を果たしていることがわかるという。
「ふつうの女の子!101人が!語る!」というそのものズバリの副題のついたインタビュー集『あたしのセックス白書[#「あたしのセックス白書」はゴシック体]』(マガジンハウス 九五二円)を読んでいくと、セックスのほぼ完全な自由を得た日本の女の子は、あきらかにボノボ化しつつあるようだ。つまり、セックスはもはや生殖のための手段でも、快楽を得るための方法でもなく、他者とコミュニケーションを取るための一手段にすぎなくなっているのだ。
「その人は、友だちの友だちなんだけど、クラブで紹介されて、その夜、彼の家に一緒に帰ったときに『付き合おう』ってことになって、Hもした。それから自分の家に帰って、電話で『彼女って思っていいの?』って聞いたら『いいよ』って。でも、その次の日、むこうがいろいろ考えたらしくって『好きな人がいる…』って言われて…。というわけで、終わったんだけど(笑)。早過ぎる?? そんなの付き合ったうちに入らない???」(ゆきみ 19歳・学生)
彼女たちにとって、これがもっとも普通の「セックスへと至る道」である。ウソだとお思いになるなら、任意のぺージを開いてみれば、どこも判で押したように、こんな言葉があふれている。
「初めてエッチしたのって、友だちの紹介で初めて会った人とその日のうちに…だったんだ〜。友だちに『イイ人いるから会ってみなよ』って言われて、まあ、タイプじゃなかったらすぐ帰ればイイか≠ンたいな気持ちで会うことにしたの。そしたらタイプだった(笑)。それで、その人に車で自分の家まで送ってもらうはずが、まあ時間もちょうど良かったし(笑)、彼の家に直行(笑)。そのまま彼の部屋に上がり込んじゃった」(アユ 20歳・フリーター)
もっと直截的な言葉もある。
「昔はつきあう前にエッチしてたんだけど、今はつきあってからやるようになったな」(ナンシー 24歳・フリーター)
要するに、彼女たちにとってのセックスは『万葉集』の時代の「まぐわい」、つまり目と目があったら、それはそのままセックスへ直行することを意味しているのである。
だが、そうなると、ここで一つ問題が生じる。ボノボ化した日本人の女の子は、果たして本当にセックスに快楽を感じ、オルガスムに達しているのだろうかということである。なぜなら、セックスが最も気軽に使えるコミュニケーションの通貨と化したなら、それは逆に「快楽=オルガスム」から彼女たちを遠ざけるのではないかと思われるからである。
そう考える一つの根拠は、清水ちなみ『大えっちデラックス[#「大えっちデラックス」はゴシック体]』(扶桑社 一三三三円)の次のような統計である。すなわち「イク≠チてやつの自覚は?」という問いに対して、「自覚している」という答えが五八・八%、「よくわからない」という答えが四一・二%で、実に四割以上の女の子がオルガスムを知らないのである。また、これは統計がないので分からないのだが、「自覚している」と答えた約六割の女の子のうち、オナニーないしはクンニリングスによるクリトリスへの刺激でオルガスムは感じてはいても、性交では一度もオルガスムを味わったことがないという人が相当数いると思われる。
この問題を正面から扱った統計は意外に少ない。とくに日本ではまだ見たことがない。しかし、さすがにアメリカでは問題の所在を心得ていて、女性たちにとって実は最も深刻な悩みであるこの「性交でのオルガスム」を調査項目に加えている。有名なシェア・ハイトの『オーガズム・パワー 真実の告白/ハイト・リポート[#「オーガズム・パワー 真実の告白/ハイト・リポート」はゴシック体]』(祥伝社黄金文庫 六六七円)にはこうある。
「この調査の対象となった女性のうち、クリトリスへの刺激なしに、膣内へのペニスの挿入とピストン運動からなる性交の際、いつも達することのできる人は、たったの三〇パーセントしかいないということがわかった。(……)クリトリスへの刺激を欠いた単なる性交だけで、必ずオーガズムに達することができる女性は例外的であって、性交でオーガズムを得るのは、決して当たり前のことなどではないのである」
これは男たちにとって驚くべき数字ではないだろうか? オレはセックスがうまいから、オンナはヒーヒーいってイキまくっていたと思い込んでいるあなた、それはまったくの幻影ですよ。女たちの七〇%は性交のピストン運動ではオルガスムに達しないんです。たしかにヒーヒーいっているかもしれないけれど、だからといってオルガスムに達したわけではないのです。その点をよく考えるように。
ところで、この「性交で女性もオルガスムを得るはず」という神話は女性にとっても相当の重荷になっているようだ。
「男性とベッドを共にしていて、オーガズムを得たことがあるのかどうか、自分でもよくわかりません。マスターベーションのときのような感じだとしたら、私はオーガズムに達していないことになります。私は正常じゃないことになるのでしょうか。教えてほしいと思います」
その結果、イッタふりをする女性が圧倒的に多くなる。
「彼が、私に『イッタか』と聞いたときには、『イッタわ』と答えました。『何回イッタか』と聞かれたときには、私には『全然イカなかった』と言う度胸はありませんでした」
ここから、ハイトが下す結論は以下のようなものである。性交によって女性がオルガスムを得ることはきわめて少ない。ゆえに女性は、性交中でもクリトリスに自分で刺激し、オルガスムに達するべきだ。
そうだろうか? 少なくとも私は、確実に女性にオルガスムを与えることのできる性交体位を知っている。知りたい人は、現金書留に「百万円」を同封の上、「解答 希望」と書いて私あてに送ること。折り返し、ご返事いたしやしょう。
[#改ページ]
女が「買う」と
女の性意識が高まるにつれ、必然的に出てくるのが、女が男を「買う」買春である。
女の売春の場合は、これを全面的に肯定しかねるフェミニスト・サイドからも、男の売春については、できるものなら自分も買ってみたいという声も出ている。たとえば、女性用のアダルトグッズの店『ラブピースクラブ』を経営し、雑誌『バイブガールズ』を編集しているフェミニスト北原みのりの『フェミの嫌われ方[#「フェミの嫌われ方」はゴシック体]』(新水社 一四〇〇円)には、AV女優が女性用ソープでサービスされる『逆ソープ天国』というビデオを借りてくるエピソードが語られている。「ショウ君がマメマメしく働く姿が、なんともいとおしく、そしてローションまみれになりながら女優があえぐ姿を見ながら心から、『ああ、うらやましいぞぉ! 私もバビロンに行きたいよぉ!』と、思わず叫んでしまうのである」
だが、現実に、そうした女性用風俗店に行くか、ということになると話はまたちがってくるらしい。「しかし、どんな男か分からない初対面のオトコに、それに、もしかしたら、素人に毛が生えただけの、ただ自分が楽しみたいだけの、気持ち悪いオトコかもしれない!? なんでリスクを背負ってまで、セックスをしたいのか? と自分の身体に聞いてみると『そうでもないなぁ』と、身体は言う。『お金がもったいないよね』と頭が言う。『って理由で、私、風俗になかなか行けないんだよねぇ』と、私はヨシオに言ってみる。すると、ヨシオが鼻で笑った。『ケチだよねぇ。オンナの風俗が発展しないわけだよ』」
たしかに、女性用風俗が存在しても、チェンジを要求する女がやたらに多くて、少数の風俗ボーイに人気が集中する恐れはたぶんにあるだろう。
しかし、実際のところはどうなのだろう。ムック『体験読本 「出会い系」オンナを喰う方法[#「体験読本 「出会い系」オンナを喰う方法」はゴシック体]』(英知出版 九五二円)には、「なぜか気になるあの仕事 出張ホストってど〜なってるの?」という記事があり、出張ホストクラブの老舗『セフィロス』の売れっ子の二人のホストの生活と意見を載せている。客から電話がかかると携帯に連絡が入り、ホストは約束の現場に向かう。デリヘルと同じである。料金は一時間一万円。意外に安い。ホストクラブだといくらつぎ込んでも「やってもらえない」ケースが多いそうだから、これはお得だ。で、北原みのりさんが心配していたホスト氏の内容はというと、「顔だし」されている写真を見る限り、いずれも感じの良さそうな青年だ。一人はホスト歴半年のロン毛の美青年の石井さん。もう一人は精悍な印象の輝さん。二人とも普段は会社勤めで、日曜に出勤。輝さんが月五、六万、石井さんは四万程度というから、たいした収入ではない。にもかかわらず、この仕事を続けているのは様々な女性に会えるからだという。ホストになによりも必要なのは、ルックスや性《ヽ》力よりも、女性をリラックスさせる会話術と聞き上手であるということ。もちろん、ありとあらゆる欲望に対応できる臨機応変のセックス能力も不可欠ではある。「二〇代くらいの女性を〈この雌豚が〉とか、サディスティックな言葉を吐きながら荒々しく攻めました。セックス以上に僕の言葉でウットリしていたみたいです」。またオナニーを見てくれというだけのリクエストもある。「股の間に僕を座らせて、オ〇〇コを丸出しにしながら、指やバイブを入れて悶えまくっていました。(……)結局その日は、ベッドの前に座ってビールを飲みながら、オナニーを黙って見ているだけでした」。さらに、たとえ猛烈な悪臭がある場合にもプレイは拒否できない。「クンニのときに〈舐めて〉って言われたときには、生ものが酸っぱくなったように臭いがきつくて、プレイに持ち込めるのかが不安になるくらい大変でした」。にもかかわらず、輝さんは最後まで奉仕したというからさすがプロ。ところで、こうしたホストにとって一番困ることは、客が本気で惚れてくることだという。もちろんホストのほうでも恋心を感じることは御法度なのだ。
しかし、そこは男と女、疑似恋愛が疑似でなくなることもある。そうした出張ホストとの恋を描いた小説が橘聖華『パトロンヌ[#「パトロンヌ」はゴシック体]』(鳥影社 一四〇〇円)。
語り手は二十三歳の出張ホストのトモヤ。アメリカ人の血がまじっている長身のクォーター。「バスケとテニスで鍛えた肉体。ひとなみ以上に逞しいペニス。一瞬怖がられるほどの、鋭い眼差し」というから、まあ理想のジゴロであるわけだ。冒頭からジゴロ君の仕事ぶりが描かれる。この語りの構成はなかなかいい。結合部分を見たいからメガネをとってくれという客の女の要求にも彼は忠実に従う。「俺に見下ろされた格好で、女は、トモくん、イッちゃーう、と叫んで、失禁しながら失神した。おしっこの匂いが、部屋中に漂う。(……)しかし、俺は歳の頃五十代後半のババアの姿を見ながらつくづくと思った。こんな女に勃起できる俺って、天性のジゴロなんだろうな。だって、俺と同世代の男だったら、余りのおぞましさに勃つどころか、縮み上がっちゃいそうだもん」
このジゴロ君があるとき、SMの女王もしている二十九歳のジャズ・ピアニストに買われる。その名前がなんと聖華。ということは、このジゴロを買ったのが著者自身ということか? まあ、それはさておき、この聖華という「買い手」の装束もなかなかにすごい。
「豹柄のロングドレス、太股のつけ根にまで深く入ったスリットからは艶めかしい脚がチラチラと見え隠れしている。締まった足首には、アンクレットを光らせて。蝋人形のように白い肌。胸元は、大きく開き、乳が半分はみだしている」というから、男を買う必要もなさそうだが、やはりストレス解消には「買春」が一番だということなのか。
で、最後は二人がルール違反の恋に落ちて、傷つけあうという逆『椿姫』の結末に至るのだが、この小説を読んでわかるのは、最初にセックス、しかるのちに愛という形式の事後恋愛が、女が「買う」場合には、男以上に生まれやすいということだ。女には浮気心はあっても、数をこなすとか、新奇な刺激を求めるとかいう傾向がない。ゆえに固定客からすぐに恋愛へということになる。男と女の立場が逆転して同じような風俗が現れても、その結果は同じではない。セックスは非相似形だからである。
[#改ページ]
女は「する」けれど男は「見る」だけ
もうだいぶ昔のことになるが、血統書付きの大型犬を飼ったことがある。子犬のうちはよかったが大きくなると手におえなくなった。そこで、調教に出すことにした。一月七万円の授業料で三カ月調教師に預けるのである。やがて調教師のいうことならなんでも聞くまでに訓練された。ところが無事卒業して帰ってきた犬は、私の命令などまったく聞こうとしない。調教に出す前と同じである。要するに、調教師の言うことには従うが、私の言い付けには耳を貸そうとしないのである。そこで、結論。犬を調教するなら、飼い主も調教されなくてはいけない。
いま話題沸騰の渡辺淳一『シャトウ ルージュ[#「シャトウ ルージュ」はゴシック体]』(文藝春秋 一五二四円/文春文庫 六六七円)は、日本人の医師である夫の密かな依頼で、美貌の妻月子が人里離れたフランスの古城の中に監禁され、セックス・エキスパートのフランス男たちによって調教《ドレサージュ》を受けて性の快楽に目覚めるが……というストーリーだが、その道具立てからして『O嬢の物語』のようなSM小説かと思うと、これがまったくそうではないらしい。
というのも、セックス嫌いの妻の調教を依頼する夫にも、また、妻にもSMの気がない(少なくともそう見える)ばかりか、作者にもその傾向はないからである。つまり、これは、どこをどう押してもSM小説ではないのである。
では、いったい何がテーマかというと、これが意外に重大な今日的問題なのである。すなわち、夫婦間でセックスがうまく行かなかった場合、他者の、つまりセックスのプロである第三者の手を借りて訓練を受けるべきか否か、そして、訓練を受けた場合、果たして、その後の夫婦生活がうまく行くのか否かというきわめて切実な問題である。
なぜ切実かといえば、昔とちがって、女性たちがセックスで快楽を、とりわけオルガスムを得るのが当然という前提がある今日において、夫たる男たちには、かならずしもそれを妻に与える能力がないというのが現実だからである。女性たちのセックスの快楽に対する欲求と、オルガスムへのイメージだけが先行し、男たちの能力がそれに付いて行けなくなっているのが今日の日本のセックスの状況なのである。
『シャトウ ルージュ』はこの問題をできる限り派手な舞台設定を選んで展開している。
病院勤務の医師である「僕」は、資産家の一人娘の月子と結婚するが、ミッション・スクール出で気位の高い月子はセックスに関心を示さないどころか、これを嫌悪して、夫婦の交わりを拒否する。「僕」は月子のセックス嫌いの原因は、キリスト教的禁欲が月子の心と体に染みこんでいることにあると思い込み、その殻を外側から無理やり破ってもらうには、「調教」を職業とするあるフランス秘密結社の手に月子をゆだねるほかないと決意する。
その「調教」が行われるのが、フォンテーヌブロー近くの城、シャトウルージュである。「僕」は車でシャトウルージュまで出向き、マジックミラー越しに、妻が仮面をかぶった男たちによって調教され、快楽を感じていくのを観察する。
「月子のまわりを取り囲んだ四人の男は、示し合わせたように、それぞれ好き勝手なところに触りだす。まずライオンは月子の柔らかな胸元に、鳥は長身を利用して月子の頬から首のあたりを、そしてハリネズミはうしろの背からお尻のあたりを、さらに背の低い羊は月子の股間の繁みに手をさしこむ。
瞬間、月子の『あっ』という声が洩れてきて、僕は思わず叫ぶ。
『やめろ、なにをするのだ』」
「僕」は「この淫靡で卑劣な情景」を眺めていることができなくなって、シャトウルージュを立ち去るが、そのとき、自分のペニスが激しく立っているのに気づく。そして、道端に車をとめてシャトウを見上げながら自慰にふける。
ここで、この小説の第二の問題が浮上する。それは、愛する妻や恋人が他の男に抱かれている姿を見たり想像したりするとき、男はなぜ興奮するのかという問題である。「僕」も何度も「やめろ」と叫びながら、そのたびにオナニーしてしまう自分に恥じいる。
「こんな姿は見たくない。断じて許せないと、僕は歯ぎしりするが、そんな僕をせせら笑うように月子は大胆さを増し、反り返ったまま目は虚ろに、口は半ば開き、走り出した車は停まらぬように喘ぎ声は一層激しくなり、最後に断末魔のような叫びとともに、全身を震わせる。
月子が男の上に乗ったまま、果てていく。
そう思った瞬間、僕は一物を握り、月子の高く引きつる声とともに頂点に達し、次の瞬間、月子が果てて体の支えを失ったように男の胸に倒れこむと同時に、僕もゆき果てる」
これは「僕」に限ったことではなく、男性の一般的な傾向であり、その行き着く先が、スワッピングなのである。スワッピングをする男は、他人の女を抱きたいがためではなく、自分の女を他の男に抱かせて、その姿を見たいがためにこれを実行するのである。
しかし、そうなると、今度は、「見る」快楽のほうが「する」快楽を上回るようになるから、男は、女が自分の元に戻っても、満足はできなくなる。もちろん、女のほうも、元の男より、調教を施してくれた男のほうが、プロであるだけに好ましくなる。
したがって、妻や恋人を調教にゆだねる場合、守らなければならない規則のようなものがあるような気がする。一つは、男のほうも、調教を受け、セックスのテクニックを学ぶこと。もう一つは、妻や恋人の調教姿を見過ぎてはいけないということ。
いずれにしろ、現代の性のテーマを真正面から、しかも、きわめてわかりやすいかたちで取りあげた問題作である。
[#改ページ]
あちら側の愛、こちら側の愛
この欄を担当して、すでに長いが、出そうで出ないのがエロティック文学、とりわけSM文学の傑作である。それがついに出た。みうらじゅん『SLAVE OF LOVE[#「SLAVE OF LOVE」はゴシック体]』(ぶんか社 一四〇〇円)は、SMたらんと欲して、結局あちら側に突き抜けることができず、こちら側の愛にとどまってしまう仮性S男のとまどいを描いた悲喜劇である。
ロックバンドのヴォーカルの「僕」は、ライブの打ち上げに急ぐ路上でモデルのような女性に声をかけられる。「あのぉ…御主人様になって下さい…」。追っかけのファンと勘違いした「僕」が打ち上げの酒席に誘うと、その女、M子は従順についてくる。酒に酔った勢いでサドの血が騒いだ「僕」が「じゃ、今夜は俺の奴隷になれっ!」と言うと、女は「うれしい…」と答え、ホテルでのプレイのあいだ「一生、御主人様の性処理奴隷として奉仕します! 御主人様のお好きな時に呼び出して、お好きな穴で処理して下さいっ!」と叫び続ける。
ところが、翌朝、ふとんの横で犬のように身体を丸め寝ているM子をいとおしく思った「僕」が「好きだよ!」と耳元で囁くと、そのとたん、M子は突然体を起こし、「ダメです! そんなことをおっしゃっては!!」「ど…どうして?」「御主人様だからです!」。真性マゾでSMクラブに勤めるM子は、御主人様と奴隷以外の関係を受け付けようとはしないのだ。
以後、無理やりS男に仕立てられてしまった「僕」と、御主人様であることを厳しく要求するM子との奇妙な追いかけっこが続く。「僕」にはノーマルな婚約者真理子がいて、ときに普通の日常生活へ復帰したいという願望を抱くが、M子はストーカー的に「御主人様」であることを強要し、「僕」のノーマル・ライフはかき乱される。やがて、M子の自殺未遂に続いて出現した「伯父」の暴力から逃れた二人はビジネス・ホテルの中でようやく普通の会話を交わす。
「『愛しているのか?』『ワン!』M子はプレイの時のように跪き、僕の顔を見上げながら頭を垂れた。『でも…』『でも、何だ?』『でも、奴隷には愛しているという意味がまだよく分かりません。御主人様、いつか教えて下さい』(……)『じゃ、おまえの御主人様でいてやる』M子との付き合い方が少し分かった気になった。僕は出来る限りの優しい笑顔で、そう言った。『ワン! 一生、奴隷でいさせて下さい』」
青森の故郷に帰ったM子から、毎日「伯父」に犯されていると助けを求められた「僕」は、バンド活動もなにも放りだし青森に向かうが、着いてみると、伯父などおらず、M子の性癖は承知しているという「父親」から結婚を勧められてしまう。奴隷になりそうなのは「僕」のほうなのだ。
「結局、僕のS≠ヘサドの意味ではなく、M子に対するサービスのS=Bマゾが期待することを先読みしてプレイを施しているだけ。僕はノーマルなS、アブノーマルなMに調教を受けているに過ぎない」
愛などいらない、SMだけが欲しいというM子に対して、「僕」は「愛」に過剰な幻想を抱いていたのだ。
「過激なSM行為の後の虚しさは、ノーマルなセックスの比ではなく、いやがうえにも戻らなければならない現実とのギャップが猛威をふるって襲ってくるのだ。M子は墓地で放尿した後『ご褒美を下さい、御主人様』と哀願した。こちらに性衝動が無い時のうざったさはオレは一体こんな所で何をしてるんだ?≠ニいう現実から取り残された激しい焦りを覚えた」
本書がたんなるSM小説を離脱して、解説の山田五郎のいうところのSM「純文学」に変身するのは、こうした瞬間だ。「不幸なことに不幸がない」状況にいらだって、向こう側に異常を求めたサブカル世代。その究極の憧れであるはずのSMという「異常」にさえのめり込めずに、こちら側に跳ね返されてしまう「不幸な」世代の記念碑的な傑作といっていい。
ところで、『SLAVE OF LOVE』は、後半、友人への奴隷の「貸し出し」を巡るドラマへと変わっていくが、どうやらSMの究極の姿はここにあるらしい。それを教えてくれるのが荒玉みちお『目線の恋人[#「目線の恋人」はゴシック体]』(ソフトマジック 一二〇〇円)。素人カップルが自分たちのセックス写真を投稿して、紙上での露出プレイを楽しむ雑誌『ニャン2倶楽部Z』では、プライバシーを守るために、写真の女性の目の上に黒い線を引くが、これが業界でいうところの「目線」である。
「目線の恋人たち」は、やがて、投稿だけでは飽き足らなくなり、編集部が企画する≪出張マニア撮影≫に応募してくる。その撮影会は、屋外に出て人目を気にしながら破廉恥な行為に及ぶ≪露出プレイ≫と、恋人を大勢の見知らぬ男たちに「貸し与えて」相手をさせる≪輪姦プレイ≫からなる。本書は、その撮影会に応募してきた恋人たちへのディープなインタビュー集である。
なかで、出色なのは投稿歴十数年で、「男根アイドル」の座を保ちつづけているドルフィンライブ夫妻の紹介である。西日本の地方都市に住むドルフィンライブの妻は、夫の慫慂《しようよう》によって、超ミニスカ・ノーパンでコンビニで買い物をし、学生アルバイトのほうにお尻を突き出して鑑賞させる。夫はその光景を見て楽しむ。「僕は、そのときのレジの学生さんの目と顔を見るのが楽しみです。彼女も、撮影が終わった後に、『あの人、どんな顔してた?』と嬉しそうに聞いてきます。もう、病みつきみたいです」。ただし、このドルフィンライブの妻はマゾヒストではなく、ノーマルな性欲の持ち主である。最初はしつこくせがむ夫に根負けして露出を始め、次に夫の選んだ恋人へ「貸し出され」て、それなりの快感を味わって帰ってくる。このとき、写真とビデオで行為を撮影してくることが絶対的な条件となる。「自分の妻が他の男に犯されていると、客観的に第三者として見るのが楽しいんです」「愛人に会いに行くときは、ほとんど妻一人で行かせます。僕は、あとで観るビデオで十分です」
こうなると「貸し出し」はSなのかMなのか、にわかに判断がつかなくなる。何事も、極めると、境界線は消え去って、抽象的な「幻想」だけが残るのかもしれない。
[#改ページ]
ああ 我がエロスの原点
「エロスの図書館」の連載も今回が最終回。というわけで、我がエロスとのかかわりの原点である昭和三十年代のエロ本との遭遇あたりで締めくくりたいと思っていたら、こちらの密かな願望をかなえるかのように突如出現したのが『あかまつ別冊 01 戦後セクシー雑誌大全〔実話と画報・篇〕[#「あかまつ別冊 01 戦後セクシー雑誌大全〔実話と画報・篇〕」はゴシック体]』(まんだらけ出版 一八〇〇円)。発行所の名前からわかるように、漫画の古本屋として知られる「まんだらけ」の古川益三が発行人となって出した季刊ムックである。
対象となっているのは、『週刊新潮』が創刊されて週刊誌ブームが起こった一九五六年から一九八〇年の自販機本の終焉までの二十四年間に国内で発売されたエロ雑誌で、前半が出版社別に分かれた各雑誌のグラビアによる紹介、後半が雑誌記事の抜粋という構成だが、その中間に挟まれた当時の関係者への「あかまつ」編集長によるインタビュー「エロ雑誌をめぐる人びと」が文化史的に見てもきわめて貴重な資料となっている。
まず登場するのは現在もこの分野で出版を続けているサン出版の創設者で会長である宮坂信氏。宮坂氏は吉行淳之介が編集者をしていた『読切倶楽部』の版元三世社に昭和二十八年に入社して『実話雑誌』を手掛ける。ところが、これが売れない。どっちみち売れないのなら、思い切ってガラリと誌面を変えようと試みたのだが、そのときインスピレーションの元になったのが、意外なことにアメリカ兵相手のガーリー・マガジンであるという。
「宮坂[#「宮坂」はゴシック体] (……)その頃、ちょうどアメリカの雑誌がたくさん日本に入ってきたんです。まだ占領下で、進駐軍がたくさんいた頃ですからね。で、アメリカの雑誌を見たらね、ちょっとびっくりしちゃって。あまりにもかけ離れてて、進んでて。日本の雑誌っていうのは、当時活字ばっかりでしたから。
──野暮ったいわけですか。
宮坂[#「宮坂」はゴシック体] 一〇年か二〇年遅れてるなと思ったわけ。アメリカの雑誌は、あの頃からヴィジュアルだったんですよね」
では、宮坂氏はどこでこのアメリカの雑誌の存在を知ったのか? 友人の野田開作という『実話雑誌』の人気ライターが進駐軍のアメリカ兵が捨てていった雑誌をもたらしたのだ。この野田開作氏へのインタビューも載っている。
「──当時、そういう雑誌をどこで手に入れてらしたんですか。
野田[#「野田」はゴシック体] 進駐軍の放出物資。僕が居候してた家が、材木座(鎌倉)のハワイボーイ……ハワイ二世でね。岩本っていうんだけど。(……)
その岩本が、兵隊が読み捨てた雑誌を僕に持って来てくれてね。ものすごい品の悪い雑誌ね。大物スターが乳繰りあってたりするの。こんな面白い雑誌があるのかと思って。
(……)
野田[#「野田」はゴシック体] それで、もう、ただ面白がってこれは使える、これも使える、なんてやってた時に、たまたま、宮坂と知り合うわけですよね、三世社で。それで、宮坂が、『実話雑誌』を面白くしなきゃあっていうんで、アメリカの雑誌からネタを盗んで書き始めるわけですよ」
『実話雑誌』がこの方針で誌面を一新するや、二、三万部だったものがいきなり十万部の大台に乗る。すると、それを見た他の出版社が柳の下のドジョウを狙って一斉に同じようなエロ雑誌を創刊する。かくして、『実話と秘録』『実話特報』『実話情報』などの実話雑誌の全盛となり、やがて、昭和三十年代から四十年代にかけて私が身をもって体験したような怪しくも美しいエロ雑誌の百花繚乱を迎えることになる。その原点は、進駐軍の兵隊が捨てていったガーリー・マガジンにあったという新事実がこうして解明されたわけである。
「エロ雑誌をめぐる人びと」には「日本一下品な雑誌『漫画Q』と新樹書房の光芒」と題した藤木TDCによる記事が載っているが、これもなかなか面白い。というのも、この新樹書房発行の『漫画Q』は、たしか一九六九年の暮に神田の猿楽町の坂下にあったジャズ喫茶『コンボ』で読んで、その無茶苦茶な下品パワーに圧倒された記憶があるからだ。とくに、その『臨時増刊 週刊漫画Q セクシー怪獣大暴れ』には度肝を抜かれたのをよく覚えている(この『セクシー怪獣大暴れ』は後に単行本化され、現在、その復刻版が出ている。島竜二・菅沼要作画、近藤謙原作『モンド・エロチカNo.01 セクシー怪獣大暴れ[#「モンド・エロチカNo.01 セクシー怪獣大暴れ」はゴシック体]』太田出版)。
長い間、私はこの『セクシー怪獣大暴れ』という世にも珍奇な傑作がいったいどのような頭脳に宿ったのかと疑問だったのだが、このインタビューでようやく真相を知ることができた。七〇年代後半に『漫画Q』の過激な下品路線を作った名物編集長渡辺芳樹の元で編集者をしていた真辺松雄氏(白夜書房『ダンスファン』編集長)は『漫画Q』の基礎を築いた伝説の人物についてこう語っている。
「長峰洋一郎さんといって、もともと新樹の看板雑誌だった『週刊特報』を作った人ですが、僕が入社した頃はもう新樹を辞めていました。『セクシー怪獣大暴れ』などの漫画原作者の『近藤謙』は、長峰さんのペンネームです。渡辺さんのセンスは、長峰さんの影響が大きかったんじゃないですか」
なんと『漫画Q』の発案者が『セクシー怪獣大暴れ』の原作者だったのである。
インタビューアーはさらに、「実話誌における描き文字の重要性について検証する」として、描き文字の名人山田文男氏と橋本慎一氏からも回想を聞き出しているが、これも出版史にとっては貴重な証言。
どの部分をとっても、我がエロスの原点にズンズンと響いてくるありがたい一冊である。
[#改ページ]
あとがき
いまから四年ほど前、『文藝春秋』編集部の鈴木康介さんから、エロス関係の本だけを取り上げる書評のページを担当してみないかと提案された。鈴木さんは、私が『週刊文春』の「私の読書日記」でときどきこの手の本を書評していたことから、アイディアを思いつかれたのかもしれない。
私としては、エロス本を書評することに関してなんの抵抗感もなかったのだが、一つ大きな問題があるように思えた。毎月書評するほどの本が出ているのかという疑問である。とくに、最初の頃は、毎月三冊というのがノルマだったから、おおいにこの点を危惧した。
もちろん、たんなるエロ本、つまりポルノ小説だったら、毎週山のように出版されている。しかし、私としては、どうせなら書評を通しての日本のセックスのフィールド・ワークのようなものを試みたいと思ったので、普通のポルノ小説ではなく、ノンフィクションにしろ、フィクションにしろ、現在の日本のセックス状況が露呈されているような本がほしかった。だが、そんな本が毎月、おあつらえ向きに見つかるのか?
ところが、いざ始めてみると、心配はまったくの杞憂だとわかった。とくに、女性が書き手となったり、対象になったりするエロス本は、予想をはるかに越えた点数が出版されており、時代は変わったことを痛感させられた。
おかげで、一年の約束だった連載が二年になり、三年になり、ついには四十二回まで続くこととなった。
やがて、こうして数を重ね、量をこなすうちに、当初には予想もしなかった効果があらわれ始めた。毎回、できるかぎりヴァラエティを持たせようと腐心した結果、セックスに関するありとあらゆる分野がカバーされるようになったのである。一言でいえば、本当に「エロスの図書館」ができあがったというわけだ。
しかも、それはかなり総合的な図書館で、検索キーで探せば、たちどころに、これこれの分野のエロス本があらわれてくる。とりわけ、こうして一冊にまとまったかたちのものとしては、絶後とはいわないが空前であることは確かだ。われながら、なんという本を書いてしまったのかとあきれるほどである。とにかく、セックスに関してないものはほとんどない(ホモ、レズ関係は若干手薄だが)。
というわけで、このエロスの総合図書館を『オール・アバウト・セックス』と名付けることにした。先に上梓した対話集『オン・セックス』と併せて読んでいただければ幸いである。なお、本にするにあたっては、読みやすさを考慮して、編年体ではなくテーマ別に編集し直したこと、および『週刊文春』二〇〇一年八月十六・二十三日合併号に載った鼎談を併せて収録したことを付記しておく。
最後に、あしかけ四年にわたり連載の面倒をみてくださった鈴木康介さん、それに、本にするに当たってお世話いただいた岡みどりさんに、この場を借りて、感謝の言葉を伝えたい。
二〇〇二年二月二日
[#地付き]鹿島 茂
[#改ページ]
文庫版のためのあとがき
このたび、文庫化されるに当たって、もう一度、全体を読み直してみたが、特に古びているという印象を受けなかったのはどうしたことだろう。連載開始から七年、単行本となってからも早三年たつというのに、セックスに関する状況はそれほど変化しているようには見えない。連載中に確認した世紀末のセックス状況は、すでに行き着くところまで行ってしまっていたということなのか?
ただ、取り上げた本の多くが絶版ないしは品切れになっていることには時代の流れを感じざるをえなかった。その後に文庫化されたものも含めて、今日では入手しにくくなっているものは少なからずあるようだ。これはロングセラーというものを許さない今日の出版事情もおおいに関係しているのでいたしかたないことかもしれないが、残念なことではある。
しかし、それゆえというべきか、にもかかわらずというべきか、本書がすでに時代を映す一つのドキュメントとなっているとだけは確言できる。私が書評に取り上げ、引用をしたことにより、資料として残った本もままあるからだ。
この意味で、本書は、エロス本を通じてのフィールド・ワークという目的を二重に果たしたと「結果的」にいうことができるだろう。つまり、その現実の状況の反映として、もう一つは出版の状況の反映として。
文庫化に当たっては、文藝春秋出版部の川田未穂さんにお世話になった。記して感謝の言葉を伝えたい。
二〇〇五年一月一日
[#地付き]鹿島 茂
[#改ページ]
書名一覧
ア行[#「ア行」はゴシック体]
愛奴
愛の家のスパイ
青いサファイヤ
血《あか》い花
赤い帽子の女
あかまつ別冊 01 戦後セクシー雑誌大全
あたしのセックス白書
アダルト系
アダルトビデオ 村西とおるとその時代
アダルトビデオジェネレーション
あなたがほしい
阿部定行状記
ある日突然、縛られて
イート・ミー
一万一千の鞭
イマージュ
淫虐の貴婦人
浮世絵春画と男色
裏本時代
AV女優
江戸の色道指南書の系譜─凄絶なる性愛文化を探る─
江戸の性風俗 笑いと情死のエロス
f─口でする─の性愛学
M《エム》
EROVOGUE
エロ事師たち
エロチックな足 足と靴の文化誌
エロティシズム12幻想
エロティック美術館 貴婦人たちの夢想
エロマンガ・マニアックス
オーガズム・パワー 真実の告白/ハイト・リポート
O嬢の物語
お尻のエスプリ 華麗なるヒップの物語
♂♀《オスメス》
オデッサの誘惑
男を抱くということ
面白半分
親指Pの修業時代
俺の空
女の警察
おんなのこ
カ行[#「カ行」はゴシック体]
快楽電流
花芯
哀しき性的少年──ある官能作家の告白
巨尻の快楽 禁じられた投稿
嫌われ者の記 エロ漫画業界凶悪編集者血闘ファイル
金魚ホステス
緊縛の美 緊縛の悦楽
黒の試走車
芸者小夏
極楽商売 聞き書き戦後性相史
サ行[#「サ行」はゴシック体]
THEレイプマン
自慰マニュアル
シャトウ ルージュ
羞恥の館I
十二階崩壊
淑女の淫夢
熟年性革命報告
潤一郎ラビリンスII マゾヒズム小説集
春画 片手で読む江戸の絵
嬲獣シリーズ
初夜
女流マンガ家が教える─女が歓ぶABC
図説 ドレスの下の歴史
ストリップパラダイス
SLAVE OF LOVE
性技実践講座
聖泉伝説
性体験
性と死の記憶
聖なる快楽──性、神話、身体の政治
性の仕事師たち
セカンドナイト
セックス ウォッチング
セックスの発明──性差の観念史と解剖学のアポリア
セックスはなぜ楽しいか
背中と腹
戦後性風俗大系 わが女神たち
センチメントの季節
タ行[#「タ行」はゴシック体]
大えっちデラックス
体験読本 「出会い系」オンナを喰う方法
竜也無頼シリーズ
乳房論 乳房をめぐる欲望の社会史
チャタレイ夫人の恋人
東京夜の駆け込み寺
東光おんな談義
盗撮狂時代
特集アスペクト63 セックスマニアな女たち フツーの性の最前線
トルクェーレ─拷問─
ナ行[#「ナ行」はゴシック体]
永井豪※[#ハート白、unicode2661]けっこうランド
流戒十郎うき世草紙
ナチュラル・ウーマン
虹の雨
日本緊縛写真史
人間の性はどこから来たのか
眠狂四郎無頼控
ハ行[#「ハ行」はゴシック体]
バイブを買いに
パトロンヌ
秘戯
美少年
人妻SEX百科
秘密の本棚I 縛りと責め─幻の雑誌1953〜1964の記録
百万人のお尻学
風俗就職読本
風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険
フーゾク魂
フェミの嫌われ方
フェラチオ&クンニリングス─絶頂マニュアル
フォーチュン クッキー
藤田嗣治さんのこと
不埒三昧 わが下半身の昭和史
プラトニック・アニマル SEXの新しい快感基準
別冊太陽 発禁本II 地下本の世界
変態さんがいく
ボヴァリー夫人
マ行[#「マ行」はゴシック体]
マスタベーションの歴史
マダム・エドワルダ
まひるのM日記
MANGA EROTICS
夢幻魔境の怪人 夢野久作猟奇譚
目線の恋人
もしもし
もっと奥まで
モンド・エロチカNo.01 セクシー怪獣大暴れ
ヤ行[#「ヤ行」はゴシック体]
やわらかい話 吉行淳之介対談集
誘惑者の手記
雪夫人絵図
ユリシーズ
欲望する女たち 女性誌最前線を行く
ラ行[#「ラ行」はゴシック体]
レディースコミック愛の世界
不倫《レンタル》
ワ行[#「ワ行」はゴシック体]
若きドン・ジュアンの冒険
わが生涯と愛
我が秘密の生涯
私のヰタ・セクスアリスI
私も女優にしてください
[#改ページ]
著者名一覧
ア行[#「ア行」はゴシック体]
愛崎けい子
アイスラー,リーアン
秋田昌美
安達千夏
アポリネール,ギヨーム
荒玉みちお
安藤昇
石川弘義
植島啓司
氏家幹人
ウルフ,ナオミ
エニッグ,ジャン=リュック
榎本知郎
榎本ナリコ
大谷佳奈子
小田仁二郎
カ行[#「カ行」はゴシック体]
笠間しろう
梶山季之
金子光晴
亀山早苗
川柳川柳
北原武夫
北原みのり
日下部義男
小林照幸
今東光
近藤謙
サ行[#「サ行」はゴシック体]
斎藤綾子
早乙女宏美
酒井あゆみ
榊まさる
さかもと未明
塩山芳明
柴田錬三郎
島竜二
清水ちなみ
下川耿史
ジャーヴィン,リンダ
慈安眠
蕣露庵主人
ジョイス
菅沼要
スクリーチ,タイモン
瀬戸内晴美
空山基
タ行[#「タ行」はゴシック体]
ダイアモンド,ジャレド
高倉一
橘聖華
辰見拓郎
田中雅志
谷崎潤一郎
団鬼六
千草忠夫
ツヴァイク,ポール
津原泰水
東良美季
ナ行[#「ナ行」はゴシック体]
永井豪
永江朗
永沢光雄
夏石鈴子
菜摘ひかる
ニン,アナイス
濡木痴夢男
野坂昭如
ハ行[#「ハ行」はゴシック体]
ハイト,シェア
バクシーシ山下
馳星周
バタイユ,G
花村萬月
早川聞多
早瀬まひる
原翔
ハリス,フランク
はるの若菜
伴田良輔
久田恵
日比野こと
姫野カオルコ
平口広美
広岡敬一
風俗嬢レイ
フォンタネル,ベアトリス
深沢七郎
不二秋夫
藤本由香里
舟橋聖一
鮒橋正一
古川益三
ベイカー,ニコルソン
ベルグ,ジャン・ド
星野竜太
マ行[#「マ行」はゴシック体]
前田寿安
増子真二
松浦理英子
松沢呉一
丸谷才一
みうらじゅん
南智子
美濃村晃
みやわき心太郎
睦月影郎
室井佑月
本橋信宏
本宮ひろ志
モリス,デズモンド
ヤ行[#「ヤ行」はゴシック体]
ヤーロム,マリリン
山田五郎
山田裕二
山村不二夫
吉行淳之介
代々木忠
ラ行[#「ラ行」はゴシック体]
ラカー,トマス
ルゲー,ティエリー
レアージュ,ポーリーヌ
レイ,フランソワーズ
ロッシ,ウィリアム・A
ロレンス,D・H
ワ行[#「ワ行」はゴシック体]
渡辺淳一
価格や版元など文中の書誌情報は二〇〇五年一月現在のデータです。
単行本 二〇〇二年三月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十七年三月十日刊