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海の鳥・空の魚
鷺沢 萠
目 次
グレイの層
指
明るい雨空
東京のフラニー
涼風
クレバス
ほおずきの花束
金曜日のトマトスープ
天高く
秋の空
月の砂漠
ポケットの中
アミュレット
あたたかい硬貨
カミン・サイト
柿の木坂の雨傘
普通のふたり
星降る夜に
横顔
卒業
海の鳥・空の魚―――あとがきにかえて
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グレイの層
女は迷っていた。もう長いこと迷い続けていた。
走る電車の扉にもたれかかって、振動に身をまかせながら、窓の外の穏やかな景色と目の前にいる男を、女は交互に見つめた。
彼女は名を幸子という。高校を卒業したあと小さな広告代理店に勤めて、もう三年になる。私鉄沿線の急行の停まらない駅の近くに、両親と二人の妹と一緒に住む家がある。
平凡を絵に描いたような暮らしをしてきたと、近ごろの幸子は思う。近ごろの≠ニいうのは、働き始める前の幸子はそんなふうに思ったことはなかったから。
中学でも高校でも、テニス部と美術部に所属した。テニスのほうは、小さなころ大好きだった少女漫画の影響であったけれど、もともと向いていたようで、まあまあの成績を残した。
美術部のほうは、単に絵が好きだったからだ。小学生のころから、これといった取柄のなかった幸子だが、「図工」はいつも「5」だった。五年生のときに描いた水彩画が、都展までいったこともある。
「あんたは絵心があるのねえ。お父さんもお母さんも、こっちのほうは全然ダメなのにねえ」
よく母に、そんなふうに言われた。
実際、高校三年のとき、美大に進みたいとも考えた。両親は好きなようにしていいと言ってくれたし、美術の先生からも、やってみるだけのことはあると言われた。しかし幸子は受験しなかった。就職という道を自分で選んだ。それも大した理由があるわけではなく、失敗したらと考えると思いきりがつかなかっただけだった。
今の仕事に、幸子の絵心を生かせているわけではないが、幸子はこっちの道を選んでよかったと思っている。仕事は楽しいし、結構毎日充実していると思う。
電車の扉の外は、郊外の住宅街である。まだちらほらと畑も残っている。家々の屋根を緑が包む、のびやかな眺めである。
幸子がその風景に見入っているあいだ、男は幸子の顔を見る。幸子がパッと男の顔に視線を戻すと、男は穏やかに笑う。そうして、幸子も笑みをもらす――。さっきから、そんなことを繰り返している。
「案外近いのね」
幸子が口を開いた。
「驚いた? 地の果てのように思っていたんだろう」
男は、いまや新興住宅街になってしまった近県の外れの市に住んでいた。東京に生まれ、都内の学校を卒業して都内に勤める幸子にとって、この市の名は耳慣れなかった。彼は幸子の同僚である。毎日、この電車に乗って通勤しているのだ。
今日、幸子は初めて男の部屋を訪ねた。
部屋に招かれたとき、幸子は言った。
「でも、遠いんでしょう」
「ぼくが毎日往復してるんだから。帰れなくなっちゃうことは、ないでしょ」
そして、言われるままに彼の部屋を訪ねたのだった。
学生時代から住みついているというその小さな部屋は、なにか巣のようで居心地が良かった。帰る時間が来ても、なんとなく離れがたく、男は幸子を家まで送っていくと言った。
電車は、同じような風景の中を走りぬける。郊外によく見られるコンクリートの高架駅。新しく小ぎれいな商店街と舗装道。オレンジやグリーンの瓦屋根《かわらやね》の、似かよった家々がいくつも並ぶ住宅街。小さな児童公園。街路樹。平地のずっと向こうには、おもちゃのように見える黄色いブルドーザーが、新しく山を削り始めている。
幾十と並ぶ屋根を眺めつつ、幸子は、あの下にはどんな生活があるのかと考えた。どんな人たちが、どんな暮らしを送っているのだろうか。幸せだろうか――。
見えるような気がする。幸子には、見えてくるような気がする。
あのたくさんの屋根の下では、普通の夫婦が普通の暮らしを送っているのだ。妻たちは、朝、それぞれの窓のカーテンを勢いよくあけるのだろう。夏はホースで水を撒《ま》き、秋は落ち葉を掃くのだろう。
想《おも》いを外に出しはしなくても、それぞれ何かを胸に抱き――ひとはみなそうなのだ。スーパーヒーローや黒や白だけで世の中がつくられているわけではない。厚い、優しい、そして本当はいちばん重要なのかも知れない、グレイの層があるのだ。
生まれてからずっと、幸子はその層に包まれて育ってきたように思う。けれど、だからこそむしろ、あざやかな色に対する憧《あこが》れは常に幸子を離さなかった。
幸子は再び、目の前の男に視線を戻した。
一週間前、幸子は彼に結婚を申し込まれたのだ。
男もまた、平凡な家庭に育った優しい人間だった。グレイの色層のなかに、溶け込んでしまえる男だった。
男の申し込みを受ければ、おそらくはもう一生この色あいのなかで暮らすことになるのだろうと、幸子は思う。心地の良いことではある。素敵なことなのかも知れない。けれど何かが幸子の心を引きとめていた。それは憧れなのかも知れないと幸子は思った。
だから幸子は迷っていた。
踏み出す一歩とひきかえに、何かたいへんなものを失《な》くしてしまいそうな気がした。けれど、踏み出さなければ、自分のなかでいちばん輝いているものが死んでしまうような気もした。
「あ、ほら、見てごらん」
男が幸子に呼びかけた。幸子は、男の指差す窓の外を見た。
「ちょっと遠いかな、見えるか? ずーっと家の屋根が続いているのに、あそこの所だけポッカリ空地みたくなって、屋根が消えちゃってるだろ」
高架を走り続ける電車からは、民家の屋根が見下ろせる。このあたりは新興住宅街で、見渡すかぎり屋根がびっしりと空間を埋めているのだ。
が、男の言うように、ずっと前方にポッカリと何も見えない空間がある。
「空地でしょう?」
幸子は目を細めてその空間を見やりながら答えた。
「あんなに広い空地?」
確かに空地にしては、その空間は大きすぎるようだった。といって、公園にしては木が一本も見あたらない。
「なにかな……」
幸子は目をこらしてみた。電車は爽《さわ》やかなスピードで走り続け、空間はどんどん近づいてきた。
「まだわからない?」
男は楽しそうに幸子を見た。
ポッカリと空いた空間がすぐそこまで迫ったとき、電車は鉄橋にさしかかった。
河だった。屋根のない空間は河だったのだ。
幸子は扉の窓に顔を近づけ、河を眺めた。鉄橋の上から下流の方を見ると、河は美しく蛇行して、春霞《はるがすみ》の奥へ続いていく。鉄橋の脚に砕ける水の音まで、聞こえてくるような気がする。日射しが、幸子の頬《ほお》を白く照らす。
びっしりと並んだ屋根のなかに、突然あらわれた河を、幸子は何だか不思議な気持ちで見つめた。
電車が乗り換えの駅に着いた。幸子は男に促されてホームに降り立った。
「ちょっと感動的だったろ」
男がにこにこして幸子に話しかけたが、幸子は黙ってゆっくりと歩いていた。河の姿が目に浮かんだ。あたりまえの、どこにでもある家並みと、そのなかにいきなり姿をあらわした河が。
「どうかした?」
男が心配そうに幸子に訊《たず》ねた。幸子は突然顔をあげて笑った。
「ねえ」
「なに?」
「ねえ、わたし、あなたと結婚したい」
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指
海岸線に沿った国道をちょっと脇道に入った角に、喜一《きいち》の勤めるガソリンスタンドはある。高校を卒業したあと、二年間自動車整備の学校へ通って、友人の口利きでここに勤めはじめた。
アルバイトはたくさんいるけれど、社員として働いているのはごくわずかだ。マネージャーの次に古顔の浩司は高校を中退してこのスタンドに勤めはじめたと聞くが、喜一とは同い年ということもあって仲が良い。入れ替わりの激しいアルバイトの中で長く続いているのは悦子という女の子だ。マネージャーの親類の娘だという話だが、小さな身体《からだ》でこまごまとよく働く。
顔は十人並以上と言える悦子だが、いつも冷たい水にさらしているため手はガサガサに荒れてしまっている。しもやけだらけの悦子の指を、浩司がよく「象の鼻」と言ってからかう。悦子は気にも留めないふうを装っているが、喜一は、悦子がしばしば洗面所に入るのは手にクリームをすりこんでいるためだと知っている。喜一はそんな悦子が好きだった。
喜一のスタンドにその車がやって来たのは、暦の上ではようやく春になり、そろそろ仕事がやりやすくなりはじめたころだった。その日早番だった喜一は、夕方すぎに青い作業服を脱いでジーンズに着替え、熱い缶コーヒーで冷えた指先を温めていた。
事務所のレジの内側に坐《すわ》って外を眺めていると、ガラスのむこうで揃《そろ》いの青い作業服姿の浩司とマネージャーが、肩をつつき合って戯《じや》れているのが見えた。マネージャーは浩司を息子のように可愛《かわい》がっている。浩司は人なつこくて客扱いも上手《うま》いのだが、高級車に乗ってくるアベックにはひどくぞんざいに接する癖があった。灰皿の交換さえしないことがある。マネージャーはそんなときの浩司を、見て見ぬフリをしているふしがあった。
隅の洗車機から水びたしの車が出て来た。悦子に呼ばれた浩司がその車の方に駆けて行く。洗車を終えた車をふたりがかりで拭《ふ》いているのを見ながら、喜一は、ああしていくうちに悦子の指のしもやけはまたもや悪化するのだろうな、などとぼんやり考えていた。
車を拭《ぬぐ》うふたりの後ろ姿を、矢のような光が射し照らしたのはそのときだった。赤いアウディがスタンドに入って来ていた。左側のヘッドライトが壊れてしまっているらしく、矢のように見えたのは不自然な形で前方を照らしている右側のライトだった。
「いらっしゃいませえッ」
声だけは威勢のいい新入りのアルバイトが赤いアウディに駆け寄って行く。スタンド内の黄色い灯《あか》りに照らされて、助手席に坐っている若い女の横顔が見えた。
――浩司じゃなくて良かったナ。
喜一は心の中で、赤い車の運転席から身を乗り出している若い男に話しかけた。
「あれ……」
ガラス窓のこちら、レジの内側に坐って、見るともなしに赤いアウディを眺めていた喜一は思わずそう呟《つぶや》いた。運転席の男の話にしばらく頷《うなず》いたり首を傾《かし》げたりしていたアルバイトが、困った顔になって喜一の方を見たからだった。
――どうしたんだろう。
そう思った喜一が腰を浮かせたのと同時に、アルバイトは洗車機の方に向かって大声を出した。
「浩司さアん」
呼ばれた浩司はパッとアウディに一瞥《いちべつ》をくれると、雑巾《ぞうきん》を片手に持ったままゆっくりと赤い車に近づいて行った。
立ったままでアルバイトの話を聞いていた浩司は、やがて手にした雑巾を投げつけるようにアルバイトに渡すと、あからさまに嫌な顔をして赤いアウディの前方に廻《まわ》りこんだ。
喜一は立ちあがって事務所のガラス扉を開け、大声を出した。
「なんかあったア?」
浩司は喜一の方をちらりと見ただけで、またむくれたような顔で腕を組んだ。喜一は外に出て赤い車の傍に駆け寄り、もう一度浩司に訊《き》いた。
「どうしたよ」
浩司は面倒そうに、ケッと声にならぬような声を出してから答えた。
「ライト壊れちゃってンだって」
「うん、さっき見たけど……」
「直してほしいって言うんだけどさ」
「切れちゃってンだろ? 部品がないと直せないじゃん」
「俺《おれ》もそう言って断わろうとしたんだけどさ……。部品は持ってるって言うんだよ」
「へえ……」
「これから混むしさ。時間かかるし、人手もないし……。参ったなア」
浩司はそう言って舌打ちすると、さらに小さな声で喜一の耳もとに囁《ささや》いた。
「適当に言って追っぱらうか」
喜一はそっと赤い車を盗み見た。助手席で不安げな顔をしていた女と、喜一の視線がフッと触れた。それが合図のように女は車から降りてきて、良からぬ囁き合いをしている喜一と浩司の方を遠慮がちに見つめた。カシミアのセーターの肩が小刻みに震えている。
「いいよ、俺やってやるよ」
ほとんど無意識のうちに、女を見ていた喜一の口からそんなことばが飛び出していた。
「ええ!? いいよオ、面倒臭いじゃん。第一、喜一はもうあがってンだろ」
「うん、でもいいよ、やるよ」
喜一はそう答えて運転席の側に廻った。別の車の給油を終えたマネージャーが、「なんかあったのかア」と言いながらこちらに近づいて来た。
「何でもないっす」
浩司は大声でそれに答えた。給油のための車が続けて二台入って来て、浩司はもうアウディにかかずりあってはいられなくなった。
「金は取れよ」
駆け出し際に、浩司が喜一の耳もとで低く言った。
運転席の男も車から降りて、革のジャケットの裾《すそ》をピンと伸ばすようにした。
喜一は工具箱を持って来ると、男から部品を受け取って赤い車の前方にしゃがみこんだ。
ライトのつけ替えは時間と手間がかかる。しゃがみこんで作業に集中する喜一の後ろで、男は革ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま喜一の様子をただ眺めていた。女の方は喜一の横、少し離れた位置で中腰になって、喜一の手もとを見つめている。いい匂《にお》いがすると思ったのは、女の香水らしかった。
そのとき喜一は突然、油の染みついた自分の黒い指をひどく憎らしく思った。依然として男は喜一の背後でポケットに手を突っこんで構え、女は喜一の汚れた指が動くのをじっと見つめている。手を動かしながら、喜一は自分の身体の中で何かが熱を持ち、熱く膨《ふく》れあがってくるのを感じた。喉もとまでせまったそんな思いに負けまいとするように、喜一は女の顔を睨《にら》むように見返した。
女は少しとまどい、困ったような顔で微笑《ほほえ》んだ。微笑んだ顔は綺麗《きれい》だった。中腰になった膝《ひざ》のところで身体を支えている女の指はしなやかに長い。赤いマニキュアが濡《ぬ》れたように光った。喜一の身体の内側がますます熱く膨れあがった。
立て続けに入ってきた幾台かの車の給油を終えて、浩司と悦子が赤いアウディに近づいてきたとき、ライトのつけ替えは完了した。
「終わったのォ?」
立ちあがった喜一を見て悦子が声をかけた。喜一は振りむいて悦子を見た。青い作業服を着た悦子が、急にひどく野暮ったく見えた。
女も腰を伸ばし、車の中からバッグを取り出して喜一に言った。
「じゃあ、お支払いの方を」
はじめて聞く女の声は高く透きとおっていた。喜一の中で激しく膨らんでいた思いが、そのときプスンと音を立てた。
「いいんです」
身体が急速に冷えはじめるのを感じながら喜一は言った。
「え?」
「いいんです、僕がやりたくてやったんだから」
「え、でも……」
「いいんです。早く行ってください、他の車のジャマになるから」
喜一はほとんど追いたてるようにして、ふたりを赤いアウディに乗りこませた。
ライトの直った車は、前方のアスファルトを明るく照らし出した。遠ざかる赤い車のテイルランプを突っ立ったまま見つめる喜一の肩を、ポンと叩《たた》いた悦子の指は、やはりしもやけで腫《は》れていた。
「いらっしゃいませえッ」
マネージャーと新入りのアルバイトが同時に叫んで、浩司と悦子は向こうを振り返った。慌《あわ》てて駆け出した悦子を追うように二、三歩向こうへ進んだ浩司が、くるりと振りむいて喜一の傍に戻った。
「バカ」
さっきのように耳もとで低く呟《つぶや》いた浩司は、「いらっしゃいませえッ」と叫びながら新しく入ってきた車の方へ駆けて行った。
身体の内側に熱の余韻を感じながら、喜一は足もとのコンクリートに目を落とした。あたりはすっかり暗くなって、濡れたコンクリートが黄色い灯《あか》りに光っていた。
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明るい雨空
営団地下鉄の赤坂見附駅は永田町駅と通路で接続されていることもあって、朝夕は非常に混雑する。人の波は申し合わせたように同じテンポで動き、自分と同じ方向に向かう波に混ざるとあとは足を前後に動かすだけで入口の階段に運ばれるように進む。地面にあいた穴ぐらのような地下階段を昇ると、地下の蛍光灯に馴《な》れた目に太陽の光が眩《まぶ》しい。殊に春は、交差点の交番の傍に植えられた樹々の葉のあいだから洩《も》れる白い光が目を射る。
哲雄《のりお》は階段のいちばん上まで来てから立ち止まった。高速道路のむこう側にそびえ立つ、ホテルの巨大な建物に目を向ける。なんということもなしに溜息《ためいき》をついてみた。最近、身体《からだ》の調子が悪いように思えるのは気のせいだろうか。
一流商事会社の海外渉外課勤務といえば聞こえはいいが、近ごろの哲雄は身体も神経もすり削られているような思いがする。削り取られていった分の中に、かつての自分の大切なものがあったような気がして、それを思うともっと重い気持ちになる。
ブリーフケースと一緒に小脇《こわき》にはさんでいた折りたたみ式の青い傘が、音を立てて落ちた。たたまれたままの傘はコンクリートの階段を二、三段転げていった。今朝のニュースが、今日の午後からの降水確率を七十パーセントと告げていた。出がけにニュースを小耳にはさんだ哲雄があわてて持って来たその青い傘は、朝の地下鉄銀座線の中で、電車の振動に合わせてブリーフケースと一緒に網棚の上で揺れていた。
網棚の上で揺れる傘は、哲雄にあることを思い出させた。今朝の哲雄がいつもにも増して疲れた気分でいるのは、もしかしたらそのせいかも知れない。
まだ高校生だったころの話だから、もう六、七年は前のことになる。都心にある私立高校の生徒だった哲雄は、やはり地下鉄を使って学校に通っていた。
その日も昼間から雨が降り、哲雄は数人の友人たちと一緒に、学校から駅までを走った。誰も傘を持ってきていなかった。学校の昇降口の傘立てにいつも何本かささっている忘れられた傘にも、その日は誰もありつけなかった。
地下鉄に乗って何駅かを過ごすうち、途中から乗って来る人の濡《ぬ》れ具合で雨が激しくなってきているのが判《わか》った。
哲雄は四時に女の子と約束していた。約束の場所である喫茶店は、駅からかなり歩くところにあった。ずぶ濡れで行きたくはないと思った。
「あー、やべえなあ」
哲雄は舌打ちして友人たちに言った。
「どうしたの」
「俺《おれ》、これから女のコに会いに行くのに――」
「だから何なンだよ」
「――傘がない」
「いいじゃん、別に」
「ヤだよオ、濡れちゃうじゃん」
友人たちはへらへらと笑い、ざまあみろ、とか何とか言った。雨雨降れ降れ、もっと降れエと、友人のひとりがふり[#「ふり」に傍点]を付けて歌った。当時ヒットしていたその歌を、ふざけてふり[#「ふり」に傍点]付きで歌うのが哲雄たちの間では流行《はや》っていた。
「クソやべえよ、どうしよっかな」
呟《つぶや》いて正面を向いた哲雄の目に、向かい側に坐《すわ》って文庫本を読んでいる年とった男の姿が映った。深緑とも黒ともつかぬような色のレインコートを着たその老人は、熱心に本を読んでいる。老人の真上の網棚の上には濡れた傘がたたまれて置いてあり、時おり本の上にポトリと水滴を落としていた。濡れた傘を気にしているふうにときどき上を向き、またすぐに本に目を戻す。老人はさっきからそんな動作を繰り返していた。
老人の様子をしばらく眺めているうちに、哲雄はあることを思いついた。気が咎《とが》めないこともなかったが、びしょ濡れの姿で女の子と会うよりはいいと思った。雨に濡れた制服はひどく嫌な匂《にお》いがするのだ。
哲雄の降りるひとつ手前の駅に着いた。電車が再び動き出したとき、哲雄は隣りに坐っていた友人の耳もとで、囁《ささや》くように言った。
「あの傘、ギっていい?」
友人ははじめ少し驚いた顔で哲雄を見たが、やがてにやりと笑って答えた。
「いいけどさ、別に……。そしたら俺たち、むこうの車両に移るからな」
友人たちがひとつ隣りの車両に移り、残された哲雄も立ちあがってカバンを抱えたとき、電車が減速して車体が前のめりに傾《かし》いだ。次の駅にさしかかって車窓が明るくなった。
哲雄は扉に身体を貼《は》りつけるようにして立った。すぐ横に本を読む老人がいた。
扉が閉まる寸前、哲雄は網棚の上にある老人の傘をわし掴《づか》みにし、素早くホームに降り立った。降りた哲雄のすぐ後ろで、シューと音がして扉が閉まった。隣りの車両の窓から身を乗り出してその様子を見守っていた友人たちが、大声で哲雄をはやし立てた。哲雄は笑いながら友人たちに手を振り、おそるおそる自分の後方を見やった。
哲雄は老人が怒っていると思った。怒って哲雄を指さしているはずだった。あるいは、悔しがって地団駄を踏んでいてくれても良かった。あのときいっそ、あの老人が窓を開けて、返せとか何とか叫んでくれれば良かったとすら哲雄は思う。それならば哲雄も、ちらっと舌を出して傘を片手に改札口の階段を勢いよく駆け昇れただろうと思う。
けれどその老人は怒っても悔しがってもいなかった。驚いて振り向きはしたが、彼はその姿勢のまま、窓のむこうから哲雄をじっと見ていた。見つめていたと言った方がいいかも知れない。ことばでは言いあらわせないほどひどく悲しそうな目で――。
哲雄は今でも、あのときの老人の目を忘れることができないでいる。
気象庁の予想があたって、三時ごろから雨が降り出した。窓ガラスにあたっては流れ落ちる雨の滴の行方を目で追いながら、哲雄はまだ老人の傘のことを考えていた。
退社時刻を過ぎて外に出ると、雨は小降りになっていた。折りたたみの青い傘を開き、哲雄は駅に向かって歩き出した。小刻みなポツポツという音が、頭の上に響いている。
一ツ木通りを裏から抜けて、白い駅ビルの姿が見えてきたとき、ふとこのまま帰りたくないような気がした。大学を卒業してから親元を離れてはいるが、ワンルームの賃貸マンションに誰かが待っているわけではない。哲雄はそのまま廻れ右をして、たまに同僚たちと会社帰りに寄る小さな店に向かった。
歩き続ける哲雄の頭の中に、削り取られた自分の身体と心のことがあった。生きていく上でというよりはむしろ、生活をする上で、自分のある部分を削り取っていくことは必要なのかも知れない。――ぼんやりとそんなことを考えていた。けれど何か――どんな「何か」なのかは判《わか》らないけれど――削り取れないものもあるような気がした。
「あの……」
声をかけられてふと我に返った。目の前に、背の低い痩《や》せた男が立っていた。男は腕で雨をよけるような格好をして、長身の哲雄を見あげた。十八、九に見えた。
「ニューオータニって、どういうふうに行くンですか」
およそ人にものを訊《たず》ねているとは思えないぶっきらぼうな調子で、彼は言った。
「ニューオータニ?――えっと、まずここをまっすぐ行って、でかい道に出たら左に曲がって……」
哲雄の答えに頷《うなず》きながら、男はいちいちそれを口の中で反復した。全部聞き終えると、男はぺこりと頭を下げた。
「どうも」
「傘ないの? 歩くとかなりあるぜ」
「はあ……」
「貸してやろうか」
哲雄は自分の傘を少し持ちあげるようにして言った。男は驚いて答えた。
「いや、いいっすよ」
「いいよ、持ってけよ。バイトの面接かなんかだろ、濡《ぬ》れてったら印象悪いぞ」
哲雄のことばに男は一瞬、真面目《まじめ》に考えこみ、そうしてからさっきのようにぺこりと頭を下げた。
「すいません、じゃあ借りていきます」
「返さなくていいからな」
男はもういちど頭を下げると、傘を受け取って小走りに去って行った。
哲雄は再び、今度は小雨に濡れながら歩きはじめた。身体も心も、年齢《とし》を重ねていくにつれてどんどん削られていくのだろうが、あの雨の日の老人の目だけは、削ることはできないと思った。
――雨があがるまで飲んでるかな……。
小さく呟《つぶや》くと、雨雲に埋められた空が心なしか明るくなった。
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東京のフラニー
改札口に続く階段を昇りつめた途端、裕子は足を止めて目を見はった。正面にぶらさがっている駅の時計が、十二時二十五分を示している。授業がはじまるのは一時半からだ。寝呆《ねぼ》け眼《まなこ》で時計を見間違えたか、寝起きのハッキリしない意識のままで勘違いをしたのだろう、一時間も早く家を出てきてしまったらしい。
それにしても、なぜ電車の中で気付かなかったのかと、裕子は半ば自分自身に呆《あき》れ返った。
目の前に投げ出された一時間の空白をどう処理しようかと考えながら、とりあえず改札を出て歩きはじめた。
昨晩遅くから降り出した雨は、今朝早くに止んだようである。アスファルトはすっかり乾いて、ところどころの窪みにみすぼらしく残された水溜りが、空き缶のプルリングやボロボロにほぐれた煙草の吸殻を浮かべている。裕子は水溜りをよけて、大きな交差点を右に曲がった。大通りに沿って少し歩き、また右に折れた道の先に大きなホテルがあって、そのホテルの一階にショッピングモールがある。
ショッピングモールの両脇に並んだ色とりどりのウインドウを覗《のぞ》いたあと、裕子はアメリカの化粧品メーカーの看板を掲げた店に、何気なく足を踏み入れた。戸棚のかげから厚化粧の店員が、いらっしゃいませと言うでもなく、裕子の顔をちらりと見やった。化粧品の甘く強い香りが鼻をついた。
裕子はマニキュアの並んだ棚に近づいて、その一本一本を手に取り、試しているようにゆっくりと眺めた。透明のガラス壜《びん》のむこうで、ねっとりした赤い液体がとろりと揺れる。裕子は首を幾分か傾け、眉間《みけん》に少しシワを寄せて何本ものマニキュアを手にした。
――あ、この色……。
そのうちの一本を手にしたとき、裕子はあることに気付いた。
――この色、こないだフラ語の絵美がつけてた……。
そう気付いたとたん、裕子はほとんど無意識のうちに、ベージュがかったピンク色の液体の入ったその壜を握りしめた。その他にも、何となく気に入った色のものを二本手に取り、キャッシャーの前へぶちまけるようにそれらを置いた。さっきの厚化粧の女はほんのわずかに口もとを歪《ゆが》めて笑い、無言のままレジを叩いた。顔の大きさには不釣り合いなほど大きな目をうるませるようにして、すくいあげるように裕子を見た。
「六千円です」
裕子も無言で札を置くと、小さな紙袋に詰められた三本のマニキュアをゆっくりと受け取り外へ出た。
フランス語学科の絵美という女は、つい先日、ファッション雑誌の読者モデルとかいうのに採用されたと言って大騒ぎしていた。たしかに背が高くて手脚の長い絵美だが、顔はただ造作が大きいのにめったやたらと塗りまくっているだけだ。
――こないだなんか、マスカラのつけすぎで睫毛《まつげ》がゴキブリの足みたくなってたわ。
裕子は心の中で独言《ひとりご》ちた。けれどそのとたん、自分がひどく卑小なものに思えて嫌気がさした。
裕子は学校が好きではない。学校の中にいるときは、精一杯楽しげに振る舞っているけれど、裕子の気持ちはそうでもしていなければ均衡が保てないのである。
最近、都内の大学の多くが、幾つかの学部を引き連れて東京近郊――高尾とか、厚木とかに移転する例が増えているけれど、裕子の通っている大学はほとんどの学部を都心に抱えたまま腰を据えている。ところが学生の数は増える一方なので、キャンパスはひどく狭く感じられる。お昼どきなど、キャンパス内の食堂やカフェテリアはおろか、近くにある喫茶店の類《たぐい》までもが満杯の状態になり、席を見つけるのすら難しいほどだ。
そんなに狭い学校の中で、似たような格好をした友人たちと群をなし、裕子は鮮やかな色のスカートを揺らして歩いている。ちっとも興味の持てない講義に、ただ単位のためだけに出席している。
毎日毎日が、靄《もや》の中にいるように感じられる。噂と嬌声に疲れた脳味噌は、もうなにも吸収しない。それでも裕子は、毎日の猥雑《わいざつ》な話し声の中に身を委ねずにはいられない。身も心も、たび重なる疲弊に怖《おそ》れおののいているのに、けれど裕子は「取り残されてはいけない」などと考えている。自分自身でも、どこで区切りをつければいいのか判《わか》らない。そうして苛立《いらだ》ちは疲労を増幅させるばかりだ。
ホテルを出て、公園の脇《わき》のゆるい坂道をぼんやりと登っていた裕子は、ふと我に返って立ち止まった。
昨夜《ゆうべ》、苛立ちが頂点に達した。直接的に、これという原因があったわけではない。ただ単に、自分のこと――自分の容姿や、その他さまざまな意味を含んだ自分の能力のことを考えていただけで、ここ数か月お馴染《なじ》みになったあの嫌なイライラがやって来て、そしてそいつは裕子の内臓をぐちゃぐちゃに切り裂いて去って行った。内臓の痛みに耐えられなくなった裕子は、まるで駄目になった内臓を吐き出すかのように、低く呻《うめ》きながら涙を流した。
今朝時間を間違えたのは、昨夜の興奮が身体の内に残っていたからかも知れない。――裕子は妙にうら寂しい気持ちで、足をひきずるように坂を昇った。片手に持った小さな袋の中から、ガラス壜《びん》の触れあうカチリという音がした。裕子はたった今気付いたように、自分の持っている袋を見た。
とたんに、またもや微《かす》かな苛立ちをおぼえた。
――なんでこんなもの買ったんだろう。
後悔とも自蔑《じべつ》ともいえる感情が、胸の底から湧《わ》き出てきた。最低の気持ちでいるときでさえ、マニキュアを買った自分が嫌だった。
裕子は坂を昇る足を速めた。カツリカツリと踵《かかと》の音を立てて歩くと、少しはそんな思いが霧散するような気がした。
授業のはじまった二、三分後、裕子はすべりこむように教室に入った。比較言語学の教授は、おそろしく長い名前を持った、東欧かどこかの人だった。
日本人よりうまいのではないかと思わせる、彼の流暢な日本語での講義を聴いている者は、恐らく十人もいないだろう。裕子は窓際に坐《すわ》って、ぼんやりと外を眺めていた。建物のすぐ横に植えられた樹木の葉が、風に吹かれて窓ガラスを撫《な》でている。新緑は明るい色に透きとおり、葉が揺れるたびに床に薄緑の模様ができる。
揺れながら光るその模様を見るともなしに眺めていた裕子の耳に、誰かが溜息《ためいき》をつくのが聞こえた。ふと振り返ると、灰色の瞳《ひとみ》をした東欧人の教授が、ほんの少し寂しそうな顔で微笑《ほほえ》みながら黒板の前に立っていた。
「皆さんの中で、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』を読んだことのある方はいますか」
裕子は何かの電波に触れたような気がした。けれど教授は、しばらくのあいだ沈黙したあと、遠くを見ているような目で別なことを話しはじめた。灰色の目には底がなかった。
「……私は、日本に来て五年になるのですが、大学を卒業してから随分いろいろな国へ行きました。――日本に来る前は、アメリカやドイツの大学でも教えてました」
東欧人の教授はそこでひと息ついて、今度は窓の外を見やった。
「私が日本に来て、まず思ったのは――そう、日本の大学はとても変わってるってことですねえ……。そして、そこにいる学生たちもね。――何と言えばいいでしょうか。……ああ、そうだ。ドイツの大学にいたときにね、こんなことがあったんですよ」
彼は、あくまでも静かな口調で話を続けた。裕子は無意識のうちに奥歯をしっかりと噛《か》みあわせていた。
「学期末の、いちばん大切な試験のときにね、ある男子学生が休んでしまったんです。とても真面目《まじめ》な学生でしたから、翌週会ったときに、どうしたのかと訊《たず》ねたんですよ。そうしたら彼は、申し訳なさそうな顔をして、『妻がお産だったものですから……』って答えたんです」
教授は微笑んで続けた。
「日本の大学では考えられないことですよね。でも、そういったことが考えられないのは日本だけです。アメリカでもドイツでも、大学にはいろいろな年齢の、いろいろな環境の人がいるんです。……だからね、私の目から見ると、日本というとても小さな国の――ごめんなさい、小さいなどと言って――とても小さな枠の中で、その中の価値観だけを信じて暮らしている皆さんは、ひどく奇異に感じられることがあるんです……」
終業を報《しら》せるチャイムが鳴った。教授は少し驚いて振り返り、机の上の自分のノートや本をまとめながら言った。
「今日は随分とお喋《しやべ》りをしてしまいましたね。来週は少しピッチを上げましょう。――ああ、それからね、『フラニーとゾーイー』を読んでごらんなさい。私の言いたかったことが少しお判《わか》りいただけるかも知れない」
東欧人の教授は「さようなら」と言って教室を出て行った。他の学生たちもぞろぞろと立ちあがって出口の方へ向かった。
裕子は窓際の席に腰をおろしたまま、掌で頬《ほお》を支えて窓の外を見ていた。さっき窓ガラスを撫《な》でていた樹木の葉が、風が止《や》んだのか動きをとめて、時おり微かに震えていた。裕子はその新緑の素晴しい色を、ちょっと羨《うらや》ましいと思った。
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涼風
六郷土手のそばの小さな旋盤工場が、今の茂夫の職場である。勤めはじめて半年近くが経とうとしている。
半年前、失業した茂夫が地元の飲み屋でくだを巻いていたところ、偶然に中学の同級生だった秋庭《あきば》という男にでくわした。秋庭の勤めている工場で使っていた運転手兼使い走りの十八の坊主が行方をくらましてしまい、オヤジ――というのは工場長のことだった――が困っているという。ヒマならばそのあとに来ないかという。
勤め先の編集プロダクションが潰れて自暴自棄になっていたこともあり、ぶらぶらしているよりは運転手でも何でもやっていたほうがいいか、くらいの軽い気持ちで引き受けた。大学を卒業して町工場の納品トラックの運転手になろうとは、自分でも思ってもみなかった。
以前勤めていた編集プロダクションは神田にあって、業界では中堅で通っていた。学生のころから編集の仕事をしたいと思っていた茂夫にとっては、一応希望どおりの職場だったと言える。自転車操業だということは入社して一年ほどで察知したが、まさか倒産するとは予想もしなかった。しかも社長と幹部社員数名はどこへ行ったのか判《わか》らなくなってしまい、残された茂夫たちは事後処理にへとへとになった。秋庭に会ったのはそのころである。
今トラックの運転手として働いている工場は、工場長を含めて工員は六人。典型的な孫請け、ひ孫請けの零細工場である。最初《はな》から給料に期待などしていなかったが、編集プロダクションにいたころとはもちろん比べものにならない。長く勤める気などまるでないが、ずるずると半年を過ごしてしまった。
半年いても、茂夫はいまだに工場の雰囲気に慣れることができないでいる。工場長をオヤジと呼ばず吉沢さん、と苗字《みようじ》で呼ぶのは茂夫だけだった。知り合って間もない六十すぎの男をオヤジと呼ぶのは茂夫にとっては奇異なことだった。坊ちゃん――。茂夫につけられた工場での渾名《あだな》である。旋盤工たちは大抵が地方出身者だった。
工場《ここ》にいると自分の人生がどんどんおかしな方向へ向かっていってしまうように感じながらも、茂夫は毎朝定刻に工場へ出勤する。自分とは全く違う世界のような気がするのに、切り子だらけの洗油臭い工場は妙に居心地が良いのだった。この居心地良さの原因は何だろうと、茂夫は時おり不思議に思ったりもする。けれど、早くここから脱出しようと茂夫が焦りはじめているのも事実だった。
納品を終えて工場に戻った茂夫がガラス戸を開けると、待っていたらしい工場長の吉沢が茂夫を手で招いた。困ったような顔をしている。茂夫はどきりとした。ここのような孫請け専門の工場では、一時間の納期遅れが命取りになる。給料は安くても、そういう意味で納品トラックの運転手はたいへんな仕事なのだ。
「何か……」
茂夫はおずおずと吉沢に言った。
「いやあね、言いにくいんだけどさ……。坊ちゃんは、これからどうする心算《つもり》でいるかと思ってさ」
「え?」
吉沢の言っている意味が判らず、茂夫は怪訝《けげん》そうな顔で訊き返した。
「いやさ、坊ちゃんは大学も出てるし、いつまでもこんな工場《とこ》にいる気はないだろ」
「はあ……」
「いずれ辞める心算ならさ、もう求人はじめたいんだよね。求人難は知ってっだろ、早めにしないとさ。黙ってやられたんじゃ、あんたも気分悪いだろうと思って」
「…………」
「あんたはよくやってくれてるよ。こないだは鶴見の担当に皮肉られても、イヤな顔ひとつしないで仕事つないでくれたしさ」
いつも無理な納期を指定してきて、ちょっとでも遅れるとネチネチやり出す鶴見の得意先の工場に平気な顔で行けるのは、何も茂夫の人間がデキているせいではなかった。こっちがひ孫請けならあっちは孫請け、所詮《しよせん》この世界の根っからの住人ではない茂夫にとって、同じような零細工場が僅《わず》かな差で力関係を誇示したところで痛くも痒《かゆ》くも感じないというだけの話であった。感謝されてもあと味が悪い。
工場長の吉沢と話を終えたあと、茂夫はなぜだか夢も終わりだな、と思った。六郷土手の旋盤工場で過ごした半年間は、茂夫の人生の中では特異な存在といえる。もともと茂夫のような男が旋盤工場の納品トラック運転手というのは、誰が見てもおかしなことだった。居心地良いと思えたのは、高校、大学、そして就職した会社においても茂夫が持つことを当然としてきた競争心という緊張が、いっとき休まされたからだろう。半年間は人生の休暇、一時の夢と思えば、気持ちも楽だ。
「そうですね」
工場長の吉沢にそう答えたあと、けれどなぜか茂夫の心は虚《むな》しかった。
「巣だな……」
信号待ちの交差点で、ハンドルを握った茂夫の独り言に、隣りの席で脚を組んでいる秋庭が変な顔をした。
「何が?」
「いやさ、工場のこと。巣みたいだよ、なんだか」
「巣――? わっかンねえなア」
秋庭は笑いながら続けた。
「昔っからわかンなかったな、俺《おれ》たちにとってあんたは」
信号が青になった。茂夫はアクセルを踏んで秋庭の顔をちらりと見た。
「どうして?」
「勉強なんかしてないみたいなのに頭よくってさ。いい高校行って、いい大学行って、いい暮らししてるのかなアなんて思ってたら場末の酒場で酔いつぶれてやんの、あンときは笑っちったよ」
茂夫は苦笑した。秋庭は中学のころから不良グループの一員で、高校時代に見かけたときは髪の毛が茶色かった。工業高校を中退して旋盤工になったと聞いた。今では一歳になる女の子の父親である。
「俺にしたって、秋庭はわかンない奴《やつ》だよ」
茂夫のことばに、秋庭は声を立てて笑った。
「俺なんてカンタンな男よ、旋盤工だもん」
秋庭の答に茂夫も一緒に笑った。
「辞めちゃうの、工場」
「次のが見つかるまではいるよ。でも、まだやりたいと思ってることもあるし……、俺は技術ないから薄給だしさ」
「そうだよな、やっぱ、水に合わねえよな、あんたは」
そんなことはない、俺だって工場は――今までにいたところとは別の意味で――心地良いよ。そう言おうとしたがやめた。言ってしまえばそのあとの説明が難しいし、秋庭の言ったことも真実《ほんとう》だった。
秋庭が腕時計に目をやった。
「あと十分か……。間に合うな」
川崎の工場街の裏通りを走っていた。このあたりのややこしい細い路地も、半年のうちに覚えこんだ。普通のドライバーだったら徐行せざるを得ないような幅の狭い道も、五〇キロで走れるようになった。
三時十分前。ギリギリだが約束の三時に納品できるだろう。そう思ったときに秋庭がチッと舌打ちをした。
前方から、茂夫たちが乗っているのと同じような、古い小型トラックが近づいて来ていた。普通の乗用車でもすれ違いは困難な狭い道である。トラック同士のすれ違いはできそうにもないが、両脇は工場の塀で、どちらかがひとつ手前の角までバックしなければならない。
「どうしよう……。バックするか」
茂夫が秋庭の顔を見ながら言った。
「馬鹿野郎、そんなことしてるヒマがあるかよ」
「じゃあどうする。むこうも相当急いでるぜ、突っこんできてる。仕方ないよ」
そう言ってギアを握った茂夫の手を、上から秋庭の手が押さえた。
「このまま突っこめ」
「無理だよ、秋庭……」
「いいから行け」
秋庭の顔は真剣だった。対向車との距離はどんどん短くなってきている。無理だ――。茂夫は思わず目をつむりそうになった。その瞬間、ガリガリとひどい音がした。
――やった。
右のミラーがひしゃげてこちら側を向いていた。左のミラーは塀で擦《こす》ってあちら側を向いている。あの音から察するに、側面もひどく擦っただろう。
あちらのトラックの運転手が、窓から身を乗り出して茂夫たちのほうを振り返っている。むこうのトラックのミラーも、両方あらぬ方向を向いていた。側面の擦れもかなりひどい。
秋庭があちらのトラックの運転手と同じように窓から身を乗り出した。
「悪《わり》ィ」
あちらのトラックの運転手と秋庭が、同時に片手拝みをして言った。
「走れンでしょ」
「全然大丈夫。そっちは?」
「大丈夫。じゃ悪いけど急いでっから」
そう言い残してトラックは後方に去った。秋庭も当然のような顔をして窓を閉め、「早く」と茂夫をせかした。茂夫はたった今起きた出来事が信じられない気がした。
「……あれで済んじゃうの?」
「あー?」
「今の、接触事故だよ」
「何言ってンだよ、こんなボロトラックに接触事故もクソもあるかよ」
突然、茂夫は笑いたくなった。工場のあの居心地良さの秘密が、ひとつ解《わか》ったような気がした。
三時にギリギリで間に合った。帰り道、居眠りをはじめた秋庭の横でハンドルを握りながら、茂夫は工場に帰ったら吉沢をオヤジと呼んでみたいと思った。
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クレバス
真夏の青梅《おうめ》街道を、鉄男はひたすら歩いていた。ときどき小走りになって、ときどき溜息とも嘆息ともつかぬようないがらっぽい息を洩《も》らし、ときどき足をもつれさせながら、灼熱の太陽の下、鉄男は排気ガスと砂埃《すなぼこり》の側道を西へ西へと歩いていた。
ほんの一時間前、通りのむこう側からちらりと見たときは確かにあの位置に鉄男の古いブルーバードはあったのだ。それが忽然《こつぜん》と消えてなくなった。凹凸のはげしいアスファルトの上には、白いチョークの跡だけが空しく残されていた。
「チクショウ」
独り言のつもりがかなり大きな声が出た。乳母車をひいた通りがかりの女が、驚いた顔で鉄男を見やった。けれど今の鉄男には、そんなことに構っていられる余裕はなかった。
電話で応対した杉並警察署の女は、「お待ちしております」などと言いやがった。何がお待ちしております、だ。頼みもしないのに他人《ひと》の車を運びやがって。あそこに一時間や二時間|駐《と》めておいたところで、誰が迷惑するというのだ。
ひと月ほど前、鉄男は同じブルーバードでバイクと接触事故を起こしていた。傍《はた》から見れば明らかに鉄男の過失だが、鉄男には自分が悪いことをしたという自覚がない。充分に確認をした上でT字路を右折しようとしたら、前方にいきなりバイクがいたのだ。今から考えてもあのバイクがどこから出てきたのか、鉄男にはさっぱり判《わか》らない。しかしバイクは横倒しになって、乗っていた少年の身体は宙を飛んだ。これで俺の人生も終わったか、と一瞬思ったが、少年は案外平気な顔で起きあがり、のろのろと倒れたバイクを起こしにかかった。
ところが、そのバイクが悪かった。損傷があったのは前輪の上の部分を囲っているカバーのようなところだけで、それもちょっとヒビが入ってボルトがねじ曲がったくらいのものだった――鉄男にはそう見えた――のだが、何でもバイク自体が日本に三台だか五台だかしかないという代物《しろもの》で、部品も輸入しなくてはならないらしかった。不幸中の幸いで、宙を舞ったわりには少年にケガはなかったのだが、バイクの修理代が何と七十五万三千四百円。九対一で鉄男の方に過失があり(もっとも少年は十対〇だと主張したらしい)、もちろん保険を使ったものの、来月から保険料が随分あがってしまうのだ。
それから二週間も経たぬうちに、今度は車の後部ドア部分を擦《こす》ってへこませた。場所は外苑東通りを裏に入った細い道。一方通行の通りなのに、正面から大型のバンがかなりのスピードでやって来ていた。左側に電柱があり、これは対向車が後退するのが当然と車を進めたら、何を思ったか相手も突っ込んできた。これはヤバイと思った瞬間、ブレーキを踏めばよかったのだが、ついハンドルを左に切ってしまった。バンはすれすれですり抜けて、さらにスピードをあげて逃げ去って行った。すぐに窓を開けてバカヤローと叫んだが、たぶん相手の車には届かなかったろう。届いたところで向こうは痛くも痒《かゆ》くもないのだ。
「チクショウ」
そのときも鉄男は呟《つぶや》いたものだ。めったにお目にかかれないほど古い型のブルーバードには、鉄男はひとかたならぬ愛情を抱いており、痛々しく塗装のはげた後部ドアを見てはまるで自分の身を切られたような思いがした。
塗装がはげたまま放り出しておくと車体がサビてしまうから、鉄男はすぐに修理に出した。後部ドア取り替えと塗装で、修理代が八万一千三百二十円。これは痛かった。
そして今度は駐車違反。ただ駐禁を切られるだけなら罰金一万円で済むが、レッカー移動されるとレッカー代と駐車料金がかかるから、二万円近くになってしまう。
「金集めンなら金持ちから取ってくれよなあッ」
炎天下で叫びながら歩くと、すれ違う何人かの人が鉄男の方を振り向いた。ますます体温が上昇してくるように感じながら、鉄男は本格的に走り出した。排気ガスで茶けた空気のむこうに、杉並警察署が見えて来た。
鉄男の夢はアメリカ大陸を横断することである。小さなころから頭の出来もさして良くなく、これといって抜きん出た能力のなかった鉄男にとって、たったひとつの拠《よ》りどころはこの夢であった。この夢のためになら何でもできるような気がした。
沼津の高校を卒業して、すぐに東京に出て働きはじめた。何回も職場を変えたのは、多少キツい仕事でも給料の多い方へ多い方へと移っていったからである。
沼津では、週末になると御殿場のキャンプ富士から、アメリカの海兵隊の若者たちが繰り出してくる。小さな町では夜の遊び場といったら、ごく限られたいくつかの店しかない。鉄男は、金曜や土曜の夜にはそういった店でアメリカ人を待ち伏せた。とにかく英語を喋《しやべ》りたかった。
仲良くなったひとりの若い伍長が、アメリカの軍人が首にぶらさげる小さな銀の板を鉄男に作ってくれた。名前と血液型が彫りこんである「ドッグ・タグ」という奴《やつ》だ。それは今でも鉄男のお守りで、いつでも首にぶらさげている。
鉄男と彼はいろいろな話をした。彼は鉄男の不充分な英語でも、言いたいことを勘よく汲《く》み取ってくれた。「もっとゆっくり」「もっと簡単に」と鉄男が言っても、他の奴らのように嫌な顔をすることもなく、鉄男が判《わか》るまでゆっくり話してくれた。彼は故郷に残してきた恋人のことをよく話した。――スウィート・ハート。彼は彼女をそう呼んだ。
鉄男の夢が次第にはっきりとした輪郭を持ちはじめたのはこのころだ。鉄男が高校三年のときに伍長は任期を終えて帰国したのだったが、最近とみに思うのは、あのころの時間が孕《はら》んでいた余りに大きな可能性のことである。
十代のころ、時間といういれもの[#「いれもの」に傍点]はその許容量を最大限に拡げる。二十代も半ばになった今――それでも充分に若いと人は言うだろうが――あんなに短い時間のうちにあんなにたくさんのことが起こり得た「あのころ」が、鉄男にはちょっと眩《まぶ》しく感じられたりもする。けれど鉄男の誇りは「あのころ」の夢を今も持続させていることであり、そうしてその夢は実現しかかっているのである。
そんな、本来ならば人生の中でもっとも輝いていていいはずのときに、この災難続きである。金が出ていくことを伴う災難は、鉄男の場合、叶《かな》いかかった夢の実現がまた先延ばしになることに直結する。一緒に夢を誓いあった愛車のためにこんな思いもよらぬ出費が続くと、気分までくさってしまう。
ブルーバードを買ったのは二年前。中古で、燃費の良さそうなのを選んだ。手元に車が来たときは、夢に一歩近づいた気がして妙に嬉《うれ》しかったものだ。余りに型が古いために、燃費は思ったよりずっと悪かったが、それも何となく出来の悪い子どもを持ったような感じで一層愛着が湧《わ》いた。
杉並警察署の交通係は、鉄男の車は環七の高円寺陸橋下の駐車場にあると告げた。――環七……。鉄男は目眩《めまい》をおぼえた。今来た道のりをまた逆戻りしてさらにずっと東へ戻らなければならない。
鉄男はレッカー代と駐車料金を投げつけるようにカウンターに放り出し、反則告知書と罰金納付書を無言でわし掴《づか》みにすると、ふらふらと建物を出た。
門番[#「門番」に傍点]の制服警官が冷たい目つきで鉄男を見やった。真夏のギラつく太陽の光が鉄男の顔を直射した。一層強い目眩を感じると同時に、脇《わき》の下を冷たい汗がドッと流れ落ちたような気がする。そのまま覚束《おぼつか》ない足どりで何歩か前へ進んだときに、もの凄《すご》いブレーキの音と長く尾を曳《ひ》くクラクションを聞いた。そのあとはもう意識に残っていない。
次に鉄男が見たのは、風に揺れる病室の白いカーテンだった。
「気がつかれましたア?」
太った看護婦の、間のびした声が聞こえた。ふいに、高円寺陸橋の下で今も鉄男を待っているであろうブルーバードのことが頭をかすめた。どえらいことになってしまったんだなあと、まだぼんやりしながら微《かす》かに思った。アメリカ大陸横断をまた随分と延期しなければならないということだけは、はっきり判《わか》った。
「じゃ、あんまり身体《からだ》動かさないで下さいね。わたし先生に知らせて来ますから」
看護婦はそう言って病室の扉に手をかけた。そうしてからいきなり振り向いて、妙な笑顔を浮かべた。
「あなた面白いペンダントしてるのね。あれのおかげで血液型が判ったから……。命拾いしましたよ」
揺れるカーテンのむこうには、緑の少ない茶色っぽい町の風景が広がっている。鉄男は少しだけ上半身を起こして窓の外を眺めた。ふと、いつだったか伍長が話してくれたことを思い出した。
――人生には不運な時期があるよ。雪山のクレバスにはまってしまうみたいなね。そういうときはなるべく首を縮めて、時間が上を通り過ぎるのを注意深く待つのさ。次に首を伸ばしたときには、きっと素敵な眺めを見られるものだよ。
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ほおずきの花束
どんなことが起こっても、これ以上悪い状態にはなり得ない。そう思えるほど、夏代の高三の夏休みは最低最悪のものだった。
――みんな今ごろちゃんと勉強してんだろうなあ。
暑さにうだって、板の間にぺたりと横になって窓の外の目に沁《し》みるような青い空を見つめる度に、夏代はそんなことをぼんやりと考えた。そう考えると、腹立たしいのと悔しいのと情けないのとがごっちゃになって、夏代はどうしようもない気分に陥るのだった。
夏休みがはじまる前、一学期最後の模試で、史上最悪の結果を出した。第一志望はおろか、すべり止めのつもりで考えていた短大でさえ危ないと言われた。そうして終業式の前日、遊び仲間たちとのコンパで、いちばんイヤなことは起こった。
集まった子たちのうち、夏代のように受験を控えているのは半分くらいで、他は附属高に通っている子たちだった。夏代たちはみんなの前で、受験が終わるまで遊ばないという宣言をした。つまりそれは、その日が夏代たちにとって遊びまくった高校時代の最後の一日になるのだということを意味していた。
だから夏代は、送ってくれた二高のオーノ君に、今までずっと言えないでいたことを言ってしまったのである。「あなたが好きだ」と。
けれどオーノ君は困った顔で少し笑い、言ったのだ。
――ごめん、俺《おれ》、好きな子いるから……。
そのことばを聞いた途端、夏代は嵐のような激しい後悔がこの身を襲うのを感じた。いちばんマズイことを、いちばんマズイ時期にやらかしてしまったのだということを実感した。
夏休み中に同じゼミに通うことになっていた親友の綾《あや》は、思いきり落ちこんでしまった夏代を見て、「今までフラれるという経験をしなかったのが悪い」と言った。綾のことばどおり、夏代は人一倍我が身カワイイ方で、これまで当たって砕けるという経験がなかった。だからオーノ君とのことのあとも、なるべく「あいつは大したことのない男《ヤツ》だ」と思いこもうとしたのだが、それがちっともうまくいかなかった。
ああ、あたしはホントウに、めったやたらとオーノ君を好きになってしまっていたんだなあ……。そう思うにつけ、悔しさと情けなさは深くなっていくばかりだった。
夏休みは容赦なくはじまり、夏代は綾とゼミに通いはじめた。辛うじて通い続けてはいたが、授業にはまるで身が入らず、空き時間になると綾とふたりで駅前のハンバーガー屋に行き、アイスティーを啜《すす》りながらぼんやりと年号クイズなどをしあった。もう自分には、良いことなんて何にも起こらないような気がした。
そして悪いことというのは、いちど起こると続けざまにやって来るものなのである。夏休みも半ばを過ぎたある日のゼミの帰り道、混み合った電車に揺られていた夏代は、今まで心地良く脳味噌《のうみそ》に侵入してきていたヒューイ・ルイスの歌声が、だんだん薄れていくのに気がついた。
ウォークマンの電池はその日の朝に替えたばかりで、バッテリー切れということは考えられない。それでも慌《あわ》ててランプを調べると、バッテリー残量を示す赤ランプは煌々《こうこう》と光っている。夏代はウォークマンを揺すってみた。するとブチリというイヤな音が鼓膜に伝わり、ヒューイはまるっきり黙ってしまった。あとはもう、振っても叩《たた》いてもウンともスンとも言わない。
五月の誕生日に買ってもらったばかりのウォークマンだったが、使いはじめたその日からどうも調子が悪かった。
「……ばかやろお」
思わず低く呟《つぶや》くと、隣りに立っていたサラリーマン風の若い男が、驚いた顔で夏代を見た。
夏代は家に帰るとすぐにウォークマンを買った店に電話した。故障したと言うと、本店まで持っていっていただければ無料で修理いたしますと言われた。
当然だ、そんなことは。――そう思いながら「どこにあンですか、その本店っていうのは」と不機嫌な声で訊《き》くと「は、武蔵小杉です」と恐縮しながら答えた。武蔵小杉! 川むこうじゃないよ。そう言いたいのを我慢して、夏代は本店の場所を訊いた。
翌日、電機屋にウォークマンを預けてから、夏代はゼミに向かうために途中下車してそこからバスに乗った。ゼミを終えて、いつものように綾と喫茶店に入り、さあ行こうかというときになって、夏代は「ひッ」と声にならない声を出した。かばんの中に財布がなかった。
喫茶店の分と帰りの電車賃だけ綾に借りて夏代は帰途についたが、電車の中では、失くなった財布のことを忙しく考えていた。
現金は大して入ってなかったけれど、銀行と郵便局のキャッシュカード、ごていねいなことに原付の免許まで入れていた。途中下車してバスに乗るときまではあったわけだから、落としたとするとバスの中か、それともバス停か……。
母親にこっぴどく叱《しか》られ、取りあえず銀行と郵便局に電話してキャッシュカードの取引停止手続きをした。次の日、夏代はゼミを休み、途中下車した駅の駅前にある交番へ出向いた。
交番には若いお巡りさんと年とったお巡りさんがひとりずついて、年とった方が夏代に椅子《いす》をすすめた。
「落としたのはどこ?」
「あのバス停のとこ……だと思うんですけど」
「どんな財布?」
「えーと茶色い革のヤツで、わりとおっきくて、一方がボタンになってて……」
そこのところで、今まで奥の扉のむこうにいた若い方が、扉から半分顔を見せて大声で言った。
「あー、届いてるよ、それ」
若いお巡りさんは机の引出しから、こともなげに夏代の財布を取り出した。
「これでしょう」
「そうです!」
夏代は飛びあがりたいのを我慢して、財布を引き取るためのいろいろな書類に住所や名前を書きこんだ。中のものは何ひとつ失くなっていなかった。
「良かったねえ、無事戻ってきて」
年とった方がニコニコしながら言った。なんだかここ数か月のうちで、久しぶりに他人に優しくされたような気がして、夏代は不覚にも涙ぐみそうになりながら「ハイ」と答えた。
帰り際、夏代はお巡りさんたちから一枚の紙きれを渡された。財布を拾ってくれた人の住所や電話番号が書いてあるもので、電話してお礼を言っておきなさいと言われた。
「藤原俊造 七十二歳」
紙きれの一行目に読みにくい行書体でそう書かれていて、住所は世田谷区|玉堤《たまつつみ》となっている。ここから歩いても、さほどの距離ではなかった。
夏代は久しぶりに、ほんとうに久しぶりに明るい気持ちになっていたから、電話をするよりも直接行ってお礼を言おうと考えた。
駅前から銀杏《いちよう》の並木道をずっと歩いていくと、途中にある花屋の店先に明るいオレンジ色の花が咲いていた。何の花かと思って近寄ってみると、それは花ではなく少し早いほおずきの実だった。夏代はほおずきを買った。愛想のいい店のおばさんが、「少しおまけしときますね」と言いながら一本余分に持たせてくれた。
夏代はほおずきを花束のように抱えながら並木道を歩き、坂道を下り、昇り、また下った。
川っぷちの町に着いて、商店街で訊《たず》ねながら行くと、その家は案外簡単に見つかった。
ひっそりとした、木造の小さな家の門柱に「藤原」という表札が見えた。人気《ひとけ》のない玄関の引き戸の前で、なんとなく入りかねていると、背後で足音が聞こえた。
犬を連れた老人が立っていた。柴犬《しばいぬ》に似た雑種らしい犬は、はッはッと息を吐きながら立ち止まった主人を見あげている。
「あの……、藤原俊造さんですか」
「そうですが」
老人は不思議そうに、ほおずきの花束を抱えた奇妙な女の子を見つめた。
「あの、あたし、お財布拾ってもらった者なんですけども……」
「ああ」
老人は合点がいったように頷《うなず》いた。
「あの、ほんとにありがとうございました」
そう言って頭を下げたとたん、唐突に冷たい涙が滝のように夏代の頬《ほお》を流れ落ちた。びっくりしたのと恥ずかしいのが一緒くたになって、夏代の身体の内側を駆けまわった。
夏代は「お礼です」と叫ぶように言ってほおずきを老人に渡し、驚いた顔の老人と犬に「さよならっ」と言った。
駅へ続く坂道を、夏代は駆け昇った。心臓がばくんばくんと音を立てた。終わりかけた夏の風が夏代の頬をすべっていった。
そう思ってしたことでなくとも、優しさとか善意とかいうものは確かに人間を救うことがあるんだな。わけのわからなくなった頭の中で、夏代はそんなことを考えていた。
何か月ぶりかで走った。何か月ぶりかで身体が汗のぶんだけ軽くなり、そのぶん心も軽くなったような気がした。
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金曜日のトマトスープ
スライスチーズ、冷凍えび、小玉レタス、完熟トマト――。
口の中で唱えながらカートを押して、明るい店内を歩いた。
――コーヒーが切れてたっけ。醤油《しようゆ》は大丈夫だったな。
ひとり暮らしがこんなに楽しいものだとは知らなかった。何よりも四人の男の子の食べ盛りをやり過ごして家事に飽き、かつくたびれ果てた母親のせいで食卓に並ぶ、毎夜毎夜の店屋《てんや》もの――ゴムのようにぶ厚い衣をかぶった天丼《てんどん》とか、油ぎって辛いだけの中華料理とか、なぜかカニ棒がどっさりのっかっている鍋焼《なべや》きうどんとか――に甘んじなくて済むのである。
――今晩はえびのサラダと実沢山のトマトスープをつくろう。それでカナッペを薄く切ってこんがり焼いて……。あっ、ワインも買っちまえ。
知らず知らずのうちに、鷹雄の口もとはだらしなくゆるんできた。
衣食住のうちどれをいちばん重んじるかで、その人の性格が判るとかいうが、鷹雄は誰が何と言おうと「食」をいちばんにとる。まだ若い男が料理が好きだと言うと変わっているなどと言われるが、出来合いの不味《まず》いものを食べるくらいなら自分でつくった方がずっといいと鷹雄は思う。
そうはいっても、鷹雄の場合は今流行のグルメとかそういうのではなくて、ありきたりの材料で自分が美味《おい》しいと思えるものをつくるだけのことだ。化学調味料は絶対使わないとか、生鮮の素材はどこそこでしか買わないとか、そういった凝ったことはしない。ただ自分でも、味にだけは自信を持っている。
鷹雄は男ばかり四人兄弟の末っ子で、ひとりだけやや年齢《とし》が離れていた。いちばん上の兄とは十五違う。だから三人の兄たちがそれぞれ結婚して家庭を持つなり就職してひとり暮らしをはじめるなりすると、父と母と三人で残されることになった。もともと父は仕事に忙しい人で家にいないことが多く、家族と一緒に夕食をとるのも珍しかった。
食事をつくってやらねばならないのが鷹雄ひとりとなると、母はますますものぐさになって、鷹雄は店屋ものの連日攻撃に遭った。
天丼とかウナギなんてものは、たまに食べるからおいしく感じるのである。一週間に二度三度となれば、誰だってうんざりする。それでもソバ屋ウナギ屋の店屋ものの場合はまだいいのだ。
折悪しく、鷹雄の実家のすぐそばに、そのころハシリだったピザのデリバリーショップがオープンした。大学の友人たちと遅くまで飲み歩いた翌日の日曜日、朝起きて「こいい[#「こいい」に傍点]味噌汁《みそしる》のみたい」などと思いながら階下へ降りてみると、食卓の上にいきなり直径四十センチはあろうかというピザがでん、と載っていたことがあった。あのときはもう、悲しむ気力も文句を言う気力も失せてしまい、「俺、メシいいや」とだけ言って二階へあがったのだった。
無事大学を卒業しサラリーマンになって――それと同時にひとり暮らしをはじめて二年。まだ少しばかり早いが、でも鷹雄は結婚するなら料理の上手な人、と思う。母にしたって、別に料理が下手だったわけではない。ただ、毎日毎日おそろしくよく食べる四人の息子のために疲れてしまっただけなのだろう。
営業マンになった今は仕事の関係で鷹雄も結構忙しく、毎日自分で食事をつくるというわけにはいかない。しかし今日のように時間のある週末には、帰りがけにスーパーに寄って買いものをし、ビニールの袋をたくさん抱えて狭い部屋に戻り、ちょっと楽しい気分になって台所に立つのだ。
――マテウスロゼって、こないだ飲んだやつ、わりとうまかったよな……。
いろいろな食品をカートの中に放りこんだあと、鷹雄はボトルの並んだ一角の前であれこれ迷いながらワインを選んでいた。よし、これだ、と心に決めてそのボトルに手を触れた途端、背後に高い声を聞いた。
「やっだあ、先輩」
思わず振りむくと、鮮やかなグリーンのワンピースを着たワンレングスの女が立っていた。
「……あ、三島?」
ボトルを手にしたまま中腰で後ろを向くという、おかしな格好のまま呟《つぶや》いた。鷹雄が大学四年のとき一年生だった、サークルの後輩の三島清美だった。
「すっごい偶然。先輩こんなとこで何してンですかぁ」
「何って、買いもの」
「えー、この近くでしたっけ」
「うん、就職してから引っ越したから」
「もしかしてひとり暮らし?」
「そうだよ」
鷹雄の答に、清美はなぜかコロコロと笑った。
「やっだあ、先輩がひとり暮らししてて、自分でゴハンつくってるなんて想像できなあい」
鷹雄は自分の傍らにある、レタスやらトマトやらが積まれたカートをちらりと見やった。
――別に想像してくれなくていいよ。
思わずそんなことばが喉《のど》もとまで出かかったが、とりあえずは微笑を浮かべ、ロゼのボトルをカートに新たに投げ入れることで会話にけりをつけようとした。ところが清美は急に口調を変え、一歩鷹雄の方へ近寄って言った。
「先輩ね、あたしとの約束破ったまんまなんですよ、覚えてます?」
清美があんまり真面目な顔なので、鷹雄も真面目に応《こた》えざるを得なかった。
「……え。何だったっけ、ごめん、覚えてない」
「ご馳走《ちそう》してくれるって言って、そのまま卒業しちゃったじゃない」
「え!?」
「ほらあ、バレンタインのとき」
言われてやっと思い出した。学生最後の年のバレンタインに、チョコレートをくれた一年生がいた。ついはずみで、今度食事おごってやるとか何とか言ったかも知れない。
「ああ……」
「思い出した? ねえ先輩、せっかく会えたんだから約束果たして。今度いつ会えるか判《わか》ンないし、ねえいいでしょ、お願い先輩」
清美の強引ぶりに鷹雄は思わずひるんだ。しかし、今日は久しぶりにゆっくりと自分のつくったものを味わえるはずだったのだ。鷹雄が答に詰まっていると、清美はさらに言い重ねた。
「これから先輩、お家に帰ってゴハンつくるとこだったんでしょ。先輩の手料理ご馳走してよ、あたしも手伝うから」
「でも……」
ひとり暮らしの部屋に若い女の子を招く云々《うんぬん》ということよりも、清美のオレンジに塗られた長い爪がひっかかった。あんな爪で料理などできるものか。
「……それとも、別のお客さんあり?」
清美の見せた、その一瞬の弱気に負けた。
部屋に着くと、清美はやにわに長い髪をひとつに結んだ。鷹雄がその様子をちょっと意外な表情で見ていると、清美は照れながら言った。
「だって、食べるもんに髪の毛入ったら気持ち悪いでしょ」
清美は意外にも手際よく、鷹雄が口出すヒマもないほどだった。トマトの湯むきのやり方など、逆に清美から教えられてしまった。
「先輩さあ、マナイタはときどき外で干した方がいいよ」
小さなキッチンの前でなかなかの腕前をふるいながら、突然鷹雄の方を振り向いてそんなことを言ったりした。
――こいつ、案外いい奴《やつ》じゃん。
鷹雄は心の中で呟《つぶや》いて、だんだんと煮詰まってくるトマトスープの熱い湯気に包まれていい気分になった。
結局、鷹雄はほとんど何もしないまま、すべてができあがった。
「ご馳走するはずが、ご馳走になっちゃうことになったな」
自分でつくるのと誰かにつくってもらうのとでは、また違ってくるものだ。清美のトマトスープは、予想以上においしかった。
「うまいな。――家で普段やってるんだ」
「見かけによらないでしょ」
「うん」
思わず正直に答えると、清美は鼻の上にシワを寄せた。
鷹雄はきれいに平らげて、ワインの酔いも手伝ってか妙に満足した気持ちになり、ついつい軽い調子でポロリと言った。
「これはいいよ、こんなんだったら毎日でも来てほしいよ」
「いいですよ」
清美も少し酔っているのか、気軽な感じで答えた。食べ終えてからスイッチを入れたテレビが、巨人大洋戦を中継していた。八時をまわって、清美はそれとなく帰り支度《じたく》をはじめている。野球の方は、一打逆転の大ピンチで、中畑が右中間に飛ばしたボールに、屋鋪《やしき》が追いついて3アウトになった。
「うーん」
鷹雄が屋鋪の俊足をほめたたえて唸《うな》ると、清美はチェンジを機《しお》に立ちあがった。そこまで送ると言うと首を振った。
けれど清美は玄関先で靴をはいてしまうと、にッと笑って鷹雄を見た。
「あたしン家《ち》ね、ここから五分。呼べば毎日でも来てあげますよ。だってあたし、先輩好きだったんだもん」
ドアに手をかけたままポカンとしている鷹雄に、くるりと背を向けて清美はバイバイと手を振った。誰もいない廊下に、清美のヒールの音だけがカツカツ響いてこだました。
なんだかサギにでもひっかかったような気がした。けれどそれは決して悪い気持ちではなかった。
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天高く
絵里が缶ビールを胸一杯抱えて、汀子のところにやって来た。ドアを開けて、近所の酒屋の紙袋を抱いて立つ絵里の顔を見たとたん、またケンカしたな、と汀子は思った。
絵里は、汀子の部屋にあがるなり、投げ出すようにビールを床に置いて、足を放り出すようにして坐った。土曜日の午後である。
「ヒドイのよ」
絵里がガラスのテーブルを拳骨《げんこつ》で叩《たた》きながら言った。
「何が」
何を話しに来たのかおおよそ見当はつくけれど、汀子はわざとそんなふうに訊いた。
「何がって、拓ちゃんよ。ヒドイのよ」
汀子はグラスを取りに小さなキッチンへ立ちながら、「また[#「また」に傍点]?」と言った。
「そう、また[#「また」に傍点]」
絵里は憤懣《ふんまん》やるかたないというふうに言い放った。けれど自ら「また」と言ってしまう滑稽《こつけい》さには気付いていないようだった。
汀子も絵里も、それから絵里と付きあっている拓ちゃんも、みんな大学時代の友人である。高校時代に留学の経験がある絵里は、英語力を生かして国際会計士の資格を取った。汀子は、学生時代に専攻していたスペイン語の翻訳などをしている。拓ちゃんは経済学部を卒業して、証券会社に勤めている。
学生のころから付きあっていた絵里と拓ちゃんだが、そのころからもう習慣のようにケンカを繰り返していた。普段は実に仲が良く、実際あのころ汀子たち仲間のあいだでは、ふたりが結婚するかどうかという賭けが流行《はや》ったほどだ。
ケンカの原因は大抵、外見のわりには子どもっぽい性格の絵里が、「拓ちゃんがかまってくれない」と言って騒ぎ出すことだった。大学時代、体育会ホッケー部で忙しかった拓ちゃんは、就職してからさらに忙しくなったようで、もっと「かまって」やれなくなったらしい。近ごろは絵里の騒ぎ出す間隔が、より短くなってきた。
ビールのおつまみになるようなものはないかと思い、冷蔵庫を開けてみた。ポケットに並んだ卵の横に、真鍮色《しんちゆういろ》の小さな缶を見つけた。
「チーズあるけど、絵里食べる?」
冷蔵庫の前にかがんだ姿勢のまま汀子が訊《たず》ねると、「食べる食べる、何でも食べる」と大声が返ってきた。汀子は苦笑しながら、ほんのわずかに溜息《ためいき》をついた。カマンベールの缶とグラスをふたつ持って汀子が部屋に戻ると、絵里は心もち沈んだ声で言った。
「証券マンて、そんなに忙しいのかなあ」
「会えないの?」
「うん」
絵里は無言で頷《うなず》いて、下を向いたまま泣きそうな声を出す。
ほんとうのことを言うと、絵里の毎度お馴染《なじ》みの愚痴《ぐち》を聞いてやれるような気分ではなかった。汀子自身が、先月、ある男と別れたばかりなのである。
男女が一緒にいれば、程度の差こそあれ、お互い相手に対して不満――不満と言うのでなければ、何か塵《ちり》のようなもの――が溜《たま》ってくる。それを絵里のように、鬱積《うつせき》した思いを少しずつ定期的に爆発させていれば、大きな事故は避けられるような気がする。汀子にはそれができなかった。だから、目の前で男の悪口を言っているけれど三日後にはケロッと元どおりになるのであろう絵里が、少し羨《うらやま》しくもあった。汀子は大事故を起こしてしまったのだ。――たぶん、汀子の不注意で。
「いやだァ、これカビ生えてるよ!」
絵里が真鍮色の缶を覗《のぞ》いて言った。
「嘘《うそ》」
「ほんとだって、ホラ」
絵里は缶の中身を汀子の方に示した。缶の中で、包んだ薄い銀紙からはみ出したカマンベールの乳白色の肌は、絵里の言うとおり無残にも青紫の細菌に冒《おか》されている。
――ああ、そうか。
汀子は思った。もともと汀子は、そんなに生チーズが好きではない。冷蔵庫の中にあるのは、男のために汀子が買ったからだ。
――あの人がここに来なくなって、もうそんなに経つんだ……。そう、チーズにカビが生えちゃうほどのあいだ……。
「あーあ、台無しだわ、勿体《もつたい》ない」
絵里の声を、汀子は遠くのもののように聞いていた。カビの生えたチーズを冷蔵庫に放っておいたのは、気付かなかったのではなく、気付きたくなかっただけなのだ。そんな自分は、軽蔑したくもあり、またたまらなく可愛《かわい》くもあった。
何日か経って、絵里から電話があった。「元気イ?」と訊《たず》ねる絵里の声は、すっかり普段の調子に戻っていた。
「元気ったって、こないだ会ったばっかじゃない」
「あ、そうか」
そう言ってまたケラケラと絵里は笑う。
「仲直りしたわけ、拓ちゃんと」
「うーん、あの次の日の日曜にね、拓ちゃんが車で来てくれてね、中華街までドライブしちゃった」
「ふうん」
「でね、往きの車の中ではあたしまだちょっと怒ってたンだけど、中華街ふたりで歩いてたらね、花巻を蒸して売ってるわけよ」
「ハナマキ?」
「そうそう、あのグルグルしたやつ。路上で蒸してて、湯気がモウモウと立ってて、とにかくおいしそうなわけよ、これが」
「……で?」
「あたし思わず、おいしそオって言ったら、拓ちゃん、じゃア買ってやるって言って……」
「買ってくれたんだ」
「ウン。そしたらもう怒ってるわけにもいかなくなっちゃってさあ」
「他愛ないわねえ、花巻一個で丸めこまれちゃうの、あんたって女は」
「一個じゃないもん、三個だもん」
「三個も食べたの!?」
「……うん」
汀子は吹き出した。三個も食べてしまったのは、絵里がそんなに食べられないというのに、拓ちゃんがニコニコしながら五個も蒸し花巻を買ったからだと言う。
「なんか残したら悪いような気がして――。さすがに五個は無理だったけど」
「……なんだかんだ言って、あんたほんとに拓ちゃん好きなのね」
「うん。そうかも知ンない。なんか食べものにつられて仲直りしたみたいで気が引けるけど、でもほんとに、どんな男の人でも拓ちゃんほどとは、うまくやってけないような気がする」
絵里の素直さが痛かった。結局あんたたちは世話ないわね、などと言い、笑いながら受話器を置いた。
ふうッと大きく溜息をついて、汀子は部屋の真ん中に横になった。絵里が置いていったビールが、まだ冷蔵庫の中に何本か残っているはずだった。汀子はそんなに飲める性質《たち》ではなく、どちらかというと甘いものに目がない方だが、こんな気分のときは飲めない自分を情けなく思う。
日が傾きはじめ、窓から射しこむ光に照らされた床が濃いオレンジ色になった。そのオレンジ色の床に寝そべったまま、汀子はうとうとしてしまったらしい。耳に風鈴の涼しげな音が心地良かった。
次に目覚めたのは、風鈴がひどく激しく鳴ったからだった。睡《ねむ》りと覚醒《かくせい》の中間のところで、何であんなに鳴っているんだろうと訝《いぶか》しく思い、ふと目覚めてみると、それは風鈴ではなくドアのチャイムなのだった。
「はーい」
とっさに声を出して時計を見る。九時だった。日はとうに沈みきって、暗くなった空に星さえ光っている。
チャイムはもう一度、少し遠慮がちに響いた。
「はいはい」
無防備にドアを開け、佇《たたず》んでいる人間の顔を見たとたん、汀子は息をのんだ。
「……どうしたの」
先月別れた男だった。
「いや、ちょっと」
そう言ったまま男が黙っているので、汀子は、あがる? と訊いてみた。男は案外あっさりと頷《うなず》いて靴を脱いだ。
男を部屋に招じ入れてしばらくしても、汀子の頭はのぼせたままだった。別れてからひと月のあいだ、ああも言おう、こうも言おうと考えていたことが、嘘のように霧散してしまっていた。
黙っている汀子の前に、男が突然紙包みを差し出した。
「何、コレ」
「あ、アイスクリーム」
「なんで?」
「いや、ホラ俺、自分の酒のつまみしか持ってこなかったから、なんか悪いと思って」
「ふうん――。ありがと」
答えながら汀子は、なぜこんなことをこの男と喋《しやべ》っているのだろうと思った。可笑《おか》しいような、物哀しいような気持ちだった。
――あたしもアイスクリームで騙《だま》されるのかな。
胸の中で独言《ひとりご》ちたら可笑しさがプクプクと突きあげて、ついクスリと笑った。男はそんな汀子を、不思議そうに見ていた。
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秋の空
「あんたコンタクトにしなさいよ」
助手席に坐《すわ》った女友だちが映子に向かってそう言ったのは、映子がハンドルを握ってから「眼鏡がない」と捜しはじめたからである。
サイドブレーキと座席のあいだに挟まっていた眼鏡を見つけ、やっと車を走らせてから映子は答えた。
「コンタクトにするほど悪くないもん」
「いくつよ」
「〇・一くらい……」
「両眼?」
「うん」
「充分悪いじゃない」
コンタクトにしないことに理由がないわけではない。コンタクトに替えてしまうと、あの眼鏡[#「あの眼鏡」に傍点]が不必要になってしまうことになる。それが嫌なのである。
映子は隣りに坐った女友だちには気づかれない程度の溜息《ためいき》をついた。若林の彼女の自宅まで送って、映子はそのあとで碑文谷《ひもんや》にある自分のマンションまで帰る。留守番電話には今日も安井からの伝言は入っていないだろう。入っていないだろうとは思いつつも、心のどこかで期待している。期待していれば裏切られたときのショックが大きいので、ことさらに「絶対入ってないから」と思いこもうとしている。
そんな自分の心理が悲しいやら情けないやらで、つい洩《も》れた溜息であった。
映子は母親がやっていた喫茶店を譲り受けた形で経営している。賃貸だけれどわりとグレードの高いマンションにひとり住まいしているし、車も母のお古をもらって我もの顔に使っている。映子がまだもの心のつかないうちに夫をなくしてしまった母は、二十数年間がむしゃらに働いたあげく、突然再婚してしまった。
「何の苦労もせずに大人になった」とよく言われる。自分でもその通りだと思う。ただそういった人間によくあるように、映子はひどく押しが弱い。そんなふうに育ってきた人間はワガママなものだと思っている人が多いが、映子は誰からもワガママだと言われたことがない。小さなころから、クラスの中では目立たないほうで、みんなの言うとおりに従ってきた、というところがある。
思ったことをはっきり口にできない、嫌なことでもつい笑顔をつくって「いいですよ」と引き受けてしまう。そんな自分の性格が嫌でたまらないくせに、いざとなるとからきし、こうしたいとか、ああしたいとかが言えない。いつも溜息ばかりついているような気がする。
そんな映子が、この前、それこそ清水《きよみず》の舞台どころか東京タワーから飛びおりるような気持ちで、敢行したことがある。なんのことはない、別れた男に電話したのである。
安井というその男は、映子の店によく来ていたのがきっかけで映子と付きあい出した。どういう職業だったのか映子は未だによく把握していないが、とにかく肩書きはカタカナだった。
情けないと思うのは、どうして別れたのかという理由を、映子はまだ理解できずにいることである。ちょっと口論したような気はする。母から店を引き渡されたばかりのころで、なかなか仕事に慣れることができず、映子は落ちこんでいた。口論の原因はそのことにあったと思う。でも決定的なことは言われていないし、勿論《もちろん》こちらから言ってもいない。それなのに急に電話がこなくなった。
気が弱いわりには妙に頑固なところのある映子は、毎日祈るような気持ちで電話を待っていたくせに自分からはかけなかった。そうしてそのまま半年が過ぎた。
今でも映子は、安井を好きだと思う。てきぱき喋《しやべ》り、映子が迷っていると何でもすぐに決めてくれた安井は、自分とは違った種類の人間のように思える。そうであるから、好きになった。
どうしてあのとき電話しなかったんだろう、と考えると矢も楯《たて》もたまらず口惜しい思いがした。とにかく会わなければいけないと思いたったのは、このひと月ばかりのことである。
眼鏡の一件を思い出したときは、だから身体じゅうがむず痒《がゆ》いほど嬉しかった。いつだったか、安井の車を運転させてもらったことがあった。映子の免許証には「眼鏡等」の文字がある。運転するときに眼鏡をかけた映子は、安井と運転を交替する際にその眼鏡を外してダッシュボードに置き忘れたのである。
ちょうどそのころに眼鏡を新調したため、不便がないのですっかり忘れていた。しかし置き忘れた眼鏡を返してもらうためというのは、映子にとっては電話をかける最適の口実になった。
映子はそれでも一週間ほど迷いあぐねた末、ついに数日前、安井に電話をかけた。電話を通した安井の声は、半年前と何の変わりもなく、映子は声を聞けただけでも嬉しかった。
眼鏡の件を伝えると、安井は合点したように、ああ、と言った。そうして、何だか妙に深い息を吐いて、ヒマな日ができたら連絡すると言った。その日から映子は、半年前と同じように祈るような気持ちで安井からの連絡を待っていた。
「安井です。明後日《あさつて》が空きました。……えー、明日の夜にでも電話を下さい」
留守番電話に録音されたその声を、映子は何度も繰り返し聞いた。さっきの女友だちが映子のそんな姿を見たら、いいトシをして――と呆《あき》れ返るに違いない。それでもよかった。
映子はひとりベッドの中で、明日の夜安井に電話をかけるときに何と言おうかなどと考えた。実際に声を出して、予行演習をしてみたりもした。
果てしなく思えるほどに長い一日をやり過ごし、映子は翌日の夜安井に電話をかけた。話しあった結果、次の日の晩、映子が安井の家のそばまで車で行くことになった。
ブラウス一枚では、もう寒い。といってセーターを着こむのは早すぎる気がする。さんざん迷ったあげく、映子はいちばんシンプルな形の長袖《ながそで》のシャツを着てその上にセーターを羽織り、安井に会いに行くことにした。
――眼鏡受け取って、ハイありがとうってそのまま帰ってきたんじゃ何の意味もないんだからね。
安井の住んでいる深沢に向かう途中、映子は何度も自分に言い聞かせた。
安井は、レンガ造りの図書館の前で、映子が来るのを待っていた。映子の車のヘッドライトが、図書館の前の植え込みのふちに腰かけている安井の姿を照らし出すと、安井は手をかざして映子の車を確かめながらゆっくりとした動作で立ちあがった。映子はその真ん前で車を停めた。
「久しぶり……」
車から降りて映子がおずおずと話しかけると、安井は無言で頷《うなず》いた。白いTシャツ一枚の安井は、陽に灼《や》けた腕をむき出しにしていた。
「乗る?」
掌《てのひら》で腕をさすっている安井を見て映子は声をかけた。安井は映子の表情をちらりと見てから、ふん、と言って助手席の扉を開けた。
車の中で安井は、ポケットから眼鏡を出して映子の車のダッシュボードにのせた。
「ありがとう」と映子が言ってからは、ふたりとも無言になった。
斜め前に見えるガソリンスタンドから、「オーライ、オーライ」という男の声が聞こえてくる。オレンジ色の光が四方に散って、その一角だけが昼のように明るかった。
「どうして……」
沈黙を破って映子は口を開いた。このまま安井に帰られたら、東京タワーから飛びおりた意味がなくなると思ったのである。
「どうして、こういうふうになっちゃったのかな……」
安井は横目で映子をうかがってから、ふうッと息を吐いた。
「どうしてって……」
そう言ってから安井はまた押し黙った。
「あたしは、待ってたのに。電話……」
映子のことばに、安井は急に振り返った。振り返った安井のその視線を映子はまともに受けとめてつい見返した。
「電話してこなくなったのはお前の方じゃないか」
「……え?」
「俺だって待ってたんだよ」
「え、だって、だってあたし……」
戸惑いながらも映子は事態を把握した。映子がずっと安井からの電話を待ち続けていた半年前のあの期間、安井も同じように映子が電話をするのを待っていたのである。
安井はまた前を向いて黙ってしまった。映子の胸の内には馬鹿馬鹿しさが膨《ふく》れあがり、どういうわけかそれが妙な可笑《おか》しさに変わっていった。
「バッカみたい」
自分でも驚いたほどの低い声が出た。安井はもういちど映子の顔を見て、肩をすくめるような仕草をしてみせた。以前ならきっと魅力を感じたのであろうそういった動作のいちいちが、今の映子にはなぜか嫌味にさえ見えた。
「家まで送る?」
バッグの中の煙草に手を伸ばしながら、映子は低音のままで訊いた。安井は首を振った。安井の前で煙草を吸ったことはなかった。
安井はさらに溜息をついて、扉を開けて外へ出ようとした。映子は思いついて安井を呼び止めた。
「安井さん」
安井は車の中を覗《のぞ》きこむような姿勢で、映子の方を向いた。
「あたし、コンタクトにするわ」
安井はおかしな顔をして首を傾《かし》げてから扉を閉めた。
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月の砂漠
待ち合わせは六時半に渋谷だったが、少し時間が余るようだったので二子玉川園駅で途中下車した。東急ハンズでもぶらりと廻ってみるつもりだったが、今日が土曜日であることを忘れていた。どこもかしこも人であふれていて、とても「ぶらりと」その辺を歩くようなことはできそうにない。
改札を抜けたあと、とにかく人ごみから逃れたい気持ちで、特にあてもなくバス停の方へ向かってみた。自転車がぎっしり並んだ列の横あたりで、省介は背中をどしんと押された。一瞬よろけて体勢を持ちなおし、何ごとかと振り向いてみると中学生らしき男の子の一団が、ある者は後ろ向きになり、ある者は横歩きになって笑いさざめきながら省介の脇《わき》を通り過ぎていった。
誰かが誰かを肩で小突き、小突かれた方がその反動で省介にぶつかったのだろう。謝りもしなかった。いや、きっとぶつかったことに気付いてさえいないのかもしれない。
小さく舌打ちして彼らを見送った省介だが、彼らのまわりに飛び跳ねているような、何とも言えないひとつの空気が見えてくると、怒る気もしなくなった。
――俺もあのくらいのころがいちばん楽しかった。
楽しかった、というのとはちょっと違うかもしれないが、あのころは確かに、何かみなぎるものがあった。きっと省介もあの年齢のころは、こそばゆいような光る空気を、自分の身体から発散させていたに違いない。
省介は中学、高校とサッカーをやっていた。成績も悪い方ではなかった。あのまま気楽にサッカーを続けて、持ちあがりの大学へ行けば良かったのかもしれないと、今でもときどき考える。
省介が通っていたのはある大学と同じ敷地内にある、付属の学校だった。中学校からサッカー部に入ったのは、サッカー部が校内ではいちばん大きな部で、二学年上は都のベストエイトに入るようなチームだったからである。
強いだけあって練習は厳しかったが、省介は二年生からレギュラーになって、それなりに充実した日々を過ごしていた。ところが高校にあがってからしばらくして、ある噂《うわさ》が省介の耳に入ってきた。
付属高のサッカー部員は、持ちあがりの大学で体育会サッカー部に入部することに決まっている[#「決まっている」に傍点]、というのである。それは長年続いた慣習の上の半ば暗黙の了解の如きもので、体育会サッカー部に入ったら今度は四年間のサッカー漬け生活を強いられる。普通の就職活動などとてもできないので、先輩たちが営々と築きあげてきたコネクションの力で、卒業後はある建設会社への就職というレールが敷かれている。
その話を聞いて省介はそら恐ろしくなった。サッカー部での高校生活に不満はなかったが、この若い身空で自分の将来まで決められてしまうのはたまらないと思った。
省介は言語学をやりたかった。他人《ひと》に話したことはなかったが、日本語のルーツを探るということが省介の以前からの夢でもあった。
高校二年の新人戦が終わったあとで、省介はサッカー部をやめた。他の大学を受験することを「外に出る」と言っていたが、省介は外に出る決心をしたのである。そのことだけでも、十六の省介にとっては非常な決断力を要することだった。
サッカー部をやめたことで、ちょっとした人間関係のいざこざが起きた。他の大学の受験のためという理由が、先輩や仲間の反感を買った。タテのつながりの強い私立の学校ではありがちなことである。省介は高二の夏休みから受験勉強に専念した。まさか二浪するとは、そのときは思ってもみなかった。
実力はあるのにねえ、本番に弱い性質《たち》なのかな、君は。予備校の講師が、そう言って何度も首を傾《かし》げた。自信はあったし、模試の結果もその自信を裏付けるに充分なものだった。
受かるまで何年だってやってやるというくらいの気概はあったが、二十歳の誕生日を迎えたときに何かひどく重たいものが肩の上にのしかかって、はじめて疲れを感じた。そうしてそれ以上に、母親の疲れ方が尋常でなかった。三年目の春も本命のサクラは咲かず、辛うじて中堅どころの私立にひっかかった。最後は父親の強い勧め(半ば命令の)で、省介はそこに入学することを余儀なくされた。
ロータリーのガードレールに腰かけて煙草を吸いながら、改札口から次々に吐き出されてくる人の群れを省介は眺めた。さっきの中学生たちが発散させていたあの空気は、身体の芯《しん》にある気持ちの歯車が緻密《ちみつ》なまでの正確さと正直さでもって回転している、その音の微粒子なのではないだろうか。――そんなことを考えていた。
大学は面白くなかった。なんとなく未練があって、体育会系ではないサッカーのクラブに入ってみたが、クラブの連中もみんなくだらなく思えた。省介と同い年の奴らは当然のことながら、もう二学年上だった。般教《ぱんきよう》で択《えら》んだ言語学概論の授業には欠かさず出席しているが、情熱はいつの間にか色褪せていた。「変わった奴」と思われている自分を、省介は自覚している。省介の歯車は、もうかなり前からギシギシと軋《きし》んだ音を立てていた。
渋谷の待ち合わせはクラブの飲み会である。行きたいとは思わなかったが、有無《うむ》を言わせぬような誘いであった。そうやって気持ちとは別のことをしていくうちに、歯車のギザギザはすり減っていくものなのかもしれない。省介は何本目かのセブンスターを踏みつぶして改札口に向かった。
地下鉄で渋谷に出て、エスカレーターと階段で地上に上ると、さっきまで薄明るかった空はもう暗くなっていた。その暗い空の下方の部分は、繁華街の灯《あか》りのせいで安っぽいネオンの色に染まっている。
これじゃあ星も見えないな。まばたいて上を見ながら歩いていくと、待ち合わせ場所の前に数人でかたまって、お互いに肩を叩《たた》いたりしながら笑っているクラブの連中の姿が見えてきた。その姿に似たものを見たと思って一瞬考えをめぐらし、すぐに思いあたった。さっき二子玉川で見た中学生だ。
いや、違う。さっきの中学生とクラブの連中は決定的に違う。そうだ、奴らのまわりにあの微粒子のつくる空気は飛んでいない。
「よオッ」
殊更に大声を出して、省介の姿を見つけた二歳下の同級生が手をあげた。部長の服部という男が、省介の方に近づいて来た。服部は三回生だから、省介とは同い年になる。
連なって店へ向かって歩いていく途中、服部は省介の横を歩いて何か話しかけた。連なってゾロゾロ歩くことの嫌さばかり考えていて、省介の耳には服部の話はほとんど入ってこず、ただ曖昧《あいまい》な相槌《あいづち》を打っていた。服部は露骨に不満げな顔をして足を速めた。
店に入って卓を囲み、酒を酌《く》みかわしはじめても、省介はまわりの連中の話に適当に笑ったりしながら、頭の中では早く帰ることを考えていた。酒は強い方である。一回生は何やかやと飲まされるものだが、省介はさほど酔いを感じていなかった。小一時間ほどしたときに、明らかに酔った顔の服部がすり寄るように省介に近づいて来て、隣りに坐《すわ》ってまだ飲みきってもいない省介のコップを満たした。
「あ、どうも」
礼を言ってコップに口をつけると、服部は待っていたかのようにまた注《つ》ぎ足した。何をしているんだろう、こいつは。ちらりと服部の様子をうかがい見ると、半ば酩酊《めいてい》した服部の視線とまともにぶつかった。
「あ、服部さん、俺自分でやりますから」
またもや省介のコップに伸ばされた服部の手を追いかけるように言うと、服部はにやりと笑って省介をあおぎ見た。
「なによ、服部さん[#「さん」に傍点]なんて言わなくていいじゃないよ、同い歳なんだからさあ……」
相手が酔っているということは充分|判《わか》っているつもりでも、やはり気に触った。
「あ、苛《いじ》めないで下さいよ……」
それでも冗談めかしてそんなふうに言ったが、服部はさらに追い討ちをかけた。
「ねえ、受けたのはどことどこで、落ちたのはどことどこなのか教えろよ」
「ちょっと、いい加減怒りますよ」
そのときもまだ、笑いながらのことばだった。プツリと糸が切れたのは、服部がさらに続けて言ったときだった。
「やっぱさあ、キミの場合は、苦労が顔にしみこんじゃってるって感じするもん、うん」
そばにいた数人が、服部のことばにプッと吹き出した。省介はだしぬけに立ちあがった。
手をふりあげたときにちらりと見た服部の顔には、後悔の色がはっきりと浮かんでいた。次の瞬間、服部の体は十センチくらい宙に浮いて、もんどりうって壁に背中を打ちつけた。顔から血の気が失せて、服部はあ、う、と無意味な音を発していた。
「やめてやるよ、服部」
省介はそう言ってから、椅子《いす》を蹴《け》って外へ出た。
渋谷の街は相変わらず小汚く、省介は何度か人とぶつかりながらセンター街を駅に向かって歩いた。知らぬ間に口もとがゆるんでいる。それはさっき、ある音を聞いたからだ。
カチリ。
服部を殴ったあの瞬間、省介は確かに自分の身体の内にその音を聞いた。それはほんとうに一瞬だけ、歯車が噛《か》み合った音だった。
安っぽいネオンの色に染まって、薄いピンクに見える空のずっと上の方に、肌色をした月があった。
月の砂漠をはるばると……。変に場違いな歌が胸の内に浮かんで、省介はフン、と笑ってみた。
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ポケットの中
「深大寺《じんだいじ》のおじい」が死んだとき、克子は十三歳になったばかりだった。
駆け落ち同然で東京を飛び出し、神戸の男のもとへ嫁《とつ》いだ母は、克子を産んでまもなく離婚し、東京に舞い戻ってくることになった。それから今日に至るまで母は克子を女手ひとつで育ててきたわけだが、ともすれば大切な何かが欠陥しがちな片親の家庭を、目立たぬながらも確実に支えていてくれたのが「深大寺のおじい」だった。
おじい、おじいと克子は呼んでいたが、深大寺に住んでいたその老人が克子の実の祖父であるわけではない。血のつながった祖父、つまり母の父親は、母が反対を押しきって神戸に嫁いで以来、ずっと音信不通になってしまっている。気に入らぬ男の種である孫の顔など見たくもないというわけか、東京に戻ってきていることは知っているくせに電話一本、手紙一通よこさない。そうなってしまってからが十年以上なわけだから、お互いちょっとだけ意地を張ったつもりが収まりがつかなくなって、意地を張ったまま固まってしまったという感がある。母の母、つまり克子の祖母が生きていればまた事情も違ったろうが、克子の母は幼いころに母親を失くしている。
女だけの生活の不自由さは察しがつくだろうに、結局冷たいのよね、あのひと[#「あのひと」に傍点]はと、母はひと言で片付けてしまおうとする。けれど心の中ではそう簡単に片付かない何かがあるであろうことが、十三歳になった克子には判《わか》る。
深大寺のおじいは、国立《くにたち》で古くから衣料問屋を営んでいる母の父――つまり克子の祖父のところへ出入りしていた仕出し業者だった。母のことを「おねえさん」と呼ぶのは、母に弟がいたせいだろう。「おねえさん」と呼ばれるときの母は、ちょっとだけ昔に戻るようで、よくおじいと娘時代の話をしていた。そうしてそのほとんどが、自分の父親の悪口だった。早くに妻を亡くした克子の祖父は後添えをもらう暇もないほど商売に熱中していたのだろう、子どものころは淋《さび》しい思いばかりしていたと、母はこぼす。
――淋しい思いって、どんな?
おじいと母の話に克子が口をはさむと、母は遠い昔を思い浮かべるように目を細めながら言った。
――朝起きてもだあれもいなくて、朝ごはんも晩ごはんもひとりっきりで食べたし……。
――なんだア。そんなん、克子と同じだよオ。
口をとがらせて克子が言うと、聞いていたおじいが大きな声で笑った。克子を育てるために母も外へ働きに出ているから、ごはんの支度《したく》や家の中のことは半分克子の分担だ。母ははじめて気付いたように、あらッ、そういえばそうね、と言い、自分も上を向いてケラケラと笑った。
東京に戻ってきたのはまだほんの赤ん坊のころのことだから、克子はちっとも憶えていないのだけれど、落ち着き先を決めるのにも随分苦労したらしい。駆け落ちの末の出戻りということもあって親類縁者に頼るわけにもいかず、途方に暮れていた母の脳裏に浮かんできたのが、深大寺のおじいの「仏さまのような」顔だったのだという。
それからはもう、深大寺のおじいに頼りっぱなしで、移り住むことになったアパートの保証人になってくれたのもおじいなら、引っ越しの煩わしい手続きをやってくれたのもおじいである。そういうふうに、ことあるごとに克子と母を助けてくれたおじいだが、母が今でもことに触れ言うのは、アパートに移った晩、おじいが鍋《なべ》いっぱいのカレーを持って来てくれた、ということである。
あのときのカレーライスほどおいしかったものはない、母はいつもそんなふうに言う。味そのものよりも、おじいの心遣いが母の気持ちの空腹を満たしたのであろう。カレーライスは幼いころの、母の大好物だったのだという。
おじいも若いころに最初の奥さんを亡くしていて、二度目の奥さんは母と克子が東京に来てから亡くなってしまった。どちらとのあいだにも子どもはなく、だから母のことを娘のように、そして克子を孫のように思っていてくれたのかも知れない。祖父も父もいない克子にとっては、おじいは両方の役割を果たしてくれる人だった。
残業の母が遅くまで帰ってこられない日は夕飯を作りに来てくれることもあったし、母に内緒で小遣いをくれたりもした。そうであるから、おじいが死んで、克子は祖父と父をいっぺんに失うことになった。
葬式に集まって来たおじいの親戚《しんせき》という人びとは、甥《おい》や姪《めい》や、それよりも縁の遠い人ばかりで、誰もみな遠くに住んでいた。克子は強い目でそれらの人びとを見つめながら、ただ口をぴったりと閉じて坐《すわ》っていた。強く睨《にら》むような目つきをしたのは、その人たちが嫌だったからというわけではなくて、ただそういうふうにカッと見開いていないと、あとからあとから涙が流れ出て頭の中がぐずぐずになるからだった。
身を固くして坐っている克子のそばに、おじいの甥だとか従兄弟《いとこ》の子だとかいう人が寄って来た。
「これ、奥さんに」
克子の隣りに坐っていた母が、少しどきりとしたような顔で男を見返した。スッと男が差し出したものは、一枚の葉書だった。
「おじさんが死んだとき着てたズボンのポケットの中にね……」
「これが……?」
男は黙って頷《うなず》いてから、説明のように付け足した。
「僕らはよく事情が判《わか》らんから。――ただ宛名にあった名前の苗字が、奥さんと同じだったもんですから……」
宛名にあるのは、言うまでもなく母の父の名だった。母は震える手で、ようやく葉書を受け取った。
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拝啓
おじょうさんは元気です。かつ子ちゃんも元気です。かつ子ちゃんはいちだんとせい[#「せい」に傍点]がのびたようで、学校ではうしろから三ばんめだそうです。会いにこられたら、きっとびっくりされるでしょう。おひまを見つけて、ごれんらくいただければと思います。
おじょうさんはつよがっておられますが、ほんとうはおさみしそうです。ぜひ小生にごれんらくくださいますよう。お会いになられれば、きっとよろこびますでしょう。
だんなさまもお体に気をつけて。ごれんらくを待っています。
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[#地付き]敬具
お世辞にも上手とは言えぬ、曲がりくねった万年筆の字の上に、ポタリと水滴が落ちて黒いインクがにじんだ。我慢していたものが、いちどに堰《せき》を切ったのだろう。すすり泣きの声が次第に大きくなり、母はやがて俯《うつぶ》した。克子ももう目を見開いてはいられなくなり、瞼《まぶた》を閉じた途端に熱い滴が頬《ほお》を伝った。
もう何年のあいだ、おじいはこうして倦《う》まずたゆまず、書き慣れない文を書き続けてきたのだろう。すべてを自分自身の中に蓄《たくわ》えこんで――。
アパートのことも、カレーのことも、この永い歳月のすべてのことは、全部おじいの腹が呑《の》みこんでしまったのだろう。
子どものころによく触った、おじいのふくらんだ腹のことを克子は思った。あの中に、どんなにたくさんのものを詰めこんでいたのだろうと考えた。
「最後の最後まで……」
俯《うつぶ》せのまま母が言った。そのあとは克子には聞き取れなかった。克子はただ、おじいの中に守られていた自分が、ふッと放り出されてしまったように感じていた。時間が過ぎるのが、急にゆっくりになったようだった。
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アミュレット
もうフロアは人であふれている。疲れた真《まこと》はソファに身体《からだ》をあずけて大きく息を吸った。吸っても吸っても、地下の、しかもドライアイスの混じった空気は、身体に酸素を補給してくれないような気がした。
「まこちゃん疲れたの」
呼びかけられて上をふり仰ぐと、経済の大井が立っていた。うん、少しね。答えかけたときに、大井の後ろにアメリカ人らしい男が立っているのに気付いた。
「誰、その人。インターの人?」
「ううん、ただの友だち。トレスっていうんだ」
「トレス?」
少し大きな声で訊《き》き返すと、自分のことを話されているのに気付いたらしいアメリカ人は、ヘーゼルの瞳に人なつこい笑みを浮かべて「ハイ」と言った。
「変わった名前ね、どうつづるの」
訊《たず》ねられてトレスは真の横に腰を下ろし、笑いながら説明した。
「ほんとの名前は、ダリル・ベントン・テイラーV《サード》。お父さんがジュニアなんだ。つまりお祖父《じい》さんまで同じ名前なの」
「それがどうしてトレスになったの」
「スペイン語でトレスは『三』って意味なんだ、僕は三世《サード》だから」
「へえ……、面白いのね」
「君の名前は?」
「マコト」
「男の子みたいだね」
「そうなの。あたしが生まれる前、お父さんは男の子が欲しくて、男の子の名前しか考えていなかったんだって」
「はは、君の名前も面白いよ」
フロアは相変わらず人でごった返している。あの中へ入っていく気はとうてい起きなかったし、ラムインコークも飲みあきた。トレスを連れてきた大井は、他の経済の連中と笑いながら何か話している。
「どうしてこのパーティに?」
「大井に誘われたんだ、可愛《かわい》い日本の女の子に会えるからって」
「日本の大学のパーティははじめて?」
「うん。アメリカの大学にいたときもパーティはしょっちゅうあったけど、雰囲気は違うね」
「どっちが好き?」
トレスは困った顔になって、少し眉を上げて真の顔を横目で見やった。そうしてから鼻の下を人差指でこすり、ちょっと顎《あご》をひいて言った。
「たとえばね、あそこに女の子たちが並んで坐《すわ》ってるでしょう」
真たちが坐っているソファの二つほど向こうに、脚を組んだり煙草を吸ったりしながら気怠《けだる》そうな表情でフロアの方を眺めている三、四人の女の子が見えた。経済の男の子たちが連れて来た、たぶん短大の子たちだろう。
「あの子たちは、パーティを楽しんでいるのかな」
今度は真が困る番だった。真は首をすくめて「判《わか》らない」と答えた。
大井が二、三人の経済の連中とやって来て、トレスを囲むようにして坐った。大井に訊ねてみると、トレスは九州のS大学で日本語を学んだあと、英会話の学校で講師として働くために東京に来ているのだということが判った。
「まこちゃんって帰国だったっけ」
中のひとりに訊かれた。
「違うわよ」
「なんで喋《しやべ》れンの」
――誰だってこれくらいは喋れるよ、ただみんな喋ろうとしないだけじゃない。
言いかけて止《や》めた。男の子たちがトレスにスラングを習うことに熱中しはじめたからだった。
トレスから電話があったのは、パーティの次の週のことだった。番号を教えた憶えはなかったので、真は少し驚いた。どうして判ったのかと訊いてみると、大井に教えてもらったのだと答えた。
「こないだは余りたくさん話せなかったから。もういちど会えると嬉《うれ》しい」
「いいわよ、わたしはヒマだから」
するとトレスは、翌日の三時、真の学校の近くのコーヒーショップで会おうと言った。
翌日、真が時間どおりに約束の店へ行くと、トレスはもう来ていて真に向かって手を振って笑った。
しばらくコーヒーを飲みながら、トレスが日本語を勉強したという九州の大学の話をした。トレスはそこに二年間いたのだと言ったが、自分の日本語の力については余り自信がないらしかった。
「読み書きはかなりできるようになったよ、新聞も――少しだけど読める。でも話す聞くはまだまだダメだな。働きながら東京の学校へ通おうと思ってる」
「それは日本の英語教育と同じね」
「そうなんだ、ホントに」
トレスはそこで手を叩いて言った。トレスは日本の普通の学生が、ときどきひどく難しい単語を知っていたりするので驚くのだと話した。その気になれば高校生だってタイムズを読めるだろう。けれど彼らは話せないのだとトレスは言った。
「話せないのじゃなくて、話さないんだと思うけど」
真がそう言うと、トレスは考えこむような顔になって幾度か頷《うなず》き、それからゆっくり話しはじめた。
「僕がとても不思議に思うのはね、彼らは何のために[#「何のために」に傍点]大学に来てるのかってことなんだ。高校生までの学力なら、アメリカと日本で比べたらアメリカの方がずっと下だよ。だけど僕は、そんな頭の良さを彼らは無駄にしてるような気がする。大井にしても誰にしても、僕は大学で学んでいる[#「学んでいる」に傍点]日本人を知らないんだ、怒らないでくれよ」
トレスはそこで少し笑いながら真に言った。トレスの言っているのは真実だ。真が怒れるわけがなかった。なぜなら真は、自分すらそのうちのひとりだということを知っていた。
「たとえばアメリカでは、経営を学んだ学生は彼を求めている会社に入ったら、一年目から高いポストを与えられる。会社は彼がどれだけ知っているかということに応じて給料を払うんだ。だけど日本では、みんな同じように一からはじめなくちゃならない。つまり、別に大学を卒業していなくてもできるような仕事からね」
そのあたりから真は、自分自身について考えざるを得なくなった。
真の専攻は言語学だった。しかし一年後に迫った卒業のあと、真はどのような仕事をしているだろうか。
ふと、高校のときに仲の良かったある友人のことを思い出した。彼女はいつでも学年トップの成績で、殊に受験の年には見ていて心配になるくらい勉強していた。結局彼女は推薦で一流の大学に進学したのだったが、そこを卒業した去年の春からは大手の都市銀行の丸の内支店の、窓口に坐っている。
銀行の窓口勤務をするために、彼女はあんなに勉強していたのではないはずだ。彼女の就職先は誰からも羨《うらや》ましがられるようなところだったけれど、それでも真はちらりとそんなことを思ったのだ。
けれど今、ひどく近いところにある自分の未来というものを考えるとき、自分と彼女との差はさほど大きいものではないということが判《わか》る。
「あ、それ何? 見せてくれる」
トレスに声をかけられてふと自分の脇《わき》を見た。トレスが指さしているのは、真のバッグから覗《のぞ》いているドイツ語の教科書だった。
英語さえままならないというのに、第二外国語は必修なのだ。真は教科書をトレスに渡した。
トレスはパラパラとページをめくってみたあとで、表紙に書いてある漢字を指で追いはじめた。そうしながら彼は言った。
「先週のパーティね、君はどっちが楽しいかって僕に訊《き》いただろう」
「ええ、憶えてるわ」
「どっちが楽しいかってことについては答えないけど、僕は行って良かったと思ってる」
「なぜ?」
「君に会えたから。大井は嘘《うそ》をつかなかったんだ」
真はくすりと笑った。トレスは漢字を見つめたまま、ひとりで頷《うなず》いている。
「ガイコクゴ――チュウキュウ……。ハクスイ シュッパン……」
独り言の声が大きい。真たちの隣りにいる女子高生らしきグループが、トレスの拾い読みの声を聞いてクスクスと笑い声を立てた。
けれど真は、漢字を指で拾いながら読むトレスを、カッコいいと思った。
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あたたかい硬貨
狭い階段を降りて外に出ると、薄暗くなった商店街の通りにちらほらと街灯が点《つ》きはじめていた。聡《さとし》はセーターの上にスタジアムジャンパーを着こみ、ぶらさげていたデイパックを背中にしょって自転車にまたがった。
頬《ほお》を切る風の冷たさが、冬の訪れの近いことを物語っている。自転車ごと身体をかたむけるようにして商店街の通りを曲がると、あたりは急に暗闇になり、その先には海の見える公園がある。聡が鎌倉の近くのこの町に引っ越してきてから、二回目の冬を迎えようとしている。
高校受験のために春から通いはじめた塾の帰りのこの自転車コースは、もう聡にはお馴染《なじ》みになっていたけれど、今日はいつもと違い何となく浮き立った気分でいる。今日、模擬試験の結果が返ってきたのだった。
第一志望は東京にある私立高校である。難関といわれているその学校の模試の結果は、合格率八〇パーセント以上というものだった。このことをまずいちばんに知らせたいのは、家にいる父親ではない。
――テレフォンカードを買わなくちゃな。
聡は心の中で呟《つぶや》いた。ジーパンのポケットの中に五百円玉が一枚と十円玉が三枚ある。聡は片手をポケットの中につっこんだ。塾で授業を聴いているあいだ、ずっと握りしめていた硬貨は、生あたたかい感触を聡の指先に伝えた。
つきあたりの公園の前の道を右に行くと聡の住む家、左に行くと小さなモーターサイクルの店があり、その店の脇《わき》に電話ボックスがふたつ並んでいる。いつも思うのだが、暗くなったあと、そこだけ明るい電話ボックスは、人がいないときも中に誰かいるように見える。公園につきあたって左に曲がった聡は、遠くに見えるボックスの中のグリーンの電話の後ろにやはり人が立っているように思い、ペダルを漕《こ》ぎながら少し笑った。今日はこんな些細《ささい》な勘違いまでもが、何だか楽しい気持ちにさせてくれる。
聡は父親とふたりで暮らしている。家の中のことは週に三回来る家政婦がだいたいやってくれるが、家政婦が来ない日やサッカー部の練習で朝早く起きなければならない日は、やはり煩しさを感じる。けれど母親と離れて暮らすようになってから日が経つにつれ、そんな煩しさにも慣れてきた。
両親が別れた理由を、聡は知らない。小さなころから、父と母のあいだに何となくスッキリしない凝《しこり》があることに直感的に気付いてはいた。が、その原因がどこにあるのかを訊《たず》ねることはできなかった。ただ今にして思えば、聡は子どもなりに自分の家をテレビのホームドラマで見るような「幸せな家庭」に近づけようと、いつだって気を遣っていたような気がする。
両親の間にある溝に気付かないふりをして、特別欲しいわけでもない新式の自転車をねだって甘えてみせたり、休みの日には外へ食事をしに行こうと言ってみたりした。
小学校の卒業式を二か月後にひかえたある日、聡は気分が悪くなって学校を早びけしたことがある。学校を出る直前に雨が降りはじめた。養護の先生が聡の家に電話して迎えに来るように告げようとしたが、通話中で通じなかった。聡は小雨だから大丈夫だと、傘を貸してくれようとした先生に手を振って、しとしとと降る冷たい雨の中を小走りに家まで帰った。
雨雲のせいであたりは暗かった。急げば学校から聡の家までは七、八分である。聡は雨粒のせいでか、やたらと落ちている椿の花をまたいで家の門に手をかけた。門のむこう、居間の窓に灯《あか》りは点いていなかった。
「ただいま――」
玄関に入って聡は声を出した。驚いてやって来るだろうと思ったのに、母は迎えに出ては来なかった。
電話が通話中だったことを考えて不思議に思い、聡は居間を覗《のぞ》いた。誰もいない居間は薄闇《うすやみ》の中で妙にがらんとしていた。聡は階段を上って両親の寝室の前に行った。少しだけ開いたままになった扉のむこうから、母が低い声で何か喋《しやべ》っているのが聞こえた。
「なんだ、いるんじゃない、お母さん」
そう言って聡が扉を開けるのと同時に、チン、と電話を切る音がした。
ベッドとベッドのあいだの谷間のようなところで、母は電話機を膝《ひざ》に抱いてぺたりと坐《すわ》ったまま、驚いた顔で聡を見あげた。母の頬《ほお》に、涙の筋がついていた。なぜか聡はそのままバタリと扉を閉め、階段を駆け降りた。見てはいけないものを見たと思った。
「聡……、ちょっと待って、聡」
母はそう大声で言いながら、聡を追いかけてすぐに下へ降りてきた。そうして居間のカウチで膝を抱えている聡を見つけ、隣りに腰をおろした。
「ごめんね――」
聡の髪を撫《な》でながら、母はなぜかそう言った。聡は母の手を振り払い、怒ったように訊いた。
「なんで泣いてたンだよ」
母は聡の問いには答えなかった。そうして、少し黙ったあとでゆっくりと言った。
「生きてるとねえ、いろんなことがあるのよ。聡にもわかるわ」
いろんなことなどわかりたくないと思った。けれどもそのとき、聡はもうダメだな、と感じた。そうして、聡が小学校を卒業するのを待っていたように、父と母は離婚した。
モーターサイクルの店の前に、キキッと音を立てて自転車を停めた。店の中から汚れたツナギを着た若者が顔を出した。聡は少しドギマギして、あわてて言った。
「あの、ここでテレフォンカード売ってますか」
若い男は面倒臭そうに首を振り、また店の奥へ戻った。聡は口をとがらせて自転車から降りた。こんなとこで売ってるわけないよな、口の中で舌打ちした。
「駅前で買ってくりゃよかったな……」
そう言いながらも、聡は電話ボックスの中に入った。
寒風をすり抜けて来た頬《ほお》が火照《ほて》りはじめている。聡は電話ボックスの中で、もう一度ジーパンのポケットを探った。汗ばんだ掌の中に、一枚の五百円玉と三枚の十円玉を握る。
――お母さん、俺《おれ》ね、S高受かりそうだよ。そしたらさ、今よりもっと度々会えるよね。
聡は胸の内で、台詞《せりふ》を覚えるように繰り返した。母はあの家を引き払い、今は世田谷のはずれにあるマンションにひとりで暮らしている。そのために志望しているわけではないが、第一志望のS高校も世田谷にある。
――三十円じゃいくらも喋《しやべ》れないな。
そう思ったが、聡は十円玉をスロットに落とした。母のマンションの電話番号は暗記してしまっている。
コールの音が三回も鳴らぬうちに、受話器は取られた。
「もしもし」
さっきの台詞をもういちど思い返しながら、聡は息せき切って口を開いた。知らないうちに頬がゆるんでいた。
「はい?」
答えた声は母ではなかった。聞いたことのない、低い男の声だった。
「…………」
聡は口を開けたまま電話機を見つめた。
「あ、もしもし、もしもし?」
不審に思ったらしい男が受話器のむこうで少し大きな声を出した。聡はやっとの思いで次のことばを口にした。
「あの……、河野ですけど」
「こうの、さん……? あッ、ああ、ちょっと待ってください」
男はあわてた様子で言った。掌で通話口を押さえているらしいが、息子さんじゃないかな――、というくぐもった声が聞こえてきた。ええッ、と母の驚く声が続き、バタバタと電話口に近寄ってくる気配が感じられた。
母の声が聞こえてくる前に、聡は電話を切った。チャリンと音がして、二枚の十円玉が戻ってきた。
聡は電話ボックスのガラスの壁にもたれて、そのまましばらく外を眺めていた。闇《やみ》はいつの間にか濃くなって、モーターサイクルの店の灯《あか》りが輪のように黒いアスファルトを照らしている。
肩で電話ボックスのドアを押した。感触が変に重たく、ふと気付くと聡はデイパックをしょったままなのだった。
何だか馬鹿らしくなって聡はデイパックを乱暴に背中から外した。それをぶらさげたまま、ふらふらとモーターサイクルの店の前に立った。
店の中で、さっきのツナギの若者がオートバイをいじっている。聡は突っ立ったままでその様子を見つめた。――生きてるとねえ、いろんなことがあるのよ。ずっと以前に聞いた母のことばが、不意に聡の頭の中に甦《よみがえ》った。馬鹿らしい気持ちがふくれあがり、聡はポケットに手をつっこんだままいつまでもツナギの男を眺めていた。
「バイク、好きなのか」
男が顔もあげずに急に話しかけた。聡は口唇をつき出すようにして少し笑った。
「好きなわけじゃなかったんだけど――」
男は眼だけ動かして聡を上目づかいに睨《にら》んだ。
「けど、何だよ」
「……今、好きになった」
男は聡の答えに一瞬手を止めて顔をあげた。そうしてデイパックを腕にぶらさげたまま突っ立っている聡を見て、ニヤリとした。
ポケットの中で、聡の手にあたたかい硬貨が触れた。聡はそれを引っ張り出して手の中でもてあそんだ。
「五百円じゃ買えねえよなあ……」
笑いながら聡が言うと、若い男も、今度は声を出して笑った。
「あたりまえだ、バカ。五百倍出してもおっつかねえよ」
「そうだよな……」
一方通行の細い道に白い車が入って来て、車体を傾《かし》がせて停まっている聡の自転車を照らした。ライトを反射して銀色の光が聡の眼を射る。
駅の方へ走り去った白い車の後ろ姿を見送ると、聡は若い男に言った。
「じゃ、買えるようになったらまた来るわ」
「おう」
デイパックを背負い直し、聡は自転車にまたがった。ペダルを漕《こ》ぎはじめると、ウィーンと唸《うな》るような音がして、黄色いライトが目の前を三角形に照らす。どこかの家から魚を焼く匂《にお》いがただよって来て、胃袋が鳴った。聡はサドルから腰をはなして、漕ぐ足を速めた。冬が、海辺の町のすぐそこまで迫っていた。
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カミン・サイト
「書類をじろじろ見てさ、住所ンとこ見て、あ、あなたはアパートに住んでるのね、って言われたわけよ」
「それで?」
「あたし反射的に『いえ、マンションです』とか言っちゃってさ。もう一同爆笑」
浩行も、そこで少し笑った。
あんまり寒かったので、ジャケットの中で身体を揺らしながら交差点を渡りかけると、同じクラスの洋子の後ろ姿を見つけた。それが十五分ほど前である。呼びとめられた洋子は、何かをつまみ食いしているところを見とがめられた子どものような顔で振り向いた。浩行は洋子をお茶に誘った。別に深い意味があったわけではない。ただ寒かったのだ。
近くの喫茶店に入って、クラスの連中の噂話《うわさばなし》などしているうちに、受験時代の話になった。「俺、あのころの方が充実してた」と浩行がポツリと言うと、洋子がへえ、と物珍しそうな声を出した。不可解そうな表情の洋子をちらりと見ると、「あたしは推薦だったから」と言い訳のように答えた。
推薦入学者は出身高校から推薦された時点で、半ば合格が決まった形になるので、実質的な受験勉強はほとんど必要なかったことになる。
浩行は大学生活というものに、説明しがたい不条理な感じを持っていた。それは具体的に面白くないとか、下らないとかいう感情ではなかった。ただ、小学校のときから教育熱心だった母親にのせられて、なんだかもの凄《すご》くハードに「勉強」というものを続けてきた最終的な結果がこれだったのか、と思うと、それは妙に安っぽいような虚《むな》しいような、なんとなく裏切られたような気持ちになるのだった。
しかし浩行は利口であったから、そんな胸の内などおくびにも出さず、とにかく自分は生活を充分に楽しんでいます、というふりをする技術を身につけていた。そうしていないとやりきれないという部分があった。
世間で一流と呼ばれている私大にストレートで入ったし、それはそれで積み重ねてきたものは無駄にはしていないと思えたけれど、自分はたぶん、普通の会社に就職して普通のサラリーマンになるのだろうな、と考えるとき、頭の中にシグマやベクトルが浮かんだ。
受験勉強は浩行にとって、一般的に思われているほど辛いものではなかった。何につけ、物を知るというのは楽しいことなのだ。「すべての学問は生活の向上のためにある」と言った哲学者の名は忘れたが、浩行はそのことばに出あったとき「そう、そう」と叫びたいような気持ちにかられたものだ。
そういう浩行がストレートで合格したのは、だから当然だとも言えるのだが、他人が見れば「とりあえず結構」な人生を歩みはじめている浩行は、立ち止まってみた自分の中に何かしら割り切れぬものを見つけるのである。
「でね」
洋子は推薦入学の面接試験のときのことを話している。浩行は頷《うなず》いて話の続きを促した。
「どうしてイタリア語を学ぼうと思ったのですか、って訊《き》かれたの。絶対訊かれるって判《わか》ってたから、あたしちゃんと答を用意してたのに、マンションの件で笑われて気が動転しちゃってさ。用意してた答がスーッと吹っ飛んじゃったのよ」
「焦った?」
「そりゃ焦ったわよ、でも何か言わなくちゃなんないって、それで頭一杯で、『はあ、イタリア音楽に興味がありまして……』って、大ウソ言っちゃったの、あたし」
「あーあ」
「それで終われば良かったんだけどさ、じゃあイタリアの作曲家では誰が好きですかって、突っこまれちゃったわけ」
「どうしたの、それで」
「あたし、すんでのところでムッソリーニって言いそうになっちゃった」
今度は浩行も声を立てて笑った。こんなふうにして大学に入ってきた奴《やつ》もいるんだな、と思った。それは浩行にとって、爽快《そうかい》さすらおぼえるひとつの新しい発見だった。
「で、答えられたの?」
「うん、一瞬のうちに頭をめまぐるしく働かせてさ。プッチーニって名前が出てきたときは、神さまありがとうって感じ」
「はは……」
「それがさ、さらに突っこまれちゃって」
「え?」
「プッチーニでは何を聴きますかって……」
何を聴きますかと問われても、プッチーニという名前をひねり出すのにさえ四苦八苦した洋子である。その洋子が何と答えたのかは興味があった。
「今思えば、いろいろ考えつくんだけど、そのときはもう頭ン中パニックでさ」
「答えられなかったの?」
洋子は首を振って、もう笑い出していた。
「あたし、『はあ、LPです』だって」
何と根性の坐《すわ》った答だろう。音楽家の好きな曲を問われて「LP」と答えるような奴はそうそういない。
浩行は目尻《めじり》に涙さえ溜《た》めて笑いながら言った。
「そんなんで、よく受かったよなあ」
「うん、あたしもそう思う。これは落ちるなって、そのとき確信したもん。でも推薦で落ちるなんて、恥ずかしいじゃない。結果出るまで、生きた心地がしなかった」
「落ちたらどうするつもりでいた?」
「就職よオ」
浩行は笑うのを止《や》めて、真顔になって洋子を見た。
「だってあたし、受験勉強なんて全然してなかったしさ、面接は十月だったから、それからやっても間に合うわけないじゃん」
「そりゃそうだけど」
「浪人なんて、ウチは絶対許してくれないし、家に帰って親に『落ちると思う』って話したら、親もその気でいたわよ」
「じゃあ……」
浩行は言いかけて口ごもった。胸がつかえた。
今までにたぶん、見過ごしてきたのであろうたくさんのもの、たくさんの人間のことを思った。現に今、浩行は一年以上も洋子と同じクラスにいながら、これまで知らなかった洋子のある部分を、はじめて見たという気がしている。
洋子は紅茶のカップを口もとに運ぶ途中で手を止め、「じゃあ」の続きを待っている。浩行はにこりと笑って言った。
「じゃあ、受かって良かったよな、ほんとに」
「ホントホント」
洋子はそう答えてカラカラと笑った。受かって良かったと、しみじみ感じたことが俺はあっただろうかと浩行は思った。
腕時計に目をやった洋子が、「え、もうこんな時間」と言ってカップを置いた。
「何かあるの」
「うん。六時から家庭教師なんだ、すっかり忘れていた」
「家庭教師やってるんだ」
「そう、すごいバカな子でね。中三だっていうのに、こないだなんか『先生、筆記体のTの大文字ってどう書くんでしたっけ』だって」
「それは大変だな……」
「植木屋の息子なの。将来何になりたいのって訊いたら、植木職人って言うのよ」
「へえ……、カッコいいじゃない」
「まあ、あたしが教えるんだから、あんまし頭いい子でも困るのよ」
浩行は笑いながら、伝票を取って立ちあがった。「いやだ、払うよ」と言う洋子に手を振って押しとどめると、わりと簡単に「そう? じゃあ、ごちそうさま」と引き下がった。
外に出ると、再び寒風が身体の芯《しん》まで冷やそうとするかのようにジャケットの内側にまで侵入してきた。慌《あわ》ててジャケットのファスナーを上げ、ふと隣りを歩く洋子を見ると、この寒いのにコートのボタンもとめず、裾《すそ》をひらひらさせながら跳ねるように歩いている。
「寒くないの?」
「うん、寒くて気持ちいい」
洋子はさっきと同じ声でカラカラ笑うと、国電の駅の手前にある交差点のところで「じゃあねえ」と手を振った。
コートの裾を広げた洋子の後ろ姿をひととおり見送ってから、浩行も地下鉄の駅の方へ向かって歩き出した。まっすぐ続いた道のむこうの遠い空の中に、高層ビル街の赤ランプが点滅しているのが見えた。
浩行は冬の都会の薄汚れた空気にけぶる赤い灯を見ながら、自分とあのビル街とのあいだの、長い道のりのことを思った。歩いたら三十分、いや四十分はかかるだろう。けれど浩行はふと、俺が今、ここからあのビル街まで歩いたとしても、別にどうということはないんだな、と考えたりした。
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柿の木坂の雨傘
今年の冬はよく雨が降る。寒い日にはみぞれのような、半分凍ったものが音を立てて傘を叩《たた》く。
ヨイはビニールの傘に水滴があたる音を聴きながら、灰色の空を見あげた。ビニール越しの空の雨雲は、石灰のような色をしている。小さな頃から、雨の日のこんな感じが好きだった。雲の上から飛行機の轟音《ごうおん》が鈍く聞こえてきたり、ひとりで歩く舗装道がいつもとは違って変に静かに思えたりするのは、なんだか自分が映画の中にいるようで、いつもヨイを浮き立った気持ちにさせるのだ。
それなのに近ごろのヨイは、雨が降ると憂鬱《ゆううつ》な気分になってしまう。それは雨そのものがいけないのではなくて、雨が降るとどうしても思い出してしまうことがヨイの胃袋の中に重くのしかかるからだった。
ヨイが最後に父に会ったのは、もう半年も前のことになる。ヨイの父親は六十三歳。三人兄妹の末っ子のヨイは父が四十になってからの娘だったから、兄妹のなかでもいちばん可愛《かわい》がられた。そんなヨイがもう半年も父に会っていないのには理由がある。ヨイは勘当されたのだ。それはヨイが、父の言うところの「正体不明の男」といきなり結婚したからだった。
大学を途中でやめてのことだったから、周りの友人たちも驚いたけれど、ヨイはそれまでずっと、二十歳になるのを待っていたのだ。もともと成人を迎えたらすぐに勇司のところに飛びこむつもりでいた。確信犯の感がある。
勇司はヨイより十一歳年上で、別に正体不明なわけではなく、写真のデザインの仕事をしている。売れっ子というわけにはいかないが、どうにかふたりで食べていける。それでも長いこと仕事がなくて、ぶらぶらしていることもある勇司だから、定年まで地方公務員を勤めあげた父にしてみれば「正体不明」と言いたくなるのも、ヨイにはわかる。けれどヨイの気持ちは止めようがなかった。それは仕方がないことだと思う。
大学をやめることはないと勇司は言ったけれど、勇司に無理をさせたくなくてヨイは自分からやめた。勇司はそのことについて未だに文句を言うけれど、ヨイ自身はやめてしまってよかったと思っている。いつでも勇司のそばにいられることがヨイには嬉しい。そんな気分は今のうちだけだと言う人もいるが、たとえ「今のうちだけ」でも、それを経験できることだけでヨイには充分だった。
スーパーマーケットの袋をぶらさげて雨の中を急ぎ、アパートに戻って扉を開けると勇司の靴があった。
「帰ってたの」
部屋に上がりながら声をかけたが返事はなかった。暗室だな、と思ってそのまま台所へ行き、買ったものを冷蔵庫にしまいはじめた。
物音に気づいた勇司が暗室から出て来て、ヨイの頭をぽんと叩く。
「いつ帰った」
「ついさっき」
それだけで勇司はまた暗室に戻ってしまう。暗室といっても勇司が押し入れに無理矢理こさえたものだけれど、そこにはヨイは入れない。そんな淋《さび》しさも、勇司といるということだけで、ヨイには我慢できる。
柿の木坂にある実家から傘を取って来ようとヨイが決心したのは、三日間雨が降り続いた次の日だった。
雨が降るたびにヨイの心を重くしていたのは一本の傘である。決して上等なものというわけではないが、黒い細身の傘はヨイにとっては大切なものだった。はじめて勇司に会った日、帰り際に俄《にわ》か雨が降った。黒い傘はそのとき勇司が貸してくれて、そのままヨイが自分のものにしてしまったものなのである。
半年前、ヨイが最後に実家を訪れた日も雨が降っていた。二度と帰って来るなと言われ、歯をくいしばって軒先の廂《ひさし》から一歩踏み出したその途端、濡《ぬ》れた舗道がヨイの目に飛びこんで来た。――傘を忘れた。そう気づいたらしゃがみこみたくなった。
結局ヨイは小糠雨《こぬかあめ》の中を小走りに、勇司の待つアパートに帰ったのだったが、その日から一本の傘がヨイの心を占有してしまった。柿の木坂の生まれ育った家にヨイが置き去りにして来てしまったものは、まだたくさんあるけれど、あの傘だけは「今の」自分の家に持って来なければ――なぜかそんなふうに思っていた。
三日のあいだ東京に雨を降らせた灰色の雲は嘘《うそ》のようにどこかへ消え失せてしまい、翌日は冴々と晴れわたった気持ちのよい日だった。ヨイは勇司には内緒で朝早くアパートを出た。
勇司とヨイのアパートから柿の木坂までは歩けば小一時間ほどである。ヨイは冬の朝独特の淡く白い光の中を、頼りなげな足どりで歩いた。半年ぶりで見る家族の顔を思い浮かべると、ヨイの心は期待と不安でごちゃまぜになる。
冬の朝の住宅街をゆっくり歩いていると、これと似たような思いをしたことがあることにヨイは気づいた。歩きながら長いこと考えて、やっと思い出した。これはまだ小学生の頃、終業式の日に通信簿をもらって帰るときの感じに似ている。そう思ったら何だか可笑《おか》しくなった。くすんと笑うと、ピリピリ張りつめていた気持ちが急にほぐれた。
――ヨイは良い子だ。良い子になるように、ヨイと付けたんだぞ。
父はきまってそう言った。持って帰った通信簿の数字がどうであっても。
歩くヨイの前に坂道が見えてきた。柿の木坂という町の名が示すように、このあたりは坂が多い。目の前の坂のふもとには煙草屋がある。坂を昇りつめるともうヨイの実家はすぐである。
ヨイは煙草屋の前に立ち止まって中を覗《のぞ》いた。ヨイが小さいときからおばあちゃんだった煙草屋の女主人は、今でもやっぱりおばあちゃんで、店の奥のこたつに入って小さな背中をまるめている。喉《のど》もとまでせりあがってくる懐かしい気持ちは、今のヨイにとっては危険なものである。ヨイは懐かしさを呑《の》みこんで、店先の赤電話に十円玉を落とした。
電話に出たのは父親だった。傘を取りに来たと用件を告げると、そうかと言って今どこにいるのかと訊《き》いた。「下の煙草屋」というヨイの答えに、そこで待っていろとだけ言って電話を切った。気が抜けるほどあっけなかった。
五分と経たぬうちに、父は古い自転車にまたがって坂を下って来た。脇《わき》に黒い傘を抱えている。
「ひとりで来たのか」
父は自転車から降りると、ヨイの顔から目をそらすようにして訊いた。息が白い。
「うん」
「――勘当した娘を、家に上げるわけにはいかん」
「……うん」
父は傘を娘に渡した。短い沈黙があった。
「――お前、歩いて来たのか」
ヨイが黙って頷《うなず》くと、父は自転車のスタンドを立てた。
「これ、乗っていけ」
「え」
「車に気をつけろよ」
父はそう言うと背中を向けた。――お父さん、ちょっと待って。出かかったことばをあわてて押さえた。
遠ざかっていく焦茶のカーディガンの背中をしばらく見つめたあと、ヨイも自転車を押して反対向きに歩きはじめた。何を期待していたのだろうと思うと、たまらなく淋《さび》しくなった。
ヨイが自転車のカゴの中にあるものに気づいたのは、十分ほど歩いたあとだった。ヨイは足をとめて、カゴの中から白い封筒を手に取った。
封のされていない封筒の中からは、分厚い祝儀袋が出てきた。
「……結婚祝い……」
袋の上に書かれた墨文字をそのまま読みあげたヨイの声は、かすれて聞き取れぬほどだった。抱えるようにしていた黒い傘が落ちて、アスファルトの上で音を立てた。ヨイはそのまま路上にうずくまり、傘と祝儀袋を胸に抱いた。
――お父さん、ヨイは今でも、そうしてこれからもずっと、良い子でいるよ……。
心の中でそう呟《つぶや》くと、ヨイは立ちあがり、再び自転車を押して歩き出した。アパートでは、今ごろ勇司が目を覚まし、腹を空かしてヨイの帰りを待っているだろう。
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普通のふたり
真美子はさっきから、台所の流しの前に立って洗いものを続けている。チャプンと音がして、ときおり洗剤のアワがかなりの高さに飛びあがる。さっきのアワは、真美子の体の横を飛びはねて台所のリノリウムの床の上に着地した。
明は居間のカーペットの上に寝そべって煙草を吸いながら、リノリウムの床の上で次第に消えかけてゆくアワを見つめた。アワを飛ばすのが故意だとは思えないが、真美子が台所に立っているときによく聞こえてくる鼻唄が、今日はまったく聞こえない。いいや、今日に限ったことではないのだ。以前は毎日のように聞いていた、あの浮き立つような鼻唄を、明はこのところずっと聞いていない。そうしてそのことに気付いたのも、今日がはじめてというわけではないのだ。
結婚して一年半になる。不動産屋に案内されてこのマンションを見に来たとき、たったひとつ真美子の気に入らなかったのは、このリノリウムの床だった。
――これが板張りだったら、言うことないのにねえ……。
真美子はそう言って明の腕をとり、明の肩に頭をのせかけるようにした。明は真美子の指を握りしめた。
これからとてつもなく幸せな日々がやって来るのだと信じていたわけではないが、少なくとも陽溜《ひだま》りの中の縁側の猫のような、そんな生活を送ろうとは考えていたし、そういう自信もあった。
ガチャンと激しい音がしたので、皿が割れたのかと思った明は一瞬身を起こしかけたが、そういうわけではなかったようだ。真美子は流しの中に取り落としたらしい何枚かの皿を取りあげ、何もなかったように無言で仕事を続けている。明にしても大丈夫かとひと言声をかけるでもなく、起こしかけた上半身を戻して、またカーペットの上に肘《ひじ》をついた。
リノリウムの上に落ちたアワはもう姿を消し、そのあとには水滴の汚点《しみ》が残された。明は灰皿の上に、短くなった煙草を垂直に押しつけて揉《も》み消した。
明が真美子にはじめて会ったのは、大学に入ったばかりのころだった。つきあいはじめた頃は勿論《もちろん》、結婚するなど思ってもみないでいたが、四年生の年のクリスマスの日に、明は真美子との結婚を心に決めた。心に決めたというより、予感と言った方がいいかも知れない。
その年のクリスマスには特別なプランがあった。都心にあるヨットクラブの船上ディナーである。ふたりで思いきりお洒落《しやれ》をして行こうと決めた。
体育会でアメフトをやっていた明は、普段からなかなか真美子のために時間を割《さ》くことができなかった。その前の年のクリスマスは合宿があって会うこともできなかった。だから明は、学生最後の年のクリスマスにふたりでとびきりの時間を過ごしたかったのだ。
しかしそのプランも流れた。イヴの二日前に、明が練習中のアクシデントで鎖骨を複雑骨折したのだ。
命に別状はなかったから良かったものの、粉々に砕けた骨のかわりに明の胸には棒状のスチールが埋められ、上半身のほぼ三分の二がギプスに包まれた。クリスマスも大晦日《おおみそか》も元旦をも含んだ二週間を、明は病院のベッドの上で過ごさなければならなくなった。
グラウンドで右肩と右胸にひどい激痛を感じ、これはとんでもないことになってしまったと悟ったその瞬間、明の脳裏に真美子の顔が浮かんだ。クリスマスのプランを話したときの、真美子のとても嬉しそうな顔を思い出した。真美子はいつも感情を直接顔に表わすことはしない方で、そうであるから余計に、そのときの真美子の嬉しそうな顔は明にとっても嬉しかったのである。
入院してから真美子が見舞いにやって来るまでの二日間、明は真美子に何と言って詫《わ》びようかとそればかり考えていた。
真美子は二日後、つまりクリスマス・イヴに、淡いピンクのバラの花束を抱えてやって来た。外の寒さの中を急いで来たらしく、真美子の頬《ほお》と鼻は薄紅く染まっていて、それはちょうど胸に抱いたバラの色と同じに見えた。
真美子は何も言わずに、明のベッドの横に立った。真美子の体のまわりだけ外の寒気に包まれているかのように、ぼんやりと白っぽく感じられた。さっきまでの寒さのせいか、真美子の瞳は泣き出す前のように幾層もの涙の膜でうるんでいた。
――ごめん……。
明がボソリと言うと真美子は流れるようにゆるりと椅子《いす》に腰を下ろした。
――ほんとにごめん……。クリスマス、すごく楽しみにしてたのに……。
ギプスのせいで体を動かすこともままならない明がブツ切りの調子で言うと、真美子ははじめて微笑《わら》って静かな声で言った。
――いいじゃない、また来年、ふたりでやり直せば……。
ああ、俺はこの女と結婚することになるだろうなと、その瞬間に明は感じた。そうしてそれは、感じた通りになった。
あのときに感じた不思議な感情を、明は今でも忘れていない。十二月の太陽は五時には姿を隠して、病室の窓から見える空はすでに濃い紺色に変わっていた。二人用の病室のもう一方のベッドは空いていて、むき出しのマットの上には母親が持って来てくれた数冊の文庫本が投げ出されてあった。部屋の隅に置かれた加湿器が、ときおりシュンシュンと音を立てながら白い水蒸気を吐き出していた。
あの瞬間、確かに時間は止まったと明は思う。あの日に感じた予感は、それまで経験のないほどの確実さをもって明の壊れた鎖骨の中に沁《し》みわたった。
そして今、薄汚れたスウェットを着てだらしなくカーペットの上に寝そべった明の前には、不機嫌に皿を洗っているひとりの女がいる。
――この女は誰だろう。
明は胸の中で独言《ひとりご》ちた。そしてそう呟《つぶや》いてみると、自分が今、この女と夫婦としてひとつところに暮らしているということが、ひどく奇妙なことに思えてきた。
真美子は相変わらず、激しく水音を立てて洗いものをしている。皿と皿のぶつかりあう音は、真美子が食器に八ツ当たりしているようにも聞こえた。――どうでもいいけど、皿を欠けさすのだけはやめてくれよな。それなんか、結婚祝いに先輩たちからもらった上等のヤツだぜ。喉《のど》もとまで出かかったことばを、明は必死でこらえた。こらえるために体を半転させ、息をついてテレビのスイッチを点《つ》けた。
白々しいほど馬鹿げたバラエティ番組を、口を開けたまましばらく見ていると、突然に台所の水音が止んだ。ふと目をやると、真美子は不必要と思えるほどの力をこめてステンレスのシンクを拭《ふ》いていた。
明にとって、もう真美子は見知らぬ女でしかなかった。ふたりでやり直そうと言った、バラと同じ色の頬《ほお》をした女は、もうこの世には存在しないのだ。
リノリウムの床の上でスリッパをひきずる音がした。洗いもののときに飛ばした洗剤のアワなど、真美子は気にも留めないだろう。いや、というより、気付くことさえしないだろう。
ガラスのテーブルを挟んだ、明のちょうど真向かいの位置に、真美子は静かに坐《すわ》った。表現しがたい目をして、ぼんやりとテレビに見惚《みと》れている――正確に言えば見惚れているふりをしている明を数秒間見つめたあと、真美子は大きく息を吐いて言った。
「テレビを消して」
明はしばらくテレビに目を向けたままでいたが、やがて真美子の顔をチラリと見てからスイッチに手を伸ばした。
「話したいことがあるの」
「……そう」
真美子は正坐していた。明は起きあがって胡坐《あぐら》をかくと、何本目かの煙草をくわえて火を点けた。自分で可笑《おか》しく思えるほど、明は静かな気持ちでいた。今日という日が来ることを、もう随分前から明は知っていた。
真美子は数年前と同じ台詞《せりふ》を口にするだろう。ただ今度は、「ふたりで」という部分が削られているというだけのことだ。
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星降る夜に
足どりが重いのは寒さのせいだけではなかった。寒くなるにつれ、真一の中にある形のはっきりしない何ものかが、次第に渦を巻いて確かな輪郭をつくりつつあった。
営団地下鉄に乗り入れている私鉄が市部に入ってからさらに二十分ほどの駅のそばに、真一の会社の独身寮がある。寮といっても賃貸マンションの一部を会社が法人契約しているもので、食事が付いているわけでもなければ寮母さんがいるわけでもなく、他の階には新婚夫婦や理由《わけ》ありふうな女がひとりで暮らしていたりする。味気ない分だけ気楽である。
大学を卒業して商事会社に就職してから二年|経《た》った。寮のある郊外の町は、最近おそろしい速さで人口の増加した新興住宅地である。一昨年《おととし》までは八輛編成で走っていた電車は十輛になって本数も増えたけれど、朝夕の通勤ラッシュは緩和されるどころかますます酷《ひど》くなってくる。それでも、はじめのうちは苦痛だった満員電車に、近ごろの真一は慣れてきている。というよりは苦痛と思う感覚が麻痺《まひ》した。
残業を終えて会社を出たのは九時だった。寮のマンションのある駅に着くのは、十時すぎになる。夕方の電車の混雑のピークは七時ころで、九時あたりに第二回目のピークがあるが、この時間の下り電車は息苦しいというほどではなかった。扉が開いて電車から吐き出された降車客は、またたく間に改札口に続く階段に吸い込まれていく。最後尾の車輛に乗っていた真一は、人気《ひとけ》のなくなった暗い高架駅のホームをぶらぶらと歩いていった。一日分の疲れが、どっしりと肩の上に乗っている。
プラットホームを吹き抜けていく風の中に、醤油《しようゆ》の焦げたような冬の匂《にお》いがある。二度目の冬を迎えて多少くたびれてきたステンカラーのコートのポケットに両手をつっこみ、書類袋を脇《わき》にはさんで、真一はホームの石畳をゆっくりと踏んだ。
寮の部屋に戻ればすぐに横になり、そのまま眠りに落ちてしまうに違いない。さっき眠ったばかりのはずなのに、あっという間に朝は訪れ、またスシ詰めの電車に揺られなければならない。それを考えると真一は、軽い吐き気に襲われた。
近ごろの真一は、よく昔のことを思い出す。真一は足が速かった。クラスの人気者だった。
いつもアンカーだった運動会のリレー。千葉の岩井の臨海学校。遠泳をした。校長先生がボートに乗って、海の中を泳ぐ子どもたちに声をかける。――エーンヤコーラア……。
十数年も昔のそんなことを思い出しながら、いつも真一は考える。
――何になりたかったんだっけなぁ、俺《おれ》は……。
小学校を卒業するときに作文を書いた。題は「十年後の自分」。十二歳の真一にとって、十年後の自分の姿は想像の範囲をはるかに超えていた。ませた子どもだった。考えあぐねた末、わざとふざけておかしなことを書いた。長いこと外国を放浪したあと、アメリカのサーカスで動物つかいをしているのだ、と。
あのころはそんなことを考えることもできた。そうなのだ。あのころは何にでもなれた。自分が望むだけで、自分自身が真一の手に握られていた。
けれど時間は経つにつれどんどん速度をあげていった。それは下り坂を転げていくのに似ていた。今年は去年より確実に短かったし、来年はもっと短いだろう。
自分の前に一八〇度の角度で拓《ひら》けていたはずの道は、年齢を重ねるごとにその角度をせばめていった。今、真一の前方には、たった一本の道がえんえんと細く長く見えるだけである。細く長く続いている道の先に何があるのかは、もうわかりきったことのように思える。朝夕の満員電車。くたびれたベージュのコート。酔いつぶれた日には駅前からタクシーを拾うのだろう。ぎゅうぎゅう詰めの電車が車体を傾《かし》がせるたびに、何百何千という「生活」の重みに身体《からだ》を車窓に押しつけるのだろう。
それは真一が臆病だったことの代償であるのかも知れない。あるいは自分の前に広く拓けていた道の、重要さに気付かなかったことの。
仕事がまるっきり面白くないわけではない。ひどく孤独な毎日を送っているというわけでもない。けれど真一の中で何かが渦巻いているのは、このままで終わってしまいたくないという気持ちがあるからだった。何十年もラッシュの電車に毎日揺られ続けて、それで通勤に二時間かかる小さな町に自分の家を持てたとしても、それが何だというのだろう。そんなふうに思ってしまうからだった。
今の自分の姿を肯定できぬまま過ぎていく時間の速さにあがき、真一はきまりきってしまったような自分の「これから」を見つめて途方に暮れる。どこかで納得していない。こんなはずではなかったように思う。このまま年齢だけ重ねていくなら、サーカスのライオンつかいの方がまだましなような気がする。
真一の中に渦巻いているものは、簡単に言ってしまえばそんな不安と不満である。そういった近ごろの日々の中で、取るに足らぬような些細《ささい》なことがいたずらに真一の神経をすりへらす。例えば、早朝のバス停に長い列をつくるコートの群れがたまらない。上の階に越してきた家族の、子どもの駆けまわる足音に我慢できない。
風が吹いて、プラットホームを歩く真一の足もとに何かの紙片が飛んできた。足にからまるその紙片にふと目を落とすと、沿線にあるデパートの広告用のチラシである。チラシの中で、サンタクロースの衣装を着けた男が、貼《は》りついたような笑顔で真一を見あげている。
プラットホームの屋根のむこうに広がる冬の夜は、プラネタリウムのような星空である。郊外の空気は街中《まちなか》よりずっと澄みきっていて、ことに冬には降ってきそうな満天の星が夜空に浮かぶ。
――ああ、そうか。もうすぐクリスマスだな……。
雑然とした毎日にかまけて、季節の移り変わりに疎《うと》くなった。昔の自分は、もっと敏感に季節に反応していたように思う。
溜息《ためいき》をひとつつき、またプラットホームを歩き出して、真一は、あれ、と思った。真一の前で立ち止まっている男がいる。ホームに最後に残った降車客は自分だと思っていたのに、のんびり歩いていた奴《やつ》がまだいたらしい。
四十くらいに見えるサラリーマン風のその男は、茶色いコートの襟を立てて、プラットホームに立ち止まったまま横を見ている。高架駅のホームからは、真一の寮のあるマンションも見える。男はそのマンションの方を見つめているようだった。
中年男につられるようにプラットホームの石畳の上で歩を止めた真一は、マンションの自分の部屋の、すぐ上にある窓が開くのを見た。
階上の窓からベランダに出て来たのは、三つか四つくらいの子どもを抱いた女だった。真一の前に立ち止まった男は、女と子どもの姿をみとめると、こぼれるように笑って大きく手を振った。手を振った拍子に茶色いコートが裾《すそ》を広げ、不格好な旗のようにヒラヒラと揺れた。
男を見ていた真一の中に突然、熱いものがこみあげた。前のめりになって急いで歩き出し、中年男の横をすり抜けて改札口へ続く階段に向かった。
駅からマンションの建物まではかなり距離がある。男の笑顔は、家で一家の主人の帰りを待っていた妻と子どもにはわからなかっただろう。それでも男は笑って手を振った。明日の朝になればあの男も、数えきれぬほどの「生活」を詰めこんだ電車に身体をすべりこませ、日常の中にうずまるのだろう。
暗いプラットホームに明るい穴が浮いているような階段を下り、真一は身体の中で火照《ほて》っているものを懸命になだめようとしていた。そんな真一の耳の奥で、ずっと昔に聞いた校長先生の、エーンヤコーラアという掛け声がいつまでも響いていた。
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横顔
帝釈天《たいしやくてん》に行こうと言われたときは、さすがにドキリとした。この人は何もかも知っていて言っているのではないかとさえ思った。
春が来ると淑子は二十八になる。出版社につとめてもう長いが、翻訳のアルバイトもしているので、同じ年の普通の男性より収入は多いと思う。独りなので結構優雅に暮らしている。
――結婚しないんですか。
同僚の若い女の子から時おり訊《き》かれることがある。だって、面倒くさそうでしょう。淑子は決まってそんなふうに答える。結婚しないのには理由があった。けれどそれを他人《ひと》に話したことはない。
柴又《しばまた》帝釈天の祭りに淑子を誘ったのは、矢崎という淑子の高校の同級生だった男である。半年ほど前に偶然に再会して、それからはときどき、夕食を一緒にしたりしている。
「……帝釈天ねえ」
「そ、知ってるだろ、寅《とら》さんの。生まれは葛飾《かつしか》柴又……」
「知ってるわよ」
「とらや≠チてホントにあるんだぜ。俺ちっちゃいとき親父とよく行ったんだ」
「ちっちゃいとき?」
「うん、祖父《じい》さんがあのへんに住んでたからね」
「へえ……」
「行こうよ」
「…………」
「下町は嫌い?」
「そんなことないけど」
結局|頷《うなず》いてしまった。頷いてしまったあと、口の中に妙な苦さが残った。
淑子には、かつて結婚の約束をした男がいた。もう六年も前のことである。
――なぜそのひとと結婚しなかったの。
次にはそう訊ねられるに決まっているから、淑子はそのことを他人《ひと》には話さない。彼は死んでしまったのだ。
彼は日暮里《につぽり》の方に住んでいたから、淑子はよく首都高を入谷《いりや》で降りて彼の家まで迎えに行き、荒川べりや水元公園の方をドライブした。あれはいつだったか、冬にはいって間もないころだった。淑子は新しいセーターを着て、いつものように彼のところを訪れた。明治通りを抜けて白鬚《しらひげ》橋を渡ったところで、帝釈天に行こうと言い出したのが淑子だったか彼の方だったかは憶えていない。
帝釈天の駐車場に車を入れて、ふたりで手をつないで歩いた。露店や小さな土産物屋をひやかしながら境内にたどりつき、ふたりで手を合わせたあと、おみくじを引いたのだった。
淑子のは小吉だった。――待ち人あらわれず、だって。笑いながら彼の方を見ると、彼は困った顔で淑子を見返した。彼の引いたおみくじは「凶」だった。
験《げん》が悪いからもう一度引いて、としつこく言ったのは淑子だった。彼は笑いながら、もういいよ、と手を振ったが、淑子は半ば無理矢理に彼におみくじを引き直させた。そうして彼は、また凶を引いてきた。
こんなこともあるのね、よほど胸にやましいことがあるんでしょう、とそのときは冗談めかして言ったが、三度目を引く勇気は彼の方にもなかったようだ。淑子は彼にお守りを買ってあげて、それで二回の「凶」をご破算にしてしまうつもりだった。
けれどそのお守りはご利益を与えてくれなかった。彼が交通事故で死んだのは、そのひと月後のことである。
「なに不貞腐《ふてくさ》れてンだよ」
助手席の淑子に矢崎が話しかけた。淑子はハッと我に返って首を振った。
「別に不貞腐れてなんかいないわよ」
「じゃあ何を考えてたの」
「何って、別に……」
「当ててやろうか。――昔の男のこと」
淑子は横目で睨《にら》むように矢崎を見た。
「いつもそうなんだ、お前は」
矢崎は前を向いたまま言った。
「いつも心ここにあらず、って感じでさ。俺なんか可哀想なもんだぜ」
「……可哀想って、どういう意味よォ」
矢崎は瞳に笑みを含ませたまま、ちらりと淑子の方をうかがって、片手でポンと淑子の頭を叩《たた》いた。
「好きな人が自分と一緒にいても、まるで上の空でさ。おまけにひどい鈍感ときてる」
淑子は唖然《あぜん》として、運転する矢崎の横顔をしばらく馬鹿のように眺めていた。しばしの沈黙のあとに出てきたことばには、我ながら呆《あき》れた。
「……嫌アねえ」
矢崎は淑子のことばに声を立てて笑った。ひとしきり笑ったあと、急に真面目な顔になって淑子を見つめた。
「嫌か?」
「別にそういう意味で嫌って言ったんじゃないけど……。危ないなあ、前を向いてよ」
一瞬|拗《す》ねたような表情を見せて、矢崎は淑子に言われるままにハンドルを握り直して前を向いた。矢崎の横顔の輪郭が、窓の外からの柔らかい陽射しの中にくっきりと浮かびあがる。硬い感じの首筋を眺めていると、喉仏《のどぼとけ》がキクンと動いた。淑子にはなぜだかそれが、可愛《かわい》く思えた。
「凄《すげ》えいい男だったのかも知れないけど――、俺がソイツに勝てるとか思ってないけどさ。だから忘れろとか言う権利ないかも知れないけど……。でも、今、そばに一緒にいる方がいいってこともあるぜ」
「…………」
「――プロポーズのつもりなんだけど。……俺だって生まれてはじめてのことなんだぜ、プロポーズなんて」
「わかった。わかったから、運転に集中してよ」
矢崎は唇を突き出して無言になった。淑子は走る車の窓の外を眺め、ぼんやりと、暖かい春を迎える前の陽射しに包まれながら、シートに深く身をうずめた。なぜだか不思議な安心感が、淑子の身体《からだ》の周りをふわりふわりと漂っていた。こんな気持ちは随分久しぶりのことだと、ふと思った。
柴又帝釈天は、六年前とちっとも変わっていなかった。都会は時間とともにめまぐるしいほどに姿を変えてゆくけれど、ここだけは時がゆっくりと過ぎるのかも知れない。――そんなふうに淑子は思った。
六年前のあの日と同じように駐車場に車を駐め、連れ立って境内までの賑《にぎ》やかな通りを歩いた。歩く途中、矢崎も淑子も無口だった。淑子はあたりを見回しながら、六年間の来し方を思っていた。
――何が変わったのかな。
――わからない。何も変わってないような気がする。
――何を失くしたのかな。
――いろいろなもの。
――何を得たのかな。
――いろいろなもの。でも失くしたものよりは少ないのかな……。
門をくぐって手を合わせた。目をつぶって拝んでいるとき、淑子の心の奥底で、ひとつの声がしていた。……もう、そろそろいいですか。
顔をあげて隣りで手を合わせている矢崎を見ると、さっきの車の中で見たのと同じ横顔である。大きな手を鼻先にくっつけるように合わせて、まだ目をつぶったままでいる。淑子は優しい顔になって、そんな矢崎の横顔を見つめた。
矢崎はやがて、真っすぐな瞳で前を見ると、ふと気付いたように淑子の方をうかがった。
「ねえ……」
淑子は矢崎の袖《そで》を引きながら言った。
「何?」
「ちょっといい……」
「――何だよ」
「おみくじを引いてくれない?」
矢崎は一瞬ポカンとした表情で淑子の顔を見返したが、すぐに頷《うなず》いて、淑子の腕をつかんで歩き出した。そうしながらもう一方の手をポケットに突っこんで、小銭を探しはじめている。
「ふたり分」
そう言って二枚の百円玉を置くと、矢崎は六角形の垢《あか》じみた木箱を、ガシャリガシャリと大きく振った。
淑子はトクリトクリと鳴る心臓を気にしながら、自分の身体がひどく熱くなりはじめているのを感じていた。目の前では矢崎が、真剣な顔で木箱を振っていた。
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卒業
「あーあア」
早春の陽射しが白い革張りのソファに映っている。半円形に張り出した形で作られた居間の中で、ソファの上に一六七センチの細長い体躯《たいく》を投げ出すと、下から見あげる部屋の感じはいつもとは少し違って見える。大きく溜息《ためいき》をついた珠美は、ソファの上で仰向けに寝ころがったまま膝を立てて脚を組んだ。
広い居間のむこう側、大きなテレビの前で、姉の直美は正坐したまま上半身だけ前方に折り曲げた格好で、さっきから熱心に新聞を読んでいる。
「あーあア」
珠美がもう一度溜息をつくと、ソファのかげで姉の身体がぴくりと動いた。直美は猫のあくびのような姿勢のままで、顔だけこちらに向けてぶつりと言った。
「何があーあア、よ」
「べえつにイ」
珠美は顔をそむけるようにして、再び窓の外を見つめた。
半円形の居間の壁面いっぱいをガラス窓にしたのは母である。この家が建ったのはもう六、七年前、珠美はまだ小学生だったが、それでも建築屋や設計士との打ち合わせ、出来あがってきた図面にさまざまな注文をつけて変更をさせたりしたのはすべて母であったことは覚えている。
半円形の窓に沿わせて置いてある白い革のソファは西ドイツ製とかで、日本には十組くらいしかないのだという。これも麻布の店で母が見つけてきた。
あのころ珠美は、子どもの自分ですらワクワクするような家をつくるという計画に、どうして父が参加しないのか不思議でならなかった。母が父にそうさせないというのではなかった。子どもの目から見ても、父は自分からそれを放棄していた。
けれど高校の卒業式を明日にひかえた今は、珠美にもあのころの父の気持ちが判《わか》る。この家は、まぎれもなく母が建てた、母の家なのである。
幼いころから自分の家はどうもよその家とは違うようだ、くらいの認識はあった。朝早く仕事に出かけていく母と、娘たちのために食事を作り、洗濯をし、掃除をする父。父は売れないイラストレーターだった。
それでも珠美たちがまだ小さかったころは、父もわずかずつではあるが仕事をしていた。それはとても一家四人を支えられるほどの収入にはならなかったが、しかし父が絵を描いているとき、母はどことなく嬉しそうだった。
珠美たちが成長するにつれて、母の仕事は飛躍的に成功し、自分の事務所を持つまでになった。家も建った。そうして父は、だんだんに仕事をしなくなった。
珠美は父が好きだった。背の高いところだけは母に似たが、性格的には父に似ているように思う。父のあっけらかんとしたところ、悪びれないところが大好きだった。
世間的に見れば、父はどうしようもない男なのだろうと思う。髪結《かみゆい》の亭主――もっと言うなら父はヒモであった。
けれど父には、どんな悪いことをされても「ごめんね、ごめんね」と片手拝みの笑顔で言われると、「しょうがないなあ」と許してあげたくなるような、そんな魅力があった。
姉の直美は珠美とは逆に、痩《や》せっぽちで身体の小さなところだけを父から受け継いだようである。身長は一五二センチで止まったまま脳味噌だけ一途な発育を遂げ、去年大学院を出て今は研究員として母校に勤めている。姉は恐らく、嫌っていたとまでは言わないまでも、父を苦々しい思いで見ていたのではないかと珠美は思う。父が何か問題を起こしたとき――たとえば酔っぱらい運転でトラ箱に入ったりしたとき――家族の対応は三人三様だった。まったく冷静に振る舞う母、ただただ心配してうろたえる珠美、そして怒りまくる姉の直美。――まったくもう、利之サンは。直美はそんなふうに、父を名前で呼んだ。
その父が、二週間前にいなくなった。置き手紙などという陳腐なものを残して、突然家出をしてしまった。これを思うとさすがの珠美も腹立たしくなるのだが、女のひとと一緒だったらしい。
父がいなくなっても、家の中には何の変化も起きなかった。母は相変わらず仕事に忙しいし、直美は本を読んでいるか机にかじりついているかのどちらかである。学校はとっくに休みになっている珠美はというと、卒業式に備えてクリーニングに出しておいた制服が戻ってくるとあとはもうすることもなく、毎日毎日テレビを観たり雑誌をめくったりしていた。
姉の直美はそんな珠美をときどき叱《しか》りつける。
「あんた卒業したらどうするつもりなの」
「別に……。短大はエスカレーターだし」
「あんたね、目標ってものはないの」
「……ない」
すると直美は苛々《いらいら》した調子でまくしたてる。目標がないということは人間を駄目にする。どんなことでもいいから目標を持ちなさい。
姉は一度、語学関係の専門学校や留学コースのパンフレットをどっさり家に持ち帰ったことがあった。ずっと以前に、珠美がぼんやりと「あたし同時通訳っていうのになりたいなあ……」と呟《つぶや》いたのを覚えていたらしい。それはただ単に、そのときちょうどテレビに出ていた同時通訳の女性がキレイでカッコよかったから、というだけのことだったのだが。
しかし直美は言う。
「キッカケはどんなことでもいいんです。あんな花嫁学校に毛の生えたような短大に行くくらいなら、何年間か外国で暮らしてみなさい」
珠美は心の中で「耳にタコができてその上にまたタコができた……」と呟きながら、不機嫌な顔で自分の部屋に引きあげる。自分の進路のことなどよりも、父がいなくなったというのにどうして母も姉もあんなに平然としているんだろうと考える。
父の失踪《しつそう》に関しては、珠美には特別に腹立ちをおぼえるひとつの理由があった。
父は年が明けてまもなく、スーツを新調したのである。光沢のあるグリーンの生地は、成金趣味とも言えるようなものであったが、いかにも父らしいと思って珠美はなんとなく愉快だった。父自身もまた、そのスーツをえらく気に入っていて、にこにこしながら「いつ着ようか」と言っていた。
母や姉はそんな父を呆《あき》れ顔で見ていたが、父は子どものようにはしゃいでいて、なんだか可愛《かわい》かった。だから珠美は言ったのだ。
――パパ、それあたしの卒業式のときに着て来てよ。
父は一瞬、驚いた顔で珠美を見て、そして言った。
――いいの?
――え?
――いいの? こんな派手なので行っても……。
珠美が笑って頷《うなず》くと、父も嬉しそうな顔になって言ったのである。
――じゃあ、そうしようか。
それなのに父は、珠美の卒業式を待たずに「家出」してしまった。せっかく新調したスーツも持たずに。それは珠美に対する裏切りのように思える。家出は仕方がないこととしても、二週間くらい待ってくれても良いではないかという気がする。
所詮《しよせん》、父にとってはこの家も珠美も、大したものではなかったのかもしれない。そう考えるとひどく淋《さび》しい。
翌朝起きて階下へ降りていく途中、ふと、父が帰ってきているのではないかという気がした。いつもの笑顔で「ごめんね、ごめんね」と言いながら、食卓についているのではないか。そして父は言うのだ。
――卒業式、今日だったよね。
しかしダイニングに入ったとたん、その空想ははかなく消えた。コートを着て出かける用意をした母が立ったままでコーヒーを飲んでおり、まだガウンを着ている直美はテーブルに新聞を広げていた。
「ごめん珠美、今日行けそうもないの」
母が出かけ際に慌《あわただ》しく言った。
「うん、いいよ別に」
小学校も中学校も、卒業式に母は来られなかった。その母の多忙のおかげで珠美たちは生活が出来るのだから、文句を言える筋合いではない。
卒業式はつつがなく終わった。何人かの同級生は泣いていたが、クラスのほぼ全員は持ちあがりの短大に進むわけで別れを惜しむということもない。珠美は白けていた。
講堂から退場するとき、父兄席の脇《わき》の通路を並んで歩きながら、ぼんやりと周囲を見渡した珠美は、ハッと息を呑《の》んだ。
ダークグレーや黒い色が大半を占める父兄席の中に、ひときわ目立つ明るいグリーンを見つけたのだ。
――やっぱり来てくれたんだ。
笑顔をつくりかけてそちらの方をよく見たとき、珠美はもういちど驚いた。
グリーンのスーツを着ているのは父ではなかった。だぶだぶの上着の袖《そで》をまくり、ズボンの裾《すそ》も折り曲げてそのスーツを着ている人は直美だった。
金ぶちの眼鏡をかけ、仏頂面《ぶつちようづら》とさえ言えるような表情で投げやりな拍手をしている直美の方に、珠美の視線は釘《くぎ》づけになった。半ば口を開いたままで退場する珠美を、直美は苦々しい表情になって見つめ、身ぶり手ぶりで「口を閉じて前を向け」と知らせた。
講堂から出ると、たまらない可笑《おか》しさがこみあげ、珠美は思わずプッと吹き出した。泣き顔のクラスメートが驚いて珠美の方を振り返った。珠美はあわてて笑いを呑みこみ、チャップリンを彷彿《ほうふつ》させるような姉の背広姿をもういちど胸に描いた。
――がんばって同時通訳になろうか……。
今度心の中で呟《つぶや》いたことばには、数年前テレビを観ながらぼんやりと呟いた同じことばよりは重みがあるようだった。
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海の鳥・空の魚〈あとがきにかえて〉
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神はまた言われた。「水は魚の群れで満ち、鳥は地の上、天の大空を飛べ」。神はこれらを見て良しとし、また祝福して言われた。「生めよ殖えよ。魚は海の水に満ちよ、また鳥は空に殖えよ」。
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どんな人にも光を放つ一瞬がある。その一瞬のためだけに、そのあとの長い長い時間をただただ過ごしていくこともできるような。一瞬一瞬の堆積こそが人の一生なのだと言われれば、それを否定することはやはりできないけれど、うず高く積まれてゆく時間のひとコマひとコマ、その全てを最高のものに仕立てあげるのはとても難しいことだ。難しいことだから、「うまくいった一瞬」が大切なものになるのではないだろうか。
神様は海には魚を、空には鳥を、それぞれそこにあるべきものとして創られたそうだが、そのとき何かの手違いで、海に放り投げられた鳥、空に飛びたたされた魚がいたかも知れない。エラを持たぬ鳥も羽根を持たぬ魚も、間違った場所で喘ぎながらも、結構生きながらえていっただろう。もっとも、そこにあるべくしてある連中に比べれば何倍もやりにくかっただろうけれど。
そうして、「やりにくかった連中」にだって「うまくいった一瞬」はあったはずだとわたしは思うのである。
今ふり返ってこの本に収められた二十のストーリイを読み直してみると、自分のまわりのさまざまな人たちがそこここに顔を出していて改めて驚いてしまう。彼らのことを海の鳥あるいは空の魚だと、わたしが言ってしまうのは僭越に過ぎるだろうが、けれどわたしは、思いどおりにいかないことがあっても鼻の頭にシワを寄せてちょっと笑ってみせることで済ませてしまう彼らのことが、大好きである。
[#地付き]鷺 沢 萠
角川文庫『海の鳥・空の魚』平成4年11月10日初版発行
平成20年4月25日21版発行