語り手の事情
酒見賢一
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語り手の事情
目次
Circumstance.1 Adolescence fancy
Circumstance.2 Mutated trance sexual
Circumstance.3 Reciter's world
Circumstance.4 Marriage with a succubus
Circumstance.n Never forever
文庫版あとがき
解説 佐藤亜紀
[#改ページ]
Circumstance.1 Adolescence fancy
ああヴィクトリア、ヴィクトリア、決して傾くことのない大英帝国の太陽は当時はヴィクトリアという気まぐれで潔癖な女が保証いたしておりました。ですがヴィクトリアは月と森と狩りの女神アルテミスほど潔癖ではありません。ヴィクトリアは日を映さぬ月、それにすでに処女ではありませんでした。
異論を申さば、ディアーナは殿方に対してもっと貪欲だったはず。うっかり森に入り込んできた男をそのまま許し、帰してくれるような甘い女神ではないのです。言い訳を聞くもそこそこにさっそく臥所《ふしど》に引きずり込んで、飽きるまでもてあそび、うっかり血祭りにあげてしまったでしょう。オルガスムスをきわめた女が弛緩して物憂げに同衾した男を見つめる目は、アルテミスにあっては殺戮の後と同質の疲労、故に狩りは恍惚に結びつくのです。
さてヴィクトリア女王の治世下では、品のなきものを連想させるもの、例えば脚一つとっても官能に触れると、テーブルの脚まで包み隠すほどであると、もっぱら言われておりました。日々の何くれにも慎みが要求されていたと申しますが、そういう噂は語り手たる私にとってはどこの国の話だろうか、と首を傾げさせるものでしかありません。
何も知らない人間がいちばん強いのさ、とものになれた殿方は申しますが、何も知らないでいることがいかに難しいことかも、同様に心得ていただきたいものでございます。私は確かに何も知らずにここに居場所をいただいているわけではありますけれど、強いなどと思ったことはただの一度とて無いのです。
語り手は少々迷わせていただかねばなりませぬ。平皿一杯のそれは大きなアップルパイを切るときどこからナイフを入れようか。ケーキナイフの入っていく位置を決めることから始めねば仕方ないようです。それを決めかねておりますが、実際のところそれを決めるのは語り手の仕事ではありません。ナイフは自然に等分に切るのであり、誰かにより大きいパイをあげようなどという作為は持ち得ないのです。そういう次第ですが、語り手に束の間、つき合っていただければ幸いに存じます。
さて、大陸にボナパルトが跋扈《ばっこ》しておりましたときより、その戦勲において誉れ高きバーハム公のご一統のうちでも、ことのほか令名を馳せたるかのブラントン卿のご子息、アーサー様は御年十五の生意気盛り、血気盛り、当屋敷に初めておいでになったとき、迎えに出たメイドは三人も居りましたのに何故か私の前に一直線に足をお運びになったのでございました。そして開口一番こう申されたのでございます。
「やあ。色事の誘惑はきみがしてくれるのだろう。ねえ」
はじっこでかしこまっていた私の如き者に声をかけるだけでもさわりがあるというのにこのせりふでございます。さぞやブラントン卿のご教育はあけっぴろげなのでございましょう。
私は、
「私はただの語り手に過ぎぬ身です。何事でもあなた様のお相手などする立場にございません」
といいました。
「でも、君はメイドの服を着ているじゃないか。年下の男を誘惑して、バージニティを奪ってくれるのはメイドか女家庭教師と決まっているんだよ。知らないのかい」
「そんなきまりは存じません」
たまたまメイドの服を着ていた私はとぼけて返事をいたします。
よくよく見ればアーサーはまだ少年でございます。なんとなく丸い顔に巻き毛が垂れ、いくらかにきびに悩まされているような、まあなんというか、こどもでございます。
「そんなことも知らないのかい。少女を誘惑するのは執事か男家庭教師なんだよ。いや、カトリックの聴聞僧もけっこうやっている。たくさんやり口はあるんだけど、結局、少女もそれを望んでいるからすぐに堕ちちゃうんだけどね。それから自慰や女友達にいたずらすることを教えてくれるのは乳母か従兄弟と相場が決まっているんだ」
と胸を張ります。
「それはおぼっちゃま、失礼ですが、片手で読む小説の読み過ぎではありませんか。父君が『真珠』とか『閏房』とか『クレモン』などという雑誌のバックナンバーまでぜんぶ揃えていらっしゃるのではありませんか」
アーサーは憤然として、
「おぼっちゃんなどと呼んでもらいたくないな。それに僕がそんなものに影響を受けるような薄志弱行の徒だと思っているのかい」
と言います。でも小声で、
「親父が書斎の書架のある場所の裏側にごっそり隠しているのを見つけたのは確かだけど」
と素直に付け足しました。
「苦労なさいましたね」
「本当だよ。書架は重かった。好奇心盛りだったから何とか発見できたんだ。だけどああいうものを隠す場所っていうのは、何となく分かるよね。やっぱり親子だからか、男同士だから考えることも似ているのかな」
「いえ、私が言っているのは、妄想を育てるのに苦労なさいましたね、ということです」
「妄想だって? ポルノグラフィは妄想に満ち満ちているけれど、僕が書いたわけじゃないよ」
それはそうでしょう。私が黙っておりますと、
「まあいいや。とにかく僕は父に言われてここに来たんだ。童貞を失わずにおめおめと帰るわけにはいかないんだよ。ここはそういう場所なんだろう。だから君に頼んでいるんじゃないか」
と人なつっこく言います。
私はしばらく考えて、言いました。
「事情によっては、私が相手をしないこともありませんが、何分にもまずは屋敷の主人に聞いてみませんと」
「なんで? 知らせちゃだめだよ。メイドは主人の目を盗んで若い男を誘惑するんだから」
アーサーは無邪気ともいえる、好奇心丸出しの表情をいたしております。
「私はメイドではありません。語り手です。事情があってメイドの姿をしているだけです」
「なんだい、それ。語り手とか、事情とかってのは」
「いまのあなたに申し上げてもお分かりにならないでしょう」
「語り手でもなんでもいいよ。君でいいんだ。可愛いメイドさん」
アーサーは外套を脱ぎ、他のメイドに預けます。そして、またも錯乱の言を耳に囁きました。
「あのね、ついでに鞭打ちと乱交とソドミーとかも一緒に教えてもらえると、僕の興味はいっぺんに滴足するんだけどな。ねぇ、サド侯爵とかバイロン卿とか、あるじゃないか」
「語り手としては、困りますね。そういうのは」
というのも語り手はサド侯爵の遺した著作をまだきちんと読んでいなかったからでございます。バイロン卿もしかり。何しろ今はヴィクトリア朝ですから、そんな悪書以前の異常な記述をどこの書肆《しょし》も刊行するはずがありません。好事家が裏本として流通させ、ているという噂は耳にしてはおりますが、そういう輩《やから》は何時の世にもいるものです。アーサー坊やの青っちい好奇心を満足させてやる程度ならともかく、好んで痛くて不潔な目に遭いたいとは思いません。そもそもわが口からは語りたくないのです。
アーサーは屋敷の主人に対しては慇懃でした。しつけもよく、いちおうの教育を受けて、ジェントルマンへの道を目指している将来ある少年であることは分かりました。晩餐のときのマナーにもそつがなく、ブラントン卿の近事や、世の事件について話題豊富に話しておりました。私は台所にいて晩餐の席にはついておりませんでした。お盆を抱えて立っていた、メイドのフィニーによると、
「……時事風俗をよく知り、インド会社の経営などにも関心があり、我が国と清国との紛争の行方については荒っぽくなりそうなので、胸をわくわくさせている。―中略―きわどい話などはいっさいなされず、品行方正にして、将来の期待される……」
ような若者ということでございました。
普通に成長すれば世間に恥ずかしくなくテムズ川沿いをステッキをついて歩ける紳士になるであろうことは間違いないと思われますが、この屋敷に来ることが出来たというのが問題です。有望な子息にどうしてここを訪問させたのか、ブラントン卿のお考えがよく分かりません。ブラントン卿もいろいろ武勇伝に事欠かない方でしたから、息子に何らかの通過儀礼をとでも考えていらっしゃるのでしょうか。
ともあれブラントン卿の事情は語り手には関係ないことです。ここに来たばかりにアーサーの人生が狂ってしまわぬことを祈るばかりです。
呼ばれて私は屋敷の主人から出来るだけアーサーの望みを叶えてやるように申しつけられました。致し方ありません。
屋敷内の明かりを一つ一つ消し止めて、心地よい薄闇のなかを部屋に戻りますと、私の部屋の前に人影があり、もぞもぞと動きました。
アーサーは大分待っていたようで、聞けば、屋敷の主人との食後の四方山話が終わるとすぐにここに急行して待っていたと言います。ほとんど居眠りしかかっていた様子。私の気配を感じると、すっくと立ち上がって、
「だめじゃないか」
と不平げに言いました。
「こんなんじゃだめだ。君は失格したいのかい。君は部屋の鍵をかけないで、ベッドの中にいて待っていなけりゃいけないんだ。僕が扉の外にうずくまって今か今かと待つなんておかしいよ」
私は手燭を下げて、
「ちょうど今時分にいらっしゃればよろしかったのに。私にも仕事があるのです」
「そうじゃなくてさ。僕が言わなくても、わかるだろう」
「何を怒っておいでなのです。私は何か約束でもいたしましたか」
「違う。違う。約束以前の基本だよ。君は僕が忍び込むときは必ず部屋にいてベッドでシュミーズ一枚になっていて、不思議な香りのする香水を分泌させながら、闇の中で僕の名を呼ばなきゃならないんだ。いや、それも違う。ベストで本当らしいのは、僕が庭を散策しているときに、君がそっと近づいてきて、僕の股ぐらをいやらしい手つきで撫でながら、猥褻な言葉を囁いて、手をぎゅっと握り、自分の部屋に連れ込まなきゃいけないんだ。僕は赤面して、当惑したような様子なんだけれど何故か、君に逆らうことが出来ず、君のぎらぎらとした貪欲な眼つきに負けて、いやいや連れて行かれてしまうんだ」
「まあ型どおりですこと」
と私はわざと笑いました。
「僕は間違っているかい?」
「あなたが現実にその通りになりたかったのでしたら、もっとうまく力を使わないと」
「力ってなにさ」
「言葉の力というべきものです。それに妄想ばかりに先走らせて、想像が追いつかないのもあなたに力が足りないからですよ」
「意味がよく分からないな」
「シェイクスピアをもう一度お読みなさい」
「シェイクスピアならチャターハムの劇場で何度も観たさ。ストラトフォード・オン・エイボンにも一度行ったことがある」
「いえ、劇ではなく戯曲のほうのことを申し上げたのです」
「あの小難しい英語をかい。学校で読まされたよ。いまさら、あんなもの」
「あなたが読んだのはバウドラー版の、よいところを隠された家庭用シェイクスピアでしょう。もっと古い全集を探せばきっと気に入りますよ」
バウドラー版といいますのは身勝手な自主規制をして古典を切り刻み、改竄《かいざん》して得意になっている物事の本質を心得ない教育者ぶった愚か者が出したシェイクスピアの版本のことです。
前にも述べましたがこのヴィクトリアの世では慎みのない言葉を隠匿するのに汲々とするあまり、脚≠ニいう言葉でさえ猥褻な感じがすると自主規制語として差別されていたのです。その種の言葉を数え上げればきりがありませんが、そのため多くの個性的な古典が犠牲となったものでした。ただその代わり、人々の淫猥なものへの想像力はかえって高められるという反作用が起こり、いびつな言語感覚と妄想を育てる者が出現したわけです。アーサーもまたその被害者の一人といえましょうが、こんな坊やに同情することはありません。
「かび臭いシェイクスピアを読むなんて、親父の秘蔵の猥本を探すより、面倒くさいよ」
「まあいいんですけどね。さあこんなところで大声を出していると屋敷の主人に叱られてしまいます。とにかく部屋に入りましょう」
「あっ、それはいいね。ご主人様にみつかると折檻される心配がある逢い引きは」
私は扉を開けて部屋に入り、アーサーを招きました。
アーサーは、
「さっき調べてたんだけど、この扉には覗き穴がないようだけど」
と言います。
「覗き穴ですか。どうしてそんなものが必要なんです?」
「だって他のメイドたちが可哀相じゃないか。メイドたちは君が僕を部屋に連れ込んだ後、のぞきに来るんだろう。順番を争いながら興味津々に覗いてさ、そのうちたまらなくなったメイドは自分の手であそこを慰め始めるんだ」
私は扉を閉じながら、
「覗き穴はないですが、鍵穴ならありますよ」
と口を挟みました。
「鍵穴でもいいのかな。見えればいいんだから。でね、自分の手でも慰めきれなくなったメイドたちはとうとうレズビアン行為を始めてしまうんだよ」
「うす寒い暗い廊下でですか」
私があきれたように言ってもアーサーはこたえません。
「暗くはないんだ。何故だかは知らないけど、レズビアン行為が始まると明かりがつくんだよ。じゃないとよく見えないだろう? でね、それでも収まらなくなったメイドたちはよろよろとこの部屋に入って来るんだよ。そして僕たちと混ざって楽しむんだ。輪になったり重なったりして互いのあそこを舐めたり撫でたりしながら夜が明けるまで悦楽の限りを尽くすんだよ。時々、主の名を罵ったり、主の名に感謝したりして。それが屋敷の奥方に見つかっちゃって、そのあととんでもないことに……」
私はエプロンをはずし、上着を脱ぎながら、
「あの、そんなことは起きないと思いますが、廊下が気になるのでしたら、しばらくしてから、そのドアをさっと開けてみればよろしいじゃありませんか。誰か覗いているか確かめるために」
「メイドたち、やっぱり覗きに来るんだね」
「さあ。私は誰もいない、暗い廊下があるだけだと思いますが」
「そんなのつまんないよ」
「だから力がいるんです。妄想で終わらせないためにはね。あなたの力が十分に強ければ、彼女たちもついつい覗きに来てくれるかも知れませんよ」
「力か。僕は力は強いよ。友達の中では一番さ。じゃメイドたちは来てくれるね」
「それは後で確かめるとして、どういたします? 私はブラウスも脱いでシュミーズとぺティコートだけの姿になりましたが」
「あっ、僕が脱がすという筋もあったのに。仕方ないや、じゃあとにかくさ、さっそく僕を誘惑して、罪深くしてくれなきゃ」
「そんな面倒なこと、私はしません。アーサー、あなたが、あなたの力で私にあなたを誘惑させて罪深くさせるようにさせなければね」
「そんな、なんで僕がし向けるようなことをしなきゃなんないんだい。それこそ面倒くさいよ。君はね、若い男をたぶらかして悦楽の地獄に連れて行く淫婦なんだから、遠回しなことを言っていないで本性を剥き出しにしてくれるだけでいいんだ。困るな、早く淫靡なときめきのヴォイスで呼んでくれないと」
「そんな無茶な。誰が悦楽の地獄に連れて行く淫婦なんですか。さっきから申し上げていますが、あなたにその気があってそうしたいのなら、あなたの力を使わなければなりません。妄想しているだけでは、物事は動きませんよ」
「ちぇっ、おかしいなあ。メイドとか女家庭教師はもう心底から淫乱で、いつも発情していて、男とあれば手ぐすね引いて待っている吸精の毒婦のはずなんだけどなあ」
「何度も申し上げますが、そういう妄想的シチュエーションを望むのならそれ相当の力が必要なのです。あなたにはまだ基本的に力が分かっていないし、足りないみたいですね」
「ひどいな、妄想なんかじゃないって」
「力が伴っていれば妄想は妄想でなくなります。現実ともなるのです。今のあなたには無理」
「そんな。どうやったら力がつくんだい。教えてくれよ、やってみるから」
「急には無理です。力というのは日頃の地道な積み重ねでつけるものですから。もう今回は間に合いません」
「そんな」
「要するにあなたは今あなたの持っている程度の力に見合った体験しか出来ないということです。どうします? 今夜は出直しますか」
「うーん、分かったよ。僕が知っていた話とだいぶ違うけど、出直しは御免だよ。僕の一徹者はもうぴんぴんになっちまっている」
アーサーはズボンの中のそれを不満げに押さえています。
「一徹者というのは、あなたが名付けたの?」
「違うよ。僕の父の親友の、バートン卿だよ」
「ああ、あなたにそのネーミングのセンスが有ればよかったのにね。一徹者と名付けることができることが、つまりは力があるということなんですから」
と私は本心から言いました。なんのかんのと言っても力のある者と交わること自体は語り手は嫌いではないのです。
ともあれ性的にいきり立っている若い男を止めるすべなど、この世にはございません。あるとすればただ一つ、拳銃で脳天を撃ち抜くか、斧で叩き割るほかないでしょう。別に血塗れは恐くはないんですが、普通はやりません。このことはこの年代にある男性にも、またこの年代の男性に多くの危機にさらされた経験のあるご婦人方にも、ご賛同いただけると存じます。
アーサーは未熟者らしく乱暴に抱きかかって参ります。ズボンに押さえられたアーサーのゴブリンの角がはっきりと分かり、私の腿に押しつけられ、股に突きかかって参ります。鼻息は水牛のよう。手はそわそわと私の下着の内側に入り込もうとしております。アーサーの思いこみの内容から察しますに、経験豊富な女に誘惑されての、無意識に受け身のセックスを望んでいることが分かり、それはつまり自分には力どころか技術もないということを明らかにしているのです。こどもなのです。
人間は男も女も生殖が可能になったら、たとえ経験不足で考え方が幼稚であろうと、成人なのです。人を誕生させる力と、人を殺す力を所持するようになるのですから。生産であろうが殺人であろうが、つまり労働力と戦争遂行力、社会は若い即戦力をいつも求めております。生殖が可能となったのなら、こどもはごく短時間で一息に大人にならねばならぬのです。
なのに今の社会は単純なことを複雑にしすぎます。その意味において売春宿とかこの屋敷のような場所は必要なのかも知れません。それは性欲の処理や性の逸楽を恣《ほしいまま》にすることを知らねばならないということではなく、本質的な力を使うことを学ばねばならぬという意味においてです。力の使い方をごく短期間で修得するのは困難なことなのですが、通過儀礼とはもともとこどもがメタモルフォーゼするための大仕事なのです。甘えてはなりません。学ばずにただ歳を取るならば結局その人間は破滅するか、社会の厄介者となって終わりがちです。
しかし妄想に強く駆られている場合はまた問題で、妄想は力を伴わせてうまく着陸させることが出来ないと、もうその場で人生を狂わす高い可能性が発生するのです。力のある妄想は現実なのです。
「君、あのー、僕はこれからどうすればいいんだ」
アーサーは興奮に震えながらも困ったような声でそう言います。
「もうなさっておいでではありませんか、その調子で続ければいいのではないですか」
「それでいいはずがないだろ。僕がどうこうするんじゃないんだよ。君の仕事なんだよ。年上の経験豊富なメイドは、若者をじらし弄ぶかのように、ボウヤそこはそうじゃないのよウフフフとか言いながら、手取り足取り作法を教えてくれるという決まりがあるんだよ!」
と断言されても、そんなきまりはありません、と突き放したいところですが、言ってもアーサーは理解しないでしょう。
「仕方ありませんね。とりあえず、あなたも服をお脱ぎなさい。服を着たまま私の上でじたばたしていても何も起きませんよ」
アーサーのじたばたに、このままだと床に叩きつけられかねないので、私は、手で押し戻しながらそう言いました。
アーサーは自分が服を着たままだということに今気づいたかのような様子であわてて上着を脱ぎ捨て、ズボンのベルトに手をかけるのでした。
本来なら猛った年若い男に性のレッスンをするなど、語り手の仕事ではないのですが、愚痴をこぼしても仕方がございません。これも事情というものでしょう。
「ふふふ、あなたの真っ赤なヘルメットさん、待ちきれずに涙を流しているようね、とかなんとか囁いてくれないといけないよ」
「はあ?」
「だから、おまえの朝顔のつぼみを剥いてあげよう。ほら、よだれを流して喜んでいる、あんたの一徹者にはたんとお仕置きをする必要がありそうだねぇ、みたいなことを言いながらさ」
アーサーはなおもあきらめず妄想を胸に抱いているようでした。けっこう打たれ強い。普通ならしゅんとしてしまうところなのです。よほど手放したくない気に入った妄想があるのでしょう。そんな妄想はマスコットのように部屋に飾っておくことさえ出来るのです。
「困った坊やですね」
「あっ、その言い方はなんか有閑マダムふうで、いいな。もっとさ、困った坊やをさらに困らすような恥ずかしいせりふも言ってよ」
「そういう言葉を私に言わせたかったら、あなたはもっと努力して力を持っていなければなりませんでした」
「だめだよ。君は、なんでそんな冷静にさ、冷たい言葉で水をさすのかな。アアンとあえぐとか、あっダメっとか、ああお許しを、とかもっとすてきなせりふがたくさんあるのに。私を一匹のメスにして! とかね。男の腕に抱かれて狂おしくもだえる姿が正しいんだよ」
「気が向いたらそんなことも語りましょう。それより、考えてばかりで、手がお留守になってますよ。触るために下着の下に手を差し入れているんでしょう?」
「そんな言い方じゃだめだって。私の尽きぬ泉の秘密の芯を指先でくすぐって、とか、ヴィーナスの丘のふもとのピンクの小さな真珠を舐めて、とか、なだらかで豊満な白い丘の頂にあるサクランボの秘密を甘く噛んでくださいまし、とか、もっと言いようがあるだろう」
「ついていけませんね」
語り手も、紋切り型の型にはまったこの場にそぐう、いやらしい返答が出来ないわけではありません。ですが、何度も言いますように、今夜の相手には、語り手にそれを言わせる力がないのです。
となればアーサーは自分で自分に私に言わせたい言葉を言うしかないのでしょう。自分で自分に向ける言葉のオナニーというものも、時にかなりむなしいものでございますが、今の彼の力ではそれが限度なのでございます。それに気づかないから若さはわびしくなるのです。
「うーん。こんなことじゃまったく進まないよ。君が悪いんだよ。君は男女の性欲を否定するのかい。この楽しみの泉をさ」
「そんなことはありません。性欲は人がその伴侶に出会うための道案内をいたします。普通ならとうてい結ばれそうにない男や女たちが、まがりなりにも伴侶を見つけ、つがいとなることを得るのは性欲のおかげであると申せます。性欲こそは男女の真の仲人にて、孤独の妙薬、結合の原動力、これこそ神のいきなはからいであるといえましょう。性欲のおかげで万難を排して結びついた男と女のその結婚生活が幸福なものになるか悲惨なものになるかは問題でありますけど、性欲にはなんの罪もありません。ですが、性欲の力と妄想をかきたてて浸ることとはまた別の話ですよ」
「分かった、分かったから説明するのはやめてくれないか。分かったよ。僕が一生懸命にリクエストして、思い通りにしようとすると冷たくする。黙ってやれと言いたいんだね。君の言い方を借りれば、僕には注文をつける力もないんだろう」
アーサーはそう言うと私の胸に顔を埋めました。アーサーの下半身の事情の方も切迫しており、妄想を述べる余裕も失せかけていました。
私も、語り手という責任上、言葉を紡ぐことによって冷静さを保っておりました。が、アーサーが稚拙ながら行為に没頭し始めますと、私も言葉を少なくするのです。下着をむしり取り、全身で抱きすくめながら、かわいそうに相手の身体を愛撫する方法も知らず、芋虫のように身をうごめかすだけなのを知ると、私も情にほだされて、少しは気分を出さなければと思ってしまいます。私の場合は簡単なのです。アーサーの手が敏感な部分に触れたら、確かにそこに快感を発生させて、感じ取り、
「あっ」
という喜びの声をあげるくらいなんでもありません。私には当然、自分で自分を妄想抜きに悦ばせる力があるからです。アーサーの手が間違った方に伸びようとしたり、柔肌を強く掴み過ぎそうになったときには、
「ああっ、だめ。そっちじゃない、そっちじゃないの」
と言うくらいは簡単なものです。自然、アーサーが望んだように私が行為をリードすることになるのですが、この頃になるとアーサーは興奮と焦りの余りほとんど何も目に映っていないのです。ですから私がアーサーが育て上げた妄想の中のメイドや女家庭教師がやるように、言葉や、手取り足取りのコントロールをしてあげるというのはどだい無理なことなのです。アーサーには妄想のメイドや女家庭教師にコントロールされる力がないのですから。今のアーサーは夢中で動くだけの力しかありません。そこには妄想のかけらもないのです。私は衛生のためにもかれの手を適度に脂肪をまとった胸や下半身の丘へ導いてやるくらいしかすることがありません。
でもこう申し上げますと、私が冷たい態度でまるでお芝居をしているかのように聞こえるかも知れません。しかしそれは誤解です。私には力がありますので、身体は確かに性感を感じております。肌は熱くなり、やがて汗ばみ、いつもとは違う匂いをまといます。アーサーの手やそのほかの、皮膚の部分が接触し這うところどころから生じる感覚に注意を向けるだけで、本当に快感に声を上げて、身をもだえさせているのです。私という語り手の性格というか個性、それらをひっくるめた事情があってこのような申し上げ方になるのです。もし別な語り手がこの場にあったら力の話など一切することなく、うわごとのような語りを荒い吐息にまかせて延々と続けるかも知れません。
だから、私が、
「もうそろそろ、おねがい。あなたの一徹者をわたしの、にね」
と言ったのもまったくそれを求めていて本気なのです。が語り手の事情として自分の快感の中に溺れないでいるだけなのです。これはアーサーにも責任があり、アーサーに力があれば、語り手も安心してうわごとをつぶやくただの女となることも出来るのですが。でもそれほど厳密ではありません。語り手はときどきうそをついたり、他人様を煙に巻いたりいたしますが、決してフェイクしているわけではないのです。
アーサーは一徹者を入れる場所と角度を何度か間違った末にようやくその収まるところを得ました。私のほうも快楽の袋はぷっくりと押しつけられ、ものをぴっちりと満たされたのでたいへん充実しております。実際にはじめて性の行為を行う少年を受け入れて、少年をとらえていた固定観念を断つことに感動がないはずはありません。少年を一息に成長させるのは十分に有益な趣味となり得ます。これは童貞を切るのが好きなご婦人方には理解していただけることだと存じますが、興味深く楽しいものなのです。ことここに至ってはアーサーの腰も止まりませんし、合わせて迎えて腰を送る私もその情熱と愉悦の寸前まで、止まることはないのです。
ただし今回はただ楽しむという事情ではありません。そもそも少年の初めての女となるなどという重要な役は語り手の柄ではないのです。が、アーサーの育てた妄想は語り手を相手にすることを選んだわけです。おそらくアーサーの妄想はみずからが自暴自棄になることを防ぐためには私を相手とする必要があると判断したのでしょう。
まもなく、というより、素早く、と言った方が正確でしょう。アーサーの一徹者は最後の性急な一突きをくれたあと、身震いしながら苦く白い種子を私の中に放ちました。たちまちでした。アーサーの年齢から考えれば当然の早さで早漏というのは酷でしょう。ですが私は長い時間をかけた交わりに対して劣らぬ快楽を得ることが出来、十分に胎の内側を痙攣させることが出来ました。べつにアーサーの中の女家庭教師のように性に飢えていたわけではございません。私には時間の長短と受け入れる刺激の量、オーバーフローする快感の量を調整し、きっちりと悦びの痙攣を生じさせる力があったということに過ぎません。
アーサーは、しばらくの間、喘息患者のようにフイゴの息をつきながら私の上におりました。そしてどろりと私の隣に転がり、落ち着きを取り戻しました。
「ふう。思っていたことと全然違うんだけど、なんだか、いいよ。夢を見ていたみたいだ」
「夢ではありませんよ。あなたは妄想を見ていたのです。私を抱きながら私を見てもいなかった」
「初めてだったんだ。知らなかったのも無理はないだろう。僕は君を抱いて、差し込んで、中に出したんだよ。信じられない。だから夢みたいだと言ってるんだ。必死だったけど、あやふやだよ」
「夢みたいでもありません。夢ではなく妄想なのですから。体験した事自体はあとからじわじわとあなたを責めるでしょうけど、私のことは忘れてしまうのです」
「君の言い方は胸をちくちく刺すなあ。怒っているのかい」
「あなたこそ、人変わりしたようなしゃべり方をしておいでです」
男性というものは童貞でなくなるとすぐさま化学変化の如き、態度の変化を起こすものです。同時に相手が自分のものになったという曲解の芽も育ち始め、おおむね女を貫いて後に、ボーイはミスターとなると、勘違いしているふしがあるようです。
アーサーは先ほどまでの浮ついた調子がなりをひそめ、私の髪に触れながら、
「どうだろう。ここに来ればいつでも君に会えるのかな」
私は返事をするのも馬鹿馬鹿しいので黙っておりましたが、アーサーの手が髪から胸に下り、さらに臍の下にまで伸びて行きますので、
「それより、廊下を調べなくてもよろしいのですか? あなたのお話だとメイドたちが覗き見して興奮してたまらなくなっているのでしょう」
「ああ、そうだった」
アーサーは思いだしたようにまた妄想を自分の頭によみがえらせました。しかしその妄想も先ほどまでの蔓延《はびこ》りつぶりは失せています。天然色であったものが時と共に色褪せるように。
アーサーは全裸のままベッドを飛び出して、そこにいるはずのメイドに逃げる間を与えぬように急いで、扉を開いたのでございます。アーサーがそこに見たものはただ深更の、うら寂しい空間だけでございました。
「覗きに来なかったのかな。それとも僕が扉を開けることを察知して、逃げ出したんだろうか」
とつまらなそうに言います。
「メイドたちがいたら、彼女たちも仲間に入れて、みんなでこの素晴らしい楽しみを分け合う計画だったのだけど。やっぱり、そんなことは起こらないのかなあ」
アーサーは、既に自分の妄想にそれほどの確信を持たないようになっていました。
「予想でも想像でもなく、妄想だったから実現しなかっただけのことです。あなたには廊下にメイドを居させる力がなかったのですよ」
とはいえ親しんだ妄想がきれいさっぱり無くなるわけではありません。今アーサーが、一人のアーサーが、まるでアラビアの王様のように、四人のメイドを相手に快を尽くす様を妄想していることは手に取るように分かります。すると肉体にも変化は及び、一度は縮こまってしまっていた一徹者はにわかにむくむくと大きくなってきます。アーサーは一徹者の反応に喜び、無邪気に、
「あっ、もう一度できそうだよ」
と言いました。
ですが私はとっくにベッドを下りて服を付け、情事などどこの世界で起きたのかというような表情をして、油断のない立ち姿でアーサーを見つめております。それを見たアーサーは悲しそうな顔をいたしました。
「もう終わりなの?」
「終わりです」
「どうしてだい。つまんないよ。君の態度は、やっぱりどう考えても、僕が想像していたこととあまりに違いすぎる」
「想像ではなく、妄想だったのです」
と、私は首を振りました。
「あなたの力がこの程度だったということですね」
「そんな」
「あなたはあまりにも知らなすぎるのです。まだ若くて実践が伴わず、妄想を育てることがお気に入りのあなたでは、ほんとうに何もかも足りないというわけです」
「君の言っていることは時々分からなくなる」
「語り手の言葉の力に追いつけないからです。もっとも、あなたに力が備わっていれば、語り手を抱こうというような気を最初から起こすこともなかったでしょう」
アーサーはなんだか分からぬにしても自分の欠点を指摘されたことは分かったようでした。急にしょんぼりいたしました。所詮は十五の坊やに過ぎぬ、可愛がっていた犬が死に、庭の隅に埋めたあとのような様子でございます。
「ねえ、君は僕のことが嫌いなのかい」
「いいえ」
「じゃあ、なんだってそう厳しいんだ」
「私は語り手であり、あなたには力がないということを申し上げているだけです」
アーサーはため息をつきながら、ベッドに腰を下ろしました。私はその隣に座り、慰めました。
「あなたはこの屋敷に来るのが少々早かったのかも知れませんが、来た以上は避けられません。でもそうしょげかえることはありません。敗残者のようにうつむく必要もまったくないのです。あなたには時間と空間がたくさんあるのです。力をつける機会もまたたくさんあるでしょう」
「力をつけるというのが、どういう意味かがよく分からないけど、もし僕が今後の努力によって力をつけたら、また君に会えるだろうか」
「それは私には分かりません。不可能ではないということだけは申し上げておきましょう。ですが力をつけたなら、そのときにはあなたは私の事情というものも理解なさることでしょう。語り手の事情が少しでも分かれば私に会いたいなどとは思わなくなると思います」
「分かったよ。君は僕を一人前の男と認めていない。僕は何かを身につけなけりゃならない。そういうことなんだろう?」
「いささか違いますが、当分はそういう理解でよろしいでしょう。例えばあなたがビルドゥングスロマンの主人公なのでしたら、あなたはすぐにこの屋敷を出ることです。そして、心と体が妄想よりも速いスピードで動くように鍛錬して力をつけてゆかねばなりません」
「部屋を出ていく前にもう一度、キスくらいはいいだろう」
「どうぞ」
アーサーは私の肩に手を回して引き寄せ、情熱的とはほど遠い気の抜けたようなキスをいたしました。
舌で相手の歯やその奥をまさぐることもなく、ふっと唇は離れてゆきました。力がないのです。妄想を育てることにようやく疑問を感じた、今の時点でのアーサーの実力に見合った接吻でした。
「また、必ず君に会いに来るよ」
「お待ちしていますとは、申しませんが」
「最後までつめたくてつれないんだな」
「仕方がありません。語り手とはそういうものなのです」
アーサーはもう一度、頬にキスをして、丁寧に私に一礼します。そして、部屋を出て行きました。
私は、
「またいらっしゃい、ミスター」
と声を掛けたくなりましたが、その言葉はおさえて飲み込みました。私のような語り手が言うべきせりふではなかったからです。
アーサーは翌日の早朝にはもう出立しました。私は門まで見送りました。屋敷の主人は何もかも分かっているというような顔つきで、離れていくアーサーの馬車をポーチからしばらくの間眺めておりました。
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Circumstance.2 Mutated trance sexual
我が国の紳士が謹厳にして寡黙で、天候のことしか話題がなく、そのユーモアは堅苦しく、猥談のような話題に対しては余裕無く、すぐに怒り出す、というのはフランス人がつけたいいがかりでしょう。私の会った範囲では、天気の話ばかりしていたり、ユーモアが常に皮肉であるというような紳士は見あたりません。かえって異様なエスプリに満ち満ちて困った話題ばかりで、しばしばげんなりさせられることが多くございます。
「貴女は簡単に妄想だと片付けてしまわれるが、私にとっては重要なことなのだ、えーミセス……なんと呼べばよろしいかな」
「私はこの家の主婦ではありません。たんなる語り手にすぎませんわ、ミスター・ハノーヴァー」
「たんなる語り手かね。それにしては」
ハノーヴァー氏は私の姿を確認するように視線を張り付けて、
「高価でおしゃれな服を着ておられる。そのリンネル地の重ね方、その首まわりのレースからするとチェダー通りのブラウンの店で仕立てたものと拝察するが」
とおっしゃいます。
「婦人服にお詳しいようですね。まさか私が今付けているコルセットや下穿きの仕立てまでお分かりなのではありませんか」
と私が皮肉混じりに言いますと、
「いや、いや、そこまでは。当節、ご婦人はヴィクトリア朝ふうに首筋からつま先までくまなく布で覆い、寸分も肌をさらすことがない。回教徒なみの窮屈さですな。服の上から内着を察するほどの眼力は、持ち合わせておらんよ」
とのご返事。ですがおそらく氏の桐眼は私の下着まで透かし見ておられることでしょう。男性には路行く女の洋服を透かしてすぐさま裸にしてしまう能力が発達しておりますから。それが想像による透視映像であれ、妄想による透視映像であれ。
例によってと申しますか、この屋敷を訪問なさるお客様は何故か、語り手の職分を果たすことで精一杯の私を捕まえては自分の話題に引きずり込みなさいます。その場の雰囲気のようでありたい語り手としては迷惑なことなのですが、そういう何か事情を抱えた方々には私はことのほか目立つもののようなのです。語り手が事情に文句を言っても仕方ありません。
このたびのお客様、ハノーヴァー氏は弁護士をなさっており、ロンドンに大きな事務所を抱え、たいそう評判の名士だそうな。並の中産階級の成り上がりとは区別すべき人物というところでしょうか。
語り手は言葉を選んだりしませんが、いくらか慎重に話します。
「確かに妄想にまったく使い道がないとは申しません。妄想を、すばしっこい偵察のように、行く先に走らせておいて、それに縄を付けておき、想像を引っ張らせる、というような使い道はポジティヴなのではないでしょうか。妄想のスピードと突進力はときとして航空機に匹敵し、破壊力はときとしてダイナマイト数トン分に匹敵いたしますから、取り扱い要注意であることは言うまでもありません。しかし妄想の性質や力を十分に理解し、十分に気をつけて安全に使えればそれに越したことはございません。たとえば詩人のスウィンバーンのように」
「貴女の言われることは意味深長だが、あまりに抽象的だ。ミセス、私が言っているのは妄想の話などではないのです。さっきから断っているが、もっと具体的で深刻なものなのだ」
「そうでしょうか。妄想や白昼夢にひたることはとても具体的なことだと私は思いますが」
ハノーヴァー氏は、
「いやいや、それは」
と薄くなりかけている頭を押さえました。
「あなたの問題が具体的で手に取れるような確実な物であるのでしたら、そもそもあなたはこの屋敷を訪問などしなかったでしょう」
「具体的なのだ、ある意味で、非常にね」
ハノーヴァー氏は、しぶりしぶり、本題を語り始めました。
「私の性癖……性癖なのかも分からんが」
「ミスター・ハノーヴァー、重要な秘密を口にしようとなさっているのなら、考え直してください。そのようなことを私のような者に話しても何の解決にもなりません。秘密を、恥を忍んで話していただいたとしても、私に何が出来るというのです。語り手に過ぎぬ私に」
「しかし貴女はこの屋敷の、その、女将なのだろう?」
私は笑いもせずに首を振りました。
「そんなものではございません。ただの語り手だと何度も申し上げておりますのに」
「ああ」
しかしハノーヴァー氏はもう誰かに、その相手が語り手であったとしても、話さずにはいられない苦しい精神状態だったようです。
ハノーヴァー氏が語ったところ、ハノーヴァー氏を悩ませているのはどうやら女装倒錯のようなのでした。以下その証言。
「私は敬虔なクリスチャンである両親になんら不足なく男らしく育てられたし、女のきょうだいの中にぽつんと一人いたわけでもない。女言葉なんかしゃべるのもごめんだった。そんな気は毛ほどもなかったよ。ある時期まではね。毛ほどもなかったと思っていた。
ところがもう十年にもなるだろうか、発端は姪の着替えをうっかり覗き見してしまったことにある。ぞくりとしたよ。姪は私に似ていてね、いや、むろん二十年も前の私にだがね、知らずにノックもせずにドアを開いてしまった瞬間に、まだ胸も薄く女になりきっていない姪の身体から、するりとブラウスが滑り降りたとき、私は一瞬、私と姪が重なったように感じたのだよ。姪が着け、脱どうとしている肌着をまさに自分が着ているような錯覚、いや、錯覚では決してなかった。強い実感を得たのだ。いいかね、その瞬間、私は女の服を着ていたのだ。
それ以来、たいした用事もないのに蛭の家、つまり姉の家なんだが、寄りつくようになった。なんとかチャンスを作り、姪の着替えを覗こうとした。うまくいかんよ。感覚が麻痺するような興奮の機会、姪と自分が重なっているという素晴らしく魅力的な体験をしたのは、五年のうちたったの三回だった。姪はもう、さる素封家の家に嫁入りしていまはヨークにいる。もはや滅多に会うこともないし、ましてや覗きなど」
「あなたは姪御さんに近親相姦的な愛を感じてらっしゃるのではないのですか」
「滅相もない!」
ハノーヴァー氏はここは紳士の沽券に関わると思ったのか額を赤くいたしました。
「あれに恋をしているとか、セックスをしたいとか、そんなものはない。滅相もない! 私は、ただ」
言葉がとぎれます。私は口を挟まずじっとハノーヴァー氏を見ておりました。
「確かに最初は、そうなのかも知れないと思った。それが自分の本性なら身震いするほど恐ろしいことだ。近親への性愛など、神をも恐れぬ所業だ」
「べつに歴史的に見て英国でも欧州でも、近親婚など当たり前のように起こっていますよ。そもそも私たちは皆アダムとイヴの子孫なのですから、皆兄弟です」
と私がちゃちゃを入れてもハノーヴァー氏の耳に聞こえぬくらいにシリアスなのでした。
「だが、そうではなかった。姪に対する愛ではないと分かったのは、裏庭に干してあった姪の下着や衣服に触れたときだ。私の、身体全体が、欲したのだ。この衣装を身にまとえとな」
深い溜息がいかによりシリアスかをこれでもかと語っておりました。
ハノーヴァー氏は四十少し前の小肥りの紳士でいらっしゃいます。私としてはハノーヴァー氏がいかに秘術を尽くして女性の衣服を着飾っても、見るに耐えないものであろうことは失礼ながらすぐに想像できました。
「女装なさりたいのなら、好きになさればよろしいではないですか。誰に迷惑をかけるでなし。あなたの奥様の服を借りるなり、自分の寸法にあった衣装をお買いになるなり、いくらでも」
「そんなことは姪が嫁いでしまって、あの瞬間を奪われた後、自分で何度も試したよ。でもだめだ。知人に知られぬよう歓楽街の奥にある服装倒錯者専門の店にも、こそこそと通ってみたさ。乳当てをつけ、キャミソールをつけ、ストッキングにガーターベルト、ボンネット、何重にもレースに飾られた籠のようなスカート、ネッカチフをつけて小振りな日傘をさしてもみたさ。だが、なんというのか、満たされないんだ。どこか違う。そのうち同性愛者どもにしつこく誘われるのがうざったくなり、その店にもばったり行かなくなった」
ハノーヴァー氏は、恐いような眼差しを私に向けなさいました。
「そしてやっと分かった。私は女装したいのではなかった。一時《いっとき》だけ女の感覚を味わうことが望みではない。一時の性欲とか快楽、そうした思いが女装を誘うのではないんだ。わたしの中に独特なテンションが高まり、それが疼き出すと夜も眠れなくなる。ただ女装したときだけテンションは低くなり私はくつろぎを得る。束の間の不完全なくつろぎだが、それさえないとなると私は気が狂ってしまうだろう。だから定期的に女装はするが、それは本質的なことではないのだよ。
私は女になりたいのだ。完全な、まぎれもない女になりたいのだよ。姪と同化したと思ったとき、衣装に目が行ったことのほうが錯覚だったのだ。ようやく悟ったよ。衣装の中にあるものになりたいのだとね。それで鬱々と日々を過ごしでいるうちにこの屋敷の話を聞いたのだ」
ハノーヴァー氏は、一気に吐き出して、ふー、とため息をおつきになられました。
「ミスタ・ハノーヴァー、あなたの育てた妄想がかなり強いことはよく分かりましたが、先刻申し上げておりますとおり、そんな話を私になさっても困りますわ。私は語り手に過ぎないのです。そういう深刻なお悩みの相談はクラフト=エビング先生とかマグナス・ヒルシュフェルト先生ですとか、その筋の専門家になさったほうがよろしいかと」
語り手は、ジグムント・フロイトやハヴロック・エリスの名もあげそうになりましたが、彼らはこの時期にはまだ新米でほぼ無名であり、私はそのことを知っていますので、言いませんでした。
しかし、ハノーヴァー氏はそれ以前に、
「あんないかがわしい、いかれた学者どもに相談なぞしてたまるものか」
とヴィクトリア朝的な良識のもとにおっしゃいます。
「客観的に見まして、かの新時代の精神医学、性科学の徒たちよりも、私やこの屋敷の方がよほどいかがわしいと存じますが」
「いかがわしいなりにもここには何か安らぎがある。向こうにあるのは白い神経質な研究室だけだ。十分にいかがわしい。それとも、私のこの純粋な望みを、頭でっかちの助平どもの、ケーススタディに投げ出すようにと言うのかね。あんな奴らに相談して、奴らが私を女にしてくれるとでもいうのかね。奴らは私を質問責めにしていじくり回したあげく、分類して、服装的性倒錯のレッテルを貼り付けるのが関の山だ」
「困りましたわね」
語り手には携わるべき本質的な仕事がございます。ほとんど人の眼に触れないような仕事なのですが、重要な仕事です。そんな語り手が、接客して、ましてや悩みごとの相談など受けているひまはないのでございます。
こういう語り手の事情を無視して、自分だけだと思っている悩みを大げさに持ち込む方々には正直言いまして困らされているのです。
「ですが、ハノーヴァー様、女になりたいとおっしゃられても、私にどうせよというのです。精神的に女性と同化したいのか、生物学的に女性になりたいのか」
「精神は肉体の後についてゆくだろうから、生物学的であれば申し分ないね」
私は額に縦皺を刻み、こめかみに指を当てて首をかしげました。不気味な改造手術を受けたいのならメアリ・シェリーのところへでも行ってもらいたいものです。
「生物学的というのはちょっと。外科的なトランスセクシャルの技術はあと六十年以上を経なければ出現いたしませんし、脳整形ですとか遺伝子整形、また内分泌腺の操作を利用して穏便に身体を異性化する技術はそれからもっと先にならねばあらわれません」
「な、何の話だね」
「いえ、将来の展望の物語です。H・G・ウェルズはご存じですか」
「………」
「それはともかく、ハノーヴァー様は去勢されたいわけではないのでしょうし」
ハノーヴァー氏はしょげてしまい、
「貴女の言いようでは、どうもここでも私の望みがかなうことは無い、というわけですな」
「普通に考えてそうでございましょう。女装するくらいで趣味の域でおやめになるのが賢明です。幸いにもハノーヴァー様は常識的な社会生活が営めておられるようですし」
「ああそうだね。出来のいい息子が二人いるし、もう何年も指一本触れておらんが、まずまずの女房もいる。わが弁護士事務所の顧客も増える一方だ。これが常識的社会生活の手本となるかね。気が違いそうな苦悩を抱えたままでも!」
この屋敷を訪れても、何も解決されないらしいと観念したのか、ハノーヴァー氏の声は落ち込んでしまっております。
たんなる服装倒錯ではなく、さらに一歩進んでしまったことがハノーヴァー氏の妄想の悲劇のようでした。妄想のスピードは他のたいていの精神の衝動よりも速いことが問題であり、ハノーヴァー氏にはその妄想のスピードを遅くする、あるいは妄想に追いつくだけの力がないということなのです。
だからといって妄想に追いつく力があることがいいというわけではありません。妄想が強すぎて固着することも幸福とは申せません。あまりに強すぎる妄想の固着は周囲の空間まで歪め、他者の精神まで汚染してしまいがちです。そうなってしまった人々をお医者様は、多くの場合精神病患者と呼ぶことになるわけですが、ハノーヴァー氏の場合は日常生活を支障なくこなしているわけですから、そこまではまだ大分距離があると申せます。
ハノーヴァー氏は既にあきらめた様子で、帽子を雑巾のように握りしめ、ソファから立ち上がろうとしました。私に辞去の挨拶をしようとしたのでしょう。そのとき、最後にすがるように、その目を私に向け直しました。
「貴女はさっき、妄想であろうと使い道はあるとおっしゃいましたな」
「ええ」
「先走る妄想に縄をつけて、想像をひっぱらせるというようなことを、確かに言っておられた」
「抽象論です」
「今の私の、この、女になりたいという妄想を使うことは出来ないのかね」
最後にすがれる綱を発見した地中の男のように、ハノーヴァー氏は言いました。
この問いは微妙なところでした。語り手もなんと返事をしようか迷うところです。
「あなた様に力があれば」
「力とは何なのだ」
「力は力です」
「………」
ハノーヴァー氏は最後に希望を見い出したらしく、またソファに掛け直し、握りしめていた帽子も卓子に解放なさいました。
ハノーヴァー氏は期待を込めた目で私を見つめております。時がたってもそれは変わらず、私は根負けしそうになりました。
そのときです。メイドのルイーズ、ブルネットの愛くるしい娘ですが、お茶のおかわりを尋ねにあらわれました。ルイーズは素早く私の耳に吹き込みました。
「あの、旦那様がミスター・ハノーヴァーの純粋な望みのために出来る限りの手助けをするように、とおおせでした」
「でも私は語り手で、そんな役目を引き受けるがらではないのに」
私が小声でそう言いますと、
「私は旦那様の言葉を伝えただけです。語り手にはいろんな事情が突発的に起きるものだとも、言っておられましたよ」
ルイーズはすぐに私の傍らを離れ、会釈して居間を出て行きました。
この家の主人は時々勝手な気まぐれを起こして、私を困らせることがあるのですが、今回もまたその気まぐれが発動したようです。この屋敷の主人は、見たがりで知りたがりで、行きたがり、常にわくわくする状況を求めている方なのです。好奇心は百人並なのですが、つまらなくなったらすぐに寝室へ行き、居眠りをはじめる子供であり老人のようなものなのでした。
語り手はここにこうして居りますけれども、この家の主人の召使いではございません。それどころか、私は、その気になればこの家の主人のことについて語ることもできるのです。しかし、これまでもそうでしたが、私はついつい主人の気まぐれを聞いてしまうのです。私がほのかに主人を慕っているなどということはないと思うのですが、ついついあの方のリクエストに応えてしまいがちな傾向のあることは否定できません。私は、
「分かりました。考えてみましょう。今晩お泊まりになり、夜になったら私の部屋をおたずねください。なんとかなるかはそのときに判明いたしましょう」
「有り難い。だが、考えるのは今からではいけないのかね」
「私にもやらなければならないことがたんとあるのです。事情をお察しください」
「それなら致し方ないが。夜までの辛抱を楽しむまでだ」
ハノーヴァー氏は、うきうきした様子で、メイドのルイーズに客室に案内されていきました。
私は、すこしお暇《いとま》いたします。すぐにも今夜の話を語りはじめねばならないわけでもありませんでしょう。私の時間と皆様の時間とではその流れ方がいくらか違うのでございます。私はその時間の流れ方のずれの合間に語り手としての用事を済まさねばなりません。その用事がこの場所を安定した空間にしているのです。ですから皆様もここに栞を挟んで夜まで一服して待つことをお勧めいたします。むろん、皆様の時間がすでに夜であったり、夜まで待てないということでしたら、続きにすぐに入りたいという意向をとめ立てなどいたしませんが。
ハノーヴァー氏は夜半零時を過ぎた頃、小肥りの身体をひっさげて廊下をどたどたとやって参りました。その手には大きな鞄をお持ちになっています。
「その鞄は何ですの」
「決まっているじゃないか、私のコレクションだ。私の体に合わせて作った女の衣装が詰まっている。よそではおおっぴらに出せるものではないのでね。いつもは信用のおけるさる婦人に預かってもらっている。彼女はほとんど私と同じ体型をしていてね」
ハノーヴァー氏は、いいかね、とウインクすると鞄を開きました。鞄というよりはよく出来た衣装ケースというべきもので、衣服に妙な折れ目がついたり、痛んだりしないようクリップの付いた板により何重にか仕切られたものです。ハノーヴァー氏は数々の自慢のドレスを引っぱり出しにかかります。どんな生地で、どの店に仕立てさせたかを楽しそうに説明します。また、いかにして自分の寸法を測らせることなく、つまり店の者には誰か他の女性のものと思わせて、自分にぴったりの衣服を作らせるかなどの苦労話を語ります。なるほど大変苦労をしたと察せられます。こうして見る限りでは女の服が好きで仕方のない普通の女装マニアと違いはありません。
私はハノーヴァー氏が衣装を取り出して床に並べ始めると止めました。言いました。
「衣裳はおしまいください」
「えっ」
「ハノーヴァー様、たんに女装なさるためにここにいらっしゃったのですか。女装するだけならどこか人里離れたところに別荘でも借りていくらでもなさることができるでしょう。もっとエキサイティングに、女装したまま出歩くとかをおやりになるなら、そんなことはもうハノーヴァー様は実行なさっておいででしょうけど、難しいことではないはずです。白粉と香水、ひととおりの化粧をすませれば、女の服は膨らんだスカートから襟元までぴっちりと肌をかくします。その絹の手袋をつけ、大きめの帽子をかぶりネットを垂らして顔を隠し、その上日傘を斜めに持ってまるで女のように歩けば、よほどのことがないかぎりあなたを男と見破る人間はいないでしょう」
「その通りだ」
「ですがあなた様はそれでは不足だからここにいらっしゃった。女になりたいとの妄想を膨らませて、控えめに言わなくとも、本物の女性になってみたいという希望をお持ちなのでしょう」
「まさにその通りだ」
「ならば女の身体を包み込む布などに頼る意味はありません」
「言われてみればそうだが、私が今の姿で、むくつけきままで女になっても、なあ。見てくれに問題があるではないか。私は自分が美しいと思って女装するナルシシストタイプではない」
「まず女装という観念をお捨てくださるよう。ハノーヴァー様、女になるとすれば外見は問題ではないのです。あなたが女になりたいと思うのなら、それだけの力がなければなりません。妄想からどれだけ力を引き出せるか、それで勝負は決まるのです」
「それはいったい……。具体的にはどういうことなんだね」
「それを、語り手としては気が進みませんが、これからやってみるのです。あなたにその力があるか、じきに判明いたします」
ハノーヴァー氏は、
「力か。今ひとつ分からんが、ここまで来たのだ。貴女に従うしかあるまい」
と、まるで医者か、もっといかがわしい魔女や占い師に運命を託したかのように言います。
語り手はべつに魔法使いでもなんでもありません。ハノーヴァー氏に呪文を囁いて女に変身させるなどというようなばかげたことは出来ません。私に出来ることは一つ、ただ語ることなのでございます。
「妄想を使うには、最低でも妄想を想像の域まで引き上げて、妄想と想像を重ねる必要があります。想像の域にまで高めるというのは、それが意思でコントロール出来るようにするという意味です。妄想自体を意識的に訓練すれば、コントロールすることが可能になりますが、かなり困難です。ただ漫然と決意せずに行えば妄想に呑み込まれてしまうだけです。だから想像の域にまで持ってくるのです」
「うむ、で、それにはどうすればいいんだ」
「想像と重ねた妄想を体現する。その妄想の中に全身全霊を込めて浸りきる。妄想を体内に再構築すること。微妙な想像力が必要なのです。自らの体の中に肉感的に、実感できるくらいまで、妄想を入れ込んでしまう。それに成功すると妄想は実に具体的で現実的なものとなりおおせます」
「なるほど」
氏は、多分、まったく分かっていないはずですが、頷いています。
私は、脅かそうと思い、
「こんな話を聞いて恐くならないのですか。よろしいですか、これは大変危険な真似なのですよ。あなた様の力が弱かったり不安定だったりすれば、二度ともとのあなたに戻れなくなる可能性があるのです」
と言いました。
「いいんだ。そんなことは、この屋敷の門を叩いたときから覚悟しておるよ」
ハノーヴァー氏は、氏なりに強い決意があるようです。
「分かりました」
そして私は別のランプに火をつけ部屋を明るくしました。
二つのランプのせいで部屋の物の影が二重になりました。そして姿見にかかっていた覆いを取り去りました。ハノーヴァー氏の全身を映して余りある大きな鏡です。
「お着物をおとりください」
と私が言うと、ハノーヴァー氏はごくりとのどを鳴らして、素直に従いました。上着を脱ぎ、ネクタイ、カラーを外してゆきます。私はハノーヴァー氏が脱いだものを受け取り、洋服掛けにかけ、あるいは畳みます。私の前でストリップをするという恥ずべき状況よりも、挑戦への決意の方が勝っておられるようです。鏡に映る自分を見つめる目は真剣そのものになっておりました。
私は腰掛けを持ってきて、それにハノーヴァー氏をかけさせました。
「ハノーヴァー様は、人体解剖図をご覧になったことはありますか。なければここに持ってきておりますが」
「ああ。18世紀のイタリアの学者が描いた精密なやつが家にある。図解の文章の方は何と書いてあるのかはさっぱりわからんがね」
「女性の解剖図はご覧になりましたね」
「ああ」
「ではそれをよく思い出してください。ことに女性の下腹部の解剖図を」
「うむ。どうだったかな」
ハノーヴァー氏が用心のためと解剖図をお求めになりました。私が渡したのは廉価版の一冊本の人体解剖図です。あまり詳しいものではありません。ハノーヴァー氏は目を通し、
「そうだな。こうだった。私の本はもっと細かくて色鮮やかだった」
「では目を閉じてください」
ハノーヴァー氏は目を閉じました。
「目を閉じて思い出すのです。丁寧に、思い出すのです。あなたはおそらく食い入るようにその頁を何度も見たに違いありません。焼き付けるように記憶しておいでです」
「………」
ハノーヴァー氏は脳裏でその作業に入ったようです。
「そして、よろしいですか、これは最も重要な注意事項ですが、これから決して目を開かぬようお願いいたします」
「わざわざ鏡を目の前に置いて、それを見るなとはげせないね。その鏡は私が女になった姿を自分で見ることが出来るように置かれているのではないのかね」
ハノーヴァー氏は反射的に目を開いて言いました。
「いいえ。正反対です。目を開けば自分の姿をすぐにも確認できるという状況において、敢えて見ることを禁じるのは、妄想を鞭打ってさらに力を引き出すための仕掛けです。いつでも目を開けばこの鏡が見えましょう。ですが目を開いてしまったら、すべては終わりです。そこに映っているものがただ妄想に酔い痴れた不気味な中年男なのか、不思議なことに性を転換して女となり得た黄金の女性なのか、私は何も保証いたしませんが、それを確かめることは簡単に出来るという状況を作ったまでです。しかし決して見てはならないのです。だいたい、そんなことをするのは野暮でございましょう」
「困ったな。黄金の女を見たいという衝動に負けそうだ」
「衝動はよろしいのです。その衝動がまたより妄想を強くする力となり得るのです。さあ。きつく目を閉じてください。私の言った意味がすぐに分かりますから」
「まあ、確かにいまの私の身体をまじまじと見るのは苦痛ではある」
と、言ってハノーヴァー氏は目を閉じました。
「女性の解剖図を思い浮かべていますね。女性のおなかの中には、拳くらいの大きさのハートの形をしたピンクの肉のかたまりがございます。西洋梨を逆さにしたような形で下腹部の奥に位置します。子宮です。そしてそのハートのかたまりの左右のウィングには、左右一個ずつそらまめの形をしたものを管と筋膜で包み繋いで、耳のような形にしています。卵巣と卵管です」
「うむ。そんなようなものが頭に浮かんできた」
「瞼の裏に見るのではなく、あなたの下腹部にそれがあると想像して、それを見るようにするのです。ハノーヴァー様の姪御さんのむっちりとすべすべした下半身のことを思い出しなさい」
「そうだ。ビール腹の胴体ではない。この器官はあの若々しい身体の奥にある」
「そうあなたの中の姪御さんに重ねて、子官と卵巣を構築するのです。そして卵巣を特に鮮明にすることです」
ハノーヴァー氏は心の中でその操作を一生懸命行っているのでしょう。額から汗が流れ、またのど仏をごくりと動かしなさいました。私は、
「ハノーヴァー様、固定するのはその場所ではありません。もう少し上にずらして。そこでは膀胱に重なってしまいます」
「そうか、では上げよう。しかし貴女には見えているのかね。私が私の中に想像している子宮が?」
「見えているのではありません。語っているのです」
「不思議な言い方をする。このあたりでいいかな?」
ハノーヴァー氏は想像上の女性内性器を恥骨と仙骨の中間、やや上のあたりに定めました。
「ええそこでよろしいです。まず卵巣をきちんと作らねばならないのは、女性化の鍵であるエストロゲンを分泌させる必要があるからです」
「エストロゲン?」
「ホルモンの名でございます。内分泌系とホルモンの秘密はまだ医学的研究のとば口にかかったところで、ヴィクトリア朝の人々のほとんどは知識がないでしょう」
「最新トピックということか。そんなことをよく貴女はご存じだ」
「私は語り手ですからどこからか知識を引っ張ってくる力があるだけです。とにかく、人の身体を変化させる秘密はホルモンにあるのです。エストロゲンは女のホルモンです。乳腺を活性化させ、乳房を膨らませ、臀部を脂肪厚く丸みを帯びさせ、声を甲高くいたします。よって身体に卵巣を作れば自然に身体は女性らしくなって行くのです」
「それはいい」
「さあ、もっと妄想をたくましくして子宮と卵巣を固めるのです」
「うむ。何か本当に私の下っ腹に変わった感じの器官が生じたかのようだ。何か拳くらいの大きさの物が小腸を押しているような感じだ。これは本当に子宮と卵巣なのか」
「ええ、本当に生じておりますよ。さあ、続いて卵巣に働くように命じるのです。エストロゲンを分泌せよ、と」
ハノーヴァー氏は、念じたようです。
卵巣の腺はスポンジのような構造で、絞ると特殊な蛋白質を滴らせようと震えます。
「うっ」
ハノーヴァー氏はぞくりと身を震わせました。ハノーヴァー氏の卵巣は順調に女性ホルモンの分泌を開始いたしました。ホルモンは血液に混ざり体内を循環し始めます。
「ハノーヴァー様、まだ始まったばかりです。気を抜かずに。次は子宮の下に連なるヴァギナを作らねばなりませんが、その前に邪魔になるその立派なお持ち物を無くしてしまわねばなりませんね」
「そ、そうだな」
「ハノーヴァー様、卵巣のホルモンは殿方の持ち物を小さくする力がございます。体の中に発生させたエストロゲンをそちらへたっぷり注いでごらんなさい。エストロゲンの力は絶大で、みるみるうちに海綿体の棒は縮み上がり、二つのナッツとそれを包む袋は干しブドウのようにひからびてゆくでしょう」
「おおっ」
ハノーヴァー氏は、私のガイドに従ってエストロゲンを男性器に向けて流したのでしょう。びくんと腰をふるわせました。
「ナッツがひからびると、男をつくるテストステロンというホルモンの分泌が減少いたします。副腎のホルモンのコントロールも途絶えますから、女性化はさらに促進いたします。肉のお帽子はクリトリスとして下腹部にちょこんと収まり、革袋は縦にひび割れて左右に分かれ、ナッツは退化してウォルフ管の中に消えてしまいます」
「ああ、ほんとうだ」
「ハノーヴァー様、気を緩めず確実に実感なさるのです」
「実感も何も、凄い。私のペニスが消えてしまった。いつもの擦れる感じも、重さも風が触れる感触もなくなったぞ。それに私の声を聞いてみなさい。細く高くなっている。む、胸はどうだろう」
目だけは開かないという指示を必死に守って、ハノーヴァー氏は手を我が胸に持って行き、探ります。
「ほんの少しだが膨らんでいるぞ! 私の胸に乳房が生まれるのだな」
と感激した声でおっしゃいます。乳腺が胸部に発達しますと、皮下脂肪をかき集め、網目状の脂肪体を形成いたします。何の不思議もありません。
「ハノーヴァー様、まだまだ続きがあります。心してください。革袋を左右に分けたらそこに前庭が出来ているはずです。まずまだクリトリスに通っている尿道をそちらに移動させます」
「こ、こうか」
ハノーヴァー氏は、この方法のコツをすっかり掴んでしまったようです。すぐにもともと亀頭であった場所から小水の通る穴が消えて、膣前庭の方へ移動いたします。
「次は、ヴァギナだ。分かっている。子宮頸をゾウの鼻のように降ろしていく。同時に前庭を開口させて肉の鞘を作る。子宮頸部は腔奥の天井を突き抜けて、腔内に直接、頸管を開口させる。これで膣と子宮は連結される」
「お上手です。もう私のガイドは必要ありませんね」
「まあ、見ていてくれ」
ハノーヴァー氏の前庭の尿道口のすぐ下に、すうっと可愛い小穴が開きました。もともと陰嚢だった革袋は今やすっかり左右に分かれて谷をつくり、ぷよぷよとした唇をなしています。
「こんなものでどうだろう」
「そうですね。腔の角度はもう少し傾けた方がいいでしょう。子宮との連結の角度は70度くらいにするのが平均です。また膣のすぐ隣に直腸が接しますので、筋膜によって出来るだけ細く閉じた薄いチューブにしてしまうと、殿方も喜びますし、女性にも都合がいいのです」
「殿方のことなぞどうでもいいが」
くにゅっ、と粘膜の滑る音を発して、ハノーヴァー氏は膣の角度を変えてしまいました。その圧力でゼリー状の頸管粘液が瞠口まで押し出されてきました。
この時点でハノーヴァー氏の全身は細胞の一個一個が女性化を目指して蠢動しております。骨格の変化は時間がかかりますが、その他の基本的な女性的構造は比較的迅速に変貌を遂げます。
ハノーヴァー氏は出来立てほやほやの自分の女性器におそるおそる右手を伸ばしました。下腹の草むらをかきわけ、少し大きめのクリトリスに触れ、さらに小陰唇を開いて人差し指を尿道口にあて、さらに中指を膣口に伸ばします。そっと立てて膣口に第一関節まで入れてみました。
「ああ、なんと素晴らしいことだ。わが体内の女よ! とうとう表に出てきてくれた!」
喜びにむせびながら、
「愛しくてこのまま自慰を始めたいくらいだ」
左手は胸を触っております。胸もさっきよりもぷるんと脂肪を増し、大きくなっており、ハノーヴァー氏の手のひらにちょうど収まるくらいの大きさとなっております。
ハノーヴァー氏はそれからしばらく感謝と喜びの言葉を発しなさっておいででした。ひとしきりすむと、
「目を開いてはいかんかね。自分が女になっていることをこの目で確かめたい」
「それだけは我慢してください。想像の域に近くなったとはいえ妄想とは不安定なものですから、不用意に目を開いてしまうとすべて台無しになります」
「いちおう、女性器も出来たし、乳房もたわわになった。自分が女性になった十分な実感はある。が、女になることについてはこれで終わりかね。何か物たりん感じもある」
「それは女として暮らす日常に感じるべき事でしょう。排卵がある感覚もあれば、黄体ホルモンが作り出す、時として不愉快な感覚もあります。様々な皮膚感覚、思慮の方向性の変化、つま先から髪の毛の先までがヴァギナを中心にしてオルガスムスの痙攣に酔うこともあれば、胎盤が柔らかいベッドになりそこに子を宿す感覚もあります。ですが今夜はもうそれほど欲張らなくともよろしいでしょう。ハノーヴァー様は普通の女が最低でも十三年かけて行うことをわずかの間になし得たのですし、いかに強固な妄想とはいえ力は有限なのですから」
「しかしね、貴女には今の私の感激がどれほどか分かっていないだろう。もっと欲張りたい。大体、今夜のことはずっと続くのかね。私は明日になってもこの女の身体で居られるのかね? この先もずっと目を閉じたまま?」
「それは私にも分かりません。あなた様の力の強さ次第なので」
「ならば一夜の夢でもよい。とことん女を満喫してみたいものだ」
「セックスをなされたいということでしょうか」
「むろんそれはあるが――」
「無理です。あなた様の出来立てほやほやの女の構造物はプディングのように脆いのです。現実の殿方の無遠慮な攻撃を受けた場合、花はあっさり揉み潰されてしまうでしょう」
「他に何かないか。もっと充実感のあるものは」
「足ることを知ったほうがよろしいですよ」
「そうだ。子を宿す感覚というものは、味わえるのかな。母乳で乳が張るような感覚は」
「セックスを飛ばしてそのようなことを考えるのはどうかと思いますが」
「問題はなかろう。聖母マリアも、父ヨゼフと交わることなく人の子を宿したのだからな」
「いえ身体の変化に意識が付いて行けない場合、非常に危険なことになるのです。確かに内部で起きることを感覚するだけなら、受胎は不可能ではありませんが、それもあなた様の妄想にあとどのくらい力があるかにかかっております」
「ここまで出来たのだ。私の力とやらを信じてみたい。きっと妊娠も出来るはずだ。もうやり方のコツは分かっている。貴女が止めようとも試みるぞ」
「私としては勧められませんね。男女の交わりなしに子を宿すなら、この場合人間の子は宿せませんが、それでもよろしいならトライする邪魔はいたしません」
「人間の子でないなら、やはり神の子を宿すのか。男が生きながらにして聖母マリアと同じ感覚を共有できるのなら、奇跡以上のことではないか」
「奇跡ではあるかも知れませんが、妄想でもあることをお忘れなさらぬよう。それに胎内に生じるのは神の子ではなく、父なし母なしの孤独なホムンクルスとならざるをえません」
「ホムンクルスをはらむというのかね」
「そうなります。言ってしまえば、パラケルススこのかた錬金術師たちの最大の秘密のひとつは、あなた様がなさろうとしていることの中にあります。あなた様の身体は今、哲学者の卵、アタノール、錬金炉として使うことが可能です」
「ほほう。わたしは女になれたのみならず、いにしえの錬金術師たちの秘密にまで手が届く場にいるのか」
「語り手が導いた責任から、お止めします。今晩は今の女である感覚を、落ち着いて、感じるだけでとどめておくが無難です。女の臓器の轟きと囁き、女の体液が胎内を流れる実感を味わうだけになさいませ。夜明けまでまだ何時間もあります。ただ味わうだけでいいではありませんか。それだけでも望むべき最高の体験となるはずです。あなた様の妄想は十分にもとがとれております」
「それはそうなんだが」
ハノーヴァー氏は、目を閉じたまましばらく考えておりました。
生来の好奇心がむくむくと騒いでいることは明らかです。ハノーヴァー氏が女装の道に入ったきっかけはプラトンのいう、アンドロギュノスの取り違えた愛情ではなく、強い好奇心の変形であったのかも知れません。
そしてハノーヴァー氏はやれるだけやってみようという気になられたようです。もともと思い込んだら深入りしてしまう性格の方ですので、私が止め立てしてもききますまい。
「ご無理をなさらぬように」
とだけ私は言いました。
ハノーヴァー氏は目を閉じたままです。腰掛けを外して、床に座り込みました。あぐらではなしに、ぺたりと横座りになるところが、さまになっております。
「女性は、スペルマを注がれることによって妊娠の第一段階に入るのだが、私の場合どうすべきか」
とぶつぶつ言いながら考えております。そうしながらも時々、手を胸にもってゆき乳房の膨らみをいとしそうに撫で、重みを確認しているのでした。
「男の精液に代わるものを子宮にまで注入せねばならんが。はて」
難問でしょう。ハノーヴァー氏は両手を使って乳房を愛撫し始めました。まるで知恵を揉み出すかのようにゆっくりと乳首へ向かって絞るように手を動かします。
「うーん、わからない」
ハノーヴァー氏はぶつぶつ言いながら、身を横たえ、側臥なさいます。私がブランケットを床に敷いてクッションをさしあげると、
「ああ、すまない」
と言って柔らかいクッションに半身を委ねます。
「何かヒントはないかね」
「ハノーヴァー様、私はあくまでお勧めしない立場ですので」
「仕方ないな」
考えるときのいつもの癖なのでしょう。右手の親指の爪を噛みはじめました。
ハノーヴァー氏は余った左手をそっと自分の股間に伸ばします。股間にペニスが無いことを確かめて、これもうれしげに花びらの周辺をさわさわと撫でております。とたんにハノーヴァー様の表情はうっとりとしたものになります。語り手の思うにハノーヴァー氏はこれで滴足しておくべきなのです。ですが、クリトリスに優しく触れていた指に香りたかい蜜液が絡み出した頃、
「そうだ」
と一声なさいました。
「たとえばカウパー腺液に代わるものが女性に……」
むくりと起きあがり、座り直しました。
「この小さな快楽の朱珠が教えてくれたよ。妊娠することには、朱珠は必ずしも必要がないのだ。必要が無くても起きることがあるのなら……よし」
妄想たくましいハノーヴァー氏ははじき出した解答を実行に移し始めました。クリトリスを摘んで引っ張ったのです。妄想の可塑性から、クリトリスはぐんと伸び、勃起の様相を見せ、小指ほどの大きさとなりました。
「処女ではなくなるからベストとは言えないが、他に思いつかない」
私はハノーヴァー氏がもっともシンプルな答えを見つけたことを知りました。
見るとウォルフ管の名残の中に穀物の種のように仕舞われていた睾丸が膨れながら下降し始めております。ハノーヴァー氏は既にアンドロゲンを見事に使いこなしておいでです。大陰唇の一方が膨れ上がり連結して、下りてきた睾丸を包み直しました。同時に尿管と精管を中央に通じさせたクリトリスが生じており、もはやペニスと言ってさしつかえありません。それを逆反りに曲げてゆき、自らの膣の中に入れてしまったのです。ハノーヴァー氏は男性器とその機能を一時的に復活させ、自分の女性器に挿し入れて、自家受精をたくらんでいるのです。
この方法の問題点は、両性器の守護物質たるエストロゲンとアンドロゲンを同時に多量放出した場合のバランスのコントロールにあり、へたをすれば命の危険すら招くことになります。しかし才能というのでしょうか、ハノーヴァー氏は綱渡りをうまくやっておいでのようです。
両性具有者が自分の男性器を自分の女性器に招き入れて、射精させるべく刺激を与える様はかなりグロテスクな光景なのですが、自分の胎内に生命を作り出そうというハノーヴァー氏の情熱というか妄想の激しさを思えばすこしは感動させられるものもありました。
胸を刺激し、クリトリス=ペニスをしばらく激しく擦った末、ハノーヴァー氏は自らの膣内に射精することに成功しました。ヴァギナのオルガスムスとペニスのオルガスムスが同時に起きたらしく、ハノーヴァー氏はつま先をぴんと伸ばし、腰と腹を波打たせ、全身を快い痙撃に貫かれている様子です。男性と女性のオルガスムスを同時に味わうという、それがいかなる感覚なのか、語り手も少しは興味がありますが、言語に尽くせぬものでしょうから、語り手はとりあえず語りません。
ハノーヴァー氏は痙攣が引いたあと激しい呼吸を続けていらっしゃいました。しばらくすると落ち着いてきて、胸の上下はほとんどなくなってきました。
「大丈夫ですか」
と私が声をかけますと、
「しっ! 今、三億からなる精虫の軍団が子宮頸管のブロックをかいくぐり、卵管に向かっているのだ。一方卵子はそそとして下りてくる。一匹の精虫が見事に闘いに打ち勝ち、卵子とこの世でただ一度の交わりを行っている。なんとも荘厳な光景である。静かに見守ってやらねば」
と、まことに聖職者のように荘厳におっしゃいます。
「ああ、着床した。やや、もうこんなに大きくなった」
ハノーヴァー氏の瞼の裏には、胎盤をベッドとしたホムンクルスが凄まじい早さで成長しているのが見えているのです。ハノーヴァー氏の腹部も少しずつ、風船のように膨らんで参ります。ハノーヴァー氏の神をも恐れぬ無鉄砲な妄想の力には敬意を表さねば仕方がないでしょう。
並の人間であれば、いかに妄想が強いとは言っても、これほどの激変を体験し、その経過を刻々と見ていられるはずがありません。発狂してもおかしくないのです。確かにハノーヴァー氏には力があるのでした。
「うぬ。これは何だ。これは人か?」
ハノーヴァー氏に見えている何者かにおかしなところがある模様です。
「受精後しばらくの期間、アメーバから始まって、胎児は魚類の稚魚や両生類の子供のように見えるもので、最初はとうてい人には見えないものです。エルンスト・ヘッケルは『生物の個体発生はその系統発生を繰り返す』と申しておりますが、受精後に盛んに分裂する細胞のかたまりは、地球上の生物の進化をたどりなおし、魚類、両生類、爬虫類、鳥類または四足哺乳類、猿、類人猿という各段階を体現しながら成長するということです」
「そうじゃない。こいつは初めから人の形をしている。受精後は芥子粒くらいの大きさだったが、細部はすべて出来上がった人間の形をしていたんだ。今、大豆くらいの大きさになっているが、なんということだ、『ガリバー旅行記』に出てくるこびとのようだ」
特殊の上に特殊な状況で、|ネオテニー《幼形成熟》が起きていると思われます。
「これはどういうことだ」
「たぶんホムンクルスというものは、系統発生を繰り返さず、最初から人の形をしているということでしょうね」
と冷静に答えておりますが、語り手もいくらかはらはらしておりました。
私も、長いこと語り手をしていますが、ホムンクルスを出産しようと希望した男性のことを語るのは初めてでございます。驚くべき事が起こって不思議はなく、語り手の予測し得ぬところです。
「わっ、わっ」
ホムンクルスは急成長しているのでしょう。ハノーヴァー氏の声は困惑から慌て気味になり、
「おまえは何だ、うわっ、笑いやがった」
と、ついには恐怖感に満ちたものとなってゆきました。
「は、話しかけてきゃがったぞ」
「ハノーヴァー様、気を静めて。怖がってはだめです。なんと言っているんですか、あなたの赤ちゃんは」
「よう、ふたなりのおっさん、よろしくな、と言いやがったんだ。まだどんどん大きくなるつもりだ」
ハノーヴァー氏の腹部は少しずつ、妊婦らしくなってまいります。
「こいつは悪魔だ。性悪の悪魔だ。こんなものが、私の中から出てくるというのか」
「落ち着いてください。恐れることはないのです。それがなんであれ、妄想、ただの妄想に過ぎないんですから」
「わっ、なんてことをしやがる」
確かにハノーヴァー氏がお宿しになったホムンクルスは邪悪なもののようでございました。すでに手のひらほどの大きさに成長したホムンクルスは、通常の羊水や臍の緒による栄養補給では物足りなさそうで、ぎざぎざの歯をむき出して胎盤に噛みつき、子宮内壁をむしり取ってむさぼり食っているようでした。
ハノーヴァー氏がじたばたしているうちにもホムンクルスはどんどん大きくなってゆきます。元気に腹を蹴るどころではありません。安息の部屋であるべき子官内を壊すほど暴れ出しているのです。ハノーヴァー氏の腹部はホムンクルスが子宮内暴力をふるうたびにぼこんぼこんと音を立てて挙や足の形に飛び出します。ハノーヴァー氏は、
「こいつは私を殺す気だ。私の子宮を食い破り、膣を引き裂きながら出てくるつもりだ」
と悲鳴混じりに叫びました。ホムンクルスは、
「その通りさ、ぶっ殺してやるぜ。父母ちゃんよ」
と言って邪悪な笑みを浮かべているのが見えます。
「ハノーヴァー様、落ち着いて、あなたの力ならホムンクルスをコントロールすることは出来ます。無事出産すれば、ホムンクルスをあなたの手下にすることも出来るのです」
私の言葉はほとんどハノーヴァー氏の耳に入っておりません。
「おい、何をするつもりだ。やめろ。いたい」
ハノーヴァー氏の下腹部から羊水がざばっと流れ落ちてきます。破水したのではなく、ホムンクルスが腕を伸ばして子宮頸から手を出しにかかったようです。そしてまだ挿入されたままになっていたハノーヴァー氏のクリトリス、いえ、ペニスの先端を掴み、それをロープのように握って外に出ようとし始めているのです。
ハノーヴァー氏はほとんど錯乱状態に近くなってきており、私がいかになだめても、どうしようもありませんでした。ホムンクルスが、
「ダディ、おれの名前は決めてくれたかい?」
と言いながら、その気味の悪い顔を子宮から産道へ出そうとしたとき、ハノーヴァー氏の妄想の力は管理不能となり、逆流し、ハノーヴァー氏に地獄へ放り出されるほどの恐怖感を与えました。
ハノーヴァー氏は悲鳴を上げながら、とうとう、耐えに耐えてきたのですが、目を開いてしまいました。私は急いで鏡に覆いをかけようとしましたが一足遅かったようです。ハノーヴァー氏は自分の現実の姿を鏡の中に見てしまい、顔をこれ以上ないというほど歪め、金切り声の悲鳴をあげました。
語り手も妄想が悲鳴を上げる恐ろしさにつられ、耳を手で押さえ、目をぎゅっとつむってしまいました。語り手にだって見たくないものはありますし、何でもかんでも描写すればいいというものではありません。
ハノーヴァー氏はしばらくの聞、痴人のように鏡を眺めておいででした。
「ハノーヴァー様が恐怖に負けてしまわなかったら、妄想、強迫観念。心の底でつらい思いをしていたすべてのしこりをホムンクルスの形で外に追い出すことが可能でしたのに。残念なことでした」
と私は静かに言いました。最後まで耐えて目を開かなかったら、ハノーヴァー氏はホムンクルスと共に服装倒錯の原因であったトラウマ、その他にも業であった何ものかを排出してさっぱりすることがかなったでしょう。それがハノーヴァー氏よりも強かったらコントロール下を脱してどこかに逃げ隠れることになります。その場合はハノーヴァー氏のホムンクルスは、他人様に迷惑をかけて回ることになったかも知れません。そういったホムンクルスは、そう、バトラー・イェイツが幻視し、好んで書物に遺したケルトのフェアリーのような存在となったでしょう。それもかなりたちの良くない妖精に。
短くない時間の後、ハノーヴァー氏が、落ち着いた声で言いました。
「それほど残念でもないさ。なんとか気も狂わずにすんだようだしね」
ハノーヴァー氏が吐いた唾が嘔吐物や体液で濡れている床にぺちゃりと落ちました。
「調子に乗りすぎてしまったのは認めよう。貴女の忠告通り、今晩は女になった喜びをかみしめるだけにすれば良かったのだろう。だが……悪くない。今の姿もね」
ハノーヴァー氏がホムンクルスとの戦いの恐怖の瞬間に異様なスピードで、妄想を組み立て直したのだということが分かりました。ハノーヴァー氏は私が思った以上にタフな方だったようです。
ハノーヴァー氏は胡座《あぐら》すわりに、鏡に見入っています。
「ふふん」
乳房はなく、女の道具もなく、そして男の道具すらないつるつるの身体が鏡には映っておりました。両性具有ではありません。両性無有、無性というべき身体が映っているのです。
「これは中性ということかね。第三の性の形態というものだろうか。わたしは男であり女であり、またそのいずれでもない。もはやあらゆる性の問題に心乱されることのない身体となり得たのだ。あの気味の悪いホムンクルスは、どこに消えたのかしらないが、ある意味では最後の変化の後押しをしてくれた。感謝してもいいのかも知れない」
そう言って、鏡の中のハノーヴァー氏は、小娘のようにくすくすと笑い、そんな笑い声を出せたことに悦に入っております。
「もう男の服だ、女の服だと目の色を変えることもない。じつに馬鹿馬鹿しい強迫観念に憑かれていたものだと思うよ。どうだっていいんだ、そんなことは。ねえ、貴女もそう思うだろう?」
「そのようですね。ハノーヴァー様にとっては」
チチ、外から小鳥の声が聞こえて参ります。
ハノーヴァー氏は立ち上がりました。
「朝だ。素晴らしい朝だな。なにしろわたしは真実に生まれ変わったのだから。モーニング・ボーンだ」
性の特徴が何一つ無い身体を鏡の前で一回転させて、ハノーヴァー氏は女の服ではなく、着てきた紳士用の服を付け始めました。
「ふふふ。もういいよ、鏡は。十分見たから」
「はいミスター・ハノーヴァー」
私は逆らわずに鏡に覆いをかけました。
ハノーヴァー氏は、屋敷の主人とにこやかに談笑しながら、朝食をゆっくりとおすませなさいました。ハノーヴァー氏は昨夜の体験を主人に話して聞かせ、主人はパイプを吹かし、興味深そうに相づちを打つのでした。
ハノーヴァー氏は、迎えの馬車がつくと、上機嫌に私にもウィンクをくれてから、乗り込みなさいました。いたって満足そうなハノーヴァー氏に、屋敷の主人も、そして語り手も何も言うことはございませんでした。
鏡に映った中性のハノーヴァー氏の姿が、本当のことだったかと問われても、語り手には少なくとも答えを言う気持ちはございません。正しい答えが分かりかねるということもありますが、言わないのがこの場合の事情なのです。ある程度正しいことを言えるのは、朝食後は早々に書斎に引っ込んでしまったこの屋敷の主人だけでしょう。
ハノーヴァー氏が今後どうなって、その姿をどう見られるのかは、これからハノーヴァー氏に会う人々の妄想の力によりますし、そしてこれをお読みの皆様の妄想の力によるのでございます。語り手としては、語り手の事情にしたがって、何も言わずにハノーヴァー氏の馬車を見送ったのでございます。
[#改ページ]
Circumstance.3 Reciter's world
この屋敷にはメイドが三人おりますが、その中に私は含まれないことは申し上げるまでもありませんが、他人様によると私はメイドの姿をしている時があるらしいのです。私の立場はあくまで語り手であってメイドでもメイド頭でもございません。私は自ら自分の姿形を描写したりいたしませんから誤解を招くのでしょうが、語り手である以上自然なことでしょう。語り手の姿形や美醜を語ることは、語り手が語る人々の話す言葉によってなされるしかないからです。
それはまあいいとして、三人のメイドの名前はフィニーとルイーズとチッタと申します。
フィニーは一番の年長で落ち着いており、メイド頭的な存在です。美人とは敢えて申しませんが、その暖かく気だての良い様子は皆に慕われるところでございます。
ルイーズはランカシャーの片田舎から、一家の口減らしのようにロンドンにやってきたのですが、その早々にあくどい周旋屋のせいであやうく売春宿に叩き売られそうになったと申します。十六歳の愛くるしいブルネットの娘でありますから商売人に目を付けられるのも無理もなく、その上、本人が山だしで都会の常識をまったく弁《わきま》えておらぬものですから、燕が道を横切るよりも速く騙されてしまうのも仕方のないことでした。その危機一髪から二転三転あって、巡り巡ってこの屋敷のメイドとなったわけです。ルイーズ本人は実にあっけらかんとしたもので、別に気にしていない様子でした。この調子なら夜の世界に住むことになっていてもうまくやっていたかも知れません。
最後の一人の小さなチッタでございますが、この娘を屋敷に入れるにあたり、私にも少し責任があるので少々経緯を述べましょう。
ある夕方のことでした。私は語り手の事情があって外出せねばなりませんでした。
時にロンドンを賑わせていた、というより恐怖のどん底に陥れていた事件が起きている最中でした。例の切り裂きジャック≠フ娼婦殺しの件でございます。それはもちろん私たちもそのニュースを初めて耳にしたときには震え上がったものでした。ですがこの屋敷で起きていることを外へ持ち出すなら、ジャック・ザ・リッパーも少々考えを変えるやも知れぬと思うのです。
その年の夏に最初の犠牲者が惨たらしく殺された後、秋口までにさらに三人の罪深い女たちが文字通り切り裂かれて殺されました。イースト・エンドはこの恐怖の怪物に時間を止められたようになり、罪なき人々は戸締まりを厳重にして息を殺して夜を迎えるようになったのでした。私はよりによってこんな時にホワイトチャペル地区に向かわねばならないという馬鹿げた事情にうんざりしておりました。私がジャックに会いに行くような真似をさせられるのは、まるで日本の大正期を扱ったドラマの主人公は何故か関東大震災の当日に必ず東京にいなければならないという不条理な法則と五十歩百歩くらいに馬鹿げたことだと思います。
ホワイトチャペル地区については皆様よくご存じのように、いかがわしい宿の密集地帯を真ん中に持ち、一ブロックごとに過度に厚化粧の女が立っているという場所でございます。路地の入り組んだ場所も多く、ガス灯の明かりも、月明かりも届きません。暗闇そのものの路地が死神の歌をうたって人を誘うわけでございます。私以外に、まともな紳士淑女は歩いてもおりません。
テムズ川沿いを歩きながら、身体にまとわりつくような霧に、シッシッと声をかけながら、次第に人がまばらになる街区をゆかねばなりません。だいたい私はロンドンという町が好きではありません。世界でもっとも栄えある大英帝国の都であろうとも、陰気で寒い場所であるとしか思わなかったのです。別に自国の悪口を言っているのではありません。語り手は英国国籍の所有者であることは出来ますが、だからと言って、英国人である必要もなかろうと存じます。
[#ここから1字下げ]
特権を誇れるテムズを過ぎ
特権を誇れる街街を歩く
そこで出会う一人一人の顔に漂うは
疲労困憊の色、悲しみの色を
私は見る
とりわけ我が耳を打つは
真夜中の街街に溢れる若い娼婦の詛《のろ》いの声
その声は乳飲み子の涙を涸らし
結婚の柩車に疫病をふりかける
[#ここで字下げ終わり]
と、ウィリアム・ブレイク、かの無名のヴイジョネイルが歌っていることで十分でございましょう。ブレイクはもっとも無惨にロンドンに瘴気《しょうき》の漂うのを見たのでございましょう。辛口の知識人たち、スペンサーも、ミル、ジョンソン、ラスキンもこれほど女王の国の都を陰気で悲惨だとは感じなかったのでしょう。
さて、スコットランド・ヤードのお達しで街娼の姿がめっきり減ったホワイトチャペルの通りを急ぎ足に行こうとしておりますと、なんとも幼い悲鳴が聞こえて来るではありませんか。二ブロック先の、いかにもと思われる路地から聞こえて参ります。やっぱり来たかという諦めとともに、私としては身を翻して聞かなかったことにするか、または同じく身を翻して警官に知らせる声を上げて逃げたいところではありますが、腹立たしいことに語り手の事情が立ちふさがっておりまして、この場で他人となることを許してくれないのです。
私は仕方なく、本当に仕方なくです。か細い悲鳴のする方へ足をそろりそろりと向けました。明かりとて何もない路地に顔を向け、あちらにあるのはただ闇ばかり。その奥に荒々しい息づかいと、悲鳴が生き物のように潜むのです。
むろん行われていることが犯罪ではなく、準合法的な商取引であったり、あきれた紳士の和姦のお遊びであることはあり得たわけです。ですが語り手が事情が別の事情であると察したから、そちらがすべてに優先される事情となることは言うまでもございません。
布の裂ける音がして、悲鳴がくぐもり、やみました。
ガス灯がわずかに照らす角度に立つと、人影が手に細長いものを、刃物でしょうが、持っているのが見えました。その奥に子猫のように追いつめられているのが、小柄な娘であるらしいことは分かります。悲鳴が止まったのは男が娘に猿ぐつわをかませたからであり、それにはやぶかれた娘の上着が使われております。だんだん闇に目が慣れてくるのは、見えるように語るのが語り手のすべきことだからです。
「ちょっと、お待ちを」
と私は声をかけました。ちょっとお待ちを、というのはこんな時にどうかと思いますが、他に思いつかなかったのです。
男はびくりと両肩を動かしました。知らぬうちに背後に忍び寄っている者の気配を知らず、まさか呼びかける声があろうとは思いも寄らなかったのでしょう。
男はゆっくりと無言でこちらへ顔を向けました。野獣のように飛びかかってくるかと緊張いたしましたが、それはなく、ただ取り込み中の荒い息づかいを私に知らせようとするかのようです。どこかに行け、逃げ出してくれれば幸いだと、それはそうでしょう。私が彼にとって邪魔者だということは言われなくとも承知しております。
「ここに至るあなたの事情は存じませんが、放っておいたらその娘を痛めつけて、犯して殺してまた犯してから切り刻むことになるのでしょうか」
と私はおそるおそる訊きました。相手が、そうだよ、と返事をすることを期待したわけではありません。
男は、すうはあ、と荒い息を続け、ぶるぶると震えるように身動きいたします。まるで自分の力を必死で押さえ込もうとするように。確かにナイフであるものが、ちかりと光を反射いたしました。まだ血脂で塗られていない、にぶい光でした。
「いえ、私は別に正義の味方でも、女密偵でもありませんから、あなたのお仕事を止めようなどと言うつもりは毛頭ないのです。でも、なんと言えばいいのか」
フェンシングと日本の武術らしいバリツとヴァイオリンの達人であるシャーロック・ホームズでも来てくれないかなどと、語り手が妄想しておりますと、男はすすと足音も立てずに一歩、二歩と近付いてきました。腰のあたりにたらしていたナイフを持った右腕を、腰のあたりまで持ち上げ、下げを繰り返します。震えているのです。
恐怖感がなかったと言ったら嘘になるでしょう。ですが、語り手であるからにはここにとどまらねばならぬ、かも知れないような感じがするという、そのような理不尽さの前に動けなかったということになりましょうか。
身に近付く刃物のことは、別にどうでもいいんですけれど。刺されたり、切り刻まれたりするのは苦痛でしょうが、その代わりに、語り手が語れなくなるだけの話であって、語り手は自分が目をくりぬかれたり、腹を裂かれたり、性器を切り取られたりするところを語らなくてすむことになるわけですから、取引として悪くはないのです。語り手は馬鹿げて不条理なことや、残虐に満ちあふれたおぞましい物事を語るのに喜びを感じるようなタイプではないのです。
まあ、そんなことを思案しておりますと、男はじりじりと接近し、私に手を出すかと思いきや、私に触れるのをいやがるかのようにもう一方の壁に張り付いて、私の横を通り抜けていったのでした。男は私をずたずたにしてから、最初の獲物の娘をあらためてまたずたずたにして去ろうかどうしようか迷っていたに違いありません。
偶然の目撃者くらい現れて不思議ではないことですし、二人くらいを楽しみながら仕留める時間は十分にあったでしょう。ですが、おそらく男は私が語り手であること、自分とある意味では種類が同じ者であって、妄想を扱い使える者、殺してしまっても何も残るものがない者であることを理解してくれたようです。
路地に出ると男は忌々しそうに私を一睨みし、ナイフを内ポケットの中に仕舞い、手につばを吐くと乱れていた髪を撫でつけ、襟を直し服をきちんとして、まったく無関係な人物と化して悠々と歩き始めました。私は男の顔をはっきりと見ましたが、ここでそれを語っても意味のないことです。顔のことは忘れましょう。男は私の闖入がかなり面白くなかったでしょうが、なんとか私の事情を察してくれたようでした。
男は私の語る視界の範囲に入ってしまった不運をうらみながら去らねばなりませんでした。男は人殺しの衝動に駆られていましたが、矛盾しつつも、理性的であって、十分に自己を抑制できる忍耐力を持っていたと言えるでしょう。世の中には自分の力をコントロールできずに盲目になってしまう人間も少なからずおります。男がもしそういった無力な人間であったなら、私にどんな事情があろうとも、あっさり殺してしまっていたに違いありません。
彼が世に謂う切り裂きジャック≠セったのかどうかは私には分かりませんし、またどうでもいいことです。彼にも私にもひとえに事情があったというしかありません。翌日の話をすれば、新聞にまたジャックによる娼婦殺しが報《し》らされましたが、記事によると現場は私がいた場所から三十数ヤードの所にあるアパートの一室で、事件が起きた時刻は私が男と出会って別れた直後であったということです。
ともあれ私は路地の奥に向かいました。娘が生ゴミやがらくたの上でもがいているのを、まず引き起こし、猿ぐつわを取ってやりました。娘は、こんなところで怪しい男に襲われるにあまりふさわしくない小さな身体をしておりました。わっ、と私にしがみついてきましたが、小さな娘の頭が私の顎のすぐ下に来るくらいでした。私とて、いくらか伸び縮みしますが、そんなに背の高い方ではありません。この娘は、いや子供は何故こんなところにいたのだろうと訝しんだくらいです。
私はその子をなだめ落ち着かせながら、ほとんど服を裂かれて肌のあらわな身体に私の上掛けを巻き付けてやりました。私の上掛けはその子をすっぽりと包んでしまって、まるで回教徒のようにしてしまいました。
しばらくして聞き出したところ、チェーストトリーという名であり、十八歳であるということ以外は話そうとしません。このなりで十八歳というのは驚きですが、チェーストトリーは、
「親兄弟親類も帰るところもいっさいない」
の一点張りなのでした。さらに訊いても今度はぶすっとだんまりとなるばかりです。そのくせ私を祈るような目で見ておりますので困りものです。私は、
「ではとりあえず今夜のところは私の家にいらっしゃい。でも明日はあなたの家に帰るのですよ。帰らないとなればいやがおうにも私の家はこき使います」
と言いました。すると、
「こき使うって、女中働きのこと?」
私は彼女の女中という言い方にアメリカ英語を感じ取りました。
「女中ではなくてメイドです。この国では女中のことをメイドと言います」
「じゃあメイドに雇ってよ。連れていって」
「私の家はあなたにいろんな仕事をさせますよ」
「いいわよ。このへんをうろうろしていても野垂れ死ぬだけだから」
こうして小さなチッタは屋敷の仲間となったのです。
後にチッタは少しずつですが自分の事情を話してくれるようになりました。この時は新大陸で生まれ育ったらしいということのほかは語り手にも分かりませんでした。
「あっ、言い忘れてたけど、助けてくれて有り難う。それで、えっと、あなたの名前はなんというの」
「私は語り手です」
「ふうん。変な名前」
小さなチッタは私が語り手であることに疑問を持たない珍しい人間の一人でした。
チッタ自身、その小さな身体と、妖精のような雰囲気で、語り手並に不思議な娘だと思えたことも確かです。
語り手は妄想を抱えてよたよたしている人間にはあきあきしているのですが、この屋敷の主人はそうではないようでした。月に一度はそういったお客様をどこで見つけるのか、呼んでくるのでございます。屋敷の主人は食事とお茶の時間以外は書斎に籠もっておいでですから、やっかいなお客様の相手をするのはメイドたちということになってしまいます。
その日、あらわれたのは海の荒くれ男が窮屈に背広を着せられているといった感じの三十くらいの紳士と、奇妙に細いからだをタキシードで包んだ青白い顔の若い紳士の二人連れでした。
「よう。遠慮なく寄らせてもらうぜ」
「おじゃまさせていただきます」
一見、ひどくミスマッチな二人でした。一方はレスラーのような身体をして乱暴な言葉遣い、一方は痩せて上品な物腰と、わざとらしく感じられるほど正反対に見えます。
荒くれ型の紳士は、
「ジョージ・メンケンだ。よろしくな若い衆」
と目立たぬように玄関の手前にいて半分カーテンの陰に隠れて立っている私のところにわざわざ来て言いました。もう愚痴は言いませんが、私はどこでどんな格好をしていても、ある種の人たちにとってはひどく目立つということのようです。
メンケン氏はずかずかという感じで踏み込んできて、靴の泥をぴしぴしと落としていました。顔を向け直すと、大きな声で、
「早速だが、若い衆、ここに来りゃあ性奴隷をいただけて、調教できると聞いてきたんだが、手筈はどうなってるんだ」
と笑いも照れもせず、なんとも普通の顔で言うのです。
「なんとおっしゃいました」
「性奴隷だ」
ぎょっとした顔の私に、
「セクシャルスレイヴってやつだ」
と、さも当然のように言います。
「あの、私は性奴隷というのがいかなるものか存じませんが」
「それくらいも知らんでよくこんな屋敷の執事がつとまるな」
「普通、知りません」
「おめえ、世界ってもんを知らねえな。地球儀でも眺めて思いを馳せてみるがいい。世界中に性奴隷の標識が見えてくるぜ。ま、お上品にロンドンなんぞで暮らしてりゃあ、仕方がないかもしらんが。ちいと国際教養ってやつを教えてやろう。性奴隷ってのはな、たとえばインドとか、アメリカ、メキシコあたりに行くとよ、いるんだよ。そこかしこに。黒いのも赤いのも黄色いのも茶色いのも、よりどりでな」
「はあ」
「そいつらはさらってきてもいいんだが、普通は金で買う。1ドル25セントくらいからかな。15ポンド1シリング? まあ、捨て値だよな。何しろそこかしこにいるんだから」
「あの、それは奴隷のことなのでは?」
と私は疑問を口にしました。
北米南米の新大陸やアジアの植民地的状況においては黒人をはじめとする有色人種が奴隷にされていたことは誰でも知っている歴史的事情ですが、英国においては一八三三年、米国では南北戦争後一八六五年に原則廃止となったことは良識ある人々ほど承知の通りです。われらが女王ヴィクトリアはインドの女帝でもありましたから、インドアーリアンの奴隷も一時はずいぶんいたようです。
要するに奴隷≠ニ申しましても、大分以前までの話で、今ではそこかしこにいるなどというおおっぴらな状況ではありません。むろん世の中にはいろんな裏がありますが、そこまで申しあげる必要もないでしょう。
するとメンケン氏は新兵器の機関銃のように話し始めました。
「だからちょっと聞け。確かに奴ら性奴隷はスレイヴではあるんだよ。色の付いた奴らは奴隷なんだよ。万国共通でさ。だがスレイヴであるってことは、すでに性奴隷であることも含まれ済みなんだよ。それは間違いないんだ。それに後進国では性奴隷は雌奴隷であることが多いんだ。すげえぞ、たとえば新興国のニッポンなんかはよ。性奴隷は法律で決まってて、メカケと呼ばれることもあるんだが、本質的には芸者なんだよ。それに奴らのロープテクニックといったら超一流だよ。人を縛らせたらニホンジンの右に出るものはねえ。ホーネン・ツキオカのウキヨエを見たことがあるか? 縛りの流派が十幾つもあってそれぞれにマスタークラスの先生がいるわけよ。ここにニホンのよた雑誌から破いてきた記事があるが、読んでやろう。
『編集部御一同棟へ、先だって銀座のカフェにて口説き捕まえおりし女給の仕置きのその後をお知らせいたし候。此の女、相模の出身にてもとより淫乱の素質あり、我が輩が被虐加虐の愉悦を仕込み始めるやその大素質を開花させ、一月もせぬうちに我が輩の手に負えなくなりしほどの極淫婦となり候。寸暇を惜しんでは我が輩に全身を亀甲菱様に縛固するを願望し、我が輩面倒なりせばおざなりに縛り、鴨居に吊り下げ、鞭打つこと一刻にして快叫を叫びつつ果てぬ。その好き者ぶりはこの上なくまたしても鞭打ち蝋燭灌腸責めと悦に狂うこと終日の有様。我が輩も次第につられて興に乗り、重々威迫を加え、縛り上げたまま上野界隈を散策させ恥辱に責むる。仕舞いには我が輩の男根を吸茎して放さず、嵌め倒したら倒したでひくひくと痙攣悦楽し、ひたすら奉仕つかまつり候をば編集諸氏にも是非ご覧いただきたきもの。此の女、存分に雌奴隷の真骨損をしめしおり、我が輩も暫くは手元に置き性処理させる所存にて、これにて御免(神楽亭主人)◇さすがは神楽亭主人様、天晴れお見事なる調教のお腕前、感服つかまつりました(編集部○一平)』
なっ、すげえだろ。なんてえのか読者の性奴隷の調教自慢談を募集してる雑誌らしくてな、絵や写真も一緒に投稿されててえげつないことといったらこの上ねえよ。しかし、世界の東のはずれのファー・イーストの野蛮人のくせに、クソッ、やりやがるぜ。さすが維新のサムライってとこだよな。オレたちに追いつこうと一所懸命に富国強兵に励んでることがこの一事からもよく分かるってもんだ。今後のニホンには注目だよ。ロシアとやったら、勝っちまうかも知れねえな」
「はあ……」
「話を戻すが、それでだ。いることは確かなんだよ。だろう、性奴隷がさ? わかったな。まず基本なんだよ。色付きの連中がさ。だがおれのように常に人生の豊かさを追求する人間にとっては、アメリカやアフリカあたりでガンガン刈り取れるようなありきたりの性奴隷には、つまるところ飽き飽きしているんだ」
「性奴隷をガンガンお刈り取りになったんですか」
「まあな。初心者は、今ならモロッコとかトルコがいいぜ。シナも沿岸は悪くはないが、お勧めは中東よ。なんて言うのか、もう手掴みなんだよ。アッラーを信じていようが連中だって事欠かんよ、性奴隷にはな。奴らは頭の出来が悪くて疑うことをしらねえんだ。なっているんだよ、木の実みたいに、こうぶら下がって、オレたちがもぎに行くのを待っているんだ」
メンケン氏は、そして顎に手を当ててふっふっふと思い出し笑いをいたしました。
これまで屋敷にはいろんなお客様が参りましたが、このメンケン様は、語り手は個人的には敬語をつけたくはありませんが、一、二を争うどうしようもない強者《つわもの》なのかも知れないと不安になりました。
「で、あきあきしているんだ。そういう色付きのみーんな金魚だよってな、性奴隷にはよ。おめえも男なら分かるだろう」
このたびのお客様は私を男性と見ておられるようですが、それは基本的に問題ありません。そもそも語り手には性のボーダーがございませんので、常に女性のふりをしている必要もないのです。その件は相手次第なので、混乱無きよう申し上げておきます。
「そうおっしゃられても、なかなか理解しかねます」
「いいさ、いいさ、世界ってやつを見たことがない奴には、冒険をしたことのない奴にはわかりつこねえことさ。オレはよ、チンポに毛が生える前から船に乗って世界に出てんだよ。世界で修羅場をくぐりまくりさ。広いんだぜ、世界はよ。オレにとっちゃすっかり狭くなっちまったけどな。オレが行ってないのは南極くらいなもんだが、あんなところに苦労して行っても、いるのはペンギンくらいなもんでよ。ペンギンを刈り取って性奴隷にするわけにもいかんだろうが。ま、ピリ・レイスのクソ地図が本物か偽物か、確かめるためにそのうち行ってみようとは思っているんだ」
と今度は豪快にお笑いになりました。
「で、また話を戻せば、オレも何年か前から学問ってやつを始めたんだ。無学文盲の冒険野郎のこのオレが学問とは笑っちまうだろう? でもほんとなんだよ。一時悩んだんだよ。オレはもう世界を歩き回って足跡のないところがないくらいの男だから、もう行くところがありゃしねえ。残る処女地はってえと、学問とか歴史、文学、古典の世界よ。やっぱり勉強はすべきだぜ。オレは開眼したよ。この世界によってな」
「開眼したというのは」
「むろん性奴隷についてだ。そのへんに落ちている奴隷なんざスレイヴじゃねえ。真の性奴隷のことをギリシャやローマの賢者たちに教えられたよ。オレはそれまでプラトンとかああいう浮ついた連中を馬鹿にしてあざ笑っていたんだが、まじめに勉強したらたまげたよ。分かってなかったのはオレの方だった。オレはまだ青かったんだな。ヤツらに比べりゃあよ。オレはミズーリで性奴隷の牧場まで経営していたんだが、その程度のことで喜んでいたおれの幼稚さに気づかされたよな。つまりよ、オレの知らなかった世界を、大学に手放しで行けるような貴族は昔から知ってたんだよ。そんなことは。上流階級の連中は性奴隷を自分たちだけの秘密にして、オレたちをあざ笑い続けていたに違いないんだ。
もう死んじまったが、マルクスっていうおかしなじじいが土地を追われてロンドンに住んでたろう。奴の言い分もある意味じゃよく理解できる。やはり階級闘争は必要だぜ。そうだろう。歴史は階級間の聞争による性奴隷の奪い合いの繰り返しなんだよ。資本家どもに性奴隷のエッセンスを搾取されっぱなしじゃだめなんだ。それに宗教は麻薬だってことも本当だな。その麻薬性の秘密は性奴隷の作り方と使い方にあるんだけどな。
オレは滅多に教会にも足を向けない不信心な野郎だったが、キリスト教の歴史を研究して、連中のやりっぷりの凄さに感心しっぱなしでな。しゃっぽを脱いだよ。あのな、中世の百姓連中はみんな教会の性奴隷だったんだぜ。信じられるか。すげえぜ、中世の連中の操る性奴隷はよ、凄玉だぜ。オレはたまげちまって、イエス様とマリア様に思わず頭を下げちまったよ。回心して、今じゃあちゃんと教会に行くようになった。国教会じゃあないぜ。伝統あるカソリックのほうにな」
メンケン氏の知識披露はとどまるところを知らぬようで、ついには古代ギリシャやエジプトの性奴隷から始まって、古今東西、中世までの性奴隷の歴史を一気に口述なさいます。
ときに気に入らぬのか、
「イワン雷帝とかジル・ド・レとか、性奴隷をいじめた野郎たちは大勢いやがるが、あいつらは根本的に間違っている。イワンは馬鹿だから奴隷を殺しては嬉しがってやがるし、レの奴は環境に恵まれていたくせに結局はレレレだから性奴隷と黒魔術ごっこの区別がつかないあほんだらだったのよ。オレは奴らとは違う。オレはノーマルだからな」
というような批判の言葉もちらほら。全体的に、何故だかよく分かりませんが、メンケン氏は絶対君主や領主に虐殺された人々はみな性奴隷だと決めつけておいでのようでした。
「殺しちまっちゃ駄目なんだよ。責めるならその手前までの見切りが大事なんでね。縛るにもロウを垂らすにも鞭打つにもディルドを使うにも水責めにも灌腸するにも見切りが重要なんだ。性奴隷の調教は拷問に似ているが、拷問じゃあない。拷問の天才で専門家は中世カソリックの連中だが、オレはヤツら拷問クラス・マスターたちが発明した数々の危険な拷問具をすべて調べてヴィクトリア朝にマッチした安全なものに改良したんだ。特許局に特許を申請してもなしのつぶてだが、資本家が政治家を動かして握り潰しているに違いねえ」
どこかサクランしておりますが、メンケン氏の言う性奴隷は、準拷問行為に積極的に耐えねばならないもののようです。
メンケン氏はそれから一時間ばかり口角泡を飛ばしながら、性奴隷についてのきりのない一人論議を続けておられました。それにしてもどこで仕入れたのか見当もつかないその種の知識の量には驚かされます。その知識を土台にしたリアリティが、よりメンケン氏の妄想のスピードを上げているのです。
不思議なのは連れの紳士で、その間中、メンケン氏の隣にじっと立っていたことです。メイドたらも私もげんなりしているなか、その紳士は微笑みを浮かべて聞いているのです。ことによると連れの紳士はメンケン氏をさらに凌ぐ剛の者ではないかと、私としては溜息をつきたくなったのでした。
「そういうわけで、今時代に必要とされる性奴隷ってのは、ぴんぴんの白人娘でなけりゃあならんのだ。あくまでこのオレにのみ性的に従順を誓い、命令を絶対服従とする奴隷はそうでなけりゃあならんのだ」
とメンケン氏は脈絡なく結論なさいました。
「色付きの奴らは性奴隷で当たり前でなんの珍しさもない。違うんだよ。淫売とも違う。性奴隷ってのはヨーロッパでも由緒正しい敬虔なアングロサクソンかアーリアンゲルマンの白人娘が好ましいんであって、家の掃除とか洗濯だとかはそれこそただの奴隷にやらしときゃあいいんだ。そういう主旨のもとにオレは性奴隷を持つことをステイタスと志したんだ」
「メンケン様は、そういった性奴隷をもうご所有なのですか」
するとメンケン氏は顔を渋くして、
「それが、今んところ、いねえんだ」
「ではおっしゃったことは、現実にはなっていないのですね」
「だってそうじゃねえか。色付きの奴らならともかく、普通の白人娘をさらっちまったら犯罪じゃねえか。オレは時を待っていたんだ」
「それで、ここに来れば性奴隷のなり手がいると?」
「そうさ。そうじゃないのか」
「私からはなんとも申し上げようがありませんが、屋敷の主人がそう申してあなた様をお招きになったのなら……」
「そうだよ。ニューハムの五番街のパブでよ、今みてえな話をぶってたら、それならうちに来てくれと招待いただいたということさ。うちにあなたの気に入ったのがいれば性奴隷にしてみてはどうですってね。渡りに船のこういう話を断るオレじゃあねえ」
「はあ」
「てなわけよ。よろしく頼むぜ、兄ちゃんよ」
メンケン氏はバーテンにするかのようにぽんと私の肩をお叩きなさいました。
私はメンケン氏が育んだ妄想の強さに驚きつつ、肝心なことを尋ねました。
「あなたのお考えになっている性奴隷の概念はなんとなく分かりましたが、それが妄想だとは思われないのですか。確かに性の奴隷という観念にはデモーニッシュな力があり、それに巻かれて引きずられる人も少なくないでしょう。ですがメンケン様、現実に性奴隷を作ってどうなさるおつもりなんです」
「ああ?」
「性奴隷は奴隷と違って、世話をするのが大変ですよ。飼いきれなくなったからといって段ボール箱に入れて道ばたに捨てるわけにもいかないでしょう」
「馬鹿野郎、性奴隷はガキのペットじゃねえ」
「現実にあなたに生涯忠誠を誓う性奴隷を作るのはべつにかまいませんが、そんなものを作ってどうしようというのです? 性奴隷だって物を食べ、着物を着て、病気にもなります。それを養うのはあなたなのですし、いろいろと面倒も見なければなりません。四六時中性奴隷の相手をしているわけにも行かないでしょう。性奴隷だって病気にかかりますし、プレイ中に過度の負傷を負い、足腰立たなくなることだってあります、あなたは寝ずの看病が出来ますか。毎日のようにいろんなことをして精神にプレッシャーを、肉体に攻撃を加え続ければ、老年を待たずして不具合も出てきて、大も小も垂れ流しという状態になることだってあるでしょう。そんなときどうするつもりなんです?」
「うむ? そんなことは、おい、そうだな、考えたことはなかったな。言われて気づいた。だが、最初から後の面倒のことを考えていては性奴隷なんか作れやしないぜ。その時になって考えりゃあいい」
「主人たる者の責任を放棄するわけですね。性奴隷もあなたも年を取ります。いつか性欲に引きずり回されることなく穏やかな時を過ごせる日も来るでしょう。老いてあなたが臨終の床にあるとき、性奴隷はどうなるのでしょう。その以前に、あなたが性奴隷を置いて逝った場合、朝から晩まで被虐的なまぐわいのことしか考えないようになってしまっている性奴隷はどうなります。性奴隷は赤ん坊のようなものなのですから、生活能力皆無で、あなたがいなければ生きていけないのですよ」
「おい、現実的なことを言ってオレのロマンに水を差す気か、てめえは! ご主人様はな、自らそれに徹して性奴隷を半裸で逆さ吊りにして、身体的欠点を罵り、薔薇の鞭で打ち、太い針で全身を刺して、焼き印を入れるんだ。相手の悲鳴なんざきいちゃいねえよ。オレと面と向かったときから相手は女でもねえし、ましてや人間でもねえ。モノなんだよ。いいか、そういう超然とした心構えで性奴隷は作るもんだし、調教の過程で堕ちていかせることが醍醐味なんだ。単なるアソビじゃねえんだよ」
「語り手の聞くところによれば性奴隷と主人の間にはぴりぴりと緊張して残酷だけれど、互いに求め合う青い炎のような信頼関係愛≠ェ燃えさかっている、というじゃありませんか。せっかく苦労して手に入れて育てたんですから、きちんと責任もって、一緒に老いて夫婦のように過ごすことを考えませんか」
「かっ、くだらねえことを吹いてんじゃねえぞ。婦人向け猥褻図版タブロイドじゃあるまいしよ。新しい愛の形なんぞとほざいているのは脳味噌のトロけた暇な主婦やストレスでげっそりした職業婦人くらいなもんだ。そもそも愛情があったら、そいつを性奴隷にしようと思うもんか。女房にしたいのと性奴隷にしたいのはべつなんだよ。だいたい性奴隷の世界にはな、滾《たぎ》る情熱はあってもだな、その実、滾るように無責任で、誰も彼も冷酷で非人情なものなんだよ」
「そこまでおっしゃるのなら、相手は誰でもいいじゃないですか。有色人種でも、醜くて憎くて嫌いな相手でも、お選びになってよろしいかと」
「それも違う。気に入った相手じゃなきゃ、性奴隷にしたくもならないぜ。こだわりが男を作るんだよ。おめえは性奴隷主人の心意気ってもんがさっぱり分かってねえな。もういい。屁理屈でオレの情熱を冷ますのはやめろ。オレは今、性奴隷を得ることだけで頭が一杯なんだ。夢なんだよ。いいか、性奴隷はオレに痛めつけられたり辱められたりして快楽に奉仕するのが仕事なんだよ。そうなんだよ。割り切らんとな。そうさ。飽きて嫌になったら道ばたに捨てるし、毎日とんでもない目に遭わせる予定なんだから、ババアになるまで生きているはずもなかろうさ。中世の教会の性奴隷責めを見てみろや。魔女だとかなんとかなんくせをつけて、やり倒して半殺し、やったモンは殺し得で、楽しくやっつけて天国に行けるんだよ」
メンケン氏の見るところ、中世に猛威を振るった魔女狩りも性奴隷調教の一端なのでした。
メンケン氏の天網恢々疎にして漏れまくる、矛盾に満ちたロマンティシズムは、語り手がどうのこうの言って変わるものではないようでした。
「分かりました。もう何も言いません」
語り手は乗り気がしないのですが、事情とあればそうも言ってられないので、事情なのです。メンケン氏を客として遇せねばならぬのです。
「それで、あの、お連れの方は」
「ああ? やつか」
メンケン氏は若い学者のような紳士を撮り返って、
「そいつはオレのフロクだ。まあ適当にあしらってやってくれ」
と言います。言われた細面の紳士も黙ってうなずきなさいました。
晩餐の席でもメンケン氏の口舌はとどまるところを知らず、さきの性奴隷論の続きを、スコッチをがぶ飲みし、口に食べ物を入れたまましゃべり続けました。
語り手が観察しておりますとメンケン氏のしゃべりっぷりはどこか奇妙で、なんとなく心細さや不安を感じさせることに気付きました。こわもてな外見とはうらはらに自分でも分かっているある弱さを抱えているように見受けられるのです。メンケン氏は、自分の妄想を守るために必死で話し続けているような、あるいは妄想の果てにあるものの恐ろしさと怖さに無意識に気づいており、それにおびえているような、メンケン氏にはそんなあやうさが感じられるのです。
メンケン氏の話題はとうてい食事時にふさわしいものではなく、普通の神経の人間が同席していたら吐き気を催して席を立つに違いないようなものでした。しかし、わが屋敷の主人は、いつものように口を挟まず、メンケン氏の話を興味深そうに聞いております。
私はちらりと連れの紳士に視線を移します。存在感をわざと消しているような物腰で、黙々と料理にフォークを伸ばすのみでした。話題に加わるどころか相づちを打つことすらせず、屋敷の主人が声を掛けると微笑して頷く程度なのです。屋敷の主人はこの紳士の正体をどう見ているのか分かりかねますが、とても気になる存在であることは確かでした。
食事も終わってデザートとお茶が出た頃、主人が、メンケン氏に、うちにいる者の中からお好みの娘をお選びなさいと言いました。フィニー、ルイーズ、チッタが呼ばれて並ばされました。メンケン氏は酔眼をしばたたかせて、メイドたちを見ておりました。
私は男だと思われているようですから、少し安心です。私が直接選ばれぬにしろ、当然のことながら私も現場には付き合わねばなりません。
メンケン氏は、しばらく考えた末に、結局チッタを調教することに決めたのですが、それがメンケン氏の本当の希望であったかどうか、かなり酔ってらっしゃったのでよく分かりません。あの寡黙な紳士の意向によったというのが正しいようです。メンケン氏が誰を性奴隷に調教するかを決めかねていたとき、ただ一度だけ、連れの紳士が口を開いたのです。
「その小さな子がいい」
とチッタを指したのでした。メンケン氏が、
「そうかな。そんなチビっ娘じゃ面白くねえんじゃねえか」
と言いますと、若い紳士はこのときだけは強硬に、チッタがいいのだといい重ねました。メンケン氏は眠くなって面倒だったのか、それ以上反対しませんでした。
テーブルから食器類を引き上げて来ると、台所でチッタが憤然として、
「ねえ、性奴隷の調教ってなんなのよ。ねえ、正気で言っているの!」
と言います。私は、とぼけて、
「もちろん正気じゃないでしょうね。酔っぱらっておられましたし」
と言いました。ルイーズはこの屋敷に来てだいぶたちますから、別段慌てもせず、
「困ったものね。同情するわ」
と言うだけです。
「あきれた、あきれた。なんなのよこの屋敷は! ねえ、フィニ!」
とチッタが今度はフィニーに口をとがらせますが、フィニーは、
「そういうものなのよ。この屋敷のメイドはいろんなしごとをしなきゃならないのよ」
と、おっとりとして一言いました。
「そうです。チッタは今回はあの方に付き合ってみるのが仕事です」
と私はきっぱりと言いました。
「わたしじゃなくてもいいじゃない。わたしは見ての通り生まれたときに未熟児で死にかかって、お母さんも家が貧乏で乳の出が悪かったから、わたしは痩せて弱るばかりだったのよ。身の育ちが悪くて虚弱な体質になっちゃって、だからこんなに小さいのに。頭痛持ちだし、いっつも体の調子がおかしいし、生理も重くて不順だし。その上に、変なことをされたら死んじゃうんだから」
とチッタがじたばたとがなりたてます。私は首を振りました。
「語り手の事情が小さなチッタを選んだのです。事情にも何か事情があるんでしょう」
「そうそう」
「なに、それ。選んだのはあの嫌らしいメンケンじゃないの! いいわよもう、わたしすぐに死んじゃうから」
あとは聞かずに私は食器洗いを続けました。調教は明日からということで、私とメイドたちは夜の仕事を片付けました。チッタは始終ぶつくさ言っておりましたが、気持ちは分からないでもありません。
例によって私の部屋がそれを行う場所となりました。私の部屋は広い部屋ではないのですが、広くするのは難しいことではありません。
すでにメンケン氏が木箱六つに詰めて持参した怪しい道具の数々が部屋に運び込まれておりました。そのメンケン氏所有の拘束具とか加虐器具をセットしたり眺めておりますと、なんとも言えない不気味な力が陽炎のように立ちのぼるのが感じられました。おそらくメンケン氏はこれらの、メンケン氏手製の器具類を毎日毎日手に取り眺めて、ときには愛撫し、頬ずりでもするようにして妄想の強化に使ってきたのでしょう。一度も使われた形跡のない道具たちにはメンケン氏の得体の知れぬ魂が籠もっているのです。メンケン氏の道具たちが実際に使われるときが来たのです。
各種道具のおぞましい用途に思いを致すことよりも、私は、あの痩せた寡黙な紳士のことを気にしておりました。
午前中の掃除や洗濯の仕事を早く切り上げたチッタが、扉をノックしてから、おそるおそる入ってきました。まだ私一人しかいないと分かるとほっとしています。
「あの脂ぎったおやじはまだ来ていないの」
見ての通りだと返事をしました。
そしてチッタがあらためて部屋を見渡すと、私の部屋は、肉屋の天井から血抜きの牛をぶら下げるときに使うような滑車つきのフックが下がり、水槽や大きめの頑丈なテーブルが置いであるという、何とも不気味な部屋に一変しているではありませんか。
「なにこの部屋、いつの間に、こんな忌まわしいお化け屋敷になっちゃったのよ!」
「一夜のうちにですよ。私は徹夜してしまいました」
その他にも鞭やローブや張り型が無造作に入れられている木箱、刃を外してあるギロチン台、内側に針の代わりにゴムの突起が生えている『|鋼鉄の処女《アイアン・メイデン》』など大物も陳列されています。メンケン・コレクションの凄まじさにチッタが蒼ざめて震え上がったのも無理からぬことでした。
「ちょっと、本気なの!」
「目の前にある物は、現実の物です」
「なによう。せっかくアメリカから逃げてきたっていうのに、今度はこれ? もういや、もう今すぐ死んじゃうから」
「まあ落ち着きなさい」
「落ち着いていられるもんですか。殺されちゃう」
「小さなチッタは、私があのときあの路地を通りかからなかったら、あの、妄想を使える男に惨たらしく殺されていたかも知れないのですよ。一度は死んだようなものだと考えなさい」
「それとこれとは別よ。わたしはイヤなの。死ぬほうがまし。こんなこと鈍くてまるまるとしているフィニーがされればいいのよ」
「そんなことを言っては駄目ですよ。フィニーはいい娘です。あなたもここに来た当初はずいぶんと世話になったじゃありませんか。同僚は敬わなければなりません」
「じゃ、ルイーズ。可愛いし色っぽいし、わたしより男好きのするわよう」
「自分の仕事を人に持っていってはいけませんよ。まあお待ちなさい。私が思うには、あなたが今考えているような悲惨なことにはならないんじゃないかしら」
「そこに落ちている革鞭とか手錠に他に使い道があるとでもいうの!」
「道具の使い道は決まっているでしょうけど、それとは別な意味でね」
「どうして分かるのよ。また、語り手の事情ってこと?」
「事情かどうかは私にもまだ分からないけれど、そんなところです。だいたい語り手だって極端なSM行為とかスカトロなどというものを、好んで語りたくはありませんから」
「語り手が嫌っていても、主役のメンケンがやるっていうんなら、描写するしかないでしょ」
「メンケン様は主役ではありませんよ」
と私が言ったとき、ドアにノックの音がしました。小さなチッタは立ったままぶるっと震えました。
鼻息荒く意気揚々と、登場するか、と思われたメンケン氏でしたが、その様子は昨夜とはうって変わっていてエネルギッシュさに欠けておりました。肩は自然にすぼめ気味で、話す声は弱く小さく、顔色も蒼ざめております。なんとも別人のようになっておいでです。メンケン氏に続いてゆっくりと入ってきた細面の紳士は昨日と変わらず平然としており、会釈するとドアを後ろ手で閉じました。
メンケン氏はそわそわと落ち着かず、自分が命じてしつらえさせた調教器具セッティングへ恐れるようにちらちらと目をやります。明らかに怯んで躊躇する様子が見て取れます。
「メンケン様、いかがなさいました? 地下室はあいにく当屋敷にはありませんので意に沿うことが出来ませんでしたが、他は可能な限りお申し付けの通りに、このように部屋をこしらえましたが。どうでしょう。お気に召さぬところはありますか?」
「いや、いいよ。よくやってくれている」
「では、メンケン様、いつでもおはじめください」
「ああ」
メンケン氏は足の浮いたような歩き方で、天井から下がるフックに触れ、四つの手錠が固定されているテーブルに近付きました。そのテーブルには四点の嵌め溝があり、ここに部屋の隅に置いてある木製の構造物を合わせて置くと三角木馬となる仕掛けです。
メンケン氏の様子はどうもおかしく、テーブルの角に手が触れるとぴくりとなさいます。しばらくそれらの禍々しい道具たちを眺めておいででしたが、意を決したように、急に振り返りなさいました。そして、ぐわっと目を開くと、
「すまん。オレにはやっぱり出来ねえ!」
と叫びました。
「本当にこんなことになるなんてよう。信じられねえ。オレだってこいつらを使うときのことを思わなかった日はないんだ。昨日まではやる気は滴々だったんだ。だけど、今朝ベッドで目が覚めると悪寒がしやがるんだ。いざ、こうやって、なあ、さあどうぞとこいつらがオレを招くと思うと、急に寒気がしてきたんだ。こいつらをオレは作ってな、手ずから可愛がってきて。ほんとうはそれだけでよかったんだ。性奴隷のことを考えながら眺め暮らすだけにしときゃよかったと分かったんだ。で今、こいつらがオレに使わせようとすると、せ、性奴隷でもなんでも、そんなものはひどく恐ろしいもんなんだとはっきり気付かされたんだよ」
とメンケン氏は恐い顔でおっしゃいました。
「やっぱりできない。頭の中でなら女たちにどんなひどいことでも出来そうで、自信満々なんだけど、いざここに立つと、なぜかふるえちまう。……オレには無理だ。昨日はさんざん吹きまくってたくせによ、意気地がねえよな。笑いたけりゃ笑ってくれ」
「お酒でもお持ちしましょうか。メンケン様は精神的に緊張が過ぎておられるのです」
「そんなことじゃねえんだ。初めての本番にびびっているのとは違うんだよ。心から恐ろしくて震えてんだよ。分かったんだ。性奴隷は好きだが、実際にやるのは、オレはそんなこと望んでいないってことが分かるんだ。そりゃ、オレは性奴隷をつくる方法をごまんと知っている。研究を重ねたよ。作る方法ならな、いくらだって知っている。昨日までは本当にいつでもやってやるつもりだった。だけど今日は違うんだ。知ってたって出来ねえもんは、出来ねえ。悪いな、兄さんよ……」
そう言うとメンケン氏はへなへなと座り込んでおしまいになられました。
メンケン氏の力はその妄想の誇大さに耐えられるほどには強くなかったのです。妄想を努めて誇大にすることでその力は尽きてしまっていたのでした。メンケン氏の妄想は現実にさらされると、寒風の吹きすさぶ外に追い出されたようにすぐさま熱を失って萎れてしまうのです。メンケン氏は妄想をたくましく育てましたが、それは温室育ちなのでした。結局メンケン氏には妄想に綱をかけて掴まっていられる力強さがないのです。
これは先日チッタを襲った男などとはまったく逆なのです。切り裂きジャックもあるいはそうなのかも知れません。彼らは妄想に引きずられても平気でいられる強さを持っているのです。それに引きかえメンケン氏は、様々な知識を元に白昼夢を見る力は十二分にあるのですが、なのに持て余すほどの妄想を抱いて苦しみ、しかし妄想に自分を明け渡せない、そんな分裂があるのでした。
あっけない幕切れに、小さなチッタは胸を撫で下ろしたことでしょう。
ですが、この話はここからが本番なのです。
メンケン氏が崩れ落ちるのを待っていたかのように細面の紳士が、
「やっと、私の出番か。やれやれ」
と言いました。颯爽と表舞台に出ると、手で顔を覆っているメンケン氏を冷たく見下ろして言いました。
「こんなことになるんじゃないかとは予想していた。この男はウェールズの炭坑夫で、船になんか一度も乗ったことがない。人を縛るなんてお笑いぐさだ。船乗りなら誰でも知っているいちばん簡単な堅結びすら出来やしないんだから、虚言癖も極まれりというところですか。世界往来も、新大陸での性奴隷狩りもすべてはこの男の頭が、人の噂や、低級な書物を触媒にして生み出した妄想にすぎない」
「畜生。悔しいが、こいつの言ってることは、ほんとうだ。くそったれ、おりゃあ根性無しの嘘つきだよ」
そして細面の紳士は、私に向かって、
「あなたはご存じだったはずだ。この男の中身くらい。ミス、いやミセスですかな」
と言いました。
「私はメンケン様の見かけ以上のことは知らないという立場なのです。それにしても、あなたは私が女性に見えるんですか」
「性別はどうでもいいことなんだろう? いや、分かってるよ。私はあなたと同類だから。だからなるべくこの話に立ち入らずに黙って傍観者でいようとしていたんだが。でも出番だからな」
細面の紳士は、ぱちりとウィンクして見せました。
紳士がボタンをはずして上着を取ると、蝶ネクタイの下の方に、小さめですが女性を表す二つの隆起が見て取れます。
「ふふふ。男装の麗人ならいいんだが、私は|トランスヴェスタイト《服装倒錯》ではない。それにこんなもの、パッドを詰めているだけかも知れないだろう」
「服装倒錯でもないのにパッドをつけているほうがよほど倒錯な感じがしないでもありませんが」
「触ってみればすべては明らかになる。正道を確認するには触れてみるしかない。どうだい? 手を伸ばしてみては?」
「そんな趣味はありません」
「まあこれは身を守るためにやっているんでね。あなたという語り手のなわばりに入った私という語り手は、触れられなければ女性でもあり男性でもある。護身のためだよ。いくらかあなたと趣味嗜好が違うだけでね」
「すると逆に言えばこれから私もあなたの視界に入って語られてしまうということですね」
「私がそうしようと思えばね。物語をリードする語り手は必ずしも傍観者とは言えないだろう。語られる、だけではすまないことも多々起きるんだよ。あなたも、そして小さなチッタくんも、しばらく私におつきあい願いたいな」
私はその紳士の顔を思い出しました。関係ないので忘れていることにしていたのですが向こうから来たのなら仕方がありません。この紳士は、先日ホワイトチャペルでチッタを手龍にしようとしていたあの男でした。
「な、何に付きあえっていうのよ」
チッタは、ある意味ではメンケン氏以上に常軌を逸している私たちの会話を聞いてもそれ自体には別段驚いた風はなく、メンケン氏に痛めつけられずにすんだことで満足していたのが、またぞろ雲行きが怪しくなってきたことに警戒感を強めているのでした。
「ふふふ、私は永遠に続く妄想など信じないから、あなたを性奴隷にしようなどとは思わない。ジョージ・メンケンの性奴隷論はやたらと錯綜していたが要するにすれすれの近代人のSM願望のなれの果てだ。キッチリとした芯の通ったものではない。破壊妄想なのか支配妄想なのか愛妄想なのか。私はやったことはないが、SM行為には関心がある。よく知らないからこそ、あなたに教えてもらいたい」
「そんなけがらわしいこと、わたしが知ってるわけないでしょ」
「大丈夫。あなたはすべてではないが重要なことを知っている。だから私の事情が選んだんだ。ともあれ立ちっぱなしで話しているのも妙だな。皆、こっちにあるおあつらえ向きのテーブルにかけようか。あなたも、ジョージもいつまでも座り込んでないで」
紳士には何か心を魅くものがありました。私の知らない世界を知っている語り手だからでしょうか。そして私にさわやかに耳打ちしましたことは、
「先晩はどうも。ただ一つ言っておけば私はジャック・ザ・リッパーではない。信じる信じないは勝手だが。あのチッタ君も、あのとき殺そうとしていたわけじゃあない。分かってくれるよね。まあ私をジャックと呼びたければそれはあなたの勝手だが」
そしてぱちりと片目をつむって見せました。
椅子を四つ用意して、長方形のテーブルに互いに二人ずつ、掛けました。
「お茶会ということで、お茶が欲しいな」
と紳士が言うので、私は廊下に出てフィニーを呼び、お茶の用意をするよう言いました。
しばらくするとルイーズが、部屋の中で何が行われているか興味津々という顔でお茶を運んできました。部屋の内装は異様ですが、とくに何も行われていないので、ルイーズは少し失望したようでした。
ルイーズがカップを一人一人の前に並べて立ち去ろうとしたとき、紳士が、
「よかったら君もここにいたらどうだい。なんとも、このメンケン氏」
紳士はメンケン氏をちらりと見て、
「まだ何もしていないというのに、疲れ切ってしまってぐったりしてしまってね。もう一人くらいメンバーが欲しいところなのだよ」
と言います。ルイーズは私の方を見て、どうなのかと、目で問います。私が頷いたので、ルイーズは、椅子をもう一つ引っ張ってきて一座に加わりました。ルイーズは昨日から性奴隷の調教というものになにやら妖しい好奇心を抱いていたようで、幸いというふうです。人間というものは無意識に、それがたんなる忌まわしい暴力であっても、性が関わるとなるとつい気が引かれるところがあるのでしょう。徹底して避けるか、近寄ってみたくなる。ルイーズは後者です。
妄想の主役のメンケン氏がリタイアしたとなると、語り手にもこの先のことは予測不可能となります。紳士がリードする流れのようなのですが、彼もまた語り手の同類でありますから、その事情によって動き方を決めるのです。
一見お茶を飲みながらの歓談なのですが、場所柄が暗い拷問部屋で、当然昼下がりの庭のような雰囲気からはほど違いのでした。話の内容もそう和やかなものではありません。
「SM的な行為というものは、もともとロマンの中に存在したものだと見ることも可能だろう。つまり生のSMではなく既に想像力によって加工された妄想の行為としてね。かつてマルキ・ド・サドがあり、ザッヘル=マゾッホがあった。サドは女人を痛めつけることから始まって果ては乱交、男色、鶏姦、殺人、食人とあらゆる残虐趣味を妄想し尽くし、かたやマゾッホは毛皮を着たヴィーナスに魅せられて契約を結び、自ら屈辱的な性奴隷的身分に甘んじることを至福とした。いくつかの事は現実に行われたにしても、それは加工された妄想として読者の元に届く。小説は妄想を配達する。サディズム・マゾヒズムの名の源たる両人ではあれど、サド、マゾの現象が直接、性奴隷だとかいう妄想を現実にする触媒だったとは思えない。奴隷と主人のような関係が性的関係において成立した場合、加虐嗜好、被虐嗜好を抜きにして語ることは出来ぬとしても、私には分からない点が多々ある」
お茶をちびりちびり、
「皆はSMという嗜好や行為についてどう思っている? 簡単な意見でいいんだが」
まずはメンケン氏が、
「けっ、そんなもの、決まっているじゃねえか。SMだか、そんな言い方は関係ねえが、敢えて言えば、性奴隷に対してはオレはひたすらSとして振る舞うだけだ。いや、振る舞いたかったと言い換えとくよ、畜生。そうやって仕込んで立派な性奴隷を作るんだよ。相手がMだかどうかなんざ関係ねえんだ。うまくいかなかったらぶっ殺しゃあいいんだよ」
と言いました。しかし、すぐに自虐的になり、
「だがオレは意気地なしだ。待ち望んだ機会が来たというのにぶるっちまって何も出来やしねえ。これじゃ好きな女と初めて寝るときチンポが役に立たなくなるのと同じじゃねえか。情けねえよ。くそっ、昔を思い出させやがる。おやじやおふくろに出来損ないと言われ続けてきたが、そのとおりになっちまった」
とメンケン氏は、トラウマに引っかかりすっかり意気消沈してしまいました。自分の妄想に裏切られたと感じているメンケン氏には世界がこの上なく無情で無慈悲なものと感じられているでしょう。
「そんなに自分を責めることはないだろう」
「おれは負け犬だ。生きている価値もない」
すっかり自信喪失気味になっておられ、安全な人と化していて良かったと思います。次に、
「痛そう。気持ち悪い。けがらわしい。変態」
と言ったのは小さなチッタで、まあこの娘は性的なものを避けて生きて来たらしいですから、それもまたトラウマが背景にあるのでしょう。次に、
「非常識なことだと思うけれど、よく分かんない。好ましい殿方がSM行為にふけっていると思うと、やっぱりぞっとするけど、見てはみたいな」
うっすらと好奇心を覗かせているのはルイーズです。
私は何も言いませんでした。紳士がこの場の語り手を肩代わりしているから、私に付け足すことはないのでした。一つの場所に複数の語り手の能力のある者がいるときは、一方が遠慮して傍観者的にならねば、物語の進行や細部が崩壊してしまうおそれがあるからです。メンケン氏を押しのけてこの場のコントロールを開始した紳士がどのような魂胆を秘めているのかは見ていればじきに分かってくるでしょう。危険な魂胆であったら、私も語り手として事情を考えることになります。
紳士は、ふんふん、と頷いて、
「SM行為やフェティシズム、同性愛、異常性愛等々はクラフト=エビングによれば、いっしょくたに性的逸脱、性倒錯とされているわけだが、倒錯、つまり通常と反対のこと、であるとして簡単に片付けられる珍奇な問題かというと、ことはそう単純ではない。またきたないはきれい、きれいはきかない、といった論理上の価値評価の問題として考えるのもこれまた安易すぎる。性倒錯は単なる性的な逆転とは違うと私は考えている。もっと根元的な意味があるんじゃなかろうかと。一つのロジック。これは、科学的数学的記述では扱えないロジックの一つであって、人間の内部の問題なのじゃないのかとね。いや問題と言ったらいかにも問題になってしまう。問題ですらないのかも知れないが、隠れたロジックは必ずあるはずだ。実際のところSMや性に関する倒錯に対して高級そうな理屈など不要であって、どうでもいい。今の時代になってなぜ生殖につながらないSM行為や概念がはびこってきたのか。問題はそこにある。『ただ子供を作るために交わるのなら犬にだって出来る。人間は動物よりも遥かに高等だからSMやフェティシズムのようなセックスを創造する能力があるのだ』という擁護的進歩的な論者もいる。これまた人間を他に比べて高しとするおきまりの言い分だ。本当にそうか? 私はそうじゃないと思っている。SM行為を行うのは人間だけじゃない。SMや被虐加虐の支配関係は多くの動物に発見されている。ねえ、つまり人間様が上等だからSMをやるわけじゃあないってことだ」
紳士はお茶を最後の一滴まで飲み干しました。
「とはいえ、私も偉そうに言っているわりには、何にも知らないんだよ。知らないから適当なことが言えるわけだし、知ろうとして努力するから、時々危ない橋も渡らなければならない」
紳士はちらりと小さなチッタに目をやりました。チッタはこの紳士があの晩の暴行未遂者であるとは気付いていないようでした。それにしてもこの紳士はチッタを気にしすぎます。何か偏愛する事情がありそうです。
沈黙が生まれかけたとき、紳士はがらりと話題を変えました。
「ところで最近、我が国でもフランス、ドイツでも、テーブルターニングというお遊びが流行しているが、知っているか」
と、言いました。なぜかチッタがさっと眉をひそめました。テーブルターニングなるものは最近流行の心霊主義の実験、交霊会のことをかく言うのです。霊媒と客人たちが薄暗い部屋でテーブルを囲み、霊を呼び出すというものなのですが、その際に様々な物理現象が発生し、テーブルが踊り出すようなこともままあるとか。そして霊にいろいろな質問をして回答を得ることもまたその目的となっております。霊は死んだ知人であることもあれば、天使とか神と名乗ることもありました。
別に巫女の託宣や霊媒の術のことは昔から伝統的に存在してきたものでとくに珍しいものではありません。ただこの世紀末にそれがブームになったのは、ニューヨーク州ハイズヴィルのフォックス姉妹の事件以来のことのようです。この事件についてはくどくど申しませんが、フォックス姉妹が家に憑いていた幽霊と交信したと騒がれ始めたのが、新時代のスピリチュアリズム熱の火付けとなり、瞬く間に燎原の火のごとく全米に広がり、ヨーロッパにも飛び火したということに過ぎません。
テーブルターニングは科学者や保守派キリスト教徒の眉をひそめさせつつも、欧州の暇を持て余していた知識人の間で流行しているのでした。我が国では有名なところではかのアーサー・コナン・ドイルやオリヴァー・ロッジ卿がいかれてしまいまして、後世冷笑の種となるのでございます。
「小さなチッタ嬢は、よくご存じの遊びでは?」
紳士は何もかも知っているぞ、といった目つきでチッタを眺めました。チッタは見る見る顔色を変えました。
「私の計画は君に交霊してもらって、霊からSMの意義を聞かせてもらうことにある。君にうってつけじゃないのか」
よろしいですか、語り手は決して世の中のすべてのことを知っているわけではありませんが、必要とあらば語り手の視界内にある人間の個人情報をどこからか引っ張って来るくらいは出来るのです。語り手に尻尾をつかまれたくなければ人は語り手の探査をはねのける力を持っていなければなりません。情報の取り合いも、いろいろ深いものがあるのですが、それも語り手の事情ですのでここで明かすことはやめておきます。
私は、だいぶ気慣れしてきたチッタからぽつぽつと身の上話を聞いていて知っているのであって、得体の知れないどこからか情報を引っぱり出してきたのではないことは申し上げておきます。チッタはアメリカのさる大都会に住んでいたとき、まあボストンかシカゴだとは見当が付きますが、霊感が強いという噂を聞きつけたその種の好き者連中から引っ張りだことなり、交霊会の霊媒役として一時有名だったという暗い過去を持っているのでした。楽しい目にもあったでしょうが、大概は嫌な目に遭い、インチキ霊媒、ぺてん師扱いされて相当難儀な目に遭わされたらしいのです。小さなチッタが言葉少なに語ったところによれば無理矢理霊媒をやらされて、あげく反対論者の誹誘中傷を囂々《ごうごう》と浴び、家族とも一緒にいられなくなったという、交霊というものにぬきがたく恨みがあるわけでした。縁者を頼り頼りにイギリスに渡って来た最大の原因はそれなのでした。
小さなチッタにも事情はあるのです。語り手だけに事情があるのではありません。
「せっかくテーブルがあり、五人の人間が囲んで和やかにお茶を飲んでいるんだ。余興として交霊会をしないわけにはいかないな。ねえ、チッタ嬢」
「どこで聞いたのか知らないけれど、わたしはやめたの! あんな胸くその悪い騒ぎでいじめられるのは二度とごめんだからね」
「いやいや、小さくて妖精的な少女が、狭い世間でもてはやされるのは当たり前のことだよ」
紳士は妙に猫撫で声で言いました。
「わたしはもう十八過ぎてんのよ。少女じゃなくて女なの!」
「そんなことを言わずに、ね。ここにはあなたの仲間しかいません。何が起きても誰も責めやしませんから、久しぶりにミディアム役をお願いしたいね」
「いやよ。人が嫌だって言っているのに、あんたもメンケンと同じで変質者?」
紳士は両肩をすくめて、
「断るのか。それは困るな。ならば時間を一時間戻して、性奴隷調教の実行開始としゃれこんでもいいんだがなあ。ジョージはこのていたらくでとうてい性奴隷のご主人様になれる状態じゃないが、私は違うよ」
紳士の色白で神経質そうな瞳の奥には、メンケン氏を遥かに越えるサディズムと変態性が隠れている可能性が無きにしもあらずで、この紳士は力をもってそういう態度を使うことにより、語り手として妄想を進行させるタイプのようです。やり口は私としては学ぶところがあります。これは『ジキルとハイド』のような二重人格性を利用したい語り手のテクニックに直結していくのではないのでしょうか。
紳士の目に射すくめられたチッタは嫌々をしながら私を見ました。私は、あまり直接関与しないようにという事情が決まっていましたから、可哀相ですが知らぬ振りをせねばなりませんでした。
「う[#原文では「う゛」]ー、霊媒をやれば調教されなくてすむっていうわけ」
「ああ、君が望まぬ限りはね」
「分かったわよ。なにさ、脅し屋。嫌だけど、縛られたり鞭で叩かれるよりはましっていうことよ」
「結構だ」
紳士は大きく頷きました。
「チッタ嬢に適当に立派な霊を呼び出してもらって、SMの真義について講釈してもらいましょう」
「どんなのが出てきても、知らないわよ、わたしは」
嫌々やって霊が来てくれるのかどうか、語り手には分かりませんが、私や紳士のような語り手はある種、交霊会の霊に似たような存在だとも思うのです。
テーブルターニングの一番簡単なやり方は、五、六人くらいが座れる丸テーブルを用意して、霊媒を起点にして互いの手が届くくらいの等間隔に座ります。そのさい多くの場合、部屋の窓は厚いカーテンで閉じて、夜のように暗くしておかねばならないようです。他にもいろいろローカルな取り決めはあるでしょうが、テーブルの上に手を置いたり、隣の人の手を握ったりして、静かに待ちます。
霊媒が霊を招くことに成功すると叩音が起きたり、人の声のようなものが聞こえたり、しまいにはテーブルがぐらぐら揺れだして子馬のように跳ね上がるというのです。そうして霊は一通り自らの来襲を誇示したあと、霊媒の口を借りて、人々と会話し、質問に答えたりするのです。奇術師に言わせれば交霊会で起きる現象はすべてトリックにより再現が可能であって、客の中に協力者がいることがほとんど。霊媒の語る霊の言葉とやらも腹話術の演技であり、言っている内容はたわごと、または病的な精神状態のなせるヒステリックなうわごとということになるわけです。
今回は、真っ暗な部屋というわけでもなく、丸テーブルでもなく、人一人横たわれる手術台のような長方形のテーブルでありましたので、テーブルが荒馬のようにターンすることもないでしょう。
「テーブルが暴れるとか、物が飛んでくるとか、ラッパが鳴るとか、そんなものはどうでもいいんだ。あんな騒ぎは前座で、初心者を脅かすためにある。霊がやっていようが黒子がやっていようが、どうでもいいという意味では同じ事だ。部屋がガタガタするのは飛ばしてしまっていい。チッタ嬢が何かに取り憑かれるのが本筋なのだから」
と紳士は、交霊会で喜ばれる見せ芸には価値を感じておられませんでした。
「あんた交霊会慣れしてんの。あぶないやつ」
とチッタが吐き捨てるように言いますと、紳士は、
「誤解してもらっては困るね。お茶会はよくやるが、一度もやったことはないな、交霊会は。私にとっては交霊自体は珍しくもなんともないことでね。要するに交霊会はツールの一つなのであって、実際に使える道具かどうかを検証しなければならないと思っていたのだ。そのためにはチッタ嬢のような力のある霊媒が必要だっただけさ」
「あんた、霊なんか信じてんの。わたしは信じてないわよ。確かに交霊会をやらされると頭がぼーっとなって、わたしはわたしの知らないうちに支離滅裂なことをしゃべり出すらしいんだけど、そんなの寝言と一緒じゃない。そのせいでわたしがどんなに憎まれてひどい目にあったか」
「霊の言葉に怒り出す人間がいるのなら、痛いところを突かれたからだろう。君のせいじゃない」
紳士は、不思議にやさしげな目でチッタに言いました。
チッタ、ルイーズ、メンケン氏、紳士、そして私は、チッタに言われて息を潜めて待ちます。なかなか事は始まりません。生涯二度と交霊なぞやらないと決意していたチッタですから、抵抗があるのでしょう。それにしても紳士の目論見はまだ分かりません。霊を呼び出させて何をしようというのでしょうか。本気でSMの秘密を聞き出そうと考えているのなら笑い話にしかなりません。
皆は目を閉じておりますが、私は、傍観者とはいえ語り手ですから、薄く目を開いておりました。とにかく皆で手をつないで息をひそめて待つこと15分ほどでしたか、テーブル越しに私と手をつないでいたチッタが腕をがくがくとさせ、私の手を握りつぶさんばかりの強い力が籠もりました。チッタが全身で震え、がくがくしており、それがテーブルに伝わります。一時は何か病気の発作かと思われるほど大きく震えておりましたが、しばらくすると落ち着いて行きました。握り締められて、痛みを越して痺れかかっていた私の手から握力が去って行きました。なんのかんのと言ってもチッタには霊媒というのか、その種の才能があるのでしょう。
「おでましになられたようだ」
と紳士が囁き声で言いました。この紳士も最初から薄目を開けていたのでしょう。ルイーズとメンケン氏はガクガクとした揺れが恐くなり耐えていたのでした。おっかなびっくりに目を開きました。
小さなチッタは変貌しておりました。目の色は冷たく、無言で私たちの顔と部屋の中を見渡しておりました。はすっぱで不満げでヤンキー娘らしい態度は影も形もなく、十分に成熟した大人の女性、それもこの場の雰囲気を責任持って支配する女王のような威厳を漂わせております。やはり人間の印象や威厳というものは、背丈や発育の程度で決まるのではなくて、個性的で力強い内部が表に出ることで決まるもののようです。
「わたしを呼んだか」
とチッタは言いました。正確には、チッタの口を借りた何者かが言いました。
「はい。我々、あなた様をお招きいたしました。あなた様の名は何と申されるのでしょう」
紳士は物腰から言葉まで、一歩下がったものに変えました。そうした態度をとるのが良いと語り手の事情で判断したのでしょう。
「わたしはルーだ」
「ルー様は死後の魂なのでしょうか」
「ちがう」
「では天使」
「ちがう」
「では女神」
「ちがう」
紳士はにっと笑い、
「では語り手ですか」
「ちがう。語り手とは何だ」
「あなた様のような方のことを言うのです」
「ちがう。ルーはこの地に棲むものだ」
「いや、どこに棲んでいようとかまわないのです。語り手はね」
紳士は私に目配せをして、
「これでお仲間が三人になりましたね」
と言いました。
ルーと名乗る実体が語り手であるのかどうか、私には判断のつきかねるところでした。もしそれが本当なら私の視界にまた新手の語り手が加わったということになります。語り手としては困惑させられるところです。語り手とは一つの時空を統括する視点の存在と言うことも出来ましょう。この場合視点とは固有の方向性や判断力を持った独立した存在です。一つの時空を複数の語り手が占めるというのはあまり誉められたことではありません。時間も空間も無限ではないのです。その有限の時空の中で視点を持つものが押し合いへし合いしてうまくいくものかどうか。まず無理でしょう。
視点の分散は物語を完成させようとする力、絵を完成させようとする力の集中度を損なうものなのです。語り手が複数登場する演劇などろくなことはあ申ませんし、失敗した実験も少なくありません。混乱のもとです。一場面を語るものが同時に複数の視点で語り出すことは不可能ではないにしろ、好き勝手を叫ぶ多くの声となりがちです。放っておけば物語を崩壊させることもありましょう。とりあえず一人が代表となってそれを引き受けるのが良策で、たいていの語り手はそれを知っております。多数の声を混線させるのは語り手の望むところではありません。ですが、実際に複数の語り手が現れると、視点と力は複数分存在するのですから、時空に滞りや亀裂を生じさせる可能性が高くあり、仮に一イニングごとに交替するとして力のまんべんなさを求めるべくもなく、とどのつまりは不経済を免れないのです。
紳士とてそんなことは承知の上であるはずなのですが、まさかこの話をご破算にして逃げるために語り手を増やしているわけではありますまい。するとこの紳士の語り手の事情はどこらへんにあるのでしょう。予断を許さぬ展開でした。
私と紳士の語り手の事情はともかく、新たな参加者のルーは、いらついた不機嫌な声で言いました。
「わたしが何者かなど、そんなことはどうでもよかろう。お前たちはわたしになんぞ用事があって招いたのではないのか?」
「はっ。失礼いたしました。もちろんお教えを賜りたくお越しいただいたのです」
「なんぞや」
ルーはどうも居心地悪そうに、チッタの身体を揺すったり、手を動かしておいでです。
「率直に申しますと、私たちは人間の性倒錯行為の代表たるSM行為について議論しているのですが、何しろ妄想ばかり先走る経験不足の初心者ばかりで、その意味の分かる者がおりません。失礼ですが、ルー様はそのような質問をなされるのに適しておいででしょうか」
「様などつけずともよい。ルーと呼べ」
「はい。でルーは性に関わる品のよろしくない話題についてど不快無く、お答え願えましょうか」
「ルーは地に棲むものである。動物であろうと植物であろうと地の生き物の生殖のことは分かる範囲で答えることが出来る」
「よかった。さすがチッタ嬢、一発で専門家を招いてくれたようだ。生前自分はカザノヴァだったとか言うようなおかしな人間の霊よりは、ルーのほうが、地に足が着いていて信頼できそうではありませんか」
と、紳士は私たちに相づちを求めてウィンクいたしました。
平然としているのは紳士と私くらいのもので、ルイーズとメンケン氏はこの場で起きているこの世のことではないような現象に呆然としております。ルーと名乗る何者かの人格は、チッタがいかに名女優で名演技をしたとしてもとうてい醸し出せない雰囲気をまとっておりました。ルイーズは交霊会のようなものに接するのは初めてなのでしょうが、それ以上に古い時代の女王みたいな口をききはじめた同僚のチッタの変わり様にショックを受けているようです。
霊媒が霊に憑かれてまるで別人となってしまうことは、しばしば起きることですが、こういった現象を霊などという存在を仮定せずに科学的に説明しようと試みれば、二重人格とかを持ち出して、多重人格の発現、といった言い方をするしかありません。ただその人間の心の中に隠れている別人格があるのなら、それを霊と呼んでも差し支えないと思うのですが、それはそれでまた物議を醸すことにあいなります。
「それでおまえたちが訊きたいという品のよろしくない、そのSMというのは、何のことなのだ」
ルー=チッタの埋蔵人格説をとれば、チッタがSMについて知らないから、当然ルーも知らないという理屈になります。紳士が説明を始めました。
「簡単に言えば、いや、いろんな人がいて簡単には言えない話なのですが、要するに加虐的性行為を好む男ないし女がいて、被虐的性行為を好む女ないし男がいて、支配被支配関係にあり、主に加膚的なほうが被虐的なほうを痛めつけ、なおかつどちらの性向の者も性的な快感を得るという行為です。ただしサディストはただ相手の肉体、精神を破壊することを目的とする者とか、内なる権力志向、支配力の顕現を味わうことを目的とする者とか、実に多様なのです。またマゾヒストは痛みを伴う性的行為とか支配されることが固癖となった者から、特殊な刺激による内なる快感の開発とか自我を休止させて別の物に変身したいとか、快感原則に従う意識状態に至ることが目的であるなどこれまた多様なのです。結局のところ、SMとも病理的には説明不能であるわけです。SとMとの幸運な結びつき、人間関係が奇妙な愛の形ともなり、ただひたすらの破壊衝動への奉仕ともなる。二人の間には想像力、心理作用、演劇性といろんな要素が加わっておりますから、支配者の理不尽な振る舞い、イヌやウサギ、ブタのような動物扱い、椅子や便器など物扱いされるというような想像力や妄想を、それらすべてを活用いたします」
「何を言っているのかさっぱり分からぬ。もっと具体的に申してみよ」
「女性への加虐については昨日メンケンがしきりに口走っていたのでやめておいて、例えば、男性の被虐嗜好者について言えば、我が国では伝統的に教育の場で罰として教師は子弟の尻に鞭打ちとかスパンキングを加えます。かくいう私も十代の頃は担任や校長によく鞭で折檻されたものです。愛の鞭というわけで、生徒の向上を願っての加虐なわけですが、当たり前ですが、痛いですから勘弁してもらいたい罰といえます。ところが癖になってしまうのか、イートン校の鞭打ちにただならぬ郷愁を抱いてしまい成人後も鞭打たれることに快感を感じて好むが如き不可解な現象が、成人後の多くの紳士を悩ませているわけで、わざわざ売春宿に行って金を払って売春婦に鞭で叩かせたり、土足で踏みつけられたりするという奇怪なエピソードはヒルシュフェルト博士の『性異常と性倒錯』には腐るほど載っております。ともあれ不愉快で苦痛な行為に喜びを見いだすというのか、そういう男性が最近増えましたね。ドイツ人に多いらしいです」
「なんなのだそれは」
ルーの声はますますいらだちを増していきます。
「エスカレートすればロープや鎖で縛り、身の毛もよだつような拷問的行為まではもう一歩ですね。あとは心理的な問題なのでしょうが、男女の攻撃性と受容性が逆転しますから、加虐嗜好側が女である場合は気高く振る舞い、奴隷の感激と尊敬を勝ち得ねばならないそれなりの装備を要求されます。ファッションにもことのほか気を配り、エナメルの手袋や黒革のウェストニッパー、ガーターベルトにストッキングが必需で、足にはピンヒールを穿いていなければならぬという、フェティシズムとクロスする現象が、好き者の心をそそるようです。全体的に身体を締め付け拘束的で、なおかつ皮膚を露出したような衣装が好まれるという傾向は将来を見据えて発達してゆくことでしょう。SM行為により性欲が昂進する場合も多いと聞きますが、必ずしも性的結合があるとは限らないのも特徴です」
紳士はとうてい初心者とは思われぬSM知識を楽しそうに述べ立てるのでした。
ルーは、聞いているうちに、まことに心底からいらだたしそうな態度と雰囲気を表し始めました。爪を噛んだり貧乏ゆすりをしたりと、怒っているともとれる、それに近いいらだちを隠しませんでした。
「今ひとつ分からんが、それのどこが性行為なのだ。生殖の役に立たぬどころか、貴重な性欲を無駄にする。生き物の世界はシビアなのだぞ。そんなことがお前たちの間で性行為としてまかり通っているのなら、その種は近いうちに滅亡しよう」
「それは当分は心配いらないと思います。たいていの男女はSMなど、知っててもやりませんし、やるとしても妄想の中で一人陰気にうじうじとやるだけです。SMは厳重に隠されたマイナーな性行為なのですよ、ヴィクトリア朝では。よって倒錯なのです。問題にしたいのはそういった行為が今や静かなブームとなり、水面下でも水面上でも鼠算式に愛好者を増やす可能性が見えていることなのです。ソフトSMとか称していても、のめり込むにはちょっとしたきっかけさえあれば、たちどころにいってしまいますよ。これは人類の種としての滅びの前兆なのでしょうか。19世紀も末でもあることですし、世紀末現象なのですかね。私は滅びてもかまわないと思うのですが、ルーはどう思われます?」
「もうわかった」
「え、どういう意味でしょう」
「ルーには関係のない話だとわかった。ルーは、行為のすべては生命が生殖増産をさせる戦略となっていなければ、性とは認めぬ。産み増やすための戦略であればどんな異常行為であろうが性と認める。オスとメスが噛みつき合ったり、叩き合ったりして性欲を高めるのは性の戦略であり、性以前の問題である。よってSMなどあり得ぬ。だから知らぬ、存ぜぬ」
「しかしルー、現実に、この部屋にある不気味で猥褻な道具たちが使用されるような狂宴が今日もどこかで行われているのですがね。妄想であって欲しいのですが、どうも事実らしい……」
「ルーは知らぬと言っておろう。SMなど存在せぬ。まことに妄想の産物だ。生殖の戦略にかなっておれば強姦だろうと、人の腸を切り裂くのであろうと認めるにやぶさかではないのだが。よいか、生き物は増えねばならぬ定めなのだ。そのためならどんな手を使ってもルーは認めるであろう」
「そうなのですか」
「そうだ。その見地から見ればSMなどという、そんなものは存在しない。おのれらは馬鹿なことは考えず子孫の繁栄に励むことだけを思うべきだ。ウィルスも植物も動物も不断にそう努力して、ありとあらゆる秘術を使って増殖しようと頑張っておる。生命の宿命として、滅びと闘うておるわ」
「うーん、そう断言されては、ルーにSMについて語ってもらうのは無理ですかね。帰ってもらってサド侯爵にでもお出まし願った方がいいかも知れないな」
そのとき、椅子とテーブルをガタンガタンさせて、
「ええい、さっきからなんだ。おさまりのわるい!」
と、ルーがいきなり怒鳴りました。さすがに気圧《けお》された紳士が、
「ル、ルー、どうなさいました。何かお気に障ることでも? 粗相があったならお許しください。帰ってもらおうかと言ったのは冗談です」
と慌てて言いました。
「ぷはっ。落ち着かぬ。この娘の身体は!」
と自分の身体を、つまりチッタの身体ですが、さして言いました。
紳士の弁述に怒ったのではなく、この場に現れてからずっと感じていたらしい不快な感覚、いらいらをついに我慢しきれなくなったという様子でした。
「この身体だ。この娘はなんという息苦しい身体をしているのか。入ってやっているわが身にもなってみよ」
「チッタの身体がどうかしましたか」
と私が訊きますと、
「どうしたもこうしたもない。どこもかしこも風通しが悪い。この身体にいるだけでいらいらさせられる。まるで牢獄だ。こんな身体ではペンペン草一本育たないぞ」
とルーは苦しそうにお怒りになっています。
「チッタは生まれつき小柄で、ルーには窮屈かも知れません」
「窮屈と言うより、気分が悪い。苦しいのだ」
「体が弱く、病弱な娘なのです」
「心得違いだ。生物として身体の手入れが悪すぎるのだ。こんな腐ったような身体では、性の交わりも、子供を産むこともままならぬぞ。いい年をしてこんな身体を放置するとは、日頃どういう心がけで暮らしておるのか。生き物の風上にも置けぬ」
ルーは怒り心頭の様子で言うと、ばんとテーブルを叩いて立ち上がりました。
「ええい肩は凝っておるわ、頭痛がするわ、吐き気がするわ、なんという気分の悪さだ。この身体、叩き直さねばおさまらぬ。この娘、ようもこんな身体で日々我慢できるものだ。おそろしい鈍感さだ。許せぬ鈍感さだ。おまえたち、手伝え」
「は、はい」
有無を言わせぬ威厳はそのままですが、立てばもちろんチッタの姿をしていますから、態度ほどには身体は大きくないのです。
ルーは、つかつかとテーブルを回って、自らむしり取るように服を脱ぎ始めました。
「面倒くさい服だ」
スカートを蹴飛ばすように脱ぐと、チッタは一糸まとわぬ姿となりました。全体的に小作りな身体で、十八とはとうてい思われない発育不良ぶりでした。服を着ていればその童女のようなところに神秘性もあるわけですが、こうなるとあられもありません。胸は平板で、恥毛も薄くまばら、その丘もぺたりとしていて、十一、二歳くらいで成長するのをやめたような身体でした。そういう年齢層が好みの殿方もいらっしゃると聞いておりますが、チッタには子供の元気さも無邪気さも感じられません。年配の者の羨望するところの肌の美しさも感じられず、色艶はよろしくありません。ルーは、
「お前」
とルイーズを指さし、
「わたしをそこのロープで縛り上げろ」
と命じました。
「えーっ」
「言ったとおりに、早くしろ」
ルイーズはおたおたしておりましたが、とにかくご指名です。ルーには人を逆らわせない雰囲気があり、恐いのでしょう。
「おまえはなかなか色艶がよいぞ」
ルイーズは長いロープを持ってきてチッタに巻き付けようとします。
「でたらめに巻き付けてはだめだ。後ろ手にして手首を縛り、それを前に回して、乳房の上下に二重にして、また後ろ手にかけなおして首にゆき、胸の二本のロープを締め付けるように縛る。乳房がロープに挟まれて搾り出されるようにする。ここまでで女罪人の縛り方である。次には残りのロープを腰のあたりに交互に厳しく巻き付け、股の間を通して後ろ手に縛っている部分に止める。最後にゆるみをキュッと引き締める」
「えーと、そんな、もっとゆっくり言ってください。難しいです」
時間はかかりましたがルーの言ったとおりにチッタの身体が縛られました。次にまた命令されて、後ろ手から新たなロープを通して、それを天井のフックに掛けて、滑車を回してつま先立つまでつり上げます。ルイーズはぶらぶらしているチッタをいたましげに見ながら、
「あの、こういうのを、SMというのでは?」
と訊きました。ぶら下げられたチッタの口から、ルーは、
「断じて違う」
と言いました。
ルイーズは既にびっしょり汗をかいていて、メイドの服に染みができるほどでした。すると紳士ははたと手を打って、
「そうだ、ルイーズ嬢、せっかくルーがこういった事情を作ってくれているのだから、きみもこれに着替えなさい」
と、メンケン氏持参の特製雌奴隷衣装を木箱から取り出します。
半ば無理矢理着替えさせると、首輪付きの革製の衣装は後の世に言うボンデージ・ファッションというものです。乳房から肩まで露出し、股割りの深い革のガードル、紅潮した肌から少女らしい芳香が匂い立ち、部屋中に満ちました。ルイーズはいいビザールっぷりで、チッタに欠けているものがたっぷりとあるのでした。
「恥ずかしい」
とルイーズは消え入るような声で言い、まだ生硬な形のいい乳房を両手で覆い隠して座り込んでしまいます。
「馬鹿者、恥ずかしがっていないで、次だ。この身体に鞭を打つのだ」
「そんな」
「いいから早くやれ」
またも後込みしておりましたが、許される状況ではないと覚悟して、ルイーズは一番小さく、柔らかそうな革鞭を取ると、身動きとれないチッタを軽く打ちました。
「もっと強く叩かぬか」
「はい」
何度もしかられて、ある程度、強く打つのですが、
「全然足らぬ。そんな軽い鞭では駄目だ。もっと重い、そこの先端が九つに分かれた太い鞭を使ってみろ」
「は、い」
いきなり上級者向けのナインテールキャッツを手に取らされ、ルイーズはその重さと太さに手が震え気味となっております。
語り手は最後まで傍観者でいる予定でしたが、どういうことか急に事情が変わったらしく、ずんずんと場面に引き込まれていく私を感じています。ルーにその力があるのです。ルーが仕切りかけたこの場の語り手の事情に、ルー自身が私を引き込もうとするのです。
(なぜです)
と私が尋ねると、ルーは、
(わたしはここに現れたばかりで、よく語ることが出来ぬ。それにわたしが使う言葉はこの事情の中ではふさわしくない。お前がやったほうがいいのだ。それにお前には内側に入って語る力と資格がある)
と言いました。次の瞬間には語り手の視点は急速に移動しチッタの中に入っておりました。チッタの目からは私自身が部屋の隅にじっと立っているのが見えますし、また、ルーである自分の存在感も同時にあるのです。むろんルーと私は別に存在しているのですが。
打たれているほうのチッタに叱られるので、ルイーズもやけになってきたのか、かなり手加減のない一打を加えるようになります。
「やっぱりこういうのをSMと言うんですよ」
ルイーズは、だんだん目を濡れた光で満たしながら弾む息で言いました。びしり、と聞くからに痛そうな音をもって枝分かれした革鞭がチッタの皮膚に食い込みます。
「ああ、そのくらいがいい。ちょうどいいぞ」
とルーはまるでいい湯加減だといった感じで、心地よさそうに言っております。チッタの肌にはすでに多数の赤い筋が刻まれ、みみず腫れを起こしているのです。私が、
「チッタの身体は大丈夫なのですか」
と訊くと、
「この身体が鈍感過ぎるのだ。皮膚が裂けるほど打たれなければ何も感じぬとあれば、仕方がないではないか。ちょうどいい心地よ」
とおっしゃいます。
「まさしくSM行為ではありませんか。ルーは理屈ではなくわたしたちに示してくれているのですね」
「たわけ。なんども言うがSMなどというものはない。こやつの身体を芯から叩き直しているのだ。お前にも分かるはずだ」
私は鞭打たれるチッタになってみました。
鞭は肌に叩きつけられると一瞬ぺたんと張り付き、その弾力のすべてを皮膚に伝えて、また皮膚を剥ぎ取るように滑り離れていきます。痛みはすぐさま皮膚とその内側の筋肉群を緊張させます。痛みが筋肉を緊張させて縮ませ、その痛みを長い間感じ取り記憶しようとするかのようでした。チッタの皮膚と筋肉は痛みに対して貪欲で、何度も打たれてそのたびに筋肉を硬くして、痛みを感じ続けようとするのです。皮膚の表面、真皮の部分が裂けて毛細血管が血を滲ませますが、大きな出血にならないのは筋肉が緊張しているからでした。
バチンと背中を九本の鞭に打たれます。汗と少量の血液が飛沫となり散ります。
「はうっ。おお大分感じやすくなってきた。こんな身体のままでは大切な生殖の営みも、話題にすら出来ぬというものだ。取り戻さねばならぬ」
筋肉も緊張を保持するのに限度があります。筋肉は長い間緊張し続けることが出来ないのです。すると鞭打ちの痛みを保管すべく硬くなっていた筋肉もいずれ弛まればならなくなります。緊張から一転して弛緩すると保持していた痛みが一気に放出され、身体全体に、身体の内側に解放されるのです。そのとき不思議なことに痛みではない、独特な心地よさが発生するのです。爽快さが語り手をも包み込みました。
緊張したものが弛緩するときには必ずエネルギーの解き放ちが起こります。それが快感に似た感覚を発生させるのです。さらによく見ると、全身の筋肉が強烈に緊張し一瞬にして弛緩するとき、神経信号は大きなうねりをもって脊髄延髄を駆け抜けて、A10脳繊維束にショックを与えます。A10の神経繊維は、すると、甘い蜜のようなドーパミンやエンドルフィンを脳下垂体からしたたらせ、ショックを緩衝しようとするのです。鞭打ちは痛みを使って強制的に緊張と弛緩を繰り返させますが、それはポンプのように働いて脳から快楽ホルモンを搾り出させるのです。放出された快楽ホルモンはフィードバックしてまた全身に心地よさと活力をもたらします。チッタの中では快感と痛感がシーソーの上でバランスを取るように揺れざるを得ず、まさにそのことがチッタの身体の疲れ果てて動かなくなっていた機能を鞭打って目覚めさせようとするのです。
鞭による刺激ばかりでは身体が飽きてしまいます。ルーはそれを察知して、
「鞭はもうよい。その板バネのクリップを持て。乳首を挟むがよい」
「そんなことをして、いいんですか。とっても痛いですよ」
と顔を上気させ婉然《えんぜん》としたルイーズが、言います。
「お前は言うとおりにすればいいのだ」
「可哀相に、チッタ……」
と、どちらが責めているのかわからぬ状態で、ロープにぎっちりと挟まれ、周囲を鞭打ちで腫らした痛々しい胸の小さな粒をクリップで挟みます。
「ああ、痛そう!」
とルイーズはわがことのように叫びます。チッタも一瞬、歯を食いしばり、
「ああ、来る、来る。さすがにここは鈍っておらぬ」
とそれでも心地よげです。乳首を挟まれた瞬間、またしても胸筋群が縮み、それは首の筋肉や太股《ふともも》の筋肉まで連鎖させて緊張させます。乳首とその周辺にはかなりデリケートな感覚神経群が集中しており、その痛みは普通の皮膚とは段違いとなるのです。粘膜性をも併せ持つ乳首は感覚のボタンであり、乳首の震えはまたたくまに全身に到達して、重複した震えをもたらすのです。クリップにぎゅっと潰された乳首は初め強烈な痛みにものも考えられないような状態となりますが、筋肉が弛むにつれてある種の余裕を持ち始めます。潰された乳首は自分にくわえられているひどい暴力について、それがどういうものかを観察し始めるのです。その時にはっきりと乳首は自分の存在する意味と、自分の持つ力を感じ取るのです。ぶざまに挟まれたその部分からは痛みを伴う疼きとともに、自分が強く刺激されて力に目覚めることを喜びと共に感じ取るのです。乳首の先端に隠されていた快楽の秘密にいったん気が付けば、あとは身体が自動的にその秘密の意味を全身に届かせて、ほどなく力に満ちて震えるほどの快さを得るのです。
チッタは、無意識に、
「ああ、ああ」
と声を出し、それはただ苦痛を訴えるためのものではないことを知らせました。ルイーズは既にチッタの苦痛と快感の波を身をもって感知しつつあり、
「こんなことしてたらチッタはいじめられないと感じない女の子になってしまうかも」
と案じました。
「こやつはさっきまでの身体では、いじめも、愛撫も、何も感じとることも出来なかったろう。表面のひっかき傷に一喜一憂する浅はかな身体でしかない。身体が痛みを感じているのではなく、傷を目で見て、目でにせものの痛みを感じるような不自然な身体だった。自分の体をそれほど鈍くしてしまっていたことが罪作りなのだ。この娘が身体に自然を取り戻すためには質と量ともに大きな刺激が必要なのだ。そろそろ降ろしてローブをほどいていいだろう。縛り万を変える」
「ルーは違うというが、どう見ても、SM行為ですね。すると、もしやこれがSMの意味なのでは」
と紳士はしたり顔に言います。
「おまえ、眺めておらんで、降ろすのを手伝え」
とルーに言われ、紳士はルイーズを手伝ってチッタをフックから抱え降ろしました。
チッタの中から様々な責め苦を要求しているルーでございますが、事情を手にとって少し奥深くまで見てみると、大変興味深いことが起きているのは前述の通りです。フックから降ろされたチッタはロープをほどかれていますが、その時ロープの圧迫により、強制的に停滞させられていた血流が放免の喜びに音を立てて流れ出すのが分かります。血液はいつもなら面倒なので行かないような隅々まで拡散してゆくのです。またロープにくくられて縮こまることを余儀なくされていた肺も、解放後は、横隔膜を大きくバウンドさせて今まで入れたことがない多量の空気の吸排を繰り返し、肺の周囲の縮んでいた筋肉を自然に解いて行くのです。肺の大活躍によって血中に満ちた酸素は、赤血球、白血球に活を入れ、心臓の躍動と共に全身をめぐります。ことに吊り下げられることによって強く絞られていた臍から下の、下半身の血管は静脈弁がちぎれそうなほどの勢いで血液を急流させ老廃物を回収し、動脈血は腰の内部にみるみる多量の酸素と栄養を含んだ血腋を充血させます。
見るからに痛々しく無惨に腫れあがった皮膚の働きも無視できません。柔肌はまんべんなく鞭打ちにさらされ、ところによっては皮膚を裂いて血をにじませており、汗とまじってぬるぬるした光沢を放っております。これがうまいことに瀉血の効果を発揮させており、また皮膚真皮直下の毛細血管の浸潤作用をさらに活発にさせ、普段はなかなか働かない、皮膚の高度なクリーニングシステムを発動させるのです。リンパ液が通常の倍以上に流れ、傷つき腫れた皮膚にざわざわと満ちてゆきます。皮膚は神経と直結しており、もともと露出した脳であるとも言いますが、鞭というのは過激でしたが、確かに脳へ強烈なショックを与え、脳幹や間脳の眠り込んだ植物のような鈍感さからみるみる蘇ってこようと致します。これが内部に移れば、卵巣ホルモンなどへも良好な刺激となり、心身の守護神たる分泌系が活気づくことも重要です。
今またルーの指示により、縛られております。チッタは腕を後頭部に固定されて太腿と膝を縛られて海老反りに固定されてしまいました。この拘束方法によって一時的に太腿動脈を圧迫しその血流を止め、座骨神経から体側、太腿神経の反射を鈍くすることになります。背骨を反る形は、油の切れたような椎間板に往復びんたを喰わせて眠らせません。そしてチッタはこの緊張を持続させたまま、うつぶせにさせられました。
「張り型を使ってみよ」
とのルーの命令に、今はもうわくわくしたような態度のルイーズが、中位のディルドを選んできました。ぴっちりとした黒革のベルトからなる拘束的なコスチュームをつけたルイーズは、奴隷いじめが天職の女王様と化しておりました。
この肌の露出がやたらと多く、股間や胸部を微妙に括った衣装は、見物人だけでなく、ルイーズの身体にとっても意味があるものです。血流や呼吸運動を制限して、通常よりも鈍った身体状態を作り上げるのはロープによる縛りと変わりませんが、ルイーズの場合はかなり自由に動くことが出来るのがみそなのでした。また恥辱の感覚は心臓を刺激いたしますので血流を増大させます。革はなめしたといっても麻や綿に比べればごわごわしていて棘でもついたような材質です。それが身体の敏感な場所、股間や乳首、首筋などを締め付けており、動けばその部分を強く摩擦するようになっています。拘束的な衣装を着せられたまま敏感な部位を責めつけられると、不快さがまず発生し、それが過ぎると刺激の感覚が内側に籠もるようになります。ほとんど性感的な刺激が身裡に蓄積されると、拘束されているにもかかわらず、身体は活性化され、頭脳もはがゆきを感じながら活性化させられます。そして身裡に蓄積される感覚が限度に達すると外にあふれ出ねばおさまらないのですが、衣服はなおも拘束を続けております。身裡には強制的に快感が幾重にも貯蓄されていくのです。脳は甘ったるく覚醒し、全身に火がついたように熱くなります。その結末がどうなるかは、ルイーズがどうなるかを見ていればじきに分かるでしょう。
ルイーズは背後より、ディルドを使ってチッタの陰唇を突いたり、膣内に挿入しにかかりました。局部の充血と神経系の圧迫を加えてからこれらを行うというのは、強い痛みを軽減させる観点からなかなか合理的です。チッタはほとんど男性経験がありませんから、本来なら行いにくい刺激のはずです。
膣自体は、膣口部をのぞきかなり鈍感な器官なのですが、チッタの場合は鈍感さに加えてさらにチッタ自身の怠慢のため、ほとんど動かされず自己主張することもなく、神経の欠落したただの洞窟のような有様となっておりました。先ほどの鞭打ちと同じ理屈で、瞠自体にもかなり乱暴な刺激を加えて、その機能を叩き起こす必要があるということでしょう。ロープの一部がクリトリスを押しっぶすようにして通され、その端がアキレス腱をぴんと伸ばされたつま先に結びつけられていますから、自動的にゆらゆらと摩擦刺激を加えていくことになり、快楽を伝達すべき神経もそのただごとでなさに、快感などとんでもない話で、飛び起きているところです。
このロープの角度や縛り具合の強弱が巧妙で、うまくいけば腰椎や骨盤のゆがみを修正出来る可能性もあります。チッタの、始終不定愁訴を訴える生理不順で、冷感症的な女性器は腰椎と骨盤のゆがみとその内臓の位置異常が主な原因だと思われます。
中位とはいえチッタにはやや大きめのディルドをルイーズが挿入し、出し入れさせ、次第に激しくスクゥイーズさせている図の内側では、身体が局部周辺を目覚めさせようと必死に努力しております。まずディルドに傷つけられることを最小限にするために自分を濡らさねばなりません。膣壁より分泌する内潤液が間に合わないので、子宮頸管が急いで下がり、頸管粘液を多量に搾り出してディルドの攻撃に対応いたします。そうしながら膣壁の筋膜と括約筋を調整し、膣の形を変化させ、暴力を無力化すべく働くのです。この種のシステムをほとんど使うことがなかったチッタは、かなり無理をしなければなりませんでしたが、身体というものの適応力は偉大なものです。
語り手がふと外からの視点を戻せば、ルーのやらせていることはSM行為の文脈そのままなのですが、ルー自体はそれによって加虐的快感を得るなどまったく考えていないことは明らかでした。ルーはチッタの肉体の手入れの悪さと、不心得ぶりに腹を立て荒療治を行っているだけなのです。ルーは、生殖をさかんにする戦略のためになら積極的に力を貸してくれるのです。
語り手が視点を往復させるたびにいちいちルーにお伺いをたてずとも、ルーの狙いが分かるようになってきました。ルーは私のような言葉でその狙いを語るようなことはしないので、いきおいそれは語り手が解釈した言葉によって語られざるを得ません。既にかなりの部分、私とルーの言葉が重なり合い、混じりあっている部分が出てきております。
次には指や細めのディルドを使ってチッタの肛門への刺激が始まりました。向こうではルーに命じられた紳士が灌腸液の用意をしております。灌腸はいうまでもなく純然たる医療行為であり、はるか昔から行われているものの一つです。灌腸をSM行為を推進する人々が取り入れている理由は、表面上は、相手を辱めることが目的であるらしいのですが、直腸内の洗浄と腐敗物と有毒物排出という目的の方が潜在的には大きなスペースを占めることになります。そして生命は自分の身体から有毒物や生命力を阻害するものが排出されるとき喜びを感じるものです。それが性的な快感と混同されることはままあることです。
チッタのみならず人間は野生動物に比べて毒素排泄能力を衰えさせきっており、生来あるべき排泄能力のことをすっかり忘れてしまっているのです。毒素排泄能力が衰えれば免疫機能にも悪影響を及ぼし、人はまた一段とひ弱になります。直腸は常に悲鳴をあげたいくらいに不法投棄物に悩まされ続けなのです。灌腸の技法は衰えた排泄機能を補うために、直腸が無意識を通じて必要を訴えている、奥の手の一つといえそうです。それが曲がりくねってSMのおきまりのプレイと化してしまっていることは、今の時代の人間の悲劇的喜劇なのかも知れません。
灌腸とその数分後の排泄に、心ならずもサド役をさせられているルイーズは、さすがに泣きべそをかきながら世話をしております。ルイーズは語り手の視点に立つことがありませんがら、チッタにひどい仕打ちをしている自分を知り、それにほんの少し楽しさを覚えている異常さに不思議の念を感じているのでしょう。しかしことは単純なものではありません。ルイーズ本人は心ならずというでしょうが、チッタを責めることに楽しさを感じているのは、チッタの身体が発したSOSを受信して、その養生を手伝ってやる仲間としての喜びがあるからなのです。
チッタが機能を蘇らせ、老廃物を徐々に減らすとき感じる快感がルイーズにも伝染し、よりルイーズの楽しさを増加させているのです。
灌腸によって直腸を洗った後は、待っていました、アナル責めというわけで、細目ではありますが立派にキノコ状にエラが張ったディルドにバターを塗りつけての挿入です。
アナルセックスはキリスト教では最大の悪行の一つで、ヴィクトリア朝においては、だいたい普通の性行為自体まで悪徳視しかねないような風潮ですので、肛門などという単語を聞いた日には卒倒する人々も大勢いることでしょう。先年、オスカー・ワイルドはソドムの罪で牢屋行きとなりましたが、もっとも罪深いとされる問題は男同士の行き過ぎた友情なのではなく、お尻の穴にあったと見るべきでしょう。アナルへの行為は悪魔の行為に直結すると見なされます。
しかしヴィクトリア朝に、男色家ならずともアヌスに興味を持つ人々が確実に存在し、その数をじりじり増加させている理由は、神に反逆を気取りたいとか、アリストテレスの言う第二の性器たる肛門から別な快感を発生させようと言う表面上の理由から来るものではないのではないでしょうか。ルーがアナルへの刺激を行わせることからすると、肉体上の必然性から語られるべきなのかも知れません。
人間が内臓をかなり直接的に刺激出来る場所を持っているとすれば粘膜のある孔です。口であり、鼻であり、耳であり、これらの刺激は別に聖職者に咎められることはありませんが、上半身にしか及ばないのが普通です。内臓の大部分を占める腸を刺激する方法を人間は忘れ去ってしまい、宗教がそれにがっちりと鍵を掛けてしまいました。大腸、小腸はこれまた人体中もっとも鈍感な部分となり、意識的には闇の世界になりさがっております。大腸と小腸を目覚めさせねばなりません。アヌス刺激の愛好家が増えているのなら男女を問わず理由は一つであり、それは直腸はもっと刺激されるべきであるという、身体の奥底からの要求なのです。ことに男性の場合は肛門からのみ前立腺に触れることが可能ですが、前立腺肥大や前立腺ガンの患者の年々の増大現象を考えれば、前立腺のマッサージは予防に欠かせぬものとなります。売春宿で女に肛門を責めさせる紳士が増えている背景には、身体のささやかな祈り願いが籠められていると考えるのは行き過ぎでしょうか。
また語り手が外の視点に戻ると、チッタは張り型にお尻を犯されるという、たとい妄想の中でもそんな目に遭いたくないような最悪な目に通わされているとしか見えません。しかし一方、長く眠りについて自分の存在価値すら忘れていた直腸からその周囲に分布する神経系は、排泄物をまとめて出すということ以外にもっと重要な機能が隠されていることをぼんやりと思いだし、じきにその重要さに快哉の声を、上の口を通して上げ始めるでしょう。
直腸から大腸、さらには腰回りの臓器にまでうまく刺激を届かせるには一つのアイデアとして、微妙に振動するディルドを製作すればよいかも知れません。むろん女性であればその自動振動するディルドは膣にも使用することができ、男には不可能な、膣から内臓を刺激して活発化させる良策となりえます。未来のいつの日にか、電気か何かの力で自動振動する張り型が登場するでしょうが、それは人間の内臓が無意識に夢見ているものの登場なのです。そんなものに頼らねばならぬほど人間の体の機能は退化しており、眠りこけているということでもあります。
SMの刺激として見逃せぬことに肉体の損傷があります。いくら身体が乱暴な刺激を必要としているとしても、破壊するというのでは不自然です。ただし致命的な損傷でない程度の損傷ならば、ある程度自然でありましょう。たとえばアフリカの原住民たちが身体のあちこちに穴をあけて飾りをつけるボディピアスなどの自己損傷行為の風習、またタトゥーなどは、その部位を強く意識化させるために行うと考えれば理解は出来ます。その部位とはより刺激が必要とされている動かない、病みかけた部位でしょう。ピアスは必ず刺激の必要とされる部位を選んでなされているはずです。ピアッシングの代表的な部位、耳たぶには私たちには想像もできない重要な身体上の秘密が隠されていることでしょう。
語り手は、要するにSMが常に話題に上ったり、流行するような場所にいる人間は、その身体が救いようのない鈍感さの中にあり、それへ無意識が警鐘を鳴らしていると見るべき視点に立つことも出来るのです。無意識の発する警鐘は浮上するにつれて性欲や快楽が支配する領域に取り込まれ、その性質上、妄想と結びつきやすい落ち着かないところに位置いたします。発露すれば加虐や被虐のクロスするSMの世界への希求となります。肉体と精神が表裏一体である世界では、肉体面がそう訴えるとなれば、当然精神はそれを無視出来ないところです。人間が社会性と人間関係から切り離すことの出来ぬ存在であることから、無意識の警鐘は性的妄想と快楽の予感と結びつきつつ、深層心理面へ侵入し、正しければ心の病に有効となるでしょうが、たいていは誤って、暴力的な性へのあこがれ、主人と奴隷、支配と被支配の複雑怪奇な万華鏡模様を織りなし、固着すれば依存的な性癖となりかねません。
身体が求めていることは解放であることは間違いありません。身体が解放されれば精神も解放され、その逆も真です。SM行為が倦怠期の男女の刺激剤だと思われていることの内側にも、SM行為によって身体の解放を実現したいという高度の欲求が秘められております。
SMが禁忌性を帯びた陰の行為であるため、かえって人の心につよく焼き付くことになり、すなわち妄想の種ともなるのです。しかしおおもとを勘違いしてはなりません。SM行為と呼ばれている技法のほとんどは、肉体が、自分のあまりの鈍感さ、ひ弱さ、不健康さ、不自然さに悲鳴を上げて求めざるをえない緊急な治癒の補助行為となっております。自己治癒行為なのに性的な環境の中に固定されてしまったため、それが性倒錯と見られてしまっているだけのことです。現実に未開社会ではSM的行為が医療的に行われているケースがあります。
要するにルーの教えから学ぶことは、人間の身体が生殖のために自然な条件を整えるバくSM行為を含む倒錯行為を必要としている。それが目的ではなく存在するのだという、それだけのことなのです。ルーがSMを性行為と認めず、それ以前のことだと主張するのは、ルーにしてみれば当たり前のことなのでした。
SMのようなものは、人間の心身が一時の補助として必要としているのであって、人間の育てる個人的な妄想がそれを必要としているのではないのです。この違いは見極めておくべきです。SMの妄想に呑み込まれるのは、メンケン氏は特殊であるとしても、至極安易なことなのです。
と語り手の語りが少々逸脱しているうちにチッタの荒療治は終わってしまったようでした。最後は例の手錠付きテーブルに固定して寝かせて蝋燭のロウをまんべんなく垂らしたようですが、蝋燭責めも説明するまでもなく、鞭打ちとは質が異なりますが、皮膚への荒っぽい刺激法の一つです。語り手が自分の語りに夢中にならず、チッタの中に視点を保っていればその効果の細やかなところまで体験できたはずなので、惜しいことをしたかも知れません。
チッタは満身創痍のありさまで、目を閉じてぐったりと動かなくなっております。すぐに紳士とルイーズの手によって包帯でぐるぐる巻きにされてしまいました。当分はミイラ女のように寝かせでおかねばならないでしょう。それはそれは大変な荒療治だったのですから。肛門や膣からもいくらか出血しており、一見して犯罪的な重傷なのですが、チッタの内部は非常に穏やかで、意識は痛みなどかけらも感じることなく、うっとりとまどろんでいるのです。
またルイーズは作業を終えるとふらふらと床に崩れ落ちてしまいました。革の衣装に桃色の肌、たわわな乳房を露出したまま、半分眠ったような表情で側臥した姿は、たいへん色っぽいのです。ルイーズも能動的に刺激され続けておりました。今のルイーズの内側もチッタと非常に似た状態にあります。責める方も責められる方も最終的に同様の心身の状態を呈するという不思議な共鳴が起きておりました。ただしルイーズは好きでサド役をやっていたわけではありませんし、何しろ初めてのことですから、ストレスの溜まる過酷な労働を強いられたということになりましょう。が、それを終えて、素晴らしい性的な絶頂後の快感にも似た解放感に包まれ、心身ともに充実した疲労感を味わうことが出来るのです。
チッタはぴくりともせず、死んでいるのではないかと思われる程ですが、口だけは動いてルーの託宣を述べますので、たいへん不気味です。
「これでこの娘も少しはましになるだろう」
「あの、ルー、今あなたが行わせたことは大変にSMだったのですが、やはりSMではないのですか」
と紳士が尋ねました。
「まだ言うか。おまえがそう呼びたければ呼べばいい。私はこの娘の居心地をよくしようとしただけだ」
「治療行為だとおっしゃるのですか」
「自然なことをしたまでだ。大昔、人間は居心地の悪いからだになれば、ルーがわざわざさせずともこういうことを互いに施していた。植物も動物も似たようなことをして自分を維持している。無理に性に結びつける必要はないが、生殖に使われる力が、生殖に適さない不自然な身体環境を治療するために動員されることは当たり前なのだ」
「ははあ」
「だが生殖可能の身体を整えるために使われるのは本来の使い道ではない。性の力はあくまで生殖それ自体のために温存されていることを肝に銘じておかねばならぬ」
紳士は大きく頷きました。そしてぱちんと指を鳴らし、
「いいことを思いついた。このメンケンも調子が悪そうで、チッタ嬢の治療にも参加せず、さっきから気の毒に思っていたのですよ。メンケンにSM行為を施せば元気になるかも知れませんね」
「その男も弱っており、鈍感だ。上手にやれればな」
「じゃわたしがやってみますから、ルーは大事なツポを指示してくれますか」
「よかろう」
「お、おまえら、おれを性奴隷にするつもりか、よせ」
指さされたメンケン氏は慌てて立ち上がりました。
「ご安心を。あなたを性奴隷にしたくなるような人間はいませんよ。さあさあ、腕を後ろに……」
語り手にとっては、この同類の紳士こそ最後の謎です。疲れを知らぬバイタリティで、今度は自らメンケン氏を調教し始めました。
紳士のメンケン氏調教のことは、語り手は、そんなものは語りたくもありませんので、省略します。語り手はメンケン氏を天井のフックに吊すとき手伝わされましたが、それ以外は何もしておりません。
紳士のやり方にはいくつか間違いはあったようで、メンケン氏の悲鳴が何度も耳をつんざきました。しかしそれも、ルーの許容範囲だったらしく、結果としてその効果はチッタになされたものと同じでありましょう。メンケン氏をいじめて自らも癒えようとしているのか。見ていて気色のいいものではありません。やはり紳士は不気味な謎の語り手です。
「結局、おまえたちはわたしを呼び出しておいて、生殖のことを一度も尋ねずに帰らせるのだな」
「いや、あいすみません。そのことはまた別の機会に尋ねるとしましょう。本日はたいへん勉強させていただきました。心から感謝いたします」
「では、わたしは帰る」
「ありがとう。さようなら、ルー」
こうしてルーは帰ってゆき、チッタの口は最初から何もしゃべったことがなかったかのようにぴたりと閉じてしまいました。
傷だらけで失神しているチッタとメンケン氏、おまけにルイーズを残して、このどたばたの一日は終わったのでした。
後日談となりますが、小さなチッタはやはりミイラにされて一歩も動くことならず、一週間ほど寝込むことになりました。霊媒の常として、ルーが、霊なのかチッタの別人格なのかはおくとして、出てきていた間の記憶がまるでなく、全身の傷や痣を知り、自分に何が起きたのか分からず驚き、まあ驚くより前に激しい痛みが全身を襲っておりますので、とりあえず泣くばかりでした。はじめの二、三日は熱を出してベッドの上で唸るだけで、ある種責任を感じていたルイーズがかいがいしく看護をしておりました。同僚に対してうち解けないところが多々あったチッタでしたが、ルイーズが母親のような優しさを発揮して、食事はスプーンで一口ずつ口に運び、包帯の取り替えから下の世話まで献身的にやってくれたことに感謝して完全に心を許したようでした。
十日もたつとチッタはほぼ元通りになりましたが、驚くべきことに無惨な傷を残すであろうと思われた肌には一筋のあともなく、それどころか以前は弾力に欠ける不健康な肌の色だったのが、今や生気にみちあふれ、匂い立つようなすべすべの、まさしく人生でもっとも生命力に満ちている時期の肌となっておりました。チッタの言うところによれば、偏頭痛も生理不順も何故か消えて無くなり、断然快調だということです。身体の滞りやしこりが解消し、毒素も排泄を促されると、心の方もリラックスし解放されます。陰気で不平屋、ともすればぶすりとしがちだったチッタは、ヴィヴィッドで気遣いの優しい少女に生まれ変わってしまいました。
性奴隷を調教しにきて逆に自分がたっぷりやられてしまった妄想が倒錯したメンケン氏も、うまく行っておれば、今頃は体調良好になり、膨らみ切った末、腐敗しかけていた妄想もきれいさっぱり洗い流された真人間になっているかも知れません。
とはいえ語り手は、これがSM行為の画期的な効果であるとは決して申しません。私はルーと混在して思ったことを語ったに過ぎないのです。これをお読みの方が病気治療にSMを行って、病気を悪化させても当方いっさい責任を負わないものであるとお思いくださるよう。
さらに後のことになりますが、ほとんど少年のような身体であったチッタが、いつの間にか丸みを帯びたふくよかな身体に変わっているのに気が付いたのも驚きでした。背は伸びませんが、平板だった胸もささやかに隆起し、臀部はぽっちゃりとなり、女性的な肉《しし》置きに近付いているのでした。結果的にチッタにはいいことが多かったということにしておきましょう。一つ気になるのはチッタとルイーズがなんとなく同性の友人の度を超して仲良くなっているらしいということです。
ルイーズの献身的な看護にチッタが感激して、親友となったところまではいいとして、今や、どうもそれ以上の雰囲気があり、言うなればしょっちゅうべたべたしているのを見かけます。SM行為には固着性と依存性が阿片なみにあると申しますから、チッタとルイーズが夜な夜な互いを縛り合ったり鞭打ちを楽しんだりしているところを想像、いえ妄想いたしますと、いささか心配ではあります。まあしかし二人がレズビアンでかつSM行為を楽しむ関係となったとしても、語り手にはどうしようもないことですし、またそれが事情というものです。
さて、紳士とメンケン氏は一晩休むと出発なさいます。メンケン氏はチッタ同様あちこちに包帯、絆創膏だらけであり、見るもつらそうな状態なのですが、メンケン氏がどうあっても帰ると主張なさり、
「変態どもめが、地獄に堕ちやがれ。もう一秒たりともこんな罰当たりなところにはいたくねえ」
という心境らしかったので、紳士が馬車に荷物のように放り込み、無理を押しての出発となりました。
屋敷の主人と私とフイニーが玄関に出て、紳士たちを見送りました。そのさい私は好奇心を抑えがたくなり、紳士にそっと近付きました。
「お訊きしたいことがあるんですの」
と言いました。
「どうぞ」
「あなたが性奴隷の調教にチッタを選んだのは、この前の続きをするためだとばかり思っていました。そうでもなかったようですね」
「いや、この前の続きをやったのかも知れませんよ」
「結局、あなたは何故ここにいらっしゃったんですか」
「それは、もちろんチッタ嬢に会いに来たのさ。あの男の妄想の果てを見届けたかったからというのも理由だけどね。ぺつに性奴隷とかSMだとかに格別の興味があったわけではない。あの日、私が散歩をしていると、この男が大きな妄想を抱えてせかせかと現れて、この屋敷に向かっている途中だった。まるで約束の時間に遅れそうで、ひどくせかせかしているおかしなウサギみたいにね。私は語り手だからすぐに分かった。チッタ嬢がそこにいることもね。私は後をついていった。すると不思議な屋敷に連れてこられて、不思議な人たちに会い、自ら不思議なこともした。この屋敷の噂は以前から聞いていて、興味があったのは事実なんだが。私はおかしな国に連れて行かれても、そこに可愛いちっちゃな女の子がいれば基本的に満足だという人間なんだ」
紳士は、語り手の同類らしく、そうお答えになりました。
「あなたは切り裂きジャックなのですか」
紳士は微笑を浮かべてわずかに顔を左右にしました。無粋な質問でした。妄想を扱える者である以上、そういう質問に答えるのは気が進まないのです。
「お名前をお聞きしてよろしいですか」
「それくらいならね。申し遅れ過ぎてはいるが、チャールズ・ドジスンというんだ。今度は君が私の視界に飛び込んで来ることを期待しているよ。ではおじゃまいたしました」
ドジスン氏は、わめくメンケン氏を叱りつけると、馬車に乗り込み、窓から手をお振りになりました。
その馬車がどこに帰るのかは、語り手は存じません。
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Circumstance.4 Marriage with a succubus
あのころの面影はかすかに残っており、確かにその人物はアーサーでした。以前会ったときには思春期特有の妄想を抱いていた彼も今や二十代も後半、背も一段と伸び、日焼けした顔に髭をたくわえて、若き紳士然としておりました。
アーサーは長い間インドを拠点とした東洋の地に暮らしていたと申します。いちおうブラントン家の会社経営を任されていたとは言いますが、放蕩と仕事の区別のつかないような日々を送り、当然のどとく経営悪化、会社を売り払う羽目に陥ったという、本人はまるで気にしていない仕儀、その後もかの地にとどまりました。昨年に父君のブラントン卿が亡くなられたので急ぎ戻り、家督を継いだので、目の前の青年は大英帝国に、押しも押されもせぬアーサー・ブラントン卿となったのでした。
「君に最初にあったときから十何年もたったというのに」
アーサーは、私をまじまじと見ました。
「あなたはちっとも変わっていない。あの夜、君に手ほどきを受けた記念すべき日以来、僕の心から君の面影が消えることはなかった。これからも永遠に消えることはないだろう」
「永遠などという言葉は滅多に使うものではありませんよ」
「ああ、その話し方も同じだ。再び会えて嬉しいよ。再会を神に感謝しよう。ところでどうしてズボンなんかを穿いているんだい。乗馬でも始めたのかい」
「けっこう好きなのです。このところずっとこの格好です。男のような姿をしていると妄想者を引きつけにくいということも分かりましたので。私を女だと見てくださるお客様はあなたくらいなものですよ」
「馬鹿な。そんな見る目のないお客どものことなんか気にすることはないよ。君は永遠の女性であり、いつまでも美しい」
「……また新しい妄想をお育てになったのですか」
「手厳しいね。僕も責任も義務もある大人になったんだ。妄想なんてものからはとっくに卒業したさ。いいかい、驚いてくれよ。今日僕がここに来たのは君に結婚を申し込むためなんだ。君を迎えにきた」
「私は語り手ですよ」
「そう言うと思ったよ。だけど問題はないだろう。頼むから拒まないで欲しい。君を花嫁にしたい。父も母も亡くなったし、君にどんな事情があろうと関係はない。がらんとした屋敷にたった一人で暮らす孤独さも、最初は悪くはなかったが、もう飽き飽きしている。寂しいんだよ。身を固める時期が来たと感じたんだ。どうか僕と結婚してくれないか」
「あなたほどの方なら、引く手あまたでしょうに。良家のお嬢様方が今この瞬間にもあなたのことを噂しているのではありませんか」
「関係ないよ。僕は君を選びたい」
アーサーの表情は、冗談っぽさのかけらもない生真面目なものでした。これが今回のアーサーの妄想なのでした。この屋敷には妄想を抱えた人間しか立ち入ることは出来ないのです。屋敷の主人はそういう人間しか招待いたしません。そしてそんな屋敷で語り手をしているのが、この私の語り手の事情なのです。
結婚が最大の妄想と成り得ることは、未だ結婚していず、夢見る乙女のように憧れている者にとっては承服しがたい可能性であるかと存じます。確かにここ二千年ほどの間、結婚が無数に繰り返されてヨーロッパの文明を維持してきた歴史を考えれば、妄想と決めつけることはいかがなものかと物言いがつくでしょう。しかし、結婚はあくまで制度にすぎません。自然に存在したものではないのです。
結婚は一神教の神が根拠を与え、それを信奉する圧倒的多数の人々の社会内の合意のもとに成立した契約であって、人工物なのです。人を殺してはならぬ、盗んではならぬ、欺いてはならぬ、目には目を、といった太古の法律の妥当性や人々を納得させる蓋然性の高さに比べると、結婚という法制度が如何に作り物であり、倫理的に疑問があるかは一目瞭然というものです。そもそも神自体、結婚せねばならぬ、などと命じていないのです。「聖書」をひもといても分かることです。姦通、不倫、売春など婚外の交捗が人類史において神話的に不滅であり、現実に政府も社会もなんとなく仕方のないもの、必要悪的で当たり前のものと認め、あまつさえ一種のロマンの構成要素とまでなっているのがその証拠といえましょう。この、史上最も清潔な社会であるヴィクトリア朝でさえ、その暗黙の合意がまかり通っているのでございます。
よって結婚は高い確率で妄想であると申し上げねばならぬ訳です。世界でたった一人の相手と巡り合い、婚姻し、同じく年月を経て二人を死が分かつまで、手を握っていることの出来た夫婦は、その妄想を引きずり上げて現実的想像のレベルにまで高めることが出来たのです。離婚せずにすんだ二人は、力強いカップルということが出来ましょう。我が国にはヘンリー8世のように結婚離婚がらみでローマンカソリックに楯突いて、教会を自前にしてしまったという歴史があります。そもそもが結婚に妄想をもたない国民性なのかも知れません。これまで、つまり十九世紀末までは斥力を必死に殺し、引力を保ち続けた夫婦のほうが多数を占めていたかも知れませんが、自然科学の進歩により神の拘束が緩んでしまった今後はそうはいかないでしょう。
科学や産業の進展、帝国主義は妄想を精神的に抑圧することの出来た神の力を弱めてしまい、結果的に妄想に拍車をかけることになりました。結婚制度に自分を押さえつける根拠がなくなったと感じた人々は、また新しい妄想を解き放つでしょう。それはポリガミIを基礎とするものであるかも知れませんし、極めて個人主義的な合意のもとにする短期の関係かも知れません。要するにDNAやレトロウィルスが生殖のために示すヴィジョンは今世紀までの法的根拠を無効にして、より活発な展開を模索することになるでしょう。結婚が別の形を取って自然なものになると申し上げているのではありません。今の結婚とは違った形の妄想がまた生じることになるということです。
蛇足ながら、解き放たれるのは、結婚妄想に限りません。様々な妄想が解き放たれる前兆がすでに多くにあり、このヴィクトリア朝も一つの典型として、それに与っているのです。例えば一瞬にして一つの国を蒸発させるというような、神話や妄想のたわごとの中にしか存在しなかったおそろしい殺戮の新兵器は正確に想像されて、現実世界にその姿を現す日が遠くない将来に来るかも知れないのです。それが妄想というものなのです。
ブッディズムの達人は現実は夢幻であると断じております。ウォルター・デ・ラ・メアは、「現《うつ》し世は夢 夜の夢こそまこと」
と言いましたが、こんな屋敷で語り手をしている者に言わせれば、
「現し世は妄《みだり》 夜の夢よりも妄」
ということになりましょうか。
アーサーはなんとなく疲れているように見えました。二十八、九の男性ですから、疲れなどというものは眠る前にたまに感じるちょっとした気のせいでなければならぬはずです。それでも疲れて見えるということは、病気を疑わねばならぬところでしょう。私が遠回しにそれを言うと、
「僕は生まれてこのかた健康優良児で、病気なんか一度だってしたことがない」
と答えます。
「ですが、私にはお疲れのように見えます」
「もしそう見えるのならば、病気なんだろう。つまり恋患いさ。君が結婚を承諾してくれれば一瞬にして治るだろう」
「本気で言っておられるのですか」
「もちろんだとも」
「私は語り手ですわよ」
「またそれか。何か不都合があるかい? この世界には語り手が存在する。知っているよ。僕はこの十年の経験ではっきりと分かっている」
「ならばくだらないことをお考えにならないように」
「どうして君は僕が何か言うたびに無理難題を吹っかけられたような顔をするんだい。語り手を好きになったら何かおかしいのか」
「語り手は動かぬものだからです。語り手である以上私は動くことがかないません」
「それはべつに法則じゃない。君の意向だろう」
「語り手の事情から申しております。例えばエミリー・ブロンテの『嵐が丘』には二人の語り手が登場いたします。ロックウッドとネリがそうです。彼らは動くように見えても動きません。それを望まれていないからですが、あの世界を一人で語ることは出来ないからなのです。もし二人一緒に語れば時空がおかしくなってしまいます。つまりそれが彼らの事情なのです。あの語り手は目の前のものごとを語り、激しい思い出を語るために二人が固有の位置を占めねばなりませんでした。私はこの屋敷にいて一人語る語り手です。時空を歪めるような馬鹿なことは出来ませんし、そんな力はありません。私には移動も分身もしない事情があるのです」
「小説を例にあげるのなら、語り手がすべてを引き受けてまるで主人公のように立ち振る舞うものも少なくはないぜ。よく動いている。主人公が一人称で語るのなら、それは要するに語り手じゃないか」
「違います。語り手は主人公ではないのです」
「何故だい」
「あれは主人公であって、厳密には語り手ではありません。性質とか範疇が初めから違うのです。物語とは語り手が動かぬ位置にいて、人々に語るから生じるのです。人類が言葉を持ったときから、石器時代のずっと前からそうだったのです。語り手は、焚き火を前にして子供たちや、部族の若い衆に自分の物語ではない何かを語る老人と老女なのです。老人と老女はもう自ら動いて遠くへ行くほどの力はないのです」
「わからないな。君が奇妙な議論をして僕を煙に巻こうとしているとしか思えない」
「あなたは確かにこの十数年で語り手について勉強なさったようです。ならば私の言っていることはお分かりのはず。それが事情と言うものです。押して無理を言うのならそれはやはりあなたの妄想でしかありません」
「違うよ、それは。君は君の語り手≠ニいう固定観念に縛られているだけだ。そして君の固定観念に外れる厄介ごとを妄想と呼んでいるにすぎないんじゃないか」
「心理学者のようなことをおっしゃいますね」
「心理学というより本質的な教えだな。東洋というのは不思議なところでね。僕は東洋で何年か暮らすうちに、西洋世界とは違う観点から、違うものが見えるようになった。あっちにいて僕のようになった西洋人は他にもいるだろう。その目で英国なり君なりを見ればいろんなことが分かる。今僕に分かるのは、君は、おそらくこの世界では何であろうと語ることが出来る人だということだ。この世界の女神とは言わぬまでも、女神の侍女、そんな感じかな。君はそれくらいの力を持っているんじゃないか?」
「何とでも言ってください。いろいろなものには分際とか仕組みがあり、それが語り手の事情として立ち現れるのです」
「そんなことはいいんだ。人には誰しも分際も仕組みもある。僕だって心得ているさ。違うのは君が語る力を、もっていて振るうことが出来るということだ」
「分かっておいでなら、私への求婚は別の事情でしょう」
「まあ君にすればそうだが、僕のプロポーズを退けるのに、語り手であることを盾にとるのは卑怯だと思うね」
「何をおっしゃりたいのです」
「そうだな。さっきの君の言い方でいうなら、語り手でいる以上、自ら動けないのならば、君は語り手でなく主人公になればいい」
「何ですって!」
「君が主人公になればいいのさ」
私は、このアーサーの言葉に強い衝撃を受けたことは申し上げておかねばなりますまい。
のちになってみればどうということはない言葉なのですが、これほどショックを受けたのは、語り手は初めてのことでした。
「語り手に主人公になれと言うんですか」
「そうだ。そうすればまた事情も変わって、僕と結ばれるのも不可能じゃない。自分で自分の物事を語りながら動き回り展開させることが出来る主人公になればいいんだ。語り手が主人公にトラヴァーユしてはならぬという法はないだろう」
「語り手の事情はときとして自然法則に近いものなのです。私が主人公になるということは、リサイターがストーリーテラーに突然変異するようなもので、頭をひねって変われるものではありません」
「やってみなきゃ分からないだろう。自分を自分で限ってはいけないよ」
私は珍しく黙り込みました。私の中ではアーサーの提示した可能性に対する思考が目まぐるしく動いておりました。私は自分が主人公になるなどという考えを持ったことすらなかったのでした。
「そうにらまないでくれよ。僕はしばらく逗留するつもりだから、それまでに君の返事を聞かせてもらえればいい」
アーサーはにっこり笑うと、ルイーズに客室に案内されていきました。
私はアーサーをまだまだ坊っちゃんだと甘く見ていたのでしょうか。確かにそうかも知れません。彼は以前の思春期の妄想に悩めるアーサーではないのです。語り手である私にショックを与えることが出来るほどに成長したアーサーがいるのです。これが今回アーサーの持ち込んできた妄想だとすれば、とてつもなく手強いものと思われました。
そしてもう一つ重要なこと、敢えてアーサーには質《ただ》しませんでしたが、語り手にはアーサーに女がいることが感じられたのです。アーサーにはひきずる濃厚な女の影がありました。アーサーは気儘な独身暮らしをしているわけですから、関係のある女の一人や二人いても当たり前のことではあります。ただ不思議なのはアーサーには自分に恋人がいるという自覚が皆無であることでした。もしそれに気付いているのなら、いけしゃあしゃあと私に求婚するような厚顔な真似は出来ないはずです。腑に落ちない点ではありました。
アーサーが訪れて二日目のことです。
「じゃああなたが考える、人間が生きているとはどういうことでしょう?」
とアーサーが尋ねますと、屋敷の主人はもったいぶるふうもなく答えます。
「それは生産性だね。生産性を示せること。私のような頭でっかちにでも人の役に立つことは出来るのだ。この社会に貢献する喜びに充足を感じるよ」
夕食後のひとときですが、これは珍しいことでした。常なら屋敷の主人は客人の話を穏和な表情で聞くだけであり、自分の意見など口にすることは、相づちを打つ程度以外は、ほとんど記憶にありません。それがこの晩、アーサーを相手にした主人は何の気まぐれか、アーサーの土産の東洋のライスワインセーシュ≠ェことのほか旨かったのか、話に興じているのでした。異変と申し上げてもよいほどのことです。
「人が生きているうちにある何かをつよく心に抱く。それを希望、夢、欲望そして妄想となんと呼んでもいい。私はもはやそういうものを持ち得ない年齢となったが、書斎にいて時々下りてきて君のような人々の話を聞いている。妄想を持ったような気になるためにね。この屋敷を維持することは、私のような枯れかけた人間が生産性を保とうとするために必要なことなのだよ」
「書斎とこのリビングがあなたの場所なのですか」
「そうだな。必要なものはたいてい書斎の机の上や引き出しの中、本棚にある。対外的には必要とするだけの収入はあるし、食事その他はメイドが見てくれる。若い頃は毎日のようだった血気を沸かせる色事も決闘沙汰ももう必要がなくなった。知識を広く浅く収集する努力も、気乗りがしない。私が生きるためにはもう生々しいものは必要がないということなのだろうな。体も心もそれを欲していない。私が生々しいものに接触するのはかえって毒となろう。私が招く客はときに生々しい話をするが、許容範囲の生々しさというところだね」
「でも生々しさから隔離されていて、現実に何かを生産することが出来るのでしょうか?」
「出来ると断言はしないが、生産性は維持されている。げんに私はそうしており、だから生き続ける甲斐があるわけだ。アーサー君、君のような青年には分かるまいがね」
「それは」
とアーサーは、客気に満ちた表情で言葉を探しておりました。
「それはミスター、あなたはお年を召してしまっただけではありませんね。生きていることから故意に目をそらしてらっしゃいます」
「どういうことかな」
「人間が生きているとはセックスをするということです。年齢など問題ではなく、ましてや社会への貢献など。生産性の根源はじつに生々しいものですよ。そしてセックスだけが生なのです」
「アーサー君、それは君の意見として分かる。人間の一時期、そういった生産性に夢中になる時期がある。私だとてそんな時期があった。だがそれをすべての営為の解答にしようなどと考えるべきではないな。先走ったことを言って、後悔先に立たずとなりはしないか」
「ノー! セックスだけが紳士も淑女も、仕事帰りにパブで気炎を上げている工場の人夫も町のお針子も、これからは逃れられません。みなセックスとともに生き死にする生き物なんですから。植物も動物も細菌に至るまで地球に存在するものはそれから逃れることは出来ません。当然ながらヴィクトリア朝に生きる英国人も、どこにも例外はありません」
あまりにも鼻息が荒かったことに自分で気付いたアーサーは、手で額を押さえて失礼しましたと言いました。
別段主人は気にした様子もなく、
「今日はこのくらいにしておこう。君は確かに生々しいから、私を疲れさせる。失礼させてもらうよ」
屋敷の主人は壁の大時計にちらりと目をやると、ステッキをついて立ち上がり、チッタに添われて二階に上がっていきました。
残ったアーサーは私に何か話しかけようと致しましたが、私の顔を見てとうてい返事をしそうにないと思ったのか、会釈をして立ち上がりました。その時、アーサーは足下をふらつかせました。
「酔ったかな」
とアーサーは、椅子の背に掴まりながら言いました。私も立ち上がっており、アーサーを支えるべく腕を伸ばしました。
「大丈夫、大丈夫」
とアーサーは陽気に言います。私は、昨日よりも明らかに皮膚の色の悪いアーサーの顔を見ました。目の下にうっすらと隈ができていました。
アーサーは私に、病気かどうかも訊かせぬうちに、自室に戻ってしまわれました。その背に私はまたしても濃厚な女の影を感じ取りました。
翌晩も、屋敷の主人とアーサーは議論を始めました。昨晩の続きから始まったもののようでした。
「その手の論理を展開する人間は珍しくはないね。私の知り合いにもいる。だがほとんどの場合、それはコンプレックスの裏返しだよ。さもなくば色情狂か。セックスを自分の人生と引き替えにしかねない性豪、女たらし、神秘家。カザノヴァや無名のウォルターたちは懲りることなく女を求めてヨーロッパを放浪してきた。その晩年の悲惨は、君も知っていよう。忠告しておけば生産性と生殖性を混同せぬことだ」
「それは僕だって心得ていますよ。性は常に堕落と妄想、飽和と失意と絶望の危険を孕ませている。しかし様々な文化に触れて僕の考えが変わった上で言っていることなのです。すでにバートン卿やエドワード・セロン氏たちがこの地に紹介した『カーマ・スートラ』『ジャルダン・パルヒューメ』『スー・ニュー・テン』『チベット・タントラ』こういった性愛学《エロトロジー》、性愛術《コイトロギー》の書が生み出された背景にあるもの、それにわずかながら触れてきた僕としては考えをあらためざるを得ないのです」
「その、背景にあるものとはなんだね」
「生産性は生産性でも、底なしの生産性と言いますか。ヴァイタルなんていう言葉では言い表せない力ですね。セックスは底なしの生産性が人間に生々しく表れた一つの状態でしょう。それに触れれば人間が変わってしまうほどの異常に強烈な生産性です。太古のときから営々と続く豊饒儀礼に直接的に結びついている大地と天への信仰、生殖信仰、性器崇拝の力。古代人はそれらを具体的な姿形で、妊娠し乳の張ったヴィーナスの像、交合する歓喜神、究極の原理としての両性具有の神々を崇め奉った。その古代より連綿と続く強烈無比の性愛の力が東洋にはむっとするような濃密さで活きています。
おそらく大昔のヨーロッパにもそれはあったはずなのです。無慈悲な中東の砂漠で発生した潤いのない教えがヨーロッパを支配したとき、ヨーロッパにおける性愛の生産力は圧迫を受けて姿を隠してしまった。キリスト教の文明はその力を罪悪と見なし、世界から葬り去ろうとした。そして残ったものは神の愛、騎士道主義に名を借りた表面の清廉潔白と、ご主人様や奥方様たちの生命力に満ちているとはおせじにも言えぬ、ちんけな不倫とお楽しみでしかない。その裏面には魔女呼ばわりされて凶悪な暴行に殺された者たちが死屍累々。豊饒とも生産性とも無縁で殺伐として渇いた世界、残念ながら英国もそうなっている。ですが、英国はインドを得て、また中国に植民地を得たことで、その力に接触する機会を得たのです。
一神教に拘束されなかった多くの文明はこの底なしの生産力を、生産性を追求することが出来たのだと思うのです。そのかわりなのか、東洋は産業革命も民主主義も生み出しませんでした。言い換えればヨーロッパにはこの力が欠けていたからこそ、別の力の発達を必要としたのだとも言えるのではないでしょうか。紡績機、蒸気機関、化石燃料から巨大な生産性を引き出す技術力のことですよ。東洋人はそういった力による人工の生産性をあまり必要としなかった。
いずれ我々は電力が都市を覆い尽くし、次には原子核と電子の間にある力まで引きだそうとするでしょう。それもこれも普遍的に存在しているはずの生々しい生産力を一神教が圧迫し、ヨーロッパ人が見失ってしまったからです。そしてこのヴィクトリア朝のようにやたらに生々しさを覆い隠すようなこともそれゆえであって、性愛妄想、性的倒錯がはびこり始めたのも期を一にした状況だと僕は思っています」
「興味深い文明認識だが、単純すぎるきらいはある。だが君の若さでそうまで言い切るにはよほどの体験と思索があったことだろう。ときに君は今言ったばかりの君の文明論が妄想だとはつゆ考えておらんのだろう」
「いいえ、それは僕にも分かりません。東洋にだって妄想は発生する。生産力が底なしの分、発生する妄想も巨大なものとなるでしょう。かの地の宗教には宇宙をも覆う妄想が確かにある。また性愛を教義上の要とする宗教がどれほど堕落しやすいかもこの目で見てきております。性愛術はすぐさま性魔術となり、その力は媚薬のように相手をたらし込み支配するべく使われ、狂気じみた執着を発生させることもあります。西洋の近代に生み出した力と東洋の古代より連綿とある力は相対的、相補完的なものなのかも知れないのです。力がネガティヴに働いたときに人間に与える惨状は西洋でも東洋でもどちらも同じです。
ただ東洋にある力、生産性は少なく見積もっても八千年の歴史を誇っていますが、その生命力の長さに比べれば西洋の新しい技術力、生産性はまだ生まれたばかりの、はいはいも出来ない赤ん坊のようなものです。新しい未知のものには可能性があることは否定しませんが、伝統がないということは実践が繰り返されていず、安全弁がなく、どこまでがほどほどなのかがまったく分かっていない危険性を潜ませているということでしょう。東洋の力は長い年月を経て安定性と安全性を持ち、妄想に巻かれる危険を何度と無くくぐり抜けているのでその対処法を知っている。少なくともその実践により、接し方、使い方を確立させているわけです。しかし西洋の力は使用法も安定していないし、その使用歴も一世紀を経ていない。どちらがより危険な力かといえば西洋の力というしかありません。西洋の新しい力は、素晴らしいものかも知れませんが、すぐさま妄想に巻かれる妄想的性質の高いものであり、この力を馴らして使いこなすのにまた八千年かかると思うと、ひどく恐ろしくなるのです」
その後、アーサーは自分のアイデアを補強すべく、イシス秘儀やエレウシス秘儀について長々と述べ、ヘルメス学やディオニュソス祭祀に言及し、アイルランドのケルト伝承を語り、ケニヒス・ベルガー、キース・エドワデルセン、エリファス・レヴィ、マクレガー・メイザースらが東洋の影響から性魔術を再興させようとしたことを論評いたしました。十年の歳月はよく言えば想像力豊かだった、悪く言えば妄想っ気のあった少年をこれほどの博識にしてしまうのです。こういう奇怪な知識を得るためにアジアを飛び回っていたというのなら、店を潰してしまうのも当然かと思われます。
ただその偏った博識ぶりはそれもまた妄想を育む温床となりかねないのです。既にアーサーは東洋的性理論を下敷きに巨大な妄想体系を構築している恐れがないではありません。世界を包み込むほどの妄想、妄想もこのくらいの大きさになると外から見ただけではそれが妄想かどうかなど分かるものではありません。
そもそも人間の社会自体がある種の妄想の共有によって成り立っているわけですし、教会や科学は妄想を社会に固定させる定着剤であるのかも知れません。詩人や幻視者が見る世界もまた然り。自然主義者だけが現実を語っているというのは非現実的な物言いです。現実に語り手が語るこの世界すらも、その疑惑から常に逃れられないのですから。
屋敷の主人はアーサーとの会話に疲れてきた様子でした。昨日に続いて日頃しないことを長い時間行っているのですから、身にこたえることでしょう。語り手が察するに屋敷の主人はこれまでとは異なった何か重大なことをアーサー自身か、アーサーの話の中に感じたのでしょう。ただの聞き手ではいられない何かがあって、語り手とは言わぬまでも、会話者くらいにはなる必要があったのだと。
「続きは明日にでも聞かせてもらおうか。アーサー・ブラントン卿、君は面白くも恐ろしい問題に足を突っ込んでいる。分かっていないのかも知れないがね」
そして屋敷の主人は暇を乞い、書斎に上がって行かれました。
この主人も、まさにこの屋敷を造った理由である、強烈で巨大な妄想を抱いていることを私は知っております。ですが、この主人のよいところはそれを人に押しつけることを一切せず、それどころか他人の妄想を興味深く聞き、観察する余裕さえ持っていることなのです。私が長くここにとどまっているのもひとえにその主人の性格によるものなのです。
アーサーは主人が去ってもしばらくソファを立ちませんでした。というより立てなかったようなのです。今日はそんなにお酒を召したわけでもないのに、足がふらつき、昨日よりも辛そうでした。私はアーサーの肩を支えて部屋まで送らねばなりませんでした。
「やはりお体の調子がすぐれないのではないですか」
と私が訊きますと、
「大したことはないよ。確かに疲れはあるのかも知れない。家を継いでからいろいろ忙しかったからね。だけど病気なんかじゃない」
とおっしゃいます。
「それならばよろしいのですが」
「心配してくれるのかい」
「お客様ですから、当然です」
「ねえ、君はどう思う。さっき僕が言ったことについて。やっぱり妄想だと決めつけるかい?」
「正直に言えば、その区別が付かずに困っております」
「ははは」
「でもその東洋の性の力とやらのためにさぞかし各地のご婦人方とおつきあいなさったのでしょうね」
私は少々棘のある調子で言いました。普通はこんなことはないのですが、私も少し調子がおかしいのかも知れません。
「嫉妬してくれているのかい。もしそうだったら嬉しいよ」
「語り手は嫉妬などいたしません」
「嫉妬する語り手がいたっていいじゃないか。君には言っておこう。誰一人としていない。ゼロだよ。誓ったんだ。僕はね、あのとき君を抱いて以来、他の女には指一本触れていない。何故なら僕の女は君だけだとあのときに決めたから」
「にわかには信じられませんね」
「真実は真実だよ。結局、自分の成長を望んでビルドゥングスロマンばりに遍歴したのは、君にふさわしい男になるためだったんだ。遍歴といっても彷徨《さまよ》っていたわけじゃない。目的ははっきり分かっていた。そして今の僕の欲するものは君だけだ」
性欲盛りの若い男がたとえ愛する女がいたとしても、十年以上も女の身体に触れずに済ませられたとはとうてい信じられませんので、私は聞くだけにしておりました。アーサーが東洋や中東の美女たちを手当たり次第にしていたとしても語り手がどうのこうの言う事柄ではございません。ただそういった嘘をついたことに関して私はいくらか気に入りませんでした。
だいいち、アーサーは屋敷に来て以来、ずっと女の影をまとっております。この屋敷の外にはおそらくアーサーの帰りを待ちわびる恋人か、ことによると妻がいるに違いないのです。そんな人がいながら妄想を膨らませて私に求婚するなど、なんとも腹立たしいことです。いえ、決して嫉妬のようなくだらない感情からではない、と思いますけれど。
部屋の扉の前に来て、アーサーはじっと私の瞳をのぞき込みました。私は常ならぬことに心臓の鼓動が早くなっているのを感じました。アーサーが抱きしめて口づけしてくるかと思いきや、礼儀正しくお辞儀をして扉の中に消えていきました。語り手はすかされたような思いを抱いて、おやすみなさいましと返事をするのも忘れて、自分の部屋に戻りました。
その晩、脈打つ、火照るような身体である自分を意識しました。私がアーサーに恋心を抱いているなどと考えるのは馬鹿げたことでした。それでもなかなか寝付かれません。私は、何年ぶりのことか、自ら妄想をつくりだしてそれに呼びかけつつ自慰をいたしました。始めますと何故か身体が激しく動きだし、身をくねらせ、異常なほど興が乗るのを覚えました。私の性器や乳首に指を遊ばせ、身悶えしながらベッドの上を振転とするなど、本当にいつ以来のことだろうかと記憶を探したことでした。
私は明らかに変でした。二度、三度、四度、五度と、なんとか自分の身体をなだめるようにオルガスムスを発生させたのですが、それでもまだ身体がむずむずしておりました。異常を感じはしましたが、我慢して目を閉じているとやがて眠りに落ちることが出来ました。
そして、その夜の夢の中にアーサーが登場いたしました。
「主人公になればいいじゃないか」
私は語り手の事情も忘れて、アーサーと抱き合ったことを覚えています。その私は男性でも女性でもあり、アーサーに犯されたり、逆に犯したり、どちらの場合でもたいへん快く満足いたしました。たんにウェットドリームというにはたいへん奇妙な感じがいたしました。自分が語り手である、ということを思い出すと、私は女性に落ち着いてアーサーの腕の中におりました。
翌朝、私はどうにも身体が気怠くてなかなかベッドを下りたくありませんでした。昨夜の夢でのアーサーとの交わりのことを出来る限り思い出し、反芻しておりました。
(私がそんな夢を見てどうするの!)
語り手は他人の奇妙な体験談を語りますが、自分で自分の体験談を語るようなことには興味がないはずなのです。
私は夢の記憶をいい加減に振り切って、起きあがりました。身だしなみを整えて階下に下りて行きますと、待っていたようにメリッサが駆け出して来ました。
初めてのお目見得となりますがメリッサは新しく屋敷に雇われたメイドです。歳は十七でメイドの経験は十分にあり、即戦力として周旋屋から派遣してもらったものです。周旋屋の親父が持ち上げていたほどの即戦力ではありませんでしたが、来てからまだ一ヶ月なので、やっとこの屋敷でのメイド暮らしに慣れようかという時期です。
前の立派なメイド頭だったフィニーが良い縁を得て屋敷を辞することになり、補充のメイドが必要となったわけです。別にメイドたちはこの屋敷に借金のカタとか暗い理由で強制拘束されているわけではありませんので、フィニーは円満退職し、先日届いた手紙によると最愛の夫と生まれたばかりの子供とコーンウォールの農家でのんきに暮らしているということでした。
メリッサは亜麻色の髪をした、整った顔をした女の子ですが本人は鼻の上と頬に点々とするそばかすをとても気にしているようで、二十までには無くしたいという望みを持ち、暇があれば鏡を覗いてそばかす消しに効果があるというハーブオイルを塗布することに余念がありません。またメリッサはある事情から「第一の存在メリッサ」と呼ばれたりしており、これが興味深い事情なのですが、それがどういう事情なのか今から語るのは長くなり無理ですので、次に何か機会があれば語ることに致します。語り手が一つの場所で語れることは限られており、多くのエピソードは語られぬままに収納されてしまうのが常なのです。語り手は適切なエピソードを適切なときに適切な長さで語る責任を負わされているのでした。
さてメリッサはあわてておりまして、私を捕まえると、まくしたてました。
「あの、大変なんです。ブラントン様の部屋に朝食のお知らせに行ったのですが、あの、いくらノックをしてもご返事がないのでわたし、どうしようかと思って、すると鍵は開いていましたから、中に入ってみたんです。そしたらへンなんです、なんか、あの」
「アーサーがどうかしたの。慌てずにゆっくり言ってごらんなさい」
「シーツがぱっとなってて、その」
「見たことを簡単に言いなさい」
「はい。簡単に言いますとベッドからお落ちになられて、あの全裸でいらして」
ここでメリッサはぽっと顔を赤くしましたが、私は不安が高まっていて、叱るように続きを促しました。
「寝てるというのか、唸っておいでなのです。なんか病気みたいで」
私は最後まで聞かず自らアーサーの部屋に向かっていました。メリッサは私の後をちょこちょこと追って参ります。
アーサーの部屋にはいるとまずことに男性の特徴のあるザーメンのにおいが鼻をつきました。アーサーはシーツをぐしゃぐしゃにして、床の上に寝ころんでおります。確かに昨夜に増して顔色が悪く、いびきとも唸り声ともつかぬ音を気管より発しておりました。私は動転しかけた心を抑えて、アーサーに近付き、名を何度か呼びましたが返事はありません。
「とにかくベッドへ」
と私は言い、メリッサに手伝わせてアーサーをベッドに戻しました。ぐしゃぐしゃになっているシーツを拾い上げますと大量の精液が付着しておりました。まさか一晩中気を失うまでマスターベーションを行っていたとも思われません。が、証拠は証拠です。
結核の患者は健康人以上に性欲が昂進するときがあると聞いたことがありますので、まずそれを心配しました。昨日のことを思い出しても、アーサーが結核かどうかは分かりませんが、どこか疲れた様子が見て取れたのは確かでしたから、何らかの病気である可能性は高いでしょう。
そうしている間にもまたアーサーのペニスがむくむくと勃起し、薄い汁をだらだらと流しました。こういうものを見たことがないのか、メリッサは手で口を押さえて目を丸くしております。白濁の水っぽい粘液を情けなく弱々しく吐き出した先端は、びくびくと震えつついったんは小さくなるのですが、半立ちの状態で待機いたします。間欠泉のように次の噴射を待つかのようです。
そのときメリッサが言いますには、
「じつは昨日も、その前の日も、ブラントン様のシーツを取り替えようとするとき、大きなしみが出来ていたのです。同じ匂いがして。おねしょじゃないとは思ったのですけど」
とのことでした。メリッサが言わなかったことを責めたりするつもりはありません。もし報らされていても、恥ずかしい理由を付けて納得してしまったでしょうから。
語り手には医学知識などは、とくに必要があるとき以外は、ありませんし、またこれは通常の病ではないと直感的に分かりました。
「メリッサ、チッタを呼んできてちょうだい」
と命じておりました。
「え、はい」
メリッサはとととと廊下を遠ざかり、暫くすると、ばたばたと複数の足音で戻って参りました。
「何でしょう」
と、相変わらず背丈は低いものの、もうどう見てもローティーンには見えなくなっているチッタが言いました。
チッタは以前に比べれば、胸も尻も女性として魅力的に張り、凝脂ののった肌はにおうように艶やかで、すっかり大人の女らしくなっております。この屋敷の中でも時間は昼夜を舎《お》かず、流れているのです。語り手のみ事情があって加齢の変化を被りませんが、チッタもルイーズも既に十代のままではないのです。
「チッタ、ルーを呼んでちょうだい」
「ええっ、急にどうかしたの」
チッタは部屋の中に入り、ベッドの上でひくひくとペニスを痙攣させているアーサーを見ると一瞬驚いた顔をしました。了解したらしく、
「分かったわ。呼んでみるけど、ルーって気まぐれだから、来てくれるかどうか」
「とにかく、やってみて」
ルーはチッタが霊媒になって呼び出す精霊のような存在です。以前に性奴隷妄想に取り憑かれたお客様の相手をしたとき初めて呼び出したのですが、じつにしっかりとした頼れる母親のような存在でしたので、その後も厄介ごとが起きたとき何度か招いて助言を得たこともありました。
チッタにはその種の才能があり、ルーに自分の身体を貸すことが出来るわけですが、ルーが現れているときチッタはほとんど気絶状態なのでした。チッタ本人はそれが気に入らず、自分でもルーと話す何らかの方法、タロットカードやウィジャ板などを使っていろいろ実験していたのでした。それが功を奏して、ルーと切れ切れながら意思の疎通が出来るようになり、調子がよいときには気絶せずにルーと話すように口を貸すことも出来るようになっていました。何事も研究と努力ということです。チッタ自身ルーにいろいろとアドヴァイスを受けているようで、そのせいかどうかは知りませんが、人間的な成長の跡は見られます。ルーはチッタの守護天使のようなものなのかも知れません。
ルーが自ら言うには、得意分野は生殖に関するよろずごとです。またルーは一種語り手的存在でもあり、その意味では私と似ていて、物語の綾をいじったり操ったり無視したりする事が出来ます。ただ私とルーでは同じ語り手といえども、使える妄想や想像の分野や、力の大きさも大分異なります。語り手の質の違いは、見掛け上は語り手の語りが祈りに近いか、ストーリーテラーのそれに近いかによって異なるのですが、それはつまりはルーと私とではそれぞれの語り手の事情が異なるということです。
チッタは部屋の隅に椅子を置き、壁に向かって座り目を閉じております。なにやら呪文のようなことをぶつぶつと呟いてから、約五分後、チッタは椅子ごとくるりとこちらを向きました。ルーが現れていました。
「ルー、おはよう」
これはチッタの声です。
「朝っぱらから何事じゃ」
これはルーの声。ルーが宿るとチッタは威厳に満ちた態度となり、低く落ち着いた声を出すのです。しかし今日は同時にチッタも目覚めていて、御者が二人いる馬車のようなあんばいとなります。混乱を来しそうですが、外から見るほどには混乱はないとのことでした。
私の視界の中に文脈上、後で登場するとなるとルーはある程度遠慮して自ら語り手たることを控えるのです。
「ああ、ルー。来てくださってありがとう」
と私が言いますと、
「語り手か。どうしたのだ。いつものお前らしくもなく慌てているようだが」
「ほんと。慌ててるわね」
「私のことはいいのです。アーサーを、この青年を見てください」
「ふむ」
ルーは椅子ごとずずずと滑るようにベッドに近付いてきました。
「なかなかにハンサムだな。語り手、お前の男か?」
「違います。ただのお客様です」
「そうかな」
「語り手さん、顔赤いわよ」
「そんなことはいいですから、アーサーの病気を診てください」
「わかった。たしかにお前が慌てるのも頷けるような悪しき雰囲気がする」
この光景をメリッサは目を丸くして見ておりました。それもそのはずで、勤続一ヶ月のメリッサはチッタがルーを呼び出すのを見るのは初めてだったからです。
「あ、あの、これって、何なんですか。一人芝居?」
とメリッサが声を潜めて訊きますので、
「チッタはミディアムなの。ルーは私たちの友達というか、先生みたいなものなのです」
と教えました。
「ミディアムって、あの交霊会とかする、あれですよね。じゃあ今、霊が来てるんですか」
怯えたような顔をするメリッサに、
「詳しい話はあとでチッタにでも聞きなさい。今はちょっと黙ってて」
「は、はい」
メリッサはどぎまぎしております。碧い目がくりくりして、可愛い娘です。
ルーにウィッチドクター的な能力のあることはこれまで何度かの出来事で分かっておりました。ルーは普通の医者のようにアーサーに触れるでもなく、聴診器を当てるでもなく、ただ目を閉じてアーサーの呼吸の音を盗んでいるようでした。ルーによれば生き物のすべての情報は呼吸の中にあり、補足する情報は体内を流れる水分の音にあり、それを読むことによって内側で起きていることが判るのだということでした。これは地上で呼吸するもの、動物も植物も水棲類も、ぜんぶに通じるものだそうです。ルーは地球が呼吸する音を正確に聞くことが出来れば地球のこともおおかた分かると申しておりました。人間は鉱物が呼吸をしているとは思っていませんが、ほんとうは呼吸をしているのかも知れません。
ルーは、むろんその姿はメイドのチッタですが、おもむろに目を開いて言いました。
「精神的な性病というものだな。極めて妄想性の強いものだ。このままではどんどんやせ細り一月を経ずして死ぬ」
「いやだ。凄いたちのわるい病気みたい」
「語り手、お前が付いていながらどうしてこんなことになったのだ」
「付いてはいませんでした。アーサーは三日前、十何年ぶりにここを訪れたお客様です」
「そうか? 特別な女が付いているようにおもえたが。なるほど、その女が原因なのかも知れぬ」
「どうなんでしょう。治るのですか、いったい何が原因で」
「こやつおかしな考えに染まっておらなんだか」
「おかしいかどうかは私には分かりかねますが、長くインドや中国、アジア地域を回って、性的な力を研究したと語っておいででした」
「それは言うまでもなく変ね」
私はアーサーが昨晩、屋敷の主人相手に展開していた主張をかいつまんで話しました。語り手ですから要約するのは得意です。
「そうか。そこを女につけこまれたな。東洋やエジプト、アラビア、南洋にかぶれるのはかまわんのだが、こやつは極端すぎたのだろう。東洋だけがあけっぴろげだと思ったら大間違いだ。この地にも性の生産性はあふれ返っておる。ただ人間どもはあまりに鈍感になってしまっており、確かにキリスト教の抑圧の影響もあろうが、その力に無意識に気付かぬように振る舞うようになってしまった。そんな状態で性の力に賛意を表し、その力を謳うのは滑稽だ。無理したつけは欧州のあらゆるところに溜まって膿みかかっている。すべて人間があまりに鈍感になってしまったせいなのだ」
「ふーん。そうなの」
時々、小悪魔のように口を挟むチッタが少々しゃくにさわるのですが、チッタ無しではルーと話は出来ず、頼んでいる立場なのでここは我慢です。
ルーはまた目を閉じて、今度はアーサーの耳に口を近づけ、ぼそぼそと囁いておりました。そして、
「いるな」
と呟きました。
そしてルーは顔を上げると、何かを読み上げるように言いました。
「この地に無きものの意味を、現れて意味しつつ あるものを、語るであろう」
声の調子が急に変わって、いました。
ルーもまた自分の口を他の語り手、別の知識の源泉に貸して、口を通して話すことが出来るのです。この語り手の多層性こそが、語り手の事情の中核にある事情の秘密なのです。ルーの言葉はどんどん調子を変えていって、英語ではなくなっていきました。ほとんど異語と化しており、私にはまったく理解できなくなってしまいました。ルーの出身から推すに古代ケルト語である可能性が高いでしょう。
「ルー、お待ちください。お言葉の意味が分からないのですが」
すると異語を唱える傍らでチッタが口を開き、
「わたし分かるから翻訳してあげようか」
と言いますので、
「お願いするわ」
というしかありませんでした。
ルーとチッタは言語以前の認識で通じ合っているようなので、異語の同時通訳などという離れ業が可能なのでしょう。ただチッタは語り手ではありませんから、語る能力にはいくらか問題がありました。ルーが言葉を切って接ぐ間に、チッタが早口に言いました。
「えーっと、性のエレメンタルの誕生の話。せっくすれすを続けていると性欲ばかりが昂進しそのせいで性のエレメンタルがひとのすがたとなってあらわれて、うけいれればかわりにしてくれる。エレメンタルははめかたがひとよりじょうずで、とてもきもちがいいのである。そのためひとは他人にそうだんする気にならず、ますます妄想のさかいにおちてしまう。あげくは死んでしまうまでおぼれてしまう。性のエレメンタルのせいである」
ルーの言葉は詠唱のように続きます。間が出来るとチッタが翻訳します。
「もしひとが性のエレメンタルにみいられることをためしたいなら田舎の山間へゆき、朝から晩までただひたすらせっくすのことだけをおもいつづければいい。すると三日三晩ののちからだがきんちょうし、たちまち熱くたちまち寒くなり、まなこはくらみ、心はみだれておとこはおんなの、おんなはおとこのとてもみりょくてきなすがたを目の前にみるようになる。これを抱き、まさぐるならすみやかにまぐわいにうつり、その甘美なること人とのせっくすとはくらべものにならない。でもあまりにこころよいからといって溺れてしまえば日ならずして生命力をつかいはたして、エレメンタルに冥界にいざなわれる。ふせぐにはいくたび接してもエレメンタルに精をわたさないことにつきる」
どうやらアーサーは性的な霊的存在に魅入られており、それが原因でこんな姿になってしまったようです。
ルーの異語はまた高くなり低くなりだんだん耳に聞き取れるようになりました。
「わるいな。語れる言葉が英語にはなかったのだ。チッタめの訳はいくらか間違っているが、だいたいはよいであろう」
「性のエレメンタルとは、魔導士や錬金術師たちの物語に出てくるサッキュバスとかインキュバスとか霊の愛人≠フようなものなのですか」
「それはルーは知らぬ。実体のないもの、ガイスト、フェアリー、ガヴァリン、ぴったりの名前はない。性的なエレメンタルというのもしっくりこぬ。だからサッキュバスと呼ぼうが別に差し支えない。サッキュバスを招いてしまうのは人間に原因がある。この男は、性の力を信奉し、そのくせ、みずからは長い間女に触れることがなかったようだな。度を超した禁欲は妄想を固まらせる。
固まった妄想は眠れる者を麻痺させて、身体の上に乗りかかって息苦しくし、犯そうとする。|オールド・ハグ・シンドローム《鬼婆症候群》は昔からありふれたものだ。精力の流れが不自然になると起きやすい。たいていは夢精のようなものだから気にせず放っておけばいい。よいセックスをすれば治る。
だが不自然に禁欲する者の場合は一時のことではすまなくなる。固まった妄想は性の魔物を凝らせてしまう。乗りかかってくるたくさんの性の魔物がいる。どれもこれも危険きわまる快楽の権化であり、触れるべからざるものだ。いかに交わっても何も生み出さず、ただ浪費する。むかしは真面目な修道僧が多くこれらの餌食となってきたが、今の修道僧は不真面目だから餌食にならなくなり、代わりに妄想を育てる者が標的にされるようになった。ルーはこのような生殖に益無きものたちとは付き合わぬことを勧める。魔術師のように、自分の意志で霊の恋人としてそれを招こうとするようなあきれた輩のことは放っておくとしてだ」
「とにかく、ブラントン卿にはサッキュバスが取り憑いちゃってるのよ。ほんとうにいるのねえ、こういう男って」
「この男の強い性欲は、この男がまったく女に接しようとしないので困惑してしまい、さりとてほうっておくわけにもいかぬので、しかたなく妄想が媒酌してサッキュバスを結婚相手にまねくしかなかったのだろう。性欲はこの結婚は短期のことと考えたであろうが、この結婚を双方とも無意識的に気に入ってしまった。少なくとも二年近くは夫婦として過ごしてきている」
「ではまだインドにいた時に結婚したのですね」
「この男自身は性欲が粋なはからいをしてくれたことに気付いてはいない。この男はサッキュバスを夢の中の者だと思っている。そして夢の中でこの男とたのしくまぐわい暮らしているサッキュバスは、語り手、お前の姿をしている。ルーがはじめお前が付いているように感じたのはそのせいだ」
「私の姿をしているのですか? 信じられませんね」
アーサーはもう十何年も前の私との行為以来、他の女には指一本触れていないと申しておりましたが、それはどうやら事実のようでした。私はほんの少しですが感動が胸に湧くのを禁じ得ませんでした。ですが、苦行僧じゃあるまいし、適度に性処理をしなかったアーサーも馬鹿な真似をしたものです。でも、その妄想的な原因が私にあるというのは困惑させられることでしたが、奇妙に嬉しく感じたのも確かでした。
「二年も連れ添ってきたのでしたら、どうして急激にこんなことになったのでしょう」
「それはサッキュバスが恐れたのだ。ここに来るまでは比較的穏やかにやっておったのだろうが、サッキュバスはこの男がこの屋敷に来たことで危惧を抱いた。サッキュバスは嫉妬深いのだ。男をお前に奪られるくらいなら殺してしまおうとおもい、急いで搾り出してしまうことに決めたのだろう」
とルーはこともなげに言いました。
アーサーに憑いているという淫魔は妄想かも知れませんが、妄想は現実に人の生命を奪うことが出来るのです。理由はどうあれ、セックスの妄想が実体化して取り憑いたようなものにアーサーは無為に精力を奪われ、死に向かっているのでした。
「ルー、それで、アーサーは治るのですか? どうすればアーサーを肋けられるのでしょう」
「手当があれば、間に合うかどうかだろう」
ルーはまた声を高く低くしていって、意味不明の言語を使い始めました。声の調子が詠唱のようになり、間があくと、チッタが翻訳を買って出ました。
「性魔、サッキュバスから解放されるには……性のエレメンタルのやまいをいやすには精を漏らさぬことを条件になまみの女とのーまるのせっくすを昼夜ぶっとおしでおこないまくることにつきる。一週間もたてばかならずいやされる。一週間はめつづけるのはなみたいていのことではないので、もしかったるくなっちゃったら根もとまではめてじっとしているだけでもよい。しんぼうしてたのしむことがだいじなの。エレメンタルから取り戻し、命をおわらせないようにするにはとにかくたくさんはめるしかない。……ってことのようですよ」
「………」
しばらくするとルーの言葉は元に戻り、
「生殖行為をうまく応用すればいいだけだ。よかったな、難しいことではなくて。どこかの山奥の洞窟の中の隠れた泉のまわりに生えている珍しい白い花を摘んでくるというような回りくどいことをせずにすむ」
と言いました。
「まずは気付けをさせて、精のつくものをたんと食わせることだな。あとはお前の腕次第だぞ。語り手、たっぷり相手をしてやるがよい。一週間ほどは精を漏らさせてはならんらしいが、癒えれば性欲は暴発しよう。子をもうけるのならルーは祝福を惜しまないぞ。お前には家族計画など必要あるまい」
「ルーは繁殖を見るのが大好きなのよ」
「………」
「どうした、語り手?」
「癒しかたは分かりましたが、そんなことをすれば、私は私ではなくなってしまいます。語り手の事情が許しません」
「わからぬでもないが、語り手の事情に折れていてはその男は死んでしまうぞ。つまらぬ意地を張っていては手遅れになる。お前の愛する男なのだろう」
「いいえ、違います。語り手には愛人などおりません」
「お前がやらぬのなら、チッタでもいいし、ルイーズでもメリッサでもかまわぬ。確かにこのチッタたちでは、男に精を漏らさせないように長時間交わるような技術がないから、任せられないところだろう。そこはルーが実地に指導してやろうぞ。とにかくこの男とやらせればいいのだ。まかせい。そのあとついでに子供も生《な》させてやろう」
「それは……それも、困ります」
「ふふん。語り手、お前もすこしおかしくなっているようだな。まあいい、考えろ。原因も解決の方法も分かったのだから、あとはお前たちの問題だ。ルーは帰るとしよう。また何かあったら呼ぶがよい」
ルーが去ると同時に、チッタは背中のつっかえ棒が急になくなった人形のように、がくりと椅子の上でくずれ落ちそうになりました。私とメリッサは慌ててチッタを支えました。
「うーん。ルーが帰ると途端に力が抜けて、なんか疲れきっちゃうのよね。毎回、二度と呼びたくないという気になるわ」
「ありがとう、チッタ」
「いいわよ。これもメイドの仕事のうちなんでしょう。まあ、あとは頑張ってね語り手さん」
チッタは気怠るそうに洗濯の続きをしにゆきました。チッタもいいメイドになったものです。
私はとりあえずこれ以上無駄撃ちさせないようにアーサーのぺニスの根もとを紐で縛って、さらに睾丸を陰茎から離すように陰嚢ごとまとめて括りました。メリッサに三十分おきくらいに紐をほどいて血流を回復させてからまた縛り直すように言いつけて、部屋を出ました。
階下の食堂へゆき、ルイーズに昼食には精力がつくような料理を作るよう頼んで、棚から七十度はあるジンの瓶を取りました。救急箱からアンモニアの小瓶も抜き出しました。てきぱきしているようでも私がその間ずっと悩んでいたことは申し上げるまでもないでしょう。
私はアーサーの部屋に戻りました。メリッサが触れるのを忌むように、おそるおそるペニスの根本を縛り直しているところでした。
「あんまり手をかけると、それが刺激になって、またスペルマが出てしまいますよ。もっと手早くやらないと」
「すみません、慣れないもので」
まあそれはそうでしょう。ペニスを縛るのに慣れた少女など少なくともヴィクトリア朝にはいなかったと思います。
「男の人ってこんなに、シーツをびしょびしょにするほど、出すものなんですか。その、眠ったままではなくて、起きているときのことなんですけど」
「メリッサ、おかしな心配はしなくていいです。多分、あなたの亭主になる男はあなたに対して普通に振る舞いますよ。アーサーのこれは病気のせいです。普通はこんなにはなりません」
「よかった。しょっちゅうあることならどうしようかと思いました」
メリッサは結婚すると定期的にペニスを縛らねばならない仕事でもあるのかと心配したのでした。無知であることもまた妄想をつくるきっかけになります。この体験でメリッサがペニス縛りが大好きな女になる可能性は低いとは思いますが、皆無ではないのです。
それにしてもこのように冷静に、私も随分と動揺しているこの時に、状況を語らねばならないというのも語り手の因果な事情なのです。主人公であればこんな語りはしないでしょう。主人公は身体と心のアクションをそのまま綴れますが、語り手はアクションせずに語らねばならぬ事情があるのです。
私はベッドの反対側に回って、アンモニアの入った茶色の小瓶の栓を抜き、アーサーの鼻腔に近づけました。
「うっ」
アーサーは苦しげにうめき瓶から顔を背けます。昏睡状態ではないはずなので、目は覚めるだろうと思いました。
何回か繰り返すと、アーサーは目尻に涙を浮かべてやっと目を開きました。
「うむむ、なんだ。どうしたんだ」
寝ぼけたような声で言いました。
「アーサーしっかりなさい。あなたは死にかけているんですよ」
「朝いちに牛乳配達婦が来て言うような冗談を君が言うのかい」
間延びした声で言って、手で目を擦ります。
「本当のことです。あなたは死にかけています」
「冗談じゃない。僕は健康に暮らしているよ。君と一緒に、じつに健康的にね……」
といいながらも、またまぶたが下りかけてきます。サッキュバスはかなり強い力でアーサーを無意識下に誘っていると思われます。
「目を覚ますのです」
私はジンを口に含むと、アーサーに口移しで飲ませました。
ひりひりするような熱い液体が喉から胃を焼いて、アーサーは咳き込みました。
「何をするんだ」
「目覚めのキスです」
「そりゃ、嬉しいが、ゲホッ」
「もう一度言います。アーサー、あなたは死に至る病を患っています。かなり厄介な」
「なんの話だい。そんなことないったら」
「語り手にとっても厄介な病気です」
私は棚においてあった鏡を持ってきてアーサーに自分の顔を覗かせました。頬がこけ、目の下に隈が出来て、弱々しい目の光のアーサーがいます。
「これが僕か? ひどい病人のようだ。なんてことだ」
「一晩のうちによくもこうまでなられたものです」
と私は皮肉を籠めて言いました。
次にアーサーはベッドの脇にいて自分の下半身を見張っているメリッサに気付き、ついで縛られておかしな形になっている自分のペニスを見ました。
「なんの真似だ! それは」
「応急処置です。アーサー、よく思い出してごらんなさい。眠っている間に何をしていたか」
「眠っている間?……」
アーサーは額を押さえました。
「眠ってる間はそりゃ寝ているさ。君の隣でね。一緒に寝てるんだから分かっているだろう。毎晩何度もお互いを求めて歓を尽くしていたじゃないか。昨夜だってそうだ。君はとても愛らしく何でも話してくれたよ」
「それは、夢か、もしくは妄想です。あなたが眠っている間に私相手に瀉《だ》したものは、ほらそこに、シーツに大きなしみを作っていますよ。ちょっと多量すぎますけど、夢精です。洗濯がたいへんです」
「馬鹿な、嘘だろう。君との生活が夢で妄想だったというのか! それが本当ならいったい、僕はどうしちまったんだ」
「アーサー、落ち着いて。この屋敷に来る前にもこんなことがあったのですか」
「いや。覚えがない。だけどごくたまに夢精くらいはあったが、生理的な必要があって、起きて当然のことだと思っていた」
「アーサー、あの時以来、私に操を立てて禁欲していたというのは事実なのですか」
「事実だと思うが。君と結婚してからは、禁欲なんていう失礼なことはしていないぜ」
「あなたは三日前に、大変久しぶりに、ここを訪れたのですよ。そのとき私に求婚なさいましたのは覚えております。ですがいつ私と結婚したんです?」
「いつって、いつだったかな。結婚記念日は。だが君はぼくのお嫁さんだよ。ずっと前から」
「それは妄想です。隠れていた妄想が一晩であなたを支配したのでしょう。そして今やそのために命を危なくしているのです。妄想が簡単に人を殺すことぐらい知っているでしょう」
アーサーはまことに困惑しているようで、しきりに頭を振っています。
「結婚も何もしていないというのかい?」
「少なくとも私はしておりません」
「君への愛が妄想だというのか。それこそ馬鹿な話じゃないか」
「愛はともかく、あなたは妄想に仕掛けられて、妄想のなすがままにされているのです」
アーサーは、納得いかないという表情のままぐったりとしました。
時間が来たのでメリッサがまたペニスを縛る紐を解き始めました。アーサーは若い娘に性器をいじられているというのに、考えにふけっているので、ぴくりとも反応しませんでした。
「分からない。分からないが、妄想なら、それを現実に引き上げればすむことだ。そうだろう? ならば今からだっていい。君と本当に結婚すればいい」
と力無く言いました。
「応じかねます。私は語り手で、語り手には事情があるのです」
「君が語り手の事情と繰り返し言うのは聞き飽きたよ。君はべつにどこかの古い国の王女でもないし、幻影でもない。僕の目の前にいて、暖かく息づいていて、触れることも、キスすることもできる。現実の女性だ。君は妄想なんかじゃないだろう」
「語り手であることは具体的なことで、その肉体が物質的であることとはまた別の事情に属します」
「分かった、分かったよ。君にはなんだか分からない事情があるっていうのは。だけど僕は引き下がれない。引き下がるとするなら、君が僕をまったく少しも好きではないと分かったときだけだ。それはどうなんだ。君は僕が嫌いなのか」
「………」
「君が僕を愛していないと断言するのなら、僕もつらいが受け止めよう」
「私が語る愛など妄想で、はじめから存在しないと言ったらどういたします?」
「言葉遊びはやめてくれ。僕の愛がたんなる一方的な妄執であるのなら、僕のこの半生は妄執に引きずられた妄想だったということだ」
「その通りです、と言ったら?」
アーサーはむっとしたように、
「それならそれでいいさ。妄想の中では僕と君は愛し合っている。じつに理想的な結婚生活を送っているような覚えがある。それでいい」
と、言いました。
「妄想に逃避することは、あの十五の時に卒業したはずでしょう?」
「卒業したよ。だから君に会いに来たんじゃないか」
「………」
「すると黙ってしまうのか。もう何もかもどうでもいいという気分だよ。僕は死にかかっているというんだね? いいさ、夢精を繰り返して衰弱死しても。妄想に殺されるのならそれはそれで運命なのかも知れない。どうでもいいや」
「夢精を垂れ流して死ぬなんて笑い話にしかなりませんよ。そんな馬鹿げた死に方を、間違っても運命などと呼んではなりません」
「君は勝手だ。では最後にもう一度訊く。はっきり答えてくれ。僕が君に値するのかしないのか。君にウェディングドレスを着せて思いきり抱きしめていいのか、それともしっぽを巻いて退散しなきゃいけないのか、またはこのまま衰弱死して君の手を煩わせればいいのか。さあ、言ってくれ」
「アーサー、語り手に自分の運命を決定させるような、そんな愚かなことをしてはなりません」
「答えになってないよ。言ってくれよ。逃げないで」
語り手はアーサーに選択を突きつけられているのです。
語り手の事情を盾に断りの言葉を言うのは簡単なことでした。しかし別のことを、別のせりふをしゃべったら語り手の存在にひびが入る。ともあれ返事をしてもしなくても、このままではアーサーはサッキュバスの虜となって死ぬのです。
結局、私がどうしたかといいますと、私はぷいと顔をそむけ、そのまま部屋を飛び出しました。いたたまれなくなったのです。どうして語り手の前に自分の存在に関わるような選択を迫る事情があらわれねばならぬのか。そんな不条理なことは本来あってはならないことなのです。背後からはアーサーの罵声が聞こえてまいります。卑怯者、弱虫、そういった言葉が。
私は自分の部屋に駆け込んで、ベッドに顔を伏せました。アーサーが今そうであるように語り手の命も風前の灯火と思われました。語り手は言葉やイマジネーションで物事を決する世界の住人なのです。そんな存在に暗渠のような境界を越えてより現実的な過酷さの渦に飛び込めと言うのは筋違いというしかないのです。
語り手はこんなアンビバレンツに直面するために語り手をつとめてきたわけではありませんでした。語り手の立場はもっと軽快で、もっと責任から自由であるはずだったのに、それが事情であったのに。私ははじめてこの現実に対してさめざめと涙をこぼすのでした。
ノックして程なく、屋敷の主人自らが扉を開けて部屋に招き入れてくれました。
「来る頃だろうと思っていたよ。まあかけたまえ」
この部屋に語り手が入るのは久しぶりのことでした。
一週間に一度、メイドが掃除するだけ。そのさいにチークの巨大な机やマホガニーの象眼細工の卓子の上にあるものには触れてはなりません。彫刻の施された本棚に並ぶ背表紙のすり切れかかった本たちにも軽くはたきをかけるだけ。入ってから最初に鳩時計が鳴いたら掃除中であってもメイドはそこでストップし、ゴミ箱を抱えて、出るしきたり。
観葉植物の鉢、ナイトシュイド。時の流れが外とは違う部屋。主人は肘掃け椅子にかけたままお茶を勧めます。最高級のダージリンティー。香りだけでうっとりするような。
「おいとまを申し上げに参りました」
「うん。事情は分かっているよ。説明はしなくていい。君のような優秀な語り手を失うのはしごく残念だが、私は君の主人ではないからね。引き留めはしない」
「私ごときの代わりなどすぐに見つかります」
「いや、君のように私好みに妄想を扱える語り手はそうそう見つかるまい。それにしても今のサーカムスタンスを語り終えるまでは辞めずに続けて欲しかった。最後まで語るのは語り手の責任というものだろう。むろん君は語り続けるだろうが、それはもう私の視界に入らないところで起きることになる。君とアーサーとの興味深い一件の結末を、私は見ることが出来なくなるわけだ。残念なことだよ」
「申し訳ございません。ですがもしかりに状況を語ることが終わる、言い換えるなら、物語が唐突に中断するようなことになるのなら、それは小説が決めることであって、語り手が決めることではありません」
「まあ、妥当な事情だな。だが残される者は困る。語り手が変わると状況は一変してしまうからね。かくいう私はリタイアしたもはや語らない語り手だが、ワンポイントリリーフとして立つにしても、君に継いでこの状況の続きを語るほどの力はない。おそらく誰にもその力はないだろう。君の語りの中で起きたことだしね。残念なことだよ。君の後任は、そうだな、君の弟子としてはチッタが有望だが、まだまだ力が足りないが、ルーの協力が得られれば急場はなんとかなる。『第一の存在』であるメリッサが育つまではチッタとルーの二枚看板体制でやるしかないか」
「チッタとルーが力を合わせるなら、十分に妄想を扱えると思います」
「そうあってもらわないと困るんだがね」
屋敷の主人は苦笑いをいたしました。
「語り手は視力を使って様々な状況に視点を定めて物語を紡ぐ。無数の世界の、無数の人間に視点を定めねばならないこともある。境界、例えば男と女のような、国家と国家の間のような、過去と未来のような、無数に存在する境界を行ったり来たりするには膨大なエネルギーが必要で、その性質も多種多様なのだ。一人の語り手がすべてを覆うにはそもそも無理がある。だから語り手は引退したり、逸脱したりする必要に迫られることがある。潮時はそれと分かるものだ。そしてそれが語り手の事情でもあるということだ。私は私なりに事情があって完全に引退することをしていない。だから屋敷を構えて君のような語り手を雇い、語らせねばならないわけだ。君は非常に魅力的な語り手だったが、切にもったいないことだ」
「この屋敷の語り手であることをやめても私はまだしばらくはここに残ります。あなたの目に私が触れるように努力はしたいと思います」
「既に決心はしていよう。するとまったく変わってしまうのかな」
「それはやってみなければ分かりません。私の運と力次第でしょう。別の語り手が外から私のすることを見守ることができるのなら、まったく変わったりはしないと思います」
「チッタにそれが出来るだろうか」
「語り手の事情は、状況に適応して変化する生き物としての性質も持っておりますから、チッタに適《あ》わせて事情を調整し再構成する可能性はあります」
「そこだな。再構成される事情がこの部屋から見えるかどうか。チッタとルーに語れるかどうか」
「そうですね……。チャンスがゼロだというわけではないでしょう。語り手の事情が、小説の事情と一致すれば、確実に見える形をなすこともあり得ます」
「なんとも力任せな話だな。君に力があることを祈るよ。がんばりたまえ」
「ありがとうございます。ではご縁があればまたいずれ」
「うむ」
「さようなら、ご主人様」
私は、敬愛する主人に近付き、首を抱いてキスを致しました。
そして主人の優しい視線に包まれたまま、二度と潜ることのないであろう扉を閉じたのでございました。
既に夕刻となっておりました。長い影を映す廊下を歩き、アーサーのいる部屋にゆきました。メリッサはまだ頑張っていて、アーサーのペニスの紐を解いたり結んだりを懸命にやっておりました。
「どう?」
「一応食事をなさいまして、その後は、寝たり起きたりで、時々、うわごとのような意味の分からないことをおっしゃいます。外国語のような。それにしきりにあなたの名をお呼びになります」
「語り手の名を、アーサーが呼んだというの?」
「はい。そう聞こえました」
私はその意味することを考えてみました。語り手は固有名詞ではないからです。なのにアーサーが語り手の名を呼んだとすれば、既に語り手の不在は始まっていると見るべきでしょう。
「メリッサ、あとは私がかわります。もうお休みなさい」
「はい」
メリッサはそーっと立ち上がりました。
「明日の朝、私が目を覚ましても、もうお会いすることはないのですね」
メリッサはかんのよい娘です。
「たぶんね。でもメリッサ、永遠の別れというわけではないのです。語り手の事情が事情を再構成する間だけ、その時間がどれだけの長さなのかは分からないけれど、同じ語り手の視界の内にいない者たちは顔を合わせることがなくなるという事情なのです。再構成が済んで語り手の同じ視界に収められれば相も変わらず顔をつきあわせることになる可能性はあるのです。その時は仮にあなたがメリッサという名でなくなっていても、問題なく私にはあなたであるということが分かるはずですから。誰かが消え失せても、決して永遠ということではありません」
「分かりました。その時を楽しみに待つことにします」
メリッサは男性の性器を紐を使って操作するという奇妙な労役から解放され、私にぺこりとお辞儀しました。そして名残惜しげに部屋の外に出ていきました。
メリッサが部屋から出た瞬間に私は完全に切り離されました。私がこの屋敷の語り手であることから解放された一瞬です。もはやヴィクトリア朝的な事情は私を拘束することがありません。
チッタが首尾良く私を追うことが出来ていればここからの放送は屋敷の主人に中継されているでしょう。
私は扉に内側から鍵を掛けると、窓際から大きな背もたれのついた椅子を引きずってきてベッドサイドに据えました。ゆったりと腰を掛けます。
「さあて」
私は背をもたせかけ、長い足を高く組みます。頭に手を回して紐を解き、まとめていた髪をばっと前方から掻き上げて散らし、ブロンドの糸を肩から背中、胸までまんべんなく垂らして、腕は前に回して胸のあたりで組み気味にします。足にはいちおうハイヒールを履いていますので、これで煙管でもくわえれば高飛車なコールガールのように見えますでしょう。
そして待ちます。
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Circumstance.n Never forever
……それが現れるときは霧のよう。板の間から立ち昇りベッドの周囲を囲繞《いにょう》する。光り輝く水滴はジグザグに光線を反射してあたり肌理《きめ》の粗い景色を映し出す。床にはまばらに、しだいに鬱蒼と、緑の細胞がみるみる増殖する。ひそひそと語り合いながら草はより繁華になり、木はより幹を頑丈にして枝を張り、蔓はより太くなりながら蛇のように楽しそう。亜熱帯の森には思わずむっとするような暖かい息がたちこめる。呼吸する植物の群。人の体温と変わらない暖かさ。低い濯木に連なるツタの絡まる体温を持った植物の群。ハエオウイ・ユニクタス、ジャコウムラン。その吐く息が白い霧となり夜明けの雨林をひきつづき雨期のうっとおしい湿度の中に閉じこめる。囁く蔓はすべりながら床を這い、ベッドの足に巻き付きシーツの中に潜り込む。スプリングベッドにぎしぎしと身をめり込ませながら顔を出すと仰向けに寝ている男がいる。囁く蔓は大の字の男の足首を縛り、手首を縛り、首を縛り、鎌首を持ち上げているペニスに巻き付く。ヴェルグオイス・アンティカティスは窓枠をつたいブラインドにしがみつきながらさらに外の景色を遮ってしまう。ぴちぴちと鳴く虫の声、かちかちと鳴く鳥の声、しゅうしゅうと鳴くぺルカソモの花弁。もしくは暴れ足りぬ赤紫色のショゲンの蔓草。葉からこぼれる水滴。なよなよとした茎をつたい落ちる樹液。落葉は床を雨上がりの腐葉土にしてしまう。朽ち葉の蔭から這い出す木喰い虫の幼虫。甲殻のハンミョウ。遠くから小川のせせらぎの音。木根に覆われた地下の泉を通る空気の音。蔦は机に巻き付くだけでなく引き出しの取っ手を握って開く。ナイトスタンドは蛾の休息所、鱗粉を浮かせながら幻灯に羽の影絵を投影する。ここはアーサーの好きな東シッタールの森の中。花のうてなの女がいる。ここでアーサーは女と出会い、女と暮らすようになった。その女はこの森で最高の娼婦。男の命と引き換えにしか身を開かぬ。その命を値にするまぐわいは百年の時を待たされて、身も世もなく抱き合い落葉の褥に身を揉む恋人たちのもの。百年の孤独を補って余りあるほんとうの快楽。花のかんばせの女は逢瀬のたびにその快楽を貪らしめ、時と釣り合わぬ凝縮された時を重ねること幾千年となる。もはや普通の人間には払い切れぬ快楽の負債。何百回生まれ変わっても彼の命は担保にとられている。それでもアーサーはこの森に来て女と会う。ブリテン島のちっぽけな町。遠く離れてもアーサーはここに来ていつもは記憶にないその女と会う。女は冷める。回収できない命の借金のある男に冷める。もはや最初に出会ったときの二人ではない。女はもう命を取り立てようとは思わない。その代わりに魂を取る。女は過去のたくさんの元恋人の魂を両の乳房におさめる。乳房はますます巨きく豊満になり、女の果実を誇らしくする。魂は女の体の中に入り永劫に女のために働き続けるのである。永遠に女を美しく力強く保つため、魂は働き続ける。横たわる女の身体から、指と指の間から、口から、顎と首の間から、耳から、鼻から、脇の下から、臍から、臀の双丘の間から、そして両足の間にあるもっとも神秘なる赤い花から新たに植物を発芽させる。セイロンヤシ、ボコンギ。なま暖かい息を吐きながら植物たちは成長し東シッタールの森をさらに深く濃くしてゆく。女はあらゆる秘術を尽くして自分の森を深くしようとする。森はデルタ。自分で自分が息苦しくなるような濃密な森。地表を覆い尽くし、木の枝は天まで届くように、亜熱帯の気温がなければ育たないような弱い自分を許さない。常に思い常に努力しあらゆるものを利用して常に調整を重ね、自らの種子を高く高く打ち上げる。自分で自分の雌蘂をいじり、いろんな花粉を混ぜて樹液に溶かして擦り込んでゆく。異種交配は新たな快楽。変異種は見たこともない自分を新たに鏡に映し出す。結実を地空に噴出させるときの解放感。地に深々と突き刺さった種子は女の分身として目覚め、長い爪のように食い込む根を伸ばす。ダンダライモは地中に男根のような立派な地下茎を膨らませて地底まで我がものとせんと試みる。私は動物のように速くはないが移動することが出来る。私は鳥のように自由ではないが飛ぶことが出来る。私は地に満ち、空に満ち、水に満ち、人に満ちることが出来る。そんな快楽を妄想して、しどけなく身をくねらせる私は部屋の中に満たした蔓草の向こうに異質の存在を感知する。この部屋は既に私のもの。この部屋にいる者も逃れられずに私のもの。異物はいてはならないの。だってそうでしょう。ここは私の森。ブリテン島の小さな町の小さな家の小さな部屋の中でも私の一部。男は私の言いなりに精を差しだして、魂を差し出す準備も整っている。なのに誰かがそこにいる。私でない誰かがそこにいる。この森に棲むことを許していないものがいる。私は這い進む蔓のようにすべすべした身を起こす。毒々しい赤い花が揺れて蜜をこぼす。蜜から命そのものの匂いがむっとしてたちこめる。あらゆる命をうっとりさせる真の香水。ぽたぽたと蜜をこぼしながら私は起きあがる。身体全体を占領する快楽の余韻のためひたすら気怠い。私はベッドの足を掴み身を支える。私は自分の蔦を掴みベッドの上に這い上がる。いつものように私の男が眠っている。私はゆっくり顔を上げる。私とは別のものがベッドの脇の椅子の上にいる。私の森などまったく気にならないような顔をしてそこにいる。私にはそれが何か分からない。私が接したことのないいきものがそこにいて、ベッドの上の男とそして私を見下ろしている。なんなの、あんたは。私を不安にさせるとすればそれは私の敵に違いない。私は目を大きく見開いて視力を合わせる。私はそいつに対して攻撃を開始せねばならないわ。それは人間とは思えないけれど女に近い特徴をしている。ならば私は私の中にいる男を使ってそいつを攻める。私の中から男が外に向かって伸びる。ベッドの下に潜りぽとりと落ちる。しゅるしゅるとわき目もふらずに這うのは女を持たないアパカマシダの類。ナメクジのような粘液に包まれてのたうって這う。しゅるしゅるとしなう蔓を伸ばして椅子の上の女の足首を縛る。這い上がる。女は高く足を組んでいて、太股の奥を覗かせない。ガードしてるつもりなの? でもいくらでも手はあるのよ。私は先に手首を取る。細くて長い指先に産毛の生えた蔓が螺旋状にまきつく。脱ぎたくないのならそう言って。いっそう繁った私の蔓は女の袖口から、襟元から衣服の下に入り込む。数十本の蔓が同時に衣服の切れ目から入り込み、女の肌に直に触れる。ほら身もがいてごらんなさい。隙間が出来たらあっというまにまた私の蔓を侵入させるから。蔓の先端でお前の敏感な乳首を愛撫して乳房ごとぎゅっと締め付けてあげる。声を上げないの? いいのよどんな声を上げたって。シダの葉がさわさわと女のふくらはぎに噛みつくの。くすぐったいでしょ。我慢することはないのに。もっと身を開いていいの。それとも恐い? 恐いから身を固くしているの? 違うでしょ。すごく気持ちがいいはずなんだから。私の蔓は甘い粘液を滴らせながらお前の服の下の敏感な部分をのがさず撫で回す。もうお前は椅子に縛り付けられた私の女。逃れることなど出来ないの。あとは擦られてゆっくりと身体を開くだけ。太股の間にあるいちばん感じる小さな部分はとくに念入りに触れてあげる。それで身を揺するがいいわ。さあ脚を開きなさいね、いい子だから。アパカマシダの根は太くて弾力があって適度に突起も備えているわ。お前の花をそれで貫いてあげる。可愛い子。身体を熱くしてお待ちなさい。私はその間この男からエキスをもらうから。私はベッドの上の動かない男の上にゆっくり座る。男の股間にそそり立つものの上にゆっくり尻を降ろしていくわ。大丈夫。私の鞘は正確に包み込むから。私の性の技法は無限にちかく。性において私は無敵にちかく。虜よ、いつものように腰をいななかせて、さあいきなさい。苦しそうな顔をしているわ。でも気持ちがいいんでしょ。お前の出す樹液はとっても薄くなってしまったけれど、きっと最後の一滴まで搾ってあげる。無駄にはしないから。男はうなされるような声を上げながら私の中で勃起を振るわせる。もうすぐ出るわね。いいのよ。何回でも。私ももっと気持ちよくさせて。さあ椅子の女、私が男と交わっているのをよく見なさい。興奮するはずよ。お前の花びらを十分に濡らして、アパカマシダの立派な根を下のお口に食べさせてあげる。すごくいいはずよ。さあ、二人ともいくわよ……。ぷちぷちと私の蔓が切れる音。何が起きたの。アパカマシダは痛がっている。ぶつりぶつりと私の蔓が引きちぎられていく。どうしたことなの。あの女、私の蔓をちぎって立ち上がった。どうしたの。椅子に縛り付けていたはずなのに。まさか。そんな。女は確かに興奮して雌の匂いを立ち上らせているのに、感じていたはずなのに。なのにどうして私のシダを蹴散らすことができるの。なんなの、あなたは。ぶつりぶつり。痛いじゃないの。おかしいわ、この女。私の方へ近付いてくる。へんよ、この女。来た。邪魔よこの女。邪魔。邪魔。
「邪魔なのはオメーのほうだ。人がおとなしくしてりゃあいい気になりやがって、いつまでも調子こいてんじゃねえぞ。コラ?」
きゃっ。いきなり何?
「そーか、昨日妙に寝付かれなくって、こっ恥ずかしいオナニーを五回もさせられたけど、テメーの仕業だったんだな、サッキュバス。この根っこチンポたらしてんのはインキュバスか」
ひっ。気持ちよかったんならいいじゃないの。何怒鳴ってるのよ。ヒステリー? 欲求不満? そして乱暴な女は私の顔や身体を嫌らしい目つきで睨み付けるのよ。
「おまけにあたしとそっくりな顔とカラダしやがって。ちゃんと許可を得てんのか。肖像権の侵害だぞ、オメー、犯罪だぞ、コラ。いい加減にしろよ。ナメてんじゃねー。テメーにいいようにされるために悩んで語り手を辞めたんじゃねーぞ。わかってんのかクソメスガキが」
なんなのこの女、凄く暴力的よ。まさかプロ? なんて乱暴で野蛮なの。ひどい言葉遣い。それでも女なの! きゃっ、何すんの。私の髪の毛を引っ張らないで。
「おい、いつまでヒトの男にまたがってやがんだ! とっととどきやがれ。なんだその不満そーなツラぁ。ぶっ潰したろかっ」
きゃあ。蹴りよ。この暴力女、私に蹴りをいれたわ。ひどい。自然に優しくない!
「どけってんだよ。バカアマァ、コトサラに顔面をえぐられてーのかあ。バケモンが」
どっちが化け物よ。あんたよ。あんたが化け物でしょ。痛い。止めて、女の子になんてことするのよ! ひっ。私は頭をハイヒールで蹴られて、茶色っぽい血をほとばしらせながらベッドから転げ落ちたの。
「わかったかコラ。あたしのほうが強ええんだよ。オメーなんか敵じゃねえ。インドじゃ結構イわしてたんかも知れねーけど、イギリスにだって強えやつはいるんだよ。ウチはロイヤルなんだよ。落目の帝国だからって、失業率が高いからって、足下見てたら大怪我すんぞ。アングロサクソンの底力をナメてたら、痛い目みんぞコラ。分かったならさっさと尻尾巻いて消えやがれってんだ!」
痛い。ああっ。往復びんたよ。この女とがった指輪つけてるから、私の顔を切ったのよ。どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないの。何も悪いことしていないのに。この女、もしかして不良? イカレポンチ?
「ざけんなよ、こんボケが、さっさとどっかいっちまわねえとマジにイジメんぞ、イロ気違いババァ。あたしは環境保護なんぞに気ィ使わねーからな。部屋を葉っぱだか、蔓だかで散らかしやがってよぉ。灯油かけて焼きはらっちまうぞ」
ひいっ。なんなのこの女は。馬鹿なの? どこの組のもんなの? 私のタマ取ったらぁって、鉄砲玉みたいに飛んできたの? いやっ。ねえ、あなた、アーサー、起きて。目を開けて。アーサー。私この凶暴な女に殺されちゃう。アーサー。助けて! アーサー、目を開けてよ。私を助けて。このブスから私を救って。
「アーサー、テメーもテメーだ。こんなバケモン相手に何回もチンポ立てやがって、なさけねえったらありゃしねぇ。いい年したイギリス男児がよ、こんなクソドブスチビにどぴどぴ抜かれて恥ずかしくねーのかぁ。バカたれめ。ユニオンジャックに土下座せんかっ」
ああっ、目覚めかけたアーサーに暴力女のひどい仕打ちが。暴力女が今度はアーサーにばしばし平手打ちを入れてる。あっ。膝蹴りも落とした。アーサーが鼻血を。ひどい。なんてひどい女なの。もしかして女王様? それとも覚醒剤が切れた危ない女? アーサーはこの女の支配下にあるの? 分からないわ、私には。
「なんだよ、その恨みがましい目は。テメーだってあたしをやろーとしただろ? なら、テメーがやられたってしかたがねえんだよ。自業自得だろうが。まだ言わせたいのかよ。クチじゃもう言わねえぞ。三秒だ。消え失せねーならブッ殺す」
ああもうだめ。アーサーも怯えてて役に立たない。私はがんがん蹴りをいれられて、もう傷だらけよ。恐い。ほんとうに恐い。この怪獣のような女、狂ってる。本気で私を殺す気よ。あの殺意に満ちた目を見れば分かるわ。もしかして悪魔の化身? 緑の垂れ幕は静かに静かに縮み始める。もう植物は呼吸をしない。息を潜めて逃げ出す準備を整える。動くのが遅い私たちは所詮は動物の餌になる。逃げ足を早くしようにもしっかり張った根が、努力を空しくしたくないのでいやいやをする。私は自分の遅い部分を切り捨ててとにかく宙に浮く。しゅるしゅると私の枝や蔓たちが戻ってくる。もう帰ろう。帰ろうよ。私が生まれた暖かな土地に。この国はもういや。この国は空が低くてとても寒いのよ。いけない女が居座ってるの。私は緑の霧になる。それが去るときも霧のよう。朝露にとらわれてしまう前に、急いで散らねばならないの……。
さて私は、サッキュバスを追っ払って「私」と名乗れるサーカムスタンスを取り戻すと、窓を開けて空気を入れ換えます。夜明けの近いひんやりした空気が乱闘の現場に満ちて、生まれ変わったようにしてくれます。
私はランプを持ってベッドに近付き、アーサーの顔をのぞき込みました。アーサーは私を見て、一瞬、おびえたような目を致しました。私は思わず、
「なにびびってやがんだ。あたしのうつくしー顔がこえーってのかよ」
と言いそうになりましたが、我慢してさわやかな夜気を深呼吸いたしました。場に適した話し言葉に調整せねばなりません。そしてかわりに、
「大丈夫でしたか、アーサー?」
と訊きました。アーサーは何が起きたのか分からない様子で、さっき張られた顔の痛みが熱さに変わっていくのを感じていました。
「だ、大丈夫だと思う。たぶん」
「二度と性悪女に引っかからないことです。あなたにはあの女を妻にしてしまうには力が足りなさすぎました」
「なんのことか分からないよ。あの女って、誰だい」
「あの女は、あなたにとっての私でした。ファム・ファタールです。もう一人は無慈悲で暴慢で極めて淫乱な私の妄想です」
「僕は君の夫なのか? 今」
私は首を振り、
「これから結婚するのです。私たちは」
私はゆっくりと衣服を脱ぎ捨てました。
私にはこれから重労働が待っております。サッキュバスは追い払いましたが、それだけではアーサーは回復しません。ルーが示したことをせねばならぬのです。一週間ぶっ続けでアーサーと交わること。しかもアーサーの精を一滴も漏らさせないようにです。言うは易しですが、これは体力と精神の限界への挑戦でした。
「今からすることは妄想ではありません」
私は仰向けに横たわっているアーサーの股間に顔を近づけて、そのペニスに口づけいたしました。ペニスは私の中に入るには弱々しすぎました。私はアーサーを口に含み、陰嚢に手を添えてやわやわと揉みました。
アーサーの内側は瀕死の状態であり、消耗しきっているのです。サッキュバスはおそらく彼女が伝えてきた秘術を使って弱り切った男でも奮い立たせることが出来るのでしょう。私にはそのようなテクノロジーはありませんから、愚直にアーサーの分身に舌や唇をもって囁きかけ誘う以外にありません。
「君がヴィクトリア朝的には不謹慎極まる、オーラルセックスをしてくれるのはとても嬉しいんだけど、残念なことに今は駄目なんだ。死ぬほど眠たいんだ。眠らせて欲しい」
私はいったん口を離して、
「今眠ったら、もう二度と目を覚ますことは出来なくなりますよ。アーサー。あなたの息子に力を集中させるのです」
「雪山の遭難じゃあるまいし。無理だよ。僕はなんだか疲れ切っている」
「いけません。今こそ妄想を使うのです。アーサー、意識して思い出すのです。あの十五のとき、私のベッドに入ってきたあなたが、どれほど興奮していたかを、思い出してみなさい。あのときのあなたはたいへん可愛かった。そのときにしたかったことを全部思い出してごらんなさい」
私はフェラチオを続けました。アーサーは余力を振り絞って妄想を鞭打ったのでしょう。現実のセックスに飽きたなら、思春期の頃の、初めてのあの興奮を思い出すのです。最も力に溢れたリビドーの記憶が無意識から立ち上がるはずです。やがて私の口の中のふにゃふにゃしたものに、ぐっと芯が通ってゆくのが分かりました。
私は加減しつつ 亀頭の溝やネクタイを舐めます。アーサーのペニスは十分な硬さを得つつあります。
「うっ」
アーサーは腕を伸ばし、急に私の頭を掴むとイラマチオを加えようと致します。アーサーはサッキュバスとの結婚生活のせいで、まったくこらえ性がなくなってしまっているのです。このままではすぐに射精してしまいます。水のように薄い精液を、細々と。私は頭にかかって押さえつけようとする手を振りほどき、顔を股間から離しました。アーサーに掴まれた髪の毛が何本か抜けました。
「どうして」
「アーサー、あなたも努力することです。まずルールを言っておきます。これから一週間、一滴たりとも精を漏らしてはなりません」
「そんなことを言っていじめるために嫌がっている僕をわざわざ起こしたのかい。無理だよ。男の生理に反する」
「確かに今はあなたのバルブは弛みきってしまっており、あなたがコントロールしようとしても、難しいでしょう。バルブが弾力を取り戻し、きちんと締まるようになるまでは、すべてを私に委ねるのです」
「どうでもいいよ。僕は眠たいだけなんだ」
「急激に出そうになったらすぐ私に言うのですよ」
「起きてたらね」
私は中腰になり、アーサーの腰にまたがると、ゆっくりと自分の中におさめてゆきました。
茶臼、騎乗位、なんと呼んでもよろしいのですが、まずはアーサーに最も負担のかからない体位から始めることにいたしました。私の快楽は二の次です。私はアーサーを締めつけたり、揺すったりしつつ、アーサーの射出の気配を未然に察知するべく神経を研ぎ澄まさねばなりませんでした。こと射精に関する限り、男性は平気で嘘をつきます。意識的にも、無意識的にも。もう保たないなどということを女に知らせる気はないのです。
私は自分の性器と蟻の門渡り、ヘア、臀部、太股、アーサーに接触しているすべての部分を敏感なセンサーに変えて、アーサーの性器と肛門の間、仙骨の内側、恥骨の内側で起きる筋肉のあらゆる微細な動きを読みとらねばなりません。重要なことは肉体感覚なのです。私の感覚だけでなくアーサーの肉体感覚も重要です。ルーが言っていたように人間はあまりに鈍感になっていますから。鈍感な人間にとって肉体の内側はほとんど暗黒の世界に感じられるでしょう。また肉体の内側はほとんど無意識世界と感じられるでしょう。光を当てなければ鈍感のままに一生を終えることになります。
また射精に至るメカニズムを熟知していないと、敏感なセンサーを備えていても、探知に失敗いたします。基本的には精子を体外に、理想的な状況であれば、女性の膣深くに放出するための良くできた仕掛けなのです。睾丸で製造される精子は次々に精巣上体に蓄えられ、その数は約十億。ここまでは常のことで弾丸が装填されて安全装置のかかったピストルと同じです。ピストルを使用するつもりがなければホルスターに入れて下げ、このままの状態を保ちます。それが性行為の興奮に刺激されると、ガンマンが早手でホルスターから抜きはなち構えます。かちりと自動的に安全装置が外れ、精子の第一群は精管を昇り、射精管に隙間無く装填されます。あとは刺激が臨界を越えて引き金を引くのを待つばかりです。精嚢腺は精漿を尿道に放ち前立腺で精子と合流させる。膀胱括約筋は精液の逆流を防ぐべく閉じる。引き金が引かれるのは個人差はありますがたいていこの瞬間であり、気を澄ましていればパルスをはっきり捕らえることが出来るのです。いったん引き金が引かれるともうなにをしようと精液の射出を止めることは出来ません。前立腺から会陰の内側に複雑に入り組んで存在する射出筋肉群はいったん痙攣を始めるとコントロールは不能となります。オーガズムが情けなくもわずか数秒ほど続いて、射精行為は終了します。
よって私が感知すべきは引き金の引かれる直前の機なのです。この機を捕らえるのが、0コンマ01秒でも遅くなるともはや射精を封じるのは不可能となります。これは一種の戦闘なのです。射精を封じねば私の負けとなるのです。私は機を察知すべく全神経を集中しつつ、腰の運動を継続させねばなりません。
アーサーに最初の臨界点が近付いてきたとき、私はすぐさま腰の動きを止めて、膣前部を締め付け息を殺して待ちました。引き金が引かれるぎりぎりまで引っ張るのは危険なのですが、その分だけ、アーサーの快感も大きくなるわけですし、目覚ましにもなります。快感の質と量は性の力を治癒のため内側に向ける必須条件でもあるのです。しばらくじっとしていますと、引き金を引こうとした刺激があきらめて後退しますので、私はおもむろに腰の動きを再開させます。
こういったことを繰り返すわけですが、一定以上の快感を停止中断されることは、アーサーにとってはかなりの苦痛でしょう。焦らして性的な効果を高めようとしているわけではありません。決して射精させてはならないという決意のもとに行っているのです。私も必死なのです。アーサーは苦しそうな顔をしたり、ふやけた表情をしたりと百面相しているでしょうが、私にはそれを観察して楽しむ余裕もないのです。私は自分が快感を感じることを極力控えねぼなりません。私がわずかでも自分の感覚の制御を緩め、機を察するのを怠れば、すぐさまアーサーの射精に打ち抜かれてしまう。真剣勝負と申してよいでしょう。
アーサーの二度目の臨界点はおそろしく急激に高まってきたので、私が動きを止めるだけでは引き金を引く指を止められそうにありませんでした。私はすぐさまペニスを軸に身を反転させて、アーサーの片足を取り、膝十字固めをかける要領でかかとを捻り、アキレス腱を引き伸ばさせながら胸に引き寄せます。膣内のアーサーのペニスの刺激箇所を変更し、同時に空いた手であらわになって浮いている陰嚢を掴んで引き下げます。そして臀部で下腹部に体重をかけて圧迫します。ラーゲ的には卍崩しとか、宝船と呼ばれるテクニックですが、名称などはどうでもいいのです。これでアーサーの射精を潰しきりました。ポジションを素早く変えるとき、アーサーのペニスが曲げられたり、反らされたりして痛みを生じることもあるでしょうけど、その痛みも射精をうち消すためには有効なのです。まったくつらい寝技の攻防といえましょう。
古代人が作った体位のリストには、実施に首を傾げざるを得ないようなアクロバティックで、ときに拷問的な体位があるのですが、これらを快感を得るためのラーゲと考えると間違うのです。異様な姿でくんずほぐれつするのは、行為の流れに沿って瞬間的に作られるポジションの静止画なのであり、ポーズではないのです。その目的はいくらか修行的で、互いのオーガズムをコントロールするために行われるのです。男女がそれを承知してあうんの呼吸となっていなければ、ただ馬鹿馬鹿しい姿と苦痛があるのみなのです。
射精をして最も効率的な体位は、ペニスが子宮頸管に当たるくらいに深い挿入を実現する形であることは言うまでもありません。つまりペニスやヴァギナが無理な形に変形させられたり、浅くしか入ることの出来ない形は、実は肉体が射精やオーガズムを自ら禁止するためにとる形であって、一つの技から一つの技へのつなぎの役目をもつものなのです。それはまた、くまのない全身運動にもなり、ストレッチにもなり、インターバルをとることにも役立ちます。
ああ、またアーサーがこらえきれなくなりそうですので、私はまた身を翻して、アーサーのペニスが私の太股によって二重に引き締められるようなポジションに移行します。移行のタイミングも難しく、へたに体位転換を行うとかえって引き金を引くような結果にもなりかねません。機を敏にして慎重に、素早く効果的なポジションを取ることが肝要なのです。
延々と続く水っぽい擦音もだんだんと気にならなくなって参ります。そうしているうちに日が昇り、また落ちていきました。一日をなんとか継続させたことで私はアーサーを救う自信をつけることが出来ました。
三日目の終わりにはさすがに疲労困憊して私も睡魔に勝てず、アーサーも耐えられず眠ってしまいました。ここまできておればアーサーが二度と目覚めないというようなことはないでしょう。私はアーサーをしっかりグリップしたまま、胸に顔を預けました。ですが私が眠っているうちにアーサーに夢精でもされたら元の木阿弥ですので、私の膣周辺のセンサーは眠らせるわけにはいきません。睡眠中にはレム睡眠とノンレム睡眠の周期に沿って、性器が充血いたしますので、注意が必要です。
排泄はひと問題で、アーサーは致し方なく私の中でおしっこをしますし、私もつながったまませざるをえません。初めはとてもいやでしたが、じきに気にならなくなりました。あとは体液にまみれて男を自分の中に入れたまま、男に体重を預けて眠る喜びを満喫いたします。
最初に用意した水差しから水を飲み、口移しでアーサーに飲ませます。すでに空腹感もなく、ただ抱き合う状態があるだけでした。もうこの頃になると激しい体位の転換は必要なくなっていました。
結局、人間同士でも同じ事なのです。互いにサッキュバスにもインキュバスにも成り得るという意味でです。相手に与えたものがその質と量だけ返ってこなかったら、一方が精力を盗むことになるのです。結婚生活はそのバランスの上にあります。ですがもし必ず相手に与えたものよりもちょっぴり多めに、お互いが返してもらうならば、二人はサッキュバスに堕さなくてすむのです。そしてそれは不可能なことではないのです。
変化が起きたのは六日目に入った頃でしたか。これまで私になされるがままで下になっていることが多かったアーサーでしたが、不意に私の肩ごとすっぽり抱きしめて、くるりと上になりました。下半身はぴたりと密着し、アーサーのペニスは実に元気でした。私は言葉を出す気分ではなく、ただアーサーを見つめました。アーサーは明らかに顔色が良くなっており、食事をしていないせいで肉が落ちているほかは、もうほとんど病人には見えませんでした。かえって精悍な感じさえして、その目は正気を取り戻しておりました。私は自分の仕事がなんとか成功裡に終わりつつあることを知りました。
私の方はアーサーの何十倍もの運動量をこなし、同時に下半身の神経を常に尖らせていなければなりませんでした。さすがの私でももう限界を超えております。この頃には疲れ切って綿のようになるという形容がぴったりになっておりました。今、アーサーが射精の臨界点を迎えたら、うまく対処できるかどうか分かりません。とにかく気怠く、不快ではないのですが、とにかく身が重くて、それにつられて意識も重いのでした。決して不快ではないのです。どちらかというと充足感に満たされて、へとへとの心身を重さがいたわってくれている心地がしました。
「大丈夫かい?」
私が以前に口にした言葉を、今度はアーサーが私に言いました。
「平気です。ただ気怠くて。あなたはどうです?」
「不思議なんだ。ひどく気分がいい。力が漲っている」
そして私にキスをします。アーサーは挿入したままのソーセージくらいには硬いベニスを自然にむずむずと動かしております。
「元気になってようございました。でも、擦るのはいいけど出してはいけませんよ」
「ああ。バルブの弛みも治ったし、僕はこれでもずっと君に学んでいたんだ。射精は止められる」
「それがあてにならないのです……」
私はもうほとんど力が抜けきって、完全にリラックスしておりました。眠っているような微動だにしない身休はそれはそれで気持ちが良く、アーサーの体重を受けて自然にたわみ、自然に揺すられるのでした。
「命の恩人にいまさら訊くのもなんだけど、どうして助けてくれたんだい。語り手の事情があったんだろうに」
「事情が変わりました。ううん、私が変えました」
「どうして?」
「いいじゃないですか。もうそんなことは」
「それもまた語り手の事情ってこと?」
「知りません」
私は投げやりに返事を致しました。
そんなことよりも私の弛緩しきった身体に、湧き起こるように快感が生じ始めておりました。この数日間、私は自らに快感が生じることを厳に戒めて参りましたが、もうその気力も尽き果てております。身体が感じるままに任せました。その中心はクリトリスとそのすこし奥にあり、アーサーが恥骨を当てて巧みに揉んでくれているのでした。まったく力のない筋肉に広がる快感はとても快いものでした。力の抜けきった身体は死体のようにうつろなので、クリトリスや乳首、そのほか私の敏感な皮膚に発生した快感は何にも邪魔されずに伝導して体中に拡散し、骨や皮膚に当たると反射して、また向かってくる快感の波と干渉を起こし、体腔内でさらなる密度の濃い複雑な快感を惹起するのでした。いまだかつて経験のない複雑で良質の悦びでした。私は驚いて心配しました。このままでは溺れてしまう、頭が壊れてしまいそうだと思ったからです。
「アーサー、アーサー」
「なんだい」
「私、今、主人公なのです。だから出来た。ぜんぶ出来たのよ」
とあらぬことを口走ります。
「だからすごくいいの……です。それを隠さなくてもいいのですから。語り手の事情に束縛されなくていいのですから、アーサー、もっとしてくれなくてはいけません」
「語り手の事情を、完全に語り手の情事にしたいんだね」
アーサーは愛情深い表情になり、少し身体を持ち上げると体位を変え、私の脚を少し広げてペニスを入れ直して、乳首を含むように致します。
乳房の先から発生したびりびりする波によって、私はなんというのかおそろしいまでの感覚の混乱に放り込まれてしまいました。全身くまなく性的な快感の波が響き渡り、体内で反射し、また乱反射し、波が干渉し合って、人の形をした快感の波の太い束をつくりあげていくのです。快感に溺れる恐ろしさも、アーサーが射精を我慢できるかどうかなども、もうどうでもよくなっていました。それよりももっと密着したいという思いが、腕を持ち上げて、アーサーを抱き寄せてしがみつかせました。
何か特殊なことが始まるのだと全身が感じておりました。じつに沢山の情報が絡み合ったまま私の頭の中を駆け抜けます。私の身体は暗黒ではなく、すべての臓器がクリアlにメタリックカラーでぴかぴかに、手に取るように感じられるのです。その上を、中を、乱反射する快感がびりびりと通り抜けていきます。なかでももっとも飢えているかわいらしい子宮器官は音をたててぬめり弾み、精液のプールを探して、子宮頸管をゾウの鼻のように器用に動かします。この子宮頸管の筋肉を自分の意思で自在に開閉することができたら、最良の避妊法となるわけですが、それは人体の潜在能力の秘密の一つなのです。膣が捕らえているアーサーのペニスの中にサヤエンドウのように種が仕込まれていることすらはっきり分かります。確実に二人くらいは子供を作れるであろう、いとしい種でした。
ふいに目前に連想が流れて、あの亜麻色の髪のメリッサが、このペニスを甲斐甲斐しく括りあげていた光景が思い浮かんできて微笑ましくなりました。メリッサは結局詳しい事情を語ることはなりませんでしたが「第一の存在」であり、私などよりも遥かに才能のある語り手になる事情があるのです。そばかすがあり、くりくりした碧眼はあどけなく、この種を使って作るならあのような娘が欲しいものだと恩いました。私の脳裏には私がメリッサの手を引いて買い物に出かけている情景がぱっと浮かびました。そこでは微笑むメリッサは私の実の娘となっておりました。抱き上げて頬ずりしたくなりました。これを現実だと精神が誤解してしまうと妄想となるのです。ですが、人間とは弱いもので妄想でもいいからメリッサのような、ではなくメリッサが娘であって欲しいと思ってしまうのです。もう一度会いたいと思わず祈りました。メリッサ、メリッサ、ここよ。
その時です。皮膚によって隔てられているはずのアーサーと私の身体が急にぬるりと互いにめり込むように感じられました。私がアーサーの背中に回している手もぬるりとアーサーの中に入っていくのです。私とアーサーの間にはもはや皮膚がなく、境界が消滅しておりました。私とアーサーの接している皮膚の部分は溶け合っています。アーサーは私が感じている嵐のような快感を直接に感じ取ることが出来るのです。オーガズムの息苦しい震えなどまったくやって参りませんでした。体腔内にはただ純粋にして透明な快感がすきまなくみっちりと私を満たしているのでした。
それまで私はよだれを流さぬばかりに快感に酔い痴れつつ、ぼーっとアーサーの睾丸や私の子宮を見比べていたのですが、唐突に視界が奇妙に変化しました。私はどんどん身体の内部へ向かって視力を深めていましたものが、今度は体の中から膨れ上がるものが視力を持って外側に私たちを見るようになったのです。みるみるうちに内圧が高まります。細胞の一つ一つに視力が宿り、すべてが外へ向けて視線を放つと、私の身体は突如として膨れ上がり、破裂して、さらに拡大し、消えて無くなろうとします。快感の発生は無尽蔵であり、今度は身体の外の空間に向かって拡散してゆくのです。いつまでも内側など見ていないで外を見るべき時なのでした。
アーサーにもっと強く抱きしめて欲しいと頼みましたが、アーサーもそれどころではなく、強烈な刺激に身体を孔だらけにされてそこを猛烈な速さで通り過ぎるまた新しい快感に耐えられなくなり、白銀色に輝く精を私の中の広大な空間に向けて花火のようにパアンと打ち上げたのでした。あらゆる感情と感覚がごたまぜになった中、私たちは浮遊して部屋を出てどんどん上にのぼり、太陽に翼を焼かれたイカロスがいたところまで登ってしまっていました。太陽は白金の溶鉱炉であり、私たちを楽々と蒸発させます。私たちは小さな死を迎えます。私とアーサーはこの世からいなくなるのです。
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語り手の事情は秘密のありかにひざまずき
Reciter on the window.
Circumstance of a reciter.
Secret of a circumstance is out of a window.
Circumstance of a reciter.
It is eternal never.
そして至高の結末に
あなたはむりなく
たどりつく
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気が付くと私は暗闇の中にいて、ここがどこだか分からないという不安な時間を身じろぎもせずに過ごしました。暗闇が恐ろしいというわけではありませんでした。隣にアーサーの身体があることが分かると、私は安らかな気分になり身を寄せました。そして何が起きたかを思い出そうとつとめます。
考えてみると私たちはあの部屋に幽閉された状態だったのです。六日ばかり一生懸命爛れた生活を送っておりましたが、その後どうやって部屋を出るかまではうっかりしていて考えておりませんでした。あの部屋は孤絶しており、外にいつもの世界が、いつもの屋敷の風景があるはずもなかったのです。
私たちは、トンネルに生き埋めにされた人々がダイナマイトで出口を吹っ飛ばして脱出するような感じで、エクスタシーの力を使って部屋を出たようでした。エクスタシーは取り扱いに注意すべき危険なもので、ある意味でダイナマイト以上の破壊力を秘めております。オーガズムをいくら重ねてもエクスタシーの想像を絶する爆発力にはとうてい及びません。
それにエクスタシーは意識して作り出せるような安易なしろものではないのです。思い出せませんが、何か特別な応援があって、運良くエクスタシーの発現を見たもののように感じられます。そうであるにしても、エクスタシーの影響により偶発的に脱出できたのか、脱出するために身体が危険を冒してエクスタシーを呼び寄せたのか、どちらともつかない謎は残ります。いずれにせよ、抜け出したのは、窓からであるというのは憶えているのでした。
アーサーの身体が不意に動きました。
「目が覚めた?」
と私はアーサーに訊きました。
「ああ」
かなり濃い闇ですから、アーサーは自分が盲目になってしまったのではないかと思ったようです。隣にいる私の影や、瞳の光がぼんやりと目に入ったので安心したようでした。
「ここはどこなんだろう。屋敷の、あの部屋じゃないようだ」
暗闇の中にあるのは確かに以前とはまったく雰囲気の違う空間です。
「ここはどこなんだ。君はわかるかい」
「Nowhereよ。どこでもないところです」
「そんな」
「大丈夫ですよ。逆に言えばどこでもあるところなのですから。まだ何も定められていないところですから、ここはどこだと私が決めなくてもいいでしょう。あなたが自由に決めてもかまわないのです。あなた次第であの屋敷の部屋にもなるし、あなたの自宅の部屋にもなる。あなたがインドに住んでいた頃の部屋にもなる。それとも全然べつな場所でもかまわないのです。人を起点にも出来ます。屋敷の主人やチッタやメリッサに会いたいなら、それも容易なことです」
「途方もないな。ここは現実なのかい? 四次元? それともやっぱり僕たちにお定まりに妄想の中なのか?」
「あのね、アーサー、もうそんなことをいちいち気にすることはないのですよ。私にはこの世界の仕組みがだいたい分かってきました。あなたと抱き合って二人まとめて太陽に射ち込まれたようになったときに見たのです。あなたは見なかったのですか」
「な、何をだい」
「私たちは至高の結末に無理なくたどり着けるのです。なんてすてきなプレゼントを貰ったんでしょう。慌てる必要などなにもありません」
「また君は分からないことを言う」
「では最初の行く先は私が決めますから、ついてらっしゃい。お腹もすいていることですし、行きましょう」
私はベッドのような何かを下りて暗闇に満ちた空間に立ちました。
「危ないよ。こんなに暗いのに、どこに行こうってんだい」
「あっちへ」
「君にはなにか見えているのか。道標とか」
「べつに。ヴィクトリア朝はけっこう好きでしたけど、つぎは誰も知らない新しい世界を見てみたいですね」
私はとっとと進みます。
「おい待ってくれ。僕も行くから。置いていかないでくれ」
アーサーが追ってくる足音がします。
「新しい世界だって? そんなものどこにある」
「テラ・インコグニタ」
「僕らは大航海時代以降、人跡未踏の地などなくしてしまってる」
「テラ・インコグニタはまだたくさん残っているはずです。探せますよ」
「畜生。惚れた弱みとはいえ、仕方のない女だな」
私はくすくす笑いながらアーサーをなだめるように言いました。
「心配はいりません。こうして求めて歩いていれば事情は向こうからやって来ます」
そうよ、アーサー、忘れないで、私の名は語り手。
これから一緒に旅をする。
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文庫版あとがき
私は最近の性の乱れを憂いている。
などと書くと勘違いする方々もいるであろう。そのへんの良識者とかご父兄が考えているようなものとは全然違う。
だいたい何を捕まえて性の乱れとするかなど、私が見ていて馬鹿馬鹿しくなるようなことばかりだ。不道徳とか、現代のような道徳をまともに語れるような状況がないのに道徳ということの愚かしさである。倫理道徳修身とか言うと「悪しき戦前の教育に戻る気か」とかすぐに言い出す人々がいて、いい加減にしてもらいたい。道徳とは礼儀であって、まず躾であり、痛い目に遭わせてでも分からせねばならぬものである。だいたい人の道に戦前も戦後もないだろう。既に現代日本では道徳教育は否定されているとしか思われない。「戦前のにおいがする教育はダメ」というんならじゃあどこに現代日本の道徳の根拠を見出すのか? インターナショナルなユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの徹底した神の教えに見出すわけにもいくまい(信者は別として)。ほとんどの人がありがたがる民主主義がユダヤ、キリスト教の教義の延長であることくらいは分かっているのか? 向こうでは「神が道徳を示し、ダメなことはダメなんだと言っている」と断固として言えるのだ。だとすれば日本はときに説得力の薄弱な法律に拠り所を求めるしかなくなる。「どうして人を殺してはいけないのか」とか子供に訊かれて返答に窮するような連中にはもう社会がおかしい、子供がおかしいとかいう資格はない。「ただいけないことだから」「犯罪だから、警察に捕まるからだ」とか言われて納得するような子供はいい子なんだろうが、まず間違いなくまだ何も考えていない。
そもそも「どうして人を殺してはいけないの?」という疑問が呈されること自体がおかしいのであって、道徳欠如以前の問題である。そんな質問が出てこない基盤があってこそ「どうして人を殺してはいけないのか」という問いがようやく人生、宗教、哲学や思想、SF上の問題として浮上してハイレベルの見地で扱われるべきなのである。
それはまあいいとして、性の乱れと言われるものの第一は強姦などの性犯罪であろうが、これはもう犯罪なんだから、乱れもへったくれもないだろう。いつの世も、戦場以外では、悪とされてきた。戦場でも本当はそんなことはしちゃいけないのだが、欧米でも中東でもロシアでも日本でも、それこそ歴史から学んでくれと言っておこう。
ポルノグラフイの氾濫、オナニーの過剰、不倫、3Pセックス、ソドミー、同性愛、獣姦、SM行為、近親相姦など、変態呼ばわりされている行為は多いが、そんなもん乱れでもなんでもない。どうってことねえよ!(アントニオ猪木調)これらはもうずっと昔から人類文明とともに存在してきたものである。そういったものに「背徳」「禁忌」とか煽って商売にしてきたのが官能小説家だけではなく詩人、小説家も含む芸術家たちなのである。騙されんでほしい。「聖書」だってエロチックな記述はたくさんあり、一度、ソロモンの雅歌にでも目を通してみて欲しい。楽しいから。
近親相姦一つとってみても、どこにでもあることであって珍しくもなんともない。昔、東北とか雪に囲まれた村に住む兄妹がついやってしまったなど、よくあることだった。「聖書」の時代から始まり、ローマ帝国、イギリス王室、フランス王室などの家系図を調べりゃあそこかしこにある。だいたい私は近親相姦自体が悪だとも思っていない。父親や母親、親戚が子供に基本的な性の手ほどきをする文化も少なくないのだ。大事なことだからきちんと教えとかないと子供が非行を犯すかも知れないだろう。
本屋に行きフランス書院文庫の棚を見れば、母と息子、父と娘、兄と妹またその道をテーマにしたものがごまんとあるが、何故、これらが熱心に書かれて読まれるかといえば「背徳」「禁忌」感が洗脳された読者の頭にピピッとくるからであろう。「やっちゃいけない」感、「背徳」感がなければこれらの小説は色褪せてしまって成り立たないのだ。
以前、クロード・レヴィ=ストロース(れいの構造主義の元祖の一人だ)のインセストタブーの研究を調べたことがあるが、未開社会(かれらを未開の野蛮人と考えることこそが欧米学者の傲りである)で血縁の濃い者の間で結婚が行われない構造を研究したものである。レヴィ=ストロースの結論は忘れたが、私の意見を言えば未開社会の人々より、ヨーロッパ人のほうが妙にものを考える分スケベだというだけのことである。「悪徳」とか「神への罪」が意識にあり、アタマだけで勝手に欲情しているんじゃないのか。そもそも古代から中世の貴族たちはおそらく近親相姦するのにいちいち「背徳」など考えてもいなかったに違いない。その場の欲求だったろう。近親婚に悪があるとするならば、優生学的な問題であり、やはり子供は作らない方がいいということである。
またアメリカの近親相姦のケースは父親が娘に性的な暴行を加えるというものが圧倒的に多く、児童虐待であり、女の子の深刻なトラウマの原因となっている。父親だから悪いのではない。アル中のバカな男だから悪いのだ。相手が嫌だといっているのに無理矢理やっては、それも圧倒的に弱い立場の相手へは、それはいけません。これは近親相姦というよりも男女間の性暴力、レイプと考えるべき問題だと思う。
でまた日本で人気があるものに幼児性愛、少女姦、いわゆるロリータ・コンプレックスものがある。しかし、こんなものも昔からあることである。何歳までをロリータ扱いするのかは、その女の子の成熟度次第であって、女の子の人格を蔑ろにしてきたことが明らかだ。十一、十二くらいの娼婦は、本人にとっては不幸だったかも知れないが、珍しくもなかった。ある男が見込まれて養子縁組みでもらわれていったはいいが、相手の女の子は御年三歳だったというような洒落にならない話もある。子守りをさせられる日々である。光源氏じゃないんだから、遠大な計画を立てて紫色に染めようなどとは思わないぞ、普通は。逃げても男を責められまい。だが「だけど、それ、羨ましい」などと言い出す男は、そもそも「是非入り婿に」と見込まれたりは絶対しないだろう。
可愛い少女を見て、いいな、と思ったりするくらい自然な感情だろう。でこれもまた「禁忌」「背徳」を交えて「嗜好」となり一部の男どもが興奮する材料になっている。お前らみてえな妙テケレンな野郎どもには女のコを見せるだけでもあぶねえや、家に籠もってせっせとマスでもかいてやがれ!(今東光節)だいたいナボコフの『ロリータ』は、アメリカ文化の浅はかさを未熟で頭も良くない少女に託して、それに思いを寄せる中年男(ヨーロッパ文化の比喩)を皮肉を籠めて笑う喜劇と解釈されていたりする。スタンリー・キューブリックが映画化した『ロリータ』もそんな背景を知らねばたいして面白くもない。だが戦後日本はふるくは平安時代に遡ることすら出来る、江戸から明治、大正と続いたおんなあそび≠フ粋な伝統をばっさり捨ててしまったせいか、かえって『ロリータ』に奇妙な愛着を抱くことになってしまったり、『チャタレイ夫人の恋人』に裁判まで起こすような馬鹿なことになってしまった。真面目に想うのならいいじゃねえか、小さな女の子が好きだって、生々しい奥様だって。『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルのほうが余程デンジャーであろう。
SMも「背徳」「禁忌」倒錯的な「秘め事」ということでまずは人々の気を引く。私はマルキ・ド・サドの作品を読んだことがない。いや、買ってきて期待して読み始めたことがあるが、あまりにつまらなかったので途中で放り投げた。よってよく知らない。『O嬢の物語』はこの前やっと最後まで読んだ。途中で気分が悪くなったが、ドゥー・マゴ賞まで取った「恋愛小説の傑作」らしいから。
ただこの小説はポーリーヌ・レアージュことドミニク・オーリが、文芸批評家でありガリマール書店(日本で言えば岩波書店のようなもんらしい)の黒幕であったジャン・ポーランに捧げるために書いたラブレターであるというところがいじらしいのである。
「私はジャンのためにあの小説を書いたのです。私は彼を心から愛していました。彼と一緒に暮らした十五年間だけが本当の人生でした。それ以外の時間は無意味です。今の私は死人同然です」
と、この時九十歳のオーリは言う。男であればここまで惚れられたいものである。ちなみにオーリの母親は、
「性というものを恐れ、肉体を嫌っていた。あれほど性を嫌っている人間がよく子供を産めたものだと思う」
と語られている。まことにヴィクトリア朝の被害者のような不幸な女性であったらしい。オーリがジャン・ポーランと同棲していたとき、O嬢のように肉体と精神を破壊されるような目に遭わされたかどうかは定かではない。この小説は男性よりもむしろ女性にウケているようで、なんとなくその気持ちは分かる。
SM(最近はセックス&マジックともいうらしい)もなかなか気持ちいいものであるらしいし、心身の解放にそれを必要としている人間もいることであるから、人に迷惑をかけないかぎりは、牝奴隷でも女王様でもいいから、ちんけな快感のために薄みっともなく隠れるのではなく、どんどんやりゃあいいのである。イニシエーションや健康回復のための性的加虐は大昔から行われてきたことである。小説としては団鬼六的な「陵辱」「羞恥」「調教」感覚はもう古いと言いたい。そういうものはもう読んでいて退屈であるが、みんななかなか書くのをやめませんね。
獣姦も牧童がたまたま恋人がいなかったせいか、羊や山羊を捕まえてちょっちょっとやるなどおおらかなもので、たまに鶏を相手にしてしまったりと(故に鶏姦などという言葉がある)衛生上問題があるが、責める筋合いはないだろう。ご婦人だって人が見ていないところで犬や烏に挿れてもらったりしていた。それをAVなどがことさらに取り上げて、驚くべきもののように言って販売していて、好き者が見るわけだ。
というわけだからフランス書院の本に書いてあるようなことなどは(犯罪はいけないということにしておくが)性の乱れでもなんでもない。ただ不思議なのはどうしてフランス大使館はフランス書院という名称に抗議をしてこないのだろうか。昔、合法売春の特殊浴場が「トルコ風呂」と呼ばれていたとき、トルコ大使館が抗議してきたので、まるで花王石鹸がオーナーであるかのような「石鹸の国」などという変な名称に変更せざるを得なかったという事件もある。自らフランスは「うちの国はこのようにど助平です」と認めているのか。まあたぶん読んでいないんだろう。
スケベや性欲は否定しないし、されるべきものでもないだろう。近頃はシロウトの女の子がおそらく自分の性体験や性的願望を小説にしたりしており、「小説新潮」などはそういうのを積極的に掲載して、編集長に聞けばその「性の特集」号は売り上げがいいらしい。昔のようにもうジリ貧の状況で、たいてい男性の官能作家を集めて相も変わらぬことばかり書かせているよりは、フレッシュでよい。女の子も自分の性を隠さず発表できるようになったのであり、私はある意味で進歩だとおもう。ただし、その小説がエンターテインメントとして通用するものでなければ作家にはなれないので、これも勘違いしてはいけない。
セックスに至らないピュアな恋愛感情も大変よいものであって、このヴァイブレーションを味わわずして相手に乗りかかるのは不粋野暮の骨頂というものである。恋愛状態にある人間は非常に活性化され、実際に免疫力や自己治癒力が増大している。切なかったり喜んだりと恋愛感情に浸るだけでも大きな快感であるのだが、この性的快感に対しては何故か誰にも咎められることなく、多くのことが語られ書かれてきた。『若きウェルテル』はこの感情のために悩み自殺までした。恋人や夫、妻がいても、つい他に恋を求めてうろつきたくなるのも、単なる欲求不満のヤツは別として、この恋愛の波動を好むが故であろう。恋愛中毒というものはあり得る。恋愛の波動を永遠に意識に留めておきたいものだが、残念ながら長続きしにくい。ほとんどの場合、うまいことくっついて、求める相手に触れてしまうと愛情は残るけれども恋情は失われてしまう。恋とははかないものなのである。
また誤解が多いが、プラトニック・ラブとピュアラブル・ラブは別のものである。プラトニック・ラブは誰がそんな概念に定着させたのか知らないが、男女の肉体関係のない純愛という意味に用いられることが多いが、嘘である。プラトンの著作のいくつか、「饗宴」などを少し読むだけで明らかになる。プラトニック・ラブとは、いろいろあるんだがすっ飛ばして言えば、何故か女の子に好まれがちな少女マンガ、やおい系美少年愛のことである。彼女たちはホモとかゲイは嫌であるらしいが、美少年がくっつくのは大好きらしい。プラトンは居間に稚児をはべらせ、キスしたり、性器をいじくったり、銜えさせたり、肛門を犯したりしながらワインを飲み、イデアの哲学について語り合っていたわけで、確かに女性との肉体関係はないが、「どこが純愛だ」と言いたくもなろうものだ。プラトンやその哲学については学校で教えているが、こういう件も勘違いのないよう隠さず教えた方がいいと思う。男色、色小姓好み、衆道もギリシャの昔からあるのであり、いちいち目くじらを立てるな、といえよう。
乳房と女性器がありかつ男根もついているというシーメール的両性具有的エロス表現は18禁ゲームやエッチなマンガでしばしば見かける。しかし、ホルモン異常などの原因で現実にそういうふうに生まれてしまった方々はときに「かたわ」扱いされてひどく悲しみ悩んでいるのである。マンガのズリネタ扱いするようなことには賛成できない。
私は多様な性的行為が、善悪ではなく、自然か不自然かという観点から話をしてきているのだが、どうもたいていのものは自然というほかないと結論したわけであった。
だから現代の問題である性同一性障害、人工授精、遺伝子的優生学などのケースは、自然なのか不自然なのか、新しい問題として考えねばならないと思っている。
私が考える性の乱れとは、21世紀突入を鑑みて、もっと建設的に改めるべきものである。性の乱れというより性情報が歪められているといったほうがいいかも知れない。長く抑圧されてきたわけだし、歪むのも仕方がないが、この情報化時代にもそんなことを続ければおかしくなるに決まっている。
まずは知識である。精神や肉体に関する正しい知識は本来なら体験の中にしかない。
男の子は女の子のことをよく知らないし、女の子も男の子のことをよく知らない。まずこれが乱れのもとである。お互いに分からないことを訊き合うべきである。遠慮せずに質問し、猥談すべきである。まあ異性を目の前にしてそういうことを訊くのは恥ずかしいかも知れない。照れくさいし。でも第一歩である。恋人同士である、夫婦同士である、にも関わらず訊けないというのはよろしくない。
インターネットを見てみると異性同士が分からないことを質問したり、体験から意見を言ったり、真面目に楽しく猥談しているサイトはいくつかある。BBSやメールなら相手が目の前にいない分、照れずに率直に訊けるのであろう。
「分からんことがあったら、おれに/あたしに訊けや!」
という単純なことなのだ。
異性に率直に訊かずに籠もって怪しい雑誌や「HOW to SEX」のような本、嘘ばかりこいてるテレビなどを見ているから知識が歪んで、性が乱れているとか言いたくなるのである。恥じらいが美徳であり、性欲をそそる、というようなことは20世紀までで終わりにしていいよ、別に。私だって分からんことばかりだから、大いに女の子に訊きたいのである。相手が小学生のコであろうと熟女であろうと老女であろうと、いい知恵を教えてくれるのなら学ぶべきであり、女の子にいくらでも頭を下げる用意がある。50年連れ添っても、
「結局、妻ないしは夫のことは分からなかった」
とか、そんな手遅れなことは嫌なのである。
たとえばセクハラに困っているOLがいるとしよう。馬鹿な上司や同僚に傷付けられて泣き寝入りするようなことは面白くない。逆に裁判沙汰になってしまうのもこれもつまらない。職場がぎすぎすしているのは嫌である。そこでそういう時こそ、ある程度信頼のおける男(言いふらしたりするバカは駄目)に、
「男ってどうしてセクハラなんてことをするのか。どういう心理でやっているのか」
と訊けばいい。下着泥棒や痴漢のことだって、
「どうしてあんなことをしたがるの?」
と訊けばよろしい。で、いい知恵、反撃法が出てきたら、セクハラ痴漢野郎どもに灸を据えればいいのである。是非裁判沙汰にして示談金をむしり取りたかったら、その後でいい。敵を知り己を知れば百戦殆うからず、というものだ。
男だって、女心の機微なんかそう簡単に分かるはずがないんだから、
「これこれしかじかで、彼女の気持ちがサッパリ分からない」
とある程度信頼のおける女性に相談してみればいい。
「それはねえ、あんた嫌われてんのよ」
と若いコに言われたり、
「ぐずぐずしてないで、やってあげないから、彼女が不安になるのよ」
とお姉さんに言われたり、いいアドバイスをもらえる可能性がある。
また好奇心からでもいい。スパッと訊くことだ。
「男の人のオナニーって何なの」
「どうして男の人は縛りたがるの」
と訊かれれば、男だって答えるにやぶさかでないから、すぐに答えが得られてさっぱりする。その上で体験談などを語り相互理解を深めるにしかず。
「イっちゃうってどういうことなの」
とか、もう三十を越しているのに分からない女性だっている。
だいたい西洋では性についての医学はたいへん遅れたものであって、とくに女性のオーガズムに関して非常におろそかで、ほとんど研究がなされて来なかった。アメリカでジョンソン&マスターズ報告、ハイト・レポート等が発表されたのはようやく前世紀半ばのことである。それを見て自分はオーガズムを体験していなかったとか、ひどい場合にはそんなものがあるとも知らなかったという女性が多く、
「私にとりセックスはただ苦痛でしかなかった」
と既に更年期も終わった婦人が嘆いたものである。それもこれも、相手を知らず、己を知らず、恥ずかしがって訊かなかったせいである。こういう喜悲劇は終わりにしたいものだ。そんなところに不正確な性情報が氾濫し始めて、見聞に侵入し、さらに真面目な男女を惑わすことになっていった。もはや性を抑圧的な秘め事とするのは終わりにしてもいいのではないかと思う。感動がないと、
「セックスってこんなもんか」
と分かったような感想を持ちがちであるが、そこで止まってはもったいない。男と女は無限に知り合うことが可能なのである。
私も20世紀末の未熟者なので女性男性から性の相談を持ちかけられても、いい知恵は出せないかも知れないが、そういう場合はルーが代わりに答えてくれるから心配要らない。
そんなこんなで性に対してはオープンに明るくしていきたいものである。ほんらい楽しくあるべきものだからだ。だいたい私が『語り手の事情』を書いたとき、今は故き父が、
「ポルノなんか書きやがって」
と半分怒って、この作品のことは二度と語られなくなってしまったりしたのであった。よく読んでくれ、ポルノの一言で片付けんでくれよ、とも言えなかった。いろいろあるんです。
性は素晴らしい……で終わるのも浅はかで面白くない。物事には明るい面と暗黒面とがあることは用心し警戒すべきである。オープンにしても、どう言い繕おうとも、ビシッとガラスにひびが入ったような、どうしようもない暗点もまた私には見える。新潟で少女が九年にわたり異常者に監禁されたという悲惨な事件をニュースで見たとき、私は次の瞬間には、その少女はおぞましい性的な暴行を受けたのか、と思ってしまっていた。日頃、かしましく恥知らずな所も多いマスコミですらこの点にだけはまったく触れようとしなかった。これぞ「禁忌」ということであろう。しかし私は知りたいと思ってしまった。一応自己嫌悪に陥った。
最近話題の児童虐待「子殺し」のことも性の問題だけに含め扱うことは出来ないにしろ、これも昔からあった、というと残酷であろうか。農村の間引きやコインロッカーベイビーしかりである。この件のニュースを見ていると親になるべきではなかった未熟すぎる男女が原因のようである。ただSF的視野に立つと未熟な親も含めて「子殺し」にはもっと深い地球の生態系、集合的無意識の神話的深淵があり、その観点から考察も出来る。そういうことはいつか小説に書くこともあろう。ただ一般的に「悪」がないと思われていよう大自然の野生動物の世界にも自然に「子殺し」が行われていることが観察されている。一例をあげれば、何匹かの子供を産んで、さて育てようとし始めた雌ライオンのところへ雄ライオンが来て、子供を皆殺しにしてしまう。自分の遺伝子を注ぎ込み残すことは重大なことである。すると哀しいというか何というべきか、雌ライオンは興奮してぎーっと性液を漏らして発情し、その雄ライオンとつがうのである。ここに暗黒を持ち込むことが出来るのだろうか。
性の乱れというが、追究してゆけば結局、教育の問題ということになってしまう。
たとえば援助交際というやつだが、売春ではなく、買春などと珍しい言葉を引っ張り出してきて、買ったオヤジだけが罪される。これはおかしい。歴史的に見ても売春行為は女性の方が一方的に罪されてきていて、姦通罪などという困った法律もあったから、女性救済の観点はあってしかるべきだ。それが改善されてきて、売春行為は売った方も買った方も同罪というレベルにまで来た(ソープは除く)。男女同権男女雇用均等をうたっている時代なのだからそれはいい。しかし援助交際という形態の売春行為は新しいものであり、現在の法的レベルでは追いつかないし、被うことは出来ないのではないか。
仮にの話、私が十六歳の女の子を好きになり、男と女の堂々とした交際をしたら、即座に逮捕されてしまうのである。未成年保護条例違反というやつである。いくら援交ではなく真面目だといってもダメなのである。「許されない恋愛」という、二世紀も遡ったようなロマンとなってしまうのだ。
援助交際を容認するが如き一部の学者評論家は、子供の自主的判断によるものであって、新しい生き方、子供の人権がどうとかまで口にしかねない。援助交際する女子中学高校生は現代の閉塞状況的社会のうちにあり、己の意思で売春しているのだから咎められないと言いたいらしい。そうじゃないだろう。援交オヤジだけではなく女の子もきっちり捕まえるべきである。現状では援交オヤジはけっこうな刑罰を与えられるが(ちょうど東京高裁判事が女の子に手を出した事件が起きている。この人はもう社会から抹殺されるであろう)、女の子の方へは注意と親への厳重注意で終わりだという。親がしっかりしていないから、こういうことが起きるのだから、その親にいくら注意したって改まるはずがない。だいたい女の子も世間を舐めていて、
「人に迷惑をかけるんじゃないから、いいじゃん」
と言い、大人はこれに対して、「何故、人を殺してはいけないのか」と同様、「何故援交が悪いのか」をまたしても説明することが出来ない。情けねえ。
「あたしたちの牢なら警察にも捕まんないし〜」
ということで法律も悪の根拠とならない。
一般世間では、いい年して子供に手を出す馬鹿男が一方的に悪い、ということになっており、大人が悪いのであり常に女の子はあくまで被害者扱いとする、と片付けているが、実態はそんなものではないということは明らかである。二十歳の境界線で区切っていいものではあるまいに。馬鹿オヤジを捕まえるんなら、馬鹿娘も同時に捕まえて処罰すべきだと私は思う。
さら竺言っておけば、未成年男子が未成年女子に手を出しても、まったく罪にはならないらしい。女子中学高校生の処女喪失、最初の頃の性体験にはやりきれない嫌な話がたくさんある。同級生だか先輩だかに抵抗できぬ状況で強姦されたり、4、5人の集まりにうっかりついていったら、いつの間にか強姦され輪姦されてぼろぼろにされたりしている。おれの女の子になんてことをしやがる! と、こういういたましい事件が全国の中学高校でしばしば起きているのだが、ほとんど表面化されずに処理されてしまう。その女の子が生涯にわたり性に対して一種の諦めやトラウマを抱かないことを祈るのみだが、そういうことをしたクソガキどもは何ら罪に問われることもなく、のうのうと暮らしているのである。レイプは親告罪ではなくなったのだから、たちの悪いクソガキどもは一網打尽にして牢屋にたたき込むべきだ。が、クソバカ少年もあくまで守られなければならない存在ということになっている。これは若気の至りで済む問題ではない。自分が人間であるという自覚があるんなら、その女の子に対して不幸にならぬよう死ぬまで責任を取れと言いたい。
教師も親も悪い。だいたい性教育がなっていない。
女の子の生理の手当のことは早くから教えているようだが、男の子にはほとんど何も教えないに等しい。男の子にもきちんとした基本事実を教えておくべきだ。夢精、精通、皮の剥き万、マスターベーションによる性欲のコントロールなどである。これは女の子にも教えておいた方がいいし、男の子にも女の子の生理その他のことを教えておくのもいい。
「そんなことはいちいち教えなくても、自然におぼえるものだ」
とかつて心の師大山倍達先生が言ったが、あの時代ならそれでよかったろう。近所や親戚に兄ィがいて、いろいろ教えてくれたり、わざわざ女郎屋まで連れて行って「わるいこと」を教えてくれたりしたものだ。だが、今はそんな時代ではない。うかうかしているとマスコミ、情報メディアから「さらにわるいこと」を刷り込まれかねない。
極端な話、男性教師と女性教師が生徒の前で正しくセックスして見せるくらいしたほうがいい。ただし今の教師はなかなか信用ならないので困りものだ。ならば家庭で父親と母親が子供達の前で如何に愛し合っているかを手本にして教育してやるべきである。時々、子供が夜小便に起きると何やら両親の寝室から声が聞こえてきて、つい覗き見したりして、それがショックになりトラウマ、ノイローゼの原因になったりする。フロイト的エディプス・コンプレックスというやつである。昔、ほとんどの日本人が狭い長屋に住んでいた頃にはこんなことはなかった。お父さんとお母さんがまたやってるな、と子供も実践的におぼえていったのだ。で翌年には弟か妹が産まれちゃったりすればもう説明せんでも分かるだろう。今のように子供部屋の分かれた家に住む核家族はこの間題に直面せねばなるまい。ならば早い内に、子供が十二、三になった頃に隠さず見せることを勧める。
そしてコンドームや各種の避妊具の使い方や、男の子なら女の子に礼をもって接触する方法などを教えればよい。
もし私に娘がいて、いい年頃になったなら、渡辺淳一ではないが「男というもの」は……、ときちんと教えたいものである。娘が聞きたかったら性の秘密を説明してもいい。男の集まりに一人のこのことついていくような真似はまずさせない。というか、そういう危険について察知する能力を養わせたい。で、娘に「どうしても好きになっちゃった」ような男が出来れば、これも男の性衝動のあり方や、非常時にかわす方法を教えておく。いや本人が求めて結ばれたいのなら、それは尊重する。
親たる者、学校にどんな危険なバカ(教師も含む)がいるかも知れないので一度は下見に行っておきたい。またどこでどんな性的な危険に巻き込まれないとも限らないので、媚の使い方も教えた万がいいかも知れない(媚につ小ては『晒巷に在り』参照)。女の子はみんな基本的に媚力を使うことが出来る。よって媚の術を教えておくのである。はっきり言えば男より女の方が強いのである。こと性的シーンにおいてはむろんのことである。男なんざ単純だから筋力が勝っていようが、媚を使われればコロコロ操られて参ってしまう。これでアメリカ留学にも安心して送れるというものだ。愛娘には男どもに対して常に優位に立っていてもらいたいと思う次第である。でもたまには優しくしてやってあげてね。
『語り手の事情』は1997年に、何故か純文学の巣窟「文學界」に発表したものである(他の雑誌が書かせてくれなかったといったほうが正しい)。この話の続きを考えていたのだが、全然まったくウケなかったので、どこかに行ってしまった。
私は作家になって以来、一度たりとも、読者サービスのために濡れ場を入れよう、とか考えたことがない。そもそも『語り手の事情』はこんな話になる予定ではなかったのだが、書いているうちにこうなってしまい、小説の力はこう動くのか、と自分ながら思ったものでした。
この小説は「メタ・フィクション」とかそんな変なものではなく、「恋愛小説」であると、べつにどうでもいいが、ことわっておきたい。
[#地付き](平成十三年六月一日)
[#改ページ]
解説[#地付き]佐藤亜紀
私の友人で語彙論の専門家という奴が、一頃、妙な実験に凝っていた。毎夕、駅のキオスクに出向いてスポーツ新聞を入手する。一面には何とも心そそる大見出し――当時だったら、そうね、「米国、イラクを空爆」とかあって、思わず買うと、中央の折り目のちょうど反対側に「か?」と書いてあるような新聞である。尤《もっと》も、昨今は普通の日刊紙も、クオリティ・ペーパーを自任する新聞でさえ、見出しの字の大きさと「か?」はスポーツ新聞並みになったから、往時のいかがわしさは少々想像しづらくなっているかもしれない。さて、彼女の関心は「か?」ではなく(二十歳過ぎてあんなものに引っ掛かるのは私くらいだろう)、巨人軍のキャンプ入りの話でもなく、立派なおとうさんが電車の中で開いたら顰蹙《ひんしゅく》間違いなしのエロページであった。そのエロページでも、Q2やソープやキャバクラのちっちゃい広告ではなく、下の方にあっておそらくは誰もあんまり読まないであろう連載小説であった。
そんなものを集めて何をしていたのか。
もちろん、語彙論的分析をしていたのである。正確に言うなら、男性性器を示す語彙の研究をしていたのである。より正確に言うなら、これはもう語彙論の範囲を逸脱しているのではをいかと思うが、男性性器を示す語を蒐集・整理・分類し、それぞれが自分に対して引き起す反応を分析していたのであった。
それで?
いや、どうもね、と彼女は答えた。「何か今一つぴんと来ないね」
まあ、男性の男性による男性のためのエロ小説は、女性にとっては今一つ要領を得ないところがある。基本的には「漢《おとこ》」自慢で、これが御婦人には退屈なのだ。そこら中でこれ見よがしにやられてげっつり来ているのと大差ない内容を、わざわざ金払って読むこたあないわな。ゲイ雑誌のゲイ小説の方が、使用価値が問題になる分、幾らか取っつきやすい。
ただし、基本的には彼女の試みは間違っていなかった。何と言おうか、人間の発情のメカニズムに肉薄してはいた。さて、発情のメカニズムとは何かと言えば、これはもう、呆れ果てるほど簡単である。
我々は記号に発情する。
たとえばだ――パリあたりで公園を徘徊する年金暮らしのナンパ老人は一体何に反応しているのか。スカートを履いた三角形のシルエットにである。或いは、長い髪の毛にである。ズボンを履いていれば寄ってこないし、髪を纏《まと》めていたり短かったりすれば、これまた寄ってこない。筆者は試みに、だぶだぶアロハシャツにスカートというみっともない組み合わせを実験してみたことがあるが、実に鋭敏な反応が返って来てびっくりしたものだ。上半身ブラトップにぴちぴちジーンズ、という究極の健全お色気スタイルは、私がやるまでもなくアメリカ娘たちが実践してくれたが、心そそる美味しそうな眺めにも拘わらず、反応は芳しくなかった。要するに、目のしょぼついた老人たちには、スカートを意味する三角形の下から脚を意味する二本棒が突きだしていることが肝要なのである。次回は二本の棒で支えた三角形の木偶《でく》に事を付けて引っ張って実験してみようと思っている。乞御期待。
残念ながら、人間はさして複雑な機械ではない。ある図形、ある語彙、ある映像が、一定の反応を引き起す。劣情もまた、そうした反応のひとつだ。一見複雑そうに見えても、実は単純な要素の組み合わせである。たとえば――亀甲縛りに苦悶するラグビーのユニフォームを着たがたい[#「がたい」に傍点]のいい兄ちゃん。誰のどういう切ない要求に応えているのかを推察するのは簡単であろう。その切ない要求が、どれほど単純な記号と欲望の一対一対応から成り立っているかを読み取ることも。しっかし、一体どうやって、こんな怪体な状況を成立させるのかね。ラグビーの横縞シャツ着て亀甲縛りだぜ?
ただ「徒ニ劣情ヲ刺激セシムル」ためには、さしたる字間を掛ける必要はない。いや、手間はむしろ掛けてはならないことになる。問題の記号はトイレの落書きのごとくはっきりと提示されなければならない。言語を媒介にする場合には、語りは限りなく後退し、極度に記号化された再現内容が前景化しなければならないことになる。
にも拘わらず、である。
実際には、猥本ほど凝りにこった語り口で書かれてきたものはない。ちょっと筆の立つ書き手の手に掛かると、猥本はたちどころに文体見本市と化す。孤閨を託《かこ》つ女の嘆き、蕩児の法螺話、訳知りの猥談、鷺鳴かせた高等娼婦の回想、プラトンばりの対話篇、などなど。インテリには困ったものだ。わけても困り者なのはサド侯爵で、十八世紀の作家としても相当に高度な技量を誇る男が(嘘だと思ったら『アリーヌとヴァルクール』を読んでごらん――彼には普通の小説だって普通以上に書けるのだ)、いかに世間を大手を振って歩けない身の上とはいえ、たかが猥本を善くのに費やした時間と手間暇と情熱たるや、考えただけで眩暈《めまい》がする。
劣情の触発が単純な記号学的メカニズムに基づくものだとするなら、何故、これほどの手間暇を掛けるのか。二重丸の(それとも三重丸だったか?)真ん中に縦線を引いて、短い線を何本か書き加えて見せれば十分なところで、何故、たかが問題の記号が発生するまでの時間をかくも延長し、やたらいろんなヴァリエーションで飾り立てたがるのか。
陰気な快禁。これこそがポイントである。或いは、例の記号はギョーム・ド・ロリスの薔薇なのだと言ってもいい。例の記号の出現を際限なく遅延させること、その遅延を様々な手続きによって彩ること、出現後は、意味作用の過程を可能な限り長引かせること。これが、箸にも棒にも掛からないインテリの陰気な快楽の源たる猥本のありようである。そしてこの遅延も、遅延の果てにいよいよ拝んだ記号に対する発情の持続も、拠って立つところは語りだ。とすれば、次の段階は容易に想像が付こう――もはや記号を見て「劣情ヲ刺激セシメ」られることではなく、遅延そのものが目的となる。つまりは、記号の出現を待ちながら読み悶えることが目的となり、それが果たして期待通りの充足を齎《もたら》してくれるかどうかは、もはやどうでもいいことになってしまう。かくて、究極の猥本においては、語りこそが欲望の焦点であるという、甚だしく倒錯した境地が現れる。語って語って語り倒す、その語りこそが読み手の欲望の対象となるのだ。実践すれば十分で済むことを(十五分は既に倒錯である)印刷されたページで五時間続けようと試みる者、ペンと紙で一月続けようと決意した者が陥る、これは当然の退廃である。
だから、エロチックな記述においては特に女性読者から熱烈な支持を得ている酒見賢一氏が(本人は驚くかもしれないが、これは事実である)、「語り手」を女性として書くのは、あながち氏のギャラントリーの故とばかりは言えないのである。誘いつつ拒み、拒みつつ受け入れる、申し分なく女性的な遅延とは、導きつつ逸らし、逸らしつつ引き込む小説的語りの特性でもあるからだ。書き手である酒見氏にとってどうであるか――氏が、猥本のせいでヴァンセンヌの監獄にぶちこまれたこともあるディドロに倣って「語りとは私の情婦なのだ」と嘯《うそぶ》くタイプの作家であるとすればほぼ間違いないだろうが――は定かではないが、退廃しきってちょっとやそっとの刺激では瞼も上がらなくなった読み手にとって、これは些か以上にぐっとくる設定である。
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初出誌 「文學界」一九九七年十二月号
単行本 一九九八年三月 文藝春秋刊
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底本
文春文庫
語《かた》り手《て》の事情《じじょう》
2001年7月18日 第1刷
著者――酒見《さけみ》賢一《けんいち》