聖母の部隊
酒見賢一
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)掩蔽《えんぺい》地形
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|キルレシオ《殺しの比率》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
目 次
地下街
ハルマゲドン・サマー
聖母の部隊
追跡した猫と家族の写真
文庫版あとがき
解説 恩田陸
[#改ページ]
地下街
D1
地下街が悪の巣窟《そうくつ》と化しつつ あるという。私とペーター・ハウゼンは調査に向かった。
「どこといって変わりばえはしないが……」
と私はいつものように喧噪《けんそう》に溢《あふ》れた地下街を眺めやった。今日が土曜日であるせいか、いつも以上に賑《にぎ》やかでもある。サラリーマン、OL、学生、その他、歩いている人々に異常はない。私達も流れにそって歩いてみた。ブティック、レコード店、本屋、ファーストフード店などが隙間《すきま》なく店を並べている。
「異状なしだな」
「そうでンな」
高校生くらいのアベックが、アイスクリームを食べながら通り過ぎていく。すべて、ほほえましく雑駁《ざっぱく》な風景でこそあれ、陰謀の気配など少しも感じられなかった。
「室長のやつ、ヤキが回ったんじゃないのか」
と私はつぶやいた。とりあえず3E南というプレートが付けられている階段を上った。地下街を歩いていると時々迷って現在の位置が分からなくなる。そういうときはすぐに地上に出て位置を確認するほうがいい。私達は通行人に位置を尋ねるような不用意な真似《まね》を禁止されている。
駅前三丁目の南側の歩道に出た。地上も地下街に劣らず人間だらけである。地下と違うのは人々に加えて車がけたたましく走っていることであろう。
D2
今朝のことである。私とペーターはいきなり室長室に呼び出された。室長は険しい表情を作っていた。
「今朝の新聞を読んだか?」
私は首を振った。
「何かあったんですか」
今現在、私達が慌てなければならないような事態と言えば、限られてくる。
「まさか、ゴルバチョフが暗殺されたんでは……」
「いや。彼は健在だ」
「では北朝鮮の第八軍が南下を開始したんですか」
「いや。38度線に異状はない」
「イスラエルですね」
「違うな。今月はラマダンだからな」
私はじれったくなった。
「何があったというんです」
「君が言ったようなドラスティックな状況は起きてはいない。ジョージ(合衆国大統鎖ブッシュのこと)が殺されかかったわけでもない。アルメニアもバルト三国も今のところはミハイル・セルゲイヴィッチ(ゴルバチョフのこと)のコントロール下にある。中東のことは欧米の機関に任せておけばいい。それに……」
室長は軽く手を振った。
「もしそんな状況になっていたら、君らの出番はすでに終わっている」
「室長サン、ハッキリ言うタラどやねん」
無言だったペーターが不機嫌に言った。
「ワテらクイズに答えに来たンとちゃいまッせ」
彼の手はそっとジャンパーの内側に差し込まれていった。私は彼がべレッタ92Fを抜く前に腕を押さえて、英語でゆっくりと言わなければならなかった。
「ウェイト! ヒィ、イズ、ナット、エネミイOK? (よせ。彼は敵ではない)」
「オーライ、分かってマンガナ」
しかし、彼の表情は分かっていないと語っていた。
ペーター・ハウゼンは西ドイツ国籍である。半年前に日本に来た。彼が来ると決まったときの部内の噂《うわさ》が凄《すご》かった。いわく、冷酷無比の歩く殺しの機械が来る、とか、一人でヒズボラのヒットチーム二十三名を片付けたらしいとか、イスラミック・ジハドのメンバーからは賞金首5000万ドルを懸けられているとか、である。私は最初は信用しなかった。そんなマンガのような男が生き残れるほどこの世界は甘くないからである。もし、私が噂のようなことを(私にはとても不可能だが)しでかしたら、すぐさま整形してIDも書き替えて、グリーンランドとか南極に移り住み、息を殺して生涯を終える努力をするだろう。
私はすでに彼とコンビを組むことが決まっていたので、彼の調査書を見ることができた。彼の前半生は噂を裏づけるどころか、噂以上に壮絶だった。多くは言うまい。彼が日本に飛ばされた直接の原因はIRAとETAのトップメンバーをババリアで皆殺しにしてしまったことである。両組織のトップ会談の情報をキャッチしたペーターは、上司にも無断の上、単身完全武装で乗り込み、壮絶な銃撃戦を展開したあげく、無関係の市民を数十名巻き込んだのである。彼は無傷であった。カブールでスペッナズの一個中隊を一人で撃滅したこともあるというから当然ではある。彼は噂通りの伝説の化け物である。西ドイツの機関は彼をヨーロッパに置いておくことができないと判断した。IRAとETAのトップレベルのテロリストたちが、世界各国からヨーロッパへ引き揚げ始めたのである。言うまでもなくペーターに復讐戦《ふくしゅうせん》を挑むために集結しようとしているのである。また、ペーターを憎んでいる諜報《ちょうほう》機関は枚挙に暇《いとま》がない。|KGB《カーゲーベー》、|GRU《ゲーエルウー》、中国国家安全部、リビア情報部などが彼をつけ狙《ねら》っていることは理解できるとしても、なぜかモサドやSIS、DGSE、PLO諜報部などまでが彼を目の敵としている。噂だが彼が一時所属していた|GSG9《ゲーエスゲーノイン》も彼の死には喝采《かっさい》を惜しまないそうだ。CIAは彼に関しては中立というよりも無視を決め込んでいる。しかし、DIAは立場上彼を国内に一歩も入れないとして、FBIと協力する一方、デルタ部隊を常に待機させて警戒している。まさに「右も左も敵だらけ、四面楚歌《しめんそか》でもそこ通りゃんせ、渡る世間は鬼ばかり」という状況である。私が彼の立場だったらとっくに自決していて不思議はない。日本こそいい面の皮である。諜報後進国であることを幸いにあっという間に彼を押しつけられたというところだ。防衛庁勤務の友人の話では、この半年、稚内《わっかない》基地のスクランブル回数が通常の三倍に増えたそうである。ミグがペーター・ハウゼン個人を攻撃目標に定めているという証拠はとくにない。
西ドイツの機関はペーターのことはまったく心配していなかったが、ボンが戦場と化すことを恐れた。ペーターはすでに西ドイツだけではなく西側全体の厄介者となっていた。ベルリン・ウォールが崩れドイツ統一、緊張緩和の時世のなか、無用に野獣のようなエージェントは不要なのである。上層部は苦肉の策として、彼をIRAやETAの浸透度が薄い日本に送り付けることにした。日本の弱腰外交は彼の来日を拒めなかった。幸いにもまだ今のところ日本は戦場と化してはいない。
初めて会った時は、私も正直恐ろしかった。彼は成田でも一際目立った。一分の隙もない巨体が信じられないほど機敏に動いている。彼の顔立ちは典型的なゲルマンの硬質さで構成されており、青い瞳《ひとみ》は不気味なほど冷たかった。
「ハロー、ミスター・ペーター・ハウゼン」
途端に彼はぎろりと私をにらんだ。私が慌ててドイツ語で挨拶《あいさつ》をしなおそうとした時、彼の唇から異様な言葉が漏れた。
「ペーターとちゃいま。わてのコトは、ホフマンと呼んどくンなはれ」
そうだった。室長にコードネームはカール・ホフマンだと言われたばかりであった。私ともあろうものが緊張のため初歩のミスを犯していた。これだけでも時には致命的となるのがこの商売だ。反省すべきであった。しかし、私は笑いを堪《こら》えるのに精一杯であった。彼の言葉はドイツ語なまりの英語の関西弁と表現しなければならないような奇怪なものであったからだ。侮辱されたと思ったのか、(実際そうなのだが)ペーターは上着の内側を探った。税関を通過したばかりで当然銃はまだ所持していない。舌打ちしながら彼は横に飛び、尻ポケットから金属製のカードのついた紐《ひも》を取り出した。認識票なのであるが、吊《つ》り紐が異様に長い。ペーターはありとあらゆる物を武器として、即座に人を殺せる男である。使い方はよくわからないが、恐るべき殺人凶器に違いない。咄嗟《とっさ》に私は彼と反対方向に飛んだ。柱の陰に隠れる。そうしながら、あらゆる言葉で、誤解だ、許してくれ、ごめんなさい、と叫んだが、鎮静効果はなかった。最後に、
「勘弁しておくれやすッ!」
と夢中で怒鳴った。それだけは通じた。ペーターは無表情で武器を仕舞いながら、
「ワテを怒らさンようにしとくンなハレや。同僚《つれ》を殺すンは辛《つろ》うおまッさかい。あんじょウ頼ンまッせ」
と低く呟《つぶや》いた。後で聞いた話によると、彼はベトナムで特殊任務についていた時、日本出身の親友がいたらしい。日本人の傭兵《ようへい》とは珍しい。その男がどうも関西人だったようだ。ペーターはその頃はまだ人間的な感情を多少は残していた。互いに言葉を教え合って、戦場の恐怖を紛《まぎ》らわせたという。私が、その男はどうしたんだ? と訊《き》くと、
「死ンでまいよッた。ワテがこの手で極楽に送ッたりましたンや……。なンまンだぶ……」
深くハードなドラマが隠されているらしかったので、私はあとを訊くのをやめにした。
私とペーターはこうして出会ったのであった。だが、私達の動きと台詞《せりふ》の一部始終を成田の乗降客たちに見られたことが気掛かりであった。
話は戻る。室長はペーターの殺気にはびくともしなかった。さすが室長だけあって度胸がある、と思うのは早合点である。彼のデスクには50口径の重機関銃とM203グレネード・ランチャーと対戦車無反動砲カール・グスタフが内装されている。しかも、人が室内に入ると自動的に安全装置が解除され、室長がインターホンのボタンを押した瞬間に炸裂《さくれつ》するようになっている。さすがのペーターも一瞬にして血と肉の小片となって白い壁にべったりと貼《は》り着いてしまうだろう。もちろん私も一緒である。室長はそういう男なのである。私から見れば彼のほうがペーターよりも危険に感じられる。部内の人間は室長室に入るとそれだけで減量効果が期待できると悪い冗談を言っている。
「お前のガールフレンド、ちょっと太目だったな」
「おう。今度室長室に連れてゆくか」
私は標準体重である。神経強迫による冷や汗は必要なかった。
「室長、じらさずにおっしゃってください」
「…………」
室長はじらしてゆっくりと言った。
「地下街が悪の巣窟になっている」
私は一瞬何と言っていいかわからなかった。何かの暗号か、とも思った。いつもならばどこそこの大使館のAとかBがどうしたのでこうしろ、と具体的な指令が出る。
「チカガイちゅうのンは、何でっか?」
とペーターは不気味に押し潰《つぶ》れた声で訊いた。この声と鋭すぎる目さえなければ、変な外人としてマスコミにデビューできるだろう。
「アンダーグラウンドタウンのことだ」
「さよか。アンダーグラウンドにワルがおるンは当り前ですねン」
ペーターはこの時、バーダーマインホフやレッド・ブリゲードなどの地下組織との戦いの日々を回想していたのかもしれない。
「室長、もっと具体的に言ってくれませんか。悪の巣窟とは一体なんです? 赤軍系の新組織のことですか、それとも中国の……」
「君はもっとベテランだと思っていたがね」
室長はそれ以上は言わずに、朝刊を差し出して、手で追い払うような動作をした。私はむっとしながら受け取り、ペーターを促して部屋を出た。
私はロビーでその新聞に目を通したが、いっこうに、私のような仕事をする者の関《かか》わるような記事は捜せなかった。国際情勢は確かに刻々と変化している。しかし、この時点で日本にいる私達が急遽《きゅうきょ》動くべき事態は、記事には見出《みいだ》せなかった。私は仕方なく新聞をポケットに突っ込んで立ち上がった。とにかく、地下街へ行ってみるしかない。ペーターは無言で私の後に続いた。
D3
私達は現在駅前南口通路から一二〇メートルの地点にいるはずであるが、自信はなかった。それほど地下街は迷路じみて複雑であった。しかし、人々は一見、何の迷いもなく通行して行き、目的の店に躊躇《ちゅうちょ》なく入り、階段を上がっていく。地下街の構造をすべて記憶していたとしてもあれほど自信たっぷりに歩けるかどうかは疑問である。
「いかん、このまま真っすぐ行くとまた地下鉄だ。さっきと同じところに出てしまう」
私達は朝の十時にはここの調査を開始していた。それがもう午後四時を回ってしまった。
「くそっ。少し休んで、飯でも食うか」
「そうでンな……」
ペーターは本来、すかっとする暴れ仕事が大好きなのである。今日のような停滞した仕事ではとうてい彼のウルトラバイオレンス精神をなだめることはできまい。いつも険しい表情だが、今日は一際殺気立っている。このままでは地下街で大量|殺戮《さつりく》でも始めかねない。
ともあれ、地下街のレストランに入った。実をいうとここに入るのは二度目である。つまり、地下街を同じところを行ったり来たりしていたということだ。
「しかし、なんでこんなに人が多いんだろうな」
と私は硝子《ガラス》越しに外を眺めながらピザセットを食っている。
「このクライで驚いたらあきまへンで。ニューヨークはもっと凄うおまッせ」
彼は分厚いビフテキを食っている。
「ニューヨークには行ったことがないからな」
「さいデッカ。そらよろしおました。あんさン程度のウデじゃあ、ニューヨークでは三秒と息するコトも無理でッさかい」
「仕事で行きたいと誰が言った」
どうも二人の間の空気も険悪になってきた。いま、この野獣男が襲ってきたら私の勝てる見込みは限りなく0%に近い。戦いたくはなかった。この目の前にいる男を満足させるにはこの仕事を進めるしかない。私はもう一度朝刊を引っ張り出して、眺めた。
「悪の巣窟だと……。くそったれが。安手の冒険活劇じゃないんだぞ。そんなもんあるかってんだ」
確かに記事には何もなかった。だが、意外なところに手かかりらしきものがあった。広告欄である。大きな広告ではなかった。
『本日オープン! フレッシュアップ・トライ・アゲイン! 貴方《あなた》もここでワンツーワン。地下街に新装開店「悪の巣窟」』
この宣伝文句からでは何のことやらまったくわからない。意味不明のカタカナ言葉で、若い者を引っ掛けようとしている意図が見え見えである。胡散《うさん》くさい。
「なんだ……こりゃ?」
しかし、手がかりは手がかりである。私はペーターを促して、レストランを出た。
この地下街は午後十時半にはほとんど閉鎖状態になる。全《すべ》ての店のシャッターが降りて従業員が地下街を出たと確認された後、地下鉄への通路だけを残して、檻《おり》のようなシャッターが地上への階段を塞《ふさ》いでしまう。私はそれまでには何とか目星をつけたいと思っている。そして、出来れば今日中にけりをつけてしまいたい。その思いはペーターも同じであったろう。
私達は通路が並行したため、広場のようになっている場所に立った。休憩所を兼ねて、ベンチがいくつか置いてある。そこに、地下街全体の案内板がかかっている。案内板の地図を見るかぎりでは地下街の通路はそれほど複雑ではない。主要な通路が三筋あり、それを縦に切り、また結んだ通路がいくつかある。地下鉄への通路だけがやや変則的に斜め上の方に伸びている。その通路図の両脇を各商店がびっしり埋めている。私はその小さな四角のなかに書かれている商店名に目を走らせている。「悪の巣窟」というふざけた名前の店を捜すのである。
「今日出来たばかりの店らしいからな。まだ案内にのっていないかもしれん」
案に相違して、その店の名はすぐ見つかった。紙の札が張りつけてあった。以前の店名を隠して「悪の巣窟」と新しく示している。
4E西の階段から降りて左のほうへゆけば、数えて五軒目が「悪の巣窟」であるらしい。しかし4E西へ行くのが面倒だった。この広場からそこへ行くには角を五つも曲がった上に小通路を三回も横切ることになる。とても一度も迷わずに行けそうになかった。こういうときは一度地上に出たほうが無難である。4E西であるから、駅前四丁目の西側入口を示している。駅を起点と仮定して地上を歩いてそこへ行くほうが地下街を曲がりくねるより、安全と言えた。私達は素早く2E南の階段を駆け上がった。私は方向音痴ではなかったはずだ。しかし、どうも地下街には弱い。地下街を何の迷いもなく行く背広姿の男たちや制服の女たちは、蟻《あり》が持っているような特殊な方向探知能力を秘《ひそ》かに開発しているのではないだろうか。そう考えると私には彼|等《ら》が蟻人間に見えた。くろぐろとした頭に触角をぶらさげて、ひそひそと歩いている。私はその妄想をすぐに追い払った。
D4
私達は慎重に慎重を重ねている。例えば、今の位置を知っておくために、歩数を数えて歩いているし、曲がり角の煉瓦《れんが》壁に小さな傷をつけたりしている。本当ならば降りた階段から毛糸玉をほぐしながら進みたいところであるが、こう人が多くてはそうもいかない。
笑ってもらっては困る。私だって午前中はそんな大げさなことは少しも考えていなかった。地下街に降りて歩いていればどうにでもなると思っていた。しかし、何度も迷い、同じ場所を往復し、刻々と時間が無駄になっていくことに愕然《がくぜん》とした。私達はプロである。気持ちを改めて行動を慎重にした。同じ間違いは二度も繰り返すものではない。九龍《カオルン》城ほどではないにしろ、地下街は現代日本の魔窟なのである。そう覚悟しておいたほうがいい。命が惜しい人は。
私達はようやく、新装開店の花輪がかかった「悪の巣窟」にたどりついた。時計を見ると午後七時半を過ぎている。通行人を装って盾の内部を覗《のぞ》き見ようとした。この店はオープンではなかった。硝子張りで大きな出入口が主流である地下街商店に反して、ぴったりと閉じた扉といい、ショウウィンドウすらない店構えといい、不気味な雰囲気だ。何の店なのか見当もつかない。これでは客も寄りつくまい。
「フーゾクでっしゃろカ!」
とペーターはこの男なりに緊張した様子で言う。
「ばか言え。こんなところに風俗営業店があってたまるか」
ペーターはカチリと音をたてた。ベレッタのセーフティを解除した音である。目で合図した。「飛び込む。援護」の意味だ。
「待て、中の様子がわからん。一般の客がいたらどうする……」
という私の制止の言葉が終わる頃には、ペーターはドアを蹴《け》り破り、反転しながら店内に飛び込んだ。仕方なく私もS&WM19をヒップホルスターから抜いて飛び込んだ。私はペーターの実戦的な動きを見るのはこれで二度目だが、寒けがするほど鮮やかである。彼はまずソファーの後ろに飛び込んだ後、唯《ただ》の一発で照明を砕いた。店内は暗くなった。たて続けに銃撃音がした。しかも、銃口からのマズルフラッシュは一発ごとに二メートルは移動していた。ペーターの動きは人間離れしている。私には敵の姿が見えていなかったが、彼には完璧《かんぺき》に捉《とら》えられていたのであろう。
ようやく私は闇《やみ》に目が慣れてきた。その時店の奥の方で明かりが灯《とも》った。私は357口径のマグナム弾が装填《そうてん》されたM19のハンマーを起こし、シングルアクションの状態にした。
「コッチへきなはれ」
ペーターが私を呼んだ。明かりをつけたのは彼らしい。すでに一幕終っているのだ。結局私は何ひとつしていない。
ペーターは店の奥の休憩室のような場所にいた。一人の男をロッカーに押しつけている。
「誰だそいつは」
「いま吐かせま」
二十代前半と思われる若い男は血の気が失《う》せた顔を引き攣《つ》らせている。
「おどれ、どこの組織のもんじゃい」
と若い男は言った。広島弁を使った。やはり堅気ではなかった。私はこの店が何の変哲もない洋服屋とか本屋だったらどうしよう、と心配していたのである。もちろんその時は店員を眠らせて口を拭《ぬぐ》う。私達は決して表に出てはいけないのである。
「あんさン、立場を考えヤ。訊問《じんもん》されとンのはそッちやで」
ペーターは肉食獣のような顔をにやりと歪《ゆが》めた。彼は敵に対しては徹底的なサディストである。
「わてはペーター・ハウゼンや。知ってまッか?」
と彼は軽く言った。この台詞はヨーロッパでは凄《すさ》まじい殺し文句であったようだ。敵はペーターの名を聞いただけで失禁し、恐怖のあまり、全てを白状する。テロリストたちからは悪魔以上に恐れられているのだ。西ドイツの機関はしぶといエージェントを訊問するときには、切り札として彼を呼んだ。たいていの男は彼を見た途端に下痢でもするように全てを喋《しゃべ》った。自白剤の数倍の効果があるということでペーターはインテロゲーション・エキスパートとしても重宝がられていた。
しかし、ここは日本である。下っ端はペーターの悪名を聞いていない。
「けっ。どこのペーターじゃ。ざけんじゃねえぞ。さっさとアルプスへ帰ってスケのハイジでも可愛《かわい》がったらどうじゃい。それともクララとヨリを戻そうとか、ムシのいいことでも考えとんのかい。わりゃ」
と命知らずの返答をした。
次の瞬間、私は目をそむけた。私のように多少は暴力に神経が麻痺《まひ》した者ですら、正視できない残虐な拷問を彼が行ったからである。男はこれからは(命を取り留めたとしても)もはや廃人同様の暮らしを送らねはなるまい。
「おい、ペーター、そんなことすると死ぬぞ。日本人は西欧人ほどタフじゃない」
「ほッといておくンなハレ」
と凄まじい行為を継続した。
「おい、よせ。この男喋ろうとしているのに、悲鳴が先で言葉にならないようだ」
「さいデッカ。ほな喋らせまひょ」
「ひい、ひい……」
「おい、喋ったほうが身のためだぞ」
「あウ……。こ、こいつをどっかにやってくれや……」
途端にペーターがべレッタのグリップで男を殴りつけた。血が跳ねた。
「言う。言う……。やめてつかあさい……」
「では聞く。悪の巣窟とはなんだ。おまえ、どこの組織の者だ」
「…………」
ペーターが男の指の関節をへし折った。私はまたも目をそむけた。
「ギエーッ。悪の巣窟は、悪魔王チチブノミヤ・ハイネッケル・プラウダ様の出先機関じゃい!」
「悪魔王とはなんだ」
「へっ。おどれらゲスには想像もつかんような偉い御方よ。いずれ世界制覇をお果たしになる、今世紀最大最後の空前絶後の英雄じゃがい。あの方が天下をお取りになったあかつきには、地上にはあらゆる悪徳がはびこり、性風俗はかのカリギュラ皇帝の治世より乱れ、日月《じつげつ》は冥晦《めいかい》のうちに隠れ、ヒトラー、スターリンがやった以上の壮絶な虐殺が各地に行われ、干魃《かんばつ》が世界を被《おお》い、毒の霧が世界を包み、恐怖の大王が降ってくるのよ」
どうも気が触れているらしい。ペーターはやり過ぎたのではなかろうか。
「で、そのプラウダ様はどこにいるんだ」
「そんなこと言えるかい。わしはのう、あの方にとうに命を預けきっとるんじゃい」
肉の潰れる音がした。ペーターがまたやった。私はまたもや目をそむけた。ひどすぎる。
私はひと思いに男の頭を撃ち抜いて楽にしてやりたいとさえ思った。
「ゴウッ。あががッ……。言う……。ぎえッ―――――――――――――――――――――――。あの方の居場所は、5E北3、3右側……」
そこで気を失った。あるいは死んだのかもしれない。
「ま、気ィ悪りせんといてや」
ペーターは涼しい顔をして立ち上がると、
「長居は無用デッせ」
とさっさと歩き始めた。私はこの男だけは敵に回したくないと思いながら後に続いた。
私達は「悪の巣窟」を出た。結局何の店だったのか分からないまま、私達は5Eの階段へ向かった。
D5
かつて私はカンボジアに潜入したことがある。映画の「キリング・フィールド」を見た方はご存じだろうが、あの集団農場に潜り込んで、ある人物を消した。実際は、あの映画などおよびもつかぬような残酷なことが、毎日のように行われていた。私やペーターの生きている世界は超日常の世界なのである。超日常をフィクションメディアである映画が精密に描くことを皆さんは期待してはいけない。私はカンボジアでのミッションにおける生き地獄を回想しながら歩いている。ペーターという男は、この一見、超平和な日本にいる私にカンボジアの悪夢を甦《よみがえ》らせるような男なのである。悪魔王とかいう馬鹿がどんな奴かは知らないが、ペーター以上の悪魔であるはずはないと、私は確信していた。
私達はあの男が言った5Eの北の階段から地下街に降りた。5Eはもはや地下街の終点とも言うべき場所である。ここには便所とか清掃用具置場しかなかった。商店街はずっと向こうで終わっている。ここではトイレの看板と公衆電話機と壁しか見えない。悪魔王が便所に住んでいるとは思えない。
「ど畜生ッ。あン餓鬼ゃわてらをたばかりよったンや!」
確かにそうかもしれない。ペーターにあそこまで痛めつけられてなお偽情報を喋ったというのなら見上げた下部構成員として誉《ほ》めるべきであろう。しかし、私にはあの若い男にそこまでの意志があろうとは思えなかった。ペーターに迫られて嘘《うそ》がつけるような人間が地球上にいるはずがないのだ。
「待てよ。ペーター。奴は5E北の3の右と言った。3の右というのはどこをさしているんだろう」
3とは三歩のことか三メートルのことか。しかし、どちらで数えても突き当るのは壁である。右も左も同じく壁であり、正面にはトイレがある。三〇メートルというのはありそうにない。三〇〇メートル行けばトイレを突き抜けておそらく丸正ビルの地下二階へ出てしまうだろう。時計は九時を指している。時間はもうあまりない。
「サノバビッチ! ファック・ユー・ゲット・ガッツ・ダムン・シット!」
とペーターは珍しく英語で怒鳴った。危険な兆候なのかもしれない。
「落ち着け、ペーター」
私は必死で彼をクールダウンさせようと努めた。あまり効果はない。彼は野獣のような叫び声を上げると壁を殴り始めた。私は彼の拳《こぶし》が骨折することを心配した。うまく人がいないからいいようなものである。もし目撃されればすぐに警察か病院に通報されてしまうだろう。
突然、凄い音がした。私がはっとして見るとペーターが蹴りを入れた壁に巨大な穴が空いていた。やはり、この男は化け物だ、と私は背筋を寒くした。
「あった、これヤ、あンさン見とくンなはれ。ここが3の右に間違いおまへン」
壁の穴の向こうにはトンネルのような空洞が続いている。いかにペーターの拳に破壊力があろうとさすがに壁を砕けるものではなかった。つまり、煉瓦壁一枚向こう側は空洞になっており、ある程度の強さで叩《たた》けば誰にでも壁を壊すことができるようになっているのであった。
「なるほど。ちょうど5Eから三枚目の区切りになっているな」
これであの男が言った場所を見つけたことになる。
「こン中に、悪魔王たら言うど阿呆《あほ》がおるんとちゃいまッカ。はよ殺《い》てもうたりに行きまひょ!」
ペーターはすでにべレッタを抜いて穴に飛び込む構えである。
「しかし……」
私はことの展開に面喰《めんく》らっていた。
「なぜこんなところにトンネルがあるんだ。おかしいじゃないか」
私達はアマゾン奥地の遺跡を調査しているのではないのである。都心に近い地下街の壁の向こうに怪しい洞窟が続いていていいはずがない。
「あンさン、恐ろしおまンのやったら、わて一人で行きまッセ」
「恐《こわ》いわけじゃない」
「ほな、なんでっか。言わせてもらいまッけど、あンさン、わては前から思とりましたんやが、この仕事に向いてナいンと、ちゃいまっか」
「そんなことはない」
「ほたら、肚《はら》を決めて行くンが筋やおまへんか。わては今までぎょうさん滅茶苦茶《めちゃくちゃ》な目におうて来ましたんやが、一度もびびりまへンでしたで。何が起きてもびくともせン、ちゅうのンがわてらに必要な気合いやおまへンか。このくらいの事で尻込みするんやったら、さっさと足ィ洗って堅気の勤め人にでもなンなはれ」
彼は吐き捨てるとトンネルに踏み込んだ。確かに彼の言うとおりである。私達は目の前でどんな事が起きようとも眉《まゆ》ひとつ動かすことなく、正確に事を処理しなければならない。私もそういう訓練を積んできた人間である。しかし、今回は今までとはかなり違うような気がしてならない。例えば私の目の前で私の肉親が爆発しようと、私はまったく動揺することはない。非日常的な任務に生きる者にとっては当然のことである。だが、今目の前にある穴は非日常の上に非現実である。
「ちっ」
私は穴に入った。曲がりなりにもペーターのパートナーなのである。行くしかあるまい。
「この件はうちの機関程度で処理する問題じゃないかもしれんぞ」
と私はペーターに言った。
「任務の途中デッセ。わてらの判断次第ですやろ」
「極めて政治的な事態に当った場合は本部の指示を仰ぐこと、と決まっている」
ペーターはそれを聞いて薄ら笑った。
「そないなことヤットッたら、ラチがあきまへんがな。気にしたらあきまへン」
ペーターという男はヨーロッパでは独断専行命令違反の常習者であった。私が言ったくらいでは止まることはない。
「だが……」
「責任やったら、わてが引き受けま。日本は腹を切ればよかったンでしたナ?」
ペーターはかなりの日本通なのだが、多少は西洋人的誤解を持っているようだ。
洞窟はほぼ四角形に土を掘り進めて作ったものであった。一定間隔に置かれている炬《かがりび》の台では油ロウソクが燃えている。誰かが確かにいるという証拠である。
「しかし、何者だ。こんなところに大規模な掘削を施しているなんて」
「シッ。誰か乗よりまっせ……」
黒ずくめの覆面をした集団が若い女を縛り上げて連行して来る。私はどうすべきか迷った。やりすごして後をつけるほうがいいだろうと決めたが、すでにペーターが動き出している。彼の身体は反射的に戦闘行為を行うようになっているのだ。こういう時の定法《じょうほう》として、彼は銃を使わなかった。小型のナイフでロウソクの芯《しん》をすばやく切断すると、あたりが暗くなった。覆面の集団が騒いだ。
「どうした」
「明かりをつけんか」
ペーターは音もなく接近して、一人ずつナイフで喉《のど》を掻《か》き切っているようだ。私はブラックジャック様の凶器を取り出した。掴《つか》んだ敵のこめかみを痛撃した。連中の訓練度はかなり低く、次々と闇に呑《の》まれていく仲間を茫然《ぼうぜん》と呼んでいる。そのうち最後のひとりも無言で死んだ。
私はライターでロウソクに火をつけなおした。ペーターは縛られた女の背後に立ち、女の喉に血がこびりついたナイフを当てている。
「騒ぐンやない……」
私はまたも不審の念にかられねばならなかった。女の姿が変であったからだ。外国映画の歴史物に出てくるような、ひらひらのついた上着とスカートをつけており、しかも、金髪を高く結いあげている。中世ヨーロッパの姫君の扮装《ふんそう》をしているのだ。胸元が広く開いており、豊満な乳房が見え隠れしている。私は見とれていたわけではない。
「ペーター、放してやれ」
と言った。ペーターは目の前にいる時代錯誤な外人女(ペーターから見れば外人女ではないが)にもまったく動じていない。ナイフで女に食い込んでいるロープを切断する。冷たい目で油断なく女を扱った。プロ中のプロなのである。
「無礼者っ!」
女は自由になった途端にそう叫んでペーターに平手打ちを飛ばした。ペーターは避けもしなかった。女の腕を掴むと容赦なく捻《ひね》り上げた。ぐききっという音が女の肩から出た。当然悲鳴を上げる。骨折寸前である。少しゆるめて再びナイフを喉に当てた。女の顔が真っ青になっている。
「コのアマ、しばいたろか」
と感情のない声で言った。
「私たちは怪しい者じゃない。質問に答えてくれれば逃がしてやる」
と私は言ったが、どう考えてもすべて怪しい。この女のほうがよほど怪しい。
「あんたは何だ」
「わたしは……、ソーニャ……。ベッサラビア王国の王女」
私はこの女を精神病院に送るべきだとすでに判断している。しかし、芝居をしているのかもしれない。私はペーターに目で合図した。
「正直にしゃべった方が身のためだ。あんたはどこの組織の者だ。なぜそんな格好をしている。悪魔王とはなんだ」
ペーターは女の髪をぐいと掴むとそのまま吊り上げようとした。薄ら笑いを浮かべながらナイフを顔の真ん中に突きつけた。女は気絶してしまった。
「どうもエージェントではないらしいな」
プロの女にはこのくらいで気絶するような可愛い者はいない。どんな拷問を受けても平然としている女テロリストを何人も見たことがある。
「どうせ、何も知るまい。先へ行こう」
と私は言った。
「そンなら、始末していかな」
「この女はアマチュアだ。殺すまでもないだろう」
「あンさン、何年この世界で飯食ってまンのや。シロウトやからこそ息の根を止めておかなならんのでっしゃろ。この女が目ェ覚まして、わてらのことをべらべら喋ったらどないしますンや」
ペーターは私を軽蔑《けいべつ》したような目で見た。
「わてはな、あンさンの取り柄は、酒も女もやらンことやと思うてましたが、違うようでンな。そんなにこのアマが惜しゅうおまンのかいな」
理屈ではペーターの言うとおりである。私だっていつもならばこの場面では女を殺して、見つからないところへ隠して先にゆく。後顧《こうこ》の憂いは可能なかぎり断つことだ。だが、私は現在この事態全体に疑惑を抱いており、セオリーどおりにやっていいのか自信がなくなっていた。
「好きなようにしろ」
ペーターはソーニャという女の白い項《うなじ》にロープを巻いた。彼の力ならあっと言う間に女の細首を捩切《ねじき》ってしまうだろう。先に女が意識を取り戻した。
「待って! や、やめて!」
そのくらいでひるむような男ではない。ぐっと力を込める。
「わたしを殺せば悪魔王を倒す方法は……永久に……」
と口走って、女は白目をむいた。私は慌ててやめさせた。すぐに活法を施し、胸をはだけさせて心臓をマッサージした。もう遅いかもしれない。
「阿呆なアマや。出し惜しむさかい、絞られますンや」
とペーターは言った。
やがてボリュームのある胸の隆起に心臓の鼓動と呼吸運動が戻ってきた。私はほっとした。
「ここにいては敵が来るかもしれん。どこかに隠れよう」
私は女を横抱きにした。ペーターは覆面の男たちが全員息絶えているのを冷酷に確認している。
D6
「そうです。悪魔王はカントの剣を封印して、ハイデッカの鎖のいましめを脱したのです。そしてふたたび野望を燃やして此《こ》の世に甦ったのです」
とソーニャという自称姫君は頬《ほお》を美しく紅潮させて喋った。
「あなたたちを勇者と見込んでお願いがあります。悪魔王を倒して、再び封印してください。そのためには金星と土星の魔法が宿ったメルロポンチの玉を手にいれる必要があるのです」
私は苦い顔をして、
「仕方ないな、駄目だこの女。ペーター殺《や》れ。時間の無駄だ」
私達は、トンネルの少し奥にあった扉を潜って、この部屋に入った。食料庫のようであった。気を取り直した白人女は、さっきからたわけた台詞を喋る一方である。うんざりした。ペーターは再びナイフを取り出した。
「きゃあっ。どうして信じてくれないのですか! あなたたちは予言者が言ったヘーゲルの勇者ではないのですか」
私達にはかわいそうなお嬢さんの内的世界に付き合っている暇はない。
「わてらに会《お》うたンが、不運やったと思うてんか。わても好きで女殺しするンやおまへンで。寝覚めがワルいよって」
しかし、ペーターはどう見ても女殺しが嫌そうな表情はしていない。ペーターは女の口を塞ぐと一息に喉をえぐろうとした。
その時である。部屋の片隅からむくむくと黒い煙が湧《わ》き出した。その中から高笑いの声が響き渡った。
「汝《なんじ》ら愚かしきヘーゲルの勇者よ。我こそは悪魔王チチブノミヤ・ハイネッケル・プラウダなり。邪魔な小娘のソーニャと一緒に死ぬがよい」
ソーニャはペーターの手を払って、
「見ましたか。あれが悪魔王です。なんというくされ外道《げどう》なんでしょう!」
と叫んだ。
部屋の中に変なぬいぐるみを着た(としか私には見えない)男どもが湧き出した。手にはなにやら太い剣を持っている。
「ああっ! ジャイアント・ドワーフです。なんというど糞《くそ》ったれ野郎どもなんでしょう」
とソーニャははしたなく叫んだ。
「勇者様たち、お逃げになって。あれは地獄の番兵です。人間のかなう相手ではありません。火の魔法を使わなければ倒せません!」
とソーニャは悲鳴を上げた。
恥を言えば私はあまりの異常さに一時身体の機能が止まっていた。しかし、ペーターはあくまで違う。ベレッタを抜きはなって膝《ひざ》立ちの姿勢を取っている。続いて落雷のような音が連続して響き渡った。ようやく私もM19を抜いて変な男たちを射撃した。その間、二秒もたっていまい。変な男たちは全員血まみれになって、のた打ち回っていた。ペーターはマガジンを取り替えると、薄笑いを浮かべてまだ死に切れない敵の頭に9ミリパラベラム弾を撃ちこんだ。
「どこのエテ公や。わてらに鉄砲抜きで勝とうちゅうンが大間違いなンや」
と吐き捨てて死体の頭を蹴飛ばした。
すでに黒い煙と悪魔王は消えている。私は部屋の隅に行って、発煙装置とテープレコーダを捜した。しかし、何の仕掛けも発見できなかった。悪魔王がどういうトリックを使ったのか私には分からなかった。
ソーニャは茫然としている。
「ああ……」
ソーニャは身震いした。
「凄いわ。こんな勇者見たことがないわ……。予言者が言ったよりも、もっと凄い。わたしもう駄目……」
とソーニャはよろめくようにペーターにしなだれかかっていった。
「今まで来た勇者なんて、みんな青臭くって弱くって、頭が悪くて、もう、話になんないの。迷路を死ぬほど迷った上に、私の忠告も聞かないの。めちゃ時間をかけて、やっとのことで悪魔王を倒しても、何もしないでどっかに行ってしまって。意気地がないったらありゃしない。でも、あなたたちは違うはず……。好きに・し・て……」
ペーターはソーニャを張り飛ばした。
「寄るンやない。すべたッ。気色の悪いマネさらすなあッ」
可哀相《かわいそう》にソーニャの口から折れた奥歯と血が飛び出した。ペーターが女嫌いだということが態度で分からなかったのだろうか。私の方に来ればよかったのだ。ソーニャも変な女だった。そんな目に遭っても、
「凄い……」
と感動している。
「悪魔王はどこにいるんだ。見たところ旧知の仲のようだったな」
と私はソーニャに訊いた。
「ああ、あなたたちならメルロポンチの玉なんかなくても悪魔王を倒せるはず。行ってください。ここを出て真っ直ぐ行って、右に行って、突き当ったところをまた右に行って、突き当りの部屋です」
私達は類を青黒く腫《は》らしたソーニャを捨てて外に出た。
「ああ、なんというデンジャラスなハードガイ達でしょう……」
ソーニャはうっとりと言った。
D7
私達はソーニャが言った通りの通路を走った。途中で巨大な斧《おの》を持った変な男たちに邪魔されたが、一瞬のうちに血祭りにあげた。とろ臭い連中はべレッタ92FとM19の餌食《えじき》になるしかない。
悪魔王の部屋にたどりついた。扉にカギがかかっていた。
「ちいっ」
すると暗闇に同化するように蹲《うずくま》っていた老婆が、気味の悪い声で言った。
「若いの。その扉を開くには、ラッセルの鍵《かぎ》が必要じゃよ。ひっひっひっ」
ペーターは無言で老婆を射殺した。さらに、銃口を鍵穴に向けて、全弾を叩きこんだ。すばやく空マガジンを予備マガジンに抜き替えながら、扉を蹴り開けた。私も同時に躍りこむ。
「来おったか、愚かなヘーゲルの勇者どもよ。見るがいい。我こそは、世の災いを……」
悪魔王の言葉が終わらないうちに、私達の拳銃は火を吹いて跳ねていた。ペーターも私もためらいなく全ての弾丸を撃ち込む。私はM19のシリンダを開いて空薬莢《からやっきょう》を弾《はじ》き出し、スピードローダーを使って再装填し、また射撃を続行する。
壮絶な連射が終わった後、私の耳はキーンという金属音で占められていたが、ペーターが、
「アホくッさ……。何が悪魔王やねン」
と言ったのは聞こえた。同感であった。
私は時計を見た。
「何時でンねン?」
「十時だ。早く帰らないと、シャッターが閉じる」
私達はぼろぼろのぐちゃぐちゃの情け無い物体と化した悪魔王に唾《つば》を吐きかけると部屋を出た。
D8
翌朝。室長にまた呼ばれた。呼ばれなくても行くつもりであった。昨夜の事件の報告書を作成するのに時間がかかって、ほとんど眠っていない。
事実をそのまま書けば、それはそれでいいのである。しかし、あんなことを正気の人間、しかも、もっともクールであるべき我々のような者が提出することはどうだろう。「君は疲れている」と窓際の事務仕事に追いやられるのはましな始末だ。正気を疑われたらどうなるか。命に関わる問題だ。私は正直に書かずに嘘を書こうかと思った。そういう私の苦悩をよそに、ペーターは入念に柔軟運動を繰り返している。その後軽くトレーニングを行い(私から見ればハードだ)汗を流した後、シャワーを浴びる。ペーターは日本式の風呂《ふろ》に入らない。なんと言っても無防備が過ぎるからである。そして、拳銃を枕の下に入れ、また足首にスタンダード・デリンジャーをくくりつけて、眠ってしまった。噂によると彼は肛門《こうもん》にも小型のナイフを隠しているそうだ。
悩むのが馬鹿らしくなった私は、正直に書いた報告書を持って、室長室に行った。渡した。室長はしばらく無言で読んでいた。
顔を上げた。
「なるほどな。悪の巣窟は見事壊滅、首謀者の悪魔王を射殺……」
ペーターは平気な顔をしているが、私には室長の視線がとげのように突き刺さっていたたまれなかった。
室長は癖なのか、じらして喋るのが好きだ。
「……。よくやった。君らに任せて正解だったようだ。地下街は悪の手から救われた。天晴《あっぱれ》な働きだった。これで君らの経験値はアップしたはずだ。これからは次のレベルの仕事を与えることができる。御苦労だった」
「ちょっと待ってください。室長は何か知っているんでしょう。御苦労だった、それで終わるつもりなんですか」
「…………」
「室長。昨日の地下街の事件は一体何だったんですか。説明してくれなくては読者も納得しませんよ」
「…………」
黙っていたペーターが口を開いた。
「あンさン。そないなことはどうでもええこっちゃ。わてらの仕事はそもそもこういうもンでっさかいな。わてら、自由主義圏のために敵とやり合《お》うとりま。どぎつく言えば体制側のためにですがな。せやけど、そのことをこの社会のもん、誰も知りませへンのや。言ってみればわてら常に見えない戦いをしとるンですヮ。そうでっしゃろ。たまたま昨日はチト毛色の違った馬鹿をぶち殺しましたンやが、おンなしでンがな。どうせ、誰にも関係なンぞ無い、わてらの稼業の中での、勝手な戦いですねやろ。あンさンかて、わてらのド腐れ仕事が、世のため人のためなンぞになるとは思ておらへンのですやろ。そンならば、何でもよろしやおまへンか。わてらは表に出てはならン存在なンだす。一般人が分かるような説明なんぞ、クソ食らえですがな」
室長はべつにうなずかなかった。ただ、
「さて、次の件だ。君ら今日の朝刊を読んだかね」
私とペーターを新しいシナリオが待っているようだ。無意味な冒険(はっきりいえば暴力だ。殺し合いである)から逃れるには、この仕事をきっぱりやめるか、敵に殺されるしかないようである。それにしても、次の仕事ではKGBのようなまっとうな敵を相手にしたいものである。
[#改ページ]
ハルマゲドン・サマー
「いい加減なことばっかりいって。もう夏は終わりかけてるじゃないの。なによ。その目は」
「いいわよ、いいわよ。あなたがそのつもりなら。えー、いいですわよ!」
「だいたい不実すぎるってことがね、そもそも、はじめっからわかってたのよ」
「また! 関西弁なんかつかっちゃって。一時はちゃんと標準語になってたくせに。あなたって、肝心なときは田舎もんにもどっちゃうの。ひょっとすると、わざとじゃないの?」
「べつにわたしが言い出したんじゃないわよ。だって、そうじゃない。海なんて、わたし、一っ言も言った覚えはないわよ」
「ドライブすることにはね、そりゃ、反対しなかったけれども、それとこれとは話が別よ。海? あなたの海好きは、もう、嫌んなるほど聞いてるわよ。だってね、そりゃそうでしょう。付き合い長いんだから」
「なにが、『せやんで』よ。いらないわよ。アイスクリームなんか。わかってるの? いまアイスクリームなんか食べてちゃ、寿命が縮むのよ。いったいどこで買ったんだか。あなた、その中に何が入ってるか知ってるの。ラジオ・アクティビティ。知ってる? じゃあ、どうしてそんなもの買ってくるのよ。まったく、何を考えてんのよ」
「ちょっと、どこいくのよ。馬鹿。わざわざアイスクリームをごみ箱に捨てなくても、その辺に放《ほ》っときゃあいいのよ。いいったら、いいの。『海が汚れるやんか』って言った? あー、もう。とっくに汚れてるわよ。いまさらあなたが公衆道徳を守ったってね。そんなもの意味がないの。ほんと、根本的に意味がないんだから」
「行かなくていいっていってるでしょ。いいのよ。ここにいれば。それとも何。わたしと一緒にいるのが嫌になった? どうなの。じゃあ、ここに座って。ここにいればいいじゃないのよ。ほんとに、何もわかってないんだから」
「ちょっと。黙ってないで、なにか話しなさいよ。せっかく、海に来たんでしょ。楽しく、笑えることをね、ほら、気の利いたことを言ってみなさいよ。エ、聞こえないわよ、何? 言い出したことは最後まで言いなさいよ。そんなら、はじめっから言いなさんな」
「またー。あなたの話ってば、そういう話ばっかり。車がどうしたのこうしたのって。そんなはなし、意味がないじゃない。とくに、いまここで車の話題なんかだして、無意味の極致よ。またっ。なにが『せやんで』よ。せやんでもくそもないの。あら、いまのは言い過ぎ。せやんでじゃないの。とにかくね、せっかくこうして海を見にきたんだから、ちょっとくらい、こう、ロマンチックなことを言っても罰は当らないと思うわよ」
「あはははははははははは。ちょっと、ちょっと、わたしはロマンチックな話題を要求したのよ。笑い話をしろだなんて言ってないわよ。あなた、目が外れたんじゃないの? あれのどこがきれいなのよ。潮風の香り? 鼻がまがってるんじゃないの。あれはどどめ色っていうの。それにどこが潮の香りよ。卵が腐ったような悪臭とはっきり言ったらどう」
「『ぼくが何言うたかて、そんなんばっかしやん』といわれてもね、わたしとしてもあなたの話題の狭さにどうしてよいかわからないので困っています。ほんと。根本的な今日の事実にもどるけどね。これは、デートなの。わかってるの? デート。デート。詳しい理由はともかくあなたはわたしを誘って、デートに来ているのよ。デートっていうのは何? 『せやから』なによ。とんちきなことを言っているんじゃないわよ。デートはね、まず楽しい話題で始まるものなのよ。その辺のアーパーな女ならどうか知らないけど。少なくともわたしはまず楽しい会話を楽しむ、これは本道だと思うのよ。違う?」
「違うならなによ。あっ、あなたいま変なこと考えていたでしょ。このスケベっ。『せやあらへん』? じゃ、なによ。言ってみなさいよ。はっきり言いなさいよ。男でしょ。うじうじしちゃって。え。会話も重要だけどそれより気分が大事? きゃはははっ。それじゃあ十年前の少女マンガよ。もうっ。はっきり言ってみなさいよ」
「だいたい今日はわたしはどこへも行きたくないって、最初に言ったでしょ。それを、むりやり、オンボロ車に乗せて。『シルビアって名前があんねん』といわれてもね、わたしはそんなもの知らないもの。車は車よ。五年前はオンボロじゃなかったでしょうよ。言われなくてもわかるわよ。でも、どうとりつくろってもあなたのあれはポンコツね。何度エンストしたか数えてた? 二十四回。そう、二十四回よ。もう少し多かったかもしんないけど。オートマチックのくせにそんなにエンストするっていうのはもはや救いがたくオンボロになっているんだと、わたしは、思うけれど」
「あーもう。泣きそうな顔はやめてよ。愛車をけなしたのは悪かったわよ。でもね、もう終わりなんだから、そんなに、執着したってしかたがないじゃない。ガソリンだって、もう、手に入んないって、聞いてるし、自動車の会社だってとっくに車体の製造は止《や》めてるんでしょ。ひと月前の新聞にでてたわよ。あれから新聞も読んでないし」
「あー、心配になってきた。あなた、あのポンコツには帰りの燃料は入ってるの? え、わかんないって? なんて奴なのよ、あなたは。連れてくるだけ連れてきて、帰りはどうするのよ。歩いて帰れっていうの。いやよ、そんなの。まさか、あなた、やっぱり最初からわたしをここに連れ出して、『気分を出そう』ってのが目的だったわけ?」
「ちょっと、待ちなさいよ、どこいくのよ。『残りの燃料調べやん』って、いまさら、しょうがないこと言ってる。あっ、ちょっと、行かなくてもいいって言ってるのがわかんないの? 行かなくていいと言ってるでしょ。そう、そこに座っていればいいの」
「何よ。なんか言いたいことがある? 『せやけど、疑っとるやん』って言ったの? もう、もっと大きな声ではっきり言ったら! うたがうもなにも、みんなあなたが悪いんだから仕方がないでしょう。ばか」
「ほんとに、馬鹿」
「おかしいから笑っているのよ。もしもよ、燃料はとりあえずあったとしても、あなたがひと言『こわれてや。エンジンかからへん』って言って、しばらくいじくって、『せやんで、シルビアはあてんならんわ』と言えばすむことじゃないの。燃料がないのと同じ結果になるじゃない」
「またー。泣きそうな顔して、疑ってないわよ。ほんとに。あなたにはそんな度胸がないことはわたしはよーく知ってるんだから。そうそう。わたしをだまして家へ帰さないようにして、一緒にすごそうなんて度胸というか計画性は、はなっからあなたにはないもんねー。あっ、怒った。『そのくらい、できやんで、どうする』って。へー。じゃ、そうするのね。はははははは。つまり、わたしがいま教唆《きょうさ》したとおりに、あっ、ガス欠やん、とか、あっ、エンジンはぜェへんって言うわけね。それじゃあ、あまりにオリジナリティがなさ過ぎると思わない? わたしと一緒にいたいのなら他の、もっと、あなたらしいダマシかたを使って欲しいわね」
「『陽射《ひざ》しも弱うなったねん』ですって。どこが弱いのよ。そもそも弱い以前にいまどき日光浴なんかする人、ひとりもいないわよ。あたりまえじゃない。あんな空に肌をさらしたら、あっというまに皮膚|癌《がん》でまっくろになっちゃうわよ。あなた、わたしを殺す気? そりゃ、昔はよくここへきて海水浴したわよ。あなたが泳げないってこともよーくわかったわよ。なにが、『ちゃうねん』よ。実際水に入らなかったじゃないのよ。みんなで楽しくやってるっていうのに。あなただけ、荷物番だもの。あの後、圭子たちがなんて言ってたか知ってるの。『あんた忠実な男を捕まえたわねー。うらやましいわ』なんてぬかしたのよ。あいつら。腹が立つったらありゃしない。あなたは、腹が立たないの! 『あん時は風邪《かぜ》ひいて体調わるかったんや』……。あきれたわね。体調とわたしとどっちが大事なのよ。あのときあなたがさっと沖にでも泳いでいってくれてたら、わたしの生涯の悔いのひとつも存在せずに済んだのよ」
「せっかくのデートなのにこんな小言ばっかり、わたしだって言いたくないわよ」
「じゃ、なによ。わたしも悪いって言う気? また、『せやんで』か。いい加減にしてよ。あっ、怒ったの。そう、いやそうよ。男ならこういうときやっぱり怒るべきだよ。ぱーんとわたしを張り飛ばしてみなさいよ。意外と尊敬するかもしれないわよ」
「なんだ、やっぱりやらないんじゃないの。『せやけど、女の子は殴れやへんやんか』って言ったって、そういうものじゃないでしょ。腹が立ったなら当然怒るべきじゃないの」
「だめなやつ」
「そろそろ、寒くなってきたわね。まだ、夏なのにどうしてこんなに寒いのかな」
「このスカ! だれが異常気象の科学的説明をしろと言ったのよ。『炭酸ガスや一酸化炭素ガスが上空にのぼってやん……』そんなことはあなたに聞かなくても知っているわよ。あーもう。昔、付き合い始めたときから鈍感なやつだとは思っていたけれども、この期に及んでもまだ直ってない。前に一緒に買い物に行ったことがあったでしょ。覚えてる? わたしがケースを指差して『ねえ』と言ったら、あなたなんて言ったと思う。いきなりよ、真珠島の来歴について説明しだして、あこや貝がどうのこうのと言いだしたんで、あわててあなたの靴を踏んづけなきゃならなくなったのよ。あなたが物知りなのはよーくわかってます。なに笑ってるのよ。あのときわたしはネックレスが欲しいって言いたかったのよ。『はっきりゆわんからやん』? なんてことを。そんなあからさまにねだるわけにはいかないじゃない。そんな恥さらしなことが言えると思う? あのときあなたははたと察して、わたしにプレゼントしてくれなきゃいけなかったの。うるさいわね。あなたが車のローンで泣いていたのは知ってるわよ。でも、それとこれとは別問題なの。結局、付き合って五年。あなたに買ってもらったのは変なアニメの絵がついたカバンだけ。えっ、あれ買ったんじゃないの? 妹さんのもらい物だったって?」
「むかっ」
「そうだ、あなたわざとトロいふりをしてたんじゃないの? それでわたしに真珠なんか買ってやりたくなかったから、真珠の説明なんかしてごまかしてたりして」
「もー、いや。黙ってて。なにも聞きたくないわ。最後の最後まであなたには幻滅させられたわ」
「『寒いなら、車へかえろ』って? やっとまともなことをいったじゃない。でも、もう遅いわよ。静かにしてて」
「せやんで、あっ、あなたの言葉が移っちゃったじゃないの。さっきのアイスクリームもったいなかったかな」
「もう救いようがない。『ほんまや』じゃないわよ。わたしはお腹《なか》がすいたと言ったのよ。もう金輪際《こんりんざい》あなたに悟ってもらおうと努力したりはしないわよ。はっきり注文したほうがいいんでしょ。なにうなずいてるのよ。わたしは怒っているのよ。ほんとに鈍感なやつ」
「でも、田中くんたちどうしちゃったかなあ。もう、ずいぶん会ってないものね。死んじゃったかも、しれないね」
「泣いてなんかいないわよ。ただね、わたしも早いところ死んじゃおうかなって、おもって。あなた、つきあってくれる?」
「むっ。なにが『あかん、あかん』よ。冷たいひとねー。嘘《うそ》でもいいから、ああ、いつでも一緒さ、くらい言えないの。そりゃ、死んだらアカンのは、わかってるわよ。あー、もう説明するのが面倒。このどまぬけ」
「なんでわたしがこう下品な文句をいわなきゃならないのよ。やっぱり、ドライブなんかくるんじゃなかった」
「頭がいたいな」
「え、あなたも頭が痛いしお腹も痛いって言ったの。あなたが体調が悪いのはいつものことじゃないの。なにをいまさら。薬なんて飲んだって仕方がないわよ。どうせ、もうじき、痛くなくなるんだから」
「だいたい、ほら、田中君たちと圭子と泰子とコンパをやっとことがあったじゃない。あー思い出した。あのとき、わたしとあなたはそれほど親しくなかったし。わたしはどっちかというと田中くんがいいなーと思ってたのよ。それは別として、あなた、全然飲まなかったわね。そのくせ、わたしたちにはどんどんすすめるの。わたしはうぶだったから、ほんとよ、気付かなかったけど、後から考えるとみえみえじゃない。わたしがあなたにビールをついであげると、『うーん、じつは、今日体調悪くてさー。でも、もう一杯くらいはいけるよ』なんていって、結局中ビンの半分くらいしか飲んでなかった。吸えもしないのに火のついた煙草《タバコ》を指にはさんじゃって、ウーロン茶なんか頼んで。『僕のことは気にしないで、どんどん飲めよ』なんて。そのころは方言を巧妙に隠してたから、わたしなんか(あ、意外とシティボーイだな)なんて思ったりして。だまされたわよ。
つまり、わたしたちを酔わせようとしてたんでしょうが、おあいにく、わたしたちのほうがあなたや田中くんよりよほど強かった。『せやけど、送っててゆうたやんか』。ええ、たしかに言いました。あれこそわたしの生涯の不覚、気の迷いだったんだわ。でもほんとは田中君に送ってもらおうと思ってたんだけど、泰子にとられちゃって。そういうこと」
「泣きそうな顔はやめなさいよ。わたしはそれでべつに後悔はしてないんだから」
「地球はもうぼろぼろだっていうけれど、なかなかどうして、ちゃんと潮の満ち引きはあるのね。さっきはあそこまでしか波がこなかったのに、ほら、そこまで来ている。波の音だけは変わらないわね。説明はしなくていいわよ。わたしだってお月さまのせいで潮の満ち引きがあるくらい知ってるから。人間はいなくなっても、いつか、また地球はきれいに生まれ変わるかもしれない。まだまだ生きているようだから。え、『二万五千年後にはええやろ』。もー、あなたとことんロマンチックじゃないのね。数字なんかだして雰囲気を壊さないでよ。でも、どこからでたのその数字?」
「あー、だんだん腹がたってきた。だいたいどうしてわたしの生きている間に大戦なんかが起こったのよ。そんなもの、わたしが無事に年をとって幸福のうちに死んでしまってから起きればいいのよ。わたしのもっとも幸せであるべき時代が、すべて、潰《つぶ》されちゃったのよ。わたしの青春を返せ、馬鹿やろー! あなただってそう思うでしょ、よりによってどうしてわたしたちの時に人類が滅亡しなきゃならないのよ。信じられない。まだ、なにもしてないのに。したいことは一杯あったのに」
「この海もほんの少し前までは、泳げたのよ。わたしはどこかの馬鹿のせいであまり来れなかったけど。そうよ、あなたのことを言ってるの。あの時はこんなどろっとしてなかった。きれいで、潮の香りがして、賑《にぎ》やかで、空だってあんな暗い色じゃなく青色で、そこのお店屋さんで食べたカキ氷もおいしかったし。こういうことになるんなら、もう一度、来とくべきだったわ。たしか、何度もたのんだでしょ。その度に、『ちょっとね。用事あるねん』って言って連れてきてくれなかった。泰子に聞いた話じゃ、ミラ・パルコに変な女と乗ってたのを見たそうだけど、わたしは信用しなかったわよ。ほんとはどうなの。もう時効だからいいじゃない。怒んないから言いなさいよ」
「なにー。ほんとのことだって! ち、ちょっと、だれよ、その女。勤め先の先輩に紹介されて仕方なく付き合ってた? うそ、こけ! このすけべ男! じゃ、なに、わたしとふたまた掛けて今日まで生きてきました、とでも言うつもりなの。こいつ……」
「逃げるな、おい、ここへこい。わたしの鉄拳制裁をおとなしくくらいなさい」
「あっ、そんなところに座って。石を投げてやる」
「『勘弁してえな』。よくそんなことが言えるわね。勘弁ならないわね。あなたの好きな金さんとか長七郎さんなら必ずおとなしくなぐられるはずよ。あなたが悪いんですもんね。さあ、男らしく。来なさい」
「…………」
「ねー、もう一時間くらいたってない? え、まだ三十分しかたってないって。まあ、いいわ。喧嘩《けんか》はやめましょうよ。『喧嘩してるんは、そっちやんか』あー。こいつ。いえ、まあいいわ。仲直りしましょう。もう殴らないから、こっちに来なさいよ。ほんとに、殴らないから。大丈夫だっていってるのに。わたしはもう歩けないから、あなたが来てくれなきゃ。あーもう、殴らないわよ。約束するから」
「やった。なにが『いたいやんか』よ。ほんのすこし手が顔に当っただけでしょ。ふう。これで気が済んだ。ほんとは済んでないけど仕方ないわね。いま、あなたを殴ったので、何時間分か寿命が縮まったのよ。ありがたく思いなさい」
「それにしても、不公平すぎると思わない。わたしより十くらい年上の人たちはもうやることはみんな済まして今を迎えているのよ。これからはどうせ男のひとなら退屈な日常が定年まで続くんだろうし、主婦だって退屈な日常がずーっと。ここで、人生が終わってもとりあえず損はないんじゃないのかしら。結婚生活、会社仕事のつまらなさを何十年分かカットしてもらって、わたしならかえって喜ぶかもしれない。
でも、わたしはまだ若いのよ。まだ何もしてないし、これからってときに人生が終わっちゃうのよ。空《むな》しすぎると思わない? あーあと五年あれば素敵な恋愛をして、海外旅行にも行って、スキーにもあと十回は行けただろうし。なによ、素敵な恋愛なんてしたおぼえはないわよ。だれのことを言ってるのよ。あなただなんて口が裂けても言ってもらいたくはないわよ」
「これほどの不公平はないわ。ほんとよ。勘違いしてはいけないわよ。あなたの顔に何か付いているから見ているんじゃないからね」
「くやしいと思わないの?」
「へらへらして」
「あー、太陽。こうやってまじまじと見ると、不気味。周りにあるいやな色の雲のせいで、あんなに汚く見えるんだわ。そうに決まってる。前は、あんなじゃなかった」
「こうやって、ふたりきりで海にいて、座って、夕日を見ているんだけど。思い出すことは、あなたが嘘つきで、いい加減で、お調子ものだってことだけだ」
「ほんと。いい思い出って、捜そうとするとないものね。それもこれも、あなたが悪いんだけれど。なによ。否定できるの。言えと言われれば、あと二十くらいあなたの悪口が言えるわよ。しかも、みんな事実に基づいているやつが。人に聞いた話を含めると、もう数え切れないくらい、ある」
「あなた、咳《せき》してる。『たいしたことあらへん』。そうね、そうしておいたほうが、気がらくね」
「あなた、やっぱり、怒ってるでしょ。さっきから、わたし、怒鳴ってばかりだったから。うそ。顔に書いてある」
「お父さんもお母さんももう行っちゃったし。他に怒りをぶつける相手がいないのよ。アメリカやソ連のえらいひとを怒ることもできないし。仕方ないから、手近を怒るしかしょうがない。それに、あなたは怒りをぶつけられるようなことばかりしているし」
「あっ、生き物がいる。ゴキブリみたい。カニかしら。あれは、ちゃんと生き残れるのかしら」
「日が暮れてきたね。ほんとうに寒くなってきた。たしか、おなじことをさっきも言ったはずだけど」
「そう。さっき、そうしてくれていれば悪口も1フレーズぐらい減らしてあげたのに。でも、わたしが叱《しか》ったから、少しだけ、勘がよくなったんでしょ。そのまま、しっかり、抱いていてね」
「ほんと、なぜだろうね。何故《なぜ》、わたしたち死ななきゃ、ならないのかな。運が悪かったなんて説明は聞きたくないわ。交通事故のほうがまだ納得できるって思わない? どちらか、わたしかあなたのどちらだけかが死んじゃうの。残ったほうは、思い出を抱いて、生きてゆくの。そっちのほうが辛《つら》いとは思うけれど、人間全部が死ぬのを見るより、どちらかといえばなぐさめもあると思う。『そないなことあらへん』って。そうね。あなたの運転で事故ったのなら、助手席にいるわたしも確実に一緒だもんね。『そんな意味とちゃう』と言ったの? あなたの声もだんだん聞き取りにくくなってきた。いいのよ。言いわけしなくても。あなた、運転へただもの。それでいいのよ。べつにあなたの車で一緒に死んだとしても、たぶん、後悔しなかったと思うから」
「太陽が、沈んじゃう。あんな色の日光でも少しは暖かかったのね。ああ、寒い」
「ごめんね」
「わたし痩《や》せてるから、骨が当って、痛いでしょ。もう、何日も食べ物がのどを通らなかったからね。ただ、さっきのアイスクリームだけは、惜しかった。『ほんまや』か。ほんまにそうだね」
「ほんとは、嬉《うれ》しかったのよ。海まで連れてきてくれたこと。いま、わたし、泣いているんだけど、信じてもらえないわね。涙も涸《か》れて出なくなってるから。暗くなってきたな」
「死んだらどこへ行くのかな。いいわよ、説明しなくても。じきにわかるんだから。ここまできて新しい嘘をつくこともないわ」
「あなた、ずーっと悪口言ったこと、許してね。あなたしか怒れる人がいなかったから。ずいぶん、ひどいこと言ったけど。でも、ほとんど本当のことだから。ただ、わたし、なんていうのか、意地っ張りだからね。いまさら、言わなくてもいいことをくどくどと。やっぱり、怒ってるでしょ」
「痛い。そんなに強く抱かないで。あっ、やっぱり、仕返ししてるんでしょ。あはは……」
「ほんとは、ね。いままで、一度も言ったことがないけど、最後の機会だから、言うけど。ちゃんと聞いててね」
「一度しか、言わないわよ。それも、小さな声で。もう、小さな声しか出せない」
「言うわよ……」
「ほんとは、あなたが、好きだったの……」
「…………」
「なんて言った?」
「『んなこと、知っとったわ』。ふふ」
「よかった」
[#改ページ]
聖母の部隊
1
さいしょはみんなあの人を母さんとよぶことにていこうがあったみたいだった。ぼくも、本当のことをいえばそうだった。あの人はぼくの母さんにちっとも似ていないから。それだけじゃない。ぼくたちにもあんまり似たところがない。
死んだぼくのお母さんはキケの木の葉の色の茶色っぽいはだの色をしていた。ぼくもお父さんもともだちもキケの木の葉の色のはだなんだけれどもお母さんほどにきれいではなかった。でもあの人のはだの色は白いんだ。どこか遠くから来た人なんだろうな。
さいしょはなんかへんな感じで気持ち悪かったんだけど、さわらせてくれたのでさわってみると、さわった感じはふつうだった。色がぼくたちと違うだけであとはいっしょみたいだった。あと、着ている服や髪の毛の色やいろいろな違いはあるんだ。どれも見なれないものばかりだ。それなのにお母さんとよぶことに決められたんだから、だれだってとまどうとおもうんだ。
さいしょのとき新しいお母さんに食ってかかって、ひっ掻《か》ききずを作ったコフをせめる気にはなれないよ。あのときコフは本気で母さんを叩《たた》いたり蹴《け》ったりして、すごくあばれたんだ。でもお母さんはコフを仕返しに叩いたり蹴ったりしなかった。白いはだが引っかかれて赤くはれてすこし血が出てたんだけど、あの人は、やさしい顔のままでゆるしてくれたんだ。ぼくは、そのときに、
(ああこの人が母さんならしかたないなあ)
とおもったんだ。
ぼくはなにが起きたのかよくわからなかった。森の怪物がおそってきたんだとおもってふるえていた。ぼくのお母さんはぼくの知らないうちに死んでしまっていた。バーンとかビーとかすごい音がして、村の人たちがばたばたとたおれていった。家のなかからお父さんがぼくとミリを抱えて逃げてくれなかったら、ぼくもお母さんといっしょに死んでいたんだろう。お父さんもその夜のうちに死んでしまった。きずをおっていたんだ。ぼくが目をさますとうごかなくなっていた。ぼくといもうとのミリは泣くしかなかった。お父さんをぼくたち二人でうめるのはどうぐもないしむりだった。土や葉っぱをたくさんかけてかくすくらいしかできなかった。
そのあとぼくらは森のなかを泣きながら歩きまわった。だれかをさがそうとおもった。ぼくもミリもおなかがすいていた。きゅうに目の前にあの怪物たちがあらわれて、同じようにぼくらを殺すにちがいないとおもいながら歩いていた。どうしようもなかったんだ。そのうちにぼくはどこかでたおれてしまったんだ。それがどこかもおぼえていないんだ。
気がついたら、コフたちといっしょに、広いへやのなかにいた。きょろきょろした。みんなぼくと同じくらいの年みたいで、泣いてる子もいたし、黙ってじっとしている子もいた。見知っている子もいたし、ぜんぜん見たことがない子もいた。女の子は一人もいなかった。ミリもいなかった。コフが、
「女は怪物に食われるんだ。女のほうが肉がおいしいんだ。だからだ」
とこわいことをいうんだ。ぼくはほんとうかどうかしつこくきいた。それがほんとうならミリが怪物に食われてしまう。もう食べられているかもしれない。でもコフもほんとうのことは知らなかったんだ。うるさい、といってぼくをなぐった。
コフはぼくの家のとなりにすんでいたんだ。遊びなかまだったんだ。コフのお父さんもお母さんもあのときどこか行ってしまったといった。たぶん、殺されてしまったんだろうって、コフは決めつけるんだ。コフもいつのまにかこのへやにいたんだという。
「ここはやつらの家かもしれない。おれたちは捕まったんだ。そうに決まってる。一人ずつ食われるんだ!」
とコフがいうと、聞いていたみんなは泣きそうな顔になった。ぼくも泣きべそをかいていた。
そのとき、とびらが開いて、あの人が入ってきたんだ。さいしょはぼくたちをおそってきた怪物だとおもった。着ている服が似ていたし、持っているへんな武器もおなじだったからだ。ぼくたちとあまりにちがいすぎる。ぼくたちがおびえてへやのすみに逃げ出そうとしたとき、あの人は、やさしい声でいったんだ。
「こわがることはないのよ。わたしがみんなをたすけてあげたの。ここにいれば敵におそわれることもないわ」
しゃべりかたがちょっとへんだった。あの人はここの人じゃないから、ぼくたちのことばをおぼえようとしているときだった。
「こわがらなくていいの」
とあの人はもう一どいった。
ぼくははじめはだまされるもんか、っておもって、みがまえてたんだ。近づいてきたらやっつけてやろうとおもった。コフもかせいしてくれるに決まっている。あの人はぼくのほうに手をのばしてきた。ぼくの頭にさわろうとしたんだとおもう。ぼくは、わけのわからないさけび声をあげて、とびよけた。やっぱりこわかったんだ。あの人の服は怪物がつけているのとおなじ、森の木と同じ色をしている。森の中にはいると見つけにくくなるんだ。細ながい棒の武器も、腰のまわりにつけてあるよくわからないどうぐも、ほとんど怪物たちのとおなじものだった。ぼくは、
「くるな! 人殺しの怪物」
ってさけんだとおもう。あの人は、はっとして、手を引っ込めたんだ。
「ちがうのよ。わたしはみんなのみかたよ」
といった。でもだれも信じるものか。ぼくらは、ワーワーわめいた。ちょっとでもあの人がうごこうとしたら、大声をあげた。なんとかしてあの人のうしろに開いているとびらから逃げたいとおもった。すると、あの人は、なま白いほほに手をあてて、目をほそめたんだ。ぼくは、あれ、とおもった。そのしぐさはぼくのほんとうのお母さんが困ったときにするしぐさにとても似ていたんだ。みんなで声をあわせて、
「出ーてーけっ! 出ーてーけっ!」
て叫んだんだけど、そうすると、もっとあの人は困ったような顔をしてみせたんだ。ぼくはいみがわからなかった。怪物が困るはずないっておもうから。
あの人はうんとうなずいて、
「見てて」
といった。そしてまずせなかから細ながい武器をはずして、下においた。つぎに腰のぶらぶらのついた革のおびをはずして、そーっと、下においたんだ。そして、服に手をかけた。下のほうをパチンといわせて、するするとほどくように服をはずしていったんだ。森のくらい緑色のしまもようの上着をぬいだ。したには白いシャツをきていた。あの人はそれにも手をかけて引きあげた。顔をシャツの首の穴から抜くとき、ふわっとしていた金色の髪の毛が引っぱられてきつい顔になって、ぬけるとまたふわっと髪の毛があの人の顔にかかったんだ。そのころになるともうみんなさわぐのをやめていた。ぽかんとしてあの人を見ていた。あの人はうちがわの下につけていたうすい服も、するするとぬいだ。そしてズボンも、カチッと音をさせてはずして、足からゆっくりぬいていったんだ。あの人がそのズボンの下の腰につけていた布をぬぎはじめたときはぼくはいっしゅん目を閉じてしまった。なんだかいけないものが見えるようなしんぱいがあったんだ。あの人は身につけていたものをぜんぶとってしまった。はだかんぼうになってぼくたちにむかったんだ。
あの人はへんに白いはだをしていたけれども、ちゃんとお母さんとおなじように胸がふくらんでいた。とても大きかったので、ぼくはお乳がいっぱいたまっているんじゃないかとおもって、のどがごくんとした。赤ちゃんにいっぱいお乳をあげられそうだなあとおもった。あとお母さんとおなじなのは、あの人は、またのところに手をあててかくすようにしていたのだけれど、すこし毛がはえているのが見えていて、ちんぽがついていなかったことだ。あの人は胸を右手でおさえてかくして、下のほうを左手でかくしていた。なんかさっきよりほんのすこしあの人のはだが赤くなったように見えた。もうみんなしーんとしずかになっていた。ぼくはどきどきしていた。あの人がお母さんよりもきれいだなとおもったりして、あわててお母さんに心のなかであやまった。コフは目をそらしたりしていた。でも、みんなあの人のはだかがとてもきれいだとおもったにちがいないんだ。
「もう、いい?」
ってあの人はいったんだ。みんながじーっと見ているものだからはずかしくなったんだ。
「わたしはみんなのみかたなのよ。わかってね」
そして、もじもじしながら落ちている服をひろってからだをかくした。
「これからはわたしはみんなのお母さんのかわりになるつもりよ。わたしのなまえはマリアというんだけど、お母さんとよんでくれるとうれしいわ」
っていって、にこっとわらったんだ。これからあの人を、お母さんとよぶんだな、とぼくらはなっとくしてしまっていた。はだかを見ただけなのになんでそういう気持ちになったのかひどくふしぎである。でも、ぼくたちはまるでたぶらかされたようにあの人をお母さんとみとめてしまう。あの人がほんきなのだとわかったからかもしれない。
あの人がお母さんならしかたがないな、とぼくはへんになっとくしてしまったんだけど、ほんとうにあの人ならしかたがないな。それでもお母さんとよぶのになれるまで時間がかかった。それだってまたしかたのないことだ。
2
それから一年くらいすぎた。ぼくたちも少しは大きくなった。つまり大人に近づいた。
ぼくたちは十五人になっていた。さいしょはもっといたんだけれど、びょうきで死んだり怪物に殺されたりした。ぼくたちはあのあとお母さんに連れられて、あの場所からにげなければならなかった。怪物がうようよしていて、とてもきけんな旅だった。
だれかが死ぬたびにお母さんはものすごく悲しんでくれた。穴をほってていねいになかまを埋めてくれた。
「ごめんなさい。わたしがもっとちゃんとしていれば」
お母さんは手を組み合わせて墓にいのった。泣いているようにも見えた。ぼくたちはしゅんとしている。
なかまがびょうきとかで死ぬのは、しかたがないことだとおもう。だけど怪物に殺されるのはしかたがないことじゃない。ぼくたちが弱くてちからが足りないから殺される。ぼくたちは目の前でうち殺されるなかまをふるえながら見ているんだ。ぼくらはひきょう者だった。怪物を追いはらって戦ってくれるのはお母さん一人なんだ。怪物からぼくらをかばいながらたった一人で戦うんだ。そしてお母さんのほうがいつもつよいんだ。けがをすることもあるけど、負けたりしない。
それなのにお母さんはなかまが死んだことを自分のせいのようにかんじて、悲しいおもいをする。お母さんはがんばっている。わるくて弱いのはぼくたちなんだ。はやくぼくたちがつよくなって、怪物に殺されないようになって、ぎゃくにお母さんを守れるくらいにならないとだめなんだ。
「母さんのせいじゃねえよ」
コアはぶっきらぼうにそういう。みんなもそうおもっている。
「おれたちもっと強くなるからさ、悲しまないでくれよ」
コフはぼくたちの中でいちばん年うえで、年うえといっても二つくらいだけど、やっぱりあにきらしいことをいうんだ。
「なぐさめてくれてるのね。でも、こどもをみすみす死なせるなんて、ははおやとして失格なのよ」
ぼくたちはなんにもいえなかった。
そうして生きのこったぼくたち兄弟のなまえは、コフ、シュン、サン、ショウ、サイ、シン、サク、セン、イウ、ヒャウ、シー、ヒン、ブン、ロク。ぼくのなまえがケイで、ぜんぶで十五人になる。これからはもうだれ一人死んではならない。やくそくした。
ぼくたちは怪物のことを敵とよぶようにした。怪物のことを「敵」とよぶように教えたのはお母さんなんだ。なぜかというと、おそってくるやつらはべつに怪物でもなんでもなくて、ぼくたちとおなじ人間なんだからだって。おなじ人間をこわがって怪物なんてよんでいては、戦う前から負けなんだって、お母さんはそういう。ほんとうにそうだとぼくはおもう。
お母さんはぼくらの森のことをジャングルとよぶときがある。お母さんのくにのことばなんだ。
「わたしがみんなにきびしくするのは、みんなに死んでほしくないからなのよ。このジャングルで生きのびるほうほうを身につけさせてあげることが、わたしのいちばんの仕事なの」
ぼくたちはまだこどもで力も弱いし、武器をつかうのもへたくそなんだ。お母さんはいっしようけんめいになって、生きのびるほうほうを教えようとしてくれる。とくに敵を殺すほうほうは、もう、ひっしになって教えてくれる。ぼくたちだってひっしにおぼえるんだ。
はじめはあんまりむずかしくない、吹き矢や小さな弓やナイフ(これもお母さんのことば)かられんしゅうするんだ。吹き矢や弓はぼくらのお父さんもつかっていたから、つかい方くらいはわかる。的をおいてねらったりする。吹き矢につかう針には毒をぬったほうがいいんだ。やじりにも毒をぬるようにする。毒のある草の見つけ方もならった。お母さんはとてももの知りで、クスリになる草や毒になる草やしょくりょうになる草なんかをだいたい知っている。さす虫やかむヒルをよけるのにつかう草までしっている。よその人なのにここの草のことをぼくたちよりくわしくしっている。べんきょうしたんだってお母さんはいう。
吹き矢も弓もさいしょはぜんぜんあたらなかった。まいにちまいにちれんしゅうしているので、ぶきっちょのぼくにもだいぶあたるようになった。でもまだだめみたいだ。
「ケイ、まだまだだめね。敵はこういう服をきているわね。頭にかぶるもの、ヘルメットをつけているときもあるわ。矢や針が服やヘルメットにあたってもききめがうすい。敵のひふが見えているぶぶんにせいかくにあてないと、敵は死なないわ」
そういうと、お母さんは胸をはってあるいて、十歩くらいはなれた。
「このきょりで敵の手のひらにせいかくにあてるくらいじゃないとつかえない。ケイ、その葉っぱを持ってたっていなさい」
ぼくはおずおずとたった。葉っぱをひろって、肩のうえくらいにかざしてみた。
(十歩って、とおいんだな)
ぼくはおもう。お母さんはしゃがんだしせいで吹き矢をかまえた。ねらいをつけるじかんなんかなかった。口に筒をあてたとおもったら、しゅっと、もう吹いているんだ。ぼくがはっとして見ると、葉っぱのまんなかに針がささっているんだ。
「まだよ。こんどはじょうげにゆらしてごらんなさい。敵はじっとしてるわけじゃないんだからね」
ぼくはお母さんのすごさを知っているから、失敗してぼくにあたるなんてことはちっともおもわない。それでもすこしどきどきしながら、うでをゆっくりとあげさげした。みんなはすこしはなれた所でじっと見ている。
(うらやましいだろう)
お母さんにこうして、じっけんだいにされることはなんかうれしいことなんだ。
「もっとはやくうごかしてもいいわよ」
とお母さんがいったので、ぼくはもうすこしはやくうでをうごかした。こんどもお母さんはねらいをつけることもなく、しゅっ、と吹いた。うでをとめて葉っぱを見てみると、刺さった針は二本にふえていた。見ていたみんなは、ああー、って声をあげた。ぼくも、
「すごいなあ」
と大声でいった。
「かんたんなことじゃないけど、みんなにもできるようになる。れんしゅうしだいよ。吹き矢や弓をつかう戦いがよく身についていれば、ガンをつかったりするときにも役にたつから」
吹き矢や弓のれんしゅうは、マトウやウィスをつかまえるのにも役にたつんだ。マトウというのはとびはねるのがうまい動物で、ウィスというのはちょっと大きくてにげ足のはやい毛むくじゃらのマトウなんだ。焼いて食べるととてもおいしいんだ。でもおかしいのはときどき、お母さんはマトウのことをウサギと、ウィスのことをイノシシとよんだりすることだ。へんななまえなんでぼくたちはわらう。これもお母さんのくにのことばなんだ。お母さんはときどきじぶんのくにのことばをつかうんだけれど、お母さんのくににもマトウやウィスににた動物がいるんだろう。まちがえたとき、お母さんはてれたようにわらうんだ。ぼくたちはおもしろがって、つぎからはわざとウサギとかイノシシといったりした。そのうちそうよぶのがふつうになった。お母さんがそうよぶのならそれでいいや、とぼくたちはおもったからだ。そうやってぼくたちはお母さんのくにのことばをおぼえていった。お母さんのことばを多くおぼえようとして、みんなできょうそうしあうようなかんじにもなった。つまりみんなお母さんがすきなんだ。だからお母さんのつかうことばもすきになった。
お母さんとぼくたちは森のなかでテントでくらしている。でもいつもおなじ場所にいるわけじゃない。なんにちかに一度はかならずテントをたたんでいどうするようにしているんだ。いどうするときはたき火のあとやトイレのあとをきれいに埋めて、ぼくたちがいたとわからないようにしなきゃいけない。お母さんは敵はちょっとしたあとを見て、ぼくたらを追いかけることができるっていうんだ。
お母さんはぼくたちを守るためにぴりぴりしているときがあって、一にちのうちに二度も三度もテントをいどうしたこともある。
「ようじんしなきゃ、やられるのよ」
そんな二回もテントをつくりなおしてうごくなんて、みんなつかれていやだとおもう。そんなときはお母さんはきびしいんだ。だらだらしていたら蹴《け》っとばされてしまう。
お母さんがもっときびしいのはナイフをつかって戦うれんしゅうをするときなんだ。まずナイフはつかわないで短い木の棒をつかってれんしゅうする。いきなりほんもののナイフをつかうとあぶないからだ。お母さんがうごかし方をやって見せて、そのあとぼくらがまねをするんだ。その時はお母さんは凄《すご》く真剣なんだ。そのくんれんを「近接格闘」とお母さんはむずかしいいい方をした。
近接格闘のれんしゅうのじっけんだいにはコフがえらばれることが多い。なんといってもぼくたちのうちでいちばん体が大きくて、力だってつよいからだ。コフは食べ物もたくさん食べるのでいまでは、背たけだけはお母さんよりもすこし大きいくらいになっているんだ。だからその日もやっぱりコフがあいてにえらばれたんだ。そのてんではみんなすこしくやしいおもいをしている。
まず二人はむかい合って身がまえる。ほかにもよこから、うしろから、はしりながら、とつぜん、近接格闘に入るやり方もある。むかいあうやり方はまずきほんなんだ。
コフがなかなかお母さんにかかっていかないので、お母さんがうでを組んで、
「コフ、えんりょしないのよ」
とはげます。コフはほんとうはうごけないんだ。お母さんにスキがないからだ。やっとふん切りをつけて、やっ、とコフがかかる。それをお母さんがかえす。そこをぼくたちはよく見ているようにいわれている。でも、よく見えないんだなこれが。コフはあっというまにひっくりかえってるんだ。のどもとには木の棒がぴたっとおしあてられている。コフは殺されたことになる。
「もう一回」
とお母さんはいう。コフが顔を赤くして、こんどはちがうしせいでかかっていく。でもコフの棒はお母さんにふれることもないんだ。ばっと足を蹴られて、足をとめられて、もうそのときにはお母さんはコフの背なかにはりついている。そこから相手の口をふさいでナイフでのどを切っても、背なかからわきばらのあたりにナイフをさし込んでもいいんだ。ナイフを持っていなかったら、首をしめて殺してもよい。
「手ばやくやれるのならなんでもかまわない」
とお母さんはいった。
「もう一回」
とお母さんがいう。コフがせめ方にちっともくふうを加えないので、お母さんはふまんなんだ。コフはもう嫌になっていて、ふてくされる。
「嫌だよ。母さんにかなうわけないんだから」
そのとき、お母さんの顔は、きっと引きしまった。おこったお母さんはほんとうにこわい顔をするんだ。
「コフ、そのセリフを敵の前でいえる? あんたみたいなデカいだけでのろまなやつがいちばん殺されやすいのよ」
そして、パン、とコフのほっぺたをはる。ぼくたちもコフとおなじように叩《たた》かれたような気持ちになっている。コフはいっしゅん泣きだしそうな顔になった。ぼくだったらかんぜんに泣いているだろうな。
「ちきしょう」
「そうよ。甘ったれてるより、ちくしょうといいなさい。だれか、わたしのナイフをとってちょうだい」
シュンはあわててお母さんのベルトからナイフをとった。お母さんにわたした。お母さんのナイフはかたなとよんでもおかしくないように大きなナイフなんだ。ぼくたちはあれでお母さんが五人の敵の首をきり落としたのを見たことがある。
お母さんはナイフをコフに持たせた。
「それでわたしを突いてきなさい。いい? いままでおしえたとおりにほんきでやるのよ」
お母さんのほうは持っていた木の棒さえすててしまった。素手でやるといっているんだ。コフはがたがたとふるえだした。
「できねえよう」
コフはほんとうに泣きだしてしまった。
「いくじなし。わたしはおんなでえものも持ってないのよ」
お母さんがさらにこわくなった。コフにつらくしすぎるとおもった。でも、あとでわかったんだけど、お母さんはそのころからコフをぼくらのリーダーにしようと考えてたらしい。だから、わざといじめるようなことをするんだ。
「でも、母さん、けがするじゃねえかよう。ほんものはあぶないよう」
コフは泣き声をだした。
「なめなさんな。あんたのよれよれのナイフでわたしがけがするはずないじゃないの。さあ、きなさいよ、よわ虫」
コフはけっしんしたみたいだった。お母さんによわ虫ときらわれるくらいなら死んだほうがましだ。コフはほんのすこし腰をおとしてナイフをかまえた。右手を前にだしている。つまさきの方にじゅうしんをのせている。これがただしい、いいかまえなんだとお母さんはいう。このまま小きざみにナイフをくりだして、相手の手首をねらっていくのもいいし、もし相手が蹴ってきたらひざをかるのもいいんだ。もうすこしうまいやり方だとフェイントというのがあって、ナイフをほんとのねらいとは別のほうへうごかして相手をさそって、でてきたらねらいすましてさしたり切ったりするんだ。そして戦いはできるだけはやくでおわらせなきゃならない。できれば一秒いないにおわらせる。一人でなん人かを相手にしなきゃならないときもあるからだ。
コフはフェイントというのをやろうとしている。コフはお母さんがののしるほどへたくそじゃない。ぼくたちのなかではいちばんじょうずなのにちがいない。げんにだれもコフにはかなわない。コフはくるしそうに見える。ぼくたちもこきゅうがくるしくなるような気持ちだった。
コフは右手でさそっておいて、ナイフをうけながそうとのばしてくるお母さんのうでを待つんだ。お母さんが手をのばしてきたらはらいぎみにナイフを引くんだ。うまくいけばお母さんのほそい手首がぼとっとおちていく。きょりがみじかかったら指が切れる。もし切り口があさくても血かんを切ることができれば、がぜん、こうげきがわがゆうりになる。でも、これはお母さんがおしえたわざだから、そんなのお母さんだってわかっている。
でも、お母さんは素手で、コフはお母さんよりもすこし腕がながいくらいなんだ。もし、お母さんがミスをしたら、そんなことはぜったいにないとおもうけど、やっぱりこわかった。でも、近接格闘というのはいちばんこわい戦いなんだって、お母さんはなん度もいっていた。でも、戦いにぜったいはないともお母さんはいっていた。お母さんもほんきをだしていた。そのしょうこにお母さんの顔も青く見えるほど白くなっていた。これはしんけんなれんしゅうなんだ。
「じかんをかけちゃだめ!」
とお母さんがいった。これはお母さんのしかけだったみたいだ。コフははっとしたようにうごきをはやめた。コフがフェイントでだしたナイフに、お母さんはまっすぐに手をのばしていった。
(あぶない)
とぼくはおもった。コフはのびてきたお母さんの手をねらってナイフをうえむきにしてふった。そのとたん、お母さんがころんだように見えた。
「わっ」
とコフが声をあげた。コフもつぎのしゅんかんにはころんでいた。
「いたっ!」
お母さんはコフと卍じるしにかさなるようにじめんにたおれていた。どすっ、とコフの手からおもいナイフがおちた。お母さんは背なかからコフの右肩と右肘《みぎひじ》のかんせつをきめているんだ。しかもお母さんのりょう足がコフのひざのうごきを殺している。もしそのかっこうからお母さんがひざをあげれば、コフのきんたまを蹴ることもできる。
「があっ、いてえ!」
「もう殺された」
とお母さんはいいながらコフからはなれた。
「こちらが素手ならいまみたいにかんせつをとることもわるくはないの。かんせつをとったら相手をいためつけようなんておもってはだめよ。きめたらそくざにへし折りなさい。それに相手のきゅうしょが手足のとどくところにあればえんりょなくつぶしなさい」
コフは青い顔をして、あらい息をはいている。お母さんはせつめいをつづけた。
「いまわたしがやったのもフェイントよ。わざと相手のいひょうをつくようにうごく。いい? もう一回、やるからね」
お母さんはまたコフをたたせて、こんどはぼくたちに見えるようにゆっくりとやってみせた。お母さんはコフがナイフをあげたしゅんかんにじめんに手をついてぜんてんしたんだ。
「手をついたときに砂や泥をつかめるようなら、さっとつかんで相手の顔になげるのもいいわ」
お母さんはちいさくぜんてんしてりょう足からコフのま下に入って足をかけてたおしたんだ。コフのたおれるほうこうを見て背なかにすぐにまわれるようにしなきゃいけない。あとはせいかくにかんせつをきめにゆく。
「ぜんてんしたときに相手の膝《ひざ》にまっすぐにかかとかふくらはぎをあてれば、膝かんせつを折ることもできるけど、わたしはからだがかるいから、あまりやらない」
そして相手のしてんをうばって身うごきをさせなくするほうほうや、肩かんせつのきめ方や、首かんせつのひねり方、肘かんせつのとり方をじゅんにわかりやすくおしえてくれる。かんせつがきまるたびにコフが、ぎゃっ、とさけぶのでかわいそうだった。
「ただね、かんせつをきめるなんてのはなかなかできるもんじゃないわ。よゆうがなければ、こう」
お母さんは指をコフの目のなかに入れるまねをした。
「これでいい。鼻のあなに指を入れて引っぱるのもいいし、さこつのうえのやわらかいぶぶんを力いっぱいつかんで、えぐるのもいい。あとは……」
お母さんは口をコフの首すじによせた。
「キスしているんじゃないわよ。けいどうみゃくをかみ切る。なんでもかまわないの。とにかくはやく相手のせんとうのうりょくをうばうのがだいじよ」
しょうじきにいうと目だまをえぐるとか首をかみ切るとかきくと、ぼくは気持ちわるくてとりはだがたちそうになった。お母さんはこわいことをへいきでいうんだ。
お母さんはそしてやっとコフをかいほうした。
「ごくろうさま。あなたもだいぶつよくなっているのよ、そんな泣きそうな顔はやめなさい」
お母さんはやさしいお母さんにもどっていた。それを見てやっとコフもあんしんしたみたいで、顔に赤みがさしてきたんだ。さっきまでは息をしてないんじゃないかとおもったほど青いくるしそうな顔をしてたから。
「泣きそうな顔なんてしてねえよ」
とコフはいった。みんなにはずかしいところを見られたから、すこしおこっているみたいだ。
「背なかが気持ちわるくてへんな顔になったんだ」
「背なか?」
「お母さんのおっぱいが、背なかにずっとあたってて、むずむずしたんだよ。お母さんのはでっかくてぷよぷよしてて、気持ちわるいんだよ」
とコフはいった。
「ふーん。なまいきいうじゃないの。さてはいろけづいてきたな」
「ば、ばかいうな」
すると、お母さんはおお声でわらった。ぼくたちもわらって、コフ一人だけいやな顔をしていた。
「はやくわたしのおっぱいをつぶせるくらいにつよくなることね。むりだとおもうけど」
コフはぷいと顔をそらし、お母さんはにやりとわらった。
そのあとぼくたちは二人一組になって、近接格闘のれんしゅうをする。気をぬくといたいのでみんなしんけんにやる。ほんとうはお母さんがじっと見ているから、みんなひっしにやるんだ。ぼくたちもうでをあげればコフのようにお母さんのれんしゅう相手をつとめることもできるようになるから。けっきょく、やられていたい目にあうとはおもうけど、お母さんと戦ってみるというのがすごく楽しくおもえるんだ。そうおもうとねつが入る。すこしくらいけがをするけど、ぜったいひどいけがにはならない。なぜかというと、あぶないわざがかかりそうになるとお母さんがすっととめにはいるからだ。だから、ぼくたちはあんしんして近挺格闘のれんしゅうにねっちゅうできる。
地べたをころがったりするから、れんしゅうのあとはみんなからだじゅう泥だらけになる。お母さんだって泥だらけで汗まみれになっている。ぼくたちがきたないのはいいんだけど、お母さんがきたないのはちょっとがまんならない。お母さんはいつでもきれいにしておいてほしい。
いどうちゅうに池を見つけることがあって、そのときはお母さんも目をきらきらさせてよろこんだ。お母さんも泥や汗がしみついた髪の毛やからだがうっとうしくて、いやなんだ。池を見つけても、お母さんはただよろこぶんじゃない。ぼくたちなら、すぐにばしゃばしゃと水に入るところだけど、お母さんはあたりをしらべはじめるんだ。それになん十分もかけるので、ぼくたちのほうがいらいらしてくる。そして、どうじにぼくたちにもあんぜんかくほのしかたをおしえているんだ。なん人かずつ組になって、ていさつして、へんなあとがないかしらべる。池に毒の魚みたいなのがいないかもしらべる。まえにもいったけど、お母さんのすごいところはよその人のくせに、この森の木や草や動物にやたらとくわしいんだ。ぼくたちの知らないことまで、ぜんぶ知っているみたいだ。まるでかみさまみたいだ。それでもあれだけしんちょうなんだから、ぼくらも見ならわなきゃいけないんだろうな。いやになるほど池のまわりをしらべたあとで、そしてやっとあんしんして、水あびをするんだ。
それでいつもはかならず五人ずつにわかれてじゅんばんに水あびをする。もしぜんいんが服をぬいで武器を手ばなしているときに敵がきたらこまるからだということはよくわかるけど、ここがむずかしいところなんだ。みんなお母さんといっしょに水あびしたいとおもっている。お母さんとほかの五人が水に入っているとき、のこりのものはむすっとしてしゅういをきょろきょろしてなきゃいけない。お母さんといっしょに水にはいれるのはくじなんで、外れるととてもざんねんで、そのあとけんかになったりするときもある。それを見てお母さんもこまった顔をしたりする。
その日はいつもとちがっていた。お母さんはしらべるじかんもいつもよりすくなくすませた。
「きょうはとくべつよ。みんなでいっしょに入ってもいいわ」
ってお母さんはいった。ぼくたちはきょとんとしたけど、やっぱりすぐうれしくなって、すぐに服をぬいで水にはいった。お母さんもそうだ。ぱっと服をぬぐと、水にとび込んだ。
「うーん、気持ちいい」
とお母さんはいった。みんなでお母さんをかこんでばしゃばしゃやって、とても楽しかった。お母さんは手のひらを組みあわせて、水でっぽうをつくってみせた。
「そーら、そら」
って、みんなに水をあてはじめた。
「やったな」
ぼくたちも真似《まね》して水でっぽうをつくってはんげきする。でもお母さんの水でっぽうのようにつよくとおくまでとはない。じきに、
「めんどうだ」
とコフがいって、りょう手をつかってお母さんに水しぶきをあびせるようにした。みんなもコフにしたがって、お母さんをこうげきした。
「一たい十五なんてずるい、ひきょうなんだから」
とお母さんはおこっていった。でもわらっているからこわくはない。日のひかりがしぶきにはんしゃして、それがお母さんにかかっていって、お母さんの丸っぽいからだを水たまがかざるんだ。とてもきれいだ。いっしゅん、水たまに色のしまがみえたんだ。お母さんはうっとりと目をほそめた。
「このほしでもにじはできるのね」
といった。ぼくにはいみがわからない。
お母さんはぬれて、おっぱいのところまでたれた髪の毛をぎゅっとしぼるようにかきあげた。りょう手を肩のうしろにまわして髪の毛をたばねるように、しぼるんだ。お母さんのからだは丸っぼいけど引きしまっていて、そういうかっこうをすると、おっぱいとか首や肩がとても引きたつんだ。おしりだってぼくのよりもふたまわりくらい大きくてかっこいい。もうみんな水をかけるのをやめていた。お母さんを見つめているんだ。ぞくぞくするほどきれいだからしかたがない。みんなばかになったみたいにお母さんを見つめている。
やっと、お母さんが気づいて、
「じろじろ見てる! エッチこぞうども!」
とまた水をひっかけてきた。また水がっせんになった。せっかくしぼった髪の毛がまた水にぬれたんで、お母さんは、
「あ、やだ」
といった。
ぼくは水からあがったあと、おそるおそるだけども、お母さんにきいてみた。
「どうしてこの池ではようじんしなかったんだろう。敵がこないとわかったのか」
お母さんはうなずいた。服のぼたんをとめる手をうごかしながらおしえてくれた。
「そういうぎもんを持つのはいいわね。このエリアは競合地域から外れていて、わたしのなかまの支配地域なのよ。敵がここまで入り込むなんてまずないわ」
「きょうごう、ちいき? 母さんのなかま?」
「そう、なかま。いまはくわしくはおしえられないけど。なかまがいるの。みんなみたいに敵にお父さんやお母さんを殺されたこどもたちを守っているのよ。わたしがしているように」
そして、ぼくの耳にくちびるをよせて、
「わたしのなかまということは、あんたたちのなかまでもあるってことね。ここはそのなかまがしはいしている支配地域だから、まず、あんぜんなのよ。まだみんなにはいわないでね」
といった。ぼくはニワトリみたいに頭をじょうげさせた。お母さんは、ふふ、とわらった。
ぼくはそうぞうした。お母さんはごくたまに、ぼくたちに、こういうときがある。
「きょうはじゆうくんれんよ。じぶんたちでなんでもやってみるの。なまけたらだめよ。わたしはかくれて見ているんだからね」
そしてお母さんはいなくなる。ぼくたちはうすさむいような心ぼそい気分になった。でも、いずれお母さんを守れるくらいにつよくなるというのがぼくらのもくひょうだから、お母さんにたよらない日があるのもいいんだ。それにお母さんがどこかからかくれて見ているとおもえば、やっぱり心づよいものな。
でもぼくはおもうんだけど、それはお母さんがいった競合地域の外にぼくたちがいるからあんぜんだからそうしているのかもしれない。それにお母さんがほんとうにぼくらを見張っているのかも、わからない。ぼくたちがかくれてもお母さんにはすぐに見つけられるけど、お母さんがかくれればまずぼくらには見つけられなくなる。そういうくんれんもしているんだ。だからお母さんがかくれていないとしてもぼくたちにはわからない。それにもう一つある。じゆうくんれんの日のおわりにはお母さんは新しい武器や食べ物を持ってあらわれたりする。いま、ぼくらに一本ずつくばられている小さなナイフなんかが、そうなんだ。これもじゆうくんれん日のおわりに、お母さんがすがたを見せて、
「よくやってたわね、これはごほうびよ」
といってみんなにくばったものだ。そのときはふしぎにもおもわなかったけど、どこから持ってきたのかあらためて考えてみると、どうもふしぎだ。ぼくはお母さんがじゆうくんれんの日にお母さんのなかまのところへゆくんじゃないのかときゅうにおもいついたんだ。
それをたしかめるのはかんたんだ。じゆうくんれんの日にみんなでなまけていればいい。もしお母さんがかくれて見ているんなら、とびだしてきてぼくらを叩きまわすだろうから。でもそんなたくらみをみんなにいってぼくがやるなんてぜったいにない。さっきお母さんとやくそくしたこともあるし。お母さんをためすようなあと味のわるいことはいやだし。ぼくのいけんではお母さんがたまにともだちに会いにいくぐらいかまわないとおもうんだ。それをお母さんがかくしているんなら、たぶん、ふかいりゆうがあってのことだとおもう。そしてじきがきたらちゃんとおしえてくれるんだとおもう。なんてったってお母さんはかみさまみたいにもの知りでつよくてえらくてそれにきれいなんだ。ぼくたちをあいしてくれているにちがいないんだ。わるいほうに考えるなんてよくないことだ。
3
また一年ぐらい過ぎた。ぼくたちのからだはどんどん大きくなった。力も前よりは強くなった。腕前だってもちろんあがった。頭もちょっとくらいはよくなった。
ぼくたちの腕があがってくるにつれて、お母さんの教えることもまたふえていった。お母さんはぼくたちの成長にあわせてなのか、ときどきは戦闘技術いがいのことも教えてくれるようになった。
ぼくたちはお母さんが一人と十五人の兄弟にすぎないんだ。ジャングルの中では小さな点ほどでしかない。そういう小さなそしきがこうりつよく生きのびるには「状況」をよく知っていなければならないんだ。
「さいしょ、みんなとわたしとが出あった地域がここ」
とお母さんは地図を見せて、さした。さいきんのお母さんは地図をよく出して見せる。ぼくたちがこれを頭に入れておくひつようがあるからだ。太陽や星のほうこうを見て、およその位置を知るほうほうなんかも教えられている。
「そして、こういうふうにいどうしてきて、いまはこのあたり一帯をまわっているの。さいしょにいた地域はほとんど敵の支配地域だったから、まずわたしたちはそこから逃げなければならなかったわ」
そうだ。ぼくはあの頃のことをおもい出してみた。さいしょの頃はしょっちゅう怪物、いや敵がすがたをあらわしていた。たいてい何人か組でガンをもっていた。ていさつ行動を行っていたのだろう。お母さんはやり過ごしたり、逃げたりしながら一人一人殺していった。お母さんもガンを一丁もっていたけれどもめったにつかわなかった。ガンをうたないようにしていたのは近くにべつの敵のチームがいたばあいをおそれてのことだ。
たき火をつくって飯を食っている敵に出あうときもあった。それもお母さんはなるべくかたづけるようにしていた。敵の食べ物をうばわないとぼくたらがうえてしまうからだった。ぼくたちが弱くて泣き虫で腹ぺこだったから、お母さんはぼくたちをかくれさせて、きけんをおかして、一人で戦わなければならなかった。
「いまはわたしたちの支配地域にいるから、めったに敵におそわれることはないけれど、それでもようじんはすることね」
お母さんは地図のうえの指をすべらせた。
「あしたからここに向かうわ。敵の支配地域でもないけどこちらの支配地域でもない地域。中立地域とでもいうのかな。もちろん敵とのそうぐうがおきるわ。そろそろみんなにしょせんをかざってもらわないとね」
ぼくたちはすこしきんちょうした。なにしろぼくたちはこれまで守られるばかりで、自分たちで戦ったことはなかった。
「母さんがそういうのをまってたんだ」
といったのはコフである。コフはもう声変りもして、ぼくたちより一回りもたくましいからだになっていた。お母さんがコフをぼくたち兄弟の一番うえの兄ときめたのも仕方のないことだ。
「そうよ。いままでわたしが教えたとおりにやれば、かならずかてるわ」
お母さんはたのもしげにコフを見あげた。もうコフはお母さんが見あげるほど大きくなっていた。ぼくだってお母さんよりちょっとひくいくらいまで大きくなっている。いずれコフと同じくらい大きくなるとおもっている。
ここしばらくはずっとチームごとの「連携戦闘」のくんれんをくり返している。つかう武器は小弓や吹き矢だけじゃなく、「ガン」もある。ガンにはいろんな……いろんなしゅるいがある。敵からこれをとったら、これはもうぼくたちの武器にしてつかっていいんだ。
お母さんはある日のじゆうくんれん日の夜に、三しゅるいのガンをはこんできた。せつめいしながらみなにさわらせた。敵からガンを手にいれたときにそなえて、あつかい方をおぼえておかねばならないからだ。
「この三つは敵がつかっているガンだから、うばえるきかいもおおいわ。これは、かやくをはれつさせてそのガス圧でたまを飛ばすの。いりょくもしゃていきょりもジャングルで使うぶんには十分ね。敵からカートリッジをうばえばずっとつかえる。けってんははっしゃおんが大きいことかな」
かやくのガンには大きいものと小さいものがある。小さいのは手で握ってつかう。大きいのは肩にあててつかう。大きいのは木でできていておもく、けっこうがんじょうだ。さきっぽにナイフをつけることができるので、近接格闘にもうまくつかえるようにできる。
「これは、ニードルガン。あっさく空気によって針をうち出す。いりょくはそうあてにもできないけど、音が小さいのがいいわね。コンプレッサーの圧力ちょうせいをおぼえてつかうようにすることね」
いりょくはあてにしない、とお母さんはいうけど、どうしてどうして、十メートルのきょりの木のみきをフルオートでうつと、あっという間にパパッと木のかわがけずれて、めくれてゆく。さいごにお母さんがしめしたのは変わったガンだった。丸と三角をくみあわせたような形をしていて、銃こうがはっきりと見えなかった。
「ビームライフル。これはたまや針をうち出すんじゃないわ。ねっせんをうち出すの。このガンのいいところはなん百メーターさきでもこうせんがまっすぐに飛ぶことね。むおんのうえにいりょくがある。ぜんいんにこれを持たせたいところだけど」
けっきょくどのガンでもつかえるようになん度もれんしゅうしなければならなかったんだ。戦闘中にガンがさどうふりょうをおこすことも考えられるから、ぶんかい組みたてのれんしゅうもやった。ただ、ビームガンのこしょうだけはぼくたちの手に負えないものらしいので、やらなかった。
あたらしい武器のつかい方もおぼえて、さらにチームごとのれんけい運動のくんれんにお母さんは力をそそいだ。さいていでも二人がくみになる。チームたんいで迂回《うかい》、陽動などのそうごしえんのれんしゅうをなん度もくり返した。それをずーっとながい間やった。そして、お母さんはまずきゅうだい点を出したんだろう。こんどの実戦のこうぐんをやることになった。
中立地域に入ったぼくたちは、やはり、きゅっときんちょうした。敵にそうぐうしたらほんとうに殺さなければならないからだ。にくいやつらだからぼくは平気で殺せるとおもう。そのためにこれまでずーっとくんれんしてきたんだ。
わざとみちを外れて進むので、ぼくたちにしつこく木や草がまとわりつき、枝がからだをうち、音を出し、ひっかき、じゃまをする。しっちでは足もとにもなにがあるかわかったもんじゃない。しかし、ぼくたちはたてる音をさいしょうげんにし、葉っぱをゆらしたりせずに進まなければならない。むっとするような緑のなかに、しぜんに溶け込むようにしなければならない。
お母さんのあいずでぼくたちは三人ずつ五チームにさんかいして進んだ。たがいのチームの死角をおぎなうフォーメーションをとる。もし敵のせんせい攻撃をうけるようなじたいがおきたばあいにひがいをさいしょうげんに食い止めることができる。もしむかしみたいに一かたまりで進んでいたら、銃撃をうけたときあっというまにぜんめつしてしまう。だからチーム同士のかんかくを二十メートルくらいあけて、チーム内でそれぞれ五メートルくらいあけて進むことにする。おたがいが九〇度から百八十度のしかいをカバーしあうんだ。これがきほんけいで、お母さんは状況にあわせてのへんけいを二十五とおりくんれんさせている。なぜ二十五とおりにもなるかというとなん人かが死んだりけがした場合をそうていしたものの数が入るからだ。でも、ぜったいに仲間を殺されたりはしないとみんなで決めているから、お母さんはようじんしすぎだとおもう。
その日はもくひょう地点までとうたつしても敵にはあわなかった。でんれいがきた。
(もときたみちをさけて、南ほうこうに五キロほどのよゆうをもって弧をえがくようにきかんする)
ということだった。でんれいといっても口でしゃべるようなことはしない。お母さんのとなりにでんれい係がつねに一人いるようにして、お母さんはでんれい係のからだにふれて、指のあんごうをつかって指示を知らせる。するとでんれい係は同じように指でふれるあんごうで各チームに伝えていくようにする。指あんごうは親指、人さし指、中指、手のひら、の四つをつかって、叩いたり押したりつねったりして、それぞれにいみが違っているんだけど、それではなしができる。これなら背中でも腕でも足でも手が届きさえすればめいれいを伝えることができる。お母さんが教えたことだけど、うまいことを考えるなあとおもう。
一回だけきゅうけいをとって、太陽がかたむきかけたころやっと中立地域をぬける地点についた。みんな朝はぎりぎりにきんちょうしていたんだ。敵にあう、ということはすぐさま戦いになることをいみする。ぼくたちはれんしゅうはしたけど、じっさいに敵とやったことがない。どうしたってきんちょうする。お母さんの第一のめいれいは、敵よりもさきに敵をはっけんすること、だった。これはぜったいにひつようなことだ。ぼくらはナイフとか吹き矢みたいな武器しかもっていない。それにくらべて敵はガンをみんな持っている。こちらにも三丁だけガンがあるけれど、正面からの戦いになればはなしにならない数だ。だから、ぼくらはできるかぎり早く遠くから敵を見つけておかねばならない。そして敵に感づかれないうちに近づいて、一気に殺してしまわねばならない。むずかしい戦いなんだ。ぼくたちは目と耳と鼻をとぎすませて、敵のけはいをさがした。
だから敵にあわずにすんで、みんなはっとして、気が抜けていた。これがよくなかった。やはりどんなときにでも気を抜いちゃいけない、ということだ。みんなが安心するような状況のときが一番あぶないんだと。
ぼくがなんで敵に気がつくことができたかというと、ぼくも十分に油断していたからだ。こういうとへんだけど、おしっこがしたくなって、むずむずとあたりを見回していたんだ。行動中のおしっこは禁止なんだけど、しかたのないときはでんたつしてみんなに知らせておくとりきめだった。そんな基本てきなことも頭から消えていた。ぼくは勝手にポジションからはなれていた。
(あっ)
とぼくは声をあげそうになった。あわてて口をしめた。敵がぼくの左ななめ前をゆくチームのうしろにいた。見えるだけで三人いた。敵のガンのゆうこうしゃていには入っていないようだけど、チームをついせきしていることはかくじつだった。でも、このフォーメーションで行動していて、そのいちを敵にとられることはあり得ないことだ。敵がその方からせっきんしてくるのなら、とっくに発見していてたいおうしていることになっている。
(サンのやつが警戒していなかったんだ)
ばかやろうとおもったけれど、サンのチームだけを責めるわけにもいかない。サンのチームのうしろが死角となるばあいは、しんがりにあたるぼくたちのチームがそこを見ていなければならない。いつもはそうしていた。今はおこたっていた。だからぼくも悪いのだ。ぼくはぞっとした。敵が今見えている三人とはかぎらない。もっといて、ぼくらをとらえているかもしれない。ぼくのチームのうしろにも敵がいるおそれがあるじゃないか。ぼくたちのチームがフォーメーションのしんがりなのである。ぼくは腕をまげて、ぼくの斜めうしろにいるはずのショウにサインをおくった。指暗号と指のサインがぼくたちの行動中のでんたつ手段なんだけど、サインのばあいは見られていなければこまる。ショウがぼくのサインを見ていることをいのった。
そして、ぼくはすっとポジションをはなれて、迂回行動をかいしした。敵のはいごにまわるのだ。敵が見えている三人とはかぎらないので、さらにしんちょうに索敵するひつようもある。ぼくはうしろを見ずに進んでいるけれど、心配だった。もしショウがぼくのサインを見てかくにんしていればショウはぼくらの右ななめ前方にいるはずのシンのチームに合図をしてから、ぼくに続いてきているはずなんだ。もしそうならシンのチームがでんれいを出し、みんなに知らせてすぐさま戦闘行動に入ることになるんだ。いまのうちに敵を逆包囲するへんけいにうつればなんとかなるかもしれない。お母さんがうまいことぼくらをうごかしてくれるだろう。お母さんのくんれんやもくひょうでは一人が敵をかくにんしたら十五秒ごにはチームぜんいんがそれを知っていることになっていた。お母さんのくんれんのせいかが今ためされている。
ぼくは敵をぜんぶで五人発見した。前の三人のうしろ十五メートルの場所に二人いる。ようちなフォーメーションだ。お母さんなら五人いるなら配置をそんなにたんじゅんにしたりしない。ぼくはサインで三、と二を作ってこうぞくにしめして見せてから、敵二人ぐみのはいごに回ることにした。お母さんの教えた基本戦術どおりのうごきのはずだ。
ぼくは一しゅん、うしろをふり返って見た。ショウはいなかった。だれもぼくについてきていなかった。ショウはぼくのサインを見逃していた。ぼくの顔はさっと青くなったにちがいない。どうしよう、とぼくはおもった。まよっているひまなんかあるはずがなかった。敵がサンのチームに攻撃をはじめてからではおそい。ぼくたちはぜんめつするだろう。お母さんも死ぬ。お母さんは一番前のコフのチームについている。お母さんのミスではなくぼくたちのしょほてきなミスで死ぬ。単独行動、とぼくは決心した。単独にうごくことになったばあいのこともお母さんにもちろん教えられている。それは、
「じぶんを殺してでもみかたをいかすように考える」
ということだ。ぼくは死ぬことに決めた。
(もしぼくが生きのびられたらショウとサンをおもいきりぶん殴ってやろう)
とぼくはおもった。
ぼくが死ぬのはお母さんを助けるためだ。それに兄弟を助けるためだ。お母さんの顔をもう一度見たかったし、話をしたかった、とすこしだけ決心をにぶらせた。ちくしょう、とおもった。ちくしょう。
ついていればとつぜん単独行動をはじめたぼくにショウが気がついてくれるだろう。今のふやけたじょうたいでは、のぞみはうすいとおもった。
ぼくはひとりで二人を殺すかひきつける。ぼくはしんがりだったから、ニードルガンの小銃タイプのやつを持たされていた。はじめは重くていやだな、とおもっていた。今はこれがたよりになっている。バヨネットがちゃんとこていされているのをかくにんした。吹き矢も持っていたけれど、ここはガンをつかうべきだ。吹き矢はまち伏せでじっくりねらえるときじゃないとぼくにはじしんがない。
ぼくは音をたてないように、じわじわと敵にせっきんしていった。敵はからだが大きかった。敵は大人だった。近接格闘になったら、はたして勝てるんだろうか。お母さんとぼくたちの戦いの基本は敵に知られないで近づいて奇襲をかけて、近接格闘にはいることだ。接近していれば敵もガンをむやみにうてない。それにお母さんがいうには敵は近接格闘がへたであるらしい。バーッとやって、そのあとゆっくり敵の武器をうばうのだ。
でも今のばあい、ぼくにはとてもじゃないが二人はむりだ。まち伏せでなくこちらからの接近になると、敵がぼくに気づいたしゅんかんがしょうぶだ。すでに敵を殺していなければならないんだ。それはわかっているけどぼくは一人あいてでもじしんがなかった。ニードルガンがあってもじしんがない。ぼくはまだ戦ったことがない。これははじめてのことなのだ。
一歩進むごとにぼくの足は重くなっていった。こわかった。ふるえが腕や肩にくっついてはなれなかった。こんなことでくんれん通りのうごきができるんだろうか。
(お母さん)
ぼくの目はくらんだようになった。目がかわいてしまって、まばたきをするとこすれる音がでそうな感じだ。口の中ものどもからからになっていてくるしい。ぼくはどうすればいいのかまったくわからなくなった。ただからだがガクガクしていて、ぼくはそれをおさえようとするだけだ。でも、ひっしで敵にせっきんしているつもりだけはあった。
敵が見えなくなった。ぼくの服が木の枝をはじいたようだ。夢の中みたいな、泥ぬまに足をとられたような、ゆっくりとした動きで枝がしなって、もどっていった。敵がふり向いた。ぼくは敵の視界の中にいた。ぼくと敵とのきょりがどれくらいあったのかよく分からない。ぼくはそれくらいこわがって、まいあがってたんだ。ぼくは動いていた。なんだかよく分からないけど、みょうにからだが重くて、ゆっくりとしか動けなくて、いらだった。口の中で、お母さん、お母さんとしつこくくり返していた。
ニードルガンはフルオートにしてあった。フルオートもお母さんのくにのことばで、連発させることだ。ぼくはひきがねを引いた。シュシュシュッと小さなはれつ音がおきる。前にいた敵の顔の横の木の枝がはじけた。ぼくはあわててほんのすこし銃口をずらした。次の針はしゅうちゅうして敵の顔に吸い込まれていった。ヘルメットの顔をかくしているぶぶんがひび割れていくのが見えた。たおれた。もう一人は銃口をぼくにむけおわっていた。かやくを使うしゅるいのガンだとわかった。あれがはっしゃされれば大きな音がする。そうすれば、気のぬけているみんなも気づくはずだ。それでぼくのやくわりは果たされるんだ。そうおもえばいい。
「わあっ」
とぼくは声をあげた。左肩のあたりを蹴《け》っとばされたようだった。そのままあおむけに引っくり返った。ぼくの上を空気をふるわせてたまが通りすぎていった。敵もフルオートでうっていて、すごい音がしている。
ぼくはごろごろ転がってひっしでにげた。木の幹につかまってうしろにまわりこんだ。木の幹にはばきばきっとたまがあたる。きゅうにしずかになった。敵のたまがきれたのだ。フルオートでうつと数秒でたまはなくなってしまうから、たまをつめなおきなければならない。ぼくは迷わずにとび出した。じっとしていても殺されるだけだ。
ぼくは敵にとっしんした。敵があたらしいたまのマガジンと取りかえている。ぼくが敵のところへとどかないうちに、敵のたまのつめかえが終わった。すぐにぼくにまた銃口をむけた。ちょくしんしてくる小さな的に向かってうち下ろしで命中させるのはむずかしいものだとお母さんがいっていた。フルオートならなおさらむずかしいんだ。だから、からだをひくくしてつっ込んだ。敵のたまはぼくにあたらなかった。
ぼくはニードルガンをかまえようとあせっていた。左腕がうごかないので、銃口はたれたままだった。どうしようもなかった。ぼくは右腕だけでニードルガンを支えて、脇のしたにぐっとあてて、そのまま敵に体当りしていた。銃口のナイフが刺さったてごたえはあった。どうじにぼくはひきがねをひいていた。だけど敵はぼくの頭にガンの尻をたたきつけてきた。目から火ばながでた。ぼくと敵はとっ組みあいになって転がった。ぼくはどう動いたのかよくおぼえていない。頭ががんがんしていた。左肩から腕にかけて火がついたようにいたくなった。
「近接格闘はいっしゅんでおわらせるのよ」
とお母さんはいった。そのことばをおもい浮かべた。だけどそのとおりにできたかどうかよくわからない。ぼくは気をうしなった。
しばらくしてぼくは目をあけた。ぼくのうえには敵が死んでかぶさっていた。ぼくはじたばたして敵を蹴りのけようとした。うごくたびに左肩がちぎれそうにいたんだ。やっと敵のしたからはい出した。目の前が赤くなった。敵にあたまを殴られたけど、それで頭がきれて血がながれてくるんだ。それだけじゃなくてもうからだ中が血であかくなっていた。ぼくの血なのか敵の血なのかもわからない。ニードルガンのさきのナイフは根本からぽっきりと折れていた。刃はきっと敵の腹の中にあるのだ。ひきがねを引くとふしゅっとたよりない音がするだけだ。
ぼくはしばらくぼーっとして敵をながめたり、ガンをながめたり、いたみにうめいたりしていた。ものが考えられないのだ。このとき敵におそわれていたらなにもできずにただ死んだだろう。ぼくはばかのようになって、じっとしていた。
お母さんたちが木のあいだからとび出してきた。
「ケイ」
とお母さんがさけんだ。そして、すわってへんな顔をしていたぼくをつよい力で抱きしめた。
「いたい」
とぼくはいった。お母さんはぼくをはなすとおろおろとした。それはほんのいっしゅんだった。お母さんはきびしい顔にもどってぼくのてあてをしてくれる。
「だいじょうぶなの?」
ぼくの顔をのぞきこんできいた。ぼくは声がでなかった。お母さんはぼくの頬《ほお》をばしんとたたいた。ぼくはねぼけたような顔をしていたらしいんだ。お母さんにたたかれて、顔が横をむいた。シンやサクのすがたが目に入った。ようやくぼくは、こころのすみで、
(みんなぶじだったみたいだ)
とおもうことができた。敵に気づいてなんとか殺すことができたんだろう。お母さんはまあまあきれいな服だったけど、みんなのは血でよごれたり泥でよごれたりしている。みんなも戦ったんだろう。お母さんはつよいからそんなに服がよごれたりはしない。手当をするお母さんの服にぼくの血がついてよごれるといけないとおもった。ぼくはからだをおこしてだいじょうぶだということを見せようとおもった。だけど、やはりからだに力がぜんぜん入らなかった。それで、だいじょうぶといおうとした。
「だいじ……」
まではいえた。そしてぼくはまた気をうしなってしまった。
ぼくはいしきを失っているときに嫌な夢を見た。ぼくのしゅういは暖かかった。でもまわりにはよるのジャングルがあるだけだ。アブーの鳴き声がうるさくてねむってなんかいられないとおもった。気がつくとぼくの首すじにヒルが吸いついていた。ヒルにもいろいろいて足の爪《つめ》のあいだが好きなやつもいるし、鼻の穴や耳の穴にはいりこんでくるやつもいる。ヒルのきらいな草をつぶして、汁をからだにぬったりして防ぐんだけれど、ぜんぶはむりだ。とくに木の上から落ちてくるやつがけっこうやっかいなんだ。
きょうはやけにヒルのやつらが落ちてくる。ぼくはすばやくはらい落とした。食い込まれすぎると皮膚ごと切りはなしたりしなくちゃならなくなる。でもはらい落とした手にも腕にも足にもヒルがくっついていた。ぼくは腹がたつよりも気持ちがわるくなった。わめき声をあげたくなった。じたばたしたりいろいろやったけどはなれなかった。こんなしつこいやつははじめてだった。それでつかれてしまって、仕方なくじっとしていた。するとなんかへんなんだ。ヒルに血を吸われるとふつうはいたかったりかゆかったり気持ちがわるくなる。でもこれはべつにいたくなくて、どうも暖かくて、なんか気持ちがいいんだ。
へんなヒルだなとおもっていたら、どこからかお母さんがやってきた。お母さんに、
「へんなヒルに食われてるんだ」
といった。お母さんならヒルをどうにかするほうほうを知っているはずだ。お母さんはなにもいわずこわい顔をしていた。そしていつの間にか、服をぬいで、なぜかはだかになっていた。
「どうしてはだかなんだよ。ヒルがいっぱい落ちてくるのに」
とぼくはきいた。お母さんははだかのまま、ぼくに近づいてきた。ぼくもいつ服をぬいだのか知らないが、はだかになっている。
「ここのヒルがわるいの」
とお母さんはいった。
「どのヒルだよ」
お母さんはぼくのちんちんを指さした。ぼくのちんちんにヒルが吸いついていた。
「わっ」
とぼくは声をあげた。よく見るとそれがちんちんなのかちんちんのかたちをしたヒルなのか、どっちだかわからない。もしヒルならば大きなヒルだ。こんな大きいのは見たことがない。
「これのせいなの。これがなかまをどんどん集めているのよ」
お母さんはそして、そこのヒルをつまんで取ろうとした。ぼくは、ぞくり、としてあわてていった。
「やだよ。母さん、やめろよ」
「うごかないの」
お母さんはぼくの左肩のかんせつをきめて、ぼくを動けないようにした。ぼくは左肩をうたれてけがをしていたことをおもいだした。気がつくと急に痛くなった。お母さんはそのままぼくをぎゅっと抱きしめた。
「なにするんだよ」
とぼくはいった。しんぞうがどきどきしていた。お母さんは手をのばして、あそこのヒルをつまんで取ろうとする。ぼくはいやがった。だけど、そのうちにひどく気持ちがよくなってきて、とくにヒルの食いついたあたりが気持ちよくなってきた。お母さんはつかんで引っ張るけれど、なかなかヒルはとれない。
「もうやめてくれよ」
するとヒルがもぞもぞとうごくような感じがしてきた。ぼくはどうしようもなくなってかえってお母さんに抱きついた。するとちんちんにからまっていたヒルが音をたてて吹き出していった。おしっこが出るようにヒルが吹き出していった。
そこで、ぼくは目をさました。
「あっ」
とまた声をあげた。ほんとうにお母さんがぼくを抱いていた。夢とはちがってちゃんと服をつけているけど、ぎゅっと抱きしめられていた。
「ケイ、気がついたのね。よかった」
とお母さんはいった。ぼくがお母さんから離れようとしてからだを動かすと、とたんに左肩にすごい痛みがはしった。いたい、とひめいをあげた。
お母さんは、すぐにぼくを離した。ぼくの左肩は木かなにかでこていされているようで、ほうたいが巻かれていた。痛みが落ちついて、まわりを見るとテントの中だった。ぼくはあの戦いのことをはっきりとおもいだした。なんか股《また》のあたりがべたべたしているような感じがするけど、お母さんがいるのでたしかめたくない。
お母さんはいう。
「ケイが敵に先にしかけてくれてなかったら、なん人かはかくじつにやられていたわ」
「ど、どうなったの」
「みんなぶじよ。フォーメーションはめちゃくちゃになったけど、銃声のあとすぐに戦闘に移行して、なんとか先行の三人をたおすことができたわ。やっぱりさいしょの戦闘というのはむずかしいものね。きんちょうするな、あわてるなというほうがむりなのよ。みんなが敵のたまを食らわなかったのは運がよかっただけ。ほんと、あぶないところだった」
とにかくよかったのだとぼくはおもった。
「でも、運がよかった、じゃすまされないこともたしかね」
お母さんは外に向かって、
「入ってらっしゃい」
と叫んだ。
なん人かが入ってきた。もちろんショウもサンもいた。コフもいた。
「この七人がミスをしたのよ、気を抜いて周囲の警戒を怠った」
みんなはしゅんとしている。ぼくはとくにショウに怒りがこみあげてきた。
「どうして、おれのサインをよく見ていなかった」
とどなりそうになった。だけど、ショウの顔を見ると怒れなくなった。頬がはれ上がっていた。お母さんの平手打ちのそうとう強いのをもらったんだろう。
「あんたたちのケアレスミスでケイが死ぬところだった。わかってるの!」
お母さんは本当に怒ってどなった。みんなはびくっとした。そして泣きながらぼくに謝った。
「びんたくらいで許したのは、結局、今日の失敗はあなたたち七人だけの責任じゃないからよ。ほかの七人だってゆるんでいたわ。位置が変わっていたら殴られたのはそっちの方だったかもしれないし、それとも、今頃はみんなで天国にいるかもしれないわね」
確かにぼくだってゆるんでいたんだ。もっとはやく敵に気がついていれば、十分によゆうをもって対応できたはずなんだ。やっぱりショウやサンを責められない。ぼくがショウの位置にいたとしてもサインなんか簡単に見落としたにちがいないんだ。
「それに。一番の責任はやっぱりわたしにある。あんたたちを殴るのはわたしを殴るのとおなじことよ」
とお母さんはつらそうにいった。
「ちがうさ。おれが悪いんだ」
コフはそういった。
「おれがリーダーなんだからな。みんながゆるんでいるとおもったら、ガツンとやらなきゃならないのはおれなんだ。お母さんは悪くねえよ」
コフはぼくをにらんでいた。怒っているようにみえた。なにに怒っているんだ。
「確かにそうね。コフはリーダーとして油断していた。それが分かってなかったらもっとぶん殴るところよ。でも、わたしはみんなのリーダーじゃない。みんなの母親なのよ。子供が危険な状態にあるのに気がついていなかった。こんな間抜けなママが許されるとおもうの?」
と言うと、お母さんはだまった。コフはぼくの横にきて膝をついた。コフが怒っているわけが急にわかった。ぼくはまだお母さんに抱かれたままだった。
「おれはリーダーをケイにゆずる。こんな図体ばかりのあほうがリーダーじゃ、みんなもやってられねえだろ。なあ、母さん」
コフはそういい捨てるとでていった。みんなもばつが悪そうにしばらく立っていたけど、たえられないようになってでていった。
お母さんはぼくを見た。ぼくはこのままお母さんにだっこされていたかった。だけど、それはいけないことだ。ぼくはお母さんの手をはずして、からだをうごかした。すごいいたみが走って、ぼくは顔をしかめてあおむけになってしまった。
「どうしたのよ」
ぼくは手をあげて、もうだいじょうぶ、となさけない声でやっといった。
「まだいたいでしょう」
「いいよ。もういいんだよ」
お母さんはへんな顔をした。コフやみんながぼくをうらやましがって怒っていることに、お母さんのようなすごい人でも気がついていないんだ。
「いいよ、もう」
ぼくはそういったけど、お母さんが気を悪くしたのじゃないかとひどく心配になっていたんだ。しばらくしてお母さんがいった。
「コフはああいってたけど、どう?」
「なにが」
「あんた、リーダーをとってみる?」
ぼくは首をふった。
「やっぱりコフがリーダーだよ。おれなんかだめだ。これでみんなももっと用心深くするようになるから、今日みたいなこともなくなるよ。それより……」
「それより、なに」
「あっちへゆけよ」
お母さんはおどろいたような顔をした。ぼくはどういえばいいのか一瞬こまったけど、わっとしゃべった。
「みんなにもやさしくしてやれよ。おれ、ずっとお母さんと一緒だったんだろ、もうじゅうぶんだよ。あいつらだってけがしてたじゃねえか。みんなを許してやれよ」
お母さんは、あっという顔をちょっとした後にっこりとほほえんだ。手をのばして、ぼくに顔を寄せてきた。
「おどろいた。あんたお兄ちゃんなのね。わたしの方こそ許してもらわなきゃね」
お母さんはぼくの頭を抱いた。お母さんの胸はやっぱりふんわりと暖かかった。
「ごめんなさいね。もう二度とみんなが傷つくようなことはしないわ」
お母さんはぼくのひたいに唇をあてた。キスというんだと前に聞いていた。ぼくはさっき見ていた夢をおもいだして、ちんちんのあたりが妙にぬれてごわごわしているのが気になってきた。まさかほんとにヒルが入っているはずはないだろうけど、お母さんを前にするとあの夢がとても悪いものなんじゃないかという気がした。
「おやすみ。いたくて眠れないならいいなさいね。いたみ止めのクスリをあげるから」
お母さんもでていった。あたりまえだけどほんとはもっと一緒にいたかった。お母さんがいなくなると肩のいたみがひどくなった。肩もずきずきしていたけど、心臓もずきずきする。なんであんな夢を見たんだろうと、泣きたいような気分になっていた。お母さんは何かあったら、すぐでも相談すること、とみんなにいいわたしているんだけど、この夢のことなんかはとても相談できない。本当にいやな夢だ。だけど。
4
ぼくたちもいつまでも物の分からない子供ではなかった。お母さんだってそんなことは承知していた。
ぼくたちはどんどん強くなっていった。それはそれでいいことで、強くなるということがぼくたち兄弟の望みであったから、少しも悪いことはなかった。ただ、どうもぴんとこないことがある。ピリッとしないことがあるんだ。それはぼくたちが強くなればなるほどお母さんの顔が曇ってゆくことだ。この頃、冴《さ》えない沈んだ表情のお母さんを見ることが多くなって、ぼくたちはみんな口には出さないけれど心配していた。
ぼくたちが強くなっていったのは、もちろん実戦を多くくぐったからだ。あれからどのくらい敵を殺したか数え切れない。
「あんたたちは敵からサイオスの悪魔ども≠ニ呼ばれてるらしいわ」
とお母さんが教えてくれた。
「サイオスって、なんだよ」
とぼくがきいた。
「このジャングルの名前よ」
「ここは森という名前だぜ」
とコフがいった。お母さんはそれ以上はなにもいわなかった。それでも敵をぼくらが怖《こわ》がらせているんだから、気分がいい。その上、だれも死んでいない。ぼくらの完全な勝ちだ。
口惜《くや》しいのはコフが片腕をなくしたことくらいだった。コフは腕をなくしても少しも弱くならなかった。前より強いんじゃないかと、みんな思った。つらかったのはコフの腕を切ったあとお母さんがめそめそしたことだった。お母さんはぼくがやられた時と同じように徹夜でコフを看病した。
「ちぇっ、おれも腕をふっとばされたかったな」
とサクがうらやましそうにいった。ぼくは思いきりサクをぶん殴った。
お母さんはぼくたちがただ生き延びるだけのために強くなってゆくだけでは足りないとおもったのか、作戦に目標というものをつけるようになった。つまり、中立地域や競合地域を行軍して、敵に遭遇した場合に敵を皆殺しにするという消極的なゆき方をやめる。こちらから先に敵を攻撃して、これまでぼくらが味わわされてきた恐怖と痛みを敵に倍にしてお返ししてやろうということである。ぼくたちの血はさわいだ。
「たとえばここ」
とお母さんは地図を指さした。競合地域の中の地点である。
「わたしたちがこの道近辺を通るときに、敵と遭遇することが多かったでしょ。それはこのあたりが敵の通路であるということ。もっと言うと敵の基地があると考えていいわ」
敵はぼくらのように移動式のテントで生活しているわけではないとお母さんはいう。そこには食料や武器が貯《たくわ》えてあって、もちろん、守備する敵の数も多い。武装車両とかタンクとかいう強い兵器で守備されている。時々ヘリという大きな化け物が飛んできて、ぼくらはそのたびに死ぬ思いをして逃げるのだけど、その巣でもあるらしい。
「基地を潰《つぶ》してゆくわ」
お母さんはルートを地図に書きこんだ。ふたつの地点をさだめた。ここからかなりの距離である。
「危険な戦いになるわ。やれる?」
とお母さんはいった。
「どの口でいっているんだよ。やるに決まってるじゃねえか。情けないことをきくなよ」
とコフは右腕をふりあげていった。
「これまでとは違う」
お母さんはぴしりといった。表情も厳しかった。
「まともにやればわたしたちは敵の戦車やヘリの餌食《えじき》になる。相手はメカなのよ。喉をナイフでえぐったくらいじゃ死なない」
ぼくはうなずいた。
「でも、メカを動かすのは敵のれんちゅうなんだろう」
「わかっているじゃない」
ぼくはコフの次の副リーダーのような立場になっていた。
「敵の基地だか家だか、みんなたたき壊してやつらを追い出しちまえばいいんだ」
「言うようになったわね」
お母さんが表情を曇らせるのはこういうときだった。
「ひとりも死なないように」
お母さんは命令した。むかしみたいに気合いの入ったいいかたじゃなくなっていた。
お母さんはどこからか基地の見取り図を手にいれてくる。それをもとに作戦をたてられるから楽だ。それにいまではぼくらもナイフ一本で戦っているわけじゃない。敵から分捕った武器を持っている。余った武器はあちこちに埋めて隠している。敵が三十人いようとぼくらは必ず勝った。基地にはもっとたくさん敵がいるらしいが、都合がいいとさえおもうのだ。
地雷なんかをトラップと組み合わせて使って戦車を壊す。夜中の夜明けちかくに襲撃をはじめる。敵の警備の様子をよく観察して、電気設備をひと息に断ってしまえば、動きが格段に勝るぼくらのほうが有利なくらいだ。基地がものすごい火柱をあげて燃えだすころにはぼくらはずいぶん離れたところで大笑いしていた。
「浮かれてちゃだめよ。いまのは大した基地じゃなかったし」
お母さんだけは笑わない。
そんなある日、ぼくたちは恐ろしいものを見つけた。ぼくたちは競合地域を進んでいた。ぼくらはこの頃になるとフォーメーションのことなんかをいちいち気にしたりしなくなっている。状況に応じたフォーメーションを自然にとれるようになっていた。お母さんに何かいわれなくても、お互いの盲点や死角を無意識にカバーするように位置をとるのだ。チーム内での伝達も、よほどのことがない限り、指暗号も手暗号も使わなくていい。お互いに、そんなことをしなくても、ぴっとくるのである。かえってお母さんに何か伝える時に指暗号を使う手間がいったりするのだ。このことだけはお母さんも感心していた。
「十五人で一つの生き物みたい」
とお母さんはいった。
「わたしは仲間になれそうにない」
お母さんは笑顔でいう。でもお母さんがそんなことをいうとぼくたちはむしょうにつらい気分になった。
とおくから凄《すご》い音が聞こえてきた。その音は長く続いていて、ひどい戦闘が起きていることはわかった。ただこんなに長く派手な音が続くのを聞くのはぼくたちははじめてだった。いったいだれが戦っているのか分からない。一方は敵のやつらであるとしても、もう一方はだれなんだろう。ぼくら以外にも敵を狙《ねら》っている者がいるのだろうか。お母さんは唇を噛《か》みしめて、
「見にいく」
といった。ぼくたちは無言でフォーメーションを変えて、その方角に向かった。そのフォーメーションはもっとも緊張したときにとるもので、こんなかたちは滅多にとることがなくなっていた。
そこに近づくにつれて焼け焦げた嫌なにおいが鼻に入ってきた。血のにおいも混じっていた。それも敵の血のにおいとは少し違っている。そこの木々は倒れて焼けたようになっていた。そこだけ空き地のようになっていたほどだ。人がたくさん死んでいた。敵ではなかった。ぼくたちは十分に警戒して、敵がもういないことを確認してから現場に入った。殺されているやつらは四方から敵に囲まれた上に、空からヘリに撃たれまくったらしい。ぼくらならそんな五方向から包まれるようなへまは絶対にしない。やられているやつらは馬鹿だったんだろう。そんな間抜けなことじゃ、殺されても仕方がない。
「落ちているものにさわっちゃ駄目よ」
とお母さんはいった。死体や武器にトラップがかかっているかもしれない。基本的な注意だった。死んでいる者たちは人間の形をしていないものが多かった。熱銃弾らしいものがにわか雨のように降り注いだような感じだった。
死体の肌の色がぼくたちと同じであった。真っ赤で、ちぎれている服も、ナイフもぼくたちのものと変わらなかった。ぼくたちと同じこの森の者が死んでいるのだ。
「お母さん、こいつらはなんだ」
とコフがきいた。
「みんなの仲間よ」
お母さんは死骸《しがい》から目をそらさずにいった。
「おれたちの仲間って、なんだよ」
お母さんは何も言わなかった。そして、
「ああ」
と声をあげた。ちょうど輪のまんなかあたりにお母さんと同じ、白い肌をして、戦闘服をきた死体があった。髪の毛は焼けてなくなっているのでその色は分からなかった。腰から下がなくなっていた。破れた服の隙間《すきま》から血まみれのおっぱいがのぞいていた。お母さんはその女の人の首にかけられていたカードを手に取った。
「この人は?」
とぼくがきいた。
「この子たちのお母さんよ」
お母さんはひざまずいた。
「メアリ・ブード少佐。わたしなんかよりもよほど腕はたしかだった……」
お母さんはその女の人を抱き起こそうとした。無理だった。上半身が服ごと折れてぶらさがった。お母さんはそれでもあきらめずにその人のものを集めた。
「メアリだけでも埋めておかなきゃならないわ。わたしたちは敵に見られるわけにはいかないのよ」
とお母さんはいった。お母さんの手や服は血で汚れていった。
「みんなもわたしが死んだらどこかに運んできれいに埋めてちょうだい」
とお母さんはいった。
きれいに埋め終わったあと、お母さんは黙って手を顔の横に構えた。敬礼というやつで敵がそうしているのを見たことがある。
「いい? お母さんが死んだら、ジャングルから消してしまうのよ」
お母さんは本気でいっている。ぼくたちも悲しくなった。お母さんはそう言うけど、もしお母さんが死ぬようなことがあったらぼくたちもみんな死んでいるはずだ。
「あの女の人は母さんの仲間なのか。なら、死んでいたやつらは何なんだ」
コフが興奮していった。
「あんたたちには関係ない。知らなくてもいいのよ」
「なんでだよ、さっきみんなの仲間って言った」
「聞かないの! 命令よ」
お母さんはいつものように力強くそういった。でも、見ればわかるじゃないか。お母さんの碧《あお》い目が苦しそうで悲しそうなのは。コフとかイウは何かいいたそうだったけど、そんな目をされたら何もいえなくなる。ぼくにはお母さんに秘密があることがひどく嫌なことだと感じられた。
「どうも変だとおもわねえか」
とコフがぼくにいった。
「母さんだよ。ぜったいだ。何か隠しているにちがいねえ」
この前の事件以来、ぼくたちの動きは不活発になっていた。お母さんにキレがないことが原因だ。お母さんが臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれているとはおもわない。だけど、ぼくらは敵を殺すこと以外には何もすることがないんだ。三日も戦わないと腕がむずむずしてくる。
「おれにはよく分からないが、母さんのいうとおりにおれたちの仲間があんなひどい殺され方をしたというんなら、こっちも仕返しをきちんとやるべきだ。おれは母さんはそう命令してくれるとおもってた。それがどうだ」
とコフはいう。
「コフの考えはわかるが、おれはお母さんを疑いたくないな」
とぼくは慎重にいった。
「お母さんを疑おうなんておもっちゃいねえよ。ただ何か隠しているといっているんだ。おれたちももうガキじゃねえ。必要なことはきっちり知っておかないとな。それが生き延びるための最低の条件だろうが」
コフのいうとおりだった。ぼくらはそうお母さんに教わった。
サンやショウやサイたちにもそのことで文句をいわれる始末である。ぼくとコフは意見のまとめ役でもある。何度かお母さんに隠していることがあるなら話してほしいと頼んでみた。その上でまたすぱっと敵のやつらを殺しまくりたいというのがみんなの意見だ。
だけどそのたびにお母さんは、
「なにも隠してなんかいないわ。少し待ってなさい」
とよくわからないことをいう。
「隠していない? 何を待つんだ」
とぼくが踏み込んできくと、お母さんは、
「戦略の見直しについてよ」
とこたえた。ますますわからない。ぼくたちはこの時は食い下がった。みんな我慢の限界にきていたからだ。
「それじゃ、いうわよ、わたしはもうあなたたちとの戦いを終わりにしようとおもっているの」
お母さんは驚くべきことをいった。例の曇った表情でいった。コフは怒った。
「どういうことだよ。敵どもはまだのさばっている。やつらを皆殺しにしなきゃならない。そのために母さんはいろんなことをおれたちに仕込んでくれたんだろ。おれたちは強くなったんだ。面白いのはこれからだ」
「そうだ。お母さん」
お母さんは頭をふっていった。
「あなたたちはもうジャングルで身を守る技術をマスターしたわ」
「ど、どういう意味だよ。母さん」
するとお母さんはきっとした顔になった。ぼくもコフも今でもこの顔はこわい。
「よく聞きなさい。あんたたちはもう一人前でしょう。いつまでわたしにくっついているつもりなの?」
ぼくとコフはお母さんに張り飛ばされたときよりも情けない顔をしていただろう。
「あなたたちの実力はわたしが一番よく知っているわ。一人一人はまあ一人前の戦士だし、十五人ならアメーバみたいに一つの生き物のように動くから、並みの敵の一個中隊くらいわけなく殺せる」
お母さんは無理して笑ったように見えた。
「今、まともにやり合えばわたしはコフに負けるかもしれないわよ。その代わりあんたのもう一本の腕も駄目になっているはずだけど」
「母さんはおれたちを捨てるんだな」
お母さんは気を張ってぼくらをにらみつけていた。
「わたしは終わりにしたいのよ」
そういいながら、お母さんは声をつまらせた。目からつつーと涙がこぼれだした。それは止まらなかった。涙は次々と頬《ほお》と顎《あご》をつたってこぼれ、服の胸に吸われていった。ぼくは急に腹が立ってきた。以前のお母さんはこんなに湿った人ではなかった。乾いていることをぼくたちにいつも要求する人だった。お母さんが泣くのはぼくらのうちだれかが死んだときだけだ。お母さんが泣いてくれるならだれも我慢して天国にゆけるだろう。それだけの値うちのある涙をぼろぼろこぼしてもらっては困るんだ。
「なんだ! なぜ泣いてるんだ。馬鹿やろう」
コフは慌てたのか興奮したのか、その場でしきりにこぶしを振り回した。ぼくは逆にお母さんをにらみかえした。ぼくの背丈はお母さんとほぼ同じくらいになっていた。お母さんのきれいな目をまともにのぞきこんだ。こんな恐ろしいことをしたのはこの時がはじめてだった。
「わたしといればもっともっと危険な任務を与えられるわ。いつかきっとみんな死んでしまう。それでもわたしに母親をつとめろと言うの?」
お母さんはそういった。ぼくにはまたその意味がわからない。
「この馬鹿やろう。おれたちが何のために強くなったとおもっているんだ」
コフは怒鳴った。
「コフ!」
お母さんがいった。でも、コフは止まらなかった。
「ふざけるなよ。本当は敵を殺すのなんか、どうだっていいんだ。母さんのためにつよくなったんじゃねえか。おれより母さんが弱くなったというんなら、おれたちがずっと守ってやらあ。そんなことも分からんのかよ」
最後のほうは泣き声にちかかった。
「コフ! お黙りなさい」
お母さんが鋭くいった。それでもコフは叫ぶようにいった。
「なんだよ、おれたちを置いてどこにゆくっていうんだよ。おい、嘘《うそ》なんだろう。あっ、まさかあの仲間とかいうやつらのいるところに。仲間のところへ帰るのかよう」
お母さんはぴしいっとコフの頬を張った。頬というよりも下顎の内を張ったようだ。これはすごい威力だった。コフの顔は完全に右を向いてしまい、そのまま尻もちをついてしまった。ぼくはにらみつづけていた。お母さんはぼくと目があうとそらせた。
「お母さん。お母さんはずっとおれたちといてくれるといった。お母さんがいなくなればおれたちはあっという間にバラバラだ。そんな状態で生き延びれるはずがない」
ぼくはできるだけ静かにいった。でもそれだけいうのにひどく時間がかかった。お母さんは手を上げた。コフのように張り飛ばされると、一瞬、覚悟した。お母さんはそうはしなかった。手のひらをぼくの頬にあてて撫《な》でてくれた。
「すぐというわけじゃないわ……。あんたたちがわたしに捨てられると感じるんなら、それは仕方がないわ。でもね、今、別れなければもうおしまいになる。わたしは最初は芝居だったとはいえ三年以上もあんたたちの母親代わりをつとめたのよ。あんたたちが可愛《かわい》いのよ。あんたたちを殺すことなんかできるわけないじゃない。シット。こんなことになるんならこの仕事を引き受けるんじゃなかった。わたしはプロだった。感情に負けるような女ではなかったのに……」
お母さんの顔もぼくやコフと同じくらい苦しそうに歪《ゆが》んでいる。
「ごめんなさい。こんなこと言うこと自体、仕方ないことね。ケイ、みんなにはこのことはしばらく黙っていてね」
ぼくはうなずかなかった。お母さんは袖《そで》で涙を拭《ぬぐ》った。そのしぐさはお母さんのしぐさじゃなくなっていた。すごく女くさかった。ぼくはどうしようもなくいらだってしまい、お母さんを見ていられなくなった。コフももう吠《ほ》えなかった。殴られた顎をこすって、お母さんから目をそらした。ぼくは手をかしてコフを引き起こしてみんなのところへ戻った。
5
何日たってもお母さんが動く気配はなかった。お母さんが何を考えているのかぼくにはわからない。ぼくたちは一生懸命にお母さんの訓練についていった。実戦でもやっと自信がついてきた。それなのに、これからというときにお母さんはぼくたちと別れようと言いだした。ぼくもコフもその言葉にすごいショックを受けていた。ぼくもコフもその言葉を思いだすたびに何ともいいようのない、やりきれない、そして怒りの気分に襲われる。お母さんに捨てられることがつらいのだ。いや、それ以上に恐《こわ》いのだ。今お母さんに捨てられたらぼくたちは一個の生き物でなくなるだろう。お母さんと離れることは命にかかわることなのだ。ぼくもコフもだからそのことはみんなには可能なかぎり黙っている。サンやイウはぼくたちの顔色を見て分かるんだろう。しつこくききだそうとする。でもそんなことを口に出せるはずがない。聞かなければよかったとぼくもコフも苦しんだ。
お母さんの事情はべつとして、ぼくらはこれ以上の待機はがまんができなくなっていた。実戦をながく離れているとカンがにぶると教えたのはお母さんだ。みんな戦いたくてからだが爆発しそうなほどだ。がまんするとうずうずがひどくなるだけだ。
ぼくらには戦闘や訓練だけではなく狩りをして食べ物を確保するという仕事もある。すばしっこいイノシシを追うのはけっこう骨がおれて、訓練代わりくらいにはなる。狩りにせいを出してでもいなければ気が落ちつかない。どんどん食料がたまった。動物の解体や保存するための細工なんかも、ぼくらはとても上手くなっていた。そういうことをしていても限界がきた。ぼくとシュンとロクが二頭ぶんの腿《もも》の肉をぶらさげて帰ってくるところで、キジとニワトリを束にしてぶら下げたコフとセンとシンにばったり出会った。
「ばかじゃねえのか、おれたちは。肉屋にでもなって、敵の基地に売りにでもいくのかよう」
シンはそう言うと、持っていた鳥を地面に叩《たた》きつけて走っていった。ぼくはそのときは叩きつけはしなかったけれども、まったくシンに同感だった。肉に塩をすりつけて葉っぱと土で包む作業の途中で、嫌になって放《ほう》りだしていた。
みんなに責められてまたぼくとコフはお母さんに意見を言いにいった。お母さんに殴られるのを覚悟していた。お母さんはぼくたちのこわばった顔を見て、ため息をついた。お母さんにぼくたちの気持ちが伝わらないはずはない。
「そうね。分かったわ。明日は出かけましょう」
お母さんは見通しのきかない森をながめながら言った。ぼくもコフもお母さんがジャングルの競合地域に入りたがらないのは何か理由があるのだと気づいている。匂《にお》いでわかるんだ。何かあるのだ。
「ただな、母さん」
コフがゆっくりと言った。
「母さん、おれたちを裏切るなよ」
それを聞いてぼくのほうがドキッとした。
「裏切るって、なによ。コフ」
「いつまでもガキ扱いするなよ。母さんがおれたちと別れるつもりなのはわかった。だけど、まだ何かおれたちに隠しているだろう。違うか?」
お母さんは、違う、とは言ってくれなかった。目を落として黙っている。
「おれはあのチームが好きなんだ。みんな兄弟だし友だちなんだ。生きるのも死ぬのも一緒だ。あいつらはおれをリーダーとして信頼してくれている。あいつらの信頼にこたえなきゃならないんだ。ケイだってそうだろう」
「ああ」
チームにとってコフはぼくなんかよりも重要なやつだとおもう。コフはみんなをまるで父さんかなにかのようにぐいぐい引っ張ってくれる。コフがいなかったらぼくたちもまだピリッとしていなかったんじゃないかとおもう。コフがいるといないとじゃ戦闘は大違いになるだろう。
「おれはあいつらに責任がある。リーダーってのはそういうもんなんだろ。母さんがそう教えた。おれは母さんを信じている。あいつらもそうだ。だから母さん、おれたちに何も隠さないでくれよ。おれたちはお母さんに死ねって言われれば喜んで死ぬんだよ。どういう理由かは知らねえが、今になって別れるなんて言いだしやがって。そんなつもりだったんなら最初のときにおれたちを助けたりしなきゃよかったんだ。おれたちがこのジャングルで敵に殺されていったり、飢え死にしたりするのをほっておいてくれればよかったんだ。わけが分かんねえよ。なぜなんだ。いまさら、辛《つら》すぎるじゃねえか」
だんだんコフの声がふるえてきた。何が言いたいのか途中で分からなくなっているんだ。だけどその気持ちだけはぼくにもよく分かっていた。
「どうせ教えてはくれないんだろうけど、母さんに裏切られるのだけはいやだ」
「どうしてそんなことをおもうの?」
「げんに何か隠しているじゃねえか。おれたちに言えないようなことをだ。裏切るつもりが少しでもあるんなら、おれたちを殺せよ。おれたちに死ねと命令してもいい。今ならまだみんな気分よく死ねるかもしれん」
「そんなにわたしと別れるのがいやなの? わたしはもうあんたたちに教えることなんてないのよ。もう役に立てないのよ。それが裏切りなわけ?」
お母さんは困ったような顔をして、コフの目を受けとめていた。
「あんたたちはそんなに弱いの? いつまでも女の細い腕にすがっていたいの?」
「ふざけんな。そんなことを言ってるんじゃねえ。違う。なぜ分かってくれねえんだよ。くそったれ」
お母さんはコフを張り飛ばしも抱き締めもしなかった。コフは本当はお母さんに張り倒されることを期待していたのかもしれない。お母さんだけがぼくたちを張り倒す資格を持っている。お母さんはそれをしなかった。
翌日からぼくたちはジャングルの競合地域に侵入するようになった。動かなければからだと頭が爆発しそうな気分になる。みんなそうだった。お母さんも戦士なのである。気持ちは認めているのだ。しぶしぶだったけど。
「嫌なら母さんはここで待っていればいいんだぜ。もうおれたちがどうなっても構いやしねえんだろ」
とコフは言った。はっきりと意地悪な言い方だった。お母さんはコフにこんななめた口をきかせていてはいけないんだ。お母さんは凄《すご》い速さで立ち上がってコフを叩きのめさなければならないはずだった。まだお母さんがぼくたちよりも上だということを証明してくれないといけないのだ。お母さんが一瞬でコフを地べたに叩きつけて足でも腕でもへし折ってくれれば、コフはかえってにやりと笑うはずなのだ。
「この小僧ども。わたし抜きでやろうなんてまだ十年はやいわよ」
お母さんはそう口で言うだけだ。だめだ、とぼくは思った。お母さんは先頭にたった。それでもやはりずっとお母さんの表情は冴《さ》えなかったのだ。
ぼくらがしばらく競合地域に入らない間に起きたんだろう。戦闘のあとがいくつか発見できた。お母さんはそれについて何も言わなかった。この前のひどい死体のことで分かるが、ぼくたちと違うチームがこの森に入って、敵と戦っているのだ。そうとしか考えられない。
「なぜおれたちは戦っているんだ」
お母さんがいないときにコフはみんなにそうきいたことがあった。
「そりゃあ、仕返しだ。身を守るんだよ。おれたちは親と仲間を殺された。村も壊された。いまでもすきを見せればおれたちは殺される」
とサンなどが答える。
「そんなことは当り前だ。いまさら言うようなことじゃない。それより、そのおれたちの戦いになぜお母さんは肩入れするんだ。お母さんはよその国から来たんだぜ」
「それは……。だってよう」
そんな質問に答えられる者などいやしない。答えらしいものを思い浮かべることはできないことはない。だけどそれを言えばお母さんの悪口になってしまう。
「ケイはどう思うんだよ」
とコフはぼくに言った。
「分からない」
とぼくは正直に言った。結局、お母さんを疑う果ても、お母さんとの別れとなるんだ。だれだってお母さんと別れたいなんて思うことはできないんだ。コフだってみんなに負けないくらいお母さんが好きだ。だから疑いはコフの心を苦しめるだけだ。
「おれはひたすらお母さんを信じてこのままなるようになればいいと思ってきた。だけど、もっと大事なことがあると何かがおれにささやくんだよ。くそっ」
コフはそう言って地面を蹴《け》った。
ぼくたちもそうだけどお母さんも何かをはっきり言わなければならないところまで来ていた。その時にあの戦闘が起きた。事故なんだとは思うけど、いつか起きなければならない事故だったのだ。お母さんが隠しごとさえしなけりゃ、起きずにすんだかもしれない。
ぼくたちはいつものように一匹の生き物のようなフォーメーションをとってジャングルを進んでいる。戦車やヘリの通らない見つかりにくいルートを捜すため、前には考えられなかった険しく無駄くさい迂回《うかい》をしたりしていた。道がないところを行かなければならなかったりした。お母さんはぼくたち生き物の一部にはなれなかった。つかず離れずでぼくたちの周囲のどこかにいる。それはそれでとても上手な進み方なので、ぼくたちのサポートとなりこそすれ、邪魔になるようなことなどなかった。ぼくたちが完全に一個の生き物になってしまうとお母さんの位置も頭の片隅においておくくらいのものになる。ぼくたちにはもうお母さんが必要ないというのはこういう意味では正しいのかもしれない。だけど、ぼくらがお母さんに求めているのはそういうこととはまったく違うんだ。
お母さんはまた離れたり近づいたり角度を変えてはまた近づいたり離れたりした。ぼくたちの意識にそれははっきりととらえられている。だけど、お母さんの方はどうだったのだろう。ぼくたちはお母さんの意識なんか知ることはできなかった。
そのとき敵がいることが不意にわかった。その時まで敵が近づいてくることに気づかなかった。べつにぼやっとしていたのではないのにだ。異常なことなのでシンが緊張してわざわざ指暗号を使ってぼくに確認をもとめてきたほどだった。
敵に包囲されかかっているようなのだ。その、ようなのだ、というのは問題だった。みんなからの伝達がつぎつぎに入ってくる。敵の様子も数もよく分からないという報告だ。そんな馬鹿な、とぼくは思った。よく分からないなどというあやふやな報告を報告とはいわない。そんなことはみんな分かり過ぎるほど分かっている。それなのにそんな報告をするのだから敵はとんでもなく巧妙な包囲接近をしてきたのにちがいない。こんなことは初めてだ。いままでの敵にはそんな能力も技術もなかった。そんな敵にはあったためしがなかった。いつもは敵の状況はぼくたちには手に取るように分かったものだ。ぼくたちは敵より何枚も上手だったのだ。今、ぼくたちに迫っている敵はこれまでの連中とはまったく違う、とみんなも感じ取っていた。とたんにいつもジャングルに満ちていてひどく耳ざわりなこともあるガマの鳴き声やトリのさえずる声がすっと聞こえなくなった。ぼくらの心の集中度が急にたかまったからである。
包囲されないように移動しながらたがいにしきりに指示を送り合った。一方向にするどく動いて敵の包囲の外に出て、敵を逆に包んでゆくようにしたい。その間に敵の戦力を掴《つか》む。手に負えそうになければ逃げるし、勝てそうなら攻撃することに決める。各チームから情報は入ってくるが、まだよく分からないなどと言っている。それでも敵がいて確実に包囲しつつあるということは分かるのである。見えるのではないし聞こえるのでもない。肌で分かるとしかいいようがない。これほどうまい敵にはいまだに遭遇したことがなかった。ぼくたちはほんの少し恐怖を感じはじめていた。
戦いはもうはじまっている。フォーメーションの変形が順々に自然に行われた。敵も探るようにフォーメーションを変えていることがわかる。いつもの戦いとはまるで違っていた。そういうことはもう滅多にないけど、敵が先にこちらを見つけたときは、むやみやたらに射撃をかけてくる。弾が切れるまで撃ちまくるので、木の枝葉が吹っ飛ばされて、ハゲになってしまう。敵はぼくらを恐がっているから、ちゃんと狙《ねら》わないで撃つような無駄なことばかりする。だから何とかなるのだ。反対にぼくらが先に敵を見つけたときには、静かに近づいていって殺すのである。今戦っている敵はめくら撃ちをかけてこずに、静かに近づいてきた。ぼくらがいつもやっていることだけど、やられると気味が悪いものだ。
敵が動いて、ぼくらはそれに反応して動いた。動きあいがしばらく続いた。ぼくらも敵もフォーメーションの取り合いばかりで、どちらか一方が囲んでしまうことができなかった。そのうち敵はぼくらの包囲をあきらめたらしい。次は位置《ポジション》の取り合いになった。できるだけ有利な位置でフォーメーションを組んでからぼくたちを襲ってくる。ぼくたちも敵よりいい位置を取るために目まぐるしく動いている。有利な位置取りというのは太陽を背にした位置や掩蔽《えんぺい》地形が自然にできている場所を取ることだ。でもぼくらのような戦いを得意にするなら、もっとも大事なのは敵の背面を取ることだ。必ず背面でなくとも死角から攻め込んでゆけるようにつねに考えて動くのだ。敵もその考えで動いているらしい。ぼくたちは半径一キロくらいの円の中でぐにゃぐにゃと変形しながら、円そのものを移動させていった。この位置の取り合いで息切れした方が負けることになるはずだ。がまん比べである。
ぼくたちはすごく緊張して、すごく興奮して、そしてすごくたのしがっていた。いつもの、のろまで間抜けな敵相手のときはこんな気分にはとてもなれない。戦闘ヘリや戦車なんかから逃げるときにちょっぴりこういう気分を味わうことができた。こういうのを、スリルがある、と言うんだとお母さんが前に言っていたのを思いだした。
太陽が大分かたむいている。このまま戦闘は夜に入るかもしれない。夜間ではまともな戦闘がむずかしいから、日が暮れてしまえば、闇《やみ》に隠れながら互いに離れて行くことになるかもしれない。だけどはくらはその前に戦闘をはじめて、終わらせるつもりだった。
(逃しはしないぜ)
その自信を感じながら、へんに気負って動いていた。でも相手がまだまだねばれるんなら、夜分《よるわ》けという結果になるのもしようがない。でも、今日、先にしかけてきたのは向こうのほうだ。先にやられるというのは、ぼくらのへマであり、プライドを傷つけられる。このまま終わらせるもんか、とぼくらはみんな思っている。
ぼくたち十五人は一つの生き物とお母さんに感心されたくらい、完璧《かんぺき》な連携をたもちながら移動することができる。長い時間を動いてもそうそうみだれたりはしない。それだけの訓練をかさねたし、場数をふんだのだ。まだ余裕がある。敵はどうかと見ると、少しみだれ始めたみたいだ。ちょっと離れたところの枝がガサッと音をたてて動いたり、ぬかるみに足が刺さる音がかすかに聞こえる。相手もなかなかの腕なんだけど、さすがにぼくたちにはついてこれないのだ。
戦闘が始まってどのくらい時間がすぎたのかわからない。この頃にはやっと敵の数がそう多くないこと、どういう位置とりをしているのかくらいは分かってきていた。これで七分三分くらいでぼくたちの優位が決まった。ぼくはコフとサンとヒンに攻撃をはじめるとつたえた。とくにつたえるようなことはしなくても、みんなもぼくと同じ決断をしていることが分かっていた。すべて順調だった。ただお母さんのことがぼくらの意識の内からすっぽり抜けていたのだが、それにも気がつかないほどに集中していた。ぼくたちは突然にこれまでよりさらに速い動きで位置を変えた。攻撃開始のすきをとらえたので、襲いかかるように、自然にそう反応して動いたのだ。この時点でぼくたちの勝ちは動かないはずのものだった。
そのときだ。お母さんからの伝令が走ってきた。ぼくたちは動くちょうどいいタイミングをくじかれたようになった。ほんの一瞬だけどみなの足が止まり、意識の集中がゆるんだ。
(戦っては駄目!)
お母さんの合図は悲鳴のようだった。それにしつこかった。だいぶ前からその命令をぼくたちに放っていたらしい。ぼくたちはお母さんを意識の外に置いておいたから、それにまったく気がつかなかった。お母さんはずいぶん無茶な真似《まね》をして、ぼくたちのフォーメーションの真ん中に飛び込んできた。そしてぼくらを止めたのである。だけど、ここで攻撃をやめるわけにいかないことはお母さんほどの戦闘のセンスの持ち主ならはっきり分かっているに違いないのだ。戦うのをやめるわけにはいかない。ここでぼくらが止まれば敵はすかさずすっと入り込んでくる。それを許せば今度はぼくたちが危なくなる。
お母さんが二度目に暗号を使って、
(戦闘停止)
とつたえて来た。ぼくらは完全に気をそがれて、機を失ってしまった。
(そんなばかな)
と、みんなはびっくりしたというより、腹を立てていたはずだ。その馬鹿げたすきを、当り前だけど敵は逃がさなかった。右方にいたサンのチームに敵がたかり、応じて戦闘に入った。こうなってはいくらお母さんの命令でも聞いちゃいられない。敵よりも一瞬も二瞬も遅れて、ぼくたちは反撃を開始しなければならなくなったのだ。
お母さんは真っ青になっていた。ぐっと唇を噛《か》みしめて、攻撃の合図をした。なんの意味もない間の抜けた指示だった。長いこと一緒に戦ってきたけど、お母さんがこんなひどいミスをしたのは初めてだ。ぼくらを邪魔したとしか思えないようなお母さんの動きだった。ぼくはもうお母さんのことを意識から追い出した。はやく位置を逆転して反撃すべきだ。戦いを早く終わらせることだけしか考えてはいけない。
ぼくと四人が素早く移動した。戦闘を始めたサンのチームを後ろから襲おうと動いている敵をその後ろから攻撃するのである。敵はガンを使用していなかった。破裂音がしない。そこでショウが、
(使う武器は何か)
ときいてきた。いまみんなが装備している武器はニードルガンと拳銃《けんじゅう》である。敵は近接格闘に入ってきている。混戦になりそうだった。撃てば仲間に当るかも知れないということだ。ぼくは基本的にはナイフを使い、敵がガンを持ちだすようなら同士討ちをかくごして撃ち潰《つぶ》すようにしようと思った。ぼくたちはごく簡単なやりとりでそれを了解し合った。ちらりと後ろを見るとお母さんが気を取り直して、
(考えがある)
と伝えてぼくのチームの側面から外れた。
ぼくたちも敵とぶつかっていった。敵も飛び道具をひかえる作戦のようだった。敵も接近戦が得意のようだった。ぼくらに似ている。意識が戦闘に集中しているぼくらはそれを不思議と考えるようなこともしない。ぼくらはすでに先手を取られて苦しいところにある。これは大きなミスである。このまま挽回《ばんかい》できなければぼくらは皆殺しにされるだろう。ぼくらはもう一つの生き物として動くことができなくなっていた。お母さんの不注意な指示のせいで、三つ四つの小チームに分裂させられてしまっていた。ぼくらの力はいつもの半分以下になっていたろう。とにかく敵を一人ずつでも減らしていかなければならない。格闘中に敵に背中を見せないように気をつける。根本的なことを一人一人が確実におこなうしかなかった。
ぼくは悲鳴をあげたくなるのをこらえて動いた。枝と枝の陰に何か動いたので夢中で飛びかかった。矢が股《また》の間をすり抜けていった。きんたまが縮みあがって、小便をちびりそうになった。さっきまでの余裕はぜんぜんなかった。敵は恐ろしく素早く強いやつだった。からだは小さかった。最初は敵はぼく一人に二人がかりでこようとしていた。正しいやり方だ。危ないところで一人のほうをショウがカットしてくれた。
ひゅっと、光るものが敵の背中からのびてきた。ナイフだろう。一瞬早く、ぼくの手が相手の髪の毛を掴んでいたことが勝ちにつながった。ぼくは髪の毛を思いきり引き下げながら膝《ひざ》を顔に入れた。同時にぼくも敵の流れたナイフに肩口をえぐられていた。前に敵に撃たれたところと同じ場所だった。構うひまはなかった。膝には鼻が潰れたやわらかい感触があった。ぼくは掴んだままの髪の毛を引き寄せて、敵をもっと前かがみにさせた。腕をすばやく回して背中から腎臓《じんぞう》のあたりにナイフを入れた。少し角度が悪かったので刃が肋骨《ろっこつ》に当ってゴツと手応えがあった。でも、それで終わりだった。敵のからだがビクッとけいれんして、力が抜けていった。待たずにぼくは飛び離れていた。
近くで銃声がひびいた。どちらの発砲かは分からないが、ぼくたちはさっと身を低くしている。フォーメーションを縮めてゆく。ショウも一人殺すことができたようだけど、顔を血だらけにしている。切られたのか返り血なのかどちらなのかは分からない。ショウはぼくの後ろを追い走ってくる。もう近接戦はおわりだとぼくは自然に判断して、ニードルガンを腰にためている。
でも、もう必要はなかった。戦闘は終わっていた。みんなは油断なく散って、あたりを警戒していた。荒い呼吸を殺していた。ぼくたちの腕の方がかなり敵を上回っていたのだ。非常に不利な形で戦いが始まったのに、なんとか勝つことができていた。運がよかったのかもしれない。ぼくもようやく人の顔が見えるくらいに落ち着いてきた。日が暮れかかってだいぶ見にくくなってきていたけど。
だいぶたって落ち着いてから、ぼくは死んでいる敵の姿をよーく見ることができた。見たぼくはがく然とした。敵はぼくと同じ年かっこうで肌の色も同じだった。着ている草色のシャツもだいたい同じだった。持っている武器も変わらなかった。だけど違うのは身体つきがどこか細くて、黒い髪の毛もぼくらより少し長い。からだから立ちのぼる血や汗のにおいもぼくたちとは少し違っていた。敵たちは女の子だった。髪の毛を掴みやすかったのは女の子だったからだろうか。戦士には髪の毛なんか要らないのでぼくたちは短く刈ってもらっているけど、お母さんは長いままにしている。お母さんは女だからだ。この子たちも女だから少しでも長くと髪をのばしていたんだ。ぼくは口がきけなくなった。
ぼくにはずいぶん前に離れ離れになってしまった妹がいた。とっくに忘れていたことを今突然に思い出した。ここではくらが殺した中に妹がいるんじゃないかと思い、からだがふるえだした。ぼくの背筋はふるえてこわばって、うまく動かなくなった。一つ一つの死体の顔をのぞきこみたくなった。だけど、とてもできなかった。
コフが現れた。シャツが返り血と泥で汚れていた。コフの横にいたブンが腕にサンを抱いてた。サンは目をひらいたまま、目の玉はじっと上をいつまでも見つめている。口からつつと血がこぼれていった。腕と腹は真っ赤で、ぶらぶらしている腕からまだ血がだらだらと流れ落ちていた。ぼくたちのチームに初めての戦死者が出たのである。
「おれたちは同じこの土地のもんと戦っていたんだ。それも女だ!」
コフはうめくように言った。これがお母さんが言ってた「仲間の部隊」じゃないんだろうか。戦い方もぼくらととても似ていた。いまごろそのことの意味が分かってきていた。お母さんははやくにそれに気づいていたのだ。だから、止めた。だけど、もしぼくらが止まっていたらこの女の戦士たちにぼくらの方が一方的にやられていたことも事実なんだ。この女の子たちは本気でぼくらを殺しにきていた。ぼくらもぶざまに敵から逃げるような弱虫ではない。どちらも目が見えなくなっていた。戦うしかほかに方法はなかったんだ。
「お母さんは?」
とぼくははっとして言った。ぼくはあわててまわりに目をやった。
「お母さん!」
お母さんは茂みをかきわけて、幽霊のように現れた。
「いなかったわ」
とお母さんは弱々しく言った。
「だれが?」
とぼくはきいた。
「この子たちのお父さんよ。女の部隊は母親じゃなくて父親が指導するわ。ひどい父親もいたものね。自分は安全なところにいてこの子たちだけを戦闘にだしていたのよ……」
お母さんは最初にぼくたちの敵の正体に気がついて、それで相手のお母さん(お父さんだったが)を捜しにいったのだ。あの子たちのお父さんと早く連絡が取れていれば、同時くらいに戦闘停止の伝令がつたわって、こんな殺しあいにならずに済ませることができたかもしれなかった。それがお母さんの考えだった。
お母さんはサンの死体をブンから奪い取るようにした。そして抱きしめた。サンの口から最後の息が、ひー、と音をたててもれていった。
「サン、死んだのね」
とお母さんはみょうに高い声で言った。ぼくたちはみんな知らないうちに泣いていた。
「移動するぞ」
コフが言った。いつまでもここにいては危険なことはわかっているけれど、だれも言い出せなかった。コフはそれを恐い顔で言った。威厳のある大きな男にコフはなっていた。
「母さん、いつまで座り込んでるんだ」
コフはお母さんからサンを取り上げた。コフはサンを背負ってロープでくくった。お母さんはそれを疲れた人のように見ていた。こんな疲れた顔のお母さんを初めて見た。
「ほら」
とぼくはお母さんの肩を叩いた。
「行くぜ」
お母さんはうなずいて立った。力のないお母さんがなんかただの人のように見えた。とても戦闘なんか向いていないただの女にしか見えなかった。お母さんがただの女に変わるところなんかぼくは見たくなかった。みんなもそうだろう。それはとてつもなくよくない事であるとぼくは思った。ぼくらはいつかお母さんを守ってやれるくらいに強くなろうと思って一生懸命にやってきた。だけどお母さんはいくらぼくたちが強くなろうが、守られる側に回るような弱い人ではないとも思ってきたんだ。今お母さんは疲れ切って、とても弱くなっているように見えた。力のないお母さんが、これからもぼくらのお母さんで有り得るだろうか。それは考えただけでも恐ろしいことだった。
「許さないかもしれないぜ」
とコフはお母さんに言った。ぼくはその言葉にすごく反発をおぼえた。お母さんに対して言うような言葉じゃない。コフへの文句がつい口から出そうになった。でも出なかった。ぼくも今のコフに逆らう理由が考えられなかった。みんなを言いようのないショックがおおっていた。この戦闘は決定的だった。
あたりはもう暗くなっていた。女の子たちの死体をこのまま放ってゆくのは辛かった。でも早くこの危険な場所から離れなければならなかった。敵の部隊がこの戦闘に気づいて迫っているかもしれない。敵は夜は暗視装置をつけていることが多い。さすがのぼくたちも暗闇の中で暗視装置をつけて、目が利くようになった敵を相手にするのはきつい。あの子たちとならんで死体にされてしまう。
ぼくたちは夜間用の慎重なフォーメーションを組んだ。ちょっと進んだだけでも、サンのポジションがひどい穴になっていることが分かった。本当に痛みを感じるくらいわかった。生き物の一部が死んだのだから当り前なのかもしれない。お母さんをラインの真ん中において進んでいる。それだとお母さんはまるで捕虜のような感じだった。サンを背負ったコフが先頭をゆき、ぼくが一番うしろを守りながら進んだ。
ぼくたちが中立地域にたどりついたときはもう夜明け近くになっていた。みんなへとへとになっていた。中立地域に踏み込んで安全な場所を確保すると、みんな今度こそ本気で泣いた。そのあとみんなでサンを埋めた。ぼくたちは十四人になってしまったのだ。なんだか急に心細くなった。
その翌日からぼくらとお母さんはずっと気まずかった。ぼくらも口をきかないし、お母さんも何も言わない。コフなどはお母さんにきつい目つきを何度も向けた。
みんないらいらしていた。ぼくだってそうだ。雨季が近づいていて蒸し暑くてしかたがない上に、ぼくたちとお母さんは気まずく黙ったままだ。じめじめして嫌な気分だ。こんな状態が続けばぼくらはそのうちきちがいになってしまう。がまんの限界が来そうになったころ、コフが立ち上がった。
「戦闘にいく」
といった。皆はそれを聞いてまったくほっとしたような顔になった。みんな賛成しているのだ。そしてお母さんのほうを見た。お母さんはぼくらの目を受けると、首を振った。お母さんは出撃には「反対」だ。コフはお母さんを無視した。武器の点検をしてからだにつけていった。みなもそうした。戦ってでもいなければからだも頭も腐ってしまう。こうするより他はない。ぼくは枝を組んで草を編んで作ったテントを出ると、お母さんに、
「いってくる」
と声をかけた。お母さんはくらい声で、
「やめなさい」
といった。ぼくはそのまま外に出た。帰ってきた時にはお母さんはいなくなっているかもしれないと思った。でもしばらく進んでいると後ろからお母さんがついてきているのが分かった。ぼくはみょうにほっとしていた。
チームのリーダーは完全にコフだ。みんなはコフの命令を待った。お母さんも黙ってコフに従って動いていた。重苦しく嫌な行軍になった。こういうときにかぎって、なかなか敵に遭遇しないものなんだ。
後で考えればこの行軍は無謀だった。コフはリーダーだけど、まだまだお母さんがこれまで果たしていた役割まで背負えるほどにはなっていない。それにもともとコフはリーダーとしては慎重さを欠くところがある。さらにみんなの精神状態がひどく悪いこともあった。やはりお母さんが止めたようにこの侵入はやってはいけなかったのだ。だけどやらずにはいられなかった。仕方がなかった。
今のようなみんなの心がばらばらに近い状態でいつものような連携のとれた動きをするのは無理だ。みんなはサンの死のショックとお母さんにたいする不信感で、どうしようもなく混乱したやり場のない息苦しい気持ちになっていた。敵を相手にして、命がけで動いてでもいなければ、心がどうにかなってしまいそうだ。命の危険よりもそっちのほうがいまは重要なのだ。みんなだってこんな状態でまともな働きはできないだろうと思っていたに違いない。でも嫌な気分でじっとしているのは我慢がならないんだ。
日が暮れる時間が近づいてきた。やみくもに歩き回るのに嫌気がさしていた。コフはちっと唾《つば》を吐きながら引き返す合図をした。お母さんは何も言わない。以前だったら行軍中に唾を吐くような真似をしたらひっぱたかれていた。今はだれもそれを気にとめない。迂回して帰るのが面倒だったから、まっすぐ進んだ。太陽に向かって進むような馬鹿げたこともしていた。みんな疲れてだらけきっている。叱《しか》る人がいないとぼくらでもこうなってしまうのだ。そんな悪い時に敵と遭遇してしまった。
とくに何でもない敵だった。十分に使えもしないのにからだ中にやたらに武器をたくさんぶらさげていて、動きが鈍く、ちゃらちゃら音を立てて進んで平気でいられる馬鹿な奴らだった。本式の戦闘員じゃなくてパトロールの隊のようで、数もそれほどではなかった。この時、ぼくらはその連中よりももっと間抜けになり下がっていた。敵が近くにいるのに気がつかなかった。ずいぶん接近して、気がついた時はただあわててしまっていた。フォーメーションなんかも滅茶苦茶《めちゃくちゃ》だった。連携だって声に出して近くのやつをののしりたくなるほど悪かった。そう言っているぼくの動きだって、どうしようもないクソみたいな動きになっていたろう。そのまま戦いになった。ぼくたちはチームで動いているように見えるけど、もう一つの生き物ではなくなっていた。それどころか一人一人が単独行動しているような調子だった。敵はあたりかまわずにフルオート射撃を加えてきた。いつものことで、敵が恐がっていて射撃もでたらめだったのが救いだった。でもカミナリがいっぺんに何百も落ちてきたようなすごい音がぼくらを震えさせた。耳がきこえなくなった。熱いものがからだのすれすれをどんどんとんでいった。木のくずや土がびしびし跳ねて落ちてきた。いくらぼくらでもこれでは動きがとれない。敵はたくさん弾を持って歩いているから、なかなか途切れない。どんどん怪我《けが》をふやしてゆくみんなを見ているしかない。ぼくは太い木にしがみついて這《は》いつくばっていた。それで振り向いてお母さんを見ようとした。お母さんはぼくたちの動きが致命的に鈍いことを当然知っていただろう。だけど何もできなかった。今もただおろおろしていた。以前ならぼくらを叱り飛ばしててきぱきと命令を下しただろう。いまお母さんにはその力がなかった。この前の戦闘とサンの死はお母さんにとってもすごいショックだったのだ。お母さんは泣きそうな顔でぼくたちのまずい戦いを見ていた。お母さんは実戦に参加することもできなかった。てんでんばらばらの危ない戦闘を行っているぼくらの中に入ってくる気力がなかったのかもしれない。
ぼくたちはやや暗くなってからやっと動き始めた。反撃を食わせたいとこだけど、こんな状態ではとても無理だ。逃げるだけで精一杯だった。敵は必ず仲間を呼んでくるだろうし、戦闘ヘリにでも出てこられたらぼくらはこの場で黒コゲのひき肉にされてしまう。ぼくは近くに伏せていたブンとサイに逃げる合図をした。手も指も見えにくくなっている。一つの生き物でないぼくらは黙って意思を通じることができなくなっていた。
ぼくたちは弾をくらって動けなくなっていたセンとイウを引きずって四つん這いで進んだ。コフたちとも合流した。敵のガンが途切れるとさっと立って走った。射撃音がまた始まるとばっと伏せた。これを繰り返した。コフがセンを背負いぼくとショウはイウを抱えて進んでいる。フォーメーション的には最悪の形で動いていた。コフは心の中のことがもろに顔に出る。はげしく後悔しているようだった。どうしようか、とリーダーのくせに迷っているのだ。このフォーメーションで進んでいて、もし新手《あらて》に遭遇したらどうなるか、考えなくても分かった。イウはかろうじて元気で少しは戦えそうだが、センはむずかしい。センは目を閉じてだらだらと汗を流している。小便も漏らしてコフのシャツとズボンをぬらしている。ぼくにも、もちろんコフにも分かっていた。こういう場合にはセンは捨てなければならない。遭遇した敵が優勢だったらイウだって捨てて逃げなければ仕方のないところだ。センを捨てるかどうかリーダーのコフは決断を下さなければならない。しかし、コフの顔は迷っているだけだ。
もしお母さんならこんな場合にはためらいなくセンを捨てるだろう。お母さんはりんとしてその命令を下すだろう。そしてセンもお母さんのそのつらい命令を少しも恨んだりはしないだろう。ぼくらはお母さんのために生き死にできたんだから。だけど今はお母さんにはその力はない。気力がないのだ。お母さんはこの危険な状況に何も口をはさまなかった。ぼくは本当は期待していた。危険な状況になったら、お母さんはいつものお母さんに戻り、イニシアチブを取りぼくらにびしびし命令を下すに違いないと。コフにもぼくにもこの状況で指揮をとるにはあきらかに力が足りなかった。いまコフの迷いを取ってやり、ぼくたちを救えるのはお母さんだけだ。だけどそれはぼくの期待にすぎなかった。お母さんはしおれてぼくたちの最後尾をついてくるだけだった。
悪いことはいっぺんに重なる。待っていたように悪運がやってきた。前方にいた敵の部隊にぶちあたった。三十人くらいいるようだ。支配地域までもう少しという地点だった。運が悪いのではないのかもしれない。うかつなだけだ。ふだんのぼくらのチームの能力ならば、そんな三十人もの集団がいるのなら、一キロ以上前からとっくに察知できている。迂回して背後をとるなり、隠れてやり過ごすなり自由自在のはずだ。つねにこちらのペースで戦えるというのは察知の能力にかかっているのだ。
ぼくたちはさっき以上に苦しい戦闘を始めなければならなかった。敵のほうがぼくらを早く発見して先制攻撃に入ったんだからたまらなかった。敵は幅を取って散り、まず無闇にガンを撃ち始めた。敵が恐がっているのはぼくらが接近して襲ってくることだ。それを防ぐには弾やビーム弾をできるだけたくさんばらまくことだ。そのすきに連絡を取り、味方を呼び寄せぼくらを本格的に包囲してしまう。戦闘ヘリや戦車車両を呼ぶかもしれない。もうしばらく前から敵の方針はそうなっていた。だからこそぼくらは敵よりも何倍も早く見つけて、早く動いて、早く殺してしまわないといけないのだ。そうしなければ装備が貧弱なぼくらはあっと言う間に片付けられる。それで終わりになるんだ。
ぼくたちは虫みたいに地面にはりつき、木の幹にしがみついていた。ニードルガンや手榴弾《しゅりゅうだん》ていどじゃ応戦なんかできやしない。滅茶苦茶に弾が飛んでくるのだ。一ミリも動けない状態が続いた。あたりの空気はやたらに焦げ臭く、火薬臭かった。血のにおいも少し混じっていた。ぼくは冷や汗も止まり、からだが固くなって、しびれていくような気がしてきた。今度こそやられる、とぼくは覚悟した。情けないことに口惜《くや》しい気持ちもわいてこない。みんな、恐ろしくて、しびれ切っていたからだ。
その時だった。散開して弾をばらまいていた敵の真ん中で爆発が起きた。つづいて同じ地点に爆発がおき、今度は少し違う位置で爆発が起き、迫撃砲の擲弾《てきだん》か手榴弾の爆発のようだった。一瞬、敵の射撃が止まった。ぼくたちは身を起こして走った。本能的とでも言うものだろう。もちろん敵に向かってではなかった。逃げ出したのである。敵はあわてたように手榴弾が飛んで来た方角にガンを向ける。一部はぼくらにも再び弾を浴びせてきた。ぼくはただひたすら逃げた。そして、あたりが真っ暗になって敵があきらめたと分かるまで、泥沼にからだを入れて隠れたり、うじむしのように地面にへばって、のろのろと進んだ。この日の敵は暗視装置を持っていて、かなりしつこかった。ぼくはこの時、仲間のこともそしてお母さんのこともきれいに忘れてしまっていた。
支配地域の集合地点にたどりついた時はもう夜が明けかけていた。首も肩も腕も足もがちがちに凝っていて、少し眠ろうとしたけどどうしても眠れなかった。息をするのも苦しいほど疲れていた。そのうちみんながばらばらにぽつりぽつり戻ってきた。どれもこれも死にそうな顔つきになっていた。何人かはかなりひどい怪我をしていて、すぐに手当をしなければまずいことになる。だけど、みんな疲れ切っていて、仲間の手当にまで気が回らなかった。ぼくだって弾が何発かかすっていて肉が見えるほどの傷ができている。肩の傷もまた割れて血が出ているようだ。早く消毒しておかないとあとで化膿《かのう》してひどいことになるだろう。でも今はその気力がない。
支配地域だからといって完全に安全というわけではない。敵が強行偵察に来ることもあるからだ。だから本当ならば今みたいにだらしなく休んでいてはよくない。お母さんがここにいればみんなをぶん殴って回ってしゃっきりさせて、五人一組くらいで警戒させて順番に休ませただろう。それは分かっている。だれかがそうさせなければならない。でもだれもお母さんではない。ぼくもお母さんじゃない。できやしなかった。
コフがぜいぜいと息をしながら現れた。泥まみれでぼろぼろだった。木の幹を背にしてずるずると座りこんでしまった。コフの背中にはセンはいなかった。結局、コフは逃げるときにセンを捨ててしまったんだろう。センを捨てたからといって、ぼくにもだれにもコフを責めることはできはしない。イウは何とか生きてたどり着けたようだ。だけど、右腕がちぎれかかっていた。縄でギリギリに縛《しば》りつけた傷口からどす黒い赤い部分が見えている。イウはあお向けになって目を閉じた。呻《うめ》き声が出るのを木の枝を噛んで必死にこらえている。熱が出ているのに顔色はひどく青白く見えた。
昼近くになって、やっとぼくたちは口がきけるようになった。見回すとセン以外のものはなんとかここまで逃げのびてきていた。ただお母さんが見あたらない。
「母さんがいない。だれか見なかったか?」
とシュンがみんなにきいた。
「知るかよ」
とコフがいった。
「おれたちがひどい目に遭っていたのに、助けてくれもしなかったじゃねえか。やっぱりあの女は裏切り者だ。センが死んだのもあいつのせいだ」
コフはそうわめいた。コフが本気でそう言っているとは思わなかった。コフの痛みが分かるだけだ。そうでも言わなければリーダーとしてあまりに無用心で不手際すぎたコフは救われない。コフも泣く泣くセンを背中から降ろしたのだろう。コフだって助けたかったに違いない。そのことがコフにさらに重くのしかかっているのだ。離れた場所にいたシンが言った。
「そんなこと言うな。コフ。おれは見てた。おれたちこれで終わりというときに爆弾が飛んできただろう。あれはお母さんがやったんだ。お母さんだけは冷静だったんだよ。おれたちがうじむしみたいにはいつくばっていたとき、お母さんは擲弾筒をかかえて敵の横面にまわりこんだんだ。あんな、弾が滅茶苦茶に飛んでくる中でそれだけの動きをしていたんだ。おれたちにはとても真似できない」
「おれもちらっと見た」
とヒャウが言った。
「お前ら、あんな女をかばうのかよ」
とコフがほえた。みんなは疲れ切った表情だったけど、コフに怒りをあらわにした。
「昨日はコフ、お前がリーダーで出かけたんだ。お母さんのせいにするんじゃねえよ」
「なんだと!」
コフが立ち上がった。ヒャウも立った。仲間うちで戦いを始めかねない雲ゆきとなった。負けた上に疲れ切ったときは精神的に危険がある。こんな時こそリーダーはリーダーらしくならなければならない。リーダーはいつもよりよほど慎重にして強がらないといけない、とお母さんは教えた。まだコフには無理だった。ぼくらみんなまだ無理だった。ぼくは腕の傷に唾《つば》をすりこみながら怒鳴り合いを聞いていた。こんな言い争いでぼくらが駄目になるなんてばかげている。
「だれもコフを責めてやしない。責められもしないしな。それに、こんなときにお母さんの悪口を言ったってはじまらないだろう」
とぼくは言った。
「じゃあ、なんだよ」
ぼくは立ち上がった。左の膝とかかとがぐぎっといって痛んだ。逃げる時にいろんなところを痛めてしまっていた。ぼくはコフに向かってゆっくりと言った。
「けんかなんか後でいい。おれはお母さんが心配だ。迎えにいってくる」
何人かが、おれも行くよ、と言って立った。
「無駄だ。あいつ、どうせ死んでらあ」
とコフは叫んだ。コフがこっちに来ようとして前のめりにころんだ。その時になってコフの内腿が血で染まっていることに気がついた。
「コフは待っていろ」
とぼくは言った。
ぼくは再び中立地域に入ろうとした。木々の向こうに、あっちからかきわけて歩いてくる人影が見えた。ぼくは反射的にガンを構えた。影はよろよろふらふらして歩いてきた。待った。影はお母さんだった。ぼくはほっとして、お母さんに歩み寄った。お母さんは腕にセンを抱いていた。センはもう死体になっていた。お母さんも傷だらけだった。お母さんも顔のどこかに傷があるのだろう。顔の半分に乾いた血糊《ちのり》がこびりついている。服がひどく裂けてぼろぼろだった。裂け目から肌が見えているのに目がいった。白くてきれいなはずの肌は血と泥の色になっていた。お母さんはぼくにセンの身体をあずけた。そしてひと言、
「ゴッド」
と言った。お母さんはふらふらとみんなの前まで歩いて行った。みんなの一人一人の顔を確認しているようだった。そして、ふらっと倒れた。顔から泥水に突っ込んだので、ブンとサクがあわててあお向けにした。
ぼくたちはわずかの間にサンとセンの二人の兄弟をうしなった。さらにイウの腕は悪化し壊症《えそ》の状態にあった。お母さんは焚火《たきび》でナイフをあぶって、赤い目をしてイウの腕を切りおとした。
動かすことができないほどイウはひどかった。お母さんは眠りもせずにイウの看病を続けた。
「医者を呼ぶ。手術しなきゃ死ぬ」
お母さんはぼくたちには動くなと言った。そして支配地域の奥に入っていった。どこに行くのか分からなかった。だけどしばらくするとお母さんは紙の箱を二つくらい抱えて帰ってきた。箱をあけるとクスリや手当ての道具がつまっていた。お母さんはそれでイウに注射したり、クスリを飲ませたりした。ぼくらも同時にいろんなクスリを飲まされたり、塗られたり、注射された。
それでもイウは意識がなくなった。もううわごとも言わなくなった。
「畜生! 軍医の野郎ふざけやがって! なんで来ないのよっ! 間に合わないじゃない」
とお母さんは言った。お母さんは本気で怒っていて、恐いくらいだった。そして呪《のろ》うように空を見上げた。はっきりとは分からないけど、お母さんはだれかを呼んで、それを待っているみたいだった。だけどだれも来なかった。だれが来るというんだろう。お母さんの「仲間」とかいう奴だろうか。
その夜明けにイウは死んだ。最後に聞き取りにくい声で、
「おかあさん」
と言った。そして息が絶えた。
ぼくたちはとうとう十二人になった。
6
ずっと雨がつづいている。雨は一度ふりだすとながくつづく。毎年そうだ。いつも歩いていた道が川に変わる。ヘビとか虫とか日ごろ土に潜って生きているやつらが浮いて、くにゃくにゃと動きながら流れていく。ぼくらだって注意しないと泥水に飲みこまれて、流されてしまうのだから、笑って見ているわけにはいかない。雨季の時のための場所はいくつか確保してあった。ぼくらは天気の具合を見て、そこを移り住んでゆくのだ。キャンプは木や水草でカムフラージュしているからよほど念入りに捜されないかぎりは見つからない。食べ物は流れてくるヘビとかガマとかネズミを取って食べるからそう困らない。気をつけないといけないのは病気だ。この時期は水の病気にかかりやすくなる。
競合地域も水びたしだから、敵との戦闘もお休みになる。ぼくは敵が泳いででも来てくれればいいのにと願っている。そうすればぼくたちも川のような泥水に飛び込んで、喜んで相手をするのだ。雨は何日かつづいてやみ、また、降りだして何日かつづく。それが何回か繰り返されると雨季がおわる。ぼくが生まれたころからそう決まっている。だからぼくは雨季が嫌いなわけじゃなかった。でも、今年の雨は嫌で嫌でしょうがない。目の前の流れに飛び込んで、どっかに流されて、溺《おぼ》れて、死んだりしたほうがましなような気分だ。それほど気分が悪い。
これまでは雨季は楽しかったのだ。去年もその前のとしも雨季が楽しかった。待ち遠しく思っていたくらいだ。お母さんと一緒になってからは、雨季はすごく楽しい休みの時間になっていたんだ。雨で戦闘行軍に出れないぶん、お母さんと長い時間一緒にいられた。戦いがないから、からだがなまって動かしたくて仕方がなくなるんだけれど、それもお母さんと一緒にいられるから我慢ができた。雨季にはお母さんは戦闘のことにかぎらない、いろいろな話を聞かせてくれたものだ。雨季のたびにぼくたちはお母さんの知識をおしえてもらい、自然にことばをたくさんおぼえていた。お母さんは物知りだ。この空の上の上の方にある宇宙のことまで話してくれたりした。敵と戦って殺すのはぼくたちの生き甲斐《がい》で、もう、楽しみ以上の仕事になっていた。だけどお母さんが話してくれるいろんな世界の話はそれをちょっとの間だけでも忘れさせるくらいに面白かったりする。それはとても楽しかった。だけどそれも去年までのことだ。
お母さんは膝《ひざ》を両手で抱えてすわったままだ。何も話してくれない。ぼくらもお母さんに何か聞こうとしたりもしない。みんな黙りこくって、ぼーっとそのあたりを眺めている。そしてだれかが思い切って口を開くと、べつにたいしたことを言うわけでもないのに、すぐけんかになってしまう。殴りあいになることも多い。だからもうだれも口を開こうとしない。ぼくなんかはけんかをする気も起きない。心もからだもぼーっとして、疲れたような感じがする。落ちてきたヒルがのんびりと腕を食って離れてゆくまでじーっと見たりしている。情けないという気持ちもあまりない。
こういう時、ぼくは敵に攻めてきて欲しいと心底おもった。ヘリかなんかで来れば、雨だって関係ないじゃないかと思う。お母さんの話によれば戦闘ヘリは小さな動物の体温くらい楽に察知するセンサーを持っているらしい。それでうまいことぼくらの体温をキャッチしてこのあたりに弾をばらまいていって欲しいものだ。ぼくらは雨と泥水の中を必死で泳いで逃げなければならない。こんな状態では皆殺しにされる可能性がとてもたかい。こんなことを言うとぼくが死にたがっているように聞こえるかもしれない。少しちがう。死にたがるなんてあるはずがない。戦闘でなら死んでもいいかな、と思っているだけだ。もし本当に戦闘ヘリが来るのならやられても仕方がないけど、ぼくらだって撃ち落とすくらいはやっているはずだから、ただ殺されるわけじゃない。
でもこんなことをぼーっと考えてるのはやはり死にたがっているということは少しあるのかもしれない。雨季が終われば、またぼくらはジャングルをうろつくことになるだろう。でも、もう前みたいに敵に勝ち続けられるとはとても思えない。ぼくらは三人が死んで片足をもがれたようなものだ。そしてお母さんに捨てられるからだ。ぼくは何度かお母さんに話しかけようとした。お母さんもうつろな疲れたような横顔を見せていた。だけど、できなかった。ぼくは本当は何も知らないということに気がついた。何も知らされていないということにも気がついた。雨の音がけっこうやかましくて、眠れない日がつづいた。
ジャングルから水が引いて、やっと自由に動けるようになった。暗い雲もきれた。雨季が過ぎようとしている。
これからどうすればいいか分からないのでみんなは目をぎらぎらさせている。もちろん、お母さんを見ているのだ。お母さんは怒ってもいないし、笑ってもいない。何も言わない。無口に何か考えているみたいだ。ぼくらのまわりからある程度水が引いてゆくまで、不安であせった時間ばかりだった。
そんなある日、急にお母さんが立ち上がったので、みんなはぎょっとして身構えた。お母さんは腕を頭の上に組んでぐっと伸びをした。そして雨用の隠れ家から抜け出す。ばしゃっと音をたてて飛び降り歩き始めた。地面はひどくぬかるから、お母さんの足はすねのあたりまで泥に隠れた。ぼくはお母さんを追いかけるために立ち上がった。するとコフもみんなも次々に立った。お母さんが振り向いた。
「いいわよ。ついていらっしゃい」
と言った。
お母さんは支配地域のかなり奥のほうまでどんどん進んでいった。一日の距離だったけど、こっちの方にはあまり来たことがなかった。一本、凄《すご》く太くて高い木があった。お母さんは靴の泥をよくぬぐい落としてから木にのぼった。それをぼくらはじっと見あげている。木のうろの中に隠してあった。お母さんはしっかりとビニールに包まれた四角い機械を持っていた。そして枝にまたがって、幹を背にした。ビニールを取ると、お母さんは機械をいじりはじめた。ぼくたちは下から見ているだけだから何をしているのかよく分からない。機械についたボタンを押しているように見えた。敵が持っている通信機よりも少し大きめだけど、あれも通信機なのに違いないと推測した。「仲間」とかにあれで連絡しているのだろうか。これは想像だ。お母さんが時々出かけていって、どこからかクスリや武器を調達してきていたけど、あれはこんなふうにどこかに隠してあったものなのではないんだろうか。それとも、今みたいに仲間に連絡すると届けてくれるのかもしれない。敵はそうしていた。お母さんも同じように仲間を呼ぶのかもしれないじゃないか。
機械をいじるのをしばらくつづけた後、お母さんは急に笑い出した。お母さんはかなり長い時間、笑っていた。ぼくたちはあきれたように見あげているだけだ。ぼくはお母さんが笑いながら泣いていることに気がついた。落ちてくるのは葉っぱに残っているしずくじゃなかった。お母さんはぽいっと機械を放《ほう》った。サクがあわててよけた。けっこう重そうなものだった。機械は、泥にずぼっと音を立てて埋まった。泥がはねてぼくの顔にもかかった。シンが掘り出そうとした。
「ほうっておきなさい。そんなものジャングルの中にいくつでも隠してあるんだから。それは、もういらない」
お母さんはそう言うと、するすると降りてきた。コフがくせになっているような目でお母さんをにらみつけた。お母さんはコフをにらみ返さずに、
「撤収命令。地点、5278、2366、2―5」
と言った。何のことだかさっぱりわからない。
「その上、証拠となるようなものはすべて消去するんですって。あんたたちも証拠の一つよ。敵に捕まれば証人にされるものね。ご丁寧に最終作戦の企画まで出ているわ……」
お母さんはまたくすくす笑った。でも、うれしいから笑っているというのではなかった。
「どういう意味だよ。一人でにやけやがって」
コフが言った。
「いい? 結局、わたしも甘ちゃんだったってことよ。畜生。こんなことなら」
お母さんは歩き始めた。
「どこへ行くんだ?」
とぼくがきいた。
「決着をつけるのよ。あんたたちと」
「決着だって」
「おわりにするか、それとも……」
お母さんはそう言った。
「いずれにしてもうっとうしいことはもうおしまい」
なんだか声がふるえているようだった。
またしばらく歩いてもと来た方向へもどった。夜は休んで、また歩き始める。戦闘目的でない行軍だ。ぼくたちはかたまって油断だらけで進んでいる。お母さんについていくしか今のところ考えが浮かばない。とにかく黙って歩く。道が雨季の後だから道でなくなっている。移動にはいつもの倍以上の時間と体力がいった。そのうちにぱっと明るいところに出た。ジャングルは木枝のためにいつも暗い。だからぼくたちには闘いやすいということもある。ジャングルにもたまには木々の切れた広い場所がある。ここがお母さんの目的地だった。
「この辺はもう大丈夫のようね」
お母さんはどしどしと地面を踏みつけた。そのちょっとした広場は、もうだいぶ乾いていて、草も立ちあがり始めていた。この場所はおぼえている。ぼくらがお母さんと暮らし始めた頃、ここでよく近接格闘の訓練をおこなったところだ。まだところどころに水たまりが残っているので、足をすべらさないように用心しないといけない。
みんなは変な顔をしてお母さんを見ていた。お母さんを疑っている目だ。それ以上にからだ中に不安がつまっていた。お母さんがふりかえった。
「ケイ、コフ、シュン、3チームに分かれて近辺を偵察警戒してきなさい。安全の確認がとれたら、この空き地を囲むようにトラップを仕掛けること。しばらく誰も近づけないようにしてきなさい」
ぼくらは動かなかった。
「実行しなさい」
コフが、けっ、と唾《つば》を吐いた。
「いまさら何のつもりだ」
コフがいい終わらないうちに、お母さんの靴の爪先《つまさき》がコフのみぞおちにめり込んでいた。コフは声も出せず、前かがみになった。お母さんはコフの髪の毛を掴《つか》んで顔を上に向けさせた。
「唾をやたらに吐くなと教えなかった? わたしは今あんたたちに命令したのよ。聞こえなかった?」
コフは腰からナイフを抜こうとした。お母さんはかかとでコフの右腕を蹴《け》った。ナイフが落ちた。コフの手首はへたをすると折れているかもしれない。片膝をついてあぶら汗をながした。それでも口をつぐんで、痛いとは言わなかった。コフは凄い目をしてぼくやシュンの顔を見た。
「お前ら、早くこの女をなんとかしろ。もうこいつは母さんでもなんでもねえんだ」
ヒャウやサイがはっとしてニードルガンを構えた。お母さんは、コフを突き転ばせて、
「いいわよ。撃てば?」
と平気な顔をして言った。しばらくぼくらはお母さんとにらみあっていた。お母さんを撃つことはやはり非常に抵抗があるので、なかなかできなかった。
「はん。撃てないの? 銃口を向けることと敵を殺すことは同じことだと教えたのにね。あんたたちはもう全員殺されてても文句の言えないところよ」
お母さんはぼくらのところに来ると、ガンを取り上げにかかった。
「撃てもしない奴が持つものじゃないわ」
取られたくなくて抵抗しようとすると、お母さんは容赦なくぶん殴った。他の者は気をそがれたようになって、お母さんにガンを渡した。
ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。みんな気合いで負けたようになっていた。昔のお母さんが急に戻ってきたような感じがしていた。コフがやっと起き上がってきた。みぞおちのあたりを押さえてうめいていた。
「ケイ、早く命令を実行しなさい。二度は言わないわ」
「やってもいいが、どういうことなんだよ」
とぼくはきいた。
「決着をつけると言ったでしょ。あんたたちにも納得いくようにさせてやりたいしね」
お母さんは厳しい顔をしていた。だけど、この厳しい顔のお母さんがぼくは一番きれいだと思っていたし、好きだった。
「わかった」
とぼくは言った。シュンもうなずいた。
「コフ、決着だそうだ。お母さんから言い出したんだ。いいじゃないか。どうせおれたちはもう先のあてがなくなってたんだ」
とぼくはコフに言った。コフは血の混じった唾をぺっと吐いた。でも、今度はお母さんは蹴りにこなかった。
「ブン、シー、ロク、おれについてこい。南がわから見てくる」
とコフが腹を決めたように言った。ぼくもサイとシンとヒャウを連れ、残りはシュンが指揮してそれぞれに警戒に出た。
ぼくはじっくり時間をかけて偵察した。ここは支配地域で、敵が来ることが滅多にない場所だったけど、念入りにやった。雨季のせいで鈍っているカンを取り戻すように確実にやった。敵がこの一帯にいないことを確認するとおもに手榴弾《しゅりゅうだん》を使ったトラップをしかけていった。丁寧にやった。ちょっとひらけ気味の場所に方向性地雷をしかけておいた。小型で性能がいい。敵に使われると厄介この上ない武器だ。これはずいぶん前に敵から盗んだもので、壊れてはいないだろうと思った。作業をしているうちにどんどん集中力がたかまっていくのを感じた。コフやシュンもこんな気分になっているに違いない。
ぼくが広場に戻った時にはもうコフたちもシュンたちも戻ってきていた。ぼくたちがびりだった。ぼくはちょっと丁寧にやりすぎたらしかった。
「さて、どうけりをつけようってんだ」
とコフが言った。お母さんはうなずいた。
「あんたたち次第。あんたたちのしたいようにね。わたしもいい加減に嫌気がさしてきたところなの。わたしが行っても行かなくてもあんたたちはどうせ殺される。どうしようもないのよ。わたしはあんたたちが好きになってしまって、どうすれば助けられるか考えていたんだけど。上層部の連中はやっぱりタフだったわ。結局、わたしがあんたたちと別れても結果は同じなのよ。あんたたちがそれでも生きて逃げ延びる力があるんなら、あとは運次第と言えないこともないわ。だけど、十二人に減ったあんたたちはもう完璧《かんぺき》なスキルを持っていない。どう転んでも死ぬわね。あなたたちはわたしに案内されて殺されるか、そのうちぶざまに敵に殺されるかどちらかしかないのよ」
お母さんは目を地面に落とした。
「でもこんなことを言っても何も分からないでしょうね。あなたたちに与えた情報が少なすぎたものね」
「ああ、何を言ってるのかぜんぜん分かんねえな。おれたちがやられるんだと。ふざけるんじゃねえや。妙なおどしをかけて、それでけりだと言うんじゃねえだろうな」
とコフが吐き捨てた。
「そうだ。お母さんが持っていて隠していた情報をくれるんだろうな」
お母さんはうなずいた。このことのためにお母さんも長くいろいろ考えていたんだろう。
「面倒だろうがなんだろうが話してもらわないと、すっきりしない」
お母さんは叩《たた》きつけるように話しだした。
「面倒なことなんか何もない。事実は簡単なものよ。まず、わたしはあんたたちの味方じゃない。それどころか敵よりもたちが悪いわね。コフが言った裏切り者というのは外れよ。敵と言ったほうが近い。わたしはイピシブルから派遣された特殊戦部隊の少佐。わたしに与えられた任務は原住民を仕込んで強力なゲリラ兵を組織することだった。簡単に言うとわたしはあんたたちを操って妨害工作をやらせていたということね」
「イ、イピシブルってのは、何だよ」
「戦争屋の名前よ。わたしはそこに所属する傭兵《ようへい》。土地の原住民をナイフ一本で戦えるように鍛え上げると、わたしたち自らが敵と交戦するよりよほど安上がりだと作戦部は算盤《そろばん》をはじいた。それにこの仕事は極秘を要したからイピシブルが表に出ることは避けなければならない。あなたたちを使えば一石二鳥というわけね。教官だけを潜入させ、原住民に戦術を叩き込む。武器は敵から奪って使わせる。あんたたちは戦士としての才能が十分だったから、この『聖母作戦』は絶大な効果を上げたわ」
ぼくにはまだよく分からない。お母さんは話をつづけた。
「あんたたちのような原住民部隊がこのジャングルに幾つも存在していて、その一つ一つにわたしのような教官がついた。同一のエリアで部隊の数が増えてゆけば、この前みたいに接触事故が起きることも当然考慮すべきだった」
だれもお母さんが言い出したことを理解していなかっただろう。何だか滅茶苦茶《めちゃくちゃ》な話だ。ぼくらが聞きたかった話とはまったく別の、大人向けの話をされているみたいだ。お母さんはぼくたちを見下して、ばかにしたように言いつづけた。だけどとても辛《つら》そうに喋《しゃべ》っているとぼくには思われた。
「イピシブルの上層部にしてみれば、あんたたち原住民の部隊が何個全滅しようが構いはしない。わたしたちが死なずに教育活動を続ければいくらでも部隊は再生できるからね。教官一人の命と原住民兵士の命では|キルレシオ《殺しの比率》なんか比較のしようがない。だからあんたたちが全滅させた女の子の部隊の教官は何の処罰もされなかった。お話にならないってのはこのことね。幹部連中があんたたちのコードを何とつけているか知っている? サル部隊と呼んでるわ。あんたたちはまったくそう言われても仕方のない間抜けどもよ。わたしの命令を聞いて疑いもなく戦うんだからね。救いようがないわよ」
「お母さん……」
「おどろいたわね。わたしの言ったことが分からなかったの。わたしはお母さんでもなんでもない。ただの戦争屋であばずれよ」
ぼくらは顔を見合わせた。お母さんの話は、話が違い過ぎてぼくらを困惑させるだけだった。
「あきれたわね。これだけこけにされてもまだわたしを信じようっていうの。ほんと、とんまなのね、あんたたちは」
お母さんはそう言ってせせら笑って見せた。
お母さんの言うことがぜんぶ理解できたわけじゃなかった。だけど、お母さんが本当のことを言っているのは何となく分かった。それでもまったくぴんとこないのだ。ぼくらにそれを分からせるためにお母さんはわざとぼくらを馬鹿にするような言い方をしているんだろう。だけど、ぼくは、だからどうだというんだろう、としか思えなかった。お母さんはぼくらの様子を見て、さらに激しい口調で話しだした。
「まだ分からない? じゃ、とどめを言うわよ。あんたたちの親兄弟を殺して村を焼いたのは敵じゃなかった。わたしたちが敵に化けてやったことよ。そうしないとあんたたちが手に入らないし、敵を憎ませることができない。短期間に従順な兵士が必要だった。大人ではだめ、宣撫《せんぶ》工作や説得工作に時間がかけられなかったからね。その点、子供なら物覚えも早いし洗脳もやりやすい。これが少年兵部隊の『聖母作戦』と少女兵部隊の『厳父作戦』の基本コンセプトだった」
「お母さんが、おれたちの村を襲ったのか」
「かもしれないわね。悪いけど」
ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。
「あんたたちに敵と呼ばれていた連中は、あれでけっこう誠実な企業体だから、何もしない原住民たちを殺したりはしない。遊びにいけばキャンデーやチョコレートをくれたかもしれないわよ。連中はBPといって開発コンサルタントでね、ここから、そうね、この辺からあの尾根の向こうあたりにいくつかプラントを作ってこの星の資源を調査しているわ。あんたたちには多少迷惑な話だろうけど、BPも依頼を受けて商売している。それをわたしたちはあんたたちを使って妨害しなければならない。BPとしては原住民があまりに凶暴だから、仕方なく警備部隊を投入して各エリアの安全を確保する必要に迫られたというわけね。それに採掘調査中だから、ジャングルごと焼き払ったり化学爆弾をぶちこむわけにもいかない。委員会はそういうことにうるさいからね。BPは消極的警備をするしかなかった。そこもイピシブルのつけめだったのよ」
「本当なのか」
とコフがきいた。もうばかのような顔はしていない。だんだん得体の知れない思いが胸に生まれてきた。いままでに敵に対して抱いていた怒りとか憎しみとは少し違うものだった。もっともっと暗くて熱いものだ。それでも、ぼくはまだお母さんを信じていたかった。耳をふさいで逃げ出すか、お母さんを黙らせるか、どちらかをやらねばならないと思った。だけど、ぼくは動けなかった。ショウなんかはまだ口をあんぐりとあけて、本当にばかになったような顔をしていた。コフの疑いは当っていたのだが、その当り方の最悪さをぼくらは信じることができない。
「本当よ。わたしは母親どころか母親の仇《かたき》なのよ。ひどいジョーク」
「殺してやる」
それを聞いて、お母さんはほっと息を吐いた。
「そうね。じゃあ、それがけりね。やりなさい。そのためにこうしているんだから。でも、あんたたち、わたしをやれるの? 雨季の前にはふ抜け同然だったくせに」
お母さんは思いきりあざ笑った。
「あんたたちなんか素手で十分」
お母さんは自分のガンを遠くに投げた。木々の中に消えていった。
お母さんとの本物の戦闘が始まっていた。ぼくらもさっきガンを取り上げられてしまっている。近接格闘をやるしかないのだ。お母さんは最初からこうするつもりだったのだ。
「お前ら手を出すな! おれがぶち殺してやる」
コフがそう叫んで飛びだした。
「来い、|ディフォーミティ《かたわ》野郎!」
とお母さんは言った。お母さんの強さはみんな知っていた。いっぺんに混乱してかかるよりも、コフとやりあっているスキを襲うほうがいい。コフは今度こそ用心して本気で闘うだろう。コフもかなり強い。だけどお母さんがコフにやられてしまってはよくない。みんな複雑に強烈にそう思っているのだ。がまんして最初にコフにゆずった。コフがリーダーだからだ。
「畜生、コフそいつを殺しちまえ」
とぼくらは叫んでいた。こうやってけりをつけるより他にどうしようもないと思った。ぼくたちの命より大切だったひとはただのよそ者で、嘘《うそ》つきで仇だったのだ。
コフが右腕をからだの前において突進した。お母さんはどっちにでも跳べるように身を低くした。コフの動きは悪かった。さっきお母さんに腹をやられたのが、まだ効いているのだ。それでぼくらはコフは勝ち目が少ないと思っていた。みんなそれぞれお母さんを囲むようにうごいた。
コフは片腕だ。ただお母さんよりも一まわりは大きい。からだごとぶつかればお母さんも受け止められない。コフのチャンスはそのくらいしかない。ぼくはコフはそうするだろうと思った。コフはひと跳びでお母さんにぶつかる、と思っていたらその場所にからだをしずめてスライディングした。お母さんの膝関節を狙《ねら》っておもいきり足を蹴り出したのだ。うまい、とおもった。だけどお母さんは読んでいたように反応した。すばやく横にステップして膝を前から蹴られるのはふせいだ。コフは足をのばして、お母さんの足を刈った。かぎのように曲げたコフの足の甲がお母さんのふくらはぎのあたりにかかった。お母さんはすごい勢いで倒れた。ただ倒れただけではなく、コフの脇腹を肘《ひじ》で狙って頭から突っ込むように倒れていった。コフは右腕を回して脇を守り肘を受け止めた。右腕の肘をじくにして反転したお母さんは、すばやくからだを入れかえて、コフの後頭部それも延髄のあたりに膝蹴りを打った。コフがからだをひねった。膝は肩の骨の少し下に刺さりコフは、うっ、と声を出した。逃れた。だけどそこまでだと思った。コフの顔面も喉《のど》も背中もがらあきになっている。お母さんの位置からどこにでも殺す一撃を入れることができる。ぼくはさっと緊張した。みんなもこれで決まったと思ったはずだ。一瞬のことである。
一瞬、お母さんの動きが止まったように見えた。そう見えたのはぼくだけじゃなかったろう。そうでなければコフが反撃するチャンスは来なかったはずだ。コフは迷わずに当然反撃した。コフが横になったまま膝を蹴りあげた。それがお母さんの横っ腹に入った。コフは右腕をのばしてお母さんの髪の毛を掴んだ。お母さんは首をかしげたようになって横倒しになってしまった。さっとコフが上になった。お母さんの髪の毛を地面に押しつけて動かないようにして、顔面に頭突きを入れていった。お母さんはそのコフの動きを目で追っていた。お母さんはコフのおでこを受け止めるように首を持ち上げていた。ゴツンと音がしたあとは後頭が湿った地面にめり込んでいた。コフは頭に全体重を乗せていたから、その反動でお母さんの頭のほうへひっくり返った。すごく重い頭突きだった。コフは左腕をなくしてからは足技や頭突きを必死に練習していたのだ。
コフはあわててからだを起こした。掴んでいたお母さんの髪の毛が束になって抜けてしまっていた。お母さんは動かなかった。あれだけまともに頭突きをくったのだ。頭の骨が砕けているかもしれない。首の骨がどうにかなっていてもおかしくない。コフは油断することなく、さっとお母さんの上にまたがった。げんこつでお母さんの顔を叩くか、左の肋骨に打ちおろすか、かかとで思いきり踏みつけるのが正しい。ぼくたちのほうが息が止まったような気持ちになった。今度はコフの動きが止まった。コフがとどめをさすかどうか迷った短い時間だった。コフは真っ赤な顔で苦しそうだった。
コフはげんこつを開いた。頭を振った。コフのおでこはさっきの頭突きの時に切れたのか、血が垂れていた。コフはまたお母さんの髪を掴んで頭を持ち上げた。血がぼとぼとと落ちた。お母さんの顔もひどい血が出ていた。コフは髪の毛を持ってぶらぶらさせた。
「もう死んだのかよ」
コフが言った。勝ち誇った言い方ではなかった。また髪を引っ張ってぶらぶらさせた。ぼくの背筋がすっと寒くなった。みんなその場に立ちつくしている。
その時、お母さんが目を開いた。にやっと笑った。
「だらしのない。それで終わり? 生き死にの確認なんかより、きちんと敵の息の根を止めるのが先でしょ。あんたはもうわたしに殺されているわよ」
と言った。そして、
「とどめを刺しなさい」
と命令した。コフはわけのわからない叫び声をあげるとお母さんの頭を地面に叩きつけた。そして右腕をふりあげて何度も殴った。
「畜生! ふざけやがって」
顔を殴り腹を蹴った。コフにもお母さんがわざとやられっぱなしになっているのが分かっているのだ。
「なめたまねしやがって、本当に殺すぞ」
コフはうめいた。
「どうした。なぜやり返さないんだ。無抵抗だからって手加減なんかしないぜ」
そう言った。反対に殴る力は抜けていった。コフは殴るのをやめた。ぼくは最初はコフがお母さんを殺すだろうと思っていた。だけど、殺せはしないとも思っていた。変な話だ。お母さんは血の混じった唾をぺッとコフに吐きつけた。首を横に向けてぼくらのほうを見わたした。
「この腰ぬけの代わりに、わたしを殺せるやつはいないの?」
お母さんの声もおかしくなっていた。でも、はっきり聞きとれた。ぼくらはじっとしたままだった。
「ざまはないわね。ぴいぴい泣くしか能がなかった頃とちっとも変わってやしない! でかくなったのは図体ばかりというわけね」
お母さんは半分からだを起こした。血が顎《あご》か胸の間まで流れていった。お母さんは微笑《ほほえ》んで見せた。ぞくりとした。恐《こわ》かったからだ。そして、寒気がしそうなほどきれいだった。ぼくはからだがふるえてきた。
「弱虫野郎」
「何だと……」
コフはぐっと拳《こぶし》を握り締めた。泣きそうな顔になっていた。耐えられない光景だった。コフも同じ気持ちになったに違いない。この人はぼくたちに殺されなければならない。だけどこんなにきれいでやさしい人を殺せるはずもない。だけど許すこともできないのだ。ぼくにはできそうになかった。ぼくは身動きひとつできずにコフとお母さんを見つめるだけだった。
コフはみんなの顔に目を走らせた後、うおーっと吠《ほ》えた。悲鳴だったかもしれない。
「お前は卑怯《ひきょう》すぎる!」
コフはお母さんの服に手をかけて引き破った。お母さんの白い肌にはたくさんの青痣《あおあざ》が浮いていた。
「やってやる。お前はお母さんでもなんでもないんだからな。ここにいるみんなで突っ込んでやらあ!」
「いいわよ、でも、あんたにできるの?」
「畜生」
コフはさらにお母さんのシャツをはいだ。お母さんを押さえつけて、おっぱいに噛みついた。そして地面の上にお母さんを引きすえるようにしながら、自分のズボンを脱いでいった。
「マザー、ファッカー! ちゃんちゃらおかしいわね」
コフはお母さんの顔を張った。お母さんの口から折れた歯が飛び出した。コフは乱暴に乱暴にした。どうしてよいか分からないからだった。とにかくお母さんを乱暴に倒した。乗りかかって押した。お母さんの背中は地面に擦りつけられて傷だらけになっている。
コフはうなりながら、お母さんの胸に噛みつき続けた。ふくらみに歯型がついて血がにじんでいた。乱暴にお母さんの太腿《ふともも》の間に手を入れた。その時だけはお母さんは、あっ、と悲鳴をあげた。
「くそったれ」
お母さんが身をすり上げて逃げるようにする。コフはお母さんの肩を捕まえて潰すように乗っかっていった。お母さんは肘をついてからだを支えようとしたけど、コフの重さに潰されてしまった。
「この下手くそっ! そのへんのイノシシのほうがよほど、じょうず、だわ」
お母さんはそうわめくとコフの腕に噛みついた。コフはお母さんの頭に頭突きをくらわせて、また殴った。ずるずると押していって、木の根本に押しつけた。地面を這《は》いずるのはそこで止まった。コフは大きくなっているちんちんをお母さんの股《また》の間にあてがった。みんな息が止まったようになってそれを見ていた。コフの顔も汗と泥と血で汚れている。呼吸が激しかった。もう一度、ぼくらに目を走らせた。やっていいのか、とぼくらにききたかったのかもしれない。コフは、うっ、と言いながらお母さんの中に入れていった。お母さんが殺されるのと同じくらいのショックを感じた。
コフはお母さんを木の根本に押しつけながら、からだをぶつけた。お母さんは右腕に噛みついて声を上げないようにしていた。左手を背中の方にまわして腰と木の間のクッションにしていた。ぼくたちはコフよりもお母さんの動きとか様子を息を殺して見ていた。息を殺すというよりは、息ができない。あほうのように立っていた。シンと目が一瞬合ってしまった。すぐに同時に目をそらした。
コフは右腕でお母さんの膝を、関節でもきめるように抱えた。そうして腰を動かしつづけた。お母さんは右腕を口から離した。左腕を持ち上げた。ふさぐものがなくなったお母さんの口から泣くような声がもれた。木とコフの間に挟まれたような姿ではげしくゆさぶられた。お母さんは両手をゆっくりと持ち上げた。ぼくたちは凍りついてそれを見ている。お母さんは両腕をコフの頭に巻きつけた。コフの髪の毛を撫《な》でるように両腕を動かした。そして、コフの頭を抱き締めると、ぎゅっと胸に引きつけた。お母さんの目からは涙がこぼれていた。血とはっきり区別がついた。
ぼくは何か悪い夢でも見ているような気持ちだった。そして、次にはぼくはコフを殺してやりたいと思った。コフを叩き殺す場面が頭に浮かんだ。その場面は目の前のお母さんと重なった。コフはがくがくと腰を動かすとやっとお母さんを押しつけるのをやめた。コフはお母さんからからだをはなした。どすんと尻もちをついた。そしてまたべっと唾を吐いた。ぐったりしているお母さんの右のおっぱいにかかった。そこには歯型があって血がにじんでいた。
「分かったか」
とコフは言った。
「お前らもみんなやるんだ」
だれも動かなかった。するとコフは怒り狂って叫んだ。
「なにしてるんだ。サク、お前だ。はやくやれ!」
コフはいちばん近くにいたサクに拾った石を投げつけた。サクは恐がって言われたままにふらふらと前に出た。サクは膝がこわれたような歩き方で、よろよろとお母さんのところにたどりついた。横でコフがすごい目つきでにらみつけている。目を一度とじた。サクはお母さんにしがみつこうとした。サクはぼくらのうちでいちばんからだが小さい。お母さんよりも少し小さいくらいだった。それで、必死にお母さんに抱きついた。
「おれの見ている前でやるな!」
とコフが怒鳴った。サクはびくっとしてお母さんからはなれた。
「テントかなんかをこしらえろ。全員やるんだぞ、分かったか」
コフはぼくを睨《にら》みつけた。
「ケイもやるんだぞ」
ぼくはかすれたような小さな声で、
「うん」
と言った。
コフはお母さんの方を見ようとしなかった。広場をうろうろ歩いて、しゃがんでぼろぼろになっているお母さんの服を拾った。ちぎれた部分も大事そうに拾った。でも、次にはせっかく拾った服の切れはしを地面に叩きつけ、足で踏みにじった。
「コフ」
とぼくは声をかけた。コフはぼくのところにつかつかと歩みよった。コフに殺されるのではないかと思ったほど恐い顔をしていた。コフの顔は別人のようにゆがんでいた。コフは何もせずにぼくからはなれた。そして踏みにじったお母さんの服をもう一度拾いあげた。
「コフ」
とぼくはもう一度言った。コフはさっきお母さんを押しつけて犯した木の根本にふらふらと近づいた。コフはその木を何度か力まかせに殴りつけた。コフの拳はみるみる血に染まった。コフはその木に抱きついた。ずるずると膝をついた。
「くそっ、気が違っちまいそうだ……」
気が違いそうな嫌な気分なのだろう。コフは広場のうす暗い隅に目をやった。急ごしらえのテントに血走った目をやった。
「おれひとりがこんな嫌な気分になるのはごめんだ」
コフは力の抜けた弱々しい声でそう言った。ぼくの中からコフを殺したい気持ちが消えていった。
「コフ、みんな同じになるんだ」
とぼくは言った。コフは返事しなかった。仲間たちはみなうつむいて辛そうな顔をしていた。これは儀式なのだ。きびしい顔をして待つのが当り前なんだと思った。
「お母さん」
とぼくは叫んだ。ぼくがテントに入ったのは最後だった。お母さんは眠っていた。もうあたりは真っ暗になっていた。テントの中は脂を燃やしていて、かろうじて明るくしてあった。ぼくはお母さんを毛布で包んであげた。お母さんは疲れきった様子で目を閉じていた。お母さんが眠っていて、少しほっとした。待っていたのはぼくであって、お母さんが待っているというのではよくないと、そんなことを思っていた。お母さんに顔を近づけた。額から目のすぐ上のあたりには絆創膏《ばんそうこう》がはってあった。目の下の頬《ほお》もひどく腫《は》れあがっていた。でも醜いとは思わなかった。お母さんは起きない。ぼくも無理に起こしたりしない。そう思った。待っている者がもういないから気が楽だ。ぼくは肘をついて横になった。お母さんの顔を見て静かな息を聞いた。ぼくも昼間のもの凄い緊張と不安がだいぶ解けて眠くなっていた。うつらうつらしてきた。お母さんを抱かないといけないんだ。コフと約束したしな。
「あしたでいいや」
とぼくは声に出して言った。それと同時くらいに、お母さんが目を開いた。一瞬、ぼくはしまった、と思った。急に心臓がどきどきしてきた。
「あしたじゃだめよ」
微笑んでくれたけど、顔が痛そうだった。
「これでよかったのかな。わたしにもよくわからない。みんなは?」
お母さんはぼくの顔に手を伸ばした。撫でてくれた。
「外で寝てるよ。おれが最後なんだ」
「もうしたの?」
ぼくは首をふった。
「お母さんは眠っていたからな」
「それは悪かったわね。じゃあ、しなさい」
とお母さんは命令するように言った。
「嫌だ」
とぼくは言った。
「しなきゃだめ」
お母さんはぼくのちんちんに手を伸ばした。ぼくのちんちんには全然力が入ってなかった。
「意気地がないのね」
「お母さんも疲れてるんだろ。痛かないのかよ」
「そうね……」
お母さんはまたぼくの顔を撫でた。
「今日、お母さんが言ったことはみんな本当なのか」
とぼくはきいた。
「本当よ」
「おれたちは使い捨ての虫けらなのか」
「そうよ」
「なぜあんな恐ろしいことを教えたんだよ」
「聞きたがったのはあんたやコフじゃない」
「何で殺されようとしたんだよ」
「あんたたちになら殺されたっていいと思った。でも裏目に出たのかな。あの時手加減せずにコフをぶちのめして、あんたたちを本気にさせればよかったのかもしれない。わたしはもうあなたたちに勝てやしない。コフだってその前に腹を蹴って、腕を傷《いた》めてあったからわたしが優位だっただけよ。まともにやっていたらわたしはコフに殺されていたはずだった。ほんとうに強くなったわね」
「まだみんなはお母さんを許したわけじゃない。いつでも殺す機会はある」
するとお母さんはくすくすと笑った。
「無理よ。今度こそあんたたちはわたしを殺せなくなった」
「?」
「わたしの子供の中じゃ、あんたが一番おつむの出来がいいと思っていたのよ。ここだけの話にしとくのよ。あんたがわたしやみんなを見ている目で分かる。あんたはいつも疑ったり、考えたりしていたでしょ。何にも言わないけどあたしとあの子たちをしつこく観察している。そんな感じがしていたもの。ケイ、そうでしょう」
「そんなことはしてない。みんなと同じ、お母さんにだまされてた馬鹿なやつだよ」
「その答え方よ。そうねあなたにはほとんど理解できないでしょうけど、教えてあげるわね」
お母さんはぼくを引き寄せた。
「わたしたちはイピシブルっていう戦争を商売にしている会社から派遣された。イピシブルは傭兵株式会社と呼ばれているわ。わたしはその中の特殊戦部門の士官ね。マリア・ディーベイツ少佐。これでも優秀なのよ」
「特殊戦?」
「戦争にもいろいろな形があるのよ。艦隊を組んで敵艦隊と闘う戦争もあれば、機動歩兵団を使って惑星を急襲占領する戦争もある。そういうのはいろんな国が表向きにやるまともな戦争。イピシブルもそういう戦争に雇われることもあるわ。だけど国家の正規軍にはとても出来ないような汚い戦争を引き受けるのがイピシブルなのよ。こんなジャングルで小銃やナイフや素手で闘うなんていうのは前近代の戦闘もいい所だけど、この手の戦争の需要はまだまだあるしね。わたしは未開地域のゲリラ戦術が専門なのよ。だからこの仕事が回ってきた」
お母さんはぼくのちんちんにまた手をやった。ぼくは嫌がって手を離そうとした。
「わたしたちが戦った敵は、あれは本当はあなたたちの敵ではない。わたしたちの敵でもない。わたしたちの雇い主にとって邪魔だったということよ」
「どういうこと?」
「あの連中はBPといって、惑星の鉱脈採掘を引き受ける企業組織なのよ。この星の利権は現在のところテダヴィド辺境星域委員会が持っていてBPはその委託を受けて開発を進めている。でも、委員会の中には均等配分の決定に不満な欲張り野郎もいる。ここの鉱物資源の利権を独占したい国がいてね、キリランドというんだけど、ああ、あそこの代表は野郎じゃなかった。おばさんだったかな。で、その国がイピシブルに仕事を持ってきた。依頼は、BPの開発計画を失敗させよ、ということ。BPが失敗すれば委員会はこの星について考え直さねばならなくなる。そこにつけ込もうという魂胆なわけよ。イピシブルはこの地方の原住民をゲリラ化してBPの活動を妨害する作戦を立てた。これがその聖母作戦と厳父作戦だった。あくまで原住民が自分の意思で攻撃を繰り返していると言う筋書きだからわたしたちは絶対に表にでてはならなかった。それに、BPには監視委員がついていて、原住民に無用の攻撃をしないように見張っている。わたしたちが戦ったのはBPのガード・パトロール隊なの。BPの護衛部隊だけどプロの戦士じゃないわ。それにジャングル戦の訓練なんかおざなりにしか受けていないから大したことがない。ろくな装備がないわたしたちにでも倒すことができる。だけど委員会のうちのある国がゲリラに手を焼いているBPに極秘で軍事援助を始めた。そのせいでわたしたちの作戦は危険になったわ」
お母さんは話しながら、ぼくのちんちんを引っ張ったりつねったりした。股を擦《さす》ったりもした。
「少しは分かった?」
「分かるかよ。鉱物シゲンて、何なんだよ。リケンとかドクセンとか、それがけんかのたねになるのか。そんなわけの分からないもののために、おれたちはひどい目に会わされたのかよ」
「やっぱり、あんたのおつむが一番いいみたいね」
お母さんはそう言った。とたんに、いたい、とも言った。笑おうとしたら、口の中も顔も腫れていて痛かったようだ。
「ひどくやられたなあ。コフは手加減してなかったからな」
ぼくはお母さんの顔の血のかさぶたに触ろうとした。ちょっと触れただけでまた血が流れだしそうだったのでやめた。それでもお母さんが元気そうなのは、多分、コフにやられている時に、うまいこと内臓なんかは外していたのだろう。
「まあね……。後々、障害が出るかもしれない。急に盲《めくら》になったり手足が動かなくなったりするかもよ。戦争だからね、よくあることよ」
お母さんはかえって楽しそうに言った。昨日まではお母さんは雨季の空の雲みたいに厚く暗い様子をしていた。それが晴れてしまったようにみえた。ぼくの足を撫でているお母さんの手は暖かさを越して熱くなってきた。ぼくはおどろいた。お母さんは生き生きしてきた。
「だから、いまのうちにわたしを抱いておかなきゃつまらないわよ。わたしがぽっくりいった後でしまったと思いたくないでしょ。わたしはこれでもあなたたちにはもったいないいい女なんだから」
お母さんの顔を見ると、青あざと傷が痛そうだった。その中で目はいたずらっぼく光っていた。
「これでやっと……。それともケイだけみんなと仲間外れになりたいの?」
それでもまだぼくのちんちんは堅くならなかった。不安だったのだ。もうお母さんは罰を受けた。コフだってお母さんを殺そうとは思っていないだろう。これ以上何があるというんだろう。
「しょうがない子ね。もうできるはずなのに。あんたたちが最初に戦って、あんたが肩を怪我《けが》して気絶して、わたしが看病したことがあったでしょ」
ぼくはとたんにあの時の変な夢のことを思い出した。
「ませてるなと思ったわ。こんな年から夢精しているって。あはは、赤くなってる。当り前じゃない。わたしはずっとそばにいたんだから。気づいていたわよ」
「うるさいな……」
ぼくが顔を横に向けた瞬間、お母さんは毛布をばっと広げるとぼくを一緒にくるんでしまった。ぼくは逃れようとした。お母さんは楽々とぼくの肘を決めてしまっていた。動けなくなった。
「油断」
とお母さんは言った。お母さんはぼくの肘を決めたままからだをずらしていった。お母さんはおっぱいをぼくの顔のところにあてて、足をぼくの足に絡むようにした。空いている方の手でぼくのからだを引きつけた。ぼくはお母さんのおっぱいを含んでしまった。おっぱいも堅くふくらんでいた。
「それでいい」
とお母さんは言った。お母さんはぼくの肘関節から手を抜いた。
「お母さんはおれの両親を殺すとき参加したのか?」
ぼくは胸の谷間からきいた。お母さんの手の動きが止まった。
「あなたの村のことはおぼえていない。でもあなたの仇には違いないわ。あなたの妹はべつのグループで戦闘を訓練されたはず。でも今はどうなっているか、わたしも知らない」
「そうか」
ぼくはもうお母さんから離れようとは思わなかった。お母さんはふたたび手を動かして僕の身体のいろいろなところを触った。ぼくはお母さんの首や腰に手をやった。お母さんにもっとくっついていようと必死になった。お母さんにしがみついていようとした。
ぼくのちんちんはいつの間にか大きくなっていた。自分の手を伸ばして触ってみた。ずんとしていた。なんか誇らしい気分になった。前に夢で見たことをまた思い出した。ぼくはあの頃からこうなることを知っていたんだと思った。お母さんは自分から腰を動かしてぼくのちんちんをつつみこんだ。ぼくはびっくりしたようにあわてて腰を引いた。お母さんのくすんだ金色の髪を引き寄せて匂《にお》いをかいで安心した。そして腰を動かした。お母さんの暖かい柔らかいからだに包まれて身動きできなくなった。ぼくが動くのをやめるとお母さんが動いた。
(あ、出る)
ぼくは思わず引き抜こうとした。お母さんはきつく締めてぼくを離さなかった。ぼくはお母さんの中でどくんどくんとふるえた。
「いいのよ」
とお母さんは言った。
「わたしはあんたたちの最初の女にもなった。これでとうとうみんなわたしのものになったのね」
お母さんはうっとりとそう言った。そして次に恐ろしいことをささやいた。
「あなたたちを殺してあげる。わたしも一緒に死んであげる……」
ぼくはふわふわした気分の中でそれを聞いた。
「?」
「ごめんね」
「おれたちを殺すってか?」
ぼくは笑った。
「あやまることなんかねえよ」
ぼくはお母さんのあそこに手をやった。どんなところにぼくが入ったんだろうかと急に思った。口みたいな切れ目がぬるぬるして暖かかった。
「あんまり触らないの。ひりひりして何も感じなくなってるんだから」
とお母さんはいろけのないことを言った。ぼくは指を入れたりしながら言った。
「殺されやしないさ」
お母さんはふしぎそうな顔をした。
「どうして?」
「そう決めたんだよ」
「へえ。たのもしいのね」
「お母さんこそ勝手に死ぬなよ。おれたちの方がお母さんを殺すんだ。それだけの理由はあるだろ」
「いいわね。いつでもいいわ……。できるならばの話だけど」
ぼくはお母さんからからだを離した。お母さんはぐったりしていた。お母さんには休息が必要だ。
「おやすみね……」
「おやすみ」
とぼくは言った。お母さんはもう目を閉じていた。ぼくはなんだか急に自分が生まれ変わったような気になった。
夜明け頃、ぼくたちは顔を突き合わせて押し黙っていた。今後のことを考えなければならないところだ。コフがリーダーであることは間違いないとしても、そのコフにも何の考えもなかった。ぼくにだっていい考えなんかはなかった。お母さんの話を聞いて、その上、お母さんとああいうことになってしまって、それについて思うだけで頭が一杯になってしまうのだ。この先のことなど考える気もしない。無駄につらを突き合わせているだけで、だれも口をきこうとしなかった。
「くそう」
とコフは時々ぶつくさ言うだけだ。居眠りしているやつもいた。これまではお母さんが何でも決めていた。これからはぼくらはこうして自分たちで考えて、迷わなければならない。いまさらのことではなかった。
その時、テントからお母さんが出てきた。草を踏んでぼくたちの前に歩いてくる。コフが何か言おうと口を開いたが、ことばが出ない。みんなぐちゃぐちゃした複雑な心境だったろう。顔を見ればわかる。うつむいたり、あっちの方を見たりしている。お母さんをまともに見られないのだ。
お母さんはぼくたちの前に立ちはだかった。いまさらながらお母さんのタフさに驚かされた。昨日、コフと闘いひどいダメージを受けたばかりか、一晩ぼくたち十二人を相手にしたのだ。そして、あれから三時間くらいしか眠っていない。
「あきれた化け物だぜ」
とコフが小さい声で言った。となりにいたシンとサクが相づちを打った。
さすがにお母さんも涼しい顔はしていない。顔は青いというより、どす黒く腫れあがっているし、歩き方も少しぎくしゃくしていた。想像して、ぼくがあんな目に会っていれば、死んでいるかもしれない。死ななくても何日寝込むか知れない。だけどお母さんはちゃんと両足を地につけて立っていた。からだには毛布をポンチョのようにまとっていた。昨日のことが頭に浮かんで、お母さんを真っ直ぐ見れるものはいなかった。だから妙な顔をしてうつむいたり、よそ見をしている。もうひとつ、まわりがひどく明るいことも気になる。ジャングルの中はたいてい茂った枝葉が何重にも折り重なっていて、いつでも薄暗い。たまにこの空き地のように木がまばらなところに出るとまぶしいと感じるのだ。その明るい中にお母さんがいる。
「昨日のつづきをはじめるわよ」
とお母さんは言った。
「あんたたち、よくも好きなようにしてくれたわね。なかなか」
お母さんは笑っているようだけど、傷やあざで怪物のような顔になっているからかなり気味が悪かった。
「なんだよ。何か文句があるのか。つづきだと? 何のつづきがあるってんだ。くだらねえことぬかしたらぶっ殺すぞ! くそっ。さっさとどこかへ消えろよ。イピなんとかの仲間のところへ行ってしまえ。感謝しやがれ! お前は許せない裏切りものだが、命だけは助けてやったんだ」
とコフは怒鳴って枝を拾って投げつけた。でも、声には昨日のような激しさはもうこもらなかった。
「はやく消えちまえ。顔を見たくない。お前とはもう縁を切ったんだ!」
それでもお母さんはそのままだ。コフは怒って立ち上がった。
「こいつ! おれたちを甘く見るなよ。また突っ込んでひいひい言わせるぞ。死ぬまでまわしてやろうか!」
お母ふんはにやりと笑って見せた。
「ちょっとばかり股のあいだの棒切れが太くなったくらいで、でかい口を叩くんじゃないの」
お母さんはぼくらをばかにしたように言った。コフはひどく嫌そうな顔をして、ぼくのほうを見た。
(このきちがい女をどう始末すりゃいいんだ?)
とぼくにきいているようだ。ぼくに分かるはずがない。知らないふりをした。コフは仕方なくお母さんの前まで行った。
「どこかに行けってんだよ。一度しか言わないぜ」
コフはお母さんの肩をどんと突いた。お母さんは転ばされてしまった。それでもまた立ち上がってコフのまん前に立った。コフは舌打ちして、もう一度、突き飛ばそうとした。太い腕を伸ばした。お母さんはさっと一歩踏み込むと、コフの金玉を蹴り上げた。コフは油断していたが、そう簡単に急所をやられたりしない。反射的に右腕を股に落とし、ガードしてふせいだ。留守になってしまったコフの顔をお母さんは思いきりひっぱたいた。
「昨日、わたしを殺さなかったからよ。もうそれだけであんたの負け」
コフは真っ赤になった。おそろしい目つきでお母さんをにらんだ。
「昨日はわざとさせてあげたのよ。それくらいも分からないの? いい? 今、戦ってもわたしはあんたを素手で殺すことができる。わたしから見ればあんたなんかどうしようもない不注意小僧よ」
「言いやがったな」
「またやってみる? 今日は容赦しないわよ。それでもいいの」
「命だけは助けてやろうと思っていたが、お前がそのつもりなら、のぞみ通りにぶち殺してやる」
コフが手を振った。みんなは場所を空けて、円になって座った。
「いいな。いまからおれがこの女をぶち殺す。今度こそな。文句はねえよな」
お母さんは毛布をまとったまま平然と立っている。ぼくにはお母さんがどういうつもりなのか分からなかった。本当に闘うつもりなんだろうか。あのからだではとてもお母さんが勝てるとは思えない。ぼくはお母さんは自殺するつもりなのかもしれないと感じた。
「お母さん、本当にやるのかよ」
とぼくはきいていた。お母さんはぼくを振り向いた。目がにっこりと笑った。
コフはナイフを使うかどうか迷っていた。
「あんたはガンでもナイフでも武器はなんでも使っていいのよ。そのくらいのハンデはあげないとね」
コフはきっと顔をあげた。
「くたばりぞこない相手に武器なんざいらねえや」
と言った。ナイフも捨てようとした。
「ナイフは使いなさい」
とお母さんは命令するように言った。
「何を!」
コフはお母さんをにらみつけた。お母さんは厳しい、こわい顔をしていた。お母さんが訓練中に本気になった時の顔だ。昨日みたいな迷ったかげのない顔になっていた。訓練や行軍の時にこの顔でお母さんににらまれると背筋が寒くなったものだ。コフもそれを思い出した。ごくりと唾を飲み込んだ。コフはナイフは捨てなかった。
「坊や、かかってらっしゃい」
とお母さんは誘うように言った。
「いいな、ぶっ殺してやるからな」
とコフは低い声で言った。次にはからだを低くしていた。戦いは始まった。だけどお母さんは毛布をからだに巻いて、胸のまえで合わせていて、それが落ちないように手で押さえたままで、立っているだけである。
「遠慮しねえぞ! お前が悪いんだ」
「そう、殺しに来なさい。わたしもそうするから。結局、わたしとあんたたちはこうしないと話ができないようになっているのよ」
お母さんはそう言った。コフはナイフを抜き跳んだ。
コフの殺気は本物である。ナイフにもフェイントを使わなかった。フェイントの必要がないほど速くナイフを突き出すことができるようになっている。それにコフのリーチはお母さんよりも二十センチくらい長かった。コフは踏み込んだ。お母さんは構えもしなかった。コフは、しゅっ、と息を短く吐いた。ナイフはお母さんの右肩から腕のあたりをなぎ、毛布を裂いた。それに続いて刃が胸のあたりにとんでいる。毛布の胸の盛り上がった部分にナイフがやや斜めに突き上げられていった。深く吸い込まれていった。心臓は確実に切り裂かれたはずだった。そう見えたのはぼくだけではなかったはずだ。ところが、
「ぐあっ」
と声をもらしたのはコフの方だった。毛布が突き刺さったナイフのところから生き物のように動き、自分からコフの腕に巻きついていったように見えた。そのまま毛布はふわっとコフの背中にまわっていった。コフのナイフを掴んだままの右腕は絞られるように背中に引かれた。たぶん、毛布の中では手首がナイフごとねじれている。これではナイフを離すこともできない。
(お母さんはどこだ)
ぼくは一瞬、お母さんの姿を見失っていた。ぼくの方向からでは毛布が生き物のようにコフにからんでいったところしか見えない。ぼくの反対側に座っているヒンやロクにはどう見えているのだろう。
すぐにお母さんの位置は分かった。お母さんはコフの下にいた。コフの右腕は毛布に包まれ背中に回り、殺されている。お母さんは毛布のはしをコフの股の下からくぐらせて、立ら上がりながら引き上げた。
「そうれ!」
お母さんの声はすごく陽気だった。コフはたまらず引っ繰り返る。返りぎわにお母さんの顔に蹴りをはなったが、あっさりかわされた。お母さんはさらに毛布をコフの首に巻きながら膝をついた。膝頭をコフの背中の真ん中に当てて、ぐいと毛布を引きしぼった。これでコフは右腕を決められた上、頸動脈《けいどうみゃく》を締められる。
「くあ!」
お母さんは空いている手で毛布につつまれた右腕を掴んで押さえた。ぴたりとコフの背中にはり付いている。毛布をとったお母さんは素っ裸だった。傷だらけであざだらけだった。ぼくは昨日のことを思い出して、また、嫌な気持ちになった。
「コフ、参ったら? 右手首が駄目になるわよ。それよりも落ちるのが先かしら」
コフの完全な負けだった。実戦ならとうにコフは殺されている。コフの首に巻かれた乗布がさらにしぼられ、コフの顔色が赤から青白く変っていった。
「ち、くしょう!」
コフはそう言うと地面を蹴りからだを後ろにぶつけるように倒れた。その時に頭をま後ろへ振って頭突きを狙った。お母さんはその力任せを受け止めきれず、膝立ちのまま後ろに反転した。お母さんはコフの必死の頭突きを浅くもらったようだ。額の傷口がまた開いて見る見る血が流れ出した。しかし、コフの背中からは離れなかった。コフが唸《うな》りながらもがき、毛布の一部を引き裂いた。右腕は自由になったが、ナイフは毛布に巻き取られでしまっていた。コフはお母さんをふり離そうと、さらに地面を反転した。お母さんはコフの反転を利用しながら、コフの脇下に肩を差し入れて身体を入れかえ、肩を右肘のてこにして関節を決め直す。同時にお母さんは足をコフの左足にからめて固定した。そのため一瞬お母さんはちょうどぼくの目の前で大きく足を開くことになった。お母さんのあそこのふくらみと金色の毛とその奥のものがまともに目に入った。夜だったのでよく分からなかったものが、ばっと目の前にきた。ぼくは反射的に目を閉じてしまっていた。コフのやつがお母さんの服をびりびりに引き裂いてしまったのが悪いのだ。
「参らないと折るわよ」
お母さんは顔からぼたぼたと血をこぼしながら言った。血がお母さんの胸の間を伝って、地面に落ちていった。
「折りやがれ!」
コフは悔しそうにうめいた。
「真剣勝負だったわね」
お母さんは次の瞬間、コフの右肘を折った。コキリ、という小さな音がしただけだった。コフは悲鳴を上げなかった。お母さんがすぐさま急所を肘で打って、気絶させたからである。
お母さんは顔の傷を毛布で押さえて、立ち上がった。ごしごしと首、胸までを拭《ぬぐ》った。だけど、また血がだらーっと垂れてきて無駄になった。お母さんの脇腹のところに浅い切り傷がてきていて血が染み出していた。毛布を使ったうまいフェイントだったけど、コフのナイフを完全に避けることはできなかったのだ。
「あぶなかった」
とお母さんはぽつりと言った。
お母さんは毛布を拾って、またからだにかぶった。ぼくにむかって言った。
「ケイ、コフの手当をしなさい。なにぼやっとしてるの!」
ぼくははっとして、コフに近寄った。シンに手伝わせて、右肘の脱臼《だっきゅう》を調べた。お母さんの折り方が上手だったのか、腱《けん》は切れてはいないようだ。ぼくはシンに胴体を押さえさせて、腕を持った。足をコフの肩と腹において肘をひっぱり、かくっと脱臼をもとに戻した。その後、添え木をあてて固定した。
「他の者はどうするの。コフをあんな目にあわされて、腹が立たないの?」
お母さんはぼくらに言った。お母さんに挑戦すべきところだったのだ。だけど、ふしぎに怒りが湧《わ》かなかった。
ぼくはコフに水をかけたり、頬を叩いたりいろいろした。なかなか目を覚まさない。ようやくコフが意識を取り戻した。お母さんはそばに行ってコフの顔を覗《のぞ》き込んだ。
「ごめんね」
と言った。コフはすぐかっとなった。畜生と叫んでお母さんを蹴り上げた。蹴りはかなり早かったけど、お母さんはひょいという感じで受け流した。空振りしたコフの足が地面に着くと、さっと膝の上を踏みつけた。
「いてえっ」
とコフがうめいた。
「強いじゃんか」
コアは子供が文句を言うように言った。
「ちくしょう、お前こそおれたちを簡単に殺せるじゃねえか! おれはさっき本気でやったんだ。それなのに、なぜ、昨日は嘘くさい真似《まね》をしやがった!」
「…………」
「昨日の仕返しかよ。くそっ、もうすんだだろ。さっさとどこか行けよ。それともおれたちを料理しちまうか」
「でかい口が直らないのね」
お母さんはせせら笑って、さらに強くコフの膝をぐりぐりと踏みつけた。コフは痛い顔をしたが、今度は声は出さなかった。
「みんなこの女をどうにかしろ。撃ち殺しちまえっ」
とコフは叫んだ。
「こいつとはもう終わったんだ。お前らまだこの女を信用するっていうのか? 裏切っていたんだぞ! どうなんだ」
みんなは動こうとしなかった。どうしてよいか分からないからだ。コフが座っているぼくのほうを見た。ぼくは首を振って、言った。
「みんな、どうしていいか、わかんないんだよ」
「だまされるなっ!」
コフはわめいた。
「この女はおれたちを虫けらとしか思っていない。おれたちを鍛え上げたのは、自分たちのかわりに敵と戦わせようと思ったからなんだ。よそ者の上に卑怯者なんだよ。母さんのふりをして近づいてきて、おれたちをだまし続けていたんだ。食わせ者なんだ。こいつのせいでサンも、センも、イウも死んじまった。こいつが殺したようなもんだ」
コフは怒鳴り、お母さんをののしりつづける。途中でコフの声は涙声に変わっていった。
「お母さんだなんてでたらめをこいて近づいてきやがって。サンもセンもイウも信じていたんだ。畜生、その上、その上こいつは……」
コフは本気で泣き出していた。しゃくりあげた。
「おれたちをいつまでもばかにするな。くそう、ぶっ殺してやる!」
お母さんはコフの膝から足を外した。黙ってひざまずいた。
「何しやがる。何のまねだ。やめろ」
コフは泣きながら言った。お母さんはコフの身体を抱き起こした。そして、コフの頭をぎゅっと抱き締めた。お母さんの髪がコフの顔に柔らかくかかった。
「やめろ。くそっ。離れろっ」
コフはなおも怒鳴っていた。お母さんは無防備だった。今なら、コフは長い足を跳ね上げて蹴りでもなんでも確実にお母さんに当てることができる。膝蹴りでお母さんの背骨を砕くこともできた。コフはそうしなかった。
「ごめんなさい」
とお母さんが言った。コフの身体がびくっと動いた。蹴るのか、と思った。違った。激しくしゃくりあげたのだった。
「どうしてだ」
コフは大声で泣き出した。後はもう言葉にならなかった。わーん、と泣き続けた。
ぼくも泣いていた。みんなも泣いていた。ぼくたちはまだやっぱり子供なのかもしれない。お母さんと最初に会った時と同じで、変わっていないんだ。少しも一人前に近づいていない。お母さんのそばで泣いていると、びっくりするほど安心して、かえっていい気分になる。これはどうしようもないことだった。お母さんは、やさしい声で宣言した。
「わたしはどこにも行くつもりはないわよ。決めたのよ。あんたたちはわたしの息子だから、やっぱりわたしのために死ななければならない。それに、あなたたちはそうのぞんでいた」
お母さんはコフに手を差しのべた。肩を貸して立たせてやった。
「そうじゃないの?」
「ばかを言え……」
「もう、あなたたちはわたしのものになってしまったの。わたしはあなたたちの母親であり、あなたたちの女にもなった。わたしもどうしてこうなったのかわからない。ふしぎなものね」
コフだけではなく、ぼくら全員がばかのようにお母さんを見つめた。
「あんたたちばかりを死なせるだけじゃ不公平だから、わたしも一緒に死んであげる。それでいいでしょ」
お母さんの目から涙がこぼれ落ちていった。
「もう、あんたたちをおいてはいけなくなっちゃったから」
僕の胸の中には何か熱いかたまりができていた。息苦しいけど、そのかわりに心とからだをしびれさせるような異様な力を持っていた。
かなり時間がたってから、コフが言った。すがるような言い方だった。コフも顔をゆがめていた。まだぼろぼろと涙を落としていた。
「それは本当か、本当なのかよ」
ぼくら全員の質問とおなじだった。
「母さん。本当にそうしてくれるのか? もう、裏切らないか?」
そんなことはもうどうだっていいんだ。ぼくらにはやはりお母さんしかいない。もう心の中で決まっていたことのようだ。BPでもイピシブルでも関係ない。とにかく、敵がうようよしているジャングルでお母さんと一緒に闘い続けることだけがぼくらののぞみだった。他には何もいらない。お母さんが死に場所まで連れていってくれるんなら、もう言うことはない。どうせぼくたちはこれから先どうするのか途方にくれるばかりだったのだ。それよりお母さんを失う恐怖のためにぼくたちはずいぶん悩んで犠牲をだした。サンやイウやセンが死んだ原因もけっきょくそれだったのだ。ぼくらがこわかったのはお母さんがいなくなることだけだった。
お母さんはお母さんが白状したように憎むべき仇だ。それは分かっている。だけどお母さんは、お母さんだった。どうしてこんなことになったのかわからない。お母さんはお母さん以上のお母さんなのであって、神様か何かがそれをさだめたのに違いない。ぼくたちはいつの間にかお母さんをとり囲むように近づいていた。
「お母さん、今度は信じていいんだな、安心していいんだな……?」
と口々に言った。お母さんはやさしい目をしてうなずいた。
「もうどうでもいいや」
コフが言った。
「それなら、おれは文句を言わない。裏切られて殺されてもいい。だけど、母さん、頼むからずっと一緒にいてくれよ。頗むよ……」
コフはそう言いながらお母さんにしがみついた。
「そうでないんなら、すぐ殺してくれ。そうでなきゃ、辛すぎる」
同じ気持ちだった。
「ばかね」
とお母さんは言った。ふうと息を吐いた。頭を押さえた。
「だから、わたしを、ゆる、……ね……」
お母さんは何か言いかけて、ふらっとなった。ぼくとシンに支えられて倒れた。お母さんのからだがすごく熱くなっていた。すごい量の汗が肌に浮いていた。ぼくはお母さんを抱きとめて、しずかに寝かせた。呼吸も苦しそうだし、心臓が打つのもかなりはやかった。気がつかなかった。お母さんは立っているのがやっとだったのだ。
「お母さん」
きりっとして見せたのはお母さんのやせがまんだった。なんていう無理をするのだろう。やっぱりとても動けるからだじゃなかったのだ。ぼくは今度はお母さんがこのまま死ぬのではないかという恐怖におそわれた。本当に恐ろしくなった。この世で一番におそろしいことだった。
「お前らぼさっとするなっ! ばかやろう、はやく、寝床を用意しろ。きれいな水をくんでこい、貯《た》めてあったクスリや包帯を掘りかえしてこい!」
ぼくは怒鳴っていた。コフならいつものことだけど、ぼくが珍しくこんなふうに怒鳴ったものだから、みんな一瞬、とまどった顔になった。だけど、すぐに動き出した。数か所に分けて隠してある食料やクスリをとりに走っていった。
7
もう何も隠す必要がなくなったから、お母さんは気が楽そうだった。この前の、木のうろに隠してあった通信機からの内容を教えてくれた。
「わたしに撤収命令が出たってことは、つまり、イピシブルが手を引くということよ。このジャングルはあんたたちの手に負えなくなるということね」
「手に負えない?」
「BPの開発計画を陰でバックアップするために、ある国がこの地方に不正規軍を投入してくるのよ。意味は分かる?」
ぼくらが首をふるとお母さんは愉快そうに言ったのだ。
「つまり開発を邪魔する凶暴な原住民を駆除するための正義の軍隊があらわれるわけね。それも正規軍ではないわ。あっちも委員会をごまかしながらやらなくちゃならないんだから、わたしとご同業の傭兵を使うしかない。それもジャングル戦のプロフェッショナルたちをね」
「プロだと? 面白いじゃねえか」
とコフが言った。
「そう面白くはないのよ。BPの常備隊なんて特殊戦のプロに比べれば幼稚園児の遠足のようなものだわ。だから、あんたたちみたいな貧弱な装備のがきにも殺《や》られた。でも本物のプロは装備から腕前まで、次元が違う。桁《けた》はずれに強いのよ。そうね、Aクラスの特殊戦のプロが百人降りてくれば、たぶん、ひと月以内にこの地方の原住民チームはきれいに殲滅《せんめつ》されるわね。もちろん、あなたたちも含めてね」
「そんなばかなこと、信じられるか」
「考えればすぐに分かることじゃない。わたしが百人いて、あなたたちを殺しにでたら、あんたたちはどうするつもりなの」
そう言われてみるとそうだ。お母さんが百人というのはばかに強いだろう。
「だから、あんたたちには生き残るチャンスはないっていうのよ。生き延びたければたったいまからこの土地から逃げ出すことね」
とお母さんは言い切った。
「だから、お母さんは撤収だったのか」
「まあそうね。本部はそう判断した。他の傭兵部隊とまともにやり合えば損害が大きすぎる。安く引き受けた仕事のようだから、ここに増援しようなんて頭から考えない。だけど仕事だから、ただ、ほったらかしで撤退では今後の信用にかかわるから、何か派手なこともしなくちゃならない。ただ逃げるんじゃないということを雇い主に見せないとね。それが今回の作戦よ。プロ部隊がここに投入される前に、聖母作戦のフィナーレとして原住民部隊はBPのプラントを直接襲撃する」
「プラント?」
「競合地域にあった警備隊のキャンプと違って、プラント設備の警備状況ははんぱじゃないわ。あんたたちはそれに爆弾をかかえて突っ込む。わたしは直前まで指揮をとり逃げ出して、撤収地点に戻ればいい。プラントをぶっ壊すことができれば、BPの開発計画は少なくとも数か月は支障をきたし、聖母作戦の証拠であるあんたたちはみんな死んでしまう。これで手をひいてもイピシブルに儲《もう》けは十分にある。一石二鳥の後始末になるわね」
「ひでえ作戦だ」
とぼくは言った。
「早いうちにわたしと別れていればよかったと思ったでしょ。もう遅いけどね」
そう言うとお母さんは厳しい顔になった。
「いまのあんたたちじゃ使い物にならない。いちから訓練をやりなおすわ」
「どうせなら、その雇われプロのやつらと互角にやれるくらいになりたい」
「当然、そのつもりよ」
とお母さんはいった。
「まかり間違って、プラント襲撃であんたたちを殺せない場合は、プロどもにその役がまわってくるんだから」
恐《こわ》いお母さんだった。だけど、お母さんはその時も一緒にいてくれるという意味なのだ。
お母さんも病み上がりのような状態だったから、いきなりきつい訓練にはならなかった。まず知識を叩《たた》き込まれた。たとえば、ぼくらは今までは捕虜を捕まえるなんてやったことがなかった。敵をつかまえるなんて無駄なことだ。殺してしまえばそれですむ。だけど本当は違うという。お母さんは捕虜の捕まえ方。生かしておく方法。拷問のやり方などをぼくらに教えた。お母さんの言うプロの部隊と闘うにはより多くの情報が必要だ。場合によっては取引もしなければならない。意外にも捕虜というのは大事なものだったのだ。
お母さんがふつうに動けるようになると、戦闘訓練がはじまった。プラント襲撃やプロと闘う訓練以前に、十二人に減ったぼくら自身の戦闘能力を回復させなければならない。六個の耳と目が潰《つぶ》されたのだから、それを残りの目と耳が補わなければならない。六本の手足ももぎとられている。補うには相当の訓練がいる。各自の役割分担の変更や、フォーメーションパターンの改良もおこなわなければならない。お母さんは生まれ変わることを要求しているのだ。
お母さんとぼくたちは死に物狂いで訓練した。以前の訓練よりももっともっと激しくなった。お母さんは訓練中はまるで鬼のようだった。まったく手加減がなくなった。ショウはあばら骨を折られたし、ぼくも危うく片目を潰されるところだった。気を抜いているとお母さんに殺されてしまうのだ。お母さんが気を抜いていたら、ぼくたちは殺してしまっているだろう。兄弟同士でやるときもそれにならって手加減がなくなり、毎日、何人かが怪我《けが》をした。ガンを使った訓練の厳しさも以前とは比べものにならなかった。これまでそれほど重視しなかった狙撃《そげき》、対狙撃訓練も再教育された。戦いの技術というのは段階があって、いくらでも奥があるように思われた。狙撃にたいする訓練では本当に仲間を狙撃し、仲間は本気で狙撃手を潰そうとした。ぼくはそのうちだれかが死ぬか、|ディフォーミティ《かたわ》になるだろうと思った。もう実戦とかわらないのだ。
「どうせ死ぬんだから、今死んだら?」
お母さんは平気でそう言った。たぶん、本気なのだ。言うお母さんのからだも傷だらけである。
お母さんはまた自分の髪の毛を半分に切った。近接格闘の時に再三、髪の毛を掴《つか》まれて攻撃されたからだ。みんな容赦がないので、このままでは命にかかわる。ぼくたちよりは長いけど、雰囲気が変わって見えた。前よりずっとこわい雰囲気だ。ぼくたちはお母さんの髪の毛を分けて、お守りのように身につけることにした。髪の毛を持っていかれることに、お母さんは最初は嫌な顔をしたけど許してくれた。
お母さんはちょっとでも動きが悪い者はグループから追放すると宣言している。それは一番こたえることばだった。これもたぶん本気のはずだ。それこそ死ぬより恐いことだった。お母さんは悪魔みたいに恐ろしい教官だった。
そのお母さんが夜になると女神様のようにやさしくなった。あれ以来、ぼくたちは順番にお母さんと一緒に寝ることになっていた。その日はぼくの番だった。
まだお母さんがぼくを抱いているのか、ぼくがお母さんを抱いているのか、よく分からない。そんなことはどうでもいいくらいお母さんはやさしかった。昼間のお母さんが本当なのか夜のお母さんが本当なのかぼくにはわからない。どちらも好きだから構わない。ぼくはやさしい方のお母さんを一生懸命に抱いた。
「いいわ、だんだんうまくなる。いいわね、男の子は鍛えれば鍛えるほどつよくなるから……」
とお母さんは言う。
「本当は今回の任務が終わったら、イピシブルをやめようかと思ってた。いつまでもやれる仕事じゃないから」
ぼくは話しながらする余裕なんかない。お母さんは息をあらくしながら言った。
「結婚でもしようかと思ってた。これでも、もてないことはないのよ。そして子供が生まれる。男の子が欲しかった。だって、育て甲斐《がい》がありそうなんだもの。女の子なんて駄目。わたしは女の子がずっと嫌いだった。自分が嫌いだったのよ。だから、傭兵なんていう無茶な仕事をしているのかもしれない」
ぼくは我慢できなくなったので入れた。お母さんは受け止めてくれる。
「わたしはしあわせなのかしら」
しばらくことばは出なかった。ただからだを動かした。お母さんの息づかいはとても可愛《かわい》いので、ぼくは好きだった。
「しあわせということにしとくわ。でも、こんなことしてると、あんたたちの子供が出来るかもね。もうピルはとっくに切れてるし」
ぼくはそれを聞いて、えっ、と声を上げた。
「子供ができるのか!」
「そんなことも知らなかったの? ああ、そっちのことはあまり教えなかったものね。毎日一生懸命やってるから、出来てもちっともふしぎじゃないのよ」
お母さんはぼくにキスをする。もちろん、口と口を合わせるやつだ。
「あんたたちはわたしの息子で、その子供なんだから、なんて呼べばいいのかな。へんな気分」
ぼくはお母さんの顔をなめた。一時の怪物のような腫《は》れはひいていたけど、太い傷が一本消えずに残っている。ぼくはその傷をなめた。お母さんのからだの味がするのだ。
ぼくはいつも以上にからだが熱くなっていて、もう滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にからだを動かした。お母さんは少し痛がった。そのうちお母さんは長くのびる声をあげる。お母さんのあそこがぼくを締めつけて、びくびくと動いた。ぼくはたまらなくなって出した。
「やっぱりしあわせなのよ」
しばらくして、お母さんはうっとりとそう言った。ぼくはなんだかうれしかった。ぼくとお母さんはそのまま眠った。夜の番の日には一晩中こうして絶対にお母さんを離さなかった。朝になればお母さんが悪魔に変身してぼくを蹴《け》っ飛ばすことは分かっている。
8
お母さんは支配地域の木に隠してあったイピシブルの通信機を使っていた。ボタンがたくさんついていて、丸い窓に記号や数字がうつる。それだけだと何のことだか分からないが、これはお母さんとお母さんの仲間が今回使っている暗号なのだ。ぼくだけ読み方の初歩を少しずつ教わっていた。
「あんたはおつむのできがいいからね。わたしがどうにかなったときはあんたがこれを使うのよ。知るべきことは知っておきなさい」
死ぬほど訓練して疲れ切ったあとにぼくだけ呼び出されて、通信の読み方、出し方を教わったから、おつむがいいというのもいい迷惑だった。だけど、お母さんにぼくひとりだけとくに物を教えてもらえるのは悪くない。
その日の通信は例のプラント襲撃作戦の決行の日時をしめしていた。
「ちっ。もうちょっと、訓練に時間がほしかったわね……」
とお母さんはつぶやいた。その数字を意味する記号の組み合わせが消えると、最後に5296、2360、2―5という数字が窓にあらわれる。そして消えた。この数字はイピシブルの収容艦が来る地点と時間を意味していた。それがどこだか、ぼくにはだいたい分かっている。お母さんとお母さんの仲間はぼくたちがプラントを攻撃しているときにここに向かうのだ。そして空に連れていってもらう手筈《てはず》だった。
「あんたたち、地獄に行く日が決まってるわよ」
とお母さんはみんなに言った。
「行かせられるものなら行かせてみろよ」
とコフは笑った。ぼくが言うのも何だが、みんな不敵ないいつら構えをしている。充実していた。
「これから携帯爆弾を取りにゆく、それからプラントに向かう。いいわね。言っておくけど爆弾を抱えて突っ込むのよ」
ぼくらはにやにや笑っている。ぼくらはそうならずにすむ計画をお母さんと一生懸命に練って、訓練をしていた。
お母さんはプラントの図面を持ってきて見せてくれた。これは人間が攻撃する場所ではなかった。もっと大きな機械の兵器が攻撃すべきものだった。それをぼくらがやらなければならない。離脱する計画を立ててその通りにやったとしても、それでも、ぼくらが生き延びる確率はきわめてひくいのだ。自殺作戦として行われるのだから当然だ。このジャングルの各地域にいるというぼくらと同じ原住民部隊が同時に襲撃する。図面の上での考えでは、プラントを爆破すること自体はそう難しくはない。警備部隊や警戒システムをたった一人でいいから潜《くぐ》り抜けて、中心近くにある駆動炉に爆弾を投げつければすむ。状況にもよるけど、ぼくらには不可能ではない。ぼくらの仲間たちにもこれくらいはできるだろう。ただしプラントが大爆発した後がたいへんなのだ。周辺は火の海になるのである。放射能とかいう見えない人殺しの光もあたりに散るのだ。だれも生き残れない。ぼくたちを捨て殺しに使う作戦なのである。
ぼくはイピシブルのくそ野郎どもが憎くて仕方がない。こんなばかくさい作戦にぼくらが参加するのはただお母さんが、やれ、と言うからである。そして一緒にいてくれるからだった。お母さんが死ねと言ってくれたから行くのである。他の部隊はお母さんなりお父さんは、子供だけを攻撃に出して自分は逃げるのらしい。そして撤収地点からさらに空の上まで逃げてしまうのだ。他の子供たちはあわれでかわいそうだと思う。イピシブルのやつらには腹が立って仕方がないし、子供だけを自殺作戦にやって、行ってしまう親の教官どももくそ畜生だ。やっぱりぼくたちのお母さんだけが本当のお母さんだ。
ぼくたちは最後の作戦に出発した。目的地は競合地域の奥深くにある。その手前には山があってヘリがビュンビュン飛んで来る地域だからこれまで避けていた。プラントはその向う側だ。とても遠く感じた。長い行程になりそうだった。ぼくらは木の実をくりぬいて作った水筒を一人につき二つぶらさげた。携帯食に作ったシロの実をすり潰《つぶ》して薄く固めて干したせんべいを腰の袋につめこんである。
新しく生まれ変わったぼくたちの部隊は普通はニチームに分かれているように見える。右チームのリーダーがコフで左チームのリーダーがぼくということになる。このような戦いに慣れた敵なら、そう見抜いて対二チーム用のフォーメーションを作るだろう。でも、じつはニチームのように見えるというのは形ばかりのことである。ぼくたちは一個の生き物なのである。一人一人に同じ意味があって、同じ考えで動いている。みんなはかゆい所に手がとどくように勝手に動き、ぼくもみんなのかゆい所をかくように勝手に動いている。指暗号もほとんど使わない。前にも調子がいいときはこんなふうに動いていたけど、今はそれがさらに進んでいた。アメーバのように動ける。ぼくはアメーバというのを見たことはないが、形があって無いようなぐにゃぐにゃした一つの生き物だそうだ。お母さんがぼくらにつきっきりになって、訓練をかさねたからか、ぼくたちを抱いて寝たりするようになったからか、お母さんもぼくらのアメーバの中に溶け込めるようになっていた。完全にひとつの生き物になれた時の気分は最高によかった。お母さんとぼくたちは同じひとつの生き物になることができるのだ。なんか心があったかくなって、泣けてくるような、いい気分になる。もう戦闘なんてどうでもいいんだけど、ぼくたちは戦う生き物だから、自然に考えて動いて、敵を殺すのだ。コフの言うように、「どんな敵でもあっと言う問に」殺すことができるような、そんなことは当り前だというふしぎな気分になる。
ぼくたちはまずお母さんの先導で支配地域の南側に行った。そこで小型の爆弾を受け取るのだという。
「わたしたちが一番乗りみたいね」
とお母さんが言った。あたりには草色の落下傘のついた箱がいくつか落ちている。お母さんの指示どおりに箱を開くと、中には四つの機械が入っていた。これが爆弾らしい。ベルトがついていた。一人一個ずつ腰に巻いた。イピシブルの小型の艦がさっと来て、これを撒《ま》いて逃げていったのだ。
「スイッチを入れないと爆発しないけど、扱いには気をつけるのよ。弾丸が当たったくらいじゃ爆発しないからまず安心だけど」
お母さんも腰につけた。
「じゃ、行くわよ」
ぼくたちはプラントに向かう。
進むのはかなり時間がかかった。何しろBPの警備兵が通る道は使わないから、道のないところをゆかなくてはならない。枝や蔓《つる》がびしびしと邪魔をする。音がしないようにナイフで刈りながら、慎重に進む。
「まだ作戦開始まで十分に時間がある。わたしたちだけ早く到着したって意味はないからのんびり進めばいいわ」
とお母さんは言った。やがて競合地域に入りことばは使わなくなった。
なるべく敵と闘わないというのが今回の方針だったから、敵に会ってもやりすごした。ぼくたちは石にも木にもなることができるようになっていた。三十人ばかりの敵がぼくたちの一メートル前を通り過ぎていったこともあった。まったく気づかれなかった。ただ、センサーを持ち歩いている敵もたまにいるから、そういう時は先に殺していかねばならない。ぼくらはつねによりはやく敵を発見できるから、後は状況次第ということだ。
ぼくらは山にのぼってみることにした。プラントの全景が見えると思ったからだ。山はけっこう傾斜があって、ある高さ以上は道がない。きびしいのぼり方をしなければいけなかった。全員で行くのをやめてお母さんとぼくとサクだけ、もっと上にのぼった。尾根までのぼって木々の切れ目からプラントを見ることができた。生まれて初めて見る巨大な人工の建物だった。建物自体の形は丸く、その周りを防御施設や柵《さく》が何重にも囲んでいる。その色は白と青で、きれいな丸い模様のようだった。前にもいくつか敵の基地を襲ったこともあったけど、それらとはけた違いだ。お母さんの図面通りなのだが、実際にみるととんでもない代物で、はたして襲撃なんかできるんだろうかと思った。
「あんなもの作って、なにしてるんだろ」
とサクが言った。
「ボーリングしたり、いろいろ……。この星はお金になるのよ……」
お母さんも難しい顔になっていた。ぼくたちはしばらく見てから、おりていった。
ぼくたちはさらに進んでいった。このあたりにも村の跡があった。だれも住んではいなかった。ぼくらの中にはここに住んでいた者はいなかった。お母さんも何も言わない。村を出るとき、突然、人の気配を受け止めた。静かで目には見えないけど、ざわついた気配が肌にふれた。ぼくたちと同じ匂《にお》いのする気配だった。
(たぶん、仲間の部隊だわ)
とお母さんが知らせた。明日の夜にこの土地で鍛えられたすべての部隊がプラントを襲うのだ。集まり始めている。お互いにべつに話すこともない。ぼくたちは闘うわけを知っているが、その仲間たちは何も知らずに闘うのだ。だからなおのこと話すことはなかった。姿をあらわさないまますれ違おうとした。お母さんがぴたっと止まった。何かを発見したのだ。ぼくたちを手でとめた。ぼくたちは思い思いに隠れた。
お母さんは村の真ん中に出て立った。少し心配だけど、周囲には敵の気配はない。そのうち森の中から戦闘服をつけた女の人が抜け出てきた。お母さんの仲間のイピシブルで特殊戦の教官の一人なんだろう。そして今村の向こう側の森に隠れている子供たちのお母さんなのに違いない。その人は背が高い。角ばったからだつきをしていた。肌の色は黄色に近く、おっぱいがちっとも出ていなかった。顔も筋ばっていて、きんきんした声を出しそうだ。だけど、戦えば恐ろしく強いだろうとは思った。動きを見ればだいたい分かる。
森の中でフォーメーションをとって息をひそめてお母さんをうかがっている向こうの子供たちの様子が感じられた。なかなか鍛えられていそうだし、ぼくらよりも数は多いようだ。でも闘えばぼくらが勝つだろう。ぼくは勝手にそんなことを考えていた。
「久しぶりね。ハディ、元気だった?」
とお母さんは目の前にいる女の人に声をかけた。
「マリアだったの。どうしてこんなところにいるのよ」
「あなたこそ」
二人は顔を見合っていた。
「子供たちだけをやるのは心配だからね」
とお母さんが言った。
「じつはわたしもなのよ。ぎりぎりまで一緒にいようと思ってね。甘いかしら」
ハディという女の人はそう言った。
「わたしは最後まで一緒にいることにした」
ハディはおどろいたような顔をした。
「本気なの?」
「本気よ。ハディ。さしずめ大甘というところかしら」
「……気でも狂ったの?」
ハディというお母さんは固い表情できいた。
「そうかもしれない」
「爆発から逃げられないわよ。生き残ったとしても上にばれたら銃殺ものだわ」
「あなた、ばらす?」
お母さんがきいた。ハディはちょっと考えた。
「自分から黒焦げになりたいっていうんだから、止めてもしょうがないわね。撤収の時に、あんたのことを知らないかときかれた場合は言うかもしれない」
「わたしに払う分のギャラが儲《もう》かるんだから、善ぶんじゃない?」
「イピシブルもそれほどけちじゃないわよ。それにあんたくらい腕が立てば、給料の問題じゃないしね……。とにかく死体は捜すでしょうよ」
ふたりは笑い出した。何がおかしいのかぼくにはわからなかった。お母さんの顔はぼくの位置からは見えない。ハディの顔は見えた。あまり楽しそうな顔はしていない。
「あんたみたいなプロが、どういう心境の変化か知らないけど、ま、聞かないでおくわ。それにしても男どもはクールなものよ。自分が手塩にかけて仕上げた女の子たちについてきてもやらない。情がうつるなんてのがないのかしら」
「逆かもね。別れがつらいから、ついてこれないんじゃないの? どのみち聖母作戦も厳父作戦も失敗のようよ。作戦に感情を利用したら、利用したほうも感情にとらわれる。戦場に感情を持ち込むのがそもそも間違いだった」
ハディはしげしげとお母さんをながめた。
「変わったわね。マリア、前は鉄みたいな女だったのに。愛情だの母性だのとは無縁だとばかり思っていた」
「お互いさまよ。ハディ、あんただって氷みたいな女だと思っていた。そうでなきゃ戦争なんていう商売はつとまらないはずだったのに」
「…………」
お母さんとハディはしぜんに握手した。それから敬礼しあった。
「マリア、うらやましくないこともないわ。わたしはそこまで思い切れないのよ」
お母さんは首をふって見せた。
「思い切ったというより……。これでも、たいへんだったのよ。すごく……ね」
ハディはお母さんから遠ざかっていった。やがて森の中に見えなくなった。森の中の連中も、それとともにジャングルに溶け込んでいった。
ぼくらは村の小屋の下とか、屋根の上からごそごそと出てきた。
「あれはお母さんの友達だったのか」
とぼくがきいた。
「ライバルよ。会えばけんかしていたわね」
「お母さんの勝ちだな。お母さんのほうがきれいだ。おっぱいも大きい」
お母さんはぼくの頭を指で突いた。
「そんなことを森の中にいたハディの子供たちにきかれてごらんなさい。殺し合いになるわよ」
「そしたら、皆殺しにするさ。おれたちの勝ちで、つまりは母さんの勝ちだ」
とコフがのそっと言った。するとお母さんはコフを叱《しか》るように言った。
「あの子たちはあんたと同じこの土地の人間なのよ。簡単に言うわね」
コフはせせら笑った。
「きれい事を言うなよ。もうおれたちは戦うしかないんだろ。それにそんなことはどうだっていいんだ。母さんさえいてくれれば、イピシブルだろうがBPだろうが、おんなじ仲間だろうが、どうだっていい。戦って殺してしまえばいいんだ」
お母さんは一瞬、目をきつくした。でもすぐにあきらめたような顔をした。ぼくらを情け容赦ない戦士に鍛え上げたのはお母さんで、いまさらどうしようもないことは確かだからだ。コフの言い分はぼくらみんなの気持ちを代弁している。どうせぼくたちはお母さんの操り人形になるために拾われたのだ。知っていても知らなくても納得しているのだから同じだ。ぼくたちにとってはお母さんだけが重要なんだ。
「わたしの教育方針がまちがってた」
とお母さんは言った。もうためらった顔はしていなかった。それを最後にことばを使うのはやめてサインに切りかえた。
夜明け前だ。攻撃開始の直前だった。ぼくらだけではない。プラント周囲に潜んでいる聖母の部隊と厳父の部隊はぎりぎりに緊張していた。数分後にはプラントに突撃する。まず見えている警備兵を到す。柵を爆破し飛び込む。防衛施設として四角い小屋がジグザグに立っている。その中には警備兵がいて撃ってくるだろう。その警備小屋と基地の自動警戒システムが連携して撃ってくるだろうから、そこで襲撃隊の三分の二は黒焦げの血みどろになって転がる。そこを越えた者はプラント内のパトロール部隊と交戦しながら進む。どこかのだれかが突破するか、別のルートから駆動炉までたどり着き、爆弾を投げ込む。それをやるのはぼくらのチームのだれかかもしれない。ぼくらは自殺作戦だろうと、手を抜くつもりはない。お母さんの鍛えたぼくたちはこの襲撃隊中で最強の部隊でなくてはならないからだ。お母さんも一緒に突入するんだ。その前で恥ずかしい真似《まね》ができるはずがない。
爆発後は駆動炉は安全システムが作動してほんのしばらくの間は震えてうなり続けるだろう。だけどこの高性能爆弾は一発の爆発で終わるちょろいものではない。二回、三回と連続して爆発する。そのうち一回は音も光も出ない特殊な爆発だとお母さんは言っていた。そして、たまらなくなった駆動炉は火を吹きあげる。プラントの周囲にいるすべての人間が爆風と熱と放射能の餌食《えじき》となるのだ。そこから生き延びられるか。ぼくにはわからない。
だけど、お母さんとぼくたちは何とか可能なかぎり生き残るための方法を考えて訓練してきた。爆発をくらって、駆動炉がうなる時間が最低でも三分、四分はあるという。その間にこのプラントにいくつか設置されているシェルターをさがして飛び込むことだ。そこならば爆発と放射能をしのぐことができるという。ただシェルターごと吹っ飛ぶのなら、その時はしょうがない。シェルターの位置はお母さんの図面に出ていなかった。その場で捜し出さなければならない。お母さんはこういう建物についての知識があるので、シェルターの作られがちな場所を二点に絞って印をつけた。ぼくらは目的達成と同時にここを捜して飛び込むのである。
「これが外れなら残念ながらおしまい。あとは野性のかんで捜してちょうだい」
とお母さんは言った。だからこれはばくちだ。三分以内にシェルターを確保できなければ死ぬ、それだけのことだ。
「お母さん」
とぼくは小さな声で呼んだ。
「なに」
とお母さんは言った。
「もしおれが生き延びることができたら、撤収地点に行ってイピシブルの奴らを艦ごとやっちまうつもりだ。この爆弾はいっぱい余るだろうから。使えるな。お母さん、手伝ってくれるか?」
お母さんはためらいなく言った。
「いいわよ。わたしの作戦につき合わせているんだから、次はあんたの作戦にもつき合ってあげないとね」
ぼくはうれしくなった。とびあがって喜びたいところだが、いまはそういうわけにもいかない。
これは、生き延びないと面白くないとぼくは思った。もちろん、お母さんもコフもシンもサクも兄弟みんなで生き残るのだ。お母さんがぼくらを殺してくれるまでずっと一緒にくらすのだ。お母さんはお母さんであり、お母さんは女であり、またぼくらの恋人であって一緒に暮らすことは自然なことだ。家族なんだから。
「お母さん、おれ……」
ぼくは大事なことを言おうとして、途中までしか言えなかった。襲撃が開始された。ジャングルから、草むらから、塀のかげから、ぼくたちの仲間が無言で一斉に走り出した。
(行くわよ)
お母さんも走り出した。後で言えばいいか、とぼくは思った。すっと意識も感覚も戦闘状態に入った。警戒のサイレンが鳴り始める。
どんぱちがすぐに始まった。レーザー機銃の破裂音と発光。爆発。血のにおい。急行してくるパトロールのやつら。ぼくはバヨネットを付けた火薬ガンの小銃を持っている。丈夫だからこれで殴ったり突き刺したり、もちろん撃ったりできる。手当たり次第に突き、切り殺していった。みんなも生き生きとあばれている。ぼくらは一つの生き物だ。どの部分がどう闘っているか自分のことのように把握している。お母さんはよそゆきの動きをしていた。あれほど凶暴で容赦のないお母さんは見たことがない。やはり訓練中とはぜんぜんちがった。それだけによそゆきにきれいだった。敵はとぼけたような顔をしてお母さんに殺されていった。
敵もだんだん増えていく、どこかの部隊が柵を爆破し、警備システムと闘っている。まだ暗い中でぼくたちはただ黙って狂ったように闘い続ける。敵の図体の大きいのを一発で串刺しにしたけど、ナイフが腹から抜けなくなった。横から敵が走ってくる。ぼくは引き金を引いた。銃弾が飛び出し大男の腹にめりこみ、その反動でナイフはするっと引き抜けた。横からきたやつはあわてて撃ってきたので、ぼくはすばやく転がって逆に撃ち殺した。弾が頭に当ったので脳味噌《のうみそ》と血がばっと吹き出て白い壁にべっとりと張りついた。
通路の柵を全部壊したところで、自動警備システムが本格的に作動し始めた。四角い小屋からもひっきりなしに撃ってくる。仲間がばたばたと倒れていった。女の子もいる。男の子もいる。ぼくたちと同じ肌の色。同じ匂いをもっている。まだぼくの兄弟はだれも死んではいない。さらに進んだ。自動システムは稼動範囲につねに盲点を生じる。的は止まっていないし、一度に二方向を狙《ねら》えないからだ。ぼくらはこれを想定した訓練どおりに自動システムをぎりぎりでかわしている。他の部隊はそこまで徹底した訓練をしていなかったのか、殺傷される数がぐっと増えた。ぼくらは内部の通路に飛び込むことができた。
突然、目の前が光った。爆発がおきた。駆動炉の爆発じゃなかった。だれかの携帯爆弾のスイッチが何かの拍子で入ってしまったのだろう。ぼくは壁まで吹っ飛んだ。吹っ飛びながら今の爆発のあおりで、ブンとシンが死んだことを感じていた。
(ばかやろう、簡単に死ぬなよ!)
ぼくはののしった。すぐに立った。だれかがぼくの腕をつかんで引っ張る。反射的に殺そうとした。それはお母さんだった。爆弾の二度目、三度目の爆発を避けなければならないことに気がついた。お母さんと横にそれた通路に飛び込んだ。爆発が起きて廊下を爆風が走っていった。あっ、とぼくは思った。今のでロクが死んだのが感じられた。お母さんに引かれなければぼくも死んでいたろう。三度目の爆発は見えない爆発だ。電子システムをぶちこわすための爆発なのである。
「行くわよ!」
お母さんは飛び出していった。ぼくも続いた。お母さんの後ろを走る。ぼくの後ろにはまだ生き残っているコフたちがついてきている。
廊下を敵の警備兵にはばまれた。すぐさま戦闘になった。こんなやつらにやられるようなぼくたちではないが、敵は数が多い。どんどん湧《わ》いてくるのだ。手榴弾《しゅりゅうだん》でも何でも使い、敵を崩してから撃ち殺したり、骨を砕いたりした。それでも敵の数は減らない。お母さんにあせりの表情が浮かんだ。
「駆動炉が爆弾を受けた!」
奥の方から敵のことばで叫び声がした。ズガーンという音が建物を揺るがした。他のチームがべつの通路から駆動炉にたどりついて、爆破に成功したのだ。手柄を奪われたような気がしないではない。
(さあ、ひきかえすわよ! シェルターを捜しなさい!)
あと、三分ということだ。ぼくらはすでに三人を殺されている。戟闘力はがた落ちだった。だが、死ぬものか。イピシブルのやつらに一泡吹かせるのだから。
お母さんについてぼくたちは走っていった。戦闘は、敵も駆動炉の爆発を恐《こわ》がっているので、減っていった。しかし、駆動炉爆発の危険を知らされていない他の部隊はまだ死に物狂いで戦っている。あちこちで戦闘が続いていた。かべに跳ね弾が起きるから、どこもかしこも危ない。通路の前方の敵がやけになってチェーンガンを持ち出したのが見えた。お母さんは手榴弾を投げてさっと伏せた。ぼくたちも続いて伏せた。でもほんの少し反応がおくれたサイがチェーンガンの高速の散弾を受けて腰から上を飛び散らせて死んでいった。手榴弾はチェーンガンを持ち出したばか野郎を吹っ飛ばした。ぼくたちは起きてまた走り始めた。前方にはオレンジ色の光がまたたいていた。はげしい銃撃戦がおこなわれているということだ。げんにそのオレンジのカーテンにとびこんだやつが、次の瞬間にはからだが幾つにもちぎれて、赤い霧をとばして消えた。
しかし、そこを通過しないとシェルター予想位置にゆけない。
「神に祈りなさい」
とお母さんは言った。
「何て?」
ぼくは怒鳴った。爆発音と銃声で、怒鳴らないと話が通じない。
「地獄より天国に行きたいって!」
そしてぼくらを振り向いて微笑《ほほえ》んだ。そしてぼくらはオレンジ色のカーテンにむかって走り始めた。ぼくとコフは手榴弾を転がすように投げた。そしてこちらに飛んでくる破片をさけるためかべに張りついた。手榴弾が爆発した。煙のため、オレンジの銃撃網が消えたかどうかまでは分からない。ぼくは一瞬迷った。
「ぼやっとしない! 突っ込むわよ」
お母さんは迷わずに走った。ぼくはやはりお母さんに従うのだ。なんのためらいもなくお母さんに言われればどこへだって行ける。走り抜けられるか、銃弾に撃ち潰されるか。どっちでも同じだ。お母さんと一緒なのだから。
「へへへ」
とコフが笑った。飛び込んだ瞬間、ぼくらをオレンジ色の熱がつつみこんだ。それでもお母さんはぼくの前を走っている。今ので何発くらったか、何人死んだか、もう、感じられなくなっていた。
「ケイ! シュン、コフ! 止まってはだめよ」
前の方で、お母さんの声がした。ぼくはまた走り始め、オレンジのカーテンにもう一度突っ込んだ。熱と痛みが走った。だけどまだ生きている。
「フ……ケイ……」
お母さんの声が銃声でかすれた。
「大丈夫だ」
ぼくは怒鳴ってお母さんの声のするほうに走った。痛みはないが、からだがひどく重くなったようだ。だけどまだお母さんを追いかけることはできる。すぐ先でお母さんはシェルターを開いて待ってくれているに違いないのだ。ぼくはそれがひどくうれしかった。シェルターはぼくらとお母さんの家で、ぼくはお母さんのところへ帰るのだ。戦いのつづきはそこで休んでからだ。
[#改ページ]
追跡した猫と家族の写真
ロジャーソン一家との付き合いは、一匹の猫の信じられないほど涙ぐましい冒険の旅を機縁として始まった。
当時、僕はアイビーリーグと呼ばれる、ある大学の研究室にいたのだが、ろくでもない研究に足を突っ込んでいた。今でもそのろくでもなさは世間様の認めるところではあるが、風あたりは当時よりは、やや弱くなってはいる。単刀直入に言うと「超常現象」というタイトルの研究を本気でやっていたのである。
だが、六〇年代にそんなものをやろうというのは自分で言うのもなんだが、実に度胸のいることであった。勿論《もちろん》、その頃、ユリ・ゲラーなどという人物のことは僕を含めて誰ひとり知るものはなく、超心理学などという看板もごくごく一部の酔狂な大学へ行かないと拝むことはできなかった。僕は先駆者ということになるのである。
ただし、生物学を少しやり、行動心理学という新しい学問に首を突っ込みつつ、研究室を根拠地として、滅多やたらに超常現象の事例を収集していただけであり、方針などというものは無かった。ニューヨークに幽霊が出たと聞けば飛んでいって取材し、自ら幽霊を目撃しようと泊まり込んでみたりする。ノースカロライナの田舎町にUFOが飛来したと聞けば、これまた現地調査を試みる。有り金をはたいてフィリピンの心霊治療の実態を調査し、バリ島ではポルターガイストを実際に体験して震え上がった。
真面目《まじめ》に博士号取得に励んでいる友人は、僕の真面目な調査を道楽だと決め付け、終《しま》いには馬鹿扱いして、奴は気が変だと周囲に言いふらし、教授には注意を受けるわ、ガールフレンドは逃げだすわでもう散々である。僕の味方は元海兵隊のつわもので頑固一徹のマーク叔父と僕の下宿の大家で信心深いデベロ夫人だけであった。
マーク叔父はやたらと勲章を見せびらかすのが欠点と言えば欠点であるが、僕が自信を喪失して現れると、
「男というもんは信念だぞ」
と景気よく励ましてくれる。といってマーク叔父は頭の古い頑固おやじであるから、僕の研究など露ほども信じてはいないのである。ただ、信念ありげな甥《おい》を気にいってくれているだけである。信念とは何であるかを自分の戦場体験を通してひとくさりぶつと、一杯やれと小遣いをくれる。
デベロ夫人は、ステラという粋な名前だが、その清らかな信仰生活から超常現象を奇跡と言い換えて信じてくれており、
「あなたのお仕事は、いつかきっと陽《ひ》の目を見ますよ。頑張りなさい」
と言ってくれる。帰り際にくれるカスタードケーキやクッキーは死ぬほど美味《おい》しく、僕は嬉《うれ》しくてキリストを賛《たた》えながらステラにキスをする。
さて、そんなある日、僕はゴシップ新聞の中にものになりそうな記事を発見したのである。ウインナーという名前の猫が、引っ越した家族を追って、なんと四〇〇〇キロの道のりを旅したというのである。四〇〇〇キロとは桁《けた》外れだ。ラッシーの何倍も苦労したことになる。しかもウインナーは名犬ではなく、足もとも危うそうなペルシャ猫であった。
この記事が眉唾《まゆつば》か事実かを確認するべく、僕はロサンゼルスに飛んだ。
ロスの郊外の閑静な住宅街で、歯科医を営んでいるロバート・ロジャーソン氏を尋ね当てた時、腹が減って死にそうになっていた。
ロバートは気さくな人で、僕が用件を言うと、大きな手で抱きかかえるようにして居間へ案内してくれた。
「珍しい研究をなさっておいでだ。面白い。非常に面白い」
その声には嘲《あざけ》りの響きはなかった。
「ウインナー君の件ですが。僕は率直に聞きますが、本当ですか?」
超常現象のフィールドワークには率直さが何より必要とされる。それと溢《あふ》れるような猜疑心《さいぎしん》もだ。
「本当だ」
ロバートはきっぱりと言った。
「嘘《うそ》だったら、わたしの歯をペンチでみんな抜いてもらってもいい」
「そんな拷問のようなことはしたくありません。失礼ですが、証拠を」
「まあ、信じられんのももっともだ。よろしい」
ロバートは僕の申し出に気を悪くした気配はない。
「アニー、ウインナーを連れておいで」
ロバートが奥へそう怒鳴ると、じたばたする音が響いてきた。
「ウインナーは人に抱かれるのが苦手なんですよ」
ロバートはパイプをふかしながら言った。
やがて、ウインナーがやってきた。しかし僕は研究者としてあるまじきことだが、問題の猫ではなく、猫を抱いてきた人間のほうに視線を貼《は》り着かせてしまった。
「ハーイ、こんにちは。えーと……」
「ウィザース、カイル・ウィザースです」
「こんにちは、ウィザースさん。わたしはアニー、この子がウインナーです」
僕は顔に血が上ってきて、真っ赤になったようである。アニーはおそろしくチャーミングであった。僕はいつまでもアニーの顔を見つめていたかったが、そういうわけにもいかないので、目線をぎぎぎと下降させて、ウインナーを見た。気怠《けだる》そうな太ったペルシャ猫がアニーの胸にしっかりと抱かれていて、僕は思わず嫉妬《しっと》を燃やした。
「こいつ、いや、この猫が四〇〇〇キロを踏破したと、信じろというのですか?」
僕は少々感情的になっていたようだ。
「確かに。わたしだってこれの姿を見たとき信じられなかった」
その時、ウインナーがもがいてアニーの腕からぼとっと落ちた。僕はほっとした。ウインナーはわずか一メーターの落下にもかかわらず無様に尻餅《しりもち》をついた。この肥満体では猫属の特技も使用不可能なのはあきらかだ。
「泣きましてね、アニーが」
「えっ、どうしてです」
「ウインナーを捜しに戻れってね。あの時は困った」
「いやだ。そんなに泣いていなかったわ」
アニーはロバートの隣に腰掛け、僕はやっと落ち着いてきた。
ロジャーソン一家は半年ほど前、ニューヨークからここロサンゼルスへ引っ越してきた。家具その他は先に送り出し、一家は列車でこちらへ来る予定だった。勿論、ウインナーを置き去りにするつもりはなかった。駅まではウインナーはおとなしくアニーに抱かれていたが、列車に乗った直後むずかりを起こして窓から飛び出し、駅の構内に走り去っていった。アニーはむなしくウインナーの名を呼び続ける。無情にも列車は始動を始めてしまっている。泣き続けるアニーをロバートと夫人のワイナはなだめなだめ旅を続けなければならなかった。
「アニーは泣くし、つられて、ボブも泣きだすし、車掌のやつが迷惑そうにしていたな」
ボブとは末っ子で生後七か月。まだベビーベッドの中にいる。
そして、ロスに来て数か月が過ぎようとしていた頃、ロバートの診察室に汚れてぼさぼさした毛をぶるっと振るわせながら、のっそりと現れた猫がある。モップで叩《たた》いて追い出そうとする看護婦を制止し、ロバートがおそるおそるその猫を抱き上げてみると、紛れもなく……。
「どうして紛れもないんですか?」
「首輪だよ。確かにわたしが付けてやったものだった。ウインナー・ロジャーソンのネームもしっかり入っている」
「首輪だけならだれかが悪戯《いたずら》することだってありますよ」
「さらにアニーが有力な証言もしてくれた。ウインナーのオチンチンのところにひとふさの赤毛のかたまりがあるのだが、アニーがしっかりと覚えていて確認してくれた」
「ほう。オチンチンに赤い毛が」
見るとアニーは赤くなってうつむいている。
「なるほど。これは信用に値するケースのようです。実に興味深い」
僕は太鼓判を押してうなずいた。家族ぐるみで騙《だま》しにかかる悪趣味をしそうにも見えなかった。もっとも、僕は後日、ウインナーを目撃したという新聞売りの小僧を駅で見つけて裏付けをとってはいる。
僕はすでに腹と背中がくっつきそうなほどの空腹感に潰《つぶ》される寸前であった。とりあえず辞して、飯を掻《か》っ込んでまたお邪魔するほうが醜態をさらさずにすむだろうと考えている。僕は、そんなに悪い育ち方をした覚えはないのだが、ひとに言わせると食事の仕方が「飢えに飢えて親兄弟をも殺しかねない豚」のようだそうだ。僕は空腹に弱い。
それでは、また明日にでも伺います、と言おうとしたとき、悪い拍子にロジャーソン夫人ワイナが奥から出てきて、
「まあ、夕食を召し上がっていってくださいな。腕によりをかけていますのよ」
と言った。ワイナは顔立ちはアニーそっくりで、いや、アニーがワイナにそっくりで、つまり、アニーは母親似であり、とにかく、そうである。ワイナは豊満な体格をしており、アニーはいまでこそ細っこいが歳《とし》をとればあのように豊満になるのだろうと想像した。僕は太った婦人が嫌いではない。子供の頃僕を可愛《かわい》がってくれた家政婦のジルも頼もしい体躯《たいく》をしていたものだ。僕はジルが大好きだった。
それは、今はどうでもいいのである。食事を共にすることだけは避けたいと思い、遠慮の言葉を口に上らせようとしていたら、アニーまでが機先を制するよう竺口った。
「ウィザースさん、お母さんの料理は天下一品なのよ。是非食べていって下さいな」
(むむ……)
これでは帰るわけには行かない。
「喜んでいただいていきますよ」
と言っていた。
さて、ロジャーソン家の夕食が始まった。まずいことに料理は実に美味《うま》そうで、よだれが出そうになった。テーブルの正面にロバートが座り、その少し左にワイナが座り、アニーは僕の隣に座った。僕たちが食前の祈りをしているとき、ウインナーは無作法にもテーブルの下でひとり皿をぴちゃびちゃ音を立てなめていた。
だが、食事開始後五分もすると、さらに無作法な僕がロジャーソン一家を唖然《あぜん》とさせていたのは言うまでもない。必死で制御しているつもりであったが、日頃の習慣はそう簡単に矯正できるものではない。後でアニーがくすくす笑いながら言うには、「まるで、水牛が渇きの悪魔に憑《つ》かれて、オアシスの水に頭から突っこんで狂い回っている」ようであったらしい。可愛い顔をしているくせになかなかきつい喩《たと》えを心得ている。
僕がふうと一息ついてナプキンで口もとを拭《ぬぐ》ったとき、ロバートが言った。
「な、なかなか、ワイルドな食い方だ。男らしくていい」
ワイナは、ええ、ええ、と顔を引き攣《つ》らせて相づちを打った。僕はようやく、「やってしまったか」と後悔のほぞを噛《か》んでいた。そろりと隣のアニーを見やると、お腹《なか》を押さえて必死で笑いを堪《こら》えていた。僕は、こうなれば致し方ないと開き直った。
「失礼しました。この作法は去年バリ島に行ったおりにむこうで習ってきたのです。やはり、文明国には向きませんか」
と言った。ついに耐え切れずアニーが吹き出して、続いて僕も吹き出して、一家全員で大笑いを始めた。僕は、笑ってごまかせたとは思ってはいない。その証拠にウインナーはあくびをしているし、ボブはベッドの上で泣き出した。
僕は無作法な食事癖のおかげで、一瞬にしてロジャーソン一家とうちとけることができたのであった。災い転じて福となすという事例の代表例である。
「ウィザース君、今夜は泊まるあてはあるのかね」
とロバートが訊《き》いた。
「ええ、まあ、こちらに来たときはスプリングトンホテルに泊まることにしていますが」
「スプリングトンといえば、空港のそばのかね」
「そうです」
「ここから行くのは時間の無駄ではないか。うちへ泊まって行きなさい。狭いが客室はある」
今ではこういう家庭は少なくなった。なにしろ世間は物騒だから。しかし、当時の人情は古き良き頃とそう変わっていない。僕は厚く感謝を述べて、その申し出を受けた。
スゥイング・ジャズのレコードが流れる中で、僕は一家と談笑し、ワイナと踊り、次にアニーとも踊った。ロバートはヘネシーの栓を開けて僕に振る舞ってくれた。酔っていい気分になった僕は「超常現象」研究の苦労話や、事例収集中に数々騙されたことを長々と喋《しゃべ》ったらしい。
ワイナとアニーに両脇から抱えられて、客間に運ばれた。ロバートと僕は少々酒を入れ過ぎてしまった。僕は「可愛いアニー、愛《いと》しいアニー」などと数回口走ったらしく、翌朝アニーと顔を合わせたとき、彼女が恥ずかしそうな顔をしていたのを不審に思った。後でワイナに聞いてこっちこそ赤面したものだ。
夜中、どうにも息苦しく、寝返りもうてず苦しんだ未、目を覚ますと、目の前に途轍《とてつ》もなくでかい毛の塊があった。僕は、わっと言って半身を起こした。苦しいはずだ。ヘビー級ペルシャのウインナーがいつの間にか僕のベッドの上を今夜の寝床に定めていたのである。しかも、僕の顔のほうに尻を向けてである。
「なんて野郎だ」
と僕が呪《のろ》うと、ウインナーは人懐こく、にゃあんと言った。そして、図々しく僕の床の中に入ってきた。僕はウインナーにも気にいられたらしい。
「お前、本当に四〇〇〇キロを追って来たのか?」
と僕が訊くと、また、にゃあんと言った。イエスと言ったのだと僕は思った。
結局、ロジャーソン一家の人情に流され、アニーの魅力に引かれ、ウインナーに留められ(たと僕は信じている)、一週間も滞在してしまった。一度だけアニーとデイトした。近所を散歩しただけであるが。
二人きりになると急に何を喋っていいのか分からなくなり、困った。それでもなんとか話題をつないだ。そのうちウインナーのことを話していた。
「ウインナーの件は、僕が集めた中でもかなり重要なケースだと思う。昔から、捨てた犬や猫が帰ってくる話は多いだろう。連中には帰巣本能があって、一度居た場所にならなんとか帰ることができるんだ。捨てられて来るときに道筋や大方の方角を頭にいれてしまうからだと言われている。だけど、ウインナーの場合はまったくそれらとは違う。ウインナーは一度も来たことのない場所に、四〇〇〇キロも離れた君たちの引っ越し場所にどういう方法か見当もつかないけど、辿《たど》り着くことができたんだ。信じられないような話だ」
「そう言われるとそうね。ほんとに」
「似たようなケースは僕が調べた限りでもいくつかある。一六〇〇年に謀反を企てたかどでヘンリー・リオセスリー伯爵という人物がロンドン塔に監禁されたんだが、六〇〇キロほど離れた伯爵の領地から愛猫がやってきて、伯爵の幽閉部屋の煙突の穴から現れて再会を果たしている。これは今となっては正確な裏付けは取れないがね。
まだある。第一次大戦の頃、フランス戦線に送られたイギリス軍のジェームズ・ブラウン一等兵がアルメンティーエール近郊の塹壕《ざんごう》で激戦を繰り返しているとき、愛犬のアイリッシュ・テリアがひょっこり現れた。このテリアはプリンス君というんだけど、プリンス君はイギリス南部を三二〇キロ旅して、ドーバー海峡をどういう手段を使ったのか不明がが首尾よく渡り、弾丸の飛び交う田舎町を駆け抜けて主人のいる塹壕に辿り着いたことになる。これも凄《すご》い。動物学者はこういう事例に当るとただ首をひねるか、信用しないかのどちらかの態度を取る。僕は信用する。そしてできるだけ多くの事例を集めてその魔法の種を解き明かそうと思っているんだ」
現在なら「サイ追跡」という用語をこの種のケースに当てることができる。要するに、超感覚的知覚で飼い主を追跡したと仮定するのである。この時は勿論そんな洒落《しゃれ》た言葉はなく、僕は動物の生得の超常能力のようなものの存在を想像していたに過ぎない。
「へえ、不思議なことがたくさんあるのね」
「うん。こんなことは僕の研究対象のごく一部なんだけど、これだけでも手に余るって感じがするな。君もハイスクールで動物学を学んでいるだろうが……」
「あら、わたし、ハイスクールじゃないわよ。二年まえに卒業しているわ」
「えっ!」
僕は正直言って驚いた。アニーは見たところ十四、五にしか見えない。ハイスクールでも違うかなと思っていたくらいである。アニーは軽く僕を睨《にら》んだ。
「今はナースになるための勉強をしているのよ」
そう言われると急にアニーが大人っぽく見え始めて、どぎまぎした。
「失礼。ごめん」
「ふふ。わたしっていつも歳より若く見られるの。根が子供だからかも知れないわね」
アニーはそう言って笑みを浮かべた。僕はこの時、はっきりとアニーを愛していると思った。
別れの時がきた。
「大変お世話になりました。とても楽しかった。こちらへ来たときまた寄らせて頂きますよ」
とその朝僕は型通りの挨拶《あいさつ》をした。型通りの挨拶の後、言った。
「ロバート、ここで、何ともない患者の歯を抜くのに飽きたらまた引っ越しなよ。今度は僕のいるボルチモアにさ。ウインナーを置き去りにするのを忘れちゃいけないぜ」
すると、ロバートはにやりと笑い、
「下らない与太話を集めるのに飽きたら、こっちへ来いよ。アニーをくれてやるから、真面目にカー・セールスでもやるんだな」
と言った。そして、ふたりで抱き合いながら大笑いした。
「寂しくなるわね。ウィザースさん。また是非いらしてくださいね」
「ああ、ワイナ、お料理の味は忘れません。面白い話を見つけたらお手紙でお知らせしますよ」
僕は僕の両腕にも余るグラマー美人のロジャーソン夫人を抱き締めてキスした。ついで、ベビーベッドのボブに今度野球を見に連れていってやるといい加減な約束をした。僕はわずかの間にロジャーソン一家の虜《とりこ》となっていた。不思議な魅力があふれるような明るいファミリーは僕の憧《あこが》れでもあった。
「わたし、カイルを送っていくわ」
とアニーが僕のファーストネームを呼んで言った。
「ああ、そいつがいい。この貧乏野郎を乗せていってやりなさい」
僕は当時さる科学雑誌の編集のアルバイトをしながら毒にも薬にもならぬ研究を続ける好事家学生であったから、当然貧乏であった。しかも、稼いだ金のほとんどは取材費用として飛んで行く。ロバートにはそれがお見通しだったのであろう。我ながらよくも極道な暮らしをしていたなと今になって思う。もっとも、今でも僕の研究は一般学会では色眼鏡で見られている。とすれば、僕はまだ堅気の学者ではない。
「ただし、そいつが手をだそうとしやがったら、容赦なく……」
手でピストルの形を作って見せた。
「馬鹿なことを言うものじゃないわよ」
「ご心配には及びません。こんなものを攫《さら》っていくような物好きではありませんよ」
あくまで冗談の応酬であって、毒はない。とにかく、ロジャーソン一家と僕はこれくらい親密になっていたということだ。
「おっと忘れていた」
この訪問の主役のはずのウインナーは、さっきから僕の足元に身体を擦りつけて待っていた。僕はぐっと腰を落とし力を入れてウインナーを持ち上げた。とても抱き上げたという感じではない。
「お前はダイエットでもしろ。またな」
ウインナーは名残惜しそうに、にゃあんと言った。
アニーの運転するフォードは凄い勢いで住宅街を抜け出て、町中を疾走した。顔を見ると、むっとしているのがわかった。
「アニー、どうしたんだい。荒れてるな」
「こんなものを攫っていくほど物好きじゃないんですってね。ええ、わかりました」
僕はアニーが可愛くなって吹き出した。
「本当に根が子供だ」
「悪い?」
「いや、いいことだ」
やがて空港に着いた。
「ウィザースさん、じゃあね。シー・ユー・アゲイン」
とまだ怒っているアニーが言って、車に乗り込もうとした。
「ちょっと待った。まだお別れのキスをしていない」
「そうだった? 無理にしなくていいのよ」
僕は鞄《かばん》を下において、アニーに顔を近づけながら言う。
「お別れのキスとは言っても、さっきワイナにしたのとは少しばかり意味が違う」
「どういう、こと?」
「今度は君に会いに、迎えに来るっていう意味がこもっているのさ」
そして、柔らかい唇を塞《ふさ》いだ。アニーを離すと、またな、と明るく手を振って背を向けた。女の子はこういうキザったらしい態度でも、なかなか喜んでくれるものだと数少ない経験が教えてくれている。が、僕の背にアニーが叫んだ。
「だれが! おととい釆やがれ、糞《くそ》ったれめ!」
さすがにロバートの血を引いている。いざという時は下品を言える頼もしさがある。僕は振り向いてアニーを見た。その笑顔は、おととい来やがれ、などとは口が裂けても言ってはいなかった。その笑顔を僕は機内で思い浮かべてはほくそ笑んだ。
ロジャーソン一家を訪問しウインナーを調査し得たことは収穫だった。僕のファイルのうち動物の部には貴重な事例がひとつ加わった。しかし、この訪問においてウインナーの件は第二の収穫であって、メインではない。メインは勿論、アニーである。
再訪の約束はしたものの、僕の好奇心を刺激するケースが二つほど立て続けに起こって果たせなかった。ひとつはマイアミで起きたポルターガイストの調査である。シー・キャッチというガラス食器の製造会社の倉庫で、大勢の従業員が見ている前で、棚からひとりでに食器が飛び出して、割れて砕けたというのである。なかには、棚の上で、圧搾されたように潰れていたものもある。それが、数回に及び、悲鳴を上げた店主は牧師やら心霊術師やら物理学老やらを呼んだ。僕は物理学者のチームに混じって現地に飛んだ。
確かに僕の見ている前で、食器が弾《はじ》かれたように宙を舞い、割れた。同行していた奇術師は両手を上げて、「トリックはない」と言った。そのうち、店の者が妙なことに気が付いた。ポルターガイストは決まって発送係のキューバ系の少年が来たときに起こっていたのである。実験の結果、少年を遠ざければ破壊が起きないことが分かり、少年には気の毒なのだが、会社は少年を首にしてしまった。すると、ポルターガイストはあっさり収まった。僕はポルターガイストについても、十数のケースを見ていたので、人が言うように、少年に悪霊が憑いていたとは思わなかった。現在の僕ならば、少年にサイコキネシスがあったのだろうと推定する。ポルターガイスト現象は、そのほとんどが付近にサイコキネシスを持っていたらしいと思われる人物を発見することができる。僕の考えではポルターガイスト現象は精神分析学の治療領分であると思う。サイコキネシスを(無意識にだが)発動させる人間は必ず精神にいかんともし難い葛藤《かっとう》を抱いている。
もう一つは、人間蒸発である。これは、僕の対象ではないのかもしれないと最初は思っていたが、史上有名なマリー・セレスト号事件もあることだし、一応、調査対象に入れていた。アトランタ市にミニー街という場所があり、アパート街となっている。そのあるアパートの住人である若いカップルが突然いなくなった。単に、夜逃げをしたというのであれば問題はなく、また、誘拐されたというのならば問題はあるが、僕の仕事ではない。この件ではその夫婦は忽然《こつぜん》と消失したように隣人が証言しているのである。朝、二人と挨拶を交わした隣人が、その隣人は二人と家族のような付き合いをしていたというが、挨拶をして十分後くらいにもう一度部屋を訪れると誰もいない。出かけたのなら、住人の誰かが見ているはずである。また、キッチンでは作りかけのスープが沸騰していたし、テーブルには蓋《ふた》の開いたミルクとバターのたっぷりのったトーストが用意されていた。二人の行方はようとして知れない。警察もどう処理すべきか迷っているようだった。僕の調べた限りでは確かに、二人に突然何事かが起こり、何をする暇もなくどこかへ連れ去られたという感触であった。
僕はあまりにも掴《つか》みどころのないケースだったのでそうそうに引き上げた。とくに興味が湧《わ》かなかったこともあって、同じような事件のニュースを聞いても出かけなかった。しかし、僕はこれらを重要視すべきであったのかもしれない。この頃、アメリカ各地で行方不明者の数が例年になく増えていた。これは推測だが世界的な現象であったろうと考えている。ただ、よほど鮮やかに、証人の多い時と場所でなければ超常的蒸発とは認定しにくい。夜逃げ、誘拐と警察が判断した蒸発の中には超常的蒸発が多かったのではないかと思っている。
僕は筆不精を詫《わ》び、この二つのケースを最近の収穫としてロバートに書き送った。アニーには別に愛情こもった手紙を送っている。返事は二週間後に来て、ロバートは蒸発の件が面白いと書いていた。アニーは近いうちにそちらへ遊びにいきたいと書いてきた。一家が家の前で並んでポーズをとっている写真が同封してあった。アニーに会えるのかと思うと浮き浮きしてきた。
その年のクリースマスが目前になってきた頃僕はサンフランシスコで交霊会が催されるので見学にこないかと友人に手紙をもらった。この友人はジムというのだが、大学の同級生で歴《れっき》とした科学者の卵であったが、なんの拍子かキリスト教系神秘主義派の信者となり、学究の道を捨て、現在はオカルティストとして活躍している。ろくでもない著書が何冊かあるので、知っている人もいるだろう。僕のやっていることもはたから見れば神秘家のそれと同じであり、僕とジムは同類と見えるかもしれない。が、それは僕としては勘弁してもらいたいものだ。当時の僕は世界各地で偶発的に発生している、科学では説明の困難な諸現象の事例をできるだけ多く収集し、時には実験し、その背後にあるかもしれない法則性を抽出したいと漠然と考えていた。科学的作業の範疇《はんちゅう》の外のものではないのである。従来の科学者よりもかなり柔軟などたまをもっていないとできない科学的作業であると自負している。
ともかく、ジムとは友達であった。彼から誘いを受けたときまず思ったのは、シスコはロスに近いな、ということである。実を言えば交霊会についてはすでに嫌になるほどの資料が集まっていたし、僕みずからが参加したことも一度や二度ではない。インディアンや中央アフリカの土着民族の呪術師《じゅじゅつし》が見せる交霊などにはこれまで文化人類学的な意味しか見出《みいだ》されてはいなかったが、僕は文明社会でしばしば行われる交霊会ともある種の共通項があることを確認している。それなりに収穫はあり、僕も交霊会効果という仮説を立てるまでに至っていた。この手のものでまだ実見していないのは黒ミサぐらいだが、これは遠慮したい。
僕が見飽きている交霊会を見に行く気になったのは、ロジャーソン一家に会いたいがためであった。僕はそのことをさっそく手紙で知らせた。交霊会は十二月の二十二か二十三日に行われるので、間がよければちょうどイブの日にロジャーソン家に行けるわけで、これは素敵に気持ちがよい。僕がサンフランシスコへ出掛けようとする直前に、ロバートの返事を受け取った。電話で話をした。
「ちょうど、クリスマスという日を狙《ねら》うなんざ手が見え透いているよ」
「何の手が?」
「わたしの家でケーキと七面鳥とウイスキーにありつこうという手さ」
「見えていますか」
「見え見えだ。君がもう二度と来たくないと後悔するほどの御馳走を用意して待っているよ。はははは。みんな楽しみにしてるよ。とくにウインナーがね。ついでにアニーも」
「僕もあなたが死にたくなるほどのお土産を持参することにしますよ」
てな無駄口を叩き合って、切った。なかなかさばけたいい舅《しゅうと》だと思った。僕はクリスマスが非常に楽しみになった。ロジャーソン一家の暖かな団欒《だんらん》が思い浮かんだ。
ジムは前に会ったときよりも頬《ほお》が削《そ》げ、限光が鋭くなり、もともとかぎ鼻だった鼻がさらに目立つようになっていた。ジムはユダヤ系である。ユダヤ教の僧(厳密には僧とは言えないが)であるラビに雰囲気が似てきた。
「今、カバラに没頭しているからな。それが表に現れているのだろう」
とジムは言った。カバラとはユダヤ教の密教といったもので、オカルトには欠かせないものである。
「カイル、君も大分場数を踏んだろうに、まだ分からないのか。君のように科学に足を入れたままでは世界のことなど理解できるはずがない。現代の卑小なえせ科学にとらわれたままでは真理などつかめやしないぜ」
ジムは底冷えするような声で言った。こういう雰囲気を漂わせた人間には商売柄よく出食わすので、別に怖《お》じたりはしない。
「僕は個人的な真理を求めているんじゃないからね。一般に通用し得る法則を捜しているんだ」
科学的な態度とは理性的な態度のことだと僕は思っている。オカルトには理性を没した地点で真理を求める面がある。僕にはその点どうしても馴染《なじ》めない。
「真理を遠ざけるのは君の勝手だ」
とジムは憐《あわ》れむように言った。
交霊会の模様はこまごまと記さないが、退屈であった。眼前には非日常的現象が展開していたが、非日常的な力は存在すると確信している僕にとっては驚くべきことではなかった。
「これからロスへ行くのか?」
と交霊会の翌朝ジムが訊いた。僕はそんなことは一言もジムに言っていないので、少し驚いた。
「どうしてだい」
ジムは古代アラム語の(単にヘブライ語だったかもしれない)文献を傍らに置いてなにやら数字を操作していた。
「星回りが妙だ。もっとも今年は九十年に一度の帯の中に入っているから、このくらいでどうのこうのとは言えないが」
「僕がどうかするというのか」
「わからん。君は何かを見るかもしれない。何か起きたら俺に連絡をくれないか。今年起きることには注意しているんだ」
どうやらカバラの数字占いをやったらしい。僕の研究ファイルには「占術、予言の部」があるが、あまり進展していない。理由は事例があまりにも多すぎて手をつけるのが面倒だからである。プレ・レコグニション(予知能力)がらみと思われるケースを少しずつまとめているに過ぎなかった。僕は興味なさそうに、オーケーと言った。心はすでにロジャーソン一家に飛んでいる。
前夜、電話をかけたらアニーが出て、
「明日ね。用意万端整えているから。待ってるわよサンタクロースさん」
と言った。僕は真面目な口調で、
「愛してる」
と言った。アニーは小さな声で同じ言葉を言った。
ロサンゼルスの街は賑《にぎ》やかであった。そして、静粛でもあった。街中の教会は人で一杯のはずである。賛美歌を歌い、聖書を唱し、かのナザレの人イエス・キリストに思いを馳《は》せる。教会に行けなかった不心得(必ずしもそうではなかろうが)者も、各自の家で同じことを行う。
僕のような日ごろ不心得であり、かつ、あまり信心深くない信者は一年のうちこの日くらいは信心深くなって神様に許しを乞《こ》わねばならない。今夜は信心深くなるには絶好と言える場所でイブを過ごすことができる。三か月前はじめてロジャーソン一家を訪れたのであったが、今日は故郷へ帰るような気さえする。
僕はセント・ジョーンズ通りに面したバス停でしばらく待っていた。バスに乗るのではない。ここで待っていればアニーかロバートが迎えにきてくれるという寸法であった。約束の五時を過ぎたが、迎えは来なかった。僕は所在なげにベンチに掛け、通りを行く人々を見ている。日が暮れて、雪が舞って来たがロジャーソン家の救助隊はやって来なかった。
バスを何本かやり過ごした。その度に運転手は妙な顔をした。七時を過ぎた頃、ようやく僕は不安になってきた。遅れて、平謝りに謝るロバートを叱りつける楽しみどころではなくなってきた。
僕は次に来たバスに乗った。
バスを降りた僕は、駆け出すようにして坂を下り、走った。不安はどうしようもないほどに拡大していた。だから、あの懐かしいロジャーソン家にあかりがともっているのを見たとき、本当にほっとした。約束をすっぽかされた怒りがやや甦《よみがえ》ってきたが、安堵《あんど》のほうが大きかった。無事ならばべつになにも言うことはなかったのだ。
玄関先に立つと足もとをぞろりとしたものが、擦《こす》っていった。びくりとして下を見るとウインナーの巨躯があった。にゃあんと言った。嬉しそうな響きがあった。
「お前の家族はひどいやつらだぞ。僕をこんなに心配させた」
僕はそう言いながらノックした。だが、まったく返事がなかった。さらにノックした。暖かく笑いさざめいているはずの内部はひそとして物音一つしない。僕はドアを押し開けた。
部屋の中は暖かくいい香りに満ちていた。暖炉型のストーブはあかあかと熱を放射し、正面には着飾ったクリスマスツリーが輝いていた。僕はつかつかと踏み込んで、奥へ、玄関へ、客間へ、閉じているドアは叩き開けながら進んだ。人の声が聞こえた。居間であろうと入った。居間のラジオが賛美歌を低くしめやかに歌っていた。キッチンに踏み込んだ僕はもはや冷静ではいられなかった。テーブルの上にはまだ少しは熱が残っていそうな料理がきちんと並べてあった。オーブンの中には七面鳥が焼き上がったままで放置されていた。しかし、ロジャーソン一家の人々は一人もいなかった。
僕は恐怖にかられたように二階へ駆け上がり、すべての部屋を片っ端から開いて、明かりのスイッチを入れた。この家がまったくの無人であることを確認した僕はへなへなと座り込んだ。
「アニー、アニー、ロバート、ワイナ、悪い冗談はやめてくれよ」
わはははは、引っ掛かったな、と笑いながらロバートが現れるのを必死に祈っていた。男のくせに頼りないわね、とアニーがそこの階段を上がってきてくれさえすれば死んでもいいとさえ思った。
僕だからこそ、打ちのめされたようになっていた。普通の人なら、「どこへ、行ったんだ? 無用心な」で済むことであろう。だが、僕は知っていた。この状況は超常的蒸発とすべてが一致する。ロジャーソン一家は蒸発してしまったのである。
僕を覗き込むようにしてウインナーは身体を擦り寄せてきた。にゃあんと言った。僕を慰めているのだと思った。
「また置き去りにされたんだな」
と僕はつぶやいた。
ロス市警のフェルナンデス警部は、禿《は》げかかった頭を掻きながら途方にくれたように言った。
「旅行に出掛けるときは、近所に一言言っていくべきだ」
ひととおりロジャーソン家を調べたが、誰もいないということが分かるだけであった。僕は超常的蒸発の話などはしなかった。正気を疑われるだけであるからだ。
「争った跡はないです」
と警官が告げにきた。誘拐か夜逃げか。このケースはそういう不明確な答えを残したまま終わるのが常であった。あかあかと燃えていたストーブとか、食される寸前だったクリスマス料理とかは、不明確の中に一緒に処理されている。
「ミスター・ウィザース、君は本当に知らんのかね。ここの人達の行方についてだが」
フェルナンデス警部は訊いた。僕はありふれた誘拐であってくれたら、という希望をもって警察に通報したのである。もちろん犯罪誘拐と判明した場合は、それはそれで最悪ではあるが。
「今晩、ここで一緒に過ごす予定だった。僕自身、途方にくれています」
僕はウインナーを抱き上げて言った。
一通りの調べは終わったらしく、警官がひき上げ始めた。
「誘拐でもなさそうだな。何かがあって、家族で逃げ出したとしか思えん」
フェルナンデス警部は言った。逃げるにしても走って逃げたことになる。車はガレージの中にあり、ガソリンも十分に入っていた。
「明日になれば何かわかるだろう。君はしばらくロスにいるのかね」
「ええ」
「何か分かったら連絡しよう」
「お願いします」
期待はしていなかった。僕はウインナーを抱えてパトカーに乗った。ホテルに送ってもらうのである。
僕は打ちひしがれていたが、考えた。それしかできることはなかった。
超常的蒸発は僕のファイルの中でも特殊な位置にある。研究対象に果してなるかならないか分からぬままに収集している。例えばヒマラヤの雪男などは僕は無視している。動物学的な問題であろうと思うからだ。しかし、UFO問題は気をつけている。ユング学説が正しいかどうかは人間現象として興味があるからだ。超常的蒸発はそのどちらでもない。わからなさすぎるからである。集団幻覚の入り込む余地がある場合はともかく、それ以外の場合は広い意味での怪事件というべきで、超常現象か否かを判別すらできない場合が多い。
超常的蒸発で史上最も有名なケースとして知られているものにマリー・セレスト号事件がある。一八七三年十二月四日、帆船マリー・セレスト号がアゾレス群島付近を漂流していた。発見した船のクルーがマリー・セレスト号を調べたが、乗組員が一人もいない。嵐《あらし》に遭ったのでもなく、海賊に襲われたのでもなかった。船内は整然としており、乗組員がついさっきまでいて生活していたのが歴然としている。食堂には食べかけの食事が放置してあり、船長室の机には書きかけの日誌が開かれ、ペンが脇に転がっていた。結局、何らかの事件が起こり、船長以下全員が海へ飛び込んだのだろうと推測された。ただし、付近一帯には死体ひとつ発見されていない。
マリー・セレスト号事件はそのスケールと不気味さにおいて特別と言っていい。このほかの目ぼしいケースはたいてい一人かごく少数が神隠しにあったようにかき消えて、そのほとんどが誘拐か夜逃げという推測を否定することができない。マリー・セレスト号事件は海上の密室で起きたので謎《なぞ》が鮮明である。
他に当時ようやく話題となってきたバミューダトライアングルの蒸発があるが、これも超常的蒸発と分類してよいかは疑問である。
僕は超常現象研究をやめてしまおうと半ば決心しながら、まんじりともせず夜を明かした。ボーイに多額のチップを握らせ連れ込んだウインナーは屈託なく眠りこけている。僕はジムのことを思い出した。奴が頼りになるとは思わなかったが、連絡することにした。
「お前は薄情だな。主人の一家が心配じゃないのか」
ウインナーはルームサービスで取った食事をがつがつと食べている。なんの心配もしていない面が癪《しゃく》に触った。僕は食欲がなく、ただただめそめそしていた。超常的蒸発から生還した者が極めて少ないことが、僕を暗憺《あんたん》たる思いにした。僕はそのうちに疲れて眠っていた。夢の中にアニー、ロバート、ワイナ、ボブが現れたような記憶がある。僕は眠りながら泣いたらしい。
眠ったり起きたりして頭がぼーっとしていた。僕はロス市警に電話をかけてフェルナンデス警部にその後の状況を尋ねてみた。予想していたとおり、
「ロジャーソン一家が夜逃げをするところを見たものはいないし、駅や空港でもそれらしい人々は引っ掛からなかった」
と言った。家に地下室でもないかと調べてみたそうだ。警察でもお手上げであろう。近いうちに調書には、ミッシング(行方不明)が記されることになるだろう。
部屋係がシーツの取り替えにきたので僕は下のフロアに追い出されるが、またも多額のチップを握らせてウインナーの便宜を計らねばならなかった。飼い猫というのはどんな場合にでもこの調子なのだろうか。のんびりと食って寝て、それだけである。こいつにはロジャーソン一家のことが少しも心配ではないらしい。落ち着き払った態度が憎らしいほどである。もっとも普通に動くのにも難儀そうな巨体である。この、ちょっと見には中型犬と間違えそうな姿でいらいらされては僕のほうが対処に困るであろう。
その日の昼にジムが来た。
「来るとは思わなかった」
「なに、こちらに用事があったからだ」
ジムは椅子《いす》に掛けるとにやりと笑った。
「やはりことが起こったな」
「ああ起きたよ。僕は参っている」
僕は事情を話して現場につれて行った。オカルティストだろうがなんだろうがあてにしたい心境だ。溺《おぼ》れる者は藁《わら》以外にも何でも掴む。ジムはしばらく家内や庭を見て回り、言った。
「ふん。もう出ては来ないだろう」
それを聞いて僕はむっとした。
「捜し出したい。彼らが帰ってくるなら、悪魔に魂を売ってもいい」
「悪魔と言えば、悪魔崇拝の連中の誘拐の手口は巧妙でね。例えばこういう手がある。一家で団欒中の家の中に催眠ガスを流すんだ。皆がばったりといったすきに侵入して運び出す。勿論、あとに証拠を残さないように用心してだ」
僕はぞっとした。
「サタニストの仕業だというのか?」
「違うだろう。俺たちから見ればサタニストが仕事をした場合にはたいてい証拠が残っているので、すぐにわかる。警察に発見できるような証拠ではないぜ。儀式的な証拠が残っているんだ。例えばだ、庭に葉っぱが落ちていてもだれも気にすまい。付近には一本も生えていない木の葉だったとしてもな」
「あまりあてにはしていないが君の意見を聞きたいな」
「分からない、というのが本音だ。神隠しというのは本当に神隠しなんだよ。この宇宙といおうか神といおうか、それが人や物を隠してしまうんだからな。どこへ隠されたのかは生きた人間には分からない。サイエンス・フィクションでは異次元という説が有力だ。おっと、怒るな。ふざけているつもりはない。実際にだ、史上に残っている神隠しのケースのほとんどは大自然なる宇宙の摂理が俺たちには分からない理由で人を隠しているんだ。死んじまったのではないことだけは分かる」
「生きてはいるのか。なら、なぜ助けられないんだ」
「インドのベナレス郊外に住んでいる聖者がいるが、彼は神隠しされた人々と通じることができるらしい。行って、聞いてみてはどうだ。俺が確かめたわけじゃないけどな」
ジムは僕があまりにひどい顔をしているから同情したらしい。ホテルに戻る車の中でいろいろなオカルト的事情を挙げた。
「去年から約九年ほど地球は失滅≠フ時間帯にはいることになる。失滅とは、消滅、減少、蒸発、消費などの意味を含んでいて、この時期にはそういう事件がおきやすい。ロジャーソン一家の件もその一環として起きたのだ。これからの九年間は失われることが多いだろう。俺たちはそう考えている。超常現象にかぎらない、戦争で人が失われることも、国の景気がよくなって消費が増えることも同じだ。この周期は九〇年おきにやってくる。九〇年、一八〇年前の資料を調べてみれば分かるが、失われが急に増大している。俺に言わせればこれは自然現象だよ」
そう言われればマリー・セレスト号事件も約九〇年前のことだ。それに、この年から合衆国軍はベトナム介入を開始する。結果は言うまでもあるまい。あまりにも多くのものが失われることになった。
「俺は役に立ちそうもないな。このへんで失敬しようか。またな」
ジムはそう言って、用事とかを果たしに行ってしまった。
僕はその夜もホテルの一室であれこれと思い悩んでいた。滞在一週間が過ぎており、そろそろ懐が寂しくなってきていた。僕はここにいる間、自分にできるかぎりのことをしていた。無論、日常的手段をもってである。何の手がかりも入手できなかった。
その時ウインナーがにゃあんと言って、ドアのところへいくとかりかりと爪《つめ》を立てた。外に出たがっているのである。
「おい、どうした。今時分に出ていったらボーイにつまみだされるぞ」
僕は抱き上げてそう言った。重いやつだとあらためて思った。ここでは毎日大量に食ってあとは寝ているばかりであった。さらに肥満してしまっている。ウインナーはまたにゃあんと言った。僕はその瞬間、はっとした。僕も心労でどうかしていたのかもしれない。ウインナーが「そろそろロジャーソン家に帰りますよ」。そう言ったような気がした。「あの人達はいつもぼくを置いていってしまうから、いけない。この前だって四千キロも歩かされた。またのんびり追いかけますよ。食い溜《だ》めもしたし、あなたと別れるのは寂しいですが」。勿論、ウインナーがそんなことを言ったのではなかった。にゃあんと言っただけであった。僕は慌てて、
「ウインナー、ちょっと待ってくれ」
と言うと、ホテルの便箋に手紙を書き始めたのであった。ロバートとアニーに宛《あ》てて、短く、この手紙を受け取ったら必ず返事をください、もう一度会いたかった、僕はあなた方を愛していますといったことを書いた。本気であった。手紙を細く折り畳んで、ウインナーのその名のとおりウインナー・ソーセージのような身体を抱きしめながら、首輪にくくりつけた。
僕がさよならと言って、ドアを開けると、ウインナーは意外と敏捷《びんしょう》に廊下を駆けていった。翌朝、正気に戻った僕は後悔してウインナーを捜し回ったが、見つからなかった。
僕はロサンゼルスを発《た》った。
当面の生活費にこと欠いていたので、僕はマーク叔父のところへ借金に行った。マーク叔父には僕がロジャーソン一家と親しくなり今回ロスへ行くのは恋人に会いに行くのだということも話していた。だから、僕が憔悴《しょうすい》した面で現れるとすぐにぴんと来たらしく、
「信念がないからそんなことになるんだ」
と言った。
「何のことですか」
「カイル、お前その娘にふられたんだろう。女はな、信念をもって口説けば必ず落ちるものだ。おおかたお前、信念も見せずにおおい被《かぶ》さったのであろうが。それでは駄目だ」
マーク叔父が一度こう思い込むともう何を言おうと無駄であった。僕も説明する気にはなれず、また、失恋と思われていたほうが気が楽だった。帰り際に、
「若いうちはそんなこともあろう。その娘のことはすっぱり諦《あきら》めてもっといい女を捜すことだ」
と言われたが、こればかりはできそうになかった。
大家のステラも僕がいつになく沈んでいるのを見かねて、教会へ引っ張っていったり、日がな聖書の文句を説教したりして、
「祈ることです。人間にできることはそれだけですよ」
と言った。まことにその通りだと僕は自分の無力を情け無く思いながら同意した。
ウインナーが野たれ死んでいるという情景が頭に去来して離れない時もあった。たとえウインナーが大陸横断四〇〇〇キロの健脚を持っていたとしても、今度ばかりは不可能に近い。ロジャーソン一家はおそらく人知を越えた場所にいる。超常的追跡能力をもってしても辿り着くのは難しすぎる。だが、僕は内心では焦がれるような期待を持っていたのかもしれない。そうでなければ、とっさに手紙を書いたりはしないだろう。
三年の歳月が流れた。僕は超常現象事例収集をやめてはいなかったが、開店休業状態であった。動物行動学の学位を取得し、物理学の学位を取得し、何でも屋になる気かとひとにからかわれるほど勉強した。心理学、哲学、化学、地理学と馬鹿みたいに知識をつめこみながら、ハイスクールや大学で講師を勤めたりして過ごしている。これは超常現象を本気で追い詰めるための実力を養うための訓練であった。また、僕のように超常現象を真面目に扱おうと志す仲間も見つけることができた。僕は仲間の中で最も熱心であった。狂気がかったような研究ぶりは皆に一目置かれていたほどだ。「どうして、そんなに熱中できるんだ」と訊かれても僕は黙って笑っていた。この時の仲間は後にニューサイエンスとは言うが、べつに新しくもない学問の旗手ともてはやされるようになるのである。
その頃はもうステラのアパートを出て、家を構えていたのだが、たいていは研究室に泊まっていたので、たまにしか帰らなかった。手紙が来ていた。切手もなく宛名も送り主の名も書かれていない妙な封筒だった。誰かが放《ほう》り込んでいったのであろうが、いつ来たのかは全《まった》く分からない。開いてみると、手紙と写真が入っていた。僕は気が遠くなったような状態でしばらく立ちつくしていた。
ロバートとアニーの筆跡であった。死人から手紙を受け取ったらこういう気分になるであろうか。
「事情は言えない、というより私にもよく分からないのだが、あのクリスマスの日にここへやって来てそのままずっと暮らしている。こちらでも歯医者を開業して生計をたてている。悪いことは少しもない。まずは幸福に暮らしている。君に会いたいとは思うが会えそうもないので、せめて手紙を書いた。そして、ウインナーに君に配達してくれるよう頼んだ。ウインナーだけはこことそちらを行き来できるらしいのだ。たぶん、この手紙は君の元へ届くであろう。
[#地付き]ロバート」
「ウインナーがここに来たときは嬉しくて泣いてしまいました。首輪に結んであったあなたの手紙も、とっても、嬉しかった。この土地は素晴らしいところです。家族全員しあわせに生活していますからどうぞご心配にならないでください。あなたがあの日もう少し早く家に来てくれてさえいれば、一緒にこちらへ来れたのかもしれません。ですが、仕方のないことでしょうね。可愛いメッセンジャーボーイ(ウインナーのことよ)にこの手紙を託します。わたしはできるだけ長くあなたのことを忘れないように努力いたします。あなたもどうかできるだけ長くわたしのことを覚えていてください。
[#地付き]愛するアニーより
P.S.同封した写真は先日写したものです」
僕は駆け出してあたりを捜し回った。
「ウインナー、おい、どこだ!」
僕は日が暮れるまでウインナーの馬鹿野郎を捜した。
「このどじが。どうして研究室に持って来なかった!」
ウインナーに会っていれば次の手紙を託せたかも知れないのだ。
くたくたになって家に帰った。写真をもう一度見た。
コテージ風の家屋の前にロジャーソン一家が並んで立っている。パイプをくわえて胸を張ったロバート、ふくよかなワイナ、最初は分からなかったが今や悪戯ざかりの成長したボブ、そして、羞《は》ずかしそうに笑顔を作り、腕からずり落ちそうに肥大したウインナーを抱えているアニー。
僕ももう五十を過ぎている。ニューサイエンスの先駆者としてひとかどの仕事はやったつもりである。しかし、未《いま》だに超常現象収集のため飛び回っている。どうしてかと言えば僕も考えてみることがある。机の上にはロジャーソン一家の写真が大切に飾ってある。眺めていてふと思う。世界のどこかにそこへ通じる道があるのかも知れないと。
あるいは各地を回っているときに、巨体をもてあましているペルシャ猫が身体を擦り寄せてくるかもしれない。そいつについて行けば、その世界へ行ける。
その望みのために、僕はアニーとロジャーソン一家のことをまだ鮮明に覚えている。勿論ウインナーのことも、できるだけ長く記憶しておく予定だ。再び会った時、くそじじいになったロバートや太って逞《たくま》しくなっているであろうアニーと対等に話がしたいからである。僕はいまこの文章を思い出し、思い出しして綴《つづ》っている。その時のための記憶のよりどころとするためである。
[#地付き]カイル・P・ウィザース
編集者付記
この度カイル・ウィザース博士全集を編纂《へんさん》させていただいているさなか、博士の奥様から遺稿と言ってもいい書き付けを頂いた。日付は、博士が失踪《しっそう》する二日前になっており、重要と思われる。夫人もつい最近になってこれを見つけられたそうで、愕然《がくぜん》とされたそうである。先に新聞その他で発表された通り、博士は失踪の当日、書斎から外を眺めていて、夫人の手を引いて、こう言われた。『ウインナーがいる。あそこだ』。そして急いで庭に出られた。夫人が見ていると、博士は犬のような(今になってみるとあれは猫だったと夫人は言う)動物を追って行かれたという。夫人は冗談だとばかり思って、家内に戻られた。それきり博士は戻って来なかった。
この書き付けに即して調査した結果、一九六二年のロジャーソン一家失踪は実際にあった事件であることが判明している。文中の写真については、博士が大事そうに書棚に飾っていたものである。夫人には友人の家族だと説明しておられたそうである。写真はとりあえず警察の調査部にまわされている。
現在、分かっていることはこれだけであるが編集部は取り急ぎ第二回配本分にその書き付けを掲載することにした。以上、読者諸氏に誤解のないようお断りを入れたしだいである。
[#改ページ]
文庫版あとがき
最近小説をほとんど読んでいない。SF小説ともなるとなおさらだ。
だが小説を読まずとも常にSFに接続し、浸ることは可能であり、僕のみならず皆そうであろうと思う。何故ならSFはいたるところに氾濫《はんらん》しているからである。はっきり言えばSFがあまりにも身近であり、周囲に溢《あふ》れているから、日本人はSFびたりといってもいいくらいだ。
マンガ、映画、テレビ(CMからアニメ、ドラマに至るまで)、コンピュータゲームとありとあらゆるところにSFがあるではないか。外人は、「日本人ってどうしてこうもSFが好きなの?」と思っていたりするかも知れないのだ。
SFを嫌っているのは一部の小説界だけと言ってもいいくらいである。マンガもコンピュータゲームもSFないしはファンタジーの設定を使わねば成り立たないほどであり、存在自体がジャンルを越えてごく普通のこととなっている。
なのに日本人(とくに大人の人)はSFが嫌いであるらしい。子供の時は好きだったが大人になるとどうでもよくなってしまうのか。SFは売れません。たんにつまらない小説だから売れないのなら仕方がないが、面白くとも帯にSFと書いてあるだけで大人は興味を無くしてしまう(らしい)のなら偏見であり差別である。何故なのか。『スター・ウォーズ』の新作がきたりすると急に騒いだりする。『グリーンマイル』はSFじゃないのか。まあ映像やゲーム、マンガのSFはゆるされるらしい。しかし小説となると許されないらしい。未だにSFは大衆娯楽小説とは(大人の人たちには)認められていないのである。
僕などはもう小説という形式、構造自体がSFっぽいものだと思っている。だってこの作品はフィクションであり実在の人物団体とは関係がない、ということは全部空想であり、歌舞伎町を舞台にしているとしても、別な銀河系の地球の上とか平行宇宙での歌舞伎町だということになる。そんなことは初めから分かっているわけだし、どこを舞台にしていてもいちいち断らねばならないような馬鹿げたことをせねばならないことのほうがそもそも変だからやめてほしい。面倒くせえ。関係があるのならそれは小説ではなくノンフィクションなんでしょ? 極端なことを言えば司馬遼太郎の小説だって実在の人物には関係がないフィクションなのである。歴史を遡《さかのぼ》ってまるでその場にいたかのように描写するなどはタイムマシン的想像力であり、X機能である。そして未だ知られざる人物像をかっこよく浮き彫りにする、というかキャラを立ててしまうのならばSFじゃないか、というしかないだろう。僕は常々歴史小説を読んでいて、「実際会ってみたらこんなヤツじゃねえかもしれねえ。やっぱタイムマシンを使って実際に会ってみなけりゃ、ほんとのところはわからねえな」と考える用心深いたちなのである。僕はそう考える人間なので、大衆小説の王道は時代小説であるなどというふざけた慣習は二十一世紀には改めてもらいたいものである。どう考えてもおかしいから。
政治もそうだ。最近、IT革命とか言ってたくさん金を出すことにしたらしいが、IT革命とはとどのつまり何であり、何故今必要であり、その実現の暁には日本と世界がどう変わっているかなど、説明できる政治家は一人もいやしないだろうから、SFだぞ、それは、と突っ込みたくもなる。
なんてえのか、SFのSをサイエンスとすると、引っかかる原因であるなら、それは心配要らない。略称だと考えるからいけないのかも知れない。今、SFをサイエンス・フィクションなどと呼んでいる人はほとんどいない。早川書房以外では死語になりつつある。SFはエスエフと読んでそのままSFという独立語である。僕としてはそれでまったく問題はない。そのときSFが具体的にどのような傾向の作品をさすのかと聞かれれば、その時一番ウケている小説をあげればよい。
いいんです。SFは何でもありで。
ということで唐突だがこの数年の間に僕がとくに面白かったSFは『YU―NO この世の果てで恋を唄う少女』(エルフ)である。PC―98がMS―DOSベースでやっていた頃のゲームなのでけっこう古いとはいえ、95、96年くらいか、そんなに古くもないとも言える。パソコンの変化の方が早すぎるのである。これをやっていたときはけっこう面白かったというかかなり面白かったし、感心させられ、素直に面白いと言うことが出来る。このゲームは18禁の、いわゆるアダルトゲームである。後にセガ・サターンにも移植されたらしいが(システム、ストーリーともに秀逸だから結構なことだ)、家庭機ではたぶんいい部分がぼかしまくられているはずだからやりたいとは思わないが、MS―DOS版のものならまた苦労してもいいと思うのである。当然ながら『YU―NO』はその年の日本SF大賞などにはかすりもしなかったが、僕はこの年の最良の収穫であったろうと思う次第である。
18禁ゲームなどをやっているというと、高尚ならざる趣味ということで、まあ勝手にいろいろ思われたりするわけだが、面白いからやっていたのである。先にブッ叩いて蹴りを入れればそれでいい、というようなゲームよりは遥《はる》かに面白いと思った。確かにソフトハウスによってはエロなCGさえ見せておけばそれでよし、というような志の低い、ユーザーを舐《な》めたようなゲームも腐るほどある。いただけない。生き残るにはアダルトというだけではダメなのである。とくにPC―98末期は販売されるゲームの半数以上がアダルトであったというような無茶苦茶な戦国期であったのである。そこで淘汰《とうた》されずに生き残ったソフトハウスには、エロ以外の強い武器が備わって、磨かれていたわけだ。当たり前の話だがゲームとしての面白さというものである。紙芝居のようにエロCGを見せるだけのところは次々に潰れていった。当然だ。志があり、ポリシーがあり、HなCGを載せる土台としてのゲームをきちんと考えていたところだけが生き残った。それどころかコンシュマー機にも多大な影響を与えることすらあった。今、売れている家庭用ゲーム筋で、18禁著名ソフトからさまざまにパクってきたものはかなり多いのである。ともかくエルフというソフトハウスは18禁ソフトメーカー中、常にトップクラス、三本の指に入るくらい優良だったのであり、僕のひいき筋なのだ。ただ優良すぎるとまた(優良であるということはすなわちより広く売れ、世間に知られてしまうという意味となる)、これが足かせとなったりして、思い切ったゲームを作れなくなったりしがちであるが、エルフには世間体を無視して自主規制などせずに頑張っていただきたいものである。パソコン18禁ゲームには家庭用ゲーム機などが決して持ち得ない大きな可能性があるのであるから。とにかく何でもありが好きなのだ。ただしゲームの命はシステム。革新的なシステム。それがあれば基本的になんでも受け容れる用意がある。が、革新的システムなんて滅多に作れるものでもないことは確かであり、毎回新システムを求められればソフトハウスも困るだろう。
エルフにはいいシナリオスタッフがいるらしく、けっこう泣かせます。オチも何もそこまでせずともいいのに、というくらいひねるのが好きな作品も多い。『YU―NO』のストーリーにも引き継がれているのだがこれを無理と感じさせないのは「A.D.M.S.」というシステムがあったればこそである。「オート・ディベレージ・マッピング・システム」の略で「アダムスと読みます」とあった。このシステムは平行宇宙モノを描くための画期的なシステムであった。
SFでは平行宇宙、パラレルワールドの概念はかなり当たり前なのであるが、いざパラレルワールドの面白さというかその秘密を堂々と書き切れたかとなると成功したSFはあまりないのが実状である。小説という形式では同時に交錯する次元、時間空間の流れの多様性を表現するのは難しいのである。しかもそれはまた同時発生している無限の世界であり、時に重なり合い、それぞれに意識が生きているのだとなると量子力学的にはいいのだろうが、文章にするのはおそろしく困難である。しかも面白くそれをせねばならないとなると、このあたりは小説の限界なのかも知れぬと思ったりする。『YU―NO』はこの問題に挑戦している。堂々と。しかもかなり成功しているのである。パソコンゲームの可能性をまざまざと見せられたのであった。
「アダムス」は、何の工夫もしなかったらたんなるアドベンチャーゲームになってしまうところを、画面上に敢えてルートを示すことにより、プレイヤーが通った道が分かるようになっている。クリアの折りにはあみだくじのような複雑なルートが表示されることになる。このシステムで面白いのは、初めのうちは何も分からず、物語の流れに連れて行かれていたものが、プレイヤーは徐々にこの世界、パラレルワールドの航海技術が分かってきて、自分の意志で時空をよぎることが出来るようになることだ。たとえば、さっきのルートではあえなく見殺しにしてしまった友人を、もうそのルートに至る秘密は解明されたのであるから、次にはその時必要であったアイテムや選択肢をもって、助けに行くことが出来るのである。ただしパラレルワールドの掟《おきて》に従えば、友人牧助に成功した世界は決して友人を見殺しにしてしまった世界とは同じではない。幾多の危険、幾多の謎、幾多の不幸、幾多の幸福、実に様々なある世界でのラストが存在することになるが、普通のアドベンチャーゲームであればそれで終わりであるところだ。
『YU―NO』はすべての平行宇宙の結末は有機的に連鎖しており、If、あそこでこうしていたらどうなったかが表示されているわけだが、ほんの一筋隣のルートではまったく別だが、同じ登場人物とのまったく別のシチュエーションでの結末が存在している。そしてプレイヤーはさらにそのルートを避けるべく時空を移って未知のシチュエーションに飛び込んでゆく。選択の連続が人生なのだ、とはいうが選択の有無、選択していなかったら今の自分はどうなっていたか、その複雑な選択の順列組み合わせが「アダムス」のように一目瞭然となっていたならどうなのか。そして自分という人間が選択する可能性のあった膨大な網の目とは、その個人の可能性をすべて表している生命の木となる。
IfSFといってもあそこで信長が死んでいなかったらとか、ミッドウェーで帝国海軍が勝っていたなら、とか、僕はあまり興味がない。それよりも人間個人の潜在能力と可能性、誕生と終焉《しゅうえん》の間に存在する可能性のある全ルートを見ることが出来るシステムのほうにより興味がある。人生ゲームではないが、億万長者となるか、奴隷農場に行くか、は重ねられた選択の結果なのであり、奴隷農場に落ちたプレイヤーに「アダムス(敢えて簡易の選択可能人生因果関係マップというが)」を見せて、ここでこうしておれば、またこのルートに飛べば、ここで結婚していなかったら君は億万長者になれていた、という事が出来るのだ。
ただし僕の意見では「アダムス」はやはり存在しないシステムである。だからSFであり何でもありなのだ。大抵の人間の選択は性格に強く拘束される、無意識によるのであり、事故すらそれによる可能性すらあるのだが、つまりは自業自得、「なるべくしてなった」というのがオチとなる。大抵の場合、人生は一時空に一つの選択しかないような機会しか見せてくれないからである。そして人生は二度ない。ただ選択の度にコイン投げ占いで生き方を決めているというある意味で強い意志を持つ人には「アダムス」はあり得るかも知れない。
で、『YU―NO』は、自在に航海し、すべての可能なルートを体験し終えたところから、最後の隠れたルート、この作品の背骨たるルートへ抜けて、本題が始まるという、プレイ時間六十時間オーバー必至の重厚ゲームである。この点には賛否両論あるだろう。ゲームを評価する場合、操作性、シナリオやCG、音楽なども含めた上でのシステムごとの評価となる。一部を切り取ってあそこだけよかったなどということは基本的にあり得ない。全部を含めて一作品なのである。何故かと言えばシステムがそのゲームの世界観を作るものだからである。
そしてSFが平行宇宙を扱う場合、突き詰めるべきと思われる根本的問題がある。『YU―NO』はこれまた見事につきつけていた。「世界の始まりと終わり」「時空の始源」というわけである。「アダムス」が平行宇宙とは何かをゲーム中に具体的に存分に描き出したとでのことであるから必然的説得力がある。主人公(プレイヤー)は愛する女と時空の始まり、時が植物の根のように枝分かれする以前の場所にこの宇宙の全ての根源を求めて向かうのである。これは凄いことです。最近のSFでこのような根本的問題に大上段から切り込んだものなどない。けっこうみみっちいものが多いのだ。僕だっていつかやりたいが、何しろテーマが巨大すぎて腰が引けるところである。もうSFの真骨頂のようなテーマに敢えて真正面から取り組んだSF的哲学的な志の高さには脱帽するしかあるまい。誰か「原初の時空、時の始まり」について、ビッグバン理論のような味気ない解釈ではなく、非科学的で感動的なSFを書く心意気を見せてもらいたいものだ。「宇宙の果て」とか「時間と空間の彼方」とか、子供の頃はこういう言葉を聞くとシビレたものだが、やはりたまにはSFはこういう根本テーマに挑まねばならないだろう。僕もいつかそのうちにやらんといけないな、です。
[#地付き]平成十二年九月
[#改ページ]
解説/そしてみんなSFになったあとは……[#地付き]恩田 陸
最近モンド・グロッソの新譜を出した大沢伸一のインタビューを読んでいたら、いつも「あなたの作る音楽はジャズですかR&Bですかジャンルはなんですかあなたのルーツはどの音楽なんですか」と聞かれるのに業を煮やしたらしく、「これだけメディアが発達してたくさんの情報や音楽が個人の生活に溢《あふ》れているのに、純ジャソル主義なんてナンセンスだ、こんな生活でジャンルミックスにならないなんてよほどの怠慢だ」と答えていたのに大きく頷《うなず》いてしまったのだった。
私も日ごろ同じような質問を取材の度に受けている。
あなたの小説はファンタジーですかミステリーですかSFですかジャンルはなんですかルーツはなんですか映像的ですね漫画的ですね誰の影響を受けてますか。
その都度、「物心ついた時からTVがありアニメがあり小説があり漫画があったのだから、同年代以降のモノを作る人間で特にジャンルを分けて考えている人はいないと思う」と、判で押したように答える。ま、そう尋ねたくなる気持ちは分からないでもない。本を読む前に心の準備がしたいし、日本ファンタジーノベル大賞出身の作家はつかみどころがないのは承知している。
ところが、酒見賢一の場合(彼は第一回の大賞受賞者である)、もはやジャンルやルーツを尋ねることすら憚《はばか》られるような、「超越」したものがある。
酒見賢一の小説で、特筆すべきはその軽やかさだろう。
彼の軽やかさは誰にも似ていない。デビュー作の『後宮小説』からして、タイトルは人を食ったものだし、内容も古代中国を舞台にしているものの、虚実おりまぜて歴史小説から少女漫画まで、あらゆる面白さを読者に味わわせてくれる小説だった。また、一昨年発表された『語り手の事情』はヨーロッパの艶笑《えんしょう》小説の体裁を取りつつ、小説というもの自身が持つ「矛盾」に切り込んだ、これまた天《あま》の邪鬼《じゃく》な小説である。
デビュー当時は何かと中島|敦《あつし》と比較されたのも頷ける。単に若くして古代中国ものを書き衝撃的に登場したというのもあるけれど、何よりもその完成度の高さとスケールの大きさが同一視された理由だろう。
小説というのは限りなく個人的なものなのだが、同時にそれが小説内の世界では神の視点であるという元来矛盾したものである。通常、小説家は、個人的な意見と神の意見とのバランスを取りつつ、他人が読んでも共感できるラインをぎりぎりのところで探っている。我々はそれを読む時に、作者の視点を追体験しつつ その視点が共感できるかどうかを確かめているわけだ。作者の個人的な声がしっくりして心地好い場合もあるし、その声の幼さやみみっちさにがっかりしたりする。あるいは、あまりに大仰な神の視点が鼻について興ざめすることもある。
ところが、まれに、まったく「個人」を感じさせない作者がいる。最初からその作品のみが存在しているような小説。その中で読者も自由に遊ぶことができ、作者の声を意識せずに無条件に受け入れることのできる小説。個性がないわけではない。むしろ完成された個性が世界の隅々に行き渡っている小説。中島敦、酒見賢一ラインはこのタイプの小説と言えるだろう。むろん、そういう小説を書くことができるのは、神に愛されたごくごく限られた人間だけだ。
さて、『聖母の部隊』である。
私はこの表題作を今はなきSFアドベンチャー誌で読んだのだが、当時の印象は面食らったの一言であった。『後宮小説』『墨攻』『ピュタゴラスの旅』等のどこまでも端整で軽やかな作品に比べ、この小説はあまりにも作者の思い入れが強く溢れていたことに戸惑ったのである。唯一と言ってもいいかもしれない。後にも先にも酒見貿一の秘めたる情念(?)が迸《ほとばし》っている作品は今のところこの『聖母の部隊』だけである(あと現在『小説すばる』で不定期連載中のエッセイ『まんが叩き台』か)。それもこの、SFに対する深き執着。氏のあとがきを読んだ読者はもう承知しているだろうが、当時の私はそれがとても意外だったことをよく覚えている。
今回改めて読むと他の短編も興味深い。ハードアクションとファンタジーを笑いのめしメタの要素もある『地下街』は『語り手の事情』の原形ともとれるし、かつて愛読した少年漫画のヒロインみたいな少女が語る終末ものの『ハルマゲドン・サマー』、『夏への扉』を彷彿《ほうふつ》とさせるほのぼの系の『追跡した猫と家族の写真』と、いろいろなパターンのSFを試している。
氏があとがきで言っているとおり、みんながSFになったというのは私も賛成である。あまりにも日常生活に浸透しすぎてSF自身が見えなくなってしまっているのだろう。
だが、私はむしろみんな小説になっているのではないか、今はその過程なのではないかという気がする。私が想像していた以上に小説はしぶとい。漫画が失速し、ゲームが収束しつつ ある今、それらを消費し尽くした誰かが何かを始めるとすれば、やはり小説を書き始めようと考えるだろう。携帯やパソコンで自分の話ばかりしているのに飽きた誰かは、そろそろよくできた話を聞きたいとフィクションのページを開くだろう。
この二十世紀、いったんミステリやSFやファンタジーに細分化したと思われていた小説は、逆に融合の度合いを強め、ゲームや映像や漫画まで飲み込んでまた小説になりつつあるのだ。そして、その最前線にいるのは酒見貿一本人なのである。
彼がSFを書いてもSFにはならない。彼の書くものは、どんなジャンルのものを書いても、小説らしい小説、酒見賢一の小説、にしかなり得ないのである。この『聖母の部隊』で初めて酒見賢一の小説に触れる読者は、是非彼の他の小説も読んでほしい。小説というものが、こんなにも興奮させられるものなのかと思うはずである。
個人的な好みをいわせてもらえば、私の一番好きな本は『ピュタゴラスの旅』だ。
なかなか終わらない『陋巷《ろうこう》に在り』は気長に待つにしても、もうちょっといっぱいああいうへンで凄い短篇を書いてほしい。
二〇〇〇年九月
[#地付き](おんだ・りく/作家)
[#改ページ]
底本
ハルキ文庫
聖母《せいぼ》の部隊《ぶたい》
2000年10月18日 第一刷発行
著者――酒見《さけみ》賢一《けんいち》