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酒見賢一
泣き虫弱虫諸葛孔明 第弐部
目 次
孔明、途端にいきなり博望坡《はくぼうは》を燃やす
孔明、公子に軟禁され、泣いて計略す
孔明、今度は新野を燃やす
劉皇叔、大いに獅子吼《ししく》して民を魅惑し、携えて江を渡る
孔明、有人《うじん》の野を行き、曹孟徳、勇んで追討に出撃す
趙子竜、紅光の戦士と化し、張翼徳、長坂に響動《どよ》めく
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泣き虫弱虫諸葛孔明
第弐部
却説《さてと》きなん。
じつは『三国志』にはにわかには信じがたい裏設定が存在している。
『三国志』自身が自らこのいかがわしい裏設定を抹殺し、表面化しないように努めてきた気配があるのだが、わずかでも隙《すき》を見せるとすぐに講談師たちの口をへて浮上してこようとする。『三国志』のアンカーマン・羅貫中《らかんちゆう》もこの裏設定の封殺に完全には成功しなかったと言ってよい。
この裏設定は『三国志』を、誇張や脚色はあるにせよ、少なくとも史実に依拠した本格歴史小説だと思いたい、企業経営者のようなまっとうな読者たちのせつない希望を容赦なく打ち砕き、なんとなく神秘のダーク・ファンタジー・ゾーンに案内するものである。しかしいまや日本人はハリー・ポッターを受容すること、万古《ばんこ》の歴人の如きであるから、問題なく大丈夫であろう。
その不安と躊躇《ちゆうちよ》、不審と困惑を呼ぶ裏設定とは、後漢の初、ある白皙《はくせき》の青年が遭遇した血も凍るような世にも面白おかしい超常現象から始まった……。
ところは洛陽《らくよう》、後漢の祖、光武《こうぶ》帝|劉秀《りゆうしゆう》が清明《せいめい》節(冬至から数えて百五日目)に御園にて盛大な花見をもよおしたときのこと。
花見もたけなわの頃、白襴《はくらん》、角帯、紗帽、黒靴のいでたち(ちょっとかぶいた遊び人ふうのおしゃれ)の書生がぶらりとあらわれた。手には酒壺と盃、背には剣と琴と本箱を背負っている。書はおそらく紙ではなく竹簡か木簡であり、すると山人が薪《たきぎ》を背負うような大荷物になり、花見にしては荷物が多すぎるんじゃないのかと人にいぶかしがられたことだろう。白皙の書生は柏の木の下に座を得て、一人琴を鳴らし、酒を飲みながら、何故か花も見ずに書物を取りだし熱心に読み始めた。言うまでもなく変である。
この書生、名を司馬《しば》仲相《ちゆうそう》という。
読んでいる本は歴史書だったようだ。時も忘れて読みふけり、話が秦の始皇帝の焚書坑儒《ふんしよこうじゆ》のくだりにはいったとき、既に大酔していたのだろうが、
「始皇めが、なんという悪逆なやつか! このおれが王であったならこんなやつは瞬殺して、民を安んじてくれるわい」
とか大声で口走り、
「始皇は夥《おびただ》しい数の民を鏖殺《おうさつ》し、ろくに埋葬もしなかったから、天地が腐蝕することになったわけだ。こんなやつを一時的とはいえ王にしたとは、天帝のなさりようにも過《あやま》ちはあるということか。この後にも、劉邦《りゆうほう》、項羽《こうう》が狂ったように相争い、民はますます塗炭《とたん》の苦しみを舐《な》めさせられ続けた……」
おそらくこのとき既に異次元の扉が開いており、仲相はあっちの世界にトンでしまっていたようだ。
花咲き誇る御園に客もなく、突如として五十人の官員が出現し、仲相を、
「陛下」
と呼ぶのである。官員の姿を見るにこの世の者ではなく、天上世界の供奉者《ぐぶしや》であった。
「えっ、おれって陛下?」
と疑問を呈する間もあらばこそ、官員らの代表が口上した。
「臣らは玉帝の勅を奉じ、陛下に六種の礼物を捧げるものです」
と、身ぐるみ剥《は》がされて、皇帝の衣装をつけさせられた。さらに、
「ここは陛下のいる場所ではありません」
と龍鳳の飾りのついたやたら豪勢な輿《こし》に乗せられ、おそらく天上に強制連行されてしまう。UFO問題の一つにアブダクション・ケース(エイリアンによる人類誘拐)というものがあるが、既にこの頃から発生していたということだ。
コンタクティー司馬仲相はなんだかわからないうちに宝殿に連れ込まれ、九龍金の椅子につかされてしまった。こんな異常な状況にもかかわらず、パニックも起こさず、仲相はすぐさま適応し、官員たちが万歳の礼で叩頭《こうとう》するのを、よし、よしと受けていた。
もともと夢見がちな男だったのだろうが、ちょっと度が過ぎるというか、満身これ胆《きも》というべきなのか、はじめからただ者ではない。官員は、
「陛下は陛下なわけですが、いま天下には光武帝がおられます。よって陛下が陛下を自称すると、謀叛《むほん》人としてただちに討伐されるでしょう」
というような、現実と非現実を混同したようなことを平然と言うのであった。
「卿《けい》らは朕《ちん》にどうせよというのか?」
と、既になりきっている仲相は訊《き》いた。
「いちどうつむいて下を見、もう一度お顔をお上げ下さい」
言われた通りにすると、どこか別の場所にテレポートしているのが分かった。報冤之殿《ほうえんのでん》≠ニいう文字が額に金色で大書されているのが見えた。
官員の代表八人が、あらためて拝礼して、言った。
「陛下、まことに申し訳ありませんが、ここは人界ではありませぬ。ふふふ。地獄でございます」
なんというのか、インマニュエル・スウェーデンボルイとかルドルフ・シュタイナーとか、かれらの思想に慣れていても本を投げ捨てたくなるたぐいの話の展開といえる。
報冤之殿とは要するに冥界の裁判所のことである。閻魔《えんま》大王はこの時にはいなかったらしい。官員は、
「陛下に裁いてもらわねばならぬことがあります」
という。
「よっしゃ、裁くのは朕《おれ》だ!」
とはいえ何を?
「先刻、陛下は読書のおり、始皇帝の罪に憤りのあまりに、天帝のご配慮を疑うようなことを申されました。そこで天帝はわたしたちを派遣して陛下をお連れするよう命じたのです。つきましてはここ報冤之殿にて陛下が地獄裁判の審議をなされ、その論告求刑が至極妥当なものであったなら、天帝は陛下をいずれ真の皇帝にしてやろうとおっしゃっておられるのです」
「ふうん。で、誰をどう裁判をせよと?」
「陛下が、罪で殺された者がおれば、上告せよ、と宣旨なさればすぐに原告団が現れますよ」
「わかった。そうしてみよ」
ということで、冥界に仲相の聖旨が伝えられた。
すぐに金鎖と戦袍《せんぽう》をつけ、首が半分斬れて血を滴《したた》らせた男があらわれて、
「臣は無罪でございます」
と哀訴した。誰だてめえ気持ち悪い、と、手元に届いた告訴状を読んでみると、二百五年も前の案件、中国史上屈指の天才武将、国士無双♀リ信《かんしん》であるとわかった。
「あんたが、股潜《またくぐ》りの信さんかえ」
「いかにも。淮陰《わいいん》侯韓信でござる。恨みはらさでおくべきか」
まことにダンテ、しゃべるたびに首がちぎれそうであった。
「拙者は高祖(劉邦)に従い、自慢ではないですが数々の凄い戦功をあげ、楚《そ》王(項羽)を敗滅させました。なのに高祖とそのくされアマの呂后《りよこう》はそれがしを卑劣な罠に陥れ、無実の罪で処刑したのです。どうかわたしの名誉を回復、正しき裁判をお願いつかまつる!」
まあ、確かに呂后のやり口は汚いよな、世界残酷物語史上にも無類な人豚(わたしは説明したくもないので『史記』を参照のこと)の発明者だし、とは思うにしても、その程度のことは中国史上しょっちゅうあることで、
「うーむ。いまさらそんなことを言われてもなあ。さて、どうしようか」
と官員八人に顔を向けた。官員は、
「陛下、それしきのことは0コンマ1秒くらいで判断を下せられねば、とうてい人界の天子になれませんぞ」
とにやにや笑っていう。
すると韓信を押しのけて、ざんばら髪のやけに渋い年寄りが出て叫んだ。
「わしも無罪ですわいっ」
「誰だ貴様」
「姓は彭《ほう》、名は越《えつ》、大梁王の彭越にございます。わしも高祖に従い戦いに明け暮れ、漢の天下を定めるのに大功のあった男でございます。だというのに高祖はわしを殺し、肉を切り分けてみんなで美味《おい》しく食べたのです」
彭越は野盗あがりの親分で、いちおう劉邦方につき、楚軍の後方|攪乱《かくらん》を繰り返し、項羽を悩ませ続けたゲリラ戦の達人である。戦後に粛清され、その肉は諸侯に配られたという。
次に出てきたのは、肥満して血ぶくれしたような顔にタトゥーを彫りこんでいる闘犬のような男である。
「おれは九江王の英布《えいふ》である。またの名を黥布《げいふ》といえば、泣く子の息の根が止まると言われたものだ。だから黥布と呼んでくんなせい。おれもこの韓信、彭越ともども高祖のために命懸けではたらいた。なのに高祖はおれにクソぶっかけて、攻め殺したのだ」
英布は前科者の極道であって、そのため黥《げい》(入れ墨)をされたから、軽蔑と恐怖をこめて当時の人々に黥布と呼ばれた。極道者という意味では劉邦となんら違いはなく、仲間意識のようなものから、劉邦陣営に所属した。戦後、謀叛の疑いありとして、劉邦が自ら討伐した。
韓信、彭越、黥布の三人は、とにかく涙ながらに劉邦の非道を叫び続けた。司馬仲相は、聞いているうちに、腹立たしい嫌な気分になってきた。
(それが事実なら、劉邦ってやつぁ本当にろくなもんじゃねえな)
と思い、
「証人として劉邦を出頭させよ」
と命じた。やがて劉邦があらわれ、仲相に神妙に拝跪《はいき》した。
「漢の高祖劉邦ともあろうものが、三人の大功ある者に報いず、謀叛を計ったという言いがかりをつけて殺したと、そう申し立てられておるが、それに相違ないか」
劉邦は、小さくなって、
「わたしは知りません。わたしが遊びに行っている間、すべて呂后に代行させておりました」
と、妻のせいにした。情けないというより、劉邦はそもそもこういう性格を持ち合わせた人物だった。すぐに呂后が召喚された。
呂后は劉邦よりはるかにふてぶてしく、
「みんなわたしのせいにするおつもりですか。あなたが言ったのではありませんか。かの三人は眠れる虎のようなものだ。もし目覚めたらどうするつもりだ、と。そして、わしは雲夢《うんぼう》山に遊覧にいくから、お前が政務を代行し、三人になんくせをつけてとにかく始末してしまえって。わたしはあなたのおっしゃる通りにしただけです」
と亭主に罪をかぶせ返して、申し開きをした。
司馬仲相は、劉邦に、
「罪のない三人を謀殺したことをまだ認めぬか」
と迫ったが、劉邦はさすがかつて天下一のしたたか者であった男らしく、なおしらをきった。すると呂后が、
「陛下、うちのヤドロクに言い逃れさせない証人の出廷を希望いたします」
と発言する。
「そやつは誰だね」
「姓は|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]《かい》、名は徹《てつ》、字《あざな》を文通《ぶんとう》という者がそうです」
「では呼んでこい」
※[#「萌+りっとう」、unicode84af]徹は、『史記』『漢書』では※[#「萌+りっとう」、unicode84af]通と呼ばれている。徹が漢の武帝の名であるから、その字は諱《いみな》として使うことが出来なかった。諱というのは厄介なもので、漢籍を見るときには注意が必要である。逆にまた諱によってその書の版本がいつ頃のものであるかを推定できたりする便利さも少しはある。
※[#「萌+りっとう」、unicode84af]通は韓信の謀臣であり、おそるべき縦横《じゆうおう》家であった。斉《せい》を漢にほとんど降伏させかけた|※[#「麗+おおざと」、unicode9148]食其《れきいき》が煮殺されたのは、※[#「萌+りっとう」、unicode84af]通の謀略であったといってもよい。韓信に天下取りの秘策を説いたものの、結局、韓信が劉邦を裏切るに忍びないと反対したため、※[#「萌+りっとう」、unicode84af]通は口惜しがりながら逃亡した。
※[#「萌+りっとう」、unicode84af]通は落ち着き払ってあらわれ、仲相に拝礼して言った。
「その件については、この詩を読んでいただければ、わたしには奏することはありません」
惜しむべし淮陰侯
能く高祖の憂いを分かつ
三秦席巻するが如く
燕趙一斉に休す
夜に沙嚢の水を偃し
昼は盗臣の頭を斬る
高祖正定なく
呂后諸侯を斬る
韓信は烏合《うごう》の衆と変わらない漢の弱兵を率いて、魏《ぎ》、燕《えん》、趙《ちよう》、斉《せい》を「背水の陣」「半渡分断」といった特許を申請したくなるほどの奇戦術を使いこなし、またたくまにぶん奪ってしまった異能の忠臣である。それにひきかえ、劉邦は反覆定まらぬ卑劣漢であり、呂后は極めて残虐な殺人鬼だ、ということである。
そんなわけで証人尋問は終わり、あとは求刑と判決を待つばかりとなった。司馬仲相は審議結果を書状にしたため、
(こんなもんでいいかな)
と、天帝に差し出した。司馬仲相は裁判長ではなく、検事ならびに一裁判官のような立場であった。判決自体は天帝がくだすことになる。
かくて判決。天帝曰く。
「仲相のために記す。漢の高祖劉邦はその功臣に背いたことは明白である。よって漢の天下を韓信、彭越、黥布の三人に分け与えることにする」
漢を亡《ほろ》ぼしてしまい、三人にあらためて与えるということだが、現実世界では後漢が始まったところである。少し先になるだろう。
「韓信には曹操《そうそう》として中原《ちゆうげん》の地を与える。彭越には劉備《りゆうび》として蜀《しよく》を与える。黥布には孫権《そんけん》として呉《ご》の地を与える。漢の高祖劉邦は罰として献《けん》帝になって苦労させる。呂后も同罪、伏《ふく》皇后となり、苦しむべし」
後漢末に英雄として生まれ変わらせてやる、ということだ。劉邦夫妻は自業自得の歴史の刑に処す。中国にはインドのような輪廻転生論はない。鬼神回生のような奇譚がいささかあるが、中国人が求めるものは不老長生であり、死後は未来永劫に祀《まつ》られることである。しかし仏教の受容後には各思想にその理論的因果応報の影響を加えていった。
「また曹操には天の時を与えるゆえ、献帝を捕らえて好きなようにいじめ、伏皇后を殺して敵討ちをすることを許す。呉の孫権には地の利を与えるゆえ、江南江東の十山九水をもって拠すべし。蜀の劉備には人の和を与える。ただそれだけでは可哀相であるゆえ、関羽《かんう》と張飛《ちようひ》という勇士を得させてやろう。でもそれでもまだ足りない感じがするゆえ、※[#「萌+りっとう」、unicode84af]通を瑯邪《ろうや》に生まれさせ、姓は諸葛《しよかつ》、名は亮《りよう》、字《あざな》は孔明《こうめい》、号して臥竜《がりよう》としてみよう。劉備と諸葛亮は隆中臥竜岡《りゆうちゆうがりようこう》にて君臣逢うことにするゆえ、ともに手を携えて四川益州《しせんえきしゆう》に建国し、皇帝と称するがよい」
何か知らないが、天帝は劉備にサービスし過ぎていると思われるが、ここまで面倒を見てやらないとうだつがあがらないと分かっていたのだろう。人の和というものが、現世では一番役に立たないということを言いたいのか。しかも「皇帝と称せ」というのは無責任なサービスというしかない。
「そして司馬仲相よ、お前の裁判はまずまず合格としてやろう。お前は人界に生まれ変わり、司馬懿仲達《しばいちゆうたつ》となって三国を併《あわ》せ、天下統一の実を与える」
かくて天子になる予定の司馬仲相は、諸葛孔明との激闘が始まるそのときまで天界で待機することになった。あと二百年くらい待っていれば(天界の時間の進み具合は人界とは全然違う)実質的な王となれるから、始皇帝みたいなやつがいればだが、そういう気に入らないワルがいたら好きなだけ殺せばよかろう。ついでに民を慈しみなさい。
つまり『三国志』とは前漢成立前後の嫌らしいいざこざに端を発する、時空を超えた因縁のリベンジ・マッチ(民衆不在のたんなる内輪|揉《も》め)なのである。曹操が凶悪無比の覇道を突き進んだのも、天帝が許可したものなのであって、悪役の極みと決めつけて怨《うら》むのはまったくの筋違いということになる。
以上が、ある夢見がち過ぎる一青年が経験した、となっているところの『三国志』裏設定の顛末《てんまつ》である。それにしても漢民族の実質的な最初の統一王朝創始者の劉邦(むろん天子)をここまで糞味噌《くそみそ》にこき下ろすというのも、歴史の否定というか、エンターテインメントながら、凄味がありすぎる。
このことはさまざまな『説三分《せつさんぶん》』(たとえば『全相平話三国志』など)に伝えられたもので、けっこうに起源の古いものである。そしてこれらは『三国志演義』に統括されていくことになり、たとえ一部だけ削り捨てても全体に染み込んでしまっていて、その匂いや色は完全漂白できない性質のものである。
「人界の歴史の設計図は既に天界、神が作り上げており、人間とはそれを演じる駒に過ぎない」
といったテーマはキリスト教から仏教、道教、神秘主義、実存主義、またSF、小学生が読むマンガに至るまで、今となってはありふれたものと言える。
だが『説三分』の主役孔明は大仙人なのであり、天界の住人でもある。孔明は、いかに天帝が相手だとて、勝手なことをされて黙っているような男ではない(孔明が※[#「萌+りっとう」、unicode84af]通の生まれ変わりというのも気に入るまい)、とわたしは思うが、孔明自身が設計図作りに参加して喜んでいるおそれもあって、この裏設定もじつは孔明が作った虚実の策のひとつである可能性があるのである。一概に「神への反抗」が正しくて面白いとも言えないのだ。
ちなみに『説三分』のもう一人の主役は誰あろう張飛|翼徳《よくとく》その人であり、決して劉備でも関羽でも趙雲《ちよううん》でも馬超《ばちよう》でもなく、いわんや弱腰軍師と罵られる司馬仲達でもない(もうアブダクション天子の司馬仲相の顔は丸潰れなんだが)。城市の子供たちは講釈が張飛の犯罪的暴力、とくに曹操の一味に対して破壊と殺戮《さつりく》の限りをつくす場面に及ぶと目を輝かせて聞き入り、無垢なる童心で誉め讃えたという。関羽人気も相当なものだが、張飛に比べるとわずかに理性とか知性が感じられて、そのこざかしさを子供は敏感に感じとるのであろう。子供というものは、とくに男の子は、昔も今も異形の物《もののけ》、怪獣怪人妖怪の類が大好きなのは変わらない。
中国ではもう、暴れ狂うヒーローは孫悟空か張飛にとどめを刺すべし、というほどの人気者なのである。ことに張飛の場合は悟空とは違い、神仏への反抗など無関係、ただひたすらに鯨飲《げいいん》して理由なき反抗(泥酔中の犯罪は一段軽くなるというような法解釈などはない)におのれのストレスを爆発させるのみ、仏に会わば仏を斬るのが武獣の道である。孔明といい張飛といい、中国の子供は(一部おとなも)スケールのでかい無茶をし過ぎる人物が大好きなのだった。
しかしこれもまた孔明が裏で画策して、奔放|不羈《ふき》の兇獣・張飛を、自分の怪《け》しからぬ所業から目をそらさせるために立てているとも考えられていい(というのは穿《うが》ちすぎな見解である)。
話を戻せば、少なくとも裏設定に気づいて意識している登場人物は『三国志』には出てこない。ただ、孔明については、気づいているのかいないのか、どうも意味ありげなふるまい言動がほの見える。
そもそも『三国志』に本当に裏設定が有効に機能しているのかは、そのへんはわたしにも判断しかねるところである。
この小説では、いちいち断るのが面倒だから、正史は『三國志』としるし、『三国志通俗演義』とその派生関係書は『三国志』としるして、いちおう区別していることをお断りしておきたい。
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孔明、途端にいきなり博望坡《はくぼうは》を燃やす
さて孔明、ついに劉備軍団に迎え入れられた、とはいうものの、この就職はどこをどうひっくり返してもよい就職とは言い難かった。劉備軍団の実業的実体があまりにもあやふやだからである。劉備興業は虚業というしかなく、資本《もとで》などなく、借家に住んで日銭を稼ぐ、その日暮らしの生活をしているようなものなのだ。
では孔明はどうか。
譬《たと》えばなしである。
まあ、東京大学法学部を首席で卒業した一見前途有望な若者が、官庁にも企業にも就職せず、かといって大学院に残って研究者の道を進むつもりもなく、田舎にひっこみ土をいじりながらぶらぶら怪しいことをしていて、友達もあまりいないし、いても不良や偏屈じじいばかりである。一体どういう怠け者なのか、親が泣くぞ、としか言いようがない。近所の人には、
「あそこの息子さんは、いいとこを出たっていうけど、変なかっこうしてうろうろしたり、急に歌を歌い始めたり、だいたい目つきが変だし、そのうち動機もなく性的な殺人でも犯すんじゃないかしら。ああこわい」
と気持ち悪がられているようなものである(しかし偉人の特殊な言動などは裏返せばそれがそのまま後の逸話になり、それほど気にすることはない)。そして本人は、そういう噂に眉をひそめつつも、もし本田宗一郎とか松下幸之助がスカウトしに来たら、物凄い世界戦略を展開して、たちまち地球一の巨大企業を作り上げる自信が山のようにあると、何の根拠もないのにほざいていたわけである(だったら入社試験くらい受けろよ)。
それが何の気まぐれか、タコ社長が税務署相手に泣きながらかけずり回りつつ、どうにかこうにかやっている、社員は派遣を含めても二百人もいるかいないかの中小企業に入社した(しかもいきなり頭越しに専務、特別秘書待遇な人生いろいろ)のであった。いや、いちおう社員が二百人くらいいて、やっていけている会社ならばかなりよいほうだ。この譬えではまだ実情にそぐわない。
ならばこうだ。
そのボロ社屋の前で夜な夜な営業している屋台ラーメン屋(むろん無許可営業で見つかれば逮捕だ)にひっそりと勤め始めた、とするのがより正確じゃなかろうか。給料などゼロに等しく、フリーターでもしているほうが遥かにましと言える。
その屋台、猿顔のオヤジがたいして美味しくもないラーメンを出しているのだが、何故か行列ができるほどの人気がある。どうもオヤジの人柄が人気の秘密らしい。
さらにドスやハジキを見せびらかす地回り数十人を一瞬にして血の海に沈め、ひくひくとのたうち回らせて汗一つかかない正体不明のハードボイルドな巨漢二人が店員をしており、どんぶりを洗ったり、卵を茹《ゆ》でていたり、客に愛想を言ったり(因縁をつけたり)しているのである。いちおう屋台は何台かあって、オヤジが元締めして仲間にやらせてもいるらしい。しかし大したあがりはない。
つまりは東大卒がそんなところに就職して、オヤジを感激させたわけだが、しかしスープの仕込みも無視、麺を茹でるコツをおぼえるそぶりも見せることはない。
なんとなればその胸の内にはこの不味い屋台ラーメン屋のオヤジにかっこいい店舗を持たせ一国一城のあるじにし、それにも飽きたらず、ちかぢか地球規模にチェーン店展開して、オヤジを一躍世界一のラーメン皇帝にしてしまい(その後は当然、宇宙にチェーン展開してエイリアンもラーメンの虜《とりこ》にする予定)、マクドナルドなんざ潰すか買収してやらん、と、正気とはとても思えないことをそのいかがわし過ぎて誰も相手に出来ない脳細胞をもって神算鬼謀《しんさんきぼう》な妄想をしていたからである。
しかし、この就職難の時代、拾ってやったというのに、命じておいたチャーシューも作らず、屋台の掃除もせず、したり顔をして偉そうにしている若僧に、巨漢の先輩二人が、
「この商売のシキタリってもんを教えてやる」
と腹を立てて路地裏に連れて行こうとするのもまた当然のことである。慌てて間に入った猿顔のオヤジが、
「乱暴したらいけん。仲間になったばかりじゃないか。あいつもそのうち仕事もおぼえるって。たぶん、きっと、たぶんな……」
これだから新人類はわけがわからぬ、と困惑したり、あまりの我儘《わがまま》ぶりにオヤジですらときに激怒したりする。
そんなとき、さしせまって、有名な大資本のラーメンチェーンがついにこの町に進出してくることが決定した。
──これからおれの稼業はほんとうにどうなるんだろう
オヤジはしんみりといい顔で、じっと手を見るのである。
とにかく孔明入団直後の劉備軍団は、おそらく限りなく右のような状態に近かったと想像すると面白いから、そうする。
孔明、(事実錯綜、曖昧模糊のうちに)劉備軍団に入団す。でも、契約金などないどころか、当分、手弁当でやってくれ、というところ。史書にはそんな細かいことまで書かれていないわけだが、劉備軍団の経営状況から見て、孔明が子供のお駄賃程度の給料しか貰っていなかったのは間違いないだろう。
しかも明日をも知れぬ弱小集団であり、何が悲しくてそんなところを勤め先に選んだのか、これもやはり孔明の異常さを示す証拠のひとつと言え、後世の史家が孔明の選択の真意をあくまで想像でしか語れないのも当然である。親が生きていたら、
「あんなヤクザで頼りない会社に就職することはまかりならん」
と叱りつけて止めたことだろう。
それでもこういう場合、何はなくとも宴会を開き、三日三晩は騒ぎ続けるのが劉備軍団の鉄の掟である。
例によって剣舞を舞い、四、五人の重軽傷者を出してから、また一|瓶《かめ》飲み込んだ張飛。酔眼|朦朧《もうろう》としてしきりに首をかしげている。それを見た関羽が、
「飛弟どうした。まだ舞い足らぬか」
と訊くと、
「いや、関兄よ、妙なことを訊くようだが、この宴会はなんの祝いで始めたんだったかな」
「それは諸葛先生がわが一党に加わりしを、ことほぐために決まっておろう」
「そうだよな。そうだったはずだ。しかし、その肝腎の先生野郎はどこにもおらんではないか」
「なに」
確かに宴会場を見渡すと、いつもの面々がべろべろになって酒の海と吐瀉《としや》物の河に溺れるが如き有様で、真ん中では劉備が裸踊りをしている。どこにも孔明の姿はない。
既に宴会は三日目に突入していた。
関羽が酔いの中、記憶の糸をたぐり寄せるに、初めは諸官が行儀良く並び、上座には劉備がいて、その右隣に期待のルーキー孔明の席が設けられていた。孔明、相変わらずの|綸巾鶴※[#「敞/毛」、unicode6c05]《りんきんかくしよう》の異装で、一人だけ浮き上がっており、白羽扇《はくうせん》は膝に載せている。
「皆の者、ついにわが念願を天が聞き届け、天下の大奇才を幕下に迎えることがかなった。すなわちここにおわせられる諸葛先生である。この、いかにも臥竜! なツラ魂を穴のあくほど拝ませていただかぬかっ!」
と劉備が感が激して叫ぶや、たちまち上がる歓迎の奇鳴、ヒューヒューとか、よっ天下一とか、憎いぜ色男、とか、たわけた雄叫びが谺《こだま》する。
「乾杯じゃ」
と劉備が踊らんばかりにひと乾《ほ》しすると、続いて全員が、乾杯、万歳の声を上げて盃を空ける。プロージット!
盃を置いた孔明は、するりと席を立ち、劉備の下座にさがり、深々と拝礼した。そして爽やかに、
「いまやこの孔明、殿のしもべにございます。どうして隣席に侍《はべ》る非礼を犯せましょうや」
といかにも涼しげに言ったから、またもや幹部たちの、ええぞあんちゃんとか、おれの女房をくれてやるとか、コン様! とか、どうでもいい歓声が沸き起こった。張飛も、
「くっ、くそ生意気な馬鹿僧かと思っていたが、ちゃんと分かってるじゃねえか」
と一瞬だけ感心した。
劉備が、
「いや、先生、わたしは先生を臣下とは思っておらぬ。わが師であり同志であるとすら思っておるのだ。どうか元の席に戻られよ」
と何度言っても、
「この孔明、ただひたすらに殿に犬馬の労を尽くすのみにて。また、この場の御方々のうち一番の弱輩者、何の手柄もない無能にございます。犬馬の席で十分にございます」
孔明は滑らかな動きで一番の末席にするすると遠ざかった。
「いかん、いかんぞ、先生ッ! わしなぞ先生にくらぶればはるかに下賤、鶏豚の労を尽くすべき者(殺されて食われる労?)のその席は、それこそわしにふさわしい席である」
劉備は、嬉しかったのだろう、いきなりハイテンションで口走り、すわと座を蹴って立ち、孔明が腰を落ち着けようとしていた隅っこの席に向かって走り、途中でこけて、スライディングのように頭から滑り込んでしまった。すると趙雲、孫乾《そんけん》、簡雍《かんよう》、糜竺《びじく》、胡班《こはん》、糜芳《びほう》、陳到《ちんとう》らも、
「わが君より上座にどうしていられようか。わが君がそう言われるのなら、われらの如きは鶏豚よりも劣った最低の畜生、虫けらじゃあ。その席は譲れませぬぞ」
と突っ込んできて、末席の汚し合いを始めるのであった。広間の隅にたちまち盛り上がる黒山の人だかり……って、どうして劉備軍団っていつもこうなるんだろうか。
と、そんな感じで宴会は始まったわけだが、関羽にはどうもそれ以降孔明の姿を見た記憶がない。関羽は、酔いと眠気で頭がだいぶくらくらしていたが、
「どうやら、あらかじめ緻密な計画のもとに、あの混乱を引き起こし、それに乗じて脱出をはかったに相違ない。諸葛孔明……まことに油断ならぬ男である」
と『三国志』流の大げさな解釈をして唸った。
さすが神出鬼没、神算鬼謀《しんさんきぼう》の策士である。徐庶《じよしよ》により、毎回人死にが出るような劉備軍団の宴会の乱痴気騒ぎのことは聞き知っており、そんなものに付き合いたくもないから、ソフィスティケートな進退をもって素早く遠慮したのに違いない。よくいる、見え透いた言い訳をして体育会系のコンパを避けようとする気弱な学生よりはましなのか。
張飛の目がぎらりと光った。
「野郎、せっかくおれたちが祝って催した宴会を、身勝手にも脱け出しやがるとは! ふとすぎやがる。おれたちの宴会を袖にして、無事に済むと思っていやがるのなら、げへへへ」
ぶっ殺してやりたいところだが、腕一本くらいで、と常に近くに置いてある一丈八尺の蛇矛《じやぼう》をひっ掴んだ。
いまにも張飛が立ち上がらんとした時、横あいから觴《さかずき》を持った手が伸びてきた。
「張将軍、お酒は足りておりますか。こたびはわたしのような者のために、かくも楽しき宴を催していただき、感謝の言葉もありません」
その声のぬしは他ならぬ孔明。
「さてもう一献《いつこん》」
と、張飛に盃をとらせてなみなみと注いだ。張飛は驚いた顔のまま何も言えない。
「蛇矛を手にとられておるということは、あの張将軍らしい凶暴な舞を今一度、見せていただけるのですか」
すごい楽しみですう、とファンのようなきらきらした笑顔を見せる孔明であった。
「お、おう」
張飛はとにかく盃の酒をぐいと飲み干した。
関羽も愕然《がくぜん》とした表情で孔明の顔を見つめるしかなかった。いつの間に現れて、張飛の背後に回ったのか。
(ついさっきまで、絶対にいなかった)
と思うのだが、げんに目の前にいるのであり、やにわに自信がなくなってくる。
「諸葛先生」
と関羽は孔明に声をかけた。そしてそれとなく宴会の席にいなかった証拠をつきとめようと、回りくどい質問をしてみた。
しかし孔明は、張飛と趙雲が、子供のいう悪口のような(お前の母さんでべそ、といったていのもの)あまりにも幼稚な口論の末、
「表に出やがれ」
と本格的な殺し合いを始めかけ、劉備が止めるのに苦労したことを知っていたし、簡雍の下ネタはマンネリだと糜竺が因縁をつけたから、簡雍はとっておきのとても文字にはできない凄いネタ(ニンフォマニアック宮女の宦官《かんがん》あそび、といったもの)をスパークさせたため、一同、にやけ笑いを通り越して、
「そんなことを言っては人間としてお終《しま》いだぞ、お前……」
と顔面を蒼白にして口を塞いだことも知っていた。
他にもその場にずっといなければ見逃しているような酔漢どもの恥ずかしい所業も知っていた。仕舞いに、
「先生は本当にいたというのですな」
と、ろれつが怪しい関羽は念を押すように訊いた。すると孔明、白羽扇を取りだして、目許をぬぐい、
「関将軍。さきほどから、なんの謎かけでしょうか。わがために宴を催していただき、涙あふれさせているこのわたしが、一瞬の中座もするはずがございませぬでしょう」
と爽やかに言った。孔明のうわばみぶりは、あるいは関羽、張飛よりも上らしいことも隆中《りゆうちゆう》の一夜で分かっていたから、
「平然としているけれども、ちゃんと飲んでるのか」
とからんでもどうせ分からぬであろう。
関羽と張飛はしばらく悩んでみたが、宴会もラストスパート、そんなことはじきにどうでもよくなってしまった。
その時には、もちろん宴会場のどこにも孔明の姿はなかった。
さて、この孔明の避宴の計、いったいどういう手品なのか、わたしがここで種明かしをしたら読者の楽しみを奪うことになるので、というのは一種のマナーというよりは、言い訳に近いと思われてもそれはそれでしょうがない。
孔明は隆中臥竜岡の庭先で站《たん》≠行っている。
站という字は、宿駅や中継地を意味するもので、「兵站《へいたん》」などという軍事用語にも使われている。ただし元の意味は、ひとつ所を占めてただじっと立つ、ということである。
站の字義通り、孔明は樹のそばにひたすら突っ立ち続けている。近頃の孔明はこの站≠フ検討に余念がないらしい。
站≠烽ワた、華佗《かた》の五禽戯《ごきんぎ》と同様に最古の気功に属するものであり、きわめて単純なものながら、功夫《クンフー》しだいでは万病快癒、自然一体、宇宙合一を実現するという、まことに怪しげな衛生養生の術である。怪しいとはいえ孔明が研究に値するとして打ち込んでいるのだから、何かしらおそるべき効能があるのだろう。とりあえず、異端の術ではあるが、邪道ではない。
むかし孔子が、
「異端を攻《おさ》めるはこれ害あるのみ」
と学ぶ者に注意を促したものだが、孔明は旅先で異端なものばかり拾ってきては実践研究したり(危険そうなものは諸葛|均《きん》を実験台にしたり)、新工夫を付け加えたりしているのであった。
「孔明、常に異端の最先端にあり」
というわけでもないが、そもそも「八陣図」だとか「奇門遁甲《きもんとんこう》」だとか、異端極まりない戦術戦法の元祖(ないしは中興の祖)、そしてその史上最高の遣い手とされてしまっているのが孔明なのである。もう何をか言わん。
ただ、言ってしまえば『説三分』『三国志演義』そのものが異端の塊のようなものであり、まっとうな士大夫、読書人階級は真面目に相手にしなかったもので、子供だってある年齢になれば自然に卒業するといった幼年向けマンガ誌のようなものなのである。中国では、いい年をして『三國志』ではなく『三国志』を読んで夢中になっていたり(または書いていたり)するのは、人として痴《し》れ者! というか、好んで女子小人に成り下がろうとする数奇者《すきもの》、頭が幼児並み! と断定されても致し方ないくらい恥ずかしいことなのである。よって『三国志』がブームになるなどというのは、国をあげての国民総幼稚化、他国に侮りを受ける恥辱の事態と言っても過言ではない(というのは言い過ぎだな、絶対に)。『三国志演義』の変遷史というか、こういった件についてはいずれまた触れることもあるかも知れない。
そんな後世の国賊ものの異端源である孔明、誰にどんな非難を浴びせかけられようが風に柳の不動智神妙、今は平和を(?)念じてただ站として立っている。
せっかくだからもうちょっと站≠ノついて説明しておけば、站は後代、站椿《たんとう》とか立禅《りつぜん》と呼ばれるようになるもので、中国拳法の各門派が重視し(ことに内家拳《ないかけん》)、ほとんど例外なく取り入れるようになり、他の格闘技に類を見ない中国拳法独特の鍛錬法となっている。站≠ヘ中国武術の初歩であり奥義、アルファでありオメガであるとまで観ずる門派すらある。むかし拳法のことを手搏《しゆはく》などと称したが、いつ頃に站と結びついたのかはよく分からない。
ただ天と地の間に杭や大木に化した如く立ちつくすだけで、渾元《こんげん》の力が強化養成される。ということなのだが、見る限り、あまりに単純すぎて無意味に時間を浪費するような悠長の練功というしかなく、入門者の多くはここで挫折する。しかし、もし站になんら効果がなく、眉唾物であったなら、武技という合理現実のリアリズムの中、とっくの昔に排除され、消えて無くなっていたはずである。
站≠フ理論的根拠はこれまた「易《えき》」にあるのだが、易にして不易、動きながら同時に静止し、上虚でありながら下実、陰陽が激しく交歓摩擦しつつも均衡し矛盾なく、年輪を経た樹木のように不動で穏やかに見える。練精化気、練気化神、練神還虚、還虚合道といったタオイズムの秘儀にも通じている。あらゆる対立が無である、無極にして太極に至るということを、自らの意識と肉体をもって成し遂げるという人間離れ業というか、宇宙技なのである。
中国人はかく武術、戦争から囲碁、書画芸術、呪術医術に至るまで、何しろ「易」が好きで好きでたまらないといったところがある。ちなみに站椿功《たんとうこう》のことを具体的に知りたい人は、近代中国武術の大成者といわれた達人、|王※[#「くさかんむり/郷」、unicode858c]斎《おうこうさい》(一八九〇〜一九六三)の意拳が最も詳しいとされているから、調べてみることをお勧めする。
とにかく「易」であり、道であって、宇宙レベルな気功であり、孔明好みではあるが、傍から見ればただぼけっと突っ立っているだけとしか見えないので、どこか間抜けで変というしかなく、とてもその内部で宇宙がいろいろ大展開しているとは普通の人に分かるわけがないのであった。諸葛均は、
(また兄上がへんなことをやっている。馬鹿馬鹿しくていやだな)
とはなから理解しようとする気も起きない。
しかし、その才、孔明よりも上(かもしれない)といわれる妻|黄氏《こうし》は、そんなことはない。
「何をなさっておいでですの」
と興味を示したから、孔明は、
「うむ。これは口で説明するよりも、まず行い、身体で知ることが大事なのだ。やや膝を曲げて、腕を胸の前に上げて立ち、われをあたかも泥中の蓮の如く、天を衝《つ》く巨木の如く、地に不二にして厳なる泰山の如く、ただ立つのである」
とやり方を教え、
「こうでございますか」
と真似するうちにそこそこ要訣《ようけつ》が飲み込めてきた様子であった。
そして竜虎並び立つというか、三国の英雄英雌、時に及んで宇宙を内観す、というか、二人並んで悠久恒常の時に思いを馳せて佇《たたず》むのであった。まともな者からすれば、夫婦ともに怠けてひなたぼっこをしている、と非難めいた気分を抱かせても仕方がない。
その向こうでは諸葛均と習氏《しゆうし》が一生懸命畑を耕し、農作業の苦労に汗を流しているのが、いじらしく、まるで現実と浮世離れの境目、象徴のようで、ごく平凡な、ささやかな幸福に喜びを願う人々にとってみると、何しろ理解超絶、意味も分からずやるかたないのであった。
『三国志』では、熱誠の滾《たぎ》る「三顧の礼」のあと、哀愁の「臥竜出廬《がりようしゆつろ》」となり、その日からそのまま身ひとつ、いつも劉備の影の如く最側近に仕えたというのが大筋なわけだが、孔明にとっては本筋が通っていれば他のことは別にどうでもよい。
ただ『三国志演義』ではこのあたり不思議と言うしかない奇妙な構成をとっている。孔明の急遽の出廬が決まり、たじろいでいる諸葛均に、
「わたしは劉|皇叔《こうしゆく》の三顧の恩に報いるべく出馬することにあいなった。お前はひたすら農耕にはげみ決して田畑を荒らさぬようにせよ。わたしが功業を成し遂げ帰って来るのを待っておれ」
と言いつけ、新野《しんや》に向かうのはいいとして、その記念の詩。
身未だ升騰《しようとう》せずして、退歩《たいほ》を思う
功成りて応に憶《おも》うべし、去りし時の言
只だ先主の後を丁寧するに因《よ》りて
星落つ、秋風五丈原《しゆうふうごじようげん》
何故だかは知らないが、臥竜出撃の意気の盛り上がる場面であるにもかかわらず、冷水をぶっかけているようなものである。孔明の死没が目前に迫ったとき、若き日の追憶をまじえてうたったような暗い詩が置かれている。
「まだ君のために、のぼりつめてもいないのに、もう隠退のことばかり考えちゃって、おれ、ちょっと疲れているのかも知れないな。出かけるときに諸葛均に言いつけたことを思い出してしまったよ。劉備の馬鹿丁寧さにそそのかされたのが運の尽きだったんだ。笑いたければ笑うがいいさ、どうせ死ぬんだよ、秋風の吹くころ、五丈原とかいうどこにあるんだか分からない辺鄙《へんぴ》な場所で……」
というニヒリズム、猪木《いのき》的には、
「やる前から負けることを考えるバカがどこにいる!」
と吐き捨てるしかない、縁起が悪いにも程がある詩がどうしてここに挿入されるのか、わたしも含めた読者は困惑するしかあるまい。
「えーっ。負けちゃうの、孔明って。なんで〜。ネタバレじゃん」
と、一生懸命辞書を引き引き『三国志』を読んできた可憐な少女のやるせない気持ちを考えたことがあるのか。
まあわが国では土井晩翠《どいばんすい》がズバリ『星落秋風五丈原』という孔明を主役にしたギリシャ悲劇の如き叙事詩を書いており、おとなげのない大ネタばらし、まるで嫌がらせのように、
──丞相《じようしよう》、病《やまい》あつかりき
と繰り返し、孔明が志半ばで病没することを、どこをとってももの悲しさ一〇〇パーセントの哀切漂う詩句でしるしているから、これを『三国志』よりも先に読んでしまった人は救われない気分となることうけあいだ(でもなかなか素敵な作品である)。
とにかく、孔明は晴れがましい出廬直後だというのに、敗北をばらされ悲運を決めつけられているという哀れな主人公で、後段読者がショックを受けないようにとの配慮なのかも知れないが、並の作家では書けないだろう力ワザといえる。一行目で犯人が明らかにされている倒叙《とうじよ》推理ではない本格推理小説(既に本格ではなく、新本格か)を、それでも最後まで読ませる自信がある(ある意味、新トリック)のと同じようなものである(というのとはちょっと違うかな)。
さて、劉備と孔明は何日も寝食を共にし、夜を徹して劉備の房《へや》にて天下を語り、関羽、張飛が歴年そうであったように、同室同寝台で寝起きするほどの蜜月である。その様子に張飛が嫉妬したのか、今にも泣きそうな顔で訴えた。
「兄者、ひどいじゃねえか。近頃はぜんぜんおれたちと寝てくれなくなった」
古馴染みの義兄弟のおれたちよりも、あんな若僧がそんなにいいのか、と孔明を恨んだほどであったとされているが、たぶんべつにカマっけを暗示しているのではあるまい(ちなみに趙雲も劉備と寝所を共にするほどの親しさだったと記されている。張飛には隠していたろう、たぶん)。
優れた部下を寝所に招くのは、土地も財宝も官位認定権もない素寒貧《すかんぴん》な親分、劉備ならではの豪華なもてなし褒美《ほうび》のつもりというか、人心掌握法だったのかも知れないが、寵姫《ちようき》に御寝を申しつけるではあるまいし、感激して忠義心を堅くする者ばかりではなかったろう。嫌がって逃げ出した部下も少なくなかったに違いない。張飛に憎まれるのが一番困るし。
張飛の抗議に、劉備は、
「ダーッハハハ、すまん、すまん、べつにお前たちのことを忘れてしまったわけではない。わしも先生も話が天下万民の悲惨に及ぶと、正義の心がふきこぼれてしまい、どうにも時を忘れてしまうのだ(たぶん嘘)。わしと先生は決しておぬしらが疑っているような後ろ暗い間柄ではない。そうだな、刎頸《ふんけい》の交わり、ではないな。うぬー、管鮑《かんぽう》の交わりでもなし。その、あれだ、水と魚だ! わしと諸葛先生は水と魚のような妖しくも深い関係にな、うん、知らぬ間にそうなってしまったのだ。そういうことで、恥ずかしいからもう言わんでくれい」
と無神経に言い訳をした。こんな痴言に張飛、関羽とも納得したわけではないが、しばらく黙って様子を見ることにした。
『三國志』でも、次の如し。
「是に於いて(劉備は)亮と情好、日々密なり。関羽、張飛|悦《よろこ》ばず。先主(劉備)これを解して曰く、
『孤の孔明有るは、猶ほ魚の水有るが如し。願わくは諸君復た言うこと勿かれ』
と。羽、飛、乃ち止む」
天下屈指の故事成語「水魚《すいぎよ》の交わり」の成立ということだが、孔明と劉備のどちらが水でどちらが魚なのかは解釈次第である。どちらが水か魚かで、微妙にいやらしさが変化するのだが、いちおうどちらともとれる。魚は水がないと死ぬのだから、水のほうが立場は重いといえるわけだが。
しかしそこは孔明のことである。劉備と一緒にいて終日語り尽くしたと見せかけつつ、実際は全然別なところにいたに決まっている。劉備は黄氏特製の諸葛亮人形《ロボット》みたいな変なものを相手に、幻覚を見せられているかのように、一人芝居にはしゃいでいたに違いないとわたしは見ている。
実のところ孔明はまだ隆中臥竜岡から居を変えることなく住んでいる。そのあたりを黄氏が問うても、
「新野《しんや》に引っ越す予定はまったくない」
との返事であった。
よって孔明は新野には徒歩で通勤している。しかも週に三日くらいしか行かず(天気が悪い日や気分が乗らない日は無条件に休みだ)、だいたい二泊三日で帰宅するのである。初のお役所勤め、不良公務員の鑑《かがみ》というほかない勤務実態であった。
距離から考えて、新野にゆくだけで丸一日は費やされ、一日働いたかどうかくらいで、その夕刻には帰り支度を始めているということになる。これでは用事や相談で役所に来た市民たちをたらい回しにして批判を浴びる暇すらない。しかし劉備も孔明に雀の涙ほどの給料しか出していなかったから(実際は孫乾や糜竺の下役の会計係が孔明を舐め嫌ってそうしているのだが)、お互い様であるとはいえる。劉備軍団員の特典は(一部の人には大迷惑な)しばしばなる酒宴くらいであった。
そして孔明、休みの日には庭先で站を行ったり、部屋で書見したり、琴を弾いたり、黄氏と機械の設計製作をしたり、不意に出かけて二、三日いなくなったり、その他何だか分からない化学実験や仙術、妖術的戦術の研究に余念がなかった。たまに畑仕事も申し訳程度に行って、諸葛均を手伝ったりはする。出廬以前とほとんど変わらぬ孔明の日常であった。
勝手にしてくれ。
そもそも新野という土地は孔明がいまさら引っ越すような場所でもない。出廬後のしばらく、泊まるくらいはしたろうが、黄氏や諸葛均らと移り住んだとは思われない。
ほんらい北方への監視所を兼ねた貧乏居住地でしかない犬小屋のような城だったものが、劉備軍団の数年の駐屯でいささか人口が増えてしまい、一時期パンクしそうになった場所である。言ってみれば新野は普通の縮尺の地図ならば載りもしない小村であって、目印にもならない規模である。その北方に以前に徐庶が曹仁《そうじん》軍を迎え撃ったことがある博望坡《はくぼうは》が広がっているわけだが、別に何があるわけでもない荒野である。
これが樊城《はんじよう》くらいになるとやや大きく、町か市の規模、虫眼鏡で見れば分かる細かさの点と文字が見て取れる。このあたりまでが荊州《けいしゆう》の門前で、漢水を渡るとすぐに襄陽《じようよう》の大城が見え、これでようやく県庁所在地クラス、赤い文字と極太の一点で示されねばならない。荊州で極太の点が打てる目立つシティは襄陽と江陵《こうりよう》くらいであって、この二都市は荊州の南北の都、日本においては「江戸と大坂」のような感じであったろう。
現代、故襄陽は樊城と合わせて襄樊《じようはん》市となり(新野はこの地域に含まれる)、『三国志』観光の外せぬスポットとして点数を稼いでいる。
新野は劉備軍団のせいで有名になってしまっただけのなんの罪もない天然な小城にすぎないのであった。新野は何故か(もないものだが)『三国志』関連の地図には必ず大きめの点が打たれて目立ち、それこそが異常というしかないのは承知せざるを得ないところだ。大げさに言えばバスケットボール大の地球儀の日本列島の真ん中あたりに、サンフランシスコと同じ大きさの黒点で新宿≠ニ打ってあるような(Tokyo はその隣)、何かの間違い感であろう。これでは衛星軌道上から新宿区をピンポイント爆撃するにも誤差がありすぎで、宇都宮に命中してしまっても仕方がない。
とにかく大軍を禦《ふせ》ぎとめたり、戦さの駆け引きに使おうなどというのは正気の沙汰ではないと言ってよいくらい、戦略的にはどうしようもないのが新野という小城なのである。げんに曹操侵攻のさい劉備はハナから新野を捨てて樊城《はんじよう》に移ってしまうし、孔明に至っては燃やすことばかり考えていた。火をつけるくらいしか使い道がなかったのであり、哀れ新野は劉備軍団ゆえに一時期のバブルに酔わされた挙げ句、臥竜の燃やすところとなる。新野の衆には、呪われた土地だったということで諦めてもらうしかあるまい。
その日、孔明の姉が遊びに来ており、黄氏と孔明の姉は草堂の階《きざはし》にかけて、仲の良い姉妹のようにお喋りに興じていた。
孔明が站《たん》を一休みして近付いてきた。
「茶を一杯くれないか」
と言うや、黄氏は少し前に発明した保温急須(魔法茶瓶のようなもの)から、既に茶碗に注いでいるところであり、まことに息はぴったりである。
「姉上、近頃はちょくちょくいらっしゃいますが、先生の世話はよろしいのですか」
と孔明は姉に訊いた。
「お舅《しゆうと》様はこの頃、|※[#「山+見」、unicode5cf4]山《けんざん》のお宅にいらっしゃることが多くて」
と、孔明の姉は魚梁洲《ぎよりようす》の隠遁所キーパーのようなことをしていればよいとのことだった。
「近く襄陽が兵馬の踏み荒らすところとなるのは避けられないと、夫と夜遅くまで思案なさっているようです」
孔明の姉の夫は|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公《ほうとくこう》の長男の|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]山民《ほうさんみん》である。
「義兄《あに》上とご相談ですか。なるほど……来たる大難に備え、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生はおのが福利を守らんがための邪悪な策略を練っておる、に違いありませんな。荊北《けいほく》に名だたる先生も我が身可愛さに……くっ」
「人聞きのわるい。お舅様はそんな方ではありません」
「まことにそうならよろしいのですが。わたしも姉上の身の振り方のことは案じており、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生が逸民《いつみん》らしく無責任を発揮なさるようなら正義の一策にて誅撃《ちゆうげき》いたさんと思っております」
「※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]家のことは※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]家でやりますから、変な手出しは無用です。お舅様はきっと皆がよしなにゆくよう、心を砕いておられるのです。家族を路頭に迷わすような方ではありません」
孔明は疑わしそうな顔をしてみせる。
孔明の姉は、
「あんたのほうこそどうなんですか。いつ来てもここでぶらぶらしてるけど、新野の劉将軍にお仕えしているのでしょう? 遊んでいる場合じゃないはずです」
「遊んでいるとは心外な。いまわたしが新野に行ってもやることが何もないのです」
「皇叔《こうしゆく》さまが、目をかけてくださっただけでも有難いことであるのに、くわしく聞けば、あろうことか三度もわざわざ自らおいでになってお求めになったっていうじゃありませんか。あんたみたいな偏屈な怠け者を招いてくださるような、そんな辛抱強い物好きなお方は天下に二人といないと思いなさい。男ならば意気に感じてたとえ嫌だと言われようと雑巾がけでも掃き掃除でも、やれることならなんでもやって忠勤ご恩に報いねば男がすたるというものです」
「姉上、この孔明、べつに拾われたのでも弟子入りしたのでもありませんぞ。既に姉上に言われるまでもなく一仕事、まずは味見をしていただく程度ではありますが、それでも逆転の秘策を献じ申し上げました。あとは殿がその計略を実行してくれさえすれば、わたしとてここにこうしておりません……」
その秘策とは言うまでもなく「天下三分の計」の実現のため、喫緊《きつきん》に実施が必要とされるものに相違ない。
しかし孔明、白羽扇を取り出すと上にして眺め、溜息をつく。
「ですが姉上、一策献じたことだし、もう辞めようかと思っているんです」
軍団入りしてまだひと月と少々である。
「なぜ?」
「何か思っていたのと違うのですよ。適《む》いていないっていうか。自分はこんなことをやりたかったんじゃないなって。自分を生かせる場所が他にあるんじゃないかって、こんなはずじゃなかったって……仕事がつまらないというか、むなしいんです」
と近頃の若い者らしく、転職フリーター予備軍のようなことを言い出した。
「ちょっと亮、お勤めしてまだひと月くらいだというのに何がわかるというんですか。辛抱が足りなさすぎますよ。向き不向きなんて言い出したらきりがありません。もう辞めるだなんて、三日坊主な。世間はそんなに甘くありませんよ」
またもやニートな日々に戻るつもりか、と叱る。
「ですが姉上、人生は一度しかないのです。間違った選択をして将来後悔したくはありません。わたしの人生はわたしのものなのであり、わたしが決めるものです」
おれってそういう人じゃん、と、自由を愛する(手前勝手なだけ)若者なら誰だってそう言いそうだ。
「お前、何か他にどうしてもやりたいことでもあるんですか」
「自分がほんとうにやりたいことが分からなくなってきたのです。それがはっきりするまで、自分探しのため、戦闘地域へ旅でもしようかと」
何をしたら日々が充実するのか分からないという現代の豊かさが生み出した反作用な若者が、半ば怒りながら心配してお説教する父母や親戚の叔父さんに対して、今日もどこかできっと言っているようなことを言う孔明であった。まあ、音楽をやりたいとか作家になりたいとか、やくざなことを言い出さないだけましなのか。
孔明の姉は、
「せっかく求められてかの名高い劉皇叔のもとに至ったというのに、その飽きっぽさは何事ですか! ご奉公を続けているうちにやり甲斐なども生まれてくるものです」
と、くどくどと叱りつけた。
「もう。黄氏さんからも言ってやってください。やはりここは均たちに任せて、新野に移り住んだらどうなんです」
すると孔明はやりきれなさそうに、
「姉上は新野のことを知らないからそう言うのです」
と、姉貴はあの会社のヒドさがわかってねえんだ、とグレ者社員のように言った。
「自分が選んだご主君でしょう。どんな所でも、はじめのうちはとかく新参者は辛いものです。わたしが※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]家に嫁入りしたときだって、もう、とっても大変で、みなに隠れて台所の隅で涙をこぼした夜もありました」
というふうに孔明の姉は孔明の不心得をさんざんに諭してから、
「お前はやれば出来る子なんだから。姉はわかっていますよ」
とこんどは優しく励まし、これまで馬鹿にしてきた襄陽の衆を見返してみよ、と、気合いを入れる。母親代わりだった姉だけには孔明も頭が上がらず、頭《こうべ》を垂れて説諭を聞くしかなかった。
孔明の姉が帰ってから、孔明は黄氏に向かってきらりと涙をあふれさせた。
「いつまでたっても姉上から見れば、わたしははなたれ小僧でしかない」
黄氏が訊いた。
「先ほどのお話は本気なのでございますか」
「劉皇叔のもとを辞したいという話かな」
黄氏が頷くと、
「姉上の、わたしを案ずるあまりの真面目なお顔を拝見していると、つい、からかいの言葉がこぼれてしまうだけのこと」
と孔明は言ったが、一緒に暮らしている黄氏には、孔明の鬱屈《うつくつ》というと大げさだが、歯がゆそうな気配がうすうす感じられる。そのはっきりした理由についてはまだ語ってはくれない。
孔明が劉備のもとを去るとすれば、三顧の礼を受けたときに、
「自分を見棄てないかぎり、お仕えいたすでしょう」
と、ちくりと条件を刺しておいたが、劉備がその約束に明らかに違背したときとなろう。だが劉備、孔明に会うとひたすら遜《へりくだ》りつつ、はしゃぎ回っていて、今のところは見捨てるなぞまるで考えていないことは明らかである。
孔明の鬱屈とは劉備が献策を実行しようとしないことにある。
つまりは献策第一号であり、「隆中対《りゆうちゆうたい》(天下三分の計)」の基本優先緊急事項、
「劉表《りゆうひよう》一族を抹殺して、さっさと荊州《けいしゆう》を奪い取る」
という、策というより方針である。迫り来る荊州の危機に、民百姓も、先年末から病がちな劉表にはもはや何の期待もしていない。劉備を待望する民衆は、はやく取って代わって欲しいくらいだと公言し、役人もいちいち咎めなくなっていた。
臥竜に不可能無し、と言いたいところであるが、このことばかりは孔明にやれることではない。孔明が直接劉表を絞め殺したら、それではただの殺人犯である(または劉備軍団が雇った変態チックな殺し屋まがい)。同じことを劉備がやれば、硬骨正論の士は猛批判するだろうが、大義のための乗っ取り、実力交替ということになって、良くも悪くも一州の支配者に落ち着くことになる。
自分と劉備とでは、人望その他の違いは認めたくなくても大きいのだ。孔明は、
(これさえやってもらえれば、あとは万事任せてもらってよいのだが)
と思っている。さすればかなり容易に荊北を戦禍から守れる策がある。
もちろんただ劉備が荊州|牧《ぼく》になっただけでは、それでも手遅れ、曹操の南征軍に勝てる見込みはない。しかし、孔明の策を用いれば話は別だ。曹軍を踏み止まらせる第二第三の、次々に妖しい策がある。それも急な領主代わりのせいであまり働きに期待できないであろう荊州兵をほとんど使わずに、である。
(いまわが君が荊州を奪ってくれれば、ひと月もあればそのようにして見せる)
そして、それを悟った曹操が愕然として、
「これはいかぬ。が、臥竜、孔明……なんということだ」
と、むかしのハリウッド女優みたいに派手にその場で失神して、|許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]《きよちよ》や夏侯惇《かこうとん》に支え抱えられる光景が目に浮かぶようである(妄想)。
曹軍の侵攻開始の日時はまだ決定していないようだが、あの曹操のことである。準備完了を待たずに閃《ひらめ》き、
「明朝出撃」
と、電撃命令が下っても不思議ではない。劉備とてそれは分かっているはずなのだが、笑って逡巡、何をやっているのだか。
とにかくこの状況では、さしもの孔明もやることがない。週休四日としているのは、眠たいからではないのであった。
「それに新野に長居したくないのは、今はあまり殿には会いたくないということもある。顔を見るたびにわたしにお荷物を押しつけようとなさる」
「お荷物、ですか」
劉表が病床についてから、増して蔡瑁《さいぼう》に睨まれて明日をも知れぬ悲劇の公子|劉g《りゆうき》の運命もまた窮《きわ》まりかけていた。孔明にとってはどうでもいいことなのだが、頼られると弱い劉備がいらぬ男気を発揮して、
「哀れな公子を助けてやってくださらんか」
と孔明にすり寄ってくるのである。
劉gの件、自分で引いた籤《くじ》なら、自分でけりをつけてもらいたいと言いたいところなのだが、劉備が大奇才孔明獲得の大自慢を垂れ流した手前、劉gに、
「皇叔様、是非是非、わたしにも孔明どのの奇謀をお貸し願えぬか。それほどの方ならば、わたしの苦悩なぞ寸暇の間に一気解消してくれるに違いありません」
と頼まれると、むげに、それはどうかしらん? とは言いにくい。
「分かり申した。わしから言っておくゆえ、大船に乗った気持ちでおりなされ」
と胸を叩き、劉gは涙して、
「ありがたや。これで身も救われる」
といった調子らしい。
孔明思うに、劉gのことも、劉表を始末すれば、同時に解決することなのである。いちいち身の上相談に乗る(しかも孔明に丸投げな無責任)劉備の見栄なのか性分なのか、それがやりきれぬわけである。
「まあ、そうだな。暇だ暇だと不平をいうよりも、進んで仕事をつくろうか。ちょうどよい機会である。そなたも新野に遊びに来るがよい」
そして翌日、黄氏をともない新野に出勤することにした。
まずは黄氏に新野城内を案内し、ついで天気が良かったので博望坡まで足を延ばした。聡明な黄氏は、孔明のいう「新野の空気と事情」がだいたい飲み込めた。
孔明夫妻は、先月、急遽表札がつけられた普通の家臥竜の別荘≠ノ投宿していた。最初劉備は、
「新野には諸葛先生のお住まい、わが家などとは比べものにもならぬ大邸宅を新築いたさせていただく所存である。臥竜の棲家ならば、やはり竜宮でなければならず、いかにもそれっぽいけばけばしい、艶《つや》っぽいものを設計施工させていただきます故、楽しみにお待ちあれいっ」
と申し出て、さっそく無駄な公共事業を発注しようとしたのだが、
「いいえ、そのへんの空き家、仮宿でけっこうです」
と孔明はつれなく止めさせた。
「それはいけません、先生。わしの恥となる」
と再度申し出た。すると孔明、白羽扇をかざし眺め、
「……燃やしますから、どうせ」
と小さな声でぽつりと言い、不気味な薄笑いを浮かべたから、劉備も恐くなって取りやめた。
孔明は差しつ差されつ、黄氏と歓談していた。ついさっきまで、糜竺《びじく》、簡雍《かんよう》をはじめとする劉備軍団幹部たちが、
「荊北一の醜女《しこめ》」
「顔も身体も竜女」
と噂の黄氏見たさに訪れてきて、いちおう納得したらしく、たくさんの酒と肴を置いて(お供えして)帰っていったところである。
「すまぬな。ああいうお調子者ばかりで」
とまるで自分の部下であるかのように言う孔明、
「いいえ」
と黄氏はまた一酌。
「ふふふ、今頃は皆、わたしをうらやましがっておるに相違ない」
それはともかく、
「ひとつそなたにも手伝ってもらいたいことがある。こればかりはわたしにも出来ぬことである」
と孔明が言った。
「なんでしょう」
「難しいことではない。家族付き合いをはじめてほしい。そなたはわが君や、関将軍、張将軍の奥方ご家族と親しくなり、仲良くしていただけるようになればよい」
劉備には糜竺の妹の糜《び》夫人と婢女《はしため》あがりの甘《かん》夫人の二后がいる。他にも何人かいたらしいが、死に別れたり棄てたり、今は二人だけである。
后妃といえば今はやりの言葉でいうに立派なセレブに違いないのだが、亭主に甲斐性がないばかりにおもむろに平民以下、まったく名が体を呈していない(後に孔明がそれらしく取り繕わねばならなくなる)。三代目姐御、と呼んだりするほうが正確であろう。戦場に何度も置き去りにされて呂布《りよふ》や曹操に人質にされたり、敗走の修羅場を連れ回されたりと苦労が絶えず、生涯借家住まいの境遇であった。そんな暮らしを続けさせられれば逞《たくま》しくなるのは当然だろう。巷の百姓女房どのなどよりもはるかにドスの利いた肝太い婦人であったろうことは、「趙雲|子竜《しりゆう》単騎|劉禅《りゆうぜん》を救出す」の場を見たら分かろうものだ。劉備も頭があがらなかったに違いない。
劉備はまあいいとして、関羽、張飛に妻女がいることは『三国志』ファン的には余計な感じがするところもある。かの豪傑二人に色気は無用、ただただ戦場で、あるいは城市の道端で、硬派一筋、肩がぶつかった、目があった、顔が気にくわないとか、そんな理由で人を殴ったり、殺したりしていて欲しいもので、妻女なぞいてもらっても面白くない。だからといって豪傑が女性に全然もてないというのではまずいだろう。
その点、さすがというか、張飛翼徳は民衆の(わたしの)期待を裏切らない。張飛の嫁にはあまり大っぴらにはできない秘話があり、秘話なのに『三國志』に明記されているのがみそである。
場所は定かではないが、時は建安五年のことである(官渡《かんと》の戦いの年であり、劉備軍団は右往左往のすえ、汝南《じよなん》、荊州へ落ち流れることに)。魏の驍将|夏侯淵《かこうえん》の親戚に十三くらいの娘がおり、山に薪をとりにいったとき、うろついていた張飛に捕まえられてしまった。娘は怪獣に襲いかかられるより恐かったろう。張飛はその少女が名門夏侯氏の女であると聞き知るや、すぐさま自分の妻にしてしまった。
これが事実なら、ほとんど山賊のふるまいであり、少女誘拐連れ回しの末、生涯軟禁という、人として許し難い犯罪というしかないのだが、張飛なんだからそれでいいのであり、それどころか逆に張飛の妻になれた幸運を天に感謝すべきだとファンの子供たちにうらやましがられたりして、親御さんも警察も仕方なく諦めるしかなかったろう(たぶん)。
張飛の妻の夏侯氏は二女を産み、それがのちに二人とも後主劉禅の皇后となった。張飛は蜀の宮廷の強力な外戚《がいせき》となったのである。
さらにまた後のことになるが、夏侯淵の次男の夏侯|覇《は》が、魏宮廷での立場が危うくなり、追い詰められて蜀に亡命した。そのさい謁見した劉禅は親しく話をし、張飛の妻は夏侯覇の従妹にあたるということで、劉禅は、
「つまりはわが子はあなたの甥にあたるのだ」
と爵位を与えて優遇した。夏侯覇とはへんな運命を辿った武将といえ、いちおうかれも蜀室の外戚ということになるわけだ。
張飛の娘を劉禅に無理矢理(?)娶《めとら》せたのは、他ならぬ孔明である。他にも劉禅にくっつけておきたい実力者の娘は大勢いたものの、当然の事ながら孔明は張飛の娘が魏の有力一族夏侯氏の血を引く者であることを知っており、後の布石になるやもしれぬと策をめぐらせた可能性はある。
「それとなく、軍団幹部の家族たちと自然に親しくなるのがよい」
黄氏は頷いたが、
「ですが、わたしは世間知らずに育ちまして、あなたのおかげでようやくこのごろ人様が見えてきたところです。苦労を知りすぎた皆様がわたしのような苦労知らずのお嬢様を相手にしてくださればよいのですが」
という。人付き合いが苦手なのではなく、二十年近くも遺憾ながら深窓の令嬢を続けた結果、家族づきあいの掛け合いに自信がないのであった。黄氏に限らず貴顕の家の娘にはよくあることだ。
孔明は一笑に付し、
「つまらぬことを案じるものかな。そなたを嫌う者がいるとすれば、心がねじくれ曲がった上に奇怪な思想にとらわれ、いつも人を小馬鹿にして見下ろしているような愚かな変質者だけであろう。もしそんな相手だったら無理に付き合う必要はない」
と言ったが、むろん自分自身が衆人にそう見られているなどとは爪の先ほども思っていない。
「お前は、わが姉上と話しているときと変わらぬようにするだけでよいのだよ」
「それはそうなればよろしいのですが。わたくしは何しろ世間知らず、劉将軍や関将軍のお身内と義姉《あね》上とでは、気持ちも同じようにはいかないと案ずるのです」
「いや、そのうぶなところがかえってよい。わが君や関張二将軍の奥方身内の方々は、おそらく言うに言われぬ同じ人間かと驚き呆れるほどの信じがたい苦労を重ねてきたに相違ないと、われ察しておる。わたしは、その艱難辛苦《かんなんしんく》を想像するだけでもう涙があふれそうになるほどである。後学のためにもまずその尋常でない苦労話を聞かせていただくがよかろう。そなたが、聞き役に徹して誠に同情し、あたかも一緒に酷暑に干され、苦寒に身凍らせ、飢えに餓《かつ》えるが如くに手を取り涙すれば、おのずと信を得られ、好《よしみ》をむすぶことにあいなる」
「それもなんだが気が引けますが、これから手を携えてゆくことになるのですから、つとめることにいたします」
どうも孔明、劉備一党の妻子家族は世にも哀れな不幸者、地獄からの生還者だと決めつけているふしがある。言外に、千金を積んでもなかなか聴けないような興味深すぎるノンフィクションが語られるに違いない、わたしが自ら聴けないのが残念だ、と、黄氏に目で語っていた。おそらく張飛の妻の誘拐婚の告白などは、孔明が直接聞いたり出来たはずがないから(張飛が自慢して言いふらしていたら別だが)、やはり奥向きから黄氏が聞いてきたのに違いない。
劉備三兄弟の家庭が暗くてみじめと決めつけるのは孔明の偏見である。何でも自分を基準に考えてはいけないということだ。劉備の自業自得のせいで苦難はあったとしても、とても明るく楽しい家族だったかも知れないのである。孔明には、悪因縁、艱難《かんなん》の洪水のような人生のなかでも、ゆえにこそ、小市民的であろうとも、ときに輝くような幸福がある(かも知れない)ということが分からぬようだ。天才謀士といえども他人の気持ち、人情の機微を察するにはまだ若すぎるのであろう。
というより、孔明、もともと人の心を察するのが下手くそなのではないのかと疑わざるを得ないところも少なからずある。
孔明は人に対して曹操や司馬懿《しばい》に劣らぬ薄汚れた謀略を幾度か仕掛けているわけだが、そのほとんどが失敗に終わってしまう。『三国志』では、智恵の化身たる孔明の策謀が失敗したのは、決して孔明の落ち度ではなく、正しい謀略を邪魔するバカタレがいたからだ、といった変なフォローがなされているが、要するに孔明が人心を読み損ない、情報分析を誤った上、諜報工作がまたまずかっただけの話であり、これがCIAの長官だったらたちまちクビが飛んでいるところだ。
しかしその失敗のせいでかえって孔明が至誠潔白の人に見えてしまうところがまた孔明マジックの真骨頂なのであって、狙ってわざと失敗させているんじゃないかと深読みまでさせる始末である。孔明は、自分がそうだからか、異常人の心理を読むのには長《た》けているのだが、どうも普通か、普通よりちょっとずれたくらいの凡人の心理を読むのがうまくないのである。そこらの男女の欲心なぞ小学生の女の子でも孔明よりよく見抜くかも知れない。
まあ張飛の妻の場合は下心を見抜くとか、そんな平和ボケ気味な甘ったれたレベルではなかったろうから、少々かわいそうではある。張飛の英雄度が桁外れであったことが不幸であったといえよう。これが、ありきたりの良識ある英雄であったら、山で出会った少女が何かいわくありげだったとしても(ゆくあてのない戦災孤児であったとか、家に帰るとロッテンマイヤーさんが待ち構えているとか)、まずは紳士的に護衛しつつ里の家まで送ってやるのが普通である。それが縁で気になって仕方がなくなり、大好きな戦場での殺人活動中でも脳裏を離れず、ついぼーっとしてしまって、うかうかと五十人くらい殺し損ね、そんな張飛らしくもない態度を、
「もしかして、はつこひ?」
とか、恥ずかしいヤツめ、と趙雲にからかわれて真っ赤になって否定しながら激怒しつつも、敵方の娘に恋してしまって懊悩《おうのう》する不器用で熱い男の近代的自我がロマン主義者を破滅に追いやったりするのかもしれないが、そんなにやけたエピソードは逆さに振っても出てきてたまるもんかというところこそが張飛翼徳! ということで、段取りが吹っ飛んでいるように見えても、張飛に言わせれば、結局最後には嫁になっていたに違いないんだ文句あるか、と、みんなに目をつむらせてしまうのである。
張飛の妻がなれそめからして不幸かどうかなど、それこそ聞いてみなくては分からないのだから作家が勝手に決めつけてはいけない。余計なことはこのへんにしておこう。
ともあれ自分と自分の身内以外は程度の差こそあれほぼ全員が不幸だと決めつけているふしがある、腹立たしくもドンウォーリーな男、それが孔明なのであった。
行くところ枯れ木に幸福の花が咲く花咲爺、孔明がひとたび魔法の奇策を唱えると愛と希望が飛び出し、不思議な力で町中に夢と笑いを振りまくのだからいずこでも大歓迎、最高の待遇は当たり前だと思っていなければ、『三国志』においてああも無礼不遜で人を喰った態度をとることは出来はしないだろう。しかもそれがあながち妄想でもないから、孔明を全否定することができないのだが。
孔明が妻女を伴い新野に連泊しているというので、日暮れ近くに張飛が酒樽を二つも抱えて訪れた。
(兄者はああいうが、いまひとつ納得がいかない。どう考えてもむかつく若僧である。とはいえわれらが仲間になったのだ。この張飛翼徳、心の狭い腐れ儒者ではないぞ。男同士、酒を前に夜を徹して無理矢理にでも肝胆《かんたん》相さらけ出させてくれん)
と張飛なりに軍団の和を考えてのことである。入団歓迎会のときはなんとなくすかされたことでもあるし。酒で腹が割れなければ、当然、次はコブシで語り合うまでだ。まことに不器用な男の純情というしかあるまい。
孔明は張飛の来訪を丁寧に出迎えた。
「先生とはまだ水入らずで話したことがない。今宵はこの野人によく付き合ってくれい」
孔明は爽やかに、
「分かりました。武芸で将軍のお相手をするなぞ、考えただけで身が砂塵と化して跡形無くなりそうなこのわたしではありますが、酒ならば、張将軍がご納得なさるまで競いつかまつれまする」
と言う。
張飛の目がぎらりと光った。
(ぬっ、こいつめ、既に己が呑み勝ったかのような言いようを。これでもいつもは遠慮しているんだ。おれ様が本気で飲んだら一夜にてこの世から酒が無くなってしまうからな)
「臥竜岡の一夜では後れを取り申したが、本日は先生が潰れ死ぬまで痛飲していただきますぞ」
と牙を剥《む》き、従者を呼んで、
「新野じゅうの酒をかき集めて持ってこい」
と無理むたいな命令を出した。
「堯舜千鍾《ぎようしゆんせんしよう》、孔子|百觚《ひやくこ》、|子路十※[#「木+盍」、unicode69bc]《しろじゆつこう》」
と、むかしから聖人君子は人間の限度を遥かに超えた酒量を誇ってきたと伝えられる。堯と舜は太古の伝説の聖王であり、孔子は春秋期の万世師表の大思想家、子路は孔子の一番弟子を自任する乱暴君子である。逆に言えば、壊れたように大酒を飲めるのは即ち神の如し、病気なのではなく聖人君子の証拠なのだと、酒豪(アル中)たちは言い訳をしてきたものである。
酒樽が四樽、五樽も運び込まれ、張飛は舌なめずりした。
そこまではよかったが、何しろ礼知らず、無骨一辺倒の張飛である。インテリ相手には弱いところがあり、よい話しかけ方がわからない。孔明の本性を見極めるという目的はあるわけだが、どう話を進めればいいのかわからないのである。いい話題も思い浮かばない。張飛はこれでも意外なほど人見知りをするたちなのである。面と向かうと含羞《がんしゆう》のため、なかなか話の端緒をひらけない。
「貴様のナマのはらわたを見せろ!」
と用件をずばり言うのは、あまりにもストレート過ぎるというもので、張飛の場合、言った手前、慣用表現ではなくなり、往々にして本当に相手を解剖して胃腸を検分することになったりする。
(しまったわい。なにか話のタネくらい用意しておくべきだった)
というわけで、張飛は孔明と差し向かいで会話もなく、黙って酒を虎口に水のように流し込み続けるしかなかった。
孔明もいじわるで、自分から何か訊いたり、話題を提供しようとはしない。
やがて張飛は酔眼朦朧としてきた。やっとはにかむ気持ちが麻痺してきたようであった。虎がげろを吐き出すかのような声で、
「ぐ軍師どの」
と思い切ったように唸った。そして、
「ぐん師どのは、その、なんだ……ちょ、ちょっ、ちょー」
と何か訊こうとした(おそらく「軍師どのは、趙雲子竜のことをどう思っておられるのか」と訊こうとした模様)とき、孔明が引き取るように言った。
「翼徳どの、お待ち下さい。わたしは軍師ではありませんよ」
と自分も張飛同様がばがば飲んでいるくせに、しらふと変わらぬ声であった。
「なんと仰せられる。兄者が苦心して先生を招いたるは、ぐんしーして貰うためである」
言うまでもなく「ぐんしーする」とは、張飛の若者言葉の如き、酔いの舌もつれ言である。後に劉備軍団の一部で流行語になって、用例、
「ねぇ、法正《ほうせい》、今日、いっぱいぐんしーした?」
とか、
「だめじゃん、|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統《ほうとう》、ちゃんとカレのためにぐんしーしてやらなきゃ!」
というふうな使われ方をした(ことにしておいてもらうと当節の若者っぽくてよい)。きわめて余談なことだが、軍師の音は jun・shi であり、中華風ゾンビゆうれいのキョンシーと似ている。同類なのかも知れない。
「ぐんしーですか。ふふふ。しかしわたしはまだ殿から何をせよと正式には一切任じられていないのです。諮問にお答えして少しは意見を述べ(劉表を殺《や》れ!)、雑談に(宇宙の)お話をさせていただいておりますが、戦《いく》さのことをせよとも、治民につとめよとも、外交に配慮せよとも、諜報に従事せよとも、依然、命じられておらぬ無役者なのです」
「そうなのか?」
張飛はもう劉備と孔明がねちゃねちゃと水と魚のような公私混同に仲良くなり、重機動軍師だか新世紀総司令だか得体の知れない大職に任命され、張飛たちに恥ずかしい命令を下せる王様のような立場になっていると思い込んでいた。
(そんな狂ったこと、認められるもんか)
ということも含めて今夕押しかけてきている。
「そうなのです。わたしも、このままではただの目出度《めでた》い竜の置物、御伽衆《おとぎしゆう》とかわりがなく、何をしに山から出てきたのやらわかりませぬ。お暇《いとま》を告げるべきなのかを、いくらか悩んでおるところなのです」
「それはいかん。先生にぐんしーしてもらわんことには話がすすまんぞ」
張飛は酔虎の眼をぎろりと剥いて、
「おれが兄者にかけあってみるゆえ、去《い》くなよ。悲観して早まってはいかん」
と言う。孔明はじわりと滲《にじ》んだ涙を白羽扇で隠すようにして、
「ああ、張将軍のご好意お言葉、身に染みいりまする」
と言った。
張飛は、案に相違して孔明が軽んじられている現状を知って安心し、哀れみに満ちた目を向けた。
「先生、かりに雑役しかやらせてもらえなくても、もとの農夫に戻ったのだとあきらめて、気を落とすなよ」
がしっと手を取る。片手では盃を口に持っていきながら。
こうなればもう張飛は孔明の術中に陥ったようなものだ。続けて孔明が感謝を述べ、おだてて下にも置かぬようにすると、たちまち上機嫌となった。さらに孔明がツボを押さえた質問をし、また相づちを打っていると、張飛の舌が破壊的に加速した。
「そうか。先生は戦場をまだ知らんわけだな。ちかぢか曹操が来やがるらしいから、これから毎日が楽しいぞーっ。戦さ場でわんわん群がっている敵の頭をかち割ったり、首を斬ったり、胸を刺したりするだろ? そしたら血が、返り血がな、ビシャーッとおれの頭から浴びせかけられて、生温かいったらないんだ。もう最高だぜ。くーっ、このときのために生きている、ってな。おれはいつも思うのだ。戦さって、いいな、とな。戦争が嫌いとかいう腐れ儒者どものアタマの中身を見てみたいもんだ。男子たるものが、この世に生を享《う》けて、一番の楽しみを知らんということだ。偽善者にもほどがあるクソバカだぜ、まったく」
と危険極まりないことを口走りながら、さらにぐいぐい飲んだ。
「だいたいぐんしーなぞ、戦さには必要ないんだ。敵の一人も殺さんようなやつを、戦さ場に連れて行くのは一食ぶんの無駄というもんだ。とくにおれたちには無用なんだがな。まあ兄者もよそを見て体裁を真似ようと思ったのかもしれん。曹操は荀攸《じゆんゆう》だとか、程c《ていいく》だとかを連れ歩いているし、呂布の野郎は馬鹿力だけはあったが、頭が悪すぎたから陳宮《ちんきゆう》みたいのを小脇に抱えていたしな。まあ、ぐんしーなんぞはしょせん将の腰巾着に過ぎんのよ」
軍師なぞは、おまけで付いてくる携帯ストラップのようなものだと言いたいようだ。
野戦指揮官というものは、ゆらい軍師や参謀に批判的で、仲が悪くなる傾向が少なからずあるが、張飛の場合は言うまでもなく認識の根底からが違っている。劉備軍団の結団以降、劉備がずっと軍師を持たなかったせいもあろう。
「なるほど、そうですか。しかし、わが親友の徐庶《じよしよ》はついこの間まで軍師をつとめていたということですが」
孔明も張飛に負けず劣らず飲んでいるのだが、態度話しぶりは平静そのものである。
「おお、単福《ぜんふく》郎、いや、徐|元直《げんちよく》か。あの男は違う。血の味を知っているやつだ。あいつは茶番ぐんしーではなかった。実際、人を殺して牢屋にぶち込まれていたというし、へたをするとおれ以上に殺しが好きな、言わば殺人狂だろう。何しろ酒も飲まんのに、曹仁《そうじん》の三万の兵を皆殺しにしてしまったのだからな。殺しの味わい方がよくわかっている。おれも戦さ場は長いが、ひと戦場で三万人もぶっ殺したことはいまだかつてない。おれなどは足元にも及ばぬ、生まれながらの殺人鬼というのだろうな。だから大好きだ」
と、徐庶が聞いたら(あまりにも嫌すぎて)泣き出しそうな高評価であった。張飛は、
(いい男を手放した)
と一瞬、遠くを見るような目つきをした。張飛に自分を認めさせたければ、孔明は一戦場で五万人くらいを相手に、阿鼻叫喚の地獄絵図を現出させなければならないらしい。
「おれにはぐんしーなぞいらん。というのは、おれだってやろうと思えば駆け引きくらい出来るからな。おれもむかし卑怯な小細工をやったことがある」
と、張飛はむかし話を始めた。
張飛の智略とはこうである。
官渡で曹操と袁紹《えんしよう》の睨み合いが始まった頃、劉備は許都《きよと》から逃げ出して徐州《じよしゆう》に陣を構えた。怒った曹操は劉岱《りゆうたい》、王忠《おうちゆう》の二将になけなしの兵を与えて劉備追討を命じた。劉岱、王忠は中軍に曹操の旗を立てて、あたかもこの軍を曹操みずからが率いているかのように擬装した。劉備はこれを疑った。
「もし本当に曹|孟徳《もうとく》が来ているのなら、どんな詭計《きけい》があるか分からず、手痛い目に遭わされるおそれがあるから、こちらから攻めかかるのは危険である」
そういうことで、まずは敵の武将を引っ捕らえてきて、陣中に曹操がいるのかいないのかを聞き出すことにした。張飛が一番に手を上げたが、劉備は、
「おぬしが行くと、捕まえる前に殺してしまうから駄目だ」
と一蹴し、関羽をゆかせた。関羽は偵察気味に近付き、しかし次の瞬間には雪原を血に染めつつ、うかつに迎撃に出てきた王忠を引っ捕らえて帰還した。王忠は人肉食の前科があり、曹丕《そうひ》に、この|人喰い野郎《マン・イーター》めが、と笑い者にされたという人物である。
王忠を拷問にかけると、やはり曹操は来ていないことを白状した。劉備は、
(曹操と本格的に事を構えるのは時期尚早である。劉岱も生かして捕まえ、和睦の道具にしよう)
と甘いことを考えた。
劉岱捕獲作戦にあたっては、当然、張飛が黙っていない。
「関兄が王忠を捕まえたんだから、劉岱はおれが捕まえてくる」
しかし劉備は、
「屍体を捕まえても意味がないのだ」
と、義弟を信用していない。
張飛の目がぎらりと光った。
「もしおれが劉岱を殺してしまったら、兄者、その時はこの首にて償い申す!」
「うーぬ。そこまでの覚悟なら、いってみよ」
張飛は喜び勇んで出撃した。
しかし苦戦することになった。劉岱は張飛を恐れ、陣地を堅固にしてまったく出てこない。張飛が挑発しておびき出すべく塁直前にまで接近して、聞くに堪えないスラングを浴びせ散らしたが、逆効果となり、怯えた劉岱は亀のように守るだけである。たとえて言えば、玄関先にこわもてのヤクザもんが来て、ドアをがんがん蹴りながら、
「コラァ! 劉岱! おるんは分かっとるんじゃい。さっさと出てきくさらんと、家ごと潰してまうどワレ! 今なら生命だけは奪《と》らんどいたると言っとろうが」
と怒鳴っているのと同じであり、生命の保証など信じられるはずもなく、また警察に電話をかけることも出来ない状態なのだ。
張飛は、
(畜生め、奴らを皆殺しにしていいんなら、あっという間に終わるんだが)
と腕組みする。このままでは一万人までなら一人で十分という人智を超えた戦闘力が役に立たない。生捕りが条件、という手枷足枷《てかせあしかせ》のため、張飛は数日を無駄に過ごすことになった。
張飛らしくもないが、しかし極めて張飛らしく、一計を案じることにした。手勢に、
「もう辛抱たまらん。今夜、夜襲をかけるぞ。貴様ら、よく準備をしておけ」
と命令した。そして、
「おれの準備はこれのみだ」
と、酒樽を持ってこさせて、昼間っから気が違ったかのように飲み始めた。一杯飲みくだすごとに目つきが狂暴になっていく張飛に、兵士らはびくびくしている。張飛はその中の一人を捕まえて、いきなりボディに重いフックを効かせた。
「顔が気に入らん」
という理由だ。顔以外は何も悪いことをしていないその不運な兵士に、殴る、蹴る、投げる、踏みつける、関節技をかける、とごく軽い気持ちでプロレスごっこ、半死半生の目に遭わせた末に縄で縛り上げ、木の枝にぶら下げてしまった。唾を吐きかけながら、
「今夜の出撃のまえに首を刎《は》ねて、旗先に掲げてやる」
と怒鳴りつけ、やっと気が済んだのか、テントに入って大鼾《おおいびき》をかきはじめた。
そのすきに見るに見かねた仲間の兵士が被害者を木から降ろして縄を解いてやり、
「今のうちに逃げるのだ。張将軍のなさりようはあまりにひどい」
明日は我が身か、と、馬まで与えて逃がしてやった。その兵士は張飛に末代までの復讐を誓い、劉岱の陣に駆け込んだのであった。
降卒の至り、申すことあり、と知らされても劉岱は、
「罠に相違ない」
と疑ったが、見るも無惨過ぎて正視に耐えないその姿を見て、顔を蒼くした。劉岱の部下が、
「絶対罠ではありません。張飛は粗暴なたちで、酒が入ると狂乱すると聞いております。しかも兵卒虐待の常習者で、劉備にしばしば叱られているとも聞いております」
と言ったので、降卒の話を聞くことにした。降卒は呪いの涙を流しながら、仕事人に必殺を頼む町人のように、
「張飛は今宵、夜襲をかけて参ります。どうか、どうか、憎き張飛のやつを一寸刻みに惨殺してください」
と、言うと気力が尽きて、失神した。
夜襲というのはあらかじめ気付かれ備えられれば、もろくも破れるものである、というのが兵法の常識である。張飛の兵は三千くらいだが、こちらは三万近くいる。劉岱は張飛を殺さねば自分も同じ目に遭わされると思い、勇気を奮い起こして、張飛を迎撃すべく左右に伏兵を配置し正面を厚く、火も用意して、抜かりなく夜襲に備えた。
しかし、張飛には兵法の常識など通用しない。兵を巧みに(あくまで張飛的な巧みさだ)操り、夜襲を成功させてしまった。劉岱がのこのこ出て来てくれさえすれば、こっちのものなのだ。このために張飛は故意に昼間から大酒を食らって罪もない兵士を半殺しにし、敵陣に駆け込ませたのである。
その後、張飛の計略の犠牲になった一兵士がどうなったか、まったくわからない。普通なら、張飛がその兵士を捜し出し、理由を説明して土下座して謝り、恩賞を取らせるか、上位任官させたりするものだが、おそらく豪快に忘れ去ってしまったのであろう。
張飛は得意げに話し終えた。
「それで劉岱を無傷で引っ立てて、それを見て兄者も、この張飛が知勇兼備の将である、と、認めてくれたのだ。げへへへ。どうだな先生、このおれのぐんしーぶりは」
孔明は感心しきり、という顔つきで、
「さすがというしかありません。張将軍にしか出来ない(許されない)見事な(サディスティックな)策だとぞんじます」
と爽やかに言った。
「げへへへ。おれは真正面からガシガシやるのが好きなんだが、必要とあらば小智恵くらいすぐひねり出すわい」
計略というにはあまりに血なま臭い兇策だが、これも張飛が日頃から地道に兵士を虐待していたから成功したのだという、兵士からすればとんでもない話である。「ビンタがよい兵隊をつくる」という信条を持つ、旧日本帝国陸軍の軍曹あたりなら、張飛に賛意を表するだろうが、もしかすると帝国陸軍の兵士育成は孔明や岳飛《がくひ》や戚継光《せきけいこう》ではなく、張飛を模範に仰いでいたのかも知れず、もしそうであれば敗滅したのもむべなるかなといったところである。
しかし純真な子供たちはこの張飛の策略成功の一場を聞いて、目をきらきらさせて喜んだに違いなく、哀れな兵士の陰功など知ったことかという子供ならではの残酷さであったろう。張飛ならば何をしてもいいのだ。たとえ酔っぱらって寝ているところを部下に襲われ膾《なます》斬りにされても!
後に、
「苦肉の計ということで、周瑜《しゆうゆ》が大先輩の黄蓋《こうがい》に因縁を吹っかけてさんざんに痛めつけ、黄蓋が泣きながら投降を申し出るが、それでも曹操は出来レースを疑い、容易に信用しなかった」
という『三国志』では有名な事件が起きる。でも、もしこれが周瑜ではなく、張飛が黄蓋を嬲《なぶ》り殺しにしようとしたというのなら、曹操もすぐに信じて疑わなかったことだろう。
こうして孔明は明け方まで張飛のくだ巻きや自慢話を聞かされ続け、話が途切れたと思ったら、張飛はひっくり返って眠っていた。孔明はさらに一盃飲み干し、
「勝った」
と呟いた。孔明、あの剛勇張飛に勝ったのだと心に秘めておきたいのか。
(こんなもので翼徳どのの不満が去るのなら、けっこうなことなのだが)
日中忙しい農夫だったにもかかわらず夜更かし徹夜には慣れている孔明であった。
『飛は君子を敬愛して小人を恤《じゆつ》せず』
というのが、陳寿《ちんじゆ》の張飛評である。
「身分の高い者《インテリ》には腰が低く、身分の低い者(腐れ儒者)はあわれまなかった」とは、
「偉い相手には弱く、弱い相手には強かった」
といった、よくいる小悪党の属性そのものなのだが、公平に見て、陳寿も張飛を庇《かば》いきれなかったところでもある。
その翌日には関羽が碁盤を抱えて訪れた。
(いちおう兄上が認めた人物である。いつまでもぐじぐじしていては漢《おとこ》関羽|雲長《うんちよう》の沽券《こけん》にかかわる。今宵は諸葛亮と胸襟《きようきん》を開いて語り合い、疑わしさやいかがわしき思いをきっぱり洗い流さん)
と関羽なりの配慮である。碁を打ち談ずれば、おのずから相手の性根もほの見えてこよう。これで分かり合えなければ、当然、次は馬上で一騎打ちだ。命懸けの修羅場でこそ男の本性は明らかとなる。まことに三国男塾というしかあるまい。
関羽は孔明の前にどっしりと坐している。いきなり訪ねてきて、用件も言わず、碁盤をどかっと叩きつけるように置いた。敢えて口で言わずとも、碁を打ちたいのだと、そのくらい分かれ、といったふうである。孔明は、
「お相手いたします」
と言って対面に坐した。
関羽の印象は碁盤よりも四角四面な堅物にみえる。
「拙者は潔白なる白でしか打たぬと心に決めている」
と、白石の入った碁笥《ごけ》を取った。
「関将軍は碁がお好きなのですか」
「碁なぞは女子小人のくだらぬ遊戯である。だが、男には、たとえ死ぬと分かっていても打たねばならぬ時がある」
と言い、ざらりと石を拾い、勝手に先手をとって、
「おりゃあっ!」
第一打を凄まじい気迫で天元《てんげん》に叩きつけた。バキッと物凄い音がして、碁盤にくぼみが生じる。これでは一勝負終わった頃には碁盤が割れ砕けてしまっているかも知れない。碁石にも罅《ひび》が入り、使い物にならなくなりそうだ。
関羽の碁は、一打一打にその全生命と魂を籠め、気合|一閃《いつせん》、人をして驚殺せしむるような、碁石がいちいち激しく路上に撃ち跳ね上げられ、あたかも非常の勢いが戦場に血|飛沫《しぶき》の花を咲かせるが如き猛烈な気魄《きはく》に満ち満ちた鬼神も退く壮絶の打碁であった。
確かに英雄豪傑に似つかわしい修羅の碁である。おまけに関羽の長髯《ちようぜん》が盤面上に蛇の尻尾のように垂れており、邪魔だから髯《ひげ》をどかしてくれと言うのが恐ろしくて、その場所には打てないことになってしまう。並の人間なら、関羽がけだものの咆吼《ほうこう》をあげながら石を置くたびに、青龍偃月刀《せいりゆうえんげつとう》に斬りさいなまれるような心地となり、三合も合わせぬうちに、
「わ、わたしの負けにございます! と、投了しますから、どうか、どうか生命だけはお助けくだされ!」
と、平蜘蛛《ひらぐも》のように平伏して、涙ながらに震え声で言うしかないだろう。
そういうわけで、関羽の碁は(将棋も)たいていTKO勝利となり、ほとんど負け知らずである。肝腎の碁の腕前自体など判別せぬうちに終わるのが常であった。
(どうだ、臥竜、碁もまた生死を分ける死合《しあ》いである。この場にておのれの男を見せてみよ)
硬派の中の硬派、関羽の背中からゆらゆらと闘志のかげろうがゆらめき立ち上っているかのようである。血の色をしたオーラというのか、そういうものである。関羽が相手というだけで、たとえ本因坊であったとしても、もう尋常の勝負は望めないのだ。
(どう出る、孔明!)
気分はいつも戦場に在り。男同士が真に語り合うには殺し合い寸前の決闘にかぎる。
関羽が孔明の顔を睨《ね》めあげると、なんと孔明、その双眸《そうぼう》をぴたりと閉じているではないですか! 関羽は、
(うぬ。舐めおって。勝負を投げおったか?)
と内心いぶかしがっている。孔明は瞑目《めいもく》したまま(耳栓もつけていたかもしれない)、静かに黒石を置いた。どこに置いているのか、ちゃんと分かっているのか?
剣客がおのが視覚に惑わされぬために敢えて目隠しして静謐《せいひつ》に構えているような、多分にはったりめいた、明鏡止水《めいきようしすい》の境にある、ように見えないこともない。
(こやつ、やる)
関羽は気を引き締め直し、
「でやぁっ!」
と、石を碁盤に向けて爆撃する。孔明は受けて静かに黒を置く。邪魔な関羽の髯も平気で手で払って置いていった。そして一刻(ここでは一刻は十五分に相当)の後には孔明があっさり勝っていた。孔明、薄目をあけていたんじゃないだろうな。
関羽は、
「負けた……」
と呟き、肩を落としてがくりと手をついた。
「拙者の完敗だ」
「いえ、関将軍、勝ちを得たといえども、切所《せつしよ》ぎりぎりの勝負でした。かくも恐るべき知性のかけらもない蛮碁、この孔明、初めて体験いたしました。まことに危ないところだった」
と孔明、関羽を持ち上げているんだか、下げているんだか、爽やかに言った。
「目を閉じての打ち合いとは……孔明、いや先生、この関羽、こんな碁があるとは初めて知り申した」
「古人曰く、心眼、勝機をあやまたず、と申します。わたしの如き貧弱な下郎《ボウヤ》が乱世に生き残るには心感を磨くしかありません」
と孔明はもっともらしいことを言って微笑した。
孔明、両眼瞑目の奇策をもって無敵の関羽を撃破す! ということにしておこう。
関羽はいちおう感服したようだ。
「拙者も武人のはしくれ、潔く負けを認め、先生の風下に立ち、よろしく指南をあおぐにやぶさかではない」
戦場ならそうはいかんが、碁くらいならよいか、という程度の意味であろう。
「わたしこそ将軍を前にして目をつむってしまうなど、失礼の段をひらにお詫びいたします。もう一局、こんどは目を開いてお相手いたしたい」
「御意」
これですっかり孔明のペースである。
ちょうど黄氏が昨夜の余り酒を燗《かん》づけにして運んできた。つまみは焙《あぶ》った干物である。
「関将軍さま、ごゆるりと」
「おおこれは竜女どの、かたじけない」
酒も適度に入り、二局目を打ちながら、訥々《とつとつ》と会話が始まった。
「聞くが軍師どの」
「いえわたしはまだ軍師などではありませんよ」
と孔明は昨夜と同じように言った。
「なんと申される」
「わたしはご家中でも一番の下っ端にて、これといって役もなし、奴婢《ぬひ》より始めよ、というところにございます。なにより劉皇叔にお仕えさせていただけたというのにまだ涙を見せることしか出来ておらぬ不能者なのです。どうか関将軍も、わたしを臥竜先生などと呼ばず、この怠竜、糞竜めが、と呼び捨て、おおいに蔑《さげす》んでくださるようお願いいたします」
と、言葉責めにしてくださいと、先にそんなことを言われては、鬱憤《うつぷん》をぶつけようと思っていたのに、かえって言えなくなってしまおうものだ。
「先生、何もそこまで言わんでも、拙者は」
「ですがその代わりといってはなんですが……」
「なんであろう?」
「われ軍師として功をたてたあかつきには、もう皆様に小舅《こじゆうと》のようにねちねちと威張り散らさせていただくつもりです。ゆえにわたしをけなしこき下ろすなら、今のうちに心ゆくまでやっておかれないとあとで後悔いたしますぞ」
と白羽扇に半顔を隠しことさら爽やかに言った。ある意味、関羽への挑戦と言えなくもない。
が、関羽はこういう骨のありそうな言い分は嫌いではない。
「承知した。それでこそ兄上が手を尽くして招いた甲斐があるというもの。確かにそうだ。すべてはまず手腕を見せていただいてのことだ」
ただし、功を見せないときには言葉責めではすまされないことも確かである。高言は死をもって償ってもらうのみ。
孔明は関羽の表情がやや緩むのを見て、話題を転じた。
「役儀なきゆえ、ぶらぶらと眺め暮らしておるのですが、今日は練兵の様子を見学させていただきました。その中にわが目を捕らえて放さぬ無類に格好がいい若武者が一人。趙子竜どのに聞きましたところ、関将軍のご長男、平《へい》どのでありました」
「ほう。平を目にとめていただいたか」
関羽は相好を崩した。
「趙将軍に槍の稽古をつけてもらっておりましたが、何度打ちのめされても、もう一番、もう一番、と食らいついてゆくど根性、趙将軍もたじたじの悲願熱涙、あれは並の青年ではありませぬな。一言をもって評すれば、まさに超若虎! わたしも黄氏も時を忘れて見惚れてしまいました。われに娘あらば、是非にも貰っていただきたいところです」
メジャーのヤングナイスプレイヤーのファンになり申し、もう首ったけです、といった感じだ。
「なんの。平なんぞはまだまだ未熟者。そう褒めるものではない」
関羽はまんざらでもないといった様子で、首を左右にするが、嬉しがっているのは触角のような髯の震えで一目瞭然である。
こう見えても関羽は大の子煩悩で、子息子女を褒められると途端に機嫌がよくなる。
「将来は関将軍をも超える鬼将となること疑いありません。自慢なされてよい。本当ですぞ」
「ぬふふふ。先生もそう見られるか。だが慢心するといけないから、本人の前では決して言わないでくだされよ」
関羽には男子が三人おり、上から平《へい》、興《こう》、索《さく》である。関平、字《あざな》はまだない(というか分からない)、このとき二十一歳、将来を嘱望されている虐殺郎である。興と索はまだ十にもなっていないから、練兵には参加していない。関平は何故か『三国志』では養子ということになっているが、『三國志』によれば実子である。
関平は、この世で関羽の息子に生まれることほどつらいことはない、というくらいに幼少の頃から特訓に次ぐ特訓、鍛え抜かれて死にかけたことも何度かあろう。関羽は、比べれば、かの日本一の厳父との呼び声も高い星一徹が、甘ちゃんのクッキングパパに見えるほどの厳しい父親であり、息子たちを殺人の星にすべく日々育て上げてきた(殺人力養成ギプスもありか?)。幕末、吉田松陰が叔父の玉木文之進《たまきぶんのしん》に徹底した武士教育を受けていたとき、松陰の母が、シゴキのあまりの惨烈さに、いっそ死んで楽になって欲しいという意味で、
「寅、お死に!」
と思わず叫んでしまったそうであるが、こちらだって、
「平、死んで死んで不死になれ!」
と毎日のように言われていたに違いない(と思う)。その甲斐あって関平は関羽の分身のような殺しのマシーンに育ってしまった。
ちなみに張飛の一人息子の張|苞《ほう》はこのとき十歳である。一丈八尺の点鋼矛を振り回し、関|興《こう》と義兄弟となって殺戮《さつりく》にいそしむことになる。親に似ず酒癖は悪くなかったようだ。張苞が早死にしたとき孔明は衝撃のあまり吐血して弔ったという(のちの孔明のレベルでは、涙ごときではもう不足、悲しいときに吐血するくらいは自由自在であったということか)。
かくして孔明は明け方まで関羽とその息子らを褒めちぎり、自慢話に花咲かせさせ、話が途切れたと思ったら、関羽は厳然と坐したまま鼾《いびき》をかいていた。
孔明、関羽と張飛への対策マニュアルはもう作成してあったということのようである。
関羽はじっとしていれば武人の鑑《かがみ》として、床の間に飾っておきたいくらいの惚れ惚れするような男であることは宇宙の定説である。そのあまりのカッコよさに、かつて人材マニアの曹操が、過剰なまでに下手に出て、誠意を尽くし抜いて幕下に迎えようとしたほどのコレクター垂涎《すいぜん》の的《まと》的武将である。
しかし問題が多いこと張飛よりひどいところがある。自尊心が強すぎるというのか、他人を見下すこと甚だしく、倨傲《きよごう》なところが多々あり、しかも豪放|磊落《らいらく》な風貌とは裏腹に、内心に後宮《こうきゆう》の女人のようなじめじめした巨大な嫉妬心まで渦巻かせているというタチの悪さである。
たんに「器の小さい髯自慢の男」と切り捨てたいのはやまやまなのだが、その強さは天下無敵、一人で一万の兵を殲滅《せんめつ》可能という戦術核兵器type─Iじみた虐殺の達人だから、一目も二目も置かざるを得ないのである。
関羽は若い頃、河東《かとう》郡|解《かい》県で塩の密売(塩鉄は官の専売である)に手を染めていたらしいのだが、そのうち官憲に追われる身となり、|※[#「さんずい+豕」、unicode6dbf]《たく》郡に亡命したところ、当時そのあたりを仕切っていた劉備と知り合いになり、付き合ううちに人柄に惚れ込んでしまい、
「アニキと呼ばせてください」
ということになった。当初は強くて恐くて可愛いやつであり、
「玄徳《げんとく》アニキー、おれアニキのために黄巾《こうきん》の奴らを最低でも五百人は血祭りにあげるから、見ててくれ」
「アニキ、そこの金持ちから食い物と酒と女と、ついでにちょびっとだけ金銀財宝を自発的に寄付してもらってくるから、少々お待ちを」
と、美髯《びぜん》少年、ちゃらちゃらしたところもややひそかにみずからまたすこぶる少しはあった。闇商人あがりだったせいで、銭勘定にも明るかった(このため商売神となったという説がある)。
それがいつの時期かは分からぬが、ふとしたことから『春秋左氏伝』にのめり込み、戦場で敵兵を殺しながら一字一句間違えずに全文暗唱する(南無阿弥陀仏と唱えながら人を地獄に送るような感じだ)ほどに愛読し、激しく(悪)影響を受けた結果、身勝手もほどほどにして貰いたいと言いたくなるくらいに厳しく己と他人を律するようになり、だんだん今のような始末に困る人格となっていったのである。
得意だった損得勘定の能力は一切放棄してしまい、ヘヴィな過激『春秋左氏伝』原理主義者に生まれ変わった。それも、『左伝』の良質な注解釈は多かれども、そんなものには耳を貸さないオレ流解釈である。『左伝』の極右といえる。箸の上げ下げにいたるまで『左伝』に違うまじくし、息子たちに、
「よいか。義≠フためには人間味などかけらも持たずともよい。必要なのは戦闘する機械としての己、つまりとことんまで闘い抜く非情な機械だけが要求されるのだ。とくと心得よ」
などと言い始めたときにはすっかり情け無用の殺戮マシーンと化してしまっており、もはや長兄劉備といえども手のつけられないときがある。
書物に極端に影響されて人の道を誤る理想主義者はときたまいる。関羽が始末に困るのは動機がたいてい義≠ナあるだけに(理論上は)道を誤っているとは言えないし、道義とは誰にも否定しようがないものであるから、皆恐れて間違いを指摘できず、(現実に照らした)勇気ある忠告をする友もいなくなった。それがまたさらに関羽のプライドを暴走させてしまうのである。
こんな物騒な独善イデオロギストにしれっと対抗できるような者がいるとすれば、それは天下にただ一人、孔明しかいまい。関羽には張飛のような動物的な甘さがないが、そのへんは適当に、頼む孔明、期待しているぞ!
関羽の高慢の例はいくつもあるが、命とりとなったのは呉の孫権への非礼、侮辱であった。劉備の益州《えきしゆう》乗っ取りが最終段階に入ったころ、荊州で関羽を補佐していた(くらまし操っていた)孔明が益州にゆかねばならなくなり、関羽がピンで荊州を任せられるようになると、その増長度はますますエスカレートする。呉王孫権がかなり下手に出て、劉備軍団の一武将に過ぎない関羽の娘を、息子の孫登《そんとう》の嫁に欲しいと申し込んだとき、関羽は、
『狢子《かくし》、敢えてするのみ』
と吐き捨てて、
「長江の川っぺりに棲むムジナのガキに虎の子をやれるか」
と鼻で笑ったのは、いくらなんでも高ぶり絶頂にすぎるものであった(孔明がいればきっと騙し脅ししてでも縁談をまとめたろう)。断るにしても、義を重んじる男なら私を捨てて公につくべきところであり、孫権が嫌いだったにしろ他に言いようがあったろう。まして相手は同盟国の長なのである。関羽の気分は常人には理解しにくいにしても、孫権の気持ちは痛いほどよく分かるというものだ(しかし誰にだったら娘をやれるというのか? わたしはいらん)。これはもう人間がどこまで高慢になれるのかという心理学上の興味深いケーススタディとして問題にすべきことかも知れない。
だがしかし、この時空を超えた傲慢不遜さ(とこだわりの長髯)が関羽雲長の最大の真骨頂なのであり、それが分からんやつのほうが悪いのだ! 孫権のせがれなどに娘をやる必要など微塵もない、と関羽ファンはみなそう思っている。
当時、孫権と劉備は荊州の違約借地問題で揉《も》めており(明らかに劉備側が理屈として不利)、それを孔明が宇宙レベルの屁理屈を駆使してなんとかのらりくらりと舌先三寸口八丁で誤魔化していたわけで、きな臭くなった矢先のことなのである。孫権を怒らせれば仁義なき戦いになりかねない空気がぷんぷんに漂っていたのであるが、自信過剰の関羽にはまったく臭わなかったらしい。
べつに卑屈に出る必要はないにしても、孫権と縁戚になり円満であったなら、暗闇で背後からドスで刺されたかのように、
「なんじゃ、こりゃぁーっ!」
と叫ぶことにはならなかったかも知れない。月夜の晩だけではないのだ。関羽の義(我儘)≠ェ孔明と劉備の大戦略の生命線的拠点であった荊州を失地させ、台無しにしてしまった。万死に値する罪といえるが、関羽の不死身性も限界を迎えていて実際に死んでしまった。
荊州駐在の劉備軍団幹部は、あとで劉備に憎まれることが分かっていても、誰も関羽を援助しようとせず、その嫌われ者ぶりは一時的には孔明以上であったかも知れない。幹部の一人|廖立《りようりつ》は、関羽が大嫌いだったのだろうが(孔明のこともかなり嫌い)、性格のみならずその武将としての能力までもけなし倒している。
「関羽はおのれの勇名を恃《たの》み、作戦には法なく、ただ気分だけ、思い込みだけで突進する低能であり、それがため、しばしば負けて兵を失った」
と、関羽トンデモ武将説を声高に評言した。そのことが原因かどうかは別として(蜀の重要機密を漏らしたため?)、孔明はすぐさま上から手を回して廖立を庶民に落とし、|※[#「さんずい+文」、unicode6c76]山《びんざん》のタコ部屋のようなところに配流してしまった。いちおう刑は大夫《たいふ》に及ばないという建前がある。よって智恵者孔明は、廖立を庶民に突き落としてから処断したわけである。廖立は生涯|赦《ゆる》されず、孔明が秋風五丈原で星落ちたと聞いたとき、おいおい泣いた(嬉し泣き?)という。
曹操は表裏なく関羽を激愛したが、次代の者たちはよほど関羽が憎かったようである。蜀の滅亡後、関羽の血縁は草の根分けても探し出され、一人残らず皆殺しにされた。これも|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]会《ほうかい》(関羽に敗れ殺された※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳の息子)一人が悪いのではなく、在世中のカルマのつけだろう。旧マシーンは旧マシーンでしかなく、次期主力型関羽は製造禁止にされたのである。『三国志』のメインキャストのなかで唯一子孫がいない不孝者が関羽である。
こんな人が世界各地のチャイニーズの心の拠《よ》り所であり、尊崇されてやまない神≠ニなったことは『三国志』の魔的な神通力によるものなのかも知れない(または孔明の仕込み)。
陳寿《ちんじゆ》は、張飛の評に比《なら》べて、
『羽は卒伍を善待して士大夫に驕る』
「関羽は下級兵士にたいしてはやさしかったが、士大夫にはただ知識人文官だというだけで驕慢《きようまん》にふるまった」
と述べる。
「弱い相手にはやさしいが、偉ぶった相手にはかさにかかって不必要なまでに強かった」
ということで、張飛と対をなす。
「関羽は剛情で自信の持ちすぎ、張飛は狂暴で人情を持たなすぎ、その欠点のために破滅を招き寄せたのは(これは自滅とするべきで)、道理から言っても当然である」
と、陳寿も苦しく結ぶしかなかった。
「関張お二方の悲劇的な(かっこよくない)最期は、誰の責任というわけでもなく、ただただ自業自得というものですよ(ついでに言えば劉備もそうです)」
代弁すれば、そう言いたいのである、たぶん。
ともあれ関羽と張飛は、まだよく得体が知れないにしても、孔明が確かに異才の者(かなり食えない奴)であることは認識したのであった。とはいえ、ひょいといなされた感じがせぬでもない。
翌日、孔明は、近頃は曹軍襲来に備えて(と本人は言っている)あちこち遊び回っており、どこにいるのか分かりづらい劉備を官舎で捕まえた。
「趙雲どのと兵を千人ほどお借りしたい」
と言った。
「それは、かまわんが。先生、なにか敵情でも掴んだのかな」
「いいえ。少々確かめたいことがございまして、お願いつかまつります」
「確かめたいとはなんであろう」
孔明は白羽扇をすっと取り出すと、
「殿もご承知のとおり、わたしはまだ戦場のせの字も知らず、兵のへの字も知りません。そこでいささか兵の進退を演習して、締めに博望坡《はくぼうは》を火の海にしてみたいのです」
と、真面目腐った顔つきで言う。
「火計についてはかなり男のこだわりのあるわたしなのですが、(人家のほかは)まだ何も燃やしたことがなく、よくわからぬことがあるのです」
「ほう」
「たとえば殿は戦場にて火計を策したり、策されたりした豊富なご経験がおありでしょう。そこで質問なのですが、まるきりの荒野で火を放って、敵兵が燃えたりするものなのでしょうか。田畑や山林が燃えるのは分かるとして、兵馬に火を付けようとして火がつくものなのか。冬に草のまばらな原野であった場合、何を燃やせばよいのか」
と、わざと幼稚な質問をした。
「それは先生、兵馬じたいはかんたんに燃えたりはしません。木柵や枯れ木の束に油を染ませたりして用意しておき、時機を見計らって火を放つのです。かつて徐元直が曹仁を迎え撃ったときもそうでした。放火は城内の建物にするもので、すると兵馬も炎に包まれてしまう。むかし、わしも何度燃やされそうになったことか……」
と、劉備も小学校の先生のように答えることになる。
(こやつ、こんなことも知らんとは。大丈夫か?)
といった顔つきになった。
だが孔明は素知らぬふうで、
「また兵を左右に伏せる、と簡単に言いますが、広々としたところに千も二千も埋伏《まいふく》させているというのに、本当に敵はうかうかと気付かず通過してしまうものなのでしょうか。ときには馬も一緒に埋伏するのです。敵というのはそんなに阿呆ばかりではありますまい。きちんと偵察を放っておれば、埋伏などすぐに露見すると思うのですが。敵は街道を通って来るばかりでもないはず」
とまたも『三国志』では詳しい説明もなく流されているくらいにごく基本的な戦術事項を、深刻な表情で訊いた。劉備は、
「むろん山岳や狭隘《きようあい》の地形を考えて埋めねばすぐ見つけられてしまいます。草も林も畑もない平地ならば遮蔽物を用意するか、塹壕《ざんごう》を掘っておかねば、隠れるところなどありません。むかし、わしも気付くと伏兵に後左右から襲われ、何度死にかけたことか……」
決して、絶対にわたしが馬鹿なのではなく、分かっていてもやられるんです、それくらいうまく伏兵せねばいかんのです、ほんとうなんです! とやや熱弁する。
確かに劉備はかつて何度も同じような埋伏の兵に囲まれ、同じような火計に嵌《は》められ、もうさんざんな目に遭ってきており、しかも自分が埋伏するとすぐ気付かれてしまって各個撃破されてきた豊富な経験が情けないほどある。一軍の指揮者として失格の、懲りない負け犬である。関羽、張飛、趙雲が驚異の武闘能力を発揮して、血路を開いてくれなかったら、もう百回は死んでいるはずである。ならば少しは学習しろよ。
劉備は話すうちに自分が如何に初歩的な兵事作法をおろそかにして負け続けてきたかを思い出し、あらためて恥ずかしくなった。
「ええい、先生、兵は口で語るものではござらんぞ。新野《しんや》の全兵をお貸しするゆえ、どこでなりとご自分で確かめてこられい!」
と、真っ赤になって言った。
「千で十分です。では、一日二日、お借りさせていただきます」
「好きになされよ」
劉備は、不機嫌に足踏みならしながら行ってしまった。その勢いでさっさと劉表をぶち殺して欲しいものである。
孔明は兵営にゆき、趙雲に、
「そういう次第である」
と言った。趙雲は、
「よろしゅうござる。孔明先生にわが兵の真に精鋭なるを見ていただくいい機会だ」
と、言った。趙雲も、関羽、張飛ほどではないにしろ、孔明を疑っている。とくに精兵千人を選抜呼集し、
(わが兵の凶猛なる迫力に腰を抜かさせてやらん)
と、いつも以上の激しさで実戦さながらに動くよう命じる。中には部隊長として関平もいる。
そして新野の北方、博望坡に向かった。孔明は馬に乗らず、歩いて従った。
今日は、風は気まぐれ、ゆるい傾斜のついた平原をぽかぽかといい陽気が暖めている。
「まずは自由行動。お菓子を持ってきた者は食べるがよい」
と孔明が言うと、兵たちは、わーい、と声を上げてちりぢりになった。まるで遠足、というか、遠足そのものである。
孔明は近くの丘にのぼっていった。することがない趙雲は孔明を追って、丘に登ってきた。
「軍師」
と声をかける。孔明は站《たん》を行っていた。ただ棒杭のように突っ立っている、だけとしか趙雲には見えない。
(変なお人だ)
趙雲は槍を置き、隣にあぐらをかいた。
丘より見渡すと、大道が一本、遠くは丘陵に挟まれている。兵を埋伏するのなら、道がやや狭まった予山の麓《ふもと》あたりにするものだろう。では火を放つなら?
仙の秘法、站の鍛錬に功が表れてくると、身体内部に満遍なく充ちた気(この場合は意識と言うに近い)が、皮膚一枚を越えて漏出し始め、身体の周囲に、今ふうの言い方をすれば、不可視のサイコ・フィールドを形成してゆく。身体一重に着ぐるみくらいのバリア・ゾーンが生じれば武術を行う程度なら上出来というところである。だが、熟達すれば意識範囲はさらに拡大し、自分を中心に前後左右上下に半径数十メートルの球状意識が発生し、練功の次第では、それは数キロ、数百キロにも及ぶようになる。神仙《しんせん》のレベルともなれば上下左右前後に時間まで加えた四次元的膨張意識が時空と己との境界を限りなく取り払ってゆくという。
包み込みつつ拡大する意識には当然、五官、とくに皮膚感覚が付随しているから、一地域がすっぽりと己の肉体然とした神経支配圏となるのである。その中で起きていることは手に取るように感覚できる。これは別に超能力とか、そんな非科学的で未確認なものではまったくないという。あくまで、
「自然と一体となるのは快き哉《かな》」
というのが第一の目的だ。意は天地を覆う。だと思うのなら、やってみるがよかろう、とわたしが調べた道蔵《どうぞう》(道教文献の全集であり、仏教でいう大蔵経に相当する)の難しい書物に載っていた。
本当か、本当にそんなことが出来るのか! わたしには確かなことは言えないが、孔明ならばこのくらいのことが出来ていて当たり前じゃないと面白くないし(無責任)、後の孔明の誰にも真似の出来ない謎めいた戦闘指揮力の説明がつかないではないか。
二時間くらいが経過して、孔明は息を収めて站をほどいた。隣で大の字になって居眠りしている趙雲に、
「ではそろそろやってみましょうか」
と声をかけた。趙雲はがばと跳ね起き、
「何をですか」
と訊いた。
「むろん、火計の練習」
と孔明は言った。丘の上から、
「あそこと、あそこと、あそこと、それにあそこにも」
と指さしながら放火地点を指示した。
「火材はいらないのですか。この程度の草地では、すぐに消えて、狼煙《のろし》もあがらぬと思うが。火を付けるのならやはり向こうの安林でしょう」
「とにかくやってみてください」
趙雲は、隊長クラスをさし招き、大声で指令をくだした。
兵士らは孔明の指示した数地点に、一斉に放火した。すると趙雲が驚いたことには、小火《ぼや》が重なり、連なり、大火に育ってゆき、一刻の後には見渡すかぎりが火の海と化した。この程度の火で、と高を括っていた兵たちはたちまちの猛火に追われ、慌てて逃げ走っている(火傷者多数)。
あらかじめ油壺を埋めたり、火材を定置していたわけでもないのに天を焦がすかのような火となっている。趙雲は、信じられない、という顔つきである。孔明はゴッホの糸杉のように燃え上がる博望坡を眺めながらうっとりとしている。放火魔は火を付けるだけでは物足りず、現場に戻ってきて自分の起こした火事を見て、性的な快感にちかい興奮を得るといわれる。孔明は白羽扇で口元を隠し、どこか恍惚とした表情をしている。まるでローマのネロ帝のようだ。
趙雲はぞくりとすると同時に、
(こ、これが臥竜の力なのか!)
と、畏《おそ》れに似た気持ちを抱いていた。
孔明、博望坡を(意味もなく)焼く!
この、ときならぬ紅蓮《ぐれん》の炎は、これから孔明の敵にとどまらず、劉備軍団まで道連れにして燃やし尽くすに違いなく、まさにこの世の終わり、人類の黙示録的な運命を暗示しているのかも知れなかった。多分、真面目な武将趙雲は跪《ひざまず》いて胸に十字を切り、主に救いの祈りを捧げるようなことは当たり前だがまったくしなかった。
「これは驚いた。火計にも要点というものがあるのですな」
と感じ入り、
「孔明先生、最高です!」
趙雲はほんの少しではあるが、孔明に尊敬の念を抱いたようであった。
『三国志演義』第三十九回では、孔明の初陣、迫り来る夏侯惇《かこうとん》、于禁《うきん》、李典《りてん》の軍団十万を博望坡で迎え撃ち、火を付けて燃やし、ぶつくさ言っていた関羽、張飛をいちおう納得させた、ということになっているが、日中の研究者はこれを真っ赤な嘘と断定しており、つまらないこと甚だしい。「諸葛亮博望焼屯」という雑劇までつくられて顕彰されているというのに。まあ、なかったものはなかったのだ。
博望坡の戦いは実際には二〇三年ごろ、威力偵察にあらわれた曹軍との間で発生したものであり、徐庶《じよしよ》の初陣のはなしがこれに相当する。
しかし後世の人は、徐庶にバトンタッチされた孔明が、即座に鮮やかな虐殺劇を見せないのは道理として許されないと思い、お節介にも、話をでっちあげてくれたのである。
脚色も秀逸である。まず片目の猛将夏侯惇が曹操に、劉備撃滅を申し出る。曹操は頷いたが、ここで荀ケ《じゆんいく》ともあろう者がいちじるしく事実認識を欠いた諫言《かんげん》というより、虚報を奏上する。
「劉備は英雄であり、最近、口説き落として手に入れた諸葛亮は若僧でまだ実績皆無ではありますが、周の太公望《たいこうぼう》、漢の張良《ちようりよう》にも匹敵せんかという奇才でございます。軽々しく仕掛けてはなりません」
夏侯惇は嘲笑って、
「誰がつこうが、劉備なぞ鼠のようなもの。必ず手捕りにしてくれよう」
と言った。すると(どこからか)徐庶が飛び出してきて、
「夏侯将軍、劉備をあなどってはなりません(すでに名を呼び捨ての間柄)。しかもいまや諸葛亮が補佐をして、虎に翼が生えた如きものとなっております」
と、かつてのあるじと友が合体して、グリフォンのような得体の知れない生き物になったのだ、と持ち上げる。曹操が徐庶に、
「諸葛亮とはどういう男なのか」
と質問すると、徐庶は曹操をからかいたかったのだろうか、
「諸葛亮、字は孔明、道号を臥竜先生と申し、経天緯地の才能を持ち、神出鬼没の奇計を秘めた当代随一の奇才であり、決して甘く見てはなりません」
と答える。曹操が、うさんくさい、と思いつつも、意地悪く、
「それほどの者なのか。ならば貴公と比べてみてどうなのだ」
と訊けば、徐庶得意の自虐批評がまたもや炸裂《さくれつ》、
「比べるべくもありませぬ。それがしが才を蛍の光といたしますれば、孔明が才は、皓々《こうこう》と光を放つ明月にございます」
と、例によってひがんだことを言うのであった。まことに孔明を持ち上げるためにこの世に生まれてきたかのような男である。
あまりに嘘くさいので、徐庶の忠告など誰も信用せず、夏侯惇たちは出撃し、孔明の奇策にまんまとひっかかり、博望坡で大敗してしまう。野は人馬の屍に埋まり、血が川となって流れてしまったという(こうまで負けても翌々月にはまた五十万の大軍を率いてくる曹操の無尽蔵の兵力は驚異すぎる)。
夏侯惇の大軍が新野に迫らんという情報が入ったときには、関羽と張飛の新入り孔明イジメもいいスパイスとなっている。
「兄者よ、フン、夏侯惇の軍勢が来やがったんなら、そこの新軍師に行かせればいい。デキるヤツなんだろ。おれたちゃ見物させてもらうことにするぜ」
と孔明が気に入らない張飛は孔明に全部丸投げし、関羽も頷いた。しかし孔明慌てず騒がず。劉備に、
「関張二将がわたしの指示に従わぬことだけが、心配の種です。そこでお願いですが、わが君の剣と印を一時的にわたしにお預け下さい」
と軍団の絶対指揮権を劉備から奪い取り、
「わが命に従わぬ者は、わが殿に逆らうも同じの反逆者であり、何者であっても処刑する」
と虎の威を借る宣告をし、関羽、張飛らに頭ごなしに奇抜な命令を下した。しぶしぶ従うことにした関羽が、
「いちおう承知した。だがわれらが前線に出撃して敵を迎え撃っている間、軍師はどうなされるのか」
と問い詰めると、孔明が爽やかに、
「わたしはここ県城にとどまり、守備をいたし、簡雍《かんよう》、糜竺《びじく》どのと祝宴の支度をしてお待ちしております」
と言ったものだから、張飛の死を招く皮肉が炸裂する。
「おれたちが死に物狂いで殺し合いをしている間、おまえは家の中でじっとしているということか。なんというけっこう軍師か! 恥を知れ」
貴様は安全な後方にいて兵に死を命じるだけの、前途ある若者の血で血を贖《あがな》う陋劣卑怯《ろうれつひきよう》の政治家か! 腹の虫が治まらない劉備軍団の武将たちだったが、劉備がまたかっこいい決めセリフで孔明を庇《かば》ったため、孔明は張飛に殺されずにすんだ。
しかし、孔明の作戦は一寸のズレもないほど大当たりしたから、関羽、張飛とも、
「先生の頭脳はまことに軍神の如し」
と、拍手喝采、孔明おそるべし! ということで、記念の詩。
博望に相い持して火攻を用い
指揮すること意の如し、笑談の中
直だ須く驚破すべし、曹操の胆
初めて茅廬《ぼうろ》を出て第一の功
というところ。談笑しながら鬼神も目を背ける大量|殺戮《さつりく》を指揮するというのが、後世の人が理想とした孔明イズム、いかにも孔明らしい異常性である。この博望坡の大戦勝のせいで(作り話なんだが)、すぐあとに劉備が鎧袖一触《がいしゆういつしよく》にされて南方に逃亡させられる歴史的事実を人々に忘れさせるか、なんだかどうでもよい小さいことと思わせることに成功するのである。こちらのほうがよほどおそるべし、孔明! 詩まで書かれると本当にあったことだと幻覚させられてしまうというものだ。
さて講釈は、関張二将のあまりにも素敵すぎる美点とキュートきわまりない素晴らしさは、よそさまで大いに語られているのでもう申し上げることがなく、仕方がないのでここでは玉に瑕《きず》のキズの部分を少々針小棒大にあくまで賞賛させていただきまして、孔明は軽く火遊びしておりました、というところ。孔明の活躍は一体いつになったら始まるのか。それは次回で。
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孔明、公子に軟禁され、泣いて計略す
曹操《そうそう》の南征前にはいろんなことが起きている。昨年末、軍略鬼・郭嘉《かくか》が死んだのは、惜しんであまりある痛恨事であった。
また後漢末のブラック・ジャックといわれる(といって、言っているのはわたしだけなんだが)医聖|華佗《かた》が殺されたのはこの時期という説が有力である。曹操の最愛の息子、曹沖《そうちゆう》が病死しているが、華佗に診せた気配がないからである。むろん郭嘉も華佗の治療を受けていない。
華佗は曹操の持病の偏頭痛を根治させるために、脳外科手術を勧めるが、そんな二十世紀の先端医療が可能とも思えず、曹操は暗殺だと勘違いして華佗を死刑にした。
華佗は古《いにしえ》の遍歴医の伝統を色濃く受け継いでいた国籍年齢ともに不明の国手である。ブラック・ジャックと同様、医師免許も持たず(宮廷の医家にはいちおう役職名などがあった)、法外な治療費をとることもあれば、タダで治療してやることもある似而非《えせ》ヒューマニストであった。実際は曹操に縛られるのを嫌った遍歴者の華佗が、嘘をついて帰郷していたのがばれたため、殺されたのである。よって『三国志』でこの時期以降、華佗が登場する場合、幽霊か分身《ドツペルゲンガー》である。
華佗がいたならば曹沖の病を治せたかも知れない。
曹沖は字《あざな》は倉舒《そうじよ》、この年(二〇八年)に十三歳で夭折《ようせつ》しているが、曹操も驚嘆するほどの天才児であったという。五、六歳のころから識見、仁愛、人に選《すぐ》るところがあった。曹操の厳罰主義が徹底するのあまり無実で死罪になる者が続出していたとき、曹沖は勝手に罪人をしらべ直し、とんちをきかせたりして救ってやった。そんな私《ひそ》かな出過ぎ反則がばれたにもかかわらず、曹操は曹沖を罰せず、かえって賞賛した。
また孫権《そんけん》がゾウをプレゼントしてきたとき(どういうつもりなのかは不明)、曹操はこの巨大な動物の体重を知りたいと思ったが、並み居る群臣、というからには程c《ていいく》、荀攸《じゆんゆう》のような智恵者も含んでいたろうが、みなその計り方が分からなかった。そこで曹沖が、一休さんぶりを発揮し、
「ゾウさんを舟に乗せて、池に浮かべ、舟の喫水線の場所に印をつけておき、そのあとで同じところに沈むまで石を積んで、その石の重さを量ればわかります」
と、エウレカ、アルキメデスな方法を提案して、曹操を狂喜させた。文章、詩の方面でも並ではない才能の片鱗を見せていた。
曹操は曹沖を跡継ぎに決めていたらしく、
「もし曹沖が生きておれば、曹丕《そうひ》を位につけることはなかった」
と漏らした。曹丕が、曹沖の危篤に、生涯にかつてないことに自ら命乞いの祈祷《きとう》までした父親をなぐさめたところ、曹操は、
「沖の死はわしにとっては大不幸だが、お前たちにとっては幸いだろう」
と言って、曹丕以下のボンクラ息子たちの顔面を蒼白になさしめた。ちなみに曹操はのちに、
「息子に持つなら孫権|仲謀《ちゆうぼう》のような者が欲しかった」
とか言って、またも曹丕を失望のどん底に突き落としている。どうも曹操はその才まったく自分に及ばない曹丕を嫌っており、言葉でいじめていた模様である。曹植《そうしよく》(軟派詩人)のことも噂ほどには評価していなかったようである。
曹操は曹沖を失った哀しみを溢れさせながら荊州攻略に向かわねばならず、赤壁《せきへき》で負けたのも、悲しみのあまり頭脳が回らなくなっていたからだと指摘する声すらあった。
さらに孔子の末裔《まつえい》、孔融《こうゆう》も刑殺するが、この話はまた後ほど。
とにかく南征直前までに曹操の周囲からいろんなものが削《そ》ぎ落とされていった観がある。失うとその分以上に埋めようとするのが曹操|孟徳《もうとく》の生き様である。この際、二喬(孫策《そんさく》の未亡人と周瑜《しゆうゆ》の妻)も手に入れなければ下半身がおさまるまい。
さて一方、荊州東部で起きた一大事のことである。
江東の首領《ドン》、孫権が自ら軍を率いて夏口《かこう》、江夏《こうか》に侵攻してきた。目指すは黄祖《こうそ》の首ひとつ。今回こそは手ぶらで帰らないと決意を固め、これまでにない強力な陣容で猛襲してきたのである。
守るは、江夏太守の黄祖であるが、どうしてまたと不思議なほどにあわれな立場であった。江夏、夏口は呉との国境地帯、常々江東の乱暴者たちがどすを振り回して暴れ込んでくる最前線である。にもかかわらず、劉表《りゆうひよう》は政略的にも戦略的にもなんら手をうたず、黄祖に任せきりの状態であった。荊州の要地でありながらほとんど陸の孤島の如きありさまである。
劉備が荊州に流れ落ちてきたとき、戦略価値が低くヒマそうな新野などに置かず、江夏の黄祖の下につければよかったと思うのだが、そんな意見はどこからも出てこなかった。
黄祖は劉表とその幕僚たちに嫌われていたのかも知れない。決して戦さ下手ではないことは、孫策、周瑜ら、孫呉《そんご》の強兵を何度か撃退したことからも明らかである。
初平三年(一九二年)に袁術《えんじゆつ》の命令で孫堅《そんけん》が襄陽《じようよう》を攻めた際、先手迎撃した黄祖の兵は木っ端微塵に打ち砕かれてしまったのだが、敗兵の放った矢がたまたま孫堅を殺してしまったことが黄祖の不幸の始まりとなった。黄祖自身は黄蓋《こうがい》に捕まり捕虜となっていたが、孫堅の屍体とのスワップ成立により生きて帰ってきた。現代では屍体と捕虜のスワップはイスラエル対アラブ諸国の明闘暗闘のなかでよく行われ、イスラエル人はどんな死に方をしようと自分が必ずカナンの地に葬られることを信じて闘い抜くのである。黄祖は、後の苦労を思えば、ここで死んだ方がよかったと思ったかも知れぬ。この日以来、黄祖は孫家最大のターゲットにされ、死ぬまで付け狙われ続けることになる。
劉表は火の粉が自分に降りかかることを恐れて、黄祖を江夏太守にして赴任させた。江夏太守とは、実情は江夏郡のなかでお金も兵もすべてやりくりしろ、という内容の立場であって、劉表は経済的軍事的サポートをまったくしてくれず、さらには江東の憎悪を一身に引き受けさせられ、毎日のように殺し屋が押しかけ、しょっちゅう中小の戦闘があり、楽しくも嬉しくもない太守なのである。
劉表がたまに何かを送り届けてくれたかと思えば、天下の名士にして中国史上屈指の天才的誹謗中傷家であり、孔融に、
「天下抜群の人物である」
とバイアスのかかった歪んだ評価をされたものの、あまりにひどい被殺人的悪口が機関銃のようにばらまかれる口のため、諸国をたらい回しにされていた禰衡《でいこう》を押しつけられたり(要は禰衡の抹殺を命じられたようなものだが)、劉表の尻ぬぐい仕事ばかりである。それでも黄祖は一生懸命戦い続けた。今は呉の臣となり先頭に立って攻め来たる甘寧《かんねい》を手放すことになったのも、常時戦争体制が続いて経済的に窮迫しており、甘寧に十分な待遇を与えてやれなかったせいもある。どうも劉表は孫呉という猛獣の前に、黄祖を餌か生贄《いけにえ》のようにぶら下げておいたとしか思われない。
こんな目に遭わされ続ければ誰だって腐ろう。黄祖に器量があれば(劉備なみの厚かましさがあれば)劉表に独立宣告、反政府軍閥化して劉表を打倒、荊州の主になってもよかった。『三国志』では、このくらいは、しばしば事後承諾で認められてしまうところの太守の権利のようなものである。だが黄祖は劉備と違い、気に入らないからと、忠臣線を崩すような性格ではなかった。
その、かつて黄祖の部下であった甘寧が今回の頂上作戦立案に大いに参謀した。甘寧は黄祖の弱点と夏口の穴を知り抜いていた。
甘寧は字《あざな》を興覇《こうは》といい、益州巴《えきしゆうは》郡出身の無頼漢である。若い頃から人望があり、手下とともに組事務所を構え、いっぱしのヤクザとして官と癒着、地元を仕切っていた。その後、郷里を出て長江をくだり、錦帆賊《きんぱんぞく》≠ニ呼ばれて水賊まがいのことをしてきたが、思うところあって前非を悔い、はじめ劉表に仕え、そののち黄祖の傭兵のような立場に置かれた。
甘寧の経歴は言ってみれば劉備とほとんど変わらないのだが、劉備などより遥かに確かな戦略眼を持っており、天下の大局を論じる頭脳を持ち、実戦もやたらと強かった。
「黄祖の首を取るなど第一歩のことで、荊州北部も攻略し、巴蜀《はしよく》の地まで奪取すべし」
と、この時点ではちょっと行き過ぎな、周瑜とほぼ同意見の構想を持っている。孫権が、
「魏に張遼《ちようりよう》ありといえども、わが呉には甘寧がいる」
と言って賞賛したほどの命知らずの特攻隊長である。孫権にとっては頼りになる切れ者の一人といえるが、劉備びいきの『三国志』読者からは賊あがり、小賢しいごろつきだとされている。もし甘寧が間違って劉備軍団に属していたら、最低でも趙雲に匹敵するかそれにつぐ名将とされたであろう。
作戦会議の場には、難しい顔をした老人がいた。
「呉郡の人心まだ定まらず。今、ここをがら空きにして兵を西進させるなら、必ず反乱が起きる」
と、先代よりのご意見番、孫権を頭ごなしに叱りつけることが出来る唯一の家臣にして剛直の内政官、鬼より恐い張昭《ちようしよう》のオジキが反論したが、甘寧は、
「留守中、反乱を防止するのは、ジジイ、お前の仕事だろうが」
とせせら笑った。中途採用の甘寧は江東の誰もが縮み上がる張昭の本当の怖さを知らないのであった。
「わが君は、蕭何《しようか》の功を期待して、お手前を重んじておられる。それに応えられんというのなら、とっとと辞職したほうがよいのではないか」
蕭何とは漢の高祖劉邦に仕え、終始一貫して内政万事を取り仕切った大功労者である。孫権は、自分が頭の上がらない張昭老におそれげもない、甘寧の痛快な文句を喜び、内心、
(甘寧、もっと言ってやれ)
と思いつつ、
「興覇、慎まんか」
とたしなめるが、
「黄祖を討って父の仇《かたき》をそそぐは、われらの宿願である。これをやらなければ呉は十何年もたつのに親分のカタキも討てない甘ちゃんだと、天下に舐められ続けてしまう」
面子《メンツ》の問題でもある。作戦実施を張昭に認めさせた。魯粛《ろしゆく》や諸葛瑾《しよかつきん》は反対せず、留守中の不祥事を防ぎ止めるのに手を尽くした。
孫権はこれまでも黄祖壊滅作戦をたくらみ、何度か出入りを行ってきたが、乱暴な作戦ばかりだったためことごとく失敗している。古《いにしえ》からの呉越の伝統というのか、勇を頼んだ粗雑で無謀な攻撃一辺倒が孫呉の持ち味となっていた。そういうやり方は孫堅、孫策のような優れた将領がいてこそ功を奏するのであるが、孫権では荷が重すぎるものであった。
孫権はようやく先攻無防の無謀作戦を改める気になった。甘寧に作戦立案を任せてみたのである。
「今度の戦争は、ハンパじゃねえ! この錦江龍甘寧がシキったアトサキのないほんまもんなんじゃあ!」
と、孫権の持つほぼ全兵力を夏口─江夏戦に投入している。
周瑜、呂蒙《りよもう》、甘寧、徐盛《じよせい》、周泰《しゆうたい》、凌統《りようとう》、潘璋《はんしよう》、董襲《とうしゆう》といった孫権傘下の獰猛《どうもう》な組長どもが入れ替わり立ち替わり江夏を踏みにじり掠奪し、ついに黄祖を捕らえて八つ裂きにした。孫権は黄祖の首級《しゆきゆう》を孫堅、孫策の墓前にささげた。
「親分《おやつさん》、兄貴、やっと、やっと、カタキをとりました」
空には亡き孫堅、孫策の笑顔が大きく浮かんでいた(あくまで孫権の心象風景)。こうしてあの時から凍り付いて止まっていた呉の時計が、音を立てて動き始めたのであった。
これに対し、信じがたいことだが、劉表はまったく何もしなかった。荊州政府は制度疲労どころか死後硬直の段階にあったとしか思われない。抗議すらしていないのだから黄祖も浮かばれまい。呉の戦略目標が領土奪取などではなく、黄祖個人のタマを取るという、ほとんどヤクザの抗争であったのが不幸中の幸いであったというしかない。
江夏に向かって孫権軍がこれまでにない大規模な兵員移動を行っていることくらい諜報で分かっていたはずで、普通なら漢水《かんすい》、長江を水軍で封鎖しつつ押し、すぐさま夏口に兵力増援を行うべきところである。だが、劉表は(病気だったのなら蔡瑁《さいぼう》、|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》でもいい)、わたしには何を考えているのかさっぱり分からないし、理由を想像してやることすら出来ないのだが、何一つしなかった。こういう無能の麻痺政権には馬鹿負けしたと言っておくしかあるまい。孔明が、劉表をただちに殺すべしと主張するのも、ここは無理のないことと思われる。
このときの功で甘寧は都尉《とい》に昇官した(とはいっても孫権が勝手に定める呉でしか通用しない非公認官である)。
念願かなって黄祖を殺し、江夏を蹂躙《じゆうりん》できたのだから、当然、そのまま占領し、対荊州の攻防拠点となすべきところである。孫権も最初そう思っていたが、張昭老がいつものことながらドスの利いた反対論を述べた。
「孤城は守るべからずと申す。いったん全兵を引き揚げさせるべきであろう。黄祖を討たれた劉表が必ず報復に来るはず。それを待ってから休養十分のわが兵をカチこみ、然《しか》る後に再び江夏を獲り、荊襄を遠望すればよい。よくお考え下され」
と、慎重派ゆえというより、自分でも分かっているであろう穴だらけの奇怪な意見である。
劉表が復讐戦を挑みに来る可能性がかなり低いことは張昭にも分かっていたろう。また手に入れた江夏に守備兵を入れておくぐらいの余力はある。いったん取ったものを返してまた取り返すなど、軍事的にはいらぬ手間を増やすだけである。
「江夏のシノギはおいしい」
と期待していた諸将は当然の如く不満を鳴らした。
しかし孫権は熟慮するふりをして見せてから、張昭の意見を採用し、江夏をあっさり放棄した。ただし民衆はかっさらい、物資はかっぱらった。
江夏を孫権直轄のシマに出来るのならいいが、現時点では何人かの将に褒美《ほうび》として与えなければなるまい。それは孫家にとって不利益を招くことになる。張昭の献策はそれを含んだものであった。
(さすがはオジキ、タヌキじゃのう)
孫権も張昭の意をすぐに察していた。
ここで江東、呉の状況を整理しておきたい。
呉とは単純に言ってしまえば、それぞれ一家を成した豪族どもの連合体であり、孫一家の孫権は今のところその筆頭にはいるが、敢えていえば任期つきの会長職のようなものに過ぎない。決して孫権は国主とか、そういう衆目の一致した江東江南の不動の支配者ではないのである。
「経済力と武力が突出した組が呉の天辺《てつぺん》に立つ」
そういう暗黙の了解が皆の裡《うち》にあった。江南のミカジメのあがりも縄張をしきる組長がそのほとんどを懐に入れており、黙っていても孫家に上納されるような利益集配システムなどはなかった。そこで孫家としては反孫権派の組長に新たな権益が渡るようなことは断じて防がねばならない。シマ荒らしは御法度であり、やればすぐさま血の抗争が起きる。
孫家は江東の有力豪族のひとつに過ぎないのである。孫権は揚州《ようしゆう》の刺史《しし》でも州牧《しゆうぼく》でもない。かつて孫家がそういう地位にあったこともない。袁術《えんじゆつ》の死の時期以降、揚州は中央からほとんど無視されていた極道無法地帯なのであって、孫権に立場があったのは華北の大総長、曹操の目こぼしのおかげであったといってよい。今だってむかし呉越と言われていた喧嘩地帯、上海から以南、浙江《せつこう》、江西《こうせい》、福建《ふつけん》などは中共政府の威令が聞こえているのかいないのか、ヤバいレッドゾーンであり、観光旅行者には注意が必要である。
確かに惚れ惚れする大親分の器であった故孫堅、故孫策になら付き従ってもいいが、かの二人が相次いで死んでからは話は別だと考える土豪たちは、孫家などはわれわれと同格なのであり、孫権のような青小僧と親分子分の盃を交わすというような関係を結んだおぼえはない、といった感覚である。
孫権は非常に不安定で危ない位置にいた。いつタマを取られてなり代わられるか分からない。これを、
『深険の地は猶ほいまだ尽《ことごと》くは従はず、天下の英豪は布いて州郡に在り、賓旅寄寓の士は安危去就を以て意とし、未だ君臣の固めあらず』
といったふうに『三國志』に書かれている。孫呉の支配地域といえるのは会稽《かいけい》、呉、丹楊《たんよう》、豫章《よしよう》、廬稜《ろりよう》くらいのもので、その他の大部分は未だフリーラジカルである。有力豪族はそれぞれ州郡に勝手にのさばっており、よそから来た客人や旅人は情勢を日和見《ひよりみ》してだれにつくかを思案し、主君臣下の上下関係はいまだに成立していない、ということだ。要するに呉連合は、もともとまとまりがない。
そもそものところ、張昭が二〇八年の段階で、
「呉郡の人心まだ定まらず。今、兵を進めるなら、必ず反乱が起きる」
と顔をしかめたていたらくなのである。孫家はこの期に及んでもまだ国内平定すらおぼつかなかった。反孫権派の土豪や山越蛮族の反乱は孫権が晩年まで抱え続けた内患である。
君臣に絆薄く、まとまりがないことが初期の呉の最大の弱点であるといえた。赤壁の戦いを目前にして、反戦降伏論が多数を占めており、群臣が口角泡を飛ばして議論していたというのも、孫権の支配力がいかにひ弱であったかの証拠であり、天下争覇という点では曹操らに一歩も二歩も遅れ、とてもお話にならなかった(とはいえ劉備よりは遥かにましである)。
『三国志演義』では呉は極めて組織だった精強鉄の如き軍団であるかのように書かれてはいるが、もしそうだったとしたら孫権も苦労はなかったろう。
普通なら孫策は自分の跡目を嫡男の孫紹《そんしよう》と定め、孫権、孫翊《そんよく》、孫匡《そんきよう》、孫仁《そんじん》(朗)らの兄弟に守《も》り立てさせることにしたであろう。しかし、敢えてつぎの弟孫権に三代目を襲名相続させたのは、呉の組織基盤が脆弱で、とても幼少のわが息子では通らないと諦めたからである。孫策が孫権に、
「天下争覇の戦いではお前はわたしに及ばない。しかし、賢者を用いて江東を保つことではわたしはお前に及ばない」
という遺言をしたのも、まず江東を保定することが第一の優先事項だったということが、痛々しいほど分かるというものだ。
孫権には最初から、天下を取りにガンガンゆくようなことは期待されていず、孫家を確実な江東の支配者にすることが至上の要求とされていた。それを中央政府、曹操に認めさせることが、まずもっての目標である。孫権がつい調子に乗ってガンガン行こうとすると必ず張昭老が止めに入るのは、これは孫策の遺言、基本方針を孫権に守らせるのがわが仕事と心得ていたからだ。そういう意味では孫権は天下を取ることなど誰にも求められていず、天下取りなどという大バクチははなから禁止されている、縛られた優等生のようなものである。かっこよく言えば守成の大才なのではあるが、『三国志』にはこれほど不自由な君主は他にいない。
実のところは、未だあやうい孫権の政権基盤を、表では張昭、周瑜、魯粛、諸葛瑾の四天王が支えており、裏からは軍の長老、程普《ていふ》、黄蓋《こうがい》、韓当《かんとう》らが睨みを利かせているといった図式なのである(さらに黒幕に呉国太《ごこくたい》や喬国老《きょうこくろう》が控えていたと考えてもよい)。このブレーンたちこそが孫権が、孫堅、孫策から受け継いだ最大の遺産であった。
(わし直属の兵隊をもっと増やさにゃいけん)
と、魯粛にも進言されていたこともあり、孫権は甘寧のようなならず者らの新規採用に熱心なのである。
「(孫権は)侠を好んで自ら人才を養う」
という。甘寧が命乞いをした黄祖の元部下の蘇飛《そひ》を助けてやったりしたのもその一環であったろう。
ちなみに鳳雛《ほうすう》=b※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統士元《ほうとうしげん》はこの頃、周瑜の組にいて、|※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽《はよう》郡の主簿《しゆぼ》(文書係)や功曹《こうそう》(郡や県の役人の考課係)を勤めていたかと思われる。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は、周瑜が気に入ったからゲソを付けていたのであって、孫権がどうこうという気持ちはなかったようだ。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統の異才はぼつぼつ人に知られるようになっていたが、周瑜は魯粛を連れて行ったときのように、孫権に推挙することまではしていない。
戦《いく》さに勝ったら何はなくともまず盛大に宴会、というのは劉備軍団だけのしきたりではない。呉連合でもやる。ただし時々血の抗争をおっ始める組の組長たちがもろ肌脱いで集まるようなこわいパーティだから、用心棒やヒットマンがうろうろしていたりと、何かと気が安まらない。
宴もたけなわとなった頃、突如、一人の若僧が大声で喚き散らしながらドスを抜き放ち、暴れ始めた。シャブ切れか。若僧は泣き喚きながら甘寧に飛びかかりドスを突き出した。
甘寧は咄嗟《とつさ》に盃を投げつけ、椅子を持ち上げて刃を受けた。
「このガキゃっ、なんの真似じゃあ!」
と若僧に思い切りヤクザ|蹴り《キツク》を入れ、続いてビンタで弾こうとする。胸から肩にかけて男臭い彫り物がちらりとのぞく。べつにスジもんだから入れ墨をいれているのではなく、入れ墨は昔から呉越地方伝統の習俗であり、呉の男伊達や女丈夫どもはそれぞれ意匠を凝らしたモンモンを背負っていたりする。
そのガキとは凌統《りようとう》であった。孫権が驚き、
「やめんか公績《こうせき》」
と凌統の字《あざな》を呼んだ。凌統は甘寧にマウントパンチを受けていたがうまくスィープ、リバーサルして上になり、パチキをいれて肘を落とさんとしていた。孫権はレフェリーのように裁き入った。
「めでたい席に血の雨を降らせて汚す気か」
もう降っている。凌統は切れた額と唇から血をしたたらせ、
「カシラっ、後生ですから、止めんでくだせい。わしゃ、わしゃ、そこの甘寧がどうしても許せんのです! こんなはわしの親父を殺した憎いカタキなんじゃ。同じ席で酒など飲んどれません」
と顔面を血と涙と鼻血で濡らして叫んだ。
凌統はこのとき十九前後の無分別盛りである。凌統の父の凌操《りようそう》は確かに甘寧に射殺された。四年前、まだ甘寧が黄祖の手下だった頃の抗争の最中である。
「興覇《こうは》が悪いわけではない。あのとき興覇は黄祖の子分であり、それぞれのオヤのためにやったことだ。今は興覇はわれらの代貸しではないか。黄祖のクサレをぶち殺せたのだから、それで仇討ちは出来たと思わんか。な、な、公績よ、ここはわしの顔を立ててこらえてくれや」
と孫権が説得するが、
「それはでけません。甘寧は不倶戴天の敵、この手で八つ裂きにせんことにはわしゃ天下の親不孝の笑われもんじゃ。お願いです。殺《と》らさしてつかあさい」
コンクリ詰めにして揚子江に沈めたる、となおも甘寧に唾を吐きかけ、睨み付ける。
「かばちたれとんなや、ガキ」
甘寧は上衣を乱し、腹のさらし巻きから取りだしたドスを握っており、殺《や》る気満々である。
その場はみんなでなだめすかして、凌統を別室に軟禁した。しかし諸将は、
「けりがつくまでやらしときゃあいいんじゃ」
「ありゃあ、殺《と》らんことにはおさまらんじゃろ」
と、人ごとのようにへっへっと笑っている。こんなことはしょっちゅうあることで、珍しくもなんともないのだ。甘寧は、
「いつでも来さらさんかい」
と目をぎらつかせている。
甘寧は将領の才はあるのだが、何かあるとすぐに人を殺した。甘寧の家の料理人が甘寧に殺されかけ、呂蒙《りよもう》を頼って逃げ込んだことがある。普通なら呂蒙ほどの親分に仲立ちをされては、内心はどうであれ飲むしかあるまい。甘寧が絶対に殺さないと約束したから、呂蒙は料理人を返した。ところが次の日にはもう射殺して沈めてしまっており(むう。雄山、料理人如きには人権はないのか!)、甘寧は呂蒙のメンツを丸潰しにした。呂蒙が血相を変えて殴り込んで来ても、
「今日また別に不始末をしでかしたんでね」
と、寝たまま平然とうそぶいたというから、もう息を吸い吐きし、三度の飯を食うような感覚で人を殺す男なのであった。それでも、
「興覇も困ったやつじゃ。あの癖の悪さはどげんかならんのかい」
と笑い話の程度で許容されているのであり、まことに無法地帯、終戦直後(第二次世界大戦ではなく赤壁の)の呉が如何に殺伐としていたかがわかろう。
甘寧と凌統の血で血を洗う抗争はしばし続く。
『三国志』中、最高の気配り上手、調整能力の持ち主とされる孫権仲謀(趣味は可愛く虎狩り)の頭痛の種がまた増えたわけである。孫権は周瑜、諸葛瑾らと相談し、ひとまず甘寧を夏口方面に遠ざけたのであった。
さて、孔明が博望坡を、ただたんに燃やしてみたいから? という許し難い理由で焼き尽くした件について、新野の人々の間では、
「ひでえことをしやがる……くそ外道が」
と、吐き気を催されていた。わたしの期待通りの反応が沸き上がっている。
博望坡は微量に残る放射能のせいで一万年もぺんぺん草一本も生えなくなっているというような、呪われた実験地ではない。つつましい畠《はたけ》が営まれていたり、牛羊を連れて行って草を食《は》ませたりもする場所なのであった。それが半日にして焼け野原にされてしまったわけだから、怒る人がいるのも無理からぬことであった。
「おれは見ていたぞ。博望が火炎地獄のように燃えあがり、何十人もの兵が焼き殺されていた……」
「孔明め、やっぱりやつは真正の狂人だ!」
精神鑑定にかける手間も惜しい、と顔を歪めて吐き捨てる人が大多数である。
「なんてひどいことをすんのさ。あそこにゃ死んだ父ちゃんの畠もあったんだ。あたしゃもう口惜しくて仕方がないよ」
と老いた農婦が息子に背を慰められながら目尻に涙を溜めていたりする。
「どうして劉将軍のようなど偉え立派な方があんなろくでなしをご一党にお加えなさったのか」
「魔がさしたのか。お気がしれねえよ」
「いや、思うに劉将軍は騙されておいでなのだ」
「そうだ。臥竜に誑《たぶら》かされちまったに違いない。そうに決まっている!」
「畜生、孔明の人非人めが! 劉|皇叔《こうしゆく》さまが人を疑うことを知らぬ幼童のようないたいけなお方だということにつけこみやがって」
といった感情的な非難の声が寄るとさわると叫ばれたのであった。
孔明、激しく民衆を敵に回す!
といって昔から変わらずそうなんだが。
それにしても劉備への民衆の高評価はちょっとどこか間違っている気がしないでもない。しかし、ワルであってもスーパー善人に見えるところは、大スター(大悪党)の条件というものである。
孔明が先日博望坡を焼き払ったことは、決して子供(じみた馬鹿)の気まぐれで悪質な火遊びなどではなく、じつは深く将来を見越した末の必須の策戦の一環だったのである、というようなことがあるのかないのか、わたしは知らない。
ただ荊北の衆は幸運にもここ十数年、戦禍といえる戦火に巻き込まれたことがなかったから、孔明の放火くらいでさも大犯罪であるかのように感じてしまうのは、ある意味幸福だったあかしである。これが董卓《とうたく》、呂布や曹操、袁紹がのたうち暴れ回った地域の民衆は、野原を燃やされるどころではなく、田畑は台無しにされ、人はさらわれ賦役に取られ、殺され、犯され、なんとか生き残りようやく落ち着いて畠を耕し始めたと思ったら、また燃やされ、殺され、掠奪され、犯され、軍馬に踏みにじられ、野盗がはびこるといったことが幾度も繰り返され、惨憺《さんたん》たる有様なのであった。民衆は、劉表の覇気のなさが結果オーライだっただけながら平和を保ち、幸運な日々を過ごすことが出来ていたのである。
まあ、たとえば現代日本、国内には凶悪無比にして不気味な事件がうち続き、将来に強い不安を感じさせられる昨今であるが、なんといっても、沿岸に空母を横付けにされていたり、しょっちゅう爆撃機が飛んできたり、特殊装甲車両が列をなして東名を走っていたり、自動小銃とグレネードランチャーで武装した兵士が近所をうろついていないぶん、きわめて平和は平和なのである。これがちょっと中東とかウイグル自治区、チベット、チェチェン、アフリカ、北朝鮮に目を転じるとたちまち悲惨の一語に尽きて声も出なくなる。かの地の民衆から見れば、かりに孔明と名乗る愉快な男が霞ヶ関に放火して国会議事堂も突如として火柱を上げて燃え上がり、首相を含む衆参両院議員その他何百人がいっぺんに焼殺され、続いて渋谷や池袋が連続爆弾テロで荒廃したと聞いても、
「なんだ、そんなことくらい、騒ぐことか……ジャパンの人はしあわせだよ」
と重々しくも、軽く感想を言われてしまう、そういう悲しい世界がある。
つまりは荊北の住民は、華北の住民に比べると贅沢な平和グルメだったといって差し支えないのである。実際、このしばらく後から十数年、襄陽近辺は洛陽《らくよう》の次くらいに大量の血が流されることになる激戦地と化すわけだが、そうなってようやく、
「ああ劉|景升《けいしよう》さまのご治世はなんとよいものだったか。曹操も劉備も孫権も、全員糞喰らいやがれ」
と、平均的な中華の民となるのである。
孔明は博望坡を焼くことで荊北の民にこれから始まる苦難を知らせ、準備と覚悟を決めておくようにと敢えて親切に兆《きざし》を見せてくれたのである、なんていうことはまずないだろう。
「このようなものは序の口にございまする」
とか、次には新野を(さらに先には曹操の大船団を)どう焼こうかといろいろ楽しく考えていたに決まっている。
新野の庁舎には朝から「諸葛亮博望焼屯」に抗議する民衆が次々に押しかけて、窓口にいる役人たちは辟易《へきえき》させられていた。
「孔明をクビにしろ」
「新野追放だ」
「足らん。それではやつを地に野放しにすることになるだけだ。牢獄に隔離して一生陽の目にあえぬ身にせにゃ」
「なんでご家来衆はあんな男が劉将軍に近付くのをお止めせなんだのか」
「たのみます。一日も早く孔明を打ち首にしてください」
と、ならぬならハンガーストライキも辞さぬという構えである。表の騒ぎに奥から孫乾《そんかん》、糜竺《びじく》、簡雍《かんよう》が出てきて対応せねばならなくなった。
しかし、民の訴えはなおやまぬ。簡雍が得意の脱力下ネタで場を和ませようとしたが、まったく通じないほどの強硬さであった。
「いや、もう、おぬしたちの言うことは、われらもそう思うこともあり、言いたくはないが、いちいちもっともである」
と、へたに孔明を庇《かば》うと暴徒と化した民衆にど突き回されかねないので、迎合しておくしかない。ついには、われらで始末するから、
「孔明を出せ」
という要求には、
「諸葛先生は本日劉皇叔のお供をして襄陽に出かけておる」
と、返事しておくしかない。これは事実であって、張飛も同行していた。
新野の衆は孔明のこととなると非常に聞き分けが悪く、感情的になりがちだ。隠すとためにならんぞ、とか、日頃のおとなしさを失ってしまうのであった。これも臥竜伝説のせい、孔明の自業自得の嫌われる理由あってのことなのだが、
(しかし、諸葛亮というのは、なんという評判の悪いやつなんだ。これまで一体、どんな酷《ひど》いことをしてきたのやら)
あの若さで……と孫乾たちは思うしかなかった。
野っぱらに火を付けたくらいで、こうまで非難|囂々《ごうごう》となるのはよほど日頃の行いに問題があると思わざるを得ない。このままでは劉備軍団、ひいては頭領の劉備まで評判が暴落する恐れすらある。
そんな暴動寸前の時、朝練を終えて一休みしにきた趙雲が、庁舎の人だかりを見て、馬から下り立った。凶兵器・涯角槍《がいかくそう》の石突きをごすっと地についた。そして、いきなり、
「ちぇ─────ぃっ」
と一絶叫した。その凄まじい気合に、わいわい押しかけていた衆は身のうちが痺れたようになり、石のように静まった。
「この騒ぎは何事であるか」
多分真面目な武将だが、凶猛無類の趙雲がぎろりと睨み回すと、誰も口を開けなくなった。
孫乾が手短に事情を説明した。趙雲は、ふむ、と頷くと言った。
「博望を焼いたるは、諸葛先生が、劉皇叔のお許しを得、この趙雲子竜がみずから監督してなしたこと。わたしは、あれを、いずれ襲い来る曹公の軍を撃破|殲滅《せんめつ》するための諸葛先生の秘計の一部であろうと見申した。わたしには諸葛先生の胸の内に如何なる秘策があるのか皆目見当もつかないが、わがあるじ劉皇叔の信じる先生であるなら、わたしもまた信じるものである」
趙雲の生真面目だが恐竜のような気迫に反対できるような者がいるはずがない。もじもじし始めた。
趙雲は厳しい表情をふとゆるめた。
「皆の衆、いささか乱暴な物言いをしてすまなかった。損害のあった者は遠慮せず申し出てくれ。ここはどうかこのわたしの顔に免じて、落ち着いてはもらえまいか。頼む!」
と頭を下げた。血みどろがよく似合うしぶい好青年、燻《いぶ》し銀の竜騎士趙雲(しかもまだ独身)にこう言われては、皆もほうと溜息をついて鉾《ほこ》を収めるしかない。
「いや、あいすみませんでした。趙将軍がそうおっしゃるのなら、わたしどもとて、その、孔明なんか」
「おい、てめえら、ここは趙将軍にお任せしようや。こんな素敵な人が目を光らせてくれているのだ。臥竜だっておかしなことは出来まいよ」
新野の衆は趙雲と孫乾たちに一礼してゆるゆると散っていった。
糜竺が額の汗をぬぐいながら言った。
「いやはや、助かったわい。子竜が来なかったら、それこそ庁舎に火をつけられかねないところであった」
と安堵《あんど》の溜息をつく。
「おぬしたちもいかんぞ」
と趙雲が言う。
「孔明先生はすでにわれらのお身内ぞ。先生を十分に信頼する心意気を見せれば、衆人とてああもおぬしらに責めかかるようなことはしないだろうに」
「子竜は孔明を信じておるのか?」
「さっき申したとおりである。すると憲和《けんわ》に子仲《しちゆう》、公祐《こうゆう》、あなたたちは先生を信じておらんということか」
憲和は簡雍の、子仲は糜竺、公祐は孫乾のそれぞれの字《あざな》である。
「いや、そんなことはないのだが」
とやや表情を難しくした。誰でもそうだろうが、孔明のような人間にこれまで会ったことがなく、人柄の判断がつきかねるのである。
たとえば簡雍はお近づきの印にと、素晴らしい|エロコミ《エロ・コミュニケーション》をはかって反応を見てみようとした。ちなみに物凄くどうでもいいことだが、タレコミは、タレ・コミュニケーションの略ではない(クチコミはいいのか)。
真面目な男なら不快感を示すか怒るであろうし、くだけた男ならニヤニヤするか、もっとえげつない下ネタで応酬してくれるであろう。簡雍がまだよく馴染まぬ人間に仕掛ける、男なら必ずや漢《おとこ》らしい反応をもって返すであろうと思われる、彼ならではの人間測定法である。ほとんど中学二年生、女の子あいてにそんなことを言ったら一生シカトされてもやむを得ないところだ。
だがしかしである。孔明は簡雍の遠慮がちだがミドルレベル(一般人にとっては十分にヘビークラスだ)のエロ・トークを聞くや、驚いたことにはらはらと涙をこぼし始めたのであった。びっくりした簡雍が、
「な、何かお気を悪くなさいましたか」
と問うに、
「憲和どののお言葉を聞いて、故郷、山東|瑯邪《ろうや》の山河を懐《おも》い出してしまいました。ふ。男のくせにふるさとを思うて涙がとまらないのです……くっ、許しませい、この泣き虫めを!」
とかなんとか、うさぎ追いしかの山、小ぶな釣りしかの川のノスタルジーにひとり浸りきる孔明であった。何故に、ファッキン・ジョークを聞いて幼き日の故郷の情景が思い浮かぶのか? 簡雍は愕然《がくぜん》とした。まことに不可解だが、瑯邪というところはそんなに怪しい場所なのであろうか(山東瑯邪は仙人や方術者の名産地という意味ではかなり怪しい地域ではある)。簡雍は、人として、それ以上追及することが出来なかった。
簡雍は劉備と同郷の四十一歳、孔子によればもう惑わないはずのお年頃、旗揚げ以来のワル仲間であり、誰とでもすぐに打ち解け、お友だちになれるという特技を持っている。よってしばしば重要事の使者に任じられている。そんな簡雍でも孔明がどんな漢《おとこ》なのか、いや漢なのかどうかすらさっぱりわからず、まだ友だちになれていない。
「孔明どのを、信じる以前に、何が何だかよく分からんのだ」
と正直に打ち明けた。趙雲はアチョッと気合を入れると天をふり仰いだ。
「信じる気持ちに理由はいらぬ。それがわれらの生き様ではないか!」
と、懸軍万里《けんぐんばんり》の彼方から来し方行く末を見霽《みはる》かすかの如くに言い切った。
趙雲はそれでいいかも知れないが、まあなんであれ、
(孔明を引き入れたのは他ならぬあるじ劉備なのだから、当分は信じる振りでもするしかあるまい)
と、孫乾、糜竺、簡雍の劉備軍団文事三人衆は思ったのであった。
劉備一行は昼前には樊城《はんじよう》を過ぎ、襄陽を目前にしていた。張飛が五百の兵士を率いてきているから、いくらかものものしい。
孔明は珍しく馬に乗っていた。張飛が、
「ほう。先生はちゃんと馬に乗れるのですな」
と言った。孔明は、
「まあ、すこしくらいは」
と、ペーパードライバーですよ、という感じである。
「わたしも皇叔様の御一党に加わった上は、一度くらいは敵の追撃を受け、脱糞しながら馬の鞍《くら》にしがみつくような目に遭うことになろうかと、易に占うとそんな不吉な卦《か》が出てしまい、これでも少々緊張しているのです」
それを聞いた劉備はむすっとしたが、張飛は、
「がははは、先生は心配性である。安心めされい。この張飛、決して先生をそんな恥ずかしい目に遭わせ申さぬ」
と胸を叩いた。しかし孔明のうらないはよく当たると一部では評判である。
先頭を騎行していた劉備が振り向いて、
「諸葛先生、そう言えば先生のご妻女は蔡瑁《さいぼう》の姪御にあたるわけですな。先生は蔡瑁にお会いになったことはあるのですか」
と訊《き》いた。黄氏と劉表の次男|劉j《りゆうそう》はいとこである。孔明が襄陽の権臣たちと知り合いであるかを尋ねたのである。孔明は、
「顔も知りません」
と素っ気なく答えた。
今回の襄陽上りは劉表の呼び出しなのだが、蔡瑁が間に挟まっていることは考えられる。
孫権が夏口に乱入し、江夏太守の黄祖が無惨に討たれたことは、速報として劉備にも届いていた。孫権軍は柴桑《さいそう》に駐屯して江夏を睨んでいるという。
「北は曹操、東は孫権か。厳しいことになった」
と劉備は嘆き、軍団幹部を集めて世間話をしていた。
途端に張飛の目がぎらりと光った。
「兄者、こんなところでガクガク話をしていてもらちがあかねえ。ちょいと行って、孫権小僧に死の灸を据えてやろうぜ」
と期待に胸を躍らせている。
「翼徳、無茶を言うな。われらはいま曹操のことで手一杯だ」
と趙雲が言えば、
「なんだとう、子竜、この腰抜けが。二人まとめてぶちのめせばいいだけのことだろうが」
と例によって掴み合いの乱闘にならんとしたとき、突如、襄陽からの使者がきた。なんでも、
「相談したいことがあるから襄陽まで来られたし」
という短い口上であった。
するとたまたまその場にいた孔明が、
「これはおそらく江夏の件についての協議に違いありません。さっそく参るがよかろうとぞんじます。むろんのことわたしも同行いたします」
と言った。博望坡の火事騒ぎで、新野にいると民衆に捕まりリンチにかけられかねない孔明である。それでしばらく襄陽に逃げることにしたのであろう。黄氏は関羽の家に預けてあるので身の危険はない。
劉備は馬を進めながら孔明に訊いた。
「劉景升はわれらを黄祖の弔い合戦に遣《や》るつもりかも知れん。先生、景升どのにはどう答えればよいだろうか」
と、あんたは今まで何を聞いていたのか、答えるも何も、いきなり劉表をぶっ殺してください、と言いたいところだが、そこは孔明、おさえて、
「劉景升に何か頼まれてものらりくらりと返事をして誤魔化してくださればよい。万事、わたしにお任せあれ」
と返事をした。
襄陽に到着していったん客舎に案内された。張飛は軍勢とともに城外で待つことになった。張飛が、
「おれも一緒についてゆくぞ。蔡瑁のブタ畜生がまた兄者の生命を狙うかも知れん。殺られる前に殺ってやる!」
と殺気を迸《ほとばし》らせたが、劉備が、
「はなから喧嘩腰のお前を連れて行く方がよほどまずかろう。ほら、小銭をやるから、そのへんで酒でも飲んでおれ」
「しかし兄者」
そこで孔明が、
「張将軍」
と呼び、耳もとに小声で何か呟いた。
「うぬ。なるほど」
と張飛は虎の笑いを浮かべた。
「よし、先生におまかせする。兄者に難癖をつける馬鹿がいたら、きっちりぐんしーしてぎゃふんと言わせてやってくれ」
と引き下がった。
劉備が、
「なんと言って飛弟をおとなしくさせたのか」
と不思議そうに尋ねた。孔明は爽やかに、
「いえ、いったん事あらば、城を猛火に包ませて合図しますから、すぐさま突撃して来てくれるようお願いします、楽しみに待っていてくださいね、と、お頼みしただけですよ」
とこたえた。なんだか知らないが、孔明が火と言えば、みんな安心納得信用するような雰囲気となっているらしい。おそらく趙雲が博望坡の焼き払いをひどく感動的に言いふらしたのであろう。張飛も認める放火の腕前ということか。
劉備と孔明は謁見の間に案内された。しばらくして、以前よりもさらに顔色が土気色になっている劉表が、杖をついてあらわれた。互いに拱手《きようしゆ》して拝礼した。まずは劉表が、このあいだの劉備暗殺未遂事件のわびをくどくどと述べたが、
「そんなことがありましたっけ? いやもう、そんな不粋なことはすっかり忘却の彼方にありました。ダーッハハハ」
と軽く受け流す。劉表は劉備の心の広さに感動した。
「こたび劉皇叔に来て頂いたのは、ほかでもない、既にお聞き及びであろうが、江夏が孫権に踏みにじられ黄祖が討ち取られてしまった。その仕返しをどうしようかということなのだ。劉皇叔には、なんとか出来ませぬか」
見るからに心身が衰えている劉表の言葉は弱気に満ちていた。劉備は、そんな相手に冷たくできない。
「黄祖は粗暴な性格で、よく人を用いることが出来ず、孫権に討たれたというより、味方の将兵にそむかれ自滅したのでしょう。報復などしたら、それこそ江東と大戦《おおいく》さとなりますぞ」
と黄祖を悪者にした。
「それよりも北の曹操の侵攻のほうが焦眉の急にござる」
劉表は重い溜息をついた。
「ああ、徐州《じよしゆう》の陶謙《とうけん》のことが身に重なるように思えてくる。わしは年を取ったし、このように病《やまい》がちである。そんなときに次々に国難が降りかかる。劉皇叔よ、どうか新野からこちらに移り住み、荊州のために力を貸してはもらえないだろうか。わしはもう長くない。わしが死んだ後はそのまま荊州のあるじとなってもらってもかまわぬ」
今日は衝立《ついたて》のかげに蔡瑁も蔡夫人もいない。そのせいか劉表はやけくそのような言を吐いてしまった。
孔明はそれを聞いて、内心、大チャーンス! と喝采したろうが、劉備の返事は不可解きわまりないものであった。
「何を申されるのか。それがしのような愚人が、どうしてそのような大任を果たせましょうか。ふざけてはいけませんぞ、天下に男一匹、この玄徳は……」
とさらに腐れ言を続けようとしたので、孔明は思いきり目配せして止めねばならなかった。劉備は、ハッとしたように、
「景升どのには、まあ、もっとよくお考えになられたほうがよい」
と言って、そそくさと退席した。
客舎に戻ると孔明が、
「せっかく劉景升が荊州を譲ると言ったのに、どうして断ったりするのです」
と、責めるように言った。劉表が国譲りを言い出したのだから、殺して奪い取る手間がはぶけるし、劉備の声望も傷付かない。いいことずくめではないか。すると劉備は、
「劉景升には拾って貰ったうえに数々の恩義がある。弱みにつけ込んで国を取りあげるようなことは、この劉備、絶対にできぬ!」
といちおうカッコつけて言った。孔明は、呆れ果てました、といった口調で、
「ああ、殿はまことに仁慈の君であらせられる」
と言ったわけだが、
「あんたはウス馬鹿ですか!」
という意味であることは言うまでもない。
「だってなあ、あそこですぐうんと言うのでは飢えた野良犬のようでさもしいではないか。先生、そう怒るな。劉景升はあのように落ちており、もはや荊州はわしがもらったも同然! こういうことは二度辞儀して三度目に受けるというのがカタチなのであろう。なに、また言ってくるって。先生だって、何か頼まれてものらりくらりと返事せよとおっしゃったではないか」
と劉備はにやにやとお気楽だ。
「くっ」
孔明は、
(好機を逃がしたか。わたしが割り込んででも、無理矢理にでも、あそこで証文か何かをとるべきだった)
とかなり悔いている。劉表があのような丸投げをかましてくるとは予想していなかったし、劉備の脳天気さには、さすがの孔明も不意をつかれた形であった。
こうして劉備は荊州の平和な政権委譲を失ったのであった。
「わたしがついていながらなんという不覚」
後々千何百年にわたって失態を嘲笑されるであろう、と、孔明はこの時のことを生涯忘れず、臥薪嘗胆《がしんしようたん》の故事の如く、ときどき思い出しては闘志をかき立てるのに使った、とわたしは思う。
ともあれ、劉表が劉備の隣にいた孔明のことをどう思ったかは分からないが、この時が孔明の表舞台への実質デビューとなったわけであり、いきなりの失策、締まらないことこの上ない。
(こんな人に天下を取らせねばならないとしたら、それこそ大変な手間暇苦労道である)
孔明はこの際だからと劉備にきつくお説教しようと思い、白羽扇を取りだしてきっとまなじりを決した。
ところがそのときふいに劉g《りゆうき》が訪れた。孔明、舌打ちしたい気分であった。
「やあ、公子ではござらぬか」
劉備はなにやら急にご機嫌が斜めになった孔明から逃れられて喜び、劉gを招じ入れた。
劉表の長男劉g、こやつもまた困った男で、扉を閉めるやさめざめと泣き始めた。もう見るたびに顔を蒼くして泣いているという、そんなイメージがある。蔡瑁のヒットリストの筆頭におり、襄陽では劉gを助けることは死を意味したから、誰も近寄らなくなったばかりか、家臣も一緒になって寄ってたかってイジメていたという可哀想すぎる境遇ではある(とはいえこの年、三十四歳くらいのはずだ)。
劉gはたくさんの貢ぎ物を積み、劉備の前に跪《ひざまず》き、拝礼しながら言った。
「わたしは継母(蔡夫人)に憎まれて、今日、明日の生命も知れぬ身です。どうか哀れとおぼしめし、叔父上のお情けをもってお救いくださりませ」
劉gは劉備に会うたびにこの件で人生相談を持ちかけていた。劉備は、またかよ、と思いながらも慈愛に満ちた顔つきで、
「なるほどさてこそ辛いことであろう。しかしそれは甥御どのの家の事情であり、それがし如きが口を出すことではござらぬ」
と言った。孔明を見やると、さっきと違ってなにやら嬉しそうに薄笑いを浮かべている。
「そちらは臥竜先生、孔明どのとお見受けつかまつります。今言ったとおりの窮状なのでございます。なにとぞ孔明どの、お力添えを、願えませぬか」
と劉gは涙に濡れた顔を孔明に向けた。
「それは一家の私事に属すること。他人がとやかく言うべきものではありません」
と孔明も劉備と同様のことを、しかし木星の衛星ガニメデの氷冠のような冷たさで言い放った。
ただ劉備は前に会ったとき調子に乗って、
「わが軍団には不可能を可能にし、解けぬ謎などひとつもない天下一の怪盗にして名探偵、臥竜先生孔明がおられる。城下に参ったおりには紹介してあげますから、相談してみてはいかがか」
と約束してしまっていた手前、知らん顔もできない。劉備は劉gを送り出すとき、
「明日にでもあらためてそちらに諸葛先生をゆかせるゆえ、これこれしかじかの罠にはめなされ」
とひそひそと耳に囁いた。劉gの顔がぱっと輝いたのを孔明は見逃さなかった。
『三國志』によれば、
「劉gは諸葛亮の才能をきわめて高く買っていた。いつも諸葛亮を捕まえては自己の身の安全を図る策をねだったが、諸葛亮はそのたびにきっぱりと拒否して相談に乗ろうとしなかった。そこである日、劉gは一計を案じた……」
というふうな流れである。だが、自分よりも七歳も年下の、隆中浪人諸葛亮に、骨肉のテロルの相談を持ちかけ泣きつくというのは不自然過ぎるというものだ。
孔明にしても襄陽の殺され確率ナンバー1の人物、かつ、いじめられ者の劉gを徹底して避けるのがこの場合の処世術だったわけだ。もともと孔明は劉gといわず劉表一族が好きではなかった。だが、心配は要らない。この部分は「諸葛亮伝」の中でもけっこう嘘っぱちだと疑われている箇所である。『三國志』といい『三国志』といい、孔明にまつわる虚実の怪しさは弥縫《びほう》し切れぬ天衣無縫である(?)。
『三国志演義』では劉gに同情した劉備が哀れに思い、やけに冷たい孔明が相談に応じざるを得なくなるような計略を授けてやったとしている。劉備がそう仕向けてあげた、というキラリと光る男の優しさが『三国志』的にはかなり大切なのだろう。だが、変なジレンマも発生する。ここで孔明、幼稚な罠にうかうかと嵌《はま》るような間抜けでは、そもそも劉備にスカウトされてはいまいし、この世界では生きられない。しかしあるじ劉備の計略を即看破し、赤っ恥をかかせて恨まれたりしては、この世界で生きる資格がない。
ということで、破り甲斐がまったくないというか、ふと人の世の無常を観じさせるような計略だったから、孔明も乗ってあげたのであろう。劉gを助けると自動的に蔡瑁のターゲットにされてしまうのだが、そんなことは別にたいしたことではない。
翌朝、起きると劉備が腹が痛いと泣いていた。
「夜半から下痢が止まらんのだ。備、ぽんぽんが痛くてたまらぬ。うう、昨夜の料理に毒でも盛られたか」
劉備は嘘のつけない仁義の人であるから(ほんとかよ)、やむなくをつかねばならぬとき無意識に幼児言葉を発してしまうんだろう、たぶん。
「わたしはなんともありませんが」
と孔明は冷たく言った。劉備は腹を押さえて牀《しよう》の上をのたうち回り、定期的に厠《かわや》に走っていく。さすがに芝居上手であり、普通の者なら騙されるであろう迫真の演技である。
しかし医者を呼べとも言わず、
「昨日は劉公子にたくさん贈り物をもらったから、今日はなんとしても返礼にいかねばならんのだ」
と苦しげに言う。
「頼む先生っ、わしの代わりに行ってくれ。この玄徳をモノを貰ってもお礼もしない泥棒野郎と笑われぬようにしてくださらんか」
孔明は苦しむ劉備を冷然と見下ろし、
「わかりました。わたしが参りましょう。しかし殿、これは貸しですよ」
と言った。
猿芝居でも主君の命である。孔明は馬にまたがり劉gの館に向かった。
孔明が訪《おとな》うと劉gが下男を突き飛ばして出てきて、
「おう、孔明どの。お待ちしておりましたっ。さ、さ、こちらへ奥へ」
と招じ入れた。劉gは下にもおかぬ気配りで、孔明を上座に拝して上茶をふるまった。劉gは溺れる者は臥竜にも縋《すが》るという、生命がかかった一生懸命さで孔明をもてなすが、孔明は適当に挨拶し、あるじ劉備が進物のお礼を申しておりましたと言うと、
「ではこのへんで」
ともう辞去しようとした。
すると劉gは孔明の袖を取って引き止め、また坐らせた。
「聞いて下さい」
と、決死の表情で言うのであった。
「わたしは継母にうとまれ、明日をも知れぬ生命にございます。どうか孔明どの、曲げて一言ご助言をいただきたい」
孔明は冷たく、
「わたしは客として身を寄せている者にすぎませぬ。よそ様の家の事情に立ち入ることはできません。それに、万が一、こんなことが外に漏れればわたしとてただでは済みません」
と言い捨てる。孔明がまた立って別れを告げようとすると、
「せっかく来ていただき、まだなんのもてなしもしておりません。いますこしおとどまり下さい」
と劉gも執拗である。
孔明をさらに奥の部屋に連れ込んで、酒と肴を出した。孔明はすごく嫌そうな顔をして、一献二献を付き合った。
またもや劉gが、
「わたしは継母にうとまれ、今日中に殺されるかも分からぬ身の上なのです。どうすればよいのか、どうかお教え願いたい」
と同じ問いを繰り返す。孔明は、
(もう質問からして答えが出ているではないか。その、継母に好かれたいわけではないのだろう。殺られる前に殺ればよいだけのことだろうに)
と思っている。劉gがそうしないことのほうが不可解であり、
「どうしてしないの、ボク?」
とこちらから質問したいくらいだ。
こういう優柔不断な男には、ずばり率直で『三国志』らしい正しいアドバイス、
「蔡瑁と蔡夫人と、必要なら劉jも、ただちに葬り去りなさい」
と教えてやっても、その場で顔面蒼白となり、気絶してしまうであろう。
家を惑わす奸臣《かんしん》を除くため、非道|血塗《ちまみ》れの殺人を犯しても、英雄が断じてこれを行うなら、家臣たちはかえって心強く、見直してついて来るものである。後世の史家からも果断な処置だと褒められるかもしれない。劉gの目の前にはそんな一発逆転のチャンスが転がっているのだが、拾おうという考えすら起こさないのだから、『三国志』にまったく適《む》いておらず、継母に死ぬほど脅かされるのも仕方がないといえる。
孔明は、こんな依頼心の強い甘ちゃんのことなど知ったことではないと、
「さっきも申し上げたが、それはわたしが口を挟むことではありません」
とぴしりと言ってやった。そしてまた挨拶して帰ろうとする。
劉gも必死である。おろおろと孔明を止める。
「わかりました。もうそのことは申しませんから、お願いいたします。まだ帰らないでください」
仕方なく孔明は座り直した。
(このような阿呆らしい対応をしていたことが知れたら、先生にあざ笑われてしまおうな)
とちょっと自嘲した。|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公《ほうとくこう》なら、
「ウジウジと気色が悪い」
とばかりにいきなり、カーッ、と気合を入れながら劉gのどてっ腹に崩拳《ほうけん》(中華風中段直突き)を叩き込むに違いない(死ぬぞ)。想像して孔明はくすりと笑った。
孔明が今日初めて微笑を見せたので、劉gは意をつよくし、
「そうそう。わたしはいささか珍しい古書を持っております。それを孔明どのにお目にかけたい。とても面白そうな本なのですが、わたしにはよく読めないのです」
と誘った。
「あちらに置いてあります」
と古書を餌にじりじりと孔明を小さな高殿に案内した。二階の物置みたいなところである。
『三國志』では裏庭にある小楼とあり、梯子《はしご》をかけてのぼる、望楼のようなものである。ここに酒食の用意があって、庭を見渡しながら二人で飲み食いしていたという感じである。
高殿の中を見ても書物などどこにもなかった。孔明が、
「古書とはいずれに」
と訊くと、劉gはぶわっと涙を迸《ほとばし》らせながら平伏した。
「わたしは継母にうとんじられ、もう一時間以内に殺されてもおかしくありません。孔明どのはこんなわたしをお見棄てになるのか。どうか、一言、お教えを賜りたい」
孔明はかっと顔色を変えて立ち上がり、すぐさま下に降りようとしたが、なんと段梯子が取り払われていた。
孔明、公子に地上の密室に監禁さる!
おそるべき事態であった(劉gの身が危険という意味で)。
劉gは、
「わたしが教えを乞おうとするのに、孔明どのは外に漏れるのを恐れてしぶるご様子でありました。ゆえに非礼を承知でここにお連れいたしたのです。ここならば上は天に届かず、下は地に届きません。孔明どのの口から出るお言葉はわたしの耳に入るだけにございます。どうか、どうか、お教えを、伏してお願いいたします」
と言った。天知らず地知らず人ぞ知らず、というか、二人だけのヒミツなんだからね、ダーリン、と言いたいらしい。それでも孔明、
「古人いわく『疎《たにん》は親《みうち》を間《へだ》てず』と申します。尿漏れをおそれているのではなく、わたしが公子のために策を立てるのは筋に合わぬと申し上げているのです」
と、ひたすらつれない。
ついにキレた劉gは剣を抜き、
「どうあってもお救いいただけぬか。ならばわたしは継母に殺される前に、この場で自分で自分を殺るしかない!」
と、自殺するには果断なところを見せて、自刎《じふん》すべく首筋に刃をあてたのであった。
孔明は、
(勝手に死んでくれ)
と爽やかに思っているが、この完全な密室で自殺されては、
「こういう密室トリックがありまする」
とか、どう言い繕おうとほぼ確実に孔明が凶悪な殺人犯にされてしまう。
「臥竜、あわれな劉gを屋根裏に連れ込み、自殺に見せかけて斬殺す」
と、またもや臥竜孔明の悪評が姦《かしま》しくなろう。しょうがねえなあ、というところ。
しかし、わたしももういやで仕方がないんだが、劉gが他人の耳目《じもく》を恐れて一生懸命に工夫して作った楼上の密室で交わされた会話が、何故に『三國志』にはっきり明記されているのか、合理的な説明ができる責任者がいたら教えて欲しい。
「承祚《しようそ》(陳寿の字《あざな》)を呼んでこい!」
と言いたくてたまらないが、とっくの昔に死んでいる。証拠は湮滅《いんめつ》、完全不可能犯罪だ。
劉gが孔明を罠に嵌め、しかも怒らせるという生涯最大の危険を冒してまでつくった空中の密室で語られた密談が、間抜けにも史書に大書されているというのでは、滑稽《こつけい》すぎて、劉gがあまりにかわいそうというもので、これはもうイジメに等しい。孔明が黄氏が発明した盗聴器を装着していたとか、それとも孔明がバラして劉表一族の恥を大公開したとか、そういうあり得ない仮定話をつくらねばどうしようもない。
──漏れまくる密談の怪
そんな捏造の疑いが濃すぎる話を素直に信じろと言われても困ってしまう。モサド的には防諜的配慮が皆無というより、パンパースを穿《は》かせたほうがいいんじゃないのかという、これが中国史書の恐るべき構想の死角、権力の墓穴点なのだが、以前に「草廬対《そうろたい》」の秘密のところでも述べたが、後世の史家は、それは言わない約束の野暮、歴史が成り立たなくなるから、可能な限り問題とする必要はない、とするのである。
むろん史書の重箱の隅をつつくように、ふざけた矛盾や馬鹿げた誤りを批判する文人も昔からおり、清代になると銭大マ《せんたいきん》、王鳴盛《おうめいせい》、趙翼《ちようよく》らの考証学的研究が『三國志』の暗闇を照らし、言わない約束をぶった斬ったりするようになる。
また中国では儒者たるもの確固たる歴史観を持つべしというのか、思想家が歴史家を兼ねることも多く、朱子学の朱子(朱熹《しゆき》)や陽明学の李卓吾《りたくご》(李贄《りし》)らが有名だが、それぞれ思想的に偏向した歴史を書いたりしており、それはそれで面白いのだが、つまりは事実や公正さなどは後回しで、自分好みの解釈がより重視されるのである。政府が怒らない限りは(たまに発禁処分を喰らったりするのだが)なんでもありだ。自説に拘《こだわ》ってのあまり、孔明がアルティメット魔法軍師であったと書いていてもまったく問題ない。ならば『三國志』と『三国志演義』のどこが違うというのか? 科学的とはとうてい言えないものなのだが、歴史というものがもともとそういう性質を持っているのである。
はっきり言っておけば、歴史とヒストリー、レコードは別なものである。
つまり時の政府公認の史官や、政府に殺されない程度の在野の史家が文字にしたことが即ち史、「歴史」的真実となるのであり、実際の史実がどうであろうとあまり関係がないのである。「歴史」という言葉自体に、最初からある種の指向性のある観念が含まれているのだ。
「歴史をそう簡単に信じてはいけない」
という教訓を、他ならぬ中国の史家が非直接的に警告しているということなのだ。最初の歴史研究者ともいえる孔子は『論語』に、
『文、質に勝れば則ち史なり』
と云う。ここでいう文は、文飾という意味である。史官とはもともと文辞を飾りつける者であった。
「歴史を鑑《かがみ》とする」
「正しい歴史認識を持たぬ輩とは交際しない」
というような言い様に潜む危険な暗黒面を知っておくべきであろう。とくに為政者が言うときには。
そういう、これ即ち思想的に作為的な宇宙(上下左右前後の空間プラス時間)の中であるから、孔明のような存在が棲息遊泳することができるのである。朱熹《しゆき》などは孔明好きがほとんど病気に近く、劉備軍団が為した悪、例を挙げれば道義上ほめられたものではない益州騙し奪《ど》りの件などは、孔明の策ではなく、劉備が自分で考えてやったことに違いないとまで述べて、歴史捏造している。孔明はひたすら庇《かば》われてその清廉潔白さは安泰というわけだ。
たとえばこのとき孔明が、劉gのせっぱ詰まった身の上相談に対して、
「残酷な天使のように神話になればいいではありませんか」
と爽やかな表情で答えたと書かれていても、誠実な研究者であればあるほど否定も肯定もすることが出来ないのである。
「わたしは継母に呪われて、命|旦夕《たんせき》に迫っております。どうすればよいのでしょう」
と劉gが泣きすがって問うたのに、
「人は愛をつむぎながら歴史をつくるのです。もしもふたり逢えたことに意味があるなら、だけどいつか気付くでしょうその背中には、遥か未来めざすための羽根があるのです。ほとばしる熱いパトスで、この宇宙《そら》を抱いて輝く、誰よりも光を放つ神話になればよろしいのです」
悲しみがそしてはじまるのです、と、わけの分からない助言を与えた可能性を、良心的な研究者であればあるほど否定できないのだ(ちなみに、自由を知るためのバイブルはそう孔明的には『老子』『荘子』や『易経』である)。
「孔明どの!」
「ふ。じきにあなただけが夢の使者に呼ばれる朝が参ります」
「わかりました。お言葉に従います」
と劉gがなんとなく納得すればそれでいいわけだから。多元宇宙的にも。
とにかく『三国志演義』は小説だから仕方がないとしても、『三國志』にはこういう真偽虚実を疑われるような記述がたくさんあり、これをもとにして立派な歴史小説を書こうとする作家のいたいけな瞳を、月あかりが映してるわたしの愛の揺りかごから、ずっと眠ってる孔明がその夢に目覚めたとき、思い出を裏切るなら胸のドアを叩いて、意地悪く冷笑するのである。女神なんてなれないままでいいから、もう、さっさと世界中の時を止めて閉じこめてもらいたいものである。
まあ嘘くさい定説では、いちおう孔明は、
「公子は申生《しんせい》、重耳《ちようじ》の故事を知らずや」
とヒントを出したということになっている。そして、
「申生は国内にありて危うく、重耳は国外にありて安かりし」
と言った。これは『春秋左氏伝』好きな関羽にでも講釈させると凄い話に再構築されるであろう(そばにいた人が八つ当たりに殴り殺されること必至)、『史記』にも有名な話である。
紀元前七世紀の頃、晋《しん》の献《けん》公には申生、重耳、奚斉《けいせい》の三人の息子がいた。ときに献公は驪姫《りき》という妖艶な女を寵愛《ちようあい》しており、奚斉は驪姫が産んだ子である。驪姫は奚斉を晋の国王にすべく謀略をめぐらせ、申生、重耳に謀叛の罪をきせたのである。このときの驪姫の淫略はいかにも妖女! 女っていやだなあと思わせる名作なので、暇な人は読んでみることをおすすめする。申生、重耳の身に危険が迫ったとき、側近は亡命を勧めたが、申生は、
「悪名をこうむって逃げるより、潔く死なん」
と言って自殺した。
重耳は危ないところで、なんとか他国に逃げ去ることが出来た。国元が放った殺し屋が行く先々で脅かしたため、重耳は少数の忠臣とともに流浪すること十九年、六十二歳で晋国に帰還がかない、かの名君の誉《ほま》れ高い文《ぶん》公となるのである。読書人なら誰でも知っている貴種流離譚であった。
つまり孔明は劉gに暗に、
「重耳の道をとりなさい」
と助言したのである。襄陽にいれば次の瞬間にも犬のように殺されるのが明らかなら、どこか遠くに離れるにしくはない。
「亡命するといってもどこへゆけばいいのですか」
孔明は、白羽扇を取り出すと、すっと右から左に動かした。
「まことに幸いにあまりにも都合の良いことに、先だって江夏太守の黄祖が殺されております。公子は江夏太守となって赴任すればよい。お父上にそう願い出なさい。劉皇叔からも口添えして、うまくいくようはからいます」
他人の不幸は策の端である。このへんには孔明のどす黒い計算が入っていよう。
「しかし孔明どの、江夏の兵は孫権に殲滅《せんめつ》され、民は連れて行かれてしまっており、わたしは丸腰でございます」
行くとなったら、蔡瑁は劉gに家臣兵団を付けることを妨害するであろう。すると孔明、ふところからアドバイス入りの巾着袋、通称軍師袋を取り出して、劉gに渡した。
「案じることはありません。まずはみずからの力で黄祖の遺臣を呼び集めるのです。その後、どうにもならぬ困ったことが起きたなら、その袋をおあけなさいますよう」
軍師袋には意味不明の謎かけのような文章ながら、ごく一部の人には九死に一生を得たと有り難がられる秘策が入っているといわれている。
劉gは喜び拝し、軍師袋をふところに隠したのであった。
しかし孔明、劉gを助けるつもりはなかったはずなのに、いつの間に軍師袋を用意したのか。やはり分からぬ男である。
劉gは大声で使用人を呼んで、梯子をかけ直させた。ほぼ十刻(二時間半)にわたる脅迫監禁であった。劉gは何度も謝罪し、何度も謝辞を述べ、孔明を送り出したのであった。
翌日、劉gは劉表に江夏太守着任のことを申し出た。孔明にあらかじめ言われていた劉備は劉表に相談を受けて、
「江夏は重要な拠点であり、公子がゆくと申されるのなら、他人をやるよりもよほどよろしい。これでそれがしも西北方面の防御に専念できるというものです」
と大いに賛意を表した。
かくて劉gの江夏赴任が決定した。劉表も劉gの身が危ないことは知っていたのであり、いくらか頭を痛めていたところだった。嫡男の太守赴任というのは外聞がいいものではないが、今はこれが妙案だと思ったのである。
ところはいつもの隆中臥竜岡《りようちゆうがりようこう》。孔明は日課の站《たん》の功夫《クンフー》をしたり、書見したり、著述したり、たまには鍬《くわ》を手にしたりもするが、たいていは昼寝を決め込んでいる。
襄陽行きのような、すわこれから忙しくなるやも知れん、というようなこともあったわけだが、その後が続かない。
今日も孔明は草堂でぼんやりと坐ったまま午睡の甘きにひたっている。春眠暁を覚えずの時候は過ぎているが、孔明は春夏秋冬いつでも眠く、さすればすなわち臥竜! な日々である。
そんな日に限って孔明の姉が来ており、黄氏や習氏とぺちゃくちゃ世間話に花を咲かせている。
孔明が昼寝に飽きて、ぶらぶらと、諸葛均が額に汗して鍬鋤《くわすき》をふるっているのを眺めていると、孔明の姉が、
「亮」
と呼んだ。
「ああ、姉上、お越しでしたか」
「あんたの淹《い》れるお茶はなぜかおいしいから、ちょっと淹れてきなさい」
と、ほとんどお局《つぼね》がお茶くみOLに命じるような扱い、言い方である。黄氏が、
「そんなこと。わたしが淹れてまいりますから」
と言ったが、
「いいんです。怠け者のでくのぼうにはちょうどいい仕事です。黄氏さんも、亮をあんまり甘やかしてはいけませんよ」
孔明は劉備のところにあるまあ上等な茶葉をちょろまかして持ち帰っており、以前とは段違いのおいしいお茶が常備されている。
孔明の姉にすれば、いつ来ても在宅して昼寝を決め込んでいる孔明は、劉備に取り立てられたというのに、ほとんど仕事らしい仕事をしていない、とんだ怠け者としか思えない。
孔明は、芳醇なゴールドの薫《かお》り高いお茶を運んできた。
「この前は黄氏さんと新野《しんや》に行ってきたそうじゃないの。そのお話を聞いていたところです」
孔明は苦虫を噛みつぶしたような顔である。
「ちょっとここに坐りなさい」
姉にだけは逆らえない孔明である。叱られる小僧のように坐るしかない。
「聞けば、火を付けたとか。いろいろと大変なことになっているそうではありませんか。なのにどうしてあんたはそう暢気《のんき》にさぼっているんです。こんなことでは劉将軍に見放されますよ」
と、いちおう愛弟を心配しての小言である。
孔明はやりきれぬという顔をして、
「この孔明、べつに好きで怠慢しているわけではありません。只今、わたしは無用の者なのです。もう、ほんとうに、やってられないという気持ちになるときがあります」
と言った。これすなわち劉備が、迫り来る危機に懸命の思案に暮れている、かと思えば、覚悟があるのかどうかすら疑われる、へらへらとしたマイペースな日常をおくっているからだ。
「劉皇叔のもとを去ろうかと、何度思ったかしれません」
と溜息をついた。劉備の不気味とすら言えるお気楽さを、孔明の姉に話しても、とうてい理解してくれないであろう。
「許しません、と言いたいところだけれど、亮がほかにやりたいことがあるのなら、わたしだってもうとめだてはしません。人間、向き不向きというものがありますからね」
と姉が言った。すると孔明、
「ふっ。久しぶりに姉上に愚痴をこぼしてしまったこの愚弟をお笑い下さい。ですが、このわたしに向き不向きとは如何。やっていられないことを、敢えてやるということも、臥竜の面目でありましょう」
と爽やかに言った。
たとえば孔明が官舎にいくと、珍しく劉備が坐ってごそごそしていた。何をしているのかと見ると、帽子を編むことに熱中していた。|※[#「(未+攵)」/厂/牛」、unicode729b]牛《りぎゆう》の尾を贈ってくれた人がいて、むかし筵《むしろ》わらじを織って暮らしていた劉備の器用な手すさび、ガンプラを組み立てる子供のように楽しそうである。
孔明はさっと顔色を変えて言ってみた。
「殿はこの多難のおりに、遠大な志をわすれ、こんなことにうつつをぬかしておいでなのですか」
「ひまだったので、ちと憂さ晴らしをしていたのでござる。編み上がったら先生に進呈しよう」
ととぼけたことを言う。ひまなはずがなかろう。孔明はどうでもよくなってきたが、
「殿は劉景升を曹公とくらべてどう思われますか」
と訊いた。
「とても及ばんな」
「では、殿ご自身と曹公をくらべてどう思われますか」
「とうてい絶対に及ばない」
と平気で言う。
「その曹公が大挙して押し寄せようとしているのに、わが方の防備は貧弱この上なく、どのようにして迎え撃つおつもりか」
「わしもそのことでかねて頭を悩ましておるのだが、ぜんぜんよい考えが浮かばんのだ。せっかく悩み事を忘れて気を晴らしていたというのに、嫌なことを思い出させる」
劉備、帽子づくりに現実逃避をしていたわけだ。その重大緊迫さにおいて比較にもならないが、試験の前日だというのにコンピュータゲームに没頭する高校生のようなものであろう。
「しかし、諸葛先生がこの玄徳の味方となってくれたのであり、もはやわしがそんな心配をすることもなくなったわけである。先生、万事、お任せするから曹公の度肝を抜く必殺の奇策を頼みますぞ」
という他人任せの極楽|蜻蛉《とんぼ》である。孔明の溜息ひとつがすべてを語って余りなかった。
また別の日、劉備軍団の定例会議(のようなもの)で、対曹操戦略が話し合われていた。
「間者の諜報によれば曹公の軍勢はただ事ではない規模であるという。さてどうしたものか」
と、もう何回も議題にしている件を(さしあたり議するべき問題がこれ以外にないからだが)劉備が孔明に尋ねた。孔明は、
「わたし思いまするに、というより、兵法を知らないど素人でも、新野は小さな県であり、長く留まれるところではないと分かるでしょう」
と言った。新野はぽーんと放り出したように襄陽から離れすぎている。比べれば樊城《はんじよう》は襄陽の目と鼻の先にあり、情報伝達も速く、巧みな連携が期待できる。ここは劉表とその幕僚たちに工作して、劉備軍団を樊城に移動させるべきであろう。
そういう前戦術的なことを言ってから、
「もう口が腐れてしまうほどに同じことを言上つかまつっておりますが、最新の情報では劉景升は牀《しよう》を離れられぬほど病状悪化し、ほとんど危篤であるよし。劉景升をほんのちょっぴり早くあの世に送ってしまうことです。急ぎ荊州をわがものとし、襄陽、江陵の二大拠点をもって対抗すれば、曹公の軍勢に一泡吹かせる策も具体化するというものです」
と言った。孔明の珍しく分かりやすい献策に、その場にいた軍団幹部たちも、心の中どころか全身をもって頷いた。
しかし、皆が賛成すると乗り気が減ってしまうへそ曲がり、魔性の勘で生きている劉備は、
「それはまことにもって仰せの通りではある。だが、わしも口が腐るほど答えておるが、そのような没義道《もぎどう》はとうていこの玄徳にできようことではない!」
またも芝居がかった名セリフ、
「たといこの身を失おうとも、それがしは、男として義にそむくことができぬのだ!」
と、目尻に涙を光らせた。劉備軍団幹部は、それで少しはじーんとなるのだが、孔明は、もうお好きなように身を失って下さい、と言いたいところをぐっと我慢して、
「まだ間はあります。改めて相談いたしましょう」
と余地を残すように言った。
孔明があとで糜竺を捕まえて、
「わが君にはなにか劉景升を殺せない深いわけでもおありなのですか」
と訊いてみると、糜竺もお手上げの表情で、
「さっぱりわからない」
と言うし、関羽は、
「長兄は義に生きる男である」
と言うのみ。張飛に至っては、
「げへへへ。荊州の兵なぞいれんでも、このおれ一人で曹操の万軍の兵を地獄の底に叩き落としてやれるわい」
と言うんだから、もうたまらない。
こういう調子だから、孔明が、姉に、
「もうやってられません」
と泣き言めいてこぼすのも、少しは分かってあげねばならないだろう。
孔明は、
(わが君が痴呆症だと仮定して、荊州を奪《と》らずして曹公を迎撃する策を、真剣に考えてみることにしよう)
と、頭の体操でもするしかなかった。するとそれはそれで面白くなってきたのだが、
(いかんな。……あり得る)
と、臥竜の脳裏に恥ずかしく情けない予感が走ったのであった。
孔明は、これが最後と覚悟を固めて劉備に面会した。
「時は迫っております。もうこれはわたしの命令だとお思いくだされよ。お聞きとどけいただけなければ、即座にここを去り、山中に隠遁するつもりです」
という厳しさで、荊州乗っ取り策を、何度目になるのかぶつけてみた。
劉備は、弱ったなという顔をして、猿のような長い腕で頭の反対側を掻《か》きながら、訥々《とつとつ》と、しみじみとしたいい顔で言った。
「先生のおっしゃることは、この玄徳、よくわかるのだ。だが、そうだな、わしの切なる大目標が漢室復興であることは分かっておられよう。漢室の立て直しこそがわしの天命なのだ。それでだが、わしの頭ではうまく理をもっての説明ができんのだが、劉景升を攻め殺すというのはなんか違うんだよ。われらが兵を率いて戦うに、それが直接、漢室の御為になるのなら、わしもぜんぜん迷いなく、戦うことができるのだが、劉景升は漢室の連枝であって、仇敵というわけではないではないか。曹操と戦うのは、宿敵ということもあるが、あやつを倒し弱らせることは、今上《きんじよう》(献帝)の朝廷にとって御為になる。しかし、劉景升を殺しても、今上が楽になるということもなく、またお喜びもすまい。いや、むろん先生のおっしゃる通り、劉景升を殺して荊州を獲ることが、曹操を大いに困らせることになり、より大きく今上の御為になる、という理屈は、わかるんだよ。だが、やっぱりどう考えても劉景升を攻めるのは、どうも違うという気がしてならんのだ」
と、魔性の心情を吐露した。
「この孔明が、殿に黙って劉景升を独断で殺したという悪名をかぶってもよいのです。それでも気が進みませんか」
劉備は即座に、
「うん」
と言った。
「でも曹公とはなんとしても戦うのですね」
「うん」
孔明は表情をあらためて言った。
「わかりました。この謀《はかりごと》のことはもう二度と申し上げますまい。ただ殿、そうすると荊北の民にかかる迷惑度が大いに変わってまいりますぞ」
「それはどういうことかな」
「すごく分かりやすく申しますと、もし殿が荊州を獲って曹公を迎え撃つなら、民の死傷は十人のうち一人くらいですみましょう。しかしながら、今のままで対抗せんとするなら、民は十人のうち六人は死傷することにあいなる。大きな呪いの差が出るでしょう。それはいかがお思いですか」
すると劉備は衷心《ちゆうしん》よりの悲痛な表情を浮かべた。
「民草《たみくさ》たちはわしのいのちである! それは忍びぬ。忍びなさすぎる! どうか先生のお力で、十人のうち四人、いや三人くらいに出来ぬものか。とにかく減らしてくれぬか、先生」
「ああ、殿はまことに仁慈の君であらせられる」
と孔明は嘆息した。
そりゃ戦争するのなら必ず民衆兵士に死人は出るのであり、避けられない道理である。だが『三国志』、罪とはわかっちゃいるけれど、戦いをやめるわけにはいかない。無戦降伏などと言い出したら、非国民呼ばわりされかねない世界である。
人の命をなんだと思っているんだ、という話をしているわけだが、劉備のキラリと光る男の優しさには一点の曇りもないのである。しかし民の被害が減るかも知れぬとしても劉表を殺して奪うのは忍びない。そして民を少しでも多く助けたいという思いもまた真実である。たとえ人に首をかしげられようとも、劉備の純真な矛盾と偽善には偽りはないのである。これで生きてきたのなら劉備の半生が連続敗滅|死屍累々《ししるいるい》となったのも、魔性の男の仁慈がしからしむる道理というほかない。
劉備玄徳という人間の、魔性の勘が湧き出ずる迷惑きわまる芯根が、まだほんの少しだが、見えたような気がした。
「先生、去らずにいてくれるのであろうか」
「殿がこんな悪質な陰謀人間を、お見捨てでないというのなら」
「先生! 先生は決して悪人ではない。悪魔人間はこのわしだ!」
わしはデビルマンだ、と劉備の目から涙がつつつと垂れ、孔明もまた白羽扇で目許を隠さねばならなかった。
故司馬遼太郎は『街道をゆく』で劉備のことを、
「賭け金なしで競馬場にやってきている競馬きちがいとかわらない」
とするどい司馬史観をもって批判している。劉備とは、タネ銭のもとでを劉表から取りあげられる機会があったのに、そういうことはせず、常に一文無しで賭場に通う、ギャンブルの魔に取り憑かれた男であった。
胴元からすればまったくとんでもない野郎であり、負けたときには身ぐるみ剥《は》いだ上、殴る蹴るして死ぬほど懲らしめるしかないのだが、それでも怪我が治るとまた性懲りもなくひょっこり顔を出すのである(で、またボロ負けして、胴元が怒って……以下繰り返し)。救いようのない社会人失格のギャンブル狂と言われても仕方がない。
後々、益州強奪作戦のさいにも、こんな劉備の魔性の人情が、劉備軍団の足を引っ張りまくることになるのであろうが、今は考えぬとしよう。
さて、北に曹操、東に孫権、迫る危機もなんのその、策の授け甲斐がまったくないあるじ劉備になかばふて腐れる臥竜孔明。かえって公子劉gに嫌々策を献じて大喜びされたは心境複雑なり。かくなる上は手段を選ばぬ、と言いたいところだが、果たしてモノになるのか、これまた劉備のやる気次第の苦々しさ。どうする孔明、というか、どうにかしてくれというところ。
それは次回で。
[#改ページ]
孔明、今度は新野を燃やす
やってられないというわりには、孔明は微妙に活躍はしており、たまに孔明が劉備のところに行くと何かが起きているという、予知能力じみた話もある。
曹操が今更ながら劉備を暗殺しようと思いたち、たぶん凄腕の工作員を送り込んだことがある。
きわめて嘘だと思うし、どうせ作り話に決まっている(と裴松之《はいしようし》も疑っている)。この時期のことかどうかはっきりとしないのだが、さして問題はなく、どうにでもして欲しい。
前門の曹操、後門の孫権と、頭痛の種ばかりで、なにかと窮地にある劉備は魔性の人を見る目も曇っていたらしく、訪ねてきた頭のよさげな男を部屋に引き入れて話を聞いていた。目の曇りではなく、たんにその男がかっこよかっただけかもしれない。曹操なら劉備の好みのタイプもよく知っていたろう。
その刺客の男の語るいかした方略を聞くこと数刻、劉備は、
「よき言かな。わしの考えていることとぴったりである」
と手を撃った。刺客はにやりと笑った。そして、
(ククク、単純な野郎だぜ。こんなサルを騙して信用させるなんざ、赤子の腕をオモプラッタからキムラに移行して極《き》め折るよりも容易なことだ)
と思ったとはとても思われないが、
「劉将軍、大きな声では申せませぬが、まだまだ秘中の秘の策があるのです。ここはお耳を拝借いたしたい」
と、袖の中に隠した短刀を握り締めつつ、劉備ににじり寄ってきた。劉備は素敵な策が耳に吹き込まれるに違いないと思って目をきらきらさせ、まったく警戒していなかった。
刺客の匕首《あいくち》が、腕をさっと伸ばせば、劉備を刺し殺すのに十分な距離に入らんとした。危うし玄徳!
そんな危機一髪のときであった。なぜか突然孔明が、気怠げにぶらりと部屋に入ってきた。他人の部屋でもくつろぎ切ったアンニュイ飽和の顔つきである。
なにしろ水魚《すいぎよ》の交わりを結んだ男である。理論上、孔明はかりに人払いされていようが何の断りもなく劉備の部屋に入っていいほどの仲なのである。劉備が妃と寝室でみだらなことをしている最中であろうが、厠《かわや》でひと踏ん張りしているただ中であろうが、許可無く出入りできる特権がある(関羽、張飛もまあ同様であり、趙雲はちょっと微妙だ)。まことに水魚! 分離されると死ぬ(魚の方だけだが)という間柄であるから、親しき仲にも礼儀などあろうはずがない(いやおそらくたぶん)。
孔明は白羽扇《はくうせん》をぶらぶらさせながら、刺客の男を無遠慮にじろじろと眺め回した。そして、くふっ、と唇を歪めて微笑《わら》うのである。その舐《な》めるような変質的な視線に、刺客の男はいたたまれなくなり、気分が悪くなってそわそわし始めた。劉備の客人に対してなんとも失礼極まりない態度である。これが実話なら孔明、まことに傍若無人な嫌な奴と人に思われたであろう。孔明の雰囲気ハラスメントに耐えられなくなった刺客は薄く恐怖の表情を貼り付かせ、小便を漏らしそうな演技をし、手洗いに行くと言って部屋を脱け出した。
劉備は孔明の悪質な行儀を見ていなかったから、咎めるどころか、満足げで、
「いや、優れた人材がきてくれたものだ。先生の助けとするに十分である」
なとど言っている。孔明が、
「ほう。その者はどこです」
とわざとらしく訊くと、
「いましがた厠に立った男のことだ。……しかし長い小便だな」
当然の事ながら(なのか?)刺客の男は既に外に逃げ出しており、二度と戻ることはなかった。
べつに事が露見したわけでもないのに逃げ出したのは理解に苦しむところだが、行間から察するに、よほど孔明の存在が気持ち悪かったということだろう。冷徹無比な殺し屋なら、獲物がもう一人増えただけ、ついでに孔明も片付けて何事もなかったかのように立ち去ることにしたであろうが、気持ち悪いくらいでやめるとは、プロの殺し屋として情けない!(と裴松之も怒っている)という話である。こんな無様な退散をして、曹操の怒りに触れて処刑宣告される可能性を想像しなかったのだろうか。
孔明はやれやれといった表情で言った。
「殿の武人の実力を見抜く目は賛嘆する所がありますが、文事の材を見抜く眼力はいささか凡庸にすぎるとぞんじます」
劉備はむっとして、
「かれは曹操の内情に詳しく、泣き所とその突き方をいろいろ教えてくれた。なかなかの策士と思うが、先生、違うのか?」
「わたしは部屋に入った瞬間に引っかかるものを感じましたので、さすれば正体看破せん、と、静かにそっとさりげなく観察いたしておりました。確かにあれは只者ではありません」
「ならば、拾いものだろう」
「いいえ。あの者の態度がおかしゅうございました。顔色は落ち着かず、妙にびくびくしており(それは孔明が原因だ)、ずっと目を伏せ気味にしており、ときどきじろりとわたしを(今にも泣きそうな)濡れた瞳で見つめるのです。凶相凶態と申すべきものでしょう。よこしまな表情がおもてに現れるのは、邪悪な心が内に潜んでいるからに他なりません。あの者は、きっと曹操が放った、只事ではない変質者か何かです」
と孔明は爽やかに断言した。変質者を敵陣営に送り込んでなにかいいことでもあるのかといえば、孔明ならありそうだ。
「客人が戻ったら言いつけるぞ」
と劉備は色をなしたが、いつまで待っても刺客の男は便所から戻らない。しばらくは弁護してやっていた劉備も、もうべつにどうでもよくなってきて、それで終わり。
もし孔明が現れるのが一分少々遅れていたら、血塗《ちまみ》れの劉備の死体の胸に一本の短刀が突き立っているのを発見したかも知れないわけだ。シリアスに書けば、間一髪のスリリングな一幕に仕立て上げられる記事である。
しかし、孔明、本当にさっきの男が怪しいと睨んでの、無意識を装った嫌がらせだったのか? 変質者と思われて、職務を捨てるほど恐がられたのは孔明の方ではなかったか。
この話を採録した裴松之は、
「だいたい刺客というものは暴虎馮河《ぼうこひょうが》の命知らずで、いつ死んでも悔いない輩《やから》がなるものである」
と、そばに孔明がいたくらいで劉備暗殺を断念してしまった刺客の男のへっぴり腰を責め、さらにいろいろ理屈を言った挙げ句に、
「(刺客となった男とは)一体だれなのか? どうしてそのあとまったく名が聞こえないのか?」
とキレ気味に結び、おそらく墨汁がたっぷりと染み込んだ筆を机に向かって叩きつけたに相違ない(という雰囲気)。そんなに疑わしい話なら最初から載せねばいいと思うのだが、裴松之は他にも多くの場所で似たようなことばかりしている。
「ツっ込みキレ結び」
とでも呼ぶべき記述法、自分で録した逸話にツっ込んでいて思わずキレてしまう論理展開の常習犯である。嘘くさいエピソードをわざわざ集め、いちいちまな板に載せ、
「ええ加減にしとけや……」
とばかりに叩き斬るのは、裴松之の憂さ晴らしの趣味であったのかも知れない。あるいはこれは裴松之のサービス精神から出る渾身《こんしん》の注釈芸だったのかも知れず、ならば研究者はその味のある芸を楽しんであげなくてはいけない。
歴史的には、中国の読書人の間では、陳寿《ちんじゆ》は性悪な文ゴロ、裴松之は名門出身の優れた歴史家、という不当な評価が優勢で、なんとなく定着していた(言ってみればこれも孔明のせいである)。
陳寿は生前から、あきれた親不孝者だの(親の喪中にもかかわらず薬を使っていた)、私怨をもって史を曲げただの(孔明は陳寿の父親を恥辱刑に処し、孔明の子の諸葛|瞻《せん》は陳寿を何かと粗略に扱ったので、復讐のために孔明親子の悪口を書いた)、佳伝を記すと誘って賄賂を要求しただの(お米をくれるならあなたの親父さんをかっこよく立伝してあげますよと持ちかけた)とさんざん言われ続けた。きわめて悪評の高い人物であったことが『晋書』陳寿伝に記されている(思うに『三國志』を書くにあたり、誰かうるさい奴の恨みを買ってしまったのだろう)。しかし陳寿が本物のろくでなしであったかどうかは分からぬにしても、『三國志』自体は客観簡潔にして贅言《ぜいげん》なく、道理得失を弁《わきま》えた名著であることだけは否定されなかった。外道が書いたものでもいいものはいいということだ。
一方、裴松之は生前からきわめて評判の良い人物で、若年より学識人物を認められ、南朝|宋《そう》(劉宋)の要職を歴任した言わばエリートである。また「事実」が大好きで、ウソ、大げさ、まぎらわしいなど、誇大表現のあるいんちき碑文を亡ぼすことに尽力した。そんな裴松之が皇帝(南朝宋の文《ぶん》帝)に「三國志注」を書くことを勧められた。
「よっしゃ。拙者が承祚《しようそ》の悪評を晴らし、男にしてやらん」
と、裴松之はひそかに陳寿を尊敬していたから一肌脱ぐことにした。かくて三国時代に関する「あること・ないこと・あること・ないこと・ないこと・ないこと」の資料を蒐集《しゆうしゆう》して「『三國志』裴松之注」を上梓《じようし》したのである。
裴松之は贅肉でも面白いエピソードを削るのが惜しくて仕方がない性分だったようで、いんちき撲滅主義の「ツっ込みキレ結び」のわざを駆使して史家としての公正な批評眼を演出しつつ無理矢理にも多数引用(結果的に歴史的お手柄だと高く評価されている)、陳寿の苦悩が表現せしめたそっけなく淡泊な世界を、なんだか明るく楽しく嘘らしさあふれる、注したというのにかえって疑惑が膨《ふく》れあがるような世界に塗り変えてしまったのであった。裴松之は『三国志演義』の恩人であり、パイオニアーとなったといえる。
皇帝は「裴松之注」を、
「これぞ不朽の名著である」
と賞賛したというが、うさん臭くも面白|可笑《おか》しい話が次々に繰り出されるのだから、陳寿の簡潔すぎる本文に比べて、読んでいてとても面白かったに決まっている。いつしか『三國志』は陳寿の本文と裴松之の注は分離不可にするのが習わしとなり、今にいたる。陳寿は嫌がるかも知れないが『三國志』は二人の共著のようになっている。これも一種の水魚の交わりとなってしまった。
陳寿の危うくきわどいやり方と裴松之のおもしろ真面目なやり方と、どちらが史家として良心的なのかは、あらためて考えさせられる課題である。
そんなわけですといくらか話し、孔明は、
「たまにはお役に立とうと心懸けているこのわたしなのですが、つまらぬことばかり。いかんせん、劉皇叔が今はわが策を無用としておられるのです。臣下の身が意見了見を無理に押しつけるようなこともできますまい」
と孔明の姉に言った。
「ところで|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]《ほう》先生はちかごろどうなのです。まだひそひそ話ばかりで、なんら安危の策はないのでしょうか」
と孔明が訊くと、孔明の姉は、
「それが、ちょっと」
と口ごもった。
「ちかぢか曹公の軍勢がこの地に及ぶこと、避けがたい」
と予言している|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公《ほうとくこう》は家族親類を集めては、まず意見を聞いて、その上で指図助言を与えていた。息子の|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]山民《ほうさんみん》には、
「お前は真面目なだけが取り柄であるから、襄陽《じようよう》を守ろうとか馬鹿な気は起こさず、じたばたせずにおとなしくしておれ」
山民は家の家督を継ぐ予定であり、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公は自称隠居の身であるから、既に※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]家の当主となっている。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]家は豪族と言われるほどの家財と勢力を持っている。故に、
「逆らう素振りさえ見せねば、曹公はわが家に懇《ねんご》ろに声をかけることこそあれ、乱暴|狼藉《ろうぜき》をはたらくことはあるまい。曹公が首尾良く襄陽を占拠したおりには、進んで仕えるのもよかろう」
家を無事に保つことは大事なことだ。山民はかしこんで聞いたが、
「父上のお言葉に従います。では、父上も逆難を避けて、ここ|※[#「山+見」、unicode5cf4]山《けんざん》で安居なさるわけですね」
「わしはお前とは違う。それが出来ればこうして方途を思案することもない」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公は荊北《けいほく》きっての名士であり、その有力、あまりにも名が知れ渡りすぎている。必ずや曹操は幕下につくことを強要し、出仕させられるであろう。劉表の招きを断り抜いたときとはわけが違う。逆らえば※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]家存亡の危機となる。
(いまさら真面目に働いたりなどしてたまるか)
すまじきものは宮仕え、ということだ。
それである日ぽつりと言うには、
「わしもそろそろ昇天する時期にきたようだ」
孔明の姉はぎょっとした。
「なにをいきなり縁起でもないことを申されます」
と訊いた。
「なんだ。このわしではまだ羽化登仙《うかとうせん》は無理だと申すか」
「と、登仙でございますか」
昇天とはむろん死亡するということだが、一部では仙人になることを意味する。
「さよう。かねがね不死の秘薬について研究していたのだが、ようやく見当がついてきた」
仙人になる最も簡単でポピュラーな方法は不死の秘薬を飲むことだとされている。
だがその仙薬を調合するのが歴世の難題で、特殊な植物や鉱物や動物、危険な化学物質を入手せねばならない。少なくない数の凡人が不死の仙薬に取り憑かれ、人生を誤ってきた歴史がある。
「近いうちに山に分け入り、材料を仕入れねばならんな」
その日から※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公はどこの山に登るのかは知らないが、噂をばらまき、それらしく入念に準備を始めたということだ。
「先生が採薬に立つというのですか」
「そうなのよ。いつものことながら本気なのかお戯れなのかわからないのだけど」
孔明の姉はやや心配げである。
「亮、不死の秘薬なんて、ほんとうにつくれるものなのですか? お舅様はそういう怪しげなものは嘲笑って扱《こ》き下ろすようなお方でしたのに」
孔明は、
「※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生もやきがまわられたのでしょう。だいたい薬《ヤク》に頼って白日登仙しようとは安易に過ぎ、これ堕落の極みと申せましょう」
と、哀れみをこめて言った。
が、ふと何かに気付くことあり、白羽扇で口元を隠し、
「しかし、やらぬより、やって大失敗するほうがいいのか」
と小さな声で呟いた。
「どういうことです」
「いえ。わたしはこれでも世人に(馬鹿にされて)仙人呼ばわりされることもある男。羽化登仙するのに、人間をやめねばならなくなるようなあぶない薬など、べつに必要ないことを先生にお教えしてあげなくてはいけないな。わたしも天に昇ってみるか。どうせ暇であるし」
近所にタバコを買いに行くような気楽さで言う。
「待ちなさい。あんたまで、もう」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公のことをちらとでも相談しようとしたのが間違いだった。
孔明構わず説きはじめる。
「仙となるにはまず尸解《しかい》をいたします」
「尸解、ですか」
孔明の姉は困惑気味だが、黄氏《こうし》は興味深そうに聞いている。
この時期、中国では著名な仙人が何人か活動している。近いところでは呉には葛玄《かつげん》、介象《かいしよう》、姚光《ようこう》といった恐るべきゴト師たちがおり、その看板に偽りなくば、この三人が特殊仙術部隊として暴れ出した場合、十万の軍隊を容易に翻弄する破壊力を持つ。孫権は兄孫策が仙人を弾圧したため早死にしたことを反省したのか、かれらを賓客として厚く遇し、胡麻をすっていた。せっかくだから特別仙略部隊を組織してくれと頼めばいいのだが、仙力の大っぴらな軍事利用は『封神《ほうしん》演義』の登場を待たねばならないようだ。
曹操に指名手配を受けている不良仙人の左慈《さじ》は、呉の葛玄の師匠にあたるが、天下をうろうろしており、一度劉表のところにも来たし、今日もどこかで妖術を披露して口を糊しているはずである。孔明の故郷、山東|瑯邪《ろうや》には仙人養成の秘密機関が存在するという噂がある。五斗米道《ごとべいどう》の張魯《ちようろ》も、あれって仙人じゃないの? ともっぱらの評判だ。
民衆にもある程度仙人についての情報は入るのだが、それこそ荒唐無稽、イリュージョン・マジックか、やっぱり不老不死の四次元人間か、迷信に騙されやすい古代人でさえ眉に唾を付けるようなお化け話ばかりである。しかし仙人のアクロバティックな所業は信じなくても、「不老長生の丹薬」などというと何故か奇妙なリアリティーを抱いてしまうのが中国人というか、人間の業である。
こういうことを孔明が詳しく知らないはずはなく、知らないどころか、既に葛玄たちに因縁をつけにゆき、仙人の身ですら生きているのが嫌になるような嫌がらせをして、格付けを済ませていたって不思議はない。
「尸解とは、要するに自殺することです。一度死ななければ人を一段も二段も超えた者にはなれません」
「それではただの昇天じゃありませんか」
「いえ、そこが秘で、他人からは見苦しく死んでいるとしか見えないのですが、じつは本人は死体から抜け出しているのです。ゆえに尸解」
「それでは鬼ということでしょう。身体がないんだから仙も何もないのでは」
「いえ、そこにまた秘中の秘があり、身体もちゃんと抜け出しているのですよ。例えば、自殺した男に家族がすがって泣いているわけですが、見える者から見ると、箒だとか棍棒だとか、それに向かって哀悼しており、尸解した本人が術を解かぬかぎり、家族近隣は埋葬するまで気が付かないのです。これであと腐れなく人界と縁を絶ちしのち、本格的な神仙を目指すのです」
尸解仙というのは、諸説あるが、おそらく蝉の抜け殻や蛇の抜け殻からの発想であるらしい。とくに蛇は何度も皮を脱ぎ、その度に新生するということで神秘的な観念を抱かせた。
人間も死して一皮むけてこそ、ワンランクもワンハンドレットランクも上がるのだ、というようなことが暗示されているのだろう。
孔明は一見よた話をして孔明の姉を面食らわせながら、その実、並の人間と形状までもが違うかも知れない脳細胞より、人に漏らしても別段どうということはない奇策(悪だくみ)を思いつき中であるらしい。
数日後、劉備と趙雲の主従が臥竜岡に向かっていた。
「わし一人でよいというのに」
「いや、拙者も気になりますれば」
劉備、趙雲とも思案顔である。
孔明は三日おきくらいに新野に顔を出していたのだが、ここ何日かはまったく出勤していなかった。劉備は孔明が何か言うとうるさそうな顔をするくせに、その顔をしばらく見ないと落ち着かなくなってくる。依存性のある孔明中毒といえる禁断症状であった。
「わが君にはなにか心当たりでも」
「うぬ。諸葛先生の献策を何度も斥《しりぞ》けてしまったから、つむじを曲げてしまわれたのかも知れん」
そう思った劉備は忙中なるに孔明の機嫌をうかがいに訪れたのであった。
「ははあ、劉|景升《けいしよう》のことですな」
「われらは同志じゃないか。あれくらいで怒るというなら、先生も存外気が短いぞ」
劉表を抹殺して荊州《けいしゆう》をぶん奪るという深刻な大略が、あれくらい、程度なのであるから、劉備のふところの深さは何をかいわんやというほどの広大さであるというか。その時の感情が劉備システムというもので、あんまり何も考えていないのであろう。
そもそも論で言えば、劉備が三顧を尽くして孔明を招いたのは、孔明の知嚢《ちのう》、天下三分の計に激しく感動したからなのであるが、その計には最初から早期の荊州奪取が含まれ済みなのである。孔明を軍師参謀として雇ったのだから、すぐにも実行すべきところなのである。しかしそれをしないということは、孔明からすれば拍子抜けの裏切りと思われても仕方がないのではないか。
何故、劉備が孔明の献策を即座に実行しなかったのか、このへんは『三国志』の謎の一つである。後世より振り返れば荊州の確保は、後々まで大いにひきずる大問題となるわけで、劉備が天下制覇に失敗した最大の原因であるとさえいえる。荊州を今の時点で制圧しておれば痛い犠牲も払わずに済んだのであり、孔明にはそれが透けるようによく見えていた。劉備は仁義の人なんだから仕方がないのです、という答えでよいのかどうか分からない。
劉備と趙雲は、臥竜岡の門前で馬を下り、呼ばわった。ここは漢文調にすると堅苦しくなるから、くだけた感じにすると、
「孔明君はいますかァーッ」
「孔明君、あーそーぼ」
小学生のお友達くらいな誘い文句である。
まずもって門前に出た孔明の令弟諸葛|均《きん》は、化け猿のような劉備と、はぐれ恐竜のような趙雲を見て、
「ひいっ」
といつものように腰を抜かしそうになった。諸葛均は劉備とは顔見知りであるが、趙雲とは初見である。しかしこの二人が並んでいるととにかく恐ろしく、もう恐れる必要はないと頭では分かっていても、動物園の虎とライオンの檻《おり》に入れられたような気分に反射的になってしまうのであった。
あながち諸葛均の過剰反応ともいえないことだ。
ごく普通の民草には『三国志』の英雄豪傑などは、とにかくこわい人に見えたに違いない。孔明とか※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公は参考にならない。たとえばわたしの家に突然スターリンとポル・ポトが遊びに来るようなものであって、顔つきが恐いし、畏《おそ》れ緊張するなというほうが無理であり、そんな人たちに訪問されては、わたしだって何も悪いことはしていないつもりだが、息詰まって顔面が蒼白になるのを止められないであろう。
「お許し下さいー」
と諸葛均は震えながら平伏しようとした。
趙雲は、
「なんですか、こやつは」
という顔であるが、劉備はもう慣れており、
「よーし、よし、均くん、わしだ、玄徳だぞ。ほーらべつに恐くないぞう。このお兄さんは趙子竜といって、こんなごつい筋肉質な肉体をしているけれど、道端の可憐な花を愛でて涙するような、とっても心のやさしいもののふだから、大丈夫だぞお」
と背中を撫でつつ、あやしてやった。
落ち着いてきた諸葛均は、それでも極度の緊張の反動で、
「ひっ、ひっ」
とべそをかきながら奥に入っていった。諸葛均ものちのち立派な劉備軍団の一員にならなければならないのだが、ほんとに大丈夫なのか。
やがて黄氏が出てきて、
「まあ、劉将軍に趙将軍、よくおいでいただきました」
と、こちらはごく普通の対応だ。
「何のご用向きでしょう」
話の進みも早い。
「ご妻女、その、孔明先生がもう何日も新野《しんや》に来られぬので、もしや病気でもしているのではないかと、その、二人で心配してきてみたのです」
「まあそれはご情誼《じようぎ》のあつきこと、痛み入ります。立ち話も何ですから、さあ中へどうぞ」
と、とっとと案内した。
「只今うどんをつくっているところですので、ぜひ召し上がっていってくださいね」
ということは諸葛均が木人の被り物をつけて、大車輪の働きをしているところなのだろう。
「いや、そんな。われわれは」
「ご遠慮なさらずに。主人が出かける前に申しますには、ちょうど今日の昼あたりに劉皇叔さまがお見えになるから、ご馳走の用意をしておくようにとのことでした。ぴたりと当たりましたわね」
「すると、先生はどこかへお出かけになっているのですか」
「あら、劉皇叔さまにおことわりもしなかったのかしら」
「聞いてないっす。先生はどこに行くと申されましたか」
と趙雲がどこか緊張気味に訊いた。
黄氏は微笑して、すぐには答えなかった。
「なにか秘密の他行でしょうか」
「いいえ。いちおう言い残して行きましたが、言っても正気を信じていただけるかどうか……」
「まさか、宇宙へ……」
と飛ばしたいところだが、この当時の宇宙という語の意味は現在の宇宙とは違っていて、場所の名ではなく、敢えて言えば時空連続体というに近い意味だから、そんなところにどうやったら行けるのか(いや、今みなのいるここも時空連続体か)、アインシュタインだって困るだろう。よって宇宙に行くという魅力的な返事はさすがに出すわけにもいかない。
「なんでも碧霞元君《へきかげんくん》のお呼び出しがあり、面白い話でもしてご機嫌を伺わねばならないとかで、泰山《たいざん》に遊んでくると」
碧霞元君というのは泰山にいる女神であり、玉女でもあって、房中術の指導をしてくれることもある。言うまでもなく泰山は瑯邪(だいたいこの地名の漢字自体が怪しい)と並ぶ山東の神秘ゾーンの中核であり、参詣する民衆や、けしからん人たちがたむろする霊山である。
「うわあ、それはすごい。いいなあ、先生は」
と言ったのは、少年の日のキラキラした心をいつまでも失わない趙雲子竜である。
劉備は劉備で、
「うぬーん。碧霞元君のご用事であるというのなら致し方のないところである」
(おそらくかなりとても嘘だと思うが、あの男のことだ。わずかにすこしくらい違った意味で本当なのかもしれん。だが、たんに遊びに行くにしても、なんといかがわしい言い訳をするのか)
というような変な納得感がある。
昔、前漢の名官僚の東方朔《とうぼうさく》(仙人疑惑あり)はしばしば仕事をさぼり、武帝に詰問されると、
「いや、西王母さまに俗世の小咄《こばなし》をしてさしあげねばならなかったのです」
とか、
「南極老人と碁を打っておりました」
と、真顔で言ったという。武帝に司馬遷《しばせん》みたいに男根を切り落とされたり、釜|茹《ゆ》での刑に処せられたりしなかったのは、武帝の神仙好きもあって、東方朔には笑って許してしまうしかない愛嬌と頓知《とんち》があったからで、これも人徳というものであった。
とにかく二人はうどんを馳走になった。
「これはうまい」
と趙雲はぺろりとどんぶりをあけた。
「まあ、お世辞を。たくさんありますから、どんどん食べてくださいね」
「いや、お世辞などではありません。こんなおいしいうどんを食べたのは初めてでござる。いいなあ、諸葛先生は」
趙雲は腹ぺこで帰ってきた野球少年のようにおかわりし、
「最高です!」
と言う。長江流域は米飯が主体であるから、粉食のうどんはご馳走だったかも知れぬ。
劉備が、
「これこれ子竜、わしの目の前であからさまに先生の奥方を口説くとは、ずいぶんな色武者に成長したものよな」
と下卑たことを言ったら、趙雲は赤面して、
「わが君、そんな、ち、違います、自分は」
としどろもどろになった。趙雲は志操堅固というか、少年の時より人殺しにしか興味が無かったから、女性にあまり縁がなく、免疫もなかった。たぶん簡雍《かんよう》が話している下ネタの意味もよく分からずに笑っていたと思われる。
趙雲は手を振り誤魔化し、話題を変えた。
「さっきからおいしいうどんが次々に出てきますが、ご妻女はちょっと運んでくるだけですな。厨房によき料理人がいるのですか」
すると黄氏は、実はそういう言が出るのを今か今かと期待していたようで、
「いえいえ、我が家では機械が自動的に料理を作りますので、わたしは出来たものを運んでくるだけでよいのです。機械はわたしが止めない限り無限にうどんを作り続けるでしょう」
と言って、怪訝《けげん》そうな顔つきになった二人に、
「うふふ。せっかくですので、わたくし自慢の調理兵器をお見せしましょう」
と先に立って、台所へ案内した。さすが孔明の妻、驚かせたがり見せたがりは似たもの夫婦である。やがて台所から、
「なんじゃこりぁーっ」
「最高すぎます!」
という感嘆の声が響いてきた。
|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統士元《ほうとうしげん》は、昼間から酒を飲んでいた。飲みながら書類をめくり、また飲んで、読み、それからまたちびりとやり、必要とあれば朱をいれる。書類を肴に酒を飲んでいるような塩梅《あんばい》である。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は|※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽《はよう》郡にある役所にいるのだが、役所には※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統の他にはだれもいなかった。
ここの役人は黄祖《こうそ》との出入りに総員走り込んでゆき、まだ戻ってきていない。
「われわれは役人である前に男でありたい」
と指を詰めながら叫びかねない連中が、周瑜《しゆうゆ》を男の中の男と慕って身を寄せているのだ。この地を仕切る周瑜は、
「勘定方だって立派な男の仕事なのだぞ」
と説いてはいるが、効き目がない。
「咲くは※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽の男花。散るなら血|飛沫《しぶき》、周郎が前に」
と、六十近い年寄りまで血を熱くたぎらせ、周瑜に男の花を咲かせて見せることが生命よりも大切なことなのである。男の子が悪さというより、嘘をついたり卑怯な真似をしたら、殺し文句、
「ワレはもう周郎の下男にもしてもらえん悪がきじゃ」
と叱られて、自分が人間の屑以下だと悟り、子供はその重大さに一晩中泣き明かす。かりに女房が浮気したとして、(まずないことだが)間男が周瑜であったらかえって光栄に思い、
「おらが女房は周郎の手付きぞ」
と大声で自慢して歩きかねない異常さである。
周瑜に惚れている女どもはこの地の全員がそうだと言ってよいほどで、潜在的な周瑜の妻率99・9パーセントである。
「乙女も咲かせよ女花。死んでみせます周郎がもとに」
と家事子育てを放り出して、娘子《じようし》軍を結成し追っかけ、女郎ばかりに身を捨てさせぬと、われ先に周瑜に女の花を咲かせて見せようとするのである。
「いちおう亭主はいるけれど、あたいの生命は周郎のもの。身体は旦那に任せても、心は周郎に捧げてる」
これが※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽の女の心意気というもので、七十の老婆だって周瑜が通りかかると三十歳も若返り、月のものが戻るといわれている。四歳の女童までもが、
「わたしは年頃の娘だけれど、どんなにお金をつんでくどかれようと、言うことなんかきくものか、おめかけさんでもやれうれし、周郎のとなりでねむりたい」
と手まりをつきながら歌っている予備軍である。
同じ中国かと疑われるほどに激しい侠気《きょうき》と好悪の情は、呉越がなお野蛮の気分が濃厚に残る土地柄だからというだけでは説明できない。周瑜|公瑾《こうきん》という男の存在がこの地の者の思い焦がれる対象そのもの、崇拝と熱愛を捧げるすべての人だからなのである。
未だ見ぬ美周郎、中国史上屈指の色男、これほど女にもてる男もいまい。まったく周瑜とは罪深い男である。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は決して冷血漢ではなく、ややひねくれた情熱を胸に秘めた男なのだが、まわりがこんなのばかりだから、薄情者に見られてしまって、同僚らにいろいろ言われている。自分が行っても意味がない、黄祖の首狩りツアーに参加しなかったことでも、陰口を叩かれているに違いなかった。
(そろそろ転職の機かな)
と思っている。文字が読めないような者でもやいやい詰めている組事務所じみた役所であり、この地の行政は※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統一人で保っているようなものであった。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統にとってはさしたる難事でもなく、飲みながら片付けられる程度の事務であったが、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統が辞めたらたちまちパンクするに違いなかった。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統が瓢箪《ひようたん》を傾けると、もう一滴も残っていなかった。
「やれ。今日はこのへんにしとくか」
と赤い顔をして呟いたとき、気色の悪い歌が聞こえてきた。
鳳《ほう》よ! 鳳よ!
ぬばたまの
夜の森に燦爛《さんらん》と冷え
往く者は諫むべからず
来る者は猶《な》ほ追うべし
已みなん、已みなん
そもいかなる不死の手
はたは眼の作りしや
汝がゆゆしき賢聖を
と、楚《そ》の狂接輿《きようせつよ》とウイリアム・ブレイクの詩を混ぜてつくったような歌を歌ったその男とは、もちろん諸葛亮孔明! 白羽扇を軍配のように構えながら、役所に踏み込んできたのであった。
狂接輿は『論語』に登場し、楚を旅行中の孔子の車のそばを歌いて過ぎたという人物で、有名な「鳳よ! 鳳よ!」ではじまる謎の時事問題歌を歌った。孔子がその歌にショックを受け、降りて話しかけようとしたが、走って逃げたという。狂接輿は固有名詞ではなく「車に近付いてきてわめき散らすおかしな人」という意味であり、ときどき見かけることがある。楚とは三国時代でいう荊州にほかならない。
孔明は曹操のような素敵な詩文はつくらないが、どうでもいいといえばどうでもいい歌謡をつくるのはお手のものである。
「鳳よ! 鳳よ! ぬばたまの。久しぶりだな※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]士元、死んだはずだと思っていたが、まずは達者でめでたいことだ」
と孔明流に久闊《きゆうかつ》を叙《じよ》した。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は目をやぶにらみにして闖入《ちんにゆう》者を見つめていた。
「驚かないのか、鳳よ」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は、瓢箪を口にもっていったが、もう残っていないことを思い出し、おろした。おもむろに、
「まず訊くが、鳳とはなんだ」
と嫌そうな顔をして訊いた。すると孔明、
「むろんきみのあだ名だ。ただし正式には雛《すう》がつくのだが」
と爽やかに言った。
「孔明、おぬし、大丈夫か」
「なにが」
頭が、と言いたいところだが、別のことを言った。
「よく村人に見咎められずこんなところまで来れたものだ」
|綸巾鶴※[#「敞/毛」、unicode6c05]《りんきんかくしよう》白羽扇と、見るからに土地に冦《あだ》をなしそうな怪しい風体である。
「いや、道を聞いたりしたら、みな親切にしてくれた。お小遣いとおにぎりをくれた小母さんもいた」
それは狂人と哀れまれたからではないのか。
「今はこのあたりの壮丁《そうてい》は戦さに出払っている。不用心だな」
このあたりを旅するには毛細血管のように入り組んだ大川小川をゆきつ戻りつしなければならず、舟渡しの世話にならないわけにはいかない。またこのあたりはわりあい静かだが、少し南の柴桑《さいそう》、江夏《こうか》のあたりではいまだ殺気だった兵がひしめき、厳しく通行制限を敷いているはずで、襄陽からすんなりと来られるような状況ではない。
(こやつ、こんな怪しい恰好《かつこう》でよく津で止められなかったものだ)
というのが※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統がまず第一に思ったことである。
(たんまりと身銭をばらまいたか)
さすが後の劉備軍軍師、孔明の出現に驚くよりさきに、その周辺に思考が及ぶのである。しかしなにしろ神出鬼没の男である。孔明にそこを訊ねても、隠形《おんぎよう》してきたとか、顔パスだったと答えるに違いないから、聞くだけ無駄であろう。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統が、まあかけたまえ、という前に、孔明はもうかけていた。この役所で一番偉い人の机に坐っている。
「|※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽《はよう》湖(またの名を彭蠡《ほうれい》沢という)というのは大きなものだ。洞庭《どうてい》湖とどちらが大きいのか。士元、きみはもう泳いだり、釣りをしたりして遊んだのだろうな」
「そんなことは、近所の子供に聞け」
孔明と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統が水鏡先生や※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公のところで学んだ時期は多少ずれており、重なっているのは半年ほどである。よってそれほど親しくもならず、話し込んだりしたこともない。つまりはただの顔見知り以外の何者でもない。馴れ馴れしく、
「鳳よ」
とか意味不明なあだ名で呼ばれる筋合いはないのだ。
孔明だって鳳雛《ほうすう》≠フ正体が※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統士元だと水鏡先生に聞いて知ったのは、去年の末である。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は急に立ち上がった。孔明をひと睨みすると、役所の用度室に向かった。
(あやつ、いったい何をしに来たのだ。すったもんだのあげく、結局、劉玄徳の顧問におさまったと聞いているが)
ブランクの竹簡、木簡から紙筆墨などが積んである場所のさらに奥にゆくと、いろんな形の瓢箪や小さな瓶、壺が棚に並べられていた。これらの中身は全部酒である。酒はこの役所の必需の消耗品であり、いつも補充されている。冷蔵庫をあけると350ミリリットルの缶ビール(or 発泡酒)がぎっしり詰まっている誰かの家のようである。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は瓢箪を一つ取った。思い直して二つ手にした。
(健康のために一日一瓢と決めてはいるが。本日に限って)
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は孔明の意図を推理しながら用度室を出た。
(襄陽はいまどたばたしているはずだ。人に仕える身が遊び回れるはずがない。ん。待てよ。やつはその件について動いているのかもしれん)
にしても唐突だ。
(だいたいやつとは友達でもなんでもない。なにが鳳だ。ふざけおって)
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統が事務室に戻ると、なんと孔明、本棚に整理されている関係書類を勝手に取りだし、ふんふんと眺めているではないか。
「何をしている!」
「何をと言われれば、立ち読みである。士元、去年は豊作だったようだな」
と面を上げぬまま頁《ページ》をめくる。血の気の多い組員がいればたちどころに袋叩きにされ、右腕を切り落とされていよう機密文書閲覧行為である。
「孔明、きさま、間者《かんじや》をしにきたのか!」
孔明はこんどは周瑜組幹部の名簿を開いている。
「間者とは心外な。そんな地味なことをこの孔明がするものか。きみが話し相手になってくれないから、暇潰しに眺めていただけのこと」
孔明は幹部名簿を書棚に戻して、もとの席に戻った。
「おぬし、わしでなかったらもう死んでいるぞ」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は瓢箪を一個投げつけた。孔明はパシッとナイスキャッチした。きゅっと栓を捻り取り、瓢箪を口につけると腰に手を当て、身をそらした。半分ほどを一気飲みすると、唇からひゅうという息を漏らした。
「これはよい。コクがありながら、なおかつキレもある霊妙なる味わいである。上質の糯米《もちごめ》を使っているとみえる」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は孔明を叩き斬りたくなったが、剣など身に帯びない主義である。また用度室に行って部屋の隅に積んである武器類、刺股《さすまた》やら双節棍《ヌンチヤク》を取ってくるのも馬鹿らしい。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統も瓢箪の栓を切り、口に運んだ。
(この変質者が!)
と忌々《いまいま》しく、
「孔明、お前、ほんとうに何しにきたんだ。わしもいちおうここの身内なのだ。いい加減にしとかんと、まじでぶち殺すぞ」
しかし孔明、爽やかに、
「士元、なにやらとても柄が悪くなったね。この土地のせいかな? いけないな。まあ、あの※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生の甥《おい》である。もとからそうなのかも知れないが」
と言った。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統はこいつのペースには乗るまいぞと思い直し、
「飲んだら出て行ってくれ。わしはまだ勤務中なのだ」
と感情を押し殺した声で言った。
「そうか。それは悪かった。ところでわたしは疲れていて、休みたいのだが、今夜の宿が決まっていない。この上わるいがきみの家に泊めてくれないか」
「野宿しろ」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統はそっぽを向いた。
「ふっ。冷たい男だ。しかし、鳳とはそもそも人間に冷たいものである。でも素敵な生き物だ。竜にはいまいち及ばぬが」
「誰が冷たいだと」
無視しようと思うのだが、孔明の言い方はいちいち癇《かん》に障り、つい答えてしまう。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統が役所の同僚に冷たい奴と陰口を叩かれていたからであるが、孔明がそれを知っているとは思われないにしろ、ひっかかる。むしゃくしゃした。
「士元、仕事はしないのか。一人とどまり残業させられているようだが、何かの罰か、いじめにでもあっているのかい。よければわたしが手伝ってやろう。なあに天下の奇才が二人で力を合わせれば、あっという間に片付くさ」
とあくまで本人はアメリカン・ナイスガイぶって言う。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統はぐびりと一口飲むと、孔明に向き直った。
「さきにおぬしを片付けないと仕事にならん」
「友よ、やっと相手をしてくれる気になったか」
孔明は嬉しそうに言った。
「で、あらためて何の用だ。直截《ちよくさい》に言え。手短にな。ただしおぬしが何か工作しに来たのなら、ここは場所が違うからな」
「場所が違うとは?」
「人の悪いやつとはまことにおぬしのことだ。わしにみなまで言わせるな。わしはお前の味方でも何でもないからな。へんな協力を期待しているのならお門違いだ」
すると孔明、白羽扇をかざし、さらりと撫でるように動かした。
「どうも根本的な勘違いがあるようだな、士元」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は誤魔化しは通用せんぞと目を据える。
「用事というのは他でもない。きみの叔父上の※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生が、とうとう仙人になる決意を固めたらしく、神秘の薬草を摘みに山に入ると言い出したらしいのだ。神秘の薬草は広汎な知識と繊細なる神経、新鮮な気配りなくしては発見することあたわず、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生の粗雑な皮膚の厚さではとうてい見つけられるものではない。この江南の地にはまだ未踏の山岳が多く、人跡があるといえども山越蛮族の徘徊する危険地帯である。また虎や羆《ひぐま》が※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生の太っ腹を放っておいてはくれるまい。されば、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生のためにこの孔明もひと肌脱がねばと思い、あちこち先に探索しているわけだ。どうだこの孔明の師匠思いの心情は」
「あのな、孔明」
「きみは※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生の甥である。またこの付近のことに詳しかろう。手伝ってもらいたい。地元の薬草通にもよく聞いて、なんとか神秘の薬草のありかの見当を付けたいのだ。鳳よ、千丈にのぼり万里を翔《か》けるその眼力を役立ててはくれまいか。さすれば変幻自在のこの竜が……」
「あのなあ、孔明」
と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は遮《さえぎ》り言った。
「おれはこうして真面目に聞く気になってやっているのだぞ」
どんと机を叩き、
「そういうたわけた戯《ざ》れ言で霞《かすみ》をかけるのはやめてくれんか。直截に言えと言っておるのだ」
しかし孔明譲らず、
「戯れ言ではない。わたしも真面目である」
と言った。
「手短に言えというのなら、一緒に草摘みに行こう、ということである」
と爽やかに言い切った。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統はちっと舌打ちしたい気分である。
「本当なんだな」
「本当だ。じっちゃんの名にかけて」
孔明の祖父の名はわからないが、遠いじっちゃんの名は前漢末の剛直な司隸校尉《しれいこうい》、諸葛|豊《ほう》であるとされる。諸葛豊はときの皇帝の寵臣《ちようしん》に逆らい、罷免されて庶人に落とされた逸話の持ち主で、名誉の意地者であった。
(そうまで言うなら、とことん付き合い困らせてやる)
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統が思うに、孔明には怪しい目的があり(仙草とりも十分に怪しい目的だが)、自分がことさらに付き合って本格的な植物採集を無理にも行わせれば、実の目的が果たせなくなり、困って音を上げるに違いない。
(それで泣かせてやれ)
ということだ。
「よしわかった。おぬしに付き合ってやる。こんな役所、しばらく閉めても誰も困らん」
「おお、そう言ってくれるか。やはり友」
「では明日から夜明け前には起きだして、その神秘の草とやらがみつかるまで、徹底的にやるからな」
と言いながら孔明の顔色を窺うも、ちっとも困った様子は見られない。孔明は、
「探す場所はおおまかな当たりはつけているのだが、士元の意見を聞きたい」
と、つまびらかにこのあたりの地理と薬草や茸《きのこ》の知識を披露し始めて止まることがなかった。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は、内心、
(芝居がうまいわ。今のところは、はりきれ)
と意地悪く笑っている。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統の予想に反して、翌日から本当に熱心な植生探査が開始された。
日も出ぬうちから付近の山に入り、獣道をかきわけて、未見の植物があるとじっくり調べて標本を作る。土地の農民、木こりや猟師を訪ねて話を聞き、ことに薬草に詳しい相手だったら、礼金を渡してでも教えを乞うのであった。それが毎日繰り返され、雨が降ろうが槍《やり》が降ろうがやめない入れ込みようである。
(こ、こいつ、本当に神秘の薬草を捜していやがる)
と、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は愕然とした。だが、
(いや、まだだ。あと何日かすればそろそろ、呉の政治向きのことを話題にしてくるはずだ。騙されんぞ)
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統も一徹者である。意地になって孔明に付き合った。しかし孔明は植物の話しかしない。
「この茸は歯ごたえよく食えるのだが、毒持ちなので、水にさらして毒を抜かねばならないんだ」
と、可愛いキノコから粘菌まで幅広く調査にあたる。
「士元、この草は面白そうだ」
と、鍬《くわ》を入れて汗だくになって深い根っこまで掘り出し、いろいろ検査したりする。たまに、
「むかし神農は民のために良能ある本草を求めて、すべての草根木皮をいちいち口に入れ、しばしば毒にあたってお苦しみになられたと聞いている。それに比べると仙草探しなどは為我的で、浅はかなことだと思わないか」
と遠くを見つめながら言ったりした。
そのうち※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統も植物調査が面白くなり、意地を忘れて熱中し始め、孔明とともに山野を這《は》い回った。数日にして※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽近辺の植物図鑑が出来そうな勢いである。さすが、天下の奇才二人が本気になって取り組めば、どんな困難な研究であっても、成らぬものはないとの感を抱かせる。
泥まみれになって山野をめぐり、ときには樹間に枝葉の屋根をつくって野宿する日々。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は自然の恵みに感謝し、野生に戻ったような晴れ晴れとした気分になってきた。
(わしはなんとつまらない人間になろうとしていたのか。あの十代の青雲の志を抱いた日から省みるに、今の自分があまりにちっぽけで、みみっちく、恥ずかしくて仕方がない)
大自然に接触しすぎると、人間は、いいのか悪いのか、出世間《しゆつせけん》した精神状態になるものだ。孔明の風体も見慣れてくれば、べつにことさら怪しくも見えなくなった。
(こやつ、本当に仙人なのかも知れん)
仙人には大きく分ければオカルト仙人と合理的仙人がおり、二者は重なる所はあるが、別種のものと考えたほうがよい。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統もそれくらいは分かっている。
暦数を見たり、観天望気したり、方角の吉凶を占うのも軍師の重要な仕事なのだが、こういうものは合理的仙人の研究する所でもあり、そういう意味では軍師とは軍仙というか、軍事道士ということも出来なくはない。
苦労の甲斐あって孔明と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は滋養強壮、病気治療に効きそうな薬草十数種を得ることができた。まだ名前も付けられていない草根木皮もある。
「これらが神秘の薬草かどうかは分からぬにしろ、何やら凄い効き目がありげである。臨床にて用いてみなければ、十分に確実なことは言えないが。かの張先生が記した書にはまだこれらの材料を使った処方は載っていない」
張先生とは張仲景《ちようちゆうけい》(張機《ちようき》)のことで、のちに『傷寒論《しようかんろん》』と呼ばれることになる医学書を執筆している。張仲景は中央の難を逃れて荊州に来た学者だが、病菌性の急性熱病について臨床研究し、治療には主として煎薬を用い、その処方を詳しく記した。華佗《かた》が人真似の出来ない特殊技能で病気治療し、秘密主義だったのに比べ、張仲景は平凡な医者にもよく分かり役に立つ画期的な治療過程の書を記したのであり、これも医聖の仕事といってよい。『傷寒論』は漢方医学の古典となり、医師必携の書となった。
張仲景は歴史的有名人であり、この頃荊州にいたはずなのだが(長沙《ちようさ》太守になったともいうし、蜀に移ったともいう)、医者が方術士と変わらぬ卑賤の職であると見られていた時代でもあり、『三國志』に出てこないから存在を抹殺されたも同然で、陳寿の手落ちの一つである。『三国志演義』には名が出てくるところを見るに、後世になって無視できぬ偉人と認識されるようになったからであろう。孔明は当然、張仲景を知っており、『傷寒論』の草稿も読んでいた。
曹操南征による大混乱直前の時期だというのに、なぜか孔明と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は薬学と植物学の進歩のために勝手に尽力していたのであった。このとき発見された薬草は諸葛草≠ニいうことになって、のちに民や兵士の病気予防や治療に大いに役立つことになった(諸葛菜というのもある)。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統はこの十数日でいっぱしのハーバリストとなっており、よりよい煎じ方やらエキストラクトの抽出法やら、工夫を思うようになっていた。船酔いの薬などをつくってやったら、曹操も烏林《うりん》に大船団を連環することもなかったろう。
「ああ、人類は緑を大切にせねばならん」
と、環境破壊に憤り、自然保護の必要性を痛感していた。
「文明そのものが悪なのだ。人の性、悪なり」
と言い出しかねない過激環境保護者の一歩手前である。
「この地では魚介にあたりやすく、腹痛くらいですまないことも少なくはない。子供や老人がよく死んでいたましいのだ。あれを治す薬はないものか」
と、山奥のテントの中で孔明と真剣に論じ合っていた。
「ふむ。そのことについては、張先生も検討しておられた」
「わしも張仲景どのに会ってみたくなった。うちの叔父貴(※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公)もやれば出来る男なのだから、馬鹿隠居して阿呆碁などうたず、暇ならこういうことに取り組めばよいのだが」
なんだか若き学究が、互いを相識《あいし》り、同好の士として植物医学への情熱に燃えているような塩梅《あんばい》となっている。確かにこのコンビが(おれたちはコンビじゃない、ユニットと呼べ)医学薬学をライフワークとするならひとかどの仕事をなし、不老長生の秘薬くらい作ってしまうかも知れない。
そこで※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統がはたと思い出すに、この実り多い十数日間のそもそもの発端は、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公の仙人発起であり、孔明が仙薬探しを陰にサポートしようという話であった。
「孔明、叔父貴のやつは、本気で仙人になろうと言っているのか」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公はがちがちの合理主義者ではないが、現実主義者であり、志怪《しかい》のことなどあざ笑う、独自の主義思想を持った人である。
「※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生に仕えるわが姉にうっかりとそう漏らした」
本当はうっかりではなく、故意であり、人の噂になる程度に広めようという魂胆だ。
「わからんな。どうせひねくれ爺いのつまらん思いつきだろう。なぜ、おぬしがかくも真剣に先触れ先鞭をつとめてやるのだ? おぬしは劉玄徳に仕える身となり、こんなことをしている場合ではあるまいに」
「一言で言えば恩返しである。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生は確かに偏屈な気まぐれ変奇老《へんきろう》ではあるが、かの人なかりせば、荊州諸葛家は今のようには立ち行かなかったろう。仙草の手がかりを得られればよし。得られなかったにしても、益失をお教えすることができる。まあ、わたしもこのあたりの山々について無知であり、かねてより踏査したいと思っていた」
本来なら簡単に信用してはならない孔明の言であるが、先日来の山野の共同生活によりある種の共感敬意を抱くようになっている※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は、言うままを信じた。
あれだけ熱心な薬草探査を行ってきたのである。熊や虎の害がないではない。足下もあぶない急所もあった。何かの策や欺瞞のためにやれることではない。下手をすると生命を落とすかも知れない山林の実地調査に勉励する姿は心底楽しそうなところもあった。それにつられて最初は疑心満々だった※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統もやがて孔明を上回る熱意を示し、久しぶりに生きた学問を堪能したのである。
(臥竜というもあながち虚名ではないな)
と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は思った。
「臥竜、おぬしは案外、いいやつかも知れんな」
すると孔明、どんな険しい所でも手放さない無駄というしかない携帯品の白羽扇(孔明的には必携の理由があり、十の必需品を捨てても携帯するに違いない)を取り出し、
「ふ、いまさら何をいう、鳳雛よ」
と照れもせずに言った。
その後も数日、野山を徘徊した。
「ふむ。もはや目新しい草木も見当たらなくなった。季節が変わればまた珍草|霊芝《れいし》が顔を出すかも知れないが」
と、そろそろ探索も打ち切り時となった。二人とも泥に汚れ、よれよれとなった衣服で人里に戻った。二人とも風呂敷包みいっぱいの薬草を担いでいた。
村里に宿を借りて、身を洗い、身なりを整えた。
「孔明、これからどうするのだ」
「むろんすぐに帰る。いくつかの薬草は不老長寿に益するかも知れないから、さっそく(諸葛均を実験台にして)調合、治験を行わねばならぬ。いくつか種子も採れたし、隆中に蒔《ま》いてみて、根付くかどうかも試したい」
「お前、ほんとうに薬草採りに来たのだなぁ」
と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は妙に感心した声で言った。結局、呉の政治、軍事、人材等の話題は一言も出てこなかった。
「わしはおぬしがよからぬ邪策を裡《うち》に秘め、|※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽《はよう》にあらわれ、わしを騙して悪事をなそうと考えていると思い込んでいた」
と、孔明に途轍もない偏見を抱いていたのだが、それが普通であろう。※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽は呉の重鎮、周瑜の根拠地であり、間諜の工作に事欠かない。そこに劉備の軍師たる孔明が現れたのだから、邪推しないほうがおかしい。
「まあ、おぬしがわざわざ来なくても、おぬしの兄上の諸葛|子瑜《しゆ》に聞けば、だいたい事情はわかろうものだ」
「いや、それはせぬ。わたしは劉皇叔に寄ることにしたとき、兄上との文通をすっぱりやめた。今は他人と変わらぬふうにしている。そうせねば兄の立場がなくなるおそれがある」
孔明の兄の諸葛|瑾《きん》の字《あざな》は子瑜であり、今や孫権の信頼厚い幕僚となっている。
諸葛瑾は孔明の兄だというので、のちのち呉の人に讒言《ざんげん》されたり、いじめられたり、孫権にあてこすりを言われたりするのだが、ひたすら謹厳実直に仕えて信頼の維持に努めねばならなかった。孔明の縁者はみな悪意に満ちたいじめを受け(諸葛瑾とロバ顔事件など)、苦労して自己を証明せねばならなかった。いくら孔明との繋がりは絶っていると言っても、なかなか信用してもらえない。というより、孔明が呉に悪質な詐欺まがいをはたらくたびにその腹立ちを八つ当たりにぶつけられてしまうのであって、孔明がこの世にある限りもう仕方のないことである。まことに親戚迷惑な男である。ただ諸葛瑾の長男の諸葛|恪《かく》は孔明の変質的なところを多分に受け継いでいたようで、諸葛瑾に、
「我が家は恪の代にて潰れるであろう」
と予言され、嘆かれた(予言は的中)。諸葛恪は小孔明レベルの問題を起こすことになり、意外と叔父の孔明を尊敬していたのかも知れぬ。
孔明と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は岐《わか》れ道にきた。むこうに行けば荊州に、こちらに曲がれば※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽の郡役所に向かう。
「きみはずっと周公瑾のもとにとどまるつもりなのか」
と孔明が問うと、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は、
「さてな」
と言った。
「上から声がかかったりはしないのか」
「あの程度の役所を切り回すくらいが、安全で気楽だよ。わしは今のところ無用の者。天下がわしを必要としていないということだ。わしはこのまま叔父貴のような偏屈爺になるのかも知れんな」
「さしあたり無用の者であるのは、今のわたしも同じである。何故なら劉皇叔は義のためだとか食言して、わたしの神算鬼謀《しんさんきぼう》を封殺しておられる。まことに使えぬ主人である」
もし襄陽から劉備軍団大敗北の報が聞こえてきても、それは孔明のせいではない、と暗に先んじて言い訳している。
「まあ、それはよい。おかげで山野によき学問が出来たのだ。しかし鳳よ、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]先生の生き方はきみには似合わぬとおもう」
「ここしばらくの付き合いで、おぬしに付いて歩くのはかなりの博奕《ばくち》だとよく分かった。神秘の薬草なぞ、あるかないかも分からんものを探しに危険を冒すなどということに、有り金は賭けられない」
「そうかな。確実な投資先だと自負しているが」
「そのおぬしの変な自信の根拠が分からんうちは、やはりあぶない博奕だな」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は自嘲気味に笑った。
「ふ。ともあれ手伝ってくれたことを感謝する。この借りはいずれ返すとしよう。さらば、鳳よ」
フランス映画ふうに言えば、アデュー・アミ、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は顔をくしゃっとして軽く両手を上げた。
そして孔明と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統は正反対の方向に分かれて去った。
孔明が江南の山にわけ入り、多くの薬草を持ち帰ったことを、孔明の姉から聞いた※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公は、
「くっ。孔明め。余計なことをしおって」
と言った。孔明の姉が意を問うと、
「わしが山に入ったら、衆人に孔明の二番煎じのように見られるではないか」
と言った。
「まあしかし、孔明が採ってきたという薬草を検分しにゆくか。くくく、こんなありふれた使えん薬草を採ってきおって、わしが喜ぶとでも思ったか! と、一喝するのがこの場合の礼儀といえる」
とはなから喧嘩を売るつもりな感じである。
「お舅様、それはかわいそうなのでは」
「いいのだ。孔明もそう言われることを期待していよう。不死の薬草がそんなに簡単に手に入ってよいものか」
孔明の姉には※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公の真意などまったく分かるものではなかった。
孔明がひと月半ぶりに新野に出勤すると、劉備が泣きながら走ってきた。
「先生!」
涙とよだれで汚されそうだったので、孔明は劉備の胴タックルをさりげなくかわした。
「拙者、先生に見放されたかと暗澹《あんたん》たる気持ちでおりました」
と膝をついて洟水《はなみず》まで垂らしている。まあまあとなだめて、庁舎に入った。
部屋の隅では関羽、張飛が腕組みして唾を吐いていた。とげとげしい目つきで睨んでいる。
(この大変な時期にふらふら遊びに出やがるとはけしからん。敵前逃亡は即殺の大罪だ)
他の幹部も似たような感想であった。
(戦争は遊びじゃないんだ!)
と、しらけた、もはや他人を見るような目つきで見られている。かろうじて趙雲のみが、
「先生、おかえりなさい」
と親しく声をかけてくれた。
劉備は、水魚の呪いでもかけられているのか、
「先生がおられぬ間、心細くて心細くて、身も細りました。よかった。先生が帰ってきてくれて……」
と、しんから安堵の表情を見せるのであった。しかし決して劉表は殺さない。謎の交わりである。
孔明は冷たい視線を浴びながらも平然としており(慣れているから)、曹軍来襲の前に風前の灯火であるにもかかわらず、民衆は明るく元気、活況を呈している新野の城市を眺める。蝋燭は芯が燃え尽きる寸前に一瞬だけ非常に明るく燃え上がるというが、今の新野はそんなものであろうか。
くるりと振り返った。
「殿、わたしは今日はここ新野がもう空き家となっていると思って参りました。樊城《はんじよう》に引っ越すことが決定したはずですが」
自分がいないひと月半の間、いったい何をやっていたのか、という気分である。すると劉備、
「いや、確かにそうなんだが。しかし樊城移転のことは劉景升の許諾をとりつけており、もう、いつでもいいのだ。だから先生、そんなにあわてることはない。まかせとけ」
と、いつもと変わらぬゴーイング・マイ・ウェイなことを言うのであった。
荊州《けいしゆう》の門前には新野をはじめとする矮小な城が二つばかりあるのだが、大軍に攻められた場合、どうあがいても保ち堪《こた》えるのは無理ということで、先の会議でいち早い樊城への移転を決めたはずである。劉備軍団から在住の民衆までいれても、ひと月もあればきれいに引っ越し完了済みとなっていようものだ。さすれば孔明もその間を思って、江南に出遊することが出来たのである。
しかし現実は見ての通り、引っ越しの気配すらない明るさだ。今、曹軍の先遣部隊が現れたらどうするつもりなのか。混戦となるのは必定で、一度くらい撃退出来たとしても、被害は少なくなかろう。樊城に拠《よ》って襄陽と連携、緊密な防禦《ぼうぎよ》戦を耐えるという基本シナリオは早くも崩壊してしまう。もう、負けさせてください、と頼まんばかりの無為である。
(これほど人の言うことを聞かない人も珍しい)
劉備軍団の定例会議で決まったことは、その実行が決まることとは違うものらしい。さすがの孔明も頭が痛くなってきた。どんな良策を献じても用いられないのならゴミである。信用されていないというより、劉備がわざと孔明の献策に逆らっているのではないかとすら疑われ、日本流の滅びの美学でも持っているんじゃないのか、と訊いてみたい。
劉備軍団というのは昔から尻に火が点いてから大慌てで動き出すという傾向がままあって、目前に敵軍が迫らないとなかなか本気にならない。どこかで布陣していても敵が現れないとすぐにだらけてしまう。先んじて計画し、粗漏なきようにするということをせず、刺激が加わってから反射的に動き出す単細胞生物のような性質を持っている。今回、曹軍南下の兆候がじわじわと現れ、劉備はその刺激に生理的に反応して手勢を出したり、劉表に建言したりしているわけだが、漏れのない迎撃体制の構築といった地味で肝腎なことは後回しである。眼前に曹軍五十万が進撃して来なくては、気分が出ないのだろう。
孔明も、ここまで呑気とは思っていなかった。臆病ウサギのほうがなんぼかましだ。
並の軍師ならほとほと手を焼き、あきれ果てて、滅亡の余波を被らないよう逃げ出していて不思議ではない。『三国志』には、主君が献策を容れようとしなかったせいで、寝返ったり立ち去ったりした軍師の例がいくつかある。しかし孔明は並の軍師ではない。むしろぐんしーである。
(献策せずに策通りに動かさしめるという、非常に無駄で回りくどいことをせねばならぬということか)
こんなことは、王や将軍の相談役、また知恵袋であるべき軍師参謀の有り様を遥かに離れた思考である。無理矢理すべきことではないし、確かにやっていられない。
(しかし嫌でも策が実行に移されるようにしてゆかねば、この先どうしようもない)
天下三分など夢のまた夢、言うほどにかえって遠ざかる妄想となる。ほとんど犬のしつけのような所から始めねばならないらしい。
孔明がむっつり黙ってしまったので、劉備が言い訳するように言った。
「先生、みどももいちおう新野の長老衆を集めて、樊城への移住のことは話したのだ。しかし、どうしてこれほど繁《さか》んになった新野を捨て去らねばならんのかと、ごねられてな」
劉備が領主になって、新野は建城以来の大繁盛となっており、その立役者たる劉将軍が新野を放棄せよというのは、民の心を欺き、民情に背くものである、てなことを言われた。
「曹賊が来襲してもわしらにはご領主さまに関将軍、張将軍、趙将軍がついていてくださり、こんなに心強いことはなく、何も恐れることはありませんわい。わしらもご下命あらば劉将軍のご助勢をさせていただきまする」
と言われれば、劉備は、
「そうか、そうまで言うてくれるか。確かにわれらが力を合わせれば、曹軍など何ほどのこともない」
娘衆にお酌をされながら、よい機嫌となり、大言壮語をしてしまうのであった。
「そういうわけで、先生、わしは民の心を踏みにじることが忍びないのだ」
とまたも目先の感情に自ら欺かれる劉備であった。
むろん民の言い分は自然なことで、数年せっかく伸びてきて、大過なく過ごせた安住の地を離れるなど誰だって嫌だろう。
「そこで皆と協議のうえ、われらだけでも樊城に移動することを検討したのだが。くくっ、先生、わしは忍びなく泣かされた」
劉備軍団の総勢一万だけでも移動しようかとしたところ、長老衆と民の代表者たちから、袖に縋《すが》られるように止められたのだという。
「劉将軍が去ってしまわれるなら、わしらはどうなりましょう。いっそ死ねと言ってくだされ」
とまで言われると、またも劉備の胸がかっと熱くなり、
「そこまでこの愚人を慕ってくれるのか。案じることはない。わしは民を見捨てぬ!」
とつい宣言してしまった。だいたい劉備軍団一万のうち半分以上が新野の衆であって、ここに家族がいるのである。劉備軍団の移動は、新野の民衆の移住とほとんど同じことである。
劉備は、基本的に土地を動きたくない民衆に、情に棹《さお》さされて転がされているようなものであった。民にも小狡《こずる》いところがあって、劉備の泣き所はしっかり捕まえられているということだ。危機非常のときにはいくらでも卑劣非情になれる劉備であるが、平穏なときには情に脆《もろ》いことこの上ない。
「戦争がいかんのだ。戦ささえなければ、民を土地から引き剥がすようなことをせずに済むのだ」
ならば無条件降伏するか、劉備一家だけ連れて荒野に旅立てよと言いたいが、それはしないのが劉備イズムである。
要するに一時的な人情につけこまれた優柔不断なのであり、曹軍が雪崩《なだ》れ込んでくればころりとひっくり返る程度の覚悟しかないのだが、しかしこれでまたばっちり民に劉備の好印象が刻まれる。こうした劉備の魔性の民主主義が、放浪難民十万の地獄絵図を出現させてしまうわけであり、劉備にまったく悪気がないことが、救いではなく罪深い。
「先生、新野の民を今すぐに移すのは情において困難、物理的にも無理というものです。これから説得につとめて、督励《とくれい》し、われらも協力して、なんとかひと月以内に目途をつけるということで、おゆるしくださらんか」
劉備の弁解を聞き終えた孔明は白羽扇を取り出して、口元を隠して溜息を吐《つ》いた。
どんなことがあっても新野に残りたいという民は仕方がないが、このまま新野に居続けた場合、曹軍に徴発徴用されることは間違いなく、どんな悲惨が待っているか、また劉備軍団自体がどれほどの危機に陥るか、そういうことをくどくど説明するのも嫌になった孔明である。
「お話はよくわかりました」
と言った。
「趙将軍」
と趙雲を呼んだ。
「はっ、何でしょう、先生」
「新野を、焼く」
「えっ」
「この孔明が、三日後に新野に火をつけ、紅蓮《ぐれん》の炎に舐《な》めさせると申していると、部下の方々に触れ回らせ、また辻々にそう記した高札を立ててくださるようお頼みいたす」
趙雲は、一瞬だけ躊躇《ちゆうちよ》していたが、
「分かりました! 先生」
きっとなって、出て行き、
「ちぇーいぃっ!」
と部下に大声で命じ始めた。
劉備軍団幹部たちは目を白黒させ、しばらく声もなかった。劉備がおそるおそる、
「先生、その、本当に燃やしてしまわれるのか」
と訊くと、孔明は諾とも否とも言わず、ただ、白皙《はくせき》の面に爽やかな笑顔を浮かべたのみであった。
新野城内はたちまち上を下への大騒ぎとなった。孔明を罵る声が響き渡るが、孔明の火はメキドの丘の火、はたまたセント・エルモス・ファイアーか、孔明が火と言えば色が白だろうが黒だろうが火なのであり、新野がこの世から焼滅することを疑う民は一人としていない。避難パニックは翌日遅くまで続き、三日目には見事に新野は空っぽとなっていた。
孔明、新野の民を強制的に移住させる!
あるいはこれも空城の計?
小城を落とすなど口先だけで、造作もない。
燃やすと一言言っただけ、まことに魔力と言って差し支えない竜声の威力であった。
たった二日でゴーストタウンと化した新野を、劉備はぽかんとした目で眺めるよりほかなかった。関羽、張飛も顎がはずれたかのように、あんぐりと口をあけて言葉も出ない。
孔明は、こんなものですよ、という顔をして、
「さて、嘘はいけませんから」
と、板きれでつくったミニチュアの新野城の模型(黄氏の手作り)にそっと火を付け、小さいながらに紅蓮の炎に舐めさせたのであった。
「ああ、わが第二の故郷、新野が焼け落ちてゆく……おのれ、曹操! 天が許してもこの玄徳が許さぬ。と、殿、そんなところでございましょうか」
と爽やかに笑った。ちょっとびびっている劉備に、
「これも民のことを思えばこそでございます。曹公との戦いののちにも新野《ここ》が無キズであったなら、民もまた戻って来るでしょう」
と孔明は澄まして言ったものである。
『三国志演義』によれば、建安十三年七月丙午の日、ついに曹操は荊州侵攻を諸官の前で宣言する。
その前に孔明が夏侯惇《かこうとん》率いる十万を博望坡《はくぼうは》でさんざんに焼き討ち上げている。夏侯惇は自らを亀甲《きつこう》縛りに辱《はずかし》め、
「それがし諸葛亮めの卑劣な策にはめられ、火攻めにあって打ち破られました。どうかすみやかにわが首を刎《は》ねられませい」
と罪人のようにひれ伏した。曹操は敗戦の罪は問わず、言った。
「元譲《げんじよう》(夏侯惇の字《あざな》)よ、若年の頃より戦さ慣れしたおぬしほどの者なら、狭い場所では火計に気を付けねばならぬことくらい常識であろうに」
ニヒルなアイパッチがよく似合う、海賊船長のような夏侯惇は、曹操の従弟である。曹操を、
──アマン!
と呼んで甘えても叱られない仲良しであった。アマンとは漢字にすると阿瞞《あまん》(嘘つきクソガキちゃん)であり、曹操の幼い頃の名称であって、ラマンとは違う。夏侯惇は曹軍旗揚げの時よりこの人有りと恐れられた鬼将で、自分の目玉を食べたほどの孝行グルメであり、いざ戦さとなれば張り手と蹴りだけで試合を成立させることの出来る真のベテランである。
その渋くて玄人好みのする戦さ芸には誰しも一目置くところだ。しかしひとたびキレるや関羽に一騎討ちを仕掛けてしまう(二度殺されかかった)蛮勇の持ち主でもあり、たんなる燻《いぶ》し銀のバイプレイヤーとはわけが違う。夏侯惇が初めて殺人を犯したのは十四歳のときのことで、学問の師匠を馬鹿にされてキレたというのが動機であった(何故か官憲からのお咎めはなし)。それ以来、手のつけられない烈気者として付近の住民に恐れられることになった。
その夏侯惇が、
「むろん用心しておりました。しかし、何故だか知らんうちに燃え上がっていたのでございます。于禁《うきん》、李典《りてん》が気付いたときにはもう火だるまでござった」
と、まるでタヌキに化かされた年寄りのように語るのであった。孔明のプラン・オブ・ファイアーは老練な戦さ人すら気付かぬうちに燃え上がらせてしまうほどの巧妙きわまりないものであった。
「劉備は人を得て調子に乗ると手が付けられないのさばりようになる」
曹操は気を引き締めつつも怒り心頭、普通なら二十万でも多過ぎると思われるが、五十万の大軍を出撃させ、劉備軍団を地獄に送ることにした。
雲霞《うんか》の如き曹軍が突如出現したのが九月頃、そのとき劉備軍団は何をぼやぼやしていたのか知らないが、まだ新野に駐屯していた。ちゃんと偵察その他を、真面目にやっていたのかが疑われる。
しかも故劉表を継いだ劉j《りゆうそう》はいち早く曹操への降伏を申し出ていたのであり、劉備軍団は終始|蚊帳《かや》の外、そんな重大なことを全然知らなかった。ぎりぎりの乱世を生き抜こうというのに、呑気さもここまでくると病的であるが、孔明が入団しはしたものの、劉備軍団の諜報《ちようほう》工作力の杜撰《ずさん》さはまるで改善されていなかったということが分かる。
あるいは神の如き男、孔明のみは察知していたかも知れないが、故意に黙っていた可能性が大である。それは新野の民から劉備軍団までを、極限の危険にさらしてまでも新野を燃やしたくて仕方がなかったからに決まっている(新説)。
曹操の軍は既に博望坡に到着しているという。劉備が例によってはらはらと涙をこぼしながら、
「ひとまず樊城《はんじよう》へ逃れることにいたそう」
と、もはやなんと言い訳してやることも出来ない手遅れなのだが、尻に火が点かないと動かない劉備であることを証明する。どうせなら樊城に逃げるなどとけちなことを言わず、ひとまず襄陽を占拠することにいたせばいいのだが……。
「老若男女を問わず、劉備軍団に従う者はただちにわれらとともに樊城に避難せよ。遅れてはならない」
と四門に高札を立てて部下に触れ回らせる身勝手さは、どこか強制的なニュアンスもあり、人災というしかなく、新野の民に考える暇《いとま》さえ与えない押しつけがましさである。しかも敵軍は近々、二十キロ前後の地点にいて勇躍前進しているのだ。
どうしてまたそんな馬鹿げた危機状態に陥るまで何の手も打たなかったのか、さっぱり分からないのだが(孔明がわざとそう運んだに決まっているが)、劉備が孔明に、
「先生、どう応戦したらよかろう」
と、進退|窮《きわ》まったように相談すると、孔明すこしも慌てず、
「案ずるには及びませぬ」
と待ってましたと言わんばかり、むしろ喜んで、
「この前は火をもって夏侯惇の人馬を焼き払い、痛い目に遭わせてやりましたが、こたびも同じく火計を喰らわせてやりましょう」
と余裕たっぷりに爽やかに言った。
そして新野城を鼠取りの罠に変え、先鋒として襲来した|許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]《きよちよ》、曹仁《そうじん》、曹洪《そうこう》の約十万の兵を新野城に閉じ込めて焼き殺しにかかる。兵法の常道に従って一門のみ逃げ道として開けてあったが、我先にと逃れようとする兵らが殺到して大混雑となり互いに踏み殺し合うこと多数。なんとか逃れ出た兵らは、待ち受けていた趙雲に虐殺され、次には糜芳《びほう》、劉封《りゆうほう》に追い殺され、運よく白河まで逃げた兵士も、上流を堰《せ》き止めていた関羽の命令一下に溺殺させられ、仕上げは張飛の無限|殺戮《さつりく》にトドメを刺され、二度と立ち直れないほどの損害を受けたのであった。
曹操は報告を聞いて逆上、
「おのれ諸葛めが、農夫の分際で、よくもわしをこけにしたな」
と、ようやく孔明が視界に入り、殺してみたい男ナンバー2くらいになった。
許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]、曹仁、曹洪が戦死せずに済んだのは、かれらもまた不死身の幸運武将だったからなのか。徐庶《じよしよ》が言うには、
「諸葛亮の計より脱して命を完《まつと》うできたのですから、名将と言うべきです」
孔明は自然界の食物連鎖における武将の天敵、武将キラーなのです、と、孔明を相手にしたら罠に嵌められ殺されるのが平均的な武将のあり方なのである。
大威張りで「オレ様は役立たず」宣言をしている徐庶も何故かこの戦役に同行していた。劉曄《りゆうよう》(この男も初の殺人は十三歳のときで、凶悪少年犯罪の低年齢化に貢献した)が強く推薦したので、曹操の、
「お前ら、いい加減にしとかんと、樊襄の領民も一人残らずぶっ殺すことになるぞ」
という言葉を伝えさせるべく劉備のところに赴くことになった。徐庶は久しぶりに孔明らと馬鹿話をして過ごした。
「ちょっとやり過ぎなんちゃう? 曹操のやつ、孔明のせいでむっちゃ本気になっとるで」
とか警告して帰っていった。
奸雄曹操中原を守り
九月南征して漢川に至る
風伯怒りて新野県に臨み
祝融飛んで焔摩天《えんまてん》に下る
曹操南征の緒戦は神々、風伯《ふうはく》(風神)や祝融《しゆくゆう》(火神)、の怒りに触れて一瞬にして十万を炎上させられたということだが、神々ではなく孔明の怒り(愉しみ)に触れて再起不能のダメージを与えられたのであることは言うまでもない。焔摩天というのは仏教にいう欲界の第三であるが、炎が天を摩するほど燃えている感じがグッドなので使われている。
かくして新野が敵とともに燃え上がっている間に、孔明と劉備は難民たちを連れて悠々と樊城入りしたのであった。
博望坡の戦い、新野の戦いと、前哨戦において孔明は都合二十万の敵を葬り去ってしまっていたという凄まじさで、普通なら曹操とその幕僚らは一時撤退も検討すべきところである。このまま進軍するなら残る四十万も孔明の毒牙にかかり、襄陽に達するまでもなく、曹操もろともこの宇宙から消滅するに違いない。
おそるべきは臥竜! 破格の男曹操が命も風前の灯火か! と読むのが普通の読者であって、わたしだって、そう強い確信が胸に湧き起こるのを止められなかったおぼえがある。
しかし、読者の勝手な期待を裏切るのもまた孔明の仕事である(なのか?)。不審に思いながらも、あれよあれよと、いつの間にやらこの直後には(もちろん孔明の献言もあって)劉備軍団やけくその逃避行になってしまうのだから、いかに『三国志演義』だからといっても、いくらなんでも急変しすぎるというもので、それはないだろうと、このあたり『三国志』も曖昧な顔つきでにやにやしながらよそ見をしているといった印象もある。
ただし孔明がすべての顛末《てんまつ》を事前に予測していたことだけは、どうも確かなようである。ならばもっとなんとかしろよと誰しも思う所だが、この件の責任はぜんぶ仁愛の人劉備に押しつけられていて、孔明の爽やかさにはキズ一つつかず、保たれている。やはり数度にわたる劉表抹殺の献策を却下されていたことで、つむじを曲げていたのであろうか。
まあしかし新野の火計は、博望坡焼き討ちに続く、大ウソ第二弾ということで、日中の研究者がきっぱりと否定している。『三國志』では曹軍襲来以前に劉備軍団は樊城を駐屯地としている。劉jの無戦投降は隠しようもなく樊城に伝わり、慌てた劉備軍団の『三国志』上屈指の遁走《とんそう》劇の幕が上がることになる。
近頃の研究は否定ばやりで、「三顧の礼はなかった」「赤壁《せきへき》の戦いはなかった」「関羽は青龍|偃月刀《えんげつとう》を見たこともなかった」等、歴史の捏造と抹殺ではどっちが罪が重いかというような話にも飛び火しがちで、言ってしまえば時の政権の方針に支障がなければべつにどっちでもよいというのが歴史なのである。
つまりは降伏恭順を是とする荊州《けいしゆう》の家臣団と客将劉備の意見立場が大いに食い違ってしまい、もはや樊城、襄陽にいられなくなったのであり、荊州家臣団は曹操が来ても頭を下げていればそれで済むが、前科のあり過ぎる劉備の場合は頭を下げたら斬り落とされることは避けられない。それどころか曹操迎え入れの引出物とすべく、荊州兵が一転して襲いかかることだって考えられる。劉備が荊州を乗っ取らなかったことが大ミスであり、逃げるタイミングを誤ったことが次のミスであった。大筋は無理なく理解できる流れである。
ところがここに、
「ただ逃げたのではないぞ。ちゃんと一発かまして片膝つかせてからおもむろに逃げたんだからな。そこの所はしっかり大きく書いといてくれんと困る」
というような負け惜しみ要素を盛り込もうとするから話がややこしくなる。博望坡、新野の火計がそれである。劉備軍団史にはけっこう見られるのだが、相手が膝を着いたというのなら、チャンスなんだし、最後まで殴り切ってKOするなり(関羽、張飛におまかせ)、チョークスリーパーで締め落とすなり(趙雲ならできるはず)すればいいのである。
現実の戦史には、大敵に遭遇し逃避する前に意味のない形ばかりの攻撃姿勢を見せ、それだけならいいのだが(相手の意を一時でも惑わせるときもある)、問題なのはその指揮官が反抗の一戦を明記することを記録官に強要するケースが少なからずあることである。張飛が、
「長坂橋《ちようはんきよう》に仁王立ちして、曹操の一味を惨殺しまくり、一喝して心胆寒からしめたら、やつらびびり上がって凍り付きやがった。おれは殺し逃げしたんだ。趙雲みたいに裏切り者と間違われても仕方がないほど走り回っていたのとは天地の差がある。そこをきちんと書いとけよ」
と殺戮的意地っ張りでいうなら可愛げがあるが、軍隊でしばしばあるのは、じめじめした官僚的な思考から出ており、無戦逃亡がキャリアの傷になって出世が遅れることを恐れての故、といったケースであり、要するにエゴである。ただ逃げたって別にいいじゃないか、劉備を見習えと言いたいが、劉備の場合は軍人のメンツが無さ過ぎなところが玉にひび割れである。
不期遭遇戦において、こちらに全滅の危機がある場合に回避行動をとるのは、別に軍人の恥辱でもなんでもなく、ときには名人芸的な指揮力を必要とするものだと思うが、己に自信がない者は負けの恥辱気分にさいなまれ、人に、とくに上司に粉飾したい心理になるものらしい。
「払暁《フツギヨウ》、我ガ隊、期セズシテ敵数千ニ遭遇シ、多勢ニ無勢ナルモ、玉砕ヲ恐レズ勇奮ノ一撃ヲ加エントス。而《シカ》シテ敵鋭鋒ノ意図盛ンナルヲ挫滅《ザメツ》セシメ、後速ヤカニ離脱シ、一兵モ損スル無キヲ得ルハ我ガ名誉ナリ」
とか、記録者は陰湿に脅されて、戦況にまったく変化をもたらしていないどうでもよい攻撃(の証言らしきもの)を、疑問符につきまとわれながら書くわけであり、後にそれを読む者はなおさら不可解となるという寸法である。戦史を読む難しさである。
孔明の博望坡、新野の連続放火はこれに近い弁解戦闘であり、しかも捏造なのだが、違いは孔明のキャリアアップとは無関係に(でも子供たちの評判はアップ)、また孔明が作家を脅したわけでもなく、時の政府が政治方針として強要したわけでもないのに、後世の記録者が残虐な大量殺人を楽しげに書き込んだということだろう。結果として後世の気鋭の研究者がわざわざ、
「孔明のウソ戦勝には釘を刺しておかねばならない」
と正義に燃える心境になってしまうほどに歴史を誤らせてしまった。別に小説なんだからプロの研究者が目くじら立てる必要はないとも思うが、正しい歴史教科書をつくるためには、些細な虚偽も捏造も許すわけにはいかないらしい。
というわけで孔明は今のところまだ軍事的な活躍は何一つしていないと言えるわけだが、劉備の方針のせいでしたくとも出来なかったと庇《かば》うことも可能である。
さてここまで語ってきたものの、劉玄徳のせいもあり、なお孔明さしたる活躍もなく、講談師泣かせの遊びぶり、次こそ何かしてもらわんと困るというところ。
それは次回で。
[#改ページ]
劉皇叔、大いに獅子吼《ししく》して民を魅惑し、携えて江を渡る
南方侵攻を宣言しての七月、曹操《そうそう》陣営は荊揚《けいよう》に多くの間者《かんじや》を放っており、その方面でも万全であった。劉表《りゆうひよう》、劉備《りゆうび》、孫権《そんけん》を完膚無きまでに打ち破ることに関しては何の心配もしていなかった。益州《えきしゆう》の劉璋《りゆうしよう》などはぶるっていて、内々ながら兵士役夫を曹軍に加勢させるとまで言ってきている。むしろ遠征中に内国で反乱が勃発することの方が頭痛の種である。
華北平定を成したとはいうものの、実際のところはすべての豪族領民が納得していたとは決して言えず、あちこちで小中規模の武装蜂起が発生していたことは『三國志』からうかがうことができる。曹操はもぐら叩きのような出兵をほとんど慢性的に余儀なくされていた。内政参謀の荀ケ《じゆんいく》は南征に慎重であった。
「戦《いく》さに逸《はや》ることなく、まずもって領地を盤石に治めれば、謀叛気を起こす者もいなくなりましょう。荊、揚と事を構えるのはそれからでも遅くありません」
と、いつものことながら清々《すがすが》しい意見を述べた。旧領新領の政情不安を無くせば、徒労感あふれる反乱討伐も自然に減少してゆくであろう。
しかし、民政も戦争も同時進行でやるのが曹操の流儀であり、そこは譲らない。反乱に備えての留守部隊を割き置かねばならないのは痛し痒《かゆ》しだが、曹操は今度の遠征で多少無理をしてでも南方問題に一挙にけりをつける決意であり、それに一段落ついてこそようやく本格的な善政を施す基点となる、という考えだ。
「ともあれ袁紹《えんしよう》一族以上に手こずるはずはない。荊州、江南制圧戦は短期に終わる」
という楽観論が根底にあったことは否定できず、荀ケの堅実良治の策は、それは戦さの後にやれ、ということになった。戦費金策にのたうち回って苦労するのはいつも荀ケである。
荊州や呉《ご》郡の諜報を得れば得るほど勝利への安心感が増すのだから仕方がない。まず第一目標の劉表と劉備軍団がもっとしっかりしていてくれれば、かえって荀ケの負担は減るはずだという変な矛盾がある。
劉備軍団は諜報戦にうといというより、うかつであったので、その内情は曹操陣営に筒抜けであった。こうした状況で孔明《こうめい》が奇手を打ったとしても、荀攸《じゆんゆう》や|賈※[#「言+羽」、unicode8a61]《かく》らに丸裸に分析され、逆手に取られる可能性が高く、何も手を打たない方がましであるかも知れなかった。
劉備軍団に諸葛亮《しよかつりよう》孔明という者が加わったことは知られていた。ただ、どういう男かがよく分からない。間者の報告によれば最低の変質者であるというもっぱらの評判で、臥竜《がりよう》、つまり眠りこけて使えない竜といった役に立たなそうな名で呼ばれているという。
徐庶《じよしよ》を呼び出して訊《き》くと、いちおう|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公《ほうとくこう》や司馬徽《しばき》の門下にて、異才をあらわした期待の新星だとは言うが、なるべく良い方に解釈してやっても、奇才とか天才と呼ばれる者にありがちな、エキセントリックでパラノイア気質の、社会不適合すれすれの者であるかと思われた。ああ見えても抜け目のないところがある劉備がどうしてそんな青二才の異常者を三顧までして招聘《しようへい》したのか? が、疑問として残った。
で、そこらあたりを詳しく調査させると、ほとんど遊び半分にしか見えない孔明の勤務実態が明らかになった。
「諸葛亮はどうもまったく劉|玄徳《げんとく》に信用されていないようですな。ろくに仕事も与えられておらぬ様子です」
と荀攸が言った。
「報告によれば劉玄徳はその諸葛亮とやらの献策を何度も却下したそうで、きっと机上論をもてあそぶだけの頭でっかちの若僧なのでしょう」
しかし曹操は苦虫を噛み潰したような顔で、
「いや、劉備という男は昔っから人の言うことを聞かん奴だった」
と言った。
「その諸葛亮の献策が、お話にならぬ空論だったとは限らぬ。たんなるわけ知りの青下郎であるかも知れんとしても、いちおう注意はしておけ」
と命じておいた。
劉備は人を敬い、意見には丁重に聞き入る態度は示すのだが、だからといってそれに賛同するかは別であり、例によって最後は関羽《かんう》、張飛《ちようひ》にしか通じない理屈とか意地とか志を押し通してきた。そんなことだから劉備には長らくよい軍師参謀が付かなかったのだ。とにかく人の下でじっとしていられない男であるから、公約の漢室復興が実現したとしても、献《けん》帝の言うことだってまるで聞かない可能性が高く、曹操を上回る破廉恥なことをしでかす恐れが大である。
(とても天下を任せられるような奴ではない)
と曹操は思っていよう。
曹操は才があれば、たとえ痴漢であろうが、泥棒であろうが、マニアであろうが、その人格人品趣味嗜好は不問に付すという危険な唯才主義の人材狂であり、才あれども人としては異様に偏っている者をたくさん臣下として迎えている。でも、時々、あまりにも曹操の美意識に反する言行があるとチョンと首を刎《は》ねてしまうのだが。
司馬懿《しばい》、字《あざな》は仲達《ちゆうたつ》は、曹操のそういうところが嫌いで、まだ若いくせに中風だとか言って怠け引き籠もっている。
仲達の司馬家は、代々民政官を輩出する上々の家柄である。父の司馬|防《ぼう》は京兆尹《けいちよういん》(長安周辺の民政官)であった。司馬家は後漢末をドロドロにした党錮《とうこ》の禁《きん》騒動においては典型的な清流派を貫いた。
実兄の司馬|朗《ろう》は早くに曹操に仕えて主簿の職にある。主簿は言うなれば内閣書記官の長であり、かなり重い。次弟の司馬懿にも会計係の仕事を与えて出仕させてみたものの、すぐに辞めてしまっていた。長男司馬朗が曹操に重用されているから司馬家は安泰で、自分まで働く必要はないと考えていたようだが、そういうニート根性がいつまでも通じるはずがなかった。司馬懿は働かなくても食える状態を曹操に取りあげられてしまうことを恐れて、孔明とは正反対の理由で変態病人のふりをして楽しく暮らしていた。あくまでふりだから、天下統一の秘計などを密かに妄想するようなことはなかった。兄司馬朗がずっと健在であったなら、後年孔明と戦わせられるようなことにならなくて済んだかも知れない。
ところが、まずいことに西曹掾《せいそうえん》(官吏登用の丞相《じようしよう》属官)の|崔※[#「王+炎」、unicode7430]《さいえん》は以前から司馬懿の才能を見抜いており、この頃、文学掾《ぶんがくえん》が新設されたことを機に、曹操に強く推薦してしまった。曹操の目が美女を見るときのように光り、
「すぐに連れてこい」
ということになった。
崔※[#「王+炎」、unicode7430]が司馬懿を訪れ、
「仲達よ、抜擢だぞ」
と喜ばせるつもりで言ったが、司馬懿は紫のハチマキを頭に巻いた二日酔いの馬鹿殿様のように床の上でくねくねしており、あからさまに嫌そうな顔をして、
「お召しには添いかねます。いやもう中風がひどくて、下半身が麻痺しかかっておる有様なのです。三十を前にして立たず。妻には結婚以来介護の苦労をかけ通しで、おむつなしで曹公の面前にまかって、その場で漏らしてしまわないかと気が気ではありません」
と言う。
司馬懿はこの頃から病気のふりが得意だったわけだが、後年、クーデターを起こした際の老衰老人の迫真のボケ演技はアカデミー主演男優賞ものであり、軍師たるもの常々演技力にも磨きをかけるべしということを若年の頃より実践していたのである。
ここの中風は、正確には「風痺《ふうひ》」と呼ばれる四肢の筋が細り痺れる起居不能の難病である。わざわざ仮病にそんな念の入った特殊な病気を選んだのは、もう手の施しようがないということを世間に喧伝するためと、自ら課した役作りへのハードルの高いチャレンジ精神からであった。「風痺」を完璧に演じることが出来るなら、この先どんな難しい仮病だろうが、自在にこなすことも夢ではない。
のち五丈原《ごじようげん》で孔明が司馬懿に女性服を贈るという(変態チックな)ことをしたが、
「きみの美麗な女形《おやま》すがたを見せて欲しいな。女っ気のないむさくるしい滞陣《たいじん》に、皆も心にうるおいを失くしかけている。きみの演技力ならできるはず!」
喪服の女の艶《つや》っぽい風情はたまらぬものと、無言のリクエストとエールが挑発状の行間から立ち昇っていたのかも知れない。
崔※[#「王+炎」、unicode7430]は司馬懿をじろじろ眺めた。
「そんなに重病なのかね」
「もう身は廃人にござる」
だが、このとき司馬懿の演技力はまだ甘く、崔※[#「王+炎」、unicode7430]は、
(おそらく仮病だろう)
と見透かしていた。
崔※[#「王+炎」、unicode7430]は、昵懇《じつこん》の仲の司馬朗に、
「あなたの弟の仲達は、聡明誠実、剛毅果断、すぐれた才質を持っており、おそらくあなたの及ぶところではありますまい」
とまで言って絶賛をしていた。
「弟を過分に評価していただくのは構わんが、あれが進んで本気で働くというのでなければしようがない」
と嘆いて、司馬朗は司馬懿のことでいろいろな愚痴をこぼした。それで崔※[#「王+炎」、unicode7430]も、司馬懿の外見からは察しがたい、一筋縄ではいかない変なところを多少は知っている。しかしそういう奇異な性質は、魑魅魍魎《ちみもうりよう》の群がる官界ではかえって武器となるやもしれぬ。
「だが仲達、そうは申せ、曹公に召されたからには、断るにしてもやはり自ら一言あるべきだろう。床に寝たままでもかまわん。下男に担がせてでもつれてゆくぞ。でないと、わしの顔が立たぬ」
曹操の場合、ダメ人間を推薦すると、当のダメ人間ばかりでなく、推薦人まで罰を受けることがある。崔※[#「王+炎」、unicode7430]もある程度必死であった。曹操のやり方は、カネやコネでの立身が当たり前になりかけており、ダメ人間(とまでは言わずとも凡人)がぽんぽん挙げられている孝廉《こうれん》の制度を破壊することに功があった。
「きみも曹公のお考えは知っておろう。管仲《かんちゆう》や陳平《ちんぺい》を登用しようとして、綺麗事を言うようなことでは、まことに愚か極まりないことで、大事業の達成などおぼつかないのだ、と」
むかし斉《せい》の桓公《かんこう》は、ヤクザまがいの不道徳な生活を送った上、テロリストとなり自分を狙撃したこともある管仲を採用して、存分に手腕をふるわせ覇者となった。
また陳平は兄嫁をレイプしたり、賄賂を受け取ったりと、とかく問題のある男であったが、劉邦《りゆうほう》に仕えてかの張良《ちようりよう》ですら度肝を抜かれるほどの謀略を次々にひねり出した。とにかく管仲、陳平とも孝廉には絶対に挙げられないであろう欠点があったが、そんなものはその才能と実績の輝きの前ではなにほどのものでもない。曹操は才能さえあれば他の欠点のことは尽《ことごと》く目をつむってよいのだとして、実際にそうしている。
史上ここまで才能主義を徹底して行ったのは曹操くらいなものであり、その人間観にはどこか超越したものがある。またそんな才のみ高いが人間としては失格な連中を使いこなせるという自信がなければ言えることではない。
「唯《た》だ才のみ挙げよ。これが曹公の信条である。仲達よ、才さえあれば半身不随の寝たきりであろうと、ずっと漏らし続けであろうと、そんなちっぽけなことは何の障害にもならないのだ。曹公は中風だからといって才人を遠ざけたりはせぬ。才人が近付いてこなかったら廷尉《ていい》を差し向けてひっ捕らえてでも近付ける」
なかば脅しである。病人であろうが才ある者はこき使われねばならない。
「季珪《きけい》(崔※[#「王+炎」、unicode7430]の字《あざな》)どの、それは無茶というものでは。だいたいわたしに曹公が悦《よろこ》ぶような才があるとは思えませぬ」
「いや、ある」
と崔※[#「王+炎」、unicode7430]は断言した。
「あってもらわねば困る。わしを笞《むち》打ち百回の目に遭わせたくなければ、頼むから、才を搾《しぼ》り出して見せてくれ。孔文挙《こうぶんきよ》のこともあって、人材推薦の数をこなさないとまずいのだ」
どうも推薦数にノルマのようなものがあるらしい。
「孔文挙ですか。確かにあの方の代わりはなかなかいないでしょうね」
とかなんとか話しているうちに、諦めの気分になってきた。司馬懿は曹操に目を付けられた(というより崔※[#「王+炎」、unicode7430]に目を付けられた)不運を受け入れるしかないと思い始める。己の演技力が未熟だったのが悪いのだ。
(季珪先生も余計な告げ口をしてくれたものだ)
あくまで出仕を断って家財没収などになったら、遊び暮らすどころではなく、家族にも申し訳が立たない。聞くに新設役職の文学掾《ぶんがくえん》は文書整理係のようなものらしいから、別段、凄い能力が必要とされるような仕事でもあるまい。
(ほどほどにやればよい)
と司馬懿は出仕を、形だけは喜んで拝受した。
しかし文学掾は公文書の起草と経学教授が主な業務で、丞相の秘書官のような役割も兼ねさせられ、思った以上に教養と機転と韜晦《とうかい》が必要な面倒臭い仕事であった。曹操、曹丕《そうひ》をはじめ、朝廷の高官と接触する機会の多いストレスフルな役職でもある。曹操から諮問を受けるようになり、数年後、主簿《しゆぼ》に任ぜられることになる。さらには曹丕に参謀役のような扱いを受けるようになってしまったのは、司馬懿の誤算であったろう。早く本物の病気になりたい。
崔※[#「王+炎」、unicode7430]は剛直な民政官であり、曹操の信頼も厚かった。才能を見る目は確かで、多くの人材を抜擢し、その最大の者が司馬懿となった。べつに司馬懿が陥れたわけではなかろうが、曹操とこじれてこの八年後に獄中で死ぬことになる。
曹操は崔※[#「王+炎」、unicode7430]の推薦があるまで司馬懿のことなど眼中になかったし、知った後でもことさらに出世もさせず、その才は認めるがあまり好みではないというふうである。曹操は、
「司馬懿は目つきがあやしく、いつも狼のように警戒しているから、絶対に軍事を任せてはならない(という重大な指示は守られなかったのだが、なぜだ?)。必ず国難の原因となるだろう」
と、つよく警告した。司馬懿は、何故だか知らないが、プロの雑伎人でも難しい、肩を微動だにすることなく首だけ一八〇度回転させて真後ろを見るという、普通なら頸椎脱臼《けいついだつきゆう》を起こして死に至りかねない、難度の高い危険な曲芸も会得しており、それを「狼顧《ろうこ》」といったのだが、曹操はその妖怪のような身のこなしを見て、譬《たと》えようもない不気味さを感じ、
「あんな人間離れした動きをするやつに軍事を任せてはいかん」
と、心臓をどきどきさせながら思ったようだ。司馬懿とは、どこか変てこりんなところのある人間であった。
反乱を企むのも才のうち、と認めるような、唯才主義を標榜する曹操に、変わった事情で危険視された司馬懿は、しかし殺されることもなかった。のち司馬懿が魏の人間関係に苦労させられたのは、曹操が、よく用いれども決して気を許さなかったところを皆に見られていたからである。
三国時代の臨終を演出した燃えない男、『三国志演義』における、曹操に次いで憎らしくて滑稽《こつけい》なカタキ役の司馬懿はこうしてひっそりと登場したのであった。
さっきの話にちらと出た孔文挙とは、孔融《こうゆう》のことである。曹操の南征出陣宣言の直後に血祭りに上げられた。
孔融、字《あざな》は文挙は、孔子二十世の子孫であり、聖人の末裔《まつえい》として、格別の存在であると天下に認められていた。
『三国志演義』では曹操に逆らって殺された被害者ということで、かなりいい人に描かれている。しかし悪質な舌禍《ぜつか》マシーンであった非礼上等の禰衡《でいこう》を、
「わたしの十倍の才能の持ち主である」
と、(そう思っていなかったことは明らかだが)持ち上げたりして、孔子の末裔にしてはどこか不仁なところがある。
孔融は黄巾《こうきん》の乱の最盛期に大将軍|何進《かしん》の要請を受けて出仕し、のち北海の相となって行政した。北海が黄巾の残党に襲われたとき勇将の誉《ほま》れ高い太史慈《たいしじ》を遣って、たまたま近くをうろついていた劉備に救援を求めさせた。当時売り出し中の劉備は、
「かの大聖人孔子のご子孫である孔文挙どのが、この玄徳ごとき卑賤の虫けらのことをご存じくださっているとは!」
と感激のあまり涙にむせびながら、しかし宣伝の大チャンス、関羽、張飛を連れて急行し、黄巾の残党を思い切り虐殺した。その後、孔融と劉備はしばらく行動を共にする。
「孔子の末裔、孔融に頼られた」
と劉備があちこちで自慢しまくったことは言うまでもない。孔融の方は劉備を無教養な戦さゴロだとしか思わなかったのだろうが、せっかく助言しても全然言うことを聞かないので参謀役を勤める気にもならなかった。
孔融は血統のよさもさることながら、建安七子の一人に数えられた文人であったが、陳寿は『三國志』に孔融伝を立てることさえしていない。|崔※[#「王+炎」、unicode7430]《さいえん》伝にいう。
「太祖(曹操)は嫌悪の情がつよい性格で、どうにも我慢ならない相手がいた。孔融、許攸《きよゆう》、婁圭《ろうけい》はみな、昔のよしみを恃《たの》んで傲慢不遜な態度をとったため処刑された」
と、公平に見てどちらかと言えば孔融が悪かったというニュアンスである。ちなみに崔※[#「王+炎」、unicode7430]が処刑されたのは、無実の罪だったと書いてある。
さらに裴松之《はいしようし》が孔融の我慢ならない態度の例を引用する。
孔融がまだ十歳あまりの頃、当時名高かった河南尹《かなんいん》の李膺《りよう》に面会を求めに行った。李膺は来客の多さにげんなりしていて、
「当代の優れた人物と先祖の代からつきあっている家(通家《つうか》)の子孫にしか会わない」
ということにした。孔融が、
「じぶんは通家の子孫である」
と言っているというので、李膺は会うことにした。そして、通家の実情を問うと、孔融は得意そうに言った。
「わたしの先祖は孔丘《こうきゆう》、字《あざな》は仲尼《ちゆうじ》ともうします。わが祖先はあなたの祖先である李老君《りろうくん》(老子)に面会を求め、弟子となり友人となり、肩をならべる徳義をもっておりました。してみればわたしとあなたとは何代にもわたる通家でございましょう」
李膺が老子の子孫というのは洒落だろうし、そもそも孔子が老子を訪ねたというのも『史記』には載っているが肝腎の『論語』に記載がない、疑わしい伝説に過ぎない。こまっしゃくれたガキの勉強自慢である。しかしその場にいた者は、見事な屁理屈だと思い、
「大した子供だ。神童というものか」
と褒めた。太中大夫の|陳※[#「火+韋」、unicode7152]《ちんい》が意地悪く、
「人間は小さいときに賢くても、大きくなっても優れているとはかぎらないぞ」
とたしなめ、お前も二十歳過ぎればただの人だろう、と言った。だが、孔融は、
「もしそうであれば、あなたは幼いときさぞかし賢いといわれたのでしょうね」
と切り返した。李膺《りよう》は大笑いして、
「きみは大きくなったらきっと立派な人物になるだろう」
と言った。少年孔融の才気煥発、学識と機転は後世|畏《おそ》るべしとの感を抱かせるに十分であった。だが中には、理屈っぽく知識を鼻にかける生意気なガキと思った者も少なからずいたろう。
孔融のこういう常に自分の優位を誇示したがる性格は死ぬまで変わらなかった。曹操に仕える(正確には漢室だが)ようになってさらにひどくなったが、自分を曹操より遥かに上だと見ていたからである。孔子の子孫であることをかさにきて、曹操どころか漢室、献帝よりも高貴だとうっかり口を滑らせたりもしたらしい。
孔融は、曹操最大のコンプレックスである「宦官《かんがん》の家の子」ということを、言い書きする際に、必ずといっていいほどちくりと刺す陰険を忘れなかった。孔融が正論を発して、曹操も認めて素直に従うこともあった。しばしば不快な顔を向けられても処罰までは受けなかったから、
(曹|孟徳《もうとく》にはわしを責めるほどの度胸はないな)
と思い上がり、だんだん度が過ぎてきた。
穀物不作のおり曹操がやむなく禁酒令を出したとき、
「堯《ぎよう》が千杯の酒を飲まなかったら、その聖業は完成しなかったでしょう。桀《けつ》、紂《ちゆう》は女色《によしよく》に耽《ふけ》って国を亡ぼしたのですから、同じく婚姻にも禁令をだしたらどうです」
と、ほとんど悪がらみし、自分の祖先をどう捉えていたのか疑われるが、禰衡《でいこう》と論じて悪乗りし、互いに「仲尼《ちゆうじ》の再来」「顔回《がんかい》の生まれ変わり」と称え合いながら、韓非子《かんぴし》が言いそうな儒学否定を口にする。
「魯《ろ》は儒学を重んじ過ぎたために滅びたのだから、儒学も禁学にすべきだ」
と暴言し、ついでに、
「父が子になんの情愛を持つことがあろうか。もとはと言えば性欲の発露にすぎぬ。子と母の関係も然《しか》り。物が瓶の中に入っていたようなもので、外に出れば別々のものだ」
と、孔子の学の重要徳目である孝の存立を冗談でもゆるがした。
また|※[#「業+おおざと」、unicode9134]《ぎよう》陥落のおり、曹丕が袁煕《えんき》の妻の甄氏《しんし》を掠奪したが、それを曹操に手紙を書いてあてこすった。そのうちの、
「むかし武王が紂王を討伐して戮したとき、その后の妲己《だつき》を周公旦《しゆうこうたん》に下し与えたということにかんがみ」
が引っかかった。博学多識な孔融は古典から故事を引用して誇示する癖がある。曹操はこんな説は初耳だったので、孔融に会ったとき出典を質問してみると、
「現在のことから忖度《そんたく》するに、そういうことがあったに違いないと考えただけで、べつに出典はありません」
と答えた。つまりは、
「曹操がわが息子に敵の妻をくれてやったのを見るに、周公旦のときもおおかたそんな感じだったんじゃない? いやだねえ」
ということだ。知識人のみならず民衆も嫌な気分にさせるであろう暴言とあてこすりの積み重ねに、とうとう曹操も我慢ならなくなり、大逆無道風俗|紊乱《びんらん》の罪で妻子ともども処刑した。
孔融にはまだ歯も抜け替わらぬ子供が二人いたが、目前で孔融が逮捕されきりきり引っ立てられているというのに、無表情に双六《すごろく》遊びを続けている。捕吏が怪しんで、
「お前たちの父親が捕縛されておるのだぞ」
と言うと、
「巣が壊されて卵が割れないことがあるものか」
と、当然のことが当然のように起きるだけなのだと、泣きも笑いもしない。裴松之は、この孔融の子の態度について、理解しがたい気持ち悪さである、と不気味がっている。孔融の教育方針が感情障害気味の恐るべき子供たちを育て上げていたのだ。この二人の子も処刑されたわけだが、おそらく無表情無感動で死んでいったろう。
わたしは儒学の祖、孔子についてはいろいろ思い入れがあるのだが、もし孔子がこの時代に孔融の立場に生まれていたら、どういうことをしたであろうかと想像することがある。学者では収まるまい。反骨、剛直な振る舞いは多々したであろうが、屁理屈誹謗捏造はしなかったと思う。また孔子は世に道なければ蔵《かく》れる、巻懐《かんかい》の志を語っているから、表舞台には登場しないかも知れない。
だが「孔子変質者説」というものもあり、孔子を恨みつらみで精神が偏向した誇大妄想の教祖であるとする。こちらであればそのDNAが孔融を孔融にしたのであり、孔子、もし世にあらば多分似たようなことをしでかした、となる。
この孔融を『三国志演義』が描くと、
孔融、北海に居し
豪気、長虹を貫く
座上に客、つねに満ち
樽中に酒、空しからず
文章、世俗を驚かし
談笑、王公を侮る
史筆、その忠直を褒《たた》え
官に存して太中と紀す
と、いやに節義の高そうな反権威、反権力の豪胆な才人の姿が目に浮かぶことになる。
そもそも『三国志演義』での孔融|誅殺《ちゆうさつ》のいきさつは、曹操が出陣を言い渡したとき、孔融が、
「劉備、劉表はともに漢室の一門ゆえ、軽々しくこれを討つのはよくありません。また孫権は六郡を支配し、かつ長江の要害を頼みおりますゆえ、たやすく取ることのできるものではありません。かかる名目の立たぬ戦さを起こされては、天下の人望を失うことになりましょう」
と諫言《かんげん》したのがきっかけである。『三国志演義』の世界ではもともと曹操には人望のひとかけらもなく、恐怖と暴力で暗黒支配をしていたことになっているから、あまり意味のない忠告である。
戦さの名目は、献帝の勅命という形をとっており、筋は通っている。だいたい州牧《しゆうぼく》、刺史《しし》(刺史はもと郡太守、県令らを調べる地方監察官であったものが、いつしか行政、軍事の権限を持ってしたほうが都合がいいと、州に腰を据えて巡察するようになり、あらためて牧と呼ばれるようになったもので、よって刺史、州牧はほとんど同じと思ってよい)とは漢帝国皇帝の任命によって派遣された地方総督官なのであり、決してどこかの謎の軍団が居座っているのではない。あくまで官僚が法に従って運営しているという建前である。
後漢末の州牧、刺史は、いちおう帝国の臣と称してはいるが、ほとんど独立地方軍閥の長のていをなしており、荊州牧《けいしゆうぼく》の劉表も、益州牧《えきしゆうぼく》の劉璋も、(一人だけわけの分からん)豫州牧《よしゆうぼく》の劉備も、牧だというなら献帝の家来として朝廷の命に服するのが道理なのである。それが漢室を蔑《ないがし》ろにし、独立王であるかのような怪《け》しからぬ振る舞いに及んでいるから、乱れを正すべく征討して、帝のご宸襟《しんきん》を安んじ奉らねばならぬ、となる。
呉に関しては、孫権には豪族の雑居状態にある揚州方面の管理人を一時的に任せているだけで、こたびあらためてきちんと整理し直し、居るにふさわしい者を州牧に据えて明朗にしたいということだ。べつに土地を強奪するというような話ではないのに、呉の連中が降伏だの抗戦だのと騒いでいること自体が笑止千万、烏滸《おこ》の沙汰というしかない。
あれこれ反朝廷の賊徒討滅の大任を曹操が長年にわたり粉骨砕身の働きで果たしてきた。地方のやくざな勢力がそんな曹操に理屈の通ったいちゃもんを付けようとしても、すぐに論理破綻をきたすのが関の山である(怪しいところだが、破綻のない屁理屈を通したのは孔明くらいなものである)。曹操の圧倒的な有利さは、他人にどう見えようが常に名目が立つ戦争を行えたことにある。逆に言えば、この有利さを必要とする限り、曹操は漢帝国を倒すなどということはしたくとも出来ない。
曹操の決意を翻《ひるがえ》せなかった孔融は丞相府を出たあと、かのガリレオのように嘆息して言った。
「不仁のかぎりを以て至仁を討つ。絶対に勝てるはずがない」
と、なぜか劉備軍団は仁徳の至りであると決めつけての、地動説と天動説の逆転拒否くらいに狂信的だが理想主義的な見解である。
もし孔融が本気でそう思っていたのだとしたら、天下の情勢を客観的に分析する能力が著しく劣っていたと見なされても仕方があるまい。この片言を盗み聞きしていた者が曹操に告げ口に及んだため、曹操は大いに怒って他にも罪をでっち上げ、すぐさま刑殺して死体を市に曝《さら》した。
『三國志』的事実は曹操の南征宣言の時期と、孔融の長年にわたる「過激な言説」断罪の時期が重なっただけの話で、二つはそれほど関係のないことである。
六月に曹操が三公(司徒《しと》、司空《しくう》、太尉《たいい》)を廃止し、丞相に権力を集中させたことへもねちねちと批判をしていて、直接のきっかけはこちらだろう。言うなれば財務、法務、国土交通、経済産業、農林水産、厚生労働、防衛、警察、文部科学の各大臣長官を廃止し、首相一人にぜんぶやらせるような改革で、超人にあらざれば遠からず過労死するのは目に見えているから、好きにさせておけばいいのである。中国と対等な国家は存在しない建前であるから、外務省のようなものは庁より小規模のものしか存在しない。
孔融が死に繋がるかも知れない曹操への難癖も含んだ批判をやり続けたことは、清流硬骨の士の証《あかし》ともとれるが、おそらくは剛胆なのではなく曹操を舐《な》めていたのである。名門中の名門出身であり、かつ、天下の文人として名高い自分に手出しが出来るはずがないとタカを括っていた。実際に夏侯惇《かこうとん》や曹仁《そうじん》のような親類筋の武人は、
「何故、あの腐れ儒者の口を塞いでしまわぬのか」
と息巻くことがあったが、荀ケ《じゆんいく》、荀攸《じゆんゆう》ら名士は孔融の威光に遠慮がちで、面と向かって咎めることをしない。曹操の怒りを宥《なだ》めよう押さえようとさえした。如何に悪質だとしても、孔融を殺した場合のネガティブイメージは取り返しのつかない大きさとなろう。
孔融処刑が全国に伝わったとき、各地の知識人たちはみな仰天し血相を変え、深い同情を寄せた。
「孔融ほどの当代随一の人物をも、曹操は些細な理由をつけて殺してしまう」
と、嫌悪感情が一気に高まってしまった。曹操にすれば珍しく拗《す》ねて、
「お前らは孔融の嫌らしさが分かっていないからそう言えるのだ。些細な理由どころの話ではない」
と、いじけた布告を出したほどだ。ただ、この件で曹操の南征の本気度は只事ではないと拡大して見られる結果となった。
だがしかし、圭角《けいかく》のありすぎる奇矯な性格であったにせよ、孔融は、官吏としての勤務実績は無きに等しかったが、その代わりを補って余りある文化的存在力によって朝廷の一角を支えていたのは間違いない。すぐに代わりがきくような軽い人材ではなかった。もし孔融が無能であったら聖人の末裔だろうと、とうに追い払われていたろうし、曹操とて連発される悪質な言辞に対してもっと早く辛抱をやめたであろう。
曹操の人材|蒐集《しゆうしゆう》は南征中でもびしびし行われ、襄陽《じようよう》では王粲《おうさん》、|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》の獲得がことのほか曹操を喜ばせることになる。
かくて孔融刑殺ののち、曹操は許都《きよと》の留守役を荀ケに任せ、五隊に分けた軍勢を張遼《ちようりよう》、于禁《うきん》、楽進《がくしん》ら泣く子も黙る歴戦の宿将に率いさせ、順次出発させた。曹操の懐刀たる軍師たちも同行させており、ほぼ総力戦の構えであった。その数五十万強であって、公称は百万と叫んでいる。『三国志演義』では先鋒の曹仁《そうじん》、曹洪《そうこう》、|許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]《きよちよ》の部隊が孔明にあっさり焼き殺されたから、十万は減ったことになる。
実際は総勢二十万ほどだったとされ、のちまた※[#「業+おおざと」、unicode9134]の玄武池にて水戦の訓練を受けた五万程度が追加派遣されたと思われる。たかが二十万くらい、妄想の世界では孔明が白羽扇《はくうせん》を一翻しただけで消滅してしまいそうな寡兵といえるが、現実の世界ではもちろんのこと脅威の大兵団である。曹操史上最大の動員数であった。二十万の人員と馬匹《ばひつ》が陸続行進する様を想像していただきたい。日本史上屈指の関ヶ原の大会戦は、諸説あるが、東軍十万四千、西軍八万五千の兵数であって、双方合わせても二十万に及ばないのである。
大軍になればなるほど移動が遅く、動きが鈍り、個々の兵士に命令が届きにくくなるのは仕方がないというか、やむを得ぬ事である。巨大な攻城兵器まで運ぶとなればなおさらである。白馬《はくば》、官渡《かんと》の戦いで袁紹《えんしよう》軍が後れを取った理由の一つは、大軍操作の難しさにあった。
千の兵でもきちんと動かすには、『三国志』を読んだだけではうかがえない、千数百年以上にわたる経験から編み出されたじつに様々な工夫と仕掛けと訓練が必要なのであって、ただ人を集めて、それ突撃せよ、ではどうにもならない。『三国志』ではお馴染みの、多面埋伏《ためんまいふく》、オトリ誘引のようなやや高等な動きを確実に行わせよと上に命じられたなら、その苦労はやるたびに指揮官の頭に白髪を増やすストレスとなったろう。当時、二十万を組織的に動かすという大変さはとうてい想像のつくものではない。
二〇八年七月に※[#「業+おおざと」、unicode9134]と許都から出発した曹軍は八月に南陽《なんよう》、宛《えん》、葉《よう》に進出、新野《しんや》近辺を劫掠《ごうりやく》し始めるのが九月である。つまり曹操の出陣号令から部隊の到着までひと月半かかったのである。これでも曹操の疾風迅雷の用兵速度なのであり、曹操でなかったら三ヶ月はかかったかも知れない。
中国の地図を見て思うに、よくもああだだっ広い所を移動した上に、頭脳を凝らした駆け引きまで加え、チャンチャンバラバラやれたものだと感心する。わたしだけジープに乗せてもらえるとしても、疲れ切ってしまうに違いない。かりに北海道で旭川から函館を攻めると計画して(むろん港に出てフェリーを使うのは無し)、道路もあやしい何もない曠野密林《こうやみつりん》を大部分の兵士は歩いて進むわけであり、道を間違えて江差に行ってしまう隊もちらほら。輜重《しちよう》、武器・食糧は牛にリヤカーで牽《ひ》かせるのであって、途中|洞爺《とうや》湖並みの幅の川も渡り、到着次第、ツルハシで六本木ヒルズを壊して更地にするようなきつい作業を開始させられ、運が悪いと孔明の残虐な罠にかかって燃やされてしまうとなれば、現代日本人には気が遠くなるような辞めたさであり、途中逃亡が続出するだろう。函館陥落まで果たして何日かかるのか。
「わが君、どうか中距離ミサイルを据え付けて、核弾頭でも生物兵器でも載せてかまいませんから、函館に飛ばすということでお許し願えませんか」
と、科学技術の発展にしたがい非人道的な無人攻撃を要望するようになるのも無理はない。
旭川─函館などは短距離といえ、青森から下関まで行軍するくらい平気でやる。往時の人の戦争への集中力、侵略に懸けるひたむきな情熱には頭が下がる思いがする。確かにロマンだ。
襄陽の劉表陣営とて侵攻開始の宣言を七月中には聞いており、どうも間違いないらしいとして、大慌てである。曹操は降伏勧告の使者を遣わせていたから、
「王手」
をつきつけられたような心境である。
劉表はまだ生きていて、最初のうちは主戦論を唱える者も少なくなかった。一戦もせずに軍門に下るのは恥ずかしいということもあるが、長年のあるじ劉表をいきなり見捨てるようなことは心情として出来ない。主戦論者の中にも内心は、劉表が先に降伏を決断してくれれば、と思っている者がかなりいる。荀攸《じゆんゆう》、程c《ていいく》、|賈※[#「言+羽」、unicode8a61]《かく》らの分析通り、荊州の士気戦意は極めて低かった。
きつい王手をかけられて、長考する時間がひと月あまりもあれば、戦端が開かれていなくても精神的に参ってこようものである。内部瓦解を促進する。大軍の低速はこういう場合、有利にはたらく。
日に日に不快な降伏指数が高まる中、一人爽快に気を吐く迷惑な男がいる。言うまでもなく劉備玄徳である。
劉備は劉表が病|篤《あつ》くして、会議に顔を出さないのをよいことに、天下一の大風呂敷を吹きまくった。劉表の幕僚たちは、劉備が無類の戦さ好きであり、相手が曹操となれば狂人と見紛うほどに決戦を主張する(でも負ける)男であることを改めて思い知らされた。
「劉将軍、勝つとは言えぬまでも、まず禦《ふせ》ぎ守ることはかないましょうか」
と|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》が訊いた。
「なにを弱気なことを申される。勝つに決まっております。曹操の首がこの卓子の上に置かれているのが皆様には見えませぬか」
ほれほれ、と想像上の曹操の頭を撫でたり、指をV字にして目を潰したり、こめかみを拳でぐりぐりしたりした。劉備の目には曹操の首がホログラム映像のように浮かび上がって見えているらしいが、他の者にはまったく見えなかった。
半年前には曹軍来襲に怯え、ノイローゼ気味で、暗い顔をして自虐的な言葉ばかり呟いていた男のこの変転ぶり、かえってみんなの信用度が下がってしまう。
蔡瑁《さいぼう》がけっと痰《たん》でも吐きたそうな顔つきで、
「劉|皇叔《こうしゆく》にはなんぞよいご報でもおありなのか。臣の聞くところによれば、皇叔は過去曹公に一度も勝ったことがないというではないか」
と言った。
「確かにこれまでそれがしが兵には術策が乏しく、紙一重の差で曹公を取り逃がしてしまったことが一度ならずあり申した。しかしこたびは秘密兵器がありまする」
「秘密兵器とは如何に?」
「ダーッハッハッハッ、よくぞ聞いてくださった。知賢の隠士|司馬水鏡《しばすいきよう》と|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公《ほうとくこう》の折り紙付きの天下一の天才軍師、臥竜先生孔明がわが陣営におられる!」
ここで一同が、げえっ、とでも言いながら、驚きの表情で目を輝かせればいいんだが、
「だれ、それ?」
としらけた目つきで睨まれる。中には孔明のことを知っている者もいるが、とくに何の感動もない。
「各々方は諸葛先生に秘められた真の力をご存じないのだ」
劉備は白い目を気にすることなく力説する。
「先生は既に博望坡《はくぼうは》にて放火実験を行い、曹軍|殲滅《せんめつ》の手応えを得ておられる様子。また一夜にして新野を廃城に変えてしまわれた手際は、曹軍を絶滅寸前品種として、かえって優しくしてやらねばならぬと武士の情けをもよおさせるほどの恐ろしさである」
そんな馬鹿なという顔に囲まれても、劉備の舌はさらにヒートアップ、
「もうモノが違うのでござる。諸葛先生の異常さにくらべれば、曹操など所詮はたんなる平凡の傑に過ぎませぬ。皆様も臥竜の旗のもと、いっちょう蟻の群れを踏みつぶしに出かけようではござらぬか」
この場に孔明がいたら、どんな顔をするかは分からないが、襄陽の幕僚の孔明評価はかえって暴落してしまうのであった。
伊籍《いせき》が隣で劉備の袖をちょんちょんと引き、耳に口を寄せ、
「ここで孔明先生の名を出しても逆効果ですぞ」
と止めに入ったくらいである。
劉備のここ最近の多忙は、こんな具合に襄陽の実力者たちの説得に走り回っていたからであるが、説得力皆無なため、なんの効果もあげられないどころか、劉備を村八分にしようという暗黙の合意が成立する始末であった。のちに孔明が似たような状況の呉に入って、勝手な屁理屈をこねて執拗に恭順論を潰していったのとは正反対である。
のち曹操の配下となる文聘《ぶんへい》などをいちおう宛城《えんじよう》に出したりしているが、やるのかやらないのか、依然、はっきりしない。皆、劉表が死ぬのを待っているような有様である。襄陽幕僚は劉備を仲間はずれにして会談を重ね、大筋で降伏論がまとまりかけていた。伊籍が樊城《はんじよう》にこっそり知らせていたから、劉備もそういう襄陽の動向は承知している。
「なんと根性のないやつらか! 襄陽の腰抜けどもに張飛の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわい」
と憤慨し、庭先で薬草の世話をしていた孔明を捕まえて、
「先生、意気地なしたちがはびこり、このままでは襄陽が頼みになりません。どうしたらいいでしょう」
と訊いた。すると孔明、
「そんなこと、わたしは知りませんよ」
とつれなく言った。劉備はむっとして、
「先生に策をいただかねば、立ちゆきません」
と詰め寄るが、
「襄陽と連携できなければ、逃げるしかないでしょう。今日明日にでも、とにかく善は急げ、逃げ出すことをお勧めします。せっかく攻め寄せたのに殿が逃げ去っていたら、曹公はきっと地団駄踏んで口惜しがりますよ。いちおう勝ったような気分は味わえると存じます。これが逆転不敗の秘策とおぼしめされよ」
と、曹操にほんのちょっと精神的不愉快さを与えられる冷め切った策を告げるのみ。
「もう聞かぬ!」
劉備はぷりぷりして行ってしまった。戦わずして逃げることだけはしない、というのが劉備のポリシーであり、そこはどうあっても譲れない。でも本音を言えば逃げ出したいところである。
もう繰り返したくもないが、劉備が荊州を奪い取らない以上、ここで拒戦することはほぼ不可能である。孔明は、樊城移動後もかすかな期待をもって、陰に陽に襄陽奪取をねちねち進言したが、やはり無駄であった。劉備の精神世界では、劉表抹殺は存在してはならないオプションであるようだ。
孔明は既に次の段階の策を練っているはずだが、それも劉備軍団が生き残ることが出来ればの話だから、まず生き残ること自体が有力な策となる。ならば逃げるに如《し》かずである。
(しかし、そうはっきり申し上げても、ぐずって言うことを聞かないのだろうな。負け癖が嗜好に変わり、木っ端微塵にされるのが大好きなのだろうか)
並の軍師、いやかなり上等の軍師でもお手上げな状況といえる。しかし、孔明が入団した途端に劉備軍団が壊滅し、劉備の首があげられたなどという不名誉な事態だけは、臥竜の名において絶対に許すことはならない。軍師など楽ちんな仕事だと最初は思っていた孔明だが、他ならぬ主君劉備がなにくれとなく邪魔だてしてくるせいで、困難極まりない任務と化している。まったく困り所満載であり、しかしそれ故にこそ、臥竜の闘志に火が点いているのかいないのかよく分からないが、庭の薬草に水やりをしているのであった。その懐にどんな策が隠されているのか、今のところ不明である。
劉備は、
「かくなる上は劉|景升《けいしよう》に直接かけ合おうぞ」
と、関羽、張飛を連れて劉表が病を養っている江陵《こうりよう》に出かけた。
劉備が訪《おとな》うと、襄陽にいるはずの蔡瑁《さいぼう》、張允《ちよういん》がうんこ座りしていた。
(ちっ。戦さ狂いのサルが来やがった。もう話は大方決まっておるとも知らずに。貴様はもう独りよがりの踊るデク人形ぞ)
と思ったが、背後で関羽、張飛が酒と血の匂いを漂わせているため、手揉みせんばかりに愛想よく、地下人《じげにん》のようにへいこらして取り次いでくれた。事と次第によらなくても、酔いに躓《つまず》いたふりをして蔡瑁を殴り殺そうと構えていた張飛だが、最下級の宦官《かんがん》のようなあまりの媚《こ》びへつらった低姿勢に気をそがれた。
劉備も仲間はずれだが、病床の劉表もまた蚊帳《かや》の外に置かれるに近かった。最新の情勢をほとんど聞いていない。劉備の熱弁も、どこか届かず抜けて行くような表情であり、言うことは自分の死のことばかりであった。
「劉皇叔、もういかぬ」
と弱々しく言う。燃える男、劉備は、
「いかぬとか言っておるからいかんのです。病は気からでござろうぞ。毎朝乾布摩擦をして冷水を浴び、昇る太陽に向かって野獣の雄叫びをあげ、真紅の人参の搾り汁を一気に飲み干せば、身内に真っ赤なほむらが柱立つのを押さえるに押さえられなくなり、ついそばにいた従者二、三人の首を刎《は》ねあげ、そのまま妾女を二人ばかり攫《さら》って寝所に駆け込みたくなるというものです」
「玄徳どのは毎朝そんなことをしておるのか」
しているとすれば董卓《とうたく》以来の、まさに梟雄《きようゆう》!
「やるやらんではなく、気合の問題でござる。もういかぬ、なぞとは荊州九郡の生殺与奪の権を握る鬼畜の如き独裁者たる御身の吐くせりふではないっ」
と、病を吹き飛ばさんとするかのように炎の言葉を吐く劉備。
「なんにしても、玄徳どのの気概がうらやましい。そのいさましいあなただからこそお願いするのだ」
声が途切れてしばし咳き込む。
「もはや薬も身に効かぬありさま。人には定命というものがある。この乱世をかように生き抜けたは幸運であったよ。ただ一つ心残りがあるとすれば、不肖の息子らのことである」
また声が途切れた。
「以前にも断られたことがあったが、何度でもお頼み申す。どうか息子らの後見人となってはもらえぬか。情けなきことながら息子たちにはわたしを継ぐような能はない。荊州は失われるであろう。ならば貴殿にお治めいただくのが道理というもの」
「それ以上は言わんでくだされ! 景升どのはこの玄徳を忘恩の畜生にするおつもりか」
劉備はがばと枕元に泣き伏した。
「それがし力を尽くして甥御どのの補佐をいたしますれば、ご領地を奪おうなどとはゆめゆめ考えておりませぬ」
と泣き喚いた。
はたから見れば力の入った仁義あふれるかっこよさだが、張飛は小声で、
「べつにくれると言ってんだから、もらえばいいのに。兄者もわからねえな」
と関羽に耳打ちした。関羽もさすがにここまで来ると、頷きたくなろうものと思うがそうではない。
「違うぞ飛弟。あれが義《ただ》しいのだ。長兄の気持ちが義なのだ。兄上の言うことなすことすべてが次々に新しい義となる。そこには毛ほどの間違いもない」
「そうなのか。兄者は義の化身なのだな」
「うむ。義が凝り固まって人の形となったものが、兄上という類稀《たぐいまれ》なる生き物の本質なのだ」
と、関羽の中ではそのように論理が完結しており、だから劉備が不義不仁なことを行っていても、義として従うことに矛盾を生じないのである。『春秋左氏伝』原理主義者の宗教がかった信念と言える。ちなみに孔明は智恵が凝り固まって人の形となったものとされている。
劉備は涙にむせび続け、肝腎|要《かなめ》の話をするのを忘れてしまっている。劉表に、
「荊州は劉備と一致団結して、曹軍を迎撃する」
という至上命令をびしりと下してもらい、蔡瑁たちの謀議を砕いてもらいたくて来たのだが、義のせいなのか、ころりと忘れていた。そうしているうちに、外が騒がしくなり、関羽と張飛が廊下に出て聞くと、
「宛城に向かっていた文聘《ぶんへい》の部隊が、曹軍の攻撃を受け、一瞬のうちに全滅した」
という報告がもたらされていた。
張飛の目がぎらりと光った。
「やっと、待ちに待った祝日がきやがったわい。ぐへへへ」
関羽もうむと頷いている。
関羽に聞いた劉備も燃え上がった。
「なにぃ! くそ曹賊めがっ。見舞いなぞしとる場合か! 急ぎ樊城に戻るぞ」
と今泣いたカラスがもう怒って立ち上がり、
「景升どの、正念場ですぞ。まあ、曹軍が派手にぶっ飛ばされて雲散霧消するところを見ていて下されい!」
と出て行った。肝腎な用件を忘れたまま。派手にぶっ飛ばされて雲散霧消するのは劉備軍団の方なのだが、それはいい。
劉備と劉表、これが最後の別れとなった。その優柔不断さに時として腹に据えかねることもあったが、劉備はやはり劉表という人物が好きだったのであろう。体よく門前払いされても当然であった二百人の飢えた不良集団を受け入れてくれた寛仁には、孔明が何と言おうと感謝してあまりあり、その恩義を踏みにじるのは理屈抜きに忍びないのだ。
劉備が去った後、劉表は側近を呼んだ。遺言状をしたためるためである。今は江夏《こうか》にいる長子|劉g《りゆうき》を跡継ぎにし、劉備を補佐後見として、劉備の声を自分の声とするように、という希望の光なのか自暴自棄なのか分からない内容である。蔡瑁《さいぼう》、張允《ちよういん》はこういう事態に備えて江陵城(荊州城)内にいたわけで、すぐさま握り潰し、妹の蔡夫人と計って城の門を閉ざし、外界から遮断した。
劉表が昏睡《こんすい》状態に陥り、死亡したのが江陵だったのか、襄陽だったのか、どうもはっきりしないのだが、多くは襄陽説をとるのに対し『三国志演義』では江陵となっている。劉備か劉備軍団幹部が臨終のときに立ち会えなかったところを思うに、江陵であった可能性が高くはないか。
父危篤の報を漏れ聞いた江夏太守劉gが兵を連れて駆けつけた。孫権の軍は既に江夏から引き潮のように去っており、現場を離れるぐらいの余裕はあった。だが蔡瑁が、
「わが君は公子に江夏の鎮撫《ちんぶ》をお命じになり、東の備えとしたのです。その任務は極めて重大であるというのに、放棄しておいでになったのですから、きっとご立腹なさるでしょう。親の機嫌を損ねて病を篤《あつ》くするなら、孝行とは申せません」
と城外に止めたまま門前払いを食わせた。劉gは例によって弱々しく涙を流し、おとなしく江夏に帰った。ここも、たかが家臣の分際の蔡瑁の邪魔だてであり、劉gは強く出てどつき倒せばいいだけの話である。一戦交える名目が立つ機会であったのに、すごすご帰ってしまうのだから、跡継ぎの線は自ら捨てたようなものである。まことに『三国志』的ガッツが欠如した男であった。
劉表が息絶えたのは八月|戊申《ぼしん》の日とある。何もこんな時期に死ぬ必要はなかろうにというようなドラマチックな時期である。
劉表の喪が発されたが、外も内もそんな悠長なことをしている状況ではない。劉表の死は呉にも伝わり、劉家と孫家はほとんど喧嘩絶縁状態であったものの、魯粛《ろしゆく》が孫権に、
「曹操南進のおり、ここはわが呉にとって、思案のしどころです」
手打ちするええ機会じゃけえ、のう、カシラ、やってみんさい、と説いているところである。
曹軍は予定通りに宛《えん》を宿営地として、全部隊の足並みがある程度揃うのを待っている。何しろ大軍だから、到着もばらばらになりがちで、襄陽突入に向けて部隊整理、作戦徹底をしておかねばならない。また一間を置くことによって襄陽を恫喝する効果もあり、降伏してくるようなら敢えて戦わずともすむ。荀攸《じゆんゆう》たちは多分そうなると計算している。
そういうことで、はりきって樊城《はんじよう》を固めている劉備軍団だが、まだ張飛が喜ぶような激突は起きていなかった。
樊城は新野《しんや》より遥かに大きく、新野が犬小屋なら樊城は平屋二階建てほどの違いがある(すると襄陽は鉄筋モルタル五階建てくらいか)。壁は二重で頑丈、各門も激戦に耐えるべくカスタムされている。濠も城を一周して深い。樊城に入っただけで自然に安らぎの心が湧いてくる高機能住宅である。孔明は樊城も燃やしたかったに違いないが、かなりの準備が必要となり、すぐには難しかったろう。
劉備軍団と樊城駐在の兵を合わせると一万五千弱となった。だが樊城の兵士が使い物になるかどうかはあやしい。樊城の前方に柵を設け、兵を展開布陣させ、劉備軍団幹部は後方の幔幕《まんまく》の中にいる。劉備は朝から夕まで各部署を駆け回り、
「徹底抗戦あるのみ。目指すは曹操の首ひとつ。報仇雪恨《ほうきゆうせつこん》が合い言葉である」
と常の二十倍くらいのテンションで、燃え上がりながら督戦していた。劉備のマブダチとも言える簡雍《かんよう》は、
(ムリしてんな、ありゃ。自ら燃え上がっていないとおかしくなりそうになるんだな。きっと)
と、よく見ていた。しかし劉備の燃える姿は新野からの引っ越し者と樊城の民の心をばっちり掴み、頼もしいかぎりとうっとりされていた。
臨戦態勢に入った最初のうち、張飛は喜び庭かけ回り、あっちの兵士の背中を平手打ちし、こっちの隊長にびんたを喰らわせ、夏休みに入った子供のようにはしゃぎまくっている。気合いを入れるソフトなスキンシップのつもりだが、やられた兵士は骨折したり、泡を吹いて気絶したり、激痛に転げ回ったりした。
「うーん。やはり戦さは最高だぜ。この、キンタマがじーんと痺れてくるような感じがじつにたまらん。曹操の野郎、さっさと攻めて来やがらんかな。くーっ、血が見てえ」
ぺっぺっと両手に唾を吐いて、蛇矛《じやぼう》を握り締め、
「オラ、オラ、オラッ」
と狂ったように振り回した。
ところが二日たち、三日が過ぎ、十日が経過しても、大軍はその姿を現さず、小さな戦闘も起こらない。張飛は、
「兄者、もう辛抱たまらぬ。攻めて来ないんなら、こちらから行くまで! 兵を出してくれい」
と劉備に泣きついた。劉備は困って、
「もう少し待つのだ。必ず来るから」
と宥《なだ》めるしかなかった。
それでも来ないので、張飛のエネルギーは内向して鬱屈《うつくつ》、みるみる窶《やつ》れたような姿になっていった。人を殺せば治る急性の鬱病のようなものである。しかも酒を禁じられているから、吐き出しどころがない。張飛は時々奇声をあげて暴れるようになり、関羽、趙雲《ちよううん》が取り押さえねば収まらない始末である。関羽が、
「長兄、このままでは飛弟が壊れてしまいます。どうか兵を百ばかり、お貸し与え下さい」
と軽い出撃の許可を願ったが、
「雲長《うんちよう》、久々の大決戦に焦ってどうする。偵察によれば敵軍は二十万近い。今に地響きを立ててあらわれる」
とさすがに許さなかった。
張飛は曹操陣営からも関羽とともに「万人の敵(単独で一万に匹敵する怪物)」と高い評価を受けて嫌がられている武将の域を超えたワンマン・アーミーである(趙雲は参入が遅れたため、そういう人間兵器のような評を受けられずに、少し悔しい思いをしていたろう)。臥蚕《がさん》の眉に爛々《らんらん》たる豹眼、顎には針金のような虎の髯《ひげ》。大藪春彦の小説に、
『獣を見る目で俺を見るな』
という作品があるが、まことに張飛の気持ちを代弁しているかのようなタイトルと言える。一万までなら張飛一人で皆殺しに出来るのだが、今回はちょっと桁が違う。張飛はブレーキの壊れたダンプカー、安全装置なしの爆弾のような扱いをされるようになり、刺激することは厳禁された。たまに兵士に犠牲者が出るので、本当は鎖で縛って檻に閉じ込めておきたいくらいなのだが、それでは全軍の士気に関わる。この物凄いデモリッションパワーが二十万の敵軍の中で炸裂してくれるまで保つことを祈り願うしかない。
恐怖と焦りにさらされ、狂気を発したくなっているのは劉備も同じである。行きたい張飛とは違い、ともすれば裸足で逃げ出したくなる心境で、膝がじーんと痺れて嫌な感じである。樊城守備軍一万五千の兵のほとんどがそうであった。二十万が侵攻してくれば、木っ端微塵に打ち砕かれること間違いなしである。大軍が目前に迫れば、兵士らも顔を蒼白にして回れ右するのは必定だ。
しかしそんな時だからこそ、大将たるもの、ふてぶてしく下らぬ駄洒落などを吐き散らしながら、ふんぞり返っているべきで、現時点でも劉備の脅えが兵に伝わったら、あっという間に壊乱してしまうことが経験から分かっていた。
(やっぱり、逃げるしかないよな。しかもこれまでと違って一戦することさえ出来そうにない)
偵察によれば、曹軍は戦気に満ちた粛々としたたたずまいで、いつ前進が開始されてもおかしくないという。こうなることは半年以上も前から予測していた劉備である。それを何とか覆《くつがえ》すべく苦しみ抜いた末、孔明を招いたわけだが、孔明の策を自ら不採用にして、結局、もとの心配通りのことが実現している。わけの分からん心の機微の劉備戦略であった。
「うぬー。曹操がいつ突っ込んでくるかも気になるが、後のほうも気がかりだ」
と劉備は糜竺《びじく》に言った。
後のほうとは襄陽のことである。襄陽、樊城の間に荊州兵が申し訳程度に配置されているだけで、見るからにやる気がない。漢水《かんすい》を挟んで十キロ少々の近さだが、使者の往来はぐんと減っていた。
劉備は襄陽の幕僚会議に呼ばれることもなくなっていて、頼みの伊籍《いせき》は劉備への通報行為がばれたらしく、江夏の劉gのもとに追いやられてしまっていた。むろん蔡瑁らは、劉備が村八分の計を疑わないよう、
「喪中につき、みな慎み、会議などは一切控えている」
と、見え透いた嘘を伝えている。
「わが君、これはやはり、もう襄陽は降伏を決めてしまっておるのでは」
すると酒を断っているせいもあり、手がぶるぶる震えている張飛が、
「そんなことさせるものか。おれたちが大暴れすりゃ無理矢理にでも戦さに巻き込まれちまうという寸法よ。始まっちまえばこっちのもんだ! もう遅い。自分たちだけ降伏しますといって、そんなもんが殺人丞相の曹操に通じると思ったら大間違いだ。もし嫌だと言うんなら、曹操に頼むまでもねえ、このおれが襄陽のクソどもを戦場に追い立てに行ってやる。この戦さ、逃がさねえ」
と禁断症状と欲求不満のため、怒鳴り散らした。
劉備が、
「諸葛先生をお呼びするのだ。先生の玉の如きご卓見をうかがってみよう」
と言ったら、糜竺《びじく》が、
「孔明どのは今日は欠勤です」
と忌々《いまいま》しげに答えた。新野から樊城に引っ越したからといって、孔明のマイペースな通勤態度に変化はない。
「なんということだ。臥竜は本当に何か人様のくその役にほんの少しでも立つのであろうか。先生はたんなる口先だけの変な白面に過ぎぬのか。われあやまてりなのか」
と劉備は自分が孔明を効果的に使えていないことを棚に上げ、天を仰いで嘆いた。孫乾《そんかん》もうんうんと頷いているが、趙雲は、
「先生はそんな人じゃない!」
とばかりに立ち上がり、槍《やり》を取ると、
「偵察に出て参る」
と外に出た。
剛将趙雲|子竜《しりゆう》、蒼穹《そうきゆう》を仰いで、
(先生、はやく帰ってきてください。このままでは、ぼくたちはばらばらになって負けてしまいます。わがきみはこわがって、つよがりばかりいい、張飛もおかしくなったままもどりません。おねがいします。先生)
キラリと目にひと雫《しずく》、子供の宿題の懸命の作文のようなことを心に祈った。
その頃、孔明は隆中臥竜岡《りゆうちゆうがりようこう》におり、家族会議を開いていた。
黄氏《こうし》に諸葛|均《きん》、習氏《しゆうし》がお茶を飲みながら坐していた。
孔明はゆるりと白羽扇を持ち上げ、じっと眺めている。
「いよいよ、この地を去るときがきた」
そしてちらりと諸葛均に目をやる。諸葛均はそれだけでびくりとし、湯飲みを取り落としそうになった。
「いろいろ考えたのだが、どうにもお前のことが気がかりである」
「ひっ」
「わが殿の口癖ではないが、お前をここに残していくのは忍びなさすぎる」
孔明は次に出勤したら、当分の間、どれくらいになるかは分からないが、臥竜岡の自宅に戻ることはないとして、大量の書籍や図面を箱に蔵し、得体の知れない数々の道具類もまた荷造りしており、これらは孔明の姉に預かってもらうことにしている。
「わたしと黄氏は如何なる騒乱の中でもどうにでもなる。習氏もしっかり者だから、まずは大丈夫だと思うのだが、均よ、お前のことだけが……」
諸葛均は孔明の言わんとしていることを悟り、
「いやです! 兄上、わたしは、わたしは、ここで百姓しながら地道に暮らします! わたしは素っ堅気《かたぎ》なんです」
と叫んだ。
「兄上がお帰りになるまで、いや、お帰りにならなくても、留守を守り、ここの畑を死ぬまで耕し続けますから。呉の兄上(諸葛瑾)のところにも、どこにも行きたくありません」
兄孔明へのはじめての叛逆、反抗期が遅すぎるとも思われるが、諸葛均も少しは成長しているのだ。
「うむ。その志やよし」
と孔明は口もとをほころばせた。しかし、
「だが、お前もここを出なければならぬ。辛かろうが諸葛一族の宿命と心得よ」
「ひーん、そんなこと心得ることが心得られません!」
「そうは言うが均よ、よく考えてみよ。お前はこの孔明の弟であり、天下に隠れもなき臥竜の竜弟なのである。曹公のところの恐い人々が、必ずやここを訪れ畑を踏み荒らし家捜しし、お前をひっ捕らえて、このわたしに対する弱みとなすに違いない。そうなったらわたしは非情に徹してお前を見殺しにせざるを得ぬ」
「そんな、あんまりです」
劉備たちよりこわい人が来る。諸葛均は愕然《がくぜん》として涙を浮かべた。兄の異常な生き方のせいで、善良な自分の人生までもが破滅させられるという不条理。
「兄上の馬鹿! 死んじゃえ!」
孔明もまた目尻に光るものを浮かべていた。
諸葛均にそこそこの才があり、いくらか腹も据わっておれば、一度捕まったとしても、曹操の家臣として取り立てられる可能性はある。曹操は、血縁者が敵味方に分かれていようが、使える男ならそんなことはあまり気にしない。しかし諸葛均の場合、もし曹操の手下に連行され、かなり手厚い処遇であっても、
「おぬしの兄、諸葛亮のことを詳しく申し述べよ」
とか訊かれたら、それだけでパニック発作を起こし続け、意味不明な孔明評を口走り、下手をすれば中世ヨーロッパの瘋癲《ふうてん》病院の地下牢のようなところに放り込まれかねない。孔明のうらないか、もしくは予知能力によると、そうなることが目に浮かぶように確定していた。
諸葛均はだだっ子のように、床の上を転げ回り、じたばたしながら泣き喚いた。
「兄上のいけず! 変態! ぼけなす! いちびり! 負け犬! 妙ちくりん! 電波! 厨房! 腐れ仙人! 牛太郎! 色魔《しきま》! 忘八蛋《わんぱーたん》! 不是東西《ぶしゆとんしー》! にゃんがつおぴい!」
と知っている限りのダーティワードを投げつける。とくに最後のものは、殺し合いをしたいとき以外は、中国の人に言ってはいけない。
その時、習氏が諸葛均の手をとり、
「あなた」
と、諸葛均の手を下腹に当てた。
「エッ」
と諸葛均が驚くと、習氏は意味ありげにこくりと頷いた。
「まさか、わたしの、赤……」
習氏は、すっと口止めして、
「あなた。ここは兄上さまに従ってください。わたしを一人にしないで……」
と優しく言った。諸葛均は、ハッとしたように起きあがり、
「兄上、不敏微力のこの均を、どうにでも好きなようにお引き回しください!」
と諸葛均なりに責任感ある男の顔となっていたのであった。
孔明と黄氏は、目がしらを押さえ、うんうんと頷いている。んだけど、半分笑っているのは、じつは妊娠のことは芝居で、習氏と打ち合わせしていたからである。だいたい習氏は妊娠のにの字も発していないから、それがばれても諸葛均の勝手な早とちりだったと済ますつもりだ。習氏は物わかりがよく、臥竜岡に留まることの危険性をすぐに諒解した。まあ二年後くらいに子供が生まれても、性教育がなっていない諸葛均は、
「母者のなかに二年もおったか」
と全然怪しむまい。何しろ老子は生まれたとき百歳の老人だったという怪談もあり、孔明に真顔で言われればすぐに信じそうな男である。
諸葛均によかれと思い説得し(騙し)た孔明は、二人をとりあえず黄承彦《こうしようげん》のちょっとした城塞のような豪邸に避難させるつもりであった。黄氏もそうさせる心積りのところ、黄氏は、
「いざ、樊城へ参りましょう」
と完全武装の旅支度である。
「そうか。ならば関将軍、張将軍のご家族とともに行動するがよい」
と孔明は反対しなかった。するとけっこう仲良くなって、黄氏に女友達、姉妹のように親しんでいる習氏も、
「義姉《ねえ》さまがゆかれるのなら、わたしたちも樊城に参ります」
と元気よく手を挙げ、諸葛均の顔面を崩壊させた。
「ふむ。それもわるくはないか。均もさっそく天下のためにひと働きできる」
臥竜岡を出るとき、十年以上も暮らした愛着から、諸葛均は腕を目に当てわんわん泣いていたが、他の三人はこれからのことをおしゃべりしながらいい日旅立ち気分である。
『三国志演義』によれば、襄陽を占拠した曹操は、すぐに隆中《りゆうちゆう》に配下をつかわせ、孔明の妻子を捜させたが、その行方は杳《よう》として知れなかったとある。孔明に無期限の畑仕事を誓ったはずの諸葛均も何故だかいなかった。防空壕のような穴を掘り、何年も隠れていたのだろうか。
いちおう、孔明は臥竜岡の家宅捜査を予知しており、先んじて人を遣り、妻子を三江に移らしめ、身を隠させていたのだと説明されている。その中に諸葛均がいるのかどうかは書いていない。その後それを聞いた曹操の孔明への怒りはいっそう激しくなり、憎しみは海よりも深くなったということだ。
孔明夫妻は諸葛均夫妻と、途中、魚梁洲《ぎよりようす》に寄った。これまた大げさな完全装備に身を固めた|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公《ほうとくこう》がいた。いかにもこれから深山高峰に向かうといった服装である。
現代的に言えば、足に登山靴を履いてゲートルで巻き、背には六十リットルたっぷりのリュックサックを背負い、シュラフとロープの束をくくりつけ、手にはピッケルを持ち、腰にはブレードにノコギリ刃のついたサバイバルナイフを吊している、というような本格的ないでたちである。
「ナイフ一本あれば生き延びる」
ついでに州兵一個師団くらいなら山岳に殲滅《せんめつ》できるという気合が漂っており、まことにランボーな年寄りであった。
曹軍二十万が宛《えん》に蝟集《いしゆう》している。襄陽から離れるにももうしおであった。
孔明は、
「ご苦労様です。しかし先生はお若い。仙人になる必要などありませんね」
と言った。
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公は、カッと唸ると、大声で、
「孔明、お前が曹公の遠征軍を片付けておれば、わしとてこんな恰好《かつこう》をせずともすんだのだぞ。ぎりぎりまで待ったのに、今まで何をしとったのだ。この役立たずが!」
と罵る。しかし孔明べつだん怒るふうもなく、
「先生もそう急がず、いつものように、曹公をおからかいになってから、出かければよろしいのに。面白い人に違いありませんよ」
「ちっ。面白そうだからこそ会えば面倒になるのだ」
「で、どこの山においでなのです」
「鹿門《ろくもん》山だ。まあ、女子供連れになるから、最初はそのあたりにしておく」
鹿門山は襄陽県東南にあるというが、正確にはどこなのか、わたしは知らない。
「いつお帰りですか」
「お前が荊州をぶん奪り、地の天堂としたなら、いつでも帰ってやる」
「それはとうぶん無理だとおもいます」
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]徳公はふんと鼻を鳴らし、
「お前のほうはどうなのだ。樊城、劉公は見込みはあるのか」
「さあ。このままなら劉皇叔の一党は一撃で消し飛ばされるんじゃないでしょうか」
とまるで他人事のようである。
「このままにはせんのだろうな?」
「ふ。ならばよろしいのですが」
孔明は爽やかに白い歯を見せた。
「まあ、お前の姉のことは心配ない。落ち着いたら顔でも見せてやるんだな」
「先生には?」
「小僧が! わしのことを心配するなぞ百年早いわ。見事|神仙《しんせん》となりしのち、雲に乗って遊びに来てやるから、恐怖にたじろぎながら待っているがいい」
孔明は敢えて感情を表に出さず、袖を合わせてお辞儀した。
君子の交わりは水の如く淡々というが、この師弟も油っこそうだが、淡々ではある。
孔明、厳戒態勢の樊城に退路を断って乗り込む。しかも家族連れで。
「先生っ!」
馬上、門の近くにいた趙雲は、孔明を見つけるや、馬を下りてグレイハウンドのように突っ走ってきた。
猛犬がぱたぱた尻尾をふり、はあはあ舌を出しているかのような喜びようである。左の掌に右の拳をバシッと叩きつけた。
「先生、よくお戻りくださった」
と言った。ちらりと黄氏へも目礼する。
「子竜どの、そうかしこまることですか。わたしは劉皇叔の臣ですよ」
「はっ。ですがそれを信じていない者もおり、自分は悔しいのであります」
樊城の中には孔明に石を投げつけたい者もいたろうが、紅の青年将校、趙雲が護衛のように付き添って歩いているので、不祥事を惹き起こすことができない。孔明は、
「趙将軍」
と呼んだ。
「なんでしょう」
「少しお頼みしたいことがあるのです」
「はっ。わたしにできることならば。まずは、うけたまわりましょう」
孔明の背丈は趙雲よりやや大きいくらいである。簡単に口を耳に寄せることができる。何やら呟いて策を授けた。
趙雲は聞き終わると、
「ちっ、ちぇ──いぁっ!」
とつい閃電《せんでん》の気合が腹に入ってしまい、周囲の空間を重振動させた。それを見て微笑んでいる黄氏と目が合い、ぽっと顔を赤くする。諸葛均はそばに落雷を受けたかのように尻餅をついている。
新野と違って樊城は広い。ようやく庁舎に着いた。孔明は趙雲に黄氏と習氏の休む部屋のことを頼んだ。
「この子竜におまかせください」
たぶん、すごくいい部屋をみつくろってくれるであろう。
「趙将軍にそんな取り次ぎ仕事をしていただくなんて、いけません」
と黄氏が言ったが、
「いいんです。いいんです。ちょうど手が空いておりましたから」
趙雲は武骨なエスコートながら婦人方を案内していった。
孔明は諸葛均を連れて、簡雍《かんよう》のところに行った。
簡雍は肘を枕に真剣にエロ本を読んでいた。常に新鮮なネタを仕入れる姿勢が、劉備軍団の外交官として大切なのであろう。この手の書物は人類の文明の発生以来、いつも何らかの形で存在してきた。中東で言えば『聖書』には色っぽい記述がけっこうあり、司祭たちは胸をどきどきさせていたに違いない。
「憲和《けんわ》どの」
「おっ、孔明先生」
簡雍は身を起こして坐りなおした。簡雍にはそれを恥と照れる気分などまるでなく、堂々と、
「先生、この本。なかなかえぐいですぞ」
とエロ本のページを開いたまま突き出した。むろん漢字ばかりの本である。
「先生、この部分が読めず、意味がよくわからんのです」
「ほう」
その部分は『詩経』国風の詩を本歌どりしたもので、そのパロディが分かってないと真のエッチさが理解できない仕組みになっている。孔明はすらすらと読んで、意味を詳しく説明してやった。
「なるほど、そういう裏引っかけがありましたか。やはり経書も勉強しとくべきですかな」
と感心している。エロ本もインテリが書くと、古典の予備知識が必要で、故にこそ秘めたえげつなさが浮かび上がるのである。
「いや、さすがに先生だ。この道にもお詳しい」
とさっそくメモしている。
孔明は後に隠れるように立っていた諸葛均をさして、
「憲和どの。これなるはわが弟の均にございます」
急に前に出された諸葛均は、混乱したのか、
「き、均はまだ十六だから」
と、しどろもどろである。年は二十になっている。
「ふっ。憲和どの、わが弟は隆中に農夫暮らしが長く、世慣れぬところが多々あります。今後、世間に出て様々な人とおつきあいをせねばならないのに、内気で人見知りが激しく、わたしとしてはいくらか心配なのです。そこで簡憲和どのにこの均を教え鍛えていただき、なんとか独力で世間の荒波に抜き手を切れるようにしていただきたいと思いまして」
「ああ、よく分かります。わたしも若い頃は恥ずかしがりが過ぎ、父母に前途を危ぶまれたことがある。そんなわたしに勇気をくれたのが、わが君の度肝をぬく馬鹿でかい法螺《ほら》話であった。無責任でも言ったもの勝ちだと、それ以来、わたしはどんな大物が相手であろうが、胸を張って物(猥談《わいだん》)を申せるようになったのです」
と簡雍はしみじみと語った。
『三國志』先主伝によると、|※[#「さんずい+豕」、unicode6dbf]《たく》県の劉備の実家の近くに、皇帝の御車の天蓋にかたちの似た枝葉を繁らせた非凡なる桑の樹があり、旅の道士が、
「この家から貴人がでるであろう」
と予言したことがある。幼少の劉備は、
「ぼくは必ずこの木のような皇帝の馬車に乗ってみせる!」
と大妄言し、親類の大人の顰蹙《ひんしゆく》をかい、
「なんちゅう畏《おそ》れ多いことを。このガキゃ、わしら一族を亡ぼすつもりか!」
とぶん殴られたことがある。一方で、少年劉備の人となりは、
「言葉数が少なく、人にへりくだり、喜怒を顔に出さなかった」
と記されているのだが、そのすぐ後には、
「好んで豪侠《ごうきよう》(今で言うなら高校生くらいの札付きのワルとか暴走族のヘッドのような感じの若衆か)と交わってマブダチとなり、不良少年たちはこぞって劉備のもとに集まった」
とある。口数こそ少なかったかも知れないが、少年たちのパンクな不良魂に熱い火をともす大法螺を、怒りも笑いもしない茫洋とした顔つきでぶち上げていたと思われる。
簡雍も劉備に惚れ込んだ不良少年の一人だった。
「そこを見込んで、わが弟に男指南をお願いしてよろしいでしょうか」
「孔明先生、よくぞこの簡雍をあてにしていただいた。ばっちりお引き受けいたしましょう。このわたしが持てるすべての社交性(猥談力)をもって、御弟に立派な漢《おとこ》の態度と教養を仕込んでご覧に入れよう」
面倒見の良い簡雍は、そう言って胸を叩いた。男が男に幼少の子を託すというのは、託されたほうの大面目であり、任侠《にんきよう》として感激する頼み事である。
「有難い。暗中に蛍光を見る思いです。くれぐれもよろしくお願いいたします」
「はっはっ、先生、大げさな」
「そういうことだから、均よ、この憲和どのを師とも父とも仰ぎ、人として大切なことを学ぶのだぞ。均よ、この憲和どののような図太い男になるのだ」
「ひっ、ひっ、ひーん、分かりました」
嫌ですとはとても言えない諸葛均である。
孔明はうんうんと頷くと、
「では憲和どの、よろしく」
「おう。おまかせあれ」
孔明は今にも泣き出しそうな顔をしている諸葛均を置いて、さっさと出て行った。この後、諸葛均の漢《おとこ》修行が開始される。蜀漢《しよくかん》の立派な校尉への前途はなお遼遠そうだ。
黄氏と習氏はひと休みしてから、劉備や関羽の奥方のところに挨拶に行った。黄氏と奥様方の関係はまことに良好であった。
奥様方との付き合いは、初っぱなで外したり、また途中で些細でも不興を買うと、朝のゴミ出しが悪いとか、洗濯物の干し方が気に入らないとか、ねちねちと意地悪を言われてついには自殺や殺人事件にまで発展するのは、大昔から変わりがない。ことに後宮《こうきゆう》なぞではもう大変なのであった。奥向きとは亭主族には理解し難く手の出せない陰の領域である。奥様集団の中で一気にヘゲモニーを握ってしまうか、敵を作りにくいよい性格を演じていなければ危険なのだ。その点、黄氏は嫉妬心をかきたてられるような容姿でもなく、育ちがいいから礼儀も正しく、また坊ちゃん嬢ちゃんが喜ぶ奇怪なからくり玩具をお近付きのしるしにくれたりするから、すぐ打ち解けて仲間入りを果たした。
そもそも、奥様方のほうが、孔明のような異様な噂の絶えない男に嫁いでしまった黄氏に、そこはかとなく同情していたりしていろいろ心配してくれる。
「もしも、もしもですよ。孔明どのが狂ったような破廉恥《はれんち》な所業を休みなく続け行い、あなたをつらい目に遭わせているようなことが……あくまで、もしもですよ、かりにあるようならば、いつでもわたしたちを頼って相談してくださっていいのよ」
と、やさしく言ってくれたりするものだから、
「いまのところそんなことはありませんから、大丈夫です」
とかえって黄氏が恐縮してぺこぺこする始末で、
「女同士、遠慮しなくてもいいのですよ。殿方というものはいつもいつも身勝手なものですからね」
と何度も戦場に置き去りにされた経験のある劉備の奥方が言うと、まことに真に迫るのである。
「ことに孔明どののようなお方なら、もう口にも出すことのならない気苦労がおありでしょうし」
と、孔明がいい夫だと言っても信用してくれないのであった。
孔明は、劉備や関羽、張飛の妻は毎日呪いの血の涙を搾り出すような暮らしをしているに違いないと決めつけていたが、奥様方は孔明の妻のほうが臥竜の生贄《いけにえ》、毎日、血の池地獄に突き落とされて、辛酸を舐めさせられる不幸な境遇にあるに違いないと決めつけていて、気味が悪いほど親切にしてくれるのである。これもまた臥竜効果というものか、最初は世間知らずの人見知りを案じていた黄氏だったが、孔明のおかげで劉備軍団奥方部隊にすぐ受け入れられ、やさしく元気づけられているのであった。内々の情報も別に訊かなくてもどんどん入ってくる。孔明の妻は宇宙一の幸福者になる運命だというのは、本当のことかも知れなかった。
孔明は部屋に踏み込むや、
「水」
と言った。すると劉備は、
「魚!」
と叫んだ。打ち合わせなどまったくしていなかったが、合い言葉はぴったりであった。
「さすが殿でございます。のりにおいては曹公の及ぶところではありません」
孔明は莞爾《かんじ》として笑った。
「そんなことより、先生」
「分かっております。ここ数日、この孔明、邸に引き籠もり目を血走らせ、血反吐を吐いて七転八倒し、苦しみに苦しみ抜いて(たぶん嘘)、ようやく策らしきものが成りました」
劉備はくわっと目を開くと、
「それは如何なる?」
「曹公の大軍の前に立ち塞がったかのように人の耳に聞こえ、華々しく一戦して命より名を惜しんだ感じが漂い、惨敗して逃げているにもかかわらずなんとなく勝ったように見え、なおかつ民衆の人望も失わず、希望の新天地に思いを馳せる……という、ふつうの軍師の誰もが思わずふざけるなと言うに違いない、話がうますぎる条件のもと、わが殿の我儘《わがまま》すぎる要求を満たすことの出来る、おそるべき策がわが方寸《ほうすん》にあります」
「まさか! このわしですらもう諦めて、そんな都合のいい話はなく、うまい汁は吸えないと反省しておったのに。そんな痴人の妄夢が叶うとおっしゃるのか」
「その前に殿、もう一度確認しておきたいのですが、すでに劉表景升はこの世になく、殿が恩を返すべき者はもうおりません。いま襄陽を私物化し、われらを裏切ろうとしているのは蔡瑁《さいぼう》を始めとする奸臣《かんしん》どもであり、劉j《りゆうそう》どのはただの傀儡《かいらい》にすぎませぬ。殿がこれら君側《くんそく》の奸《かん》を討ち、襄陽を収めても衆人はだれも不義とは申さぬでしょう。むしろ、放置しておくことこそ故劉州牧に対する忘恩と言われかねませぬ。それでも殿は襄陽を奪《と》るおつもりはないのでしょうか」
劉備は、
「ない」
ときっぱり。
「やはり」
まあ予想通りの答えであって、しかし珍しく正しい意見であった。もし、いまさら劉備が、
「奪る」
と答えていたら、それこそど突き回して目を覚まさせ、人格改造手術を施す覚悟を決めたかも知れない。
「孫乾や糜竺にも言われたが、劉景升の遺児を討つことになるから、そんな忍びないことは出来んと言っておいた。が、先生、ここはもうしょうがあるまい。万事遅すぎる」
「最後の最後まで劉景升を殺さなかった殿の粘り負けでございます」
後世の意地悪な史家は、劉備が荊州を奪わなかったのは、劉表への恩義の故ではなく、仮に奪ったとしても荊州人士をまとめきる自信がなく、曹操や孫権の侵略から守り通すことはとうてい無理だと計算していたからだと指摘している。
確かに劉備は徐州《じよしゆう》を譲られた際も席の暖まる暇もなく攻め逐《お》われてしまったことがあった。だが、荊州では徐州の時と違って、荊州奪取が最良の一手と進言する孔明がいたのであり、十全の策があって言っているのであろうから、ものは試しと孔明に任せてみることは出来たのだ。
「うぬう。わしの日頃の行いが悪いのか、運が悪いというしかないが、劉景升が六月、いや七月まででもいいが、死んでおり、蔡瑁らが襄陽を好き勝手にしておればわしとて名分が……。たったひと月の時間すらもわしのためにズレてくれぬ」
今から襄陽を攻めるのは別に構わないのだが、やっても十日もしないうちに曹軍が襄陽を攻囲する劉備軍団を襲撃しつつ包囲してしまうだろう。蟻一匹逃げられなくなる。劉備に密かに心を寄せている一部の荊州兵も、曹操と劉備のどちらに加勢するか、大軍が迫った今では期待すべきではない。
そう考えると『三國志』先主伝の孔明の進言はとぼけたものに感じられる。
『襄陽を過《よぎ》りしに、諸葛亮、先主(劉備)に、jを攻むれば荊州を有《たも》つべしと説く。先主曰く「吾忍びず」と』
樊城を捨てて逃走する劉備一行が襄陽を通ったときのせりふだが、このとき曹軍は新野あたりにさしかかっていたはずである。新野─襄陽間は約九十二キロほど、漢水を渡ってしまえば遮るものはない。曹操の騎兵部隊なら一日あれば余裕で走破する距離である。劉jを脅し上げて荊州を取りあげているようなヒマはもうない。かりに劉jが、
「荊州を叔父上に差し上げる」
と宣言したとしても、ラジコンロボットじゃないんだから荊州兵十万がすぐさま劉備の思い通りに動き出すとも思われない。すでにして襄陽奪取の時機は失われていた。
ここはたんに孔明が劉備に、口癖の、
「忍びない」
を言わせて胸をキュンとさせたかっただけなのかも知れず、それ以前にそもそも裴松之《はいしようし》は、
「劉表が臨終にあたって劉備に荊州を与える理由などどこにもない。これもまたあり得ない話である」
と夢も人情もなく否定しており、忍びないもくそもないわけで、忍びながっているのは実は陳寿じゃないのかと疑われる。
劉備はそわそわして、
「それで先生、先生の秘策とは如何なるものなのか」
と訊いた。孔明は言おうか言うまいか、しばらく迷うようなふりをしていたが、口を開いた。
「わが軍が樊城に立て籠もって、曹軍を迎えるようなことは愚策以外の何物でもなく、自殺行為にございます。籠城したとてとうていしのげませぬ」
「先生、わが軍が少なく弱いことは重々承知しておるが、それを覆す良策はないのでしょうか。むかし曹操は官渡に袁紹と戦いしおり、至弱をもって至強を破りました。綱渡りでも先生の奇策があればなんとかなるのではないか」
と魔法を期待した。劉備も荊州に留まりたい気持ちは強いのである。ここを出てしまえばまた当分野良犬暮らしが待っている。
「至強至弱というはあくまで一応同じ台上に乗った者同士の比較です。曹袁の死闘は強い虎と弱い虎の戦いだったと思われませ。それにひきかえ、曹軍の精鋭にくらべれば、われらは虎群の前で目をうるうるさせている座敷犬の如きもの」
大相撲なら横綱と平幕力士が闘っての金星はあり得ようが、ここは両国国技館の土俵と田舎の草相撲の土俵くらいの格差がある。
孔明は官渡の戦いを評して、
「曹操は袁紹にくらべ名声も勢力も劣っていたが、最後には勝つことができた。至弱が至強に勝利できたのは、天運に恵まれていただけではなく、人の智謀にも力があったからである」
としており、智恵が最大の勝利要因と言っている。しかし劉備軍団には、留守中の許都《きよと》をほぼ完璧にまとめ上げ、兵站《へいたん》の任を尽くし、弱気なことを言い出した曹操を叱咤した荀ケ《じゆんいく》に相当する智恵以前の基礎者がいない。襄陽や江陵を拠点となし、荀ケレベルの参謀を置いてこそ劉備軍団も、ようやく同じ土俵上での至弱と言えるようになっていよう。
そもそも新野を離れ、襄陽に冷遇され、糧秣《りようまつ》の定期的な補給の当てすら失った劉備軍団は兵が一万いようとも、まともな戦闘集団とは言い難くなっている。一夜にして枯れるさだめの徒花《あだばな》と言える。ここ数年、劉表の温情により軍団の維持が可能だっただけで、襄陽と縁が切れれば人馬ともに飢え倒れて四散する運命なのである。
劉備軍団はこれまでずっと自前の領土を寸尺も持たない流れ者であったから、身を持ち崩した剣客が用心棒をやってやると上がり込み、タカリ暮らしに慣れきってしまっているようなもので、
「飯と酒はだれかが持ってくる」
とでも思っているのか、これでは自分たちを養ってくれる太っ腹なパトロンを捜し続けるか、強盗が本業の真の犯罪集団に身を落とすしか選択の余地はない(孫権の家臣になるという選択肢はある)。明日の飯にも事欠く連中が、漢室復興であるとか、曹操打倒を真剣に検討しているとすれば、
「わが身を立てるのが先決だろう」
と、良識者なら誰もが呆れかえって、必ず失敗するからやめるよう忠告するだろう。
孔明でなくとも、とにかくまず第一に劉備軍団にひも付きではないお金と食糧、言い換えれば他人に頼らぬ定期収入が流れ込むシステムが必要であるとするであろう。それには領土を獲得するしかなく、荊州は一番とりやすい優良物件であった。別なやり方なら五斗米道《ごとべいどう》のような宗教団体を興して信者を増やしてもいい。天地人の三才というが、とくに人と地、農業生産の基盤を持っていない国主など存在することが出来ず、後漢末には野盗まがいの集団ですらそれを持っていた例があるのに劉備にはいまだにない。漢室復興といった義、観念的な目的設定は飯を食わせてくれるものではない。赤壁《せきへき》の戦いを控えたこの時期にも劉備軍団の実質は腕の悪い傭兵部隊でしかなく、『三国志』の群雄の中でもひときわ次元がひくい。
守るべき国土も愛する人民も持たないことは、戦う存在としては実に空虚なもので、根無し草では心底から湧いてくるようなモチベーションを持ち得ず、戦さに弱い(粘り強さが欠落している)のも道理と言うものである。いつまで無免許ラーメンの屋台を引いて、夜の繁華街で警官に追われたり、同業の先輩に場所を貸してもらったり、土地の地回りと喧嘩沙汰を繰り返すようなことをしていれば気が済むのか。
であるのに劉備は孔明以外からも幾度となく荊州を確保して劉備体制を作り上げるよう進言されていたにもかかわらず、仁義のために握り潰していたのだから、最初から人の智謀の力を捨てて省みなかったも同然であった。こんな状態で孔明に何ができるかなど、期待するほうが気が咎めてしまう。孔明が神秘の智恵を振り絞っても、博望坡、新野で曹軍約二十万を焼き殺すくらいが関の山であって(捏造なのだが)、しかしそれをやっても劉備軍団の体質が変わらないなら結局なんの意味もない。
まず孔明がやらねばならなかった仕事とは、天下三分の計に基づく曹操、孫権に対しての戦略策定などではなく、劉備軍団の根本的な体質改革である。医者か更生指導員の仕事に似ていた。これは劉備軍団の長年の宿痾《しゆくあ》を一気に除く大手術といえ、名医が万全の手を尽くしてもあえなく死ぬかも知れない荒療治となる。また免疫系的といえる軍団内の自己保存分子が、抵抗を続けたあげく、自らを激甚なショック症状で殺すかも知れない。その抵抗分子の筆頭が劉備である可能性がなくもない。
わたしも劉備軍団の欠点をあげつらうとき(もちろん劉備軍団には長所や他勢力に比べて有利な点もあるのだが、そういうのはいろんな『三国志』で強調されているので省略)、いつもこれを最後にしたいと思うのだが、敢えて繰り返すのも、誰も指摘しないのが不思議だが、孔明の最大の功績は劉備軍団の体質をいつの間にか(改善ではなく)改造してしまっていたことだと思うからである。孔明の胸の内ではべつに最大でもなんでもないかも知れないが、それでも二番目三番目にくることは間違いなく、しかもどうやったのかがぼんやりとしか見えないところがマジックである。
劉備軍団が旗揚げして二十数年、多くの経験を積み、痛い教訓を得たものの、如何に望んでも成し遂げられなかったことが、孔明入団後、数年を経ずして具体的なかたちを成しており、これを劉備の晩年の強運、やっと実力を発揮できたからとするのは無理である。集団組織というものは年を重ねるごとに自浄能力を失い、自己改革など出来なくなるものだが、劉備軍団はそれ自体別物のように変化してしまっている(たとえば張飛が少なくともまともな軍指揮官に見える奇跡的な変化とか)。後年、魏も呉も孔明をこわがり、一定の敬意を払うようになるが、やはり、
「詐欺っぽいがあの劉備軍団をまともにした男」
という、不可能を可能にした不気味な改造力も恐怖されていたのだと思われる。
孔明は次に言った。
「戦うとするなら決戦場は樊城にあらず。別にあり」
「どこで戦うというのか」
孔明、それには答えず、
「大軍を同時に引き受けるなど、これも自殺行為。直接相手にするのは多くとも二万くらいにしたいところです。そのための場所があります。そうすれば一瞬にして壊滅することだけは避けられましょう」
と言う。
「われらはゆっくりと壊滅するわけですな」
「関将軍、張将軍、趙将軍に身を殺して仁を為す、鬼神も顔を背ける奮闘をしていただければ、半日は保つかと存じます。それにもよき場所が要る」
「……先生、それはよき策なのでござるか? 聞くだに悲惨な気分になるのですが」
しかし孔明、なお答えず、
「さらにわが軍が激闘しつつ滅びてゆくところを民衆にしっかり見物してもらわねばなりません。場所は広いほうがよろしい。さすれば殿の名望は永遠に語り継がれることでしょう」
と言う。
劉備はたまりかねて、
「先生、ちょっと待った。そこまで敗《ま》けては二度と立ちなおれんぞ。というか、わしはどうなるのだ」
すると孔明、白羽扇を劉備の顔の前で揺らした。
「大敗北が前提の策です」
「その、なんとかならんのか先生」
「ここ樊城で拒戦した場合、一刻にて怒濤《どとう》に呑まれ、二刻で壊滅し、三刻目には全員の首が落ちるか捕虜となっておりましょう。わが君、この策は九死に一生も考えていては通らぬ策なのです。九死に加えてなお一死。しかしながらそれを肚《はら》に飲み込むことが出来る大英雄ならば、希望の新天地が現れる、かも知れないのです。この孔明が殿のために脳髄を雑巾のように絞って垂れし一雫の血涙の如き秘策でございます。殿、おやめになりますか」
「うぬーん。結局死ぬんなら、策もなにもないではないか。その策を行えば、わしはどうあっても死ぬとしか聞こえんぞ、先生」
「十中八九はそうなります。ですが殿、それもこれも殿が荊州占拠策をご採用くださらなかったからでございます。次に早く逃げ出すこともなさらなかったからです。わたしの頭の中(宇宙)ではわが軍団は既に壊滅死しているわけですが、しかし、その死を覆すためには、既死の命を担保に入れて冥界から生と運を借りてくるしかございません。一日一割、トイチの利息がつくカラス銭のような借り入れでございます」
孔明、悪魔と取引きするつもりか。
「まあ、わしとてこう見えても武人のはしくれ。生死は命、天にあずけている。死してもわが軍団の忠烈伝説が人の心に残るだけましなのかも知れんな。で、先生、その策では民はどうなるのか」
「以前に申し上げましたが、十人のうち六人のところを、なんとか十人に三人ほどの犠牲にておさめることが出来るでしょう。これが一番難しい問題でした」
劉備は、イカサマ師と分かっているサイコロ博奕の壺振りを見るような目つきで、孔明をじとりと見ていたが、言った。
「そうか。ひとつ特に訊きたいが、その策を行ううえは、わしも死を免れぬと覚悟しよう。して、そのとき先生はどこにおられるのか」
すると孔明、にこりと笑い、
「そのときはこの孔明も当然生きてはおらず、殿と雁首《がんくび》揃えて曝《さら》されておりましょう」
と爽やかに言った。
聞いた瞬間、劉備の目から熱い液体がどばっと噴き出した。
「それをやろう」
と叫んだ。
「先生が命を賭けてくださっておるのなら、もはやわしがどうこういうことではない! ぜんぶお任せする! 心中いたそう」
涙を噴き出しながら抱きつこうと迫る劉備をさらりとかわし、
「そのお言葉が聞きたかったのです」
と孔明は言った。
「その言葉をいただいた上は、この孔明、誓って殿のお命と名誉をお守りいたすでしょう」
孔明は懐から地図を取りだして拡げた。
「これからお話しする策は、しばらくは殿の胸の内にお秘めくださるようお願いします」
と言っても劉備のことだから、関羽、張飛には喋るだろうし、そうなれば軍団幹部に知れ渡るのも時間の問題である。まあそれはそれでいい。
(キモの部分は話せない。今は無理でも、いつの日にか、殿も機密保持は軍団の存亡を左右する大事だということを理解する日が来るだろう)
って、今までの劉備軍団は胸にも腹にも一物も隠すことのない、情報的には公明正大なザルの如き集団だったのである(軍事的にはもちろん悪)。
劉備は地図に顔を近付けた。荊州の詳細な地図であった。孔明はその女性のように細長い指で、地図上をなぞると、ぴたりと一点をさした。
──当陽《とうよう》
であった。当陽は襄陽の南方約百四十キロに位置する、襄陽と江陵《こうりよう》のちょうどなかほどにある要衝《ようしよう》である。当陽の東北四キロには長坂橋《ちようはんきよう》がある。
「予定戦場はここです」
と孔明は言った。劉備は不審げに顔を上げた。
(当陽にゆくのなら、江陵までゆくほうがいいだろうに)
江陵は荊州第一の物資の集積地である。
「おっしゃりたいことは分かります。しかし江陵を占拠できたとしても、荊州を握らぬわが軍が曹軍の猛攻に砕かれることは変わりません」
「うむ。いかに物資豊富でもわしも雲長《うんちよう》、翼徳《よくとく》とも籠城戦には適《む》いておらん」
「よろしいですか。決して樊城から逃げ出すのではありません。この地に布陣し、兵力を分けるであろう曹軍を迎撃するのだと、そのつもりでおられたし」
「では早速、何回かに分けて兵を当陽に移すことにするか」
孔明は首を振った。
「襄陽の無戦降伏が樊城に露見した瞬間が開始でございます。ほぼ同時に曹軍の進攻も始まるでしょう」
敢えてギリギリまで粘るのは樊城の民をも慌てさせ、判断力を狂わせるためもあったろう。
「先生は、やはり劉j《りゆうそう》は降伏すると見ておられるのか」
「そんなこと当たり前じゃないですか。その辺の子供だって感づいていますよ。もう密使が宛《えん》に向かっている頃合いでしょう」
「うぬ。州牧《しゆうぼく》を継いだばかりというのに何という親不孝の意気地なしか。おのれ蔡瑁《さいぼう》、|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》は家臣一同恥じて首をくくれ!」
「そのお怒りは三ヶ月遅うございます」
「しかし、現実にこうなってみるとやたらと悔しいぞ。わしは甥御どのの後見役のはずだ」
「それほどお怒りなら、襄陽に寄って盛大に後ろ足で砂をかけてゆけばいいでしょう」
ついでに劉表の墓にクソぶっかけてくださればさらによし。
そして孔明は具体的な段取りを授けたのであった。
張飛の飢戦発狂を止めてくれたのは、ある意味では襄陽の幕僚たちであったかも知れぬ。
劉表の喪もそこそこに、劉jを州牧の地位におき、会議というより降伏の手順を確認しているような塩梅《あんばい》であり、『三国志演義』がやや詳しい事情を記している。
劉jはこのとき二十四歳くらいのはずだが、『三国志演義』では十四歳の子供にされている。降伏後、冷酷悪魔の曹操に密殺される手筈であるから、いたいけな若君であるほうが効果的なのだろう。史実では劉jは殺されたりせず、青州《せいしゆう》に送られ捨て扶持をもらう若隠居となっている。中国の講談師は、
「曹操は根っからのワル」
と強く印象づけるためには証拠まで偽造するレベルの、なりふりかまわぬ歴史捏造を平然と行う堕落した正義感を持っていた。
劉表の殯中《かりもがり》にもかかわらず、もう蔡瑁が、
「さてたった今からあなたさまが、荊州のあるじにござる」
と劉jを故劉表が坐していた席につけた。劉g、劉jの兄弟は劉表に、
「とてものこと国を保つ器量はない不肖の息子」
とされ、家臣団の多くが共感していたわけだが、この場のみ劉jは何故か突然すこぶる聡明になり、一同に訊いた。
「父上は亡くなられたが、わが兄は江夏《こうか》に在り、叔父玄徳どのは樊城《はんじよう》に在る。お前たちはわれを立てて主《しゆ》となさんとするが、もし兄と玄徳おじが不服をおもい、兵を起こしてわが罪をなじってきたら、いかがするつもりか」
するといつの時にも手遅れな騒ぎ屋はいるもので、硬派幕僚と思われる李珪《りけい》が、
「公子の言葉はまことに道理にございます。ただちに江夏に使者をつかわされ、兄上をお呼び戻しになり、荊州のあるじと仰ぎ、玄徳どのの輔《たす》けをかりて、曹操、孫権と戦うことが至当にございます」
と言った。劉jはその言に頷きかけた。
だが、とっくに済んでいる話を李珪に蒸し返された蔡瑁が、
「貴様、なんのつもりか。この期に及んで亡きご主君の遺命をかき乱すとは」
先だってはしぶしぶでも賛成していたくせに急に今頃になって一人だけいい子ちゃんになろうとするとは浅ましいぞ、と罵倒する。李珪はもともと蔡瑁が嫌いで、キレやすいたちだったのだろう。激しく言い返した。
「黙れ売国豚が! 貴様こそ大奸物。蔡夫人と口裏を合わせてありもせぬ遺言状をでっちあげ、長子を廃して年少を立て、荊州をわがものにしようとする魂胆が、体中から放射されておるわ。亡き殿の霊魂がいませば、すぐさま貴様に取り憑き誅殺《ちゆうさつ》なさろうぞ!」
かっとした蔡瑁はヒステリー気味に、すぐさま李珪を斬り殺した。
「わしは豚ではない。ご主君の犬じゃ!」
李珪は血を噴き出させながらも蔡瑁に罵詈雑言《ばりぞうごん》を投げ続け、死ぬまで止まらなかったという。
李珪にトドメを刺し終えた蔡瑁は、劉jに、残酷ショーは面白かったでしょうか、と、にっこり。
「さあ痴《し》れ者は天誅をうけて、この世から退場しましたぞ」
と手揉みしながら笑っている。いきなりの血|飛沫《しぶき》、刃傷沙汰に、ここは笑う所なのかと、劉jは左右に訊きたくなった。
かくて蔡瑁は最後の反対派を殺し、自分の絵図通りに内閣改造を行った。ただし幕僚たちは曹操への降伏はやむを得ないと賛成しただけで、蔡瑁にこのような勝手放題を許したつもりはない。
(この豚道化が! そのうちひねり潰す)
というような悪感情で、荊州は新政権樹立と同時に割れている状態であり、子供の劉jにもそれは痛いほど感じられた。
「よきにはからえ」
と溜息をつくしかなかった。
亡き殿の霊魂に取り憑かれるのが恐かったので、蔡瑁は劉表の亡骸《なきがら》を急遽襄陽の東方に埋葬するよう命じた。劉備と劉gには知らせていない。
蔡瑁の政権確立パフォーマンスが一段落し、劉jが落ち着いて喪に服し直そうと思っていたとき、今度は曹操の大軍が今にも攻め寄せようとしているとの報が入った。次いで降伏勧告の使者が至り、またしても蔡瑁主宰の緊急会議となった。
(ようやく遊べると思っていたのに、またもや蔡瑁の殺人劇場を見なければいけないらしい。今度は誰が公開処刑されるのか。もしかして、ぼく?)
と年少の劉jはまた溜息をついた。
蔡瑁、|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》、傅巽《ふそん》らは既に取り決め約束していたところの案、
「荊州九郡をそっくり曹操に進呈する。このことは劉備にはヒミツにする」
ことを劉jに言上した。劉jもさすがに、おいおい、と思ったのだろう、
「ついこの間、荊州牧となったのに、もう人にくれてやれというのか?」
くらいの皮肉は言った。いちおう※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越が、
「今、曹操が荊州を征討するに必ず勅命と称するゆえ、逆らえばわれわれは天下に逆賊の汚名を着せられます。荊襄の民は曹操来たると聞けば震え上がり、戦う気力すら失うでしょう」
と説明した。
「そうかも知れぬが、亡き父上の生前のご偉業をあっという間に捨てては、天下の笑いものになってしまう。もともとこの国の責任者でもない玄徳おじはやる気満々というではないか。それなのにわれらが早々に尻尾を巻いては、なおさら天下の嘲笑を誘い、曹操にあなどりを受けるのではないか」
ティーンというものは、何よりもプライドが高く、笑い者にされることを極端に嫌うものだ。
「それに、降伏のことを樊城にてわれらが盾となっておられる玄徳おじに知らせぬのは信義にもとるぞ」
すると皆は、
「だって、あの人、ちょっとおかしいから」
と、これだけは意見一致して答えた。
「もし劉玄徳がわれらの降伏決議を知ったなら、怒り狂い、餓狼の牙を剥《む》いて襄陽に襲いかかってくるに違いありません。玄徳どのがこらえたとしても、義弟張飛が黙っていないでしょう(加えて孔明が火をつけるかも)」
「玄徳おじはそのようなことはせん」
と思うが、あまり自信はない。
とにかく劉jは少なくとも良心が咎め、ぐずぐずと渋るようであった。
この時かっこよく進み出たのが王粲《おうさん》である。王粲は稀代の才人とされているが、蔡瑁のような保身第一の小者をのさばらせるに任せていたのは、職務怠慢の誹《そし》りを免れないのではないか。
王粲は字《あざな》を仲宣《ちゆうせん》といい、山陽《さんよう》郡|高平《こうへい》の人、このとき三十一くらい。年少の頃より奇才の誉《ほま》れ高かったが、中央の戦乱を逃れて劉表のもとに賓客となった。劉備もこのくらいの人物に礼を尽くして迎えておれば、世間の評価は孔明獲得の百倍はあがったであろう。ただ王粲は容貌貧相で、身の丈五尺に足らぬかっこの悪い男であったから、劉備の獲得欲をさっぱり刺激しなかったに違いない。曹操は見てくれで人を評価しないから、襄陽占領後、すぐに王粲を登用抜擢した。建安七子の一人に数えられる王粲は曹操をよく輔《たす》け、のち魏国の要職を歴任した。
かつて天下の大学者|蔡※[#「巛/口/巴」、unicode9095]《さいよう》はまだ子供の王粲に跪《ひざまず》き、人の前でもほとんど弟子のような態度をとり、
「この方はまことの奇才であり、わしなど遠く及ばぬほどじゃ」
と言ったというが、ちょっと考えられない異常な態度である。蔡※[#「巛/口/巴」、unicode9095]は董卓問題で精神的に参っていたのかも知れない。
王粲の記憶能力は魔的なところがあって、道端の碑文をちらりと見ただけで一字一句間違えずに暗唱し、人がさしている碁を見ていて、犬がひっくり返したとき、一石も間違えず元通りに置き直したとされる。瞬間映像記憶力を持っていたのであろう。その上、算術から文章に至るまで抜群によくできた。
と、右のようなことがたいていの『三国志』には書いてあるが、劉備の見殺しに賛成し、のち曹操の属官として活躍したのなら、極悪非道の人非人呼ばわりされるのが当然の報いであり、少しでも褒める記述などあってよいはずがない。しかしどうも悪者にしにくい人物であった。マイナス要因をぶっちぎりにして余りある人格と才能があったのであろう。劉備の不利をなし、曹操に味方しても例外的に極悪人の烙印《らくいん》を押されない者はたまにいる。
ただ、それほどの人物のわりには、この場面で、言うことは平凡、しかも事実誤認の記憶力のあやしさをさらけだしている。王粲は、劉jに噛んで含めるように言上した。
「若君、曹公は強兵勇将を抱え、智謀に富んでおります。呂布《りよふ》を|下※[#「丕+おおざと」、unicode90b3]《かひ》に擒《とりこ》とし、袁紹を官渡に打ち砕き、劉備を隴右《ろうゆう》に追い詰め、烏桓《うがん》を白登《はくと》に破ったほか、平定した者は数知れませぬ」
と言うのだが、このうち、
「劉備を隴右に追い詰め、烏桓を白登に破った」
は、どこで聞いたのか知らないが間違いである。裴松之は、
「劉備が隴右にゆくのはずっと先の話だし、曹操の烏桓征伐の際、まったく方向違いの白登を通過するはずがない」
と、相手が天下の王粲であろうが、容赦なく斬り捨てている。王粲が故意に嘘をついたと考えるのが妥当なのかもしれぬ。
ともあれ王粲は、
「将軍(劉j)はご自分と曹操を比べて、どちらが上と思いますか」
と、ごくありふれた『三国志』トーク(世の英雄を比較の対象に持ち出して問い、しまいには自分は生きる価値すらない生き物だと自己否定するまで追い詰める非論理的で陰湿なレトリック)をもって劉jに迫った。まだ少年の劉jが、
「ボクの方が上だい!」
と答えたときはどう収拾するつもりだったのかは知らないが、
「傅巽《ふそん》、|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》どのの申されることこそ、長久の策。後悔先に立たず。ご躊躇は禁物ですぞ」
と、まったく奇才の輝きがない冴えない問答で、どうにか劉jを丸め込んでしまった。というか、叱りつけて言うことを聞かせた。かっこよく出てきたわりにはつまらんぞ、王粲!
王粲のつまらなさは諦めるとして、結局、劉jは無戦降伏を承諾した。さっそく降表《こうひよう》をしたためると、密かに宋忠《そうちゆう》をやって宛の曹操本陣に届けさせた。
「やっと来たか」
荀攸《じゆんゆう》たちはこれを待っていたのであり、敢えて曹軍の足をとどめていたのであった。曹操は明朝を期して七路に分けた軍に進発の命令を下した。
ところで曹軍二十万だが、そのすべてが襄陽に向かったわけではない。曹操の頭脳の中では既に対孫権の作戦が組み上げられており、宛城滞在中に部隊の整理再編ばかりやっていたのではなかった。劉jが屈した今、荊州派遣軍は二十万も必要ない。荊州で戦いが起きるとするなら劉備軍団とそのシンパとの局地戦くらいのものであろう。荊州陥落はすなわち孫権集団を激しく動揺させるのは間違いない。呉との駆け引き、戦いの幕開けとなる。
赤壁の戦いは、たんに曹操の主力軍が陸口《りくこう》、烏林《うりん》で呉軍と争ったといった範囲の狭い戦いではなかった。江陵から呉郡までの長江流域を北から圧するかの如く押さえておいて、曹軍主力は傘下に収めた荊州水軍を使って長江をくだり、江南の心臓部を刺しにゆくという大戦略のもとに実施されたのである。
曹操は長江北岸に沿って支軍を配置し、重要拠点を広くカバーする布陣を策定している。広陵に臧覇《ぞうは》、東城に陳登《ちんとう》、合肥《がつぴ》に李典《りてん》、信陽に李通《りつう》と、呉軍が突出してくる可能性のある渡河拠点には攻守両用の野戦陣地が築かれつつあった。これは拙劣な兵力の分散というには当たらない。それぞれの地点で曹軍はすべて呉軍と同等か、それ以上の兵力差となるように部署されていた。そして、荊州兵を加えた曹操の主力軍は堂々と長江をくだって呉の玄関を破り柴桑《さいそう》の孫権を仕留めるのである。
おそらく曹操はこの対呉作戦案を烏桓《うがん》との一戦の前に既に練り上げていたであろう。郭嘉《かくか》が作戦をより完璧にするべく研究に没頭し、いくつかの重大な不備に気付いて曹操に具申したが、修正案を完成させる前に病没した。
長江北岸の動きから曹操の意図を知った張昭《ちようしよう》が、
「長江の険とて一壁一濠にかわりはない。こちらには長江の岸に張り付ける兵がなく、これでは万に一つの勝ち目もない」
として、戦争に強く反対したのは正しい判断だったとしか言いようがない。呉軍のメインは何と言っても周瑜《しゆうゆ》が指揮する長江水軍であり、陸戦隊には数、質とも弱みがある。張昭から見れば孔明などは手ぶらでよその家に上がり込み、無責任に滅亡のかかった喧嘩を煽《あお》りたてる許し難い害獣でしかなかった。
無血開城した襄陽に進駐すべく新野、樊城に向け動きだした曹軍第一陣はその数およそ八万である。これを曹操、張遼、于禁、楽進《がくしん》、徐晃《じよこう》、|張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]《ちようこう》らの百戦錬磨の闘将が率いるというのだから、もったいないばかりの無敵のシフトというしかない。『兵は詭道なり』がポリシーの、敵をだまし討ちにすることに人生の生き甲斐を感じる荀攸、程c《ていいく》、|賈※[#「言+羽」、unicode8a61]《かく》ら老練の作戦参謀たちも頭脳を高速回転させながら随行している。
加えて後詰めが夏侯淵《かこうえん》、曹仁《そうじん》、曹洪《そうこう》という豪華さで、もう世界制覇すら夢ではなさそうな最強軍団であった(ものがたい荀ケと夏侯惇が許都で留守番させられるのはお約束だ)。これほどの陣容を荊北に投入したのは、曹操としては劉備軍団なぞこわくもなんともなかったが、戦場における神のみぞ知る不可抗力的なこわさは常に知るべきで、何やら一抹の薄気味悪さを感じていたからであろう。
さて不運だったのは宋忠である。帰り道で関羽の偵察隊に捕まってしまった。
「怪しい奴」
と、関羽は宋忠を引っ立てて樊城に戻った。最初は黙秘を貫いていた宋忠であったが、もはや人間の雰囲気が感じられない張飛が、うつろな目つきで蛇矛《じやぼう》を掴んで接近するや、
「なにもかもすべて白状します!」
と栓の壊れた蛇口のようにぜんぶ吐き出した。
襄陽の会議の模様を聞き、降伏決定の事実を確認した劉備は、
「忍びん」
と叫んで思わず剣を抜いた。宋忠に剣を向け、
「卿《けい》らのやることはこんなものか。ろくに相談もせず、いま災いが目前に迫ってからはじめてわしに知らせるとは、あまりにもひどい仕打ちではないか。わしはおぬしらにそれほど悪いことをしたというのか」
と劉備は恨みごとを言った。張飛は、
「こいつは、おれに、こ、殺させてくれい! まずこやつを血祭りに上げ、板に磔《はりつけ》にして見せしめにし、一挙に襄陽に突入し、蔡瑁、蔡夫人と劉jを、それに|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》、王粲《おうさん》、傅巽《ふそん》、張允《ちよういん》のクソどもを五寸刻みにして殺し、返す刀で曹操の兵を皆殺しにしようぞ。兄者、こ、殺させてくれぇ」
と、呪いが窮《きわ》まった幽鬼のような声で言った。
しかし劉備は自らの剣を鞘《さや》に戻し、
「そなたは黙っておれ。わしにはわしの考えがある」
と張飛を止めた。
「それに、大丈夫たる者、いまさらこんな情けない男を斬ったところで、かえって恥である」
と言って情けをかけ、宋忠を解放した。宋忠は拝礼して感謝し、ほうほうのていで立ち去ったというが、本当かどうか。ここで張飛を止めたら、狂い死にするか、家出して二度と帰ってこなくなる可能性すらある。
「釈放した後のことは知らん。飛弟の勝手にまかせる」
とでもしておかないと、張飛が爆発するに違いなく、げんに宋忠はこのあと登場しなくなる。
劉備にしてみれば宋忠のことなどどうでもよい。
(やはり降伏を決めおったか……)
「諸葛先生をお呼びして参れ」
孔明が本部にいることは滅多にない、のか。
ちょうどその時、劉gの参謀となっていた伊籍《いせき》がやって来た。
「おお機伯《きはく》(伊籍の字《あざな》)どのか! よく来られた」
劉備は伊籍の手を取り出迎えた。伊籍は劉gに頼まれて、相談ごとの手紙を持ってきていた。
劉gは蔡瑁に阻まれ、親の死に目にも立ち会わせてもらえなかった。それどころか一切の知らせもなく、劉jが跡継ぎにおさまってしまっており、あまりの情けなさに自己嫌悪に陥っていた。そこで伊籍を派遣して、
「皇叔さまのご配下にお味方いただき、ともども襄陽に怒鳴り込んで、蔡瑁らの罪を糾弾していただきたい」
と例によって泣きつきの頼み事をさせたのである。
劉備は劉gの書状を読み終わると、洟《はな》をかんで捨てた。その上、唾をはきかけた。伊籍が、
「なんと」
と言うと、劉備は目に涙を溜め、
「もう遅いのでござる」
と鼻糞をほじりながら言った。
「機伯どのは、劉jがすでに荊襄九郡をそっくりそのまま曹操に引き渡したことをご存じか」
「そ、それは本当のことですか」
伊籍は仰天し、顔を蒼くした。劉備が宋忠を捕まえ聞き出した仔細を語ると、憤激した伊籍は、まるで張飛が乗り移ったかのように、
「それならばもう遠慮はいりませんぞ。弔問にかこつけて襄陽に殴り込み、劉jを取り押さえ、その一族郎党を皆殺しにしてしまえば、荊州は劉皇叔のものとなる! そして襄陽のおもだった面々を引き連れ江陵にゆくべきでしょう」
と言った。
白羽扇をぱたぱたいわせてやって来た孔明も(もうこれは半分芝居ではあるのだが)、
「機伯どのの申される通りです。殿、すぐさまさようになされませ」
と口添えした。
劉備の真心と報恩の気持ちが、襄陽のクソども(by 張飛)に踏みにじられたのである。しかも身体を張って荊州を守ろうとしている劉備軍団に知らせもしないのだから、闇夜に短刀、曹操に売り渡されたも同然であった。
「許すべからず!」
関羽、趙雲、簡雍、糜竺ほかその場にいた劉備軍幹部は、こうなればさしもの劉備も躊躇《ためら》いなく襄陽を踏み潰しにゆくだろうと、気合いの入った虐殺指令がその口から雷鳴のように轟き渡るのを今か今かと待った。
しかしこういう時こそ映えるのが、劉備のかっこいいけれんトークであって、仁義の言葉を叫べるチャンスを逃す男ではない。既に目からはらはらと涙がこぼれ落ちている。
「忍びぬぅ!」
なにが?
「兄上(劉表)が死に臨んでこのわしに遺児を託されたというのに、そのご子息を捕まえてぶち殺し、国を奪うなどという没義道《もぎどう》がどうしてこのわしにできようか!」
劉備は仁義のせりふを泣きながらぶちかました。
「そんなことをして、他日、わしが冥土に行ったとき、どのつら下げて兄上に顔を合わせられようぞ」
劉備軍団幹部は、
(また始まった)
と、思うのだが、同時にまた、
(いよっ、わが君、名調子)
という男心をいたく刺激する熱い感動が生じることを止められないのであった。
「男として、いや、人として、避けてはならぬ、心を鬼にせねばならぬ時かもしれぬ。……だが、わしには出来ぬ。わが正義の心がさせてくれぬのだ。くっ、こんな天下一甘い男は、あるじとして失格である。皆の者、許してくれい。笑い者にされる前に去りたければどこにでも去ってくれ!」
劉備の燃える中年の握り拳が机台を叩き、白眼がぼたぼたと涙を垂れ流すのであった。しかし、劉備軍団幹部の誰一人として、去るはずがない。
「わが君っ」
「殿っ」
「死ぬまでついてゆきます!」
と次々にかけ声がかかった。
「玄徳どの、すてきだ」
まだ軍団員ではない伊籍もいつの間にか見入って心揺さぶられていた。
「くう、わしと同じく甘甘なやつらが」
劉備は袖で涙をぬぐい、顔をくっとつきだし、きりりと正義のポーズで見得を切るのであった。
一人冷静な孔明がぱちぱちと拍手をすると、幕内割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こり、劉備は、片手をあげ、
「ありがとう、ありがとよ、てめえら」
とまるでスター気取りであった。
孔明が汗と涙を拭うための布を渡した。
「殿、嫌だとおっしゃるのなら、曹軍は既に宛城《えんじよう》まで来ておりますが、いかがいたすおつもりですか」
と訊くと、
「われらの義に逆らう者とは決然と戦うのみ」
と、ビシッと言ったから、また拍手が起きた。
「わが君、襄陽が曹操に服したということは、わが軍は北に曹軍を迎え、南に襄陽守備軍に阻まれ、挟み撃ちにされるということです。極めて危険な状況と申せましょう。ここ樊城《はんじよう》で戦うのはただ民衆を暴虐に巻き込むだけにございます」
と孔明は言った。
「それはまずいぞ。挟撃されては立ちゆかぬ」
と劉備は言う。
「ならば兵数の少ない襄陽を急ぎ攻めるべきです。曹公に降った襄陽は、なお劉家のものとはいえ、もはや曹軍の一味に等しく、義にそむく輩《やから》と申せます。これを討ち果たしてもなんら不義ではありません」
しかし、劉備は頑《かたく》なだ。
「それは出来ぬと申したろう。人としてしてはならんのだ」
よく分からないが、それなら献帝という漢の劉家の義を悪用して攻めてくる曹操に対しても、献帝の置かれた立場を思えば(襄陽においては蔡瑁が曹操の役回りとなるが)、憎い曹操とはいえ戦うのに忍びなくてはならないはずで、またそれは劉表の一族の比ではないはずだ。とにかく劉備の言葉の矛盾をついていたらきりがなく、義理論ではなく感情論なんじゃないのかと批判されるのも仕方がないところである。いつも平気でダブルスタンダードを使い分ける劉備であって、しかし論理的思考が苦手な劉備は自分の意見がダブルスタンダードになっていることにも気付いていないのだろう、おそらく。
まあこの場はそのことは重要ではなく、このやり取りもなかば筋書き通りである。
「ならば殿、挟撃を避けるためには、襄陽の南方に陣を構えて曹軍に対するしかありません。急ぎます」
つまりは今すぐ樊城を出て行くという結論に持ってゆきたい。
「わかった。樊城を捨てよう」
ちょうどその時、張飛が厠《かわや》から戻ったというふうに入ってきた。袖口に血痕があるが、それについてはとやかく言うまい。
「なに、兄者、樊城を捨てると聞こえたが」
激しい殺人欲も少し満足していたので、怒り狂ったりはせず、皆はほっとした。
「それは違うぞ飛弟。こんな場所では曹軍と思い切り戦えぬゆえ、有利の場所に陣を移すのである」
「兄者よ、それは要するに撤退じゃないのか。それならまかりならんぞ」
こういう時には鋭い張飛である。
「有利なところとかに行って、曹操がびびってかかって来なかったら、ぶっ殺せなくなるじゃねえか」
「飛弟、詳しいことは先生にお聞きしろ。われらは今、存亡のきわにあると覚悟せよ」
劉備は、ダーッと叫びながら外に走っていった。張飛から逃げたのだろう。
張飛にとっ捕まりかけた孔明は、慌てるふうもなく白羽扇を翻《ひるがえ》して張飛の顔に突きつけた。
「翼徳どの、これは逃げではない! 男の意気地を問うものである」
と眦《まなじり》を決して言った。
「男の意気地だと?」
「翼徳どのはこの地、樊《はん》という名の意味をご存じか」
孔明は棒で地面に樊という字を書いた。字が読めない張飛はその字をハンと発音するらしいということしか分からない。
「ぐんしーは何を言いたい」
張飛はぎろりと孔明を睨み上げた。
「樊とは藩屏《はんぺい》、まがきにつながれることをいう。つまりは鳥籠の中に閉じ込められた小鳥というようなもの。ここは男が棲む場所ではない」
後漢の許慎《きよしん》が『説文解字』という史上初の字形解釈の大労作を書き上げたのは、このときから百年ほど前のことである。『説文解字』によればそういうことが書いてある。
「なんと、籠の鳥とな」
「翼徳どの、わが軍団は地面にこぼれた米粒をついばむスズメですか、メジロですか。そうではないはず。こんな城にとらわれて闊達《かつたつ》さを失ってはなりません。自由に天高く舞い、獲物を急襲してこれを引き裂き食いちぎる鷲や鷹こそ、わが軍、いな、張将軍にふさわしいものと存ずる。こんな城で微々たる餌をもらい、未練をもって猛禽《もうきん》の勇を失うなら、わが軍は天下に燕雀《えんじやく》の小心をさらし、鴻鵠《こうこく》の志なきものと笑われまするぞ」
と、こういう言辞を行わせればいくらでも出てくる孔明である。樊城にとどまることは、何だかよく分からないにせよ、
「男としてかっこ悪いことだ」
と張飛に思わせたのであった。
「むう。確かにそうかもしれん。おれは手乗り文鳥ではないぞ」
「家に籠もって戦さを待つなどは婦女子の戦いである。道端で意味もなく吹っかけられた喧嘩を買うかの如き無頼の戦いこそ、わが軍団にふさわしいものと存ずる」
「まことにそうだ。おれたちはちんぴらどもを家に迎えてやるほどお人好しではない。ガンを飛ばしてきたなら厠の裏で半殺しにするのは当たり前のことだ」
「ふっ、さすが翼徳どの、男の戦さが分かっておられる」
「おう。殺し場にいちいち文句をつけるなどは男ではない」
理屈はともかく張飛はなんとなく説得されてしまった。
功利的戦略戦術上の要点をもって、相手がまったく反論できぬまでに述べ、合理をして論客を圧倒することも容易な孔明ではあるが、『三国志』では滅多にそうせず、浮世離れした怪しい理屈を使って人の正論を封じることのほうが多い。
今の場合は、最初から合理が通用しないと分かり切っている張飛だから、男論にスライドさせた。
「城の名前がかっこ悪い」
という、別にどうでもいいことを、男の意気地に結びつけるような論理こそ、堅実な人間からは相手にされないであろう孔明流の説得術である。縦横《じゆうおう》の術には一貫の道というものはない。誤魔化されるやつが欲深の抜け作なのだ(詐欺師の論理)。孔明、こんなことは序の口で、悪意と迷信に満ち満ちた理屈ものちに登場し、多くの人を煙に巻くことになる。
翌早朝、劉備は樊城のものどもを、官舎前の広場に集めさせた。このとき樊城には兵卒と民衆すべて合わせて二十万人いたという。
劉備は土を固めてつくった台の階《きざはし》をのぼった。目の前を埋める大観衆に、並の人間ならかえって圧倒され、がくがく震えてしまい、声が上擦ってしまって不思議はない。しかし劉備は悠々としたもので、老人老女、壮丁、女、子供、農夫、商人、下級兵士、乞食までもを、ゆっくりと視界に入れ、一人一人に視線を合わせるかのように見渡した。この泰然自若の様子が、英雄に必須のくそ度胸、器の大きさでなくてはならぬ。
台上の劉備は泣きはらしたのか徹夜したのか、赤い目をしていた。民衆は何が始まるのかとやや案じ顔である。劉備はすうと息を吸い込むと、いきなり、
「わしは民をぜったいに見捨てぬ!」
と凄まじい音量で叫んだ。民衆はもうこれだけで劉備の仁義の心にビリビリと痺れてしまった。
「劉将軍」
「領主様」
と、いくつもの声がかかった。
「民あっての玄徳であり、民なくして何の玄徳か!」
民衆に心地よいざわめきが走った。
「わしは悩んで悩んで一晩悩み抜いたが……敢えて真っ正直に言わねばならん。しかしこれはあくまでわしたちのこと。もとより命令ではなく、皆に押しつけも、強制もできぬことである。だから今からわしの言うことに対して遠慮しないでほしいのだ」
劉備はまた深く息を吸い、ぐっと右拳を握って肘を曲げ、気合一閃、叫びながら天に向かって突き上げた。
「お前らみんな江陵に行きたいかーッ」
民衆は一瞬何のことかとぽかんとした。ややあって二、三、
「行きたい!」
「行きます」
と小さな声が起きた。
劉備は、膝を曲げ、身をすくめ、自らの肩を両腕で抱き、全身を震えさせて我慢してから、ぐっと爪先を踏み込み、弾け上がった。
「おぬしら、みんな!」
縮めたスプリングが急に伸びるように、跳び上がりつつまた拳で天を衝《つ》き、ジャンピング・ボイス・アタック、
「江陵に行きたいかァーッ!」
と炸裂弾のような声を放った。民衆も兵士ももう我慢ならず、腹底からの押さえがたい衝動が喉をつく応答で、
「おう!」
と返事を轟かせた。
「本当かーッ」
「おう!」
「わしを信じるかーッ」
「おう!」
「泳いででも川を渡れるかぁーッ」
「おう!」
「来るなといったらどうするッ」
と挑発すると、血気盛んな若者が、
「ばっきゃろー、おれたちを舐めんな。殺されてもついてゆかぁ」
と怒鳴り、あばずれは、
「見損なわないでちょうだい。あたしたちはもう劉将軍と一蓮托生の間柄なんだからっ」
と叫んだ。劉備のテンションはピークに達した。
「くっ、この天下一の糞馬鹿たれどもがっ。わしは知らん。来たきゃあ勝手について来い!」
「いかいでか!」
「おおおおー」
地鳴りの如き足踏みも起きた。
劉備は襄陽の方角をビシッと指した。
「よっしゃあ、まずは襄陽で昼飯ダァーッ!」
「おおう!」
続いて玄徳コールが自然発生的に湧きあがり、民衆の声が樊城を揺るがすほどに響き渡った。
「げんとっくっ! げんとっくっ! げんとっくっ!」
繰り返される玄徳コールを浴び、劉備はえも言われぬよい顔をして、長い両腕を肩の高さまであげ、民衆に向かい、センキュー、センキュー、ア・リ・ガ・トというジェスチャーをして見せた。劉備が玉の汗を流しつつステージ(たんなる土壇)から降りると、中年のおばさんが、手ぬぐいをもって駆けつけ、劉備に捧げた。
「玄さま、どうかこれにてお拭きください」
劉備は受け取ると、
「ふんっ」
股を開いて腰を落とし、顔はがばっと上を向いたオーバーアクションで額の汗を拭き取り、おばさんに投げ返すとウインクした。おばさんは失神した。
それを見た年増女から老女までもが舞台(ただの土の台)に殺到し、自ら袖を破ったり、肌着を引き抜いてわれよわれよと劉備に差し出した。劉備は男の色気爆発の流し目をくれ、なんと自分の襟《えり》を掴んでがばと開き、胸毛の濃い胸板を剥き出しにした。途端に黄色い悲鳴が上がる。そしてもろ肩まで脱ぎさらし、次々に渡される布で腹から背中までどんどん汗を拭いて、投げ返してやった。女たちのさしだす布は引きも切らず、糜竺《びじく》が止めなかったら全裸となり、股間から脛《すね》まで拭き抜いたかもしれない。この劉備の仁義の汗が染みついた布きれは長く家宝となるだろう。
(戦さ以外の)決めるべきところでは、外さず決める天下一魅せる男劉備、世が世なら大衆演劇スターかホストでもいけたかも知れない大人気である。玄徳コールがなお鳴りやまぬ中、劉備は手を振りながら庁舎の中に入っていった。まさにカリスマ!
玄徳コールはそのあとも長く続いたが、さすがにアンコールはなかった。孔明は陰からこそっと見ていたが、
(いかに臥竜なわたしでも、あれだけは真似のできないところである)
と素直に思った。劉備の緊急発表会見、数万人の客を前にしてもまったく動じることのない魔性のワンマンショーに、孔明も一瞬見とれてしまったほどであった。感涙していない軍団幹部は一人もいない。
かくして劉備軍団は堂々と樊城から逃げた。劉備を先頭にして、続く関羽、張飛、趙雲は一張羅の魚鱗甲《ぎよりんこう》を凜々《りり》しく身につけ、惚れ惚れする武者ぶりである。あまりに堂々としているので、これから一戦交えに行く、意気盛んな軍隊に見えないことはない。
劉備たちは昨晩から出立の準備をしていたからいいが、新野、樊城の民衆は急遽どたばたと準備をしており、家財荷物がほとんどない者が先んじて出てきている程度である。
まず目指すは襄陽である。漢水の渡し場には昨晩に糜芳《びほう》らをやって、きっちり渡し船を集めさせておいた。
このとき孔明が性懲りもなく劉備に襄陽攻撃を進言し、劉備が斥《しりぞ》けたという話は前述した。
「忍びぬ!」
と一言のもとに孔明の進言を斬って捨てたので、孔明嫌いの者たちの溜飲も下がり、歓声があがった。既定のやり取りである。
劉備が軍勢を引き連れて現れたと聞けば、襄陽の劉jとその幕僚が、攻め殺しにきたと思ったのは当然であろう。襄陽城の門を堅く閉ざし、城壁には甲士《こうし》、弩兵《どへい》を登らせ威嚇させている。
襄陽は大城であり、守りに入られた場合、攻め落とすには多大な時間と労力を使うことになる。一日や二日で陥《お》ちるような城ではない。しかも曹軍は宛《えん》を出発しており砂塵を巻き上げ進撃中で、蔡瑁たちはほんの少し頑張ればよいという状況である。智恵者の孔明が本気で襄陽攻撃を主張するとはとても思われない。そんな話をしたらしいと人の耳に入ればそれでよかった。襄陽城内の者にも劉備の馬鹿と紙一重の義理堅さが伝わるという寸法である。
下馬した劉備は、大門に近付いて叫んだ。
「劉jどの、いやさ甥御どの、わたしは人を救いたいだけで他意はない。去るにあたって、長らく世話になった感謝の情があるのみであり、ご挨拶に寄ったまで。また故劉景升どのの墓前にて別れを告げたくおもう」
線香の一本もあげたいから、入れてくれ、といっても、城内の者は誰も信じなかった。劉備一人ならともかく、関羽、張飛、趙雲らが入ってきたなら、たちまち城内は死体安置所と化すであろう。
蔡瑁が無理矢理命じ、城壁の上から矢が飛んできたので劉備は慌てて逃げ、的廬《てきろ》にまたがった。矢は張飛の馬の足下にも飛んできて転がった。
張飛の目がぎらりと光った。
「とうとうおれに向けて射ちやがったな。ぐへへへ、嬉しくてたまらんぞ。曹軍のみならず、荊州兵も皆殺しにしてくださいという、貴様らのお願いはよくわかった」
襄陽のクソどもに対して、怒っているというより、とても喜んでいる張飛であった。襄陽の官吏や将兵から何人もの裏切り者が出て、劉備軍団と合流することになるが、やはり道端で張飛に出会ったときの保険が大事だったろう、きっと。
このとき城内にいた一人の武将が矢倉に駆け上がって蔡瑁、張允を怒鳴りつけた。
「蔡瑁、張允は売国奴である。劉将軍は仁徳の人。いま領民を携えてここに参られたのに、何故追い返そうとする!」
襄陽では珍しく骨のあるその男こそ、義陽《ぎよう》の人、魏延《ぎえん》、字《あざな》は文長《ぶんちよう》であった。大喝するだけでは飽き足らず、大刀を振るって門を固めていた兵士を惨殺し、門扉をこじ開けて劉備を招き入れようとした。
「劉皇叔、さあ、ご入城あれ。ともに売国の賊どもを皆殺しにしましょう」
と言って張飛を興奮させたが、劉備は、
「ちょっと遠慮します」
という冷たさで魏延の男らしい誘いに乗らなかった。
そのあと魏延は文聘《ぶんへい》と手勢を率いて殺し合いを始めるが、劉備たちは関わり合いにならないように行ってしまった。
魏延の登場は、『三國志』では益州入りのときに名があらわれ、いつ劉備軍団に入団したのかははっきりしない。この時、襄陽にいた可能性はあるという程度である。『三国志』では魏延は曹操には仕えず、長沙《ちようさ》太守の韓玄《かんげん》のところへ落ち延び、そののち攻め込んできた関羽に投降することになる。赤壁の戦いに参戦していない点は、魏延のキャリアにとってやや痛いところである。
孔明は、理由は分からないが(言ってはいるんだが、顔が悪い、という他は説得力無し)、魏延の顔を見た瞬間に虫酸が走ったらしく、いきなり主殺しの常習者、謀叛人の相ありと決めつけ、ことあるごとに嫌味なことを言い募り、陰湿な仕打ちを繰り返すことになる。魏延は男前で強くてかっこよかったから、劉備は孔明の執拗な難癖を却下して家臣とし、のちに張飛を差し置いて漢中太守に大抜擢した。そのせいでまた孔明と劉備との間で緊張が高まるわけだが、魏延問題は『三国志』の中でも屈指の宿題となっている。
例えば、とにかく魏延が大嫌いな孔明は、最後の北伐のさい、魏延に司馬懿《しばい》親子を葫蘆谷《ころこく》におびき寄せるよう命じ、同時に魏延をも司馬懿もろとも地雷爆破にかけて焼き殺しにしようと謀るが、運悪く失敗してしまい、怒る魏延に対して笑って屁理屈を述べて誤魔化すという、まことに孔明らしさ溢れることをする。
この部分は嘉靖《かせい》本(入手可能な『三国志演義』の最も古い版本)には載っているものの、あまりのえげつなさに孔明の露悪を庇《かば》いきれないと思ったのか、毛宗崗《もうそうこう》本(『三国志演義』の改訂スタンダード版)では削除されているいわくつきのエピソードである。とても人の上に立つ人間のすることではないと思われる。いかに魏延の頭蓋骨の形がいびつで性根に疑問があるからといって、あまりにひどすぎるのではないかと、この孔明の悪辣さには、さすがに孔明ファンたちもひいてしまったのである。一部魏延ファンの憤慨するところである。
蜀漢の慢性的人材不足の中、裏切り(予定)者の名を受けてすべてを捨てて戦い続けていた魏延のどこがそんなにいけないのか、謎と言えば謎というしかない異常な仕打ちといえる(そのせいか痴情のもつれ説あり)。孔明がイジメ抜いたせいでかえって魏延の性格が歪み、謀叛気分を募らせてしまったのではないかと指摘されても仕方がない。魏延が、孔明の最後の賭けであった寿命延ばしの怪しげな呪術を無意識にぶち壊しにしたのも、プラマイゼロな仕返しである。
もし魏延焼殺に成功していた場合、孔明は自分を信頼してついてきている将兵たちになんと言い訳するつもりだったのか。おそらく、
「敵を欺くにはまず味方からと申す。同様に敵を殺すにはまず味方からである。魏延の魂よ、永遠なれ!」
とかなんとか言って、皆を深い感嘆と疑惑の中に引きずり込むのであろう。たぶん。
魏延のことは、またそのうち出てくるだろうから、続きはそのときに。
さて劉備は襄陽でひと揉めした。後は何もかも忘れて逃げればいいのに、わざとらしく襄陽郊外に滞留していた。
「故劉景升の墓参りをせねば男が立たぬ」
と言い出したからである。孔明の献策なのか、劉備の謎かけなのか、それともたんなる気まぐれなのか、それは分からない。蔡瑁らがこそこそと人知れぬところに劉表を埋葬したとはいえ、目撃者はおり、配下らがその場所を聞き出してきた。
その間、劉備に唆《そそのか》されて後を追った民衆が襄陽郊外にどんどん集まってきており、一万二万と通過する人海が蔡瑁たちを脅えさせている。
劉備は軍団幹部を引き連れて劉表の墓に駆けつけるや、号泣する用意は出来ていたとばかりに、ここぞと涙を噴射し始めた。天下一泣くことが好きな男というほかなく、その水気の多さは『三国志』中でも群を抜いてトップ、しょっちゅう泣いてストレスを解消することが劉備の健康の秘訣なのかも知れなかった。泣き崩れると自分が悲運に翻弄される薄命美人のような気分にもなり、被害者意識が満足する。
劉備は墓前にぬかずいて祈りを捧げる。水溜まりになるほどの水量が目からしたたり落ちてとめどなかった。
「わしが諸悪の根元なのだ!」
とデビル劉備は泣きながら劉表の墓前で懺悔《ざんげ》した。
「みどもには才も徳も能もなく、兄上(劉表)のご遺命を果たすこともかないませぬ。この罪はひとえにわたしにあるのであり、領民にはまったく何の関係もないのです」
とある意味では早々に民を切り捨てると解釈できるがごときことを言い、
「兄上の英霊よ、きっとお聞き届けであろう。荊州を守る怨霊となり、願わくは新野樊城の民草《たみくさ》をお救いくだされ」
と避難民の救済を地下の劉表に頼み込むのであった。これで民が酷《ひど》い目に遭ったとしたら半分は劉表の責任だ。
しかし劉備の墓参りを見ていた民草や兵士は、その切々とした哀しみの声と目にコルクで栓をしても止まりそうにない大量の涙を見て、一人としてもらい泣きしない者はいなかった。孔明のみ、あちらの方を見て退屈そうに白羽扇をぶらぶらさせている。
劉備は、男がいつまで泣いてんだと文句を言いたくなってくるのだが、なおも墓前を離れようとせず、気色悪くもぶつぶつと劉表の墓に何やら語り続けていた。
そこに騎馬|斥候《せつこう》が走り来て、
「曹軍の先頭がもう樊城に迫りつつある」
との知らせを伝えたので、劉備はのろのろと身を起こし、最後の別れを告げ、涙を流しながら立ちあがった。
この火急の際にもかかわらず、不必要なまでに厚い劉備の墓参りは、思うに利己的で薄情な襄陽家臣団への面当《つらあ》てであった。襄陽の民衆や兵士らに見せつけ、劉備の燃え上がる仁義の心がキラリと際だつのは間違いない。
さて、天使か悪魔かは知らねども、仁義だけは逃さずキラリと光らせる罪な男、劉備玄徳、民を引き連れ今こそ旅立て勇者たち! 孔明の予想すら超えるその魔性の男っぷり、頼むから天下平和のためにわずかにほんの少しでも役にたって欲しいんだけど、たぶんダメだろうな、というところ。あきらめてはいけないんだが、まあ、どうせ。
それは次回で。
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孔明、有人《うじん》の野を行き、曹孟徳、勇んで追討に出撃す
長坂坡《ちようはんは》の戦いとそれに先立ついきさつは、この事件はそもそも「戦い」と名のつくようなものと言っていいのか研究者の解釈次第だが、後世『三国志演義』が確立させたものである。
『三國志』を見るかぎりは、陳寿《ちんじゆ》の分散記述法(同じ事件の断片的事実を数ヵ所に散らして書く研究者泣かせ)、モザイク状の書き方のせいで実際は何があったのか、時系列に沿って並べるのは後世の史家に任されている。『三国志演義』と『三國志』で話の食い違いがかなりあるのはいいとしても、それどころか『三國志』の中でも食い違いがあったりするから、陳寿の勘考の手抜き責任が問われるところである。これは別にこの部分に限らず、赤壁の戦いではさらにひどいのだが、
「承祚《しようそ》、淡々と簡潔に書くのはいいとして、隙間《すきま》だらけの記述をするのはやめてくれ」
と言ってやりたくもなる。隙間を活用した羅貫中《らかんちゆう》の劉備びいきの筆の走りがとめどなくなっている原因の一つであろう。
たとえば、どうして十余万の民衆が劉備軍団といっしょに逃げているのかがよく分からない。はっきりした理由が何も記されていないのだ。
十余万といえば樊城《はんじよう》と襄陽《じようよう》近辺にいた全民衆の四分の一程度の数に当たろうか。劉j《りゆうそう》は曹操と粘り強い交渉などまったくせずに降伏しており、ほとんど無条件降伏に近く、曹操は一兵も損することなく進駐できた。曹軍の生活費はみな劉jが工面したろう。そんな曹操が新領地にわざわざ悪名を高め、民衆の逃散《ちようさん》を引き起こしかねない樊襄大虐殺などする気もないわけで、民は城でおとなしくしておれば不良兵士に物品を接収されたり、いじめられるくらいで済んだのである。実際、劉備についていかなかった民衆はほぼ無事であった。臨時の税金をたくさん取られたかも知れないが、腹を空かせて野宿し、疲れた足を無理に進めたあげく、路上や野原で劉備軍団と曹軍の戦闘に巻き込まれて殺されたり大怪我するのとどちらがよいか。
劉備軍団に従った民衆こそ惨憺《さんたん》たる目に遭ってしまったわけだが、民はそんな運命をまったく予測もしなかったのか。『三國志』は、
「げんについて来ていたんだから仕方がなかろう。どうしてついて来たのかなんて、おれ(陳寿)の知ったことか」
と言わんばかりに理由を記していない。中国の史書というものは昔から民衆の事情には冷たい。『三国志演義』はそのあたりをフォローし、曹操が苛政をするのは前提のこととして、
「劉備の人徳が慕われた」
と、天下一愛される男劉備、を強調し、確かにそれ以外の理由を考えるのは面倒臭かったろう。
『三国志』の流れはいちおうこうだ。
ついに曹操の大軍が樊城に迫ると聞き、孔明は劉備に言った。
「ただちに樊城を捨て、襄陽を取ってしのぎましょう」
劉備が、
「だがこれまでずっとついてきた民衆を棄てるに忍びない」
と言うので、
「ならばこうしましょう。ついて来たいと願う者は来ればよし、願わない者は残るようにと、布告いたします」
そして孫乾《そんかん》、簡雍《かんよう》が、
「曹操の軍勢がやって来るぞ。ここではとうてい守り切れぬ。ついて来たい者は即刻われらとともに川を渡れ」
と触れ回った。別に曹軍が来るからといって民まで逃げる必要がないのは言うまでもなく、必死で逃げなければならないのは劉備軍団だけである。しかし新野、樊城の者ほぼ全員が、
「わたしたちは死んでも玄徳さまについて行きます!」
と口々に叫んだのであった。ここは、
(曹操は魔人である。お前たちを間違いなく皆殺しにする)
と孔明が陰で煽りたてた疑いを否定できない。
関羽を先行させて襄陽対岸の漢水の渡し場に舟を確保させておいたが、なにぶんにも大人数である。劉備軍団が年寄りを手助けし、子供の手を引き、続々と川を渡らせはしたが、押し合いへし合いの強制連行のような状況となり、両岸からは民の哀号《あいごう》の声が絶えることがなかった。
そのとき劉備は舟の上から民の惨状を眺めていて、いつものように涙を搾《しぼ》り出していた。錯乱した劉備は、
「ああ、わたし一人のために人々をこんな難儀に遭わせてしまった。どうして生きていられよう」
と、いきなり喚《わめ》き、発作的に川に身を投げて死のうとして大騒ぎとなった。慌てた左右の臣下に抱きとめ押さえつけられたが、このたいへんな時に余計な手間をかけさせないでくれというところである。しかしそれを見聞きした民衆は劉備の民を思う気持ちに感動して激しく泣いた。物凄く無意味だが(今更、なんだ、という意味で)キラリと光るタイムリーな自殺パフォーマンスは、さすが劉備というしかない。
劉備が南岸に渡ると、向こう岸ではまだ渡れぬ領民たちがこちらを見て泣き叫んでいる。まだ曹軍の攻撃を一かすりも受けていないというのに既に地獄が出現しており、先が思いやられるというか、劉備によればすべて自分の罪なのだと言っているから、罪悪だと承知しての魔性の確信犯、これは劉備軍団のもたらした人災以外の何物でもなかった。
そうこうしながら襄陽に到着し、先述した騒動のすえ(城内で魏延隊と文聘隊の殺し合いが始まり、襄陽の人々にもとばっちりがいった)、
「ああ、民を助けようと思っただけなのに、かえって危害を加えてしまった。襄陽に入るのは諦めよう」
と嘆く劉備に孔明が、
「江陵《こうりよう》にゆくしか仕方ありますまい」
と言うと、
「みどももそれを考えておったのでござる」
となった。
その前にきちんと礼を通さねばと劉表の墓参りをしてからおもむろに出発した。バスに乗り遅れるなと思ったのか、襄陽近辺からも続々と避難民が集まってきて、当陽《とうよう》に着く頃にはとうとう十余万にまでなってしまった。(孔明以外の)軍団幹部が口々に、
「このまま領民を抱えていてはいつ江陵に着けるか分かりませぬ。曹操の軍勢に追いつかれたら、どう迎撃するおつもりですか。ここは民を棄てて急ぐべきでしょう」
と当然の提案を劉備にしたのだが、またもや劉備の素敵な仁義のせりふの引き金になるばかりだ。
『大事を挙《あ》ぐる者は必ず人を以《もつ》て本《もと》と為《な》す。今、人の我《わ》れに帰《き》すに、奈何《いかん》ぞ之《これ》を棄《す》てん!』
と云った。
「大事を成そうとする者は必ず人とともにせねばならぬ。いま民がわしを頼って集まっているのに、どうして見捨てていくことができようか!」
いや、確かにそうではあろうけど、ここは置いていった方がずっと民のためになるんじゃないですか、かっこいいせりふを吐いて自分に酔うのも時によりけりです、とは誰も諫言《かんげん》できない劉備の魔性の状況認識(判断ミス)に、領民たちはもう何度目になるのか、感動して深く心を打たれたのであった。
難に臨みて
仁心百姓に存し
舟に登《の》りて
涙を揮い三軍を動かす
「ああ、わが君は仁慈の人にあらせられる」
と家臣一同うなだれたというが、それでいいのか、本当に。
かくて行軍は進み、突然、後軍のほうが騒がしくなった。劉備が、
「なにごとか」
と訊ねると、
「曹操の軍が追いつき、後から民を殺傷しまくっております」
との報告。
「しっ、忍びぃぬぅぅぅ」
と劉備はまたも自殺発作を起こしそうなほど嘆いたが、さりとて民衆を救うこともせず、ただ南に向かって逃げていった。
先のことをまったく考えないその場の人気取りの発言により、結果として民衆に塗炭の苦しみを舐《な》めさせたのは確かに劉備一人の罪である。
この件に関しては孔明ももう諦めて(計画の内だったからか)何も言わなかった。孔明は、仙人の類らしいから仕方がないが、劉備と違って超然としており妙に民に冷たいところがある。民衆を曹軍に対する人間の盾、防弾チョッキ代わりに利用しようというドス黒い思惑が臥竜《がりよう》の胸に秘められていたのかも知れない。
このように『三國志』の素っ気ない記事を『三国志演義』が詳しく演《の》べてみても難民十余万の理由はとうてい納得のゆくものではない。東晋の習鑿歯《しゆうさくし》は、
「先主(劉備)は顛倒して困難に陥ったときであっても信義をますます明らかにし、状況が逼迫《ひつぱく》し事態が危険になっても道理に外れぬ発言をした(確かに道義には外れていないといえるが……)。景升の恩顧を追慕すれば、その心情は三軍を感動させ、道義にひかれる人たちについて来られれば、見捨てることなく|甘んじてともに敗北した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。先主が大事業を成し遂げたのも当然であろう」
と言うのだが、習鑿歯がプロパガンダではなく本気で言っているとすれば、蜀漢をひいきするのあまり、おのが胸の内にあるイデアの世界に酔っぱらっているキラー・インテリだと民衆に肘鉄を食わされても仕方がない。かれによれば難民十余万は「道義にひかれる人たち」であり、劉備の示す義を信奉する高貴な人々、言うなれば選ばれしエリートであった。
劉j政権に見切りを付け、劉備に従うことにした中級の士人には、霍峻《かくしゆん》、|劉※[#「巛/口/巴」、unicode9095]《りゆうよう》、陳震《ちんしん》らがいるが、賢才というほどの者ではなく、かれらは曹操支配下の荊州では出世の見込みがなかった。劉備を選んだのは一種のバクチに近かったろう。これも劉備が十万余という一桁違う数の民を引き連れる、わけの分からぬ磁力に圧倒されてのことだったに違いない。同じく劉j政権に見切りを付けていた士人の|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》、韓崇《かんすう》、傅巽《ふそん》、王粲《おうさん》らは曹操があるじとなろうがそのまま仕える実力と自信があり、劉備の魔性の磁力にも微動だにすることがなかった。
とにかく民衆は曹操が大嫌いでその統治下に入るくらいなら死んだ方がましなのであり、劉備に関してはもう無批判に大好きで、劉備につれて行ってもらうことが天下一の幸福の民の条件だとでも思っていたふしがある。長坂坡の一件は、かつてモーゼが、
「乳と蜜のあふれる土地に連れて行こう」
とユダヤの民を率いてエジプトを出たのと同じくらいに否定するべからざる神聖にして苦難の旅路なのであるらしい。ただユダヤの民の苦難と違って、導き手にカナンの地を示されることもなく、苦難ばかりでほったらかしにされる悲劇が待っているのが劉備の民なのであった。あるいは十余万の避難民はレミングの集団自殺のような、深層意識に蟠《わだかま》る何かに突き動かされて破滅に向かう動物的本能に身を任せていたのかも知れない。
劉備自身この民衆の多さには驚き困惑していた。だが仁義の炎が燃え上がり、というより、愛されて気分が大きくなっていた。
新野《しんや》の領主になって以来の付き合いだから、もう七年になる。孔明の指示がなくても別れの挨拶くらいはするつもりであった。去るにあたって少々アピールが過ぎる声をかけはしたが、何かを期待する気持ちはそれほどなかったのである。何しろ劉備たちはこれから逃亡者になる身の上なのである。ついて来られてもどうしていいか分からない。
劉表の墓の前で暇潰しをしていて、ふと気付いたらさらに増えた何百何千の民衆が遠巻きに眺めている。民はなおも増殖しているようだ。みな薄汚い身なりをした者ばかりであり、景気のいい、こざっぱりしたのが見当たらない。どうもそこそこ富裕な者は城に居残って、ついて来るのは土地もない貧乏人ばかりであるらしい。金持ち移動せず、である。
「おい。どうしてこんなに大勢おるのだ。なんかわしを睨んでおるぞ。この者らは何かわしに恨みでもあるのか」
と劉備はお礼参りかとおろおろして、左右に言った。
孔明は、大丈夫ですって、となだめ、
「民意にございます」
と言った。
劉備の大衆迎合のポピュリズムが当たって、支持率が過去最高の七〇パーセントくらいに上がっただけである。残り三〇パーセントは劉備劇場に乗せられることがなかった現実主義の金持ちである。庶民ばかりではなく士人もいるにはいるが、ほとんどが下級の士であり、貧しさは庶民と大して変わらない。例えば孔明の義父の黄承彦《こうしようげん》のような富裕士人層は劉備にくっついて行くようなことはしない「道義にひかれない人々」なのである。
「皆、殿を慕って追ってくるのです。胸をお張りください」
と孔明が言うと、
「そうか。拙者は天下一の人気者であるのか」
すぐににこやかな顔になって、民衆に手を振り始めた。笑顔の歓声が返ってくる。劉備はますます調子に乗ってチャップリンのようなパントマイム芸、一人猿芝居(劉備、曹操にマウント・パンチを叩き込み懲らしめるの図)を始める始末である。そして最後にはきりりと表情を引き締めて、
「わしは民を見捨てぬ!」
と拳を突き上げた。拍手喝采だ。
多少の分別があれば、危険なお尋ね者は劉備その人なのであり、曹操が荒っぽく付け狙うとすれば劉備軍団だけだということが分かるはずである。いま荊州《けいしゆう》で最も危険な場所とは劉備軍団の周囲であり、劉備軍団は動く戦闘地域であるとさえ言えた。民というものは本来、危機察知力に長《た》けているものなのだが、時々とんでもない誤判断を下してしまうことがある。たいていは欲をかきすぎたか、為政者の甘い世論誘導に乗せられたような場合である。
それにしても樊城から当陽に向かった民衆は自分たちが何のために移動しているのかが曖昧であった。訊けば、
「劉将軍といっしょにいたい」
としか回答はなかったろう。それを疑うこともなかったようで、これはもう劉備の魔性の虜《とりこ》にされたか、孔明の催眠術にかかっていたとしか説明のしようがない。十余万の難民は曹軍に虐殺されるためにわざわざ苦労してついて来たようなものであった。そして当然の如く劉備はこの件について自ら被害者づらを決め込み、まったく責任を取ることがなかった。それでも不思議に民に見放されないところが劉備の真の恐ろしさなのであった。
そこへ趙雲がやって来た。
「諸葛先生、手配のものが間に合いましたぞ。あちらです」
「ああ、届きましたか」
これぞ趙雲に先だって頼んでおいたものであった。
街道脇に巨大な車が三台停まっていた。箱車というか、四つの車輪の上にコンテナを載せたようなものだが、スピードは遅いがトルクのある牛二頭がエンジンをつとめていた。たいていの馬車は屋根無しの二輪車で、立乗が基本である。これが用途や乗り手の身分によりいろいろ変化して、堅牢な金属製トゲ付き戦車や車蓋、幌《ほろ》つき座乗車両になったり、日本の牛車のような装飾過剰のハードトップになったりする。荷車も二輪が普通であり、四輪車というのは攻城兵器のような重量物を運ぶ特殊車両以外にはあまり見あたらない。後に孔明が発明する木牛《もくぎゆう》は燃料無しで動く真の自動車、ゼロ・エミッションのエコロジカルな4WD車であったという説がある。
劉備は驚き、
「諸葛先生、なんでござるか、この城攻めに使うでもない、変な車は?」
と訊いた。孔明はことさらに重々しく言った。
「わが君の安全をはかるための装甲車両にございます」
襄陽郊外で時間潰しをさせていたのはこれが届くのを待ってのことでもあった。
「しかし、でかいな。なんという車なのかな」
「さよう、子竜どのの献身的な協力を得て作っていただいたので、子竜戦車と。いやもっと凄味を加えて恐竜戦車とでも名付けておきましょうか」
「恐ろしい竜の戦車とな……。臥竜先生ならではの兵器なのでござるか」
「ふっ。いざとなれば子竜どのの如く怪獣のように暴れ回ることでしょう」
孔明が(仮称)恐竜戦車の後ろに回って観音開きの戸を開けると、そこには小綺麗なお座敷があった。
「おお」
火鉢から酒器から座布団から机、鏡、着替え掛けが揃い、板壁に矛と弓が飾られているくつろぎの三畳一間が車の上に乗っているのである。窓からは外の景色が楽しめる。ちょっと狭いが芸者さんをあげるのも可能であった。
「殿には道中、これにいましていただく」
「なんともったいない」
恐竜戦車の実態はラグジュアリー・キャンピング・カーのようなものであるらしい。
隣の恐竜戦車から黄氏が降りてきた。
「あなた」
「首尾よく完成したようだな。よくやってくれた」
「いいえ、趙将軍のおかげですわ。趙将軍の鬼の督促がなかったら、職人さんたちもこう早くはやってくれなかったでしょう。趙将軍、ご協力有り難うございました」
「あ、いえ、自分は何も大したことはしておりません!」
趙雲は不必要に大声で言った。趙雲は既に顔を赤くしており、もじもじと俯きがちである。
「そうか。この車は趙将軍にちなんで恐竜戦車と名付けることにしたのだ」
「まあ、それはぴったりの名前ですわ。職人を叱咤激励して連日の徹夜仕事をやり遂げさせた趙将軍のお姿はまことに恐るべき竜のようでしたから」
趙雲は赤くなりすぎて顔面を片手で覆い、もう一方の手を伸ばして、やめてくださいというように手を振った。
「自分は、自分は、不器用ですから、何も手伝うことができず、見ていただけの、まことに役立たずな男です。恥ずかしい」
「いえ、そんなことはありません。とても助かりました」
「もう言わんでください」
照れ性なのか、穴があったら隠れたいと身をよじる趙雲であった。
もう説明するまでもないが、恐竜戦車は孔明の発案のもと、黄氏が設計し、自ら仕事場に入って指揮を執り作り上げたものである。普通の二輪馬車二台を向かい合わせに前後に置いて骨組みをつくりシャシーとし、クッション性の高い湾曲材を設置した上に大箱を載せたのである。大小の川を渡すときのことも考えて三つに分解できるし、無理をすれば上部を車台から外して浮かべ、潜水も可能な箱船にもなる工夫をしてあった。にゅっと発射口が開き、石弾や矢をばらまく仕込み弩弓《どきゆう》が装備されているかも知れず、ボンド・カーなみに非常識なクルマである恐れがなきにしもあらずである。
孔明は樊城に戻ったとき趙雲に、
「わが妻は女丈夫ではあれど、女は女、荒くれた現場の職人にていよくあしらわれ、注文を聞いてもらえぬおそれがあります。そこで、どうか子竜どののお力で、わが妻を守ってやっていただきたいのです」
と、工人たちが黄氏を軽んじて怠慢行為をしないよう、目を配ってやって欲しいと依頼していた。まずは常識の範囲内の頼みではあった。趙雲はその頼みに感激し、気合を入れて燃え上がった。
「先生、ご妻女はこの趙雲が命に替えてもお守りいたす!」
とタコ部屋のやくざ現場監督が善人に見えるほどの竜監督が、職人たちを恐怖のどん底に陥れることになった。
新野、樊城の職人が全員集められたが、装甲バスの如き大物であり、一軒家を建てるよりも手間が掛かりそうである。こんなものを至急作れと頼まれた大工や車職人も災難だが、趙雲がお目付役(黄氏を守る白馬の騎士)としてしばしば顔を出したから、凄まじい災難であり、出来ないとはとても言えなかった。職人がプロの意見として、
「こいつぁ無茶ですよ奥さん。図面上ではともかく、馬車を二つくっつけりゃいいって言っても、こんな重いもの、つなぎ材に必要な強度ってものがあります」
二輪車を合わせて下部フレームをつくるというのがそもそも難点。また、
「こんな見たこともない部品を、今から削り出していてはとても間に合いません」
とか、確かにそうだと黄氏も困って、
(やっぱりわたしの設計に無理があるようだわ)
と、夜を徹して図面を引き直さねばならぬ技術的難所も少なくなかった。
しかし見回りに来た趙雲は職人が屁理屈を言って黄氏をいじめていると即断し、
「きぇ──────────────ぃ」
と頭髪を逆立て、戦鬼の形相で睨み付け、
「貴様ら、つべこべ言わず、奥様のおっしゃる通りにせんかあっ! できんというのならこの趙雲が相手をいたす」
と槍をしごいて仕事場にいちいち殺気を充満させたから、手を抜くどころか、どんな無理でも命懸けでやらねばならなくなるのであった。
「奥様を女だと思って舐めるとは言語道断! 怠け者はこの子竜が地獄へ送りつけるから、そう思え」
と、一度などは趙雲が剣を抜いて職人の素っ首をすっ飛ばそうとしたから、黄氏が必死になだめて、
「趙将軍、これはこの方たちが悪いのではなく、わたしの計算が間違っていたのです」
ととりなして事なきを得たこともあった。
そんなわけでどんなに急いでもひと月かかると愚痴をこぼされた仕事が、十日余りで完成したのであった。職人は過労と神経衰弱のため寝込んでしまった。
確かに趙雲なかりせば、恐竜戦車はこの世になかったろう。ただ、完成したのはあくまで試験車であるから、どこかの箇所で不具合が発生し、最悪の場合壊れてしまうおそれはある。リコールに応じられる保証は皆無だ。
「向こうの一台には甘《かん》夫人と糜《び》夫人、それに和子《わこ》さまに使っていただいております」
と黄氏は言った。劉備は、
「先生に奥方、いつの間にこれほどのことをしていただいていたとは! 一瞬でも先生の無為無策の怠慢を疑ってしまったわしをお許しくだされ」
と手を取って感謝した。
「ふっ。的廬は馬廻の者に預け、とにかくこれにお乗り下されよ」
「民の中には裸足で歩いている者もいるというのに、わしだけこんないい車に乗るのは気が引けて忍びんが」
と言いながらも、好奇心には勝てず、目をきらきらさせながら乗り込んでいった。
「まずは乗り心地をお試し下さい」
メルセデスにもBMWにも、況《いわ》んやレクサスにも劣りませぬと、扉を閉じ、孔明が命じると、御者は口をもぐもぐさせて糞を落としていた牛に笞《むち》を当てた。劉備の乗った恐竜戦車を先頭にして、残りの二台も車輪の音もごろごろと、鈍重に動き始めた。人が普通に歩く速度とさして変わらない。
孔明は馬にも車にも乗らず、恐竜戦車の隣を歩いた。
振り返ると追ってくる人々が蟻の列のようであった。家財道具や食糧を山盛りに積み込んだ荷車を押しつつ進んでくる家族も少なくない。完全な引っ越し支度である。樊城にそれほど差し迫った破滅が近付いていたかと言えばそんなことはない。劉備軍団が樊城に籠城して抗戦することを選んでいれば、それこそ大危機であり、遠くの親戚や運を頼りに夜逃げに賭けるべきであろう。
たいていの場合、攻城戦が始まると、籠城軍は民が逃亡するのを極端に嫌い、封鎖措置をとる。そうなると脱出するのは極めて困難で、見つかったら籠城軍に殺される。中国の籠城戦において『三国志』等で描写されることはほとんど無いが、激戦中の城にも必ず老若男女の民間人がいるのである。城には砦《とりで》や関所のような軍事要塞と違って普通に民が住んでいる。将兵だけが籠もる軍事拠点としての城などは例外的にしか存在しないのだ。城をめぐる戦争は常に住民を巻き込むものであることを頭の隅に置いておくべきである。
どんな場合でも居住地を捨てるというのは、民にとって深刻な大事なのだが、今、劉備に連なっている人々はどういう気持ちなのであろう。かれらを避難民にさせたのは曹操来襲の恐怖ではおそらくなかった。
襄陽を過ぎてさらに進むと、この避難民の性質がますます明らかになってきた。
襄陽やその近辺からも続々と人が集まって来たのである。劉備が誘いをかけたのは樊城にいた民だけであり、襄陽の衆には退去宣言で筋を通し、義理人情の劉表の墓参りのパフォーマンスを見せたに過ぎない。なのに、言わば落ち行く放浪の軍団に、まるで磁石に引き寄せられるかのように人がついて来るのである。
集団心理というものか、目の前を数千、数万の人間が一途に行列をなしているのを見ると、何故か自分も行かなければならないという気になり、ほとんど無思考でなんとなく行列に合流してしまっていた。この先のことを考えれば曹操が襄陽周辺の民を敵性国民と見なして処罰するなどはまずあり得ないことである。ここでいざこざが起きるにしても襄陽首脳部の方針に反感を持つごく少数の連中との、小競り合いにもならない制圧作業になるだろう。そのごく少数の連中もたいてい劉備軍団に期待して身を投じているのだから、占領時のいさかいが発生する可能性はさらに低い。
役人たちはともかく、年を経て経験豊かな長老に意見を聞けば、危険は少ないと答えたであろう。しかし老いも若きも行進を見たその足で群れに身を投じてしまう奇妙な心理は、危機意識に突き動かされてというのではなく、あるかどうかも分からない希望に置いていかれたくないというところから発していた。その核は劉備玄徳という魔性の男一人に尽きる。
「劉備について行けばきっとしあわせになれる」
一言で言えば、そういう夢想が民衆の心に芽生えて根を張っている。そうでなければどうしてああも大勢の者が劉備について行くのか。ほとんどの民が、
「今は苦しいが先途に希望がある」
という表情で歩いていた。これは内向反転したパニックであり、静的な集団ヒステリーに近いものなのではないか。
劉備がハーメルンの笛吹男であるかも知れないという疑いは、笛の音に魅せられている者の胸には浮かぶことはない。
そういう東西の歴史上、時々あらわれる現象が起きており、さらに雪だるま式に拡大中であることが孔明にも分かってきた。
孔明は首をかしげざるを得ない。劉備に魔性と言っても過言ではない魅力があることは認めざるを得ないところだ。だが劉備を見たことすらない者にさえ雪崩《なだれ》式に影響を及ぼすというのは孔明にも解しがたかった。
(どうも大衆というものは、策通りには動かぬものらしい。恐るべきは民)
この現象は孔明の最初の思惑からはちょいと外れたものである。だがこれは孔明の変な影響力が作用して宇宙的に不気味な化学反応が起きた結果、劉備の集客力を素の実力より数倍増させている可能性だってある。
孔明としては、何千人かの見物客がいて、かっこよく言えば歴史の証人が、なるべく多く生き残って劉備軍団の神話を語ってくれればよいという策のつもりであった。それが現時点で、数万になんなんとしている。
(いけないな。十人のうち三人以下の犠牲者という計算が崩れてしまう)
避難民の数が多すぎるのだ。
(民は由《よ》らしむべし、知らしむべからず、というが、この者たちは本当に知らないのだろうか)
この避難民たちはいまある意味、正気ではない。覚めた者からすれば、
「お前ら、なんでついて来るんだ、馬鹿じゃねーか」
と言いたいところで、張飛的には曹軍との殺し合いの邪魔にしかならないから、
「貴様ら、何を期待しているのか知らんが、ついて来たって何もやらんぞ。しっ、しっ」
と追い払いたいくらいである。江陵はどこかにあるユートピアでも、愛の国ガンダーラでもないのである。
孔明は怪しげな足取りで、けなげに荷車を押している初老の婦人を選んで近付いた。大人の男に近付くと襲われるかも知れないからだ。
「ご機嫌いかがですか」
やや甲高い奇妙なアクセントの声で声をかけ、笑みを浮かべて訊いた。孔明、なんか気持ち悪いぞ。
「お嬢さんはどちらに参られるのですか」
小母《おば》さんはひょろりと背の高い、変な着物を着て羽根の団扇《うちわ》を持った男に怪訝《けげん》な表情を向けた。孔明の現物を見たことがなかったのであろう。
「玄さまは江陵だと言うておられたな」
「江陵はけっこう遠いですよ。なにしろ長江の岸ですから」
「知っとる。なんのそのくらい遠いものか」
「そもそも何故、突然に引っ越しを決意なされたのですか」
「玄さまのいない樊城なんかにおりとうない」
「北から曹公の軍勢が来ており、江陵につく前に襲われるかも知れません。そうなるとかなり危険ですよ」
すると小母さんはきっと目を据え、孔明を叱りつけた。
「あんたはアヤばかり言うて! 玄さまを信じておらんのか。玄さまのご家来衆ではないのかい! だいたいお前さん、腐れ曹賊を曹公なんぞと呼ぶのが気にくわん。まさか曹賊の雇われもんかい?」
「いえ、劉皇叔の友だち、先生と呼ばれている者であります」
見るからに信じていない顔の小母さんであった。
「妙ちくりんな格好をして、こともあろうに劉将軍の友などといい加減なことを言いおって」
若い者にありがちな外見の異装をもって個性を強調し、有名人の知り合いだとをつく浮薄な馬鹿たれだと判断されたようだ。
孔明のファッションについては、
『諸葛亮はいついかなる場所でも、綸巾《りんきん》を著《つ》け、白羽扇《はくうせん》を持っている。こうした身なりは炎暑の季節や戦争のとき、快適どころか不便である。それなのに、なぜこうした身なりをしたのか。とりわけなぜいつも白羽扇を手にしているのか(理解に苦しむ)』
と、本場現代中国の気鋭の研究者にも(頭を)心配されている、百害あって十利くらいはかろうじてありそうな変な服装好みなのであり、学のない庶民ならもう検討などもせず一見してそのハッタリ野郎の異常性に眉をひそめたに違いない。今日とても、数万の人混みと一緒に歩むにはふさわしからざる怪装である。
「ええか、変な格好した若いの。よく聞きや」
小母さんはお説教するように言った。
「玄さまは百戦百勝の鋼鉄の霊将におわすのぞ。それに無敵の豪傑、関将軍たちお身内がしたごうておられる。曹賊がいくら来ようが、罰が当たって屍《しかばね》をさらすだけじゃわい」
と小母さんはその後もくどくどと独裁者に洗脳されたかのように劉備讃美を繰り返すのであった。
孔明は他に何人かにも同じように話しかけてみたが、似たり寄ったりの反論を受けた。孔明がナマの事実を暴露して知らせても信じてくれそうになかった。孔子の反動的愚民発言とされて中国共産党に弾劾された、
「民は由らしむべし。之を知らしむべからず」
という言葉は、実はこういうことなのかも知れない。
(まことにおそるべし)
きっと太平道の信者もこんな精神状態であったに違いない。
孔明は予測していなかった大量難民のせいで作戦変更を考えざるを得なくなったが、これからやって間に合うかどうか。
「先生」
孔明が腕を組んで物考えしていると趙雲がやって来て馬から下りた。趙雲は孫乾、糜竺らと依然数を増しつつある避難民の様子を見て回り、世話を焼いたりしていたが、際限なく増えていきそうな民の数にお手上げとなっていた。
「先生、この民らの集まりようは気違い沙汰です。われわれだけでは目配りもならず、もはや手に負えません」
既に倒れる老人や病者が出始めているという。
「曹軍が樊城に入ったという報告も届きました」
孔明は深沈《しんちん》とした表情で、
「わが君の人徳は悪食魚である鮟鱇《あんこう》の提灯が餌の小魚を集めるが如きものなるか。もはや人の思惑でどうこうできるものではないようです」
と言った。
「……確かに」
「民はまだまだこの何倍も増えるでしょう」
と孔明は言った。
襄陽─江陵間の街道は大道であるのだが、数万人の通行となると小径とすら呼べなくなる。両二車線道路を無理に百人一列に広がって進むようなもので、よく考えなくても前進困難が予測される。しかも何台ものガス欠したクルマを押している者が混じって通行の邪魔をしているといった状況である。
「さりとて、羊を追い立てるように鞭打って、整頓させることは許されぬ(というか、劉備軍団の数が少なすぎてちょっと無理)。ならば……」
「ならば?」
趙雲は孔明に妙案があると信じる無垢な少年の顔つきである。
「焼け石に水かも知れませんが、それでも手を打つのが軍師たるわたしの仕事です。試みに趙将軍には他の将軍方とやっていただきたいことがある」
そして、いちおういるはずの劉備軍団の兵卒一万を使っての策の準備を説明した。
「分かりました、先生、早速手配いたしましょう」
孫乾、糜竺には、民のことはほっておいていいから、曹軍の動きを逐一入手するように伝えさせる。劉備軍団は諜報《ちようほう》機関を持っていなかったから、泥縄でもいい、とにかくその方面の練習をさせるのだ。孔明はこの逃亡戦を活用して新劉備軍団の雛型《ひながた》もどうにか形にしてしまうつもりでもある。
「ところで関将軍と張将軍はどうしておられる?」
この二人だけは他の将軍と十把一|絡《から》げには出来ず、本人たちも、
「長兄の命令だけがおれたちを縛ることのできる唯一の鎖である。おれたちは自由な戦士だ!」
と思っており、軍団の武将たちもちょっと嫌だが特別扱いをせざるを得なかった。劉備三兄弟の堅い絆には麗しくない側面もあり、この我儘《わがまま》な心情的密着が劉備軍団に、まだ小さいから目立たないが、悪性|腫瘍《しゆよう》のような悪い芽を育てている。軍団が大きくなれば確実にそのシコリが顕在化しよう。
関羽は髯をなびかせ、避難民など目に入らぬかのように悠然と騎行しているという。なかなか戦さとならないので退屈した張飛はこっそりと酒を飲んでいい気分となり、不運な避難民から食い物を取りあげたり、理由もなく殴ったり蹴ったりしているという。暴れん坊将軍と皆に恐れられている張飛の気まぐれな暴力を止めることが出来る者は劉備と趙雲くらいなものである(それと関羽もだが)。張飛にいじめられた者たちは泣きながらリタイアすることになったが、おかげで戦闘に巻き込まれて死ぬことなく済み、まさしく禍福は糾《あざな》える縄の如しである。
趙雲は話し終えるとビシッと拱手《きようしゆ》して、気合を発して走り去った。孔明はその後ろ姿が難民の中に埋もれていくのを見ながら、
(当陽に着くのを何時《いつ》にするか)
と考えている。このままなお難民が増えれば、当陽の手前で曹軍に捕まるおそれが出てきた。
しかし孔明は涼しい顔をして、劉備の乗る恐竜戦車を追いかけた。
孔明は御者に恐竜戦車を停めさせ、後の扉を叩いた。
「わが君、孔明でございます」
「おう」
戸が開いた。甲を脱ぎ捨て、衣服もだらしなく崩し、身をくつろがせ切った劉備が片手に備え付けの酒入り瓢箪を持って飲んでいた。
「ぬうん。手酌ではつまらんわい。先生、若いむすめを呼んでくれぬか」
緊張感も切迫感もまるで無し。
(こんな人にかくも多くの人を(良くない方向に)導く巨大な力が備わっているとは。これも宇宙の謎である。宇宙も罪なことをする……)
仁義一筋の快男児と無責任な俗物のギャップが庶民をしびれさせるのであろうか。
「恐竜戦車は快適である。ま、先生もあがられい」
「では遠慮無く」
孔明は踏段をあがって乗車した。
車は前進を再開した。
「今どこらへんかな」
「さっきの場所から二十里ほど進んだだけです」
一里がだいたい四百メートルくらいである。
「そんなものか」
「車体が重い上に、牛ですから。それより、わが君、これからが肝腎ですぞ。曹公の軍が樊城を占拠したと聞きました」
「なに! ならば、のんびりしてはおられんぞ」
「樊城の民が渡り終わったら漢水の渡し舟を一隻残らず破棄するよう指示しておきましたから、曹公の軍勢は舟集めに手間取り、しばらくは足止めできるでしょう。曹公が襄陽に入るのは早くても明後日の夕刻になります」
「それはどうかな。先生は曹操をまだよくご存じない。あやつは本当に信じられないくらいの早さで現れるのだ。曹操は張飛より気が短いときがあり、舟がなかったら素っ裸で泳いででも渡りかねん」
襄陽の北側の漢水の幅は広く、流れも速いから、泳ぎ渡るのは無理だと思うが、戦さとなると非常識なことを平気でやるのも曹操という男である。速度は曹操の武器の一つである。
だがこたびは数千の荷駄兵車、数万頭の馬を率いる大軍を渡さねばならないから、舟と材木を集めて連結し、両岸に渡して浮き橋をつくるのが最も早道であろう。丸一日は潰れる。非常識人の孔明だってそう考えた。
「ならば明日の夕刻と考えましょう」
と孔明は訂正したが、そこまで早くはなかろうと思っている。
だがこれについては劉備の意見の方が正しかった。曹操は樊城に入るとすぐに張遼に命じて、革製の胴を身につけ弓と短矛を装備しただけの軽装騎馬隊を選抜させ襄陽に向かわせていた。弁当も一食分を持たせただけだ。騎馬民族の戦術に通じている張遼の忍者的な高速騎兵であった。
劉備たちが渡し舟を破棄させているだろうこともお見通しである。二百騎ほどの数であるから舟も何|艘《そう》か探してくればなんとかなる。続く本軍を渡すための舟は襄陽の者に至急に用意するよう言いつければよい。二百騎はそのまま地形偵察、情報収集任務に当たる。曹操の視界には既にして江陵までが入っており、むろん劉備軍団の動向も睨んでのことだ。
曹操は、懼《おそ》れて起《た》つ能《あた》わず、と引き籠もっている劉jに、
「わしに服した証《あかし》として樊城まで来て土下座せよ」
とも伝言させており、襄陽首脳部が完全にひれ伏しているかどうかの踏み絵をさせた。いつでも殺せる人質になるようなもので、脅えきった劉jは自失して寝込んでしまい、代わりに蔡瑁《さいぼう》と張允《ちよういん》がその日の内に急行した。蔡瑁らがもう豚畜生以下の媚びへつらいを演じて、その卑屈きわまる人としてやり過ぎの演技が曹操を白けさせたから、劉jのことは許してやった。
「もうよい。とにかくこれから半日以内で浮き橋をかけさせろ。襄陽の住民総出でやれ」
翌日の昼には浮き橋が不完全ながら渡され、曹軍七万は威風堂々の行進を襄陽人に見せつけたのであった。
「旅の途中を楽しくするために、いくつか手を打っておかねばなりません。わが軍の幹部に、殿のご命令が必要であるかと思います」
と孔明は言った。
「ぬーん。先生にぜんぶ任したのでござる。先生の好きにしてくだされ」
「それは場合によります。これからはそれではいけません。軍師とはあくまで影の相談役ですから。臣下の独断専行は、曹操の始まりでございます」
「わしの声は先生の声である。皆には文句は言わせぬ。それともまだ皆と仲良しになっておられぬのか」
徐庶《じよしよ》のときもそうだったが、劉備の長所の一つは度胸満点の丸投げ体質である(無責任)。
「この孔明、皆様とはもう十年来のつきあいのようになっておりますが(あくまで孔明の主観)、こと作戦の話となると、将軍がたはわたしのような戦場を知らぬ素人の言うことはそうそう聞いてくれますまい」
劉備の部将ら趙雲、糜芳《びほう》、胡班《こはん》、陳到《ちんとう》、劉封《りゆうほう》、関平《かんぺい》、廖化《りようか》、周倉《しゆうそう》(関羽の目だけに見えるらしい幻の山賊武将)たちは特に問題はなく、不平たらたらでも働いてくれるだろう。張飛を扱うのはコツがいるが、なんとかなる。
問題は関羽である。この男を使うのは張飛の何倍も難しい。
『春秋左氏伝』に学んだ時代遅れの軍法を堅持しており、ときには劉備の命令も無視して、困った信念のもとに行動するから張飛よりもたちが悪いと言える。たまたま『孫子』の兵法に、
「将が命を君主に受けて戦地に赴いた以上は、君命といえども受けざるところあり。戦道必ず勝たば、主、戦うなかれと言うも、断じて戦って可なり。勝たずんば、主、戦えと言うも、戦わずして可なり」
と、将軍の現場における判断は独立したもので、命令系統は一つであるべきで、ときには敢えて君主の命令であっても従う必要はない、と解釈できる部分があると知り、
「まったくわが思いと同じである。こうでなければならんと思っておった」
と深く頷いて、古書にわが兵法の正義あり、と、自己裁量権を極度に肥大させているのであった。のちに赤壁の敗戦後にへろへろになって逃げてきた曹操を命令違反して見逃したり、荊州総督期には曹軍の支配する樊城、襄陽を勝手に無理攻めしたり、劉備、孔明が、
(関羽はなんとまずいことをするのか)
と何度も眉を曇らせることになる独断将軍であった。
要は関羽をここから引き離し、別動させたほうがよいということだ。
だが関羽雲長はなんといっても劉備軍団の不動のエースである。関羽がいれば万人力の心強さがあるから、劉備は動かすことに難色を示した。しかし孔明は、
「雲長どのを側近におくことは、あのご性格ゆえ、必ず害となりましょう。これからの戦いは普通の戦いではない。奇戦なのです。戦えない民衆を引き連れていることをお忘れめさるな」
張飛なら一瞬の躊躇《ためら》いもなく民衆を巻き添えにして敵兵を薙《な》ぎ倒すであろうし、趙雲らは気を付けながらも、うっかり殺害してしまうかも知れない。多少の誤爆は仕方がない。しかしそんな戦場で義の信者関羽がどう動くかはまるで予測がつかなかった。いや、孔明は予測しているから、かく進言している。
「べつに雲長どのを仲間外れにして遊ぼうというのではないのですから」
「それで雲長に何をやらせるというのだ。つまらん仕事だったらあの髯が震えるぞ」
「すこぶる大事な仕事でございます。それを殿に大げさに申しつけていただければ、関将軍もご納得なさるはず」
「先生にお任せしたのである。そうしてみよう」
まあこのように孔明は着々と手品の種を仕込みつつある。
長坂坡の戦いは『三国志』の名場面、劉備軍団の大きな見せ場の一つであり、とくに張飛と趙雲の人間離れした強さが天下に轟き渡る痛快な戦闘になるのだが(負けているんだが)、不思議なことに絶対のエース、超人的戦闘力を持つ関羽のハリケーンのような猛威が曹軍を襲うことがなかった。関羽のはたらきは極めて地味である。
長坂坡にいなかったのだから仕方がないが、関羽ファンの講談師たるもの史実をねじ曲げてでもこの殺万人の虐殺マシーンを現場に投入したいところである。しかしいくらハナシを捻ってみてもそれは無理だと諦めたのは、おそらく創作上のバランスの都合であったろう。関羽、張飛、趙雲、孔明が揃って一戦場に立ち回ったなら、曹軍が何十万人いようとも勝ってしまうからである。
この四人がいて負けるようなら、劉備軍団はやはりクズの集まり、これまでの積み重ねが嘘になり、読者の失望は天にも届くほどになるはずだ。長坂坡の戦いは、関羽抜き(将棋なら飛車落ちのような感じ)で戦って、なんだか引き分けになったような感じで終結するわけだが、もし関羽が参戦していたら曹軍の名のある将の半分は戦死し、兵は壊滅していなければおかしい。関羽、張飛がそれぞれ一万人ずつ、趙雲が七千人くらいで計二万七千人、それに孔明の策略が加わればシナジー効果でその三倍から五倍の敵が即殺されるはずである。
そこで関羽の処遇だが、ここも『三國志』と『三国志演義』とではかなり食い違いがでている点である。
『三国志演義』では、カタツムリ並みのスピードでしか進まぬ難民に業を煮やした孔明が劉備に進言する。
「追っ手がまもなく参りましょう。雲長どのを江夏《こうか》に遣わして劉g《りゆうき》どのに加勢を求め、ただちに江陵にて合流するようにしたらいかがでしょう」
あくまで狙いは江陵にある。劉備は素直に聞き入って書面をしたため、関羽と孫乾に五百の兵を率いさせて江夏に行かせた。べつに関羽でなければやれないような仕事ではない。孔明がとくに関羽を指名しているのがポイントで、しかし、なけなしの兵五百を割く必要が果たしてあったか。関羽が行くのなら無数の敵が道を阻もうとも斬って斬って斬りまくり、粛々と任務を遂行してしまうはずだ。
長坂坡の激闘のあと、張飛の活躍があって劉備は漢津《かんしん》へ逃げるが、しつこい曹操にまたも捕捉されてしまう。その危機一髪のときに関羽が赤兎馬《せきとば》に乗って出現し、豪声一発、曹操は、
「またもや諸葛亮めに計られた!」
とうめいて追い払われてしまうのである。関羽は喜ぶ劉備に、
「長坂坡での大合戦のことを聞き、とるものもとりあえず駆けつけたのでござる」
と、最後にほんの少し活躍の場面が入って関羽も小満足か。
『三國志』先主伝では、当陽に着いた頃には難民十余万、引きずる輜重《しちよう》は数千台となっていた。街道を進むに進めぬ大混雑となっている。劉備はやむなく関羽に、避難民の一部を数百艘の船で運ぶよう命じた。あくまでも江陵で落ち合う約束である。つまり関羽は江夏に行ったわけではなく(そもそも難民連れで江夏に行こうとするなら何日もかかる)、人数は定かではないが相当の数の民を連れて漢水のどこかの津《みなと》に向かったのである。そこには数百艘の船があったようで、天の助けか、孔明があらかじめ集めさせておいたのか、それは知るすべもない。その後、劉備たちは曹軍に蹴散らされ、逃げ回りながら斜めに漢津に走ったのだが、そこで江陵を目指して漢水を下っているはずの関羽の船団とちょうど出会って、何故か劉備たちは漢水ではなく|※[#「さんずい+眄のつくり」、unicode6c94]河《べんが》を渡り(さる資料には、漢水の別名を|※[#「さんずい+眄のつくり」、unicode6c94]水《べんすい》と呼ぶとある)、なんとか夏口へ逃れることができたとする。
まことに分かりにくい話であり、何故そんなところに関羽がいたのか不可解というしかなく、地図で漢水、長江と当陽、江陵、漢津、夏口の位置関係を見てもらえば分かるが、何度見ても移動経路の仮説が立たず混乱させられた。関羽伝の記述も概《おおむ》ね同じで、
「劉備は脇道を逃げて漢津にゆき、ちょうど関羽の船と出会って、いっしょに夏口に到達した」
と、そもそもの本題の、難民を江陵に輸送する任務がどうなったのかはさっぱり分からない。いったいどこの津から船に乗ったんだ、関羽!
「出会ってしまったものは仕方があるまい。わしの知ったことではない。嘘だという証拠でもあるのか」
という陳寿の声が聞こえてきそうである。
思うに陳寿の間違いか、経過の記述が大幅に省略されているかのいずれかであろう。江陵で落ち合う℃謔闌めの関羽が、よほど異常な命令違反行動をとっていないかぎり、敗走する劉備にちょうど出食わしたりするはずがない。あっても一パーセントくらいの確率であると思う。船上で江陵に向かう関羽は劉備たちが漢津に走っていることなど知る由もなかったはずである。
「漢津で関羽の船とちょうど出会う」
と『三國志』は淡々と述べているわけだが、じつはこの偶然の一事こそが孔明が苦心に苦心を重ねて組み上げた秘策だったのかも知れず、ここで関羽と出会っていなかったら高い確率で劉備軍団は終わっていた。この関羽の仕事はすこぶる大事だったというほかない。
しかし打ち合わせもなく、水上慣れしない関羽の船団と、そうそう都合よく待ち合わせでもしたかのように合流できるものだろうか。中小の川が入り組む広い湿地帯のなかで、異なる速度で移動していた点と点がぶつかる確率的奇跡は、これもやはり孔明の神怪渺々《しんかいびようびよう》の魔術が、裴松之ですら面倒がって突っ込めない記述不足の隙間を軽くついて、時間と空間が四次元的にぴたりと一致するように操って入れ換えた結果なのであろう(ということにしておかないとどうしようもない)。
もしくは関羽の頭には劉備の危機とその位置を知らせる特殊なレーダーのような装置が組み込まれており、劉備のピンチを察知した関羽は、船上でようやくほっとひと息ついていた民衆を問答無用で川に叩き棄てて船足を軽快にし、脅える船頭に、
「カンシンヘユケ」
と無機質な声で命令したかであろう。
と、デタラメな話を好んで引用する裴松之なら、これくらいの史料を探し出して来て、キレながら潰して欲しいものなのであるが、それはない。
参考までに救いを求めて最も史料的価値の低い『三国志平話』を見てみると、劉備一行が当陽長坂坡にさしかかったとき、孔明は地形を案じて、
「この坂の上に猛将一人と兵百騎を配すれば、曹軍百万の兵も破ることができよう」
と異次元仕込みの酔狂的観測を述べるのだが、次の瞬間には、
「ああ、われ誤てり! 関羽を南に遣わし、長江で船の手配を命じてしまっておった。関羽はまだ戻らぬ!」
と、きわめて珍しく失策を悔やみ、結局、当然といってよいが、関羽は漢津に現れることもなく、劉備一行の脱出劇には何の役にも立っていないのである。歴史事実は非情であり、実際、こうなるのが普通だと思われる。『三国志平話』の編集者は『三國志』の劉関合流の記事を読んで知っていたはずだが、敢えて無視して切り落としているのは、
「そんな都合のいい話があるはずがなかろう。まともな説明もなく無理な辻褄合わせをするのもたいがいにしろ」
と陳寿に世間の厳しさを教えたかったからに違いない。
過去から現代に至る『三国志』作者たちはみなこの場面の整合性をつけるのに困り、いろいろ苦労をしている(小説の特性を活かして適当に創作した)。想像力豊かな解釈が矛盾を解消させ、陳寿と裴松之の罪を代わりに背負ったと言える。
まあとにかく、ここは『三國志』の記述に従って、劉備は関羽に、
「出来るだけ多数の民を船によって江陵に輸送せよ」
と命じたとしよう。
赤兎馬というフェラーリのエンブレムが輝きそうなスーパー・ホースに跨《またが》る関羽は、道幅いっぱいに広がってのろのろ進む避難民の渋滞に嫌気がさしており、
「承知いたした」
と、案外素直に言うことを聞いた。自ら長坂坡の見せ場を捨ててしまったのである。
避難民を抱えた劉備軍団の速度は、当陽に近付くにつれて遅くなり、
『日に行くこと十余里』
であった。十余里は約五キロメートルである。盆正月の帰省ラッシュの上、事故が幾つも起きた東名高速でもこんなことにはなるまい。五キロを確かめようと散歩して来たら、普通に歩いて一時間であった。万歩計で測ったら七千歩くらいではないか。普通に歩いて一時間の距離を一日かけて進んでいたというのだが、山岳の隘地や湿地沼地を進んでいたのではないのである。太極拳の歩法をことさらに丁寧にやりながら進んでもそんなにかかることはないだろう。ほとんど立ち止まりっぱなしといっても過言ではない、逃げるつもりがあるのかどうかも疑われる異常な進行速度であった。
劉備軍団が何を考えて何をしたかったかなどは、後世の者の想像を超えており、『三國志』の史料集めのときにはまだ生きていたかも知れないこの時の避難民の生き残りにもまったく理解できておらず、陳寿、裴松之が確たる理由を書かずにとぼけたのもやむを得ぬことであったかも知れない。劉備軍団自体が現象を理解できていなかったのだろう、たぶん。
曹操襲来の騒動の中、荊州の南東部を駆けずり回り、あやうく死ぬ目にあった男がいる。その移動のめまぐるしさは劉備以上であり、走った距離も上回る。
呉の魯粛《ろしゆく》のことである。孫権の持った最高の策士謀臣といえる魯粛、字《あざな》は子敬《しけい》のここの部分の動きはよく見るとどうも素人臭さが目立つ。
魯粛は孫権の命を帯びて、荊州新政府との関係改善のために派遣されたことになっている。
ついこの間、江夏に暴れ込んで襄陽を脅かし、黄祖を血祭りに上げて掠奪を恣《ほしいまま》にしたものが、よくものこのこと顔を出せるものだと思うが、これは魯粛の献策でもあり、自ら命を賭けて買って出た任務であった。この決死の外交は周瑜や諸葛|瑾《きん》らごく一部の者にしか知られていない。和平論者の張昭には秘密にしてあった。ここにきての荊州との提携は曹操との対決姿勢をつよく鮮明にするものであるから、言えば止められるに決まっていた。
曹操という共通の大敵が侵攻意図をあらわにしたことを機会と見、先だっての江夏の乱暴狼藉は笑って水に流してもらい、劉g、劉jと同盟を結んで共同戦線を張りつつ曹操を食い止めながら、じわりじわりと荊州を蚕食《さんしよく》しようという凄まじいばかりの陰謀が背後にあった。魯粛には荊州幕僚どもを丸め込む自信があったのだろう。劉備軍団については、
「ついでに劉備にも声をかけて、荊州兵の慰撫でもやらせておけば、必ず喜んで(孫権の)命に従うでしょう」
と、ほとんど荊州の付属物扱いである。
よい時に劉表が死んだ。魯粛は表向きは弔問の使者として襄陽に乗り込むことができる。さらには親切|面《づら》で相談に乗りつつ荊州の首脳を騙し、弱みを握り、脅しすかしして、近いうちに乗っ取ってしまう。親切を装って信用させ、いつの間にかハンコをつかせて土地を担保に取ってしまうといった詐欺師のやり口と変わらない。これがうまくいけば呉の中央進出へのルートが開け、曹操に対抗できる武力と経済力を獲得することができる。この策が成功しておれば魯粛の名は「全米が泣いた!」という嘘くさい宣伝文句と同じくらいに孫権を嬉し泣きさせ、呉に不朽の名策として語り継がれることになったろう。
ところがこの時点での呉の諜報能力は極めて低レベルであり、襄陽の変を察知せず、曹操への降伏を内々に決めてしまっていることを予想すらしていなかった。呉内部での腹の探り合いなら各一家とも血道を上げて行っていたのだが、外の情報収集活動となると現代の日本政府なみにおろそかであった。
状況予測を前提から大きく外した魯粛は迷走し、右往左往した末、逃げ回る劉備たちに出会ったのはいいが、何故か叩きのめされて見るも無惨な劉備軍団と堅く手を結ぶという、後の禍根となること疑いなし(このときの劉備軍団の打ちひしがれた姿を見れば、後にふてぶてしい居直り強盗に変じるとはとても思われなかったろうが、これも劉備軍団の性格についての情報を掴んでいなかったせいである)の話をなかば独断で決め、挙げ句の果てには、孔明の入国と浸透の手引きをするという失態を犯してしまうのである。呉軍団随一の切れ者とされる魯粛は決してただのお人好しではない。いったいかれに何が起こったのか? まさか孔明に洗脳されてしまったのであろうか……。
ともあれ魯粛の燃える好情、献身的とも言える親劉備政策が始まったのはこのときからであり、それは死ぬまで続き、呉の反劉備強硬派から見ればほとんど利敵行為であって、多くの分からず屋が魯粛をテロの標的とすることになった。だが劉備軍団に味方する者はいい待遇を受けるという法則があるから、魯粛はフィクション上は救われている。
たいていの『三国志』では、劉備軍団と魯粛の初対面は、劉備らが曹軍の魔手から逃げ切り、江夏にひと落ち着きしてから起きたことになっている。魯粛は劉備の仁義あふれる人柄にとても感激し、孔明の智略に感心して同盟を提案した。魯粛の要請を受けた孔明は即刻に同道して呉に向かうことになる。
一方、『三國志』魯粛伝には、劉備、孔明と魯粛の面会は当陽の長坂坡で行われたとはっきり書かれている。そして魯粛はそのまま劉備と一緒に夏口まで行ったらしい。このくだりには裴松之も別にケチをつけていないし、先主伝には、やはり当陽で面会したとする注を載せている。
とはいえ劉備たちは当陽近辺で曹軍の猛撃を受けたのであり、長坂橋を目指して傷だらけになって走っていたのである。悠長な挨拶をしているような場合ではない。
魯粛と会ったあとに曹軍が殺到してきたのかも知れないが、それに巻き込まれていなければおかしい。夏口まで一緒に行動したのなら当然魯粛も血液が迸《ほとばし》り、肉が斬れ、骨が砕け、馬が嘶《いなな》き、白刃がきらめき、民の悲鳴と兵の怒号が飛び交う中を逃げ走らねばならなかったはずである。
これでは落ち着いて話も出来ず、劉備の逃げっぷりしか見ることがなかったろう。かなり不自然であるから『三国志』の作者は魯粛との対面の場所と日時を変更したのであろうが、泥んこになって遁走《とんそう》しながらも天下制覇を語り合う夢見がちな男三人が仲良くなっていってもいいじゃないかと思われる。
魯粛が孫権に献策したのは、『三国志演義』では曹操の荊州侵略がほぼ完了した後のことであるが、それでは手遅れにも程があり、魯粛の凡人ぶりが際だってしまうから(『三国志』は魯粛を孔明に驚かされるだけの狂言回しとして扱う傾向がある)、劉表の死の直後だとする『三國志』のほうが魯粛にとってもよいだろう。
『劉表死するや、粛、進みて説いて曰く』
と、待ってましたとハイスピードで具申した。
まずは隣国の荊楚は呉にとって必須の重要の地であることをくどいほど強調してから、
「ですけん荊州は領|有《と》らにゃいけんのです。わが君が帝王になりたいと言うんなら絶対に他人に渡されんとこじゃ」
と劉g、劉jとの同盟がどうのといった話ではなく、はなからぶん奪《ど》ると言っている。
「そがいゆうが、荊州は甘うないぞ」
と孫権は言った。
「黄祖一人を討つだけでもどれだけ骨が折れたか」
「あれはまー仕方なかった。何しろわしらのまとまりの悪さときたら、犬と猿の集まりのごとあったけん。そいが近頃大分ましになってきたんは、力を合わせて黄祖を付け狙い続けた成果ですけぇ、苦労の甲斐はありましたんよ」
「ほうかの」
臣下とはいえ魯粛は孫権より十も年上である。ときに親分に諭すような言い方も少しくらいは許されていた。
「いま劉表が死にくさり、せがれ二人は仲が悪いと聞いとります。家中も軍もばらばらじゃとも聞いとります。客分の劉備は曹操に尻尾を振らん英雄じゃいうけど、劉表にさんざんこけにされても噛みつきもせん、つまらんやつじゃで。まあ、劉備と劉表のせがれ二人が仲良うガッチリまとまっとるんなら、とりあえずはこっちもいい顔をして付き合うたればええ。けど、ほんにガタガタしよるんなら、うまいことハメてかっ攫《さら》う一手じゃ。ここはいっちょ、わしが正確な状況を視察してきますけん、カシラ、どうかわしにおくやみの使者を申しつけてつかあさいや」
「……ええんか?」
孫呉軍団が江夏に乱入して、黄祖の首をあげたのはついこの前のことである。和解休戦などはしていない。言わば抗争熱烈展開中の組の代貸しが、まだべっとりした血の乾かぬ時期なのに、敵の組長の葬式に顔を出すようなものであり、しかも黒服のボディガードも連れていない。その度胸は大したものだが、おくやみの花をさし出した瞬間に復讐のドスが返ってくるおそれが大であって、へたをしないでも魯粛の命は危ないであろう。
孫権がそれを言って心配したが、魯粛はからからと笑った。
「そん時ゃ、一気にわしのカタキ討ちに軍を進めてもらえりゃええ。筋を通した上で荊州を根こそぎにできますで。そういう鉄砲玉なら上等じゃ」
「子敬、軽々しくそげなこつば言うんじゃなか!」
「オヤのために子が死ぬんは当たり前のことやなかですか。わしはこの身をカシラに賭けちょるんよ」
「子敬! じゃが、今ワレが死んだら……」
「はっはっ、カシラ、まずそんなアホなことにはならんけん、心配には及びませんわい。襄陽の連中にゃわしを殺せるような根性はなかろ。ビクビク腰抜け、欲深で頭の足らんやつらじゃけぇ、わしが舌先三寸で丸め込み、因果を含めてわしらのために手足のごつ働くようにし向けちゃります。客分の劉備は戦さの弱い天下一の抜け作じゃけえ、少しばかり利を食わせ、一緒に曹操に対抗しようと説けば、大喜びでケツをかぐようになるに違いありませんで。カシラ、これがうまくいきゃあ、天下取りの野望がまた一歩進むっちゅうこってす。とにかく早うせんと、曹操に先を越されますで」
魯粛は抜きさらしたドスのように鈍く光る目で、孫権の碧眼《へきがん》に視線を穿《うが》った。信義と頭脳と度胸と忠誠心と頓知《とんち》とを兼ね備えた不敵な男の目である。
孫権は魯粛の手をとり強く握ると、頭を下げながら言った。
「そこまで言うてくれるがかい。わしゃあええ家臣を持ったことよ! 頼む子敬、このことはぜんぶワレに任した。どうかわしを男にしてくんない!」
「承知しとります」
「もしお前に何かあったら、女房子供のことは、わしがええがに一生面倒みちゃるけん」
とはいえ、魯粛の未亡人を手籠めにしたり、魯粛のむすめを妾《めかけ》にしたりして世話するのはパスして欲しいものだ。呉ではありがちなことである。
そして魯粛は、孫権名代の符を与えられ、すぐさま荊州に出発した。
このとき魯粛は三十七歳くらい。策士謀臣としてこれから脂ののる季節だ。
魯粛は臨淮《りんわい》郡東城の人、一七二年頃の生まれである。若い頃からやんちゃではあるが、面倒見のいい男として知られていた。家が富豪であったのをさいわいに、異常な散財を繰り返した。
「魯粛は家業をほったらかしにし、財貨を盛大にばらまき、田畑を売りに出した」
とあり、まあ金持ちの道楽息子であった。土地の者は、
「魯家も代々衰え、こんな気の触れた息子を生んだ」
と噂した。しかも世間話がしばしば天下レベルの大説にまで拡大する大言壮語癖があって(惜しくも宇宙レベルではないところが、孔明に及ばぬ差である)、
「ホラ吹き魯粛」
と言えば近辺に知らぬ者はいなかった。
だが、魯粛はたんなる遊び人でも篤志家でもなく、先見の明を以て天下の混乱ますます激しくなるを予想し、対策を講じていたのであり、ひそかに血気盛んな若者を集めて軍事訓練を施し、武器を準備集合させ、殺人専門の部曲《ぶきよく》(私兵団)をつくりあげるつもりの過激な若旦那だったのである。このへんは曹操の第一次|雌伏《しふく》期(頓丘《とんきゆう》の県令を辞めた頃)と同様である。しかしこれが魯粛の特徴なのだが、どんなヤバイことをしていても、外見は鷹揚なボンボンにしか見えないため、ほとんどの人はその武豪傑の側面に気が付くことがなかった。魯粛自身も武芸を修め、ことに弓術の腕は折り紙付きであった。結局、魯粛軍団の旗揚げはなかったが、かれの特攻部隊はのちに孫権の軍に吸収される。
当時、臨淮は袁術《えんじゆつ》の支配地域であった。孫策の配下になる前の周瑜が居巣《きよそう》の県令になったとき、財産を平気でどぶに捨てる馬鹿旦那がいると聞き、挨拶がてら魯粛を訪ねることにした。『三国志』では、魯粛と周瑜の初対面はちょっといい話にされがちなのだが(孫策と周瑜の初対面は物凄くいい話にされがち)、実際はちょっと嫌な話になるぎりぎりのところであった。
『周瑜、居巣の長となり、数百人を将《ひき》いて故《ことさ》らに過《よ》ぎりて粛を候《うかが》い、并《あわ》せて資糧を求む』
このとき周瑜が、わざわざことさらに数百人の兵隊を連れて行っているところを見ると、暴力を背景としたカツアゲが目的であったと疑われても仕方があるまい。挨拶をするだけなら男一匹で行けばいいのであり、数百人も連れて行く必要はないだろう。魯粛を悪徳商人か何かと見たのかも知れない。周瑜は魯粛が本物の馬鹿だったら丸裸になるまで毟《むし》り取ってやるつもりであったとしたほうが自然である。
ところが魯粛は周瑜が思っていた以上の馬鹿であった。つまり傑物であった。周瑜は初めて会う相手にいきなり資金食糧の援助を要求したわけだが(強請《ゆすり》以外の何物でもない)、当の魯粛は断りも値切りもせずに笑っている。魯粛の家には大きな倉庫が二つあった。魯粛は案内すると、こともなげに、
「将軍にぜんぶお渡ししたいところなれど、困窮する民に配るぶんはとっておかねばなりませんので片方でお許しいただきたい」
と言って、倉庫一つにおさめた米、しめて三千|斛《こく》をあっさりと進呈した。当時の一斛は約二十リットルであり、日本でいえばタワラ二俵半くらいであろう。数百人いてもすべて運び出すのに何度往復すれば済むことか。周瑜はびっくりして、
(これ奇人なり)
と思い、容儀を改め拝礼しなおしたのであった。後日より親交を深め、春秋期の鄭《てい》の子産《しさん》と呉の季札《きさつ》の厚い交わりに劣らぬ友情を固めたという。
その数年後、魯粛は袁術に招かれて東城の県令となった。孫策は袁術から独立して、江東のキリトリに精を出しており、周瑜はそのモスト・ビューティフル・スタッフとなっていた。魯粛は皇帝を偽称する袁術の妄想騒ぎが好みに合わず、魯粛を慕う老人、子供、あぶれ者どもを引き連れて、居巣の周瑜のもとにゆき厄介になった。そして周瑜に説得されて孫家に仕えることになった。
過激なブッ込み大将だった兄孫策をころりと喪《うしな》い、手堅く人材募集中であった孫権は、宴会のあと魯粛だけを引き止め、
「もう一軒行こうやないか。な、な」
と別室に連れ込み、膝を交えて密談した。
(周瑜は魯粛のことをベタ褒めしていたが、実際はどんなものなのか?)
それを確かめるための密談である。
毎度のことながら、陳寿の歴史認識能力(超想像力)にかかっては、どんな密談もその筆から逃れることは不可能なのであった(わたしももう敢えて何も言わない)。
「わしゃあ、父上と兄貴の仕事を承け継ぎ、斉《せい》の桓公《かんこう》や晋《しん》の文公《ぶんこう》みたいなえらい人になりたいんじゃがのう。魯子敬どのはどがいなことをして、わしを助けてくれるんかいの?」
とまだ二十歳そこそこの孫権は訊いた。家臣になったばかりの相手に、平然と、
「お前はわたしにどういう利益を与えてくれるのか?」
とえげつなく問えるというのは、孫権の脂ぎった性格、利権が沽券《こけん》の呉集団ではごく普通などぎつさが感じられるところだ。
このとき魯粛は史上全然有名ではない「天下二分の計」を披露して、孫権を怯《ひる》ませてしまったという。魯粛は、
「いずれ天下を握らせてさしあげる」
と、尋常ではないホラを吹いたわけである。
「曹操は昔でいえば楚《そ》王|項羽《こうう》のようなもんですじゃ。今のわしらではとても太刀打ちでけません。ただあんなは北方に戦さの火種をえっと抱えておるけん、しばらくはこっちに手は出せんでしょう。わしらはその隙に足場固めをやっておかにゃあいけません。なるべく早く江東の地をきっちりとシメて、黄祖を抹殺し、次には劉表を始末し、長江流域を完全な縄張にしてしまいますんじゃ。荊揚を占めりゃ、曹操んとことリキは五分五分ですけえ。ほしたらわが君は皇帝を名乗って、中央に押し出していけばええんよ。漢の高祖|劉邦《りゆうほう》と同じことをするんじゃ。この策はどがいですかいの」
すると意外と小心な孫権は魯粛の話の飛躍に恐れをなしてしまい、
「そら、いけん。そんなことはわしにはとてもでけん。わしゃ少しでもええから漢室の力になりたいだけなんじゃ……ただそれだけなんじゃあ」
おどれはわしに謀叛を勧めるんかい、と紫髯《しぜん》を震わせておろおろと言ったから、魯粛は言い過ぎたかと思い、今言ったことは無かったことにした。だがその実、孫権の野望をビキッと疼《うず》かせる素敵な意見だったのであり、
(この男、なんちゅうおそろしかことば言いよんなら。わしゃぁ……惚れた)
と魯粛の重用を決めていた。魯粛にはまだ孫権の性質や心の機微までは分からない。
呉のご意見番、張昭のオジキは最初、魯粛をただの軽薄郎のほら吹きだと思っており、裕福な育ちをした者特有の無神経さがちらほら見えるので気にくわず、
「小僧! わりゃその態度はなんなら!」
と何度も叱りつけた。呉のその業界の人にこう怒鳴られたことがある人なら分かってもらえると思うが、関西の業界の人の同じニュアンスのせりふよりも遥かに恐ろしく、言霊に物凄い恫喝力があり、まったく生きた心地もしなくなる。並の者なら張昭に睨まれていると知っただけでナメクジに塩のように融《と》け、PTSDに悩まされてそのうちいなくなるのだが、魯粛はへこむどころか、
「子布《しふ》(張昭の字《あざな》)どのの叱り方はわしのおいちゃんによく似ていて懐かしい」
とか言って、
「おいちゃん、おいちゃん」
と馴れ馴れしく寄って来ようとしたりする。張昭はこれも金持ちの傲慢《ごうまん》さ、神経欠如の一形態だと感じ、
(苦労知らずのボンボンが!)
と苦い顔をするしかなかった。仕方がないので孫権に圧力をかけ、
「あのような浮薄な弱輩者を任用しては、他の組に舐められるだけです」
ということを、何度もがみがみ言ってクビにさせようとしたが、孫権はこればかりはそのたびに誤魔化した。
「そうじゃのう。オジキの言うことももっともじゃ。そりゃいかんわのう。一度でもへまをやらかしたら、そんときゃ、わしもこらえんで」
と、張昭を立てつつ、しかし首も切らずにとぼけ通した。孫権はオジキに逆らってまでも魯粛を優遇し、役職も給料もどんどん上げていった。魯粛が感激して、
(この親分のためならば)
と意気に感じたのは言うまでもない。
さて襄陽を目指す魯粛はまず夏口に向かった。ちょうど曹操が宛《えん》に軍をとどめて襄陽を脅迫していた時期である。夏口は江夏に属するが、もはや荊州ではなく呉の実効支配下にあると目されており、江夏太守の劉gがいるものの、その帰属は曖昧であった。
夏口に着いた魯粛は出先機関(孫権組夏口支部)から曹軍の侵攻が開始されたという情報を受け取った。諜報活動怠慢のため、劉jが既に降伏してしまっていることはまだ掴んでいなかった。よって魯粛は、
(まだ間に合う。とにかく急いで劉jらに面会することだ)
と思って、ひと息つく間もなく出発し、昼夜兼行の忙しさで南郡(江陵)に向かった。曹軍が南下してきたのなら荊州首脳部は襄陽を捨て、江陵に退避したに違いないと判断したからである。
しかし、やはりおかしいのは、呉の諜報方である。柴桑《さいそう》にいた魯粛は、曹操の軍が宛に参集しており、いつ南進し始めるか分からないという情報すら得ていなかったらしいから(知っていたら弔問に行くなどしなかったろう)、いただけないというしかない。また劉jが降伏する可能性大ということも分析予測していなかったのなら、朝からバクチに興じたり、女の子にいたずらするのが日課だったとしか思われず、呉の諜報能力は劉備軍団なみのお粗末さであるといえる。情報を重視した孫子の末裔《まつえい》を自称する孫家であるが、ちゃんと『孫子』を読んだのかと聞きたくもなろう。正確な情報は策士最大の武器である。それがなければ策士は羽根をもがれた鳥のように危なっかしくなる。
魯粛がへとへとになって南郡に入ると、劉jは襄陽でとっくに無戦降伏したという、魯粛にとって思ってもみなかった驚愕情報が入っていた。この魯粛の諜報的な無為無策さこそ真に驚くべき点である。移動中でも駅ごとに、複数の間諜から逐一手紙が届くようにしておくとか、いろいろやれることはあったろう。ここにおいて劉j、劉gとの連合という魯粛の目論見はあっけなく潰れてしまったのである。呆然としたろうが、諜報を怠ったためであり、策士謀士としては自業自得である。
既に北の方角は騒然としており、民の一部が避難してきていた。次いで劉備軍団が慌てふためいて逃走中であり、長江を渡って逃げるべく、江陵を目指しているという情報が入った。
数日を経ずして、ここ江陵にも曹軍が進駐してくるに違いない。
(わしゃ、わざわざババ掴みに来たんかいや)
任務を失った魯粛は、今のうちに、混乱に巻き込まれる前に脱出することも出来た。だが、
「行ってみたらもう終わっとりました。すんまっしぇん」
などと子供の使いのようなことを孫権に復命するのは、策士として恥以外の何ものでもない。
(なんとしても手土産の一つも持って帰らにゃあ、わしはただのくそたわけの笑いもんじゃないの)
と、辞表を書かねばならぬほどの失策であり、孫権や周瑜に合わせる顔がない。指も詰めるべきか。おそらくそんなことが頭を過《よ》ぎりまくったのであろう。次の瞬間には異様な決断をくだしてしまっていた。
「劉玄徳に会う」
ということだ。魯粛は所期の目的からすれば付録に過ぎなかった劉備軍団とのコンタクトを決意したのであった。この時、魯粛は自分が時代を(わるく)変える、おかしな形をした賢者の石を握っていたことを後になって知る。
北からの避難民を捕まえて訊くと、劉備軍団は真っ直ぐ南下しているらしいから、
(北へゆけば、行き合うだろう)
と魯粛はまた休む間もなく馬上の人になった。
魯粛はここでも諜報不備のため、曹軍の高速騎兵部隊が劉備追撃のために出動しているという情報を耳に入れていなかったのではないか。知っていればさすがに殺戮《さつりく》地帯と化しているであろう地域に、一兵も持たない旅装姿でのこのこ出掛けるとは思われない。
急ぎ北上する途中、逃げてくる避難民の様子が刻々と惨烈なものに変わっていった。また訊けばこの先、当陽で激しい戦闘が起きているという。
(げえっ! もうドンパチが始まっとるんか。なんでそんなにはやいんじゃ)
逃げ来る者の姿も、荷物は泣く泣く捨て、服が破け、流血し、だんだん悲惨になり、ちらほら兵装の者が混じっているのが見える。脱走兵は兵団の崩壊を示すものだ。
しかし魯粛は何故か引き返さなかった。この先に戦場が待っていることが分かっていても、それでも行ったのは魯粛の肝っ玉が異常にでかかったからなのか、あるいは何か変な力に引き寄せられていたのか。よく分からないが、当陽、長坂坡で劉備、孔明と運命の出会いを果たすことになるのは事実である。
魯粛は劉備軍団の真実(真虚)を、心の準備もないままに目撃することになる。
太祖《たいそ》、はじめて荊襄の地を踏む。
『三国志』世界を激変させる大きな一歩であった。
曹操の襄陽占領を円滑に運ぶべくまめまめしく働いたのは蔡瑁《さいぼう》と張允《ちよういん》である。ことに蔡瑁は荊州一の奸臣としてその小悪党ぶりを執拗に書き連ねられているわけだが、やってもいないことまで蔡瑁のせいにされているのは気の毒というほかない。これも劉備を要注意人物として批判した(とくに間違ってはいない)ことへの天罰であろう。
曹軍の進駐直前に忠臣|王威《おうい》が劉jに曹操要撃を進言した。
「将軍(劉j)が既に降伏し、玄徳一味も逃げ去った今、曹操は必ず油断して警戒なく、軽はずみに単騎進んでくるに違いありません。この機を逃さず、われに奇襲部隊数千をお与え下されば、要害の地に迎え撃ちまして、曹操をば手捕りにしてくれましょうぞ。もし曹操を捕虜とするなら将軍のご威光は天をふるわせ、いながらにして虎の如く天下を闊歩《かつぽ》できます。中原《ちゆうげん》が広大といえども、檄文《げきぶん》を飛ばせば平定に難はありませぬ。曹操を討つことは、たんに一度の勝利を得るだけにとどまることなく、天下を手中とするに匹敵するのです。この千載一遇の好機を逃すべきではありません」
ちょっと観測が希望的すぎではないかと思われるが、曹操は忘れた頃に大ポカをやる悪癖があるから、可能性がまったくないわけではない。『三国志』チックな良い騙し討ち提案であったが、そのスケールのわりに如何せん劉jは小粒すぎた。劉jは王威のいちかばちかの献策をしりぞけた。
王威の献策は『三國志』ではそれだけの話に過ぎないのだが、『三国志演義』になるとまたしても蔡瑁が公開殺人に及ばんとする話に変わる。
王威の過激な献策に悩んだ劉jはうっかり蔡瑁に相談してしまった。蔡瑁の目が殺意に光り、王威に噛みついた。
「王威、おのれが! 主を惑わしおって、天命ということを知らずに何をほざきおるか!」
王威も怒って言い返す。
「何を言うかこの売国奴めが。生きながらにして貴様の肉を啖《くら》ってやれんのが残念だ」
王威はときどきナマの人肉を食する肉食人種出身の家臣であった(のか?)。
「むきー」
おそらく蔡瑁ほど売国奴≠ニ罵られた回数の多い者もいまい。蔡瑁は剣を抜いて王威を殺そうとしたが、|※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越《かいえつ》が羽交い締めにして止めたので未遂に終わった。
こんなことばかりなのだが、本当に蔡瑁が最悪の売国奴だったかと言えばそこまでひどくはない。妹の蔡夫人の子の劉jを跡継ぎとするために画策し、劉gをいびり倒したことくらいが罪と言えば言えるが、この程度のことはどこでも起きていたことで、かりに劉gがタフガイだったら逆にシメられたことであろう。また荊州引き渡しのことは蔡瑁一人の陰謀ではなく、襄陽幕僚のほとんどが納得し、賛成していたことだ。蔡瑁は劉jを荊州の主とし、蔡一族でぶいぶい言わせようと目論んだわけだが、天運は味方せず、ちょうど奇跡の平和期間も終わり、今や曹操のご機嫌取りに駆けずり回らねばならなくなった。
しかし『三国志』作者は蔡瑁に対してまことに遠慮会釈がないのであった。イジメの標的とするのにちょうどよい、何をしても構わない男とみなされたのが不運である。厳しい劉備批判をし(事実)、劉備謀殺を企み(そんなこともあったかも知れないがいちおう嘘)、降伏にあたり劉備に知らせず(事実)、劉備が樊城を捨てて襄陽に立ち寄ったとき弓矢を浴びせ(たぶんやっていない)、劉jの臣というより掌を返したかのように曹操の犬と化した(役儀柄、曹操の入城をセッティングくらいはするだろう)とする。
それもこれも「厳しい(かなり正しい認識の)劉備批判」が原因であり、口は災いのもとというしかあるまい。げんに蔡瑁とさして変わらぬ態度を通した※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越はこんなみじめな扱いを受けてはいない。しまいには周瑜の謀略により張允とともに処刑されるという絵に描いたような悪党の末路を辿ることになった(これも嘘)。身に覚えのない悪事を山と背負わされた曹操に比べれば蔡瑁程度のことはどうということはないと言える。ただそれを撥ね返すくらいの才人でなかったことが『三国志』的には不足であって、悪役をふられたのであろうか。
さて曹操は大歓迎の礼式をもって襄陽に迎え入れられた。襄陽は、荊州など田舎だと思っていた者たちの認識をくつがえす垢抜けた城である。平和が続いた襄陽は、劉表の文学芸術好みもあり、南の楽園、燃やされる前の洛陽に次いだかも知れないファッショナブルな城市であり、どこをとっても田舎臭さがいささかも感じられない。曹操の根拠地の|※[#「業+おおざと」、unicode9134]《ぎよう》のほうが荒れて色|褪《あ》せて見えるところがある。門前から、劉表が死んで間もないというのに祝いめでたの笛太鼓に美女の舞踊という、喪など糞食らえという劉表の怨霊に呪われても仕方がない派手な歓迎ぶりである。
曹操は馬上、手を振り宮殿に向かったが、その顔はいらだっているような表情を浮かべていた。襄陽の百官が並んで出迎えていた。
(旧主をうしなったばかり、情けなくも一戦もせず全面降伏した連中の顔ではない)
襄陽占拠はスムーズに行われたとはいえ、恥を恥と思わない連中に対して気に入らぬ気分がある。そういった輩の代表が蔡瑁であった。※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越、傅巽《すそん》、韓崇《かんすう》らは少なくとも追従笑いなど浮かべず、うつむき加減であった。袖の内では爪が掌の肉に食い込むほどに強く拳を握り締めているかも知れない。それが本当だろうと思っていた。
これまで多くの城市を奪取してきた曹操は、その地の者の胸の内の無念がついあふれ出してしまった表情を数多く見てきた。面従腹背の新家臣たちも少なくなく、いささかの誠意と実力で馴致《じゆんち》してきたものである。たいていが戦闘後の入城となったから、お祭り騒ぎで自分を迎えるような城はなかった。人士民衆の内心の抵抗や、臣従への葛藤を締め上げた末に治めてきたのである。
曹操はやたらと好意的な荊州のものどもに対して一抹の不安をおぼえた。
(侵略されてはしゃぎ喜ぶバカがどこにいる! 戦いがなさ過ぎた者たちの顔だな。負けて観念したという色がない。降伏などさせず、無理にも一戦して叩きのめすべきだったのかも知れん)
荊州兵は当てに出来るのか。曹操は※[#「業+おおざと」、unicode9134]と許都《きよと》に後置させ休養中の兵を急遽編制して呼び寄せるべきかと考えた。ただ水軍ばかりは当分荊州兵に任せねばならない。荀攸《じゆんゆう》、程c《ていいく》らの意見を聞いてみることにしようと思う。
(しかしようやくここまで来た)
さすがの曹操も感慨深いものがある。
(これでほぼ片付く)
荊州襄陽、江陵を押さえることは天下統一のキーポイントである。
地図を見てもらえれば明らかだが、荊楚、襄陽の地は中国全土のちょうど真ん中にあり、華北中原から見ても扇の要の部分に位置している(荊州より南はほとんど未開発の地にちかい)。政略拠点としてこれほど重要な地はなかった。軍事的にも交通の要衝であり、地形的に四通八達の衢地《くち》をなしており、この地から東西南北へ自在の進軍が可能となる。
たとえば天険に囲まれた巴蜀《はしよく》、益州攻略をやろうとするなら西に大回りして漢中から攻め入るルートしかなく、それとて大軍を急ぎ動かせるような平坦な道ではない。登山装備の部隊を蟻の列のように通してしか益州に入ることができず、防戦されればいたずらに兵を失うことになるだけである。現状では益州の軍事攻略はほとんど不可能に近かった。のちの魏が巨大な兵力を持ちながら益州征伐を躊躇したのは、サザエの殻の中で手ぐすね引いて待っているような蜀漢を攻め落とす困難に直面せざるを得ないからである。蜀と魏の戦いは自然と秦嶺《しんれい》山脈を越えた関中周辺で争われることになり、それも孔明がのこのこ出て来たときに限られることになる。
難攻不落の天府益州。ところが荊州からなら比較的容易に益州に侵攻することが出来るのである。三峡(瞿塘《くとう》、巫《ふ》、西陵)という航行の難所はあるにしても、水軍をして長江を遡上し、同時に陸戦隊は長江岸の通路を行き、大軍をもって巴蜀に乱入することが可能で、わざわざ西回りの山越えコースをとらなくてもすむ。益州の劉璋《りゆうしよう》がぐだぐだ言ってきた場合、曹操は速やかに長江を遡るであろう。呉の周瑜、魯粛、甘寧《かんねい》らもこのコースがお気に入りで早くから目を付けていた。のちのち劉備が益州攻略にとったのもこの楽ちんコースだったわけだが、例によってわけの分からぬ仁義の方針のせいで勝手に苦戦し、多くの犠牲を払うことになる。
また長江の険に阻まれた呉に攻め入ろうとするなら、揚州北部にいくつもの巨大基地を建設して渡河作戦を練るしかない。呉から制水権を奪うとなると何年かかるか分からぬ大作戦となり、とてものことやっていられない。長江は、場所によっては向こう岸が霞んで見えるほどの幅を持つ、海の如き大河川である。そんな長江の向こう岸に数万の陸戦隊を送り込むのは難事業というしかなく、しかも南船北馬ゆえ、地の利がなく、華北中原の戦法を使っていては勝ち目は薄い。のち曹操と孫権は合肥《がつぴ》を取り合って激戦するが、呉軍は負けそうになるとさっさと長江を渡ってしまう。
だがこれもまた荊州を確保しておれば作戦は非常に楽になる。水軍をもって長江を下って攻める一方、はじめから南部に陸戦隊を置いて戦いを進めることが出来るからである。荊州は呉にとって剥き出しのノドボトケなのであった。
逆の立場から見ると、荊州の北は険阻な地形が脇に避けたような大道が続いており、襄陽から北上して一息に中原に進出し、許都、洛陽等を脅かすことが出来る。これは亡き孫策が狙っていたものである。曹操としては荊北を占拠して蓋をしておかねばおちおち昼寝もしていられないのである。
かく荊州には天下を狙える立地条件が揃っている。ともあれ荊州に拠しておれば主要三方面に労少なく進出できるわけで、天下を窺う者にとり、これほど重要の地はまたとなかった。
おまけに長く続いた平和状態のおかげで農作物の出来は毎年上々、また各地から人々が流入したから、天下有数の人口を保持している。荊州は屈指の高度経済成長地域なのである。何をおいても急いで奪るべき地というしかなく、その優越性が分かっていなかったのは劉備と劉表くらいなものである。劉表は分かっていて敢えてしなかったようだから、やはり天下一のとぼけ者は劉備ということになる。もし荊州の持ち主が過激な野心家であったら今頃天下はどうなっていたか分からない。
(劉備がお調子者でよかった)
と、曹操の軍師たちは思っていよう。
襄陽城に入った曹操は劉jらを引見した。
「このたびのおぬしらの判断はまずまずのものであった。よく順逆を弁《わきま》えた。今上《きんじよう》もおよろこびであろう」
蔡瑁は、へへーっと這《は》いつくばって追従をならべた。
(貴様のあるじは劉jだろうが! いつ曹操の下僕になったんだ)
と言いたくなるほどの媚びっぷりで、常備十万といわれる荊州軍の状況、また水軍の戦艦闘艦の数を、訊かれもせぬのに仔細に報告し、一同を嫌な気分にさせた。
曹操は降伏すればよきにはからうという約束を守った。
劉jは青州の牧となり近く赴任することを命じられた(事実)。しかし于禁《うきん》の手の者に蔡夫人、それに護衛についた王威《おうい》ともども密殺された(大嘘)。劉表の旧臣たちもそれぞれ賞典を下され、新たに役職を与えられた。蔡瑁は鎮南侯水軍大都督、張允は助順侯水軍副都督である。海軍大臣兼総司令官といったところだ。もともと蔡瑁が船舟の監督者であったからだが、水戦指揮官としての実績はない。なにしろ戦争が滅多になかったから。
「へぁーっ、そのような大任をそれがしふぜいが。とてもとても無理にございますぅ」
呉への水軍出陣が高い確率で予想されていたから、蔡瑁が半ば嫌がりつつ身をくねらせ喜ぶふりを見せるが、曹操は冷たく、
「いいからやれ」
と言った。
曹操は※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越の前に来ると突然情熱的に手を握り、※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越をびくりとさせた。
「貴君が異度《いど》(※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越の字《あざな》)どのか。会いたかったぞ。都でもおぬしの評判は音に聞こえておるぞ」
「ははっ。痛み入ります」
「わしは、わしは、荊州を得たことよりもおぬしを得たことのほうが数百万倍も嬉しいのだ」
と、曹操はベアハッグに見えるほどのハグをして、歓びを炸裂《さくれつ》させた。曹操の言葉と態度は※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越をいたく感激させた。※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越を江陵太守樊城侯に任命した。
曹操は傅巽、王粲《おうさん》らも褒めちぎり、とりあえず関内侯とした。王粲に比べるとやや地味だが、傅巽はなかなかの人物鑑定家であった。早くから|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統《ほうとう》に目を付けていた者の一人で、
「※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]士元は不完全な英雄である」
とやや意味不明だが高く評価していた。当然の事ながら(なのか?)、評価の対象にもする気がなかったのか、存在をまったく知らなかったのか、とにかく嫌っていたのか、孔明については何ひとつ言っていない。傅巽はその後も魏諷《ぎふう》の叛乱事件を予言したりとその眼力は確かであったのだが、孔明を無視し抜いた。韓崇、ケ義《とうぎ》も任用し、列侯は十五人に及んだ。
「荊州は人材の宝庫」
というのもあながち大袈裟ではなかった。
国盗り、侵略戦争といっても大昔のようにそこの地の者を皆殺しにしたり奴隷にしたりするような始末は滅多になく(でもときどきある)、長官、刺史州牧をすげ替え、官僚機構を一新するだけのことである。よく考えれば、徹底抗戦などしなければ、ただ曹操の組織人事に組み込まれるだけで、命に別状はないのである。これは呉でも益州でも手向かいさえせねばそうなったろう。A級反抗者以外はとくに命に別状はないのである。曹操は有能であればB級反抗者までは赦《ゆる》して部下にしようとする度量を持っている。いったん占領されてしまうと、何故、熱に浮かされたように数万人の犠牲者を出してまで戦争したのかと、不思議に思うほどあっけない。
曹操は襄陽のめぼしい人材をすべて記憶しており、もちろん顔までは知らないが、名を聞けばそのプロフィールを思い出し、それぞれに心憎い言葉をかけて役職を与えていった。曹操はたくさんの人材に囲まれ至極満悦の様子である。荀攸、程c、|賈※[#「言+羽」、unicode8a61]《かく》らは、
(殿もお好きな。あやつらがそれほどのものか)
と思っている。やっかみもあるが、
(だいたいそんな凄い才能なら、かくも簡単に荊州を手放すことにはならなかったろう)
くらいは言いたい。荊州を手放すにしてもキツいネゴをかまして、もっと有利な条件を引き出しにかかるのが、優秀な謀臣というものだ。
「にしても、蔡瑁が水軍都督とはいかなるおつもりなのだ。あの諂《へつら》い屋にまともな水軍の指揮などやれるのか?」
と賈※[#「言+羽」、unicode8a61]が小声で訊くと、荀攸は、
「今のところは誰がやっても同じであろう。われわれは蔡瑁よりも水軍を知らぬ。殿はいずれわが軍の将兵から水軍指揮官を抜擢するおつもりに違いない」
と言った。
「なるほど」
※[#「業+おおざと」、unicode9134]の玄武池での水戦訓練を終えた将来の曹操水軍の将兵たちはこちらに向かっていよう。
曹操は居並んでいた文官武官らに一通り声をかけ終えた。
「……そうだ。文聘《ぶんへい》がおらぬではないか」
と言った。一人欠けた男に気が付いた。なんとも凄まじい記憶力である。※[#「萌+りっとう」、unicode84af]越が、
「文聘は自宅に籠もっております」
と言った。
「なぜだ。呼んで参れ」
しばらくして丸腰に粗末な服の文聘が出頭した。
「残らず引見すると申したはずだ。それに反したのだから処罰は免れぬぞ」
「もとより覚悟の上にござる。人に仕える者として主を扶《たす》けて、国を保つことも出来ず、あまりの不甲斐なさに慚愧《ざんき》の念にかられておりました」
そう言うと文聘はひくっひくっと嗚咽し、涙をぼろぼろとこぼした。先日、魏延と夢中で殺し合いを演じていた元気はどこへ行ってしまったのか。曹操は心を打たれて、
「なんといういい言葉だ。そちこそがまことの忠臣である! たった今からおぬしはわしのものだ」
と、これまた関内侯としたうえ、江夏太守に任命した。
「わが軍は江陵を押さえるべくはや軍勢を整えておる。そちには先導役を務めてもらおう」
「かしこまりましてございます」
すっかり元気を取り戻した文聘は戦さ支度のために退出した。
さっきから江陵太守だの江夏太守だの景気よくばんばん役職を与えているが、この時点では江陵も江夏もまだ曹操の支配地域でもなんでもないのだから、いい加減な話であるが、その後も江陵と江夏は曹操の完全な支配地域とはならなかったゆえ空手形で終わることになった。関内侯というのも軍功によって与えられる一時的な爵位で、領地は無し、治民権は無し、関中地方からの税収からタバコ銭くらいの小遣いを貰えるだけの爵位に過ぎない。
曹操は下がる目尻をなんとか引き締めながら、襄陽の文武諸官を飽きもせず眺めていた。
(うふふふ。こんなにたくさん人を得てしまった。荊州に来て良かったなあ)
上気した顔つきで、限定フィギュアをいくつも入手して悦に入っているような人材オタクの曹操を、荀攸らが緊急報告をもって現実に引き戻した。
「偵察隊よりの知らせが入りましてございます」
「どうせ劉備のことだろう。あやつが江陵を目指して大慌てで走っていることくらい聞かずとも分かっている。先に定めた方針通り、劉備に江陵を占拠させるようなことはさせぬ。やつより先に江陵を奪《と》らねばな。待っておれ大耳サルめが、今度こそ決着を付けてやる」
劉備軍団が南に逃亡して江陵に向かうであろうことは十分に予測できていたことであり、その追撃用に曹操は輜重《しちよう》部隊を連れない精鋭五千騎を選んで待機させていた。すべて軽兵であり、一人につき選り抜きの良馬の替え馬を三頭も付けた、贅沢な超高速移動タイプの騎馬軍団である。
まだ出撃させていないのは、この部隊を曹操自らが率いるつもりだったからである。劉備にトドメを刺すのは自分の手でやりたいということもあるが、これは曹操の欠点でもある、見せ場は人任せにしたくないという一種の我儘《わがまま》な主演男優根性も理由であったろう。これから出撃しても、江陵までには、計算上では余裕で追いつき追いぬけるはずである。
「あの手長ザルはわしの獲物ぞ! 楽しみな狩りである」
曹操は剣の束に手をかけ、カチンと鳴らした。曹操の参謀には猿の生態に詳しい者がいなかったので、
「殿、手長ザルを舐めてはなりません。恐るべき運動能力と狂暴さを持ち合わせておる、まことに危険なサルでございます」
と、諫言《かんげん》する者はいなかった。
曹操の余裕に反して、荀攸は当惑顔であった。
「どうかしたのか」
「いえ、おおむねそういうことなのですが。偵察によるとどうも様子がおかしいのです。劉玄徳が妙なことをやっておりまして、おかしく……。もしかすると罠やも知れませぬ」
荀攸は隠れファンなのか、劉備と呼び捨てにせず、玄徳と呼ぶ。
「劉備がおかしいのはいつものことだ。それほど気にするほどのことか」
「じつは」
荀攸は偵察隊から聞いた報告を述べ始めた。
劉備の現在位置はまだ江陵に程遠いのだが、何故か異常なことに十余万にもなんなんとする避難民を引き連れていて、大道を埋め尽くしてゆるゆる進んでいるというのである。一日に五キロの速度は、まあ夜は休んで十八時間進むとしても、時速約二百八十メートルという低速である。本気で逃げているのか疑わしく、曹操の追撃隊を誘っているのかもと思われた。牛歩戦術なぞをやったってどうせ負けるのだから意味がないこと甚だしいので(野党も他に策を考えたらどうだ)、他にその行動に奇怪な罠を疑ってみるのが軍師の習性である。
さきの二百騎の斥候忍者部隊は無数の人混みに阻まれて江陵方面に先回りすることも出来ず、
「ケツを蹴っ飛ばしてやりたくなった」
ということだった。
「わたしがこの目で見たわけではございませんので、劉玄徳がどういうつもりなのか、測りかねます」
確かに奇怪な話であった。避難民十余万の件を曹操側から見れば、首をかしげる以上の事態であり、当然、悪質な謀略を疑っておくべきだ。
「その難民というのは、劉備が強制連行しておるのか」
「いえ、どうも自発的なもののようです。信じられませんが」
「民どもは劉備と江陵に行って何かいい事でもあるのか?」
「あまりありませんな。強いて言えば腹一杯飯が食えるくらいの利でしょうか」
「わからんな。劉備はどうやってそんな大勢の民を釣ったのだ。カネもコメもないやつが。民とてそう馬鹿ではないぞ」
へたをすれば一県一郡の人口に匹敵する数の民が集団移動しているというのだから尋常ではない。この地の大事な生産力を引っこ抜かれかけているようなものだ。民は財産である。
曹操は少しむかっとしてきた様子である。
「ならば荊北の民はこのわしを望まぬと申すのか? わしよりもあんな偽善サルのほうがいいとでも思われておるか! わしは天下一の嫌われ者か!」
「そうではございますまい。なにしろ数が異常です」
「おかしい。おかし過ぎますぞ、殿」
と、賈※[#「言+羽」、unicode8a61]も口を挟んだ。
「昨今、流民とて十万もかたまってうろつくようなことはいたしません。これはやはり人為的な計があり、十分に細工された罠だと考えたほうがよろしいのではないでしょうか」
すると曹操は言った。
「だが、劉備という男ほど小細工や謀略が下手くそな男もおらん。子供だましもろくに出来ぬやつぞ。例によってやつの妙な民衆受けに何らかの偶然が重なったのだろう。とはいえ……十余万か」
いくら劉備の民衆人気が高いといっても、十余万というのは桁外れである。曹操はマイナス十余万人分、自分が嫌われているのかと思うと、嫌な気分になった。
そのとき死神のように顔の蒼い老軍師程cがしわがれ声で言った。
「わが君、これは劉備の細工ではござらぬかも知れませんぞ。お忘れか。徐庶が言うておりましたことを。劉備に自分に万倍する天才的な変質者が軍師としてついた、と」
「諸葛亮とかいう青二才のことか」
荀ケ《じゆんいく》が作成した襄陽人材リストには結局載ることのなかった孔明のことは、徐庶が胸を張って宣伝解説したもののようだ。
「さようでございます。徐|元直《げんちよく》の筋の通らぬ混乱した話を辛抱して聞くに、諸葛亮がまことに途轍もない外道であることが判って参りました。劉備は人畜無害でも、その諸葛亮が最悪の陰謀家であろうかと。どうやって民を連れ出したのかは分かりかねますが、諸葛亮が十余万の民が死のうが生きようが毛ほども気に病まないおそるべき鬼畜である可能性は大きゅうございます。でなければ危険を承知の逃避行に民衆を連れ出せるものですか」
若きルシファー孔明なのか!
「民の中に劉備を隠れさせるという策か? だが、おぬしらも知っていようが、劉備は少なくとも民だけは大切にする男ぞ(ポーズかも知れないが)。ちょっと狡賢《ずるがしこ》い配下に勧められたからといって、策に使うなどするかどうか」
「きっと諸葛亮が劉備を欺《だま》くらかして操っておるのです」
いやもう、賈※[#「言+羽」、unicode8a61]や程cは孔明に対して偏見満々であった。
「それが事実なら、諸葛亮という男、なんというたちの悪い下郎なのか。民泥棒めが。天下のため生かしておくわけにはいかんな」
人材大好きの曹操にすら嫌悪感を催させる孔明の虚像であった。
「いずれにせよ厄介なことになりました」
と荀攸が言った。つまりは劉備は難民の群れの中にいるのであり、百姓姿に変装でもされておれば、探し出すのは至極困難である。狙うほうは十余万分の一の標的に当てなければならないということだ。さもなくば十余万を皆殺しにする覚悟を決めねばならない。
曹操は偏頭痛を起こしそうになりながら言った。
「ええい、小賢しい。難民をいくら連れていようがかまわん。劉備に誑《たぶら》かされてついて歩いておるのが自業自得の不心得なのだ。わしが煩《わずら》ってやることではないわ。罠なら罠でよし。ぶち破って劉備を燻《いぶ》りだしてくれる!」
机を叩いて立ち上がった。
「出撃する。張遼、楽進《がくしん》、于禁、各部将に触れを出せい」
「殿」
と荀攸がしばし押しとどめて言った。
「こうなってしまえば、十余万との戦さと考えねばなりますまい。殿が五千の騎馬軍を率いて走り、あとをわれらが七万の軍勢で追いますが、そこで念をおしておきたいのですが、この軍の目的は劉玄徳なのか、江陵占領なのか、いずれを優先といたすのですか」
二兎を追う者は一兎をも得ず。戦略目標というものは一つであることが望ましい。しかし曹操は、十分承知していながら、
「どちらもだ!」
と言った。
「殿、それはよくありません」
「公達《こうたつ》(荀攸の字《あざな》)よ、わしは既に脳中で孫権との戦さを戦っておる。ならば江陵は必ず取らねばならん枢要の城。劉備一味も叩き潰しておかねば禍根となる。これは二つに見えるが一つの目的なのだ」
「それは確かにそうですが」
曹操がいよいよ呉を攻める段になったとき、劉備を生かしておいたなら、前線基地ににやにや笑いながら近付いてきてピンポンダッシュして逃げる小学生のようなことを繰り返されるおそれがある。呉軍との戦闘たけなわのとき、背後からそっと忍び寄られて指カンチョーをされるようなことになってはたまらない。子供のいたずら程度の邪魔だてであろうと放置しておくわけにはいかないのだ。
「承知いたしました。江陵占領ならびに劉備軍殲滅を作戦目標と号令いたします」
「そうだ。まずやつめの魂胆をこの目で暴き出してくれん」
曹操は目を怒らせて謁見の間から走り出たのであった。
しかし奇怪な状況となっていた。
上空から見ると襄陽から南に下って当陽の近くに交通妨害なうねうね動くミミズかアメーバのようなものが置いてあり、よくよく見るとわずかずつ前進している。そしてその変な塊を目指して襄陽から曹操率いる軽騎五千が出撃したところである。
曹操のいらいらした気分が伝わってくるその騎馬兵団の速さは、
『一日一夜、行くこと三百余里』
であった。一里が四百メートルであるから、かりに三百余里を百五十キロくらいだとしよう。昼夜兼行、徹夜で突っ走ってざっと時速六キロが、日速五キロ(時速二百七十メートルくらい)の劉備軍団を追いかけている。笑えるほどの速度差であり、まことにアキレスと亀の競走のつもりが、あっさり追い越されるついでに踏み潰される相対速度というしかない。
スピードが命の曹操らしい猛追であるが、その曹操の追撃部隊が出動したという情報を得ても、なお日速五キロの漫遊速度を貫く劉備のほうが、変な話だが大物っぽさが漂ってくるから不思議である。逃げようとする者の速さではない大名行列速度である。劉備としては、汗水垂らして必死の形相で追ってきた曹操に、
「遅かったな曹操! ゆるりと散策していたのに待ちくたびれたぞ」
と言って高笑いしてみたかったのかも知れない。
天下の英雄劉備玄徳には焦りの色は微塵もない。
というより恐竜戦車備え付けのミニバーで酒を飲んで酔っぱらっていた。
はじめ孔明と差しつ差されつ、宇宙の話をしていたが、じきにべろべろになってきた。酔乱した劉備は、突如、
「しっこ!」
と幼児言葉で呻《うめ》いて、恐竜戦車の後部扉を開けて立ち小便をしようとした。いくら飲んでも乱れない孔明が、形ばかりに止めに入ったが、すでに裾を濡らして放出。もう、いい悪いの区別もつかないほどの激酔状態であった。普段はそれほど弱い劉備ではない。言い訳をしてやれば、ここ何日かの神経疲労と肉体疲労が、ダム決壊的に噴き出したのであろう。
周囲からキャーキャー(どちらかというと愉しみの)声が上がり、この上品さからのかけ離れぶりもまた劉備の人気の秘密なのであった。洟《はな》を飛ばそうが、ゲロを吐こうが、屁をひろうが、何をしても絵になるらしい民衆(とくに子供に)受けには、さしもの孔明ももう何の手も打つこと能わず泳がせており、宇宙の謎として処理するほかなかった。
小便を切って裾を直した劉備は晴れ晴れとした声で、
「ダーッハハハ、失敬、失敬。小人閑居して小便をなしてしまったわい。だが小は大を兼ねぬ。大のときは頼むからくれぐれも遠慮なく避けてくれんか。わしは人の道を踏み外したくはないのだ。頼んだぞ」
と、ろれつあやしくほざいて茶目っ気たっぷりにウインクした。民からは、
「玄徳さまっ、わしらと玄徳さまの間柄ですじゃ。そんな遠慮は無用にしてくだされ。わしらは大でも小でも、玄徳様の贈り物なら胸を張って頂戴いたす覚悟にございます」
との正気ではない返答がちらほら。民らは酒でなく劉備という人間に酔っぱらっていた。まことに、
「劉備なら何をしてもいいのか」
と訊いたなら、民衆は、
「玄徳さまが望むならわしらは何をされてもいいですじゃ。いけない民だと噂をされてもかまいませぬ」
と答えるに決まっていた。
しかも劉備のたくらまない男の優しさがいついかなる瞬間にもキラリと発光するべく常時待機している。
劉備の目に膝をついて咳込んでいる老人が入った。
「ぬおぅ」
劉備は車から飛び降り、裸足で駆けよると、老人の細腕をガッと掴んだ。
「お年寄りは国の宝だァーッ!(子供は国のゴミなので少子化が……)」
と叫び、背中をやさしく撫で撫でしてあげた。
「元気だけが取り柄の馬鹿野郎のわしなぞより、ご老人こそ恐竜戦車に乗ってくだされ。他にも疲れている者はみな乗り込みやがれ」
と老人を抱えて恐竜戦車に放り込んだ。さらにくたびれていそうな老人老女を何人か引きずり込み、酒や菓子をふるまって下品なジョークを飛ばして笑わせ、疲れを癒してあげるのであった。老人、老女は、涙を流して、
「劉将軍さま、ああ、もったいなや」
とますます劉備の魔力の虜《とりこ》となってしまうのであった。
こういうあたり、曹操や荀攸には一生理解できず、真似のできないところであろう。超庶民的な英雄劉備に偉ぶりはない。
劉備は残り二台の恐竜戦車も、甘《かん》夫人、糜《び》夫人、幼少の阿斗《あと》らを追い出して民衆に開放し、
「病み疲れた者は遠慮せず、この恐竜戦車にご乗車くだされ! 飯も酒もガンガン喰らわっしゃい! この玄徳のせめてもの心づくしの罪滅ぼしでござる」
と、次々に交通弱者を乗せて、三台を行ったり来たりしてどんちゃん騒ぎを繰り広げ、合間に若い娘を口説いた。そんな劉備の血迷った男気を見てしまった民衆はありがたさ、忝《かたじけ》なさに涙をこぼすしかなかった。
夜になると十余万プラス劉備軍団も停止して休むのだが、恐竜戦車のみはあかあかと灯をともし、不眠不休の劉備が、意味不明のグルーミー・ジョークを喚き散らし、裸踊りの宴会騒ぎを繰り広げ、酒とつまみがなくなると部下にそのへんの村から徴発させてきた。
ときどき張飛も顔を出し、そのたびに五、六人の兵士が昏倒したり血塗《ちまみ》れにされた。幼子を抱えた母親がびくびくしながらも寄ってきて、張飛の強さにあやかろうと、
「翼徳さま、この子はからだが弱く、さきが心配なのでございます。将軍のようなつよい男に育つよう、だっこしてやってくださいまし」
と差し出すと、喜んだ張飛は鞠《まり》のように放り上げたり、振り回したりして、赤子にひきつけを起こさせた。きっと無茶な男に育つであろう。
恐竜戦車は苦難の旅路に疲労した(のちには宴会疲れで)民の休憩所となり、孔明、黄氏らは降りて歩いていた。
孔明は白羽扇をぱたぱた鳴らし、青空を見上げている。
「ここしばらく雨もなくてよろしゅうございましたね」
と黄氏が言うと、
「うむ。しかし雨を止めるのもけっこう疲れる」
と、孔明、まるで晴天の方術を行っているのだと言わんばかりのことを呟いた。夫の奇怪な言動やハッタリに慣れている黄氏はべつに気にも留めず、
「この先、どうなるのでございましょう」
と訊いた。
「それはわたしも熟慮しているところである。まだ妙機が挨拶しに来ない」
孔明の策というか、手品算術によれば、ほんらい劉備軍団は今頃は江陵奪取に血眼のふりを見せつつ、主力は当陽城に入って、それなりに合戦準備を整えているはずであった。また籠城などハナから考えていなかったから、城前に展開して曹軍を迎撃する形をつくって何か変なことをしようと考えていたのであった。で、そのスキに必殺の奇策、火計が炸裂すると……。
ところが難民十余万のことは如何に孔明とて予測しておらず、混沌が増す中、まだ当陽にも着いていないというわけであった。
(本当は三、四千人もついてくれば御の字だったのだが)
ゼロの数が二つも増えた激しい計算違いが起きている。さらに曹操の襄陽進駐を遅く見積もったのも穴であり、今後、曹操の動きの速さは一・五倍から二倍と計算し直すことにする。
(曹公が今どういう決意であるかが、事を分ける鍵であろう)
曹操の狂暴さが、徐州大虐殺のときと同レベルのレッドゾーンにある場合、かつて第二次世界大戦の終末期に中立条約を一方的に破棄して旧満州に南下してきたソ連軍が行った兵士も民間人も区別しない虐殺、強姦、掠奪に匹敵する酸鼻きわまる悪魔的所業が劉備軍団ならびに十余万の避難民を襲うことになろう。
それは最悪の場合だが、いずれにしろ曹操とその優秀な幕僚たちも、さすがに難民十余万には面くらい、日速五キロの低速を見て、逃亡する気があるのかと叱りつけたくなる前進の意味を測りかねているはずである。
(このことを曹公が罠あり、と判断するならいくらか僥倖《ぎようこう》であり、わずかに時を稼げようが。そうでなければ)
曹操のことだから一直線にすっ飛んでくるだろう。
(当陽に着く前に曹軍に追いつかれたなら、そのときはしようがない。臥竜合体恐竜戦車の計をやることになる。民が酷《ひど》い目に遭ってわが君はへこむだろうが、それはやむなし)
と、策なら売るほどある孔明の胸には、常にジョーカーも含めて二、三枚のカードがあり、詰められた気分は今のところ全然ない。そのときこそ恐竜戦車の真の目的と機能が、ベロキラプトル! と曹軍の眼前に展開し、曹軍はノモンハンにおける日本軍のように粉砕されることになろう。残念ながらそれは別の宇宙で起きることになるから、見たかったらそっちへ行って欲しい。
そのとき、陽気な声がかかった。
「おう、孔明どの」
声の主は簡雍《かんよう》であった。
「いやはや、この人混み。こんな行軍は初めてでござるな。後日、話のタネになりましょう」
簡雍の後には立派な漢《おとこ》になるべく修行中の諸葛均がいる。
「憲和どの。それに均も達者なようだな」
進軍があまりにのろいので劉備軍団のほとんどが馬に乗るのをやめている。
習氏も近付いてきた。習氏は黄氏と一緒にいたのだが、劉備のせいで恐竜戦車から降ろされてしまった。孔明と黄氏が話をしているので、少し離れたところにいたのである。
「あなた」
諸葛均の顔がひくりと動いた。簡雍が、
「均くんのご妻女かね」
と小声で訊くと、諸葛均は硬い表情で頷いた。
「これはこれは、均どのの奥さん、それがし孔明先生に頼まれてご亭主を預からせていただいておる簡憲和でござる」
と簡雍は人好きのする笑顔でぺこりと一礼した。
「均どのを、わが軍団になくてはならぬ立派な漢とすべく柄でもない教育係をつとめさせていただいておりますよ」
諸葛均はまた顔をひくりとさせて、今にも冷や汗を流しそうな表情であった。簡雍の人となりが少々分かってきた諸葛均は、簡雍がいきなりわが妻に常識を超えたエロネタをぶつけて深刻な顰蹙《ひんしゆく》を買うのではないかと恐れているのである。
「均どのも少しずつ打ち解け、わたしに心を開いてくださり、日々、わが軍団に恥ずかしくない漢として成長しております」
「はあ。お世話になります」
と習氏は夫の顔をちらちら見ながら拝礼した。
簡雍は諸葛均を肘で軽く突き、小声で、
「さ、均くん、ここでひとつ、ご妻女に修行の成果を一発かますのだ」
諸葛均は、
「ひっ」
と声を上げ、脂汗を額に滲《にじ》ませた。
「む、無理です」
「均くん、その腰の引けたもじもじした態度があなたを漢から遠ざけておるのだ。案ずることはない。婦女子は漢の男らしい言葉をじつは心待ちにしておるもの。頼もしがられこそすれ、呆れられることなどない。堂々と豪快に言ってやることだ」
諸葛均はしばらくがたがたと震え、視線が定まらず、呼吸を乱し、さして暑くもないのに汗をだらだらと流していたが、簡雍が慈父の如き優しい眼差しを注いで見守るのを見て、諸葛均なりに意を決した表情となった。ごくりと喉を鳴らすと、
「ねえちゃん、む、胸を、そ、その、見せろ、というか、見せてください」
と男の勇気をすべて振り絞って言った。
習氏は、突然の夫の正気を失ったかのような言葉に、まっ、と発音する形の口を手で押さえ、次には赤くなり、
「恥知らず!」
と言い捨てて、怒った顔で逃げて行った。他人がそばにいなかったら平手打ちの一つも入れたに違いなかった。
「あっ、習氏」
と諸葛均は途端におろおろして追いかけようとしたが、簡雍ががしっと止めた。
「均どの!」
簡雍は首をゆっくり左右に振った。
「ひっ」
「甘い。あれではまだまだ真の漢の言葉には程遠い。故にご妻女は走り去らざるを得なかったのでござるよ。それを分かってやりなされ」
「そんな。いや、嫌われます。早く謝らないと」
「お教えしたでしょう。あのような半端なせりふでは、おなごは安心して痺れることもできませんぞ。情けない」
「ひーん」
「あの程度の言葉ではご妻女も失望しておるでしょう。だいたい、なんですか、あの言い方は。ねえちゃんなどというのはチンピラまがいでほめられぬ。ただ、『そこの女!』と呼べばよいのです。また男なら胸などと誤魔化さず、『おっぱい』と吐き捨てるが当然。しかも、見せてくださいでは己が男ではなく子供だと、値踏みされてしまう。あそこは、『さっさとさらけ出せ!』と言うべきでしたな」
と簡雍の厳しい漢教育が諸葛均を叱咤した。
「きちんと言えておればご妻女も、表面では憤慨のていを見せても内心ではぽーっとなって惚れ直したに違いござらぬ。今追いかけて言い訳などしてはもっと台無しになりますぞ。謝罪などより、ただただ誠意です。ご妻女はさらなる男らしい言葉を待っておるに違いなし。次こそは漢の言葉を浴びせかけるのです」
「ひーん、本当に大丈夫なんですか」
「むろん。真の漢の言葉は岩をも貫くものです。いわんや女心をや。まあ、しかし、さきほどの均くんの男気、勇気を振り絞っての発言は、男道への第一歩。結果的に失敗ながら、よくやったと、この簡雍、涙が出そうになりましたぞ。はじめの頃に比べれば格段の進歩です。ともに歩みましょう、男道を」
「は、はい」
諸葛均はうっすらと涙を浮かべ、簡雍は優しく肩を叩いてやった。
簡雍はひっくひっくと肩をふるわせる諸葛均をあやしながら孔明に目礼した。孔明も微笑しながら目礼して、
「憲和どのの男意気に誤りなし。これからも弟をよろしくお願いいたす」
と言った。
なんだか無理矢理|猥褻《わいせつ》なせりふを言わされていじめられているように見えなくもないが、セクハラで訴えられるのも辞さぬくそ度胸が、漢修行の眼目であるのだ。簡雍の漢観には多少の問題がなくもないが、諸葛均の度胸を養うという点ではそう間違ってはいまい。これがもし張飛などに預けていれば、一日五十人に喧嘩を売りまくり、場数を踏んで度胸を付けるといったより硬派な方法で男道を歩かされることになったろう。それでは漢《おとこ》になる前に死んでしまう恐れがなきにしもあらずだ。
(憲和どのに預けて正解である)
と勝手なことを思っている孔明であった。
(均らの安全も計らねばならぬが、さすがにいちいち策はない。あれも臥竜の竜弟。危機を危機として切り抜けるに違いない)
と、肉親には非情な孔明であった(でも身内より民を大事にすると褒められるんだからオーライである)。
たいていの『三国志』では長坂坡《ちようはんは》の戦い(というより長坂坡の虐殺)は、張飛、趙雲の激闘を入れても平均数ページ、少ないものは数行でまとめられているが、何故かこの稿では異様な量になってしまっている。史実的にはこれが孔明の初陣(初敗北)で、曹操との初対決でもあり、詳しく書くのが筋であろう。一見、孔明はまったくの役立たずだった(半ばは劉備のせいなのだが)わけだが、多くの『三国志』は無理にもキラリと光る頭脳プレーが冴え渡ったことにしている。ここにも孔明の後世の歴史を操るマジックがあるのではないかと思われてならない。
孔明史上最大の危機とも言えるのに、のちのち孔明が長坂坡のことを振り返って、遠い目で、
「あのときは本当に命拾いしました」
というような感想を漏らすこともなかったのは、危機でも何でもなかったからなのか。難民十余万の件も二度と語られることがなかったのは、民衆とは霧か霞が空気中に漂っていた程度の小さなことだったからなのか。赤壁《せきへき》の戦いに本当に参戦したのかどうかが怪しまれている劉備軍団にとっては、長坂坡のほうがよほど危機的戦闘局面であったはずである。
『三国志演義』的に最良の策は、襄陽と当陽の中間くらいに、のちに呉の陸遜《りくそん》を発狂寸前に追い詰めた奇策、巨岩を配置した遁甲八陣図《とんこうはちじんず》を予《あらかじ》め仕掛け、曹操の精鋭五千騎を四次元空間に迷い込ませることであったと思うが、そういう宇宙レベルの兵法はまだ見せることがなかった。この時点で孔明の八陣図の術はまだ完成していなかったのかも知れないが、やはり難民十余万が邪魔であったことが一番の理由であろう。
じつのところ名作歴史小説『三国志演義』では、敗戦の責任を孔明にとらせたくない黒い勢力が、関羽に続いて孔明をも凶悪の地・長坂坡から引き離そうと計っており、孔明の経歴を四百戦無敗のデナイアブルに保とうとする陰謀は今に始まったことではない。
十余万の領民を率いて日速五キロの漫遊旅行を楽しんでいた劉備であるが、孔明の方は徐々に危機感が増してきたようであった。
孔明が劉備に訊いた。
「雲長どのは江夏に向かったきり何の音沙汰もございませぬ。いったいどうなったのでしょうか(あの人は戦さ以外には使いもんにならない無能なのでは)」
すると例によって無責任な劉備は、
「うぬーん。関羽はあのように口べたな(傲岸不遜な物言いをする)性格ゆえ、うまく劉gどのを説得して立たせることが出来ず、往生しておるのでござろう」
という前提のもと、
「こうなったら雲長に任せてはおれぬ。ここはご面倒でも軍師どのに出馬いただき、江夏へ行って劉gどのをかき口説いて来ていただけぬか。劉gは以前に先生の助言で命を拾ったため、多大なご恩を感じておるはず。先生が直々に頼めばよもや否やを申すはずがござらぬ」
関羽を使者に出したのはどうも人選ミスだったから、今度は孔明に行ってもらい、恩義を振りかざして劉gから援軍を搾り出させて欲しい、と頼み込んだのであった。
孔明はこれを承知して劉封《りゆうほう》とともに五百の軍勢を連れて江夏に向かうことになった。さきの関羽と合わせて千の兵が肝腎なときにどことも知れない道中にあることになった。身辺から次々と頼りになるヤツを引き離してゆく劉備に魔性の自爆策があったとはとうてい思われず、時空を超えた人気者の関羽と孔明の活躍ないしは恥ずかしい敗亡姿は歴史の闇に葬ろうという思惑であったか。
しかし『三國志』では関羽は江夏へ劉gの加勢を求めに行ったのではなく、避難民の一部を江陵に水運輸送しに行ったのであり、劉gはべつにどうでもよい。黒い勢力はこれを頑なに認めようとしないのだが、では孔明はいったいどこに消えたのか、これもまた不明とするほかない。
で、長坂坡の激闘がひとしきり続き、劉備軍団は地獄の決死圏をさまよい続ける。
次に孔明がのうのうと登場するのは、驚くべきことに、すべてが終わり、劉備が関羽、劉gらと合流して、ようやく安堵の喜びに浸った後なのである。見事なまでに孔明は長坂坡の戦いに指一本触れずに済んでおり、黒い勢力は長坂坡と孔明の関係性を徹底的にクリアーにしてしまったわけだ。まさに捏造史観!
漢津《かんしん》に逃げて、関羽と合流した劉備一党は、やっと駆けつけた劉gの船団とも合流する。劉gと手を取り合って喜び、劉gの船に同乗していざ参らんと意気上がっていたとき、突如として無数の軍船が一の字に並んで接近してくるではないか。包囲|殲滅《せんめつ》の危機だ。劉gは愕然として、
「江夏の船はわたしがすべて率いてきておりますれば、かしこに現れた船団はいったいいずこの手の者なのか! 曹操の船団でなければ、江東は孫権の軍勢に違いありませぬ。もはやこれまで」
と一同、一難去ってもすぐ滅亡、と天を仰ぐしかなかった。劉備が舳《へさき》に出てその新手の船団を眺めると、なんと先頭に|綸巾鶴※[#「敞/毛」、unicode6c05]《りんきんかくしよう》を身につけ白羽扇をかざす、見間違えようのない変な男が立っているではないか。
「諸葛先生ではありませぬか!」
あんたいったい今までどこで何をしていたのよ?
すると孔明、
「わたしは(卓越した頭脳による分析の結果ないしはうらないにより予測して)江夏にゆくことが無意味だと分かり、殿の仰せを無視して、夏口に直行したのでございます。そして夏口の軍船を率いて急ぎ参上つかまつったわけなのです」
と、爽やかに言うのであった。爽やかなら命令違反をしてもいいのか。しかもどう言って夏口の軍船司令官を丸め込んで船を出させたのかが、何とも言いようのない不気味な謎として残る。それに加えて率いてきた夏口の船団とやらは結局何の役にも立っていないのであるから、やはり孔明は、
「さぼってんじゃねえ」
と叱られても仕方がないのであった。
でもそれはまったく問題にされず、さらに孔明が言うには、
「夏口の城は兵量物資も十分に蓄えられた難攻不落の砦《とりで》にございます。いまさら江夏なぞに行っても孤立するばかりです。さあ、わたしと一緒に夏口に参りましょう」
と、うまいことずくめだが身勝手な提案だ。劉gが、
「先生の仰せはまことにごもっともかも知れませんが、一度、江夏に来ていただき、軍勢を整えてから夏口に向かわれても罰は当たりません」
と泣きそうな顔で言うので、劉備は、
「劉gどのの言うことにも一理ある」
と孔明をなだめて江夏に向かうことにした。魯粛の登場はこの後の話である。
とにかく『三国志演義』の孔明はこのようであり、江夏へ行ってくれという劉備の命令を一蹴し、独断で夏口に行ったはいいが救出作戦には平気で遅刻し、ある意味、孔明が忠実な家臣に程遠いことが明白とされている。
「博望坡、新野と連戦連勝したが、さすがに長坂坡では一敗地にまみれてしまったか」
などと思ったら大間違い、孔明は長坂坡とは一切無関係だったというオチである。
「もし孔明がいれば長坂坡でも曹軍がまた十万くらい燃やされたに決まっている」
と、読者に妄想を抱かせるのが狙いだと思われる。
「孔明には負けの匂いすらつけてはならない」
とする黒い勢力(って本当は誰だよ)の思惑が大成功したのが実は長坂坡の戦いの真相なのであった。
そのせいで多くの人が犠牲になったとすれば、ちょっと許し難いところがある。
こんな調子で『三国志演義』では、
「孔明は死ぬまで敗北から守られ続けられねばならぬ(負けと見える戦いはすべて他人のせいである)」
との至上命令のもとで動く黒い勢力が暗躍しているのであるが、これではあまりにひどいので、たいていの現代作家は孔明にも少しは泥を被らせたり、手を汚させたり、ズバリ敗北して泣かせたりと、いろいろ苦労することになるのであった。それがあまりに度を越すと黒い勢力の怒りに触れて、作家生命を断たれるおそれがあるのかも知れないが、そんなことを言われてもわたしは知らない。
夕刻。さすがに騒ぎ飽きた劉備は、久しぶりに馬上にあり、二日酔いを覚ましていた。簡雍、糜竺、糜芳がつき従っている。
前方、ゆるやかな坂が木々の間に間に続いていた。
「きつい坂ではないが、民の疲れた足には急峻である。また遅くなる」
行くうち一陣のつむじ風が馬前に土埃を舞い上げ、劉備の天だけをかき曇らせた。劉備は唾を吐きつつ、
「なんだこのくそ生意気な風は」
と言った。すると簡雍が珍しく真面目に、
「殿、今の風は大凶のしるしですぞ。それも今夜のこと! 殿、すぐに領民を棄てて逃げなさいませ」
と言った。簡雍にはいささか陰陽の心得があり、素早く占ったのである。下ネタのオーソリティなのだから陰と陽の心得があるのは当たり前といえる。
劉備は簡雍の警告を無視して他の者に訊いた。
「ここはどのあたりか」
左右の者が、
「当陽県に入りましてございます。あちらの山は景《けい》山と申します」
と答えた。すなわち、この坂は長坂坡であった。
「今日はここまでとしよう。あの山に陣取って休もうぞ」
時に初秋の候、日が暮れるとたちまち冷えが込んでくる。早めに焚《た》き火をつくるのがよい。
(さて、先生の策にあった当陽に着いたわけだが。なんの変哲もない場所である)
山際から吹く風は冷たく、劉備はぶるっと震えた。
「くっ、もうこの寒さか。民のつらさはいかばかりか。わしの愚かさのせいで民草に寒苦を舐めさせてしまう。なんと心苦しいことだ」
「殿!」
劉備は民らの飢寒を思って目頭を熱くして弁じていたが、一瞬後には、
「これはかなわん。風邪をひかんうちに恐竜戦車で暖まらねば」
と、馬を下りてこそこそと走っていった。
当陽付近は近代には荊門《けいもん》という地名になっていた。一九四九年のこと、日本軍が中国から駆逐されたあとでも大陸では毛沢東軍と※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石軍の血みどろの戦いが繰り広げられていた。日本軍がいなくなるとすぐに平和が訪れたなどということはないのであった。国府軍の宋希濂《そうきれん》軍は劉備軍団と同じコースをとって走っていたが、人民解放軍にこれも同じく荊門で追いつかれ撃滅された。何人かの者はここがかつての当陽長坂坡であり、かの張飛の歴史に残る大見せ場「張翼徳横矛處」であることを知っていたろう。宋希濂の部隊には張飛ほどの豪傑はいなかったようだ(いても砲弾を喰らって肉塊になったであろう)。歴史は繰り返すというが、さすがにこの時は難民連れではなかった。
その明け方、とうとう曹操は変な塊が道幅一杯に広がって、警察の取り締まりも不可能な、悪質な集団交通妨害の現場を望見するに至った。一昼夜と半日をかけての強行軍であった。アドレナリンが麻薬のように血中濃度を高くしている曹操はともかくとしても、選び抜かれた五千騎は疲れた様子を見せず曹操の命令を待った。
「追いついたぞ」
とはいうものの、ここから見えるだけで二万、三万の民衆が重なり合って蠢《うごめ》いている。劉備軍兵士の姿はない。
(殿軍《でんぐん》も置いておらんのか。劉備めが、民衆を守る気もなく連れ回っておるのか)
と、曹操の怒りはさらにアドレナリン前駆物質を生産させた。この血圧上昇の危なさが偏頭痛の最大の原因のひとつであったろう。
(まことに罠のありや)
このまま五千騎を錐《きり》のように突入させても、途中でにっちもさっちもいかなくなるおそれがある。かといって、後続の軍を待っていてはせっかく馬を飛ばしてきたかっこよさが無に帰してしまう。
「おのれ、劉備、これが貴様のやり方か」
曹操は、後続の張遼の第一軍一万に、
「攻撃を開始する。とにかく急ぎ来い。全員駆け足で来い」
と伝令を走らせた。張遼の軍は基本的に騎馬編成であったから、歩兵を置き去りにして速度を上げれば午前中には到着しよう。
「難民どもを追い散らし、道を開けさせるのだ」
曹操は精鋭騎馬隊に命じた。民衆に被害が及ぶならそれは劉備が望んだことだと割り切るしかなかろう。
その頃、劉備はまだジジババたちとまた宴会をしていて、またべろんべろんに酔っている。劉備軍団幹部のうち比較的真面目な数人が(孔明も含む)、仮陣所に詰めており、最後列から十里の位置に曹軍の騎馬軍が現れたという通報が民から民へリレーで伝わってきた。しかしこちらも難民密集のため、素早い動きを妨げられている。
真面目かどうかは別として、戦さの匂いを嗅ぎつけた張飛が、のそりと虎のように現れた。持っていた酒瓶を地に叩きつけた。
張飛の目がぎらりと光った。
「敵が来やがったって? やっと、やっと、やっと、好きなだけ殺していいんだな。来たぜ! 待ちに待ったでかい波がよ、ぐへへへへ」
握っていた蛇矛《じやぼう》の柄がみしみしと音を立てた。
「うおりゃあっ」
馬に跨《またが》ると難民を蹴散らしながらすっ飛んでいき、勝手に殿軍となった。幹部は慌てて、
「張将軍とともに殿《しんがり》につけ」
と兵士三百人ばかりに張飛を追いかけさせた。
殿といえば誰もが嫌がる全滅率の高い決死の任務であり、古来これをうまくやれる将軍は名将中の名将とされてきた。だが張飛にはそんなことはどうでもよい。背後から噛みついてくる野良犬どもを撃殺しまくることしか考えておらず、難民を逃がすべく時間を稼ごうというような配慮は二の次である。よって兵三百は戦闘は張飛に任せて、難民の誘導をやるようにという命令であった。
緊迫した雰囲気の中、いちおう(負け)戦さ慣れした劉備軍幹部らは、次々に手を打ち、こうなった上は劉備が民草がどうのと騒ぎ出す前に目隠し猿ぐつわを噛ましてふん縛って、いち早く落ち延びさせることを怒鳴り合うように話していた。劉備がぎりぎりで逃亡するときはこういう始末になることも多かったのだろう。ご主君さえ無事ならば、ということだが、火事場から逃げるような洗練のかけらもない傭兵部隊のやり方となるのだ。趙雲には劉備の家族の警護という任務が自動的に与えられている。
孔明はそれを聞きながら白羽扇をぶらぶらさせており、敢えて口を出すこともなかった。
「わが君が見当たりません」
と兵士が駆け込んできた。
「恐竜戦車だかに乗っておられよう」
「あっ。そうでした」
孔明が、
「恐竜戦車は三台あります。殿がご座乗しているのは二号車です」
と言った。
「軍師どの、一号、二号と、そう言われてもどれが何号だかそれがしには分かりません」
すると孔明が爽やかに、
「それはそうでしょう。わたしにも見分けがつかない」
と言ったので、その兵は怒ったような顔で出て行った。
難民の群れの中、馬に乗った獣人のような大男の影が、けだものの咆吼《ほうこう》をあげてグズグズと動いている。ちょうど曹操の軽騎兵が飛鳥のように突進して来るところであり、気付いた民衆は動きもならず動揺している。騎兵には烏桓《うがん》族の手練《てだ》れが多数混じっており、右に左に滑るように動き、弓矢を発射されたときの用心だろうが、巧みなジグザグ接近をしてくる。こういう襲撃は得意中の得意であった。
「あっ張将軍」
民衆の期待の声がかかったのも束の間、声は悲鳴に変わった。
「邪魔だぁ。どけい」
敵しか目に入っていない張飛は民衆を蛇矛の柄のほうで横殴りにし、生死不明にした。かろうじて民が民であるとは認識しているようであった。猛った馬の胴や脚がさらに女子供を弾き飛ばした。皆は悲鳴を上げて張飛から逃げ離れた。
難民を乱暴に振り払って群れから飛び出した張飛が、五十、三十の班をつくって縦横無尽に襲い来る騎兵隊を単騎迎え撃った。
曹操は張飛に気が付くと、
「あれは張飛か。なんというひどいことをするやつだ。無抵抗の民を撃ち殺して出てきおった!」
そして叫んだ。
「用心せい。その男は人間ではない」
だが既に先頭の騎兵七人が血|飛沫《しぶき》をあげながら、物凄い音を立てて落馬していた。人間が馬の首や胴体ごと斬られて、まるで弾け飛んだかのようであった。突進していた騎兵らが手綱を思い切り引いたため、数頭の馬が棹立《さおだ》ちになったが、張飛の体当たりのような斬撃を喰らって五、六頭がひっくり返り、騎兵は馬に押しつぶされたり、蹄《ひづめ》に蹴られて重傷を負った。
「燕人張飛ここにあり! わが蛇矛でもてなしてやる」
全軍が無理にも急停止したときには五十を超える兵が血の海にのたうっており、脚を斬られた馬が何頭も嘶《いなな》きながら、三角形の形で立とうとして崩れた。まだ死に切れていない兵が、地べたから張飛の腿《もも》を狙って槍を突き出したが、槍ごと頭から叩き砕かれ、足蹴にされて脳漿《のうしよう》を迸らせた。
百獣の王ライオンは兎を斃《たお》すにも全力を尽くすというが、張飛の場合はそれはたんなる弱い者イジメであった。ましてや張飛は満腹したからといって狩りをやめるような淡泊な自然の掟にも反する男である。血の川の流れは絶えずしてもとの血液にはあらず、常に新鮮な血液である。張飛の人として許し難い強さが烏桓の兵をも怯《ひる》ませた。
「なんだぁ。それだけ頭数揃えて、びびってやがんのか。こいやー、こいやー、どんとこいやー」
張飛は蛇矛を頭上でゆらめかせながら、幸福そのものの無邪気な殺気が表情に笑みを浮かべさせている。烏桓兵には言葉は通じないにしろ、その恐ろしさに曹軍精鋭は凍り付いた。
「貴様ら、何しにきた! 弱い、弱すぎるぞ。わざわざ弱っちいのを集めてきてこの張飛の情けをひこうという魂胆かっ。面倒臭え。全員いっぺんにかかって来やがれ」
曹操が、
「急《せ》くな」
と命じたこともあり、あっという間に数十の仲間を屍《しかばね》にされてしまった曹操騎馬軍は間をあけて近付かなかった。張飛が一歩出るとその倍|退《さ》がられる。
一対五千である。次々にかかってゆけばいかな張飛とていつかは疲れ、傷を負い、やがて討たれることになろうが、最初の数百人は確実に殺されてしまう。誰もが最初の数百にはなりたくはない。革製防具の軽装騎兵であることも思い切って行くことを躊躇《ためら》わせていた。
「ちっ、弱犬どもが、尻尾を股に挟みおって! やらんのならどけい。曹操の野郎、こんなクズばかり連れて来るとはよくよく舐められたもんだわい」
張飛は怒って罵りまくった。溜めに溜め、抑えに抑えられてきた張飛の破壊エネルギーが、放射能を含んだ水蒸気のように吹き付けてくるので、一軍、さらに数歩後退する。
かつて曹操が関羽を仮の部下としていたとき、関羽が袁紹配下の猛将|顔良《がんりよう》をあっさりと斬り殺して帰還した。
「貴公こそ天下無敵のまことの神将、おそれいったぞ」
と曹操が関羽の武力を褒めちぎると、関羽は急に難しい顔をして、
「なんのそれがし如き、問題にもなりませぬ」
と言った。
「なに貴公以上のつわものがおると申すか」
と問うに、
「わが義弟の張翼徳。百万の大軍に平然と入っていき大将首を取ること、まるで袋の中に手を突っ込んで品物をとるが如くにやってのけまする」
と関羽が真顔で言ったので、曹操は大いに驚き、左右の者を顧みて、
「聞いたか。この先、張翼徳に会うようなことがあればすぐさま走って逃げるように」
と訓示し、着物の襟に張飛の名を書き付けておくように命じたのであった。よってそれ以来曹軍将兵の襟には張飛の名前が刺繍《ししゆう》されたり、書かれたりするようになったらしいのだが、今もそうなのかは知らない。曹操は愛する関羽の言うことなら馬鹿正直に真に受ける男であった。
その張飛と戦場でまともにぶつかるのは初めてである。関羽の言葉に偽りはないと信じた。
青ざめた部隊長が曹操に、
「いかがいたしましょう」
と訊いたが、曹操は、
「落ち着け。殿軍に豪の者が出てくることは当然である。それが張飛だとなったら、もうどうしようもあるまい。いらぬ犠牲者を出さぬようにせよ」
と言って、それほど慌ててもいない。
「せめて弓矢を携行しておれば……あの怪獣を」
と隊長は口惜しがっている。短弓は烏桓の者が携帯していたが、長弓、弩《ど》はなく、張飛を遠距離攻撃で黙らせるには不足である。
曹操は文聘を呼んだ。
「このあたりに間道はないか」
何の手も打たずに張飛と睨み合いを続けるつもりはない。張遼の軍が来るまでに崩すつもりである。
「はっ。むこうの山に出る猟師道のようなものしかありません。もう少し進めば漢津や江陵に先に回り込める広い道もございます」
と文聘は答えた。当陽は兵法にいう衢地《くち》であるようだ。
(なるほど。劉備、諸葛亮の狙いはそこかも知れん)
と曹操は可能性を考えてみた。曹操は部下十人を選んで、兵装を替えさせ猟師道を行かせることにした。
「劉備が本当に江陵に向かっているかどうかを見張れ」
と命じたのであった。
「数はいらぬ」
さらに少人数の部隊をいくつか、林の中を潜行させる。
騎兵精鋭は曹操が何を命じているのかは分かっている。十騎、二十騎に分かれた烏桓兵の小隊は張飛の脇をすり抜けるようにして林の中を進み、怯える民の前に出て襲いかかった。
「ハイーッ、ハッ」
浮き足だった民衆を蜂がつつくように追い立てるだけだから、少数で十分である。林間から横撃してくる騎兵に民はたちまち大混乱となり、騎兵の攻撃に殺されるのではなく、互いに押し合い踏み潰し合って傷付いていった。
阿鼻叫喚のなか、老少弱者が死傷してゆくのを見て、張飛は、
「こいつら! この卑怯者が。相手はおれだ。神妙に殺されに来い」
怪獣並みの戦闘力を誇るとはいえ幅が五百メートルもあるわけではない張飛は、脇をすり抜ける敵を追いかけて右に左に馬腹を蹴った。難民最後尾はばらばらになり簡単に崩壊し始めた。
この時、劉備軍団だけが一方的に危機だったというわけでもなかった。曹操にも危機の可能性があった。五千の精鋭を率いているとはいえ、歴戦の武将が率いる数万の本軍から離れ、一軍が突出しているという状況である。十余万の難民がやけくそになって反転し、曹操に向かって走り出したら、それはもはや危機などというレベルの話ではなくなったろう。徹夜で突っ走ってきた騎兵部隊は陣も構えていず、守備隊形をとってもいない。目を血走らせた民衆に呑み込まれることになる。自暴自棄になって武器を取った民衆に壊滅させられた官軍の例は腐るほどある。
王威《おうい》の進言にもあったように、
「油断しやすく軽はずみに単騎進んでくる」
というのは曹操の懲りない習性と言うか、いやそれでこそ曹操の魅力と言っていいのかも知れないが、その生涯に何度か繰り返されている。
これがために董卓《とうたく》軍に殺されかけたこともあったし、|張※[#「糸+肅」、unicode7e61]《ちようしゆう》と|賈※[#「言+羽」、unicode8a61]《かく》の必殺の罠に嵌《はま》ったし、後には合肥《がつぴ》で孫権に肉迫され、涼州では馬超《ばちよう》に討ち取られる寸前にまで追い込まれている。官渡の戦いの際にも曹操自らが奇襲部隊を率いて烏巣《うそう》に突入しているが、成功したからよかったようなものの、総大将たる曹操の身に何かあったら政治的野望も何も、再起の望みもなくなり、曹操チームのこれまでがすべてご破算となるのである。曹操は、上杉謙信の本陣突入とか、織田信長の桶狭間奇襲とか、真田幸村の単独迫撃とか、それに似たことをしょっちゅうやっているわけで、総司令官の自覚があまりないのか、奇策大好き、ほとんどガキ大将のふるまいである。
部下からすればトップに死なれては元も子もない。これは曹操本人の勇気、智略、実行力の有無とは別次元の問題であって、大事な主将の身、危険な作戦は部下を信じてゆだねるのが大将の器量であろう。極端な話、荊州攻略も信頼する夏侯惇《かこうとん》や曹仁《そうじん》に任せて、自分は|※[#「業+おおざと」、unicode9134]《ぎよう》で吉報を待っていても誰も責めはしない。
家臣団は主君の主演男優主義には常々頭を痛めて諫言していたに違いないが(それもあって|許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]《きよちよ》を護衛とするようにしたのだろう)、曹操という人物には自分の命よりも自分の大活躍のほうが遥かに重要だといった信念めいたものがあり、ほぼ最高権力者に上り詰めた後でもそれは変わらなかった。軍人ではない一国の大統領とか内閣総理大臣が政務は部下にやらせて戦場にゆき、最前線で殺し合いの陣頭指揮を執るようなものである。真っ先に銃を担いで戦地に飛び込むいい年をした宰相、大臣というのも極めて珍しく、よほど戦争が好きだったとしか思われず、近代以降は、ほとんど聞いたことがない。リーダー失格と言われかねない行動である。
今回のことにしても先行機動部隊を配下の部将に任せ、曹操自身は堂々本軍を率いて進んでいて悪いことは何一つない。普通そうだと分かっていてもなお自分が先頭を切りたいと当たり前のように思うのが曹操という男なのであろう。優秀な人材を際限なく集めはしても、キモの部分は人に譲ろうとしないといった点にもそれは表れており、そのせいでせっかくの能才を結果的に殺すことになるという奇妙な矛盾が存在する。
曹操の性癖をよく知る劉備が(ないしは孔明が)、曹操が例によって突出し、少数精鋭の軽装騎兵を率いて追撃して来ることを読み切っていたらどうか。難民の協力のもと劉備軍の全兵力が戎服《じゆうふく》を捨てて変装し、民衆にまぎれて最後尾に待ち構えていたとしたら、それは必至の罠となっていたはずだ。出来れば兵も埋伏《まいふく》しておき、速すぎて本軍から途切れ、ほとんど孤軍になっている曹軍五千を一万、二万で包み込んで、乱撃戦に持ち込む一手である。こちらには乱撃戦となると異常なまでに強い張飛、趙雲がいる。一局面の用兵としては賭博性が高く、先の見込みのない小細工戦術ではあるが、もし成功すれば曹操の首が取れるのである。さすれば曹軍全体が思考停止に陥ったことだろう。宿年の抗争にあっさりと決着がつく流れが訪れたかも知れぬ。
まあそれは机上論である。劉備、孔明とも曹操を恐れ、逃げることに必死で、そんなことを考える余裕はまったくなかったに相違ない。日速五キロメートルの、暇をもてあまして飲んだり、遊んだり、イライラしたり、鬱病になったりするしかない逃亡行だったとしてもである。
(小賢しい策略はない)
と判断した曹操はあとは勢い、難民を追い詰めすぎないように気を付けながら、かさにかかって追い散らすだけである。難民殺しの汚名を劉備たちが負わせるかも知れないが、責任の半分以上は劉備軍団にある。曹操は文聘《ぶんへい》に、
「じきに避難民どもも崩れて道を空けよう。そちは、劉備のやつをなんとしても探し出すのだ。大耳サルの首根っこを押さえ、じたばたするようなら殺してもかまわん」
と命じた。
怒声をあげて騎兵を追いかけ回しているのは今のところ張飛一人である。
張飛を追って殿軍に来た劉備軍兵士は、曹軍騎兵と戦うどころか、
「みなさん、こちらです。早く避難して下さい」
「危険ですから張将軍に触らないで下さい」
と、難民たちを張飛の殺戮制空圏から脱出させるのに精一杯である。へたをすれば自分の頭も張飛にカチ割られるおそれがある危険な任務であった。
張飛は烏桓《うがん》兵の卓越した乗馬テクニックに翻弄され怒り心頭、
「クソがぁ! あっちこっち飛び跳ねやがって。イナゴ野郎のバッタもんめがっ。待ちやがれ」
もはや張飛にはパニック状態の避難民も目に入らなくなったらしく、蹄《ひづめ》に任せて縦横に駆け回る曹軍騎兵を追って、自ら難民の群れに突っ込んでゆき、無辜《むこ》の民に被害を増大させた。
生まれたときから馬に乗って暮らしてきた烏桓騎兵たちの手綱さばきは超一級であり、その機動能力はさしもの張飛も及ぶところではない。騎馬民族の兵と対戦するのは初めての張飛は振り回され、蛇矛は何度も空を切った(ときどき不運な難民の頭を叩き砕いた)。
「バッタ野郎め!」
張飛が追おうとすると老人、子供が泣きながら前を塞ぐように走っている。張飛の馬術もなかなかの腕前なのだが、難民という障害物の密集するなかで、素早さ、小回りにおいては如何ともしがたい。それに比べ烏桓兵の直径五十センチもない円の内で馬を立て、手放しでひょいと方向転換してしまうような技術は、モンゴルなどの神技ともいえる馬術においてはさして高度なものでもないのだ。
敵がまともに張飛に向かってくれば蛇矛一振りで五、六人の虐殺も容易なのだが、こうもちまちまと動かれ、小蠅を追ってひっぱたくような戦闘となっては、張飛のみならず漢人一般の馬術の個人技能とでは差があり過ぎる。
「シェマチョートー、プシ、シュンマー!」
張飛の欲求不満が炸裂、とても人の音声とは思われぬ憤激の言葉を吐いた。
「そこをどけ! この邪魔なクズどもが、おれを邪魔するとは、貴様らは曹操の手先かあ」
と、すっかり人民の敵と化しつつある。
「ひぃっ、張飛に殺される〜」
「このバケモノがっ。ギャッ」
「乱暴でも気は優しくて力持ちのいい人だと思っていたのに、こんなひどいことをするなんて。あたしもう一生男の人を信じられない」
難民の恐慌状態を煽りたてるのが目的の曹軍騎兵はちくちく刺している程度だが、張飛の蛇矛は軽く擦《こす》るだけで難民に致命傷を与えかねない。
敢えて言い訳してやれば、張飛はあくまで曹軍をぶち殺して民を助けようと(頭の奥の片隅で)努力していることには偽りはないのだが、人に優しい気持ちを抱いた(怪獣としては堕落した)ゴジラが悪い怪獣を倒すため、逃げまどう人々の間にドスドスと踏み込んできたら、皆はその一歩のたびに踏み潰されたり、ショック死したりするだろう。それを見たゴジラは、申し訳なさのあまり、
「ガオー」
と、穴があったら入りたいという悲しみの放射能咆吼をあげるんじゃないか(悪い怪獣は取り逃がしてしまい、人々を踏み潰した後でだが)。
曹操は馬上から殿軍の大混乱をじっと眺めて、唇を噛んだ。
「何の罪もない民衆をおのが逃亡に連れ回し、われらを誤らせようなどという卑怯未練の振る舞いが、このわしに通用するとでも思ったか」
と左右の者に怒り気味に吐き捨てた。恐いと言えるのは疲れ知らずの戦闘モンスターの張飛だけである。
(民衆連れ回しは、諸葛亮の献策なのか)
諸葛亮、恐るるに足らず、と曹操は思ったか。いやそれよりも、諸葛亮、なんと無為無策の破廉恥漢か、と思ったか。
(策とも呼べぬ。無意味最低のしろものだ。避難民はお粗末な時間稼ぎにすぎず、それどころか張飛の使い道を狭めておるだけだ)
と張飛の後方で悲鳴を上げながら崩れていく難民を眺めるにつけ、思うのであった。孔明という劉備軍の新軍師が別に神算鬼謀《しんさんきぼう》の軍略の天才(徐庶が流したデマ?)でもなんでもないらしいということにいくらか残念さを感じた曹操であったが、次にはまた怒りが沸き上がってきた。
(女子供を盾にしてわが軍の躊躇を誘うというような下策を弄するのなら、その卑劣、天も絶対に許さぬ。それを許可した劉備も劉備だ。昔と人変わりして、完全な外道に成り下がったか。見損なったぞ)
やはり劉備と孔明はここで一気に抹殺してしまうのが天下のためであると確信した。
あの劉備が出馬を懇望請願して得た天下一の軍師であるという孔明は、結局、徐庶の妄想が紡ぎ出した理想の天才的変質者にすぎず、劉備の隣にいてもろくな献策もせずに、
「わが君にくらべ、曹操には十の凶悪、十の敗北原因、十の人に言えない恥ずかしい秘密があります。わが君が負けることはありません」
とかなんとか阿諛《あゆ》追従を言って劉備を喜ばせ、なんか偉くなったような気分を味わっている小人なのであろう。劉備軍団が急に逃亡することになって流されるだけで、難民を被虐させることが明らかであるのに止めもしないのなら、血も涙もない許し難い茶坊主であると言っていい。民も見えぬ、戦さも見えぬでは、袁紹《えんしよう》の参謀であった田豊《でんほう》、沮授《そじゆ》にまったく及ばず、審配《しんはい》、逢紀《ほうき》らとぎりぎり同レベルかそれ以下の人物に違いあるまい。
さて孔明、曹操に思い切り軽蔑されていることなどつゆ知らず、難民十余万のせいで大幅に狂った計画を立て直す策を実施する前に曹軍に追いつかれてしまい、張飛の勝手な行動も制止できない有様である。これでは低レベル軍師(いらない人)と責められても何の言い訳もできない。だが、かりに名案がなくとも無理矢理にでも凡案を名案にしてしまうために、他人から見れば苦心してぶらぶらでれでれしていた。さいわいにも当陽《とうよう》には到着できたが、時間の余裕はもうほとんどない。いったいどうするつもりなんだ。
智恵の権化とされる半俗仙人の孔明ではあるが、何故か長坂坡《ちようはんは》においては知能指数が低下、その鬼神も予測不可能という智謀はまったく不振である。本来なら曹軍鉄騎を空回りさせ、不意を突いて焼き尽くすくらい笑いながらやっていて然るべきところである。だがそれも劉備軍団が孔明の手足となって働いてくれるような状況あってのことであり、あまり無理をいうのも気が引ける。黒い勢力が孔明を夏口方面に避難させておいた気持ちも分かる。
あまり同情したくもないが孔明も哀れではある。現在の孔明の立場はひどく怪しくいい加減なものであり、軍師の実質がなく、そのへんについては曹操は大きな誤解をしている。そもそも孔明には命令指揮の権限が実質上にも架空上にもない。孔明の言うことを聞いてくれる将は劉備と妙になついている趙雲くらいのもので、他の軍団員は孔明をほとんど無視している状態である。たいていの者は孔明を軍師だと認め難い気分であったろう。
それというのもやはり劉備が悪い。最初から孔明の天下三分の草廬対《そうろたい》を不滅の指針として実行していれば、こんな馬鹿げた逃避行自体が発生していなかった。
「臥竜《がりよう》先生は天がわしに配して下さった宇宙一の軍師であり、先生いませば容易に天下を掌中にできるとの司馬水鏡先生のお墨付きもある。みな素直にお言葉を聞くようにせよ」
と、皆に発表したのはいいが、そう宣言した劉備本人が孔明の献策を何度も斥《しりぞ》け、軍師扱いも形だけ、ぜんぜん助言を聞かなかったのだから、配下の衆が孔明を軽んじるのも当然であった。この問題については陳寿も裴松之も口を拭って黙っている。劉備軍団構成員としては、まるで使い物にならない上に評判も悪い経験不足の若僧と思っている者が大半で、ましてやいちおう玄人が素人に戦闘や作戦に関する意見を聞いたりするはずもない。だいたい二十七、八歳などは青小僧もいいところである。
またしても、たとえて言えば、無許可屋台ラーメンのオヤジが、一流大学の大学院を出てぶらぶらしていた男をどこかから連れてきて、酔狂にも仕事を覚えさせようとしていることは従業員も知っている。自分とは別世界の人間であるかのような高学歴の頭脳であるから、オヤジは経営コンサルティングを期待して、意見を聞く姿勢を見せてはいた。そこで利益倍増の妙案を訊ねてみると、
「まず第一に親父さんのとろい兄貴分の店を乗っ取ることです。これからは規制緩和のグローバル・スタンダードの世の中、弱肉強食のマネーゲームが株価を操作するのですよ」
と、オヤジの頭ではとうてい理解できない違法すれすれの謀略、卑劣きわまりない進言が返ってくるだけである。
「そんな道に外れた真似をしたらこの稼業で生きてはいけなくなる」
と言うと、
「親父さんは古い。後で後悔しますよ」
と鼻で笑われる始末だ。
仕方がないので屋台を手伝わせてみれば、ラーメンを作ったことなど生まれてから一度もない男なのであり、クソの役にも立たないのである。出納帳簿なども存在しない闇ラーメン屋だから事務仕事はない。皿洗いをやらせるか、警察の巡回を見張らせるような下っ端仕事しかさせることがない。それでも学歴に弱いオヤジはいくらか丁寧に接して、若者の揚言を理解しようと努めるのだが、他の先輩たちは一部の例外を除いて見向きもしないし、ことラーメン作りについての意見を聞くなど問題外である。今は忙しいかき入れ時であり、口だけのヤツは邪魔なだけだ。新米が、どいていろ……。だいたいが加入してからまだ半年、大手柄を立てるも何も、いまだ見習いなのであって、先輩について仕事のイロハを学ぶのが適当なところだ。
まさしく孔明は右のような立場にいるわけで、この逃亡戦において孔明の智恵に身を捧げて燃え尽きようというような宗教がかった部将、兵士は皆無に等しいのであった。よってわざわざ夏口に行かせなくても、現場にいてもいなくてもどうでもよい存在と言えてしまう。劉備軍の下っ端の兵士からも、
「おい、そこの見かけねえ面のやつ、さぼってねえで、そこの荷物を運んどけよ」
と命令されかねない影の薄さである。
『三国志演義』なら、孔明はこの時点までに超一流の軍略の手並みを見せつけているので、皆も嫌々ながらでも指示に従ったろうが、『三國志』ではそういう活躍はまったく見せていない。史実において劉備と軍団員に孔明がどれくらい重んじられていたかは分からないが、少なくとも劉備の文系の相談役に過ぎず、武系については未だに何だか分からない男なのである。
孔明はこういう指揮権も節度もない無力の状況にあって、劉備軍団の完全消滅を防ごうと画策せざるを得ない、けなげな立場にいるのである(しかも麻薬じみた美味しさのラーメンの虜《とりこ》となった大勢のお客がすがりついてくるような不自由さ付き)。普通なら、やってられないのか、かえってやり甲斐があるのか、だいたい何かをやれる隙間があるのか、という問題である。そして孔明と民百姓をここまで追い詰めたのは誰あろう劉備その人なのだから救われない思いがする。
劉備軍団と難民十余万は三、四キロくらいの長さにわたって列をなして進んでいる(が、アメーバ速度でほとんど停まっているようなもの)。景山のきわを過ぎれば道幅に余裕が出て来てその先は傾斜した曠野《こうや》となり、中規模の大きさの当陽城が望見できる。とはいえ輜重《しちよう》を引きずる十余万の窮屈さが解消するほどの広さではない。最後尾が曹操の軽騎兵団に襲われ始めたとき、糜竺《びじく》、簡雍《かんよう》ら幹部は中程にいて善後策を侃々諤々《かんかんがくがく》と話し合っており、劉備の乗る恐竜戦車はその前方にいた。
孔明と黄氏、習氏、諸葛均は、邪魔者扱いされて居心地の悪い幹部連のいる場所から五百メートルばかり歩いて、三台が難民の洪水に揉《も》まれて離れ気味に進んでいる恐竜戦車に近付いた。
後が攻撃されていると聞き、慌て始めている難民をよけながら、何号車かは知らないが、劉備の馬鹿声が聞こえてくる恐竜戦車を探して、後部扉を開いた。劉備は呑気に七、八人の老人たちと酒盛りをしていた。
「おっ、孔明先生」
劉備は孔明に入るように言い、席をつくった。孔明は黄氏らに待っているよう言って乗り込んだ。
いい気分で盛り上がっていた少々柄の悪い爺さんたちは、孔明の名を聞くや、白い髯をふるわせ、皺だらけの顔を険しくした。
(このクソガキゃ、劉|皇叔《こうしゆく》さまが人を疑うことを知らぬ仁愛の人だということにつけこんで、取り入りおってからに)
(劉将軍も劉将軍だ。なぜにこんな悪質な変態小僧をお仲間にお入れになったのか)
(わしもいつお迎えが来るかわからん年じゃ。わしの命と道連れに諸悪の根元を退治するのがご恩返しとなるわい。こんな奸物《かんぶつ》に取り憑かれたままでは玄徳さまの将来は真っ暗じゃて)
侠者かたぎの老人の孔明に対する反感が車内をたちまち険悪な空気に入れ換えている。
劉備はそんな空気を感じ取っていたので、孔明を隣に坐らせ丁重にした。孔明を守るように猿のように長い腕を使い、
「ささ、先生も一献どうです」
と変な形をした觴《さかずき》に酒を注いで、差し出す。孔明は白羽扇を置き、拱手《きようしゆ》して受け取った。
(むむ。こんなタチの悪い三下に礼を尽くしてはいかん。劉皇叔様、早く目を覚ましてくだされ)
忌々《いまいま》しいが、劉備がそう対応しているので、老人たちはいきなり孔明を簀巻《すま》きにして車から蹴り出すのはひとまず我慢した。
「外がさっきから少し騒がしいが、後方にやっと曹操があらわれたそうではないか。待ちかねたわい。ドワッハハッ」
劉備は尻に火が点きかけている悪状況を知っているのに(酒の酔い景気よく)敢えて豪胆な口調で言った。
「おお、意気やよし、劉将軍!」
「曹賊なぞ玄徳どのの敵ではないわい」
年寄りたちもろれつのあやしい声でバンバン床を打ちながら言う。
「くっ、ご老人たちよ、心強いお言葉。わしにはこのように十余万もの味方がいる。曹操なぞなにほどのものやある」
と、劉備はでかいことを言って、隣に坐った孔明の耳にすっと口を寄せている。
「先生、そろそろ何か悪だくみを実施する頃合いでは?」
とひそひそ声で訊いた。その声はシャキッとしており、酔っぱらいの声ではなかった。しかし孔明が樊城で劉備に話した計画は、当陽城に入城できてからの策である(おそらく何らかの形で派手に燃やす策)。大量難民が一番の頭痛の種で、計算違いのため既に悪だくみは実行不能となっている。
よって孔明、それには答えず、席を立つと棚から茶碗を三つ取ってきて、酒瓶を机の端によけて並べて置いた。そして懐から青銭一枚を取り出す。
「先生、何の真似です」
老人たちも怪しそうに見ている。
「余興にございます。殿も皆様方も目を皿のようにして見ていてください」
「おう。先生にあっては曹操なぞ余興を楽しみながら相手にしてちょうどよいということですな」
孔明は右端に銭を置き、三つの茶碗を伏せてゆき右端の茶碗を被せ隠した。そして茶碗を音もなく滑り動かし、左、中、右を並べ替えた。動作はゆっくりだったので銭が隠されている茶碗が真ん中に移動したのが誰の目にも明らかと見えた。
「さてご老人、銭はどの茶碗の下にありや」
と孔明が訊ねると、その老人は、
「わしの目を節穴と見くびったな! 真ん中に決まっておる」
と言った。
「本当ですか」
「真ん中じゃ。みなも見ておったろう」
老人たちはうんうんと頷く。
「では」
と孔明が真ん中の茶碗を持ち上げたが、そこには銭はなかった。
「何っ!!」
ついで孔明が左端の茶碗を上げるとそこに銭があった。
「おおっ」
と声が上がったが、賛嘆や驚きの声ではない。そこは悪評高い孔明である。目を怒らせた老人が、
「イ、イカサマじゃあ!」
と叫んで、孔明の腕をむずと押さえた。鉄火場の勢い、はなから喧嘩腰である。
「このグレ者がっ、イカサマは御法度ぞ。腕の一本も覚悟しておろうな」
と、怒り出した。
「その変な団扇《うちわ》が怪しい!」
「いきなりいかさま呼ばわりとは心外な。そう言われるのならタネを見破ってください」
「屁理屈を言うな。証拠なぞいろうか。その腕、へし折ってしまえ」
手品を見せただけなのにサマ師にされかかる不徳の孔明であった。
慌てた劉備が老人をなだめ、
「まあまあ、長老がた、今のは余興であり、博奕ではござらん。べつに金を賭けておるわけでもないゆえ、先生を許してやってくれぬか。先生も若気の至り、魔が差したのでござろう」
と、とりなしているのか、責めているのか、分からないような庇《かば》いようである。内心、
(はて。先生は今どうやったのか?)
子供のように目をきらきら光らせた。
孔明は、べつに気を悪くしたふうもなく、
「ではもう一度やりますから、今度こそよく見ていて、当ててください」
と言って、今度は右端に小銭を置いて上に碗をかぶせた。老人らは、昔の賭場遊びの口惜しい思い出が蘇るのか、酔いを抑えてぐっと顔を突き出して凝視している。孔明はまたゆっくりと茶碗を動かした。誰がどう見ても右端の茶碗は左端に動かされ、左端の茶碗は真ん中、中の茶碗は右端になった。右手だけを使い、ゆっくりと三動作、目にも止まらぬ早業などは一切使われていなかった。白羽扇も下に置いてある。
血の気の多いさっきの老人が、指さしながら、
「左っ」
と叫んだ。
「左でよろしいか? イカサマをお疑いなのでしょう?」
「じっと見とったが、へんな手癖はなかった」
と他の老人たちも言う。
劉備も若い頃には賭場に入り浸って、イカサマ対イカサマで、胴の手の内に目を凝らし、自分の指を操ってズルを仕掛けてきた男である。大方のイカサマ技は知っている(賭場ではたいていがサイコロ博奕であった)。
「先生、わしも左でいい。あけてみよ」
そこで孔明が左の茶碗を持ち上げたが、むろん銭はなかった。
「この若僧、一度ならず二度までも劉将軍の前でイカサマしくさるとは! 腕をぶった斬ってお詫びせい」
そこで孔明、白羽扇をビシッと突き出した。
「ご老人、見破られぬイカサマはサマに非ず、ワザである! やっているところを押さえるか、ワザにはワザで返すべし。それが賭場の掟であることくらいご承知でしょう」
と孔明は坊や哲のようなことを言い放った。
「この残り二つの茶碗。真ん中と右の茶碗のうち、どちらに銭があるか。それを当てられたなら、わが右腕を差し上げましょう」
「よかろう。そのせりふ、無かったなどと言うでないぞ」
確率は二分の一のはずだ。老人たちはひそひそと相談して、ひとしきり揉めたあと、
「右端をあけてみい」
と言った。孔明は右の茶碗をあけたが、そこにも銭はなかった。
「若僧が、舐めくさって!」
顔を真っ赤にした老人が手を伸ばして真ん中の茶碗をひったくった。果たしてそこにも銭はなかった。
「ハナから銭を入れておらんかったな。なんという詐欺師か! もう勘弁ならん。吊して両腕とも切り落としてしまえ!」
よくあるカップとコインの手品を見せただけなのに常習的詐欺師扱いされてしまう踏んだり蹴ったりな孔明であった。劉備も、
「先生! 先生が腐りきったイカサマ師だったとは、この玄徳の目が曇っておったか」
と嘆いた。
孔明はやれやれという表情で、殴りかかろうとしている老人に言った。
「待たれよ。銭は、そこに、ご老人が拳骨の中に握っておられる」
「なにぃ」
強く握った手を開いてみると銭がぽろりと落ち、掌には丸い跡が赤く残っている。
「王爺、お前、孔明とぐるじゃったんじゃな」
「ち、違う」
本人も驚き説明不能状態に陥っている。
「握り締めておるじゃないか。さっきから一人カッカしてこやつに文句を付けていたのは、わしらの目を欺くための芝居であり、銭はおのれが隠してやっていたのだろう」
「違う。知らん。いつの間に握らされたのか分からん」
「嘘つけ。ならばお前一人のサマ芸か」
「お前は昔から妙にバクチに強かったが、そういうことじゃったのか」
「違う」
「わしからむしり取った金を返せ」
「カタに持っていった豚を返さんか」
「違うと言っておろうが。何十年前の話をしとる。お前が負けたんが悪いんじゃろ」
不良老人たちが昔を思い出して仲間割れしそうになったところで、劉備が中に入り、正義のせりふとバブル・ジョークでなんとか落ち着かせた。
やがて老人たちは険悪な表情で恐竜戦車から降りて行った。孔明のあるところに平和はない。
「ご老人がたもまだ若い。むかしのこととはいえ、賭け事の勝ち負けは根が残るもののようですね。わたしはただ一生懸命練習した面白い芸を見てもらい、楽しんでいただこうと思っただけなのに」
と孔明は劉備に言った。劉備は孔明が使った茶碗を必死に調べていて、
「先生、わしに、わしに、この卑劣なイカサマのやり方を教えてくだされ。このサマがあれば勝ち放題だぁっ。見ていろよ糜竺!」
と本気の形相で迫った。茶碗の手品はアットホームなお遊びに過ぎないのだが、孔明がやるとサマだとか左手芸だとか詭計だとか詐術だとか奇策だとか反則技だとか、まことにイメージがネガティブになってしまうのは何故なのか? やはり日頃の行いが悪いのか。
「茶碗にはまったく細工はない。それよりもどうやってあのじじいの手に銭を握らせたのか。うーん、どう考えてもわからん。まさか宇宙の術でござるか」
「わが君までがそんなことを。イカサマではありません。これは嘘偽りのないタネも仕掛けもあるただの奇術ですよ」
「頼む先生、この玄徳、一生に一度のお願いでござる。この詐略のタネと仕掛けをお教え下され。分からぬままでは夜も眠れず、死んでも死にきれない」
「もとよりそのつもりで卑芸を披露したのです」
「おお、そうでしたか。わしだけに教えて下され。孫乾や糜竺には秘密ですぞ」
孔明は頷いた。
「洛陽で波斯《ペルシヤ》の芸人に教わったのですが、簡単すぎてつまらなかったので、わたしもいくつか別のやり方を編み出しました。相手の手に握らせてしまうのはわたしの考案した独創的なもので……」
と、孔明は目をキラキラさせている幼稚園児のような劉備にタネと仕掛けを詳しく教えてやった。すると劉備の態度が豹変し、鼻糞をほじりながら、
「なんだ。どんな超絶技巧なるかと思えば、はっ、じつにつまらん手遊び。そんな糞馬鹿らしい単純なことだったとは、聞いて損した思いでござる」
見破れなかった自分に腹が立つというようなタネであった。
まあテーブルマジックのタネというのはだいたいそういうもので、ひとたび明かされると感動も驚きもなくなりがちである。よって手品師たるもの(軍師もか)種明かしは御法度なのである。わたしもここで種明かしするような不粋な真似はやらないので、興味のある方は書店で「マジック教室」のような本を立ち読みして欲しい。しかしその明かされたつまらないタネに感動できることこそが一部の者にとっては必要不可欠のセンスなのである。
「ふっ。そのつまらぬ馬鹿げたことを殿みずからやっていただこうという計画でございます。逃げるにあたり一瞬の目くらましをかけるにはもってこいでしょう。三台の恐竜戦車が茶碗にあたり、銭の役をわが君がやるのです」
「なに。いや簡単なタネとはいえ、わしは生き物なのだぞ。小銭役をやるのは命懸けではないか」
「ふっ。この行軍が命懸けとなるのは最初から分かっていたことでしょう。それに曹操が後尾に噛みついてきた今、すぐにさらなる命懸けが群れをなして襲って参ります」
孔明は後部扉から空を見上げた。日はじりじりと上がっていく。
(今日一日欺き通せるかが分かれ目であろう)
「それはともかく、わが君、一度、軍団幹部にお顔を拝させ、かっこよく吠えてください。皆も不安がっておりますれば、わが君の獅子吼《ししく》が一番の薬でございます」
と孔明は恐竜戦車から降りながら言った。
「そうだな。すぐにいく」
劉備は酒を薄めるべく水をがぶ飲みし、ズレ落ちかけていた着物を肩に通して帯を締め直した。そして鎧甲《よろいかぶと》を面倒臭そうにつけている。
劉備が下車すると民らは一段とせわしくなっており、へたばっていた者も立ち上がり、必死の歩を進めていた。車や荷物を置き捨てて走る者が続出していて、そこら中がゴミの山のようである。そのせいか少しは民の密集度は減っており、いくらかまばらとなっていた。それでもまだ休日午後の東京ディズニーランド並みの混雑である。
「先生、昨日よりも民の数が減っているように感じるが。みな元気を取り戻し、先へ先へと三歩進んで二歩下がっているのかな」
群れをなす野生動物は後尾を襲われたとき、先頭は何が起きているかは分からないにしろ、本能的におろおろ脚を早め出し、ついには走り出すものである。それは人間とて同じであろう。だが、曹操の攻撃が始まってからまだ二刻あまりである。それより以前に既に足早になっていたと思われる。
「それより、わが軍の兵士がやたら少なくないか?」
民を保護誘導しながらちょこちょこ見えていた劉備軍兵士がほとんど見当たらなくなっている。孔明は爽やかに、
「消えてもらいました」
と言った。
「どういうことか」
「わが軍の兵は先頭におり、江陵目指して尻に帆をかけて逃げ走っております」
と言った。
「何だと! 兵らはわしを見捨てて逃げ出しおったのか。くそう」
すると孔明、あいや待たれいと、
「これでよろしいのです。わたしが策して趙将軍にお願いしておいたこと。六千ばかりの兵をまとめて走らせるようにしていただいた」
と悪びれもせずに言った。
「なんということを。兵が減ってはわしらは丸裸ではないか」
「わが君、一万足らずの兵がそこらの民に紛れ、焦燥感や恐怖感を抱きながら、内心、無駄な努力と思って働いても、疲労感が刻々と増すだけ、いざ攻撃を受けたとき、かえって精神的な危険を招くでしょう」
だいたい劉備軍の兵士は、避難民の介護をするために劉備に従ったわけではない。徐々に不満を募らせていたろう。
「そうは言うが先生、手薄すぎるのは、まずかろう」
「案ずることはありません。一人で一万人を虐殺できる翼徳どのや子竜どのがいてくれるのだし、兵は二千もいれば十分です。これは民の死傷を可能な限り抑えたいというわが君の慈愛の希望をかなえる策でもあります」
さきに趙雲は孔明の命で、難民十余万の中で溺れるかのようになっていた兵らに行軍の先頭に集まるよう指示していたのである。そして今日の夜明けとともに江陵方面にまるで総崩れにでもなったかのような大袈裟な演技で駆け出させたのであった。劉≠フ軍旗もたくさん作り、洗濯竿にかかったふんどしのように翻させて進ませるようにした。これら劉備軍兵士は迫り来る曹軍と戦わずに済みそうだと、内心喜びつつ次第に本気で逃げ始めた。
驚いたのはそれを見た先頭付近の民衆たちである。何だか分からないが大勢の兵が逃げ出し始めている。敵がはや背後に迫ったに違いないと思った民衆は、つられるように兵団のあとを追いかけ始めたのであった。
おおむね民衆というものは兵士をあまり信用していないものである。もともと民衆と変わらぬ身分の農夫や穀潰しの次男三男坊、さらには食いっぱぐれの家無し者や、指名手配の犯罪者が下級兵士となっている。威張り腐った連中の被害に遭ったことのない民のほうが少なかろう。とくに劉備軍団の兵卒は軍紀が乱れがちであり、半分以上が立派な兵隊やくざであった。それでも劉備、関羽、張飛、趙雲が監督しているというから、かすかに信頼していたわけだが、目の前で集団逃亡を見せられては、
(劉将軍の兵といえどもやはり根性のないゴロツキだった。危なくなったらわしらを見捨てて逃げくさる)
と思わざるを得ず、はっとする間もあらばこそ、とにかく本能的に駆け始めたのであった。自分の周囲の者たちが浮き足だって逃げ始めたら、あとは連鎖反応的に足が動いていく。たとえ疲れ切っていても体力の最後の一搾りが、無理にも身体を前に走らせた。潰走《かいそう》状態ともなったら荷車も背負っていた荷物もいつの間にか捨ててしまっている。
先頭付近にいた民衆が急ぎ逃げ出し始めたため、中間付近の者らも続き、だんだん前方が空いて見晴らしが良くなっているというわけだ。当陽を目前にして前方を無数の民衆に塞がれていては戦うといっても、どうしようもない。本当の潰走が始まる前に手を打って、血管に溜まったコレステロールを溶かして血流を活発にするかのような、まずは孔明の一策であった。江陵から北上する魯粛《ろしゆく》が出会ったのはこれらの兵と民衆であった。
「兵の負け演技と逃走の指揮は関平《かんぺい》どのに任せております。決してわが君の恩を裏切って逃げているのではありませんからお心をお鎮めください。数千の兵をこの場で失うことなくすみ、それにうまくいけば江陵で難民輸送を終えた雲長どのと合流できる。関平どのに行ってもらったのはそのためです」
「なるほどそうだったのか。さすが先生。まだ民のことを諦めずにいてくれたのですな。くっ、不肖この玄徳、民のことなど忘れかけておりました。許してくれ、民よ」
民のことなどいざ戦いとなったら虐殺されても仕方がないと思っていた劉備であった。なんて男だ。
だいたい、早くから、
「民衆を棄て置いていくべきです」
と部下に何度諫言されても、言うことを聞かずに自己満足の素敵な仁義のせりふを吐き散らして押し通した時点で、十余万を生き地獄に叩き込むことになることは(劉備以外の)誰の目にも明白であったのであり、カッコつけもほどほどにしろと言いたいが、劉備もまた無意識に大衆演芸賞を狙う男であったようだ。劉備は、そういう取り返しのつかない判断を皆の意見を振り切って下しておきながら、後で、
「ああ、十数万の民が、この大馬鹿野郎のわしについてきたばかりに、かような大難にあわせてしまった。将も妻も子も……。心のない木偶《でく》人形ですら、これを悲しまずにおられようか」
と嘆くのである。自分は無能なデク人形だが、人の死を悲しむ良心回路がある、と言いたいらしい。劉備は涙を夕立のように激しく流し、その直後にまたもや錯乱して自殺パフォーマンスに酔い痴《し》れるのだから(部下も止めずにほっとけばいいのに)、殺された民も浮かばれまい。
しかも民のために大いに嘆いたというキラリと光る男の優しさだけで、十分に罪滅ぼしは済んだということになったのか、すべて曹操が悪いということにして、外的には何の責任も問われないのだから、ある意味、自らいろいろと責任を取ってきた曹操よりも遥かに悪質な男というしかない。
孔明は、
「民を救う思案はわたしがいたします。わが君は帝王を目指す身、民衆を平然と踏みにじって生き延びることをお考えになっていればよいのです。民というものは存外しぶといものであり、その生命力はあるいはわれらよりも上であり、低く見なさいませぬよう」
ととても清々しく言った。
実際、長坂坡の大難を生き延びることが出来た民衆は、行く当てもないから、荊北のもとの地所に戻るしかない。多くが曹操支配下の土地で暮らすことになった。
ここ数年、荊州にはほとんど存在しなかった戦災孤児や戦災寡婦を劉備の無邪気な一声が大量に生み出した。かれらが劉備を呪ったかどうかは分からない。熱に浮かされたかのように劉備に従った情熱は結局一体なんだったのだろう。人間の不思議の一つというしかない。
(最初の策通りなら、十人のうち三人以下の犠牲で済ませられるはずだったが、それはもう無理であろう。隊列の前の方にいて、いま追って駆けだしている民と、関羽の運んでいる民とを足して、五万ほどが命拾いできるかどうかである)
と、孔明は冴え冴えとした非人道的な頭脳で冷徹に考えている。
「ともあれわが軍の兵力を温存できる上、民もいくらか救われることに相成ります。六千近くの敗走芝居ですから、敵もわが君がその中にいて必死に江陵城に逃げ込もうとしていると見るはず。並の者ならそう判断してこの辺りはうち捨て、全速で江陵に向かうでしょう」
「並の者?」
「曹公の目は欺けますまい。わたしたちはここ長坂坡でしのぐしかないのです」
劉備と孔明は簡雍《かんよう》、糜竺《びじく》らが大わらわとなっている簡易司令部に着いた。
兵士脱走。この事情を知らない糜竺、簡雍が、
「わが君、兵が、兵が、どんどん先へ逃げ趨《はし》っております」
と悲痛な声を上げた。
「これでは殿をお守りすることが出来ません」
しかしそこは劉備、
「ダーッハハハ、何をそんなに慌てておる。来る者は拒まず、去る者は追わず、がわが軍団の信条である。それより、わしは、わしは、おぬしたちが残っていてくれただけで、もう天下一の果報者である」
と目尻に光るものを浮かべて言った。
「わが君っ!」
「われらがわが君を見捨てるなど死んでもあり得ません」
趙雲、糜芳《びほう》、胡班《こはん》、劉封《りゆうほう》らが忙しく駆けつけてきて馬を下りた。張飛も憤懣やるかたないといった顔つきでやって来た。
「百姓どもが邪魔するせいで、曹操をぶっ殺そうにもどうにもならん。コジキどもが。仕方なくいったん引き揚げてきたが、クソッ」
そんな張飛の言葉に劉備の目がギンと光った。
「飛弟、この愚か者! なんという非道を言うか。義兄弟の縁もこれまで」
「なんと、兄者、おれは」
「民は大業を成すための礎《いしずえ》となってくれる尊いものである。民無くしてわれらは立てぬ。それを邪魔者扱いするとは、それでもわが軍団の武人のはしくれか!」
と劉備が雷鳴の叱責を加えると、張飛はとたんにしゅんとなり、
「うおう。そうだった。兄者の言う通りだぁ。殺しが目的ではなく、民を守るのが第一だった。おれはどうしようもない考え足らずの大馬鹿だった。兄者、このとんちきを許してくれい」
と、ざっと地に膝をつけて頭を垂れた。劉備は張飛の肩に手を置いた。
「飛弟、わかればよいのだ。今は民とも力を合わせるときぞ。よいな皆も」
「兄者……」
幹部たちも、嗚呼《ああ》と声をあげてうつむいた。混乱しかけていた幹部たちを熱血の口先だけでまとめてしまう、どんな土壇場でも感動を振りまく魔性は健在である。
孔明のみ感動などとは無縁な顔つきで、白羽扇をゆらゆらさせながら、
「わが君、これからが生きるか死ぬかの瀬戸際、わが君の天命が試される胸突き八丁でございます。さあ、これが今生の別れになるかも知れぬご一同に気合いの入った大義の言葉を、どうかお聞かせ下さい」
と言った。軍師孔明の仕事というのは、今のところ劉備の音頭取りくらいしかないのであった。
劉備は曹操が迫り来る方角をきっと睨み付けた。
「この期《ご》に及んで語る言葉などあろうか。この身が滅びようともただひたすら賊徒と血戦するのみである! であるが……敢えて言うならば」
一同、
「奸臣曹操を地獄の底に送り込め!」
というような分かりやすい命令が響き渡るに違いないと思っていたが、きりりと表情を作った劉備は、剣をすらりと抜いて高くかかげ、左拳で胸甲を打つや、ぐわっと、
「伝説を作れ!」
と大音声《だいおんじよう》した。
「歴史《とき》の戦場を駈けめぐれ」
「おお、わが君、なんとかっこいい(意味ありげだが実がない)お言葉か!」
とタイコ持ちの孔明が白羽扇を振って讃えた。
「合い言葉は、伝説を作れ! ですぞ」
すると、家臣一同、止められぬ感動のあまり身を震わせている。
(一見、どうしようもない人なのに、さすがに人の上に立って来た男。いざという時に発する言葉の、このどうしようもなさは、この孔明もさすがと称えるほかはない)
と孔明はちょっとだけだが感心した。
「この戦さは伝説を作った者の勝ちである(劉備軍団の軍事的勝利は既に絶望的だから)! 皆の者、なんでもいいからどんどん伝説を作りまくって来るのだ」
と劉備が再度言うと、破れ幔幕《まんまく》の中、劉備軍団幹部の雄叫びがあがった。
「兄者、わかった。伝説を山ほど作って見せてやる。ようし、子竜、いくつ伝説を作れるか競争だ。勝負だ子竜」
「よかろう。遠慮せんぞ翼徳」
とかなんとか騒いでいるうちに、最後尾を崩して民衆を蹂躙《じゆうりん》し、蜘蛛の子を散らすようにさせた曹軍騎兵がもう近くまで迫りつつあった。
張飛は両手に唾して蛇矛を握り、
「バッタ野郎どもめ、このおれが兄者には指一本触れさせんぞ。子竜、関兄がおらぬ今、貴様、抜かるなよ」
「おぬしに言われるまでもない」
張飛は吼えて馬に跨るや馬腹を蹴って突撃していった。
「どけい、蛆虫《うじむし》どもが、邪魔だぁ」
民を大事にすることを誓ったばかりの張飛だったが、すっかり忘れ去っていた。こちらに向かって必死の逃走をしてくる難民たちから、またもや悲鳴が上がって来るのはもうどうしようもない。
糜芳、劉封、胡班らもそれぞれ伝説を作りにどこかに走っていった。
今、劉備の近辺にいるのは劉備の旗本二百騎と、新野着任以来の寄騎《よりき》であり、唯一劉備軍精鋭と呼べる兵が二千五百ほどである。曹軍軽騎兵に加えて張遼《ちようりよう》、于禁《うきん》、李典《りてん》、|張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]《ちようこう》、楽進《がくしん》らの軍団数万が到着すれば太刀打ちを考えるのも愚かな兵力でしかない。
はじめの課題に戻れば、如何に逃げ切るかであった。
劉備は孔明の袖を引っ張って幔幕の隅にゆくと、
「で、先生、江陵でないとすれば、わしらはどちらの方向へ逃げればいいのか?」
と訊いた。
「さて、それなのですが」
孔明は劉備軍団入団以来、週休四日のさぼりぶりで皆の怒りを買っていたわけだが、この日が来ることもあろうかと、襄陽《じようよう》、当陽、江陵間を歩き回り、地形や通行路、間道、水路を隈《くま》なく調べあげていた。漢津《かんしん》、鍾祥《しようよう》へ向かう道も、逆に景山越えの獣道までもが頭に入っている。おまけに|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]統《ほうとう》を訪ねたついでに柴桑《さいそう》、|※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽《はよう》方面の道や渡し場までだいたい押さえていた。誰も褒めてはくれないが、やはり臥竜! しかし孔明は、
「いまはまだ逃げ場所を定めてはなりません」
と言う。
「なぜか? いちおう決めて、皆に言っておかんと迷子になる」
すると孔明、白羽扇をかざし、
「どこそこを目指す、と予め決めるのは、かえってよくありません。曹公の偵察部隊と研ぎ澄まされた戦さ頭を舐めてはなりません。集結地を決めてしまえば、如何にふらふら蛇行して陽動しながら逃げたとしても、必ず真の目的地を察知されてしまい、待ち伏せ、集中追跡を受けることになりましょう。殿も曹公の神出鬼没の用兵は、何故か相手の動きを先んじて知り、常にツボを押さえていたことは体験済みのはず。こたびは落ち武者のように右往左往して(あやうく死にかかりつつ)、戦況に流されながらぎりぎりのところで決めるしかないと存じます」
中国には、
『説着曹操、曹操就到』
という諺があるが、
「噂をすれば(影ではなく)曹操」
といった意味であり、ちょっと曹操の話をしただけで、いつどこにでも素早く現れ聞き耳を立てる、幽霊のような敏感ストーカーぶりが後々まで語り継がれて生まれたものである。
「そんなことで大丈夫なのか、わしは心細くて仕方がない」
「何を申されます。ここは殿が頼りとこの孔明は思っているのですよ。あの曹公ですらも恐れる理解不能なわが君の唯一の武器、殿の魔性と申すほかない特殊な勘だけが危地を逃れさせるのではないかと期待しております」
と孔明は言うと、爽やかに笑った。劉備のあやしい魔性の勘に期待せざるを得ないほどの危機なのであり、そんなものを頼りとしなければならないとは、孔明も忸怩《じくじ》たる思いであろう。
『三国志演義』『三國志』とも、一にも二にも江陵を目指していたはずの劉備は、逃げ回りながら、なんだかよく分からないうちに、斜めに漢津に走ったとしている。どたばたの最中に追われ流されやむなく漢津に向かったのであろうが、それが当たって曹操は多数の兵をもって捜索したにもかかわらず、劉備を捕捉することに失敗している。曹操とその幕僚たち、また戦場の空気の変化を刻一刻と感じ取れる熟練の部将らが漢津ルートを見逃したというのは不思議なことであり、孔明マジックの存在がちらりと垣間見られるところではないか。
いくつかの『三国志』は、最初から孔明の狙いは漢津から夏口への逃亡であったとしており、孔明のキラリと光るファインプレー、関羽の船団は計画通りに漢津に向かわせ待機させておいたことにしている。だが、そうなると『三國志』の難民十余万問題や関羽の江陵ゆき問題、魯粛初見問題と噛み合わぬところが出てくるし、それ以前に漢津ルートを取る程度のことは、別に孔明の神の頭脳を借りなくとも、劉備らでも普通に思いつける逃走路であり、曹操らもそうであろう。
孔明は外で待っていた黄氏たちをさし招いた。黄氏に、
「これからそなたたちをかなり危険な目に遭わせることになる……。黄氏よ、そなたのそばに居ることができぬ、この孔明の薄情をゆるしてくれ」
と、孔明は目尻に光るものを浮かべて済まなさそうに言った。だが黄氏は、
「そんなことはご心配には及びませんわ。我が身を守るくらいのことなら、なんとでもなります」
黄氏手作りの巨大ロボット兵器がどこかでスタンバイしているのか、黄氏は微笑を浮かべて婉然《えんぜん》としていた。天文、地理をはじめとして兵法、医術からロボット工学にまで通暁している黄氏のこと、秘策があって不思議はない。
「あなたは劉皇叔さまを見事お救いになり、あなたを誤解して悪く言う心ない人たちを見返してやってくださいな。天下に臥竜の威名を轟かせることが、わたしの大事でもございます」
孔明は黄氏の手をとると、ぶわっと涙を溢れさせた。
「よく言ってくれた。どんな壮士も諦め怯《ひる》みかねないこのときになんといじらしいことを言ってくれるのか、くっ、この孔明、宇宙一の妻を持った」
「そんな、もったいない。わたくしこそ、孔明さま」
といちゃいちゃしているのを、離れたところにいる趙雲が、
(いいなあ、先生は、あんな素敵なひとに)
とうらやましげな顔で見ている。
孔明は諸葛均に全然光るものなど浮かんでいない目を向けると言った。
「均よ、死ぬでないぞ。お前はわが弟、お前が非業に倒れたらわたしは弟を見捨てた薄情者と人に笑われ、わが兄(呉の諸葛|瑾《きん》)に顔向けができなくなる。習氏もおり、お前はお前一人の身体ではないのだ」
「兄上、わたしだって心配には及びません」
と、諸葛均は漢《おとこ》修行の成果か、胸を張って言ったが、孔明、
「均よ、少々、卑猥な言葉を操れるようになったからといって、慢心するでないぞ」
と戒めた。そして、
「これを持て」
と、懐からお馴染みの軍師袋を取り出して、諸葛均に渡した。
「危難苦難に追い詰められ、もはやこれまでという時、この袋をひらいて読むがよい。(謎の文句の意味が分かれば)きっと道が開かれよう」
「は、兄上」
「とはいうものの、曹軍兵士が襲い来て、今にもお前に剣を振り下ろそうとしているときに軍師袋を取り出しても遅いから、融通を利かせるのだぞ」
と、いちおう心配して付け加えた。軍師袋が不要で済めばそれに越したことはない。パニック野郎Aチーム、諸葛均の運命は如何に。
張飛の人間離れした強さには苦戦したものの、難民大行進の後尾を総崩れさせ、道を開いた曹操は、景山のふもとに幔幕を張り、一息ついて腹ごしらえをしていた。
曹操のテーブルマナーの悪さはよく知られたところであり、脂でべたべたの食い物を手づかみで喰ったり、飯を含んだまま喋ったり、大笑いして吹き出したり、口の端からぼろぼろこぼしたり、まるで三、四歳の子供のような行儀の悪さである。しかし頭は急回転しており、左右の者に口から食べ物を飛ばしながら思いついたことを次々に訊いたり命じたりしている。左右の者の顔は曹操の唾や飯粒で一杯だが、我慢して拭こうとしない。
曹軍軽騎兵はなお走り回って殺戮活動を続行し、こけつまろびつ逃げてゆく難民を追い立てたり、殺したりしている。凶獣張飛が難民とともに後退していったので、烏桓《うがん》の兵らは殺された仲間の仇とばかりに怪我して動けなくなったり、逃げ遅れている難民を皆殺しにしていた。曹操は、
(張飛とはなんとも恐ろしいやつだった。敵も味方も無関係、ただ殺すことしか頭にない。あれは武将などでは断じてない)
と思い出してはお握りを頬張った。かの最強武将の呂布《りよふ》とて少なくとも人間らしいところはあった。
(劉備はよくあんな魔獣をそばに置けるものだ。関羽も手を焼いておるのではないか)
曹操は天下のために魔獣狩りもせねばならぬと思った。昔、張飛が関羽と並んでいるのを許都で見たときはどんぐり眼の虎髯青年であったことを憶えている。十年の歳月の間に何があったのか。張飛の殺戮本能は、関羽とて似たようなものなのだが、関羽を雲様と呼びたく、どうしようもないくらい好きな曹操は、関羽と張飛を一緒くたにしたりしたくなかった。
しかし緒戦で張飛が何もかも忘れて、曹操一人を標的としてまっしぐらに突進してきていたら、どうなっていたことか。今更ながら怖気《おぞけ》がしてきた。結局、精鋭騎兵は張飛一人に二百人ほど殺されてしまい、重軽傷者は数え切れない。恨みは痛いほど分かるが、曹操は、
「もうそれくらいにしておけ」
と、無用の虐殺を止めさせた。目の前には兵士、女子供に老人が、死屍累々であり、血臭漂う戦場には、うち捨てられた輜重《しちよう》があちこちに横転している。そんなおぞましい場所でも美味しく弁当が食えるのが、この時代人の神経の太さというものであり、PTSDで苦しむ兵士の話など聞いたことがない。
昼近くにようやく張遼軍の斥候隊が追いついてきた。張遼はあと十里のところまで来ているという。
間道、猟師道に放った兵が次々に戻り、曹操に報告した。それによれば劉備軍数千は難民を見捨てて江陵へダッシュしているらしい。ほとんど潰走の無様さだという。
「劉備もその中におるのか」
と訊くと、
「何しろ人だらけ、確認は出来ませんでしたが、おそらくいるのでは」
との返事である。
「劉備め、最低劣悪の人間めが。この期に及んで民を捨て殺しにするというのなら、何故、最初からそうしなかったか!」
もっともな怒りである。曹操とて難民虐殺など出来ればやりたくはなかった。この連れ回しは人道に対する犯罪だ。
また、少し先には千、二千の劉備軍がいて固めており、これは劉備を江陵に逃がすための時間稼ぎの捨て石部隊であろうということだ。
(天子に逆らい、無辜《むこ》の民を害し、兵を犠牲にして戦禍を拡大する。千古《せんこ》にわたり許されざる罪でなくてなんであろう。大耳サルめ、待っておれ。諸葛亮とやらもだ。血祭りにあげ、天に捧げてやる)
まあ、同時並行する別の宇宙の『三国志』では、不撓不屈《ふとうふくつ》の国家クリエイターの曹操が、天下を魔界に変えようと企む猿人劉備と関羽、張飛、趙雲のヘル・ブラザーズ、それに魔竜の化身諸葛孔明も加わった最悪の腐れ外道どもと正義のために戦い続ける酬《むく》われない物語となっていてもおかしくはない。
別方面からの報告では、江東の水軍は動く気配もなく、孫権はいま直ちに江陵に泥棒介入するつもりはないらしい(というか孫権はこの非常事態を知らなかったか、或いはどうすればいいのか分からず悩んでいた可能性が大)。
「ふん」
曹操は立ち上がると、
「張遼軍が到着次第、すぐさま進軍だ。このまま劉備を追い上げる」
張遼の鉄騎一万の後にも六万近い軍団が続々とこちらに向かっている。まことに踏み潰すように進むだけでよい。もし一刻早く江陵に入られてしまったとしても問題はなかろう。一気に屠城《とじよう》することが可能な大軍であった。
ただ一つ、
「恐竜戦車なるもの三台あり」
という謎めいた報告があったが、意味不明なので捨ておいた。
さて、先に劉備捜索を命じられていた文聘《ぶんへい》隊一千は難民をかきわけながら長坂坡《ちようはんは》を進んでいった。
「民どもは放っておけ」
と、文聘は間を縫って馬を駆けさせた。前方に破れた幔幕があった。ついさっきまで劉備たちがいた所である。
「まだ近くにいるかも知れん。探し出すのだ」
「しかし将軍、劉備は民に化けているかも知れませんぞ」
「劉備は身長七尺をこえ、手を垂れれば膝まで届き、目はよく己の大耳を見る。そんな特徴のありすぎる怪人が、少しくらい変装しようと人なかに隠れきれるものではない」
確かに劉備が農夫や商人の衣服をつけても、かえって目立つだろう。
先を走っていた者が、
「文将軍、変なものがありますぞ」
と言った。
「何だ」
三台の箱車のようなものが、牛に牽《ひ》かれて進んでいた。
「怪しい。粗末ながら頑丈なつくりと見える。劉備か、その妻子が中にいるやも知れん」
もう少し時間があれば黄氏も恐竜戦車の側面にかっこいい竜を彫り込み、黄色や赤の塗装をしたかも知れない。
「奴らが泣く泣く捨てたお宝があるかも」
文聘隊が接近しようとしたとき、突如、恐竜戦車の前に劉備が両手を広げて躍り出し、立ち塞がった。
「劉備見参」
「出たな賊将」
「おのれは文聘か! どちらが賊将か。この玄徳、逃げも隠れもせん」
「覚悟を決めてのこのこ出てきおったか」
劉備は文聘にここぞとばかりに正義の啖呵《たんか》をきった。
「文聘、貴様、あるじに背を向けた裏切り下郎めが、恥を知れい。本来ならおぬしと言葉を交わすなど、それだけでわが魂が穢《けが》れるわ」
「ぬうっ」
「おぬしはあるじ景升どのにあれほど大事にされながら、掌を返して曹操に尻尾を振る犬となり、あるじの義弟のこのわしを殺しに来たわけだな。この恥知らずが! 心をどこに捨ててきた! 羞恥のかけらもない姦臣《かんしん》とはおぬしのことだ。蔡瑁《さいぼう》にも劣るへたり豚めが」
痛いところを突かれ、顔をしかめた文聘であったが、
「うるさい。荊州のあるじは替わったのだ。逆賊、神妙にせい」
と怒鳴り返した。
「ふん、貴様ごときに討たれる玄徳ではない。そこで目の玉をひん剥いて見ておるがいい」
文聘隊はじりじりと劉備に迫った。
ここは劉備の魔性のマジック・ショーの見せどころだ。劉備は悠々と踊りのような華麗なステップを踏みながら、三台の恐竜戦車の扉を一台ずつ開いて見せ、中に誰もいないことを確認させてから、一番右の車両に乗り込んでいった。遠くからポール・モーリアの「オリーブの首飾り」が聞こえてきそうであった。
当然、文聘らは右端の恐竜戦車に向かってゆき、
「出てこい劉備。それともこのまま檻に捕らえられた猿となるか」
と荒々しく扉を開いた。しかしそこは空っぽである。文聘は驚きながらも、
「逃げたぞ。どこかに仕掛け出口があるに違いない」
兵らは恐竜戦車の前や横に回ってみたり、車の下から這い出してくるかと、身を伏せて覗き見たりした。
と見るや、ふははははという笑い声とともに、左端の恐竜戦車の扉を開いた劉備が、飛び出してきて手を振っている。
「げっ。いったいどういうことだ」
三台は三、四|間《けん》の間隔をもって離れている。どうやって移ったのか。
が、よく考えれば戦闘的には何ら意味のない見せ物である。気を取り直した文聘は、不思議の謎を知りたく思いながらも、
「ええい、くだらん目くらましなどどうでもよい。劉備を討ち取れ」
と、恐竜戦車三台を囲むように押し込んできた。
そのとき文聘隊の後方に、埋伏していた趙雲率いる五十騎が現れ、ミサイルのように突撃してきた。
「チェ──────イアッ」
と、趙雲は、聞いた者の血が凍る恐竜の気合を発しながら、虐殺を開始した。
「文聘! 孔明先生の奥様が手作りの戦車に、薄汚い手で触るな!」
凶兵器|涯角槍《がいかくそう》が唸りを上げ、光速のラッシュと竜巻殺法が文聘隊をあっという間に貫通し、散り散りにしていった。趙雲の槍にかかった敵兵は、必ず跳ね上げられて一回転半し、どうと地に叩きつけられた。地面にトランポリンが埋められているかのような吹っ飛びようである。続く五十騎も乱入し、趙雲の勢いに乗っかって、手当たり次第にビッシビッシ殺しまくった。
いきなり背後を襲われた(しかも相手が関張に次ぐ鮮血の貴公子趙雲であると知り)文聘隊は、たちまち総崩れとなり、千もいたのに五十騎に追い立てられ、殺されながら逃げていった。
劉備は恐竜戦車の前に立ち、孔明と並んでそれを見ていた。
「先生、どうです。うまくいきましたぞ」
と劉備が息を弾ませて言うと、孔明は首を振り、
「まだ甘うございます。この孔明の目には遅いうえにちらちら隙だらけと映りました。文聘だからよかったようなもの。目のある沈着な将であったら、右の車には目もくれず、いきなり左の車に殺到していたでしょう」
「うぬーん。そんなにまずかったか?」
「芸とは生涯をかけた苦心鍛錬の道。もっと誠心努力してくださらねば。次には曹軍歴戦の将と、生き馬の目を抜くような軍師らが襲って参りますゆえ、ほんのわずかな瑕《きず》からも、タネと仕掛けを見破られてしまうでしょう。下手を打つなら一死あるのみ。かりに曹公に見せるなら、たとえば恐竜戦車から消えたあと、いつの間にか曹公の隣にいる荀攸《じゆんゆう》や|許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]《きょちよ》と入れ替わっているくらいの大魔術でなくては受けません」
殿はマルチタレントなのですから、何でも出来るようにしてください、と言いたげな孔明である。
「やはりこれを本番で使うのはまだ早いか」
奇跡の大脱出ショーに失敗して大火傷では、金返せと言われよう。だが、曹操との漢中での対戦の頃までには華々しく実用化させねば。
「ですが、先生も急なことで、ひどいですぞ。こんなことならもっと早くから、完璧を期して練習を積ませて欲しかった」
劉備にも芸人の意地がある。すると孔明、ふっと微笑して、
「わが君はまことの危機とならなければ、本気になってくれませぬから」
と言ったが、恐竜戦車を使った手品をやらせようとは、今朝になって急に思いついたのであろう、たぶん。
趙雲がびしょびしょに返り血を浴びて戻って来た。
「わが君、先生、先を急いでください。かなりの兵数が景山の麓《ふもと》まで来ておるようです」
と言った。
「わかった。子竜、わが妻子のことは任せたぞ」
「御意にござる」
といっても恐竜戦車について歩く劉備と孔明はさして急ぎもせず、牛の歩みで坂を登っていった。しかしこれでも大道に難民が通勤ラッシュ時の山手線か、土日の渋谷のレベルで充満していたときよりもだいぶ速く、ようやく時速二・五キロくらいで歩くことが出来ていた。
劉備は、蹌踉《そうろう》とした足取りで、助け合いながら進む難民たちを眺め、
「やっぱり、将たる者、火急の際に大勢の民を連れ歩くようなことをしてはいけないと、身に染みて分かり申した。この玄徳、失敗からまた一つ学びました。この教訓を活かさねば」
としみじみと言った。口で言っても無駄、一度ぼろくその痛い目に遭わなければ分からない、牛馬のような男である。しかしこんなことは生涯において二度と起きないだろうし、起きるようなら終わりである。
「しかしもったいない。この民らが、すべてわが軍の兵士だったらなあ」
と、やはりあまり反省していない。
趙雲に逐《お》われた文聘は、途中で今度は張飛に見つかってしまい、またもや全滅の危機に陥った。必死でかわし、文聘が泣きながら曹操のところに逃げ戻ったときには、兵は三十も残っていなかった。
文聘が戻ったとき、ちょうど張遼の第一軍が到着しており、軍師の荀攸が曹操と打ち合わせをしていた。
荀攸はこのとき五十一歳くらいである。荀攸は董卓《とうたく》が殺され、曹操が献帝を保護してのしあがるまでの空白期に、蜀郡太守のくせに何故か荊州に居座っていたことがあり、地形風俗をよく知っていた。劉表の優柔不断な性格も見切ってしまい、後に劉表が曹操にちょっかいを出そうと色気を見せたときには簡単に封じ込めた。荀攸は生涯に十二の奇策を立てたというが、陳寿が悪いのか、どれ一つとして伝わっておらず、謎の奇策となっている。
身も心もずたずたの文聘は、曹操の前に這いつくばり、
「丞相《じようしよう》、お許しを。趙雲、張飛のやつめに皆殺しにされかかりました」
と言った。
「張飛、趙雲がまだいるということは、劉玄徳もまたそう遠くないということです。とすれば江陵に向かう敗走兵の中にはいないということ」
と荀攸が言った。
「それで、文聘、劉備のやつを見つけたか」
「はっ。それがもう大変だったのです。劉備に恐竜戦車とかいう車を使った幻術を見せられ、それがとても不思議な見せ物でして、感心している隙にこのありさま……。申し訳ござらぬ」
「幻術だ? そやつは本当に劉備だったのか。替え玉ではなかったか」
「確かに劉備でございました。あんな特徴のあるふざけた男をよもや見間違えたりいたしませぬ」
曹操と荀攸は顔を見合わせ頷いた。
「なるほど、劉備めは江陵に行くつもりはない、と見た」
と曹操は言って、にやりと笑った。だが荀攸は、
「いや、まだ分かりませんぞ。幻術のことはどうでもいいとして、わたしは誰も関羽に襲われていないというのが、いささか不気味です。この危地にあって関羽のような将を走り回らせないというのは不審なこと。もし関羽が殿軍《でんぐん》に暴れておれば張飛どころの騒ぎでは収まらなかったはず」
と言った。
「公達《こうたつ》(荀攸の字《あざな》)よ、それは違うぞ。張飛の武力は関羽にも劣らぬ。久しぶりにわしの背筋が凍ったくらいのもの凄さだった。まことに凶獣、確かにあれなら単独で一万人を食いちぎっても不思議ではない。張飛さえ出てこなかったら、わしはとっくに劉備を追い詰めておった」
さっきの張飛を見ていない荀攸の認識不足であるが、怪獣を目撃していない者にその説明をしても話半分にされてしまうのがおちだから、曹操も重ねて言わなかった。
「まあ、確かに、関雲長がおらぬのはおかしいな。いったいどこで牙を研《と》いでいるのか。関羽が先導して江陵に走っているということは、考えられないか?」
「それも分かりませんが、関羽の所在は重要、すぐに捜索させましょう」
と荀攸は慎重である。
曹操は、さっと手を挙げ、鼓手に太鼓を乱打させた。
張遼が走り出て振り向き、整然として列をなす軍団に向かって、
「けえーっ!」
と叫んだ。大旗がひるがえり、張遼軍の前進が開始された。曹操が率いた精鋭騎兵は引き続き前線をゆき、江陵に走っているという劉備軍を追わせることにした。
張遼の第一軍は堂々たる鉄騎の軍団であり、曹操の軽騎兵団が軍用オートバイの部隊だったとするなら、張遼軍は装甲車を連ねた機甲師団のような重厚さである。その一歩一歩が地を揺るがせ、前列の騎馬は徐々に並足から駆け足に移りつつある。
「張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]、于禁、李典の軍も続いて到着いたすでしょう。劉玄徳が小細工を企もうが、この大軍を遮ることなど不可能と存じます。われらは策など必要とせず、ただ大道を満たして堂々前進してゆくだけでよい。張飛、趙雲が如何に強かろうと意味をなさぬでしょう」
「珍しく楽な戦さとなる、か」
曹操も自分の馬に跨った。
「では、けりをつけにゆこうか」
「はっ。後のことはお任せを。心ゆくまで劉玄徳狩りをお娯《たの》しみ下さい。各軍到着次第、次々にまとめて追わせますゆえ、後顧のことは一切御懸念なくあれ」
「よし」
曹操は馬に鞭《むち》を入れ、年齢にそぐわぬ若々しさで駆け出した。
で、一方、劉備だが、張遼軍が発進し、その距離四、五キロに迫るというのになおも変わらずである。城も近くなり、柵や土塀などの守城設備や人家や家畜小屋が点在している。渇き切った兵や民が井戸を見つけて殺到していた。
張飛が戻り二百騎を率いて周囲を警戒し、二千の兵は劉備たちを護衛するべく続いていた。
しかし劉備も不安がってはいるようで、
「先生、そろそろわれらも、希望の地を定め、明日に向かって走り出しませぬか」
と促す。すると孔明、
「まだ決めてはなりません」
と言う。
「敵の大軍の気配が、わしの勘にびりびり響いておるのでござる。このままでは逃げ切れなくなりますぞ」
しかし孔明、爽やかに、
「もうとっくに手遅れでございます。いまさら命を惜しむわが君ではありますまい。この孔明が側についております」
と言うのであった。
「わしはもう終わりなのか!」
英雄が滅びるときとはたいていこんなものである。信頼していた左右の臣の強気なお追従にニヤついているうちに、気付いたときには周囲に誰もいなくなり、
「ああ、ここがわしの死に場となるのか」
と、天命を嘆くことになる。袁術がそうだったし、呂布も似たような最後をとげた。一瞬先にあの世へ逃れることが出来た劉表も、生きていればそんな感じで終わったかも知れない。昔で言えば項羽もそうだった。
「わが君、そう諦めるものではありません。わたしのうらないによれば、もう一つ、何かが、あるかと」
「もう一つ、何でござろう」
「天の御使いが現れるような、現れないような、そんな恋の予感がするのです」
劉備はあまりに具体性に欠けたあやふやな言説に、
(うぬー。わしは本当に先生に従っておっていいのか)
と疑念、危機感を抱き始めていた。劉備が樊城で聞いた当陽城での奇策は既に破綻している。また無意味に民を抱えて超低速で逃げたツケは、万倍返しの危機として迫っている。
それでも孔明を信じるという、男劉備に二言はなく、言うことを聞いてここまで来たわけだが、
(じつはもはや先生にも起死回生、窮地脱出の策などはなく、涼しい顔をして述べておるが、たんなる行き当たりばったりなのでは)
との思いが膨れあがるのを禁じ得ない。
(先生を捨てて、張飛、趙雲とともにとにかく突っ走ろうか。今ならまだ運が良ければ間に合うかもしれん)
妻子は衣服の如し、という。わが肉体さえ生き延びられれば、また再起は計れる。劉備は横目で孔明をじとっと嫌な目で睨み付けた。孔明は劉備の考えていることなどお見通し、
「わが君、ここで単騎千里を逃げるようなことをすれば、うまく生命を拾ったとしても、もはやどの国の民からも信用されることは無くなり、再起以前に、人でなしのクズ野郎の烙印を押されるだけです」
と、爽やかに言った。
「ぬうーん、意地悪。わしは絶対にそんなことはせぬ」
と劉備は身をくねくねさせた。
そのとき兵士が走り来て、
「怪しい、というか、身なりだけはやけに立派な、ヤクザ者を見つけました。そやつがわが君に面会を求めているのですが、槍で刺し殺してしまってもよろしいでしょうか」
と言った。
「ヤクザがこの大変なときにわしに何の用だ。そんなやつはどうでもいい。うち捨てておけ」
と劉備は言った。
が、孔明は白羽扇でビシッと劉備の言葉を遮り、
「その者、名は申しておったか」
と訊くと、
「魯粛《ろしゆく》と申しております」
孔明は頷き、
「その方をすぐに連れて参れ。殺すなどもってのほか! 無礼なく丁重にご案内せよ」
と言った。兵士は慌てて走っていった。
そして孔明は、劉備に、
「わが君、おそらくこれが待ちに待った予感と思われまする。そのヤクザはおそらくただのヤクザではなく、呉の孫|仲謀《ちゆうぼう》が最も信頼する懐刀、魯粛|子敬《しけい》に相違ありません」
と言った。この間まで兄の諸葛|瑾《きん》と定期的に文通していた孔明は、孫呉の主要メンバーのことはほとんど頭に入れている。
「なんと、それが本当なら、孫権に戦争を吹っかけてしまうところであったわい!」
「兵が早まったことをせず、まずはよかった。魯粛が何か言っても、わが君はいつものように下品な冗談でも言って、のらりくらりとしていてください。わたしにおまかせください」
「わかった。しかし本当に孫権のところの魯粛なのか? そんな大物がどうしてこんな場所にいるのだ。しかもわしに会いたいとは、もしやわしのタマを殺《と》りに来たのではないか。わけが分からんぞ」
「ふっ。すべては会えば分かるでしょう」
と孔明は謎の微笑を浮かべた。
やがて魯粛が連れてこられた。
兵士がヤクザと勘違いしたのも無理はなかった。弔問用の渋いブラック系の高級生地の衣服を着て、内着には絹布《けんぷ》と金ラメがちらりとのぞき、袖口から手首には今で言うならロレックスの腕時計とか、やたらごてごてした指輪とかの光りモノが、ちゃらちゃらと音を立てていた。冠の止め簪《かんざし》は呉の特産の象牙に、ビー玉のような真珠があしらわれている。外見はまさしく夜の会員制クラブで黒服の人に難癖をつけてゴネる田舎の高級ヤクザ以外の何物でもない。兵士たちもたんなるぐれた若僧や無頼漢だったらヤクザとは言わず、チンピラ、ゴロツキと呼んだはずだ。そんな者とは貫目が違う。チョイ悪どころでないハード悪だ。
しかも魯粛の話す言葉が江東|訛《なま》りで、荊州人にはよく聞き取れないあくの強いアクセントがある。魯粛の風貌|魁偉《かいい》なふてぶてしい顔つきは、丁寧に喋っていても人を恐がらせずにはおかない業界用語をごく普通に話していそうな印象があった。侠者は侠者なのだが、江東の侠者は劉備一家の連中とは雰囲気がかなり違っており、なんだか民を寄せ付けないプレッシャーを身にまとっている。
だが、劉備は魯粛のカントリー・スタイリッシュないでたちに、
(ぬおっ、これはただ者ではないぞ。隠し切れない暴力性が匂い立ち、そのワルさがかっこよすぎる!)
とたちまち惚れ込んでしまっていた。たまにその筋の男がタイプだという女性もいるが、まあそんな感じである。魯粛が仁義を切った。
「劉皇叔さんでございますね。お初にお目にかかります。わしゃ孫家に世話んなっちょる魯粛子敬いうもんです。以後お見知りおきを」
凄味のあるハスキーボイスで言われると、劉備はもう目をうるうるさせ、
「魯粛どのか。いかにもわしこそは今上陛下に天下でただ一人皇叔と呼ばれる間柄の、正義の使徒、劉備玄徳である。曹賊と義戦を重ねる孤高の英雄であり、今、人生最大の危機を迎えて、身をうずかせている男度胸の馬鹿な野郎である」
と、魯粛にぬるぬるの不潔な流し目をくれながら言った。魯粛は、
(なんじゃ、ほんまに劉備玄徳なんか、こいつは? 気色わるいで)
と思いながらも、
「本日は、ちいとばかり、皇叔の親分とお話をさせていただきたく、苦労してまかりこしましたんよ。わしとこのオヤジ(孫権)は、あんさんにえらい興味を持っとりましてね」
と、言った。そして劉備の隣にいる、魯粛のセンスからすれば、それこそぎょっとするようなアバンギャルドなファッションに身を包んだ孔明に、ちらりと鋭い目を向けた。
「そちらは諸葛孔明どのですな。安心してつかあさい。わしゃ子瑜《しゆ》(諸葛瑾の字《あざな》)とはポン友ですけぇ」
と意味ありげに言った。孔明の兄、諸葛瑾とは同僚であり友人だと強調することで、孔明の警戒心(べつにまったくそんなものは持っていないが)を解こうという魂胆であった。孔明は黙って目礼しただけである。
(こいつ、子瑜の名を出したのに、聞こえんかったんかい。つんつんしやがって可愛げのないやっちゃ)
と魯粛は思ったが、また劉備に向かって言った。
「しかし感激じゃあ。わしはいま、ほんまもんの天下の英雄、劉玄徳におうておるんじゃなあ。うん、うん。来た甲斐がありましたで」
魯粛の相好が崩れた。
「そいでですな、是非聞いてもらいたことがありましてね。そっちにもこっちにもウマい、えらくエエ話があるんじゃが。なんとか時間を割いてくれんかのう」
策士魯粛の舌が回り始めようとした時、馬蹄の音や叫び声、辺りが騒然としてきた。張遼軍先頭と劉備の兵がついに接触し、まずは武将の花舞台、一騎打ちが始まったのであった。
(げえっ。ちゃんばらはもう一段落したんじゃないんか)
江陵に潰走するように走っていく劉備軍とすれ違った魯粛はそう思ったかも知れないが、真の死闘はまさにこれから始まるのであった。
張遼軍は難民を馬蹄の響きで追い散らし、劉備軍をものともせず、乱れのない戦場展開を見せていた。
「魯子敬どの、かように取り込み中ですので、エエお話とやらは後にしてもらいましょう」
とやけに冷静に孔明が言った。魯粛はやや顔を蒼ざめさせている。
(なんちゅうことじゃ。物凄い軍勢が襲ってきよるじゃない)
ここはじきに戦場のど真ん中、しかも魯粛の仲間はどこにもいない。魯粛の命も風前の灯火というところ。
二千ばかりの兵が必死で支えていたが、とてものこと張遼軍の圧力にかなうわけがなく、隊列を崩して乱戦となっていた。喚声を耳にして、前方に行っていた張飛がとって返してきた。
「おお、来やがった。あれは張遼の野郎だな。やっと歯ごたえのあるヤツが出て来たぜ。ヤツならこのおれとの一騎打ちから逃げまい」
とぎらついた目をして、蛇矛をひとしごきした。
(な、何もんじゃ、この血塗れの狂虎のような男は)
初めて張飛を見た魯粛は、持ち前の度胸胆力も一瞬にしてすり潰された思いで、身体を無意識にがたがたと震えさせてしまった。この世の者ならぬ死神を見てしまった戦慄である。
その時である。糜芳《びほう》が顔面に数本の矢を突き立てたまま(もう死んでるんじゃないのかと思うが、そう書いてあるんだから仕方がない)、ふらふらと駆けつけてきた。
「一大事にござる。趙雲が曹操に寝返りました」
と信じがたい報告をした。
「まさか子竜に限って、そんな馬鹿なことがあろうはずがない。見間違えであろう」
と劉備は聞く耳持たぬという態度で言った。
しかし張飛の目はいつもの数倍の光度でぎらりと光っていた。
「趙雲め、やっぱりな。ヤツがいつか必ず裏切るに違いないと昔から確信していたわい。この土壇場に来て、寝返って曹操のもとへゆき、富貴を得ようという魂胆だろう。許せねえ」
「飛弟、何かの間違いぞ。子竜は鉄石が大好きな男、けっして金銀宝玉に目がくらむような男ではない」
と、劉備が強くかばった。しかし矢鴨のような糜芳がさらに、
「それがし、趙雲が西北に走り去るのをこの目でしかと見たのでござる」
と言ったから、張飛はもう微塵も疑わず、
「裏切り者の畜生めが、生かしておくわけにはいかん。おれが捜しに行く。もし行き合ったら、一寸刻みに斬り殺してくれるわ。わが軍団の血の掟をとくと味わわせて地獄に送ってやる」
と、趙雲を毛ほども信用していない。
「待ってろ、趙雲、ぶっ殺してやる!」
と張遼軍のことなどすっかり忘れて、馬腹を蹴ってすっ飛んでいった。
同志である趙雲とは、何年も一緒に過ごしてきたというのに、まったく信頼感も友情も育っていない張飛であった。劉備と同じく、
「子竜はそんな男ではない」
と否定して、かえって糜芳に顔面パンチをいれるのが本筋であると思われるが、『三国志演義』は張飛の決めつけを支持しているかのようだ。のちに言う蜀漢五虎将の二人ではあるが、張飛と趙雲はじつはとても仲が悪いんじゃないのかと(張飛の一方的悪意)、わたしは以前から思っていたのだが、こういう場面を見せられるとやっぱりそうに違いないと思われてくる。だが、昔、張飛は兄と慕う関羽を裏切り者呼ばわりして殺そうとした前科もある。とにかく理由さえあれば(別になくても構わないのだが)仲間であろうと殺すことに何の躊躇《ためら》いもない男であると『三国志演義』が保証しているということだ。
趙雲を八つ裂きにすることが長坂坡の戦いの目的と化してしまったかのような張飛に対して、『三国志演義』には劉備が、つよい口調で、
「子竜を疑ってはならんぞ。そなたの兄(関羽)はかつて顔良《がんりよう》、文醜《ぶんしゆう》を斬り殺したことがあるのを忘れたか。子竜がここを立ち去ったのは何か重大な事があったに違いない。でなければ子竜がわしを見捨てて行こうなどとは考えられぬ」
と、言って張飛を止めようとする。何故ここで顔良、文醜の話が出てくるのかさっぱり分からない劉備理論だが、とにかく当時、関羽には曹操のために働かざるを得ない理由があったのだから、趙雲にだってそういう事情があって曹操配下となり襲撃してくるに違いないのだと説得しようとした、のか(要するに劉備も趙雲の行動を準裏切りと思っているのか)? しかし、庇《かば》うよりもかえって張飛の疑いを助長するような煽りというしかなく、ほとんどの『三国志』がこの劉備のせりふを、
「わけのわからん口を挟まないでくれ」
というか、面倒だから(?)スルーするのも当然のことだ。
もちろん当の張飛は言われなくとも無視して、はりきって趙雲抹殺に出掛けた。西北には沮河《そか》という川が流れており、そこにかかるのが長坂橋である。
(趙雲は必ず長坂橋を通るに違いない。裏切り者めが、待っていやがれ)
趙雲に対する激しい憎悪が張飛の勘を冴えさせていた。劉備の護衛などほったらかしにして、張飛は先回りして待ち受けるべく、敵を斬り殺しながら急行していった。
劉備は、張飛の一隊を見送りつつ、
「先生、いかがいたせばよいのだ。このままでは子竜と飛弟が共倒れになる」
と孔明に訴えた。しかし孔明、慌てず騒がず、
「子竜どのは、子竜どのなりに土壇場で裏切りっぽい怪しい行動を取って気を引き、伝説をつくろうとなさっておられるのでしょう」
と言った。
「そして翼徳どのは裏切った友を、泣いて(喜んで)討つ……。これは一本取られましたな。なかなかできる伝説つくりではありません。さすが翼徳どの、ガチでやったら子竜どのとどちらが強いのか、後世の人も知りたいに違いありません」
まさにナイスマッチメーク伝説! と言わんばかりだ。また糜芳に目をやり、
「糜将軍は既にして伝説となっておられる。顔面に数本の矢を突き立てたまま注進に及ぶという、まことに並の人間には真似のできない荒技。この孔明、感服いたしました」
と感嘆の声で言った。糜芳は、泣きながら、
「いや、とても痛いのですが。本当に死にそうでござる。はやく手当をしてくだされ」
と呻くのであった。後々、蜀漢の裏切り者となる糜芳へは既にして制裁が開始されているようである。
「なるほど、みな頑張っておるのだな。そう考えれば辻褄が合う。わしもここはひとつ、凄いのをつくらねばならんということですな」
と劉備が言うと、孔明は、
「わが君の場合はもうやることなすことすべてが(良い悪いは別として)伝説となっておられるゆえ、もう何もしないで欲しいくらいです。殿はこの危地を生き延びるだけで伝説の輝きが増しましょう」
と言った。
ただ生きているだけで伝説になる得な男、劉備。
「なんの。この玄徳、それくらいの伝説で満足するような淡泊な男ではない。配下たちに負けてはおられぬ。ここではまだ絶体絶命というにはぜんぜん足りん。こうなったら下帯一丁で曹軍十万の前に立ちはだかり、一斉射撃を食らって宙にゆっくりと浮いて、血潮をまき散らしながらどおと崩れ落ちる名場面をつくるまで! よっしゃあ、目指した場所はそこにある!」
自暴自棄なのかだいぶハイになった劉備は張遼軍との激突地点に向かって突進しようとし、それを部下が必死に抱き留めている様子を、孔明は温かい目で見守り何度も頷くのであった。
ほったらかしにされていた魯粛は唖然《あぜん》とした顔つきで劉備主従の会話を聞いていたが、
(こいつら、いったい何の話をしとるんじゃ)
と当然のように頭を混乱させかけていた。
(死がそこまで来ておるのに、頭が不自由なんかのう?)
「こんなときにこんなことを言うのも、どうかと思うんじゃが、あんたら(頭は)大丈夫なんかの?」
と魯粛はたまらず孔明に訊いていた。
「大丈夫です」
と孔明はきっぱりと言った。
「孫呉一のキレ者との評判がたかい魯|子敬《しけい》どのにならわが君の、あの狂っているとしか思われない器の巨大さがお分かりになるはず。なにしろ貴殿も若年の頃よりいろいろと狂った逸話が多い方である。兄(諸葛瑾)との文通で承知しておりますよ」
劉備はきーきー叫びながら鎧や衣服を脱ごうとしており、それを部下らが押さえつけ、あまりに聞き分けが悪いので、うっかり蹴りを入れたりしていた。
「部下にど突き回されて、あれは、う、器がでかいんじゃろか」
「それよりも、魯子敬どの、ここで会ったのも何かの巡り合わせ(か、飛んで火にいる秋のヤクザ)。協力せねばもったいない」
「ま、まあ、そうじゃが」
魯粛は、もはや、
(あんたらに会うために苦労してここまで来ましたんよ)
とは言いたくなくなってきた。早く逃げたい。
「ふふ、エエお話とやらは後の楽しみとして、まずはおともだちになりましょう。子敬どの、こんな所でぼーっとしていては馬に蹴られて死ぬか、槍で串刺しにされるか、運が良ければ曹軍の捕虜にされることにあいなる。ここであなたが曹公に捕まったりすれば、孫呉全体を震撼させる大失態となり、今後の策謀に差し支えるのではありませんか」
かりに捕虜となり、曹操から魯粛について呉に問い合わせが来ても、張昭あたりから、
「そんなちゃらちゃらしたヤツは孫呉には存在せぬ。ウチとは関係ないゆえ、好きにしてもらって結構」
と冷たく切られてしまうかも知れない。魯粛は孫権以下ごく少数の者しか知らない隠密外交のために出て来ているのであり、曹操の虜囚となっては確かに立場がない。
孔明は魯粛の顔色を読み、身を寄せて、
「誰が敵か味方かも分からぬこの乱世。子敬どののお考えはよく分かります。だからまずはおともだちから始めませんか」
と、孔明は甘ったれるように言った。いやもう両軍入り乱れる激戦が八百メートルくらい先で起きており、二千の劉備軍は押しまくられている。鉄騎部隊がここまで雪崩の如く押し寄せるのは時間の問題であった。
「そげんことより、あんたらも早く逃げんと……どわっ」
人頭が彗星《すいせい》のように血を引きながら飛んできて落ちた。
「人の頭が降る……。天文を観察するに、これは天変地異の前触れ」
と孔明は眉一つ動かさずに言った。魯粛でなくとも異常者と見、離れたくもなろう。
「じゃから、早う逃げんと、あんたもわしも」
しかし孔明、平然として、
「そんなことより、おともだちになってくださいのご返事は?」
と魯粛にぬらぬらした交際を迫るのであった。
(諸葛亮が異常者だという噂はほんなこつやったかい。諸葛|子瑜《しゆ》もこやつの話をするときはいつも沈痛な表情で心を痛めておった。こんなヤツと友だちとなるなぞ、男としていけないことかも)
魯粛は断って逃げようとするが、孔明は魯粛の袖を取り、すっと白羽扇を伸ばして目を塞ぎ、魯粛の耳元に口を寄せた。
「そう嫌わないでください。子敬どのほどの大物が、わたしたちを尋ねてきてくださっている名誉が、わたしは涙がでるほど嬉しいのです。ああ兵士たちに、『ここには孫呉の大幹部の魯粛がいる。もし手を出せば激怒した孫家の非合法若い衆が暗殺合戦の火ぶたを切りますぞ』と敵陣に向かって大声で叫ばせたくて仕方がない! 敵陣には曹公も到着しております。子敬どのの名が響き渡り、嬉しくない悲鳴が起こりましょう」
と、爽やかな笑顔で恐喝した。
「げえっ」
(そげなことをされたら、身の破滅、わしの計画はご破算じゃ)
魯粛の顔面は蒼白となった。
このぎりぎりの切所《せつしよ》のときに、劉備軍団内に魯粛がいるということは、既に劉備が孫権と通じており、呉とのコラボで何か反曹操のイベントを大々的に企画していると決めつけられるのは必定である。曹操と事を構えたくない和平保守派の張昭一派がそんなことを許容するはずもない。
「デマにござります」
と発表して弁解を重ね、曹操へは、
「魯粛は法螺《ほら》の吹きすぎで気が触れた男であり、とっくに組を破門しております。何をほざいたか知らぬが、われらとは無関係である」
と回答することは間違いない。
今のところ呉では張昭の息のかかった和平派が多数を占めている。魯粛が孫権、周瑜、諸葛瑾らと語らって進めている反曹操的陰謀は張昭によって潰され、孫権は無理矢理隠居、強硬派は牢獄に送られ人知れず揚子江の魚の餌にされることになる公算が大である。そんなことになりかけたら、周瑜は呉を割って国内で『美周郎三国志』をやり始めるかも知れぬ。少なくとも現時点で魯粛の破綻した先走りが知られることはあまりにもまずい事態であった。
だいたい劉備と会うことにしたのははっきりと魯粛の独断専行であり、しかも劉備を説得して同盟のとりなしにまで及ぶのだから明らかにやり過ぎであって、如何に孫権に寵愛されていようが処刑されかねない越権行為である。曹軍が孫呉に挑戦状を出したから、その騒ぎでうやむやになったものの、魯粛の行為は追及されてしかるべきものである。魯粛からすれば、
「一生懸命に劉備を説得し、味方に引き入れたのだ」
ということになるが、落ちぶれた餓狼を味方にして得があるかといえば、甚《はなは》だ疑問である。
前述した通り、孫権とは弔問にかこつけて襄陽に入り込み、劉g《りゆうき》、劉j《りゆうそう》から荊州を騙し奪《と》るという策で一致しただけで、劉備のことはあくまでオマケ、使えるなら犬として使ってやろうくらいにしか思っていなかったはずなのだ。なのに気の迷いなのか、さっさと復命に戻ればいいのに、劉備と会えば何かエエ土産になるかもと、魯粛はその可能性を探るつもりだったのか、こんなデッドゾーンまでふらふら来てしまったのである。
さらに魯粛は、風前の灯としか見えない負け犬乞食の劉備たちに救いの手を差しのべるという、孫権が聞いたら張昭よりも怒るかも知れないまずいことまでしたと解釈されても仕方がない。普通なら、負けて四散し、兵力も無きに等しい劉備と手を結ぶなど誰も一考もしないと思われるが、何故か魯粛はその場で勝手に劉備に同盟要請を持ちかけるのだから、わたしにも魯粛が何を期待したのかよく分からない(この件では同志の周瑜にすらたっぷりと嫌味を言われることになった)。
まことに呉の名参謀らしくない奇怪な所業であるというしかなく、魯粛には史料に浮上していない策でもあったのだろうか。
「孔明どのよ、わしを脅すつもりかい!」
孔明は兵士を差し招き、
「ここに天下の大策士、魯子敬どのがいるのだが、皆に知らせ、もちろん敵軍にも……」
魯粛は慌ててその兵士を追い払い、
「いや、孔明どの、それは勘弁してくれんかい。クソ、いやその、頼みますけん、わしがここにおるんをバラすのは止めてつかあさいや。わしゃあ、ほんとにたまたまじゃけん。ここにおるんは、たまたま。たまたま、ここにおるんじゃけん。本家とはまったく関係ないんよ」
「誰が偶然だなどと言って信用するでしょう。子敬どの、その言い訳は無理というもの」
刻一刻と張遼軍の兵の死の刃が近付くなか、孔明の気持ちの悪い外交責めを食らわされる魯粛は持ち前の機略胆力も不発となっていた。いつもならどんなピンチであろうと回転の速い頭脳と任侠仁義の名の下に暴力をちらつかせて収めてしまう男度胸の魯粛であるが、どうも孔明相手では勝手が違って通用しない。
「曹公と奸智《かんち》の鬼のような軍師たちが、たまたま、を信じてくれるとはとても思えませんよ」
と孔明は白い歯を煌《きら》めかせて言った。
「ようもぬけぬけと」
まことに蜘蛛の巣にかかったミツバチ、蟻地獄でもがくみなしごのような魯粛であった。
魯粛はついに、
「わしと付き合ってつかあさい」
と言うしかなくなった。孔明は、ふっと笑むと、
「わたしには既に劉皇叔というお方がおります。ただのおともだちとしてなら」
と言った。
(恥ずかしー。このガキゃ、えげつなさすぎるで)
いつか殺すと脅し返したい魯粛だが、それ以前にもうすぐ曹軍に殺される確率が九〇パーセントを超えかかっている。
孔明、魯粛を無理矢理おともだちにしてしまう! いったい何のために? やはり伝説作りの一環か。
孔明が「草廬対《そうろたい》」に語ったところによれば、孫呉とははじめから手を結ぶ計画であったことは間違いない。
「孫権は江東をわが手に収め、代を経ること既に三世。国境は要害堅固にして破りがたく、民衆はよく懐いて心服し、いささかの違背も抱かず、また賢人、能力者が手足の如く働きおり、これは必ず味方とすべきであって、決して敵としてはなりませぬ」
と呉を評しているのだが、認識にいくらか誤りがあるのは陳寿の密談透視が呉のいいところだけを簡略にまとめすぎたためであろう。
江東ではしばしば山越蛮族との衝突が起きていたし、孫権の指導力不足のため地元の豪族どもがしょっちゅう抗争騒ぎを起こしていた。民がよくなついていたというのも暴力による脅しが利いていたためであり(呉に限らず国家とはそういうものだが)、それも含めて人口がひどく寡《すく》なく、常にあがりが不足気味であることが呉の一番の頭痛の種であった。孔明が語っているような鉄壁集団には程遠い。当然、動員できる兵数も少なくなるわけで、兵士は無理をして全域で約十万、うち赤壁《せきへき》の戦いに動員できたのは約三万であった。
のちに人口問題解決のため孫権は何度か人民拉致を実行しており、しまいには東シナ海の島々まで行って人間狩りをさせたことをうかがわせる記述まである。呉は非人道的な人さらい国家でもあった。
そういう国と国交を樹立するとなれば、十分以上にタフな駆け引きができなければなるまい。まずは魯粛をぺしゃんこにしたのはたんなる意地悪であると同時に、足がかり作りのためであったろう。孔明、近い将来、自分が単独で呉にゆくことになると神の頭脳で予測していたか、占いに出ていたのか、それはわからない。しかし、そうなるとすればたんなる保険以上のものが必要である。そこで魯粛の出現は鴨ネギであった。なんとしても親劉備派にしておく必要がある。
呉郡はクリークのひと区画ごとにまるでコンビニのように組事務所が看板を出しているような焼け跡闇市地帯である。城市《まち》を歩いていて目が合ったというだけで身ぐるみがされて半殺しにされかねない荒っぽい土地柄なのだ。劉皇叔の使者とはいえ、有り難がる者など一人もおらず、何の策もないままに潜入するのは異常者の孔明といえどもあまりにも危険すぎる。
しかも、もし孔明が肩が軽くぶつかったくらいの理由でぶっ殺されてしまったとしても、生き残り直後の寄せ集め集団でしかない劉備は、力関係がぜんぜん間に合っていないから抑止力皆無、孔明の敵討ちどころか抗議もまともに出来ないはずである。かりに関羽、張飛、趙雲が、個人的にわれらを舐めるなよと一人一殺の抗争も辞さずと強硬に出ても、
「あんたとこの若いのは勝手にひっくり返って死んだんじゃ。たんなる事故じゃのう。わしらこそ見舞金を貰いたいで」
とか、
「お宅の若い衆はケンカが弱いのう」
と誤魔化され、せせら笑われるだけだろう。
特命外交官の孔明はそんな場所に何故かたった一人で行かされることになるわけで(やはり劉備はひどい男だ)、趙雲を同行させるくらいしても罰は当たらないと思うんだが、それもなしとなれば劉備は孔明に万一のことが起きても別に構わないと思っていたとしか思われない。
とにかく孔明としては、呉に実兄諸葛|瑾《きん》以外にも、味方の一人もいなければ話にならぬと思ったろう。現実に魯粛がつよくフォローしなかったら、群儒《ぐんじゆ》との舌戦も、孫権との謁見も、周瑜との会見も、何一つ実現しなかった可能性だって高いのである。魯粛のハートをきっちり掴んでおかなかったらどうなっていたか分からない。諸国とあまりにも事情が異なる呉に対して、難し過ぎる交渉であった。
そんな、孔明一人を危険にさらしていた、そのときの劉備はと言えば、同盟相手として最低限の資格があるとはとても思われない手負いの野サル状態である。軍団は壊滅し、江夏の劉gのところに居候してほそぼそと飯を食っていたのであり、いつものように一文無しであり、兵士は劉gからの借り物、こんなことでは頼み込んで孫権の配下に加えてもらうくらいが関の山である。劉備が孫呉と対等な軍事同盟を結ぼうなどとは痴人の妄夢というしかない。それを孔明は、結局、結ばせてしまった。孫権にばかり負担が大きい不平等な大損同盟であって、げんに陸戦しか出来ない劉備軍団は赤壁の戦いではほとんど役に立っていないのだから、どこの呑気屋でも憤怒湧き起こる片翼だけのアライアンスとなった。
そんな無茶で困難な状況であるにもかかわらず、涼しい顔をして対等同盟を成功させて帰ってくる二十八歳の若僧、孔明も孔明で、さすが臥竜《がりよう》! というしかないのだが、その異常な外交手腕については『三國志』では何故か故意にか詳しく書いていない(隠して表沙汰にしたくもない、腹立たしいにも程がある屈辱の交渉過程だったに違いない)。しかもその同盟のせいで孫権は劉備に荊州南四郡を火事場泥棒されてしまい、周瑜はこめかみの血管が破れて血液が迸《ほとばし》り、口惜し涙を流すことになるのである。孫呉にとっては踏んだり蹴ったりな同盟だったのであり、それを仕組んだワルは孔明と魯粛ということになる。
ともあれ劉備軍団と孫呉の関係は魯粛が重要なキーマンなのである。晩年に孫権が「わが懐かしのベスト軍師たち」を比べ評したとき、魯粛の才と手柄は賞賛するものの、媚蜀派と言われても仕方がないほどに劉備たちに甘かったことだけは許し難いと批判している。
さて、孔明、一生の不覚と嫌そうな顔をしている魯粛に言った。
「子敬どの、そんな顔をなさいますな。これからわが君、劉皇叔の男の中の男っぷりを見ていただいて、おともだちになっても決して損はさせないことを知っていただきましょう。真の友情を芽生えさせて、ひっかかることは長江の水に流して忘れることです」
そして劉備の大耳を引っ張り、
「殿」
と呼んだ。
「うぬ、どうした先生」
「魯子敬どのとおともだちになりました。わが君も大事にしてください」
「おお、それはよかった。先生の友なら、わしにとってもマブである」
「それで、そろそろ、ゆきませんと」
「うん?」
「曹公の軍に違いの分かる特徴のあり過ぎる御姿を目撃され、男一匹、義を貫くためなら、民衆とともに死ぬことも厭《いと》わぬという決意を見せつけることはもう十分に出来ました。しかしここで骸《むくろ》を曝《さら》すわけには参りません」
劉備軍二千あまりはもはや崩壊寸前、矢が何十本と音を立ててかすめていった。
「一度、死んだ感じを漂わせ、不死鳥のように復活いたせばこの戦さは殿の勝利といって過言ではない。数万の兵を投入しながら殿を仕留められなかった曹公は天下の笑い者となること必定でございます。ならば……生きねば」
「いやもう、わしはべつにここで死んでも構わんという気分になっておるのだが。むしろ殺して欲しいくらいだ。もし生き残って、わしのせいで無意味に殺された民たちの怨霊に取り憑かれ、責め立てられるなら、それは御免である。くーっ、心ある者はわしを八つ裂きにしてくれい」
今は極限状態、劉備の脳内物質が妙な具合に分泌して、キリング・フィールド・ハイに陥るのも分からぬではない。
「だいいちどこに逃げる隙間がある。わしの勘は逃げ場所は冥土だといっておる!」
張遼の第一軍の後方には于禁《うきん》、楽進《がくしん》、|張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]《ちようこう》らの軍勢が続きつつあり、当陽近辺を包囲するように六、七万近い敵兵が足の踏み場もないほど埋め尽くすのは時間の問題である。頼りのワンマン・アーミーの張飛や趙雲はどこかに行ってしまっており、もはやこれまで感がそこらじゅうに漂っている。
「逃げ場がないというのが、殿の魔性の勘による判断であるなら、それが最良だということです。お諦めになるのはまだ早い。この孔明が魔法をとくとご覧に入れましょう。それでも避けられぬ死ならば、それは天命ということで」
「魔法とな。先生はこの絶体絶命の危機をなんとかできると申すのか」
「ふっ」
孔明は白羽扇で劉備の耳の穴をあおぎながら、恐竜戦車を指さした。
「何のために恐竜戦車をわざわざつくって、ここまで運んできたとお思いか」
「それは暇潰しというか、わしを楽しませる贅沢のためではないのか(手品の道具でもあったし)」
「そういう役にも立ちましたが、それだけではありません。とにかく急ぎ二号車に乗ってください」
「どれが二号車か分からん」
「つまりは曹公の兵らにも分からないということです」
しかし孔明は迷うことなく、一台の恐竜戦車の後部扉を開いた。じつは車体にナンバーを彫るようなことはしていないが、繋いでいる牛の柄により、二号だと判るようにしてあった。
「子敬どのも、ここで斃《たお》れたり、捕虜となりたくなければ、こちらへ……」
孔明は魯粛の袖を引っ張って、
「なんですかい、この変な箱というか乗り物は? か、棺桶かい?」
とかなんとか乗り込みたくなさそうにじたばたしている魯粛を、兵士に手伝わせて放り込んだ。最後に孔明が乗り込み、ぱたんと扉を閉じた。曹軍兵士の何人かは離れた所からそれを目撃していた。
劉備軍が完全に崩壊した後、兵士の報告を聞いた曹操が、何か危険な仕掛けがあるかもと用心し、遠巻きに囲んでその恐竜戦車の扉を開けたが、当然、空っぽであった。残り二台の恐竜戦車も開いて臨検したが、中で年寄りが震えていた。曹操が目撃した兵士に、
「ほんとうに劉備たちはこれに乗り込んだのか」
と尋問したが、兵士は頷くばかりである。
「消えた。などということがあるはずがない。付近を徹底的に捜索せよ」
曹軍兵士たちは当陽近辺の草の根を分け始めた。
程c《ていいく》が襄陽の岸の樊津《はんしん》から順にくだって漢水の各津を封鎖させつつあり、川猟師の小舟すらも一時接収している。また劉備が姑息にも確保しておいたらしい船団が難民を乗せて江陵に向かったという未確認情報もちらりと入っている。
漢水の通行は曹軍の監視下に置かれつつあった。
さて、意気地だけは立派だが、お遊び気分の抜けぬ劉備軍団ならびに難民十余万についに迫撃を開始した曹操が軍勢。劉備の命は風前の灯火、また孔明に切り札として捕えられたどじな魯粛の運命や如何に。果たして張飛、趙雲は皆が知る評判通りの大活躍を見せることが出来るのかというところ。
それは次回で。
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趙子竜、紅光の戦士と化し、張翼徳、長坂に響動《どよ》めく
劉備の当陽《とうよう》から夏口《かこう》への脱出ルートは資料的にはほぼ確定しているのだが、『三國志』に明快に書いてあるわけではない。当陽─夏口間は直線距離にして約三百五十キロだが、河川湿地帯が入り組んでいる上に何度か方向転換しているから、逃走側も追跡側も大変な苦労であったろう。落ち武者劉備が何日かかって辿り着いたかも分からない。劉備が漢津《かんしん》の東へ逃げたと知った曹操は舌打ちしながらも早いうちに追跡を諦めたようである。
だいたい陳寿自身が逃亡ルートをよく分かっていなかったようで、誤魔化したようないい加減な記事が散見しており、ほぼこのコースで正解だとしたのは『三国志演義』でもなく、二十世紀の研究者の仕事であろう。そんなわけだから、劉備の大脱出は『三国志』作家の胸先三寸となってしまい、多くは孔明、劉備が予《あらかじ》め計画していた通りに事が運んだとするものがほとんどである。
面倒臭いところはさらっと流して次の章では夏口で大笑いする劉備を書くのも一つの方法であろう。それでいいのかどうかはおくとして、すべて既定の計画通りとするならば、日速五キロの難民大虐殺も、関羽の船団の江陵《こうりよう》行きも、趙雲の劉禅《りゆうぜん》救出の激闘も、張飛の長坂橋《ちようはんきよう》での野獣の一喝も、すべて孔明があらかじめ予測計算していた魔の劇場ということになる。
わたし思うに、あっけなく捕捉され、撃滅されたはずの劉備軍団の幹部メンバーが誰も戦死したり捕虜になっていないのは不可解なことである。中堅幹部の糜竺《びじく》とか劉封《りゆうほう》とか陳到《ちんとう》とかが後世に残る派手な死に様を見せたほうが、作劇上でも、つくり甲斐があると思うのだが、謎の幸運のせいか全員無事なのは不審であると言いたい。死んだのは糜《び》夫人(自殺)だけという納得のいかなさである。劉備軍団の主要メンバーは樊城《はんじよう》から直接夏口に向かったとしたほうがまことにすっきりする。
長坂坡の戦いは陳寿が妄想した嘘っぱちだったという衝撃の新説を本場中国の気鋭の学者が提示して欲しいものである(日本人が言うと妄言にされかねない)。
孔明がなにやらタネを仕込んでいる間に張飛、趙雲の伝説つくりを追ってみる。始めから終わりまで滅茶苦茶というしかない長坂坡の戦いもようやくフィナーレに向かって収束しつつある。
とりあえず趙雲とその一隊である。
劉備の家族の護衛を任されていたが、時とともに増える敵兵に、皆を助けようにも手が回らない。予想通りに大ピンチであった。
ここから趙雲の「単騎主を救う」伝説になるのだが、ぜんぶが作り話ではないらしい。
でも関羽、張飛、孔明とは違って、義理堅く常識があり、頭も切れる少なくともまともな人間だとふつう思われている趙雲が、どんどん人間のかたちを失ってゆく哀しみというか恐怖がスピードトークでヒートしてゆく講釈師|悦《よろこ》ばせの一幕である。
『三國志』趙雲伝ではいたって簡単に、
「先主(劉備)は曹公に当陽県長坂坡まで追撃され、妻子を棄てて南方に逃亡した。そのとき趙雲は身に幼子を抱いた。すなわちのちの後主(劉禅)である。また甘《かん》夫人を護った。後主の母である。皆は危難を免れるを得た」
とある。南方に逃亡、というのが間違いでないのなら、ちょっとおかしなことになる。長坂橋は長坂坡の東北方にあるから、また陳寿が適当なことを書いただけなのか、本当に劉備が南に逃げたのか、それはよく分からない。劉備は妻子を棄てて逃げたので、よって劉禅と甘夫人は置き去りにされていたことが分かる。同時に趙雲が劉備とは同行していなかったことも分かり、劉禅をだっこして、甘夫人を励ましながら、南か北か、どこに逃げたか分からない劉備を追いかけた。
また裴松之の引く「趙雲別伝」に、いう。
「むかし先主が敗北したとき、趙雲がもはや北方へ去ったという者がいた。先主は手戟《しゆげき》でその者を打ち、『子竜はわしを見捨てて逃げたりしない』と言った」
これが趙雲裏切り通報の元ネタになった。この二つの記事がもとになり、劉禅を懐中に庇いながらも馬上疾駆して曹軍部将五十余名を斬殺したり、趙雲と馬が穴の中から赤い光線とともに飛翔したりと、もうやりたい放題のハイパースペクタクルが趙雲を無理にも第四のスターにのし上げようとするのである。しかしこれは演出過剰だったと思うのは、名場面は名場面なのだが、嘘くささにも加減が大事なのであって、やはりここは張飛の仁王立ちのほうが印象に残ってしまうからである。
かく長坂坡の超人的な活躍により個人的なパワーでは関羽、張飛を超えたと言っても過言ではない趙雲に、
「子竜は満身これキモッ」
と女子中学生が言ったりしたらそれは可哀想すぎるというものだが、羅貫中の筆は趙雲を勇猛果敢な燻《いぶ》し銀の武将というよりも、怪しい異常戦士にしてしまっているきらいがあり、結局、関張を超えた感じがしないのである。孔明と気の合う間柄なのがいけないのかも知れない。長坂坡には趙雲の記念碑もあるそうだから、それはそれでいいのだろう、たぶん。
ただ「劉備の家族」と簡単に言うが、このとき家族を何人連れていたのかがはっきりしない。『三国志演義』ではすっぱり減らして甘夫人、糜夫人、阿斗《あと》(劉禅)のことしか書いていないが、じつはもっと大勢いたのであり、卑劣な劉備はその全員を棄て切って遁走《とんそう》したのである。劉備と関係を持った女性が何人いたかは分からぬとしても、やはり作った子供は多かったはずである。長坂坡でも曹純《そうじゆん》(曹仁の弟)が、劉備の娘二人を捕らえたという記事がしるされているが、その後、劉備の娘がどうなったかは不明である。
劉備は若い頃から甲斐性がないにもかかわらず、行く先々で女をつくり、その子供の数も決して少なくなかったらしい。義勇軍(任侠的傭兵部隊)の若親分があっちこっちで女を作りまくっていたわけで、正夫人も第二夫人もくそもなく、当然ながら皇后などと呼ばれるはずもなく、配下からはアネゴと呼ばれるような女性である。
「先主(劉備)はたびたび正室を失った」
とあり、本人は風来坊のプレイボーイを気取っていたのかも知れないが、たびたび愛想を尽かされたり、捨てたり、捨てられたり、ときには死んだりして、たいてい不幸にしてしまったと思われる。新野《しんや》時代には糜夫人、甘夫人がいたということだが、他にいてもおかしくはない。
しかし微塵も反省せず、甘夫人が死んでヤモメになると今度は御年十六歳だか(サバの読み過ぎでほんとうは二十三)の超武闘派少女「孫権の妹」を娶《めと》り、数年を経ずして離婚している。さらには益州入りのあと、劉焉《りゆうえん》の縁者であった未亡人を娶り穆《ぼく》皇后としている。このときいろいろ嫌らしいことがあって、蜀漢の理論的擁護者である習鑿歯《しゆうさくし》にすら人として誤りだと批判されている。劉禅には異母兄弟姉妹が何人もいたということである。
曹操を見てみると、十四人の妻を持っていて、正室の丁《てい》夫人とうまくいかなかったことを除いては、あまり無責任なことはしなかった。曹操には男子だけでも二十五人の子供がいる。女子についてはよく分からないが、献帝をはじめとする著名人に嫁がせているから、たくさんいたのは間違いない。
そういうことはさておいて、少なくない劉備の家族のうち、趙雲は今のところ一人男子で世継ぎとなる可能性が高い阿斗《あと》をメインに護衛していた。
阿斗らは特別あつらえの馬車に乗って行軍していたが、人混みの中で孤立、長坂坡で曹軍の襲撃が開始された後は、逃げ回る民衆と兵士らの戦闘に巻き込まれ、趙雲が目を離したすきに迷子になってしまっていた。
「締まりキン○マあ! 若君はいずこぞ」
締まりキン○マというのは、趙雲の故郷の常山《じようざん》県|真定《しんてい》で、うかつなヘマをしたときについ発せられる慣用句であるということにしておいてもらいたい。身を震わせた趙雲は危険をかえりみず、難民と敵軍のミックスの中を突っ切り、行きつ戻りつし、甘夫人たちを捜索していた。顔面矢立ての糜芳は曹軍の方に向かう趙雲を見て、
「趙雲、裏切る」
と早合点したのであった、ということになる。
あっちへ行っては殺し、こっちへ来ては殺しと気儘《きまま》な殺戮《さつりく》を楽しんでいる張飛と違って、比較的真面目な趙雲は常に戦闘地域におり、任務遂行を第一として、曹軍主力をほとんど一手に引き受けてエキサイトしている状態であった。
(わが君は無事にお逃げになったのか?)
もはや散り散り。誰がどこにいて、一秒後に自分が生きているかも分からない乱戦となっている。二夫人と阿斗を急ぎ探し出したいのはやまやまだが、続々と到着して襲ってくる敵兵を殺しまくるので手一杯であった。
趙雲史上、最大の死闘がもう半日以上も続いており、馬が潰れるたびに敵から奪って乗り換え、乗り換えして涯角槍《がいかくそう》をふるい続けた。従う兵士はわずか四十騎に過ぎず、それも次々に大軍に飲み込まれていった。趙雲の許容量を遥かに超えた二万以上の軍勢が足の踏み場もないくらいに殺到してきているのである。高性能の殺人機械の人間処理速度は何百ギガヘルツあるのか分からないが、さすがに限度がある。それでも錯乱しないところが趙雲の精神力のつよさであろう。
趙雲はまったく疲れたそぶりも見せず、奇声を発しながら曹軍を殺し続け、敵兵をたじたじとさせていた。血塗《ちまみ》れのエキサイティング・ソルジャー趙雲に、恐怖のあまりちびって座り込む者や、趙雲に近付くことは死を意味するので、命令違反して背を向ける者が続出し、趙雲はその間隙《かんげき》を縫って何度も包囲網を突破した。だが突破してもすぐにまた夥《おびただ》しい数の新手が襲ってくる。きりがないというか、ここにいては自殺するに等しい。
「奥方ーっ、若君ーっ」
職務に忠実な男、趙雲はなお退却を潔しとせず、呼ばわって馬腹を蹴るのであった。
難民が固まって泣き叫んでいる場所を捜して転々としているうち、見慣れた男が草むらに寝ているのを見つけた。簡雍《かんよう》であった。
「憲和《けんわ》どの!」
と趙雲が声をかけると、簡雍は片目をあけた。
「や、子竜か」
「若君と奥様がたを見かけなかったか」
「夫人らは車を棄てて、阿斗を抱いて逃げてゆかれた。わしは馬で後を追ったのだが、坂を曲がったとき敵に襲われ落馬してしまった。恥ずかしながら仕方がないので狸寝入りしていたのだ」
簡雍は敵軍のまっただ中で昼寝をするという伝説をつくった。
「死んだふりなどしている場合ですか!」
趙雲は簡雍をきりきり引っ立て、馬に乗せると従卒二人を付けて、先にゆかせることにした。
「わたしは天に昇り、地に潜り、草の根分けても奥方と若君を捜し出すことが絶対任務でござる。もし捜し出すことができなかったら、この戦場にて自爆するつもりです」
未来の蜀皇帝・阿斗を捜し出して抹殺する、というなら悪のターミネーターだが、正義のターミネイティブ武将の趙雲の目的はあくまで二夫人と阿斗の救出保護である。しかし後の劉禅の役立たなさを知っている蜀びいきの未来の小説家がいたなら、やはり趙雲をターミネーターとして送り込み、阿斗を抹殺する if を持ち込めばよかったかなと反省しても許されよう。
「わが君に会ったら、この趙雲が必ずや命に代えても(劉備にとっては家族が生きようが死のうが別にどうでもよかったと思われるが)若君と二夫人を連れて帰ると伝えてくれ」
と簡雍に言付けるとまた馬を走らせた。
趙雲は張飛の読み通り、長坂坡を竜巻の如く突っ切り、長坂橋の方へ向かって走った。曹軍が南から駆け上ってくるのだから、他に行き先はないわけだが、趙雲はただ逃げるだけではなく、ときには反転して曹軍に突っ込み、尊い人命を数十、数百も奪い取った。曹軍の各指揮官もあらかた片付きつつある戦場と思っていたのに、まだとんでもない悪魔が部隊を壊滅させて回っており、信じられない話だが、それはたった一人の男の仕業であるという。スーパーテロリストというしかない。
「子竜どの」
趙雲は矢に当たって死にかけている兵に呼び止められた。劉備の警護任務にあたっていた者であった。
「誰だ貴様」
「劉皇叔の護衛を、していた者にござります」
趙雲が阿斗らの行方を尋ねたところ、
「甘夫人が髪を振り乱し、避難民の群れについて南の方へ向かうのを見ました」
趙雲はその兵卒をドライに見捨てて南に走った。
趙雲は運よく甘夫人を見つけることが出来た。
「ぬあっ」
趙雲は馬から飛び降りると、槍を地面に突き刺し、泣いて土下座した。
「お許し下され。人殺しに夢中になりすぎて、夫人がたを見失ったわたしの罪でござる」
甘夫人は、
「乗り物も動かなくなり、置き捨てて糜夫人と逃げておりましたが、一隊の軍馬に蹴散らされ、離れ離れとなってしまいました」
と言う。言葉を交わしている最中にまた敵の一隊が突撃してきた。趙雲は槍を引き抜くや、マシンガンのように飛んでくる多数の矢を地面を転がってかわし、馬上に這い上がるや、
「チェエエエエエエエーッ」
ととにかく手当たり次第に突き殺した。
その部隊は曹仁《そうじん》配下の淳于導《じゆんうどう》の率いる約千人であった。(長坂坡には来ていないはずの)曹仁の軍も到着しているということだ。既に四万近い曹軍が犇《ひしめ》いているのである。淳于導の部隊は竜巻殺法に巻き込まれ、次々と趙雲の槍に冷たくされていった。趙雲が目を転じると、情けなくも糜竺が捕虜となって馬の背に縛られていた(これもいちおう伝説)。あやうく突き殺してしまいそうになり、咄嗟《とつさ》に槍先を肩の上にそらすことが出来たが、趙雲の槍のまとう魔風に糜竺は脱糞脱尿した。
趙雲が千人の中で乱闘しつつ、淳于導を捜して突っ込み(部隊長はたいてい旗持ちを連れているからすぐにわかる)名乗る暇も与えず一撃で突き殺すと配下の兵は怖気《おじけ》づき、わらわらと逃げていった。
「助かった、子竜」
と言う糜竺に馬を与え、甘夫人の護衛をするよう頼んだ。
長坂坡の戦いで難戦苦戦の連闘を飽きもせず繰り返し、最もたくさん人を殺したのは趙雲であったろう。むろん本人もあちこちに手傷を負い、血液をバケツで何杯もぶっかけられたような赤黒の竜戦士となっていた。丸一日以上休息もとらず、飯も食っていない上に一時も休まず馬を駆り、殺し続けていたのだから大したものである。戦闘アンドロイドだって燃料補給は必要で、メンテナンスは欠かせない。まさしく人外《じんがい》のドラゴン武将であり、現代医学では説明できない神秘の生命エネルギー(クンダリニーとかオルゴンのようなもの)が体内に迸《ほとばし》っていたとしか説明できない。
趙雲が甘夫人、糜竺のために血路を開いて長坂橋へ進んでいると、張飛が難民を弾き飛ばしながら猛然と襲いかかってきた。張飛は獣の咆吼をあげ、
「死ね、趙雲!」
とよだれを垂らしながら蛇矛を打ち下ろしてきた。趙雲、カッと受け止める。
「翼徳、何をする。わたしだ。子竜の顔をど忘れしたか」
「うるせえ! この裏切り者がっ。地獄へ堕ちろ」
曹軍兵卒がそこら中にいるというのに、張飛と趙雲が壮大なスケールで闘い始めたから、これを目撃できた者は運がよい。
「死ねーっ」
張飛は滅茶苦茶に蛇矛を叩き込んでくる。手加減まるで無しの猛攻である。殺《や》らなければ殺られる迷惑な攻撃だ。趙雲も怒って、
「貴様、本気でおれを殺す気だな」
遠慮などしていたら張飛にたちまち殺されてしまう。
「死ねーい」
「ええぃ、理由は分からんが、相手になってやる! チエェェェェェーィッ」
趙雲の涯角槍と張飛の蛇矛が激しく打ち合わされ、当代随一の強豪同士、恐竜と狂虎の争いは見る者にローマのコロセウムの感動を与えたのであった。
曹操はたまたまこの仲間割れの一騎打ちを景山の頂から見ていたが、その大迫力に左右の者に驚いて訊ねた。
「なんと、魔獣張飛と互角に渡り合うあの二枚目の大将は誰ぞ。ウチの者ではないな」
すると(長坂坡にはいないはずの)マメな曹洪《そうこう》が馬に乗って駆け下り、現場に近付き、
「張飛と戦う大将よ。どうか名を名乗りたまえ」
と大声で呼ばわった。趙雲は、
「われこそは常山の趙子竜なり」
と返事をした。曹洪が戻って曹操に報告すると、例によって人材マニアの萌《も》え心が疼き、
「あれが趙雲子竜か。噂には聞いていたがあれほどの竜将とはおもわなんだぞ。皆の者、かれに矢などを射かけて殺してはならんぞ。必ず生け捕りにして、わしの前に連れてくるのだ」
と命じた。そういうわけでその後、コレクション候補の趙雲を傷物にするわけにはいかず、曹軍は微妙に手加減を施すことになって、趙雲はとても助かったはずだ。
張飛が、
「ちい。この槍が邪魔くせえ」
と、槍の間を潰すべく趙雲の馬に馬を体当たりさせ、顔面に左ストレートを放ったが、趙雲はそれにクロスカウンターを合わせて、一瞬、張飛をくらりとさせた。
「翼徳、貴様、どういうつもりだ」
「なにをほざくか。貴様こそどうして兄者を裏切り曹操に走ったか。おれたちを殺す前渡し金にいくら貰いやがった」
と、完全に決めつける張飛に、趙雲は何の話だと理解に苦しみ、
「いったい何を言っているのかわからんぞ。裏切ってなどおらん。わたしは若君と奥方とはぐれてしまった。捜して助けるため、必死に走り回っているのだ」
「この嘘つき野郎が! なんの、そんな逃げ口上に騙されるものか。貴様が土壇場で裏切ることは|公孫※[#「王+讚のつくり」、unicode74da]《こうそんさん》のところで出会ったときから予知しておった。いさぎよくわが蛇矛にかかれ」
そのとき簡雍が慌てて走ってきて、
「翼徳、やめるのだ! 子竜は裏切ってはおらん。子竜の言っていることに嘘はない」
と止めた。糜竺と甘夫人も、中に入り、
「張飛、落ち着かんか。わしは捕虜となっていたのを子竜に助けられた」
「わたくしもです。翼徳どの、身内で争っている場合ですか」
と張飛を叱りつけた。甘夫人にまでそう言われては、身も縮む。
「むむ」
と悩んで、蛇矛をひと回しして脇に下ろし、馬を離した。
張飛さえ納得すれば、糜芳の未確認情報と張飛の勘違い(趙雲コンプレックス)が招いた内ゲバ未遂に過ぎないのであった。
「くそう。今の所は貴様の言い訳を信じてやろう。糜芳のやつめ、あとで矢を深く差し込んでやる。だがおれの疑いは晴れんぞ」
「それより翼徳、わが君はどこにおられるのか。無事お逃げになれたのか」
張飛は、すっかり忘れていた、とも言えず、
「おそらくたぶん長坂橋を渡ってお逃げになったと思う。おぬし行って許しを乞うてこい」
と適当なことを言った。
だが趙雲の任務はまだ終わっていない。
「それだけはできん。奥方と若君を見失ったこの子竜が、なんの面目があって殿の御前に拝せられよう。お二人を救い出さねば天下に生きてはおれん。わが君の警護は貴様に任せるゆえ、あとは頼んだ。わたしが戻らなかったら、その時こそ任務に失敗した裏切り者と責めあげ、わが君の怒りを鎮めてくれ」
思い込みの激しい趙雲は再び大軍に向かって突進していった。
既に戦闘集団としての劉備軍団は消滅しており、数人の幹部がなんとか生き残っているという状態である。味方ゼロ。それなのに何万という敵が犇《ひしめ》き、進撃してくる死地に再突入してゆく命知らずの特別救出隊長趙雲であった。この生還の期しがたいあまりの無謀さは伝説を作るためにしてはあまりにも無茶、たんに頑固で要領が悪いだけなのか、依怙地《いこじ》なのか、それとも羅貫中《らかんちゆう》の無理強いなのか、やっぱり真の忠義の男なのか、見送る者たちはその勇敢さに畏敬の念を抱かざるを得なかった(張飛以外)。普通なら、
「子竜どの、無念ではあろうが、もう諦めませい。殿も責めはしないでしょう。あなたまで死ぬことはない。われらと行きましょう」
と言って止めそうなものだ。劉備がいたら、
「ドンマイ、ドンマイ、気にするな」
というようなことを軽々しく言うに違いない。しかし誰も止めなかったのは趙雲が既に人間ではない何かに変化しかけていたからだろう。
劉備の見解によれば、趙雲の身体は満身が胆《きも》であり、胆とは肝臓または胆嚢《たんのう》のことで、すると趙雲の肉体には筋肉はほとんどなく、剥き出しの内臓でできており、普通の人間とは肉体組成が異なる突然変異種なのであって、厳密な検査をしなければはっきりしたことは言えないが、人間の常識を当てはめてはいけない武将であることは間違いない。
恐怖感や苦痛や空腹感や疲労感や排尿感や、とにかく人間が持ついろいろなものが麻痺してしまっており、竜の脳内物質が溢れているとしか考えられない危険な男、趙雲に出会ってしまった敵は不幸になるしかない。
まず夏侯恩《かこうおん》の一隊が不運にも趙雲に遭遇した。趙雲は、手に鉄の槍を持ち、背にとても立派な一剣を負った男を将だと見極め、その夏侯恩をたった一合で斬り飛ばしてしまったから、部下らは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。ただ、夏侯恩は『三國志』には登場しない武将であり(要するにつくり者)、趙雲が神秘の宝剣「青ス《せいこう》」を奪い取ったという話は趙雲ファンのための軽めの伝説である。
趙雲は哀れ惨憺《さんたん》の難民のいるところにゆき聞き込みを続け、ようやく、
「和子《わこ》様を抱いた糜《び》夫人が、槍で刺され、あちらの塀のむこうに足を引きずりながら歩いていった」
という情報を掴んだ。
「奥方ーっ、若君ーっ」
勇んで塀を飛び越えると、阿斗を抱いた糜夫人が青ざめた顔で座り込んでいた。
「ああ、趙将軍……。これで阿斗は命拾いをしました」
と糜夫人はやや表情を明るくした。しかし重傷を負っていることはすぐに分かった。
「この子の父親が、無茶苦茶な半生を送り、五十になっても根無し草に放浪したあげく、またしてもこのありさま。残した血筋はただこの子だけです」
と糜夫人は微妙に劉備批判ともとれることを愚痴って、頼んだ。
「将軍のお力で、どうか、どうか、もう一度だけでも阿斗に父親の顔を見せてあげてくださいませ。そうなればわたしは死んでも思い残すことはありません」
のち、劉備に会うことがかなった阿斗があやうく父親に殺されかけるとは夢にも思わなかったろう。
「奥方をこんな目に遭わせてしまったのはひとえにこの趙雲の罪。さあ馬に乗ってください。わたしが死に物狂いで闘い、なんとしても囲みを突破いたします」
「いけません。わたしはこれで満足です。わたしは深手を負っており、もはや助からないことは自分でもわかっております」
「奥方っ、そんなことを言わずに早く馬をお召しくださりませ。追っ手の鬨《とき》の声が近付いてくる!」
と押し問答を続けているうち、至近距離に敵の声があがる。塀の裏に隠れていても発見されるのは時間の問題である。
糜夫人は覚悟の表情を浮かべると、阿斗を趙雲にパスして趙雲の手がふさがった隙に、そばにあった古井戸に投身自殺した。
「ああ、奥方ーっ」
趙雲の絶叫が響き渡った。阿斗を放っていなければ趙雲のでたらめな運動神経に自殺を邪魔されていたろう。さすが劉備に苦労をかけられ通しの女丈夫、咄嗟のナイスプレーであった。
この糜夫人の幸の薄さは劉備の何人もの女房たちの悲運を代表したものであろうか。糜夫人は劉備の片腕糜竺の妹であり、徐州時代に知り合った。男子は産まなかったか、産んでも早死にしたか、女子は産んだかも知れないが、事実上無視されている身の上である。糜夫人の自殺はあるいは劉備に対する女たちの呪い、異議申し立てをそっと語ったエピソードなのかも知れない。
趙雲は、
「チエェェェェェェィッ」
と哀悼の声をあげ、衝動的に怒りの鉄拳を土塀に乱打して、叩き壊してしまった。一説によれば井戸の中に落ちて死んでいる糜夫人が陵辱されるのを防ぐために倒した塀で蓋をして隠したことになっているが、敵兵がわざわざ井戸から引き上げて陵辱するかどうかは疑問である。
趙雲は、紐をほどき鎧の胸当てをはずしてそこに阿斗を嵌め込んで二神合体し、布を巻いて押さえて、馬に飛び乗るや、気合の大疾走を開始した。これで戦うには左半身が不自由になって殺人技がにぶるし、敵の攻撃を阿斗で受けるわけにもいかない。
「若君、この趙雲が必ず、命に替えてもお救いいたす! 男子ならばきっと泣きなどいたしませぬよう」
と趙雲は男の誓いを叫んだ。すると阿斗は泣き出しもせず、輝くような無垢なる笑みにて趙雲の胸に顔を埋め、よだれ洟水《はなみず》を擦《こす》りつけた。いちおうこれも聖水だ。
(おお、この危機にあたって幼子らしからぬ。きっと名君となる御子に相違なし)
阿斗のせいで趙雲の戦闘力は三〇〜四〇パーセント減少したはずだが、見かけ上は数倍に跳ね上がったかのようであり、周りにいて動いているのは全部敵、手当たり次第に殺しに殺した。趙雲は突っ走りながら次々に襲いかかる敵兵をなんの躊躇《ためら》いもなく無差別殺戮し、名のある部将では晏明《あんめい》が餌食になった。
そこに立ち塞がったのが|張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]《ちようこう》とその部隊であった。河間の張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]≠フ旗をなびかせ、
「いつまでたった一人に手間取っておるかァ。恥を知れい」
と男臭さの匂い立つ立ち振る舞いで、趙雲を阻んだ。張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]は、もと袁紹の武将で、ザ・プロフェッショナルと称したいほどの戦さの名人であり、かつ、張遼と互角の個人的戦闘力を持ち、かつて趙雲と槍をあわせたこともある。後々、街亭《がいてい》の戦いでは馬謖《ばしよく》軍をドシロウト扱いして軽く畳んでしまった実力が、孔明の表情を曇らせる(嬉しがらせる?)ことになる。
趙雲の全エネルギーは殺人に集中されており、目には色もなく、尋常な意識状態ではなかった。張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]が現れてもおそらく判別できずただ無言、ただ殺戮のために動くのみであった。さすがに張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]は手ごわく、即殺できないと判断した趙雲は別方向に血路を開いた。
「逃げるか、趙雲!」
張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]は執拗に追ってきた。背後からの張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]の攻めを防いでいるうち、前方にあった大穴に気付かず馬もろとも転げ落ちてしまった。危うし趙雲と阿斗!
「趙雲、そこまでだ。殿からは生け捕りと言われているが、貴様のような殺人魔を許すわけにはまいらん。死ねい」
張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]は穴に向かって槍を突き出そうとした。そのとき近くにUFOがいたのか、天の御使いが出現したのか、阿斗の聖人パワーが漏れだしたのか、趙雲の落ちた穴から一条の赤い光が上空に向かって立ちのぼって天地を結んだ。まるでアニメ映画のような宗教的な特殊効果が炸裂し、趙雲は赤い光に包まれて穴から躍り出たのであった。
紅光、体に罩《まと》いて困竜は飛び
征馬、衝き開く長坂の囲み
と、謎の穴の説明はまったくなく、本当は何が起きたのかもまったく不明で、ただかっこいい詩がおかれるのみ!
この瞬間、趙雲は人智を超えた光の戦士と化していた!
おれはもうただの義理堅く切れ味抜群なだけの男ではないっ!
おれは赤光の神だ、みなおれにひれ伏すのだ!
と趙雲が思ったかどうか、さっぱり分からない。
世界の神話にある暴力英雄のようなものに似ていよう。ここだけ切り取れば、その超人性は孔明以上といえる。
「阿斗に授かった福があったせいである」
とちらりと説明してあるが、すると阿斗こそ真の神の子であり、エイリアン的な聖人だったということになる。『三国志演義』は、このあたりまでは阿斗を将来聖君主になる者と考えており、間違っても凡庸無能の亡国の主にするつもりはなかった。阿斗、後生|畏《おそ》るべし。
度胸満点の玄人張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]も、今目の前で起きた神秘現象には恐れをなしたのか、慌てて馬を退いて離れたくらいだから、相当に物凄い超常現象だったに違いなかろう。
謎の穴から復活した紅の光将趙雲はさきに奪った青ス《せいこう》の剣も抜いての二刀流、このあと名の記してある者では馬延《ばえん》、張《ちようがい》、焦触《しようしよく》、張南《ちようなん》、鍾紳《しようしん》、鍾縉《しようしん》らを情け容赦なくぶった斬った。またいくつもの敵陣に正面から突っ込み大旗二|旒《りゆう》を切り倒し、槊《ほこ》三本を奪い、計五十余人の大将を皆殺しにするという逃走とは無関係の余計な破壊活動を追加し、人災を振りまきながら突っ走った。まことに曹軍のど真ん中を血|飛沫《しぶき》を巻き上げる大竜巻が通過したかのような荒れっぷりであった。
血、征袍を染めて甲を透すまで紅なり
当陽、誰か敢えて与《とも》に鋒《ほこさき》を争わんや
古来、陣を衝きて主の危うきを救うは
只、常山の趙子竜あるのみ
ただ子竜あるのみ、というからには、関羽、張飛もこれほどの異常なことはしたくとも出来なかったということだ。
以上、趙雲が生涯に一度だけ体験した神秘体験、悪魔超人的な所業は二日くらい続いた戦闘の間途切れることがなかった。その間一睡もせず、凶行を重ねた趙雲に心地よい疲労感とやすらぎの時が迫っていた。
曹軍六、七万を相手に単独で戦争して生還したことは、もはや伝説作りとかいうレベルを遥かに超えて、神話と化してしまっており、ついていけなくなるおそれも大である。少なくない読者が、こんな怪奇な趙雲は嫌だと思い、
「趙雲はわが命をかえりみず敵中に飛び込み、劉禅を助けただけなんだ。ただそれだけのことなんだ。きっとそうなんだ。趙雲はごく普通のナイスガイな武将なんだ、絶対に!」
と、悪夢を忘れたいかのように思うのである(じゃないのか?)。
趙雲敵中大暴走の始末記というか後日譚となるが、聖人候補だった阿斗の運命をぶち壊しにする事件がこの異常な件の幕引きとなった。
満身創痍、疲労|困憊《こんぱい》の趙雲はようやくのこと漢津《かんしん》口で劉備と合流することができた。趙雲はいきなり、
「わたしを殺して下さい!」
と劉備の前に膝をついた。
「どうしたのだ子竜」
と劉備がいぶかる。
「この子竜の罪は万死をもっても償い切れません。糜夫人の井戸への身投げを止められず、やむなく塀を叩き壊すしかありませんでした。それがし若君を懐中に抱き、無我夢中で敵の重囲を突破して、幸いにも脱出することができました。これもひとえに殿の広大無辺のご威光のおかげと存じ上げます(本当かよ)。先ほどまで若君はわが胸の中でお泣きになっておられましたが、今は身動きもなされません。なにとぞ無事に生きておられんことを」
戦闘中に何発か阿斗を抱いているあたりに食らったのではないかと心配した。趙雲がおそるおそる懐中から阿斗を取り出すと、幼子らしからぬ豪胆さというより、たんに疲れていたんだろうが、あどけない表情ですやすやと眠っていた。
「おお、ありがたし! 無事でござる。わが君、さあ御子でございます」
趙雲は大喜びで阿斗を両手で捧げながら、劉備に差し出した。
すると劉備は何が気に入らないのか、受け取った瞬間、くわっと睨み付け、阿斗を思い切り地面に叩きつけたのであった!
明らかに殺意があり、趙雲が慌てて抱き上げなかったらストンピング百連発をいれたかも知れないほどの興奮が劉備の顔面にゆらめいていた。父親の突発的な暴力に、ひくひくして口から泡を吹き、弱々しい泣き声を漏らす阿斗であった。幼児殺害が流行しているとはいえ、せっかく趙雲が命を懸けて救ったというのに、ひどすぎる仕打ちである。
劉備は、これもかろうじてキラリと光る仁義のせりふなのか、
「このクソわっぱめが、おまえのせいで危うくわしの大事な子竜を失うところであった!」
と吐き捨てた。スパルタ帝王教育の手始めではなく、明らかに残忍な虐待もしくは未熟な親による異常行為であり、もし死んでいたとしても、
「あれ、動かなくなりおったぞ。ダーッハハハ、弱い、弱すぎるわ。これでは乱世に生きられぬ」
とか言って、そのへんに埋めたに違いない。現代なら即逮捕である。
趙雲は、本当に生きるか死ぬかの瀬戸際で護り通した阿斗が、実は自分よりも価値の低いどうでもいい生き物であったことを知った。
「阿斗なんかより趙雲の方が遥かに大事だ!」
という劉備ならではの計算高い、男たちをとろけさせて忠誠心をさらにアップさせるためのパフォーマンスだったのか、それとも趙雲の無事に安堵し、忠義の苦労を思うのあまり瞬間的に異常な感情が爆発してしまったのか、それははっきりとは書かれていないが、後々、白帝《はくてい》城で孔明に、劉禅にとって代われ! と唆《そそのか》しの遺言をしたりしているところを見れば、クソわっぱを利用しての前者の策であるほうが正しそうな感じである。
そんな汚い裏読みなど思うことさえ不潔だとする直情の士である趙雲は、感激のあまり平伏して激しく落涙するばかり。
「わが君がこれほどまでにこの子竜をお思いくださっておるとは……。なんともったいなき仰《おお》せ、それがし肝脳を地に塗《まみ》れさせてもこのご恩に報いるでしょう」
と、うっかり生涯変わらぬ忠誠を誓ってしまう趙雲であった。
曹操が軍中より飛虎出でて
趙雲が懐中に小竜眠る
忠臣が意を撫慰するに由なく
故《ことさ》らに親児を把《と》って馬前に擲《なげう》つ
いかに趙雲が好きだからといって、その侠気《おとこぎ》パフォーマンスのために、わざわざ小竜とまでいう息子を馬前に投げつけなくてもいいと誰しも思うだろうし、実際、ほとんどの『三国志』はこのエピソードに触れることを避けている。産まれたときから神秘現象に祝福され、小聖人の片鱗をあらわしはじめた矢先の出来事で、こののち、阿斗(劉禅)にはまったくいいところがなくなり、凡庸の二代目の道をまっしぐらに歩むことになった。
つまりは『三国志演義』は、名君の誉れ高くなる予定のはずであった後主劉禅が、蜀漢滅亡後に魏に連れて行かれ、司馬昭《しばしよう》に今の心境を問われると、
「とても楽しくって蜀のことを思い出すこともありませんでしゅ」
と答えてしまうほどのハッピーな男になってしまったのは、劉備が地に叩きつけたとき打ち所が悪かったせいなのだと暴露しているのである。大事な跡継ぎ阿斗がダメになってしまったのは、要するにすべて劉備が悪いということなのだ。
さて、一方、長坂橋に陣取っている張飛である。戦うために(人を殺すために)生まれてきた燕人張飛の一世一代の見せ場が長坂橋であることは一致した見解である。
『三国志演義』では曹操がこの追撃戦に投入している兵数は七万どころではなく百万である。張飛は、
──独り曹家百万の兵を退かしむ
という伝説(妄想)の中に存在している。
ちょっと想像してみれば、もうそこらじゅうに曹操の兵がうじゃうじゃしており、喜んだ張飛は一万人単位で滅殺し抜いて何日も楽しめたろう。長坂橋を渡ってくるとしても、橋幅一、二頭ずつしか来ないから、常に一対一か一対二の楽な戦闘となり、歩いてくる大根をスパスパと斬るように首を沮河《そか》に落とし、川面には死体と馬と生首が何千何万と浮かんで、水を堰《せ》き止めてしまうくらいになっていないと面白くない。逆に、逃げるために橋を切り落としたくなるのは張飛に襲われる曹操の方であろう。
が、さすがに『三国志演義』でも、当然ながらそんなことは起きずに済んでいて一安心である。
長坂橋に到着した張飛だったが、趙雲殺しは残念ながら中途半端に終わり、簡雍、糜竺、甘夫人らは向こう岸に渡って逃亡した。またなんとか生き延びた難民たちがちらほら逃げてきて、張飛に深々と拝礼して渡っていった。
(うぬ、ヒマだぞ)
ときたま曹軍の劉備探索隊が現れるくらいで、それも張飛が勇んで飛び出すとすぐに逃げてゆくから、背後から襲って五、六人ばかり殺せる程度であった。張飛の欲求不満がじわじわと高まっていった。
部下二十騎に命じて、馬の尻尾に木の枝をくくりつけ、東側の森の中を暴走させ、土煙をあげさせたのも暇潰しの遊びのようなもので、別に多勢の伏兵が森の中にいると錯覚させようとしたのではない。しばらくすると飽きてきて、馬鹿らしくなってやめた。
一夜明けて、坐ったまま眠っていた張飛の耳に馬蹄の轟きが入った。すわと立ち上がって馬に跨り、長坂坡を見下ろすと、満身これボロボロ、血のスコールを浴びてきたかのような趙雲が、必死に逃げてくるではないか。趙雲の後方には騎馬一千ほどが追撃してきていた。
趙雲はやっとのことで橋の口に辿り着き、張飛に言った。
「若君は救出した。もはやわが身は疲れ切り、今にも崩れ落ちそうだ。翼徳、あとは任せたぞ」
「承知。ポンコツは引っ込んでおれ。貴様は若君を兄者に早くお見せしてさしあげろ」
「で、殿はどこにおられるのだ」
「おれはずっとここにいたから知らん。自分で探せ」
「おい、翼徳、本当にわが君は既にこの橋をお渡りになったのか」
思えば張飛、当陽城の手前で糜芳の注進を聞いてから以降、劉備の姿を見ていない。背筋に冷たいものが走ったが、目前に敵という名のご馳走が迫っている。
(ええい、渡ったに決まっているわい)
「その話は後だ」
張飛は言い捨て橋から飛び出し、趙雲は馬ごとよろよろしながら橋を渡っていった。
追撃隊を率いていたのは文聘《ぶんへい》である。この辺りの地理を熟知しているのが仇となり、先頭に立たされこき使われていた。
「おわっ、張飛!」
文聘隊はすぐさま停止し、Uターンしようとしたが、さらに後方から張遼、楽進、于禁、張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]らの軍勢が土埃をあげて駆け上がってくる。逃げるわけにもいかず、またも全滅の危機に瀕する文聘隊であった。
文聘、字《あざな》は仲業《ちゆうぎよう》はこのとき三十前後の年齢である。劉備を敵に回した者は死ぬか恥ずかしい目に遭わされるか、滑稽な役回りとなる呪いがかけられるのが宇宙の法則であるが、史実ではなかなかの武将であった。文聘は襄陽降伏のおりに劉家への忠義を示して曹操に認められただけの人物ではなく、その有能も評価されて新参者ながら重要戦場で活躍した。
おもに荊州の防衛に力を発揮し、荊州劉備軍の度重なる攻撃をしのぎながら、尋口《じんこう》では楽進と協力して関羽軍を敗退させ、延寿亭《えんじゆてい》侯に封じられ、討逆将軍の称号を得ている。関羽の死後は江夏《こうか》で睨みをきかせ、石陽《せきよう》では孫権軍五万を撃破し、呉、蜀を抑える功があった。のち後《こう》将軍となり、新野《しんや》侯に封ぜられた。文聘が劉表に礼をもって尽くしていた劉備に従うことがなかったというのは、やはり劉備にある種の嫌なにおいを嗅いでいたのだとも思われ、こういう有能な人物を配下に出来なかった劉備の男殺しの魅力にはやはり変な偏りがあったのだ。
文聘隊は張飛を見、迫り来る曹軍を見、やはりここは張飛に突進せねばまずいだろうなと、首をぐるぐる回して迷っていた。
躊躇する文聘隊に、張飛の目がぎらりと光った。
「文聘、さっさと出て来てここで死ね! いまや曹操のイヌに成り下がった貴様の首、故劉景升どののもとにクソの入れ墨をいれて送ってやる」
文聘は張飛の言うところの憎たらしい「襄陽のクソども」の一人には違いない。
(やっと思う存分に殺《や》れる機会が巡ってきおった……くうっ)
張飛は目をぎらりと光らせただけではなかった。その環眼から涙をつつと滴らせていた。
雌伏すること八年余、戦さがなければ肩身の狭いアル中扱い、新野の民を大量殺人する衝動に堪えに堪えて臥薪嘗胆《がしんしようたん》の苦しみを全身に溜まらせてきた辛い不遇の日々が脳裏を一杯にしていたのであろう。目前に大軍を眺めているうちに随喜《ずいき》の涙が知らずこぼれ落ちていたのであった。
豹頭環眼《ひようとうかんがん》、燕頷虎髯《えんがんこぜん》と、ほとんど差別かイジメ表現、後世の者たちからさんざん人外《じんがい》のけだもの呼ばわりの誹謗中傷(ではなく講釈師は褒め言葉のつもり)を浴びせられてきた乱暴者である張飛、しかし野獣人間であろうと子供人気は抜群であり、むしろぼくらの憧れのアニキだと誇りにされているくらいだ。年端もいかぬ子供たちは血塗れの狂獣が今度は如何なる大量殺戮を見せてくれるのだろうかと小さな胸をわくわくさせている。
「行け、行け張飛! すべてを破壊せよ! 敵兵がこの世から死滅するまで戦い続けるのだ。善悪の彼岸にあって人類を殺し続けるのだっ!」
子供たちはイノセントでシンシアで天使であるらしいのだが、残虐は決して嫌いではなく、無意味に小動物を殺す習性がある(昆虫とかカエルとか)。張飛もどうやらそれと同じであるらしいが、殺すのは小動物ではなく人間である。張飛は人間に潜む暗黒の破壊衝動の化身、ぼくらの代表者なんだと、千年以上にわたって応援されてきたのである。
そんな純真無垢な子供たちの思いを張飛が裏切るはずがなく、講釈師の口を借りて、天下一の暴力王として君臨してきた。張飛が関羽のように関帝になれなかったのは、同じ暴力王でも、その発揮が混沌としており、義≠ナあるとか怪しい思想とは無関係であり続け、要するに思春期前の子供がそのまま大人になったような男だからであろう。
張飛は誘うように馬をその場歩きにさせ、頭上で蛇矛を回転させながらひと揺れ、ひと揺れ馬の背を股膝の間に波打たせた。戸惑う文聘隊の後方には何千何万という軍団が土埃をあげて迫りつつある。張飛はもういちいち敵を追うという腹立たしく無駄なエネルギーを使う必要がないのである。
同時にまた橋の向こうの林の中を張飛の配下が地に枝を這わせて暴走し、キャッホーとか叫びながら、土煙をもうもうとさせている。これは言ってみれば爆竹、花火のようなもので、張飛のための景気付けであり、伏兵ありの奇策でもなんでもない。二十騎くらいが林中を走り回っても、曹軍の目利きの将たちにすぐにばれるに決まっており、走りにくい木々の間をへとへとになるまで暴走したのは張飛が恐いからである。しかしこんな子供の遊びも、
「孔明の奇策に相違ない」
と曹軍の将を迷わせたというから困りものである。
文聘は友軍を待っているのか、なかなか攻撃して来ないので、張飛は舌打ちし、馬から下りた。さらに蛇矛を地に突き立て手を離し、ぱんと掌を撃って開いた。
「こらァ、おれはこの通り、素手で相手してやる。貴様らそれでも男か。これでも腰を引きくさるかっ」
「舐めおって」
文聘もさすがに屈辱と思い、部下の一団に、
「あの傲慢な虎髯を泥まみれにしてやれ!」
と命じた。
素手だということにいくらか安心したのか、文聘の騎馬隊と歩兵隊は槍を構えて張飛に向かって突進した。
「ぐへへへへ。よしよし」
(燃えてきたぜ)
武器を手に、あるいは騎馬で数百の敵が向かってくるというのに張飛は喜びに燃え上がっていた。目の前の奴らは皆、張飛に与えられた獲物か玩具のようなものだから、嬉しくて仕方がない。軽くスポーツでも娯《たの》しもうかという風情である。
張飛は素手の格闘でも負けたという記憶がない。徐州時代に|下※[#「丕+おおざと」、unicode90b3]《かひ》の留守を任されていたとき、同じく留守番をしていた曹豹《そうひよう》にむかっとして襟首《えりくび》を掴んで軽く叩き、ふと気が付いたら死んでしまっており、理由も忘れたという恐るべき記憶の無さである(言うまでもなく飲酒暴行)。青年時代には飲み屋での複数のグレン隊との立ち回りは日常茶飯事であり、店を壊した上、取り締まりに来た警官隊もあっという間に全員のばしてしまった。一度、どうでもいい理由で関羽と喧嘩になり、二、三発余計に殴られて失神したことはあるが、まだ十代の頃のことで、関羽は五歳も年上である。気絶から覚めると関羽の顔面も赤黒く腫れあがって変形していたものだ。それ以外では誰も張飛の相手にならなかった。
言うまでもないが『三国志』には豪傑猛将が大挙登場し、各時代の知識人らにより、いろいろと穿《うが》った比較がなされていたりする。ただし多くは武将としての軍事能力、行為、人格コミでの優劣が俎上にのぼりがちで、たんに腕っ節の強さだけならば誰が最強かというくだらない比較はあまり聞かない。
敢えてそれをやるならノミネートされるのは関羽、張飛、呂布《りよふ》、典韋《てんい》、|許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]《きよちよ》あたりになるだろう。いずれ劣らぬ殺しの名人だが、典韋と許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]は兵を率いるのではなしに曹操のボディガードが主任務であったから、ステゴロも無茶苦茶に強かったに違いない。関羽と張飛は劉備の護衛役をつとめており、長く小勢力にいて足軽と変わらないはたらきしか出来なかった。たまに兵を率いるといっても五十くらいが関の山で、兵を指揮するよりも自ら暴れ込むことが多かったから、これも相当に強かったろう(その代わり大軍の指揮はさして上達しなかったわけだ)。呂布に至っては人間性と武将の能力には疑問符が付くにしろ、
『人中の呂布、馬中の赤兎《せきと》』
と、馬と並んで不動のトップであることが約束されている。全員、地下相撲の横綱がつとまりそうな肉厚の巨漢である。
次点を捜すなら、曹操の息子の曹彰《そうしよう》(曹丕につぐ二男)は、字《あざな》は子文《しぶん》、曹家の中では鬼っ子で、人並み外れた異常な体力を誇っており、素手で猛獣と格闘して殺せるほどだったと『三國志』にみえる。これが陳寿の誇張表現でなければまことに頼もしいかぎりだが、強豪武将とのタイマンの記録がないのが残念である。イデオロギーもなにもなく、日々トレーニングを欠かさず、闘うことだけが生き甲斐の男だったので、曹操の後継者レースからはいきなり脱落していた。
このうち誰に訊いても、口吻《こうふん》からパワーが炸裂し、
「おれこそが人類最強、天下無双とはおれのことだ!」
と答えて譲らないだろうから収拾はつくまい。陳寿が(どこか疑わしい)史実透視能力を駆使して、『三國志』餓狼伝を書いてくれなかったことが悔やまれる。
張飛は相手を待たず、獣の雄叫びをあげながら突撃してきた。文聘隊よりも坂の上にいた張飛は位置エネルギーも加わった加速度で転がる巨岩のようである。ショルダータックルでぶちかますと、前列にいた兵らはボウリングのピンのように弾け飛び、ナイス・ストライクである。ダブル、ターキーと続き、パーフェクトの三百点は目前であった。
「死ねーぃ」
馬の首にウエスタンラリアットが炸裂し、くの字に刈り取られるように激しく揺れ、馬上の兵士は吹っ飛ぶように落馬して首の骨を折って死んだ。矛を使う余裕すらない。
「ぐははははは」
一分もせぬうちに数十人が地に転がり血を吐いて呻き、死の痙攣《けいれん》にとらわれている。へっぴり腰で突き出す槍や戟《ほこ》は物凄い勢いでぶつかってくる張飛にかすり傷をちょいとつける程度であり、張飛の甲が槍先を受けると槍はへし折れ、兵士は折れた槍を構えたまま吹っ飛ばされていった。
ハイキック、コークスクリューブロー、エルボー、手刀、ローリングソバット、コブラツイスト、網打ち、クローズライン、テンカオ、カチあげ、地獄突き、パイルドライバー、張り手、目潰し、小手投げ、アトミックドロップ、蹴たぐり、ジョルトフック、ダブルアッパー、踵《かかと》落とし、上手投げ、さば折り、ダブルアームスープレックス、吊り落とし、ブレーンバスター、金的《きんてき》掴み、払い腰、トペ・スイシーダ、一本背負い、仏壇返し、ネリチャギ、合掌捻り、でこぴん、ギロチンチョーク、奈落のど輪落とし、サマーソルトキック、サソリ固め、ダブルリストロック、鉈《なた》、掌底、素首《そくび》落とし、監獄|固め《ロツク》、そして、バックドロップは臍《へそ》で投げる!
張飛のあらゆる殺人技が一方的に大炸裂。張飛の母と姉について下種《げす》な悪口を言った兵士の胸板には、甲の上から頭突きをかまして胸骨と肋骨をブチ砕いたが、フランスの世論はきっと張飛の味方をしてくれるに違いない。馬の首をかき抱いて首投げから袈裟《けさ》固めでへし折り、ちょっとでかい青龍刀を振り回してくるような相手には素早く身を沈めた浴びせ蹴り、飛び後ろ回し蹴りが白刃を紙一重で擦《す》り、相手の頭蓋骨を肩の間に陥没させたり、カカトが内臓にめり込み破裂させたりした。
凄まじい破壊力を持った技が本能的に繰り出されているが、敢えて現代的な名称を無理につけているだけで、張飛にとって技はただ一つあるだけだ。
「殺」
であり、目的と手段は一緒、すべての技は「コロス」という名称である。武人張飛の技に殺す以外になんの目的があろうか。相手の頭をむずと掴んで、頭蓋骨をリンゴのように潰す握力も、噛みついて肉を食いちぎる反則も、殺技以外の何物でもない。
古代ローマの奴隷ファイト、コロセウムの熱気が、ここに出現していた。張飛ならライオンと戦っても秒殺するであろう。張飛は急に飛び出してきた馬の腹を蹴りあげてテイクダウンを奪い、アキレス腱固めをかけると脛《すね》が枯れ枝のように折れた。馬は脚を一本でも骨折するといずれ死ぬ。別の馬の喉を絞めながらのキャメルクラッチで頸椎《けいつい》を砕き折った。腰を抜かして逃げる兵士に、
「このクソ野郎! 貴様の愛馬だろうが! 騎兵たるものもっと馬を愛せ!」
馬のねきで死ねーと怒鳴って、逆十字で腕を折り、| S T F 《ステップ・オーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック》で頸椎から胸椎《きようつい》、アバラを複雑骨折させた。むろんその者は吐血して即死した。
張飛が本能的に逃げようとする自分より遥かにでかいヤツの後ろ襟を捕まえて関節蹴りで膝を破壊、さらに兜《かぶと》をもぎ取りバック・マウントパンチで後頭部と側頭部を破壊している頃には三百人近い兵と数十頭の馬が地にのたうつまでもなく、息を引き取っていた。地獄ではあるが悲鳴を上げる前に皆死んだので、阿鼻叫喚はなく、じつに静かであった。それ故になお不気味で恐ろしい。
文聘隊の残りはもう足の半歩も動かせず、張飛の戦慄の野試合を蒼白な顔で見つめるしかなかった。腰が抜けていなければ恥も外聞もなくその場から遁走《とんそう》していたろう。
文聘はがたがた震えながら、その信じられない光景をうつろな目で見るばかり、命令の声など喉の奥底で固まってしまっていた。
まさしく世界は凍り付いていた。
張飛は軽く腕をぐるぐる回すと、その場でステップを踏んだ。あと九千七百人くらいは楽に相手ができるぞと、呼吸一つ乱さず、疲れなどまったく見られない。殺《や》れば殺るほど強くなるというか、自動車のバッテリーのようにパワーが充電される仕組みが備わっているかのようである。
(ざっとこんなもんだ。ちょろちょろ逃げ回りやがる烏桓《うがん》のクソどもだって、真正面から来れば一刻後にはやさしく冥府に送ってやるのにな。ふふ、おれって少し敵に甘すぎるかな)
まさに圧倒的な暴力、破壊と殺戮のために天が派遣した虎の堕天使、乱世でもあまり許したくない男、イエロー・デビル・タイガー・ジェット・フェイであった。
「貴様らもう終わりかぁ! 戦場に来た以上は殺すか殺されるか、絶命することが最大の目的のはずだろう。もっと死に急がんかい! そんなちんたらしたことで楽しいのか!」
と虎の嘯《うそぶ》きが響き渡った。
戦さとは殺し合いであり、如何に人間を素早く大量に効率よく虐殺するかが問われるものであり、張飛にはその件について政治とか倫理とか不純なものをからめるつもりは一切なく、どんなに凄惨であろうと一貫してぶれることはない。人類は懲りることなくこの事業を繰り返し、発展進化させてきたが、その本質の表れは大量殺人以外の何物でもない。多くの少年マンガのように暴力と殺し合いを「闘い」と言い換えて、なんだか大切でかっこいいことであるかのように錯覚させる偽善とは無縁である。
「闘い、などといって誤魔化さず、堂々と殺し合いと呼べ。正しく殺人だと言え!」
ということだ。
しかしこんな張飛でも、二十世紀から二十一世紀の殺し合いや弾圧殺人を見れば、
「完敗だ。さすがに未来人の殺しはひと味もふた味も違うわい。おれの殺しなぞ甘すぎて小学生にぺろぺろ舐められようぞ。もっと大量にもっと動機もなく殺せなければ英雄とは言えぬ。『三国志』ファンの方々よ、こんなハンパ者のおれを赦《ゆる》してくれい」
と、力足らずを痛感し、しょんぼりするに違いない。
氷柱《ひようちゆう》と化したかのような文聘隊の生き残りの背後にようやく張遼軍の主力が地響きをあげて駆けてきた。張遼が、
「何事だっ。文聘、なにをつっ立っておるか!」
と前に駒を進め、長坂橋の手前、三百の人と馬の死体の真ん中に立つ張飛を眺め下ろしぎょっとした。張遼と張飛の視線がぶつかり、空気をきな臭くした。
楽進、于禁らも到着するが、それほど広い場所ではないから兵の展開は制限される。
このとき、ほかの武将、李典、張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]の軍は、死骸があちこちに積まれ、屍臭たちこめる長坂坡を虱《しらみ》潰しに劉備軍団の生き残りを捜し出して殺しながらこちらへ向かっていた。劉備は未だに発見されていない。既に当陽城は占領され、近辺の道は完全封鎖されてしまっているから、長坂橋の方へ逃げたとしか思われないのである。江陵への先行及び残敵掃討には軍を分けた朱霊《しゆれい》、路招《ろしよう》、馮楷《ふうかい》がひた走っていた。
張遼と張飛の睨み合いは続いており、先に目を外したヤツが弱虫だと張飛が勝手に決めて勝負となっていた。先に張遼が目をそらした。
「勝った!」
と張飛はご満悦だが、負けたのではなく、楽進、于禁の連絡将校が来たから仕方がない。
張遼、字《あざな》は文遠《ぶんえん》は并《へい》州|雁門馬邑《がんもんばゆう》の人、騎兵戦をやらせれば右に出る者がない天才だとの評価が高い。并州雁門は馬どころの一つであり、匈奴《きようど》やモンゴルの卓越した馬術が伝わっている。張遼は呂布の若き幕僚であった。呂布が絞め殺されたさいに死を覚悟したがマニア曹操に請われて随身し、幾多の戦場で人を殺しまくってきた鬼将である。のち呉の孫権は張遼の悪夢に夜な夜な魘《うな》される日々を過ごすことになる。
楽進は字は文謙《ぶんけん》、陽平《ようへい》郡|衛国《えいこく》の人、曹操が将才を見抜いて一兵卒から拾い上げた叩き上げ、小柄ながら胆力抜群、根性の塊のような男であり、幾多の難戦をしのぎ、敵兵を情け容赦なく殺し抜いてきた頑固な猛将である。
于禁は字は文則《ぶんそく》、泰平《たいへい》郡|鉅平《きよへい》の人、硬軟両用のキレのある戦闘指揮が持ち味で、黄巾《こうきん》軍をはじめとして曹操の敵たちを血の海に沈めた功で何度も賞与を受けたが、のちに関羽に負けて経歴を汚してしまい、曹丕《そうひ》に陰湿ないじめを受けて死ぬことになる。
三人とも字《あざな》に文がつくので三文と呼ばれることもあるが、一癖も二癖もある連中であり、ライバル意識を胸の内にたぎらせている。三文が揃えば行くところ意地の張り合いのジェノサイド競争が吹き荒れることになった。曹操はそんな武将心理を見通しており、上手い人事で殺しの特級エキスパート軍団をつくりあげた。
「張」「楽」「于」の軍旗が張飛の眼前にはためいて、少なくとも三万の兵が蠢《うごめ》いていた。
(おれ様ひとりを殺すために曹操の殺し人どもが蟻のように集まってくる)
まるでジーザスかスーパー・スターのような待遇である。張飛はもう感動のあまり、天にものぼる心地であった。
「来る! ついに来たわい! 真の意味での張飛時代の幕開けが、ついに来おった!」
と拳を固めて口の端からよだれを垂らした。素手の喧嘩でのウォーミングアップは終わりだ。張飛は橋の手前に戻り、地面から蛇矛を引っこ抜き、馬に跨った。
殺し、殺し、殺しの果て、時の彼方に張飛は永遠の生命の秘密のきらめきを目撃する《といいな》!
『三国志演義』では長坂橋に殺到した武将は曹仁、李典、夏侯惇《かこうとん》、夏侯淵《かこうえん》、楽進、張遼、張※[#「合+おおざと」、unicode90c3]、許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]であるとしており、しばらくして曹操も駆けつけた。曹操軍団のグレート・ジェネラルが居並ぶ壮観さは絵になるどころではなく、壁画にして千年以上は残したいくらいである。これに于禁、曹洪《そうこう》、徐晃《じよこう》が加わればほぼ完璧といえよう。史実をうるさく言えば、この場にいないはずの者が何人もいるが、記念撮影も大事だから影武者《ダブル》を使っているのだろう、たぶん。
とにかく一将で一方面の戦場を担当できる能力を持つスター司令官たちが張飛一人のために揃い踏みしているのであり、率いる軍兵は百万、豪華の一言に尽きる。一対百万の戦いは、並の者でなくてもその場で腰を抜かして脱糞し、命乞いの言葉も震えて出てこない超のつく不平等戦闘である。
『三國志』張飛伝の記述をみてみるとこんな感じである。
「劉表が死に、曹操が荊州に踏み込んできたので劉備は逃げて江南に走った。曹操は追撃すること一昼夜にして当陽長坂坡で追いついた。劉備は曹操がにわかに押し寄せたと聞き、妻子を棄てて逃亡した。張飛に二十騎を率いて背後を拒《ふせ》がせた」
と、まあ、それはそれでいいのだが、複数の伝にわたって(趙雲伝、張飛伝にまで)劉備が妻子を棄てて逃亡したことが繰り返し明記されているのは、陳寿は劉備の「妻子棄て病」に怒りを抑えきれず、愛する妻子をも見捨てるしかなかった悲惨な大危機だったと言い訳してやるだけではなく、劉備に筆誅《ひつちゆう》を加えたい気分もあったのかも知れない。史官が、
「てめぇの身が危なくなったら、女子供は捨て殺しかよ。情けねぇ……。旗揚げ以来、何回妻子を棄てれば気が済むのか。てめぇは男じゃねえ! (筆で)叩き斬ってやる!」
というくらいの個人的憤懣を史書に忍ばせるくらいの隠微さは許される。
「先主はたびたび正室を失った」
のも当然の所業であり、次々に若い女が欲しいということで、実はわざとやっていたんじゃないのかという疑惑すらある。
で、次が歴史に残りまくる脚色話のもとになった不滅の一文である。
『飛は水に據《よ》り橋を断ち、目を瞋《いか》らせ矛を横たえて曰く、
「身は是れ張益徳なり。来るべし、共に死を決せん」
と。敵は皆敢えて近づく者無し』
張益徳って誰? と言われないためにいちおう説明しておけば、張飛の字《あざな》が翼徳なのか益徳なのか、どちらが正しいのかという話である。いくつか考察のあるところだが、史料にはいずれの字も使用されており、どちらでもかまわないと言えばそれまでである。翼と益は音が似ているため、講談師的には漢字の正誤はどうでもよくて、ババンと叫べるところである。『三國志』では益徳を採用しているからこちらが正当だろうと言われるが、「徳が益す」というのは無法の野獣戦士張飛のイメージらしくないと感じた人がいたろうし、名が飛であるからには字に翼をいれたほうがその意の通じ感がかっこいいからこちらが正しいとする者もいたろう。結局、どちらが正しいかは誰にも(へたをすれば張飛にも)分からないのである。
敢えて言えば『三国志』を書くとき、
「私は嘘だらけの『三国志演義』ではなく、正史の『三國志』をもとにして書くざますのよ」
と、それとなく自分が『三国志』上級者であることを読者にほのめかすくらいの差がある程度である。
話を戻せば、この一文もよく読めば変である。
張飛が沮河《そか》に拠り橋を断ったとするが、押し寄せる敵軍を阻むためにまず橋を叩き落としたのは当然の措置であろう。だが、その場合、長坂橋を渡ったあとの向こう岸で橋を断ったのか、それとも渡る前に断ったのか、この文でははっきりと分からない。向こう岸に渡ってから、橋を切り落とし、目をギラリと剥いて蛇矛を脇に構え、
「おれは張飛だぁーっ! きやがれ、勝負してやる」
と怒鳴ったとすれば、敵兵が敢えて近付くことが出来なかったのは物理的に当たり前の話であり、安全地帯から吼《ほ》えているだけで、たいへんかっこ悪く、後世威張れた話ではない。
逆に渡る前に橋を切り落として凄んだとするなら、背水の陣というか、眼をぎらぎらさせて曹軍を一喝し、戦慄させたまではよいとして、その後、張飛自身が逃げられなくなる。しかしこちらでないと張飛の長坂橋の仁王立ちは意味をなさなくなるわけで、ならば張飛は退路を断って劉備逃亡の時間を稼いで討ち死にするしかなくなろう。
わたし思うに陳寿は状況をよく考えもせず、雰囲気だけで名場面を記したのであり、
「橋を向こう岸で切り落としたのか? こちらで切り落としたのか?」
などと訊いて水をさすようなことをしたら、
「この部分のテーマは張飛の大気迫じゃい! 重箱の隅をつつき、揚げ足を取るあさましいやつめが!」
と逆ギレするに違いない。裴松之《はいしようし》はこの部分に見て見ぬふりをしているのか、異説異論をあげていない。
『三国志演義』は、さすがにそれではまずかろうと思ったか、ちゃんと折衷案を示してある。張飛は橋の上にいたことにした。ぎりぎりのとんちだ。この時点で水に拠り橋を断ったら張飛は橋もろとも川に落下するからそれはない。よって橋の真ん中あたりで、矛を横たえ、咆吼した。
張飛は口から衝撃波《ソニツク・ブーム》を発して夏侯傑《かこうけつ》の胆を潰して殺し、その猛威(既に人間ではない)に恐れをなした曹軍百万はたじたじとなり、距離をおいて近付かず、ついには曹軍全体がちびりながら後ろを見せて退却したのである。張飛はその間にゆうゆうと向こう岸に渡り、橋を切り落としたのである。夏侯傑は『三国志演義』のこの場面にしか登場しない、張飛の生贄《いけにえ》に捧げられるためにつくられた男である。羅貫中の苦心の解釈が拍手を誘うところといえる。
しかしその後、劉備は張飛の決死の行動により救われたくせに、難癖をつけた。
「おぬしは勇敢なことは勇敢だが、やはり頭が足らぬ。長坂橋を切り落としたことで大きな失策を犯した。橋を落としさえしなければ曹操は用心して追ってこなかったものを!」
と叱りつけられるのであった。可哀想なるかな張飛!
また、張飛一人におびえて後退した情けない曹軍の李典《りてん》は、
「(張飛の)あれはきっと諸葛亮の策略に違いありません。軽々に追ってはなりません」
と(『三国志演義』ではここにいるはずもない)孔明の幻にまで頭脳を乱される始末で、既に曹操陣営では孔明は何につけても「偽計」「粉飾」「風説の流布」ばかりやる若僧といった、現代では許されない法の盲点を突くことばかり考えている若きワル軍師という評価が定まりかけている。李典はイラついた曹操に、
「この馬鹿野郎! 張飛は人間離れして強いが、それだけのヤツにすぎん。計略なんぞあるものか」
と怒鳴られてしまうのであった。政戦両略において「偽計」「粉飾」「風説の流布」は謀略のうち諜報工作の常道であり、孔明はしょっちゅうこんなことばかりして、しかもよく失敗していた。孔明が何事にもついつい宇宙レベルに話を大きくしてしまう悪い癖を持っているせいであろう。
ちなみに『三国志平話』では、張飛が長坂橋に陣取り、
「われこそは燕人張翼徳なり。さあ、だれがわれとともに死を決するや!」
と大音声すると、強烈な衝撃波が発生し、橋はバラバラになって崩れ落ちてしまった。もはや音響兵器であり、橋のどこにいたかなど驚きのあまり問題にすらならない。張飛の発する超音波は人体にも有害な影響があり、曹軍は三十里も撤退せねばならなかった。それを聞いた仙人軍師の孔明は、
「翼徳どのこそは真の武将である! 旗を押し立てて曹操の軍を防ぎ、主公《との》を五十里も先に逃がすことができた」
と、なにしろ宇宙レベルの男であるから、張飛の人間兵器ぶりを大したものだと賛嘆した程度で済ませた。しかしこれが「真の武将」の力だと言うのだから、もはや悪乗りする余地などかけらもない。張飛を仕留めるにはウェザビー社製のアフリカ象狩り用の大口径マグナムライフルを用意しても難しかったというしかない。
張遼らはいつになく慎重であった。敢えて陣を構えたのである。
即座に張飛に総攻撃を加え、排除して橋梁を確保するのが戦術の常識のはずだが、それを躊躇《ためら》わせる何かが張飛にあったのか。武将としての長いキャリアでも判断がつけられないという心細さが、自分の最高命令者を頼らせたのである。張遼はいそぎ曹操に早馬を送った。
ベテラン武将の張遼たちが察して躊躇の気分となったのも無理からぬこと、冥府黄泉の師団長が憑依《ひようい》したかのような張飛の堂々たる悪魔将軍ぶりが、ごく自然な感じで、周囲の空気に硫黄と血液の混じった悪臭を漂わせていた。
ほどなく曹操の騎乗した飾り立てられた馬が密集する兵をかきわけて進んできた。曹操の本陣のしるしである青絹の傘、白旄《はくぼう》、黄鉞《こうえつ》を掲げる護衛兵が続いた。その中には今回の遠征に従軍させた息子の曹植《そうしよく》も見学に来ていた。まだ十五だが戦争を知らない甘ったれたお坊ちゃんにするわけにはいかない故の実戦教育である。また、曹植が兄曹丕の美人妻の甄氏《しんし》に懸想し、片思いが腐って熱病にかかったようになっているというタレコミがあり、殺戮の曠野《こうや》を見せてショック療法を施し、そののち暇が出来たら、
「人妻を口説く時はこうやるンだーッ!」
と実地指導をして、ナンパ失敗の後遺症を治そうという親心もあった。曹家では人妻を奪ってもべつに悪ではない。曹操がさんざんやってきたことなので息子を叱れる口がないからだ。
曹操は張遼らを呼びつけ、
「どういう状況か。劉備のやつは発見したのか」
と訊いた。張遼は、
「あれをご覧下さい。虎髯《とらひげ》がやったのです。わしも人のことをとやかく言えぬ殺人鬼ではございまするが、人間として、武人として、戦さ場の良心は持ってございます」
と唾を吐いて前方をあけた。
怪物におもちゃにされて殺されたようなむごい死体群の向こうに、喜悦の表情をした張飛が馬上で蛇矛を構えていた。繊細敏感な詩人神経を持つ曹植は見た途端に嘔吐して膝をついた。長坂坡を進む途中で見た屍体からも目を背けたいくらいだったが、今目前の屍体はその衝撃度が段違いであり、ホラー映画も真っ青の、変形して人の形をしていない水蛭子《ひるこ》の如き死体ばかりである。荀攸《じゆんゆう》が背中を手でさすりながら、
「公子《わかぎみ》、この程度のことで顔を蒼くするようではなりませぬぞ」
と厳しく言った。
「う、うむ。わたしはこの光景を詩に託して、張飛の罪を千年の時に伝えようぞ」
とまたゲロを吐きながら言った。しかし才気|煥発《かんぱつ》の文人曹植も張飛を詩に焼き付けられる言葉をまだ持ち得なかった。
たった一人の張飛に曹軍きっての猛将たちと三万を数える兵が手を出しかねているのは、張飛が素手で殺戮した三百余の畸形死体が転がっているからだけであろうか。
(馬鹿な……素手だと)
首が曲がらない方を向き、耳や手や脚がちぎれ、目玉が眼窩《がんか》からはみ出し、腹部が破れて腸が垂れている屍体がたくさんある。はじめはよくできた蝋人形かと思った。中国残酷物語史上、どんな残忍な拷問のプロもここまではしないと思われた。一人の素手の男にできる所業ではなく、こちらを脅えさせるための苦肉の計略であろうと、鼻で笑って無視したいところであるが、曹操は先に張飛の怪獣じみた殺人戦闘を見ている。
(ヤツならやりかねない)
いや、やるだろう、と思う。また、
(あれは同じ張飛なのか)
とも思った。曹操の率いる軽騎兵隊が難民の最後尾を襲ったときに飛び出してきた張飛とは、どこか雰囲気が違っていた。むろん状況が違うせいだといえばそれまでだが、そうではなく張飛の表情や姿には感覚的な違和感がある。
曹操に近侍している曹軍一の腕力自慢の許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]が、
「これはわたしの目がおかしくなったか。張飛が人喰い虎の王の如く黄金色に光っているように見える」
と声を漏らした。曹操が許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]を振り返り、
「虎癡《こち》よ、この張飛の冷酷無惨な殺しぶり、おぬしにはやれるか?」
と訊いた。虎癡とは許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]のあだ名である。癡《ち》の意味は痴とかわらない。虎癡とは罵詈の類であるが、許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]は気に入っているのか、人にそう呼ばれても別に怒ることはなかった。許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]は真面目に、
「公のご命令とあらば、百人くらいなら、あるいはやって出来ぬことではありません。しかし、それ以前に、それがしはもののふである前に、ただの人間なのです。敵兵とはいえ、人をあんな目に遭わせるのは、とてものこと、人として出来申さぬ」
と言葉を何度か切りつつ答えて、胴震いした。
文聘隊の生き残りは正気を失い、
「ひいっ、逃げましょう。逃げるのです。張飛は人間ではありません。あやつは神です、鬼神です。触れたら最後、地獄に落とされるのみ」
と錯乱の言を繰り返し呟いている。士気が下がるので文聘を残して後方に下げた。しばらくは精神病院のようなところで養生することになろう。
曹操陣営が、人として、原罪とは何かに向き合うようなシリアスな心境になっているとき、張飛は歓喜に包まれながらも、何故か曹軍が攻めてこないので、徐々にいらいらが募り始めていた。
「ちっ。野郎ども、三万も四万もいやがるくせに、まだおびえくさるか。まだおれに素手にしてくれとか、甘えたことをぬかすつもりじゃないだろうな」
まだハンデが欲しいのかこの野郎、と、張飛は蛇矛をぶんと一回しした。張飛時代の幕開けを飾るにしては、敵陣は葬式のような雰囲気を醸し、派手さ華やかさが足りない。
(おれの輝かしい未来に嫉妬していやがるな)
しかし敵の総大将曹操までが出張ってきているのである。
(げへへへ、ここは戦場だァーっ。おれと曹操は同格ということぞ)
名誉なうれしさが背中をぞくぞくと上っていった。
(ここは曹操に免じて、おれから挨拶をくれてやろう)
張飛は馬を二、三歩出すと、横腹を見せて蛇矛を水平に構えた。曹軍に燃え上がるような歓喜の色の眼を向けた。そして、
「われこそは天下無双、燕人張翼徳なり。後世、臆病者の誹《そし》りをうけたくなくば、束になってかかってきやがれ! 全員、一人残らずぶっ殺す!」
と大音声《だいおんじよう》した。その声、万雷のはためくが如し。
しかし曹軍はなお様子を見て動かない。ここは戦さ場なのである。張飛は、土俵に上がっているのに相撲を取ろうとしない曹軍に呆れた様子である。
「殺し合うのか、一方的に殺されるのか、はっきりと決めい! クソどもが、どいつもこいつもなんという意気地なしだ。貴様らの正体は見えたわ。数を頼んだメダカの群れがっ。曹操、おのれは恥ずかしくないのか。張遼、楽進、于禁! 貴様らもだ。股間を漏らし小便で湿らせやがって。女子供にも劣るやつ!」
張飛の言いたい放題に我慢の限度を超えた夏侯傑が、こめかみの血管を浮かせながら、
「わたしに行かせてください。狂った珍獣のたわけ口をふさいでご覧に入れます」
と、皆が止めるのを振り切って、一騎飛び出した。張飛が喜び、
「よっしゃ──────────────っ、タマを下げたやつが一人はいたか。あっぱれだが、くたばりやがれー」
と咆吼した。蛇矛をかざそうとしたら、夏侯傑は張飛の手前二十メートルの付近で突然ぐらりと体を傾け、落馬した。既に死んでいた。張飛は、
「なんだこいつは! かっこよく出て来たくせに、もう死んどる! 気色の悪い奴め。さては伝説作りに失敗したな」
とかえって驚いている。おそらく憤激のあまり持病の高血圧が昂じて脳の血管が一気に破裂したか、突然の心臓発作か何かであろうが、曹軍の兵らには張飛の発する特殊な超音波を浴びせられたせいで死んだと見えた。夏侯傑は架空の武将であり、『三國志』には実在しない人物であるから、どんな死因であろうが大勢に影響はないので深く考える必要はない。
曹操らは唖然として夏侯傑の頓死《とんし》を見ていた。
「こら、他にもっとましなのはおらんのか」
貴様らは幼稚園のお遊戯部隊か、とさらに張飛に罵られた。
「ここで張飛を倒さねば、わが軍の恥でござる。このことで民衆(や陳寿)に変な噂が広まったら、回収できなくなりましょう。どうか殲滅《せんめつ》命令をお下しください」
と楽進、于禁がたまらず申し出た。弓弩《きゆうど》の部隊を前列に集め、矢を集中豪雨のように浴びせてから、長い槍を持たせた精鋭中の精鋭を突撃させればさすがの張飛もひとたまりもなく地獄行きだろう。それ以前に矢を防ぎきれず後ろを見せて退くに決まっている。
曹操は荀攸に、
「どう思う?」
と訊いた。
「それはわが君、あくまで劉玄徳を擒《とりこ》にするお心算《つもり》なら、張飛を撃破して進まねばならぬところでしょう。張飛がああしている間にも、劉玄徳は距離を稼いでおりまする」
「確かにそうだが、どうも劉備がこちらに逃げたということが、ひっかかってならぬのだ」
当陽城の西のあたりで劉備の目撃証言が途絶えている。ほとんど逃げ遅れたかのような、引きつけぶりであった。故意にぎりぎりまで姿を曝《さら》していたとも考えられ、罠臭さが匂い立ってならぬのだ。
果たして劉備は長坂橋を目指して逃げたのであろうか。兵、民、馬が入り交じる混戦状態がしばらく続いており、あの特徴のありすぎる容姿をした男がするするとこちらへ向かえたろうか(しかも無意味に目立つ服装の孔明といかにもそのスジの人柄である魯粛が付いている)。誰の予測も裏切る異常な方面に走ったという推測も捨てきれないのだ。
「しかし、劉玄徳が漢水のいずれかの津を目指している可能性はきわめて高うございます。この先であれば漢津。捜索するに越したことはございません」
「それはそうだ」
張飛を避けて長坂橋を迂回して鐘祥《しようよう》(漢津のあるところ)に出ることも出来なくはないが、現時点では長坂橋を渡るのがいちばん早かろう。
「だがな、公達《こうたつ》、張飛を見よ。力の化身、武の化身、地獄の案内人、まさに鬼神を拉《ひし》ぐ将である。わしはあそこまで異常性が極まった武人を見たことがない」
すると荀攸は面を伏せがちに曹操の目を覗き込み、言った。
「わが君、まさか悪い病気が出ておるのではございませぬな」
「ぬ、む」
曹操の病気とは、言わずと知れた人材愛病、どんなことでもいいから抜群の才力を見ると、惚れ惚れとしてしまい、惜しくなり、欲しくなる。前日も趙雲欲しさに全軍に手加減を命じて、不必要な損害を増やしたばかりである。
曹操はそれは慌てたように否定して、
「馬鹿な。わが兵が人間として扱われず、蚊トンボか何かのようにいたぶり殺されたのだぞ。張飛のやつ! いくら心の広いわしでも怒りが湧いてやまぬ」
と言っているが、荀攸には通用しない。
(悪い癖であらせられる。しかし張飛がわが軍門に下ることは天地がひっくり返ってもあり得まいに)
張遼、楽進、于禁らも恐い顔をして、
「殿、張飛を退治するご許可をいただきたい。そのお言葉を直接聞くためにわれらの即座の判断を差し控え、お呼び致したのでござる。わが君の命なれば、わが軍のつわものは、たとえ惨殺の憂き目に遭おうとも悔いはござらぬ。今確かに張飛は武人としての最高位、天下一の暴れん坊将軍と化しておることは、われらにもある種の羨望を感じさせるものでござる。しかし、われらも武人であればこそ、今天下一許せぬ男でもありまする」
と曹操に迫った。
張飛は、動きのない曹軍に、
「おい。待たせるのは、いい加減にしてくれ。張翼徳ここにあり。わしと命のやり取りをする男の中の男はおらんのか」
とどんどん機嫌を悪くする人食い虎が、本日何度目かの咆吼をあげたところである。メガトン級の爆弾が爆発直前の振動をし始めるのに似ていた。
曹操は、
(仕方あるまい。あれを生け捕りにするのは諦めよう。少々傷物になっても、剥製にして床の間に飾らせることにするか)
と思った。ウルトラマンに出てくる怪獣の人形が欲しいという、小学生の男の子と変わらぬ心情がある。
曹軍の総攻撃が、命令一下、張飛に襲いかかり葬り去ろうとする緊迫の瞬間であった。張飛はその戦気に反応し、肉体が一回りも二回りも大きくなり、衣服が弾け破れそうなほどに筋肉を膨張させた。一触即発!
そのとき後方から早馬が駆けてきた。
「丞相《じようしよう》にお報《しら》せあり。道をあけよ」
急ぎの伝令であった。密集した兵をかきわけ、曹操のもとにたどりつくや、下馬して叫んだ。
「劉備は既に夏口《かこう》に到着し、前荊州牧劉表が嫡男の劉gと合流いたしました」
そんな馬鹿なと言いたい驚くべき報せである。
「まさか! 嘘だろう?」
という報であった。
「劉gは丁重に劉備を門前に迎え、その後は曹公をこけにした宴会を開いてどんちゃん騒ぎをしておるということです」
「あり得ぬ! まことのことなのか?」
と荀攸が曹操の代わりに叫んだ。
当時、テレビ中継があったなら、酔っぱらって女子アナに不埒なことを仕掛ける劉備がカメラに満面の笑みを向けながらVサインをして、曹操を「贅閹《ぜいえん》の遺醜《いしゆう》」呼ばわりし、自分を逃がした頓馬《とんま》ぶりをこれでもかとからかう緊急番組が流れていたりしたら面白い。で、その背後には孔明がいて、カメラを嫌うかのようにやや深沈《しんちん》とした表情をして白羽扇《はくうせん》をかざし、レポーターにマイクを突きつけられると、重い口を開き、何故か宇宙の素晴らしさについてとくとくと語るわけである。それを小型液晶テレビで見ていた曹操はテレビを地面に叩きつけ、踏みにじった! という感じである。
曹操の軽騎兵五千が劉備軍団と難民行進の尻尾に食いついた時をもって、長坂坡の戦いの開始であるとすれば、まだ三日と少ししか経過していない。当陽から夏口にゆくには陸路をとれば不眠不休で走っても五、六日はかかる。馬の脚に不利な網の目のような小川やクリーク、湿地帯が難行軍を強制するし、たびたび舟を借りねばならない。
逃亡は見せかけで、襄陽から直ちに漢水を船でくだったとしたら、肉体的にはかなり楽になるのであるが、もちろん動力機関を積んだ船はない。基本的にはゆるやかな川の流れに任せ、要所で人夫が櫂《かい》を漕ぐという方式であり、そうそう早くは着けないのである。季節にもよるがこれも天候風向きに左右され、夏口到着はやはり四日は見たほうがよかった。
「劉備がいま夏口にいるのは不可能である」
というしかなかった。
『三國志』の記述、劉備たちが漢津で関羽の船団に「たまたま」出会ったのに、乗船することなく、漢水を向こう岸に渡してもらっただけで、あとは陸路を行ったとするのは船足が速くないという理由からであろう。襄陽と江陵を押さえた曹軍が船をかき集めて封鎖措置をとった場合、まだ漢水から抜け出していなければ、それこそ逃げ場は水中にしかなくなる。この辺りの交通事情に詳しい者が、陸路のほうが安全であると進言したのであろうし、江夏《こうか》太守劉gの部隊が劉備軍の崩壊を聞いて、漢水の西岸まで出動していたとも読めるところである。
荀攸はそれくらいのことは調べて知っていたから、劉備の瞬間移動じみた夏口到着の報に驚き、疑った。曹操はにわかには信じられぬ急報に、一瞬、判断がつかず、荀攸に、
(これはどういうことだ)
といった表情をちらりと見せた。
劉備は長坂坡にいたのかいなかったのか。いや、いたはずである。しかし、哀れな兵士が影武者となって演じていた可能性もゼロではない。かりにそうだったとしても、その影武者の屍体も発見されていないのだ。
「ええい、劉備が夏口で宴会を開いて、未だ戦塵にまみれておるわれらを嘲笑っているというのは事実なのか! すぐさま調べ、報告させよ」
と曹操は言ったが、長坂橋で張飛と睨み合っている今、それは無理な相談であった。
文聘《ぶんへい》は蒼白な顔にまだ血の気が戻らず、
「わたしがせんだって見たのは確かに劉備本人でございました。それに諸葛亮もおりました。わたしは嘘など申しません。諸葛亮は異常者で、仙人のわざを身につけており、宇宙の力を操れるという評判です。雲に乗って空を飛んだに違いありません。おそろしい……」
と震えながら力説した。
「誤報だと信じたいところですが、続報を待つしかないでしょう」
と荀攸は苦々しい顔をして言った。しかし程c《ていいく》や|賈※[#「言+羽」、unicode8a61]《かく》があからさまな虚報を垂れ流しに寄越すとも思われない。
急報を発したのは襄陽《じようよう》にいる曹軍幹部である。樊城《はんじよう》、襄陽とその近辺には後詰めの曹仁、曹洪、夏侯淵、徐晃らが守将として居り、程cと賈※[#「言+羽」、unicode8a61]がその補佐をして情報収集と分析、次の作戦計画の準備に当たっている。そこへ昨日、江夏方面から続けざまに未確認情報がもたらされたのである。
「そんなことがあろうはずはない。劉備が江陵に向かったことは多くの者がはっきりと見て、証言している!」
「しかし、急ぎ確認するとしても、とにかくわが君には一報せねばなるまい」
つまらない情報も重要な情報も、曹操の耳に入れることを怠ったら、重い処罰をくらうことは必定だ。それで急いで早馬を出したのである。その早馬が一日かけて長坂橋の曹操のところへ着いたのである。
曹仁は、
「わしが夏口にゆき、確かめてやる。大耳サルがいたら、しばき倒して引っ捕らえるだけのこと」
というが、他の将が反対した。これから江夏に侵攻し、夏口を攻め潰そうとするなら大きな戦闘になる。それには兵が足りない。曹軍の主力は劉備追撃と江陵占拠のために出払っている。諸将は新参の荊州兵を信用しておらず、劉備に心を寄せている者も少なくなかったから、あまり使いたくなかった。そもそも劉gの江夏の兵も同じ荊州兵なのである。
また夏口は孫権の領地と接しており、殴り込んで黄祖《こうそ》を血祭りに上げてからは、半ば縄張りにされている状態である。押しかければ当然の事ながら柴桑《さいそう》の孫権集団を刺激し、衝突が起きることになる。曹操の命なくそれはできない。
「とにかく夏口に間者を行かせ、調べさせるのが先決だ。劉備だから、すぐに判明しよう」
と間者数名を急行させた。
この時代、名は売れていても、写真のようなものはないから、人物の同一、身元証明の確認はそう簡単ではなかった。人相書も似顔絵ではなく文章で書く定型的なものが多かったから、あまりあてにならない。為政者が民に入れ墨を入れたり、焼き印を押したり、檀家制度を利用したり、きっちり戸籍を作ったり、バーコードをスタンプしたり、背番号をつけたくなる気持ちも分かろうというものだ。やはり本人をよく見知っている者を鑑定者にするのが良く、しばしば『三国志』に都合よく出てくるように、同郷の友人などというのは重宝されるのである。
さいわいにも劉備の場合は分かりやす過ぎる異形の容姿を持っていたから、一度でも見たことがあればまず間違えまいし、言葉で説明しただけでもだいたい見当がつく。天下の英雄としては得なことではあるが、同時にすぐに本人と判明するのでは安全保障的にリスクが大きいと言わねばならぬ。民間人にも暗殺者にも兵士にも、おれが劉備だ! と常に叫んでいるようなものであり、ターゲットとして的が大きすぎる。
それにしても襄陽、夏口、当陽、江陵と、情報が円滑に回り、届くには距離があった。この時は馬の速さが情報の速さであった。
そして一日半くらいして夜を徹して馳せ戻ってきた間者が報告するには、確かに大耳、手長の猿のような人間がおり、その酒席における下品さは劉備に間違いなしとの目撃談を語ったのである。
話を戻して長坂橋。
曹操は顔面を紅潮させながら、
「もしこの先に劉備がおらんとするなら、これほどあくどく、ふざけたことはない! 劉備は民衆や自分の部下たちを捨て駒にしてとっくに逃げていたということになる。とてもまともな人間のすることではない」
と吐き捨てた。この戦いは始めから終わりまで劉備の民衆を巻き込む卑怯卑劣さが際だっているわけだが、そんな酷《ひど》い男でも何故か民衆人気が落ちない劉備は、これでもやはり英雄なのであり、それも大衆向けの俗っぽいがとても分かりやすい英雄なのである。
「張飛の相手をして、こんなところで足止めを食っている場合ではない」
と曹操は言った。
「そうですな」
と荀攸も賛成した。
(だいたい、張飛はわれらが相手してやっているからつけあがり、この場を動かず、後世名を残すかも知れない凶悪殺人に精を出せるのだ。われらが去れば、こやつもどこかに行ってしまうに違いない)
エサがいなくなれば野獣もひとまず去るだろう。
「一時撤退だ。当陽城までもどる!」
と曹操が命じると、張遼、楽進、于禁らは口惜しそうな顔をして歯噛みした。
「ものども、ここは我慢せい。劉備の首を諦めたわけではない。またここにも戻ってくる。それにもし夏口に劉備が入ったことが本当なら、船団をもって長江側から江陵に上陸される恐れがある」
今は正確な情報が欲しい。張遼たちはしぶしぶ軍団に引き返すことを命令した。
後ろを見せて去る曹軍に張飛が一人で突っ込んでくるおそれがかなりあるので、殿《しんがり》には楽進軍の精兵が置かれた。
「何しろ、百万の大軍に口笛を吹きながら入ってゆき、大将首をぶらさげて帰るという奴だからな。一人でも油断するな」
と楽進は身を引き締めて、軍勢を張飛に向けたまま、ゆっくりと後退していった。しかし張飛が襲ってくれば、これは遠慮無く邀撃《ようげき》し、叩き伏せることが出来るわけだから、楽進の溜飲も下がろうというものだ。
楽進は油断なく張飛を見つめていたが、どうも様子が変である。張飛はがっくりと肩を落として、涙が溜まった目をこちらに向けている。
「どうして行っちまうんだよ。おれを一人にしないでくれよ。みんなおれのことが嫌いなのかい?」
とでも言っているような、寂しげな風情である。
張飛は曹操の大軍に押し寄せられて、天にも昇る歓喜を味わっており、これから始まる大量殺戮のことを考えるとうっかり射精してしまいそうなほど興奮していたのである。それが、何故だか分からないが、急に粛々と撤退し始めたのである。生命の迸《ほとばし》りのピークを体験していた張飛は天国から地獄に突き落とされたかのようなショックを受けた。去りゆく曹軍に躍り込むような元気は萎《しぼ》み、闘志の泉も涸《か》れたかのような寂寥《せきりよう》が張飛の心を満たしていた。
「なぜだ。戻れ。なぜおれと殺し合いをしてくれんのだ。こんなよい舞台に立つことは二度とないぞ。みんなそれほどおれが憎いのか。天は不仁なり、張翼徳をもって芻狗《すうく》となす……」
芻狗というのは魔よけの犬の藁《わら》人形である。どうでもいいことだが、『老子』の一節の洒落である。
(ああ張飛時代の幕開けが、遠ざかってゆく……)
長坂橋に張飛の虎の泣き声、獣の嗚咽《おえつ》が響き渡った。
楽進はそんな張飛を見、同じく戦場に命を懸ける定めの武将として、しかしながら、その心情がまったくぜんぜん理解できなかった。
長坂橋の一場は張飛史上最高の見せ所であり、それにとどまらず中国史上でも屈指の名場面であると言え、たくさんの錦絵が描かれ、数えきれぬほど演劇化された。
張飛の人間を超えた野獣レベルの迫力は、孔明流に言えば宇宙燕人張飛の記憶を中華の人々に未来永劫刻み込むものである。張飛が雄叫びを三度あげると人が死に、曹軍の歴戦の猛将、智将らが恐怖のあまりパニックを起こし、算を乱して数十里も逃げたとされる。曹操に至っては冠、簪《かんざし》、男のダンディズム溢れる小品なども全部捨て落として、帯が垂れて衣服がはだけ、ざんばら髪で泣きながら走って逃げたということになっており、張遼と許※[#「ころもへん+者」、unicode891a]が錯乱する曹操を捕まえ、
「丞相、お静まりくださいませ。たかが虎髯の一匹くらい、何を恐れることがありましょうか。これよりただちに軍勢を返して攻めれば、劉備を手捕りにできましょう」
と、なだめて落ち着かせねばならなかった。曹操史上最も格好の悪い姿をさらしてしまった。
長坂橋頭、殺気生じ
槍を横たえ馬を立て、眼は円く|※[#「目+爭」、unicode775c]《みは》れり
一声、好《さ》も似たり、轟雷の震えしに
独り退かす曹家百万の兵
とはいえこの詩に野獣の悲しみのような哀感を覚えるのはわたしだけであろうか(そうだろうな、おそらく)。張飛が切望した大殺戮戦は起こらずじまいで、『三国志演義』でさえ、冷静に読めば曹軍の被害は、張飛の言葉の暴力に深く心を傷付けられたことと、この世にはじめからいない夏侯傑が殺された(勝手に死んだ)くらいであって、あとの軍勢は無傷で張飛から離れたのである。戦果的にはなんだか裏切られたような地味な一幕と言える。『三國志』『三国志演義』に共通していることは、張飛が長坂橋に立ちふさがり、殺人的挑発宣言をぶちあげ、曹軍の追撃部隊を一時的に拒止し、自らも窮地を脱して逃げたということだけである。
子供以外は張飛が一対数万の対峙《たいじ》で相手を圧倒して追い払ったとは思わないだろう。何か事情が発生して撤退したのに違いない。曹軍は理由不明ながらそれ以上劉備を追撃する意欲を失くし、急に捜索がおざなりになったということである。よって長坂橋で鬼神も退けるほど燃え上がっている張飛と無理に一戦交えて、兵員を傷付ける愚を避けたというのが、まあまあの解釈である。張飛は不満だったろうが、橋をしばらく使い物にならなくしてから劉備を追って東へ向かったのであった。
一方、戦場にまったく姿を見せず、劉備とは別行動をとっていると考えられた関羽の消息が明らかになった。関羽は襄陽からそう遠くない津に船を集め、避難民を乗せて下流にくだっていた。四日前のことになる。民衆も詳しく知らなかったらしく、知っている者も曹軍に口を噤《つぐ》んでいたため、判明が遅れたのである。
「では関羽の船団は今どこにいるのだ? もしや劉備はその船に乗っていたということか!」
(やられたわい! 劉備が夏口にいても不思議はない。おのれ卑怯未練な小細工を弄しおって)
と程cが慌てたちょうどその頃、関羽はようやく漢水と長江の合流地点に入ろうとしていた。夏口であり、のちの漢口《かんこう》である。水の流れが合う場所を口《こう》という。当時、夏水《かすい》が流れ込む口だとして夏口を地名としていた。江陵にゆくにはここから陸口《りくこう》、烏林《うりん》と赤壁の戦いにおける重要地点を遡上し、大きなカーヴを描いて航行することまた何日かかかる。着く頃には江陵はとっくに曹軍の手に落ちているだろう。
豪将関羽はたいへんな大回りを命じられ、戦さにはクソの役にも立てない暇潰しをさせられていたのである。劉備はどうも水路についてほとんど何も知らずに、
「船で江陵にいきゃ少しはましでよかろう」
と適当に合点して関羽に難民輸送を命じたとしか思われない。後になって見れば、例によって、いい加減な無責任命令だったことが分かる(関羽がいないほうがいいと思った孔明はそれを承知で賛成したわけである)。しかしどうであれ劉備の命は関羽にとっては絶対命令だ。
関羽が水夫に聞き、
「いざ、長江へはいろうぞ」
としていたところに劉gが部隊を率いて現れ、呼び止めた。
「関将軍、民はここで下船させ、急ぎお戻りください」
と言う。関羽は、
「わしの任務は江陵まで民を運ぶことだ。そして江陵で長兄たちと合流することになっておる。その邪魔をするのなら、おぬしを斬らねばならん!」
と傲然《ごうぜん》と言い放った。劉gは脅えたが、一生懸命に当陽付近で劉備軍が曹軍と交戦し、壊滅的打撃を受けたことを説明した。関羽はさすがに顔色を変えて自慢の美髯《びぜん》を震わせた。
「斬れ!」
と叫んだ。
「長兄たちはもはやこの世におらんのか。わしは、わしは……何をしておったのか。公子よ、わしを斬り殺してくれ!」
「いや、関将軍、先ほども申しましたが、漢水を急ぎお戻りください」
「すでに如何にしても間に合わぬ。わしだけ戦いもせず漢水にぷかぷか浮いていたなどとは、恥ずかしくて生きておられぬ。なのにまだ浮かび続けよというのか」
また戻るのに三日も四日もかかるのだ。
「すべてが終わった戦場に恥をかきに行けと、そういうことなのだな」
漢《おとこ》関羽に最悪の屈辱責めが加えられていいものか。
「死ぬ!」
「早まらないで聞いて下さい。別に急がなくていいから漢津まで戻るようにとあります。ほら、ここに」
「ぬ」
劉gが懐から取り出したのは、一部の人のみ見たことがある孔明の軍師袋に違いない。その嚢中に秘められていた書面を関羽に見せた。
「なんだこれは。狂人の書いた詩の如し。何を言いたいのかさっぱりわからん」
「孔明先生にいざというときに開くようにと戴いていたものでございます。わたしは伊籍《いせき》どのとともに徹夜で解読いたしました。それでも不明の点がありますが、さしあたり他に出来ることもないので、指示に従うことにしたのです」
劉gは、孔明の謎かけのような文章を解読した要点を関羽に説明したのであった。
軍師袋の指示は暗号解読の専門家にも解きがたい典型的な妄文としかいいようがなく、黄天《こうてん》まさに立つべし、とか、そういう讖緯《しんい》予言のようなことが書いてある孔明コードなわけだが、敵の手に落ちた場合にはその意味不明さが役に立つのであろう、たぶん。
それを信じて関羽は漢水を再びさかのぼることになった。船は目立たぬよう一艘にした。この一艘が漢津の近くでじっとして待てば、敵の船が来てもそう簡単に発見されることもない。何日後になるかは分からないが、漢津に劉備軍団の生き残りが一人、二人と集まってくるから、対岸に渡すようにとのことである。渡し終えたら船を捨てて、関羽は陸路の逃避行に参加すればいい。
多くの『三国志』は、ほとんど例外なく関羽の船団は孔明か劉備の指示により、はじめから秘密裏に漢津に停泊して、計画通り当陽でL字ターンして逃げてくる劉備を待ったことにしている。何故か関羽の江陵への難民輸送の件は検討にも値しないものと抹殺されてしまっている。やっぱり陳寿の嘘だからなのか、民のことなどどうでもいいからなのか。それを外さず苦しい解釈をすれば、さきの感じにするしかない。
『先主、斜めに漢津に趨《はし》り、適《たま》たま羽の船と会す』
漢津で、たまたまか、ぴったりかは知らないが、ちゃんと出会うのも一苦労である。
ひとつ蛇足をつければ、「斜」という字はあまりよい意味がない。傾くという意味では、ご機嫌斜め、というふうな使い方がある。また「斜」は「邪」の字と同様に用いられ、邪悪、不正という意味もある。
「斜めに漢津に趨る」
とは、とても意地悪く訳せば、
「劉備はかなりよこしまな手を用いて漢津に逃げのびた」
のではないか、と突っ込むことも出来よう。
軍師袋のもう一つの指示は、これも奇怪な表現でほとほと困ったが、伊籍が、
「どうやら、劉皇叔は夏口でくつろいでいなければならぬということのようだ」
と判じた。
「大耳の手長猿をつくり、宴を催して天下に言いふらすべし」
と解釈できる。劉gと伊籍は部下の中から劉備に雰囲気と背格好が似ている者を選び、無理矢理人体改造を施して耳を大きく腫らし、腕には二重関節ギプスのようなものを取り付けて長くした。そして酒を飲ませて下品なジョークを絶え間なく口走らせたのである。劉備の特徴をさらに強調した身体に作り替え、顔をじっと覗き込まれでもしないかぎり、ばれることはないだろう。特徴のありすぎる身体だからこそ可能な、逆利用した策である。そして、
「劉将軍はすでに夏口におり、ご休憩中」
ということを、襄陽に聞こえるよう大声で言いふらした。
この告知は荊州全土にひろがり、江陵に偽の敗走を演じた関平《かんぺい》らの耳にも入ったはずだ。もともと江陵を占拠するつもりはないので、民に変装でもしてそれぞれ夏口に向かうはずである。また長坂坡で命を拾った劉備軍兵士や、劉備に洗脳されたかのような崇拝心を示している一部の民の耳にも入り、意外と早いうちに懲りずに夏口に集まってくるであろう。曹操の支配に批判的な荊州人士の募集にも、あるいは期待してよいかも知れぬ。
それもこれも、劉備軍団が十万の民を守るために激闘し、敗滅したにもかかわらず、奇跡的に生き残った劉備の強運と、恐れ入った伝説を作りまくった趙雲、張飛らが、何も知らない人々を感動させずにはおかないからである。
張飛が長坂橋を鬧《さわ》がしてから既に三日、戦闘は終わり、当陽近辺は落ち着きを取り戻しつつあった。まだ片付けられていない屍体がむごたらしいが、生き残った民があちこちに気の抜けたように座り込んでいた。曹操と曹軍主力は江陵に向かったので、兵士の姿はめっきり少なくなっている。
荀攸は画竜点睛《がりようてんせい》を欠くことを嫌い、
「劉備、夏口にあり」
という報告後も、このあたりは捜索されたが、劉備は発見されず、やはり夏口にいるのだという結論となった。
「そんなはずはない。戦闘中、長坂坡にいた劉玄徳が、どうして遠く夏口にいけるものか」
と疑って捜索隊を叱咤し、穴ぐらまでほじるよう命じたが、まだ屍体がごろごろしている時であり、兵士らにやる気がなく、結局発見できなかった。程cの報告を事実と受け取るなら、劉備は関羽とともに船に乗り、はじめから長坂坡にはいなかったことになる。だが、血煙があがる最中、踊ったりおどけたりオヤジギャグを飛ばす劉備を避難民が見ており、その気概と勇姿が全米を感動させていた。のみならず目撃者は曹軍中にも多数いて、もとからいなかったなど、そんな馬鹿な話はない。劉備のいない戦場で張飛、趙雲があれほどまでに戦い狂うとも思われない。
「わしもおぬしと同意見だ。劉備がいたことは間違いない」
と曹操はきっぱりと言った。
「だが、やつが夏口にいるのなら仕方があるまい」
これは含みのある言葉である。荀攸には伝わり、唇を噛んだ。
「大きい。たとえイカサマだと分かっていてもな」
「敢えて軍をとどめて草の根を分けるか、捨てて江陵を確保するか。考えるまでもないことです。長蛇を逸するほうを選ぶしかございません」
「それにしても劉備のやつめ、逃げ先に夏口を選ぶほど頭がいいとは思わなかったぞ。いや、勘か。やつは昔から妙に勘だけはよかった」
意気地なし公子の劉gが一軍を擁しており、夏口を押さえたことも予想外であった。まことに戦さでは何が起こるか分からない。二人は急ぎ江陵に向かったのであった。
曹操は対呉戦を睨んで江陵を前線基地とするつもりであった。手が遅れれば孫権が江陵に色気を見せるおそれがある。ここは確実に奪っておくにしくはない。江陵に集積された物資は故劉表の隠し遺産のようなものであり、多くの人と兵を養うに足りる。
『曹公、大いに其の人衆、輜重《しちよう》を獲たり』
曹操は、劉備の連れていた難民と大荷物を積んだ車を捕獲、自らの勢力に収容した。長坂坡の戦いは、劉備を取り逃がしはしたものの、決して無駄ではなく、骨折り損にはならなかった。
さて、長坂橋の手前を、ボディのあちこちが割れ、傷だらけになった恐竜戦車(第二号)がさきにもましてゆっくり進んでいた。牽《ひ》いているのは牛ではなく、馬一頭、それも疲れ切ったような馬である。牛は曹軍兵士が取り外し、焼いて食べてしまったから、馬に替えたのであるが、何しろ重量があるのでなかなか進まないのであった。
その車中にいるのは言うまでもなく諸葛亮孔明!
と、劉備玄徳、魯粛子敬の三人である。
魯粛は疲れ切った死にそうな顔をしているが、孔明は澄まし顔、劉備は今にも笑い出したくてうずうずしているような顔である。
「曹軍の馬鹿どもが、劉備玄徳ここにあり、見逃しおって!」
「殿、お静かに。まだ逃げ切れたわけではありません」
「うぬーん。はやくお外で遊びたいぞ」
「……(魯粛)」
魯粛はスジ者の恫喝的威厳などすっかり洗い落とされてしまっており、人畜無害な人の好さげな顔をした人と化していた。少なくとも孔明と劉備には今後はコワモテは通用しないであろう。ヤクザ最大の武器、虚喝パワーは半減せざるを得まい。
むろんこの恐竜戦車も曹軍兵士に調べられたわけだが、二号車にはスペシャルな仕掛けが施されていた。箱の前側、厚さ五十センチほどが板に仕切られた空間になっている。そこに隠れて板を下ろせばよくよく調べねばスキマがあるとは分からない。もちろんそんな場所に大の男が三人も入るのだから、棺桶に詰め込まれたような苦しみである。兵士が、
「ちっ」
と唾を吐いて車内から出るや、顔を真っ赤にした三人が転げ出て深呼吸した。雑兵らが、よい寝場所があったと、一晩車内にいたときなどは、それこそ本当に死にそうな苦しさだったが、孔明だけは涼しい顔をして胎息《たいそく》を行っており、これも站《たん》の鍛錬の成果であった。
水と酒と乾飯などが床下にも隠されていたから、それを食いつないでしのいだ。大小便は真夜中になってから外でこっそりと。
もちろん危機は何度もあった。火をつけられたりしたらそのまま本物の棺桶になったろう。壊して薪《まき》にされかかったこともある。後部扉と側面板の一部が剥がされた。横転させられたり、車輪を割られたら万事休す、隠れ空間で、身体を横か逆さまにして耐え続けなければならぬ羽目に陥ったろう。曹操が江陵へ去るまで、ずっと危険の中にいたのである。
趙雲、張飛が劉備の存在をかき消すほどの大注目を集める大暴れを見せるであろうことは、孔明ならずとも分かっていたろう。それが大きければ大きいほど劉備は霞むことになる。また孔明は、曹操が劉備追捕につよく拘泥しないことを予測していたかのようだった。
「案じることはありません。この車が異常な強運に守られておりますこと、この孔明の目にははっきりと見え申す。なんといってもわが君がお乗りあそばしております」
と、根拠無く爽やかに言ったものである。劉備は、心理的肉体的重圧の反動か、陽気と強気に拍車がかかっていて、
「そうだろう。この玄徳があるかぎり、この車は天帝のご加護を受け、敵は指一本触れることはない。そうに決まっておる」
と根拠無く自らを励ましたが、その後も何度も敵に触れられたり、遊び半分に矢の的にされたり、槍で突かれたりしたのであった。
そんな二人の会話を聞いているうち、魯粛の自我は少しずつ崩壊していったようである。
「子敬どのはこの玄徳たちと極限状況をくぐり抜けたマブ仲間でござる! これからは三位一体の友として付き合ってくださらぬか」
と劉備にたらし言葉をかけられ、
「わ、わしゃあ、ほんまにしあわせもんじゃ。劉皇叔のおかげで、人生の大バクチに勝った思いがしとります」
と涙ながらに言うのであった。
「いいえ、真のバクチはこれからですよ。子敬どのにはエエお話をたくさんお聞かせいただきたいものです」
と孔明は言った。
劉備は長坂坡の戦いにいたるまで幾つもの判断ミスを重ね、この重要な時期にまたしても負けてスッカラカンになってしまった。普通ならここで天下レースからは脱落である。だが、殺されなかったことは、それを補ってあまりあると孔明は思っている。孔明にとって劉備はスってもスってもまたいつの間にか増えている不可思議なタネ銭であった。この半年でそれをしっかり見極めることができた。
長坂橋は橋の真ん中あたりが破壊されていたが、その後、曹軍が応急に修理したのであろう。なんとか渡れそうだ。しかし恐竜戦車の重量では無理であろう。劉備を馬に乗せ、孔明と魯粛は徒歩で渡った。途中の村で馬が買えればよいのだが。
(果たして漢津で皆は待っていてくれるであろうか)
気の短い連中であるが、孔明は見捨てても、劉備だけは石になっても待つはずだ。
目指すは夏口、なのだが、到着する頃には月が変わっているだろう。
果たして赤壁の戦いに、割り込みは間に合うのか孔明!
さて、孔明、張飛、趙雲の伝説つくりをオトリにしてのイカサマで、なんとかその場しのぎを成功させたというところ。入団して半年の、まったく期待されていない青軍師の意地が、こんな形で劉備にぶつけられたのかと思えど、それでも同情できぬが定めであるのは、次にはもっとえげつない策を胸に秘めているは一目瞭然、いざ燃やさん、と誓う心の徒花《あだばな》はどこで咲くのか。
それは次回で、却説《さてと》きなん。
〈底 本〉文藝春秋 平成十九年二月二十五日刊