泣き虫弱虫諸葛孔明
酒見賢一
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(例)諸葛孔明《しょかつこうめい》
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(例)諸葛|亮《りょう》
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『泣き虫弱虫諸葛孔明』 目次
孔明、襄陽《じょうよう》に梁父吟《りょうほぎん》をうたう
孔明、狭い世間に臥竜《がりょう》を号す
孔明、五禽《ごきん》の戯《たわむ》れに醜女《しこめ》を獲《と》る
単福《ぜんふく》、劉《りゅう》皇叔《こうしゅく》にからめとられて初陣《ういじん》に懲りる
孔明、色に溺れて門を閉す
劉皇叔、危難に遭《あ》いて水鏡《すいきょう》の垂れる釣り針をみる
徐庶《じょしょ》、離間策に泣いて遂に諸葛を薦む
孔明、三顧に臨み、隆中《りゅうちゅう》、歌劇場と化す
孔明、思いを宇宙に致し、泣いて劉皇叔を虜《とりこ》となす
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ちかごろ、わたしにもようやく諸葛孔明《しょかつこうめい》の偉大さがわかってきた。
決して皮肉ではない。
全国二百万の諸葛孔明ファンからは何をいまさらと言われるかも知れないが、不敏にして覚らなかった。
わたしはもう十年以上も前、『三国志』の後半、孔明南征のくだりを面白く読んでいたのだが、孔明|率《ひき》いる蜀漢《しょくかん》軍に次々に襲いかかる一種の人種差別としか言いようのない、洞穴かなんかに棲んでいる南蛮の酋長どもの描写と戦闘がある。蛮族洞主が次々に繰り出す荒わざに、多分真面目な武将|趙雲《ちょううん》たちが、いきなり虎や豹の野獣軍と異種格闘戦を強いられ苦戦するわけだが、ところが孔明すこしもあわてず、
「既に成都《せいと》におりしより情報を得て、このようなこともあろうかと準備しており申した」
と、いつ造って運んできたのか知らないが、巨大な野獣模型兵器(人が中に入って勘かすトロイの木馬的なものだが)を出動させ、口からは火炎放射、硫黄の毒煙を吐かせて野獣軍を四散させ、地雷まで仕掛けて、蛮族どもを虫けらのように焼き殺してしまうのであった。
そんな孔明のこども好きのするおとなげない所業もさることながら、何故このロボット兵器群を、後の魏との北伐戦、斜谷《やこく》、街亭《がいてい》、五丈原《ごじょうげん》に投入して魏軍を攻撃させなかったのかが不思議でならない。読者だって司馬仲達《しばちゅうたつ》の大軍が火を噴く怪獣兵器部隊にやられて地雷爆破を喰らって逃げまどうところを見たかったはずなのだ。そしたら勝てたのに、残念なことだ、と思うのはわたしだけか。
そもそもわたしが初めて『三国志』を読んだのは、作家になって後のことである。わたしのデビュー作が、「シンデレラ+三国志+金瓶梅+ラスト・エンペラー」のおもしろさと評されていたので、どんなものか見てみようと思ったのであった。そのことが無かったら一生読んでいなかったかも知れない。
それも『三国志』は漢字が難しいので読めず、『三国志通俗演義』もまた漢字が難しいので読めなかったから、適当に和訳された『三国志』をつらつら眺めたのであった(ちなみに『金瓶梅』はいまだに読んでいない。また先年話題になった原グリム版のすごく恐ろしいらしい『シンデレラ』も読んでいない)。これを元にした吉川英治の国民的『三国志』は読んでいないし、横山光輝の小国民的『三国志』もまた読んでいない。
とんだ『三国志』知らずであったわけだが、しかし諸葛孔明≠フ威名だけはしばしば目耳にして知ってはいた。
「千年に一人の神算鬼謀《しんさんきぼう》の軍師」
「智謀秘策の湧き出ずること岳泉の如し」
「行くとして可ならざる奇策縦横《きさくじゅうおう》の士」
「作戦の神様」
等々。
その時代に傑出した武道家を評するとき、「今武蔵」とか、「現代の姿三四郎」とかいうように、日本史においても、稀なる将帥、智謀の戦術家があらわれると諸葛孔明の故事がひかれ「今孔明」とか「本邦の孔明」などと称されて、昭和初期の日本軍までは不滅の褒め言葉となっていた。たとえば戦国美濃の武士、竹中半兵衛がそうである。
また日清日露日中戦争中においでも、
「貴様は孔明を気取るつもりかっ!」
とか、
「その経綸軍略《けいりんぐんりゃく》、まさに貴様は孔明の再来だな」
とか、中国と闘っている場合であっても、軍営ではそんな言葉が交わされていた。何故にそこまで?
諸葛孔明とは、戦争の天才というか、国境を越えてもう史上最強、西洋人には分からぬことだろうが、東洋には孔明以上の軍師参謀は存在してはいけないかのような錯覚をおぼえさせるほどの決定的な名なのである。
以下面倒なので正史『三國志』は「國」とし、『三国志通俗演義』(いわゆる『三国志演義』である)と、その和訳や亜流作品は「国」と書いて区別することにしておく。
しかし『三国志』は後漢末、黄巾《こうきん》の乱が起きた一八四年から司馬氏の晋が成立する二六五年までのたかだか八十年の間に起きた出来事なのであり、長寿の人なら治乱興亡のすべてを見聞に入れることが出来たろう。
「しかし、こいつら、なんでこんなに戦争ばっかりしてるんだ?」
と感想せざるを得ず、大陸人同士が、やめりゃあいいのに人口が半減するほどの殺し合いを飽きもせずに続けるという異様な話なのである(だが中国史とはこのような強烈な話の連続なのであって、三国時代がとりたてて異常なわけではない)。
現代の、平和を愛する日本人たちが見たら、身震いするほどおぞましい時代のはずである。
――のそりと馬を下りてレストランに入ってきた髭面の巨漢の服が裂けてあまりに汚ないので、ウぇイターがおそるおそる注意すると、
「いささか戦塵にまみれてき申した」
と真顔で言われたり、ただいま、と元気に帰ってきた息子が片手にまだ血のしたたっている首をぶらさげていて、
「でへへへ」
と照れくさそうに笑って、
「わが君に検分してもらわなくちゃならないんだよ。腐ると臭うから冷蔵庫にいれといて」
と、ママに渡して晩御飯を食欲旺盛にかきこみ始めたりするのが日常茶飯事であったのだ。家に人の首や四肢を飾ったり収蔵したりしておく、これは決して連続快楽殺人者の仕業《しわざ》ではないのである。
そして、そこには悠久の歴史ロマン、また男のロマンとやらがあるらしいが、英雄豪傑どもの果てしない戦いの背後では、老人幼少が分け隔てなく大屠殺され、女は掠《さら》われ見境無く繰り返し繰り返し強姦されているのであり、残虐この上なく、『三国志』には踏みにじられた人々の怨嗟の声が満ち満ちて抑圧され秘められているのである。『三国志』を面白がっていていいものかどうかいささか悩むところである。
英雄連中もしょっちゅう二十、三十万の大軍を起こしては火で燃やされたり、河江に沈められたり、得体の知れない罠にはまったりして、虫けらのように殺されてゆく。それを、
「乾坤一擲《けんこんいってき》の大智謀、秘計が当たったわい!」
と喜んだり、褒めたり、けなしたりし合っているのである。人間の知性は『三国志』では、人殺しに用いられるばかりである。紛争解決にもっとよい知恵を出すのが知性というものだろうと思いたい。敢えて人類とは度し難い生き物だということを示したいのか。
「……こいつら、結局、根本的に頭が悪いんじゃないのか?」
と首をかしげさせられることもしばしばである。しかしやむなくでも、戦場に立ったこともない者が、戦争の意義とその心理について語るのは失礼なことなので、そこは言うべきではあるまい。
また物語としては、次々にいいキャラが死んでゆくので、感情移入が途絶え、全編を一人の主人公を選んで描ききることはまず不可能であると言える。今後『三国志』をどう書くかは、とくに作家は、いろいろな意味でその手腕を問われることになるであろう。すくなくともわたしにとっては通して書くことは無理な注文といえそうだ。
その天下麻の如く乱れた凶悪無惨の地獄に、天が平和を勧めて遣わした一人涼やかな忠烈義仁の男、それが諸葛亮孔明だ、ということになっている。
しかし孔明の逸話を史書に照らして検討していくと、途端に深い疑念にとらわれることになる。結局孔明は戦火に油を注ぎこそすれ、平和を実現させることはなかった。また戦《いく》さに勝ったことなど数えるほどしかなく、何故この男が稀代の軍略家と讃えられるのかさっぱり分からない。孔明神話というものなのか。
とくに晩年、なんの気に入らないことがあったのかは知らないが、天下の大勢が魏の曹操《そうそう》の一族により定まり、ようやく平和が訪れそうなことが分かっていながら、もう意地になっているとしか思われない北伐四回に及び、蜀の民衆を疲弊させて迷惑をかけ、しかも魏の領土を一片たりとも奪《うば》れなかったという意味では全戦全敗しているのである。なんなんだ一体。どう見ても名宰相・軍略の天才のすることではない。一軍を起こすのにどれだけの手間暇費用人力がかかるかは、言わずと知れたことで、その費用はすべて徴発税金で賄われるのだから、孔明が如何によい政治をしていたとしても、一敗戦にてご破算どころかマイナスとなる。
後漢―魏―晋ラインを正統とする史書には(中国の歴史認識では朱子らが水戸光圀的にいちゃもんをつけるまではこれが常識であった)「この年、またもや孔明が侵入した」と泥棒か何かのように書かれたりしており、王道和平の邪魔をする困った奴といった苦々しい雰囲気で筆誅されている。
その上で諸葛孔明とはどういうひとだったのか。
とにかくわたしの目には、まずは、孔明が、おとなげない男、と印象づけられたことは確かである。
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孔明、襄陽《じょうよう》に梁父吟《りょうふぎん》をうたう
『三国志』ひいては諸葛孔明を理解するには、前漢、後漢の歴史がおおむね頭に入ってないといけないのだが、劉《りゅう》氏の世は四〇〇年、わたしもよく知らないので敢えて飛ばさぬば仕方がない。
『諸葛|亮《りょう》、字《あざな》は孔明、瑯邪《ろうや》郡|陽都《ようと》の人なり』
史書列伝には必ずまず最初に出身地の記載がある。このあたりをまず理解せねばならない。何故なら出生の土地の力、その地の神が重要なのであり、地祗《ちぎ》はその者に生涯にわたり影響を与え、力を授け、守護するものであるからである。
日本の渡世人が仁義を切るとき必ず、
「手前生国と発しますところ関東、武州は何々郡、何とか村からおん出てきた半端者にござんす」
と名前よりも先に出身地を言うのも、おそらく同じ理由である。大事なことなのだ。
二字姓が珍しい中国では諸葛という姓について、いくつかの注釈があるが、本来、葛氏であったところが、いつの頃からか諸葛と称するようになったという。
NHKの特集によると、先年、中国で「村人全員が諸葛孔明の子孫で、諸葛姓だという」市が発見されたそうで話題になった。というか、この現代に「発見される」というところ自体がいかにも中国的なのであり、その町は別に山奥の隠れ里のようなものではなく、よくある地方都市に過ぎないという点のほうが余程おどろくべきところである。中共政府が未だにきちんとした自国民の戸籍地図を持っていないらしいということが明らかにされた。国民学校で教師が、
「諸葛亮の子孫の人は手を挙げて」
と言うと、教室の子供がほぼ全員手を挙げていたという、奇妙な光景が映し出された。ほんとかよ、と突っ込んだりするのが気が引ける、目をきらきらと輝かせた小国民たちである。他にも、たとえば曲阜《きょくふ》には、孔明よりも数百年も前の、孔子の愛弟子であった顔回《がんかい》(赤貧この上なしで早死にし、嫁もとれたかどうか疑わしい人物である)の子孫がたくさんいたりする。中国は今なお祖先崇拝的血統主義が色濃いことがわかる。
日本でそんな村があったとして、
「坂上田村麻呂の末裔《まつえい》は手を挙げて」
と言ったら、みんなが、はーい、と手を挙げるようなこともあるかも知れないが、かりにあったとしてもこういうことにうるさい学者がしつこく調べて否定的見解を述べるのが関の山であろう。
孔明は一八一年の生まれである。本当かどうかは知らない。むろん当然のことのように孔明が誕生したとき様々な奇瑞《きずい》、神秘現象が起きたというが、もういちいち否定するほうが野暮であり、信じた方がいい。ローマでは前年にストア派の哲人皇帝マルクス・アウレルクスが没してパクス・ロマーナが終焉。日本では何が起きていたのかまったく定かではない時代である。
孔明は子供の頃から、乱世ゆえ、親兄弟と別れての世渡りをさせられた。故郷の瑯邪で過ごしたのは束の間で、十四、五の頃には叔父の諸葛|玄《げん》を頼って荊州《けいしゅう》襄陽に移り住むことになった。襄陽城の近郊十キロ、隆中《りゅうちゅう》という辺鄙《へんび》な土地に居を定め、ひたすら農耕に勉めることになった。
ただし同時期、少年孔明が長安で羊を曳いているところを見たという詳しい目撃談もある。その後も全国各地から信憑性の薄い目撃情報が寄せられている。目撃者はみな揃って、孔明の明眸《めいぼう》容姿の優秀を拝察し「臥竜《がりょう》」呼ばわりした。
孔明が十四、五の頃、徐州《じょしゅう》に曹操軍が大挙侵攻して、民衆数十万を屠殺して泗水《しすい》に投げ込むという大量虐殺事件が起きている。これは曹操の父|曹嵩《そうすう》が徐州の太守|陶謙《とうけん》に暗殺され、それを聞いた曹操が激怒し、
「かの徐州、陶謙のやつばらに復讐せずんばあらじ。報仇雪恨ーっ!」
という私的な動機でしたことである。叛乱平定の詔勅を受けたなどという大義名分もないし、陶謙はもう老齢で叛乱など考えたこともない人物である。また戦略的必要上から徐州をおさえるといったことでもない。ただ殺し尽くすために攻め入った北華鬼子の軍隊であった。
『男女数十万、泗水に坑殺し、水、為に流れず』
城市《まち》村々では掠奪強姦が随所に行なわれ、死体のほかは鶏犬いっぴきいなくなったという。この時代に核兵器、毒ガス兵器や細菌兵器が存在すれば、曹操は躊躇《ちゅうちょ》なく徐州にばら撒いたであろう。それくらいに深く狂怒していた。
貌武《ぎぶ》曹操の戦歴のなかでこの徐州戦ほど無意義なものはなかった。陶謙と直接関係がない一般民衆に対する悪質な組織的犯罪行為である。しかも曹操の父の暗殺のことは陶謙のあずかり知らぬことであり、曹操の勘違いであったと後に判明したが、曹操は謝罪ひとつしていない。というか天下を治めし者としては謝罪の気持ちが起きたかも知れないが、すべき相手は皆死んでいたので出来なかった。
そのどさくさに劉備主従は徐州にするりと入り込み、陶謙にとって代わったが、しばらくすると呂布に追い出されてしまい、曹操を頼って遁《に》げ走った。蜀の先主、劉備|玄徳《げんとく》の半生はこんなことの繰り返しである。
少年孔明はそういった情報に日々接していたろう。徐州戦の大量殺人事件はさぞかし酸鼻をきわめたものであったろう。忌むべし。しかし爽やかな表情は崩さなかった。荊北にも薄汚れた衣服に幽霊のような姿の難民が押し寄せてきたからよその話とは思えなかった。死んで腐りかけた赤子を背負った目のうつろな主婦、片目、片腕や片足の無惨に欠けた人々、着る者もなく全裸で羞じ歩かねばならない若い娘、年端もいかぬ戦災孤児。孔明の陋屋《ろうおく》にも物乞いが訪れたに違いない。それを見て孔明がどう思ったかは分からない。みずから姉妹弟を養い、食うために畑を耕す日々であったから、下手な同情はかえって残酷となる。
おそらく『三国志』上、最強の男であった呂布|奉先《ほうせん》が曹操・劉備連合軍の卑劣な駆け引きに敗れて死んだのは一九八年のことである。孔明十七歳のときとなる。赤兎馬《せきとば》にまたがり戦場を駆け、その方天戟《ほうてんげき》がひと振りされるや戦場に赤い霧が立ちこめ、敵兵の頭が五、六個、西瓜のように転がったという。一刻足らずの戦闘で二百人を斬り殺したという記録を所持している。そんな馬鹿な……と思われるかも知れないが、先の抗日戦争中、日本兵が百人斬り競争をしたことが事実と信じられているくらいに、信じるべきことである。呂布はこれまた『三国志』中、一、二を争う豪の将、関羽《かんう》、張飛《ちょうひ》とも一騎討ちをしているが、関羽、張飛が二人がかりでやっと互角であったほどの強さである。
人類最強の男はすでにここにいた。わたし思うに呂布はグレコローマンのメダリスト、アレクサンダー・カレリンを三倍にしたような男だったのだろう。たぶん。
その、豪傑というより化け物というしかない呂布の敗北の裏には、これも未確認情報だが、きちんと孔明の詭計があって、乞うて策を授けられた陳登《ちんとう》は、
「すごく助かった」
と後に述懐している。
後世の『三国志』熱烈愛好者には、痛快なことやいいことは何が何でも劉備玄徳か孔明の仕業(手功《てがら》)にしたい、といった期待と欲望がちらちらとほの見え、もとは巷の講談、俗講であった長い話を元末明初の羅貫中《らかんちゅう》が苦労してまとめて小説化したものが『三国志演義』である。時代時代の複数の講釈師を経たものだから、人によりエピソードがまちまちで、講釈師の好みで改変、捏造《ねつぞう》誇張がなされていたろう。羅貫中本も成立するまでに何度となく書き直し書き足しされたに相違なく、ほぼ完成版の羅貫中本が出た後も、筆写印刷するたびに熱烈なファンが手を加えた可能性もあろう。
とにかく貧しい暮らしの中でも孔明は勉強だけは一生懸命やっていたらしい。こんな時代に出世して安定収入を得るには人足兵隊に取られる前に公務員になるしかなく、国家官吏の途には孝廉《こうれん》という有識者による推薦式の登用制度(いちおう郡国太守が主宰)があったが、その有識者にコネを作り、巨額の賄賂を渡して、後々まで恩を着せられ感謝を強要されるような仕組みであった。だが、この頃の後漢末の朝廷は倒産寸前であり、不安定で弱くて話にならないので、つまりは地方官、有力の太守、刺史《しし》、州牧《しゅうぼく》、土豪軍閥の長に仕官するしかない。縁故、コネが無ければ学問に卓越するか、武勇をもって知られるしかなかった。
孔明は成人したときには、山東大漢らしく身長一八〇あまりの大丈夫であったが、武芸のほうはからっきしであった。
少年時代も丈は高いが痩せぎすであった上に、妙な雰囲気を漂わせた余所者であったから、移住してきた当初は近所の悪がきに目をつけられることも多かったはずだが、そこは孔明、ただやられるがままではなかった。まずは子供のくせにおそろしいまでの史事博識を取り混ぜた言説を用いてやりこめてしまう。
子供たちが新参者の孔明を囲んで、
「おい、こら、こののっぽ、わいらと遊びたいんなら、われは奴僕から始めろ。菓子でも金子でも持ってきたら、まぜてやらんでもないぞ」
と意地悪に脅したりすると、唐突に、
「昔、漢の高祖は泗上の一亭長にすぎぬ身分ながら、孤身三尺の剣を引っさげて身を起こし、しかるに楚項と闘い連戦連敗すると雖《いえど》もその志は少しも揺るがず、今は敗残なれど決して決して諦めぬと、ついには最後の一戦にて楚項に勝ちを得て、天下統一の大事業を完遂されたのだ。その方ら、わたしを弱とみてあなどるがよい。今は勝つがよい。しかして天下に最後に勝ちを得るは、だれあろうか……」
と滔々《とうとう》とまだ声変わりもしていない声で弁じられ、子供の喧嘩格付け争いが天下争覇にまで結びついてゆく孔明の頭脳に驚嘆というより不気味さを感じてしまうのであった。
だいたい漢の高祖|劉邦《りゅうほう》の最後の一勝は、休戦和睦の盟の直後に、気を緩めて帰投する項羽《こうう》軍を背後から奇襲するといった、古今稀なるスケールのでかい卑怯な騙し討ちであった。稀代の軍師|張良《ちょうりょう》に、
「漢王が今この謀《はかりごと》を用いなければ決して項羽に勝つことは出来ぬでしょう」
と説かれて、劉邦は、初めは、
「そんな道義に反したことをしてよいのだろうか」
後世わが悪名になる、と及び腰であったという。しかしやっちゃった。項羽がかわいそうだと思う者は多数いたろうが、漢朝でそれを言っては消されてしまうから、口を抑えねばならなかった。
(世の中にはいい謀計とわるい謀計が、どうも、あるらしい)
と、少年孔明は可笑《おか》しかったが、理解していた。
孔明は口喧嘩無敗を誇るいやな子供であった。それでも、子供は言葉で煙に巻かれてしまう物わかりのいい子ばかりではない。
「屁理屈を言うな」
とキレた悪がきにど突かれた場合は、腕力ではかなわないので、泣いたふりしてその場を逃れ、その後に奇謀を巡らせてきっちり仕返しした。悪童は、ある時は落とし穴に落とされ、天井からは巨岩が落ちてくる。ひどい場合には孔明の虚報の策(と書くとかっこいいが、要するに嘘をついて人を陥れているだけであり、とうてい仁とはいえない)にまんまとはまったおとなたちに打ち据えられ、木から吊り下げられ、遊び仲間からシカトされる羽目になる。また家ではその未明、孔明得意の火計の策(こう書くとかっこいいが、要するに放火である)が小火《ぼや》騒ぎを起こした。孔明をいじめると必ずそんな目に遭うので、皆は恐れて手を出さなくなった。後の天才謀士の片鱗がちらりと垣間見られるところである。
孔明の姉が見かねて、
「ただの喧嘩になんてことをするの。あんたは子供のくせにそらおそろしい」
とその陰湿な狡知を叱った。すると孔明は、
「昔、漢の名将|淮陰《わいいん》侯|韓信《かんしん》も、ごろつきにいじめられそうになったとき、敢えて争わず股をくぐったと聞いております。それに比べればわたしのやっておることなど、くらべものにもなりません。わたしは不才にて、とうていかの韓信の股|潜《くぐ》りには及ばない……及ぶべくもないのです」
と、涙を目尻に浮かべてわけの分からない言い訳をした。
それはともかく孔明は一農夫で終わりたくなかったので、勉学に励むしかない。さいわい瑯邪の諸葛家は教養を子供に身につけさせる家であったから、読み書きは出来るようになっていた。襄陽では良師を探しては学んだが、とくに司馬徽徳操《しばきとくそう》、号して水鏡先《すいきょう》生の学塾にはよく通った。猛勉と汎《ひろ》い知識収集の甲斐あって、そのうち孔明の名は襄陽の人士にいささか知られることになった。農作業と勉学の合間に誰に頼まれるでもなく呂布打倒の秘策も練っていたのだからさすがである。
出仕は、希んでいた。だが、有力強豪と思われた太守が、次の日にはぶっ殺されて晒し首になるような変転きわまりない状況であったため、就職先は慎重に選ばぬばなるまい。
一九九年、北平太守|公孫※[#「王+贊」、第3水準1-88-37、unicode74da]《こうそんさん》自決。
同年、元南陽太守|袁術《えんじゅつ》死す。
二〇〇年には江東の小覇王|孫策《そんさく》が于吉《うきつ》仙人を斬殺したせいで罰が当たって死んだ。天下の覇者候補は減っていき、それは就職先が減ることを意味した。
孫策を継いだ碧眼児|孫権《そんけん》はおのれの若年未経験をフォローさせるべき人材を求めて才能を登用することに熱心であった。さいわいにも孔明の兄、諸葛|瑾《きん》は孫権に仕えることになり、諸葛家の窮乏はいくらかましになっていった。
ちなみに後の呉《ご》王孫権|仲謀《ちゅうぼう》はこのとき十八歳。孔明と変わらぬ年齢である。一方の黄嘴《こうかく》が一国のあるじであるのに、孔明は貧乏雌伏(職探し)という格段の差がついているが、孔明は乱世に乗じて颶風《ぐふう》一旋、一国のあるじとならん、というような変な妄想は抱かなかったから、ジェラシーなどは皆無であった。
(わたしも兄に負けないくらいのいいところに就職せねば)
と孔明が思ったかどうかは分からない。
孔明の姉も土地の名門|ホウ家に嫁ぎ、生活にも余裕が出てきた。
この頃の孔明の奇行として有名なのが、暇があれば「梁父吟《りょうほぎん》」を歌って歩いていたということである。民謡らしいのだが、どういう節回しで歌っていたのか、わたしも聞いてみたい。
「梁父吟」を適当に訳すと、
[#ここから3字下げ]
斉城の門を出て少し歩くと
遥かに蕩陰の里がみえる
里には三つの墓があって
重なりあって見分けがつかぬ
この墓はだれのものでしょう?
田彊《でんきょう》と古冶子《こやし》のものです
かれらの力は南山をどかすほど
かれらの文は大地をつなぐ綱を断つほど
でもひとたび朝にそしられたりすれば
二つの桃で三人のますらおを殺すもやすし
だれにそんなうまいはかりごとができたのか
斉の宰相|晏嬰《あんえい》さまにほかならぬ
[#ここで字下げ終わり]
といった感じになる。晏嬰とはかの孔子も鑽仰《さんぎょう》した春秋期の斉国の名宰相であるが、このうたは晏嬰をほめているのか、誹《そし》っているのか、よく分からない。
『二桃もって三士を殺す』
という故事があったらしい。三士は田開彊と古冶子と公孫接《こうそんせつ》のことで、この三人は文武に非常に秀でており、すぐれた家臣であった。しかし晏嬰はかれらが力を合わせると斉国をおびやかすものになると先んじて案じ、謀策を使った。晏嬰は三人をよぶと、二つの桃を差し出した。晏嬰は、
「君(斉の景公)の贈り物である。功多しとおもう仁が、これを取り、食え」
と言った。三人ともわが功績は他の二子に劣らぬと思っていたから、はしたなくも自分の功を叫びつつ喧嘩となり、三人はそれを恥じて自殺してしまった。
「晏嬰計りて二個の桃をして、三勢力を自滅させしむ」
ということだが、まだ何も悪いことをしていない相手に、ひどい話である。
斉城の郊外をつらつら歩いていると、里に、崩れかかって見分けのつかない墓があり、訊ねると晏嬰の策略に殺された三人の勇士のものであるということで、ああそんな話を聞いたことがあるな、と思いを馳せる。「梁父吟」の作者は孔子の高弟|曾参《そうしん》であるという伝説があり、曾参はこれを父母を思ってつくったというが、それにしてはなんだか意味不明というしかない。
孔明がしょっちゅう歌っていたうたということで後世、「梁父吟」といえば孔明、ということになった。
後に孔明は「天下三分の計」を劉備に唱え、樹《う》ち立てようとすることになるのだが、深読みすれば魏呉蜀の三国鼎立がかなったおりには、孔明は貴重なる二つの何かをもって三国を自滅させて時代に幕を引くつもりであったのかも知れず、それを若年の頃から遠謀して企んでいたのであり、ならばなんともおそろしい男であったというしかない。
三国が競って恥じて自滅した後、大陸に何が残るというのであろうか。三国を喰《は》み合わせて壊滅させ、天下に平和をもたらそうか。孔明が「梁父吟」にヒントを得て、これを試したいが為に最後の最後まで魏に挑み続けたというのなら、妄想的だが筋は通る。孔明が何故、魏の討伐に拘《こだわ》り続けたのかは測りがたく、その動機の真意は孔明の胸中にしかないのである。
実のところ孔明の目と鼻の先には巨大な就職先候補があった。荊州の刺史、劉表景升《りゅうひょうけいしょう》である。襄陽は劉表の根拠地である。若い頃は「江夏八俊」の一人としていささか活躍し、漢の劉氏につらなる者として大いに権勢がある。
荊州は奇跡的にも大きな戦乱に巻き込まれることがなかった。北で東で中原《ちゅうげん》で、董卓《とうたく》、袁紹、袁術、呂布、孫策、公孫※[#「王+贊」、第3水準1-88-37、unicode74da]《こうそんさん》、馬騰《ばとう》、そして曹操、劉備といった面々が、敵の敵は味方、昨日の敵は今日の友といった按配でひとときも休まず合従連衡しつつ殺し合いを続けていたのだが、戦火が荊州にまで南下することはなかった。劉表は腕を袖中に撫《ぶ》して皇帝の奪い合いを望見しており、
(野獣どもが争い果てて疲弊のていを示したならば、そのとき乃公《だいこう》が出馬し、皇帝を奉ぜん)
と、少しは野心もあったのであろうが、あまりにも戦さが遠いので平和ボケしてしまい近頃は「武装中立の一大勢力」という称で満足してしまっていた。劉表は還暦に近い歳となっており、気力も衰えてしまっている。
(いまや曹孟徳《そうもうとく》ごときが帝を盾に威張りおるが、わが荊州軍団を恐れておるに違いない。袁本初《えんほんしょ》も代々の名門を鼻にかけ、のさばりおるが、奴が性根の弱さはよく知っておる)
と、いちおう英雄ぶって思うくらいはしていたろう。
しかし荊州が戦場にならなかったのは、運がよかっただけなのである。河北の情勢は曹操と袁紹の二大巨頭の争いへとようやく収斂《しゅうれん》してきており、
「まずはこの敵を葬るが優先ぞ」
と、互いの謀士軍師も頷き、よってたまたま荊州に用がなかっただけなのである。
いや、むかし一度だけ、そのときは袁術の麾下《きか》にあった猛将|孫堅《そんけん》に襄陽を踏み潰されかかったことがあった。危機一髪、孫堅が油断して敗兵に射殺されるという僥倖があって、なんとか救われた。孫堅の死が半月、一週間遅かったら、劉表はこの世にいられたかどうか。襄陽の人々はわが州牧がいざ戦いとなったら、とうてい三軍を統べる器ではないと、不甲斐なさを見切ってしまっているところがある。孫堅は孫策、孫権の父にあたるが、江東の強兵が劉表を親の仇と恨んでいることは周知の事実で、
「いつか必ず蹂躙《じゅうりん》Lに来る」
という恐れを抱いている。
ともあれ平和ならいい。土地には人が集まり、経済的にも文化的にも豊かになる。襄陽は運が良かっただけの土地かも知れないが、ここ十数年以上、荊州に戦乱がなかったことは確かなのである。民草から落魄貴族、学識経験者が襄陽に集まっていた。
孔明は劉表に仕官しようと思うなら、いくつかコネがあり、出来ないことはなかった。
しかし、隆中に弟の諸葛|均《きん》となお晴耕雨読の暮らしをしている。均は理由を問おうとはしなかった。孔明の胸中を察していたからではなく、そんな質問をすれば、
「われ劉景升の貌を観ずるに、堂中異軽《どうちゅういけい》の相あり。むかし戦国の頃秦に仕えし圭貫《けいかん》というものあり、その者は…」
といった話を二時間以上は聞かされてしまうからである。孔明は史書、兵書、経書、黄老の書、詩賦の他にも骨相学とか天文学、医書、気学算命の術、果ては怪しい神仙の書物までむさぼるように学んでおり、何がやりたいのかは分からないが、孔明がうずうずしていることは確かで、それを聞かせる相手が今のところ身内の諸葛均しかいなかった。
諸葛均は、
(理由は知らないけど、とにかくわが州牧さまでは嫌なんだろう)
と思うしかなかった。後の者から見れば、とにかく安定した地盤のある劉表にでもいいから仕えて、凡庸のあるじを補佐して天に昇らせてもよかったんじゃないかと思われるのだが、劉表は孔明の美学からするに反するものであった。
しかも最近、孔明はおしゃれをするようになった。それも奇怪なおしゃれであった。
以前は、お金がなかったせいではあるが、梳《くしけず》らぬ髪を束ね、土塵にまみれたぼろ農衣を着て平然と水鏡先生の塾にも通い、襄陽城にもなんら恥じることなく用事を果たしに行っていた。嫁ぐ前の姉にも、
「あんたは、諸葛家の棟梁なんだから、もっとその、出かけるときくらい、汚いなりをきちんとしたらどうなの」
としばしば言われていたが、
「男子と申す者、身は弊衣を着たれども、心を鍛え、志を飾れば、羞《は》じることなからず、かえって気骨の輝きが映えるものでございます。かの孔子の弟子|仲由子路《ちゅうゆうしろ》はやぶれたどてらを着ても、毛皮をまとった貴人と並んで少しも恥じることがなかったと聞いておりますれば、亮もまた恥じるものではありません」
とまた涙を浮かべて語っていたものである。本当はかっこいい君物をつけて、城の女の子に騒がれたかったに相違ない。
ところが、孔明は銭に余裕が出来るや、急に衣服に気を配るようになった。それも普通の男子の衣服ではない。頭に綸巾《かんきん》を戴き、鶴※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《かくしょう》をまとうようになった。特注の服である。
綸巾は青の組紐で作った頭巾、鶴※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《かくしょう》は道袍《どうほう》であり、仙道道士が着るものである。ふところには扇子を隠し、ときに扇子を取り出すや、扇ぐでもなくじっと眺めていたりする。
諸葛均には兄に何が起こったのか想像もつかない。訊ねてもまた歴史宇宙に舌を舞わせて、結局答えは分からないに違いない。これはおしゃれというには別次元のものかも知れないと思った。
諸君均は心配になり、姉の嫁ぎ先を訪ねて相談した。すると既に孔明はあのなりで姉の所にも顔を出したという。
姉も一瞬ぎょっとした。
「似合いますか」
「あんた仙人行者さまにでもなるつもりかい」
就職先が決まらないので、自棄《やけ》になって血迷い、世を捨てて泰山に隠棲でもするつもトになったのか。
「まあ、鶴みたいに痩せたあんたには似合わないこともないけれど」
とおそるおそるにほめた。
「それはよかった」
孔明は爽やかに言うとさっと取り出した扇子で口元を隠すのであった。
わが弟がすこしおかしいとは前々から思っていたが、今度ばかりは度が過ぎている。姉の顔色を察して孔明、
「案ずることはございません。頭が狂ったりはしていませんから」
と莞爾《にこ》と笑う。
今日びの姉上なら、弟が急におしゃれを始めれば、それは色気づいたに違いないと判断して、
「好きな子でも出来たの?」
と訊ねるところだろう。で、センスがあまりに悪かったら、
「そんなんじゃもてないわよ」
とでもアドバイスしてくれるところか。
孔明が狂ったように書物を読み、学問勉励をしていたときも、打ち込みようが激しすぎたから、止めようとしたことがある。無駄であった。
「こどもらしくもう少し遊びなさい」
と母親代わりの姉は言わぬばならなかった。孔明は人に会うのが嫌いなのか、引きこもりがちで、友達もほとんどいなかった。
それが今度はうって変わって風狂好みである。
姉は諸葛均に、
「たぶん、大丈夫だとは思うけれど、あまりにおかしいようだったら知らせにきなさい」
と言った。そして、
(孔明の奇行を改めさせるには)
と思索を巡らせ、
「嫁でももらわせたらどうかしら。内子《ないし》定まれば、男はなんとなく落ち着くものだわ」
ぽんと手を叩いた。そして早速、城下のいい娘を捜し始めたことであった。
さて愛弟孔明の身を案ずる姉の思案は吉と出るのか。それは次回で。
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孔明、狭い世間に臥竜《がりょう》を号す
孔明にも朋友皆無というわけではなかった。どちらかといえば遥か年上の知り合いが多かったが、水鏡先生の門に出入りするうちに学友が出来ている。
その第一は徐庶元直《じょしょげんちょく》、穎川《えいせん》の生まれで孔明よりひとつ年上である。
徐庶はかつて人を殺したことがあり、そのため役人に捕まったり、しばらく変装して逃げ隠れしていたというが、この時代、人を二、三人ぶっ殺していようが何ら問題はなく、どうってことはない。徐庶はいつしか水鏡先生の門下となっていた。いちおう俊英であった。
徐庶は己の才には自信を持っていたのだが、孔明と出会ってからはかなり動揺することになった。孔明の説くところは、徐庶の論より優れているというわけではない。というよりも、なんか次元が違うところがあり、会話をしていても孔明のレベルと自分のレベルでは段差があって、請が噛み合っているのかいないのか分からなくなるときが多かった。
(天才か、しからずんばたんなる気違い)
そう賞賛するしかなかった。
徐庶も就職志望の青年であった。
最近は新野《しんや》に劉表の客分として居座っている劉備玄徳のところに、何故か、単福《ぜんふく》と偽名を名乗って出入りしている。本名を知られると困るところがあったのだろう。
「ふうん。劉玄徳はどうなんだい」
と孔明は訊いた。徐庶は、
「人はいい。仕えてもあまり疲れずにすむだろう」
文官謀臣として劉備玄徳をコントロールするのは難しくないというところだ。
「ただ、目がでないだろう。あのざまじゃ、あの人が既に一地一州を確保しているのなら、いいんだが……」
劉備の一行は寄る辺ない放浪雑軍の集まりでしかない。
「それに左右にいる関|雲長《うんちょう》、張|翼徳《よくとく》が問題だ。雲長どのは、じっとしていれば武人の模範として床の間に飾っておきたいほどの男なのだが、少しでも動くと」
問題が生じるらしい。
「翼徳の野郎は、くそっ。あの酒乱めが」
とあからさまに怒った。
なんでも酒宴のさいに徐庶は、
「おれの酒が飲めんのか」
と張飛にからまれ一盃、二盃どころか、酒瓶イッキをやらされて、朦朧《もうろう》としてゲロを吐いている目の前で、何が気に障ったのか、遊びなのか、部下を二、三人サンドバッグのように殴りつけ、血みどろにしてしまい大笑いしている。その部下は死んだかも知れない。しまいには、徐庶へ、
「矛の使い方を教えてやる」
と、庭に引っ張り出されて、戦場で数万の血を吸ったと言われる一丈八尺の蛇矛を振りかざし、
「単福郎、ござんなれ、ござんなれ」
と頭上でぶんぶん振り回している。
劉備が、
「飛弟、いい加減にせい」
と言ってくれたので事なきを得た。劉備が止めてくれなかったら、酒席の余興で徐庶の首がぽろりと落ちていたかも知れない。
「兄者、おれは力が余ってどうにもならんのだ。はよう戦さ場に連れて行ってくれい」
張飛は最近人を殺していないので欲求不満なのである。
「まあ待つのだ。わしとて髀肉《ひにく》の嘆《たん》をかこっておる」
としみじみという。そのしみじみとした表情がひどくよいのである――。
「それでもきみは懲りずに玄徳のところに通っているんだろう?」
と孔明が訊くと、
「まあな。玄徳どのの人徳は捨てがたい。張飛のやつがいないときを見計らって行くことにしている」
と言った。
「ところできみはどうなんだ。その学識才能を墓までもってゆくつもりはないんだろう」
すると孔明、孔子の故事を長々と説いた後、
「売らんかな、売らんかな。われは買い手を待つ者なり」
と『論語』のせりふで締めた。
「しかしな、ただ待っていても買い手なんか来ないと思うぞ。こちらから動いて売り込まぬば」
すると孔明、ふところから今日は紫色の扇子を出して口元を覆った。孔明は日々の気分によって扇子のカラーを変えている。最近は色彩風水の学も研究中である。
「この孔明、胸中に既に策がある」
と徐庶に言った。
(この男は何だか分からんにしても、いつも必ず胸中に一策二策は持っているからな)
孔明の腹には常に一物あるわけだが、それを智謀の人ととるか陰険な奴ととるかは、それこそ人の勝手であって、しかし敵からするとやはり始末に困る男ということになる。どんなに追い込んでも、必ず切り札を隠し持っているという厄介な相手であるからだ。
「いま仕官先として一番いいのは」
と孔明は爽やかな口舌で、
「やはり曹孟徳の幕中であろうな。かれは必ず袁氏を滅ぼす。二、三年を待たず華北中原を制する。その陣営に加わることが出来れば安泰というものだろう。元直も劉玄徳のようなうだつのあがらない男にかまうよりも、曹孟徳につてを探してみてはどうだい。居所定めて老母を安心させたいのであろう。きみの才あれば曹孟徳も一目置いてくれるやもしれぬ」
と言った。
袁紹と曹操の大決戦、いわゆる官渡《かんと》の戦いは、兵数において十数倍する袁紹軍を曹操軍精鋭が、糧秣《りょうまつ》庫強襲という奇策をもって、きわどいところながら撃破することができた。曹操は袁紹とのけりはこの一戦にてついたと思ったはずである。それが前々年のことだが、長く続いた名門袁家の冀州《きしゅう》勢力はなお健在であり、戦さに一戦一敗しただけで、むしろこれから反撃が始まるやもしれぬと、一般の人々はまだどちらが勝つという帰趨を定めかねている。
しかし孔明は、袁紹ならびに袁家一族には勝ち目はないと断定した。だから官渡の戦い以降の袁氏勢力との戦いは曹操にとって麦を刈り取るような掃討戦に過ぎない。
「なぜ分かる?」
と徐庶が訊くと、
「算命を得て測り観るに、必ずそうなると出ている」
と爽やかに答えた。
ここで孔明が、
「戦さに勝ちを得るは兵数の多寡ではないのだよ」
とでも涼しく言って、袁紹の病中病没間のお家騒動の行方や、曹操軍の作戦などを詳しく分析しておれば、徐庶は常識的に感心できたであろう。しかし、
「うらないにそう出た」
と言われてしまっては、こちらも鋭い分析で応論をすることも出来ない。
徐庶には孔明がうらないを本気で信じて言っているのか、あるいは別の情報を分析して答えをはじき出したのか、分からなかった。
算命というのは占星術系の運命学であり、この時代には既に確固としたものがあったらしい。後の淵海子平《えんかいしへい》、四柱推命などの元となる。西洋ではバビロニアを起源とするホロスコープが発達していき、中国では天文暦法の算命が発達してゆく。同じく天文観察占星を基盤とする秘学であるから、両者の類似点は多い。
孔明は算命を会得して愛用しており、まだだれも知らないが、その腕はエキスパートクラスにあった。孔明は後には八門遁甲《はちもんとんこう》や奇門遁甲《きもんとんこう》といった実戦的占術の創始者としても名をとどめるにいたる。ただしはっきり述べておけばこの当時、算命占星などは軍師の必須習得科目であり、下手だったりすれば二流、習得していて当たり前の技術であった。
「軍師のくせに算命も出来ぬのか」
とたちまち評価が下がる。
そもそも劉備玄徳が新野にいるのは、袁紹方に加わり、汝南《じょなん》に陣を据えて曹操を撃つ予定であったのが、なんともあっけなく袁紹が敗れたため、例によって目算を外し、夏侯惇《かこうとん》、許※[#「衣へん+(赭−赤)」、第3水準1-91-82」、unicode891a]《きょちょ》らが率いる軍勢に襲われ、危うく逃げ落ちて荊州に劉表を頼ったからである。それが二〇二年のことである。
劉表は快く敗残の劉備一党を迎えようとしたが、家臣の蔡瑁《さいぼう》がこう言って諫めた。
「劉備玄徳とは犲狼《さいろう》にも劣る不徳義漢にございます。もとは※[#「さんずい+(琢−王)」、unicode6dbf]《たく》県の農村に生まれ草履作りなどで口を糊して暮らし、長じて馬の密売などやくざな生業をしつつ、礼金名望欲しさに無頼漢を集めて黄巾賊を狩り殺していたちんぴらであった身が、その後は有力者の間を右顧左眄《うこさんべん》しつつ名を挙げてゆき、呂布と結び、呂布を滅ぼした後は曹操孟徳の食客となり、そむいて袁紹本初と結び曹孟徳に讐《あだ》なそうとし、袁本初が敗れ弱ったので、のこのことわが荊州に物乞いのようにやってきたのです。方針皆無、このような無節操な者は史上に類が無く、とうてい信を置くに足りませぬ。あやつは主人の見分けもつかぬ狂犬であって、身近におけばいずれはわれらをその牙にかけようとするに違いありませぬ」
と劉備玄徳の苦労の半生を身も蓋もなくこき下ろし、かなり厳しかった。
(追い払うか、捕殺して曹操に首を献ぜよ)
とさらに突っ込んで言ってもよかった。
実際にこの後、劉備は荊州乗っ取りを行なうのだから、正しい見解だったというものだ。本当のことを言っただけなのに、このせいで蔡瑁は『三国志』において悪玉扱いとなってしまう。ちょっとかわいそうだ。劉表は、
「そこまで言うものではない。劉玄徳は中山靖王《ちゅうざんせいおう》劉勝《りゅうしょう》の後胤であり、漠の景帝が玄孫、漢室の宗親であるぞ」
と言った。蔡瑁は、
「自ら言うておるだけで、詐称かも知れませぬ」
ととにかく厳しい。景帝の公子中山靖王劉勝には百二十人以上の息子息女がいたから、そのなかの血筋にたまたま劉備がいてもおかしくはない。だから劉備と同じ名乗りが出来る者は無数にいるといってよい。劉表はさらに、
「劉玄徳は今上《きんじょう》には劉《りゅう》皇叔《こうしゅく》とよばれて尊ばれておるというではないか。それに密詔の沙汰もみるという、あれも」
と言った。
今上、つまり後漢最後の皇帝、献帝であるが、囚われの身が自棄になっていたのか、何故か力のなさそうな劉備を信頼して密詔までおくったという。密勅なのだから余人が知るはずもなく、あくまで噂であり、真偽のほどは定かではないというしかない。
もし密詔のことが事実であるとして、この情報を流した者がいるとすれば二人しかいない。ほかならぬ献帝と劉備である。この噂でどちらが有利になるか、身が重くなるかといえば劉備に違いない。献帝はいまは曹操の保護監督下に置かれてまあまあのいい暮らしをしている。献帝が密詔を劉備に託したなどという事が曹操にばれたら(実際、間抜けにもすぐ露見した)、まず快適な今の生活環境がいきなり徒囚扱いにまで落とされるかも知れない。曹操は裏切りにはまことに厳しいところがある。献帝がほんの少しでも賢くなっていたら、董卓以来、密詔密勅には懲りているはずなので、もう軽率なことはしないと思われる。
蔡瑁は、
(どうもわが君は劉備を迎えたくあるらしい)
と思わざるを得ない。劉表は根は親切な人物であるが、劉備の件については政治的思慮があろう。おそらく今後開始されるであろう曹操の荊州攻略戦において、戦場往来数十度にわたる、荊州兵よりはるかに戦さ憤れしている劉備主従に、すくなくとも警備員なみのはたらきをさせたいという点もあるだろう。蔡瑁は、
「ならばこれだけは聞き届けられたし。かれらを襄陽からは遠ざけて、新野に置くべし。北からの敵が来るとすれば新野は荊州の門前でありまするゆえ」
と進言し、劉表はそうすることにした。
徐庶は、ならば、と言って、
「一番よいのなら、何故きみこそ曹孟徳のところへ行かないのだ」
と訊いた。
「だから、さっきも言ったとおり、わたしからは売りたくはない。買い手を得たねばならないと思うのさ」
と徐庶には判じがたい孔明の言葉であった。
孔明が曹操陣営に売り込みに行かない理由ははっきりとしている。曹操幕下には多士済々なのである。曹操は悪名も高いが、人材を優遇することでも人後に落ちない。武勇の士はいいとして、優れた参謀内政家はすでに何人もいて活躍している。
そのメンバーをあげてみる。
曹操が「おぬしはわが張良じゃ」と激賛した王佐一等、荀ケ《じゅんいく》。
十面埋伏《じゅうめんまいふく》の計≠ニいう悪魔のような作戦を献策して袁尚《えんしょう》軍を皆殺しにした地獄の老参謀、程c《ていいく》。
天才肌の作戦家で孫策の死を予言した軍略鬼、郭嘉《かくか》。
常に曹操の軍旅にしたがい数々の奇策を献じた知嚢兵器、荀攸《じゅんゆう》。
曹操抹殺を企て必殺の罠を喰らわせたこともある死神軍師、賈※[#「言+羽」、第3水準1-92-6、unicode8a61]《かく》。
曹操の帷幄《いあく》のうちにはかれらを始めとする尋常でない狡賢い連中がうようよしているのである。並の良才では埋もれて日の目を見ないであろう層の厚さである。たとえば徐庶はなかなかの士だが、あの中に入って頭角を表すことが出来るかといえば、難しいところだ。
孔明は、まるきり根拠はないのだが、自分が荀ケ、郭嘉らに劣るとはまったく思っていない。無経験のくせに自信家なのは若いときにはありがちであるが、孔明の場合その自負がかなり度を越しており、黄河の流れる如く当然、と思っているふしがある。何故そんな性格になってしまったのか。そのうち孔明のお姉さんにでも聞いてみたいところである。
それよりも孔明が感じ取っているのは、曹操自身が史上類い希なる軍略謀才の持ち主であるということである。おそらく曹操の軍師の能力は荀ケ、程cらを遥かに越えていよう。
なのに曹操が配下に智謀の士をなお集めようとするのは、おそらく己が才と情熱の優れすぎる故の暴走を止めてもらいたいからではないのか。曹操は戦さにおいて勝つときは激勝するのだが、負けるときは生命一つ身一つ、ぼろぼろになって戦場から逃げている。これが曹操台頭の頃から何度か繰り返されていたのだが、最近はなくなってきた。
そもそも奇策などというものは、兵が少ないか弱いからやむを得ず用いるものである。正兵の用いるべきものではない。奇策とは戦場でバクチを打つようなものなのだ。曹操は、初期の頃、自分の精練した青州《せいしゅう》兵の強さに自信はあったが、如何せん数が足りなかった上に、多面作戦まで強いられることも多かったから、しぜん奇策謀略を用いる必要に迫られることになった。
本来、正兵大軍には奇策など不必要どころか害悪なのである。しかし曹操はそれが自分の性に適っていることを知り、気が付くと必要のない時でも奇兵を用いることを好み、ハイリスクハイリターンをよしとする戦術嗜好へ傾きかけてしまっていた。そしてそれがなまじ官渡のような大一番で的中するからたまらない。まさにギャンブルの魔力である。
曹操はそんな自分を客観的に見ることが出来ており、戒めるために、自分よりも一段下がった者らしかいないのだが、参謀たちの話を開くようにしているのである。曹操の政戦両略はかれらによって中を得て、安定感が出てきている。
(この孔明がそんな者の下につこうはずがない。いやつけるはずがないのだ)
孔明はこの世この時代において自分と互角か、能力において微差にある人間は曹操であろうと、勝手に直感(ないしはうらない)していた。
(荀ケらは気付かぬのだろうか。己のあるじが己よりその謀才はるかに上であり、よき進言をしたと思っていても、曹操からは、分かりきったことを言われている、と思われていようことを)
気付かぬとすれば馬鹿であり、気付いても分を守っているのなら意気地なしである。
孔明は、
(自分は絶対にそんな状態に甘んじられない)
という己を知っている。
後のことになるが、死の床にある劉備に、
「きみの才は曹丕《そうひ》に十倍す」
と評されたが、孔明はたぶんその時、
(あんな小物と比較しないでもらいたいな)
と思ったに違いない。孔明に匹敵する男は曹操しかいないのである。
魏武曹操は後世から見ても確かに天才的な男である。しかも多才である。
軍事、政治の才能はおろか、学問、芸術にも抜きんでている。魏武注と称される曹操の『孫子』の注釈は優れたものとして残っている。また曹操が残した詩には歴代詩人のものに劣らない名詩がいくつもある。多才の天才とはなかなか探すことが難しい。わたしの知る限り政治能力と芸術能力の多分野において才能を持ち、業績を残したというところでは、ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテの名が浮かんでくる。むろんゲーテは戦闘指揮(すこしやったことがある)や王としての才は示していないが、代わりに科学者の能力が秀でていた。諸葛孔明はゲーテ型に近いと、ここで書くと、早まるかもしれないのでやめておく。
孔明は変な男で、というか見るからに変な男なのだが、
「わたしもせっかくこの世に生まれてきたのだ。不倶戴天の敵というものが欲しいな」
と姉や諸葛均に言ったことがある。
「ともに天を戴かざる敵、この空の下に同時に生きていてはいけない相手」
とは『礼記《らいき》』によれば父親の仇のことである。しかし後には宿命のライバルといった意味にも使われるようになった。
しかしいまや中華の半分を手にしかけた英傑曹操は、見も知らぬどこかの小僧にライバル視されているとはつゆ知らなかったろうし、知っていてもただ笑うだけであろう。
孔明は徐庶が会ってくる劉備玄徳のことにいくらか興味を引かれてきた。先に書いた蔡瑁の言ったところの劉備の経歴も知っていた。蔡瑁は本音は自己保身から来る動機で危険視しているのだが、孔明にはかえって面白く思えてきた。
あんな不徳義無節操を繰り返し、戦さにはよく負けて、それでもしぶとく劉備軍団を維持して放浪しているのである。並の雑軍指導者ならとっくに敵か部下に殺されているに違いない。しかも劉備軍団の結束力は今時信じがたいほど固いという。関羽は曹操に捕獲されたとき、その武勇に惚れ込んだ曹操から最恵人士待遇を受けて懐柔されたにもかかわらず、逃げてさっさとぼろ家に住む劉備の所に戻ってきた。また制御不能の人鬼のような張飛が義兄と呼んで唯一懐いている。また趙雲|子竜《しりゅう》のような腕も立ち頭も切れる男が、やはり一切よそ見をすることもなく、劉備一筋に生きている。考えるほどに不思議である。
(運命なのか、劉玄徳の人徳人望なのか。あとで命を算してみよう)
孔明は劉備を気にすることにした。
さて孔明の「胸中に策あり」の話になるが、徐庶の他の友人も登場させてみる。崔州平《さいしゅうへい》、孟健《もうけん》、石韜《せきとう》といった面々であり、司馬徽水鏡先生が講筵《こうえん》を開く日には必ずといっていいほどやって来る。この後、たいていの者は曹操の系列に就職していくことになるが、いまは血気盛んであって、志の述べるところ若者らしく誇大である。
講学の後の雑談で、
「最低でも県令、やはり太守、刺史にならぬば」
とかなんとかうるさい奴らであった。かれらの家は小金持ちくらいなのであろう。だから学問、政治談義などをしていられる。そして賑わう町でひと遊びして帰るのである。大堤《だいてい》など、奇跡の平和が作ったすてきな遊郭街などもあった。
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南国に佳人多きといえど
大堤の女《むすめ》に若《し》くは莫《な》し
[#ここで字下げ終わり]
と、なかなか華やかそうなところである。かれらはそこで遊んで帰る。お金が無くて女遊び一つ出来なかった、畑を耕しながら通っていた孔明とはかなり違う。
「ところで孔明」
と崔州平が顔を向けた。鶴※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《かくしょう》綸巾扇子と、何やら、
「自分を変えたい」
とばかりに試行錯誤しているかのような学友に訊いてみた。
「きみの抱負は何なんだい。仙人様じゃないんだろう」
孔明は、
「抱負を口にするなどとははしたないことだよ」
という。
「別にいいじゃないか。きみの叔父上の諸葛玄どのは太守にまでなったと聞いたぞ。諸葛家というのは結構な名門なのではないか。何かしたいことくらいあるだろう」
すると孔明まったく照れも遠慮もせず、
「あえて指標とするものといえば、管仲《かんちゅう》、楽毅《がっき》ということになろうか。かのひとらのような立派な臣をめざしたい」
と言った。またも孔明が浮世離れの言をだしたということで、歓声や笑いが飛び交った。
徐庶がかばうように間に入ってくれた。
「尊敬する人物の話をしていたんじゃないんだがな。孔明らしいといえばそうだな。管仲、楽毅か。かれらが今存命ならばこの乱世をなんとするだろう」
管仲は春秋期の斉の宰相であり、その手腕で斉を強盛にし桓公《かんこう》を覇者にまで至らしめた。楽毅は戦国時代の武将であり、燕の将軍として当時の超大国であった斉を大敗させた。
春秋戦国期の話は昔話であって、その偉人などたとえとして引かれるくらいのものとなっていた。たとえば現代日本の若者が抱負を聞かれ、
「織田信長のような人になりたい。天下布武を目指したいですね」
と本気で答えるようなら、ちょっと待て、坂本龍馬くらいにしておけ、と言うしかないであろう。孔明が管仲、楽毅の名を挙げるのは周囲に同じような気分を起こさせるものであった。
「やはり孔明は変な奴よ」
と、またも変人孔明の噂が流れることになる。
孔明は扇子で口元を覆って、
「笑うとは失礼な。まったく本気だ」
という怒り気味な目つきをしている。しかし内心でほくそ笑んでいる。これも例の策の伏線となるからである。
孔明は皆が帰った後も居残り、水鏡先生と話をしていた。
司馬徽徳操は、諸葛亮という、どこか毛色の変わった生徒のことを理解しかねるところがあった。浮世離れ、で片付くものでもない。孔明は各地の世情や戦況についていつも最新の情報を持っていたし、世俗を離れるといったところはない。ただその見解を縷々《るる》と述べるを聞くと、
(わしも歳をとって、ふるい人間となったのか。近頃の若い者はよく分からん)
と水鏡先生は思わされるのである。だが、水鏡先生はそれほどふるくはない。孔明が相手だから、ついそう思ってしまうのであり、他の若い者ならそんな気持ちにはたぶんならないはずである。
「で、なにかね、いまは仙道が若い者の間ではやっておるのかね」
と水鏡先生は訊いた。むろんさっきから気になっていた孔明の道服姿を見てのことである。
神仙の世界については、その道も少しずつ明るくなってきている。この時代、孫策に斬られた于吉や、曹操をてんてこまいさせた左慈《さじ》といった者たちが民衆の信仰を受けたりしている。仙人とは魔術師なのか詐欺師なのか。この隠逸《いんいつ》の世界から世間に出てきた怪人たちについての正確な記述も増えている。ともあれ仙道道士は異装をしているものであり、それがファッショナブルとされても不思議ではない。
「いえ、これはわたしの好みにて」
と孔明は言った。流行に動かされるような浮薄な人間ではありませんよ、と扇子を見る。
「ところで先生、許劭《きょしょう》が亡くなってはや数年が過ぎましたが……これで天下の人物鑑定者は水鏡先生だけになりました」
「許|子将《ししょう》か。あれも汝南におった頃はようもてはやされておった。あれがあの男の一番幸福な時期だったのだろう。なぜに汝南を動いてしまったか」
司馬徽は悼むでもなくそう言った。
許劭は「月旦評《げったんひょう》」と呼ばれる公開の人物鑑定批評会を開いていたことで有名の者である。骨相見であり、また一種の占い師でもあるが、情報操作者であることが重要であった。許劭は一度は官職についたが、
「小人どもがのさばり過ぎて、やってられねえ」
とばかりに致任して故郷の汝南に帰った。それで有名になり、その後「月旦評」が評判になると、
「わが人物も鑑《み》でもらえぬか」
と、当時の有力者らが集まるようになり、名士となった。漢文調で読んで、一種の切り捨て口調で、有名人をばっさばっさと撫で斬りしまくったため痛快でもあった。
やはりこれにも裏が出来ていった。許劭にポジティヴな評をもらいたい大官や地方勢力人は、賄賂を渡して悪口を塞いでしまうようになる。名を広く知られたい者も許劭の家にお参りに行った。許劭は経済的には潤うことになったものの、鑑定の切り口が以前ほどではなくなってしまい、徐々に人気が落ちていった。見るからに無能、悪質の人物を褒めたりし始めたのだから、つまらなくなるのは当たり前である。
これ以降、許劭はどうしようもなく政界財界に癒着していってしまい、金まみれの情報操作者に堕落する。庶民の人気は落ちても、それでもある人々にとっては「月旦評」は有力な広報であったため、引き続き行なわれた。結局、マスコミや広告代理店は、権力と馴染んでしまえばたちまち信用ならぬものとなってしまうということである。
有名な話で、若き日の曹操が許劭を訪ねて、やや乱暴に人物評を迫ったことがある。当然、曹操は許劭に賄賂など渡さないし、許劭も曹操についてのデータが乏しかった。
まだ若い、北都尉についたばかりの曹操については、
「とにかく悪がきである」
という評判があったくらいである。曹操は少年時代には村の娘を一日に一人こますことを日課にしていたとか、その頃は友達であった袁紹と一緒に花嫁を強奪したとか、貴族の不良子弟だという悪い噂も大したことはなかった。
許劭は曹操を一瞥《いちべつ》するや、
「治世の能臣、乱世の姦雄」
と評した。それを聞いた曹操は怒るどころか喜んで帰っていった。現代的にひらたく言えば、
「平和な時代なら有能なサラリーマンで終わるだろうが、戦争や混乱の時代なら自ら起業して荒稼ぎする商売人になるだろう」
というようなものである。治、乱、いずれにしても生き抜ける能力のある男ということで、まったく悪口になっていない。曹操が喜んだのもうなずける。そしてたぶん曹操は、
「月旦評の正体見たり」
と嘲笑ったに違いない。
その後、許劭は劉※[#「(遙−しんにょう)+系」、第3水準1-90-20、unicode7e47]《りゅうよう》に従い、江南で悲惨な末路を辿った。
孔明は許劭の月旦評のことを少年時代に叔父から聞いたが、謀癖(こんな言葉はないと思うが)のあった孔明は、すぐさまその仕組みと使い方を見抜いてしまっていた。じつに単純なことである。人の世の魔法の一つと言えようか。
人物鑑定家としてもう一方の雄が司馬徽である。司馬徽は大袈裟に人品批評会などを開いたりはしなかったが、ときに発する鋭い鑑定の一言で知られていた。だが許劭のように人受けのする詳しい談論などはしなかったし、何が災いとなるか分からない乱世にあり、許劭の例も見ていたので、いつしか鑑定の口を閉ざすようになっていた。
孔明は水鏡先生に久しぶりに口を開いてもらわねばならぬと思っているのであった。許劭が陥った人物鑑定業の闇の側面を積極的に活用しようというのである。
孔明の意図に気付いた水鏡先生は最初は、
「そういうことはやらぬよ」
と渋りに渋ったのだが、孔明の人類の歴史から宇宙哲学にまで及ぶスケールのでかい説得を聞いているうちに、
「うーむ」
となり、やがて、
「それもおもしろいかもしれんなあ」
となり、
「よし、よし」
となってしまった。
理屈はともかく異様に強い説得能力、これもまた孔明得意のわざの一つである。相手を煙に巻くのではなく、煙に引き込み、なんだか分からないうちに相手を納得させてしまうのである。
孔明は赤壁の戦いの直前に、劉備の特命を帯びて決していい感情を持たれていない呉にひとり乗り込み、孫権を始めとする呉の重臣たちを説得してしまうのだが、それはこの能力があったからである。これは果たして軍師の仕事なのか? あの頑固極まる周瑜《しゅうゆ》までもが一時的に盲目にされてしまった。また後年南征のさいに蛮王|孟獲《もうかく》に対しても使われ、言葉もよく通じないというのに感服させてしまうことになるのだが、この話はまた後ほど。
ともあれ真面目な徳人、司馬徽に説きに説いてカタにはめるくらいは容易なことである。水鏡先生も孔明のスケールの馬鹿でかい話を聞いているうちに、
(ああ、わがひるみなどはちいさいことである。諸葛亮の言うことはこの乱世において正しいことなのかもしれん)
と誠実さに打たれてしまったりするのであった。
孔明は水鏡先生が、
「よし、よし。可愛い弟子の為じゃ。老体が一肌脱ごうかのう」
とにこやかになると、さっと扇子を一振りして、口元に当てた。
「ではわたしの隆中の自宅は明日から臥竜岡《がりょうこう》という名前にしますのでよろしくお願いします」
水鏡先生は、
「可、可」
というのみであった。
恐るべし、孔明。この一日にて孔明は襄陽にで臥竜と化したのである。臥竜とか伏竜とか、自分で名乗っても滑稽なだけである。やはり人から、特に敬すべき人から呼ばれなければ意味がない。自ら号するのは後でいい。
さて一方、孔明の姉である。孔明の嫁探しをしているのだが、なかなかいないのであった。襄陽でも名の知られた※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》家の嫁の弟となれば探しやすいはずなのに、はかばかしくない。
当時は自由恋愛の末に結婚など全体の1%もあるかなきかであり、まず家があり、そこで話がまとまらねばならず、結婚式のさいに初めて相手の顔を見たなどというのはしょっちゅうのことであった。
遊郭色町に意義があるとすれば、そういった仕組みも因の一つであり、男の女買いを一方的に責めるのも酷なところはあったと思われる。女は家に閉じこめられ、男も当の相手ではなく家に嫁を決められていた。それも何も知らないに等しい十七、十八の年齢である。色恋、という言葉が出てきたら、日本でもそうだが、相手は芸妓遊女であることがほとんどである。また男が第二夫人を持つことになる理由の一つも、たんに助平なのではなく、これである。
孔明の姉もむろん家に対して嫁の口を探しているのだが、声を掛けられた妙齢の娘を持つ親は、最初は、
「それはけっこうなことで」
といくらか乗り気なのである。しかし相手が孔明であると分かるととたんに話が低空飛行となってしまう。しばらくして断りの返事が来る。こんな目に遭うこと数回に及び、姉も逆に腹立たしくなってきた。それもこれも孔明の奇行が原因なのである。孔明の奇行を改めさせようと嫁探しをしているのに、相手方が孔明の奇行を理由に断ってくるのである。これでは話は循環するばかりである。
姉の亭主、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]山民《ほうさんみん》もいろいろ声を掛けてくれているが、
「だめだねえ。お前の弟は、どうしてこうも評判が悪いんだね」
と言う。ちなみに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》山民はのちに魏に仕え、官位は黄門吏部郎《こうもんりぶろう》にまで至ったという。しかし浅学のわたしには黄門吏部郎がどういう仕事をするもので、どのくらい偉いのかよく分からない。
確かに妙な遺服を着て、道々「梁父吟」を放歌高吟し、時々立ち止まり、扇子を取り出してじーっと眺めて何か考えているようなおかしな男に親としては娘をやりたくはないであろう。
孔明の友人を見ても、徐庶は人殺しのお尋ね者で、そのくらいは問題ないとしても、身内に老母一人のはぐれ者である。崔州平らは、学問はしているにしろ若気の至りに政治論議を好む、真面目に働かないとんがった連中ばかりである。それにさらに磨きがかかったラディカルが孔明であるとすれば、娘を嫁がせるに心配であろう。
また今、貧しいだけの諸葛家と婚姻を結んでも何の得もなさそうなところが痛かった。
「弟の将来性を買ってくださいまし」
と姉が口説いても、今の孔明を見て将来性があるとはとても思えないのである。
「お前の弟はだめな男だな。あれじゃ一生嫁なんか釆っこないぞ」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》山民に言われると、さすがに姉は怒って、
「亮をあまり馬鹿にしないでください。あれは当節随一の奇男子にございます! それを見抜けない者たちがばかなんです!」
と言い返して夫婦喧嘩となった。
「見てなさい。孔明が、亮が凄い男になったときに、断ったやつらは驚き惜しむことになりますから!」
と亭主に怒鳴っても仕方がないが、言うしかなかった。
(ああ口惜しい)
とはいえ、それもこれも孔明の自業自得なのである。でも姉はそれがまた口惜しかった。
孔明の姉はこれはもう孔明本人に話をつけるしかないと思い、隆中に行くことにした。孔明の嫁取りの件にはもはや意地になってきている。
孔明の家は、自分も嫁ぐ前まで住んでいた実家なのであるが、いつの間にか臥竜岡という名に変わっており、門前に「臥竜岡」と大書した丸太が置いてあった。
(また何か変なことを始めるつもりらしい)
と腹立たしく予感する。
「亮」
と呼びながら門内に入った。
先に鶏小屋の前で薪を割っていた諸葛均に出食わした。
「や、姉さま、お久しゅうございます。今日はどうしたんですか」
「亮に合いに来たんです。亮はどこですか」
と言いながら、土間に上がり込もうとする。均が慌てて、
「姉さま、ちょっとお待ち下さい」
と袖を引っ張り止めた。
「なんです」
「兄上は、その、ただいま特訓中なので、人を通すなと言いつけられているのです」
「なんの特訓ですか」
「いえ、それが、わたしにも分かりません。兄上が言うには客が来たら、書見していようが、昼寝していようが、真剣に何かの訓練に打ち込んでいようが、勉励忙中《べんれいぼうちゅう》なりといって止めるようにせよ、ということなのです」
と均は姉だから話した。
この家が臥竜岡になってすぐに孔明はいくつかのルールを作ったという。来客にはすぐには会わない。一クッション、二クッションおいて、十分にじらしてから会うことにするのだという。単純にお茶を出したりして引き伸ばすのでは芸がないからといって、面白く客を待たせるための接客マニュアルも考案中だということである。むろん客ではなく孔明が面白くなるような作法である。
「ばかばかしい。こんな所に滅多に人なんか来るはずもないでしょう。どうしてあの子は馬鹿なことばかり」
「いえ、兄上が言うには、今後、少しずつ来客が増えることになろう、ということでしたが」
均だって孔明の急な思いつきには困惑しているのである。
本当に客が来るかどうかは分からない。それがどういった筋の客なのかも分からない。均としては、寒々として、ちょっと変な家に客人がたくさん来るようになるというのはどうも恥ずかしくある。だいたい家の周囲は一面下肥臭い畑なのである。
「とにかく肉親を客とはいわせません」
と姉は上がり込んでいった。
孔明の家はけっこう大きい。孔明たちが隆中に居を定めたときは、まさしく掘っ建て小屋のような家を立てて住んでいたのだが、孔明はそれでは嫌だったから、日曜大工よろしく家屋を増改築していった。最初はその辺に落ちている石や材木などを材料に使い、別棟の書斎のようなものを建ててみたのが始まりであった。そして少年孔明は自分で図面を引いて、均に手伝わせ、少しずつ家を拡張していったわけである。こういうことも好きだったのか、孔明は設計もうまく、なかなか手先も器用であった。その結果、農家というにはいささか異様な感じのするデザインの幾棟が出来上がっている。現在も改築の試みは続けており、話者均の部屋も新築中である。近隣に人もなく、土地だけはあるのでそのへんは問題ない。兄弟二人暮らしはけっこう呑気で暇もあったようである。
孔明は自ら草堂と呼んでいる一房にいた。南側一面が開け、縁側か舞台のようになっている。姉には、孔明の特訓とはそこでくつろぎ日向ぼっこをすること、としか見えなかった。
「亮!」
と姉が姿を見せると、
「ああ姉上、お帰りなさい、というか、何用ですか」
と屈託無く言う。
「こわい顔をなさっておられる」
姉の顔を見るにどうもかなり怒っている様子であった。
「亮、ちょっとここに来て座りなさい」
とぴしゃりと言われると、孔明も母親代わりであった姉にだけは弱く、姉の前に正座して手をついた。
(また叱られるのか)
決して恨んでなどいないが、子供の頃から姉には叱られ通しだったと回想する。何故か昔から孔明の巧言令色な口舌弁々は、姉にだけは通用せず、泣かされてきたものである。
確かに孔明は「臥竜」がらみで最近いろいろ画策していたから、噂でも聞き知った姉が叱りに来ても、まあ、おかしくはない。しかし、
(この年になってまで小言をいいに来るか。お互いこどもではない。姉上にも困ったものだ)
とも思う孔明であった。
だが、姉の用件は孔明が予想していたようなものとは違った。
「あんたは策士だと(悪い意味で)世間では言われているようだけど、このわたしにも一ついい策を授けて欲しいのよ」
この時点での孔明は後の天下相手の大策士にはほど遠く、まだプチ策士という程度であって、襄陽周辺で孔明を知る者が笑い混じりに評判にしているくらいのものである。たまに得意の占術で易者のアルバイトをしたりしており、よく当たり、かつアドバイスも(悪い意味で)的確であったから、知る人ぞ知るくらいにはなっていた。
姉は孔明の面妖に飛躍する物の考え方や悪賢さを、あんまり評価はしていないが、世間の人よりはよほど知っている。
「わたしが姉上に献策ですか。いったい何事でしょう」
「仮にの話としておきましょう。まずまずの家門名士であるにもかかわらず、まったくもてない男がいて、縁談を組もうとしても、相手方から七回も断られてしまった、としましょう。わたしはその男に嫁を取らせたいんだけど、どうしたらいいと思いますか」
「ふむ、縁談ですか。しかし七回も断られるとは、きっとその男はろくでもない奴なんでしょう。よほどの醜男であるか素行や頭に問題があるんでしょうね。難しい話です」
「そう。難しい話になってしまっているんです」
孔明は扇子を取り出すと、別に考えもせず、
「どこの誰かということは敢えてお開きしませんが、そんな男は救われない。放っておいたほうがいいですよ。貰われる娘さんも可哀想だ」
とすぱっと言った。
「そこを、不利を覆すのが策士というものでしょう? こういうときにこそ役立つ策の一つや二つ、するすると出せてこそ、奇策縦横の士と呼ばれる値打ちがあるんじゃないの。どうなの」
「孝の道に奇策無しと存じます。まことに平凡ではありますが、その男が性格と行いを改め、地道に努力して、まっとうな人間と認められれば、いつかは縁談もうまくいくでしょう。とにかくまずその男を善導することですね。一点でもよい評判が立つようになればどんなに馬鹿で醜い男であろうと、なんとかなるに違いありません」
「そんなことならわざわざあんたに智恵を借りに来たりしないわよ。その、問題があるままで嫁を取るにはどうしたらいいかを尋ねているのです」
「それはまたひどいことを」
孔明は姉の手前、嘆じているような顔をして見せた。孔明ともあろう者が自分のことが俎上《そじょう》にのぼっていることに気付いていないのは不思議であるが、やはり姉には弱いせいであろうか。
「その難しいことを解く一策を訊いているんですよ」
「姉上も世話焼きな。余計なお節介は嫌われますぞ」
「もう嫌われてるから、どうっていうことはありません。さあ、どうなのです。一案一策もないというんなら、仕方がありません」
人に相談されて一策も浮かばないでは、諸葛亮孔明の沽券《こけん》に関わるというものだ。
「そこまでお尋ねならば策を献じましょう」
と言った。
「非常の策でございます。駆虎呑狼《くこどんろう》の計、いや二虎競食《にこきょうしょく》の計の如く、後々むざんな傷を残すでしょうからあまり勧められませねが。いちばん簡単なのはこれと目を付けた娘を誘拐して、当分の間どこかへ隠れることですかな。人道に反し、女子には気の毒ですが、この乱世ですから、ご両親も早い内にあきらめてくれるでしょう。これがいちばん手っ取り早いですね」
「なんてことを言うの、あんたは。そんな山賊のようなことをさせられますか。そんなことをしたら一生日陰者です! あくまで家廟《かびょう》を守り、先祖に恥ずかしくなく、世間様にも祝われるような婚姻でなくてはなりません」
孔明は扇子で口元を覆い、
「冗談に決まっているじゃないですか」
と言ったが、姉が頷いたらそれでよし、と思っていたに違いなかった。
「ほかには」
と姉が言うので孔明は、
「衝弱強婚《しょうじゃくきょうこん》の計」
を出した。
「なんなの、それは」
「将を射んと欲すればまず馬。娘を得んと欲すればまず父母に家。目星つけたる家の瑕瑾《かきん》を探り、それを用いて急迫し、以って強く婚を求めしむる策にございます」
要するに相手の弱みを衝いて、強いて婚姻を迫ろうという、脅迫婚である。
「その家に適当な瑕《きず》がなかったなら、でっち上げればよいのです。官憲にその家の事を針小棒大に密告した後に庇ってやるとか、その家が困窮気味であったなら金を貸して、数日の内に返済を求めて困らせるとか。他にもいくらでも方法はありますが、親に恩を売って娘を買うということです。それで夫婦となって幸福になれるとは思えませぬが、外から見れば立派な婚姻と見えましょう」
と爽やかに弁じる孔明に、姉は呆れきった顔を向けている。
「なんて非道なことを。そんなやくざなことをして楽しいんですか! そんな子に育てたおぼえはありませんよ」
「姉上、わたしがそんなことをするはずがないでしょう。わたしはそのダメ男のため、姉上の頼みゆえ、方策を提しているだけです」
「う。亮、そのね、ほかにもっとましなものはないのですか。両家ともに福があり、どこにも暗いところがなく、後ろ指もさされないようないい策は」
「姉上、お甘い。この時勢にあっては婚姻も常に兵法と思わねばなりません。婚は戦いであり、姻は一家一族の生き残る術なのですぞ。福とは利であり、暗いところを見せぬために婚礼は華々しくするのです。民百姓は別として士人が婚するは、将来まで見越してするもの。ふつうの襄陽の人士とてその婚姻にはたいてい思惑があるではないですか。よき婿、よき嫁とは、言わば家を守り盛んにするための道具とさえ言えまする。非情なことですが、やむをえぬこと」
乱世に氏族が存続することはある意味では、立身出世したり、英雄となって国を奪ることよりも重大事である。
たとえば諸葛氏も江東に諸葛瑾の諸葛家があり、荊北に孔明の諸葛家がある。二系に分かれて備えれば戦乱悲運が襲っても、どちらかが生き延びて諸葛氏は絶えない可能性が高くなる。そして生き延びる確率を高めるのがうまい婚姻なのであり、ことに男子は慎重にせねばならないのである。
中国においては叛乱なり、政争に敗れれば当然のように族滅、その個人のみならずその一族、また婚姻関係にある一族が尽《ことごと》く根絶やしにされ、地上から抹殺されるという悪魔的な処分が諸外国に比べて頻繁に下されている。ある一族がその辿った歴史も含めて丸ごと存在しなくなるのである。これは孝そのものを断つことでもあり、まことに処刑の極みであろう。よって始めから政治や権力に近付かない隠仙のような生き方も賞賛されたりするわけだが、それはそれで不孝とされたりする。何しろ志願して宦官《かんがん》となった者ですら家族を望むのである。
「とにかく姉上、わが思うに婚姻一つとっても甘っちょろいものではないのです。良家の女《むすめ》、権勢家の息子と婚を結べれば安泰というものでもない。よく調査し、よく謀り、よく備えて初めて婚姻を求め動くべきでしょう。ましてやその七回も断られたような男などは、既に七回家を滅ぼしたも同然であり、もう七回死んでいるのですから、いちいち手段が是だ非だと言っているようなことは幽霊の贅沢というほかありません。よろしいですか。縁談を申し込んで断られることは戦さに負けることであり、必勝するという作戦がなければ決して申し込むべきではないのです」
「それはお前、己にもきつすぎますよ」
「まあ、一般論では綺麗事も言えませぬゆえ、一度その男をわたしにお会わせください。その男に適した穏便な策を案じてみましょう」
「もういいです。その男のことは措《お》いておきましょう」
孔明の姉はなにかもうがっくりしてしまった。
孔明の姉は、孔明の説によれば、孔明に七回も負け戦さをさせてしまったことになる。しかも孔明のあずかり知らぬ所で。
(これは黙っていた方がいいわね一生)
それ以上に、孔明の脳中には男女個々の幸福などの入り込む隙がないということに大きな驚きと怖さを感じた。いつの間にこんな硬いというか、非人情な思想を持つようになったのか、やはり育て方を誤ったかも知れぬ。
姉はたんに気付かれずほっとしているようなのでいいとして、結局、孔明ほどの勘のいい男が、自分が話題のその男%鱒lであるとはまったく、つゆほどにも思わないのがどこか間抜けである。なんとなれば孔明は自分が婦女子にもてないなどとは一ミリたりとも思っていない。もし自分が婚姻を求めれば連戦連勝、相手の家は下にも置かぬ大歓迎とすら思っている、ちょっと困った男なのである。
ただ自信過剰は恐ろしいものであり、戒めるべきであるとは孔明だって分かっていよう。自己を客観視出来ることは一流の謀士軍師に不可欠の要素であり、それが出来なかったために滅びた者は『三国志』中に何人も現れる。孔明にはある方面に対しては精密神妙なる客観視が出来るのだが、ある方面には不思議なほどに主観的で無批判であるという奇妙な欠点が見受けられる。
孔明の姉は、この弟に仕掛けるように話すよりは、真っ直ぐ話した方がいいと思いなおした。
「独り身のあんたに他人の嫁の相談をしようとしたわたしが間違っていたようです」
「いや、姉上、わたしには策なら売るほどありますから、何事もご遠慮なく言ってくだされよ」
「いいえ、まずは、お前の嫁取りのことを考えるのが先でした。襄陽諸葛家の棟梁たるお前は、本来ならとっくに嫁を取っていなければなりませんでした」
孔明は二十四の年齢であり、既に晩婚となりかけている。この頃の男子は十七、八までには結婚するのが普通であった。
「そこのところどうなのです?」
すると孔明、容儀《ようぎ》を改めて言った。
「この孔明、なお修行中の身にて多忙、為すべきこと多々あり、妻を迎えるなど今のところ考えてもおりません」
「さびしくありませんか」
「いえ、全然」
姉はじっと孔明の双眸《そうぼう》を覗き込んで、
(寂しくないはずがないのに、強がって)
と勝手に想像して、孔明を不憫《ふびん》な弟にしてしまっている。
「お嫁さんをもらう気はないってことですか?」
「ないですね」
「でも亮、家には後継ぎというものが必要でしょう。この乱世なればこそ、孝をあきらかにしておかねば」
まことに常識的な意見である。だが孔明は己の宇宙スケールの志、これからやろうとしていることの方が大事であって、己のすべてを賭けた勝負となるに違いないのである。それに比べれば、
(女など後回しでよかろう。うちには均もいる)
と、思っていた。孔明とて嫁が欲しいなとか、若いんだから、たまに考えたりしたこともあろうと思われる。だが、今のところ必須のものではないし、かえって邪魔になるかも知れない。精神的余裕があまりないということだ。それに多くの書物にも女は男の志を鈍らせるとある。古人の言は尊重すべきである。
「ここの後継ぎのことならすでに策があります」
「後継ぎに、策?」
「ご案じめさるな。養子を入れるという話があります」
「養子って、あんた、誰の?」
「兄上ですよ」
孔明の兄の諸葛瑾は呉の孫権に仕えて日に日に重用されているという。手紙のやりとりなどは欠かさずしていた。
呉における諸葛家はとりあえずは安泰である。長兄諸葛瑾は孔明より七歳上であり、普通に十代に嫁を取しっていた。諸葛瑾の方が、いい年をして妻を娶《めと》り家を成すこともせず、職もなくぶらぶらしているようにしか見えない孔明に、姉と同じような心配をしていたもののようだ。
「兄上の二男の喬《きょう》のことはご存じでしょう。あれももうじき乳離れするとか。兄上が手紙にしたためるには、嚢陽にやってもいいとのことでした」
諸葛瑾には長男の諸葛|恪《かく》に次いで諸葛喬が生まれていた。孔明は喬を養子として迎えることにしたようだが、決めたのは喬が生まれた頃、おそらくこの時期よりやや前のことである。つまり、これは孔明がいつ死ぬかも分からないような無茶を始める決意を固めていた証拠である、と考えるのも悪くはない。
現在幼児の諸葛喬は『三国志』に出てこないので、影が薄いのが欠点と言えば欠点である。『三国志』によればいちおう襄陽諸葛家の後継ぎとしてやって来る運びとなっている。ただしその頃には隆中も離れ、孔明の嫡男諸葛|瞻《せん》も生まれていたりするから、多分いろいろあったろう。
「人の死生は天に在り。わたしとて諸葛の家のことは、こう見えてもきちんと考えておりまする」
と上にかざした扇子を眺めて言った。涙がこぼれないように? 姉は、
(亮には何か変てこで、ひそかな志があり、なんとしてもやりたいことがあるようね)
と思うより他なかった。
変人奇人と士人から庶民にまで侮られ、知らぬ所でとはいえ縁談を断られること数回、何をしたいのか想像も出来ないが、姉は一瞬弟がひどく可哀想に思えた。孔明とて自分の世評くらいは耳に入っていよう。しかし、そんなことは些細なことであり、孔明は宇宙大なことがしたくてしょうがないのである。
(ちなみに孔明が好む宇宙という語は「淮南子《えなんじ》」に出てくる言葉であり、上下四方と時間を意味するもので、科学用語ではなく、気宇壮大にたまに用いられる)
この弟は、わざとらしいが、見るからに平凡な生き方をするのは無理だと人に思わせ、狂気の沙汰に爽やかに踏み込んだ将来を願い、路傍でくたばっても本望だという所を示そうと努力しているのだ、と、姉は解釈している。そのような意志の狂を幸か不幸か持って生まれてしまった男、それがわが弟孔明なである。
(わかりました。亮、もうわたしはお前の奇行を改めさせようとは思いません。お前は自分でおのが道を切り開き、自由に羽ばたきなさい)
と、孔明の第一の理解者である姉は、自分もちょっと酔ったような気恥ずかしい励ましの言葉を心中にとなえたのであった。
あくまで弟思いの姉の心の応援を得て、ついに臥竜孔明の大活躍が開始されんか、と思いきや、さすが孔明、皆の期待通りに動くはずもなく、何故か事態は膠着《こうちゃく》し、またもや姉の気を煩わせることになるのであるが、その話は次回で。
[#改ページ]
孔明、五禽《ごきん》の戯《たわむ》れに醜女《しこめ》を獲《と》る
ここで机を叩いてみよう。
『三國志』という史書は正史ながら因果なところが多々ある書物である。
晋の陳寿《ちんじゅ》(二三三〜二九七年)が撰したものだが、生まれ二三三年といえば孔明が五丈原に最後の戦いを挑む前年である。陳寿自身は蜀の出身であり、孔明没後の蜀漢の運命を見ながら生きたのである。長じては孔明の息子の諸葛瞻に仕えており、蜀漢滅亡後には晋に仕え、いろいろあって『三国志』の編集主幹となる羽目に陥った。
晋政府にどんな思惑があったかは知らないが、時期的にはこの史書を書くのは早すぎたきらいがありすぎる。なにしろ蜀漢の滅亡が二六五年、廃された後主|劉禅《りゅうぜん》の死はその六年後の二七一年なのである。ちなみに魂の滅亡・晋の成立は二六五年、呉はもうちょっと生き延びて二八〇年に崩壊する。陳寿にとっては『三國志』は歴史ではなくほとんど現代であった。要するに陳寿は後漢末動乱期の記憶生々しい頃に、三国、晋の興亡をまじまじと眺めていたのであり、時代の生き証人や、重要文書は豊富に取材できたろうが、それが執筆のために良かったかというと必ずしもそうでもないのである。
たとえば今、日本でもどこでもいいが、ここ八十年ばかりの歴史を書けといわれても、ちょっと時代が近すぎてかえって客観的になれず、筆が鈍りがちになろう。
「わしの目の黒いうちは」
とか、
「機密文書公開禁止」
とか、
「歴史歪曲」
とか、様々な圧力がかかり、思い切り書けなくなるのが当然である。史書というものはある程度間をおいて書いた方が完成度は高くなるものである。
陳寿もおそらくかなり困りながら書かざるを得なかったに違いない。晋の政治的歴史観では、
「後漢劉氏の衰ののち、帝位を譲られた曹氏の魏が正統であり、わが司馬氏の晋はその魏にまた禅譲を受けたのである」
といった捏造が大義でないとまずいのである。
晋が『三國志』成立を急がせた理由については、いろんな推測が可能だが、やっつけ仕事になった部分も多々あろうし、それこそ歪曲を強いられた部分も多かったかも知れず、陳寿『三國志』の信用度はいささか落ちてしまうのである。
あくまで想像だが陳寿は様々な事情に押しつぶされかけながら『三國志』を書かざるを得なかったに違いなく、少しでも自分の好みに偏る記述は危険であって、そのせいか記述があまりにも簡潔過ぎて味気なくなり(どうしようもなく簡潔にせざるを得なかったのであろうが)、今ひとつ面白くないものとなってしまう。後に劉宋の裴松之《はいしょうし》(三七二〜四五一)が、あまりにもすかすかでつまらなすぎると思ったのか、史料を集めて注を補足することになった。それ以降『三國志』はほとんど裴松之注と一セットとなってしまい、陳寿が草葉の陰でどう思っているかは分からないが、ようやく遊びが出て来て少し面白くなったのである。
陳寿自身は「諸葛孔明全集(『蜀相諸葛亮集』)」の編纂までした孔明ラブな男であって、晋朝においてながく差別され続けた旧蜀漢人士派擁護の代表格の学者であった。ところが、後世、蜀漢正続論がブームになると陳寿は「曹操サィドを依怙贔屓《えこひいき》する偏向歴史屋」呼ばわりされ、また「諸葛亮伝の書き方が冷たすぎる」などといんねんをつけられ、反対の意味でまた差別を受けることになるのであるから、歴史の歴史は不可思議である。
陳寿の父は馬謖《ばしょく》の部下であって、街亭の敗戦では頭を丸坊主にされるという中学生のような処罰で済んだのだが、泣いて斬られるよりははるかにましだろう。批判者は、陳寿はその件で孔明に怨恨を抱いていたのに違いない、と、憶測で主張したりする。そんな幼稚な理由で筆を歪めたと決めつけられて、陳寿の傷付いた気持ちを考えたことがあるのか、と今更言ってあげたくなる。
往々にして歴史とはこのようなものであり、歴史観に至っては変質無恥と言ってよいくらいその時の政治状況により是非が定められる。史実とその意味や価値は別物なのである。固定した歴史認識があるほうがおかしいということだ。
ただ、根本的な問題として「三国時代というものは存在していないのではないか」ということがある。何故かと言えば、後漢最後の皇帝献帝が廃されるまで、時代はあくまで後漢だったからである。正論を重んじるはずの中国の史家なら、当然提出していい疑問と言えよう。五胡十六国とかあるいは六朝とか、もはやわたしには整理理解不可能に近い大陸分裂割拠時代の「正統」とは何だったのか等をはじめに考えさせるのは三国時代である。
曹操は魏国王にはなったが帝位に即くことなく死んだ。始皇帝以降、春秋戦国期と違って王は「天子」ではなくなった。王は皇帝とは比較にならない縁故性の強い諸侯位に過ぎなくなった。曹操の息子の曹丕が魏の皇帝となったのが二二〇年であって、ここにおいて後漢は滅亡したのである。これに続いて蜀漢も呉も皇帝を名乗り始める時期である。
仮にこの年から真の三国時代が始まると数えればわずか四十六年でしかない。孔明没後の『三国志』は、曹家のお家騒動と孫家のお家騒動の虚を衝いて切れ者番頭の司馬仲達とその一族が大店を乗っ取ってゆくというような、陰湿で血も沸かず肉も躍らない四十六年間のお話となってしまう(したがって多くの『三国志』小説家が無視しがち)。四十六年など史書に書くにはほんの束の間である。
さらに言えば蜀漠は後漢正統を称していたのだから、蜀漠の滅亡までが後漢であったと、少なくとも蜀漢の人々は考えていておかしくはない。
考えるほどにせばまる『三国志』。
ちなみに献帝|劉協《りゅうきょう》は諸葛孔明と同い年であり、没年まで同じ二三四年である。何か意味があるのか。
『三國志』時代=後漢論で続けると、理屈では、特別な三国の時代はほとんどなくなり、後漢の正史である『後漢書』(范曄《はんよう》の編著。唐初に章懐《しょうかい》太子が注をつけた)に『三國志』の見せ場のほとんどがカバーされてしまうことになる。
だがしかしこれまた混乱しそうになるが『後漢書』がまとめられたのは南朝末の頃であって、『三國志』よりも成立が遅いという奇怪な事情まであるのである。何故、晋政府は先に『後漢書』をやらずに『三國志』を編纂させたのか。
難癖をつければ『三國志』には司馬懿の列伝がない。これは巨大な欠陥だと思うのだが、司馬仲達は晋の祖になってしまうから『晋書』本紀を読んでくれということになる。理屈は分かるが腑に落ちないところである。
わたしも昔、若気の至りで正史をもとにした『三国志』を書いてみたらどうだろうとか、一瞬だけ考えたことがあるが、右のようなことが分かってくると、とてもそんなものが書けるわけがないと思ってすぐにあきらめた。つまりわたしでは『後漢書』『晋書』を基にして『三國志』よりも面白い『三国志』を書くことはまず出来ないと諦観したのであった。
そもそも正史『三國志』は前述のように記事が簡潔過ぎて、一生懸命読んでも全体像が非常に把握しにくく、人物像もなにか文字で書かれた塊のようなものに感じられる。裴松之がちょっといい話や異伝を付けてくれたおかげで、かなりましになっているが、しかしさらに裴松之の注に馬車をつけて鞭打ったような羅貫中の『三國志通俗演義』が書かれるに至り、ようやく『三國志』の全体像、キャラクター、事件の順序、人物相関関係がまあまあ把握できるようになったわけで、あの時代が中国史の中でも突出して他国の日本人にすらよく知られるようになった功績がある。エンターテインメントは偉大なものだという教訓しか浮かばない。
さる清の学者が『三国志』について、
『七分実事、三分虚構』
と分析したという。わたしの考えでは、これでは論文、評論などは別として、歴史小説は成り立たない。「七割方虚構、三割方は史料参照」くらいで上等であろう。
さて、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》山民から妻の弟の嫁取りが難儀していると聞いて、悪戯心を起こし、腰を上げた男がいる。
その男の名を※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]徳公《ほうとくこう》という。荊州襄陽きっての名家の当主である。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》山民の父であるが、なかなか厄介な親爺であったという。頑固者で偏屈、学者であり隠逸もどき、と揃えば普通の人間なら避けて通りたくなろうものだ。
劉表が荊州に赴任したとき、この男に手を焼き、どうしても交誼《こうぎ》を得ることが出来なかったことはよく知られた話である。
劉表は山陽郡高平県の出身であり、当時大将軍の何進《かしん》に引き立てられ名を上げたが、一九〇年に荊州刺史として派遣され、その後州牧に任命された。一九〇年といえば反董卓連合が結成され、都も洛陽から長安に強引に遷都された大混乱時である。劉表は袁紹方につく格好であったが、北の乱に対しては結局何もせず、地盤固めに意を注いでいた。劉表は余所者であったから、荊州の豪族、実力者たちと友好関係をつくり、自分の支配力を確固としたものにする必要があった。地元豪族の※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]越《かいえつ》や蔡瑁などと結び敵対勢力を平らげて劉表政権を安定させる。よくあることで劉表は蔡瑁の妹を娶り、閏閥《山りいばつ》支配も強化していった。
次に劉表は噂の名門|※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》家当主も幕下に加えようと※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を勧誘することにする。だが※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は奇異な人物で、寒陽城の東、魚染洲《ぎょりょうす》で隠遁生活を決め込んでおり、何度招かれても行こうとしなかった。襄陽人のくせに一生に一度も襄陽城の門を潜ったことがないと伝えられている変な男である。仕方なく劉表自ら※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の家を訪れて出仕を懇請してみた。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が妙な理屈をこねて断り続けたため、劉表も招請を諦めるしかなかった。
『後漢書』の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の伝に、
『後に遂に其の妻子を携えて鹿門山《ろくもんさん》に登り、因《よ》って薬を采《と》り反《かえ》らず』
とある。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は最後は家族全員を連れて薬草探りに山に入り、行方不明となったらしいのだが、仙人伝説でも狙っていたのであろうか。ただの遭難であったとしたら変物の笑いオチにしかならないので、やはり狙ったのだと思いたい。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はとにかくそういった人物であった。
ただし※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は隠逸ぶっているわりには交際範囲が狭くもなかった。司馬徽水鏡先生とは親友であり、まれに自ら若い者らに詩学することもあった。孔明の叔父の故諸葛玄とも知友であり、孔明の姉が※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》山民に嫁ぐことになったのもその繋がりからである。姉の良人《おっと》※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》山民の父だから、姓の筋が異なるからそうはならないにせよ、孔明が※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を義理の父のようなイメージで慕ってもよい。お互い変だし。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は自ら表に出ることは少ないが近隣の大中小の土着の一族ともすぐに話は通じる。詳しくは分からないが荊北の黒幕のような人物であったらしい。劉表はそれを知っていたから※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公にこだわったわけだが、洟も引っかけられずに追い返されてさぞや口惜しかったろう。だが、仕返しに引っ捕らえていじめることも出来なかった。蔡瑁を始めとする襄陽幕僚たちが皆反対したからである。
孔明は姉の婚礼のおりに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に初めて会って話をした。孔明が十六、七の頃である。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はなんだか近寄りがたい雰囲気があった。一見、農夫姿の肥満した親爺なのだが、話し方は訥々《とつとつ》のうちに軽い凄味があり、婚礼の義を述べるにもかなりの学識を窺わせた。その時はそれだけであったが、後で孔明が水鏡先生に、
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》公様とは如何なる人物なのでしょう」
と訊いてみると、
「あれは人を気まずくさせる男なのだが、わざとやっているのだ。しかし気に入った者には何くれとなく厚い。こちらから訪ねるぶんには不都合はないか。行って話でも聞いてみたらどうかね」
と鑑定的には変なことを言われた。
ということで孔明は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を何度か訪れ、畑仕事の手伝いをやらされたこともあれば、終日釣り糸を垂らしていたこともあり、茶飲み話を聞かされたりもした。気軽い会話の中でもその見識には驚かされることもしばしばであった。
確かに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公と対面していると妙に気まずくなってきて、耐えられなくなり、帰ることになった。孔明は逆に、
(仕返しに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を気まずくさせてやろう)
と企み、家を訪れるたびにいちいち大げさに寝台の下に額《ぬか》ずいて拝してみたが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は気にもせず止めもしなかった。孔明の観察眼をもってしても※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を読み切ることは難しかった。
(なるほど。これは食えない親爺さまだな。劉景升をいなしそらしするくらいたやすいことだったろう)
と思い、その食えなさぶりを学ぶことにした。
また※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の家で後に劉備の下で同僚となる※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]統士元《ほうとうしげん》や馬良季常《ばりょうきじょう》とも顔見知りとなった。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]統は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》家の一族の者である。馬良は地元の名士馬家の五兄弟のうちでも抜群の才力があると評判の若者で、説明は省くが有名な白眉《はくび》というやつである。別に学閥などはなかったので、水鏡先生の門と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の門には出入りが重なる者も少なくなく、少年孔明もその一人であった。
ある日、水鏡先生が、
「徳公のところへは顔を出しておるのかね」
と訊いたので、孔明は、
「時々お訪ねさせていただいておりますが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》公様はたまに口をきいてくれる程度です」
と答えた。
「そうか。徳公はお前が気に入ったようだな」
「さて、どうなのでしょう」
「あの男が嫌ったら、二度と門を潜らせぬ」
水鏡先生は、よし、よし、と頷いていたものである。
孔明が劉表に仕官しようと思えば出来ないことはないと書いたのは、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公のコネがあってのことである。自分は荊州の政府と一切関わろうとしないくせに、人材推薦のようなことは平気でやって、しかも必ず飲ませてしまうのであった。孔明は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の謎のフィクサーぶりの背景にあるものについて常々探っているのだが、未だに判明していない。
その※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が孔明の嫁取りに乗り出してきたのであり、そうなればただで済むはずがなかった。孔明危うし、か。
その朝、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は息子の嫁、つまり孔明の姉を呼んだ。
「お舅《しゅうと》様、何用でしょうか」
孔明の姉もまだ慣れず、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の前に出るとつい固くなってしまデ。
「孔明の嫁取りの話はその後どうなっておる」
と訊いた。
「ああその話でしたら。もうお節介はやめることに致しました。亮も望んでいない様子なので、あれがその気になったときにまた考えることに致します」
「そうではなかろう。婚姻というものは本人が望んでいようがいまいが、父母親戚の者が無理にも組み上げてやるべきもの。ことに志操堅固の者や、学業に熱中しておる者、それに変わり種は、世話してやらぬばあっという間に不惑を過ぎるぞ」
「それは確かに」
「それにだ。若いうちに女と暮らす楽しさを知らぬでは、あやつが可哀想ではないか」
と言って※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はにたりと笑った。
「それでお前はどういう筋で縁談を探したのかね」
と訊かれたので、持ち込んだ家の名をあげた。
「それがそもそもの間違いだったな。あの孔明の縁談なのだ。そんな家にゆくからうまくいかなかったのだ」
「そうでしょうか。どの家も家系たしかで、お城に勤め、娘さんの評判もわるくありませんでしたが」
「その判断するところが間違っている。お前の浅はかなところよ。極端なことを言えばだな、たとえば劉景升の邸に乗り込んで、弟に女を寄越せ、と頭から怒鳴りつけてやるくらいすべきだった。くくく」
「そんな無茶な」
「意外とうまく運んだかも知れぬぞ。中小の汲々《きゅうきゅう》と荊北に居着いておるような家の女では孔明には不足である」
「はあ……」
この※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公という舅、その物差しの目盛りは並の人間のものとは違っているらしい。
(なんだか亮に似ているような)
と孔明の姉はちらりと思った。
「まあ、劉景升はもののたとえで、かりに奴がむすめを貰ってくれと頼んできてもわしが断ってくれる。とにかくお前は孔明の嫁選びの相手を間違えておったということよ。遠慮せずに大門名家に話を持ってゆくべきであった」
「そうおっしゃられても、実家諸葛は瑯邪の余所者にて、わたしはそのような名門に知り合いがありません。お舅様に心当たりがおありになれば……」
「ある」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はずしりと言った。
「ゆえにお前を呼んだのだ。山民などではなく、最初からわしに相談すればよかったのだ。さすればお前も何度も負け戦さをせずにすんだであろう」
と孔明が言っていたようなことを言った。どうも孔明の婚姻戦争論は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公から学んだものらしい。
「その名家とは?」
「黄《こう》家、黄|承彦《しょうげん》よ」
「え!」
孔明の姉が驚くのも無理はなかった。黄家と言えば※[#「さんずい+(眄−目)」、第4水準2-78-28、unicode6c94]南《べんなん》きっての名士であり、荊州政府のナンバー2である蔡瑁とも繋がりのある家であった。
「承彦のところにはいま嫁《い》き遅れのむすめがおってな。あやつも気を揉んでおるところだ」
「そのような噂を聞いたことがありますが」
とはいえ、姉の中ではとても孔明の縁談とは結びつかないものであった。
責承彦には二十《はたち》くらいの娘がいるが、なかなか縁談がまとまらないという。この時代、女性は十三〜十五で輿入れするのが普通であり、十八は既に婚期ぎりぎり、べつにロリコンではない。二十で年増、二十五ともなれば大年増であり、もはや相手にされなくなる。
孔明の姉が頭を整理できずにいるうちに、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「まあ、後はわしに任せておけ。くくく、勝負だ孔明!」
と口走りながらガッと立ち、鍬《くわ》を掴むと畑に出ていった。
そんな陽謀(?)が進行しているとはつゆ知らず、孔明は次々に中小の策を打っているところであった。水鏡先生の協力で得た「臥竜」の評判をもっと高め広めねばならない。出来れば曹操の拠点の許昌や東呉地方にも、
「襄陽にはなんだか分からないが、とにかく凄ぇ男がいるらしい。号して臥竜。人か魔か。いや何が凄いのかは知らねえが」
とか、非現実的になってしまうくらいの風聞が流れるほどになることが望ましい。
徐庶や崔州平もようやく孔明の策とやらが分かってきたところであった。
「きみの才は大いに認めるところだが、臥竜というのは恰好つけすぎではないか。買いに来るどころか、人はかえって引くぞ」
と崔州平が言うと、
「まずは撒《ま》き餌《え》のようなもの。それしきで引くような買い手はこちらから願い下げだ」
と孔明は爽やかに言った。
「きみらは天下について談論風発《だんろんふうはつ》することで満足のようだが、わたしにはとうてい飽き足りない。今天下には大小の渦が発生しており、その流れや急であり、また変転とどまらず、新たな渦も今後幾つ生じるやも知れぬ。それを見て論じるだけではつまらないじゃないか。大渦に身を投じて浮かんだり沈んだりしてみたくはないか」
「溺れ死ぬぞ」
と崔州平。徐庶は、
「それはぼくとて同じ気持ちだ」
と言った。
「だが、所詮は書生の身である。時が来るまでよく見聞し、己を磨くしかなかろう。小僧が急に渦に近付いても、入り込めるかも分からない」
すると孔明、
「駄目だな。そんな心持ちでは時など来ない。うかうかしていると、一番大きな渦が天下を覆って押し流して後、巡るのをやめる時の方が先に来るだろう。その時になって悔いても遅いということだ。わたしはどれかの渦の太い流れに合流したいと思っている」
と言った。
「一番大きな渦というのは曹公のことだな。確かに曹孟徳の勢いはただごとではない。天下の大勢が雪崩を打つように一気一瞬のうちに決まってしまうこともある。とすれば今きみが出番を作ろうとちびちび画策している間に曹孟徳が覇を唱えてしまうということもあり得るな」
孔明は崔州平の揶揄面《やゆづら》を見ながら、
「そのときは渦を新しく作ればよい。この孔明、臥竜と号するは伊達ではない。竜ならば臥していようと水を回して渦の一つや二つ、たやすくつくるであろう」
と、かなり恐ろしいことを、あくまでも爽やかに言った。
さていま三人が話をしている場所は孔明の家であるところの隆中の新名所臥竜岡であった。孔明が呼びつけたわけではない。青年が熱く議論する場は酒家《しゅか》でありたいものだが、孔明と徐庶は素寒貧《すかんぴん》であり、崔州平も複数人に奢《おご》るほど気前がよい男ではない。志はあるが貧乏な連中がわだかまる場所はやはり友の家となる。
ことに孔明の家には弟の均以外に家人がいないので遠慮することもない。たまに飲まず食わず徹夜で議論することもあった(孔明は飽きたら途中でさっさと寝てしまう)。のち竹林の七賢のような清談屋もあらわれるが、たいていアルコール(ときにはドラッグ)入りである。しらふで天下を論じたり、夢のような志を熱く放談し合えるのは若者の特権であろう。
「今ある渦と言えば」
と崔州平が数えた。
「第一が曹操孟徳、第二が袁家三兄弟、第三がこの荊州の劉表景升、第四が東呉の孫権仲謀、第五が益州《えきしゅう》の劉璋季玉《りゅうしょうきぎょく》、遠くは西涼の馬騰寿成《ばとうじゅせい》、遼東の公孫康《こうそんこう》、漢中|五斗米道《ごとべいどう》の張魯公祺《ちょうろこうき》というところだが……。ここ十年のうちに天下を窺える器が何と減ってしまったことか。孔明はこの諸公以外からでも渦が作れるといっているわけだな。まあ無理だと思うが」
孔明はそれには答えなかった。
崔州平があげたのはあくまでめぼしい大渦の名であって、中小規模の勢力雑集団はまだまだいる。崔州平の認識では太平道黄巾の残党や劉備軍団、黒山賊の張燕《ちょうえん》などはその中に入る。現実問題としてそれらが奮発しても、点のような反乱を起こせる程度であろう。黄巾の乱発生当時の世情なら意外の展開もあったかも知れないが、今や農民一揆、山賊レベルの組織システムしか持っていない連中ではもう動かせない世となっている。
「中でも別格は天子を奉戴《ほうたい》する曹孟徳」
これには三人とも異論はない。曹操ほど悪を隠さず、逐鹿《ちくろく》の志を露わにして激しく動いている者はいない。曹操に比べればどの勢力も風見鶏に見えてしまう。今も袁氏勢がなぶり殺しにされ続けているというのに、誰も間に入って和平工作をしたり、止めるそぶりさえ見せようとしない。それをやれば歴史に残る天下の好漢となれるのだが。
「それにしても劉景升のご損というか、いやになるほど愚鈍なことだ。曹孟徳と袁本初がにらみ合っているときに、目線を動かし腕の一本でも動かしさえすれば、事態は大変し、大有利が転がり込んだかも知れないのに。いや、今からでも決して遅くはないと思う」
と徐庶は言った。この意見はタカ派襄陽人士に、ため息混じりに何度も口に上らされてきたものであり、徐庶がひいきの新野の居候、劉備玄徳も嘆くところであった。
劉表の荊州兵力はほとんど無傷である上に、経済は豊か、地理的にも中原の抗争に介入するに非常に有利な位置にある。曹操も袁紹も、対峙しながら同時に劉表と戦う力はさすがになかった。ある程度劉表の機嫌を取り、結ぶほかない。劉表は一定の期間、天下制覇の鍵を握っていたと言ってよい。
劉表に器量があれば曹操、袁紹の一方かまた両方に肩入れしつつあざとく勘き、両勢力をコントロールして衰滅させることも出来たのだ。曹袁いずれにせよ、勝利した方がほぼ確実に荊州攻略を企むことは明らかであった。しかし劉表は袁紹にせがまれ、仕方なく見せ兵するほかはまったく不動であった。劉備が新野からやって来て出兵を口説いたりもするが、馬耳東風である。
何故だろう、とは劉表を知る誰もが思わなかった。劉表は悪人か善人か馬鹿か利口かは別にして、
「あの男にそんな大それた事が出来るはずがない」
と納得されているような人物なのであった。能がないというよりも、性格とか意欲の問題であり、仮に劉表に荀ケ、郭嘉のような参謀が付いていて、強く進言されたとしても、果たして乗り出すかどうか。敵にも味方にも民衆にも、
「あの人にそんなことはできはしまい。したらおしまい」
と信じられてしまっている去勢されたような男であった。この乱世にそんなことでは、
「舐《ナ》めてください」
と頼むようなもので、荊州の総責任者としてそれでいいはずがない。当時の荊州政府のあり方は現代日本に似通っているところがある。
劉表の平和ボケが仮面であって、
「じっは陰々着々と荊州売り渡しの手を進めている」
というほうが嫌らしくはあるが、かえって心強くはある。しかし劉表のボケは仮面ではなく、額面通りかそれ以下の男であることも見透かされてしまっていた。劉表は、
「事なかれ」
と祈りながら、あまり似合わない仁人のふりをし続けるしかないのである。無関心武装中立策が荊州を守る最上の策と確信してそれを通しているのなら、意気を褒めることも出来ようが、危機管理意識の欠如というか、危機などのことについて考えたくもないという現実逃避傾向が正体であるからどうにもならない。
ただし曹操は袁紹のように劉表に甘い顔はせず、対劉表に強硬的で、袁軍との対陣の最中でも、突如として汝南から南陽あたりに出現して脅かし、牽制することを忘れない。
「余計な手を出さば、すぐさま攻め入る」
と恫喝しに来るわけだが、主力は袁紹に向けて置かざるを得ないのであり、よく見れば大した兵数ではないと分かるはずである。劉備玄徳がしばしばこれを討つべしと使者を送ってくる。しかし曹操の恫喝は劉表に十分に効いていて、頗《すこぶ》る恐怖しているようだった。こうなれば北東に長期にわたり転戦している曹操が真に警戒すべきは江南の呉のみとなる。
孔明が劉表に仕官しないのは劉表の覇気ゼロの性分がよく分かっているからでもあろう。家臣となり策を出し尽くしても、劉表にやる気がないでは却下の山となるであろう。孔明のみならず水鏡先生の門下生は劉表を見限っており、積極的に仕官しようとする者はほとんどいない。
「元直は劉景升にまだ期待しているのか」
と崔州平に言われた徐庶は、
「分かってはいるが、口惜しいじゃないか。曹孟徳は許都《きょと》を空にして冀州を北上しているのだぞ。許都と天子を奪う絶好の機会ではないか。今ならまだ間に合うのだ。しかしわが秘策を劉景升に採用させたいと望んでも、結局ぼくには無理だろう。何故ならその前に劉景升の性格をひっくり返さぬばならないんだからな」
と言った。
「ふむ、まことに難題だ。劉景升を肚《はら》から叩き直すというのはちょっと無理だろう」
崔州平は、孔明に顔を向けて、
「だが、そこで臥竜の出番じゃないか。孔明、きみにはこの難題が解けるのか。ふふふ、いや解けないと分かっているから、劉州牧に仕官しないんだしな」
己に不可能はないというような過信に満ちた態度と語り口の孔明へ意地悪げに問うた。
「どうだい、臥竜よ。渦を作るも消すも自在なら、劉景升くらいなんとか出来るはずだが」
崔州平としては、孔明の奇才は渋々認めても、大風呂敷を目前で適当に広げられるのはあまり面白くない。
(臥竜なんて名は水鏡先生を口舌で誤魔化して得ただけだ。内実が伴っていない)
と内心気に入らないのであった。
孔明は崔州平のそんな気持ちが分かっているのかいないのか、ああ、そんなことかという顔をしている。
「確かに劉景升の人間を変えることは難しい。だけど元直の考えているような策を採用させるくらいなら出来ないことはない」
「まさか。孔明、そんなことが出来るものか」
と崔州平が言った。
「秘策を飲ませるも策の内なり」
と孔明は涼しく言った。
「劉景升自らが物事を決定したりすることはまずないのだろう。つまり必ず誰かの意見に左右されている。そこでたとえばことに劉景升は奥方の蔡《さい》夫人の言になかなか逆らえないと開いている。蔡夫人からかき口説かせれば、劉景升は少なくともしばらくの間は頷くに違いない。蔡夫人は獰猛で貪欲、己を守る心強く、浅はかだ。夫人になら、うまく話をもってゆけば、策を飲ませられよう。軍師たるもの、あるじの閏房《けいぼう》のことにまで綱を張っておくべき」
崔州平はあっという顔をした。
「まさかきみたち、蔡夫人に話をつける手立てまでわたしに訊くつもりはないだろう。それくらいのことは己が才量でやれなければな。襄陽を憂うる士として誠実を尽くすか、心を鬼にして鮮仁《せんじん》の謀を使うか、いずれにせよ策士懸命の熱情が問われるところだ」
要するに蔡夫人にこの上なき誠意をもって理《ことわり》を説いて納《い》れしむるか、しからずんば誘惑してよき情夫となり、言うことを聞かせるかである。
「孔明、お前ってやつは!」
と徐庶は嫌な顔をしているが、崔州平は、
「うーむ。確かにその手があった」
と感心するしかなかった。
孔明は気乗りのしない顔つきである。
「元直、今からでも遅くないと思うのなら、やってみて損はなかろう。だが、それでも劉景升では難しいとおもう」
「何故だ。天子奪取成功となれば、いかな劉景升でも引きずられざるをえまい」
「口の堅い両君、ここだけの話にしてもらいたいが」
孔明は扇子を口元にかざして小声となった。
「劉景升は再来年あたり、死ぬ」
「劉州牧が死ぬだと! またなんて物騒なことを言うんだ」
「寿《じゅ》の尽くるは人の命なり。劉景升がしぶしぶ動いたとしても、これからが重要というところで死ぬことになる。するとかえって悲惨な事態を招くことになろう。そのとき襄陽に備えの策略なくんば荊州は確実に戦火にまみれることになる。曹孟徳の侵攻が先となるか、孫仲謀の侵攻が先となるか、それはまだ見えぬが、いずれにせよ荊北の民を蹂躙の惨禍が襲う。ああ見えても劉景升は守りの意思だけはつよいから、生きておれば戦火だけは避けようと思案画策するに違いないのだが。難しいところだ」
孔明は、涼しげにぎょっとするような予言を語った。襄陽に戦火あれば孔明だって逃げまどわねばならなくなる。
「とはいえ劉景升が再来年に死ぬとわかっていれば、大逆転の秘策を使うことが可能となり、わるいことばかりではない。今はまだその策を口に出来ないのがくやしいが」
崔州平が、
「決めつけるなよ。州牧が死ぬというはっきりした根拠でもあるのか? きみは何か劉景升の宿痾《しゅくあ》の情報でも掴んでいるのか。それとも暗殺されるのか」
と突っ込むと、孔明は顔を左右にした。
「どのように終えられるかは知らぬ。根拠はある。天文を観察し、命《めい》を算《さん》した占盤《せんばん》にそう出ているのだ。わが秘学、算命の術もまだ完璧ではないゆえ、一、二年の誤差はあるとおもうが」
「うらないなどで人の寿命を当てられるものか」
「別に信じてくれなくてもいい。ゆらい占術易学においては人の寿命を断ずることは決してやってはならぬこととなっている。これを行なう占術者がいればそれは外道であるとする。だからわざと当てないようにするのが礼儀というものだ。だがこの孔明は占術者に非ず。禁忌に従う必要もなし」
と平然としたものである。
(州牧の妻女を落とすという策は、不愉快だが、人倫に目をつむれば出てこないものではない。しかしかりに当てずっぽうであろうと、人の死を躊躇《ためら》わず予告し、またその死を利用して計略などできるだろうか。このおれに)
崔州平はぞくりとしている。
(こういう点が孔明とおれたちとが、画然《かくぜん》と異なるところなんだ)
孔明の算命とやらがどういう実態のものかは知らない。しかし孔明がありとあらゆるものを予測の材料として分け隔てせずに使おうとしていることは分かる。
孔明の顔つきを見るに、少なくとも孔明は算命という術が有効であると信頼しているようだ。いや、なにしろ相手は孔明なのである。信用しているようなふりをして見せているだけということだってあり得る。その場合、算命うんぬんは「臥竜」的なはったりである。
(劉景升の死が再来年と言っても、うまく当たればそれでいい。外れたら誤差だとか、変卦《へんか》したとか、どうとでも言い逃れができる。事実はその時にならねばわからないことだ)
とはいえこのある意味無責任な放談の場であろうとも、荊州の主の死をさらりと予告してしまえる頭脳と精神が分からないのである。しかもうらないで。崔州平は、
(この奇才は本当に本物か)
と試す思いで訊いた。
「ならば孔明、きみは自分の死年を知っているのか。算命の術を習得するのに他人より先に自分自身の星をよく使ったはずだ」
すると孔明、
「もちろん知っている。わたしがやりたいことをやるのに十分な年月があったのでほっとしている」
とあっさり言ってのけた。
「自分がいつ死ぬか知っていて平気なのか」
「人間は誰であれ必ず死ぬものだろう。重要なことは死の日に悔いがあるかないかではないか」
崔州平はさすがに、それは何歳だ、と聞くことが出来なかった。
孔明の「やりたいこと」の内容にもよるが、二十年でやり遂げると考えているのかも知れないし、五年で十分だと考えているのかも知れない。当たるか外れるかは怪しいとしても、縁起でもない。あまり聞きたくないことである。
「わたしとて第二の故郷を兵乱に失いたくはない。そのためにはここ二、三年のうちに固めておかぬばならぬ事がある。さらにそのためにはわたし自身を誇大にしておくほうがよりやり易くなる。だから急いて策を弄するところがあり、きみに不快感を与えているやも知れぬ」
「わかったよ、孔明。きみには参った。とにかく大策があるんだな。おれには想像もつかんが。臥竜はそのための小策のひとつなのだろう」
孔明は扇子で顔半分を隠して肯定も否定もしなかった。
「おれもこれからはきみを臥竜と呼んで、ささやかながら応援するとしようか。臥竜」
と崔州平が言うと、孔明、
「きみにそう呼ばれるとなにか照れくさい。わたしの前では言わないでくれ」
と少し頬を紅くして言うのであった。
「ちなみに孔明、曹孟徳の死年はいつなんだ」
「知らぬ」
「どうして」
「曹孟徳の生年月日が分からないからだ」
どこか怪しい孔明の算命であった。
建安九年(二〇四年)の時点で、曹操はめまぐるしくも華麗に働き続けている。曹操孟徳五十歳、休息不要の男であった。
まず袁紹没後、跡目争いがこじれ切っている袁|譚《たん》、袁|熙《き》、袁尚の三兄弟を手玉に取り、本拠地といえる※[#「業+おおざと」、第3水準1-92-83」、unicode9134]《ぎょう》を陥とした。袁兄弟が一本にまとまり協力体制をとっていれば、冀州勢力はなお一大脅威であり続けたはずである。しかし見苦しい兄弟内紛のざまを呈しながら同時に曹操との喧嘩をそれぞれ買っているようでは勝てる戦さも勝てなくなる。
※[#「業+おおざと」、第3水準1-92-83」、unicode9134]《ぎょう》城を陥落させたはいいが息子の曹丕に美人人妻|甄《しん》氏を横取りされて腹を立てていたのも束の間、新領土に新政策を思いつけば実行させ、間をおかず北方に転進、袁兄弟追撃の手を緩めない。走りながら政策会議と作戦会議を開いているような塩梅《あんばい》であった。
その忙中に詩作のほうもばりばりで、戦い動くほどに詞藻《しそう》湧きいずるといった有様、建安文学を自ら率先して引っ張る勢いがある。政、戦、色、文と余裕の充実ぶりである。
そして、許昌に駐在している荀ケには、数年以内に支配下となっていよう荊州と東呉に関しての徹底した調査を行なわせている。とくに、
「葉陽にはここ十数年、あまたの才子が流れ込んでいる。もったいないことぞ」
と、占領もしくは併合後に是非とも抱えたい人材イチ押しリストの作成を命じていた。武人も文人も、博《ひろ》く飽くことなく求めている。宿敵であった故袁紹配下の者でも、有才と見たら、可能な限り帰順を勧めて召し抱えた。曹操の側近たちは、曹操の内には既に天下統一後の政府構想が確立しているに違いなく、戦争のことなどはもはや眼中の外に出ようとしているのだと、感嘆の思いにかられたものである。
だが、荀ケや荀攸のような側近中の側近は必ずしもそうとは思っていない。あるじ曹操は人材が好きで好きで仕方がない男なのである。曹操の人材好きは度を越しており、いくら集めでもきりがなく、どこかに良才がいると聞けば目の色を変えるのである。今でも曹操陣営には人材が使い途に困るほどいるのだが、なお募集をやめない。天下の人物という人物はすべて幕下に置きたいという強い欲望がある。ここまでくると人材コレクターとでもいうべきで、既にマニアの域に達している。曹操には才能をコレクションのように並べ眺めて悦に入っているようなところがあるのである。
日本史において曹操に最も近いことをした人材といえばやはり織田信長ということになる。信長も政略として帝を擁護しながら旧権威、旧勢力、世の常識をことごとく打破しつつ、戦争に勝ち続け、新政権構想を着々と実現させていった。その為にやったことの多くが苛烈無惨であり、凶悪なる独裁者にして天才。この狭い島国でこれほどド派手に悪いことをしてくれた英雄は他に見あたらない。そして能力があれば身分を問わず、どこの馬の骨とも分からない者でも召し抱えて、使えると見れば抜擢累進させた。ただ信長の場合は人の能力そのものを愛する傾向があり、人材マニア的なところはほとんどなく、むしろ馬や武器、茶器の無類のコレクターであった。信長は曹操の故事を知っていたはずだから、いくらか影響を受けた所はあるのではないか。
荀ケは曹操の人材菟集癖を困った道楽だと半ば思っている。一芸に秀でていても臣下として不適の者も少なくない。招かれたからといって調子に乗って分《ぶん》を弁《わきま》えず、曹操を怒らせてしまうとよくて追放、悪くて処刑となる。そんな例は既にいくつもあった。現時点の曹操政権では、夥《おびただ》しい人材を飼うことはかなり無駄であると言える。しかし主命であるから仕方がない。荀ケはせっせと襄陽人士の情報を集めている。
まだほとんど無名の青年、諸葛亮孔明の名が、人材リストのベストテンに入るかどうかは、孔明のここ二、三年の活躍にかかってくるであろう。曹操に仕えるつもりは微塵もないにせよ、もしリストアップされていなかったら、孔明のプライドはいたく傷付くに違いない。果たして孔明、推薦人材リストに載るのか? ノミネートされてうれしいのか?
さて孔明たちが臥竜岡で勝手に吹き上がっているとき、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は※[#「さんずい+(眄−目)」、第4水準2-78-28、unicode6c94]南《べんなん》に赴き、茸承彦の家を訪ねていた。
黄承彦の家は、さすがに襄陽きっての郷士、馬鹿でかい。大豪族の風がある。豪邸の周囲を衛兵代わりのちんぴらが巡回警備している。門前で※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は見咎められた。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は一瞥をくれただけで通ろうとする。
そのちんぴらは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の顔を知らなかった。着ている物も野良着であり、百姓爺にしか見えない。黙殺されかけたちんぴらは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の肩を掴み、
「なんだぁ、てめーは。ここは百姓ジジイの来るところじゃねーよ」
と顔面を歪めて威嚇し、唾を吐きかけてきた。
「てめーここのだんなに呼ばれでもしたんかよ。百姓ジジイがそんなはずはねえよな。オラッ、紹介状かなんかがありゃあ出しな。奥につないでやってもいいけどよ、コレを弾んでもらわないとな」
と露骨にカネを要求する。黄家を訪れるのはほとんどが貴賓であり、立派な馬車でやってくる。それ以外の者はウジ虫とみなしてよく、まともに相手にする必要はないと思っているようであった。
「なけりゃあ帰りな。エー、なんだァその生意気な目つきは。へっへへへ、おれたちゃ年寄りだろーが遠慮しねえのよ。知ってるか? 間違って二、三人ぶっ殺してもお咎めナシよ。ここの黄のだんなが適当に操み消してくださるってワケ」
「ほう、そうか。ではわしも遠慮せんでいいわけだな」
次の瞬間には※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の蹴りがちんぴらの金的を潰しており、同時に遠慮会釈のない突きが顔面を撃ち抜いていた。ちんぴらは地べたに転がりひくひくしている。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はその顔面や脇腹へ容赦のないストンビングを浴びせた。
すわ何事ぞ、とちんぴら衛兵どもが集まってきたが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は顔色ひとつ変えなかった。
「この野郎ッ」
と短慮にかかってきたちんぴら二人がまた血しぶきをあげてひっくり返っていた。
「この親爺、拳術を使いやがるぞ。気を付けろ」
ちんぴらどもがわらわらと囲んでくる。刃物を抜く馬鹿もいた。ここは組事務所なのか※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「鶏頭づれが!」
と大喝し、ちんぴらどもの度肝を抜いた。しばし睨み合う。そのうち、
「待て待て、そのお方ァ、※[#「山+見」、第3水準1-47-77、unicode5cf4]山《けんざん》の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公様だッ。手出しするんじゃねぇ」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を見知っている兄ィが悲鳴のように叫んだ。ちんぴらどもは後ずさりした。理由は定かではないが、
「※[#「山+見」、第3水準1-47-77、unicode5cf4]《けん》大人|※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公」
は付近のちんぴらにも恐れられている名であった。今は魚梁洲に自称隠遁しているが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の本宅は呪山の南麓にあるのでそう呼ばれている。「拳侠徳公参上」と壁に書き付けるとか、なんか若い頃にそういった無茶をしていそうな人ではある。
「ふん」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は勝手に門を潜り、
「阿承《あしょう》、阿承はおるか」
と呼んでいる。阿承というのは黄承彦の親しい呼び名である。
「ショーちゃん」
といったニュアンスかな。じきに黄承彦が出てきた。
「おお、徳公ではないか。久しぶりだな」
「阿承。しばらく来ないうちにバカを増やしたようだが、門番にはもつと品のいいごろつきを選んだ方がいいな。おぬしの評判が下がる」
拳に付着していた血を袖で拭う。
「うちの雇い人になにか粗相があったのかね。近頃は野盗がはびこり危なくてな。ああいう連中でも雇わんと」
「あとで外の連中に聞いてみろ。そんなことはまあいい。上がらせてもらうぞ」
とまったく遠慮なく勝手知ったる友人の家に踏み込んでいった。
「最高級の茶と茶菓子を所望だ」
と婢女《はしため》に注文までつけていた。
黄承彦は見かけは柔和で、人も悪くはないのだが、巨大な家財を持ってしまうと単なる善人ではいられなくなるものだ。偉そうにしているつもりはないのだが、周囲の者は威圧を感じてしまう。しかしそれも※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に比べれば可愛いものではあるのだが。
「家廟ますます繁《さか》んなようだな」
房を見渡すと、いかにも高級そうな壷や漆器、書画の掛け軸が飾られている。
「人が勝手に置いていくんだ。わしには美術品の値打ちなどとんと分からぬ」
「どれも逸品だ。もったいない目を持っておることよ。今日はあれだ、おぬしの嫁き遅れの醜女《しこめ》に用事があってきた。醜女は息災か」
「親の前で醜女醜女と言うでない。おぬしでなければ許さぬところだぞ」
「息災のようだな。阿承、そろそろ嫁がせたらどうだ」
「それが出来ればとっくにやっている」
「貰い先がひと口あるが、聞きたいか」
「なに、本当か」
「根は襄陽人ではないが、家の筋も悪くはなく、わしの目から見てなかなか見所がある男だ」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の目から見て、というのがくせものである。世間常識の通用する男ではないことはよく知られている。
「おぬしの鑑定は額面通りに受け取れんが、わしもむすめについては賛沢を言っていられない」
黄承彦は難しい顔をした。
そもそも本来は黄家の女《むすめ》の縁談がまとまらないということのほうが異常なことであった。黄家と縁を結びたい家はそれこそ山ほどある。黄家が名家だからという理由だけではない。襄陽政府との深い結びつきも大きな理由のひとつであった。劉表の妻の蔡夫人は権臣蔡瑁の妹であり、一子|劉j《りゅうそう》を生している。黄承彦の妻は蔡瑁の姉である。よって問題の醜女は蔡瑁の姪ということになり、劉表の死後、一時的にだが荊州の主となる劉j《りゅうそう》とはいとこ同士の間柄となる。
蔡瑁の蔡家は荊州でも指折りの豪族であり数百人の奴隷を有し、五十ヶ所の地所を領有するという大地主である。荊州入りした劉表が真っ先に蔡家と手を結んだのは当然の動きであった。地元では蔡家と黄家のつながりの濃さは随一であると見られていた。
そんな黄家の女《むすめ》と縁を繋ぎたいと思う家は、高飛車に選《え》り好みをされても、それこそ掃いて捨てるほどいたろう。しかし女《むすめ》は未だ独身であり、黄承彦夫妻は嘆くことしきりであった。寄ってくる家や男は多かったが、縁談は正式なものとなる前に必ず壊れた。男の側が断ってくるのである。女《むすめ》が何か凄まじい問題を抱えているとか、身の毛もよだつほど醜いと考えなければ、普通ならあり得ない事態である。
それで噂が尾鰭《おひれ》をつけて流れてしまい、嚢陽中の者が「黄家の醜女」の怪談を知るにいたった。万夫《ばんぷ》を退かせるというか、事実は尾鰭のついた噂以上であり、黄家の娘の醜さはただごとではなかったと思うしかあるまい。七回縁談を断られた孔明をはるかに凌ぐつわものであったわけだ。
娘が可愛くないわけがない。しかし黄承彦は非常に悲観的となっていた。
当然だが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は黄家の醜女を子供の時から見て知っていた。
「あの息女の値打ちが分かる相手を探せなんだおのれの怠慢をこそ責めることだ」
「徳公、そうは言うが、醜女を持った親の悲しみはおぬしには分かるまい。その男もわがむすめを見れば次の瞬間には千里の先まで逃げ走っているだろうよ」
「くくく、わしが脳裏におる男を舐めてもらっては困るな。あやつは常に宇宙を相手にしている男。並の男の感覚は持ち合わせておらん」
「そ、そんなあぶない、いや剛腹な男が襄陽におるのか? よし、名を聞かせてもらおうではないか」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、ガッ、と腕を突き出すとおもむろに、その名を吐き出した。
「諸葛亮孔明! わが朋友の司馬徳操はあやつを臥竜と呼んで(馬鹿をしでかさないか)後世畏れておる」
「なに、諸葛孔明! おぬしの息子の嫁の弟のあの変奇郎の孔明のことか」
「いかにも」
「ちょっと待て。如何にわがむすめの相手が見つからぬとはいえ、あれはひどすぎる」
「そうかな」
「わしとて城下の噂は聞いている。おぬしと水鏡に学んだという孔明の学識についてはしぶしぶ認めてもよい。しかし素行に問題がありすぎる」
「なんの、おぬしの耳に入っている程度の噂など、あの男の面白おかしさを百分の一も語っておらん」
「じゃあ、もっとひどいのか。駄目だ駄目だ、そんなヤクザ以下の男に愛娘はやれん。いかに嫁《い》き遅れているからといって、わがむすめを変奇郎の生贅《いけにえ》に差し出すようなことが出来るものか」
と自分の息女の問題点は棚上げにして断った。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はそう言われて別段強要することはなかった。
「そうか。それでは仕方がないな」
と言っただけであった。
「まあせっかく来たのだ。醜女を呼んでくれんか。久しぶりに顔を見たい。わしとてあの子の仕合わせを願っているのだがな」
「うむ」
黄承彦が奥に声を掛けると、しばらくして黄家の醜女があらわれた。
挙措《きょそ》動作はしずしずとだが、身長は百八十センチを越えた大柄な女であった。この一事だけでも並の男の避けるところである。坐してお辞儀し、
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》のおじさま、おひさしゅうございます」
となかなかよい声で言った。そして面《おもて》をあげる。
「おお、いつにも増して醜いな。元気そうでなによりだ。それにしてもたまらぬ醜さだ。わっはっは」
黄家の醜女、名前不明なので黄氏と呼ぶしかないが、黄承彦の顔が赤を通り越して蒼くなっているのに、
「嫌ですわおじさま。羞《は》ずかしい」
とぽっと頬を紅く染めた。
黄氏の醜さは『三国志』によると具体的には、
『黄頭黒色』
と記されているのみである。
「茶髪で色黒」
くらいの意味である。これではその醜さがあまり想像できない。荀子《じゅんし》が孔子の容貌を形容して、
『仲尼《ちゅうじ》の状、面、蒙※[#「にんべん+其」、unicode501b]《もうき》の如し』
と言ったような化け物性に欠けている。
「黄氏の状、面、ナントカの如し」
くらい書いてあれば、『三国志』中でもモストなドブスとされているその底知れない醜さが頭に浮かんでこようものだが、詳しい描写は書いた者も遠慮したのであろう。しかし、長身で茶髪で色黒というくらいで醜女になってしまうのが当時の女性美の基準だったとすれば、可哀相と言うしかないが、それだけではつまらないというものだ。あらゆる男に腰を引かせる「凄い何か」がなければわざわざ史書に特筆するほどのことではあるまい。
かりに大女で茶髪で色が黒くとも、すらりとしてプロポーションが抜群であったりすれば(当時は肥満女が美女とされる例が少なくないから痩せた女は相対的にブスとされたに違いない)、現代グローバルスタンダードにおいてはスーパーモデルと嘱望される逸材であるかも知れないわけだ。顔が何に比喩することも出来ないような凄まじいものであったとしても、ちょこっと整形しただけで現代的なクールフェイスとなる可能性だってある。美醜とは時代が基準を定めるものだ。黄氏の肖像画が無いのが残念である。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はその後も醜い、醜女、と連発し、仕舞いには、
「お前の醜さは王昭君《おうしょうくん》に勝るとも劣らぬ」
と(王昭君とは漢代の伝説的な美女のことだが)、意味不明なせりふを絶賛するかのように言うのであった。黄氏はそのたびに身をよじらせて、
「嫌ですわ、おじさまったら」
と笑いをこらえるふうであった。黄氏が普通の女であったら、その乙女心はずたずた血塗《ちまみ》れであり、
(※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を呪い殺して百代祟ってやる)
と決意していておかしくはない。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は黄氏を満足そうに眺めていた。醜女と幾度となく侮辱されても、内心は分からないが、表向きはまったく動じないその度胸に感じ入っている。
(わしの目に狂いはない。孔明にくっつける相手はこの女《むすめ》しかおらん)
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は高笑いして、やおら声を重くした。
「この襄陽に、唯一お前を幸福に出来る男がいる」
黄氏も視線をぴたりと※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の目に落ち着けた。
「諸葛亮孔明という。噂くらいは聞いたことがあろう」
「はい。すこしは」
「おい、おい」
と黄承彦がおろおろして割って入ろうとしたので、
「阿承、しばらくおのがむすめの言を聞いておれ」
とぴしゃりと言う。
「どうだ?」
「諸葛孔明さま」
「やつは面白いぞ。やつを楽しめる器量がお前にあれば、人生において悔ゆることなくなろう」
すると黄氏は、
「おじさま、わたしは世の男子に失望しかけているところにございます」
と言う。
黄氏が※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に醜いと連発されても耐えられるのは、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が女童の頃からの知り合いであるということもある。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は昔から、黄氏を抱き卜げでは、
「おお、お前は絶世の醜女に育つに違いない」
とか、子供の心にトラウマを残すようなことを笑って言うたちの悪いおじさんだった。
だが、成長するにつれ、黄家を訪れる男たちが自分を見ると、途端に口もとを引きつらせて、
「よきお嬢さんをお持ちだ」
などとおためごかし、おべんちゃらを言うことが感じられるようになると、それこそまことにむかつくのであった。
「テメー、ホンネを言えよコノヤロー!」
と、女子プロレスの選手のような口吻《こうふん》で、来る客来る客、襟首掴んで怒鳴り上げ、自慢の力ワザでブッ潰したい気持ちをぐっと我慢してきたのである。破談が続くと両親までもが腫れ物にでも触るように話しかけてくる始末で、
「人道、美か醜か」
と天に訴えたくなった。
黄氏にとっては※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「天下に珍しい正直なお人」
ということで尊敬し、暴言もなんとか許すことが出来ているのであった。そんな※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の紹介である。
「その孔明様が、わたしの鬱屈の思いを一変してくれるお方ならば……。一度、孔明様を見てみとうございます」
「よし」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は言った。
「いいな阿承」
黄承彦は、
「いいも何も、勝手にせい。だが、わしはあくまで反対じゃぞ」
と泣きべそをかく寸前のような顔をしている。
「そもそも阿承、おぬしはこのむすめの醜さが見えておらんのだ。だから縁談をまとめることができなかった。客が置いていったという、その壷、あの香炉、あの書画、すべて逸品中の逸品ばかりだぞ。しかしお前には見る目がなく、見ても何も感じぬのだろう。むすめのことも同じことよ」
「そ、そうか?」
「阿承、真の醜悪とはな……いや、これは話し出すときりがないので別の機会にしておこう。それでは明日にでもうちの嫁をつかわそう。まずは孔明のことをなんなりと聞くがよい」
「はい」
孔明の姉も荷担させてお見合い作戦をたてるのである。
(あとは孔明だ。だが、やつなら、この女《むすめ》の醜さを見せつけられれば、その素晴らしさが分かるはずだ)
孔明は自分に仕掛けられる謀策に関しては毛ほどのものでも勘付く敏感な体質である。
(だが今回は気付かないかも知れんぞ。何しろ謀は謀でも陰謀ではないんだからな)
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は含み笑いをした。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は素早い。翌日午前には臥竜岡を訪れていた。畑を耕していた諸葛均が走ってきて、孔明の言いつけ通りに、
「兄は特訓中です」
と止めたが、
「さればその特訓の相手はこのわしがつとめてやる。均よ、わしの顔を忘れたか」
とけた違いの押し出しで言われると、
「あ、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公様! 失礼いたしました」
と先に立って案内した。
諸葛均は十六歳、思春期真っ盛り、孔明より八歳下である。字《あざな》はまだない。ないというか、史書に残っていない。よって無礼になるが、名を呼ばねばならない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公もそうで、字《あざな》は不明。だからこの長者はこの稿の中でさっきから名を呼び捨てにされており、本当ならぶん殴られても仕方がないくらいの失礼をしている。孔明の姉の名も、黄承彦の字《あざな》もそうだ。かれらをどうでもいい人物にしてしまっている史書が悪いのだが、史書のせいにしても仕方がない。わたしが勝手にかれらの字《あざな》や黄家の醜女の名を創作してもいいのだが、でもそうすると鬼神が怒るかも知れないのでやらない。
正直、すまん。
諸葛均の案内で庭に回ると、孔明は、庭先で変な振り付けで踊っていた。虎のような、熊のような、そういう動きをしながら薄く微笑んでいる。
「兄上」
と均が呼ぶとこちらに顔を向けた。師が来ているというのに無礼にも踊りはやめない。
「ああ、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生、わが家にいらっしゃるとはめずらしい」
と今度は猿のように動いている。劉備玄徳三顧の礼のときに頂点を極めるが、客を故意にかなり無礼に扱うのは孔明の流儀のひとつとなってゆくらしい。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はそれくらいで目くじらを立てたりはしない。
「孔明、なんだ、その気持ちの悪い踊りは」
「いや、軍師たる者、踊りの一つや二つ出来なければ……というのは嘘で、これは神医と誉れ高い華佗《かだ》が考案した五禽戯《ごきんぎ》という導引の法にございます。養生法としてすぐれ、極めれば不老長寿も夢ではないそうですよ」
少しお待ちを、と言って、孔明は五禽戯を最後まで終わらせた。
五禽戯は虎、鹿、熊、猿、鳥の動きを真似することにより、気血《きけつ》の流れを良好にするという気功である。後々曹操に殺されることになる華佗の発案とされている。仙人の長生術であるともいうが、文献に記録された気功としてはかなり古い部類に属する。中国武術などとも深い関係がある。
「いや失礼しました。途中で途切らせると効果が半減するといいますので。ですがこの五禽戯には竜の動きが入っていないので物足りません。竜はわたしが工夫しようか」
孔明は薄く汗をかき、莞爾《にこ》としている。
急襲して出鼻を挫くつもりが、変な体操を見せられて、逆に挫かれた感じの※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公であった。
(やるな、孔明)
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は書屋の階《きざはし》にどっかと坐った。
「孔明、お前のような男でも長生きを望むのか」
孔明は扇子でぱたぱた顔をあおぎながら、
「いえ先生、この種の方術の興趣はわが身を宇宙と一体化し、道の淵源に迫ることにありまする。それに比べれば長寿などどうでもよいこと。どうです、先生もお試しになったら?」
「ふん、わしは既に隠者だぞ。お前なんかよりよほど悟っておるわ。それでお前はそのけもの踊りで宇宙と一体化したのか」
「まあ少し。ですがこの五禽戯の法は宇宙と一体というより、自然と一体化するに利があるようです。宇宙一体の為には他にも神仙の秘術がいくつかあります」
「くだらんことまでよく学ぶ男だな。孔子も言っておる。異端を攻むるは害あるのみ、と」
「いやあ、老荘の説を慮《おもんぱか》るに、異端は決して害ではなく、広大無辺なもののように思えます」
この二人とも何千巻くらいの書に通じているから、話が逸れると西の果てまで行ってしまう危険がある。
(いかんな、今日は馬鹿話をしにきたのではない)
孔明のペースに乗せられてはいけない。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、ガッ、と目を剥《む》き、孔明を指さすと、
「甘い!」
と唐突に大喝した。何が甘いのか知らないが、単にペースを奪うための気合いなのに違いない。
「小賢しいぞ、孔明! おのれのようなこわっぱが宇宙の神秘を語ろうとは片腹痛いわ。わしにはわかる。貴様などには絶対に知り得ぬが宇宙!」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はほとんど戦闘モードに入っていた。
「な、何故でしょう」
「仙人の小技を囓《かじ》って道に至ろうだと? お笑いぐさだな。わが弟子とおもい目を掛けておったが、へっ、語るに落ちたわっ。貴様の浅慮に乾杯だ。ほら、さっさと毒酒をあおって死んでしまわんか。ぐはははっ」
いきなりの理由なき狂気。このように気を高ぶらせて向かわねば、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公でさえ孔明に化かされることがある。しかし、これは中国の伝統なのかも知れない。禅宗の師匠も弟子に無茶苦茶な言葉、ほとんど言いがかりを浴びせることがしばしばある。
一方、孔明は耐えて忍んで怒りもせずにこにこしている。怒れば※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の術中にはまると分かっているからだが、
「宇宙を知ることが出来ない」
と断言されたことは気になった。
「宇宙」
「道」
少なくとも※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はその種のことで嘘はつかない。それが少し顔に出てしまった。しかし、宇宙がどうのと言い争っているが、あんたたちはホーキングか。
孔明の表情のかげりを※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は見逃さなかった。
「どういうことか知りたいか。くくく、知りたいだろう。お前には決定的に欠けたる点があるのだ。それなくば宇宙も道もお前とは無縁のものとなろう。知りたがり悶えながら、けもの踊りでせいぜい長生きするがいい」
孔明もとうとう目をきつくして、扇子で※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の言葉を遮った。
「そのような悪口雑言《あっこうぞうごん》、いかに先生とて、確たる根拠がなければ捨て置けませんぞ」
「くっっ、このクソガキがっ。根拠はゴロゴロあるわっ。だが教えてやらん」
「この吝嗇《りんしょく》師叔めが」
ほとんど子供の口喧嘩のようになっているが、これは真剣な膵負なのである、らしい。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は内心、
(よし釣れた)
と手応えを感じた。機である。階から腰を上げると、
「知りたかったら、明日、※[#「さんずい+(眄−目)」、第4水準2-78-28、unicode6c94]《べん》南の黄承彦の家に来い。逃げるなよ、孔明」
とやくざ者の捨てぜりふのようなものを残して、さっさと歩き出した。
「承知した」
と孔明は背中に、あまり爽やかではなく、投げつけた。
可哀想な諸葛均は恐がって柱の陰に隠れてしまっていた。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は隆中帰りの道すがら、呵々大笑《かかたいしょう》していた。
(ああ愉快だった。あやつと話す方が五禽戯なんぞよりよほど気血の巡りがよくなる。さてここはわしの勝ちだがまだ油断ならんぞ」
と笑いがなお止まらない。どうする孔明! なんか負けているらしいぞ。
その頃、孔明は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に釣られてしまったことを覚《さと》り、落ち着くため五禽戯の稽古を繰り返していた。
「何の魂胆かは知らないが、この孔明、挑まれて後ろを見せたことはない」
と、子供の頃はしょっちゅう逃げていたわりにはかっこよく呟いた。まだ柱の陰で震えている諸葛均に聞こえる大きさの声である。
孔明は翌早朝には家を出て※[#「さんずい+(眄−目)」、第4水準2-78-28、unicode6c94]《べん》南へ向かって歩いていた。孔明は馬車など持っていないし、せかせか歩かないから、夜明けに隆中を出ても到着は午《ひる》ちかくとなる予定である。
例によって「梁父吟」を高唱しながら歩く。腹が空いたら道端に坐り、諸葛均に作らせた(孔明のレシピによる)軍師弁当を食う。やがて黄家の地所に入り、あれしかないだろうという広大な邸に辿り着いた。
門に近付くや、黄家雇いのちんぴらたちが立ち塞がった。先々日の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公のようにからまれかかるかと思いきや、
「げぇっ、コイツ孔明だ!」
「何ィ、あの腐れ外道の臥竜かっ」
といきなり及び腰となり、触らぬ神に祟りなし、とばかりに半径五メートル以内には近付かなかった。孔明の顔はちんぴらの間で売れており、何故だかわからないがひどく恐がられている。
「自分たちはごろつきであり、決して人様に威張れるような者ではないが、孔明ほど人でなしではない」
と誇りをもって生きていたり、
「孔明にアヤをつけた人間は数日のうちに狂死する」
と孫策を祟り殺した于吉仙人ばりの陰陽師かなにかのように迷信されていたり、
「とにかく孔明だけはいけねえ。コイツにだけは一切関わりたくない」
と明かしたくない嫌な思い出を持っていたりする。
学もなく考え無しに何事も金と脅しと暴力で解決するのが習慣となっているような男たちが、その姿を見ただけで怯み、異常に膨んだ忌避意識を持ってしまっていた。一体、かれらに何をしたんだ孔明! 無頼暮らしのごろつきに人間のクズ、サイコパス、ミスフィットと差別されては、人としておしまいに近いのではないか。
孔明はおぴえた目つきで離れているちんぴらどもを一顧だにせず、門を叩き、家内に案内されていった。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公といい孔明といい、こんな連中が出入りするようになっては名門黄家も終わるのではないか、とちんぴらたちはちんぴらなりに黄家の将来を心配し、次の働き口探しに思案を馳せたりするのであった。
孔明は家ではなく、非常識なまでに広い庭のほうに案内された。鯉鮒の泳ぐ池、竹林、巨岩石、鳥が囀《さえず》り、鹿も走るといった庭園であり、定期的にきっちりと手入れがなされている。孔明はこの豪勢な庭園に別に驚くふうもない。
「すみませぬ。主人はあちらの亭《あずまや》におりまして。足労をおかけいたしますです。はい。ひっ」
と案内の小者は汗を拭き拭き、緊張に満ち満ち、恐怖の混じった震え声で言う。
襄陽に孔明の噂を知らぬ者なく、ということだが、小者は孔明を妖怪や魔人か何かのように思っているようだ。確かに孔明は「臥竜」についていろいろ自家製の誇張した噂を流しはした。
(だが、こんなに人を恐がらせるような噂を流したおぼえはない)
と孔明は内心首をかしげた。
孔明もまだ未熟者、策士としては実戦経験皆無の者なのである。宣伝工作の計を実地に試みるのは今回が初めてのことであり、流言、噂、風聞というものは何かの弾みで自身生命を持つもののように成長を始め、変態を重ねる危険きわまりない性質を持つものであるということを看過していた。孔明の自己宣伝の策はきわめて巧妙であって、短期間によく拡がり、十分以上に成功しているということではある。しかしこの種の事はさじ加減が重要で、ツボにはまりすぎると効果ありというレベルを遥かに越えてしまいコントロール不能となる。結果、噂に針小棒大の異様な尾鰭がついてしまうこともある。
情報戦は基本中の基本でありかつ難しい。
近代では抗日戦争中後の国民党軍、共産党軍の壮絶なプロパガンダ戦にも見られる通り、中国には情報戦を制すをもってまず兵略の要とする思想が『孫子』の昔から存在した歴史がある。実報であれ、虚報であれ、情報の扱い方、操作法は難しく、使う者の責任は重大なのだ。こんな小説を書いているわたしが言うのもなんだが、国政を司る者、報道関係者には十分気を付けてもらいたい。
まだ距離のある亭には黄承彦らしき年輩者がこちらを向いて座している。孔明と目が合うのを恐れるかのような、硬い笑顔が痛々しかった。
(どうやら策がうまくいきすぎて、世間ではわたしの虚像が一人歩きしているらしい。過ぎたるは猶《な》を及ばざる……となってしまっているようだ)
高雅神秘有力にして、かつ、謙遜あり奥ゆかしいイメージの「臥竜」のつもりが、世間では噂の勝手な拡大暴走の結果、魑魅魍魎《ちみもうりょう》の魔獣「悪竜」じみたほうへ行ってしまったのであった。すると「臥竜岡」は「魔窟」であって、悪鬼妖獣の跋扈《ばっこ》する魔界、邪竜の棲み家と見なされていよう。
(うぬ。最近、均を城に使いに行かせると怪我をして泣きながら帰ってくることが一度ならずあった。何があったか口を噤《つぐ》んで言わなかったが……。わたしではなく弟を狙うとは卑怯千万!)
おそらく諸葛均は罪なき者にのみ石もて追われたのに違いない。
そう気付いた孔明は、
(くつ、許せ均よ、仇は必ず討ってやるからな。だがまずその前に策を修正せねば)
とすぐさま案じて方策を練った。既に世間を覆った悪い噂を抑圧して打ち消すようなことをするのは下策である。かえって事態を悪化させかねない。
(そうだな。天下の智嚢《ちのう》をもう一人でっちあげよう。そやつは「臥竜」にはやや及ばないが、それでも天を裂き、地をどよもすほどの奇才の持ち主ではあれど、「臥竜」には一歩及ばないのだから、比較的軟派な感じのものがよい)
別にまた凄い男の噂を立てて悪評高まりすぎた「臥竜」にカウンターをあてるのがこの際の良策であろう。
そして孔明さらに推《すす》むるに、竜という架空の動物に十分対抗できるカッコよく気高い架空の動物は何かと考える。
(鳳凰がいい。すてきな鳥だが、竜に比べれば猛々しさに欠けるし、宇宙感が足りない。それでわたしは「臥竜」なのだし、そっちもまだ時を得ず未熟であってもらわぬばならないから、そうだな、鳳凰のひよっこということで「鳳雛《ほうすう》」とでも呼ばせよう)
孔明の融通自在の頭脳は「臥竜」「鳳雛」の並び立つシナリオを妄想しながら、現実の「鳳雛」候補に足りる人物のリストアップに入っていた。
(とはいえ元直や崔州平が「鳳雛」では意外性に欠ける。誰か他にいないか)
しかし、そのとき亭に歩みついてしまったので、楽しい思案の続きを止めざるを得なくなった。孔明は、
(なんと狭い庭なのだ)
と、身勝手に腹を立てるのであった。孔明は何でも宇宙と比べる癖があって、それでは地上に広いものなどなくなってしまう。
孔明は亭にある主に、拱手《きょうしゅ》して拝した。
「黄承彦どのにあらせられるか」
「そうじゃ」
と黄泉彦はおっかなびっくりに言った。
「黄大人、確かはじめての拝顔となるかと存じます。わたくしは諸葛亮、字《あざな》は孔明と申す若輩者にございます。以後お見知り置きを」
「うむ」
会ったことはなくとも、黄承彦については多くのデータを持っている。孔明は四方の空いた亭内を覗き込んだが、黄承彦一人しかいなかった。
「本日参りましたは、わが師、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》大人にここへ来るよう命じられたからですが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生はまだいらっしゃっておられぬようですね」
「えっ、そうなのかね。わしは聞いておらんよ。徳公は今日は来ないと思うが」
「えっ、なんと」
昨日、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公がいきなり子供のような喧嘩を売り、逃げるな、とまで行ったものだから、今日はわざわざ出向いたのである。
(どういうことか?)
孔明の頭脳はフル回転を始めた。
黄承彦は変な道服を着ていることを除いては、まともな態度の若者にまともな挨拶を受け、孔明が噂ほどの変奇郎ではないという印象を得て、いくらか安堵した。
「まあ、突っ立っていないでここに掛けなさい」
と孔明を亭内に招いた。
卓子の上に茶葉と茶器が用意してある。黄承彦がパン、パンと掌を打つと、すぐに婢女がヤカンを下げてやってきた。熱湯を適度に冷まして茶釜に注ぎ、用意した茶葉を惜しげもなく入れて柄杓《ひしゃく》を回す。ふわりと漂う茶の薫りは鼻から耳の穴にまで響いた。上物中の上物ということは嗅ぐだけで知れる。この時代、茶はまだ高価で医薬品扱いであり、食堂に入ったら黙っていても出てくるといった代物ではない。
孔明のような貧乏人は茶葉ではなく、茶葉の粉がくっついた茶の木の枝のクズをたまに入手できたりする程度である。孔明はそれに林間に生えている草木をミックスして煎じる。ほとんどハーブティーであるが、それをお茶として飲んでいる。しかし黄家ほどになれば産地の遠い茶葉を容易に取り寄せ買うことができるのである。
「徳公が、昨日、明日あなたを寄越すと知らせて来たゆえ、こうして待っておったのだが」
と黄承彦は孔明に茶を勧める。
不明の事態である。孔明は用心深く、しかし爽やかに、
「師は何と申されて、わたしを寄越すと?」
と訊ねた。
黄承彦の所には、昨夕、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公から使者が来て手紙を渡し、孔明が来ることを知らせており、どう接待すればいいかまでおおまかを書いてあった。
(変な若造に気を遣えとは、徳公のやつも気分が悪いことを言うわい)
と、やや不快であったが、あの、噂の孔明が来ると思えば、刻々と不安になってきていた。いきなりヨダレを垂らしながら暴れ出したらどうしよう、とか。
(いちおうむすめのためだ。手紙に従ってみよう)
女《むすめ》は孔明を見てみたいという希望である。ならば自分も、ちょっと嫌だが、付き合ってやらぬばなるまい。お茶を入れたあと亭の外で控えている婢女が黄氏の変装であることは言うまでもない。
「いや、大したことではない。年のせいか最近、肩が凝り腰や膝が弱り、目がくらみやすくなったとこぼしたら、徳公が、それならわが弟子がよき導引を心得ているゆえ、お教えに参上させようと言うてな、あなたのことを書いてきた」
「ほう」
「手紙によると、禽獣あそびとか、野獣舞いとか、そんなものらしいが。いったい如何なるものなのかね」
「それはおそらく五禽戯と申す養生のわざのことでしょうが。それをあなたにお教えせよと?」
「まあ、そんなことが書いてあったよ」
孔明が茶をすすりながら
(たんに健康指導をせよというのか。他にまだ狙いがあるのか)
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の目的を考えあぐねている。
(わからぬが、ここは手に乗ってみるしかない。狙いはじきに明らかとなろう)
孔明は、
「わかりました。ご指導いたしましょう」
とふところの白扇を卓子に置いて、立ち上がった。
孔明は気血の停滞が如何に健康を阻害するか、どうしてそのような停滞が起きるのかを医者のように解説しながら、
「たとえばこのように」
と四つん這いとなって、虎がのそりとゆくように歩いて見せた。
「さすれば自然に腰が伸び、肩は常日頃動かさない部分が動かされまする。これがよろしい。虎歩といい、また獲物を狙うが如く動けば」
と歯を剥き出し、爪を立てて半身反転して、
「がううう〜」
と吠えた。大まじめである。黄承彦は、馬鹿馬鹿しく思いながらも、
「おお、まさしく猛虎のごとし」
と仕方なく拍手した。
「さすが孔明どの、よき宴会芸をお持ちだ」
「芸ではありません。さあ、黄大人もわたしにつづき真似してみてください」
「いや、そうしたいのは山々だが、ただいま足腰ともに痛うてよう動けぬのだ。こうして座するがせいぜいなのだよ」
と内心では、
(何が悲しゅうてそんな恰好をせねばならん)
と思っている。
「わが身体の調子のよいときに実施してみるとして、一通り教えてくださらんか」
「実際に自ら動かぬば覚えませんよ。しばし痛むとも、やっておれば軽減いたします」
「そこをなんとか」
「本気でないのなら、お教え致しかねます」
と孔明は立ち上がった。
その時、控えていた婢女が進み出て、
「主人の替わりにわたしが覚えておきたくおもいます」
と言った。婢女が立ち上がると、その背丈は孔明とほとんど変わらなかった。黄承彦は、
(こ、これ、黄氏)
と名を呼んで止めようとしたが、
「さあ、お教え下さい。虎はこうですか」
と既に四つん這いになっている。孔明は、
「よろしいでしょう。あなたに伝えておく」
と自分も再び地に手をついた。
「雄虎と雌虎では、いささか要領が異なるところもあるが、基本は一緒」
「はい」
孔明は虎の戯をやって見せ、黄氏はそれを真似する。黄承彦は、
(女子の身がなんとはしたない)
と言うわけにもいかず、おろおろしていた。
虎が終わると、熊、鹿と続いて、黄氏は孔明と一緒に飛んだり跳ねたり引っ掻いたりしつつ、衣服襟元を乱し、髪をほつれさせていった。猿の戯となると、腕をだらだら伸ばして頭をぽりぽりと掻き、
「きーっ、ききき」
と歯を剥いて笑わねばならない。黄承彦は、
(ああ、わが愛娘がエテ公に)
と悲しいやらおかしいやら、情けなくなった。
最後は鳥だが、両腕をぱたぱたさせつつ、ぴょんと跳び、
「チチチチチ」
と鳴く。孔明も黄氏も何やらひどく楽しそうであった。黄承彦はもはや言う言葉なく、
(こいつらアホや)
とツッこみたくなり、ついに吹き出していた。
「はい。最後は鶴にて締める」
と孔明はまことに鶴のように足細く立って、ひょいと片足をあげた。黄氏は懸命に真似しようとしたが、片足になるときバランスを崩した。
「あぶない」
孔明はジェントルに黄氏を抱き留めて支えた。
「あっ」
黄氏はすぐに身を離し、頬を紅くしたが、五禽戯によりさきほどから汗を浮かべ上気していたので、たいして変わりなく見える。
「これで終わりです。あなたはなかなか筋がよい」
「身体が軽くなり、なんとも爽快でございます。楽しゅうございました」
黄氏は孔明にお辞儀をした。
「日々、少しずつ、黄大人にお教えすることです」
「はい」
気が付けばもう夕刻近かった。
黄承彦は、
「孔明どの、本日はわざわざ指導いただき礼を申す。夕食をとっていかれい」
と言った。
「はい。遠慮なく」
婢女なりの黄氏には、
「お前はさっさと屋敷に戻り、夕餉《ゆうげ》の支度を手伝いなさい」
と言って追い払った。黄氏は顔を袖で隠し、そそくさと走り去った。孔明と黄承彦はそれからしばらく亭に座り、当たり障りのない話をした。
「そろそろ料理も出来上がった頃だ。ゆきましょう」
と先に立って歩き出した。黄承彦の歩きぶりには、腰や膝の故障などどこにも見られなかった。しかし孔明は敢えて指摘することもなく、にこりと笑って従った。
黄家の食卓は、孔明が生まれて初めて見るほど豪勢なもので、一皿、一料理に工夫と贅を凝らしたものであった。食材も一級、山海の珍味あり。この晩餐一度で、孔明と諸葛均の半年分にあたる食費が出るであ入う。美味なる料理は多かれど、すべてを味わえる胃袋を持たず、孔明はおのれの食の細さを嘆いたものである。
(これを苦労をかけ通しの均にも食わせてやりたい)
と思い、食べ残しを包んでもらうことにした。そんなさもしげな事をする客は初めてだったのか、黄家の者たちはそこはかとない軽蔑の視線を向けていた。ええかっこしいの孔明は、
(羞《は》ずることなし)
と気にするそぶりを抑え、堂々としていたが、それでも目が心の汗で潤ってくるのは何故? と止められなかった。
食卓にはむろん黄氏の姿はなかったし、黄承彦も黄氏の話題は出さなかった。
食中食後の孔明の話題は、天下国家を論じるとかそんなレベルではなく、ずばり宇宙、であった。黄承彦は目を白黒させながら孔明の理解しがたい話を聞くしかなかった。
帰り際、
「もうあたりは真っ暗ですからな」
と黄承彦が親切に護衛の者をつけてくれようとしたが、孔明は、
「無用のこと」
と断った。
「しかしこのあたりは最近野盗が多く、危険ですぞ。あなたにもしものことがあったら徳公に申し訳が立たない」
すると孔明、
「この孔明、おのが身を守れぬほどの惰弱《だじゃく》の夫《ふ》にあらず。竜に無礼を仕掛けるものあらば、そちらこそ身の不運を嘆く間もなくこの世に別れを告げることになりましょう」
と珍しく怒り顔で、ビュンビュン扇子を振り回した。あぶないっ。黄承彦はたじたじとなり、黙って門まで見送ることになった。
孔明が帰った後、黄承彦はふうと一息ついた。
(なんとか無事に済んでよかった)
黄承彦は孔明を災害の神か何かのように思っていたようである。竜にはもともと天災の神という側面がある。
(家も壊されなかったし、人死にも出なかったし。何か盗まれたものがあるかも知れないから、念のため後で調べさせよう)
などと孔明に対して超常識的な偏見を持っていた。
(とにかくよかった)
家の中に戻ると、婢女の姿から着更えた黄氏が出て来ており、握った拳をぶるぶる震わせ、赤い顔をして待っていた。黄承彦が何か言うより先に、
「お父様聞いてください」
と言った。黄承彦は、
「ああ、今日は済まなかったな。あんな恥ずかしいことをさせてしまって」
と言うが、黄氏は大きく首を左右にした。
「違います」
最初は怒っていると見えたが、それにしてはなんだかもじもじしている。
「わたしを孔明さまのところへゆかせてくださいまし」
と語尾が絶え入るような声で言った。
「え!!」
「わたしはあのようなお方を待っておりました」
「ちょっと待ちなさい。落ち着くのだ。今日のことは徳公の顔を立ててやったまでのこと。お前とて奇人見物のつもりだったのだろうに。一場の余興にすぎんのだぞ」
黄氏はきっとなって、
「なんと不実なことをいうのですか」
と言った。
玄関先で言い合いになってはよろしくないと、続きは部屋で聞くことにする。
「お前、あんな男がいいのかね」
「あんな男とはなんです」
昨日、臥竜岡でちょうど※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公と孔明が口喧嘩のようなやりとりをしていたとき、黄家に孔明の姉が訪れており、黄氏は孔明についていろんな話を聞いていたのであった。
子供の頃の恥ずかしいエピソードから始まり、悪い癖、少々というかかなり変わった性格と、ほとんど悪口と思われても仕方がない孔明の数々の逸話を聞き、非常に興味を抱いたのであった。孔明の姉は、弟のことをさんざん赤裸々に語った後にもかかわらず、
「でもあの子、亮は、とてもいい子なんです。肉親のわたしが言うのもなんだけど、そんじょそこらの男なんか束になってもかないやしない。天下一等の男ですよ」
と身内べた褒めをかましていた。
孔明の姉は舅|※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公からあらかじめ、
「孔明のことを包み隠さず話してくることだ。へたに偽ってよく思わせようなどということは一切するでない。それを受け容れられる子女にあらざれば意味がなかろう」
と言われていた。孔明の姉は、
(こんなことまで話していいのかしら)
と始めて、
(ええ、もう、好きにしてちょうだい)
と後は野となれ山となれと、話し続けたのだが、それは黄氏が目を輝かせて聞いてくれていたからであった。
黄氏は孔明に対して呆れ、おぞけをふるうどころか、
(やはりいちどこの目で見なくては)
と一段と強く思うようになり、今日を胸をときめかせながら待っていた。
そして孔明の実物を見ることがかなった。見るというか、一緒になって動物の形態模写をやったわけだが。
「お父様にはお目がない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》おじさまの言うとおりです。今日、孔明さまはわたしの姿や顔を見てもまったく態度がお変わりになりませんでした。この家にこのような殿方が来たことがありましょうか」
「それはお前、お前のことを婢女と思っておったからであろう」
「違います。孔明さまはわたしがこの家のむすめであることなどとうに見抜いていたはずです。それでもああも楽しく優しく接してくださったのです」
いい歳の女性にきっちり動物の物真似をさせるのが優しいことかどうかはおくとして、黄氏は生まれて初めて父以外の男に優しくされたと感じたのだった。
黄氏が断固として、
「孔明に嫁ぎたい」
と言うので、黄承彦は頭を抱えてしまった。黄承彦の妻もとりなし、
「むすめがここまで言うのです。孔明さまのことを本気でお考えになったらいかがです」
と言う。
「お前の気持ちは分かった。だがな、孔明どのがどう思われておるかは分からんぞ」
「お父様。明日にでも孔明さまのところへゆき、お話をしてきてください」
ときっぱりと言った。
「このご縁が結ばれなかったら、わたしは生涯売れ残るでしょう。そんな恥辱に耐えるくらいならいっそ死にます」
と最後通牒を残すと部屋に閉じこもった。
黄承彦は酒入りでしばらく妻にぐたぐた文句を垂れていたが、やがてやけくそになって、
「わかったわい。明日、孔明のところに行って、無理矢理にでも話をつけてやる。それでいいんだろう。もし孔明が断ったら刺し違えてやる!」
と喚くと、寝室に行き、頭から布団を被って寝てしまった。
孔明の嫁取りのことについては襄陽の人々もけっこう関心をもっていたものと推察される。この寿ごとは、まことに失礼な話だが当時の人々の物笑いの種となり、舐めた戯《ざ》れうたまで作られる始末である。
[#ここから3字下げ]
学ぶ莫《な》かれ孔明の婦択《つまえら》び
ただ得たり阿承の醜女を
[#ここで字下げ終わり]
何か知らんけど街の子供にまで、
「孔明の嫁えらびを真似するな。でなければ阿承のところのどブスをもらうはめになる」
と嘲《あざけ》り囃《はや》されることになった。荊州浪人時代の孔明が如何に尊敬されていなかったかがよく分かる。孔明が親しまれており、それでちゃちやをいれたのだとは思えない。
また黄承彦の女《むすめ》が途轍《とてつ》もなく醜いことも、貴紳の令嬢は深窓にあり、顔を見た人々は少なかったに違いないが、常識のように知れ渡っていたことが分かる。こんなことが正史に明記されているのではたまったものではなく、歴史的名誉毀損だと思われるが、このことが中国でよくある「名誉回復」もされていないところをみると、もう改竄《かいざん》のしようもない歴史認識における事実≠ニ確定されているのであろう。
しかし普通言わないだろう。有名人の妻女が見られた面相でなかったとしてもひそひそと陰で言うくらいのものであり、マスコミだって遠慮する。たとえばわたしの知り合いの嫁さんが妖怪のような顔をしていたとしても憚《はばか》って言ったりはしない。へたをすれば絶交されてしまう。ましてやうたまで作って飲み屋や道端で馬鹿にしたりするというのは異常というほかはない。その知人が憎くて仕方がない場合は別だが。
史書、稗史《はいし》は美女についてはことさらに称揚明記して、人々の夢想をかきたてるものだが、わざわざ醜女をあげつらって悪意をかきたてる(ふつうはかきたてられないが)例はほとんどない。黄氏も孔明の妻とならなかったらこんなことは書かれなかったはずである。とすれば黄氏が歴史に残るブスにされてしまったのは孔明のせいであると言える。
当時もそして今も中国の国家的偉人である孔明がここまでひどい仕打ちを受けることについては我々日本人には想像を絶する歴史の暗黒面が存在しているとしか思えず、詳細は不明だが、襄陽人が孔明に対して抱いていたらしいなんとも表現のしようがない、どす黒く得体の知れない感情をおもうと背筋が寒くなってくる、とまで書くのは大袈裟であろう。
さて、
「明日行ってやる」
と酔いに任せて啖呵《たんか》をきった黄承彦ではあるが、翌朝になると後悔し始めていた。尻込みの理由は、
(恐い)
という孔明へのいわれのない(少しはあるが)偏見であった。
しかし恐いものは恐いのだ。前日、孔明本人を見て、思っていたよりはまっとうだったと分かっても、なお外見からは窺い知れない不気味さがあるとさらに偏見をたくましくしていた。ただし地元の有力者の心中にこれほどまでの誤解的恐怖を植え付けてしまったのは孔明自身なのであって、孔明の日常の振る舞いや自己宣伝工作は薬が効きすぎて毒となっているというしかない。
黄承彦は仕方なく家を出たがすぐには隆中に行く勇気が出なかった。
「魚梁洲に行ってくれ」
と御者に命じた。なんだか、
(徳公に嵌《は》められた)
ような気がしないでもない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に何か言っておかぬば気が済まない思いである。
※[#「山+見」、第3水準1-47-77、unicode5cf4]《けん》山の麓にある※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の邸宅は碩学の名士に羞じぬ広壮なものだが、魚梁洲の隠遁屋敷はこぢんまりした農家のような家である。魚梁洲は中州であるから手前で車を降りて水を渡らねばならない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が※[#「さんずい+(眄−目)」、第4水準2-78-28、unicode6c94]水《べんすい》の中州にあるこの屋敷に隠棲するようになったのは劉表の再三にわたる招きを断った頃である。もう二度と来るなという意思を魚梁洲に引っ込むことで示したとも思われる。蔡瑁の姉を夫人とし、劉表とは友好の深い黄承彦としては、
(劉景升をなにもそう嫌うこともあるまいに)
と思ったものだった。
訪《おと》なううと※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は誰かと碁を打っていた。
「その石は見殺しですか」
と言われて、
「そうではない。全体を見ておるまでだ」
と必要以上に力を込めて白石を碁盤に叩きつける。碁石が割れそうな音がした。その後、盤上を睨み付けている。男はぽんと放るように黒石を置いた。
「うぬぬ」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の長考がまた始まった。
黄承彦は碁盤を覗き込むようにしながらそわそわと待っている。二人はむろん黄承彦に気付いている。しかし熱中している※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は黄承彦にかまうそぶりも見られない。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公長考中により男の方が黄承彦に面を向けた。小柄で濃い眉に曲がり鼻、髭は短く顔は色黒のやけにドスの利いた醜男であった。年の頃は三十前後くらいであろうか。
「黄承彦どのであらせられますな。ひまつぶしの遊戯にかまけ、お待たせして申し訳ない」
とはるかに若いにもかかわらず黄承彦にタメロをきいた。しかし大人《たいじん》黄承彦はべつに気を悪くしなかった。
「徳公の傍若無人には慣れておるよ」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の失礼はその周囲にも当てはまるという意味で、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公ファミリーに対して礼遇を期待するのを諦めている。
「ただ、すこし急ぐのだが」
男は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に顔を向けて、
「叔父貴、遊びで客を待たせるのはよくないですぞ」
と言った。だが※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「静かにせい。次の一手に天地光明の開かれんことを求めておるところだ。俗世間のことなぞこの一石にくらべればどうでもよいこと。わしは手いっぱいだ。お前が相手をしてやれ」
と盤上から顔を上げない。
異相の男は、こんな按配です、と黄承彦に身振りで呆れて見せた。
「仕方がない。もう少し待ちましょう」
黄承彦はそばに坐した。この男にするべき相談ではない。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公、長考するといえどももはや二刻半になんなんとしている。この時代の一刻は十五分である。
異相の醜男は横になって肘を枕にした。黄承彦は碁が分からぬのだが、なににせよ※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公がああも懸命に思案しているのを見るのは初めてである。
「徳公はよほど劣勢なのですかな」
と訊いてみた。すると異相の醜男は、
「いや、叔父貴が勝っておりますよ。だのに何を考えているのやら。だから叔父貴の碁には付き合いたくなかったのだ」
「徳公が勝っているのですか。それにしては苦悩の表情」
「さあ。何も難しいことはござらんよ。普通にヨセればすぐに終わる。なのにそれをせず嫌味に引き延ばしの手を打ってくる。わたしは投了したいのだが、投了ナシの約束で始めたものだから。叔父貴の偏屈には大人《たいじん》も困らされておいでであろう」
投了無しのうえ、わざと決着を引き伸ばすのは、碁盤の路上をすべて黒白の石で満たしたいということである。
異相の醜男はふと気付いたように起きあがり、坐し直した。
「これは失礼しました。そういえばまだ自己紹介もしておりませんでしたな。ここに来ると叔父貴につられてつい無礼が伝染《うつ》りがちになる」
「徳公を叔父と呼ぶということは……」
「左様、叔父|※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》公の甥にあたる、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元と申す者にござる。お初にお目にかかる」
「おお、あなたが※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》士元どのか。名は聞いております」
「それがしふせいの名をですか。どうせ叔父貴の悪口から出たものでしょう」
「いやいや、司馬徳操どのからですよ」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元は一七八年の生まれであり、すると孔明よりも三つ年上である。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は二十のとき、司馬徽水鏡先生に会いに行った。そのとき水鏡先生は桑の木に上って葉を摘んでいたのだが、ちょうどいいところだったので葉摘みの手をやめず、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統を樹下に座らせて話をした。水鏡先生は初めは長話をするつもりはなかったろう。ところがやけに話が弾み、語り合うこと昼から夜にまで及ぶことになった。そして※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統を高く評価した水鏡先生は、
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元は南州の士人中第一等の者になるだろう」
と鑑定したと『三國志』にある。
だが、桑の木に上から大いに見下したように座らせ語る水鏡先生に、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統はいくぶん腹を立てた可能性はある。後に孔明と並び称される鬼謀の士であり、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公譲りのへそ曲がりの男が、こんなあしらいに仕返しを考えたとしても不思議ではない。話術をもって面白がらせ、考えさせ、感心させ、喜ばせたりしながら時間を忘れさせた。水鏡先生が気付いたときにはすっかり夜になっていた。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統が、
「ああ、さすが名高き水鏡先生である。よきお話をうかがえて、よき時を過ごせました。失礼にも長居をしすぎましたことをお許し下さい」
と一礼するやすたすたと去ろうとすると、水鏡先生は慌ててしまった。この暗い中、木の上から危なくて下りることが出来ない。
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》土元よちょっと待ってくれ」
と情けなく呼ばねばならなくなった。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は立ち止まり、
「なんでしょう」
「いや、下りるのを手伝ってもらえまいか」
「おおそうでした。確かに危ない」
「木下に来て支えてくれぬか」
すると※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統はしかつめらしい顔になり、
「そういえば世間では水鏡先生の人物鑑定に外れ無しとのご評判ですな。こんなところでなんですが、わたしは先生の厳しき鑑定眼からみてどの程度の者なのでしょう」
「そんなことは下りてからゆっくり」
「わたしも二十、これからおのが身を養わぬばならぬところにございます。ただ嘆くらくは風采のとんと上がらぬ容姿にて、仕官しようにもなかなか難しきかと」
この時代、というより中国では人を見るのにまず容姿が大事であった。容姿と才能は比例するとされ、男も女も美人は得なのであった。長身で恰幅よく美形であるが低能である者と、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統のように不細工ではあるが有能である者とが、面接試験で争った場合、具眼の士(ゲテモノ好み)が試験官にいなかったら、九割がた美形が採用されることになる。呑気で平和な時代なら無能であっても有能であってもたいした違いはなかろう。ならば見てくれのいい方を選ぼうという容姿差別である。だが一方では極端な異形異相の持ち主が尊ばれることも少なくない。そういうのは王とか豪傑とか仙人だとか百姓凡俗を超越しているとされる者であることが多く、普通の勤め人にはあまり影響はない。
水鏡先生は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統の目論見を悟ったが、確かに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統と話して衆を抜きんでた異能の持ち主であるらしきことは見て取っていた。ちと腹立たしいが鑑定を故意にいつわるわけでもない。人のよい水鏡先生は、
(自分の言でこの若者にひときわ箔がつくというのならそれはそれでよいではないか)
と考える。というわけで水鏡先生は夜闇の樹上から、
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元は天下第一等の有能才人となるだろう」
とのお墨付きをくだしたのであった。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統はすぐさま水鏡先生が安全に木から降りるのを手伝った。その後、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統はいささか有名になり、仕官のときには「水鏡の太鼓判」は役に立った。
後の鳳雛=ヲ[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統も、水鏡先生を騙しすかしして高評価を巻き上げた形であり、孔明と似たようなものである。しかしまことに人がいい水鏡先生はこんな裏話を語ることはせず、真相は史書の中に埋もれてしまったのであった。
黄承彦が聞いたのは、好い方の、水鏡先生初対面談ばなしである。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公と司馬徳操の門下生であったにしろ、他の者と違って早いうちから仕官先を求めて出仕した。学問の名を借りて空理空論政治批判をするのが嫌いなたちであり、崔州平らとはほとんど交友がない。まずは南都の小役人となったがしばらくすると辞め、職を転々としていて、今は江東の地方官の下僚となり勤めているということだ。
(同じく水鏡が褒めたとしても、この者のほうが諸葛亮よりよほどしっかりしている。男は外見ではない)
と目下思案焦燥中の孔明のことをからめて思った。
「あちらの役所は暇ですからな」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は休暇をもらうと各地を旅行する。久しぶりにふらりと襄陽に寄ったのだという。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公がまだ次の手を打たないので、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統はつれづれ見聞話を語った。
州名でいえば揚州《ようしゅう》、江東の孫呉《そんご》は華北の曹操と袁紹の死闘に介入するタイミングを失ってしまい、いまは内政充実に精励しているという。曹操が袁紹と総力戦を行うにあたり、背後横腹を衝かれることを恐れたのは当然である。具体的には劉備、劉表、孫策の勢力である。その中でもずば抜けて危険であったのが江東|麒麟児《きりんじ》孫策であった。孫策の器は亡き孫堅を上回り、軍略武勇は袁紹以上と目されていた。
袁紹に出兵をせっつかれて困惑している日和見の劉表は策をもって押さえ込める。しかし孫策はそうもいかない。袁紹と呼応し機を見て必ず北上してくると曹操とその幕僚も読んでいたし、実際に孫策はその準備を整えていた。袁紹との決戦は待ったなしの段階であり、事前に東呉を叩くか懐柔するのはほとんど不可能であった。なにしろ許都を圧してすぐそばに七十万(誇張だと思う)を号する袁紹の大軍団がいるのである。対して曹操軍は七万であり(これも誇張だと思う)、季節によっては戦さが出来ない屯田兵が主力である。
もう一人の厄介者の劉備に対しては、袁紹軍と呪み合っている主力部隊をいったん引き抜き、電光石火で劉備軍を蹴散らすや、素早く帰還させ、元通りの配置とするという誰の予想も超えた危険きわまりない奇策をもって潰した。だがこの策は遥か遠い東呉に対してはさすがに使えない。しかも孫策は劉備などとは比較にならぬ戦さ上手である。曹操陣営は困り果てていた。
だが勢いある者に天が味方をした。強気一辺倒であった孫策が于吉に呪われて頓死したと聞いた曹操陣営では、
「ラッキー」
「子吉仙人最高!」
と、現代であれば、このように夜通し喝采の声が飛び交ったことだろう。
孫策、享年二十六歳。だれも(郭嘉以外は)この早すぎる凶事を予想していなかった。その直後に、孫策を孫権が継いだが、まだ十代、急に東呉の最高責任者とならざるを得なかったのであり、東呉の戦略政略など考えたこともなかった。英邁《えいまい》と期待されてはいるものの若輩未熟は被うべくもない。やむなく東呉の重臣の意見を開き結束を固め、ひろく人材を求め、内政を充実させ、来る日に備えることから再出発せねばならなかった。
かくて孫呉が天下を制覇する最大のチャンスが消えたのであった。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統はそんな話をしてみるが、あくまで民衆、小役人の視点からであり、皮肉っぽかった。
「内政充実なんざ、戦ささえなきゃ、ほっといても成るものです。孫呉の臣下がたは霊帝の御世の朝廷のように腐ってはいない故、郡県の役人どももまあましで、時が許す限り伸びますな。よって下っ端役人のわたしなぞが少々仕事を怠け、旅に遊んでもどうということはない。この荊州と同じで、要するに民の力が頼りですよ」
と言った。
ただ察するに今の仕事は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統にとって役不足もいいところで、つまらないらしい。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の縁者であり、かつ水鏡先生のお墨付きまでついていても、そこそこの職しか与えられない。要職に着けられればそれなり以上の手腕を発揮する自信はあるが、村役場で大実績を作っても軽く表彰されればいいところであろう。
志があり己の才を恃《たの》む者の生き方もいろいろとある。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は自らの足で事情に通じており、その分析力は優秀、かついちおうの実務経験があり世間を肌で知っている。孔明は下積み無しにいきなり要職に就くべく、それが当たり前のように思って策略しているようだが、ウサギと亀の競争のような話である。かりに孔明と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統が優劣つけがたい才能を持っていたとして、二人の違いはこんなところにあった。
現時点、襄陽ではまだ※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は「デキる男」くらいの認識であり鳳雛≠ネどという何やら常人から吹っ切れたような評語はまだどこにもない。人材マニアの曹操のお眼鏡にかなうかも不明である。
(まあ癖の強い男のようだが世間常識はあるな。徳公の弟子にしてはまともかも)
黄承彦は、
「ときに士元どの、諸葛孔明という者のことを知っておいでか」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統に尋ねてみた。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統の目つきが急にやぶにらみになっていた。
「アレですか。まあ、面識はあります。親しく話したことは一度もないが」
孔明と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は水鏡先生の門やここ※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の家で会ったことはある。だがそう親しくもならないうちに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は就職していなくなった。
「その、聞きづらいことだが、あなたの目から見て、孔明とはどのような人物であろうか」
「ああ。さっき小耳に挟みましたが、あなたのむすめさんと孔明の間で縁談が進んでいるそうな。それでお尋ねなのか」
「いやまだ縁談などまったく持ち上がっておらぬ」
確かに縁談というところまではいっていない。黄承彦はこれから孔明の所へ話を持ち込まされようとしているのであり、何も決まってはいないのだ。
「叔父貴は決まったというようなことを言っていたが」
「それは徳公の早とちりです」
「そうですか。そうですな、孔明という男は、わたしの口からはなんとも言いようがないやつですな。何しろ臥竜という。竜といっても寝ておるのでは評価のしようもない。ただ、一言で言えば馬鹿だと」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は言った。孔明が臥竜$體`に暗躍していることくらい見抜いており、その成り行きは注目しているところである。ただその目的が分からない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統といえども、
(虚名とはいえ、自分の悪い噂をわざわざ広めて、いったい何を企んでいるのか皆目分からぬ)
と思っている。ただし孔明はよい噂を広めるべく策しているのだが、結果ははかばかしくないどころか、逆に凶悪名を高めてしまっている。未熟孔明の失策なのだが、これを※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統が正しく察知しておれば、あるいは孔明の狙いを分析し、その評価を変えた上であらためて馬鹿と評したかも知れない。
「やはり。誰が見ても馬鹿ですか」
「いやまあ、かれの識見の非常な高さについては知っておるので、たんに馬鹿と片付けるのもどうかと思われる。孔明についてはわたしなぞより叔父貴のほうが遥かによく知っておろうから、叔父貴に尋ねるが確かでしょう」
聞いているのかいないのか、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はまだ盤上を睨んでいる。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は腰を上げた。
「叔父貴よ。わたしもあなた相手におかしな碁で一日を潰すほど暇ではないよ。続きはまた今度としてくれ」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は盤上の黒白模様を睨みつつ、
「統、逃げるのか」
と言った。
「逃げるも何も叔父貴が勝っておるではないか。わたしにはもう手がない。それ以上どうしろというんだ」
「ちっ、下手くそのせいでつまらん碁となったわ」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は、
「またそのうち寄らせてもらうよ。では御免」
黄承彦に一礼すると歩き出していた。
さて『三国志』世界に欠くべからざる重要人物|※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元の次の出番は果たしていつになるか――。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統がとっとと去ったので※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「阿承、代わりに打て」
と言った。
「打てと言われてもわしは碁を知らん」
「いいのだ。好きなところに勝手に石を置いていい」
「それでいいなら」
黄承彦はしぶしぶ碁盤を挟んで対座した。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は白を置き、
「阿承、おぬしの番だ。黒を置け」
「どこでもいいのだな」
黄承彦は適当に置いた。すると、
「おお」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が叫んだので、黄承彦はぴくりとした。
「阿承、妙手だ」
と言われてもなんのことやら分からない。
囲碁は囲棋ともいい、春秋時代には既に存在しており、堯《ぎょう》、舜《しゅん》が作ったともいうから聖人の遊戯である。道具は黒と白の石に路線を引いた板があればいい。古《いにし》えには高度な占盤であったとする説もある。いつしか室内遊戯として定着した。日中の武将らの中には、
「碁は戦さに通じており、戦略戦術を案じさせる」
と愛好者が多い。何の中にでも深遠の理論を見出そうとする傾向のある中国人は碁論も発達させていった。たとえば碁石の黒白を陰陽として易理《えきり》をあてはめ、玄妙きわまる一大世界を碁盤の上に見ようとするのである。ゲームを娯《たの》しむのにいちいち凄まじい理屈をこねていては肩が凝ってきそうなものだが、盤上には無から有を生ずる形而上なる道が垣間見えるという、ある種あぶない知者もいるというから軽んじてはなるまい。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はそんなあぶない人の一人である。
「阿承、この盤上は宇宙なのだ。宇宙の森羅万象がここに表されるし、表すこともできる。そして一局済むごとにその宇宙は破壊され、一局始めるごとにまた創造される。宇宙は無限に存在することになる。目のある者は、この何の変哲もない盤上からすべてのことを知ることができよう」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はしかつめらしく説くのだが、俗っぽい悩みがあって来ている黄承彦にはとんと関心の湧かないことである。
「阿承、碁の目的はなんだと思う?」
「そりゃ勝負して勝つことだろう」
番がきたのでまた一石置いた。
「違うな。確かに勝負を争う形で進んでゆくが、その真の目的は引き分けることにある。陰陽は相容れぬものゆえ切々と摩擦抗争を起こすが、そもそもは太極より分かれた兄弟なのであり、仲違いするために生きておるのではない。陰陽相反するといえども常に和合を目指しておる。故に碁においては引き分けが最高の決着である。碁石の白石、黒石はやむを得ず反発するものだが、だからこそ盤上全体において等々とし、和して太極を目指さねばならぬのだ。陰中に陽あり、陽中に陰あり、その窮《きわ》まりに限りがない。それを一極に帰するは如何に困難なことか。よってわしはいかにして引き分けるかを苦心して碁を打っておる」
と、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は石を置いた。何も分からない黄承彦は急いで適当に空いた場所に石を置く。どうもこの碁が終わらねば※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公とまともに話ができないようである。
「一局打ち一方が優勢で終わるということは、つまりは陰陽が乱れたまま均衡せず、宇宙を不完全にすることにほかならぬ。ちょうど今の天下のようなものである。人心荒廃し戦乱はやむことがない。一人勝とうとするからそうなるのだ。誰か一人が勝って天下を手中に収めることが最良であるなどとはとんでもない間違いなのだぞ。宇宙において勢力が美しく均衡することこそ至善であって、皆がきれいに引き分けたときこそ真に平和と呼べる状態が訪れる」
「ふむふむ」
「聖人に引き分けあり、と、碁がわしにそう教えるのだが、それはおそろしく困難な仕事であり、まことに聖人にしか出来ぬわざである。白黒の群点が見事引き分けた盤面は道において聖なるものである。そんな美しい棋面が成ったならばそのまま膠《にかわ》で固めてとっておかねばもったいないというものだ。あの、わが甥の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元は顔も性格も悪いが、異才卓絶の者とわしは見ておる。それでもなおこういう玄妙が理解できない。嘆かわしいことだ。勝ち負け優劣を考えて打つようではわしの相手にはならん」
「そういうものかね」
黄承彦はそそくさと石を置く。
「それで、宝にするほどの碁はあったのかぬ」
「よくぞ聞いてくれた」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は例によって、ガッと拳を掘りしめ、
「わしは碁の真義を理解して以来、真善美の碁を求めて何百人と何千何万の局を打ってきたが、そのうち秘術妙手の限りを尽くして後、完璧に引き分け得た男は唯一人」
黄承彦はもう次に出る名がうすうす分かったが、げんなりしながらも親切に、
「それは誰だね」
と訊いてやった。
「諸葛亮孔明! 碁に宇宙があり、陰陽の均衡こそ天地神明の望であることを対局のうちに示し得たはあやつのみ!」
ここで黄承彦には転がるように驚嘆して欲しいところであるが、孔明神話つくりに協力する気はさらさらないようだ。
「そんなこったろうと思った。その孔明の話で来ておるんだ。昨晩も何の事やらさっぱり分からなかったが、しきりに宇宙の話ばかりしておった。何事につけ宇宙だからわしはあの男を婿とするのに不安が募るばかりだ」
黄承彦は溜息をついた。
孔明は『三国志』に、
「宇宙よりも大きな志を持っていた」
と書かれているが、だいたい宇宙ですらよく分からないのに、それよりも大きな志を持っていたと言われても、凄そうな雰囲気は伝わるが、困ってしまうというものだ。具体的にどういう志だったのかも並べて書いてくれねば釈然としない。
黄承彦の反応がわるいので、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は盛り上がりを止められたような気分になった。あとは交互に淡々と碁盤に石を置いていった。やがて盤面の路がすべて理まった。
「終わりだ」
と言った。黄承彦がびっしりと石の載った盤面を眺め、
「で、徳公、これはどちらの勝ちなのかね」
と、さっきの問答を全然聞いていなかったように訊いてきたから、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はやや不機嫌に盤上の石を払い落とし、
「未済《びさい》なり」
と、石のこぼれるが如くザラザラッと言った。未済は『易経』六十四卦の最後にある。未だ済まず、ということで、未完成であり混沌であり可能性である、という意味になる。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の囲碁哲学ではどちらかが優勢、つまり勝敗の決した碁はみな未完成なのである。だから結果は言うに必要ないのであった。
(やはり孔明しか分からぬことか)
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は急に凡俗の世界に引き下ろされた仙人のような面になって、
「で、阿承、どうしてここにいる」
と言った。これには黄承彦もむっとして、
「さっきからおる。話があるから待っていたんじゃないか」
と言った。
「醜女は孔明のことを気に入ったのだろう。ならば話すことなどあるまい」
「どうして知っている」
「おぬしがここに来たからだ。というより、わしにはそうなることは分かっておった。子の心親知らずだな、阿承。さっさと孔明のところへ行ってこい。あのむすめに男に失望させたままではわしとて面白くない」
「それなんだが……」
黄承彦はとたんにしゅんとなる。
「一緒に来てくれんか」
「それはだめだな。ここでわしが出ていくと、せっかくうまくいっているのに台無しになるおそれがある。醜女が悲しむぞ。孔明は今やわしの手に載ることにやぶさかではないはずだ、だがわしが出ると意地になって強がるやもしれん。そのあたり微妙に器の大きさが変化するやつだからな」
「たしかにわがむすめは孔明のことを気に入ったようだ。しかし、おぬしはうまくいっていると言うが、そんなことは分からんではないか。わしは孔明をかき口説かぬばならんのか。うぬ、普通の男が相手ならわしとて首に縄を掛けるつもりでいってもいい。だが孔明は、あの男だけは、どうにも苦手が出るのだよ」
「昨日しっかり見たのだろう。荊北に名だたる黄大人がくそ生意気な若僧に怯え尻込みするとはいただけんぞ。孔明ごとき、どついてでもうんと言わせてみせい」
確かにそうで、黄承彦は滅多に見せないがそのあたりの者どもを、それこそ怯み尻込みさせるくらいの凄味はあるのだ。なにせ※[#「さんずい+(眄−目)」、第4水準2-78-28、unicode6c94]《べん》南の名士黄家の主なのであり、さらに州牧劉表の義理の兄弟という立場も加わり、自然にも無理にも備わった威厳がある。それを温和さで被《おお》ってこそ大人《たいじん》の風と言える。
「仕方がないな。孔明のどこがそんなに嫌なのだ」
「宇宙が……いや、わしはあの男が人に見えんのだ。臆病者と笑ってくれ」
「人に見えんのなら竜とでも猿とでもなんでも思えばいい」
「そうではない。何と言えばいいのか。あの男に人の情が感じられない。そんな感じなのだ」
「そうか。では孔明に喜怒哀楽、怨憎愛のあることが分かればいいのだな」
「そういうことになるか」
「ならばやつの密かな怨《うら》みをひとつ話してやろう」
「宇宙的な怨みなどではだめだぞ」
「馬鹿をいうな。人間くさいところだってある」
孔明は己というものをなかなか人に悟らせない男である。長く暮らしている姉や弟の諸葛均ですら孔明が何を考えているのかさっぱり分からないほどである。さらに演技なのか地なのか奇行が多いし、意味不明に芝居がかったせりふを吐く。人に理解されない悲劇の天才を楽しく演じている気配があった。
だが野の遺賢、見者《けんじゃ》には、司馬徽や※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公であるが、見所のある者だと評されるという、なんというか歴史物語のうえで作るにも出来過ぎた役をこなしている。ただ衆人はそんなことは有り難がらぬし、やはり得体の知れない変物としか見ない。普段は太っ腹な黄承彦のような大人《たいじん》でも孔明は一種の狂人天才というより、言い知れない不気味な者としか見ない。そのへんは孔明もいささか不満ではあるが、一方を取れば一方を失うということで、人間離れを目指す孔明は今のところ仕方がないと割り切らねばなるまい。
ただ※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公くらいになると、似たもの同士だからか、一層深く見ているのである。孔明が※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を尊びつつも敬遠しがちなのは見られたくない所も少なくないからであろう。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は水鏡先生のように甘くはなく、煙に巻くのが難しい。
「うちや徳公の所に出入りする書生どもの内でも少々骨のある者は劉景升を嫌い、仕官先として無視していることは知っていよう」
「うむ、まあな。景升は決してわるい男ではないんだがなあ」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の門下、知り合いで劉表に仕官する者がまったくいないわけではない。言うまでもなく荊州では最上の就職先であって望む者は多い。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が人物をまあ認めた上でそれを望む者がいれば強引にでも押し込んだりした。言わば口利き裏口就職である。黄承彦もその筋で何度か推薦の労をとらされた。
「ともあれものになりそうなやつは劉景升を避けるという風潮があるわけだ」
「それはおぬしの影響のせいもあると思うぞ」
「孔明もそうだが、あやつの場合はほかの者とはいささか事情が異なる。わしが見るに、劉景升がどうしようもなく弱腰で、蔡瑁、※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越の股肱《ここう》がまた無能この上なかったとしでも、孔明が二、三年あそこに入っておれば状況は一変しような。馬鹿上司どもをあっという間に陥れてすげ替え、口八丁手八丁で劉景升のケツに火を点けて天下の群雄第一にしてしまい、今頃は孫呉の領土を半分はぶんどり、曹孟徳とばちばちやり合っているはずだ。常に宇宙が相手の孔明なら、それくらい易々とやってのけて当然」
これはあくまで※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の想像であり、妄想である。
「徳公、それは過大評価すぎるのではないか。贔屓も引き倒しにすぎる」
「くくく、まあ現実にやって見せておらんから信じるまいが。とまれ孔明は宇宙に逍遙《しょうよう》するより、天下に手を出し口を挟むことにやる気満々なのだ。そのうち見せるつもりだろう。しかし最も手っ取り早い道である、劉景升の佐《さ》は絶対にしないとこれだけは決めている。何故だと思う」
「さあ。宇宙の法則に反するとか、そんな理由ならば、くそ食らえだな」
「違う。ここがやつのみみっちいところなのだが、やつは劉景升を憎んでいるのだ。なかなかおもてに出さぬが」
「ほう。何の怨みだ」
「わしとしてはそんなことは超越して、心底から宇宙者であって欲しいところだが、やつも所詮は人間ということだ」
そして※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はいきさつを話し始めた。
もう十数年前、孔明の叔父の諸葛玄が黄巾の乱からその後の戦乱を避けて、旧知の劉表を頼って荊州に身を寄せていたことは前述した。孔明の母は早く死に、父の諸葛珪は再婚したあとすぐに死んだ。継母とうまくいかなかったのか、諸葛珪の遺児らは弟の諸葛玄に引き取られて幼年期を過ごし、孔明にとって諸葛玄は実父に比すべき人であった。諸葛玄が去ったあと、長兄の諸葛瑾以外は叔父を頼って落ちのびるように荊州に行くことになった。束の間安穏に暮らせた。
ある時、劉表が諸葛玄に、
「豫章《よしょう》の太守|周術《しゅうじゅつ》が死んだので、行ってくれぬか」
と頼んできた。はじめは年齢を理由に断ったが是非にもとの要請に、諸葛玄も断り切れず、孔明らをつれて赴任した。ここで問題が起きる。
太守任命は朝廷にはからねばならないものなのだが、朝威が地に墜ちた時代ゆえ、自分の領土下の人事は各州牧刺史が勝手に任命してそれがまかり通っていた。劉表もそのつもりで物堅い諸葛玄を派遣したのである。ところが、朝廷、つまりは曹操陣営も朱皓《しゅこう》という者を豫章太守に任命して送り込んできた。
その頃豫章は劉表、袁術、孫策、劉|※[#「(遙−しんにょう)+系」、第3水準1-90-20、unicode7e47]《よう》らがぴりぴりしているホットスポットとなっており、そこに朱皓が送り込まれて、にわかに緊張した。そのとき曹操は政略的に袁術の機嫌をとっておく必要があったから、朱皓は袁術サイドの人間として動いていた。
豫章には先に入ったものの、太守二人という自体に諸葛玄は危険を感じずにはいられなかった。急いで劉表に通報すると、
「袁術めが勝手なことをしおって! 朱皓なぞは追い払ってしまえ」
とのことであった。追い払えと簡単に言われても諸葛玄には兵力がなかった。情けないのは劉表で、怒って見せてもここで戦えば後々面倒になると思ったのか、兵を送ることもせず、結局豫章は見捨てられた。そんな中、諸葛玄は付近の壮丁を募集して孤軍奮闘したのだが、朱皓と劉|※[#「(遙−しんにょう)+系」、第3水準1-90-20、unicode7e47]《よう》の軍勢に攻められて逃げ落ち、褒賞目当ての土民に殺された。
孔明らは諸葛玄に襄陽にいる友人のところへ避難するように言われ、混乱の中をなんとか逃げ帰った。叔父の無惨な死を知ったとき孔明が思ったのは、
「なぜ劉表は援軍を送ってくれなかったのか」
であり、叔父の友人の話で劉表がはなから増援の兵など送るつもりがなかったことも知った。
(人の好い叔父を殺したのは劉景升)
少年が生まれて初めてこれほど人を憎んだことはなかったろう。
孔明が劉表に仕えず、軽蔑して軽んじ、あまつさえ二、三年以内に死ぬなどと平然と言う背景にはじつは非常な憎しみがあったとしよう。まったく人に悟られぬようにしているが、劉表を助けるどころか丸裸にして荊州を追い出してやりたいくらいに思っていたとしても不思議ではない。
別に証拠とは言わないが『三国志』では、孔明は、
「劉備は劉表からさくっと荊州を奪うべし」
と最初から決定済みの計の如く提言して劉備に嫌がられているし、病床に死にかけている劉表を見ては、
「これぞわが君が劉表に代わって荊州を治めよという天意でありましょう」
と、またも嫌がる劉備に向かって執拗に献策しているし、後嗣争いに打ち萎《しお》れて頼ってきた|劉g《りゅうき》(劉表の嫡男)をやたら意地悪くあしらった上、
「されば助命の策を授けましょう」
としたはいいが結局は自軍のために利用する策でもあったし、とにかく劉表一族への仕打ちがひどい。
さらに後の荊州乗っ取りに際して故劉表一族のことなどまったく配慮のかけらもない冷たさであり、どんな目に遭おうが何ら痛痒《つうよう》を感じていないようである。このくだり、実に孔明の冷酷さが爆発しているのだがその書かれ方のさりげなさのおかげでたいして目立たないところがまた冷たいのである。孔明が、賞罰等の理由なく、これほど冷酷なことをしている記事は他に見あたらないのではないか。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は話を終えると、
「どうだ」
と言った。
「徳公、その因縁話、まさかおぬしの作り話ではあるまいな。孔明が言ったわけではないのだろう」
「正確な想像は事実に勝る」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が孔明の姉を息子の嫁にし、諸葛家に何かと目をかけてきたのは、諸葛玄が頼れと言った友人の一人であったせいでもある。孔明の劉表への感情は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公のものと同じなのかも知れない。
「ならば孔明はこのわしをも憎んでいるのではないか」
「そんなちんけなことは考えもせんだろう。やつは恨みを人に遷すような男ではない」
黄承彦は孔明にも情のありし経緯を聞いて、わずかにほんの少しだけ不憫を感じた。しかし、やはり会いに行くと考えると腰がひけるのはまだ変わらない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
(孔明のマル秘情報を教えたのにまだ四の五の言うか)
と睨んでいる。
(行ってみるしかあるまい……)
と心に決めるしかなかった。
「案ずるより産むが易しよ。結縁するも破談となるも、いずれにせよおそらく寸暇の間に話がつこう。嫁ぐ娘の親たる者、悲喜こもごもの前に威厳と勇気を示すことだ」
「わかった」
と黄承彦は言って、やっぱり溜息をついた。
「徳公、ひとつ訊きたいが、よいか」
「なんだ」
「おぬし、どうして孔明の嫁取りにそうも熱心に乗り出しておる。考えてみればおぬしが月下氷人《げっかひょうじん》の真似ごとをするなど、一度たりと記憶にない」
「そういえばそうだな。初めてだ。息子の嫁が孔明の嫁捜しに奔走していると小耳に挟んだら、いてもたってもいられなくなった」
「で、その瞬間にすべての計が成っておったというわけか。クッ、お前さえその気にならなければこんなことには」
「こんなこととは、醜女をいかず後家にすることか」
「それをいうな」
「今思いついたが、これも碁だな、阿承。おぬしは孔明と引き分ければよい。くくく、そうだな、わしが見たいのは孔明が女《むすめ》と引き分けられるかだ。碁の目的を引き分けとするとはいえ、相当の名手同士が智力を尽くし、運を傾け、死力を奮って競い、引き分けねば偽物である。孔明がどう打つか、これは楽しみだな」
「おぬしの言うには引き分けが最も難しいんだろう」
ああ、やはり※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公も孔明同様いかれた親爺、阿承は罠に嵌《はま》りし獣かな、相談自体がおろかなる。
さてその頃孔明が何をしているかといえば、特訓に決まっている。だが外から見ただけでは何の特訓やら見当もつかない。膝を抱えてぼーっとしているとしか見えないからである。そのほうが安心なので、諸葛均は孔明を刺激せぬよう静かに日常雑事をこなした。
むさくるしい男所帯であり、諸葛均はおさんどんから洗濯、薪割りと文句も言わずにやっていた。あたら青春の日々を変な兄に捧げ、まるで下男のような扱いを受けている。ただ今朝は、
(昨夜兄上が包んで持ち帰ってくれた料理のなんとおいしかったことだろう)
孔明が少しは自分のことを気にかけてくれていると知り、思わず胸が熱くなった。ときには嬉しいこともある。そんなささやかな喜びに涙する、ちょっと不憫な均であった。
孔明の呼ぶ声がしたので行ってみると、机に向かって手紙を書いている。さらさらと書きあげて巻きながら、
「どう探しても鳳雛が頭に浮かばぬ」
と均には意味不明のことを言い、
「鳳雛は水鏡先生に適当に見つくろってもらうことにした。均よ、これを水鏡先生のお宅に届けて来てくれ」
と書状を手渡した。
「兄上、ほうすう、とは何ですか」
と均が訊くと
「そうだな、簡単に言えば臥竜の引立て役といったところだ。未だ見ぬ謎の生き物である」
諸葛均は増して不可解な顔になったものの、これ以上の質問は諦めて、さっそく出かけていった。
孔明は、昨日、黄承彦の家で思いついた鳳雛<vロジェクトについて細部の構想を練っていたのだが、肝腎かなめの鳳雛′補が思い浮かばない。
(徐庶は劉玄徳らに既に知られておりつまらない。崔州平では品がない)
他の学友もいちいち検討してみたが、今一つぴんと来ない。鳳雛≠ヘ臥竜≠ノ、やや後れて並ぶレベルの逸材である必要がある。外見もそれらしく見え、かつ中身もある程度ともなっていてもらわねば困る。そんな厳しい条件をクリアする人材が果たしているか。
孔明は仕方なく計画の詳細だけを知らせ、人材Xを水鏡先生に推薦してもらうことにしたのだ。顔の広い水鏡先生なら松の下くらいの者を見つけてくれるのではないか。
(こればかりは縁であり策はない。曹孟徳が人材狂である気持ちが少しは分かるな)
ともあれ鳳雛≠ヘ、まずは不幸なまでに高まった孔明の悪評をそらすために使うつもりであるから、もしその不運な男が見つかったら早速にも、臥竜≠フ噂も霞むほどの悪乗り騒ぎを演じてもらうことになる。孔明は己の名を犠牲にして宣伝工作の強弱のつけ方を実地に学んだから、もう失敗しない自信がある。
後々のこと、必要上ディスインフォメーション工作も孔明のよく行うところとなるが、(『三國志』的にはとてもまじめな人であったからか)こればかりは孔明といえどもへたであった。孔明が偽情報、虚報の策を使うとき、この種のものは絶妙の加減にするのがコツなのだが、この程度の作り話ではつまらないじゃないかと思うのか、つい内容を誇張、異様なものにしてしまい(悪い癖である)、司馬懿たちにすぐ見破られることになってしまう。嘘がへたというより、宇宙スケールの大嘘にしようとして、馬良《ばりょう》などが慌てて止めることになる。自信はあっても得意ではない(しばしば失敗するんだから)のが、孔明の虚報芸であった。
孔明は鳳雛≠ノどんな道化を演じさせようかと考えて、ときどき一人笑いを漏らした。悪趣味な悪さが次々に思いつくらしい。どうもこれがプロジェクトの要となり、楽しみなところに変わっている。
しかしこの鳳雛<vロジェクトの半分は孔明の都合で実行されることはなくなるのであり、半分はオートマチックに実行されて鳳雛=ヲ[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元として世に登場することになるわけだが、これはちょっと先の話である。
午《ひる》も少し過ぎたころ、表で人の声がする。
畑を耕していい汗をかいていた孔明は、鰍を握り締めたまま素早く家の陰に飛び込んだ。これでも孔明は真剣に農業に取り組む昔年である。何しろ諸葛家の基本は自給自足だ。
(何奴《なにやつ》! 均が戻るには早すぎる)
同時に馬の鳴き声も聞こえる。ちらりと見える人影に、
「これはいかん」
と、事態を覚った孔明は、急ぎ野良着を脱ぎ捨てて、鶴|※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《しょう》に手を伸ばしていた。一瞬の早変わりで孔明はいつもの孔明となっていた。しかし綸巾を被った額から垂れる汗はなかなか止まらず、息も少し荒い。が、風雅典雅に悠然と玄関に足を運んだ。
門前には何かおろおろしたような不審な態度の黄承彦がいた。
「ああ黄大人ではありませんか。昨日は下にも置かぬおもてなしをうけ、まことによき時を過ごせました。その後、腰痛の具合はいかがです」
孔明はいましがたまで肉体労働をしていたことなど気配も示さず言った。しかし、流れ落ちる汗はそうそう止まらず、白扇をばたばたさせている。
「こ、孔明どの、本日は、その」
黄承彦は舌が縮んで挨拶の辞にも詰まるようであった。従者にあたふたと指示して、車に積んであった土産を孔明の前に選ばせた。ろくに挨拶もせずいきなり進物を差し出すというのも変なはなしである。人が見たらまるで孔明が山賊の頭領か何かと勘違いされてしまおう。黄承彦のあわでぶりは、
「これで許してくれ」
と言わんばかりの態度なのである。
孔明は、
(まいったな)
と思いながら扇子をあおいでいる。次々と積まれる土産物には一顧だにせず、
「はて、昨日の今日、黄大人、わざわざこの孔明の拙宅に来駕《らいが》いただくとは何用でしょう」
とつとめて優しく言うのだが、黄承彦は、
「つまらんものだがお納めくだされ」
とひたすら不自然な低姿勢であった。
「門前で相い拝するもおかしきこと。まあお上がりあれ」
だが、黄承彦はいったん家に入ったら生きて帰ることは出来ない、とでも思っているかのように立ちつくしている。
孔明は仕方なく黄承彦のかたわらに来て、膝をついた。
「な、何をなさる」
「何をと問われても。客を迎うるに、かつ黄大人のごときお方をお迎えするとなっては、こうせざるをえません。この孔明、長序を弁えぬ無礼者ではありません」
「いや、お立ちあれ。お立ちくだされ」
「では家内にてご休憩ください」
としばらく揉めて、黄承彦はしぶしぶ家に入っていった。孔明が礼をもって丁寧にしているのに、その言脅迫したかのように見え、どうにも様子がおかしかった。
家の中は建て増し農家のようなものである。大邸宅に暮らし、訪問するも貴顕《きけん》ばかりの黄承彦としては居心地悪そうであった。
(むすめが輿《こし》入れすればこんな陋屋に暮らすことになるのか)
といやな気分にもなった。使用人の一人もいないのであろう。孔明は台所から出てきて、
「粗茶でも」
と正真正銘の粗茶を出した。これがまた不味《まず》かった。
ようやく主客は対座した。
「それで黄大人、本日はいかなるご用でしょうか」
黄承彦もやっと落ち着いてきて、
(そうだ。さっさと用件を話して退散すればいいことなのだ)
また家内を見回し、
(むすめはああは言うが、こんなところで暮らさせるのは不憫にすぎる。孔明はきっと断るであろう。いや断らせねば)
と必死の決意を固めていた。
「その、まあ、貴君のような識見格別の士(異常者)には当てはまるまいが、ふつうなら既に嫁女がいておかしくない年齢だ。そういう気はないのかね。いやまったくないとは思うが、ただ訊いてみただけで」
孔明はかざした扇子を見ている。汗はひいたらしい。
「きみにはどうでもいいことだと思うが、うちにはむすめがおり、わしが言うのもどうかと思うが、とんでもない醜女で、髪は赤いわ、色は黒いわ、おぞましいほどの不細工でな。もう親のわしでも顔もそむけたくなるほどで」
とわが娘を心ならずもけなしたが、そうは言いつつも心苦しかったので、
「ほんのちょっと器用で才智はある。いや、全然たいしたことはないんだが」
と付け加えた。
孔明は、
「そのことでしたか。こんなところまでお出ましいただいたのでなんぞ別の用かと思いました」
と言ってなお扇子を眺めている。
「いや、わはは、そうなんだよ。他には何もない。ではこの話はなかったことに……」
「喜んで」
と孔明は言った。
「げえっ」
黄承彦は飛び上がりかけ、本当に腰を痛めそうになった。
「孔明どの、なんと申された」
「喜んで、と」
「それはいけない。天もあわれむ醜女にして当節一の毒婦、悪妻となること間違いなしで、親のわしが保証してもいいくらいなのですぞ」
孔明は白皙《はくせき》の面を笑みにあふれさせた。
「黄大人、よくわかっております。ああ、わが誠意を試すためのそのお言葉の数々、お嬢さんへの慈愛がひしひしと感じられまする。昨日は思うに見合いだったのでしょう。黄大人はお嬢さんを思い、厳しくわが気持ちを確認なさりに来たと、拝察つかまつります」
「そ、それでは」
「わが心は既に昨日のうちに決まっておりました。黄大人もこの孔明ににくい仕掛けをなさる」
孔明はすこし顔を赤くした。そして、ははは、と大笑し、
「この孔明をよくよく知ってご案じになってのおはからいと見ました。かような若輩のためにわざわざ有難きこと、感服つかまつりました」
と爽やかに言った。
「黄大人、吉日など択《えら》ぶ必要はありません。今日でも明日でも、思い立ったが佳日、善は急げと申します」
(もはや進退窮まったり)
承彦はへなへなと膝を崩し、泣きそうな顔で、
「祝着《しゅうちゃく》。むすめをよろしくお願いいたす」
と言った。もはや逃げられぬと観念した顔である。
(孔明をよくよく知っておるのは徳公だ。徳公はこうなることが分かっておったのだ)
縁談がまとまるのにわずか三日。
黄承彦は、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公と孔明に愛娘を強奪されたとは言わぬまでもそれに近い気分となり、世間の花嫁の父とはかなり違う悲喜こもごもな寂しさを突然に感じさせられることになった。
諸葛均が水鏡先生のところから帰ってくると、臥竜岡への坂道で喪の帰りのようにうち沈んだ暗い雰囲気の中とすれ違った。
(お客様があったのか。また兄上が誰かをいじめなさったらしい。かわいそうに)
諸葛均はいつものごとくそう思った。
かくて孔明と黄氏は晴れて夫婦となることにあいなった。意外もへちまもない。何しろ孔明なのである。
『三國志』によれば、縁談は黄承彦が積極的に持ちかけたように書かれている。そして、
「(黄承彦は)諸葛亮が承知したので、すぐさま車に載せて娘を送り届けた」
という。普通、士人の縁談婚礼同居にはいろいろと手続きが多く、日にちがかかるものである。すぐさまとはいかないものだ。黄承彦は荊北の名士である。それが孔明の諾を開くや、即日娘を荷物のように車に積んで送り届けたのである。よほど娘の嫁ぎ先を焦っていたのか、あるいは孔明を非常に高く買っていたのか、それとも他人に言えない理由があったのか、孔明の気が変わらぬうちに押しつけるべく急いだのだととられても仕方がない。
または襄陽士人社会で見ると、名士黄承彦と貧乏浪人孔明とでは天と地ほどの地位的差がある。上司の愛人を部下が妻にもらい受けさせられるとか、ちょっと違うがまあそういう無理やりなニュアンスで、弱い立場の孔明は黄承彦の強引な申し出に逆らえなかったと解釈されたかも知れないわけだ。この縁談が孔明の逆玉だととられたのなら、戯れうたで囃されることにはならなかったろう。世間の人は、
『阿承に醜女を押しつけられて泣く孔明』
と思った。
これらのことが相俟《あいま》って、襄陽人は孔明の嫁取りの話を長く笑い伝えたのであった。
さっそく祝いに現れたのは孔明の姉である。
「亮!」
と呼ぶや目を潤ませ始めていた。
婚礼の儀は略式に略式を重ねて急がされたため、もはや婚儀とも呼べない変なものと化しており、ジミ婚というか、同棲の勧めというか、明日の夕には黄氏を迎える運びとなっていた。
黄家としては少なくとも恥ずかしくない婚儀にしたかったらしいが、諸葛家の方というか孔明がまったくこだわらなかったので、なし崩しとなり、黄家の縁者はおかんむりである。
「黄家の女の輿入れがそんな無作法であってよいものか。世間に恥ずかしい」
と普通なら物言いがつくところだが、ただ、同時に嫁ぎ先が孔明であるということの方がよほど恥ずかしかったせいで、おおっぴらな文句は飲み込むはかなかった。
さきに、あまりにも無頓着な婚儀となりそうで、世間体が悪いと思った黄承彦が、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に、
「形くらいは整えたい。孔明にそれとなく注意してくれんか」
と相談すると
「阿承は知らずや、婚は神速を尊ぶ、と」
とか、
「婚に常形なし」
だとか、孫子の兵法の洒落のようなことを言われるのであった。
「徳公、からかわんでくれ。野人《やじん》の交わりではないんだぞ」
と怒って言うと、
「相手は孔明なのだ。天地九変する臨機応変の婚がおもしろいと思わんか」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は三礼を暗誦するほどの学者であり、古今の正しい婚礼に通じていた。そんな男が、
「こたびの婚に小細工は通用せぬ」
と武将のようにいうのだからどうしようもない。これもまた『三国志』か。
そんなこんなで世間に隠れてこそこそと素早く進めているという観があり、それがかえって人々に関心を持たれてしまう。またひとつ孔明の怪評が増えることになる。
一方、黄氏のほうも、黄承彦が一生懸命に孔明の家の粗末さを説き、労苦地獄が待っているかも知れないと脅かしても、手鍋さげてもの迫力でまったく意に介さない。とにかく異例のスピード結婚が成立した。
そうした一連の動きに関わってきた姉は、
「なんにしてもお話がまとまり、ほんとうによかった」
と涙ぐむのであった。姉の喜びは孔明の喜びである。孔明は思わずもらい泣きしそうになるのをこらえて扇子で目尻を拭う。
孔明に嫁でも迎えればきっと真人間になってくれる、というのが姉のささやかな期待だったのであって、そのために自ら何軒もの家に足を運んでつれなくされた日々が遠い昔のようである。そんな孔明のところになんと名門黄家の一女が嫁《き》てくれるという。奇跡としか思われない僥倖に、信じられない思いがする。
何も聞かされず、いつものようにこつこつと家事をこなしていた諸葛均などは、明日、孔明の嫁が来ると教えられると、信じられないという顔をして、壁際でがたがたと震え出す過剰反応を示す始末である。
(わたしは用済みになる。どうしよう)
とでも思ったのかどうか、しじゅう孔明に精神的抑圧を加えられてきた諸葛均は、ある意味で孔明よりもやばい精神状態にあるのかも知れず、もしそうなら早急な治療が望まれる。
孔明の姉は自分が結婚したときよりも嬉しそうで、幸福そうであった。
しかし孔明はどこか浮かない顔をしている。
「明日お嫁さんが来るというのに、どうしたのです」
今日びの姉上などは、考えすぎると、
「もしかして、マリッジ・ブルー?」
とか訊くやもしれぬ。
「いえ、べつに何も」
と孔明は答えた。
「うれしくないのですか」
「うれしくないことはありません」
姉は、
(まあまだ実感が湧かないのだろう)
くらいに考えた。
「でも亮、あんたは前に結婚なんかしないと言っていたけれど、今回はきっぱりと決めたそうじゃない」
姉は皮肉っぼくつついてみた。
「その考えは今も基本的には変わっておりませんが、こうなってはやむを得ない」
「強がらなくてもいいでしょう。黄氏さん(こう呼ぶのもなんかへんだが名が分からないので仕方がない)には一度会ったのでしょう。それですぐさま決めたのなら、やはり」
一目見て気に入ったのに違いない。そこを訊いてみると、
「禽獣《きんじゅう》となるといえども変わらぬ品のよさ、すこやかさは並の婦人の及ぶところではないでしょう」
と孔明は言った。姉にはまったく意味がわからない。
「き、禽獣って、亮、それはほめているのですか」
「もちろんです」
世間ではともすれば女人の美醜を語り、美女と聞けば血眼になるのは、たいてい男である。そして男というものは一美女をわがものとしても満足することはない。いくつになってもそうである。
(だが弟孔明のみはそうではない、はず)
と勝手に確信している。志操堅固ということではなく、非常に変わった男であるからという理由である。
孔明の姉は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に言われて黄氏に会い、弟のために熱弁をふるったわけだが、要するに孔明の奇行の数々をばらしたのである。
黄氏はそれを好ましそうに聞いていて、
「そのとき孔明さまはどういうおつもりだったのでしょう」
と質問したりした。姉は、
「それはさっぱり分かりません」
と言うしかなかった。とにかく黄氏は孔明の不可解きわまる言行を聞いても、動じるどころか好意をたかめていくようであった。孔明の姉も、
(このひとならば)
と望みをつなぎ、自分としても気に入った。この翌日、庭園での対面というか、けったいな接触があったわけだが、このような貴重な女を逃がしては、孔明ももはや後はないであろうと思った。
後は孔明次第だが、それが意外なほどにするするとまとまったので、姉は孔明が黄氏を見初めたのだと確信した。
「では亮、どうしてそんな顔をしているんです。明日、黄氏さんの前でそんな顔をしていたら、姉は許しませんよ」
「いえ、姉上にはわからぬこと」
「あんたまさかお舅様が手引きしていたことを根に持っているんじゃないでしょうね」
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生は関係ありません。余計なことをしやがるくそ爺めが、とか、そんなことはすこしも思っておりませんよ。なぜなら、わたしは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生の掌の上に一度も乗っておらず、策を看破して勝ったのはこの孔明ですから」
「?」
「しかし、この孔明、よき胸騒ぎがするのです。脳裏に吉な予感がしてならない」
「いい予感ならいいではないですか」
「むろんそうです」
しかし孔明の表情は晴れず、姉は、
(この子ったら、またわけのわからないだだをこねて。普通のことに普通に喜ばないんだから)
と孔明の子供の頃から変わらぬ変な態度に少々腹を立てた。よほどのへそ曲がりなのか、せっかくの慶事だというのに、わざとのように不景気面をさげる孔明の心中がまったく分からない。
孔明にはこの嫁取りが、臥竜計画を頓挫させることになるかも知れないと、甘美で悦ばしい不吉な予感があったのだろう。孔明のような男にとっては吉も不吉も表裏一体、同じようなものだから、ぜんぜん困ることもないのだが。
その夕、花嫁を乗せた貧相な馬車がゆっくりと隆中へ向かっていた。 おんぼろの馬車にはわけがある。如何に意に沿わぬ(黄承彦がだが)結婚であろうと乗り物ぐらいは黄家のものらしく、と、輝くばかりに飾り立て、名門の意地を見せてくれようと奮発した黄承彦であった。しかしふらりと現れた※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が、
「阿承、そんなきんきらきんに飾り立てた車は婚礼に反する」
と言って、せっかくの飾りをばりばりと壊し剥がしし始めた。
「徳公なにをする」
「当節、婚礼の意義が失われがちでわしは嘆かわしく思っておったのだ」
と意に介さない。
「そもそも婚礼とは喪礼と同じく悲しみをあらわさぬばならんのだ。新婦は両親兄弟と別れゆくのだから、残された家族は夜も眠れないほど悲しみ、よって三日は灯火を消さずにおくべきである。新郎の家では三日は歌舞音曲を控えて、われもついに婚する歳になったかと慮り、親の老衰をなげくものである。忌みごとゆえ、儀式は昏《くら》くなってからおこない、見送る者は喪服を着るくらいでなくてはならんのだ。阿承、それなのに衣服や馬車を飾るようでは薄情な親と見られるぞ。むすめが可愛くはないのか」
と沈深《ちんしん》とした表情で言う。
この時ばかりは黄承彦も怒りに声を震わせた。
「おのれ徳公、おぬしがさんざん礼を無視して破らせてきたのではないか。この期に及んで正礼を踏めとは、わしを馬鹿にするにも程がある」
「これはしたり。朋友とその娘御に恥をかかせたくないから忠告しておるのに。孔明のやつに礼知らずと笑われたくはないだろう」
「ぬううう」
黄承彦は今にも悔し涙を噴き出させんばかりであった。
すると黄氏が、
「お父様、ここは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》おじさまに従いましょう。わたしもこのような華美なる装いを恥ずかしくおもっていたところです」
と黄承彦を慰めるように言い、いったん奥に入ってこの日のためにと仕立てられ、着せられていた錦の晴れ着を着替えてきた。
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》おじさま、これでよろしいでしょうか」
「うむ。一頭立ての馬車にして、警護のための付き人も二人くらいにすべきだな」
「はい。そのようにいたします」
すると黄承彦はばたった地に跪《ひざまず》き、
「すまぬ」
と泣き出した。むすめがあまりにもあわれに思えて仕方がないのであろう。貧しさに人買いに娘を売り飛ばしているような萎れようであった。だが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「おう、いい悲しみっぷりだぞ、阿承。見事だ」
と褒めて喜んでいる。黄承彦は思わす※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に殺意を抱きそうになった。
そして昼過ぎには黄氏は粗末な馬車に揺られて出発した。見送った※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、珍しく感心しきりの表情を浮かべている。黄承彦を見ると、
「阿承、佳き日になんという恨みがましい目つきをする」
「徳公、貴様という男は」
「なにを怒っている」
「言わずと知れたこと」
「いやわしは感心しているのだ。阿承、あれほど出来たむすめをよく育てたものだ。おぬしを見直した」
「どういう意味だ」
「言ったとおりだ。あれほどの嫁はどこを探してもおらんぞ。孔明にはもったいないくらいだ」
黄承彦はもの問いたげに憤怒の表情を無くしていた。
「さきほど敢えて古礼をひいて飾りを捨てさせたが、あのむすめはすぐさま理解してなんの不満そうなところも見せなかった。このわしが一本取られたような心持ちになっておる」
黄承彦には分からないが※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公的には何やら意義深いやりとりがあったらしい。
「ともあれめでたい。あとは孔明に任せることだ。阿承、今宵はあの子のしあわせを祝って痛飲しようぞ」
と勝手に門を潜っていった。黄承虜は、
(むすめよ、辛い目にあったらいつでも戻ってくるのだぞ)
と小さくなってゆく馬車に祈り、
(孔明め、わがむすめを泣かせてみろ、その時は生まれてきたことを後悔させてやる)
と呪った。どこにでもいるごく普通の父親の心情である。ようやく花嫁の父親らしいしんみりとした気分になった。
もうあたりは真っ暗になっている。黄氏は従者の手もとの灯りを頼りに車から下りた。
(ああここが孔明さまの臥竜岡)
といってもよく見えない。門の方からも灯りが出てきたのが見えた。そろそろと近付くと、いやに緊張気味でおろおろした様子の少年が、迎えに出ていた。言わずと知れた諸葛均であるが、
「黄家のお嬢様にございますか」
とおそるおそるに訊いてきた。黄氏が、
「はい」
と答えると、何を勘違いしているのかいきなり平伏して、
「孔明が弟の均にございます。あの、これから兄嫁さまのために何でもいたします。何でもいたしますからどうかお許し下さい」
と裏返った声で言った。なんだかいきなり命乞いをし、奴隷下男扱いしてくれと頼み込むような感じであり、ひたすら地面に額を擦りつけている。
ある種、いきなり不気味な光景と言えなくもないが、黄氏は動じることなく、
「どうか顔をおあげください。お初に目に掛かります。このたびお家に嫁いできた黄氏と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
そしてがたがた震えている諸葛均の手をとって、
「さあさお家にお案内下さい」
とやさしく言った。諸葛均は、
「ひえっ。ありがたや」
と拝むように言うと平伏したまま後に下がった。いったい何なのか、わたしにもよく分からない。
黄氏は車と付き添いの者を帰すと、手燭をさげた諸葛均について行った。諸葛均は卑屈にやたら体を縮め気味に歩いており、真っ暗な家の中、まるで『ノートルダムのせむし男』に出てくるカジモドのような奇怪なふうである。孔明にやらせられているのか、よく分からないが、今回は怪奇の館をモチーフにして黄氏を恐がらせる趣向なのかも知れぬ。ただそれも夜なればこそであり、日が昇ればただの平屋の農家なのであるが。
黄氏はべつに恐がっていない。それよりこれから孔明に面するわけであり、そのことの方に気が行っており、諸葛均の不審過ぎる態度もあまり気にならなかったというのが正解であった。
「兄上はこちらでございます」
諸葛均は部屋の入り口を示すと逃げるようにどこかへ行ってしまった。
黄氏はどきどきしながら戸をくぐった。
部屋の中はいくつもの灯りがともり、明るかった。
孔明はいつもの服装で机《き》に腕して体を斜めにし、扇子を眺めていた。なんか眠そうである。黄氏が入ってきてもしばらく見ようともせず、あくびを噛み殺すようなつらつきでいる。
ふと、戸口に現れた黄氏に、偶然の上にも偶然に目がとまり、ようやく気付いて、ああこれは失礼いたした、と言わんばかりにゆるりと身を向けた。たぶん演技なのであろうが、もし刺客が入ってきたのならとっくに殺されていよう孔明であった。
おそらく孔明は黄氏が来るのを今か今かと待ちかねており、夕刻暗くなってきた頃からずっとこんな調子で待ち構えていたのであろう。リハーサルなんかも何度も繰り返し行っていたに違いない。
黄氏はまだ孔明の特異な性質を知らないが、なんとなくつくりごとめいた雰囲気は感じ取っていたろう。孔明は、すっと扇子を伸ばし、まあそこへお座りなさい、というように動かした。黄氏は素直に孔明の前に坐してお辞儀した。孔明が無言なので、黄氏が何か口上のようなものを述べようとすると、孔明が扇子で止めた。そして、
「黄氏――」
と、本当は名前を呼んでいるのだが、わたしには分からないので、そう呼んだことにする。
「まず言っておかぬばならぬことがある」
「は、はい」
黄氏も当たり前だが緊張気味であった。
「わたしは秘密の多い男である」
と孔明は言った。
「だがこうして夫婦となるうえはそなたと秘密を分け合うことになる」
「はい」
「その秘密とは、だれにも、そなたの親御どのにも、わが姉にも、いわんや不良老年の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》公どのにも、漏らしてもらってはこまる」
孔明は真顔になって、
「それを約束していただけるなら、あなたをわが妻として迎えよう……それでよいか」
黄氏は反射的に、
「お約束いたします」
と答えていた。孔明はさっと扇子を一振りするや、爽やかに、
「わが妻よ、よく来られた」
と言った。
「偕老同穴《かいろうどうけつ》の契りなり」
ともに老いて墓穴を同じくするというは『詩経』の言葉である。
「さあ、もっと近くに来てくれぬか」
黄氏は大きな体をもじもじさせて少しだけ前に出た。
「わたしはほんとうは生涯妻を持つつもりはなかったのだ」
孔明はくっと唇を引き締め、真正面から黄氏の顔を見つめてから、黄氏は顔をうつむき加減にした。すると孔明、突如としてぶわっと落涙し、黄氏を驚かせて、
「黄氏よ、千難を排してわがもとに嫁いできたそなたのこれからの運命を思うと……涕涙《ているい》のこぼれておさまらぬ!」
と口走った。
「えっ」
何といきなり不吉な、と思いきや、はらはらと涙を流しつつ、
「なんとなれば、わが妻になれなかった女子が可哀相だからである。わが妻になる女は天下一の果報者であり、否、宇宙一の幸福者となる運命なのだ。そなたほどの仕合わせ者はこの世にはおるまい。自分ながらそなたの身が羨ましくて仕方がない。この孔明が感極まった涙を許してくれい!」
どうも本気で言っているらしい。ここまでくると自信過剰ですむものではないぞ孔明。
いや稀にはこんなことを言われて感激する女人もいるかも知れない。普通は、いきなりそんなことを言われたら異常を感じて、頭が混乱するばかりであろう。黄氏は、
「ふつつか者ではございますが、末永くそばに置いてくださいまし」
となんとか言った。
「この臥竜岡にはふつつかな者は入ることは出来ぬ」
孔明は身を乗り出して、黄氏の手を取った。
ちょうど時間的にそういう仕掛けにしてあったのか、部屋の四隅を照らしていた灯りがだんだんと暗くなっていった。どうでもいいが演出はばっちりだ。しかし怪しい猿芝居、これでいいのか孔明、ならびに黄氏。
そして新婚初夜の夜はふけていったのであった。
――翌朝。
諸葛均の一日は朝靄のなか、付近の湧き水を汲んできて、竃《かまど》に火を熾《おこ》すことから始まる。孔明は農夫のくせに朝寝坊することが多く、午前も十時頃にゆるりと起きだし、諸葛均が用意しておいた朝食を口にする。夜更かしはいつものことで、徹夜で書見筆述したり、何かの修行に熱中していたりしているようだから、さもあろう。
ところが孔明、今日は諸葛均が起き出す前に活動を開始したらしい。臥竜もついに早朝目覚めるときが来たのか。土間には水を汲んできてあり、台所、竃の上には湯気をたでる鍋がある。よい匂いがするかと思えば既に朝餉《あさげ》の支度は終わっていた。諸葛均は慌てた。
「均、均よ。おそいぞ」
と呼ばれて行ってみると、食卓に川魚に山菜がならび、常と違ったにやけた顔の孔明が、初めてはっきりとその顔を見る兄嫁といちゃいちゃしながら坐っているではないか。
「あ、兄上」
ショックに愕然とする諸葛均に、
「困ったやつだな。朝の挨拶もできぬのか。兄は恥ずかしいぞ」
とまるで普通の人のように言う。諸葛均は、
「ひ、ひっ。にっ、ニーツァオ」
と言いながら膝を落としそうになった。
「ふふふ、寝ぼすけな弟ですまぬ」
「いいえそのような。さあ、均さまも一緒に食べましょう」
と黄氏がやさしく微笑むと、諸葛均は、
「ワーッ」
と叫びながら外に駆けだしていった。
諸葛均は深呼吸を繰り返して、あたりの景色、木々や麦畑に何の変わりもないと確認すると、そろりそろりと戻ってきた。新妻との団欒《だんらん》の図。変わり果てた孔明である。
「なんだ均、小便でもたまっておったのか。黄氏が驚くではないか。なあ」
とか、およそ孔明らしからぬ口調で言うのである。昨日の今日なのに仲睦まじ過ぎる孔明と黄氏を見て、諸葛均はへなへなと坐り込んでしまった。
「あ、兄上ッ」
「どうした妙な顔をして」
「均はここにいてよいのでしょうか。これからわたしはどうすればよろしいのでしょうか」
「へんなやつだ。奇怪なことを口走ってないで、飯でも食いなさい。贅氏の手料理は旨いぞ」
孔明はバカ夫丸出しの表情で黄氏に手をかけ肩を寄せ合っている。
「今日は白菜の畑を手入れをせんか。暑くなりそうだ。きちんと食って腹をつくっておかねばな」
「わたしにも手伝わせてくださいね。畑をつくるなんて初めて。楽しみだわ」
「そうか。よしよし、わたしが教えてあげよう」
真っ青になって下を向いている諸葛均に、孔明は、
「そうそう。均よ、門前の看板代わりの丸太だが、引っ込めて薪にでもしておいてくれ」
「ええっ、臥竜岡の墨跡ではないですか」
「そうだ。あれはやめた。だいたい何が臥竜だ。もう馬鹿らしくてやってられない」
と、過去の自分を完全否定して、また黄氏ともじもじいちゃいちゃする孔明であった。
諸葛均は、
「鳴呼」
と絶句した。
普通、士人の夫妻のあいだには一応、夫徳婦徳の礼があり、何やら堅く見せなければならないことになっている。また人情として新婚当初はお互い慣れぬもので、何やら照れくさそうに固くなるものである。しかし、さすが孔明というべきか、一夜にして豹変し、長年連れ添ったような安心気安さの夫婦となっていた。この激変も機略縦横の鬼才のせいなのかどうか疑わしけれど、黄氏も喜んでいるようなのでまあいいか。
諸葛均の戸惑いなどなんのその、隆中ではそんな甘い日々が続く予定である。
そんなある日孔明の姉の所へ、ぐれてすさんだ目つきをした諸君均があらわれた。
「まあ均、どうしたの」
すると諸葛均はわっと泣きながら姉にすがりついた。
「兄上が、兄上がおかしくなってしまわれました。今度という今度はもう」
「亮がどうかしたの」
「あんなのは兄上じゃない! 均は悲しゅうございます」
姉は均の背を撫でて、
(まさか黄氏にいぢめられているのでは)
などと案じつつ、
「とにかくわけを話してごらんなさい」
と訊くと、諸葛均は、えぐっえぐっとこみあげさせながら、最近の孔明の暮らしぶりを語った。
姉にしてみれば、まったく理想的な話で、孔明がまともになったということだ。諸葛均とは正反対の意味で、じーんと目頭が熱くなり、
(これでようやく安心できる)
と何度も頷くのであった。
そして年の離れた姉と弟はしばしの間涙にくれた。
まさに臥竜の新婚に賀せるや、志を忘れて姉弟悲喜にくれるというところ、さて孔明、臥竜の謀はどうなるんだ。こら、というわけで、その無責任さのお話はまたいずれ。
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単福《ぜんふく》、劉《りゅう》皇叔《こうしゅく》にからめとられて初陣《ういじん》に懲りる
話は変わって徐庶である。
劉備玄徳のいる新野に通い始めて既に三年近くにもなっていたろうか。初めは好奇心であったものがいつしか長居をしはじめていた。今やおなじみ劉備軍団の一員と見られるようになり、道行けば、
「やあ単福さま」
とか、
「単生どの」
とか、なれなれしくもある程度尊敬されて呼ばれるようになっている。それで、
(いつまでも偽名ではとおらない)
といくらか困っていた。
襄陽と新野を行き来する者もいるから単福の正体が徐庶であることが判明するのは時間の問題である。もし酔った張飛にばれたら、
「名を偽るとは気に食わぬ。後ろ暗さをあばいてやらん」
と拷問にかけられかねない。ぞっとした。
「いえ、権柄《けんぺい》ずくで美食狂いの父親が、めしがまずいというだけで母を責め殺したため(誤解)、許せず家出したわたしは母方の姓を名乗っていたのです」
とかなんとか嘘の答弁をしても、この時代では誰も元ネタを知らず、通用しないだろう。それはともかく、
(どうも劉玄徳に深入りしすぎたような)
と思うことはある。仕官のことまではまだ考えてはいないのだが、ついつい新野にいりびたり、劉備を訪ねることをやめられないのである。
ただ劉備軍団が仕官先と呼べるようなところかどうかは、今回おいおい分かる。
劉備は最初の頃こそ徐庶を地元の書生扱いしていたが、近頃はぐっと丁重になり、敬して接し、若年だからといってあなどるところがなくなった。
「単福先生」
などと呼ぶこともあり、遊びに来るとわざわざ上座に置こうとしたりする待遇である。それに揶揄のようなものはまったくない。
「いや将軍、それがしのごとき若輩に先生などとは」
と居心地悪く遠慮しようとするのだが、劉備の遜《へりくだ》りっぷりには偽りがなく、まことに真剣の様子であった。自然、劉備の配下たちも徐庶に対して一目置くようになる。
(ああわたしのような若僧を)
と、さらに劉備に傾倒することになっていった。
誰彼構わず馬鹿丁寧に接する。敬すべき点を発見すれば賢者に対するかのように謙譲のていを示す。こういうところが劉備玄徳の徳のひとつであり、しかも故意にやっているのではないところが、人心を収攬《しゅうらん》する秘訣となっている。配下の多くはこの劉備の性格態度に惚れ込んで従っている。はて劉備は徐庶に何を見いだしたのであろうか。
劉備は徐庶に様々に諮問するようになった。天下の情勢、政治、経済、軍事と内容は幅広く、徐庶はたいていのことに過不足無く答えることが出来た。また、
「而立《じりつ》してより戦場往来の日々、学問などする間もなかったが、近頃は少々書物を読んだりしておるのだ」
と劉備は『春秋左氏伝』などの釈義を徐庶に尋ねたりした。
劉備は少年の頃、慮植《ろしょく》、字は子幹《しかん》という学者に学び、読み書きくらいはできる。もっとも、不良少年だった劉備は勉強に不真面目ではあったが。
議郎から尚書にまで出世した慮植は、かの名儒|馬融《ばゆう》の門弟であり、これまた博覧強記の大学者|鄭玄《じょうげん》と同窓であった。劉備の母は貧しい農婦でありながら、そんなお偉い学者の所へ息子を行かせたのだから、かなりの教育ママであった。劉備を孝廉にあげてもらい小役人にでもしたい腹づもりであったようだ。
徐庶の学問など慮植には及びもつかぬものであるにしても、一般人からすればやはり凄い(一銭の得にもならぬのに酔狂な)と思われたろう。
「ううむ、単福どのこそわが師である。これまであなたのような識見卓抜の人に会ったことがない」
と褒められれば徐庶とで悪い気分になるはずもない。
「いや、わたしなどは平々凡々の書生にすぎませぬ」
「いやいや、ご謙遜なさるな。荊北は文の都といわれておるが、あなた以上の士がそうそういるはずがない。どうかこの玄徳の指南役となっていただきたい」
劉備は感激の表情で手を取らんばかりに言うのであった。
「きみは天下の士である」
窮して新野にわだかまっているわりには皇叔、左将軍、豫州牧と肩書きだけは天下に華々しい劉備にそう言われると徐庶もまんざらではないどころか舞い上がってしまいそうになる。
(やれやれわたしはこの人に捕まってしまったようだ)
と徐庶は気分よく思ったのであった。
一方、自分を避けるようにしてやってきては劉備と良く話し込んでいる徐庶を、張飛は、
「気に食わん。酒も飲めんくせに」
としか思っていない。張飛が関羽に、
「ちかごろ兄者は単福郎に入れ込んでおるようだが、酒もろくに飲めんような青二才のどこがいいんだ。まことに気に食わん。なあ」
と言うと、関羽は泰然自若の様子で、
「長兄も暇なのであろう」
とたいして気にも留めていない。新野の暮らしは確かに暇である。劉備が徐庶にかまっているのも暇つぶしが理由のひとつではあろう。劉備は徐庶以外にもこの地の様々な人物が接して、人脈のようなものが出来つつある。
劉備一家は旗揚げ以来戦場を東奔西走して、あやうく敗滅しかけたことも幾数度、常に戦っては追われ、戦っては追われを繰り返してきた。一地にこれほど長くとどまるのは初めてのことであった。
「劉景升のこの扱いでは、長兄も無聊《ぶりょう》をまぎらわせたくもなろうな」
「それで書生相手に暇つぶしかよ。暇なら暇で他にすることがあろうに」
「翼徳、そういうな。わしが推《おも》うにこんな平穏がいつまでも続くはずもない。束の間のことだ」
「ああ、どいつとでもいいから、早く戦争がしてえ」
張飛のような男には平和は身の毒でしかないようだ。
劉表に、というより蔡瑁らに門番がわりにあてがわれた新野であったが、劉備の着任以来住民の評判は至極よく、噂を聞いた他の城市《まち》から移住してくる者は増える一方である。
とくに劉備が善政を施いているというわけでもない。野盗叛賊の類が現れたら退治する他はとくに何もしていない。あくまで一時的に預かっている土地に過ぎないので、劉備軍団を養えればそれでいいという程度の徴税や賦役しか命じていない。もともと細かい治政技術などまるで分からない男だから、新野の行政などはほったらかしにしていた。それがかえってよかったようで、
「劉備将軍はなんとも徳政をなさる」
当節、ピンハネしない領主など宝物のような珍しさで、しぜん民衆に慕われるのである。そしてさらに人が集まる。
劉備の人気があがるほどに、襄陽、荊州城の面々は苦い顔となり、
「やはり劉玄徳は野心をもっているのだ」
捨て置けぬ、とさらに危険視することになった。
さてそういうのんびりムードの中で、
「元直、いきまーす」
と徐庶の初出陣が起きるのである。
この時、曹操は冀州攻略の総仕上げに入ろうとしていた。主力軍を率いて北上し、袁熙、袁尚の馬鹿兄弟を完全に駆逐してしまうつもりであった。
劉表は結局何もしなかったが袁紹と盟約を結んでいたこともあり、その死後も袁兄弟と連絡を取りあっていた。劉表は、
「兄弟喧嘩をやめてよく力を合わせて曹公にあたるよう」
という内容の、大人が子供に教え諭すような、正論だが実のない書状をしたためたりしている。袁兄弟は、
「説教はいいからとにかく兵を出してくれ」
と腹だたしい思いであったろう。曹軍北上に合わせて荊州から許都を衝いてくれれば、いや、衝く真似だけでもしてくれればどれだけ助かるか。普通に考えてやはり劉表の動きは決定的なキーポイントなのである。劉表だけが普通に考えていないと疑うしかない。
曹操の幕僚は十中八九劉表の出馬はないと分析しており、郭嘉や賈|※[#「言+羽」、第3水準1-92-6、unicode8a61]《く》に至っては二百パーセント無いと結論している。だが、ある意味で劉備愛好家の荀ケ、荀攸、程cたちは、
「劉景升はたしかに出てこないでしょう。しかし荊北、新野には劉備がおりまする。なにしろ煮ても焼いても食えない男ですから」
と一抹の不安要素をあげた。劉表はともかく劉備は道理損得抜きで噛みついてくるわけの分からない戦争好きである。ただし、突っかかってくるわりには見るも無惨に弱いのでそう恐れることもないのであった。不思議である。が、劉備に空き巣ねらいをさせるわけにもいかない。念のためである。
荊北の襄陽と許都は非常に近いといえ、その間に遮る峻険《しゅんけん》も関もない。南人が北方の攻略をしようとするなら襄陽は絶好の基地となる。揚州や益州にはこれほどの好条件の地はない。
曹操はその意見を容れ、曹仁《そうじん》を大将、李典《りてん》を副将とし、さきごろの冀州戦で降った呂曠《りょこう》、呂翔《りょしょう》の二武将を加えて樊城《はんじょう》を攻略し、襄陽をうかがってくるよう命じた。樊城は新野の南にあり、襄陽の目と鼻の先にある城である。樊城から襄陽近辺を責めるなら当然通り道にある新野の劉備も黙っているはずもなく、戦さとなろう。つまり、脅しあげて劉表の出方を見るというのが本題であるものの、劉備軍団を久しぶりに攻撃することも命令には含まれているわけである。誰が籠もっても新野のような小城で支えきれるはずもない。劉備らは例によってしばしの戦いののちに四散、敗走することになろう。
そして曹仁、李典らは兵十万を率いると称して急ぎ出陣した。襄陽と新野の劉備軍にとっては脅威であること言うまでもない。
「劉景升が何かの気の迷い(正しい判断)で劉玄徳に荊州兵何万かを貸し与えるなら、大きな戦さとなろうが」
と歴戦の曹仁は考える。ただしそうなったら曹操は冀州攻略を後回しにして荊州侵攻を行うであろう。
曹軍進発を知った劉備はすぐさま劉表に急報した。報告は襄陽城から荊州城に伝えられた。
だが劉表はそのことを既に知っていたようで、伝えられたときには荊州城に入っていた。もともと荊州の州都は江陵《こうりょう》にあり、エリアの名としては南郡といい、そこにある大城が荊州城である。劉表はこの城と襄陽城の間を行き来していた。劉表が襄陽を好んだため、第二州都のようになった。襄陽は新野、樊城が敗れると前面をさらすような格好となる。江陵はそのさらに遠く南方、長江岸にあるので持久しやすく逃げやすい。
予想していたことなので腹も立たなかったが、劉表は劉備に援軍を出さなかった。襄陽と江陵を守らぬばならないから新野に出せる兵はないということである。荊州の守門というべき新野、樊城で防戦すれば襄陽、江陵とも安全で、いろいろ間に合うというのに、劉表とは分からない男である。
その前々日から折悪しくというか、運悪くというか、巡り合わせが悪かったというか、徐庶は新野に滞在していた。最近の徐庶は新野にいることが多い。そこに曹軍迫るとの知らせが入った。
(なんと。曹公は冀州攻めに忙しいはずだが)
徐庶のレベルでは曹操の電発的な思考やその速さを読むに無理があった。
すでに新野城内はばたばたし始めている。
徐庶はいざという時の劉備軍団の活躍を見ることが出来ると思って喜んだものの、はたと考える。
(お手並み拝見はいいが、ここが戦場となるわけだ)
敵将の曹仁、李典は曹操旗揚げ以来の古参、歴戦のつわものであり、しかも兵十万を号している。劉表の援軍はあてにならぬという。
(ちょっと待てよ。合戦見物どころか、下手をするとこの世の見納めになるのではないか)
徐庶は、劉備とその一党というものの性質がだいたい分かってきたが、それは平時のことで、まだ戦時下を見たことがない。その実力は未知数であった。世評によればどうしようもない戦さ下手というではないか。関羽、張飛、趙雲といった豪傑猛将を抱えているが、大一番となると必ず負けてきた。
徐庶は今のうちに逃げようか、と思った。
「われに老いたる母あり。ここで死んでは不孝である」
とかなんとか言い訳は出来る。
(しかしそれでは男を落とすことになる)
劉玄徳の指南役・単福の顔が売れすぎてしまっているので恥ずかしい真似は出来ない。またここで逃げれば士として二度と立てなくなろう。徐庶も唐突に土壇場に立たされてしまっていた。
徐庶は腹を決めて劉備の陣所へ行った。劉備は配下たちを集めて協議しているところであった。必勝の作戦を立てているのかと思いきや、
「とにかく兵がおらぬでは。で、いまうちに兵は何人いるんだ」
と兵数集めの算段をしているのであった。孫乾《そんかん》が、
「さあ、何人いましたか。二千くらいはいるのではないかと」
と言えば、糜竺《びじく》が、
「二千なぁ、もう少しはいるんじゃないか」
と言っている。このところ戦さらしい戦さをしていなかったから、動員できる兵数も把握していないらしい。ちょっとした盗賊団を退治しに行くときには関羽、張飛が一声かけると五十や百くらいの数はすぐ集まり、それで十分であった。
ともあれ劉備軍用が新野に進駐して以来、しばしの平和が続き、連れてきていた兵はほとんど解散状態で、中には農民に戻ってしまっているのもいる。そもそも兵とはそういうもので、好んで戦さ場に立つものではない。間断なく小競り合いがあるという状況ならまだしも、平時にあってはただの無駄飯食いである。兵などいないほうがいいくらいなのだ。
劉備将軍のお旗本、という意気込みで過ごしている兵は二百人もいるかいないかである。要するにその二百人が劉備軍団の本体である。劉備はちょっと頭が痛そうな顔をしている。
「兄者、二千もいれば十分過ぎるくらいだ。このおれに任せてくれれば曹仁、李典ごとき、あっという間にこの蛇矛で血塗らしでくれる!」
と爛々と目を光らせた張飛が喚いた。すると満座で大喝采である。
さすがに関羽と趙雲は、張飛ほど呑気ではない。
「出来るだけかき集めるしかござらぬな」
とすっと座を立ち、兵の募集に出ていった。続いて簡雍《かんよう》も、
「わが君、お気を落とさずに。われらも関将軍らと募兵して参ります。新野の衆も協力してくれるでしょう」
と駆けだしていった。劉備は張飛へ、
「飛弟、おぬしも行って来い。こういう時にこそおぬしが日頃人々に慕われているかどうかが分かるというものだ」
と命じて外に追い出した。
驚いてはいけない。兵の実数を把握していないなどはいつものことであって、この兵卒管理のだらしなさが劉備軍団の普通であった。軍制などまるでなく、その時にいて動ける者が兵となるといういい加減さであり、軍事訓練などまともにやったためしがない。それでも集まるときは驚くほど集まったから、とくに気に病むこともなかった。劉備は今回もそのでんでやるつもりである。
これまでも作戦戦術などあってなきが如きもので、戦場での進退など定めておかなくとも、関羽、張飛の叱咤のもと兵らは追い出される羊や牛のようにワーッと駆けだしてゆき、なんとか戦さがましい合戦を演じてきたのである。それで勝つときもあったのは運が良かったか、ひとえに関羽、張飛の個人的武勇があったればこそである。
博打で有り金はたいて賭けるのと同じ感覚で、その時の手持ちの兵士を全部出すというのが劉備軍団の戦さであった。計画性無く、勢いでする喧嘩のようなものである。野盗や反乱軍が追い詰められてする戦さと五十歩百歩である。
事情が分かってきた徐庶は、
(これでは負けが込むはずだ)
と呆れつつ思うしかなかった。劉備一党は黄巾賊の反乱、董卓の暴政以来、世に名の聞こえる華々しい戦闘のほとんどに参戦したか、一枚噛んできたのであるが、よく生き残れたものだと逆に感心してしまう。
劉備軍団の実態は常に寄せ集めの雑軍だったのであり、軍組織のようなものはない。敗走すれば四散し、ちょっと暇になればさっと解散する食い詰め者の集まりであった。ただそのうち劉備に惹かれてだんだん付き従う者らが増えてゆき、今がある。
これは軍というよりも、行き場のない連中を収容する任侠軍団に近いものである。劉備は将軍、司令官などではなく頭領、親分というべき存在で、従う者は家臣というより子分といったほうが正確である。なかでも関羽、張飛は親の血を引く兄弟よりも情義において関係の濃い義兄弟なのだ。清水の次郎長の大政小政のようなものに近く、劉備軍団は世が世なら仁義一筋のやくざの一家以外の何者でもない。
部下が兵集めにいなくなると、劉備はひとりぽつんと坐り腕組みしていた。なんともさびしげであった。しかもそれに慣れているという風情であった。しんみりといい顔で……。
劉備玄徳、このとき四十半ばの男盛りである。大耳の耳たぶが肩まで垂れ、立って腕をだらりとさげると手が膝まで届くという、フリークスじみた容姿が史書に特記されている。それは決して悪口ではなく貴相なのであって、会う人にどういうわけか強い畏敬の念を起こさせたという。どう読んでも大柄のチンパンジーを連想させられるが、本人や側近は竜身であると言って憚らない。謎である。
「おお単福先生、いらしておったか」
劉備は徐庶を見つけると満面に笑みを浮かべて近付いてきて手を取った。
「ついに先生の出番が参りましたぞ」
「わたしの出番とは、どういうことでしょう」
「むろん軍師」
ずばっと決めつけられた。
「先生と友誼《ゆうぎ》を得ることがかない多くを語り合いましたが、先生の軍略の知識たるや孫子呉子に近しと、それがし常々驚嘆しておりました」
「それはたまたま孫子、呉子の話をしたからで、か、買いかぶりでございます」
「いやいや、この玄徳の目は節穴ではございませんぞ」
劉備が徐庶の手を強く握り締めたまま坐ったので、徐庶も坐することになる。
「先生は矛をとって馬上にあるような人ではない。策をもって戦場を制するお人である。わが軍は先刻ご覧の通りであり、いざ出陣となっても出入りにゆくのと変わらぬ有様である」
劉備は声を震えさせた。
「わたしとて分かっておったのです。このままではわれらはただの傭兵くずれで終わらざるを得ぬ。かと言ってわたしにもわが家臣にも、わが一党を天下に恥ずかしくない一軍に変える知恵と能力は皆無にちかい」
そんな一党が漢室復興を旗印にして働いていることのほうがよほど不思議ではあるが、じつに様々な奇縁変転があって天下に知られる一勢力になってしまっているわけで、詳しくは『三国志』の前半を参照していただきたい。
「わが軍を一変せる鬼才。残念ながらそのような人に縁無く、わが軍にも見つからぬ。それを先生に望むのはわたしの身勝手な欲であろうか。それとも先生にはわたしなぞ手長大耳のたわけ者と、手伝う価値など一毛もないとお思いであろうか」
「いえそのようなことは決して」
と徐庶はしどろもどろになりかける。
「不敏にして不徳のこの玄徳、先生に師弟の礼をとりお仕えしてきたつもりですが、それでも足らぬとおっしゃるのであろうか」
こういう芝居がかったかき口説きは文章で読むぶんには大いに誠意の感じられ、意気に感じるものではある。しかし実際奇相の中年男にその場目の前で言われると、徐庶は、
(ひい〜)
などと失礼にも思ってしまうのであった。
「すでにお耳に入っていようが、曹公の軍勢がこちらに迫っており、その数は十万という。それにひきかえわが方の手薄さ……。いまわが軍は敗亡寸前にある」
突如、劉備の満面の笑みの中から大粒の涙が流れ降った。異様な表情である。
「先生!」
という凄まじい大声に徐庶は、
「ひっ」
と声を漏らした。
「どうかこの玄徳のために、いや、罪なき新野の衆のために、曹軍十万を一瞬にして消滅させる秘策をお授け下され」
と無茶なことを、徐庶の手を握りしめ、涙をこれでもかと流し、大音声で言うのであった。
「ずっととは言わぬ。この場、一度限りでかまわぬ。曹軍壊滅の秘謀秘策をご献じくれまいか!」
ある意味百戦錬磨、非常の大気迫である。だがその大気迫を受けて徐庶はあやうく気絶しそうになる。
「先生っ、みどもに策を、策を、策をくだされーッ」
劉備玄徳、まるでサク中である。大気迫のがぶり寄りに負け、徐庶は、
「わかりましたっ、策を出しますからお許しを」
とつい叫んでしまっていた。
徐庶の不幸はある意味、客の運命というものである。
中国では戦国時代以前から王侯貴人富豪が多数の食客を抱え、異常なほど礼遇したという故事がある。とにかく人を招き、来る者を拒まず、飲ませ食わせして賓客の如く扱い、主人が相手を上座に据えてへりくだる。賢者知者勇者、一芸に秀でた者を礼遇するのは分かるが、何も出来ない無為徒食の者すら徹底的に尊び奉るという習である。
客が大好きだった人物といえば戦国の孟嘗君《もうしょうくん》や信陵君《しんりょうくん》が代表である。ただし客もただただ敬われ衣食住を不自由なくしてくれることに甘えるだけではない。『史記』には客の恩返しのはなしがよく出てくる。一朝ことあれば客は主のために生命を投げ出さぬばならぬという暗黙のルールがあるのである。客となることは主に生命を捧げることに匹敵するのである。主に返すべき才も芸もない者は、身代わりに殺されたり、ときには生きて帰らぬ刺客にもなる。
客の風習は後漢時代にも濃厚に残っており、食客を養う富豪も少なくなかった。日本任侠でも一宿一飯の恩義のため、とんでもない目に遭わされるといったことがままあった。
主と客のこの強烈な関係の根拠となるものは信や義もあるが、やはり侠という特殊な倫理である。快には善悪はなく、ただ苛烈な行動の根拠としての侠があるのみである。
「士は己を知る者のために死す」
という言葉に代表される独特の生き様の美学である。理屈ではない。知られたら死ななければならないので、知られないよう己を隠すこともまた美学となる。侠は、例えば『水滸伝』をみれば分かるが、梁山泊の好漢たちは暴行殺人押し込み幼児誘拐とどう見ても正義とか善からかけ離れた凶行をさんざん繰り返すのに、良心もあまりとがめず、民衆も責めるどころか愛しさえするのはそこに侠があるからである。まことに凄まじい価値観といえよう。
世が乱れた後漢末は多くの義侠結社や組織が地下に太い根を張っていた。今も続く幇《パン》の伝統でもある。仁義廃れでも侠あり、とでもいうべきか。とにかく侠であればどんな酷いことをしてもへっちゃらなのである。
劉備、関羽、張飛のような者たちはほとんどこの侠の世界の住人であるか、あるいは濃厚に関わってきている。そもそも漢の高祖劉邦自体が侠者だったのであって、統治者が侠であることは民衆に望まれていたりする。諸葛孔明にしても、劉備に再三の懇請を受けて客になったと考えてもよい。だいたい劉備軍団は曹操や孫権の勢力とは違い、劉備一家と呼んだほうが正しいのであって、孔明もそれは感じていたであろう。分かっていて軍団入りしたのである。この場合、孔明は忠義というかたちの侠意識のために半生を理屈ではなく魏の打倒に費やしたという仮説もつくれる。
徐庶はいつの間にか客にされてしまっていたのであり、不覚にも今気が付いた。徐庶としては、良禽《りょうきん》は木を択《えら》ぶ、の一環として仕官対象としての劉備と付き合っていたつもりだったが、劉備は徐庶を客に近いものとして扱っていた。そうなれば仕方がない。徐庶とて侠の分かる男である。人を殺してお尋ね者になったとき侠者たちによく匿われた過去を持つ男である。侠にからめとられればもう逃げられず、身を殺して仁を為すしかないことはよく分かっていた。
曹軍が南陽に入り、南下進撃中であると物見が知らせてきた。もはや間近である。
関羽たちが駆け回って集めた兵は意外と多く、五千近くにもなっていた。新野の衆が、ほとんど志願するように集まったからである。みな劉備に感謝の念を抱いており、心酔している者もいる。劉備は、適当に、
「カタギの衆に迷惑のかからぬように」
といった感じで遠慮がちに新野を治めていただけなのであるが、それがまことに好評で、近辺の城にも知れ渡って、新野の人口は急激に増えたから兵にとれる数もまた増えていた。つまりはよその城は新野より遥かに徴税が厳しく、領主官吏がやたら汚くうるさかったということである。
案ずるより産むが易し。劉備の不思議さはこれまで兵集めに困った経験がないことである。必要になると必ずどこかから人が集まってきた。これをして人は劉備の人徳といい、英雄の器の故であるという。
とはいえ敵軍十万に対して五千では焼け石に水である。しかも訓練された大軍に対して、こちらは無調練の農民兵である。勝ち目などどこにもない。
軍勢を催すとき数を二、三倍に呼号することは常識であるから、劉備にも曹軍は実数五万以下であろうと目星はついた。それでも及びがたい数である。事実、曹軍は総勢三万であった。
(また負けるのか)
と劉備自身が思っていた。
(しかし三年以上も安閑としていられたことを奇と思って感謝すべきであろう)
劉備の脳裏にはこれまで経験してきた血沸き肉躍る合戦の名シーンの数々がダイジェストでよぎっていたが、たいていのラストはこれ以上にない敗残をさらして逃げる自分の姿を見ることになる。
しかし劉備は戦わずして逃げることだけは考えなかった。それをやってしまえば天下につなぐ一縷《いちる》の望みもなくなることをよく知っていたからである。当節、非力な軍団で曹操に挑み続ける仁義の馬鹿は劉備玄徳ただ一人、その負けっぷりのよさを天下万民に見てもらわねばならない。負けはしても関羽、張飛、趙雲らが悪鬼羅刹の活躍を見せ、敵の名のある将の一人や二人の首を取れば、物語としては決して負けではない。おのれの生命のかかった博打のような戦さではあるが、領民を見捨てて逃げたらそれこそ劉備は真に死すのである。
負けのタネというのも変だが、今回は彩りを添えるべく一人の男を用意した。
「皆の者、これなるはわが軍師、単福先生である。こたびの戦さは単福先生にすべてお任せする」
と関羽、張飛をはじめとする幹部の前で言った。当然張飛が、
「兄者、気でも狂ったか。単福郎が軍師だと。酒も飲めんやつに」
と詰め寄ろうとする。
「飛弟、さがらんか。武辺一筋のおぬしは単福先生の智謀を知らぬのだ。とにかくこたびの戦さは先生に一任すること、わたしが決めた。先生の命に逆らうことはわが命に逆らうことと心得よ」
劉備にそう言われると狂虎のような張飛もしぶしぶ従うしかなくなる。
徐庶は劉備の隣に坐らされ顔面蒼白である。
「単福先生」
と劉備に肘でつつかれる。徐庶は猛スピードで抜き差しならぬ立場に置かれ、戦前の殺気だった顔つきの連中に睨み付けられているのである。
(わたしに軍師などつとまるはずがないではないか)
軍略兵法の知識は持っているが、あくまで教養としてである。しかも一度も戦場に立ったことのない身である。
(無茶だ)
と喚きたいところだが、隣にいる劉備が許してくれない。
「軍師は芝居気ありで、けっこう。気負わず実力をお見せ下されよ。ダーッハハハッ」
とはさきに劉備に言われている。劉備にしても本当に徐庶に策を期待しているのかといえば、怪しいところである。だが、劉備の恐ろしいところは本当に徐庶に戦闘指揮のすべてを任せようとしていることである。どうせ負けるのなら初の軍師付きの戦さで負けてみよう。とでも考えているらしい。
「さ単福先生、みなに一声を」
とさらに促された。
徐庶は喉がからからでつばきも出ない。血の気が失せた顔つきである。が、徐庶だって孔明と付き合っているくらいだから、並の男ではない。緊張と困惑が窮まった一瞬、徐庶はついにぶち切れていた。
(勝手にしろ)
と開き直ったというか、鬼が憑《つ》いたというか、
(こうなったら孔明の物真似でもしてやるか)
とある意味最悪の選択をすることに決めていた。
『三国志』を読んでいると徐庶・単福の軍師ぶりが孔明とそっくりであることに気付かされる。同門の友達だからかも知れない。劉備は徐庶こそ臥竜ではないかと疑ったということになっている。
それはいいとして、徐庶は、扇子は持っていないから手をひらひらさせ、孔明の真似を心がけて弁舌爽やかに言った。
「さて軍略にはいささか自信はあるものの、若輩にしてこの軍の軍師の任がつとまるかどうか。まずは仮軍師とでもしていただきましょう。されば劉皇叔のご信任あり、この戦いにわが軍略をおためしいただき、ご満足いただければ真に軍師の座をお与え下さるようお願いつかまつる」
見ると劉備の表情が、おっ、やるな、と変わっていた。
(しめしめ)
「さていまにも新野に曹軍数万が迫り来るよし。だが――」
徐庶は座を見渡してから、
「既にわが胸中に必勝の策あり。曹軍撃滅などいと易きこと」
と言った。
重い声を上げたのは関羽であった。まさに千金の重みのある声とはこのことだろう。
「大言壮語はほどほどにすべきではないか」
「雲長どのは劉皇叔が信じるこのわたしをお信じになられぬというのか」
「そうではない。だが、失礼ながら貴君は戦場を知らぬ。軽々しく撃滅などという言葉を使わぬよう忠告する」
「雲長どの、戦さ片付けて後、その続きを語り合いましょう」
珍しく関羽の顔が赤くなった。
「よかろう。これは長兄の決めたことだ。だが、貴君が長兄の信任を裏切ったときは、覚悟してもらおう」
と巨大な青龍|偃月刀《えんげつとう》をどんと立てる。徐庶は背筋を寒くしたが、なんとかこらえて、
「ご随意に」
と言った。
まずは一場を切り抜けた徐庶である。当然次は作戦を考えねばならない。
有利な点と言えばこの近辺の地形をよく知っているくらいである。にしても、一万対五千ならともかく、十倍する敵なのである。さらに率いる将はベテランの曹仁、李典というから、地の利が生かせる機会すら与えられないかも知れない。何かを仕掛けても大兵が堂々と進んでくれば遮れるものではない。
曹軍撃退に失敗したなら関羽に殺されることになってしまったが、あまり気にしても仕方がない。その前に曹軍に殺される可能性の方が高いのである。
そのうち曹仁と李典の本体は樊城に向かい、呂曠、呂翔が五千の支隊を率いて新野に向かっているという報告が届いた。兵が二分されたのである。曹仁らが劉備軍をあなどったのか、呂兄弟が功を焦ったのか、おそらく後者であろう。曹軍の失策である。徐庶は、
(よし、びびらせて勝つ)
と決めた。関羽、張飛の名は曹操陣営でも鳴り響いており、知らぬ者がない。実際にこの二人と戦場で遭遇した将兵らは風聞を遥かに上回る殺戮マシーンであることを身に染みて知っており、かなり用心している。だが呂兄弟は噂は知っていても、半分ウソだと思っているに違いない。
「呂曠、呂翔は単細胞な武者にすぎず、奇略を用いることもなくただ突っ込んでくるだけでしょう。こちらも応変の奇襲など用いる必要はなく、関、張二将の武威にて十分圧倒できます」
ただ、こじれて乱戦となり兵を失うのが惜しいので、兵法の常道に従って兵を配置し、敵軍に掛かるタイミングを間違えないようにするべきである。徐庶はごく常識的な思案をもって、劉備、関羽、張飛、趙雲を新野郊外の野に布陣させることにした。
「時刻と機会を誤らぬば明日の午《ひる》には済んでおりましょう」
というわけで、翌日その通りになった。
新野の手前で曹軍五千は潰走し、呂曠は趙雲に討たれ、呂翔は張飛に討たれた。この一戦はほとんど関羽と張飛がやったようなもので、新野の俄《にわ》か兵士たちは戦場で閑《とき》の声を上げていただけである。張飛が吠え、関羽が唸るだけで敵兵は浮き足立ち、呂兄弟もパニックに陥ってしまった。想像してもらいたい。百人いようが千人いようが目前に巨大な血に飢えた猛獣があらわれ片っ端から襲い始めたらどうにもたまらないであろう。関羽、張飛とはそういう武将なのである。かれらを軍人とか兵士という人間らしい物差しで計ってはいけない。
崩れた曹軍を、まだあまり名が知られていないが開張に匹敵する豪の者、趙雲子竜がさらに追い立て切り刻み、よろよろと逃げ流れてきた敵兵は劉備が無慈悲に仕留めまくった。劉備軍団久方ぶりの快勝であった。
血の風呂に浸かってきたような張飛が、腰に十幾つも生首をぶら下げて、
「やあ、愉快愉快」
と帰ってきた。死臭となまの血肉の凄まじい臭気を放っている。
「単福郎、見直したぞ。酒も飲めんくせにやるじゃないか」
徐庶は鼻をつまんで身を遠ざけながら、
「ご活躍、お見事でした」
と言った。
呂兄弟に勝てたのは兵数が少なく、また敵が劉備軍のことをよく知らなかったからである。次は曹仁、李典の老巧なコンビが相手であり、兵数も今日の比ではあるまい。かれらは関羽、張飛を知っており、無策におびえて腰を抜かすことはなかろう。
(さてどうしたものか)
しかし次の算段を劉備に諮問されると、かざした手をじっと見つめ、優雅をよそおい、
「お任せあれ」
と爽やかに言っておいた。
その夜は宴会となり、劉備軍幹部はひたすらどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。たかが一勝、しかも弱敵相手の勝利にも夜を徹して喜ぶのが劉備一家のしきたりだ。こういう性癖のせいで何度も虚をつかれて一転敗亡してきた劉備軍であったが、いっこうに改まらないからこそ劉備軍なのである。
徐庶は張飛のからみ酒を断りながら、
(いま夜襲でもうけたらどうするつもりなんだ)
と少々忌々しい。報告によれば曹仁の本軍は現在樊城に駐屯している。
「ところで翼徳どの、曹仁というのはどのような将なのでしょう」
と訊くと、
「曹仁だと。へぼだ、へぼ将。曹操のところにも夏侯惇とか張遼《ちょうりょう》とか楽進《がくしん》とか、まあまあ骨のある奴はいるが、曹仁なんざ最低だな。むかしやつをぶっ殺しかけたことがあるが、ちっ、逃げられたわい。今度会ったら……ぐふふ」
とまったく参考にならない。張飛を振りきって関羽のところへ行った。関羽は、この男も酒量底なしだが、張飛のように乱れることはなく姿勢正しくぐいぐい飲んでいる。
「雲長どのはかつて許都にとどまり、曹公の将領らと御面識があると聞いております。曹仁将軍とはどのような人でしょう」
「さよう。曹仁はさしたる智略というものはないが、度胸胆力にすぐれた武辺者と見え申した」
「では李典将軍は」
「李典はその性慎重にして堅実、学問を好む。守らせたら嫌な男である」
「なるほど」
猪突猛進の曹仁にブレーキ役の李典をつけるというありがちな抜擢であるらしい。
徐庶は劉備の前に進み出た。
「曹仁将軍はいそぎこちらへ向かってくる可能性が高うございます。ご準備を」
「さもあらん。先生にすべて任せる」
無責任なようでも、劉備は、
(この者、拾いものかもしれん)
と思っている。
とにかく偵察を多く出した。皆が楽しく飲んでいるなか徐庶はひとり寂しく知恵を絞らねばならなかった。
曹仁、字《あざな》は子孝《しこう》。およそ三十六歳。
李典、字《あざな》は曼成《まんせい》。およそ三十歳。
いずれも曹操旗揚げの時よりしたがった古参の臣である。だからといって仲がいいとは限らない。
樊城に入った曹仁は呂曠、呂翔の一隊が一瞬にして壊滅したという報告を受け取り、憤激した。
「糞っ、劉備のど腐れ野郎めが。許さん! すぐさま新野を叩き潰して首をさらしてくれん」
と一度脱いだ戎装《じゅうそう》を再び着けはじめた。李典が、
「まあ待て」
と押しとどめた。
今回の出陣は一時的に樊城を奪い、襄陽に襲いかかるふうを見せて劉表の反応を見るためのものであり、恫喝が主目的である。新野の小城に籠もる劉備を一蹴するのはついでである。よって呂兄弟に兵をあずけてやらせてみた。
襄陽は樊城の目と鼻の先である。比べると新野はずいぶん離れている。劉備を叩くのは襄陽を軽く脅かしたその帰り道にでもやればよい。こたびは荊北を占領しに来たのではなく、一種の威力偵察である。樊城の守兵は曹軍来襲を知るや、ほとんど抵抗もせず逃げ降ったから、襄陽も似たようなことになろうと思う。
「劉表やる気なし」
ということはほぼ確かめられた。
李典がそういうことを曹仁に説いても、
「二将を殺され五千もの兵を失ったのだ。たとえ石ころのような相手でも、すぐさま報復しておかぬばつけあがる」
と受け付けない。
「劉備はなかなかのくせものである。それに関羽、張飛という危険きわまりないばけものがついている」
「曼成、臆したか」
「違う。どうしても劉備退治を先にやるというのなら、わが君に報告してからにすべきだ」
「あんな野良犬相手にいちいちそんな必要はない。このわしが直ちに踏みつぶしにゆく」
李典は腐って、
「こたびの主将はおぬしだ。勝手にせい」
そして曹仁は二万五千の兵を率いると即刻新野へ向かった。
万の軍勢を動かすなら、樊城から新野へはたっぷり一日かかる距離があり、逆に樊城―襄陽間なら半日もあれば余裕で到着できる。曹仁が襄陽荒らしを先にしておれば、劉備軍団はどうしようもなかったはずだ。
この時点で徐庶は曹仁の兵数が二万五千であると正確な数を知った。樊城には李典が留守役をしているということだが、曹仁は守兵をほとんど残さず総勢を引き連れている。新野と樊城の間のどこかで二万五千対五千の合戦となるわけであり、綱渡りのような戦さをせねばならぬことに変わりはない。
(野戦は避けたいが、さりとて新野に籠城するも不可)
と徐庶は思って、策を練っている。
翌朝、二日酔い気味の幹部らを前にすると徐庶はもう投げ出したくなった。みな緊張感まるでなし、酔眼どろどろである。そこをこらえて、
「おのおのがた。聞かれよ」
と一人真面目に演技した。夜を徹して宴会していたわけだから、居眠りしているやつもいる。洒落にならない軍紀のなさである。
「なんだぁ。これから一眠りしようっていうのに。酒も飲めんやつが」
と既に張飛の機嫌は最悪だ。
「わが放った物見の報告によれば、曹仁率いる大軍がこちらに急行しておるという。寝ている場合ではない」
「ほんとうか」
と酒臭い息を吐きつけてくる。しゃべるにいちいち虎の尾を踏むような心地であった。
さてここからやさぐれ軍師・単福(こと徐庶、しかも前科あり)の唯一の見せ所ともいうべき活躍が開始されるのである。もちろんあらかじめの決まりで孔明には十も百も及ばないことになっているが、その切れっぷりは只者ではない、と読者に思わせるように書かれている。『三国志』をここまで読んできた読者は、この男が問題の臥竜孔明に違いないと推理するに違いない。少なくともわたしはそうだったし、劉備玄徳も最初、
(単福なる者こそ臥竜ではあるまいか)
という疑惑を抱いていたと書かれている。
単福はあざやかな手並みで曹軍を撃破、寡をもってよく衆を破り、ついでに魔術じみた用兵を披露する。孔明の出盧《しゅつろ》までのワンポイント軍師にしては出来過ぎの仕上がりである。
だがここが難しい。徐庶は、運も味方したとはいえ、
(うまくやりすぎた)
と思った気配が濃厚にある。おいしいところを持っていけたと思ったか、火中の栗を素手で思い切り掴み取ってしまったと思ったか、後者の方の気持ちが大きかったろう。やばいと感じたときはもう劉備軍団に呑みこまれて溶け込まされる寸前である。
そこで徐庶は、ただひたすら朋友の諸葛亮の名を出して、劉備に推挙するしかないのである。「友を売る」ことの心暗さ、つらく苦しいものであろう。しかし命のかかった土壇場に、おのれ可愛さに言わねばならなかった心情を少しはわかってやるべきであろう。
でなければ、
「孔明こそは百年に一人、いや千年に一人出るか出ないかの天下第一の奇士です。わたしが駑馬《どば》であれば孔明は麒麟《きりん》、わたしが寒鴉《かんあ》であれば孔明は鸞鳳《らんほう》であります」
と、いかに友の才を褒め、持ち上げるにしても無責任な言辞は出てこない。でもこれではあまりに嘘臭く、異様すぎてかえって劉備を疑わせてしまうような気がしてならない。
徐庶も徐庶である。
「比べないで、孔明さまと。あたしなんざ千年に一人出るか出ないかのクズでござい。駄馬の糞にもカラスの糞にも劣ります」
と言わんばかりのいじけよう。ここまでおのれを惨めにするようなことを士は言っちゃあおしまいだろう。孔明を劉備に押しつけるのが目的であったとするなら、この悲しい弁舌の意味も分からなくはない。
冷酷なほど客観的に『三国志』をみればどう考えても徐庶は孔明の引き立て役に過ぎず、そのベスト5に入るほどの引き立てっぷりはドラマツルギーの残酷さを厳然と示すものである(引き立て役ベスト1はやはり周瑜あたりになるのか?)。
後の講談師や作家も千年にわたって悪乗りし、さらに徐庶の立場を苦しくしていく。
たとえば曹仁、李典が敗けて帰還し、詳しい報告が曹操の耳に届いたとき、同時に劉備の新軍師単福なる者の名前も耳に入った。
「どこの馬の骨だ?」
と曹操が訊いたかどうか。すかさず程cが言うには、
「単福なる者、思うらくは仮名であり、その正体は穎川の産、おそらく徐庶元直であろうと存ずる」
そして程cはどこで調べたのか知らないが、徐庶の経歴を詳しく語ってきかせた。人材好きの曹操が、徐庶とはどれくらいの才能であるかと問うと、程cは大真面目に、
「それがしが才を一とすれば徐元直の才は十でありましょう」
と答えて、
「ぬうう。それほどの俊邁《しゅんまい》がなおいようとは! ぬかった」
と曹操を口惜しがらせる。
つまりは襄陽でくすぶっていた一人の書生のことを曹操の知恵袋はとうの以前から知っており、その略歴まで暗記していたわけで、しかも人殺しの他はまだ何もしていない男のことを冷静に分析して、自分の十倍の能力があると推定しているのである。程cの能力を知っている者からすればたちの悪い冗談であり、程cが逆説的に徐庶を侮辱しているのだとしか思われなかったろう。もしそんな会話があったならばの話である。
程c、字《あざな》は仲徳《ちゅうとく》。作戦参謀として魏の中枢におりながら八十の天寿を全うした。この一事だけでも程cが端倪《たんげい》してはならない、恐るべき男であったことが分かる。軍師とは鬼畜でなくては務まらぬ仕事にて、畳の上で死ぬこと稀な生き物なのである。
程cの諜報網やおそるべし。単福=徐庶程度の者のことまでかくも細かく知っているのなら、その才、徐庶の百倍、千倍とされる、況《い》わんや孔明をや、といくところであるが、何故かここでは孔明の「こ」の字も出てこないのである。
敵からも味方からも高評価を受けた徐庶であったが、その後いろいろあって出世もせずに隠れてしまうのは恥ずかしかったからか。期待されすぎて駄目になるタイプは歴史の中にもいる。
故にというか、徐庶の鮮やかな手際を見せつけられた後に登場する孔明には当然読者の過大な期待がかかることになる。少々無茶をしても徐庶以上の手並みを見せねばならない。しかも何度も。しかし孔明はプレッシャーに強いたちらしく、その辺は気にしない。ただ徐庶に売られたと知ったときは珍しく激怒するが、裏表の多い男であるから、本気で怒ったのかどうかは分からない。
とにかくこの時の徐庶は孔明はだしの奇策を操り、その堂々たる采配ぶりたるや、まさに偽竜!
徐庶個人にとっては見せ場中の見せ場である。
まず徐庶のやるべきことは、曹仁に宿営させたい地点を測っておき、劉備軍団を先に動かしおくことである。ついてはこちらの兵数は絶対に知られてはならない。知られてしまった場合はゲリラ戦でもするしかないが、誰もそこまでしたくないだろう。移動はなるべく隠密にするが、曹仁が物見を軽視することを願うばかりだ。
徐庶が劉備に、
「曹仁将軍は全軍を率いて来ますれば、こちらは兵を分け、手薄となった樊城を乗っ取るがよろしいでしょう」
と基本案を話した。劉備は、
「ただでさえ少ない兵力をさらに分散するは愚である」
とかなんとか。へんに戦さのくろうとのようなことはまったく言わず、
「してくれ」
と言うだけである。もう任せきりであった。
当時の兵団、急行とか電発とか書かれていても、そんなに速度の早いものではない。ふつう行軍速度は目安としては一日百里(約六〇キロ)以下くらいであった。付加のある歩兵に合わせて部隊全体が進み、軍団の規模が大きくなればなるほど遅くなる。豊臣秀吉の中国大返しみたいなことをやらせれば(中国における城[都市]と城の間隔は小説を読んで想像するより遥かにだだっ広く、山陽―京都間くらいあるのはざらである)、たとえ名将の率いる兵団でも兵が嫌になって崩壊する可能性が高かろう。途中で休憩してめしを食わせてくれるような場所もない。戦国日本とはその行軍距離や戦場の広さは、たいていの場合比較にならないことは頭に入れておくべきである。まあ日本とはスケールが最低でも五倍(根拠薄)くらい違うのである。
『三国志』を読んでいると兵団がちゃきちゃき進んでいるので、なんか近そう、と錯覚させられるわけだが、本場中国人の読者はそうではないだろう。
輜重《しちょう》部隊をながながと連れていないぶん、曹仁の兵は早いほうであった。たちまち(あくまで中国的なたちまちだ)白河を渡河して、新野までおよそ二里の距離に迫った。
徐庶は日を見た。ここらあたりで曹仁軍を止めたい。
劉曹いずれも着陣無し。行軍中の、つまり移動中であり陣形をまだ定めていない曹仁軍の先頭にいきなり趙雲引具す兵三千を突入させた。
趙雲は冀州|常山《じょうざん》の人。はじめ袁紹の家臣の口を断られ公孫|※[#「王+贊」、第3水準1-88-37、unicode74da]《さん》の家臣となった。公孫|※[#「王+贊」、第3水準1-88-37、unicode74da]《さん》が袁紹に亡ぼされた後は流浪無頼の日々を送っていたが、いつの間にか劉備軍団の一員となっていた。官渡大戦のどさくさで、劉備は手勢も無く、また袁紹に睨まれていた頃であり、いいところはまったくなく、苦労するのは分かり切っていたろうに劉備の家臣となった。劉備の人柄に惚れたということになっているが、どのへんの柄に惚れたのかはよく分からない。
この頃三十半ばの趙雲子竜も鬼武者である。劉備軍団のなかで関羽、張飛にタメで口がきけるのは劉備を除けば趙雲くらいのものである。二人の前でつまらない冗談を言ったり、舐めた口をきいたため半死半生の目に遣わされた者は数え切れない。だがさすがに趙雲は一目置かれているから、くだらん駄洒落を吐いても殺されかかったりしなかった。
『三国志』を読むと趙雲は頭の切れる落ち着いた武将のように感じられるが、それはあくまで関羽、張飛と比べてのことである。趙雲がいかに猛り狂って無茶苦茶をやっても、近くに関羽、張飛がいるとどうしたって大人しく見えてしまうのだ。
『三國志』をみても、あっさり、とにかくそつのない男と思われる。関羽、張飛のような失敗をしていないからだが、この二人に比べられれば誰だってそつなく見えよう。だがある意味、得である。たとえば趙雲が一人で二、三十人を突き殺して吠えていても、関羽、張飛が百人を殺して笑っていれば、やはり格下扱いとされてしまう。趙雲は死体の山を前にして、恐れる人に問われれば、
「極道は関張の二兄に習いました」
と、おれなんかまだまだです、という感じで、やや口惜しそうに語るような血みどろの好男子であった。
そういうわけで趙雲の戦闘力は関羽、張飛に劣るどころか、常に二人を超えるべく錬磨しているので、日に日に狂猛である。
ほとんど一騎駆けの勢いで目標に突撃しながら、特注の剛槍を真っ直ぐに突き込んでいった。
「槍をとっては天下無双、左将軍が斬り込み隊長、常山真定の趙雲子竜ここにあり! 曹仁っ、どこにいか!」
先頭の兵は槍に串刺しにされぶん投げられており、趙雲自身は先へ先へ列を縦に引き裂くように突進している。曹仁軍先頭はたちまち壊乱状態となり、そこへ三千の兵が襲いかかるというより、たかっている。
先頭は砕いても、行けども尽きぬ二万人である。趙雲は一人進みすぎて孤軍となりそうになるが、気にもせず暴れ回っている。敵兵のほうが急なことに逃げ腰であった。隊長らの、
「囲め、囲め。敵は一人ぞ、囲んで取れ」
という声が聞こえる。戦さ場の槍の上手は、刺突よりも、複数の敵を槍に巻き込むようにして転がし、返しで仕留めてゆくものである。
「チェーストーッ! デェーイ!」
趙雲の槍の妙技が繰り出されるたびに敵兵五、六人が宙に跳ね上げられ、まるで人混みが炸裂したかのようである。
「キェー、アタタタッ、ヒィー、オチョー!!」
とか怪鳥音を発していたかも知れない。子竜(ドラゴン)だから。槍を引く際に敵兵に石突を当て、翻す際に穂先で刺殺する。
趙雲の周囲では人がぽんぽんと飛び上がっては死んでいく。調子が出てくると槍は撓《しな》りつつ常に回転状態を保ち、普通なら出ないヴーンという低周波振動音が発生する。そうなったら敵兵は槍にわずかに触れただけで手が裂け、天地がひっくり返って叩きつけられていた。
趙雲の名は雲、字が子竜だが、これは雲と竜とが意通して付けられたものだと思われる。竜は淵に潜み、雲を得て天に昇り、神力を発揮する。中華の竜は雲とセットなのである。また竜は竜巻と化して人も家も吹き飛ばしまくる。まことに趙雲の暴れっぶりにふさわしい。孔明の劉備軍入団後、なかでもとくに趙雲が気に入って、すぐに重要な任務を委せたりするようになるが、そのひいきの理由はおそらく趙雲の名前と字が好みだったせいである(のかも知れない)。
進むところ竜巻のように席巻している趙雲はようやく中軍にいる曹仁の姿を認めた。こういうあたりが張飛に冷静者呼ばわりされる点なのだが、別に悪いことではない。
「曹仁を見つけたら、悪口雑言を投げつけ、けなしながら、少しずつ退くように」
というのが徐庶の命令であった。かえり見ると劉備軍の素人兵三千がひどい戦いをしており、無益に傷付きそうであったので、救うべく徐々に後退にはいる。
(槍が泣くわ。まだ刺し足らんが、やむをえまい)
趙雲は曹仁に汚いスラングを浴びせかけながら、ゆるりと退がってゆく。竜巻に手を出せる敵兵もなく、ただ曹仁が遠くで怒り狂っている。
これがもし張飛であれば曹仁を発見するや何もかも忘れて突撃するところである。張飛はそれでいいかも知れないが、ついてきた兵が可哀相である。
先頭部隊をぼろぼろにされた曹仁はいったんは軍を停止させた。趙雲が狂ったように強いとはいえ相手は小勢、兵をまとめ直して退却する敵を追撃するのがセオリーだ。とはいうものの、日暮れが迫っていた。曹仁は、このまま夜を徹して前進攻囲したいところである。
曹仁と喧嘩して腹を立て、樊城に居残るつもりであった李典も、それでは副将としてあまりに無責任と思い、後軍に出動していた。馬を飛ばしてきた李典は曹仁をまた諫めた。
「ここは堅く陣を布《し》き、気を取り直しての新野攻撃をするべきだ」
と提案した。曹仁も
(新野は目と鼻の先。劉玄徳も城を前に布陣するだろう)
と考え、承知した。李典は劉備軍の兵数が想像以上にすくないと看破していたので、陣立てどっしりとすれば負けるはずがないと思っている。
張飛には(根拠すこしあって)へぼ呼ばわりされ、関羽には勇ありて智略なしと評されている曹仁。何を思ったか、ここでかれには似合わない奇陣を張ると決めた。劉備たちに芸の細かいことも出来るのだと見せつけたいもののようである。
「そういう細工をせず、大が小に向かう普通の陣形でよいではないか」
と李典が忠告するが、
「劉備のやからには関、張、趙の突っ込むだけが取り柄の猪武者しかおらん。わしがいくさの妙を見せてくれる」
と曹仁、理を聞こうとしない。
(おぬしとて猪武者だろうに……先刻、趙雲に蹴散らされて罵られ、意地になっているのだな)
李典がなおも意見しようとすると、
「うるさい、曼成。こたびの大将はわしだぞ」
曹仁は口うるさい李典を後陣に下げてしまった。
『三国志』ではここで曹仁は慎重論を述べる李典に業を煮やし、怯懦《きょうだ》の夫《ふ》、裏切り者呼ばわりして即刻斬首しようとするのだが、曹操に任命された者同士、作戦上のことでまさかそこまで争うまい。曹仁の頭足らずを強調しようとする作為である。だがそんなバカに快勝するのは当たり前、と徐庶の手柄もまた一段落ちてしまう。何だか徐庶への二重のいじわるのようでもある。
翌朝、曹仁軍と劉備軍は陣を布き、対峙している。曹仁は陣太鼓を打たせて威勢をあげた。徐庶は戦場の地形を選べた得で、ひどく少ない兵を、わずかに少ない兵に擬装しおおせている。
曹仁の陣は異様というよりとにかく変な形をしていた。劉備と徐庶は丘の上に登り、その陣形を眺めていた。
「初めて見た。なんとも気持ちの悪い陣だな」
と劉備が言うと徐庶は暫しで爽やかに笑った。
「ふ」
と孔明の真似をして口元を掌でおおった。
一見するにヒトデに似た八角形、オクタゴンな形に各部隊が配置されている。まるで上空から見ると判別出来るナスカの地上絵のようなものである。
(少しは狙ったが、曹仁がここまで馬鹿をやってくれるとは)
と徐庶は微笑する。おそらく郭嘉とか荀攸が見たら、泣いて笑って止めるような陣形であり、曹仁はどこかのいんちき兵書でも見て、知的で凄そうだったから、作ってみたのであろう。まあ、劉備軍はそこまで舐められているということでもある。
曹仁は奇態の陣をよほど自慢したかったらしく、軍使まで寄越して、
「わが軍の陣形これあるかな。そちらはご存じかな」
と訊いてきた。劉備が、
「軍師どの、どうなのか」
と徐庶に問うた。劉備は曹仁の陣形がはったりなのか、何か強みがあるのか、少々気味が悪かったのだ。
徐庶は、
「あれは八門金鎖《はちもんきんさ》の陣と申すものです。八門とは休、生、傷、杜、景、死、驚、開であり、まことに恐るべき陣形。曹仁、ただの猪突猛進の武者かと思っていましたが、そうではなかった……」
とわざとらしく驚いて見せ、
「あの陣形の厄介なところは生門、景門、開門より攻め込めば吉、傷門、驚門、休門より攻め入れば被害甚大、杜門、死門より攻め込めば味方は一瞬にして壊滅する、と言われております。曹仁もさるもの、すべての門は完備し、いかにも攻めがたい」
と誰が言ったか知らないがすらすらと答えた。わたしもよく分からないが、方位気学を応用した魔術的陣形であるらしい。
「ほう。それはすごい」
と劉備は、徐庶が何を言っているのかさっぱり分からないので、人ごとのように言い、
「ではわがほうに勝ち目はないのか」
と問うた。
劉備とて、戦さに弱いとはいえ、百戦錬磨の男である。意味の分からない複雑な陣形のほとんどが、非実用的な飾りものか、はったりであることくらい察することが出来る。
ただし非常識な陣形でも奇才の者が操った場合、とんでもない威力を発揮することがあるから要注意なのだ。
(しかしなにしろ曹仁だからな)
何度となく戦場で、また都で顔を合わせたことのある男である。急に奇略使いがうまくなるとも思えない。
「ふふふ、皇叔どの、ご安心めされい。この単福が目にはかの陣にわずかの隙が看《み》てとれております。八門金鎖の陣、ずたずたに破ってご覧に入れましょう」
徐庶が恐れたのは、曹仁が魚鱗《ぎょりん》、鶴翼《かくよく》のオーソドックスな陣形をとり、ただただひた押しに来られることであり、その時のために知恵を振り絞っていたのである。あちこちに兵を伏せさせたりしていたが、その工夫が必要なくなったので、兵のほとんどを集め固めることが出来ている。
(趙雲になるだけ虚仮《こけ》にするよう戦ってきてくれと頼んだのが当たった)
徐庶は各隊に策を授けて、先手攻撃を開始させる。
まずは貫通力に秀でた趙雲に五百の兵を与えて東南の生門に突入させ、西の景門から抜け出させるようにした。
「アチョーッ、トウーッ」
と叫びながら突撃してくる趙雲に、昨日の今日で生門の兵はおぞけをふるった。また皆、曹仁に、わけの分からない陣形を急に取らされたせいで、どう動けばいいのか迷っている。仕方なくてんでばらばらに反撃しているうちに趙雲は八門金鎖の陣を貫き駆け抜けていった。
しかし徐庶もひどいぞ。二万五千の兵陣に五百騎で突っ込ませるなど、正気の沙汰とは思われず、酷い軍師というしかない。
趙雲は、これもあらかじめの指示通り、Uターンすると今度は逆に景門から生門へと縫うべく突撃していく。袈裟を斬り下ろして間髪いれずに逆袈裟を跳ね上げるが如き動きであった。圧倒的な多数とはいえ、さすがに身の危険を感じた敵兵らは八門金鎖の陣の維持などどうでもよいと、身構え直した。
そこに待ってましたとばかりに関羽、張飛の猛獣将の率いる小部隊が曹仁のいる本陣めがけて直進してくる。敵兵らは厚く守るのも忘れ、恐怖に小便を漏らしながら関羽、張飛に抜けかけた腰で向かうしかなかった。ひらめく青龍偃月刀、振り回される蛇矛の前に、悲鳴と怒号、肉が斬れ、骨の砕ける音が絶え間なく響き渡り、秒速五人くらいの割合で人が死んでいった。まさに修羅場。むこうでは趙雲の竜巻殺法が兵士を人形のように跳ね上げていた。
だんだん近付いて来る血煙に、曹仁も、
「これは誤った!」
と、退却を命じるしかなかった。張飛、趙雲は全身べったりの血に酔って震え、
「曹仁であえっ」
「ぶっ殺すぞ、ハゲ」
「逃げるなコラ」
と曹仁を追いながら邪魔な衛兵どもを惨殺しまくった。
関羽は関羽で、庭の雑草を丁寧に一本一本抜くように、一般の兵ではなく隊長クラスの兵を選び探して殺している。関羽はヒラの兵卒は見逃して、えばって命令を叫んでいる、ちょっといい甲《よろい》を着た奴が大嫌いなのだ。
八門金鎖の陣はあえなく壊滅。かくして劉備軍、何故か大勝。何故かもないもので、曹仁が多数に傲り、カッコつけておかしな陣形を作ったことが敗因である。そのせいで二万五千の兵はあちこちでただの兵塊となり、ひびをいれられ砕かれたに過ぎない。曹仁は八門金鎖の陣をやりたかったのならちゃんと演習訓練を繰り返してから実戦に用いるべきであった。しかしそんな陣が本当に実戦で使えるのか? わたしには疑問である。しかし後々孔明がこういう変な奇陣を要所要所で巧みに操ることになる。
敗走に入った曹仁を李典がなんとかフォローして、とどまり反撃した。徐庶は兵が少ない劉備軍に深追いをさせないように命令してある。曹仁、李典は助かったが、多くの兵がちりぢりとなって戦闘継続不可能である。おそらく五千近い兵が殺された。
曹仁は激敗してようやく己を取り戻した。李典にいちおう謝罪した。
「だが、こんなことがあるか。敵はあの下手っぴいの劉備なのだぞ……」
「おそらく、劉玄徳は陣中におそるべき有能の者を雇い入れたに違いない」
とは言ったが李典は、
(阿呆め。貴様のあの愚陣が大失敗のもとだ。どこの誰だろうと少々兵法を知る者なら見かけ倒しと見破るわ)
と思っている。とはいえ、一見おどろおどろしい(だけの)八門金鎖の陣をあまりにもあっさり蹴散らしたのは見事であり、それは気になった。
関羽、張飛、趙雲の面々がいつものように策無しチャンバラをもって攻撃してくれば、これほどの大怪我はしなかったはずだ。急に劉備たちの知能があがり、戦さ上手になったりするとも思えない。やはり助言者がいると思う。
「とにかくここは兵を撤収して樊城に帰るべきだろう。こちらが全軍を率いていると知られれば、空き巣狙いをやられるおそれがある。樊城が心配だ」
全軍引率とはいうが、当然、樊城にわずかな留守部隊は置いてきてある。
敗れたまま退却ということに曹仁はなお納得しかねている。
「こんなざまでは曹公のもとへ戻れぬ。死をかけてでも一太刀浴びせねば」
とうめいた。確かにこのままでは曹操に処罰されかねない敗北である。都の処刑場で死ぬのもこの戦場で死ぬのも同じである。
「今夜夜襲をかければ、劉玄徳も勝って驕っておろうから、あのお調子者に備えはあるまい」
曹仁と劉備軍団は互いに舐めきり合う間柄らしい。
「さっきの鮮やかな手並みを忘れたか。劉備が備えずとも、その謎の軍師が備えておるやもしれん」
「いるとしてもどうせ茶番軍師だろう。ええい、くそ」
話しているうちにまたむかむかしてきた曹仁は、
「そう弱気で疑っておってはどうしようもないぞ。わしは新野を奇襲する。それがもし失敗したなら樊城に帰る」
「やめたほうがいい」
「ええい、ではおぬしはここに居れ」
とまた短気をさらけ出してしまう。
ということで、曹仁のバカがまた徐庶に手柄をあげさせることになる。
「今宵酒宴はやめていただきたい」
と女だ、酒だと喚いている張飛に言った。
「何故だ。自分が飲めんからといって、勝利祝いを邪魔するつもりか」
「曹仁は必ず夜襲をかけてきます」
これまでなら徐庶がこんなことを言っても通じなかったろうが、いまや実績がある。劉備が、
「先生、どう防いだものか」
と問うや、
「既に胸中に策あり」
と徐庶は笑みを含みつつ(懸命の演技である)言った。
徐庶の裡では曹仁夜襲のことは八分二分くらいの読みであった。徐庶は予知能力者でもなく、推察すること神の如しでもなく、一生懸命に考え、勘を頼りに手当てする者である。それでも軍師たる者、何かありそうなときは自信たっぷりに言い切って、しかも根拠や具体的なこと、ニュースソースは曖昧にしてなるべく言わないようにせねばならないというきまりがある(としか思われない)。どうも『三国志』では独特な言い回しの、軍師の話法のようなものがあるようで、それこそこういうことを喋らせたら孔明の右に出る者はいないのだが、なんか不誠実は感じがしてならない。
曹仁が夜襲に来るのなら準備万端整えていればなんとかなる。来なかった場合はそれはそれでよい。だが、そのときは敢えて張飛のサンドバッグになる覚悟をしておかねばなるまい。もし備えずに乱痴気騒ぎをしていれば、劉備軍壊滅は必定、徐庶の生命もそれまでとなりかねない。
(新野が屠城さるるを見るよりも、読みを外した、と自分が責められるほうがまだましだ)
だが、張飛にサンドバッグにされればおそらく死ぬだろうから、もうどうしようもない。
曹仁は二万にまで減った手勢を率いて、ひたひたと新野に向かった。風がやや強くなっており、しかも新野方向から吹いてくる。風音が兵の足音を消してくれる。
(よし)
これは吉だと判断した。
本来夜襲は奇襲であるべきである。それも小勢でやるべきである。気付かれ備えられていればまず失敗する。正攻法ではないゆえに奇¥Pなのである。よって知っている方は、これを撃退できても別にたいしたことではない。
風向きがよければ火を放つのも常套の法で、徐庶や孔明でなくとも、火計が大当たり、というほどのことではない。ただし孔明に限って言えば気象操作の能力があるようだから、好きな方に風を吹かせられて便利である。孔明が火計を得意としているのも、風を操れるからに他ならず、もしそうでないのに放火するのなら無責任の誹りを免れず、味方が炎上するようなことにもなりかねない。
夜もふけて二更――曹仁は鬨の声をあげ、全軍を突撃させた。だが、柵をめぐらせた前陣から突如火の手があがった。
(うぬ、備えられておったか)
それでも軍勢をひかずに突っ込ませるが、右や左も炎上し、かつ、こちら向きに吹く風のため火の手は曹仁の兵を勢いよく焼き始める。そこで既に待機していた趙雲が、
「曹仁、今度こそその首|刎《は》ねあげてくれる」
と、また奇声を発して突入してくる。曹仁の兵らは燃えながら悲鳴を上げて逃げ始めた。
「や、やむをえん! 退却だ」
新野の手前につくった陣所も炎上しており、曹仁は白河まで退却せざるを得ない。岸辺にたどり着くと、
「ぐあははははははは。来たか曹仁、三途の川を渡りやがれ」
張飛が一丈八尺の蛇矛を、血脂の乾く暇もなしとばかりにぶん回して、敵兵両断、血|飛沫《しぶき》をあげながら曹仁に急迫する。張飛の率いた一隊も猛然と襲いかかり、火傷を負って戦意喪失した兵達を殺戮していった。
またしても李典がこれを防ぎ助けつつ、曹仁を舟に乗せ、張飛の猛攻を必死に食い止めるも、舟なく渡りきれない兵士らが次々に溺死させられていった。
曹仁、李典らは命からがら樊城に向かって敗走する。
翌朝、ぼろぼろになった曹仁はやっとのことで樊城にたどり着いた。
「門を開け」
と、嗄《しわが》れた声を上げたが、がぁんと銅鑼《どら》が鳴り響き、城門には劉備の旗が翻っている。
城門が開いてただ一騎、一メートル近い長髯を風になぶらせる関羽が現れた。関羽は徐庶の命で、百騎ほどを率いて前日夕刻に樊城に向けて出発し、わずかに残っていた守備の敵兵を豪声一発で参らせていたのであった。
「樊城はそれがしすでに奪回した。曹仁、武人らしく潔くあきらめよ。それがし一騎討ちを所望せん」
青龍偃月刀をぎらりと光らせる。
李典の手勢が関羽に向かい、虫けらのように撃殺されている間に曹仁は馬を鞭打ち逃走した。関羽の部隊が城から討って出て追撃し、曹仁の人馬は四分五裂して霧消した。
新野から樊城までの道ばたには引き裂かれた死体が無数に転がっており、もう野犬やカラスが群がっている。劉備と徐庶は悠々と樊城に向かう。大量の死骸を見慣れている劉備はともかく、徐庶は、自分が関わったことながら、
(ひどい、ひどすぎる)
とナイーヴにも吐き気を催していた。
劉備は数日樊城に逗留した。民に困ったことはないかと世話を焼き、襄陽から劉表の兵が戻るまでの間を趙雲に一千の兵をあずけて樊城に駐屯させることにした。そう荊州城の劉表に報告の使者を出すと、また新野に帰っていった。徐庶がが如何に皮肉に見ようとしても、否定できない律儀さである。それをごく当たり前のようにやるのが劉備なのであり、故に侠者的で民衆受けがよい。貴族や高官には真似の出来ないところである。
何はともあれ嘘のような大勝である。劉備はこれほど痛快に勝ったのは初めてである。昔、黄巾賊と戦っていたときでも、こうまで勝ったことはない。黄巾の兵は大半が飢えた農民であったが、今回は曹軍の正規兵であり、しかも適当に集まった新野の五千の兵で二万五千を破ったのである。
その後、曹軍に逆襲の動きもなく、劉表からは手厚いねきらいの言葉と贈り物があった。ようやく緊張を解いた劉備軍幹部は祝宴を解禁し、三日も通して馬鹿騒ぎに興じた。徐庶は無理矢理上座に据えられ、劉備に頭を下げられた。
「こたびの戦勝はすべて単福先生のおかげでござる。この備、まことに感服つかまつり、ただただ伏して感謝するのみ」
「いや今回は相手が猪武者の曹仁であったからのことで、曹仁の作戦のおろそかにより、運よく勝ちを拾えたまでのことです」
と徐庶は事実を本心から言った。この程度の戦さにも負けてきたらしい劉備軍首脳の方が問題なのである。
「いやそうではない。先生がおらねばわたしは今頃この祝宴の場ではなく、九泉にて鬼と酒を飲んでいたに違いない。どうか先生、末永くわたしを佐《たす》けでくだされよ」
「そ、それは」
お断りする、と言うか、言えるか、口ごもっているところへ、満面喜色の張飛がやって来て、
「単福郎、いや、軍師どの、おれはもう嬉しくてたまらんのだ。酒も飲めんくせによくぞああまで出来るものだ。尊敬するぞ。軍師どの、これまでの数々の無礼を許してくれよ。これからもガッと頼むぞ。さあ、一献受けてくれ。もう飲めないからといっておぬしを馬鹿にはせん」
とは言いながらも、仕舞いには、
「ええい、こんな盃では駄目だ。名軍師たる者一気飲みだ」
と、無礼に軽くどつきながら、酒瓶を無理矢理口に当て、注ぎ込むのであった。徐庶は張飛の怪力に抵抗できず、急性アルコール中毒死寸前まで呑まされて気を失うのであった。姿勢正しい関羽はそれをほのぼのとした笑みでみつめている――。
さて、ついに軍師を得るの慶事に結束固める劉備主従、しかしてあわれな徐庶の心中や泥酔状態、というところ。さて徐庶の運命や如何に、それは次回にて。
[#改ページ]
孔明、色に溺れて門を閉ざす
この時、曹操は※[#「業+おおざと」、第3水準1-92-83」、unicode9134]《ぎょう》から許都に還っていた。今年に奪った※[#「業+おおざと」、第3水準1-92-83」、unicode9134]《ぎょう》はその重要性から第二首都としての機能を持たされつつある。この以降、曹操の根拠地は※[#「業+おおざと」、第3水準1-92-83」、unicode9134]《ぎょう》となる。
許都に夜を日についで逃げ帰った曹仁と李典は、曹操に平伏してわび、詳しく報告すると、伏して処罰の沙汰を待っていた。だが、カツカツと歩きながら話す曹操はべつに怒りもせず、
「勝敗は兵家の常である」
と、罪を問わなかった。
曹操、字《あざな》は孟徳、後に太祖の廟号をうけ、武皇帝と諡《おくりな》された(よって魏武とよばれたりする)。しかし本人は一度も天子となったことはない。曹操が中国史上屈指の英傑であることは間違いない。
「破格の人」
「超世の傑」
と畏れたたえられる曹操は、その身なり容姿は風采があがらず、身長七尺(約一六一センチ)の小男であった。その能力のほとんどは非常激烈の行動にて表されねば人に知られることがなかったろう。小男で見映えがしないが、戦略の天才であり、かつカリスマ的独裁者であったと聞けばナポレオン、ヒトラーの名が連想されるが、曹操は国家の新ヴィジョンの実現力において、二人を大きく引き離している。
孔明はこんな相手を勝手にライバル視し、しかも戦うことになるわけだが……いや、もう何も言うまい。つらくなるから。
いま曹操の脳中にあるのは、東北方面(冀州、幽州《ゆうしゅう》、并州《へいしゅう》)の戦線であり、この出陣でなんとしても袁熙、袁尚の首をあげ、華北を完全平定したいのである。故袁紹の息子二人は思っていた以上にしたたかであり、ぎりぎりで生命を拾い、しぶとく挑んでくる。この兄弟が生きている限り東北は治まらないであろう。それは天下制覇への王手、荊州、揚州、益州の攻略にいつまでも本腰を入れられないことを意味する。曹操は郭嘉、荀攸らと謀り、東北攻略策に集中し切っていた。前述の通り曹仁、李典の荊州攻めはこの戦略の一環にすぎない。
劉表への脅し、という戦略の第一義は成功している。そしてどうせ一月もせず二人は呼び戻される予定であった。途中、劉備も痛い目に遭わせておけ、というのはついでである。敢えて言えば、どうでもいい局地戦に過ぎない。
だが曹仁はあまりにも負けっぶりがよすぎた。それも五千ほどの兵力しかない劉備に完敗しているのである。恥である。
もし曹仁か李典が戦死していれば曹操もさすがに激怒し捨て置かなかったろう。曹仁が三万の兵のうち三分の二強を失ったのは責めるべき点であり、処罰は必至と幕僚らは思ったが、曹操は、敗戦の奇妙さに不思議がり、面白がっているふうでもある。
曹操と劉備は付き合いが長く、劉備のことはある意味、たとえば関羽や張飛よりもよく知っているつもりである。あの戦さ下手な劉備が、曹仁も上手とはいえないにせよ、かくも完勝をおさめたのは何故なのか。それに興味を引かれる。
曹仁の見栄と短気の失策が敗因であることは明らかだが、それをピタリピタリと読み、スキを突いて来る戦術がこれまでの劉備軍には見られない特徴であった。とはいえこの程度のことは、敢えて評すれば中学生クラスの用兵である。劉備らはそれさえまともに出来なかったから、ほとんど小学校低学年クラス、まったく恐れるに足りぬただの陽気な野郎どもであったわけである。曹軍の将星の中では、術策に乏しい曹仁を大将として派遣したのも、それで十分と思ったからである。そこで訪ねるに李典が、
「なんとか探りましたところ、単福という者が劉玄徳の幕下についた、とは分かったのですが。たぶんこの者の入れ知恵でございましょう」
曹操は、
「単福? 誰だそれは」
と参謀らを返り見た。
そこで『三国志』とは違い、程cではなく襄陽士人リスト作成係の荀ケが答えた。荀ケは今回の曹仁の敗北も、曹操が賈|※[#「言+羽」、第3水準1-92-6、unicode8a61]《く》一人でも参謀として同行させておれば起こり得ない事だったと思う。春秋の筆法に近く言えば、曹操の失策敗戦だといえる。
「単福ですか。そんな者は聞いたこともございません。いるとしても偽名でしょうが、はて」
荀ケは既に頭の中に入っている襄陽人士の表を探している。劉表の股肱である※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越や察瑠ら、地元実力者の類はまずいいとして、他の人材である。
襄陽は荒れた華北とは正反対に文芸学問の一大中心地となっており、劉表の功徳とされている。高名の学者が多く、荊州学と称される主に儒学を形成するまでに至った。うち、劉表側の者の代表は宋忠、王粲《おうさん》といった士であり、反劉表側の代表が※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公、司馬徽の無官在野の士である。
荀ケは、さすがというべきか、
「わたしが思いまするに、新野の劉玄徳に加勢するというのなら、おそらくは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公か、司馬水鏡の弟子筋の者ではないかと」
と絞った。
「ただその中には単福などという名はございませぬ。先刻、聞いておればその単福なる者の軍略を慮るに、それほどのこともなく、曹子孝どののうかつを突かれただけのこと。有才とするにはもう少し手腕を見せてもらわねば」
荀ケのリストには※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統や馬良、徐庶、崔州平の名があったが、このうちの誰かが単福だろうと推測している。
諸葛亮の名は未だ荀ケの採用予定者リストの中にはない。
それというのも孔明は最近活動停止中で、臥竜の宣伝工作もほったらかしにしていたからである。荀ケの耳に「臥竜」孔明のわけの分からない噂は入ったものの、その内容があまりに荒唐無稽過ぎた。いちおう司馬徽の門弟ということだが、よくいる自己顕示欲肥大の駄目人間か、太平道の大賢良師張角のような、新手の新興宗教の仕込みか何かと思って却下した。
これからしばらくの後だが、隆中に籠もって醜い愛妻とべとべとになって暮らす軟弱この上なしの男という評判も聞こえてきて、孔明の名はますます荀ケ、曹操から遠ざかることになるのであった。
曹操ほどの人材狂が、劉備の幕下に入ってから初めて孔明の存在を知ることになるのは『三国志』七不思議(そんなものはない)の一つなのだが、荀ケの手落ちとも言えず、曹操の目の曇りとも言えず、襄陽の人々もあれが奇才とは誰ひとりも(※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公を除く)思っていなかったから仕方がないところか。要するに孔明はこの時点では狂人か、もしくは世捨て同然の変奇郎であって、どこにもその名はあがっていなかったのであった。
まあ今は孔明のことはよい。
「そうか。劉備という男は人を得て調子に乗ると何をやりだすか分からんやつゆえ、その単福は取り上げておいたほうがよかろう。運を奪い意気阻喪させておけばよい。文若《ぶんじゃく》(荀ケの字《あざな》)は、単福の正体を見破り、劉備から離間させるようにし向けておけ」
と曹操は命じた。
「ただ、その単福がまことに能才であったなら、わが陣営に迎えるようにするのだぞ」
「はい、心得ております」
と荀ケが答え、単福についての話題はそれきり終わった。
話は変わって徐庶。
崔州平が仲間と襄陽の酒家で飲んでいると、変わり果てた姿の徐庶が現れた。
「げ、元直、どうしたんだ」
「いや、そのな……」
座り込んでしまった。
さきごろ曹仁を主将とする曹操が樊城を侵し、ここ襄陽も大騒ぎとなった。曹仁が続けて襄陽を襲うという風聞が立ち、逃げる者、覚悟する者、劉表を罵る者、白旗をあげる者、とにかく混乱していた。
だが意外にも新野の客将劉備玄徳があっさりと撃退し、樊城は戻り、襄陽も無事である。
「劉備、なかなかやるじゃん」
と、劉備一党の名声は一回りも二回りも高まっていた。何もせず江陵に籠もっていた劉表には悪評けたたましい。
それから一月、二月と過ぎている。
崔州平は単福こと徐庶が劉備軍団に出入りしており、軍師となって勝たしめたらしいと知っていたから、
「ほう。あの勝ち戦さは元直がやったのか。口だけの男ではなかったな」
と、いくらかやっかみながらも褒めていたのである。
徐庶は全体が痩せて頬はこけ、目の下には隈、酒の飲み過ぎか白目が黄色く濁っている。崔州平は少し声を低くして訊いた。
「おい、どうした。さきの活躍は聞いているぞ。会って詳しい話でも聞きたいと思っていたところだが。病気でもしたのか」
徐庶は弱々しく首を振り、
「母上の機嫌うかがいを口実に、やっと三日のいとまをもらって来たんだ」
と脱走兵かなにかのようにいう。徐庶が劉備軍団を勝利に導いた軍師として、そのうち颯爽と胸を張って現れると思っていた崔州平は、友の窶《やつ》れように驚くよりほかなかった。
崔州平は飲んでいた遊び仲間と別れて徐庶と別の酒家に入った。
「何があったんだ。軍師単福」
「やめてくれ」
徐庶の策が運よく当たりすぎたのが悪かったらしい。あの馬鹿勝ちのせいで徐庶は劉備一党にたてまつられ、劉備には弟子入りしたかのように敬語で話しかけられる始末である。
「いいことじゃないか」
「よくない。おれは曹仁を呪うぞ。あの馬鹿たれめ。ああ、どうしてわたしを破ってくれなんだ……」
その後、劉備が軍事面から内政面まで含めて、徐庶に大改革の事業を押しつけ、任せきったからたまらない。
「その識見智略をもってわが一党を鋼鉄の軍団に変えてくれぬか。頼む、頼むぞ、先生ッ」
と劉備に強烈に迫られて断れず、改革なくして勝利なしのかけ声で、新劉備軍つくりに朝から晩までこき使われているのである。
前にも述べたように劉備軍団の形態は本質的に任侠組織・劉備一家なのであり、それをまともな軍事集団に変えるというのは、いくら劉備に全権を与えられているとはいえ、簡単に出来るものではない。旧式武闘派ヤクザと経済ヤクザで構成された暴力団を短期間で陸軍精鋭部隊に変貌させろと言っているのと同じである。
その上、人口の増えた新野城を建て増しし、今まで放置状態に近かった官庁行政組織もきちんと整えてくれというのだから、もはや人間の限度を超えている。徐庶は粉骨砕身の末、本当に粉骨砕身死しそうである。
この時代、こんな超激務を一人でこなせる人間を捜そうとするなら、それは曹操くらいのものであろうし、(もしかしたら)孔明もやってしまうかも知れない。徐庶は、
(このままでは殺される)
と、脱走を計画する死刑囚のような心境で、それでもけなげに頑張っていたのである。
崔州平は人ごとだと思ってにやついていたが、話を聞くにつれ顔を引きつらせていった。
「一番嫌なのは張翼徳に気に入られてしまったことだ。夕にぐったり疲れ切っているというのに、奴がやってきて毎晩ほとんど徹夜で飲まされるのだ……」
いささか疲れているので、とか断ると、張飛は虎眼を剥いて泣きそうな顔になり、
「おれは単福先生に楽しんでもらい、慰労したいばかりなのに」
と、本当に男泣きに泣くのである。これでは付き合わないわけにもいくまい。酒宴の場に引っ張り出されて、よろよろと目眩しつつ酒を舐めていたら、
「先生、足らんぞ。そのちびちびは何事か」
とがばがば飲まされ、そのうち自分も酔いが回った張飛が例の如く暴れ始め、刃を向けられたり、殴られたり、あやうく死ぬ目に通わされる。それが明け方まで続くのである。徐庶にとり、地獄のような日々であった。徐庶はときどき自殺を考えるという危険な心理状態にまで追い込まれている。
話し終えると徐庶はがくりと気を失って突っ伏した。崔州平は、あわてて背負って、その日は徐庶の自宅に送り届けた。
徐庶は一日死んだように眠り続けた。
その翌日、崔州平が様子を見に来ると、わずかながら血色が戻っていた。
「元直、そんなに嫌なら、逃げればいいではないか。単福は偽名だし、しばらく旅にでも出ていれば」
徐庶は粥を畷りながら、ぶるぶると首を振ったので、溶けた飯粒が崔州平の顔に飛んだ。
「やつらから逃げることは不可能だ。どこに逃げても必ず捕まる」
どうも劉備は単福は偽名で、本名は徐庶と見破っている気配がある。それでも素知らぬ振りをして、
「軍師どの、本日は仕事の手を休め、狩りにでも行こうではござらぬか」
などと気安く誘ってくる。今回、母に顔を見せるための暇乞《いとまご》い、という言い訳を認めてくれたのも、徐庶の家が襄陽にあることを突き止め、知っているからであろう。
劉備の表の顔は献帝の皇叔、後漠の左将軍、豫州牧《よしゅうぼく》、それが劉表の客分として新野に駐在している、というものだが、裏の顔は全国に広がる侠者組織の中親分ほどの格であり、地下社会にも顔が利く。関羽、張飛ともそうで、犯罪を犯したときや戦さに負けたときには地下に潜って匿われたりしてきた。表の顔は福々しい大人だが、いざ裏に回ると侠気一念のチャイニーズ・マフィアの幹部というような人物は中国に少なからずいる。前漢の高祖劉邦などもそのはしりであり、緑林の英雄というやつである。
その情報網、探索力は官憲などより遥かに上で、回状がまわれば必ずどこかで見つけられ、河に浮かんだり、どことも知れぬ山の中に埋められたりと、まことに恐ろしいのである。これらは反政府、犯罪勢力というにはかなり異なるものである。政府高官が使者であったとしてもなんら不思議ではなく、本人も矛盾を感じることがない。そういうものなのだ。幇《パン》≠フ歴史はおそろしく古い。
『三国志』には、いつものように戦さに負けて一騎で逃亡する劉備を、知り合いでもなく、さして事情が分からないにもかかわらず、危険を承知で胸一つで匿う貧しい男のエピソードがある。この男はべつに侠者組織の一員というわけではない。だが侠であることは間違いない。食べる物とて事欠くような男が、劉備の食卓に饗したのはなんと自分の妻を殺して材料にした肉料理であった。わたしには理解しかねる義侠心というしかなく、これを受けて義人とたたえ、
「この恩は決して忘れぬ」
と泣いて逃避行を続ける劉備の心情もまた分からない。
「嫁御を殺してまで……おぬしなんということをするのか!」
と却って怒るか、不気味がって逃げるのが日本人的心情だと思うが、このエピソードは、たとえ虚構であろうと、あくまでた談として読まれてきた。普通の男ですらこのレベルの義侠を発揮するのであり、これがプロの侠者なら、もう自分を殺して喰わせるか、反射的に隣の村を焼き討ちにして食用に四、五人掠ってくるとか、さらなる想像を絶する義侠を見せつけるに違いない。
一方、曹操は董卓の招きを断り逃亡したとき、これも義侠の者であったろう呂伯奢《りょはくしゃ》に匿ってもらうべく訪ねた。呂伯奢は留守だったが、家人はよろこんで曹操を受け容れた。その夜、曹操はその家人が自分を裏切り殺そうとしていると疑い、いきなり八人を惨殺して逃げ出し、道中、帰宅しようとしていた呂伯奢に行き合うや、これもスパッと殺してしまった。そして、
「われ人を裏切ろうとも、人がわれを裏切ることはゆるさぬ」
という名文句を吐いた。けだし曹操の嫌われの始まりはこの話であったのではないか。真相はまた別にあったのかも知れないが、残虐この上ない仕打ちをしたからというより(この乱世、九人殺すくらいなんともない)、侠をないがしろにしたことが最悪なのであり、侠において嫌悪されることになったに違いない。
「曹操に侠なし」
このエピソードさえなければ、曹操はけっこうな人気者となった可能性が高い。
侠を見せるのは理屈ではない。漢《おとこ》の華なのである。侠を見せるために生きているような連中がぞろぞろいるのであって、危なくてしょうがない。かれらにとっての最大の侮辱、わるぐちは、
「お前は侠ではない(ひらたく言えば、恩知らず)」
に尽きると思われる。
徐庶も若い頃、義侠の徒に少し関わったことがあるから、その凄まじさは想像している。城市《まち》の茶店の貧乏くさい婆あなどがその地区の顔役だったりするからひとときの油断もならない。
「逃げるよりも死んだ方がましだよ」
と徐庶は言った。
「では新野で単福を続けるしかなかろう。曹軍がちらほら現れるのだ。いつまでもこのままではあるまい」
「ならば州平、いっしょに新野の仕事を手伝ってくれるか」
と徐庶は哀れっぽく頼んだが、崔州平は言下に、
「それは御免被る」
と力強く言った。
「おぬし、なんと友達甲斐のないやつだ……」
「何を言う。劉玄徳を甘く見たきみの自業自得だろう」
崔州平はしばし考えるふりをすると、
「元直、こんなときこそ頼りになる、かどうか分からないが、とにかく奴がいるではないか」
「あっ」
二人の脳裏に、
「諸葛亮孔明」
の名がくっきりと浮かんでいる。
だが、崔州平はやや首をかしげ気味である。
「でもな、出番だ孔明、と言いたいところなんだが、あいつ、結婚以来隆中に引きこもったままで、まったく出てこず、音沙汰もないのだ。一時は策とやらで迷惑千万なほどうろちょろしてたくせに、一体何があったのか。水鏡先生も少し怒っている」
「黄家の息女と瞬く間に結婚したのは聞いていたが」
「うん。孔明はその妻女に溺れて欄《ただ》れきった生活をしていると、もっぱらの評判だ」
こんな話を最初に冗談交じりに口にしたのは崔州平なのだが、襄陽の人々は、
「孔明ならさもあらん」
と衆議一致で納得してしまい、孔明の信用のなさが情けないほどよく分かる事態である。いったい孔明とはどんな奴だと思われているのか。とにかく孔明が門を閉じて出てこないから、崔州平自身も仕舞いには、
(そうに違いない)
と確信するようになっていた。いい加減な友人である。
劉備に見いだされるまで、
「隆中に俗を避け、庵を結んで、清雅に隠遁を楽しんでいた」
というのが『三国志』の孔明イメージであるが、清雅かどうかは別として、たしかに結婚後の孔明はそんな感じで、あまり表に出てこなくなったのは本当である。
ごくたまに弟の諸葛均が用事で城市《まち》に来るが、人に孔明のことを問われると口を押さえて逃げ出す有様、孔明の自堕落色欲三昧の噂はほぼ事実となりかけていた。
「孔明め、天下に望みがあるとか言ってたくせに、女人にかまけて志を失うとは」
「まあ、待てよ。州平、きみは隆中に行って確かめたのか」
「それは、行ってない。なんか恥ずかしいからな」
「ならばただの憶測ではないか」
「まあ、な。だが聞いた話では門を堅く閉じて面会も断っているというぞ」
「それもきみは見てはいないんだろう。よし、ではこれから臥竜岡に行こうではないか。新婚の祝辞もまだ言っていない」
徐庶にしてみれば孔明は己の境遇を脱する最後の蜘蛛の糸のようなものである。
「きみと同行なら」
と崔州平も訪問に同意した。孔明の新婚生活にすこしは興味もあった。
一縷の希望を得ていくらか元気の出てきた徐庶は、崔州平を引っ張りさっそく隆中に向かった。
この何ヶ月かで一生分のエネルギーを費い果たしてしまった感のある徐庶は、すぐに最初の勢いを失い、隆中への坂道で息を切らせてよれよれになった。仕方なく崔州平が支えてやる。
臥竜岡の門は、孔明が建てたちゃちなものであるが、閉じていた。門扉のせいで屋敷や畑も見えなくなっている。臥竜岡の看板代わりだった丸太は裏返しにされていた。さすがに「もうここは臥竜岡ではありません」と親切な注意書きまではなかったが。
「おい、やっぱり、どうも厳しそうだぞ」
「いやいや、会わねば帰らんぞ」
徐庶は、ふらふらと門に近付き、叩いて必死の声をあげた。
「孔明ー、こうめーい」
としばらく叫んでいると、門の向こうに人が来る気配があった。
「どちら様でしょうか」
と門扉越しに訊かれる。諸葛均の声である。
「おお、均君か。怪しいものではない、わたしだ。徐庶だ。崔州平も一緒だ。久しぶりに孔明の顔を見に来た」
「……」
「友人が訪ねてきたんだ。均君、開けてくれ」
諸葛均は、徐庶も崔州平もよく知っていたが、
「すみません。わたしの一存では通せないのです。少々お待ち下さい。兄上にきいて参ります」
と言って、足音を去らせた。
隆中はなんだか知らないが孔明の閉じた小宇宙と化しているらしい。
「朋友にたいしてもキツイことだ。孔明のやつ、何か途轍もなく悪いことでもしてるんじゃないのか。縁の下に攫《さら》ってきた子供の死骸がごろごろとか」
と崔州平は唾を吐いた。
正午も近く、日が高くなり、影が短くなるまで待たされた末、ようやく門が開かれた。
諸葛均は相変わらずどこかおどおどした態度である。
「お待たせしてすみません。兄が会うそうです。どうぞこちらへ」
と案内する。待たされて腹を立てていた崔州平は、
「けっ、お偉くなったもんだ。何様のつもりだ」
とまた唾を吐いた。
家自体もまた改築したのか、入り口の構えだけはちょっとした宮殿のようになっており、黄色系の装飾が鮮やかである。臥竜の棲む宮殿だから竜宮ではある。だが、臥竜は現在お休み中なので、何宮になっているのかは不明であった。玄関だけは妙に飾り立てられていても、少し回れば農家なので、趣味の悪い変な家としか言いようがない。
客間に通されると内装もまた飾られ、品のない豪華さである。以前のぼろ材木剥き出しの土壁殺風景な部屋を知っている徐庶らは唖然としていた。
そこへ孔明、着物だけは前と変わらず綸巾に鶴|※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《しょう》である。ただ、さらに以前よりも一回りサイズが大きくなった白羽扇を手にして現れた。鶴か白鳥でも捕まえて、作ったもののようだ。
「ああ、久しぶりだな御両君。息災だったかい」
「見りゃあ分かるだろう。お前はどうなのだ」
と崔州平は目を怒らせている。
孔明は、ふ、と口元をほころばせると白羽扇で隠す。それこそ見れば分かるだろうという仕草である。見慣れた仕草だが何故かむかついてならない崔州平であった。
孔明が徐庶に目をやるとひどくげんなりしている。孔明は徐庶に、
「元直……しあわせ?」
とまじめに訊いた。徐庶が何も答えないので、
「あわれな――」
と言って天をあおいだ。
「孔明、朋《とも》あり遠方より来たるというのに、なんだその亦《ま》たふざけたざまは」
と崔州平がきつく言うに、
「きみもしあわせとは無縁のようだな」
と白皙の面を曇らせる。
「朋あり遠方より来たる、か。その御礼にしあわせを見せてやろう。亦た楽しからざらんや」
そして、
「黄氏、黄氏、きてごらん」
と呼ばわった。奥で、はーい、と声がして、
「孔明さま」
まだ着付けの襟元が締まっていないままの黄氏が、楚々とあらわれた。色黒だが頬のほんのり紅《あか》いは、はっきりわかる。野暮なことだが推測するに朝も早くからついさっきまでしあわせに同床していたのに相違ない。
(おお)
と崔州平は思わず心の中で感嘆した。醜女であることは間違いないが、その醜さをおぎなってあまりある艶めいた気品が匂い立つようであった。とにかく色っぽい。
孔明は無礼にも扇子で二人を指して、黄氏に、
「わが朋友の徐元直と悪友の崔州平だよ」
と言った。黄氏はうなじの髪のほつれを繊手《せんしゅ》で撫でつけつつ、
「孔明が妻女の黄氏にございまする」
ふつつかながらと座してお辞儀をした。
だいたいまっとうな士人は妻女を奥に隠してなかなか見せないものであり、それが礼であるが、孔明は違う。いいものは見せびらかしたい主義だ。そっと手を取り隣に坐らせ、黄氏の眸《ひとみ》をやさしく覗き込む。そして、
「しあわせ?」
と訊く。黄氏は、いやだ恥ずかしい、と照れながらも、
「最高にしあわせでございます」
とうれしげに答えるのであった。そして人目もはばからずいちゃいちゃし始め、バカップルぶりを徐庶と崔州平に見せつけた。
諸葛均はもう毎日これを見せつけられているのであり、多感な思春期の少年の心をもみくちゃにされていることは想像に難くない。
「妻あり至近に在る、亦たしあわせならずや」
孔明は二人に向き直り、
「元直、州平、これがしあわせというものだ。よく見てみやげにするがいい」
と言った。
崔州平も徐庶もぽかんとしている。さらにしばらく仲睦まじいところを見せつけて、続きは今夜、とかなんとか囁いてから、
「そうだな。二人とも空腹だろう。黄氏よ、お前の得意なうどんでもゆがいておあげ」
むろん中国にはうどんなど無いが、麺という語は小麦粉を打ってゆでるすべての食べ物のことをいうのであり、つまりは餃子の皮もそうめんもマカロニも麺であって、中国にはうどんに酷似した麹もあるわけだが、わたしはその名前を知らないから敢えてうどんと言っておく。物知らずでごめん。
「はい。でもちょうど小麦粉が切れたところなので、麦から挽かねばなりません。すこし時間がかかります」
「いいよ。どうせこの者たちはヒマだから」
と孔明は勝手なことをほざく。
「ではさっそく」
そうは答えたが黄氏は孔明の隣から動く気配がない。台所に行かなくていいのか。
孔明と黄氏は二人をのけ者にして楽しく語らいあっている。崔州平は、
(うどんを作るといったくせに、立とうともしない。まさか夜まで待たせるつもりか)
とさっきはその醜い美しさに感動したが、いまは、
(根性の悪い怠け女め)
とむっとする。孔明も孔明で、尻の毛まで抜かれたのか、そのことで黄氏に注意しようともしない。
徐庶は疲れもあって呆然としており、崔州平はやたらいらいらしている。しかし黄氏と孔明はにこやかに話し続けである。
「やまぶきの花が咲いていたね」
「ああ、もう、そのような季節ですのね」
とか、客がいるというのにどうでもいい話をしている。
(くそう、孔明め、テメエがしあわせだからといって舐めやがって!)
自分さえよければそれでいいのか(現代日本、どこかでよく聞く言葉だ)!
崔州平は、
「おい、せかすわけではないが、その、うどんはどうなったのだ、ああん?」
と言った。さすが悪友、とげとげしい。
黄氏は、
「あら」
といささか申し訳なさそうに、だが、
「もうそろそろ出来た頃でしょう。お待たせしました」
と言った。
「ええっ、ずっとここにおられたのに、何ができたというのですか」
すると黄氏はにこりと笑う。確かに台所の方からいい匂いが漂ってきている。
孔明は白羽扇をかざして眺め、
「わたしも最初は驚かされたのだが、わが妻は人の手をつかわずに料理をつくる」
と言った。
「そんな馬鹿な」
「ふふふ。では驚かせてやろうか」
孔明は立ち上がり、崔州平と徐庶を台所へ連れて行った。
「げえっ!!」
崔州平は思わず呻いた。台所には木製のからくり装置が組まれており、木人《ぼくじん》がかいがいしく働いていたのである。ガッタン、ガクガク、ゴットンと木属音が鳴り響き、摩擦音が発火を臭わせるようだ。
台上に木枠が組まれ、そのなかに挽き臼が置いてある。臼の取っ手には棒が鎖で取り付けられており、そのすぐ上には大小木製の歯車が何枚も組み合わされて回転し、それが棒に伝わりクランク状に動いて臼を引き回していた。それだけではない。挽かれた小麦は革製の幅広のベルトに載せられて、捏《こ》ね打つための鉢に運ばれていく。次は木製のローラーで平たく伸ばされ、何本かの中華包丁がカタコトといいリズムで落下して麹をうどん状に切断するのである。
『木人の麥《ばく》を斫《き》り、磨《うす》を運《めぐ》らすこと飛ぶが如きを見る』
と云う。木人とは木製の人形、それもこの場合、自動するオートマトンである。
木人が湯の沸騰する釜に束ねた麹を入れ、手でかきまわし、頃合いを見て引き上げることを繰り返していた。
「こ、孔明、これはなんだ」
「見ての通りだ。黄氏が発明した機械である」
カクカク動く木人が、ゆであげられた麹をどんぶりに入れて運んできた。
(奇っ怪至極)
と、度肝を抜かれた崔州平だが、目の前に現実に自動料理装置が稼働しているのである。
「ふふふ、どうだ、うちの責氏は凄いであろう。このからくりでつくれるのは麺だけではないぞ」
と、にやけて自慢する孔明であった。しかし崔州平は、さっきまでの荒れ気も消沈し、
(凄いというより、わが目を疑いたい……凄くおそろしい)
と腰を抜かしそうになっていた。
「黄氏は手先が器用で才智がある」
とは、岳父《がくふ》の黄承彦の売り文句であったが、孔明もそれは手芸、針仕事や筆書のことであろうと思っていた。
だがそれは驚くべき事にロボット制作技術のことであったのだ。普通の男ならいざ知らず、さすが孔明、驚くやら感心するやら褒めるやら、大喜びしたことはいうまでもあるまい。さらに黄氏に愛着を深めたのであった。
『(孔明は)遂に其の妻を拝し、是の術を傳ふるを求め、後、其の制を變《か》へて木牛、流馬を爲《つく》る』
とあって、後々孔明が発明することになるロボット兵器の数々は黄氏の教えにあずかったという。まさにSF! さすが孔明の妻、ただの醜女ではない。内助の功も宇宙的に桁外れである。お母さん、かっこいい!(後の孔明のこども曰く)既に孔明と黄氏は農作業に使用するロボットや、運送用中型自動車を二人でしっぽりと設計中である。
こういうものが歴史に残る孔明の謎の大発明、木牛、流馬(謎なんだからその実態は今に至るも不明)のもととなったのである。
とはいうものの、こんな前代未聞の記述が残っているせいで、黄氏は醜いだけではなく、悪知恵のはたらく、悪役の女ロボット工学博士とか、からくり人形魔女よばわりされかねないという、ある意味ではこれも孔明夫妻を異常者にせんとする呪いの意図のもとに記された可能性もあるのである、というのは言い過ぎだな。しかし当時の人はどこまで孔明を憎めば気が済むのか、南宋のスーパー・ヒール秦檜《しんかい》夫妻の例もあるように、死人に鞭打ち唾吐きかけて飽かず幾百年、中国人民には執念深いところがある。
崔州平と徐庶は、驚きのあまり味もよく分からずうどんを喰うことになった。
(変だ、おかしい、とこれまで半ば冗談でからかって来たが、もう疑いなくおかしくて変だ。とおれは断言する!)
二人にとって孔明はもはや臥竜どころではない、宇宙レベルの変な奴となってしまっていた。
なんというのか、ここで種明かしをするのは気が引けるが、仕方がない。この時代に自動調理装置が存在してもかまわないのだが、科学的にはどうしてもそれを動かすエネルギーが必要であることは言うまでもない。電気は無いのだから、小川の水車を利用して杵をつくとか、風力を利用するとか、そういうものがなければ自動機械も成立しない。永久機関はいかに大宇宙であろうと難しいものである。
ではこの黄氏の調理マシンの動力源は何だったのかといえば、木人であり、その木人はじつは着ぐるみ被り物なのであり、中には汗だくの、あわれな諸葛均が入っていたのであった。諸葛均が機械の動力輪を回し動かして、細かい所は木製手袋を外し、自らの手で調理を進めていたのである。諸葛均のおさんどんの形態が怪しく変わっただけと言える。
人を驚かせるのが大好きな孔明である。一種のミスディレクション・マジックのようなもので、機械に目を奪われていた徐庶たちは、木人の中身のことまで考え至らなかった。さらにそれ以前に、影が薄いせいもあるが、
「均くんが食事に同席しないのはどうしてだ」
ということも、黄氏といちゃつき甚だしくして、思い浮かばせなかった。これぞ孔明の目くらまし、神算鬼謀の詭計なのだと、諸葛均には可哀相だが、言っておくしかあるまい。
まあそれは差し引いても、このような機械を設計、製作するのだから、黄氏の才能はかなりのものであったと言えよう。もしこれを曹操が知ったら、すぐさまスカウトに走ったかも知れぬ。
孔明にうたわせれば、例の戯れうたは、
[#ここから3字下げ]
孔明の嫁選びを真似すべし。
しかし阿承の醜女は一人のみ。
ざまをみろ。
[#ここで字下げ終わり]
とでもなるわけだ。
黄氏は食後すぐに立ち、
「食器洗いくらいはわたしがしないと、嫁として、怠けものと、孔明さまをはずかしめてしまいます。どうかごゆっくり」
と、どんぶりを盆に重ねて台所に入っていった。疲れてへとへとになっている諸葛均に皿洗いまでさせるのは、あまりにわるいと思ってのことである。
さて完全に毒気を抜かれた崔州平と徐庶は、ふたたび先の部屋で孔明を前にしていた。
孔明は、
「しあわせすぎてごめん」
とでも言いたげな表情で、
「まあ、こういうわけだ」
と白羽扇を取りあげ眺めている。崔州平の目には、
「いちおう話をし、めしも食わせてやったのだから、さっさと帰れ、お邪魔虫どもめが」
と言わず語らずに告げているようにも見え、それは被害妄想が過ぎようものである。
隣の徐庶はもう何も言う気力もないといった態である。どうにも哀れすぎる。
情撥した崔州平、これですごすご帰るのは業っ腹だと思い、先ほどのことは悪夢を見たと取り敢えず棚に上げておき、ばんと床を踏みつけるや、
「見損なったぞ孔明!」
諸葛均が聞いたら同意のあまり頭を激しく上下させるであろうせりふを吐いた。
「ん?」
「見損なったと言っておるのだ」
「そんなことをきみに言われる覚えはないが」
「ええい、わからんか」
「夫唱婦随、晴耕雨読、清風明月、精力絶倫のこの孔明、人に後ろ指を指されるようなことは何もしておらぬ」
「違う。過ぐる日、天下に望を馳せ、志を熱く語ったことを忘れたとは言わせんぞ。それがこのざまはなんだ。女人にうつつを抜かし、だらだらとしあわせごっこ、奇天烈きわまる人形ごっこにいり浸るとは! 腐り切ったか臥竜、堕落せんとや諸葛孔明!」
「ああ、そんなことか」
「まずそうだ」
孔明はゆっくり白羽扇を返すと、
「天下はやめた」
とあっさり言った。
「何故!」
「よくよく考えたのだが、つまらなさそうだからだ。今このときこの瞬間すでに楽しきかな、われしあわせなるかな」
あまりの浮世離れ、物言いの脱力ぶりに、今日びの喜劇役者であればコケて床に頭を打ち付けるところだが、崔州平はぐっと踏ん張っている。孔明続けて、
「山中に庵を結び、俗塵を忘れる。この暮らしがわが志に適するかな。くらべて天下がこれ以上にしあわせだとはおもえない」
と言うと、口元を覆った。
「本心か? 本心なのか! 孔明!」
孔明は白羽扇を見つめるのみ。
崔州平は気を支え直してまだ責める。
「ちっ。じゃあ天下はいい。どうせお前なぞ天下のほうから御免と言われるのが関の山だろうからな。情けないのは……ここの元直を見てみろ。生ける屍、人間失格、廃人以下のこの友を見ろ」
そりゃ言い過ぎであろう。
「孔明、この瀕死の男を見てもなんの情も動かないというのか」
孔明、ちらりと徐庶を見やる。ふっと涙で視界がかすむ。
「鳴呼、乱世に生きることがこれほど苦しく辛いことだとは、やはり世間から離れて生きて正解である。……元直よ、無惨なり。なるほどいたましい姿とは思う。さりとてわたしが無理矢理しあわせにしてやることもかなうまい」
「そこだ! そこで止めるな。少しでも惻隠《そくいん》の情がわくというのなら、何故、元直がこうなったか、わけくらい尋ねるのが仁というものだろうが」
『孟子』が記すには、
『惻隠の心無きは、人に非ざるなり』
というから、
「しょうがないな」
と孔明は言い、徐庶に向かって、幼児や重病人にするかの如く、もう嫌味なほどに優しく甘やかすような声で、
「どうしたのだい元直、よければこの孔明にきみの涙のそのわけを話してみなさい」
と訊いた。急に孔明に話の鉾先を向けられた徐庶は、咄嗟に返答できず、
「あう、あう」
と、不用意油断の声しかあげられなかった。孔明は、深く頷き、
「そうか。話したくないのなら、無理強いはすまい。この孔明は州平のような無神経でも、穿鑿《せんさく》好きでもない。敢えて訊くまい」
孔明は崔州平に顔を向け直して、
「州平、誰にだって言いたくないことはあろう」
と言った。
ここに至り、ついに怒りが爆発した崔州平は、
「ええい、わかったわ。貴様のその薄情、腐りきったはらわたがっ。もうお前なぞには頼まん。帰るぞ元直!」
塩州平は立ち上がると、徐庶の後襟を掴んで、引っ立てた。
「あうっ」
怒気荒く崔州平は房を飛び出し、徐庶を引きずるようにして出口に向かった。
止める間もなし。見送る孔明は、やれやれ、といった表情である。黄氏が入ってきて、
「どうなさったのです。激しい怒りのお声が厨房にまで」
とやや心配そうである。
「お前が気にする必要はない。幸うすい者はかくも短気なものなのか」
カルシウムも足りないかも知れない。
「でも、孔明さまのお友達なのでしょう」
「むこうが絶交と言わぬかぎりはな」
「でも……」
確かに孔明、結婚以来とんと外出もせず、孔明の姉、黄家の使いなどの他は、たいていの来客は断り続けである。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公ですら追い返している(あとが恐いが)。働き手に黄氏も加わり、充実した自給自足体制に加えて黄家の差し入れ(農家待望の牛一頭、馬二頭、羊三匹、豚四匹、犬五匹を貰った)がそれを可能にしているのだが、外出する必要がないからといっても、世間から見れば一歩も出ないというのは怪しまれるもとである。
隆中は深山幽谷などではなく、隠遁隠逸の類の棲み家にしては里や城に近すぎる。言うまでもなく世俗な場所であり、少し出歩けば人家があり、物売りとか、道を尋《き》く誰かが訪れるのも当然の地理である。
「差し出口をきくようですが、孔明さまもたまには外出なさり、ご交際はもっとご活発になされたほうが」
「そうか? わたしはお前と一緒にいたいだけなのだが。それで世間から自然に足が遠のき、来客にはよき時を奪われたくなくなる。するとわが非交際癖は黄氏、そなたのせいということになる」
孔明は責めてはいない。囁くように言った。
「まあ」
黄氏はやや頬を染めて、
「でも、せっかくのお友達のご来訪です。つもる話もございましたでしょうに」
「なくもなかったが、さっさと帰ってしまった。何が気に入らぬのか知らないが、余裕のない連中である」
「孔明さまに何か頼み事の筋がおありとお見受けしました」
「よく見た。そなたの言う通りである。だが、あのくらいで帰ったのだから、どうでもいいことなのだろう」
「孔明さま、それはいけません。ご朋友の難儀に黙視するなど。それにわたしのせいで孔明さまが非人情と誹られるのでは、悲しくなってしまいます」
「黄氏はやさしいな」
孔明は、ふ、と微笑むと、
「そうそう、昨日書いた書状があったろう。取ってきてくれないか。それと均を呼んでくれ」
と言った。
一方、ここは襄陽の東郊、司馬徽水鏡先生の家である。崔州平と徐庶が上がり込んでいた。
怒って隆中を出たはいいが、徐庶の、生命に関わるような悩みはいささかも解決していない。もう明日は新野に帰らねばならぬ。いい知恵がない崔州平たちは、恩師の助言を仰ぐべく押し掛けたのであった。
さすがは荊北の名望、水鏡先生の邸宅は、黄承彦の大邸宅ほどではないにしろ、広壮である。門前に豚や鶏を放し飼いにし、何人かの童子が牧している。その書屋にて、既に慨嘆の大声があがっていた。
「情けなし! わたしは今日をかぎりに孔明の奴を見限り申した。水鏡先生、奴の腐れっぶり、その甚だしきをこの目でしかと見て参りました」
とかなんとか、崔州平は水鏡先生に向かってひとしきり孔明の非を鳴らし続けて、はや二刻ちかく(この当時の一刻は現在の十五分にあたる)。崔州平は水鏡先生が言葉を返す間も与えず、嘆き罵りまくっている。
こういうはた迷惑な男はたまにいるわな。肝腎の徐庶は、孔明の妙案という希望も失い、隣でぐったりしていた。
罵り疲れた崔州平がようやく息ついて黙った。水鏡先生はそれまでじっと聞いているだけであった。
「よし、よし」
と、崔州平をあやすように言った。その人を映すこと静まった水面の如し、ということで水鏡の号がある司馬徽である。若い者の血気先足りの無礼くらい反射してしまう。
「水鏡先生も先日、孔明のひどい無沙汰を怒っておいででしたでしょう」
「いや、それほどでもないがな」
水鏡先生も、れいの鳳雛′補を誰かみつくろってくれと依頼されて以来、孔明に会っていないし、連絡もなかった。
(臥竜に対して鳳雛、というのなら考えるまでもない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元、あの男しかおるまいて)
他にも秀才優才はいるが、アクの強さもクセの強さも孔明に勝るとも劣らぬ、張りあう者となれば、やはり※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統しか思い当たらない。第二候補は馬良季常であったが、馬良では孔明の毒気に当てられあっという間におかしくされてしまうであろう。鳳雛≠ヘ才能よりも胆力とどぎつい個性で選ばれたようなものであった。
決めたはいいがその後孔明からの連絡がぷっつりと途絶えたため、
「孔明はいったい何をしとるのかのう」
と、門下の学生に訊いた程度である。しかし常にその心境、凪《な》いだ水面のような水鏡先生がそう言うと、門下生は、
(老師はお怒りだ)
と思ってしまうのもやむを得ぬことであった。
「まあ、孔明も息災ではあるようじゃな。よし、よし」
と崔州平にはこたえた。
水鏡先生は孔明の婚姻に※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公があれこれ関わったらしいとは聞いている。
(徳公のさしがねなら、なんぞひと波乱あったろうな)
ただその後の孔明の臥竜計画停止と、どうにも評判の悪い引き籠もりのことまで※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が読んでいたのかどうかは分からない。
温顔の水鏡先生に崔州平はいらいらして、
「よし、よし、じゃありませんよ、先生。孔明の淫蕩堕落ぶりもさることながら、奇怪なからくりにて人を惑わせる毒婦まで加わる始末。悪鬼魔道の巣窟、嘆かわしいというより、恐ろしきさまでありました」
襄陽の民総出で、魔王魔女を焼き討ちして追い出さねば、と言いかねない口ぶりであった。こういう崔州平の口言がそのうち襄陽の人々にも漏れ伝わって、さらに孔明ばなしが毒々しくなったのに違いない。もはやネガティヴ臥竜伝説は勝手に成長して一人歩きしており、たぶんそのせいで、劉備玄徳以外は、誰も孔明を登用する気を起こさなかったのであろう。
「州平よ、孔明のことは分かったから、もう、よし。その、今だいじな問題というのは、元直のことではないのかな」
と顔色真っ青な徐庶に目をやった。
「あ、いや、そうでした」
お前も人にむかって惻隠の情などと言えないぞ、崔州平。
「で、孔明はなんと言っておったのだ」
「あの腐れ儒者、はんちく外道め、ヒクヒクと痙攣し、今にも死にかかっている元直を見ても薄笑いを浮かべ、おのれの幸福を自慢するのみにて、まったく聞く耳持たず、相談もへったくれもありませんでした」
「では孔明の言葉を聞かずに帰ってきたのだな」
「奴には返事なんかする気はありゃしませんよ。わたしや元直を見下し、嫁自慢三昧、しあわせ見せびらかし、憎らしく嘲笑うばかりでした。なんという酷薄漢か!」
「州平よ、いい加減にしなさい。おぬしもじぶんの欠点をよくわきまえなさい。短気のあまりすぐ人が見えなくなり、弁がみだれあばれる。いかんよ、そんなことでは」
「は、はあ」
「そもそもおぬしとて孔明と付き合い長き者であろう。あれがどういう男か、少しくらいは分かっていように」
「それは、しかし……」
急に恐縮する崔州平であった。
「衷心からの叱声も、度を越せばゆえなき誹謗中傷と疑われ、人に顔を背けられるものじゃ」
野の遺賢、水鏡先生の号は伊達ではない。柔らかく話をしていても、さかった若者を聞き分けよくさせてしまう。これが通用しないのは孔明と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統くらいなものである。
史書に名のある襄陽の若手グループのうち、崔州平は後にどこでどうなったかが分からない。こんな性格ではどこにも仕官できなかったか、職を転々としたか、家業を継いだか、そんなところであろう。徐庶だって劉備軍団を離れた後は、一応は曹操に仕えていたことが判明している。
崔州平は『三國志』に「崔烈《さいれつ》の息子」なんじゃないか、と書かれているが、もし本当であっても、あまり威張れたことではなさそうだ。崔烈は後漢末に司徒にまで昇進した顕官であるわけだが、その地位は霊帝が銭五百万で叩き売りにしていたのを買ったものであった。とにかく家にお金だけはあった銅臭野郎の一人である。その後、長安で李※[#「にんべん+(確−石)」、第4水準2-1-76、unicode5095]《りかく》、郭※[#「さんずい+巳」、第3水準1-86-50、unicode6c5c]《かくし》にたわいもなく殺されてしまったらしい(そのとき崔州平はどうしていたんだか?)。そんなわけだから崔州平は自家について語りたがらないのではとわたしに疑われる次第である。後に孔明は、
「むかし州平から物の得失ということについてしばしば指摘されたものだ」
と語っているが、皮肉に満ちあふれた評言ととってもいいんじゃないのか。
ちょうどその時、庭先に牧童がやってきて、声をかけた。
「あのう。先生」
「なんだね」
「お話中すみません。いま諸葛均さんが来て、わたしにこれを徐元直さまへ、と手渡すと、逃げるように走り去ってしまったのですが……」
と書状を庭から差し上げて水鏡先生に渡した。
司馬徽邸にたまに使いに来る諸葛均は、水鏡先生の家人と顔見知りではある。ただ誰もまともに会話をしたことがない。
「均さんて内気で恥ずかしがり屋?」
と思われているんならまずはよい(んじゃないか)。
「この筆跡は孔明のものじゃな。よし、よし」
「ええっ、なにが書いてあるんです」
崔州平は手を伸ばしてくる。
「これ、はしたない。元直あてじゃぞ。ほら、元直よ、読んでみなさい」
徐庶は痩せた腕を伸ばして受け取り、披いた。
「孔明の書状? しかし、どうして」
と崔州平は首をひねっている。
隆中を辞してそれほど時間は過ぎていない。すると諸葛均は二人が出てから、あまり間をおかず使いに出たに違いない。孔明の命じたことであろう。不思議なのは徐庶たちが水鏡先生の邸にいることが何故分かったのかである。
「そうだ。孔明の奴、反省して詫び状でも書いたのだろう。たぶん均君にわれらを追わせ、人にでも尋ねてわれらがここにいることを知ったのだ。そうに違いない」
すると目を血走らせて書状を読んでいる徐庶が、
「それはちがうようだ……」
と言った。
「何故だ?」
徐庶の顔にわずかに赤みが戻ってきていた。
「これは、詫び状などではない。ついさっき、ほんの束の間のあいだにばたばたと書いたものではない」
内容も長そうである。
「では、どういうことだ。そうだ。尾《つ》けられたのだ。均君はわれらを尾行したのであろう」
「いや。均君が尾行したかどうかは分からないが、この書状は前もって書かれていたものとしか思われない。均君が尾行したとしても、いや、そんなことはないと思うが……」
どじでのろまそうな(失礼)諸葛均に、尾行などというはしっこい仕事は無理ではないのか。
「孔明はわたしたちが隆中からどこに向かうかを知っており、均君に始めから、この邸に行けばわたしたちがいる、と言いつけた、としか、わたしには思えないよ」
と徐庶は言った。
「ふ、ふん。馬鹿なことを。水鏡先生のところに行こうとは、道々急に決めたことだぞ」
「その通りだ……だから、わからないのだ」
徐庶は書状を崔州平に渡した。崔州平も急いで目を通して、
「これは……でも、どうして」
ぽろりと手から落とした。水鏡先生はそれを拾い上げて、一通り読むと、
「よし、よし」
と、何がいいのかは別として、頷いている。
孔明の作文は、これは孔明の文章の特徴だが、キリリと引き締まったおよそ詩的感興がない堅実な文体ながら、たんなる事務文ならず、散文ならず、過剰ともいえる誠意にあふれ、人心に何か熱いものを訴えかけ、また強く感情に迫らせる力がある。暇な人は千古《せんこ》の名文とされる「出師《すいし》の表」でも眺めてみて欲しい。のちのち多くの人士の涙を搾り出させたとされている。なんか固い人だな、と思っても一向にかまわないし、わたしも少しそう思う。
宿敵(孔明の一方的思い込み)の曹操は詩賦を好み、軍旅の中でさえ発想して詠みかつ歌う男であったが、孔明は詩賦をつくったことがあったかどうか。孔明ほどの知識人なら詩を残していても(たとえへたくそであっても)おかしくはない。詩賦は士の志より湧くものである。これもまた詩文を得意とする曹操に対抗して、へそ曲がりな孔明はわざと詩をつくらず、文章にこそ己の志を穿ち込むことにしたのかも知れない。孔明が入手出来た曹操の詩(当時、評判の詩文は筆写され、全土の知識人のもとに届いていた)は、当時においても際だって評価の高いものであった。
(これは詩では曹操にかなわぬ)
と思ったのかも知れない。
徐庶への書状の文章自体は、あの変な男にしては至極まっとうなものであった。ただ内容はやはり孔明であった。意訳というか超訳でいってみよう。
徐庶が読んでいるところだと思ってもらいたい。
「たぶん、口伝てに出来ないと思うので、このような手紙にて失礼させていただこう。そもそもきみ(徐庶)は不真面目な男のくせに、わたし(孔明)のような品行方正真面目な人間の真似をするからそんなことになるのだ。難儀というが、いつものように不真面目にやればよいだけのことである」
挨拶は抜きで、いきなり叱られてしまった。
(お、おれって不真面目か?)
ついで新野での曹仁軍との戦いについて論評があって、詳しいことは省くが、
「ぜんぜんダメ」
とばっさりである。
(勝ったのになんでだよ?)
どうも徐庶が使った火計が気に入らないらしく、正しい火計の使い方、また火計の歴史とその発達のことまで述べてあるが、どうでもいいので省略する。
「今きみは劉玄徳に呑み込まれて半死半生なのであろうが、自ら選んだ主なのだから仕方があるまい。そもそも劉玄徳という人物は一筋縄ではいかぬ者であり、故にこの乱世、領土に立錐の余地もないというのにまだ首がつながっている。そこらの権謀家どもよりもはるかに始末のわるい男である。さらには関雲長、張翼徳の両人は劉玄徳の左右となり三たび小沛《しょうはい》を出で従い、虎牢関《ころうかん》において武勇を天下に鳴り響かせた。関雲長は『春秋左氏伝』を読んで、乱臣賊子の記事に及ぶや怒りを発して人に八つ当たりして殺すほどの正義狂であり、のち顔良《がんりょう》、文醜《ぶんしゅう》の武勲高名のつわものをあっさりと撫で斬りにしたほどの豪傑。張翼徳に至っては、目に一丁字なきとはいえど、かの剛勇呂布と引き分け、酒量は底なしだが乱れあり(過ぎ)、また万軍の中、敵将の首級をあげること嚢中の玉を探るが如し、という前代未聞空前絶後の荒武者である」
(そんなことは言われんでも知っている!)
そもそも孔明は三顧の礼のずっと以前から、劉備たちのことは研究し抜いていた形跡がある。
「そんなわけだから、かの三人、とうていきみに太刀打ちできる相手ではない。最初から相手にしてはならなかったのだ。しかもきみは侠者ごときに恐れをなして足抜けする勇気もない有様のようだ」
(と言われてもな……。侠はホントにこわいんだぞ)
「そこで策というほどのものでもないが、一計を授けよう。要するにきみが相手に出来る程度の相手を相手にすることだ」
(? 誰だよ?)
「ほら、簡雍《かんよう》とか糜竺とか孫乾とか、あまり手を焼かせない股肱がいるではないか」
(うんうん、あれらはそれほど恐くもないしタヌキでもない)
「きみが今ひとりでやっている仕事をかれらにやらせればいいのだ。嫌だとは言わせない。何しろ軍師単福は劉皇叔に全権を委任されているのだから。政治むきのことは簡雍、孫乾に押しつけ、軍事向きのことは糜竺と趙雲に押しつける。それできみは時々見回り、まずいことをしていたら、ねちねちと文句をつけて憂さを晴らし、正せばいいではないか。軍師というものは人に嫌われるすれすれくらいが丁度いいのだ。きみは不真面目にして手を抜きたまえ。さすれば張翼徳に徹夜酒を強いられても、日中に昼寝して体力を養えよう」
(おおっ、確かに!)
「とはいえ、元直、こんな簡単なことも思いつかないとは、わが友として情けない。少し失望したぞ」
(違うって! 張飛のせいで連日二日酔いだったし、精神的に追いつめられていたから、その、頭が回らなかったんだよう)
「まあよい。これできみも実務というものを知ったわけだ。知識だけではうまくゆかぬと分かったろう。向後のこやしとなして、さらにはげみ、母上を喜ばせてやることだ。では今度来るときにはもっとましな相談を持ってきてくれたまえ。孔明しるす」
と、自分も実務などしたことがないくせに偉そうに文章を結んである。
書状を三人とも読み終わった。
「諸葛亮……孔明、何者ぞ」
「まさしく臥竜!」
と感心したりすればいいところだが、そうでもない。
「州平、孔明は隆中に籠もっているんだろう。どうしてこうも新野の事情に詳しいんだ」
と徐庶が言った。まことにその場にいるが如し。
「そんなこと、おれだって知りたいわ」
「孔明のことだ。籠もっているふりして密かに出かけているのかも知れないな」
「いや、それはないと思うが。第一、ちょっと出かけたくらいで、そこまで分かるものか」
徐庶と崔州平はうーん、と腕組みして押し黙ってしまう。
水鏡先生が、
「真人《しんじん》は、戸《こ》を出《いで》ずして天下を知る、というのう」
と言うと、崔州平が、
「孔明のやつ本当にそんなことが出来るんですか」
「いや、わしゃ知らんよ」
「しかし、先生、おそらく前もって書かれたこの書状といい、この邸にわれわれがいると当たりを付けたことといい、なんといえばいいのか、不気味で仕方がありません。先の戦争のことから新野のこと、しかもわたしの悩み事の解決策まで。孔明には、どうしてこのようなことが手に取るように分かっているのでしょう」
「奴のお得意の、うらない、か」
と崔州平が言ってみる。
「馬鹿な」
「そうだ! 均君だ。均君が孔明の命を受けて調べ回り、新野にも変装して入り込み、きみを探っていたのに相違ない」
「均君を間諜に使っているというのか? 均君だけは外出しているようだが、でも信じられんな。どうして均君に新野を探らせねばならんのだ」
ただ確かに占いよりも、諸葛均の諜報といったほうが説明として現実的ではある。
諸葛均スパイ隠密説。これまで誰も提唱したことはないが、孔明出廬後の話者均の影の薄さを考えれば、無いとは言い切れないのでここで提出しておこう。孔明に無理矢理黒装束を着せられて忍者の真似事をやらされている諸葛均の姿が思い浮かぶ。
孔明は、
「まず何らかの方法で徐庶がふらふらと襄陽に帰ってきたことを知り、二、三日中に隆中に来ることくらい予想の内で、来たら喧嘩になることも察知しており(孔明が素直に相談に乗れば喧嘩など起きていないのだが)、しょうがないから予め徐庶への友情の手紙をしたためていた」
ということになる。しかも新野の情勢にやたらと明るい。ともあれ合埋的に考えていては説明できないことが多すぎる。諸葛均を用間と仮定して一時的に納得安心出来ればそれはそれでよい。
だいたい深刻な相談を持ってきた相手を煙に巻いて帰らせ、その後で使者に書状をもたせて良策を献じて驚かせる、というのは孔明のけれんであり、十八番《おはこ》の一つである。何故、いちいちそんなことをするのか誰にも分からない。
孔明が凄腕の道士であるとか超能力者でもない限り(孔明伝説は明らかにこれを肯定しているが)、やはり手品にはタネがあると考えるのが当然であり、やはりあるのであろう。ここで種明かしをしてもいいのだが、『三国志』における孔明はしばしばこういうことばかりしているので、そのたびにいちいち騒いでいては紙数の無駄だし、それこそ孔明の思う壺であろう。孔明は作者のわたしですら眩ます男であるから、タネは読者がそれぞれ好みで考えて明かしてくれればよい。講談師もそこまでは説明しなかったわけだし。
水鏡先生は臥竜計画発起のときからたちまち協力者にされて、そこで孔明の神算鬼謀、奇策縦横の一端を(要するに陰謀と詐術のわざだが、狡賢いでは片付けられぬ、また違うものがある)じかに知らされ、ときに見てきた。よって慣れているからこんなことくらいではいちいち驚かなくなっている。
「よし、よし」
と言うしか感想はないのである。
(孔明の奇策や幻術をすらすらと看破できるのは、おそらく※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公くらいのものであろう。わしには、わずかしか分からん)
ということである。
ところで『三国志』において孔明の真の理解者が果たしてどれだけいたであろう。
数えるほどもいなかったはずである。
むろん孔明の性格思考から政略、軍略、権謀、奇策は、敵味方を問わず、そう簡単に理解されてしまっては困るわけであり、理解されざることが生まれついての宿命のような男ではある。つまりこの稿においても孔明理解はハナから不可能(新たな孔明像に迫るとか、そんなものはまったく念頭に置いていないということである)、もし分かってしまったらこの小説は失敗であり、わたしも困ったことになるのである。なんという恐るべき孤独さか、というしかない。五丈原の戦いのあと、これも『三国志』屈指の鬼謀の士、司馬懿仲達が、死した孔明を讃えて、
「孔明こそは天下の奇才であった」
と評することになった。要するに天下一の異常人である、ということだ。これがお世辞でなかったとすれば、たぶん仲達だけは孔明の説明不可能の異才とそのわけの分からない危険性を理解していたのであろう。持つべきものは分かってくれているライバル。仲達の存在は孔明の孤独を少しは癒してくれていたのではなかろうか。あくまで孔明の心の宿敵は曹操孟徳だったのであり、司馬仲達は、曹操亡き後の心の隙間を埋めてくれるよき遊び相手だったと考えてもいい。
であるが、晋朝の祖たる仲達(ついでに隠れ孔明ファンの陳寿とか)のこの評価が無かったら、孔明の奇才は忘れ去られ、後世、よくても忠義功臣、悪ければ蜀漢の滅亡を早めたバカ政治家、頑固な戦さ下手としか語られることはなかったかも知れぬ。
水鏡先生は孔明が臥竜岡を閉鎖して引き籠もっていることも、これも何かの大仕掛けの準備ではあるまいかと思っており、まあ少しは楽しみにしていたりする。孔明を、やや少しわずかにちょっとは理解している、といってよい。
(そもそものこと、まことに臥竜岡を閉じたのなら、どうして孔明はかくも世間の情報を集めおりしや)
孔明が、
「天下への志を忘れた」
と隆中の門を閉じて、愛妻と愉しみに耽って暮らしているのは、おそらく嘘偽りなく本気なのであろうと思う。しかし、孔明が伏竜であることは間違いのないところである。最初は孔明に臥竜≠フ号を押しつけ宣伝させられたかたちではあるが、水鏡先生は、今は孔明がその名の通りの男であろうと思うようになっている。
(竜は雲を得なければ、天へと駆け上がることはないのだ)
引き続き乱世ではあるが、孔明が見るに今の天下は雲一つない晴天なのであろう。だがら臥竜どころか潜竜となるしかない。
孔明ははじめの動機は暇つぶしのようなつもりだったのか、臥竜計画を発案し、実施しかけていたわけだが、その結果は今のところ『逆』というしかない失敗となっている。それはおそらくまだ雲が湧いていなかったからであろう。孔明自身、それを察したに違いない。
(すると徳公はこの旱魃《かんばつ》が起きそうなほどの天下晴天のなか、それを案じて、孔明にべつな生き甲斐を与えてやったのかな)
それはいずれ※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公にじかに訊いてみたいところである。
一片の雲が生じたとき、孔明はこれもまた嘘偽りなく、どういう形になるかは分からぬが、動き始めるに違いない、と司馬徽水鏡は思っている。
いつの間にか徐庶の面にはうっすら生気が蘇ってきている。さっきまで顔面蒼白、崔州平に死にかけ野郎などとさんざん暴言を吐かれていた徐庶が、風呂上がりの男となっていた。やはり病は気から来るものなのかも知れない。
「くくっ、いろいろ胡散臭いところは山ほどあるが、やはり孔明は友を見捨てるような男ではなかった」
泣かすぜ、孔明、という顔である。
「それに比べて州平、心配してくれたは感謝するが、おぬしは孔明へ悪口雑言を吐くばかりしか能がない」
「やあ、それは、その、まあ許せ。さっきまでの言は三分の二くらいはおれの早とちり、誤りだったから、もう言わぬ。だが孔明だって人が悪いぞ。助ける策は用意していたくせに、ああいう妙にとぼけた態度をとるから」
「いや、孔明はたぶん、本人が言っていた通り、わたしたちにしあわせというものを見せたかったのだろう。あの夫妻、思い起こせば心温まるな」
徐庶、心の重荷が急に軽くなり、孔明信奉者に変わっている。
「きみが短気に怒って席を立ったから、孔明も言えなかったんじゃないのか」
いや、わざわざ手間ヒマをかけて文章をしたためて、後で驚かすように届ける計画性からするに、そうではないと思うが、もう徐庶の中では孔明は善意の男である。疑えばきりがないが、これも孔明の誑《たぶら》かしの術であって、徐庶は思いきり引っかかっているのかも知れない。
「悪かったよ。もう言わんでくれ。仕方がないな、ほんの少しだけだが、罪滅ぼしに軍師単福を手伝いに新野に行ってやる。噂の劉備三兄弟を見てみるのも悪くはない」
と崔州平も軍門に降った様子である。
徐庶の苦悩を解決するなど思案の必要すらないくらい。むしろここまで読み切り事を運ぶが真の弄策だったのか孔明!
問題の大なるものは急転直下解決したらしく、徐庶、崔州平とも面に笑みが浮かぶ。水鏡先生は、
「よし、よし」
と、いつものように言ったのであった。
さて、持つべきものは鬼謀の友、徐元直、孔明の(冷静になってみればたいしたことのない)策にて苦衷を脱し、生きる希望が湧いてきた、というところ。まずは目出度しと言いたいところなれど、これで終わっては面白くないのはまた言わずもがな。それは次回で。
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劉皇叔、危機に遭《あ》いて水鏡《すいきょう》の垂れる釣り針をみる
後に水鏡《すいきょう》先生は、執念深そうな劉備《りゅうび》に目を付けられてしまい、観念してついに出盧《しゅつろ》するであろう孔明《こうめい》を嘆じて、
「臥竜《がりょう》もついに主を得たが、時を得ざるのが、なんとも惜しい」
と言ったとある。これはつまり
「孔明は世に出る時機を間違え、逸した」
ということである。
天下を望まんとする英雄には、天の時、地の利、人の和がなければ結局のところ失敗するという。要件のうち、孔明は既にして一件を失っていたと評されたのは、後の孔明敗亡を読者に薄々予感させておくためのテクニックである。
司馬徽《しばき》は尊敬すべき碩学であり、よく人を鑑《み》抜く者だが、縁起の悪い予言めいたことを言うような人ではない。とはいえ『三国志』では、このような人物はたいてい星を見ることが出来ることになっている。インテリは、皆、うらない好きなのである。
それはともかく、敢えて司馬徽が言っている(言わせている)のはどういうことであろう。
「では、水鏡先生、いつならばよかったのですか」
と訊いたなら、仮定の話だが、
「三、四年くらい前じゃのう」
と答えるんじゃないかとわたしは勝手に思っている。
ただし水鏡先生に、孔明が仕官の最適時を逃したらしいと分かっていたとするなら、孔明ならばもう敏敏《ビンビン》に自ら「時を得ていない」ことを知っていたと考えるのが当然である。
しかし孔明は全篇にわたり、そのような愚痴を言ったためしがない。すると答えは二つである。
孔明は時の不利を知っていたが、敢えて劉備の信に応えて出盧した。決めたならば言い訳をするような男ではない。既にして策あり、その神算鬼謀《しんさんきぼう》をもって時の不利を覆すつもりであった。
もう一つは、逆に、別に不利も不都合もどこにもなく、
「今日は出盧にもってこいの日だ」
とばかりに楽しげに出かけた、ということである。
孔明が隆中に閉じ籠もって、およそ三年。わたし思うに、この三年が、後の歴史的決着を岐《わ》けたに違いない。
へとへとになっていた単福《ぜんふく》こと徐庶《じょしょ》の代わりに、
「きみではあの三人をあつかうのは無理だ」
と、これこそ損得無き友情をもって、
「わたしが新野《しんや》へ行こう」
と言っていたらどうなっていたか。孔明のことだから、いずれ劉備に仕えることを予知していたとしても不思議ではない。ならばそれが今でもよかったろうに。
この小説では孔明のことをなんだか得体の知れない、我儘な、いんちき野郎でもあるかのように、ときに酷い扱いがなされているが(といって、しているのはわたしなんだが)、あやしいわざだけではなく、孔明には卓越した実務能力、経営能力があることは確かである。兄弟たった二人で隆中の農園を万事|疎漏《そろう》なく運営していたことからもそれは明らかである。農業とはなかなか大変なのである。晴耕雨読というと格好もつくが、実のところ農事はそうそう甘っちょろいものではない。雨が降っていてもやらねばならぬことはたくさんある。
「孔明は農業、自然を相手に実務経営のわざを磨いていたから、いきなり劉備軍団の政戦両略を任されても、易々とこなすことができたのだ」
とも言えるのではないか。
若年の上、実務経験皆無の、まったくの初心者ど素人に政戦、とくに内政がすぐにやれるものではない。孔明は、書物はいちおう参考にするとして、ここはやはり農業、宇宙大自然から実地に天下の理を学んで会得したと考えるしかあるまい(ちょっと大げさ)。ついでと言ってはなんだが、愛妻|黄《こう》氏からも、もの凄いことをたくさん学んだに違いないのである。
話を戻せば、孔明が徐庶の代わりに新野に赴いたならば、三年真面目にやれば劉備軍団は経済力、戦闘力とも格段のアップ、荊州《けいしゅう》最強勢力となっていたに違いなく、劉備が如何に嫌がろうが、劉表《りゅうひょう》がねばろうが、自然と荊州の民が劉備を戴くこととなっていた可能性は否定できぬ。のちの曹軍本格来襲の際、ひたすら逃げの一手の劉備軍団に数万を数える民衆が死を覚悟しつつ 自発的に従ったのである。その慕われぶりは劉表などの比ではない。
劉備を孔明が補佐して固めていたとすると荊州|襄陽《じょうよう》は曹操《そうそう》ですらうかつに手を出せないハードな領域と化していたはずである。魏《ぎ》に抗するにも、呉《ご》の孫権《そんけん》など眼中に置く必要もないどころか、うまくすればこき使える。
三年の時間は大きいというしかない。
臥竜、三年眠って天下を逃す。片思いの曹操とだって、三年分余計に戦《つきあ》えたのに。
ただしその三年はじつは孔明にとり不可欠の必要な時間であったのかも知れない。いや、むしろこちらのほうが正しくある。孔明は、まだ、新野に行きたくとも行けなかった、のである。
孔明には三年の間に学び、身につけ、錬磨すべきことがまだ残っていた。孔明とて生まれたときから千年に一人の奇才ではなかった。孔明には奇行奇癖の話はあるが、天才によくありがちな幼少時の神童ばなしがない(『三国志』以外にはある)。竜も己を補い学んで成長しなければならなかったわけである。だからその三年がなかったら、孔明は、『三國志』『三国志』に記された孔明にはなれなかった可能性はある。
とすれば、水鏡先生の嘆のニュアンスはいささか変わってこよう。
「孔明にあと三年の時の余裕があれば、間に合ったろうに」
と。
つまりは劉備は天下を制することが出来たであろう。曹操は王手をかけられぬままに死に、司馬懿《しばい》の台頭はこれも間に合わず、荊州と益州《えきしゅう》を領有する劉備は、これは孔明も計略していたであろう、漢中と襄陽からの同時北上挟撃作戦が可能になる。荊州軍は関羽《かんう》が率い、軍師は孔明、漠中軍は劉備と張飛《ちょうひ》が率い軍師は、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]統《ほうとう》……。
わたしはifSFがあまり好きではないからこれ以上述べないが、要するに孔明の三年は(敢えて遅れといっておく)仕方がなかったとはいえ、それほど大きなものであった。
孔明が臥竜計画をまったく進めていなかった三年間だが、意外なことに、孔明のあずかり知らぬところで勝手に進んでいたりする(とはいえあずかり知らぬことも知っていたりするのもまた孔明である)。
新婚当初はともかく、孔明はときたま旅に出たりするようになった。農作業から解放されたからである。ときどき黄氏も同伴していたから、その仲の睦まじさはますます蜜の味であった。
農業とは季節を問わぬ労働であり、神経も使う。休日などは無きに等しいものである。天候作物に人が従わねばならない。最悪の場合でもない限り、農夫は農地を離れることは出来ないのである。
それが旅行など出来るようになったのは、これまた諸葛均《しょかつきん》のおかげである。
「そろそろ均さんにもお嫁さんを」
というような話が黄氏から出て、孔明の姉も、
「それは是非とも。あの子もいつまでも亮《りょう》のお守りではあまりに可哀相です」
と大賛成したので、さっそく諸葛均の嫁を探すことになった。
孔明のときとは違って、孔明の姉はすぐに相手を見つけることが出来た。しかも良家のお嬢様である。諸葛家に、岳父《がくふ》、黄承彦《こうしょうげん》あり、というのが絶大な効果を発揮したこともあろうが、諸葛均自体は孔明とは違い襄陽の人士に嫌われてもいず、女性陣からも、
「均さんて、ちょっぴり照れ屋で恥ずかしがり、声をかけても赤くなって何も言わないの。ちょっとかわいい」
というような風評がある。遊び人の均さん、ではないと評判なのだ。襄陽には、平和すぎたためか、蕩児ぶった、下心ありありな者が多かったのであろう。孔明のせいでおろおろ癖がつき、うろんな行動をとるようになってしまった諸葛均だが、人生わるいことばかりではない。
諸葛均は『三国志』では孔明出盧のとき、
「わたしが帰るまで農耕怠らず、田畑を荒らすことがないよう注意するのだぞ」
と留守番を命じられていて、以降登場しない。結局孔明は帰らなかったのだから、諸葛均は死ぬまで隆中の畑を耕し続けたということになる。どうも無責任に押しつけられた感じがせぬでもない。
『三國志』では諸葛均も劉備、劉禅《りゅうぜん》に実直に仕え、長水校尉(大隊長クラス)となり、のち※[#「さんずい+(倍−にんべん)」、第3水準1-86-78、unicode6daa]《ふ》の太守となっている。まず悪くはない。
諸葛均の嫁はこれも襄陽の名士|習《しゅう》家のむすめで、例によって名が分からないので、習氏と呼ぶ。
習氏の兄の習禎《しゅうてい》は、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公《ほうとくこう》、司馬徽に学び、その才|※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統に次ぐとまで評された者で、これも劉備に仕えることになる。後世『漢晋春秋』を書いて蜀漢正統論をブチ上げた東晋の習鑿歯《しゅうさくし》は習禎の子孫である。習禎は『三国志』に出てこないところを見ると、孔明とはうまが合わず、かといって対立もせず、おそらく嫌な男だと避けて通っていたのであろう。
諸葛均に結婚話が持ち上がったとき、諸葛均は、
「ひぃっ」
と声を上げて逃げ、家畜小屋に隠れてがたがたと震えていた。孔明の姉が引きずり出そうとするがしがみついた柱から手を離さない。牛が、
「もう」
となく。姉は呆れて言った。
「あんた、何か勘違いしてない? とっても可愛いお嫁さんがきてくれるのよ」
「よ、嫁とは、義姉《あね》上のような、ひとですか」
別に黄氏は諸葛均をいじめたりせず、優しく接している。だが諸葛均にしてみれば奇怪なロボットを次々にこさえて諸葛均に動かさせる、恐い顔の人であった。そんな恐いものがまた一人増えるとすれば、もう生きていたくはない。
(亮にも困りものだったけど、均も問題ね。年々ひどくなる……)
孔明の姉は諸葛均の肩を叩いて、
「大丈夫よ。お嫁さんというのはね、あんたを助けて甲斐甲斐しくて、ほっと安心させてくれる、よいものだから。ほら、亮だって黄氏さんが嫁《き》てくれてからは、昔と違ってずいぶん明るくなったでしょ」
「兄上は、もとから、ああいう人ですから……」
孔明は別に黄氏が来なくてももともと独り楽しそうな男であった。
「もう、じれったいわね」
と、ついど突いてしまい、牛の糞の上に倒れ込む諸葛均。
「ひーん」
と馬も嘶《な》く。
(これ以上情けなくならないうちに、娶《めと》らせなきゃ、嫁のなり手がいなくなるわ)
孔明の姉は諸葛均の意向など無視して、黄氏と協力して婚姻を進めていった。
うまく話も進み、結婚も本決まりとなったとき、孔明が、
「均もついにその妻を得るか。しかしその時を得ざるのが、惜しい」
と意味不明なことを言いながら、
「慶事である。兄としても何かしてやらねばならぬというものだ。婚礼の儀、いっさいをこの孔明が、万端取り仕切り、宇宙一晴れがましいものにしてやろう」
と、結婚式をプロデュースしてやる、と口を挟んできた。そんなことをされては何もかもがぶちこわしになると恐れた孔明の姉は、急いで無断で舅《しゅうと》の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に頼んだのであった。
その後、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、孔明にあったとき、
「ふふん」
と鼻で笑い、
「カッ、婚儀の世話などおのれには百年早いということよ。お前の姉はよう分かっておる」
と大いに嘲った。
孔明は久しぶりに天を仰いでぶわっと泪《なみだ》をこぼしつつ、
「ああ、わが愛弟に恩沢をほどこすこともままならぬとは……。肉親といえども、この孔明の親愛の情探きを理解してくれぬ」
と嘆いた。しかし黄氏に、
「まあ、まあ、あなた。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》公さまはお暇でお寂しいのでしょう。婚儀を仕切ることがお好きのようですから、お任せになればいいのです」
と慰められるとすぐに機嫌を直して、
「さもあらん。年寄りの唯一の愉しみを奪うべきではない」
とけろりと納得し、
「あの老害、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生にも、荊州一くらいの婚儀ならやれるであろう。しかし、宇宙一には遥かに及ばぬだろうな。すまん、均よ、不甲斐ない兄をゆるしてくれ」
と、台所の隅でぶつぶつ何か言っている諸葛均に言った。まあ、孔明にすればわざわざ奇策を弄してまで奪い取るようなことではなかったのであろう。
諸葛均と習氏の婚儀は、これも孔明と黄氏の時とは大違いで、一分の隙もない見事な礼式によりなされ、
「さすがは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公。婚礼に見識あり」
と列席者は囁いたものであった。ただ一人おかんむりな黄承彦がいたのだが。
もう、運命に流されるかのように自分では何一つ決めることもなく結婚した諸葛均であった。が、孔明の姉の見立て通りに、習氏はおとなしくて気だてのよい女で、思いやりがあり、しかもこれまで諸葛均がやらされていた仕事の半分をまめまめしくやってくれるから、
「ど、どうしてこんなに、親切にしてくれるのですか」
と恐る恐るに訊くと、習氏はういういしい顔つきで、
「いやですわ、当たり前のことではありませんか」
と、感謝の辞でいたわってくれている(と思った)夫に、恥ずかしそうに言うのであった。そういうことがあって諸葛均にも、お嫁さんのよさ、とやらが少しずつ分かってゆくのである。よかったな、均くん。
かくして働き者の弟夫婦のおかげで、孔明は、逍遥遊山の旅に出ることが出来るようになったのである。
孔明は天下の情勢を旅先で肌で知ることになった。この時の何度かの旅で頭の中の知識でしかなかった各地の地形気候風俗などが、かなりの部分裏打ちされることになった。
臥竜計両は棚上げ上しているとはいえ、やはり関心事は曹操の動向である。
建安十年(二〇五年)一月、曹操は兵三十万を率いて南皮《なんぴ》に進軍、故|袁紹《えんしょう》の長男|袁譚顕思《えんたんけんし》を撃破し、一族を誅殺した。袁譚は実弟|袁尚《えんしょう》(袁紹の三男)への反感から曹操と同盟関係にあったが、※[#「業+おおざと」、第3水準1-92-83」、unicode9134]《ぎょう》の陥落後、背く気配を見せたので、すかさず討ちのめしたのである。
これに袁尚、袁熙《えんき》(袁紹の次男)らも大いに動揺する。ついにはおのが家臣の叛逆をうけて、幽州《ゆうしゅう》に逃げこまざるを得なくなった。袁氏勢力は消え去り、かくて冀州《きしゅう》は完全に曹操の掌握するところとなった。
曹操は一時兵をやすめて※[#「業+おおざと」、第3水準1-92-83」、unicode9134]《ぎょう》にて政務をみるが、最初から袁尚らを地の果てまでも追いつめる腹づもりである。
「幽州を攻略する」
と宣言した。しかし幽州侵攻には参謀軍師らも賛成しかねた。幽州はほとんど塞外の地であり、烏丸《うがん》と呼ばれる北狄《ほくてき》の盤踞《ばんきょ》するところである。この時期に長城を越えての大遠征は誰が考えても無謀であると思われた。
烏丸(烏桓)は古モンゴル系の遊牧民族で、匈奴《きょうど》から派《わか》れた部族であり(諸説ある)、その剽悍《ひょうかん》精強はよく知られ恐れられていた。袁家は烏丸族と太いパイプがあったから、袁尚、袁熙はその族長の※[#「足+(日/羽)」、第4水準2-89-44、unicode8e4b]頓《とうとん》の保護下にあった。
しかしなみいる軍師の中で、ひとり郭嘉《かくか》のみが北征に賛意を表した。
「今、烏丸は自分たちが遠隔の地にいることに安心して、まさか公(曹操)が来襲するとは思いもしていないでしょう。その油断、無防備こそ狙い目であり、撃滅する大好機であります。袁氏の残党、蛮族を放置したまま南方に軍を転じるならば、必ずや蠢動し、わが冀州を脅かすことになるでしょう」
郭嘉の戦略は将来を見据えたものである。荊州、揚州《ようしゅう》への本格侵攻の前に、少しの不安要素も邪魔者も、あまさず除き叩きのめしておくべきである。郭嘉は曹操の参謀軍師の中で最も苛烈であり、機を見るに敏の天才肌、孫策《そんさく》の死を予言したことでも有名な、勘の鋭い作戦家であった。曹操は、
「郭嘉だけがわが意図をよくわきまえる」
と評しており、
「奉孝《ほうこう》(郭嘉の字《あざな》)の言やよし」
と言って決定とした。
だが曹操の幽州攻撃を聞いた高幹《こうかん》が反乱し、一時延期を余儀なくさせられた。高幹は袁紹の甥であり、さきの※[#「業+おおざと」、第3水準1-92-83」、unicode9134]《ぎょう》落城のとき、曹操に降って并州《へいしゅう》の牧となっていた。このような時、曹操の動きは反射的ともいえる速さである。まず楽進《がくしん》、李典《りてん》を先鋒として出陣させておき、みずからは二十万を率いて并州に向かった。
冀州と并州の間には大行山脈の峻険が横たわっており、行軍は艱難《かんなん》を極めた。しかし曹操はそんな中で突然に詩を湧き出させる男である。題して「苦寒行」という。訳してみる。
[#ここから3字下げ]
北の方、太行山をのぼれば
険しいかな、どうしてこうも高大なるか
坂道は羊の腸のように折れ曲がり
兵車の車輪をくじく
樹木をわたる風はどうしてこうもものさびしいのか
北風の声はまさに悲しい
熊羆《ゆうひ》はわれに向かって身構え
虎豹は道の両側から吠える
渓谷に人はほとんどいない
雪はどうしてこうもしきりに落ちるのか
首をのばしてながく溜息をつき
遠く行きて思うところ多し
[#ここで字下げ終わり]
曹操軍は歌いながら冬の太行を踏破した。
高幹は曹操の大軍のあまりに素早い出現に驚き、壺関《こかん》に籠城したが、攻城三月にして陥落させられた。高幹は北に匈奴の単于《ぜんう》に救援を求めて断られ、南に劉表を頼ろうと逃げ、途中、上洛県の県尉|王※[#「王+炎」、第3水準1-88-13、unicode7430]《おうえん》に捕まり斬首された。
それが建安十一年(二〇六年)、三月のことである。
同年八月には東海の海賊、管承《かんしょう》なる者を征討する。
そして休まず北方遠征にとりかかるのだが、戦《いく》さに飽きぬ男というしかない。
ちなみにこの年、魏に弓引くことになるもう一人の諸葛、名は誕《たん》、字《あざな》は公休《こうきゅう》が生まれている。諸葛誕は孔明の従兄弟であると記されているが、どういう系図からの従兄弟なのかはよく分からない。魏の家臣であり、臥竜孔明の縁者だったというだけでひどい差別やいじめを受ける境遇であったらしい。やはり孔明、いずこでも嫌われ者だったようだ。
「(諸葛氏から)蜀《しょく》はその竜を得、呉はその虎を得、魏はその狗《いぬ》を得る」
竜(孔明)と虎(諸葛|瑾《きん》)はいいのだが、諸葛誕は大司空まで昇ったというのに犬扱いにされているのは哀れというほかない。魏国大将軍司馬|昭《しょう》(司馬懿の次男)に戦いを挑んだのはいいが、あっさり敗北するところを見れば、諸葛だからといって有能でかっこいいとは限らないということだ。
そして運命の年(孔明にとって三顧の礼の年となる)、建安十二年(二〇七年)となる。
一月、劉禅、幼名|阿斗《あと》が誕生する。母親は甘《かん》夫人である。どうでもいいことだが、劉禅の誕生には華々しい神秘現象が起きている。甘夫人がある夜、北斗を呑み込む夢を見たので阿斗と名付けたとか、白鶴が役所に来て四十数回鳴いたとか、産屋に妙なる香りが満ちたとか、小聖人レベルの現象である。なんか凄く期待させられるわけだが、そのわりには三国時代を生き延び天寿を全うしたハッピーさくらいしか誇るものがないのが難点である。これは、凄まじい神秘現象のもとに生まれても駄目な奴は駄目だという歴史的教訓を示すために書かれているのだとしか思われない。
なんの疑いもなく劉禅は劉備の跡継ぎとなっているが、『三国志』では別に子がいたはずなのに、のちまったく語られなくなっている。劉備の妻二人とその子を守るため(という大義があって)、関羽は負けたくせに身の程知らずにもほどがある無茶な要求を飲ませて曹操に降り、その後もなにくれとなく世話を焼いてくれるとっても親切な曹操にさんざん嫌がらせをし続け(このときではないが曹操に美女をおねだりしたこともある)、ときに白馬の戦いで曹操に戦さ働きをさせられ(というか、関羽が人を斬り殺したくてうずうずしていた)、赤兎馬《せきとば》をただでもらい、しまいにはろくに挨拶もせずにぷいと出て行く(ついでに関所の役人を何人も痛快にぶち殺す外道を犯す)恩知らずという他ない所業をしたのではなかったのか。関羽が守った子の行方が書いてある文献があったら教えてもらいたい(ただこの子が女の子であった可能性はある。その場合は『三国志』は女性の権利皆無に近い世界であるから、消息不明のままで致し方あるまい)。
また劉備はこの年に樊城《はんじょう》県令|劉泌《りゅうひつ》の甥の劉封《りゅうほう》を気に入り、臣ではなく養子にしている。劉備の家臣も思ったろうが、まぎらわしいことはやめて欲しいものである。
さて、五月、曹操は大軍を率いて幽州に進軍した。幽州には、遼西《りょうせい》、遼東《りょうとう》、楽浪《らくろう》の三郡があり、袁兄弟を匿う烏丸は遼西にいる。
はるか万里の長城を越えて北方騎馬民族を討つ、というのは歴代中国が抱えてきた難題である。曹操は自ら兵を率いてそれをやろうというのである。この壮挙というか無謀には天下の衆も呆気にとられたに違いなく、必ず失敗するに違いないと見ていたろう。
この時に、劉表でも孫権でも馬騰《ばとう》でも、誰でもいいが、許都《きょと》を襲っていれば曹操は大打撃を受けたはずである。だが誰もそれをしなかったのはひとつには曹操の速さのせいであり、ひとつは曹操が北に敗北してからやるのが最適、と思っていたからである。
北方の民の思考習俗は漢人とおよそ異なり、戦闘力、機動能力から戦法戦術は測りがたいものである。ことに広大な領域を騎馬に操り巧みに駈け、移動は速く、神出鬼没に襲撃してくる点、中華の戦さとは別の物のように違っている。漢人は戦国期から前漢後漢と、幾度か匈奴を代表とする北狄と戦ってきたわけだが、かなわないことが多かったので、長城などを造ることになったのだ。
そんなことは曹操にも十分に分かっていたことである。これもバクチのような遠征であるが、やらずにはいられない。北方進軍はさきの太行山脈越えなどとは比較にならぬ艱難辛苦の連続であった。烏丸との戦いについては、郭嘉が研究し抜き、策を立てていた。
「兵は神速を尊びます。輜重《しちょう》部隊を切り離し、軽装の兵にて急進奇襲を行うべきです」
烏丸族の予想を超えた速さで進むしか勝機はないということだ。
それだけではない。郭嘉は烏丸を降伏せしめた後、烏丸兵を丸抱えにして、南方攻略に転用することまで既に想定していた。
郭嘉の計が当たり、烏丸は撃破され※[#「足+(日/羽)」、第4水準2-89-44、unicode8e4b]《とう》頓は斬首、また※[#「足+(日/羽)」、第4水準2-89-44、unicode8e4b]《とう》頓が集めていた周辺の異民族も曹操に恭順した。いわゆる白狼山《はくろうざん》の戦い、である。
が、第一の目的の袁尚、袁熙はしぶとくもまた落ち延び、遼東太守の公孫康《こうそんこう》のもとへ逃げ込んだ。曹操幕下の猛将どもは追撃を申し出るが、そこで郭嘉はかえって急戦論は述べず、
「遼東を攻める必要なし。しばらくすれば片が付きましょう」
と主張して、皆を不思議がらせた。曹操は頷き、
「まあ見ておれ」
と柳城に兵を休めた。
じきに公孫康から義兄弟の首が送られてきた。公孫康は曹操と戦うことを恐れ、逃げ込んできた窮鳥を見捨て、忠誠を示すべく殺して献じたのである。
かくてその秋、袁尚|顕甫《けんほ》、袁熙|顕奕《けんえき》死して、袁家は途絶えたのである。
一方、郭嘉も軍中にて病み、易州《えきしゅう》に没した。享年三十八。郭嘉はその戦略戦術の思想が曹操に最も近い軍師であった。郭嘉は、江南、荊州、揚州の攻略も既にその知嚢に絵図を書き終えてあった。南方の疫病こそが最大の難敵になろうと予想しており、
「いま南征すれば、公は生きて帰れないでしょう」
と臆することなく進言し、しかし同時に、
「荊州を討つべきです」
とも進言している。郭嘉の裡には既に万全の対策があったのであろう。もし郭嘉が死なず、それが実施されていれば二〇八年以降の戦さ模様はまったく変わったものになっていたかも知れない。
曹操は郭嘉の死にあたって、
「天われを滅ぼせり」
とまで悲嘆にくれ、
「天下のことが終われば、後事は郭嘉に託そうと思っていたのだ」
と語っており、おのが死後に丞相《じょうしょう》にでもするつもりだったらしく、それほどその才を認めていた。のちに曹操が赤壁に大敗したときも、郭嘉を思い出しては嘆いた。
「郭奉孝さえおれば、こんなことにはならなかったろう。哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」
聞かされる荀攸《じゅんゆう》、程c《ていいく》、賈※[#「言+羽」、第3水準1-92-6、unicode8a61]《かく》らは心境複雑であったろう。
確かに惜しい人材を亡くした。もう少し長生きしてくれれば、郭嘉と孔明の対決が見られたかも知れないのに。残念である。
郭嘉の死を嘆いた曹操だが、嘆きながらも南征の準備は怠りなく整えつつある。漢水、長江の水上戦を予想し、玄武池という、池というより湖ほどもある巨大な水練場を完成させている。ここで水軍の養成演習を行うのである。
このとき曹操|孟徳《もうとく》五十四歳。いい年をして、なお戦線を拡大し続け、勝つことばかり考えている戦さ大好き人間であった。スパークする戦さバカというべきか。
ついでに銅雀台の建築も進んでいる。なんか凄い吉兆の建物らしい。しかし、よくもこれだけ戦争三昧のなか、どこからお金が出たのかが不思議でならない。かりに兵らに給料をびた一文払わなかったとしても、めしだけは食わせねばならないのである。お金の根拠はやはり人と農業にある。曹操は重税を搾り取るようなことはしなかったというが、疑わしいことである。
曹操の「わが張長《ちょうりょう》」というよりは、「わが蕭何《しょうか》」に近い内政参謀の荀ケ《じゅんいく》は四苦八苦してのたうち回りながら費用を捻出せねばならなかったろう。のちのち荀ケが曹操に空の茶碗を送られただけで自殺してしまうのは、
「かんべんしてくんなはれ。もうこれ以上、ゼニは出まへん」
と借金を苦にしたからかも知れない。天才良才の悲劇はしばしば経済難から起きる(ゴッホとか、昔の絵描きに多い)。
ともあれこの功あって、建安十三年(二〇八年)、曹操は丞相の位につく。
話を荊州、新野に転じよう。相も変わらず劉備主従は、といきたいところだが、いささか異変が起きようとしていた。
劉備は曹操が烏丸征伐に向かったことを知るや、劉表に許都攻略を進言したのだが、いつものことながら劉表の返事は否であった。劉備ももう落胆する気さえ起きない。しかも劉表、その後、曹操が柳城から凱旋、帰国したとき、
「あのとき劉|皇叔《こうしゅく》の意見を採用しなかったばかりに、大きな機会を逃してしまった」
とほざいたものだから、さしもの劉備も、
(ぶっ殺してやろうか)
と思った。しかし自制して、温顔のままだが、
「今まだ戦乱終わらず、これが最後の機会でもないでしょう。もしも今後、機会を得て応じるならば、まだ残念がることはないでしょう」
とついついドスを利かせて言ってしまった。
(もし次に好機があって、テメエ、それを聞き届けなかったら、その時はどうなるかわかってんだろうな)
と、まあ、こんなうらみが言葉や態度から滲み出して、劉表は殺気を感じたのか、顔を蒼くしていた。
劉備が帰った後、立ち聞きしていた蔡瑁《さいぼう》があらわれた。衝立の向こうには蔡夫人もいる。
「劉玄徳のあの態度、これは捨て置けませんな。新野が盛んなのをいいことに、わが君に対して思い上がっているのです」
と言った。劉表は、
「そんなことはないであろう。それに、劉皇叔の言はもっともであるしな」
劉表も幽州平定を終えた曹操の矛先が、こちらに向こうとしていることが分かっている。それは恐怖そのものの事態である。そのせいか最近体調が悪く、気分がすぐれない日が続いていた。
(もし曹孟徳がわが荊州に軍を進めたなら、わしはどうすればいいのか。果たして戦えようか)
劉表が武事らしきことをしたのはもう随分昔のことである。そもそも劉表は一見学者ふうの人物であり、一軍の将として立つようなタイプではない。良将に任せてなんとかやってきた。
(いまや頼りは劉皇叔しかおらん)
と劉表は考え、いっそ軍権をあずけようかとさえ思い始めている。気が弱っているのだ。曹仁《そうじん》、李典の軍が樊城を襲ったときの目の覚めるような劉備軍団の活躍を見れば、噂のような百戦百敗の愚将とも思われない。
あとは劉表の決断一つである。だが決断できないというその点が劉表の最大の欠点なのであり、またながーくかかって手遅れになりかかるに違いない。しかし、敵影が近辺をちらつくようになったら、それでも遅いのだが、さしもの優柔不断も、ワッと決める可能性はある。
蔡瑁にしてみれば、そんなことをされてはたまらない。劉表の心の動きを読んでいる蔡瑁は、
(荊州を劉備なぞにくれてやるわけにはいかん。飢え犬に、一つでも権を渡せば、あとは雪崩のように奪われるものである)
こうなったら、
(劉備を除くしかない)
と思い定めるのであった。これまでにも劉備と蔡瑁の間にはいくつかのいざこざはあったが、
(謀殺せん)
というところまできたのは、やはり新野の劉備勢力が拡大、意気上がっているからである。
いまや劉備は荊州一の人気者といってもよい有様である。民衆に好まれ、わざわざ新野に移り住む者が後を絶たなくなっている。
(劉|玄徳《げんとく》が謀反気を起こせば、十中八九、荊州はやつのものとなる)
劉備にそんな気が今のところないのは蔡瑁にも分かっている。
(無いうちに討っておくのが上策というもの)
と、謀臣たるものどんな理屈でも後付けでよいのだ。孔明の大好きな「梁父吟《りょうほぎん》」でも、斉の晏嬰《あんえい》がそうしたとうたわれている。
蔡瑁は将軍である※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]越《かいえつ》に策謀を持ちかけた。※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越はあまり気乗りがしない様子である。
「劉玄徳を殺せば人望を失うことになるぞ」
と渋った。※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越は兵をあずかる手前、蔡瑁のように保身策謀、権力遊びばかりもしていられない。曹操が荊州に進出、いざ戦うとなればやはり劉備はいたほうがよい。
また蔡瑁の劉備暗殺の動機が見えすいており、気にくわない。蔡瑁の妹、蔡夫人の子の劉j《りゅうそう》を世継ぎにするのが、目下の蔡瑁とその一党の願いであり、そのためには劉表の長男(蔡夫人の子ではない)劉|g《き》《りゅうき》が邪魔であった。少し前、劉表が相談したとき、
「古《いにし》えより長子を廃して次子を立てるは騒動災厄のもとです」
と助言している劉備はこの意味でも腹立たしく邪魔である。
蔡瑁の権力が高くなりすぎれば※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越とて面白くはない。だが、蔡瑁は、
「すでに内々に殿の命を受けでのことである」
と嘘をついた。
「……主命とあらば、聞くしかないな」
※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越は仕方なく蔡瑁の計に従うことにしたが、乗り気でないことは変わらなかった。
しばらくして新野に使者が来て、劉表名義の書状を届け、口上を述べた。
近年豊作が続いているから、
「荊州の各地方官を襄陽に招いて慰労の宴会を開きたい」
ということであった。ついては、
「劉表が御気色悪いゆえ、ホスト役を劉備に一任したい」
という依頼である。
使者を拝して丁重に送り返した劉備は幹部を一室に集めると書状を見せてこの件の意見を問うた。
「うさんくせぇ。こんなもの、ワナに決まっている」
と張飛が言った。
「そうだろうな、謀のぬしは蔡瑁あたりか」
と関羽も頷いた。孫乾《そんかん》は、
「そうは申せ、襄陽は近く、いかぬならばかえって劉景升《りゅうけいしょう》に疑心を抱かせることになります」
と言う。
「その通り。呼び出しの筋は通ってござれば、断るわけにも参りますまい」
と糜竺《びじく》が言った。
襄陽の宴に行くことは避けられず、決まった。
すると張飛の目がぎらりと光った。毎日、晩から朝の五時頃まで飲んでいる張飛は、いつも午前中は酔っぱらいである。張飛はたぶんアル中患者であったろう。据わった目で、
「ぶっ殺せばいいんだろ」
と物騒なことを当たり前のように言った。
「うちの兵を全員連れて行って、襄陽をぶっ壊しゃあ、いい。蔡瑁の豚野郎はこのおれが嬲《なぶ》り殺しにしてやる」
そしてげへへと笑った。すると趙雲《ちょううん》がさえぎって、
「待たれい、翼徳! そんな楽しいことは、もとい、無茶なことが出来るはずもなかろう。それがしが兵三百を引き具して、殿のご身辺を守り通して見せる」
と言った。
「なんだとう! 子竜、横取りする気か」
あわや乱闘にならんとしたので劉備が、
「子竜に頼もう」
と言ったから、張飛は、ちっと舌打ちして坐った。関羽も、趙雲になら任せられるという顔つきであった。
劉備は部屋の隅でへたばっている男に、
「軍師のご意見も、いただいておきたい」
と言った。徐庶は張飛に付き合わされて飲んでいたから、まだべろべろに近かった。顔つきぼーっとしていて、話をちゃんと聞いていたのかどうか怪しいが、ろれつの回らぬ舌で、
「お任せあれ。既に策あり」
と酔った勢い、自信たっぷりに言った。
「では軍師にお任せいたそう」
と劉備が言って、会議は終わった。劉備は自分の命に関わることでも平然と任せられる男であり、一度任せたらあとは何も言わない。やはり天下を相手にかけずり回ってきただけあって、ず太い胆を持っている。
徐庶は酔いが引いた後で簡雍《かんよう》、糜竺を捕まえて、慌てて子細を聞き直さぬばならなかった。もう劉備軍団の幹部としてどこに出しても恥ずかしくない男になっている。
徐庶は取り敢えず仰天した。
(こんな危険なことを、簡|憲和《けんわ》たちはどうして止めなかったんだ)
憲和は簡雍の字《あざな》である。こたびの襄陽の宴の剣呑さは、罠であること明白で、よく分かっているはずだ。むこうは始めから劉備暗殺のみを目的としているのであり、殺されに行くようなものである。
蔡瑁らは、必ず仕留めるべく必殺の手配をしているはずであり、万事抜かりは無かろう。準備は万端仕上げをご覧《ろう》じろと手ぐすね引いて待っているのである。
美酒美肴には毒が仕込まれているかも知れず、襄陽城にはどれだけの甲兵が伏せられているか分からぬ。趙雲が護衛するといっても、わずかの間でも引き離されてしまえば万事休する。襲い来る白刃の林が劉備をあっという間に膾《なます》にしてしまうであろう。
(獣の檻の中に飛び込むようなものだ)
はっきり言って防ぐ方法はない。孫乾たちを責めたくもなるが、だいたい徐庶もその場にいたのであって、話を聞いていたと言われればそれまでである。痛恨の二日酔いというしかなかった。
(皇叔のお命を守るにはどうすればいいのか)
そもそも虎の穴にのこのこ入っていく方がおかしいのである。軍師の領分としてはそれ以前の問題「如何にして、行かずにすむようにするか」が命題となるのであるが既に遅し。『三国志』は劉備にしばしば窮地を押しつける、飢えた獣のような物語である。
徐庶としては、ほんらい、劉表に多少の疑念を抱かれることになろうと、
「そこなのですが、じつは劉玄徳将軍の謎の病気でふせっておりまして、このたびは失敬いたします」
と使者に言わせればいいだけの話なのである。
劉備の幕僚はそんなことも分からなかったのであり、生真面目にもわがあるじを死地に送ろうとしているのである。劉備軍団幹部はどうしてこうもバカばかりなのか。
「このクソ間抜けどもがぁ!」
と、(自分では言いにくいから)張飛にでも怒鳴って貰いたいところだ。
ともかくもう行くことに決まってしまっている。しかも徐庶は前後不覚であったとはいえ、万事お任せあれと言ってしまっている。いまさらやめましょうとは言えなかった。軍師謀臣として策するに、
(このさい劉皇叔に腐ったものでも食わせ、急遽腹をこわさせてしまおうか)
と思う。今からでも遅くはない。
「急病につき、すみません」
と、そっけない使者を送ればいい。蔡瑁どもが憤慨しようが、それこそあとで考えればいい。生命が先ではないか。
こっそり適度に毒を盛る。劉備の命を守るには、じつは一番手っ取り早い策である。
しかし変なところで義理堅く、約束を守る男である劉備は、強烈な腹痛のさなかでも登城しかぬないと分かっているから、へたに食中毒にもできないのである。ダンディ劉備が下痢嘔吐にのたうち回りながら汚物まみれで斬り殺されるなどという死に様が後世史書に記されるのならばあまりに格好悪すぎるというものだ。
既に策などなかったが、徐庶はあらためて劉備に言上した。
「むかしから宴に好宴なく、会に好会なし、ともうします。かの漠の高祖の鴻門《こうもん》の会のことをお思いくだされよ」
「おう、鴻門の会とな。すると劉景升どのが項羽で、蔡瑁が范増《はんぞう》の役回りか。すると樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25、unicode5672]《はんかい》は子竜ということになるな」
劉備は自らを漢の高祖劉邦に比すところが多かったので、かえって喜んでいる。
「こたびは危険きわまりなき登城になると思われます。そこでここはひとつ伊籍《いせき》どのを頼ってみましょう。伊籍どのに項伯《こうはく》たることを期待いたしましょう」
ここで鴻門の会のことを説明すると長くなるので、興味のある人は『史記』項羽本紀に詳しいから読んで欲しい。
伊籍というのは、字《あざな》は機伯《きはく》、劉表の幕僚である。荊州政府関係者にも劉備びいきの者は少なくないが、伊籍にいたっては心酔しているといってもよい。蔡瑁らから見れば許し難い裏切り者であるが、劉備や孔明に味方するならどんな卑劣な人間でも許されるのがこの世界の決まりである。困った世界だ。
伊籍の話を少々。
劉備の愛馬は的廬《てきろ》という名である。
何年か前、劉備が劉表に頼まれて江夏に暴れる陳孫《ちんそん》、張武《ちょうぶ》を討伐したおり、張武の馬があまりにかっこよかったので、
「あれは千里を走る優駿にちがいない」
と感想を漏らすと、すぐさま趙雲が走り行き、強奪してきた。その馬、確かに名馬であり、額の一辺に白斑があったので名付けて的廬とした。
劉備が帰城すると、的廬を見た劉表が物欲しげにしていたから、
「されば景升どのに献上いたす」
とあっさりくれてやった。劉表が喜んでいたら、※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越がやってきて的廬を鑑定し、
「的廬……このような馬は乗者に祟《たた》りをもたらすものです。わが君はお召しになってはいけません」
とたいした根拠もなく因縁をつけた。劉表は、
(玄徳はわしに災いを及ぼすつもりか)
と的廬を突き返したのであった。
そんなこととは知らぬ劉備は、
「さようですか」
とかえしてもらった的廬にうちまたがり、新野へ向かうべく城門を出たところで、伊籍に呼び止められた。伊籍は、親切のつもりであったのであろう、
「劉将軍、その馬はおやめになったほうがよろしい」
と話しかけた。劉備がわけを訊くと、伊籍は、
「※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越が昨日、殿に、あの的廬なる馬は乗り手に祟る、と申し上げておりました。それが故に返されたのです。それがしも馬を鑑《み》ますが、確かにこの馬、天下にまぎれもないタチの悪い馬であり、げんにこれにうち跨っていた張武は劉将軍に退治されもうした。お控えになるがよかろう」
と忠告した。
「お言葉かたじけない。しかし、死生命あり、といいます。たかが馬一頭に左右されるような命は、この玄徳、持ち合わせておりません」
と劉備が言うと
「さすがは天下に聞こえた劉将軍である。高い見識をお持ちだ」
伊籍は感服して劉備と親交を結んだ。その後、蔡瑁が劉備に害意あることを助言したのも伊籍である。
劉備という人は迷信を信じないというよりも、たんにあまのじゃくなだけなのかも知れない。皆が警告する悪質凶運の馬をわざわざ愛馬とする必要はなかろうに。それか、
「わしは肝が太いぞ」
と人に宣伝したかったのか。
伊籍はそれでいいとして、のちに徐庶が、ちょっといい厄払いの策を思いついたと、
「的廬の害を避けるには、劉皇叔が日頃ぶっ殺してやりてぇとお思いの者にでも乗らせて、そやつが災難に遭ったあとで、おもむろにお乗りになればよろしかろう」
と言ったら、劉備が激怒した。
「カッ、吐き気がするわい。おのが利のために人を生贄《いけにえ》にせよとは正道にもとる! 単福先生が、そんなおぞましい悪知恵を提するとは! 即刻手討ちにいたす!」
すると張飛が、
「よっしゃ。おれにやらせてくれ」
と一丈八尺の蛇矛をひっ掴む始末。
徐庶はあわてて、
「その、いやですなぁ、洒落ですよ洒落。今の策は皇叔の義心を試すための冗談でございます」
と笑って誤魔化したのだが、
(いいとんちを出したのに、クソ。だいたい悪知恵を教えると凄く喜ぶくせに、今のようにたまさかカッコつけて怒ったりするんだよな)
と思ったりしたことがあったとかなかったとか。
的廬は赤兎馬には及ばぬものの『三国志』中でベスト3に入る名馬であろう。後の話になるが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統が劉備と馬を交換して的廬に乗った途端に矢を浴びせられて死んでしまっている。劉備はもしかすると※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統をぶっ殺してやりてぇと思っていたのか。的廬は他人には祟るが劉備には祟らないという、変な忠馬なのである。
そういうことで、伊籍は襄陽で数少ない信頼のおける士人であった。
(伊籍は劉景升の幕客の一人に過ぎない。この件で頼っても、あまり力になるとは思えないが)
と徐庶は思うが、敵中に味方がいないよりはましである。
「つまらぬことでかれをわずらわせたくはない」
と劉備が言ったので、
「劉皇叔のお命が軽くつまらぬものと仰せであるのなら、わたしはもう何も言いますまい」
と徐庶はうやうやしく言う。
「軽くつまらぬ命と言ってしまえば、それまでだが」
劉備はふと遠くをみつめるような目をした。
「来し方を思い起こせばもう何十回も捨てた命である。たまたま運良く今もわが持ち物ではあるが、世にこれほど軽い命もなかろう。まことに、鴻毛《こうもう》の軽さに致す、っていうんだったか? ともかく軽い軽い、軽くて死にそうなほどだ」
すると簡雍、糜竺らが、
「わが君! そのようなことを言ってくださいますな。わが君のお命が鴻毛の軽さなら、わたしの命など、雀の羽毛よりも軽うございます」
「いや雀の羽根はまだまだ重い。わたしなぞは青蠅の羽根の軽さでござる」
「ならば拙者は蚊の羽根じゃあ」
と、己の命の軽さ自慢を始めるのであった。
そこで劉備が、
「待たんか、おぬしら!」
と身を乗り出し、
「命の軽しといえども、おぬしらのは所詮は一人の命の軽さであろう。わしは違う」
と猿のように長い手でわが胸を打った。
「わが命の軽きは天下のためであり、一人の軽さではない。困窮している民草が増えれば増えるほどわが命は軽くなるのだ。ああ、天下に清平をもたらし、一度でよいから普通のおもさの命を持ってみたいものよ……」
と、「天下一軽い命を持つ男」劉備玄徳は怪しい理屈を激白しつつ、目尻に光るものを溜めるのであった。
「わが君!」
「わが君っ」
「一生ついていきますッ」
と、幹部連中の声が掛かり(ここの「わが君」は「いよっ親分ッ」というに近い)、張飛もまた感極まっており、
「さすがは兄者、命が軽いにもほどがありやがる、グシッ」
と涙と鼻水を垂らしている。関羽までもがもともと赤い顔を赤くして、目を潤ませて声には出さず、何度も頷いている。どうにも劉備には、
「この人のためにならば」
と男を決意させる、芝居以上の何かがある。
かの「桃園の結誓」以来のことだが、劉備は芝居がかったことを自然にこなし、ときどき本気になってしまったりして、おおいに己に気合を入れ直すのである。そんなことだから『三国志』でさんざんネタにされてしまうのだ。もう、徐庶も慣れて、最初は馬鹿馬鹿しいと思っていたが、近頃は愉しみというか、劉備、関羽、張飛のけれんに満ちたコントにやみつきになってしまっている。
家臣一同も、劉備の見得切りを見たいがために、わざとのって来そうなせりふを吐いて、劉備の大言壮語を引き出そうとしたりして遊ぶのである。
徐庶は、劉備の見得をしばし味わってから、
「ともあれ皇叔、伊籍どのを頼るべきです。わが君に頼られたと知ったら、かれとて名誉に思い、大喜びで張り切ってくれましょう」
と言った。
「喜んでくれるか。ならば頼むのも悪くはない」
「そうしてください。伊籍どのが味方してくれるならば、子竜どのの厳警にも匹敵いたします」
そして伊籍に極秘に使者を送ったのであった。
徐庶は、
(わたしにはこれ以上に打つ手はない……あとは運だが、劉皇叔は悪運だけはお強いから、それに期待するしかあるまい)
と徐庶、はじめから強運僥倖をあてにするとは、軍師として失格である。
(しかし、もし孔明がここにいたなら、もっといい策を出すであろうか。いや、いくらなんでも無理だろう)
いや、わたしが思うに、孔明なら、あっと驚く傑策を出していたに違いない。
さて宴の前日、劉備は趙雲引き具す兵三百とともに襄陽に向かった。
城門で蔡瑁が手揉みせんばかりの笑顔で迎え、劉|g《き》、劉|j《そう》の二公子も文武百官をしたがえて出迎えに並んだ。その中に伊籍の顔もある。劉備はいい気分で丁重に礼を返す。館舎に案内された。
館舎に入ると劉備は剛胆にも(呑気なだけかも)衣服を緩め、茶を運んできた女官のお尻を触るなどの悪質なセクハラ行為にいそしんだ。新野には二人の女房がいるから、なかなか浮気も出来ないのである。すぐに劉|g《き》、劉|j《そう》が挨拶に来なかったら、嫌がる女官をベッドに押し倒していたところだ。劉備に限らず昔から王とか政治家は女性に対してお戯れが過ぎるものであって、性的迷惑行為は、ある意味、英雄行為である。
まだ若い劉|g《き》らが顔を赤らめてコホンと咳をすると劉備は舌打ちして女を解放した。
「このたびは父の持病の悪化のため、代わりに主人役として各地の役人の接待をしていただきたく、わざわざ皇叔にお越しいただいたのです。よろしくお願いつかまつります」
と劉|g《き》が口上を述べた。劉備はあわてるふうもなく身繕いをしてから、
「そのような柄ではございませぬが、みどもが如き者でよろしければ謹んでうけたまわろう」
と謙《へりくだ》ってこたえた。
館舎の外では衛兵三百が固め、隊長の趙雲は完全武装のまま目を光らせうろうろしている。
翌日、荊州九郡四十二州の官員が全員到着したとの報らせを受け、蔡瑁は※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越を呼んで劉備抹殺作戦を実行に移すようにさせた。襄陽城を劉備の棺桶とすべく蔡瑁の舎弟らが軍勢を率いて重包囲させている。東門から※[#「山+見」、第3水準1-47-77、unicode5cf4]山《けんぎん》への道には蔡和《さいか》が、南門外には蔡中《さいちゅう》が、北門外には蔡勲《さいくん》がそれぞれ部隊を率いて待機していた。西門に兵を置かなかったのは、前方に天然の障害、檀渓《だんけい》という急流があるからである。これだけ備えておけば、万一、関羽らが出動してきていても、救助間に合わずに劉備は死ぬことになる。
※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越が、
「城外の布陣はそれでよかろう。だが、肝腎の劉玄徳のそばには趙雲子竜が片時も離れずついておる。あの者がおる以上は手を下すのはそう簡単ではないぞ」
と案じると、蔡瑁は、
「ぬかりはない。城内には五百の手練《てだ》れを伏せておる。それで十分であろう」
と言う。
「いや、おぬしは趙子竜の強さを知らぬからそういうのだ。かれが暴れ出したら五百の壮士など一瞬で皆殺しにされよう」
※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越は趙雲の戦闘を見たことがあるのであろう。蔡瑁は信じていないのか、嘘つけ、という顔つきである。
「劉玄徳と趙子竜は引き離しておくにしかず。ここは文聘《ぶんへい》、王威《おうい》の二将に命じて武士には別に一席を設けて歓待させ、それに趙子竜を招かせておくのだ」
「そこまで言うなら、趙雲対策はお任せしよう。席上、機を見て一気に斬りかからせるからな。よろしいな」
ということで討ち取る策は固まった。
この日のために牛馬数頭を屠《ほふ》り、祝詞が読みしげられた。千も二千もいそうな諸官がぞろぞろと会場入りをする。盛大な宴会になると見えた。
劉備は的廬に乗って会場に着いた。堂に入って主席に着き、まずは集まった諸官へ口上を述べる。劉備の左右には劉|g《き》、劉|j《そう》の二子が坐している。その劉備の背後には甲《よろい》を着込み、佩剣《はいけん》した趙雲が鬼のような顔をして侍立している。
まずは粛々と宴が始まり、やがて騒がしくなり、美女の歌舞が続くと劉備も気分がなごんできた。
(この、百官環視のなかでわしを殺そうというのか。ご苦労なことだ)
後園まで人波にあふれている。こんな大衆の中で劉備を血祭りに上げるなら、蔡瑁らの悪名、後世まで天下に轟くことになろう。
(バカじゃなかろうか)
と思わぬでもない。
しばらくして文聘、王威がやってきた。一人目を血走らせ、今にも剣を抜いて躍り出しそうな趙雲に、
「まあ、子竜どの、ここはわが衛士に任せ、あなたもくつろいだらいかがか。別室に酒席を設けさせておるゆえ、われら武人同士、おおいに戦さを語ろうではありませんか」
と言って誘った。
「拙者のことは気遣い無用に存ずる」
と最初は頑なに拒んでいた趙雲であるが、
「聞くところによれば子竜どのの武功は、関|雲長《うんちょう》、張翼徳にも勝るや、といいます。是非、是非、子竜どのの武勲、試練の激闘十番勝負の話などをお聞かせ願いたいものですな」
とよいしょしまくられ、趙雲もいい気になってきた。
酒が回ってきた劉備は、
「せっかくのことだ。子竜もおもてなしを受けてくるがよい」
と勧める。
「しかし、わが君、いまだ宴もなかば、何が起きるか分かりませぬぞ」
趙雲は劉備の巨大な耳に顔を寄せて小声で言った。
「見てみよ。みんな楽しそうにどんちゃん騒ぎをしておるぞ。おぬしのみ場違いに殺気立っておる。おぬしのせいでおなごが恐がって寄りつかんではないか」
美女にしなだれかかられ酌をされ、やに下がった劉備は、お前は邪魔なんだよという顔つきで、趙雲を追い払うように言った。
「殿がそう申されるのなら」
と趙雲はしぶしぶ文聘に目礼した。一流の戦士の勘というのか、どうにも気に掛かり、劉備のようにはくつろげないのである。
劉備の背後に弁慶のように立っていた趙雲が消えるや、垂れ幕の間から覗いていた蔡瑁は部下に目で合図して、ゴー・サインを出した。既に新野から連れてきていた兵士三百には、客舎へ帰らせ、酒と女をあてがってある。そして文官を装った刺客五百がそろそろと動き始めた。
そんなこととはつゆ知らぬ劉備は楽しく酒を飲み、劉|g《き》、劉|j《そう》に下品なパーティジョークを連発して困惑させつつ、酌婦を口説いたりしている。
酒が三巡した頃、伊籍が盃を持って立ち、劉備の前に進み出た。劉備は、
「おお、伊籍どの。一献どうじゃ」
とべろべろですっかり場に馴染んでしまっている。伊籍はいくぶん硬い表情であった。
「劉皇叔、そろそろ更衣あそばされる頃合いかと」
「うん?」
伊籍は意味ありげに目配せした。
すると劉備の今までほろ酔いに顔を緩めて浮かれきっていた表情はさっと変わって、鋭く引き締まった。だらしない酔態は演技だったのかと思わせるような変貌であった。
劉備はごく自然に席を立ち厠《かわや》へ向かった。伊籍は盃を廻してから、急ぎ後を追った。
伊籍は裏庭で待っていた劉備に、
「既に南、北、東の門は軍兵に固められており、宴会場には討ち手がまぎれてござる」
と言った。
「なんだ。もう逃げねばならんのか。よい宴だったのにな」
残念だという表情をした。
「そんなことを言っている場合ではござらぬ。的廬をそちらに曳《ひ》いておきましたゆえ、お早くなされ」
「なんともつまらぬことだ」
劉備はひとときの歓楽で満足せねばならなかった。まことに万軍の将のつらつきとなっている劉備は伊籍に、
「忝《かたじけ》なし。生きてまた会わば、この礼はきっとせん」
と言うと、ひらりと的廬にうち跨り、ただ一騎、西門に向かってすっ飛ばして言った。劉備のオンとオフの鮮やかな切り替えを目の当たりにして、伊籍は、
(さすがである。あれぞ劉玄徳、百戦百逃のつわものである)
と変なところに感嘆しきりである。
劉備は的廬を駆り、西門に向かって疾走する。実はさきの曹仁との攻防戦のあと、しばしば狩りに出て乗馬の勘を取り戻すべく練習していたのである。ぼてぼてについた牌肉《ひにく》もかなり薄くなっていた。劉備も劉備なりに危難を予感していたのであり、そうでなければ、こんな激しい騎乗をすることは出来なかったろう。
一騎突進してくる劉備を西門の門番数人が阻もうとする。劉備は、馬上すらりと剣を抜き、
「よいしょ」
と二、三人ばかり斬り殺して突破した。仁者と呼ばれているわりには殺人になんのためらいも良心の咎めもない。その門番とて民事に違いなく、妻子がいて、しあわせな家庭をもっていたかも知れないが、そんなものは完全無視である。残った門番は蔡瑁に急報した。
確かに西門外には伏兵はなかった。劉備は直進して林の中に突っ込んでいく。少し遅れて蔡瑁指揮する軍勢が追いかける。追われて逃げる劉備はデジャ・ヴを体験している。
(またも似たような光景ぞ。このような感じで逃げるのは何十回目になるか)
と劉備はいつものことなのでとくに嘆いたりはしない。
およそ半里、密林を抜け出ると轟々と波涛《はとう》逆巻く檀渓の岸辺に出た。檀渓は幅数丈、湘江にそそぐ激流である。的廬は岸辺に棒立《さおだ》ちになった。背後を振り返ると追っ手五百騎ばかりが土埃をあげて急追してくる。
「劉皇叔、檀渓に危機一髪」
の場である。渦巻く急流にしばし呆然とする。
(ここを渡らにゃならんのか。ちょっとこれは無茶じゃないのか)
『三国志』はときどき劉備に奇跡を演じさせようと図るわけだが、劉備にとっては迷惑至極のことであろう。
とまれ、ここで竦んでいては、殺到する蔡瑁らに膾斬りにされてしまう。
「しょうがない。的廬、ゆくぞ」
と靴子《ブーツ》で的廬の馬腹を蹴って、無理にも急流に乗り入れた。数歩もいかないうち、的廬は前足をのめらせ、劉備の衣服の裾はずぶ濡れとなる。向こう岸はひどく遠い。
「的廬よ、お前はやはり祟りしか!」
とはいえ、劉備が勝手に生命を狙われ、さらに無茶をさせているのであって、的廬の罪ではないだろう。
「このバカ主人が」
と反発でもしたのか、的廬は奮起してザバッと跳ねあがり、急流にのぞく幾つかの岩頭に蹄をつけ、それを足場に数度跳び、奇跡的に対岸に渡りきったのであった。
[#ここから3字下げ]
西川の独覇真に英主にして
座下の竜駒と両《ふた》つながら相い遇《あ》えり
檀渓の渓水は自ずから東流するも
竜駒と英主は今|何処《いずこ》にかある
[#ここで字下げ終わり]
と無責任な後世の人はカッコよくうたったものである。
(小便ちびった)
と心臓をどきどきさせている劉備に、あちらの岸辺に到着した蔡瑁が、
「劉皇叔、なにゆえに宴を捨てられしぞ!」
と歯噛みして怒鳴った。
「ふざけんなよ! オメェがオレを殺そうとしたからじゃねえか。おれは楽しくやりたかったんだ!」
やりたくもない命懸けをやったばかりの劉備の怒りが爆発、ついつい地の田舎言葉が出てしまう。
「ばかな、わたしが皇叔を殺すなど、するはずがないではないか。誰かにホラを吹き込まれたのでござろう」
「じゃあ、テメーの後で弓矢を構えている連中はなんなんだ。アホ! くそったれが!」
蔡瑁の手勢もおそるおそるに檀渓に乗り入れ始めたので劉備は、
「おぼえてろよ!」
とちんぴらのような捨てぜりふを残すと、馬首を返してとっとと走り出した。
蔡瑁の手下たちは檀渓を渡ることが出来ない。蔡瑁は、消え去る劉備を睨み付けるしかない。
(くそ、仕損じた。なんとも悪運の強い男だ)
仕方なく追跡を諦め、城に引き返した。
伊籍に通報された趙雲が、兵三百をまとめて西門から飛び出してくるのとぶつかった。
「ぬっ、蔡瑁!」
と髪を逆立て、悪鬼のような表情で、剛槍をしごいた。趙雲は己の油断に悔やみ、つつ、
「蔡瑁、わが君はどこだ」
と問いつめた。
(とにかく、ぶっ殺す)
とその顔に書いてある。蔡瑁は震え上がり、
「いや、劉皇叔がなぜか席を立ち、西門を出られたと聞き、心配して、探しにきたまでである」
と言った。
「嘘はたいがいにせい。わが君を亡き者にしようと謀ったことは明白である」
「途方もない言いがかりである。あるじ劉景升の代理人たる劉皇叔を殺めようなどと、わしがするはずがなかろう。もしや檀渓に遭難したのではないかと気が気でなく捜索してきたところ」
趙雲はしらじらしくのたまう蔡瑁を槍で突き殺したい衝動にかられるが、
(奸物めが。しかしまずはわが君をお捜しするのが先だ)
とぐっとこらえた。こういった深慮、自制心が趙雲の長所なのだが、張飛からは根性なし呼ばわりされてしまうのである。もし張飛だったら今頃は蔡瑁の首は刎ね飛ばされ、蔡瑁の手勢も皆殺しにされていたに違いない。
「もしわが君に何かあってみろ、貴様のみならず妻子一族根絶やしにしてくれるからな」
言い捨てると趙雲は、キェーィと叫んで劉備捜索保護のため檀渓に向かった。
蔡瑁はがたがたと震えて立ちつくしていた。
さて九死に一生を得た劉備、夕映えのなか果てしない荒野を旅している。
(新野はどっちになるのか)
ととぼとぼ進む。
(おれの人生こればっかり)
と、一時の興奮が収まるにつれ、しょんぼり寂しくなり、馬上、悄然《しょうぜん》とした。
かつて曹操に、
「天下に英雄は貴君とわたしの二人のみだ」
と言われたこともあったが、今のうらぶれた劉備には、曹操が下手なギャグを言ったのだろうとしか思われない。迷子の子供が泣きたくなるような心地であり、じわりと目頭が熱くなってくる。
蔡瑁とこれだけどたばたをやってしまった以上、宣戦布告されたも同然、もはや荊州にとどまることは出来なくなろう。またもや劉備軍団は民衆のやさしさに見送られて荒野を旅することになるのだろうか。
その時、笛の音が聞こえてきた。やがて牧童が牛を囲うべく追っているのが見えた。劉備は顔を合わせぬようにすれ違おうとしたが、牧童のほうが、
「アッ、もしやあなたは新野の劉玄徳様ではございませんか」
と言ってきた。
「いや、それがしそんな怪しい者ではない」
しかし少年の目はヒーローかなにかを見るようにきらきらと輝いている。
「一目で分かりました。わが師父が、劉玄徳さまは竜準鳳目、垂肩大耳、垂手過膝、目はよく己の耳を見ることができる、と申されておりましたから」
こんな特徴のありすぎるフリーキーな容姿を持つ男は確かに天下に二人といまい。
「玄徳どのこそ当世の英雄である、と師父にはよく聞かされております。桃園の結誓以来、関羽、張飛の豪傑を引き連れ、東奔西走して大功をたてられた譚《はなし》は知らぬ者がございません。わたしも劉将軍が荊北新野に至り、その良治ご活躍を聞き、尊敬申し上げておりました」
とあこがれの表情である。劉備伝説はその在世中から、既にいくらか誇張あり、少しねじ曲がって世間に伝わっていたのであった。
今日びのこどもなら、
「サインして」
と色紙(薄汚いTシャツでも可)を持ち出してねだるところであろう。
「そうか。ふふふ、いかにもわしは蓋世の大英雄(とごくごく一部で噂されることもある)劉備玄徳である」
おだてられてすっかり元気を取り戻した劉備は、
「童よ、そのお前の師父と申されるのは誰であるか」
と悠然と訊いた。
「はい。わが師父は、姓は司馬、名は徽、字《あざな》を徳操《とくそう》と申され、人々は酔狂だから水鏡先生と号《よ》んでおります」
「司馬徳操とな。おお、その名は聞いたことがある。荊北に二人の野賢あり、一人は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公、いま一人が水鏡師であると。一世の碩学にしてその草堂に集うはみな抜群の秀才であるという。一度、拝顔いたしたく思っておったのだ。水鏡先生の居所はこの近くなのかな」
「はい。あの林の中にお邸がございます」
と指さす。
「これも機縁ぞ。ひとつ御師父に引き合わせてくれぬか」
「はい。かしこまりました」
牧童は劉備を案内した。
劉備は邸の門前で的廬からおりた。柴門を潜《くぐ》ろうとすると中から弾琴の音が響いてくる。
「師父が弾いておいでのようです」
「しっ」
劉備は牧童を引き止め、すずやかな琴の旨に耳を傾けた。
(新野に来てから、まともな弾琴を聴くこともなかった……)
無骨な劉備だが、クラシック音楽は好むところである。
突然に琴がやんだ。
「だれかな? 良い音が出ておるところへ急に血なまぐさい気配が指にからんでしもうた。どこかで殺人者が立ち聞きしているに違いない」
枯れた声がして、草堂の戸がからりと開いた。悟りすましたじじいが、嫌な顔をのぞかせた。
「あれが、わが師父、水鏡先生にございます」
と牧童が言った。
「野盗か殺人鬼か知らんが、さっさとどこぞへ去ってくれぬか」
水鏡先生が言うに劉備は庭に進み出て、
「弾琴のお邪魔をしてしまい、失礼つかまつった」
と、膝をついた。
「ほう。貴公は劉備将軍でございますな」
「いかにも。お初にお目にかかります」
水鏡先生は微笑を浮かべて、
「決死の御難を逃れてきたようですな」
とぴたりと言い当てたが、べつにたいしたことではない。劉備の血斑の点々とした衣服、荒い姿を見れば一目瞭然で、牧童が恐がらなかったことのほうが不審である。
「見苦しきていにて、あいすみませぬ」
「まあおあがりなされ」
水鏡先生は草堂に劉備を招じ入れた。
水鏡先生の邸には(孔明の家にもある)こだわりの老賢者セットが揃っていた。わざとらしく万巻の書物が積まれ、窓からは松竹がそよぐが見え、石卓の上には一張の琴が横たえられている。そこに松形鶴首の年寄りが坐っていればもう誰が見ても「そういう人」に見えるようになっている。
(おお、これが水鏡師か)
何故か劉備は(いや、中国の時代小説に出てくる者のたいていがそうだが)老隠者に弱く、ついつい尊敬してしまうのである。
劉備は襄陽での危機一髪のいきさつを語った。水鏡先生は、全然よくないのだが、
「よし、よし」
と言った。
「なるほどのう。劉将軍には天運があるとお見受けする。これまでも幾多の死地艱難を退けてこられたのは、ひとえに天命の故であろうな」
たんに、
「運のいいヤツ」
と言ってしまえば、それでは身も蓋もないであろう。
「天命というのも、いまのわが身にとってはあやしゅうござる。いかに命あろうとこの落魄《らくはく》のざまですからな」
と劉備はうつむいて言った。
「ああ、わが不徳、うらむべし」
「いやいや、そうではあるまい。貴公の零落の原因は、左右に人を得ていないからである」
「いや、先生、お言葉ではありますが、それがし非才の身とはいえ、これでも家臣には恵まれており申す。文事には孫乾、糜竺、簡雍がおり、武事には関羽、張飛、趙雲がおり、いずれも天下有望の士であり、ながく苦難をともにし、わたしに二心なく仕えてくれております」
すると水鏡先生はしばしもの思うふうをして、ふっ、と口元を緩めた。
「わが股肱《ここう》をお笑いになるのか」
「たしかに関羽、張飛、趙雲は万夫不当《ばんぷふとう》のいくさ人であろうが、惜しむらくはかれらをよく用いる者がおらず、その腕を遊ばせてしまっておる。また孫乾、糜竺、簡雍らはよく言うても良吏に過ぎず、経綸済世《けいりんさいせい》の才のある者ではない。それが証拠に劉将軍は未だに一片の領土も持ち得ず、放浪の客将にあまんじておられる」
と水鏡先生はきついことを言った。劉備軍団の武官は剛強なりとも所詮は一兵士、文官は平凡な公務員、この国盗りの時世では、力不足の者ばかりということだ。
劉備もすこしは内心そう思っていたので、子分どもを馬鹿にされても腹が立たなかった。
「それがしとて常に人を思い、山野に有材を求めておりますが、いまだ出会うことかなわぬのです」
「そうかな? 孔子も言うておる。十室の邑《ゆう》、必ず忠信あり、と。おわかりかな」
孔子の言、十戸くらいの小村にも必ず忠信の士がいる。という意味で、つまり人材なぞ探せばごろごろいるということだが、どう考えても間違いだろう。ちょっと見て読者の周囲にずば抜けた才能がごろごろいるだろうか。
「それがしの目が節穴であり、見えぬのでしょう。どうか先生、是非、有才賢者を紹介してください」
すると水鏡先生は芝居っ気たっぷりに歌い始めた。
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八九《はちく》年間はじめて衰えんと欲す
十三年に至って孑遺《げつい》無からん
到頭《とうとう》天命帰するところあり
泥中の蟠竜《ばんりゅう》、天に向かいで飛ぶべし
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わけわからん。
「どういう意味でしょう」
と劉備は問うた。
「この謡は健安の初年に襄陽の小児らがうたいはじめたもの。讖緯《しんい》の言といってよい」
讖緯とは経書(経《けい》書に対して緯書というものがあって、たとえば『論語』には『論語緯』といったものがある)をもとにして天変地異から政変戦争などを予言する異端の説言であり、前後漢代に流行し、弊害甚だしいとして晋代に禁止されたものである。黄巾《こうきん》賊のスローガンとなった、れいの、
[#ここから3字下げ]
蒼天既に死す
黄天まさに立つべし
歳甲子《さいかつし》にありて
天下大吉
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なども同じ類のものである。
結局、何を言いたいのか分からない上、論者によっていかようにも解釈出来るから、ノストラダムスの大予言のような性質を持つものであった。こういうものは世界中の歴史に見られる。
しかし作って故意に流布させようとしに者がいるはずであって、急に子供が歌い始めるなどあり得まい。子供に教えて歌わせたアジテーターが必ずいるはずである。
「八九年間はじめて衰えんと欲す〜」
の謡などは、この小説に沿って推測するに、どうせ孔明が作って広めたに決まっている。水鏡先生もそれを承知でのっているのであろう。
讖緯予言の名を借りたたわごとが一揆や謀反に発展するとなると大迷惑だから、晋の政府当局が禁令を出したのもむべなることである。讖緯思想にはいろいろ面白いことがあるのだが、長くなるのでやめておこう。
水鏡先生はさきの謡をかく解釈してみせた。
「建安の八年に劉景升が先妻を喪い、それからご存じの通り蔡氏らが家を乱し始めた。八九年間はじめて衰えんと欲す、とは、劉景升の衰えのはじまりということである。孑遺無からん、というは、遠からず――建安の十三年には劉景升が死に、その遺児には荊州を治める才などなく、国は滅びるであろう、ということかな。劉家が滅びた後、天命はだれを荊州のあるじにするのか。それはいまは泥中にある蟠竜であり、やがて天に舞い上がる。そう解けるな」
「そのような意味が……。では蟠竜とはだれなのでしょう」
水鏡先生は、目を見開いて、劉備の顔をまじまじと眺め、
「劉将軍、あんたがそうであるやもしれぬのう」
と言った。
「まさか。それがしが劉景升に代わって荊州太守となるなど、あり得ないことです」
「さよう。いまの貴公では、あり得まいな」
と言われて劉備は少しがっかりした。
(器じゃ無え……か)
だが水鏡先生は続けて、
「あくまでいまのあなたでは、ということじゃ。曹公の暴政を嫌った天下の奇才はすべてこの荊州の地に集まっておる。劉将軍がこれらを求めるならば、はなしは変わる」
と言った。劉備は引き込まれて、思わず水鏡先生の襟首を捕まえて首を絞め、ゆさぶっていた。
「その、天下の奇才を、なにとぞお教え願えませぬかッ」
「ぐぇっ。が、臥竜か、しからずんば鳳雛《ほうすう》。しぬ……」
あっと思って劉備は手を離した。水鏡先生はゲホゲホ咳き込みながら、
「臥竜、鳳雛。この二人のうち、一人でも得ることが叶えば、以て天下を安んじることが出来よう」
と言った。
「し、して、臥竜、鳳雛とは?」
と詰め寄られるも、水鏡先生は喉が詰まってぜいぜいと息継ぎし、言葉が出ない。
「先生、お名をお教えくだされ」
劉備は重ねて尋ねた。
水鏡先生は今の乱暴無礼にいささかむかっ腹を立てていたに違いない。でなければ話の流れとして、孔明、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統の名がすっと出ているはずなのだ。かく順序立てて語ってきた水鏡先生がここで隠す必要性は微塵もない。劉備に怒っていて、意地悪したかったのだ、と解釈するのが自然であろう。
水鏡先生は突如ぱんぱんと手を撃ち鳴らすと、
「よし、よし」
と、決してよくはないのに言った。何故だ。劉備が必死懇望の目つきで見つめるが、
「もはや日も暮れた。この続きは明日じゃ。将軍は今夜は泊まってゆかれるがよい」
と取り合おうとしなかった。
(じらすつもりか。枯れきった爺と思っていたら、けっこう脂ぎりやがって! 目的は金か女か)
劉備は拷問して泥を吐かせようかと一瞬思った。が、今日は襄陽城に殺されかけ、ついさっき檀渓越えの大立ち回りを演じてきたばかりである。劉備も疲れていた。
(まあいい、明日じっくり聞かせてもらおう)
と思い、ここは水鏡先生に拱手稽首《きょうしゅけいしゅ》して拝したのであった。
『三国志』によれば司馬徽徳操水鏡先生は、
「劉備が、臥竜、鳳雛のいずれか一人でも獲得できれば天下を取れる」
と断言しているわけであり、その出会いも間近らしくある。ここまで読んできた善男善女は、
「おお、はちゃめちゃ人生を歩んできたとってもイイ人、劉備玄徳の運勢も好転し、これからようやく報われるのだわ。見ていろよ凶奸曹操め、臥竜鳳雛がいまから行くぞ!」
ときっと思うに違いなく、恥ずかしながらわたしも最初読んだときはそう思った。だが、フィクションなのに(いや、フィクションだからというべきか)読者の期待はきちんと裏切られるのである。
劉備は臥竜どころか鳳雛まで得て、天下の大智謀の飛車角を揃えたというのに、結局、エンストして白帝城に涙を飲むことになるのは歴史の示す通りである。
「水鏡先生のウソツキ!」
と、隠者ぶったクソ爺いに文句を言いたくなったのはわたしだけであろうか。まことに天道是か非かということで、中国の人は水鏡先生のことをどう思っているのであろう。孔明も※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統も水鏡先生が言うほどのモノではなかったということになる。
が、この稿では、臥竜、鳳雛とも、孔明の虚名の策の一環であり、水鏡先生は孔明に協力させられていることになっているから、あまり責められない。
またこの時点では劉備は諸葛孔明の名も知らないことになっている。荊北に隠れもない秀才の誉れ高い(はずの)孔明は、まったく透明人間じみた無名の男であったし、劉備もまったく興味を示していないのが不審である。水鏡先生や※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公のことは知っているのに。
孔明の宣伝工作のせいで臥竜≠フ風聞は新野にも聞こえていたはずであり、また黄承彦の醜女を貰ったという悪評高い噂も耳にしていたに違いないのだが、それでも知らんふりだ。まあ、小耳に挟むくらいはしていたろうが、
(荊北にはあきれた馬鹿がいるらしい)
くらいには思ったかも知れない。襄陽一の醜女、黄氏との結婚についても、
(ブスで貰い手のない女を敢えて貰おうというのは、実力者黄承彦の縁故となりたいがためのさもしい根性からであろう)
と、孔明を一種の卑劣漢と思ったかも知れない。いずれにせよそんな取るに足りぬ男とは関係することは無かろうと考えていたとしてもおかしくはない。
『三国志』裴松之《はいしょうし》注部分には、
「孔明の臣従は劉備の三顧の礼によるものではない。孔明はわざわざ劉備のところへ出向いておのれを売り込まねばならなかったのである」
という異説が記されている。劉備はそのとき初めて孔明を識《し》ったという。あっておかしくはないはなしである。裴松之はこの説を大きく引用したくせに、
「であるが、出師《すいし》の表を慮《おもんぱか》るに、事実でないことは明白である」
と結論を下す。だが、出師の表は劉備没後かなりのちに書かれたもので、孔明の虚飾、作為創作が入り交じっている可能性があり、事実の根拠とするには疑問があろう。歴史家たるもの、孔明のような表裏虚実の不明な男の文章をそう簡単に信用してしまっていいものかどうか。
裴松之とて「事実に反することが明白な説」ならば最初から無視して録しなければいいはずのことである。しかし敢えて付録しているのは何故なのだろう。このあたり、どうも裏がありそうで、孔明はずっと後代の人、裴松之をもその虚実の策略により操り続けていたのかも知れない。
さて、劉備は粗餐《そさん》をふるまわれ、隣の部屋に牀《とこ》をしつらえてもらい、入った。疲れてはいたが目がさえてなかなか眠れなかった。
その夜更け、うとうとしかかっていると、ぼそぼそとした話し声が聞こえてくる。この夜遅くに客が訪れたらしく、水鏡先生と話をしているようである。
(ぬっ。水鏡め、わしを役人に売るつもりか)
蔡瑁一派に命を狙われている身であり、近辺に追っ手がかかっていて当然である。如何に呑気な劉備でも、高名な老|隠逸《いんいつ》(いかがわしい爺)をすぐに信用したりはしなかった。劉備は剣を引き寄せて、いつでも戸を蹴飛ばし躍り込み、水鏡先生とその客を斬り殺せるよう身構えた。
(如何に)
と耳を澄ませた。
聞き覚えのある声が、
「……襄陽に出かけたのですが、もはや、事は終わっており、道々お訪ねしたのです」
と言っている。
(あの声は、単福であるな)
と気付いた劉備は、
「よう、単福生ではないか、妙なところで会うものぞ。ダーッハハハ」
と豪快に笑って、入って行こうと思ったが、何かありそうなのでそこはこらえた。
「急に飛び込んできたゆえ、わしも肝を冷やしたわい」
「なんぞ先年に無礼でもいたしましたか?」
「元直《げんちょく》よ、おぬしも王佐の才を抱いているのだから、ひとを択《えら》んで仕えねばならんのに、なぜ軽々しくも劉公のところへなど行ったのじゃ。英雄と言える者はなかなか目の前にはおらぬ。お前には見えぬだけじゃ」
と水鏡先生が叱り気味に言う。
「それは……先生のおっしゃる通りです」
ややげんなりした声の徐庶が言った。
(劉公というのは、劉景升のことか、それともわしのことか?)
と劉備が思っていると、
「ともあれ、何の偶然か、劉皇叔がここに逃げ込んでいたとは、ほっとしました」
「うむ」
「ではわたしはこのまま新野に帰りますゆえ、よろしくお願いします」
「よし、よし」
徐庶はせいて席を立ち、出て行ってしまった。
劉備はしばらく頭に?マークを浮かべていたが、面倒くさくなって、
(話は明日だ。寝る)
と牀に戻って布団を被った。が、眠れなかった。
劉備は夜明けを待って、水鏡先生の堂奥の戸を叩いた。挨拶もそこそこに、
「昨夜、人がみえておったようですが、誰方でござろう」
と訊いた。
「ああ気付いておいでだったか。あれはわしの弟子の一人じゃ」
「そうでしたか。先生のお弟子なら、有望の者に相違ない。ひとつお引き合わせ願えませぬか」
と劉備は探りを入れるように訊いた。
「かれは日頃から明君に仕えたがっておる者で、既に心当たりのある処へ行ってしまったよ」
「もしやその者こそ臥竜、鳳雛のうちの一人では。名をお聞かせ願えませぬか」
が、水鏡先生は、
「よし、よし」
と答えるも、名を言おうとはしない。
(なおもじらすか!)
劉備はきっとなり、
「老師、昨夕のお話の統き、臥竜、鳳雛の姓名をお聞かせいただきたい」
手をついて頼んだ。水鏡先生は、
「よし、よし」
と言って笑うのみである。
(このジジイ、駆け引きせんとするか)
劉備は一生懸命に誠意あふれる顔をつくり、
「されば先生、先生にこそわが顧問となっていただき、共に漢室を扶《たす》けてくれませぬか」
天下のためにお前ぇが来い! とカードを切った。しかし、水鏡先生は、首を振り、
「わしの如き山野の世捨て人ではとても将軍のお役には立てぬ。貴公を佐《たす》けるにわしなどより十倍も百倍も勝った者がおる。その者をお招きになるがよろしかろう」
としらばくれられる。
(だから、そやつの名をさっきから訊いているのだ)
もう劉備はむっとした表情を隠さずに水鏡先生を睨みつけた。確かにこんなあしらいを受ければ、劉備でなくともキレかかるに違いない。
(やはり力ずくで吐かせてくれん)
劉備が手指の骨をぽきぽきと鳴らしつつ決意したちょうどその時、間が悪いというほかないが、牧童が駆けてきて、
「たいへんです。数百の軍勢を引き連れた大将が向かってきます。追っ手かもしれません。劉将軍、早くお逃げ下さい!」
と叫んだ。劉備は大いに慌てた。
「なに」
そのまま庭に飛び出し、裏庭に繋いであった的廬に跨るや、一鞭くれたのであった。惚れ惚れする逃げっぷりのよさであった。牧童はぽかんとしている。
遠ざかる馬蹄の音を聞きながら水鏡先生は、
(ふう。あぶないところであったわい。まことに稀代の梟雄《きょうゆう》とおそれられるだけのことはある。気が気でなかった)
と冷や汗をかいたものであった。
(危険な男ではある。蔡瑁が殺意を抱くのも分かる気がする)
当節第一の人物鑑定家である水鏡先生は、とうに劉備の人品を見抜き終えていた。
劉備玄徳――やはり血と謀略の戦場を生き延びてきた男には尋常ではない魔性がある。普通の人間なら一生のトラウマ、悪夢に魘《うな》される夜夜になりかねない昨日の暗殺未遂事件、決死の檀渓跳躍すら、劉備にとっては「よくあること」なのであって、しばらくすれば「そういうこともあったっけ」と忘れてしまう程度の事件に過ぎないのである。非常が常の男なのだ。
(ああいう男に、孔明を薦めてよいものかどうか)
いかに迫られても名を言わなかったのは、いちおう孔明を心配してのことであった。ついでに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統もだ。
何だか分からないにしろ、いちおう異能の士であると認める弟子の孔明であるが、如何せん、世間も戦場も知らぬ書生に過ぎないのである。やはり孔明の手にも余り過ぎるのではないか。
(そう思えば、元直は劉玄徳の下でよく勤まっておるわい。やはり孔明のいう通りに不真面目な男だからかのう)
しかし水鏡先生、しばらくすると劉備の凶意乱暴にだんだん腹が立ってきた。すると怒りは孔明のほうへも飛び火する。
(このさい劉玄徳を孔明に押しつけてくれようか)
天下を甘く考えているのなら、すぐさま痛い目を見ることになる。
「隆中に愛妻と安穏に暮らすのが幸福であった……」
と、後で嘆いても遅いのだ。ここは孔明のためにも劉備というお灸を据えてやるのが師としての親切ではあるまいか。
(うむむ)
牧童がまだそこにいて水鏡先生を見つめているのに気が付いた。水鏡先生は、
「よし、よし」
と言った。牧童は水鏡先生の「好《ハオ》、好《ハオ》」という口癖に慣れているから、
「何がよいのですか」
などと不粋なことは訊かない。
さて的廬一騎駆けで逃げ走っている劉備、昨日から内腿が擦り切れるような馬乗りを繰り返している。
(卵が痛ぇ)
と、こぼしたくもなる。やや離れて返り見れば、軍勢を率いているのが趙雲子竜であると分かった。駒足を落として待った。
「わが君っ」
追いついた趙雲は下馬するや、安堵この上ない表情で駆けつけてきた。
「よくぞご無事で」
顔をくしゃくしゃにしている。夜中じゅう劉備を捜し回っていたらしい。劉備は趙雲の忠義と喜びようについほろりとした。
「わが君、蔡瑁の手が新野に攻め寄せないとも限りませぬ。いそいで帰りましょう」
「おう。ちょっと締め上げて、口を割らせたい小癪な爺がいたのだが、まあ、今度にするか」
二人が轡《くつわ》を並べて新野に向けて騎行していると、数里もせぬうちに軍勢に出会った。関羽と張飛であった。四人は抱き合って喜び合った。劉備が檀渓飛躍の一件(もう自慢話と化している)を物語れば、張飛は、
「さすがは兄者だ。窮鼠《きゅうそ》となって濡れ鼠、とはこのことか」
と、異常に間違ったことわざを吐いて感嘆しきりである。
劉備一行は新野に到着するとすぐに幹部を集めて緊急対策会議を開いた。むろんその中に徐庶もいるが、劉備は昨夜の件を敢えて問いただそうとはしなかった。まずは徐庶が水鏡先生の高弟らしいと分かっただけでよい。ならば臥竜、鳳雛の正体もまた知っているに違いない。それはあとでおいおい聞き出すとして、先に対襄陽戦略を考えねばならない。新野は開戦直前の緊迫のうちにある。
「好都合じゃねえか」
張飛は、げへへへと笑い、
「クソどもが兄者に、ひいてはこのおれに喧嘩を仕掛けてきたんだろ? 遠慮なく襄陽を焼き払って、さっぱりきれいにしちまおうぜ」
と舌なめずりした。張飛はもう殺人放火掠奪強姦のことしか考えていない。張飛にとってはそれがイコール戦さというものである。
張飛を扱い慣れている孫乾らが酒の入った瓢箪をあてがい、まあまあと押しとどめた。
「軽率に武事に訴えてはなりません。こたびの事は蔡瑁が画策にて、劉景升どのはご存じないと思われます」
「まずはこの不祥事について書面をしたため、劉景升に直訴するがよろしかろう」
と、張飛からすれば、親の血を引く兄弟よりも重く大事な義兄弟である、あるじ劉備が謀殺されかけたというのに、お話にもならない腰抜け案である。書状を提出して形式をふむというのは、礼を損なわないとはいえ、現況の危機意識が欠如しているのではないかと言うほかない。
劉備は水鏡先生の指摘、
「孫乾、糜竺、簡雍らは良吏に過ぎず、経綸済世の才はない」
と言われたことを噛みしめていた。
(ウチの連中はこの事を逆手にとってねじ込むような妙案も出せない……。やはり、臥竜か鳳雛が欲しいところだな。本当にそんな者がいるならば、の話だが)
と、内心嘆息した。ちらりと徐庶を見てから、
「ではそうしてみて様子を見よう」
と決め、すぐさま孫乾を遣わすことにした。
翌々日、戦時厳戒態勢に構えた新野を孫乾に同道して劉表の長子劉|g《き》が訪れた。謝罪の使者であるという。劉備は劉|g《き》を門前に出迎えた。
劉|g《き》を客館でねぎらわせておいて、庁舎で孫乾の報告を聞いた。
孫乾は伊籍を通して劉表に面会したい旨申し出た。すると何の障りもなく引見の間に案内された。
「先日は劉皇叔が宴の最中に中座なされてお帰りになられたと聞いておるが、どういうことであろうか」
と劉表が尋ねるに、孫乾は、
「まずはこれを披見くだされ」
と書面を差し出しながら、
(はて、劉景升どのはご病気と聞いていたが)
といぶかしんだ。劉表は書状を読み、
「これはまことか」
と愕然とした表情を浮かべた。
孫乾は蔡瑁の謀殺未遂、そして劉備が檀渓を越えて九死に一生を得たことをつぶさに言上した。劉表は、
「蔡瑁を連れて参れ!」
と珍しく顔を赭《あか》くして怒鳴った。
蔡瑁がばつが悪そうに身を小さくして現れるや、書状を突きつけ、
「おのれ、なんということをしてくれた」
と詰《なじ》った。
「お言葉ながら、わたしめはひとえに劉家の安泰を願って、忠誠の心から……」
との弁解を劉表は遮って、
「聞く耳持たん! わが賓客、劉皇叔を亡き者にせんとは許し難いにもほどがある。死ね! 死んでわびろ。打ち首にせい」
と、日頃優柔不断きわまりない劉表が、らしくもなく、即刻処刑を命令した。そこへ蔡瑁の妹、蔡夫人がやってきて、よよよと泣き崩れながら、兄の命乞いをする。
「ならん。天下に恥をさらした責任を取れ」
といつにもまして強硬である。
孫乾が、
「蔡瑁どのを死罪になされては、わがあるじは新野にいられなくなりましょう。太守のお心は分かり申したゆえ、罪一等を減じてくだされよ」
と申し出たので、劉表は蔡瑁をきつく問責するにとどめた。
「この上は、劉皇叔にはひたすらわびるほかない」
と長男の劉|g《き》を謝罪の使者に命じたのであった。
孫乾は、報告した後、
「というわけで、まあまあうまい始末となりましたな」
と言っているが、劉備は渋い顔である。
(猿芝居だな。劉景升が蔡瑁の悪謀をまったく知らなかったはずがあるまい。だから糊塗すべくことさらに激しく怒って見せたのだ。真にかれに誠意あらば、孫乾がとりなしたとしても、劉|g《き》には蔡瑁の首を持参させているはずだ)
と、思うが、何故か怒りが萎《しぼ》んでゆくのを感じた。
(まあいいか)
劉備は劉|g《き》に謝罪の口上を受けてから、酒宴を開いて大いにもてなした。
宴もたけなわとなり、張飛が、祝いに舞う、というより暴れ出した頃、かたわらの劉|g《き》が突然涙を流し始めた。泣き上戸なのか。劉備がわけを訊ねると、
「劉皇叔にはお分かりでしょう。わたしは蔡夫人と蔡瑁にうとまれ、いつ命を落とすやら、まことに不安な日々を送っております。父上は蔡夫人の言いなりで、わたしのことなど考えてくれません。もし出来るのなら、ここ新野に移り住みたいくらいにございます。皇叔さま、こんなわたしはどうすればよいのでしょうか」
と、人生相談、襄陽が針の筵《むしろ》であると泣くのである。劉備は、
(うざったいガキだな)
と、ひっぱたきたくなった。
「荊州の跡継ぎともあろうものが情けない。男なら殺られる前に殺れ!」
と男らしいアドバイスをしたいところだが、自分とて蔡瑁のヒットリストのトップにいるのである。劉|g《き》と大して変わらぬ立場といえる。うかつなことは言えない。
(哀れではあるが、どうしようもない)
これが、たとえば曹操の家であれば、息子たちが派閥をつくり、母や臣下を巻き込んで熾烈なバチバチをやっている。劉|g《き》には生存競争の意識というものが欠けているようだ。
「長子が跡を継ぐのは世の習いである。案ずることはない。父母によく孝養を尽くしておれば、きっとうまくいくであろう」
と当たり障りのないことを答えるにとどめた。
劉|g《き》は鬱病にでもかかっているのか、翌朝、劉備が城外まで見送ったが、ずーっとめそめそしっぱなしで、ひっくひっくと泣きながら帰っていった。飲んだ分だけ目から捨てているようなものである。
(あれでは、水鏡先生の予言詩解釈は遠からず的中することになろう)
と思われる。
(曹操がついに荊州に兵を向けんとしておるのに、なんともひどいざまである。が……その時、このわしはどうなっておろう)
自分のこともよく分かっていないゆえ、人にアドバイスするどころではない。いまさらのことだが、先のヴィジョンがまったくない、行き当たりばったりの男、それが劉備玄徳なのである。
しかしそれでも何故か人望が衰えないのがまた不思議なところで、劉|g《き》が他人に漏らすには危険過ぎる愚痴をこぼしたのも、相手が劉備だったからに他ならぬ。
馬首を返した劉備は、浮かぬ顔で新野の城内に戻っていった。
その時、城市《まち》の中を葛布の頭巾で顔を隠し、木綿の着物、黒い帯に黒い靴、異様な風体の者が、変な歌を朗々と歌いながら歩いて来るのに行き合った。
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天地反覆して、火は※[#「歹+且」、第3水準1-86-38、unicode6b82]《ほろび》んと欲す
大厦《たいか》まさに崩れんとして一木|扶《たす》け難し
山谷に賢ありて明主に投ぜんと欲す
明主、賢を求めながら却って吾を知らず
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これもまた讖緯の歌謡であろう。「何か」をしらじらしく予言したがっている。
「天下がくつがえり、火(漢室をさす)は滅びようとしている。大邸宅が崩れようとしているが、一本の木では支えきれない。山谷に賢才がいて明君に仕えようとのぞんでいる。明君は賢才を求めているらしいが、さて、わたしのことをご存じない」
といったところか。
劉備はその男にビビッと感じるものがあり、馬を下りて話しかけた。
「そこもと!」
と呼び止める。
「……」
「そこもと、今の歌はわしに聴かせるべく、歌われたのか」
「……」
「明君、賢を求めて、われを知らず、とは、どういうことか」
「……」
黒ずくめの若い男は何を訊かれても無言であった。
「もしや、司馬水鏡先生に、新野へゆき、その歌を歌えと命じられたのではないか」
「……」
「どうか、わしと共に来て、その歌の意味を詳しく説いてくれないか」
しかし男はくるりと背を向けると、足早に去っていった。
「あっ、待ってくれ」
劉備は追いかけたが、どの辻を曲がったのか、その姿を見失ってしまった。
水鏡先生がらみの者ならば、臥竜、鳳雛かも知れない。
(名は言わなかったが、本人を寄越したか。味な真似をする)
そう直感した劉備はその日一日、その姿を求めて城市《まち》じゅうな探し回ったのであった。
劉備が新野城内を駆けずり回っている頃、庁舎では涼しい顔をした男が、徐庶に茶を所望していた。
「驚くじゃないか。きみが急に現れるなんて。それで、何か用でもあるのかい」
「いや、べつに。旅から帰ったところだが、望するに新野の空模様が変わっていたから、様子を見に立ち寄ったまで」
その男とは、言うまでもなく諸葛亮孔明! さっきまで着ていた黒装束は小脇に抱えた風呂敷の中にある。
「ここの空模様が変わったとは、どういうことだ」
と徐庶が訊いても、孔明はそれには答えず茶を畷り、はた、としわぶきをした。
「茶葉はまあまあだが、元直よ、淹れかたがなってない」
とあつかましい。
「どれ、茶具をかしてみよ」
孔明は急須と茶|漉《こ》しを受け取ると、湯の温度を湯気にて確認し、ゆっくりと少量を茶葉を盛った茶漉しに注いだ。茶葉が蒸れて開くのを待ち、最初急に、次にゆっくりと湯を注いでいった。それからまたしばし待ってから、徐庶に、
「まあ、飲んでみよ」
と茶碗を差し出した。
徐庶が受け取ってみるとまず香りの立ちがちがう。やや舌に熱めながらその味は、自分で淹れたものとは比べものにならない旨さであった。雲南の最高級品だ、と言われれば信じてしまったかも知れない。
「こ、孔明、おいしすぎる!」
と徐庶は感極まったように言った。孔明は、なっ、そうだろ、と言わんばかりの顔で頷いている。
「どんな魔法を使ったのだ」
「葉に適するよう、ただしく淹れただけのこと」
「おれは恥ずかしい。今まで、お茶なんぞ、と適当に淹れていたせいで黄金の香湯を馬の小便にしてしまっていたのだ。ゆるしてくれ――」
孔明の茶は徐庶のお茶に対する認識を一変させ、悔い嘆かせるほどおいしかった。
「何事も識《し》ろうとすれば奥深いものだ。旅先で茶の名人と知り合い、感激したわたしは拝み倒してその法を伝授していただいた。湯の温度と蒸らし、時間にコツがあるのだよ。このさき、茶事というものも世にひろくなってゆくことだろう。元直、そもそも茶というものはだな」
と孔明論じ始める。
中国の茶の飲み始めのことは定かではないのだが、呉の韋曜《いよう》という者はアルコールが駄目で、酒と色が似ている茶を飲んで酒席を誤魔化した(それがバレたせいか、孫晧《そんこう》にぶち殺された)というから、この時期にはそこそこ飲まれていたようだ。『茶経』という蘊蓄《うんちく》本、茶道の古典は唐代に撰せられているが、それによると喫茶の語源となるとさらに古代に遡るとし、権威付けようとするあまり無理が見られる。とはいえそれが中華的な書き方というものであり、書くとき張り切ってしまうのか、ついつい大仰にしてしまいがちである(まあ、言ってしまえば『三国志』もそうなのだが)。
ちょっと変わった中国的教養人、孔明のような男に茶を語らせるといつの間にか話が宇宙にまで及んでしまうのもやむなし要注意というところである。徐庶のように、
「いや、もう、わかったから。次からお茶を淹れるときは、きっとおいしく淹れるから、勘弁してくれ」
と早めに止めた方がよい。
「そうか。話はここから面白くなるりだが」
とまだ話したそうである。孔明、ヒマなのか忙しいのか、わからぬ男である。
孔明は自分で淹れ直した茶の香りをかぎ、一口含むと至福の表情となる。ナイス! とか、心の中で違いの分かる男のつぶやきが芳醇なゴールドにされているのだろう。
「まあ、茶のことは一事にすぎぬ。やはり好男子たるもの、陋屋《ろうおく》に閉じこもりきりではいけないということがよく分かった。旅をせねば志が狭くなる。山野世間には学ぶこといと多し、というほかなかろう」
ちかごろの孔明はすっかり旅づいてしまっており、足腰もすっきり軽そうである。孔明が初めて長旅をしたのはまだ子供の時、しかし遊山ではなく逃避行のようなものであった。今は心底楽しむための旅をしている。
「わが蓄えし知識と世間の事柄が正しく照応しているか、常々確かめたかったということもある。多くの人にも面識ができた」
「しかし孔明、旅行はいいが、あぶない目にあったりしなかったのか。細君を連れてゆくこともあるんだろう」
と徐庶が訊いた。
荊北の治安はよそに比べればかなりよい。だがその外となると野盗集団から武装難民がうろうろしており、また郡や県の役人がアルバイトで強請《ゆすり》たかりなどをやっているから、旅人の被害|惨憺《さんたん》たるときがある。
「いや、わたしもそう思って楽しみにしていたんだが、誰も襲ってきてくれぬのだ」
と孔明はほんとうに残念そうに言う。
「馬鹿なことを言うな。それは運が良かっただけだぞ」
すると孔明、含み笑いをして、
「そう思うか?」
「当たり前だ」
「仙の道法にはいかなる難をも避けるという術があるんだが、わたしとしても実際にそんなわざが可能かどうか怪しんでいたのだ。それで実際に試してみた。しかし、旅先道中で悪いことが何も起きないから、たんに運がいいのか、その術が効いているのかどうか、はっきり分からないのだよ。一度、血に飢えた盗賊というものを見てみたいのだが」
徐庶は、
(なに言ってやがる。幸運に決まっているだろう。そんな便利な術などあるものか)
襲われた人の身にもなってみろ、と思うのだが、孔明が言うと、
(いや、そんな、まさか、しかし)
と、なにやらありげなことで、嘘っぱちと言い切れない不気味さが感じられてならない。
「まあ、この次旅に出るときは、その法を行わずに出かけてみようかと思っている。さすれば比較できる」
と孔明は平然としたものである。
「そういえば、元直がこわがっている侠徒の連中とも知り合いになった」
「なんだって」
「賭場のありそうな所や市場の裏のあぶなそうなところへ行けば、いるわいるわ。話をしてみれば面白いことばかりだ」
孔明の話によれば、いつもの調子で賽子《サイコロ》ばくちの賭場に入り、当然の如く立て続けに勝ちまくってしまい、これも当然の如く胴元はイカサマを疑い、
「道士さんよ、その扇子を貸しな。なにやらおイタのタネを仕込んでやがるにちげえねぇ」
とすごまれた。その変な服も脱がせろ、と、険悪な状況となってきたところ、孔明はべつに銭金などどうでもよかったので、恐い顔をした連中を誘って酒家《しゅか》に繰り出し一気に散財したため、妙に感心されてしまったという。例によって気宇壮大に宇宙の話をしていると、しまいには、皆の衆から、とくに言ってもいないのに、
「臥竜どん」
とか、
「臥竜はん」
と奉られるようになったとか。あくまで孔明の話によればである。
(うそ臭えよ)
とはいえ孔明なのであり、何があっても不思議ではない、のか。
「かれらに聞いたら、きみのあるじの劉玄徳と関張二弟の評判はけっこうよかったよ」
などという。
「洛陽では異国の者の話をたんと聞いたな。天竺《てんじく》わたりの浮屠《ふと》という教えがあって、おおく月氏の者たちが信仰している。なかなか面白い教説なんだが、老子に似て玄の玄にすぎるところがある。これではほとんどの民には通じるまい。もっと俗っぽさを加えれば、太平道、五斗米道のように流行るかも知れぬ」
浮屠とは仏教のことである。洛陽には仏教寺院第一号の白馬寺が建立されている。董卓《とうたく》が洛陽に火を放ったときも、焼けなかったという。
「天竺よりさらに西の涯にある大秦《たいしん》から来たという者もいて、太一の存在についての神妙の語を聞くことも出来たな。いや、天下もばかにならぬ広さだな、元直」
大秦はローマ帝国のことだと言われている。シルクロード交通自体はずっと前から存在しており、後漢のとき正式な使者の派遣が行われている。後漢末の中国にローマ人や、ユダヤ人、中東諸民族がいたとして決しておかしくはなかった。さらに言えば、孔明がインド哲学、ギリシャ哲学、イエス・キリスト等のことを知っていたとしてもまったく不思議ではない。
太一(太乙、泰一)とは宇宙の根源存在のことをいう。それは天であるとされ、唯一神的なものである。中国人には仏教よりもキリスト教のほうが馴染みやすいような気がする。伝播の先後の差で仏教が有力になっただけかもしれない。キリスト教の流入は文献にあらわれるよりもっと以前、かなり早い時期であったと思われる。
中国ではヤハウェのことを神≠ニは呼ばない。天帝、天主と呼び、それは太一、玄なる存在である(日本がそれを神と訳したのは誤訳にちかく、のちのち混乱のもととなっている)。太平道の信徒は「中黄太乙」を呼号、信仰したが、これも太一なる存在であった。道教は多神教に分類されるものの、最高位には太一なる存在がおり、その意味では、キリスト教が神に準ずるものとして天使のヒエラルキー世界を認めているように(宗派にもよるが)、唯一神教的な趣もあるのである。
孔明の旅行はかなり広範囲にわたるようである。日々、新野の行政と劉備軍団の世話に忙殺されている徐庶には、浮屠、大秦の話題は遠い場所の夢物語としか感じられない。だが、孔明にはそうではないらしい。知識を得て好奇心を満足させた程度ではなく、隣近所のことくらいに思っているようだ。何しろ志が宇宙レベルの男であるから、地球上のことなどなにをかいわんやであろう。
突然孔明が立ち上がった。
「どうした」
と徐庶が訊くと、口に指をあて、しっ、と言い、
「話に夢中になって長居しすぎたな。隣の部屋に隠れていよう。わたしがいることは言わないでくれよ」
と、さっと向こうの部屋に消えた。
ほとんど同時に劉備が入ってきた。城内を右往左往していたため、汗だくであった。
「単福先生!」
興奮した面もちで、つかつかと近付いてきた。徐庶はいやな予感がした。
(いつになく目がぎらついておられるが、今度はなんだ)
劉備は卓子の上に飲みかけの茶碗を見つけると、喉の渇きもあり、取りあげてごくりと飲み込んだ。
「う、うまい」
と、思わず唸った。よく見るに茶器は二セットあり、劉備は見逃さなかった。
「うまいな、この茶は。こんなうまい茶は初めて飲んだ。よほどの上物と見受けられるが」
「いえ、いつも買い置いてある茶にございます」
「そんなことはあるまい。味がちがう」
「それは殿が、喉が乾ききっておられたからでしょう」
「そうかな。だれかここに参り、極上の茶でも土産に置いていったのではないか」
また卓子の上の茶器にちらりと目をやる。
(気付かれたか?)
徐庶は渋い顔になる代わりに、表情を緩めた。
「殿は、わたしが上茶を着服し、ひとり楽しんでいたとでもおおせですか」
徐庶は笑いながら、茶筒から茶葉を出して見せた。
「ふむ、それは、いつものだが」
「茶泥棒と疑われるのは心外です。じつは茶には淹れ方にコツがあり、さる人に聞いて試していたのです」
徐庶はさっきの孔明のやり方を思い出し、真似してもう一度淹れて見せた。それを劉備に勧める。
「おう」
と劉備はまた唸った。孔明の淹れた茶はどうまくはないが、かなりいい味を出していた。
「ははは。それに足して喉の渇き。さっきの一飲はさぞかしおいしゅうござったでしょう」
「なるほど、確かに。わずかの手間でこうも変わるものか」
汗がひくとともに、劉備の興奮はおさまってきていた。
(やれやれ、茶の功徳だな)
徐庶はほっと一息ついた。
「喉の渇きといえば、むかし、曹公とかような話をした」
劉備が呂布《りょふ》に徐州《じょしゅう》を奪われ、小沛《しょうはい》からも叩き出されて仕方なく曹操を頼ったときのことである。その後、連携して呂布を斃《たお》したが、行くあてのない劉備は、しばらく許都にとどまらざるを得なくなった。曹操は野菜作りに精を出す劉備を疑い「酒を煮て英雄を論じ」て心中を計ろうとした。
曹操は劉備の警戒心をほぐすべく気を遣い、
「先頃、張繍《ちょうしゅう》征伐のおり、行軍中に飲み水が切れ、兵らが喉の渇きに参ってしまいそうになった。そのときわしは一計を案じて、鞭で丘の向こうを指し『先に梅林があるぞ』と嘘をついたのだ。すると兵らは聞いただけで唾を湧かせて、喉の渇きを忘れおったわい」
と笑えるとんち小話を聞かせてから、梅を肴に酒を飲んだのであった。梅干しのことを頭に浮かべて自飯を食う、という、パブロフの犬な条件反射を使った小ワザがあるが、かの地では梅の果を想像しただけで喉が潤うほどの唾が湧くらしい。ただならぬ酸っぱさなのか。
劉備は、先日は惨めに回想したことを、今日は、
「そのときだ。あの曹公が、天下に英雄は自分と劉備玄徳、あなたのみだ、と断言しおったのだ。あの曹孟徳がだぞ。ダーッハッハハハ」
と自慢たらたらである。昨日は昨日、さすがである。
「またそのときだ。これぞ天の配剤か。わしがぎくりと身構えそうになる刹那、大落雷があり、周りが見えぬようになるほどの豪雨となって……」
と身振りも交えて話は続くが、徐庶は、
「その話はもう耳にたこができるほど聞かされました」
と言って、遮ることなどしない。気分良く喋らせて、疑念を忘れてもらうにしくはなかった。
「それは、それは」
「まあ、すごい」
など合いの手を挟んで続けさせようと計った。徐庶もいろいろと狡くなっている。
だが、劉備、茶をもう一杯飲んだところで、はっと己を取り戻したらしく、
「ふっ、それもこれもせんない昔のことだ……。何の自慢話にもならぬ。先生、忘れてくれ」
とさんざん自慢していたくせに急に寂しげに言い足した。
「それより、先生に訊きたいことがあって来た」
「何でしょう」
悪乗り話で済ませてしまうつもりだったが、劉備は用事を思いだしてしまったようだ。訊きたいことがどんなことかあらかた察しはつく。
「先日、襄陽に殺されかけんとしたとき、逃足中、司馬水鏡という隠逸の老師に匿われた。水鏡師のことはそちも知っていよう」
「ええ。まあ、ほんのすこしは」
「そのとき水鏡師はまことに意味深なことをこの玄徳におはなしになられた」
こうなれば黙って聞くしかない。誤魔化せるようなら誤魔化したいところである。
劉備は適度に誇張して水鏡先生との面談について語り、
「水鏡師は臥竜、鳳雛、このいずれか一人でも得ることがかなえば、天下統一など造作もないことだ、とおっしゃられた」
そして単福こと徐庶を真正面から見据えて、
「その臥竜、鳳雛はなんと荊北の何処かにいるというのだ。わたしはまさかと思いつつも水鏡師の言にひどく惹かれ、是非ともその二人を幕下に迎えたいと懇望するようになっている」
劉備はずいっと顔を迫らせた。既に目尻には涙が浮きかかっていた。文官武官の異別を超越した超弩級の有能人材、内に優秀な文官を使いこなして行政を完璧にし、外に勇猛剛強の武人を戦さ場に自在に舞わせて連戦連勝するスーパー家臣、それが臥竜、鳳雛らしいのである。
だが、ここで大きな疑問なのだが、もしそんな政戦両略のハイレベル能力者が存在するとすれば、そいつを君主に担ぐのがいちばんいいのであって、すると劉備などいらなくなるんじゃないのか? 例えば『三国志』では曹操がかろうじてそれに近い能力を持っているわけだが、曹操に向かって、
「わが超家臣になれ」
と言えるものではないだろう。第一、忠誠が期待できない。
だが、劉備はそういう不合理について深く考えるような男ではないから、どうでもいいことなのかも知れない。
「臥竜、あるいは鳳雛、水鏡師はどうしてもその本名をお教えくだされなんだが、単福先生、率直に問うが、先生こそ水鏡師の申した人ではござらぬのか?」
人に迫るときの相変わらずの熱意迫力、徐庶は、
(ひっ)
と椅子ごとひっくり返りそうになる。庁舎の一室、逃げることもかなわぬ。
徐庶はどう答えてよいものやらと頭脳をフル回転させている。
「それがしは先生の軍略の手並み、民政の手腕をこの目で見ており、先生以上の才子がこの地にいるとは思われない。とすれば、単福先生こそが……臥竜ならずや」
圧迫感をともなう劉備の詰問に、徐庶はあらいざらい喋ってしまいそうになるが、隣室で隠れて聞いているであろう孔明もかなりこわい。
徐庶も入団直後のひ弱な者ではない。劉備軍団に暮らしているうちに自然に神経も太らされている。謎の有能軍師単福を演じるのにすっかり慣れてきていた。
ふっ、と笑みを口の端に浮かべて、
「まあ、お座りください。その話、わたしに思い当たることがあります。しかし、殿もまずい人に会われましたな」
と落ち着いたふりをしてかわしにかかる。
「残念なことを言うようですが、司馬徽徳操も昔日の碩学、人物鑑定の権威、それとはもう同じ人とは思わない方がよろしい」
「どういう意味だ」
「じっは司馬水鏡には虚言癖があり、嘘というより、老衰ゆえ本気でそう思って言っておられるのかも知れませんが」
聞いた劉備は、
「なんと、本当か」
と、とにかく椅子にかけた。
「本当です。もう言うことなすこと嘘ばかりで、まさにオオカミ老年、息子や嫁に迷惑ばかりかけている、まったくどうしようもない年寄りなのです。あんな辺鄙《へんぴ》な場所に庵があるのも、ここだけの話、強制的に隔離され、閉じ込められているからなのですよ。近所迷惑が三度の飯より好きという、たまらんお人ですから」
人は老いて、ときに若い頃とは別人のように変わってしまう。
「悲しむべき事に、そうなのです」
徐庶は大きく溜息をついて見せた。
「そうかな。なんとなく気品があり、老いてはいるも、物言いから何から矍鑠《かくしゃく》としていたが」
確かに、よし、よし、としか言わなくなったときは、ボケているのかとも疑われた。
「そう見える故、たちが悪いのです。そもそものこと、殿はたかが一人や二人の奇才を得ただけで天下が取れるなどと、本気でお思いなのですか。そんな馬鹿なことがあろうはずがない。もうそれだけで嘘であること明白ではありませんか」
徐庶はひどいこと、というか、正論をきっぱりと言い切るのであった。確かによく考えりゃ、そうだよな。
「そのうえ、臥竜、鳳雛ですと」
徐庶は、くっくっくっと笑った(必死の演技)。
「恥ずかしきほど、作り物めいた名でありますな」
そして、
「わたしは少なくともそんな妖しい名で呼ばれたことは一度たりともございません。呼ばれたくもない」
と、これは本当のことを言った。
「殿ともあろうものが、こうもたやすく騙されるとは、腐っても水鏡ということでしょう。よろしいか、今後はゆめゆめ司馬水鏡の戯れ言などを本気になさってはなりませんぞ」
仕方ない(というほどなくはない)とはいえ、師を嘘つきボケ老人呼ばわりするつらさ。内心は忸怩《じくじ》たるものがあるが、なんとか冷たく言い切れた。
一方、劉備は、内心にやりとしていた。
(そうくるか。おぬしが夜半に水鏡の邸を訪れた時、わしが隣で聞き耳立てていたことを知らんようだな)
単福こと徐庶が司馬徽の門下であることは現行犯ではっきりしているのだ。
(どうとっちめようか)
徐庶は劉備をただの太っ腹、無神経な男と思っているようだが、決してそればかりではない。劉備はこの部屋に立ち入り、卓子の茶器を見たとき、ここに誰か客が来ており、今は隣の部屋あたりに姿を隠しているに違いないと確信していた。入れ違い、わずかの間であったことは、茶がさめていなかったことで分かる。
(そやつこそ、先刻、城市《まち》に歌いおった者やもしれぬ。外を探し回ってても見つからんはずだ)
と劉備は思った。
ただ強いとか運がいいではこの乱世を生き抜いていくことは不可能である。勘、それも魔性の勘がなければ生き残れなかった。劉備のものは戦の勘とはやや違う。
劉備軍団は常に小勢力であり、付き合ってきた相手はこれまた油断も隙もない巨魁が少なくなかった。戦場に出ても相手はたいてい大軍ばかり。そこを勘ひとつで決める。毛筋一本ほども感じ間違えておれば首を飛ばされるというタイトロープを渡ってきたのである。徐庶程度の者にはそんな劉備の一面は見えていなかった。
劉備は鋭い勘ばたらきにより(結果的にどうもダメだが)、これまで軍団長役と軍師役を兼ねてきていたと言ってよい。その勘もあくまで劉備個人の才に属する勘に過ぎない(徐庶とても、その勘により引き上げられたようなものだ)。その場その時の感性によるものであり、実際、その場しのぎにしかならないことが多く、戦略、政略に応用性のあるようなシステマティックなものではない。自身もそれを十分に知っており、それが故に有能な文官、軍師参謀を求める気になっている。
(しかし、水鏡もそうだが、何故、隠そうとする? 知っているのなら名前くらい、別にいいではないか)
そこが腑に落ちないのである。ここで徐庶が水鏡先生の門下であることを暴き、問い詰めてみるのは簡単である。しかし、これも劉備の勘によるものなのか、今はまだ早いと感じる。臥竜、鳳雛には何か人に言えない深いいわくがあるような気がするのである。
いつもなら爺の惑言など、二、三日もすればきれいさっぱり忘れるはずなのだが、この件については不思議と頭にこびりついて離れなかった。気になって仕方がなくなった劉備は糜竺に命じてひそかに司馬徽と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公について詳しく調べさせ、その門弟の名もまた調べさせていた。いや別に襄陽の者に世間話に尋ねさせた程度のことで、すぐに分かることばかりである。ただ、
(この単福が十中八九、徐庶元直だということは間違いない)
ということは少し前から薄々分かっていて、水鏡先生の邸での密会で確実となったわけだ。
「徐庶、一八〇年頃、穎川《えいせん》の旧家に生まれる。若年より剣を好み、侠化(不良化)する。中平の末年に人に頼まれて仇を討ち、髪はざんばら髭はぼうぼう、さらに白粉をつけるなど、意味不明なほど無用に狂乱しながら逃足するも、殺人罪で逮捕される。取り調べに黙秘を通したので役人は車に縛り付けてさらし、民間に情報提供を求めたが、人々は悼って言わなかった。まもなく、仲間と共謀して脱獄。その後数年、単福の偽名を名乗り、使徒と交わって逃亡生活を続けた。世が乱れたため、再逮捕される恐れもなくなったせいか、すっぱりと足を洗いカタギとなる。襄陽に老母と二人暮らし。司馬徽の門を叩き、今にいたる」
という調書も簡単にあがった。劉備軍団好みな前歴に、
(ほう。単福郎も、なかなかやるじゃないか。張飛に教えてやれば喜ぶに違いない)
と思った。
司馬徽の有力門弟も芋蔓式に、崔州平《さいしゅうへい》、石韜《せきとう》、孟建《もうけん》、諸葛亮という名があがる。司馬徽の門弟は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の門弟と重なる者も多く、他に馬良、馬謖《ばしょく》、習禎、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統らがめぼしいところである。
みな秀才の噂は高いらしいのだが、実績のない若僧ばかりであり、所詮は学問が出来るだけの書生に過ぎない。名は聞き流し、覚える気にもならなかった。この中で誰が上か下かと聞いても、団栗の背競べのようなものであろう。実際に使ってみれば、徐庶のように少しは光るモノを持っているかも知れないが、天下を狙うに必携の才覚者であるかというと大いに疑問である。わが孫乾、糜竺、簡雍らのほうが不遇に耐え経験を積んだぶん、確かな仕事をするのではなかろうか。
(臥竜、鳳雛……司馬水鏡がほのめかし薦めんとするのだから、その弟子の中にいるのだろうと思ったが、そうではないのかも知れんな。それとも身内誉めか。そりゃ、まあ、将来性まで見越せば話はべつだが、水鏡の言いようでは臥竜、鳳雛は脅威の即戦力ということだったしな)
自分の弟子の中にいるのなら、それこそ、ああも隠すことなく名を挙げ紹介し、おのが弟子の優秀さを誇ろうものである。
しかし何故かそうではない。だから劉備ともあろう者が気にかけているのである。そこに先刻の変な歌を歌う男である。
(わしは何かたくらまれ、仕掛けられているのではないか)
と、劉備の魔性の勘が囁くのである。
「どういたしました」
劉備が黙り込んでしまったので、徐庶が声をかけた。
「うん、おお、すまぬ。では先生はあくまで臥竜、鳳雛などは嘘《うそ》ごととおっしゃるのだな」
「そう思っております」
徐庶としては、孔明は天下の望など捨てて楽しく暮らすことにしたらしいから、それにこの会話を隣で盗み聞きしているであろうから、懸命にとぼけているのであった。臥竜はともかく、鳳雛というのは初耳であった。鳳雛の正体が※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統だということは、徐庶も(たぶん孔明も)まだ聞いていない。
だが劉備の勘は、
(その実態は皆目わからぬが、どうも、現実にいるな。臥竜、鳳雛は)
とするのである。
(天下の奇才なりとは話半分としても、何故こうも怪しい霧で包もうとするのか、そのわけが知りたい)
鍵を握るは水鏡先生であり、身近にはこの単福こと徐庶である。
徐庶も役人に捕まったとき、拷問やら相当酷い目に遭わされたに違いないが、黙秘し通したという立派な意地者であり、いま無理に聞き出そうとしては逆効果になろう。
(いましばらく待つか。しかしだ。だいたい、このことが、重要なことなのか、どうでもいいことなのか、それすらよく分からぬ。これでは関羽、張飛に相談しても変な目で見られるだけだ)
襄陽に生命を狙われ、ごく近い将来の曹軍来襲など、問題山積みの劉備が、まことにあやふやなことに引っかかっていた。シビアな現実に向き合わぬばならぬタフガイが、こんなことに悩ませられていること自体、既に孔明のまどわしの術がじわじわと及んできている証拠なのかも知れなかった。
孔明は臥竜℃謔閧竄゚を宣言してはいた。それでも術だけは生き物のように動いているのか。しかし孔明がまた気が変わっていたとしても、外から見ただけでは分からない。今日とても気まぐれか遊びかなんか意味があるのか、わざわざ新野に現れて、劉備に、変装した姿でちょっかいをかけた模様だ。孔明在るところに謎と悩みは尽きぬ。
さて、劉備、
(臥竜の正体暴きは……待つことにしてもだ。いま隣室に隠れておる者は、捕らえてみれば分かる)
こちらは逃がすつもりはない。
「そうか、つまらぬ話をしてすまぬ。わしは隣の部屋でしばらく休むとしようか」
と、椅子を立ってさっさと歩き出した。
「あっ、殿、お待ちを」
「なにかな、先生」
「いや、隣は」
「何か、おありなのかな」
「いいえ」
「では」
劉備は念のため佩剣の柄《つか》に手をやり、隣の部屋に踏み込んだ。徐庶は目をつむった。
だが、隣室には誰もいなかった。言い訳しようと劉備の後についてきた徐庶もぽかんとしている。
(ふん)
劉備が振り向くと徐庶が何だか変な顔つきでいる。
「先生、いかがなされた」
「いいえ。べつに」
徐庶はそそくさと戻っていった。
劉備は装備を外しながら、しかし、自分の勘が外れたとは思っていない。ついさっきまで確かにここに誰かがいた。
(機敏なやつだ。まあ、単福郎もそれなりに軍師である。われわれに隠して間者《かんじゃ》のような者を飼っておるのやもしれん。するとあの黒服の男は……)
劉備は軽く首を振った。こういうときは、下手な考え休むに似たり、頭を単純にするのがよいのだ。
(しかし、司馬水鏡に会って以来、急に身辺にそらぞらしいことが起き出した。あの老人、ああ見えて本当に仙人のはしくれか何かなのか?)
よし、近いうちに再び水鏡先生の邸を訪ねて、いらいらにけりをつけん、と心に決める。
徐庶が元の部屋に戻ると、戸口に孔明が立っていた。
「あっ」
と声を上げそうになったところ、孔明が唇に人差し指を当てて、
「しっ」
と言い、歩いて行った。
徐庶は孔明を追って庁舎の外に出た。
「いや、冷や汗を掻いたぞ。だがどうやって消え失せたのだ。まさか、壁抜けでもしたのか?」
「元直よ、きみは莫迦《ばか》か。壁抜けなど出来るものか」
「ではどうやって」
「やはり莫迦だな。窓があるじゃないか。いそざそこから逃げ出たまでのこと」
「なんだ。窓か」
徐庶がちょっと残念そうに言ったので、孔明は、
「こたびはたまたま部屋に窓があったが、もし無かったとしても、わたしは消えたかも知れんぞ、元直」
とサービス心からか、言ってやった。
「本当か」
徐庶はこどものように目を輝かせる。徐庶はくだんの軍師アドバイスの件以来、孔明マジックにどっぷり浸かってしまっており、何かと孔明に異常な期待をするようになっていた。古来より超常現象に取り憑かれるのは堕落のはじまりになることが多い。徐庶よ、凡人はそういうものに触れないに越したことはないぞ。
それはおいておいて孔明は、
「それより元直、水鏡先生を悪質な虚言老人呼ばわりとは、師に対して非礼、ひどいことだ」
「きみは聞いていたんだろう。ああ言うしかなかった」
「そもそもどうして冷や汗を掻くのだ。わたしが友だということが迷惑なのか」
孔明、微笑して意地悪を言う。
「じゃあ、臥竜とは隆中の諸葛孔明のことだ、と教えてよかったというのか」
孔明はそこでさっと白羽扇を取り出すと、しばらく眺め、口元を隠して答えなかった。代わりに、
「たかが一人の奇才を得ただけで、天下が取れるはずもなし、か。きつい指摘ではある」
と、なにやら自嘲気味につぶやいた。
(だって、そうだろうが)
と徐庶は思ったが、口には出さなかった。
「だがな、元直、宇宙は天下よりも広いのだ。もし宇宙を取れる男がいるとすれば、ふふふ、況《い》わんや天下の一つや二つ、朝飯前ではないか。わたしはそう思うが」
そう語る孔明、なんか目つきが怪しいぞ。徐庶がこわがり、ぞくりとしている。
孔明は白羽扇をさげた。その目の色も元に戻っていた。
「あれが劉備玄徳か――この目で見て声を聞いたが、きみの話や世間の噂以上に……」
「噂以上に、なんだ」
「へんな男である」
と評した。ほめているような響きがないでもない。徐庶は、
(お前が言うか)
と呆れている。変な男に変な男だと言われてしまっては、どれだけ変な男か分からなくなるというものだ。
空を見上げると暗く、雲が厚くなろうとしていた。
「降り出しそうだな。空模様は刻々と変わるものだな。もう帰るとしよう」
「孔明」
「劉玄徳は元直にはいい主君だと思う。真面目に仕えることだ」
孔明は扇子を仕舞うと歩き出した。
徐庶はまだ話し足りなく、呼び止めようとするが、ちょうど酒樽をふたつも担いだ張飛がやって来るのが見えた。張飛と孔明はすれ違った。ひょろりとしているが背の高さは張飛とかわらない。
「おお、単福先生、先生もこれを待っておったようだな。今宵もがんがん飛ばすぞ」
張飛が豪傑笑いに叫んだ。張飛の巨体の後ろ、すれ違って先を歩いているはずの孔明の姿は消え失せて、そこにはいなかった。
(エッ)
徐庶よ、べつに驚くこともないぞ。理由は知らないが、急にそこの横っちょの路地に入りたくなっただけだと思うぞ、たぶん。
その翌日、昨夜からの雨が小雨となっていた。
新野の城市《まち》は活気に満ちており、盛んである。人口もなお増えている。劉備の人気と徐庶の手腕のせいである。しかも盗みなどの犯罪も稀にしか起きず、邏卒《らそつ》の人数も少なくて済んでいた。これは犯罪者が出たら、張飛が喜んで嬲り殺しにして市にさらしたからである。
だから大して必要ないのだが、暇な劉備は巡察をするつもりで庁舎を出た。しかし今日はあまり気が乗らず、早々にやめて城市《まち》の酒家にぶらりと入った。
「あっ、領主様」
ちらほらいた客に大歓迎されて、だんだん上機嫌となり、
「領主様などとは水くさい。それがしは新野をあずかる客将にすぎぬよ。しゃちほこばらず玄徳とでも呼んでくれ」
外を通りかかった者も中に劉備がいると知ると、嬉しげに入ってきたので、ちょっとした宴会騒ぎとなった。
顔を赤くした劉備が城市《まち》の者に、
「ところで、聞きたいが、おぬしは臥竜なる者を知っておるか。いや、知らんだろうな」
と、気軽に聞いてみると、
「えっ、臥竜ですか。知っておりますよ」
と少々嫌な顔つきになる。
「なんだと! 誰なのだ、その者は」
と劉備は驚いて訊ねる。
「諸葛孔明という男のことです。隆中の農夫なのですが、うーん、変物というか、いかれているというか、襄陽ではだれ知らぬ者のない鼻つまみ者ですよ」
「なぬぅ〜」
劉備はひどいオチに、ぶふわっ、と口中のものを吹き出してしまったのであった。
さて、水鏡、徐庶が思わせぶりに秘匿する謎の奇才とは、町人周知のワル臥竜、知らぬ玄徳ばかりなり、この野郎どうしてくれようぞ、というところ。さて劉皇叔はどうでるや。それは次回で。
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徐庶《じょしょ》、離間策に泣いて遂に諸葛を薦む
『三国志演義』によると、はじめ孔明は劉備に仕えることを、ものすごく嫌がっていたことになっている。
徐庶はやむを得ぬ事情で劉備のもとから辞するとき、孔明を自分を遥かに凌駕する大天才と推挙して去った。しかし肝腎の孔明が劉備の招きを断るようなことがあっては、劉備に恥をかかせることになる。気がかりになった徐庶は、孔明の意を聞き、嫌がるようであれば懸命の説得を加えようと、隆中臥竜岡を訪れた。
「劉玄徳どのに別れを告げる際、貴公をお薦めして参ったゆえ、近々ここを訪れることになるだろう。その時、断ったりせず、平生の大才をもって助力してやっていただきたいのだ」
頼む、孔明、わたしの顔に免じてお願いする、と。
すると孔明、それを聞くなり顔色を変え、
「貴様はわたしを犠牲《いけにえ》にするつもりか!」
と、もう友でもなんでもない、頭を下げる徐庶に唾でも吐きかけんとするほど激怒して、つと席を立ち、奥に隠れてしまった。「犠牲《いけにえ》」という言葉が過激で、こうまで言うのだから、劉備がよっぽど嫌いだったとしか思われない。
たいていの『三国志』はこの場面をさらっと無視してしまっているが、どうしてなのだろう。いや、行間から孔明の真意を読みとった結果、
(孔明、ああは言っているが、なりゆき、半ば劉備に仕えることを望んでいたのだろう)
と推測して省略したのかも知れない。でないと『三国志』が続かない。
しかし本当にそうか? 孔明のような偉奇なる男の心衷は、わたしのような凡人の想像の及ぶところではない。しかし、普通に読んだら、確かに嫌がってます、あくまで『三国志演義』にしたがえば。
『三国志』になるとこのあたりの孔明の気持ちは書かれていない。よって、
「正史の記述に沿って『三国志』をアレンジしたのだ」
と弁ずれば、さきの「犠牲《いけにえ》発言」は無視できる。だが、かわりに態度で嫌さを示しているともとれる。
『三國志』ではこうなっている。徐庶が突如、
「諸葛孔明は臥竜です。将軍はかれと会いたいと思いますか」
と劉備に問う。劉備が、めんどくせえ、と思ったかどうかは別として、
「ここに連れてきてくれぬか」
とこたえると、徐庶は、
「孔明はこちらから行けば会えますけれど、無理に連れてくることは出来ません(なぜだ?)。将軍が駕《か》を枉《ま》げて来訪されるのがよろしい」
と言う。かくて三顧の礼の名場面に雪崩《なだ》れ込むことになるわけだが、劉備が、無位無官の農夫、なおかつ戦場でも官庁でも無実績の若僧のあばら屋をじきじきに訪れたというのに、
「およそ三度の訪問のあげく、やっと会うことが出来た」
というから、一回目、二回目には面会かなわず、無視されたことがわかる。
つまりは『三国志演義』にしろ『三國志』にしろ、はじめ孔明は劉備を避けた、ということが明らかに書かれているわけだ。
とはいえ、高位の叙任や待望される出馬のさいに一度で要請を受けるのは欲が見えすぎ、下品ではしたないとされ、最低二度は儀礼的に辞退し、
「それでもなおとおっしゃるならば」
と、三度目以降に受けるのは、これは礼儀というものである。「三顧の礼」というとよほどたいそうな迎え方、ということに意味が落ち着いてしまっているが、はっきり言って、普通の作法である。歴史上、三顧の礼を受けた者は孔明以前以後とも無数にいるのである。場合によっては四顧も五顧もあったろう。
何故、孔明の三顧の礼が特別視されるのかと言えば(『三国志』で有名だから、というのが正解だろうが)、やはり、若輩で実力未知数の農夫に対し、後の蜀漢の先主劉備玄徳が、異様に低姿勢であったからであろう。しかも最初の二度の訪問の際は、辞退するのではなく、会おうともしなかったのである。(『三国志演義』では旅に出ていたり、崔州平と遊びに行ったりしていたことにしているが)。またもしスカウトした孔明が、使い物にならないクズだったら、劉備の人を見る目の無さ、恥であり、そもそも記録されることもなかったはずだ。
「三顧」の出典自体は諸葛亮作の「出師の表」であり、特筆されている。
「先帝(劉備)臣(孔明)の卑鄙《ひい》なるを以てせず、猥《みだり》に自ら枉屈《おうくつ》し、三たび臣を草廬《そうろ》の中に顧みて、臣に諮るに当世の事を以てせり」
要するに、
「この厚遇のあつきを見よ。これは異例のことなのだ」
と孔明は声を大にして訴えているのだ。
またこの時点での劉備自体が、肩書きだけは仰々しいとはいえ、実質は雑軍の指揮官以上の何者でもなく、実際、劉表の好意で食客のように荊北の隅に置いてもらっているという肩身の狭い境遇である。尊貴でも権力者でもなかった。だから、足腰も軽く、気楽に農家を訪ねられるような立場だったといえる。相手の身分、格などを問題にする気など起きなかったろう。これが蜀漢成立後であったら、孔明の如き者がいたとしても三顧の礼など起きなかったに違いない。徐庶が有能の士を推薦するというので、
「せっかくだから、ちょっと会ってみようか。関羽も張飛も一緒にくるか」
というような気安さである。
劉備よりもはるかに人材を重視した曹操などは、有才あり、と聞こえると、三顧の礼どころか、
「そやつをここにさらし出せい。嫌だと言ったら引っ捕らえてでも連れてこい」
それでも拒むというのなら殺せ、といった印象である。そこまで乱暴なことはすまいが、丞相曹操の立場では、使えそうではあろうが一介の農夫への三顧の礼など、独立当初の頃ならいざ知らず、したくとも出来なかったろう。まずは荀ケ、程cのような者が打診しに行くことになる。
だからといって、決して『三国志』中屈指の名場面の価値が下がるわけではない。なぜなら妙に面白いからである。嫌がる孔明、しつこい劉備との間にどんな変化が起きたのか。
水鏡先生の垂らした釣り針が発端で、臥竜、鳳雛がらみで劉備と徐庶の間に緊張感が高まっていた頃、曹操の魔の手が徐庶に伸びようとしていた。
新野の劉備、少々出来る軍師を得たくらいで、調子に乗られては困るという理由だが、徐庶を劉備から引き離す策が実施されようとしていた。
荊州侵攻は秒読み段階となっている。念には念をいれておこうということか。確かに徐庶加入後の劉備軍団の実力はあがっており、小城とはいえ、荊州の玄関といえる新野城がこれ以上強くなるのは望ましくない。
「造作のないことでございます」
と程cは策ともいえないような策を述べた。
「襄陽に住まう徐元直の老母を誘拐して参ります。そして、老母より徐元直に許都に来るよう手紙を書かせます」
許都でも単福が徐庶であることはとっくにばれている。曹操が、
「そんな簡単なことでいいのか」
と言うに、
「孝行者だという噂ですからな。しかし、その程度のことで劉玄徳を捨ててやって来るようなやわな男では、わが君の覇業に役立つ者とは申せませんな。徐元直の性根や才を計るにも好都合かと」
老母誘拐作戦が失敗したら、また別の手を用いればよいだけのことである。
「では早速やってみよ」
「御意」
程cは皺のふかい老獪《ろうかい》な顔を伏せる。
そして何日もたたぬうちに徐庶の老母は許都に拉致されてきた。
ところがその老母がとんでもない莫連《ばくれん》の猛女で、殴る蹴る喚く噛みつくと、連行してきた工作員はすっかり辟易してしまっていた。さすがに徐庶の母というか、若い頃には女侠を任じて暴れ回っていたのかも知れぬ。
曹操がじきじきに引見した。生傷だらけの老婦に、かける言葉は丁寧である。
「ご令息の徐元直どのは、この許都にも聞こえる大才の持ち主である。しかし今は新野にあって逆賊劉玄徳の臣下となり、朝廷に背く罪を犯している。まことに美玉を泥の中に置いてあるようなもの、惜しいことだとおもう。そこで御母堂より書面をつかわされて、劉玄徳と手を切り、ここに呼び招いていただきたいのです。さすればわたしが天子に奏上いたし、決して悪いようには致さぬようはかる。天下万民のため、お願いする」
老母は忌々しそうに曹操を睨《ね》めあげて、
「劉玄徳どのは逆賊におわすというか」
「さよう。※[#「さんずい+(琢−王)」、unicode6dbf]《たく》郡のいやしい家の出で筵売りから馬泥棒までなんでもござれの悪器用、帝に洒落で『皇叔』などと呼ばれたため思い上がってしまいおる、信義のかけらも無い小人です」
すると老母は、目の前に置かれた硯に、けっ、と痰を吐き、
「かかかか、よくもいうわ、おのれこそちんぽ切られた腐れ者のせがれのせがれであろうが」
曹操に唯一コンプレックスがあるとすれば、宦官の家から出た、と言われることであった。曹操は真っ赤になり、荀ケ、程cらは真っ青になっていた。
「くらべれば玄徳どのは中山靖王《ちゅうざんせいおう》が末孫にて、民をいつくしみ、賢者にへりくだり、人にたいして敬を忘れぬ侠気一途の英傑さね。国賊というなら、ちびすけ、おのれのこったい。そんな糞垂れ野郎があたしを脅し、息子を乗り換えさせようなどとは、ようも恥ずかしくもなく言えたもんだわ」
実質、華北を動かす力を持つ男に、この言いよう。まさに恐いものなし《ノーフィアー》。
その後も聞くに堪えない悪口雑言を投げつけまくった。曹操がぶちキレなかったのはほとんど奇跡といってよかった。
「老女が咎めたため殺した」
などというのはあまりにも外聞が悪すぎるというものだが、この場合、いきなり斬りつけても情状酌量の余地はあろう。よくもまあ次から次へと汚い言葉が続くものだと感心するほどの、ひどい罵言讒謗《ばりざんぼう》であった。そもそも徐庶の老母はわざと殺されるつもりで罵っている。曹操は、震える拳を袖に隠し、
(殺せば負けだ)
という気持ちで、必死に耐えた。
「ははは、久しぶりに市井の者の生きのよい啖呵《たんか》を聞かせてもらったわい」
と、天下人の余裕で切り返した。
曹操と老母の視線がぶつかり、きな臭く、火花が飛んでいるのが見えるようである。
「程c!」
「ははっ」
「御母堂は手紙を書きそうにない。おぬしが代筆しておけ」
「ははっ」
顔面蒼白の程cは、聞き取れぬような小声であった。
「家を与え、不自由なくお世話してさしあげろ」
血管浮かせる憤激をなんとか乗り切ったものの、曹操は持病の偏頭痛の発作を起こし、顔をしかめて出ていった。老母はその背中になお悪態をつき続ける元気さだ。老母、おそるべし。
程cも苦労した。程cはこのとき六十の半ば過ぎ、老母とさして変わらぬ年齢である。老母の家に出向いてはちょっといい話を聞かせたり、贈り物をしたり、懐柔にこれ努めたが、
「このど腐れジジィが。あたしに色目を使う魂胆かえ」
とか痛罵され、
(この地獄ババァめが)
と曹操に代わって絞め殺したくなった。我慢ならずに口喧嘩、ついには張り手の交換をする日々、そのうちようやく、老母の筆跡を手に入れることが出来た。
老母の書体を真似させて、偽の手紙を作成した。それを新野の徐庶に送りつけたのであった。
新野に居続けの徐庶は、襄陽の母が攫《さら》われてしまっていたことを知らなかった。噂と違い、親不孝な男である。
商人なりの見たこともない男が、
「単福どのでございますね。お母様より、これを言付かって参りました」
と手紙を渡すと、逃げるように走り去った。くせもの、と捕まえる暇もない。
徐庶は手紙を披《ひら》いて読んだ。
「お前が新野の劉玄徳に仕えていることを根に持たれ、曹操の配下に捕らえられ、いま許都にいる。曹操に問答無用で磔《はりつけ》にされそうになったとき、やさしい程cさまが命乞いをしてくださり、ほそぼそと生命を長らえている。親切な程cさまが曹操に交渉してくださって、お前が劉玄徳のところを抜けて、許都に来るなら、親子とも生命は取らず、それどころかよき官職にもつけてくだされると約束してくださった。どうかお願いだから早くこちらへ来ておくれ。母を見捨てないでおくれ。お前の来着を一日千秋の思いで待っています。偉大な将軍程cさまには感謝のことばもありません」
と、そんな事が書いてあった。
(なんてことだ)
徐庶はしばらく沈痛な面もちで考えていた。
(あの母上が、こんな情けない手紙を書くはずがない)
母のもの凄さは骨の髄から知っている。もし書いたとしたら洗脳されているに違いない。ないしはおぞましい拷問を受け、無理矢理書かされたか、あるいは誰かの偽筆であろう。
(母上の口の悪さが災いして、いつ殺されてしまってもおかしくはないぞ)
思いあぐねた徐庶は、手紙を持って劉備の所へ行った。
「単福先生、いかがなされた。顔色が悪いな」
徐庶は手紙を渡し、
「お読み下さい。母上からの書簡です」
「先生の母君が?」
劉備もそれに目を通した。既に大粒の涙がこぼれてきている。
「先生、悲運なり。曹操めが、なんと卑劣なことをする」
何はともあれ、劉備は顔も知らぬであろう母のために泣いてくれているのである。それを見て徐庶は身の先の覚悟を決めた。
「殿、お耳にいれておかねばならぬことがあります」
劉備はこみ上げる涙を袖でぬぐい、聞く姿勢を取った。
「これまで殿を欺いてきた罪をお許し下さい。わたしの本名は単福ではなく、徐庶、字《あざな》を元直と申します」
と徐庶は己の略歴を語り始めたが、それはもう劉備も承知のところであり、
「単福先生、いや、徐元直どの、そんなつまらぬことで頭をさげてくださるな。この劉備、先生より既に多くの恩をいただいてきた。先生の忠義にはいつわりなき誠があった。それに比べれば経歴詐称など赤子のお漏らし、微罪にもあたらぬ」
「わが君っ」
「それで、どうなさるのか」
「何年か前、わたしはずっとここから逃げたいと思っておりました。しかし、いまのわたしは、わがあるじは殿よりほか……」
「いかん。それはならんぞ、先生。主君への忠と母君への孝、どちらが上かなど、比べることすらはばかられようぞ。わしのことはどうでもいい。いそいで許都へゆきたまえ」
「殿、そこまで……。わたし思うにその手紙は偽物です。あの気丈(過ぎる)な母がそのようなことを、たたえ拷問を受けようと書くはずがありません。しかし、母がとらわれの身であることも間違いありません、わたしは」
お互いくくくと歯を噛みしめて、ただ涙を流した。徐庶は劉備軍団に入って以来、これほどの愛着を感じたことはない。
(ああ、おれはこんなにも殿と新野の衆を好きになっていたのか)
この事件が無かったら、まだまだ気付くことはなかったかも知れない。
そのとき張飛を先頭に(むろん酒樽を抱えて)劉備軍幹部がどやどやと入ってきた。劉備と徐庶が立ったまま涙を流している異様な光景に私語雑談がぴたりと止まった。
「あ、兄者に単福先生、いかがなされた」
張飛がやっと口を開いた。劉備が書簡をばっとつきだした。張飛は字が読めないので、関羽が引き取り朗読した。読み終わると、
「皆様、お別れです。お世話になりました。とくに翼徳どの、これまでよくご愛顧いただけた」
と徐庶は言った。別れると決まってみると、あの憎くて大嫌いで不意打ちに殺そうかとまで本気で思っていた張飛にも、友情のようなものを感じる。
すると張飛の目がぎらりと光った。
「曹操の野郎、汚い真似をしやがって」
張飛はかけてあった一丈八尺の蛇矛を引っ提げると、一人で出ていこうとする。
「飛弟、どこへゆくつもりだ」
「知れたこと。許都に乗り込み皆殺しだ。単福先生の母君を奪還してくる」
「待たんか翼徳」
と趙雲が肩を掴んで止めた。
「ええい、離せっ。子竜、邪魔するなら貴様から血祭りに上げるぞ、コラァ」
張飛が部屋の中で蛇矛を振り回し始めたので、孫乾らは慌てて床に伏せた。部屋の中の器物が壊れ跳ね飛ばされ、いきなり暴風が吹き荒れたかのようになる。
「や、やめろ、あぶない」
蛇矛の先が徐庶の鼻先をかすめ、あと数センチで死んでいる。
ばしっ、と音がして、張飛がよろめいた。関羽が蛇矛の柄を受け止め掴んだのである。
「関兄まで邪魔するのか」
蛇矛は張飛が押しても引いてもびくともしない。
「暴れどころが違うぞ、飛弟」
「しかし、関兄」
「飛弟、このわしがおぬしの何倍も怒っているのがわからんか」
関羽は常の赤い顔をどす赤黒く染め、湯気までたてているように見える。自慢の長髯がビリビリと震えていた。まさしく正義の魔神であった。関羽の激怒のせいで部屋の温度が上昇したかのようだ。いざ激怒し見境がつかなくなったら、恐ろしいのは張飛より関羽、とはもっぱらの評判である。真に怒った関羽を見た者で生きている者はこの世にいない。関羽だけは怒らせてはならぬ、と、敵兵以外は気を遣っていた。
張飛の足を取って引き倒そうと、匍匐《ほふく》前進していた趙雲が、むくりと身を起こした。
「翼徳、気持ちは分かるが、おぬし一人で何が出来るか。おぬしが暴れ狂うのはよいが、その間に単福先生の母君に害が及んだらどうする。ここは作戦を練り、少数精鋭で隠密に動くべきだ」
と特殊部隊を組織して、人質奪還作戦を行うべし、と主張する。
「わかった、子竜、潜入作戦はお前に任せる。おれは一万でも百万でも、敵兵を引きつけておいてやる」
と張飛が言い、
「ならばわしは曹軍の騎馬隊十一万を、赤兎《せきと》とともにずたずたにしてくれよう」
と関羽が低い声で言った。
劉備軍団の虎将三人は床にあぐらをかき、無茶苦茶な戦闘計画を立て始めていた。
劉備が手招きして、徐庶らは部屋から出た。
「さ、今のうちに出発したほうがいい」
「わたしなどのために、あの凶悪無比の三人が怒ってくれている」
酒を無理矢理に飲まされたり、使い走りをさせられたり、度を越したいたずらを仕掛けられたりしたが、それでもかれらは仲間だったのだ。徐庶はまたもや涙を溢れさせた。
「せめて今宵一晩でも、心ゆくまで語り明かし、酌み交わしたかった。許都へ参るといっても、二度と帰参がないとはかぎらぬ」
と劉備がしんみりと、いい顔で言った。
「わたしもそう思いたいです」
徐庶は用意された馬にまたがり、鞭をいれた。
徐庶を見送る劉備に孫乾が耳打ちした。
「かれはなかなかの奇才であり、また久しくこの地におり、わがほうの内情をつぶさに知っております。かれが曹操につくなら、重用されること間違いなく、さすればわれらはどうしようもなくなりますぞ」
べつに徐庶が新野の内情を曹操に漏らしても、そのせいで危険になるというようなことはあるまい。知っていようが、知っていまいが、曹操はそれを無意味にするほどの大軍を率いてくるに違いないからである。もともとどうしようもないのだ。
今の新野には調練がゆきとどいた兵士が一万近くいるが、それでも曹操の大軍に勝てるはずがなかった。それに新野で養える兵は一万が限度であり、これ以上増えることはない。城邑の規模として維持が無理なのだ。曹操と戦うには劉表との連携が必要不可欠のものとなってくる。
よって劉備が知らんふりをしていると、孫乾は聞こえなかったのかと、さらに吹き込んだ。
「単福を引き止めておくのです。しばらくでよろしい。怒った曹操は単福の母を殺すでしょう。そうすれば、かれは許都にゆく理由を失います。さらに曹操は母の仇となり、復讐に燃えて大活躍してくれるでしょう」
劉備は孫乾の顔をじろりと睨み付けると、思い切りぶん殴った。孫乾は血|飛沫《しぶき》をあげて転がった。
(わが股肱が、なんとみみっちい謀略か。蔡瑁にも劣るわい。やはりうちの者ではこの程度のげす知恵が精一杯か。もっとすかっとする、でかい謀略が出ぬものか……)
そう思えば徐庶だって手放したくないのである。ふと、
(臥竜)
という言葉が浮かんだ。
地べたの孫乾は鼻と口から流れる血を手で拭いつつ、
「おそれいりましてございます。ああ、わが殿はまことに仁義の人であらせられる」
と、何かうっとりとした表情で言うのであった。
「孫乾、酒宴の用意はしておけ。単福、いや、かれの本名は徐庶というのだ。しばらくしたら戻ってくるだろう」
「えっ、どうしてです」
「徐庶は大きな忘れ物をしているからだ。わしの勘があたっておればだが」
劉備は憂鬱《ゆううつ》そうに庁舎の中に戻っていった。
ここは『三国志』だと、劉備の異常なまでの執着性格、女々しさが描かれていてまことに注目すべき場面である。
徐庶に未練たらたらの劉備は泪《なみだ》を滂沱《ぼうだ》とさせ、
「先生がいないとどんなご馳走もおいしくない」
とだだをこね、
「先生が去られた上はわたしも世を捨てる所存です」
と、オフィーリア、尼寺に入ります、というか、かなり本気でいう。もうなんというのか『三国志』のメインテーマをあっさりと踏みにじる(さらに関羽、張飛との絆や誓いはどうなったのか?)錯乱したとしか思えないような狂気の言を吐き、徐庶にさとされ説教を喰らう。
しかしなお劉備は馬上立ち去る徐庶を追って、ひと町、あとひと町、といい加減にしてくれと言いたくなるほどに見送り続けるというストーカー行為をはたらいた挙げ句、ようやく諦めて立ちつくしたと思ったら、
「元直が行ってしまう。わたしはこれからどうしたらいいのか」
とまた錯乱。徐庶の姿が樹林に遮られると、
「あの林をぜんぶ伐り払ってしまいたい」
とぬかし、一同わけを問うと、
「だって元直さまの後ろ姿を見るのを邪魔するから……」
とまで言うのであった。かわいい!
このぞっこん惚れ込みようはたんに主従の絆というには気持ち悪いほどの人情が感じられてならぬ。このあたりに『三国志』には欠かせぬアナザー・ワールドがあると主張する人々に反論するのは難しい点のひとつがある。
そしてなんか捨て犬について来られて憐憫の情が湧いたかのような感じで、徐庶は、馬を返して劉備のところに戻ってくる。劉備は、ばっと目を輝かせ、
「おお、元直が帰ってきた。やはりそばにいてくれるつもりになったのね」
と、欣喜雀躍するのである。自分が、
「許都の母の元に行きなさい」
と許したくせに、同時に矛盾する男心は、
(やはり母親よりこの玄徳を選んで欲しかったのだ)
と複雑で、棄てないでくださいまし……とか、恋する男のせりふとしか思われない。
「天下一軍師が好きな男、劉備玄徳」
しかしその後の劉備は実のない男というしかなく、たちまち孔明に夢中になり、以降は徐庶の名などどこからも出てこなくなるのである。ひどい。飽きたらポイなのか。
劉備玄徳には初期の頃からこのような傾向がつきまとっており(捨てなかった例外は関羽と張飛くらいである)、異様に感情的過ぎる人であり、そのせいで、今一つ仁徳の人とよばれても頷けないところがある。
『三国志』のこの徐庶との別れの場面の大仰さは、結局、何を言いたかったのだ(劉備の浮気癖を強調するため?)、と穿鑿《せんさく》したくもなろうものである。
既に夕。
別に何があったからというわけでもなく、劉備と股肱、幹部たちは宴会を開いて酒を飲んでいた。劉備が孫乾に命じて宴会の用意をさせておいたから、その流れでつい。
(おかしいな。徐庶が戻ってくると思ったのだが)
と劉備は思いつつ盃を舐めた。張飛はさっきの憤慨のことなどさっぱり忘れて、酔眼|朦朧《もうろう》、蛇矛を振り回して酔い舞っていた。そのせいで既に下女、小姓、三名が重軽傷を負っていた。さすがにいかんと思ったか、趙雲が剛槍を持ち出して武舞を合わせて舞い、これ以上の被害者が出るのを防いだ。ちなみに趙雲の剛槍の名を涯角槍《がいかくそう》という。海角天涯に敵なしという意味である。関羽の青龍|偃月刀《えんげつとう》、張飛の蛇矛と定番なのに趙雲の槍に異称がないのは寂しいと思ったらしい後の人が勝手につけた名であり、趙雲も知らない。
劉備もそのうち、
(ま、いいか、べつに)
と思ってみずから騒ぎ始めた。
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数年|徒《いたずら》に困を守り
空しく対す旧山川
竜|豈《あ》に地中の物ならんや
雷に乗り天に上らんと欲す
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とあらぬ誤解を招きそうな(実際、招いたんだが)蔡瑁作の詩を吟じれば、劉備軍団随一の下ネタの達人簡雍が放送コードをあっさり超えたエロトークを飛ばしまくるのであった。
そんな楽しく出来上がったなか、劉備の予感したとおり戻ってきた徐庶は入る機を逸して入り口でもじもじしていた。徐庶には、
「ヤア皆の衆、戻ってきましたぞ、この元直が。ハッハッハッ」
とか言いながら入っていくほどの度胸はなかった。
(かえろう……)
もはやあの輪の中には入れない(入りたくない)のだおれはと、寂しく去ろうとした。と、たまたま厠に行っていた関羽とばったり廊下で出くわした。途端に、
「ぬぅおおおおおおおおおりゃゃゃあ」
という戦場の狂気、いきなり裂帛《れっぱく》の雄叫びがあがる。関羽は腹まで垂らした美髯を震わせ、
「単福、いや徐元直先生、戻られたかァーッ」
と腰が抜けかけていた徐庶をひしと抱きしめた。いつも赤い顔なので分かりづらいが、今宵の関羽は徐庶との別れの悲しみを忘れるために度を越して飲んでいたのであった。
廊下から関羽の地獄の鬼卒も拉《ひし》ぎ殺しそうな大声が響いてきて、皆、
「何事か」
と、一瞬、酔いも吹っ飛んで身構えてしまう。
関羽がのっそりと、後首を掴まれた子猫のような徐庶をぶらさげて入ってきた。
「先生!」
張飛が無邪気に喜ぶこどものように、しかし蛇矛を置くのを忘れたまま突進してきた。闘牛士よろしく関羽がひょいと避けなければ徐庶は串刺しになっていたところである。
「先生、会いたかったぞ」
酒臭い息を吐き付けながら、張飛は徐庶の前に座り込み、おいおい泣き始めた。
「やはりわれらのところへ帰ってきてくれたか。もう二度と離すまいぞ」
と男の友情溢れる抱擁をぶつけてきた。驚異の怪力に徐庶は窒息寸前となる。何故か簡雍、糜竺、孫乾らも群がってきて、わっしょい、わっしょいと徐庶を御輿にして、お約束通り最後は床に叩きつけるのであった。徐庶、ヒキガエル並み!
とにかく体育会系の酔っぱらいどもは仕方のないもので、しかし、思うに孔明はこういう連中に耐えられるのだろうか。
暴動に巻き込まれて、揉みくちゃにされて踏みつけられ、ぼろぼろにされたかのような姿の徐庶は、ようやく劉備の前に手を突いていた。
(やはりわが勘はあたったわい。ンムフフフ)
と劉備はご機嫌である。
(この勘があるかぎり、そのうちなんとかなるだろう)
まことに無責任時代、慢性の勘というしかない。
「先生が戻られたのは、何かわけがあってのことでござろう」
と、しんみりといい顔で訊いた。徐庶は、
(来なきゃよかった)
と後悔していたのだが、その顔を見ると新野での数年がやはり何もかもがすべて懐かしくなってしまうのであった。
「わが君、さっきは心が麻の如く乱れておりましたので、大事なことを申し上げることを忘れてしまいました」
「なんであろうか」
「わたしが去りし後、秀抜の人材をお手元に置こうという気持ちはおありですか」
「それはやまやまなことだが、徐元直どのを除いてそのような者がいるはずもない」
「わが君はすでに脳裏にその者の名を浮かべているのではありませんか」
「はて」
「臥竜、と」
「……」
「いや、わが君がいささかタヌキであることは、この元直、既に承知しております。わたしも急いでおりますゆえ、如何に」
劉備は、ゆっくりと
「諸葛亮孔明……と申す人物のことかな」
と言った。
酒家で臥竜=孔明と判明した後、町人たちにその者の為人《ひととなり》を訊ねてみたが、極めて評判が悪かった。信じがたい奇天烈な評判も混じっていたから、却ってその実体に少しは興味も湧いた。変人見たさというか。劉備の勘に響くところもあったものの、どうでもいいといえばどうでもいい男としか思われない。どこの地にも救いようのない変質者が一人や二人はいるものだ。
「そうです。隆中浪人、諸葛孔明こそ臥竜です」
「先生が、さきには司馬水鏡師が、敢えて諸葛亮を薦めようとなさるのなら、少しは見所はあるのであろう。それにしてもな」
見るからに劉備は乗り気ではない。徐庶は、
「わが代わりに諸葛孔明を招くことをお薦めいたします」
とあまりにもきっぱりと言い切った。孔明の了解をちゃんと得ているのか?
「そうまでおっしゃるのならば、考えてみようか。そうだ、先生、許都に行く前のもう一手間。その諸葛孔明とやらを連れてきてくれないか」
「そこなのです。わたしがわざわざ引き返したのも、いくらか念押しの言上をつかまつりたきことがあったからなのです。わたしはわが君が高い確率で孔明に会うことになるのではないかと、予感しております。その時のために」
「ふうむ。それで、先生が学友に、なにか、口添えかな」
「そんなものではありません。あの男には使用上の注意がいくつもあるので、気を付けていただきたいのです」
孔明は得体の知れない危険物である、と真顔である。
「たとえば孔明はいかな貴人、大臣が招き呼ぼうとも、決して来ません」
とはいうものの、呼ばれなくても来るときもある。
「なぜ、来ないのだ」
「ねじ曲がった性格というか、天の邪鬼というか、我儘というか、凡人には一見そうみえるのですが、その実、わたしなどには理解の及ばない深い理由がある、かも知れないのですが、無いかも知れないのです」
「なんじゃ、それは」
「しかし孔明が恐るべき天才であることは、いや、保証いたしかねるところが辛いのですが、矛盾するようですが確かなのです。とにかく、会いたいとお思いになられたら、わが君みずから訪ねた方がよいでしょう」
劉備は、
(ふざけておるのか)
といった顔つきである。
孔明が誰かに仕官する気が少しでもあるのか、それはまったく分からない。一時は確かにあったが、臥竜計画も停止中(だけど勝手に進んでいる)、やる気があるのかないのか分からない現状であった。黄氏との結婚以来、しあわせ三昧にひたりきり、天下のことなどどうでもよさそうである。今や園芸と旅行と愛妻が趣味のマイペース野郎となっている。
それでも徐庶が黙って去らず、孔明を薦める気になったのは、ひとつはやはり劉備への忠義の情があったからである。もうひとつは自分がいなくなったら、せっかくここまで整備してきた劉備軍と新野の行政は、元の木阿弥になりかねないからである。
簡雍、孫乾、糜竺らに加え、徐庶が採用した何人かの文官がいれば、なんとか行政機構は維持できよう。張飛、趙雲には軍事とは兵の集団行動であり、武将個人の勇力を集団に乗り移らせることが大事なのだと(半ば当たり前のことだが、わかっていなかった)、そのように兵を鍛えて強くする楽しみを教えたので、一万近い劉備軍兵士の質もまた維持できるとは思う。ただ関羽のみは軍事に関して己の流儀を持っており、恐くて教えることが出来なかった。
しかしである。劉備玄徳という頭領そのものが癌細胞、実は悩みの種で、人望人気の点に限ればこれ以上の親分はなかなかいないのだが、同時にどうしようもない無計画性といい加減さがネックであり、組織をシステマティックに運営することに関してはその思考が欠落しているとしか思われず、無能と言うしかない人物なのである。まことに漠の高祖劉邦に比肩すべき懲りない性格であり、漢室直系を称するだけのことはある。
劉備が周囲を弛緩させる能力は抜群であり、故に曹操は劉備を家臣にする努力を放棄したのではないかとすら疑われる。徐庶が気を配らなくなったら劉備軍団は徐々にまただらだら任侠集団に戻っていくに違いなかった。それはここ何年かの徐庶の努力がまったく甲斐のない水泡と帰することを意味する。何の仕事もしなかったも同然のことになり、それでは士としてまた臣下として辛すぎるというものだ。兵乱、政変が荊州を見舞えば(その時は刻々と近付いているが)、劉備軍団は壊滅するか、またもや流浪の腕貸し一家となることになろう。
孔明が劉備軍の軍師を引き受けてくれたとして、徐庶のようなやり方で劉備の参謀となってくれるかといったら疑問なのだが、他に薦められる人材が見あたらなかった。いや人材が皆無といったら言い過ぎである。でも平凡な逸材(?)では、アクが強すぎ個性的すぎる劉備一党の手綱を捌《さば》くことは不可能であろう。バクチとなるが、やはり孔明に任せたい。
劉備軍団を思う徐庶の心衷、最後の奉公のつもりでの、思い切った孔明推薦であった。ただし、孔明がどう出るかは徐庶にはさっぱり分からない。劉備と孔明の面を付き合わせて化学反応が起きることを期待するしかないのだ。
ここは臥竜宣伝を次々にかまして、いささかなりとも劉備の心を動かしておくしかあるまい。
「もし孔明を得ることがかなえば、古の名臣である管仲《かんちゅう》、楽毅《がっき》にまさる臣を得ることになります」
「先生、それは大げさ過ぎんか」
「いいえ、足りないくらいです」
「では訊くが諸葛亮は先生と比べてどれほどの才徳があろうか」
劉備は、管仲、楽毅のような何百年も昔の古臭い名臣などより、もっと分かりやすい物差しをと問い直した。
「わたしなぞと比べることなど不可能にございます。百人に一人、いや千年に一人出るか出ないかの、不世出の奇才にございます。天地をめぐらす才を持ち、天下に右に出るものはありません」
もうそのへんのヤツとは次元が違うのだ、と言い募り、
「その故に、襄陽の住民はまったく孔明が理解できず、異常者だとか、変質者だとか、ブス専だとか、それ以外に認識するのはどだい無理なのです」
と、まくしたてた。
「この元直が駄馬であれば、孔明は麒麟《きりん》、わたしが鴉《からす》であれば孔明は鳳《おおとり》という、死にたくなるほどの差でごいますが、あまりの大差に嫉妬のしようすらなく、いやそんなことを思うことすら恥ずかしいことなのです」
「いくらなんでも、そんな人間がいるものか。先生、冗談であろう? 笑えぬぞ」
「いえ、わが君が孔明を幕下に加えれば、王道あまねし、天下がもう頭金無しで月々のお支払いも楽々で手に入るのです」
徐庶もさっきから張飛に飲まされていて、熱弁もイッてしまっているところがあるが、なお孔明賛美を止めず、仕舞いには、孔明はもはや人間以上の存在とまでなってしまい、
「乱世を終わらせる最終兵器・孔明」
とでもいうしかない異常なものになっていた。
いかに中国人が誇張好きとはいえ、既に正気の沙汰ではない存在である。しかし孔明がやろうとしていた臥竜工作は最初からここまで持って行こうとするものではあった。ほったらかしていたのに、徐庶によりそれが結実しているといえよう。
「隆中にひとつの岡があり、孔明はそこに庵《いおり》を結び、人呼んで臥竜岡《がりょうこう》と呼ばれて(呼ばせて)おるところ。なかなか近寄れず、臥竜岡はじつは地形が兵法にもかなっており、十万の敵が攻め寄せても陥落することなく、また田畑に年《みの》り豊かであり、十年、二十年の籠城も可能なのです。さらに孔明の妻女が造った自動する器械が多数あり、装甲機兵とでも呼ぶべき陣容が待ち構えているのです。ああ神よ、われをして平和の機械とならしめ給え……これが臥竜の祈りなのです」
ほ、ほんとかよ。って、わたしにも分かりません。
劉備は、まだ冷静であった。
(徐庶め、のぼせすぎておる)
と訊きつつ思ったりした。軍師、行政官としての手腕は高い、徐庶自身はまずまずの常識人である。そんな男が、狂気と疑われることを覚悟してまで、諸葛亮のことを弁じて休むことを知らない。
(隆中は桃源郷というか、地獄の入り口かよ)
逆な意味で興味が湧いてきた。
(しゃあない。会ってみるかな)
徐庶にここまで言わせる男、そして水鏡師が妙に出し惜しみする男、どんな変てこな男か会ってみるのも一興であろう。
「是非とも孔明を訪のうてください。徐庶元直、わが君への最後の献策とおぼしめされよ」
「わかった。まことに嘘くさいとはいえ、先生がわが身を思ってくれてのことだ。行かぬわけにはまいらぬな。そして孔明とやらがまことに先生の讃するような男であれば……」
「天下統一への切り札」であり「へたをすると(しないでも)神の如き者」という。
(そんなものが実在するとすれば欲しい。けれどもあまり近寄りたくない気もする)
架空の「最終兵器・孔明」かどうかはともかく、現実に孔明は存在している。ただ大して名も売れていず、町の風聞レベルでは悪い噂がごろごろの男である。
「先生は、わざわざこの玄徳のために奇才を薦めるべく戻ってこられたのだ。一度会ってみよう。それは約束いたす」
と劉備はそう決めた。ただし臣下とするかどうかはまた別の話である。
徐庶はほっとし、ほんらい最初に話すべきところの諸葛家の意外に筋目の通った系図を語った。大危険なものなら、使用上の注意があって不思議ではなく、取扱説明書も欲しくなりそうである。徐庶はくどいほどに使用上の注意を一生懸命喋ったが、途中からは劉備の耳と耳の間を通り抜けてしまっていた。
(ヒマなときに一回、顔でも見てくりゃいいんだろう。魑魅魍魎《ちみもうりょう》のたぐいだったら、関羽、張飛の刀の錆《さび》にしてしまえばよい)
劉備はあくびをこらえ、
(くどい。話が早く終わらないか)
と思っている。それでも賢者の言には身を正して聞き入るというポーズは崩さない。
かくてその晩、明け方まで痛飲し、徐庶は馬上、ゲロを吐きながら去っていったのであった。みんな飲み過ぎてそこらへんでへたばっていたので、見送りに出たのは劉備、関羽、張飛、趙雲だけであった。さすが豪傑である。
徐庶は二日酔いに頭をくらくらさせながらも、
(水鏡先生にもだめ押しすべくお頼みしよう)
と手紙を書こうと思った。また、
(いちおう、孔明に会っておかねば)
と、隆中に寄ることにした。
例によって門前で待たされて、以前と違って明るい表情をした諸葛均に案内された。
「そういえば均くんは嫁を貰ったそうだね」
諸葛均は、たちまち顔を赤くして、一人勝手に照れ込んでしまった。なんかほかほかしてけっこうなことだ。
そして孔明に会ったのだが、
「元直もなかなかの重要人物となったのだな」
と言われる。
「なんのことだ」
と訊くと、
「老母を拉致してまで、劉玄徳から引き離させようとするのだからな。きみの才も曹公に認められたということだろう」
きみも歴史に名が残るぞ、と言いたげだった。
母がさらわれたことを何故知っているのか、と反射的に訊きたくなったが、訊くだけ無駄なのでやめた。
そして自分の代わりに孔明を劉備に推薦したことを伝えたら、前述のとおり、孔明たちまち顔色を変え、
「貴様はわたしを犠牲《いけにえ》にするつもりか!」
と言うなり、つと席を立ち、奥に入ってしまった。徐庶は赤面して立ち、
「さらば」
と声をかけるや立ち去った。
徐庶を送り出した諸葛均が戻ってみると、孔明ははらはらと涙をこぼしており、黄氏も心配そうにしている。
「兄上、どうしたのですか」
と問うに、
「元直があわれでならぬのだ。かわいそうな男である」
と言った。
「もう二度と会うことはあるまい」
としゃくりあげた。日頃、馬鹿にしたような対応をしていたが、心の中では親友と思っていたのであった。孔明は黄氏慰められながら居室に入っていった。
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痛恨す高賢の再び逢わざることを
岐《わか》れに臨み泣いて別る
両《ふたり》ながら情|濃《こまや》かなり
片言却って春雷の震うに似たり
能く南陽に臥竜を起《た》たしむ
[#ここで字下げ終わり]
というところである。
徐庶の才能は後世の贔屓《ひいき》筋からは高い評価を与えられているが、かりに劉備の幕下にとどまったとして、魯粛《ろしゅく》や周瑜《しゅうゆ》といったタフな連中と互角に渡り合えたかといわれると、ちょっと難しいのではないかとわたしは思う。
孔明が徐庶に泣いたのはたんに別れを悲しんだせいだけではなかった。徐庶の運命を察知していたこともある。
しかしいくら『三国志』だからといって、徐庶の扱いはなんともいいようがないイジメに満ちている。
少し後のことである。劉備が、
(そのうち、吊し上げてくれん)
と思っていたところ、その本人が新野にあらわれた。司馬徽水鏡先生である。
「高冠広帯の気品のある老師が殿に面会を求めております」
と孫乾が知らせてきた。
「それは水鏡にちがいない」
水鏡先生、劉備が再び来襲して邸を踏み荒らすのを恐れて先に訪問したようである。劉備は、
(そっちから来やがったか、虚言爺いが)
と内心思っても、礼儀正しく上座に置いて拝礼した。
「よし、よし」
と相変わらずとぼけた口癖である。
「ちかく再び仙顔を拝したてまつりにあがろうと思っていたところですが、軍務雑事にとりまぎれ、無沙汰をしてしまいました。お許し下され。今日ははからずもご来臨たまわり、まことにかたじけなく、恐悦至極に存じまする」
旗揚げ以来、常に大に寄り、強者に媚びてその場を凌がねばならなかった劉備は、言葉遣いだけはいくらでも謙譲丁寧にすることができるのである。世渡り苦労人、不仁の人であるが、ここはお互い様であろう。
「本日は何用でございましょうか」
「いやさ、徐庶元直のことで参ったのじゃ。知らせおきたいことが出来ましてな」
「ああ、徐元直どのはわたしには惜しき人材にて、曹孟徳の計にかかり、つらき別れをいたしました」
「曹公の計とわかっておったのなら……玄徳どの、将軍はまずいことをなさいましたぞ」
「どういう意味でしょう」
「劉将軍が元直が老母を殺したも同然」
「えっ、なんと」
水鏡先生は懐から書簡を取りだした。
「元直から届きました。ご覧あれ」
劉備を一読、天を仰いで、
「われあやまてり」
と呻《うめ》いた。
話はこうである。
徐庶は孔明に会った後、一路、許都に向かって馬を飛ばした。駈け込むように城門を潜ると、荀ケ、程cら曹操の幕僚が迎え、大宴会の用意がなされていた。昨日の今日でもう宴会にはげっそりしていた徐庶は、必死で断り、とにかく曹操との面会を希求した。
曹操は上機嫌で徐庶に目通りを許した。
「貴公が徐元直どのか。新野における活躍は聞いておる。貴公のような高明の士がなぜに劉玄徳などに仕えたのか、それが惜しいことであった。いささか下計を弄したこと許されたい」
徐庶は曹操に拝謝して、老母に会わせて欲しいと申し出た。
「貴君の母君には何不自由なく暮らしていただいているから心配せずともよい。ここに来たからにはよくよく孝養を尽くし、いずれはわがため、ひいては帝のためにその智謀を存分にふるって欲しいものである」
才ある者にははじめはひたすら親切なのが曹孟徳の流儀である。徐庶は退出すると、老母にあてがわれた家に足り向かった。
豪華な一軒家の垣を覗けば、庭の方に母が立っている。徐庶は趨《こばし》りに駆け寄り安堵して手をつき、涙ながらに平伏した。
「母上、無事でよろしゅうございました」
老母ははっとし、
「庶でないか。お前、どうしてここへ?」
「母上が曹孟徳に捕らえられたと偽手紙で知り、わたしが参らねばお命が危ないと思い、取るものも取りあえず馳せ参じました」
と返事する間もあらばこそ、老母はいきなり四ポイントの徐庶の顔面を蹴り上げた。
「辱子《じょくし》!」
さらにストンピングを浴びせながら、
「この不孝者めが! わたしゃ、お前をそんな人間の屑に育てたおぼえはないぞよ。このろくでなし」
徐庶は鋭いキックを腕でガードし、
「は、母上、おやめください」
と悲鳴を上げる。
「数年苦労してさぞやまっとうな男になったと思っておったに、昔よりもさらに愚劣卑劣になり下がり、呆れ果てたイカレ野郎になりよって」
ついに徐庶をひっくり返し、マウントポジションをとるや、馬乗りでパウンド、鉄拳を雨あられと降らせ始める。
「新野にてやっと身命を賭して仕えて悔いのないあるじを得たというに、こともあろうにそれを棄ててこんなところへ来るとはどういうつもりだい。漢皇室の血縁で任侠上等の劉玄徳どのと腐れ宦官のコボレ汁の曹賊は相手のタマを取らねば終わらぬ仁義なき間柄だとわかっておろう! 偽手紙と分かったのなら、何故に! このあたしを馬鹿っ母と舐めておるのかえ。私情に目が眩み、前後の見境をなくし、敵の親玉んところへへらへら頭を下げに来るとは、犬がっ、どの面さげてか! ええい、豚畜生にも嘲笑われる大間抜け、穀潰しが。明を捨てて暗に就き、自ら悪名をなすようなバチ当たりを産んでしまって、わたしゃご先祖さまに恥ずかしゅうて顔向けができん。今日限り縁切り勘当じゃ。おのれは、死ねい! 家名を汚してまだ生き恥をさらすつもりかえ!」
徐庶が血塗《ちまみ》れにされながらも、
(いつもと変わらぬ母上である。よかった)
などと安心していると、蒼白な面の老母はふらりと立ち上がり、家の中に入っていった。
徐庶がしばらくして起きあがり、ボコボコにされた顔面の血をぬぐっていたら、家の中から使用人の悲鳴が聞こえてきた。
「あーれー、大奥様」
はっとした徐庶が急いで駈け込むと、老母は首を吊っていた。慌てて助け下ろしたが、既に息絶えていた。
「母上ーっ」
徐庶も血の気を失い気絶してしまった。
理不尽だがこれが中国の理想の母のあり方とされていたりする。
そこで徐庶の猛烈きわまる母を讃える詩がある。
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賢なる哉《かな》徐が母
芳を千古《せんこ》に流せり
子を教えて方《みち》多く
身を処して自らを苦しむ
豫州《りゅうび》を讃美し
魏武《そうそう》を毀触《そしりおか》す
鼎钁《かなえににらるる》を畏れず
刀斧《かたなにきらるる》をも懼《おそれ》ず
惟《た》だ後嗣《こうし》の先祖を※[#「王+占」、第4水準2-80-66unicode73b7]《けがし》辱《はずか》しめんことを恐る
生きてはその名を得
死してはその所を得たり
賢なる哉《かな》徐が母
芳を千古に流せり
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と、凄まじいほどに褒め称えられていて、ダメ息子の徐庶のことなど取り敢えず無視、そんなヤツぁどうでもいいと言わんばかりである。徐庶の母は千古に残る名誉ある死を得たが、本筋の徐庶は糞味噌で不名誉きわまる親不孝者ということになる。劉備軍の名軍師と母を死に追いやった極道息子では、あまりにギャップが激しすぎるが『三国志』愛読者はとくに矛盾を感じたりしなくてもいいのである。
痛烈この上ないショックを受けた徐庶は、この日以降、真っ暗な性格となり、曹操の贈物も受けず、ましてや出仕などもせず、母と真の主を失った暗澹たる思いを抱えて日々を過ごすことになった。
無惨なる哉、徐庶元直!
講釈師たちもあまりにかわいそうだと感じたのか、この後徐庶はちょっとおいしい役で何度か登場することになる。
徐庶があまりにも不憫だと思う人のために、この話はフィクションであり、実在の徐庶は少なくともこんな不幸な人生を送ることはなかった、と申し添えておきたい。しかしその場合、曹操に狙われる原因になった一連の活躍もしなかったということになり、それはそれで不憫だということになる。キャラとしてどっちがしあわせなのか。
『三国志』は数多くの名誉毀損から成り立っており、現在なら作者は(回収焚書にでもせぬ限り)一生法廷に立たされ続けることになろう。フィクションでも許されないというより、フィクションだから許されないという理由になる。困るな。
『三國志』では徐庶が離脱したのは曹操の荊州攻略戦の最中となっている。れいの十万の罪のない民衆を抱えたまま夏口《かこう》に向かう無謀な逃走戦のなかでのことであろう。そのさい徐庶の老母が捕虜となり、徐庶は引き返すことにした。別に曹操、程cがいじったのではない。
「わが君と覇業をなさんとしたのはわたしの方寸(心臓)の場所においてでした。母を失ったため方寸は混乱しております。もはやお役に立てませぬ」
『既に老母を失う』というから、この時点で徐庶の母は死亡していた可能性が高い。しかし何故か曹操のもとに向かった。徐庶は魏の御史中丞《ぎょしちゅうじょう》(官吏監察官)にまでのぼり、没した。後に孔明が、
「魏にはそれほど人材が多いのだろうか。徐庶ほどの者が用いられないとは」
と不思議がったとある。御史中丞は決して卑役ではないのだが、孔明から見るとくそつまらん仕事に過ぎなかったわけである。
劉備は、
「われ一生の不覚。徐庶よ、わしの如き愚主の臣となったばかりにまるで作ったような悲劇に襲われる。ああ、許してくれ」
と一時間ばかり嘆き続けた。同席している関羽たち幕僚も、徐庶の悲運に泣き、また怒りの声を上げている。
「水鏡先生の言われる通りだ。わしが徐元直の母を殺したようなもの……。徐庶を殺してでも止めるべきであった」
水鏡先生も沈痛な面持ちで、
「よし、よし」
と、全然良くないのに言うしかなかった。
「そうおのれを責めなさるな」
「先生」
「これが乱世というもの。劉将軍はこれからも不幸な者を生み出し続ける運命にある」
と責めている。
「こうなれば、徐元直を新野に連れ戻すべきでしょうか」
「いや、いや」
水鏡先生はかぶりを振った。
「元直は去るにあたり、必ずや将軍におのが代わりを推薦したと思うが」
「諸葛孔明とやらの名を告げましたが。まあ、痴人の戯れ言と聞き流したいていの話でした。元直の置きみやげ、いちおう、面会してみるつもりです」
「やはり名を出してしもうたか。元直も行くなら行くで、一人で行けばよいものを、あれを引っ張り出して苦労させずともよかろうに。ひとたびあれが出れば、大変なことになるからのう」
「と申されるは、やはり臥竜とやらに何か不吉で致命的な不都合があるからでしょうか」
水鏡先生は仕方あるまいという顔つきであった。
「元直がなんと説明したかは存ぜぬが、孔明こそ先日お話しした臥竜である。わが門下には才気卓抜の俊英が何人かおり、それぞれ処を得れば、郡守であれ、刺史《しし》であれ、力を発揮いたす者ばかりである。徐元直がその見本であろう。しかるに諸葛亮孔明、この男だけは他の俊英と違いましてな。皆は書物を読むに正しく解釈することに意を注ぐのに、孔明はナナメ読みして大要を掴んでしまう(勝手な解釈をつける)ような、普通の学生は絶対真似してはいけない学問の仕方でありましてな(古典名作の超ダイジェスト版を読んで事足れり、とするようなものですじゃ)。なんと言えばよいのか、志が宇宙より大きいので、目の付け所が常人とかけ離れており、絶対にまともではない、と、わしには言えるが、これは決して悪口ではないのですじゃ。故に臥竜!」
「はあ」
「門下生らが世の乱れを憂い、自分が官途にあれば、こうしよう、軍人であればこうあるべき、と真剣に議論していたところ、孔明は梁父吟を長吟するのみ。そこで皆が孔明は如何にと問わば、笑いながら、われは管仲、楽毅に比ず、と答え、一瞬にして座をしらけさせたことがある。この孔明が言を受け容れたのは徐庶元直と崔州平の二人くらいであった」
現代日本で言えば、東大のトップ成績の学生が、財務省にも外務省にもNOと言い、己を聖徳太子とか楠木正成(例としては信長よりこっちのほうがいいか)になぞらえるようなものであり、やはり、何だコイツは、と不気味に思われるのが必定だ。
そのとき巌《いわお》の如き姿勢で黙って聞いていた関羽が唐突に口を開いたので、皆がぎょっとした。
「確かにまともではありませんな。管仲、楽毅は春秋戦国の世にその功天下に轟いた大人物である。孔明とやらがそのような大臣と己を並べるとは、僭越、思い上がりもはなはだしい。どうにも失礼極まる若僧のようだ」
『春秋左氏伝』の類をバイブルとする関羽である。ちくと気に障ったきに。
「関兄のいうとおりだぜ。生意気なガキだ。いっちょう泣かしてやろうか」
と張飛も言った。
すると水鏡先生、二人の猛将の野獣の如き気配を受け流し、
「さよう。わしから見ても、管仲、楽毅に比べるのではあたっておらぬ」
と言ったので、関羽は当然そうだろうと重く頷いた。だが次のせりふに瞠目することになる。
「比べるのならもう一段二段うえ、別に二人があげられよう」
「して、先生、段違いの二人とは?」
と劉備が訊いた。
「周朝八百年を起こした姜子牙《きょうしが》、そして漠朝四百年の礎を築いた張良子房《ちょうりょうしぼう》、この二人じゃろう」
「げぇっ!」
一同胡散臭くも驚くのが当然であった。さすがの関羽も絶句していた。
姜子牙とは文王、武王を補佐して殷《いん》を倒し、周をうち立てた太公望|呂尚《りょしょう》のことであり、張良子房は高祖劉邦を補佐して、千里の外の勝敗を帷幄《いあく》の内に決する、と讃えられた籌策《ちゅうさく》の大才である。管仲、楽毅もこの二人に比べられると一枚も二枚も格落ちしてしまう伝説の大軍師である。日本にはこの二人になぞらえられる人物はちょっといない。
「そんな馬鹿な。水鏡先生、酔狂が過ぎますぞ」
「いや、いや、正直なところじゃよ」
「それにしても太公望に張子房とは……」
(ありえない)
と一座の者は皆思っていよう。
「よし、よし」
さすがに水鏡、またもや虚言癖もきわまれり! 英雄の肝を挫《くじ》く大風呂敷であった。収拾はつくのか。
そういうわけで、後世、孔明の精神的師匠は太公望呂尚と張良ということになるのであった。もう勝手にしてくれ。
劉備は、それを聞くや、九〇パーセント嘘だ、と内心は疑いつつも、卒然と、
(ほ、欲しい。やみくもに……)
と真に本気になった。ごくりと喉を鳴らす。夢見るような目つきで、口からよだれを垂らしそうな顔となっていた。その脳裏には未だ見ぬ青竜が踊りながら天下を招くが如し、の映像が浮かんでいた。軽乗用車に乗っている者が、おのが技倆も弁えず、走らす場所もなさそうなフェラーリやポルシェの超高性能マシンに憧れるのに似た気持ちといえようか。
水面に映るが如きに、劉備の欲心の発するを見て取った水鏡先生はゆるりと席を立ち、ひとまず表に出た。そして天を仰ぎながら、れいの名せりふ、
「臥竜もついにその主を得るか。しかしその時を得ざるのが、惜しい」
とつぶやき、からからと笑った。
その頃、劉備は白昼夢から醒め、
「あっ、水鏡先生はどうなされた」
「あれ消えた。いつの間にお隠れに」
「まことに隠者である」
と孫乾が感心している。劉備は、
「鳳雛が誰かを訊くのを忘れておった」
と舌打ちして、
「まだそのあたりにおるだろう。もう一度、来ていただけ」
と水鏡先生を探しに行かせる一方、
「なんでもいい。諸葛亮のことを調べ上げるのだ。至急やれ」
と糜竺に命じた。
後世に孔明が太公望、張良に比較されるほどの名臣とされたことについては、神算鬼謀の大軍師であったということ以外に、じつは別に理由がある。それは神仙の道統に隠された秘密というものである。太公望、張良の二人とも仙人であった(となった)という伝説の保持者である。
中国の代表的な武経に『六韜《りくとう》』『三略《さんりゃく》』というものがあり、二つ合わせて『六韜三略』といったり、『韜略《とうりゃく》』と略称したりする。韜略は軍略と同義語としてそのまま使われる言葉となった。『六韜』『三略』とも太公望呂尚の兵法書ということが売りであり、二書を類書として、ひとまとめにするならいである。
『孫子』をトップとする中国式経はいやしくも国家存亡のかかった戦争のための聖典である。『六韜』『三略』は実利合理を旨とし、一種の政治思想書でもあるが、そのため人に対して陰湿な点も少なくない。決して祈って東南の風を吹かせる篇、などという淫策は書かれていない。しかしこのような現実的な書の元祖となったという人が、同時に何でもありの怪人とされているのが中国的なところなのであって、興味深いといえよう。姜子牙(太公望呂尚)仙人説というのは、もう各時代で言われてきたことであり、『封神演義《ほうしんえんぎ》』のような小説となると、もうそれが当然、当たり前となっている。
『六韜』は戦国末期に成立したものであり、太公望が主役だが、作者は不明として間違いない。三国時代にはそれなりに流通しており、孔明も暗記するほど読んだであろう。劉備が嫡子劉禅にあてた遺書の中に『六韜』を読めと書いてあり、つまりは劉備も愛読していたらしい。呉の孫権も、学問嫌いの呂蒙《りょもう》に、
「兵書なら『孫子』『六韜』を読め」
と推奨している。
一方、『三略』であるがこちらは『三国志』好みなオカルティックな伝説が付随している。かの張良が博浪沙《はくろうさ》で始皇帝狙撃に失敗し、下※[#「丕+おおざと」、第3水準1-92-64、unicode90b3]《かひ》の城市《まち》に潜伏していたところ、橋の上でいかにも偏屈そうな爺にからまれてしまった。張良が老人のわざとらしい無礼千万に耐えて相手をしてやったところ、
「孺子《じゅし》教うる可《べ》きなり」
と認められ、
「五日後の夜明けにまたここへ来い」
と言われる。張良は若年より神怪のことに敏感なたちだったらしく、老人をその筋の者と察知したのか、馬鹿正直に出かけた。だがここも重要なところで、一秒遅かったとか、そのような些細な言いがかりをつけられ追い返されて困惑させられる。張良も意地となり三度繰り返した。三度目に張良が夜明前に着いて見張ったら、ようやく許され、老人に一編の書を託された。大切なものを得るのは三回目というきまりが守られている。老人は、
「これを読めば王者の師となれる。おぬしは十年後には大した者となっていよう。十三年後にまた会うことになろう。われこそは済北は穀城山が下の黄石《おうせさ》の化身である」
と戯れ言を言って姿を消し、二度と会うことはなかった。張良がその書物をしらべるとなんと太公望の兵法書であった。太公望が不老長寿の仙人であるなら、どこかに隠れ住み、新刊を執筆していたとしてなんら不思議はない。張良は喜んだ。この書が『三略』であり、別名『黄石公三略』ともいう。黄石じじいは出版関係者だったのか。『三略』は『孫子』などに比べても、老子の思想に多大の影響を受けており、
「柔よく剛を制す」
といった句の出典である。
その後の張良の大活躍は語るまでもないが、黄石公の奇話は『史記』留侯世家に大真面目に記されているのであり、張良の大功は『三略』のおかげ、ひいては太公望呂尚の力であるということになる。おそらく張良自身が自らを太公望の弟子とみたて、このような怪奇な因縁話を真顔で周囲に言いふらしたのであろう。
張良にも自称仙人の多くと同じく、奇譚はったり癖があったともとれるが、何故そんないかがわしい伝説を流布させねばならなかったのかは、別の話になるのでここでは述べまい。張良は軍師業のかたわら修行に励み、仙を目指していたことが書かれている。たんに憂き世が嫌になったのか、あるいはどうしても必要なことであったのか。
そこで孔明である。普通に孔明の戦績を調べるだけでよい。隠れファンの陳寿《ちんじゅ》からも、かばう気持ちあふるる、
「諸葛亮が連年出兵して、戦果をあげることが出来なかったのは、思うに、臨機応変の軍略は得意ではなかったからであろうか」
と評されている孔明の軍事的手腕は、陳寿でなかったら、
「兵事においては語るに足らぬ者であった」
とばっさり斬られていたかも知れない。
というわけで、軍略の面から太公望、張良が引っ張られてくることはまずあり得ない。このラインが引かれるのは仙人道士の方面からしかないのである。『三国志演義』が成立するまでに参考とされていった数々の『説三分』(むかし三国志ばなしのことをこう呼んだ)には、稀代の軍略家としての孔明よりも、劉備の必死の懇望に応えて味方についてくれたスーパーマン、
「不世出の大仙人・臥竜先生孔明」
が強く打ち出されているのである。その活躍たるやまことにデンジャラス・サイキック! 女子小人が喜ぶわけである。要するにはじめ実像は逆なのであった。
「諸葛亮はもとこれ神仙、小より学を業とし、長じて読まざる書はなく、天地の機微に達す。鬼神も諸葛亮の志を計りがたく、風を呼び雨を喚《よ》び、豆を撒《ま》きて兵卒となし、剣を揮《ふる》って河をつくる」
と記す書もある。ある意味、太公望、張良をも遥かに超えた能力を持っていた。こんな怪しい男を野放しにしてはならないと『三国志』は思ったに違いない。
小説としての『三国志演義』はそうした旧来の孔明像を捩《ね》じ曲げるというか、妥協、必死に訂正してゆき落としどころをぎりぎりで調整し、なんとか「神算鬼謀の大軍師」というところに落ち着かせた苦労の書と見ることも出来る。孔明の人間らしさを回復させる試みであったとすら言えるのである。
『三國志』で、管仲、楽毅に自らを比す、と、少なくとも歴史上の手が届きそうな名臣を志していた孔明が、『三国志』では、太公望呂尚、張良に比されてしまうのは、実は孔明が神仙の道にある者とされてきたことの名残りなのであり、天才軍略家の系譜にあるという理由からではないのである。綸巾鶴※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《かんきんかくしょう》に白羽扇という宮廷離れ、戦塵離れした服装なのもまたその名残りである。
つまり、より古く伝統的な『三国志』から捉えると、
「孔明は偉大な神仙である」
という認識の方が正しいのである。
多くの現代版『三国志』は、小説だというのに、あくまで孔明を人間の範囲内の傑物としたいがため、かえって卑小にしてしまっている。この観点からすると孔明は天才軍師、名宰相などではまったくなく、神仙たる太公望、張良の直径の弟子なのであり、かの二人のしたような政治的軍事的仕事は、どちらかというとたまたまやった付録に過ぎないのである。
よって孔明が北伐に失敗し、魏に負けたままになってしまっても、地上の愚かな人間のくだらない喧嘩沙汰にすぎず、神仙たる者にはどうでもいいことなのである。孔明|五丈原《ごじょうげん》に陣没す、というのも、いわゆる尸解仙《しかいせん》となっただけで、その後も気が向いたらちょくちょく降りてきて姜維《きょうい》に心の声を聞かせたりするわけである。
神仙は政事軍事を含む人間社会のことを超越したところにおり、その意義や存在価値は常人には計りがたい。『三國志』にいう、
「(孔明は)宇宙より大きな志を持っていた」
という誇大な表現は、その筋の人であることを暗に示しているのかも知れないのだ。曹操や司馬懿のほうが、その才と仕事に関しては管仲、楽毅に比し、太公望、張良に比すかも知れないわけだが、そう評価されないのは志が宇宙大ではなく(志が天下大がやっとの凡人)、神仙の匂いがしないからであろう。
そこで、だいたい仙人とは何なのか、という根本的な疑問も出てくるが(意外とみみっちい者かも知れぬ)、詳しいことは続報が入り次第お知らせしたいと思ったりする。
水鏡先生は庁舎の庭先でうろうろしていた。
「ああ、先生、まだおられましたか」
「もう一度呼ばれると思っておったよ。いやな、わしも言い忘れたことがありましたからな」
水鏡先生はまた劉備の前に戻ってきた。もう二度と会いたくないので、用事はすべて片付けておきたかった。
劉備は、もうこのさいだから隠し立ては無用に、と、
「先生、臥竜は諸葛孔明と分かりましたが、鳳雛とは誰なのでしょう」
と訊いた。これは水鏡先年が孔明の依頼を受けて定めたオリジナル人材である。
「鳳雛とは、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]統士元《ほうとうしげん》のことである。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の甥御にて、これまた抜群の大才である、とわしはみております」
と明らかにした。
「その※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統とやらも、千年に一人の不世出の男であり、その才、管仲、楽毅をしのぎ、徐元直が駄馬なら※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は麒麟、元直が鴉ならば※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は鸞鳳《らんほう》……」
徐庶が姐虫なら※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は胡蝶、徐庶が醜いアヒルなら※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は白鳥、徐庶が惰弱犬なら※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統はドーベルマン、徐庶が学級会の鼓笛隊なら※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統はベルリンフィルハーモニーオーケストラ、とさんざんな比較をして、
「それほどの巨差があるのでしょうな」
と念を押す。
「いや、そんな大げさなことは聞かぬが」
しまった、そこまで考えてなかった、と水鏡先生は少し悔いた。
『三国志』でもさすがに鳳雛=ヲ[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元の方はそんな異常な讃えられ方をしていない。それも道理で、鳳雛の正体はここにきてはじめて明かされたのであり、孔明のように事前に自画自賛の伝説を念入りに作っている暇などはなかった。第一、いまどこかの郡県役所で働いている※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統は自分が鳳雛にされてしまっているとは夢にも知らず、いい面の皮であった。その証拠に※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統の登場はだいぶ後、赤壁の戦いの中後となる。その間、孔明に鳳雛教育を受けていたのかも知れない。三顧の礼より凄いということなのか、周瑜に七顧の礼を尽くされても出仕しなかったとか、鳳雛伝説をいろいろ流してからおもむろに現れることが決まっている。
水鏡先生は話題をそらし、
「劉将軍は臥竜を得ようと心に定めたるご様子じゃな」
「さよう。徐元直と水鏡師にそこまで讃えられる男なら、必ずや恐るべき逸材であると信じるしかありません。出来れば、いや、ぜったいにわが麾下《きか》に迎えとう存じます」
「じゃが将軍、元直も申したやも知れぬが、あの者を臣下とすることはたいへんに難しゅうござるぞ」
「いや、それは誠意を尽くし、来てくれぬのなら音を上げるまでこちらから押しかける所存」
水鏡先生は首を左右にした。
「それでも難しい。孔明の面はいま天下を向いておりませぬ。それに賓として招かれれば招かれるほど、逆に遠ざかるへそ曲がりなところがありましてな。なにしろ竜であります。人の思い通りには動かぬ。将軍はかれを釣りたいと思うのなら十分に策を用いねばなりませぬぞ」
「先生、よき思案をお持ちなら、どうかこの玄徳にご教示たまわらんことを」
すると水鏡先生、
「よし、よし」
と言ったくせに、
「申し訳ないが、それはわしにも分からぬ」
と慨嘆するように言った。
(ええい、またかよこの爺いは。金が欲しいか、そらやるぞ)
と劉備はいらいらした。
「であるが、ひとつご助言いたそう」
「えっ、それは」
「魚梁洲《ぎょりょうす》の世捨て人、わが知友の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公にお会いなさることじゃ。この世で孔明を動かせるおそらく唯一人の賢者である」
そう言うと、水鏡先生は座を立ち、今度こそ本当に帰っていったのであった。
さて、かくして劉皇叔、惑わされて魅せられて、それでもついに臥竜獲得の意思を固めた。正体看破せん、おりゃ! 孔明、首を洗って待っておれ、というところ。しかし孔明の底意はいずくにありや。それは次回で。
[#改ページ]
孔明、三顧に臨み、隆中《りゅうちゅう》、歌劇場と化す
『三国志』の三顧の礼のくだりを読んで思うに、孔明が劉備に仕える気になった決定的な理由が今一つ分からない。敢えて言えば三顧の礼に感激したから、ということになるのだが、孔明とは『三国志』自体が語るように、そんな単純明快な男ではない。複雑怪奇を人の形にしたような男である。
『三國志』は後の出師の表を証拠として、これもまた三顧の厚遇に感動して応じたということにしている。三顧は「大恩」であり、孔明は生涯「忠義」を捧げて恩顧に報いたという理屈となる。
そんな理由では「人間が書けていない!」と一部の、自分では人間がきっちり書けている、と思っている人が言い出すに決まっている。人間の情動は理屈で割り切れるものではないのは確かである。
だがそれにしても『三國志』『三国志』とも、それに至るまでにあまりに駆け引きが多すぎる。孔明がはじめ出仕を嫌い、劉備を避けたことは明らかなのだが、それが三顧で覆るものなのだろうか。
三度訪れたとはいうが、一、二ヶ月の間をおいてであり、劉備が最初に訪れてから、孔明が出廬するまで約半年の期間がある。けっこう長い。いろいろあったんじゃないか、とわたしでなくとも思うだろう。
なんぞヒントはないか。
例えば欧米人は『三国志』のこういうあたりをどう捉えているのだろうかと、かりに『Romance of the Three Kingdoms』という、まるでどこかの白モノファンタジーのようなタイトルの本をめくったりしてしまったとしよう、罠に嵌《はま》ったかのように(もはやマニアレベル)。するとあまりにも舐めきった(いい意味で)というか愉快な翻訳が面白くなり、細かいことはどうでもよくなってしまうのである。そもそもあんな難しくてややこしいものを訳すだけでも立派なことである。
この、現に同時に存在している書物の並行宇宙世界では、リュー・ベイ(劉備)とクワン・ユー(関羽)、チャン・フェイ(張飛)はピーチ。ガーデン・プレッジ(桃園結義)以来、互いをブラザー≠ニ、クリスチャンチックなのかヤング・ギャング風ブラックスタイリッシュチックなのか、呼び合っており、チャン・フェイが敵をヒットしたりすれば、リュー・ベイ、クワン・ユーは、
「ナイス・アタック! ブラザー」
とピッと親指を突き立てて拳を握ったりするわけだし、黄巾賊を追い詰め鏖《みなごろし》にするときも、キャプテン・リュー・ベイが、
「ヘイ、キル・ゾーズ・フェローズ!(奴らを吊せ!)エクスタミネート、イエロー・ターバンズ!(黄色頭巾どもを血祭りに上げろ!)」
とイエローどもを人間と思うな、とメキシコ人密入国者を狩るときのように豪快に命令し、ツァオ・ツァオ(曹操)がド汚いことをすれば、
「ファック、ツァオ・ツァオ! ガッツ・ダムン・シット」
と口汚く罵るのがよく似合う。連環のデンジャラス・ビューティ、チャオ・チャン(貂蝉《ちょうせん》)などはさぞかしビッチ系の陰口に耐えていたに違いあるまい。
お話の前半、リュー・ベイ・ブラザースが馬を駆って激走し、敵を狩り殺す様はインディアンと戦う騎兵隊というしかなく、一騎打ちはガンマンの決闘である。ドン・ヅオ(董卓)は涼州《りょうしゅう》の乾ききった荒野からやってきた血も涙もないアウトローたちのボスで、リュ・ブ(呂布)は愛した女に裏切られ、殺しに取り憑かれるしかなかった非情のロンリー・ソルジャーだ。男の友情と裏切りの連続はほとんどマカロニ・ウエスタン、敵兵には人権なぞ存在しない、遠くからジャンゴ! と「皆殺しの歌」が聞こえてきそうだ。
陣はキャンプだし、砦城はベース・キャンプと呼ぶ。キャッスル・タウン(城市)のほこりっぽい酒場でクワン・ユーとチャン・フェイが葉巻をくゆらしポーカーをしていたり、バーボンを浴びるほどあおりながら理由もなく交互にどつき合いをしていたり、酒場女にヒューヒュー言ったりしていても何の違和感もない。それどころか『三国志』を『荒野の三国志』とか、ハリウッド巨編を制作して欲しいくらいである。誰か、わたしでもいいが、作家があらたに西部劇版の『三国志』を思いついて書きたくなったとしても、もう既に書かれているのと同じ、遅いのである。
中盤からは趣が少し変わる。
マーベラス・クレバー・ワン(天下の奇才)は、ニック・ネームをスリーピング・ドラゴン(臥竜)またはヒドゥン・ドラゴン(伏竜)と呼ばれている実態不明のミステリアス・サノバビッチである。かれはスリーピング・ドラゴンズ・ヒル(臥竜岡)に棲んでいて、勇者は手みやげに玉でも持って万難を排して会いに行かねばならないのである。ドクター・ウォーター・ミラー(水鏡先生)がアンクル・リュー(劉皇叔)に、
「あのグレート・ファッキン・ボーイをスカウトしストラテジストとすれば、ハン・エンパイア(漢室)をリストアできよう」
と説くのだが、そのくせジェネラル・リュー(劉将軍)が、
「フー・イズ・ヒドゥン・ドラゴン?」
と何度質問しても、オールド・ウォーター・ミラーは、
「グッド、グッド」
とリプレイするだけであった。
ちなみに鳳雛はフェニックス・フレッジリング(駆け出し不死鳥)というらしい。竜とドラゴンは本当は違う生き物なのだが、現代では一緒くたにされてしまっており、チャイナ・ファンタジーはお好きですか? というしかあるまい。
シュー・シュー(徐庶)が去る前にコン・ミン(孔明)に後任を頼みに行ったとき、コン・ミンが、
「ユー、ゴー・ツー・ヘル! オレをザ・ヴィクティム・オブ・ユア・サクリファイスにするんじゃねえ」
と激怒するのは原作通りである。しかし「貴様の身代わりにいけにえ」というフレーズは原作以上に怒りと呪い感がこもっている。またシュー・シューの母を讃える歌は、
[#ここから3字下げ]
ハイル! マザー・シュー
ユア・メモリー
ホイル・タイム・ロールス・オン
シャル・ネバー・ダイ
[#ここで字下げ終わり]
<賢なる哉《かな》徐が母、芳を千古に流せり>
と、もはや永遠のブルースとなっている。
さてアンクル・リューはスリータイム・ビジットの後、ようやくザ・マスター≠ニも称されるエキセントリック・ミラクル・ガイ、スリーピング・ドラゴンに面会がかない、ウルトラ・ワイズマンであるコン・ミンはとうとう世に出ることになる。文中にはかっこいいポエムやソングがたくさん挿入され、なんだかネイティヴ・アメリカンの口承物語をミュージカルにして観ているような錯覚すらおぼえるほどである。
この後のスペル・マエストロ・コン・ミンの活躍やいかに。スリーピング・ドラゴンが、チョウビューティ・ザ・マン=i美周郎)が、ワンダフル・サイエンティフィック・ミリタリー・プランを戦わせながら、ザ・グレート・バトル・オブ・レッド・クリフ(赤壁大戦)にてんやわんやの活躍をするに違いないのだが、わたしは英語が読めないので肝腎なことが分からずたいへん残念である。
小さな事かも知れないが、英語の中国研究文献を扱うとき、中国名のアルファベット表記は(ウエード式とか)非常に分かりにくく、誰やこれ? と漢字に慣れた目からすると特定がたまらなく難しい。ちかごろ日本人の名をカタカナで書くことを好む作家が増えているが(作中に複数のケンイチが出てくる場合、賢一なのか健一なのか謙一なのか、困ったりしないのか?)、それと同じで、(アクセントを無視すると)同音が多く、本来、漢字一字で多くの意味が籠められている名をただ音訳すれば同音異名がやたらと増えて、どんどん誰のことだか分からなくなるのだが、欧米人は区別が付いているのだろうか。Chunko≠ニあって、これが諸葛≠セとすぐに分かる日本人(中国人も)はほとんどいまい。
わたしは大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国の人が名をハングル表音(日本ではどうしたってカタカナとなる)にするよう強く要請したのは、名に籠められた意味が分からず、記憶もしにくく、漢字文化圏ではかえってマイナスだとしか思われないのだが、これに比べると中国の人は音より(とはいえ日本人は結局リスニング、スピーキングともへたなので、カタカナをプレーンに読んでしまう)意味を重視して、正音にあまりこだわらないような感じである。音と漢文字のどちらを重視するかは、会話者と読み書き者の立場によって異なろうが、わたしは当面、金大中を「きむてじょん」といちいちリメモリーしながら読むより、「きんだいちゅう」と読んだほうがしっくりくる。毛沢東を「まおつぇどん」と読むと、あまり毛沢東感がしないのはわたしだけなのか。いい悪いではなく、これはネクスト・ジェネレーションの言語感覚変化の末に定着するかどうかの問題でもある。
話を戻す。
まあ、要するにロング・ロング・タイム・アゴー……イン・トゥーブレント・エイジ(乱世)にロイヤル・ブラッドのベリー・ナイス・ヒーローを二人のスーパー・ストロンゲスト・グラジエーターがサポート&アシストしながらテリブルに暴れ回り、ある晴れた日、ハーミットであったドラゴン・ウィザードまたはドラゴン・ソーサリーが出てきて、プラン・オブ・スリー・キングダムス(天下三分の計)でまやかし、マジックやオカルティック・アートを駆使してドミネーション・オブ・ザ・ワールド(天下制覇)のために邁進していくレジェンド・ストーリー、それが『三国志』なのだっ。持ってけ、ファンタジー! 歴史解釈とか考証なんか糞食らえな感じといおうか、荒唐無稽で上等、男の生き様とかロマンも、その場がかっこよさえすればべつにどうでもいい。なんか面白いのでこれからも適宜イングリッシュ・ワードを引用したい気分となる。
この世界は『三国志』に並行的に重なるところがあるが、明らかに別の世界で起きているある事件として認識できるアナザー『三国志』ワールドである。
これはトランスレートだけの問題ではない。
異国語間の小説の翻訳は意訳のせめぎ合いとなるが、翻訳のプロセスにおいて意の部分に多次元的とも言える民族的な語族的な、そして翻訳者の個性的な量子的ブレが発生する。原著が意を介して別なレールに転轍されるのである。
翻訳も翻案も原典が同じなら誤差の範囲内にいれられる。
たとえばシェイクスピアの古典英語があり、可能な限り原文の興趣を残して翻訳したものを、誰かがまた日本語訳の興趣を大切にして英訳しなおしても、決して沙翁の原著と同じものにはならない。オリジナルでも解釈でも発展でもない何か別のものとなる(洋の東西でシェイクスピア原著を原作とした二次作品≠熨スくつくられた。日本では原著ではなく誰かが和訳した作品≠ゥらつくったわけだから、既に三重の翻案解釈構造をとることになる)。根源のスピリットは同じものだが、その現れ方が、
「同時に存在してはいるがそれぞれ別の宇宙に属するもの」
となるからだと思われる。
すなわちオリジンは厳然と存在しているが、一微塵の差がきっぱりと隔てている同じ作品が同時空に無数に存在しても、計測出来る潜在顕在の多重世界の可能性として、矛盾することはないのである(たとえば孔明が黄氏と結婚しなかった世界も同時に存在して、可能性としてまったく否定できない)。本屋に行くと現実に実際に起きていることだ。名は体を呈すというが、題名も内容も(一微塵の隔差はあるが)同じになっても盗作騒ぎなど起きるべくもないことが確認されている。かえってそれが太文字でコマーシャルされている場合すらある。
まあ、そんな当たり前のことはいいとして、英訳『三国志』まで引っ張り出して(フランス語訳やイタリア語訳もみたいものだ。読めないけど)、何を言いたいのかと言えば、まだ全然言っていないが、じつは歌と劇がけっこう大事で、感動した! と言いたいのである。
秋が深まる一日、劉備は襄陽にのぼり、劉表を見舞った。劉表の衰えは本当であった。
蔡瑁は劉備を鬼のような目つきで睨んでいたが、劉備はさらりと無視した。今日は胡班《こはん》と糜芳《びほう》をお供に連れてきていた。地味だが、使えるヤツらである。張飛、趙雲を連れてきたりすれば、武具を入り口で取りあげられていでも、物も言わずに蔡瑁に襲いかかり撲殺、絞殺、裂殺してしまうおそれがある。
「劉皇叔よ、わしはもうだめかも知れぬ」
劉表は劉備が来たと聞くと、無理をして起きあがり、座して引見した。病篤からんといえども、まだ身繕いするだけの余裕はあるということだ。
「一時の病でしょう。弱気になってはなりません。貴公は荊州の大柱たる身ではござらぬか」
劉表景升、齢六十六、いくらでも掴み取りのチャンスがあった乱世に敢えて背を向けて孤立主義を貫き、荊州北部をまれに見る繁栄に導いた賢主であった(と言えば格好はいい)。しかし、『三国志』では劉備を喜んで迎えたことくらいしかいいところがない日和見野郎という評価であることは周知の通りである。
「いや、わしは老いてしまった。これからなお多難ありと知るも、わしにはどうすることもできぬ。しかしわが息子ら(劉|g《き》、劉|j《そう》)の未熟をおもえば安らかにもなれぬ。このごろは劉皇叔が息子らの後見となってくれれば、と願ったりもする」
と、劉表は蔡瑁が聞き耳立てているというのにきわどいことを言った。判断力も低下しているのか。
「劉|州牧《しゅうぼく》ともあろうお方が、つまらぬことを言うものです。中原《ちゅうげん》に曹公、袁公が竜虎相打っているときにも、いずれに与することも肯《がえ》んぜず、巌の如く不動であったその胆力(皮肉)、揚州の孫策らが幾度侵そうとしても鎧袖《がいしゅう》一触にされたその武威(皮肉)、戦わずして時宜を得る者はそれの上の上にして荊州に孤高に屹立なさっておられる(皮肉)。ご家臣がたも、忠義一筋の切れ者、良吏ばかりである(皮肉)。どうしてわたしになぞ頼ることがありましょう。今は療養第一にいたされ、身体が復すればまたご気力も騰《あ》がると存ずる。この玄徳、景升どのにゆるされて荊北に居られる身であり、文事にうときがゆえ、武事にてご恩を報ずる所存であります」
劉備の皮肉が通じたかどうかは分からないが、劉表は涙を浮かべて劉備の手を握り締めるのであった。劉備はその崩れた泣き顔を見るに、
(長くないかも知れん)
と思った。
本音を言えば、だいたいなんで劉備が劉表のせがれを助けなければならないのか、甘えるのもいい加減にしてもらいたいものだ。恩を着せるにしても新野という、劉備軍団が駐屯しなければ歴史に名が残ったかどうかすら疑わしい小城に番犬よろしく繋がれただけである。劉備の対曹操作戦の提案はことごとく却下され、恩義を返す機会すら与えられなかった。曹操と袁紹の激突にうまくつけいっておれば、今頃は悪くても宛城あたりの領主となっていたはずだ。さらにひどいことには、蔡瑁らに憎まれ殺されかけた。
もし劉表が壮健この上なかったらどうか。曹操の南下政策に対しても今までのようになおのらりくらりの風見鶏で通そうとするのだろうか。下手をすれば曹操にあっさり降り、劉備の首を手みやげにするおそれだってある。曹操が劉表の降伏を受け入れ、荊州はそのまま安堵してくれるというような甘い男だと思っているのなら大間違いである。おそらく揚州の孫権攻撃の先鋒を押しつけられ、次には益州の劉璋《りゅうしょう》攻略にさんざん働かされたあと始末されるか、運が良ければ涼州、交州の辺境に飛ばされるかであろう。
辞去して部屋を出るといくらかばつの悪そうな顔の※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越がいた。その後には伊籍もいる。劉備は、
「曹公から、何か言って参りましたか」
と訊いた。
「今のところは、まだ。曹公も北征の疲れをやすめておるところでは」
※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越は蔡瑁と違って、しらじらと嘘がつけるような男ではないから、その通りなのだろう。
「いや、曹孟徳は、戦さが一番の骨休めになると公言するような戦さバカ一代です。新野近辺には既にちらほらと曹軍の動きがみられます。まだ偵察の段階でしょうが、※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》将軍もいよいよご油断めされぬよう」
※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越は強く頷いた。劉備暗殺失敗以来、※[#「(くさかんむり/朋)+りっとう、unicode84af]《かい》越は徐々に心境変化して、劉備寄りの気持ちとなっていた。戦わずして曹操に降るのは武人として恥であり、また故郷のものどもに申し訳が立たぬ。そして戦うなら百戦錬磨の偉大な将軍(負けていても偉大さにはなんのかげりもない)である劉備を立ててゆく以外にないと思う。
蔡瑁一派のエゴイズムに嫌気がさしたせいでもあるし、劉表の明らかな衰弱のせいもあろう。今や襄陽には、自然に劉備を担ごうとする者が増加しており、蔡瑁はますますいらだっていた。
門前に至り、伊籍が訊いた。
「今日はどうなされるのです。お暇であれば我が家にご一泊なさっていってくだされよ」
今のところ襄陽には劉備の生命を狙う気配はない、という意味も込めている。
「機伯どのにはいろいろと世話になる。申し出は嬉しいが、今日はちと寄りたい場所があるのです」
と劉備が言うと、伊籍はすぐににやりと笑い小指を立てて、
「コレですか」
と訊いた。劉備は、
「いや、いや。機伯どのも知っておられると思うが、魚梁洲の隠士、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の庵をおたずねするつもりなのですよ」
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公をですか」
と伊籍は驚いている。
劉備も※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が劉表の誘いを屁理屈をこねて何度も断った話は聞いている。一筋縄ではいかないひねくれインテリじじいであることは間違いない。伊籍はもっとよく知っているのであろう。同行しよう、などと言わず、
「劉皇叔の器量が問われます。ご武運を」
と言うのみであった。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は言うまでもなく荊北の著名知識人であり、陰の実力者である。
『後漢書』逸民伝に名をとどめる。劉表が二顧の礼くらいは行い、勧誘の決めセリフとして、こう突きつけた。
「士が我が身一つの安全を守ることと、天下の安全を守ることと、どちらが人事であろうか」
ふつうなら、嘘でもかっこつけでも、
「すなわち天下」
と答えるのがまともな士であるはずであり、そう答えたが最後、出仕は避けられない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「鴻鵠《こうこく》は高木《こうぼく》の上に巣作りするゆえ、日暮れて止まる場所がある。海亀も大亀も深い淵の下に穴を掘ればこそ、夕に帰る場所がある。出処進退とは人にとっての巣穴である。わたしにとっては止まり、帰る場所をつくることが第一です。天下の安全など、そんなものを気にかける必要はない」
と、いまいち意味不明なたとえ話で主張した。ただし、
「自分のささやかでもしあわせな暮らしが大事なのであって、天下のことなどどうでもいい」
と平然と言え、それが人に伝わりいろいろ非難されようが別にかまわないという点は太い男と言わざるを得ない。さすが孔明の師匠、堂々としたエゴイストである。故に逸民とされるのである。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は『三國志』によれば孔明を毎回土下座させていたとか、司馬徽を弟分扱いにしていたとか、黄承彦をはじめとする有力者と親交があるとか、鳳雛=ヲ[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統士元のおじにあたるとか、明らかに存在も態度もでかいのだが、何故か『三国志』には名前しか出てこない。
これはやはりニック・ネームが無いせいであろう。オールド・ファイァー・ミラーとか、ローリング・ドラゴンだとか、クレイジー・フェニックスだとか、やはり人目を引く号が欲しいところである。しかし、一説によれば、
「諸葛亮を臥竜、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統を鳳雛、司馬徽を水鏡と名付けたのはみな※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公のことばである」
というゴッド・ファーザーぶり。自分のニック・ネームは付け忘れたというか、だれも異名をつくってくれなかったのである。
後世『三国志』なんてものが書かれることになり、弟分の司馬徽がけっこういい役でキャストされ、長セリフまで与えられていることを予知しておれば、ぬかった! と口惜しがったかも知れない。『水滸伝《すいこでん》』などを読んでいても、中国では「九紋竜」「豹子頭」「青面獣」「黒旋風」とか、やっぱり凄まじい異名がとても大切だということがありありと分かり、かっこいい異名がないようなヤツはクズキャラと決めつけて差し支えない。
劉備は異名というより、看板をたくさん持っている。使われているだけでも七つくらいある。ただ、
(肩書き、看板で世渡りしてきたのではない)
と思っているし、そういうものがまったく通用しない相手と渡り合ってきたのである。そしていままた肩書き無効の相手に会おうとしている。
劉備は胡班、糜芳を岸に待たせて、一人魚染洲に渡った。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の本宅は※[#「山+見」、第3水準1-47-77、unicode5cf4]《けん》山にあるのだが、ここに物好きにも隠棲している。増水したときには、溺れ死んでもいいということか。
(しかし、水鏡といい※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公といい、何故、荊北には世捨てぶったへんてこじじいばかりおるのか)
草廬というより、農家の前で劉備は、
「たのもう!」
と声を上げた。しんとしている。
何度か怒鳴っていると、
「コラァ!」
と、家の裏からギャン、キャイーン、バタバタと音がした。ややあって血塗れのナタを持ったがたいのいい年寄りがのそりと現れた。刃についた血を指でなぞり、口にもってゆきぺろりと舐め、ニタニタと笑った。たった今、家の裏でたぶん犬を、しめてさばこうとしていたところらしい。
(山賊か)
と劉備がぎょっとして、思わず剣の柄に手を持っていったほどのワイルド過ぎる男臭さをぷんぷんに漂わせている。
「あなた様は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公にあらせられるか」
と劉備が丁寧に訊くと
「かーっ」
といきなり吠え、
「荒ぶるわい……」
と薄気味悪く呟いた。
「血が、滾《たぎ》るぅぅぅ」
犬ではなく人を、断ち割りたい、と手に持ったナタが語っていた。
劉備はもう帰りたくなり、
「すみませぬ。間違えたようです」
と、背を向けようとした。するとまた家の裏から、手ぬぐいを頭に巻いた女が出てきて、
「お舅様、物売りでも来たのですか」
と言った。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はゴン夕顔、ガンつけまなこを向けて、
「ああん?」
と言った。
「もう。またお客様をからかっておいでなのですね」
と、慣れた口調である。
女、孔明の姉は、劉備を見るや、頭の手ぬぐいを取り、
「新野の劉将軍でございますね」
と深々とお辞儀した。肩まで垂れた巨大な耳、膝まで届く手、劉備のフリーキーな姿形はあまねく知れ渡っており、初めて見た者でもすぐに分かることになっている。
「ふん」
サイコパスじじい※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、ほんとはもっと劉備をからかって遊びたかったものらしい。仕方なく、
「いかにも。わしは※[#「山+見」、第3水準1-47-77、unicode5cf4]《けん》山大人|※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公である。だれだか知らんが、野の世捨て人にわざわざ何用か」
と威張って言った。
(このじじい……おれと同じ、ワルの匂いがする。それもただならぬ極悪)
しかし、ここは劉備は慣れたもので、たちまち膝をつくと、点頭《てんとう》せんばかりに頭を垂れ、
「みども、劉備玄徳と申す若輩者にござる。お初にお目にかかりまする」
と恭《うやうや》しくする。
「それがし本日うかがいましたるは、司馬水鏡師にご緑があり、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生に会われるがよかろうとのご教示を得て……」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、手を挙げて、
「待った」
と言い、
「玄徳どの、ひまか? いや、こんなところに頭を下げに来るのだからひまに違いなかろう」
返事も待たずに、
「碁はご存じか」
「打てはしますが、へたです」
「では、付き合ってもらおうか」
ナタをぽいと捨てると、さっさと家に入っていった。いきさつ、事情はすべて承知しているという様子に見えた。劉備は立ち上がると膝の泥を払い、なんやねんこのおっさん、と従った。孔明の姉はずっとお辞儀をしたままである。
孔明の姉は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公にしばしばここ魚梁洲に呼ばれ、世話をしている。夫の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》山民にも、
「父上一人であんなところに住んでしまわれ、それほど心配はせぬにしても、ほったらかしにも出来ない。お前は父上に気に入られているようだから、できるだけ我儘を聞いてやってもらいたいのだ。偏屈な親父で、たいへんだろうが、すまぬ」
と頼まれていた。孔明の姉は、
(気に入られているのはわたしではなくて、亮だろう)
と思って仕えている。こちらこそ孔明のことでは言うに言われぬお世話になった。それに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は孔明の姉から見ると、皆が言うほどの気難しく扱いにくい糞じじいでもなかった。変物には孔明で慣れていたのかも知れない。
孔明の姉は茶と残り飯を焙ってつくったおかきを運んだ。世間で名の知れた人士はたまにやって来るから、劉備のような聞人が訪れてもさして驚くことはない。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公と劉備は碁盤を挟んで座している。碁は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の手慰み、暇つぶしらしいのだが、誰とでも打つわけではない。
劉備が黒、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が白であった。既に十幾つが置かれている。孔明の姉は碁のルールを知らないので、どちらがどうとかは分からない。だがたいてい渋い顔でむっつりと打つ舅がいつになく目を輝かせているのは分かった。孔明の姉は邪魔をせぬように静かに盆を置いて、また出て行った。
「ぬう。ここでそんなところにツケてくるとは!」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は面を上げて劉備を見、
「さすが名にしおう劉玄徳、ただ者ではないな」
しかし劉備は困ったような(ちょっと嬉しそうな)顔で、
「それがしは定石なぞもとんと覚えぬへたっぴぃでございます。ただ置いただけなのですが、偶然でも勝ちへむかう良手となりましたか」
「いや、まったく何の意味もない手であり、むしろわずかにあった勝利の芽を摘む悪手である」
と言いながら※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公もパチリと置いた。
「悪手なのに、なぜほめなさるのか?」
劉備はまた無造作に「可」の形に似てきた盤面に黒を置いた。
「くう。そんなどうでもいいところをキッて来るとは……またしても!」
「すみませぬ。下手くそな上に、久しぶりにて」
「違う! 並の者なら、ここをオサエるか、ここをツいで、少しでも地を稼ごうとするものだ。しかし玄徳どのは、こんなおかしなところに、くくっ、この大馬鹿野郎がっ」
と白を置く。劉備は間をおかずに、また置いた(ほとんど何も考えていない)。へたなのでパシッというようないい音が出ない。
「なんと! そんなところをヒラいてどうなさるつもりか。わしを舐めておるのか。年寄りに勝ちを譲るおつもりかっ」
「いや、すみませぬ。もうやめましょう。わたしと先生では腕に差がありすぎるようです」
「それは許さん」
さらに進み、
「トばれたか」
とか、
「がっ、コウがぁ」
とか、
「コミコミ〜」
とか、
「あたしもうコスんじゃうー」
とか、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公ひとり、わたしにも意味不明なことを口走るのであった。
劉備は石が増えるにつれ、碁の行方がどうなっているのかさっぱり分からなくなり、困惑している。
(なりゆき碁を打つはめとなったが、わたしはこんなことをしに来たんではないんだぞ)
とぶつぶつ。分からないので空いたところにおそるおそる置くだけであった。コトリ。
「この局面でなおそこに突っ込んでゆかれるかァ」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は盤面より顔を上げ、深く息をついた。
「稀代の梟雄・劉玄徳の碁、しかと見せてもらいましたぞ」
「お恥ずかしい」
「これこそ天下を争う男の碁である!」
まあ、感心しているようだ。
で劉備が、とても恥ずかしかったが、整地して数える気も起きない。
「その、結局、この碁はどちらの勝ちなのですか」
と率直に訊くと
「大丈夫たる者、空しく勝敗を区々の中に誤たざるべし」
と、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は盤を傾け石をざらりと落とした。一つの宇宙が消滅した。
(勝ち負けなしなら、なんで碁なぞを打つのだ)
と劉備が不審にあきれていると、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「劉公、どれ、もう一局だ」
と石を分け始めた。
「ちょっとお待ち下さい。それがし本日は先生に要件ありて参ったものです」
とさらに話し続けようとした。すると※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公、
「話とは臥竜のことであろう」
「えっ、どうしてそれを。もしや水鏡師から既に伝え聞いておりましたか」
「いや、聞いておらん。もし聞いておれば、わしはしばらく旅に出て行方不明となっていただろう。徳操の紹介なぞ、しらばくれてなんのことはない。わしには徳操に借りはないからな。まあ、それはいい。玄徳どの、話は打ちながらでも出来る」
仕方ないのでまたぱちぱち打ち始める。
「どんな評判の悪い変質者であっても、それが卓《すぐ》れた軍師なら、手元に置いてみたい、ということかな。まっとうな主君は臣下を人格で選ぶべきものだが」
「孔明とはやはりどうしようもない誇大妄想狂の人格破綻者なのですか」
(水鏡も徐庶も滅茶苦茶、支離滅裂なことを真顔で言っておったし、そのへんがどうもな)
戦さ人たる劉備はいちおうリアリストである(そのわりには漢室復興などというヴィジョンを掲げているが)。ゆえに劉備は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公なら真実を教えてくれるかも知れぬと、訪れたのである。
「まずその前に、玄徳どの、あなたは戦さはお好きなのか」
「戦さが好きな者など、おらぬでしょう。かの曹公とて世が乱れなければあのような戦争中毒者にはならなかったと思います」
「本当かな?」
「むろんです。それがし世に出てより、幾多の戦さに辛酸を舐めさせられ、戦さの不毛と不幸を嫌というほど見せつけられました」
「玄徳どの、正直ではないな」
「なんとおおせられる」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は石を置きつつ、
「戦さに勝ち続けた者が、戦さはもういいというなら、わしは、いくらかは納得しよう。だが負け続けたヤツのきれい言は疑うしかない。碁とて、わしは実は好きではないのだ。子供の頃から何故か強かった。誰にも彼にも勝ち続け、勝つたびに空しくなった。愚、案ずるに、曹公こそおそらく天下一の戦さ嫌いであるはず」
「まさか……」
「玄徳どの、あんたは勝っておらん。負け続けてきたからかえって戦さが大好きなはず」
「そんなことはありません」
「あくまで戦さは嫌いだと申されるか」
「はい」
「ならば、孔明は無用の長物。関係を持つ必要はない。得ても蔵の隅に置き忘れ、いつのまにかミイラとなってしまおう」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、話はこれまで、という表情となった。手許の碁笥《ごけ》を取りあげて、碁石をさらおうとした。
劉備は、待った、というように、碁石を置いた。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の眉がぴくりと動いた。
「うぬ! たまらんわい。そんな所に平気で打てる(糞馬鹿野郎な)打ち手は滅多におらんのだ。たとえ碁の規則を知らぬ幼児が、何も考えずに置いたとしても、そこには絶対に置かないであろう。いや、置けないのだ。そういう場所なのだ、そこは。なんという恐るべき碁であるか。これはやめられぬわい」
と、碁笥をおろした。いったい劉備はどこに置いたのか? わたしは碁を知らんけど見てみたいものだ。
「生命がかかったような大事な対局のときでも、そういう、勝負とは無関係な、無意味の位置に石を打てる者は、わしの知る限り唯一人」
「ほう。それが、おそらく問題の」
と劉備がノると、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はガッと拳を突き出して、
「ご賢察の通りだ。諸葛亮孔明! やつは、必要があれば(いや、べつに無くても)碁盤の外の床の上に涼しい顔をして石を並べることも厭わぬ男である」
碁盤以外の所に石を置いたら、ギブアップの表示か、たんに石を投げ捨て遊んでいるのか、既に碁でもなんでもないと思うんだが。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公流に言うと、盤上が千変万化の宇宙であるとするならば、孔明は別の宇宙の見えない次元の碁盤の上に右を置いた、ということになる。それで対局が何の差し障りもなく続行されていたら、他人が見ればただの幼児のあそび、奇行痴戯にすぎまい。
「玄徳どの、ではもう一度尋ねようか。戦さはお好きなのか」
劉備は一瞬にして変節した。
「好きです。たまらなく、好きです。わが弟の張飛などは戦さがなければ飢えて、発狂するでしょう。それなら酒毒にまわられ廃人となったほうがしあわせかも。わたしはまだまだその境地まで達しておりませんが」
「やはりな。しかし、そうだとしたら、孔明は過剰の長物。鶏、いや、雀を割くのに牛刀を用いるようなもの」
言いかたを変えれば、子供が砂場でつくった城をブルドーザーで壊すようなもの。紙飛行機にジェット推進機を搭載するようなもの。異常に無駄でおとなげない。
「孔明は戦さ好きのもとには決して置いてはいけない魔竜である。やはり、あなたは関係を持つべきではない」
「先生、いずれも非となさるとは意地悪ですぞ。わたしが素直になって自白し申し上げておるのに、なぶるおつもりか」
と劉備は嫌な顔をした。
(こやつも水鏡と同じく、言を左右にして誑《たぶら》かしてくるか)
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は劉備の心を読んでいるかのように、
「誑かしなぞせん。玄徳どの、話は最後まで聞くものだ。だから、さっきから碁なのだ。少々、世を僻《ひが》んだ年寄りの繰り言に付き合うくらいよかろう」
ちっと舌打ちしたいところだが、我慢する。
「あなたはまだ自分が何をほしがっておられるのか、自分で分かっておらぬ。まずは軍師の秘密というものを教えてやろう」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はまた石を置き、劉備も手なりで置いた。
「つまりは、だ。玄徳どの、勝敗なぞ考えもせず、損得利害を越えた行動、それをする意志がなければ孔明を臣下にして使うべきではないということなのだ。あなたは徳の将軍として、内心はともかくとして、一見そうしてこられたな。戦さ嫌いでもなし、戦さ好きでもなし。真ん中をとる。勝たず、負けず、稼げず、損せず、しかし身命は在り続けた。いわゆる中庸の徳というものだが、あるじがそれを心得ていなかったら、孔明はただの狂い暴竜となる。韜略をなす根っこの部分、気持ちのあり方次第で天下は滅びるか、栄えるか、それを決めることが出来る軍師がおるのだ」
あるじ次第で、臥竜はただの役立たず(それが一番いいかも)、また平和への最終兵器どころか、滅亡への大量|殺戮《さつりく》兵器になりかねないということで、長物の力はコインの裏と表という、よくある箴言《しんげん》である。
「たとえばこの碁石を見るがよい。いちおう碁も戦さだとすれば、この石どもは兵卒とみることができる。白と黒の違いのみあり、どれもこれもなんら飛び抜けたところのない兵である。戦さはこういう者らが将軍に命じられて、如何に誤り無く動くかできまるのであり、兵のみの勝敗などはない」
不十分だがわたしが解説してみれば、たとえば碁と将棋の見かけ上の一番の違いは、駒(石)の能力が均質でないことがあげられる。将棋は歩からはじまり飛車角、王将まで、それぞれに性能、機動力から防御力、耐久力が定められているといっていい。しかし碁石は均質で、そういった違いがない。そういうことを言いたいらしい。
軍隊というものはその錬度や目的意識によって強さが変わるし、民族的に戦闘能力の差があるとも言われている。しかし、結局の所は平均的に生き死にする同じくけなげな人間集団に過ぎない。肉弾戦の時代を過ぎ、銃砲火器が発達するにつれて、なお個人の殺傷力の差は無くなってきた。生来の体力や鍛錬度は、碁においてはたとえばよく磨いた天然の碁石と、プラスチック製の艶のない碁石ほどの差でしかない。対局の時、一人が天然の石を使い、一方はプラスチックの石を使ったとして、天然石を使った方が必ず勝つなどということはないのである。勝敗はあくまで将軍たる打ち手の戦略戦術できまる。
しかし山野に実戦を重ねてきた劉備の立場に立って言うなら、
「現実はそう単純ではない」
となろう。経験上、戦さとは将棋の駒と碁石の両方を同時に持って、様々な条件(ルール)の下で、盤上に置き、動かすものだ、といったたとえとなろう。一騎当千の精鋭も十把一絡げの雑兵も、見かけは同じ人間に過ぎず、碁石のように無個性であるかも知れない。しかし石に見えても質の差は歴然とある。めしが食いたいばかりに兵士となる者もいれば(劉備軍団の場合、これがかなり多かった)、無理に徴兵されたり、積極的に国や一族を守るために兵となる者もいる。動機が違えば、同じ兵でも精神力に差が生まれる。体力も平凡、武技も平凡、だが戦闘意欲が極めて強く、決して逃げることなく主将の命に従う兵はおり、これが同じ人間集団かとさえ思わせる大差が生じるときもある。
劉備がやっとこさ歩をかき集めて戦さに向かったとき、敵の兵士がみな香車、桂馬、金、銀であると気付いたときの恐怖ときたらたまったものではなかった。前に一歩ずつしか進めないような質と錬度の劉備の兵は一方的に殺戮されるしかなかった。劉備は駒落ちで段持ちに勝てるような戦さ上手ではまったくなかった。逃げるか、あっけなく投了するしかあるまい。関羽、張飛といった飛車角クラスの豪傑が支えなかったら劉備の生命はとっくになかった。
今、新野では既に去った徐庶の軍団改造策で、めしを食いたいだけの者、やむをえず離農した者、盗賊上がりの者、とにかく行くところがない者、そういった者たちをまずきちんと歩に仕上げて、その上で守りも攻めも兼備したと金[#「と金」に傍点]と成らせ、弓などの技術を持った桂馬を別に訓練したり、選抜した軽騎兵を香車としたりして、兵には特技、役割分担があることを定めていった。
むろん既にしていて当たり前のことばかりなのだが、劉備は訓練不足の兵を連れ回してどたばたとやる戦さしかしてこなかった。劉備だって二十年以上も各陣営を見て戦ってきており、そんなことは分かっていたはずなのだが、あまりにも兵の出入りが激しく、まとまった数の兵団を維持する食糧もお金もあったためしがなかったから、仕方がなかったと弁護もできる。軍団強化などいつしかどうでもよくなりかけていたときに徐庶が現れてくれたのである。
そして一個一個の兵に強固な目的意識、実力と闘志を持たせるのは関羽、張飛、趙雲ら部隊指揮官のつとめであり、総じて大将の劉備の魅力にかかるものである。もし天下に望みがあるのなら、いつまでも関羽、張飛、趙雲が無責任に単騎で突っ込み憂さ晴らしをするような(そりゃ張飛は気分がいいかも知れないが、全体としては大敗ばかり)、ほとんど子供の喧嘩のようなことをしていていいはずがない。劉備は徐庶を軍師として初めて近代兵団(あくまで劉備の時代の)らしきものを所有したのであった。それまでの劉備軍は文字通りの雑軍、それこそただの磨かれぬ石ころの集まりのようなものであった。
実際の兵には様々な要素が絡み合っている。が、学者というものはそうであろう。兵の素質やあり方が均質であると仮定して論を進めなければ、戦理の本質の抽出、純粋に勝つための兵略は語れない。原則論は常に机上論であり、抽象論に陥りがちである。おそらく世界最高の兵書である『孫子』ですらそうだと言ってよい。
「碁石を並べる者は将軍である。二人の将軍がそれぞれ白黒の兵に命じて戦わせるものだ。始まった時点では先手、後手の差はあれ、同兵力であり、対等なる戦さとかわらぬ。その将軍の好みの作戦があり、敵を包囲|殲滅《せんめつ》する、敵陣に正面突撃を敢行する、まあそんなものだろう。同条件なのに将軍の腕前が勝敗を分けるというのは、戦さにおいて人数、地形、天候の有利不利があるように、この碁盤上に将軍が、好ましい所に大河や山岳、城や砦と同じ物を狙いすまして作り上げて、有利不利を発生させ、相手を引きずり込むというところだろう。盤上には山川城砦柵罠となんでも作ることが出来、膠着《こうちゃく》戦も短期決戦もおのが有利に選べる状況を作る。それが打ち手の力量、将軍の手腕ということになる」
「なんとなく、わかるような気がします」
「普通は相手を打ち負かすのが大好きな者同士が対局する。わしも碁を覚えてからは長い間そうだった。だが勝ちにこだわる対局は見るも無惨な戦さとなり、いやなことだが、若いうちはきれいも悲惨もなく、とにかく勝とうとし、それが楽しかった。そこでだ。軍師とはなんだと思う」
「は? やはり打ち手にあたるのでは。それとも打ち手の碁の師匠であろうか」
「違う。軍師は打ち手の背後にいて傍目八目《おかめはちもく》に盤上を見渡し、卑劣にも打ち手に妙案を吹き込み囁いてくれる者である。もちろん敵手《あいて》にはわからぬように、暗号や身振り手振りで伝えることになろう。また敵手にも同じような助言者がいるかも知れぬ。たちの悪い野次馬のようなヤツだが、それでも勝たせるなら、まあ並の軍師といえる。将軍の相談役であり、対局を有利にすべく助言する程度であり、それにしても勝負はやはり将軍の力が決する」
ここもわたしが解説すると、ボクシングなど格闘技の試合のセコンドのようなものを思い浮かべてもらいたい。師匠やトレーナーも含むときもある。選手を日々訓練させ、作戦を授け、試合に時にはそばについて指示し、ラウンドとラウンドの間には体力回復のためにせっせとサポートする。それでも実際に相手を殴り倒すのはあくまで選手である。セコンドはリングの中までは手出し出来ない。
「だが並以上の軍師、上の軍師は、腹立たしい助言をするどころの騒ぎではない。ヤツは打ち手を信じて任せることが出来ないのだ。己が頭脳が上であると思っているから、あるじが盤上に布石し、巧妙に罠を張り、領地を拡げていくのを黙ってみていられないのだ」
また石をパチリと置く。
「軍師が勝つべく策を献じて、打ち手がそのように打てばよいのでござろう。しかし戦場、ここは盤上ですが、相手の動きによっては最初の策が不発となることもありますな。戦場では何が起こるか分かりません」
劉備も、石を置いた。
「軍師という生き物はそれが気に入らぬのよ。上の軍師は不測の事態をゆるせないのだ。だから徹底的に備えようとする。たとえば今日やってくる客が、碁の相手となるかどうかすら分かっていないのに、性格から、打ち筋、ここ数日の暮らしぶり、持病、いま頭の痛いこと、夫婦仲、朝飯は何を食ったかなど、ありとあらゆる情報を事前に調べておき、あるじが不利と見たら、当たり障りのない会話に毒刃を潜ませて相手を惑乱させる用意をしておく」
「それは厭な相手ですな」
「まだまだ、ここからがさらにひどい。口舌で相手を揺るがせられないとなったら、横から勝手に手を出して山を作り、谷を作り、隅の石を何食わぬ顔で一目ずらし、雨まで降らせようとする。早業のイカサマだ。そうまでするのなら自分で打てばいいものを、軍師は決してそうはしない。常に影に隠れていたいからな。軍師は暗くてじめじめしたところを好む夜行性の生き物なのだ。将軍は自分の戦場が意図せざる方へ変えられてゆくのを見るのだ。打ち手は、そんな対局が勝利に終わっても、はたして嬉しいのか?」
相手のお茶に下剤を仕込む、刺客を放って暗殺する、そういったものもありである。
「上の軍師は、勝ちに命まで賭けておる。極端なときにはあるじの負けが必至と読んだなら、碁盤をひっくり返しさえして台無しにし、そもそも戦さが無かったことにしてしまうこともあろう。もし相手が怒れば、すべて自分のやったことであり、将軍には関係のないことです、憎むならわたしを憎んでくれ、とすべて計算ずくでほざくような危険きわまりないヤツなのだ。あるじたる将軍が、軍師の荒わざに、余計なことをするな、と怒ったとしよう。上の軍師は『忠義』という言葉を持ち出して弁明し、しまいには、あるじの命を救うためにしたのであり、それがためにあるじが憤激しわれに罰を与えるというのなら、それもまたわが本望です、と本気で言いかねない狂気の生き物だ」
確かに曹操の帷幄には程c、賈|※[#「言+羽」、第3水準1-92-6、unicode8a61]《く》をはじめとする、主君の悪を自らひっかぶり、曹操に禁止されていても、何か手出ししてきそうな連中がうようよいる。
「歴史を見るに姜子牙、張良子房は上の軍師といえよう。盤をひっくり返しこそしなかったが、それは運良くおのが描いた絵図が当たり、それに沿って進んだからだ」
上の軍師はイカサマや謀略のレベルを平然と踏み越えてしまうものらしい。はじめからボーダーが無いのである。ちくちくした盤外戦などを遥かに超えたことを仕掛けてくる。
ボクシングの試合で言えば、セコンドの事前のありとあらゆる策(相手陣営に偽情報を撒き、色仕掛け、宿泊先にいたずら電話をかけ続け、計量直後の食事に毒を盛り、本国の家族を擬装誘拐して脅し、とにかくゆさぶりをかける)が敗れ、負けが避けられそうにないと分かれば、セコンドが119番にウソ電話をかけてリング上に消防車のホースの水流をぶちまけさせるとか、あらかじめリング下に仕掛けておいたプラスチック爆弾のスイッチを押して逃げるとか、そういうことである。スポーツ、勝負の世界にいてはならない外道として永久に追放されるであろう(しかし数億円単位の金がかかる試合では、当然、行われている可能性があることだ。表沙汰にならなければいいだけのことである)。あるじ、つまり選手はその後、二度とリングに上がれなくなりかねないのだが、上の軍師は負けるより無効試合を選ぶのである。
現代戦であれば戦場のど真ん中に敵味方どちらにも無警告で核爆弾を投下するようなものか。悪魔のノーコンテスト狙いである。恐えぇ〜。
上の軍師には卑怯もへったくれも無く、そんな言葉は軍師の辞書には載っていない。日本史に今も昔も中国史レベルの大軍師があらわれないのは、日本人の辞書には少なくとも載っているからであろう。
劉備はごくりと唾を飲み込んだ。
(恐ろしい話になってきた)
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の話に引き込まれてしまっている。
「やつがれは軍師参謀についてそこまで考えたことはなかったように思います」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、首を左右にした。
「こわがるのはまだ早い。上の軍師ですら主君の破滅と隣り合わせ、他人の迷惑など知ったことではない凶悪なヤツらである。それほど危険きわまりないものなのだが、まだ特上の軍師というものがいるのだ」
「特上――姜子牙、張子房以上の軍師がいる、と、いうのですな? まさかそれが孔明なのですか」
「そこまでは言わぬ。玄徳どの、特上の軍師がいるとして、それがどういうものか分かるかな」
碁の話の流れなら、横から碁盤をひっくり返す以上の奇策(反則)である、となる。なかなか想像がつかない。
「そうですな……客が来たあたりで、対局する気すら起こさせないようにするか。そうだ碁盤と碁石がなければいい。碁盤と石を隠してしまう。いや叩き壊したほうがいいか。何が何でも戦さが起きないようにする、そのようなものでしょうか」
「さすがに玄徳どのだ。なかなかいいせんを突かれる。あなたが主君でなかったなら、軍師くらいはつとまったのではないかな。だがまだまだ甘い。そうよな、碁盤が無かったら、買ってこさせるし、その場でつくらせてもいいではないか。そも碁など、やろうとおもえば地面に線を引いてでもやれる」
「うーむ」
「もっと恐ろしいのだ。よろしいか、玄徳どの、特上の軍師は、あるじであるはずの将軍すらも碁石と見なす。むろん白方も黒方もだ。実際に二人の将軍を石にしてしまい、自分の思い通りのことをさせて嘲笑うことができる。和戦、泥沼、共倒れ、消滅、最初からなんでも好きなことをさせられるのだ。将軍をよく補佐する、まあまあ上の軍師ですらも、特上から見れば、同じくただの石にすぎぬ。二人分と軍師どもの分まで自分が打っているのだから、すべては八百長となり、策も奇策も必要がなくなるわけだ。そやつは忠義など持ち合わせておらんし、決して臣下と呼べる者ではない。かといって碁石どもの主君のように振る舞うのでもない。敵でも味方でもないのだ。碁盤すら大地の如き中立ではなく、軍師が踊る踏み台にすぎぬ。すべてを入れた壷中天の中で起きることとなり、軍師は遥かに越えた場所、敢えて言えば宇宙か、そこにいて見下ろしているのだ。それが特上の軍師であろう」
「それではほとんど神ではござらぬか」
「いや違う。神はそんな愚かしいことをやろうとはなさらぬし、へんな色気もお持ちでない。あくまで人ではあるが、鬼畜外道以下の生き物、それが特上の軍師なのだ。ヤツには天下万民なぞハナクソほどの価値もなく、どうでもいいのだ。あなたはそんな者を側に欲しいと思われるか?」
「拙者、ますます恐しくなって参りました」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、ほれ、と劉備に次の一手を促した。劉備はほとんど上の空で石を置いた。
「その一石!」
「はっ」
「わしのようなつつましい隠遁者(ウソつけ)にはその一石が一兵卒の人生に見えるのだ。あなたや関羽、張飛が一万でも率いて戦場に出るとしよう。勝ち負けはいいとしよう。勝っても負けても、死んだとしても、玄徳どのと関羽張飛の二将は少なくとも史に名は残りましょう。だが、戦さに弱いくせに山っけがあり、戦さが好きな者に率いられたあげく、万のうち三千人が殺される大敗を喫したと。しかし、兵は兵、この碁石のように立場が弱く、ただ無抵抗に置かれただけ、その生命は虫けらにも値せぬ。玄徳どのはそういうことをお思いになられたことがあるかな。史書に照らせば、昔から大小の戦さがあり、負けた方の軍にて死して名が残るとすれば、将軍ばかりであり、恥じて名を残すもまた将軍だけである。しかしその将軍に率いられてむざむざと惨殺された兵卒は何も残すことがない。この石のように命じて布石され、殺されても文句一つ言うこともかなわぬ。同じ人間なのにな。司馬太史公以来、史書が死亡した兵卒の名を一人ずつ記しとどめないのは何故かお分かりか」
「いちいち書いていたらそれだけで一巻の書物になってしまいますよ。『死記』となってしまいます」
なーんちゃって、と冗談にしたいが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は聞いていない。
「つまるところ石だからだ。何千人おろうが、史書はそれに兵という名をつけて、ひとつのものにしてしまう。実はそこに史書の最大の秘密と罪があるのだが、それはおくとしよう。兵が無力なりといえども、やむなく戦さをすることを自ら望むことがある。侵略者どもがわが地を踏み荒らし、女は犯され殺されるとなれば、どんな腰抜けでも戦わざるをえない。そんなときは優れて勝てる将軍に率いてもらいたいと願うこともまた事実。ゆえにはじめに申し上げたことにつながる。玄徳どののような方は戦さ嫌いであり、また戦さ好きであるべきなのだ。石ころたちのためにな」
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生、わたしは愚者であって、あまりに難しいことは分かりませぬ」
「簡単なことだが。わしが劉玄徳どのに、つまらぬ長話をする気になったのは他でもない。碁である。わしはもう勝ち負けの碁は打たなくなった。黒も白も生きたまま終わる基が理想だと思っておる。ただ、こちらがそうでも相手は勝ち気満々で来るのがふつうである。わしはそれをサバいて、きれいに引き分けるために工夫を凝らすのだ。楽しいぞ」
「そんなものですか」
「さっきの玄徳どのの碁にはわしは本当に感服したのだ。まともな碁打ちなら、あれは絶対にない、そう直感している。わしは玄徳どのに合わせて打てば、誘われるようにだ、それだけでよかった。生きて引き分け、白も黒も故郷へ帰れたのである」
「それがしとて一応勝つ気で打っております。ただ腕が悪く、盤面がややこしくなると面倒になり、あきらめてしまう」
「それですな。玄徳どのが戦さに負け続けた理由は。本来、あなたほどの年功者であれば、少なくとも一州のあるじとなっていなければおかしい。この十年、二十年、どれほどの英雄姦雄が興亡したか……。あなたは何故か生きておられる。なのに放浪の徒のままなのは、ひとえに勝つ気がなかったからである。そして時々勝ちに乗りそうになると、碁と同じにややこしさを感じ、逆にあきらめてしまわれたのだろう。それが案外よかったかも知れんのですぞ」
「そんなことはありません。武人として戦さ場に立つ以上は、常に勝ちたいと思って臨んできました。戦さにあきらめなど」
「わしにはそう見えない。碁も、勝つ気で打っている、とは言われるが、腕の悪さとは別なところで、あなたは心の奥底では和して分けるような采配をしてしまってきたのではないかな。玄徳どのがそうであるのに、敵は勝ち気満々で挑んでくるのなら、ただつけ込まれるだけである。勝てるはずがない。玄徳どのが早くにそれに気付き、わしのように、敵が攻めてきても秘技秘術の限りを尽くして引き分けに持ち込む工夫を積まれておったならば、結果としてお釣りが来るほど得があったに違いない。あなたはご自分が一番望まれる戦略にうかつにも気付くことなく、半生を過ごしてしまったのだ。そういう意味では、先年の戦さに徐元直を用い、曹仁に勝ってしまったのはよくなかった。そのツケが必ず回ってこよう」
確かにあの戦さの後、襄陽の肝臣どもには一段と憎まれ、徐庶とは生木を割くように引き放されてしまった。
「でも、先生、こんな茶番のような碁にて、わが胸の内をそうまで知ったふうに言われるのは心外でござる。わたしにはとても信じられない」
「いや、わしの目は確かである。水鏡よりもな。玄徳どのがそのような人なればこそ、こんな話をする気になった。まあ、お望みとあらば孔明をつついてさしあげてもいいと思ったのだ。あやつが玄徳どのの軍師となれば、玄徳どのはもう勝ちも負けもしなくなる。孔明はどんな強敵大軍が襲おうともきっちりと引き分ける策を出せる男である」
劉備は不満そうに、
「引き分けでは、天下はおさまりますまい」
と言った。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、にやりと笑った。
「どんな相手とでも引き分けるのは、勝つよりも遥かに難しいということが、分かっておられませんな。それに引き分けを勝ちよりも下と考えておられるのは頭が固いというしかない。わしが賭け碁をしたとしよう。負けたら賭け物を取られるし、勝ったら勝ったで恨みを残す。しかし引き分けるならどうであろう。碁を存分に打ち交わしたうえで、何も取らず、取られもしない。うぬ強敵、と思いつつ、次こそは、と分かれることが出来よう。戦さも同じことだ。好きな戦場に堂々と出て戦いを愉しめる。しかして引き分けを狙うなら、本心の戦争嫌いの底意もまた満足し、その上、兵たちも生きて帰れる。相手も好敵手のまま恨みはない。その結果、いつの間にか天下に近付いている」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はまた一石をつまんで、ぴしりと打った。そして言った。
「戦わずして勝つ、という。笑わせないでもらいたいものだ。確かに上策であろうが、これこそ空論、人の性に反する。もしあるとすれば聖人の戦さであろうが、聖人の軍団なぞどこにおるのか。人間は昔から、今もこの先も、残虐や争いがたまらなく好きな生き物なのであり、亡びるまで変わらぬであろう。平和の時ですら、平和を唱えること自体を争いのタネにしていくような好き者なのだから始末に負えぬ。かの孔子も老子も文と武の間にある人の性、恐るべき虚のことをよく知っておったろうよ。人と人が競わずして、戦わずしておさめていては、必ずおかしくなる。人は真の聖人賢者にはなれはしないのだ。そんな欲も得も兇も抱えた人間のする上なる戦さは、戦って分けること、これが最上としか言いようがない。そしてそれが出来るのは特上をも越えた超軍師のみ」
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生、やはり話が難しすぎまする。いいことずくめのようにも聞こえますが、それがしには絵空事にしか思われぬ」
トンデモでございます、と言いたい。
「おのれを武人と決めつければ、そう思うも当然かな」
「ではかりに曹孟徳が引き分けを続けていれば、既にして天下を得ているとでもおっしゃるのか」
「是《ぜ》である。黄巾賊、董卓、呂布、袁紹、今頃はみな曹公の得となっているであろう。しかも何の恨みも罪も残さずにな」
「先生は戦さを知らぬゆえ、そんな甘いこと(妄想)をお考えになるのです。言うてみれば英雄らはみな我欲の化身であった。やつがれは渦中におって、両陣営ともとうてい戦さは避けられず、志を遂げようと思うのなら戦って勝つ以外にないことを何度も見て参りました。敵手《あいて》を斃《たお》してしまわねば、いつまでもそれらに脅かされ続ける。政はおろそかとならざるを得ず、民は安まるときがない。やはり絵空事」
「ならばその絵空事が現実に起きることを見てみてはどうかな」
「つまり諸葛孔明を軍師とすれば、先生の今の話が目の前で起こり続けると、言われるのか」
「さよう。といってもあなたと孔明次第だが。信じる信じないは、見てからおっしゃればよい。ただし、大事なのは心の奥では戦勝を望んでいない今の玄徳どのである。もし心境の変化があり、あなたが勝ちたいだけの男になってしまえば、孔明は暴走してさっき言った特上軍師となるやも知れぬ。まあ、万年に一人の奇才、不世出の特上軍師が何をするのか見るのも一興かも知れぬ。おもしろそうだが、わしは遠慮することになろう」
と言ってまた石を置いた。
徐庶、水鏡先生、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公と三人の孔明論を聞いたわけだが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の論が一番重々しく聞こえた。と同時に最も奇怪異様で、聞いたこともない戦争諭であり、具体性のありやなしやは依然として怪しい。
劉備はむしろここまで語る※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の智論に食指が動いた。偏屈で理解を超えたところは多々あるが、この老人こそ軍師参謀にもってこいの異才ではなかろうか。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は(特上軍師? 孔明のことはあくまで笑い話として)、頭脳秀抜にして腹が据わっており、一軍を差配させるに足る人材と思われる。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はそんな劉備の思考は見抜いていて、
「玄徳どの、それはやめておいたほうがいい」
と言った。
「ですが※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生、先生こそこの乱世にご活躍すべきお方だと、お話を聞いて確信いたしました。先生は太公望呂尚になってみたいとは思われませぬのか。その智と才を抱いて、隠遁などとはもったいなさすぎます」
「もしわしを招こうとなさるのなら、劉景升の二の舞となり、生き恥を曝すことになる」
「恥などもう掻いて掻いて掻きまくってきたこの玄徳、そんなことくらいで引き下がるとお思いか」
「はた迷惑なしつこさもまた玄徳どのの取り柄の一つである。請《もと》められるのは別に構わぬ。ただわしは劉景升をげっそりさせた屁理屈を捏ねて捏ねて捏ね続けるだけのことだ。玄徳どのは、曹公のように言うことを聞かぬからといって首を刎ねるような方ではなかろう。いつでも説得に来られよ。碁の用意をして待っている。玄徳どのの碁はじつに素晴らしいからな、毎日打っても当分飽きないだろう。くくく、まことに楽しみだ」
そうドスの効いた声で言われると、劉備は、
「残念でござる」
とあっさり諦めた。劉備が誠意丸出し、泣き落とし、さらなる奥の手を使いながら毎日訪れ、たとえ三百顧、三万顧の礼を尽くして攻めたとしても、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は一ミリたりとも動かないと分かったからである。劉備の魔性の勘がそう言っていた。
(このじじいに、おれは位負けしている)
とも思う。
(さっきの話を真に受ければ、わたしが誠心誠意、いかに攻めても必ず引き分けられてしまう結末となるわけか)
でも必ず引き分けるというのも、口先だけかも知れない。
(いっちょう試してみようか)
とも思ったが、今も打ち続けている、優勢なのか劣勢なのかすら分からない複雑怪奇な白黒の盤上を見ていると、やはり面倒くさくなってしまうのであった。
「そう気をお落としになるな。玄徳どののもともとの目的は孔明であろうが」
「ですが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生を知ってしまった今、先生以上の奇才がいるとは思われなくなりました」
「そんなことはない。わし程度のあくたれなら、どこにでもおるわい」
「ならば孔明は、先生に匹敵するとでも?」
「わしに互する程度の者なら恥ずかしくて薦めたりはせぬ」
ではやはり孔明なのか。
「水鏡師は孔明を獲得するのは困難至極であるが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》公ならば、あるいは動かせるかも知れぬとおっしゃっておられた」
「いや、わしにだって難しい。ヤツが今何を考えているかなど、誰にも分からぬことだ。何年か前、黄承彦のむすめに孔明を押しつけたことがあったが、あれも黄氏に孔明が策以外に感じるものがなければ破談していたところだ。わしの力ではない」
「そうなのですか? それがしが耳に入れたところでは、孔明のほうが黄家の嫁き遅れの醜女を押しつけられたと聞いております。しかも大喜びで」
「逆である。孔明の方が嫁き遅れなのであって、婚期を逃がしていたのだ。世間の耳目とは節穴ばかりよ。あれは黄氏が孔明を押しつけられてくれたのだ。かしこくやさしいむすめだ。孔明は本来なら涙を流して黄氏に感謝せねばならぬところよ」
「うーぬ。なにやらこんがらがってきましたぞ。孔明の嫁取りにも、その、先生の引き分けの理とやらが絡んで、どこかに働いたわけですか」
「ほう。さすが玄徳どのだ。引き分けの理を理解していないのにもかかわらず、分かってしまうとは」
だから魔性の勘なのだ。
「そこが分かっておられるのなら、玄徳どの、あなたがヤツを釣る確率が少しあがった。そもそも孔明も何の気まぐれか、臥竜だなんだと馬鹿げた策を弄して、一時は水鏡や徐元直を巻き込んで世に出ようとしたのだ。確かにヤツにその気はあったのだ。静かに隠遁晴耕雨読など、あれにわしの真似が出来るはずがない。今、その気は臥《ね》ているのだろう。ここが大事なところなのだが、孔明をあなたに押しつけるのではなしに、あなたは孔明に押しつけられる哀れな科《とが》びと、囚人のごとくに運ばねばならんのだ。黄氏のときのように簡単にはいかないだろう。果たして孔明があなたを押しつけられてくれるかどうか。それこそあなたの器量にかかっている」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「策の成るは一分九分であり、玄徳どのは相当つらい目に遭わされるかも知れぬが、それでも孔明を迎えたいかな?」
「乗りかかった舟です、是非にも」
と劉備は言ったが、とっくに※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に度肝を抜かれており、
(ウソくせえし、しちめんどくさそうだし、もうどうでもいいわい。これからウチも忙しくなりそうだし)
とげんなりしかかっている。
(このじじいなら、欲しいものなのだが)
むろん※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に読心されている。劉備は処世の悲しい性、心のうちが表情や態度に表れないよう常々気を付けているが、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の鑑定眼の前では裸同然である。劉備の意欲減退を見て、
(おっ、これで二分八分にあがった)
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は思った。何だか分からないが、
(劉玄徳にやる気がなければないほど、都合がよい)
らしいのである。
「どうか※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生、孔明のこと、お力をお貸しくだされ」
と言って拝したのは、社交辞令のようなものである。
その後、劉備は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公にまた一局と所望され、仕方なく相手をしたが、頭の中には食い物のこと、女のこと、かなり下がって曹操来襲のことなどが浮かんでいて、打つ手など適当だったが、それでも※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は感心しきりであった。
劉備を送り出した後、孔明の姉が茶の盆を片付けるために入ってきた。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は今の対局が終わった盤をじっと眺めており、
「この盤面は膠《にかわ》で囲めて取っておくことにしよう。あのやる気のない、いい加減きわまりない打ち方で、何故にかくも美しい碁が出来上がるのか。宇宙の神秘だな。劉備玄徳、あるいは孔明にぴったりの男かも知れぬ」
と唸っている。孔明の姉は、
「お舅様がお客様にこのように長話をするのは初めてでございますね。よほど劉将軍をお気に召されましたか」
と訊いてみた。
「聞いておったか」
「亮の名が出ておりましたので少し……すみませんでした」
「このボロ家だ。聞こうと耳を澄ませば、どこにいても聞こえる。お前は孔明があの男に仕えるのに賛成か?」
「亮がそうしたければ、それでいいとおもいます」
「そうか。聞いた以上は仕方がない、お前にも手伝ってもらうことになるやもな」
「なにをでしょう」
「くくく、とうとう孔明に引導を渡す時が来たということよ。あやつに溜まりに溜まった年貢を納めさせてやる」
孔明の姉はべつだん顔色も変えなかった。よくよく見れば乗り気の色もうかがえた。孔明が黄氏と一緒になって、以前よりはまともになり、自分がやきもきすることもなくなったが、じつはすこし寂しかったのかも知れない。
「どんな引導になるのですか」
「それは、さて、口では言えぬ。言ったら最後、孔明は身体がかゆくなり、身に策が及ぼうとしていることに気付く恐れがある」
孔明は策アレルギー体質なのか。
「一つお聞きしてよろしいでしょうか」
「なんだ」
「お舅様はどうしてあのように亮のことをご存じなのでしょう。どうして亮の才能を買ってくださっているのでしょう。亮がぴいぴい泣くだけだった頃から一緒に暮らしてきたわたしですら、この子はどこかおかしい、ということくらいしか分かりませんのに」
「確かにな」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、ふむ、と頷くが、珍しくしばし考えた。そして、
「愛、だな」
と言った。
「はあ」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、ガッと立ち上がり土間に跳び降りると大、中の包丁を抜き出して、グワッと振り回した。
「正しくは引き分けには策も何もないのだ。さっき劉玄徳に言ったことは、ぜんぶわしのかくあれかしの空想なのかも知れんぞ。本当はわしですらヤツの本性は全然掴めておらんのかも知れないのだ」
ずさっ、と地を踏みつけながら外に出る。
(くくく、孔明よ、希《ねが》わくばわしの空想を現実にするようなつまらんことではなしに、わしが驚きのあまり脱糞するくらいの意外を見せてみよ。ゆくことになるのなら、わしを越えてからゆけ!)
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は包丁を打ち鳴らした。これから裏庭に行って先刻の続き、屠殺した犬を急ぎ血抜きし、スキニングして、はらわたを抜き、肉を切り剖《わ》け、下ごしらえをしなければならない。肉が熟して最も美味となるのは五、六日後のことになる。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の表情は久方ぶりに生き生きとしており、孔明にワイドスクリーン・バロックをとくと鑑賞させてやる、とか、そんな意気込みが包丁を振るう動作から漏れ溢れていた。
「粗塩を用意しておけ」
し命じると、
「はい」
と、ほとんど同時に返事がかえってきた。孔明の姉は、これも※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の活力に当てられ、どこか浮き浮きしている。
建安十二年(二〇七年)冬。
ついに劉備玄徳が臥竜岡を訪れる秋《とき》がきた。ただその心中は、
(あまり気乗りがせぬな)
と、暗雲のたれ込めた寒空のようであった。
そんな劉備の本心は完全に無視でよい(いちおう主役のはずなのに)。
オペレーション・キャッチ・ザ・スリーピング・ドラゴン。
『三国志演義』の第三十六回から第三十八回まで異例の長さを費やした臥竜出廬のはじまりである。第三十四回からしつこく伏線が張られていることも勘定に入れれば、なんと五回にわたる花道の長さである。ゴージャス・スーパースターは最高の演出で迎えられ、スモークがたかれ、スポットライト、七色のレーザー光線の交錯のきらめく中で華々しく登場しなければへそを曲げてしまう。『三国志』中、最大のブル・シット、我儘役者と言っても過言ではない。
じつのところわたしは臥竜出廬の経緯、諸葛孔明、なにゆえ農村の一変人、海の物とも山の物ともわからない弱輩者が、劉備玄徳、こちらも明るい未来がまったく見えない弱小軍閥(やくざもの)の親分に仕えるに至ったか……について、知りたいと思うところは大であるが、さんごくし、それは言わない約束でしょ、とばかりにそっとしておきたい気持ちもまた大である。
いちど書いてしまえば、量子論的ブレがあろうがなかろうが、それは固定されてしまう。つまりはこの小説の中では既に起きてしまったこと、事実となってしまうわけである。
固定しないでおけば、後になっても、ああだったろう、こうじゃないのか、あの研究者はこう片付けている、あの作家は触れもしない、ちょっと待ったそれは無茶すぎる、あり得ない、どこを調べたらそんなデタラメが出てくるんだ、等々、いろいろ想像して楽しむことが出来るわけだが、いったん書いてしまうと、読む人にわたしの解釈(つくり話)ではこうなっている、と思われても仕方がなくなってしまう。それにわたしの中でも何かが固定されてしまう。言うなれば自由を失うのである。
書かなければ無限の大海、大いなる可能性があるのに、書いてしまうと極めて限定されて窮屈になってしまう。老荘思想的には無為のままにして未発の可能性の海にたゆとうていればよい、かたちにすべきではないといったところになろう。しかし、混沌のなかから発して節に中《あ》たり、かたちを成し、既発のものにしようとする衝動がどうしても作家を駆るのであって、それが小説というかたちをとるときがある。
またあくまで小説なのに本気にしてしまう読み手も少なくない(なぜか歴史小説にその傾向が強いが、この小説の場合は心配ないであろう)昨今である。過去に実在した人物におのれの妄想や勝手気まま好き放題を託す(押しつける)のは失礼なことではないかと、わたしは思うのである(こんな小説を書いている人間が言ってもなんの説得力もないが)。
今更何を、ということだが、しかし孔明に聞けば、
「表裏虚実奇正。本体を捉えられるほうが好ましくない。のちの詩人|筆墨《ひつぼく》の徒《と》が勝手なことを書いてくれればくれるほど、わが真実は霞のなか、夢幻のうちに隠れることができる。わたしが神算鬼謀の軍師でもゲイでも変質者でも忠義一途の臣下でも仙人でもなんでもかまわないから、好きなように書けばよい。またあなたも十年後に何かの事情でまた三顧の礼の話を書くことになるかも知れないでしょう? そのときこれから書くことと正反対のことを書いたとしても、誰も、少なくともわたしは責めません。かえって歓迎したいほどです」
とでも言うかも知れない。
「真人《しんじん》は足跡《そくせき》を残さず」
という。人類に対して、歴史に対して、真に重要なことをやった人間の名は残ることはない。逆に言えば名が歴史に残ってしまうようなやつは駄目で、じつは大した仕事はしていない、という意味である。いいたとえではないが、最初に野菜や肉を塩漬けにすると中長期の保存が可能になると気付いた人間だとか、釘に螺旋《らせん》を切ってネジにした人間だとか、人類の多くの発明、技術の多くは明かし人知らずである。ある重要な、現在では常識的な数々の技法発明物、そういうものは古代エジプト人とか、何々民族がこれを作った、と歴史書にはあるが、そのうちのどの個人が発見して技術化したのか、名が残っていることのほうが稀であり、神がつくったということにしている場合がほとんどだ。
これもいいたとえでもないが、史書に男の名前ばかり出てきても、それを支え助けた女性たちの名は稀にしか残らない。昔から女が「子供をつくる道具」以上の重要不可欠のものであったことは、誰しも分かっていたことであろうに、ほとんど無視を決め込んできた。英雄と英雌は同価値であるべきだ。
偉人伝にしろ、悪人伝にしろ、歴史に名が記録されているような者は真人ではないということになる。陰謀史観や黒幕史観とはまったく別なレベルで「そのとき歴史は動いた!」とばかりに、歴史を変えるほどのヒューマン・ファクターがおり、それは政治家や武将らの華々しい活躍の背後やど真ん中に厳然と存在するのだが、(おそらく故意に)無名である。熱心な研究者がたまたま別のことを追求しているときに、まったく偶然にちらりとその息遣いを感じることはあるかも知れない。研究者がはっとしてその方を見つめ直しても、既にどこにもその姿はなく、ただ誰かがいたのではないかという雰囲気があるのみとなり、今朝見た夢を思い出すかのように少し考え込むが、そのうち忘れ去ってしまう。
無名であることに限りない価値がある、という思想である。
ことに黄老《こうろう》や神仙の道にいる者たちには、歴史に残る民族英雄なぞ真の英雄ではあり得ないのであり、仙人も、たとえば五代宋初の呂洞賓《りょどうひん》のような名仙とて、名が知られているような者はダメ仙で、いちおう尊びはするものの、下の仙だと考える。中国の仙人が山奥に棲み、人をこれでもかと遠ざけて(「杜子春」のように弟子志望者を追い返す話は枚挙に暇《いとま》がない)、経歴を不明にし、名を隠しことごとしい道号、偽名を名乗る(パターンを持つ)理由のひとつはこれである。中国世界がときに底なし沼のように奥深いのもまたそのせいであろう。
孔明の苦心惨憺の生涯、後世に語り続けられる偉大さの秘密は意外とそんなところにあるのかも知れないのである。
孔明はやむをえなかったとはいえ、名と足跡を残しすぎた。うだつのあがらない劉備の背後に隠れている限りは、自分が日の当たる舞台にあがることはないと思っていたかも知れない。だが劉備はほとんど頓死のように逝ってしまう。臥竜の油断であったかもしれぬ。しかしそうなった以上、後世に対してどうすればいいかは分かっている。
すなわち、くらます。
けばけばしい色彩の濃霧を作り出し、その中に身を潜める。竜ならば容易なことだ。怪説虚説頻々と入り交じらせ、自らのシェイプがぐずぐずに崩れるに任せればよい。あとはほっておけば、わたしのような無責任な連中が、さらに自分を真実から引き離してくれる。
中国史上、孔明ほど正史において素性行跡が(素っ気なくだが)確かに書かれているにもかかわらず、未だに異論が多く、同時に怪しい伝説の霧に彩られている男もいない。民衆がそう望んだからだというが、果たしてそうか? 三国時代以降、中国には、軍事に限っても、孔明に匹敵するかそれ以上の才能と実績を示した者は何人もいる。神算鬼謀の忠臣は選りに選っても十指にあまる(毛沢東なら周恩来《しゅうおんらい》、葉剣英《ようけんえい》とか。ついでに言っておけば次の政府が歴史を書くならいゆえ、未来に『清史(稿)』に続いて『中華人民共和国史』が書かれたとき、毛沢東や蒋介石《しょうかいせき》らはどのような評価を受けるのだろうか。読んでみたいものだ。今は書けない様々なことも、次の王朝なら遠慮なく書ける。これぞ五千年、悠久の歴史SF大河ロマンというものだ。早く続きを書かせろよ編集者)。
かれらが孔明にいまひとつ名声及ばないところがあるとすれば、異様なまでの韜晦《とうかい》癖と虚像を身にまとわらせ続けた歴史的意思にある。むろんふつうの軍人、官僚がそんなことをする必要はまったくない。皆、その時代、状況に、生きる、活かす、に一生懸命であって、くだらない余念などは持ちようがなかった。
ただ孔明だけはどうも違うのである。どの瞬間、どの状況においても慌てたそぶりがなく、一生懸命にやっているように見えるのだがどこか頭脳の奥、袖の内や後に隠した片方の手で何か別な変なことをやっている、自習の面《おもて》に爽やかいっぱいの微笑を浮かべながら……。そんな余裕が感じられてならない。
臥竜孔明を仕官させるには、孔明の意表を突き、一瞬でもいいから感心させるべきである。ただ、並のことではそれは困難というしかない。
むかし太公望呂尚が渭水《いすい》のほとりで釣竿をさしていたとき、その釣り針に餌もつけていないどころか、釣り針すらくくっていなかったという。皆、ボケ老人の可哀相な道楽と思ったらしいが、さにあらず、餌も釣り針も付けていないからこそ、かえって、陸上のものが引っかかるのである。魚が釣れたらかえってまずいから、餌も針もつけなかったのだ。そして周の文王が釣れたわけだが、文王が呂尚に声をかけたとき、おそらく文王は絶対に釣れない魚釣りであることを知らなかったろう。
この話が暗喩するのは酔狂でもおまじないでも、大人君子を引きつけるためのとんちでもない。ある法則である。それがどんな法則であるかは、ここでは述べないが、少なくとも最初から小賢しくも、誰か意中の人を誘うことが目的であってはならぬし、あくまでも釣るのは魚だという強い意識が第一、まことに保持されていなければならない。
太公望と文王、引きくらべるに普通に考えれば太公望が孔明であり、劉備が文王の役回りであろう。だが今回は普通ではないのである。どちらが釣り糸を垂れている側なのかというより、どちらも釣り糸など垂らしていないかも知れないのである。
劉備は関羽、張飛の二弟を共として隆中臥竜岡にむかっている。わざわざ吉日を選び待ち、この日となった。
このとき劉備は三千の兵を引き具したという説もあるが、それではほとんど戦さ支度である。山賊退治にもそんなに兵はいらないだろう。ある並行宇宙世界の『三国志』では、大げさではなく狂気の魔術師孔明と臥竜岡を衛《まも》る自動装甲機兵との合戦が予想されたのかも知れぬ。何事も用心するに越したことはない。
昨夜の飲酒を禁じられた張飛は不満な様子で、
「酒が、酒が」
とぶつぶつ言っていた。これで手がぶるぶる震えていたりすればもう重症であろうが、そこまではいっていない。張飛を社会復帰させるには連日戦場に連れ出すしか治療法がないようで、酒以外に好きなものは殺しくらいなものだからである。張飛、もう少しの辛抱だ、である。
関羽は他の馬より一回り大きな馬体の赤兎馬に跨り、悠々と髯をなびかせている。
「隆中に諸葛亮を訪ねる」
と劉備に言われると、
「承知」
と答えて、あとは余計なことは訊かなかった。
劉備はといえば、鼻糞をほじったり、あくびをしたり、痰を吐き散らしたり、これから貴人を訪れるような様子は微塵もない。
と、そこに下手くそな合唱がハーモニーもばらばらに聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
おおぞらはまるい尾根のよう
ひろい大地は碁盤のよう
世人は白黒の石を持ち
行ったり来たり勝ったり負けたり
勝った者は安々のうのう
負けた者は碌々《ろくろく》泣きべそ
南陽に隠者がおって
くだらぬ勝負に知らんふり
というか、眠くて眠くていくら寝てもたりません、とさ
[#ここで字下げ終わり]
劉備は先日の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公との碁を思い出しつつ、
(なんだ、このまがまがしいまでに脱力感あふれる、世の中を馬鹿にしくさった旋律は)
舌打ちし、馬を止めて歌っていた農夫に訊いた。
「その(聴いていると脳が腐りそうな)歌は誰がつくったのか」
「へえ、臥竜先生がつくった歌でございます」
との返事。劉備は、
(やはりそうか)
と思った。
農夫らが日々の農作業に倦怠を感じていたとき、孔明がひょっこりあらわれて、何の気まぐれか即興で歌をつくった。皆、最初は迷惑に思い嫌だったが孔明が恐い(あとから祟るような気持ちの悪い怖さ)ので逆らえず、おぼえるまで繰り返し歌わせられたという。しかし妙に頭と口にあとをひく歌で、いつの間にか気が付くと洗脳されたように口ずさんでしまっていた。
「いまでは畑仕事に欠かせぬテーマソングですよ」
とまでは言わなかった。
「その臥竜先生をこれから訪ねるところなのだが。いずこにお住まいなのか」
農夫は、悪いことは言わないやめときなされ、という顔をしたが、
「あっこの坂から南を、何年か前から臥竜岡と呼ばされておるのですが、ちょっと入ったところの林の中にけったいな草葺きの家があります。そこが臥竜先生のお宅でございます」
と言った。劉備は礼を言いがてら、
「もしやおぬしら、臥竜先生に脅されたりいぢめられたりしているのではないか」
と問うと
「いや、そんなことは、まったく、全然ありません」
と必死の形相で否定された。
「たまに、へんてこな鋤鍬《すきくわ》をくださったりして、それが意外なことにいい道具だったりして、ありがたい(こともたまにはある)のです」
孔明と黄氏は農器具を新案発明したり、古農具をチューンナップして、農夫達に実験的に使わせたりしている。わりと便利で、能率があがったりすることもあれば、使い物にならない単なる思いつきだけのアイデア・アグリ・ツールであったりもした。特許取りが趣味の夫婦なのか。作物の品種改良にも意欲的だ。
一行は歩みを再開した。
返り見て、口ごもりがちだった不審な農夫の態度に、張飛の目がぎらりと光った。
「わかってきましたぞ。どうやらわれらが漬すべき悪党がおる、ということなのですな兄者」
酒に飢えた狂虎の目であった。
「そういうことなら、一日酒を止められたくらい、なんのことはない」
この三人、まだ尻の青い頃、悪党(たいてい金持ち)の噂を聞くと、正義のために天誅を加えて回った(解釈にもよるが見た目は強盗)若気の至りの過去がたんとある。鼠小僧か五右衛門か、義侠なんだから仕方がない。劉備は耳糞ほじりながら、
「飛弟、言うまでもないがそそっかしい真似をしてはならんぞ。そんな予定ではないんだが、場合によっては、まあ、やっちまってもいいかこの際、とは思っておるのだが」
乱暴者は張飛だけではない。劉備だって督郵《とくゆう》(いちおう汚職役人)をリンチにかけて逃亡したことは『三国志』にきっちり書かれている。
「さすがは兄者、どんな時でも民の困窮を見過ごしにはせん。敢えて関兄と三人だけで来た意味がわかってきた。趙雲のやつを連れてこなくて正解だぜ。げへへ、こいつあ泣かすくらいじゃすまされねえな」
たちまち張飛は上機嫌となった。
しばらくゆくと臥竜岡に入り、木々の向こうに明らかに付近の農家とは異質な家が見えてきた。
後の人が讃してつくった詩があって、題して「竜の棲み家」。以下意訳。
襄陽城の西二十里に高い岡が連なり、流れる水を枕としています。
高い岡は曲がりくねって雲の脚を圧していて、水はさらさら流れ石髄(仙人の服用する石)を飛ばします。
勢いに困った竜が石上にわだかまっているようで、一羽の鳳が松の木陰に潜んでいるかのようです。
柴門《さいもん》はなかば覆われてお家を隠し、中には偉そうな人(孔明)がいて、いつも臥《ね》たまま起きません。
竹がこもごも連なって緑の塀をつくり、季節には垣根に色とりどりの草花がかぐわしい。
(注・どうあっても自然物で家屋敷を迷彩、隠蔽《いんぺい》したいのは寝ていたいかららしい)
枕元に積み上がる山のようなものはみな書巻で、座上をうろうろする客に無学な者はいません。
老猿がやってきては四季折々の果物を献上し、門を守る老鶴は夜な夜な経書の音読の声を聴いています。
名琴は古い錦の袋に蔵され、壁の宝剣は北斗七星でかざられています。
廬中の先生は独り幽雅にふるまいますが、暇があれば野良仕事もするのです。
春雷が(竜の)夢を驚かせて目を覚まさせるのを待ち、一声長く嘯《うそぶ》いて天下を平和にいたします。
孔明の家の周囲の自然はどこか作為的である。この家の主人はナルコレプシーなのか怠け癖があり、読書は好きで、付近の動物はみなともだち(あるいは召使い)、逸品の琴や剣を持っているけど滅多に触れもしない、野良仕事も優雅におやりになり、一発落雷でも喰らえば、ついに本気になって、長くうそぶいただけで天下安泰。
神仙趣味と教養趣味、農業と自然が大好き、けたくそわるい貴族趣味が混在したつめこみ過ぎの家である。猿に貢がせ鶴に守られた妖怪屋敷のような山中の草廬は、まともな人なら怪しすぎて近付けまい。まあしかし、故にこそ臥竜! 孔明が普通の家に住んでいたらつまらないので後の人は、一年懸命設計描写してくれたのだ。文句を言わず有難く受け取りたいものである。
劉備らは門前に近付いた。
闘牛の牛のようになっている張飛が危ないので、関羽に押さえさせておき、さきに劉備一人的廬を下りて門に向かった。柴門を叩いて訪問を告げた。
ここで『三国志』七不思議のひとつ(そんなものはない)、謎の童子が登場する。謎と思っているのはわたしだけだろうが、門内から生意気そうなガキがあらわれたのである。
孔明の家は孔明夫妻と諸葛均夫妻の四人暮らし、下働きはもっぱら諸葛均がやっているから、女中、小僧のたぐいは置いていないはずだ。いないはずの存在が(あくまでこの小説の中でのことだが)現実を浸食してゆく恐怖……というと大げさだな。見知らない少年が、劉備にほとんどタメロで、
「だれだよ」
と問うのであった。『三国志』では少年たちは劉備を見ただけで、それと分かり、憧れにぼーっとなるくらいのものなのだが、そんな気配は毛頭なかった。
劉備はちょっとプライドが傷付いたのか、謎の童子に上からかぶせるように強く言った。
「拙者、漢の左将軍にして、宜城亭侯《ぎじょうていこう》、豫州《よしゅう》牧、新野城領主、中山靖王の末孫《ばっそん》にして今上陛下の皇叔である劉備玄徳と申す。臥竜先生に面会したくたいへん忙しいのにわざわざ推参いたした」
どうだ、凄かろうが、と、おとなげなくもいつもならば恥ずかしいので言わない肩書きをずらずら並べ立てるのであった。だが謎の童子は口をとがらせ、
「そんな長い名前ではおぼえきれないよ」
と、(わたしが突っ込むまでもなく)つれなく突っ込んでくれた。この少年、ただ者ではない。劉備は、
(このガキゃあ! 礼儀ってもんを教えてやろうか)
といきなり生意気面をはたきたくなったが、
(いや、待て、これはワナかも知れんぞ。諸葛亮が隠れて様子を窺っているおそれがある)
と魔性の勘で思い直して、
「ダーッハハハ、すまんすまん。青小僧にはちと難しすぎた。それならばただの男一匹、劉備と申すなんとも粋な色男が参ったと伝えてきてくれんか」
と馬鹿にしたように言う。
「わりいけど、先生は今朝早くどこかへ行っちまったよ」
少年は劉備を上回って馬鹿にしたように答えた。
「どちらへお行きなのか」
「行き先を決めて出かけるような人じゃないから、知らないよ、どこに行ったかなんて」
劉備はまた腹が立ってきたが、おとなの体面を保ち、
「ではいつお帰りになる」
「わりいけど、それもわかんないよ。先生は決めて出かけるような人じゃないから。四、五日で帰って来ることもありゃあ、十五、六日もうろついて来ることもあるからさ」
とお手上げの身振りをして見せた。
子供にも呆れられる計画性皆無な男、それが孔明の正体なのかあ。そんなんで軍師参謀がつとまるのか。
(このガキ、喧嘩売ってんのか、それとも飴玉でもねだってやがんのか)
と老人だけではなく子供相手にも本気になる熱い男(いい人?)、それが劉備玄徳である。
謎の童子はうろんな目つきで見るばかり。劉備は関羽たちのところに戻り、
「外出しているそうだ」
と言った。張飛が、
「ちっ、運のいい野郎だぜ。いねえんならしょうがねえ。兄者、とっとと帰ろうぜ」
とまた酒に渇いてきた張飛だった。
「いや少し待つ」
と劉備が言うと、関羽が、
「いったん帰って、在宅を確かめてから出直しましょう。約束もなく押しかけたのはこちらですからな」
ともっともなことを言った。
劉備は、関羽の袖を引き、小声で、
「いや。これはあくまでわしの勘だが、あのくそ生意気な小僧の様子からするに、わしに故意に無礼にあたらせているとみえる。つまり諸葛亮は居留守を使っているかもしれんということだ。だとすればどこかに潜み居り、われらの様子を窺っているはず。ここはわたしの忍耐、熱意を見せて欲しがっているのだとすれば、どうだ」
もしこの場に孔明の意図が働いていたとしたら、こんなことを考えている時点で劉備は既に術中に嵌っていると言われても仕方がないだろう。
「兄上らしい深読みですが、会う会わないにどうしてそんな駆け引きをするのです」
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公によれば、諸葛亮はそういうことが三度の飯より好きな男らしいのだ。いいか、関羽に張飛、こたびはいつもと毛色の違う、面倒臭いヤツを相手にしている。そう思え」
張飛が、けっと唾を吐いた。
「でも、兄者よ、どうしてそんなクセエやつを相手にしなきゃならねえんだ?」
「わしとしても相手にしなきゃならないわけでもないのだが、最低でも一度は会わないと約を違《たが》えることになってしまう。それに、何と言えばいいのか、運命的義理というか、少しは気になるところもあってな。お前の好きな徐庶の絶賛紹介もあり、会見を約束させられた。とにかく一度会えばいいのだ」
「ふむ。男が、とくに兄者が嘘つきになっちゃ、そりゃいけない。しょうがねえから付き合うよ。だが張り込みにねばることになるんなら、初めから言ってくれりゃ、酒を抱えて持って来れたのにな」
そういうわけで三人は襟を正して待つことにした。謎の童子は門前からちらちら睨み、塩を撒きたそうな顔をしていた。
カラスが泣くから帰ろうかとする頃、我慢強い関羽も、
「兄上、ここはやはり帰りましょう。間者でも放ってよく調べさせてから再度襲撃いたしたほうがよろしい」
と言った。張飛はいつの間にか寝転んでいびきを掻いている。劉備も立ちっぱなしの膝が震え、小便にもいけず情けなさそうな顔になっていた。
「そうしよう」
あっさり決める。
中国拳法によくある入門話では、一度追い返されたくらいで諦めるようでは失格で、雨が降ろうが嵐になろうが、会えるまで何十日でも門前に座り込むのが礼儀で心意気のはずであるし、イメージとして劉備ならやりかねないのだが、このときそんなことはまったくしていない。やる気あんのか、といったら、ない、ということであろう。謎の童子に声をかけ、
「臥竜先生がお帰りになったら、劉備玄徳が訪ねて参り、この寒い中を誠意をふきこぼらせて待ち続けたときっと伝えてくれ」
と頼んだ。謎の童子は、
「いいよ。じゃ、さよなら」
とさっさと門内に消えた。
謎の童子とは一体、何者なのか。孔明の式神だというのなら面白いので大賛成である。
そもそも孔明、本当に出かけているのか、それとも居留守して観察していたのか。また、黄氏や諸葛均らはどうしているのか。いやそれ以前にここは本当に孔明の家なのか。劉備一行がどこかに迷い込んで狐狸の類に化かされている可能性だってある。
劉備一行はもときた道を引き返した。落ち着いて眺めると夕陽に照らされた山々、水の流れ、楚々とした林は幽玄の趣をたたえ、うつくしくもあった。
(今日は久しぶりに郊外に呑気に日暮らしたと。それでいいか)
劉備がそんな感慨にふけるのを邪魔するかのように、行く手に現れた者がある。
その者、天を呑まんかとする意気を眉宇《びう》にたたえ、頭に逍遥巾《しょうようきん》(隠者の頭巾)をいただき、身には漆黒の布袍《ふほう》をまとい、藜杖《れいじょう》をつくという痺れるような姿であった。劉備は、
「おっ」
と、馬を止め、
「あの(あまりにもわざとらしい姿の)男こそ、諸葛亮に違いない」
とすぐさま下馬して、進み出て拝しつつ、
「あなたは、臥竜先生ではございませぬか」
と慇懃《いんぎん》に尋ねた。
「将軍はどなたでありますかな」
と、その男は、劉備を将軍だとあらかじめ知っているのがやや不可解だが、問い返してきた。
「あ、いや、失礼。みども劉備玄徳と申します」
その男は、ふっ、と微笑むと、
「わたしは孔明ではありません。孔明が朋友、博陵《はくりょう》の崔州平と申す者です」
「そうでしたか。崔州平どのか。かねてよりご高名は聞いておりました。お目にかかれて光栄にござる」
とにかく相手がちょっとでもかっこいいと、いきなり腰が異様に低くなるのが劉備の癖である。条件反射といっていいかもしれない。『三国志』中、このような媚《こ》び諂《へつら》いが何度も繰り返されるところを見ると、じつは劉備の渾身の見せ場の一つなのかも知れない。
崔州平のことは司馬徽門下を探らせたときに遊び人だが学問は出来るらしいと聞いており、徐庶もその名を口に出したことがある。崔州平のほうは劉備を何度か見たことがある。
なんでこんなところに崔州平がいるのか(しかも似合わぬ隠者ファッションに身を包んで)わたしにはわけが分からないが、いるんだから仕方がない。
「せっかくのお目もじ、ひとつそれがしにお教え願えませぬか」
と劉備は卑屈なまでに下手に出て言った。関羽、張飛は、
(えたいの知れん若造にどうしてああも媚びるのか、気が知れない。まったく哥哥《あにい》の悪い癖である)
と思いながらも仕方なく馬を下りる。
劉備と崔州平は路傍の石に腰を下ろして話し始めていた。
「なぜ将軍は孔明に会おうとなされるのか」
と崔州平は誰かに言わされているセリフでもあるかのようにいつもと違って固いしゃべり方である。すると劉備はこれも何度も繰り返しの理由、
「天下|千々《ちぢ》に乱れて幾星霜、四方に賊徒のはびこる時勢にござる。われこれをおさめ安んぜんと微力ながら駆けずり回りましたれども、いまだ果たせず、志もむなしゅう、苦悶の日々を過ごしておりました。そこへ臥竜孔明どのの噂を聞き、是非とも国家を安んじる方策をご教示願いたいと思って参ったのです」
といつものきれいごとを言った。
崔州平は呵々大笑《かかたいしょう》した。
「将軍のお志は、なるほど仁《じん》でありましょう。しかし、古《いにしえ》より治乱はあい繰り返し起きて参りました。高祖(劉邦)が義兵を挙げて秦を亡ぼしたるは治のはじめ。しかし、その御世は新の王莽《おうもう》が簒奪《さんだつ》により、乱に交替した。しかるに光武帝が中興の業を成し遂げ、また治の時代に入った。それから二百年、近年に至りまた転じて、天下に干戈《かんか》の休まざるところとなっている。今は治が乱に変じようとする時にあたるということです。これを鎮めることはどだい無理なはなしなのです」
のちにいう循環史観というもので、治乱興亡は宇宙の法則に従って繰り返される自然現象なのであり、人為の及ぶものではない運命的なものであって、人の世が続く限り繰り返されるというドライでマクロな視点である。確かに人類史にはそういうところがある。戦争について、人間は何千年も進歩がない、というより万物の霊長とて自然法則には逆らえない、とでもいうべきだ。
三国時代はあくまで移行期であり、後漢滅亡と晋成立の間のつなぎに過ぎないという捉え方はある。そう考えれば三国時代とは混乱期、谷間期、収拾期であって、その間、まっとうな国家の成立はないということになる。たとえば、正史の題名は『史記』を例外にすれば(『史記』は正史ではなく『太史公書』でもある)、『〜書』『〜史』とつくのがならいなのに『三國志』は『志』である。『三國志』は例外の多い正史であって、本紀は魏曹だけあり、諸侯の記録である世家もなく、ほとんどが列伝のあつかいである。先述したとおり期間も短く、『三國志』とは晋政府による「王朝前期の分裂状況についてのかんたんな覚え書き」としても間違いではない。
崔州平は続けて言う。
「しかれば、太古に女※[#「女+咼」、第3水準1-15-89、unicode5aa7]《じょか》がなしたようなこと、天地の破れ目を修復し、天地をもとに復させるようなことを孔明に望むのなら、それは不可能、徒労に終わることになりましょう」
「おっしゃることはごもっともです。それでもわたしは漢の血筋をひく身、漢室を救わぬばならないのです。たとえ天命運命がそうであろうとも、わたしは使命を行わずにはいられない」
劉備は正気だ。劉備が本気でそんなことを考えていたのかどうか時々疑問に思うことではあるが、劉備の時には漢室復興の目が、ほんのわずかな可能性ながら、まだ残っていたとしか思われない。あるいは劉備は献帝に拝謁し親しく言葉を交わしているから、自らの目でみて少なくとも亡国の愚主であるべきではないと感じたのか。王莽の簒奪王朝を漢の血統が亡ぼして、天下を奪い返したではないか、という事実もある。そうでなければ劉備は建前詐欺師か一種の信仰者と変わらなくなる。
「宇宙の法則には孔明とて逆らえないのです」
と崔州平は言ったが、劉備は真剣にいやいやをしていた。
漢室復興という、理想なのか妄想なのか、そのためなら命を失おうとも初志貫徹、絶対に諦めぬ一途な精神、それは宇宙や神が立ち塞がっても動じることはない。夢酔やポーズ、現実逃避などではなく、真剣そのものにしか見えなかった。崔州平は劉備の超熱血に自分もついほだされそうになった。
(ああ、わが君、地獄の底までついていきますっ!)
と、数多の男たちを惑わせ、たらしこみ、とくに若い男を虜にして(しばしば破滅させもした)きた魅力の核心なのかも知れない。
「劉備玄徳ここにあり」
というわけで、これでは確かに曹操と相容れることはないだろう。
同時代に活躍して滅びた英雄たちの誰一人として持っていなかった貴重な心情であり、劉備が敗戦を何度も喰らい死線をさまよい、乞食集団に落ちぶれても何故か滅びることだけはなかったのは、この可憐な思いを本気で信じていたからなのか、わたしにはわからないが、この志があったればこそだったのかも知れない。これがなければ蜀建国もなかったろうし、歴史は劉備をただのチンパンジーだと評してまともに記録もしなかった可能性が少なくない。
皮肉な理屈屋の崔州平ですらも「男が惚れる男の中の男」劉備玄徳の壮志を前にして、心魂に疼《うず》くものを感じさせられ、劉備の(時代を見誤っているとしか思えない)理想を冷笑することが出来なくなった。発作的にその場に手をついて、
「病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで殿と呼ばせてください。天にありては比翼《ひよく》の鳥、地にありては連理《れんり》の枝にしてください」
と、取り返しのつかないことを言いそうになったのであった。だが、自分がここにいる理由をなんとか思い出し、ぎりぎりで踏みとどまることが出来た。
(ああ、元直の気持ちがようやく分かった。だが孔明はどうなのだろう。あれはこの人の純な心を平気で踏みにじりそうなやつだからな。もしそんなことをしようものなら、くっ、許さんぞ孔明!)
劉備のようなどてらい男《ヤツ》がわざわざ招聘《しょうへい》のために訪ねてくれたのだ。崔州平はいくらか羨ましく思った。
このまま劉備と話していると別れが辛くなるおそれがある。
「失礼いたした。わたしのごとき田舎の山男風情が、天下を論じるなど、片腹痛きことでした。おたずねいただいたからとはいえ、妄言をおゆるしください」
「いや、こちらこそ、ちと熱くなり申した。ご無礼つかまつった。お言葉、有り難うございます」
崔州平は去り難そうにしている。劉備は、
「わたしは孔明どのを訪ねて参ったのですが、お出かけだということでした。孔明どのの行き先をご存じありませんか」
と訊いた。
「そうなのですか。わたしもこれから孔明を訪ねるつもりだったのですが、はて、どこへ行ったのやら、(あの馬鹿の溜まり場など)見当もつきませんな」
と崔州平はとぼけた。劉備は、次には、
「孔明どののことは仕方ありますまい。それより先年先生のご見識もただならぬものがありとお見受けいたした。よろしければ、みどもを手伝ってくださるまいか」
とハントを開始した。かっこよさそうなやつがいたら、二の口からは誘いの言葉を述べるのは、これまた劉備の癖である。同じく人材を求めるにしても曹操とは違っていて、たとえて言えば劉備は町で可愛い娘を見掛ければほとんど条件反射的に、
「ねえ、お茶しない?」
と声をかけるのが当然のマナーだと思っているぐらいに軟派な男であった(では曹操はどうかといえば、こちらは屈折、一口には言えないところがあり、機会があれば書こう)。後々、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統に声をかけずに失礼しちゃうのは、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》統のかっこがわるかったからか。しかしお目当ての娘が留守だったからといって、間髪入れずにその娘の友達に声をかけるというのもどうかと思う。げんに崔州平は、
「わたしはぶらぶら遊んで暮らすのが性に合っております。功名をたてることなど、とんと忘れて久しい。またいずれお目にかかりましょう」
と、(このセリフはやや怒っている感じがする)吐き捨てて、未練をちぎり捨てて去っていった。
「あたしはフリーが好きなの。まえはとにかく、今は彼氏なんか、欲しいとも思わないんだから。シーユーアゲーン」
失礼しちゃうわ、ぷんぷん、と言っているのと同じだ(と思う)。劉備にデリカシーなし。
劉備は関羽、張飛に、ちぇっ、振られちやったぜブラザー、と照れ笑いしながら振り返った(ように見えた)。張飛が、
「ちっ、孔明とやらには会えず、あんな腐れ儒者にながながとたわ言をほざかれてしまったぞ」
と忌々しそうに言った。焼いているのか、張飛翼徳。
「そう怒るな。あれはあれで隠者の言葉。理はあろう」
と劉備はなだめた。
腐れ儒者、腐儒《ふじゅ》という言葉は、何の解説も必要なく悪口になっているが、いつの時代頃からそうなってしまったのだろうか。孔子の時代にはまだなかったろう。先秦時代の熱血正義漢(とても理屈好き)の孟子を、
「この腐れ儒者がっ」
と、この売女《ばいた》っ、この売僧《まいす》がっ、という感じで罵り浴びせることが出来れば痛快なのだが。「政治家=金に汚い悪人」といった短絡的な図式と同じで「儒者=屁理屈ばかりの役立たず」は、『史記』成立の頃には確実に通用していた。当時、多くの儒者がよほど使いものにならないダメ人間ぶりをさらしたからであろうが、後世にまで続く罵り文句となろうとは思わなかったろう。しかし、『三国志』に登場する人物のほとんどが儒者(儒教的価値観の信奉者)であり、侠者だって儒の範囲内であるわけで、広く言えば関羽も張飛も含まれることになるから、じつは根深いのであった。ともあれ小賢しい屁理屈を言うやつは全員腐れ儒者なのであるらしいので(わたしもか)、現代日本にも掃いて捨てるほどたくさんいるわけだ。
さて臥竜訪問一発目が不発に終わった劉備は、関羽の言を聞いて孔明の消息をしらべてから、再度急襲することに決めた。
そして数日後、密偵の報告では、
「孔明と思われる怪しい男が自宅にいるのを確認した」
ということだった。
「よし。関羽、張飛、現場にいそぎ飛ぶぞ。劉備軍団の威信に賭けて、今度こそヤツの身柄を押さえる」
とはいうものの劉備の乗り気のなさには変化はない。
(雪降ってて寒いのに。面倒くさいな。行きたくないな)
とか、登校拒否児童のような、かなり嫌気がさしている。張飛は、
「たかが百姓一人だろう。わざわざ兄者が行くまでもない。誰かやって呼びつけりやいいだろうが。なんならおれがかっさらって来てやろうか」
といちおうもつともなことを口走った。
「だいたいこの前、わざわざ兄者が訪ねて言付けしたってえのに、詫び状のひとつも寄越さんというのは、どういうことだ。おれとて一野人に過ぎんが、懇《ねんご》ろに訪ねてきた相手にそんなぞんざいな扱いをしたりはせんぞ」
とますますまともなことを言う。
「野郎、後ろ暗いことがありすぎて、どのツラも出せず、おれたちを避けているに違いない」
逃竜、岡に在り、とか、口には出さないが関羽も同意見のようである。
(まあたしかにそうなんだが)
と劉備は思ったが、張飛が珍しく筋の通ったことを言うから、可笑《おか》しくなった。
「飛弟、孟子がこう曰《のたま》っておることを知らずや。賢者に会おうと思いながら、正しく手順を踏まないのは、人に入って来てもらいたいのに門を閉ざしてしまうようなものだ、と。孔明は(すごく疑わしいが)当代きっての大賢者であるらしい。乱暴に呼びつけるなどしてはいかん」
と(長兄たるもの教養のあるところを見せたかったのか)孟子の言を引いて、張飛をたしなめた。まさに張飛の正論に触発され、からかいまじりに、たまたま憶えていた腐れ儒者の理屈を引用してしまい、結局出かけざるを得なくなる劉備であった。
かくして劉備は開張二弟を従えて、隆中に向かう。
折しも厳冬の頃、雪雲あつく垂れこめ、寒風吹きすさぶ悪天候の日である。朔風《さくふう》が身に容赦なく吹き付け、山々は白一色の銀世界と化している。
(やっぱり、帰ろう)
と鼻水で髯を凍らせた劉備が、そう言おうとすると、先に張飛が、
「こんな戦さもできん大雪の中をはるばる役にも立たんヤツに会いに行くなんざ、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。新野に帰って熱燗をきゅっとやるがましだぜ」
と不満顔で吠えた。しかし先に本音を鳴らされると、なんか同意したくなくなるへそ曲がりな気持ちは誰にだってあろう。劉備は、例によってきりりと表情を引き締めポーズをつくり、きっと張飛を睨み付けた。
「こういう酷寒人を虐げるが如き悪口に、敢えて雪中を踏破して行くからこそ、諸葛先生にわしの燃える熱き思いが伝わるのだ。飛弟よ、苦寒をおそれるのならお前一人帰って暖炉の前に丸くなりぬくもっておれっ!」
とかっこよく叱った。すると応えて張飛はいきり立ち、
「なんの! 兄者のためなら死をもおそれぬこのおれが、この程度の寒さごときに負けたりするものか。兄者、ただおれは、兄者がくだらぬことで無駄骨を折ることが、口惜しくてしかたがないだけなんだ! どうして一人帰ったりするもんか。もしもあえなく遭難しようが、おれたちは一緒だ(趙雲は違うけど!)」
「よく言った、飛弟! 黙ってわしについて来い!」
ビシッと男らしく決めた。馬上でなければひしと抱き合う名場面になりそうだ。関羽も、うむ、と頷いている。
騎行再開したが、やっぱり骨身に染みる寒さが刻々とこたえてくる。
(うぬ。寒すぎる。へたすりゃ本当に死ぬぞ。さっきひねくれずに張飛に従えばよかった。今さら帰ろうとは言えんしな)
妙に素直になれないところのある性格を嘆じる劉備、半生の重要な運命分岐点でいつも(いまいち不可解な)筋を重んじて、しばしば自分の首を絞めてきた過去がある。後で悔いて治そうと思うのだがやはり治らぬものらしい。
(くそう、孔明め、わしをこんな寒い目に遭わせおって)
と、まだ見ぬ男に八つ当たりの予定が入った。
隆中に入ると、さすがに今日は農夫たちの姿はない。雪に馬の脚が沈み、難渋しつつさらに行くと路傍にぽつんとたつ酒家が見えた。しかもこの大雪の中でも営業しているらしく、中から高吟《こうぎん》談笑の声が聞こえてくる。
(はて? 先日足を運んだ折りには、こんな店はなかったが)
関羽、張飛もそう思ったらしく、訝しげな表情だ。しかし、寒さに震える登山者の避難所、酒家の窓から漏れる灯りが天国の火に見える。劉備一行はさながら燈火に寄る蛾のように酒家に向かうのであった。
怪異譚ではこういう場合、狐か狸か妖怪か仙人が、疲れた旅人に幻覚を見せているか、思い切り夢だったというオチが定説である。疑うべきであった。しかし渇きに苦しんだ末にオアシスを見つけた旅人の心中には疑念が湧き起こる余裕などないものである。劉備らは馬を繋ぐ手ももどかしく、鼻水垂らして酒家に駆け込んでいった。『三国志』の読者はこのくだりを変に思わないのだろうか。恥ずかしながらわたしも最初はなんとも思わなかった。恐ろしいことだ。
踏み込むや、劉備の耳によく通るテノールが聞こえてきた。
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壮士《そうし》まだ功名を遂げざる
ああ久しく陽春に遇《あ》わぬまま
君見ずや、東海の老爺(太公望呂尚のこと)僻遠《へきえん》の地を後にして
文王の車に添い親しむを
諸侯八百、期せずして会盟《かいめい》し
白魚舟に入る吉兆に孟津《もうしん》を渉《わた》る
牧野《ぼくや》の一戦、血は杵《たて》を流し
鷹の舞い上がるがごとき偉業は武臣に冠たり
又見ずや、高陽の酒徒(※[#「麗+おおざと」、第3水準1-92-85、unicode9148]食其《れきいき》のこと)の草莽《そうもう》より立つを
芒※[#「石+昜」、第3水準1-89-10、unicode78ad]《ぼうとう》の隆準公(劉邦のこと)に拱手して進み出
王道覇道を談じてかの耳を驚かし
足を洗わずをやめて座に招きて英風をうやまう
東して斉の城を落とすこと七十二城
天下にその能才を継ぐに足る者なし
二士の功績なおかくの如し
今もあえてだれも英雄を論じられぬ
[#ここで字下げ終わり]
前半、太公望呂尚が東海のど田舎から敢えて世に出て文王に仕え、殷を倒したことを歌い、後半は漢の※[#「麗+おおざと」、第3水準1-92-85、unicode9148]《れき》食其が人々にはアル中の腐れ儒者と思われていたところ実は異才の持ち主、急に進んで劉邦に仕え、斉を三寸不爛《さんずんふらん》の弁舌を舞わせて帰順させたという故事を歌っている(しかし成功直後、韓信に邪魔をされて煮殺されたから、いい例とは言い難いのだが)。そして、二人の功績を讃するも、今に至るもそれを継ぐような英雄がいないと嘆くのである。
今の劉備をある方向に無理にも押し込もうとするような意図丸出しな題材の歌というしかない。劉備が今歌った男に声をかけようとしたところ、別の男が卓を叩いて強引に歌い始めた。マイクを離さないタイプなのか。
今度は渋いバスが響いてきた。さきのテノールもそうだが、かなりの練習を積まされた気配が濃厚な、玄人跣《くろうとはだし》の歌唱であった。いったい、こんな大雪の日に、不自然きわまる酒家で何故のど自慢なのか?
[#ここから3字下げ]
わが皇帝(劉邦)剣をひっさげ天下を清む
漠の創業、基いを垂れること四百年
桓帝・霊帝の末より漢の火徳は衰え
奸臣賊子《かんしんぞくし》が宰相の権をもてあそぶ
青蛇、帝座の傍らに飛び降り
また妖虹、玉堂に降れり
群盗四方に蟻のごとく聚《あつ》まり
奸雄百輩みな鷹のごとく上がらんとす
われら長嘯《ちょうしょう》して空しく手を拍《う》ち
悶え来たりて村の酒家に酒を飲む
独りおのれを錬磨すれば終日安らかなり
どうして千古不朽《せんこふきゅう》の名声など欲しようか
[#ここで字下げ終わり]
この歌は、もう、説明するのも気が引ける孔明待望の歌である。高祖劉邦の偉業はとうに衰え、糞馬鹿野郎どものせいでこの世は無茶苦茶になっている。自分らは才力無く、この濁世《だくせい》に煩悶するしかないのだが、あいつ、独り家に籠もって何かこそこそやっているあの男のことに決まっているが、何かの鍛錬に精を出して日々充実するのは勝手だが、自分さえよければそれでいいらしいのが気にくわない。ぶん殴って目を覚まさせてやりたくなるぞ、孔明、おい、聞いているのか、コラ。という作為的な義憤にあふれている。
ただし、前の歌で孔明が太公望だけではなく、舌先三寸の謀略活動ののち、挙げ句殺された※[#「麗+おおざと」、第3水準1-92-85、unicode9148]《れき》食其にもなぞらえられているところは注目である。儒者を任じているが縦横家であり、張良や陳平に比べれば格段に落ち、ましてや太公望と並べて語られるなど普通ならまずあり得ない人物である。普通は目をつむられている孔明の暗黒面を指摘しているということで、回りくどい批判であるとさえ言える。
二人の男は、最後のフレーズをハモってリフレイン、手を撃って高笑いをした。だが、どこか微妙に堂に入っていない様子も見て取れる。
(なんとか上手に歌えたと思うが)
という目つきで劉備に目を向けた。
卓にもたれて酒を飲み、かつ歌っていた二人、これも道士の服装で、脂肪と俗っ気を捨ててしまったような飄然《ひょうぜん》とした若造どもである。『三国志』のはぐれインテリや傾奇者《かぶきもの》の連中は可能な限り道服をまとわねばならないというきまりでもあるのだろうか。君たち、もっと個性を磨いたらどうなんだ、と、忠告しても無意味のようである。
道士ふうの変な二人に、あの歌である。劉備でなくとも異常、何かの仕掛けがめぐらされ、試されている、と気付くであろう。
(わからん、先日もそうだが、いったいわしに何をさせたいんだ、この連中は)
そして、
(仕組んでいるのは諸葛亮なのか? それにしても、どうして何の罪もないわしにちくちくちくちく嫌がらせをするのだ。こんな時、徐元直がいてくれれば……。いや、元直もこいつらの一味であろう。くそ、べつにな、孔明が会いたくないから来ないでくれ、とはっきり言ってくれれば、二度とこんなところに来るつもりはないんだ。こちとらだって御免なんだ。何か凄い勘違いでもされておるのか。そういえば※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公だって臭いといえば臭い。確か、孔明を得んとすれば相当辛い目に遣わされる、とか言ってたしな)
そう思案したのは一瞬である。次には、
「お二方、ずしりと腹に染みいる憂国の情をお歌いになられていたな。わたしは劉備玄徳と申すけちな野郎でありますが、いず方かが、もしや臥竜先生ではございますまいか」
と、もう習性のように態度丁寧に尋ねていた。
一人の長髯の男の方が、くびりと酒を含んでから言った。
「おお新野の劉将軍であられましたか。いや、酔っての愚痴のような歌を聴かれてしまってお恥ずかしいかぎりです。それで臥竜、孔明に何用なのでしょう」
「臥竜先生をお訪ねし、経世済民《けいせいさいみん》の大逆転わざを教授ねがおうと思いましてな」
「残念ながらわれらは孔明ではありません。かの者の友人にございます。わたしは穎川《けいせん》の石広元《せきこうげん》、こちらは汝南《じょなん》の孟公威《もうこうい》という未だ書生にすぎぬ者です」
いずれも襄陽に名の知れた俊英であり、司馬徽の門下、その素性はだいたい知っていた。二人が孔明ではないことが勘で分かっていた劉備は、やけくそなのか、次の瞬間には口説きに入っていた。
「おう、荊北に名高いお二人に会えて幸甚にござる。これもご縁というもの。これから臥竜岡に向かうのですが、馬もありまするゆえ、お二方も同通していただき、ご高説を拝聴させていただきたく存じます」
すると石広元、孟公威とも、
「いやいや、われらは山野にぶらぶらと遊び暮らしている人間であり、治国平天下のことなど夢にも考えたこともございません。将軍のご下問にあずかれるような者ではありません」
とほろ酔い気分に答えた。
(ちょっと待てや。じゃあさっき歌っていた歌はなんなんだよ。てめえら、おとなを舐めるのもいい加減にしとかないと、おれだって我慢には限度があるぞ)
劉備が顔を赤くし目で突っ込むと、石広元、孟公威とも劉備の本気この上ない殺気を感じたのだろう。さっと顔から血が引き、酔いも醒めた顔となった。
「孔明とのご会見が実のあるものになることをお祈りいたします。では、さらば」
二人は逃げるように出て行ってしまった。
劉備は、卓を激しく打って、
「嘘つき野郎どもめが、舌を引っこ抜いてやりゃよかった。そうだ、ちょいと可愛がって、この顛末のウラを自発的にしゃべってもらおうか。飛弟、出番ぞ、あいつらを捕まえてきてくれ。抵抗するなら殺してもかまわん」
と言った。
しかし張飛は酒家の奥に入り込み、おびえるオヤジから次々と酒と肴をせしめているところであった。
「あん。呼んだか、兄者」
と、すでにへべれけに近い状態である。
「雲長っ」
と今度は関羽を呼んだ。関羽は竈《かまど》の前に正座して、張飛に比べれば微量だが、ゆっくりとたしなんでいる。
「この関羽、寒いのだけはいささか苦手でして、暖をとっており申す」
関羽の不必要なまでに長い髯はトリートメントが大切で、寒気は大敵であった。
劉備、哀切、なんか情けなくなって涙が出てきた。
「わしにも一献くれんか」
酒に酔わなくても劉備の頭は混乱中である。頼るのは魔性の勘のみか。
(くそっ、こうなったら、孔明め、首を洗って待っていろ)
劉備は景気付けに一升を飲み干した。
雪なお降り止まぬ……。
劉備の試練(いじめ)はまだ続く。
たぶん数日後には解体されて影も形もなくなっているであろう酒家を出た。雪の坂道を難儀して進み、ようやく孔明の家についた。門を叩くと謎の童子が出てきた。
「劉備である。先生はご在宅かな」
すると童子は、
「いるよ。今、座敷で本を読んでいる」
と言ったのだが、これが真っ赤な嘘であることはすぐに判明する。もし童子を問いつめたなら、
「だって、ただ先生はいるかって訊かれたからね。臥竜先生はいるのかって、訊かなかったじゃないか」
と詭弁に逃げられるであろう。
中門まで来ると、大書した対聯《たいれん》(よく門の左右などにかかげられているかっこいい文句)が目に入った。
[#ここから3字下げ]
淡泊以て志を明らかにし
寧静《ねいせい》にして遠きを致す
[#ここで字下げ終わり]
「気負いなどなく、淡々とわが志をお話しします。これでも静けさのうちにいろいろ世の中のことを考えたりもするのです」
と、そんな意味である。
(ほんとうかよ)
と劉備が見入っていると、またもや歌声が聞こえてきた。さっきの二人にくらべると格段に下手で、ときどき声がうわずっている。門の脇から窺うと、草堂の中、一人の若者が囲炉裏《いろり》にあたりながら膝を抱えて歌っている。
[#ここから3字下げ]
鳳は千仞《せんじん》のたかさに飛翔して
梧桐《ごとう》でなければ棲むことあらず
士は片隅に隠れ住み
名主にあらざれば仕えることなし
畑を耕すことを楽しみ
われはわが草廬《そうろ》を愛する
いささか高ぶると書物や琴に気持ちを寄せて
大の時を待とうとおもう
[#ここで字下げ終わり]
歌を聴くかぎりは、
「ほんとは世捨てが本望ではなく、天下にやる気満々ではあるのだが、ろくな主君がおらぬので、百姓仕事に楽しみを見出し、この家に隠れ住むことを愛するのです。でもときどき疼いてくると、仕方がないから本を読んだり琴を弾いたりして、気持ちを抑えているのです。なんか物凄い男が訪ねてきてくれないかな。臣下になってやってもいいんだけどな」
と、隠逸ぶってはいるが、功成り名を遂げんとする生臭い野望は沸々とたぎっておりますぞ、という歌である。徐々に臥竜出廬の核心に迫ってきたらしい歌ではあるが、早合点してはいけない。この歌を孔明がつくった証拠はまったくない。
劉備は、
(さすがにこやつだろう)
と、その青年ににじり寄った。殴るつもりか。しかし裏腹に言葉は死ぬほど丁寧である。ほとんど二重人格であった。
「かねてより先生をお慕いすること山の如し(嘘だろ)でありましたが、お目にかかる機に恵まれず、このように遅くなってしまいました。先日、徐庶元直に激しく推薦されて、こちらにお伺いいたしましたが、ご不在とのこと、空しく引き返さねばなりませんでした。しかし、本日は風雪に遭難の危険まで冒して参上つかまつった甲斐がありました。ようやく先生に会うことがかない、この玄徳、仕合わせすぎて、くっ、(呪いの)涙がこぼれてきそうでござる」
青年は劉備のがぶり寄りに慌てたというより、びくりとしてあわわわと逃げ腰、顔を青ざめさせた。
「お、お、お待ち下さい。あなたは劉将軍でいらっしゃいますね。あ、兄上にお会いになりたいのですか」
劉備、
「なにいっ!」
「ひっ」
「あなたは臥竜先生ではござらぬのか。さきの壮志あふれる歌はあなたのものか」
「ひえっ、ごめんなさい。ごめんなさい。わたしは臥竜の弟で、諸葛均というものです。許してください。好きであんな歌を歌っていたわけじゃないんです。叩かないで」
諸葛均は今にも失禁しそうなおびえようで、平謝りに謝るのであった。
(なんだコイツは)
と思いながら、
「いや、べつに怒ってなどおりません。兄上どのはご在宅なのでしょう。どうかお取り次ぎくだされ」
とやさしく言ってあげたのだが、諸葛均は、もう床に点頭、額が割れるまで叩きつけながら、
「すみません。すみません。兄上はいないのです」
とほとんど泣き声をあげている。あんな素敵な歌をわたしごときが歌ってすみません、生まれてごめんなさい、と言わんばかりであった。
「いや、もう、お顔をあげてくだされ。して孔明どのはいずこにおわすのか」
「ごめんなさい。許してください。あの、あの、兄上は崔州平さんに誘われて遊びに行ってしまいました」
こんな悪天候の日に遊びに行くか?
「あなたがそう謝らなくても。遊びに行ったわけですな。どこへでしょうか」
「江湖《ごうこ》に小舟を浮かべることもあれば、山中に僧侶(この時代、滅多に僧侶はいないと思う)、道士をたずねることもあり、また村里に友人を訪ねたり、洞穴に籠もって琴を弾いたり碁を打ったり、他にもいろいろ変なことばかりやって遊んでいるらしいんです。兄上はいつも行動不定で、わたしにもまったくわからないんです。本当に知らないんです」
と諸葛均は刑事に問い詰められた後ろ暗い参考人のように、必死に白状するのであった。
「うぬ」
(密偵の報告が間違っておったのか。いや、屋敷のどこかに隠れているのか)
いくら身勝手な自由人であるといっても、こんな雪の密室から脱出して遊びに行くとは思われないではないか。
「せっかく参ったのです。わが弟たちと休憩していってよろしいか。ついでに孔明どのの部屋でも見せてもらえれば。むこうは厨房ですかな」
諸葛均はもう決死の表情で劉備にしがみつき、
「ひえっ、おやめくださいー。兄に叱られます」
と額から流血、涙を垂れ流しながら止める。
台所には黄氏発明の自動調理機と木人のかぶり物があり、その他の部屋にも異様なものがごろごろしており、諸葛均は諸葛家のひみつや恥(と思っている)は誰にも見せたくないのであった。もしこれが孔明だったら、恥とも変とも思っていないから、むしろ見せびらかしたと思われる。
(この諸葛均とやらは、孔明を死ぬほど恐がっている様子。孔明は弟虐待の常習者なのか)
劉備はげんなりして、ふところから布を出し、
「均どの、まあ、お顔をお拭きなさい。竜に頭を囓《かじ》られたようですぞ」
と渡した。諸萬均は震える手でたらたら流れる血をぬぐいながら、
「お願いします。この部屋以外のところには行かないでください」
と懇願しきりである。
「わかり申した。こちらこそ臥竜先生の不在にいささか無礼をするところであった」
諸葛均はようやく劉備を離した。
孔明の家は、もう怪しいとかいうレベルを遥かに超えた状況である。つまり完璧にクロ、疑いの余地なき異常邸だということだ。そのあるじの孔明は噂通りかそれ以上の変質者で化け物であるとしか考えられぬ。
(調べでは孔明が妻女と、弟夫婦が住んでいるということだった。弟がこの者だとして、孔明以外に少なくとも女二人がいるはずである)
しかし諸葛均、劉備が家捜しでもしようものなら即座に自殺しそうな気配である。長年、多くの人を見てきたが、これほどおびえ切った者を見たことがない。そもそも劉備はまだ強引なことも乱暴なこともしていないのである。なのにこのパニック状態、劉備は自分の存在が諸葛均の寿命を縮め、狂気の淵に追い込もうとしていると思うと、嫌な気分になった。
関羽、張飛も中門を潜り、騒動の一部始終を見ていたらしく、その異様さに開いた口がふさがらず、しばらく声がなかった。歴戦の殺人鬼ですらど肝を抜かれるような不可解きわまる諸葛均の態度であったのだ。
『三国志演義』の臥竜出廬のくだりは、次から次に襲いかかる謎また謎の、ほとんど推理小説の趣もあり、確かに謎だらけで、名探偵劉備が(バイオレンス刑事の張飛でもいいけど)真相を解明してくれなければ夜も眠れなくなるほどに謎に満ちている。「臥竜岡の秘密」「臥竜殺人事件」とか、秋の夜長に分厚い一冊が編集できそうである。一番の謎は、ただ孔明に会おうというだけの劉備に明らかに共謀故意らしき、次々に謎めいた人物が接触して、謎の歌を聴かせ、しかし犯人(じゃないけれど)の孔明はその姿をちらりとも見せようとしないところにある。劉備よ、主人公ならばこの謎を一刀両断にしてくれ!
諸葛均は非常に遅まきながら、茶を運んできた。
「わが不徳よ。二度までも賢人にお会いできぬとは」
と劉備が嘆息すると、張飛が、
「けっ。もういいじゃねえか兄者。先生野郎がおらんというんなら、とっとと帰ろうぜ」
と太く言ったが、内心はさすがの張飛も孔明邸の薄気味悪さに、非常に居心地が悪いのであった。
「在宅を確認したという密偵、なにやらまんまとくらまされおった様子、とっちめねばなりますまい」
と関羽が言った。
「まあ、待て。ただ黙って帰ることもあるまい」
可能性の問題ながら、それでも孔明がこの家のどこかに身を潜め、劉備たちを見て嘲笑っていることはあり得る。だが、頼りの劉備の魔性の勘も、ここに来てこんがらがり、何も囁いてくれなかった。劉備は孔明がいるのかいないのか判断つきかねている。いる、と魔性の勘がはっきり告げるなら、令状無しの家宅捜索も辞さないのだが、自信がないのである。
劉備は少し落ち着いた観のある諸蒔均にやさしく訊いてみた。
「それがし聞くところによれば、ご令兄の臥竜先生は『六韜三略』を極め、日々膨大な兵法書をご研究なさっておるとか。わが宿敵の曹孟徳は『孫子』を極めておるということですが、先生の極めっぷりは曹公なぞより遥かに上なのでございませんか」
すると諸葛均はまたぶるぶると震え出し、
「し、知りません。そんなこと、わたしは分かりません。信じてください」
と、泣きそうな顔で言い募った。
「では、さっきのあなたの歌、たとえば臥竜先生は均どのに向かって将来の抱負などを語られたことはござるのか」
「ない、ないです。ほんとうです。兄上が語ることは宇宙のことばかりで、わたしにはちんぷんかんぷんなんです。時々四季の移り変わり、日々の暮らしの楽しさなども言いますが、わたしは、わたしは、ちっとも楽しくないのです」
(駄目だ、こりゃ。何も聞き出せまい)
と劉備も諸葛均には手の施しようがない。また張飛が、
「ええい、こんなやつに聞いてもどうにもならん。兄者、また吹雪がつよくなりそうだ。早く帰らんとまずいぞ」
と言った。いつもなら日暮れたら泊めてもらって、酒さえ出れば大笑いの男である。よほどこの家にいるのが嫌であるらしい。張飛の弱点をまたひとつ見つけた。劉備はいちおう、
「飛弟、あわただしいぞ」
と叱った。諸葛均が、早く帰って欲しい気持ちを漏れ出させ、
「兄上がいつ帰るかもわからぬのに、長々とお引き留めしてしまっては差し支えがございます」
と言うに、劉備が顔を向けると、
「ひぇっ。た、他日、こちらから伺うよう伝えておきますから、ごめんなさい、許してください!」
(わしは孔明と同じくらい恐い化けもんかよ。傷付くなぁ)
といささか諸萬均を哀れに思った。多分、この諸葛均なる男は劉備などには想像もつかない暗くてみじめな日々を送ってきたのであろう。後々、この諸葛均も劉備の配下となるわけだが、この性格はたぶんあんまり変わっていなかったろう。いくら孔明の愛弟とはいえ大役は任せられまい。よって当然のことのように諸葛均の戦場での活躍など無いし、文官としての評価もほとんどない。
「あいや、先生においでいただくなど滅相もない(来られたくもない)。他日、折を見てまたお伺いしたてまつる。そうですな、筆と紙を拝借させていただけぬか。わが志をいかした文章にして書き置きしたいと存ずる」
諸葛均が文房四宝(なんか凄そうだが、墨、硯、筆、紙のことである)を用意すると、劉備は、はっと気合いを入れて、凍った筆先に熱い息をふきかけた。
そして一気に書き上げると、
「先生がいつお読みになるかはわからぬとして、どうか、必ず手渡してくだされよ」
墨の乾くを待ち、拝して巻いて諸葛均に手渡した。
劉備がいささか修辞を駆使した作文が出来るようになったのは、近年のことである。少年の頃、廬植《ろしょく》に師事したということもあるが、不良学生であったから大した学問も身に付いていない。その後、用心棒から馬泥棒、使徒活動、ついには義兵を集めて(ほとんど子分のごろつき)理由ある反抗の戦場往来に青春のエネルギーを爆発させ続け、なかなか落ち着くことがなかった。劉備の生涯のうち最もヒマで、髀肉を嘆いた劉表の番犬時代に四十の手習いで上達したのだと推測される。いざやってみれば歴史の勉強にもなり、読書の習慣もつく。昔の人の事績や文章等の定型を頭に入れ、なんとなく窮屈になりがちだが、組み合わせてゆけばまあまあのものが誰にでも書けるのである。オリジナリティなど必要がない。よって原稿用紙を前に呻吟《しんぎん》せずとも、さらさらと、熱意あふれる(巧言令色な)文章が制作できる。
本当は、
「このわしが訪ねてきたのに、どうも何か企みやがって、二回も無駄骨を折らせるとは不届き千万、貴様のツラに鉄拳をお見舞いできなかったのは残念でならぬ」
と言いたいところを、
「備、久しくご高名を慕い申し上げており、お訪ねいたすも二度も面会かなわず空しく帰ることは、言いようもなく残念であります」
と書くことになり、孔明が読めばすぐ分かるはずだが、皮肉と憤懣《ふんまん》に満ちているのである。
後に続く文章は、これぞ定型というもので、もうしゃべり飽き、書き慣れたところの文章をさっさと書いた。
「漠室復興がわがライフワークであるのだが、とにかく最悪の状態であって、どうしてもうまくいかない。どうかおのが非才不徳を恥じるだけの策なき者の悲痛を慮っていただきたい。願わくは孔明どの、慈悲と忠義の心をもって、太公望呂尚のような大才を発揮いただき、張良子房の大戦略を施して欲しいのです。さすれば天下の幸い、社稷《しゃしょく》の幸いとなると存じます」
孔明が太公望、張良に匹敵するとは、いかに修辞でおだてる分を差し引いたとしても、信じろという方が無理なのだが(劉備は司馬徽、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公らの意見を聞き、ほんのわずか、〇・一パーセントくらいの期待は持っていたかも知れないが、そもそも太公望と張良のスーパー大戦略をくれということが、無茶な要求過ぎるのは誰にだってわかろうものだ)、そこへも思い切り皮肉も籠《こ》めて書くしかあるまい。
これを読んだ孔明が、
「お前、太公望と張良を束にしたような凄い天才らしいという、もっぱらの評判じゃないか。出来るんならやって見せろよ、もし嘘だったら、ただで済むと思うなよ、どうなるか分かってるだろうな……」
という行間からの脅迫に小便ちびってすくみ上がり、慌てて夜逃げ支度を始めるのが目に浮かぶようである。「殺すぞ」とか「腎臓を売れ」だとか、法網に引っかかるような言葉を使わないあたり、劉備も並大抵の知能犯である。そして、
「後日、斎戒沐浴《さいかいもくよく》して参上いたし、必ずやご尊顔を拝し、わが真情を申し述べさせていただきたく、お許し願えれば幸いに存ずる」
と、結び、
(今度、ふざけた真似をしやがったら、本当に幸いにしてやる。お前も人生最後の風呂にでも入って首を洗って待っていろ)
とすごんでいる。
『三国志』の流れからして、孔明の自尊心をこれでもかとくすぐる面会希望書と読めるが、孔明ならば、その真意が「最後通牒」である、と読み取るはずである。もし読み取れなかったら孔明は何でも自分に都合よくしか解釈できない、たんなる自意識過剰誇大妄想のちんぴら詐欺師にも劣るような男と思われるから、天下のため何の痛痒《つうよう》も感じずに刀の錆に出来るというものだ。
諸葛均も拝して書状をおしいただき、
「はい。必ず絶対に渡します。命に替えても渡します」
と何度も頭を下げた。
劉備と関張二弟は諸葛均に別れを告げると立った。
諸葛均が門前まで送りに出たので、劉備は、
「わが誠意」
を強調し、何度も繰り返して、諸葛均に念を押し、孔明に伝えるように言った。
そして劉備がひらりと馬に跨ったとき、謎の童子が、
「老先生がおいでだよ」
と叫んだ。
見れば、狐の毛皮のコートを着て、風よけの頭巾を手でおさえつつ、酒の入った瓢箪をぶらさげた男が、驢馬に跨り雪を踏み分けやって来る。その男は、村祭りでは鳴らしたよ、といった慣れた声で歌を歌い始めた。劉備は、
(またかよ)
と、もうどうでもよくなってきていた。
(いかがわしい野郎の歌を一日に何度聞かされればすむんだ)
その男とは黄承彦である。もうわたしも嫌になってきたが、どうして黄承彦がこんな悪天候の日にへんな恰好をさせられて、驢馬に跨り臥竜岡を訪れるのか。謎というより、いい加減にして欲しいものである。黄氏だって、
「お父様、年甲斐もないことはやめて」
と、言いたいに決まっている。
なぜに孔明嫌いの黄承彦までもが引っ張り出されたのか知らないが、襄陽スターズ総出演は既にプロデューサー(または原作者)との契約で決まっていたのかも知れない。黄承彦に、あんたはどっちかというと蔡瑁派じゃないの? と言っても、
「だまらっしゃい。わしが出ずしてどうする!」
と黄承彦も受諾したのか。でも、それにしてもなんでみんな歌を歌うのだろう。
今は劉備は相手が黄承彦とは知らない。
[#ここから3字下げ]
一夜、北風吹き荒れ
万里、雪雲あつし
長空、雪乱れてひるがえり
江山、もとの姿を改めつくす
面をあげて大空を見れば
疑うらくはこれ玉竜の闘争するか
雪片、竜鱗のように飛び
たちまちにして宇宙に遍し
驢馬に乗って小橋を過ぎれば
独り嘆ず、梅花の痩せたるすがた
[#ここで字下げ終わり]
まあ、どうでもいいんだが、この厚雲積雪の中にも、すなわち竜の痕跡があちこちに見て取れ、それはあっという間に宇宙に偏在する超越的実体である。それはいいとして、驢馬でとことこ過ぎゆくに、ああ、梅花が寒雪で痩せかけてしまっておるわいな。
宇宙レベルだし、孔明好みの歌でないことはない。
劉備はこれを聞くと、面倒臭そうに、
「たぶん、あれこそ臥竜先生じゃないの」
もう疲れた、という感じで言った。劉備は寒いので足を引っかけてしまい、転がるように馬から下りて、進み出て挨拶した。劉備も呆れた男で、とことん付き合う男である。すなわち思い切り腰を低くして、
「先生、この劉備玄徳久しくお待ちしておりましたぞ。(崔州平と色酒館遊びにでも行ったんだろうが)この寒気の中、ご壮健なお姿を拝し、まことに感激でございます」
と言った。さすが苦労人。
すると黄承彦は応じて驢馬から下り、劉備に礼を返した。と、後にいた諸葛均が、おそるおそるに、
「この方は兄ではありません。兄上の舅、※[#「さんずい+(眄−目)」、第4水準2-78-28、unicode6c94]南《べんなん》の黄承彦さまです」
と、気の毒そうに言った。
ああそうなの、てな感じで頷いて、もう劉備も眉を吊り上げるようなことはしなかった。
「今、吟じられておった歌、まことに気宇壮大にして、いかにも臥竜! な感じが、はなはだかっこようございますな」
すると黄承彦は、
「いやあれは婿殿の十八番、梁父吟から一首をいただいたものである。生垣の梅花を見て思わず口ずさんでしまったのですわい。客人の耳があろうとは、いかに宇宙とはいえ、恥ずかしいかぎりにござる」
そして、ハッハッハッと水戸黄門笑いをするのであった。黄承彦、のりのりであた。劉備が、
「その婿殿のことなのです。黄大人はどこかでお会いになられましたか」
「ほ? 家にはおらんのか。わしも孔明に会いに来たのだが」
会いに来るのはいいんだが、何故、よりにもよって今日なんだ? 劉備、その点を問い詰めた方がいいぞ。
しかし劉備にはもうその気力がないようであった。黄承彦はなんかいろいろ話して騒ぎたさそうにしていたが、劉備は丁寧に別れを告げるとまた的廬に跨った。
舞う雪の中をとぼとぼ去ってゆく劉備三兄弟の背を眺め、
「なんじゃい。噂の英雄劉公と噂の豪傑関羽、張飛に会えたというのに、わしが来た途端に帰ってしまうとは、つまらんぞ」
と黄承彦は諸葛均に文句を言った。自分が軽く見られたと思い、不満の様子である。そういう経緯もあってなのか、黄承彦はまたしばらく後に、八門遁甲《はちもんとんこう》の陣を解説するというおいしい役で登場することになる。舅の我儘を聞く孔明、まあ友情出演のような感じとでも言おうか。
そこで劉備が二度目の訪問も空振ったことを記念(?)してつくられた詩。
[#ここから3字下げ]
一天の風雪のなか賢良を訪れる
会えずして帰る思いはセンチメンタル
凍りし渓《たに》あいの橋、路面はスリッピー
寒気は馬もいためつけ、帰路なお遠し
頭上より片々と降る梨の花びら
柳絮《りゅうじょ》舞い狂い顔面を撲《う》つ
馬の鞭をやめかえりみて遥かにのぞむは
白銀うず高くつもるそれ臥竜岡
[#ここで字下げ終わり]
さて、一、二顧目の礼、劉備側から見ればかくの如しであったわけだが、こちら側ではどうだったのか。合理的に解けるミステリーであって欲しいものなのだが。
劉備、孔明の故意の留守(?)を受けたかたちで年を越すことになる。
年内に決着をつけることも考えたのだが、考えているうちにどうでもよくなってきた。
三たび臥竜岡を訪れても空足を踏む可能性が高く、ならば馬鹿馬鹿しいかぎりである。
(もう行かねえぞ、おれは。そもそもとりたてて会いたいわけじゃないんだ。二度も無駄足を踏まされたことで十分だろう。いちおう、至誠あふれる書状もしたためてきたことだしな。向こうからきやがれ。おれだって暇じゃねえし、いろいろ遊びに行きたいのはこっちのほうだ)
と、そういうわけでふてくされたように年末年始を過ごしたのであった。
それに確かにのんびりもしていられなかった。曹操軍は年末年始も休まず営業しており、
「この働き者が」
と罵りたくもなる。宛《えん》の南に大規模な宿営地が作られつつあり、先遣隊の動きもせわしくなっていた。新野の劉備は、ほんとうなら宛城に多勢長駆して先制攻撃を行いたいところである。だが、肝腎の劉表がまったくあてにならないので、小勢での妨害工作を兼ねた偵察を行うくらいしか出来なかった。宿営地の規模からして、ただ事ではない大軍が集結しようとしているのは明らかだ。
(……二十万、いや、曹操のことだ、もっと多く連れてくる)
報告を聞くにそう判断する。
幽州戦線を片付けた曹操は、歴戦の驍将《ぎょうしょう》どもに動員可能な全兵力を率いさせて荊州に突っ込んでくるであろう。大軍が南下するということは、劉表のみならず、孫権との競り合いも当然勘定に入れているからであって、つまりはこの征旅にて中原から華南を一挙に制圧する好機なのである。よってそれが十分に可能な数が来ると思ったほうがよい。見ただけで腰を抜かすほどの大軍が迫ってくるなら、うまくいけば闘わずして相手の戦意を挫くことも、期待していいことだ。ことに劉表幕下には効果的であろう。
曹操の軍団は無茶な連戦転戦で疲れ切っているに違いない。だからこそひと息いれたりせず、ここは一発、数を催して押し寄せるべきところといえる。劉備は曹操のバクチの打ち方をよく知っている。
劉備は背筋が寒くなるのを感じた“
(そんなのに来られたら、われらはいちころだ……)
策を講じるとすれば、犬小屋のような新野は初めから捨てて、樊城、襄陽に拠って防衛ラインを固めるくらいであった。そこで踏ん張り、なんとか江東の孫権と同盟を結んで支援軍を派遣してもらうことだ。それでも天下最強かつ頭脳優秀の曹操軍に勝てるとは思われないが他に手はない。
劉備は一度ならずそのように劉表に強く警告の使者を出してみたが、孫家と劉表の仲の悪さを思えば、素直な返事があるはずもなかった。あまりに脅しすぎるとかえって逆効果、病床の劉表は風聞だけで意気|阻喪《そそう》するおそれがある。いずれにせよ最意の事態を考慮に入れねばならず、恐るべき修羅場が予想される。
ただ劉備としての方針は決まっている。逃げないということだ。どんな大軍が釆ようが、踏みとどまる。そして、逃げるにしても必ずなるべく華々しく一戦する。怯えてむざむざと戦わずに逃げることだけは絶対にしてはならない。
だが今回ばかりはその一戦で粉々にされ、今度こそ曹操の前に首級をさらすことになるかも知れぬ。それでも劉備玄徳の名を失わぬためには立ち向かって見せねばならないのである。劉備の意地というより、命綱なのである。天下に寸尺の領土もない劉備だが、民衆の心の中に得難い領地があるのであり、今逃げてかりに一命は保てたとしても、これを失うことこそは劉備の滅亡なのである。
しかし曹操が予想を遥かに上回る人軍勢をもって迅速に攻め寄せた場合、もはや、
「劉備玄徳は少なくとも戦ったらしい」
という声すらかき消されるかも知れない。それはせつないのだ。
「人とは不公平なものだ」
と劉備は傍らにいた糜竺ら幹部に愚痴っぽく言った。
「何故でしょう」
「曹公は戦うたびに地も兵も増える。わしとて戦った数は曹公に劣らぬのに、かくも大差がつくものなのか」
「それはわが君、わが君が」
と糜竺は言いかけたが、次の言葉が出てこなかった。
「ふっ、言うな糜竺。この乱世を正すため、とはいえ、うつわでもないのに粋がってしゃしゃり出てきた田舎侍を天は嗤《わら》っておるだろうな。だがこの劉備、ただでは死なぬ。ただでは死なぬぞ。正義のためにこのいのち……」
と惚れ惚れするようないい顔で言い切った劉備の目からつつと涙がしたたり、糜竺らは、
「わが君! わたしもお忘れ下さるな」
と跪《ひぎまず》いておいおい泣いた。しばらく泣いてすっきりした後、糜竺が手のひらを叩いて、
「わが君、臥竜がおるではございませんか。孔明なる者さえ得ることがかなえば、この窮地が一転するやも」
司馬徽も徐庶も狂気かと見紛うごとくに持ち上げていた、諸葛孔明という謎の男。劉備は、
「ええい、いい気分のところへ、そんな名を出すでない」
と気分を害したように言った。
「いずれ襲うてくる曹軍は夢でも幻でもないのだ。臥竜なぞ、そんな、いるのかいないのか分からんような子供だましの奴が、糞の役にもたつものか」
と劉備は、迫り来る現実に、当然の事ながら、孔明があてになるなど砂の一粒ほども思っていなかった。
たいていの『三国志』関連の年表には孔明の劉備軍団入団は建安十二年(二〇七年)とある。年を越しているから正確には建安十三年(二〇八年)だと思われるが、どうなのだろう。
建安十三年は『三国志』中でも一、二を争う決定的記念年と言える。孔明の参入、孫権の襲撃、劉表死亡、曹操の丞相就任、曹軍南下、劉備軍団半壊滅、呉への孔明派遣、赤壁の戦い、曹操危機一髪、また司馬懿仲達登場、とまことに充実しすぎな福袋のような年であり、ジェットコースター並のスリルとスピードが読み手をエキサイトさせてやまない贅沢な年回りと言える。
一つだけ言えるのは、偶然に決まっているが、孔明が表舞台に現れてから、たった一年のうちに天下の情勢が急転しはじめ、非運続きだった劉備は(徐州居座りの件を除けば)はじめて領土を獲得することになる。まさに魔術というしかないのだが、孔明が出てきたからなどであるはずがなく(手品で歴史が変わるはずもなく)、やはり偶然に違いないのである。
春節の礼儀事を簡便に済ませ(とはいえ大宴会はやった。張飛による死傷者は六人で済んだ。こういうカルマのツケで、後の張飛の非業の死につながるのだが)た劉備だったが、状況を考えるととうてい鬱々と楽しめなかった。酒も料理もまずいことこの上なかった。ついついがぶ飲みしてしまう。酔いが醒めると恐怖と焦りが持ち上がってくる。
これまでは曹操に圧迫されても、それほどプレッシャーはなく、
「そのうちなんとかなるだろう」
といくたび敗残しつつも根拠無く楽天的であった。事実、なんとかなってきた。だが、それも曹操に袁紹一族という宿命の大敵がいたからである。それが完全に滅びた今、曹操にまともに敵対する勢力は(劉備は勢力とはとてもいえない規模である)無くなってしまった。さしもの劉備も、
(こいつはまずい。今度ばかりはまず過ぎる)
と魔性の勘に間違いないと太鼓判を押された。
「誰かうまいこと手を組める(騙して利用できる)相手はおらんのか」
とこれまでのことをまったく反省していない他人任せである。孫権や周喩に「天下一他人のふんどしで相撲をとる男」と嫌な顔をされるのも仕方がないのである。
もとより現パトロンの劉表は頼むに足りない。
曹操南征の実害を被ることになるはずなのが揚州である。孫権は江東最大の暴力団呉連合の会長のようなもの(名も呉《くれ》だし。周喩は武闘派のイケイケの若頭、魯粛はキレ者の大番頭、張昭《ちょうしょう》のオジキは穏健派で先代よりの相談役、のようなものか?)であり、傘下に多くの地回りども(土豪)を抱えた寄り合い所帯の束ねに腐心する立場である。呉連合の主なシノギは江南のミカジメと東南アジア沿岸ルートの密貿易だ。孫権は曹操の口利きで中央の本家(献帝)から討虜将軍(要するに切り取り抗争勝手の許可)の称号を与えられて受けていたりしていて、反曹操なのかどうか、何を考えているのかさっぱり分からないから下手に仁義を切りに行くことができない。いまのところは、
「オヤジさん(孫堅《そんけん》)のカタキ、黄祖のクサレのタマぁ取るんが先じゃあ! わしは待っとりますけん」
が数年前からの合い言葉であり、これで利害を異にする土豪連中がなんとかまとまっているのだが、その後のことまで意見が一本化しているかは不明である。
各地方の勢力は官渡の決戦から数年、曹操が袁紹の残存勢力を掃討していた間にも何らかの手を打っておかねばならなかったのだ。劉表も孫権も、あるいは西の馬騰、韓遂《かんすい》らもほとんど指をくわえて見ていただけである。巴蜀の劉璋は漢中の張魯《ちょうろ》に蓋をされたかたちで簡単に出てこれない。いずれも世情を理解できていない糞馬鹿野郎どもであった。
(畜生、わしに一地一州のもとでがあれば)
と今更ながら嘆く劉備であるが、妙にへそ曲がりな遠慮から、劉表を抹殺して荊州を乗っ取らなかったのは、それこそ世情を理解しない一番の馬鹿ではないのか。
だいたいわたしから見てもおかしなところで、五人の親分(ないしはパートナー)に仕えてそれぞれ都合が悪くなるやすたこら逃げて次の庇護者のもとに滑り込むという節操のないことを繰り返してきた劉備であり、ここで荊州を乗っ取っていても天下の劉備をよく知る人たちの評判は、
「またかよ、劉備」
と思うくらいなものである。いくら『三国志』が血と復讐と友情と裏切りの世界だとはいえ、これほど無節操な男は歴史上にもあまりいないだろうし、このような人物が何故、正義と仁徳の人とされたのかさっぱり分からない(いや、劉備にも、勘が囁いたとか、いろいろ言い分はあろうが)。
「劉備ならばなにをしてもいいのか!」
と、誰にも相手にされなくなっても不思議ではない。もし孔明がいなかったら次に逃げ込む先は揚州(孫権)、涼州(馬騰)、益州(劉璋)となったろうし、しかもそれもまた正義(都合)のために裏切って逃げ出すに違いなかった。
劉備はかつて『三国志』中、最高の背信者、ハイレベルの裏切り能力を持つとされる呂布にすら(その命乞いの際に劉備の殺人アドバイスにとどめを刺されたが)、
「この大耳野郎めが! 皆の者、こいつこそが一番信用のおけない奴なんだ!」
と罵られたウルトラダブルクロスなのである。
今更、信義もへったくれもない豺狼《さいろう》であって、ことに曹操は劉備のそういう点を見切っており、まったく期待も信用も与えていなかった(故に曹操と劉備は戦い合うしかない犬猿の関係となってしまう)。後々、劉璋から益州を騙し討ちに奪《と》りあげるといった卑劣なことを平気でやるくせに(同じく劉姓のともがらという言い訳もしていない)、何故か劉表には手を出さず、髀肉の嘆とか言っているうちにたちまち月日を流してしまっている。この数年は謎である。劉備はなんか劉表に凄い弱味でも握られていたのかと邪推したくもなろう。
まあ、劉表が徐州の陶謙《とうけん》のように、国譲りをしてくれるのを待っていたという(甘い考えだ)ところであろうが、あれだって曹操が地獄の軍団と化して無差別大量殺戮を繰り返していたからであり、何もなかったら劉備に徐州をくれてやったりはしなかったろう。しかも袁術《えんじゅつ》、呂布がいなかったら劉備はまず間違いなくあの時に曹操に踏み殺されていたはずだ。曹操が再び悪魔の飽食者となって荊州に乗り込んでくるとなれば、座り小便をちびって震えているほかないのか。
水鏡先生にはクリエイティビティの無い事務員呼ばわりされた孫乾たちとて、
(なぜわが君はさっさと荊州を獲ってしまわれぬのか)
ととぼけたふりをしてちらりと進言して怒られたり、訝しんでいたことは言うまでもない。張飛に至ってはいつでも出撃準備完了、単独でも襄陽を血の海にすべく、劉表特殺指令を今か今かと待っていたに違いない。
とにかくたった今劉表が荊州を譲ってくれたとしても既に遅し、徐州の二の舞になること疑いなく、事態はどうにもならぬほど切迫している。
「うぬぬ」
悪酔いして床の上を転げ回りながら悩み事をテンポ良くハキハキしゃべりまくる劉備に、まことにヒップホップなお人だ、と皆は見て見ぬふりをしてくれた。
(やっぱり臥竜か)
頭に浮かべたくない名前であるが、ついうっかりと思ってしまうのである。
しかし天下の奇才かなんか知らないが、たった一人を味方にするだけで、この窮地が改善されるとはどんなポジティブ・シンキンガーだって思わないだろう。劉備だって(馬鹿なところが多々あるが)それほど非現実的に愚かなことは考えない。だが窮すれば貧す、貧すれば鈍す、鈍すれば妄想す、ということである。
「うぬぬ」
またも転がる劉備玄徳、献帝に曹操抹殺の依頼を受けたときでもこれほど悩んだかどうか。
(臥竜といったって、奴はわしに会おうともせんのだぞ。それどころかわしを踊らせて遊んでいるふしすらある。このうえ頭を下げるなど、してたまるものか)
異常者だという以外には未だに正体不明だし。でも人間とは心が弱いもので、
(もう一度だけ、もう一度だけ、行ってみようか。三度目の正直というしな。それで駄目だったらもうやめよう、こんな人としてよくないことは)
と思ってしまうのであった。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公によれば、劉備は科人《とがびと》のように孔明に押しつけられねばならないらしい。
(嫌だな、そんなことは)
生贅にされるような気持ちの悪さである。しかし太古のときから竜神に祈願する際には人牲《じんせい》を捧げてきたものである。そのくらいしないと竜はお願いを聞いてはくれないのだ。悪《にく》むべし、臥竜!
行くべきか、行かざるべきか、それが問題だ。劉備はアンビバレンツに苦しみながら何日かを過ごした。劉備は気付かなかったが人から見れば徐々に本当の科人の如くなりつつあった。たまらなくなった劉備は、
「易者を呼べ」
と命じた。
占って、いい卦《か》が出たら、訪ねよう。二道分岐して定め難いときにコインを投げて表だったらそうしよう、と、何かにおのが運命を委ねる行為である。これも人間の弱さというものであろう。
この時代、易者はたいてい儒者(くずれ)である。ただ大学者から乞食までぴんからきりまでいる。「易」とは根本哲学であってうらないではない。よって儒学の究極とされているのだが、一般に占卜《せんぼく》のわざは低レベルな需要に応えている。ときたま左慈の妖術のせいで病んだ曹操に招かれた管輅《かんろ》のような的中率抜群の化け物易者(孔明もそうだとされているが)が現れて、「易」のうらないとしての有効性を強調してしまうのであった。困ったときには易占! というのは、二十世紀の大知性・ユングですら本気で行っていたから、古人をいちがいに馬鹿には出来ない。
劉備は手近なところ、新野にいた薄汚い中年の易者を連れてこさせ、うやまって頭を垂れ、蓍《めどぎ》(筮竹《ぜいちく》)がざらざらと音を立てて分けられるのを聞いていた。
そこへ関羽と張飛が足音も荒くやって来た。
「兄者!」
なんて非科学的な、などというはずがない。親の血を引く兄弟以上のこの両漢、劉備が昨年末以来何に懊悩《おうのう》しているのかくらい感づいている。
今度ばかりは、という、関羽が張飛を押さえてずいと出た。後に神≠ニなり、帝号まで与えられ、子供からお年寄りにまで人気抜群に信仰されることになる、この一介の武辺は、身の丈九尺(約二メートル七センチ)、丹鳳《たんほう》の目、臥蚕《がさん》の眉毛、顔は俵を二つ重ねたよう(どんな顔だ?)、二尺の美髯、声は釣り鐘ほど大きい鬼神の如きこの男が迫り来れば、何も悪いことをしていなくても、
「悪うございました! おゆるしくだされ!」
と反射的に言って負け犬のように腹を上に向けて寝ころぶよりほかないだろう。関係者が、
「ここだけの話だが、ほんとうにヤバイのは張翼徳じゃねえ。閑雲長のほうだ。おれは見たんだ……」
とひそかに囁き合っているのは公然の事実、不死身の殺戮マシーンであり、春秋の義≠ニやらに反することに出会うとぶちキレて見境を無くすからまことに始末に負えない(でも劉備の不義だけは見て見ぬふりをする)。己を正義と確信する者が最も残虐になれる、という箴言も『春秋左氏伝』に書いておいて貰いたかったと青龍偃月刀のもと虫けら同然に撃殺された地下の人々は嘆いているだろう、たぶん。これでもし関羽に将才がなかったら、歴史には目的遂行のために他人の迷惑を省みずひたすら殺戮を繰り返すターミネーターだと書かれてしまったろう(関羽と張飛の違いは、張飛は目的が無くても遂行するという点である)。
劉備、その関羽に真っ赤な顔で、
「どうしても諸島亮を訪ねようというのですな。うぬ易者まで引き入れて。わざわざ卜して吉日を選び、斎戒沐浴までするつもりでしょう。あれだけコケにされたというのに、兄上らしいといっても限度がありまするぞ」
と勝手に決めつけられたので、
(いや、行くか行かぬかを決めようとしているだけなんだが)
とは言いづらくなり、またも悪い癖、
「それがどうした」
と天の邪鬼に言ってしまう劉備であった(こればっかり)。
「この関羽雲長、衷心からお止め申し上げる」
関羽が外まで響き渡る破《わ》れ鐘のような声で怒鳴っているので、いつもの役回りを取られた張飛はぶすっとして、ここは任せてぺっと唾を吐いた。
「兄上は一度ならず二度までも自ら駕して礼をもって臥竜の棲み家(アジト)を訪のうた(ガサいれした)というのに、きゃつはなんら応えることもなく今日までほったらかしの有様。兄上を軽んずるにも程があります。拙者思うに、諸葛亮は虚名だけのザコであり、実学無きがゆえ兄上に正体を看破されるのを恐れて、わざと逃げ隠れして会わぬようにしているに違いござらぬ。そんな小人に惑わされるのはもうたくさんでござろう」
関羽もお供をして被害を受けたから憤懣やるかたない。
(いや、まったくお前の言う通りなんだよ。あのクソガキが)
と劉備も思っているが、言うことは正反対。
「雲長、『春秋』好きなおぬしらしくもないぞ。古《いにし》え、斉の桓公は東郭野人(よく分からないがすごい小者らしい)に会うべく家臣の諫めも無視して五度も訪れ、ようやく面会かなったという。ましてや、わしが会おうとしているのは千年に一人の超絶軍師である。桓公に及びもつかぬこのわしならば、五十回は訪ねて当たり前と思わねばならん!」
と見得を切った。なんだかなあ。
劉備のいつもながらかっこいい屁理屈啖呵に関羽は、
「むむ」
とあきれ圧されてしまう。『春秋』から理屈を持ち出されると関羽は弱くなるのであった。
『春秋』などどうでもいい張飛の目がぎらりと光った。
「おれも関兄に賛成だ。こんどばかりは兄者は間違ってるぜっ。セェのクヮンカゥーだぁ? そんな大昔のへタレのことなんざ知ったこっちやねえ。兄者が何と言おうと、ただの(変質者の)百姓づれだろうが。大賢者だとか、そんなもんであるはずがねえ。もう兄者が出て行くことはねえと言うんだ。おれに麻縄一本を与えてくれりゃ、縛り上げて引きずり出して連れてきてやらあ。げへへへ、その間に死体になっているかも知れんが、かまうもんか」
と吠え狂った。
(飛弟、よっしや、行けっ。麻縄ではなくイバラの鎖をくれてやる。また途中で歌を歌って邪魔するアホどもがあらわれたらことごとく脳みそを地にまみれさせてやれ)
と劉備は内心大賛成、なんだけど、孔明といい勝負のひねくれ者、しばしばおかしな決断をして痛い目にあってきたのに全然懲りない男である。声を鎮めて重々しく言った。
「翼徳、わが弟たるものがそのへんのヤクザのようなことを申すでない」
そしてまたも腐れ儒者のような理屈をこねた。
「お前は周の文王が姜子牙を訪ねたときの故事を知らずや。文王は渭水に釣りをする太公望の後ろに立ち、無視されながらも日暮れまで待っておったという。かの偉大な文王ですら、賢者ならばと、このようにうやまったのだ。さればこそ太公望も心を動かし、臣下の礼をとり、周朝八百年の基を築くにはたらいてくれたのだ。だというのにお前の無礼はなにごとか」
と叱りつけた。『三国志』では人材登用問題に関して何かにつけ周の文王とその息子の周公旦の故事が引き合いに出される。曹操も自分を周文王に比してみたり、詩に、口から食べ物を三回も吐いて食べなおした(なんかきたないが、牛か?)という周公旦を詠み込んでみたりと、孔子以来のスタンダードなのである。
劉備は関羽と張飛をきりりと睨めつけ、
「よろしい。おぬしらは残っておれ、わし一人で行ってくる」
と言ってしまって後悔先に立たず、関羽は苦虫を噛みつぶしたような表情で、
「お供つかまつります」
と言った。張飛は、
「兄貴たちが行くというのに、おれ一人がゆかんわけにはいかん(趙雲は来なくてもいいけど)」
としぶしぶ言う。
「ついてくるのなら絶対に無礼落ち度があってはならんぞ」
「わかったよ、兄者」
[#ここから3字下げ]
高賢、未だ英雄の志に服さず
節を屈《ま》げれば、偏生《あいにく》に傑士疑う
[#ここで字下げ終わり]
というところ。かくして劉備、またもや己の首を絞め、嫌々ながら臥竜岡を訪れることになったのであった。
さて隆中が歌劇場と化していた旧年末、問題の臥竜が何をしていたのかというと、確かに遊んでいたといえる。
孔明の家に謎の童子がやって来て、というか、実は謎でもなんでもなく※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の孫の一人だった。
「おじいさまのお使いで参りました。――孔明、あそびに来い。むろん黄氏も連れてだ。今日中だぞ、わかったな。と、おじいさまが申しておりました」
うやしくも※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の口調を真似して言った。孔明が眉をひそめて、
「はて面妖な。突然のおさそいだが。まさか※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生に何かあったのかな」
「いえ、いつもと変わらぬおじいさまでした」
「ならばべつにいい。しかしわたしはいろいろ宇宙のため、なにかと忙しいのだ(嘘)。痴呆老人の気まぐれにつきあっているひまはない、そうご返辞をお返ししてくれ。わが多忙であること、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生ならわかっていただけよう」
と白羽扇をぶらぶら振りながらつれなく言った。
童子は孔明がそう答えるのを知っていたように声を低くした。
「わかりました。ですが……言おうか言うまいか……。じつはこれはおじいさまとはべつの、内密にしておいていただきたいのですが。若奥様が」
とことわって、孔明の姉、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》家ではむろん諸葛氏とか諸葛夫人と呼ばれていることになるが、それに言付かったという。
「――亮! たすけてちょうだい、わたしもうダメ、はやく……。と若奥様が申されておりました」
童子は孔明の姉の声色を使って、悲痛な表情で言った。役者じゃのう。
「なんと! 姉上になにがあったのか」
「何があったかは存じません。若奥様はちかごろはおじいさまの隠遁所にいっしょに暮らしておいでです。――ただ、ああ亮っ、義父《ちち》うえが、あんな、ひどすぎる、もう耐えられない(涙)、あたし、あたし、もうお嫁に行けない……とわたしの袖におすがりになり、おっしゃるのです」
聞いた孔明一瞬にしてすくっと立ち上がった。
「姉上の危機ならばいかずばなるまい。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生め、ついに外道に墜《お》ち、けだものの本性を剥《む》き出しにしおったか」
孔明、きっとまなじりをあげてポーズを決めた。
「ゆるさぬ!」
まるで戦さの指揮をとるときのようにすっと白羽扇を持った腕を突き出す。
「黄氏、黄氏よ」
と呼ばわると、すぐに黄氏が現れた。
「支度をしなさい。魚梁洲にゆく」
「まあ、何でしょう。歳末のあいさつにはすこしお早ゆうございますが」
「それどころではない――わが姉が」
孔明は膝をつくと黄氏の手をとった。目には既に涙がこぼれそうなほど溜まっている。
「黄氏よ」
すると黄氏も心得たもので、
「あなた、みなまでおっしゃいますな。機械歩兵は何体お入り用でしょう」
とうれしげに言ってくれる。武器(鋤鍬とか農機具)を満載した装甲車(馬車に、雨が降っても、泥はねが被ってもいいように筒型の居室をつけたもの)と武装した木人(ときどき諸葛均やその幼な妻の習氏がつけさせられる着ぐるみに鎌や斧を持たせたもの)はいつでもスタンバイしている(って、諸葛均夫婦がかわいそうじゃないか)。これらはみな黄氏の設計したものである。
「いや機械兵は要らぬ(秋の収穫の後の農作業がまだ終わっていないから)。われとなんじとのみ、これあればよい」
「はい。すぐに支度して参ります」
黄氏は奥に入った。軽く化粧を整えるのであろう。
かなり心性ふてぶてしい童子も孔明夫婦の寸劇にぽかんとした顔である。孔明は、
「これ、童子。わるいがお前には人質になってもらう。わたしが戻るまでここから離れることあいならん。うらむならお前の老害祖父公をうらんでくれ」
と申しつけた。
「均にはわるくせぬよう言っておくゆえ、ゆるせ」
「わかりました。孔明さまの言にしたがいます」
童子は従順に答えた。どうせ、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公には、留守番と称してでも孔明の家に居座るようにと命じられていたから、べつにかまわなかった。
しばらくして黄氏があらわれた。黄氏はいつものさっぱりした家着からきれいな外出着に着替え、結い直した髪には銀の飾りがゆれるかんざしを刺し、手には風呂敷に包んだ土産物(付近で取れた栗とか山菜)まで持っていた。その懐には発明した暗器(護身用小型兵器)も隠されていよう。まことにそつのない賢妻である。
「あなた、参りましょう」
「よし」
そして諸葛均を呼んで、
「いつ戻れるか、はっきりせぬゆえ」
と孔明は諸葛均に緊急のこと(作りかけの豚腿ハムを一日三時間以上かけて炭火で焙って熟成させていくとか、冬に備えての干し草の管理とか、鶏がインフルエンザに罹《かか》っているかも知れないので鏖《みなごろし》にしておくようにとか)をこまごまと指示した。そして気合いを入れて久しぶりに臥竜岡を出たのであった。横には寄り添う愛妻黄氏がいる。ちょいと用事で出かけるおしどり夫婦にしか見えない。
「いってらっしゃいませ」
と諸葛均と習氏、人質にとられた(?)童子らが門前に出て見送った。
孔明夫妻の高い背が見えなくなると、童子は諸葛均にくるりと向き直った。
「諸葛均さま」
(孔明さまはいつもああなんですか?)
と訊きたいところを押さえて、
「じつは今日参りましたのは、ほかでもない、おじいさまから諸葛均さまにこそ用件があったからなのです」
「えっ」
「どうしてもお骨折りいただいて欲しいと、おじいさまが申しております」
「ええっ」
諸葛均、もううろたえかかっている。そして童子は真の任務を説明し始めたのであった。
「ひえっ、劉将軍がおいでになるかもって! あわわわ、兄上の留守中にそんな勝手なことをしたら、あとで叱られてしまう」
と及び腰の諸葛均に、
「おじいさまは――均よ、何も案じることはない。わしの言うとおりにすれば、孔明に叱られるどころか、あやつのためになることだ。涙ながらにお礼を言われること(になる可能性もわずかにある)うけあいだ。とにかく頼むぞ、ふふふふ、と申されておりました」
と童子は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の声色を真似、表情も憎々しげにして言った。諸葛均が、お世話になってきた姉の舅に逆らえるはずもなく、頼みと言ってもほとんど強制である。
「でも、でも」
と何か犯罪の片棒でも担がされるような気分の諸葛均、首を左右にして苦悩する。すると諸葛均よりは遥かに肝っ玉が据わっている習氏が、
「あなた、やらさせていただきましょうよ。なにか面白いじゃありませんか。たまにはあの義兄《にい》さまに一泡吹かせるくらいしても、ばちはあたりません」
と夫を励ますように言った。諸葛均はぎょっとした表情で、妻の大胆不敵過ぎる(あくまで諸葛均の感覚)言葉を聞いた。
「もし後でお義兄さまがお怒りになったら、その時はみんな※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生のせいにしてしまえばいいのです。やりましょう」
ここでいっちょう男になってみい! と、習氏は諸葛均を唆《そそのか》すのであった。
習氏も嫁いできて三年になろうかとしている。初めは義兄だというから我慢もしていたが、孔明にはいろいろやりきれないことがたくさんあり、わが亭主が情けないほどに孔明に頭が上がらないのを見てきている。黄氏はいいとして、孔明にはいささか鬱情を晴らしたかったものらしい。諸葛均が、
「ううううう」
とか唸っているすきに、童子に、
「分かりました。ご協力させていただきます。まずは何から始めればよいでしょう」
と、夫を無視して乗り気であった。
童子は、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公がこの役に選んだくらいだから、孫のうちでも優秀で、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公仕込みのたくましい少年(したたかなガキ)に育っている。家内に戻ると習氏と謀議をこらし始めた。諸葛均がおろおろして、
「兄上に謀計などしたら、とんでもないことになる。いますぐにやめてください」
と恐慌しかかっている。
「均さま、おうるさい。密談しているんですよ」
「お前は兄上のおそろしさ(へんてこさ)を知らないんだ!」
童子は相手にせず、
「これを」
と、書面を手渡した。
「均さんはその詞を暗記しといてください。出来るだけかっこよく歌えるように練習してくださいね」
それには、
『鳳は千仞《せんじん》に※[#「(皐の白に変えて自)+羽」、第3水準1-90-35、unicode7ffa]翔《あまかけ》りて、梧《きり》にあらざれば棲まず……』
の歌が書かれている。
「ええっ。わたしがこれを歌うのか」
「それくらいできるでしょう」
「誰かの前で歌わねばならないのか?」
「それは状況次第です」
諸葛均は頭を抱えながらも、目を皿のようにして書面を眺めはじめた。とにかく目先の単純作業をさせれば落ち着く男なのであった。
諸葛均の、後がこわい、というのを無視して謀議が進んでいた頃、孔明が何をしているかというと、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の隠遁小屋で飲みかつ歌っていたのであった。酒の肴は先日|※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が締めてちょうどいい頃合いとなっていた犬肉の塩着け蒸しと、釣りたての川魚、黄氏が持参した山の幸である。
犬を食うのは残酷だとおっしゃるものの分かった方々もおられようが、決して非動物愛護なことはなく、中国や朝鮮、モンゴルではごく当たり前のことであった。犬肉はクスリにもなり、れっきとした薬膳の材料である。わたしの好きな(誤解ないよう言っておくが、味がではない)チャウチャウ犬などは皮革材食料用に品種改良されてきたもので、松阪、三田の牛、薩摩の黒豚、名古屋コーチンにも比すべき上等この上ない食肉である(が、インターネットで探しでもさすがに売っていないな、犬肉は)。むしろ犬を「太古よりの人類の友」とか言って他の家畜と区別しようとすることのほうが被差別的であろう。「飢饉だから仕方なく」と言い訳して食っていた者の方が愛犬に対して申し訳ながるべきだ。人の友だからこそ親しく食前に供されるわけであり、またときどき人も犬に食われたりもして、これぞ自然界の無二の盟友、パンダまで食べるのはどうかと思うが、フランスだってとても可愛らしい鳥たちや小動物を(家畜だって生後何ヶ月の仔羊だとか、処女の若牝牛だとか、まだ妊娠中の母胎なかにいる仔牛だとか)、これぞ美味の極み、とあれこれ料理するのだから、残酷だといった類の言いがかりはよしてもらいたい。ただし、フランス料理なぞはまだ甘いといえる。中国にはもっと凄絶な究極料理がいろいろあって、さすがとはいえたまらない伝統を持っており、少なくとも中国の人は食材となる禽獣に対して自由で平等だったのだ。
炉端を囲むは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公、孔明、黄氏、孔明の姉の四人である。麦茶のような色をした甘い燗酒を含み、犬や魚のご馳走を食らう。笑み絶えず、和気|藹々《あいあい》というしかない。
「孔明、結婚してからお前もなかなか丸くなってきたな」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が言うと、孔明、
「いえいえ、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生ほどではありません」
などといがみ合いはまるきり無し。黄氏へは、
「子供はまだなのか? そろそろ阿承《あしょう》に孫の顔でも見せてやれ」
と今ならばセクハラ発言、女性の社会進出を阻む悪と責められかねないことを執拗に繰り返し訊いて盛り上がった。
「数日、ゆっくりしていくがいい。たまには諸葛均らも二人きりにしてやれ」
「もとよりそのつもりです」
と孔明たちはちゃっかり着替えまで持参してきていた。
そんな孔明のまとも(以前に比べれば)な様子を見て、孔明の姉は、
「よかった、よかった」
と涙ぐんでいる。黄氏の手をとり、
「黄氏さんのおかげで、亮もようやく世間様に見せられるようになりました」
と感謝している。
孔明はにこりと微笑むと、爽やかに得意の梁父吟をうたった。
[#ここから3字下げ]
歩みて斉城の門を出ず
遥かに望む蕩陰の里
里中に三墳あり
重なりあって見分けがつかぬ
累々として正に相い似たり
問う是れ誰が家の墓ぞ
田彊《でんきょう》古冶子《こやし》
力は能く南山を排《おしひら》き
文は能く地紀を絶《きわ》む
一朝|讒言《ざんげん》を被れば
二桃三士を殺す
誰か能く此の謀を為す
国相斉の晏子《あんし》
[#ここで字下げ終わり]
黄氏、思わず拍手する。孔明の姉は、
「その歌も、ほんとうはやめて欲しいんだけどねえ」
孔明と言えば梁父吟、には悪いイメージが付き過ぎてしまっていた。
「お前の梁父吟は聞き飽きた。他に新曲はないのか」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が訊いた。
「それはそのうちに」
「前から思っておったのだが、その染父吟、斉の晏嬰《あんえい》をほめておるのか、けなしておるのか、いまひとつはっきりせん。好んで歌っているお前はどう思っておるのだ。学友には管仲、楽毅のようになりたいと言ったそうだが、なぜ晏嬰ではないのだ。晏嬰とて管仲に劣らぬ名宰相であったのに」
「晏子が二桃をもって三士を殺した、などという話は後世人の作り話です。晏子の名も音韻がよいから使われただけでしょう。良謡というものは民がふと思い感じてつくるものです。詩賦のようにことさらわざとらしい志が混じっておらぬのがよいのです。俗謡にまで理屈をつけようとするのは学者の悪い癖ですぞ。まあ、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生はとぼけてらっしやるが、この歌の真意はお分かりのはず」
このときだけ、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公と孔明の間にぴんと糸が張られたようであった。
「なるほどな。どちらも御免被ると言いたいわけか」
「いえ、墓参りに物思うは大切なことだと。それにわたしは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生と違って陰険な謀略はうまくありませんので」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はにやりと笑った。
「お前がわるいのだ。普通に呼びつけても来やせんから、わしもいささかヒネリを加えているだけだ。今日だってそうだ。さすがわしの孫、よく難物を引きずり出した、と褒めたいところだが、お前にはお見通しだったろう。わが孫の芝居っけが気に入ったというところか」
「お茶目なお孫さんをお持ちです。姉上、気を付けてくださいよ」
「?」
「ふん。阿承のところへ行かせたときも、わしがただ行けと言ったら行かなかったろう。わしの謀《はかりごと》のおかげで目出度くかくのごときお前にはもったいない才媛を要ることが出来たのだから、泣いて感謝してもらわねばならんところよ」
「まあ、おじさまったら」
と照れる黄氏。孔明は、
「ははは、わが妻のことには、先生、謀などは皆無です。わたしは素直に心のままに従っただけですよ」
と爽やかに言った。
茶飲み話も尽きかけて、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「どれ孔明、久しぶりに碁でも打たぬか。先日もいい碁が打ててな、たいそう楽しんだところがあるのだ」
「ほう、先生とよき碁が打てるとはただ者ではありませんな。誰でしょう」
「この地の者ではない。お前とは毛色が違うが、あれもまた宇宙を相手に出来る男かもしれぬ」
碁とはとにかく幽玄なるゲームであり、異名が多い。方円《ほうえん》といったり、烏鷺《うろ》といったり、手談《しゅだん》といったりする。
ことに仙人との関係を語る話も少なくない。山奥で碁を打っている謎の老人たちを見つけた木こりが、傍目八目にのぞいていると、展開がやたらと面白く(木こりですら上級レベルの碁観戦を楽しめたということだ)感心しながら見ていた。と、持っていた斧を見ると柄が腐っており、はらりと壊れ落ちてしまった。浦島太郎のようなもので、一局の碁の間に何十年も時が過ぎてしまっていたわけである。碁の別名を爛柯《らんか》というのはこの話からきている。
また碁を打っていると仙人になれる、とまではいわないが、その気分に浸れるから、忘憂《ぼうゆう》、座隠《ざいん》といったりする。将棋(関羽は将棋の方が好きらしい)にはこれほど異称はない。そして勝敗は天が審判するとされたりして、碁盤の中心を天元《てんげん》とまでいう。手筋「神の一手」のことを玲瓏《れいろう》という。つまりはこめかみに血管青筋を浮かせながら凌ぐ、というような態度は、はじめから碁にはふさわしくないのである。競うに悠々優雅にやらねばいけない。こうまで聞かされるとわたしも囲碁の神秘を習いたくなってくるところだ。
孔明は、
「やめておきましょう」
と言った。
「ふっ、腕が落ちたか孔明」
すると孔明、
「いえいえ、いまの先生と碁を打てば、わたしが秒殺にて勝ってしまいます。邪念ある者にはよき碁はおとずれませぬ」
と爽やかに笑った。
「ぬう」
と※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は片目で孔明を睨んだ。
さて孔明、家族師匠との団欒《だんらん》の間に間にくつろいだ様子なるも、それでも※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公がなにやら画策していることは分かっておりますぞ、と諷《ふう》したところ。一方で悲惨に転げ回る劉備玄徳に対し、いかなる存念がその胸の内にあるのか、それは次回で。
[#改ページ]
孔明、思いを宇宙に致し、泣いて劉皇叔を虜《とりこ》となす
梅花の蕾はまだ固し。
孔明と黄氏が逗留して数日、散歩のおりに孔明は黄氏に言った。
「黄氏や、わたしたちがこうしている間に隆中で何が起きているか分かるかな」
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》おじさまがお悪戯をなさっておいででしょうね」
「どんな悪戯だい」
黄氏は首をかしげて、
「そこまでは分かりません」
と言った。
「ふふふ」
孔明は白羽扇で口元を隠し、
「ではその手がかりを見せてしんぜよう」
と薄く笑っている。
孔明は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に、
「隆中を出たのも久しぶりのことで、せっかくですから水鏡先生のお顔も拝顔しておきたく、またわが岳父黄大人にも歳末のご挨拶などをしておこうかと思います」
と申し出た。
「ふうん。水鏡はともかく、黄氏も里帰りして父母に元気な顔を見せるのはよかろうが」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の表情にはとくに変化はない。
「ではそういたします」
孔明は黄氏のために馬車を借りて出かけることにした。
「亮、またへんなことをしたり、わけのわからないことを言い出して向こう様に迷惑をかけないようにね」
と孔明の姉が言う。
「姉上、ご心配は無用です。この孔明、いつまでも頑是《がんぜ》ない子供ではありませんぞ」
「子供じゃないから言うんです。まあ、黄氏さんが一緒だから安心だけど」
「われに信用あらじ……」
と涙ぐんでみせたは、いつものことである。黄氏に慰められ、そうして魚染洲を出た。
まずは襄陽郊外の司馬徽徳操水鏡先生の邸を訪のうた。孔明は勝手知ったる、という感じで、取り次ぎの童子の案内も待たずに入っていった。水鏡師は草庵で火鉢(のようなもの)を抱えて書見していた。
「先生、諸葛亮でございます」
「あっ、孔明」
水鏡先生はすこしぎくりとしかかったが、それを打ち消すように、
「よし、よし」
と誤魔化した。
「久しぶりよの。元気そうで何よりじゃ」
「無沙汰あいすみませぬ。本日は妻もともない歳末のご挨拶などでもと」
「ほう。そうか」
孔明の背後からしずしずと女子バレーボール選手のように長身で、身を隠すところもない黄氏があらわれた。
「これは、これは。外は寒かろう。はようあがりなさい」
外はいまにも雪の降りそうな曇天である。
孔明は水鏡先生の手にある書物を見て、
「何をお読みです」
と訊いた。
「これか? 虞仲翔《ぐちゅうしょう》の易注(『易経』の解釈書)が手に入ったのでな、久しぶりに寝食を忘れて読みふけってしまった」
「ほう、虞翻《ぐほん》の。それは面白そうですね」
虞翻は当代有名の学者であり呉の臣である。ことに易学を得意としており、そんなものが得意というだけあってねじ曲がった性格をしていて、孫権と折り合いが悪く、しばしば左遷され、しまいにはベトナムに送り込まれてしまう。孔明は赤壁大戦の直前に呉に乗り込み、戦争絶対反対専守防衛派兵不可の慎重派の家臣たちと派手な大論争を繰り広げることになるが、その中には虞翻もいた。
後漢から晋の時代にかけては詩風以外にも、儒教経学から各種古典にわたり、後世に影響を与えた重要な人物が何人も出ている。馬融《ばゆう》、筍爽《じゅんそう》、鄭玄《じょうげん》、廬植、虞翻、何晏《かあん》、杜預《とよ》、王弼《おうひつ》ら(もっといるが)のことは『三国志』では(現実とは正反対で文人は卑《ひく》く扱われ、武人が尊ばれる世界だ。張飛的にはみな腐れ儒者でしかないからか)その学問実績が詳しく語られることがない。それぞれとても興味深い人物なのだが、その話はまた別のところで。
しかし、かれらに比べてなんの実績も残していない司馬徽の方が、なんか偉そうな学者であるかのような、錯覚誤解を抱かせてしまうのはひとえに孔明のせいである。孔明がいなかったら司馬徽は人物鑑定に定評のある(人相見とさして変わらない)寺子屋先生でしかなかったろう。
この時代、戦乱のさなかだというのに有名学者の論文や流行の詩賦が意外に早く各地に広まるのは面白いところで、中国人の知識欲のたまものである。顔も性格も知らないが、何々を書いたあの人、ということで天下の知識人のアイドルとなれるのである(憧れた末、実際に面会するととんでもないやつであることが多い)。なにも名将、豪傑、名軍師ばかりがアイドルではないのだ。それで知識人たちの間では共通の話題が出来て、楽しい論談が出来るのである。司馬徽や孔明はむろんのことなるべく最新の作品を手に入れて目を通すことに余念がない。
孔明は虞翻易注に従来にない新見解があるかについて(それまでの易学の代表は京房《けいぼう》、孟喜《もうき》、そして鄭玄であった)二、三尋ね、司馬徽は、やや興奮気味に答えるのであった。虞翻の易注の特徴は執拗な反鄭玄主義と奇異な捏造解釈にあり、インテリをくらまし面白がらせるところが少なくない。
「なるほど、それもまた見識ではありますが、しかしそれでは宇宙が上下と左右だけになってしまいます。縦横と時間が尽くされておりません。虞翻の注もまだ発展途上というところでしょう」
さすが孔明、二、三の要点を聞いただけで虞翻の易注の足らざる処(宇宙的ではないという言いがかり)を指摘したのであった。水鏡先生は、はっ、とした表情になり、
「わずかのことからそのように本質を見抜くことができるのは、やはりおぬしだけだ」
と感嘆した。孔明が「易」に通じていたことは確からしく、孔明の魔術的戦術である八陣図だとか奇門遁甲《きもんとんこう》などは易に理論的根拠があり、孔明のもう一つの顔である法家とて「易」をむげにしているわけではない。また「易」は仙人のバイブルでもある。
「先日も学筵《がくえん》にてこの易注の話をしたのじゃが、質問すら返ってこなかった」
孔明が、
「崔州平、石広元や孟公威なら、そんなことはないでしょう」
と水鏡先生に訊くと、
「かれらは用事があって、おらなんだ」
と言った。
「ほう。こんな時期に用事ですか。まさか※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生の用事ではありますまいな」
水鏡先生はまたぎくりとした顔になり、
「いや、用事なのかどういかもわしは知らぬ。このところ来ておらんということだ」
と打ち消しながら、あちらの方を向いてしまった。
孔明はそれ以上追及せず、話題をまた易注に戻してしまい、水鏡先生を安心させた。
「では先生、このへんでおいとまさせていただきます。われわれはこれから※[#「さんずい+(眄−目)」、第4水準2-78-28、unicode6c94]《べん》南の黄家に参るところなのです」
「よし、よし」
「先生も既に星を観ておわかりでしょうが、来年はこのあたりでも一騒動もちあがりそうですので、お気を付けてください」
「えっ、そうなのか! まあ、よしよし」
孔明と黄氏はうやうやしく拝礼すると、草庵を出た。
曹操が荊北を占領した後、水鏡先生も有能人材として目を付けられるわけだが、仕えた形跡はない。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はいち早く、仙薬を探すという疑わしいことを言いふらして、鹿門山《ろくもんさん》に登り確信犯的に行方不明となってしまっていたから、曹操の声が掛かることもなかった。
「徳操さまはなにか隠し事がおありのようでしたね」
とみちみち黄氏が言った。孔明は、にこりとして、
「まだまだ。お義父上《ちちうえ》はあれどころではなかろうな」
と言った。
馬車にあわせてのんびりと歩いたので、黄承彦の邸に着いたときはもうあたりは真っ暗であった。雪もちらちらと舞い始める。相変わらずがらの悪い連中が邸の警備をしていたが、綸巾鶴|※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《しょう》の白羽扇を持った怪しい男が夜間の中からぼうっと姿を現しただけで蜘蛛の子をちらすように逃げてしまった。
「いけないな。来年に備えてもっと質の良い衛士《えじ》を雇うよう、ご注意さしあげねば」
と孔明は(じぶんのあまりの嫌われぶりに)眉をひそめた。
門前が騒がしくなったと思ったら、わが娘と婿殿がやって来たと使用人に伝えられた黄承彦の妻、黄氏の母(襄陽政権ナンバー2の蔡瑁の姉であって蔡氏とか蔡夫人と呼ぶべきところだが、なにぶんまぎらわしくなる)が出迎えた。
「あれ、お前、それに婿殿」
「お母さま」
「義母上《ははうえ》、ご無沙汰しております」
「来るなら来ると前もって知らせておけばよいものを」
となんだか落ち着かなげである。
「いやすみませぬ。黄氏もぶらり気ままな里帰りですから、お気を使わずにお願いします」
と孔明、爽やかに言った。
「今宵は(わたしに対してまだいわれのない偏見をお持ちである)義父上と一晩酒でも酌み交わし、宇宙について語り合いたいものです(それが迷惑)。それで義父上は? まずご挨拶いたさねば」
すると黄氏の母は困ったような顔で、
「それが、ねえ」
という。黄氏が、
「お父さまに何かありましたか」
と訊くに、外出しているという。黄承彦は地元の名士であり、上流階級の宴席に招かれることはしばしばである。しかし、
「一、二日は戻らない」
というのでいくらか遠くに出かけたのか。
「珍しいこと。お父さまは自分が招《よ》ばれるよりも、自分がお客様を招んで豪快におもてなしなさるほうが好きなのに」
黄氏の母は、
「ほんとうに、ねえ……」
と孔明をちらちら見ながら曖昧に言う。
黄承彦が不在であること、あるいは孔明の予測のうちにあったのであろう。
「義父上黄大人はなにぶんにもお忙しい身、お仕事もおありであろう。残念ではありまするが、まあ、では義母上と黄氏と三人で宇宙について語り尽くしましょう」
黄氏の母も娘夫婦が元気な顔を見せに来たわけであり、喜ばないことはない。
「婿殿にそう言っていただけるのは嬉しいのですけれど」
「婿殿などとは水くさい、孔明とか亮と呼び捨てにしてください」
「まあ、それは、ただ、わたくし宇宙のお話というのが、よく分かりませんので、ちょっと」
孔明は、
「案じることはありません。何の話をしてもすべてこれ宇宙でございます。そういうものなのです」
と白羽扇を振りながら、上がり込んでいった。
最近、わたしも知って驚いたが、この世には無いと思われていた黄氏の似姿が中国の秘境奥地に実在していた! 事実ならスクープだ。さすが中国、底知れぬ奥深さだ。すぐに行ってその史上屈指と言われた醜さを取材してみたいところである。
五丈原の北端に「五丈原諸葛亮廟」という孔明を主役にしたテーマパークというしかない祠廟《しびょう》があることは知っていた。しかし武侯孔明を祀《まつ》った廟は数多くあるものの、その妻黄氏を祀る廟があるのは世界(宇宙)でも唯一ここだけだ! ということは知らなかった。そこに天文地理兵法機械技術に精通し、孔明を内助しまくった黄氏は、左右に童子をしたがえ、女菩薩像のように安置されているらしい。お参りするとどういう霊験があるのかは不明だが、誰かそのお顔とお姿を写真に収めてきてもらいたいものである。この小説が単行本となったあかつきには表紙にする価値があるといっても過言ではない。全国の黄氏ファンのためにも至急、撮影スタッフを派遣すべきというほかあるまい。
またお伽噺《とぎばなし》チックな別伝に謂《い》う。黄承彦は嫁《い》き遅れのむすめの婿を探してついに孔明に行き当たった。
『(黄承彦曰く)「君の婦を択ぶを聞く。身に醜女あり。黄頭黒色なるも才は相配するに堪えん、と」孔明許せば即ちこれ(農民)を載送す』
とあるわけだが、孔明が許す前にもっといろいろあった。
そもそも黄承彦がドブスと悪評高いむすめを押しつける先を探していることを知っていた孔明は、当然困惑し、俄然《がぜん》断るつもりである。そんなとき、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の差し金かどうかは定かではないが、孔明は黄承彦の家に行くことになった。孔明が門に足を踏み入れた途端に猛犬が襲いかかってきた。孔明がびびって立ちすくんでいると、今度は虎が現れて向かってくる。一巻の終わりか、と逃げ出そうとしたら、虎は犬を抑え込んでくれていたのであった。孔明が近寄ってしげしげ眺めると、犬も虎もつくりもの、からくり仕掛けのロボットであることが判明する(これも人が入っていたのか?)。黄承彦と孔明のもとにお茶を運んできた下女もまた人間ではなく、精巧なアンドロイドだった。エイリアン相手に取引をしていたとしか思われない奇跡のオーパーツ、時代を遥かに超えた宇宙レベルの科学技術に孔明はいたく感動し、
「先生には恐れ入りました」
と舌を巻いてみせる。黄承彦は笑って、
「いやいや、孔明どの、これらのからくりはみなわしの醜女が作ったものなのです」
孔明は驚き、
「このようなスグレモノを作れる方が、醜女であるはずがありません」
と才と容貌は比例するのだといわんばかりの意見を述べるが、
「醜女だからこそいまもって嫁にいくことが出来ないんじゃないですか」
だがそこは孔明、ただちに、
「わたしにお嬢さんを下さい」
と土下座したのであった。
そして婚礼が終わり、孔明が花嫁を覆ったベールを取ると、あるまいことか予想通りなのか、なんと天女にも見まごうばかりの美しい令嬢があったのであった。
黄氏は幼少の時より奇才を発揮し、諸子百家の学問を修めたという聡明きわまる女性であって、わざと自分を醜女であると宣伝し、顔でも心でもなく、才を重んじてくれる男を夫に迎えたいと希んでいたのである、まことに挙唯才《たださいのみあげよ》!(たぶんお部屋には可愛いぬいぐるみなどではなく、|AIBO《アイボ》や|ASIMO《アシモ》のようなハイテクのつくりものがたくさんあったろう)そして乙女の願いは叶い、孔明を得たのであった。そして孔明も黄氏の機械工学の才に溺れて、しまいには弟子入りまですることに。饅頭《まんとう》(人の生首の形をしている)の発明者も孔明であるとされているが、弟子なのだから、黄氏が既に作って飾ったり食べていた可能性が高い。
醜くへちゃむくれと評判のお姫様が、じつは絶世の美少女で、美醜や財産に惑わされぬ誠実な男を捕まえるべく、お面をつけたりわざわざ化粧して容貌を醜くしていた、というお話の変形パターンである。後世の人は、大きなお世話なんだが、
「やはりかの偉人諸葛孔明の妻黄氏が醜女のままではいけない」
と勝手に名誉回復、お節介を焼いてくれたのである。しかし、費氏の美しさよりもロボット作りのほうが印象強調されている点は(孔明、才美ある妻よりもロボットに魅力を感じたとしか思われない)、その変なところはやはり孔明! ということで、民衆もみんなきちんと押さえているのである。
他にも京劇(日本で言えば歌舞伎にあたろう)に「諸葛亮招親(しょかつりょういりむこす)」というような演目があるらしく、当然、黄氏は玉のようなうつくしい才媛であることになっている。とすれば五丈原の黄氏の廟の像も、決して醜くはないと推定でき、それはそれでつまらない。
さて、夜半より雪降り積もり、孔明も、
「無理して帰ることはない」
と、黄承彦邸に一日、また一日と逗留していた。黄承彦はまだ戻らない。さすがに黄氏の母と黄氏は心配顔である。
孔明は早朝外を歩いて、路面の雪が車に無理のないくらいになったのを見て、
「おそらく義父上は正午過ぎには戻るでしょう」
と言った。
「義父上を迎え、ご挨拶してから、われわれもゆるゆる帰ることにいたします」
黄氏は夫の言葉を疑わず、安心したようであったが、黄氏の母はまだ心配そうであった。
「なぜ午《ひる》過ぎなのでしょう」
と黄氏が訊くと、孔明は、黄承彦は雪に閉ざされ帰りたくとも帰れずやきもきしていたはずだから、朝一番に出発したに違いないと説明し、
「黄氏や、今早朝にある場所を出たとすれば、距離からするにちょうどその時刻にここに到着することにあいなる」
「ある場所ですか?」
「うむ。途中で道がふさがってでもいない限りは、そんなところであろう。外れるもまたよしなのだが、たぶん外れまい」
やがて孔明の予言通り、正午をやや過ぎて黄承彦の車が帰ってきた。黄氏の母は驚くやら感心するやら、
「孔明さまは易者をおやりになっても上客がつきますよ」
と言ってくれた。むかし孔明が襄陽の城市《まち》でアルバイト易者をしていたとき、確かに当たりはするものの、評判はよろしくなかったことはご存じないらしい。
孔明の大道易者は当たるのは当たるのだが、何か常に隠し事ありげで、決定的なことはそろとぼけてすかすし、時には客を挑発するような言動をし、それでもなおすがる者がいたら、例によって謎のアドバイス手紙入り巾着袋(通称、軍師袋)を渡し、
「大ピンチの時にのみ、これを披見せられよ」
というようなことばかりしていた。謎の袋のおかげで救われた人が何人もいたとか、まったくいなかったとか、それは受け取る側の問題で、袋を開いて手紙を見ると、これまたいつものように謎々のような意味不明の指示しか書いていないから、
「ふざけやがって!」
と破り捨てた者のほうが多かった。直接にわかりやすく言ってあげればいいと思うんだが、わざわざ何故そんな持って回ったことをするのかは誰にも分からない。後々、関羽、張飛や趙雲もこの謎の巾着袋に助けられ(悩まされ)ることになる。一件いくら取っていたのか知らないが、じきに客は来なくなった。商売下手な男ということだが、孔明にしてみれば襄陽の人々の観察と易占の腕を磨くのが目的だったから、それはどうでもいい。
いつもと違い、仙人風な恰好をした黄承彦が、
「ええい、雪に降られて、つまらぬところで日を潰してしまったわい」
と言いながら居間に入ってくると、黄氏の母が、
「あなた」
と目で訴えている。その方を見れば孔明と黄氏がいるではないか。一瞬、げぇっ、という顔になった。
「む、婿殿、どうしてここへ」
黄承彦の孔明恐怖症は完全に治ったわけではない。
「いえ、歳末のご挨拶にと、妻をともない参っておりました」
「うちにくるとは、わしゃ聞いとらんぞ」
とあたふたしている。
「三日ばかりお帰りをお待ちしておりました。拝見するにしぶい衣服をお召しで、なかなかいけますぞ。義父上はどこへ行っておいでだったのでしょう?」
「そ、それはりわしのふるい知り合いの家だっ」
と持っていた酒入り瓢箪を振り回した。
孔明、ここもそれ以上追及せず、
「ともあれご健勝でなによりです」
と深々とお辞儀した。
「ご挨拶だけですみません。義父上ともいろいろ(宇宙の)お話をいたしたかったのですが、わたしたちもそろそろ隆中に帰り、年越しの準備をばせねばなりません。諸葛家秘伝のお祝いがあり、まだまだ諸葛均には任せられぬところなのですよ」
諸葛家秘伝の大晦日正月の祝いとは、サバトのような怪しいものなのか。
「なんだ、なんだ。あと一日くらいどうかならんのか」
「お父さまがもっとお早く戻ってくださったら、よかったのに」
と黄氏がいう。
「まあ、しかし義母上とは存分に宇宙について語り合ったから、今回の所はよしといたします」
黄承彦は、黄氏の母に近寄ると、
(お前、余計なことは言わなかったろうな)
と小声で囁いた。黄氏の母は、
(ええ。といって宇宙のお話を聞くばかりでしたので)
と小声で答える。
門前に黄氏の馬車を使用人たちが回してきて、足回りをチェックしたり、お土産の荷物を積み込んだりしている。孔明は、
「お土産までいただき忝《かたじけ》ないことです。義父上、隆中までの道は通行、大丈夫でしたか」
と自然に涼しく訊き、黄承彦はうっかり、
「うん、まあな」
と言ってしまっていたが、黄氏を眺めて目をうるうるさせており、自白したことに気づかなかった。
孔明と黄氏はまた門前で深々とお辞儀した。黄氏を馬車に乗せ、孔明は馬の轡《くつわ》をとった。
なおも目をうるうるさせている黄承彦に、黄氏の母が、
「また遊びに行けばよろしいじゃありませんか」
と言うと、
「いやな。婿殿がなにやら波瀾万丈になるのは一向にかまわんのだが、あやつが危機一髪になるということは、わがむすめも同じ運命を辿るということではないか。悪い手助けをしてしまったのかも知れんと思うてな……」
(徳公め)
と舌打ちするも、既に遅いということだ。
「大丈夫だと思いますよ。孔明どのと三日も面《つら》つきあわせて暮らしましたが、わたくしは良き婿や、と思うようになりました。あのひとならば、どんなことがあっても黄氏を絶対に不幸な目にあわせることはないでしょう。まことに宇宙に臥竜あり! というところですかしら」
とすっかり孔明に洗脳されてしまっている黄氏の母であった。
孔明は責氏の車の馬を引いてのんびりと歩いている。
「この馬車を※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生にお返しせねばならぬから(ほんとうは嫌なんだが)また魚梁洲に立ち寄らねばなるまい」
「はい」
孔明は馬に乗れないわけではないが、たいてい徒歩である。馬嫌いらしい。生き馬に替えて流馬をつくったのはそのせいか。
のちに軍師孔明が戦場に立つときは常に椅子のついた御輿をかつがせるとか、椅子に車輪を四つつけた乗り物(通称、軍師車)を兵士に押させるとか、どんなけわしい道でもそれに乗り、兵士たちにとってははた迷惑というしかない乗り物を好むようになる。じつはこのあたりにも仙人の秘密が隠されているのだが、その講釈はいずれその時に。
「黄氏や、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生の悪謀に見当は付いたかな?」
「そうですね。水鏡先生やわたしの父ぐるみで、何かなさっておいでだとは分かりましたが。舞台は隆中、わが家で何かお芝居を」
「さよう。だから※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生はわたしを呼び出したわけだ」
黄氏は※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の悪戯の構図は分かったようだが、
「ですが誰が目的《めあて》なのか、そこまでは分かりません」
「確かにそれだけは難しいところだ。わたしは臥竜であることをやめたのだが、どうも周りはやめることを許してくれない。しかも、以前にわたしが計画していたよりもうまく運んでおるらしい。わたしがふつうの世間に事を計るには、二、三段落として行うくらいが、ちょうど良いということをつくづく学んだ」
超絶謀士孔明の策略は、自分で思っているだけかもしれないが、レベルが高すぎたようであり、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は凡人にも分かりやすいもっと下のレベルで行ったのであろうと言いたいらしい。
「ではいま旦那さまは追い詰められておいでなのでしょうか」
孔明は、ふふふ、と笑った。
「ではもう反撃の策を打っておいでなのですね」
すると孔明、
「反撃の策など打つ必要すらない。反はわたしがこうしている以上、存在せぬのであり、すべて正となる。よいか、わたしは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生の手を見抜いており、それを許しており、しかもわざと家に帰らないことで協力までしてさしあげた。つまりは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生は我が掌の上で透かし見られて踊っていたということになる」
聡明な黄氏でも半分くらいしか意味が分からない。
「ただし、わたしが策に落ちているとすれば、それは最初に水鏡先生と語らって、臥竜をつくりあげた時に落ちたのだ。つまりは、自らの策に自ら引っかかったようなものである。だが……思うにそれは策というよりは宿運というものだろう。とはいえ結局、最後はわたしの策が決めるのだし、それであっさりと済む」
「お手を二、三段、お落としになりますか?」
「ふふふ。どうしようか。それは※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生に会えばよりはっきりするに違いない。しかしそなたの意見も聞かないと」
孔明、なんか投げやりだが、黄氏には孔明が面白がっていることが分かっている。
「二、三段落とすと勝負がついてしまう。たとえば※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生の碁だが、先生は引き分ける碁が最上と信じておられる。そこは逸民たる者のご見識、並の者では言えることではない。しかし、じつは引き分けようと意図した瞬間に、勝ちも負けも同じという意味でも、既に負けているのだよ。引き分けとはこの世の基盤に過ぎないのだ。宇宙では引き分けの中から勝ちや負けが生まれてくるのであり、引き分けを根本に据えるというのは、易の太極を太極に据えると言うようなもので、宗本の、当たり前のことを当たり前のままにしておくようなものなのだ。もし非常の時にも当たり前のことを当たり前にしておくだけなら、負けざるを得なくなるのだ。太極から陰陽が生まれ、四象八卦が分かれていくのをただ呆然と眺めるようにな。何のために宇笛に陰と陽が存在するのか、それがお分かりになっておられない。わたしはそのとき同じ碁盤の前には坐っていないのだよ。そういうわけだから、わたしはもう勝っている、というより、陰と陽のどちらか、また両方を同時にでも、ただ選ぶだけなのだが。だから※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生にこれから顔を合わせるのはほんとうはつらいのだ」
と孔明は(こんな屁理屈を信用してやる必要はない)言った。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公のいう引き分けとは陰陽の均衡であり、その道、中庸なのであるらしいのだが(膠で固めて採っておく価値のある盤面がそうだ)、孔明はそれもまた基盤、石の置かれていない碁盤と同じものにすぎず、だからその上にまた陰陽を選択できる機があり、言わば多重囲碁世界に遊べるとする(といっているのか?)ようだ。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公に馬鹿馬鹿しい骨折りをさせて申し訳ない、といった口調だが、表情は明るいのである。
「それを※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》おじさまに言ったら、傷付きますかしら」
「いや、大丈夫だろう。こんなことで傷付かないためにも、引き分けるのだよ」
二人は夕刻には魚梁洲に着いていた。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公はここを一歩も出ることなく、狭い畑の世話をしたり、魚釣りなどに興じている。崔州平たちを集めて役を振り、歌の練習をさせるというお悪戯を何時の間にどうやって手配し仕込んだのか、まったく掴ませない老人である。
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公が釣り竿を持って土間に入ると、孔明たちが孔明の姉と話をしていた。
「お車をお返しに参りました」
「遅かったな」
「雪に降られましたもので」
「今日は一匹も釣れなかった」
「義母上が土産をくれましたから、何か美味《おい》しいものも積んであるでしょう」
「ちょうどよかった。遠慮無く馳走になろう」
すぐに晩飯となった。
「それで阿承はどうしておった」
「お義父上はご用事で外出していたとのことで、お昼に入れ替わるように帰ることになりました」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は干し魚を噛みちぎりながら、片眉をあげた。
「しかし義母上とは腹蔵無く(宇宙のことを)話して参りましたので、よいかと」
「ちっ、阿承め、間の悪い男よ。せっかくむすめが顔を出しているというに、雪をかき分けてでも帰るべきであった」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の計画では、黄承彦と孔明もゆっくり会話をさせたかったものらしい。
めしを食い終わり、茶菓子(ドライフルーツ)をつまみながら、※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公がぽつりと言った。
「それで孔明、どうなのだ。あの男を助けてやる気にはなったか」
「あの男とは?」
「ふん。劉玄徳のことに決まっておろう」
「新野の劉将軍ですか。助けるなどとは、わたしはまだかの人に一度も会ったことがありません。ましてや助けを頼まれたことなど」
「わしの前でとぼけるのはよせ。お前、あやつを引っかけなければ、もう世に出ることは出来なくなろうぞ。そのへんはどうなのだ」
「世に出るとは大げさな。わたしは既に宇宙に出ております」
「お前の宇宙には天下万民のことは勘定に入っているのか」
「天下万民ですか。逸民の※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生がいう言葉ではありませんな」
孔明は妖怪退治や悪者懲らしめ、あるときには華佗と病気治し比べ、ときに左慈のような仙人と妖術合戦をしたり、ときに管輅などとうらない合戦をしたりして(これでも十分に稗史《はいし》に名が残る)本朝の安倍《あべの》晴明《せいめい》のように過ごしでもよかったし、そのほうが民百姓のためには結果的に良かったかも知れない。
「宇宙ならいいが、天下万民となると、相手が曖昧すぎるか。くくく、狭い、狭すぎるわっ、おのれの宇宙は!」
といつものように挑発。
「なんですと! わが宇宙の広大さは北冥《ほくめい》の鯤《こん》が化した鵬《ほう》とも比較にならぬのです。恒河沙《ごうがしゃ》なる砂の数……」
劉備や天下万民のことなどどうでもいいが、宇宙については黙ってはおれないと、荘子を引いてしばらく宇宙論を闘わせるが、省略。聞いていた孔明の姉が、
「亮、お舅さまは、お前のことを思って言ってらしているのよ。なのにあんたはまた意地を張ってわけのわからない宇宙だのなんだのと」
※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公は、
「まあいい。こやつの宇宙狂いは今に始まったことではない」
と重い一言、にやりと笑っている。
「だが孔明! 宇宙の果てしなさとその神妙を語るその口が、どうして天下に向かわぬかっ。師としてなさけないぞ。劉玄徳もまた一つの宇宙! 宇宙を差別するおのれの心の狭さはどういうことだ」
とこれまたわけのわからない指摘だ。
孔明はふと一息ついて白羽扇で口元を隠した。白羽扇を飯時《めしどき》にも手放さない行儀の悪さである。
「※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生が、劉将軍をあれこれこんなふうにイジメなさったことは先刻想像しておりますが、わが意思も聞かずにいい年をした変人をからかって楽しゅうございましたか」
「くくく、劉玄徳はめげない男である。たたいてたたいてたたきのめすほどに味が増す。わしはお前のためにあやつを鍛造《たんぞう》しておいてやったのだ。面白い歌劇を見せてやった礼を言われることはあっても、うらまれる筋合いはない」
「むたいな……」
「孔明、あの男を拾ってやれ。おそらく今、劉玄徳は身も心もぼろぼろであろう」
「そんな酷い目に通わせたのなら、もう我が家を訪れないのではありませんか」
「いや。そんなことで参るような男なら、そもそもわしも世話など焼きはせん。お前はまだ天下を望む男のしたたかさ、しぶとさが分かっておらんな。くっ、いじめられただと? だからこそもう一度仕返しのために訪れるのだ。お前をぶちのめすためにな。来なかったら、捨てておけ。しかしそれはお前に魅力がないということでもあるのだぞ」
孔明は、ふっ、と莞爾《かんじ》として笑うと、
「先生の余計なお世話はこれきりにしておいてくださいよ。わかりました。わたしも臥竜の浮き名を流し、撒き餌を撒いた恥ずかしい過去があります。その責任はとらねばなりますまい」
「そうせい」
「ただ、わが妻、黄氏が気にいらねば、わたしもまた気にいらぬとします」
「黄氏は男の値打ちがわかる、違いのわかるいい女である。お前の目よりは確かだ。なにしろお前みたいなやつと連れ添うことにしたのだからな。妻女が鑑定にまかせよ」
話を振られた黄氏は、微笑むと、
「わたしは愛する孔明さまにしたがうだけです」
と言った。
「それでよい。ぬははははは」
と哄笑する※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公であった。
劉備を先頭に関羽、張飛は三たび臥竜岡を訪れるべく、騎行している。誰の顔も笑っていないのが、不気味というか、いつもの十五倍くらい近寄りがたい雰囲気の一行となっている。とくに劉備は、落ちくぼませた目の周りに隈をつくり、何やら殺意まで感じさせる翳《かげ》のある表情である。
「兄上、今日こそ諸葛亮に会えるのでしょうな」
と関羽が訊いたら、劉備は、
「会えまい」
と答えた。
「なまじいるいると思って訪ねるから、いなかったときに腹が立ち、一杯食わされたような嫌な気分になるのだ。本日もいないに決まっている。断じていない! そう決めたっ」
「それは兄上、ならばどうしてわれらはここにいるのですか」
そんなこと、おれが知るか、と劉備は喚きたいようなつらをしている。
「会わぬといったら、会わぬのだ。もしいるようだったら、それこそ、わしの眼鏡違いだったということだ。唾を吐きかけて一目散に引き返してやらん」
と理不尽な言動である。へそ曲がり、意地っ張りとはどこか異なるものがある。
「兄上……」
(ハァハァ、孔明、もしいてみやがれ、ぶっ殺してやる)
劉備の、何かに憑かれたような、追い詰められたような不穏な様子に、関羽は眉をひそめさせた。
「へへへ、その調子だぜ兄者」
張飛の目がぎらりと光った。
「おれにはよくわかる。おれたちの稼業は舐められたらしまいだぁ、げへへへ。野郎がまだこの世にいることのほうがおかしいよな」
と張飛は一丈八尺の蛇矛を頭上一転させた。劉備の変調に気づかない。
今朝も兄弟喧嘩になりかかった一悶着の末、劉備の意見に折れて出馬してきた。
(兄上がこれほど人に執心するのもはじめてだが)
しかし隆中に近付くにつれ劉備の様子がおかしくなっていくことに関羽は気づいていた。
(兄上がいかにも変だ。まずいのではないか)
と関羽は思ったが、一度決めたことを途中で翻すような差し出がましい口はたたかぬ。無口なこともあるが、ここまで来てあらためて問いただすのもおかしいので、敢えて訊かなかった。
劉備の精神状態が感染《うつ》ったのか、関羽の胸中にも何やら不穏な暗雲が湧き起こるような気がしてきた。如何なる酷烈《こくれつ》な戦場でも感じたことがない類の奇妙な恐怖感のようなものがあり、
(諸葛亮とは妖術者か。かくもわれら兄弟を惑わす。いっそ斬り殺したほうが世のため人のためなのではないか)
関羽はぶるっと身を震わせ、青龍偃月刀の柄を強く握り締めた。
今日は行く手を阻む変な歌手たちも出現しない。そのことも劉備をいらだたせている。
(野郎どもが孔明の手下だったとすれば……ええい。とにかく邪魔するやつぁ殺す)
これまで魔性の勘を頼りに世間を渡ってきて、幸運にも生命を存《なが》らえてきたミスター劉備、その勘がまったく利かず、塞がれてしまっては、檻に閉じ込められた野生動物、ノイローゼ的な心理にならざるを得ないのであった。
張飛はいつでもどこでも突撃OK、関羽も突発的戦闘に備えて武者震い、そして病的に目をぎらぎらさせた劉備。はっきり言って天下一危ないトリオが臥竜岡に接近しつつあり、臥竜岡始まって以来の危機であったろう。
臥竜の岡に導かれるように寄せる劉備は、ゴルゴダの丘に引きたてられる罪人イエス・キリストのようだというのは見るからに言い間違いであった。
臥竜岡まであと半里というところ、何故か劉備は、
「ここからは馬を捨てよ」
と、二人に命じて徒歩になった。おそらく精神的手負いの餓狼劉備は音もなく臥竜岡に接近したかったのであろう。手に刃物を一丁、民家を襲おうとする盗賊のような身ごなしであった。その緊迫感、歴戦の掠奪経験者だけある。関羽、張飛も心得たもので道の左右に分かれ、獲物を狙う猛獣よろしく、風上から身を伏せ気味に、坂を上り始めた。小城の一つや二つ楽々と壊滅させる戦闘力を持った三人組であり、実際に壊滅させた実績がある。
よってのこのこ坂を下りてきた諸葛均は、闇に野獣に出くわした小動物のようなものであった。
「どひー」
と言葉にならぬ声を上げ、腰を抜かしてしまった。
「あひー」
さらに悲鳴を上げ騒ぐ諸葛均、これがゲリラ戦であればすぐさま口を塞いで喉をナイフで掻き切るべきところである。
が、別に臥竜岡壊滅作戦に来たわけではないことを思い出した劉備、諸葛均の情けない悲鳴ではっとし、慌てておのれを取り戻した。隣に来て蛇矛を振りかぶっている張飛から間一髪、身を盾にして諸葛均を庇ったのであった。
「これ飛弟、なにをするぞ。あぶないものは仕舞わぬか」
と叱りつけた。
劉備は真っ青になって震えている諸葛均の前に(もう条件反射的に)手をついて坐り、丁寧至極に挨拶した。
「先日うかがった劉備玄徳にございます」
ほれこの顔をお忘れか、と顔を突き出した。
「ひぇー」
何を言っても耳に入らぬ様子であった。劉備、張飛・関羽は諸葛均のパニック発作が収まるまで待つしかなかった。劉備は、
「よーし、よし。拙者らは怪しい者ではない。もう恐くないぞう。ほーら」
夜泣き疳《かん》の虫に困ったなと背中をぼんぼんと撫でてやっている。たまに阿斗(後の劉禅)の子守をしていることが役に立った。
「おぬしらは顔が恐すぎる。少し離れておれ」
と言われた関羽、張飛は苦虫を噛みつぶしたような顔で離れて立った。
やがて諸葛均の恐慌も収まり、なんとか人心地を取り戻したようだ。劉備はあらためて挨拶し、
「ご令兄、臥竜先生はご在宅でしょうか」
と訊いた。諸葛均は、
「は、はい。昨夕戻って参りました。今日は面会できると思いまする」
と答えると、最初四つんばいで、ややあって膝立ちとなり、がくがくした腰のまま坂を転げ落ちるように逃げ去ってしまった。劉備は複雑な表情を浮かべ、
「そうか。今度こそ会えるのか」
ともの悲しそうに言った。
「ケッ、なんだあの野郎。おれたちを家まで案内してよさそうなものなのに、とっとと行っちまいやがって」
と、パニック野郎めが、と張飛が舌打ちした。
「人それぞれ、何か用事があるものだ。無理強いするものではない」
凶悪な強盗に見えなくもない三人を恐がって逃げたのは明白だが、それは認めたくない。
諸葛均の走って逃げる後ろ姿におのれの何かを見出したような劉備が、
「今日は居るらしい……そういうわけだから、わしらも帰ろうか、ダーッハッハッ」
と言ったが、わるいジョークだと思われてしまう。
「冗談じゃありませんぞ。今日こそけりをつけ、二度と足労することなくすべきでしょう」
と関羽に言われる。
「もらったぜ。おれの蛇矛も血を吸いたがって、泣いてやがる」
張飛はくねくねした刃をべろりと舌で舐めた。
気になると言えば張飛の一丈八尺の蛇矛である。張飛の蛇矛は、簡単に言えば柄に蛇のようにくねった穂先がついた変形槍なのであるが、そのくねり刃は使い勝手から見てもあまり意味のなさそうな珍兵器ではある。これは張飛が鍛冶屋に特注して鍛《う》たせたものであり、張飛に何故かと訊けば、
「こいつで斬られたら傷はふさがんねえぞ。斬られた奴らが苦しみのたうつのがたまらぬえじゃねえか。ほんとうはノコギリ刃をつけたいところだが、戦さ場じゃ押し引きしている間はねえからな」
とただの残酷趣味、Sなことを率直に答えるはずだ、おそらく。
臥竜在宅、の事実を知ってからなんだかむずがりだした劉備、
「いや本日は日がよくない。やはり帰ろう」
などと言ってだだをこね始めた。
「兄上、いまさら何を言っておるのです」
「偏、ぽんぽんが痛いの」
「ならば孔明の家で借りればよろしかろう」
「あ、阿斗の泣き声が聞こえる。新野に、むすこに何かあったのだっ」
「幻聴にござろう」
途中からは愛想のない関羽に引っ立てられるように進んだ。
呪い憧れてきた孔明にようやく会えるというのに、劉備の心中にはなんとも言いようのない怯《ひる》みが生まれていた。人としてやってはいけないことをやろうとしているという罪悪感か、それとも、鏡に映るおのれの真の姿を見たくないという犯禁感か、運ばれる途中で自分が生贄にされると気づいた仔牛の悲しみか。
「兄上、ここまで来て何を尻込みなさる」
そういう関羽も、なんだかいやーな予感がせり上がっていて、行かずにすませられるならそうしたい気分である。だが天下の偉丈夫関羽は劉備の尻のひっぱたき役も任じている。
「諸葛亮が恐いのですか」
「ば、馬鹿なことを。このわしがどうして山野の青二才を恐れねばならん」
「では堂々と行きましょう」
「しかし雲長……かつて……いにしえに……」
劉備はここで故事を引き、かっこいいセリフを言って感嘆させ、引き返そうと計ったのだが、今日に限って舌の先から名調子が出てこない。
「どんな人間なのかを確かめるために来たのです。難しいことはござらん」
「そう言えばそうなんだが」
「まともな人間ならよし。妖異許すべからざる外道であったなら、ただ斬るのみ。ご案じめさるな、兄上の左右にはこの雲長と巽徳が控えており申す」
「関兄の言う通りだ。こうなったら兵があっちの山と、こっちの丘にそれぞれ五百人ばかし伏せていなきゃ却ってつまらぬえ。矢もどんどん降って来てくれんとな。げへへへ、斬って斬って斬り伏せて、血路を開き、この坂を血の川の流れのようにしてやる。任せてくれい、兄者には指一本触れさせねえ。残念だったな趙雲!」
と張飛もいつもとはちょっと変わった血気にはやっている。
「うぬーん」
義兄弟二人はあくまで前進あるのみだ(この二人にはそもそも後退の二文字がない)。
ただ劉備は初めて魔性の勘抜きの決断を迫られているのであり、それが気持ち悪く、逃げ出したくて仕方がないのであった。しかしその魔性の勘のせいでこれまで幾多のわけの分からない決断をして、結果的に敗北損耗してきたことを反省すれば、いい機会なのかも知れぬ。
(ええい、腐った勘など捨ててしまえ。この場で女々しく勘にすがるようでは、この劉備玄徳もそれまでの男。英雄の器じゃないということだ)
劉備は憂いの目をかっと見開いた。この世で唯二の義兄弟、関羽の顔を見、張飛の顔を見る。もう言葉はいらない。生贄にしたきゃ、勝手にしろや、と開き直った。気合一発、
「よっしゃあ! 臥竜孔明とやらを男一匹この劉備がとくと品定めしてくれん。行くぞ、雲長に飛弟! ついて参れっ」
「おらーっ」
「うおおおおーっ」
「畜生、こうなったら孔明と刺し違えてやるわい」
「おらおら張飛様のお通りだっ」
「関羽見参!」
と勝手に戦争突入だ。ひとり逆ギレ、劉備軍団の旗揚げ戦再び! やっぱり劉備軍団はこうでなければ。
突如として門前をどよもす鬨《とき》の声、ひょっこり顔をのぞかせた謎の童子(※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の孫)も突進してくる鬼武者三人に、さすがに血の気が引いている。思わず、
「敵襲でございます」
と叫んでしまうところであった。
「なんの騒ぎですか」
と、農衣姿の黄氏も飛んできた。
「あれなるは劉将軍にございます」
「まあ」
運命が土煙をあげながらやって来る、と思ったりして。
「奥様、機械歩兵を出撃させますか」
「それは無用でしょう。いんぎんにお取り次ぎしてさしあげなさい」
わたしも着替えて身支度しなくっちゃ、と黄氏は自宅に入っていった。
謎の童子は覚悟を決めて、門前に出た。向かってくる三人に深々とお辞儀した。劉備は息を切らしつつ、
「小僧! 臥竜先生に伝えい。天下の英雄劉備さまがお目にかかりに来たとな」
と逆上気味に怒鳴った。
ここから後世に不思議にも何の非難も起こされなかった孔明の大無礼が開始される。その非礼たるや臣下になろうとする者のそれではない。賢を度を越して敬う劉備玄徳の心の広さよ、美談となりはしても罪を責められないのはやはり孔明! だからか。
謎の童子は、今日の劉備は、面と向かうとどう見ても恐ろしい。以前の生意気ぶりは影も形もない。
「先生はご在宅で、ただいま草堂におられますが、お午睡《ひるね》中にて……お取り次ぎを」
劉備は、まだ邪魔する気か、と
「ならばわしから踏み込むまで」
どけい、とばかりに童子を突き飛ばし、門内にずかずか入っていった。関羽、張飛は門の左右に立ち、出入り口をがっちり固めている。
「出てこい孔明! 劉備玄徳参上っ」
下肥臭い庭の左右を見渡すと、離れの一堂、寝台の上に横たわる男が見えた。
(やつか)
劉備は草堂めがけて激しく歩いた。地をどたどたと踏みつけるのは寝ている男を起こすためである。草堂の階の下までわざとばたばた騒がしく来たが、男は釈迦の涅槃図《ねはんず》、すやすやと気持ちよさそうに昼寝をしている。
この時、孔明は本当に深く眠っていい夢を見ていたという説と、既に来訪を知っており油断無く目覚めて、わざと寝たふりをして劉備の忍耐を試したという説の二つがある。前者であれば、悪い奴ほどよく眠るというか、忙しい農民が昼だというのに働きもせず、居眠り三昧とはけしからない。後者であれば、なおさらタチが悪い。
劉備は階下に立って寝台の上の男を睨みつけていた。
(ほんとは起きてんだろ、この野郎)
時々、ごほんと咳をしたり、踵《かかと》を地面に打ち付けたり。孔明は寝返りを打って、起きるかと思ったら、なおすやすやである。
(寝てんのかーっ)
このまま草堂に駆け上がり、襟首掴み、額の左右にびんたを喰らわせて起こせばいいものを、劉備はそれが出来なかった。そりゃ、そうであろう。一応、配下に迎えるため礼儀を尽くしに来たのであるから、殴りつけたりしたら、話はおじゃんである。たんに唾吐きかけに来たにしても、気が収まらない。寝ぼけ野郎の目をきっちり開かせてから、脅す殴る蹴るをせねばなんとなく意味があるまい。
しかし孔明に言わせれば、寝ているからこそ臥竜! なのであり、起きている方が裏切りである。隆中の農民にも無理矢理「臥竜の眠り歌」を歌わせているのであり、目覚めていては洒落にならないではないか。
劉備は地を踏んだり、痰を吐いたり、わざとらしく咳き込みくしゃみしたり、放屁したり、あらゆる音を立てて寝ている男に存在を示していた。
(ええい、もう、こんな奴を子分にするのはヤメだ。一発ドスっといれてから帰ろう)
という思いと、
(いや、待ちに待ってやっと問題の臥竜に会えるのだ。ぶちのめすのは一言二言ものを言わせてからでも遅くはない)
という思いに揺れていた。いずれにしろ叩きのめす。
だがなお臥竜は夢の中。なんと孔明このとき、三時間ちかくも寝続けていたというから、凄まじい(というか、絶対に変)。そんなに寝ていたらもう夕方になり、夜眠れなくなるぞ。待っている(階下でうるさく下品な音を立てている)劉備もまた劉備で、意地とへそ曲がりのなせるわざか。『三国志』では劉備は拱手したまま立ちつくしていたというが、それでは賢者を尊ぶあまりというよりも、寝乱れた若い男を直立不動で見つめて三時間、かえってなんか薄気味悪い無礼なやつとしか思われなくなる。「劉備VS明」の初対決は不気味な無礼比べの様相を呈していた。
劉備が勢いよく乗り込んでいったはいいが、その後、悲鳴も命乞いの声も聞こえてこないので、張飛は不審に思い、庭先をそっと覗いてみた。すると草堂の外、劉備に直立不動の姿勢を取らせたまま、眠りこけている男が目に入った。
張飛の目がぎらりと光った。
「野郎……舐めやがって」
張飛はふところから火打ち石セットを取りだした。関羽が、
「翼徳、なにをするつもりだ」
「知れたこと、家に火ぃつけてやる。そんなに眠いんなら臥竜めを焼けただれさせながら永遠に眠らせてやる」
「待て」
「とめるな関兄、兄者をかかしのように立たせたまま、タヌキ寝入りを決め込むたぁ、生命知らずにもほどがあろうぜ。きっと奴はおれに殺してくれといっているんだ。望み通りにしてやるだけだ」
「やめんか。長兄には何かお考えがある様子」
「もちろん、どうやって嬲り殺そうか、決めかねているんだろう」
張飛と関羽がもつれあって門内に入ってきて、ぎゃあぎゃあ言っている。たちまち孔明の庵に充満する殺戮の気配。おっかなびっくり見ていた謎の童子も、孔明だけならともかく、自分まで虐殺されてはたまらないので、慌てて孔明を起こそうとした。
すると劉備は、
「まあ、いいから」
と童子を止め、張飛、関羽をきっと睨み付けた。
「ほれみろ、兄上はわけが分かって立っておられるのだ」
「ちっ。自分の手で始末するということか。やつは兄者の獲物だ。譲るのも仕方がねえな」
二人はすごすご門前に引き返した。
しかし端からすれば劉備は、竜神の廟に捧げられる生贄の如く、やるせなく一人立っている、と見える。
劉備の辛抱が限界に達しようとしたとき、寝台の男が目を開き、
「うーん」
とひと伸びをくれる。肘を立て、ゆっくりと身を起こしつつ、庭先に大柄なサルがいる、と思ったかどうか。唐突に歌い始めたのであった。
[#ここから3字下げ]
この世は大いなる夢、だれがまずそれを知るや
平生よりわれ自ずから知る
草堂にて春眠をむさぼり
窓の外では日が遅々としてすすむ
[#ここで字下げ終わり]
よく分からないが、孔明は昼寝からさめると一歌を歌う習慣でもあるらしい。決して外に劉備がいるから聞こえるように歌ったのではないのであった。外をちょいとでも見ればいいのに、謎の童子を呼んで、
「きゅうに夢が曇った。俗世にまみれた者がやって来たのか」
とあてこすりとしか思われないことを訊いた。すると童子は庭先を指して、
「劉皇叔が立ったまま待っておられます」
とさすがに申し訳なさそうに言った。
このやりとりを見ていた劉備はもう我慢の限界、堪忍袋の緒が切れ、いざ殴りつけん、と階を駆け上がろうとするその瞬機、孔明のほうが先に童子を張り飛ばしていた。ぎぇっ、と声を上げ吹っ飛ぶ童子、壁に叩きつけられた。それへ孔明するどく
「なに、劉皇叔とな! どうしてもっと早く言わなかったのか!」
と叱りつけた。童子は、うう、と唸っている。
突然のバイオレンスに劉備は階下に動きもならず、孔明は劉備の方はまったく見ず、
「寝間着姿でお会いするわけにはいかない。着替えをせねばならぬのに」
と独り言を大声で言い、寝台を下りてすたすたと奥に消えた。残された童子は、倒れてひくひく震えながら、
「ううう、痛いよう。おゆるし、ください、皇叔さま、孔明先生……」
とか言っているが、じつは手で覆い隠した顔は笑っており、舌を出していた。
臥竜、年端もいかぬ童子にすら妥協無き秋風酷烈の制裁をなす! 後につくる蜀科(蜀漢の法律)の厳格さがしのばれる。近い将来に泣いて馬謖を斬り殺したくてしょうがない! これで昼寝の無礼はちゃらにしてくれ、と劉備に訴えているような、童子得意の芝居なんだけど。
しばらくすると孔明、綸巾をかぶり身に鶴|※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《しょう》をまとってあらわれた。もちろん手には白羽扇、その姿、丈高く、飄々としてまことに神仙の観あり。劉備は初めて拝するその男に、ついさっきまでの過去の何もかもがすべて遠い昔のどうでもよい懐かしいものに変わってしまった(としか思われない)。
「劉皇叔、おあがりくだされよ」
客間に案内する。そして孔明、あらためて劉備に向かい合い、
「あるときは山東|瑯邪《ろうや》の蒼い流れ星、あるときは隆中の北斗七星、またあるときは梁父吟上竜王! しかしてその実態は(一介の小作人)わたしが姓は諸葛、名は亮、字は孔明、世間では臥竜と号《よ》ばれておる者にございます。初めてお目にかかります」
といきなり度肝を抜くような、さっき寝たふり中に考えついた適当な名乗りを叫んだ。劉備は、
(うわあ、かっこいい)
と思ってしまい、
「拙者、漢の左将軍、豫州牧……」
などと名乗るのが野暮ったくて嫌になった。負けてはならじと、がばと跪き、
「剣を取っては百戦百逃、※[#「さんずい+(琢−王)」、unicode6dbf]《たく》郡の冬将軍、放浪野郎一番星、天下分け目の遊び人、新野無宿、劉備玄徳でござる」
内心、なんかかっこわりい、と思っているが、かっこいい名乗りなどいつも考えて用意していなければすぐに出てくるものではない。
劉備と孔明、二人の人生が初めて出会い交わった運命の瞬間であった。孔明的には宇宙でたった一つの奇跡的ラブロマンである。
挨拶が済み、主客は卓子を挟んで対した。謎の童子がけろっとしてお茶を運んできた。わたしからすれば、ここは当然、アンドロイドがお茶を運んできて、劉備が仰天せねばならないところだと思われるが、『三国志』はそこまで悪乗りしていない。不思議である。
「それがし漢の末裔にして、※[#「さんずい+(琢−王)」、unicode6dbf]《たく》郡の死して屍拾うものなき糞馬鹿野郎にございますが、久しく先生のご高名をうけたまわり、耳を雷鳴に貫かれたような気持ちでおりました。せんだって二度お訪ねいたしましたが、不運にもお目にかかれず、書状をもって賤しい名前を記しおきましたれども、ご覧いただけたでしょうか」
と歯の浮くような申し条、話し方だけはいつもの劉備に戻っている。孔明は薄く笑い、
「わたしこそ南陽の野人、怠惰な者にて、しばしばなる将軍の枉駕《おうが》をうけることあいならず、愧《は》じいっております」
と答えた。
劉備の置き手紙はもちろん読んだ。タテマエだらけのつまらない文章であった。
(もっとはだかのキモチを書いてくれなきゃダメ)
孔明への脅迫はびしびし伝わったものの、ラブレターとしては不合格だ、と思ったものだ。
「あんな薄っぺらぺらの文章で何が伝わるとお思いか」
とまでは言わなかった(劉備が傷付くから)。のちにわたし(孔明)が書く予定の「出師の表」くらい泣かせるものを書いてみぃ。
「お手紙を拝読いたし、将軍の民を憂い国を憂うる真情は十分に分かりました。なれど当方、まだ三十にもならぬ若輩浅学の者、才乏しき身でありますれば、天下万民を如何にすべきかなど、何ともお答えしようがありません」
と首を左右にした。
「それがし司馬徳操や徐元直の(キレきった)推薦のことばを聞いております。あれがまるきり赤嘘だとは思われませぬ。臥竜先生、卑賤のこの身をなにとぞお見捨てなく、天下の道をお教え下されませい。天下万民のため!」
目にはみるみるうちに涙が溜まっており、劉備玄徳の得意技、必殺泣き落としが、劉備自身が意図するしないにかかわらず、ほとんど自動的に開始されていた。女の涙を信用するな、という言葉があるが、それは劉備にもあてはまり、うかつに信用してはいけないのだけれど、みな騙されるんだな、これが。
さっきまで殴り殺そうかと思っていた相手なのに、いざ事が始まってみると、ぐるんと回って、口説き落とさずにおらりょうか、となるのが劉備なのである。たとえ相手が親のカタキであっても劉備はこうするだろう。何をかいわん、是非はないのだ。
「おれのこの赤誠の涙を見よ! この涙を見てものを言えるのか」
と、いつも感情論、涙で反論封殺、たいてい劉備が一方的に泣きつく図となるのだが、劉備が卓子の上にぼたぼたと卑親の涙をこぼしながら、ちらりと孔明を見やると、
(おおっ、なんじゃ、ありゃあ)
なんと劉備の二倍以上になんなんとする涙が孔明の竜眼から滝のようにくだっているではないですか!
「水鏡先生や徐庶は天下に隠れもなき高士でありますが、このわたしは(天下から隠れなければならない)一農夫にすぎません。どうして天下を語ることなどできましょう(宇宙ならば語れますが)」
雨の如くくだる孔明の涙。まことに臥竜! というしかない。竜とは水を操る力を持つものなのだ。
「お二方は何か間違ってわたしの名を出したのです。なにゆえ将軍は美玉を捨てて石ころを拾おうとなさる。ダメでダメでほんとにダメで、いつまでたっても駄目なこのわたしなどを」
さらにぼたぼたと溢れる涙。思わず劉備は慰めに回ってしまう。
「先生、そんなことはありません。先生の才! わしは玉と石の見分けがつかぬ愚人ではありませんぞ(このあたり自信なし)」
「ですが天下万民などと言われても、このわたしには……」
孔明は、ぎゅっと拳を握りしめ、出てくる嗚咽をこらえて、それでもつい肩をふるわせ、可愛いんだか、うざったいんだか、でも止まらない青春の涙が、滔々《とうとう》たる長江の流れのように過ぎゆくのであった。劉備は別れ話を切り出した相手が人目のある喫茶店内で大泣きしはじめたときのように、おろおろして、
「すまん。おれが悪かった。泣かないでくれ。なっ、たのむからさ」
と言わんばかりの表情となった。酒席と同様、先に涙に酔った方が勝ちなのだ。憎いぞ、この孔明泣かせ。
いつの間にか立場は変なふうに変わっていた。みずからも泣きながら必死で機嫌をとる劉備と、その倍以上も泣きながらしゃくりあげる孔明、いつまで果てることもなし。もう孔明に天下救済の秘策があるとかどうとかいう話ではなくなっていた。そんなものは涙の前では無意味、どうでもいい。
ジェントリー劉備は、手ぬぐいを差し出しながら、ベイビーさあ、涙をお拭き、という感じで、
「大丈夫たる者、天下を治める奇才を持ちながら、山野に隠れて空しく老い朽ち果てるようなことをしてはなりませんぞ。どうか先生には天下万民のことなぞ後回しでよろしいから、まず愚かなそれがしをお救《たす》けお導き下され!」
と言った。
孔明は渡された手ぬぐいで涙を拭きながら、それでもとどまらぬ涙をもてあましたように、
「では先に将軍のお志をお聞かせねがいたい」
と、あなたの気持ちから先に言って、とか、そんなふうに訊いた。
劉備は頷くと、膝を進めて身を乗り出し、人払いして言った。
人払いされたので、これから二人の間で語られたことは誰にも分からない(はずだ)。
陳寿の『三國志』でも羅漢中《らかんちゅう》の『三国志演義』でも、この部分は、
「人払いして」
と書いてあり、ならばどうして内容を知ることができるのか。百歩譲って『三国志演義』は小説であるから、そのへんはでっち上げていてもべつに構わないとしよう。だが羅貰中は陳寿(裴松之も)を資料として大いに参考にしている。で、陳寿に、
「人払いしたあとの話を何故あんたがそんなに詳しく知っているんだ?」
と訊いても、
「そんなツッコミはやめて欲しい。反則だ」
と言う可能性がとても高いのである。前後の状況から見て、とかなんとか言うかも知れないが、『三國志』は歴代史書のなかでも一、二を争う前後の事情が分かりにくい書なのである。また「諸葛亮全集」を編纂していたらそんなことが書いてあったというかも知れないが、散逸しているから証拠がないわけだし、かりに書いてあっても孔明がこのときそんな話を劉備としたということは証明できない。どう考えても又聞きか推測となり、正確な発言であるはずがない。陳寿がノートを抱えて孔明と劉備の密談の場にいたのでない限り、どう弁解をしてやることも出来ない。
この件は司馬遷《しばせん》の『史記』に始まる中国史書の最大の欺瞞《ぎまん》、弱点であって、陳寿だけが悪いわけではない。もう司馬遷自体が、講釈師、見てきたやうに嘘を言ひ、というようなことばかりしているのである。『史記』の大半が小説だと言われるゆえんである。関羽の好きな『春秋左氏伝』だってそうである。つまりは、とくに二人きりでの談話発言部分の、史家の創作捏造疑惑である。この問題については中国の史家も当然気づいていたわけで、別に口を拭ったりせず、
「それでよし。つっこみに意味なし」
としてきた。『資治通鑑《しじつがん》』を書いた中国史上屈指の人歴史家、司馬|光《こう》などはあっさりと認める発言すらしている。これが伝統なのである。
これがよその国ではどうかというと密談は作らないようである。例えばジャンヌ・ダルクが初めてシャルル7世と会った際、シャルル7世は最初は神懸かりの狂った田舎娘だと思って言うことを信じなかった。しかし人払いして密談すること一時、シャルル7世は何か吹っ切れたような顔をして、ジャンヌに絶大なる信用を与え、多数の配下を付けてオルレアン城に送り出すのである。その密談の内容は密談なんだから論理上当然、不明とされており、ジャンヌも後の魔女裁判で黙秘し続けたから、史家は推測を述べるにとどめ、定説はない。
またフランス革命の前後のテロリストたちの数々の密謀、ジョセフ・フーシェやナポレオンの密談といったことも、ほとんど分からない。もしこれが中国であったなら、歴史書はその密談の内容を何故だかやたら事細かに記しているかも知れないのである。
臥竜岡の対面にも同じようなことが言える。年若く何の経験もないが、奇才の評判が高い孔明に会いに行った劉備は、人払いして話し込んだあと、大いに喜び、すっかり孔明に心服して、その後重用するようになった。具体的に何を話し込んだのか、関羽や張飛にもよく話さなかったから、両者は孔明に強い反感を抱くことになる。
密談の内容は、義理の二弟関羽、張飛よりも、劉備に会ったこともなく友達でもない読者の方が詳しく知っているわけだ。
まことに事実は虚実奇正《きょじつきせい》のはざまにある。これ以上言うと歴史小説自体が凄まじいまでの大欺瞞だという結論になりかねないから、やめておこう。
一応、嘘くさい定説では孔明は現状をきわめて正確に分析して語り、「隆中対」あるいは「草廬対」と呼ばれる大戦略を予言付きで大発表し、劉備を驚倒させたということになっている。これがいわゆる天下三分の計である。孔明は劉表、劉璋の悪口を言いまくり、前もって制作しておいた天府$シ蜀五十四郡の地図(やる気満々だ)までひっぱり出して虚実ないまぜの熱弁をふるったらしい。
南宋の大儒|朱子《しゅし》は、
「推《おも》うに、歴代、数言をもって天下の計を定めたるはまず諸葛亮の隆中対ならん」
とひいきひきたおしに褒めている。
この戦略はあくまで最終的に劉備が天下統一を完遂することを目指す策であって、三国|鼎立《ていりつ》はその前段階、プロセスでしかない。早々に二大国対決まで移行させるべきであった。しかし実際は曹操、孫権、劉備が形の上で三国をなしたまではいいが、それぞれ足をひっぱったり、つつき合ったり、内政充実(内政混乱)しているうちに膠着、最後には三国とも瓦解することになるのが歴史のオチである。
三国鼎立とはいうがその総合力を比にしめすと魏:呉:蜀=七:二:一くらいとなり、呉の足は針金、蜀の足はマッチ棒みたいなものである。均衡可能な差どころではない。しかし蜀とて小なりといえども天下なのであり、他に劣るところはないと無理にも錯覚させたことが孔明の恐ろしいところなのである。
天下三分の計は魯粛も似たような構想を孫権に語っていて、対華北曹操勢力という観点では他にも類似案を持った者もいたし、孔明オリジナルというわけではなさそうだ。ただし、曹操、孫権と異なり、勢力と呼ぶにはあまりにも弱小過ぎて領する土地すらない劉備軍団(ならびに梟雄とされてあまりに信用がない無責任男劉備)、これをもって三国の一鼎足にするとは誰も考えていなかったし(劉表、劉璋か、馬騰、張魯をもってならいくらか現実味はある)、ほぼあり得ないことであったのに、こここそ孔明のチャイニーズ・ドリームが現実化したというほかないのだが、実質二百人余りだった劉備軍団が七年足らずのうちに脆弱《ぜいじゃく》ながらも一国に仕上がっていたという点が魔術的なのである。戦さ下手、軍才なし、としばしば低評価される孔明だが、じつはそれすらわざとやっていたのであって、みな臥竜イリュージョンのうちにあったのだと言ってよいのかも知れない。
これには曹操とその幕僚たちも唖然としたろう。手も読みも早い曹操が、蜀漢の成立を妨害すべく動く機を失ったくらいに、孔明の奇策は曹操の想像外のところにあった(まさかまともな人間がそんな見え透いたおれおれ詐欺のようなことを働くとは、とか。だいたいみやこびとは「蜀」など辺境の鄙國《ひこく》くらいにしか思っていなかった)。
とにかくどだいが無茶な話であるから、聞いている劉備自身が、
「それはいかぬ」
「しのびない」
と何度も言い、涙をはらはらこぼしたとなっている。
まあとにかく隆中の田舎に農耕くらしをしている青年が、巨大なスケールの妄想を夢見ていたということだ。何しろ志が宇宙大なので、ビッグ・ファンタジー(ビッグ・マウスともいえる)はお手のものだった。そもそも天下はひとつしかないのに利己的に三つにするという点が既に(中華帝国というあり方の常識において)常軌を逸しており、詐欺の手口に近いわけだが、しかし宇宙というレベルから見れば中華の天下なぞミクロ、マクロ、無数にあっても構わなくなる。孔明がいつも宇宙という観点から物を考えていたからこそ出てくる奇策(まやかし)であったろう。
中年苦労人の劉備がそれをどこまで本気で聞いたか、ということが、『三国志』における謎のひとつではある。孔明が、
「今ならまだ間に合います。善は急げ、まずは余命幾ばくもない劉表を血祭りに上げて荊州を奪いましょう」
なあに宇宙からすれば、小さいことであり、不義にはなりません、とフォロー提言をしたにもかかわらず、劉備はまったく従っていない。せっかく手に入れた天才軍師の宝玉の如き最初の献策を一瞬にして蹴り砕いてしまうのである。孔明の大夢虚言に眉に唾を付けていたからだろうが、何のための三顧の礼だったのかと孔明ならすとも言いたくなろう。
劉備四十八歳、孔明二十八歳、我が子のような年齢差である。劉備が、
「けっ、世間知らずの小僧が。世の中そんなに甘くはねえんだよ」
と思ったとして不思議はないどころか、当然であるが、賢にへりくだり、善言は即ち採るという劉備主義はどうしたのか。それにしても、身の細る思いまでして配下にした臥竜孔明の策を聞き入れなかったのは、これまた劉備の天性のへそ曲がり、天の邪鬼な性格、魔性の勘のゆえであったとしか思われない(魔性の決断のせいでまた死ぬほど惨敗するんだが、それでこそ劉備玄徳)。これで孔明は、今後、劉備に策を聞かせたいときは、劉備を上回るひねくれた意地の悪いやり方を使わぬばならぬ、と考えたことは、その後のことからも分かるというものだ。
とにかくこの二人の関係は、通常言われているような、主君と深い信頼で結ばれた名臣、君臣の鑑といったものではなく、常に奇怪な緊張感が漂う、ただのあるじと家来というには程遠いものであって、それが端的にあらわれているのが劉備の異例中の異例な遺言、
「うちのせがれ(劉禅)が度《すく》いがたいバカだったら、お前(孔明)が代わって君主になっていいんだぞ」
として結実する。この劉備の遺言に対しては後世の史家は、
「すばらしい」
「奇怪千万」
「諸葛亮を金縛りにするとんち」
「腐ってる。腐りきっているよ、あんた!」
等々、議論百出、
「ふつう臣下に言える言葉ではない」ということだけは一致している。
劉備VS孔明の言うに言いにくい関係については、そのうち、おいおいと。
後世の人が二人の密談の内容を知ったうえで記念して作った詩。
[#ここから3字下げ]
豫州(劉備)当日弧窮を嘆きしに
なんぞ幸いなる、南陽に臥竜あらんとは
将来鼎足の分かれるところを知らんと欲せば
先生笑って指す、図画の中
[#ここで字下げ終わり]
茅塵《ぼうろ》を出ずして既に天下三分を知り、真に万古の人の及ぼざるところなり、というところ。
さて、密談すること数刻、何を話したのかわからないにしろ、劉備はいたくご満悦となっていた。一方孔明は、何故だかまだ泣いている。
「それがしは名もなく貧しく美しく、仁徳も薄い身でありますが、どうか先生、こんな卑賤なわたしをお見捨てなく、山から出てお教えをくださりませんか」
劉備は繰り返し、自分は卑賤だ卑賤だ、と自慢するように言うわけだが、本気でそう思っているのか?
「拙者は中山靖王が末裔」
と唯一誇れる(虚偽くさい)筋目の良さをところどころで威張っている男なのである。もうこれだけで劉備がいかに言辞にいい加減で、相手によって態度を変える、巧言令色漢であるかがよく分かる。無計画なあぶない世渡りの挙げ句、煮ても焼いても食えないなら揚げてはどうかという男と化してしまっているのだ。孔明、それは当然承知している。こんな危険な男と手を組むのは身の破滅である。
「わたしは長らく畑仕事の醍醐味を満喫する暮らしをしておりましたので、怠け居眠りに慣れ、ご下命には沿いかねます」
真面目な農耕青年が怠惰であるはずはない。また天下三分の計を地図まで作って練っているはずはない。だが、そんな理由はこの場では関係がない。
(ちいっ)
劉備はまたぶわっと涙を吹き出させた。
「先生が出馬なさらねば、蒼生《そうせい》(よりまずは自分)はどうなりましょうや」
と、いきなり人の肩に蒼生(天下人民)という荷物をしょわせてしまう迷惑窮まる押しつけがましさだ。また天下の人々は自分たちがあずかり知らないところで、勝手に孔明のなすがままにされようとしていることを知れば、断然、怒るに違いない。
劉備はあとははらはらと涙をこぼすだけ、襟から上衣までびっしょりにしてしまった。この姿に孔明、その意はなはだ誠なる、と感じ、三顧下問に感激して、劉備の手中に落ちたというのが『三国志』の定説である。
(※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》先生ならば、平然として、そんなことは知らん、と言うのだろうが。わたしはちがう)
孔明はこのへんが締めどころと思ったか、袖で涙を拭うと、
「将軍がわたしをお見棄てなくば、犬馬の労を尽くすでしょう」
と言った。ここも要注意で、孔明は劉備が(関羽、張飛以外は)しばしば人を見捨ててきた不誠実さを知っているから、念を押すように言ったのである。逆に言えば、
「もし見捨てるそぶりでもあったら、さっさと別れる」
ということだ。仁徳の人にして情けないほどの信用の無さというしかない。
「おおう。ありがたや」
(泣き勝った!)
「これにて天下は救われ申す」
劉備はめそめそするのをやめると、しんみりなんともいい顔で言った。尽きるに劉備の魅力とはこのいい顔なのであった。
長年の積雲の晴れて、吹っ切れたような明るい顔をした劉備が表に出てきて、関羽と張飛をさし招いた。
「兄者」
「無事でしたか」
「無事どころか、ムフフフ」
来るときとは人が変わったようないい機嫌であった。しかし関羽も張飛も泣きすぎの腫れぼったい目に気がついている。
「兄上、面白い話でしたか、それとも悲しい話でしたか」
「うぬ。一口では言えん。雲長、恥ずかしいからあまり聞いてくれるな」
とぽっと顔を染めたりする。いったい何の話をしたんだか。持病の淋病《りんびょう》の治し方を聞いて喜んでいる、と書いてあっても否定できない嬉しがりようであった。
そして背後から綸巾鶴|※[#「敞/毛」、第3水準1-86-46、unicode6c05]《しょう》の孔明があらわれた。こちらも泣きはらした後の赤い日であった。孔明も襟までびしょびしょに濡れていた。
「なんでえ、兄者、まさかこやっと二人で抱き合って泣いておったというわけではなかろうな」
「ダーッハッハッ、言わんでくれい。天下万民の悲惨を思うと先生もわしも自然に涙がこぼれて仕方がないのだ」
孔明は、
「関将軍に張将軍にあらせられますな」
と言って深々と拝礼した。
「諸葛孔明にございます。たった今、お二人につぐ兄弟とさせていただくことになりました。以後、よろしくお引き回しされたし」
決して劉備の臣下になったのではない、お二人と同格だ、と言っている。
「おれらに次ぐ兄弟だと?」
と言う。関羽はなお疑い深そうな表情である。
「そんなことは後でよい。土産だ。先生に礼物をさしあげぬか」
と劉備が言った。進物は馬に積んで坂の下にある。しかし孔明は、
「そんなものは受け取れません」
と言う。劉備は、
「いや、先生をお招きするための進物にあらず。それがしの寸志であるゆえ、受け取られよ」
と言った。要するに公にできるような贈り物ではなく、わがへそくり、一種の賄賂のようなものであるから、遠慮無く受け取って欲しいということで、そんなものならなおさら受け取れないはずなのに、清廉潔白なはずの孔明は、
「ならば喜んで」
と受け取ることにしたのは、どうにも理屈が分からないところである。一面会にして私金を共有するようないやに馴れ馴れしい関係になっていたとしか解することができない。
「はや夕暮れ、今日は我が家に御一泊していってくださらぬか。わが妻のとても美味《おい》しい手料理などでもてなしたい」
たぶん、メイン料理はうどんなんだろうが、孔明申し出るに、この邸が幽霊屋敷のようで恐い張飛はあからさまに嫌そうな顔になった。
「おう。かたじけない」
と劉備が相談もせずにさっさと決めてしまった。関羽もむっとした表情になる。しかし劉備は一顧だにせず、孔明と笑いあっている。こんな調子だったから、後に、関羽と張飛が孔明にゴロを仕掛けたくなったのも無理はない。
しかしひとたび酒が入ればもう張飛は張飛でしかなくなる。
「おう。あなたが臥竜の細君か。見るからに(顔が)竜女である」
と黄氏に唾を飛ばして話しかけ、
「是非とも貴女ご自慢の自動機兵とやらと一勝負つかまつりたい」
とくだを巻いている。諸葛均は出かけているから、機甲歩兵の出撃はない。黄氏は見るからに血の匂いが漂ってきそうな張飛を相手にしても、べつだんおそれるふうもない。黄家の奥にいたのではとうてい付き合うこともなかったろう、率直きわまる単細胞な豪傑に興味津々の様子であった。
「わたくし聞きまするに、お三方は世にも稀なる深い契りを結んだとのこと。そのお話を聞きとうございます」
「おお、妻女がご所望ぞ。兄者たちよ、ひさしぶりにあれをやろうではないか」
劉備は、
「よっしゃ、先生の入団祝いにわれらの(疑わしがられている)結成伝説を見知っていただこう」
と立ち上がる。関羽は、
(またあれをやるのか)
と、しぶしぶであった。
こうしてリビング・レジェンドたちが、桃園の誓いの芝居を見せてくれた。芝居と言っても、劉備はほとんど本気であり、迫真異常な熱の入れようで、たちまち涙を数行下らせた。三人が臂《ひじ》をがしりと交わして相加え、盃を乾して声を合わせる。
「われら三|義兄弟《きょうだい》、生まれた日にちは違っても、死ぬときは一緒っ(趙雲は違うけど)!」
関羽もむかしを思い出し、じーんとしてくるのか、くすべた棗《なつめ》のような目に涙がたまり、髯が震える。
黄氏は拍手喝采、やんややんや、孔明も白羽扇を大きく振っている。
「うおーっ、燃えてきたぜ。おれたちゃ年中青春真っ盛りだ」
張飛はおもてに飛び出し、蛇矛を振り回して胸のたぎりをうち晴らす。
この寸劇は、劉備たちが曹操と組んで呂布を倒した後、許都の居候となったときに完成させたものである。当時、居候三杯目にはそっと出し、というような肩身の狭い暮らしをしていたとき、梟雄劉備と豪傑二弟(珍獣)を一目見たいというお大尽たちによく宴席晩餐に招かれ、ここに至る身の上話などをしていた。ただでお情け飯を食わせてもらうのは、武人として恥じるところだから、芸人としては身の上話を脚色し、かなり大げさにして演じることにしたのである。
これが馬鹿うけして、あちらこちらのお座敷から声が掛かるようになり、しまいには献帝の前で演じることになり……。最初は学芸会並の演技だったのが、いつしか事実と見紛うばかりの身に付きぶりであった。以後、劉備三兄弟のとっておきの宴会芸となり、滅多なことでは披露しない貴重なものである。
かなり痛飲してべろべろになったあと、劉備たちは客間の一室に放り込まれた。客間といっても土剥き出しの、家畜小屋のような房である。
「かれらは結義以降、しばしばよく三人で一室に寝《やす》んだというから、あれでよいだろう」
いやに男臭いやつらは軍旅にあっても平時でも、いつも一緒の部屋で寝起きしていたというから、仲がよいというか、むさくるしいことこの上ない。関羽、張飛に女ができて、家族持ちになったあとも、三人で寝ることはやめなかったというから、愛人たちは奇妙に感じるとともにあきれ返ったろう。
孔明と黄氏は炉端に戻り、二人でまた盃を重ねた。関羽、張飛が酔いつぶれてしまったというのに、孔明夫妻はまったく平気であった。仙の術のしからしむところなのか、凄いうわばみなのか。
「これから先、そなたにはへんな苦労をかけることになる」
と孔明が爽やかに言うと、黄氏は、
「いえいえ、ぜんぜん。孔明さまといっしょなら、むしろ楽しみにございます」
と言った。
「ふ、さすがはわが妻、いとしいことをいう」
「さきほどは劉将軍と何をお話しになられたのですか」
孔明は、即座に、
「宇宙の話をしただけである」
と言った。孔明に他の話題があろうはずがない。
黄氏は孔明に身を寄せかけた。
「どうして劉将軍をお選びになったのでしょう」
劉備にしたがうことにした決め手はなんだったのか、きいた。孔明は少し考えて、
「涙が止まらなかったからである、と言っておこう。あの変な男の、このわたしが骨を拾ってやらねば、あまりにも可哀相ではないか」
とこたえた。※[#「まだれ+龍」、第3水準1-94-86、unicode9f90]《ほう》徳公の仕掛けにもさんざんいじめられたろうし。籠ざるを伏せて縁を糸のついた木の枝で支えた、雀でも引っかからなそうなわなをつくって、すっかり忘れていたところに、なぜか猿がかかってもがいていたんで、しょうがねえなぁ、というところ。
「はい。みなさまかわいらしいお方ですからね」
女子の偉大さのひとつは、どうしようもないグレ者、極道者、乱暴者でも「可愛い」の二言で覆い包んでしまえるところにある。
孔明は黄氏に口接した。
「寝所へまいろうか」
「はい……」
孔明が、晩年まで(四十六歳)実子が生まれなかったのは、身体が弱かったからだというが、そうではなかろう。兄の諸葛瑾から養子(喬《きょう》)を貰うことが決まっていたので、後で家がゴタゴタするのもよくないと思い、控えていたのだというのも違うだろう。察するに仙道房中術の秘法かなにかをふたりでしっぽり研究していたからに決まっている。
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孤窮の玄徳天下を走り
独り新野に居して民の厄を愁《うれ》う
南陽の臥竜大志あり
腹内の雄兵正奇を分かつ
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さてようよう孔明出廬にあいなりまして、講釈師の文句も一段落したというところ。いざ臥竜、山を下れば、右に大風、左に大波、上に天雷、下に地震、天下に騒擾《そうじょう》、宇宙に遍《あまね》く大迷惑は必然なり。その災害禍福についてはまたいずれ。
却説《さてと》きなん。
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[#地付き]初出■「別冊文藝春秋」第二三七号〜第二五一号
底本
文藝春秋
泣《な》き虫《むし》弱虫《よわむし》諸葛孔明《しょかつこうめい》
二〇〇四年十一月二十五日 第一刷発行
著者――酒見《さけみ》賢一《けんいち》