後宮小説
酒見賢一
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後宮小説・目次
崩御
宮女狩り
入宮
双槐樹
仮宮
女大学
後宮哲学
卵
淫雅語
銀正妃
喪服の流行
前夜の絵巻
幻影達の乱
北磐関
後宮軍隊
受胎
縦横
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崩御《ほうぎょ》
腹上死であった、と記載されている。
腹英三十四年、現代の暦で見れば一六〇七年のことである。
歴史書というものは当時の人間が書くものではなく、後代の人間が書くものである。更に言えは次の王朝の史官が書くのが通例である。よって、この歴史書の筆者は王の腹上死を実際に目撃したわけではないし、直接に調査し得たわけでもない。
帝王が急逝した際の正式の、つまり官製の発表は心臓|麻痺《まひ》であった。それ以外のことは民衆には伝えられてはいない。
だが、好奇心をくすぐる噂はまことしやかに流れるものである。それが、天下一の貴人に関するものであるならばなおさらである。噂は官憲を憚《はばか》りつつも速やかに流れていったようである。
「天子様は後宮《こうきゅう》で亡くなられたらしい」
「お好きな方でいらっしゃったからなあ。有り得ないことではないな」
「とすれば、それは畏《おそ》れながら房事《ぼうじ》の最中に違いあるまい」
「そうかもなぁ。場所が場所だからなぁ」
「とすればだ」
その話者は心持ち声を低くして続ける。
「奇麗な夫人の上であったろうことは疑いない」
「いや、畏れ多いことだが下であったかもしれん」
「なるほど、そうかもしれないが、そうに違いなくもあるな」
「お好きな方であったからなぁ」
「本当に……」
かくして、この事の話が実話として民間に語り継がれ、伝承となり、後の史官の採録するところとなる。
また、後宮に仕える唯一の男性的種族である宦官が、事を処理することになる。
自分の腹上で急に帝王に死なれた婦人が動転して悲鳴を上げると、隣室に控えていた当番の宦官が急行する。非常の際であるから後宮房事のしきたりは敢《あ》えて無視し、無礼にならぬように気をつけて、それでもどうしようもなく無礼に玉体を女から引き剥《は》がし、女を素っ裸のまま追い出し、そしておもむろに白いシーツを被《かぶ》せると、同僚を呼ぶ。
この宦官が屈折したインテリだったとする。もっとも宦官は大なり小なり屈折しているのが当然であるが、この場合教養があったことが重要なのである。人為的に非男性となったことに付きまとう劣等感と、帝王の最側近であるというプライド、さらに権勢欲、自己|顕示《けんじ》欲など性欲以外の欲望が複雑に天秤《てんびん》に掛けられてゆく。帝王の死のどさくさに宮廷勢力を拡大しようなどという大望を抱く度胸のない、比較的欲の寡《すくな》い宦官がもしかしたら自分の名前が後世にまで伝わるのではないかなどと考えたりする。彼はそのささやかな歴史的野望のために日記を付けていたりする。そんな習慣がなかったとしても、今日からとりあえず文章を作成する事にする。歴史資料として価値の高そうな、周囲を冷徹に観察し、自分のことはやや美化した、批評的な日記をである。その日記に今上《きんじょう》は実は後宮において腹上死を遂げたらしいと、非常に客観的な言い回しを用いて書いたとする。彼はインテリであるだけにどのような史料が最も残りやすいかを知っており、事実はどうあれその残りやすい史料こそが歴史となっていく事を知っている。そして、偶然に、その日記はごみとなる事を免れ、運の悪いことに後世の史官の目に入ってしまう。
民間の伝承と当事者の記載が一致し、かくて史書に、そっけなく、かつ、嘲弄《ちょうろう》したような一行が記される。
腹上死、と簡単に片付けたこの史官だが前王朝のことであるからのはなしで、自分の王がそういう他聞《たぶん》を憚るような死に方をしたら、そう大っぴらに書くことはできず、かの宦官と同じような事をしたであろう。
史官も歴史の登場人物であるからには、歴史に縛られる。当然の事か。
この稿を書くにあたり、拠《よ》ることになる文献は「素乾書《そかんしょ》」「乾史《かんし》」「素乾通鑑《そかんづがん》」の三種で、前二者は宮廷の史官によるいわゆる正史である。「素乾通鑑」は無官の歴史家|天山遯《てんざんとん》が著した歴史通釈の書であり、官に阿《おもね》らない点、正史と違った面白味がある。これから著者に材料を提供してくれるのは史官であるから、どうでもいい批判はこの辺で止めにしておくのが礼儀というものであろう。
銀河《ぎんが》は町で採集した風聞をよく家に持ち帰った。この日は帝王崩御を悼《いた》むため、民衆はあらゆる仕事を休み、家にて喪に服すべしとの布令がでていたため、父がいた。
「おい、お前も家にいろ。おれの酌《しゃく》でもして孝行のまねでもしろ」
と言った。どうも、朝から飲んでいたらしい。銀河の父は腕のいい陶器職人だったが、酒に目がなく、しかも弱く、酔えばあらゆる自制がふっ飛ぶといった酔態だった。ただし暴力沙汰に及ぶ事がほとんどないのが救いであろう。
「お父さん、腹上死って何?」
「ふ、腹上死。それがどうしたっていうんだ」
「町の人が言ってたよ。天子様は腹上死したんだって」
正気のときなら、子供が知ることではないと叱《しか》ったであろうが、銀河はついていた。
「腹上死ってのはな、つまり、まんこ[#「まんこ」に傍点]の途中で死んじまうことだ。昇天するんだから、めでたい死に方だろうな」
「へーえ。天子様だからそんないい死に方ができるのかな」
「いい死に方」
父は吹き出した。
「いい死に方には違いないが、笑い者だぞ」
「どうして?」
「格好が悪い。貴族は馬鹿だからそういう死に方ができるんだ」
銀河は好寄心旺盛な年頃であったから、さらに深い知識を得たかったのだが、邪魔が入った。
「子供に何の話をしてんの!」
母が怒鳴《どな》った。
「喧《やかま》しい。子供だから物を教えなきゃならんのだろうが」
「変なことは教えなくていいの!」
父は銀河の柔らかい栗色の髪の上に手を置いた。
「うるせえ婆《ばば》ぁだ。今度ゆっくり教えてやるから待ってな」
「うん」
銀河は期待しなかった。素面《しらふ》の時はくそ真面目な人であるから、きわどいことは喋《しゃべ》ってはくれないだろう。明日この続きを訊《き》けば青くなってしまうだろうとわかっている。
銀河はまた新しい事を知りに外へ出た。十三歳の銀河には天子崩御のことなどはとりあえずどうでもよく、自分の好奇心の趣く方向のほうが大事であった。ましてや天子の死が自分に関わりあってくるなど思い付きもしなかった。
『乱ノ前、新|正妃《せいひ》立ツ。幼名ヲ銀河卜称シ緒陀《おだ》県ノ民庶《みんしょ》ヨリ出ヅ。父母ノ名ハ知ラズ』
銀河の子供時代のことはこれだけしか分かっていなかった。銀河≠ニいう奇妙に涼やかな名を付けた両親の名前が伝わっていないのは残念なことである。
帝王の死が腹上死だったかどうかなどはどうでもいいことである。急逝した帝王、後に諡《おくりな》して腹宗《ふくそう》と呼ばれる。こういう諡がついたのは腹上死伝説とは無関係でないにしろ、大したユーモアだと思われ、ユーモアというより付けた者の度胸というべきかもしれない。腹宗は享年《きょうねん》四十八歳。彼には正妃が一人、后妃が二人、夫人が四人、嬪妃《ひんひ》が八人、※[#「女へん+(捷−てへん)」、第4水準2-5-61]婦《しょうふ》が十六人、美人が十六人、才人が十六人、宝林が三十二人、御女《ぎょじょ》が三十二人、采女《さいじょ》が三十二人の形式上の百五十九人の婦人のほかに、その他多数の女官を入れて約五百五十人からなる後宮があった。歴代王朝の例からすればやや少なめの規模の後宮である。腹宗の嫡子が王位を継ぐにあたって、定めにより、この後宮は解散させられる。
弱冠十七歳の皇太子のために、まず、宦官がやった仕事は新しい後宮作りであった。早急に新しい後宮を作るべく、宦官の各チームが広い国土の中を飛び回っている。後宮は宦官の棲み家でもある。いかな宦官でも後宮がなければその権を振るいようがない。
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宮女狩り
昔の宮女狩りは相当|酷《ひど》いこともやったらしい。まだ国土が矮小《わいしょう》で国民の数も寡《すくな》い時代のことである。宮女の、質はともかく量を集めることは困難に違いなかった。
腹宗から数えること六代前に伝説的な王がいる。衒宗《げんそう》という有名な皇帝であるが、彼の治世の時、この国の領土はかなりの拡大を見、また従来の中央集権制が改良されほぼ完全なものが仕上がった。こういう業績はあまり知られていず、彼の後宮事業のほうがよほどよく知られ研究されており、衒宗が知ったら遺憾《いかん》に思うであろう。
記録によれば衒宗は二千人からなる後宮を持っていた。この数字は表向きのもので、実際には六万人の女性が後宮に詰めていたと推定されている。
この史上空前の後宮が誕生するにあたり、この国の女性の四分の一が後宮に取られた。年齢は九歳から三十三歳までと幅広かった。
『民庶男子|尽《ことごと》ク寡《か》卜為り、恰《あたか》モ宮セラルルガ如シ。臣下、百姓《ひゃくせい》ノ枯レ果テンコトヲ怕《おそ》ル』
とある。意訳する。民衆の男たちは妻や恋人を取られ寡夫となり、まるで去勢されたようになった。臣下たちはこのままでは百姓(民衆)がいなくなってしまうと心配した。
非常事態であろう。
しかし、衒宗は諌言《かんげん》が大嫌いだったので誰も忠言に及ばず、後宮には陸続、六万の名花が生けられることとなった。ただし、衒宗は性的超人には程遠かったから、おそらく五万数千の花は手折られることがなかったはずである。けだし、不経済の極と言えよう。男にとっても悲劇であったが、女にとってもより悲劇的事態であった。
この反動として一時この国では男色が大流行した。また、領地を越えて異民族の女を掠奪《りゃくだつ》することも行われ、国家の知らぬところで戦闘が頻発《ひんぱつ》し、やがて大きな戦争となった。この戦争が、領土拡大のもととなったのだが衒宗没落の一因にもなった。
国家の生産性を脅《おびや》かし、経済を破綻《はたん》の寸前に追いやった衒宗の後宮が生み出したのは、後に述べる後宮古典の編纂《へんさん》と百二十六人の皇子と公主であった。
二百年ほど前までは宮女狩りなどと聞くと民衆は震え上がったものであった。長い鞭《むち》と剣を持った酷薄な宦官が若い娘を強奪していくのである。後宮に攫《さら》われた女のその後が全く分からない(分からないこともないが民衆まで情報が行き渡らなかったから)ものだから、後宮という語は人々にとって監獄か冥界と同じ意味をもっていた。年端もゆかぬ娘を奪われ、悲嘆にくれた親が多く自害した。若い夫婦は生木を裂かれるような思いを味わった。当然宦官を憎んだ。
だから、宮女狩りに任じられた宦官は非常に苦労して女を集めねばならず、心ならずも酷吏を演じて鬼となって見せねばならなかった。本当に酷《むご》い仕打ちで、家族や夫から女を引き剥がすように連れ去ることも、大いにあった。
また、運の悪い宦官は村ぐるみの抵抗に遭って叩き殺されたりもしている。宦官にとり宮女狩りは気の重い任務であった。
大方の宦官はこの役目を嫌がっていた様子で、後宮設立期には病を発する者が急に増えたり、ひどい例では「陽根が奇跡的に復活した」という辞職願を提出して退官しようとした者もいた。もっともこの宦官は嘘《うそ》がばれて斬首されている。
しかし、腹宗の二、三代くらい前から宮女狩りは楽な仕事になった。
宮女狩りにはかなり身分の高い宦官が自分の部下を引き連れて各国へ下る。たいていは自分の生国へゆく。彼らは途次、物見遊山の旅を楽しみ、故郷に錦《にしき》を飾ることができる。旅の間に悪どく賄賂《わいろ》を取り、巨財を築く者までいたらしい。
これも時代の流れである。後宮志向というか、そういう趨勢《すうせい》が若い女性を中心として社会に広まっていた。この風潮の生じた原因は国家が史上類がないほど富み、民衆が多くの情報に接することができるようになったからであると言われる。
後宮の交代、言い換えれば帝王の交代はおよそ十五〜四十年に一度ある。この頃の宦官たちは生涯で最も楽しみな時として、それが巡ってくるのを待った。
銀河の町にも、宮女狩りがやって来た。ここ緒陀地方出身の宦官では最も出世した真野《まの》という男が宮女募集の総責任者である。
槐暦《かいれき》元年の二月頃、辻々に高札が立った。今で言う募集広告である。その文を以下に示す。
[#ここから3字下げ]
宮女公募の要
先頃皇帝崩じ国家の安泰ここに休す。以為《おもえらく》、万民より窈窕《ようちょう》たる淑女を募り皇后を立てんと欲す。国家千年の安計、この地緒陀より礎《いしずえ》せん。余(真野)ことに計りてこの地に至るや、必ずや佳偶存せんと。
庶幾《ねが》わくは、淑女自ずから余の眼前に顕現し、以てその才色を示すべし。
[#ここで字下げ終わり]
真野の自筆であろうこの文章はあまりうまくない。意味は、国家安定のため、この緒陀の地からも後宮に淑女を募集したいので美貌と教義に自信のある人は私のところへ来てみてください、といったところである。
この他にも部下が手分けして目ぼしいところを捜してもいる。
銀河は、と書き出さざるを得ない。ここで、筆者は言いわけをするとともに、諒承《りょうしょう》を得ておかなければならない。実のところ筆者は銀河がどういういきさつで宮女募集に応募したのかさっぱり分かっていない。史料にはその辺の事情が明記されていないし、諸先生も後宮内における銀河から始めており、緒陀地方の一|田舎《いなか》娘がどういう動機から宮女を志したのか、本気になって研究してはいないのである。また、銀河が真野の宿までいったという事ではなく、真野の部下によるスカウトという形を取ったのかもしれず、全くはっきりしない。こういう巨大な欠落を糊塗《こと》するため、先ほどから長広舌を振るっているのだと思われても黙して謝するしかない。
だが、敢えて筆者は、銀河は、と書き出さざるを得ない。小説という形態が、所詮《しょせん》は事実に及び難いという諦めであろうか。あるいは、小説は事実に近付くべき義務など最初から持ってはいないという確認としてか。とにかく。
銀河は、辻々に立った高札を注意深く観察して来たようだった。読めない字は、そばにいる大人に容赦なく訊《き》いた。運よくこの日も父親は家にいた。ただし、酔ってはいない。
「お父さん」
と銀河は父に言った。
「うん?」
「宮女になると、いい暮らしができるって本当かなあ。もし、本当ならわたしもなりたいな」
父親は、思わず咳込《せきこ》んでしまった。
「馬鹿を言いなさい! 誰がそんなことを言った!」
普段は謹厳実直を絵に書いたような人である。食後の煙草《たばこ》を取り落とした。
「近所のお姉さんがそう言ってたし、隣のおばさんも」
「お前は宮女がどんなものか知らんのだ」
「どんなものなの?」
「知らんでも、よろしい」
「近所のお姉さんは、いい服が着れて、三食に昼寝が付いて、もし天子様の御寵愛《ごちょうあい》でも受ければ、したい放題の贅沢《ぜいたく》ができるって言ってたよ」
「う、そこらの軽薄な娘どもの無責任な話を信じるんじゃない。そんな話はでたらめだ」
「じゃ、本当はどうなの?」
銀河は執拗《しつよう》に切り込んでくる。父親は一瞬、銀河に誘導尋問をされているような気分になった。銀河が妙に早熟《ませ》てきたのを、
『近所の女どもが悪い』
と今の若い娘の浮薄きわまる生活態度のせいにして罵《ののし》った。父親は真面目で旧《ふる》い人間だったので、時代の流れをすぐに嘆かわしく受け取ってしまう。
宮女や女官は、若い娘たちにとって一種の地位と感じられていた。貧しい子だくさんの農民が、泣く泣くわが娘を宦官、あるいは人買いに売り、生計を維持した時代は昔のことになっており、自然に思考も変わっている。
世の中が貧しかろうと豊かだろうと決して廃《すた》れないのは売春という商売である。この国にはもともと売春は悪、恥であるといった思想はなく、おおらかであった。一応、悪いということになったのは、十世紀頃確立された道学のせいである。これは、常識的で堅苦しい学問で、民衆受けしそうもないものであるが、国家が徹底して押し付けたので、なんとなく定着してしまった。その定着が揺らぎ始めている。銀河の父は生き残りであるといえよう。
この時代の女性が、後宮と妓楼(悪く言え売春窟)を同列に考えていたというわけではないが、そういう感触の比較をしていたような文献がある。
「世の婦人がかように遊妓に趣き、剰《あまつさ》え入宮に趨《はし》るようになったのも、畢竟《ひっきょう》、羞恥の心を忘れたからであることは論を待たない。―中略―ただし、美、能兼ね備えた者が婦人|乍《なが》らに栄耀《えいよう》栄華を致さんと欲すれば、妓女となって富貴の者に引かれるか、王宮に属し妍《けん》を競いて章《あきら》かに成るほか無い」(「箕松《きしょう》先生随文」巻三)
この時代、女性の職業などはないに等しかった。貴族、富豪の娘は別として、庶民の娘が上昇志向を持った場合の手段として、後宮と妓楼が真っ先に浮かんだようである。
ただ、宮女狩りはいつでも行われるというものではない。自分が妙齢の頃に折よく帝王が崩御したという幸運がなければならない。
例外的に、後宮の新陳代謝を計る目的で再募集がなされるときがある。ただ、これが行われるのは後宮の学監(学司)が必要と判断したときに限られる。
不敬なことではあるが、そういう幸運に恵まれたら、まさに千載一遇の機会と言うべきであり、何を措《お》いてもこの機会に賭《か》けるべきであった。出世の点から見ても、帝王の寵妃《ちょうひ》になり子を宿すことでもあれば国母にでもなれるのである。望外破格の出世に違いない。思考として妓女より宮女のほうが高級と見られていたのはこの点による。
上昇を夢見る女性を浮薄と見るかはともかく、銀河の父はそう見ていた。
「信用するではない」
と銀河に言った。
「それじゃあ、後宮は本当はどんなところなの?」
「それは、よくわからない」
父は正直に言った。
「が、ろくでもないところに決まっている。ともかくだ、お前のような子供は縁のないところだ」
「そんなに子供でもないわ」
銀河はやや怒ったように言う。そして、ふくれっ面でまた出かけていった。
「落ち着きのないやつだ」
父親は溜め息まじりに言った。
それまで、黙って針仕事をしていた母親が言った。
「そろそろ、嫁の口でも探しましょう」
「嫁! まだ早くはないか」
「早くはありません。わたしが嫁《き》たのも十四でした。嫁《とつ》げば、落ち着きます」
そう言うと、母は再び針に目を落とした。
銀河は親不孝にもこの土地では嫁ぐことはなかったし、この両親の出番も残念ながらここで終わる。
各地の宮女募集は大変な盛況であったというが、絹陀地方はどうであったかというと、たいしたことはない。宦官真野は、最初から自分の出身地での宮女狩りを不利と考えてきた。緒陀は山間の隘地《あいち》にある。昔、蜴《えき》という名の国の都城があって強勢だったというくらいしか誇れることがない。蜴の王は広い平地を求めて遷都《せんと》していったから、緒陀自体はすぐまた静かになった。人々は畑に出るか、銀河の父のように窯業《ようぎょう》を営んだ。
戸数が少ない。真野はそれが苦であった。かと言って自分の故郷以外の地へ行くことは禁じられてはいないが、非常識だったので、敢えてやれなかった。
僻地《へきち》に近い田舎であるから、当節流行の上昇志向を持ち合わせた女も稀《まれ》で、それ以前にあかぬけた美人がほとんどいないはずである。
『ソノ容色、古今ノ名華ヲ凌駕《りょうが》シタリ』
と謳《うた》われるに至る銀河ではあるが、おそらくこれは皇后へのお世辞であって、実際は古今の名華を凌駕するほどではなかったと思われる。事情不明ながら、銀河が真野に選ばれたのは、銀河が天下一の才色を真野に認められたのではなく、銀河以上のもしくは銀河並みの者がここにいなかったからであろう。その証拠は、別に一県何人と選抜人数の規定があるわけではないのに、真野が銀河一人しか連れ帰らなかったことである。
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入宮
前章で後宮志向について述べた。
だが、よく考えてみるとこの事には阿呆《あほう》らしいほど重要な落とし穴がある。
政府は後宮内の情報を民間に公式に発表したことは未だかつてないのである。法律は、後宮ノ事、漏《も》ラスベカラズと定めている。現にごく一部の例外を除いて、後宮内の諸事情が一般に漏れたことはなかった。この時代の民衆が後宮に対して抱いているイメージは、ひどく当てにならぬ知識のもとに成立した錯覚のようなものであった。
冥界か監獄か三食昼寝付きか、実際に行ってみた者しか知ることができないのである。
後宮のイメージのもと種は、小説や芝居、以前宮女だったと称する女が著した回想録などである。
後宮は何らかの事情で後宮を解雇される宮女には沈黙を義務付けている。当局はかなり高額の口止め料を支給し、もし、約を違《たが》えれば即座にひっ捕らえて磔刑《たっけい》に処すると脅す。解雇されずに一時代を勤めた宮女は先帝の寵愛の程度によって上は皇太后から下は雑役娘まできちんと終身雇用されるようになっている。嫌なら尼寺に放り込まれることになり、結局世間に帰ることはない。
巷間《こうかん》に流布《るふ》するところの宮女回想録なるものは当局が実害なしと判定した程度の、実に胡散《うさん》くさい作者の手になる創作なのである。これから材を放った小説も芝居も全て虚構ということになる。「白梅曲」として広く世間に知られている、薄幸の宮女と美貌の宦官の道ならぬ恋の芝居は全く作り物なのである。
こういういい加減な情報をもとに後宮を目指す女性が大量に出頭していたわけである。銀河の父が浮薄と決めつけていたことは、この意味では正しいといえる。
この国にまた新しい後宮が生まれようとしている。先刻から、この国、と呼んでいるが、国であるからにはちゃんとした名称が存在する。
昔の民衆は特に自分がいる国の名前を知る必要はなかった。別にどうでもよかったからである。地上にはこの国のほかにも幾つもの国が存在している。しかし、民衆レベルでそれらと交流することは稀《まれ》であったから、他国との区別の必要上から名を知ることすら、必要なかった。自分の住む里の名を知っておれば十分であったろう。
僻地《へきち》じみた緒陀にいた銀河もやはり、国の名を知らなかった。今、初めて教えられた。
「素乾《そかん》国というのだ」
真野は噛《か》んで含めるように言った。
「それが、王家の姓でもある」
銀河が不思議そうな顔つきで黙っているので真野は念を押した。
「よろしいか」
銀河は道中この白鬚《はくしゅ》の宦官の堅苦しい話し方にうんざりしていた。
真野は宦官にしては教養があった。もと、進士に及第した官吏候補だったからだが、どういう事情か、自宮して宦官となった。自宮とは刑罰によってではなく、自分の意思で陽根を切り落とすことである。この時代、自宮は珍しいことではない。
真野の外見上の奇妙な点は、その誇らしげな翳《ひげ》にあった。これが奇妙だというのは、普通宦官となると内分泌系のバランスが崩れ、具体的には男性ホルモンの減少のため、男性的特徴に欠けてくる。宦官は大抵のっぺりした顔に妙にいじけた、卑屈な感じの目鼻立ちが付いて、中性的な外見となる。鬚など生えるはずがない。だが、なぜか真野には立派といってもいい鬚があった。医学的にこういうことがあり得るのかどうかわからないが、真野は生涯この鬚を自慢し続けた。自宮が不完全であったとも考えられる。
「よろしいか」
と真野はまた言った。
「よろしいわ、です」
と銀河はぎこちない言い方をした。
緒陀を出て半月以上が過ぎていた。銀河と真野と銀河の世話役の宦官が乗る豪勢な貴人用の馬車に揺られて旅を続けている。その馬車の前後に、真野の部下たちが乗り込んだ小さな馬車が三台、護衛の兵は徒歩で行く。
きらびやかな馬車を見たとき、これに乗って旅をするのかと考えると、銀河は飛び上がりたくなるほどに喜んだ。だが、一緒に真野が乗り込み、挙措《きょそ》動作、喋り方に至るまでこまごまと躾《しつけ》を始めたので興《きょう》の醒《さ》めること甚《はなは》だしかった。古典的教養主義者で、道学を修め、宮廷の儀礼典礼を諳《そら》んじるような男だったから、嫌気がさすくらいうるさい。
「でも、そのソカンとかいう名前が重要なことなの?」
銀河には、宮廷流の格式ばった話法はどうしても身につかなかった。気を抜くとすぐにいつもの調子になる。
「当り前ではないか。名前がなければ国の名分《めいぶん》というものが立たぬ」
真野は渋い顔で言った。
「わたしは生まれて初めて聞いたけど、これまで困ったことなんかないわ」
「お前のような卑賤《ひせん》の身には、国家の名分など必要ない。お前が困るの困らないのと言った問題ではないのだ。天子とこの国土にとって必要なものだからな」
「なんだ、それなら、なおのことわたしには重要じゃないじゃない。やっぱり、知っても知らなくても一緒だわ」
そう言って、大きなあくびをした。真野の面はさらに渋くなった。
もはや、説明の必要もないくらいだが、銀河がこうして旅をしているのは、銀河が宮女、正確には宮女候補に選抜されたからである。話の筋が飛んでいるが、理由は前に述べたとおりで筆者自身まごついている。銀河がいかなる理由で宮女に志願したかは、いつか気まぐれに銀河が語ってくれるのを待つしかないようだ。
ここ数日というもの真野は銀河に基本的な礼儀作法を教えようと躍起《やっき》になっていた。銀河を少ない志願者の中から、目に止め、選抜したのは真野とその腹心の部下である。銀河の目にあまるナイーブさを矯正《きょうせい》し、下層階級の小娘を少なくとも中層くらいに仕上げておく責任があった。
宦官真野は、銀河を携えて新しい王と後宮に臨むことになる。銀河は真野の手駒《てごま》なのである。
真野は道学的教養者ではあるが、だからといって、それを自分自身の思想としているわけではなく、聖人でも君子でもなかった。はっきり言えば、後宮内、すなわち内廷の権力争いに血道をあげる、至って俗な男であった。彼の道学者的|風貌《ふうぼう》は、敵への韜晦《とうかい》であるとともに武器でもある。
宦官が宮廷で勢力を拡大するには、まず、皇帝の寵を得なければならない。そのため古えより宦官はいろいろな手管《てくだ》を使ってきた。史上悪名を轟《とどろ》かす権勢家の宦官は例外なく、皇帝の寵を一身に受けた(というより手なずけたと言ったほうがいい場合も多い)者たちである。
宮女狩りは一つの機会である。己《おのれ》の手駒の宮女が皇帝の寵愛を得ることになれば非常に有利なこととなる。手駒が正夫人にでもなれば、皇帝に気にいられていない宦官であったとしでも手駒をコントロールすることによって皇帝を操縦できるかもしれない。
宦官は宮女狩りの際、おそろしく念入りに女を選抜しようとする。それは、剣士が良い剣を選ぶため慎重に目利きするのに似ている。佳《よ》い宮女は宦官にとっては良い武器なのである。
しかし、難しさはある。ただ佳ければいいというものでもない。人にはそれぞれ好みというものがある。至上の美女であろうと、好みという極めて主観的なフィルターを通して見れば、たいしたことはない美女に格下げされてしまうことも大いにある。この場合、真野を含めた高級宦官たちの心配は、皇太子、つまり、新帝の女の好みが判らないことである。女色の愉《たの》しみを識《し》って、しばらくすれば自ずとある好みが現れてくるであろう。だが、皇太子はおそらく童貞であったから、現段階ではその好みは判らない。
母親に似た女を好むとか、乳母《うば》に似た女がいいとか、父王の好みが遺伝するとか、そういう各説を考慮に入れつつ、真野は己の経験と美的感覚を総動員して宮女狩りに臨んだのであった。そして、銀河を連れてきた。この娘が皇太子の好みに適《かな》うかとうかは、真野のおそらく生涯最後の博奕《ばくち》となるであろう。
しかし、馬車が王都に近付くにつれ、
『これは、外れか』
と落胆を感ずることが多くなった。部下たちもそれには同意見のようだった。
「これは、見てくれは悪くはないのですが、中身がどうも頓狂《とんきょう》ですな」
銀河の世話係はときに真野にこう漏らした。それも銀河の目の前で言うので腹が立つ。
『せいらか(臍了乎)』
と銀河は腹の中で思っている。これは緒陀の方言で、大きなお世話だ、ほっとけ、という意味か。
「いいや、あきらめるのはまだ早い。時間はある。何とか仕上げる。田舎育ちだから仕方がないのだ。これからの研磨次第で内に章美なるものが現れてくるかもしれぬ」
と真野は言った。それに畏れ多いので口にこそ出さないが、
『皇太子は変な女が好みかもしれぬではないか』
とも思っている。
緒陀県から北師《ほくし》の素乾城まで、健脚の者が歩いて二月ほどかかった。馬車ならばもっと早かろうと思われるが、違う。緒陀から山北州の境に出るまでには三つの山嶺《さんれい》を越さねばならず、健脚の二月のうちひと月ほどがこの山岳地帯で費やされる。ここに限って、馬車のほうが旅しにくい。まず、馬が使えないので麓で人夫を買わねばならない。馬は駅に置いていく。人夫は輿《こし》をかついでゆくことになり、かなりの重労働である。そして、次の麓に入り、ここでまた人夫を買い替える。そういう仕組みであった。歩いたほうが早いのだが、宦官の脆弱《ぜいじゃく》な脚はそれに耐えられるはずがなく、真野たちの旅は四カ月以上を費やすことになる。
二つの山は越えた。一行は今、祭《さい》という山間の麓の里に宿している。
ここで、一つのエピソードがある。動きのあるものではないが、どの史書も必ず取り上げているものである。
ここにすでに十日も留まっていた。
最後の山である瓜祭《かさい》山に流賊の一党が巣くっているという報が入り、真野たちは怖気づいているという訳だった。銀河は馬鹿らしいし、勿体ないと思っていた。時間がである。
山間に流賊野盗の類がいるのは当り前の話で、旅人、商人らはいちいち気にしてはいられない。銀河も恐《こわ》いことは恐い。しかし、早く先へ進みたかった。この地の宿で、朝から晩まで、真野から行儀作法の特訓を受けるよりは、恐い思いをした方がましと思う。銀河が出発をせかすと、
「野伏《のぶせ》りがいるのだぞ」
と真野は言って出かける様子がない。
ついに、銀河は癇癪《かんしゃく》をおこして、飛び出した。銀河は最初無鉄砲に飛ひ出して、どこへ行こうとも思ってなかったが、立ち止まったとき役所の建物の前にいた。
偶然だったが、ここは衛所であった。駐在所のようなもので警察機能を持っている。ただし、祭の衛所は場所が場所だから情け無いほど小さく、分署の支署の支所的な規模で、所長一人と小間使いがいるのみである。
『いいところにあった』
と銀河は中に踏み込んだ。
祭の衛所長は赭《あか》ら顔の痩《や》せた老人であった。里の規模からして留守番程度の人間がいればよかったのである。
「何だ」
と一応、権柄《けんぺい》ずくに言った。相手が女童《めわらわ》だと分かると面倒臭そうに言った。
「よそで遊べ」
銀河は言った。
「盗賊を退治してちょうだい」
衛所長の某は、阿呆らしいといった顔付きで銀河を追い払おうとした。
「おじさんの仕事でしょう」
「違うな」
とにべもない。
「素乾書」によれは、某は銀河の威に打たれ、即座に行動を起こしたことになっているが、嘘であろう。「素乾通鑑」では天山遯が否定している。
『某ノ俄《にわ》カニ容ヲ改メタルハ、ソノ御鈴ヲ瞥《べっ》スレバナリ』
銀河は真野の持っていた鈴をせがみにせがんで、奪うようにして旅の間だけという条件付きで借り受けていた。この鈴は素乾の印が入った見事な銀細工物であって、過ぐる日、真野が副|太監《たいかん》という職に就いた時、下賜された物である。某はこの見るからに大層な鈴によって急に態度を改めたのである。
『そういえば、宮女狩りの一行が立ち寄っていたな。だが、もう十日も前のはなしだ。まだいるのだろうか』
「あんたは真野様の御一行か?」
とやや丁寧に言った。
盗賊が山にいるせいで出発できないのだと銀河が言うと、
「そう言われても、どうすることもできないノウ」
と困った。この衛所は本当に単なる留守番でしかない、武力を期待するのなら山の向う側の衛所に訴えて欲しい、といったことを弁解した。それに盗賊が渡ってきてしばらく居着くことなど珍しくもないから、頼んでみてもいちいち討伐などしてはくれないだろうとも言う。これでは真野の出発はいつになるかわからない。
「あーあ」
銀河は失望して、狭い衛所の土間に座り込んだ。この行儀を見れば真野はまた怒るであろう。
「どうでしょう、平勝《へいしょう》さんに頼まれては」
そう言ったのは小間使いの少年であった。
「平勝、あの極道者にか」
「はい。平勝さんはもうならず者のような真似はやめられて、まっとうに世のためになろうと組を作りました」
少年の口調には尊敬と憧《あこが》れが感じられた。
「ごろつきを集めて威勢を揚げていると聞いてはいるが」
某は疑い深そうに言った。
「いいえ。悪いことは二度となさぬと言っておられます」
「平勝さんてだれ?」
銀河が問うた。
「瓜祭の里のごろつきですよ。この頃仲間を集めて何ごとかやっておるようですが」
「平勝さんに警護を頼めばやってくれます。そういうことのために組を作られたんですから。何なら僕がひとっ走りして使いして来ましょう」
少年は熱心だった。銀河の返事も待たず、某が止めるよりも早く駆け出して行った。
「いいわよ。守ってくれるんなら」
と銀河が言うと、
「あまり薦《すす》められませんがナ」
と某は肩をすくめた。
銀河はとりあえず宿に帰った。真野にそういう段取りになったと報告した。
「余計をしおる」
真野は渋い顔になった。
「わしが無策にここで過ごしていると思うたか。あとしばらく待てば出城に頼んでおいた衛兵らがやって来ようものを」
「あとしばらくって、いつよ」
「うむ、嵬崘塞《がいろんさい》からであるからあと十二、三日のことだろう」
なんという気長さか、と銀河は怒りつつも感心した。
「こっちのほうが早い」
平勝は明日にでも来ると少年は言った。早いほうにすべきだ、と銀河は力説した。真野は素姓の知れぬ者どもには信用がおけぬ、と反論した。結局、真野の部下たちもこの里の滞在に飽き飽きしていたようで、銀河の案をとりなしたので、真野も渋々ながら承知した。そして、小声で漏らしたのだが、
「その平勝とかに礼金を出さねばならなくなろうが」
と真野は案外に吝嗇《りんしょく》な本音を吐いた。宦官のけちとは真野においても例外ではなかった。
平勝、後に幻影達《げんえいたつ》と称して大乱を起こすことになる男は、この頃は田舎のごろつきの大将でしかない。彼が幻影達と書いてイリューダ≠ニ西方風に訓《よ》ませるようになるのはこの時期の直後である。今、目の前の男は農夫そのままの格好で、ひどい訛《なまり》で喋る陽気な旦那であった。
「平勝と申します、以後お見知り置きを。わっしにおまかせ戴けりゃあ、道中流賊どもには指一本触れさせもしませんで」
平勝の横でむっつりしている坊主頭の男に向かって、
「ノウ、兄弟」
と大声で確認を取るように言う。坊主頭はにこりともせずにうなずいた。この坊主頭の男が後に「コントン」と呼ばれ、幻影達の乱の真の主役とも評されることになる。幻影達の乱が、別名|渾沌《こんとん》の役と呼ばれるのはこの男の重要性からである。本名は厄駘《やくたい》という変わった名である。
銀河と真野は輿の中に居るので彼らの姿を見ることはできなかった。真野の部下が、
「よろしくお願いいたす」
と宦官特有の甲高《かんだか》い声で言うと、行進が始まった。平勝の部下は総勢五十六人ほどで、たいした組ではない。もともとの護衛と人夫とを入れると百名近くになり、この数だけで流賊除けには十分と言えよう。
三日後には瓜祭山を越えることができた。
真野が驚いたのは、謝礼に差し出した金子《きんす》を平勝が頑として受け取らなかったことである。これは今までの罪滅ぼしのための義行だからだという。
真野は喜んで、珍しい義人じゃと言った。かといって、興を下りて礼を述べようとはしなかった。銀河はさっと輿から出ると、平勝たちの前に行って、
「苦労であった。助かりました」
と真野に教えられた所作で礼を述べた。本当に感謝しているから、本式でやった方がいいと思ったのである。しかし、平勝たちは可笑《おか》しさを堪えている。銀河の言葉と動きには、貴人の所作に似つかわしくない活発さが溢《あふ》れていた。それが可愛らしくもあり滑稽《こっけい》でもあった。
「ういや、こんくらいんが、どんなか(いやあ、このくらい、どうということはありません)」
と平勝は方言丸出しで言った。
銀河は平勝たちを初めて見たが、
『面白そうな、おっちゃん』
と思った。愉快そうに笑う平勝に釣られて笑った。坊主頭の厄駘も珍しく笑っている。
輿から真野の咳払いが聞こえたので、銀河はもう一度礼を言った。
「本当に、ありがとう」
普通に言うと輿に戻った。
平勝たちは輿が馬に繋《つな》がれ馬車となり、去って行くのを見送っていた。
平勝は銀河が宮女になることを聞き知っており、こう言った。
『宮淫ニ如《し》カザルノミ』
宮廷の淫妾《しんしょう》にすぎないのだ。その言には宮廷に対する侮蔑《ぶべつ》が漲《みなぎ》っていた。いまでこそ妙な善行をおこなって過ごしているが、もともと博奕好きのならず者で、宮廷嫌いである。銀河はなるほど美しい、しかし、宮淫になろうとするつまらぬ女だ。そう言い捨てた。
厄駘は、別なことを言った。
『豈《あ》ニ至美ナランヤ』
平勝のようなとらわれはなく、単に心の混沌の中に浮かんだことを口に出した、そんな印象である。「美の至りだ」とポツリと言った。平勝など問題にならぬほどの危険思想を持つくせに、思想を自分の感覚に少しも関わらせることがない、そういう人間であった。
この二つのせりふを誰が聞いていて伝えたのかには、疑問が残るが(そもそもこれは銀河の美しさを伝えんが為のエピソードとして各史書は持ち出している)、それが伝説であれ平勝(幻影達)、厄駘(渾沌)の後の何事かを暗示しているようだ。
真野は日々懸命に、口のきき方から立ち居振舞までを銀河にしつけようとしている。
道中銀河に合わせた美しい着物を作ってやったりもした。銀河は故郷では姿袍《しほう》と一般に呼ばれる服を着ていた。緒陀の俗としては女童は姿袍を身につけ、成人し人の妻になると都風の衣装にかえる。姿袍は都の人が見れば戎衣《じゅうい》か、と思うほど簡素なもので、狩猟民時代の名残りでもあった。現代風に言えばワンピースに似たもので、材質は麻でも獣皮でも絹でもよい。
真野が作らせたのは、王都で流行している裾《すそ》が長く、袖《そで》が寛《ゆる》やかな、派手な色調の袍衣であった。それを銀河に着せ、自然に伸ばしたままの髪も公女のように結うと、宦官の身でさえはっとするほどの姫君が出来上がった。
「馬子にも衣装とはこのことか」
と真野は嬉《うれ》しそうに言った。このような服を着ておれば粗野な振舞もやむのではないかと期待した。
流行の装いは銀河本人には不評たった。
「勿体ないことを言うな。お前があの国で暮らしておるかぎり、一生、このような美しい姿には縁がなかったものを」
泣いて感謝しろとても言いたげな真野であった。
『否。コノ袍衣便ニアラズ』
便利ではないと銀河は言ったようである。
『※[#「袴」の俗字、「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85]子《ずぼん》ハ狭ニシテ且ツ長ク足脚ノ駆動ヲ阻《はば》ミ歩行ヲ害《そこな》フコト甚ダシ。亦《また》、履《くつ》ハ踵部《かかと》高ク、惧《あや》フシ』
と実用性を重んじる理由を述べたという。しかし、簡単に言えば、
「邪魔っけで、危っかしい。これじゃ遊べやしない」
ということで、実用主義、合理主義的観点があったわけではなさそうである。童子的意見であった。ただ、銀河が美装を嫌ったかというと、そういうわけでもない。後の銀河がかなりのファッションセンスを発揮していることからも分かる。
そして、真野以下を失望させたことには、すぐさま脱いでしまった。
馬車が北師に入る前日、ついに真野は悲鳴を上げた。ついでに匙《さじ》も投げてしまった。
「お前はこれから後宮に仕える身なのだぞ、わかっているのか! お前は宮女狩りに応募したのだろう。多数の志願者の中から選ばれた幸運を何だと思っておるのだ。かりにも、宮女たらんとするのなら嫌々ながらにでも、多少の礼儀作法を身につけるべく努力すべきところであろうが、ええい。もうわしは知らぬ!」
銀河は無邪気な顔をしてかしこまっている。
「そんなに怒らなくても。たしかに、お行儀は身につかなかったけど、身につかないなりに何か身についていると思うから、丸損というわけでもないわ」
とよくわからないこと言って、真野をなぐさめた。銀河の特徴である、神秘的にきらきら光る黒い瞳は、また、無邪気そのものであった。その瞳だけを見ればたいへんな聡明さをたたえているようにも見え、眩《まぶ》しさすら感じさせる。思えば真野はこの目に魅《ひ》かれて、銀河を選んだのであった。
「怒ってはおらぬ。ただ、呆《あき》れているのだ」
と真野は言った。
「お前は今上《きんじょう》のお側近くに仕えるべく、ここにやってきた」
真野は馬鹿馬鹿しいほどに基本的なことを訊《き》いてみた。いままで訊こう訊こうと思って、その度にあまりに馬鹿馬鹿しいので躊躇《ためら》ってきたことである。
「そもそもお前は、後宮がどんなところだか分かっておるのか?」
「いい服が着れて、三食に昼寝がついているところでしょ。隣のお姉さんが言ってたわ。それに、退屈しないところなら最高なんだけど」
「本気か? 戯《ざ》れておるのではあるまいな」
「違うの?」
真野は怒りではなく、もはや、後悔の念を起こしていた。しかし、ここまで来た以上、銀河を送り返すわけにもいかない。
翌日、北師の町に入った。銀河は馬車の窓に顔を寄せて素乾の首都の光景をどう見たのだろうか。
この頃北師は世界でも有数の人口をもっていた。その数は、三百万とも四百万とも言われ、実数は定かではない。ごった煮のような街には人間現象のあらゆる華々しさと猥雑《わいざつ》な爛熟《らんじゅく》模様がふつふつと滾《たぎ》っていた。当時、ここを訪れた西方諸国の人士は皆一様にその壮麗さを本国に伝えた。異質の文化もここまで極まるか、という驚きが溢れている。
僻陬《へきすう》の地から拉《らつ》し去られたかたちである銀河は、まず、珍しがった。都の過密した建物群、恐ろしいばかりの人通り、いずれも故郷の比ではない。行く人々の服装も、変わっているし、先に銀河が嫌った服装を皆は別段不便でもなさそうに、楽々と付けている。
身分の低い者は、低いなりに粗末な服装ながら堂々と閲歩《かっぽ》している。牛馬も大道を悠々と行き、まさにごった煮といった場面が展開された。銀河はしきりに声を出して賛嘆した。
「宮殿に着いたら、お前は他の宮女候補たちと研修にはいらねばならぬ」
真野はあくまで宮女候補という言葉を使った。それは、研修が済んでからはじめて宮女ということになるからである。
「ケンシュウって何?」
窓外を一心に見つめている銀河はうわの空で言った。
「研修というのは、後宮入りにあたっての教育期間のことだ。宮女の学校のようなものだな」
「学校! 一度行ってみたかったのよ。学校にまで行かしてくれるんだ」
「学校と言っても、普通の学校とは違う」
「かまわないわ。わたし普通の学校に行ったことがないもの」
喜んだ銀河は、思わず、真野ののっぺりとした頬に唇をあてた。接吻は緒陀地方の古俗で性的な意味合いのない場合でも用いられる。真野は同郷であるから分かっている。だが、彼の部下たちはそうは思わないだろう。
「いかん!」
真野は叫び、離した。
「そのようなことは皇帝にのみ行え。わかったか」
真野は顔がひどく慌《あわ》てており、手で頬を押さえ真っ赤になっている。銀河は真野がひどく怒っているのだと思って、すぐに頭を下げた。
「ごめんなさい」
「む。あ、謝らなくてもよい。が、つまりだ」
その時、馬車は城門をくぐり、停車した。真野は何か言おうとして口をもぐもぐさせていたが、そのため言うのをやめた。そして、代わりに素っ気なく言った。
「達者でな。研修が無事に終われば、また会えよう」
顎《あご》をしゃくって、行けと示した。
「それじゃ、さよなら」
銀河も名残惜しくあった。ゆっくりと手荷物をまとめると、真野を見て、馬車を飛んで降りた。そして、もう一度真野を返り見ると、ちょこんと礼をして、宮門へ向かった。その動作の素人臭さに真野は苦笑した。
『あの娘を連れてきたのは果たして成功か失敗か……』
真野はこの期《ご》に及んでも、まだそんなことを考えていた。真野は門の暗がりに消えて行く銀河の後姿を見つめながら、頬の銀河に口づけされた個所にまだ掌《てのひら》を当てていた。
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双槐樹《そうかいじゅ》
門の脇に一人の老女が待っていた。老女は無言のまま銀河の手荷物を取ると、もう一方の手で銀河の右手を取り、引いた。案内をするつもりらしい。
銀河は後宮への門の前に立った。それは門というより隧道《とんねる》のようで、入口の奥には細くくろぐろとした空間が続いていた。その門は見る者に膣口《ちつこう》を連想させ、実際にそれを意味して建造された。銀河は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》した。その門は不気味で、不気味である以上に、近づくことを拒む禁忌を帯びているように感じられてならなかったからである。
隧道は石作りで、同じ大きさの石が整然と積まれている。数メートル行くと、石積みではなく巨大な岩を削り出しそれを大変な手数をかけて穿《うが》ち抜いたと思われる部分になる。それを越すとまた石積みの隧道になる。そして、しばらく行くとまた削り出しの滑らかな壁面部分が続く。この隧道は正確にこれを繰り返している。ずっと後に欧州の学術調査団がこの隧道を調べて、感嘆し、ついでどういう理由でこのような構造にしたのか悩んだ。削り出しの巨岩を使わずに、石片を重ねる工法で全体を通せば工期はおそらく三分の一、費用は五分の一で済んだと推定されるからである。
「素乾城後宮のトンネルが、かように面倒な作りになった理由を知ったとき、ドレイク(注・民族学者アーサー・ドレイク卿)はぶつぶつと不平を言っていた。カナリー(注・考古学者リットン・カナリー)は、まあ、珍しいと言うほどのことでもないと澄ましていた。余(注・調査団副長エリサレム・ジャコメル。思想史家、哲学者)のみは、唐突に吹き出して暫《しば》し哄笑《こうしょう》し、皆の顰蹙《ひんしゅく》を買ってしまった。
『これは非常なユーモアではないか。苦虫を噛みつぶしたような顔で彼等のユーモアを無にすることはあるまい』
と余が言うと、宗教環境によって性的に厳格な生活態度が身に染み込んでしまっていたドレイクが、
『はるばる東の果てまで来て、くだらないセックスジョークを聞かされてたまるか』
と言った。余はまた哄笑《こうしょう》した」(「素乾城の思い出」エリサレム・ジャコメル)
この引用から分かるとおり、隧道には性的な意味がある。このことについては、おいおい述べることになろう。
銀河は先ほどから、暗く、ひんやりとした石造りの構造の中を進んでいる。案内の老婆は、一言たりとも口をきかなかった。ただ、銀河の手を引いてひたひたと歩むのみである。
「ねえ」
銀河がいくら老婆に話しかけても、何の反応もなかった。門前でちらりと見た、無表情な顔が今も続いているのであろうか。しわの一本も動かすこともなく。
『唖《おし》か、聾《つんぼ》なのかしら』
思わずそう口に出して言いそうになるほど、老婆は無反応で冷たすぎ、人との接触を拒むかのように思われた。
そのうち、銀河は肌寒さを感じてきた。周囲は全くの闇と化していた。銀河が入った入口は、点となり、光を届かせることはなかった。足音だけがあたりに湿っぽく反響した。
隧道には側溝があり水が流れている。銀河は歩くうちに溝に足を入れてしまい、水が跳ねる音がまた内部で反響した。
老婆の手は、死人のように冷たかった。そのようなそら恐ろしい手を唯一の拠りどころとして長い闇の中を進まねばならなかった。
銀河の生来活発な精神も闇のうそ寒さと閉塞感のために、冷たく凝固していくようであった。ついには恐怖の感情が心を占め始めた。
この口をきかぬ老婆のせいである、と銀河は考えた。この窒息するような闇の重圧を除くには老婆に喋《しゃべ》らせるしかない、とも思った。
老婆は周囲の石壁と同じように冷たく反響するだけの存在だった。
「ねえ」
無言。
「ねえねえねえ!」
足音。
「どうして黙っているのよ! 返事をしなさいよ!」
沈黙。
「あんた、喋れないの! 口をきいたらどうなのよ、ねえったら!」
反響。
「話せ、話せ! くそばばぁ。馬鹿っ!」
『ソノ騒然タルヤ臓躁《ぞうそう》ニ似タリ。叫喚《きょうかん》シ、打擲《ちょうちゃく》コレニ以テ過グ』
とある。銀河は混乱した。それはまるで臓躁(ヒステリー)を起こしたようであったという。銀河は怒鳴り、老婆の骨っぽい身体を渾身《こんしん》の力で打った。
怒鳴る毎に、銀河をひしごうとする重圧感は増加しこそすれ減ることはなかった。恐怖感は銀河の心臓を直接に締め上げる。銀河に打たれた老婆はよろめいて、痛みのためか呼吸を乱した。それでも呻《うめ》き声ひとつあげることなく、沈黙は崩さなかった。
銀河はその場に凍りついた。恐ろしさを越して、凍えてしまった。恐ろしい努力を払い振り向いても、銀河が入ってきた門口は星のような点となって見えるだけであった。銀河は、震え、心に初めて後悔の念が浮かんでいた。
恐慌状態の銀河の内部に雑多な想念が渦巻いて、とめどがない。広大で冷たい宇宙の闇の中に独りぽつねんと置かれた時のような原初的な恐怖が、錯乱の周囲を堅く包み込んでいる。
老婆がその金属製のような手で、いかように銀河の手を引いても、もはや氷柱《ひょうちゅう》のように動かなかった。
得体の知れない禁忌を帯びた世界へ引かれつつあること、それは人の心に死の念を起こさせる。後宮とは本当に冥界であるのか。孤独な銀河は死の念の真っ只中にあり、それから解放されるには、人の暖か味のみが必要とされた。
銀河は後になってこの時の事を思い出すたびに、不思議の念にとらわれたという。あの時どうしてああも取り乱し、恐怖にかられたのか、後の銀河はいくら考えても分からなかった。
氷柱に化《な》った銀河を解放したのは、涼やかな人の声であった。
最初、音声の響きを、正しく受け取っていなかった。銀河がそれが人の声であると認識したのは、相手がもう随分喋ってからであった。
「だれよ」
銀河の声はかすれている。肉体を離れて浮遊していた霊魂が急に肉体に戻ったような気がしていた。
「だれよ!」
「なんだ。急に」
その声は銀河の手を握り締め続けている老婆の発したものではなかった。銀河のそばにもう一人誰かがいるのである。
「話を聴いていなかったのか。お前様がなんの返事もしなかったから、妙だとは思っていた」
「……」
「棒のように立っているのは楽しくはあるまいに。どうして先へ進まぬのだろうか」
銀河の思考能力は徐々に回復してきた。油の切れた歯車が乱みをあげるもどかしさがあった。
「棒が好きか?」
この変な質問にやっと答えることができた。
「棒なんか。好きなはずがない」
我の返答も、変であると思った。
「ならば歩きながら話すべきであろう」
声の主はそう言うと先に歩き出した。次に老婆が歩き出し、引かれた銀河も歩行を再開した。
妙な話し方をする声の主は女であるようだった。靴音で踵《かかと》が高く小さな靴を履《は》いていることが分かるし、身軽そうだった。ふわりと、香水の香が漂ってきた。
「お前様が、竦《すく》んで、動かなくなったから、死んだのかと思った。思うに、恐怖の底を見ていたらしい」
「そんなことない。恐くなんかなかったわ」
と銀河は言った。強がりであり、正体不明の相手に正直になることはないと思ったのである。
「それでも別に構わないが。奥に着いたら下着を更《か》えさえすればいい」
『あっ……』
銀河は気が付いた。内腿《うちもも》のあたりが濡れて気持ちが悪い。声は微妙に、嘲笑を含んでいたように感じた。銀河は羞恥《しゅうち》と忿《いか》りで赤くなった。
「こんな暗闇の中でどうして分かるのよ」
語気荒く言った。
「当ったか。なんの、あてずっぽうよ。驚くことはない」
相手は自慢気に言う。
「ここを初めて通るものは、失禁しやすいからな。匂いで分かったとでも言えば、わしの鼻の良さを誇れたか」
そして奇麗な音をたてて笑った。
銀河は口もきけなくなるほど闇の中の相手に腹を立てていた。一体、どういう奴か、この品は卑しくなさそうだが無礼そのものの女は。そして、内腿の不快さが耐え難いほどになってきた。
「ここのことを語ってやる。さっきも言ったのだがお前様は聴いていなかった」
この相手は本当に変わった話し方をする。都の人々の話体だろうか。宦官真野は格式ばってはいたが普通の話し方であった。
「この門は、たると(垂戸)という。長いもので、隧道というほうがふさわしく思うが。潜るものは例外なく気味無く思うようだ。だが、慣れればそれほどのことはないのだ。わしのような人間にはかえって心地よくさえある。本当に独りきりだと念じるのに役立つし、時にはいいものだろう」
話し方もだが考え方も変な奴だ、と銀河は思った。
「あんた、一体、何者なの?」
と銀河は臆せずに訊いた。銀河は気を取り直し、だんだんと落ち着いてきた。とりあえずこの女の正体を知りたいと思った。声はあっさりと言った。
「わしは双槐樹という名だ。コリューンと呼ばれることを日頃から好んでいるので、そう呼べ。立場はお前と同じくこの宮に住まうことになる予定の者だ」
何だ、それなら遠慮することはないと銀河は思った。銀河は自分が震え上がってしまったこの闇の中で平気でいる相手に幾分萎縮していたのである。相手もまた宮女候補であるなら、言わば同輩ではないか。
「わたしは銀河よ。べつに変な読み方をしなくてもいいわ」
「そうか。素のままのぎんがか」
相手、双槐樹《コリューン》はそう言うと笑った。
「ときに、お前様は別嬪《べっぴん》か。齢《よわい》は幾つぞ」
「そっちから言いなさいよ」
「なるほど、それが礼儀か。では言おう。わしは美しいと言われている。母上や姉上はとくにそう言う。わし自身、時々だがそう思うことがある。歳は十有七を少し越したか」
双槐樹はぬけぬけと言ってのけた。
「後宮に入るのはたいてい美人と相場が決まっている。聞くだけ野暮な事であったかもしれぬ。ただ重要なことは、自らが自らを美麗であると思うているかどうかだ。お前様はどうなのか」
双槐樹の言い回しは奇妙で、銀河はところどころ意味の理解に苦しんでいる。
「えーと、歳は十四よ」
「して、容貌の程度は」
「知らないわ。そんなことは」
銀河は本当に知らなかった。銀河の回りには婦人の美醜についでのべつ論じているような大人はいなかったし(まず、父親がそうであった)、近所の人にもそういう評価を受けたためしがない。銀河はまったくの子供扱いだった。緒陀がそういう土地であったとも言える。銀河は色気づきはじめた娘がするように、鏡を日がな眺めたりすることがなかった。まだ、色気づいていなかったということもあるが、それよりも、銀河は鏡が嫌いで、それはつまり自分の顔や姿を映し見ることが嫌いであったということである。容貌にコンプレックスがあったというわけではなく、性分であったようだ。
「知らないというか。後宮に行こうとするにしては己に淡いのだな」
「自分のことを平気で美人と言うほうが、恥ずかしいわ」
「なんの。後宮に勤めるものは己の美醜をあくづよく思っているものだ。まあよい。外見はこのたるとの出口で、じっくり眺め合えよう」
そういえば、前方の明るい円形が大きくなっている。じきに抜けることができるらしい。こんな相手と美醜を争いたくなどなかったが息苦しい闇の中から抜け出ることの方が切実な問題であった。
銀河はふと話題を転じた。先刻から気になっていたこの老婆について、双槐樹なら知っているのではないかと思ったのだ。
「案内婆《とたると》の無口には、こたえたか」
「腹が立ったのよ」
「この老婆は歴とした宮女で、今は案内婆という役職を勤めている。たるとの入口から新しい宮女を導いてくる役目だ。案内婆は水底の如く静かでなければならないと後宮の儀礼典が定めているから、それを守る。唖でも聾でもない。日の下に出ればお前様に物を言うだろう」
出口は次第に等身大に近くなり、銀河に大きな安堵《あんど》感をもたらした。出口はないのではないかといった疑いが、双槐樹が現れた後も胸にくすぶっていた。久しぶりに、息を深く吸い、深く吐くことができた。
「コリューン、あんた後宮に詳しそうね」
「それほどでもない」
「でも、よく知っている」
「ここの暮らしが長いのでな」
「それじゃ、訊くけど。ここの暮らしは楽しいかな」
「何のことだ」
「だから、毎日何をして過ごすのかなと」
「妙なことを訊く。後宮なのだから後宮らしき事をして、日々を過ごす」
「それは面白いこと?」
「お前様は本気で訊いておるのか。もし、本気なれば、お前様は馬鹿じゃと言われよう」
「だれに?」
「わしに」
銀河が「後宮三食昼寝付き説」を双槐樹に披露したのかどうかはわからない。とにかく、銀河の説明は双槐樹を笑わせ、次に当惑させた。とどのつまりは、銀河が後宮というものをほとんど理解していないということが判明した。これを見ると銀河が緒陀の宮女狩りに自ら志願したという定説がますますあやしくなる。これほどの後宮知らずがどうして志願などするだろうか。稗史《はいし》の中には銀河の両親が銀河を悪宦官真野に売り飛ばすという段があるが、もとより脚色過剰な戯作者《げさくしゃ》の手になるものとはいえ、こちらの方がよほど筋が通っていると言える。
「お前様はなんと童子《こども》であるのだろうか」
双槐樹は、ついには愉快そうに言った。
「お前様のような奴も、ここへ至るか。そういうことならば、なかなかに面白い」
独り合点をしている。
「なにが面白いのよ」
銀河の言葉はそこで途切れた。三人は、たるとをついに抜け出て、光の下にいた。
眩《まぶ》しい、と銀河は思い、目をつむった。白い残像が頭の中を占めきった。目が光に慣れてくるにつれ、銀河は非常にさっぱりした気分を味わっている。たるとに入ってからの言いようのない圧迫感と恐怖感は、陽光の下で見事に蒸発を遂げてしまっていた。たるとの闇がもたらした激甚な心理的圧迫、狭窄《きょうさく》感がすうっと離れた爽快さは、まるで自分が再生したかのような気分でもあった。
『そうだ、あいつは』
銀河は双槐樹のことを思い出した。その面《つら》を拝んでやらなければならなかったことに気が付いた。
双槐樹の方はもう十分に銀河を観察してしまっていた。銀河と目が合うとにこっと笑った。
『へえ……』
銀河は双槐樹を見ると、賛嘆の念にとらわれた。
『極メテ得テ柔ラカシ』
銀河は双槐樹の顔にそういう印象を得たようだ。双槐樹は銀河よりも頭ひとつ背が高く、ほっそりとしていた。おそらく腰のあたりまで届くであろう亜麻色の髪を黒い髪巾《はつきん》(ショール)で包み込むようにまとめた頭部に銀河が賛嘆したところの柔らかい容貌があった。服装が変わっている。
『喪服か』
と銀河が思ったとしても不思議はない。双槐樹は漆黒のだぶだぶの姿袍《しほう》を着ているように見えた。姿袍は緒陀の女童の服でありワンピースに似ていることは前に述べた。双槐樹のはそれを黒い厚手の生地で作り、わざと大きめに仕立ててあるようだった。寸法が適《あ》っていないにもかかわらず、だらしなくは見えない。不思議な服の着こなしであった。ちなみにこの服は緞袍《だんぼう》と呼ばれる、当節、都で流行を始めたものである。姿袍とは直接関係はない。
双槐樹は髪巾、緞袍、長装靴(ブーツのようなものか)にいたるまで全てを黒一色で統一していた。色彩に乏しすぎるこのコーディネートは絢爛《けんらん》豪華が好まれた素乾朝末期の色彩趣味とおおいに相反する。この時期の少し後に国中に黒色系統の婦人服が流行することになるが、この時はまだその兆しすらない。単に双槐樹の好みであった。
銀河は服装にも驚いたが、やはり顔に注意を奪われた。顔が柔ラカシとはどういうことであろうか。双槐樹の顔は瓜実《うりざね》顔に分類できようが、そう言い切るにしてはやや細く引き緊っていて、柔らかいとは形容できそうになかった。銀河が評した柔らかいというのはおそらくその双眸《そうぼう》のことである。形良く弧を描いた眉とその下に輝く眸《ひとみ》は、人に柔らかいという印象を与えた。その眉と眸のひかりはえもいわれず柔らかく、人は心をくすぐられるような、なんともいえない快さを感じたという。
『変わっている。でもきれいな子だ』
と銀河は思った。銀河はこれまでこのような顔をした人間を見たことがなかった。とくにその眸は自分たちとは異人種ではないのかと思わせるほど特徴的であった。
銀河は長い間双槐樹に見とれていたように思い、気恥ずかしくなった。何か言わなければと咄嗟《とっさ》に思った。すると急に訊きたいことが山ほども生じたので慌ててしまった。結局は、つまらないことを訊いてしまった。
「その黒い姿は意味があるの?」
双槐樹は双槐樹でその質問に意表を突かれた。
『この娘はまず形に興味を持つのか』
と考えた。
双槐樹はその柔らかいと言われる顔に似合わない物言いをすること、さきのたるとの中と少しも変わらない。
「双槐樹は漆黒の花をつける。十歳《ととせ》に一度、枝中に黒き花を舞わせ、実に誇らしげであるという。涙が滴《したた》るほど、素晴らしき姿だそうな。お前様は双槐樹を見たことはあるまい」
「ないわ。そんな木のこと、聞いたこともない」
「さもあろう。わしも見たことがない。双槐樹は遠く隠土《いんど》の森に生え、神仙のみその荘重を見ることがかなう」
馬鹿にしていると銀河は思った。
「作り話の中の花じゃない」
「童子のくせに伝説をそしるか。わしが童子のころはどんな譚《はなし》でも素直に信じたが。だが双槐樹はあるいはあるかもしれぬぞ。学名まで付けられているからな」
「なんて名前なの」
はじめて双槐樹は照れ臭そうな顔をした。こいつだって子供っぽい所はあると思った。
「コリューンという」
双槐樹は唐突に、
「わしはもう行く」
と言った。銀河が次の言葉をかける間もなくくるりと背を向けると、身軽そうに歩行して建物に入って行った。銀河はしばらくぽかんとしていたことだろう。
銀河と双槐樹の初見はこのようであったという。少々出来過ぎの感はあるが、現実家にしてクレーム好きの天山遯《てんざんとん》も異論を述べてはいないので、この通りであったとしてよいか。
案内婆が突然に口を開いた。
「おめでたくぞんじまする。あなた様は無事たるとを抜けられました」
銀河はぎくりとした。唐突に岩石が物を言い始めたような錯覚を覚えていた。
「月に一度、ここを逆に行きあそばされる方がおりまする。願わくは、それがあなた様でないように」
案内婆は真面目くさった面で、棒暗記の台詞《せりふ》を読み上げるように言った。この口上は案内婆に課せられた儀礼上の言葉であるらしかった。口上が終わるとくだけた言葉付きになった。
「さ、こっちへ来なされ」
案内婆はまたしても銀河の手を取った。
「乱暴な娘だよ。さっきは痛かった」
案内婆の横面のあたりが青くなっている。
「役目じゃなかったら、ここでうんと仕置きをくれるところじゃ」
「悪かったわ。お婆さんが喋らないものだからついかっとなって」
案内婆は歯がほとんど残っていない口をひん曲げるようにして笑って見せた。
「まあいいわい。慣れておるでな。お前さんはまだ程度のいい方じゃ。ひどいのになると気死しくさって、動かなくなったりする」
案内婆は銀河を先ほど双槐樹が向かった建物に導いた。
「ねぇ、勝手にたるとで遊んでもいいの?」
と銀河は訊いた。
「ならん」
と案内婆は言う。
「でも、コリューンは勝手に出入りしてるみたいじゃない」
「つまり、原則的には、あそこに出入りしてはならんと言ってるんじゃ。例えば、わしらは先刻のように中で人に出逢うたとしても、見て見ぬ振りをする。これが肝要なことでの。たるとの中に余人がいるはずはないのであるから、いないものと思うで知らん顔をする。あんた、若いんだから物事は柔軟に考えねばのう」
「ふうん」
「後宮の規矩《きまり》などは、とろけるくらいに軟らかく考えねば話にゃならん」
後宮の門前に来たばかりの銀河には判然としないのも当り前であろう。事情というものはどこにでも存在するものであり、同じ場所にいればいつの間にか常識となっているものである。ただ、銀河は、後宮の規則はとろけるくらいに軟らかいという言い方が気に入った。規則で縛り付けられてはまず楽しくはないからである。
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仮宮《かきゅう》
伝統がある、といってもたかだか三百年ほどに過ぎぬのだが、国家には何かと形式が多いものである。
古典の時代にははっきりとした意味のあったであろう諸儀礼は、歳経て王朝の変遷の中に化石化し、その形骸だけは確固として残り職業的儀礼執行者によって伝えられるのみとなった。意味はごく一部の研究者が解釈の後かろうじて知り、実際は形式の執行者の技術によって生かされているようなものである。
こうした儀礼には国家存立の正当性といったものがかかっているらしく、国家の支配階級はしちめんどくさく訳の分からない儀礼形式を、強迫観念に取り憑《つ》かれたように保ち続ける努力をする。保守主義とはこういうことでもあった。
現代でさえ一般人にはもはや不必要と思われる意味不明の伝統儀礼が多く残っており、人々は一応欠かさずに実行している。それに携わっている人々の喜色にあふれた表情を見ていると、伝統保存以上の意味があるのではないかと思われてくる。生活には形式が必要な部分が実はたいへん多いのではないだろうか。
中世に片足を突っ込んたまま、ゆるゆると歩いているようなこの国では、伝統儀礼がまだまだ真剣に実行されていた。後宮の事に限っても、じつに煩瑣《はんさ》な形式が小うるさく守られていた。繁文縟礼《はんぶんじょくれい》という形容がぴったりである。
銀河はこれからすぐにでも夢のような宮殿に通されるものと期待していた。後宮という言葉の語感は銀河にそういう夢幻のようなイメージを与えており、猥雑《わいざつ》な連想は浮かばなかった。銀河が子供だったからということではなく、知識が不足していたのであろう。
とにかく、銀河は期待していたのである。しかし、いともあっさりと裏切られてしまった。通されたのは、こういう形容は少々不適当かもしれないが、みすぼらしい下町の下宿屋、あるいはひどく貧乏な学校の寮舎のようなうらぶれた建物であった。壁は黒ずんで、各所にひび割れが生じ、薄気味悪い植物が絡《から》んでいる。こんな建物は後宮外でも珍しいが、少しも嬉しくはない。
「これが後宮なの?」
銀河は非難のこもった口調で案内婆に言った。
「後宮だよ。あんたはここで暮らすことになる」
と案内婆は言う。
「話がかなり違うじゃない」
「どんな話だい」
案内婆はにやにやしている。
「まさか、宮女というのは大嘘で、下女に雇われたんじゃ……」
「心配いらん。ほんにここが後宮じゃ」
「それにしては、汚なすぎやしない」
案内婆はこのような反応にも慣れているらしい。けたけたと笑った。
「お前、後宮を見たことがあるのかい? ないだろうが。本物の後宮はそんなに奇麗なものじゃないということさね」
「ずるい!」
何がどうずるいのか、銀河はそう叫んでしまった。美しいイメージが壊されれば、大抵の人はこう思うのではないか。
「気にせんでええ。この建物はな、仮官といって、後宮の一部じゃ」
「仮宮……」
仮宮とは要するに仮後宮のことである。宮と名の付くものに出入りするときには、必ず予備訓練のようなものが実施される。宮という一般人の近寄りがたいものに入る前に、身を潔くする儀礼形式から出たものであろう。前宮(外廷)に出入りする各官僚は、門前の手洗い場で手をすすいで入ることになっているが、これも仮的な行為である。昔は衣服を脱いで全身に水を注いで、清めねばならなかったようで、手だけで済ますのは簡素化した結果である。後宮ではそれが時代を越えて念入りになっており、身体を洗う程度では済まされず、仮宮という大仰な装置を使って消毒するが如き訓練と教育を行うことになっている。例えばたるとの通過も死と再生を儀式化した仮的行為の一つであった。後宮をとりまく思想は仮宮の簡素化だけは許さなかった。
「にせものの後宮じゃ」
案内婆は仮という語を、にせ、と訓《よ》んだ。
「そこにいる間はあんたもにせものの宮女というところじゃ。出れば本物の後宮へ行けようが」
なるほど、と銀河は思った。偽物があれば本物もあるという理屈である。
案内婆は手を引いて銀河を仮宮の門前まで連れてきた。そして、ぱっと何の未練もない乱暴さで手を放した。
「おお、手が疲れた」
「こんなに明るいんだから手なんか引かなくっても良かったのに」
「たわけい。好きで引いておったのではないぞ。これも、しきたりじゃによって」
と手を撫《な》でた。
案内婆はやれやれと腰をさすった。
「それじゃの。まあ、頑張んな」
「あ、どこへ行くのよ」
「どこへて、案内にさ。もう次のおなごがたるとの前に来ていようがの」
「へえ、忙しいんだ」
「三交代で案内をしておるからな、あと一刻はわしの当番じゃ」
銀河は名残惜しくなったのか、会話を続けたかった。
「おはあさんも宮女だったって本当?」
「まあな、狄宗《てきそう》様の後宮に仕えた」
狄宗は腹宗の父親である。夷狄《いてき》の討伐に力を注いだので狄宗という諡《おくりな》がついた。
「今では見ての通りの婆あじゃが、若い頃は上品だったぞえ。天子様に可変がられたことも一度や二度ではないぞ」
「それで、どうしたの?」
「どうもせん。どうもせんからこのように案内婆など致しておる」
「どうかしていたなら、どうなっていたの?」
案内婆は銀河にからかわれているのかと思ったが、銀河の好奇心あふれる表情を見るかぎりそうでもないことが分かった。
「それは、どうかしておったなら、わしは今頃は太皇太后の椅子に座しておるか、或いは殺されておろうな」
「だれに?」
案内婆は苦笑した。
「ほんに物知らずが。それを言えというか」
「言いにくいならこっそりと教えてよ」
「まあ、あやつも死んでしもうておるから言って悪いこともないが。太皇太后さね」
太皇太后、つまり狄宗の正夫人にして腹宗の母親のことである。この時から十四年前に死亡している。案内婆の口調には太皇太后に対して少しの敬意もない。運よく天子に選ばれて正夫人の位置についただけで、もともとは同僚なのである。とくに遠慮する必要は感じなかった。
狄宗の正夫人は藍氏《あいし》といったが、彼女の後宮時代に狄宗の寵愛を争った宮女がいて争っている最中に病死した。後宮内には『藍氏、扼《やく》シタリ』と不穏な噂《うわさ》が広まった。あくまで噂に過ぎず、実際のところは分からないが、藍氏はよほどきつい性格の人であったらしく、あの女ならやりかねないという気分が関係者の胸から去らなかった。
「たとえ話じゃ。わしはあやつと争うことはついぞなかったでの」
案内婆は自分で言い出したくせに、つまらないことを言わせおって、と銀河を睨《ね》めつけた。
「おおと、いかねばならん。新しいおなごが待ち切れずに泣いておったらお前のせいぞ。仮宮の玄関はそこじゃ。叩《たた》いて係の者にあらためて案内を乞えばよい」
案円婆はそう言い、ゆっくりと今来た道を戻っていった。
さて、銀河は取り残されてしまった。
「ふう」
とひと息ついた。さすがの銀河も少々くたびれてきた様子である。
何と呼ばわればいいのかわからない銀河はとりあえず、ごめんくださいと言って戸を開けた。
開く時、からからと小気味よい音がした。
『あれ』
と銀河は思った。内部は外観ほど貧相ではなかったからである。良質の木材を使った廊下は磨き込まれて艶《つや》があり、壁は入念な仕上げの白壁で予想されたひび割れや黒ずみがなかった。
廊下の端から、ぬっと、男が現れた。痩《や》せて、皮膚の色が悪い中年男であった。男は細く甲高い声で言った。
「ようおいでなされた。名は何と申される?」
「銀河」
「たれによって選ばれた?」
「真野様に」
「それは祝着」
男はうなずいた。よく見ると真野と似た風体をしている。
「わしは亥野《いの》だ。娥舎《がしゃ》を司《つかさど》っている」
「がしゃ?」
「娥舎とはここのことだ。宮女の宿という意味だ。さあ、上がられよ。部屋に案内して進ぜる」
銀河は従った。どうも、さきほどから案内されてばかりいるが仕方がない。
「宮女候補が揃《そろ》うまで、のんびりしていてよい。そのあと作法を学んで頂く予定である」
「どうも、ありがとう」
「分からぬことがあればわしか、相部屋の者に尋ねよ」
亥野は、ここに、と部屋を示すと、一礼し踵《きびす》を返した。
確かに銀河は疲れていると感じた。また、先刻、たるとの中で失禁したことを思い出し、すると一刻も早く身体を洗いたくなった。
『お風呂のことを訊《き》けばよかった』
銀河はそう考えながらあてがわれた部屋に入った。
部屋の内部を観察するよりも早く、匂いが鼻を衝《つ》いた。むっとするような濃厚な香水の匂いである。同時に厭《いや》らしいほどの女臭さも嗅《か》いだ。銀河は香水など付けた経験がなかったので、鼻がむずがゆくなるほどの強い刺激を受け、反射的にこの人工的な甘い香りに嫌悪感を抱いた。
「たれか?」
その匂いの主、鏡台の前で長い髪を念入りに梳《す》いていた女が、いやに冷たい、つんとした言い方で言った。女は鏡台に向かったまま振り向きもしない。
「あなた、なにを突っ立ってるの? 扉《とびら》を閉めたらどうなの」
女はそう鏡に映った銀河にいった。銀河は黙って扉を閉めた。
女の黒く長い髪は櫛《くし》が通るたびに、さらさらと音を立てて揺れた。
「ふうん」
女は軽んずるニュアンスを明らかに込めて鼻で言った。先刻から銀河を観察していたらしい。その、ふうん、に多少むっとした。扉を閉じると部屋の中の濃厚な香りは逃げ場を失い、さらに密度を深めて銀河の鼻腔《びこう》に侵入する。
「なあんだ、まだ小便臭い小娘じゃない」
女ははっきりと聞き取れる小さな声で言い、笑ったようだった。
「ひとに背を向けたまま話すなんて行儀が悪いわね」
と銀河は言った。小便臭いと言われたことが銀河の顔を憤怒で赭《あか》くした。
「ははは」
女は声に出して実った。
「わたしはあなたと会話しているつもりはありませんわ。わたしとあなたが会話? ほほ。それこそ行儀の悪い物言いではないかしら」
女は鏡台に櫛を置いた。櫛の柄にからみつくような白く細い指が、ゆっくりとほどけた。女は立ち上がった。刹那《せつな》、しゃなりとでも音がしたかのような動作である。
貴族らしい、と銀河は思った。こんな変な動き方をする女を未だかつて見たことがなかった。銀河とは違う階層の女であるということだ。かといって、僻地もどきの土地で生まれ育った銀河には貴人が本当に高責であるとか、貴人を敬うとかいう観念は少しもなかった。ただ、別種の女がいるというくらいに思うだけである。
女はするりするりと妙な足取りで銀河に近寄ってきた。
「まあ、許しましょう。わたしといえども立場はあなたと同じなのですから。相部屋するのも何かの縁でしょう」
そして、女はその華奢《きゃしゃ》な手を甲を上にして銀河に伸ばした。口づけして礼をせよという意味であった。貴人のこのような作法は本来はこの国には存在していない。西方から入って来て一時期流行したものである。一部の宮廷にかかわる貴人が西方の礼を取り入れようと考えて、とりあえずは家族内で採用しようとしたのである。今のところ宮廷では行われていないし、結局は定着しなかった。
「何を許すって言うの?」
と銀河は言った。銀河の瞳が怒っていた。女は目をぱちくりさせて驚いたように言った。
「何をって。あなた分からないの? あなたのような卑賤の身分の者をひとつ部屋に置いてあげるっていうことじゃないの」
女は一般庶民に接するといえば、下女くらいしか相手にしたことがなかったのであろう。銀河の反応が不思議だった。
銀河は、ペしっと女の手を払い落とした。続いて女の顔に平手打ちを飛ばした。だが、女はさっきからのゆるゆるした動きからは想像もできないほどの速さで身体を引いた。銀河の平手打ちは、中指の先が女の鼻先を軽く弾いた程度で空を切った。家庭の方針か、武芸を少々やらされていたのである。
「無礼者!」
と女は叫んだ。
「どっちが無礼よ! どこのお姫様か知らないけどね」
女は口をあんくりと開けている。
「あんたなんかに見下されるいわれはないわよ!」
二人は部屋の真ん中で激しく睨《にら》みあっていた。女の長い衣から露出した肩は小刻みに震えていた。銀河ももう一撃食らわせてやろうと身構えている。
女のほうが先に目をそらせた。
『どうしてわたしともあろうものが、こんな下賤の小娘と本気で争う必要があろうか。よく考えればこれは自分の品位を卑しくする行為に他ならないわ』
そういう思考に持って行くことによって、自尊心をなだめようとした。
女は頭ではそう思って銀河を排除したつもりであったが、感情は納得していない。再び鏡台に向かい、自慢の髪を梳きにかかろうとした。さらに、よくよく考えてみれば、目の前の生意気な小娘は、ここ後宮において彼女のライバルとなるのであった。
『やはり、ここはひとつあの小娘を懲《こ》らしておくほうがよくはないか』
その考えは櫛を動かす手を荒々しくしてしまい、髪はさらさらと音を立てて流れなくなった。
一方、銀河は後宮という特殊な情況下における雌性同士の敵愾心《てきがいしん》など少しも感じてはいなかった。それは銀河の未成熟さと無知のせいなのであるが、ともかく余計な思慮が入っていない。だから、女が先に目をそらして鏡台に腰掛けたとき一幕終わったと思った。当然自分が勝ったと思っている。
いらいらと髪を梳いている女に銀河は鷹揚《おうよう》に声をかけた。
「あんた、何ていう名前?」
「……」
女は常ならば自らの美しい流れるような髪を鏡に映して梳く時、ナルシスティックな陶酔感と精神的な安定を得るのだが、今日に限ってはそれは訪れそうにない。いらいらが増すばかりであった。
返事がないので銀河は勝手にやった。
「へえ。せ、さぁ、めい、て訓《よ》むのかな」
女がぎくっとして振り向くと、何と銀河が自分の持ち物を勝手に触っているではないか。彼女は、世沙明と表記して西方風にセシャーミンと家族は呼んでいるが、激昂した。貴人であるから演技がかった気位の高さが身についている。
「あ、あなた、なにを……」
真の怒りを表すために声を震わせるべきである。さらに微妙な動作をしてこの私がいかに激怒しているかを思い知らせる。それは手のひらの角度や肩の位置、視線の移動などに表れている。古典演劇的所作というべきものであり、見るものにもある程度の洗練が要求される。相手が貴族社会の男子であったなら、これを見てひれ伏さんばかりに謝罪したであろう。セシャーミンは相手を間違えた。銀河たちを相手に激怒を示すには、張り倒すのが最も有効であった。
「せさめい、ねえ、お風呂はどこ? 身体を洗いたいんだけど」
銀河が至って平気な顔をして言うので、セシャーミンも気が抜けてしまった。
『下賤を相手にしたわたしが馬鹿だった』
屈辱ではあったが、このような者はやはり相手にすべきではないのだ、と思い直してかろうじて矜持《きょうじ》を維持することができた。
『相手は虱《しらみ》のようなもの……』
唇の端に微笑《ほほえ》みを浮かべようと努力しているのだが、苦しい。
「せさめい、お風呂はどこって訊いてるのに」
銀河はそんな葛藤は知らない。セシャーミンは念が切れそうだったが、寛容な態度で言った。
「そちらよ。一つお願いがあるんだけれど。せさめい、ではなくてセシャーミンと呼んで下さらない。下に様も付けてくれれば嬉しいのだけれど」
「あ、そう。セシャーミンね。いいわよ」
銀河は言い捨てると浴室に駆け込んだ。
セシャーミンは真っ青な顔をして硬直している。とうとう念が切れたらしい。
『韃狐《だっこ》!』
と叫んだという。韃狐とはありていに言えば、「あばずれ」「ばいた」「どぶす」といった意味の罵《ののし》り文句となる。昔、嬋《せん》の召王《しょうおう》が夷狄である韃を征伐した際、韃の王は人質として娘を差し出して和を乞うた。この姫の容貌がひどく醜く、淫蕩《いんとう》な性格で、また狐のように狡《ずる》かった。召王は辟易《へきえき》して、『韃弧ノ禍ハ陸兵ノ侵掠《しんりゃく》ヨリ甚大ナルベシ』と早々に送り返してしまった。この故事から韃狐は婦人に対する最大級の罵り文句となったわけである。古典的知識に裏打ちされた罵言《ばげん》である。銀河は湯浴みしながら、これを聞いていたが、古典的知識に乏しかったため意味が分からなかった。後で訊いてみようなどとセシャーミンを泣かせるようなことを考えている。
いや、それよりも、
『あのセシャーミンの息が詰まるような香水はやめてもらおう』
と切実に思っていた。あの部屋に入ってそんなに時間がたったわけでもないのに、頭痛がしていた。
娥舎は、後宮の一部であるところの仮官のそのまた一部であるという格付けである。しかし、大きい。後宮内の娥局よりもだいぶ大きい。娥局は正式の宮女の部屋である。娥舎は宮女候補の仮的な部屋で、宿舎と言ったほうがあたっている。
各地から獲《と》られてきた宮女候補は、研修期間中に一定の数だけ篩《ふるい》にかけられて、後宮を去ることになっている。よって、当然のことであるが宮女よりも宮女候補のほうが数が多かったことになる。このことから見ても、娥舎のほうが娥局より大きいことは自明であろう。
大きいといっても宮女候補が得をするわけではなかった。ひと部屋がたいていは四人部屋で、個人にとってはちっとも大きくはなかったからだ。
セシャーミンと同宿をはじめてから、次の同宿者が現れるまでどのくらいの日数が流れたのか、正確にはわからない。案外長かったのかもしれない。
「いつまで、こんな毎日を過ごさせる気かしら。こんな所に来なければよかったわ」
とセシャーミンは自慢の流れるような黒髪を梳きながら言った。これはべつに銀河と会話しているのではなく、セシャーミンが一方的に不満を口に出しているのである。と少なくともセシャーミンは決めていた。だから、
「本当に。ちっとも面白いことがない」
などと銀河が相づちを打ったとしても、それはセシャーミンの耳には聞こえてはならない発言なのであった。また、セシャーミンの方が銀河のせりふに応答して何かを言ったとしても、それはあくまで自己の胸の内の問答にすぎないということであった。
奇形的な上層意識の垣根を取り払うことは一朝一夕では不可能である。というより、セシャーミンが取り払いたくなかった。だからわざわざ面倒な心理操作を加え、自家|撞着《どうちゃく》であることは分かっていてもこういう物の考え方を通さねばならなかった。銀河にはそれがうすうす理解できたので、『なんてしちめんどくさい心をしているんだろう』と思わざるを得なかった。
さて、その日の朝も例によって銀河とセシャーミンが噛み合わない口論をしていた。
「いいこと。あなたはこの鏡台を使わないで欲しいのよ。これはわたしが使うのだから」
「勝手なことを言わないでよ。ここにはそれ一つしかないんだから、一人占めはしないでよ」
「ふう。当り前のことが何故わからないのかしら」
セシャーミンは辛抱強さを装って言う。
「わたしとあなたとはこれくらい身分が違うの」
これくらい、と言いながら両腕を左右に大きく広げて見せる。
「だから、わたしの触れるものにあなたの手が触れたらいけないでしょう。わからない? ほらたとえば……」
セシャーミンは回転のやや遅い頭で例を考え出した。
「犬が食べた食器を、あなただって使いたくはないでしょう。ね、当然ね」
銀河にしてみればふざけた喩《たと》えである。これでは銀河を犬扱いしていることになる。しかし、セシャーミンは我ながらいい喩えを思いついたという顔をしている。
「セシャーミン、あんたわたしを犬だとおもっているの!」
当然銀河は腹を立てた。セシャーミンも、この私がこれだけ親切にさとしているのにまだわからないのかと腹を立てた。
「喩えだと言っているのに。このわからずやの無礼者が。あんたはそこの手鏡を使って洗い場に立ってやればいいでしょう。あなたの身分ではそれくらいで十分よ」
こうして掴《つか》み合いの喧嘩に到らんとしたとき、ちょうど折よく新入りが現れた。その現れ方は銀河よりよほど変わっていた。
扉をノックはした。したが、なかなか入ってこない。セシャーミンは、いつの間にか、
「叩扉《のっく》するだけ、あなたよりましね」
と鏡台に向かっている。しばらく時が過ぎたが、扉は開く気配がない。
「入りなさいよ」
と銀河が言った。応答はない。
銀河は怪しみながら自ら扉を開けて、廊下に目をやった。銀河がぎょっとしたことには、扉の脇に人が倒れている。
「……」
果断な銀河でも、一時、躊躇《ちゅうちょ》し考えた。この行き倒れ(?)をどうしようかと迷っていた。やはり、生死を確かめ部屋に入れ、亥野を呼ぶべきか、そう結論した。その時である。
「開いた」
と行き倒れは言って、ごそごそと起き上がった。そして、銀河の横を通って中に入っていった。
その女は見るからに妙な服装をしている。喩えれば作業着のような、だぶだぶの上着と※[#「袴」の俗字、「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85]子《ずぼん》を付けている。この服は、都では床袍《しょうほう》と呼ばれており、戎衣の一つとしてファッション関係者からは無視されている代物《しろもの》である。茅南《ちなん》州の一部の少数民族の服装らしい。床袍とは寝衣の意で、今風に言えば、パジャマかネグリジェであろうが、実際パジャマに酷似している。その民族は朝起きで床に入るまでずっと床袍を着ているという。その姿で仕事にも出て、寝もするから都の人は床袍と言ったのであろう。
さて、女は部屋にはいるなり、椅子を見つけ、ゆるゆると腰を掛け、足を組んだ。持ち物の袋から煙管《きせる》を取り出すと、見たこともない道具で器用に火をつけた。その間、一言も喋っていない。セシャーミンは先日の銀河で無作法者には多少の気持ちの用意ができてはいたが、こう連続して卑賤の者の無礼に晒されては、もはや自分の精神安定を維持する気力もなくなろうというものだった。唯一の方法、無視を決め込んでいる。
銀河は面白そうに新参の宮女候補を眺めている。作業着のような不粋な服を着てはいるが、顔は人形のように奇麗だった。瞳が碧《あお》いのも珍しかった。顔は人形のように奇麗なのだが、本当に人形ではないのかと思った。表情が滅多に変化しないのである。銀河はたまらなくなって、問いを発した。
「わたしは銀河という名前だけどあなたは?」
「江葉《こうよう》」
返事をした。外界を拒否しているわけではないのを知り、銀河は何故かほっとした。
「どうして、廊下で寝てたの?」
「開かなかったから」
江葉の口調は平板で抑揚がない。そして、言葉が短く、表情に乏しい。何を考えているのか分からない相手だと銀河は思った。しかし、警戒心を抱かせるような得体の知れなさはなく、無関心な、透明感のある印象である。
「開かなかったって?」
江葉は煙管を口から離し、部屋の中をひとわたり見渡しながら言った。
「開かないと、入れない」
また、煙管を口へ持っていき、
「きまりよ」
と付け加えた。
銀河が辛抱強く、江葉の短い言葉から意味を汲んだ結果、江葉の故郷では扉を叩きそして相手が開けてくれるまで待つしきたりがあるとのことだった。部屋の中にいる者が、入ることを許可するという意思を行動で示さないかぎり、外の者は相手を尊重する意味で、動いてはならないというのである。蛇足ながら、江葉の故郷ではこの国では珍しく通い婚が行われている。通ってきた男が戸を叩いても女が自ら戸を開けなければ、通い婚は成立しない。そのこととも関係があるであろう。
銀河は江葉に面白いと好感を持った様子だが、江葉のほうは、なにしろ寡黙《かもく》で表情に出ないのでどんな感想を持っているのか窺《うかが》うことはできなかった。
最後の同宿者が現れたのはそれから三日たった午後だった。
最初、銀河は双槐樹が入ってきたのかと思った。それほど酷似していた。
ぱっと、きらびやかなものが眼前に出現したような気がした。それは息をして動き話した。当り前のことだが、尋常ならざる気分に落とされるのは、彼女が持っている美的迫力の故であった。
その顔は双槐樹を連想させたのであるが、よく見ると細面《ほそおもて》だし、身体もひと回り痩せている。血縁があるのではなかろうかとも思った。
セシャーミンはやっと自分と同じ階層の女が来たことに、嬉しがりそうなものであったが、そうでもなかった。女はセシャーミンに輪を掛けて気位が高く、セシャーミンはおそらくは自分よりも上等の家門の人間であろうと察し、圧迫感を覚えたようであった。
その女は、
「玉遥樹、と書いてタミューンと訓みます。これより、違うことのないように」
と念入りに言った。冷え冷えするような声音が、この女の何らかを語っている。セシャーミンはタミューンに怖じるところがあって、常の高慢な喋り方を止めてしまっている。貴族社会の上下関係を、感触によって確認する習性がセシャーミンには備わっていた。
その点、銀河は気楽なものである。菫《すみれ》は薔薇《ばら》に譲るところがない、という諺《ことわざ》通りに振る舞う。
「タミューンはもしかするとコリューンと姉妹ではないの?」
率直さは上流階級ではときとしてこの上なく無礼、下品であるものだ。雲上人たちは幽《ほの》かで遠回しな物言いを好む。それが教養であり地位の証でもあるからだ。
玉遥樹は特に怒り出したりはしなかった。ただ冷たさを言葉にして吹くように言う。
「何故にコリューンを知っておる?」
「前にたるとの中で話したことがあるわ」
「たると? まさか。あれがそのようなところにいるはずはない」
「嘘じゃないわ。娥舎のどっかにいるはずだけど」
「馬鹿げた話じゃ。たしかに、この私はあやつの姉じゃが。あやつは家にいるはずじゃ。ここにくるには早すぎる」
玉遥樹は少し驚いているようだった。
「お前ごときと親しく物を申すはずはない。見間違えか、かたりであろ」
「そんなことはないわ。あなたにそっくりだったもの」
「……」
玉遥樹は扇で優雅に口もとを隠し、眉をひそめて困惑の姿態《しな》を作った。
「もし、まことならば、ゆゆしき」
と呟《つぶや》いた。釣られたのかセシャーミンまでゆゆしそうな顔をした。
退屈そうに煙草を吸っていた江葉が、退屈が過ぎたように言った。
「わたしも見た」
そのゆゆしき人を、と言葉を続け、
「たると」
と結んだ。江葉が自発的に言を発するのは珍しいことである。無関心のかたまりのような女だが内心はそうでもないのかもしれない。
玉遥樹は、しきりにゆゆし、ゆゆし、と繰り返した末、
「このこと他言無用に」
と言い捨て、どこへ行く気か、扉をくぐって廊下へ出た。
銀河を取り巻く顔ぶれはまず以上のようであった。歴史的顔合わせと言ってよいが、言ってよいのは後世から覗き見ることのできる我々だけである。
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女大学
銀河たちに後宮教習が開始されたのは、槐暦《かいれき》元年(一六〇八)六月のなかばであった。正確な日付は分からないが、同じ月に新帝の即位式が行われている。こちらの日付は、六月十八日(一説では十七日)とはっきりしている。後宮教育の開始と即位式のどちらが先であったかははっきりしない。
皇太子が新皇帝となり世に君臨することを示すべき式典は、じつに三十余の儀式からなりすべてを終了させるのに二日が費やされる。費用も莫大で、臨時の租税が徴収された。
この式典の様子を長々と列記しても、退屈なだけであるから省いて、締めくくりのエピソードだけ拾っておく。
皇太子は、ほれぼれするような動作で戴冠の大礼を終え、群臣を睥睨《へいげい》しつつ玉座に身を委ねた。ここに素乾朝最後の天子が誕生したのであった。彼、後世、槐宗と呼ばれる皇帝は十七にはとても見えぬ押し出しで、威厳と言ってもいいほどの雰囲気を放射した。群臣はその威に打たれ、自分たちは恐るべき王を主人としたと、感激し、また畏れた。
宦官の長ともいえる太監の職にある栖斗野《せいとの》は玉座の左に侍している。右には内閣|首輔《しゅほ》(宰相)の飛令郭《ひれいかく》がいる。ちなみに、副太監の真野は栖斗野のずっと後ろに立っている。
栖斗野は尻のような、と許された品のない顔を新帝の耳に寄せた。
『後宮ノ用、万事我ニ任ゼヨ。継嗣《けいし》ノコト陛下拙速ニコレヲ為スベシ。名華|繚乱《りょうらん》、孰《いず》レカコレヲ選ビタル、豈ニ難ナラザランヤ』
追従《ついしょう》のつもりだろう。「後宮の用向きはお任せを。陛下は早々に継嗣をつくることに専念してください」と言った。拙《つたな》くてもいいから速やかに子供を作れという言い方が面白い。
「名花が咲き乱れておりますれば、相手を選ぶのに苦労いたしましょうぞ」
栖斗野は好色そうな面で言ったに違いない。栖斗野は腹宗に対してはこのでんで取り入ったかと思われる。
新帝はこう答えた。
『既ニシテ意中ニ在り。気ヲ用ヰル勿《な》カレ』
「相手くらいもう決めてある」と平然と言ったか。あるいは娩曲《えんきょく》に「お前の知ったことではないわい」と突っぱねたのか。栖斗野はそれは誰です、という問いを発しなかった。
いずれにしろ、この会話が交わされたとき新後宮はやっと教練が始まったかどうかといった時期である。具体的な会話ではなかったのかもしれない。もっとも、新帝には具体的な会話でないこともなかったわけであるが。
この時、銀河の耳には即位式が行われたという風聞が入ったに過ぎない。
銀河たちの日常は別状なく過ぎていた。人間関係的には別状があるが、貴族と庶民の生活感の違いが、ときに摩擦を起こす程度である。
セシャーミンは銀河に明らかに敵意があって話にはならない。玉遥樹は別世界の人のようで、これも話がしにくい。江葉は極端に無口で、銀河のほうが話を引き出すのに苦労した。しばらく一緒に起居すれば、同室の好誼《よしみ》が生まれても良さそうに思われるかもしれないが、階級差というものはなかなか氷解しないものらしい。
銀河が退屈を感じ始めた頃、それを待っていたかのように、新生活が開始される。
ある日、亥野が細い声で布令《ふれ》を出した。
「明日より、女大学が開講される。各々、心しておくように」
変化はまずその日の夕食から始まった。これまでは手弁当のような、どちらかと言えば美食が支給されていて、セシャーミンなどの舌の肥えた者は不平を言ったが、銀河は満足していた。都風の料理は、手がかかっていて舌にいろいろな刺激を与えた。決してまずくない。ただ、二重三重の調味技法がくどく感じられるときがあった。
この日から、大食堂で食事をすることになった。久しぶりに部屋から出たことになる。娥舎にこんな広い部屋があったのか、と銀河は驚いた。数え切れない人数が、この部屋に会した。最初にここでは一切の私語を禁ずと言い渡された。通夜の席のような静けさのなかで食事をしなければならない。
銀河は辺りを見渡した。宮女の食事掛の宦官が数人見張るように立っていた。また、配膳は女官がやっている。あとは見渡すかぎり若い女である。千差万別の美女が大部屋を埋めている様はさぞかし壮観であったろう。顔つきや膚の色、髪型が少しずつ違う。銀河はこの国はやはり広いのだとあらためて思った。
銀河は神妙に沈黙して食事をしたが、目は興味深げに動き回っている。女たちは外見だけでなく、食するときの動きにも個性があった。箸《はし》の使い方、口に運ぶときの所作、各々の地方のものであろう。銀河は自分の付近の数十人を見たに過ぎないのだが、それでもこれだけの違いが分かった。銀河があまりきょろきょろするから女官に肩を叩かれ、睨《にら》まれた。
食事の内容が、激変していた。ただ、銀河には見慣れた日常のものではあったが。玄米飯が主食でおかずは根菜や豆の煮付け、干し魚、漬物、それにひと椀《わん》の汁が付いている。なんのことはない庶民のありきたりな食事である。もっとも、この時代、庶民には経済的格差が出てきており、その日の飯にも事欠く者もいれば、食道楽に励む富商もいたわけで、必ずしもありきたりではない。これは、その日の飯に事欠くほどではないが、贅沢な物を求めて食する事までは難しい者の食事である。銀河の里を例にして言えば、緒陀の里の真面目に働いている者ならばこれに野鳥の肉や四足獣の肉を少量、加えることができよう。
汁――スープ――は変わった味がした。だしは獣骨や海草でとってあるようだったが、具が一切れも浮かんでいない。色は紫に近い、汁にしては不気味な色である。匂いはほとんど無く、味は渋かったり、苦かったりする。
銀河たちはこの日から、一日二食このような食事内容に耐えることになった。普通の庶民の出の女は、また元通りになった、と思うだけで耐えるという言い方は大げさであろうが、貴族やそれに準ずる暮らしをしていた女にとっては耐え難いものがあったろう。
後宮宮女の食事には多少のバラエティーがある。玄米が※[#「麪」の俗字、第3水準1-94-80]麪《ぱん》であったり※[#「麪」の俗字、第3水準1-94-80]類《めんるい》であったり、野菜は四季の旬の物が出て、変なスープも毎日替わり、色が茶色であったり黄色であったりする。この程度のバラエティーでは貴族の女を喜ばせることは難しくはあろうが。
さらにこの食事について述べる。これは後宮教育の一環であり、良き宮女を作るための献立でもあった。現代の自然食、粗食主家の人々が見れば、理想的な内容だとするであろう。勿論健康のためにである。現代栄養学を軽視する彼らは、ビタミン、蛋白質の量がどうの、カロリーがどうのといった些末《さまつ》で部分的な理論より、それらの総体としての自然の食品に信頼を置いている。彼らの考え方は実はこの国の古典哲学に源泉があると言えなくもない。古人の健康に関する知恵の体系の一部には、養生法、長寿法に食事法の必須が説かれている。素乾の後宮学司はこの色褪《いろあ》せてはいるが有効な古典の知恵を取り入れた。この献立は房中能力を増加させる。また、女を多産にし、男の精力を高める食事でもある。性欲をいたずらに刺激するだけの媚薬《びやく》料理などとは目的も理論も違うものである。さらに付け加えると、妙な汁は宮湯と呼はれる薬湯である。普通のだしを取った汁に薬草を煎《せん》じ込み、味を調えたものである。
女たちのうち、おそらく貴族の出身の者たちは露骨に顔をしかめていた。銀河は正面のセシャーミンを見ていた。セシャーミンは怒ったような顔になり、食事から目をそむけ、手を付けようともしなかった。
『こんな家畜の餌のようなものを食べるわけにはいかない。もし、食べれば自分は卑賤に落ちてしまう』
そう思っていた。
一方、玉遥樹はいつもの品の良さで、別に怒ることもなく、食事を口へ運んでいる。セシャーミンはそれを見て、自分は勝った、と思った。自分より格上らしい玉遥樹があさましくも、食欲に負け、貴族の矜持を捨て、餌のごとき料理を貪っているのである。真の貴族の誇りのため、セシャーミンはこのときからハンストを決行するのである。しかし、玉遥樹としては貴族のプライド云々よりも、この食事の意味することを知っていたから、食べているのである。この意味を知っているということは尋常な知識ではなく、後で述べるように、玉遥樹はまさに尋常な者ではない。
銀河の隣の席の江葉は、さっさと食べ終わって、食後の一服をしたそうな手付きである。料理について何の感想もないらしい。胸のうちにはあるのかも知れないが、銀河には窺《うかが》い知れない無表情であった。
銀河は双槐樹を探したが、この大人数の中では、発見はできなかった。
翌日、女大学が開講された。
朝早くに起こされた。起家《ちーちゃ》婆という役職の女官が、一つ一つ部屋を回り、宮女候補どもを叩き起こしてゆく。
「女大学って、何かしら」
と朝に弱いセシャーミンが不機嫌に呟《つぶや》いた。ふらふらしている。低血圧気味のセシャーミンが前日、夕食を抜いているものだから、いっそうひどくなっている。
「きっと学校だ」
銀河はわくわくしている。
「一度学校に行ってみたかった」
この時代庶民教育など存在しない。民衆好きの学者が私塾として学校を開いた。それにしても、女の弟子は取らないのが普通であってそもそも銀河にはチャンスがない。銀河の故郷では劉庵《りゅうあん》という男が塾を開き、読み書きを教えていた。銀河は一度劉庵学校に交渉に行ったようだが、あっさりはねられたらしい。
銀河の喜びようを見て玉遥樹は扇子を口もとに当て、薄く笑った。銀河の無知が可笑《おか》しかったようである。貴族の令嬢には非公式ながら教育機関があった。そこで礼儀作法と古典的教養を教えられる。その結果、気の利いた令嬢は、即興で古典に則《のっと》った詩賦《しふ》が作れるほどになった。この場合、玉遥樹が笑ったのは銀河の無学に対してではなく、これから学ばされることを普通の学校でやることと同じだと思っている点が、同情を催すほどに可笑しかったからである。
後宮の宮女のための学校。この、世界でも類例がないと思われる学校は、例の巨大後宮主義者の衒宗の治世年間にその端を発する。
衒宗は晩年、仙道術にひどく凝った。数万人の後宮を持っているのである。身体が保つはずがない。そこで鶴隠子《かくいんし》という仙術者を招いて、房内の秘技を習おうと考えた。鶴隠子は当時有名な人物で民衆の声望も高かった。魔除け、病気治しにたいへんな実績を残したとされるが、それはともかく、後宮に入った鶴隠子は衒宗に房中術の秘伝を伝え、婦女子を御するに卓効あるという秘薬玄牝丸《げんぴんがん》≠与えるといずこともなく立ち去ったという。
鶴隠子の教えが効果があったかというと、その形跡はない。衒宗はその翌年に崩御している。真面目に医理を学んで極めている典医の雉角《ちかく》は、衒宗の急逝は例の玄牝丸が原因だと思っていたようだ。確かに玄牝丸は怪しげな代物で竜の角、犬の睾丸《こうがん》、未婚女性の月の物などを材料にしていたらしく、これを毎食服用していた衒宗の健康が危ぶまれる。ちなみにこの国の歴代王朝の皇帝は仙薬好きであった。以前にも黄燕丹《こうえんたん》なる仙薬を愛用して、そのせいかどうかは知らないが、痩せ細り、発狂状態で死んだ皇帝もいた。長寿への欲望が仙薬好みの原因であったろう。さて、典医雉角は衒宗の死後、内閣首輔と図って皇帝のために房中教育の書を編纂《へんさん》することになった。古えからの房中文献を整理改訂して、言うなれば医学の一環としての房中の理を明らかにしようとした決定版であった。
さらに理屈として陽男のみを養うのは不合理であるから同じく陰女を養う法も同時に研究された。これが女大学のもとともなる。
そして、いわゆる「後宮七典」というものが成立した。後宮教育のために編まれはじめたものがついには大部な経典となってしまったものである。これでは難解すぎるため直接には宮女の教科書とはならなかった。
この七典のうち二典は失われ、現存するのは五典である。素乾後宮の奥所に厳重に保管されていたが、幻影達の乱の時あばかれ流失してしまった。その後ふたたび集めることができたらしいが今度は先の大戦で、うやむやのうちに散佚《さんいつ》してしまったという。ただ、そういう混乱があったとしても二典だけが消え失せたように無くなってしまったのは、うなずけない話である。専門家の間ではその二典が最も重要と目されている。また、もともと五典しかなかったのだという説もあり、紛糾している。
七典が整備されたのは衒宗の典医が志を立ててからふたりの王の時代を経た頃である。先述の狄宗《てきそう》の時代の少し前である。
現存し、見ることのできる五典の内容は、まず第一巻が、「後宮礼」と呼ばれる、後宮内の煩瑣《はんさ》な礼儀、儀式、作法などが記載きれたものである。第二巻が「後宮律」と呼ばれる、後宮内の法律について書かれたものである。第三巻は「後宮軌」といい後宮の建築関係のことをこと細かに記したもので、部屋数間取りなど、建物全般について書いてある。
これら三典は後宮教育書というよりも、後宮についての記録といったものであり、おそらく、後から付加的に経典化されたものであろう。
残りの二巻が重要である。
第四巻を「後宮|至理《しり》」という。後宮の成立根拠から、後宮の基礎理論、ついで房中術の総論的な論説がつづく。この巻以降の序論ととってもよい。この巻の特筆すべきは、後宮自体がまるで生きて思考しているかのような筆法が用いてあることである。哲学の経典といった趣さえある。
第五巻が散佚している。
第六巻は「陰陽方《いんようほう》」といい、実際的な性技法に関する具体的な理論が説かれている。交媾《こうこう》の技法は微に入り細を穿《うが》って描写されているが、挿し絵はなく、読むのに骨が折れる。
第七巻は散佚している。
第五巻には、第四巻の総論の部分から推測すると性的な鍛練法が詳述されていたと思われる。
研究者が最も口惜しい思いをしているのは第七巻の散佚である。これにこそ究極の性科学理論と具体的な技巧が述べられていたと思われているからだ。後宮という歴史的形態が生み出した最高の秘儀がそこにあるに違いないとされている。ただし、そう推測されているだけで、本当にそんなだいそれたものが記されていたという証拠があるわけではない。
銀河たちが受け取った教科書は「女大学」という表題のついた薄手の三巻本であった。七典からの直接の引用では難しすぎるため、より簡易な記述で書き直されたものである。あまりに噛み砕かれ過ぎ、挿し絵もふんだんに使われているから、研究者の間では、第七巻の部分が果たして入っているのかどうか疑わしいとされている。女性を対象にしての抜粋でもあり、また説明不足の点も多く、女大学の教授がところどころ補う形で講義したものと思われている。
宮女候補たちは大講堂に集合させられ、各々の名札のついた席に着席させられた。机上にはその「女大学」三巻が置かれていた。
宮女候補たちは広い講堂の中、ざわざわと落ち着かなかった。
銀河は机上の「女大学」をばらばらとめくっていたが、第三巻目になると、ちょっと顔をしかめた。まさか、学問とはこのようなものではあるまいな、と思った。略画とはいえ男女のからむ姿が、数頁にわたって載っているのである。
講堂の四隅に立っていた宦官が、
「老師のおなりである。静粛にせよ」
と呼ばわった。とうとう先生が出て来るらしい。
講堂の前方、演壇の脇から、一人の人物が現れた。その動作は教養で洗練され、一場の舞台に上がってきた役者の所作を思い起こさせる。筆者がこう好意的に描写しているのにも拘《かかわ》らず、銀河の感想は、
『春秋高カラン、寂寂タリ』
である。貧相な年寄に見えたもののようだ。銀河の席からはやや遠かったが、白髯《はくぜん》と白髪が目立った。実際、七十の坂を越えているはずである。
老師と呼ばれた人物は、小柄で、枯れ果てたような姿に見えるが、しっかりした足取りで教壇に上がっていった。
「セト・カクートと申します。以後、皆さんの学司を勤めさせていただく」
カクート、とは素乾の音ではない。西方系の響きがある。彼は名前に字をあてるとき、瀬戸角人、と表記した。よく観察すれば細く皺《しわ》の寄った目の色が、やや碧いことが分かるであろう。
宦官たちは彼を「角先生」と呼んていた。本人の前ではさすがにそう呼ぶのは憚《はばか》られるので、老師か学司子と呼んでいる。なぜ、憚られるかといえば、角先生というのは一般には、婦人が自慰行為に使用するところの男根型の張形のことを意味しているからである。蛇足ではあるが、張形の材料には水牛の角を用いるのが広く行われていた。中がうつろになっていてそこに湯を満たして使用するのだが、木製の物などよりも大分具合が良かったので好まれたらしい。後宮宮女も歳が長《た》けて猛々しくなってくると御用商人が開く宮市で角先生を購《あがな》ったりした。筆者も先生には悪いが、角先生と呼はせてもらうことにする。
「皆様方は今日よりここで学んでいただきます。私はそのお手伝いとでも申すところでありましょうか」
角先生はそう丁寧に言った。
セトという姓は、素乾国の版図でみれば西の涯《はて》にある小国の姓であった。西都とも瀬戸とも表記され、その地方の文化は翠韈《すいべつ》や隠土《いんど》の文化により近い。狄宗の征服がなければ角先生は歴とした西都国の主《あるじ》であったはずである。カクートの祖父王は、素乾に抗戦することの無理を早くに悟り、臣従した。そして、息子を人質のような形で北師に留学させた。その留学生が後宮七典の最終的な仕上げを担当した碩学《せきがく》瀬戸隆寛となる。本名をセト・ルーカンといい、彼がカクートの父親である。
角先生は父親を継ぎ学界に令名を馳《は》せ、腹宗に招かれて学監をつとめ、老いて後宮学司に専念するようになった。「女大学」は角先生が弱冠二十歳の時書き上げたものである。
角先生は『謙譲ノ美徳ソレニ過グルモ、大人《たいじん》ノ風ニ適セザル所アリ』と評されている。つまり、人に接するに馬鹿丁寧すぎるということである。大人というものは謙譲の徳を持ってはいるが恰幅《かっぷく》よく鷹揚《おうよう》に構えているべきとされ、角先生の場合あまりに遜《へりくだ》り過ぎて大人らしくないというのである。角先生の丁寧さは僻陬《へきすう》の小国から人質のようにやって来た父親の代からの性質というもので、異国で身を立てるための処世術の一つであったとも思われる。押しも押されもせぬ大学者となった後もそれを改めなかった。そのせいか角先生には論敵を含め、敵がほとんどいなかった。
角先生はふわりとした印象を与える人で、およそ緊張などとは縁のなさそうな風体だった。しかし、彼がそのやさしげな声を口から出す度に、講堂内の空気がかすかに緊張するようだった。
「女大学」上巻冒頭は、
『後宮ニ哲学アリ』
という文章で始まる。房中術のテキストにしては妙な書き出しである。角先生の渾身《こんしん》の思想宣言であるらしい。だが、この最初の講義では角先生はテキストを広げさせなかった。
『学司子、小宮女ニ問ヒテ曰ク、男女ノ異別ハ如何《いかに》シテ定メンヤ』
こう問うたという。
「まず、教科書を開く前に私から質問を致しましょう。そこの、あなた。そこの小さなお嬢さん」
先生は、最前列の少女を指した。
「はい……」
髪の毛のすこしちぢれた小柄な娘であった。
「あなたは勿論女性ですね」
「は? はい」
「この私は、だいぶ耄碌《もうろく》してはいるが、男性だね」
「え、ええ」
「どうして区別できるのでしょうか?」
「それは、見れば……」
「見れば分かりますか?」
「はい、たいていは」
「どこを見れば分かるんでしょうか」
「どこって、からだつきを」
「それだけでは不十分な答えですね。確かに男と女は身体付きが違います。しかし、そうでないこともたまにあります。私はとてもしっかりした体格の女の人が男の服を着ている所を見たことがあります。私ははじめ男だとばかり思っていて、失礼をしたことがありました。その人はひどく怒りましたよ。私は恐縮しながら謝ったものです。こういう例もありますから、外見だけで決めるのもどうかと考えます」
角先生はにこにこしている。
「意地悪な質問ではないのですよ。男性器がついているからとか、乳房があるとか、そういう答えでは不十分であるということなんです。あなた、座っていいですよ。私が昔見たことのある異国の書物には陽根のある女性や牝戸《ほと》のある男性がいたと記してありました。さて、すると、どうなりましょうか」
角先生は何人かにあてて答えさせたが、満足に答えられたものは一人もいなかった。
最後にあてた、利発そうな目をした娘が言った。
「心です。心で区別するのではないですか」
「ほほう、あなたはどこの出ですか。東鹿《とうろく》州の方ですか。あのあたりは非常に精神的な物の考え方をする人が多い。特徴的です。宗教の影響もあるのでしょうね。興味深い意見ですが、残念ながら外れです。こういう、例があります。天が誤って、男に女の心を入れ、女に男の心を入れて地に送り出してしまうときがあります。皆さんは実例を見たことは無いかもしれませんが、男色を事とする人の中に時々見ることがあります。彼は惚《ほ》れた男と二人きりになると女以上に女らしくなってしまうのです。しぐさといい、話し方といい、甘える素振りといい、見ていて可愛く思うほどです。しかし、からだつきは太くがっしりしていて声も野太い。どうみても女の人ではありません」
銀河はこの話を興味深く聞いていた。そして、はやく正解を教えてくれないか、と思った。好奇心が性格の中央に座している銀河はこういうなぞなぞめいた話が好きで、それは納得できる解答を欲しがった。寄席《よせ》で、落ちを期待する観客のわくわくした感情に似ている。
「さて、このように話を続けて参りまして、この問いへの解答が必要かと思われますが、はて」
角先生はゆるりとあたりを見渡した。
「この中に分かる人がいなければ、もともとこの問いは提出されても仕方のないものなんです。というのは、つまり、皆さんが自分で考えて答えを見つけるべき問題なのであって私が言うべきことではないと。もしかしたら答えがないかもしれない、そういうことだってありうるわけです」
銀河はこれを聞くと落胆し、ついで、ずるいという怒りがこみあげてきた。謎《なぞ》を出すだけ出しておいて、すっと、退いてゆくなどということは逃げであるとも思う。銀河は物事に終始と白黒を着けないと気が済まない性格であった。
銀河は凄い勢いで挙手したという。
角先生は挙手した娘の常ならなさに、一瞬、戸惑った顔をしたが、どうぞ、と言った。
『強《し》ヒテ望ム、ソノ答ヲ出ダサレンコトヲ。判然トセザルハ心気安セザルナリ』
と銀河が叫んだことになっている。
「ちゃんとした答えを教えてもらわないと、夜も気になって眠れなくなるじゃないの」
師に対するには不躾《ぶしつけ》すぎる物言いであろう。さらに、『卑怯ナリ』と言ったともいわれるが、どうだろうか。
角先生は終始温顔で銀河の文句を聞いていた。銀河が興奮さめやらぬ顔で、口を閉じると一言った。
「あなた、名前は?」
「銀河」
角先生は、ほう、と髯《ひげ》を撫でた。後宮学司を長いことやっているがこのような反応の娘は初めてであった。
「確かに、解けていない問題を心の隅に残しておくと気がくさくさしてくるだろうね。私だってそうだ」
他の宮女候補たちと宦官は角先生が怒気を発するものと思っていたが、案に相違して、先生の態度は全く変化しなかった。
「だがね、この問題はなぞなぞとは違うのだよ。あっと胸落ちするような一言を望んでいるのなら、お門違いというもんだ」
銀河はひるまずまた言った。
『学司子ハソノ実ヲ知レルカ』
「先生は答えを知っているのでしょう」
角先生は言った。
『然り。我知レリト為ス。但シ、我独リノ見ナリ』
知っているが独見にすぎない、と答えた。
「それならば先生の答えを教えてください」
銀河は諦《あきら》めない。
「それは駄目だよ。私はこの答えを得るのに五十歳を費やしたのだ。それをあなたのような大して考えてもいない人間が一言にして知りたがるのは、それこそ卑怯ではないかな」
皆はこの間答に次第にはらはらしてきた。ほんの小娘が大学者を問い詰めようとしているのである。ただでは収まるまいと皆思った。
「わたしが先生と違う答えを見つければいい」
と銀河は言った。角先生はじっと銀河の顔を見ていたが、怒りはなく、温顔には笑みがあるばかりであった。しばらく黙っていたが、口を開いた。銀河は緊張した。
「時間でありますから、今日の講義はこのへんで終えましょう」
角先生はそう言って、てくてくと階段を降りていった。
あの先生は逃げる気だ、と銀河は思った。
『汝、如何《いか》ニシテモ遁《に》ゲントスルカ』
と銀河は叫んだ。古文語とはどうも大げさに聞こえる。実際は、
「ちょっと! 答えもしないで帰るなんてずるいわよ!」
とでも言ったものか。
初日の講義はこれで終わった。変な講義だった。とにかく一同はぞろぞろと宦官の指示にしたがって部屋へ戻った。
銀河たちが部屋に戻ると、すぐ、亥野がやって来た。
「銀河、角先生がお呼びぞ」
銀河ははっとなり、セシャーミンはにやりとした。
「わしは聴いておらなんだが、今日の講義で何ぞ失礼をしたらしいな」
亥野はのっぺりとした言い方で言う。
「角先生が事後に呼ぶなど、滅多にないことぞ」
じろと銀河を睨んだ。
「最悪の場合は、たるとの外へ行くことになろう。覚悟はしておけ」
亥野は今度は同情口調になった。
「そうなったとしても悲観して、おのが命を断つようなことはしてはならんぞ」
しばらくして迎えに来ると言って亥野は出ていった。
「きゃははははっ」
セシャーミンは日頃の上品さをかなぐり捨てた喜びようであった。
「やったわ、これで、あなたもおしまいよ。無礼者を放置しておくほどここは甘くはないのよ。短い付き合いだったけど、あなたの自業自得だから仕方ないわね」
「あんたねぇ、わたしが出ていくのがそんなに嬉《うれ》しいの?」
「もちろんよ」
銀河は一応、服を直し、髪を梳いた。
「大体ね、講義中に老師に口答えするなんてこと自体が、卑賤の身の愚かしさの表れね」
銀河はセシャーミンを無視して、再びやって来た亥野についていった。
角先生の部屋は仮宮を出て、立派の一語に尽きる本後宮を抜けて出たところにある。後宮は新規開店を前にして改築中であった。一時代の間にはいろいろな故障が起きるものであり、ここが空になっている間に全てを手直ししなければならず、多くの職工が入っている。ちなみに、職工は皆宦官である。内官という役職の宦官は土木技術に秀でた者が任命される。一つの堅牢そうな門を潜った時、これを乾生門《けんせいもん》というのだが、
「ここからはもう後宮ではない」
と亥野が言った。皇帝が政務を執る場所、いわゆる外廷である。ここを自由に通過できるのは皇帝と宦官と後宮学司だけである。
やがて角先生の部屋の前にきた。亥野が叩扉《こうひ》しようとした時、すっと、扉が開いた。中から人が出てきた。銀河が驚いたことには、それは双槐樹であった。相変わらず黒いぶかぶかの緞袍《だんぼう》を着ていて、頭には黒い髪巾《はつきん》がかけてある。
双槐樹は悪戯《いたずら》っぽく銀河を見ると笑った。おまけに右目をはっきりつむってみせた。
「久しぶりじゃ。叱られに来たのか」
「知らないわ」
「何を怒っておる。面妖《めんよう》をおなごだ」
双槐樹は銀河より頭一つ大きい。その高さから銀河の栗色の髪の上に手を置いて、
「よしよし、癇癖《かんへき》もほどほどにしたがよい」
と言った。そして、滑らかな足取りで歩み去った。かえって癇が高ぶった銀河は、亥野に言った。
「どうしてコリューンがここにいるのよ」
「わしも知らなかった。どういうことだろうか」
部屋の中から、お入り、という声がかかったので、ふたりは中に入った。
部屋に入った途端、銀河は目の前の書物の山に驚いた。それも半端な山ではなく、山脈と言ったほうがいいほどの山であった。勿論のこと壁の本棚にもぎっしりと書物が詰まっている。隙間なく書物があり、その奥に角先生の小さな身体と机があった。
「老師、連れて参りました。何用でありましたか」
と亥野が言った。
「ああ、ご苦労様。あなたは外にいてくださって結構ですよ」
と角先生が言うと、亥野は無言で出て行った。
銀河は物珍しそうに書物の山を見つめている。手に取ると破れてしまいそうなので、触れなかった。角先生を振り向くと平気な顔で言った。
「この本、みんな読んだの?」
「うん? みんな読んだかって?」
先生は髯をしごきながら言った。
「半分は読んだ」
「なんだ。じゃ、後のは飾りなわけ」
「いや。後の半分は私が書いたものだ」
「素乾書」瀬戸老師伝には、『瀬戸先生ノ著セシ書ハ、三百七十八巻ニ及ブカ』と記されている。が、現在残っているのは四巻十六冊にすぎない。残るべき価値がなかったのか、運が悪かったのか、おそらく後者であろう。
銀河には角先生が書物に巣くう生き物のように見えた。自分の生命を書物に捧げ尽くす異様な生き物である。銀河は一つ所にこんなに多くの書物が集中しているのを見たことがなかった。銀河はまだ宮廷の文庫というものの存在を知らなかったのである。
角先生は銀河をにこにこと見つめている。好々爺《こうこうや》然としていて、本の化け物には見えなかった。先生が何も言わないので、じれた銀河のほうが言った。
「老師、わたしを追い出すんなら、あの答えを教えてくれてからにしてください」
「追い出しゃしないよ」
と角先生は言った。
「お前さんにだけ特に答えを教えてやろうと思って呼んだわけさ」
講義の時よりはくだけた物の言い方をする。
銀河の目が輝いた。
「本当?」
「うむ。ただし、これは私の答えであって、真似をしちゃいけないよ」
銀河はうなずいた。
「答えは、子宮さ」
角先生はいともあっさり言ってのけた。
「子宮?」
「そう。子を育む大事なところだ。子を孕《はら》むことのできるものが、すなわち、女なのだ。子のための宮殿を持つものだけを女性と呼べるだろう」
あっさり言われたので銀河は多少拍子抜けした。
「そんなことを考えつくのに五十年もかかったの?」
「そんなこと、とは言ってくれる。これは実に奥深く、玄妙な哲学なのだよ。字づら通りに受けとられても困る」
「哲学……?」
「そう。哲学だ」
銀河の耳に哲学という言葉はひどく新鮮に響いた。ただし、意味は分からない。
「哲学ってなんですか?」
「これまた難しいことを聞く」
だが、先生はこれにもあっさりと答えた。
「生きることだ。ただし、私の意見にすぎない。お前さんの哲学はまた別なものでなくてはいけないよ。真似していいのはわずかな間だけだ」
銀河は頭に新しい刺激を与えられたようである。分からないまでも、素直にうなずいた。
「うん。今はうなずいてもよろしい」
角先生はそう付け加えた。
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後宮哲学
もともと後宮の講義は性技術の講義として始められた。皇帝を愉《たの》しませ、気力精力を充実させ、ついでよき世継ぎを生まれせしめるためには、宮女が房中術の陰の部分の技法を十分に会得していることが必要であった。
そういう講義の中でなぜセト・カクートのようなむしろ哲学的学究が学司という主要な位置にいたのか、不思議なことである。宮女に性技術を身につけさせる以外に、小難しい哲学などをなぜ教授せねばならなかったのだろうか。後宮に哲学者を入れたのは歴朝の後宮でもこの素乾朝以外に類例がない。
「女大学」上巻の冒頭は、『後宮ニ哲学アリ』という文句で始まる。テキスト全体の構成では、ここでいう哲学なるものが、他の項目より優位にあり、あるいは、他の項目を包括しているといえる。
後宮七典の最終的編集主幹であった顔戸隆寛が狭宗に気に入られ、瀬戸隆寛の影響で、狄宗は物好きにも、後宮に哲学的根拠を導入させたらしくある。瀬戸隆寛を継いだ角先生は、隆寛に輪をかけた思索型の性質を持っていたので、その若い勢いで「女大学」を哲学書のような構成にしてしまったらしい。別に害があることでもなかったため、宦官も皇帝も敢えて咎《とが》めることはなかった。角先生が後宮学の権威として君臨するようになった腹宗年間中期から、後宮哲学は素乾後宮に定着してしまった。
娥会《がしゃ》に起居し、毎日二時間ほど角先生の講義を受けた。角先生は後宮の思想的根拠であるとか、人体の生理学などについて主に講義した。性技術の実技指導は自分ではやらなかった。その種の講義は菊凶《きくきょう》という男に任せている。菊凶は角先生の一番弟子をみずから任じている。角先生の弟子と称する者は、数十人に上るが、角先生とともに後宮に出入りしたのはこの菊凶だけである。
『菊凶、婉然《えんぜん》、美少年ナリ』
と記されている。この時、二十四、五であるはずだが、その姿はたおやかで女のような顔立ちをしていたという。巷間《こうかん》の女は菊凶を見て、羞《は》じて逃げ出すほどであったという。天山遯《てんざんとん》は、菊凶は『角老師ノ恋童《れんどう》』であったろう、と述べている。恋童とは男色の対象であるところの若衆のことである。角先生と菊凶の間柄がそういうものであったかどうかは、ここでは敢えて穿鑿《せんさく》しない。
菊凶は美しかっただけではなく、頭脳も非常に優秀だった。角先生も、我《わが》学《がく》ヲ承《う》クルハ其レ菊凶カ、と内心思っていた形跡がある。ただ、菊凶は学究に向かなかった。魂を焦がすほどの野心が、その体内に溢《あふ》れかえっていたからである。
その菊凶が教壇に立つと、宮女候補たちはひそかに溜め息をついた。このような素敵な御方が現実に……という思いがあった。さらにその菊凶が自らの肉体を使って、性技術の具体的方法を示すのである。不吉に妖《あや》しい興奮が、宮女候補たちの胸にざわめいた。
具体的技法を示すとは言っても、壇上で女性を相手に交媾《こうこう》をしてみせるわけではない。若い宮官の中から、容姿端麗な者を選んできて、それを女役にみたてるのである。時には菊凶が女役を演じることもある。
その図のほうが実際に女性を相手にするよりも、よほど刺激的であったのか、見ていて声を漏らす宮女も多かった。美青年と若い宦官が壇上で性技を演ずるのには、どうしようもなく、妖《あや》しすぎる蠱惑《こわく》があった。
その時角先生はどうしていたかというと、席について、自ら学ぶもののように講義を聞いている。
菊凶がどういうことを教授していたか、「女大学」から見てみる。
『凡《およ》そ初めて交会するの時は、男、女の左に坐し、女、男の右に坐す。乃ち男は箕坐《きざ》して女を懐中に抱く。ここに於で繊腰《せんよう》を勒《ろく》し、玉体を撫し、申嫣婉《いだき》、敍綢繆《もつれ》、同心同意、或いは抱き、或いは勒し、両形相ひ搏《う》ち、両口相ひ接す。男、女の下唇を含み、女、男の上唇を含み、一時に吸ひ相ひ、その津液《しんえき》を茹《くだ》す。或いは緩かに其《そ》の舌を噛み、或いは微かに其の唇を噛み、或いは遡《むか》ひて頭を抱かしめ、或いは逼《せま》りて耳を拈《ひね》らしむ。――』
これは前戯の正しい作法(そんなものがあるのかどうかは知らないが)について述べた部分である。菊凶はこれを型として若い宦官に施すのである。
菊凶は型を一回り終えると、
「以上、かくの如くにすべし」
と結んだ。演技が終わったのに若い宦官が起き上がらないので、菊凶は言った。
「久塘野《くとうの》殿、終わりましたよ」
久塘野は放心していたらしい。気が付くとぽーっとうるんだような目をしばたかせて、次には顔を覆って逃げ出した。菊凶は苦笑している。久塘野はおそらくこれ以後菊凶を皇帝よりも慕うようになってしまうだろう。菊凶に惚《ほ》れてしまった宦官はすでに何人もいる。菊凶は表面ではそれらを拒まなかった。彼らは後宮における菊凶の勢力となってしまっている。
放心したようになったのは久塘野ばかりではない。宮女候補の中にも少なからずいた。銀河は菊凶の演技を見ると、腹の中がむずむずするような感触に襲われた。どちらかというと不快感をともなっていた。あんな目には合わされたくはないな、と久塘野のことを考えている。銀河は自分の周囲を見回した。セシャーミンは明らかにぽーっとしている。ただし菊凶に性的刺激を受けたのではなく、断食が四日目に入っていたからであった。玉遥樹は心持ち顔を上気させている。同性の銀河でさえぞっとするほど妖艶な雰囲気を漂わせている。銀河は目をそむけ、江葉を見た。江葉は全く変化なく、無関心そうな顔があくびをした。銀河はそれを見てなぜかほっとした。
菊凶が教壇を降りると、角先生が交代で教壇に上った。
「いま、菊凶が演じたところはまだ皆さんにとっては先の課程であります」
角先生は例の如く、笑顔で言う。
「今の図を卑猥《ひわい》と思うのはよくありません。神聖にして重要な気≠いかに操作するかということの一つの見本と思ってください。さて、そもそも人間が生まれながらにして持っているのは、呼吸することと、食べることで、これだけはだれに教えられることもなく、私たちは持って生まれてきました。何故かというと呼吸と食事は、気を摂《と》り入れるために行われ、気を摂り入れなかったら人間は死んでしまうからです。
男女陰陽の交歓はこれは生まれながらに身に備わっているものではありません。これは呼吸と食事で摂取した気を損ずるものと見なければなりません。人はこの損を好みます。好むのは結構なのですが、なにしろ房事は身に備わっていたものではなく、普通の人は見よう見真似でなんとか行っているのにすぎず、正しい学習で身につけたものではありませんから、最も大事な気についての認識と技法が欠落しております。その結果は気をいたずらに損じて、害が心身に及ぶこと言うまでもありません。
だから、皆さんは気を損なわず、気を養うことのできる正しい方法を学ばねばならないのです」
と角先生は難しいことを言った。
現代医学では、今でこそ、性欲は本能ではあるが性行為は学習によって身につくものである、ということが常識である。なにぶん誤解されやすいこの区別は、この地では、角先生以前にすでに分析されていた。現代医学よりも少なくとも千年は早いと思われる。この知恵は、隠土の古い経典にも記されており、古人の経験から生まれた医学体系も、そう捨てたものではないことがわかろう。
気≠ニいう概念について説明しなければならないが、気の理論はいろいろとややこしく、不明な点も多く、これからさらに研究されるべき分野でもあり、筆者にはそのあらましを述べる程度しかできない。気は古代生理学においては現代の神経系とホルモン分成系理論に代わる理論であったと思う。もちろんそれだけではないが。
気は体内を循環する一種のエネルギーらしい。気には−と+があり(陰と陽)、その循環とバランスによって人の生命は完《まっと》うされる。気が多かるべき場所に気が少なく、気が少なかるべき場所に気が多かったり、気が活発に循環せず鬱滞《うったい》を生じたり、陰陽の気がアンバランスになったりすると、人間は発病すると説明される。
また気は具体的には体内を血液、精液、唾液《だえき》などの形態をとって循環しているともいわれる。気をコントロールすることは、これらの体液の調整に繋《つな》がり、房中術に関して言えば、精液、津液(唾液、愛液、汗)を重要視している。
房中術は古典医学の一部分であるから、これだけを取り出して論じるわけにはいかないのだが、気に発する薬草《ほんぞう》学、経絡《つぼ》学、食養学などについては、これらも房中術に密接なものであると言っておくにととめる。
銀河が教授されていたのはこの時代の一流の教養の一部分であった。気は房中術のキーワードであり、かつ、要であり、かつ、神聖な哲学であったわけである。
宮女必修の性技を説く前に、その基礎理論の段階から入るあたり、女大学の教授法はひどく念入りであると言える。このような教授法、大げさに言えばカリキュラムは、角先生が学司に就任してから確立された。角先生の好みというか性格がよく反映されている。何事にせよ基礎から打ち立てて行くという、学究的な堅実さが女大学の方針であった。
ただ残念なことに、角先生主宰の女大学は二度しか開かれなかった。理由は角先生の在世中に後宮の新設が二回しかなかったからである。性のためという特殊な目的ながら、これ程高度なシステムを持った教育機関は史上に類がない。歴史的発展への貢献という観点からすれば、角先生は民間に学校を主宰すべきだったのかもしれない。おそらく優秀な人材を多く発掘できる機関を作ることができたであろう。
角先生は後宮学司として生涯を終えるのである。銀河に多大な影響を与えたという以外には歴史的な貢献はしていない。それは角先生が哲学者であったということにも原因があるであろう。もともと思索を主とする彼が現実に機能する機関を作ったのは、あくまで、彼の哲学をよりよく生徒に与えることが目的であったからである。角先生の学はあくまで後宮の内側にその理想があったのである。
「性感帯というものは、今述べたように、血の道と気の道が交差し、血気相和するところに存在するわけです。その部分が感覚的に敏なのはそのせいです。ここを陰には陽をもって、陽には陰をもって適正に刺激すれば血気が活発に循環することになるのです」
といった具合に角先生の講義は続いてゆく。そして性感帯の実際的な刺激法などは菊凶が教授するのである。
女大学が開講して一週間ほどがたった。銀河は女大学の授業内容に多少嫌悪感もなくはなかったが、角先生という人がなかなか気に入っていたから、まあ満足していた。菊凶、この美貌の男はどうしても好きになれないと思った。他の宮女候補の菊凶への評判はすこぶるよい。それはともかく、銀河はセシャーミンを何とかしなければならないと思った。初日以来断食を続けているから、そろそろ限界である。素人が急に食を断っても害のほうが大きい。
セシャーミンは足もとはふらふらで、今にも倒れそうなほどである。それでもこんなものが食えるかといった態度を崩さず、平然としていた。たいしたプライドであると銀河も感心した。
しかし、プライドで支えることにも限界があるもので、いくら本人が毅然《きぜん》としていようと、他人が見ていて危なっかしくて仕方がない。銀河の経験によれば、以前母に折檻《せっかん》されて食事を三日抜かれたことがあるが、それだけでももう辛《つら》くて仕方がなく、夜もよく眠れず、身体には力が入らず、まったくひどい状態に陥った。それ以上抜かれたら、ころんと倒れていたに違いないと思う。
セシャーミンの貴族の矜持《きょうじ》とやらはあっぱれなものと思うが、つまりは痩せ我慢である。内心|可笑《おか》しくてしょうがなかったが、とうとう見ていられなくなった。鳴り止まぬ腹を押さえて、寝台でぐったりしている図は、同情を催すものがある。さりとて銀河がとやかく言ってもセシャーミンはあの食事を食べることはないだろうし、銀河がセシャーミンの望む上流の食事を調達することも無理である。
「寝てる間に食べさせればいい」
銀河が相談すると江葉は簡単に言った。なるほどと思った。
「わたしの故郷では、よく若い女が食を拒んで死のうとする。これは一種の病であるから寝ている間に、消化のよい物を食べさせる」
のだそうだ。
銀河は、その日、セシャーミンの皿が片付けられる直前に、パンや木の実を拾い取って懐《ふところ》に隠した。そして夜、苦しそうに輾転《てんてん》と寝返りを打っていたセシャーミンが寝入ったころを見計らって、その寝台の傍らに寄った。
しかし、これからどうするのかと迷った。口をこじあけて無理に食へ物を入れていいのだろうか。そんなことをしたら、喉《のど》に詰めて窒息してしまう危険もある。銀河はそろそろと江葉の寝台に寄った。
「ねえ、ちょっと……」
江葉を起こすのには時間がかかった。床袍を辛抱強く引いたり、揺さぶったりしてみた。それても起きないので、(御免!)と念じつつ髪の毛を引っ張った。江葉はやっと目を覚まし、それでも怒った様子もなく、銀河の方を見た。じつは相当怒っているのかもしれないが、その表情からは分からない。
「どうやって食べさせるのよ」
と銀河は声を低くして訊いた。江葉は銀河が何をしているのかやっと察し、本当にやっているのか、と少々驚いたらしい。
江葉は頭を掻《か》きながら起き上がり、ゆるゆると煙草に火を点《つ》けた。銀河は江葉が煙草を吸い終わるのをじっと待って、また言った。
「食べさせ方を教えてよ」
江葉は面倒臭そうに寝台を降りた。碗に水を汲んできて、言った。
「囁《ささや》いて、用意させて、流し込む」
銀河がそれだけではよく分からないと言うと、自分でやるつもりか、セシャーミンの寝台へ近付いた。寝台の傍《かたわ》らに跪《ひざまず》くと、言った。
『将《まさ》ニ疏食往《そしゆ》カントス』
そして銀河から受け取ったパンをちぎって口の中に放り込み、顎《あご》を手で上下させて、強引に咀嚼《そしゃく》させた。
「目を覚ますわよ!」
と銀河が言うと、構わない、と答えた。さらに水を飲ませて、パンを嚥下《えんか》させ、木の実を放り込んだ。この頃になるとセシャーミンも目を覚ましている。最初、抵抗しようとしたが、江葉は乱暴に押さえ付けた。結局、セシャーミンはおとなしく全部食べた。
終わると江葉は自分の寝台に引き上げていった。銀河もセシャーミンに怒鳴られる前に床に潜り込んだ。セシャーミンは半覚醒状態でしばらく半身を起こしたままふらふらしていたが、はたと倒れ、やがて眠ってしまった。銀河はほっとして、眠りについた。
翌朝、セシャーミンは唐突に断食を中止し食事に手を付けるようになった。銀河と目が合うと、
「余計なことをして」
と言った。江葉は無視している。
「このまま痩せさらばえて倒れて見せようと思っていたのに。貴女《あなた》たちのくだらない御節介のせいで、台無しになってしまったわ」
と廊下で言った。
「そう。じゃ、もう一度やればいいじゃないの。今度は邪魔しないわよ」
と銀河は言った。内心ほくそ笑んでいた。セシャーミンはつんと鼻をそらすと足早に行ってしまった。
「やめるには、機会が要る」
と江葉が言った。セシャーミンとて食欲とプライドの間に挟まれて、にっちもさっちも行かなくなっていたのである。このままでは早晩倒れると、身の危険を感じていた。だが、自分から断食を中止することは、体面上できない。第三者に無理やり食べさせられたとなれば一応格好はつくのである。セシャーミンの腹積りでは宦官が、見るに見かねて食事を摂るように命じてくることが最上ではあったのであるが、要するに、きっかけさえあればよかったのである。
「貴人はややこしい」
と銀河は言った。ま、喧嘩相手を助けでやったというところか、と思っていた。
この件で銀河は江葉という女が外見に似ずなかなか頼りになることを発見した。
この日は菊凶が性感を高める体操というものを実演して見せた。気を体内に巡らせるための特殊な体操を「導引」というが、その一法である。菊凶は上衣を脱ぎ、引き締まった逞《たくま》しい身体をさらした。その導引は逆立ちに始まり、十分に深く長い呼吸をしつつ、身体を捩《ねじ》ったり、反ったり、内腿《うちもも》を大きく開いたりした。さらに手を強く握《にぎ》り肛門を締め上げながら伸び上がる動作、腹筋や腰筋を強化する体操を示した。足首を曲げながら親指に力を入れる体操を最後にして、菊凶は呼吸を整えた。赤く上気した身体を上衣に包んだ。
「これらは基本的な導引である。各自練習するように」
と言った。菊凶は北師生まれの北師育ちであり、都人らしい洗練された容儀を身につけている。菊凶に魅入られたようになっている娘が多かった。角先生は菊凶が宮女候補に与える影響力を知っているのかどうか、知らん振りをしている。
角先生が代わって教壇に上がった。それだけで講堂内の雰囲気がさっと変わってしまう。菊凶の放射する性的圧迫めいた雰囲気が拭い取られ、乾いて軽い印象が生まれる。角先生が枯れ切った老人だからというのではない。どこかくすぐるような知的な人格が、それをもたらすのである。角先生がその道の権威であるにも拘らず直接に性技術を講じないことも理由の一つである。若い頃は菊凶のように自ら講じたらしいが、三十を過ぎるとやらなくなった。それからは実技の方は助手に任せている。ちなみに言っておくが、角先生が教授するのは宮女ばかりではない。皇帝の御前でも房中の法の男陽の部分を講義している。
結果としてイメージが違ってくる。菊凶の講義はその性質上、語りがひどく生臭くなる。角先生のは清《す》んでいる。角先生と菊凶は後宮哲学という同じものの二つの側面を分担して語っているのであるが、一方は生臭く、一方は知的になる。角先生は自分と菊凶の間にわざとそういう対比が生まれるようにしたらしくある。
「人間とは一面ひどく生臭く描くことができるし、一面無味無臭なほどに清く描くことができる。それらを渾然とすればかなり上手に人間を描くことができるのではなかろうか」
角先生が唐州の画家兼文学者の薗渓《えんけい》に人物描写を問われてこう答えたことが残っている。この方式を女大学の壇上でも示して見せたのかもしれない。
角先生はまず尋ねた。
「快楽ということについてお話をしますが、まず、だれかに訊いてみようか。そこの、あなた。そう、あなたですよ。あなたは至上の快楽はなんであると思いますか? 分からなければ、今までの人生を振り返って最も快かったことを思い出して言ってどらんなさい」
指された娘は、黄色の上衣を着て、青い※[#「袴」の俗字、「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85]子《ずぼん》をはいた色白の娘であったが、当惑気味だった。言えることは言えるが、人前で口に出すことではない、とその派手な顔立ちが言っている。
銀河も自分はどうかと考えてみた。そう言われて見れば何があったろう。おいしいお菓子を食べたとか、父に笑劇を観に連れていってもらって、大笑いしたこととか、そういうことしか思い浮かばなかった。我ながら快楽に乏しいのではないかと思った。
銀河は右のような思考をしたのであるが、指された娘は銀河よりも精神的にも肉体的にも大分大人であったから、快楽という言葉は性的感覚のイメージにすぐに結び付いた。彼女にとっては快楽とは、甘美ではあるものの近付くのが恐ろしい、未だ体験していないものであった。性的なものの外的な拡大を意味していた。内的な拡大はすでに自然に体験しているが、外的な拡大は未だ与えられていない。それを口に出せと言うのかと当惑した。
角先生は娘のそういう困惑を見越していたから深追いはしない。娘を座らせた。
「快く楽しい、ということを答えるのは難しくもあるし易しくもある」
と角先生は言葉を継いだ。
「なぜか。ではこう言い替えてみようか。快楽が人間にとって当然に存在しているとして、その快楽を何が受け取っているのか? これはどうですか」
角先生があてた次の娘は質問の意味がよく分からず、口ごもった。
「簡単なことですよ。あなたです。人が快楽を受け取るのです。各々が受け取るものであるから答えることは易しいが、伝えることは難しい」
「は、はい……」
「それではあなたが快楽を受け取っているとして、あなたのどこが快楽を受け取っているのでしょうか?」
「……」
角先生は終始温和な表情で質問をしている。しかし、答えにくい質問が多い。
次にあてられたのは銀河であった。角先生の人差指の延長線上には確かに自分がいると思った銀河は、別段、当惑することもなく起立した。
「同じ質問です。どこが快楽を受け取っていますか?」
「おいしいものを食へたときは舌です」
と銀河は言う。
「きれいなものを見たときは目です」
「本当にそうですか」
「本当です」
「では、目耳鼻舌などがないと快楽は無いのですか」
「あまり、ないです」
「それでは例えばあなたは夢を見ますね。夢の中で快楽を受け取ることはありますか?」
「ときどきあります」
「さて、夢の中にいるときは目耳鼻舌は布団の中にあって、なにも受け取っていません。なのに、どうして、夢の中で快楽を受け取っているのでしょうか」
「夢の中には夢の中の目や耳や鼻や舌があります」
「だが、それは現実のものではありません」
「そりゃそうよ。でも、実際そうだもの。先生だってそうじゃないんですか」
「この歳になるとあまり夢も見なくなる。でも、もう、分かってきたでしょう。快楽を受け取っているのほ目耳鼻舌ではないと」
「?」
「こころが受け取っているのです」
と角先生は言った。
とどのつまり角先生は生徒に快楽を受け取っている主体は精神だということを悟らせたかったのである。あくまで生徒が考えて、悟らせなければならない。そのため迂遠《うえん》に見える質問を使って誘導するのである。角先生はそういう教授法を取った。対話を繰り返して相手に物事の核心を悟らせるというやりかたは、この国の諸子学派のお家芸といってもよい特徴である。種々の思想的文献はこの形を取るものが多い。角先生はその伝統に遵《したが》っているだけである。
「おわかりかね。まずこころがあって、それが快楽を受け取っているということです。口やら鼻やら舌、あるいは肌が快楽を受け取っているのではなく、こころが受け取っているのです。目耳鼻舌が感じているように見える快楽は本当の快楽ではなくて、心が感じている快楽こそが本当の快楽であるということです。そのことをよく弁《わきま》えて瞞《だま》されぬようにせねばなりません」
「先生、それじゃ、わたしが美味しいと思ったお菓子はほんとうは美味しくないというんですか?」
たまりかねたか、銀河が問うた。
「そんなことはないですよ。美味しい物は美味しい。ただ舌が美味しがっていると思ってはいけないのです。こころが美味しがっているのです。これが正しい」
「そうかなあ」
「つまりこういうことです。快楽を感じているとき、それが手先やら舌先やらの末端だけのものなら、その感覚を安易に信用してはいけないし、逆に苦痛を受け取ったとしでも信用してはいけないということですね。こころが快を得ているときだけが真実なのです」
角先生のこのような理論は先々の性の講義を受け入れるための基礎であると考えなければならない。性的な快と苦の感覚に対する心構えでもある。房中術は快と苦をコントロールしたところに真の快楽を得るという、そういう術でもある。
「ただし付け加えておきますが、快楽を感じるこころは各々人によって違います。だから万人に絶対に快いという快楽はないのです。その人のその時のその瞬間のこころがきめるものなのです」
快楽は相対的なものである、ということだろう。
「さて、そこであなた。さっきの質問に戻りますが、あなたが快いと思うものは何でしょうか? 今言ったとおり、何が快楽であってもいっこうに構いません」
と角先生は冗談めかして銀河に言った。
銀河があらためての質問にはっきりと、「お菓子と笑劇」と答えたかどうかについては史料は沈黙している。
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卵
銀河たちへの講義は徐々に堅実に進んでいった。その内容を子細に述べているとゆうに一冊の本になってしまうので、端折《はしょ》る。
ある日、銀河は妙なことに気が付いた。とりあえず近くにいたセシャーミンに訊いてみた。
「セシャーミン、あなた気付かない?」
セシャーミンは例によって、その魅力的な黒髪を梳《す》いていた。
「ほら、講義のとき一番前に座っていた、髪が短くて、くりっとした目をした子がいたでしょう。このごろ見ないけどどうしたんだろう。その子だけじゃないわ。背が高くて、ちょっと色が黒くて、海のそばから来たって感じの子もいなくなったし、後……」
あと二人ほど消えた宮女候補の顔を思い浮かべた。
セシャーミンはさも軽蔑したように言った。
「今頃何を。馬鹿じゃないの?」
「なによ!」
「知らないのはあなただけよ。ほほ。病気で寝ているのではないことは確かね」
セシャーミンは鏡台から振り返った。
「追い出されるのよ。ここにふさわしくない女はね。黙ってあのたるとを潜って出ていくのよ」
「ほんと? 知らなかった」
「本当よ。あんたもそろそろお呼びがかかるに違いないわ」
セシャーミンの貴族ばった態度はだいぶ崩れてきており、銀河とも口をきくようになったし、貴族の気品とやらもだんだんと落ちてきていた。雑居していれば当然のことだ。
ただ雑居の影響をほとんど受けない貴族もいる。
「玉遥樹、今の話はほんとう?」
玉遥樹は籐椅子《とういす》にゆったりと掛けて、お茶を飲んでいた。銀河が問うと、ただ、うなずいた。
玉遥樹と銀河との間に氷で編んだベールがはっきりと渡されていた。勿論、玉遥樹が編んだものである。セシャーミンなどから見ても玉遥樹にはぞっとするほど冷たい差別意識、冒しがたい威厳、気品が備わっていた。この女だけは変わらない。
銀河は物怖《ものお》じしないというか、階級感覚というものにひどく鈍感な性格だったから、玉遥樹の温度の低さにも平然としていられた。セシャーミンはとうてい自分は玉遥樹の敵ではないと、すでにして尻尾を巻いている。時々、それが口惜しくなることもある。
『この女、閨《ねや》ではどんな顔をするのだろう?』
セシャーミンはそんなことを考えて意趣を晴らした気になろうとした。
セシャーミンの言うとおり、すでに幾人かの宮女候補が仮宮を出ていた。
これも一つの儀式なのであろうか。宦官が夜中に宮女を訪れてこう言うのである。
『モハヤ機ヲ逸シタ』と。
これを言われた宮女は逆らうことはできない。その晩のうちに荷物をまとめて、夜明け前までにたるとに入らねばならない。たるとまでは必ず二人の宦官が付き添ってゆく。そしてたるとの前で無言で立っている案内婆に渡される。案内婆は入宮したときとは逆に出口へ向かい手を引いて行く。そして、門前で女はかなりの額の金子を渡され世間に帰るのである。
宦官の言う、『モハヤ機ヲ逸シタ』とはどういう意味なのだろうか。この文句は、言わば、決まり文句である。この時に使用されるべく後宮七典のうちの「後宮礼」に記されている。古典的な用語らしく長らく意味不明であった。角先生の父、瀬戸隆寛が注をつけているがそれとて原義に適《かな》っているかどうか分からない。宦官は直接の執行者として、意味内容の詮索《せんさく》はせず、形式として使用している。宮女候補は言われるまま、「機を逸した」から出て行くのである。
「どうして出て行かなくちゃならないのかな」
と銀河は言った。
「どうしてって、失格したからに決まっているでしょう。素材が悪かったと諦めなければね」
とセシャーミンは自分は絶対大丈夫といった口振りで言った。
「そうかなあ。あの子たちとても奇麗だったじゃない」
「頭が悪かったのかも知れないわね」
セシャーミンはあざ笑った。
ここに来た女たちは各地方の選《え》りすぐりだったはずである。粗相をしでかしたというのならまだしもそんな話は耳に入っていない。なにもしていないのに追い出されるのは可哀相ではないか。
そうセシャーミンに言うと、
「わたしが追い出したのではないから、そこまでは知らないわよ。角先生に訊いてみればいいじゃない」
と言った。
その日の講義は最初から角先生が教壇に立った。いつ見ても朗らかな人である。
「今日は真理について話そうかな。言っとくが、真理を話すのではないよ。真理について話をするだけだ」
宮女候補の中には、菊凶の性技術の講座を好む者が日増しに多くなってきていた。その方面のなんたるかが分かったような気になっていたから、角先生のおよそ後宮に必要なさそうな迂遠な講義を疎《うと》んずるような気分になっているのだ。銀河はそうではない。
角先生は常のどとく講堂内を見渡して、ひとりの生徒を指した。
指の先には江葉がいた。隣には銀河が掛けている。
江葉はパジャマのようなだぶだぶの床袍を手で押さえ、無造作に起立した。江葉という娘は、銀河はいつも思うのだが、動作自体に全くと言っていいほど女臭さがない。無造作に髪を掻き上げ、無造作に口に煙草を持って行き、無造作に話す。そこはかとなく漂うものが少しも感じられない。さらに色気のない床袍は女らしい曲線で構成されているはずの身体の線を隠してしまっている。整った美しい顔には、色がない。表情に色がないという意味である。江葉が本当に無造作な人間なのか、それとも、じつは複雑な人間で巧妙に無表情のうちに韜晦《とうかい》しているのか、未だに分からない。
銀河は作為か無作為かは不明だが、江葉の無造作さが好ましかった。もしかしたら、芝居をしているのかも知れぬと思うと、実に面白い。また、ともすれば装飾過剰に陥りやすい後宮の女の中では異色と言えた。装飾に無関心であるという点では、銀河も江葉と同じである。
角先生はうつろではないが、眼前に見るべきものがないといった目をした娘に尋ねた。
「あなたは真理を知っていますか」
江葉は言葉では返事をせず、ただ、うなずいてみせた。
「真理を知っていると! それは凄《すご》い」
角先生はこのような返事を全く予想していなかったので驚いた。
「じゃあ聞くが、真理とは何ですか」
角先生は質問の流れを変えたようである。
「事実」
江葉の言葉は短くはっきりとしていた。
「事実が真理なんですか」
「そう」
江葉は答えて、髪に手を当てた。掻き上げるためではなく、江葉の癖である。
角先生は一言で自分の質問に対する生徒をこれまで見たことがなかった。面白いと思った。
「真理は事実である、というのがあなたの考えですね。それはまあいいとしましょう。ですが、問題がありませんか。真理というのは正しい道理、誰もがひとしなみに認めざるを得ない知識や価値のことであると書物には記されています。さて、そこで例えば、ある悪党が善点な人を殺《あや》めてしまったとします。それは事実ではあります。しかし、真理でしょうか。悪党が罪もない人を殺した事実が正しい道理でしょうかね?」
江葉は、聞きながらうんうんとうなずいている。その通りです、というジェスチャーにも見えないことはない。そして、言った。
『然リト』
はい、と言った。
「正しいのですか?」
角先生も意外な顔をしている。
「はい」
「どうしてですか」
江葉は煙草を吸いたそうに手を懐へ持って行き、ないと分かると諦めた。
『真ニ殺《あや》メタリ』
と江葉は言った。事実、殺したのですからと言う。江葉は言葉が短く、補おうとしない。意味を取るのはなかなか難しい。角先生が善悪の問題、つまり倫理的な方面から再質問したのにも拘らず、はい、と答えたことは、江葉が無法な殺人を肯定したことになる。あるいは、殺人という現象が起きたという事実は紛れもなく事実であるという意味から真理であると言ったのか。
角先生も多少閉口している。自分の手に乗ってこないからである。この何事にも無関心そうな娘は体内に確固とした哲学を持っていそうであった。
江葉を誘導できないと思った角先生は、仕方なく所期の質問を自分で直截《ちょくせつ》に言わねばならなくなった。苦笑しつつ言った。
「話がどうも進まないから、今日の本題を言ってしまうことにしましょう。私が皆を導きたかったのは、真理はどこから生まれるのかということなのです。そういうことでもう一度訊きます」
『真理ハ焉《いず》クニカ発スルト』
と角先生はあらためて江葉に尋ねた。江葉はするりと言ってのけた。
『知ラズ』
多少、付け加えた。
「先生の言う真理を」
角先生と江葉の問答のくだりは、とうも論理が噛み合っていない。
もともとこの国には論理を操る学問、論理を使用する術があまり発達していない。国語に原因があるとも言われている。この国の言葉は時制、単複数の表現に厳密ではないという理由である。角先生は論理学を意識するほどには持っていなかった。古経典に見られる、ともすれば詭弁《きべん》に流れやすい対話術を自然に身につけていた。それも論理を操るところまでは行っていない。ただ命題を述べるにあたりこの国の言語に可能なかぎりの整合性を与えた。それはむやみに飛躍しない、堅実な論法ということに気を配ったものである。角先生は西方に近い瀬戸の出身である。西方の論法はくどいほどに論理の反復を強いるものが多いが、角先生がその独特の論理的素養を受けていたことが、その構築を可能としたのかもしれない。
角先生は厳密ではないにせよ、一つの法則に基づく論法を持ち、駆使していた。ところが角先生自身舌を巻き困惑していることには目の前の青臭い小娘が、角先生とは異なる論法を用い、対抗しているのである。
角先生は真理という言葉を発するが、その内容は示さない。真理という語感が持つ、厳正にして輝かしいイメージのみを借りて、使用している。真理はイメージだけの虚喝《きょかつ》的な言葉となっている。江葉の論法はイメージのみのうつろな用法を許さなかった。
『識《し》ラズ、老師ノ用ヰタル意ヤ』
これは、「先生が使用している真理という言葉は私が使用している真理という言葉と異なるものである。よって、その真理の内容が示されねば共通の問題が語れない」というところまで角先生を追い詰めることになる。角先生にもそれが分かった。だから、舌を巻いて困惑している。
ここに至って、角先生は真理の内容を示すか、この話題を打ち切るか、二つに一つであった。
彼にとって意想外の展開と言えよう。真理という語の持つイメージに何の感傷も持たない女がいたことが不運であったか。
『試ミニ我真理ヲ出サン』
と角先生は言って、続けた。
「私が言う真理とは、そうですねえ、できるだけ簡単に言えば、森羅万象のことですね」
角先生は江葉に負けずにさらりと言った。森羅万象、宇宙に存在するもの全て、が真理である。これが角先生の哲学なのかもしれないが、はいそうですかと受け入れられる答えでもなかった。付随して説明が語られるべきであった。しかし、角先生、そこまで手の内を見せることはしない。角先生の正直な答えであるとしても、哲学慣れしていない大方の宮女候補たちには却って混乱をもたらすだけであった。角先生は本音を明かさざるを得なくなっても、その本音によってさらに生徒に思考を強制するのである。老巧といっては失礼であろうか。
江葉は森羅万象にほとんど動じた様子もなかった。一言、
『森羅万象ノ出ヅル所ハ未ダ知ラズ』
と言った。角先生はほっとしたのかもしれない。真理(森羅万象)の生み出されるところまでこの娘が知っていたとしたら、この娘は天才か魔女である。角先生は、「恐くて絶対に見たくないと思うものをだれしも幾つか持っているだろうが、私の場合、まず天才である」と随筆風の著書に述べている(「大玉泉説」巻一二、無窮辯)。なぜ天才が嫌いなのかについては、「人皆、百足《むかで》、蟇《がま》、蛇《へび》の類を見れば、一時として心定まらず、これから逃れんことをひたすら望むであろう。その時、好悪の情以外に確とした理由を持っている人はいまい」と述べている。天才が生理的に嫌いであるらしい。江葉がそうでなくてよかったと角先生は思っていたろう。
「よろしい。では、皆さん。真理がどこから生まれるのか? これは宿題です。各々考えておいてください。そのうち質問するかもしれません」
角先生は快く疲れて、終講を告げた。
銀河もふうと息を吐いた。今の攻防にぞくぞくするような緊張感を覚えていた。江葉は小気味よいほどの無造作さで筆記用具を、袋に放り込んでいる。何事もなかったような顔は、いつもの通りであった。
『これはえらいやつだ』
と銀河は思った。
「あんたって、凄いわ」
と銀河は江葉に言った。ここで、江葉が少しでも鼻にかけるような態度を取れば、すくに興醒めしたであろう。江葉には誇る様子も、残念な様子も、まったくなかった。銀河はさらにこの女は偉いと思う気分が強くなった。銀河の称賛に対して、江葉は珍しく表情を動かした。少し笑ったように見えたのである。
「ありがとう」
と言った。愛想笑いのような素っ気ない笑顔が一瞬のぞいただけであったが、銀河にとってはそれはひどく劇的であった。江葉にもちゃんと笑顔も、ひいては感情もあると知った。
『この女はほんものだ』
と妙な論理的飛躍で結論した。自分でもどこがどう本物なのかうまく説明できない。それが気分であることに気が付いていない。銀河もまた奇妙な娘である。自分ではまったくそんなことは思っていないが。
「卵だよ」
角先生はこともなげに言った。
銀河は質問したいことができるとこっそり角先生の部屋に来るようになっていた。宦官にこのことがばれれば、軽い仕置きでは済まされないだろうが、銀河はべつに気にしていない。角先生は喜んだように銀河を迎え入れてくれる。熱心な生徒を喜ぶ教師の嬉しさであろう。しかし、角先生にしてもこのことが露見すれば相応の処罰を受けることになる。後宮内の刑法を司《つかさど》るのも学司の義務であったから、その学司が自ら法を違えたとあってはしめしがつかない。
推測するに角先生は銀河に特別な感情を抱いていたのではないだろうか。老いらくの色恋などという安易なことは言わないが。
銀河は分からないことを放っておくことができない性格であった。不可解が昂じると居ても立ってもいられなくなる。
銀河が忍者のような身ごなしで、角先生の部屋に這《は》い寄り遠慮がちに叩扉すると、角先生も心得たものですっと扉を開けてくれた。角先生があと二十も若かったら、姦通《かんつう》という言葉から逃れられぬ状況である。
銀河は、人知れず後宮を追い出される宮女候補についてずっと考えていたが、どうしても分からないのでセシャーミンの言に従い、角先生に訊いてみることにしたのである。
その疑問をぶつけると、角先生は、これは後宮に必要なことなのだ、と断ってから言った。
「卵だよ」
これでは何のことやら分からない。
「卵は新鮮でなくてはならない。排出後、三|刻《こく》、長くても七刻であろうな。その間、間の悪い卵は孵《かえ》ることはできないのだよ」
「鶏の卵の話ですか?」
銀河が分かっていないようなので、角先生は尋ねた。
「あんたは幾つだね」
「十四です」
「十四か。まだかね、あれは?」
「何がですか」
角先生は目を細めていた。銅河は途方もなく子供であるらしいからだ。
「二、三日前だったか、菊凶が講義していたろう」
「わたしはあの人があんまり好きじゃないから居眠りしたり、考えごとをして暇を潰《つぶ》すことにしています」
「そりゃ、いかんな。あれはあれで必要な学問だからね。私の話と同じくらいに大事だ。もうそんなに先のことではないが、帝の枕席《ちんせき》に侍《はべ》るときに、あれを覚えていてもらわないと困る」
「はあ。わかりました」
と一応銀河は答えた。
「そうだな、あんたは今日の講義の、真理はどこから生まれるかだが、どう思うね?」
角先生は急に言った。
「そのことはまだ考えてません。出て行かされるひとたちの件を考えていますから」
「つまりだな、後宮から落ちていった女たちは、不運にも真理に成り損ねたということでね」
「?」
「ははは。まだ分かっていなかったか。女の人は月に一度卵を生む。だが、その卵も排卵後数刻以内に精と結ばれなかったら、むなしく去って行かねばならない。後宮もそれと同じなのだよ」
銀河は角先生が月経について話しているのだとやっと分かった。銀河がそれに対して鈍かったのは、まだ銀河が初潮を迎えていなかったからである。十四にしてまだとはおくてと言えるだろう。
「後宮は儀式として同じ生理をおこなっている。娘たちを卵であると見る。出ていった娘たちは胎内に留まる機会を逃してしまったのだ。わかるかね」
銀河にもようやく飲み込めた。後宮自体を女の生殖器に見立てて、その生理を制度として後宮に機能させているのである。
「すべての真理はどこから生まれてくると思うかね」
面喰らって帰りかけた銀河に角先生は再び尋ねた。銀河が弱々しく首を振ると、角先生は言った。
「それは子宮さ」
前に銀河が男と女の違いについて尋ねた時と同じ答えだった。
「女の腹からすべての真理は生まれるのだ。それが、答えだ」
角先生が銀河に後宮哲学の奥義ともいえる部分を教えてしまったのは、後で角先生自身不思議に思うのであるが、もののはずみであった。この事はまだ教える段階ではないし、教えを受けるに足りる人材でなければ、教えるつもりはなかったのである。菊凶にすらこの微妙な部分は伝えるのを躊躇《ためら》っていたのである。角先生は銀河にはもののはずみを引き出す力があるのだろうと思った。いや、心の底に銀河を自分の後継者にしたいという思いがあったのかもしれないとも考えた。
「そして、後宮は素乾国の子宮だ。この国の真理はすべて後宮から生まれる」
角先生の国家観はこの言葉に集約される。
銀河が出口で振り返ると、角先生は温和な表情で笑っていた。不釣り合いだと思った。この場であのようなことを語るのならば、つまり、喩《たと》えれば舞台で今の角先生の役をやる役者は異様に興奮した顔をしているはずだと思った。
後宮子宮論について少し補足的な事実を書いておく。
『モハヤ機ヲ逸シタ』娘たちが後宮外へ、たると(膣、産道)を通って排卵されてゆくわけだが、その娘が機ヲ逸シタことを判断するものはいったい何であろうか。数億の精子の競争でないことは確かである。しかし、それに代わる賭博的で、偶然的な方法が用いられていた。
実は、占い、である。これも七典に記された由緒ある作法である。全宮女候補の名前を書いた紙札を、宮中の占池にざっと投じる。この紙札は吸水し易く、沈み易い。数百枚の紙札は次々に沈んで行く。沈み遅れて最後まで残った紙札を一枚|掬《すく》い上げる。その紙札に名前を記されていた宮女候補が、機ヲ逸シタことになるのである。この儀式は二十八日に一度、新後宮が完成するまで行われる。
古代、紙の無かった頃は木の札に名前を書いて焼いていたらしい。素乾後宮は紙を用いた。紙を水に濡らすやり方のほうがより子宮らしくあると考えてそうしたようだ。
国家を女体に見立て、後宮をその子宮とする思想は角先生が創始したものではない。この国の太古の神話から発生したものと考えられている。古代国家はこの神話を思想的に定着させ、国家の儀式として制度化した。後宮七典はそれらのことが記された古文献の寄せ集め的な性格も持っている。素乾朝は長らく忘れられていたその制度を再び実施した王朝であった。復古思想であるが、このことを滑稽であると見る歴史家は筆者の知るかきりではひとりもいない。正史が褒《ほ》めるのは別として、天山遯などの民間のうるさがたも、「歴朝害禍の多かりし後宮を制御することにおいて素乾の法は最良のものと思われる」と「素乾通鑑」に述べている。
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淫雅語《いんがご》
北師は晩秋の頃から急に冷え込むようになる。素乾城後宮でも係の宦官が※[#「火へん+亢」、第四水準2-79-62]《かん》に火を入れ始めた。
妍《けん》を競う、という言葉があるが、宮女候補の部屋割りを四人ずつにしているのもそのような理由からであったろうか。おそらく、そうではあるまい。試しに宦官を一人捕まえてなぜ部屋割りを四人にするのかを問うてみるとよい。多分、こう答えるはずだ。
『典ニ範アリ。遵《したが》フノミ』
「妍を競わせる、つまり、競争心を起こさせるためだ」とか、かように単純な回答は、事実確かにそういう目的があるのかもしれないが、古典的伝統のためには否定されるべきである。古代の聖賢がしたためたとされる七典にそういう浅はかな理由のもとに定められた法はないであろう。おそらく凡愚には窺い知れぬ深遠な理由があって、そのための四人部屋なのであろう。一介の宦官|風情《ふぜい》が、部屋内の事情をいくらか見聞きして知っているとしても、別を競わせるためだなどという単純明解な意見を述べていい道理はない。
淫雅語という言葉がある。言語体系のあるものではない。ただの単語の集まりである。後宮では「女大学」の本である後宮七典の定めるところによって、みやびな古語を用いなければならない場面がある。この後宮内でのみ使用されるべき特殊な古典語を普通淫雅語≠ニ呼んでいる。
ごく簡単に言えば、房事に関する用語、術語を古典語で口にするということである。間違っても世間で一般に使用されているような卑俗な呼称を用いてはならないとされる。難儀なことである。
一例を挙げれば、この小説にすでに何度も登場している「たると」という語であるが、これは歴とした淫雅語である。外界と後宮を結ぶ細長い門をたるとと呼ぶのだが、たるとの原義は膣《ちつ》、あるいは産道を意味する言葉である。文章にするときには膣を、玉門、牝戸《ひんこ》などと書くこともあるが、後宮ではあくまで口頭ではたるとと言わなければならない。淫雅語は古代王朝のもはや死滅してしまっている宮廷語の末裔《まつえい》である。こういう言葉を使用しなければならないということが、形式ということであろう。
四人部屋も淫雅語と同じ理屈である。形式に理屈はいらないのである。
銀河のいる部屋で、某日、妍が競われていた、としておく。
「こんなに憶えきれないわ」
たいてい最初に不平をいうのはセシャーミンである。女大学のテキストも中巻目の半ばを過ぎ、内容も応用編に入ったところである。性技術の具体的な方法に入る前に、宮女候補は淫雅語を暗記することを要求された。
人体の部分の名称の淫雅語が約七十五、および行為、体位などの名称が約百二十五あった。その他、慣用句のように用いられるものが二十三ほどある。どうも、房事の最中に感きわまってあげる声まで淫雅語で発音せねばならないらしい。
試みに「女大学」巻二、龍翔《りゅうしょう》のくだりを淫雅語を除いて口語訳してみる。
「女性を正しく上を向かせて寝かせ、男性はその上に伏す。女性はそのたるとを上げてりこうを受ける。男性は女性のびいを刺すように攻め、その上の部分も擦《こす》る。八回浅く刺して、二回深く刺す。止めて休みをとり、こつを指にて挟み、唇はえんを吸うべし。そのとき指先は震えていなければならない。つぎに左手をまいに伸ばして這わしめる。共に興が起こればふたたびりこうを上げて、女性に取らせる。以下略」
こんなところである。現代人が読めばもどかしく感じるだろうが、これはあくまで真面目な教科書なのであるから、もどかしくでもよいのである。
淫雅語の暗記に閉口しているのは銀河も同じであった。ただ、セシャーミンのように口には出さないだけである。
銀河は、揺り椅子に掛けてのんびり書見している玉遥樹に訊いた。
「タミューンはもう覚えちゃったの?」
「このようなもの、あらためて記憶しようとは思わぬ」
玉遥樹は冷たさを言葉にして吹くような例の言い方をした。大分、寒くなってきた昨今、この言い方は寒気を助長する。
「あらためてって?」
「わが家では雅語を使うのしきたりじゃ。よってすでにして慣れておる」
「へえ、こんな言葉を家族で使ってたの」
銀河は貴族の教養に素直に感心した。
「後宮みたいな家だったんだ」
玉遥樹はそれには返事をせずに書物に目を落とした。
「家で雅語を話しているような貴族なんて聞いたことがないわね」
とセシャーミンが言った。
「本物の責族ならやらないことね」
セシャーミンは貴族の家格において玉遥樹に劣っていることは気付いているが、だからといって尻尾を巻く必要もないと思い直した。後宮での勝利とは、皇帝の寵愛を得ることに尽きる。寵愛を得た時点で今の門地の優劣は意味のないものになる。この部屋にいる宮女候補で妍を競うべきは玉遥樹だけだと密かに思っていた。銀河のような山出しは取るに足りないし、あの妙に無口な女(むろん、江葉のことである)も眼中にない。そういう考えはセシャーミンの態度に微妙に表れることになった。
江葉は例のだぶだぶの床袍を着て、昼寝を決め込んでいる。いかなる場合にも着替える必要がないのだから、こう見るとなかなか便利な服装なのかもしれない。大きな枕を両の腕に抱え込んで寝るのが江葉の癖であった。江葉は女大学の講義が終わった午後二時から一時間ほど、決まって眠る。三時になると起こされなくてもすっと起き上がる。銀河が昼寝の習慣の良否を尋ねたところ、江葉は、
「昼寝をすると煙草がうまくなる」
と言った。喫煙の習慣がない銀河は、それならわたしは昼寝をする必要はないな、と思った。
しばらくたって、江葉はすっと起き上がった。時間を計ったように正確だった。頭を掻《か》きながら袋に手を伸ばして煙草を探った。銀河が待っていたように、訊いた。
「あんたはこれ覚えた?」
江葉は寝ぼけたような目をうなずかせた。
「いつの間に!」
と銀河は驚いて言った。江葉が単語帳とにらめっこをしているところなど、ついぞ見たことがない。
「簡単よ」
と江葉は言う。
「やり方がいろいろある」
とも言った。相変わらず言葉数が少なく、かつ、短いので何を言っているのか掴みがたいが、「簡単に覚えることができる記憶術がいろいろとある」ということであろう。銀河は江葉と波長が合うのか、彼女と意思を疎通させるのにべつに困難を感じなかった。これがセシャーミンや玉遥樹になるとできない。二言三言、言葉を交わしで要領を得ず、諦めてしまうことになる。
「一つ教えてよ」
銀河は助けの神が現れたように思った。
『諾』
と江葉は言った。そういう話ならセシャーミンだって乗りたい。
「わたしにもお願いできる?」
「うん」
江葉は気前よくとは言えない面でうなずいた。江葉の表情はたいていこうなので、気にすることはない。
まず、
「筆を」
と江葉が言ったので銀河が用意した。
「この方法は一番やさしい」
と髪の毛に手を当てながら言った。セシャーミンのほうを向くと、
「脱いで」
と命じた。
「脱ぐの? 服を? わたしが」
セシャーミンが訊き返しても江葉はうんとうなずくのみである。
「どうしてわたしがそんなことしなきゃいけないのよ。いやよ」
途端に江葉は興味を失ったように言った。
「そう」
「ちょっと、セシャーミン!」
銀河はセシャーミンの耳に囁いた。
「早く脱ぎなさいよ。せっかく教えてくれるといっているのに。困るじゃない」
「あなたが脱げばいいじゃないの。わたしはいやよ」
すると江葉が言った。
「あなたのほうがいい」
「なぜよ」
「はっきりしてる」
「?」
銀河は江葉の言わんとするところが、だいたい飲み込めた。つまり、こうである。銀河よりセシャーミンの方が女性としての部分がよりはっきりしているのだと。セシャーミンは銀河より四歳上だったと思うが、各所は美しい曲線を描いて突き出して、よく発達している。
「そういう理由らしいからお願いよ」
と銀河は耳打ちした。それでも、セシャーミンはしばらく渋っていたが、ついには承知した。淫雅語を記憶してしまうのが先決問題だったからだ。
セシャーミンは脱ぐとなると大胆に脱いだ。彼女の実家ではそうだったのだろう。脱ぎ散らかしても下女が始末をしてくれる。※[#「火へん+亢」、第四水準2-79-62]がよく効いて暖かいせいもあろうし、羞恥心のせいもあろうが、セシャーミンの見事な肌が、朱を吹いたように赤くなった。銀河は少し感動した。自分も四年たったらこんな姿になるだろうかと思った。
江葉は実に無感動そうに言った。
「からだに書けば、いい」
そういう法か、と銀河はうなずいた。
「じゃ、やるわよ」
銀河は筆に墨を含ませて、横たわったセシャーミンに近付けていった。まず、乳房に「えつ」と書き込んだ。乳房のことを淫雅語でえつというのだ。筆先が触れるとセシャーミンはびくりとした。
「ぞ、ぞっとするわね」
と言った。
銀河は次々にセシャーミンの身体の部分にそこに該当する淫雅語を書き込んでいった。こうすれば、銀河は手を動かして部分に直接書くことで、言葉を覚えることができる。セシャーミンはその冷たいくすくったい感触と身体にしばらく残るであろう筆跡によって記憶を強化することができる。心理学的にみても合理的な方法であると思う。心理学はべつにしても、江葉は二人でやる時には最良の方法だと思っている。
しかし、誤算はあるものである。文字が増えるにつれ、セシャーミンは息が荒くなってきた。時折、身をよじったりする。
「ちょっと。動いちゃ駄目じゃないし 銀河はそう言いながら脇腹に「えん」と書き込む。
「す、少し休ませてよ……」
セシャーミンは息も絶え絶えに、目もとを赤く染めて、小さな声で言った。
「気分が悪いのならやめてもいいわよ」
と銀河が言った。
「やめることはないわ。もう少しで、終わるんでしょ……」
しかし、終わりまで続けることができなかった。特に重要な下半身の部分に名前を書き入れようとすると、セシャーミンがついには声をあげて身もだえるので、字にならない。銀河がやめようとすると、セシャーミンが続けろというし、続けようとするとセシャーミンは身体をくねらせて書くことをできなくする。最後にセシャーミンは「あっ」とひと声上げると、朦朧《もうろう》とした表情になり、前後不覚の状態に陥ってしまった。
見ようによっては幸福そうな顔で眠っているセシャーミンを見て、銀河はやっと思い当った。
「菊凶先生の授業で言っていた、行く、というのはこれかあ」
江葉は不思議そうな顔をしている。
「変ねえ」
そして、裾《すそ》をくるくると巻いて銀河に自分の足を見せた。自らもこの方法を使っていたらしく、江葉の足にはうっすらと淫雅語の筆跡が残っている。
「わたしは平気だった」
と江葉はぽつりと言った。
くっくっと笑いを堪《こら》える声がしたので振り向くと、玉遥樹が椅子の上で身をよじっている。
「ぬしらは馬鹿か」
そう言って声を上げて笑った。それだけは冷たくはなく、好意さえこもっていたように思われた。
ここで、筆者も馬鹿かと思わないこともない。この小説のもとだねとなっている歴史書のひとつ「素乾書」を編纂した無名の史官に対してである。正史とは国家の歴史の正式な記録である。にも拘らず、このような痴戯の類まで馬鹿正直に記載しているのである。そんな史官の執筆態度に筆者も好意を覚えざるを得ない。
房中術というものは、言ってみれば、実践の中にこそ全ての利益が含まれているものであると思う。その限りにおいては、他の術と名の付くありとあらゆる技芸と同じである。非常に高度な性技術を記した書物があったとしてもそれが実際に用いられねば何にもならない。
後宮七典の成立に寄与した幾多の学識はその時代としては非常に高度な、科学と呼んでもいいほどの理論を構築した。古代から存在したというのが建前であるから、再構築したと言うべきかもしれない。
角先生はその理論を若気の至りながら大胆に押し進め、一つの哲学を完成させた。その哲学は「女大学」の中に具体化されている。ここで問題なのは、「女大学」所載の各種房中術は角先生の哲学理論が具現化されたものでなければならないということである。後宮における男女の営みが、すなわち、哲学として成立しなければならないということになる。哲学とはもともと抽象的なものである。これを房事《セックス》という人間の生々しい具体の世界の法則そのものにしてしまおうということは、そもそも不可能なことである。
哲学はある種の実証をともなわねば、正誤の判断のつかない世界でもある。そのことは角先生自身、若い頃から、嫌になるほど考えてきたことである。七十の坂を越した今でもまだそれについての解決がついていない。
実証というのはこの場合、房中術の効き具合である。宮女と皇帝が角先生の学を寝室において正しく実施した場合に、それが本当に正しいか、言い替えれば至高の人間的結合が実現しているかを証すことである。
『証せるか……』
角先生は息を忘れるほどに思い詰めている。年齢から考えて、この後宮が自分の最後の後宮になると考えている。今回、証すことができなければ、自分の哲学、ひいては自分の生涯はついに実証なき虚構となってしまうであろう。虚構とは幻である。自分は幻であったのか、と自問する。
角先生はその温顔の下にこのような苦悩を潜めていた。ことが純粋に精神的な問題であるだけに、苦悩も深刻にならざるを得ない。
『証すことは、無理だ』
そうであろう。皇帝の寝室に踏み込むようなまねはできない。仮に皇帝の許しを得て、寝台の端に侍したとしても、皇帝とその相手が証しているところのものを角先生が識《し》ることはできない。それが個人の体験の中にあるものであるからである。
『角老師少年ノ時、己ノ学ヲ験ゼント欲シテ衆女ヲ御ス。稀ニ貴妃ヲ得ル有り』
角先生は若い頃、己の中に後宮哲学をほぼ成立させた頃、自ら実証を求めて数え切れないほどの女を抱いた。危険を冒して当時の後宮の嬪妃《ひんひ》と通じたこともあった。そして、ついに実証せり、と思った。が、思った瞬間に絶望的なほどの難問を得た。己の哲学は後宮の中にあり、後宮のものであり、つまりは皇帝その人と国家のためのものであるということだ。皇帝が実証しなければ、自分の哲学は真の実証を得ないのである。皇帝がはたして自分の哲学を実証してくれているのか、それは皇帝ならぬ自分にはいかにしても知ることはできないのである。若き角先生は壁に当った。己の自身の房中術は実証できたが、肝心の後宮の自身の房中術はまだ実証できていない。ついには、角先生は、房中術と自分の哲学、後宮哲学と後宮は全く別なものではないのかという疑惑に悩まされ、実証と哲学の乖離《かいり》に苦しめられるに至る。『知、行、合一セザル恨《うらみ》』と表現されている。それ以来、角先生は一切の女色を断ったという。三十歳の時であった。
『証したい。証すべきだ』
角先生は今もなお焦がれるような想いで思っている。若い、角先生でさえ時にどきりとさせられるほどの美貌を持った菊凶が教壇に上っている。それを眺めながら、ふと、「あの男にはどれほど分かっているのか」と非難がましい念を浮かべた。次に、なぜか銀河の顔が頭に浮かんだ。角先生が頭をめぐらせて銀河を探すと、銀河はむこうの端の席で居眠りしていた。角先生のこころと表情に笑みが浮かんだ。
『あの娘を見ると、わしを責め抜いて離さない疑惑がふと和らいでいる』
角先生は不思議な気持ちで思った。
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銀正妃
後宮の教育期間は定めるところにより、先帝が没した年の夏至《げし》の日から冬至の日までである。つまり、六月二十二日頃から十二月二十二日頃までである。この稿では便宜上太陽暦の日付けを使っているが、当時の暦は陰暦であったことを付記しておく。また、先帝がその期間の間に没していた場合は、冬至から夏至の間を教育期間とするので特に困ることはなかった。
時に槐暦《かいれき》元年も十二月となった。後宮女大学も仕上げの時期にはいる。
この半年に教えられたことを考試されるわけである。角先生が直々に面接をする。とは言ってもこの試験で落とされる宮女候補は滅多にいなかった。
よく考えてみればどこか間の抜けた試験であると分かる。試験は口頭試問であるから生徒も口頭で答える。だが、女大学で教えられたのは房中の実技なのである。それが身についているかどうかを口頭のやり取りで判断しようというのは無理なことである。しかも、教えられた宮女候補ですら自分にそれが身についているか、試みたことがないので分からないのである。合理的に考えれば先生の目の前でしかるべき相手にその実技を行って見せるのが正しい試験方法であろう。ただし、宮女が相手とすべきしかるべき相手とは世界広しといえどもただ一人しかいない。皇帝そのひとである。皇帝を相手に実技の習得程度をいちいち角先生に示すことができるはずもない。角先生もそのへんは分かっているから、口頭試問を行うのみとして、その試験で宮女を失格させることなどまずしない。実技の習得程度は皇帝が自ら閨《ねや》で試験するほかない。
「女子は交媾《こうこう》にあたってはじめは緩であり窮《きわ》まれば急に転じ、しかる後にまた緩にもどります。男子ははじめに急であり、窮まれば緩に転じます。その特徴を制御せぬままに房事を行えば、害のみ多く益を損ずること言うまでもありません」
角先生は最後の講義に当って総まとめ的なことを述べている。この場合の緩急は性欲、性感の起こり方について言う用語である。
「これを是正するの法は、すべからく女子がまず積極的に行為し、己で緩を急に近付けていくことが肝心です。そのためには女子の方がより意識的に主導権をとるべきであり、男子の急を調節するようにせねばならない。私と菊凶はとどのつまりはこの技法を皆さんに伝えんがために半年をかけてきたのであります。陰には陽をもて接し、陽には陰をもて接す。そして、陰陽の気を快楽のうちに交流させること、これが房中術なのであります」
そこまで一気に言うと角先生はにこりと笑った。
「さて、明日から卒業試験的なものを始めますが、そう心配する必要はありません。気を楽にして私の部屋に来て下さい。以上」
銀河は後宮の儀式的月経で排出されることもなく、この日を迎えていた。つまり、運よく強制退去のくじに当らなかったのである。
銀河と相部屋だった連中も残っていた。
「試験かあ。そんなものを受けるのは初めてだ」
銀河は何を思ったか先日髪を切り、いわゆるショート・カットにして残り髪で後ろに小さな髷《まげ》を作っている。まだ、それほど女らしくはない銀河の身体とその髪型はよく合った。銀河は其面目に「女大学」のテキストに線を引いて眺めている。
「馬鹿ねえ。そんなことしなくても落とされやしないわよ。進士の試験を受けるのとはわけがちがうのよ」
セシャーミンは言ったが、顔が緊張している。進士は官吏登用試験のことである。
「そんなことは構わないわよ。わたしは角先生に恥ずかしくない返事をしたいだけよ」
「へえ。殊勝なことをいうのね。わたしはいつものとおり品のない返答で大恥をかいて喜ぶのかと思った」
いつまでたってもセシャーミンは嫌味なことを言う。銀河も慣れてそれを受け流している。
「わたしが期待しているのは試験の後よ。やっと、天子様にお目にかかれるんだから」
とセシャーミンは言う。ああそうか、と銀河は思った。考えるまでもなく自分たちは皇帝へ向かってこの半年間を学んできたのであった。銀河の妙なところはそれを忘れていることである。宮女とは簡単に言えは皇帝の複数の妻である。卒業後にランクがつけられるらしいが、とりあえず妻の立場となる。天子のお嫁さんになるんだ、程度の認識しか銀河にはなかった。
「あんた、天子さまを見たことがあるの?」
「畏れ多いことを。あの方は姿をめったに人前に現したりはしないの」
「顔も分からないのか」
銀河は、菊凶みたいなつらをしていたら嫌だな、とふと思った。
「楽しみなこと」
セシャーミンは自分が皇帝の寵妃《ちょうひ》になることを露ほども疑っていない口振りであった。確かに、その確率をより高める美質をもってはいる。
江葉は緊張感まるでなく、昼寝を楽しんでいる。また、玉遥樹は余念なく化粧をして出番を待っているといった風情《ふぜい》である。
亥野が呼びにきた。
「お主らの番だ。ついて来よ」
銀河たちは亥野の後ろに従って、改装の成った本後宮、娥局を通り、門を抜けて角先生の部屋へ向かった。銀河は時々こっそりとやって来ていたから、案内がなくても着くことができるが、初めて通るものは後宮娥局の複雑に入り組んだ廊下に恐れをなしてしまう。四人の中で最も驚いた顔をしているのはセシャーミンであった。江葉はあくびさえして目を擦《こす》っている。昼寝を邪魔された、という顔だ。玉遥樹は本後宮が壮麗であろうが見飽きたという表情で対応している。セシャーミンは皆を見て、自分も顔を引き締めた。
前方から人が来た。銀河たちを見てぎくりとしたように見えた。
「コリューンじゃないの」
銀河は声をかけた。この双槐樹というのも変な生徒であったなど銀河は思った。時々、講堂や金堂で見かける。いくら探してもいないときもあった。たるとから追い出されたのかと考えていると、また、なに食わぬ顔で席についている。どうも、特殊な立場にいるらしいと薄々銀河も気付いていた。初対面がたるとの闇の中であったことも面妖であった。後で亥野に尋ねたのであるが、宮女が勝手にたるとに入るのはまかりならぬということだった。
双槐樹がぎくりとしているのは、玉遥樹のせいだった。
「姉者、まだここにいたのか」
呆れたような声を出した。
「いて悪いかえ。お主がいることこそ不可思議じゃ」
玉遥樹は口もとを扇子《せんす》で被って言った。双槐樹は、柔ラカシ、と評される目をきつくして言った。
「お戯れはよい加減になされませ。そのようにたわけたことをして何になりますや」
双槐樹は一応敬語を使っている。
「戯れではない。邪魔をせぬことじゃ」
玉遥樹はそう言うと歩みを再開した。銀河は双槐樹に顔を寄せて、
「姉妹《きょうだい》げんか?」
と訊いた。
「喧嘩ではない。もっと、深刻なものだ」
と双槐樹は言った。
「はやく、考試に行け」
と追い払った。深い事情があるのであろう。銀河は先へ行く三人を追って行った。
口頭試問は難しいものではなかった。これまでの講義を真面目に聞いていれば答えられるものばかりである。あらかじめ問題が与えられているのではなく角先生がその場で質問することに答える。よしんば、答えられなかったとしても罰せられるわけではない。水準試験でも資格試験でもない、あってもなくてもどちらでもよいような試験であった。例えばこういう問題が出された。
『老師問ヒテ曰ク、後宮房事ニ於テ必ズ為スべカラザル所ノ者ハ如何ト。
小宮女答へテ曰ク、其レ必ズ為スベカラザル者二三有り。壱《いち》ハ後庭ヲ龍陽ヲ以テ衝《つ》ク。弐《に》ハ玉茎ヲ得テ口腔《こうこう》ニ含哺《がんぼ》スルヲ以テ精ヲ奪フナリ。参《さん》ハ陰ニ陰ヲ以テ接シ、陽ニ陽ヲ以テ会ス。コノ三ハ敢へテ禁ズルコト肝要ナリ。
老師掌ヲ撃チテ曰ク、大《はなは》ダ好《よ》シ』
房中術の禁止事項を問うている。この宮女候補は、肛門性交、陽根への口唇愛撫、同性愛を禁じると答えた。先生は、たいへんよろしいと喜んで言った。年若小娘と老人がこのような問答をしているところを冷静に想像すると滑稽といおうか猥褻《わいせつ》といおうか、一種言いがたい気分になる。しかし、本人たちは至って真剣で、宮女候補などは緊張した面持ちに少しかすれた声で答えているのである。
角先生の部屋の前には宦官が二人立っていた。
「二人ずつ入るのだ」
と言った。そして、玉遥樹とセシャーミン、銀河と江葉の組に分けた。先に玉遥樹たちが入っていった。
銀河と江葉は半刻ほども待たされた。やがて、げんなりした顔のセシャーミンと扇子て口もとを隠した玉遥樹が出てきた。
「ねえ、どうだったのよ」
と銀河がセシャーミンに訊いた。
「疲れたわ」
と一言答えると、宦官に案内されて帰っていった。
銀河たちが入ると正面に角先生が掛け、その右側に菊凶が掛け、卓子《てーぶる》をはさんだ手前に銀河と江葉が掛けるべき椅子があった。銀河が驚いたことには角先生の大量の蔵書はどこに片付けたのか、奇麗になくなっていた。
「さて、君らか。掛けなさい。さっそく質問をするよ」
銀河と江葉は黙って椅子に掛けた。
「還精《かんせい》の術について知っていることを言ってみなさい」
角先生はまず銀河を目で指した。銀河には分からなかった。はて、そんなものを習ったろうか、と記憶を探っている。銀河に覚えがないとすればそれは居眠りをしていたからであろう。居眠りをしていたとすればそれは菊凶が講義したものに違いない。
還精について筆者が代わりに答えれば、こうである。房中術においての最大の技術的難所がすなわち還精である。精液を陰部から漏らすことなく脳中に還流させるという技術をさす。理論では気は血液と精液と化《な》って体内を循環しているという。ここでいう精液は男子のそれだけでなく女子も持っていることになっている。別称すれば津液《しんえき》である。
性交時にいたずらに精液を放出することは房中術のタブーである。精液を出してしまうということは生命力の根源である気を放出してしまうことであり、これを戒めることは当然と言える。性交に際し、オーガズムを迎えても耐えて精液を出さないようにすれば、それは脳内の上鴻泉《じょうこうせん》(気の集積所、脳室にあたる)に還流し、生命力を強化することになると考える。下世話に言えば行きそうになってもじっと我慢して漏らさない技術ということだ。さらに重要な要素がある。その際に相手の気を採取してしまうという技法である。男子は女子の陰の気を採り、女子は男子の陽の気を採って、陰陽の気の循環強化をはかる。後宮七典には還精をマスターすれば百歳、二百歳の長寿を得ることができると記されている。ただ、実際にやるにあたって、不可能ではないにせよ(不老長寿はべつとして)、技術的に困難であるということは考えなくても分かるであろう。角先生は江葉に向かって言った。
「あんたは分かるかね」
江葉は、さあ、と言った。
「やったことがないから」
試したことがないから分からないという意味である。角先生は江葉が苦手であった。論理の先回りをし、痛いところを突く才能を持っているからである。しかし、今はもう授業ではない。
「できるできないではなくて、どういうものかを説明しなさいと言ったのだ」
江葉は、先の筆者の説明とほぼ同じことを簡略すぎる言葉で語った。江葉にしては長い台詞を喋っている。
銀河が言った。
「先生、質問があります」
「おいおい。これは授業ではないよ。試験なんだ」
「でも、おかしいですよ。今、江葉の答えを聞いていて思ったんですけど」
「言ってみなさい」
「還精の法を使ったら赤ちゃんができないじゃないですか。後宮の目的と外れませんか」
それを聞いて角先生は苦笑した。
「あんたは肝心なところを居眠りしていて聞き逃してしまったな」
また銀河の失態が明らかにされたわけであるが、当の銀河は好奇心に目を輝かせている。菊凶はいい顔をしてはいない。銀河は菊凶の講義部分をほとんど頭に入れていないのである。菊凶は嫌な顔をしてむっつり押し黙っていた。教師としては腹の立つところであろうが、菊凶は江葉に対しても嫌悪の視線を送っていた。必ずしも銀河が原因ではないようだった。角先生は江葉に向かって、
「あんたならこのことについて説明できるであろう。言ってみなさい」
江葉は面倒そうに答えた。よほど口をきくのが億劫《おっくう》な質《たち》らしい。
「吉日に瀉《だ》せばいいのです」
とにべもなく言った。
「そう、子を求めんとするときは、吉日において施瀉《せしゃ》するようにする。日を計り選ぶことが肝要である」
と角先生は言った。
求子の法というものがある。受胎を目的とするときの房事の禁忌を述べたものである。多分に迷信を含んだものである。要は一年、一日、そのうちで自然界に最も気が満ちるときに正しい作法に則って行為を行えばよいということである。ちなみに、どういうことが禁忌であるかというと、例えば泥酔状態ではいけないといった常識的なものもあれば、月食、台風、雷、地震のときは避けなければならないといったものもある。また、暦法の陰陽からみて不適当な日、立春、立夏、立秋、立冬の前後の日であるとか、陰暦五月十六日(この日は天地|牝牡《ひんぼ》の日といって斎戒すべき日とされている)には房事を行ってはならないとされる。これを犯すと病弱で暗愚、早死にする子供が生まれるとされる。むろん、迷信であって根拠のあることではない。これを守っていたのは士大夫、貴人階級でとくに迷信深かった者か保守的な者くらいである。普通の庶民の関与するところではない。
「この辺でよかろう。ま、合格だよ」
と角先生が言った。後がつかえているから銀河たちにばかりかかってはおれない。銀河は結局何も答えられなかった。こういう者がいるから面接は二人ずつにしているのである。一人が答えられなかったとしても、もう一人が何か言うであろうという配慮である。
銀河は面目を潰して角先生の部屋を出た。
「山が外れたというより、菊凶先生の講義から問題が出たのがいけなかったのね」
銀河はすまして言った。実際、角先生の講義からの出題であれば銀河の対応はかなり異なっていたであろう。江葉も同意してくれた。わたしも菊凶老師は好きではないといった意味のことを言った。
「でも、あなたは答えていたじゃない」
すると江葉は講義が嫌いなのではなく、あの男が嫌いであると言った。江葉がこうはっきりと物を言うのは珍しいので、銀河は興味をそそられた。
「どうして?」
「わたしに誘いをかけて来た」
と言った。
「本当? 初めて聞いたわ」
銀河は知らないであろうが、史料によると菊凶は学司補佐の立場を利用し、宮女候補をつまみ食いしていた。
『月ニ誘フコト十数女、内八女ハ拒ムコト莫《な》シ』
菊凶は妖しい美貌の主であり、宮女候補の人気も高かった。誘われた者も悪い気はしなかった。勿論、菊凶の単独犯行ではなく後宮内に協力者がいる。菊凶と誼《よしみ》を通じた若い宦官たちである。菊凶の美貌と性技は宦官のあいだでも人気の的であったらしい。
菊凶は童女好みではなかったから銀河には目もくれなかった。江葉は無愛想すぎるが、しっとりとした大人の美形であったから、菊凶も声をかけたのであろう。ただ、江葉の態度は菊凶のプライドを甚だしく傷つけたらしい。例によって、江葉は無造作に「否」と言ってさっさと立ち去った。普通の宮女なら菊凶の誘いを断るにしても、情を残した去りがたそうな風情を見せ、もう一押しすれば落ちるのが分かっていた。菊凶は押さずに去り、その宮女を後悔させることで罰を与えていたのである。菊凶の自信からすれば、江葉のような態度をとる宮女は意外であり、憎くて仕方がない。
銀河は可笑しくなってげらげら笑った。
「それで菊凶先生、今日はあんたを見てぶすっとしていたんだ」
江葉は面白くもない顔で(いつも面白くない顔をしているのだが)、
『菊凶老師ハ奸佞《かんねい》ノ者ナラン』
と言った。
ただ、銀河は、菊凶の職権乱用を角先生は知っているのだろうかとやや心配になった。
口頭試問が終わって、ついに新後宮の官職が発表される。宮女といえども女官の扱いになる。正妃、后妃、夫人というのは実は官職の名前なのである。とりあえず、しばらくの間はこのオーダーで過ごす。皇帝が誰か一人を寵愛し、しばしば通うようになったりすれば、その宮女は当然出世する。後期の素乾後宮が歴朝に比べて優れている点はここであった。広く民衆から宮女候補を集め、身分制度を無視したような仕組みと教育をもって女官の上下を定める。角先生および角先生の先任者が苦心したのはここである。歴代、外戚の害禍が国を滅ぼすまでにはびこっていたのだが、この方式をとれば外戚の害を水際で食い止めることができる。門地の高い一族が、その娘を皇帝にめあわすことによってさらに権勢を拡大することが歴朝で繰り返されてきた。害多きことが分かっていてもこれまではそれを防ぐ制度を誰も作らなかった。作った例はあるものの、すぐに有名無実化している。外戚の根である後宮を哲学的根拠をもって形式化してしまうことは、益の多いこと言うまでもない。
ただし、外戚は抑えることができたが、外戚とともに一大悪とされる宦官勢力を抑えることはできなかった。宦官の禍は宦官という奇怪な官僚の棲家である後宮が廃止されるまでついに無くなることはなかったのである。
新女官職が発表されて最も驚いたのは銀河である。なんと正妃、つまり皇帝の第一夫人の職に任ぜられていたのである。
『唖然トシテ而ル後ニ恐懼《きょうらく》スルノミ。愕然《がくぜん》トシテ曰ク、我ガ任ニ非ズ』
「わたしの柄ではないわよう」と日頃の銀河に似ず、うろたえたようだ。
これより以降、銀河は銀正妃と呼ばれることになる。ただし、筆者はこれまで通り、銀河と呼ぶことにする。
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喪服の流行
「素乾書」年表の槐暦二年の項にはまず、
『正月、喪服、流行ス』
とある。「素乾通鑑」の説明を見ると、
「服装から暖色が失われ、百姓皆黒色の物を身につけ始めた。さる占術の大家はこれを観ずるに社稷《しゃしょく》の危ういことを示していると言った。もとより、官を憚って低声をもって語ったのであるが、曰ク、喪服ノ流行スルハ、大素乾ノ滅亡ノ幾《ちか》キヲ表スナリ、と。この占術の大家はその後捕縛され斬首されている。人々は大乱が起きる前触れであるとは思っていなかった」
天山遯はそういう社会現象を記している。
「婦人の服装は、※[#「袴」の俗字、「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85]子から上衣、緞袍、履《くつ》に至るまで漆黒に染まり、奇妙であった。次第に男子もそれに倣うようになり、一時、町の着物店の店先は真っ黒になってしまった」
天山遯はこう結ぶ。
「黒という色は、この地においでは有史以来亡国の色であった。流行は無知の属《やから》によって行われたのであるが、これは、天が亡びを知らせるためにやったことに相違ない」
後宮外の事情についてしばらく述べなければならない。幻影達という男がこの小説の前半にほんの少しだけ顔を出しているが、九ヵ月前は平勝《へいしょう》と本名を名乗り瓜祭《かさい》で自警団のようなものの頭領をしていた。実際は数十名の愚連隊の親分にすぎない。
それがこの時点では山北州都司|侍郎《じろう》として三万の州兵の実質上の指揮官となっていた。山北州都司侍郎とは山北地方の地方軍司令官の次官という意味で、歴とした将官である。
この手品の種明かしは、こうである。平勝と厄駘《やくたい》の二人は銀河が瓜祭を通過した後もまだ道楽で始めた自衛組織を続けていた。ただ働きもなんとなく馬鹿らしくなってきたのでやめようかと考えていた矢先、嵬崘塞《がいろんさい》(山北州都司の本拠)から使者がきて、丙濘《へいねい》の農民|一揆《いっき》の鎮圧に助力してもらいたいと言った。
山北州都司はその時、北部国境の小競り合いに兵を出していたので人員が不足しており、一揆の鎮圧にまで手が回らなかった。
「どうしようかな」
と平勝は厄駘に相談した。平勝は優柔不断というわけではなかったが、何かと厄駘に相談を持ちかけ、結局は厄駘の指示を、
「やはり、渾《こん》兄哥《あにい》もそう思うかい。俺もだ」
と言って実行するのが常であった。渾沌《こんとん》というのが厄駘のあだなであったから、平勝はいつも渾兄哥と呼んでいた。平勝はどちらかというと農民一揆の方に与《くみ》したい気分を持っている。このところのお上のやり口は目に余るものがあり、特に農民は重税を絞り取られていた。一揆が起きるのも無理からぬことだと思っている。
「嵬崘塞に行く」
厄駘はきっぱりと言った。
「しかし、百姓を相手に戦うのは気が引けるが」
すると、厄駘はにやりと笑って、
「丙濘の衆が俺たちに合力を頼みに来たか? 来たのは都司の方だ。この縁に乗るべきだ」
と言った。縁という言葉を厄駘は好んだ。
「おうかイ。渾兄哥、じつは俺もそう思っていたんだよ」
話は決まった。平勝は部下の博奕打ちやこそ泥どもを連れて嵬崘塞に出向いた。
嵬崘塞へ出向く途中の話である。平勝の一行は人品卑しからぬ旅の僧と道連れになった。旅の僧は三日も物を口に入れていないということで、行き倒れそうになっていた。平勝はいかつい顔をしているが根が親切な男であったから、旅の僧に飯を食わせ、部下に背負わせて人里まで連れて行ってやった。
別れ際に旅の僧はお礼に骨相を観てしんぜようと言い、しばらく平勝の面を眺めていたが、ほうと溜め息をついた。
「言いたくはないが、不吉の相じゃ」
部下は色をなしたが、平勝はいたって平気であった。
「俺が不吉なのは昔、この世に出た日からのことだし気にはしないが、いったい、どういう具合に不吉なんだね」
「天下大乱の相である。生きているうちに乱に会えば早死にするが、会わずに済めば長生きできる。乱には近付かないことじゃ」
これを聞いて平勝は破顔大笑した。
余談ではあるが、この国の英雄譚にはこの手の旅の僧の占いというやつが、しばしば登場する。英雄に必要なアイテムとして、旅の僧の占いは必要なものであるらしい。この手の話は一種の型として側近が付け足した作り話ではないかとも思う。
「いいことを聞いた。ところで和尚《おしょう》さんは学がありそうだ、俺に親に貰った名前の他に、もうひとつ付けてくれないかね。珍しくて、格好のいいやつをひとつ」
旅の僧はしばらく考えていたが、こう言った。
「わしは若い頃西方の砂漠をさすらったことがあるが、そこでこの世のものとは思われぬ幻を見た。土地の者はそれを鬼神の見せるあやかしじゃと言いおったが、わしはそうは思わぬ」
旅の僧は砂漠の彼方に道心を揺さぶるような美女を見たのだと言った。その美女は馬を自在に駆って、さらに彼方に到達していった。おそらくこの旅の僧は蜃気楼《しんきろう》を見たのであろう。旅の僧はそこで、幻影達はどうじゃと言った。旅の僧は西方風に、イリューダと発音した。
「幻影達《イリューダ》か」
平勝はこの名を気に入り、以後、幻影達と名乗ることにした。この名を名乗ると決めたときも厄駘に断っている。厄駘は、
「大将の名乗りとしてはどうも、危ういものだが」
と言った。
「あんたが号を名乗るのなら俺もこれからはあだなを名乗ることにしよう」
厄駘も以後、渾沌と名乗ることになった。
山北州都司の長は磁武《じぶ》という男であった。中央から派遣されて来ていた。一説では左遷されたという。二十年ほど前であったか。その後、中央復帰の運動を続けていたが、ついには中央から忘れ去られ、諦めて土地の実力者の娘と結婚し、半ば豪族化して嵬崘塞を牛耳《ぎゅうじ》っている。かなりの悪辣《あくらつ》をやったらしく、土地の者には嫌われている。兵の信望もあまりない。今は寄る年波には勝てず、病がちの日々を送っていた。
都司右侍郎の彿兼《ふつけん》が取り次いだ。
「幻影達なるものが罷《まか》り越しましてございます」
「たれじゃ。そのようなものは知らんぞ」
「瓜祭の自警団の平勝のことでございます」
「ああ、そうか。そんな奴にわしが会うこともあるまい。飯でも食わせて労をねぎらったあと、さっそく、丙濘に行かせい」
と磁武は言って、会わなかった。代わりに、磁武の家族が幻影達たちをもてなした。
「馬鹿にしていやがるぜ。なあ、渾兄哥。磁武ってのは噂にたがわず、礼知らずだ」
「そうでもあるまい」
と渾沌は言った。料理も酒もうまかった。二、三日はのんびりと酒を食らって過ごした。
急に命令がきた。引き受けたと言ったわけではないのだが、幻影達の組は都司の不正規軍に組み込まれていた。彿兼が、言った。
「早速、丙濘に行ってもらおう。武器と守備兵を貸す」
無理な注文である。幻影達の部下は五十数名ほどである。貸してくれるという守備兵は年寄りや怪我人ばかりであった。
「彿兼殿、正気で言ってござるか」
と幻影達は訊いた。
「無理なことは分かっている。これは、気休めなのだ。一応、一揆の鎮撫《ちんぶ》に兵を出しているということにしなければ、中央の兵部から何か言ってきた場合に困るのだ」
彿兼は気の毒そうに言った。結局、幻影達が呼ばれたのはこのいんちきのためなのであった。
幻影達は一行の待つ磁武の屋敷に戻った。
「荷物をまとめろ。瓜祭に帰るぞ」
と言った。
「待った。兄弟、彿兼はなんと言ったんだ」
渾沌が尋ねると、幻影達は一部始終を話した。
「まったく、馬鹿にしやがって。なあ、渾兄哥、ふざけているなあ」
「兄弟、帰ることはないぜ。丙濘に出向こうや。これも、縁だ」
「おお、渾兄哥、やっぱりかい。そう言うと思って試してみたんだよ。俺だって、乗りかかった舟だから、行ってみたかったんだ」
こうして幻影達軍は丙濘へ出兵することになった。
渾沌の幻影達への影響力については、しばしば首をかしげさせられる。幻影達があくまで一党の大将であって、渾沌はその友人にすぎない。人を集めるのはつねに幻影達の豪放|磊落《らいらく》な人柄であった。一方、渾沌には不思議なほどに人望がない。しかし、幻影達はなぜか渾沌の意見を立て続けた。この関係は二人の最後まで続くことになる。この場合も、渾沌の一言で誰が考えても馬鹿らしい丙濘一揆の鎮撫へ行くことになった。
幻影達はもと博奕打ちであった。これも博奕と言えるかもしれない。幻影達はこれまでずっと渾沌に無条件で賭け続けてきた。それで、損はしていない。必ず勝っている。実際丙濘鎮撫では大勝ちをする。後に、最後の最後に幻影達は渾沌以外のものに賭けて、敗亡していくことになる。
丙濘の一揆は幻影達が出向いてから三日目に収まってしまった。幻影達は意気揚々と嵬崘塞に引き揚げた。驚いたのは彿兼と磁武である。磁武はあわてて幻影達と会見することにした。
丙濘鎮圧にも種がある。一揆の首領は亮成丁《りょうせいてい》というもと官僚で、今は読み書きなどを農民に教えて糊口をしのいでいる男であった。官僚の汚職体質に辟易して致仕しただけあって、農民の窮乏に義憤を感じての一揆指導であった。渾沌は幻影達と二人だけで亮成丁の陣所を訪れた。
「なに、これは博奕だ」
と渾沌が言うと、幻影達は顔を綻《ほころ》ばせて、
「渾兄哥、博奕と割り切れば俺はどんな目が出ようと平気だノウ」
と言った。
亮成丁は慣れない乱暴仕事のせいでやつれた顔をしていた。幻影達がどう見ても役人に見えないという門番の意見を聞いて、会うことにした。渾沌はずばりと切り出した。
「わたしたちは嵬崘塞から派遣されてきた者でどざいます。おっと、大人を害しようなどとは少しも思っておりません。たった二人、寸鉄も帯びずに来たのが何よりの証拠」
渾沌は口から出まかせの名調子を連発しはじめた。渾沌には策など何もなかった。喋っておればどうにかなるだろうと、恐ろしく行き当りばったりな考えでここまで来たのであった。幻影達に博奕と言ったのは本気であった。喋っているうちに、ひょいと言葉が出た。
「そうでございますか。それでは、内密に我々が丙濘の衆の年貢を調達致しましょう」
「なんと、そんなことができるものか」
渾沌はその調子で出まかせを続けた。
「そう思いになるのもごもっとも。わたしにも信じられないことです」
渾沌は、さて我ながらひどいことを言っている、と思いながら喋っている。そのうちまた弾みで言った。
「嵬崘塞の倉庫から調達致すのですから、確実でしょう」
言った本人が、ああその手があった、と思っているくらいであった。ちらりと幻影達の方に目配せした。幻影達も心得たもので、
「都司侍郎のわしが約束いたす」
と胸を張って嘘をついた。この時はまだ都司侍郎の肩書きはない。いかにも自信ありげな様子は亮成丁を信用させてしまった。
そして、この出まかせ案に基づき、嵬崘塞の倉庫から備蓄された分の穀物や帛《きぬ》を盗み出して一揆の衆に提供するという詐欺的申し合わせが成立した。十日後にこの約束はきちんと果たされている。亮成丁は農民を説得し、一揆はとりあえず平定された。首謀者は国境を越えて逃げたということにした。
磁武は辞色を改めて幻影達に面会し、その手並みを讃めた。連れて行ったのは幻影達の子分ばかりであったから、真相が漏れる気遣いはない。そのうち磁武は幻影達の恰幅《かっぷく》を見て惚れ込み、しばらく嘱託としてここにいて欲しいと請うた。
さらに、磁武の娘で後家となっていた磁喬《じきょう》が、世話をするうちに幻影達を見染めてしまい積極的に通じた。それを知った磁武は娘を貰ってくれないかと言い出した。
「渾兄哥、どうすればいいと思う? ここで、あの女の亭主となっちゃあ里の女房が怒るだろうし」
すでに女房がいる幻影達は渾沌に相談した。
「兄弟、あの女を見ていておっ立つかね」
と渾沌が訊くと、
「ああ。三十だそうだが、まだまだ」
と好色な笑みを浮かべた。
「それなら貰いな。嫌になったら捨てればいい」
「そうかい。俺も実はそうしようと考えていたんだ。くれるというんなら貰うのが男ってもんだからな」
こうして幻影達は磁武の義理の息子となった。
二ヵ月後、磁武が幻影達に頼みこんだ。娘を片付けて安心したのか、磁武は病を発し先月からまた床についている。
「国境の小競り合いがまずいことになった。婿殿《むこどの》、悪いが、行ってちょいとやってきてくれないか」
北部国境ではサンブカン部という異民族との抗争が続いており、先日、出張している左侍部の奈浙《なせつ》が戦死したという報が入った。
幻影達は気軽に引き受け出掛けていった。無官では具合が悪いというので、磁武が勝手に左侍郎を幻影達に与えた。
結果として幻影達はサンブカン部と講和を結び早々に戻ってきた。素乾側に不利な条件で勝手な講和をしてきたわけであるが、幻影達にしてみれば不利だろうが何だろうが知るかいという気分である。また、誰も咎《とが》めなかった。中央には磁武がこちらに有利な講和であったと嘘を書き送っている。国境に長らく釘付けにされて、腐っていた兵士たちはかえって幻影達に感謝したくらいである。この幻影達の早業の裏には当然渾沌の無責任な意見が反映していたに違いない。渾沌の役における厄駘の権謀家ぶり、奇略家ぶりをもって彼を稀代の策士か何かのように評する人がいるがその評価はどうも誤りのような気がする。天山遯などは無残にも、渾沌などは単なる詐欺漢《さぎかん》に過ぎない、と断じている。そうでもないとも思う。渾沌はやることなすこと行き当りばったりで、その行動方針は勘かその時の気分であったようである。勘と気分が動機であり、そのふたつを含めて厄駘は縁と呼んでいた。これでは賭博師とも言いがたい。
ともあれ、ここまでが現時点の幻影達である。幻影達が大軍を率いて北師に乗り込むにはもうひと山越えなければならないが、とりあえず、今は幻影達とその指導者的な男、渾沌から目を転じることにする。
今度は銀河により近くはあるが、銀河にはさっぱり分からない素乾城内部の権力闘争について簡単に述べておく。筆者は後宮の銀河についてだけ書いていたいのだが、諸事情はそれを許さない。第一、賊が後宮内に押し入って来たときにまとめて事情を述べると長く繁雑になる。それよりも小出しに述べておいた方が理解の便が良くはないかと思う。
まず前代腹英帝に寵愛され宮廷に権勢を張った宦官|栖斗野《せいとの》が一族ともに誅滅《ちゅうめつ》された。腹英年間に太監栖斗野は権力を壟断《ろうだん》し、東廠《とうしょう》(秘密警察)を手足のように使い、反栖斗野派の僅《わず》かな非違をあげつらい、讒言《ざんけん》させて次々と政敵を屠《ほふ》っていった。また、極端な賄賂《わいろ》政治を行い巨額の資産を得、北師の郊外に豪壮な邸宅を建てて妻子を置いていた。妻は飾りであり、子は養子である。失脚直前には自分のための墳墓用地六千坪を買い取っている。
内閣首輔|飛令郭《ひれいかく》とその一党は腹宗が崩御するまでじっと耐えていたが、崩御後ににわかに動きだし、宦官|真野《まの》らと手を組み栖斗野を追い落とし誅殺することに成功した。この事には新帝の意思も十分に反映されている。その後真野は太藍の地位を手に入れ、栖斗野並みの贅沢を始めようかと考えているところである。飛令郭は飛令郭でまたぞろ栖斗野のような化け物が出てはたまらないということで、反真野対策を画策している。
というような事情で宮廷には外臣、内臣ともに真面目に政務を執《と》ろうという人間はいなかった。
後宮内部、銀河たちがいるところではなく皇太后のいる遷化殿《せんかでん》ではこういうことが起こっている。皇太后は名を琴氏《きんし》というが、まだ若く齢《よわい》二十八である。第二次宮女募集で入宮したのでこの若さであった。今上帝の実の母親ではない。最初の皇后(正妃)幹氏を琴は栖斗野と計って毒殺している。その暗殺の後で琴氏は栖斗野とさらに仲良くなり、権勢のおこぼれを頂戴していた。その余沢で今でも廷臣にかなりの影響力を持している。
最近、遷化殿に通う男が現れた。この関係は腹宗の在世中から続いていたらしいが、最近は半ば公然化している。通っている男とは菊凶であった。最初は菊凶から琴皇太后に近付いて、閨に入ることを許された。菊凶は稀な美丈夫であり、房事の技術も一流であったから琴皇太后は菊凶を寵愛すること膠漆《こうしつ》のごとくになり、今では溺《おぼ》れきっている。この前年に琴皇太后は子を生んでいる。これが菊凶の子であろうことはほぼ疑いない。菊凶もまた野心家であった。
後世の史家天山遯はこれらの事実を俯瞰《ふかん》した上で喪服が流行していることを亡国の兆しであったと捉《とら》えているのである。黒い服が民間に流行したという事例は約五百七十年前の曾朝末期にも見ることができる。このときも宮廷は腐敗堕落の極にあり、飢饉《ききん》が続発し、重税に百姓は怨嗟《えんさ》の声を上げていた。
ただ、天山遯は無策であった素乾最後の皇帝に対し、ひどく同情的で決して責めてはいない。むしろその才覚が発揮される前に国が壊滅してしまったことを嘆いている。
『英邁《えいまい》ノ天子ノ其ノ徳ノ未ダ輝ヤカザル間ニ帝国ノ滅ブコトヲ惜シム』
無力な正義派官僚の最後の希望は新帝であった。
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前夜の絵巻
「華麗なる王朝絵巻」などという言葉がある。現代の商業主義が作り出した言葉であるに違いない。古来、宮廷とりわけ後宮では血で血を洗う、生臭い争いが繰り広げられてきた。嫉妬、淫欲、寵愛争い、継嗣をめぐる確執、後宮の権力闘争沙汰は日常茶飯事であった。ひどい例になると皇帝が宮女数人に叩き殺されたという信じられない話もある。
銀河が後宮の争いで醜い姿を晒さずに済んだことは喜ぶべきことである。銀河が後宮内で権力闘争を繰り広げ、例えば、江葉を拷問《ごうもん》の末に毒殺するところなどは絶対に見たくはない。とにかく、そうならなかったのは幸いである。銀河はもしかすると無慈悲で残酷な女になったかもしれない。そういう可能性は否定できないが、銀河が正妃というとんでもない立場に慣れる間もないうちに素乾後宮は滅んでしまうのである。
銀河は娥局のうちでも特に豪勢なひと間を与えられた。婢《はしため》が数人付けられている。そして、何をするにも「銀正妃様」などと呼ばれた日には、さすがの銀河も震え上がってしまった。これはとんでもないことになった、と銀河は思っている。
真野がやって来た。邪魔だった栖斗野は片付けたし、自分の選んだ宮女候補が正妃になるし、真野は幸福な気分を味わっていた。
「ようやった。銀河、いや、銀正妃様。わしの目には狂いがなかった」
白い鬚をふるわせ、御満悦の様子だった。銀河は面白くなさそうな顔をしている。
「いかがいたした。不興の様子だが」
「ちっともいいことなんかないわよ。こんなぞろぞろした衣装を着せられて、すこし出歩くのも咎められるのよ」
「贅沢《ぜいたく》を言うな。それより、今夜|万歳爺《わんすいいえ》がお通いになる。御寵愛を確固たるものにすべくつとめるのだぞ」
「万歳爺? おめでたそうな名前だけど、どこの馬鹿よ」
「何ということを言うか! お前の馬鹿もまだ直っておらんな。万歳爺とは皇帝陛下のことだ」
「へえ、そうなの。なんで万歳爺なんて変なあだなが付いているの」
「あだなではない。我々内臣は陛下を親しんで万歳爺と呼ぶのだ。覚えておけ」
太藍は房事を司る。宮女を案内したり、逆に皇帝を案内したり、次の部屋に当番して房事の時間を計ったり、回数を計ったり、受胎の証明をしたりする宦官の元締めでもある。今日は真野が直接、銀河に皇帝の来駕《らいが》を伝えにきた。よほど機嫌がよかったのであろう。
ついに銀河のもとへ皇帝が来るらしい。つねに変化を欲しがる銀河は、退屈が紛れる、という意味で喜んだ。しかし、好奇心とともに不安も湧いてきた。夕刻になると居ても立ってもいられないほど不安になってきた。銀河は婢に言った。
「ちょっと、友達のところへ行きたいけど」
「それはなりません」
婢はにべもなく言った。
「なによ。誰にも会ってはいけないの?」
「先方をここへ呼び付けるのなら構いませんが」
「相手に悪いじゃない」
「しかたありません。規則ですから」
正妃になって以来日に何十回、規則です、と言われたことか。銀河は致し方なく、
「江葉を連れてきてよ。セシャーミンと玉遥樹もお願い」
と言った。
江葉は才人という官職に任ぜられている。よって江才人と呼ばなければならないが、銀河と同じ理由で江葉と呼ぶ。セシャーミンは嬪妃である。これも、世嬪妃と呼ばねばならないがやめておく。玉遥樹はさる理由で官職を得ていない。このことについては後述することにする。
セシャーミンはむっつりと明らかに怒った顔で入ってきて、一言も喋らなかった。銀河が正妃となったことがはらわたが煮えるほどに口惜しいのである。さらに、銀河が正妃の権威をかさにきて自分を呼び出して誇るつもりだと思い、いっそ死にたくなった。銀河はそれを見て、敢えて話しかけてセシャーミンに火をつけるようなことはしなかった。
玉遥樹は不在であったという。
江葉は床袍を着て、煙草袋を持ってやって来た。才人は正妃より四等ほど格が低いが、美麗な衣服を身につけるのは銀河と変わらないはずである。床袍でうろついていい道理はない。銀河は挨拶もせずそのことを尋ねた。
「このほうがよい」
と言った。江葉の婢も初めはあれこれ文句を並べたが、並べているうちに江葉の無関心ぶりに恐れをなし、文句を言うのを止めたそうだ。
「そうか、わたしもその手でやるか」
と銀河は言った。が、江葉の真似は並み大抵の者ではできない。
銀河は本題を述べた。
『銀正妃初メテ皇帝ノ御通スルヲ予《あらかじ》メ聞ク。而シテ、童女ノ如ク心魂不安ヲ禁ジ得ズ。以テ、江才人卜世嬪妃ニ諮《はか》ラント欲ス』
童女の如くとあるが、銀河は童女そのものである。不安になるのも当然と言えよう。女大学の講義で銀河も耳年増になってはいたが、聞くとやるとでは大違いというものである。
「別になんともないわよ」
江葉はあけすけに言った。
「なんともないって、どうして分かるのよ。江葉だって経験がないんてしょう」
「ないことはないわ」
それを聞いて銀河は仰天する思いだった。
『汝ハ産女ナリシカ』
と訊いた。産女とは未通女の反対の意味の言葉である。セシャーミンも怒りを忘れて、
「それ、本当なの?」
と言った。江薬は煙草を吸いながら、
『然り』
と答えた。
「わが里では、わたし位の歳はみなそうよ」
とも言った。
江葉の故郷茅南州は、二百年ほど前までは「中華の外」の民族であった。素乾に併合される前の習俗が色濃く残っている。現在も茅南省獅葉県の一部では未だに通い婚が行われていると聞く。
娘が十三〜十五歳になると親たちは娘に男が通いやすいようにする。貧しい家だったら娘を出入ロのそばに寝かせるようにする。金持ちであったら小さい庵を建ててやり、そこに下女と住まわせる。そこに付近の男が通うわけであるが、本邦のように歌をやり取りするといったことはしていない。いきなり通ってくる。娘もよほど嫌な男でなければ受け入れる。複数の男が通うのが普通であった。ただし、妻子すでに決したる四十男が通うことは厳禁されている。素乾の道学者はこの異習を禽獣《きんじゅう》にも劣る蛮習として毛嫌いしたが、どう教化しても改まる気配がなかったので、致し方なく放っておいて今にいたっている。
通いは娘が子を孕《はら》むまで続くことになっている。子供の父親は、複数の男が通ったのであるから、当然だれだかわからない。通った男の中から、娘が自分の最も好ましい男を父親に指名し、正式な夫婦となるのである。指名された男もたいていは潔く夫となる。こういう習俗は母系中心社会の遺物だというのが定説ではあるが、制度としてみた場合に優れていないこともない。ただ、男の血統を重要視する倫理のある社会では考えられない悪であるということである。
「三人くらい」
と江葉は言った。通ってきた男の数である。江葉の若いくせにそら恐ろしいほどに落ち着いた態度には、処女ではないということも理由の一つとなっているのであろうか。
素乾の教養ある貴族であるセシャーミンは、なんという不潔な女だ、という目で江葉を見ている。歴史をひもとけば、貴族のほうがよほど不倫の担い手である。江葉をセシャーミンが責めるのは笑止な話であるのだが、独善的であることも貴族の必要な要素である。
銀河は、悪い癖なのか良い癖なのか分かりかねるのだが、好奇心丸出しであった。
「ふーん。どうして、結婚しなかったの。好きな男が通ってこなかったの?」
江葉は笑って、最近よく笑うようになったのだが、言った。よく笑うといっても、江葉にしてはということで、日に一度笑うか笑わないかといった程度である。
「なぜだか分からないけれど、一度通ったものは二度と来なかったから」
そう言って、江葉は鉄面皮なようでも、そのことは悲しかったらしい。悲しそうな顔をした。江葉は聡明すぎる女性であったが、自分の透明な無関心な様子が男を遠ざけていることが分からなかったようである。それで子供もできなかったから、宮女狩りが来たとき、宮女にでもなろうかと思ったらしい。
そういう話をしているうちに、銀河の婢が、
「そろそろ、お引き取りになってください」
と言った。書き忘れたが、婢というのは前の後宮で結局天子のそばに侍《はべ》れなかった等級の低い宮女がやっている。言わば銀河達の先輩で歳も食っている。これで意外な権勢を持っている場合もある。正妃や嬪妃に対して、ずけずけと物を言うのはそのためである。
江葉の話を聞いてもあまり有用ではなかった。銀河は江葉とセシャーミンが帰った後、身内を悪寒《おかん》のような震えが走るのを感じた。
『恐がっているのかしら』
と銀河は憂鬱に考えていた。婢が支度をして、
「湯浴みなさいませ」
と言った。
「そろそろお通いあそばされる時刻です」
銀河は言われたとおりに、風呂に入ることにした。
思い起こせば、後宮に入ったくせに、このような場面が来ることをついぞ考えなかった銀河である。やっと、後悔し始めた。菊凶が講義していたことをやれというのかと思うとさらに後悔が増した。
銀河は婢に身体を洗われながら、溜め息をついた。こういう場合の心構えを婢の一人に小声で問うてみた。
「わたしは知りません。ただただ、あなたがうらやましいかぎりです」
と御寝に臨めなかった恨みと嫉妬をたたえた目で銀河を睨みつけた。なにがうらやましいものかと銀河は思った。
銀河は簾《すだれ》の陰に立ち、湯滴が身体にそって流れ落ちるのを見ていた。婢が身体を拭く布を手渡そうとした。その時、扉が唐突に開いて誰かが入ってきた。生まれたままの姿であった銀河ははっとして下半身を手で隠した。
「隠すところは、分かっているとみえる」
と入って来た双槐樹が言った。
これも余談であるが、書く。昔、東洋文化圏では女は裸のところに闖入者《ちんにゅうしゃ》があった場合、必ずといっていいほど乳房を隠さずに、下を隠した。理由はともかくそうした。西洋文化圏では絵画や彫刻を見ると分かるが、乳房を守るように隠す例が多い。これは理由になるかどうかは知らないが、昔の東洋文化圏の風流本の描写はほとんど下半身、性器と足に集中している観があり、乳房について述べているものを見たことがない。風流本に限らず、後宮「女大学」も乳房に対する技法をおそろしく軽視している。逆に西洋文化圏の猥褻本《わいせつぼん》では乳房を重要視し、くどいほどにその描写が続いている。比較文化学の先生は、宗教の考え方の違いからきているものだと言う。
第二次大戦以後、西洋文化が東洋文化を覆い尽くした感がある。よって乳房に対する感覚も非常に西洋文化的になったと思われる。今の若い娘は素っ裸のところに闖入者が現れた場合、どこを隠すのか。どうでもいいような疑問であるが、実はこれが東洋文化と西洋文化の定着度のバロメータになるのである。
入ってきたのが双槐樹であったので、銀河はひとまずほっとした。
「何の用よ?」
銀河は浴衣《ゆかた》に似た寝衣を着せられながら言った。
「何の用とは、心外じゃ」
双槐樹は黒い緞袍の上着を脱いで、放った。婢は恐れ入るようにしてその上着を拾うと奥に掛けた。
「お前様のところへ通ってきたのに」
銀河は吹き出した。
「なんの冗談よ」
「冗談ではない。わしは皇帝じゃ。この家のあるじぞ」
「あんた女じゃないの!」
「なんの。わしは、男じゃ。見せてやる」
銀河はわっと悲鳴を上げそうになった。双槐樹は裾をたくしあげ股間《こかん》の証拠をちらりと見せた。さすがに照れ臭そうな顔をしている。銀河が婢のほうを見ると平伏している。どうやら、冗談では済みそうもなかった。
「この、うそつき!」
と銀河は無礼にも叫んでいたが、双槐樹は怒りもせずに、言った。
「おなごと言うた覚えもないが」
筆者は作劇上の理由で知っていて隠していたが、双槐樹の言っていることは事実である。読者には、薄々感付いていた人もいると思うが、銀河はまったく知らなかった。また、実際に肉眼で双槐樹を見た場合、これを男だと思う者は皆無であるはずだ。双槐樹、元号で呼べば槐暦帝、宗廟号で呼べば槐宗はこの人に相違なかった。なお申し添えておけば、性的な異常者ではない。
双槐樹は婢を払った。銀河とふたりきりになった。銀河は怒ってぶすっとしている。双槐樹もやにわに明かりを消して、銀河に襲いかかろうといった様子はまったくなかった。のんびりと言った。
「じつのところ、わしは今宵お前様を抱きに来たのではない」
それを聞くと銀河はさらに腹が立ってきた。馬鹿にしている、と思った。では、なにしに来たのだ、と怒鳴って叩き出したくなった。
「抱くのはまだ早かろう。角先生に聞いておる。それとも、すでに道女になったのか」
道女とは受胎可能な女性の意である。
「ひとはいざ知らず、わしは、蕾《つぼみ》を無理強いしたりはせぬ」
などと言う。確かにまだ銀河は初潮を迎えていない。いつまでも黙っているのも業っ腹だと思ったのか、銀河は口を開いた。
「つまり、どういうことなのよ」
「それを物語りに来たのじゃ」
銀河は相手は皇帝だというのに、怖じることがなかった。ここまでくると銀河の性格は異常なところがあると思わなければならない。
「わしは暫くここへばかり通うことにするから、許せ。角先生と相談の末お前様を正妃に据《す》えたのだが、理由がある」
「何よ」
「まず、お前様はまだ童女じゃ。もう一つはやはりお前様が気に入ったからじゃ」
とぬけぬけと言う。
「さらにこれはお前様に言うべきことではないが……」
と断った上で真の理由を言った。
「わしは命を狙われている」
不穏な話である。
槐宗が器量を評価され、期待されたほどには活躍しなかったのはひとえに即位に際して反対勢力が多すぎたことによる。その最右翼が琴皇太后である。実際、彼女が双槐樹の母后を殺害し、皇后の地位についた後、邪魔な皇太子(双槐樹)を暗殺しようとしたことは一度や二度ではない。琴皇太后には平徹という息子がいたが、これを皇太子にしようと企んだのである。事態を憂慮した前内閣首輔の太梁《たいりょう》が腹宗に進言して平徹を茅南州の王に封じることにより、とりあえず琴皇后の野望を挫《くじ》いた。忠臣太梁は後に栖斗野の讒言《ざんげん》により左遷されてしまっている。ところが琴皇后は腹宗が崩御する直前にまた子を生んだ。これは菊凶の子であるが、この子供を皇位につけるべくまたぞろ画策し始めている。
「宮廷を歩けば、十人に一人、わしを狙う者とすれ違う。母上の手の者だ」
そこで双槐樹は早暁に急ぎ政務を執り終え、それ以外のときは女装して後宮に隠れていたのである。双槐樹は飛令郭、真野と謀り、栖斗野の誅殺には成功したが、まだ琴皇太后を斬れずにいる。また、飛令郭も真野も忠臣とはどうしても言いがたく、信用できない。飛令郭が琴皇太后と結んだという情報もある。
「じゃ、タミューンも命を狙われて後宮にいるんだ」
「違う」
双槐樹は苦い顔をした。
「姉上はわしと通じることを願っておる」
「きょうだいなのに?」
「あの方はどうしたことか淫蕩《いんとう》にすぎる」
『玉公主(玉遥樹)ハ性淫蕩好色ニシテ度シ難シ。槐暦帝ト通ゼンコトヲ希《ねが》フ。当《まさ》ニ禽獣ノ行イニ比サレルベシ』
と玉遥樹はひどい書かれ方をしている。玉遥樹がわが弟より美しい男はいないと思っていたのは事実である。ただ、淫蕩好色と言われるほど男出入りを許していたかどうかはよくわからない。
「とにかくわしは今たいへんなのだ」
こう真顔で言われてはどうしようもない。
「お前様が道女となるまでここに宿させてもらう」
銀河は双槐樹が可哀相になっていた。
「コリューン、あなた苦労してるのね」
「それほどでもない」
双槐樹は巨大な寝台の端に寝転んだ。
「わたしが道女になったらどうするの?」
と銀河は心配になって訊いた。
「その時は抱くまでよ」
と双槐樹は明快に言った。
「ただ、お前様は変わってくれるな。おなごは童女から道女になるとき化けるというからな。いまのままでよい」
それは無理な相談だろう。
乱の前夜はこのようであった。宮廷、後宮とも陰湿な闘争の場となっており、華麗なところなどどこを探しでも見つからない。
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幻影達の乱
遷化殿の琴皇太后の寝室に菊凶が通う夜は侍女も宦官も眠れなくなった。琴皇太后の声は一晩中遷化殿内に響き渡り、侍女も宦官もなかなか辛いものがあったという。
この晩も琴皇太后は寝台の上で、
「どうしてこのように快美なのであろうか。気が変になりそうである。菊凶よ汝は私をよがり殺そうとしているのか。そのように巧みに私を貫いて、汝になんの得があるのか。私はもうじき死ぬであろう。いや、許せ。もう殺してほしい。ああ、わたしは今快美の極致に至った。菊凶よ私は汝を許さない……」
というようなことを息も絶え絶えに叫んでいた。収録不可能な語句もおおいに叫んでいたであろう。
菊凶のやり方はえげつなかった。自らは施瀉(射精)することはなく、徹底的に琴皇太后のみを行かせ続けた。一晩に十回ほど一方的に琴皇太后を責め上げて、その間菊凶は還精の法をもって気を貯えた。そして、琴皇太后がぼろ雑巾のようにくたびれてしまってから、やっと施瀉した。理論的にはその精液は何度も脳に還流され、採り入れた自他の気を脳に運んだもので、言ってみれば気の抜けたかすの如き粘液を最後に琴皇太后の中に排泄《はいせつ》するのである。菊凶のエゴイスティックな行為を琴皇太后も分かってはいた。彼女とて「女大学」を学んでいるからである。しかし、菊凶を責める気はない。一晩に十数回もオーガズムに至らせてくれるような宝物のような男がこの世に他にいるはずがないと思うからである。
明け方近くにやっと正気に戻った琴皇太后は菊凶の艶《つや》のある滑らかな胸に頬擦りをしながら言う。
「真の牡《おす》とはおぬしのことだ。離しはせぬぞえ」
「痛み入ります。皇太后様こそ男に力を与えてくれる天女のような御方だと感じ入っておりまする」
菊凶は疲れも見せず、涼しげに言った。
「おぬしとわたしのややを是非に天子の位に即《つ》けたいものぞ。すれば、おぬしを大臣に据えることも、諸王に列することもいと易きこと。そのためには……」
この次の言葉を発するとき琴皇太后はぞっとするほど妖艶になる。菊凶は何度も聞いているがその度にこの女にいま鬼が憑《つ》いていると感じられてならない。
「そのためには今上を弑《しい》し奉らねばならぬ」
今上とは双槐樹のことである。琴皇太后はこれまでに何度か暗殺作戦を実行したが失敗している。
「そのこと私におまかせ願えませんか」
と菊凶が言った。菊凶は琴皇太后の失敗をいつも歯噛みする思いで見ていた。
「皇帝は後宮に潜んでおりまする。それならはそれでやり方もあろうかと存じます。恐れながら琴皇太后様のようにあからさまに毒を用いたり、屈強のものに昼間に襲わせても成功は難しいかと」
「よきわざがあるのかや」
「ゆえにおまかせをと申しております」
菊凶には自信があった。
そういう寝物語りが語られた数日後のことである。
双槐樹は例によって銀河の部屋に通ってきては、馬鹿話に興じたり、菓子でもつまみながら酒を飲んだりしていた。銀河も馬鹿馬鹿しくなってきた。どうも角先生に教えられたことと違うなと思う。
「あんたってば、子供を作らなくていいの?」
皇帝の後宮での仕事は、まずそうであるべきだった。
「いずれ作る。お前はまだ孕めまいが」
「そういうときのために何百人も宮女がいるんでしょ。みんな、あんたを待っているみたいよ」
「よそへ通えと言うか。変わったおなごだ。わしの母上がまだ若かったころは父上がよそに通ったりすれば、臓躁《ヒス》を起こして気絶していたというぞ。悋気《りんき》を軽視すべきではないと昔の人も言っておる」
ここでいう母上は琴皇太后ではなく、実母の幹氏のことである。
「いまのところはここでいい。お前様は迷惑か」
「そんなことはないけれど」
そういうことを話した後、
「さて、寝るか」
と寝台に上がって行くのである。銀河は何やら物足りない気分を味わっていた。
銀河が酒器などを片付けていると、叩扉の音がした。この時刻に来る者などいないはずであった。
銀河が扉を開けると、覆面の賊が三人乱入してきた。声を押し殺してはいるが、宦官特有の甲高い声は隠せなかった。
「万歳爺《わんすいいえ》が来ているだろう」
銀河は驚いた。
「あんた、久塘野《くとうの》君じゃない。まさかあんた殺し屋に来たの?」
久塘野は女大学で菊凶の相手役を何度か勤めていた新米の宦官である。他の二人の声も、いずれも若く聞き覚えがある。
「ばれました上は、銀正妃様のお命も頂戴致します」
声が震えている。言葉ほどには落ち着いていないらしい。短刀を抜いた。
「ちょっと、やめなさいよ。危ない」
銀河は久塘野の尋常でない目の光を見て、やっと危機感を覚えていた。背後に回っていた宦官が銀河の後頭部を殴り付けたらしい。目の前が光って、銀河の意識が途切れた。
銀河が意識を取り戻すと、寝台の上で横になっていた。双槐樹が心配そうに銀河の顔をのぞきこんていた。
「生きていたか」
と言った。
「痛っ」
後ろ頭にこぶができていた。双槐樹は間抜けにも、銀河の前頭部に濡れた布を当てていた。
「久塘野君たちはどうしたのよ」
「案ずることはない。成敗した」
部屋の隅に賊が倒れていた。
「ひとりは殺した。後の二人は気を失っているだけだ」
優しそうな目をしているくせに人を殺せるらしい。どうやって? と訊くと、短銃を示して見せた。フリントロックと呼ばれる火打ち石発火式の拳銃であった。
「わしが他のおなごのところへ通わないのは信用ならぬからだ。寝ているときに縊《くび》られてはかなわぬ」
銀河は信用されているらしい。
「角先生がお前様なら大丈夫だろうと言ったからだ。わしも同じ意見であった」
角先生が銀河に目を掛けていた理由のひとつは、この娘ならば反双槐樹派に転ぶまいということもあったのかもしれない。銀河が正妃にされているのもそういう理由ゆえであるのかもしれなかった。
「命を狙われているっていうのは本当の話だったの?」
銀河は、迷惑だ、と言わんばかりの顔をしている。双槐樹の巻き添えで頭をぶん殴られてはかなわない。
「わしは、臣下の前では自分のことを朕《ちん》などと称している。朕であるからには、わけのあるなしにかかわらず命を粗末にすることもあるのだ」
と双槐樹は悲しそうにわけの分からないことを言った。
「朕と言わなければいいじゃない」
「わしもかねてよりそう思っている」
双槐樹は生け捕りにした宦官から後宮での反皇帝派の情報を得て、腹心の部下にその追放を命じた。菊凶の名前だけは出なかった。菊凶に愛された宦官は命がけで菊凶への忠誠を貫いた。
話が前後しないように挿入しておくが、ちょうどこの頃に、幻影達が挙兵している。世にいう幻影達の乱(渾沌の役)は槐暦二年の二月中旬に勃発《ぼっぱつ》した。
その幻影達が今何をしているかというと、嵬崘塞から北へ十里も行ったところにある仙斜《せんしゃ》という温泉町で遊んでいる。仙斜は有名な妓楼町であり、歓楽街である。そこの店に長逗留して女を抱いては酒を飲み、飽きると湯に浸かり、また女に悪戯するといったことを繰り返している。挙兵したはずだが、事実は遊びほうけている。酒と女と温泉でどろどろになっていたからとても戦に出かけるような状態ではなかった。挙兵を宣言した後、約二十日ほど仙斜に留まっていたようである。
一方、嵬崘塞では幻影達の腹心の部下(瓜祭から連れてきた例のならず者の一団であるが)たちが役所の中で賭場を開いて付近の住民から喜ばれていた。さいころ、銭投げなどのたあいもない博奕であったが、娯楽の少ないこの地にあっては喜ばれた。もともと、博奕を禁止し取り締まっていたのが嵬崘塞なのである。お上も最近は味をやる、とついでに儲かっている近所の遊廓のばばあなどもほくほく顔であった。
本気で幻影達が挙兵の檄文《げきぶん》を飛ばしたのかどうかはこの様子を見ると疑わしい。冗談だったと考えるのが妥当かもしれない。
「素乾通鑑」によると挙兵の経緯はこうであった。ちなみに正史の「素乾書」「乾史」には幻影達らのことは詳しくない。幻賊時ニ狂叛ス、と書かれているだけである。歴代政府は幻影達と渾沌を忌み嫌い、徹底して貶《おと》しめるか無視したがるが、その慣習はこのあたりから始まっている。よって正史には「幻影達、渾沌列伝」のようなものはない。
山北州都司侍郎として嵬崘塞にいる幻影達はこの頃里心がついたらしく、しきりに瓜祭に帰りたがっていた。すると、
「里の女房がそんなに恋しいのかい」
とこちらでの女房の磁喬《じきょう》が責めるので、気が憂鬱になっていたらしい。
渾沌は退屈しのぎに磁家の書物庫にいりびたっていた。渾沌は読み書きができた。どこで習ったのかは分からないが、かなりできたらしい。彼の書いた詩や文章が少し残っているが、同時代の文人に比べて遜色がないほどである。書庫に幻影達がやって来て、情け無い面で言った。
「おい、渾兄哥、なんだかつまらなくなってきたなあ。このへんで失敬したほうがよくはないかな」
渾沌は読んでいた書物を放り出して、
「そうだな。俺も本の読み過ぎて目が疲れたな。退屈なのがいけない」
と言った。嵬崘塞は軍事色の濃いいかめしい役所である。こんなところが楽しいはずはない。幻影達の部下というか仲間のろくでなしたちもここの生活に嫌気がさしていた。
「あんな女、もらわなきゃよかった」
幻影達は磁武の娘のことを言った。都司尚書の磁武は幻影達の義理の父親になっている。都司尚書などは地獄の門番なみに恐れられている軍事官僚である。磁喬を捨てて逃げれば義父を蔑《ないがしろ》にすることになり、また、ひどい目に会わされるかもしれない。幻影達は英雄ぶった容貌と態度を通しているくせに渾沌の前にいると女々しい愚痴をこぼす。そのうちに渾沌が思い付きをぽつりと言った。
「そうだな、挙兵でもしたらどうだい」
渾沌がいま読んでいた書物にそんなことが書かれていたのであろう。挙兵というものは今も昔も史書の見せ場であり、小説のネタとしても貴重である。
「挙兵たあ何だね」
「退屈を紛らすものだ」
「そうか。そいつはいい。渾兄哥それをやろうや」
幻影達は憂鬱のふっ飛んだ明るい顔になった。そして、渾沌が檄文を書いた。この檄文は渾沌の自作ではない。書庫にあった史書から格好のいい文を抜き書きしてひとつにしたものである。幻影達には天下に反旗を上げる理由がとくにないのである。退屈だからという理由があるが檄文にそんなことを書くわけにはいかないから、昔の反乱軍の天下に対する悲憤|慷慨《こうがい》の名文を借用している。
幻影達は退屈を紛らすためという理由で乱を起こしたわけであるが、未曾有《みぞう》のことである。世界のどこにも類例がない。
一部の学者はほかに理由があるはずだと一生懸命に調べた。彼らの感覚からすれば、幻影達は気違いであるということになる。退屈だから乱を起こすというのは正気の沙汰とは思えないというのである。
幻影達当時の素乾の民情は確かによくはない。税は重いし、何かと言えは労役がある。また、この頃腹英帝が崩御し、槐暦帝が践祚《せんそ》したので例年より物入りであった。飢饉が起こっていないのが救いであるが、国境では異民族の侵入が相次いでいた。民衆の暮らしは楽ではないし、朝廷を怨む声も密かに上がっていて、丙濘《へいねい》の一揆のような小規模な武装|蜂起《ほうき》も時々発生している。だが、調べると、このくらいのことは常のことである。
有史以来民衆を苦しめなかった政府は存在しない。それが、度を過ごすと民衆が堪忍袋の緒を切って、自棄になって反乱を起こした。そのエネルギーが往々にして国を滅ぼす原因となった例は多い。しかし、この時の民情はまだ民衆の苦が限界に達するまではいっていない。比較すると腹宗の治世の時のほうがよほどひどかったと言える。統計的に見て、乱の発生するだけの原因は見当らなかった。
理由のない反乱を起こされることほど、始末に困るものもないであろう。お上としてはたまったものではない。このことが後の政権担当者をよほど恐れさせたことは想像できる。その証拠としては幻影達と渾沌への、御用学者たちの常軌を逸した非難である。とくに渾沌に対しては、狂人扱いするのはまだいいほうで、人非人、畜生外道よばわり、さらには渾沌の祖先まで罵言の対象になった。渾沌には今に至るも墓がない。渾沌の墓を立てることは政府のタブーの一つとして伝統となっているのである。天山遯《てんざんとん》の詐欺漢≠ニいう評語は渾沌への好意の表れであると言えないこともないほどである。
さて、挙兵旗上げした幻影達と渾沌はすぐに仙斜に行き、遊蕩三昧にふけるのである。これは、渾沌の策略であるという説があるが違うであろう。この時点で誰を欺《あざむ》く作戦上の必要もまったくない。幻影達の挙兵は付近の住民が噂話にしていた程度である。檄文を送り付けられた各地の豪族風の親分たちもそれを洟紙《はながみ》にして捨てたようである。幻影達と渾沌は純粋に遊びに行ったのである。
話は素乾後宮に戻る
銀河は自分の立場がなかなか滑稽《こっけい》であり、馬鹿馬鹿しくもあるということが分かっている。要するに自分は新皇帝双槐樹が政権を確固たるものにするまでの世話係のようなものであろうと思っている。妻ではあるまい。しかし、銀河はこの状態を楽しんでいる。少なくとも退屈ではないからである。自分以外の何百の宮女たちはひどく退屈しているだろうと同情しているくらいである。
ある夜、まだ双槐樹は通っていなかった。叩扉する音がしたので、前のこともあるからやや用心しながら扉を開けた。するりと、やさしいものが部屋の中に飛び込んできた。
「はよう、戸を閉めぬか」
と音楽のような声で言った。
「タミューンじゃない。ひさしぶりねえ」
と銀河は言った。
玉遥樹は見たこともないような服を身にまとっていた。透き通ったような衣でふわりと身を包み、腰に一帯を巻いて肉体にまといつけていた。腕、耳、胸には宝玉がさらさらと揺れて光を放った。この服装は羅衣《らーい》といい、胡《こ》の婦人の衣装である。銀河は北師見物をする暇もなく後宮に入れられたので、胡人を見たことがない。西市へ行けば、紅毛碧眼の桃色の肌を持った娘たちが羅衣を翻して踊っているのを見ることができる。胡姫《こき》の舞は西市の名物であり、その異国情緒は古来から詩人の詩情をいたく刺激してきた。多くは貿易商人が連れてきた家族で、この町に住んで生計を立てている。
胡とは隠土《いんど》のさらにむこうの砂浜の人々をさす言葉である。今でいうアラヴィア半島を中心に生括していた。また、十年ほど前から西胡の人々も多く見かけるようになった。西胡は胡のそのさらにむこうの人々をさす。西胡はこの頃になって頻繁に素乾を訪れるようになった。まとめて胡人と呼ぶことにしているが、識者は西胡と胡は異なる文化を持った全然別なものだということに気付き始めている。それはともかく、胡姫の血管が透き通って見えるような白い肌と彫りの深い顔立ちにはめ込まれた碧眼、さらに膚肌《ふき》を惜しげもなく露出する羅衣は北師の男子の欲情をそそってやまぬものがあった。そういう効果を狙って羅衣を着て商売する女も多かったらしい。
話がそれたが、玉遥樹は羅衣を着て銀河の前に立っている。旧交を暖めにきたのではないことはきつい目の色を見れば分かった。
「ぬしがコリューンを占めていると思うと、口惜しゅうて夜も眠れなんだぞ」
と玉遥樹は匂うような口調で恨みごとを言った。銀河は困惑して苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。双槐樹に玉遥樹の異常な姉弟愛について聞かされていたから、目の前の女が酸っぱい粘液を体内にたたえた美しい獣に見えていた。
「この肌に……」
玉遥樹は一歩銀河に迫り、手を伸ばして銀河の腕を取った。
「コリューンは唇を這《は》わせたのか」
そう言いながら玉遥樹は銀河の腕を優しく愛撫した。銀河は「ひっ」と声を上げそうになった。身体が硬直している。
「コリューンはおぬしのこのぴちぴちした肌を夜通し慈しんでおるのだな」
玉遥樹は銀河の二の腕に唇をひたとつけ、這わせた。
「あれの繊手がおぬしの乳をまさぐり、秘所にまで指を旅させていたのか」
双槐樹がいとおしんだものを自らも同じくいとおしみたいという執拗《しつよう》さがその手にあった。玉遥樹は銀河の股間に手を伸ばそうとした。呪縛を振り払うように銀河が飛び離れた。鳥肌がたち心臓が激しく打っている。
「わ、わたしはまだコリューンと房事を行っていないわよ」
「嘘をつくな。そのようなことが信じられるか」
玉遥樹はぎらぎらした目をしている。
「本当よ」
銀河は正直ぞっとした。
「嘘だと思うのならわたしのねいく[#「ねいく」に傍点]を調べてみればいいわ」
淫雅語のねいくとは処女膜のことである。玉遥樹は本気で銀河のたるとを調べかねない目つきをしていた。銀河は負けないように気を張って玉遥樹を見据えた。やがて、玉遥樹が言った。
「それがまことならば、おぬしは不憫《ふびん》な目に会っていることよ」
玉遥樹の目のぎらぎらが消えたので銀河はほっとした。
玉遥樹は棚の酒瓶《さかびん》を取り上げると上品に口に含んだ。
「たっての願いを聞いてくれぬか」
「なによ」
「今宵もコリューンは現れるのであろ。おぬしの衾《ふしど》にわたしを入れてくれぬか。そして、わたしがコリューンとまぐわっている間、おぬしはどこぞに行っておってもらいたい」
「そんなことできるわけないでしょ!」
「なぜ、ならぬ。コリューンはまだおぬしのものにはなっていないのであろう。妬《や》くことがあるか」
玉遥樹の目のふちがほんのりと酔いを含みはじめている。
「はっきり言うけど、あんたコリューンのお姉さんなんでしょ。それが弟と通じようなんておかしいわよ」
「どこがおかしい。あのように美しくあり、万人に秀でた男がこの世にまたといようか。それと結ばれたいと願うのは女の性《さが》として当然のことではないか。わたしはコリューンに焦《こ》がれておる。あれの腕に抱かれることがかなえば地獄に落ちようと本望じゃ。おぬしもそうではないのか」
銀河は返答に詰まった。双槐樹にそれほどの魅力があったろうかと考えた。また、玉遥樹を見ていて、男と女の関係はこういう粘着した感情にいたるのであろうかとも考えた。
「わからぬようだな。よい。今宵は帰ろう。じつはおぬしを殺して死のうとまで思って来たのであった。であるが、おぬしがまだ抱かれていないと分かったのでやめておく」
玉遥樹は氷の結晶を吹くような声で言った。
「もし、おぬしがコリューンに抱かれるようなことがあらば、殺す。いまのまま、コリューンに触れることなく過ごすのじゃ」
玉遥樹は冷たいが、美しい瞳で銀河を睨むとゆっくり部屋を出て行った。
銀河はどこか物悲しい気持ちを抱いて、寝台に腰を掛け、足をぶらぶらさせていた。双槐樹が入ってきた。
「姉上が来ていたな」
「どうして知っているのよ」
「隣の部屋に隠れて聞いていた」
「卑怯《ひきょう》もん」
「そういうな。姉上は苦手じゃ」
「もうわたしの部屋にこないでよ。聞いていたんでしょ。あんたがわたしに触ったら、わたしは殺されるらしいわ」
「悲しい顔をするな。お前様はいつも脳天気にしておればいいのだ」
「それじゃ馬鹿じゃない」
双槐樹は銀河の隣に腰掛けた。
「いずれ必ず抱く。お前様を今はじめて愛しいと思った。悪く思うな、いままではお前様を都合のよい女だとしか思っておらなんだ。だが、これからは違う。お前様を真実に正妃とするつもりだ」
「……」
「姉上がお前様に手をかけるようなことがあれば、わし自らの手で姉上を討つ」
安心せよ、と双槐樹は言った。
銀河は安心した。
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北磐関《ほくはんかん》
幻影達の軍(幻義侠組と名乗っている)は総勢三万五千ほどであった。四月上旬に嵬崘塞をやっと進発した。嵬崘塞の正規兵、地元の郷兵、嵬崘塞の管轄下にある屯田兵らの雑軍である。また丙濘の農民兵を亮成丁が率いて参加していた。
軍発にあたっての名目は驚いたことに幾つもある。まず、病床に命|旦夕《たんせき》に迫っていた磁武を瞞《だま》し、そそのかし、脅しすかしして号令書を取っている。この仕事を彿兼が喜んでやった。内容には意味はなく、ただ、幻影達を将として征旅にむかうべしと一筆してある。この号令書がひとつの名目となり、正規兵と屯田兵は従った。丙濘の衆には暴虐無道の政府役人どもに天罰を加えに行くという、檄文に書いてあった名目を与えて誘った。真面目な亮成丁は幻影達を信用して農民たちを率いてきた。郷兵というのは地元の農民や商人の次男坊、三男坊で仕事がなくぶらぶらしているのを予備役兵としているものである。遊び好きが多く兵士として役に立つかどうかは甚だ疑問である。彼らには、暇ならちと手伝ってくれないかとか、都見物としゃれようぜとか、この博奕《ばくち》にてめえの命を張ってみせんかいとか、幻影達の柄の悪い部下が説き回って集めた。地元の農民やお店のばばあの中には幻影達ファンが多かったから進んで自分の倅《せがれ》を差し出した者もいた。幻影達が世直しをしに行くと期待して、お祭りのような壮行会を行ったようである。噂を聞いた瓜祭の元気の余った若い者が追及し、途中で参加したりもしている。
大将幻影達、副将彿兼、参軍亮成丁ということで幻軍は出発した。渾沌は、肩書きなんざいらないよと言って、雑兵の中に混じってのんびり騎行している。
幻軍はなぜか遠回りに沚水《しすい》州へ向かっている。地図を見れば分かるが、嵬崘塞から東へ直行すればべつにたいした苦労もなく直北の北師へ入ることができる。沚水から回ると、好江という大河の最も幅の広い部分を渡らねばならなくなるし、また、直北の手前の北磐関といった軍事上の要害を突破せねばならなくなる。亮成丁などが「余計な苦労をしなければならなくなる」といった意見をしたかと思われる。
「沚水は地の天堂(天国)と昔から言われている。是非見物に行かねば」
幻影達はそう言って笑った。
『こやつはただの田舎者ではあるまいか』
亮成丁は一瞬後悔の念を胸中に閃《ひか》らせた。沚水観光については挙兵の時点から渾沌と相談して決めていたことであった。無論、作戦的なことなどは思案のうちにまったくない。
「兄弟、沚水は奇麗でいいところらしいぜ。食い物も、酒も、女も、一等のものが集まっているそうだ」
「そいつはいいなぁ。渾《こん》兄哥《あにい》。北師に行く前に行かなきゃもったいないや」
そういうことであったらしい。
もっとも、幻軍が難攻不落と言われた北磐関を抜いた時、その抜いたという評判だけで北師兵部の将官たちを震え上がらせることができた。多分に虚喝でしかない幻軍の戦力を巨大に見せることに成功し、北師進攻は無人の野を征《ゆ》くが如き容易さとなった。その意味では幻軍のとったコースは正解であったことになるであろう。もし、幻軍が直進して北師を衝くという常識的な運動をとっていたら、北師営の二十万の衛兵にたちまち粉砕されていたに違いない。あ、という声さえあげる間もなく北師の手前の安洛《あんらく》平原あたりで潰走させられていたと思われる。しかし、それは常識論である。特に、娯楽に徹した行軍スケジュールを立てて喜んでいる幻影達と渾沌には意味のない話であった。
幻影達は出発にあたり、嵬崘塞の金庫を逆さに振って資金としている。思うに、沚水で遊ぶための軍資金であった。磁武が達者であったなら即刻幻影達を絶縁し、首を斬っていたかもしれない。冷静に考えれば、都司の金庫の金を根こそぎ奪っていった悪質きわまる泥棒である。だが、途方もないことに人々は爽快感を覚えるものである。「構うことはねえさ。どうせお上がおいらたちから搾《しぼ》った銭なんだからな。そいつを使って幻大人が世直しをしてくれているんだ」と誰も責めるものはいなかった。
沚水に侵入した時ならぬ軍団に狼狽したのはまず沚水州都司であった。幻軍が州境を越えたという報告を聞いた都司尚書令|義原之《ぎげんし》は詰問の使者に一万の兵をつけて急派した。
使者は都司侍郎|馬狸《ばり》である。名前のとおり動物じみた面をしていたという。取り次いだ兵が「たぬきが来ました」と幻影達に伝えたらしい。
馬狸は居丈高《いたけだか》に幻影達を問い詰めた。内心はびくびくしていた。幻影達は堂々とした押し出しで応じた。
「拙者《せっしゃ》らは岐安《きあん》川にて掠奪《りゃくだつ》、横暴を繰り返している野蛮のモルギ汗《かん》を征伐しにゆく途中である」
とでたらめを言った。
「そのような話、わが都司は聞いてはおらぬが」
と馬狸は言った。モルギ汗は北方の騎馬民族で、毎年慣例のように岐安に暴れ込んでは掠奪をしてゆくが、それは収穫の時期に限る。今時分に来た例はない。
「さよう。今回は追い散らしに行くのではない。モルギの国に征旅し、汗のそっ首を刎《は》ね上げる所存にござる」
こんな法螺《ほら》が通じるはずもない。幻影達は馬狸をそばに呼んだ。
「たぬき殿、お疑いなさるな」
とずっしりとした包みを手渡した。馬狸はたぬき殿と呼ばれて嫌な顔をしたが、包みの中に大金が入っているのを見て口もとを綻《ほころ》ばせた。さらに幻影達はそれより大きい包みを渡し、言った。
「これは、都司の義原之殿に」
馬狸もしたたかであった。
「わかり申した。貴殿の言はおそらく真実であろうが、兵部に一応問い合わせてみる。その間、十日ほどかかると思うが、それまでこの地で鎮《しずま》っていでもらわねばならないが」
と言った。
「あい承知|仕《つかまつ》った。御配慮、痛み入る。礼を申しますぞ」
こうして、沚水に入った。
『陸ニ上ガレバ、田園|尽《ことごと》ク美田ナリ。馬ハ見ズ、水牛ヲ見ル』
海から沚水に入った昔の人は、まず、肥沃《ひよく》な土地柄に回を見張った。夢のように美しい田園、なだらかで緑なす丘陵をゆるゆる行くとやがて遠くに海が見える。海ではない。これが有名な白湖である。そのあたりから住民は姦《かしま》しくなってくる。当時、おそらく世界最大の歓楽都市であったろう、沚水城が目前にある。城とは都市のことで、沚水城は方形の城壁に守られた城塞都市であった。
「生在沚水。死在白湖」
という言葉がある。沚水で生まれて白湖の畔《ほとり》で死ぬことが人間の最大の幸福ではあるまいかと人々は思っていた。沚水に住む人々は自分たちが皇帝よりも幸福であることを信じて疑わなかった。ただし、金があることが前提条件であったが。
幻影達の一行はここで豪遊した。雑兵のはしばしにいたるまで小遣いを与えて遊ばせている。
行儀よく(むろん言葉のあやである)遊んだので顰蹙《ひんしゅく》を買うような騒ぎは起こらなかった。反乱軍であろうとおあしが十分あれば、好んで掠奪乱暴をはたらくこともない。このことは沚水城の人々に好感をもたれ、後に役立った。
幻影達は城内の有名な妓楼《ぎろう》に上がり、毎日違う妓女を相方に選んでいる。沚水の妓女は美しいだけでなく、古典的教養もあり詩賦《しふ》の交換などもでき、また歌舞音曲に優れていることは当然で、笙《しょう》や琵琶《びわ》の名手も数多くいた。旦那衆は妓女に敬意すら払い、娘《にゃん》という言葉はそのままで敬語になっていたほどである。沚水は古来より天下の美女の産地といわれ、その名産の美女をさらに磨き上げて妓女としていた。後宮にもこういう沚水妓女上がりのものが何人か入っている。
そういう妓女であるから、田舎者を頭から馬鹿にする尊大さを持っている。幻影達が上がってきたとき娘児《にゃんる》(女将《おかみ》)は露骨に嫌な顔をして見せたに違いない。幻影達は洗練のかけらもない野人のような男であった。相手が軽蔑《けいべつ》していることも気にならなかったようである。平気で、「次はあの女だ」と言っている。それでも生来の人徳というものが幻影達には備わっているらしく、じきに、「幻大人今日は私の部屋へいらっしゃいな」と袖を引かれるようになった。
対照的なのが渾沌の女の買い方であった。彼は最初の日に入った店、これも例の勘か縁で決めたものであろうが、沚水滞在中はこの店一軒にいりびたっていた。しかも、妓女も初日から最終日まで同じ女を相方にした。渾沌は坊主頭で、異相といってもいい面付きをしている。相手の妓女ははじめ気味悪がった。しかし、ずっと自分の部屋に居続けしている男に情が移り、虫が好いてきたようである。
「旦那様は坊さまでございますか?」
などと尋ねたりした。話をしてみるとこの男には意外に教養があるし、独特の個性がある。
『存外、可愛らしい』
と思った。最後には長年連れ添った夫婦のような様子になっていたという。
亮成丁は被害者であったか。官吏の汚職に義憤を感じて野に下った生来生真面目な男であったが、沚水で遊んでいるうちに人が変わったようになった。この時初めて遊びの面白さを知ったようである。なぜ在官中にこれが分からなかったのかと嘆くことしきりであった。また、亮成丁は細面の好男子であり、かつ進士に及第したほどの秀才であったから、妓女にもてた。このおかげで亮成丁の人生観は百八十度も変わってしまった。
幻影達らは沚水城に結局二十日ほど滞在した。軍資金が尽きたので泣く泣く腰を上げたといったところであった。
幻軍が白湖を過ぎ、蘇江を船旅でもするようにのんびりと渡った頃、すでに六月であった。ここまで一度の戦闘も行われなかった。
蘇江の北岸の衛所でついに戦闘が起こった。理由は簡単で、その衛所に取り調べを受ける際に相手に渡す賄賂がなかったからである。仕方なく、幻影達は衛所の攻撃を命じた。多勢に無勢、衛所の駐在兵はあっという間に蹴散《けち》らされた。衛所長は北磐関に逃げ込み、北磐関の駐在武官は北師兵部にすぐさま通報した。ここにおいて、幻影達の乱はようやく宮廷の知るところとなった。
ここで王斉美《おうさいび》という男が登場する。素乾宮廷内での数少ない硬骨漢の官僚である。飛令郭や真野はこの男をけむたがって陥れるすきを窺《うかが》っているのであるが、王斉美の経歴や日常には一点の曇りもなく、果たしていない。幻賊江を渡るの報を聞いたとき飛令郭らは、機を得たりと思った。手回しして王斉美を幻賊|巡撫《じゅんぶ》に任命してしまった。
王斉美は文官である。しかし、その軍事の才は音に聞こえている。文官が武官を押さえて司令官に任じられる例は珍しくなかった。巡撫軍を起こす時には文官をその大将にすることは素乾の慣例となっている。おそらく、頭の悪い軍人を文官に監督させたほうがよかろうという政策であろう。すでに王斉美は腹宗のときの偉徳《いとく》王の反乱の巡撫に任じられたことがある。偉徳王は腹宗の叔父にあたる。地方の軍閥を握っており厄介な相手であった。王斉美はこの乱を実に鮮やかな手並みで鎮圧してしまった。王斉美の作戦立案は秀逸であり、兵の掌握には優れ、戦闘は速やかに終った。王斉美は軍事的天才であったのかもしれない。栖斗野は王斉美の才を恐れて、腹宗に讒言《ざんげん》を繰り返したが、明らかに嘘であったから太梁がとりなし、腹宗も処罰しなかった。しかし、出世もできずに今に至っている。この時期には珍しい正義派の官僚であり、一服の清涼剤と言える。ついでながら、角先生と仲がよかった。
王斉美の方がよほど年下であったから、師弟の礼をとっていたが、角先生の方はきさくに友人づきあいをしていた。
王斉美は北磐関に向かうとき、妻と息子を前にして言った。
「おそらく、この戦では生きて帰れまい。覚悟をしておくように」
息子が気弱な父の言葉を疑って言った。
「まさか。相手は流賊に毛の生えたようなものなのでしょう。父上が敗れるはずはありません」
王斉美は苦っぽく笑った。
「敵は幻賊ではない。宮廷にいる畜生どもなのだ」
王斉美はことの次第、飛令郭らの企みを承知の上で巡撫を引き受けたのである。
「わしはどんなことがあっても忠臣でありたいと思っている」
だから、幻賊は討つが宮廷は討てないのだ、と言った。
その王斉美が北磐関に入ったのは六月十四日の夜である。入ってすぐに手当をしはじめた。北磐関回りの兵の配置、出城へ武器を配り、おおまかな作戦を各指揮官に与えた。もっとも、この北磐関には特に作戦などは必要がない。蘇江を渡ると地形は北磐関の方へ向かって扇状にせばまる。その芯の部分に北磐関の城塞があり、衛星のように出城が分布している。まともに敵が進入すれば擂《す》り鉢で擂り潰《つぶ》すような容易さで殲滅《せんめつ》することができるのである。正気の者なら北磐関を見れば慌てて引き返し蘇江を渡り、西方から北磐関を避けて入り直すはずである。
王斉美はその鉄壁かつ安全な要塞に自分が入れられたということが、飛令郭らの並み並みならぬ意欲を表しているとみた。おそらく王斉美の真の敵は後ろから来るはずであった。
幻軍はまあ正気だったようである。約四万に膨れ上がった幻軍が北磐関の手前に布陣したのは王斉美が入城した二日後である。渾沌は幻影達と馬を並べて北磐関の威容を実見した。さすがに幻影達も口をへの字に結んで押し黙っている。
「渾兄哥、こいつはすげえな。さて、どうやって攻めればよかろうか」
と幻影達はいつものように渾沌に言った。
渾沌はまことにあっけなく、当り前のように言った。
「負けよう」
そばにいた亮成丁、彿兼の方が気色ばんだ。
「負けようですと! 一体なにを言い出すのですか。我々幻義侠組は天下国家のため……」
とあれこれ文句を並べた。内心はとても北磐関は抜けないと思っている。ここは退いて、北磐関を避けるべきであると考えている。常識的な意見である。
「退却せず、投降するのがいい」
渾沌はそう言った。一戦も交えずに捕まれというのである。
「理由などあるか。そう思ったからそう言ったのだ」
とつっぱねた。おそらく本気で言っている。亮成丁は裁をあおぐように幻影達を見た。幻影達は常にそうしてきたように、この時も渾沌に自分の全財産を張った。
「わしは投降する。貴殿ら、嫌ならば逃げるなりなんなり、自由にすればいい」
渋々二人も従った。逃げても追っ手がかかるのは目に見えている。この軍にはあくまで幻影達の顔が必要であることも分かっている。自分たちでは率いることはできないだろう。また、今ならばまだだいそれた罪をおかしてはいないので罰も軽い、とも思った。
幻軍は戦わずして降伏した。兵たちはかえってほっとしている。
「おもしろい旅ができて、それだけでも得をしたというものだ」
といった雰囲気《ふんいき》があった。
投降の使者を受けた王斉美は、
「ほう。なかなか賢い賊であったな」
と言った。幻軍に動きがないので、こちらから先に襲撃して敵を擂り鉢の奥所に引きずり込もうと思い、すでに襲撃部隊の編成も終えていたところであった。とりあえず幻影達および幹部を北磐関に連行させ、幻軍の武装を解除して監視させた。この時の渾沌の心事を推し量るのは難しい。ただひとつ言えることは彼は本気で投降したということである。なんの策もいんちきも見当らない。ここで首を刎《は》ねられるのも道楽だ、とでも思っていたようてある。縁である、と渾沌は言うだろう。
不気味なほど運がいい、という評がこの戦における幻影達軍にはぴったりである。投降が半日遅れていれば、確実に殲滅されているはずであった。賊将が王斉美であったということも運のよさに数えてもよかった。くみしやすいという意味ではない。政治的に背後が危ない男であったことが幸運であった。そして、その運は、これこそ驚くべきことであるが、すべて渾沌の思いつきの意見から引き出されているのである。
王斉美は幻影達らを引見した。そんな手間をかけずにさっさと北師へ護送するか、場合によっては即斬首すればことは足りるのてあるが、彼の公平根性は一応賊の話を聞くことにした。書記官をおいて調書を取っている。
王斉美が驚き、茫然としたのはもっともであった。幻影達、彿兼、亮成丁と順次取り調べて分かったことは、「実態なし」ということであった。罪としては嵬崘塞の金庫を空にしたことと蘇江岸の衛所を襲ったことであるが、衛所の官はかすり傷を負った程度で逃げ出している。
『反乱などではなく、ごろつきたちが遊び回っただけのものか』
反乱の処罰は、極刑と相場が決まっている。王斉美はこの連中を極刑に処するのは可哀相だと思った。
今一人、渾沌も調べられた。投降をいち早く説いたというから、機転のきく日和見な男なのだろうと王斉美は思った。王斉美の最も嫌うタイプの人間である。会ってみると違った。また、感心するところがあった。
『心中浮揚スルトコロヲ以テ、心機卜致シ、即チ行フ。コレ縁卜言フベキナリ』
と渾沌は言った。反乱の事情を問われてこう答えた。妙な哲学で動いている人間らしいと王斉美は解釈した。王斉美は興味を引かれていろいろと語り合った。
『汝ガ渾沌卜呼バルル所以《ゆえん》ヲ知ル。当《まさ》ニ汝ガ心事ハ渾沌ナルベシ』
と王斉美は言った。
「北師護送のあかつきには角先生に会ってみよ。おぬしと先生の討論はさぞ面白かろう」
とまで言った。
「あんたはまともな人らしい。首を斬るのならあんたにやってもらいたい」
渾沌は人見知りする質であったが、気に入った人間になら即座に褌《ふんどし》でも預ける(?)といったところがある。王斉美が気に入ったらしい。
「私は北師に帰れるかどうか危ないところなのだ。その頼みは約束できぬ」
聞いていた書記官が不審な顔をした。渾沌を相手に語るようなことではない。渾沌はすぐに王斉美の政治的事情を察した。
「昔から敵が多いのは、くそ真面目なやつかしからずんば大悪党だ。俺のようなやつには敵もいないが友もいない」
と渾沌が言うと、王斉美は自嘲するように言った。
「なるほどそうだ。では私は悪党だろうか、真面目だろうか」
「どちらでもいい」
渾沌は言った。人間的な魅力があればどちらでもいいということであろう。
さて、北磐関の陣中には飛令郭に命じられて王斉美の足を引っ張り、あわよくば戦闘中に後ろから討ち、それもできなかったら刺客となるべく潜んでいるものが数人いた。いずれも王斉美の補佐たるべき将官クラスのものである。幻影達らが意気地なくも一戦もせずに降伏してしまったので、早々に刺客とならねばならなくなった。
星の降るような、という修辞が少しも陳腐ではない晩だったらしい。星の降るような夜半に刺客たちは剣を撫し、密かに北磐関内部を歩いた。一人は幻影達らが閉じ込められている牢獄へ向かい、後は王斉美の部屋へ向かった。
牢獄へ来た刺客は牢番二人を声もなく斬り倒し、鍵を奪い幻影達らを解放した。
「逃げてよいぞ」
と言った。王斉美殺害の容疑を幻影達らに被せてしまおうということであろう。勿論、事後に幻影達らの口を塞ぐ予定である。だが、刺客は思いもよらぬ目にあった。渾沌がすっと立ち、牢の戸を潜りぎわに刺客に足払いを食わせた。
「兄弟、こいつを斬る」
と渾沌は叫び剣を取り上げようとした。幻影達も跳ね起きて刺客に襲いかかった。剣を手にした渾沌は刺客を背中から押し斬った。
「おい、渾兄哥、どこへ行くんだ」
「王斉美の部屋だ」
幻影達は渾沌が王斉美を斬りに行くのだと、了解した。血塗れで倒れている牢番の剣を拾い上げてあとを追った。彿兼もそうした。亮成丁は青くなって震えている。
「王斉美の部屋を知っているのかい」
と幻影達が尋ねると、渾沌は、
「知らん」
と答えた。当てずっぽうで歩いている。だから、王斉美のところへ行くまで時間がかかった。
廊下に巡回の兵が血塗れで倒れていた。銃声がしたのでそちらへ走った。
すでに王斉美を片付けた三人組と出食わした。一人は傷を負っており、肩を借りて歩いている。
王斉美の銃に撃たれたものである。渾沌は物も言わずに斬りかかった。怪我人が邪魔になって急な応対をしかねた刺客の一人はまともに斬撃を浴びて即死した。もう一人は幻影達と彿兼にふたりがかりで斬られた。
渾沌が王斉美の部屋へ入ると、そこに王斉美の無残な姿があった。予想していたこととはいえ、渾沌は一瞬凝固したようになった。
「この義人は馬鹿だった。敵が来ると知っていて護衛のひとりも用意していなかった」
と渾沌は大声で怒鳴り、泣いた。幻影達はぽかんとしている。
「渾兄哥、どうしたんだ」
渾沌は幻影達を憎むような目で睨んだ。
「兄弟、王斉美の仇討ちをする」
と叫んだ。幻影達は不得要領ながらうなずいた。
「よしっ。仇討ちだ」
おかしな話だが、この時、はじめて渾沌には乱の名目が成立した。王斉美に恩も義もあるわけではない。王斉美の人柄と、馬鹿正直な死に様に全身全霊をあげて感動した。それが理由であった。感動が心の中に溶け込んで、その熱を失って混沌と化すまでの間、渾沌はこの名目のために戦うことになる。渾沌は幻影達らをほとんど無視して王斉美の机にとりついて、墨をすり始めた。
紙と筆を前におくとしばし瞑目《めいもく》する。
渾沌はまず心に満ちた憤怒の熱を文字にして、紙の上に叩きつけることを始めた。ただ書きたかっただけであり、それ以上でもそれ以下でもない。純粋な創作衝動に取り憑《つ》かれた作家のようなものである。檄文でもなく、憤激の詩でもない、渾沌は小説ふうの大嘘を書き始めた。幻影達たちの理解に苦しむところであった。
渾沌が王斉美の部屋で執筆に耽《ふけ》っている間に、幻影達らは現実的な仕事をした。北磐関の掌握戦である。内部にいる将官を縛り上げて、命令系統を奪い、幻影達の軍を再武装させて戦闘し北磐関に入れた。王斉美の死を知ると、官兵たちは虚脱したようになった。中には泣く者もいた。王斉美を慕う兵は多かったのである。幻影達は王巡撫を殺したのは北師の刺客であるとはっきり宣言している。
北磐関は夜明けには幻影達のものになっていた。誠にこの戦さは変わっている。「天下の堅塁がわずか一日で陥ちた」と史官は事情を知っているくせにあっさり記述している。
渾沌がこの時に書いた文章は見方によれば名文である。大|法螺《ぼら》ここに極まれりと言う人もいるが、内容についての中傷は筆者も認めるところてある。
『一兵卒|曰《もう》スラク、太初未ダ見《あらわ》レザル時、天地ノ間ニ不善|莫《な》ク、天地ノ間ニ人ノ生ゼシ後モ、権時《しばらくは》羅刹《らせつ》ハ跳梁《ちょうりょう》セズ。豺狼《さいろう》モ盈《み》ツレバ敢へテ貪婪《どんらん》残虐ヲ為サズ』
という書き出して始まるこの文章は、北磐関にいた一兵卒がこの世のものとは思われない残虐無比な所業を目撃し、それを報告するという体裁をとっている。ここに全文を引用したいところであるが長いのでできない。
幻影達という魔物のような首領とその軍団が北磐関を疾風のように襲い、これを陥落させ、関を破壊し尽くし、守傭兵をおよそ人間が考えられる限界まで残虐を極めた方法でなぶり殺しにしてゆく様を、過剰な修辞と徹底したリアル描写の混合した奇怪な文体で綴ってゆくという迫真の残酷小説である。
「三万の守備兵を一人につき十日の時間をかけてじわじわとなぶり殺しにし、千回殺したほどの苦悶を与えた。飢えた虎狼が神仏の使いに見えるほどの無残な光景であった」
といった過剰粉飾の部分もあれば、
「幻影達は瀕死《ひんし》の兵の腹を引き裂き、五臓六腑を一個ずつむしり取り、美味しそうに貪《むさぼ》り食った後、空になった身体に小便や糞《くそ》を詰め込み、串刺しにして焼いた」
と胸が悪くなるような描写を執拗に挿入する。
「悪鬼、畜生、魔神にも劣るとか、そのような言い方は陳腐にすぎる。もはや、人間の言葉には幻軍を形容できる言葉がない」
と結ぶ。この文章は後に「渾沌残虐録」と呼ばれて小説、史書の残虐描写の新しい手本となった。この文章を読んで恐ろしさに震えない者は人間ではないとまで言われた。一種の名文といってもいいと思う。
亮成丁や彿兼は嫌な顔をした。亮成丁は喉《のど》に黄汁がこみあげて、青くなった。
「こんなものを、あんたは書いていたのか。これをどうする気か」
と渾沌に言った。渾沌は、
「北師に送る。やつらに読ませてやる」
と満足そうな面をして言う。
「こんなものを人々が読んだら、我々は鬼畜の集団だと思われてしまう」
こんな嘘っ八をどうして北師へなど、と二人は反対したが、幻影達だけは、
「渾兄哥の文才を見直した」
と上機嫌であった。ただし、幻影達は文盲に近い男である。内容を知ってほめているのかどうかは疑わしい。早速、使いの兵に持たせて走らせた。凝ったことには、使いの兵の服に馬の血をばっとぶちまけ、少し引き裂いて地獄から生還したかのような芝居をさせた。
この渾沌の作品はめざましい効果をあげた。北師の高官は青ざめ、宮廷の人々は戦慄してしまった。素乾最強の北師営軍は王斉美ほどの名将がわずか一日で敗れたことに驚愕し、渾沌の文章の話が漏れ聞こえるようになると戦う前から腰が抜けたようになった。ペンの力はこの時は非常に強しと言えよう。渾沌がこんな効果をはじめから期待していたということはおそらくない。ただ王斉美暗殺への憤激が、渾沌の文筆衝動を刺激し、異常な形をとって解消されたにすぎないと思われる。この文は効いたが、また、反面では、歴史に幻軍は悪魔の軍隊であるというイメージが焼きつけられることにも役立ち、後の政権担当者が幻影達と渾沌を攻撃するときにさんざん逆利用している。
北磐関陥落のあと幻影達らは信じられないいい加減さであるが、北磐関の金庫を逆さにして再び沚水遊びに向かっている。その際、留守中官兵が北磐関に入るといけないからという理由で、北磐関とその周囲の出城を粉々に破壊し、火をかけている。また、北磐関の守備兵はほとんどが幻軍に参入してしまっている。幻影達一行は今度は手を取らんばかりに歓迎された。特に沚水都司の義原之は保身のため幻影達らにひたすら迎合している。何しろ幻軍は無敵の王斉美と不落の北磐関を打ち倒して来た軍団なのである。
渾沌は前に上がった妓楼のまた同じ妓女の客になった。幻影達は渾沌を、あの女に尻の毛まで抜かれている、とからかった。妓女は喜び、ついには、今度の出陣には旦那様について行くとまで言いだした。
「それはだめだ」
と渾沌は言った。
「なぜ。旦那様はわたしを好いてくれているんじゃありませんの? わたしは旦那様という人を心から好いてしまいました」
妓女の手管ではなさそうである。渾沌は苦笑して何も言わなかった。
妓女と渾沌の身体が一つにとろけるような時間のあと、妓女は夢見心地で尋ねた。
「旦那様は天下をお取りになるおつもりなのですか」
渾沌はすると不思議そうな表情になった。
「天下など取れるはずがないではないか」
と言った。後はひどい鼾《いびき》が翌日の昼まで続いた。
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後宮軍隊
幻軍が北磐関を攻めている(?)ころ、銀河にも色々なことが起こっている。
まず、銀河は遅まきながら道女になってしまった。めでたいことである。しかし、銀河は困っている。
それが現れたとき銀河は痛みとか気持ちの悪さとか新しい生理現象に慌てたとか、そういうことはなかった。まず双槐樹に知らせるかどうかという問題が頭に浮かんだ。最初は知らせようと思った。翌日、双槐樹が通ってきた時、もう少しで言ってしまうところであった。口に出そうとして、はたと考え込んだ。
『なによ。ばつがわるいじゃないの』
と気が付いた。つまり、双槐樹は銀河が道女となった時、はじめて正妃として抱くと宣言しているのであるが、その彼に自分が道女となったとわざわざ言うのは、「わたしを抱いて欲しい」と要求することと同じではないかと思ったのである。
『そんなはしたないことが言えるものか』
銀河は言いかけた言葉を飲み込んだ。双槐樹は口をもぐもぐさせている銀河を面白そうに眺めている。
「どうした。腹でもすいたか」
「歯が浮いたのよ」
銀河は未だにそのことを知らせてはいない。
双槐樹、この人物の肚《はら》も難しいものがある。この美麗な人は時に十八歳である。この年頃の男というものは自分の中に、得体の知れないエネルギーが激しく沸騰《ふっとう》しているものである。自分の欲望の絶望的な激しさをもてあまし、どろどろした粘液の海に引きずり込まれそうになる悪夢を毎日のように見ているはずである。だが、双槐樹は銀河にまだ指一本も触れていない。
忙しいからであろうか。確かに命をのべつ狙われ、敵を屠るべく日々画策奔走している身であれば、女を抱くような神経にはなるまい。しかし、夜は銀河の部屋で過ごしているのである。何かの弾みでそういう神経が興奮しないとも限らない。筆者はやや好意的に言う。おそらく、じっと耐えているのであろうと思う。性的不能ではないことは後に子供を持つことから分かる。宮廷がたいらかになるまで自分を殺しているのである。この情勢の中で女色にふけるのは危険きわまりないと覚悟したと思われる。
「朕と名乗るからにはそのような苦労もせねばならぬのだ」
と内心ぼやいているのかもしれない。銀河の寝顔を見ながら、歯ぎしりして涙すら流しているところも想像できる。ひょっとすると、銀河を正妃に据えているのは銀河が道女になっていなかったことも理由のひとつかもしれない。銀河のこどもこどもしたところを見ている限りは劣情の炸裂《さくれつ》もなんとか押さえられると思っていたのかもしれない。筆者の想像が当っているとすれば、双槐樹という皇帝はなかなかの苦労人である。いや、哀れというべきかもしれない。
やがて、北磐関破るの報が宮廷にもたらされた。飛令郭は、王斉美を邪魔した張本人であるくせに慌てふためいている。慌てているのは飛令郭ばかりでなく、宦官こぞってであった。双槐樹も慌てた。王斉美が草賊などに負けるはずがないと信じ、この件はすべて兵部に任せてあった。悪臣誅滅の事業の一番大事なときに思わぬ邪魔が入ったのである。
「幻賊を早々に討つべし」
と勅命を出した。
幻影達の勝利を聞いて、口もとをくっと曲げた男が一人だけいた。菊凶である。遷化殿の巨大な寝台の上で琴皇太后を荒々しく組み敷き、異様に屈曲した形をとって、皇太后を息が詰まるほどの絶頂に追い上げながら、低くつぶやいている。
「外部のカを借りれば、平菊(琴氏と菊凶の子)を帝位に即ける策が容易に成る」
琴皇太后にはその言葉は耳に入っていなかった。
悲運の策謀家菊凶の暗躍はこの翌日からあざとく開始される。
ついで渾沌の作品が宮廷にもたらされた。その文章を読んだだけでたいていの者が真っ青になった。
「このようなことがあるものか。人を遣《や》って実否を偵察させてこい」
双槐樹だけは冷静に文章を読んで、そう命じた。作り話くさいとにらんだ。
偵察の者は、この男は小心者で北磐関の付近に精一杯近付き、そろりと覗く程度の偵察しか行っていない。
「北磐関の城塞はむごたらしく毀《こぼ》たれて、灰燼《かいじん》と化しておりました。殺された将兵の死骸はおそらく城とともに焼かれたかと……」
兵部尚書|李實《りじつ》は震えながら偵察に尋ねた。
「し、して、幻賊はいたのか?」
「おりませぬ。相手は悪鬼羅刹の集団にて地に潜ったか、はたまた空を飛んだか、見当がつきませぬ」
真面目に偵察を行っておれば、幻軍が沚水で大遊びしていることが分かったはずである。
「なんということだ……」
李實は兵部尚書にまで上りつめた男であったが、からきし意気地がない。ちなみに兵部尚書は軍務大臣といったところである。素乾兵部の最高責任者であり、軍容に関しては独裁的なといっていいほどの権力を持っている。
「悪鬼羅刺を相手に戦ができるか」
とその李實がまず最初に尻込みをしている。
双槐樹は李實の尻を蹴飛ばすようにして、北師営軍を出撃させた。そのころ、またしても軍資金を費《つか》い果たした幻軍がやっと重い腰を上げて蘇江を三度《みたび》渡った。北磐関の残骸を横目で見ながら、直北の地に進入した。その時幻軍の数は六万近くに膨張している。北磐関の陸兵と沚水都司義原之が馳走した兵が合したからである。それでも、北師営軍の精鋭二十万に抗しきれるとは思えない。
乱の地鳴りはまだ後宮まで達していない。この小説は後宮の譚《はなし》である。銀河たちが乱について鈍感なのは致し方ない。筆者も女の腹の中から世間を覗き見るようなつもりで幻影達と渾沌の動きを追っている。だから、細部はよく見えないし聞こえもしない。銀河たちは覗き見ることをしていない。世間が覗き見えるということにすら気付いてはいない。
銀河は角先生から乱のことを聞いた。角先生は銀正妃の会いたいというたっての願いを聞き入れてやって来たという形をとった。本当は角先生の方が会いたくてうずうずしていた。角先生は持病で顔色がすぐれない。
「お久しぶりてす、先生」
角先生はそう挨拶する銀河を見て、
『少し変わったな』
と思った。声が以前のようにやんちゃではない。
「おきれいになられたな」
角先生もやや硬い対応をしなければならなかった。銀河は真剣な顔をしている。意を決したように角先生を見た。
「じつは、道女になりました」
何を言うのかと思っていたら、銀河はくそ真面目にこう言った。
「何がおかしいんですか」
角先生がくすくす笑っているので銀河が怒ったように言った。
「いや、すまん、あんたが真剣に言うのでついおかしくなって。道女になったと。そうなるのが当り前ではないかな」
「そういうことじゃありません。つまり、その、コリューンのことなんです」
「皇帝陛下とお呼びすべきだよ」
「はい。つまり、皇帝がですね……」
いつもは物をはっきり言う銀河がどこか、歯切れが悪い。
「道女になったら抱くと言うんです。それで困って先生にご相談を……」
「何が困るんだね」
「だって、道女になったと言ったら抱きに来るんですよ、困ります」
角先生は急に笑いを引っ込めて真面目な顔をした。
「早いうちに抱かれるべきだ」
きっぱりと言った。
「私が教えたことを忘れたわけではあるまいに。道女になったということはあんたが真理を宿せる身体になったということだ。真理を証すことを躊躇《ためら》ってはいかん」
「はあ」
そういう哲学的な根拠はこの際どうでもいいのである。銀河が困っているのは、娘が初めて男女の儀式を取り行うときに感ずる物怖じの感情であり、含羞《がしゅう》であり、それよりも儀式そのものにまつわる一種言いがたい感情のことなのである。
「角老師は女の気持ちがわかっていません」
「当り前であろう。私は男だからな」
「それでは、いいです」
銀河は感情についての相談を諦めた。
「理由がある」
角先生は突如低い声を出した。
「早く証さねばならぬ理由が」
「何ですか」
「今上は命を狙われている。あの方は聡明な方だ、易々《やすやす》とやられることはないと思う。しかし、万一のことがある。そのとき、あの方の根がなければどうなる。素乾の真理を生む密所であるこの後宮から真理が出されねば、国は滅ぶであろうが」
「まさか」
「私はお前を見込んでいる。頼む」
「でも」
「もう一つ気になることがある。例の幻賊の乱のことだ」
銀河はそのことを初めて聞いた。当然、幻影達が瓜祭で銀河の護送を引き受けてくれたおじさんだとはつゆ知らない。
「王斉美ほどの男が敗れたことも面妖であるが、それ以上に幻賊には得体の知れぬ恐ろしさを感じている」
角先生の懸念は、この当時の読書人(知識階級)が等しく感じていたもので、一言で言えば、「過去に例がない」ということである。どの歴史書をひもといてみてもこの度の乱の類例となるものが見つからないのである。それは、乱の結末がまったく予想できないということを意味する。読書人は幻賊に前代未聞の危険さを感じている。
「そのようなとき、あてになるのは真理のみだ。そうではないか」
真理とは後宮哲学でいうところの森羅万象のことであり、それを育むものが子宮(後宮)なのである。
「いま一つ、理由がある。これは個人的なものだが。しかし、思えば私にとっては最も大切なことなのだ」
「何、ですか」
「私の天命だよ。私の寿が尽きる前に、どうしても知りたいことがある」
『我学ノ真偽』
角先生は血を吐くように言った。
「お前がその最後の機会なのだよ。お前が証してくれねば、もう死神は待ってはくれないだろう」
「わたしが房事をすることが老師の学を証すことになるんですか?」
「そうだ。お前と皇帝陛下が証すものが、わたしの哲学と一致するものでなければ、わが学は幻想に過ぎなかったということになるのだよ。銀正妃にはわたしの学の要を教授したはずである。それが真に正しいものであるのかどうか……」
角先生は、また、頼むと言った。師匠に頼まれて、銀河はどう見ても子供っぽい可愛い動作でこくりとうなずいた。
槐暦二年十一月、幻軍と北師営軍が会戦した。戦闘はまず北磐関の北に連なる山岳部の終点で始まった。北師営軍は山岳を抜けてきた幻軍を叩くという作戦で布陣した。当然とるべき作戦であり、縦深陣を敷いた北師営軍の優位がすでに確定している。それが十月半ばである。
ところが、幻軍は山岳地帯に野営したまま抜け出てこなかった。北師営軍が麓で待ち構えていることは馬鹿でも分かる。だから、山岳の中途でのんびりと野営している。季節は次第に冬色を帯びてきているが、食料、燃料を沚水に馳走されている幻軍は消耗しなかった。しないどころか一級の酒や慰問の妓女が差し入れされるので、誠に楽しそうである。
北師営軍は吝嗇《りんしょく》な兵部から最低限の食料と衣類を支給されているに過ぎず、さしもの精鋭軍も我慢の限界を迎えていた。この時期ですでに朝方は零下十五度ほどである。今後ますます厳しくなる。
新幻賊巡撫|馬逗《ばとう》は待ち伏せを諦めて、山岳部に攻め入ることにした。これ以上の滞陣は兵士の士気と体力を害《そこな》うだけであるという判断である。
陣を二分し、一軍を攻撃にまわし、一軍をそのまま縦深陣に残した。
攻撃部隊が山道を登ろうとした時である。突如幻軍の突撃が開始された。北師営軍は出鼻をくじかれた形になった。剣道でいえば起こり籠手《こて》を撃たれた。攻撃部隊に逆落としを食わせるような勢いで攻撃を加え、さんざんに追い散らした幻軍はそのまま平地へ抜け出そうとはせず、すぐに山岳に引っ込んだ。
それでも馬逗は攻撃部隊を三度繰り出した。そのたびに叩き伏せられた。馬逗は退却を命じた。さらに北師寄りの平地で布陣し、兵を展開した野戦を行うつもりである。
麓の待ち伏せがいなくなったのを確認してから幻軍は山から出てきた。この戦術指揮をとったのは彿兼と亮成丁である。彼らも伊達《だて》に兵法書を諳《そらん》じていたのではなかった。戦をはじめたからにはそれなりの工夫も行っていた。北師、素乾城の攻略戦はほとんどこの二人の作戦指揮によっている。幻影達は大将らしく悠然と構えていただけである。渾沌は何をしていたかというと、自ら一部隊を率いて出撃している。
「王斉美の仇!」
と兵に叫ばせながら鬼のように戦っている。
「渾兄哥が出ていくこたあないよ」
と幻影達は止めているのであるが渾沌は聞かなかった。腹の底から王斉美の仇討ちのことを考えていて、その他のことは忘れている。
「師南の平地にて幻軍を撃滅致す所存」
と李實は槐暦帝双槐樹に奏上している。双槐樹は平地戦で北師営軍が敗北するなどということは夢にも思っていなかった。じきに片が付くと楽観している。山麓ではずるがしこい賊軍に翻弄された形であるが、平原での野戦こそ北師営軍の本領が発揮されるはずである。幻軍よりも、幻軍の乱のちょっとした成功を聞いた各地方の反素乾勢力が便乗して蜂起することを恐れていて、その方の手当を考えている。
「一両日中には幻軍討滅が成りましょう」
李實は重ねて言上した。が、その実、屋敷の財産を整理して北師を落ちる用意もしていた。李實は幻軍の実力は知らないが、臆病風に吹かれている北師営軍の弱さはよく知っていたのである。
もし、王斉美がこの時点での北帥営軍の指揮をとっていたらと考えてみる。おそらく、幻軍は敗退していたであろう。王斉美ならば徹底して偵察を行わせ、場合によっては自ら見に行き、幻軍の正体が核のない気分屋の集団であり、遊びづいていて足腰がなまっていることを看破したであろう。偉徳王の乱のときも王斉美は自ら偵察隊を指揮して、その情報収集重視主義によって勝っていると言ってもいいほどである。ともあれ。
二日後、双槐樹は耳を疑うような報告を受け取った。
『北師営軍、師南ニテ潰走ス』
双槐樹はその優しげな目を燃え立たせ、怒髪は天を衝いたという。
このような急を告げる情勢の下、後宮に世にも珍妙な軍隊ができあがる。正確には後宮|守禦《しゅぎょ》義勇軍という。この小説では後宮軍と呼ぶことにする。
発起人は銀正妃、銀河である。
双槐樹は最近、病み衰えたような表情で現れる。
「祖廟に顔向けができぬ」
と銀河に漏らした。銀河が理由を問うと、
「わが国軍のなんと弱いことか」
と言った。幻軍はいま北師の手前五十里のところで悠々と野営しているという。
事実はかなり違う。奇跡的に北師営軍を破ったものの、兵士たちの疲労は甚だしく、もう一歩も動かないと不平を並べている。間をおかずに北師へ乱入すべきが常法なのであるが、彿兼がいかに叱咤しても本性惰弱な兵士たちは動かなかった。幻影達は、
「素乾城は目前だ。休んでもよかろう」
と言って、野営を許した。双槐樹の目には、素乾城を前にして悠々としていると見えたかもしれないが、事実は疲弊が極度に達している姿にすぎない。仮定するのも馬鹿らしいがこの時に一万でもいい、精鋭軍が攻めていれば幻軍を駆逐することができた。幻軍の幸運はここに最高潮を迎えている。さらに、前の会戦で破った北師営軍の残兵が幻軍に続々と集まり始めている。
「素乾城を陥《お》としたあかつきには、まず、後宮を犯すと言っているらしい」
双槐樹は血走った目で言った。事実である。誰が吹き込んだのかはさだかではないが、幻影達は「後宮の美妾数千人」という法螺を聞いて涎《よだれ》を垂らさんばかりの様《ざま》を呈している。
「最悪の場合には、お前様たちはここを落ちのびねばならぬ」
そこで銀河は言った。
「わたしたちが遂《お》い攘《はら》えばいいわ」
「面白い冗談を聞かせてくれる」
と双槐樹は取り合わなかったが。
銀河が歴史的な活躍を開始するのは、おくればせながらこの時からである。銀河をようやく後の史家が俎上《そじょう》に上らせることができるようになる。
銀河は、婢《はしため》が例によって、「規則でございます」と止めるのを振り切って部屋を出た。
「こういう非常時には後宮の規則はとろけるように柔らかくなるべきだわ」
といつぞやに案内婆に言われたせりふを言った。まず、江葉のところに行った。
「あんた将軍をやりなさい」
と昼寝していた江葉を叩き起こして言った。命令といってもいい勢いであった。
「無茶を言う」
と江葉はねぼけまなこをしばたかせた。
「頼んだからね」
と言い捨てると、駆け出した。娥局をすべて回って、後宮軍隊設立の趣旨を説き回る予定である。
銀河の軍事活動を聞いた角先生が慌ててやって来て銀河に言った。
「馬鹿なことを始めたな。やめなさい、やめなさい」
「先生、賊が後宮を犯そうとしてるんですよ。じっとしていられません」
「戦、つまり、殺生は卵(宮女)の仕事ではない。戦は兵隊に任せることだ」
「どうしてです」
角先生は、歴史に類例がない、と言った。
「ではいまから類例を作ります」
と銀河は言った。
角先生も苦渋に満ちた思いをしている。後宮が犯されるということは国家が凌辱されることと同じである。賊の精によって後宮が真理を宿すようなことがあれば、もはや、素乾の真理は尽きる。角先生の哲学も絶命する。北師営軍の予備兵はほとんどが遁《に》げ散っている。角先生はまだ知らないが、兵部尚書李實は都を落ちている。
また、飛令郭は突如現れた菊凶という策謀家の意見を取り入れて、幻影達へ内通することにした。飛令郭は琴皇太后の遷化殿で内密に菊凶と会談している。飛令郭は角先生の弟子の女たらしの青二才の評判は知っていたが、いま目の前にいる男はとてもそういう男には見えなかった。老獪《ろうかい》でとおった飛令郭を緊張させるほど、油断もすきもない奴が平然と喋っている。
「見切りをつけるべきです」
菊凶がこう言ったのは北師営軍が山麓地帯を引き払って師南へ移動しているときである。
「見切り、とな。なんのことだ」
飛令郭のような目端のきく男でさえ、まだこのような思い切った方針を抱くところまではいたっていない。素乾は未だ磐石である。菊凶は弁じた。飛令郭の権力欲をくすぐる言葉を、次々と耳に流し込むのである。
「古来、名宰相と呼ばれる人々は非常時には非常の手段を断行しました。一時的には皇帝陛下にそむくように見えるかも知れぬことを世評を恐れずに行う、誠の勇気を持っておられました。彼の人たちがそのようなことをしたのは、己が利のためではありません。社稷《しゃしょく》を思う赤心と、民衆の安寧のために、己をむなしくしてそうしたのです。あなた様はいま古今の名宰相と同じ立場におられます」
これほど心をくすぐる正当化はあるまい。飛令郭は古今の名宰相が憂国の情で顔を険しくする絵画を思い浮かべて、自分と重ね合わせて、悦に入っている。
しかし、飛令郭は悦に入っていながらも、現実的な政治家である。
「貴君の意見は北師営軍が負けることを前提としている。勝った場合は、そもそも、この話は立ち消えるではないか」
菊凶は平然としている。
「幻賊を勝たせなければなりません」
当り前ではないか、といった口吻《こうふん》であった。北師営軍は信じられない敗戦をしたわけであるが、その背後には菊凶と飛令郭の工作があったのではないかと、当然の事ながら想像されていい。ただしその証拠はない。
使者の役目は菊凶が自ら買って出た。菊凶はここが自分の生涯最大の切所だと思案している。
真野が何をしていたかは具体的には分からないが、似たようなことをしていたのであろう。歴代の国家が滅びる時は常にこうであった。このことには類例はあり過ぎるほどある。最後には国家は皇帝一人そのものに収斂《しゅうれん》してしまうのである。
銀河は後宮軍設立のために奔走している。しかし、容易に人は集まらなかった。宮女のほとんどが「戦などとんでもない」といった顔をした。
だが、時には珍しい女もいて、
「銀正妃様のお手伝いをいたします」
と言った。たいていは庶民の出で、どこか不敵な目を輝かせている。また、女官の婆たちが「この歳でここをおん出されては生きていけぬ」と覚悟して、銀河に賛同した。こうして、集まった後宮軍隊は百三名である。うち四十歳以上のものが六十八名。銀河はべつに落胆していない。中にセシャーミンがいた。銀河が手を取って喜ぶと、
「退屈したからよ」
と言った。銀河的性格がセシャーミンに影響を及ぼしていたものであろうか。
無理無体に後宮軍の将軍に就任させられた江葉であるが、いつものように無言無表情である。ただ、
「蔵書庫と武器庫を見たい」
と言った。銀河が角先生に頼んでみたら、角先生は無言でうなずいた。角先生はこの時点でもはや北師営軍が消滅していることを知っており、滅びの覚悟を決めていた。宦官亥野が、なぜか「銀正妃様に合力いたします」と物好きにも言って、後宮軍にいる。その亥野が案内をした。亥野のような忠義な物好きはあと何人かいたようである。江葉に銀河もついて行った。
宮廷内は大方の官吏が遁走《とんそう》した後で、閑散としていた。逃げる時に宝物を失敬して走ったから、広い宮殿は色|褪《あ》せて寒々しかった。
「忘恩の奴らめが!」
と亥野は罵《ののし》った。推定二千人いるはずの宦官のほとんどは自分の部屋に隠れている。次の主人が決まるまで寝て暮らそうという肚であった。
武器庫は手付かずである。前の皇帝の腹宗は武器を趣味として好んだ。しかも、西方好みで、最新の兵火器を西胡の商人から買っていた。当時欧州で火を吹いていた「碧郎機《ビランキー》」といった現役の大砲が五門もあったという。江葉が煙草をくわえたままあちこち移動するのを見て、亥野が悲鳴を上げた。
「江才人! 火薬があるのですぞ」
すると、江葉は無関心そうに尋ねた。
「この武器には火薬を使うの?」
江葉の知識はこの程度であった。
その後江葉は蔵書庫にこもって、一晩出て来なかった。職務に忠実な女であった。
ともあれ、この奇妙な軍隊が幻軍を最終的に苦しめるのである。互いに史上に類例のないもの同士、気が合ったのかもしれない。
翌朝、江葉は蔵書庫から充血した目をして出てきた。
「武器と弾薬を全部後宮に運び込んで」
と銀河に要求した。銀河は何も聞かずさっそく実行に移した。銀河は江葉を将軍にした以上はその命令に従うべきだと思っている。
「素乾書」の史官は銀河が江葉を将軍にいきなり据えた点を無条件に誉めて、人材を見抜くのに神のごとき眼力を発揮した、と書いている。結果的に江葉に指揮を任せたことが成功であったからこそ書ける無批判な意見であろう。これで、江葉に軍事の才などがまるきり無かったとしたら銀河を含めた宮女たちの運命は悲惨であったに違いない。天山遯は持ち前の皮肉っぼい文章に、
「江才人の軍才はそれほどのものではなく、悪く言えば女子小人の浅知恵に過ぎない。蓋《けだ》し幻軍の低能があればこそ、称賛の対象となる程度のものである」
と記している。まことにその通りなのであるが、江葉がこれまで軍事になど触ったこともなかったことを考慮に入れれば、そうむげには言い切れない。タイムリーという言葉が一番ぴたりと来る。江葉を将軍に据えた点は、この時間の中ではもっともタイムリーであったし、その作戦もこの時間の中でタイムリーであったと言いたい。
銀河が江葉を将軍に据えた理由は、つねに落ち着きはらっていて、話す言葉が短く適切であったからであろう。短すぎて適切ではない時もあるが、銀河ならその意味を汲み取ることができた。また、つねに冷静沈着に見えるということだけでも得難い才能である。将軍は得体が知れないほど静かで、時に博奕のような手を打つ方が面白い。
武器の搬入は重労働であった。車輪がついているとはいえ碧郎機の重さは何トンでは済まない。また、小銃や火槍《ほーちゃん》と呼ばれる携帯用の火砲も並みの重さではない。その他、鉄砲(これは今で言う手榴弾に相当するもの)、拳銃、投石機、弩《いしゆみ》、槍《やり》、長剣、短剣などを全部運ぶとなると悲鳴を上げたくなる。ギックリ腰を起こして戦わずして戦線を離脱した年配の婦人も多い。若い宮女たちもこの後、三日ほど筋肉痛に泣いた。さすがに、日頃労役で鍛えられた下級の宦官は疲れを見せなかった。
江葉は皆の前に立って、兵火器の扱い方を説明した。この時、江葉は無口な彼女が一生かかって出す量の言葉を喋らねばならなかった。銀河は、面倒そうに、それでも懇切丁寧に教える江葉を見て感動した。そのことに一生かかっても返せないほどの借りを感じている。
兵火器のほとんどは銃口から黒色火薬と弾丸を棒で押し込み、導火薬をフリント部(火皿)に載せて火縄で発火させるものである。碧郎機のような攻城砲から対人用小銃までその方式である。
とにかく手間がかかりややこしい。一部の拳銃はフリントロックというめのうを火打ち石に使った発火方式をとっている。それでも、いわゆる、先籠《さきご》めであることには変わりがない。宮女たちはそんな面倒なものよりも、剣を使いたいと不平を言った。しかし、江葉は許さなかった。
「覚えなければ、死ぬと思いなさい」
と厳しい。銀河が率先して操法を身につける態度を示したから、皆も不承不承に覚えた。
「実際に撃ってみる」
と江葉が言い出した。
「どこで?」
「乾生門を撃つ」
乾生門とは素乾城を官僚たちが執務する外廷と皇帝とその家族たちの生活空間である内廷(すなわち後宮のこと)の二つに区切る例の門の名称である。
「無茶を!」
と亥野はうめいたが銀河たちはすでに動いている。
小銃数十丁と火槍十数丁、さらに碧郎機一門を曳《ひ》いて乾生門に向かった。
「遠慮なく撃ち壊していい。どうせこの門は塞がなければ困る」
と江葉が言った。賊を後宮に入れないという策を江葉は用いようとしている。江葉は実地に宮女、宦官に装填《そうてん》操作をさせながら誤っているところがあれば指摘した。江葉はいかにも自信たっぷりのように見えるが内心はどうであろう。江葉の兵火器についての知識は書物による一夜漬けである。自信があるとは思えない。自信がないからこそ試射を行っていると見たほうが正しいであろう。素乾の国軍でさえ兵火器を自在に運用していたわけではない。むしろ、兵火器をうとんずる兵営のほうが多かった。江薬は火縄の準備をさせ、銃口、砲口を真っ直く乾生門に向けさせた。
まさに発射せんとした時、門の向こうに人影が見えた。
「しばし、得てい」
と慌てて叫んでいるのは、双槐樹である。
「逃げるか、こちらに入るか、はやくしなさい」
江葉は中止する気がない。
「コリューン、早く」
銀河が言うと双槐樹は乾生門のこちら側へ飛び込んできた。
「撃て」
と江葉が命じた。途端にしゅっという導火薬の燃える音が幾つも起こった。続いて凄《すさ》まじい轟音《ごうおん》が衝撃波とともに押し寄せて、にわか砲兵の宮女たちは後方にふっ飛んだ。運悪く鼓膜を破った宮女もいた。
江葉はふらふらと起き上がると、
「よし」
と言った。誰の耳にも聞こえてはいないが。
乾生門は粉砕されている。江葉は人が出入りできるくらいの大きさの穴が幾つか開いているので塞ぐように宦官に命じた。さらに、発射に失敗した宮女を呼んで、特に指導している。
「城内で碧郎機を撃ち放つとは! 気でも違ったか」
と双槐樹が激怒した。双槐樹などのことはこの際無視した銀河は、きゃっ、と江葉に抱きついた。床袍の下には柔らかい肉体が暖かく弾んでいた。
「すごい、すごい。これで勝てるわね!」
と銀河がはしゃぐと、江葉は怒ったような顔をして、
「さあ……」
と言った。
双槐樹、万策尽きている。不憫な皇帝である。
「菊凶が使者となり素乾城に幻軍を引き入れようと図っている」
双槐樹が吐き捨てると、角先生は、申し訳ありませぬ、と土下座した。角先生は菊凶の野心、琴皇太后との姦通、知っていて捨てて置いた。
「あの男を処断しませなんだのは私の煩悩でありました」
菊凶は十六歳くらいのころに北師の貧民窟から角先生に拾われた者であった。女以上になまめかしく、寒気がするほどの美少年であった。一時期は、寵童として愛でたこともあったらしい。長じて一番弟子にとりたてて貧民窟出の孤児としては破格の待遇を与えた。
「あれの野心を摘まずに放っておいたのは、あれとの情が断ち切り難かったからでした」
双槐樹は不機嫌に言った。
「おちぶれた皇帝に土下座などするな」
角先生の手を取った。
「わしとあなたは師弟の間柄じゃ」
双槐樹はすでに許している。
角先生が知ることはついになかったが、菊凶はこの時すでに世を去っている。渾沌が斬った。菊凶の最期は少し悲惨である。この男の才能に見合うだけの最期を与えられなかった。菊凶の弁舌は巧みである。相手の心を読みつつこちらの論理に引きずり込む技術、相手の欲望を適切に刺激する技術、一級品の折り紙をつけたいほどである。かつ、明晰《めいせき》な頭脳と、実行力、強い意志を持ち合わせ、野望を実現するのに必要十分な能力を天に与えられていた。
「おれはまだ若い」
菊凶はこれから飛令郭らを相手に危ない橋を渡らなければならないのだが、何も心配していなかった。飛令郭がどの程度の人物か何度か会談して掴み切れていた。あれを操作する自信はある。操作し切れなかったとしても、自分の若さが結局勝負をつけるのだと思う。
「飛令郭も真野も、おれより早く死んでしまうのだ。しかも、それほど待つこともないときている」
皇帝双槐樹を始末し、飛令郭らを骨抜きにしたあとは、自分の人形にすぎない新皇帝平菊を自在に操ることができる。
菊凶の誤算は幻軍のことをほとんど無視していたことである。幻軍などはどうせ頭の粗末な連中であり、どうとでもなるのだと。菊凶は幻軍という存在を権力操作の道具としか見ていない。そして、菊凶は幻影達らと会見し自分の予想が外れていないことを確認した。彼は、下種《げす》で、政治に関しては子供同然の連中に、施しを与えるようなつもりで弁じ、策を授けてやった。
「琴皇太后の御子息にして先帝(腹宗)の遺児にあらせられる平菊様をかつがれればなにかと都合がよいように存じます。内閣首輔の飛令郭殿もそのせんでなら協力を惜しみますまい」
と幻影達や亮成丁、彿兼を前にして言った。平菊をかついで素乾を乗っ取れば、纂奪者≠ニいう歴代の王朝創立者たちが最も恐れた批判をかわすことができる。よい取引と言える。幻影達はともかく、亮成丁や彿兼はその申し出の魅力がよく理解できた。
その時、菊凶にはおそらく永久に理解できないであろう、誤算そのものの男が立った。渾沌がぶすりと尋ねた。
「あんたは王斉美を葬ろうとした人間を知っているか?」
菊凶は深い意味のある問いだということに気が付かなかった。
「ああ、王斉美は逆臣でございましたから、飛令郭殿は常に気に病んでおられました」
次の瞬間、菊凶の首は胴体から離れ、地に落ちていた。渾沌が菊凶に刀をふりかざしたとき、菊凶はいったいどんなことを考え、どんな表情をしたのだろうか。
「なぜ斬る! この男はいい話を持ってきていたのたぞ」
亮成丁は渾沌に詰め寄って責めた。渾沌は刀を収めると、言った。
「この軍の目的は王斉美の仇討ちだ。いまからその飛令郭とかいう畜生を斬りに行く」
そして、勝手に全軍に指令を出した。
「渾兄哥は勘違いをしている」
幻影達が不快そうに言った。彼が渾沌を批判したのはこれが初めてであった。渾沌はそれに対しては何も言わなかった。すでに、馬上にある。
北師に幻軍が乗り込んだのは、槐暦二年正月である。粉雪が夜のうちに舞い、路上を氷の板に変えていた。北師の名のある富豪達はとっくに退去を終えている。貧しい者は家の中で息をひそめていた。北師に駐在している西胡(地理的にはギリシャ以西にある国々の総称)の人々は用心深く乱の成り行きを見守っている。彼らは反乱軍がまさか自分たちに危害は加えまいとたかをくくっている。思い違いであった。幻軍はかつての反乱者たちが必ず発布して民衆の心を収攬《しゅうらん》したところの「法三章」などの思想はまったく持っていなかった。昔の反乱軍兵士は、「殺す。盗む。犯す」を徹底して禁じられ、これを破った者は即座に民衆の前で斬られるか、罪相応の刑罰を加えられた。
幻軍兵士は北師において肆《ほしいまま》に乱暴狼籍をはたらいた。西胡人にも危害は大いに及び、これが原因で二年後に西洋軍隊(伊軍)が大挙来襲して、北師を蹂躙《じゅうりん》することになる。
素乾城は包囲されている。外廷は早々に破られ、幻軍兵士が充満している。渾沌は真っ先に飛令郭を捜しだし、有無を言わさずに斬り倒している。宦官真野も王斉美暗殺に加担したと聞いて、手配している。
渾沌があくまで王斉美の仇討ちというテーマにそって外廷を荒らしているとき、幻影達は後宮攻撃に血道を上げている。なかなか、破れなかった。
幻軍攻撃の直前、江葉は碧郎機をたるとの前まで曳いてこさせて、たると内部のくろぐろとした空間に向かって砲撃準備をさせた。
「賊が来たら撃ちなさい」
碧郎機係の宮女|宝美人《ほうびじん》が驚いて言った。
「そんなことをしたら、たるとが壊れて塞がってしまうわよ」
江葉はにやりと笑って(注・筆者は江葉がにやりと笑うなどとはとても思えないが、史官はそう書いている)言った。
「好都合」
江葉の冷徹な態度と果断な言葉に触れた宝美人はぞくりとした感触が身内を走るのを覚えた。性的な感触と無関係ではない。宝美人の顔が思わず赭《あか》らんでしまったほどの刺激を江葉は発している。ついでながら、この戦闘中江葉ファンが急増している。
江葉は乾生門とたるとを塞いでしまい、後宮を外部と遮断し、籠城してしまおうと考えたらしい。天山遯が浅知恵と評したのはこのあたりかと思われる。確かに、後宮で籠城などしたらこの先どうしようもなくなる。あるいは江葉は先のことまで考えていなかったかもしれない。そうだとしても、女百人ほどの軍隊がわずかでも生き延びようとするならばこの場合、籠城するしかないのも事実である。
亮成丁の率いる部隊がたるとからの突入を試みた。この時、まだ甘く見ている。亮成丁は、美女を思うさまに抱きまくることで頭が一杯であった。自ら兵士と一緒にたるとに侵入して走った。炬《たいまつ》をかざしながらたるとを進んだ。長いこと走って、やっと前方に出口の光が見えた。もうすぐだ、と兵士たちの足は欲に押されて早くなった。出口に据えてある黒いものが大砲であることに気付いたときはもう遅かった。十分過ぎるほど引き付けてから宝美人は碧郎機を発砲した。天地をつんざくような大音の余波と、大量に吐き出された砲煙が薄くなってから、玉美人はおそるおそるたるとを覗き込んだ。そこには先刻と変わらない、ただくろくろとした闇があるだけであった。宝美人は闇の中にどのような悲惨さがあるかをほんの少し想像してみた。そして、彼女は小柄な身体を身震いさせ、あわてて次の仕事にとりかかった。
この時、悪運強く生き残った亮成丁ではあったが、片足と片腕を失い、視力聴力の障害は死ぬまで続いた。
後宮が素乾国の巨大な女性生殖器であり、幻軍が強姦者で、その男根が亮成丁の部隊であると想像するとかなり恐ろしい。膣の奥、子宮口の部分に銃が装置され、挿入した瞬間に発射されるようになっていたということになる。想像だけにしておきたい。
江葉が兵火器を重要視したことが、後宮軍の強さの一因であった。江葉は乾生門とたると口に碧郎機を配置し、城壁が低く登られやすい場所に火槍兵、小銃兵を置いて射撃させている。宦官隊には鉄砲を持たせて擲弾《てきだん》兵としてどこへでも急行できるように待機させている。弾薬がある限りは守り抜けるはずである。
幻影達は後宮の意外に手強い抵抗に困惑している。彿兼は、なだめるように言う。
「長期戦になりましょう。なあに、たかが宮女のこと。長期とはいっても五日か十日のことです」
その時、やっと真野を見つけて斬った渾沌が戻ってきた。ついで言っておくと、琴皇太后は後宮が攻撃された時点で、毒を呷《あお》った。菊凶の死を漏れ聞いたからだと言われているがよく分からない。幻影達は待っていたように渾沌に尋ねた。
「渾|兄苛《あにい》よ、後宮をどうやって落とそうか」
渾沌はぽつりと言った。
「兄弟、王斉美の仇討ちも済んだことだし、このへんでお開きにしようや」
幻影達が目を剥くようなことを言い出した。
「渾兄哥、正気かね。素乾の皇帝の座が目の前にあるのによ」
渾沌こそ不審そうな顔をした。
「兄弟は天下を取ろうと思っているのか? 馬鹿なこと言っていないで、そのへんの銭を拾い集めて帰るんだ。また沚水に寄って遊ぼうや」
渾沌は反乱軍の首謀者という役を投げ出している。いや、最初から反乱を起こしたという意識などはなかったのである。ここに渾沌という男の不思議さと危険さがある。
天下をひとつの舞台と見た場合、厄駘(渾沌)という筆者にとって非常に興味深い男は一人台本を渡されず、アドリブで動いている役者を思わせる。銀河や幻影達には渡されている天命という台本が、何故か厄駘には与えられていない。終始、好き勝手なことを喋《しゃべ》り行い、他の役者に白い目で見られているような、そういう感を起こさせる。
古い説話にこういうものがある。人の心は太古は生命力の渾沌とした沼であった。生の欲求が時々ぽこっと浮かんできて泡になる。その泡が弾けて、泡の中に詰まっていた気(ガス)を吸うことによって人は生命の要求を知るのである。
しかし、人が社会を作り、人と人との関係のうちに生きるようになると、常識、規範といった形式を必要とするようになり、必ずしも渾沌の沼には従わなくなる。その形式は渾沌とした沼の上に建築される危うい建物である。沼が揺らぐと建物も大きく揺らぎ、時には倒壊してしまう。素乾の滅亡も素乾の形式あるいは儀式の倒壊であると言える。
厄駘は心の渾沌の沼に形式という建物を建てていない。そのあだなのとおり、まさしく渾沌そのままに生きている。何にもまして自由であった。彼だけが本当の歴史であって、銀河や幻影達は台本が擬人化した存在に過ぎないのてはないか。そんな錯覚すら覚えてしまう。「渾沌即自由」。厄駘が危険であったのは急進的思想などの故ではなく、太古的思想を体現していたからである。渾沌であったから危険であったのである。厄駘を歴史から抹殺しようとした後の政権担当者や御用学者は薄々それに気付いていたのかもしれない。人間社会のすべての形式、つまり約束事が渾沌の中に流出し漂い始めたら、想像を絶する世界が現れるであろう。
渾沌は幻影達と言い争いをした。この瞬間から渾沌の乱への興味が急速に失われる。渾沌は幻影達たちと無関係になった。少なくとも渾沌の心の中ではそうなっている。幻影達には、英雄的風貌を持つということ以外には何のとりえもない。渾沌の衝動的で気まぐれな精神に引っ張られたおかげでここまで来ている。幻影達は渾沌と知りあった時から、無条件に渾沌に賭け続けてきた。そして、その度に快楽を拾うことができた。この時だけ自分で判断して、皇帝の座を掴《つか》もうとした。幻影達は自由を失ったのである。
銀河はよく戦っている。端で見ていた双槐樹が呆れるほど楽しそうであった。銀河は火槍を担当している。長さ七〇センチ、直後五〇ミリの手筒に赤ん坊の拳ほどの弾を寵めて撃つ。一人で支えるのはしんどいから、木の台に銃身を当てて狙《ねら》うのである。城壁をひいひい言いながら登ってくる敵が、顔を覗かせた途端に発砲すると、命中しなくても転げ落ちて行った。銀河の持ち場では二十人ほどの宮女が交替で銃を城壁に向けている。みんな楽しそうに歓声を上げながら射撃している。若い乙女たちが遊び戯れている華やかでのどかな一幅の絵がそこにあった。最初銀河の案を一笑に付し、娥局に寵《こも》り怯《おび》えていた宮女たちの中にも、是非戦闘に参加させて欲しいと頼んで来る者もいて、当初から参加していた宮女に鼻白まれていた。銀河はそれらの新兵を歓迎した。兵の数が増えれば、休憩時間を皆に取らせることができる。
角先生は病床に伏している。この度の反乱による心労が、老骨をきしませていた。双槐樹がついて看病をしていた。
「わしの出番はないようだ。銀河のせいか」
と自嘲するように言った。
「陛下はじっと待っておればいいのです。陛下の身にもしものことがあれば、素乾は滅びます。時に……」
角先生は苦しそうに咳をした。
「時に、陛下は真理を承け継がせるべき儀式を執り行われましたか」
「いや」
「そうでしょうな。銀正妃の姿はとても儀式を終えたようには見えませぬ」
「だが、あれはまだ道女ではなかろうが」
角先生は意外な顔をした。
「歴とした道女にございます。まだ、銀正妃は陛下に申し上げていなかったのですか」
角先生は苦しそうに笑った。陛下も陛下ですな、と言った。
「思う通りにおやりになればよかったのに」
「思いを己の意思で支配するのが房中術の極意のはずだ。あなたがそう言っていた」
「それは常の法です。常から外れるのも時にはよろしゅうございます」
また激しく咳をした。きっと目を据えて、遺言するような口調で言った。
「すぐにでもお抱きなさい。いいですか、すぐにです」
「必要か」
「必要です」
わが学の真理が実際に駆動するのを見届けてから死にたいと角先生は思っている。
外が騒がしくなった。双槐樹は廊下に出てみた。走ってゆく宮女を呼び止めて何事かと訊いた。
「ぎ、銀正妃様が敵弾を受けられたご様子にて」
双槐樹は宮女が言い終わるより早く、駆け出していた。
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受胎
銀河が寝台の上て意識を取り戻すと、すぐに江葉が来た。
「痛い!」
頭に大きな瘤《こぶ》ができている。後宮で瘤をこさえたのはこれで二度目だと、腹を立てた。銀河は敵弾を受けたというような大げさな目にあったわけではなかった。敵が投擲してきた石をよけて、よけたついでに転んで頭を打ったと、そういう恥ずかしい事情である。銀河もさすがに疲れていたのであろう、一日半ほど熟睡していた。江葉の顔がぬっと銀河を覗き込んだ。そして、怒ったように言った。
「気絶している間にまずいことが起きた」
銀河は半身を起こした。外からはどかん、どかんと威勢のいい音が響いてくる。後宮軍隊はまだ健闘している。
「なによ、城壁に穴でも開けられたの?」
江葉は首を振った。
「皇帝が幻賊の虜《とりこ》となった」
と驚くべきことを言った。
「コリューンが? どうして!」
「あんたのせいだ」
と江葉はべつに責める口調ではなく言った。むしろ、嬉しそうに見えた。
双槐樹は素乾の滅亡はもう決定したと考えていた。角先生の説教は聞いたが、もはや、そういう次元の話ではなく、死を覚悟している。そこに、「銀河倒れる」の報を聞き、血相を変えて駆けつけた。幸いにも銀河は頭を軽く打ってのびているだけであった。双槐樹はその場で大笑いをした。銀河を軽々と抱きかかえると、言った。
「これにて、抱いた。角先生にはそう伝えておけ」
そのまま、銀河を寝室に運び、寝かせた。そして、戦闘中の宮女に聞こえるように大声を出したという。
「お前様たちはみなわしの妻にて、わしの家族ということになる。わしは天命尽きて素乾と共に滅びる覚悟だが、お前様たちをまきぞえにするのはしのびぬ。ゆえにわしは今から賊のもとに出頭いたし、お前様たちの安全を計ろうと思う」
皆、ぽかんとしていた。双槐樹はゆっくりと歩き出した。双槐樹は皇帝である。誰にも止めることはできなかった。その時玉遥樹が一人進み出て、御供致します、と言った。
「姉上、死ぬるぞ」
と双槐樹は優しく言った。玉遥樹は、一言、
「本望なれば」
と言った。玉遥樹が双槐樹に人道倫理を超えた愛情を抱いていたということを知らない者は、純粋な姉弟愛のドラマに陶酔した。それほど美しい姿であったという。
「あんた、なぜ止めなかったのよ」
と銀河は憤激して江葉を責めた。
「後ろから殴りでもしなければ無理だった」
「殴ればよかったのに! わたしなら殴ってでも止めたわ」
「皇帝を殴るなんてできないわ」
と江葉は言った。
銀河は跳ね起きて、廊下を歩いた。後ろに江葉が続いた。
「もうすぐ、弾が尽きる。ここを無事に落ちのびる策を考えないと」
江葉の頭は脱出作戦のことで占められていたようである。しかし、この期に及んでようやく脱出のことを考えているというのは、やはり、江葉の軍才も大したことはないと言わなければならない。ただ、江葉の立場に立ったらいかなる名将であっても籠城をしたであろうし、その際に脱出のことまで深謀しろと求めても、無理な相談と言われるのが落ちであったと思われる。江葉はそれでも涙ぐましい努力をしていたようである。素乾城に秘密の地下道でもないかと一生懸命に捜したらしい。江葉の知識によれば、昔、何とか城にはそういうものがあって、王様が危うく逃げ落ちていたという。残念ながら素乾城には秘密の地下道などはない。
「あんたに任せるわ」
銀河は無責任である。双槐樹救出のことを考えている。くるりと振り向いた。
「コリューンはどこから出て行ったのよ」
「乾生門」
乾生門の瓦礫《がれき》を掻き分けて、人が通れるだけの穴を作ったのだという。
「服が汚れるじゃないの」
銀河は双槐樹を責めるように言った。本当に馬鹿な人だと思った。泣きたいような気持ちになった。
銀河は思案などなく、双槐樹愛用の拳銃を掴むと乾生門に向かった。
「行くの?」
江葉はのんびりしているともとれる言い方をした。
「うん」
ここで驚嘆すべきところは、江葉はべつに銀河を止めなかった。煙草を出して、
「吸う?」
などと言っている。誤解のないように言っておくと、煙草をすすめることは江葉の在所では、敬意を表するという意味を持っている。決して、江葉が自棄《やけ》になってとち狂っているのではない。銀河はそんな風習など知らないので、むげに、いらないと言った。
乾生門に配置されている宮女たちが、銀河を力ずくで押し留めようとした。銀河は、
「あんたたちが、コリューンを止めていればこんなことをせずに済んだのよ」
ともがいている。江葉が行かせていいと言ったので、宮女たちは手を放した。
銀河はなんとなく江葉に別れを告げたい気分になった。
「面倒な仕事を押し付けちゃって、御免ね。この借りはいつか返すから」
とそんなことを銀河が言うと、江葉はまったくだ、と言いたげに、
「うん」
とうなずいた。銀河は急に江葉が小憎らしくなった。思いきり接吻をしてやった。銀河の里の緒陀では接吻は性的な意味がなくても用いられると前にも書いた記憶がある。筆者がそんな言いわけをしてやる必要はないのかもしれない。性的な意味があるかないかは、接吻を行っている本人にしか分からないことであるからだ。当然、筆者にも分からない。
けろりとした表情を崩さない江葉から離れた銀河は、瓦礫の隙間に潜り込んで行った。
歴史の面白さの一つは、時として、作り話のようなことが現実に起きたということを知ることである。史実は小説より奇なりとでも言うべきである。反対に小説よりもつまらないことも起こっており、こちらのほうがよほど多い。
この時、銀河がやったことは十分に奇である。このくだりを記述した史官は楽しくて仕方がなかったのではないだろうか。後宮を包囲している賊軍に、か弱い美少女が拳銃一丁を手にして向かっているのであるから、痛快な図である。しばしば人の感動に水をさす歴史評論で知られている天山遯でさえ、この部分を記述するのに「素乾通鑑」の多くの頁数を割いたあげくに、
「この時の銀正妃の姿には遯翁(注・天山遯のこと)も涙が滂流《ぼうりゅう》するのを堪え切れず、ここを読んで感きわまらない人間は畜生の類と断言して差し支えない」
と非常に感情的な意見を述べている。
ともあれ、銀河が埃にまみれて乾生門を通ると、外廷にも幻軍兵士が密集していた。銀河は内心、これは駄目だ、と諦めかけた。しかし、銀河は勇を鼓して剣槍を構えた兵士たちに呼ばわった。
『軍使ナリ。孰《いずれ》カ将帥ニ会セシメヨ』
突然現れた小娘がこんなことを言うのであるから、幻軍兵士は笑ってしまった。銀河を捕まえようと思い、そろそろと近寄ってきた。
銀河は拳銃を構えた。が、装弾数はわずか一発である。ここで、撃ったら何にもならない。思い直した銀河は銃口を自分の胸に当てた。
「近付くと死ぬわよ」
と叫んだ。しかし、大方の兵士はにやにや笑って相手にしない。とは言っても銀河がこちらに銃口を向けて撃つ可能性もあるから、怪我をしたくないということで一定の距離以上は近付かなかった。
しばらく睨み合いが続いた。
『銀正妃ノ柳眉ニ決死ノ相ノ存スルヲ、一隊長、看破シタリ』
と本文にある。銀河を哀れに思った隊長が、
「わかった、わかった。偉い人に会わせてやるからしばし待っておれ」
と親切に言ってくれたのであろう。
隊長は兵に命じて幹部を呼びに行かせた。幹部は、この時、例えば幻影達は後宮攻撃の叱咤《しった》に忙しかったし、彿兼も同様である。亮成丁は後方で生死の境をさまよっている。兵が呼んでも来てはくれなかった。渾沌のみがふて腐れたように町屋敷の陣所にいて、昼間から酒を飲んでいた。
渾沌は妙な小娘の話を聞いて、興を起こした。
「俺が会ってやる」
と言うと、酒壷を土間で叩き割って、立ち上がった。
渾沌は、酔眼を四方に投げつけながら素乾城の正門である午門《ごもん》を潜った。潜ると外廷である。後宮の方からは相変わらず銃声と喚声が響いてくる。渾沌は「けっ」と痰《たん》を吐き出した。痰は規則正しく敷き詰められた磚《せん》を汚した。つい十日前ならば、首を胴から切り離されても仕方のない所業である。
渾沌はようやく乾生門の前に現れた。なるほど、十重二十重《とえはたえ》に取り巻いた薄汚れた兵隊どもの前に、けなげにも一人の少女が己が胸に銃口を押し付けて立ち竦《すく》んでいる。渾沌を案内した兵士がふと見ると、渾沌は涙を流していた。
「これほど美しい光景は一生に一度見られるかどうかだ」
とつぶやいた。案内の兵士には何のことやら分からなかった。銀河の意志と姿が渾沌の渾沌に満ちた心を激しく刺激したようであった。
渾沌は隊長を呼び付けると、
「俺が直々にお話ししよう。あの方に危害を加えぬようにお連れせよ」
とやや丁寧な口調で命じた。
渾沌と銀河は皇帝の執務室で会見することになった。銀河は多少興ざめた顔色をしていたが、気丈に渾沌を見据えている。
「瓜祭の山で会いましたな」
渾沌はまず言った。
「息災でなによりです」
と旧知の人間が話すようにいった。銀河は渾沌の顔を覚えてはいなかった。覚えていたとしてもそういう懐旧談をする気分ではない。
「わたしが来たのは、コリューン、いえ、皇帝を返して頂きたいからです」
と銀河は言った。渾沌は振り返って、扉近くに立っている隊長に尋ねた。
「おい、皇帝ってのは何の話だ?」
「はっ、先日、皇帝が自ら投降致しました」
恐れながら拙者が案内仕りました、と言った。渾沌はふて腐れて酒を食らっていたからそのことを知らない。
「皇帝が投降? また、どうして?」
「はっ。素乾もこの身も開け渡すゆえ、後宮の安全をはかられたいと幻影達様に直訴なさいました」
「潔《いさぎよ》きかな! それで兄弟は何とした」
「それが、鼻でお笑いになりまして、皇帝を馬小屋に放り込みました」
銀河が口を挟んだ。
「女の人が一緒だったでしょ? タミューンはどうしたの?」
「まことに申し上げにくいことですが、舌を噛み切り御自害を……」
玉遥樹は幻影達に犯され、その後自殺した。銀河は忿《いか》りで赤くなった。だが、渾沌の方がより激昂した。叫んだ。
「それで、後宮攻めもやめていないのだな」
渾沌はこの時、鬼のような顔をしていたという。銀河の方を見ると、
「皇帝のところへ連れて行く」
と叫んだ。隊長は恐れるように案内した。
『逆人渾沌、コノ期ニ及ンデ善行ヲ為ス。不可思議ノ業ナリ』
となっている。不思議ではない。渾沌は自分の心の命ずるままに動いているだけである。この小説の中で、終始自分の心の赴くままに自由に動いた人物は渾沌だけであったろう。
銀河と渾沌は歩きながら話をした。銀河は当然のことながら、最初はこの妙な男を警戒した。
しかし、話をするうちに警戒心が薄れてゆくのがわかった。
「房事などというものは、思うにそれほどおおげさなものではない」
渾沌は言う。
「特別なことではないのだ。その意味ではその角先生とやらの哲学はじつにくだらない。昔話に、歩き方を習おうと思って仙人を訪ねた男が、練習しているうちにもとの歩き方を忘れてしまい、結局歩けなくなったという話がある。つまり、習わなくていいことを習うのは害のあることだという意味だ」
渾沌は激すると口数が急に増える。しかも、銀河に話しかけているというより、腕組みしてひとりつぶやいているという様子である。
「退屈かね」
銀河は首を振った。渾沌にしてみれば柄にもなく、銀河をなぐさめようと話を続けているのかもしれない。それにしては話題が適当だとは言い難いが。
「昔、女嫌いの公子がいて、とうとう三十過ぎても女に手を出そうとしなかった。家臣がみかねて諫《いさ》めた。それにたいして公子はこう返事をした」
渾沌はくっくっとひとり笑いをした。なかなか気味の悪いものである。銀河は、
「それてどう返事したのよ」
と促した。
「ふるっている。『おぬしや他の者の話を聞くに、房事とはなかなか面倒なものらしいではないか。わしは立場上小さい頃から射御の術をしこまれて育ったのだが、この歳になって、いまさらそういう術をあらためて身につけねばならぬとなるとこれは面倒くさすぎるというものだ』そして、『汝、吾少年ノ時ニ其レヲ曰ハザルハ如何《いかん》。既ニ遅シ』といったらしい」
銀河には渾沌が何を言いたいのかよくわからなかったが、自分やひいては角先生をからかっているのだということは感じた。
「このおかしな男はつまり頓狂なのだが、房事を射撃や馬術と同じに考えているあたり、なかなかの雅士というべきだろう」
そして、にっと笑った。
「雅士というのは美を知っている男のことだ。頓狂でなければ美などわかるはずがない。角先生とやらの哲学はくだらないが、その人物は美というものがわかっているようだ」
などと言った。渾沌はどちらかというと角先生をほめているらしい。
銀河が驚いたことには、
「今、後宮を攻めている連中、あれは馬鹿だ。後宮を攻め落としたいのなら、大砲を使うか火をかければいいのだ。だが、やつらはあなたの同輩を傷つけたくない、傷つかずのまま組み敷きたいがために大怪我をしている」
「でも、あんただって仲間じゃないの」
「いいや。すでに仲間ではない」
天性の裏切り者、義侠のかけらもない男という渾沌への評はこういうところから出ている。
やがて、町外れの一等汚い馬小屋の前まで来た。
「天子をこのようなところへぶち込んでいるのか」
と渾沌は言った。見張り番の兵士たちに金を与えて、追い払った。
「しばらく、どこかへ行っていろ。俺が見張っている」
そして、銀河に言った。
「皇帝はあなたが逃げようと言っても、おそらく、逃げないと言うはずだ。そういう覚悟をしていらっしゃるとお見受けした。その覚悟は正しいはずだ」
渾沌は感動したように言った。馬小屋の鍵を開けて、言った。
「銀正妃、存分に名残を惜しまれよ」
そして、薄暗くひどい匂いのこもった小屋の隅にいる人に向かって、
「陛下、男として、足下が羨《うらや》ましい」
と滅茶苦茶な言い方で銀河のことを誉めた。
「銀河、何しにきた」
双槐樹は驚いている。馬鹿か、と言った。
「言っておくが、わしは逃げぬぞ。素乾最後の皇帝として賊に殺されるつもりだ。幻影達という男、話は分かりそうな仁であったからお前様たちをひどい目に合わせることはあるまい」
双槐樹は玉遥樹の無残な死を知らないらしい。銀河は言いたいことを山ほど用意していたのだが、そのひとつたりとも出てこず、また、自分は今別人になっているようだと思った。
「わたしは道女になりました」
と言っていた。抱いて欲しい、という意味であった。双槐樹は、そうかやっとなったか、と嬉しそうに言った。
双槐樹は優しく手を伸ばし、銀河を引き寄せた。自然な身体の動きに任せている。銀河は、まさか馬小屋でこんなことになろうとは思わなかった。村の娘でも、もう少しましなところで抱かれるのではなかろうか。双槐樹の手が急に動いた。銀河はあわてて、震え声で異議を申し立てた。
「角先生の学では、最初はそうではないようでしたけど」
「角先生の学とわしの学とは少し違うのだ。わしはこのようにしたい。それでいいのではないか?」
確かにそうであった。
銀河が馬小屋の外に出ると、渾沌は無用心にも昼寝をしていた。銀河と双槐樹が逃走したとしても、それはそれでよく、べつに平気だったのであろう。
銀河はそのとなりに座って、物思いに沈んだ。身体の芯が痛んだ。銀河にはよくわからなかった。この世はわからないことだらけだと思った。銀河の頬を涙が、ひとしずく、下っていった。
銀河はそれを手の甲でぬぐった。泣いているのは、痛むからではない。双槐樹にはもう会えないのだと思うと辛かった。
いま、双槐樹は安らかな寝息を立てている。双槐樹はすべての闘争から解放された安堵感にひたっている。銀河が双槐樹を解放した。
渾沌がぱっと目を開いた。銀河を見てまず言ったことは、
「馬糞くさいな。風呂に入れ」
であった。そして、何の曇りもない笑顔をのぞかせた。後年、銀河は、親しい人に、
「わたしが子を宿した場所は、それは汚い場所でしたよ。あの時の匂いはいまでもはっきり思い出せます」
と冗談まじりに語っている。
銀河はこの時、双槐樹の子を身籠った。この子こそが、後に、乾朝の太祖神武帝となるところの烈子|黒耀樹《こくようじゅ》である。銀河は後宮哲学の説で言う、新しい国家の真理を産むことになった。
銀河が町屋の風呂を借りていると、突然渾沌が戸を開けた。銀河は湯船に深く身を入れた。渾沌は、
「面白いことを考えた。宮女を落ちのびさせてやる」
と悪戯《いたずら》っ子のような顔で言った。
渾沌のこの作戦とも言えない作戦が成功したことは、後に幻影達を激怒させることになった。筆者は幻影達に哀れすら覚えるのだが、それほど友情を踏みにじって恥じない作戦である。しかし、実行している渾沌にしてみればこれまで幾度も行ってきた、衝動的な博奕をいま一度やってみせただけである。博奕であるからには勝つか負けるかの二つに一つである。負けとはこの場合死ぬことである。渾沌は命を張っている。ただし、この博奕に渾沌が勝ったとしても、なんの儲けもないのであった。銀河はそれが分かったから、非常に済まなく思っているし、感謝している
「なあに、あなたとあの皇帝は俺を感動させてくれた。その礼をするたけだ。ただ、失敗した時に恨まないでくれればよい」
と生き生きした表情で言った。
銀河は渾沌に例の拳銃をつきつけて、人質にしたと装い、幻影達たちの本営に宮女解放の要求をした。渾沌は、まことに情け無い命乞いの芝居を演じた。
「渾兄哥!」
幻影達は、銃で脅されて泣き叫ぶ渾沌を見て青くなった。渾沌の内部では幻影達への情は見事に冷めていたが、幻影達はそうではなかった。幻影達は渾沌に対して激しい友情を保っている。先ごろ、少しばかり意見の対立があったが、一時のことだと信じていた。根が単純な男であるだけに純情であった。渾沌と長い間一緒に生きてきたくせに、渾沌という男の本質、複雑にして単純な渾沌的精神がまったく分かっていなかった。幻影達以外の者は、渾沌のそういう不気味な要素を肌で察知したのか、誰も渾沌と深い友情を結ぼうとはしなかった。
幻影達は白痴のような素直さで、銀河の要求を飲むと言った。彿兼ほか各隊長は、必死になって幻影達に意見した。彿兼にしてみれば渾沌のような気味の悪い男がどうなろうと知ったことではない。幻影達がいなければ、即座に銀河共々殺していたであろう。幻影達は彿兼以下を怒鳴りつけ、さっそく後宮宮女の安全解放を命じたのである。
素乾最後の後宮の、宮女から婢《はしため》、銀河に味方した宦官十数人、八百七十名ほどが後宮の建物から脱出した。勿論、次の王に仕えたいという宮女もいて、それらは残っている。銀河は数十台の馬車と馬を要求しており、宮女たちはそれへ乗り込んだ。
「腕が疲れてきたわ」
もう半日ほども渾沌に銃口を押し付けたまま頑張っている銀河が言った。
「もうしばらくの辛抱だ」
人質の渾沌が励ましている。
銀河は渾沌と一緒に殿《しんがり》の馬車に乗り込んだ。後宮軍隊将軍の江葉が殿を買って出ていた。
「邪魔をした」
と江葉は銀河の顔を見るなり言った。
「どういう意味よ」
「脱出の作戦を二つも考え付いたところだったのに。やれなくなった」
と不平を言った。それを聞いた渾沌が笑い始めた。冗談だと思ったのである。しかし、江葉ほど冗談に縁遠い女もいない。二つの脱出策というのは意外と本当だったのかもしれない。江葉も銀河と渾沌の様子を見て、やっと銀河が用いた詐術に気が付いた。嫌な顔をして言った。
「あんた、この坊様をたらしこんだのか」
銀河はふくれて、
「そんなことはしていないわ」
と言った。
幻影達は渾沌が解放されぬかぎり絶対に手を出すなと厳命している。幻影達があまりに恐い頗をして言うので、彿兼も追跡を控えた。それより、これから素乾城に入って、幻影達を新しい皇帝にする仕事が待っている。
馬車の中で、角先生はその生涯を閉じようとしている。銀河は角先生のところへ駆けつけた。
「銀正妃、証したか……」
角先生は苦しい息のなかやっとそれだけの言葉を押し出した。銀河は角先生の手を強く握って、うなずいた。
「では、何か?」
『未ダ詳《つまびらか》ニハ識《し》ラズ。唯、心気ハ一時相和シタリ。温、香、言ハ猶《なお》其ノ和ニ付随スルガゴトシ』
と銀河は答えた。一生懸命、精一杯考えての返事であったろう。
「よくわかりません。でも、心がほんの一瞬ですが、交わりました。体温も、香りも、言葉もその心の交わりに付随するものでした」
角先生はしばらく黙っていた。この回答が角先生をはたして満足させるであろうか、と銀河は心配した。角先生は考えているようであった。素乾史上最大の哲学者の最後の思索であった。やがて、角先生は歓喜に満ちた表情になった。
「……で、よい」
角先生の最後の言葉である。
銀河が角先生の哲学を証した、と実感したのは、後に息子の黒耀樹が天下を制したときである。
この時は、まだ、実感していないし考える余裕もなかった。
奇しくも同じ時に双槐樹が崩御している。幻影達の家臣に転身した宦官の綾野《りょうの》が、双槐樹に毒杯を渡した。双槐樹の辞世の言葉は残っていない。
銀河たちは角先生の遺体を蘇江を渡ったところにある小高い丘に埋めた。手伝った渾沌は角先生の輩を見て、
「宿願を果たしたような面をしている」
と言った。
正史「素乾書」の記述はここで終わる。この先のことを知りたければ、「乾史」を読まなければならない。
素乾朝と素乾後宮は消滅した。銀河も市井《しせい》の一人物となった。
この小説の題名は「後宮小説」ということになっている。後宮が消滅した以上は、この「後宮に関するつまらない話(後宮小説)」も、もはや、書くことがなくなった。
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だから、この以下のくだりは蛇足である。
幻影達は新周という名の王朝の初代皇帝となった。素乾城をそのまま借用して王府とした。彼の玉座は在世中ついに暖まることがなかった。最初は後宮にいりびたりであったからである。新周の後宮は幻影達が急遽《きゅうきょ》設立させた粗末なもので、北師の庶民の女を攫《さら》うようにして掻き集めた。妓楼を一店買い上げるようなこともしている。当然、民衆の恨みを買った。
後は征旅のためである。幻影達の乱(渾沌の役)というのは徹頭徹尾局地的な乱であった。幻影達が退屈をもてあまして挙兵してからわずか一年足らずで北師を陥れた。幻影達軍の行動範囲も山北州の嵬崘塞の付近から沚水《しすい》を経由して直北州に足を入れたという程度である。期間は短く、行動範囲は狭い。幻軍が北師を攻め、あっという間に新王朝を建てた時、地方の有力者は動く暇さえなかった。幻軍が北磐関を破った時点で幻軍に呼応して挙兵した幾つかの軍団は、まったく活躍することなく終わってしまった。活躍が封じられたと言っても、一度集合を遂げた軍団のエネルギーが消滅するはずもなく、そのうちにぞろりと動き始めた。
昔から、建国直後の国ほど不安定なものはない。幻軍は特にもろい。各地の武装蜂起軍をさばき切れなくなった。
「幻影達の纂奪《さんだつ》王朝を討滅せよ」
といったスローガンを押し留める力がない。実際、幻影達のやり方はこれ以上手際の悪いものはないというほど、まずい簒奪であったし、悪く言えば強奪といえなくもない。また幻影達は民衆の支持を得ていない。草の根運動的に民衆の心を収攬《しゅうらん》してこそ、反乱は成功するのである。幻影達は沚水の民衆には例外的に人気があったが、それだけでは話にならない。
兵部尚書に就任していた彿兼は悲鳴を上げて幻影達に親征を乞うたのであった。しかし、幻影達が親征したところでどうなるわけでもない。幻影達は一年以上も戦塵にまみれ、何度も負けた。幻影達がぼろぼろになって地方から逃げ帰ると、今度は北師に外国軍が押し寄せてきた。幻軍が北師を攻めた時に乱暴したり殺したりした西胡人の軍隊が東鹿州に軍艦を乗り付けて上陸し、優秀な兵火器力をもって新周軍を踏み潰した。幻影達は命一つで北師を逃れ、その後、瓜祭に逃げ帰ったところを地方の蜂起軍に捕捉されて、刑死した。幻影達は親征の途上で、しきりに、
「渾兄哥の言うとおりだった。天下など取らねばよかった」
とこぼしていたという。
新周はわずか二年でついえた。その後、銀河の息子の黒耀樹が天下を統一するまで、群雄割拠の乱世が続く。
渾沌の末路には二説がある。一つの説によれば、幻影達の放った刺客に殺されている。渾沌が銀河たちの人質になって連れ去られた後、どこからか幻影達の耳に人質の一件は渾沌のぺてんであったという密告が入った。激怒した幻影達は彿兼に暗殺部隊を作らせて渾沌を追わせた。沚水の妓楼で、おそらく渾沌気に入りの例の妓女の部屋であろう、膾《なます》のように刻まれて死んだ。妓女もとばっちりを受けたのか、自害したのか不明であるが、渾沌の身体に折り重なるようにして死んだ。沚水にはこの事件の言い伝えが残っている。
もう一つは、地方蜂起軍の建州王|杜邊《とへん》の片腕といわれた喃威《なんい》がじつは渾沌であったという説である。喃威は新周建国直後の時期に杜邊に拾われて、謀臣となった。この説を取る人はその証拠を三十四も挙げているが、確かに、そう納得させられる。いい加減で行き当りばったりに見える喃威の献策には渾沌らしい点も多い。喃威は杜邊が没落したあと瓜祭に隠れ、八十一歳で死んでいる。
天山遯は、二説いずれも信憑性《しんぴょうせい》大であるとして、どちらも「素乾通鑑」に載せている。
素乾最後の宮女たちは、そのほとんどが平凡な女房になった。ただ、後宮仕込みの房中術が彼女たちによって広く巷間に流出した。妓楼に入って才色兼備にして床上手の評判を得た者も多かったようだ。
セシャーミンはその世界で特に有名になった。沚水に世明妓館という妓楼ができて瞬く間に大きくなったが、その娘児《にゃんる》(女将《おかみ》)がセシャーミンである。自分の店の妓女に房中術の秘法を仕込んだから、評判になった。時にはセシャーミン自らも客を取っていたようで、大変な名人との評判が高く、遠くからわざわざ会いに来る富豪が後をたたなかった。彼女はなかなか老いず、四十を過ぎても相変わらず色の白い、奇麗な女であったという。晩年には酔うとすぐに、懐かしそうに銀河の話をした。
「もう一度会えないものかねぇ」
と必ず最後に言い、溜め息をついた。
銀河は茅南州の江葉の在所にしばらく住んだ。江葉が子供が生まれるまで田舎に隠れているべきだと忠告したという。江葉の故郷は隠れるにはうってつけのど田舎であった。安心して出産子育てができる。子供が乳離れしたとき、銀河はまだ十代の若さである。退屈を極めて嫌う銀河が茅南の僻地で辛抱できるはずがなく、黒耀樹を信頼できる人に預けて旅に出た。五年に一度ほど黒耀樹に顔を見せに戻って来た。悪い母親である。しかし、黒耀樹は勇才兼備した美丈夫に育っていた。養家の功であろう。
旅にある銀河はかなり広範囲なあちこちに銀河伝説とでも言うべきものをばらまいており、史家を混乱させている。あるときは、「素乾正統」の旗挙げをした黒耀樹支援のためにきわどい軍事工作をしたり、時には自ら軍団を率いて勇戦したり、市井に住みセックスカウンセラーのようなことをしてみたり、道士のように怪しげな幻術を使って見せたり、船を建造して大航海と称するものに乗り出したり、山奥に畑を開墾したり、開墾ついでに金鉱を掘り出してしまったり、庵を作って座禅してついには悟りを開いてしまったり、山賊の女親分になって大いに暴れたり、何とかという薬を発売して儲けたり、見たこともないような意匠の服を作って売ったり、好奇心の向くものはとりあえず何でもやってしまおうというところはいかにも銀河らしいが、おそらく他人の行跡が混入していると思われ、それにしても華々しい伝説を残している。
その銀河の行跡は黒耀樹が乾朝を建てて、国内をほぼ平らげ終わった一六三九年に、北師の旧素乾城で黒耀樹に謁見したあと途絶えている。銀河が四十四歳、神武帝黒耀樹が二十八歳の時のことである。引き止める黒耀樹に、「お頑張りなさい」と気楽な文句を言ってから旅に出たらしいが、その後の消息は知れない。静かに余生を過ごしたか、野たれ死んだかのいずれかであろう。
近年、といっても戦前の話であるが、U大の東西文化研究の第一人者M・ハワード博士が、「銀正妃とリヒトシトリ侯爵夫人が同一人物であるという考察」という論文をものした。ハワード博士は若い頃、作家になることを夢見たくらいだから、想像力が有り余って処理に困るような頭の持ち主であった。この論文、非常に面白い。
リヒトシトリ侯爵夫人は一六四〇年頃から一六六〇年頃にかけての欧州社交界のオピニオン・リーダー的な婦人である。サロンに出入りしては風変わりな論理と話術で皆を魅了した。独身であったらしい。侯爵夫人というのはサロンに出入りするときの通り名であった。ほかに、「|天の河《ミルキーウェイ》」というニックネームで呼ばれ、ハワード博士はこれを銀河とリヒトシトリ侯爵天人が同一人物であるという証拠の一つに数えている。
知的な黒い瞳を持った美女として絵画には描かれている。乾の画家が銀河を描いたものと比べてみると、似ていると言えなくもないが、画法が非常に違うから、単純には比較できない。
リヒトシトリ侯爵夫人は歴史では初期女権論者として知られている。時の仏帝国皇帝がリヒトシトリ侯爵夫人に謁見を許した際、夫人の女権論をからかったことがある。夫人は終始にこやかな笑みを浮かべ皇帝の質問に答え、皇帝の意見に反駁《はんぱく》を加えた。そして、
「陛下は何処からお生まれになりましたか。また、天下の哲人アネイエスは、天下の文人ドワイツは、天下の聖者ピエトロは何処からお生まれになりましたか」
と皇帝に尋ねた。皇帝は、
「みな、それぞれの母の胎内からだ」
と答えた。夫人はにこりと笑って、
「そうでございましょう。欧州の知恵と力と精神はすべからく、女性のお腹から生まれたのです」
と言った。これには皇帝も返す言葉がなかったという。ハワード博士はこの考えは角先生の哲学に非常に近いと論じる。
ハワード博士はもう一つ面白い仮説を述べている。リヒトシトリ侯爵夫人には、エヴェ・シュラインという親友がいた。エヴァ・シュラインは美貌で、無口だったが、一度喋ると分厚い刃物のような論理を展開し、余人を寄せ付けない賢婦人ぶりを発揮した。エヴァにやり込められた貴族の子弟は、「冷感症夫人」と陰口を叩いて気を晴らしていた。エヴァはどことなく冷たい女に見えたらしい。ハワード博士はこのエヴァ・シュラインは江葉に違いないと論じている。
一六四〇年頃、銀河と江葉が欧州大陸に渡っていたという仮説は非常に魅力的である。筆者はあまり信用しないが、面白いのであえて書いてみた。
最後の蛇足である。
筆者はこの小説の取材のために銀河ゆかりの地を大分回った。その一つに泉西省の婦院《ふいん》がある。婦院は乾朝の時代には駆け込み寺のような場所であった。婦院という寺とも観ともつかない建物があり、銀河が建てたものであるという。建物の名が後に地名となった。
婦院は今では大陸鉄道の重要な連結駅を持ち、殷賑《いんしん》である。
銀河の建てた婦院は旅館になっている。そこの女将は銀河のファンで、婦院における銀河のエピソードを語ってくれた。話し慣れている。これまでにも多くの人に同じ話をしてきたのであろう。銀河はここでカウンセラーのようなことをしていた。男で失敗して逃げてきた女たちの世話を焼いていたのである。
女を追ってきた亭主を張り倒したとか、逆に女のほうをさとして亭主のもとに返したりしたとか、そういう類の世話である。望むものには後宮哲学の講義をしたりした。
旅館の裏手に銀廟という小祠《しょうし》がある。縁結びの験《げん》があるとかで、若い娘に人気があり、多い日には百人以上も御参りに来るという。
銀河はそういう目で見られている。女将に歴史的な銀河の話をしてもぴんと来ない顔をする。
「へえー、正妃さんはそんな方だったんですか」
と驚いている。女将は銀河を、正妃さん、と親しみをこめて呼んだ。
「銀河が婦院にいたのは何歳くらいの時でしょうかね?」
と筆者は女将に訊いた。筆者の調べでは三十〜三十五あたりのはずである。正確にはどうなのだろう。すると、女将は、
「まだまだ、女盛りのときですから、十五、六と違いますか」
と驚いたことを言った。
「まさか」
と筆者が言うと、女将はくすくす笑って、
「正妃さんが年とったところなんて、想像できませんやん」
と言った。
そう言われてみると、確かに筆者にも想像できなかった。
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底本
新潮社
後宮《こうきゅう》小説《しょうせつ》
一九八九年一二月五日 発行
一九九〇年三月一五日 五刷
著者――酒見《さけみ》賢一《けんいち》