墨攻
酒見賢一
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(例)守禦《しゅぎょ》
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(例)田|巨子《くし》
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公輸盤《こうしゅはん》が楚《そ》のために雲梯《うんてい》という機械を設計製作した。雲梯は城郭《じょうかく》攻撃の際に兵を城壁に取り着けることに威力を発揮する兵器である。現代的に言えば消防車の梯子車《はしごしゃ》に似ているだろう。
公輸盤は魯《ろ》の生まれである。工匠として天下に名を馳《は》せ、その超一流の技術をもって楚に仕えた。彼の得意とするのはおもに軍事技術であったようだ。雲梯をはじめとして、水戦用には鉤距《こうきょ》という兵器を作り、楚王の寵《ちょう》を得ていた。とは言うものの公輸盤自身は無意味な殺生《せっしょう》は避ける主義であり、彼の技術が兵器として人殺しにばかり用いられることに少なからず不満を抱いていたのである。そして、ついにこの年、楚王は宋《そう》を攻め奪《と》ることを決意した。決意のきっかけが公輸盤の優秀な兵器であったことは否定できない。
だから、顔見知りの墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]《ぼくてき》が訪ねて来てそのことについて文句を言ったとき、
「そういう苦情は楚王に言ってくれたまえ。わしが計らって会見の席をもうけてやる」
とすぐさま請《う》け合った。
墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]は楚王に会うとまず、理をもって侵略戦争の不可を説いた。弁論を駆使して、侵略することが巷《ちまた》の盗人と同じであるとまで楚王に言わせたのだが、それでも楚王は侵略を正当化し、
「その上、公輸盤が余のために作ってくれた武器がある。これで必ず宋を奪い取ることができよう」
と言った。
そこで、墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]は難しい顔をして、公輸盤の兵器によって城を陥《おと》すことは難しいのではありますまいか、と言った。楚王は、ほう、という顔をした。
「そうか?」
そして、楚王の命により公輸盤が呼ばれてきた。公輸盤は会談が自分の発明した兵器の実効性に及んでいることについて驚いたし、何と言っても墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]が、かの兵器による攻撃を撃退することは児戯に属しまする、という高言を吐いたことを聞き、怒った。楚王の侵略を止《や》めさせるというのはいい。だが、公輸盤の兵器を貶《おと》しめてまで説くことには正直、腹がたった。ことは技術者のプライドの問題である。
今度は公輸盤と墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]の論戦となった。論戦では片が付かなかった。当然である。墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]は自分の帯を解くと床の上に四角にして置いた。城郭になぞらえてのことである。さらに墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]は、持っていた木札を置いて櫓《やぐら》の形を作った。模擬戦闘によって決着をつけようと墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]が申し入れたのである。公輸盤は自分が発明した兵器を使用する攻城法から、古来ある攻城法まですべてを駆使して帯の中の四角い面積を攻めた。九度攻め込んですべて墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]の守禦《しゅぎょ》の計に撃退された。公輸盤の攻撃策は尽きてしまったが、墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]の防御の策にはまだまだ余裕がありそうだった。
公輸盤は苦虫を噛《か》みつぶしたような表情で言った。
「なるほど。わたしはもう一つだけあなたを攻める方法を知っているが、それは言わないでおきましょう」
墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]も、
「ははは。公輸子がわたしを攻める方法をわたしもすでに存じておりますが、それは言わないでおきましょう」
と答えた。
公輸盤が退出した後で、楚王は興味深げに墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]に尋ねた。
「公輸盤がもう一度貴殿を攻める法とは如何《いか》に?」
墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]はべつだん気にしている様子もなく答えた。
「公輸盤の最後の手はわたしを暗殺することです」
墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]は当然だ、と言いたげだった。
「ですが、それでも失敗するでしょうな。なぜならわたしの直弟子の禽滑釐《きんかつり》が手勢を率いて宋に入り、楚の攻撃をいまやおそしと待ち構えておりますれば」
楚王はしばしの沈黙の後、言った。
「わかった。余は宋を攻めるのをやめにしよう」
墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]はその帰り道に宋の城下を通った。おり悪《あ》しく雨に見舞われた。墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]はとある門の軒下に雨宿りしようとしたが、門番がていよく追い払ってしまった。墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]はこのときばかりは悪態をついた。
「だれのおかげでこの城下が平和なのか知っているのか」
しかし、やがて墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]は苦笑いを浮かべた。
「物事が神妙のうちに運ぶというのは一面では功を誤ることになるのだな」
墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]は功は人々の目の前で争ったほうがよりよく衆人に伝わるのだと肝に銘じねばならなかった。
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一
『さすがに、ものものしい』
革離《かくり》は城門を訪《おと》のうたとき、そう思った。櫓《やぐら》の上から見張りの兵が大声で訊《たず》ねた。
「何者だ」
城壁の兵たちのある者は弩《ど》を構え、また、ある者は矛《ほこ》を光らせる。
革離の姿はひどいものであった。あちこち破れ綻《ほころ》んでいる粗衣を縄《なわ》で腰に結《ゆ》わえつけただけである。乞食《こじき》とも少し違うのは頭を青くなるほどに剃《そ》りあげていることである。要するに異様な風体をしている。
「私は革離というものだ。宋《そう》の田襄子《でんじょうし》から命じられて派遣されて来たものだ。御城主に取り次いでいただければ分かるはずだが」
「しばし、待たれい」
番兵は櫓の上から下にいる兵に怒鳴って、城館に走らせたようである。
かなり長く待たされた。革離は唯一《ゆいいつ》の荷物である麻袋を地に置くとその上に座った。革離は三日三晩、ほとんど休息を取っていなかった。彼は仲間内では神足と呼ばれているが、それは正しくない。たんに他の者より休息を取ることが少ないだけである。さすがの彼も疲労に押し潰《つぶ》されそうだと感じた。
革離がうとうとしていると、城門がぎこちなく開きはじめた。造作が悪いのである。軋《きし》みをあげながらゆっくり開いた。革離は門から直してゆかねばなるまいと思った。
きちんとした身なりをした数人が現れた。この城の上級の兵と役人であろう。一人が進み出て言った。
「あなたが田襄子|巨子《くし》から遣わされた方でござるか?」
革離は立って礼をして言った。
「さようです。革離と申します」
「革離殿と申されるか。ではこれからは革子とお呼びしよう。それがしは牛子張《ぎゅうしちょう》と申す。この城の大将軍でござる」
かなり聞き取りにくい訛《なまり》で言った。他の人物も名乗った。
「拙者は懐園《かいえん》と申す。将軍にござる」
「私は李艾《りがい》と申します。司徒(文化官)と司空(民事官)を兼ねつとめております」
革離は内心笑っている。
『このような田舎の小城で、なにが大将軍、司徒、司空だ』
と思っている。大国の官名をとりあえず、取り入れたものであろうが、そこがいかにも田舎豪族の国らしい。
「私は梁適《りょうてき》だ」
と白面の青年が言った。
「わが主上《きみ》の御子息にございます」
と李艾が付言した。
「痛み入ります」
と革離は言って、また礼をした。梁適と名乗った青年は刺すような目を革離に向けている。それがあまりに執拗《しつよう》だったから、
「このようなお見苦しい風体をしておりますが、どうかお許しください」
と言ってみた。
「構わん。墨者《ぼくしゃ》にはそれでも上等なのだろう」
と梁適は言った。
『なるほど、この若君は墨者に好意を持っていないようだな』
革離はべつに気にしなかった。よくあることである。
牛子張が勢い込んで訊《き》いた。
「それで、革離殿、後続の援軍はいつ到着なされるのかな。なにしろ、当城、万事急を告げておりましてな」
「そのようなものは来ませんよ。派遣されたのは私一人です」
「なんですと!」
牛子張は眥《まなじり》を吊《つ》り上げている。
「田巨子は援助を約してくださったはず! それが貴殿一人しか来ぬとはどういうことだ」
「違約でありますかな」
と李艾も青い顔をした。
「墨者は、約定《やくじょう》を違《たが》えるようなことはしません。げんに私が来ているではないですか」
「あなた一人で何の足しになるか。敵は趙《ちょう》の軍勢でござるぞ」
革離は平然としている。
「趙も何かと多難なようで。ここへ回される兵は多くとも二万程度にすぎません」
「二万! は、話にならない。わが城邑《じょうゆう》はひとたまりもなく踏み潰されてしまいますぞ。この城には兵士と呼べる者は千五百がやっと。それゆえわが主上は田巨子に援軍を頼まれたのですぞ」
「御心配には及びません。それだけいれば十分です」
と革離は言うが、一同の表情はこわばったままである。
「そもそも」
革離は疲労のため、面倒そうに説明する。
「趙がなぜ急にここ梁城を襲う気になったのかご存じか?」
「い、いや。だが、そんなことは……」
「目的は兵糧《ひょうろう》と軍夫、役夫です。魏《ぎ》が先年より趙と交戦状態にあることはご存じでしょう。断言は憚《はばか》られますが、おそらく来年には魏は邯鄲《かんたん》を囲むでしょう。その戦さでは、十中八九、趙が負けるはずです。つまり、現在のところ趙は劣勢なのです。故《ゆえ》にこそ、今時《こんじ》に燕《えん》との外交関係を害《そこな》ってまで、ここを攻め奪《と》ろうとしているのです」
「そんな説明はどうでもよい。革子、来年の話ではないのでござるぞ。趙はじきにここに寄せて来るのでござる。前回、やって来た趙の使者をわが主上は逐《お》ってしまわれた。それも田巨子の援軍をあてにしてのことであったのに。我々は魏が趙を破るとか、そんな都合のよい話を待ってはおれんのですぞ。それとも、何か、革子がその弁舌をもって趙を説き伏せてくれるとでも言うのでござるか?」
革離は多少いらいらしてきた。
「だからです。次の魏と趙の戦さ、これは来年早々にでも開始されると田巨子は考えておりますが、それまでこの城を守り抜けば趙兵も自《おの》ずから退いてゆかざるを得なくなるということです。わずか、半年ばかりを守り抜けばよいのです」
「だが、革子、籠城《ろうじょう》するにしても二万の趙兵に攻められれば、わが城など一、二日も保《も》つかどうか……」
「李艾殿、そのために私が来たのです。半年はおろか一年でも守って見せましょう。半年守るくらいなら援軍など要らないのですよ。田巨子はそこまでお考えの上で私を一人派遣なさったのです。田巨子を信じることです。ついでに私も」
「う、む」
その時、さっきから黙って革離とのやり取りを聞いていた梁適が口を開いた。
「牛将軍に懐将軍、城門で押し問答してもはじまらぬ。とりあえず客人を中に案内したほうがよいのではないか」
「や、ま、そうでございますな」
梁適は革離を冷ややかな目で見ている。
「こちらへ。革子はお疲れの御様子。まずはゆるりと休息していただこう」
牛子張が先に立った。
「若君、それより、お主《あるじ》の梁殿にお目通り願いたいのですが」
と革離が言った。革離は疲れ切っていたが、何事も最初が肝心である。
「ああ、そうでござるな」
牛子張は言って、小者《こもの》を走らせようとした。
「牛将軍、無駄《むだ》だ」
と梁適が吐き捨てるよう言った。
「先刻、私が取り次ごうとしたとき、父上はまだ寝所《しんじょ》におられた。あの踵《しょう》夫人と一緒だ。だから仕方なく私が迎えに出たのだ」
「それでは明日にでも」
革離は頓着《とんちゃく》しなかった。
「ところで将軍、私の寝所は下男部屋の隅《すみ》にでもお願いしたいのですが」
「まさか、革子をそのような場所に」
と牛子張が言ったが、
「いいのだ、将軍。墨家の徒は最低の待遇を貴ぶと聞いている。そうだな、革子」
と梁適が遮《さえぎ》るように言った。
「それはどうも」
「私にはわからんな。お主《ぬし》たち墨者がどういうつもりでいるのか。よその国の紛争を煽《あお》るように乗り込んでくる。まるで傭《やと》い兵と同じではないか。その一方では非攻だの兼愛だのと唱えておる。妙な話だ」
「失礼ですが若様、私を招いたのは御父上ですよ」
「ああ、そうだ。私は止めたのだがな。理をもって説けば、趙とて不義なことはすまい」
「それはどうですかね」
「それに、戦うとなったら、付近の有力者の力添えもあろうし、燕の加勢も期待できるというものだ」
それはないですな、と革離は言いかけたが、黙った。この付近の城主は趙に服すことをすでに成約している。また、燕は度重なる不作のため国力が落ち込んでいる。梁城のために兵を出すなどまず有り得ない。世間知らずの若者に言っても仕方のないことである。
「若様、私は別に戦争をしにきたわけではありませんよ。私はこの城を守るだけです」
「ふん。守るということは敵を攻めることと同じではないか」
「いいえ。そうではありません」
「墨者の詭弁《きべん》なぞ私には通用せんぞ。ただ、一番分からんのはお主らが無報酬で働くことだ。しかも、下男並みの扱いで平気でいる」
「それがわが教団の規矩《そまり》でございますから」
「とにかく、私はお前を信用せんぞ。お前たちは理屈に合わん。気味が悪いほどだ。私が城主であったならば絶対にお前を城に入れるようなことはしなかったろう。金を払ってでもやくざ兵を傭ったほうがよほどましだからな」
梁適は自分の語気に興奮したように、ぷい、と顔をそむけると足早に去った。
『やれやれ、嫌《きら》われたものだ』
と革離は思った。
「若君は墨者が嫌いらしいな」
と牛子張に言うと、
「若君は物知りでござるからな」
と答えた。
革離は望み通り薄汚い部屋に案内された。
「本当にここでよろしいのでござるか」
と牛子張は不思議そうな顔をして、出て行った。革離はその部屋の隅に寝藁《ねわら》を延べるとごろりと横になった。次の瞬間にはもう深い眠りに落ちていた。
墨子(墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]《ぼくてき》)という奇妙な思想家が活躍していたのは紀元前五世紀|頃《ごろ》だと推定されている。墨子に関しては司馬遷《しばせん》ですらも、
「蓋《けだ》し墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]は宋の大夫《たいふ》。守禦《しゅぎょ》を善くし節用を為《な》す。或《あるい》は曰《いわ》く、孔子の時に竝《なら》ぶと。或は曰く、その後に在りと」
で片付けざるを得なかった。字《あざな》も分からない。字どころか墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]という名前にすら疑問があり、由来に諸説がある。彼に関する資料の乏しさは甚《はなは》だしいものがあったようだ。ただ、そのおかげで墨子はいろいろなところに顔を出すことができる。仙人伝集の「神仙伝」では、墨子は最後には道法を行じて地仙となった。漢の武帝が墨子を招聘《しょうへい》しようとしたが断ったというような話になる。墨子とその思想は道教関係書の中に隠れたおかげで清《しん》代にまで伝わることができた。
墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]の死後に編集された「墨子」七十一篇(現存しているのは五十三篇)が墨子についての直接の資料となる。これと「呂氏《りょし》春秋」「荘子」などに散見する記述を併《あわ》せて見ると、かろうじて墨子とその集団の姿をとらえることができるのである。
非攻篇上は墨子の思想のうちでも最もプリミティブであり、よく知られているものの一つである。この一篇は墨子自らの手になるものであったという可能性が高い。それに云う。
「一人の人間を殺せばこれは不義であり、必ず一死罪にあたる。この説でゆけば、十人を殺したものは不義が十倍であり、十回分の死罪に相当する。同様に百人を殺せば不義は百倍であり、百回の死罪に相当するべきところだ。この真実は天下の君子と称する人々はすでによく承知しており、その通りそれは不義である、と言ってくれよう。しかし、それがこと戦争となるとそうではない。他国を攻めて大いに人を殺しても、不義であると言わないばかりか、かえってこれを賞賛して義であるとする。(じつに不合理で不可解なことである)彼らは義と不義の区別を知らないと言わざるを得ない」
戦争を仕掛ける君主は千回も一万回も死刑に処せられてしかるべきであろう。墨子は現実の不合理さと特に知識人代表である君子に対する非難を隠していない。墨子は「一人を殺せば単なる犯罪者だが、戦争によって多くを殺せば英雄である」という警句を二千年も前に憤激とともに吐き出しているのである。この主張を墨子は遺言のような形で弟子たちに伝えたのではないだろうか。百家争鳴の戦国時代が思想的にはかなり自由であったとはいえ、この墨子の非戦論はラジカルに過ぎ、危険だったのである。
一般には墨子は、踵《かかと》から頭のてっぺんまで摩《す》り減らしてでも他人に奉仕する、刻苦勤労の人であったとして知られている。また、非攻の論の論拠となる「兼愛説」も唱えた。これは相愛すことである。己を愛するように他人(父、兄弟、主君など)を愛する相互的な愛が求められる。子や臣は自分を愛するように父や君に接すれば不忠不孝はなくなる。他人の家を自分の家と同じように見るならば盗賊は絶える。他国を自分の国と同じように愛するならば戦争はなくなる。墨子の兼愛は自己愛を拡大してゆき治国平天下にまで及ぼしてゆくものであり、博愛主義の主張ともなる。西欧人の中には、
「墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]の教えは何ら誇張なしに、イエス・キリストの教えと比較することができる。この二人とも神の愛と隣人の愛を要求する」
と記す者もいる。墨子は天を人格神のようにとらえて、これに事《つか》えることも説いている。
「中国が生んだ唯一《ゆいいつ》の愛の使徒、正義の騎士であった」
墨子はキリスト者からも注目されるほどの博愛主義者であり奉仕者であった。墨子は、「席の暖まることがなく、家の煙突にまったく煤《すす》がつかなかった」ほどに家を空けて諸国を巡り、働き通してその生涯《しょうがい》を終えた。
だが、彼らは墨子のもう一つの側面を見逃している。知っていれば墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]をキリストと並べて誉《ほ》めるようなことはしなかったはずだ。墨子と彼の教団は戦闘集団でもあった。墨子教団の長を巨子(鉅子)と呼ぶが、その巨子のもとに精強無比の軍団が日夜、戦闘、戦術の工夫に精励していた。
また、墨子は優秀な技術家でもあった。彼は頑丈《がんじょう》な車轄《しゃかつ》を作ることができた。手製の鳶《とび》(凧《たこ》のようなものらしい)を一日中飛ばすようなこともした。巧みな工人であった。墨子とその弟子は幾多の兵器を考案作製し、実戦に使用し、さらに有効な兵器に改良していった。墨子の教団は軍事技術者の集団でもあって、それも戦国時代の最高のレベルにあった。
しかし、墨子は自ら侵略することは絶対にしなかった。ただ、守る、のである。墨子教団の精兵と優秀な兵器が用いられるのは城邑《じょうゆう》防衛戦に限られていた。墨子やその弟子たちが編み出した戦術もすべて、守ること、のみを主旨としたものであった。
「墨守」という熟語が、墨子教団の守禦戦術の堅さから出ていることはあまり知られていない。初代巨子であった墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]の死後も、後継者たちは墨子の教えを墨守して戦国の世に臨んでいた。
使い古された言葉だが、弱肉強食は戦国のならいである。大国は領土と民衆を貪欲《どんよく》に求める。中小の国や豪族の城は次々にその侵略の餌食《えじき》とならなくてはならない。墨子教団が傭兵《ようへい》部隊というおよそ非戦的でない性格をも兼備していたのは、大国の侵略に対抗するためであった。非攻の説を口先だけで終わらせないためには、身をもって大国の侵略を挫《くじ》いて見せるしかない。そのために彼らはほとんど無報酬で戦闘に従事しなければならなかったのである。
現在墨子教団の本拠地は宋にある。教団の巨子は田襄子という男で、これも開祖墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]にならい奴隷《どれい》のように働いて過ごしている。今回、趙と燕の境にある土着の豪族の梁氏から救援要請の使者を受け取った彼は、情報を分析した上で一人革離を差し向けた。墨家の徒は、これでも各国の政界に浸透している。情報収集は容易であった。革離は田襄子の右腕と目される優秀な守禦技術者である。革離は楚《そ》の小城での二年にも及ぶ籠城戦からやっと帰ったばかりであった。しかし、これもまた勤勉の代表のような男である。命ぜられるままにすぐさま梁城へ赴いたのであった。
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二
翌朝、革離《かくり》はまだ暗いうちに起き出して城の外へ出た。革離は夜明けの光を浴びながら城の周囲を何度か回った。城郭《じょうかく》は方一里ほどであるが、外郭が全周に及ばず、不完全である。また、あらゆる部分が守城においては杜撰《ずさん》であった。革離は早速始めねば、間に合わないと思った。
革離の表情にはどこか冴《さ》えないものがあった。考えながら歩いている。じつのところ、今回の梁《りょう》氏への援軍に田襄子《でんじょうし》は反対であった。田襄子には何か腹案があるようで、この北のはずれの城を守ることに難色を示していた。革離は根っからの墨者《ぼくしゃ》である。それよりも筋金入りの戦争職人と言ったほうがいい。田襄子の政治的な腹案などは墨子の教えとは関係がないと思った。彼が自ら行くと言った時、田襄子はいい顔をしなかった。
「弱きの救援を行うのは我らの規矩《きまり》です」
と革離は単純明快に言った。革離が思うに田襄子は戦闘以外の方法で大国の侵略戦争を防ごうと考えているようであった。昔、墨子は侵略が行われると聞くとまず出かけて行って大胆にも王だろうと大臣だろうと構わずに詰《なじ》った。しかるのちに説得を施す。それでも相手が考えを翻《ひるがえ》さないときは、仕方なく恐るべき戦闘者となったと聞いている。説得が通じなければ守城の戦さをやるしかないではないか、と革離は素朴《そぼく》に思っている。
「しかし、お主《ぬし》にも薄々わかっているのではないか」
そう言ったのは薛併《せつへい》という男である。生え抜きの墨者ではない。何年か前に墨者となり、今は田|巨子《くし》の相談役を自認している。魯《ろ》の士大夫《したいふ》階級の出であるというふれこみであった。子俚《しり》という字《あざな》を持っている。薛併は守城に従事はしなかった。田襄子の側近にあり、学理面の充実に力を注いでいるということだ。
「弱い者を救うだけではまだ足りないのだ」
革離は薛併が嫌いであった。儒者くずれで、胡散《うさん》くさい事を田襄子に吹き込んでいるとも聞いていた。
革離は幼児の頃、二代目の巨子であった禽滑釐《きんかつり》に可愛《かわい》がられた。長年の労働で禽滑釐の顔は黒ずんでひび割れ、その手はまるで石を組み合わせたようにごつごつしていたことを覚えている。やがて、禽滑釐もどこかの城で死んだ。あっさりした葬儀が行われた時、革離は泣き出してしまった。すぐに隣にいた者が咎《とが》めた。墨家の徒は泣いてはいけないのである。
革離が十かそこらになった頃、尊敬していた孟勝《もうしょう》が巨子となった。孟勝という男は火のような激しい性格をしていた。戦闘は無類に強かった。しかも、優しかった。革離がまとわりついて話をねだると、一、二回は追い払われるが、最後は必ず膝《ひざ》の上に乗せてくれた。墨者はもちろんのこと、孟勝を知るだれもが彼を尊敬した。墨子がつねに語ったという義そのものを表した人間に思えた。革離は墨者として、天の次に孟勝を崇拝の対象としていた。ただ、孟勝は墨者としては申し分がなかったかもしれないが、政治的ではまったくなかったようだ。孟勝は荊《けい》(楚《そ》)の宗族の陽城君《ようじょうくん》の客となり、義盟を結んでいた。楚に内乱が起きて陽城君の城は楚王の軍隊に囲まれることになった。孟勝はこの小さな城を守って鬼神のような奮戦を続けた。すでに陽城君は逃亡に成功していたにもかかわらず、孟勝は戦いを止めようとしない。孟勝は数か月にわたり痛烈に戦ったが、ついに城門を破られた。城を守り通せないことを恥じた孟勝は自害を決意した。その時、孟勝の弟子の徐弱《じょじゃく》が必死に諌《いさ》めて言った。
「陽城君のためになるのならばそれでもよいですが、今ここで自害することは犬死にですぞ。孟勝巨子が死んでは、墨者はこの世に絶えてしまいます」
だが、孟勝は、
「もしわしがここで死ななかったら、もはやこれがら天下の王公大人は墨者を信用せず、墨者から師友を求めなくなるだろう。わしは城を守ると陽城君に約束した。それがかなわぬいま、死ぬことこそが墨者の義の証《あかし》となるのだ」
と言い放った。徐弱はそれを聞くと、
「分かりました。では、まず私の首をはなむけに!」
と自刎《じふん》して絶えた。孟勝は、巨子の座を宋《そう》の田襄子に譲るという旨の使者を出すと、城を枕《まくら》に討ち死にした。従った部下は百八十六名を数えたといわれる。
宋でその使者を受け取った田襄子は悲嘆の声を上げた。使者はすぐさま復命に戻ろうとした。彼らも孟勝と一緒に死ぬつもりだったのである。
「今から巨子は孟勝殿ではなく私なのだぞ。私の命令を聞け、無駄《むだ》に死にに行くな」
田襄子はこう叫んで制止したが、彼らは振り切って死地に帰って行った。
「ああ、孟勝殿こそ開祖以来の真の墨者である」
田襄子は頭《こうべ》を垂れた。
この知らせを聞いた時、革離は別な場所で働いていた。革離は泣かなかった。すでに墨者となった上は孟勝の志を継ぐのみ、と決意を固めていた。
革離は守城の依頼に否《いな》やを言うような男ではなかった。田襄子もよく承知していて、革離の有能さと勤勉さを買っていた。ただ、田襄子はこれまでの墨家の中には出現しなかったタイプの巨子であった。政治性が濃厚なのである。墨者が尊ぶのは「任《にん》」でなければならない。任とは任侠《にんきょう》である。士が己を殺して他を益することである。孟勝はそれを全身で表して死んだ。田襄子ももちろん任を尊ぶ。ただ、尊び方が少し違う。その違いに拍車をかけようとしているのが薛併であった。
「革離よ、私は近く秦《しん》と結ぶつもりだ」
革離は表情を変えなかった。そういう訓練を自らに課している。
「秦は西にあり、文はたち遅れ、武も弱い。だが、秦王は聡明《そうめい》にして、国力の充実につとめておる。そこで、私たちが秦に手を貸すとしよう。どうだ。秦の力で趙《ちょう》、魏《ぎ》、韓《かん》、燕《えん》、斉《せい》、楚を平らげてしまうのだ。難しいことではない。その後に、秦を我々で滅ぼしてしまう。そして天の下には平和で平等で愛にあふれた世界ができあがる」
革離はさすがに顔色が変化している。
「つまり、そういうことだ。お前には秦に行ってもらいたい。そして、お前の力で秦の城を強固に固めてもらいたい。この大略の前ではもはや以前のような目先の小城の取り合いは控えねばならない」
「田巨子は一体なにを仰《おお》せか」
革離は平静でなく言った。
「いま言った通りだ」
「私は御免です」
革離は言った。
「秦が攻められて難儀しているとでもいうのなら、すぐにでも出向きましょう。だが、逆ではないですか。秦は確かに諸国に比べればまだ弱い。故《ゆえ》に今、近在の小国を併呑《へいどん》することに力を入れ始めております。秦は不義の行いをなそうとしております。いずれその方から我々への救援の依頼が次々に舞い込むことになるでしょう。巨子は私に秦の不義を手伝えと言っておられるように聞こえます」
「革離。大義のためだ」
「巨子は任をお忘れか。その大略もそこなる薛併あたりの入れ知恵でしょう」
薛併は薄笑いのような表情で黙っている。
「私はもとより任だ。ただし、広い。以前、孟勝巨子は狭い任のために命を落とした。私はその失敗を繰り返さぬために敢《あ》えて広い任を行うつもりだ。広い任は時には不義に見えることもあろう」
「孟勝巨子のことを責められるのか!」
革離は常に必要以上に冷静な男だったが、この時ばかりは、憤激の色をあらわにした。それを見て田襄子も驚いた。
「そのようなことは言っていない」
「私は梁郭《りょうかく》へ行きます。救いを求める小城を見捨てて何で墨者と申せましょうか」
と革離は言い切った。革離にとっては孟勝はいまだに崇拝の対象である。ひょっとすると革離は開祖墨子よりも孟勝を重要に思っているのかもしれない。田襄子が今の革離の主人であるとはいえ、許すべからざる言葉であった。田襄子はつとめて平然と言った。
「ならば、行け。ただし、お前一人だ」
所詮《しょせん》、革離のような有能な男でも自分の立場と政略を理解することはできないのか、という怒りが異常が命令を下させた。そばに居た者がぎょっとした面《めん》をしている。一人で守城に行くなど今まであったためしがなかった。革離もまた平然とした態度に戻っている。頓首《とんしゅ》の礼をすると黙って出立《しゅったつ》した。薛併の薄笑いが頭に残っている。
『田巨子の言には一理あるだろう。だが、薛併の奴《やつ》は気にいらない。私はこうするより他はないのだ』
革離は梁城の城主である梁渓《りょうけい》に会見を許された。革離はもはや仕事をすることだけを意識のうちに置いている。梁渓は六十過ぎのでっぷりと肥えた老人であったが、傍《かたわ》らに立っている二人の女の若さが彼の精力が意外に盛んであることを示している。
「よく来てくれた。ありがたいことぞ」
と梁渓は言ったが、その声には不満の響きがある。革離がたった一人の兵も連れていないことが原因である。
革離は能率主義者らしく、社交辞令を省き単刀直入に切り出した。
「梁殿はこの度の戦さでは生き延びたいとお思いでしょうか?」
梁渓はむっとしたように言った。
「むろんじゃ。故にこそ田巨子を頼んだものを……」
「されば」
革離は声を大きくした。
「この城の兵の事に関しては、すべて私に任せていただかねばなりません」
「うむ……?」
「私に牛《ぎゅう》将軍以上の、いや、梁殿以上の指揮権を与えていただきたい。そして、司空の李艾《りがい》殿も私の権限下に入っていただく」
「そ、それは……」
梁渓は口ごもって左右を見た。相談役の老臣などを見るのだが、誰も黙っている。牛子張《ぎゅうしちょう》が言った。
「革子には、それはちと無体《むたい》な要望ではござらぬか」
革離は議論する気はない。ここは呼吸である。
「なりませぬか。それならば私は失敬いたすだけです」
「それは、ちと、待たれよ」
「これは必要なことです。これがならぬならば私は手を引く。これは田巨子の意思であることもお忘れなく」
梁渓は牛子張、李艾、懐園《かいえん》、相談役などを近くへ呼び、相談している。彼らの背後に、いらいらと立っていた梁適《りょうてき》が言った。
「父上、何を相談することがあるのです。引き取ってもらえばよいではないですか」
梁渓に詰め寄った。
「どこの馬の骨とも分からぬ男が、たった一人でやってきて当城を守るなどとは笑止この上ない」
「適、口を慎まんか。革子は田巨子の派遣した方だぞ」
「それがどうだというのです」
墨子教団の首長である巨子は一種の聖人的な存在であるとみなされている。墨子の学説には宗教性を強調した部分がある。墨者は天帝を祀《まつ》り鬼神に事《つか》える。巨子は天志(天の意志)を汲《く》み、代表する人間ともされている。巨子は民衆の信仰の対象とも成り得た。当然のことながら畏《おそ》れるべき存在である。
「こんな得体の知れぬ男に我々を自由にする権利を与えるつもりですか!」
「お前は少し黙っておれ」
革離は黙って待っている。やがて、相談がまとまった梁渓が革離に向きなおった。
「革子、どうだろう。牛将軍の顔も立ててくれんか? 二人で将軍をつとめては……」
革離は首を振った。
「それならば革子、もしも、おぬしに全権を委《ゆだ》ねれば、その、必ず勝つのであろうな」
「勝つ、ですか?」
革離は少し考えてから言った。
「勝ちはしません」
「何だと! 革子はわしを愚弄《ぐろう》する気か」
「梁殿は、趙を相手にしてこの城邑《じょうゆう》の兵力で勝てるとお思いですか?」
「それは、思うてはおらぬが」
「そうでしょう。勝てる道理はありません。私にできることは守ることだけです。ですから先ほど生き延びたいですかと尋ねました」
「それなら、革子、生き延びることを保証できるか!」
「梁殿。私はここでこの城の皆さんと一緒に戦うのです。死するも一緒ならば生きるも一緒でございます。その上に何を保証しろと言うのですか」
「……」
「私は守城に全力を尽くしますが、それ以上のことは保証しかねます。この城が陥《お》ちれば私も死ぬわけですから、敢えて、保証はいたしません。或《あるい》は、私の命が保証とはなりませんか」
梁渓は落ち着かなげに左右をちらちらと見ながら言った。
「あいや。分かった。革子よ、お願いいたす。何卒《なにとぞ》、この郭邑《かくゆう》を救ってくだされ」
梁適はその瞬間、座を蹴《け》って去った。
革離は懐《ふところ》から玉を取り出した。※[#「王+黄」]《こう》と呼ばれる半円形に削り出した玉である。
「槌《つち》を貸してください」
と革離が言った。槌を渡されると革離は※[#「王+黄」]を二つに砕いた。一方を梁渓に渡し、一方を懐に戻した。
「この※[#「王+黄」]のふたつの破片がぴたりと符合する限り、私は義を守るでしょう」
と革離は言った。墨者の契約の儀式にはいくつかやり方がある。革離は孟勝が好んだ※[#「王+黄」]による契約を行うことにしている。
「うむ。頼むぞ」
梁渓は破片を手にとって、握《にぎ》るように言った。
「では、梁殿」
突如、革離は豹変《ひょうへん》した。威厳に満ちた声で叫んだ。
「只今《ただい主》よりこの城は私の支配下に入った。皆の者、私の言うことをすぐに実行してもらいたい」
官吏たちに向かって言った。
「この度の戦さはこの城の存亡のかかった、全面戦争である。したがって、この邑《ゆう》の者は老若《ろうにゃく》男女の別を問わず戦ってもらう。足手まといの病人や乳飲み児《ご》だけはどこか一か所に集めておく。よろしいか」
是非はなかった。梁渓はすでに契約を交わしている。
「では、牛将軍、広場にこの邑の全員を集めて整列させてもらおう。李艾殿は邑人の名前と数を書き留めてもらう。懐将軍はすべての城門を閉じて見張っていてもらおう。しばらくは誰の出入りも許さない。特に富者は絶対に城外に出してはならんぞ」
革離は一同をきっと睨《にら》み据《す》えた。
「半刻以内に実行するのだ」
革離はこれからたった一人ですべての守城の準備を整えねばならない。その段取りが恐ろしい勢いで頭の中を回転している。
官吏たちが走り回っている間、革離は案内させて城内の民家、城館、倉庫、家畜小屋などをつぶさに視察している。食糧、油、家畜、薪材、建築材、陶器、鋼、鉄、瓦《かわら》、石ころ、馬糞《ばふん》に至るまですべては戦略物資として革離の監督のもと厳しく管理されなければならない。
牛子張があたふたとやって来て、広場に邑人を集合させたことを告げた。
「では行こう」
邑人たちには革離のことはかの有名な巨子田襄子の代理人であると説明されている。革離が台の上に立つと伏し拝む者もいた。
「皆よく聞け。梁城に趙の軍勢が攻め寄せようとしていることは聞いておろう」
邑人たちはそのことで夜も眠れないほど怯《おび》えていた。ざわめいた。
「趙兵の凶暴さ残忍さを私はとくと知っている。きゃつらは、弱く小さな城を襲うことを楽しみとしている外道《げどう》どもだ。襲われた城の男はすべて奴隷《どれい》に落とされ、老人子供は皆殺しにする。女もみさかいなく犯し殺し奴隷とする。食糧も家畜も根こそぎに奪って行く。私はそういう話を何度も聞いた。実際に見たこともある」
趙兵に限らない。どの国の兵もそうだと革離は知っている。
「だが、安心せよ」
革離は威厳をもって言い切った。
「私が来たからには必ずや趙兵を退け、ここを守って見せよう。私は子墨子の守禦《しゅぎょ》の術を学び、田巨子のもとで幾度も城を守って戦い抜いてきた。いずれの城も守ることができた。私たちには天の意志が味方をしてくれている。不義の兵に負けることは有り得ない」
邑人の不安をもうひと吹きせねばならない。
「子墨子は義の人であられた」
墨家の徒は墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]《ぼくてき》を「子墨子」と呼ぶ。子をつけるだけでも尊称となるのに、さらにもう一つ子をつけて呼ぶ。二重の尊称になるのかもしれないがはっきりしない。
「子墨子は天志を得て、大国の非道に泣く百姓《ひゃくせい》のために守禦の術を研究なされた。上は尭《ぎょう》の道から下は武《ぶ》の道にわたり、義をおさとりになったからである。まことに子墨子は聖賢の道を継ぐ方である。しかるに、天下は乱れ仁義は地に落ち、仁義は口にすれども不義の戦さをなおなす国々のはびこる世となった。孔子を語る者は聖賢の道を口に上らせるくせに大国の不義の戦さを止めようともしない。子墨子はそれらの偽仁者《にせじんしゃ》とは違う。身を盾《たて》にして不義をとどめようとなさった。そのような子墨子に天が力を貸さぬことがあろうか」
革離は短刀を抜いて、自らの腕にあててすっと引いた。革離はその血を地に滴《したた》らせた後、すすった。
「見よ」
叫んだ。
「わが血を吸った地を、私は必ず守るであろう。そのためには皆は命を賭《と》して私の下知《げじ》に従わねばならない。よいか」
邑人はくぐもった声を上げている。その中から三老の職にある老人が進み出て言った。
「わたしどもの土地はここでございまする。祖先の亡骸《なきがら》も代々ここに眠るものでございます。どうして他国の者に踏みにじらせましょうか」
老人は革離に二度、辞儀をした。
「わたしどもは皆ことごとく革子の下知を天の言葉とも思い、従うでしょう」
「うむ」
革離は大きくうなずいた。この瞬間に革離はこの城の独裁権を得た。また、それは絶対に必要であった。
「では。申し渡す。よく覚えよ」
革離は梁城を墨家の法によって統制せねばならない。
「ここにいる全員が兵士だ。例外はない。まず、全員は五人の組に分かれねばならない。その組を伍《ご》という。一人を長として伍長とせよ。伍は集まって十人にならねばならない。それを什《じゅう》という。什長が統率し責任を持つ。什は集まって百人とならねばならない。その集まりを伯《はく》という。一人が伯長となり、統率せよ。それが今後の皆の身分となる。これからはすべてその単位でなければ動いてはならない。そして、伍の一人が誤りを犯した場合は残りの四人も同罪として連座せねばならない」
まず、戦闘単位を申し渡した。広場の邑人は約四千五百ほどである。官吏が走り回って分けているが、能率が悪かった。
「男と女は同じ伍にしてはならない。そして、これからは不用意に男女の部隊は交わってはならない。女子の隊は必ず道の右側を行き、男子の隊は左側を行くこと。並行することは禁ずる。もし背けば即刻|斬首《ざんしゅ》する。姦《かん》を犯せし者も同様、斬首して屍《しかばね》をさらす」
革離は振り向いて梁渓《りょうけい》に言った。
「殿の側女《そばめ》がいませんな」
「あれはわしの世話をさせるからな」
「なりません。彼女らにも戦っていただく」
革離は命じて側女を館《やかた》から連れ出させた。梁渓は不満そうな顔をしたが、何も言えなかった。
「よいか。この仲間の顔をしかと覚えておくのだ。点呼の際に欠けておれば、全員|斬《き》ることになる」
そして、李艾《りがい》に命じて人帳を作製させる。また、革離は工人、陶人など、技術のある者だけを集めて伍、什、を別置させている。革離はまだ百数十の規則を述べなければならないが、一時に覚えさせるのは難なので特に重要なことのみを言った。脅す必要もある。
「大将は城内を往き来させる兵卒には必ず信符を持たせよ。もし、持っていなかったり、合わなかったりすれば伯長以上の者が責任を持って大将に知らせる。その際、違反があれば伯長と違反者を斬る。戦闘において怠慢なふるまいがあれば、即座に斬る。もし、無断で城を出たり、敵に内通するものがあれば見つけ次第、斬る。また、人質として妻子一族同罪として斬る。失火した者は斬る。放火するものは車裂きに処す。また、自分の家が燃えているからといって、持ち場をはなれて消火しようとする者は、斬る」
梁渓は革離が斬ると発音するごとに身を震わせた。顔が蒼《あお》い。
「敵前逃亡は斬る。卑怯《ひきょう》未練な者は斬る。投降する者は当然斬るが、投降者を出した伍、什、伯の長も斬ってさらす。将帥《しょうすい》の命に背く者は斬る。仮病を使ったり、故意に傷を作って休もうとする者は斬る。よろしいか」
邑人はすでにしんと静まっている。
「恩賞はこれを惜しまない。手柄《てがら》を立てたものには男には爵《しゃく》二級と賞金を与え、手柄を立てた女には五千銭を与える。戦傷者は家で保養してよいし、医者の手当を受けさせ、酒を二升与える。戦死者には相応の金を与えて弔《とむら》うが、葬式はすべて戦さの後だ。その場で泣くことは禁止する。死体は一か所に集める」
革離は葬式を禁じる理由が、じつは戦闘が進み食糧が欠乏したときには人肉を食べなければならないためであることは言わない。
「謀反《むほん》を計る者はむろん誅殺《ちゅうさつ》する。事前に密告したものには金二千|斤《きん》の恩賞を与える。その他の日常の規矩《きまり》は墨家の法に従うこと。そして、この私の命令に背くものは誰であれ誅殺する」
革離は梁渓を見た。城主であろうと誅殺できるのだ、と目で言った。
墨家が戦国時代の他の集団と比べて異色だったことの一つはこの専制的な軍隊組織機能であった。墨子教団は内部に厳しい規律と統制をあてている。それは賞罰を基本とした法律である。その法律はすぐさま軍隊に適用できるほどのものであった。墨者が傭兵《ようへい》として派遣され民衆と共に戦うときは、教団の普段の規律をあてるだけでよいのである。
革離は一同を見渡した。邑人《むらびと》も官吏も革離の宣言の凄《すさ》まじさに肝《きも》を抜かれたようになっている。革離は、戦慄《せんりつ》している人々におもむろに言った。
「では、第一の命令を下す。三十里以内の薪材や木材をすべて城内に運び込むのだ。食糧になるものも集める。五の伯がかかれ。肉は今のうちに乾《ほ》すか、塩辛《しおから》にして保存がきくようにしておけ。家畜は大事にしなければならない」
李艾には食料、燃料、工事資材の買いつけ方を命じてある。この時期に近隣の農民や城郭が分けてくれる量などたかが知れているだろうが、少しでも多くの物資を集めておきたい。
革離は工人の伯を呼んだ。彼は什長たちに図を書いて示して、それを作るように命じた。見たこともないような部品もあり、工人たちは首をかしげている。鍛冶《かじ》の什にも、図面を引いて指図した。陶人にも同じである。
革離は平然と命令を下し続けているものの、焦《あせ》りを禁じ得ない。本来ならこの各方面への命令は複数の墨者が分担してやるものである。革離は食糧保存から武器の製作、城壁補強、塹壕《ざんごう》の掘削《くっさく》、井戸の掘削、兵卒管理に至るまですべての指示を出さねばならないのである。
革離はいつもは工人の指揮を担当し、兵器作製をまかされる。今回は彼の不得手な作業まで指導をせねばならない。また、さっき革離が長々と述べた城内の統制規定を取り締まるのにも専門の者がいる。革離はそういうことにも不得手を感じている。これほどの広範囲の指導を一人で行うのはほとんど人間|業《わざ》ではない。しかし、革離はやらねばならないと決意している。彼のプライドは自分にならそれができる、と伝えていた。革離はいつも一緒に城に入っていた頼りになる連中の顔を思い浮かべて、不意に、また、田襄子《でんじょうし》への憤《いきどお》りを感じた。
革離はある伯には縄《なわ》をなわせ、ある伯にはその縄を使って材木を一定の形に束ねさせたりしている。そうかと思うと城壁へ泥《どろ》を塗り込める伯へ督促に出向く。さらに、別の伯には矢を作らせたりしている。嫌《いや》になるほど下手くそであった。みな、この手の仕事には素人《しろうと》なのである。革離はまず自分で作って見せて、やり方を飲み込ませた。素人たちには革離の手際《てぎわ》のよさは、まるで手品かなにかのように見えた。そうするうちに日が暮れてきた。革離は牛子張《ぎゅうしちょう》を呼ぶと、城門司馬を何人か任命させて、夜間警備の初歩を教えて実行させた。
革離は夜中も眠らなかった。やっと落ち着いたような顔をして、工人の作業場にいる。篝《かがり》火の薄明かりのなかで、自ら墨縄を打ち、木を削り、鉄を加工した。当番に決められた工人たちが付き合って作業している。彼らは革離の手つきの巧みさを見て感嘆した。革離はこの時は気さくな様子で工人たちにこつを教えてやった。革離の工人としての技術は一級品である。革離は自分の手を動かして物を作っている時がもっとも落ち着いた。
数日が過ぎた。革離は趙《ちょう》軍が梁城を囲む日を正確に知らねばならなかった。すでに、最初の日に偵察《ていさつ》隊を出している。革離は邯鄲《かんたん》からここまでおそらく趙軍が通るであろうと思われる道を歩いて来ている。趙軍の様子が分かれば、どのくらいの時間で戦闘に入ることになるかをかなり正確に推定することができる。最低でもあと一月は猶予《ゆうよ》が欲しいと祈っている。
城館の梁渓は頭を抱えていた。
「まさか、こんなことになるとはのう……」
「仕方がありませんな。父上」
と梁適《りょうてき》は不機嫌《ふきげん》に言った。
「確かに今のところ革離のやり方はもっともです。戦さに勝つためには規律は必要ですし、それなりの準備も」
「そんなことはどうでもよいのじゃ。わしが困っているのは側女を取られたからだ。踵《しょう》夫人だけは残しておいてくれるように頼んでみるか……」
梁適はちっと舌打ちした。梁適も彼の愛人を軍隊に取られていた。
「父上。戦さが始まればこれくらいでは済みませんぞ。いずれ私も父上も剣を取らねばならなくなるでしょう」
「それは嫌じゃぞ。そんなことはしたくない!」
梁適は老いて怠惰《たいだ》で、側女と乳繰りあうことだけが楽しみとなっている父親を軽蔑《けいべつ》している。
梁適自身は、今度の趙の脅迫に屈するつもりはなかった。彼が先頭に立ち趙兵と戦おうと腹を決めていた。勝算は薄いが梁適の若い血は騒いで仕方がない。戦って果てる覚悟すら決めていたのである。しかし、梁渓が革離を呼び込んでしまった。彼の夢想した形での戦いは起こらなくなった。
『こうなれば革離の手並みを見ているほかないな』
それでも無念ではある。
梁適が城門付近に行くと、板を組み合わせたもの、材木を組み合わせたもの、柴をきつく縛って束にしたものなどが積み上げられていた。また、城門のまわりを大がかりに掘り下げている。
「なんだこれは」
と梁適が指揮している者に訊《き》くと、
「さあ、わしにゃあ分かりませんが、なんでも、もう一重城壁を作るそうで……」
「馬鹿《ばか》馬鹿しい。今から城壁など作っておった日には年が明けるぞ」
「へい、そうですなあ」
要領を得ない。
梁適は城外へ出てみようとした。城主の息子の彼ですら一度番兵に咎《とが》め立てをされた。
「革子に厳しく言われておりますから」
染適は怒鳴りつけて門を出たが、革離の規律がじわじわと浸透しつつあることを感じて慄然としている。
多くの邑人が城壁の周囲に壕《ごう》を掘っている。聞いたこともないような節の歌を歌いながら、その調子に合わせて整然と掘っていた。作業にリズムを持たせて、疲労を軽くしているのである。革離が教えた歌だという。
「あいつは歌まで作るのか……」
城の東側でようやく革離を見つけた。革離は城壁に泥を塗り込む一方で、武器を突き出すための小穴を一定の間隔で穿《うが》っている。泥を塗り込むのは板でできている城壁を簡単に焼かれないようにするためである。その手順を什長たちに説明していた。
革離がそばにやって来た。
「革子」
「ああ、若様ですか。御視察ですか」
「まあな。それより、墨者《ぼくしゃ》というのは楽(音楽)を否定すると聞いているが」
「ああ、あの歌ですか。ご覧のとおり否定はしていません。子墨子が嫌《きら》われたのは王公諸侯が無意味に楽を行うことです。あのように実のある楽ならばよろしいのです」
革離は足早であった。革離は普通に歩いているのかもしれないが、梁適は小走りのようになる。
『礼を知らぬやつだ』
と梁適は思った。
城門で梁適は先ほどから気になっていた木材の細工について訊いた。
「あれで外城を造ります」
と革離は言った。
「あの木枠《きわく》を地に打ち込んで、さらに別の木枠を組上げます。その枠の中にあの柴の束をぎっしりと詰め込んだ上で泥土で塗り固めます。そう強いものではありませんが四丈(約九メートル)程度の城壁ならそれほど時間もかからずに組むことができます」
梁適は思わず唸《うな》った。
革離は城内に入ると、工場へ向かった。なにやら車の付いた台が出来ようとしている。
「革子、これは何だ」
「それは連弩車《れんどしゃ》というものです。同時に多数の矢を発射することができます」
革離はまだ細々《こまごま》と指示をしている。革離はある工人の什長を叱り付けた。梁適はその男を知っていた。名うての乱暴者で、見境なく暴れることがあり、役人も手を焼いている。驚いたことに男は革離には非常に素直で、肩を叩《たた》かれて笑いさえした。
「あの男ですか。なかなかいい腕ですよ」
と革離は敬意を表したような言い方をした。
「職人同士、気心は知れるものです」
そう言うと、革離はまた別な場所へ移動する。
「戦さは作業です。能《よ》く造る者は能く守るのです」
革離の信条らしい。今度は陶器を造る什長を捕まえて何か命じている。梁適は疲れてきたが、革離は平然としている。じきに梁適は追うのを諦《あきら》めた。
牛子張はもろ肌脱《はだぬ》ぎの姿で、城壁上の武器配置を指示していた。梁適が近付くと、
「まこと革子の仕事ぶりには感嘆いたすばかりでござる」
と牛子張は言った。
「あれで夜中も動き回っている様子でござる。かれこれ三日は眠っておりませんぞ」
と感に堪えないような口振りである。しきりに革離のことを賛美した。
梁適は気分が悪くなって館に引っ込んだ。彼は革離の異常な勤労ぶりに驚いてはいたが邑人のように賛美する気にはなれなかった。むしろ革離を薄気味悪く感じ、恐れた。
中国でいう城とは、日本のそれと大分違うものである。一つの町全体を方形の城郭《じょうかく》によって囲んだものである。城の中に民家があり役所があり市場もある。城とは「城塞《じょうさい》都市」という意味に近い。その城のまわりに何里四方かの領土が広がっており、領民が農耕牧畜を営む。それらが城邑《じょうゆう》国家を形成している。よって、籠城《ろうじょう》戦も日本の戦国時代のものを連想すると間違うことになる。
一般に古代の城は版築《はんちく》であった。一定の規格の板を組み、泥土《でいど》を固めて造る。本来火と水に弱いものである。そこでいろいろな工夫が必要となってくる。墨子教団は総力を上げて築城術の研究を重ね、大国でさえ持ち得ないような城を造ることができるようになった。
墨者が派遣されるような城はたいてい小さく不備なものである。それでも戦わねばならないのである。城の補強も素早くやった上により堅固でなければならない。また、兵器の運用を含めた戦術案も設計の中に組み入れている。その結果、墨者の守る城は一辺が百歩(約一三五メートル)ほどの小城でもおそるべき堅さを誇った。
墨子教団の活動は他の思想集団とは根本的に違っていた。この当時世に優勢な集団は他に儒家がある。孔子を祖とする儒家にも組織のようなものはないわけではない。だが、それは学団とでも言うべきものである。儒者はそこでいわゆる古代の聖賢の道を学びはするが、他の組織と抗争したり、国家と事を構えたりはしない。儒者のほとんどは孔子がしたように諸国に遊説《ゆうぜい》し、王公諸侯に道を説くのである。孔子や孟子のような真の情熱家もいたであろうが、そのほとんどは猟官《りょうかん》が目当てであった。墨者は儒者の事大主義的傾向をあざけり攻撃する。しかし、どう見ても墨家のあり方の方が異様であったことは否《いな》めない。
ここで墨子の教団について少し述べておく。墨子の教団には大きく分けて三つのセクションがあった。一つは戦闘任務を遂行する部門である。ここには戦闘にまつわるあらゆる能力者が集中している。兵器製作技術者、築城技術者、そして実際に戦闘する兵隊要員。戦闘部門が墨子教団の中核であり根本であったろう。
二つ目は墨者に対する教育、あるいは対外的な宣伝活動を行う部門である。ここで、新入墨者の勧誘と教育、資金調達、外交、総務を行っていたと思われる。三つ目は他の集団との思想的な競合が必要になってくるにつれ強化された理論部門である。ここで、墨子の思想の敷衍《ふえん》や強化がなされ、その成果をテキストとして残すのである。
しかし、やはり最も重要なのは実戦を行う戦闘部門であった。戦争はつねにその時代の最高の科学と技術を必要とし、また、生み出す。墨者は戦闘の中から信じられないような科学的成果をあげている。抜き書きしただけでも次のようなものがある。
「物を吊《つる》すことと引き下げることは、相反する」
「負荷して撓《た》わまない」
「堆積《たいせき》すると必ず支える」
(作用反作用についての記述)
「影が倒立するのは光が一点で交わって生ずるからである」
(ピンホールカメラの原理の記述。ある墨者は豆莢《とうきょう》の薄膜に絵を書いて、それを小さな穴の空いた箱に張りつけて壁に拡大投影させてみせたという)
「鏡に向かって立つと映像は逆になる。また映像は(鏡を二枚にすると)多かったり少なかったりする」
「凹《おう》面鏡はその像の一つは小さくて倒立し、一つは大きくて直立する」
(鏡の光学的現象に関する記述)
「値段が高い場合には買わない。値段を反対にするためである」
「価が適正であれば売れる」
「刀(刀銭)で穀物を買う場合、刀の価値が低くなると穀物の価格は高くなるが本質的には高くなっていない。同様に刀の価値が高くなっても穀物の価格が安くなるのではない」
(経済に関する記述)
これらはすべて建築や材料購入の経験から導き出されたことを命題として記したものにすぎない。
また、教団内では術語にいちいち定義をつけて論理的な会話に用いたらしい。多くは建築から出た用語である。
「円。一中心から同じ長さにある」
「方。直線が四か所で直交するものである」
このようにして「平」「倍」「間」「中」などの幾何学上の用語に厳密な定義をつけている。そのほか抽象的な用語「故」「知」「体」などにも定義付けをして、かなり高度な論理学の構築を可能にした。珍しい例では、
「君とは臣と民とが共に約束したものである」
にはルソーの民約論を想起させるものがある。
明清の学者が「西欧の学は古《いにしえ》より墨子に備われり」と胸を張ったというのは、むべなることである。墨子とその学派は中国人離れしたものであった。そのため墨子インド・バラモン説、墨子アラビア人説など珍奇な説も生まれている。墨子教団は中国戦国時代においてだけでなく世界史上にも類のない、異例なものを残したことがわかる。
魯《ろ》の人が息子を墨子に入門させて学ばせようとした。その息子はその後戦死した。父親は怒って墨子を責めた。
「私は息子に学問をさせようと思ったのだ。戦争などとんでもない」
墨子は平然と答えた。
「あなたの子息はいま学業が成って戦死したのです。あなたに怒られる筋合いはありません」
この息子は墨子の見るところ戦闘を学ぶことに向いていた。だから、戦闘を学ぶように指示した。墨子の学は国々に仕官するための学問ではなかったのである。
墨子の教団の門戸は広く、下は賤民《せんみん》から上は諸侯まで、犯罪者であろうと一切拒まなかった。要は墨者として巨子《くし》のもと命じられるままに学び、戦えばよいのであった。
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三
梁城《りょうじょう》の防衛度は日増しに上がっている。そのうちに偵察《ていさつ》に出していた隊が戻ってきた。
早速、革離《かくり》は偵察の者に尋問した。
「人数はどうだった?」
「それが数え切れねえほどで……」
「竈《かまど》の数を数えよと教えたろう」
「へ、へい。竃は五百個ぐれえできておりました」
「なるほど。して様子は」
「ぶつくさ言いながら歩いておりました。夜は酒など飲んで歌っておりました」
革離はにやりとした。趙軍の数は一万八千ほどで、士気は普通以下、そして梁城を舐《な》めていることが分かった。結構なことである。
「趙の将軍がだれだか分かったか」
「それは、どうも、はっきりしませんで」
さらに革離は牛馬の数、戦車の数、装備の状態を訊《き》き出して頭に入れた。革離はその偵察隊を休ませると、別の什《じゅう》を幾つか編成して偵察に出した。一日に一人ずつ報告に帰って来るように命じた。
梁城の外城はほぼ完成している。外城上に配置する武器も整っている。外城と内城の間には壕《ごう》が掘られ、主要な部分にのみ県梁《けんりょう》(かけ橋)が渡されている。後は内城壁の細工と兵器の製作を急がせる一方で、戦闘訓練を行う。革離は訓練中に優秀な者を見つけて引き抜き、指揮官を養成しようとした。
その後の偵察の報告からすると趙軍の進軍速度は意外に遅く、あと半月の猶予《ゆうよ》があると思われた。半月でできることには限りがあるが、革離はでき得るかぎり完璧《かんぺき》に近付けたかった。そのため革離の各部署への督促は苛烈《かれつ》さを増した。当然不満の声が上がっているようである。しかし、趙軍がひたひたと接近しているという噂《うわさ》が流れているため、邑人《むらびと》たちは耐えた。それに最もよく働いているのが革離であることを皆は知っている。
日毎《ひごと》に戻って来る偵察の情報で、敵将の名が明らかになった。
「巷淹中《こうえんちゅう》将軍ということです」
「巷淹中か。聞いたことがある」
革離は趙軍と交戦した経験があるが、巷淹中とは戦ったことはない。仲間から聞いた話では、なかなかの人物で兵の信望もあつく、勇猛果敢な猛将であるだけでなく、城攻めも上手であるという。ただし、まだ、墨者《ぼくしゃ》の守る城を攻めたことはないようであった。
『油断はできぬな。しかし、相手にとって不足はない。望むところだ』
革離は微笑《ほほえ》んでいるように見えた。偵察の者は不思議そうな顔をして、部署に戻っていった。
李艾《りがい》があたふたとやって来た。革離の見るところ、この男は無能で、とても司空などは任せておけない。そのうちにすげ替えるつもりである。
「革子、戦さ支度はどうですかな」
「まあまあです」
「聞けば趙兵の姿が見え始めているとか。どうも殿が不安がっておられるので、その、ちと報告のようなものをしていただけませんかな」
「いいでしょう。ついでに牛《ぎゅう》将軍や懐《かい》将軍も呼んで来なさい」
革離は言い捨てるとさっさと梁郭《りょうかく》の城館に向かって歩き出した。
革離は報告とか作戦会議などは不必要であると思っている。それを一度はっきりさせなければならない。戦闘準備は着々と整いつつあるが革離の真の苦労はまだ始まってもいないのである。革離は守禦《しゅぎょ》戦に関してずぶの素人《しろうと》たちに一方的に命令を下す形が必要なのである。つまりは革離の規律が上から下にまで徹底されればよい。重要なことは防御施設よりも規律の徹底であった。今はまだその段階である。
革離は梁渓《りょうけい》、梁適《りょうてき》、家老たちを前にしてむっつりとしている。そのうち李艾が牛子張《ぎゅうしちょう》と懐園《かいえん》をつれて入ってきた。革離はやっと口を開いた。
「おおまかな備城の法は整いましたが、まだ足りません」
梁渓が言った。
「塹壕《ざんごう》をめぐらし外城を作り、おぬしの言う兵器とやらも多く出来ておる。なのにまだ足らぬというのか」
梁渓は梁郭はじまって以来の莫大《ばくだい》な出費に不満なのである。革離はその馬鹿馬鹿しい不満を無視した。城が蹂躙《じゅうりん》されれば財蓄も何も跡形もなくなるのである。
「さよう。さっき物見《ものみ》の兵が戻ってきたのですが、聞けば趙軍の将は巷淹中であるといいます。並みの武将なら今の守りでも十分かと思われますが、淹中が相手となるとそうはいきません」
「巷司馬が来るのか!」
梁渓も巷淹中の武名は聞き及んでいるらしい。
「淹中は城抜きの名人と世評の高い男です。相対するに用心に用心を重ねるに越したことはありません」
「よきようにせよ……」
梁渓は力なく言った。そして、思いついたように言った。
「話は変わるが、ひとつ革子に頼みがあるのだが」
「何でしょうか」
「じつは側女《そばめ》のことだ。どうか一人でよいから返してくれぬか。あれが居《お》らぬといろいろ困ることがあってのう……」
「なりません」
革離はきっぱりと言った。
「この際にもう一度言っておきますが、この私にすべてお任せになったはずです。いいですか。もはやいかなる意見も無用に願いますぞ。では行きます。まだやることは山ほどありますから」
梁渓の顔が赭《あか》くなった。革離は無視してきびすを返した。革離が出て行ったあと梁渓は冠《かんむり》を床に叩《たた》きつけてうめいた。牛子張たちもそれを見て急いで出て行った。梁適もあとを追った。
「革子」
と梁適は革離を止めた。
「何ですか」
「どうもこうもない。革子、趙兵は今油断してのんびりと行軍しているそうではないか」
「そのようですな」
「しかも、あの道は狭隘《きょうあい》で兵を埋めるのに絶好の場所だ」
「そうかもしれません」
「今、奇襲すれば勝つことは難しくない」
革離は首を振った。
「何故《なぜ》だ。これぞ機会というものだ」
「私は攻め方を知りません」
「馬鹿馬鹿しい。私が自ら精兵を率いてゆく!」
「それはなりません。無駄《むだ》なことはおやめください」
「何だと」
「では言いましょう。若様が千でも二千でも率いて敵の虚を突くのは結構なことだと思います。運がよければ敵兵を蹴散《けち》らして、潰走《かいそう》させることもできるかもしれません。しかしですぞ、問題はその後です。敵兵にいくばくかの打撃を与えて潰走させたとしても、こちらのなけなしの兵もかなり死傷しておりましょう。そして、趙は大国です。巷淹中は玄人《くろうと》です。怒った彼らが再び二万、三万の兵を向けてきたらどうなります。城が堅くとも、守る人数が少なくては私にも手の打ちようがございません」
「む……」
梁適は反論できなかった。
「軽はずみはしないことです」
「おぬし……、それでも本当に墨者なのか。まるで兵法家ではないか。墨子の兼愛とやらはどうした。非攻の志とやらはどうなっているのだ! 手練《てだ》れの傭兵《ようへい》のようなおぬしに一度訊いてみたいと思っておった」
と梁適は叫んだ。革離は剃《そ》り上がった頭をつるりと撫《な》でながら困ったよう言った。
「若様。これが私の職分なのです。子墨子の教えはもちろん承知しておりますが、その方の議論は苦手なのです」
革離はうつむいて言った。
「議論がされたくば教団の談弁《だんべん》の者にお聞きください。議論は彼らの専門でありますれば」
革離は小さな声で失礼と言うと歩き出した。革離とてこの点に関しての矛盾は承知していたのであり、突かれれば痛いのである。矛盾点を口説《くぜつ》で糊塗《こと》するのは談弁墨者の職分であるということで、革離は割り切ろうとしていた。
梁適は革離の後ろ姿を見ながらある恐怖にとらわれている。自分たちが今|途轍《とてつ》もない連中に支配されていることに気が付いたのである。革離という軍事顧問とその背後にある巨大な思想集団にである。梁適が知識として得ている墨子と今目の前にいた男は恐ろしく異なっている。確かに世に在った墨子は身を粉にして民衆のために働き、弟子たちと共に大国の侵略に対抗するべく挺身《ていしん》したようだ。ほとんど報酬も無しに。
墨子の正義は考えれば素朴《そぼく》であり、梁適も理解するにやぶさかではない。士分以下の民衆にはほとんど意味のない儒家やその他の遊説《ゆうぜい》の士には逆立ちしても墨子のような真似《まね》はできないだろう。ただし、墨子の死後の墨子の教団はどこか開祖|墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]《ぼくてき》と異質なような気がする。極めて厳格な規律によって整然と動く組織があり、その頂上に巨子《くし》という独裁者がいて、その末端には革離のような化け者がいる。革離を見ただけで墨子教団がどれほどの実力を持っているか戦慄《せんりつ》と共に想像することができる。彼らは小国防衛の尖兵《せんぺい》として捨て身で戦い続けている。だが、梁適は思うのだ。
『彼らはいつか報酬をまとめて要求するに違いない……』
小国防衛戦が終了した時、彼らはいったい何を報酬として要求してくるのだろうか。梁適はある考えに到達した。妄想《もうそう》に違いないとは思う。墨子教団に任侠《にんきょう》奉仕以外の野心があるのならそれは一つしかない。天下を墨者で覆《おお》うことである。墨者による理想国家。それがどういうものか。梁適は革離の指示のもとに整然と働き続ける邑人《むらびと》を見ている。そして、墨子教団内に敷かれているものと同じであると思われる革離の規律を見る時、その国家がどういうものになるのか分かるような気がした。
墨者の稀《まれ》な義侠精神と粉骨砕身の奉仕活動は次第に民衆の支持を得つつある。天下の民衆がこぞって教団の下に集まった時、彼らは何を行うのだろうか。墨者は確かに守ることしかしない。だが、その守りが彼らの最大の攻撃なのかもしれない。梁適はその考えにとらわれ、振り払うことができなくなった。
革離は城門のやや上に県門《けんもん》という防御のための門を滑車によって吊《つ》るための工事を新たに始めたり、内|※[#「土へん+(諜−言)」、第4水準2-4-94]《ちょう》外※[#「土へん+(諜−言)」、第4水準2-4-94](姫墻《ひめがき》)の位置を計ったりして一時もじっとしていない。突然、身体《からだ》がぐらりとした。急に疲れを覚えてきた。数えてみると四晩ほど眠っていない。
『焦《あせ》りは禁物ということだ』
彼は眠りたくはなかった。しかし、ここは眠るべきだと決めた。牛子張を呼んで、
「牛将軍。しばらく頼む」
と言った。牛子張は今では革離の手足のようになって働いている。革離の働きぶり、高度な防御設備を見ているうちに心酔してしまった。これまで牛子張がやった戦いといえば野盗を遂《お》うくらいのものであった。革離のやり方に目を見張った。革離は軍神ではないのかと単純に思ってしまった。革離は牛子張が思うような軍神でもなんでもない。革離は墨子教団で培《つちか》われてきた守禦《しゅぎょ》術をマスターして繰り返しているだけである。いわば戦争の職人にすぎなかった。
「はっ、ゆっくりお休みくだされい」
「何かあったら遠慮なく叩き起こしてくれ」
『それにしてもよく働くお方だ』
と牛子張は感心している。革離の体格はどちらかというと小柄《こがら》で痩《や》せている。どこにあのエネルギーが蔵されているのか不思議でならなかった。
革離は下腹部に痛みを覚えた。厠《かわや》に行くと辛《つら》そうに放尿した。ちょうど隣で用を足していた男が驚いたことには、気味が悪いほど赤い小便が迸《ほとばし》り出ている。男はそそくさと厠を出て行った。
『我ながらよくはたらく』
革離はそれを見て満足とも自嘲《じちょう》ともどちらともとれる笑みを浮かべた。
革離が下男部屋に行くと女がいた。好《よ》い衣をまとった美女であった。革離はあくびをしながら言った。
「何の用です?」
「あの、お部屋のお掃除を……」
革離は下男部屋の掃除もないものだと思った。
「部屋の掃除は自分でしますから、いいですよ。あんたも皆と働きなさい」
女は困ったような顔をした。もじもじしながら言った。
「あの……、梁主様が、革子のお相手をしろとおっしゃったので……」
ははあ、と革離は思った。そういうことなら抱いてやろうかと思った。が、やめた。
「梁渓殿に伝えなさい。私には伽《とぎ》はいりませんと。それに戦さの間くらい我慢したらどうです、とも」
女は真っ赤になって袖《そで》で顔を覆って出て行った。おそらく、梁渓が側女まで狩り出されたことに対して策をめぐらせたのであろう。革離が今の女に手をつければ、それを理由にして側女を取り戻すつもりなのだ。
革離は非常に疲れていたのに、横になったもののしばらくは眠れなかった。
『やっぱり、抱けばよかったか』
と少し後悔した。そのうちに泥《どろ》のようになっていた。
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四
翌早朝には革離《かくり》は活動を再開した。塩辛を握り込んだ粟飯《あわめし》を歩きながら食べた。頭の中ではあらゆる方面の作業進行が同時に展開されている。
革離は県※[#「こざとへん+卑」]《けんひ》を吊《つる》す支柱にさげふりを当てて垂直を見ている。県※[#「こざとへん+卑」]とは人がひとり入る大きさの木箱を支柱と支柱の間に滑車で吊し、エレベータのように昇降させながら城壁に着こうとする敵を攻撃するものである。これを台車の上に立てれば軒車《けんしゃ》という攻城兵器となる。革離が怒鳴りながら支柱固定の杭《くい》を打たせていると、城門司馬の使いが走ってきた。
「革子、南門で怪しい者を捕まえました」
「敵の斥候《せっこう》か?」
「いえ、田巨子《でんくし》派遣の者だと言い張っております」
「よし、すぐ行く」
革離が南門へ行くと、一人の男がもがいていた。薛併《せつへい》であった。革離は露骨に嫌《いや》な顔をして見せた。田巨子の前ではないので薛併への感情が押さえる必要がない。
「なんだ。薛併、おぬしか。おい、縄《なわ》を解いてやれ」
「革離、警備もよく行き届いているようだ」
薛併は皮肉のように言った。
「何の用だ」
「もちろん田巨子の使いだ。わしは来たくなかったのだが、田巨子の命とあれば仕方がない」
「で、要件は」
「ここではまずい」
革離は黙って館《やかた》の方へ歩いた。薛併は後を追った。薛併は革離のようにみすぼらしい姿はしていない。裘《かわごろも》に上衣《うわぎ》を着て、頭髪は短くはない。儒者のように見えた。だから、邑人も彼が墨者だと言っても信用しなかったのである。
薛併は多少驚いている。すでに防御の準備は八分通りは完成しているのである。並みの墨者では十人入ってもこうはいかないだろう。
『一人で、この短期間によくやる。田巨子が革離を惜しむわけだ』
「さすがは革離だな。教団一の腕前と言われるだけある」
と薛併は世辞を言ってみた。革離は返事もしなかった。薛併はちっと舌打ちした。
「さて、言ってもらおうか。趙《ちょう》軍の参着まであと二日あるかどうかだ。私は急いでいる」
と革離は下男部屋に入るなり言った。
「ではありていに申そう。田巨子はおぬしにすぐにここを引き払えとの仰せだ」
革離は動揺したが、無表情であった。
「できぬ相談だ」
「そう言うと思った。だが、田巨子は妙におぬしを惜しまれる」
薛併はそう言ってにやにやした。
「わしはおぬしがどうなろうと知ったことではない。もう、要件は伝えたので帰るとするか。戦さに巻き込まれるのは御免だからな」
座を立とうとした。今度は革離が言った。
「待て。薛併、おぬしは何か隠している。言え」
薛併は別に隠さなかった。
「ここにいれば犬死にするということだ。魏《ぎ》の邯鄲《かんたん》攻めが半年ほど延びるという噂《うわさ》がある。それが事実なら、つまり、おぬしはこの小城を一年近く守らねばならないということになる。おぬしがいかに働こうとも一年は無理だ。だから、田巨子はおぬしを救おうと思われたのだ」
「……。救うというのなら仲間を寄越すべきだ。おぬしのような腰抜けではない者をな」
「これだけの設備を施してやったのだ。つとめは十分に果たせている」
「機械を造ったのみだ。動かす者が必要だ……」
「確かにおぬしの腕は惜しい。よってもっと教団の為《ため》になる所で使ってもらわぬとな」
「それが秦《しん》だというのか」
「そうだ」
薛併は口説《くぜつ》の徒である。彼自身は革離など惜しくはない。だが、頑固《がんこ》なこの男を口説き落として連れ帰れば、田|襄子《じょうし》にまた恩を売ることができる。薛併が説くのはそのためであった。魏の進撃が半年延びたというのも確かな話ではなかった。
「秦と結ぶ利益は計り知れない。わが教団は一挙に巨大になることができる」
「秦の走狗《そうく》になり果ててもか」
「秦を利用するだけだ。秦にある程度の恩を売った後、わが教団の者が秦の実権を握りこむ。そして、子墨子の教えを施すのだ。秦王に聖王の道を行わせる。この謀《ぼう》は決して不義なことではないぞ」
そして、墨子教団は秦という皮を被《かぶ》った一大領域国家となることができる。
「我らの軍事能力があれば天下を制するのはもはや玉子を握り潰《つぶ》すがごとき容易さだ」
薛併はうっとりとした顔をした。
「それは任《にん》(任侠《にんきょう》)ではない。そのような謀略は子墨子の教えとは異なる。諸侯をそそのかし戦さをおこすことなどは儒者のような偽善者のすることだ」
革離は薛併が儒者くずれであり、諸侯に遊説《ゆうぜい》して容《い》れられず、仕方なく墨子教団に目を付けたのであろうと推測している。本来ならこのような異物は排除するべきであった。だが、田襄子が重用するので、仕方なく我慢していた。
「私は謀に走る者が嫌《きら》いだ」
お前がまさにそうだと革離は言っている。
「ふん。革離、おぬしとて名誉心はあろう。一人で城を守ったとなれば、さぞ、名前が上がるだろう。次の巨子にはおぬしが指名されぬとも限らんな。人間にはそういう山っ気がないとよろしくない」
革離の腹は煮えくりかえった。日頃《ひごろ》平然としている男だけに、本当に怒ると顔が真っ赤になった。
「革離、そもそも子墨子は卑賤《ひせん》の出自《しゅつじ》ながら孔子と同じく儒を学んだのだ。そして、聖賢の道を志向して諸侯に遊説した。孔子と同じことをやった。だが、子墨子の後に出た巨子は子墨子の真意を誤解して、小国防衛などという些事《さじ》に嘴《くちばし》を容れることこそ墨者の道としてしまった。禽滑釐《きんかつり》巨子しかり、孟勝《もうしょう》巨子しかり、田巨子だけはそれに気付きわしの説を大いに悦《よろこ》んでくれた。おぬしも教団の幹部の一人だ。大所高所に立って物を考えてもらわないとな」
革離は目を閉じて黙っている。薛併はつい口を滑らせてしまった。
「孟勝巨子のように愚かな間違いを犯して、犬死にすることもあるまい」
田襄子の命令は至上のものであり、革離も迷わざるを得ない。しかし、この一言で革離の肚《はら》は決まった。ぎろりと目を剥《む》いた。
「言いたいことはそれだけか。孟勝巨子こそ真の墨者だった。誤っているのは田巨子の方だ。私はすでに梁城《りょうじょう》と契約をかわしたのだ」
殺気立った物言いをした。薛併は身震いし、説得の失敗を悟った。
革離は大声で人を呼んだ。慌《あわ》てて官吏《かんり》が走ってきた。
「迎敵祠《げいてきし》を行う」
と革離は叫んだ。そして、薛併を睨《にら》みつけると荒々しく出て行った。
『馬鹿な男だ』
と薛併は哀れんだ。この上はさっさとこの城を逃げて、災いが降りかからないようにするだけである。
迎敵祠とは文字通り敵を迎える儀式である。東西南北に壇を設け犠《いけにえ》を捧《ささ》げて天に祈る。今回敵は南から来る。だから神を南壇に迎えなければならない。七十歳の老人七人を選んでこれに主祭をさせ、赤い服を着せて赤い旗をなびかせる。七人の壮丁《そうてい》に強弓を持たせ南方に向かって七矢を放たせた。革離は堂の前にうやうやしく進み出ると狗《いぬ》を犠として屠《ほふ》った。粛々としてひとりとして声を上げる者はいない。このような宗教的儀式によって人々に戦闘への厳粛な決意を持たせることができる。革離はだめ押しとして巫《ふ》に占いをさせた。どんな結果が出ても「吉なり、大勝まちがいなし」と言わせることにしている。革離だけは兵の答えを訊《き》いている。「凶」であった。ただ、革離は占いというものを信用していない。これは墨子もそうであった。この点に関しては墨家は合理主義である。革離にとっては迎敵祠も占いも守禦《しゅぎょ》技術のうちの一つにすぎなかった。民衆の精神を守禦することに卓効がある。
迎敵祠が終わろうとしている頃、さわぎが起こった。東門から出ていこうとしていた薛併を番兵が捕らえたのである。
「革離、わしの用事は終わったのだ。さっさと放してもらおう」
薛併は逆上して怒鳴っている。品悪く唾《つば》を吐き散らした。
「薛併。不運だな。おぬしのような佞者《ねいしゃ》を帰せばまた田巨子が惑う」
薛併はぎょっとした。革離は剣を抜いた。さっき狗を屠った剣である。
「ま、待て革離。やめろ」
革離の動作は滑らかであった。薛併の悲鳴は途中でぴたりと止まった。
「この者は墨者のはしくれであるくせに最も卑劣な罪を犯そうとした。敵前逃亡はだれであろうと即座に斬《き》る」
と革離は声を張り上げた。仲間であろうと平然と斬り捨てることを邑人《むらびと》にはっきり示すことができた。守城には糞《くそ》の役にも立たないと思っていた薛併も墨者として守禦に役立ったことになる。革離は皮肉でなくそう考えた。
二日後の夜、遠方に夥《おびただ》しい篝火《かがりび》が見え始めた。
『来たか』
革離は自ら望楼に上がった。べつに感慨はない。これまで幾度この光景を見たかしれないからである。牛子張《ぎゅうしちょう》を呼んだ。もうひと細工しておこうと思った。牛子張の顔は異常に緊張している。今、一人で突撃せよと命じれば逡巡《しゅんじゅん》なくそうするであろう顔であった。
「牛将軍。罪人はいるか」
牛子張は拍子抜《ひょうしぬ》けしたいぶかしげな顔になった。
「罪人、と申しますと?」
「処刑に価《あたい》するほどの重い罪を犯した者が欲しい」
「はて、いましたかな。獄吏に訊いてみましょう」
しばらくして牛子張が戻ってきた。
「こそ泥《どろ》が二人と人殺しが一人居るそうです」
「どういう人殺しだ」
「百姓です。酒乱の気がありまして、先月暴れて老父を殺したとか」
「よし。それなら問題はない。さっそく処刑してもらう」
「しかし、革子、いまやらずとも……」
「こうする。牛将軍はその罪人と一伍《いちご》を連れて城外で処刑してくるのだ。殺した後、顔を潰《つぶ》してその男だと知れないようにしてくれ。そして、荷車に乗せて伍で泣きながら帰って来るのだ。門に入ったらこう叫ぶがよい。『趙兵が殺した。偵察《ていさつ》に出ていたこの男をまるで犬ころのように殺してしまった』と」
牛子張はあっという顔をした。
「なるほど、邑人をして趙兵に怨《うらみ》を抱かしむる策ですな」
「そうだ。早速やってくれ」
牛子張は敵を迎えての初仕事に勇んで駆けていった。
篝火は梁城を包囲するように移動を続けている。今晩のうちに布陣を終えて、翌朝には寄せてくるであろう。牛子張がそのうちに戻って来て、革離の命じた通りに趙兵の非道を詰《なじ》っている。荷車の上の惨《むご》い死体を遠巻きに見ていた邑人の中から低い叫び声が上がり始めた。趙兵に対する恐怖とそれにも勝《まさ》る憎悪《ぞうお》が声を上げさせている。
「皆の衆、見たか。趙兵はわしらをこのように皆殺しにするつもりぞ。くそっ、わしはそうむざむざ殺されたりはせんぞ!」
牛子張の叫びに続いて、邑人はうおーと轟《とどろ》くように叫んだ。
『これでよし。準備はすべて整った』
望楼上で革離は思った。
夜が明けた。
「かかるか」
ときらびやかな戎装《じゅうそう》の男がつぶやいた。巷淹中《こうえんちゅう》、字《あざな》は伯魯《はくろ》、趙の司馬である。傍《かたわ》らにいた副官の高賀用《こうがよう》が、
「一挙に攻め潰しましょうぞ」
と景気のいいことを言った。
「むう」
巷淹中は馬を打ち、戦車を少し進めた。趙の軍団二万は命令を待って静まっている。
淹中は躊躇《ためら》った。『変だな』という思いが湧《わ》いている。梁城の姿である。粛然としておりまるで淹中を待っているように見える。淹中は副官の微詳《びしょう》を呼んだ。
「望気《ぼうき》してみよ」
と命じた。微詳は頷《うなず》くとぎょろりとした目を城とその周囲、その上空に注いだ。
淹中は勇猛果敢、猛《たけ》り狂えば敵が死に絶えるまでとどまらず、と評される猛将である。しかし、単純な男でもない。戦さのかけ引きを知り尽くしており、機会が来なければ猛り狂ったりはしない。ただ猛るだけの男では城攻めはつとまらない。猛り狂う機会が来るまでがじつに用心深く、そのため幾多の戦場に勝利を得ることができた。
「そうですな……」
微詳は望気(気を見て敵の戦意や勝機を占うこと)の結果を述べた。
「戦気は上空にのぼり、地の底まで満ちている様子にござる。あやういかな」
「馬鹿な、田舎豪族の小城だぞ」
と高賀用が言う。まだ、若く、血気にはやっている。
「微詳はそう見るか。わしもそうだ」
と淹中は言った。
「高賀用、おぬし千ばかり連れて少し攻めてみよ」
「千では嫌《いや》でござる」
淹中は笑った。
「では三千でよい。ただし、軍鼓が鳴れば速《すみ》やかに退《ひ》くのだぞ」
高賀用は後は聞かずに駆けて行った。
巷淹中は腕組みして梁城を凝視した。
「来ましたーっ。三千、いや四千!」
望楼の兵が叫んだ。革離は内城の望楼にいてそれを見ている。革離の横には太鼓と銅鑼《どら》が並べてあり、係の兵が枹《ばち》を構えている。
『まずは力押しか。淹中、たしかに舐《な》めている』
と革離はにやりとした。外城の上には※[#「土へん+(諜−言)」]《ちょう》が設けられ、一歩ごとに弓兵、弩《ど》兵、戟《げき》兵が立っている。また、外城に開いた小窓には弩が並べられ、また矛《ほこ》を突き出す用意もある。それだけではない。内外城の上に掛けられた桟《さん》の上には校機(投石機)が設置され、ぎりぎりと絞り込まれたばね木の端の皿には石ころがぎっしり盛られていた。
趙兵の先頭が南と東の外城に取り着いた。鉤縄《かぎなわ》を投げて城壁をよじ登る。革離は、
「打て」
と叫んだ。太鼓が乱打された。
各方四台、この場合計八台の校機が唸《うな》りをあげて、石礫《せきれき》を敵の頭上の広範囲に叩きつけた。
同時に弩が放たれる。
「射よ、射よ、休むな」
革離が叫ぶと太鼓の音はさらに激しくなる。殺到してきた兵は礫《つぶて》をまともに浴びて倒れる。そこを矢が貫く。窓から突き出される矛が取り着いた兵の腹を無残に裂く。
「渠答《きょとう》」
と革離が叫ぶと、銅鑼が叩かれた。渠答とは大麻を縦横一丈四尺(約三メートル)ほどに編んだものである。係の者が渠答に火を付けた。掛け声とともに放り投げる。燃える巨大な網が趙兵の頭上に次々に落下し、あちこちで凄《すさ》まじい悲鳴が上がった。校機は唸りを上げて投石し、やむことなく石ころを撒《ま》き続ける。城壁上には、行竈《こうそう》という携帯用のかまどが一定間隔で置かれている。それを使って焼いた石や熱湯を浴びせ掛けることも行われている。趙兵は満足に城に取り着くことさえできず、死傷者を増やしていった。
「退けい!」
趙軍の退却の太鼓が乱打された。すでにその前に趙兵は先を争って逃げ始めていた。
「止めよ!」
と革離が叫んだ。届きもしない矢を射るような愚はおかさない。太鼓の音が止み、射撃も止んだ。
「一時休息。ただし、攻撃態勢」
と革離は告げた。その命令を意味する拍子《ひょうし》の太鼓が鳴った。単に突進するだけの人海戦術を蟻傅《ぎふ》と呼ぶ。蟻《あり》が城にたかるような姿である。このような攻撃が最も防ぎやすい。革離は蟻傅など攻めのうちには入らないと思っていた。
革離は今の攻撃は様子を見るためだったことに気が付いている。次の攻撃からが本番と言えそうである。
その日一日はにらみ合いで終わった。
「よく備えている」
と淹中は言った。
「見事だ。田舎豪族の梁渓《りょうけい》ではああはゆくまい。よい軍師がいるのだろう」
「巷将軍、どうするのです」
と高賀用が怒ったように言った。思わぬ反撃を受けて総崩れとなったことが彼の腸《はらわた》を焼いているのである。
「慌《あわ》てないことだ」
淹中はこの若い将軍をこの戦さで育てるつもりであった。優秀な指揮官になる素質はあるようだと思っている。
「微詳ならどうする」
と老将、微詳に尋ねた。
「さようですな」
この戦闘のベテランは答える前に必ずしばらく考える。
「高臨《こうりん》を築きますか。同時に穴攻《けっこう》も施すのが常道でござろう」
「その通りだ。城攻めとは手間がかかるものと心得よ。惜しんではならん。賀用は高臨の指揮を取れ。微詳は穴攻を見てくだされよ」
二人の副官はうなずいた。
そして、巷淹中は二人には内緒で使いを出した。出城に置いてある攻城兵器を送らせるように手配した。口には出さないが梁城攻略戦が困難なものになるであろうと予想しているのである。
この時代、城攻めの法に常識的なものとして十二の法が考案されている。墨子教団はその一つ一つに対していちいち巧妙な反撃法を工夫している。それらの成果が「墨子」の巻末(第五十一〜七十一篇。しかし、多くが散佚《さんいつ》している)にまとめられている。その記述は極めて精緻《せいち》で数字を重んじる。また、血なまぐさい。研究者の中にはこの部分は「墨子」本来のものではなく、後の兵法家が挿入《そうにゅう》したものであると疑った者も多い。
有名な兵書である「孫子」は各種戦闘について述べるに「下兵は城を攻む」と城攻めの害を説く。労多く益少ない攻城戦は避けるべきであるというもっともな見解である。しかし、戦国期にあっては城攻めがまず必要なものでもあった。「孫子」の作者も仕方なく敢《あ》えて城を攻めたこともあるにちがいない。「孫子」の作者と墨子の軍団が直接戦闘したことも、おそらくあったと思われる。
高臨の法とは城壁近くに土を盛って高台を作り(高台を羊黔《ようぎん》と呼ぶ)そこから弓を射たり、城壁を乗り越えようとするものである。穴攻の法とは城外からトンネルを掘削《くっさく》し、城内に侵入する法である。どちらもある段階までは土木工事である。時間もかかり兵の疲労も考えなければならない。
革離は敵が羊黔を作り始めたのを見てひと安心した。高臨の法を防ぐのはそれほど難しくはない。ただし、羊黔が高くなってゆくのをただ見ているわけではない。革離は日に何度か城門を開いて討って出るようにした。戦闘に慣れない者がほとんどであるから、討ち取るまでには攻めさせず、敵が人数を繰り出して来たらすぐに城内に逃げ込ませる。これで工事の進行を遅らせることができる。
その間に革離は第一回の論功行賞を行うことにした。革離がそのことを梁渓に言いに行くと、
「恩賞など戦さが終わってからでよいではないか」
と渋った。
「なりません」
と革離は例のどとく言った。
「戦さが一幕すめばその時に必ず賞罰を下します。さもなければ兵は節を保ちません。先は長いのです。これからの兵の働きにかかっているのです。彼らに手を抜かせず、士気を鼓舞するためにも是非必要です」
と言いくるめられてしまった。
「やむをえぬ……」
と梁渓はうなだれた。もっとも全権は革離の手中にある。わざわざ梁渓を諭《さと》しに来る必要はないのである。だが、邑人《むらびと》よりも梁渓の方が先に謀反《むほん》しそうだったので、御機嫌《ごきげん》伺いのようなこともしなければならない。
革離はよく働いた者、よく敵を仕留めた者を五十人ほど選んで金を与えた。爵位《しゃくい》が欲しい者には爵位を与える。そして、皆の前で誉《ほ》めるのである。
「五十人も選ぶことはあるまいに」
と梁渓は不機嫌を隠さなかった。
次に革離は怠慢な者、しくじりのひどかった者を三人選んで罰した。一人を斬《き》り、二人に鞭《むち》を当てた。革離の賞罰は公平だったので誰も文句を言わなかった。次こそはと奮う者もいれば、次はもっと必死でやらねばと恐れる者、いろいろである。最初の戦闘での鮮やかな勝ちぶりは邑人に勢いを与えていたし、指揮官の革離への信頼を増している。
戦闘の間も最も働いている者はやはり革離であった。彼は望楼にいない時は工場で武器を作る仕事を手伝い、指揮官を養成するための訓練を施したり、また更なる城壁強化工事を指示したり、狂ったように働いた。
趙軍もさすがに一国の兵団である。羊黔を作る一方では陣地を進め、塹壕《ざんごう》を掘り、土塀《どべい》を築いて備えを作る。その拠点はじりじりと城壁に迫ってくるのである。また、油断すれば騎馬の一隊が急襲し、火矢を放っては逃げて行く。革離の防火態勢はほぼ完璧《かんぺき》だったから火災には至らない。雨の日には遁兵は泥《どろ》人形のようにならなければならない。当然、嫌気《いやけ》もさすであろうが、巷淹中の統率力によって怠慢は押さえられている。
『敵は玄人《くろうと》で、こちらは素人《しろうと》なのだ』
革離は雨中の趙兵の仕事ぶりを惚《ほ》れ惚《ぼ》れと眺《なが》めている。革離は職人らしく戦争を作業と心得ていた。
戦闘は夜のうちに開始された。羊黔は城壁に接近しており、双方ともその接近の緊張に耐えられなくなったのである。あと一盛りすれば城壁に登られるという恐怖が梁郭《りょうかく》側に革離の命令を待たずに攻撃を開始させた。
「慌てるなっ」
革離は叫んだ。始まってしまったものは止められない。ただ、暗いうちには戦闘を本格的にしたくなかった。革離は精強な伯だけを戦闘に加わらせ、なるべく戟《げき》や矛だけで敵を落とさせた。一方では台城を組ませている。高臨の法を破るにはこちらは常に敵よりも高いところから攻撃する。また、連弩車《れんどしゃ》を各門に待機させている。連弩車は盾《たて》をつけた台車に弩を並べて固定したものである。多数の矢を同時に発射することができる。
明け方、ようやく視界が明るくなった頃《ころ》、革離は反撃を開始した。弩兵、弓兵を羊黔上に集中して用いる。また、校機の儀(照準器)を羊黔上に合わせている。太鼓の音とともに飛び道具が解放されて、空気を切る音が朝もやの中に響き渡った。
台城からは打ち降ろすように羊黔上を攻撃することができる。熱湯や火灰や鉄粉は正確に羊黔に降り注いだ。校機の狙点《そてん》も次第に正確になり、羊黔上に石を降らせる。趙兵は悲惨な状態になりながらも羊黔を死守している。城壁に飛びついて力戦し、射られながら応射を続ける。必死の弓で城壁の兵を射殺す。羊黔は全部で五つ積まれているが、そのすべてで激戦が展開した。羊黔の上は足場が悪い上に、面積がそもそも狭いのである。そこに雨のように矢が降り注ぎ、石礫《せきれき》が弾《はじ》ける。趙兵の持つ盾はたちまちのうちにぼろぼろになった。
城壁内に飛び込んだ猛者《もさ》も四方から矛で攻められ、串刺《くしざ》しとならざるをえない。女の伍は熱湯を沸かして城壁に運び続ける。
「連弩車」
と革離が叫んだ。城門が開き、連弩車が討って出た。台車を十人の兵が押して突進し、羊黔上に向かって数十の矢が一気に放たれる。防ぎようがなかった。連弩車の周りを武装した城兵が固め、敵を防ぐ。追われそうになったらすぐさま城門に逃げ込み、追ってきた趙兵には矢と石礫が降り注ぐ。計六台の連弩車はそのようにしてひっきりなしに往復した。日没とともに趙兵が退却して行った。羊黔上には夥《わびただ》しい死体が残された。
革離は休まずに衝車《しょうしゃ》を繰り出した。衝車は撞車《どうしゃ》ともいう。台車に角のように太い棒を固定したものである。衝車はもともと城門を突き破るための攻城兵器で、その角を城壁や城門に何度もぶつけて破壊する。革離は衝車を使って羊黔を突かせた。土を盛り固めて作った羊黔はあっさりと崩れてしまった。また、革離は女と老人の部隊には外に出て矢を拾わせている。もちろん、死体に刺さった矢も引き技かねばならない。泣きながら作業している女が多かった。その間、校機と木弩(遠距離用の巨大な弩である)を回転させて、趙兵を近付けさせない。
一月近くかけて準備された高臨作戦はわずか一日で敗れ去った。趙兵のほとんどは口惜《くや》しさのあまり号泣していた。革離は太鼓と銅鑼《どら》を乱打させてそれをあざ笑わせた。
巷淹中も拳《こぶし》を震わせて耐えている。この一日の攻撃でなんと四百人近くが死に、その倍以上の兵士が傷を負った。猛《たけ》り狂って自ら羊黔を目指す衝動に幾度もかられた。淹中が辛《かろ》うじて自制できたのは、もう一方の穴攻が進行しているからである。淹中は校機が投石を止めた夜半になってようやく味方の兵の死体の回収作業を始めねばならなかった。作業は翌朝まで続いたが、革離もさすがに死体を運んで行く兵を討つ気にはならなかった。
「見ておれ、今に貴様らの足元に穴を開けて雪崩《なだ》れ込んでやる」
淹中は無念の眼《め》を梁城に向けている。
しかし、淹中は甘かった。革離は穴攻の法にすでに気が付いていた。革離は初期のころから井戸を司《つかさど》る者に、
「水の色が変わったり、濁ったりしたときはすぐ知らせるように」
と訓示していた。井戸水の変化は穴攻の前触れであることは墨者の常識である。
「なんと。地下から攻め寄せて来るのでござるか」
革離が懐園《かいえん》と牛子張に穴攻の事実を知らせると驚いたように言った。
「心配はいらない」
と革離は言った。
「しかし、どこから上がって来るのか分からねば応対のしようがありませんぞ」
「どこから来るのかはだいたい分かる」
革離はついて来るように命じた。
革離は城壁の近くに巨大な甕《かめ》を埋めさせていた。城壁に平行して十歩ごとに甕を埋めている。また、甕の口は薄い膜でしっかりと塞《ふさ》がれている。
「これは何なのですか」
と牛子張が訊《き》いた。
「こうやって膜に耳を当てる」
革離はひざまずいて膜に耳をかざして見せた。
「隧道《すいどう》を掘り進んで来るにつれ、その音が甕に伝わり聞こえるようになる。耳の良い者に一甕ずつ聴かせておけばよい。音のした甕から方角を決めて、こちらも隧道を掘って行くのだ」
牛子張はまた革離の技術に賛嘆することになった。この膜を張った甕を使う探索法を地聴《ちちょう》という。長く墨者を悩ませてきた穴攻への最新の防御法であった。高臨攻を撃退した頃にはもう敵がどこからトンネルを掘って来るのか分かっていた。
梁城側の死傷者はこの時で五十二人に達している。趙側に比べれば奇跡的に少ない数字である。
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五
革離《かくり》はひと休みしようと思い、望楼をある兵士に任せた。作業を任せてしまえるほどの職人が何人か育っているということだ。革離の負担は軽くなる。
革離はこわばった脚を引きずって、のろのろと歩いた。革離はいつものように颯爽《さっそう》と歩いているつもりである。革離とて人間なのであった。
城館内を行く途中、ふと足を止めた。物陰で声がした。
「もうしばらくの辛抱ぞ。たびたびは会えぬ」
梁適《りょうてき》の声であった。
「情けのうございます」
濡《ぬ》れた声がした。
「いつも貴方《あなた》様を抱いておりました手が、今は弓矢を持っております」
「我慢するのだ。戦さが永久に続くわけではない」
「いや、いやでございます」
しばらく、秘めやかな話声が続いた。やがて女は別の方向に去り、梁適はこちらに歩いてきた。革離と出食わした。梁適は一瞬|狼狽《ろうばい》した。革離は鉄のような声で言った。
「姦《かん》を犯す者は、斬《き》ります。今の女、確か瞭姫《りょうき》とか呼んでおられましたな」
「斬るというのか」
梁適は開き直って言った。
「それがです。困りましたな」
と革離は本当に困ったような声を出した。
「姦を犯す者はふたりながらに斬らねばなりません。若様とあの姫ですが……」
つるりと頭を撫《な》でた。
「ところが、今、城主の御子息を斬り捨てれば、邑人の士気に影響します。今回は見逃してあげます。しかし、次は駄目ですよ。まず御嫡子《ごちゃくし》の若様に手本を示していただかねば、話になりません」
梁適はほっとしたように言った。
「わかった。頼むから、瞭姫だけには手を出さないでくれ」
「今回だけです」
革離はすたすたと奥に入っていった。
「ちっ、犬め」
と梁適は吐き捨てた。
穴攻《けっこう》に対する法は敵のトンネルの方角を知り、その方角に向かってこちらからも穴を掘って行く。つまり、敵のトンネルをトンネルによって迎えるのである。
「敵の穴と通じたら直ちに攻める」
と革離は言った。敵は東西二本の大きなトンネルを進めている。革離はそれを迎えるために塹壕《ざんごう》を掘り、そこから横穴を進めさせた。そして、穴攻用に穴の中でも使えるよう工夫した短い矛《ほこ》を渡している。その矛は刃の部分が湾曲しており、スコップにも使えるものである。革離は能率よく交替で穴を掘らせ、運び出した土で土嚢《どのう》を作らせた。
革離は対穴攻に専念している。趙《ちょう》兵は陽動のため再び羊黔《ようぎん》を作る素振を見せたり、城門にかかってきたりしている。放っておくわけにはいかないので前と同じように攻撃させている。しかし、敵の攻撃も中途|半端《はんぱ》なものだから革離が直接指揮を取らなくても、代理の者に任せておける。この時点で淹中《えんちゅう》はすでに穴攻を失っている。じきに季節が冬になる。その前に穴攻は開始されるはずである。地面が凍りつけば隧道掘削《すいどうくっさく》は困難になるからだ。
まず城門攻撃が開始された。これまでと違い趙兵には決死の表情が刻まれている。革離は要領良く撃退する。趙兵の突撃は日に何度か繰り返されている。その度に城壁に死体を残していった。
「敵の穴に突き当りました!」
という伝令が来た。革離は望楼から駆け降りた。
革離の対穴攻戦術は恐ろしく巧みであった。敵のトンネルを正確に掘り当てることは困難であるから、こちらは三本のトンネルを平行して掘る。一つでも敵のトンネルに当れば他は横穴を掘ってゆき、合流させる。単純に言えば敵一人に対してこちらは三人で当ることができる。革離は突き当った穴を連板《れんばん》で塞《ふさ》がしめた。これは板を組み合わせたもので穴とほぼ同じ大きさに合わせた盾《たて》である。穴が幾つか開いており、そこから刃物を突き出すことができる。連板で敵を留《とど》めておいて、とりあえず行竈《こうそう》を使って莓《くさいちご》を燃やし、ふいごをついて敵を燻《くす》べる。
穴攻作業を進めていた趙兵の驚きは想像してあまりある。穴が空洞《くうどう》に突き当った、と思った途端にその空洞から槍《やり》が突き出され、盾で押された上に煙が吹き流されたのである。煙は目と喉《のど》に進入し、趙兵の戦意を挫《くじ》いた。一方、梁城兵は煙|除《よ》けに盆に醯《すざけ》を入れて用意してある。煙が逆流して目にしみる時にはそれで目を洗う。また、別に穴を開けてそちらに煙が逃げるような仕組みを作る。万一敵が煙で攻めて来た時への用心である。
さらに別な方角から横穴が貫通し、同じく連板があてがわれ、槍と煙が趙兵を襲う。趙兵はいったん退却した。
トンネルの広さは縦横十尺程度(約二メートル)である。藁《わら》を束にして炬《きょ》としている。
穴攻の防御はその性質からして、敵を殲滅《せんめつ》することではない。いかにうまく阻《はば》むかである。趙兵は再びトンネルから仕掛けてきた。手拭《てぬぐ》いで顔を覆《おお》い、長い矛で連板を突き倒そうとしはじめた。城兵は盛んに火をおこして対抗する。連板の小穴から槍を突き出して突く。趙兵が少し退《さ》がればその分だけ連板を進めて、さらに突く。趙兵は煙のため呼吸困難な上、目が見えない。槍で傷を負う者、火傷《やけど》をする者が増える一方だった。しかも、三方から攻められるのである。趙兵側も別に穴を掘り、また穴を拡充しようとするが、連板の突進と煙のためうまくいかない。穴攻の指揮を取る微詳《びしょう》も次第にあせってきた。
「一気に突き崩さんかっ」
と叫んでいるが、トンネルの先で行われている悲惨な戦闘の様子がよくわかっていない。
巷《こう》淹中と高賀用《こうがよう》は穴攻援護の為《ため》の攻撃を繰り返している。淹中は火のように城門を襲うのだが、連弩車《れんどしゃ》、校機、木弩の機械力に阻まれている。城に取り着くことができた兵の方がよほど悲惨であった。焼石や熱湯が降り注ぎ、渠答《きょとう》が炎に包まれて落下してくるのである。各所に修羅場《しゅらば》が現出していた。
「微詳はなにをしているのか! 早く城内に侵入して城門を開かぬか!」
と高賀用は悲鳴を上げた。
地上と地下で激闘が繰り広げられている。目を腫《は》らし、顔に火傷を負った兵士が地上に運び出されて呻《うめ》いている。また、激しく咳《せ》き込みながら這《は》い出してきて、嘔吐《おうと》している兵もいる。いずれも槍傷を負っており、微詳は穴攻の失敗を悟らざるを得なかった。
梁城側の被害も続出している。何人もの兵が趙兵の強弩に射られて城壁から落下していった。革離はさらに激しく太鼓と銅鑼《どら》を乱打させて、味方を鼓舞させ続ける。
「くそっ、退却だ!」
やがて淹中は血を吐くように命令を下した。
趙兵が地上からも地下からも退却したことを確かめてから、革離は一時休息の太鼓を打たせた。トンネルには仕込んだ犬を入れて、番をさせる。犬が吠えれば塹壕のまわりで待機している者が直ちに見に行くのである。墨者《ぼくしゃ》は軍用犬≠ニいう思想もすでに持っているのである。
「何だと、敵は迎穴して待っていたと申すのか」
淹中は微詳の報告を聞いて慄然《りつぜん》とした。味方の兵は火攻めに追われ、煙にいぶされ、進むこともできなかったという。こんな戦術は聞いたこともなかった。どうして穴攻があらかじめ見破られ、こちらが掘り進んでくる場所まで知られたのか見当もつかない。
『あの中には太公望《たいこうぼう》のような軍師がいるに違いない……。いったい、どういう奴《やつ》だ』
淹中の指揮|杖《じょう》が、ばきり、と音を立てて折れた。高賀用は恐ろしくて淹中の顔をまともに見ることができなかった。
革離はこの戦闘の論功行賞で五十六名に賞を与えて、表彰した。処罰者も多かった。とくに女と会っていた者を姦《かん》を犯したとして、二組処刑した。女が斬《き》られるのを見て、梁適はこれは革離が先日のことを俺にあてつけているのだ、と感じた。
革離の賞罰はじつに公平であった。不満を言う者はいなかった。梁渓《りょうけい》のみは自分の財産が一戦ごとに減っていくのが不満で、そのあまり病を発して寝込んでしまった。また、梁適も革離への不満を募らせている。革離は賞罰に細心の注意を払っている。少しでも誤りがあることは許されない。正直者を選んで軍監とし、兵の状況を見張らせている。結局、守禦《しゅぎょ》術の極意は民心の統御なのである。民に不満を起こさせたり、疑惑を抱かせたりすることが敵よりも恐ろしい。そのためには信賞必罰を旨《むね》とし、決して不満を起こさせないようにする。つねに民の和合を計るように気を配る。民心の和合こそがいかなる守城設備よりも重要なものであった。これさえあれば土塁も堅城となり、城は不落の要塞《ようさい》と化す。
冬になった。巷淹中の露営は悲惨の一語に尽きる。燃料を集めることが兵の日々の仕事となっていた。補給を要請する早馬を何度も飛ばした。淹中は攻城兵器の到着を待望している。攻城の具はなにしろ重く移動が困難である。到着が遅れていた。
その間、淹中は無策でいたわけでもない。できるかぎりのことはしている。梁城内の間諜《かんちょう》に破壊工作をさせよう思った。うまくいけば中から城門が開かれる。ただ、間諜は素人《しろうと》であった。鍛えられた細作《しのび》ではなく、趙に縁者がいるという程度の、言わば情報提供者にすぎない。淹中は彼らと幾度か連絡を取ろうとしたが、うまくいかなかった。趙の間諜はすでに革離によって処分された後だったのである。革離の密告奨励の法は非常に有効に働き、その手の不審者はとうに斬られていた。
「待ちわびたぞ!」
やがて難航の末に数種の攻城兵器が運ばれてきた。淹中は声を上げて喜んだ。
「見ておれ。今度こそ城壁を粉砕し、梁城の奴らを皆殺しにしてくれる」
さっそく高賀用と微詳を呼びつけて、
「寒さに震える兵に突撃で血を燃やして暖をとらせねばな」
と言った。
「今度こそ、それがし命にかえても城門を砕いて見せ申す」
微詳は決意を表情に刻んで、低く言った。高賀用は武者ぶるいを繰り返す。兵器群は趙兵に新たな士気を吹き込むに十分な威力を持っていた。
穴攻を防いだ後は、小競《こぜ》り合いが続いた。その度に邑人《むらびと》は力戦し、趙兵を打ち払った。冬になってもそれが続いて、趙軍が総力を上げるような大規模な攻撃はしばらくない。革離は趙兵が城を囲ん半年になるのに少しも退却の素振りを見せないことに焦《あせ》りを感じ始めていた。
『薛併《せつへい》の、魏《ぎ》と趙の戦さが半年延びたという話は本当だったのかもしれん』
革離の計算では城の食糧はあと二月ほどで尽きる。また、燃料も乏しくなっており、そのうち民戸を壊して燃料にせねばならなくなろう。
革離は邑人たちに懇《ねんごろ》に説明して、減糧を実行させなければならなくなった。一人が二日に二升を食べる日を二十日とし、三升食べる日を三十日、四升食べる日を四十日とすれば、一月分の食糧を九十日持たせることができる。単純に計算すればこの節食を実行して、あと半年の籠城《ろうじょう》が可能になる。邑人に多少の不満があがることは覚悟の上である。あと二か月で飢え死にするよりはましだろうと説明して納得させた。節食の計算法も墨者のよく工夫するところであった。
革離が仮眠をとっていると、兵が走ってきて知らせた。
「妙な物が趙軍に到着しております」
革離はただちに望楼へ向かった。牛子張《ぎゅうしちょう》が望楼に立っていた。
「革子、攻城の具のようでござる」
革離は遠目のきく眼《め》をこらした。
「あれは雲梯《うんてい》だ。その横にあるのは※[#「車+賁」]※[#「車+(囚/皿)」、第4水準2-89-67]車《ふんおんしゃ》、あの県※[#「こざとへん+卑」]《けんひ》を載せた台車は軒車《けんしゃ》だ」
革離はいつものように平然と言った。他にも衝車が来ているのが見えた。雲梯というのは折り畳まれた梯子《はしご》を台車に搭載《とうさい》したもので、現代の消防用の梯子車を想像すればよい。滑車のついた綱を引くと二段目の梯子が跳ね上がる。梯子を城壁に着け、それを伝って兵士が突入する。※[#「車+賁」]※[#「車+(囚/皿)」、第4水準2-89-67]車は盾で台車の上に小屋を作ったものである。装甲車である。これで矢箭《しせん》を防ぎながら城壁に接近し、工作する。軒車は台車に二本の支柱を立て、その間に人の乗る箱を吊《つる》したものである。滑車で引いてエレベータのように昇降させつつ城壁越しに覗《のぞ》き込むように攻撃する。衝車は革離が使っているものと同じで、太い支柱が台車に水平に固定されている。城壁に鐘を撞《つ》くように激突させて破壊する兵器である。
『巷淹中はあれらを使って総攻めを行うつもりだろうが……』
いずれも厄介《やっかい》な兵器である。今度ばかりは苦戦を覚悟せねばなるまい。革離は望楼を降りるとすぐに手配を始めた。邑人全員に戦闘態勢をとらせる。こちらも総力戦となるだろう。
革離は皆に言った。
「安堵《あんど》せよ。あんなこけ脅しの具など簡単に撃破してくれる」
革離に今や絶大な信頼を寄せている邑人たちはそれを信じた。
『ここが正念場ぞ』
革離は自らに言っている。
攻城用の兵器もその必要上から数多く考案されたが、雲梯はその最たるものであろう。楚《そ》の名匠|公輸盤《こうしゅはん》が製作したと伝えられている。三台の雲梯を趙兵が押して城壁に接近させている。革離は校機を使って投石させているが趙兵はひるまない。※[#「車+賁」]※[#「車+(囚/皿)」、第4水準2-89-67]車には弩、戟《げき》を携えた精鋭が乗り組み寄せてくる。※[#「車+賁」]※[#「車+(囚/皿)」、第4水準2-89-67]車の装甲は厚く、投石と矢くらいでは破壊できない。同時に衝車が各城門に向かって突進してきている。いずれも十数人の趙兵が力の限り押している。
ある程度城壁に近付くと雲梯はきりきりと梯子を伸ばした。趙兵が梯子の先につかまって身構える。雲梯を破る法は基本的には高臨《こうりん》を破る法と同じである。つねに相手より高い位置から攻撃する。革離は台城を組ませて、雲梯を見下ろす高さから弩を撃たせる。また革離は転射機を城壁の上に設置していた。転射機は連弩車と同じ構造である。転射機を台車に搭載したものが連弩車と考えればいい。
「打てい!」
と革離が叫ぶと同時に太鼓と銅鑼《どら》が乱打された。雲梯上の兵士に射撃を集中する。たまらず落ちて行く。次々に趙兵は梯子を登ってくる。必死である。次の瞬間には針鼠《はりねずみ》のような姿で転落した。校機、転射機の儀(照準器)を雲梯を押している兵に定めて、休む間もなく射撃させる。同じく衝車を押して城門を襲う兵士にも石礫《せきれき》と矢を浴びせ掛ける。
「押せやあーっ」
巷淹中も城壁付近まで陣を進めて声を張り上げている。
「この攻めで最後ぞ、ひるむなーっ」
趙軍も太鼓を乱打させている。あまりに激しく叩《たた》いたため皮を破いた鼓手がいた。彼は太鼓を蹴倒《けたお》すと叫び声を上げながら城壁攻撃に参加すべく走り出した。
軒車が四方の角に寄せて来ている。箱の中には弩の名手が乗っており、綱を引いて上昇し城を覗き込めた瞬間に火矢を発射する。城兵が射返したときには箱は下がっている。火矢を正確に建物に飛ばすことが目的である。火矢が建物に突き立つと女子供の部隊が走り寄り、消火する。
正午まで激しい攻防が続いた。東門がついに衝車によって砕かれ、そこから突入しようと趙兵が集中した。革離はそれを見るや、
「東の県梁《けんりょう》を上げて、県門《けんもん》をおろせい!」
と叫んだ。城の周囲には壕《ごう》があり、そこに渡した橋が県梁である。するすると引き上げられた。東側の外城を破った趙兵が内城の門(これを破れば城内に突入できる)に殺到しようとした瞬間、彼らの目前に音を立てて巨大な板の壁が落下した。革離があらかじめ用意しておいた県門である。城門の上に掛けてあった巨板を吊《つ》った綱を切断すれば落下し、防御シャッターの役目を果たす。県門に阻《はば》まれた趙兵を容赦なく投石が襲う。また、壕も突進を阻むためにある。各所に設けられた落し穴と縄罠《なわわな》が趙兵を捕らえる。不運な者はそこに足をとられ、動きを止められた所に焼石や熱湯を浴びせられた。
「鉄※[#「くさかんむり/疾」]藜《てつしつれい》(まきびし)を撒《ま》け」
革離が命じると拳《こぶし》大の鉄のまきびしが撒かれた。趙兵の足を刺し、接近を防ぐ。東門は速やかに戦闘の焦点ではなくなった。
ようやく雲梯の先が城門に接し、そこから趙兵が駆け上がる。梁城側の兵はそれを突き伏せ、弩を浴びせ、手斧《ておの》を叩《たた》きつける。しかし、趙兵も歴戦の兵である。斬《き》り合いになれば複数の討っ手を圧倒する。趙兵の戦意は凄《すさ》まじく、落とされても落とされてもひるむ様子がなかった。革離は渠答《きょとう》や火※[#「てへん+卒」]《かそつ》を使って寄せてくる兵士を一度にできるだけ多く捕捉《ほそく》しようとした。火※[#「てへん+卒」]は車輪兵器とでもいうもので、刃物のついた車軸を城壁から転がし落とすものである。火を付けて落とすこともある。城壁の斜面に沿って走り、その間に多数の兵を巻き倒してゆく。革離は持てる兵器のすべてを投入するように命じている。校機の一台は支柱が物凄《ものすご》い音をたてへし折れた。強度が限界に達したのである。周囲にいた邑人に木片が飛び、傷つけた。
戦闘は一夜を挟《はさ》んで続けられた。
ようやく趙兵に疲労の色が表れ始めた。革離は見逃さなかった。城門を素早く開いて衝車と連弩車を出動させた。雲梯を襲わせるのである。また、衝車には衝車をもって対抗する。
各地で衝車同士の激突戦が起こる。一部は雲梯に向かった。連弩車が一斉《いっせい》射撃を行った後、衝車が雲梯の横腹に叩きつけられた。何度も叩きつけると、もともと安定性に欠ける雲梯はぐらりと傾いて、そのまま倒れていった。
「突撃せんかーっ」
ともすれば退却しそうになる兵士を微詳が涸《か》れ果てた声で怒鳴りつけた。ままよ、と自ら突撃して兵士を煽《あお》った。涸れた声が突然途切れた。兵士が見ると連弩をまともに浴びた微詳が馬から落ちて行く。矢の集中度が高かったため、微詳の首がもぎとられてしまった。微詳は即死した。老将指揮下の部隊は崩れ始めた。
衝車対衝車、衝車対雲梯、衝車対軒車の激突の音は叫び声と太鼓の音で打ち消されてしまっているが、その激しさは空気を震わせて伝わった。革離は趙兵の密集度が高いところを次々に転射機の餌食《えじき》として指さした。矢数が尽きる寸前であったが、革離は止めずに射撃させた。頭の中には後のことなどなかった。投石用の小石が不足してくると、瓦《かわら》を砕き甕《かめ》砕いて弾にした。
「射《う》てーっ。さすなっ、突けーい」
革離は狂ったように叫び続けている。木枠《きわく》と柴束《しばたば》と泥土で作られた外城は度重なる衝車の激突にひび割れ、或《あるい》は、穴をあけられつつある。外城と内城の間にかろうじて侵入した兵士は壕に仕掛けられた罠に苦しみながらも城兵を倒している。次には針鼠のような姿をさらすか、膾《なます》と化してはいる。城兵も狂気が憑《つ》いたように勇をふるい、趙兵に戟を叩きつけ、矛を突き入れた。女兵もよじ登る兵士に石を投げ付け,棒で突き落とす。着物が破れて肌《はだ》があらわになっているのにも気が付かない。投げる物が無くなった女兵が趙兵の顔を足で蹴《け》った。足を掴《つか》んだ兵士と共に転げ落ちていった。
四台目の雲梯が車輪を割られ、傾いた時、趙兵の一部が逃げ始めた。
「逃げるなっ。斬るぞ」
高賀用の命令など用を足さない。仕方なく高賀用は何人かの兵を斬り捨てた。それは遁走《とんそう》に拍車を掛けることにしか役立たなかった。ついに、全軍に動揺が走り抜けた。
『これまでか』
巷淹中にもどうすることもできなかった。淹中は退却の太鼓を打たせた。
趙兵が退却を始めた。革離は、
「勝ったー」
と叫んだ。そばにいた者にも叫ばせた。城のあちこちで、
「勝ったぞー」
という声が出はじめると、逃げずに戦っていた趙兵も浮き足立った。城の兵も最後の気力を沸き立たせて趙兵と斬り結んだ。ついには、梁城の者全員が「勝った、勝った」と怒鳴り始めた。その叫びは戦闘で異常に興奮した神経が鎮《しず》まるまでやまなかった。
この事実上の総力決戦で、梁城側はかろうじて敵を防ぎきった。ただし、外城の三分の一は崩れ、死傷者も数知れない。
「まだ、休んではならん!」
と革離は怒鳴りつけた。まだ、余力がある者に、疲労のあまり尻《しり》もちをついて動けない者や、放心状態にある者たちを見つけては殴って回らせた。今、淹中が再度攻めてくればもはや守り切れないと思った。邑人のほとんどが腑抜《ふぬ》けのような状態である。革離は目を血走らせて趙軍陣地を見つめている。
淹中は再度攻めたいと思ったかもしれない。しかし、趙兵は言うことを聞かなかったろう。そして、趙軍はそのまま攻めて来なかった。夜をむかえた。
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六
淹中《えんちゅう》のもとに邯鄲《かんたん》から使者が来たのは、その翌日であった。淹中も疲れ切っている。鈍い目を使者に向けた。
「もう一度、言ってみろ」
「巷《こう》淹中司馬はすぐに陣を引き払い、邯鄲の防衛に着任すべし、ということでございます」
「魏《ぎ》軍が来るのか」
「そのようでございます。もはやこのような小城にかまっておる時ではございません」
「このまま帰れるか!」
淹中は怒鳴った。使者は、ひっ、と身をすくめた。
「しかし、趙《ちょう》王の命ですぞ……」
「うるさい。失《う》せろ」
使者は逃げ去った。
『帰る前にもう一度だけ、攻める。わしにも意地がある。微詳《びしょう》の仇《かたき》も討たねばならん』
それでも陥《お》ちなければ、潔《いさぎよ》く引き上げようと思った。淹中は宿敵のいる梁城を見据えてしばらく動かなかった。
高賀用《こうがよう》がやけくそな顔つきでやって来た。
「将軍、捕虜を得ましたが、皆、はりつけにして城に向けてよろしいですか」
「捕虜か。馬鹿《ばか》なことをするな。もしそのようなことをすれば奴らは死兵と化して挑《いど》んでくるぞ。ただでさえ厄介《やっかい》なのにそれ以上厄介にするつもりか」
「すると……」
高賀用は言った。
「今一度攻めるのですな。それでこそ将軍でござる」
高賀用もよほど口惜《くや》しく思っていたものであろう。このまま撤退など武人の面子《メンツ》にかかわる。
「捕虜を連れてこい。聞きたいことがある」
と淹中が言った。兵士が女を一人引っ張ってきた。
「一人だけか?」
「いいえ、まだ居《お》りますが、見映えのいい者を連れてきたのです」
淹中は笑った。女は怯《おび》え切っており、がくがくと淹中の前に崩れ落ちた。
「女。案ずるな。正直に喋《しゃべ》れば帰してやる。わしは巷淹中だ。嘘《うそ》は言わぬ」
女はおそるおそる顔を上げた。
「ただし、少しでも隠し立てしたり、嘘を申せば、その辺りの兵士に呉《く》れてやり、好きにさせる」
女はぶるぶると顔を振った。
「名前は?」
「瞭姫《りょうき》ともうします」
「まず訊《き》くが、軍師は誰だ。梁渓《りょうけい》ではかように巧《うま》くは戦えぬ」
瞭姫は恐怖から知っていることはすべて話した。
「墨者《ぼくしゃ》が入っておるのか……」
淹中は作戦のことなどについても詳しく訊いた。瞭姫に理解できる程度のことでは大して参考にならないが、革離《かくり》がどういうことをやったのかは想像がついた。特に穴攻がなぜ破れたか気になっていたが、地聴《ちちょう》の法のことを聞いて、
「おそるべきかな」
と言葉を失った。革離はこの女が理解できないような秘術をまだ幾つも施したに違いない。淹中は瞭姫を下がらせると他の捕虜にも同じことを訊いた。
「賀用、捕虜を帰してやれ」
「本気でござるか?」
「本気だ。嘘をつくと寝覚めが悪いからな」
わざわざ死兵を作る必要はないと淹中は思っている。
「それより、酒盛りだ。もはや兵糧《ひょうろう》を節する必要もないゆえ、ぱーっとやれ」
と命じる。その夜、趙軍は夜明けまで宴を催した。淹中は雑兵《ぞうひょう》のたまりまで行って酒をくんだ。もう一度頼む、ということを告げて回ったのだ。
「巷司馬は噂《うわさ》とは大分違いますな」
と高賀用が言った。
「何がだ」
「人は、猛《たけ》り狂えば敵を皆殺しにするまでとどまらず、と言っております。それがしも暴虎馮河《ぼうこひょうが》(虎を素手で殴り、黄河を徒歩で渡る)の猛将と期待しておりました。それが、どうも違うようでござる」
「ははは、賀用、おぬし今度はわしの野戦についてくるがいい。猛り狂うところを見せてやろう」
それを聞いて高賀用は攻城戦の指揮がどういうものかを理解できたように思った。
巷淹中は酒を含んで空を見上げながら、
『墨者はこの世から抹殺《まっさつ》すべきだな』
と考えている。淹中は軍人として墨者が世に害をなす者だと信じた。自分が墨者に煮え湯を飲まされたからそう思ったのではない。だが、口に出して言えるほどのはっきりした理由があるわけでもなかった。
革離は邑人《むらびと》を励まして戦後処理に走り回った。矢の補充、城壁の補修、伍《ご》、什《じゅう》、伯《はく》の再編成などやることは山ほどあった。城外で傾いたまま残されている雲梯や衝車を鹵獲《ろかく》するなど忙しい。
それに、邑人の疲労を回復させ戦意を甦《よみがえ》らせることがまず肝要である。革離自身は気が遠くなるほど疲労している。それでも当分は休むことができないと覚悟している。
その夜、趙軍に釈放された捕虜が帰ったという報告が入った。革離は敵が捕虜に紛れて侵入して来ることを用心して、皆に厳重に縄《なわ》をかけて監視させた。調べると全員梁城の住民であり、不審な者は紛れ込んでいないことが分かった。
『巷淹中はおかしなことをする』
と革離は思った。普通は敵の捕虜になったものは帰ってこない。殺されることが多い。とくに女が帰されることなど稀《まれ》である。革離はいつもはそれを利用し、敵の非道を責めてさらに邑人に敵意を盛んにする。負ければ殺されるしかない、という感情は兵を気狂《きぐる》いに追い込み、自暴自棄の勇猛さをもたらす。革離は趙兵が捕虜を虐殺《ぎゃくさつ》しなかったことが少々不満でさえあった。また、殺されずとも自発的に敵軍に入ってしまう投降者もいるが、革離は投降者の家族を人質のようにしてあり、すぐさま斬《き》ることができる。身寄りのない者は城外戦には出さないようにもしている。これも邑人を戦闘に追い込むことに役立つ。
『そこまで淹中が読んで捕虜を帰したのなら、やはり容易ならぬ相手だ』
革離は淹中に撤退命令が出ていることを知らない。まだ半年は淹中と戦わねばならないと覚悟している。だから、帰還した者への対処は敢《あ》えて厳しくせねばならないのである。
革離は帰還兵たちに趙軍の様子を尋問した。彼らが淹中に機密事項をぺらぺら喋《しゃべ》ってしまったことも知った。喋らねば殺されるという状況下のことであったとはいえ、許容できる事態ではなかった。
『仕方ない。斬るか』
と思った。淹中は懲《こ》りずに仕掛けて来るであろう。捕虜から手の内を聞いて、やり方を変えてくるかもしれなかった。梁城の食糧、燃料の残高を知られていないことがせめてもの救いである。この最重要機密については革離だけが把握《はあく》しており、誰にも漏らしてはいない。
数日後、論功行賞を行った。革離は敢えて賞を濫発《らんぱつ》して梁渓を憤死するような目にあわせた。また、ことのほか罰を厳しくして怠慢者、軍法違反者ほかの三十九人を斬り捨てた。この中には内通罪でさきの帰還者も含めている。この賞罰も筋が通ったものであり、公平そのものに思われたので、邑人は納得しさらに戦いへの意思を新たにした。守禦《しゅぎょ》戦術の最後はやはり心理戦であると革離は胆《きも》に銘じている。民心の結束のためには帰還者たちには死んでもらうしかなかった。
処刑が行われている最中に、梁適《りょうてき》が血相を変えてやって来た。彼の愛人の瞭姫は茫然《ぼうぜん》と首をうなだれ、地に引き据えられている。梁適は革離に掴《つか》みかかった。
「革離、なぜ瞭姫が!」
「是非もございませぬ。あの者は敵に内通いたしました。わが方の機密と引換に命|乞《ご》いをしたのです」
革離は邑人に聞こえるようにわざと大声をだした。梁適はとり乱している。
「馬鹿な! 瞭姫が内通などせぬことは私がよく知っている」
「若様にはお気の毒ですがこれは致し方ございません」
「待て革離、頼む瞭姫を助けてくれ」
「あきらめなされよ」
革離は冷たく言い放った。
瞭姫が斬首《ざんしゅ》された。刃が首に食い込むまで、
「梁適様、わたしは内通などしておりませぬ!」
と泣き続けた。梁適はそれまで兵に羽交《はが》い締めにされていたが、瞭姫の首が落ちると放された。梁適はよろよろと駆け寄り瞭姫の首を抱えて大声で哭《な》いた。
「若様、お止《や》めなされよ。それ以上醜態をさらすならばあなたも斬ります」
戦時下で死を悲しむ者は斬らねばならない。
「この人でなしめ!」
梁適は瞭姫の亡骸《なきがら》を抱くと奥に歩いて行った。このことは別に民心の結束にはまったく害とならなかった。革離がもし瞭姫を助けていたら、そのほうが民心は離れただろう。今は邑人であろうと城主の息子であろうと平等なのである。
巷淹中は最後の攻撃開始の準備を整えた。破壊されずに残った雲梯一台と何台かの衝車を揃《そろ》えなおした。また、遅れて到着した※[#「石+馬+交」、第3水準1-89-16]《ほう》という投石機で台城を狙《ねら》って打つことにしている。惜しむらくは※[#「石+馬+交」、第3水準1-89-16]は一台しかなかった。
「東南角に衝車を集中して用いるのだ。あそこの外城は崩れかかっていてもろい。突破したら壕《ごう》に土嚢《どのう》を投げて埋めよ」
と淹中は作戦を立てた。東南角は、校機と転射機の死角となっていた。また、張り出しが設けてあるので、台城からの落石攻撃も不正確である。淹中は先日の攻撃の時、東南角の虚を発見し、最後にはそこに集中攻撃をかけて城壁を破壊しようとした。しかし、時すでに遅く、兵が潰走《かいそう》を始めたため断念した。
「同時に雲梯を使って東を攻めよ。※[#「車+賁」]※[#「車+(囚/皿)」、第4水準2-89-67]車《ふんおんしゃ》に乗った兵は崩れかけている東壁に空洞《くうどう》攻を施すように」
空洞攻とは城壁に穴を穿《うが》つことである。
「さらに別動隊は隧道《すいどう》からの侵入を試みよ」
革離は穴攻の時のトンネルに汚物を運び込んで埋めている。それを再び抜けという命令である。淹中は打てる手はすべて打つつもりである。
「これなら必ずや梁城を潰《つぶ》せますぞ」
と高賀用は叫んだ。淹中はうむ、とうなずいた。内心は、
『これでも梁城を破るのは難しい。おそらく抜けまい』
と常の彼に似合わず弱気であった。この攻撃は淹中のプライドのための攻撃である。抜く抜かないは二の次であった。淹中は墨者革離の恐ろしさを高く評価しているのである。
革離はそうとは知らなかったが、淹中の最後の突撃が開始された。まず、※[#「石+馬+交」、第3水準1-89-16]が城内に投石した。この汎用《はんよう》投石機は十二|斤《きん》(約三キロ)の石を最高で五百メートル近く飛ばすことができた。革離は落ち着いて、
「あわてるな、よく見ておれば当たらない」
などと言った。※[#「石+馬+交」、第3水準1-89-16]の連射能力は低い。強力な機(ばね木)を絞り込むのに五、六人は引き綱を巻き取らねばならない。一台ではそれほど脅威にはならなかった。革離は木弩の仰角をあげて※[#「石+馬+交」、第3水準1-89-16]を狙わせた。それより東南角への敵の攻撃が激烈を極めた。革離はそこが死角になっていることに気付き、すぐさま校機と転射機の位置を変えるように命じた。校機が東南角に石礫《せきれき》を叩《たた》きつけることができるようになった時には外城は砕かれた後であった。
革離は城兵の三分の一を東南角の防御に向かわせた。その間雲梯が東壁に取り着こうとしているのを、前回と同じやり方で防がせた。革離は県※[#「こざとへん+卑」]《けんひ》に転射機を搭載《とうさい》させて上下させ、東南角に群がった敵兵を攻撃させた。東南角が主戦場となった観がある。革離もいきおい東側の望楼を離れることができない。
『だが、これくらいなら防げる。淹中も策がない』
と思った。渠答《きょとう》と火※[#「火へん+卒」]《かそつ》を大量に投入して東南角に使わせる。炎に包まれた火※[#「火へん+卒」]が敵兵を巻き倒し、衝車の突進路に止まって障害物となった。渠答が次々に落とされ、内城に取り着いた兵をかき落とした。火達磨《ひだるま》になった兵が絶叫をあげてのた打ち回る様子が幾つも見えた。
すきをついて西門から出動した衝車が雲梯に襲いかかり、無闇《むやみ》やたらに突きまくった。空洞攻を行う兵は矛《ほこ》や戟《げき》で内壁を掘り崩そうとする。城壁は木と土でできているから、それを剥《は》がせば穴を穿つのは容易である。だが、そこにも熱湯や焼け石が降り注ぎ、弩は容赦なく趙兵を貫いた。城兵ももはや戦さ慣れしている。弩の狙いも正確さを増した。近距離ならば兜《かぶと》の下を余裕をもって射ち抜ける。
趙兵の士気はなかなか衰えず、死力を振り絞って城に群がる。淹中は顔が見えるほど近くまで来て下知《げじ》を浴びせている。それでも次第に趙兵は劣勢になってきた。革離はこれでよしと思った。
その時、望楼の下に女兵が駆けつけてきた。
「何事だ」
「革子、穴から敵が来るようすです」
「ちっ」
革離は穴からは来るまいと思って、穴の守備には女兵を置いていた。
『糞尿《ふんにょう》をかきわけて進んでくるのか。可哀相《かわいそう》にな』
革離は牛子張《ぎゅうしちょう》に指揮を任せると数人を連れて穴に向かった。走りながら、
「穴のまわりに炬火《たいまつ》を用意させい。柄《え》の長い矛を女兵に持たせろ」
と命令を授ける。
近道するため城館の間を走って抜けている時、どこからか矢が飛んできて、革離の胸を貫いた。一緒に走っていた数人の兵が、あっと声を上げた。
革離は牛子張らの勧めも断って戎装《じゅうそう》をつけていなかった。甲《かぶと》を着ておればやすやすと矢に貫かれることはなかったはずである。
『む……』
革離は戦争の職人らしく冷静だった。どおっ、と倒れつつ矢の来た方を見た。そこにいたのは趙兵ではない。梁適が弩を構えて立っていた。その目は悲しみと恨みをたたえている。
『なるほど。うかつだったな。私の守禦術もまだ未熟であった』
城兵が声をあげて梁適に向かっていった。梁適が剣を抜いて対応する前に、矛に貫かれていた。城兵は奇妙な声をあげながら梁適を何度も刺し斬り、膾《なます》のようにしてしまった。軍神が目の前で殺されたのである。相手が梁適であろうと容赦はなかった。
革離は地に伏して動かなかった。
『瞭姫を殺したことはこの場合[#「この場合」に傍点]誤りだったのだ。何事も教科書どおりにはゆかぬ』
革離は一つ学んで、にやりと笑った。革離は墨子教団に属し、天志のもとに生きる男であったから死を恐れる必要はなかった。革離が倒れた拍子《ひょうし》に懐《ふところ》から盟のしるしの※[#「王+黄」]《こう》が飛び出して、また小さく砕けた。
やがて、革離は働くことを止めた。
動転した城兵の叫びで革離の死がまたたくまに城内に伝わった。
東南角が破れた。巷淹中はここぞとばかりに声を上げた。何人かの兵が内城を越えて矛をふるった。
※[#「石+馬+交」、第3水準1-89-16]の投石は偶然にも望楼に命中して柱を折った。牛子張がひっくり返って落下した。雲梯の兵が東壁に取り着くことに成功し、城兵と格闘して血祭りにあげた。やがて内部に侵入した趙兵が城門を開いた。その門から趙兵が怒涛《どとう》のごとく乱入する。
『どういうことだ。急に弱くなりおった……』
と淹中は思った。自ら突進して、評判どおりの荒れ狂いぶりを兵士たちに見せつけた。城内は白兵戦というよりは趙兵の一方的な殺戮《さつりく》の場と化した。梁城の兵はほとんどは兵士ではなくただの邑人《むらびと》なのである。突入してきた趙兵の前で烏合《うごう》の衆になり下がった。相手は女子供と年寄りが多かった。趙兵はこんな連中に苦戦したことが不思議でならない。
ひとしきり戦闘が収まると淹中は殺戮を止めさせた。城館に乗り込んで梁渓に縄を打って引き出した。兵どもに生き残った邑人には手を出さぬよう厳命した。
淹中は墨者の死体を見つけた。坊主《ぼうず》頭と粗末な服で、墨者はそれとすぐ分かる。淹中はこの墨者を誰が射たのかは知らない。乱戦の中で死闘しているうちに誰かの矢を受けたのであろうと思った。
「この男は別に葬《ほうむ》ってやれ」
と淹中は言った。この墨者こそ今まで淹中が戦ってきた中では最強の武将であったと思った。
「その男のは薄葬(手厚い葬式の反対の意味)にしてやるのだぞ」
と淹中は付け加えた。淹中は墨者は葬礼を節することを尊ぶと聞いていたからである。
梁城は趙軍が囲んでから七か月目に陥落した。淹中は悪戦苦闘の末、梁城という小城を陥した。その淹中もこの後、邯鄲城の攻防戦のさなかに命を落すことになる。
秦《しん》の始皇帝が中国を統一した後、墨子教団は跡形もなく歴史上から消えてしまった。戦国の二百年にわたって中国に勢力を張りつづけた組織が蒸発するように消えてしまうなどとは有り得ることではない。始皇帝は儒者の弾圧は行ったが、墨者の弾圧は行わなかった。始皇帝が墨者を滅ぼしたのでもない。というよりもその頃《ころ》にはすでに墨子の教団は消えてなくなっていたから弾圧の必要もなかった。弾圧されたはずの儒者は生き残り、後の中国の正統思想を担《にな》ってゆく。そこには墨者は影も形もない。
墨者の一部は秦と結び付き、秦墨と呼ばれた。彼らは勢力拡大中の秦の為《ため》に恐るべき能力を使用した。秦の爆発的な発展の裏には墨者の軍事能力が大きく寄与していた形跡が認められるのである。一方、一部の墨者は禽滑釐《きんかつり》、孟勝《もうしょう》のあり方を墨守して、大国の侵略を防ぐために死力を奮った。それら民衆と結びつき、レジスタンス化した墨者の壮絶な滅亡の様子を描いたと思われる記述もある。どちらの墨者も消えてなくなった。漢の時代になると、もはや墨子の名を語る者もいなくなった。そのテキスト「墨子」も明清の再評価の光があたるまで闇《やみ》のなかに隠れてしまった。戦国に異能をもって強盛を誇った彼らがどうして突然に消滅してしまったかは、今となっては謎《なぞ》である。
中国という国は、あるいは民族は古来からいかなる思想が入ってきても、それを排斥することなく消化してきた。そういう強靱《きょうじん》な胃袋をもってしても墨子の思想だけは消化できなかったようである。墨子の思想はそれほど中国にとって異物だったのであろうか。
あるいは消化したのかも知れない。秦の始皇帝が用いた思想は法家のものであった。しかし、具体的な組織のモデルとしては墨子教団があり、それを容《い》れたとも言える。墨者は秦を飲み込めなかったが、秦が墨者を飲み込んでしまったという推測が成り立つ。
また墨者が好んだ「任《にん》」の一字は姿を変えて、太平道、五斗米道《ごとべいどう》などの民衆運動になった。
中国の宗教結社の始源は墨子教団であったかもしれない。弱きを助けて強きを挫《くじ》く、己を拾てて他人のために尽くし、死すとも節を曲げないという「任」の精神は「水滸伝《すいこでん》」や「三国志演義」の中に生き続け、民衆に好まれた。
墨子は賤民《せんみん》であったとされる。おそらく工人階級の出で、思想家とならなかったら名職人として名を馳《は》せたにちがいない。また、墨とは刺青《いれずみ》された者、つまり受刑者を意味するのではないかとも言う。どちらにしても当時の身分制の最下位にいる。墨子が儒を学びながら、儒者と根本的に異なったのはこのあたりからきている。彼だからこそあらゆる階層に、「以《もっ》て人を愛することを勧めざるべからず(人を愛することをすすめずにはいられないのだ)」と言うことができた。
革離も、はっきりしないが、賤民であったろう。彼のような職人的戦術家は墨家にはごろごろしていた。書物がとくに名をとどめるべき人物ではなかったのである。
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文庫版あとがき
もう大分以前から、僕の頭の中では小説について警報がいつも鳴っている。
小説業界が斜陽だなんてことは常のことだから別に気にしてはいない。
世界規模の政治経済大混乱が発生すれば、小説を読み書きしているどころではなくなり出版社が雑誌や本が作れなくなるというような事態が訪れるであろう。またたかが雑誌や書物のために熱帯雨林を伐《き》りまくるのももう止《や》めるだろうから、紙製の本は制限されいずれ無くなる。別のメディアを使用したとしても書店における小説の洪水《こうずい》は終わろう。それらのことは、歴史の流れの中にいる地球人としては甘んじて受けて仕方がない。
恐れているのは小説が本当にどうしようもなくつまらなくなり、その面白くなさの故に滅びてしまったらどうしよう、ということだ。(あくまで僕にとってだが)それくらい小説が面白くないのである。小説は従来持っていた言葉の力の遺産をじりじりと費《つか》い果たし、面白さが緩慢に自殺してゆき、あらゆるダイナミズムを無くし、何の化学変化も起きなくなりただ冷たい恒常状態があるだけで、やがてぴくりとも動かなくなるという恐怖。僕は心配症なのであった。
果たして小説のエネルギーはエントロピーの法則の支配下にあるのだろうか、それとも外にあるのだろうか。よく分からない。
――虞《ぐ》や虞や、小説を如何にせん
と嘆きたくなるような不安と焦慮がある。虞美人に問うても仕方がないことなのだが、それくらい小説の行く末を案じまくって、妙なことを言い出したりする。ちと妄想気味である。
が、小説は必ず面白くなければならない、などという命題は間違っているであろう。世の中には必ず……ねばならないもの、などはない。小説が面白くあって欲しいというのは、あくまで僕の希望であり、こだわり、とらわれ、である。本当は別に面白くなくてもいいわけである。
「べつに小説なんてどうでもいいけどさぁ」
てな感じで小説は生き残るのかも知れない。また面白さを決めるのは個人の主観の問題だということもある。
そこで別の言い方をしてみる。少なくとも、僕は小説は|動きながら死ぬ《ダイイング・イン・アクション》べきだと思っている。
というわけで話題を変えて想像を絶するもの≠ノついて述べたい。
僕が小説のひとつの課題として考え続けているものに想像を絶するもの≠ェある。
巷《ちまた》の小説、映画の宣伝コピーの上には「想像を絶する恐怖」とか「まったく想像しえない驚異の結末」とか想像を絶するもの≠フ類はけっこうあふれており、それほど珍しくもないのだがしかし。
実際に想像を絶するもの≠書こうと思うとすぐさま痛烈な矛盾に気付くのである。本当は想像を絶するもの≠ネどというものは基本的に存在し得ないのではないかということである。
想像を絶するもの≠ェ存在したとしても、人にとって想像を絶するのだから、想像できないわけであり、人はそれを絵に描《か》くことも、文章で描写することも不可能なのである。また想像を絶するもの≠ヘ認識を超えた存在である可能性が高いので、見ることも聞くことも触ることも出来ないことになる。
「想像を絶する小説」という言い方は、自体がパラドックスである。そういうようなことが本の帯に書いてある場合は虚偽の広告ということになるのだが、小説はもともと嘘《うそ》なところがあるものだからその点は問題はないとしよう。ただ内容が「想像を絶して」いなかったとすれば、広告を見て買った読者は当然怒る権利がある。
以前に想像を絶するもの≠ヘ想像を絶するが故に、たとえ人が道の真ん中ですれ違ったとしても双方とも認識できず何も気付かないし、遭遇による変化も(変化はもしかするとあるかも知れないが)認められないであろう、というような短編を書いたことがある。想像可能の存在である幽霊や妖怪になら霊感の鋭い人は気付くかもしれない。しかし真の怪物たる想像を絶するもの≠ノはどれほど感覚が鋭かろうが気が付くことは有り得ないという主旨であった。
「想像を絶する」を詳しく見てみると、例えば映画の宣伝コピーにおける「想像を絶した」ものというのは要するに観客の想像が制作者のそれに及ばなかったということである。各種SFX、コンピュータ・グラフィックスの技術はこれまで見たこともなかった映像世界をスクリーンに映し出した。しかし、それらが想像を絶するもの≠ゥというと、ちょっと違うと思う。「想像を絶した」映像に観客の想像力は追い付かなかったろうが、制作者や技術者は想像していたからである。
また小説などのストーリー上の「想像を絶した」展開というものも然《しか》り。本物の想像を絶するもの≠ナはない。作家の想像力が読者を上回ったか、読者の想像を良く裏切ったか、いずれかに過ぎない。すれた読者ならそれほど想像力を使わずとも、筋の展開を見抜くことも出来よう。それが心理小説とか実験小説などの読解の困難なテキストであろうと、決して想像を絶するもの≠ナはない。どんなものでも、少なくとも一人は、作家が想像しているのであるからだ。
とすれば従来の「想像を絶した」ものは基本的には作品に観客読者の想像力がいくらか及ばなかったものか、観客読者の想像を良くも悪くも裏切る展開をしたものであると言うことが出来る。その個人の想像の範囲よりも造り手の想像の範囲のほうが勝っていたのである。ある作品を「想像を絶した」と本気で評する人がいるとすれば、それはその人の想像力の欠如を表明していると言ってよい。
その「想像を絶した」は、
「あんなことが出来るとは思わなかった」
「こんな展開になるとは思わなかった」
という意味で言っていることが多かろう。時には「あんなこと」や「こんな展開」に驚いたりせずに怒り出す人もいて、評論家というのは難しい。また「想像を絶して」いるからといってそれ自体に価値があるかということも疑問である。
とりあえず人である限り人の想像力を超えたものを想像することは不可能に違いないと結論してみる。結局、作家は想像を絶するもの≠書くことは不可能である、ということも同じく推論できる。しかしそう思いながらも想像を絶するもの≠書いてみたい、という思いもまた強いのである。不可能と思いつつもまだ納得したくないという妙な葛藤が僕にはある。
想像を絶するもの≠ヘわずかの察知も不可能なのか。話は少し違うが、僕などは理数が好きなのだが苦手である。それを差し引いても、虚数や複素数の世界が現実にそこに存在しているものとはとても思えない。虚数、複素数が存在する、と想像する努力をすることが出来るだけである。でもこの時に「霊界が存在する」というのと同じくらいにだが、かすかに虚数の世界の存在を察知しているような気がしないでもない。
確かに想像を絶するもの≠想像するのは不可能としても、想像を絶するもの≠想像する努力は出来るに違いない、と的から少し身をずらせたりしてみる。そうすることが「重力の使命」ならぬ「想像力の使命」とも思うからで、単純に言えば想像を絶するもの≠ヨの挑戦ということだ。
H・P・ラヴクラフトに『名状しがたいもの』という作品がある。
ラヴクラフトは、戦前の合衆国にあり恐怖と幻想の作家として特異な創作活動をした作家である。クトゥルーと称される妖異な神話体系の創始者として奉《たてまつ》られ、恐怖小説の歴史に大きな足跡を残した。当時は大して名の知られぬパルプマガジンのライターに過ぎなかったらしいが、その作品は今にいたるも読まれ続けている。日本で文庫で全集があるアメリカ作家などほとんどいないというのに何故かラヴクラフトのものは出ているのは大したものだというしかない。蓋《けだ》しラヴクラフトの書いた小説に半端《はんぱ》でない力が蔵されているのであろう。ラヴクラフト自身は教祖のような地位に祭り上げられてしまった観がないでもない。
ラヴクラフトは『名状しがたいもの』のような小説を書いたのだから、想像を絶するもの≠書こうとする志向があったと思われる。名状しがたいもの≠フ概念は想像を絶するもの≠想像する努力に近いものがあると思う。僕はラヴクラフトの小説をそれほど面白いとは思わないのだが、そのやり方にははっとさせられることがある。
ラヴクラフトの恐怖を生み出している主な要素は、形容できぬ、信じがたい、名状しがたい存在である。ラヴクラフトは名状しがたいもの≠ェ小説にあらわれてくる場合、文字通りに名状しようとしないのである。怪物、妖怪、太古の邪悪な神々、そのような実体を名状しないし、ありきたりの描写を徹底して避けている。ひたすら名状しがたいもの≠表現する努力を重ねるのである。『狂気の山脈にて』など諸作品にも見られるが、名状しがたいもの≠スちを「ありえざるもの」とか「筆舌につくしがたいもの」と表現し、もったいぶって避けているのではなく、そう書くしかないのだとほのめかすのだ。
ラヴクラフトにとっては恐怖の対象を表すための「獣のような」とか「悪魔のような」とか「吸血鬼じみた」とか、そういう形容は陳腐なのであって、人が何らかの形態を連想する言葉によっては形容できないものを表そうとしたのだと思われる。名状しがたい℃タ体が目前に存在する時、所詮《しょせん》、人間はそれらを的確に表現することなど出来はしないのであり、それ以前にそんな言葉をまだ持ってはいないということである。
このラヴクラフトの筆法は想像を絶するもの≠表現せずして表現しようという試みの一つなのだと受け取りたい。
ただしラヴクラフトの方法が成功を収めているかというと、劇的に成功しているとは言い難いのが残念である。ラヴクラフトが表現したい実体を読者が想像しにくいのは成功としても、胸中に想像を結ばせない実体に襲われる恐怖というものが伝わりにくい。ラヴクラフトを責めることは出来ない。想像を絶するもの≠ノ襲われる恐怖を人に感じさせるなど至難この上ない神技といえる。
ラヴクラフトの作品はいくつか映画になっているのだが、名状しがたいもの≠重視するならば映画化すべきではないであろう。限りなく無理に近いからである。映画化をクリアするには「名状しがたい」実体を映像にすればよいのだが、そんなこと出来るはずがないし、やったら原作の破壊であり、別なものになってしまう。失敗がはじめから目の前にぶら下がっている。
ホラー的な映画の場合、序盤から中盤にかけては恐怖の根源は名状しがたいもの≠ナもかまわぬわけだが、終盤には怪物や殺人鬼は正体を現しているもので、最後に残った登場人物たちと決戦をする。エンターティンメントならこれは当然のことと言える。これまでさんざんどきどきさせて凶悪なことをしてきた怪物や殺人鬼が最後まで名状しがたいもの≠ナあるわけにはいかないだろう。特に視覚に訴える映画では、そういう実体を映してしまわぬことには、観客の多くに欲求不満を起こさせたまま帰らせることになる。怪物の打倒や謎解《なぞと》きがないと水準的なカタルシスも得られない。見るのは恐いが見ずにはいられないという、その手の映画はこの心理状態を観客席につくることで成立している。ラヴクラフト流の表現法を無理に通せば、観客は、スカされた、と思うか、ひょっとすると芸術映画と思ってしまうかも知れない。
やるべきことはまず想像を絶するもの≠読者に想像させることが第一歩であろう。そうするには作者と読者の間に想像力上の交感が必要とされる。だが作者と読者の間に交感事項(あらかじめ説明抜きで書ける共通の言葉とか概念、のようなもの、と定義しておく)が多いとかえって想像を絶するもの≠ゥら遠ざかるのもまた事実だ。だからといって交感事項を減らし過ぎるとわけのわからない変なものになってしまう。
想像を絶するもの≠フ表現には想像力の媒介に鍵《かぎ》があるのは間違いない。音楽の場合は音や歌詞でそれを行い、小説の場合はそれを文章で行うことになる。作者と読者の想像力を媒介させて想像を絶するもの≠描くには、絵や映像にくらべれば、言葉でやる方が有利であると思う。(音も有利だと思うがとりあえず小説の話である)
あとはどうやるかに尽きる。早い話がこのうまい方法を考え出せば想像を絶するもの≠ヘ書けないとしても、少なくとも想像を絶するもの≠ノ接近出来るわけである。前述のラヴクラフトの流儀を応用するのも一つの手ではある。
現在、もう一つ考えているのは詩である。最近つくづく思い知らされているのは詩の持つ力の強さである。そして詩の復興が小説の復興とがなり重要な関係がありそうだと確信している昨今だ。詩が駄目《だめ》になるとついで小説も駄目になるような気もしている。
詩の言葉は小説の言葉よりかなり強力なのではないか。言葉による喚起力、想起力は詩のほうに分がある。強力な詩は、その言葉によって読者の想像力を言葉以前の段階へつれてゆくことも可能ではないかとすら思う。また詩は暗唱、音読と切っても切れないもので、詩を声に出すことによって音の力を利用することも出来る。想像力に音を響かせて揺り動かすことも出来そうだ。詩とは小説よりも遥《はる》かに魔術的である。
詩の力を小説に蘇《よみがえ》らせる案は魅力的であり、小説が詩の力を利用せぬ手はないと思う。これが成功して想像を絶するもの≠フ表現が実現するかどうかはよく分からないが、少なくとも小説はその力に与《あず》かる必要があろうと感じている。
なんだかんだ書いてきたが、要するに僕は想像を絶するもの≠書こうとすることには何か意味がありそうであり、たいへん面白いのではないかと思っているだけである。残念ながらまだ具体案はない。ただこの方向へのアプローチを続けていれば何か新しいものが出てくるに違いないと信じているだけのことである。
本書『墨攻』は墨子教団の籠城《ろうじょう》戦術がたいへん面白かったので、最初は、この面白さを埋もれさせておくのは勿体《もったい》ないというそれだけの理由で手をつけ始めたものである。『墨攻』は史実でも事実でもなく架空の物語であり、無論のこと歴史小説ではない。
墨子については言えないことが多いのである。戦国期に墨子の教団が存在しており『墨子』という書物を遺《のこ》したらしいということだけが事実である。『墨子』についてはまだ不明の点が非常に多いという。『墨子』研究の歴史は浅くまだようやくその端緒についたばかりといった感じである。儒教、老荘思想の研究の歴史とくらべると比較にならぬほど浅い。中国学の今後の課題の一つである。
まあしかし、僕には中国学の素養などはまるでなかったから、そういう専門家の領分について言える何事も持っていなかった。結局作家的に勝手に想像するのである。解釈とも言えない代物である。
例えば墨子教団の傭兵《ようへい》的性格は小中の城に多数の兵を貸すというような性質のものではなく、教官団、つまりは軍事顧問や軍事技術者、説教者たちを送り込むような性質のものであったのではないかと考えた。墨者が先頭に立って戦うのではなく、教育を施した民衆を戦わせる。その教育の中には墨子教団の思想教育も含まれており、それが宗教的なものかイデオロギー的なものかはともかく、精神的なところから民衆を精強な兵士に変えていったのではないか。
これは傭兵部隊というよりも特殊部隊的と言うべきで、例えば毛沢東の農村戦略、ベトナムやラオスでの米ソの(一応は隠密の)軍事援助などに比べられてよい。宗教的なものが根底にあったとすればイスラム原理主義主導のゲリラ戦術とも通じる。近現代の、新しいタイプの戦争というものを、墨子教団はとっくの昔に行っていたわけである。
もう一つ、『墨攻』を書く上で柱としたのは職人≠フ思想である。僕の父は職人であって、僕は物心ついたときから職人に接してきたといえる。また僕自身も学校を出た後、一年半ほどだが職人を経験した。
職人≠成立させる最も基本的な要素は強烈なプライドであると思っている。もちろん、そのプライドは技術に裏打ちされていなければならず、単なる威張りでは仲間に笑われるだけである。だが、習得した技術で腕一本で食っていくことの出来る職人だが、現実には肉休労働者と見られることが多く、3Kなど差別的言い方の対象とされることもある。その辺にかちんとくることもある。
またいかに卓越した職人といえども一人ではどうしようもない現場もあり、ある程度のチームワークが要求される。ここで人の頭に立てる職人か、頭にならずとも中堅でゆける職人か、一匹|狼《おおかみ》にしかなれない職人かが分かってくる。今では職人チーム自体が企業の管理下に置かれ専属となるという方法も一般的になりつつあって、組織の歯車化、ロボット化されてしまう現状もある。もはや個人技術の時代ではない。日本には職人ギルド的なものも完全には確立しなかった。しかし職人≠フプライドはしぶとく生きている。今のような現実があるからこそさらにプライドは強烈になるのである。高度の技術を持つひとかどの男であることを仕事で証明しながら、プライドを堅持するしかない。短い間であったが、僕はそういうことを何度か見てきた。
どの世界にもそれぞれの人にそれぞれのプライドがあるであろう。僕の見たかぎりでは職人≠フプライドには独特のよさがあって気持ちよかったと思う。『墨攻』では腕、個人、組織、技術、棟梁《とうりょう》の格などひっくるめての職人≠フプライドというものを革離《かくり》に投影させてみようと思って、ああいうキャラクターとなった。
さらに後に知ったことを付け加えておきたい。墨子教団が最も尊崇した聖人は夏《か》の禹王《うおう》である。儒者も禹を尊崇することでは人後に落ちないのだが、墨子の場合は極端であった。
禹は九州の治水者として有名であり、中国の洪水神話を考える上でも重要な名である。その労働ぶりはとても王者のものではなく、黄河《こうが》、長江《ちょうこう》をはじめ中国全土の治水に駆けずり回り、途中で自分の家の前を通っても一服するために寄ることさえしなかった。果ては半身不随の偏枯なる姿になったが、それでも労働をやめることがなかった。この禹の無茶苦茶な労働伝説には何か深い意味が隠されていると思うのだが、よく分からない。墨子や墨子教団の度を越した勤労ぶりは禹を手本としたものであった。だから墨者が言う時は堯《ぎょう》、舜《しゅん》の道よりも禹の道を先に言うのが正しいであろう。
またこれを書いた時は墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]《ぼくてき》の出身階級はかなり卑く、おそらく工人であったろうと思っていてそう書いている。今では、やはり司馬遷《しばせん》が記したように出自は大夫《たいふ》階級に属していたろうという説に傾いている。
この小説には卑賤の者という言葉がよく出てくるので、誤解のないよう簡単に述べておくと、古代中国では大夫以上の、政治に携わる階級のもの以外はほとんどが卑賤といってよかった。卑賤にも様々あるが巫祝《ふしゅく》、寺人、商人、工人などみな卑賤である。卑賤であろうが商人や工匠のようにその能力で千金をつみ豪勢な暮らしをする者も決して少なくはなかったようだ。『史記』には城の門番とか、市の屠者《としゃ》など、一見、卑賤のとるに足りないとみえる者がじつは素晴らしい義人であったり、卓越した賢者であったという話が出てくる。卑賤であろうと人間の価値とは何ら関係はないということである。
卑賤という言葉が悪なのではない。
たとえば中国史上至聖と称される孔子のような人も卑賤の出身である。孔子の父親は士分であったとはいうものの、ほとんど農民と変わらなかったらしい。孔子はそれを『吾少《われわか》きとき賤し』と述懐している。現代、ステイタスがきわめて高い医者なども古代には卑賤の者リストのトップ近くにランクされていた。時代が大分下ってもそれはあまり変わっていない。三国時代の華佗《かだ》は民間から貴族に至るまで名の知られた国手であったが、魏《ぎ》の曹操《そうそう》はほとんど尊ぶことなく『此の鼠輩《そはい》』くらいにしか思っていなかったのである。
また言葉遣いとして用いるときに、自ら謙遜《けんそん》して『賤人』と言うこともある。「不肖、このわたくしは」というようなニュアンスであろう。人に対しての貴方とか貴殿とかの反対語という理屈になる。
文学関係者も概《おおむ》ね卑賤であろう。大体、詩賦《しふ》や文章だけで食う者が存在しない。現存する文章の多くは士大夫が本職とは別にやったものである。あとは史官の歴史記述のようなものが多い。小説書きなどはどうしようもないであろう。今でこそ文化人とか有識者とかいっている小説家であるが、もし古代に作家がいたらばおそらく卑賤の極みと即断されたろうことは間違いないのである。
最後に本書でお礼を言うべきは南伸坊さんである。南さんにはデビュー以来ずっと挿《さ》し絵を描いていただいている。そして本書にも多くの絵を添えていただいた。あつく感謝の辞を申し上げます。
[#地付き](平成六年五月六日)
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解説
[#地付き]安 本 博
この短篇小説は、中島|敦《あつし》記念賞受賞作品である。『後宮小説』でその異能を驚嘆せしめた酒見賢一氏が作家として自立する画期となった作品だと言ってもよいと思う。
関心のある読者ならば、この小説がなぜ『墨攻』と題されているのかを既に読み取っておられることと思う。
この小説が設定している時代は中国古代の戦国時代である。思想史的にはいわゆる諸子百家《しょしひゃっか》が活躍した時代である。後世の中国の思想上で課題にされるようなことは殆《ほとんど》ど俎上《そじょう》に上ったといわれるほど多くの思想家や文人が輩出した時代である。かれらはそれぞれの思想信条や所説に従って類別して九流十家に括《くく》られる。儒家、道家、陰陽家《いんようか》、法家、名家、墨家、従横家《じゅうおうか》、雑家、農家、小説家がそれである。これらに加えて、兵家や方術や医術などの技術的分野を事とする諸子がいて、諸子百家と呼ばれる。これらの中で、儒家と道家だけがとかく問題にされがちである。しかし、当時にあって職、この小説の主人公である革離《かくり》が属するとされる墨家こそは大きな勢力を有していた学派思想集団というのが歴史的事実である。強盛を誇った学派が忽然《こつぜん》と歴史上から消え去り、清末まで絶学の運命をたどったのは作者の解説通りである。
孔子(前五五二年〜四七九年)に私淑した儒家の孟子(前三七二年頃〜二八九年頃)は、人の為めになるとしても髪の毛一本抜かないという徹底した為我《いが》主義を主張した楊朱《ようしゅ》の対極にいる思想家として墨子の存在を苦々しく語っている。法家の韓非子《かんぴし》(前二八〇年頃〜二三三年頃)も「世の顕学は儒墨なり」と並称してその学派的勢力の強盛ぶりを強調している。キリスト紀元前後に成立した図書目録である『漢書』芸文志にも墨家の書籍として『墨子』を含めて六篇が著録され、隋《ずい》代の書籍目録である『隋書』経籍志にも、墨者として類別されているから、社会的影響力は全く失われていたのであろうが、典籍の実見を通じて学派的存在は意識されていたと言える。
作者が強調してやまないように、墨子は謎《なぞ》に包まれた人物であり、中国にあっては特異な思想の持ち主である。あれほど古今の歴史を渉猟した司馬遷《しばせん》ですら、小説中でも注記されているように、墨子のために伝を張るどころか伝記の断片を伝聞に仮託して残すのみであって、冷淡なことこのうえもない扱いである。司馬遷自身が歴史の舞台から墨子を抹殺する意図を持っていたとしか言えないほどである。孔子については、諸侯と同等の処遇をして「世家《せいか》」という特別の伝記を構成しているのに比べれば、雲泥《うんでい》の差である。天下を歴遊して長老や古老の話を聞き、資料を集めて『史記』を書いたというのであるから、墨子あるいは墨家集団についての伝聞を得なかったとは思えないのである。少なくとも『論語』が「孔子世家」を撰《せん》するに当たっての主要な拠《よ》り所であったように、『墨子』に即して墨子の伝を編むことはできたであろう。ことほどさように司馬遷にとって墨子は視野の外に置かれた人であった。
漢代では『墨子』は七十一篇の書物であったとされる。現存する『墨子』は五十三篇である。この中で「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽《ひがく》」「非命」の十籍が墨子の思想の核心部分として問題にされるのが一般である。これらはそれぞれ上中下の三篇から成り、全部で三十篇になる。現存の文献では上中下三篇を揃《そろ》えているのは六篇だけであるが、この十篇の主張を十大|口号《スローガン》と評することもある。
墨家は儒家とことどとく対立する。鬼神の存在を信じる墨家は、儒者がその存在を信じてもいないのに、祭礼について学ばせているのは自家|撞着《どうちゃく》だと批判する。儒家が礼・楽と並称するように音楽を重視するのに対して、墨家は非楽を唱えて歌舞音曲を否定する。また、儒家が死者を厚く葬《ほうむ》ることを強調するのに対して、墨家は薄く葬る、すなわち節葬(薄葬)を提唱する。無為自然を説く荘子《そうじ》などからも、生きては音楽の楽しみもなく、死んでは粗末に葬られる、何とも味気なくて、世人は堪えられまいと批判された墨子の思想であるが、非楽にしろ、音楽一般を否定するものではなく、支配層の華美な歌舞音曲を否定したものであろう。また、兵馬俑《へいばよう》の発掘で知られる秦《しん》の始皇帝の広大な陵墓に見られるように、支配層の大規模な陵墓の構築は黎民《れいみん》の生活を過酷に圧迫し、多くの生命を犠牲にしたであろうことは想像に難くない。さすれば黎民の生活に主眼をおく墨子が節葬を主張し、音楽を否定したとしても何の不思議もない。
墨子は天神の存在を強く信じるが故に、人は天の意志すなわち天志に従わなければならないという。「人の身を視《み》ること其の身の若《ごと》くし、人の家を視ること其の家の若くし、人の国を視ること其の国の若くする」こと、すなわち天下の人が兼ねて相愛することが人々に求められ、これは天の意志でもあると主張する。そして、己の親や子と人の親や子との間、更には己の国と人の国との間に差別を設ける愛を別愛すなわち差別愛だとする。この別愛にこそ争乱の原因があると考えるのである。儒家の思想はこの別愛を基盤にして成立している。動物の実態に即せば、禽獣《きんじゅう》の愛こそが別愛なのであるが、動物観察が偏《かたよ》っていたのか、動物の生態に無知であったのかは定かではないが、孟子は墨子の兼愛を禽獣の愛として痛烈に批判する。
小は窃盗から大は殺人に至るまで、人に与える損害の程度に応じて不義の度合いが測られ、処罰される。世の君子もこれに従って判断の狂いはない。ところが国を攻めて多数の人を殺した場合には、むしろ義として戦争を正当化する。これは、少しの黒を見たときは黒というが、多くの黒を見ると白というのを容認するようなものだという。これが兼愛思想と並ぶ墨子を特徴づける非攻説である。
天の意志にもとづいて天下の人が相愛することを求める墨家は宗教結社的組織を作って独自な集団を形成していたようである。そして小国の防御戦争を請け負ったりして組織の維持を図っていたと思われる。
固く自説を守ることを「墨守」というが、墨子がよく城を守った故事によるとされる。堅固に城を守ることは、「墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]《ぼくてき》之守」とも表現する。『墨子』によると、楚《そ》の軍師の公輸盤《こうしゅはん》が雲梯《うんてい》を作って宋《そう》を攻めようとするのを知って、墨子は公輸盤に会って、座上で攻守の技術を戦わせ、公輸盤が九度攻撃用の道具や機械を変えても墨子はその度に守り通し、公輸盤の攻撃法は尽きてしまったが、墨子にはまだ防戦の手だてが残っていた、とある。墨子や墨家集団が堅固に城邑《じょうゆう》を守ったことを明確に伝える記録はないが、『戦国策』には「弊聊《へいりょう》の民を以て全|斉《せい》の兵を距《ふせ》ぎ、期年解かず、是《こ》れ墨※[#「羽/隹」、第3水準1-90-32]の守なり」と形容されている。単なる机上の攻防戦の逸話だけで「墨守」の成語ができたものでもなく、実戦上の数多くの事例と相まって「墨守」の表現が定着したのであろう。しかも「疲弊した聊邑の民」というのであるから、弱小な国の強固な防御戦を形容する表現のようである。
戦争での墨家の強固な防御を表す「墨守」を逆手にとって『墨攻』と名づけている所に作者洒見氏一流の諧謔《かいぎゃく》を見ることができる。かつまた、兼愛を説き、「非攻」を標榜《ひょうぼう》する墨家集団が自衛戦争とはいえ、戦争行為を容認することの意味にも想《おも》いを致しているようである。
人の子と己の子とを無差別に愛せよというのは、特定の守るものを持たないことを求めていることである。この意味で言えば、全てのものを守ることを求めるのが墨子の兼愛だとも言える。しかし全てのものを守ることは殆ど不可能であろう。守るものを持った時点で憎悪《ぞうお》や嫉妬《しっと》などもろもろのまがまがしきことが人を捉《とら》えることになるのである。守ることが反転して攻めることになるのである。正に墨守が墨攻に変わる所以《ゆえん》である。単なる諧謔ですまされない所で理解しなければならなくなるであろう。
人間自身が厄介《やっかい》であることの反映なのであろうが、愛とは厄介で測り難い営為である。
儒家は、人の親や子と己の子と親との親疎《しんそ》を区別することを重視し、孝を秩序原理の重要な徳目とする。『韓非子』には孔子の孝の孕《はら》む問題点に着目して次のような説話が載せられている。
魯《ろ》の国で戦役の度に戦線逃亡する兵士がいるので、孔子が咎《とが》めると、老父がいて自分が死ぬと面倒をみるものがいなくなるからですと答えた。孔子は孝行者だと誉《ほ》めて推薦したので、それ以後魯の国では逃亡者が絶えなくなってしまった。親にとっての孝行息子は、君の背臣である、と韓非子は親族に基盤をおく儒家の愛の矛盾を指摘する。
孫子《そんし》の兵法で有名な孫武《そんぶ》は、呉《ご》王の宮廷で宮中の美女を使って兵士掌握の軍事教練の実践をしてみせた時、隊長に模せられた呉王の寵姫《ちょうき》がでれでれしていたので軍律維持のためにと、呉王の哀願を無視して二人の寵姫を処刑したところ、婦人たちは孫武の指揮通り動くようになったという記述が『史記』の列伝にある。これも秩序維持の問題とはいえ、指揮官としてのいわゆる組織集団に対する広い意味での愛が問われているといえよう。
墨家の兵法の実態は不明なので、革離の兵法の淵源《えんげん》がこの兵家の兵法に基づくのか、墨家の実践からむしろ兵家が学んだのかはそれこそ明確ではない。歴史学上の問題はおくとしても、作者は小説に托《たく》して諸子百家の思想課題を横断的にとり上げているようにも思われるのであり、かつ、別愛を説く儒家の勝利を革離の死に象徴させていると解説してみせるのは中国を専門にするものの深読みであろうか。
この小説は、墨子や墨家集団について明らかにされている学問的成果にもとづく歴史的事実に類する部分と作者の虚構部分との相互循環で展開されている。言ってみれば、虚実織り混ぜた小説展開の手法である。恐らく読者は墨子や墨家集団に関わる記述を割り注のように意識しながら読まれたと思う。こうした叙述展開の仕方は『春秋左氏伝』などに典型的に見られる。物語を休止させるように話の筋とは関わりのない経文の説明(伝というが)を割り込ませ、また物語を続けるという手法に学んだのではないか、あるいはもっと端的には中国の古典である経書を詳細に解釈説明する注疏《ちゅうそ》の学にその範を得ているのではないかと推測したりしている。
[#地付き](平成六年五月、愛知大学教授)
この作品は平成三年三月新潮社より刊行された。
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底本
新潮文庫
墨攻《ぼくこう》
平成六年七月一日 発行
平成七年六月五日 五刷
著者――酒見《さかみ》賢一《けんいち》