ピュタゴラスの旅
酒見賢一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)忘我恍惚《カタルシス》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|魂の浄化《カタルシス》
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目次
そしてすべて目に見えないもの
ピュタゴラスの旅
籤引き
虐待者たち
エピクトテス
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そしてすべて目に見えないもの
これから述べられる事件はすべて目に見えないものであるということをあらかじめご承知おきください。
目に見えないということがたんに視覚器官によって受け取られた情報が神経を経由して脳髄に映像を結ぶのではないということも重ねてご承知おきくだされはなお結構です。
死体がひとつ転《ころ》がっています。
場所は部屋の中です。
時刻を申せば午前十一時半。壁の時計はそうさしています。
死体がその部屋にあるということはもうすでに人に知られるところとなり、いわゆる警察関係の人々がその部屋を埋めており、がやがやとうるさく、死体の安眠を妨《さまた》げています。
まず、死体の特徴を述べなければなりません。というのもその描写をやらないとその死体に関する諸事情について想像することもできないからです。
死体の性別は女性です。年齢は見ただけでは確定できませんが、だいたい十五歳から十八歳くらいの間としていいと思います。じきに警察の人がその正確な年齢を持ち物から調べ出すでしょうから、それまでお待ちください。
若い女性が死んでいるということだそうですが、もっと詳《くわ》しく述べないといけませんね。というのも人には好奇心というものがあるからです。抽象的なものよりももっと具体的なものへ、それは移るものです。死んだ若い女性に関する具体的なこととは、その身体的特徴にまずあるのではないでしょうか。
ありていにいえばまずその美醜について。死体はうつ伏せですがその横顔ははっきりと見ることができます。その顔は一言、きれいである、と言えはすむことでしょうか。きれいだけではまだ具体性に欠けます。つまり、それだけでは人の好奇心を満足させるには不十分であるということです。が、しかたありますまい。「その目はばっちりと大きく開き深い情熱の色をたたえ、唇《くちびる》はいよいよ赤く、流れかかる髪は抜けるような白い膚《はだ》をやさしくくすぐる」的な描写をして、それで満足してくれる人がいればそう書くのも無駄ではないのですが。
容貌の次には当然その身体について書くのが順序です。痩《や》せているのかグラマーなのかとか。プロポーションはいいのか。しかしです。それについて書きたいのはやまやまですが、可哀相なその死体はうつ伏せに静かに寝ているのです。そんな状態の被害者をひっくりかえしてまで観察し、そのプロポーションの良否について書くなどということは、バチが当りそうなのでやりたくはありません。
いよいよこの辺で本質的な問題に触《ふ》れざるを得ません。
「被害者の若くてきれいだけどもプロポーションがいいか悪いかまでは分かりかねる女の子はなぜ死んでいるのか」
推理に必要な真の情報はこういう設問のもとに観察されなければなりません。
外傷は死因と密接な関係にあるというのが常識です。絞殺ならば細いうなじに赤い線が染み込むように入っているはずです。ことによると直接の凶器である紐《ひも》であるとかネクタイであるとかがまだ首に巻かれているのかもしれません。刺殺ならばうつ伏せになっている側の、胸の、恐らく心臓かその付近に鋭利な金属の細長いにぶく光るものが、こびりついた血液のため、かえって印象的に光っているかもしれませんし。
まだわかりません。
あるいは外傷がない、薬物中毒、ガス中毒のたぐいかもしれません。
まだわかりません。いま検死官が死体に手をかけているところです。見たところ、首には跡《あと》はありません。落ち着いた色のセーターの少し盛り上がっている胸の部分には金属の恐ろしいものは見当たりません。検死官はどうも死体に対する遠慮というか尊敬心が欠けているようで、手つきが非常に乱暴で、いやらしく、遺族がこの場にいたら多分検死官を殴っているのではないでしょうか。
涙が乾きかけている閉じたまぶたを太い指は器用にひっくりかえし、ペンライトのひかりを深々と刺し込みます。そんなことをして何かが分かるのだろうかと思います。しかし彼は専門家ですからそういう無礼を働いてもいいのでしょう。
一方、女の子のものだと思われる明るい色をしたバッグをこれまたいいようもなくプライバシー侵害的激しさであさりつづけていた警官が、彼女のものらしい定期入れを開いているところです。
「身元が割れました」
とその警官は言っています。実際に「割れました」などという言葉を使うのか不審《ふしん》に思っていましたが、本当に使うようです。
「ガイシャの名は志茂戸亜里沙、××高校の二年生、住所は、……おいこれどう読むんや」
地名が読めなかったようです。確かにこの辺は古い地名が多く、同じ県内人でさえ読めないときがあるくらいです。それより驚いたのは「ガイシャ」なんて言う単語を本当に使っていることと、ばつばつ高校なんていう変な名前の学校があることと、被害者の名前です。志茂戸という苗字は、それはあるかもしれません。亜里沙というのもたまにはあるかもしれません。しかしアリサですよ。なかなかつけられるものではありません。たまたまこの女の子はアリサと呼ばれても我慢できる限度の可愛い顔をしていますからよかった。
それよりもです。殺人事件の被害者というドラマチックな役どころの女の子が現代の感覚でもまだまだはではでしいイメージをともなう名前であったということに、うさんくさい作為《さくい》性を感じるのは私だけではありますまい。
しかし、本当にそういう名前ならばしかたがありませんな。
検死官がようやく死体に対する執着《しゅうちゃく》をふりきり、立ち上がりました。そしてこの現場の責任者と見受けられるぴしっとした背広を着た中年の男に報告のために近付いています。さて専門家は死因を何と断ずるでしょうか。
「どうも、はっきりせんです。外傷はありませんし。毒物を使ったとしても青酸カリのようなありきたりの毒ではないですよ。これは研究室で念入りに調べるしかないですなあ」
ということです。あんだけ死体を執拗《しっよう》にいじり回していたくせに何も分からないと告白しているのです。まいりました。さらに参ったのは責任者の警部(じゃないかと思いますが、単なる係長程度かもしれません)の質問です。
「乱暴された跡は?」
渋い声を出していますが、勘弁《かんべん》してもらいたいところです。執拗な検死官が「外傷が見当らぬ」といった矢先にする質問ではありません。「性的な暴力を受けた痕跡《こんせき》はなかったか」という質問とすること自体、これもやはりいかがわしい作為を感じさせます。それは一部の人はこのことについて詳しく聞きたいと思うかもしれません。ですが、ですよ。思うにすでに乱暴されているという事実があったのならあの死体いじりの好きな検死官が真っ先に言っていると思うのです。
「警部サンな、むごかもんですたい。あんオゴジョぁ手籠《てご》めんされとっごつある。とてん許さるっがこっちゃなかでごわンそ」
と検死官が鹿児島出身者にかぎりこう言うはずです。あるいは、
「警部、ひでやもんだがね。あんむすめ、やられてまっとーがや。ありゃいかんがね、ぜってー許してまったらかんわ」
という人もいるかもしれません。しかし、検死官がどこの地方の出身かは知らないけれどもこういうことは言わなかった。つまりはあのどうみても手つきがいやらしかった検死官ですらもそういう事実を発見できず、ちょっと寂しい思いをしているのかもしれないというのがほぼ間違いのないところでしょう。
この事件は恐らく殺人事件だと思われるのだけれども、何を根拠にそう思うのかと訊《き》かれると少し困ります。
しかし、警察関係者の人々は疑いもなくこの事件は殺人事件であると頭から決めつけて動いているようなのです。ただ、冷静に考えてみると自殺というせんだって十分すぎるほどにあるのです。少なくとも私はそう思うのです。仕方がない。あまりやりたくはないけれども直接訊いてみようか。
「あー、どうして殺人かだって?」
私が袖《そで》を引いて尋ねてみた若い警官は、馬鹿なやつだな、という目をして私に言った。付け加えれば彼は「殺人」という単語を「さつじん」と正しく読まずに「コロシ」と発音した。分からないけれども後でルビをふるのかもしれません。
「この部屋をどこやとおもっとるんや。警察やぞ、けいさつ。取り調べ室なんやぞ。こないなとこで自殺するアホンダラどこ捜したかておらへんがな。しかもやぞ」
若い警官は声を一段低くした。言いにくいこと、恐ろしいことを言うように声を殺す。
「事件が起こったとき密室やったんや。こりゃ内緒やで」
「どうして内緒なんですか」
「せやから密室ちゅうたらそりゃえらいもんやろが。えらいもんのことをびちびち喋《しゃべ》べくっとったらあかんやろが。そないなこともわからんのかボケ!」
若い警官は年かさの警官にじろりとにらまれたので、私を放って別なところに行ってしまいました。
しかし、今気が付いたがここは警察署の中であるらしい。しかも、あの恐るべき取り調べ室であるらしい。よく見ると窓には金網が張ってあるし、不粋な机の上には信じられぬことだが電気スタンドが載っています。これにもいかがわしい作為を感じます。さらに気付いたが必ずこういう現場には湧いて出るはずの新聞記者が見当らない。警察署内ならうなずけます。もちろんこの場合の新聞記者には「ブンヤ」とルビをふるようです。しかし、私はあえてふらないつもりです。
密室殺人、というからにはあの女の子はこの部屋に一人で入っていて、出入口には外から鍵がかかっていたということでしょう。だがしかし、たとえ場所が警察署であれ、現場が密室であれ、自殺であってはいけないという道理はないはずです。どうも私には割り切れない決めつけのように思われます。
あの女の子が事情は不明だが、警察に連れてこられてこの部屋に入れられた。そして取り調べ官が来るまでひとり部屋の中にいた。取り調べ官が来て、ドアを開くと、女の子はうつ伏せに倒れていた。たぶんこういうストーリーのはずです。でも、どうして。
私はなかなか美人の婦人警官を捕《つか》まえて尋ねてみた。
「さあ。わたしもよくはしらないんです。少年課の山田さんが連れてきてちょっとのあいだあの部屋に待たせていたらしいんですが。さあ、あの女の子、どうして補導されたんでしょうか。でも、想像はつきますよ。きっとあの子は家出少女でシンナーか覚醒剤の常習者で、ひょっとすると暴力団竜神会の若頭《わかがしら》の情婦で、人だって二三人殺しているかもしれないですしねえ。きつと命令されて売春もやらされていたに違いないと思います」、
この婦警はちゃんと情婦を「じょうふ」と正しく読まずに「いろ」と発音していた。感心なものです。
「あなたテレビの見過ぎじゃないですか」
と私が言うと、
「とんでもありません。私達の仕事がどんなに忙しくて時間が不規則で暇がないか知らないんですか。テレビなんか見る暇もないんですよ、もう。一応公務員なのにちっとも暇ではないし、給料は安いし、もうたくさん。三月には辞《や》めようとおもっているんです」
つまり、テレビを見ずにあそこまで想像できたということがわかりました。感心なものです。
別に推理小説でなくても事件が起これば、探偵役あるいは案内役の方がいて、事件を進行させたり、俯瞰《ふかん》したり、反省したり、中途半端な推理を示したりするものです。私はそういう役をやる柄《がら》ではないので、他にふさわしい人を捜さなければならないようです。誰にしましょうか。ここは警察署内ですから|素人《しろうと》の方がうろついているはずはありません。大正、昭和初期でしたらナントカ探偵事務所の人がほとんど自由に警察署内に出入りしてあれこれさしでがましい口をきいたり、担当の警部に根掘り葉掘り質問したりできたらしいのです。時には警部自らがその探偵事務所の人に捜査協力を依頼して大きな権限を与えたりもしたようです。これなどはっきりいえば職務権限以外の事柄で、法律違反だと思われます。この警部は免職処分、うんと軽くても減俸処分のうえ格下げになるでしょう。
何を言いたいのかというと探偵役にふさわしい人物というのは警察署内部の人であるということです。しかも、制服組ではよくありませんので、私服を着た人で、それも警部ぐらいの地位の人か、もしくはまだ三十前のペーペーの新人刑事がよろしいようです。
というような思案をしていると、いましたよ。ぴったりのが。まだ若い刑事のようで、熱血しています。また顔を見るになかなか頭も切れそうです。拳銃の腕前は多分確かではないでしょう。それはそうです。日本警察ほど拳銃射撃のへたくそな警察組織は世界中のどこにもありません。この若い刑事のせいではないのです。
一ついい忘れましたが、「刑事」は「けいじ」と読みます。間違っても「デカ」などと発音してはいけません。
「先輩。僕は思うんですが……」
若い刑事ほおそるおそる先輩刑事に意見を述べます。無精《ぶしょう》ひげの先輩刑事は、またか、といった顔をしています。おそらくこの若い刑事はいつもその発想力豊かな頭脳から、日常性を少しくらい逸脱したアイデアを生ませて、クソリアリズムであるべき警察官にあるまじきおもしろい意見を言うのでしょう。先輩刑事はこの稼業《かぎょう》がもう長いですから、思想的にはクソリアリストです。若い刑事の意見が耳に障《さわ》って仕方がないはずです。
「遠藤よ、この段階でだな、何かわかったなんてことはありえんのだ。まだ死体が検死に行ったばかりで、容疑者ひとりあらわれてない。それでも何か言いたいことがあるのなら言ってみろ」
若い刑事が遠藤という名前であることが分かりました。
「いや先輩、そんな早とちりなことを言うつもりはありませんよ。ただ、気になることがあるんです」
先輩は煙草を出して火を付けています。ふっとひと煙吐いたあと言います。
「気になることがあるのなら、足を使え」
格言のようなことを言います。きっとこのひとも若い頃先輩のべテラン刑事にそんなことを言われ続けたのでしょう。
「言っとくが、真ん中の足はほどほどに使えよ」
とろい冗談です。ひとりでにやにやしています。こういう冗談を後輩に浴びせるのも先輩としての義務の一つである、とその顔は語っています。遠藤刑事は外見に似ず真面目《まじめ》です。冗談に反応を示さないばかりか、かえって語気を強めて言います。
「密室だったんでしょう。これが一番のヒントじゃないですか」
「なにい」
先輩刑事は反感をあらわにしています。さっきの冗談に遠藤刑事が無反応だったのがそんなに気にいらないのでしょうか。
「つまりですよ、あの取り調べ室の鍵。あれを持っている者を調べればいいじゃないですか。僕は犯人はちゃんとドアから出入りしたんだとおもいます。昔の探偵小説ではないんだから妙なトリックがあるとは思えませんよ。整理してみますよ。まず、少年課の山田さんがあの子を部屋にいれて自分は鍵を掛けてちょっと外出した。山田さんはファイルを調べていたんだと言っていますが。そして、十五分後くらいに取り調べ室に戻った。もちろん鍵はかかったままです。山田さんが持っていた鍵を使って開けてみると女の子はうつ伏せで倒れていた。山田さんはすぐにみんなを呼んだ。状況はごく簡単です。あの部屋は密室だったとは言っても、鍵を持っている人に対してはちっとも密室ではなかったんです。鍵さえ持っていれば簡単にあの部屋に入って、すみやかに犯行をなし、出て、また鍵を掛けることができる。どうです先輩」
「お前……」
遠藤刑事は自信たっぷりにこやかです。
「山田刑事を犯人扱いする気かぁ」
先輩は突然怒鳴り出しました。遠藤刑事はびっくりした顔をしています。
「おう、ちょっと来い。焼き入れたる」
「わっ、何ですか先輩!」
「どうもこうもあるか。貴様新入りの分際で仲間を犯人に仕立てあげようなんて、ふてえ野郎だな」
「しかし、鍵を持った人間にしか犯行の機会はないじゃないですか」
いけません。先輩は遠藤刑事をトイレに連れ込んでしまいました。
「痛い、やめてください先輩」
凄《すご》い勢いで殴りつけます。なにしろ空手柔道の有段者です。しかも例の安保のときに場数を踏みまくっています。遠藤刑事のかなう相手ではありません。
「わかりましたっ。僕の勘違いです。外部の人間がやっぱり、くさいです」
暴力に屈したからといって、遠藤刑事を責めてはいけません。彼は痛みと屈辱の中で誓っています。あと十年もして、馬鹿野郎の先輩どもがいなくなったときには、そのときはみていろよと。若いうちはこんなものです。なかなか自分の力を発揮する場がない。頭の固い無知な上役にいじめられながら修行をつむのです。きっと、遠藤刑事はこの時の経験を生かして、立派な刑事になるでしょう。しかし、皮肉なことに大抵《たいてい》の若い人は、年をとると上役と同じような考え方しかできなくなっているものです。遠藤刑事がこの先輩のようにならないように祈りましょう。
私は先輩刑事の暴力が理不尽すぎると思いました。遠藤刑事の意見はたいへん的《まと》を射ていると思うからです。どうして遠藤刑事を殴って口を塞《ふさ》いだのか訊いてみましょう。
「そりゃおめえ、やばかったからだよ。あの部屋の鍵を俺も持っているんだ。おい、もちろん俺はやってないよ。ちゃんとその時間には他の仕事をしてたからな。痛くもない腹なんてものもないよ。けどよ、わかるだろう。まずいぜ、やっぱり。時々警察っていうのはメンツから妙なことをやるもんでなあ。つまり、あれさ。冤罪《えんぎい》ってやつ。しかも警察内部で人が死んだってことだからな、世間とマスコミがほっときゃしない。すぐに犯人をあげなきゃな。上のやつらはその辺のことばかり考えてるだろうよ。さっき会議に入ったばかりだしな。わかるだろう。危ないんだ。人身御供《ひとみごくう》を捜す会議に違いないんだよ。俺なんか、くそまじめに勤続してきたってわけでもないから、な、ちっとはほこりくらいでるよ。俺の同僚だってみんなそうだ。だから少しでも犠牲に選ばれる確率は下げないとな。鍵のことは出してもらいたくなかったんだよ」
どうもこの件に関してのコメントは避けたほうが無難のようです。でも、あのひと、少し被害妄想の気があるみたいですね。
さて、事件の案内役に足る人物として遠藤刑事を見込んだのですが、いや、どうもだめになりました。
奇怪な殺人事件とそれを取り巻く奇怪な状況。ミステリにはそういう状況が必要です。この事件はそれを満たしているでしょうか。確かにさっきの先輩刑事の話で分かるとおり奇怪な状況が現場一帯を支配しています。恐ろしいことです。ちなみに「現場」は「げんば」と読みます。「げんじょう」ではありません。
これを読んでいる方々にしても今のところなんのことやら分からないと思います。だから、
「ここまで読んでいただいた読者の方はこの事件を解決することのできる全《すべ》ての手がかりを入手されていることを保証します。その手がかりをうまく組み合わせれば貴方《あなた》は容易にこの事件の犯人の名前を指摘することができるはずです。もちろんうまく組み合わせるには貴方の頭脳を相当|酷使《こくし》する必要はありますが」
などというかっこいい挑戦状をこの部分に挿入したくても、とうていできるものではありません。
仕方ありません。この始末は私自身でつけることにします。もはやたよりない登場人物に犯人捜索を任せることはやめにします。私がやります。しかし、ひどいことになったものです。
げに恐ろしきは推理小説。はまればそこは蟻《あり》地獄、滑って転んで吉本ばなな、踏んで潰せばあんこならぬ鮮血が迸《ほとばし》る。
私は汚い廊下を踏み、地下の死体置場へ向かった。死者に幾度も対面することは気が重い。それが可愛いうら若い女の子ならなおさらだ。私はコートの下にバーポンを一本はさんでいる。これがもっともいい武器なのだ。
「よう、来たな。まったく死肉あさりみてえなやつだな、おまえは」
奴は昼間からぐでんぐでんだ。禁酒したという噂は、やはり噂に過ぎなかった。
「なにをいいやがる。おれが死肉あさりならおまえは死肉の番人てとこだろ」
そう言いながら私はバーボンを奴の机の上に置いた。奴は昔は一滴も飲めなかった。死体安置所勤務になって、酒飲みになった。アル中とはいうが、奴の場合は職業病と言ってもいい。
「ところで今日若い女の死体が入ったろう」
「ああ、ついさっき検死解剖が終わった」
奴はすでに私の土産《みやげ》の封を切り、ラッパを吹いている。
「いい女だ」
「死因は、なんだ」
「さあね」
「おいバーボンはただじゃないんだぜ」
「わかってらあね。だがよ。お前とつるんでんのが最近ばれてな、おしかりの言葉をもらった上に給料さっぴかれてな」
「今回だけでいい」
「この前もそう言った」
私は奴の襟首を掴んで引いた。奴の口からむっとするようなアルコール臭が吹き出す。
「殴るのか」
「ああ」
「バーボンじゃ安いってことでもないんだぜ」
「そうだろうな」
私はこういうことは好まない。好まないことでもやらねばならないときはあるのだ。
「わかった。離せよ。殴られて机の上に店開きをしたくはないしな」
私は離した。
奴は細い目をさらに細くして、消え入るような声で言った。
「死因は、自然死だってよ」
「…………」
「老衰みてえなもんだ」
奴は笑わなかった。冗談を言ったのではなかったのである。
死因はこうして私のハードな活躍で判明しました。あの女の子は自然に、ごく自然のままに、神に召《め》された、ような死に方をしたというのです。
「おい、いい加減にしろよ。十五やそこらの健康な若い女の子がどうして自然死なんだ。冗談はそのくらいにしろ」
こう言ってお怒りになる読者の方《かた》が目に見えるようです。そうおっしゃるのはごもっとも。
しかし、ちょっと待ってください。考えてみてください。
「あの被害者の亜里沙という女の子は、凶悪なる殺人者の手によって、自然死させられたのである」
としたら、どうでしょう。まさに恐るべき殺人方法です。推理小説始まって以来これほど巧妙きわまりない殺人手段がどこに存在したでしょう。まさに悪魔が考えた殺人です。
犯人がいたとしても(いや、必ずいます)、
「自然死したんや。あんたわてを犯人扱いしまっけど、どないやったら人を自然死させられまんねん」
としらを切ることができるのです。反論の余地はありません。医学はこの犯人の味方をするでしょうし。法律もそうですし、裁判官も裁判所事務官も犯人をどうすることもできません。
「究極の完全犯罪は自然死にとどめをさすべし。さすべし。さすべし」
エコーのかかる格言です。
犯人を罰する方法はただ一つ。超法規的手段しかありません。「俺が裁《さば》く」必殺仕掛人的世界です。しかしその世界は現実ではありません。
私は怒りを胸にこの凶悪な殺人者に向かわねばなりません。法を破るのは覚悟のうえです。私はもう一度あの犯行が行われた現場へ向かわねばなりません。あそこに犯人に関するすべての鍵があるのです。
部星の中にはもうだれもいません。警察の方々は部屋の捜査を終え、つぎの段階へ入っているのです。私にとっては好都合です。超法規的な方法で犯人と対決する私にとっては現実の警察は邪魔以外のなにものでもありません。
捜査方法ももう常識に構ってはいられません。なにしろ「超法規」です。さらに越えて「メタ法規」的手段を取っても、いい。警察も裁判所事務官も私の邪魔をすることはできない。読者の方々の干渉ももはや無用です。
わたしはメタ法規的方法で、被害者の女の子を呼び出します。
出ました。志茂戸亜里沙は私のメタ法規的|措置《そち》を認めてくれたのに違いありません。でなかったらここに出てくるはずはないのです。彼女にはそれくらいの自由意思はあるのです。
「なによ。こんなとこに呼び出して」
亜里沙は唇を突き出してそう言います。少しは不満があるようです。しかし、よくよく見てもやっぱりきれいな女の子です。はじめのほうでは書けませんでしたが、スタイルもかなりいいようです。
「ずばり、君を殺した犯人を知りたい」
私は本気です。こんな可愛い子を殺した犯人に怒りが爆発しそうです。そいつをつきとめたらさんざんに殴りつけ、蹴飛ばし、目玉を刳《く》り貫《ぬ》いて、それからそれから、とにかく裁きまくります。
亜里沙はひとり興奮する私を見てあきれたような顔をしています。
「冗談じゃないわよ。いまさら」
「仇《かたき》を討ってあげる。犯人は誰だ」
亜里沙に私が本気であるということが伝わったようである。しかし、くすっと笑った。
「おかしいかな」
「そうね。ばかみたいだもの」
「でも、君は憎くないのか、君を殺したやつが」
「憎いとか、そういう問題と違うもの。でも犯人をどうするつもりなの」
「知れたこと、目玉を刳り貫いてがんがんにして、いや、どうしてくれよう」
「痛いからやめたはうがいいわよ」
「いや。天が許しても私が許さん」
「犯人は見えないわよ。とくにあなたには」
「どうして」
「だってもともと見ていないものね」
「じらさないで、ずばりはっきり言ってもらいたい。誰だ」
すると亜里沙は困ったような顔をして、しばらく迷った末に、細い人差指をすっと、私のほうに向けた。
「そうじゃない。わたしを殺したのはあなたじゃない。あなただけじゃないわ。世の小説の中で殺されるひとたちを殺したのは、作中の犯人じゃないのよ。殺しているのは作者なの。作者は常に犯人なのよ」
その瞬間私の目に刳り貫かれるような痛みが走った。亜里沙の姿も見えなくなった。見えているのは文字だけとなった。
そしてすべて目に見えないものも見えなくなってしまった。
[#改ページ]
ピュタゴラスの旅
ピュタゴラスは旅人であった。
ピュタゴラスの名を聞いてすぐさま連想するのは、やはり、数学の祖としての姿である。それはギリシア彫刻の、筋肉質の見事な肉体と、思慮深さを形にしたような彫《ほ》りの深い目鼻立ちのイメージとは、少なくとも矛盾《むじゅん》しない。
「万物の元の構成要素(元素)は数である」と言ってのけた人の姿として、数理の美しい整合性と厳正さを表す人の姿として、ギリシア人ピュタゴラスの像を利用することは妥当《だとう》であった。
しかし、ピュタゴラスの本質は旅人であった。旅人は何かを求めてさまよう者である。誰も好んで故郷を離れさまよいたくはない。ただ、ある種の人間は自分では止めようのない力、それは神の声であろうし、内的要請であろう、運命と呼ぶこともできる、強大な力に促《うなが》されて、抗《あらが》いようもなく、旅立つのである。ピュタゴラスはその力に逆《さか》らえなかった人の一人である。そして、ピュタゴラスがその力に逆らえなかったのは、彼が求道者《ぐどうしゃ》であったからである。求道者であると自覚した者は、もはや、平坦《へいたん》で平明な道を歩くことはできない。そして、目的地に辿《たど》りつけるという保証のない旅に出る。目的地がある、という保証も、誰もしてくれなかった。
ピュタゴラスに会った者は誰も彼を数学者だなどとは呼べなかったであろう。求道者と呼ぶのも躊躇《ためら》われた。やはり、旅をする人としか形容できなかった。
ピュタゴラスは小アジア沿岸の島、サモスで生まれた。三十代後半にサモスを出た。ポリュクラテスという僭主《せんしゅ》がサモスを牛耳《ぎゅうじ》ろうとしたからだと言われている。しかし、ポリュクラテスが現れなかったとしても、ピュタゴラスはいずれサモスを出奔したであろう。彼の本質は旅人であるからだ。
数年後、ピュタゴラスは南イタリアのクロトンに教団を結んでいた。クロトンは気候は良順であり、住民は健康的であった。クロトン人の運動能力の高さはギリシア本土にも聞こえていた。オリュムピックの祭典ではつねに好成績を残し、優勝したことも何度かある。また、医術がこの町の得意芸であり、知的水準も低くない。思想家が教団を結ぶのに格好の土地であった。しかし、ピュタゴラスはクロトンに腰を落ち着けなかった。クロトンを嫌ったわけではなく、しばしは旅に出たからである。
ピュタゴラスはいつも突然に旅に出た。旅立ちの理由も誰にも言わなかった。彼の旅立ちはまことに急なものであるのが常であった。彼が教主として弟子たちに講義をしている最中にでも、ぷいと旅に出てしまった。そういう時の様子は、ピュタゴラスはまずふと耳を傾ける。まるで天上の音楽が彼の耳許に響いてきたかのように。そして、忘我の表情をしばらく続けたあと、まったく無言のまま歩き出すのである。
弟子たちとは別の座に控えていた教団の長老たちは、
「教主様が天上の音《ね》をお聴きになられた」
と言って、伏し仰いだ。すなわち出発なのである。長老たちはピュタゴラスのために旅装を用意させる。多数の弦楽器がその姿を送る曲をかき鳴らした。
ピュタゴラスの不意の旅立ちに備えて、長老たちは一人の若者を常に旅装で待機させていた。テュウモスという。テュウモスはピュタゴラスと同じサモス島の出身であった。皮膚には小アジアの血が濃く表れている。美しい少年であった。ピュタゴラス教団始まって以来の英才との評を待ている。長老ほか教団の幹部はテュウモスを将来の教団の後継者に内定して、大事に育てていた。また、しばしば教団を留守にするピュタゴラスに代わって人々に説く者が必要であった。その候補者としてもテュウモスは選ばれた。その故に一時《いっとき》でも多くピュタゴラスの側《そは》に付けておかねばならなかった。テュウモスは常に近侍して、ピュタゴラスのすべてを呼吸でもするように取り入れることを命じられていた。テュウモスはその任についてからまだ一年足らずにすぎなかった。ピュタゴラスはすぐにこの若者を至上の愛をもって愛するようになった。精神的にも肉体的にも愛を注いで惜しむことがなかった。
ピュタゴラスは一人足早に歩いている。テュウモスが荷物を抱えて追ってくることを知っている。速度を落とそうとはしなかった。ただ、微笑した。
「このたびは、どちらへの御出立でありましょうか」
テュウモスはピュタゴラスの左後ろを二、三歩遅れて歩いた。
テュウモスはピュタゴラスを仰ぎ見た。中世の芸術家たちが描いたピュタゴラスの姿は中肉中背のがっしりとした壮年の男である。髭は口もとから側頭部に向かって濃いが、頭頂は薄い。その男がピュタゴラスである証拠は、計算盤や石板が寛衣《かんい》の袖《そで》に抱えられていることである。それにピュタゴラスは茶色の瞳を熱心に注いでいる。これには少し異論がある。ピュタゴラスの左手には計算盤ではなく、竪琴《たてごと》があることが普通であったからだ。
「アブデラ(トラキアの都市)で新しい音律が工夫されたと聞いた。トラキアでは北から響いてくる不思議な音がよく聞こえるのだ」
とピュタゴラスは言った。ピュタゴラスは旅立ちの表向きの理由を言った。真の理由については言わなかった。テュウモスにはまだとうてい理解できない理由であるし、また、ピュタゴラス自身も言葉でうまく説明できるものではないと思っていた。
「その後は、久しぶりにサモスへ行ってもいい。アテナイの友人たちと語り合うのもよかろう」
とピュタゴラスは旅の方針を語った。ギリシア世界をぐるりと一周することになる。
「では、まず船の便を得なければ」
とテュウモスは言って、考えた。ピュタゴラスはしばしば旅に出るものの、その間の雑事、つまり旅費、宿、船のことなどについては何も考えていないようであった。テュウモスがやらなければならない。昔、ピュタゴラスが一人で旅をしていた頃は一体どうしていたのだろうかとテュウモスは思う。それに、ピュタゴラスの旅の方針もあてにならぬものだと分かってきた。前回の旅はイタリアの各地を回って、シュラクサに行くことがピュタゴラスの言う方針であった。しかし、いつの間にかピュタゴラスの足はエジプトに向かっていた。テュウモスは変更が起こる度《たび》に、生じる計算違いを正してゆかねばならない。
クロトンの郊外を過ぎると、道が寂しくなった。イタリアにはまだギリシアほど整備された道路はなかった。
ピュタゴラスは黙々と歩く。テュウモスにはそれが時に苦痛であった。ピュタゴラスはいつも自分から物を教えてくれることはなかった。テュウモスが質問せねばならない。しかも、自分の話題が常にピュタゴラスを満足させないことも知っている。それでも、彼はピュタゴラスに乞《こ》わねばならない。それが学ぶ者の務めである。
「先生は先日のアテナイの事件をどう思われますか」
テュウモスの話柄《わへい》は現実的であった。去年、アテナイでは市民の反乱が起こり、僭主ヒッピアスが追放された。この後民主的改革が始まるが、一方の雄であるスパルタがこれに乗じてアテナイ侵略を企《たくら》んでいる。この時代はアテナイとスパルタとペルシャによる戦国時代の前夜であった。テュウモスのような現実的な若者にとっては世間は物騒《ぶっそう》なスリルに満ちていた。
「興味がない」
とピュタゴラスは答えた。それだけであった。テュウモスはまた沈黙せねばならなかった。だが、しばらくすると珍しくピュタゴラスが話を始めた。
「トラキアで工夫された音律のことだ。テュウモス、わたしがそれに期待している意味がわかるか」
「…………」
「常に話している通り、|魂の浄化《カタルシス》には音楽《ムシケー》がもっとも効果をあげる」
ピュタゴラスは自《みずか》ら確認するように続けた。
「なぜ音楽《ムシケー》が|魂を浄化《カタルシス》するのか。私は一弦琴を使って、基本的な音階《ハルモニア》を構成する音程の比が一、三分の四、二分の三、二であることを知った。この比は宇宙《コスモス》で最も神聖な一:二:三:四という数字に還元される。調和する音程の比はすべて四度《テトラコルド》、五度《ペンタコルド》そして八度音《オクターブ》となっていることが分かっている。私はこれを発見した時、身の震えるような忘我を味わったものだ。音階の神聖なる調和《ハルモニア》が存在していればこそ、その秩序ある音階《ハルモニア》が人の魂《プシュケー》に同じ共鳴を与え、調和《ハルモニア》をもたらすことができる」
テュウモスには音階の数的秩序が、すなわち、調和であることが理解できるし、彼にとっても実に魅力的な理論であった。教団が毎朝夕に演奏する曲は、その原理をもとにピュタゴラスが作曲したものである。確かに、その曲を聴くと、心が落ち着くような気がする。
「ただ、私は調和《ハルモニア》の組み合わせが無数に存在することも知っている。それをすべて私一人で極めることなどできはしない。さらに、天上の音を聴くことができる者は私一人ではない。だから、私はできるかぎり各地の音楽《ムシケー》を学はねばならない。|魂の浄化《カタルシス》にはこれでよいという事はないのだから」
しかし、テュウモスはもっと根本的な所でピュタゴラスの思想に疑問を抱いていた。テュウモスは思い切って訊《き》いた。
「魂の浄化が何故必要なのでしょうか」
一瞬ピュタゴラスは驚いたような顔をした。
「テュウモス、馬鹿なことを訊く。いつも教えている通り、自明のことではないか。天上に至るためだ。お前がそのような問いを発するとは」
「天上に至るためである事は聞いております。ですが、私はどうして天上に至らねばならないかが、以前から分からなかったのです」
「何故わからぬ。我らの生命は魂を浄化することによって転生の鎖から解き放たれる。魂は神性を取り戻し、そして、天上に至ってその魂の故郷で全《まった》き自由を得、秩序《コスモス》と調和《ハルモニア》の中に永遠に生きるのだ」
「先生、私はその必要があるのかどうかが知りたいのです」
ピュタゴラスは不審の表情を浮かべた。
「私には天に至ることが重要とは思えません。輪廻《りんね》の軛《くびき》を逃れるということは二度とこの世界に誕生することができないということではないですか。私はこの世界が好きです。天に至るよりはこの世界で……」
「もう言うな。それ以上言えば、お前は教団への反逆者となろう」
二人はそれから話し合うことを恐れるように押し黙って歩いた。
二人は船旅を経た後、ギリシアの地を踏んだ。エペイロス、マケドニア、トラキアなどギリシア世界の北方はまだ土地柄は荒涼としており、どこか殺伐としている。
二人はギリシア最初の宿に着いた。宿の亭主は名だたる教祖ピュタゴラスのことを十分に承知していたので、大いに歓待した。民衆にとり、時にピュタゴラスは救い主のように映る。
「あっしらのような卑《いや》しい者でも救われましょうかね。あっしなんぞは卑しい上に不幸まで背負いこんじまって……、そりゃあ悲惨なもんです」
と亭主は言った。肺を病んでいるらしく、ひどく咳こんだ。
「このとおりでさ……。息はつらいし、どうにもこうにも」
ピュタゴラスは労《いたわ》るように言った。
「学問をなされよ。されば、救われる。その病んだ墓場《からだ》を去りなされ」
「あっしが、学問をですかい? そいつは無理というもんですぜ、先生」
「無理ではない。明日の朝に教えてしんぜよう」
「ありがてえことです」
亭主はピュタゴラスを拝まんばかりであった。次の瞬間には強烈な咳の発作に襲われ、身体を二つに折って痙攣《けいれん》した。
テュウモスは肺病持ちの亭主が気の毒であるとは思った。だが、病苦をピュタゴラスに押しつけるような態度を嫌った。安易に応《こた》えるピュタゴラスもピュタゴラスであると思った。病《やまい》を癒《いや》すには医術《メディケー》というものがある。病は医術師に任せるべきものであって、ピュタゴラスたる者のすることではない。それをこの亭主をはじめとする民衆どもは、まるで巫《ふ》に頼むかのような気楽さでピュタゴラスを望むのである。ピュタゴラスは呪《まじな》い師ではないのだ。唾棄すべきことであった。ピュタゴラスはそんなテュウモスの不満を見越しているのかどうか、行く先々でのそういう注文を丁寧《ていねい》に聞いてやる。
ピュタゴラスとテュウモスは黙って食卓を囲んだ。食事は菜食である。しかも、豆類を選《よ》り分けてロにしないようにしていた。輪廻転生の説を取るならば、肉食は禁じられるべきであった。食卓にある家畜の肉がかつての親兄弟の生まれ変わりかも知れないからである。また、豆を食べないことは教団の戒律《アクウスマタ》の一つ「全体を食するべからず」にひっかかるからである。何故、全体を食べてはいけないのかは不明であるが、ピュタゴラス教団はこのような宗教的な戒律《アクウスマタ》を幾つも持っている。この戒律《アクウスマタ》を犯したため豆畑で自殺した教徒もいる。テュウモスはその淡泊な食事を口に運びながら、なおも不満であった。ピュタゴラスほどの理論家が何故こうも迷信的なタブーの類《たぐい》に縛られるのだろうかと。テュウモスはピュタゴラスの戒律《アクウスマタ》がオルフェウス教から来たものだと知っている。ピュタゴラスの自前のものではない。だからピュタゴラスもその戒律の意味について合理的な説明をしたことがなかった。
かつてテュウモスがピュタゴラスの門を叩《たた》いたのは新しい学問の祖・ピュタゴラスの評判を聞いたからである。その学理は迷信に光をあて、不合理を駆逐《くちく》するものであると信じたのである。テュウモスが学問にそのような志向を持ったのはギリシア社会の政治現象に幾度も翻弄された経験を持つからであった。彼は力のある生き生きとした哲理を求めていた。決して、オルフェウス、バッカスの徒のような非現実的な理想を求めたのではなかった。ピュタゴラスの学を得て、テュウモスの精神の半分は満足した。テュウモスはピュタゴラスの数理論、この世界を解釈するために数という抽象概念を使用する、画期的な方法に熱中した。数をもって人間、社会、政治はおろか宇宙すら説明できそうだという期待に胸を震わせた。しかし、ピュタゴラスの真意は地上に生きる人間がいかにして神性を回復し、輪廻転生の鎖の輪から解き放たれるかという極めて神秘的宗教的方面にあった。ピュタゴラスの数理はそのために用いられる道具にすぎなかった。
ピュタゴラスの半分は数理、あとの半分は神秘で構成されているようだった。ピュタゴラスにとって数理と宗教は不可分である。テュウモスは自分はそのような状態にはとても耐えられないと思う。ところが、ピュタゴラスの内部は分裂どころか、矛盾一つなく、美しい調和を保っているようであった。
その夜、ピュタゴラスはテュウモスを愛撫しながら囁《ささや》いた。
「お前が不満なことは分かっている。だが、人々の苦悩を軽視してはならぬのだ。私はお前だけのものではない」
テュウモスはピュタゴラスの手の動きに身を任せていたが、その言葉で身を堅くした。ピュタゴラスの手は繊《ほそ》く白かったが、指先は木のようだった。ピュタゴラスは小琴の名手である。その爪弾《つまび》く指の皮膚は石のように固くなっている。テュウモスはその感触は心地よかった。
「そのようなことを思っているのではありません」
テュウモスは息を詰めた。
「先生が学問にあらざることを行うのが……」
辛《つろ》うございます、と小声になった。ピュタゴラスは手を止めた。テュウモスは、はっとした。ピュタゴラスはテュウモスに背を向けてしまっていた。
『先生はお怒りになった』
とテュウモスは感じた。テュウモスには何故ピュタゴラスが怒るのか、しかとは分かっていなかった。
朝になった。テュウモスが外を見ると、大勢の人間が集まっていた。宿の前庭には近在の病人がすべて集合したかのようだった。テュウモスは顔を歪《ゆが》めた。
『いわないことではない』
テュウモスは亭主を呼んだ。
「なんたることだ。あれは」
「へえ……。まことにすいやせん。こいつらも、その、ピュタゴラス様にお会いしてえと、せがみますもんで、つい……」
亭主はテュウモスの剣幕《けんまく》におどおどしていた。
「先生は医術師ではない。拝み屋でもない。お前たちは勘違いしている」
テュウモスは怒鳴った。
その時、ピュタゴラスが琴を片手にして、ゆっくりと部星から出てきた。
「亭主」
「へえ、すいやせん。連中はすぐに追い払っちまいますんで、なにとぞ……」
ピュタゴラスは庭に降り立った。盲《めし》いた者、跛行《はこう》者、癩者、業病に苛《さいな》まれた人々がピュタゴラスを伏し拝んでいた。ピュタゴラスは亭主に言った。
「亭主」
亭主は怒られるものとびくっとした。ピュタゴラスは微笑して言った。
「約束通り、学問を教えてしんぜる」
ピュタゴラスは小琴を弾き始めた。ピュタゴラスの奏《かな》でる旋律は優しかった。一同を次第に包み込んでいった。天上の楽、と誰もが感じた。ピュタゴラスの澄んだ独吟歌《メロス》の歌唱がさらに弦を追い始めた。
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我は|真の智《ノオス》を追うもの
智弁もて天上につとめ
学を得て輪廻の獄を断つ
暖かき楽は調和す
されば苦は解け、溶け果て
偉大なるかな浄化の楽
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それは聴く者の心にまさしく調和をもたらした。苦しむ者の心に荘厳《そうごん》な宇宙の秩序が吹き込まれていった。
この楽の音こそがピュタゴラスの学問であった。明晰《めいせき》なる数理の学と深淵なる神秘が合するところ、哲学と宗教が調和した姿。それが音楽なのである。ピュタゴラスの教団は秘密主義をもって知られ、他者に沈黙をもって報《むく》いたという。しかし、言葉をもって語る必要がなかったからそうしただけであった。布教するにも救済を与えるにも言葉は必要なかった。ピュタゴラスの思想の結晶である音楽がすべてを補《おぎな》うからである。ピュタゴラスの思想の結晶そのものが、今、周囲に優しく、暖かくたゆとうていた。
「ああ……」
人々は歓喜の声を漏らした。
「痛みが消えて行く」
「いい気持ちだ」
「楽しい……」
「おれはまだ生きられる……」
病む者たちは忘我恍惚《カタルシス》の中にあった。催眠状態の中で魂が苦しみを癒してゆく。
テュウモスは隣にいる亭主の呼吸がさっきよりも楽になっているのに気が付いた。テュウモスの内部にも亭主が味わっているものと同じ不思議な感動が生まれていた。ただ、彼はある程度以上の感動を拒否した。自分を否定したくなかったからであった。
ピュタゴラスは宇宙《コスモス》の調和《ハルモニア》の力が、小宇宙《ミクロコスモス》である人間に働くことは当然だと思っている。音楽《ムジケー》は調和《ハルモニア》のエネルギーである。それを人の魂《プシュケー》に注ぐのである。他に何が必要であろうか。
「人は救われるべきなのだ。テュウモスよ、お前は心得違いをしている」
ピュタゴラスは疲れを知らぬ人のように歩き続けている。
「テュウモス、何のためにこのピュタゴラスの教えを学ぶのだ? それは己《おのれ》を救い、他人を救うために違いなかろう」
テュウモスは俯《うつむ》いていた顔を上げた。
「そうでしょうか」
「お前の気持ちは分からないではない。お前の興味は私の数理論にあることも知っている。だが、お前のように賢《かしこ》い男に分からないはずがない。数理のみでは何もできはしないということが」
テュウモスは迷うように言った。
「そんな、何をおっしゃいます。数理こそこの世界を正確に把握《はあく》するための力を持つものではありませんか」
「世界を正確に把握しただけで何ができるというのか」
「それは……。いや、でも、この宇宙を余すところなく知ることは素晴らしいことではありませんか」
ピュタゴラスは悲しげに言った。
「数理をもって宇宙を知ることが、お前の魂を浄化するのか? 先ほどのような苦悩する者たちを救うことができるのか」
テュウモスはついに吐き出すように言った。
「先生、私は数理のみで満足なのでございます」
「テュウモス、お前は美しく賢い男だ。しかし、若い。いまだ経験が足りないのだ。真に必要なものが分かっていない。学問の全体の姿を見ることもできていない」
ピュタゴラスは原因をテュウモスの未熟に帰したかった。
ピュタゴラスはテュウモスを愛していた。だからこそ自分のすべてを受け継いでもらいたかった。だが、テュウモスの求めるものはピュタゴラスの一部分にしかすぎなかった。テュウモスはピュタゴラスを敬愛している。テュウモスはミレトスの新しい思想家たちが創始した自然を不合理なく解くという方法の先端にピュタゴラスがいて欲しかった。ピュタゴラスに愚劣な呪い師のような真似をしてもらいたくなかった。ビュタゴラスの音楽が病人の苦痛を和《やわ》らげるという現実を見た上でも、それをただのまやかし、気休めとして学問の埒外《らちがい》に置いておきたかった。テュウモスはピュタゴラス教団にとって最初の左派だったのである。
ピュタゴラスとテュウモスは季節風に代わり、北からの風、おそらくアルプスやバルカンの山々を抜けてきた風を受けることができる地に達した。二人は然々と歩を進める。ピュタゴラスは風を浴びると、ふと気が付いたようにひざまずいた。瞑目《めいもく》して風の音に耳を傾けているようであった。
「テュウモス、聞こえないか。風に不思議な旋律が含まれている。私はこの北からの音はアポロが奏《かな》でているのではないかと思えて仕方がない」
テュウモスにはそのような音は聞こえなかった。
「もっと北に行きたいものだ……」
とピュタゴラスは途方もないことを言った。トラキアやマケドニアのさらに北に何があるというのだろう。テュウモスは野蛮人しか棲まない奇怪な世界を思い浮かべている。ギリシアの文明に浴さない、言語も通じない異民族の棲む荒れ果てた山野が目に浮かぶようである。神々が集《つど》うという神話的世界も信じられない男であった。しかし、ピュタゴラスなら行くかもしれない。ピュタゴラスが求めるものがギリシア世界にないのならば、彼は行かねばならないのである。冒険心に溢《あふ》れたはずの若者でさえ、尻込みする旅である。
「テュウモス、案《あふ》ずるな。行くときは私一人で行く……」
ピュタゴラスはテュウモスの心を読んだように言った。その目は哀しそうだった。
「御供《おとも》します……」
テュウモスは聞き取れないような声で言うのがやっとであった。
豪雨に見舞われた。雷鳴が轟《とどろ》き、礫《つぶて》のような雨滴が二人を打った。雨はもともと険《けわ》しい山道をさらに険悪な状態にした。ピュタゴラスとテュウモスはちょうどその山を半分ほど登った地点で雨に襲われた。この地には木々のまばらな、禿《は》げたような山が多い。雨宿りの場所にも事欠いた。剥《む》き出しの地面は水に弱く、土質が不安定である。二人は山を降りるか、登り切るかするしかなかった。
「先生、登りましょう」
テュウモスはそう言った。麓《ふもと》へは雨水が濁流のように下って行く。二人は身を庇《かば》い合いながら、登った。雨宿りのできるような岩窟を捜さなけれは危険であった。ピュタゴラスはこの豪雨は驟雨《しゅうう》であることを経験から知っている。そのうちに何事もなかったように静かになるのである。
「テュウモス、急ぐ必要はない。ゆっくりと足元に気をつけて歩いていれば、じきに雨は上がってしまう」
テュウモスが振り向くとピュタゴラスは深沈《しんちん》とした表情を浮かべている。雨の奏でる楽に心を奪われているようであった。テュウモスは苛《いら》だたしい思いに駆られた。足元はともすればずるりと流れる。テュウモスは歯を食い縛って歩を進めているのである。
崖づたいに進むうちに、つと、ピュタゴラスは踵《かかと》を滑らせた。
「先生、お気をつけて!」
テュウモスは手を伸ばしてピュタゴラスを支えようとした。ピュタゴラスは支えられ、崖に伸びていた木の根を掴《つか》んで安定を得た。しかし、テュウモスは自らの安定を失ってしまった。ぬかるみに足を掬《すく》われた。
「テュウモス!」
ピュタゴラスは手を伸ばした。テュウモスの手を掴んだ。一瞬、手と手は確実に握り合った。ピュタゴラスは安堵《あんど》を得ようとした。しかし、一瞬だった。降り続く雨のせいでピュタゴラスの手からテュウモスの手は滑り離れていった。
「テュウモス」
テュウモスの悲鳴は雨垂《あまだ》れの楽に打ち消され、その身体は崖下へ滑降して行った。
やがて雨雲は去り、陽が射してきた。ピュタゴラスは苦労して崖下に降りた。テュウモスを捜した。
「テュウモース!」
返事はなかった。
ピュタゴラスがテュウモスを捜し当てた時、すでに遅かった。テュウモスは尖《とが》った岩に下腹を突き破られていた。
「おお、テュウモス……」
ピュタゴラスは息をのんだ。テュウモスの顔を死相が被《おお》いつつあった。
「先生、お別れのようです……」
テュウモスは切れ切れに|喋《しゃべ》った。テュウモスの周りの地面を赤いものが染め抜いている。
「数々の無礼をお許しください……。ただ、私は救いなどいらないと思った。しかし、先生への愛は片時も忘れることはなかったのです……。信じてください」
「苦しいかテュウモス」
「は、は……。痛うございます」
「救われたいか」
「…………」
テュウモスは蒼《あお》い顔で微笑した。すでに生を諦《あきら》めている。意識の明瞭なことは、ひどく残酷なことであった。
「されば、最後に学を教えてしんぜる」
ピュタゴラスはそう言うと小琴を抱き、爪弾きはじめた。ピュタゴラスの指から生み出される調和の数々は、テュウモスの身体を優しく包み込んだ。調和と浄化の音がテュウモスの身体に染《し》み入ってゆくようであった。
「せ、先生。本当です。苦しみが消える。私が誤っていた……」
それがテュウモスの最後の言葉であった。
ピュタゴラスはそれから日が沈むまで演奏を続けた。長い間、葬送曲《トレーマ》を弾いた。
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我、未だ輪廻を脱せず
君がために奏でるも
我、浄化を嘉《よみ》せず
我と今一度世に逢わん
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ピュタゴラスはトラキアを吹いていた風に含まれていた智を思いだし、即興で曲にした。ピュタゴラスはテュウモスを悼《いた》み、自らの心に調和を取り戻すためにその曲を弾き続けた。ピュタゴラスは哀しむ必要はなかった。彼は輪廻転生を説く男であったからだ。
『テュウモス、また逢えよう』
しかし、言いようのない虚無感が彼の信念とは裏腹に、彼の心に、蹲《うずくま》るのであった。テュウモスが死に、ピュタゴラスの内部では哲学と宗教は決定的に乖離《かいり》した。
ピュタゴラスは夢を見た。幻を見た。ピュタゴラスはテュウモスの影と対話している。
「私は分からなくなった
「何がです」
「調和《ハルモニア》が、音楽《ムジケー》が、|魂の浄化《カタルシス》が、人間の扱いが」
「それがあなたの学問のはずなのに」
「私は教祖として人を導く立場にある。その私が分からないものをどう教えよう」
「承知していますよ。みんな」
「私はそれでは困る」
「ではどうするのです」
「どうすればいいのか」
「学問をなされよ」
「え……」
「あなたがいつも説いていることです」
「私はもはや学問をする段階にはいない……」
「困りましたね」
「どうすればいいのだろう」
「では、旅をなされよ」
「旅にも厭《あ》いた……。ペルシャにも行った、エジプトも回った……」
「まだ、行っていないところへ行きなさい」
「ああ」
ピュタゴラスはギリシアの極北の地帯を思い浮かべた。
「旅をなされよ」
ピュタゴラスは旅をした。
ピュタゴラスは数年を過ぎてもテュウモスを忘れることができなかった。教団の長老たちが新たに美しく賢い少年をピュタゴラスに付けようとしたが、ピュタゴラスは拒否した。旅には常に一人で出た。ある日、ピュタゴラスは近所のある男が、子犬を殴りつけているのを見た。駆け出して行って男を止めた。
「やめよ。叩いてはならん。これは私の友人の魂だ。確かにテュウモスの魂だ。鳴き声を聞いてそれが分かった」
ピュタゴラスは男から子犬を奪うと抱き締めた。子犬はもがいて、その腕を潜《くぐ》ると逃げ出した。一度、ピュタゴラスを振り返ったが、またすぐに駆け出した。
「ああ。テュウモスはまだ分かってくれぬ。その証拠に私から逃げ出した」
長老たちはピュタゴラスの魂が深く傷ついていることを知って愕然とした。ピュタゴラスの魂が早く浄化されるように祈った。
ピュタゴラスはその後も|頻繁《ひんぱん》に旅に出た。彼が帰還する度に、期待している長老たちに漏らしたのは、
「まだ、遠いのだ」
という言葉だけであった。
ピュタゴラスはクロトンの政変の難を避けるという理由で、教団の大部分をメタポンティオンという町に移した。そして、その地で捜した。長老たちは、ピュタゴラスが再び帰ってくることを信じてその後も長く教団を存続させた。彼らはピュタゴラスの旅はまだ終点に達していない、まだ違いのであるということを知っていたのである。
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籤引《くじび》き
(この村の住民は法というものを博奕《ばくち》と同じレベルで考えているとしか思えない。いや、実際にそうである。公正無比であるべき裁判を賭《か》け事と同等に扱うことを罪であると理解しないばかりか、神、無論、この村の原始的な土着神であることは言うまでもない、の命じ給《たも》うた聖なる行為であると信じ切っている。なんたることであろう)
とメイクハム・リチャードソンは日誌に書いている。苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔をしている。その表情が彼のコールマン鬚《ひげ》にぴったり合っているからおかしい。彼はその表情のまま居間に向かった。
「そう思わないか、メイベル?」
と唐突に小説を読んでいる妻に言った。唐突であることがメイクハムの性格の一特徴である。
「何の話よ」
メイベルは読んでいた小説に栞《しおり》を挟んで、テーブルの上に置いた。つんととがった形のいい鼻をメイクハムに向けた。
「この村の連中の道徳心の欠如についてだ」
「あら、べつに道徳心が欠如しているなんて思わなくてよ。みんなわたしたちに親切にしてくれるし、陽気だし、意外と清潔好きのようだし」
「そんなことではない。彼らの習慣がよくない」
「習慣て何よ」
「あれだ、あの籤《くじ》引きだ」
「そう? 面白い風俗じゃないの」
「ギャンブルだ」
「でもあなただって、競馬もやれば拳闘にお金を乗せもするじゃない」
「あれは、紳士の嗜《たしな》みだ。付き合いだよ」
「めくじらを立てることはないと思うけど。ねえ、メイクハム、どうせあと二年もすれば帰れるんでしょ」
「それとこれとは……べつだ」
「風俗教化はあなたの仕事ではないと思うけど」
メイベルは再び、小説を手に取った。見たところ通俗恋愛小説のようだった。忌忌《いまいま》しい話であるが、メイクハムはこの二十ほども年下の米国育ちの娘に頭が上がらなかった。
メイクハムは憤然と執務室にとって返した。再び、日誌に向かった。
(籤引きで犯罪を決裁し、それに娯楽を見出すがごときは、我々の法律理念に真っ向から刃向かうものであると信ずる。私、イチクナ村に領事として赴任したからには、必ずやこの悪習を良俗に替えるであろう)
その時、紅茶を小間使の少女が運んで来た。気付くやメイクハムは振り返って、
「お前もそう思わんか」
と言った。浅黒い肌の小間使はぎょっとして紅茶を盆ごと取り落としてしまった。
メイクハムは領事ということになっている。しかし、こんな未開の村で領事もないものである。単なる呼称と言える。村人に臨む形は総督に近い。ともかく、イチクナ村を拠点として収奪や商売をするのはまだまだずっと先の話に違いない。だから、領事の仕事とて、大してすることがない。この土地が仏領と境を接しているという政治的な重要性から、ほとんど意味のない領事館が置かれているのである。
着任早々こんな事件があった。
イチクナ村の原住民は争い事を嫌う温和な性格だった。突然現れて邸《やしき》を建て、うるさいことを言い始めた妙な英国人を追い払ったりしなかった。そういう村だから、事故も事件も|滅多《めった》に起きない。メイクハムは巡察と称して村を見回ることを日課にしていた。やることがないからであり、その実は散歩と変わらない。村の改革などということを考えるようになるのに時間はかからなかった。
「君らの暮らしはよくない。改めるべきだと思わないか」
とメイクハムは、通訳でありこの村の村長の息子であるハタナクナに言った。この息子は変わっていた。ここの住民は半裸に近い格好をしている。イチタナ村は亜熱帯に属するのだろう。
一年を通じて暖かく、適度に雨が降る。また、高地であるから湿地帯が少ない。丈の低い潅木が多かった。そういう気候なのである。ハタナクナはきちんと上着を着ていた。メイクハムと同じ、植民地ファッションとでも言うのか、半袖のジャケットを着て半ズボンを穿《は》いている。
「旦那《だんな》、ほっときなはれ」
ハタナクナは怪しい訛《なまり》があるものの、英語を話すことができる。一時、放蕩《ほうとう》して村を出て、はるばるカルカッタまで行った。そこで勉強したというから、悪いことではない。才覚があって金儲《かねもう》けもしたので、ついでにその地の大学を覗《のぞ》いて来たと言っている。立派な息子だと思われるが、イチクナの村長は放蕩息子だと信じている。
こんな村でもごくたまに犯罪人が出る。畑を荒らしたとか、家畜を盗んだとかの軽度のものから、人殺し、禁忌破りまでとりあえず起きる。メイクハムが出会ったのは鶏《とり》泥棒である。
「鳥をあの男が盗まれたようで、いまから裁判しますのや」
とハタナクナは説明してくれた。メイクハムは法律学を好んだ。ロースクールにも行っている。裁判には関心があった。
「裁判? 捜査の間違いだろう。まだ犯人は捕まっていないようだが」
この村の者は、インド・アーリア人ではなく黄色人種である。しっかり日に焼けて浅黒いが顔立ちはシナ人に似ている。メイクハムはよくよく観察しないと個々の見分けがつかなかった。鶏を取られた男がしきりに罵《ののし》り、村長に訴えている。村長は、村長というだけあって威厳のある老人である。何やら叫んだ。巫女《みこ》を呼んで来させたのだとハタナクナは言った。
集まっていた村人はどっと沸《わ》いた。
「卑劣な泥棒に対して怒りの声を上げているのだな」
「違いま。みんな喜んどるんだす。なにせい久しぶりのことですからな」
「喜ぶ?」
そのうち、白髪の老婆がやって来た。これが村一番の巫女らしい。まず腕を阻んで上下させる動作をゆっくりとやった。萎《しぼ》んで垂れた乳房も同時に昇降する。また、無数の細い棒を持っていて、手を動かすと音がした。
「なんだ、まさか呪術《じゅじゅつ》で犯人を捜し出そうとでもいうのかね」
とメイクハムは嫌な顔をした。こういう未開な法理こそ彼が最も嫌うところである。
「違いま」
とハタナクナは言った。
「今から籤を引くんだす」
見るとハタナクナの顔も喜びに歪《ゆが》んでいる。
「ちょっと失礼します。わても籤を引かなあきません」
とことこと広場の中央へ走っていった。
村人は子供以外の全員が広場へ集まっている。巫女の前に一列に並んで、細い棒を一本ずつ引いてゆく。引く前は、どの村人も神妙な顔付きである。恐る恐る棒を引く。そして老婆の手に隠されて見えなかった棒の下の部分を覗き見る。棒には何か印が書いてあるようだ。ある男はほっと胸を撫《な》でおろすような動作をすると、皆に向かって笑いかけた。また、ある女は棒の印を見て、突然踊り出した。喜びの踊りと見受けられる。上半身は申し訳程度の布をまとっただけである。豊満な胸の隆起が、愉快そうに揺れた。それを男どもははやしたてた。メイクハムは苦り切った顔をした。彼にはそれがどうしようもなく下品に見えるのである。子供たちはその籤引きの行事に早く参加できるようになりたいのだろう、羨《うらや》ましそうに眺めている。
ハタナクナはパチンと指を鳴らしながら、戻ってきた。
「ようおました。わてはまだ前科者になりとうないですから」
「つまり、あれは……」
「あれで悪魔の印のついた棒を引いた者が、今回の事件の犯人ということだす」
「籤で犯人を決めているのか! まさか、そんな馬鹿な。無実の者がその悪魔の籤とやらを引き当てたらどうするんだ」
当然、その可能性の方が非常に高いのであった。
「無実もなにも、引き当てた者が犯人なんだす。旦那のお国の裁判という言葉を無理にこの村の言葉に翻訳したら、籤引き、になるんだす」
「ひどい話だ」
「あっ。あの男が犯人に決まりよりました」
籤を引き当てたのは白髪頭の年寄りだった。年齢の正確な見当はもとよりメイクハムにはつかない。それにしても、鶏泥棒のようなはしっこい仕事をやる年齢には見えなかった。
メイクハムは意外に思った。その犯人と決まった老人は怒りもせずニコニコしている。手を挙げて村の者に答え、照れたように頭を掻《か》いた。
「あの老人は気が触《ふ》れたのか? 濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられて嬉しがっている」
「そりゃ、嬉しいに決まってますがな。籤引きは先祖代々の神事ですからな。当っては喜び、外《はず》れても愉《たの》しがる。いいこってすな。旦那もここで暮らすんやったら、籤引きに参加するこってす。土地に溶け込むにはそれが一番」
「私はここの住民になる気はまったくない」
広場の村人たちが、急にしんとした。巫女《みこ》の老婆が再び籤の棒を揃え直している。今度はさっきとは別な種類の棒を持っているようだ。
「今度の棒には処罰の印が彫りつけてあるんだす。それをいまから引く。裁判のハイライトですがな」
「なんということだ……」
老人は息を整えて、悩んで見せた。これは、どうやら見物の村人を盛り上げる仕草のようである。やがて、一本を引いた。老人は畏《おそ》れかしこんで、その棒を巫女に渡した。巫女はじっと睨《にら》んで、重々しくなにやら言った。
「判決はどうなったんだ?」
「どうも死刑のようでんな。南の山の刑場でばっさりと首を落とします」
「死刑! 鶏を盗んだだけだ。いやその前に、あの老人はやっていないはずだ。つまり冤罪《えんざい》だ」
「うるさいですな。死刑ちゅうても、あんなん軽い方でっせ。崖から突き落とされたり、地面に首だけ残して埋められるよりなんばもましですがな」
「そんな問題じゃない! 領事として、いや、人間としてこんなことは許しておけない」
「あっ、旦那!」
メイクハムはつかつかと広場の中央へ歩みでた。ハタナクナはメイクハムが何をしようとしているのか知って、舌打ちしながら後を追った。
老人はたちまち縄を打たれた。よく分からないが巫女が呪文を唱えて、祝福しているようだ。老人は本来なら悔《くや》しがって暴れていそうなものだが、巫女の言葉を深く頷《うなず》きながら聞いている。
その場の雰囲気をぶち壊してメイクハムが怒鳴った。
「この老人を放してやれ。罪もないものを何故殺すのだ。おい、ハタナクナ、早く訳して伝えろ」
ハタナクナは仕方なく村長、つまり、実の父親に向かって弁解がましく話しかけた。
「私はこれでも法律家だ。私が捜査をして真犯人を捕まえて、正当に裁判にかけて、相応《ふさわ》しい罪を決めることにする。お前たちは今後このような野蛮極まる籤引き裁判などやめて、我々のやり方にならうがいい」
ハタナクナが正確に訳したかどうかは分からないが、村長は憮然《ぶぜん》とした表情をハタナクナに向けている。『おのれの連れの妙な異人は何を言っているのか。場合によってはただではおかぬぞ』と不肖《ふしょう》の息子を非難しているように見える。その証拠にハタナクナに一喝を食らわせて、手で逐《お》った。
「旦那、こいつは村の大昔からの由緒ある儀式ですねん。あんたが急にやめろと言ったって、だれも聞きやしません」
ハタナクナは西洋人のように肩をすくめてみせた。
「それでは、力ずくでもやめさせる」
メイクハムは腰に手を当てた。六連発の輪胴式拳銃は邸に置いてある。メイクハムの怒気が村人に伝わって、反発が起きた。険悪な状況になった。村人は口々に怒鳴り始めた。
「余所者《よそもの》、邪魔すんな、と言うてます」
こともあろうに縛られた被害者の老人まで、同じ言葉をメイクハムに向けた。素手で村人の集団に勝てる道理はない。ハタナクナはメイクハムの袖を引っ張った。
「旦那、ちェっと、こっちへ」
「私は退《ひ》かんぞ。正義はこちらにある」
「正義も糞もありますかいな。犯罪が起きた時には籤で犯人と罰刑《ばつけい》を決めるいうんは、セタカいう神とピエいう精霊とわてらの祖霊が約束して決めた事なんだす。例えたら、お国のキリストはんの約束と同じくらい神聖なもんなんだす。もし、約束を破って籤引きの儀式を怠《おこた》ったら、この村はセタカとピエの怒りに触れて作物は穫《と》れなくなり、家畜は死に絶え、あげくには地震、洪水まで起こることになっとりますさかい、旦那の文明たらいう薄弱な理屈では到底|太刀打《たちう》ちでけまへん」
「薄弱な理屈だと」
「ここは帰りなはれ。袋叩きにされまっせ。後でお邸に伺いますから、これで」
「くそっ、野蛮な土人どもめ」
ハタナクナはそれを聞いて、一瞬、蔑《さげす》むような目をメイクハムに向けた。そして、皆をなだめるために走っていった。
夕刻、ハタナクナがやって来た。メイクハムとメイベルは食事中だった。
「外で待たせておけ」
とメイクハムは平然と言った。
「あなた、あの人は使用人じゃないんでしょ? 居間で待ってもらえばいいじゃない」
「必要はない。あいつも野蛮な土民にかわりがなかった」
とメイクハムは昼間の事件の顛末《てんまつ》を話した。
「ふうん。籤で犯人を決めるの。面白いじゃない」
「不謹慎なことを言うものではない」
「でも、土地にはしきたりがあるものよ。東部と南部じゃ大違いだし、アメリカとイギリスも大分違うわ」
「それとこれとは別だ。もしお前の国で籤引き裁判なんてものが施行《しこう》されるようになったらどうなる。とんでもないことになることは考えなくても分かるだろう」
「どうしてよ」
「犯罪を犯しても籤運さえよければ何の咎《とが》めもないんだ。誰も彼もいっぱしのギャングと化すだろう」
「そうかしら」
「そうに決まっている」
「あなたが悲観的なだけじゃないの」
メイクハムはそういうメイベルを時に浅薄な女だと軽蔑を感じることがないではない。
必要以上にゆっくり食事を終わらせた。食後にハタナクナを呼んだ。メイベルも是非《ぜひ》聞きたいとせがんで一緒にいる。メイクハムは妻の大きく胸元の開いたドレスが気に入らなかったが、許した。
「あの老人は?」
とメイクハムはハタナクナに|訊《き》いた。
「先刻、首を斬られましてん」
「ああ神よ……」
とメイクハムは嘆いた。
「お前は不条理だと思わないのか。無実ははっきりしているのに、何故死刑になる?」
「無実と違います。籤引いて、当ったからには立派に罪人だす」
ハタナクナは幾分不機嫌そうに言った。
「その理屈だ。鶏を取って食った真犯人は今頃胸を撫でおろしながら、喜んでいるはずだ。ことによると味をしめて次の犯行を企《たくら》んでいるかもしれない。このようないい加減な法律がまかり通っていては、犯罪は増加の一途を辿《たど》り、やがては村を滅ぼすことになる」
「そないなことはありまへん。現にこの村で鶏泥棒が起きたのは三年ぶりでっせ。旦那の理屈で言えば、この村はとうに滅びとるはずですが」
「しかし」
「旦那、よう聞きなはれや。この村には、お国みたいに妙に大層《たいそう》な法律は要りませんのや。それに、ぎょうさんの警官に見張られていないと道理を守れんような不心得者もひとりもいません。なにせ、警官よりもよっぽど恐ろしいセタカとピエが上下八方からじっと見ておりますからな。その意味ではお宅のキリストはんはドスの|利《き》きが足りませんわな」
聞いていたメイベルがくすくすと笑った。
「しかし、実際に泥棒が出たじゃないか」
「泥棒にも深い事情があったんですやろ。例えば親父《おやじ》が怪我をしてどうにも仕事がでけんと。子供は腹をすかせとります。その子か、その母親が他人《ひと》様の鶏に手え出しても、村人は一概に責めるような酷《むご》いことはしまへん。わてら大人なんだす。そのくらいは見て見ぬ振りをしてもええ」
「それなら、裁判なんかする必要は……」
「せやから、さっきから言ってまっしゃろ」
「分かった! 村の人は許しても、セタカとピエが承知しないのね」
とメイベルがロを挟んだ。
「やあ、奥さん、その通りなんだす。旦那、つまり、そういうことだす。わてらはここの土地に村を作って以来、セタカとピエに事《つか》えて生きさせてもらって来たんだす。裁判は神事だす。お祀《まつり》でんがな。村が続く限り絶やすわけにはいきませんのや。さっき、犯人として死んだ爺様も今頃は喜んでセタカとピエに報告しとりますやろ」
「迷信だ。そんなことでお前たちは我々と対等に付き合えると思っているのか!」
ハタナクナは薄笑いを浮かべた。
「旦那、糞おかしな事を言わはる。わてらは旦那がたと付き合いたいなんぞと、いっぺんも頼んだ覚えはありまへんで。そうでっしゃろ? お宅はんやフランスはんがインドやインドシナでやっとることをわてはとやかく言いたかない。あそこは布や胡椒《こしょう》がよう取れるかもしれません。せやけど、ここは自給自足の|呑気《のんき》な村に過ぎまへん。旦那らはここへは来損でっせ。わてらの方にも得なん、何もありまへん。それでも村の者は旦那方を叩き出したりはしませんでしたで。何しろ、わてら大人ですからな。とにかく、この事には触《さわ》らんことです。村人全員を敵に回しまっせ」
メイクハムは拳《こぶし》を固めている。激怒しているのだ。また、一方ではハタナクナが意外な教養人であることに驚いている。カルカッタで数年過ごして、しかも、向学心を起こしてのことだというから、これくらいの知識と意見を持っていてもおかしくはない。そのわりに非合理的な迷信を受容していることが奇妙でもある。
「わては好意で旦那の通訳をしとるんですが、これ以上|駄々《だだ》をこねられるんなら、仕方ありまへん。下《お》りさしてもらいまっさ」
険悪な状態になった。その時、メイベルがにっこり笑って問に入った。
「まあまあ、ハタナクナさん。そうおっしゃらないで。この人、堅物《かたぶつ》が過ぎて、時々気に触ることもあるでしょうけど。どうか、許してあげて下さいね」
とメイベルは言った。
「メイク、今日は、あなたの負けよ。ハタナクナさん向こうで紅茶でもいかが?」
「や、奥さん、そんな勿体《もったい》ない」
ハタナクナははっきりと顔を赤くしている。|眩《まぶ》しそうにメイベルを見た。
「いいわよね。あなた。村の話でも聞かせてくださいません。そう言えばここに来てしばらくになるけど、ハタナクナさんと話したことはなかったものね」
メイベルはハタナクナが気に入ったと暗に言っているのである。
「勝手にしろ」
とメイクハムは言った。この身勝手な若妻が何か言い出したら、もう何を言っても無駄であると知っている。憤然と立った。取るに足りないと思っていた原住民に一本取られたのである。プライドが深く傷ついた。大股に部屋を出た。執務室で忿懣《ふんまん》を日誌にぶつけるつもりになった。
(メイベルもメイベルだ。ここへ来ると決まった時はさんざんおれに悪態をついて離婚まで匂わせたくせに、今度は忘れたように、土人野郎の肩を持っている)
ロに出して怒鳴らないことが、せめてもの紳士の嗜みというものである。
領事館と言えば豪勢な感じがするが、西洋風の山小屋を大きくしたようなものである。村の住居は茅葺《かやぶ》き木造である。要所要所には土を使っている。そういう規格の家が木々の問や少し広い道の脇などに散在している。だから領事館のペンキを塗った家は村の家と不調和ということで、大いに目立つのである。村の子供が覗きに現れることもしょっちゅうであった。
居間の声は執務室まで聞こえてくる。当然、カルカッタから連れてきた使用人たちにも聞こえていよう。あたりに潜《ひそ》んでいる子供もいるかもしれない。
「お酒はどう? 紅茶に少し混ぜるとおいしいのよ」
「あっ。ブランデーでっか。いや、久しぶりでんなあ。この村の稗酒《ひえざけ》もうまいですが、西洋物も結構で」
「…………」
「ひゃあ。うまい」
といった会話が筒抜けであった。
「まあ、奥さん。わてもさっきはあないに強いことを言いましたが、じつは籤引きちゅうんは、この村の最大の娯楽でもありまして。さすがに気の長いうちの連中でも、退屈はあります。だから、籤引きの機会があれば大喜びですがな。おのれの命を賭けた博奕《ばくち》ですからな。ぞくぞくするような楽しみだす。その楽しみにケチをつけられれば、誰かて腹を立てまっせ」
「あはは。そうよね!」
メイベルはもう酔っているらしい。声に甘えたような響きが混じっている。怒り心頭に発したメイクハムは凄《すご》い顔をして居間に踏み込んだ。ハタナクナはその足音を聞いて、さすがに調子に乗り過ぎたらしいと気が付いた。素早く席を立っている。
「ほたら、このへんで失礼しまっさ。奥さんごちそうさんでした」
とすでに玄関を出ようとしていた。
メイベルの肌はほんのりとピンク色に染まっていた。
「あなた、ハタナクナさんていい人ねえ。今度、村の面白い場所をいろいろ案内してくれるそぅよ。一緒に行きましょうよ。あら、拳銃なんか持ってどうしたの?」
「どうもしていないさ」
メイクハムはメイベルの顔を張るかわりに、荒々しく引き寄せてキスをした。メイベルが苦しくなり、もがくまでやめなかった。翌日からメイクハムは拳銃を腰に下げて歩くようになった。
メイベルはだんだんイチクナ村|贔屓《びいき》になっていくようだった。順応力が高いということだろう。文明人というこだわりを常に持っているメイクハムには容認できないことも、メイベルは面白がるということで許すことができるようである。年齢の違いもあるだろうし、育ちの違いもあっただろう。とにかく、メイクハムの精神は硬直していて、メイベルのそれは柔軟であった。メイベルの柔軟さはメイクハムには投げやりに映る。
天候の事情で、食料の到着が遅れた時があった。当然、メイクハムは癇癪《かんしゃく》を起こした。朝食のパンもなかった。
ハタナクナは毎日、メイクハムの朝食が終わった頃、邸に現れる。その朝ハタナクナが、
「旦那、奥さん、おはようございます」
と現れると、メイベルが出て行って、
「村にパンの材料ってあるの?」
と馴れ馴れしく訊いた。いつもなら、ピンとひげをはねたメイクハムが堅い顔で玄関に出てくるのだが今朝は違った。ハタナクナはどきりとした。メイベルから目をそらせ気味にして、
「どうしはったんだす?」
と言った。メイベルが事情を話すと、
「はあ、お食事がまだだすか。そら、小麦の挽《ひ》き粉くらいありまっせ。粟《あわ》と稗《ひえ》の粉もありま」
するとメイベルは目を輝かせた。ハタナクナの手を取って、言った。
「よかった、少し譲ってくだきらない?」
「お安い御用です。そやけど、今からパンなんぞ焼いていたら、時間がかかるんと違いますか。よければ、簡単なパン代わりの物を差し上げまっせ。わての嫁はんが今朝、作りすぎましてん」
「あらハタナクナさん、奥さんが居らっしゃったの。知らなかった」
ハタナクナは照れたように、
「そりゃ、居ます。何しろ、この村じゃ十二になれば無理やり嫁を取らされますんで。わての場合は途中で家出しましたもので、この前また新しく嫁を取らされましたが」
と何故か残念そうに言った。
「美人?」
「奥さんに比べたらどぶ亀でんがな。よう働くんが取《と》り柄《え》で」
「お上手ね。奥さんに言いつけるわよ」
奥からメイクハムが不機嫌そうにこちらを見ている。ハタナクナはあわてて家に戻って行った。
しばらくしてハタナクナがその食べ物を持ってきた。発酵が少なくかためである。インド人が惣菜《そうざい》を包んで食べている|パン《チャパティ》に似ていたが、少し厚くて大きかった。
「パタと言います」
とハタナクナは言った。
正午を過ぎていた。お茶の時間にはハタナクナも同席することになっていた。メイベルはお茶のついでにパタを食べてみることにした。
「不潔だろう」
とメイクハムは言ったが、メイベルは頓着《とんちゃく》せずにメープルシロップをたっぷり塗って口に入れた。つまり、メイベルはお腹がすいていたのである。
「おいしいわよ」
と言った。
それを聴いて、喜色を浮かべた。
「お口に合うて、ようおました」
「こんなにおいしいのなら後でお腹をこわしても仕方がないわ」
とメイベルは言った。結局、メイクハムは紅茶だけ飲んで、パタを口にしなかった。メイベルは少し非難するような目でメイクハムを見たが、何も言わなかった。しかし、それから一週間ほど麓《ふもと》から輸送がなかった。最後にはメイクハムもパタを食べざるを得なくなった。
メイベルは退屈していた。それがともすれば気怠《けだる》い振舞《ふるまい》として表に出る。メイクハムはしばしば窘《たしな》めた。
「ねえ、わたしも巡察に連れて行ってよ」
とメイベルは以前からしばしは頼んだが、メイクハムは首を縦に振らなかった。メイクハムには結婚早々に若い妻をこんな僻地《へきち》に伴《ともな》わねばならなくなった引け目がある。メイベルの無作法もその退屈すべき状況が原因であると思われる。そのうちに、
「わたしも一緒に巡察させていただきますからね。ハタナクナさんに聞いたけど、要するに散歩なんでしょ」
と言われて拒《こば》めなくなっていた。最低でも驢馬《ろば》に乗ることという条件をつけて許すことにした。もし、メイベルが徒歩であったら、草木のせいで足に傷がつき、泥で汚れるであろう。そぅいう配慮であったがメイベルは不服そうであった。巡察に出ると、行き違う村人たちの視線はメイベルに集まった。金髪で肌の色が妙に白っぽい、暑苦しそうな衣服をまとった異人の女が珍しいのである。メイクハムは妻への無遠慮な視線がどうも気に入らなかった。
「奥さん、勘弁しとくんなはれ。何分、田舎者ぞろいですよって」
メイベルは笑って頷いた。ハタナクナはカルカッタが長かったから、西洋人も見飽きている。
そんなある日、メイベルは道端に花を見つけた。メイクハムが止めるのも開かずに驢馬から降りると花を摘《つ》んだ。道をそれて林の中に入った。メイクハムはぶつぶつ言いながら立っている。その時、メイベルがきゃっと声を上げて膝をついた。メイクハムは驚いて林に入った。ハタナクナはメイクハム以上に慌《あわ》てて、顔色を変えてメイベルに駆け寄った。
「大丈夫よ。ちょっと転んだだけ」
見ると脛《すね》に血がにじんでいた。
「驢馬から降りるからそんなことになるんだ。すぐに家に戻って手当を」
とメイクハムは怒ったように言った。
「この位の傷、たいしたことないわよ」
「いや、手当をすべきだ。この地方にはどんな悪い黴菌《ばいきん》があるか分かったものではない」
するとハタナクナが、
「いや、旦那の言うとおりだす。手当したほうがよろし。膿《う》んだりしたら奥さんのきれいな足が台無しでっせ」
ハタナクナはしゃがんで何かの草の葉を何枚かちぎった。一枚を口に含んで、噛《か》んだ。
「この葉を傷に当てとけば、治りが早いんだす」
ハタナクナは口から葉を吐いて手に載《の》せた。
「おい、やめろ。そんなものを使うな。効くかどうかも分からん」
「効きます」
「だが」
「わてが噛んだのが気に入らんのやったら、旦那が噛んだらいい」
「…………」
メイクハムは葉を口に入れると噛んだ。ひどく苦かった。吐き出しそうになったがなんとか我慢した。噛み潰された葉をメイベルの傷に当て、ハンケチで縛った。メイベルは少し目をしかめた。
「しみるのか?」
「ええ、少し」
ハタナクナはメイベルの裾《すそ》をからげた姿をうっとりと見つめていた。
「しみるから効くんだす」
と言った。ハタナクナの言った通り、その葉はよく効いて、メイベルの怪我の跡は二三日で分からなくなった。メイベルは特効薬を発見したようにはしゃいだ。何度もその傷の跡をメイクハムに見せた。メイクハムは憮然としていた。
こういう事もあった。三人で村の外れを歩いていた。ここまでは村人も滅多に来ないに違いないと思われた。
「旦那、この先は行かん方がええ」
ハタナクナは妙な薄笑いを浮かべて言った。
「何故だ」
「あてはいいんですが、旦那はお堅い方ですから気に入らんと思います」
メイクハムはからかわれたように思い、むっとして進んだ。すぐにメイクハムはハタナクナの薄笑いの意味が分かった。
「ここは恋人の丘ですねん。けど不倫なことはしてまへん」
村の若い男女があちこちで抱き合って動いている。ここはそういう場所らしい。
「ま、旦那の国の社交場と同じですな」
とにやにや笑って言った。メイベルは住民のあっけらかんとした愛の風景を見せられて、顔を紅潮させている。メイクハムは激しいあえぎ声や睦言《むつごと》を遮《さえぎ》って、堅い表情で言った。
「行くぞ」
「やはり怒りましたなあ」
とハタナクナは品悪く笑った。
その夜、珍しくメイベルの方から交渉を求めてきた。最初はメイクハムは優しく応対した。
だが、メイベルの要求がひどく激しかったので慌ててしまった。やがて、辟易《へきえき》させられた。昼間の光景がメイベルを興奮させたのだろうか。メイクハムはまもなく五十に手が届く年齢であった。この夜から何度か、妻の若さというものを嫌というほど教えられることになり、次第にメイクハムは妻の要求を拒むようになった。メイベルは不満を募《つの》らせている様子だが、仕方がなかった。
日を経《へ》るごとにメイベルは生き生きとしてくるようであった。野性的な美しさを表すようになった。メイクハムはついて行けないものを感じることが多くなった。
ある日また裁判|沙汰《ざた》に遭遇した。
「何かしら」
「どうも、裁判があるようだすな」
「ああ、例の籤引きね。行ってみましょう、ね、あなた」
メイクハムが籤引き裁判を嫌い抜いていることを知っていた。しかし、メイベルは何も気にしていなかった。メイクハムは嫌な顔をして広場に向かった。
「ひゃあ。珍しいこってす。人が殺されたらしいですわ」
とハタナクナは本当に驚いたように言う。
「親父《おやじ》は人殺しは四十八年ぶりだと言うてます。わてが生まれるずっと前ですがな」
確かに、以前の鶏泥棒の時よりも村人は異常に興奮しているようである。ハタナクナは二人から離れて村人を捕まえて物を尋ねている。ハタナクナは分かったことをメイクハムに教えた。
ハタナクナによれば宗族《そうぞく》同士の感情の行き違いが動機らしい。犯人ははっきりしている。広場の隅でうなだれていた。ハタナクナが指さして見せた。
「なのに、籤を引いて赤の他人を犯人にしようと言うのか」
「違いま。前にも言いましたが、籤を引いた者が犯人なんだす」
「だが、それでは殺された者の遺族が納得するまい」
「納得も糞もありまへんがな。裁判は公正なものですさかい」
ハタナクナには自明の理であることだ。もちろん、村人にとっても当然なのだろう。メイクハムには信じられないような異常な論理と思われた。
「では、わても籤を引いてきます」
何しろ殺人である。ハタナクナもどこか緊張している。それでも足取りは軽く、やはり、祭りを楽しんでいるのである。
「面白そうね」
とメイベルが言った。不謹慎過ぎる言葉であった。
「馬鹿なことを言うものじゃない」
「そうかしら」
籤引きは順番に進んでいく。ハタナクナは胸を撫でおろしながら戻ってきた。
「どきどきしましたわ。何しろ人殺しですからな」
「外れたの?」
「はあ。なんかこうほっとしたような、残念なような。変な気分ですな」
「分かるような気がするわ」
「ほんまでっか。奥さん話が分かりまんな。どうだす、まだ籤は続いてまっさかい、一本引いてきたら」
「下らないことを言うな」
メイクハムが吐き捨てた。やがて、犯人が決まった。中年の女であった。抱いていた赤ん坊を他人に預けると、手を振った。女は喝采《かっさい》を浴びながら、道化《どうけ》た動作で踊って見せた。今度は刑罰の籤を引く。
「私には分からない。あの女、乳飲《ちの》み児《ご》を抱えているじゃないか。死刑にでもなったら子供はどうなる」
「心配要りません。子供には罪はありませんからな」
メイクハムは、当り前だ、と胸の中で怒鳴った。村の俗《ぞく》に関してはハタナクナは未開の論理を平然と許容している。仮にも文明を知っている男であるのにもかかわらずである。
女の刑罰が決まった。
「髪を切り落とされるようでんな」
「それだけか?」
「かわいそうに。髪を切るいうんは女にとって最大の辱《はずかし》めですよって」
「馬鹿な。殺人の罪がそんなに軽くて済んでいい道理があるか。あの女は死刑に……」
メイクハムは黙ってしまった。あの女は犯人ではないのである。あの女が死刑の籤を引き当てたとしても、メイクハムは結局納得することはできないのである。メイクハムは救いを求めるようにメイベルを見た。メイベルもこの不条理に憤慨してくれると思っていた。メイベルはベつに憤慨していなかった。広場の隅で泣いている真犯人の男を見ていた。あの男も籤を引いたが、犯人を引き当てられなかった。無罪である。
「あの人、ずっと辛《つら》いでしょうね」
とメイベルは言った。
「あんなに泣いて。あの人は自分で籤を引き当てたかったのよ。その方が楽だから」
「わてもそう思います……。セタカもピエも仕打ちがむごうおます」
とハタナクナは言った。
「そんなはずがあるか!」
突然、メイクハムは大声を出した。
「この馬鹿げた風習自体が悪いんじゃないか!」
「旦那、どうしようもないことは世の中、なんぼもあるもんだす」
「違う」
そんな意味ではない、と言いたかった。しかし、メイクハムにもこの村が別の理屈で成り立っていることが分かる。そして、それは奇妙にもメイクハムには訂正することができない。それどころか、触ることすらできそうになかったのである。
「あなた、顔色が悪いわ。帰って休んだ方がいいみたい」
メイクハムはその言葉も正しいとは思わなかったが、頷くしかなかった。ただ、一つ訊いた。
「お前はあれでいいのか?」
「どういうこと?」
「いや、いいよ。帰ろう」
それから後は何も起こらない平穏《へいおん》な日々が任期の終了まで続くはずであった。いつの頃からかメイクハムはメイベルに疑いを抱くようになっていた。メイベルは夜、求めることがほとんどなくなった。さらに、ベッドを別の部屋に移したいと言い、メイクハムの意見も聞かずに寝室を別にしてしまった。メイクハムは妻が村の誰かと通じているという疑いを捨て切れなくなっていた。それとなくハタナクナに尋ねたが、とぼけられてしまった。考えてみれば不貞の相手はこの男かもしれないのである。メイクハムは随分前から妻とハタナクナの気安い態度が気にかかっていた。
夜明けである。ハタナクナは熟睡していた。妻が揺り起こしているのにやっと気が付いた。
「どうしたね」
とハタナクナは妻に訊いた。妻が話さなくてもすぐに分かった。
「やれやれ。どうしたんだろう」
ハタナクナは身を起こすとズボンに足を入れた。外にメイクハムの小間使の娘が立っているのである。ハタナクナの家は村では当り前の小屋である。ただ、書物が雑然と転がっているところが、他の家との違いである。
「なんぞあったんか」
とハタナクナは小間使に訊いた。月明かりで顔がよく見えた。ひどく緊張した顔をしている。
「ハタナクナさんを早く呼んで来いと言われました」
「旦那がかい?」
「は、はい」
「とにかく、行こか」
ハタナクナは悪い予感に襲われた。娘の顔が青かった。まずい事件が起きたのは間違いない。
まったく、あの旦那ときたら……とハタナクナは毒づいた。
悪い予感は的中した。しかも、ハタナクナの目の前が真っ暗になるほどの最悪事であった。ランプの灯の下で、メイクハムが幽霊のように見えた。その足元に、メイベルが眠っていた。
すでに大量の血液が床を這《は》っている。
「何があったんだす……」
メイクハムはのろのろと床を指さした――そこには例の拳銃が落ちていた。
「旦那が奥さんを撃ったんでっか。どないでんねん!」
ハタナクナは怒鳴るように言った。
「そうだ。私が、殺した」
「わけは何だすか」
「メイベルは姦通《かんつう》を犯していた。村の若い男だ」
「…………」
「知っていたんだな!」
「旦那だって知ってはったんでっしゃろ。せやけど撃ち殺さいでも。それで相手の男は」
「逃げた。弾は当ったようだが……。私だって殺す気はなかった。今夜、夜中《上なか》目が覚めて、あれの声が聞こえて、私はどうにも耐えられなくなった」
メイベルは目を開けたまま、右腕を身体の横に伸ばして眠っている。メイベルは眠る時は髪をおろすのだろう。長い髪がばあっと散っている。ハタナクナの心裡に憎悪が生まれてきた。
「人の女房を寝取るんは罪だす。相手の男は撃たれ損ですな。それより、あんさんどうしまっか」
「むろん、私は裁きを受けることになるだろう」
メイクハムは床に膝をついた。心底から後悔し恐れていることだけは分かった。
「違います。ここの村の裁判だす。旦那と奥さんは異人ですが、村で事件が起きたからには村で裁判せなあきまへん」
「そんなことはしないでいい。私は自首して正当な裁判を受ける。こんな所で、籤引きなどで恥をかかせないでくれ」
「そうはいきまへん。何しろ掟《おきて》だす。是が非でも裁判は行われます」
「……。つまり、私の代わりに、籤を引いたこの村の者が妻殺しのかどで裁かれるということになるのだな」
「へい。なんともなりまへんな。なにせ、この土地で起きた犯罪を裁くのを怠《おこた》ったら、たちまちセタカとピエが村を滅ぼすことになってますさかいに」
メイクハムはぞっとした。心底嫌っている籤引き裁判で、自分ではなく他のここの住民が裁かれるのである。メイベルを心ならずも殺してしまったことはあくまで自分の罪なのである。
それを無知蒙昧《むちもうまい》の連中が勝手に裁いて自足しようというのである。メイクハムは全身に泥を塗り着けられるような不快感を味わった。それだけは許容できなかった。メイクハムの論理では裁かれるのはメイクハム自身でなければならないのである。
メイクハムは考えた末に言った。
「それなら、頼みがある。私にも籤を引かせてくれ。そして、私が犯人の籤を引き当てるのだ。刑罰は追放にでもしてくれ。不快な事だが、この事で村の誰かが裁かれるよりはましだ。追放された後、私はカルカッタで正式な裁判を受けることにする」
「つまり、わてにインチキ細工をせい言うんでっか」
「頼む……。私にはそれくらいしか思いつかない」
「へっ、皮肉でんな。旦那が籤を引きたいやなんて。しかも、公正じゃない籤をやる言うんでっさかい」
ハタナクナはしばらくメイクハムの姿を見ていた。やがて言った。
「分かりました。何とかしてみまひょ。それより、奥さんをベッドにでも移したらどないです。床に転がしとっていい人と違いますやろ。旦那がやらんのやったらわてがやりまっせ」
「君は触るな。私がやる……」
「そうでっか。ではわては失礼さしてもらいます。今日の昼頃また来ます」
ハタナクナは玄関を出る時、
「阿呆な男や」
と|呟《つぶや》いた。
メイベルの事件は村人の知るところとなり、裁判が開かれることになった。村人は興奮している。ついこの前(と言っても半年以上前である)、人殺しが起きたばかりである。あまりの犯罪の多発ぶりに、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないのである。
「ええですか、旦那、どの籤を引いてもよろしおます。引いたらすぐわてに渡しなはれ。すり変えますよって」
「うむ」
メイクハムは広場にいた。ハタナクナがこの異人も籤を引くと伝えた。村長は鷹揚《おうよう》に無言で許した。また、巫女《みこ》がやってきた。村人たちは一列に並んだ。メイクハムは最初の方に素早く立った。後ろにハタナクナがいる。すぐにメイクハムの番になった。ちらとハタナクナを見ると、一本を引いた。素早くハタナクナに渡した。ハタナクナは印を調べてやっている振りをしながら、あらかじめ持っていた後とすり変えた。声を上げてそれを巫女に示した。巫女が村長に何か言った。村人が歓声を上げた。
「当りだす。旦那、皆に挨拶《あいさつ》しなはれ」
メイクハムは黙って手を上げて見せた。
「旦那、もちっと陽気にでけまへんのか。無理は言いまへんが」
メイクハムはハタナクナを睨《にら》みつけた。ハタナクナは知らん顔をしている。
「次は罰だす。おんなじようにわてに渡しなはれ」
「下らないことだ」
メイクハムは村人の見守る中、刑罰の籤の束から一本を抜いた。ハタナクナに渡した。ハタナクナは一瞥《いちべつ》しただけですり変えなかった。そのまま巫女に渡した。巫女が大声で叫んだ。
「追放か。とんだ茶番だな」
とメイクハムは吐き捨てた。
「旦那、まことにすんまへん。じつはわて刑罰の籤のすり変えるやつを家に忘れてきましてん。旦那が引いたのをそのまんま渡しました。旦那は死刑だす。それも逆《さか》さ吊りのまま日照り殺しにします。それでも追放よりは軽い刑なんでっせ」
メイクハムは顔色を変えた。ハタナクナに掴《つか》みかかろうとした。ハタナクナは首を振った。
メイクハムは村の若者に取り押さえられ、縛られた。メイクハムは間違いであること、ハタナクナと自分の仕組んだものであるということを叫び続けた。無駄であった。メイクハムが叫んでいる言葉の意味が分かっているのはハタナクナだけなのである。ハタナクナは薄笑いを浮かべている。
「旦那もここの言葉を勉強すればよかったですな。奥さんやったら、きちんと説明できてまっせ。旦那が籤引きなんて、心にも無いことをするさかいそんなことになりますのや」
メイクハムは暴れた。殴られたり蹴られたりしながら村の外れの刑場まで運ばれた。これは神事であり娯楽なのである。村人は楽しそうにメイクハムを逆さに吊った。
一日が過ぎ、二日が過ぎた。メイクハムは飢えと渇きのため、意識が朦朧《もうろう》としていた。もはや、ハタナクナに対する呪いの念も蒸発している。あとは死ぬだけだと思った。夜であった。
メイクハムが目を開けると目の前に人がいた。目の焦点を努力して合わせて、見た。ハタナクナが立っていた。ハタナクナの耳慣れた怪しい英語が聞こえてきた。
「わてはな、怒っておりますのや。今やから言いまっけど、わても奥さんとできてましたんや。あてはあんさんの奥さんにほんまに惚れてましたんや。見てくれも心もきれいな人やった。けったいな女やったけど、あんさんよりはずーっとマシですがな。奥さんは、何より、わてや村の者を馬鹿にせず見てくれましたし、放っといてくれた。分け隔《へだ》てせえへんかった。おのれが余所者《上そもん》やと心得てはったんですな。旦那がもっと大事にしておれば奥さんかてわてらと付き合うたりせんかったはずや。もし、わてが旦那やったら知らん振りをしておいて任期の終わりを待ったでしょうが、それをあんたは殺してまいよった。わては泣きましたで。せやから、こうしてあんさんをハメました。セタカとピエに罰を当てられるんは覚悟のうえだす」
メイクハムは口をぱくぱくさせただけであった。渇きのため話す気力も無くなりかけている。
突然、衝撃を感じた。吊されていたロープをハタナクナが切ったのである。ハタナクナは腕の縄も切ってくれた。そして、水筒をメイクハムの横に放った。メイクハムは不審の色の浮かんだ目をハタナクナに向けた。
「はよ行きなはれ。あんたはこの土地の者やなかった。籤を引く資格もそもそもなかったんだす。つまり、わてらから見て餓鬼《がき》でんな。何も分からん餓鬼を殺してもしゃあない。わてらはあんたらよりもよほど大人ですからな。大人げない真似はようしませんのや」
月が雲間に隠れてあたりが暗くなった。再び月明かりが周囲を照らした時、ハタナクナの姿は消えていた。
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虐待者たち
目の前が暗くなるほどであった。しばらくは口もきけなかった。多分、いま私は恐い顔をしているだろう。怒りもとうに飛び越してしまった変な脱力感がある。現実を踏み越えてしまって、異様な幻想の世界に入り込んでしまったような、心許《こころもと》なさがじわじわと湧き起こってきた。
私の横では今年幼稚園に上がったばかりの娘の理恵子《りえこ》が泣きじゃくっている。
「ミヤ、かわいそうに、かわいそうに」
と何度も私に訴えるように言った。私には理恵子を慰《なぐさ》める余裕がなかった。私自身が泣き出したいような状態だった。
発泡スチロールの箱の中でミヤがか細い声を出していた。死ぬかもしれない、と私は覚悟している。ミヤの姿は無惨《むざん》だった。ミヤはもともと野良猫だったが、とてもきれいな姿をしていた。そのへんの外国猫など足元にも及ばないような優美な線を持っていた。まさに貴婦人であった。
それが今はどうだ。
ミヤは前足の爪を全部折り取られていた。ペンチで無造作にやったに違いない。潰《つぷ》れている指もあった。艶《つや》のあった毛並みは毟《むし》られ、刈《か》られていた。地肌にマジックペンで嫌らしい落書きをされていた。今はもう外《はず》したが後ろ足は針金でぎりぎりに縛られていたので、硬直してしまっている。ミヤが命からがらに家へ這《は》い込んで来た時には頭から尻尾《しっぽ》にかけて強力なガムテープが貼《は》られていた。痛々しくてしばらく剥《は》がすことができなかった。ミヤはそんな姿でその凌辱《りょうじょく》を受けた現場を逃げ出し、ここまで這いずって来た。逃げ出したのではなくて犯人がわざと放したのかもしれない。動かない体を命がけで動かすミヤの執念を滑稽《こっけい》と見て笑うためにミヤは誇り高い猫である。そんな姿をさらすくらいなら死んだ方がましだと思ったかもしれない。夜だったのがミヤには幸いだった。辱《はずかし》められた姿をあまり見られずにすんだ。私は暗い路上を遅々として進むミヤの哀れな姿を思った。理恵子のように声を上げて泣きたかった。
妻の洋子《ようこ》が、電話口から戻ってきて、
「西村先生、いいって。はやく連れていってあげて」
と言った。洋子も顔が蒼《あお》かった。無理もない。
西村というのは家から一番近い獣医である。もうとっくに診療時間は終わっているが、今|診《み》てもらわねばミヤは確実に死んでしまう。私は頷《うなず》くと、箱ごとミヤを抱えた。
「りえこもいく」
と娘も立った。
「理恵子はもう遅い」
と私は言ったが、理恵子の目の真剣さに圧《お》されそうになった。
「だめでしょ、りえちゃん。明日も幼稚園でしょ。もう寝なきゃ」
と洋子は膝《ひざ》をついて言った。
「だってミヤが、ミヤが」
「理恵子、ミヤは大丈夫だよ。パパがつきっきりで看病する。明日の朝にはきっと元気になっているよ」
私はそう言った。しかし、理恵子は駄々《だだ》をこねた。私のズボンのすそを掴《つか》んで放さなかった。わたしはこんなことを言いたくはなかったが仕方なく言わねばならなかった。
「理恵子が言うことをきかないとミヤは死んじゃうぞ、それでもいいのか」
多感な時代にある理恵子は私よりも深く傷ついているだろう。理恵子は私をきっとにらんだ。また、泣き始めた。洋子は理恵子を抱きかかえて寝室に連れて入った。
西村病院に着いた時はもう十一時を過ぎていた。私はブザーを押し続け、インターホンに言った。
「先ほどお願いした江藤ですが」
ようやく西村獣医が現れた。晩酌《ばんしゃく》も終わってのんびりしていたのだろうが、妻の電話を断れなかったのだ。不機嫌な表情をなんとか隠そうとしている。
「どうしました」
と西村は言った。
「すみません。こんな遅くに……」
「まあ、とにかく上がって。患者さんはその箱の中ですか」
私は診察室に通された。西村は箱の中で細い息をしているミヤを見ると、こわばった顔になった。
「ひどいことを……」
西村は、そろそろとやさしく、毛布を敷いた診察台の上にミヤを移した。薬棚へゆき、慣れた手つきでアンプルをへし折り、注射器に吸わせる。ミヤの臀《しり》のあたりに針を刺した。私は自分が注射をされたように臀のあたりにチクリとした感触を得た。西村はときどき、なんてことを、ひどいね、こんなことする奴は畜生だよ、馬鹿野郎、などと罵《ののし》りながら、素早く処置をした。無力な私はそばの丸椅子に掛けてぼんやりとそれを見ていた。瞼《まぶた》に涙が溜っているのに気が付いて、ハンカチを出して拭う。
「大分、弱ってるなア。二、三日預けてってくださいよ」
命の保証はできかねると西村は暗《あん》に言っているようだ。
「お願いします」
私は頭を下げた。
「子供の悪戯《いたずら》にしても度が過ぎる。まったくとんでもない」
「これがはじめてじゃないんです」
と私は言った。
「二度目です。最初のときは、半年くらい前でした。急にいなくなって二三日帰ってこなかった。戻ってきたときには尻尾の毛を切られていて、ひどい傷があった。それでも死ぬほどの傷ではなかったので軟膏《なんこう》を塗って。腹は立ちましたが、そのままにしてしまった。でも今度はもう……」
西村は煙草に火をつけた。
「お宅だけのことではないんですよ。この頃はこういうおかしな怪我《けが》をしたペットがたまに運ばれてくる。犬にしても猫にしても相当ひどい悪戯をされててね。誰がやるんだか」
「ミヤがもし助かったら。助かっても、外には出したくありません。だからといって家に閉じ込めるなんてことも僕にはできません」・
「許せんことですよ、本当に」
「許さないつもりです」
と私は言った。
私は警察に電話をしてみたが、ペットの苦情の責任者というのはいなかった。保健所に回されそうになった。詳しい理由をいうと、住民苦情係的な人間が出てきた。
「申し訳ないですが、速《すみ》やかな対応はできかねますねえ」
と相手は言った。ペットに対する残虐行為は刑法では器物損壊という罪にあたるという。つまり、ペットへの傷害は他人の所有物への加害ということで、これは生き物を物品扱いすることである。私はそこでかちんときた。
「お宅の猫を傷つけた犯人がはっきりしているというのなら、一応、調査はしますがね。近所の誰かの悪戯というだけではどうにもしようがないですな」
「しかし、悪質すぎるじゃないですか」
「まあ。しかしですね、犯人は近所の小学生か何かだとは思いますが、警察にできるのはその子への注意と親への厳重注意くらいなものでしてね。それ以上はね。お宅が裁判にでもするというのなら、話は別ですがね。まあ、そういうことなんですよ。パトロールに気を付けるよう指示は出しておきますので、そこのところをご理解いただきたいと思いますよ」
私は受話器を叩きつけるようにして電話を切った。
無力な猫を捕まえて残虐な悪戯をする。こんな邪悪なことが許されていいはずがない。犯人は複数で、猫を押さえつけ、げらげら笑いながら猫に傷を入れていく。猫は火が付いたように暴れて哭《な》くのだけれど、犯人たちは何も感じないのだ。さらに凶悪ないじめを次々に考え出し、施してゆくのだ。無抵抗の動物をいたぶるのに何の痛みも感じない冷血な虐待者たち。私をそういう妄想というか悪夢が、会社にいる時でも、家でも、眠っている時でも襲ってきた。私は不眠がつづき、食欲が落ちた。私を妻が心配そうに見ている。
やがて、私は決心した。それが本当に現実を越えて、幻想の世界に踏み込むことへの決心となるのに気付いたのはしばらく後のことである。私は境界を踏み越えた。私の周囲もまた変貌した。だが、その変貌はごく自然なものであった。都会のごみごみした街から、自然にあふれた田舎へ急にゆくと空気の肌触りの感触が変わったような気がする。対応して自分自身の感覚も変わるような気がする。変貌というほどのことではないが、現実から幻想へ入ることはそれに似ていた。
娘の理恵子は暗い顔付きをしている。本来、口数の多い明るい娘であった。それがこんなに暗い顔をしている。私は、つい、考えていた決心を口に出した。
「理恵子、パパはミヤの仇《かたき》を討つことにしたよ。だから元気出して」
途端に、理恵子の顔がぱっと明るくなった。発光したかのような錯覚をおぼえたほどだ。
「本当? きっとよ。ミヤをいじめたやつを、同じ目に会わせてよ。きっとよ」
(へえ……)
私はその娘の顔にみとれていた。復讐《ふくしゅう》の女神の姿はあどけなく、純粋そうで、愛らしいと聞く。ただ、その性情は残忍刻薄であるという。今の理恵子は復讐の女神が化けているのかもしれない。
別に周囲にあるものが変化したわけではない。私はいつもと同じように朝食を取り、理恵子に行ってらっしゃいのキスをもらい、妻に弁当を渡されて会社に向かった。一時間半の電車通勤の後、十五階建てのビルの自動ドアをくぐる。私の職場はその七階にある。上司の柳瀬《やなせ》課長とは仕事の上でもプライベートでもよい関係を保っていた。なにしろ、洋子は柳瀬課長の姪《めい》であり、結婚式の仲人でもあった。
「よう、江藤ちゃん、今朝は顔色がいいじゃないか。よかったよ、君が冴《さ》えないとウチの課もいまひとつだからな」
と柳瀬は言った。半分は世辞だろうし、部下を乗せる術だろう。だが半分はそうではないはずだ。私は自分の仕事の能力に自信を持っているし、柳瀬はその私を信頼してくれている。昨日までの私はそんなに冴えない、暗い顔をしていたのだろうか。おそらくしていたのだろう。
私はここ二日ばかりの仕事の記憶がはっきりしない。心ここに無かったのであろう。
「お早うございます。じつはちょっとお話があるんです」
「話か、いいよ。仕事の事か」
「いいえ、私事です」
「そうか、じゃ、後で下の喫茶店で聞こう」
私は机に戻って、仕事の点検にかかった。今日中に整理しておきたい。
午前十時半であったから、喫茶店の客はまばらであった。私は柳瀬に肩を叩かれて、慌《あわ》ててついていった。
「ふうん、またウェイトレスが変わったようだな」
と柳瀬は水とお絞りを置いていった女の子を見て言った。
「言うなよ。いつも来てるというわけじゃないぞ」
柳瀬はさあ聞こうかという顔をした。
「今日限りで会社を辞《や》めたいんです。辞表はまだ書いてないですが。申し訳ありません」
私は頭をテーブルに着くほど下げた。
「急だな」
と柳瀬はぽつりと言った。
「事情を聞きたいね」
きつい目になった。当然である。私は包み隠さずミヤの件を話した。そして、
「復讐をしたいんです。こればかりはやらねばなりません。やらなかったら僕は一生後悔するでしょう。すみません」
私は柳瀬に軽蔑《けいべつ》されるか、怒鳴られるか、変な目で見られるか、覚悟していた。柳瀬は腕を組んで考えている。
「申し訳ありません」
私はもう一度言った。
「辞めることはないんじゃないか」
「……?」
「復讐というのは一生かかることでもないだろう。とりあえず三か月、病気休暇だな。君がここのところ不調だったのはみんなが知っている」
「いえ、病気ではありません。僕は」
「まあな、この付近を大手《おおで》を振って歩かれたら困るが。悪いことは言わん、病気にしとけ。君に辞められたら困るよ、社としても、おれとしても。あてにしてるんだからな」
柳瀬はしょうがないという顔で苦笑している。|利《き》かん気の弟に対するような表情である。私は何も言えなくなった。心から感謝した。
「三か月くらいにしてくれよ。な、江藤ちゃん」
運ばれてきた紅茶をすすりながら、柳瀬は言った。私の身裡《みうち》を例の幻想の風が吹き抜けるような気がした。現実ならこうはいかないんじゃないか、と私の心の一部が批判したからであろう。
「ああ、そうだ。少しは力になれるかもしれない」
と柳瀬は言って、しばらく探した後、財布から名刺を一枚抜き取って渡してくれた。
「その男に会ってみるといい。変な男ではないよ。学生時代の友人だ。もっとも十年は会ってないけど」
「有難うございます」
私は不覚にも涙をこみあげさせていた。柳瀬の好意に応えるためにも、私はやらねばならない。
私はその日は午後十時まで残って、残務整理を終えた。無責任なことはしたくなかった。
私は帰宅すると洋子にいきさつを話した。洋子は何の批判もせず、頷いた。私はこのことにも、おや、と思った。洋子は結婚したあと分かったのだが、非常に理屈っぽく、批判がましい女だった。付き合っていた頃から、その傾向はあったが、それは理知的な精神のあらわれとして好ましかった。しかし、家庭に入ってみると、それは理知的でも何でもない、保守的な主婦の繰《く》り言《ごと》に堕《だ》していた。洋子は変わったことや新しいことにはとりあえず勝手な理屈をつけて批判を加える。それが賢いことだと誤解しているようであった。それはいい、そのために私が洋子を嫌っているということはない。ただ、洋子に相談もせず会社を休むことになったことで必ずや夫婦喧嘩に近い口論になるだろうと予想していたのである。やむを得ないこととはいえ、洋子と口論するのは気が重いことだった。それがすかされたような気分になった。
「いいのか」
と私は洋子に確認してみた。
「あなただけじゃないのよ。わたしだってミヤのことでは悔《くや》しくって悲しくって、どうしようもなかったのよ。あなたがそう言い出さなかったらわたしが代わりに復讐をはじめたかもしれない」
洋子はそう言った。
私はその夜、何度も洋子を求めた。明日から長い休暇になるはずだ。早朝に起きることもないということもあった。それよりも、私は洋子を激しく抱くことで確認したかった。今の自分がどのくらい現実に関わっているのかをである。洋子の身体は、少なくとも現実であった。触れば熱く反応する。心地好い肉の重さがある。膚《はだ》には慣れ親しんだ香りと湿り気がある。洋子の肉体が現実なら私の肉体も現実で有り得るだろう。決して夢の中のことではないと分かる。だが、もう薄明かりが窓のカーテンに映える頃、隣で寝息をたてている洋子を見る限りにおいては、それも蒋明かりのようにどこかそらぞらしかった。
四日目である。まだミヤは生き延びていた。私は西村獣医に礼を言った。
「ミヤちゃんは強いですよ。この分なら助かるかもしれない」
と西村は言った。動物たちの病棟は診察室の隣にあった。私はミヤの箱を覗《のぞ》いてみた。ミヤは私に気が付いて、声を出そうとした。ミヤはかすかに口を開いたが、か細い声すら出なかった。しかし、目だけは強く光っていた。その目は、復讐して、と訴えており、今にも血の涙を流しそうなほどであった。
「ミヤはね、野良猫だったんですよ。うちの娘がどこかから拾ってきたんです。最初は叱《しか》って捨ててくるように言いましたよ。うちの家内が嫌がるんでね。家内は動物の毛にアレルギーがあるんです。娘は捨てに行けませんでした。うちから五十メートル位のところに置いてくるんです。ミヤはすぐに戻ってきましたよ。娘は、何度も同じことして……」
「ああ、私にも経験がありますよ。子供の頃よく捨て犬や捨て猫を拾ってきて、親に叱られたなあ」
「僕もです。結局、飼うことにしたんです。僕が飼うと決めたんです。ミヤを見たら、手放したくなくなってきた。家内も、ミヤにはなぜかアレルギーを起こさなかった。もう一年前のことですよ。ミヤは本当にきれいな猫になった。家内もミヤを気にいっています」
「ミヤというのはどうしてつけたんですか」
「娘がつけたんですよ。お宮で拾ったからミヤらしいですよ」
私は帰り際に、言った。
「私はミヤの仇を討ちます」
西村は目を細めた。
「それはいい。ぜひやるべきです。お手伝いできることがあれば言ってください」
「有難うございます」
私はもはや現実のどうのと、余計なことを考えるのはやめることにした。ミヤの仇さえ討てれば、気が狂ったって構いはしないと思った。
いざ、調査をはじめると、事はなかなか困難だった。私は、自分の甘さを思い知った。とりあえず、近所でそれらしい悪戯をする子供を探したりした。下校する子供を捕まえて情報を得ようとした。しかし、結果はおもわしくない。いい大人が昼間から、猫いじめの調査をするのである。子供も警戒してあまり答えてくれない。そのうちに近所の主婦にも見咎《みとが》められるようになった。物騒な世の中である。怪しまれて当然であった。警察に通報されでもしたら大変だ。
次は、町内のペット好きを回って、同じような被害を受けたことがないかを尋《たヂ》ねてみる。昼間から他人のうちに押しかけるのは、セールスマンにでもなったようで、気が引ける。それを押して尋ねて回った。何軒目かに、ペットを惨殺された老婆に会うことができた。手口は似ていた。思いつきの悪戯を際限無くやられて放り出された猫は、家の玄関の前まで辿《たど》り着いて衰弱死していたという。家人の話だと老婆は、相当なショックを受けてしばらく寝込んでしまい、床を離れたもののぼけたような状態が続いているという。
「ですから、お会いになっても、ねえ。セツがあんなことになっちゃってから、婆ちゃん何も話さなくなってて」
とその家の主婦は言った。その猫はセツという名前だったらしい。私は挨拶《あいさつ》だけはしようと思い、縁側に通してもらった。庭から声を掛けた。老婆は部星の真ん中に茫然と座っているだけである。愛猫を殺されたショックの後遺症だろう。犯人どもは間接的にこの老婆の精神まで犯したのである。とても他人事とは思えなかった。私は小声で言った。
「おばあちゃん、セツちゃんの仇も討ってあげますよ。待っていてくださいね」
小声だったのでとても老婆の耳には届くまいと思われたが、老婆は途端に、反応をしめした。私のほうが一瞬、ぎょっとした。老婆はすっと私の方を向くと、正座をしなおした。そして、深々とお辞儀した。
「あんたを待ってた。どうかセツの仇を、よろしゅうお願いします」
顔を上げたときはもうぼけたような目はしていなかった。主婦に向かって、
「あれを出し、あれを出しい」
と箪笥《たんす》を指差して言う。主婦は老婆の変貌に驚いている。叱られながら箪笥の引き出しを開けて奥から箱を取った。「あれ」が何を指すのか分かっているようである。
「あんた、これ使い。これ使ってね」
老婆が箱から出したのは軍刀であった。
「うちの人もセツを可愛がっとった。あの人も今頃はあの世で腹を立てとる。これで刺しいて」
よく磨かれた刀である。私の知識ではいわゆる銃剣というものであろう。歩兵銃の先に装着して使用するものである。私が困惑して主婦を見ると、
「おじいちゃんの形見です。去年に亡《な》くなりました」
と言った。主婦も困惑《こんわく》の表情を浮かべている。さすがにそんな物を受け取るわけにはいかなかったので辞退に辞退を重ねた。
「おばあちゃん、心配しないでください。必ず仇は討ちますから。せっかくの形見の品を犯人の汚い血でよごしてはつまりませんよ」
「へえ、へえ。そいでも、あんた」
私は主婦に目礼すると老婆に手を振って、外に出た。
しかし、どうやって私のうちの住所を調べたのか、三日後に私の家に宅急便が送られてきた。
それには例の軍刀と老婆の手になるだろう達筆の書状が入っていた。
依然として私の捜査には進展がなかった。理恵子は、毎日私が戻ると、
「パパ、仇をとった?」
と訊《き》いた。私は、恥じ入るような気分になった。聞き込み捜査は行き詰まってしまっている。
「ごめんな。今日も駄目だったよ」
すると、理恵子は怨《えん》ずるような目で私をにらんだ。湿った恨《うら》みのこもった、色っぽい目に見えた。
「だめな人」
一瞬あっけにとられた。幼稚園の娘の目つきではなかった。理恵子はぷいと顔をそむけてテレビの前に行ってしまった。私はしばらく動悸《どうき》が収まらなかった。
「復讐の女神か……」
テレビのアニメに笑い転げている娘にはもうさっきの様子の片鱗《へんりん》も見えなかった。
万策尽きた思いになった。
私が風呂から上がると、理恵子が私の財布を悪戯していた。
「だめだろ。お金を玩具《おもちや》にしちゃ」
と私は財布を取り上げた。その拍子に名刺が一枚落ちた。理恵子はそれを拾って、
「はい」
と言って渡した。見てみると、休職願いを出した日に柳瀬にもらった名刺であった。役に立つかもしれないと柳瀬は言っていた。不思議なことに今の今まで忘れていた。私ははっとして理恵子を見た。そこにはもういなかった。理恵子と同じぐらいの大きさの熊のぬいぐるみに抱きついて、格闘している。無邪気な姿があるだけである。私はちょっと首を振った。
(理恵子はまあいい。単なる妄想だ。それよりこの名刺だ)
『柴坂信二』とある。肩書きはない。よくよく調べてみると探偵社のようでもある。
「興信所か?」
私はだが理恵子がその名刺を渡した瞬間に、訪ねてみることを決めていたことに気が付いた。
事務所はすぐ見つかった。通行人に道を訊くと、パチンコ屋の建物にあると言われた。場所は私の会社の駅の二駅手前で降りた所である。中程度の繁華街になっており、バー、スナックなどが雑然と立っている。奥へ踏み込めば風俗営業店もあるようだ。私はこの辺で飲んだことは一度あるだけであるから、ほとんど知らないのと同じである。
パチンコ屋の二階は従業員のための設備になっている。柴坂事務所は三階である。非常階段としか呼びようがない階段を上がる。玉の弾《はじ》ける音と景気のいい音楽が体に響いてくる。ひょっとすると、やくざではないだろうな、と私は疑った。この建物の周辺の柄はあまりよくなかった。だが、柳瀬の友人がやくざとは考えにくい。思い切って中に入った。予想通りの汚い事務所だったが、予想以上に広くはあった。部星の半分は使用されていないようだ。モップとバケツが転がっている。私は机に座って、スポーツ新聞を読んでいる男に声を掛けた。とくに崩れたような印象はない。ノーネクタイでシャツのボタンを三つも外している。
「柴坂さんですか、あの」
「なんだい、あんた。セールスか」
私は名刺を見せて自己紹介し、柳瀬の紹介だと話した。
「柳瀬、へえ、なつかしいね」
と男、柴坂は言った。
「柳瀬の部下なら、素人だよな」
「まあ」
やはり柴坂は私たちとは別種の雰囲気を持っている。この街にあった、雑然として、危険そうな雰囲気である。私には、ミヤの件ではあてにできるような人間ではないと、瞬間的に分かった。
「江藤さんですか。そうだな、なんかトラブルでも? こっちの筋でさ」
と小指を立てて曲げて見せた。
「いいえ、そういうのではないんです」
柴坂事務所の仕事というのは、どうも、水商売、暴力団がらみのトラブルの調停といったところらしい。確かに、柴坂はそういうトラブルにならたいへん役に立ちそうである。
とにかく、私は|経緯《けいい》を話してみることにした。柴坂は安そうなソファーセットに私を座らせて、話を聞いている。柴坂の顔はにやにやしたり、驚いたような顔になったり、常に変化をやめなかった。そのうち、だんだんと不機嫌な表情に固定していった。
ガチャリとドアを開けて、初老の男が入ってきた。私を見ると、
「お客さんか」
と呟《つぶや》いて、机の方に掛けた。いつもはソファーが彼の居場所なのだろう。懐《ふところ》から札を出して数えている所を見ると下のパチンコ屋で遊んでいたのだろう。私はその初老の男が変に気になって、ちらちらと目をやりながら話しを続けた。
「その手の話は、うちには関係なさそうだなあ」
と柴坂は言った。私を軽蔑したような目で見ている。ペットの仇討ちなどという話をまともにしていないのは明らかである。頬《ほ》っぺたを掻きながら言った。
「たかが、猫だろ」
私はむっとした。
「大きな声じゃ言えないがね、うちに来る客はもっとひどいよ。例えば、ホステスで子連れなんだけど、そいつが子供を殴《なぐ》るんだよ。煙草の火を尻に押しつけたりしてな、子供は一度なんかはショック症状を起こして、救急車で運ばれていったしな。児童虐待とか言って、今、問題になってるだろう。あれさ。それで、そのホステスの亭主がここに相談しにきたわけだ。亭主はこのあたりじゃ羽振りのいいコレなんだがね、人を殴るなんざ庇《へ》とも思わない男が、ホステスの子供いじめにだけは心底震え上がってるんだ。そのへんは面白いな。相手が子供じゃなかったら平気らしいんだけどね。結局、相談には乗れなかった。難しい問題だからね、おれの手には余る。そういうのから見れば、犬なり猫なりをいじめてた方がよほど始末がいいよなあ」
と柴坂は言って、嫌らしい笑い方をした。取りようによっては、
(おれはあんたみたいな幻想かぶれじゃなくて、あくまで現実を相手にしてるんだよ)
と言っているようでもある。こういう反応のほうがあるいは正しいのかも知れない。
「ま、柳瀬の紹介だけど、ペットの仇を探すなんてのはお断りするよ」
「わかりました」
私は、ソファーを立った。その時、机の方から声がかかった。
「信二、つれなさすぎるな」
初老の男である。
「しょうがねえだろ」
「まあ、あんた、こっちに来なさい。面白い話だった」
私は柴坂に誰なんですか、と訊いた。
「おれの親父《おやじ》だよ。もともとこの事務所の所長は親父でね。とっくに引退してる」
「信二、おまえの客にしないなら、わしが面倒見るぞ」
と初老の男は言う。
「相手にしないほうがいい。早く帰んな」
と柴坂は耳打ちした。
だが、私は近付いていった。
「その件はわしが扱ってやる。悪いようにはしない」
と自信たっぷりに言った。
「やめとけよ親父、素人さんなんだから」
「わしが客にするんだから、料金はわしに払ってもらうよ」
「はあ」
「決まった」
「知らないよ、あんた。親父にさんざん飲み食いされて放り出されるだけだぜ」
柴坂信二の言葉を背にして、初老の男はわたしを押して事務所の外に連れ出した。
私がこの男に従ったのには訳がある。最初目があったとき、私に片目をつむって見せたのである。どういう意味かは知らない。誰に対してもやる、単なるこの人流の挨拶なのかもしれない。ただ、私には、
(わしは幻想でも現実でも、どっちでも構わんよ。とにかく味方だ)
というような意味が感じられた。あくまで私の感触である。私の幻想度はもはや抜き差しならない所まで来ているのであった。
「そうだな、わしはこのあたりじゃ所長で通っているから、そう呼んでくれ」
私が柴坂さんと呼ぶと、初老の男はこう言い被《かぶ》せてきた。私はそう呼ぶことにした。
「さっきの話、面白かったから、もう一度話しなさい」
と所長は残酷なことを言った。私はこのいきさつ話をするたびに、怒りとも悲しみともつかない思いが、いっこうに減ずることなくこみあげてくる。いつも怒鳴り散らしたくなるほどの苦しみに堪えて喋《しゃべ》っているのである。
「言わなきゃ、先へは行かないよ」
所長は浅黒く皺《しわ》の寄った目を細めている。私は仕方なく話し出そうとした。
「おおっと、立ち話はいかん。そこの店だ」
「でも所長、まだ二時ですよ、開《あ》いてないのでは」
「わしが行けは開く」
と平気で準備中のスナックの扉を開けた。開いてないも糞《くそ》もなかった。所長は勝手にカウンターの内側に入っていって、酒を持ってきた。さらに冷蔵庫も開けて、つまみを探している。
物音で目を覚ましたのか、二階から寝ぼけたような面《つら》をした男が降りてきた。パソツにシャツ姿である。マスターらしい。私はひやっとしたが、何事も起こらなかった。
「所長、早いねェ」
「まあな、シゲちゃん。今日は何時に開けるんだね」
「もう一眠りしてからだよ」
「勝手にやるからな」
「ああ、そこの紙にちゃんと何飲み食いしたか書いていってくれよ」
マスターらしい男はコップで水を飲んで、また二階に上がった。
私は一杯やらねばならなくなった。
「顔なんですね」
「このあたりだけのことだ。狭い。一歩外に出ればわしもただの変な親父に過ぎん」
私はもともと飲める方ではない。しかも、昼間から飲み始めたというような経験もない。知らないうちに酩酊《めいてい》してしまっていた。言い訳がましいが、疲れてもいた。だから、ここからの部分は後でぼんやりとした記憶を追いつつ書いたものである。私自身、起きたことが信じられない。酔った心地よい状態の夢うつつのような記憶が残っているのみである。
「ミヤは本当にきれいな猫なんですよ。あれを人間にしてみたいですね。とびきり可愛くてスタイルのいい娘に化けるでしょうね。男を平気で誑《たぶら》かすんです。ちょっと吊り目で、それに見つめられたら逆らえやしないんです。生意気で性悪《しょうわる》で、僕の言うことなんか一言も聞いていないんです。なのにびっくりするほど上手に相づちを打って笑うんです」
私は以前、ミヤが人間に化けた夢を見たことがあるのを思い出した。朝方ははっきり覚えていて、ミヤと目が合うと妙に照れ臭かったのを覚えている。その日の昼頃にはきれいさっぱり忘れていたはずなのだが、この時、突如として記憶に甦《よみがえ》ったようである。
「うんうん、気持ちは分からんでもないが、猫など相手にしてはいかんぞ。嫁も娘もいることだしな」
と所長は水割りをがばがば入れながら言った。
「さて、酒に対《むか》えは当《まさ》に歌うべし、人生いくぱくぞ、という格言もあるから、次は歌いにいこう」
と所長は言ってきかなかった。私は逆らう理由を見いだせなかったのでついて行った。
「だいたいだ。君はえらい。仇討ちというのは日本の最高最後のロマンであって、現代のメルへンの極致に違いないのだ。しかも、猫の仇討ちだ、心洗われる美談じゃないか。メルヘンはいい。うちの倅《せがれ》は今の稼業にどっぷり浸《つ》かってしまって、妙に悪擦《わるす》れしとる。だから、それが分からん。許してやってくれよ。その代わり、わしが助太刀してやる」
どこやら分からないがカラオケ屋に入った。私はぼーっとしていた。所長は一人で立て続けに歌っている。聞いてなかったので上手《うま》いのか下手《へた》なのかも覚えていない。最後に忠臣蔵を歌っていたことをかすかに覚えている。
「さて、君。酒、歌とくれは次は女だろう」
「そうですか」
「だが、わしはこのあたりの店の莫連女《ばくれんおんな》には飽《あ》き飽きしている。好かん。是非、素人娘と交際したいものだ」
「はあ」
と私は気のない相づちを打った。莫連女とはどういう業種の女なんだろうと考えている。
「物は相談だ。今回の料金のことだが、さっきの店の代金と今のカラオケ代は必要経費ということで実費で貰《もら》いたいところだが、敢《あ》えて棒引きにしてやろう」
「それはどうも」
「ただし、君が女を紹介してくれたらの話だ。どうだね」
「女ですか」
所長は赤黒い顔に好色な笑みを浮かべている。狒々爺《ひひじじい》とはこういう顔を言うのだろう。
「さらに、重要な情報も教えてやろう」
私の頭の中をアルコールが脈打ちながら流れていた。所長の言うことがよく分かっていない。
「女なんか知りませんよ。僕は女房持ちですよ」
「それはいかんな。ここで別れることになる。料金は後で請求する。だが、本当に知らんのか? 若いのに情けないやつだ。わしとしては、君の細君でもいいのだがな。二十七ならまだまだ若い」
「そんな」
私はここで所長を離すわけにはいかないと、何故か思った。所長は必ず役に立ってくれるという根拠のない予感があった。
「困りました」
「君、街へ出て引っ掛ければよろしい」
「無理ですよ……。ナンパなんかしたことがないです。それに、今は酔っぱらってます」
「うだうだ言うんじゃない。女を紹介しないならこの話は終わり。わしは帰る」
「分かりましたよ、ナソパしましょう」
ここから記憶が途切れている。次に覚えているのは、かなりにぎやかな通りにいたことである。
「さて、頼むぞい」
と所長が言った。
「当節流行の髪の長い細い女の子にしてくれんと、わしは帰るぞ」
所長はいい気なもので、やたらに注文をつけた。
「肩を出した肌の白いおねえちゃんがいいな。ホットパンツを穿《は》いている脚のきれいなのもいい。乳は大きくても小さくても構わん」
私は酔った勢いで歩いている女の子に声を掛けた。酔ってはいても恥ずかしくて仕様がない。
私はまだ三十ちょいである。私が引っ掛けるくらいはできると思った。ただ相手はあの爺さんである。それを言えば断られるに決まっていた。案の定、話に乗ってきそうだった二人組の女の子は、私が所長を指さすと、あかんベーをして行ってしまった。これは駄目だ、と私は回転がひどくのろい頭で考えた。これは札束でひっぱたきでもしないと無理である。しかし、札束などどこにもなかった。私はお手上げだとポーズで示した。所長は販売機で買ったらしい缶ビールを舐《な》めながら首を振る。まだ許してくれないようだ。
ともすれば私は何をしているんだろう、という疑問が湧いてくる。酔ってでもいなかったなら、さっさとこの場を離れていただろう。胡散《うさん》くさいエロ爺さんなど放りだして。
そろそろ周囲は夕暮れの斜光を浴びて、違った色に見え始める。通行人の数も増えていった。私はいい加減|嫌《いや》になってきた。
陽を背にしていたので、顔はよくわからなかったが、そのシルエットは細くきれいだった。
私は反射的に声を掛けている。妙な癖がついてしまったかもしれない。
「いいわよ」
と相手が言ったので、私は、
「え!」
と訊きかえしていた。私はかえって、まずいなと思ったくらいである。その娘はするりと滑り込むように私の腕をとっている。
「どういうつもりだ」
「なによ、そっちがナンパしたんじゃない」
それはそうである。
「だけど、連れがいてね。僕よりもその人の相手をしてほしいんだが」
「連れ? どの人」
少し残念ではあるが、私は所長を指差した。所長は標識にもたれて居眠りしている。あれを見せれば怒って帰るだろう。その娘は所長をまじまじと見ていた。
「よさそうな人じゃない。いいわよ」
と言うと、さっと離れて所長の所へ行った。敏捷《びんしょう》な動きであった。所長を揺り起こしている。
私はあっけにとられてしばらく突っ立っていた。
「おう、でかした。いい腕しとる」
と所長は私に言った。私は慌《あわ》てて、所長を引っ張ると耳打ちした。
「所長、この娘、少しおかしいみたいですから近寄らない方が……」
「おかしい?」
「それにどう見ても高校生以下です。淫行《いんこう》になりますよ」
「かまうもんか」
「そうよ」
と娘が言った。
私はその後タクシーを拾わされたのだが、いくら酔っているとはいえ、非常識な行いをしているという自覚はある。きれい事ではあるが、あの娘を所長の毒牙から守らねばならないと思っている。ところが変な娘の方がよほど行動が早かった。
「運転手さん。あの角のお城みたいなホテルでいいわ」
と言った。
「いいねえ」
と所長は半分居眠りしながら言う。運転手は場所が近かったので、少し迷惑そうな顔をした。すぐに到着した。所長はぱっちりと目を開いた。
「よし、チョイの間だ。君はここに立って待っていたまえ」
と所長は言って、はりきって車を降りた。私はタクシー料金を払って、降りようとしている娘の手首を掴んだ。細い手首だった。握った指が二関節分余った。
「君はどういうつもりか知らんが、爺さんは本気だぞ。見てわかるだろうが、金も無い。逃げるんなら今だ」
と私は素早く言ったが、娘はきょとんとした顔をしている。聞いてない。私は非常な後悔に襲われた。
これも素早い動きだった。娘はすっと顔を近付けてきた。そして、私の手の甲を引っ掻きながら、言った。
「心配しないの。わたしは平気だからね」
その時になって私はやっと娘の顔をはっきり見ることができた。やや吊り気味だがぱっちりと大きな目。茶色に近いショートカットの髪。顎から首にかけての線は小麦色ではっきりしている。どこかで見たことのある顔だった。髪の匂いもどこかで嗅《か》いだなつかしいものだった。
「何相談しとる」
と所長が怒鳴ったので、娘はするりと離れて車を降りた。娘は積極的に腕を組むとさっさと中に入っていった。
(ミヤ!)
と私は反射的に思った。何てことをしてくれるんだ。馬鹿野郎。私を途轍《とてつ》もなく口惜《くや》しい思いが襲ってきた。ホテルの部屋に殴り込んでやろうと思った。が、足腰に力が入らない。酔いのせいなのかどうかは分からない。そのままずるずると塀にもたれかかった。
あたりは暗かった。誰かがこつこつと私の頭を突ついている。
「だらしないのう」
所長であった。あ、と私は思った。次の瞬間所長に殴りかかっていた。
「寝ぼけるな」
所長は武道の心得でもあるのだろう。若い頃は喧嘩で鳴らしたのかもしれない。あっさりと私の手を取ってひねった。
「よいよい。あんたはもうお帰り」
と所長は隣にいた娘に言った。私はまたかっとした。顔を上げて娘を見た。
「えっ」
私は声を上げた。さっきのミヤ娘とは似ても似つかない娘であったからだ。ちょっと太目で、髪は長く、ぽっちゃりした所は可愛いが、だらしない様子をしている。私はわけがわからなくなった。力が抜けた。娘は口に手を当てて私を見ていたが、変な顔付きになって歩み去った。
「いや、今日は養生したな。有難うよ」
と所長は上撥嫌である。
「電話番号は聞いておいた。また会ってくれるそうだ。やはり、いいのう。若い娘は」
と涎《よだれ》を流しそうな面《つら》である。私は頭が混乱しており、何も言えなかった。
「酒も抜けた所だし、行くか」
「?」
「わしはやらずぶったくりはせんぞ。料金相応の仕事はするんだ。はよう、タクシーを拾ってこい」
私は言われるまま、通りに出て、タクシーを拾った。
所長が場所を言うと運転手は頷いた。
「どこへ行くんです」
私は寒気を感じている。とくに心臓のあたりが寒くて仕方がなかった。
「猫婆に紹介してやる」
私は笑い出した。そうせずにはいられなかった。
「ネコババ? 泥棒ですか、それとも妖怪」
「怪《け》しからんことを言う。なかなかの人物だぞ。わしもこの年になるまでいろんな人間に会っったが、その中で五本の指に入るくらいの傑物《けつぶつ》だ。もう八十を越えたはずなんだが、妙に艶っぽくてなあ。若い頃は凄《すご》かったろうなあ。猫婆が小年増《こどしま》くらいの頃に知り合いたかった。猫婆の亭主は大陸浪人だったんだが、その亭主と組んでひどい商売をしてたらしい。猫術を大陸で仕込んだと聞いている」
「その人が、役に立ってくれるんですか」
「気が向いたらな。気難しいからなあの女」
私はふうと溜め息をついた。ここまで来たのである。もはや、任せるしかないのは明らかだ。力を抜いてタクシーの座席に身を任せてみた。
「そう。それでいい。これはメルヘンじゃからな」
私は少し眠ったらしい。所長に起こされて、タクシーを降りた。住宅街の切れ目で、野原といってもいい空き地の前である。見たような場所だが、はっきりとは分からない。
「そこの神社の裏に住んでいる」
「神職なんですか」
「ちがうだろ」
神社を抜ける時、ぶるっと震えた。恐いわけではなかった。どうにも寒いのである。時計を見るとまだ九時前である。
人の気配がした。振り向くと何人かの人が同じ方向へ歩いている。何か抱《かか》えている。よく見ると猫であった。猫を抱えた人々が静かに歩いている。猫だけは
「にゃあ」と声を出していた。「何ですか。この人たち」
「客だ。猫婆のところへゆく。お、震えているな、恐いのか」
「寒いんですよ」
「変な男だな。まだ、夏だぞ」
「それよりみんな猫を抱いてますが」
「猫婆だって世過ぎをせねはならんからな。小遣い稼ぎに商売のひとつもやるさ」
「商売……。猫の医者か、トリミングでもやるんですか」
「行けばわかる」
掘《ほ》っ立《たて》小屋、としか呼びようがない建物があった。そこの入口に何人かが並んでいる。私は昔、神社の祭りに行った時のことを思い出した。小屋が立って、いろいろな見せ物が行われる 裸電球とロウソクの明かりしかない場所に、金魚すくいや射的、焼きとうもろこし、林檎飴《りんごあめ》などの夜店と並んで、子供が見てもいんちきと分かるいかがわしい見せ物小屋があった。河童《かっぱ》の標本などが置いてあり、妹は恐がっていたが私は笑っていた。
そういう小屋の一つにトランプ占いの小屋があった。今、思うとトランプではなくタロットだったかもしれない。テレビ映画に出てくるような頭から色とりどりの布を被ったジプシーの女占い師が座っていた。もちろん、日本人だが、黒っぽい手の指に十何個も指輪をつけていたことを覚えている。私は占ってもらいたくなった。悩み事があるわけではなかったが、その小屋には何か得体の知れない魅力があった。何度も父親に頼んでみたが、許されなかった。私は泣きそうになっていたらしい。その後、ずっとその時占ってもらわなかったことを後悔した。今でも時々夢に見るくらいに。何故か翌年からはそのトランプ占いの小屋は立たなくなったのだ。
猫婆の小屋はあの祭りの日の占い小屋によく似ているような気がした。神秘性、いかがわしさ、得体の知れない魅力。その雰囲気はそっくりそのままであった。
私と所長は中に入った。所長は猫婆に会釈したが、フン、という感じで無視された。
猫婆は所長が言ったようにとても八十には見えなかった。和服を着ていて、薄く化粧をしている。頭は高く結ってあった。私が仕事で行くクラブのママの格好に似ているが、その四十三のママより若いように見える。八十というのは所長の嘘に違いない。
猫婆は奇妙なことをしていた。猫婆の前には机が置いてあり、その上に竹寵のついた秤《はかり》が置いてある。魚屋や肉屋の秤の上に籠を取りつけたものらしい。もっとも、今は魚屋も肉屋もデジタルメーター付きの電気秤を使うところが多くなったが、猫婆のは針がピーンと跳《は》ねるように回るオーソドックスな秤であった。お客が猫を猫婆に渡すと、猫婆は、「よーし、よし」と猫を撫でながら籠の中に入れる。そして針を読む。
「一・二五キロだね。あんた、もうちと太った方がいいよ。でないとさかりの時に喧嘩に負けちゃうよ」
すると猫は嬉しそうに、「にゃう」と答えるのだ。飼い主は、
「有難うございました」
と礼を言いながら、隣に置いてある空き缶にお金を入れた。缶には「おこころざし」と書いてある。
次々に客が入ってきて、猫婆は量《はか》ることを繰り返した。これが猫婆の商売らしいが、猫の量り屋というのは初めて見た。猫婆は猫を扱うプロフェッショナルのようである。時々、暴れてもがいて飼い主の腕を飛び出そうとする猫がいる。しかし、猫婆がそっと手を伸ばし抱き上げると、爪を引っ込め、目を細めて従う。そのまま秤に載せられる。
「うーん、ちょっと奥さん、この猫ちゃんは虫がいるねぇ。明日にでも病院に行きなさいよ。いいね」
「はい。そうします」
そして、猫婆が猫の喉《のど》を撫でると気持ち良さそうに、
「なうお」
と言った。
所長はあまり無視が続くので、腹を立てている。咳《せき》を繰り返した。
「うるさいね。あんたは。用事かい」
「大事な用事だぞ。話を聞いてくれないか」
「客が切れるまで待ちな」
所長はぶつぶつ文句を言った。
「勝手な女なんだよ」
「でも、猫を量るだけで商売になるんですか」
「現になっている」
「あんまりお金にはならないでしょうね」
おこころざし、の料金は見たところ三百円前後が相場であった。それでも高い気がする。
「いいんだよ。あいつは何しろ婆あだから、年金をもらってる。生活には十分だ。そのあたりは、ちょっとメルヘンから外れてて気にいらんが」
「さて、所長、何の用事だい」
客が切れたのか、猫婆の方から言った。
「待たせやがって。まあいい。じつはこの青年はじつにいい青年で、わしにいろいろサービスしてくれてな。相談があるそうでな、それで連れてきた。聞いてやってくれ」
猫婆は私には愛想よかった。
「駄目だようあんた、こんなド糞爺いと付き合ってちゃあ。見たところ堅気の勤め人のようだけど……。何なりと言ってごらん。もちろん、商売だからただじゃないけど」
猫婆は猫に似たやや吊り上がった目をしていたが、顔全体がふっくらしているのでそれほど目立たなかった。それにしても若いと思った。声にも、肌にも張りがある。私が辟易《へきえき》させられた所長を子供扱いにできる貫禄があった。私は、もう何度話したか忘れてしまったミヤの復讐話を切り出した。ミヤに加えられた仕打ちについて喋っている時、猫婆は憤慨のあまり真っ赤になった。怒った猫そっくりだった。私はのどがカラカラになった。
話し終わると猫婆は私の頭から爪先まで舐めるように眺めた。最後に顔を見つめられた。私は思わず唾《つば》を飲み込んだ。
「話は分かった。確かに許せない糞ったれどもだね。復讐されて当然だ。一度殺したくらいじゃあきたらない。七回は殺さなきゃ。猫ってのはね、恨み深いし、情も深いんだ。七代|崇《たた》ると言うじゃないか」
「はい」
「それはいいとして。犯人が分かったら、あんたどうするつもりだい」
「もちろん復讐をします」
「犯人を殺すってことかい」
「…………」
「どうなんだい。猫のために人を殺すというのかい? そんな度胸があるようには見えないけどねえ」
所長も頷いた。
「そうだ。下手すれば君は刑務所行きなんだぞ」
「だからと言って、犯人を見つけてぶん殴って説教するくらいじゃ、ミヤちゃんも承知しないだろうしねえ。途中で会った、猫を殺されたお婆ちゃんだって、殺して欲しいから形見の刀をあんたに託したんだろう」
私は、復讐という言葉を使ってきた。その内容は一体なんだったのだろう。復讐するということは、相手をミヤと同じかそれ以上の目に会わせることである。殺すことは当然だ。だが、私は今問い詰められるまで、復讐という単なる言葉だけで自己満足していた。殺す、ということの恐ろしさをうかつにも今味わっている。はっきりと気が付いた。寒気がひどくなった。さっきから悪寒が去らないのは復讐を実行することの非常な恐さに無意識に気付いていたからに違いなかった。
「さあ、どうだい。覚悟を決めな。あんたがそれでも殺すと言うんなら、犯人を調べてやる。でも、半端《はんぱ》な気合いならすぐ帰んな」
猫婆は詰め寄るような語気で言った。私には分かっていた。もう、ミヤがひどい姿で帰ってきた時から、私は現実から踏み外れ始めていたのだ。ひょっとすると、ミヤを飼い始めた時からすでにそれは始まっていたのかもしれない。私にとってミヤはそれほど重要な存在だった。
「殺します。犯人を」
私はそう言った。猫婆は、ふう、と息を吐いて椅子に掛け直した。
「そうかい。かわいそうに。あんた、もうもとには戻れないよ」
「仕様がないです」
「待ってな」
猫婆は窓を開けておもてを眺めた。しばらく、そうしていた。やがて猫が集まってきた。みなふてぶてしい面をした野良猫どもである。向こうキズを見せびらかし、のしのしと歩いてくる。日頃のライバル猫と目が合うと牙を剥《む》いて、
「しゅーっ」
と言った。だが、喧嘩にはならない。猫婆は特別な人間なのである。彼女の前では休戦も致し方ないのであろう。その数は二十とも三十ともとれる。暗さのため正確には分からない。
「ほーっ。見るからにやくざな猫どもだな。人間のやくざ者よりドスが利《き》いているのもいるぞ」
「蛇の道はヘビというからね。こいつらに訊けばたいていのことは分かる。この位のろくでなしになれば人間に捕まっていびられるようなへマはしないしね」
数十の猫の目が流れるように光った。不気味な光景である。猫婆は口では黙っているが、何らかの方法で問い質しているのだろう。野良猫どもは居心地悪そうに身体を揺すった。
そのうちに野良猫どもが、ざざっと音を立てて散っていった。凄《すさ》まじい速さであった。一瞬にして猫の群れが消え失せた。何があったのかと思っていると、向こうから猫を抱いた人が来る。客がまた来たのである。
「何か分かったのかね」
と所長が訊いた。
「うーん。はっきりとは分かんないって。だいたい見当はついているらしいけど。そりゃそうだね、あいつら位になると危険な所や馬鹿な人間には絶対近寄らないから」
「では、どうすれば……」
「まあ、後よ。お客さんがきた」
猫婆は新しい客から猫を受け取ると、
「よちよち」
とあやしながら秤《はかり》に載せた。大きな猫だったが、さっきの猛獣のような野良猫たちにくらべれは可愛いものである。
「二・五三キロ。太っちゃったねえ」
「食事を減らしたほうがいいでしょうか」
と飼い主は訊く。
「そんなことはしなくていいのよ。猫は人間と違って馬鹿食いしないから。ダイエットなんかしなくても自分のベストウエイトを保つんでね」
「そうですか。有難うございました」
客は帰っていった。客は皆、ここで猫を定期的に量っているようだが、何か御利益《ごりやく》でもあるのだろうか。よく分からない。
猫婆が振り向いた。
「あんた。犯人分かったよ。今の猫が知ってた」
私は頷いた。
「教えてください」
「その前に一言言っておくけど、あんた気が付いているのかい」
「は?」
「鈍感だねえ。あんたはミヤに惚《は》れられてるんだよ。だからこうなっちまった。猫が惚れるというのはどういうことか、知ってるのかい?」
「いいえ」
「取り憑《つ》くということさ。猫は情がこわい」
猫婆はにっと笑った。
「もう決意はしたろうけれど、あんたは現実には戻れないよ」
「そうだ。メルヘンに生きるんだ。これからは猫専門の必殺仕掛人にでもなって闘い続けてくれんか」
所長は冗談めかして(冗談なのだが)そう言って、私の肩をやさしく叩いた。もとより、言われるまでもなく、私は幻想をずっと以前から受け入れている。
「ミヤが直ったら量りにきますよ」
三日後、私は寝すごして、起きたのは午前十時過ぎであった。まだ会社には復帰していないので、遅く起きても問題はない。
このところ、洋子は機嫌が悪かった。当座は私の復讐熱にあてられて、会社を休んでいることに対しての文句は出なかった。しかし、次第に洋子はいらいらが募《つの》ってきたらしい。気持ちは分かる。一日中ではないが、それに近いくらい洋子と一緒に居る。休日をのぞいて、結婚以来こんなに長い時間一緒にいるというのははじめてのことである。洋子にも昼間の自分の生活ペースというものがあったのだろう。それが、私によって乱されたわけである。新婚当時ならまだしも楽しかったろうが、その頃の気分に戻れはしない。洋子は私の復讐が馬鹿馬鹿しくなってきた。病気でもない夫が仕事にも行かずぶらぶらしているのが気に触るのだ。近所の手前もある。ばつが悪いだろう。
「いつまで寝てるのよ」
と洋子は邪慳《じゃけん》に私をベッドから追い出した。
「まったくもう。いい加減にしてよ」
「起こせばよかったのに」
「起こしたわ。何度も。昨日だって夜遅かったんでしょ。一体、何をやってるんだか」
「悪かった」
大分、キているな、と私は思った。あと二、三日もすれば里に帰ると言い出すだろう。私は洋子をそのくらい理解しているつもりだ。実家に帰られるのも困るな、と私はぼんやり考えた。
「新聞を見せてくれ」
洋子は黙って、ばさっと私の顔に新聞を突きつけた。
新聞の一面はある殺人事件の記事で埋まっていた。この町のすぐ隣で起きたようである。ここから歩いて三十分ばかりの所にある、今は使われていない倉庫が現場である。
「おい、洋子これ、近いな」
洋子もこのショッキングな事件に関しては、黙っておれなかった。推理小説ファンの洋子はこういう事件が大好きなのである。大好きと言うと語弊《ごへい》があるが。
「でしょ! 凄かったんだから、今朝のニュース、これ一本て感じだったもん。昨日の夜、サイレンの音がしてたけど、きっとこれだったのよ」
「ふうん」
異常な事件だった。被害者は高校中退の少年二人とその友人の少女の三人である。写真は警官が囲んだ倉庫のものしか載っていない。新聞記事にも詳しく書いていないところを見ると憚《はばか》りがあり過ぎるような死体の様子なのだろう。
「なんか、ひっどい拷問《ごうもん》の跡があったらしいのよ。拷問っていうより、わざと苦しませて殺したみたいなの」
「テレビでそう言ったのか」
「うん。でも、警察もなんか詳しくは言えない、みたいな記者会見だったわよ。平成最大の猟奇《りょうき》事件になることは確かだそうよ」
おそらく今後、週刊誌では憶測記事が乱れ飛ぶだろう。テレビも同じだ。犯人が逮捕されて裁判になったとしても、その残酷すぎる死体から非公開|措置《そち》が取られることになるだろう。
「バラバラ殺人よりも凄いなんて、想像がつかないわね」
と洋子は言って、可愛く身震いした。洋子はまだまだ可愛く身震いしてもさまになる外観をしている。
「多分、そうだな、爪を一枚ずつ太いペンチかなんかで指ごと引きちぎったり、太い針金で下半身から脚の先までギリギリに縛り上げたり、皮を剥いでガムテープを貼ったり、落書きしたりしたんだろうな。その後、もっとひどいことをしたんだろう。死なないように気を付けながらね」
「ちょっとお、あなた、よくそんなひどい事を口にできるわね」
「何言ってるんだ。ミヤがやられたことを言っただけだよ」
「でも、なんか気持ち悪くなってきたな……」
「本当だ」
私は先を読んだ。この少年と少女は、近所では評判の不良だったらしい。高校を退学させられ、親の言うことなどまったく聞かない。無免許でバイク、車を乗り回すなど日常茶飯事だったらしい。シンナーによる補導歴もあった。そのうち一人は鑑別所に行った経験もある。保護観察中であった。近所の人々は注意するどころかびくびくしていたという。
警察は被害者に恨《うら》みを持つ者の犯行と考えたが、恨みを持つ者など腐るほどいたらしい。先日も、少年の父親は思い余って少年を包丁で刺し殺そうとして騒動になっている。
この倉庫は少年たちの溜り場のひとつであったが、住民は見て見ぬ振りをしていたし、警察のパトロールもおざなりの注意しかしていなかったという。また恨みを持つ者と簡単には言うが、それにしては殺し方が残虐すぎる。アメリカで時に見られる、異常変質者犯罪の線のほうが濃い。
「ひどい世の中になったもんだな。これからどうなるんだろう」
「ほんとうね。理恵子の幼稚園の送り迎えもわたしがしようかな」
その後の記事は日本の精神医療体制についての繰り言とか、少年犯罪を起こす土壌についての能書きとか、どうでもよい記事で埋まっている。まあ、新聞社もこの事件であと半年は何か書けるであろう。
「ああ、そうだ。中町のおばあさんから届いていた軍刀な、送り返しといてくれ」
「いいの」
「いいよ。やっぱり形見なんかもらえないもんな」
軍刀に付着していた血糊《ちのり》は念入りに拭い取ってあるが、送り返せばあの婆ちゃんのことだ、すぐに分かってくれるだろう。
私の心をどす黒いものが満たしていた。洋子には分からなかったろうが、もはや、私は現実の世界で会社勤めなどを許される人間ではなくなっていた。人を殺した人間はもはや人間には戻れないと、偉い作家が言ったそうだが、それとは少し違う。私は人間である。しかし、これからは幻想の住人として生きなければならない。所長は幻想をメルヘンと呼んでいたが、メルヘンには幻想が含む陰惨《いんさん》な響きがないではないか。
私はその日は外出せず家にいた。私は戦争を知らない世代であるが、その戦争当時の本を読むことがあった。ある老人はいまでも、戦争で殺した人々が夢に現れて彼を責めさいなむ。恐怖と後悔で死にたくなるそうだ。私もそうなるのだろうか。復讐達成の代償ならはそれは受け入れるしかない。
私は何故か昼過ぎから、眠気が起きて仕方がなくなってきた。この二週間半の疲れがどっとでているのだろう。洋子に謝りながら、起きたり眠ったりを繰り返す。あの少年たちの亡霊が夢に現れるだろうか、と頭の隅《すみ》で考えたりしている。
洋子はかえって心配になったらしい。
「あなた、本当に病気じゃないの」
「ただ、眠いだけだよ。明日には直る……」
翌日も直らなかった。ひどい倦怠感の伴った睡魔が何度も襲ってきた。私は、一度、目が覚めたとき、
「医者だけは呼ぶなよ。大丈夫だから」
と洋子に命じたらしい。覚えていないが。
浅い眠りが続き、奇怪な夢を見続けた。やはり、私が少年たちを殺した所も出てきた。何度も出てきた。その後、ミヤが出てきた。正確にはミヤが人間に化けた姿である。小麦色の肌のショートカットの、くりくりした目をした娘。動きが小気味よい程敏捷だったあの娘。本当にあれはミヤなんだろうか。やはり夢は夢にちがいない。そうに決まっているじゃないか。でも、所長と猫婆はどうなる。あの二人は実在しているのか。ああ、またあの私にはとうてい理解できない精神を持った凶悪な少年たちをいたぶるシーンだ。さるぐつわの隙間から漏れる悲鳴。血の匂い。断末魔の時の目の色。夢にやはり出て来たな……。いやにはっきりした夢だな。嫌になってくる。ひどいな……。
私は二日後にやっと、異常な睡魔から解放された。微熱があって身体中がなまり切ったような感じだ。それにしては気分は爽快であった。不思議な体調である。体温計で計ると熱は平熱で、家庭用血圧計の数値も異常はない。洋子もやっと安堵《あんど》の表情を浮かべた。
「ただいま!」
と理恵子が帰ってきた。そういえば、ここ三日も理恵子の顔を見ていないじゃないか。
「パパ、もう元気になりましたか」
「うん」
理恵子はにこにこしている。
「理恵子、今日はパパに仇を討ったかどうか聞かないのか」
「もう、かたきうち、終わったんでしょ。りえこには分かるもん!」
「そうか……」
私は頭をポンポンと叩いて、ベッドを出た。夢に何度も繰り返し出てきたので、あの復讐行為も夢だったような、そうでないような、変な気分である。本当にそうである。幻想と現実、どちらが正しいのか。いや、そんなことで胡麻化《ごまか》してはいけない。私は人殺しだ。
「あなた、理恵子をお風呂に入れてよ」
と、台所から洋子が言った。
私はなおも考え続けている。湯船に浸《つ》かりながら、天井の隅をぼんやり見ている。
「パパ」
「ああ、理恵子も入るか」
私は足をどけた。その隙間に理恵子が入ってきた。私は今幻想の住人のはずである。奇怪な非日常的な出来事を幾つも経験し、殺人まで犯した。しかし、それも今となっては夢のようなあやふやな記憶になっている。いや、やはり私は……。
「こっちを向いて」
と理恵子が言った。あっ、と私は思った。理恵子はあの目をしている。くりくりして機敏な目。そして艶があり、しっとりと濡れている。
「ミヤ」
「気にしないでいいのよ。あなたは幻想の住人なんかじゃないわ。あのことも幻想の中で起きた。それでいいの。所長さんや猫婆さんのように、幻想の住人にだって現実生活はできるのよ。同じように現実の住人にだって幻想生活はできるの。あなたはこっち、ね。あなたは、明日にでも会社に戻ってまたお仕事をはじめればそれでいい」
「戻れるかな」
「戻れるに決まっているじゃない」
ミヤは理恵子の顔の中から微笑んだ。憑かれているという恐怖はなかった。だからこそ憑かれているのであろう。
「洋子さんには悪いけれど、一度、こうしたかったの。ありがとう……」
理恵子は私の首ったまに短い腕で抱きついてきた。素早い動きだった。唇を重ねていた。相手がわが娘であるとは信じられなかった。香りも味も舌触りも。唇を長い問合わせていた。理恵子は照れ臭そうに、
「さよなら」
と言った。次の瞬間にはもうもとの理恵子がそこにいた。
「わー。パパにキスされちゃった!」
と無邪気にはしゃいだ。私は慌てて言った。
「おい。理恵子、ママには内緒だぞ」
「うん。ぜったい言わないね」
その後、私はのぼせて、洋子に風呂から引っ張り出された。
「まだお風呂は無理だったわね……」
と洋子は私の頭と足にアイスノンを当てながら言った。
「いや、いいよ。洋子、明日、会社に連絡しよう。あさってから仕事に出るよ」
「そうね、そうしたほうがいいわね。わたしも気が楽」
洋子は気のない返事をした。
翌日、ミヤが退院してきた。後ろ右足が少し不自由で、以前の優美な歩行や敏捷な疾走はもう見られないだろう。私はまだ毛並みがよく生え揃っていないミヤを慎重に抱き上げた。瞳を覗き込むと、針のようだ。ミヤは私の顔を見て、
「みえお」
と言っただけであった。ちょっと寂《さぴ》しい気がしないでもない。
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エピクテトス
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奴隷エピクテトスとしてわれは生まれ、身は跛。
貧しさはイロスのごとくなるも、不死なるものどもの友なりき。
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エピクテトスがただ一つだけ自身で作ったという二行詩である。エピクテトスは書き残さない哲人であった。ソクラテスに私淑したためであろう。にもかかわらず、何故かこの詩だけはエピクテトスの作品であると伝えられている。この詩は彼の墓碑銘として刻まれたという。
エピクテトスは、事実生まれながらに奴隷であった。また、エピクテトスが不具者であったことは、彼の語録に記されている。エピクテトスを描いた画家は机で思索する彼のかたわらに杖を置くことを忘れなかった。二行目のイロスというのはオデュッセウスに無様《ぷざま》に打ち倒された乞食の名である。なぜ、そんな者に自分をたとえたのかは分からない。エピクテトスは墓碑銘に自嘲と恨みつらみを書き残しでもしたかのようである。
ただ、最後に「不死なるものどもの友」という。不死なるものどもとは神々のことである。私エピクテトスは奴隷で跛行《はこう》でずうずうしい乞食のような者ではあるが、それでも神々の友であるというのである。
一
エピクテトスは小アジア、プリュギア地方のヒエラポリスで生まれた。生まれた年は分からない。プリュギアは今の地図で見れば、トルコのアナトリア高原の西方である。ヒエラポリスはヒエロという名が示すとおり、神聖|敬度《けいけん》なる宗教都市であった。
エピクテトスは西暦五〇〜六〇年頃、そこにいたらしい。子供の姿をしていた。その時はまだエピクテトスの足は健在であった。
エピクテトスの母親は奴隷であった。父親は誰であるかは伝わっていない。敢えて想像すれば母親の主人と母親の間に生まれた私生児であったろう。子供は主人の持ち物であり活殺は自由である。だからエピクテトスが奴隷に売られることは生まれる前から決定していたともいえる。エピクテトスにもエピクテトスの母親にもどうすることもできない宿命である。宿命には逆らえない。
エピクテトスは静かな子供であった。野山を駆けるでもなく、同年代の子供と戯《たわむ》れることも、なかった。無口で、物思いに耽《ふけ》る子供であった。自閉症の児童のように表に喜怒哀楽をあらわさなかった。母親は奴隷であって、自らの職分がある。エピクテトスの養育に参加したかは疑問である。授乳の時期が終わるとすぐに手を離したであろう。その後は仲間の男奴隷の中で過ごした。根性の曲がった子供に育ったとしても仕方のない環境である。物心つくや、薪を拾い、水を汲み、旅人の足を洗った。エピクテトスは最初は殴られながら、後には進んで黙々と働いた。
エピクテトスは休息の時間を得ると、丘を越えた。そして、異臭を放つ蒸気がもうもうとする土手を横手に見ながら、ヒエラポリスの中心キュベレーの神殿へ行く。ストラボンの「地誌」によると、ヒエラポリスは温泉の町であった。豊かに湯が湧きいでた。また、毒気のある煙を吹き出す谷がいたるところにあった。泉質は硫黄が強すぎ、凝固しやすかったという。硫黄毒のある蒸気に触れた雀や家畜が落ち斃《たお》れ、丘のところどころで骨となっているのを見ることができた。
エピクテトスが特に熱心に見つめるのは、ヒエラポリスの神官たちの祭祀であった。ヒエラポリスが祀るのは大地女神キュベレーである。女神キュベレーはもとはギリシアの神ではない。太古は東洋系の山地女神であり、地母神である。独自の秘儀的宗教を持つエキゾチックな女神であった。しかしすでに先史時代に帰化を遂げ、ギリシア神群の仲間になっていた。ヒエラポリスの神殿にはキュベレーの像が安置されており、小アジアの人々の信仰を集めている。キュベレーを祀る神官は信徒に予言を行い呪術医療を加える術者であり、それなりの敬意を受けていた。昔、神官と信徒は祭祀の時は歌をうたい、叫声を上げ、篝火《かがりび》をたき、器物を破壊しながら町を練り歩いた。ローマ帝国の支配を受けるようになってからは、ややおとなしくなったものの、その淫祀邪教《いんしじゃきょう》ぶりにはあまり変化はない。ただしエピクテトスが熱心だったのはそういう熱狂に対してではなかった。
温泉地には「地獄の口」だとか「地獄谷」などといった外部にその内部の沸騰を見せつける地形が付きものである。キュベレーの神殿は地款の口のそばにあった。そして、神官たるものは地獄の口のさらにそばまで行って、祈りを捧げるべき義務を持っていた。神官は常人とは違うのだということを示すデモンストレーションでもある。エピクテトスはその義務を行う神官に異常な興味を抱いた。
「なぜ苦しまない?」
エピクテトスはキュベレー神官にそう尋ねたことがあった。地獄のロの毒気を吸うと雀は落ち、牛も倒れた。だから住民は滅多《めった》なことでは近寄らない。しかし、神官たちは地獄の口の唇あたりに、しばらくたたずんでも毒気に犯されなかった。
「神官だからだ」
と神宮は答える。神事の宗教の使徒は特別な存在であってこそ祭祀を主宰することができる。先のストラボンもキュベレー神官たちの耐毒力が不思議であったらしく、「キュベレー神官には免疫があるのか、身体が頑健なのか、それとも彼らの言うごとく神の摂理によるものなのか分からない」というような事を記している。
エピクテトスは神官の行事をいつも凝視していた。神官たちはこの気味の悪い子供を時々戯れに追うようになっていた。
「毒気に耐え得るは神力による。小僧の分際ではかなわぬ」
しかし、エピクテトスは去らなかった。それが一年ほども続いたろうか。地獄の口を往復する神官たちを飽《あ》かず眺め続ける。エピクテトスはついに結論を出した。
『かの神官たちは息を止めているのだ』
呼吸を止めて、地獄の口までゆき、祈る。そしてゆっくりと戻ってくる。彼らはそういう技術を訓練によって得たのである。神官の面貌は至極|穏《おだ》やかだが、その肺の内部では呼気が悲鳴をあげながら、暴れ狂っているのである。地獄の口を往復する間中、呼気は心臓を責め、頭蓋内を締め上げる。おそるべき苦痛に違いない。しかし、神官は耐える。我慢し抜くのである。なんという辛抱か。神に仕える資格は訓練して得ることができるらしい。
エピクテトスにはキュベレーの神官の手品の種をあばいたという得意はすこしもなかった。ただ感動していた。極限の辛抱というものに激しい魅力を感じた。そして、自らもそれに挑もうと思った。それ以来、エピクテトスは呼吸を止める訓練を始めた。毎日、雑事を命じられたら、息を止めて遂行する。思い出した時に息を止めて耐える練習を繰り返す。最初の頃は顔を蒼くして倒れそうになることもしばしばであった。胸が張り裂け、頭は炸裂しそうな気分になる。さらに進むと身体中に太い針を突き刺されるような激痛が襲ってくる。その先に死があるのだろうが、まだまだ遠いようだ。何という苦痛だろう、と幼い魂は感激した。自ら息を止めて死ぬことほど名誉ある死に様はないのではないかと考えた。食を断って死ぬ者は時にはいる。しかし、空気を断って死ぬ者などいない。それができるのはただ自分だけだ。エピクテトスはそう考えると奇妙な優越感と歓書に浸ることができた。しかし、これは死ぬための辛抱ではなかった。表向きは自分の忍耐を試す意思的な重要な行為なのである。どちらにしろ分かっていることは毒気を吸って死ぬことが敗北であるということである。どのくらい耐えれば地獄の口を往復できるものか、エピクテトスにはよく分からなかった。途中で我慢し切れず息をすればそこで死ぬのである。毒気が肺に急激に侵入し、内臓を転々と破壊しながら命を奪うに違いない。それを考えるともっともっと長く止息する用意が必要である。エピクテトスはなんと半年以上もその訓練を続けた。
しかし、ついにエピクテトスが地獄の口に挑むことはなかった。エピクテトスはある朝突然に売られる事に決まったからである。その事を言い渡された時、エピクテトスは泣いた。奴隷仲間はこの無愛想な子供が感情を顕《あら》わにするのを初めて見た。可愛げのない不気味な餓鬼ということで、たいていの大人はエピクテトスを敬遠していたのである。だが、やはりこいつもただの子供だった。可愛げはあるじゃないか、と皆は思った。
「おめえ、そんなにここを離れるのが辛《つら》いのか」
と牛飼いの男が微笑して訊いた。エピクテトスは地獄の口に行けなかったことだけが辛かった。主人が自分を売るのはよい。なぜ前日に言ってくれなかったのか。昨日のうちに知っていれば、朝早くに地獄の口へゆき、成果を試すことができた。まだ訓練は不十分であって、自分は地獄の口に屍《しかばね》をさらすことになるかもしれない。それでもいっこうに構わなかったのだ。自分の意思で地獄の口に挑み、自分の忍耐が尽きて死ぬのである。その価値はエピクテトスの精神に最高の美として映っていた。キュベレーの女神は非情である。このエピクテトスの唯一の生き甲斐すら急激に奪い去った。キュベレーの美しい女神の似姿を恨みたくなった。また人生とはこのように思い通りに行かぬ辛いものなのだろうか。エピクテトスははっと何かに気が付いたような表情になった。途端に泣き顔がエピクテトスから消え失せた。牛飼いがぎょっとした表情になったほど、その変化は劇的であった。
「辛くはない。私のせいではない」
とエピクテトスは言った。その意味が分かる者はその場に一人もいなかったはずである。この事は呼吸を止める辛さと同じなのではないか。エピクテトスの計画では呼吸を止めているとき周囲にあるのは毒気であった。人生においては苦痛の周囲にあるものは毒気ではなく、運命なのではないか。エピクテトスはそう思いついて救われたような気分になった。それならばこの先も自分を試みる機会は多く立ち現れてくるに決まっているのである。
エピクテトスの哲学の基本は自分の力の及ばないものは諦め辛抱し、力の及ぶものについては細心の注意と責任をもって当るということである。力の及ばないものとは、宿命であり、自然現象である。他人の意思もそうかもしれない。力が及ぶものとは自分の肉体であり精神である。エピクテトスは少年時にはすでにこれに近い思想を得ていたと思われる。
奴隷エピクテトスは昼過ぎにはヒエラポリスを後にしていた。
熱砂のなかを行進した。奴隷の数はエピクテトスの他に五十人ほどである。土地の奴隷商人が率いている。手には鉄の伽《かせ》がつけられていた。エピクテトスは初めての辛い旅にも黙々と耐えた。落伍者は出なかった。ひとつには奴隷商人が親切だったからである。水も食料も適当に与えてくれた。木陰があれば休憩も取ってくれた。もっとも、この親切は商売上必要な親切であった。奴隷たちは商品なのである。まだ、小アジアを出たばかりである。なのにくたばられたり、傷ものになられては困る。商品の鮮度を保つことも商人の腕であった。
エピクテトスたちは港町で別の商人に引き渡された。エピクテトスにはそれが何という港だか分からなかった。小アジアからギリシア、ローマへの航路はいくつかあって、その寄港地でエーゲ海に面した都市としてはこの場合はエフェソスやスミルナがあった。これほどの有名な都市ではなくて漁村のような港からも船は出ている。
奴隷の船輸送をする商人はその港で各地からの奴隷の頭数が揃うまで待った。ローマ帝国の属州のうちこの港を利用するのは、キリキア、カッパドキア・ガラティアなどの各地方であった。ローマの侵略は進展中である。奴隷の供給地は増える一方で、そのための値崩れすら心配されている。
船団は出発するにあたり、海神ポセイドンに生贄《いけにえ》を捧げて航海の安全を祈る。ふつうは羊や山羊が使われるのだが、折り悪しく家畜が手に入らなかった。
「仕方ねえや」
奴隷商人はそう言うと、ガレーの船倉へ悄々《しょうしょう》と入って行く奴隷の列に割って入った。商人はエピクテトスの前にいた子供奴隷を引き抜いた。その少年は喚《わめ》く間もなく縛られて石を抱かされた上、舳《へさき》から海に突き落とされた。船乗りと商人はそうしてポセイドンに加護を祈った。エピクテトスのすぐ後ろにいた中年男がくっくっと笑った。奴隷商人の手下である。奴隷たちの監督係兼世話係である。
「お前、命拾いしたな。親方の指がもう一人ずれていれば、今頃はお前が海の底だ。さぞかし冷や汗をかいて、ほっとしているだろうな」
とエピクテトスに言った。エピクテトスは無表情に、鈍く光る目をその男に向けた。
「それでもいい」
と言った。
男は驚いたような顔になった。
『なんて目をしてやがる』
エピクテトスは生贄にされても別に構わなかった。縛られて海に落とされる。エピクテトスの呼吸の能力を試す機会であった。エピクテトスはここにいる誰よりも海底で長く生きる自信があった。息が続いている間に縄を解くことができないとも限らない。エピクテトスは神がなぜ自分を選ばなかったか、黙って考え続けた。
船倉の旅は陸路のように楽ではなかった。しかし、やっとこれで奴隷並みの扱いを受けるようになったのである。奴隷たちは手に鎖をしたまま船倉に蹲《うずくま》った。船の積載量ぎりぎりに奴隷を積んでいる。奴隷は生きているのであり、黙って積まれている鉄鉱石や穀物袋とは違うのである。つまりは生存に劣悪な環境が出現した。船酔いのため嘔吐して苦しむ者。嘔吐しきれずに窒息する者。衰弱する者。船の揺れに合わせて奴隷も揺れ、そのため圧殺される者。もちろん糞尿は垂れ流しである。奴隷の世話係たちは死んだ者を引きずり出して海に捨てた。疫病が起きないようにである。奴隷の減少数は勘定に入っていた。奴隷商人は平気な顔をして甲板にいる。
「あと二十ですむと上出来だ」
と呟きながら葡萄酒を含んだ。
エピクテトスも船酔いした上、左右からの人間の圧迫に耐えかねていた。おそろしい苦痛だった。隣の者が胃汁をエピクテトスに向かって吐いた。エピクテトスは耐えた。
「お前が死ねばいいんだ、そうすりゃ、こっちが楽になる」
奥で悲鳴のように叫んだ者がいた。人数が減ることはこの苦痛から逃れる、善いこと、であったから、聞いていたほとんどの奴隷は声もなく同意した。だが、エピクテトスはそれに激しく反対したかった。
『みなこれに辛抱して、生きろ』
と思った。声が出せれば叫んだかもしれない。やがて、エピクテトスの隣の奴隷が死んですぐに除去された。この時、エピクテトスは生まれて初めて、多数の人間のあっけない死を見た。エピクテトスはその底知れぬ恐ろしさに対して、必死に非人情《アパテイア》で接しようとした。そうでもしなければ繊細な精神は狂気に犯されてしまう。空間が少し楽になった。エピクテトスは日課のようになっていた呼吸を止める訓練を何日ぶりかに行うことができた。
奴隷たちもようやく船に慣れて、死ぬ者もほとんど出なくなった。船乗りが、
「あと二日だっ」
とあちこちで怒鳴った。生き延びた奴隷たちは、やっと生命と精神に余裕を持った。
例によってエピクテトスは止息の練習をしていた。エピクテトスの横にいた奴隷が好奇心を抱いたようであった。異郷の者であろう。エピクテトスが初めて見る顔形であった。
「何をしているんだね」
と男が訊いた。エピクテトスはしばらくして、息を吐き出してから答えた。
「止息を」
「息を止めてどうする」
「耐える。死ぬまで耐えるつもりだ」
とエピクテトスは胸を張って答えた。男はにやにやと笑った。
「ほう、坊主は何にかぶれた? 犬儒《キニク》か。年端《としは》もいかない者ほど真面目に哲学にかぶれる」
「哲学?」
エピクテトスは首を振った。
「昔、ゼノンという男がいた。奴は最後に息を止めて死んだ。その真似なんだろう」
「セノン? その人は死ぬまで息を止めることができたのか」
「いまでも有名なはなしだ」
エピクテトスの表情が変わっていた。
ゼノンという名前はギリシア、ヘレニズム時代に何人か現れる。その中で特に有名なのが、一人はパラドックスで有名なエレア派のゼノンであり、いま一人は柱廊《ストア》派の始祖であるキュロスのゼノンである。息を止めて自殺したと伝えられるのはキュプロスのゼノンの方である。この時期から約三百年ほども前にアテナイで没している。彼の創始したストア哲学は学統を保ち、ローマの世にもなお健在であった。
「そのゼノンの話をしてくれないか」
とエピクテトスは男に頼んだ。
「いいな。暇は対話に使うことだ」
と男は言った。
当時の奴隷は皆が皆、知的水準が低いとは一概には言えなかった。都市国家ローマはギリシア、ペルシャ、マケドニアの興亡を横目で見ながら自らは、イタリア半島の覇権を血染めで奪った。王政、共和制と変遷し、力を貯え、宿敵カルタゴを屠《ほム》った後、大侵略者と化した。帝政ローマとなってから属州を加速度的に増やしていった。そして新たに属領になった地方の住民を奴隷に落として使っている。ギリシア世界の人々はローマ人よりは明らかに文化度は上で、そういう者たちを奴隷として使うのである。主人よりも教養のある奴隷が数多かった。エピクテトスの隣に居合わせた男はギリシアから流れた者だったが、故に暇話に哲学を語っても不思議はないのである。
エピクテトスは男の話を食い入るように聞いた。自分のやろうとしたことを大昔にやった男、ゼノンに対して異常な興味を抱いたのである。ただ、男の話はエピクテトスにはやや不満となった。男は系統立ったストアを知っているわけではなく、話はソクラテスに及んだり、ディオゲネスに及んだり、犬儒学派に及んだり、ギリシアの神々の話に及んだりした。エピクテトスは黙って聞いていて、興味を引かれるとしつこく質問をした。それは船が港に到着するまで続き、男は最後には憎らしげにエピクテトスをにらんだ。寝る間も取られてしまったからである。
『セノンという男の教説をなんとか聞けぬものだろうか』
エピクテトスは本気でそういう希望を持つに至った。後にその希望はローマでかなえられる。ムソニウス・ルフスというストア学者に師事するが、期間は非常に短い。
着いた港はブルンディシウムであったろう。そこから陸路をとりタレントゥムヘ行く。アッピア街道はすでにローマ―タレントゥム間の敷設《ふせつ》が完了しており、街道の両脇をローマ化し続けている。奴隷たちは幾つかの集合に分けられた。それぞれが違った都市へゆくのである。それぞれは新しい奴隷商人に売り飛ばされた。海路を担当する商人の仕事はそれで終わるのである。
エピクテトスはさっきの男にまだ聞きたいことが山ほどもあった。しかし、別の集合に分けられてしまった。エピクテトスの集合の奴隷商人は軍人の身なりをしていた。豊かに髭を生やし、悠々と馬上にある。ヘルメットこそつけていないが、すぐにでも戦えそうな服装であった。
エピクテトスは後に知ったが商人の名はヴィテリウスという。ローマの親衛隊長である。これがローマ帝国の通弊の一つであるが、ヴィテリウスはガリアの傭兵《ようへい》であった。享楽に慣れたローマ人は軍事という国家の重大事項を傭兵に頼りきり、平気となっていた。特に親衛隊は皇帝に強権を与えられている。傭兵にはローマへの忠誠心などはないに等しい。戦争中でもないのに職務に忠実である必要はない。ヴィテリウスは商隊長として金を稼ぐことにしている。
ヴィテリウスは奴隷に対してこれまでのどの商人よりも冷たかった。休息はほとんどとらない。水も食料も雀の涙ほどを地にばら撒くだけである。奴隷たちは鎖で互いに邪魔し合って、地上の食物に群がった。エピクテトスは食料取りの争いに加わらず、平然とそれを見ていた。顔は俯《うつむ》かず、視線は遥か彼方にそそがれていた。ヴィテリウスはそのエピクテトスを冷淡な表情で見ていた。
ヴィテリウスはつつとエピクテトスに馬を寄せた。いきなり馬上から鞭《むち》を使い、エピクテトスを打ち据えた。エピクテトスは、ぐっ、という音を発して地に倒れた。容赦のない一撃だった。まだ未発達のエピクテトスの肉体には過酷すぎるものであった。ヴィテリウスはもう一度打った。エピクテトスははっとして呼吸を止めた。エピクテトスの上着が裂けて、赤く腫《は》れ上がった背中が露出した。ヴィテリウスはなおも打った。エピクテトスは悲鳴を上げなかった。呼吸を止めるという、彼の苦痛に満ちた訓練の成果が他の苦痛に対してもある程度の耐久力をもたらすようになっていたようである。
エピクテトスはゆっくりと身体を起こして、ヴィテリウスを見上げた。何故だ、という疑問が心の裡《うち》にある。何故、この商隊長は自分を打つのか。
「奴隷の顔をしろ」
とヴィテリウスは言った。
「気に入らぬ顔つきだ。そんな面では、売れん。もっと奴隷らしく卑屈で、怯えた様子をしろ。お前は奴隷の顔をしていない」
エピクテトスは激痛を堪《こら》えて淡々と言った。
「この顔は私が作ったものではないのです」
ヴィテリウスはもう一度打った。
エピクテトスの鞭傷は一歩ゆくごとに、疼《うず》きを発した。エピクテトスは異常に発汗しながら歩いた。しかし、一度も足を止めることはなかった。苦痛の声を一度たりともあげることがなかった。ヴィテリウスが嫌った遠くを見つめる鈍く光る目は変化がなかった。また、エピクテトスは正面を見て歩いた。
『こやつ』
ヴィテリウスは馬から下りると、拳《こぶし》でエピクテトスを殴りつけた。そして、身体を靴で踏みにじった。
「いいかげんにしろ。お前は奴隷なのだ。おれはな、お前の為を思ってこうしている。奴隷らしくない奴隷など早いうちにこのように殺されるだけだ」
ヴィテリウスの部下が慌《あわ》てて止めに入った。エピクテトスは気絶していた。
「ちっ」
とヴィテリウスは唾《つば》を吐いた。部下が、
「それほどこの奴隷がお気に召さぬのならば直《ただ》ちに首を落として、鳥の餌《えさ》にでもしてしまいましょう」
と言った。すると、ヴィテリウスは無言でその部下の横面を張り飛ばした。部下はふっ飛んだ。泡を吹いて失神している。他の部下は恐れて、ヴィテリウスから離れた。
「この奴隷に水をぶっかけろ。死なすな」
とヴィテリウスは肩で息をしながら言った。部下たちはエピクテトスに水をかけた。なかなか意識を取り戻さなかった。しばらくしてエピクテトスは目を開いた。
「名を何という」
ヴィテリウスは鋭い声で訊いた。エピクテトスは口から血をこぼしながら、
「エピクテトス」
と言った。ヴィテリウスは振り切るようにエピクテトスから目を逸《そ》らすと、合図した。再び行進が始まった。
ヴィテリウスは何故かエピクテトスという少年奴隷が気になって仕方がなかった。遠い目をしている。何も恐れていないかのような面で、しゃあしゃあと生きている。分からない。気に入らない。その気分が自分でも抑制がきかないくらい高まると、気付いたときにはエピクテトスを打ち据えている。打った後、急に心が落ち着かなくなった。おろおろと、エピクテトスが死んでしまったのではないかと、恐怖に似た感情を抱いた。部下がエピクテトスを蘇生《そせい》させるまでヴィテリウスは戦慄《せんりつ》と闘っていた。部下には激怒の面《おもて》でエピクテトスを見下ろしていると見えたかもしれないが、逆であった。エピクテトスが意識を取り戻すと、巨大な安堵感を得た。
『どういうことだ……。あやつはおれにとって一体何者なのだ』
ヴィテリウスは己《おのれ》の心理が不可解で仕方なかった。
『おれの心を掻《か》き乱す憎いやつだ』
殺そうと決意してサーベルに手を掛けたことも一度や二度ではない。その度に神の禁忌《きんき》を犯す時のような恐怖感が胸をよぎり、果たせないでいた。
結局、エピクテトスの表情はヴィテリウスの望んだようにはならなかった。依然として余人には窺《うかが》い知れぬ、深い水をたたえたような瞳をしていた。ヴィテリウスも最後にはエピクテトスを殴らなくなった。ヴィテリウスはまだ気付いていなかったが、心の一部はエピクテトスに魅了されていた。ヴィテリウスはエピクテトスに何か得体《えたい》の知れない、だが非常に大切なものを見出していた。何に対して重要なのかは、明白であった。人生に対してである。ヴィテリウスはもはやエピクテトスから目を離すことができない人間になっていた。
ヴィテリウスの目的地はローマであった。エピクテトスは小アジアの片田舎から上京したことになる。だが、当時のローマは帝国の首都などという卑小な言葉ではとても言い表せないものである。ローマは中心であった。世界の中心なのである。
エピクテトスはローマに入る前から、その目を瞠《みひら》き続けにした。ローマに近付くにつれて顕著なのはその道路の完備ぶりである。当時、ローマを中心に四方八方に幹線道路が伸びていた。イタリアだけでも約四百の幹線道路があり、この道路網の上をあらゆる交通が緻密《ちみつ》に移動していた。一キロごとに里程標が立ち、十キロごとに駅《スタテイオ》があり、三十キロごとに宿場《マンシオ》があった。交通警察隊が存在し、駅、宿場を巡回している。エピクテトスは無関心を装う努力を払い続けねばならなかった。ここまで旅をしてきたが、こんな凄まじい整備工事は見たことがなかった。
『神にあらず。何者の業《わざ》であろうか』
エピクテトスは驚嘆した。しかし、これもまだローマにとっては序の口である。大ローマ市内には信じられないような華麗な建築物が林立し、上下水道が完備している。街には闘技場、浴場、集会所、公園などの公共施設が十分以上のスペースと数をもって存在し、酒場はおろか売春宿、賭博場まで白昼堂々と営業しているのである。そしてそこに住む人々の神をも恐れぬ豪奢《ごうしゃ》ぶりがある。エピクテトスの驚倒はローマに入ってからも長い間続くことになる。
エピクテトスたちはアッピア街道から、ローマという怪物の中に飲み込まれていった。この時期のローマ皇帝はドミティウス・アエノバルブス。ネロ帝である。ネロは暴君だと言われている。この前年に例の大火が起きたことは事実である。六日と三日の計九日間もローマ市街は燃え続けた。この火事はネロが命じて火を付けさせたともいうし、また、そうでないともいう。ネロはその火事をマエケナス塔という安全な場所にいて恍惚《こうこつ》と眺めていた。そして舞台衣装をつけて、自分を史上最高の声楽家と見做《みな》し、「トロイアの陥落」全篇を歌いきった。民衆はネロの放火だと信じて疑わなかった。ネロは犯人はキリスト教徒であると決めつけて、キリスト者の大虐殺を開始した。エピクテトスが踏み込んだのはそのネロによる、狂乱と享楽のローマであった。そして、言うまでもなくエピクテトスは一奴隷にすぎなかった。
二
奴隷市場でヴィテリウスの連れてきた奴隷は次々に捌《さば》けていった。奴隷たちは市場に陳列されて、ローマ市民の買上を待っている。前年の大火事で多くの奴隷が焼死していたので、奴隷の補充が急がれていた。少々高値をつけても支障なく売れた。エピクテトスだけはヴィテリウスの懸念どおり、なかなか売れなかった。ヴィテリウスの心境は複雑であった。内心では誰もエピクテトスを買わないであろうことに喜びに似た気持ちを抱いている。あれは買われるような代物《しろもの》では断じてない、と思い含み笑いをした。同時にエピクテトスが人目を惹かないことにいらだたしさを覚えている。エピクテトスの価値が分からない間抜け野郎どもめ、と悪態をついた。
「ヴィテリウス、こいつはどうだね」
とある男がエピクテトスを指して言った。男はエパプロディトスという。ネロの秘書官として嘆願受理係をしている男であった。ヴィテリウスは親衛隊長であり宮廷に出入りするから、エパプロディトスをよく知っている。嫌な男であった。エパプロディトスはもともとはネロの奴隷であった。おそらくネロに下劣な嫌らしい貢献をしたのであろう。その結果、解放されてネロの秘書官となり、今では羽振りよく暮らしている。ローマでは奴隷は条件を整えれば解放奴隷となり、市民となることも可能であった。
エパプロディトスはヴィテリウスとは違った意味でエピクテトスに魅かれるものを感じた。
『面白そうな小僧だな。面が珍しい。いい暇潰《ひまつぶ》しができるかもしれねえ』
と思った。
「どうなんだ、このエパプロディトスにこいつを売るかね、ヴィテリウス」
エパプロディトスは言った。ヴィテリウスは顔を歪《ゆが》めた。この男には売りたくないが、とその表情が言っていた。エパプロディトスはますます面白くなった。
「決めた。もらうぜ」
ヴィテリウスは頷《うなず》くしかなかった。エパプロディトスに逆らうわけにはいかない。このネロの側近がネロにほんの少しでもヴィテリウスを中傷するだけで、ネロは喜んで首斬り許可の判決文書にサインするだろう。
ヴィテリウスはエピクテトスの鎖を外しながら、ぶっきらぼうに言った。
「達者でな。あいつは本物の糞野郎だ。どうにも仕様がないときはおれのところへ逃げてこい」
ヴィテリウスはまさか自分がこんなことを言い出すとは、と感じ照れたような顔になった。エピクテトスはヴィテリウスの奇妙な情けに対して、傲慢《ごうまん》ともいえる無表情で報いた。
「心配には及びません」
エピクテトスはやや声を落とした。エピクテトスの心は石でも消し炭でもない。ヴィテリウスの友情を感じている。だが、エピクテトスは常の態度を貫いて、表には出さなかった。エピクテトスは自分の裡に一つの哲学体系を構築しつつあった。ヒエラポリスを出て以来、言葉と観念は音を立てて構造を作ったり崩れたりした。さらにエピクテトスには息を止めて死ぬ訓練を積んだという一種の苦行体験がある。また、断片に過ぎないがストアというエピクテトス好みの実践思想を得た。エピクテトスの目はぼんやりと彼方を見ているが、その思索は猛烈な勢いで回転している。
エパプロディトスは「語録《デイアトリパイ》」(アリアノスによるエピクテトスの言説集)の中で、このようになってはならぬ好ましくない人物、として幾度か引かれる。具体的にはネロの密偵のような事をした。それもネロに忠実な密偵ではなかった。ネロの一家の者がぺリキオという靴屋を雇ったが、実はぺリキオは以前にエパプロディトスが使っていた奴隷であった。エパプロディトスはネロ一家に入ったペリキオと早速通じて密談したという。ネロのような君主に仕えるには自衛のために探りを入れておかねば安心できなかったということだろうか。また、ピソ事件というネロ帝打倒の陰謀が発覚した時、エパプロディトスは関係したネロの政敵の口を割らせるために動いてもいる。
エパプロディトスの邸宅はかなり大きなものであった。流行のギリシア風の作りがなされている。
「おれも昔はお前と同じ、奴隷だった。だが見てみろ、この家を。器量があればここまでやれるんだ」
エパプロディトスはエピクテトスに言った。エピクテトスは無表情に眺めるだけである。
「他に奴隷はいないのですか」
この大きな家を切り盛りするなら、あと何人か奴隷が必要なはずである。エパプロディトスは低く笑った。
「いるさ。だが、使えん奴ばかりでな。お前はそうじゃないだろう?」
エパプロディトスは凶悪と言ってもいい不気味な表情を覗かせた。笑顔の中にどす黒い何かが蹲《うずくま》っている。
「初仕事だ。おれの服を着替えさせろ」
エピクテトスは言われるままに、エパプロディトスの平服《トーガ》に手を掛けた。エピクテトスの手が一瞬、止まった。エパプロディトスの背中や腹には無数に古傷があった。どれも生易しい傷ではなかった。肥満した肉の上に赤味がかった山脈が幾筋も走っていた。エピクテトスは家着を着せて、そのおぞましい傷を隠した。その上で、エパプロディトスは、
「どうかしたか?」
と訊いた。
「いいえ」
とエピクテトスは答えた。エパプロディトスは期待が外れたような顔になった。今まで連れてきたどの奴隷にも最初にこの着替えを初仕事としてやらせている。振り向いて、その奴隷どもの怯えた、引き攣《つ》った顔を盗み見るのがまず最初の楽しみなのである。怯え、青ざめた美少女や美少年の奴隷の姿はエパプロディトスの背筋に快感を走らせる。彼らは自分のこの後の運命をエパプロディトスの異様な傷跡群の中に知るのである。エパプロディトスは生殺与奪の権を持っている。以前、エパプロディトス自身が彼の主人に施された残虐の数々を、この者たちに施すことを許されている。奴隷の扱いを監督する法律がローマにあり、監察官は無用の虐待を摘発することになっている。だが、そんな制度がまともに機能していないことは誰もが知っていた。美しい少年少女が、それを悟り見せる、初々しい恐怖と諦めの表情をエパプロディトスは好んだ。ところが、エピクテトスはまるで変化がなかった。ヴィテリウスの市で買ってきた時とそっくり同じ表情をしている。
「お前、こけか」
と本気で訊いた。
「いいえ」
とエピクテトスは答えただけであった。エパプロディトスはにたりと笑った。
「そいつは、面白い」
エピクテトスはエパプロディトスの異様な嗜虐《しぎゃく》心の炎に油を注いでしまった。エピクテトスはそれを感知していた。だが、エピクテトスは小揺《こゆ》るぎもしなかった。次の瞬間、エピクテトスはエパプロディトスの拳を受けて倒れた。
「奴隷は主人に気に入られるようにするもんだ。お前はしょっぱなから、外しやがった」
エパプロディトスは舌なめずりしながら言った。
『さて、この小僧が今からどんな泣き喚き方をして、おれに忠誠を誓うか楽しみだて』
だが、エピクテトスは泣き出しも、追従《ついしょう》並べもしなかった。ふらふらと起き上がった。その顔には恐れも怯えもまったくなかった。エパプロディトスの頭に血が上り、見境いが失われた。エパプロディトスはそばにあった杖を掴むと狂ったようにエピクテトスを打ち据えた。エピクテトスが倒れて動かなくなってもまだ杖を打ち下ろした。杖が割れてから、やっと打つことを止めた。エパプロディトスの吐いた痰《たん》がエピクテトスの血塗《ちまみ》れの顔にかかった。
エピクテトスは死ななかった。二日後、奴隷部屋で意識を取り戻した。まず看病してくれたらしい奴隷の顔が目に入った。ここがどこだか気付くのにしばらく時間がかかった。まだ若い娘だったが彼女の顔も青黒く腫れ上がっている。この家の奴隷はエパプロディトスに責められるために飼われているのである。娘はエピクテトスの傷に油を塗ってくれている。エピクテトスは娘に言った。
「痛いかい?」
娘の顔の腫れが痛そうだった。だから、尋ねてみた。娘は首を振った。
「それはよかった」
とエピクテトスは言った。また目を閉じた。
エパプロディトス家を一人の老人が訪れたことがあった。老人はセネカである。ルキウス・アンナエウス・セネカはヒスパニア人の富豪の家に生まれ、若くして哲人の名声を得た。弁論家としても声望は高かった。系譜としてはエピクテトスと同じくローマ・ストアの代表的な哲人である。
しかし、セネカは単なる哲学者ではなかった。カリギュラに憎まれて死刑を宣告されたものの逃げ切り、クラウディウスにはコルシカへ流された。八年後、ネロの母親のアグリッピナに招かれて再びローマに登場した。少年ネロの家庭教師となり、ネロの即位後は後見人となって政治に容喙《ようかい》した。アグリッピナがネロによって暗殺された後は、もはやネロに影響力を持つ者はセネカのみとなった。ネロの最初の五年間は賢帝として市民を安心させたが、これは皇帝の名においてセネカが統治していたからであるという。当然、セネカは当時の権勢第一となった。良心にそれほどこだわらなかったから、地位を利用して財をなしたり、政敵を陥れるくらいはやった。
そのセネカもようやく限界を迎えた。政敵が増え過ぎたし、また、ネロの乱脈を抑えることが出来なくなっていた。ローマではこの所、性格破綻者としか解しようがない皇帝が一部の例外を除いて続いている。聡明に見えたネロにもやはりその血が潜在していたらしい。セネカにはもはやネロの破滅は視《み》えるが如くとなっていた。ネロを批判し、怒らせたついでに致仕《ちし》した。田舎に隠遁《いんとん》して、ネロの破滅の余波をかぶることがないようにするためである。セネカとエパプロディトスとは言わば、ネロを中心に置いた仲間である。出立にあたっての挨拶くらいはする。セネカはエパプロディトスとしばらく世間話をした。ネロへの批判などは一言も口には出さなかった。そんな中、料理や飲み物を運んできた奴隷の中にふと目についた者がいた。エパプロディトス家の奴隷はどれもこれも怯えた、いじけた顔をしている。しかも、必ずと言っていいほどどこかしら怪我をしている。セネカはエパプロディトスの悪癖を知っているので、あまり気にしないようにしていた。その中に一人、顔を上げて、光る目をした少年奴隷を見つけた。こんな顔をしている者は世間にもざらにいない。とくに天罰が下りそうなほど傲慢で、最悪の風紀の中で生活しているローマ人には完全にいなくなった。敬虔《けいけん》で誇り高く忍耐強い顔である。その少年も殴られ蹴られた跡が生々しかった。しかし、その表情の自然に満ち足りた感じはセネカの心を打った。セネカに自らを省《かえり》みて、恥ずかしいという感情すら抱かせた。
「あの少年の奴隷は……?」
とセネカは思わずエパプロディトスに尋ねていた。
「ただの奴隷ではあるまい。苦難に耐える強い精神が表れている」
「なあに、でくのほうよ。小賢《こぎか》しい面《つら》をしているだろう。むかむかする」
エパプロディトスはそう言いながら、にやにやした。
「だが、殴り甲斐があってな。いい買物をした」
エパプロディトスはエピクテトスの忍耐力に呆《あき》れながら、苛《いじ》めつけていた。普通の人間なら涙を流して命乞いをしている。あるいは精神に異常をきたすか、自殺しているだろう。だが、エピクテトスは連れてきた最初の日から、まったく変わらなかった。エパプロディトスはエピクテトスを必ず屈服させてみせるという快感に満ちた決意を固めていた。セネカはエピクテトスをもらい受けたいと申し出ようとした。が、すぐ諦めた。エパプロディトスという男の性格をよく知っていたからである。手加減せよと頼めば、喜んでさらに残虐になるという手合いである。
セネカはエパプロディトスがまだ奴隷でネロに仕えていた頃、どんな仕打ちを受けたか見ていた。少年ネロは聡明で感受性豊かな反面、救いようのない残虐性を持っていた。セネカはネロの残虐嗜好を矯正できなかった。ネロは今はキリスト教徒や政敵、妻妾に向けている残虐性をその頃は動物や奴隷に向けていた。その虐待にかけるエネルギーは只事ではなく、セネカは慄然《りつぜん》として声を失ったほどである。奴隷エパプロディトスはネロの嗜虐心を受け止めて生き残り得た非常に頑丈《がんじょう》な男だった。だが、その精神は相当に歪んだまま残された。
セネカは心を残して去った。この後にセネカはピソ事件に連座して、ネロに死刑宣告を受ける。セネカはまったく怯えることなく、妻を抱いて慰め、心静かに毒をあおり、血管を開いた。その死に様はストアの面目躍如としている。半生は世俗にまみれたとはいえ、セネカはストアを奉ずる人間だった。セネカがエピクテトスの姿に感ずるものがあったのも同じ哲学を奉ずる者として当然のことであったと言えよう。
エパプロディトスは悪夢に魘《うな》され続ける男である。彼がネロの奴隷だった頃、どういう扱いを受けたかは想像に難《かた》くない。ネロは庭に猛獣を飼って、朝食前に必ず鞭を入れるような人間である。猛獣をたけらせて奴隷と格闘させながら食事をした。そんな遊びにもすでに飽き飽きしている。エパプロディトスには地獄のような日々であったろう。奴隷時代に受けた数々の残虐な仕打ちの記憶は汚穢《おわい》な沈殿物となり、彼の精神の深いところに堆積《たいせき》していた。日常でも、ふと、その沈殿物が揺さぶられて意識に上ることがある。そうなるとエパプロディトスはもはや自分の意志では異常な暴力の発動を止められなかった。身近にいる奴隷を殴りつけるしかない。かつて妻を得たこともあるが、彼女もその犠牲となった。
エパプロディトスは真性のサディストではない。トラウマを癒《いや》せずのたうち回る病人なのである。エパプロディトスはそれに気付いていなかった。奴隷を脅し凶暴に打撃する時だけコンプレックスを麻痺させることができた。暴力による爽快感は永続的なものではない。殴りつけた拳から相手の骨肉の感触が消えると同時に失われる頼りないものである。奴隷が死ぬことは別に構わなかった。やり過ぎれば死ぬのが当然であり、また、代わりはいくらでもいる。エパプロディトスは魂から血を流しながら、永劫《えいごう》に暴力を振るい続けなければならないのである。
エパプロディトスは解放奴隷となり、財も貯え、やっと市民らしい生活が出来るようになった。自分が奴隷を使う立場となることには忌避感すらあった。だが、ローマ市民には奴隷は必需品である。買ってきた奴隷を酔って殴ったことがあった。その時、異様な解放感を覚えたような気がした。エパプロディトスは訳も知らず、その娯楽を止められなくなった。以来、何人の奴隷を殺し、不具にしたか知れない。
今、エパプロディトスはエピクテトスという奇妙な奴隷を得た。そこまでは今までと変わらなかった。気ままに殴り、打てばよいのであり、娯楽にすぎない。ところが、日を経るに従って、娯楽が変容していった。エピクテトスのせいである。エピクテトスは今までのどんな奴隷とも違っていた。確かにエピクテトスは頑丈であった。身体はまだ細いのだが、エパプロディトスの拷問に近い責めに耐えることができた。だが、エピクテトスはそれだけではなかった。精神までじっと耐え続けているのである。泣きもしない、喚きもしない。逃れたさにエパプロディトスに媚《こび》を売ろうとしない。ただ、平然とエパプロディトスを見つめている。エパプロディトスは逆上する。目の前が加虐の衝動で真っ赤になり、自制心を失ってエピクテトスを殴り続けた。気付いてみるとエピクテトスは滅茶苦茶な姿で床に伏している。エパプロディトスは荒い呼吸をしながら、自分の手を見つめた。自らの爪が剥《は》がれていることもあった。エピクテトスは高熱を発して寝込むが、少し治ると、足元をふらつかせながらでも労働を再開する。エパプロディトスはエピクテトスに暴力をふるう意味を失おうとしている。エピクテトスを懲《こ》らしめてもまったく爽快感も解放感もなかった。ただ、エピクテトスの意味ありげな目に見つめられて逆上した。
エピクテトスは自分はじきに死ぬにちがいないと感じている。あの主人に殺されるだろう。エピクテトスはそう確信しているにもかかわらず、平静であった。エピクテトスは満足していた。エパプロディトスの凶暴な攻撃を受けても自分の魂は少しも揺るがず、凪《なぎ》の海のような平穏を保っていることに自足しているのである。奴隷エピクテトスにプライドがあるとすればその一点だけであった。
エピクテトスは近所に手紙の使いに出されることが多かった。手紙を受け取ったエパプロディトスの陰謀仲間はエピクテトスを気味悪そうに見て、逃げるように扉を閉じた。エピクテトスの顔面は醜く腫れ上がり、人間の顔をしていない時すらあったのだ。街をゆくエピクテトスはまるで見せ物である。大人は彼をよけた。子供は石を投げる。女はあざ笑った。かつてローマ人は男女とも質実剛健で、市民の義務を守ることが至上の善と心得ていた。ローマが世界帝国となり得たのもローマ市民のその性格ゆえである。しかし、占領した属州の洗練された文化の流入がローマ人の美徳を徐々に腐らせていった。純白のトーガがローマ人男子の誇りだった。今では悪趣味な色使いの、トーガとはとても呼べないような布切れを身体につけている。属州から流入した装飾品で指先から頭までを飾り立てた。そして例外なく肥満している。
ローマの女は家庭の守りを捨て、金銀宝石細工を身にまとい、肩をあらわにした羽織《パツラ》をつけて街に立った。主婦か街娼か見分けがつかない有り様である。未婚の娘にも貞操観念などはまったくない。セネカは「情夫二人で満足するような貞淑な妻を見つけることができれば、その夫はよほど幸運である」と本気で述べている。エピクテトスはそんな街を血塗れの、死人のような姿で歩いた。エピクテトスにも当然ながら女性に対する憧れはあった。小アジアにはキュベレーを始めとする女神たちがいる。貞淑な女神もいれば、淫奔《いんぽん》な女神もいた。どれも男にとっては憧れるべき存在である。エピクテトスはローマに来て、いろいろな女を観察する機会を得て、その憧れを粉々に粉砕された。エピクテトスはそれにも平然と耐えた。女に対して誤った観念を抱いていた自分が悪いのだと当然のように思った。後年の話である。その頃はエピクテトスは少年時代とは別人のような、ユーモア好きで口うるさい村夫子《そんぶうし》の哲人になっていた。エピクテトスの主張は学ぶ者といえども結婚すべきだということであった。だから、弟子たちには頻《しき》りに結婚することを勧めた。するとデモナックスという弟子がすかさず、
「ではエピクテトス先生のお嬢さんをいただきたい」
と返答したという。エピクテトスは主張と矛盾するようだが、生涯独身であった。デモナックスはその点をついて、エピクテトスから一本取ったのである。独身を通した理由をエピクテトスは語らなかった。エピクテトスのような人間離れした意志の持ち主にもコンプレックスはあったようである。
快楽の為の作業がいつしか苦行に化《ばけ》るとはよく起きることである。エパプロディトスがまさにそうなっていた。エピクテトスの態度に畏怖《いふ》を感じ始めていた。エピクテトスが目の前に立つと圧迫されるような気がした。勿論《もちろん》、殴りつけ、蹴りつけた。その度にエピクテトスは難なく地べたに這った。しかし、エパプロディトスは解放感を得ないどころか、逆に胸を圧搾されるような苦痛を感じた。原因ははっきりしている。この目の前の奴隷である。エパプロディトスには分からなかった。エピクテトスは白痴か、あるいは苦痛を感じない体を持った異常者なのに違いない。しかし、エピクテトスは白痴ではない。かなりの知能を持っている。エピクテトスに帳簿付け、手紙の代筆などをさせると楽々とこなした。連れてきた当時はエピクテトスはほとんど文盲であった。ギリシア語もラテン語も満足に読み書きできなかったのだ。それが、短期間で身についてしまったのである。また苦痛に鈍感とは言っても、あれだけ痛めつけられて平気なはずがなかった。激痛に耐え、発熱を無視し、恐るべき精神力を振り絞って仕事を遂行しているのである。エピクテトスが異様な精神力で辛抱していることはその目を見れば分かった。エピクテトスが何故耐えられるのか分からなかった。エパプロディトスはエピクテトスを化け物と信じ、剣で突き殺しそうになったことも何度もある。その度にエピクテトスは、さあ、突いてください、と言わんばかりの表情を見せる。エパプロディトスは必死で思い留まった。殺してしまう前にエピクテトスの得体の知れない矜恃《きょうじ》を打ち砕かねばならなかった。そうしなければエパプロディトスは死んでしまうだろう。彼は追い詰められていたのである。
これはエピクテトスとエパプロディトスの戦いであった。エパプロディトスは何としてもエピクテトスを屈服させねばならない。生かしたままである。そうしなければエパプロディトスは否定されてしまうのである。何故、この奴隷に自分が否定されねばならないのかという強迫観念がある。殴打は解放感を得るためのものではなくなった。エパプロディトスがエピクテトスを否定するための必死の行為である。棒も鞭もエピクテトスの攻撃を防ぐための武器となった。エピクテトスの武器はと言えは、その静かな表情と深い色の目だけである。本当なら何も恐れることはなかった。しかし、エパプロディトスは日に日にエピクテトスに圧倒されてゆく自分を感じていた。エピクテトスが食事を運んで来ただけで、悲鳴をあげながら殴りつけなければならなくなった。
エパプロディトスはついに決意した。
『これで奴が泣きを入れなかったら、殺してしまおう』
エパプロディトスが用意したものは足伽《あしかせ》であった。ただの足伽ではなく、拷問用の締め木付きのものである。エパプロディトスはエピクテトスの足にそれをはめた。手が震えていた。自分が恐るべきことをしようとしているという意識があった。エピクテトスは無言でそれを見ている。止め金を絞り、足伽を締めていった。エピクテトスが、くっと歯を食い縛るのが見えた。エパプロディトスは途端に恐怖に襲われた。禁忌を犯そうとしている恐怖感である。禿げた額《ひたい》から脂汗《あぶらあせ》が流れ、身体は震え続けていた。それだけはやめろ、とエパプロディトスの中で何かが叫んでいた。エパプロディトスは呻き声を上げた。突然、この場から逃走したいという衝動にかられる。
『貴様、はやくおれに詫びろ。泣け。不運を嘆いてみろ』
エパプロディトスは救いを求めるようにエピクテトスを見た。エピクテトスは自分の足をただの物体のように眺めている。
「旦那様は私の足を折るのですね」
と平然と言った。エピクテトスが持つ非人情《アパテイア》の境地には何の変化もなかった。エパプロディトスにはもう手を止めることは出来なかった。涙をこぼしながら締め木を絞らねばならなかった。何故、涙を流すのかエパプロディトスには分からなかった。もはや、勝負は決せられたのである。やがて、エピクテトスの言った通りに足が複雑に折れた。この日からエピクテトスは杖をついて歩く者となった。
親衛隊長ヴィテリウスは久しぶりにローマに戻ってきた。ネロが遠征を計画したから、ヴィテリウスも本業に戻ったわけである。しかし、これは遠征などというものではなかった。初めはネロはどこかを攻めるつもりでいたのだろうが、すぐに気が変わり、ギリシアに向かった。
ギリシアではネロは馬鹿みたいに歓迎された。競技会が連日開かれ、出場したネロはどんな悪成績であってもあらゆる競技に優勝した。また、劇場は連日ネロの為に観衆で満たされた。ネロは舞台で歌い続け、ギリシア人は嵐のような拍手喝采を浴びせた。ローマに帰ったネロは首ひとつあげたわけでもないのに凱旋式を布告して騒ぎまくった。ヴィテリウスは欠伸《あくび》をしていればよかった。ただ、欠伸をネロとその取り巻きに見られないようにせねばならないが。
ヴィテリウスはその足でまっすぐエパプロディトスの邸宅に向かった。その後のエピクテトスの運命を知りたかったからである。もうこの世にいないかもしれない。ヴィテりウスは遠征の間、エピクテトスの事を考えない日はなかった。門を潜《くぐ》ろうとして、馬を止めた。塀越しにエピクテトスとエバプチディトスの姿が見えた。エピクテトスは杖をついている。エパプロディトスに向かって何かを語っていた。エパプロディトスは、これにはヴィテリウスも驚愕したが、その面貌が別人のように変わっていた。いつもの血膨れしたような凶悪な表情は影も形もなかった。ただ穏やかな表情でエピクテトスの言葉に耳を傾けていた。
「奴隷が主人になったか」
ヴィテリウスはにやりと笑うと、訪問を取り止めて、馬首を返した。
エピクテトスは依然、エパプロディトスの奴隷であったが、二度と傷つけられた姿を見ることはなかった。外出の自由を許されると当地の哲学者の門を叩きに行ったりした。
その間、ついにネロ帝は最後を迎えた。ヴィンデクスはガリアで叛《そむ》き、ヒスパニア総督ガルバの軍はローマに迫った。元老院は親衛隊をネロから引き離すことに成功した。ネロは孤立し、逃亡した。その逃亡にエパプロディトスが随行していた。ローマから十キロばかりの場所にあるさる貴族の別邸でネロの進退は窮まった。ネロは自殺すべく、短刀を掴んだ。手が震えて、とても喉を突けるような状態ではなかった。
「そちは落ち着いた顔をしとるな」
ネロは控えているエパプロディトスに言った。エパプロディトスは何事にも動じない穏やかな表情だった。
「手伝え」
エパプロディトスは一礼すると淡々とした動作で、短刀をネロの頸動脈に導いた。
「世界は惜しい芸人を失ったぞ」
とネロは呟いた。エパプロディトスは、
「さようでございます」
と実に平静な様子で言った。こうして、ネロは死んだ。ネロの元奴隷エパプロディトスはようやくネロから解放されることになった。だが、それ以前にすでにエピクテトスによって解放されていたので、エパプロディトスにはとくに感動はなかった。
三
ネロの没後、十三年ほどの間に五人の皇帝が即位して殺された。次にドミティアヌス帝が即位する。これも悪評|囂々《ごうごう》たる独裁者である。エパプロディトスはまだ秘書官を勤めていた。好人物に変身していた彼はネロの死後も宮廷を追い出されなかったのである。ドミティアヌスは迫害と弾圧に狂ったが、これは猜疑《さいぎ》心と不安が常に彼を悩ませていたからである。ある日、エパプロディトスを見て、急に思い出した。
「あの者はネロ帝の自殺を幇助《ほうじょ》したというではないか。自殺とはいえ皇帝に手をかけるとはけしからぬ男だ」
そして、エパプロディトスは突然に死刑を宣告されることになった。エパプロディトスはまったく平素と変わらぬ落ち着いた感度で殺されていった。その落ち着きぶりが不審だったドミティアヌスが近侍の者に尋ねると、
「エパプロディトスはエピクテトスの弟子にございます」
ということだった。
「何者か」
「哲学者にて。当今、ローマでは有名な者のようでございます」
「それは許せぬな」
ドミティアヌスは詩人、哲学者の類にまったく価値を見出さない人間である。即刻、エピクテトスは宮廷に呼び出されることになる。
エパプロディトス邸に来たのはヴィテリウスであった。不機嫌な表情であった。エピクテトスはいまだこの家の一奴隷に過ぎなかった。
「久しぶりだな」
とヴィテリウスが言うと、
「はい」
とエピクテトスは挨拶した。何年たってもこの男は平静さを保っていた。エパプロディトスがああも見事な人間になったのもエピクテトスの力である。ヴィテリウスは感嘆する思いである。だが、その力が逆にエパプロディトスを殺し、エピクテトスに及ぼうとしているのである。ヴィテリウスは直截《ちょくせつ》に言った。
「エパプロディトスは罪を得て、刑殺された。ついては、ドミティアヌス帝がお前をお召しだ。今度ばかりは致し方ない。お前は命を召されることになる」
エピクテトスはこれも見事なまでに非人情《アパテイア》を極めている。
「お待ちを。杖をとってまいります」
と静かに言った。ヴィテリウスはエピクテトスを引き連れてタレントゥムからローマに向かった日々をありありと思い浮かべていた。奇妙に落ち着いて、深い目の色をした少年奴隷は、いまも変わりはなかった。エピクテトスは四十を過ぎていた。ヴィテリウスも老いていた。
「ドミティアヌス帝は理非曲直など構わずにお前を罪に落とし、殺すだろう。エピクテトス、逃げるかね?」
とヴィテリウスは埒《らち》もない事を訊いてしまった。アッピア街道を南下して、ギリシアにでもアフリカにでも逃げられぬことはない。今度は楽しい旅となるに違いない。エピクテトスは微笑した。ヴィテリウスはどきりとした。思えばこの男が微笑むのを見たのはこれが初めてである。
『やはり、死ぬか』
ヴィテリウスは諦めた。
「行きましょう」
とエピクテトスは言った。
「死ぬぜ」
「私の力の及ばないものは、私にとっては何物でもないのです。ドミティアヌス帝は善でも悪でもない。重要なのは私の魂です」
「それがお前の結論か」
「少なくとも私はそうだまされたい」
神を非人情《アパテイア》にするための思想がストアなのである。それが真理に違《たが》うものであるとしても、心を平静に保つことができるならは、嘘でも構わない。エピクテトスは優れて積極的な諦めを説く人であった。しかも、諦めは単なる諦めを越えて、自由を得るための諦めである。
ドミティアヌスはこの時四十四歳。若い頃は長身で容姿端麗、気品があったと言われる。ただ、帝位についてからの容貌の衰えがはなはだしく、頭は禿げ、胴体が無様に肥満している。表情が柔和なことだけが取《と》り柄《え》となっていた。ドミティアヌスは一段高い座にあり、豪華な長衣をまとっていた。象牙の王笏《おうしやく》と冠は近侍の者に預けていた。
エピクテトスはゆっくりとした動作で進みでた。ドミティアヌスは身を乗り出した。
「ドミティアヌスじゃ。おぬしが」
「エピクテトスと申します」
「何をする」
「奴隷でございます」
「奴隷が哲学者か」
「いささかの不都合もございません」
「エバプチディトスの師というではないか」
「かの者は私の主人に違いありません」
「ふむ」
エピクテトスは普段の様子とまったく変わりなかった。奴隷仲間と接するのと同じょうに皇帝に対している。初めて通される者が必ず目を剥《む》く豪華な調度品にもまったく視線を与えなかった。ドミティアヌスは面白そうにエピクテトスを見た。獲物《えもの》は珍妙な方が楽しめる。
「エパプロディトスの罪はネロ帝の首を切ったことであった。奴が余の首までちょん切る恐れがあったので死刑にした。まあ、それはどうでもよい。問題は彼奴《あやつ》をそそのかした者のことだ」
ドミティアヌスはじろりとエピクテトスに目をやった。彼一流の嬲《なぶ》りが始まったのである。
「死ぬ時も平然としたものであった。これは必ずや仲間がおり、自分の代わりに事を成し遂げるという安心があったからに相違ない。その暗殺仲間というのはおぬしであろう」
「…………」
「けしからぬ企《たくら》みよのう」
ドミティアヌスは舌なめずりした。これで相手は怯えて小便でも漏らすはずである。しかし、どうも間《ま》がおかしかった。エピクテトスの表情にはまったく変化がない。
『なるほど、したたか者のようだな』
とドミティアヌスは思った。そして、エピクテトスに興味を持った者が必ず落ちる罠《わな》に彼も落ちてしまっていた。
『面白い。さんざんに脅し、存分に恐怖を抱かせて、屈服させてから殺してやる』
と考えた。
「事実か。それならお前も同罪となる」
「私を脅そうとするのですか。それは不可能なことです」
とエピクテトスは子供のような無邪気さで言った。
「黙れ。おぬしを捕縛して、手足に拷問を加えて吐かせるのも悪くはない。ここの地下には古今東西の珍しい責め道具が揃っておる。それをゆっくりと味わってみるか」
エピクテトスはそれでも動揺を示さなかった。脅されている人間の様子ではなかった。
「帝は、私の手足を脅すのですね」
と言う。
「強がるな。この場で首を落としてやってもいいのだぞ」
「それは私の首を脅すのです」
「陽《ひ》も射《さ》さないじめじめとした牢獄にぶち込んでやろう」
「私の貧弱な肉体を脅すのです」
とエピクテトスは首を振った。
「帝は私の内側(魂)を脅すことはできないのです。無駄なことはやめて、さっさとどうにかすることです」
「妙な理屈を吐きおるわ」
ドミティアヌスの顔が徐々に赤くなった。ドミティアヌスが怒鳴り、エピクテトスは簡単に受け答えをする。奇妙な問答が続いた。
「おぬしも平然と死ぬか。ということは、つまり、まだ仲間がいるということだ。その仲間はおぬしの弟子であろう。弟子の名を全部あげろ。片端から処刑してやる」
「言いません」
「では斬首する」
「帝は私の首を斬る力をお持ちです。そんなことはとっくに知っております」
「くっ」
ドミティアヌスは座を立った。衛兵から剣を取り上げると抜いた。
「目障《めざわ》りだ」
ドミティアヌスは剣を振りかざした。エピクテトスは鈍く光る目でそれを見つめた。逃げるための動きが毛ほども見られなかった。ドミティアヌスは躊躇《ちゅうちょ》した。剣を振り降ろすことは簡単であった。そして、振り降ろして悪いことはひとつもなかった。
「弟子の名をならべろ。最後の機会だぞ」
「言いません」
「何故だ。命が惜しくないのか」
「違います。弟子の名は私の内部にあることです。だから、帝の勝手にできるものではありません。しかし、私の首は外に現れているものです。帝の勝手にできる範囲内にあります。そういうことに過ぎません。お気になさらずに」
ドミティアヌスはまだ迷った。剣を振ればエピクテトスは即死し、この場に屍をさらす。ただ、その表情は今とまったく変わらずに平静であろう。ドミティアヌスは身震いした。喜んで死に急ぐ狂信者のキリスト教徒ですら死ぬときは感情をあらわにした。怯える者、怒る者、笑う者、祈る者、そのバラエティが虐殺を飽きさせない。命を粗末にする点ではエピクテトスもキリスト教徒と同類だが、この平静さが異常である。斬っても手応えがないし、何の面白味もない。おそらく拷問にかけてもエピクテトスはこの調子であろう。そんなことでは見ていて憂鬱《ゆううつ》になるだけではないか。
「髭を剃《そ》れ。さすれば許してやろう」
ドミティアヌスは譲歩の叫びをあげた。
「私は剃りませんが、帝が剃るのなら止めはいたしません」
ドミティアヌスの身体から力が抜けた。剣を降ろした。
「おぬしは奴隷であろう」
「奴隷であっても自由はあるものです」
ドミティアヌスは薄く笑った。
「死がどうでもよい事が自由なのかね?」
エピクテトスははっとして面を上げた。ドミティアヌスはひどくつまらなそうな顔をしてエピクテトスから目を離した。
「もうよい。下がれ」
ドミティアヌスはエピクテトスを殺さなかった。この翌年、ドミティアヌスは哲学者追放令を発布する。キリスト教徒は惨殺するのに、エピクテトスは追放にとどめた。その違いは大きかった。
宮廷の秘書官たちはエピクテトスが来た時と同じように杖をつき、のんびりと出ていくのを見て驚いた。何故・エピクテトスが生きて帰れるのか不思議であった。ドミティアヌスの前に出ればどんな潔白な人間だろうと洒落《しゃれ》のように殺されるのである。エピクテトスのみすぼらしい姿にドミティアヌスの趣味を止める力があろうとは思えなかった。
エピクテトスは疲れを覚えていた。妙な虚脱感があった。ドミティアヌスに斬られなかった理由が分からなかった。何故、神は私を斬らせなかったのだろうかと考え続けた。とぼとぼと歩いていると、後ろからヴィテリウスが追ってきた。ヴィテリウスは興奮した様子で、早口でまくしたてた。
「エピクテトス、ドミティアヌス帝がお前を市民になされる。邸宅もお与えくださるそうだぞ」
ヴィテリウスは単純にエピクテトスがドミティアヌスに勝利したことが愉快でならないのである。しかし、反対にエピクテトスは疲れ切った敗者のようであった。エピクテトスはヴィテリウスを見上げた。そして静かに言った。
「私は奴隷ですよ」
ヴィテリウスは一瞬、きょとんとした表情になった。そして、次に爆笑した。エピクテトスは背を向けて歩き始めた。エピクテトスが角を曲がって、その姿が見えなくなるまでヴィテリウスは笑い続けた。
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初出誌
そしてすべて目に見えないもの「小説現代」1990年6月号
ピュタゴラスの旅「小説現代」1990年7月号
籤引き「小説現代」1990年9月号
虐待者たち「小説現代」1990年11月号
エピクテトス「小説現代」1991年1月号
◎鹿野治助氏の著作から御教示をえたことを記します。
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底本
講談社
ピュタゴラスの旅
1991年1月18日 第1刷発行
著者――酒見《さけみ》賢一《けんいち》