講談社電子文庫
ある華族の昭和史
[#地から2字上げ]酒井美意子 著
目 次
プロローグ
第一章 |戯《たわむ》れの愛のかたち
第二章 栄光の絵巻
第三章 夢を|紡《つむ》ぐ日々
第四章 母の回想
第五章 聡明な皇女“照宮”
第六章 華麗な人々
第七章 |解《と》き放たれた私
第八章 父――悲劇の将軍
第九章 |暗《くら》|闇《やみ》の中の青春
第十章 |火《ほ》|中《なか》の|不死鳥《ふしちょう》
第十一章 新しい旅立ち
第十二章 我が道をゆく
エピローグ
あとがき
ある華族の昭和史
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上流社会の明暗を見た女の記録
――今は亡き愛する人々に捧ぐ――
[#ここで字下げ終わり]
プロローグ
催眠術をかけると前世の記憶までたどれるそうだが、常態のままでも|甦《よみがえ》るひとつの光景がある。
――|甍《いらか》に映える朝の陽、学問の殿堂に集まってくる知者達、真昼の広場、香油や|琥《こ》|珀《はく》や真珠や蜂蜜や|駝鳥《だちょう》の羽や|麝《じゃ》|香《こう》や象牙や砂金を積んだラクダを|曳《ひ》いてやって来る隊商達、万巻の書物や絹や|刺繍《ししゅう》や菓子を積んで都を出て行く隊商達、もの|憂《う》げな深窓の貴婦人、祭りの日の|楽《がく》の|調《しら》べ、夜半に街路を|濡《ぬ》らしていく雨、突如、都大路に侵入する異国の軍馬……。
前の世、私はそれを見ていた。私はそこ、長安の都にたしかにいたのだ。中国へ旅するたびに、かつてここにあったというなつかしさは|募《つの》るばかりである。
それに|較《くら》べ、ヨーロッパへは行けば行くほど、そこへ|融《と》け込むことは不可能に思えてくる。西洋の国々は見れば見るほど私から遠ざかり、|霞《かす》み、色あせていく。|所《しょ》|詮《せん》、無縁の世界だ。
しかし、現実に私にとっての故郷はイギリスであった。現世の記憶はここから始まる。
サーカスを見に行くのが何より好きで、いまに|大人《お と な》になったら空中ブランコをやりたいと考えていたこと、モダン・バレエを習わされており、スズメのような顔をした男の子とヒラヒラ|踊《おど》ったこと、その子はいつも私と踊りたがり、ある時物陰で私の|頬《ほお》にキスしたが、こちらは好きでも|嫌《きら》いでもなかったから、ときどきわざとブルーの瞳の少年と組み、こっそりあの子の反応を|窺《うかが》ったりしたこと。日本大使館のクリスマス・パーティーで、一人一人にプレゼントを手渡してくれるサンタクロースがこわくて、泣き叫んだこと……。
二歳から四歳まで私はロンドンにいた。父の前田|利《とし》|為《なり》が大使館付陸軍武官であったので、母の菊子と、秘書の高柳をはじめ、医師の大貫、女中頭の広岡、私の身の回りの世話をしてくれる相原、弟付きの小川の皆とともに滞在していたのである。弟の|利《とし》|弘《ひろ》は昭和四年(一九二九年)にあちらで生まれた。
私達は日本大使館に近いグロベナ・スクェア、ギルバート・ストリート二三番地の黒ずんだ四階建ての家に住んでいた。現地で雇った使用人達も三階に住み込んでいた。|執事《バ ト ラ》のウォーターハウス氏、コックは彼の奥さん、ハウスメイド二人、客用メイド一人、|台所《キッチン》メイド二人で、メイドたちは|揃《そろ》いの制服姿であった。
手を休めていると給料を差し引かれる|掟《おきて》になっており、彼女達は朝七時から夜の八時まで掃除、アイロンかけ、銀器磨きと働き通しだった。メイドは主人に話しかけてはならず、主人も用事があれば執事を通して伝えるのが当時のイギリス上流家庭のしきたりで、あしかけ三年間も起居を共にしながら、あちらの使用人とは実に淡々としたつきあいを続けた。しかし白人の家庭に較べて日本人は家族的であたたかいと、彼らはいつも言っていたそうである。
当時の記憶はとぎれとぎれでおぼろげだが、雨の日も雪の日も必ず午前中に行くことになっていたハイドパークのさまは鮮明におぼえている。泉水の|畔《ほとり》に建つピーターパンの石像、手にとび乗ってクルミを食べるリス、木立の中で馬を走らせる山高帽の紳士、この緑深い公園で私はエリザベス王女(現女王)とめぐり会った。
そもそもはどこかのパーティーでお会いしたのだと思うが、王女も始終ハイドパークに遊びに来ておられた。金の|縁《ふち》どりをした黒塗りの乳母車に乗り、グレイの服に同じ布で尼さんのようなヴェールをかけたナース(看護婦)二人くらいに付き添われてやって来られる。私も相原の運転(?)する黒の乳母車で行く。王女の乳母車には王家のライオンと馬の紋章、私の乳母車には剣梅鉢の家紋がついていた。
王女は一九二六年四月生まれ、私は同年の二月生まれ、仔犬のようにボールと|戯《たわむ》れて走り回った。ロンドンの冬は札幌よりも寒いくらいで、私は厚手のゲーター(ズボン)をはいているのに、王女は白の短いソックスだけ、少し暖かくなると簡単な|木《も》|綿《めん》のドレスにカーディガンを羽織る程度、ごく普通の子供と変わらない質素な服装をなさっていた。護衛の警官の姿も見えなかった。
当時はプリンセスのお|祖父《じ い》様のジョージ五世が国王でいらした。彼女の父君は第二王子であられたが、兄君のエドワード八世がのちに退位されたため、思いがけなく国王の位にお|就《つ》きになったのである。幼いエリザベス王女は、未来に大英帝国のクイーンという運命が待ち受けていることを知るよしもなく、無邪気に快活に|跳《と》びはねておられた。
両親は私にイギリス流のマナーと本場の英語を仕込むために、かつて貴族の学校の教師であったハングス未亡人を家庭教師としてお迎えした。ミセス・ハングスは、毎日私が朝食を終えたころに来られ、夕食をともにして帰られた。社交面で多忙であった両親より、私は先生と過ごす時間のほうがはるかに長かったのである。ハイドパーク、キューガーデン(植物園)、動物園、ハロッズ(デパート)、よそのお宅のティー・パーティー、避暑地のボンマス等々へ連れ立って出かけたものだ。
先生はいつもほほえみを忘れない、おだやかな気品あるレディであった。必ず帽子をきちんとかぶっておられた。
ある日、私達が子供部屋で絵をかいて遊んでいると、そこへ外出していた両親が入って来た。私が「ごきげんよう」と言ったまま、かき続けていたところ、先生は「ミミさん、お立ちなさい!」と厳しく言われるのである。「|坐《すわ》ったままではいけません。さあ、パパとマミに|椅《い》|子《す》をおすすめなさい。そしてお話のお相手をするのです」
私は急いで椅子を父と母の前に引っぱって行き、傍に立ってお話をした。目上の人が部屋に入って来られたら、起立して迎えること、しかも無言でいるのは無作法であることを私は知ったのである。今でも、あの茶色の革椅子の形まで、はっきり|憶《おぼ》えている。先生の「ミミさん、プリーズ」と言われたソフトな|声《こわ》|音《ね》とともに。
昭和五年九月、私達一家は帰国の途についた。ヨーロッパ各地に立ち寄りながらマルセイユで日本郵船の伏見丸に乗船し、地中海、エーゲ海、スエズ運河、紅海、アラビア海、印度洋、南支那海、東支那海を四十日かかって航行して門司に上陸したのである。
ただちに、東京の駒場に新築されたばかりの洋館に入ると、にわかにものものしい生活が始まった。
家には男女|併《あわ》せて百三十六人の使用人がいた。邸内に住み込んでいる者もあれば、邸の周囲の自宅から出勤してくる者もいたが、その大部分は石川県や富山県の出身者ばかり、つまり先祖代々わが家に勤めている人達であった。この家職の者達には厳しい序列があり、一番上に評議員が十人ほどいた。彼らは加・越・能(旧藩の加賀・越中・能登)出身の軍人や経済界や政界の人達で、定期的に会議を開いていた。
その下に、総務、理事、主事、事務員、女子職員、傭員などがおり、ほかに幕末まで家老であった本多(筆頭家老)、村井、横山、奥村、|長《ちょう》、|今《いま》|枝《えだ》、前田直行、前田功の八人が時おり顔を見せた。この八家はいずれも男爵家であった。
私は常に皆に見られ通しで息もつけない。母も神経質に、「人が見ているときはお行儀よくするのよ」だの、「人の前で乱暴な言葉を使ってはダメ」と言い続けるようになった。
ロンドンでは、朝晩や出がけや帰宅時の挨拶のとき、両親は私の|額《ひたい》に軽くキスしてくれたものだった。ところが日本へ帰ったとたん、両親はその習慣をやめてしまった。ある朝、参謀本部へ出勤しようとする父に私は|訊《たず》ねた。
「パパ、どうしてこのごろキスしてくださらないの?」
すると、玄関で頭を下げていた使用人達が、あっけにとられた顔つきで一斉にこちらを見た。あとで母の部屋へ呼ばれ、「ああいうことを言うものじゃないの!」と|叱《しか》られてしまった。
「どうして?」「どうしてもです!」
私はつくづく日本人ばかりの生活がうっとうしく、日本語も思うように|喋《しゃべ》れなかったこともあって、だんだん無口で内気な子になった。「いつ、ロンドンのおうちに帰るの?」とメソメソ泣き、ナースの相原|八《や》|重《え》|野《の》もそのたびに悲しげに泣くのだった。
しかし、今から思えばこんな|窮屈《きゅうくつ》な生活もよい経験であった。私は人の口のうるさいこと、常に気を許せないこと、善意が悪意で受けとられたりすること、人には誰しも裏表があること、人々は派閥を作りたがること、足の引っぱりあいをすることなどを、イヤというほど知らされたのだが、それを経験せずにいきなり世間に放り出されていたら、人間関係で大失敗をしていたに違いない。
父は|機会《お り》あるごとに私や弟妹達をさとした。使用人達はわが家の宝なのだ。あの人達の先祖によって前田家は支えられ安泰だったのだ。皆を大事にしなければいけない。使われる人の身になって、思いやりといたわりを失ってはいけない。子供はまだ半人前なのだから、親と同じような態度や口調で使用人に接してはならない。それは大変に生意気で横暴に見える。きっと反感を持たれるだろう。だが、使用人にナメられるな、バカにされるような態度振る舞いをするな、相手の考えていることを察し、その本心を見抜けるようであれ、等々。
たとえば、ものひとつ頼むにも「靴を持って来て!」でなく、「靴を持って来て|頂戴《ちょうだい》」でなければならなかった。「もう一ぺん言い直し!」「やり直し!」と注意されて私は育った。両親の|躾《しつけ》の大半は、使用人にいかに接するか、であった。人が人を使う、これほど|難《むずか》しいことはあるまいと、私は一言一句、一挙一動に気を配り、徐々に|慣《な》れていった。
それに較べれば、日常生活で西洋式のマナーと日本式の礼儀作法を使い分けることなどは、さして骨の折れることでもなかったのである。
帰国後まもなく私は女子学習院附属幼稚園に通い始めた。編入テストのときは、日本語がおぼつかなかったので英語でお答えした。
そのころ女子学習院は青山の明治神宮外苑にあった。現在の秩父宮ラグビー場の所である。荘厳な雰囲気の|冠《かぶ》|木《き》|門《もん》を入ると左手に幼稚園があり、園長の宇佐美先生ほか望月、佐竹、久米、古賀の諸先生が|揃《そろ》い|袴《はかま》姿で、お遊戯やお唱歌や粘土細工などを教えてくださった。二年保育の男女共学で「さくら」「もみじ」「ふじ」「きく」の四クラスあり、一クラスは十人、幼稚園は皇族と華族だけに限られていた。私は|万里《ま で の》|小《こう》|路《じ》、|交《かた》|野《の》、細川、島津さん達と仲よしになった。毎日が楽しくて帰宅したくなかった。
昭和七年、初等科へ入学前のある日、新聞社や雑誌社の人達が駒場の家へやって来た。「このたび、美意子姫には第一皇女|照宮成子《てるのみやしげこ》内親王殿下とご同級になられるそうですが、ご感想を」と尋ねる。目をパチパチさせていると、代わって母が、
「まことに身に余る光栄と、|恐懼《きょうく》感激いたしております」
と最高の敬語を並べて答えた。ただならぬ空気に、「何か、コワイことらしい」と私は溜息をついたのだった。天皇の神格化が最も|甚《はなは》だしかった時代のことである。
学習院という学校は、そもそも|弘《こう》|化《か》四年(一八四七年)に京都で|公《く》|家《げ》の子弟の教育機関として設立された。それが明治十年(一八七七年)に華族会館が経営する私立学校として華族学校と名を変えた。これは男女共学である。
華族という特権階級については、またのちに述べるが、明治憲法時代に皇族の下、士族の上に位置した階級で、ヨーロッパ王制諸国の貴族と同じく、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順位があり、皇室から特別の礼遇を受けていた。華族学校は皇族や華族のための学校であったが、男子の数が多いことなどから、どうしても男子中心の傾向にあった。
そこで皇后陛下(|昭憲《しょうけん》皇太后)の|思召《おぼしめ》し(お考え)により、明治十八年に華族女学校が独立する。そしてその前々年には宮内省(現在の宮内庁)所管の官立学校となり、四谷仲町の皇宮付属地(旧赤坂離宮正門前)に新築された。
華族女学校は皇后陛下が設立されたものなので、開院式をはじめ卒業式などに皇后や各皇族妃、宮内省関係者らが多数参列されるのが慣例となる。
生徒は皇族・華族のほかに財閥(士族、平民)の女子の入学も許し、満六歳以上十八歳以下の者とした。最初は百三十三名で授業が開始された。
私の父方や母方の祖母達も、みなこの華族女学校に通った。彼女達の服装は、|袴《はかま》をつけ靴をはくのが原則であったが、西洋服でもさしつかえなし、とされていた。
女子の服装は、古代には|裳《も》(スカート)や袴を用いていたが、近世には用いられなくなっていた。しかしそれでは礼儀に欠けるというので、教授の下田歌子女史らの発案により従来の|緋袴《ひばかま》と|指《さし》|貫《ぬき》(裾をふくらませてくくった袴)とを|折衷《せっちゅう》した袴が|創《つく》られた。それから長い間、女子教官や生徒はこれを常用し、一般の女学生もこれを模倣するようになる。
つまり、当時の娘達は|準礼装《セミフォーマル》で毎日登校していたのである。学校とは学問や芸術を教えていただく場であるから、先生に敬意を表わす形として服装も整えるのが礼儀である、と人々は考えていた。
ところで昭和五十二年の春ごろ、さる大学で女子学生が労働着のジーンズで教室に出たのを、外人教師がとがめたのがよいとか悪いとかつまらぬ論争があったが、これなどまことに対照的なできごとだ。いまにトップレスのガールが登校し、「これが自由で現代的」ということになるかもしれない。どちらが文化的なことなのだろうか?
さて、私の祖母達は体操の時間には長い袖にタスキをかけ、「赤、お勝ち遊ばせ」「白おしっかり」と、手をたたいた。
四谷に設置された華族女学校は間もなく手狭になったので、明治二十二年に麹町区永田町の御料地に移転した。
ここはもと松江藩主松平家の邸地であったが、維新後御料地となり、西部は|閑院宮《かんいんのみや》家となっていたもので、残りの一万八七一四平方メートルが華族女学校となった。校舎本館はゴシック式にルネッサンス式を加味したレンガ造りの二階建てで、|鹿《ろく》|鳴《めい》|館《かん》を建てた建築家コンドルの高弟新家孝正の設計になり、当時の代表的な西洋建築であった。
二十七年には幼稚園も開園し、もっぱら体育が重視された。ということは、皇族や華族社会においては虚弱な体質の子どもが多かったからである。教官達は、これら温室育ちのひよわな少女達に貴族上流社会のレディーにふさわしい知育と徳育を施すとともに、非常の場合にも、“役に立つ女傑”に仕立てるべく苦労した。
当時の教官は、いずれも選び抜かれたそうそうたる学者ばかりで、とくに下田歌子、津田梅子などのちに私立学校を創立して、女子教育界に重きをなした賢婦人たちもいた。
三十九年に華族女学校は学習院に合併されて、学習院女学部と称することになり、下田歌子が女学部長となる。私の母の菊子もこの学校に人力車で通った。
当時の学習院院長は陸軍大将伯爵乃木|希《まれ》|典《すけ》で、女子に必要な|徳《とく》|目《もく》は「孝順・慈愛・貞烈」であるとして乃木大将ごのみの教育がなされたのである。
そのころの風潮として、富裕な家庭では卒業期まで娘を学校へ通わせず、結婚までの一〜二年間は家庭内でみっちり教育を授けて磨きをかけた。数人の一流教師が日課に従って邸へやって来ては、専門知識を注ぎ込む。教育とは十|把《ぱ》ひとからげで行なうものではなく、一対一で入念にすべきもの、と上流人達は信じていたからである。
それにしても教師達が立派すぎた。「あれでは猫に小判だ。もったいない」などと、反ブルジョワ世界では、やっかみ半分に|陰《かげ》|口《ぐち》をきいた者もいたという。
そして大正七年(一九一八年)、元青山練兵場の西南隅にあたる所に新校舎が建設され、女子学習院と呼ばれることになる。昭和二十年五月の大空襲で、書庫の一部を残して焼失するまで、ここは上流婦人達の母校であった。
敗戦の結果、日本全体は画期的な変革をとげたが、なかでも変わったのは皇室のあり方であり、皇室の|藩《はん》|屏《ぺい》(守護するもの)として政治上に大きな特権を与えられていた華族の制度も、新憲法によって消滅した。
そのため華族の教育を主な目的としていた学習院と女子学習院は、その存在の意義を失ってしまったのである。
しかし二十二年、学習院は「燃ゆる火の|火《ほ》|中《なか》に死にて、また|生《あ》るる不死鳥のごと」(院歌の一節)|甦《よみがえ》った。新しい陣容のもと、私立学校として発足した。皇室や宮内庁の手を離れ、広く一般に門戸を開放した。
ここから学習院の苦難の道が始まるわけで、院長は旧制一高の校長や文部大臣などを歴任した|安《あ》|倍《べ》|能《よし》|成《しげ》だったが、「毎朝目がさめて、また今日も学習院のための寄付や借金に歩かなければと思うと、死にたくなったものです」と述懐した。
ここで、かつて存在した「華族」という階級について述べておきたい。
明治二年の|版《はん》|籍《せき》|奉《ほう》|還《かん》、四年の廃藩置県によって江戸時代の藩制が解体し、従来の|公《く》|家《げ》、武家、農、工、商などの封建的身分制度も撤廃されて、日本は中央集権国家となった。
このとき、三百諸侯といわれた全国の諸大名は版籍(領地と領民)を朝廷に奉還したので、数百年にわたる領主の地位を失って旧領地の藩知事に任命されたが、ここで改めてこれら元大名と京都の公家中の最上層の|公卿《くぎょう》(三位以上)とを併せて明治二年六月十七日、華族が|創《つく》られた。これは明治天皇の公卿と大名に対する優遇の思召しによるもので、西洋式の新貴族が誕生した。華族とは公卿中の|清《せい》|華《が》(久我、|西《さい》|園《おん》|寺《じ》等の九家)の別称で、古い文献には花族ともある。
華族はすべて東京在住を命じられ、皇室の|藩《はん》|屏《ぺい》として、政治や軍事の実権を握る方針がとられた。彼らの同族化と結束を|図《はか》る意味で華族会館が設立され、勅旨によって太政大臣三条|実《さね》|美《とみ》と右大臣岩倉|具《とも》|視《み》がその総元締となった。
明治天皇はこの新貴族に多大な期待を寄せられ、「華族は国民中貴重の地位」という勅語を賜り、従来異族であった公家と武家に同族意識を持たせるべく、その一体化を促進された。同じ趣旨で華族の子弟を教育する学習院も創立されたのである。
華族の設立と同時に旧大名の家臣と旧幕臣、京都朝廷の|地《じ》|下《げ》(非蔵人、官人、諸家の家士など)、神官、寺院家士等が士族、卒(足軽)となった。卒はのちに廃止されるが、農、工、商は平民と呼ばれることになった。
明治十七年に華族令が制定され、|公《こう》|侯《こう》|伯《はく》|子《し》|男《だん》の爵位が決まり、華族の肉親も同じく礼遇を|享《う》ける、婚姻は宮内卿の許可を要する、男子の相続人のない場合は華族の栄典を失う、などが定められた。
公爵には親王諸王より臣籍降下した者、旧五摂家、徳川宗家、国家に偉勲ある者。
侯爵には旧清華、徳川御三家(紀伊、尾張、水戸)、旧大藩主家(十五万石以上)、旧琉球藩主、国家に勲功ある者。
伯爵には大納言まで宣任の例多き旧|堂上《とうしょう》、徳川御三卿(田安、一橋、清水)、旧中藩主家(五万石以上)、国家に勲功ある者。
子爵には維新前に家を|興《おこ》した旧堂上、旧小藩主家(五万石未満及び維新前に旧諸侯たりし者)、国家に勲功ある者。
男爵には維新後華族に列せられた者、国家に勲功ある者。以上である。
このときに授爵した者は、公爵十一名、侯爵二十四名、伯爵七十三名、子爵三百二十二名、男爵七十四名であった。
この華族令で本来の華族のほかに国家に勲功ある者、いわゆる新華族が加えられ、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷|従《つぐ》|道《みち》、大山巌らの薩長出身の功臣士族の権力者が揃って伯爵に叙された。これは同族華族にとっては士族の成り上がり者の侵入にほかならず、さまざまな紛糾が巻き起こるのだが、彼らの登場は議会の開設という政治的理由によるものであった。公爵と侯爵は|世襲《せしゅう》議員(終身)、伯爵、子爵、男爵は互選議員(任期七年)として貴族院の主軸となるのである。
第一章 |戯《たわむ》れの愛のかたち
私は、女子学習院に通学することがあまり好きでなかった。理由は幾つかある。まず第一の理由は、知りたいこと、やりたいことについて役立つ知識が、はかばかしく与えられないからである。
たとえば私の一番知りたいこと――生命とは何か、宇宙の法則とは? 霊魂とは? 人は死後また生まれ変わるものなのか? それとも人生は|唯《ただ》一度限りなのか? といった重大問題を問いかけても教師たちは途方に暮れた顔をして、当時の軍国主義的国民精神にすりかえた答を返してくれるばかりだ。
また私は作文が異常に好きで、しかも小説を書きたくてたまらないのに誰も書かしてくれない。そこで仕方なく家政の時間に小説の登場人物の性格作りをしたり、料理の時間にオペラの幕あきの歌唱を考えたり、裁縫の時間に自作の歌劇の中の「花の精のロンド」の振付を研究したり、作法の時間に『吉野朝太平記』を読みふけったりしていた。
私にとって必要な学課がなく、不必要な学課が多すぎた。
第二の理由は、学習院という社会はかなり面倒な世界なのだ。皇族、公卿、大名、明治維新の元勲らの子孫の対立が微妙である。公卿と武家は平安末期以来お互いにバカにしあって来たし、公卿族と大名族は合同で元勲族を“成り上がり者”として扱っていた。
しかもこの社会は排他的閉鎖的なので、その圏内で婚姻をくり返してきた。だからすべてがどこかでかかわる親類なのだ。
私はあるとき某家の令嬢のことを批評しながら、
「あの方のご先祖は瀬戸内海の海賊だったそうだけど、やっぱり血筋は争われないわね」
と同級生にささやいたところ、彼女と海賊の|末《まつ》|裔《えい》嬢とは親類であり、以後しばらく同級生は私に口をきいてくれなかった。このこんがらかった毛糸のような近親結婚のためか、学習院生はとびきりの天才児や優等生か、もしくは劣等生のどちらかで、その中間が少ないというのも特色とされていた。
第三の理由――これも悩みの種だった。
ことの起こりは私が十三歳(中等科一年)の時である。朝、教室に入って机をあけると、中原淳一(一世を|風《ふう》|靡《び》した叙情画家)の絵のピンクの封筒があった。傍に千代紙で包んだ箱らしきものもある。
「なにかしら、これ」封筒には|宛《あて》|名《な》も差出人も書かれていない。
「アラ、|S《エス》よ、Sにきまってるじゃない」たちまち級友たちが集まって来た。
「Sって?」「マア、Sをご存じないの? だからお|姫《ひい》様は世間知らずだって言われるのよ」
そう言ったのはM銀行頭取の娘で、華族の娘達に何かしら|嫌《いや》みを言う趣味がある。
見せて、見せてと同級生達はその手紙を奪い合ったが、ひときわ手の長い|須《す》|磨《ま》道子は|強《ごう》|引《いん》にそれを|掴《つか》み取ると教壇に駆け上り、高々と読み上げた。
「可愛い可愛い美意子様、私は美意子様を深く愛しております……」「キャー」と皆がはやしたてる。
「それ、どなた?」「四年南組、日高玲子ですって」「ああ、大蔵大臣のお孫さん」
少女達はうなずき合う。道子は続けた。
「私はテンプルちゃんが大好きでございます。美意子様はテンプルちゃんにどことなく似ていらっしゃいます。そこでこれからは美意子様のことを“私のシャーリー”とお呼びすることをお許しくださいませ。アラ、和歌が書いてあるわ。“逢ひみてののちの心にくらぶれば昔はものを想はざりけり……”どこかで聞いたような歌ね……百人一首じゃない!!」
キャッキャッキャッと、教室じゅうは猿山のような騒ぎとなった。
「いったいなんですか、この騒ぎは!」
教室の入口で叫ぶ担任教師の声に、生徒達はやっと自席に戻った。
「前田さんの所にお手紙とプレゼントが参りました」
と道子が報告する。彼女は伯爵家の娘で、父は外交官である。道子は美人とはほど遠い。いま問題のSとは無縁のため、彼女はこれを軽蔑している。
担任の大森先生はきつい顔を一層きつくすると、いつもながらの訓示を始めた。
「この節、手紙や贈り物のやりとりがさかんなようですが、これは学校で禁じていることでございます。なぜいけないかと申すに、こういうことに熱中しますとご勉強がおろそかになるからでございます。皆様は将来立派な日本婦人として国民の|亀鑑《か が み》となるべき方たちですから、ご勉強をいい加減になさるようでは大恩ある皇室に対し|奉《たてまつ》り、まことに|畏《おそ》れ多い極みでございます。よろしいですか、わかりましたね。前田さんはクラス委員長なのに、こういうことに巻き込まれては困りますよ。あとで教官室へいらしてください」大森先生は|厳《おごそ》かに言い渡した。
「今日はなんの罪もないのに教官室へ呼びつけられました」
帰宅した私は、さっそく家庭教師の松谷愛子に訴えた。彼女は私が初等科に入学した時から毎日来てくれている。高校(旧制)教師の夫と二人の息子がおり、前田家の|主《おも》だった使用人同様、邸の|塀《へい》の外に住んでいた。
「Sってなんのことだかさっぱりわかりませんの。なぜいけないんでしょうか」
「Sとは女同士の同性愛のことで、お互いにシスターと呼び合うからこう呼んでいるんでございますよ」そして愛子は言葉を選びながら語った。
同性が愛し合うことは、大昔から洋の東西を問わずあった。時代とともに愛好者が増えているが、依然社会的タブーである。どこの国でも有閑階級に愛好者が少なくなく、文化の|爛熟《らんじゅく》した時代にこの傾向が強まる。
同性愛者には二種類あって、異性には目もくれず同性でなければ愛情の持てない真性のものと、異性をも愛せる仮性のものとがある。男性の場合の同性愛は完全に直すことは絶望的だが、女性の場合は割合に異性愛に変えやすい。殊に女学生の同性愛は多分に一時的な恋愛ごっこにすぎないが、まったくその|気《け》がなくても相手に引きずられているうちに本ものになってしまうこともある。まともな結婚にさし|障《さわ》ることにもなるので、学校では禁じているのだ――といったことを、愛子はさすが東京女子大出の|才《さい》|媛《えん》らしく明快に説明してくれた。
「昔、徳川将軍家やご当家(前田家)のようなお大名のお城には大奥がありまして、女の方ばかり大勢住んでおりました。男子禁制ですから、同性愛も大へんさかんだったようですね。
|殿《との》|方《がた》は殿方で、若いきれいな少年を|寵愛《ちょうあい》なさいました。織田信長と森蘭丸などその典型的なものでございますね。殿様にはお|小姓《こしょう》がついておりましたが、その少年達も夜のお|伽《とぎ》をおつとめしたという話で」
「夜のお伽って?」「それは殿様の|御《ぎょ》|寝《しん》|所《じょ》に|侍《はべ》ることで」「御寝所に侍るとは?」「つまりご夫婦と同じことを」「ご夫婦と同じ?」
「そういうことは、いまにお嫁にいらっしゃれば自然におわかりになります」
しかし私は追及をやめない。
「それじゃ、パパと小林や安井達も同性愛かもしれませんね」
「なんでございますって?」愛子先生は仰天した。
「美意子様、想像にも程がありますよ。この話は絶対に侯爵様や奥方様に遊ばさないでくださいませ。私が叱られます。ネ?」
「はあ、申しませんけど」私はあらためて小林と安井と宮城と高橋について考えた。
彼らはいずれも|眉目秀麗《びもくしゅうれい》な青年達である。“給仕”という役でこの邸内に住んでいる。昼間は高校へ通い、夕方、父が参謀本部から帰館すると、その身辺の雑事をつとめる。
たとえば父が方々から頼まれた額や掛軸に|揮《き》|毫《ごう》するとき、四人がかりで紙を押えたり、墨をすったりする。なにしろ父は|箒《ほうき》のような筆で歩きながら一気に書くのである。
また青年達は両親が庭でゴルフの練習をするときは球拾いをする。父がたまに愛犬を連れて庭内を散歩するときには、その仔馬ほどもあるロシヤ産の二頭のボルゾイの引き綱を、二人ずつで引っぱって歩く。
若い女中達の中には、青年達の噂をする者達もいたが、べつだん誰と誰とが特に親しいということはないようだった。無口で無表情な彼らは、女を寄せつけないような雰囲気をもっていた。きっと、あの人達は異性には関心がないのだわ、と私ははじめて|謎《なぞ》がとけたように思ったのである。
好奇心の強い私は、秘密の花園への|鍵《かぎ》が渡されようとしているのに、ためらったり|拒《こば》んだりすることは到底できない。|臨終《りんじゅう》のとき“あのときなぜ応じなかったか”と後悔しても、もはや手遅れなのだ。
とにかく日高玲子に会ってみよう。何が起こるか|空怖《そらおそろ》しくもあったが、私はもともと女性を愛する趣味など皆無なのだから冷静でいられるはずだ。困ったら逃げ出せばいい。愛していないのに愛する振りをするなんて、実に高級な演技だ。
そう思って中原淳一の絵のついたレターペーパーを読み直すと、「もし私にお会いくださるなら、ご返事の代わりに一輪の花を明日の朝、私の靴箱へ入れておいてくださいませ」とある。
名簿を見て電話をかければすむのに、そういう日常的な手段を使ってはせっかくのムードがこわれる。
生活にはロマンが必要だ。こういう王朝風のやりとりがSの作法なのかもしれない、と私はうれしくなった。
内玄関で運動靴にはきかえて外へ出る。五月も半ばの夜気は|花《はな》|籠《かご》のようにさまざまな匂いを|湛《たた》え、ひそやかなざわめきをはらんでいた。昼間よりももっと多くのものが目ざめていて、これから始まる饗宴の準備にいそしんでいるようだった。
住まいの洋館と渡り廊下で日本館がつないである。ここは平常は閉ざされており、ほの暗い電柱の下で廃墟のように静まり返っている。その生け垣の|小《こ》|径《みち》を抜けると邸内の東北に園芸場が広々と広がり息づいていた。大勢の|園《えん》|丁《てい》達が引きあげたそこでは、植物がのびやかに羽をのばしている。
私は|人《ひと》|気《け》のない森林や温室の中を歩くと、木々や花々がピタリと私語をやめ、わざとらしい静けさが立ち込めるのを感じることがよくあった。
花々を驚かさないようにソッと足音を忍ばせながら、私はスウィトピーの列の所へ行った。数列にわたって栽培された花たちが|賑《にぎ》|々《にぎ》しく暮れ残っている。薄紫の花を折ると、何かに追い立てられて駈け戻った。
翌朝、私はいつもより三十分ほど早く学校に着くと、四年南組の靴箱を探してスウィトピーを入れ、手紙で指定された通り昼休みに図書室へ出かけた。
図書閲覧室には中等科の各学年の生徒達が出入りしているし、その奥の書庫にはおびただしい数の蔵書が並び、蟻の巣のようになっている。|逢《あい》|引《び》きには絶好の場所だった。
日高玲子はすでに来ていて、歴史の書棚の前で何かを読む振りをしていた。お互いに顔見知りだったから、目で合図し合った。
玲子は色が浅黒く、|精《せい》|悍《かん》な顔立ちをしている。大柄でしなやかな肢体の彼女がバスケットボールの選手として、運動場をわがもの顔に走り回るさまは実に壮観だ。私も学年対抗で幾度か戦ったが、簡単にあしらわれてしまう。つい数日前も、ムキになってボールを奪おうとした私のおさげの髪をちょっと引っぱってウィンクした。
私も本を一冊抜き取ると、二人は中ほどの席についた。周囲には、辞書をせっせと書き写したり、何かメモしながらヒソヒソ話をするグループがいたが、|怪《あや》しむ者はいない。
「私は歴史が大好きだけど、特に面白いのは戦国時代と明治維新だと思うの」
と玲子はさりげなく話しかけてきた。
「だけど前田さんとうちとはいつも敵同士だったわけね。どうも失礼いたしました」
「まあ、こちらこそ。でも直接ぶつかったわけじゃありませんでしょ」
「おそらくね。なにしろ前田さんのご先祖は賢明でいらっしゃるわ。関ケ原の合戦のとき、ご当主のお兄様のほうは東軍におつきになったし、弟様のほうは西軍に味方なさって、どっちが負けてもお家を残そうとお計りになったのね。うちの先祖は単純だから、豊臣方に義理立てしてさんざんな負け方よ」
「だけど幕末には目ざましいご活躍だったでしょう?」
「まあ、幕府に永年の|恨《うら》みをはらすためにね。あのとき前田さんは、だいぶあとになってから朝廷側におつきになったのね」
「そうなの。だって将軍家とは親類でもあったし、うかつには動けなかったらしいのね。うちの父がいつも申しますの。あのとき立ち遅れたのはまずかったって」
「ほんとね。だから論功行賞で損なさったのよ。もっと早く兵を挙げてらしたら、|侯爵《マークィス》でなく当然|公爵《プリンス》だったというお|噂《うわさ》ね」
「憤重なのも時によりけりでしょうね」
「でも慎重なのに越したことはないわ。祖父が言ってますの。前田さんとこは石橋をたたいて渡るどころじゃなくて、|橋《はし》|桁《げた》を|隈《くま》なく調べてから渡る主義ですって。だから三百年間も大名のトップであり続けたって」
二人は熱心に話し合った。しかし私はおかしくてたまらない。もっと文学的でロマンティックな|台詞《せ り ふ》のやりとりを期待していたのに、いくら周囲に人がいるからとはいえ、いきなり戦争の話が始まるとは思わなかった。これでは歴史研究会に出席したのと大差ない。玲子もなんとかして話題を変えようとあせっているらしかったが、うまくいかなかった。テンプルの話も出なかった。
昼休みの終わりを告げるベルが鳴り渡り、二人はホッとした。
「またお会いしましょうね」「エエ」
「学校ではなかなか難しいと思うの。こんどの日曜日にうちに親類の者達が集まってテニスをいたしますから、いらっしゃらない?」
「おそれ入ります。母に|訊《き》いてご返事を」
玲子は一瞬、私の目をじっと見つめた。
その日の夕方、わが家では両親が|晩《ばん》|餐《さん》会に出かけるための仕度に追われていた。
二階の東南の角に両親の寝室があり、ドレッシング・ルームが続いている。
そこは壁に草花模様の濃い桃色の|繻《しゅ》|子《す》が張りめぐらされているせいか、部屋全体に|紅葡萄酒《ロ   ゼ》の芳香が立ち昇っているようだ。マントルピースはクリーム色の大理石で、|琅かん[#「かん」は「王へん」+「干」Unicode="#7395"]《ろうかん》よりも|瑪《め》|瑙《のう》よりもなめらかである。
その上にアマンジャンの名画「おのれに見とれる」が掛かっている。アマンジャンと親しい父がパリのアトリエで一目|惚《ぼ》れして懇望したとき、会心の作であるためになかなか手離さなかったしろものである。
私にとってもこの絵こそ家中のどの絵よりも、今まで見た名画集の中のどれよりも好きなものだ。
それは裸体のうら若い乙女が鏡に映る自分に見とれ、唇にキスしようとしているところで、裸体のはかなげな桜色と周辺のライラック色の|澱《よど》んだ空気が、鏡の魔性をきわ立たせている。私もこの絵を真似て、左手を背に回し、右手をダラリと下げ、薄目をあけて自分にほほえみかけつつ鏡に唇を触れることがあった。
幼い日、この絵を見ながら両親が語っていたのを私ははっきり|憶《おぼ》えている。
裸体画というものはベッド・ルームに掛けるものであって、どんな世界的な大画家が描いたものでも、サロンやダイニング・ルームや玄関に見せびらかすものではない。また、いくら百年に一ぺんしか出ないような偉い人であっても、自分自身の肖像画を客間などに堂々と展示するのはおかしい。それは廊下や階段の途中に掛ける。そして夫人の肖像画は夫の書斎に飾るものなのだ、と。
戦前は、かなりくだけた晩餐会ならタキシードを着用するが、通常のディナーでは|燕尾服《テイル・コート》を着るのがならわしとされていた。
父は黒のズボンをサスペンダーで吊ると、例によって|肱《ひじ》|掛《か》け椅子に腰かけた。父の|衣裳《いしょう》係のキミがその前にひざまずいて、彼のウィングカラーの|衿《えり》|元《もと》に白の蝶ネクタイを結ぶ。パーティーはほとんど連日あった。
父はせわしなくまばたくキミの長い|睫《まつ》|毛《げ》を眺めながら、
「まだか?」と催促する。父は非常に気が短いし、若いキミを|慌《あわ》てさせるのも面白い|観《み》ものなのだ。
「ハッ、おそれ入ります。|只《ただ》|今《いま》……」キミの指先はますます|震《ふる》え、寿命が一時間ほど縮まる。
それにしても「おそれ入ります」という言葉は実に便利だ。キミが石川県金沢市の女学校を卒業して、行儀見習いのため前田家に奉公に上がったとき、一番心配だったのは言葉|遣《づか》いだ。
立居振る舞いは、士族の娘だから一応のことは|躾《しつけ》られていたが、華族の世界で使われる言葉については何も知らない。
ところがお|目《め》|見《み》|得《え》の日、女中頭の広岡たねは、|鷹《おう》|揚《よう》にほほえみながら言った。
「こなた様(ご当家)におかせられては、何も格別|小難《こむずか》しい言葉などはご使用になりません。『ごきげんよう』と『おそれ入ります』だけで当分のうちはお間に合いますでしょう」
なるほど、「ごきげんよう」は、「お早うございます」から始まって「お|寝《やす》み遊ばしませ」に到る一日中の挨拶がみんなこれですむ。「行っていらっしゃいませ」も「お帰り遊ばしませ」も、「ごきげんよう」でよい。というより「ごきげんよう」以外は使わない。
「おそれ入ります」は、「有難うございます」にも「申し訳ございません」にも「恐縮でございます」にも「|勿《もっ》|体《たい》ないことで……」にも「申しにくいのですが……」などのいずれの場合にも使う。
たしかに邸内では、こみ入った特別な話でなければこの二つの言葉で充分用が足りるし、|雅《みやび》やかな雰囲気を出すこともできた。
「まだかね。何をしてる! 毎晩のことなのに! もっと練習をしなさい。練習を!」
またほどいて蝶結びをやり直し始めたキミに向かって、父の声は険悪になった。
父はときどき|癇癪《かんしゃく》を起こして|怒《ど》|鳴《な》り出し、キミは泣き出してしまうことがあるが、雷が落ちると天気は|忽《たちま》ち回復する。彼が陰険でも冷酷でもないことを、キミはちゃんと知っている。
前田家の居心地は決して悪くない。きものや帯その他は支給されるし、運がよければお正月の福引きで母の不要になったルビーのリングや|蜥蜴《と か げ》のハンドバッグなどを引き当てることもできる。
食事はコックの助手が和洋食取りまぜて作ってくれる。彼女の仕事は侯爵の衣裳を整えることで、縫ったり洗ったりアイロンをかける役はほかの者がする。難しいのは燕尾服のホワイト・タイと、タキシードのブラック・タイを寸分のゆがみもなく芸術的に結ぶことぐらいだ。
週に一度のお休暇の日は、銀ブラをしたり、映画やレビューや歌舞伎を|観《み》る。とても金沢へ帰って旧家の嫁になど行く気にはなれない。
それに長くお勤めすればするほど、|辞《や》めるときに立派な婚礼道具を整えてもらえる。五年奉公した先輩が前田家の|定紋《じょうもん》入りの箪笥や黒|留《とめ》|袖《そで》をいただいて下がるのを見て、キミもあと三年は働いたのち故郷へ錦を飾ろうと考えているのである。
その当時、ちょっとした資産家であれば使用人の五、六人は使っていたものだが、若い娘達にとって何よりの悩みの種は、雇い主に犯されることだった。娘達十人のうち八人までは|忽《たちま》ち妊娠する。雇い主はある程度の金品を与えて、|体《てい》よく暇を出す。
中絶などしようものなら、そのモグリの医者もろともお縄を頂戴する|破《は》|目《め》になるから産むしかない。薄情な雇い主のほうでは後難を恐れて、|一《いっ》|片《ぺん》の証拠品も残さないように用心した。その不義の子の出生の|手《て》|懸《がか》りとなる守り袋やお墨つきなどを雇い主が与えた、などということは、小説の世界ではあるにしても、実際には行なわれなかった。
公卿華族や下級武士あがりの新華族(明治の元勲)は財産も大したことはないし、明治以前に自分の領土や領民を持っていたわけではない。それに引きかえ、かつて一国一城の|主《あるじ》であった十万石以上の大名華族は比較にならぬほど裕福であり、使用人は昭和になっても引き続き旧藩の人々に限る家が多かった。
そこで雇い主が召使いの女に手をつけた場合、体面上も冷淡な真似はできない。江戸時代のように十数人の側室を城内に同居させるというわけにはいかないが、別宅をもたせて二号、三号として養い、生まれた子どもも|庶《しょ》|子《し》として認知するのが普通だった。
だから、上流社会の家庭で行儀見習いをしながら働こうとした娘達が、大名華族の家を望んだのは至極当然のことである。
もっとも、正妻が亡くなったあと|妾《めかけ》が侯爵夫人や伯爵夫人の|後《あと》|釜《がま》におさまることは、まずほとんどなかったし、いかに名門に生まれた子供でも母親が正妻でなければ、学習院に入学することはできなかった。しかし、子供を産んだ大名華族の妾達が、未婚の母として|巷《ちまた》に放り出される危険はなかったのである。
キミも昔の側室の話をよく聞いていたから、奉公に出る前には“自分もひょっとしたら”と考えないではなかった。平凡なサラリーマンの女房になって一生あくせく働くより、侯爵の五号ぐらいになれたら玉の|輿《こし》に違いない。
ところが、キミが侯爵の身辺で働くようになってもう二年余りになるのに、侯爵は一向に怪しい振る舞いに及ばない。|至《し》|極《ごく》|恬《てん》|淡《たん》としてキミのことなど眼中にない様子だった。
「私に魅力がないのだろうか……」不安に駆られて鏡をジッと見つめるのだが、邸内の男達の中には暗がりで言い寄る者もいたから、あながち魅力に欠けるということでもないらしい。
とにかく二十歳のキミにとって当面の重大事は、ボウ・タイをいかに手ぎわよく結ぶかというにあった。
わが両親の寝室とドレッシング・ルームの境は四枚建ての|屏風《びょうぶ》で仕切ってある。
この屏風は母が実家の酒井伯爵家(のちの私の|嫁《とつ》ぎ先)から|輿《こし》|入《い》れの際に持って来たもので、隅田川とその堤の桜並木が|刺繍《ししゅう》で埋められ、春|爛《らん》|漫《まん》の大江戸の風光を表わしたものだ。
その屏風の向こうで、母は色留袖紋付きを着つけていた。
支那|絨緞《じゅうたん》の上に花ゴザが敷かれ、奥方付きのユキとクニが丸帯を結ぶのに懸命になっている。|柄《がら》の最もよい部分が正面に出ないので、またはじめから巻き直す。少し離れた所に女中頭のたねが立っていて、
「もう少しきつく、もう少しゆったりと」などと難しい指示を与える。
私はそれを眺めるのが面白かった。
「パパ、お食事お先に。マミ、お食事お先に」
と言ったあと、母の傍によって行って、
「マミ、とってもおきれい! 今日はどちらへお出まし?」
「今日はね、イタリー大使館よ」
「ああ、だからゴンドラの模様なのね」
「そうよ。その国のものを着ると、外人は喜ぶからね」
母は自分がデザインして染めさせた裾模様を満足げに見やった。
それは|藍《あい》がかったブルーの地の|一《ひと》|越《こし》|縮《ちり》|緬《めん》に、ヴェニスの夜景が染め上げられている。黒のゴンドラが影絵のように波に揺れ、刺繍された銀の三日月に合わせて帯は|銀《ぎん》|襴《らん》である。
たねが心得て、皮張りの宝石|函《ばこ》の中からダイヤとサファイアの帯留めを取り出し、ユキに手渡す。
日ごろ在日外交団や欧州の王侯貴族と親交のある母は、それぞれの国の代表的な風物をきものに染めさせることに|凝《こ》っていた。
淡いコバルトブルーにアルプスのマッターホルンを浮き上がらせた紋付きは大好評だったが、夕暮れのエッフェル塔はどうもパッとしなかった。手直しをすればするほど妙なものになってしまう。遂に母は|匙《さじ》を投げ「エッフェル塔は絵にならない」と断定した。目下、フランスを一目瞭然に象徴する風物をあれこれ検討中である。
「今晩はイタリーのボルゲーゼ公爵夫妻の歓迎のパーティーなの。|秩《ちち》|父《ぶ》様や高松様もお成り遊ばすそうよ」
母は手鏡をかざして帯の|二重太鼓《にじゅうだいこ》の具合を吟味しながら楽しげに言う。
「妃殿下方はどんなお召しものでいらっしゃるのでしょう」
「サア、今日は招待状にデコレーションと指定してあるから、多分ローブ・デコルテに勲章をおつけ遊ばすでしょうね」
「デコレーションて勲章のこと?」
「ええそう。|君《きみ》様(妃殿下)方はご成婚のときに勲一等宝冠章をおいただきになるから、フォーマルな場合にはこれをお飾りになるわけね。そしてダイヤの|宝冠《ティアラ》をおかぶりになるの。そうそう、たね、侯爵さんに申し上げて頂戴。今日の勲章はイタリーから贈られたのをおつけになっては|如何《い か が》でしょうって」
香水を手首の内側とハンカチーフにスプレーして母の身仕度は終わった。
「ほんにお美しい……」「こういうお召しものは、またとございませんね」たね達は口々に絶賛する。母は姿見の中の自分をうっとりと眺めた。この瞬間を私は待っていたのだ。
「マミ、明後日の日曜に日高さんにお招きいただきましたけど、伺ってもよろしゅうございますか?」
「ええ、いいわよ。行ってらっしゃい」母はこのとき、慈母観音よりやさしい。
「どなたですって?」「日高さん。あの大蔵大臣のお孫さんの」
「そう。お親しくしてるの?」
「ハア。もうじき学校のテニス会なので、練習をいたしますの」
「おみやげを何かお持ちしなければね。たね、何か整えておあげ」
「ネエたね、開新堂(上流階級だけに門戸を開いていた洋菓子店)のケーキにして|頂戴《ちょうだい》。特にベビーシュークリームとモカケーキとミルフェを頼んで。ネ、お願い」
「かしこまりました。そのように申しつけましょう。それから日高家の奥向きのお方に、ご挨拶のお電話を致しておきましょう」
「いいのよ、いいのよ、そんな大げさなことしなくても。ちょっとテニスをしに行くだけですもの」
「でも日高様は公爵家でございますし、そこはきちんと致しませんと」
「じゃ、たねのいいようにして」
私はたねの礼儀正しさには、いつも|辟《へき》|易《えき》させられるのだった。
たねは母や私が親類などの家に招かれると、その前後に先方の家のご用取り締まりの老女とえんえんと挨拶を交わすのだ。
まず事前には時候の挨拶から始まって、先方のご一家が御機嫌|麗《うるわ》しくあらせられることを|寿《ことほ》ぎ、お招きいただいたお礼をいとも丁重に申し述べる。事後には、お手厚い数々のおもてなしにあずかり、お心づくしのおみやげを頂戴したお礼をオーバーに述べたてる。
「おたねさんのお電話が始まります」
と女中達が知らせに来ると、私は何はさておき見物に駆けつけることにしていた。
たねはとっておきのこぼれんばかりのスマイルを|湛《たた》え、平常より一段とトーンの高い荘重な声で話し出す。女中達を叱りつける時の声とは似ても似つかぬ音色だ。愛想笑いやお世辞笑いがちりばめられ、電話機に向かってうやうやしくお辞儀が繰り返される。
私は若い女中達と電話室のドアの陰でヒイヒイ笑いながら真似をするのだったが、私が洗練された優雅な日本語の言い回しや技巧をこらしたソフィスティケートな社交辞令というものを、知らずしらず|憶《おぼ》えるのもこの時だった。ことに秩父宮家や高松宮家の御殿の女官さんとのやりとりともなると、磨きぬかれた宮廷言葉が繰り出され、難解な敬語がよどみなく駆使される。
この電話での挨拶交換は、女中頭の役目のひとつではあったが、彼女はそれを|芯《しん》からエンジョイしているのだった。若くて未亡人になったたねは二十四歳の時から前田家に住みこみ、十年近く前に女中頭に抜擢された。その出世の極め手は、彼女の語感の鋭さと、絶対に間違ったためしのない流暢な敬語遣いを父が評価したことによる。
寝室のドアがノックされ、「侯爵様が下のホールでお待ちかねでいらっしゃいます」
と給仕の小林がドアの外から遠慮がちに告げていった。
第二章 栄光の絵巻
幕府が整備した『寛永諸家系図伝』によれば、私達の先祖は天神様、すなわち菅原|道《みち》|真《ざね》ということになっている。
『|三《さん》|壺《こ》|記《き》』(加賀に関する本)によれば、昔平安時代の初め|近江《お う み》の国を領していた人が西坂本にあったが、狩のために湖の|畔《ほとり》を歩いていると|菅《すげ》の生えた沢に天女が|天《あま》|下《くだ》って|戯《たわむ》れているのを見た。連れ帰って三年ほどするうちに男の子が生まれ、天女は天に飛翔してどこかへ消えてしまった。その地を菅の里と呼んでいるが、その子は幼いころから聡明で諸芸にすぐれ、七歳で|帝《みかど》に|仕《つか》える。これがのちの|菅丞相《かんしょうじょう》こと菅原道真であるという。
私はこのロマンが好きで、これを多少脚色して三幕の戯曲を作ったこともある。
道真は宇多天皇に仕えて信任を受け、寛平六年(八九四年)遣唐使に任ぜられる。書をよくし弘法大師、小野|道《とう》|風《ふう》とともに三聖と称せられ、詩文に長じ和魂漢才を唱える。醍醐天皇の時に右大臣となったが、延喜元年(九〇一年)藤原時平の|讒《ざん》|言《げん》によって|筑《つく》|紫《し》(九州)へ|配《はい》|流《る》されてしまう。
そこで生まれた一人が九州の原田氏の先祖となり、その一族が尾張愛智郡荒子村(現、名古屋市中川区)に住みつき、前田姓を名乗った。
さて時は下り、足利将軍家の相続問題が原因で、細川勝元と山名宗全が十一年も続く応仁の乱をひき起こす。
この戦乱によって京の都は荒れ果て、遂に|群《ぐん》|雄《ゆう》|割《かっ》|拠《きょ》する戦国時代の幕あきとなる。
荒子城と二千貫の所領を有する豪族前田利春の四男、犬千代は、この戦国の世の真っ只中(一五三八年)に生まれた。
彼は十四歳の春、尾張の豪族織田吉法師信長に仕える。この年に元服して孫四郎利家と名乗り、尾張海津の合戦に出て|初《うい》|陣《じん》を飾る。そのころ信長は、隣国の斎藤道三や親族間との戦いに明け暮れていた。
利家は長身の美少年で派手な服装を好み、特別きらびやかな|拵《こしら》えの槍を持ち歩き、小姓組きっての暴れ者だったが、信長の|寵愛《ちょうあい》は|殊《こと》のほか深く、十五歳のころから常に寝所をともにしたため男色との言い伝えも多い。
十九歳のとき宮井勘兵衛との戦いで右眼の下に敵の矢が刺さったが、利家はこれを引き抜き勘兵衛を討ちとる。
ところが利家は茶坊主の拾阿弥と喧嘩をして斬り捨てたため、信長は「殺してしまえ!」と激怒するが、柴田勝家らの取りなしで命だけは助けられ追放されてしまった。
その後まもなく信長は二千の兵を率いて|桶《おけ》|狭《はざ》|間《ま》に奇襲をかけ、宿敵今川義元の四万の軍勢を撃ち滅ぼす。更に勢いに乗じて美濃を急襲し、斎藤|竜《たつ》|興《おき》に戦いを|挑《いど》む。
利家は戦いのたびに|馳《は》せ参じて奮戦し、美濃随一と噂された強豪足立某を討ちとったため、遂に許されて戻った。
以後、彼は信長の側近にあり、天下統一の理想に燃えて姉川の戦い、伊勢長島の一向一揆の制圧など転戦を重ねることになるが、長篠の合戦では鉄砲隊長として武田勝頼の大軍を壊滅せしめた。
利家は二十一歳で|従妹《い と こ》の松子を|娶《めと》り、のちに親友の木下藤吉郎と|寧《ね》|々《ね》の結婚の仲人となる。
永禄十二年(一五六九年)には信長の命によって家督を継ぎ、荒子城主となる。三十一歳である。次いで北陸の信長勢力の最前線として越前の府中を領し、能登を平定し七尾城主となる。
「進撃は|奔《ほん》|馬《ば》の如く、撤退は|脱《だっ》|兎《と》の如く」というのが利家の戦陣訓であり、当時の武将達の合言葉であったらしい。それは十六代あとの父のモットーともなった。モタモタしてタイミングを逸したら、永遠に勝利の女神は、ほほえんではくれないのだ。
利家にとって存亡を決したのは、かの有名な|賤《しず》ケ|岳《たけ》の合戦であった。
織田信長と明智光秀亡きあと、天下を争うのは羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家であり、その両者と親しい利家は苦境に立たされる。しかも三女の|摩《ま》|阿《あ》姫は人質として同盟軍の勝家の|許《もと》に差し出し、四女の豪姫は秀吉の養女になっている。
利家は近江まで出兵して陣を|布《し》いたが、はじめから戦う意思はなく、潮時を見てサーッと軍を引いてしまった。柴田軍と佐久間盛政の連合軍は作戦を誤って大敗し、勝家は北の庄の城に火を放って愛妻のお市の方とともに自害する。
人質の摩阿姫は秀吉の兵に救助され、後に加賀殿と呼ばれて一緒に脱出したお市の方の娘の茶々(淀君)とともに秀吉の側室となる。その後利家は秀吉|麾《き》|下《か》の大名として天下平定を目ざし、尾山城に入城してこの地を金沢と命名した。
秀吉と徳川家康が対決して、謀略の限りを尽くして戦った小牧・長久手の合戦では、徳川方に味方した越中の|佐《さつ》|々《さ》成政を破り、関東の北条攻めには北国軍の総指揮をとり、次いで奥羽征討に加わりといったふうに|鎧《よろい》を脱ぐひまもない日々を送った。
しかし「槍一本で百万石を築いた」といわれる利家だが、蛮勇を|揮《ふる》う荒くれ武者ではなかった。生まれつき社交家であった彼は、秀吉の政治戦略を実行に移す外交官としての役割を存分に果たしたし、常にソロバンを傍に置いて兵馬や武器の数から兵糧の端に至るまで、綿密な計算を忘れない実務家でもあった。
やがて利家は、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家とともに五大老に就任するが、とりわけ秀吉から、自分の亡きあとの豊臣家の将来を託され、「くれぐれも秀頼のことをお頼み申します。お頼み申します。このほかには思い残すことはありません」
と必死で頼み込まれてしまう。
しかし利家は、秀吉の死後一年もたたないうちに(一五九九年)病死し、天下を|狙《ねら》う家康の思う壺となる。天下分け目の関ケ原の合戦は、早くも翌年に起こるのである。
家康は着々と権力を掌中に収め、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いて、多くの武将達が夢み渇望した全国制覇の偉業を成し遂げた。彼は利家の没後も十六年間生きていたのだが、もし両者の死が逆であったとしたら、どういうことになっていただろうか。
人生も戦いであり、人を支配するかされるかのどちらかだ。強者は弱者を徹底的に従えようとするし、容赦なく潰滅させもする。それは、何も戦国時代に限ったことではなく、いつの世も同じだ。とにかく強くなければならない。頼れるのは究極においては自分だけなのだ、ということを利家は教えているのではないか。
机に頬杖をついて|遥《はる》かな空を見つめながらとめどなく考え込む。私はそういう女の子なのだった。なんの因果か、ああいう先祖を持ったお蔭で、私は風変わりな女の子になってしまったのである。
耳をすませば、つわものどもの|雄《お》たけびが聞こえ、軍馬の|嘶《いななき》と|蹄《ひづめ》の|轟《とどろき》が聞こえ、斬り結ぶ剣と剣との刃音が聞こえ、|矢《や》|羽《ばね》と鉄砲と|法《ほ》|螺《ら》貝の響きが聞こえ、桶狭間の決戦の時のような天地を揺るがす|雷《いかずち》と滝のような豪雨が聞こえるような気がしてくる。
ときどき来客に見せるために陳列される白糸|縅《おどし》の|鎧《よろい》や、ラシャの陣羽織や、|大《おお》|典《てん》|太《だ》光世の太刀や、銀の|兜《かぶと》や、|蒔《まき》|絵《え》の|鞍《くら》や、|象《ぞう》|嵌《がん》の|鐙《あぶみ》をしげしげと眺めていると、四百年の時間の果てから先祖の呼び声が野を渡る風のように聞こえるように思えてくる。
そして何かに|憑《つ》かれて私は小説を書き始める。いうまでもなく時は天正時代、所は北陸、舞台は城の天守閣であり、|濠《ほり》|端《ばた》であり、平原であり、|砦《とりで》であり、黒百合の花咲く|深《しん》|山《ざん》|幽《ゆう》|谷《こく》である。
登場人物はすべて男である。男達の意のままに|操《あやつ》られ、運命に流され甘んじて袖で涙を|拭《ぬぐ》う女などは、出す幕がない。
かくして私の男性|礼《らい》|讃《さん》は、いよいよますます動かし難いものになっていくのであった。
俗に“加賀百万石”と呼ばれるが、百万石とは現在の貨幣価値に換算すると五百十五億円に相当するという。当時、一万石(|石《こく》は米の|穫《と》れ高)で二千人の兵力を養えたというから、それは戦力を示す言葉であり、前田家は二十万の大軍を|擁《よう》する藩主であった。
しかし江戸時代三百年にわたって、前田家は戦争放棄をたてまえとして一兵も動かさず、平和主義を貫いた。
豊臣秀吉が没した時点では、徳川家康を始め毛利や上杉など百万石を越す大名は数家あった。だが利家は、秀吉の五大老の中では家康と並び政局の中枢にありながら、八十余万石でしかなかった。
それを百万石に格上げさせたのは、とりも直さず二代目の才覚による。彼は家康が口実をもうけて“加賀攻め”をもくろんだとき、八方手を尽くしてこれを未然にかわした。
このとき利家夫人松子も「構えて我らのことを思いて家を潰すべからず。我らをば捨てよ」と自ら進んで人質となって江戸に留まり、十五年間拘束されながら家康の疑心を晴らそうとつとめた。
こうして幾度も一触即発の危機を切り抜けて遂に加賀・越中・能登(石川県と富山県)の三ヵ国を完全に領有し、支藩(分家)の富山藩と大聖寺藩を加えて百二十二万二千五百石を手中に収めた。
他の大藩は、関ケ原の合戦で|去就《きょしゅう》を誤ったり、幕府に対して|謀《む》|反《ほん》を企てたり、謀反の心ありと|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》を着せられたり、家臣が不始末をしでかしたり、領国統治に失敗して大がかりな農民|一《いっ》|揆《き》や内乱を引き起こしたり、浅野家と|吉《き》|良《ら》家のように大名同士が喧嘩したりするたびに、幕府の親藩や譜代ですらも次々に取り|潰《つぶ》され、結局、明治まで生き残った百万石大名は前田家のみになったのである。
前田家は、単に一族のためでなく、家臣やその|陪《ばい》|臣《しん》や領民のすべての生命と財産を守るために、絶対に滅亡してはならなかった。そのためには、幕府や他国の大名に対しては平和主義を装いながら武威をちらつかせ、歴代の藩主はお城から出て直接領民達と会い、その声を政治に反映させて人々の心を|掴《つか》んだ。
そして前田家が一貫してとったのが戦争放棄を裏づける文化振興策と、徳川と強固に結ぶ婚姻政策であった。
戦乱や謀略に明け暮れた初代の利家やその長男の利長に較べ、三代の利常以下は文化人に徹した。利常は文化の面でも業績を残された|後水尾《ごみずのお》天皇と義兄弟(双方の夫人が二代将軍徳川秀忠の娘)であったことから、和漢の古書や美術品、わけても平安の王朝文化の華を意識して|蒐《あつ》め、|遺《のこ》した。
一方、寛永十四年(一六三七年)には長崎に出張所を設けて、当時の舶来品を財力に任せて買いまくる。オランダのデルフトへ焼きものを注文し、それを古九谷の意匠の中に吸収させた。
また本阿弥光悦、小堀遠州、狩野探幽、彫金の後藤|顕乗《けんじょう》、|蒔《まき》|絵《え》の五十嵐|道《どう》|甫《ほ》、清水九兵衛らと親交厚く、パトロンを以て任じた。
能は武士の教養として必要であると考え、|宝生大夫《ほうしょうたゆう》を京都から迎えて加賀宝生を作り、町家の人々にも奨励した。現在でも金沢の県立能楽堂に通ってくる能楽師達は、専業の人は三人だけで、あとは大工さん、植木屋さん、ブリキ屋さん、襖屋さん等々であるという。
五代の綱紀も学問、工芸を好み、図書の蒐集や編纂をして「加賀は天下の書府なり」と新井白石に言わしめた。木下順庵、室鳩巣、貝原益軒なども厚遇し、美術、工芸家を数多く育成し、宮崎友禅斎による加賀友禅、金箔、和紙、輪島塗り、大樋焼等々今日に及ぶ地場産業の開発普及に努力した。
茶道の初代千宗室は利休の曽孫で裏千家を創立したが、寛文六年(一六六六年)に綱紀は彼を招いて百五十石を与え茶道奉行とした。以来、家元は代々加賀に出仕して茶の湯の普及につとめた。現在でも前田家と裏千家は密接である。父は幼い私がわかろうとわかるまいと言いきかせた。
「前田家は武門の家柄だけれど、江戸時代以来文化の面で大いに貢献したのだから、子孫もこれを受け継いでいかなければならない。それが貴族の義務というものだ。わかるね」
「ハイ、わかります」と私は神妙にうなずく。
「受け継ぐといっても、何をどうすればよろしいの? パパ」
「うちには奈良朝時代からの書物や美術工芸品などが山ほどある。そのほとんどが国宝や重要美術品になっている。これらのコレクションをまずよく見ることです」
「でも日本の古いものって、難しくて面白くないみたい。字だって読めないし……」
「見ているうちに読めるようになります! 日本のものばかりじゃない。支那や朝鮮や印度や西洋のものもある。パパはヨーロッパへ行くたびにたくさん買い込んでいますよ。日本は長い間|鎖《さ》|国《こく》をして外国とつきあわなかったから、西洋の文化のことはまだまだわかってないんだ。絵だって道具だって全然違うでしょ。いま、われわれがしなければならないのは、西洋のものを輸入することだ。それをわかろうとすることだ。いいね!」
「ええ、西洋のもののほうが好きよ。ゴブラン|織《おり》のトロイの勇士とカルタゴの女王の絵もとてもすてきだと思う。ショパンの自筆の楽譜だってあの通り|弾《ひ》けるわ。バッハはあんまり好きじゃないけど」
「それはわからないから好きじゃないんだよ、きっと。なんでもそうです。わかってくれば面白くなって好きになる。たとえば陶器や刀剣などは芸術品として最も難しいから、なかなかわからない」
「どうしたらわかるようになれます? パパはおわかりになるの?」
「わからないものもたくさんある。だからいつも先生方に説明していただいてるでしょ。うちにはいつも学者の方達が研究に来ていらっしゃるのだから、ミミちゃんも伺いなさい。そうして何度でも一つでも多くのものを見るんだ。目を肥やすことが一番大事なんだよ」「ハイ」
「そのうち調べて論文を書いたり、本を編纂したりする。そうして貴重な文化財を多くの人に知らせたり、整理して次の世代に引き渡す。そういう仕事をわれわれは是非ともしなければならないんだよ」
昔は鴨の猟場であった淀橋区大久保の別邸に、前田|朗《さえ》|子《こ》は住んでいた。彼女は祖母である。鍋島侯爵家より|嫁《とつ》いで来たが、夫の|利《とし》|嗣《つぐ》亡きあとは作歌や旅行を楽しんでいる。
私は月に一度はおばばちゃまのご機嫌伺いに行って、お話をせがんだ。加賀騒動、加賀|鳶《とび》、加賀千代女、銭屋五兵衛などの昔|噺《ばなし》を、祖母は見て来たように話してくれる。孫娘を物語の世界に|誘《いざな》い、物書きの道へ駈り立てたのは多分に朗子の責任でもあった。
「それじゃあ、今日は明治天皇や昭憲皇太后様、大正天皇と皇后様(貞明皇后)が、前田家に|行幸啓《ぎょうこうけい》(お出まし)になったときのお話をしてあげましょう」
と、ある日朗子は言った。
それは十月半ばの学校の秋休みの日で、私は大好きなおばばちゃまの邸へ泊りがけで来ていた。
「そのお話、面白い?」
「面白いのなんの、大変なお話ですよ。時の天子様とお|后《きさき》様、そして東宮様(皇太子)と妃の宮が臣下の家へ行幸啓になるなど、もう今後は絶対にないことです。日本のお国はこれからどうなっていくかわからないが、あのような|栄《えい》|華《が》の極みは二度とありませんよ」
祖母はいそいそと文庫へ私を|伴《ともな》うと、一巻の絵巻物と和紙を|綴《と》じた書類を探し出して再び座敷へ戻った。せっかくのお話なので十人ばかりの奥女中と、私付きの|八《や》|重《え》|野《の》も|襖《ふすま》を開け放った次の間に居並んで伺うこととなった。
「前田家の本邸は今は駒場だけど、明治から大正の末までは本郷にありました。あそこの敷地一〇万坪(三三万平方メートル)余りが前田家の江戸時代の上屋敷だったのを、そのうちの大体九万坪を帝大(東大)に提供して、わたし達は赤門の右手あたりに住んでいたの」
家が古びてきたので、明治三十五年から五年がかりで工事をして二階建ての一〇一〇坪ばかりの日本館と三階建てで地下室のある西洋館を新築した。
これより先、鎌倉・長谷の別邸には皇后様を、石川県金沢の別邸には皇太子様をお招き申し上げたが、東京の本邸が落成した機会に、明治天皇はじめ皇族方の行幸啓を宮内省に願い出たのである。|早《さっ》|速《そく》そのための準備設営に入り、活動写真を上映するための一棟と能舞台も新設した。
明治天皇の行幸は四十三年七月八日、皇后は十日、皇太子と同妃の行啓は十三日とのご内示があり、その年の一月より宮内大臣公爵岩倉具定の旨を受けて宮内省総務課長、内大臣秘書官、侍従、主殿寮、調度寮、大膳寮、内蔵頭心得、主馬寮、内匠寮、式部職などの責任者が九回にわたって来邸し、朗子や当主の利為及び準備委員らと打合せを行なった。
これとは別に|皇《こう》|后《ごう》|宮《ぐう》|大《だい》|夫《ぶ》伯爵香川敬三、|東《とう》|宮《ぐう》|大《だい》|夫《ぶ》男爵村木雅美はじめ関係者も来邸した。四月に行幸啓がご発表になるまでは、|極《ごく》|秘《ひ》|裡《り》に準備を進めるようにとのお達しだった。
最も苦心を払ったのは庭園で、造園を託された伊藤彦右衛門は感激の余り数ヵ月というもの家族の末に至るまで|斎《さい》|戒《かい》|沐《もく》|浴《よく》し、|嗜《し》|好《こう》物を|断《た》って庭作りに打ち込んだ。延べ人員一万九千人の人夫がこれに従事し、そのため従来の芝生は一変して、巨木が生い茂り滝が落下する深山幽谷が出来上がった。
五月になると、かねて依頼しておいた鴨川の|河鹿蛙《かじかがえる》数十匹を京都より取り寄せこれを庭池に放ち、六月からは二万匹の|蛍《ほたる》を放った。
一方、邸外の道路工事を急ぐよう東京市長の尾崎行雄に陳情書を出したり、帝国大学や大学病院の煙突の煙害を防ぐため、行幸啓の二ヵ月前より無煙炭を使用するよう交渉し、普通石炭と無煙石炭の差額分を支払った。
また、表門通りの二階建て飲食店にも、当日は店を使用しないように頼み、そのための報償をした。
七月二日、内大臣侍従長侯爵徳大寺実則が臨幸御次第書を持参する。そこには当日の時間割、拝謁の人名等が奉書にびっしりとしたためられてあった。
祖母は自筆の「行幸啓記」と記録係の記した厚さ七センチの「行幸啓録事」及び幸田露伴の文を|尾上《お の え》|柴舟《さいしゅう》が書き、下村観山が描いた「臨幸画巻」を繰り広げながら、いよいよ当日のくだりに入った。
天皇が午前十時半に宮城をご出門になると、前田家の|厩《うまや》係の菊池ら数名の者が乗馬で遠見として方々に待機し、|鹵《ろ》|簿《ぼ》(天皇の公式の行列)のご通過を|馳《は》せ戻っては報告した。
祖母や父及び若くして亡くなった先妻の|I[#「I」はWinIBM拡張文字 Unicode="#6e3c"]子《なみこ》らは玄関前に、親族や家職員、旧藩士らは門内から門外に整列する。天幕内の近衛軍楽隊が静かに君が代を奏し始める。
やがて錦の|御《み》|旗《はた》を高く捧げた騎兵隊がご先導し、|数《あま》|多《た》の|儀仗《ぎじょう》兵を従えて十一時十二分、天皇は徳大寺侍従長ご|陪乗《ばいじょう》のお馬車でご到着になった。宮内大臣や侍従武官長、侍医らの馬車四台もつき従う。
天皇は馬車からお降りになると、父のご案内で洋館の|便《びん》|殿《でん》(臨時休憩所)の玉座につかれる。ただちに父を先頭に分家の四人の当主夫妻まで一人ずつ進み出て単独拝謁を賜る。
「明治天皇ってどんなお方? やっぱり神様みたいに人間離れでも?」
「そう。明治大帝は神様でいらした。お目がキラキラ輝いて、わたしは|眩《まぶ》しくてようお顔を拝することもできなかった。あんなに|神《こう》|々《ごう》しい威厳をお持ちのお方に、わたしはあとにも先にもお目にかかったことはありませんねェ。明治様は天皇としてご維新の大業を遊ばすために、日本に|天《あま》|降《くだ》って来られたお方ですよ」
引き続き、ご紋付きの銀製花瓶一対と|料紙《りょうし》文庫|硯《すずり》箱を父へ、紅白|縮《ちり》|緬《めん》一匹(二反)をI[#「I」はWinIBM拡張文字 Unicode="#6e3c"]子夫人へ、白縮緬を祖母へ、分家の夫妻や親戚の近衛公爵夫人や二条公爵夫人ら二十人へは白|絽《ろ》のご下賜があった。
当時前田家には一八九名の使用人がいたが「侯爵前田利為家来一同」としてご下賜金を、また当日余興をご覧にいれた画家、琵琶師、能役者らにもそれぞれご下賜金が授与された。
このあと父はうやうやしく献上品目録を捧げ、宮内大臣の手許に差し出す。献上品は北野|郷《ごう》義弘の太刀、源俊頼筆による万葉集、嵐山|蒔《まき》|絵《え》料紙硯箱、九谷焼花瓶、金沢の名菓の“御所|落《らく》|雁《がん》”“薄氷”“糸巻落雁”である。侍従が玉座の前に運びご披露申し上げると、「有難う」と陛下はご満足そうであったという。
「宝石などは献上なさらなかったの?」
「そんなことは西洋人のすることよ。これらの家宝の品々はいずれも一級の名人の作で、価格のつけようもないものばかりですよ。北野郷義弘という人は相州正宗や粟田口吉光とともに刀工の三作といわれた人だし、天子様へは名刀を|奉《たてまつ》るのが最高の儀礼なのです」
続いて四名の画家の描いた日本画をご覧に入れたところ、竹内|栖《せい》|鳳《ほう》と荒木|寛《かん》|畝《ぽ》の作品をお気に召してご受納になった。
このほか当日五名の画家が別室で制作したもの八点もご帰還の時にお持ち帰りになった。天皇は日本画を好まれ、ご|昼餐《ちゅうさん》の途中でもこれらの絵をお取り寄せになってご覧になり、特に日野西侍従を画家の|揮《き》|毫《ごう》|室《しつ》に|遣《つか》わせられ、犬、猿、鶏を画題として描くようご沙汰があった。これらもお持ち帰りになった。
ご昼餐は、宮内省大膳寮の人々が前田家のご膳所で調理し、食器はわが家で新調したものを使用した。お献立は次のようなものである。
葡萄酒、付焼|鮎《あゆ》、柔か煮|鮑《あわび》、照焼|鱒《ます》、巻焼玉子、そぼろ|鶉《うずら》、煮染|蕗《ふき》、茶筌|茄子《な す》、お吸物、雪の上、ご飯、ご羹である。お食事中、陛下は父をお|側《そば》近く召されてお親しく天盃を下され、徳大寺侍従長がお銚子をとってお酒を注いだ。
陛下への拝謁は三種類あって、上級の華族には単独拝謁を許されるが、ほかの者は広間などで集団でお迎えする|列《れつ》|立《りつ》拝謁、更に廊下や庭園などに居並ぶ|通《つう》|御《ぎょ》|懸《か》け拝謁とあるが、この日は石川、富山両県の出身者、旧藩士、前田家の評議員や重役ら、従六位勲六等以上の者にも特に拝謁がかなった。
殊に父は戦国時代の末森城の合戦で前田家が危機に直面したとき、あくまで城を死守した村井|豊《ぶん》|後《ごの》|守《かみ》と奥村|伊《い》|予《よの》|守《かみ》の|甲冑《かっちゅう》姿の像を玄関の両脇に飾った。それは前田家にとって、代々この家を|支《ささ》え|護《まも》った家臣が何ものにも代え難い宝であることを示す配慮にほかならなかった。
午後からは能楽をご覧になる。能役者は前田家と縁故のある|宝生《ほうしょう》流だけでなく、諸流を代表する家元を出演させ、特に金沢よりも六名招集した。
演目は「俊寛」、「熊坂」、「土|蜘蛛《ぐ も》」と狂言で、衣装は前田家所有の品が使われた。
能楽の途中、|垂《すい》|簾《れん》の間でご休憩になったが、この間アイスクリームを召し上がる。
終わって奥座敷に陳列された前田家の宝物類を|股《また》|野《の》帝室博物館長のご説明でご一巡になる。出品されたものは、「伏見天皇、花園天皇、後醍醐天皇ご直筆の文書」、「関白豊臣秀吉|高山国《たかさご》(台湾)に与ふる書」、「三池光世作の太刀の|大《おお》|典《てん》|太《だ》」、「小野道風筆の白居易の詩一巻」など十八品目で家宝中の家宝だが、数々の不思議な伝説をもつ太刀・大典太と後藤祐乗作の刀剣小道具には格別ご関心を抱かれたらしく、洋館の玉座にお戻りののちもお取り寄せになり、お手にとって|暫《しばら》くご鑑賞になった。
「欲しいなアとお思いになったのね」
「でもこればっかりは門外不出だから……」
次いで洋館別室で西幸吉の演奏による薩摩琵琶の「小楠公」をお聞きになったが、皇后ご作詞の「金剛石」をも演奏すべしとのご沙汰があって、一同感激する。
ご晩餐はやはり葡萄酒とともに付焼|小《こ》|鯛《だい》、煎上巻|鮒《ふな》、砂糖煮|百《ゆ》|合《り》|根《ね》、春子鯛、付焼|鮎《あゆ》、蒲焼|鰻《うなぎ》、源氏焼|鱧《はも》、煎上|相《あい》|名《な》|目《め》、玉子煮泥亀、煎菜、丸煮|茄子《な す》、お吸物、|摺鮑《すりあわび》、ご飯、鶏羹を召し上がり、父達がご陪食した。
天皇が一同のお見送りの中を、軍楽隊の送奏楽をあとにご帰還の途につかれたのは、午後六時五十七分であった。
父も馬車でお供をして|参《さん》|内《だい》し、ご臨幸のお礼を|言上《ごんじょう》し、帰邸後は祖先の霊舎に拝礼し、親族や家職員達と喜びを分かちあった。
当日の天皇のお供は百五名、前田家の招待来賓は百三十八名、報道関係者二十四社計四十六名、このほか余興人、騎兵隊、軍楽隊、宮内省職員、警察関係者、家職員、小者、車夫、馬丁、|鳶《とび》人夫、植木職、大工職、小使、馬夫らの全員に昼食と夕食を|饗《きょう》し、各種の記念品や謝礼金を贈ったのである。
「一日おいて皇后様が行啓になりました。のちに昭憲皇太后とお呼び申し上げるお方様ですよ。女子の教育に大変ご熱心でね」「どんなお方? おきれい?」
「そう、いかにもおツムがよさそうなはっきりしたお顔だちでね、始終ニコニコ遊ばしてね。一条公爵の姫君で|美《はる》|子《こ》様と申し上げるの。詩や和歌がとってもお上手。ほんとに誇り高い貴婦人でいらしたわ」「どんなご服装で?」
「それがね、薄い卵色の透かしに藤色の菊の縫い取りのご洋装で、白の鳥の毛と花飾りのある大きなお帽子をお召しでね。
お供の|女《にょ》|官《かん》さん方も色とりどりのお洋服で、長い|裳《も》|裾《すそ》を引かれて、まるで花のようでしたねえ。
私達は色留袖五つ紋の三枚|重《がさ》ねでしたよ。殿方はフロックコートか紋付き羽織袴でね」
騎兵隊が華々しく錦の御旗をなびかせ、軍楽隊が奉迎楽を奏するのも行幸の時とまったく同じで、お供の総勢は七十九名であった。
拝謁のあと、父へはご下賜品として御紋付きの金盃と銀鉢を、I[#「I」はWinIBM拡張文字 Unicode="#6e3c"]子夫人と祖母へは同様に|白《しろ》|羽《は》|二《ぶた》|重《え》三匹、親族の男子へは袴羽織地、女子へは|絽《ろ》|縮《ちり》|緬《めん》、前田家家職員と余興人へもご下賜金を賜った。
皇后様への献上品は、尊円親王(伏見天皇の第六皇子で、歌と書に秀でた方)の書かれた古今和歌集、金沢の名人沢田治作の作った藤花描絵書棚、金沢の名菓三種であった。
引き続き奥座敷に展示された家宝をご覧になったが、|後《ご》|光《こう》|厳《ごん》天皇ご直筆の絵草子、藤原定家の筆になる土佐日記、太政大臣平清盛などが書いた法華経など十五品目で、行幸の時のものとすべて趣向を変えてあった。
「余興の手品は地天斎貞一の一座でね、皇后様がご希望遊ばしたものだったのよ。帽子の中から金のお皿や鳩がとび出してきて、その鳩からいろいろな国旗が、もうとめどなく出てくるの。それから|袱《ふく》|紗《さ》の中から生花が出るのもあったし、綿を食べて口の中から糸として出したと思ったら、その糸の中から小鳥がパッと出て来たのよ」
「よく|憶《おぼ》えていらっしゃいますのね」
「そりゃ面白かったもの。皇后様も女官さん方もほんとに手品がお好きよ」
ご昼餐はやはり葡萄酒をおすすめし、|求肥《ぎゅうひ》巻|鯛《たい》、塩蒸|鮑《あわび》、|簀《す》|巻《まき》玉子・|田《でん》|夫《ぶ》煮|鰈《かれい》、付焼|鮎《あゆ》その他もろもろのものを差し上げた。
このあと、お能は「竹生島」「山姥」「|正尊《しょうぞん》」を、三曲(琴、三絃、胡弓か尺八の合奏)は「|熊《ゆ》|野《や》」「|葵上《あおいのうえ》」などを、薩摩琵琶は「吉野路」「日本武尊東征」をご鑑賞になった。
当日別室で画家の|揮《き》|毫《ごう》した絵画十数枚をご覧に供し、数葉をお持ち帰りになる。
ご晩餐は日本酒でお取|肴《ざかな》、五目蒸、お作身、お鮨などを召し上がった。
「十三日には皇太子様(のちの大正天皇)と妃殿下のほかに、朝香宮や竹田宮の両殿下と梨本宮や北白川宮の妃殿下方もお成りでしたし、柳原|典《てん》|侍《じ》もお見えでしたよ」
「柳原典侍って?」
「昭憲皇太后様にはお子様がいらっしゃらなかったから、大正天皇のご生母は柳原二位の|局《つぼね》というお方なの。伯爵家の姫でね」
「また拝謁やご下賜品や献上品や家宝ご覧などあったわけでしょ」
「そうそう、こんど違う点は庭をご散歩遊ばして金沢の兼六園の模型をご覧になったり、真竜斎貞水の講談を聞こし召したこと。お昼のお食事は洋食でしたよ」
そのメニューは、|冷前菜《オードブル》、|牛肉極製羹冷製碗盛《コ    ン    ソ    メ》、鮎蒸焼|檸檬《レ モ ン》|注汁《ソ ー ス》、牛繊肉|乾酪《チ ー ズ》焼、|燻腿《ハ ム》|乾天寄注汁《ム   ー   ス》、|家鴨《あ ひ る》蒸焼|鶉松露《うずらトリュフ》肉詰、|生菜酢併《サ  ラ  ダ》、|独 活《アスパラガス》|注汁《・ソース》、飯米牛乳製冷菓、|鳳 梨《パイナップル》製氷菓、コーヒーであった。
お食事中は軍楽隊が演奏し続けた。
お能、薩摩琵琶、三曲に続き、活動写真をご覧に供する。
前田家ではあらかじめ十種類選んで東宮職にお伺いを立てた上で、「消防|出《で》|初《ぞめ》式」「羽後国男鹿半島」「印度コロンボ風俗」「運動好きの西洋婦人」の四種を映写した。
「なんだかつまらなそうな映画ね」
「だってこういう実写でなければいけなかったのよ。でも皇太子様は大層お喜びで、終わったら『これだけ?』と仰せになったので、皆恐縮してしまった」
さしもの行幸啓は|滞《とどこお》りなく終わった。その記念に、父は山県元帥はじめ元老、大臣、親族、旧藩士など六百六十名を招いて祝宴を張った。家職員らとも、食卓をともにして慰労した。
更に帝国大学に多額の寄付をして国史研究に関する講座の増設を希望し、本郷区内の各公立小学校に対しても記念の寄付を行なったのである。
第三章 夢を|紡《つむ》ぐ日々
若葉のころから始まった日高玲子との交際は、その後次第に親密の度を加えていった。
玲子には二人の兄がいて、長兄は学習院高等科を卒業すると京都帝大に進学していたし、次兄は中等科から海軍兵学校へ進んでいた。彼らは、ともに東京目白の邸には住んでいなかったが、玲子は子供のころから兄達を崇拝し、その真似ばかりして成長したのだった。
彼女は少女向きの雑誌や本を軽蔑して、私にも、あんなつまらぬものは読むなと|指《さし》|図《ず》した。玲子の勉強部屋の書棚に並んでいるのは「名探偵明智小五郎」、「敵中横断三百里」、「モンテ・クリスト伯」、「冒険探検決死の猛獣狩」などで、私もすぐさまそれらの面白さに取り|憑《つ》かれ、今まで毎月とっていた「少女倶楽部」と「少女の友」をやめて、「少年倶楽部」と「ボーイズ・ブック」を愛読するようになった。こちらのほうがはるかに私向きの世界であったのだ。
ゆるやかに流れる神田上水を|臨《のぞ》む目白の高台に、日高一族の邸宅はあった。
玲子の祖父の日高|康《やす》|貴《たか》は、明治の末に建て直した宏壮な日本館に住んでいる。大蔵大臣の要職にある康貴は多忙を極め、ほとんど邸内でくつろぐことはない。休日も早朝から朝霞へゴルフに出かけて行く。あるいはゴルフと称してどこかへ行く。
彼は数年前に夫人を亡くしていたが、三十年来|囲《かこ》っている新橋の芸者には築地で料亭をやらせ、八年来の柳橋の芸者は、邸の門から歩いて十分ほどの所に住まわせている。
玲子の父の|康《やす》|忠《ただ》は貴族院議員であり、財団法人日高音楽研究所所長、「|桃《とう》|蹊《けい》文庫」の理事長など、|数《あま》|多《た》の肩書きを持っている。現在は妻の美和子とともにヨーロッパを旅行中である。美和子は|明石《あかしの》|宮《みや》の姫で、私の母の|従姉《い と こ》にあたる。
康忠夫妻は、父の住む日本館から|築《つき》|山《やま》ひとつ隔てた林の中に洋館を建てて、三人の子ども達と四十人程の使用人とともに住んでいた。
もっとも、大名華族の息子達は質実剛健に教育するために、学習院の初等科へ入学と同時に親許から離す方針がとられていたから、長男の康智も次男の康春も、もう久しい間家族とは別居していた。
彼等は旧藩の漢学の先生が経営する塾に寄宿し、週末だけは家に帰って来ていたが、現在は兄は京都で下宿し、弟は広島県江田島の海兵の校舎内でそれぞれ暮らしている。
両親は|頻《ひん》|繁《ぱん》に欧米へ出かけ、いまと違って往復は船旅であったから、数ヵ月留守になることは珍しくなかった。
そこで玲子は、この九八〇〇坪の邸内で、日常顔を合わすのは家庭教師の柴田光枝とその娘千枝や大勢の使用人ばかりだった。しかし一体に華族の社会では肉親の情愛は薄いのが常だったから、玲子は別に寂しいとも思わず、これが当たり前と考えて何不足のない日を送っていたのである。
「私はね、いまに学校を卒業したら、やはり大名華族の所へお嫁に行こうと思うの」と、ある日玲子は言った。「そう。もうお決まりになったの?」
「まだだけれど、方々からお話があるみたい。この間もお振袖で|撮《と》った写真を叔母がどこかへ持って行ったわ。だけど私は大名華族でなければ行かない」「なぜ?」
「だって、宮家にしたって|公《く》|卿《げ》にしたって、お金があんまりないもの」
「公卿さん達って、着るものもなくて、|蚊《か》|帳《や》を着てた人もあったんですってね」
「そうよ。ひどかったらしい。明治以後は多少よくなったようだけれど……」
「私もやっぱり大名の所へ行く」
「それがいいわよ。だけど、それは自分が贅沢|三《ざん》|昧《まい》して暮らすためではないの。
生活するうえには、ある程度のお金があれば充分よ。食べるものだってそう年じゅうフルコースばかり食べられるわけじゃないし、金や銀の食器を使ったからおいしいというわけでもないでしょ。着るものだってそう。そんなに何十枚も何百枚も持ってたって着る暇ないじゃない。宝石だって、世界にひとつしかないルビーのティアラだって、別に欲しいとも思わない。写真で見るだけで結構よ。住む家だって、こんな大きな家はいらないわ。使わない部屋が多すぎて無駄だわよ。使用人だってこの半分で充分。皆、退屈そうに遊んでるわ」「そうよ、たしかに、私もそう思う」
「それに私達は女だから|妾《めかけ》を方々へ囲う必要もないしね。あれ、随分お金がかかるらしいわよ」
「|小父《お じ》様には二号や三号いるの?」
「いるみたい。だけどママが厳しいから、家令や執事の妾ということになってるらしい」
「家令や執事の奥さん、そのこと知ってるの?」
「どうだか知らないわ、そこまでは……。私、なんの話をしてたんだっけ。そうそう、生活するうえでは贅沢なんかする必要ないってこと言ってたんだ。じゃあ、なぜお金持の大名華族でなきゃいけないかっていうと、そのお金で事業をしたいからなのよ」
「事業?」
「ええ、パパがやっているようなこと私もやりたいのよ。パパはね、音楽研究所を作って、ウィーンフィルを|招《よ》んで演奏させたり、有名な作曲家や演奏家を次々と招んだりしてるでしょ。それから日本の有望な若い人達をヨーロッパやアメリカへ留学させて、それを援助してるでしょ。パパはいつも口癖のように言ってるの。日本の音楽はもの|凄《すご》く遅れているって。早く欧米並みにしなきゃって。そのために家のお金を研究所へどんどん注ぎ込んでるの。私もね、財産はそういう使い方をしたら、はじめて生きると思うのよ。勝手に成り金みたいなバカな使い方したら、それはとっても|空《むな》しいことじゃない? 私も、音楽に限らず、何か社会に役立つ事業をしたいのよ」
「うちのパパも、それと同じことを始終言ってるわ。それが貴族の使命だって」
「そうでしょ。前田家の文化財のコレクションは|尊《そん》|経《けい》|閣《かく》文庫ね。うちは|桃《とう》|蹊《けい》文庫って言うの。桃蹊って言う意味は、史記の『|桃《とう》|李《り》言わざれども下|自《おのずか》ら|蹊《みち》を成す』からとって、パパが名づけたの。桃李は何も言わなくても、美しい花や実があるから人は多く集まり、下には自然に道が出来上がる、って。私、この言葉大好き!」
玲子の話は果てしなく続いた。その|煌《きら》めく瞳を実に美しいと思い、私は、
「やっぱり私のお姉様はすばらしい人だ」と、ひそかに|憧《あこが》れを募らせるのだった。
さて、その日も私は誘われるままに日高家へ行った。
土曜日の放課後で、「欧語会の練習のため」と母の許可を得てある。欧語会というのは、女子学習院で毎年十一月に|催《もよお》す外国語大会のことで、詩の朗読やスピーチや対話劇を学生達は熱演して賞を争う。
学校では初等科の四年から英語とフランス語のコースを設けており、玲子も私もフランス語をとっている。
玲子は入学前に一年余り両親とともにニューヨークにいたし、私もロンドンにいて、ともに耳からの英語は身についていたのだが、「|社交界《ソサエティ》ではフランス語」という両親の考えで、そちらを選択した。
外国人との交際の多い上流家庭では外国語を最も重んじ、欧米諸国では社交語はフランス語を用いることから、フランス語を専攻する学生のほうが多かった。
欧語会のハイライトは学年合同で演じられる対話劇で、二人とも小デュマの「椿姫」に出演が決まり興奮していたのである。
「うちにも昔、椿|御《ご》|前《ぜん》という側室がいたのよ。二百年ぐらい前になるかしら……」
と玲子は、台本の打ち合わせが一段落すると、思い出したように言った。そして面白い所へ行ってみよう、と私を庭へ誘った。
|築《つき》|山《やま》の麓を|迂《う》|回《かい》して祖父の家の傍を通ると、|径《みち》はゆるやかな坂になる。こちらのほうまでは、まだ一度も来たことのない私は、玲子の愛大のルイと|戯《たわむ》れながら、砂利道を下へ下へと降りて行った。
樹齢何百年という木々の間を通ると間もなく、左手にお|稲荷《い な り》様の|社《やしろ》があり、朱塗りの鳥居が十ばかり立ち、狐の石像が三|対《つい》並んでいる。
二人は鈴を鳴らして手をたたき、「お金に不自由しませんように」とお祈りした。大名の家ではどこでもお稲荷様を|祀《まつ》って、財産を守護してくださると信じられていた。
その近くの岩の間から清水が湧き出しており、それが小さな流れとなって下のお池へ注いでいるのだ、と玲子は説明した。
「なんだかうす気味悪い所ね」私は立ち止まって冷えびえとしたあたりを見回した。突然、鳥がとび立って|椎《しい》の実がパラパラこぼれ落ちる。
「兄達はよく|胆《きも》|試《だめ》し大会をやっていたわ。夜、一人ずつお池の所まで往復するの」
玲子はルイを先立てて歩いて行く。
林を抜けると目の下に|蒼《あお》|黒《ぐろ》く|澱《よど》んだ池が広がっていた。
「これは|雁《かり》の池と言ってね。こわーい伝説があるの」「いやよ。もう帰りましょ」
だが、|朽《く》ちかけたベンチに私を無理に坐らせると、玲子は声をひそめて話し出した。
昔々、日高の家に椿と呼ぶ美しい腰元がいて、殿様の|寵愛《ちょうあい》を受けていた。ところが殿様の長男の若君もひそかに椿を愛するようになり、やがて椿は|身《み》|籠《ごも》る。
何も知らない殿様は大層喜ぶが、十三人の側室達は、口々に椿のおなかの子は若君の子だと告げ口する。怒った殿様は、槍の|柄《え》で叩いて問い|糾《ただ》すが、椿は泣くばかりで白状しない。遂に殿様は椿を荒縄で縛り上げ、家来どもに命じて池に放り込んでしまった。
その後この辺を通ると、赤ん坊の泣き声が池の中から聞こえるという噂が立つ。そして、妊娠した奥方や側室達が流産したり、身籠ったまま死んだりして、無事に出産する者がいなくなり、分家や親族から代々養子を迎えるようになった。その雁の池は「く」の字形をしており、右手の奥は雑木林に遮られて見えないが、水面は油を流したように鈍く光り、暮れかかる秋の淡い陽ざしの中に静まり返っている。
私の懇願には耳も貸さず、玲子は、「このあと、もっと恐ろしいことが起こるの」と|耳《みみ》|許《もと》で|囁《ささや》いた。
椿が殺されて何十年かのちに、信濃の国から|露《つゆ》姫という愛らしい姫が嫁いで来た。姫は雁の池の言い伝えは何も聞いていなかった。間もなく露姫は妊娠した。春の夕暮れに腰元を連れて庭を歩いているうちに池の|畔《ほとり》に出た。
見ると小舟が岸に打ち上げられていたので、二人はそれに乗って池の中ほどへ漕ぎ出して行った。すると不意に姫が、「あそこに、人が……」と叫んだ。腰元が振り返って探すうち、姫はフラフラと立ち上がったが、おなかの大きい姫はよろけて舟べりに倒れかかった。
突然、池の中から細い腕が現われて姫の|掻《かい》|取《どり》の裾を掴むと、池の中へ引きずり込んだ。
舟の中で気絶していた腰元は、やがて助け出されたが、気が違って死んでしまった。
「それで、椿御前と露姫は、まだこのお池に沈んだままなのよ」
「エッ、まだ……」
その時だった。今まで近くの|草《くさ》|叢《むら》に寝そべっていたシェパードのルイが、急にむっくりと起き上がると、耳をキッと立て、池に向かって低い|唸《うな》り声をあげ始めた。
「何か、いるんだわ……」かすれた声で玲子はつぶやき、「サ、早く!」と私の手を掴んだ。
手をしっかり握り合ったまま、二人は一目散に走った。ルイが激しく吠え立てたが、振り向いたらそこに恐ろしいものを見るように思えて、ただひたすらに走った。
康貴の住む日本館の前面は、電気が|点《とも》っていないから不在に違いない。築山を回ってやっと洋館のベランダに駆け上がったあと、二人は|暫《しばら》く、ものも言えず、手すりにしがみついていた。少し遅れてルイは狼のような姿を現わすと、芝生を右往左往駆けまわりながら、荒々しく吠え|猛《たけ》った。
「お池に何がいたの?」サロンに入ってソファに倒れ込むと私は、ようよう口を開いた。
「わからない。私には見えなかった。でも動物には、人間に見えないものでも見えるから……」
「お願い! もうやめて!」
「だけど、ルイは森の中に|雉《きじ》か兎でも見つけたのかもしれないのよ」
やっと落ち着きを取り戻した玲子は冷えた紅茶を飲みながら、まだ体をすくめている私を、いとおしむように見つめた。
「ごめんなさい。こわい目に|遭《あ》わせて」やさしく声をかけながら近寄ると私の両肩を抱きしめ、そして唇に唇を押しあてた。
私は一瞬ぼんやりと、されるままになっていたが、猛然とその腕を振りほどくと、「やめて!」と絶叫した。素早く逃れ出てドアを背に振り向くと「イヤ! |傍《そば》へ来ないで!」と繰り返した。
それは私にとって初めての求愛のキスだったが、夢に描いていたような甘美なものとは程遠かった。えたいの知れない不気味さがそこにあったのだ。
玲子の唇はゾッとするほど冷たかった。これは本ものの人間だろうか。何か、なまぐさい|魔性《ましょう》のものが玲子の姿をとって現われたのではないか――私には恐怖しかなかった。
私は廊下に飛び出すと、「八重野、八重野! もう帰るわ」走りながら叫んだ。供待ち部屋でご馳走になりながら雑談していた八重野も、日高家の女中達も驚いて玄関へ集まって来た。
私は待たせてあったフォードに乗ったが、“お姉様”は見送りにも来なかった。
前田家では毎年三月の末近くなると、奥女中達が総出でお雛様を飾り始める。
三月三日はまだ寒さが残っているし、娘達にとっては学年末試験の真最中なので、一ヵ月遅らせて宴をするのを、どこの家でもならわしとしていた。
女中頭のたねが暦を繰って吉日を調べ、その日から女中達はほんの数人を洋館に残し、交替で日本館へ出かけて行く。|甲《か》|斐《い》|甲《が》|斐《い》しい|襷《たすき》がけで、誰の顔もうきうきとして見えた。
江戸時代初期より、明治、大正と住みなれた本郷の地から、前田家が目黒区駒場に本邸を移したのは昭和五年である。
大正十五年八月に、本郷の屋敷一万二六〇六坪(四万一六〇〇平方メートル)を、東京帝大農学部の敷地の一部四万坪(一三万二〇〇〇平方メートル)及び地続きの代々木演習林の敷地一万一五四三坪(三万八〇九二平方メートル)とを等価で交換した。
そのうちの一万三〇〇〇坪(四万二九〇〇平方メートル)を塀で囲って、地上三階、地下一階建ての洋館と芝生やテニスコートの洋式庭園、書院造りの二階建ての日本館と茶室や煎茶亭(のちに戦時中、金沢兼六園内の|成《せい》|巽《そん》|閣《かく》に移す)の散在する日本庭園、そして馬場と園芸場が作られた。
ここ駒場に両親と弟の利弘、妹の瑶子と弥々子とで住んでいたのである。
あとの地所は、塀の周囲に主だった家職員の住居を建てて住まわせ、更に残りは親族や縁故関係の人々に分譲したのだった。
ここは江戸時代には“駒場野”と呼ばれた将軍の鷹狩り場で、“権兵衛の種まき唄”のふるさとである。昭和の初期も館の周辺は広々とした田園地帯で、朝は|小《こ》|綬《じゅ》|鶏《けい》や野鳥達のコーラスで明け、夜は|梟《ふくろう》のソロで暮れていった。日本館は平常は閉ざしてあるが、私は“お相手”と呼ばれる家職員の娘達十人ばかりと、始終入り込んではお化けごっこに熱中した。
古い大名の家には妖怪|変《へん》|化《げ》の物語がたくさん伝わっていて、私はかなり大きくなるまで亡霊は実在すると、かたく信じていた。
娘達は二手に分かれ、白い布などかぶって暗がりにひそみ、相手方を脅かしながら大広間の床の間を占領すれば勝ちというゲームをするのだが、みんな真っ|青《さお》になって悲鳴をあげながら家中を駆けずりまわる。
あるとき重役の娘の石川時子が、二階から下まで階段をころがり落ちて気絶してしまった。私達はあまりの恐ろしさに時子を放り出したままわれ勝ちに洋館へ逃げ帰った。医者が駆けつけるのがもう少し遅かったら、時子はどういうことになっていたかわからない。彼女は左足を骨折して|暫《しばら》く入院したが、娘達はそれでもまだお化けごっこがやめられなかった。
またある時は、娘達三人が|襖《ふすま》もろとも折り重なって倒れたはずみに、これを破いてしまった。以後、襖や障子は平生は取りはずされて倉庫へしまわれることになったが、「日本館で遊んではいけません」とは誰からも言われずにすんだ。
私が大人になってのち、この駒場時代の生活を、限りないなつかしさと|愛《あい》|惜《せき》をもって想い出す時、つまらない拘束をされず、したいことを充分に出来たことを感謝せずにはいられない。もちろん両親や家庭教師の松谷先生は必要な|躾《しつけ》をしてくれたが、理屈に合わないご|法《はっ》|度《と》はひとつもなかった。
邸の外へ一人で勝手に出かけることは厳しく禁じられていたが、私はそういうことをしたいとは全然思わないのだから、これは拘束ではなかった。|唯《ゆい》|一《いつ》の厳格なタブーは、
「他人に対して思いやりのない|横《おう》|柄《へい》な態度をとったり、迷惑をかけてはいけません!!」
ということだけであった。
この昼なお暗い妖怪達の|棲《すみ》|処《か》も、お雛様、|端《たん》|午《ご》の節句、お茶やお花やお|香《こう》の会ともなると、優雅な宴の場に一変するのだった。
広間の三方に飾り壇が組まれ、|緋《ひ》|毛《もう》|氈《せん》が敷きつめられ、周囲に金屏風が並ぶ。そして歴代の藩主夫人達が|輿《こし》|入《い》れのときに実家から持ち込んだ、雛人形とその道具類一式が丹念に飾られるのだった。
時代の古いものほど人形は大きくて赤児ほどのものもある。男雛も女雛も同様に眉が太くきりっとした顔立ちで|衣裳《いしょう》も地味だが、時代が下るにつれて小ぶりになり、やさしく|雅《みやび》やかに変わっていく。
調度品は婚礼道具を真似たもので、|箪《たん》|笥《す》、長持ち、|挟《はさ》み箱、鏡台、|文机《ふづくえ》、楽器、|几帳《きちょう》、|厨《ず》|子《し》、重箱、駕籠、御所車、火鉢などが、その時代時代を反映させている。
更に犬|張《はり》|子《こ》やお|伽《とぎ》|犬《いぬ》といわれた愛玩犬の|狆《ちん》、|蛤《はまぐり》の貝殻の内側に絵を描いて“絵合わせ”をする遊び道具を入れた貝桶などが王朝文化の華麗さを物語る。
母の所有するお雛様は、|紫《し》|宸《しん》|殿《でん》の中に配置された。紫宸殿は平安時代以来大|内《だい》|裏《り》(昔の皇居)の正殿として、即位の大礼や公の儀式を行なう御殿だが、内裏|雛《びな》(天皇、皇后の姿に似せた人形)は|御《み》|簾《す》の垂れた御座所内に、官女その他は回廊に居流れ、|階《きざはし》の左右に|左《さ》|近《こん》の桜と|右《う》|近《こん》の橘が置かれて、|御《ご》|所《しょ》のたたずまいを表わす。
最も新しい私や妹達のお雛様は、現代風な十五人揃いだが、そのほかに同級の皇女照宮|成《しげ》|子《こ》内親王からいただいた桃の枝を捧げ持つ|稚《ち》|児《ご》人形や、皇后陛下から|賜《たまわ》った鯛を抱く御所人形、|鼠《ねずみ》や牛や虎など十二支のカップルが、それぞれ|衣《い》|冠《かん》|束《そく》|帯《たい》と十二|単《ひとえ》の装束で勢揃いするのだった。
雛の宴は四月三日より三日間にわたって開かれた。
母や祖母の友人、親族や旧藩の人々の妻女を招く日、アメリカやイギリスなどの大使夫人ら、|外交団《ディプロマット》夫人、外務省、文部省、宮内省などの高官夫人や令嬢達を招く日、そして私達の親しい級友や家職員の娘達を招く日、と分けて行なった。
その夜は電気がすべて消され、玄関には|篝火《かがりび》がたかれ、庭の石|灯《どう》|籠《ろう》には火が|点《とも》される。屋内には無数の|雪洞《ぼんぼり》の火がゆらめいて、そこに時ならぬ|殿上人《てんじょうびと》の世界が現出する。
この宵ばかりはお|転《てん》|婆《ば》娘も長い袖のきものを着せられて、しとやかに客を迎える。少女ばかりのこの宴席に、母は加わらない。この夜の女主人は私であった。
振袖に丸帯を|揚羽蝶《あげはちょう》や立て矢の形に結んだ娘達は、歩きながらお雛様を鑑賞する。
「お雛様って、その時代の美男美女を表わしたものなんですってね。やっぱり昔の人のほうが、気品というものがあるわね」
「ほんとう。今の人間ってどうして品のない顔になってしまったんでしょう」
同級生達は、そろそろ遠慮なくお|喋《しゃべ》りを始めた。
「ネ、あの内裏様、山城芳子さんに似てるとお思いにならない?」「山城芳子さん?」
「ホラ、一年下のクラスにいらっしゃるじゃない。この間の音楽会で『舞踏への勧誘』をお|弾《ひ》きになった方よ」
「アッそうそう。似てる、ほんと! やっぱりお上品なわけよ。あの方、公卿のお姫様ですもの。皇室の血も入っているかもしれないわね」
「山城さんて、いま日高玲子さんの|S《エス》なんですって。日高さんがご執心だそうよ」
「なんですって?」通りすがりに私は叫んだ。玲子とはあの秋の日以来気まずくなり、会っても他人行儀のよそよそしい間柄になっていた。
「アラ、何かの間違いだわ、きっと。日笠さんだったかもしれないわ」
学友の|慌《あわ》てぶりがあまり|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》だったので、私はいよいよ怪しいと感じた。
「私は何も別に日高さんとSってわけでも、いいえ、その、親しいわけじゃなくってよ。ごまかさなくってもおよろしいのよ。私はね、吉野さんのほうがずっと好きなんだわ」
吉野さんというのは、その瞬間に|閃《ひらめ》いた名前にすぎない。
「エッ、それじゃ四年南組の吉野雅子さん?」
「そうよ、あの方すてきだわ、まるで草笛美子(宝塚の大女優)みたいだし」
「マアそうだったの。知らなかったわア、全然」
「誰にもおっしゃらないで。ここだけの秘密よ」「ええ、ええ、もちろんですとも」
数人の級友達は目を輝かせて一斉にうなずく。私はおそらくこの話は|忽《たちま》ち学校中に広まるだろうと思った。そしてアッという間に玲子の耳に入るだろう。玲子の反応を見たくて、少女達は今と同じように失言したふりをしてペラペラ喋ってしまうだろう。
その時玲子はどう出るだろうか。あの人はすぐカッとなるから電話してくるだろう。そうしたら笑いながら「お互いさまでしょ」と言ってやればいい。それともあの人はもう私のことを愛さなくなったのかもしれない。
私は無性に腹が立ってきた。玲子のことは初めから好きでも嫌いでもなかったのに、これ程憎らしく思うのは、ひょっとすると彼女を愛しているのだろうか。でもそうじゃない。これは愛ではなくて自尊心が傷ついたからなんだ。私のプライドを傷つける人間は、誰であろうと絶対に許せない。
あの浮気者の日高玲子にショックを与え、後悔させてやらねばならない。そして私を取り戻しに来させなければならない。
それはそうと、とっさの思いつきで名前を口走ってしまった吉野雅子にうまく話しておかないと、これは|辻《つじ》|褄《つま》の合わないことになる。だが、あのおっとりした雅子になんと説明したものか。山城芳子とやらはどんな子だろうか……。
友達が話しかけても|上《うわ》の|空《そら》で答えていた私は、だんだん余裕を取り戻すにつれ、にわかに面白くなってきた。
これが恋愛遊戯ということなんだ。虚々実々の駈け引きをして、周囲を煙にまいたり、誰かをまきこんだり、相手の心を|啄《ついば》んだり、たぐりよせたり、こんな微妙で痛快なゲームがまたとあるだろうか。
恋愛ごっこは戦争に似ている。戦争だって恋愛だって、お互いに探り合い、頭と頭で火花を散らし|鎬《しのぎ》を削るものなんだ。
そして更に思った。私はいまに女の子相手でなく、男の子を相手にこのゲームをすることになるだろう。それは多分ずっと|遥《はる》かにスリルがあって面白いだろう。
私がもう少し大人の女になるまでは、女の子を相手にそのリハーサルをしておこう、と。
「美意子様、さっきから合図しておりますのに。お食事のご用意ができましたから、皆様をご案内遊ばして、サ、お席のほうへ」
たねが袖を引いてささやいた。
お雛様には既にお膳が上がっていた。家紋入りの小さな黒塗りの器に、ほんの一口分の料理が盛られてある。
その献立は、
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味噌汁(大根を|銀杏《いちょう》に切って入れる)
煮物(葡萄豆、糸こんにゃく、けし)
おひら(|茹《ゆ》で卵の輪切り、きのこ煮、人参、青み、八つ頭)
焼物(鯛あるいは|鰈《かれい》、|鱚《きす》などごく小さい尾頭つき)
漬物(たくあん二きれ)
赤のご飯(赤飯ではなく小豆ご飯)
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と、いつのころからか定められてあった。
娘達は席につくと、朱塗りの盃に白酒をなみなみと|注《つ》いでもらい、|籠《かご》に盛られた桜の花を一輪ずつ取ると白酒に浮かせる。本来は桃の花なのだが、季節は桜を花開かせていた。
「美しい人になって、早くお嫁に行けますように」
ちょっと目を閉じて祈願すると、少女達は花をよけながら白酒に口をつけ、お互いに顔を見合ってクスクス笑うのだった。
「どちら様の姫様が一番先にお|輿《こし》|入《い》れでございましょうねェ」
たねは末座に控えて、女中達の配膳を指図しながら満面に笑みを|湛《たた》えて言う。
「一番お早いのは前田さん。もうお決まりなんでしょう?」
「そうよそうよ、近衛文隆様(文麿の長男)だというお噂だけど。男子部の人達が言っていたわ」
私は|慌《あわ》てた。「そんなことないわ。まだ考えたこともなくってよ。クラスで一番お早いのは照宮(成子内親王)様ですとも。だって七歳の時にご内約遊ばしたでしょ」
「|東久邇宮《ひがしくにのみや》家でしょ? でもなんだかおかわいそう。何もおわかりにならないうちに……」
「いえいえ、|上《うえ》つ|方《かた》の御婚儀はお早いのが普通でございますよ。御当家の三代様の奥方におなり遊ばした|珠《たま》|姫《ひめ》様は、三歳で将軍家からお輿入れでございますもの。若殿のほうは十歳で」
「その珠姫との御結婚によって、前田家は険悪だった徳川家と親密におなりになったんですって?」
「ええ、珠姫ばかりでなくて、うちへ嫁いで来た奥方のほとんどは徳川家の姫ばかりなのよ。初代の利家夫人の松子から私の母まで十六代に及ぶわけだけれど、そのうち十人までの奥方は将軍家や徳川御三家やその縁戚の姫だったの」
「典型的な政略結婚ね。それがこんなに三百年間も繰り返されたなんて、世界にも類のないことでしょうねェ」
たち込める|伽《きゃ》|羅《ら》の香の中で、人形達はそれぞれの女主人達の哀歓をすべて知るかのように、あるかなきかの微笑を浮かべて後世の女達に目を注いでいた。
前田家のかつての藩主達は、他の大名や公卿の姫には目もくれず、ひたすら徳川一族との血縁を深めていった。まるで徳川の姫を|娶《めと》ることが、前田家の家訓ででもあったかのように。
三代藩主前田利常の夫人の珠姫は、時の将軍秀忠の次女で、|後水尾《ごみずのお》天皇の中宮・東福門院の姉であり、豊臣秀頼の奥方千姫の妹である。非常に美しい姫で、利常は熱愛したという。珠姫は二十四歳で病死するまでに三男五女を産んだ。
四代の光高夫人の阿智子は、水戸藩初代の徳川頼房の|女《むすめ》で大姫と呼ばれ、将軍家光の養女となって来嫁した。彼女の弟が「大日本史」を編纂した副将軍水戸|光《みつ》|圀《くに》である。
五代綱紀夫人摩須子は、将軍家光の異母弟である会津藩主|保《ほ》|科《しな》|正《まさ》|之《ゆき》の次女だし、六代|吉《よし》|徳《のり》夫人の松は、徳川綱誠の|女《むすめ》で将軍綱吉の養女となって加賀に嫁入りした。更に七代|宗《むね》|辰《とき》の夫人常子は、会津城主保科正容の|女《むすめ》である。
八代の前田|重《しげ》|煕《ひろ》は二十五歳で|夭《よう》|折《せつ》し(一七五三年)、夫人の|長《なが》は「讃岐国高松城主徳川頼泰ノ女、来嫁ニ先テ重煕薨ス 依テ後髪ヲ剃リ鎌倉英勝寺ノ住職トナル」と家系譜にあるし、続いて九代の|重《しげ》|靖《のぶ》も十九歳で亡くなり、夫人の|賢《まさ》は「紀伊国和歌山城主徳川宗直ノ女、来嫁ニ先テ重靖薨ス 依テ徳川頼済ニ嫁ス」と記されているが、当時は婚約|結《ゆい》|納《のう》の段階で既に夫人と呼ばれていた。
十代藩主|重《しげ》|教《みち》は、またしても夫人に和歌山城主徳川宗将の長女|千《ち》|間《ま》|子《こ》を迎える。
将軍|家《いえ》|斉《なり》の二十一番目の娘|偕《とも》|子《こ》(通称|溶《よう》姫)が嫁した相手が十三代|斉《なり》|泰《やす》である。彼女の婚礼のため、前田家江戸屋敷に(一八二七年)赤門(現在の東京大学)が建てられた。
一方、歴代藩主達は十人前後の側室をおいていた。彼女達の出はさまざまで、寺の住職や神官や医師の娘などもあったが、たいていは家臣の娘で奥方の侍女達であった。北の|方《かた》(正妻)達も、一家一門の繁栄のためという大義名分にあっては黙認するしかなく、あえてトラブルを避けていたということである。
第四章 母の回想
|小《こ》|綬《じゅ》|鶏《けい》の|甲《かん》|走《ばし》ったソプラノの絶唱で、駒場の前田邸に朝が始まる。
母の菊子は|繻《しゅ》|子《す》のガウンを羽織って化粧をすませると、隣室の夫人室へ行く。既に父の利為は、バタートーストにマーマレードをのせたまま、新聞に目を走らせている。
「ごきげんよう」と挨拶した彼女はベルを押して、自分の朝食を運ばせる。
それは白リネンのナプキンに包まれたトースト、ベーコンエッグス、蜂蜜のかかったグレープフルーツ、熱いミルクティーのイギリス・スタイルである。
食事中の父に、執事の高柳はじめ“お|表《おもて》”の家職員が代わる代わる指示を受けに来る。
自室で朝食をすませた私は、「パパ、ごきげんよう。マミ、ごきげんよう」と両親の頬に素早くキスすると、階段を三段おきに駆け降りてフォードにとび乗る。
お付きの八重野も、手芸の道具を包んだ風呂敷包みを|抱《かか》えてとび乗る。常に私と行動をともにする八重野は、いつも小走りに走り回らねばならない。彼女は木下産婦人科病院の優秀な|看護婦《ナ ー ス》で、私が生まれた時から身辺の世話をしている。|国《くに》|許《もと》からの縁談にも耳を貸さなかったので、三十代の半ばを過ぎても独身であった。
毎朝女子学習院について行き、供待ちの大部屋で他家のお付きの人達と人形作りや編み物などをしながら、授業の終わるのを待つ。学校側では彼女達のために裁縫や手芸の先生を雇っていた。
私に付き添う運転手の小池と助手の赤羽は揃いの黒のユニフォームを着、前田家の剣梅鉢の紋章をつけた制帽をかぶっている。私は小池が大好きだ。なぜなら彼は運転しながら荒木又右衛門や塚原|卜《ぼく》|伝《でん》や柳生十兵衛などの剣豪の武勇伝を話してくれるからだ。そのために小池は「講談倶楽部」などを片っ端から読んでは暗記しなければならなかった。話に|昂《こう》|奮《ふん》しながら時折急ブレーキをかけるので、私は八重野にしがみつく。
助手の赤羽は軍隊時代に父の目に|留《と》まり、除隊後に前田家に雇われた。私の行く所どこへでも付き従うのだが、彼の役目はフォードのドアを開けたり閉めたりするだけである。彼は|苦《にが》み走った好男子なのだが、いつまでたっても上等兵の気風が抜けず、「ハッ、赤羽清であります! 終わり!!」などとあたりかまわず叫ぶ。私は恥ずかしさのあまり腹立たしく、学友達がその真似をするから、せめて学校にだけはついて来ないようにしてほしいと父に哀願するのだが、父は澄まして、
「落度のない者を、むやみに配置替えをするわけにはいきません」と取り合ってくれない。
私達の一行が騒々しく出かけて行ったあと、父も迎えに来た副官とともに陸軍の車で出勤する。父はロンドンから帰国後は近衛第二連隊長、第二旅団長、参謀本部第四部長、そして陸軍大学校長になっていた。私と三歳違いの弟利弘は東京高等師範附属小学校へ入学と同時に、祖母の朗子の住む大久保邸と同じ地所内に建つ敬義塾に寄宿している。当時、明治元勲族やエリートを自任する成金族は一にも二にも学習院に|憧《あこが》れたが、父は特別な階級の子弟だけを教育する学習院に息子を入れることを避けた。大名華族の男子で学習院を物足りなく思って敬遠する者は珍しくなかったが、殊に父は遠からず革命が起こって皇族も華族も崩壊すると予感していたから、そうなった時に学習院出身はマイナスになる、と|惧《おそ》れたのだった。
弟は同年配の少年数名と三名の先生と一緒に生活し、かなりスパルタ的教育を受けていた。小学二年生の時、初めて出場した馬術大会の少年の部で一等賞を取った彼は、以来馬に熱中し、将来|男爵《バロン・》|西《ニシ》のように騎兵将校になってオリンピックの大障害で優勝することを夢みていた。
朝のひとときの|慌《あわただ》しさが過ぎると、邸内にはまた静けさが戻ってくる。
母は洋服に着替える。すっかり西洋風俗が浸透した現代でも、まだ住居内で靴をはく日本人はごく|稀《まれ》だが、そのころから母はイギリスでの生活の延長でハイヒールの靴をはいていた。スリッパはベッドルーム以外ではくものではないと言われて育った私は、よその家へ行って、玄関にスリッパがズラッと並んでいるのを見た時、「マミ、あんな所にスリッパが!」とおかしがったものだった。
毎朝の日課として母は、夫人室の一隅に安置してある観音様のお|厨《ず》|子《し》に水と花をお供えし、礼拝する。家族全員が観音様を信仰しており、毎月十八日の観音様の日には女中頭のたねが浅草寺に代参することになっていた。
この夫人室は|薔薇《ば ら》と|蔓《つる》|草《くさ》模様の壁絹が張られていて、邸内でもっとも華麗な部屋である。
クリーム色の大理石のマントルピースの上には大きな鏡が|嵌《は》め込まれ、美の祭壇を形作る。ルノアールの「アネモネ」とアマンジャンの「喫煙の図」の額が掛かり、音楽家の肖像の切手を貼りつけた屏風、和・洋の人形、ゴルフの優勝カップ、電蓄とレコード・キャビネットなどが品よく配置されていた。
新聞に目を通している母の所へ、たねが昼食と夕食の献立を|携《たずさ》えてやって来る。献立はコックの山本が毎朝丹念に清書して提出する。母はその日の気分や来客の顔ぶれによって“帆立貝と小海老のコキール”とあるのを消して、“|舌平目《ソ ー ル》のボンファム”などと書き換えてたねに返す。
山本は和・洋食どちらもこなすベテランで、戦後は料理学校の校長になってテレビに出演していたこともあるが、彼のもう一つの特技は漫画を描くことだ。彼はいつも「これは絶対に内緒でございますよ」とささやいては“三太郎の冒険”という面白くもおかしくもない漫画を私の部屋まで持って来る。三太郎というのは、彼のファースト・ネームである。
午前十時には本郷の菓子店の“藤村”から重箱に入った和菓子の見本が届くので、母は好みのものを注文する。来客用には麹町の“開新堂”の洋菓子を取り寄せる。
本郷に住んでいたころには、来客用として羊羹や|練《ね》りきりの七つ盛りを毎日三十人前ずつ購入していた。八寸(容器)に中奉書を敷いて菓子を盛り、|天《てん》|目《もく》|台《だい》で煎茶を出していたものだが、ロンドンから帰って駒場に移住してからは万事生活様式を洋風に変えていた。
やはり毎朝のように、松坂屋の番頭達が風呂敷包みを背負ってやって来て、奥女中達の“お|溜《た》まり”で広げる。母はそれをチラと|一《いち》|瞥《べつ》し、あとはすべてたねが心得て、こまごまと贈答用の品物を買っては、これを|納《なん》|戸《ど》に運ばせる。反物から玩具まで、ありとあらゆる物が、そこにはストックされてあるのだった。
母の日程は相当に忙しい。毎日イヴォンヌ・岡見に来てもらってフランス語の会話を練習する。岡見夫人はフランス人の元オペラ歌手で、日本人の画家と結婚しているが、この上もなく陽気な婦人だ。コロラチュラソプラノで絶えず華やかに笑い|喋《しゃべ》り続ける。
母はさまざまな場面を想定しては会話をやりとりする。たとえばフランス大使館の参事官A氏が突如死んだらお悔やみに行ってなんと挨拶すべきか、マダムBの|午《ご》|餐《さん》|会《かい》に急に出席できなくなったとしたら、なんと断わるべきか、パリに滞在中、|素《そ》|行《こう》のよくない使用人に|叱言《こ ご と》を言うときは? etc……。
母は思いつくと際限もなく、その状況を英語で説明し、イヴォンヌにパリの貴婦人語を言わせながら、ノートに書きとめる。この作業は日常の社交上必要だからしているのではなく、好きだからなのだ。母はフランス文学を読むことはさして興味がないが、会話が大好きなのである。同じことを言うにも、もっとも|洒《しゃ》|落《れ》た言い回しを、と心がける。
昼食は招いたり招かれたりで、一人でとることは滅多にない。
午後は日によって、のちの西洋美術館長の富永惣一氏を招いてギリシャ彫刻やルネッサンスの絵画の講義を受けるか、吉田秋光氏について日本画を練習する。これらは私もお|相伴《しょうばん》することが多かった。
あるいは邸内の尊経閣文庫で、自分のライフワークとして古代|裂《ぎれ》(布地)の分類整理に取り組む。服飾に関心の強い母は特に能衣裳の魅力に取り|憑《つ》かれ、父にねだって|木《もく》|蓮《れん》の紫に金の“|銀杏《いちょう》|祇園守《ぎおんまもり》に稲妻文様”の能衣裳を貰い受け、これを分解して自分の帯とバッグと|草《ぞう》|履《り》に仕立てさせたりした。
彼女はさほど外出を好まなかったが、パーティー以外では、友人達と音楽会やゴルフに出かけることもある。美容院は赤坂の“アンナ”で、そこへは週に一度行くが、ショッピングはする必要がない。
洋服の仕立ては、横浜の“ボスキン”の主人の|張《チャン》が助手を引き連れてやって来るし、帽子は麹町の“ベルモード”の店主夫人が仮縫いにも来る。宝石や銀器はその|老舗《し に せ》の“植田”の若主人がタイミングよく訪ねて来るのだった。
母の菊子は現在の生活に満ち足りており、つくづく自分は幸運だったと思う。
しかし、かつては悲劇のヒロインとして、人々の同情を集めた時期もあったのである。
瀬戸内海を臨む兵庫県の姫路に|聳《そび》え立つ|白《しら》|鷺《さぎ》城――日本でもっとも美しい名城として知られるその城は、母の先祖酒井家の藩主達が百二十年間にわたって所有していた。
酒井家の元祖|広《ひろ》|親《ちか》は徳川家康より八代前の松平有親の孫で、|雅楽《う た の》|頭《かみ》を名乗り、徳川幕府を支える四天王として譜代大名の|筆《ひっ》|頭《とう》であった。
前田家のような|外《と》|様《ざま》大名に|較《くら》べて禄高は十五万石にすぎなかったが、常に政権の座にあって老中や大老の要職を勤めた。
菊子の祖父の|忠《ただ》|邦《くに》は明治になって伯爵を授けられ、東京・小石川原町に住むようになる。
夏は蓮の花々が紅を競い、冬は鴨の大群が群れ遊ぶ大きな池を持つ七〇〇〇坪(二万三一〇〇平方メートル)の邸内で、菊子は生まれた。
父の|忠《ただ》|興《おき》は貴族院議員であり、庭園の温室で各種の蘭の花を栽培し、またスタジオを建てて、写真の研究に没頭する学究の徒である。
母の夏子は維新の功労によって太政大臣、大勲位(勲一等の上に位する最高勲位)を与えられた公爵三条|実《さね》|美《とみ》の七女で、絶世の美女と言われたが、菊子の四歳の時に二十二歳で病死した。
幼くて母を失った菊子は、一歳年上の姉の秋子とまるで二羽の紅雀のようにいつも身を寄せ合い、いつも手をつないでチョコチョコ歩いた。
やがて姉妹は学習院女学部に入学する。当時の学校は、現在の千代田区永田町の角にあった。小石川原町からそこへ、二人は人力車を|連《つら》ねて通っていた。
学校の規定通り|銘《めい》|仙《せん》のきものに、えび茶のサージの|袴《はかま》をはき、寒い日はきものと同じ|被《ひ》|布《ふ》を着た。
束髪に結ぶ大きなリボンも、学用品を包んだメリンスの風呂敷も、姉妹は相談していつもお揃いにした。
菊子は十三歳になった。父親に似て御所人形のようにふっくらとした顔立ちの秋子と違って、彼女は日増しに、亡くなった母に生き写しとなった。彫りの深い派手な目鼻立ちに|一《いち》|抹《まつ》の憂愁の影が|湛《たた》えられて、その美貌は早くも男子部で評判になり始めていた。
九段の方角から来る酒井家の人力車が、半蔵濠(現在の千鳥ケ淵公園)に沿った大通りにさしかかると、毎朝必ずすれ違う男子学生の姿に菊子は気づいた。海軍士官の軍服によく似た濃紺の学習院の制服に、桜の|徽章《きしょう》の制帽、そして白手袋をはめたいかにも貴族的な品位に満ちた少年――。
この徒歩の少年を追い越して別の二台の人力車が走って行くのも毎朝のことである。その人力車には、|久《く》|邇《にの》|宮《みや》家(皇族の名門)の|定紋《じょうもん》が輝き、先頭には|良《なが》|子《こ》女王(香淳皇后)、続く車には信子女王(のちに三条西伯爵夫人)が乗っている。
「そして、あの方は兄宮の|朝融《あさあきら》王……」
菊子の胸はときめいて、すれ違う瞬間に目を伏せて軽く会釈する。同時にそのノーブルな貴公子は唇を引き締め、右手でパッと挙手の礼を送る。またたく間に車は走り過ぎ、甘美な想いだけが残る。
こういうことがもう数ヵ月も続いていた。
四谷の学習院中等科へ徒歩で通う朝融王が、麹町一番町の御殿から時間を合わせて出て来るのを、菊子はわかっていた。
春が、|沈丁花《じんちょうげ》の香りとともに大気の中に漂い始めた朝のこと。
登校した菊子は机をあけて、ハッと立ちすくんだ。白い洋封筒が入っていた。
思わずあたりを見回すと、一年上級の良子女王と同級生の信子女王が|微笑《ほ ほ え》んでいる。
「お兄様が、菊さまのことを……」
二人は近づいて秘密めかしく囁くと、蝶々のように、ヒラヒラと飛んで行った。
「お兄様が、ご返事をって」
それからというもの、二人の姫宮はお昼休みの校庭で、|西《にし》|陽《び》の|射《さ》す廊下で、菊子に耳打ちする。
しかし、おとなしくて|生真面目《き ま じ め》な菊子は途方に暮れるばかりだ。手紙には淡々と思慕が綴られていたが、ラブレターの返事をなんと書くものなのか、彼女には見当もつかない。読み返してはまた姫路革の手文庫に入れて鍵をかけ「どうしよう」とつぶやく。
手紙は姉にも見せるのをためらった。姉よりも自分のほうが人々の注目を浴びて、ちやほやされることを菊子は気にしていた。同時に女の子の本能で、いかに姉といえども、この大事な秘めごとを邪魔するかもしれないと心配したのである。
そのうち、また白い封筒が入っていた。朝融王は|憧憬《あこがれ》を訴えながら、菊子の気持をしきりに知りたがっている。
だが、二人の妹宮から、「お兄様のこと、お好き?」と気づかわしげに尋ねられても、「ハア……」とだけ答える。菊子は内気ではにかみ屋の少女だったのである。
朝の出会いはその後も続いていた。二人はただ目を見合って、ほほえむだけである。
暫くして姉の秋子は、
「朝融王って、菊様のことお好きなのかしら。毎日合図なさるみたいよ」
と大発見のように言った。彼女は万事にのんびりしており、学校でも誰と誰が仲よしだとか、誰と誰が喧嘩中だなどという人間関係には、さっぱり関心を持たない娘だった。考えただけでも馬鹿らしく、自分とは無縁のことだ。|他人《ひ と》のことなどどうでもよいのだった。
さてこの淡い慕情は翌年の夏になって、久邇宮家からの正式プロポーズに進展する。その時、酒井家の姉妹は大磯の別荘に滞在中だった。小石川の本邸では父の忠興が胸を病んで病床にあったが、久邇宮家の使者を迎えるために伯爵は紋付き羽織袴に威儀を正した。
風もない油照りの夏の日で、庭の木立ちからは|蝉《せみ》の声が絶え間なく降りしきっている。
「|畏《かしこ》きあたりの|思《おぼ》し|召《め》しにより、ご当家の二女菊子姫を朝融王妃にお迎え申し上げたい」
と言う使者の口上に、忠興は無表情のまま、
「まことに一家一門の名誉。ご沙汰の趣、謹んで拝受|仕《つかまつ》ります」と言下に答えた。
十六歳の久邇宮|朝融《あさあきら》王と十四歳の酒井菊子姫の婚約は、天皇の勅許を得て大正七年一月十四日に宮内省から正式に発表された。
新聞は大々的に報じ、婦人雑誌は|競《きそ》って毎号口絵に菊子の写真を掲げる。皇族同士の結婚が当然のことであった当時、伯爵家の娘が宮妃に選ばれることは異例なことであったから、ちょうど皇太子明仁親王が平民の正田美智子嬢と婚約された時と同様に、国民は等しくこの婚約を喜び奉祝した。
一方、皇族や公爵家、侯爵家ではこの結婚に異論を唱え、女達は美しい菊子姫に|嫉《ねた》みと憎しみを抱いた。しかも酒井家が江戸時代に徳川方の譜代大名の筆頭として権威を|振《ふる》ったことが、彼等の反感を一層|募《つの》らせた。
なぜなら武家に支配された七百年余りの年月は、なんの力も持たない宮廷貴族達にとってまさに屈辱と貧苦に|喘《あえ》ぐ歳月であり、|殊《こと》に朝廷をお飾り物として冷遇した江戸幕府に対する積年の恨みは一般社会の想像を絶するものがあった。また、譜代大名に|虐《しいた》げられた|外《と》|様《ざま》大名達の|怨《おん》|念《ねん》と敵意もすさまじいものがあった。
菊子は朝融王には好意を感じていたが、この婚約に初めから気が進まなかった。上流社会の人々から白眼視されていることに、敏感で臆病な彼女は|怯《おび》えた。慕わしさから移行する過程で、愛は早くも|色《いろ》|褪《あ》せ始めていた。情熱は育つ以前に消えてしまったのである。
時を同じく進行中だった皇太子|裕《ひろ》|仁《ひと》親王(昭和天皇)と久邇宮|良《なが》|子《こ》女王のご婚約内定も、同年(大正七年)の二月四日に発表され、良子女王が邸内のご学問所で皇后学のご勉強を始められたのと同じころ、菊子の宮妃教育も開始された。
宮家の指図で十一名の教師が選ばれる。娯楽的な本は禁じられ、恋愛は|淫《みだ》らな恥ずべきことだから活動写真と芝居見物はすべてタブーとなる。音楽会だけが許され、外出には家庭教師と侍女と護衛の従者が付き添う。もともと真面目な上にこの厳格な教育を受けたお蔭で彼女は|益《ます》|々《ます》ピューリタンとなり、戦後未亡人となってのちもスキャンダルのデマすら作らせない貞女となった。久邇宮家へはお召しの使者が訪れてから週に一度伺候する。朝融王も音楽が好きだからピアノを弾いたりレコードをかけたり、良子女王や信子女王も一緒にテニスやピンポンに興じたりする。
ある日菊子はご殿へ伺って玄関を上がり、長い廊下を奥へ行きかけると、「酒井さん」と呼び止める者がいた。ご用取り締まりの老女|岩《いわ》|月《つき》和子である。彼女は将来妃殿下になる菊子を「姫君様」とは絶対に呼ばず、高飛車な態度をとり続ける。菊子はハッとして立ち止まり、深く一礼した。
「先日も若宮様にお手紙をお出しでしたねェ。なんでああいうはしたない真似をなさるの?」
和子は近寄りながら大声で言う。菊子は言葉もなくうなだれた。朝融王に催促されて仕方なく手紙を書くのだが、その|都《つ》|度《ど》、家庭教師と相談しながら下書きをし、代作の恋歌を挿入しつつ巻紙に筆で書くので一日がかりの作業なのだ。
「でも、若宮様が……」「もしどうしても書く必要がある時は、岩月和子殿と私宛にお書きなさい」
言い捨てて老女は去った。
彼女は獅子舞いに使う“|唐《から》|獅《じ》|子《し》”そっくりの容貌のためか、もう六十歳近い|年齢《と し》になるのに|唯《ただ》の一度も男から言い寄られた経験がない。そのため手のつけられぬ異常性格となった。
奥座敷へ通ってしょんぼり坐っている菊子のところへ、朝融王は急ぎ足でやって来た。
「どうなさったの?」
王は涙ぐんでいる彼女をやさしく引き寄せる。その瞬間、けたたましい音がして|襖《ふすま》が開き、老女唐獅子がいた。王はキッと身構え、「また何か余計なことを言いましたね」
「余計なこととはなんでございます! 宮家のお作法をお教えしただけです」
「うるさいから向こうへ行ってくれ」「行きますとも!!」
唐獅子は憤然として襖を開けっぱなしで立ち去る。朝融王はまた菊子を引き寄せ、ためらいがちに口づけしようとする。菊子は開けたままの襖が気になって、閉めようと近寄った。見ると襖の陰に唐獅子がひそんでいた。
「キャッ」と言う彼女の悲鳴に、王は駆け寄ると、「下がれ! 無礼者!!」と叫ぶ。その声は実に雄々しく威厳に満ち、両手の|拳《こぶし》はブルブル震えていた。
こういうことが何度かあった。唐獅子は若宮様が正式の見合いでもなく、登校の途中に美少女を|見《み》|初《そ》めたことが我慢ならない。
この老女が菊子に露骨な反感を示す理由はほかにもあった。老女は下級の公卿の末裔で、両親と祖母は京都に住んでおり、幕末の物騒な世を生きた心地もなく生きていたのだが、ある時新撰組の放った流れ弾にあたって父は負傷し、その時の火事で先祖代々住みついていたアバラ家は丸焼けとなった。
父はそれでも随分長生きしたが、「この恨み……忘れまいぞ……」と言い続けて死んだ。唐獅子にとって菊子は、その恨み重なる幕府方の娘なのだ。どうして許すことができよう。
唐獅子は朝融王の父君|邦《くに》|彦《よし》王と母君|俔《ちか》|子《こ》妃の前にまかり出ては、この婚約を|壊《こわ》そうと躍起になって|縷《る》|々《る》述べたてる。彼女の幕府方の人間に対する私怨は、久邇宮夫妻にも共通するものがある。殊に俔子妃は薩摩藩主であった島津公爵の息女であり、島津家と幕府は関ケ原合戦以来|睨《にら》み合いを続けてきたのだ。
そもそもこの婚約に両親は賛成ではなかったのだが、朝融王の純粋な愛情にほだされて許可したのだった。老女の|煽《せん》|動《どう》に両殿下の気持は揺らぎ始める。唐獅子は燃えない材料までかき集めて火をつけ、|団扇《う ち わ》で|煽《あお》ぐ。
この時点で皇太子と良子女王の婚約も、宮中某重大事件が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》して|怪《あや》しい雲行きとなった。
事は陸軍元帥であり、首相を務め、枢密院議長の要職にあった公爵山県有朋が、「島津家の血統に色盲あり」の事実を憂慮し、良子女王の東宮妃内定を白紙に戻そうとしたのに始まる。
山県公はいうまでもなく長州派の大ボスだから、薩摩の血を引く良子女王を|退《しりぞ》けたい気もあったと噂され、この事件の背後には薩長の反目をめぐる複雑微妙な派閥争いがあったのである。「久邇宮家のほうから婚約をご辞退せよ」の勧告に邦彦王は激怒し、かの有名な|台詞《せ り ふ》「|綸《りん》|言《げん》汗の如く(天皇の言は取り消せない)今さら変更なされたら国民はどう思うであろう!」と叫び、この結婚をあくまで実現さすべく猛運動を展開する。結局大騒動の末に中村宮内大臣は辞職し、この事件はのちの原敬首相暗殺にまで尾を引くのだが、ともかくご結婚は確定的となる。ところが、このころから朝融王と菊子姫の縁談は|暗礁《あんしょう》に乗り上げてしまった。
久邇宮家の周辺ではますます反長州が濃厚になり、長州と密接な三条実美の孫であり、元藩主の毛利公爵夫人の姪になる菊子への風当たりはいよいよ強まる。しかもこの機に乗じて「将来、朝融王の妃殿下は天皇(裕仁親王)と皇后(良子女王)の義姉になられるわけで、そのためには皇族の姫でなければ釣り合いがとれない」と言いたてる皇族とその取り巻き連中が邦彦王を責めたてた。
これらの政治的利害と血縁的|葛《かっ》|藤《とう》及び女どもの狂的な羨望がからみ合って、遂に破局が来た。
大正十三年の暮れ近く、宮内大臣伯爵牧野|伸《しん》|顕《けん》の命を受けた宮内省|宗《そう》|秩《ちつ》寮総裁侯爵徳川|頼《らい》|倫《りん》が、酒井家を訪れ、
「実は宮家のほうにご事情があり……ご婚約を解消していただきたく……酒井家の都合でということにして……辞退して……いただきたい……」という前代未聞の申し入れをした。
その三年前に菊子の父酒井忠興は死亡し、阿部伯爵家から養子に入った忠正が姉娘の秋子の夫になっており、応対に出た。「ご都合とはどういうことでしょうか」
「実は家格の違いということで反対を唱える皇族方に手を焼いておりまして……」
忠正はあきれ返ってものが言えない。
「かくなるうえは、ご婚約中の七年間のご養育費は、宮内省で負担させていただきます」
「なんと言われる! 宮家の妃に上がる上がらぬに拘らず、家として娘を養育するのは当然のこと! 余計なご心配は無用です!」
若い伯爵は怒りのあまり蒼白となって老侯爵を追い返す。侯爵はその日のうちに辞表を出す。新聞は一斉に書きたてる。国民は口々に久邇宮家の横暴ぶりを非難し、菊子の|許《もと》には同情と激励の手紙が山と積まれた。
菊子のプライドは深く傷ついたが、内心はホッとしていた。戦後になり元伏見宮の姫である夫人を|喪《うしな》った朝融王が未亡人となった菊子に再婚を望むいきさつがあるが、この婚約解消事件は、当人達をまったく除外して仕組まれ、敢行されたものだったのである。
ところが戦後になって、この事件を扱った小説が現われた。小山いと子なる女流作家が『皇后さま』(絶版)という小説の中で、スキャンダラスなストーリーに仕立て上げたのである。婚約解消の真相を、菊子が姉・秋子の夫である忠正と不倫な関係にあったため、と書き立てたからたまらない。当時の実情を知る人達にとって、それは心情的にも物理的にも絶対あり得ぬことだから、邪推も甚だしいと酒井家と前田家の関係者は激怒した。これを読んで事実と思う読者があってはと、事実無根、名誉|毀《き》|損《そん》で小山いと子を告訴することに衆議一決するが、そのいきさつはまたのちに述べる。
久邇宮家の婚約不履行の新聞記事を読みながら、前田利為の心は決まった。すぐさま|従弟《い と こ》の近衛文麿に酒井家へ|赴《おもむ》いてもらい、結婚を申し込む。前田侯爵の電光石火の求婚に酒井家では驚喜し、婚約は立ちどころに成立した。
菊子はまだ会ったことはなかったが、利為が加賀百万石の十六代目の当主であり、陸大を卒業した時は恩賜の軍刀組であったこと、美人の誉れ高い先妻の|I[#「I」はWinIBM拡張文字 Unicode="#6e3c"]子《なみこ》が長男の|利《とし》|建《たつ》を残してパリで病死したことなどは雑誌で見て知っていた。
婚約解消から三ヵ月もたたぬ大正十四年二月七日に結婚式は挙げられた。時に利為は三十九歳、菊子は二十一歳であった。
晴れて結婚式の朝、前田家よりフランスの新車パンナールが迎えに来て、菊子は本郷邸へ向かう。老女が備前|長《おさ》|船《ふね》|盛《もり》|光《みつ》の護り刀を奉じて同乗する。
式は百畳敷きの大広間で、武家の伝統に従い、小笠原流の方式によって行なわれた。|丸《まる》|髷《まげ》、お引きずりのご殿女中スタイルの婦人六名と振袖の童女二名が盃ごとを|司《つかさど》る。床の間には日輪の掛け軸、|熨斗《の し》三方、|瓶《へい》|子《し》や|加《か》|柄《へい》などが飾られ、新郎新婦の前にも三方が置かれた。そこには徳川|家《いえ》|達《さと》公爵夫妻と近衛文麿公爵夫妻が媒酌人として同席した。
利為は|衣《い》|冠《かん》|束《そく》|帯《たい》、菊子は|袿《けい》|袴《こ》を着用した。袿袴は十二|単《ひとえ》に似たもので、明治十七年に制定された華族の婦人の|大《たい》|礼《れい》服である。着付けのために宮内省から女官達が派遣されて来た。
「|丈《たけ》なす黒髪のおすべらかしは目もさむる紅梅の|袿《うちぎ》を流れて袖から緑の|下襲《したがさね》がこぼれ|濃紅《こ き》(紫がかった海老茶)の|塩《しお》|瀬《ぜ》の袴に雪のごとき塩瀬羽二重の|単《ひとつ》袋をのぞかせ――」と当日の東京日日新聞にあるが、これに白の|襪《しとうず》をつけ、ヒールのある布製の|沓《くつ》をはき、|鴇《とき》色(淡紅)の地に梅の花模様の懐紙を入れ、金銀極彩色の大檜扇を持った。式のあと庭内の神殿に参拝し、洋館のサロンで結婚指輪の交換がなされ、さらに前田家よりの“お待ち受け”と称して夫より黒の振袖と丸帯一式を、姑の朗子より色の振袖と丸帯一揃えを贈られた。
翌八日は両家の主だった家職員九十名を招いて祝宴を張る。九日は小石川原町の酒井邸で“おしゅうと入り”と呼ぶ里開きの宴があり、二組の媒酌人夫妻も出席する。男女とも黒紋付きの礼装である。十一日には前田邸で両家の近親者が集まって|晩餐《ディナー》会を開く。男性は燕尾服に勲章をつけ、女性はデコルテに|宝冠《ティアラ》をつけた。このあと披露宴を三回行なう。
まず十九日に帝国ホテルで親類筋の皇族や華族、大臣、各国大・公使、陸海軍人、実業家など七八九名を招待する。宴は徳川公爵の媒酌人としての挨拶、加藤首相の祝辞、大倉男爵の祝歌があり、海軍軍楽隊がウェディングマーチなどを演奏する。
ディナーのメニューは、オードブル、コンソメスープ、鱒パリジェン、牛繊肉ボードレイズ、七面鳥のロースト、|生菜《サ ラ ダ》、栗シャンテリー、果物、コーヒーである。花嫁は黒振袖から色振袖にお色直しをした。
二十二日には上野精養軒において、かつての加賀・越中・能登の前田藩と、姫路の酒井藩の人々から成る|郷《ごう》|友《ゆう》|会《かい》の会員や陸海軍人一〇一〇名を招き、陸軍軍楽隊の奏楽裡にレセプションを催す。伊勢海老冷製、コールド・ミート、サラダ、サンドウィッチ、大阪ずし、しるこ、菓子、果物、日本酒、紅茶、ポンチなどの模擬店もしつらえた。
三月一日より十四日まで、墓参と披露のため金沢と京都へ|赴《おもむ》く。金沢では|鍔《つば》|甚《じん》|古《こ》|今《こん》|亭《てい》で毎夜本膳料理の招宴を開き、さらに四日には市公会堂でゆかりの人々五一〇名を招いて饗応する。二段重ねの折り詰料理に清酒四合瓶、ほかに|燗《かん》酒、果物。洋楽隊のミュージックが続く。引出物として銀製扇形のボンボン入れを|誂《あつら》え、紅白の|金《こん》|米《ぺい》|糖《とう》を入れて配った。帰京後、沼津の御用邸にご滞在中の大正天皇と貞明皇后に、賜ったお祝い品のお礼ご挨拶のため伺候する。利為は陸軍の大礼服、菊子はアフタヌーンドレスにミンクのコートと帽子であった。
各方面の人々よりいただいたお祝い品のリストには、宝船一台、シャンパン一箱、清酒二樽、紅白|絞縮緬《しぼりちりめん》七段飾り、大理石置時計、毛皮などとある。これらの品々を松坂屋の店員十四名に四日がかりで評価させ、それにより五段階に分けて返礼の品々を配った。一番重くする向きには三段重ねの鶴の子餅に|松魚《か つ お》|節《ぶし》と白羽二重一|匹《ぴき》というふうである。
お祝いの短歌や俳句や漢詩なども数知れず、新夫婦はそれに返歌をしたためた。お祝いの使者の乗る自動車の運転手と助手、人力車の車夫、ホテルの|昇降機運転手《エレベーターボーイ》、本郷区役所の戸籍係らにもご祝儀を包んだ。|数《あま》|多《た》寄せられた祝電には残らず返電を打った。
徳川・近衛両媒酌人に対する謝礼は、それぞれ|肴《さかな》料と羽二重一匹、同夫人に縮緬一匹を前田家総務が届けた。
花嫁の数十|荷《か》に及ぶ婚礼道具は、式の前々日に運び込まれた。「式服と着替へる裾模様の三枚|襲《がさね》だけで十五組、これに伴ふ|綴錦《つづれにしき》の丸帯が三十本……」と朝日新聞が書き立てたが、用箪笥、紙箪笥、足袋箪笥、屏風、祝い膳部と際限もない。当時花嫁は夫婦人形と楽器を持ち込むものとされ、大方の姫達はお琴であったが、菊子はスタインウェーのグランドピアノを持って嫁入りした。
翌年の二月十八日に私は生まれたのである。
第五章 聡明な皇女“照宮”
昭和十三年が明けた朝、私は女子学習院での祝賀式に出たあと、皇居へ向かった。
天皇裕仁陛下と皇后良子陛下の第一皇女・|照宮成子《てるのみやしげこ》内親王とは同級である。成子内親王は昭和七年に初等科ご入学と同時に、|宮城《きゅうじょう》内に新しく建てられたご学問所の|呉《くれ》|竹《たけ》寮で生活しておられた。
元旦には宮中での儀式に参列なさるが、十一時ごろには呉竹寮にお戻りになる。同級生は毎週水曜日の放課後に、五人ずつ交替で寮に上がってお相手をつとめるのだが、特に私はそれ以外にお招きを受けることが多かった。そしてこのことは、ほかの学友達には「お|内《ない》|緒《しょ》に」ということになっていた。
私は紫の|紬《つむぎ》の五つ紋付きに海老茶のサージの袴をはき、黒靴下に黒短靴といういでたちである。これが元旦のほかにも|天長節《てんちょうせつ》(天皇誕生日)や|地久節《ちきゅうせつ》(皇后誕生日)や明治節(明治天皇誕生日)などに着る式服であった。式の日には虎屋の祝い菓子が配られるので、私はそれが楽しみで学校の式に必ず出席した。
呉竹寮に付き添う八重野は色留袖五つ紋付き、運転手の小池と助手の赤羽は黒の制服制帽である。
フォードは現在の武道館近くの|平《ひら》|河《かわ》|門《もん》から宮城の中へ入って行く。私はいつもこの御門が下界から天界への関門だと思い、厳粛な気分に切り換える。御門内は玉砂利が敷きつめられ、両側の木立ちは奥深くて、この中に人間の|住処《す み か》があるとは思えない。
皇居はその昔、長禄元年(一四五七年)に関東管領・上杉定正の家臣の太田|道《どう》|灌《かん》が武蔵の国豊島郡江戸に築城して江戸城と称したことに始まる。その後、上杉氏や北条氏の居城となったが、天正十八年(一五九〇年)に徳川家康が関八州に封ぜられて以来、徳川氏は諸大名に命じて何度か改築を重ねて天下の名城を完成させた。
二百六十八年に及ぶ江戸時代が幕を降ろした明治元年、明治天皇は東京城と名を変えたこの城に入城され、二十一年には宮城と改名された。
宮城は三〇万六七六〇坪で、ヨーロッパの古城をも|凌《しの》ぐ壮大な規模を持ち、西の丘にある旧西ノ丸に宮殿が建っていた。城内には旧本丸、二ノ丸、三ノ丸、吹上御苑の森林、ご|養《よう》|蚕《さん》|所《じょ》のある|紅葉《も み じ》|山《やま》、大池などが点在し、富士の雪の峰が庭続きに見える。そこは堅牢な石垣と美しい|濠《ほり》に囲まれて外界と遮断され、今もなお武蔵野の自然を残している。
呉竹寮は昔の江戸城本丸の“松|之《の》廊下”のあたりにあった。
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呉竹のなほき心をためずして節ある人におほしたてなむ
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という明治天皇の|御《ぎょ》|製《せい》から名付けられたのだが、建坪約四八〇坪の大変に質素な純日本風の二棟の建物からなっていた。
私がご学友ということで初めてご挨拶に上がったのは六歳の春であったが、ロンドンから帰って間もない私は、バッキンガム・パレスのような|御《ご》|殿《てん》を想像していたから、「マミ、プリンセスはこんな所に住んでいらっしゃるの?」と目を見張り、母に|肘《ひじ》で脇腹を一突きされて、痛さに口がきけなくなったものだった。
やがて私は、天皇家のご質素な生活様式がわかっていく。住居にしても、外国の宮殿に見るようなギラギラした豪華さや威圧的な豪壮さがないのである。そこには明るい静穏と侵し難い気品とがたち込めており、|汚《けが》れた醜いものを|拒《こば》む気配があるだけだ。
父は、日本にも遠からず革命が起こって皇族も華族も抹殺される日が来る、と予言するのだが、私にはフランスやロシアのそれのように憎悪と流血を伴った形ではやって来ないだろうと思われた。|贅《ぜい》|沢《たく》を好まず虚栄を嫌う日本のインペリアル・ファミリーに、民衆は反感の持ちようがない。日本の皇室が二千年余りにわたって|万《ばん》|世《せい》|一《いっ》|系《けい》を保って来られたのも、民衆の心を|逆《さから》わせない秘訣を継承して来られたからだ、と感じるのだった。
さて、お正月の朝、私は内親王のお部屋へ通される。間もなく成子内親王はパタパタととんでいらした。紅梅色のお振袖に海老茶のお袴である。私は畳に両手をつくと、
「新年にあたり、お揃い遊ばされ、ごきげん|麗《うるわ》しく拝し奉りまして、|恐悦至極《きょうえつしごく》に存じ上げます」
とお祝詞を申し述べる。この言葉は内親王に対してではなく、両陛下がお揃い遊ばして新春をお迎えになったことを|寿《ことほ》いだもので、宮中でのきまり文句であった。そして改めて、
「照宮様にも、ごきげんよう」ともう一度頭を下げる。それまで私は毎年「明けましておめでとうございます」とご挨拶していたのだが、もっと大人びた正式な言い方をしたくて母から教えてもらい、|暗誦《あんしょう》してきたのだ。
母はお正月以外に大宮御所に伺候した時も、「お揃い遊ばしてごきげんよう。|大《おお》|宮《みや》様(貞明皇后)にもごきげんよう」とご挨拶するものなのだ、と言った。
成子内親王は「|憶《おぼ》えて来たのね」というふうにパッとほほえまれ、
「|有《あり》|難《がと》う。お元気なように」とおおらかにお答えになる。
現われた女官さん達ともお互いに「お揃い遊ばして……」から始め「|貴女《あ な た》様にもごきげんよう」と挨拶を交わす。
当時皇族は、天皇の弟宮にあたられる秩父宮、高松宮、三笠宮をはじめ十四家あり、女子学習院にも「女王」の敬称つきで呼ばれる宮家の姫達が何人かいたが、中にはその地位と称号に似つかわしくない者もいた。しかし天皇家の第一皇女照宮は名実ともにプリンセスの冠を|戴《いただ》くのにふさわしい少女であった。
成子内親王は美しい。なだらかに弧を描くくっきりした眉の|臈《ろう》たけた|麗《うるわ》しさに、「まみのかおりたる」と形容される典雅な顔立ちとはこういうものか、と私はうっとりと眺めたものである。気品というものは後天的に備わるものではなく天成のものだ、という能楽の大成者|世《ぜ》|阿《あ》|弥《み》の言葉を立証するようなノーブルな美貌である。花ならば、野に咲く草花でも山に咲く木の花でもなく、丹精こめて栽培された鉢植えの|春蘭《しゅんらん》のような極上の一品ものである。
そして皇女は賢くて強く、人の上に立つ者の持たねばならぬ資質を|悉《ことごと》く|具《そな》えておられた。勝ち気で滅多なことでは人に感心することのない私に「どうしても|敵《かな》わない」と痛感させる唯一の貴婦人であり、心|惹《ひ》かれ、|憧憬《あこがれ》を捧げるただ一人の|女性《にょしょう》であった。照宮が皇女でなかったなら、多くの少女達が求愛の手紙を書いたに違いない。
宮中ではお正月にお|屠《と》|蘇《そ》を召し上がらず、|雉《きじ》酒が出される。塩蒸しの雉の肉が二きれ入った銀製のお盃に、内親王が温酒をお酌してくださるのだが、以来私は日本酒に心酔してしまった。
このほか宮中独特のお正月料理としては、|菱葩《ひしはなびら》と呼ばれるお餅で、これは小豆で色付けた小さい菱形餅と、葩になる白い満月形のお餅を焼いて重ね、細根|牛《ご》|蒡《ぼう》の丸のままを|茹《ゆ》でたものを、味噌|餡《あん》にまぶして|挟《はさ》み、柏餅のように二つ折りにして美濃白紙に包む。二個が一組で、全然焦がさず焼いて軟らかくするところに秘伝がある。
お雑煮は丸餅で、焼かずにお湯で温め、薬味として串貝、|海鼠《な ま こ》、鏡大根、鶴の子芋、花香々の五種をお餅の上にのせた白味噌仕立てである。
お祝い御膳として、小串鯛(切り身)、浅々大根(塩漬大根)、伊勢海老の塩蒸し、栗の|福《ふく》|女《め》|煮《に》、|汐《うしお》蛤のお汁、|大《おお》|福《ふく》茶(小梅干を入れた抹茶)などが招待者に饗される。すべて純然たる京風の宮廷料理で、白木のお祝い箸が添えられた。
午後からは、皇族の姫宮達や女官さん達と十名ほどでカルタ取りをして遊ぶ。
内親王は「天つ風……」や「ほととぎす……」などお気に入りの歌を素早くご自分の前に並べて、ほかの者には絶対にお取らせにならないが、一枚も取れなくて泣き出すスローモーな姫宮もいた。
私が呉竹寮に伺っているころ、両親は両陛下へ参賀のため同じ宮城内の|正《せい》|殿《でん》へ伺候していた。正殿は太平洋戦争で空襲により焼失するまでは、宮中表御殿として正月の三日などに両陛下が祝賀を受けさせられた所である。
そこは|御車寄《みくるまよせ》の北にあり、|銅《どう》|葺《ぶき》の入母屋造りで南に面している。御殿の壁は赤紫の正倉院竜紋模様の|繻《しゅ》|子《す》が貼られ、その上に同色の鳳凰模様の|緞帳《どんちょう》が垂れ下がる。両陛下の玉座は北壁の中央にあり、三重の壇は赤紫の|絨緞《じゅうたん》で|覆《おお》われ、後ろの壁の|帳《とばり》は白の繻子で中央に菊のご紋章が金糸で刺繍されている。
玉座の左右に立つ金色の棒は、赤紫のビロードの|天《てん》|蓋《がい》を支える。寄木張りの|格天井《ごうてんじょう》には極彩色の蜀葵模様が描かれ、シャンデリアが水晶の結晶のようにきらびやかである。
この正殿へ皇族、華族、文武百官、在日外交団等が参集する。いずれも|大礼服《マント・ド・クール》の第一礼装である。|大《たい》|礼《れい》|服《ふく》は官位や文官・武官による区別があり、父の場合は軍服の衿は赤で胸に金モールが下げられ、帽子に白の鳥の羽をつける。婦人の礼装は|袿《けい》|袴《こ》かローブ・デコルテで、きものは認められなかったから、母は裾を長く引くデコルテを着用した。
当時の宮内省は服装に厳しくて、少しでも規定に反する者には「お召し替えの上お出直しください」と坂下門から追い返した。
皇后様や皇族妃にはお裾持ちのお|小姓《こしょう》がつく。彼らは学習院中等科一年の生徒達で、名門の美少年が選ばれた。白いレースと白い|毬《まり》のような毛の飾りが十六個もついた濃いブルーのビロードの服を着、ナポレオン風の帽子を背に吊り、長剣を|佩《は》く。皇后様には四人、妃殿下には二人ずつでお持ちしてしずしずと歩き、|謁《えつ》|見《けん》の間じゅう侍立する。
単独拝謁を賜る者達は、名前を呼ばれると満場の注視の中を一人ずつ進み出て|深《ふか》|々《ぶか》と最敬礼をするのだが、日ごろ三軍を|叱《しっ》|咤《た》する歴戦の将軍も、艦隊を指揮する名提督も、|玩具《おもちゃ》の兵隊のようにぎごちなく歩いたり、鏡のような床の面を|滑《すべ》ったりするのだった。
順番を待つ菊子の眼前に、かつてのバッキンガム・パレスでの謁見の光景がだぶって広がる。あちらのほうがより華麗であり、こちらのほうがより|荘重《そうちょう》だ。
ワルツが奏でられ、浮き立つようなざわめきの絶えないイギリス王宮の謁見の場よりも、静まり返って絹ずれの音と靴音だけが響く日本の宮殿の拝謁のほうが、はるかに緊張させられる、と彼女は思う。
冬の長いイギリスでは、春は五月に訪れ、|薔薇《ば ら》の花が|綻《ほころ》びると社交シーズンが始まる。その幕あきに行なわれるのが、バッキンガム・パレスでの|謁見《コ ー ト》である。当時の国王ジョージ五世(エリザベス女王の祖父君)とクイーン・メリーやプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)から、王族や貴族や外国の使臣達がお招きを受ける。
菊子のその夜の服装は、|桃色《ピ ー チ》のチュールの大礼服に同色のビロードのトレーンを肩から下げて長く引きずり、ダイヤモンドの|宝冠《ティアラ》をつける。宝冠は大層重く頭が痛くて早く脱ぎたかったものだ。更にオーストリッチ(|駝鳥《だちょう》)の白い羽を後頭部に高々とつけ、同じく駝鳥の桃色の|扇《ファン》を持った。これに白のキッドの長い手袋をはめ、ビーズのバッグを持ち、繻子の靴をはいた。
ネックレスは南洋の天然真珠の四連で、それはずっしりと長く垂れ下がる。ダイヤモンドのブローチを衿に、ダイヤモンドの二つのブレスレットを両手に、そしてダイヤとエメラルド、ダイヤとサファイヤのリングをそれぞれ両手の薬指にはめた。これらの宝石類は、明治の初めに祖父の利嗣がパリの宝石店ショーメで家宝として誂えたもので、当主夫人のみが着用した。
バッキンガムでの|謁見《コ ー ト》の日は、イギリス及び諸外国の王族や貴族の令嬢達が、|社交界《ソサエティ》にデビューする日でもあった。
十八歳になった姫達は、それぞれ近親の青年や|婚約者《フィアンセ》にエスコートされて宮殿に集まる。
彼女達は、白やピンクのイブニングドレスに薔薇や鈴蘭の|花束《ブ ー ケ》を持ち、初めての舞踏会のために、家に伝わる宝冠や宝玉を身につけるのである。
謁見の|間《ま》では、「|侯爵夫人《マーショネス》マエダ」と呼ばれると玉座の前三メートルまで進み、そこで右膝が床につくくらいまで後ろへ引いて体を深く沈め、頭を垂れる。それはプリマバレリーナが観衆の拍手にこたえてとるポーズと似ており、カーツシーと呼ばれる宮廷風のマナーだが、衣装がからまってころびそうになる。
コートの日が近づくと、母は衣装を全部つけ、鏡の前で何度も練習を重ねていたものだった。
呉竹寮にお年賀に出向いた私が駒場の邸へ帰ると、年始客でごった返していた。元旦だけで千人を超える客が訪れるので、|蔦《つた》のからむ門から玄関までの両側も、玄関の前の馬車回しにも自動車がびっしり並んでいる。
両親は既に帰宅しており、客達と挨拶を交わしていた。私は急いで大振袖の紋付きに着替えると一階のホールにとんで行った。
玄関の厚いドアは朝から開け放したままで、内扉の奥のホールに大礼服のままの父、色留袖紋付き姿の祖母と母、兄、私と弟妹が一列に並び、表玄関に車で乗りつけて入って来る客と|内《ない》玄関から入って来る客とは混じり合いながら、前田家の家族の前へ河口の水脈のようにゆったりと蛇行していた。
親族や日ごろ親交のある各国の大使や外務省や宮内省の人々はいずれも夫人同伴で、男性客はフロック・コート、女性客はアフタヌーン・ドレスか色留袖である。その中で、陸海軍の軍人達の大礼服がひときわ装飾的で華々しく見えた。
内玄関からの客は旧藩関係や|郷《ごう》|友《ゆう》|会《かい》の人々で紋付き羽織袴姿が多く、|絨緞《じゅうたん》の上に正座して祝賀を述べる者も少なくない。石川県の出身で父が“|大《おお》|八《や》|洲《しま》”と名付けた巨大な力士もやって来ては「おめでとうごわす」と|嗄《しゃが》れた声で言い、「若さん、|姫《ひい》さん、大きくなったね」と毎年同じことを言い、掛け声もろとも私と弟を片手ずつで|抱《かか》え上げることになっていた。周囲の人々はニコニコして、
「お相撲さんに|抱《だ》っこしてもらうと、ご病気になりませんよ」などと非科学的なことを言うのもしきたりになっていた。
ところが私が十二歳になったお正月から大八洲は忘れた振りをして、私を抱き上げてくれなくなった。私は|恨《うら》めしくなって、力士の大まかな顔を見つめるのだが、彼は目が合わないように注意しており、弟にばかり話しかけている。私が大人っぽくなったから困ってるんだわ、と思いあたって私はひそかに笑った。
客達は家職員に誘導されて、大食堂や小食堂や会議室に流れて行く。そこにはそれぞれの客に合わせて和・洋とりどりの料理が|設《しつら》えられてあった。外交団の人々はキャビアや生|牡《が》|蠣《き》やコールド・ミートやシャンパンなどの並んだ大食堂へ通され、両親も加わって祝盃をあげる。
二階の西北の角にある会議室では、軍人が中心になって酒盛りが続く。朝から晩まで飲み|耽《ふけ》る将校達もいた。
軍歌や民謡や東京|音《おん》|頭《ど》や|泥鰌《どじよう》|掬《すく》いまで出て、割れるような騒ぎである。父もときどき仲間入りして剣舞などするが、実は酔っ払った振りをしているのだった。私が|覗《のぞ》くと|忽《たちま》ち正気の目つきになり、
「ここは駄目。大食堂へ行きなさい」と追い払うのだった。
それは果たして愛であったのだろうか……。
私が照宮成子内親王に寄せる感情は、|憧憬《あこがれ》よりは色濃いものがあった。
女子学習院の教室では身長順に並ぶので、私は内親王の斜め右後ろの席につくことが多い。授業中におかしなことが起こると、内親王はサッと振り向いて私のほうをご覧になる。二人とも笑い|上戸《じょうご》なので目が合った瞬間にキャッキャッと笑う。
ところが、日によって内親王は左右どちらか隣の席の学生と顔を見合わせて笑ったり、肩を寄せてヒソヒソささやき合ったりなさる。|忽《たちま》ち私は面白くなくなり、どうしたわけだろうと気が気でなく、|憂《ゆう》|鬱《うつ》な思いに閉ざされる。
七、八人の者が始終内親王を取り巻いていて、休み時間など親しそうに振る舞うのだが、私もその中の一人で、常に宮様のまわりをウロチョロする。中等科になってからはさすがに誰もしなくなったが、初等科時代にはわれ勝ちに内親王と手をつなぎたがって、
「アラ、北条さん、昨日も宮様と手をおつなぎになったじゃない。おズルイわ」
「オオ痛い! おヒドイわ、なによ|足《あし》|利《かが》さん、ご自分こそ」
とわめいて突きとばしたり、髪を引っ張ったり、泣いたりという騒ぎが日に何度か繰り返された。
図画教室などに移動するときには、宮様の絵の具箱を持ちたがって友達の手を払いのけたり、その手を引っぱたいたり、泣いたりという一騒動が必ず起きる。女子学習院といえども、少女達はジャジャ馬が多く、喧嘩の原因は大概プリンセスの奪い合いであった。
学校での昼食は各自でお弁当を持参し、生徒達にはお茶のやかんが支給され、内親王は|魔《ま》|法《ほう》|瓶《びん》に入ったお茶を御所から持参なさる。初等科一年生のとき、級友達が宮様にお茶を|注《つ》ぎたがって大騒ぎになったため、以後五十音順で注ぐことになり、それは卒業まで続いた。内親王のお帽子や筆箱やハンカチーフとお揃いの物を皆が身につけるので、「照宮様と同じ所持品をいっさい用いてはなりません」という規則が全校生徒に言い渡された。
初等科のころ、同級生達は“鬼婆ごっこ”という遊びを創作して異常なばかりに熱中したのだが、これは鬼婆の一味に|攫《さら》われた成子内親王をお城の侍女の軍勢が奪い返しに行って鬼婆どもと戦うという設定である。素手で戦うのが原則だから、|掴《つか》み合いをしたり砂をかけたりする。その中心になって駆けずりまわるのが私で、ある時、後ろから忍び寄って泣き叫ぶ鬼婆を地面にねじ伏せ、縄とびの縄で縛ってブランコの棒につなぎとめたので、とうとう教官室に呼び出され、
「あまり手荒なことはあそばさないように」と注意を受けた。
しかし成子内親王ご自身が“鬼婆ごっこ”を何よりお好みなのだから、やめるわけにいかない。
「サア、鬼婆ごっこをいたしましょう」とおっしゃるので、学友達は先生の目の届かない森の奥に移動して、この壮絶な宮様争奪戦を繰り広げるのだった。
ところが私達親衛隊員が始終内親王にまつわりつき、互いに|牽《けん》|制《せい》し合ってそのご|寵愛《ちょうあい》を独占しようと心を砕くのに、宮様は天皇家の伝統に従い、誰に対しても公平に接せられる。少なくとも人前においては特定の人間とばかり仲よく振る舞ったりはなさらない。どちらかといえば八方美人で、誰にでもニコニコ|鷹《おう》|揚《よう》に構えておられる。|殊《こと》に、親衛隊の少女達が自分をめぐって争うさまを|快《こころよ》さそうに眺めておられ、ご自分はけっして渦中に巻き込まれることはなかった。
だから、私達にしてみれば、内親王は誰を一番“ご寵愛”なのかまったくわからない。昨日はたくさん内緒話ができたので幸福感に満たされていたのに、今日はさっぱりお呼びでないので|惨《みじ》めな気持にひたる。思えばご学友という因果なご縁で、私は入学から卒業までの間じゅう、宮様の微笑や口調に一喜一憂し続けたのであった。
なぜこれほどまでに成子内親王に心を奪われるのだろう、と私はときどき深刻に考え込む。その結果、いつも到達する結論は、それは彼女が皇女であるから、ということだった。いかに宮様が才色兼備であったにしても、プリンセスでなかったらこんなに魅力は感じられないだろう。
内親王の背景にあるもろもろの高貴な道具だてに多分に|惹《ひ》かれていることに思いいたる。だから愛だとは思うまいとした。
それにつけても成子内親王は、プリンセスという役どころを演じるために生まれてこられたような女性であった。
ある時、私は不意にそのことに気がついたのだが、内親王はご自分が理想と描く皇女のイメージを持っておられ、それを念頭において演技しておられるのである。内親王は絶えず多くの人々の視線にさらされておられる。|宮城《きゅうじょう》の中でも学校内でもその往復の車中でも、人々は照宮を見かければハッと威儀を正し、うやうやしく最敬礼をする。
それに対して内親王は、いかにも皇女らしく気高く|微笑《ほ ほ え》み、軽く|会釈《えしゃく》し、優雅に過ぎ去る。それは無意識な行動ではなく、すべて計算された振る舞いなのであった。
女子学習院の生徒は春と秋に関東地方各地に遠足に出かけ、成子内親王も参加された。特別列車が駅に着けば、沿道には日の丸の旗を持った村の人々が直立不動の姿勢で並ぶ。内親王はご先導する村長さんより数歩後ろを歩かれ、級友達はさらに三メートルほど間をあけ二列になって続く。
内親王は、両側の村人達にまんべんなくやさしい視線を投げかけ、湧き起こる万歳の声に一瞬立ち止まり、右手を肩のあたりまで上げてお|応《こた》えになる。
村人達がいる限り内親王の微笑は消えない。しかも、その微笑みは終始|湛《たた》えられているのに、凍りついた作りものではなく、たった今浮かんだように生き生きしているのである。
史跡や工場などの見学では、説明役の者に感心したようにうなずかれ、相手が感激しそうな質問やねぎらいの言葉をおかけになる。わずか十二、三歳の少女でこれだけの演技のできる人が他にいるだろうか、と私はその一挙一動をまたたきもせずに見つめるのだった。
誰が教えたのでもなく、皇女の役を自作自演で|完《かん》|璧《ぺき》にやってのけ、しかもそれはいかにも自然で余裕たっぷりで楽しげですらあった。
海上にきらめく陽光のような微笑、柔らかい|会釈《えしゃく》、涼しいまなざし、山鳩のように温かな声音、軽やかな足どり……皇女のそのエレガンスに見とれながら、私はそれをそっくり真似ようとしている自分に気づくのである。
模倣と同化、それはやはり愛なのか――
そして私は、内親王の|華《きゃ》|奢《しゃ》な陶器のような白いお手に触れたくてたまらない。何かの拍子に、ふとさわっただけでドキンとする。暗い御堂の|秘《ひ》|仏《ぶつ》の像に不注意に触れた時のようにバチがあたるのでは……という|畏《おそ》れが頭をかすめ、同時にその感触を|反《はん》|芻《すう》しながら|冒《ぼう》|涜《とく》の陶酔を味わう。これは私だけではない。観察していると、級友達も何かにつけて宮様に触れようとし、「糸がついております」などとごまかしながら、肩まで垂れる艶やかなお|髪《ぐし》をそっと撫でたりしているのである。
私も非常にきつい性格だが、成子内親王の強さはそれを上回る、と常々私は驚嘆した。その証拠に内親王がお泣きになるのを、ただの一度も見たことがなかった。
女学生というものは|些《さ》|細《さい》なことにもよく泣きたがり、殊に競技会で勝っても負けても泣くが、内親王だけは皆が泣きやむまで窓の外の桜の|梢《こずえ》を眺めながら待っていらっしゃる。
たった一度、それはまだ七歳くらいのころ、呉竹寮でゲームをしていたところ、女官がどうしてもルールが飲み込めないことがあった。繰り返し説明なさるうち、|苛《いら》|立《だ》った内親王の瞳に涙が溢れた。私はどうなることかと柱の|陰《かげ》で見守っていると、涙は頬にしたたることなく納まった。内親王の涙を見たのはあとにも先にもこの時をおいてない。
怒りや悲しみの感情を人前で軽々しく見せるのは醜態である、という教育が徹底していたせいもあるが、あれほど見事に感情の統制ができた女性を私は知らない。すべての現象は|漣《さざなみ》ひとつ立てずに内親王の傍を通り過ぎて行くかに見える。のちの戦乱や、皇女から平民への生活の激変の中ですら、内親王は感情を露出されることがなかった。
内親王の不可解な心情をはかりかね、くたびれて私は何度か遠ざかろうとした。しかしそのたびに|渚《なぎさ》に打ち寄せられる小舟のように戻らざるを得ない。なぜなら、気の許せる開放的な普通の女の子達に、私はじきに物足りなくなり、退屈してしまい、得体の知れぬ内親王への興味と、執着がさらに倍加してしまうからであった。
天皇家の第一皇女照宮成子内親王がお生まれになったのは、大正十四年十二月六日の雪降りしきる夜であった。ご誕生の場所は当時の赤坂東宮御所、のちに赤坂離宮と呼ばれ現在迎賓館となって外国の元首などが来日された時に使用される和製ヴェルサイユ宮である。新聞社より「只今東宮妃殿下にはご産殿に|入御《にゅうぎょ》遊ばされました」との電話が入ると、皇族や主だった華族の人々は早くも礼服に着替えて続々赤坂御所へ参入した。御所の東門の外では報道陣がテント村を作り、待機する。
東宮殿下を中心にお話申し上げるうち、「只今内親王御安産、御母子とも御健康」の報がもたらされた。この時、皇太子妃の母君、久邇宮|俔《ちか》|子《こ》妃殿下は親王のご誕生を熱望しておられたから落胆の表情を見せられたが、東宮殿下は常のようなお調子で、
「あ、そう、それはよかった。女の子はやさしくてよいね」
と仰せられ、人々は期せずして万歳を叫んだ。
現在と違って当時の天皇は“|現《あら》|人《ひと》|神《がみ》”(神は身を隠すのを常とするが、天皇は身を現わし世に出で給う神とする思想)であらせられたから、皇女も神の|御《み》|子《こ》であり、国を挙げての大慶事であった。ご誕生の吉報とともに市民に合図の号砲が二発(親王なら一発)|轟《とどろ》くと、家々の軒には祝賀|提灯《ちょうちん》と国旗が掲揚され、参賀者は引きも切らず、赤坂御所の正門前広場から四谷見附まで、昼は旗、夜は提灯の行列が続いた。朝鮮人の団体も朝鮮の音楽を先頭にして万歳を唱えながら参加した。
翌七日には、大正天皇の勅使、松浦侍従が皇孫内親王殿下に|御《ぎょ》|剣《けん》と御袴を捧持して東宮御所に伺候する。御剣は当代の名匠、月山貞光代が錬り上げたもので、お守刀として常に皇女のご身辺に置かれることになる。
照宮成子内親王は全国民の祝福に包まれて|健《すこ》やかにお育ちになった。お乳は妃殿下が自らお与えになったが、夜は全国から選ばれた三人の|乳人《め の と》によって交替で差し上げた。
翌年の十二月に祖父君であられる大正天皇が|崩《ほう》|御《ぎょ》されると、それまで|摂政宮《せっしようのみや》であられた東宮殿下が天皇に即位され、宮城に移られた。成子内親王は女子学習院ご入学まで両陛下のお膝元で養育を受けられた。
呉竹寮はご学問所であるし、内親王というご身分は将来それ以上の地位に上がることはあり得ず、ご降嫁になるわけだから、どんな生活にも耐えられるようにという配慮で、非常に簡素であった。十畳、八畳、次の間付きの居間が二人の妹宮とそれぞれ同じで、ほかにピアノや鉄棒、滑り台などのある二十畳ほどの遊戯室、食堂などがある。
お庭は約二〇〇〇坪で一面に芝生が広がり、一隅には植物園と花壇、鶏舎、兎小屋、|四阿《あずまや》があった。
ここでのご生活は内親王|傅《ふ》|育《いく》掛長の藤井種太郎教授をはじめ、野口明等事務官や|属《ぞっ》|官《かん》が七名、教育を担当する高等女官|塘《つつみ》みつら三名、身のまわりのお世話をする|判《はん》|任《にん》女官四名ほどである。両陛下とは週末だけお会いになる。
私達クラスメートは、住居の近い者が五名ずつ組み合わされて、毎週水曜日の放課後に交替で呉竹寮に上がった。
その日は学校の医務室で体温を計り、異状がないと参殿の許可が下りる。ナースの八重野が御所専用の学校の制服を持って教室まで来るので、それに着替えて宮内省のお迎えの車に乗る。
寮に入るとすぐさま|昇汞水《しょうこうすい》で手を消毒する。かつて学友が内親王に百日咳を感染させたことがあったため、学校当局でも呉竹寮でも病気には神経過敏になっており、学校では毎週土曜日の午後に強烈なクレゾール液で教室を大々的に消毒する。お蔭で翌週の火曜日ごろまでその臭いが漂い、目にしみた。
寮ではまず勉強が始まる。毎日ご教育係の女官が二名ずつ付き添って来て、授業を参観するので、その女官の指導のもとにその日の復習や宿題をする。勉強中も食事中も日本間に座ぶとんなしで正座をするので、畳の生活をしたことのない私には耐えられぬ苦しみであった。
女官達は女高師出身の|選《え》り抜きの才媛だが、明朗快活で、一緒に鬼婆ごっこでもフットベースボールでも率先して走りまわった。
彼女達は寮内では流行を無視したなんの変哲もない無地のドレスを着ているが、ひとたび学校などへ外出の際は、やたらに飾りがつき、スカートの長いワンピースにパールのネックレスをつけ、白手袋をはめ、黒のハイヒールをはき、|鍔《つば》の広い帽子を水平にかぶるのが宮中の規則であったようだ。
宮中では明治以後洋服を奨励され、昭憲皇太后はご生涯に一度も和装をなさらなかったが、女官達もこれに|倣《なら》った。黒、暖色系、模様のあるもの、スーツのような形はタブーとされた。すべて、イギリス王室がお手本である。
たしかに呉竹寮は下界から隔離された別世界ではあったが、無意味な堅苦しさは何もなく、かなり自由ですらあった。学友達は遊び疲れて、「もうお帰りのお時間でございます」と言われても、「あと十分だけ」などとお願いした。
そして六時ごろ、それぞれの家まで黒塗りの宮内省の車で送り届けられるのだった。
内親王は聡明でとくに理科系がすぐれておられ、成績は三番を|下《くだ》られたことはなかったが、一般社会の常識は大幅に欠如しておられたから、いつも突如として私達側近にご下問がある。
「平民ってなんのこと? 人間のこと?」
またある時は、「売春ってなんのことかしら」これは私にもさっぱりわからない。
忘れないようにノートに「売春」と書き、帰宅して辞書をひもといて翌日お答えする。
「売春とは春をひさぐことでございます」「ひさぐって?」
「“ひさぐとは売ること”って書いてございますけど、なんのことでございましょうねェ」
第六章 華麗な人々
ここに、ひとつの事件が起こった。
南郷侯爵家の令嬢が行方不明になったのである。当時“軍神”と|崇《あが》められ海外にも勇名を|轟《とどろ》かせた海軍元帥の孫娘が、土曜日の朝、学習院に登校して四時間目まで授業を受けたのだが、その後、|忽《こつ》|然《ぜん》と消えてしまったのだ。
供待ちで待っていたお付きと正門前にいた南郷家の運転手が、待てど暮らせど出て来ない令嬢|桂《けい》|子《こ》を迎えに教室まで行ったことから大騒ぎになった。残っていた教官達や守衛が、総出で校内を探したが見あたらないので、南郷侯爵邸へ急報した上、極秘の非公式捜査願を出した。特に山田桂子という仮名を用い、人相の特徴として「現代的な美人、大家の令嬢風」と注意をつけた手配電報が警視庁管轄下各署に打電された。
月曜日には各社の新聞記者が学習院に押し寄せたが、校内には厳重な|箝《かん》|口《こう》|令《れい》が|布《し》かれていた。日高玲子は南郷桂子と同級で席も隣だし、日ごろ親しくしていたから、教官室に呼ばれて何か心あたりはないかと尋ねられた。担任の教師は女子学習院始まって以来の不祥事に|憔悴《しょうすい》しきっていた。
「ちょっとおかしいと思いましたのは、いつも土曜日は私も南郷さんも葉山の別荘にまいりますので、『何時の横須賀線?』って|伺《うかが》いますと、『葉山へは行かないわ』っておっしゃって、『ごきげんよう、お元気でね』って、急いで教室を出て行っておしまいになりました」
玲子の証言で、それまで誘拐かと色めきたっていた捜査当局は、桂子が自発的に|出奔《しゅっぽん》したのではと見方を変えた。土曜日は雨が降っており、傘をさし、帽子をかぶって裏門から出る生徒の顔を門衛はいちいち|憶《おぼ》えてはいなかった。
南郷桂子は目の大きい華やかな顔立ちで成績は中くらい、明朗で自己顕示欲の強いお嬢さんだったから、|失《しっ》|踪《そう》の原因は異性問題ではないかと|専《もっぱ》ら取り沙汰された。男子部内でも人気があって、恋人と噂される青年も二、三あった。しかしなんの|手《て》|懸《がか》りもなかった。
新聞が書かないまま二ヵ月余りが過ぎ去って、紅葉も|色《いろ》|褪《あ》せる晩秋になったとき、桂子は兵庫県の芦屋で見つけ出された。彼女は今を時めく宝塚歌劇団の男役スター、|紅《くれない》鏡子と同棲していたのだった。
「私は、歌劇団に入って女優になりたかったのに家で許してくれないので、|憧《あこが》れていた紅さんを頼って行ったのです」とスターのようなポーズで語る写真が新聞に華々しく掲載されて、事件は落着した。
これほど世間を騒がせた桂子も、かつての大英雄の孫ということで、転校、卒業と同時に子爵家へ|嫁《とつ》ぐことができたが、この事件が学習院に残した余波はひどいものだった。以後“|S《エス》”に熱中する生徒は二人とも退学処分、宝塚歌劇をはじめ、レビュウを見ることは厳禁となって、劇場の入口には常に監視人が立つまでになった。
そんなある日、私は登校して靴箱を開けると、封筒とパンジーの花束が入っていたので、とび上がるほど驚いた。パンジーは家から持って来たふりをして教壇の花瓶にさし、手紙は雨天体操場の脇の更衣室へ行き、カーテンの|陰《かげ》で開封した。
「お美しくご聡明なお姉様、私がいつもひそかにお|慕《した》い申しておりますことをご存じでいらっしゃいましょうか……」という書き出しで始まる美辞麗句が、クリーム色の便箋を斜めにして散らし書きにしてある。
自尊心をくすぐられる絶讃の言葉と優美な筆跡を、私は|惚《ほ》れ|惚《ぼ》れと眺め、繰り返し読んではうっとりした。差出人が一年下級の山城芳子とあるのも意外なショックだった。かつて私に求愛していた日高玲子の新しい愛人が芳子だという噂があったからだ。
いったい芳子はどういうつもりなのだろうか。しかも、取締りが厳しい中を恐れげもなく呼びかけて来るとは……。玲子のほかにもその後、手紙をくれた上級生や下級生がいたが、私はいつも途中で|嫌《いや》|気《け》がさすのだった。
恋愛ごっこはゲームとしては面白いが、あの夕方、玲子にキスされて以来、同性に対して妖怪じみた不気味さを感じてしまう。プラトニックなうちはともかく、いざ接近されると化け猫か蛇の|化《け》|身《しん》を連想して寒気がするのだった。
しかし、芳子には一度会ってみなければと決心して、放課後、学芸会の練習の席からこっそり抜け出してピアノの練習室へ急いだ。音楽教室の隣にピアノが一台ずつ置いてある狭い個室が十室並んでいて、芳子は四時まで三号室を使っている、と手紙に書いてあった。
そこの廊下には人影もなく、各練習室からメロディーの切れはしがとび散っている。ノックもせず三号室に滑り込むと、両手をキイに載せたまま長い髪の少女がゆっくり振り向いた。
こんなにきれいな人だったのか、まるで竹取物語のかぐや姫みたい……と一瞬たじろいでいる気持に呼応するように、「とてもおきれいな方、やっぱり」と芳子は|媚《こ》びるような上目づかいで|微笑《ほ ほ え》んだ。
「ご用って、何か……」
ためらいながら尋ねると、
「まあ、ご用なんて何も別に。ただお会いしたいと前から機会を|狙《ねら》っておりましたの」
もの|馴《な》れた芳子の態度に不快になりながら、「私、すぐ講堂へ戻らなければならないの」
「手紙差し上げてご迷惑だったかしら」
「いいえ、そんな。それより日高さんとお親しいのではなかったの?」
「あら、もうとっくに終わりましたわ。私もあの方も浮気者ですもの」
「じゃあ今度は私の番っていうわけ? 悪いけど、私はもうお会いしないわ」
「なぜ? ほかにどなたかと?」
「そうじゃないの。それにこのごろ学校でとってもやかましくなってるし」
「それがおこわいの? タブーだからこそスリルがあるのに……ご聖人[#「ご聖人」に傍点]でいらっしゃること」
ご聖人というのは、教師にゴマをすり、ガリ勉をする生徒のことで、こう呼ばれることを皆何よりも|惧《おそ》れていた。“不良”と批評されることが名誉なことなのだった。
「私はね、Sなんてなんの興味もないの」
「私だってもちろん単なる遊びだわ。あの手紙に書いたこと、まさか本気になさったわけじゃないでしょうね。前田さんのこと、ちょっと試してみたかっただけのことですもの」
私はものもいわず練習室をとび出すと、なぜうかうか出かけて行ったのかと|悔《く》やみながら講堂へ戻った。そして、あの生意気な美少女とはこれだけではすまないだろうという予感が、夕立雲のように広がっていった。
昭和四十三年四月に竣工した虎ノ門の霞が関ビルは、地上一四七メートル、三十六階建てで日本最初の超高層建築として話題を呼んだが、この敷地に戦前の|華族会館《ピアース・クラブ》があった。
華族会館とは明治維新で出現した貴族の同族的親睦団体で、戦後は霞会館と名を変え、現在の皇族と元皇族、元華族の当主と|嗣《し》|子《し》が会員になっており、霞が関ビルの三十四階を所有している。
明治のころ、東京の麹町区山下町にイギリス人ジョサイア・コンドル博士の設計した|鹿《ろく》|鳴《めい》|館《かん》では、外国の王侯貴族を迎えての夜会や仮装舞踏会などが開かれ、私の祖父母・利嗣と朗子も三百人の大舞踏会を何度か主催したが、華族会館は、のちにこのネオ・バロックの建物を引き継ぎ、さらに昭和二年、麹町区三年町に新館を建てた。
戦後、占領軍に接収されるまで皇族や華族の社交場であった華族会館は、ダークオレンジの特別な|煉《れん》|瓦《が》を花崗岩で囲んだ英国復興式の建物であった。
三〇〇〇坪の土地に、サロン、食堂、貴賓室、舞踏室、酒場、講演室、ギャラリー、図書室、談話室、|撞球《どうきゅう》室などのある本館と能楽堂、テニスコートなどがある。
ここで毎年六月にピアノの演奏会が開かれ、私も七歳の時から出演していた。トドロウィッチという白系ロシアの貴族夫人がピアノの名手として声望が高く、学習院の生徒達も大勢その門下に集まり、同期生には内大臣木戸侯爵の令嬢三姉妹や、のちの小坂徳三郎夫人・三井男爵令嬢などがいた。ウィーン国際音楽コンクールで一位入賞して天才少女とさわがれた井上(のちに竹原)園子も門下生で私たちの先輩であった。
時は昭和十五年。演奏会の夜、私はムシャクシャしていた。去年の秋に入門した新参の山城芳子が女王気取りで注目を浴びているからである。その衣装といったら|釣《つり》|鐘《がね》形にスカートをふくらませたルイ王朝風の夜会服で、頭にはルビーをちりばめた宝冠を載せている。それに較べ、私はバレリーナのようなツンツルテンのスカートで、あまりにも子どもっぽい。「十八歳以下でロングを着るのはレディのすることじゃありません」という母の意見なのだ。
母はいつも、イギリスの社交グラフを見て自分は|公爵夫人《ダッチェス・オブ》ケントの服装を、私のはエリザベス王女のをお手本にしてドレスを注文するので、上品だが迫力に乏しいのだ。
芳子が用もないのに廊下を往復して|愛嬌《あいきょう》を振りまいているのを楽屋口で眺めながら、私達はいまいましく|呟《つぶや》いた。
「なんでしょうね、あの格好は」
「まるでポンパドゥール(ルイ十五世の愛妾)ね。山城さんはお母様が小さいころお亡くなりになって、今は二号だった祇園の芸者が入り込んでいるのよ。だからハイソサエティのことなど、何もわからないんだわ」
「その芸者がお母様になったの?」「正妻にはしてないけど、その人が産んだ娘は妹として一緒に住んでいるのよ。絹子とかいうの。学校は学習院じゃないけどね」
「よくご存じなのね」「だって、うちの祖父は|宗秩寮《そうちつりょう》総裁ですもん」
と|春日《か す が》桃子は得意そうに笑った。宮内省宗秩寮総裁は皇族と華族のお目付役で、結婚の許可を与える権限がある。桃子はその公爵の孫で、私の一年下の学年にいる。同級の芳子の頼みでトドロウィッチ先生に入門の|斡《あっ》|旋《せん》をしてあげたのだった。
六時の開演を前に客席はすでに満員である。廊下にも人々が|溢《あふ》れ、葉巻や香水の強いにおいが立ち込めている。楽屋では出演者達が|昂《こう》|奮《ふん》を|抑《おさ》えかねて右往左往しながら、「ああどうしよう、出だしを忘れちゃった、全部忘れちゃった」と泣き声をあげながら|慌《あわただ》しく楽譜をめくる者、合掌してお祈りをする者……。
「ネェちょっと、|長《なが》|門《との》|宮《みや》殿下がいらしてるわよ。私、いまご挨拶して来ちゃった」
と言いながら芳子が入って来た。
「エッ、長門宮! じゃあ遠洋航海からお帰りになったの」
娘達はキャーと叫びながら、舞台の袖へ走る。
「まあ、|海軍《ネーヴィー》がいっぱい来てる! どうしよう、|私《わたくし》……」「殿下のお隣は、どなた?」「松平少尉よ。素敵だわ」「殿下のほうが、ずっとハンサム」
「あの二列目の中央、|上総《かずさの》|宮《みや》殿下でしょ。陸軍はどうも、パッとしないわね」
|緞帳《どんちょう》を細めにあけてしがみつきながら、娘達は声をひそめてささやき合う。
「上総宮様のほうは、もう妃殿下が決まりかかっていらっしゃるのよ」
芳子は皆と離れて立ちながら、絹張りの扇で顔を半分隠してクスクス笑う。
「エッ、どなたと?」「サアそれは言えません。固く口止めされてるんですもん。来月のご発表までお待ち遊ばせ。お相手は意外な人よ」
スペイン風の舞扇でサヤサヤ|煽《あお》ぎながら、
「でも長門宮様のほうはまだよ。だから、今日こうしてお妃を|物色《ぶっしょく》にいらしたんだわ」
「物色だなんてお|品《ひん》のない言葉をお使いになるもんじゃないわ。吉原じゃあるまいし」
私は口を押さえたが、間に合わなかった。
「マア、吉原ですって、マア、おスゴイ。なんのことだか存じませんけど」
娘達はあっけにとられて私と芳子を見守った。
「何をしてるの、だめでしょう」と、トドロウィッチ先生が黒レースの裾の波打つフリルを|蹴《け》とばしながらやって来た。
|牝《め》|牛《うし》のような胸にエメラルドが|燦《さん》|然《ぜん》と輝き、「マダム、素晴らしいペンダント!」と讃嘆しながら取り巻く娘達に、「そんなことどうでもよろし。サア早く並んで、出る順に。一番初めの人どこ? 静かにしなさい。ベルですよ」毎年のことながら、先生が一番|昂《こう》|奮《ふん》していた。私は八番目に並びながら、芳子は長門宮殿下が来られることを事前に知っていたに違いない、と思った。そして殿下は宮妃としてあの芳子をお選びになるのでは、と考えていた。
私には十人ほど|従兄弟《い と こ》がいたが、その中で特に親しくしていたのが酒井|忠《ただ》|元《もと》であった。酒井伯爵家は母の菊子の実家であり、一人息子の忠元は始終わが家に遊びに来ていた。もっとも彼のお目当ては馬なのだ。
邸内の東北の角に馬場があり、その脇の馬屋に五頭の馬がいた。陸軍将校の父は岩手県で毎年開かれる馬市へ出かけては名馬を探し求め、中でも栗毛の「|初《はつ》|雁《かり》」をこよなく愛していた。その馬は実に器量よしで気位が高く、|癇《かん》が強い。父にだけは猫のように従順だが、ほかの者には見向きもしない。いつも大演習や観兵式に名馬振りを発揮するので、外国の武官達からも賞讃の|的《まと》になっている。
「王将」も栗毛、「池月」と「|夜桜《よざくら》」は青毛(黒)、弟の愛馬「初霜」は葦毛である。私は鼻筋の白い「夜桜」が好きで、馬は真っ黒で少しだけ白い所のあるのがよい、という清少納言の言葉に共鳴していた。この黒馬を疾走させていると、黒雲を巻き起こして、天空に|翔《か》け昇るような陶酔が味わえる。従兄の忠元も「夜桜」にばかり乗りたがった。
彼はいつも数人の友達を引き連れて来ては、騎馬戦に熱中する。両方から馬を走らせ、すれ違いざまに相手の帽子をとるゲームで、いくら「私にも、やらせてェ」と叫んでも「ダメダメ、女の子はままごとでもしてなさい」と問題にもしてくれない。
そのくせ「オレは、あのジャジャ馬姫が生まれたとき、お七夜に見に行って一目|惚《ぼ》れしたんだ」などと、仲間どもに|吹聴《ふいちょう》する。
私はそれを伝え聞いて、|真《ま》に受けていた。彼は五歳年上で、学習院の高等科に在学し、ラグビー部のキャプテンとして勇名を|馳《は》せていた。
その忠元からある夜、電話がかかって来た。
「長門宮様からのプロポーズをお断わりしたんですって? 案外賢明なんですね」と言う。
「なんですって。なんの話?」
「とぼけなくてもいいよ。宮家からの|縁談《は な し》をあっさり振るなんて、さすがだなァって、男子部でも評判いいよ」「誰が断わったの? なんて?」
「叔父様が謹んで拝辞|仕《つかまつ》りますっておっしゃったって。ヘェー知らないの?」
私は呆然としていたが、猛然と電話を切ると、父の書斎に駆け込んだ。
父は大声でフランス語のテーブルスピーチの練習をしていた。
「ちょっと待ちなさい。区切りまでやるから」
「パパ、これはいったいどういうことなの? 長門宮様になんておっしゃったの? 私、何も存じませんでした!」
「もう知ってるの。あとで話そうと思ってたんだが……。まあ、そこにかけなさい」
父は仕方なく原稿を片付け、長椅子の所へやって来て、|鬚《ひげ》をこすってから、
「実は一昨日、長門宮家の主務事務官と宮内省の春日宗秩寮総裁とがみえて、ミミを|義《よし》|光《みつ》王(長門宮)妃にというご内意を伝えて来た」
「どうして、私にそのことを……」「言えば、妃殿下になりたいって言うにきまってるでしょ」
「なぜいけないのよ。なぜよ」「まあ、よく聞きなさい」
そこで父は急に語調を変えると、例によって革命の話を始めた。
「お前達は、なんの苦労も知らずフワフワ生きているが、世の中はそんな太平楽なもんじゃない。日本の前途は実に多難で、いまだかつて経験しなかったような事態になる。いまにご覧、とてつもないことが起こって、日本の国はひっくり返るから。どんな形にせよ、革命が起こって、皇族も華族も滅びてしまうのだ……」
私は、パリのコンコルド広場のギロチンで処刑されたルイ十六世の王妃マリー・アントワネットやシベリアの幽閉地で銃殺された、ロシアの|皇帝《ツ ア ー》ニコライ二世の四人の皇女達の、とび散る鮮血をありありと見た。
|革命《レボリュシオン》――それは私がいつも内心|脅《おび》えていることだった。昭和の初めにインテリや労働者階級を揺すぶった革命への情熱は、華族社会にも野火のように広がりつつあった。華族廃止や貴族院無用論が、当の華族からも公然と発言されていた。演劇の|土《ひじ》|方《かた》与志や文化人類学の石田英一郎らは“赤い貴族”の罪名を負わされていたし、無名の若い華族の子弟の中で共産主義へ走る者はあとを絶たなかった。
女性の中にも率先して弾圧と闘った者も少なくない。その一人に、明治の元勲岩倉具視の曽孫にあたる岩倉靖子もいた。彼女は昭和七年秋に逮捕されるまで、地下の党のために資金集めに奔走していたが、検挙されたのちも約一年、頑強に転向を拒否し続けた。が、遂に肉親の愛にほだされて、獄中で離党を誓約し、保釈で出所後十日目に自殺した。二十二歳だった。
そのころ皇族と大名華族の男子は、本人の意思におかまいなく陸軍士官学校か海軍兵学校などに入ることを強制されており、その他の華族の子弟は、学習院には大学がなかったから、東大、京大、慶応などに進む者が多く、その中の優秀な者は皆アカ[#「アカ」に傍点]だとすら、噂されてもいた。東大在学中の従兄の一人が検挙された時のショックは、まだ生々しかったのである。
「とにかく特権階級・富裕階級に対する反感は実に根強いことを知らなければいけない。日本の貴族はヨーロッパの王侯貴族のように残忍横暴なことはしていないが、|無為徒食《むいとしょく》する無能な|輩《やから》と見られている。人間の|羨《せん》|望《ぼう》は恐ろしいものだよ。だから、今ここでまた前田家と皇族が縁組みするのは、絶対に避けなければならない。世間を刺激するのはよくない。それに、第一、遠からずなくなってしまう皇族や華族にしがみついてなんになる?」「それじゃ、誰と結婚すればよろしいの?」
「よくお聞き。パパはね、ミミちゃんの本当の幸せのためには、実力のある平民と結婚するのが一番いいと思ってる」「いやよパパ、私は革命になってもなんでもいいから、貴族のままでいたいわ」
不意に涙がポタポタ|膝《ひざ》にしたたり落ち、私は|慌《あわ》ててスカートで膝と目をこすった。父は|暫《しばら》く考え込んでいたが、
「まあ、まだそれは先のことだ。ミミはまだたった十四だものね」
と|淋《さび》しそうに笑う。
「お使いの方へは、どう言ってお断わりになりましたの?」
「まさか革命になった時に不利だからとも言えないからね。誠にありがたきご沙汰なれど、美意子には|既《すで》に幼少より婚約者がおりましてと申し上げたら、義光王はさだめしご落胆遊ばすことでございましょうって、しおしお帰って行った。義光王とは華族会館でお会いしたことがあったんだってね」
私はスカートを固く握りしめたまま、あの海軍士官の若い鷹のような雄々しい面影に悲しく別れを告げた。
幼いころおねだりをする時によくそうしたように、私は父の傍に|跪《ひざまず》くと、その膝にそっと両手を載せて、「ねぇパパ、これから先、私の結婚のお話を黙ってお断わりになったり、勝手に決めたりなさっちゃいやよ。ネ、私におっしゃって。私、自分で決めたいの」
とささやいた。父は私の髪を|撫《な》でながら、「ちゃんと話すよ、相談するからね」とやさしく言う。
パパは、もしかしたら私をどこへもお嫁にやりたくなくてお断わりなさったのかも……。そう思って見上げた父の目に涙を見ると、私は全速力で書斎から逃げ出して行った。
戦前の天皇家では、各地に御用邸や離宮や|御《ぎょ》|苑《えん》を所有しておられた。
御用邸は葉山、沼津、那須、日光、日光田母沢、塩原、伊香保など二十四ヵ所にあったし、離宮は赤坂、芝、浜、霞が関、箱根、名古屋、二条(京都)、修学院(同)、桂(同)、御苑は赤坂、新宿などに|雅《みやび》やかな御殿と庭園が存在していたが、戦後はそのほとんどが国有のものとなった。
私にとって、かつての大日本帝国の元首であられた天皇やそのご一家のイメージと真っ先に結びつくのは、これら数々の宮殿やお庭の林や池水なのである。
神奈川県三浦郡葉山町にあった旧御用邸は松風の中に建っており、|人《ひと》|気《け》のない|一《いっ》|色《しき》の浜と穏やかな相模湾に面していて、成子内親王や級友達の自由の天地であった。
また、東京・竹芝桟橋に隣接する浜離宮は、昭和の大宮人達の風流の場であった。ここは、六代将軍徳川家宣のころからの将軍家唯一の別荘で、幕府の高官はここで鷹狩りを催しては盛大な野外パーティーを開いたものだが、明治になって宮内省に移り、戦後に東京都に|下《か》|賜《し》された。
水門から流れ込む海水を|湛《たた》えた二つの池にはハゼや黒鯛やボラが泳ぎ、それに続く鴨場には無数の鴨が飛来していた。江戸時代にはこの辺一帯に各藩主の鴨場が散在し、浜御殿でも鴨猟が行なわれていた。
鴨猟は皇室の社交接待用として今も伝承されているが、昭和になってからも使われたのは埼玉県越谷と千葉県新浜の沼沢と雑木林に囲まれた二ヵ所の猟場である。
私も何度かお招きにあずかったのだが、猟のやり方は江戸時代の古式による実にのどかなものである。十一月から三月までの猟期には数万の鴨が集まるが、池に|囮《おとり》のアヒルを多数放し、餌箱を|叩《たた》いて次第に引堀に誘導する。鴨は|囮《おとり》のあとからゾロゾロついてくるから、ころあいを見て引堀の口をふさぐと、アヒルは飛べないが鴨は驚いて飛び立つ。そこを堤の陰で待ち構えた人間どもが|叉《さ》|手《で》|網《あみ》ですくう。すくいそこなった鴨は、用意の鷹を放って捕えさせる。猟が終わると小判形の鉄板をめいめいの小さなコンロにのせ、タレをつけた鴨肉を焼きながらいただくのである。
これらの宮廷独特の雰囲気の中で、もっとも私を魅了したのは赤坂離宮であった。
この宮殿は両陛下がご新婚時代に六年ほど住まわれたが、宮城にお移りのあとは、来日された満州国皇帝の宿舎にあてられたり、観桜会や観菊会などに宴が催されるほかは空家同然になっていた。
戦後は国会図書館と法務省が使用したが、五年半の歳月と総工費百十億円をかけて、昭和四十九年に迎賓館が完成、再び華麗な姿を|甦《よみがえ》らせた。
ここはそもそも紀州徳川家の邸地で、一〇万坪にわたる名園は「|西《さい》|園《えん》」と呼ばれていた。明治五年に献上されて離宮となり、翌六年に皇居が炎上した時は明治天皇と皇后の仮皇居にあてられた。そして四十一年には外国との体面上、従来の和風建築を石造二層の洋風宮殿に改築されたのである。
鉄柵のある正面からの外観はバッキンガム宮殿を模しているが、内部はヴェルサイユ宮殿に似せて作られた。
これこそは典型的な王宮であり、王家の象徴であると私には思われた。内親王に誘われて宮殿に入れば、そこはルイ王朝の黄金時代の夢の跡である。
部屋は一、二階を通して五十二室あるが、各部屋はルネッサンス様式の|粋《すい》を尽くし、|巧《こう》|緻《ち》を極める。
どこも八割方は金箔と石膏で構成されており、紅や紫の大理石はイタリーやギリシア産、家具はフランス、|絨緞《じゅうたん》はイギリス、大食堂の壁に掛かる三十二面の七宝の額は日本の誇る重要文化財である。
中でも印象的なのは、玄関大ホールから入ったサロンを|蔽《おお》う丸天井の壁画である。
フランスの画家ペルクの指導で黒田清輝や岡田三郎助らが描いたものだが、オリーブの枝をかざした女神が四頭の白馬の|曳《ひ》く黄金の馬車を駆って天空をよぎる図である。
女神の|薔薇《ば ら》色の薄物が風にたなびき、その背後に光が放射状に描かれている。それはまさしくヘレニズムの世界で、ヨーロッパ文化の根源だ。
私はいつもこの天井画を飽かず眺めて、自分にとっての第二の故郷ヨーロッパへの尽きぬ郷愁にひたるのだった。
「エジプトの|間《ま》」と呼ばれる喫煙室は、世界最高級のエジプト煙草を吸うために作られた。
金箔と七色のタイルとステンドグラスで|彩《いろど》られており、その部屋へ一歩踏み込めば、たちまちサラセンの魔法にかかってしまう。
砂漠と|椰《や》|子《し》と白いモスクの描かれたその地は、あたかも立ち昇る一条の香煙の中に浮かび出た幻想の世界である。
内親王も私も離宮に来るたびに、真っ先にここへ来ては周囲の壁画を見つめながら、黙っていつまでも立っているのだった。
私は思った。かつてどこの国でも王宮はその国の文化の中心であった。宮殿のサロンに、|階《きざはし》に、噴水の|畔《ほとり》に貴人達が群れ集まって、学問や芸術や政治や外交を論じ合って来た。しかし、そうした時代はもはや過ぎ去りつつあり、再び宮廷文化の花咲く世は|還《かえ》っては来ないであろうと。
イギリスの国王エドワード八世は、父のジョージ五世の死後、一九三六年一月に即位した。四十二歳で独身の王はプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の時代から社交界で人気が高かった。
その王の前に現われたのが、シンプソン夫人である。
彼女はアメリカのバルチモアに生まれ、貧しい家庭で未亡人の母親に育てられたが、クレオパトラ級の美貌と情熱的な気性の持ち主で、常に人目を|惹《ひ》いていた。
初婚の夫はスペンサー海軍中尉だったが、性格の相違で結婚十ヵ月目には別居する。まもなく彼女は、造船会社の重役の息子であるシンプソン夫妻と知り合う。シンプソンは彼女に夢中になり、妻と離婚する。そして二人はロンドンで結婚した。
やがて彼女は社交界のスターとなり、エドワード八世にも紹介され、狩猟やダンスをするうちに次第に親しくなっていく。とうとう国王は夫人に求婚する。夫人は「二度の結婚に愛はなかったが、王への愛は真実である」と語って人々を驚かす。
夫人はシンプソンと離婚したが、「二度も離婚歴のあるヤンキーガールを王妃にすることはできない」と、王室も議会も教会も二人の結婚に断固反対した。
エドワード八世は「王位か恋か」の二者択一を迫られた結果、遂にその年の十二月に王冠を投げ出してしまう。
国王は、「私は国王としての最後の仕事を数時間前に終えた。王位を去る理由は国民諸君がよく知っていると思う。私の気持を理解して欲しい」とラジオで全国民に別れを告げた。
そしてウィンザー公となった彼は、翌日フランスへ旅に出る。二人は翌年の六月に結婚したが、その後三十年間にわたって、公夫妻は王室からも英国のマスコミからも完全に無視され続けたのである。
この世紀の大ロマンスは世界をかけめぐり、庶民の間では愛に生きようとした国王に同情を示す者が多かったが、上流社会の人々は冷ややかにこれを非難した。
今でこそ“日傾く国”となったが、当時の大英帝国は七つの海に君臨する“日の沈まぬ国”であったから、その国王の座を恋愛と引き換えに放棄することなど、|到《とう》|底《てい》理解できるものではなかったのだ。
「ずいぶん軽率な国王ね。日本の皇室では絶対に考えられないことだわ」
と成子内親王もきっぱりと言われた。
口々に同調する級友達に向かって、内親王は老成した口調であっさりつけ加えられた。
「結婚なんて、誰としたって大差ないでしょうに。どうしてそんなにムキになるんでしょう」
それは内親王の|本《ほん》|音《ね》だと私はわかった。恋愛と結婚は別なものとして考えることを、私達は物心つくころから、ごく当然のこととしていたのであった。
第七章 |解《と》き放たれた私
戦前の皇族や華族は、東京に本邸を構え、ほかに幾つかの別邸を持っていた。前田家の別邸は鎌倉と軽井沢と金沢にあり、北海道には牧場と山林を経営し、京都の鷹ケ峰には別荘の新築を、朝鮮には植林の計画をもって広大な土地を所有していた。
鎌倉の別荘は由比ケ浜に近い|長谷《は せ》の山手にある。そこの二階のベランダに立てば、庭園の彼方の松林の陰に町はすっぽり隠れ、庭続きに海が広がって見える。左手の葉山岬と右手の稲村ケ崎が|腕《かいな》を伸ばして、|紺《こん》|碧《ぺき》の海をやさしく抱擁する。
長楽山荘と呼ぶその別荘は、なだらかな丘の上に南面して建ち、その左右と背後を山に囲まれているので、陽が西の山陰に傾くと、今まで|豊饒《ほうじょう》な光が満ち満ちていた芝のスロープも、松林も茶室も、|竹《たけ》|藪《やぶ》も、修学院離宮風の|灌《かん》|木《ぼく》の大刈り込みもにわかに生彩を失って、あたりは水底のように暗転する。
しかし、東側の観音山や稲荷山は依然陽を真っ|向《こう》から浴びていて、|凋落《ちょうらく》寸前の栄光のように鮮明な緑を輝かせ、海もまた一面に|金《きん》|箔《ぱく》をきらめかせている。
私はいつも夕暮れどきのこの舞台の変貌に、尽きぬ感動を味わうのだった。それは太陽をヒロインとし、雲を脇役として繰り広げられるギリシア悲劇のような壮大なドラマなのだ。
自然は|戯《たわむ》れ合い刻々に移り変わり、人間の存在などは完全に黙殺する。私はこの絵画的な美しい仮面の下に隠された大自然の|怖《おそ》るべき非情さを痛感させられるばかりだ。山の上に|狼煙《の ろ し》のようにかかる雲も、水平線の彼方に|砦《とりで》のように|聳《そび》える雲も、じっと見つめているうちは微動だもしないのに、ちょっとの間目をそらして再び眺めれば、もう似ても似つかぬ形に変わっている。
私はそうしていつも|気《き》|儘《まま》な雲にからかわれ、はぐらかされ、それを仕方なく許すことを覚えた。この世には何一つたしかなもの、定まったもの、信じられるもののないことを|厭《いや》でも認めなければならない。だが、何も信じないということは、裏切られる危険もなく気が楽なことでもある。
空や海や山や風や木や花は教師であって、私にこの世の|理《ことわり》を教えてくれた。ベランダのデッキチェアに寝そべりながら、私もあの雲のように生きればよいのだと思う。
|蜜《み》|柑《かん》がみのり、山桜と椿が散り、|百日紅《さるすべり》が燃え、植込みの|楓《かえで》や|檜《ひ》|葉《ば》や|満天星《どうだんつつじ》や|木《もっ》|斛《こく》が色づくこの海辺の別荘に、週末ごとに私は家族とともにやって来た。
この一万坪を超える邸内には、鎌倉時代に使われた矢倉の跡や無縁仏を|祀《まつ》った洞穴があり、長雨が続いて山の土砂が崩れると白骨が出て来たりする。山の斜面の|笹《ささ》|藪《やぶ》の中には、昔からさわれば死ぬと言い伝えられた石があり、試しにさわった者達は、いずれも事故死してしまった。
ある冬の夜、私は二階の居間で焦げ茶の衣の僧侶らしき亡霊を見た。またある時、階段を上りかけた女中が帯を引っぱる者がいるので振り返ると誰もいなかった。地下のボイラー室から夜な夜な|怪《あや》しげな物音が響くこともあった。
前田家では、戦争のあった古い土地柄だけに定期的に坊さんに供養してもらったり、家族全員で観音経の写経をしたりして慰霊につとめたのだが、こうしたことが私に四次元の世界(霊界)の存在や、|輪廻転生《りんねてんしょう》について強い関心を持たせることになったのである。
学校が夏休みになると、七月半ばから八月の初めまで私達は鎌倉に滞在して海水浴に|励《はげ》むが、土用波と|水母《く ら げ》が出始めるころから、軽井沢の|山《さん》|欣《きん》荘と呼ばれる別荘へ移る。
軽井沢は東を|碓氷《う す い》連山、南西を|八《はっ》|風《ぷう》連山、北を浅間の火山で囲まれた高原地帯で、日本で最初の避暑地として、多くの人々に愛された地である。
ここは万葉人の歌なども残る古くから開けた土地で、特に江戸時代には|中《なか》|山《せん》|道《どう》の宿場としても栄えた。軽井沢と|沓《くつ》|掛《かけ》と|追《おい》|分《わけ》は浅間根越の三宿といわれていたが、前田家の先祖達も参勤交代でたびたびここを通った。
さて明治十九年(一八八六年)にイギリス人の宣教師A・C・ショー師が布教の途中に軽井沢に立ち寄ると、|樅《もみ》や白樺やアカシアが繁り、|郭《かっ》|公《こう》や山鳩の|啼《な》くその地の風光が故国のスコットランドに似ていることに感動し、大塚山に山荘を構えた。これが別荘地として軽井沢が脚光を浴びるきっかけとなる。
前田家が通称“お|水《みず》|端《ばた》”と呼ばれる地に別荘を造ったのは、私が生まれた大正十五年(一九二六年)で、そのころから皇族や華族や文化人等の別荘が続々ふえていった。前田家の両隣は鳩山家と伊藤伯爵の家であった。
戦後の日本には上流社会も|社交界《ソサエティ》も消滅したが、戦前にはたしかに存在していた。そして盛夏の一時期に社交界の舞台は東京から軽井沢に移った。都会では高い塀をめぐらした邸宅に住み、大勢の召使にかしずかれ、親類同士の交際ですら格式張っているのだが、この日本離れのした高原にやって来ると、人々は仮面をはずして気さくに振る舞うようになる。たいていの家は別荘番の家族を一年じゅう置いているので、東京からは十人たらずの使用人だけを連れて来る。
別荘族の生活はゴルフや馬の遠乗りやブリッジに明け暮れる。私は毎朝南軽井沢の新ゴルフ場に母と一緒に行っては、コースを回る母と別れ、プロのコーチについてアプローチショットの練習ばかりさせられた。
あるいは二十人ばかり一団となって、沓掛や小瀬のあたりまで馬をとばす。
東京にいる時は、まったくお金を使うことのない私も、ここではビーズの財布を持ち、自転車で町へ出かける。お付きの八重野も小池も赤羽もついては来ない。近所に住む学友達と、焼きたてのパイや浅間葡萄のジャムや、庭の樅の木に|棲《す》んでいるリスにやるための|胡桃《く る み》を買っては|籠《かご》に積んで帰るのだ。
アルプスが|波《は》|濤《とう》のように陽に輝いて見える日には、離山や碓氷峠や|愛宕《あ た ご》山や浅間山に登る。雲場ケ池でボートを|漕《こ》いだり、千ケ滝の釣り堀に虹鱒を釣りに行くこともある。
雨や霧に閉ざされた日には、大抵どこかの別荘でブリッジ・パーティーが開かれる。マージャンなどする者はおらず、トランプのゲームの中で最も国際的で最も複雑難解で、紳士淑女に必修とされるブリッジに没頭する。黙々として相手の手の内を探りながら、十時間以上も戦うのである。
夜は懐中電灯をかざして鹿島の森を通り抜け、誰かの別荘に踊りに行く。万平ホテルやニューグランドホテルにもいつもバンドが入って、タンゴやフォックス・トロットを演奏した。
この軽井沢ソサエティを|牛耳《ぎゅうじ》るのは欧米の人達であった。各国の大使館の人々は、水を得た魚のように振る舞い、日本の有閑人種はしゃれた西洋風な社交や遊びを懸命になって修得しようとした。|洗練《リファイン》されることが重んじられ、ウィットやエスプリのなんたるかを解さない“お育ちの悪い野暮な人”は相手にされない。遊び方を知らない成り上がり者は誰よりも軽蔑された。
もちろん恋愛遊戯も重要なゲームである。人々は|束《つか》の|間《ま》の感傷とスリルを楽しみ、お互いに傷つかぬように終わらせる。相手を熱愛しすぎてなり振りかまわず大騒ぎを演じると、「純情な人。まるでウィンザー公ね」と笑い者にされる。私はそこに上流社会人の根強い好色と冷たさを見た。
九月になって野分きがすすきケ原を果てしなく騒がせ、|百舌《も ず》が樅の高みで不吉な叫びをあげるころになると、人々は|慌《あわただ》しく東京へ帰って行く。そして避暑地の恋は雲のように跡形もなく消え失せるのだった。
もっとも、夏の間に婚約が調うことも少なくない。その披露パーティーに人々は花束を抱えて集まる。細川侯爵家の|御《おん》|曹《ぞう》|子《し》護貞と近衛公爵の次女|温《よし》|子《こ》とのロマンスも、細川家のテニスコートで生まれたものだった。
私も何人かの男達を好きになった。|暫《しばら》くは“忘れねばこそ思ひ出ださぬ”状態が続き、コスモスの花で占い、日記に思慕の詩を書き、やがて忘れてしまった。たとえば、毎日、庭のテニスコートに打ちに来る慶応ボーイの健一郎や、アメリカ大使館の海軍武官等々……。その中で、いつまでも忘れがたく、日が|経《た》つにつれていよいよ|切《せつ》なさの増す青年がいた。
そのころ、ドイツではヒトラー総統が熱狂的な支持を得ており、日独伊防共協定が成立して三国は急速に親しくなりつつあった。そして昭和十三年の八月にヒトラー|青年団《ユーゲント》の一行が親善使節として来日した。八百万のナチスの団員を代表する三十人の青年達は東京での公式行事を終えると、近衛文麿首相の招きで軽井沢に来た。そして首相の頼みを受けて、うちの別荘でガーデンパーティーが開かれたのである。
彼らはオープンカーに分乗して|華《はな》|々《ばな》しく乗り込んだ。濃紺のユニフォームに白いベルトをしめ|小《こ》|粋《いき》な帽子をかぶり長靴姿もスマートな団員達は、いずれも目もさめるように美しく、サロンに整列すると「双頭の鷲」や「ドイツは世界に冠たる国」を高らかに合唱して、日本娘を泣かんばかりに感激させた。そして彼らは婦人達を|騎士《ナ イ ト》のようにエスコートして庭園を散歩した。
私は、ハインリッヒと名乗るミケランジェロのダヴィデの彫像のような青年と手をつないで白樺の林を抜け、芝生のスロープを降りて小川の|畔《ほとり》を歩いた。
近くの水源地から雲場ケ池に注ぐ小川は水晶のように透明で|痺《しび》れるように冷たく、両岸にはクレッソンが密生している。むしょうに何かをプレゼントしたくて、私はクレッソンを一本|摘《つ》むとハインリッヒに捧げた。
実は私には、もう一人ひそかに愛する青年がいた。
彼は|更《さら》|科《しな》|道《みち》|幸《ゆき》と言い、学習院から音楽学校へ転校して作曲を専攻していた。道幸は大学教授の父に連れられて|屡《しば》|々《しば》東京のわが家に来ていた。
彼の父の道直は国文学の権威として著名で、前田家の|厖《ぼう》|大《だい》なコレクション尊経閣文庫の管理を託されていた。彼は由緒ある公卿の|末《まつ》|裔《えい》で、伯爵の称号を持っていたが、篤実な学問の徒であった。
長男の道幸は三歳の時からピアノを習い始め、まもなく作曲を始めた。そして私の詩に曲をつけ、二人はオペラ「羽衣」を作ることに専念していた。既に私たちはコンビを組んで幾つかの歌を作り、母の誕生日のパーティーにはお祝いの歌を発表したりした。
彼はまずメロディーの断片をかき集めるようにピアノを|弾《ひ》き始める。まだ雑然として、どの音の流れが主力になるかわからない。彼はもどかしそうに|執《しつ》|拗《よう》に何かを手探りする。長い|睫《まつ》|毛《げ》を神経質にまばたき、白い頬を紅潮させ、何かを待ち受け|捉《とら》えようと|焦《あせ》る。
「詩を作るときは、アイディアで作るんじゃなくて言葉そのもので作るものだって、マラルメ(フランス象徴派詩人)は言ったけれど、曲を作るときも音を積み上げていくものなの?」
とある時、私は尋ねた。
「そういう作曲家が多いでしょうね。あくまで冷静に構築していくのが常道かもしれない。でも僕の場合は、聞こえてくる音を瞬間的に掴まえて再現させるんです。どこかに既にでき上がったメロディーが存在するんです」
と彼は凡人には言えないことを言う。
「マアすごいわ。聞こえるってどこから?」
「頭の中に流れ始めるんです、段々光を帯びて強く聞こえてくる。モーツァルトもそうだったらしい」
私はピアノを弾き続ける道幸の|痩《や》せた背に頬を寄せながら、
「すばらしいわ。本ものの芸術家には霊感が天|降《くだ》るって本当なのね。|幸《ゆき》ちゃまは天才なのよ」
と興奮して繰り返した。
道幸は私の両手を握りながら、
「メロディーが聞こえない日が続くと、居ても立ってもいられなくなる。もう生きた心地がしなくなるんです」
と絶望的な表情を見せた。その目は私に注がれていたが、私を見てはいなかった。私は彼のしなやかな冷たい手を握りしめながら、この人を誰よりも大事だと思った。
私達はジョルジュ・サンドとショパンのような間柄でありたい。それが無理なら、彼の永遠の恋人であり|後援者《パトロネス》になりたい。実は私にはお手本とする一人の貴婦人がいるのだった。ランブイエ侯爵夫人である。
その夫人はフランスにおけるサロンの創始者で、才色兼備を|讃《たた》えられた。一六〇八年に自分の邸宅を開放して、多くの僧侶、将軍、政治家、哲学者、文豪、画家、音楽家達との交流をはかった。ヴォアテュール、コルネーユらが常に出入りし、このサロンは世紀の文芸を生み出す母胎となったのである。
私もまた、著名な学者や芸術家達が群れ|集《つど》うサロンの女主人になり、文芸の興隆に寄与したい。彼らと高級で非世俗的な会話を交わし、劇的な恋愛をし、特に愛する天才的人物を物心両面で援助するのだ。
自分は不幸にして、ひとつの作品も残すことができなくても、そういう形で文化史に名前をとどめることだってできるはずだ、と私はうっとりと夢みた。
現に父もそれをしていた。毎年四月に帝国学士院賞を授賞された学者を授賞式の当日前田家に招くのを慣例とし、|晩餐会《ディナー》のあと受賞者は三十分ずつ講演をした。当時三十一歳の湯川秀樹博士もスピーチをした。
また文展(現在の日展)で特選になった画は、父が購入することになっており、日常も絶えず学者や芸術家らが駒場や鎌倉や軽井沢のサロンに出入りしていたのである。
私の生活は、精神的にも物質的にも恵まれており、「これで何か不満など言ったらバチがあたりますよ」と両親にも言われ、自分でもそう思っていた。それだけに、この幸せな日々が果たしていつまで続くかという不安に絶えずつきまとわれていた。今まであったものが、すべて失われた夢を幾度か見て、絶望しながら目を覚まし、恐れは|募《つの》るばかりだった。
未来には何ひとつよいことはなさそうに思えた。日本も世界の国々も騒然としており、人々は戦乱に抗しきれぬ運命にあった。
既に昭和十二年(一九三七年)より日華事変は始まっており、日本軍は戦争が長引くにつれて手を焼き始め、|満《まん》|蒙《もう》国境ノモンハンではソ連軍と衝突して惨敗する。国内では青年将校らが|叛《はん》|乱《らん》を起こし、重臣達の暗殺が相次ぐ。
十四年、ヨーロッパではドイツがポーランドに侵入し、イギリス、フランスがドイツに宣戦を布告して第二次世界大戦が始まった。翌年パリは陥落したが、ド・ゴール将軍は徹底|抵抗《レジスタンス》を叫ぶ。日本軍は北部仏印に進駐し、四日後に日独伊三国同盟を結ぶ。日ソは中立条約を結び、独ソは不可侵条約を結んでいたが、ドイツ軍はソ連に突如進撃を開始して戦争となる。そして十六年十二月、日本軍はハワイ真珠湾を突如襲撃して太平洋戦争は始まった。
父は青森県弘前の八師団を率い、|綏《すい》|陽《よう》(旧満州)に|駐屯《ちゅうとん》してソ満国境の防衛にあたり、親類や親しい人々も続々出征して行った。
いままで遠い彼方にあった“死”がにわかに身近なものとなり、愛する人達との死別と自分自身の死を思うと、私は恐怖に居たたまれなくなった。
私は、人生や世界の究極の根本原理を追求する哲学に救いを求めた。母は私の願いを|容《い》れて、哲学者の桑木|厳《げん》|翼《よく》博士を週に一度邸へ迎えて講義を受けさせてくれた。博士は郷土金沢の出身で東大の教授であり、“日本のカント”と呼ばれて声望が高い。石川県からはそのほかにも、西田哲学を打ち立てた西田|幾《き》|多《た》|郎《ろう》や、禅によって世界に知られた鈴木|大《だい》|拙《せつ》らの、そうそうたる哲人が輩出しており、私は哲学こそは最高の学問で、生や死についての解答が得られるだろうと信じていた。
私は必死になって哲学史と取り組んだ。博士は学者的綿密さで難解な哲学用語を一言一句解釈してくれるが、それを理解するのは並み|大《たい》|抵《てい》のことではない。それは私の|生涯《しょうがい》で最も|辛《つら》く|苛《か》|酷《こく》な時期であった。西洋哲学の思考法を必要とする一方、私は次第に仏教哲学へ傾いていった。
|仏《ぶっ》|陀《だ》は何を直観されたのか? 私は救いを|釈《しゃ》|迦《か》に求めた。釈迦族の若き王子シッダルタは、生・老・病・死の人生の四苦を救うために、恵まれた境遇を|棄《す》てて出家し、七年の苦行の末に|菩《ぼ》|提《だい》|樹《じゅ》の下で悟りを開いて揺るぎない歓喜と平安を得られたというが、釈尊は何を|大《たい》|悟《ご》されたのだろう。それをひたすら知りたいと願った。「|正覚《しょうがく》」(完全に|醒《さ》める)「|解《げ》|脱《だつ》」(悩みや束縛から脱して、憂いのない安らかな心境に到達する)、「|涅《ね》|槃《はん》」(不生不滅の|法性《ほっしょう》を自分で体験して解放された境地)などという仏教用語は、頭では漠然と理解できたが、核心に触れることはできない。どうしても、何がなんでもそれを実感したかった。
二千五百年も前に入滅された仏陀の絵姿の前に|跪《ひざまず》いて、「いったい、私は何なのですか。私はどこから来て、どこへ行くのですか。私はなんのために生き、死後どうなるのですか。いかにしたら|輪廻転生《りんねてんしょう》の束縛から脱することができるでしょうか」と問いかけた。しかしいくら祈っても、座禅を組んで無我になろうと努めても、なんの答えも得られはしなかった。
現実の生活は、うわの空で物欲も名誉欲もなく、このままの状態で生きることは|堪《た》えがたく思われた。私の前には、「死」と「解脱」の文字が常につきまとって離れないのだ。
そうした、ある冬の夕暮れのことである。
私は部屋の窓越しに、沈んで行く太陽を眺めていた。葉を落として静まり返った木立ちの彼方に真紅の日輪があった。地上から最も遠ざかった十二月の太陽は、くっきりと完全な円だ。そしてなんと|混《ま》じり気のない赤だろう。私は目が離せなくなった。
そのうち、いつか自分のすべては太陽に吸いとられて、何もなくなってしまったような気になってきた。自分が太陽か、太陽が自分かはっきりしなくなってきた。自分というものがあるようでもあるし、ないようでもある。あるとすれば、どこまでが自分というものの限界なのだろうか。限界などありはしない。果てしもなく自分なのだ。
私はいま宇宙に遍在しているではないか。自分は宇宙と一体ではないか。限りある自分などはどこにもないのだ。私はずっと|遥《はる》かな遥かな昔から、こうしてあった。これからもこうしてあり続ける。何も変わりはしない。変わるように見えるのは、|表《うわ》|面《つら》の現象だけなのだ……。
どれほどの時間が経過したか、ふと我れに返ったとき、強烈な|歓《よろこ》びが噴き上げてきた。瞬間に感じたことは、「私は解き放たれた! ……」という思いだった。不安から、怖れから、自分を縛っていたかに思えていたあらゆる|絆《きずな》から脱却していた。“自分”という|檻《おり》から脱出していた。
なんという素晴らしさだろう。なんという爽快さ! これこそが自由というものなのだ。そこには限りない安らぎが広がっていた。
まさしくそれこそ、私にとって目の|醒《さ》めるような、目もくらむばかりの革命であった。私はもうこれからは、どんなことにも|捉《とら》われることはないだろう。人にも、物にも、固定観念にも執着することはないだろう。私は自由の魂を得たのだから。影に迷うことはもうあり得ない。そしてさらに驚いたことには、あれほど私を|怯《おび》えさせていた死への恐怖もまた、すっきり消え失せてしまっていた。
こうして私の人生観は根本から一変してしまったのだが、このことはのちに苛酷な戦中戦後を生きる上で、何にもまさる心の|拠《よ》り所となった。
当時わが家では仏教に|帰《き》|依《え》し、家族で|写経《しゃきょう》をして邸内の観音様のお堂に納めたこともあり、私は幾つかの仏教の経典にも|馴《な》|染《じ》んでいた。中でも|般若心経《はんにゃしんぎょう》は釈迦ご自身の教えを説く七千余巻よりそのエッセンスを選び出したものだというが、この経文の解説を読むと、なんと私が体得した無我の境地をものの見事にズバリ表現してあったのである。とくに、「……|菩提薩た[#「た」は「土偏」+「垂」Unicode="#57f5"]《ぼだいさった》、般若|波《は》|羅《ら》|蜜《み》|多《た》に依るが故に、心に|けい[#「けい」は「買」の「貝」を「圭」にしたもの Unicode="#7f63"]礙《けいげ》無し、けい[#「けい」は「買」の「貝」を「圭」にしたもの Unicode="#7f63"]礙無きが故に、|恐《く》|怖《ふ》あること無し。一切の|顛《てん》|倒《どう》夢想を|遠《おん》|離《り》して、|涅《ね》|槃《はん》を|究竟《くっきょう》す、……」のくだりである。
以来私はこのお経を|誦《そら》んじてその境地を忘れまいとし、つねに自由の魂(「精神」とか「心」とかいう言葉はどうも適切でない)のままに生きた。
あの体験の前までは私はつねに自分自身に|捉《とら》われていた。「自分を知ろう」だの「自分の心に忠実であろう」だのと、世にも見当違いなことばかり考え、カタツムリのように|殻《から》に閉じこもっていた。だが、“自分などという型にはまったものは本来なかった”ことを悟らされたのである。いまだかつてこれほどの衝撃を私は知らない。
固定的な自分などどこにもありはしないのだから、これからは自分を自由に|創《つく》り操作しながら生きるのだ。自分で人生のシナリオを作り、演出し、主演するのだ。たまたま女としての体をあてがわれたからには、“女”という役をこなしてみよう。これは面白いことになりそうだ。どんな女になってみようか。――こうして私は生に目ざめたのであった。
そして、恋人、人妻、母親、作家、演出家、サロンの女主人、学校経営者など自分の演じたい役どころを数え上げた。
私はまず、自分は誰と結婚しようかなと考えた。ボヤボヤしていたら親や周囲に決められてしまう。|伴侶《パートナー》としての夫は美男に越したことはないが、十人並みの容貌で充分だ。そして歴史に残るような天才や大政治家でなくてよい。いや、そんな素晴らしい人物でないほうがよいのだ。そういう人物は妻に献身や内助を期待するだろうから、妻になったら最後、夫の人生のお|裾《すそ》|分《わ》けをさせられる破目になる。
夫としての不可欠な条件は|唯《ただ》ひとつ。私をよく理解し、包容力を持って私をバックアップしてくれる男性であること。私がしようと|企《たくら》んでいる文化諸事業(?)をスムーズに運ぶため、最低限度、空気のような存在であること。もちろん、精神的な協力だけでなく、それ相応の物的援助のできる財力がないと困る。愛が持てればそれに越したことはないが、なくてもいっこうにかまわない。恋愛なんてものは人生を|彩《いろど》るアクセサリーか、お酒みたいなものだから。
そこまで考えると、私は「華族画報」を開いた。それは「皇族画報」とともに不定期に発行され、限られた範囲にだけ配布されるものであった。
皇族は、天皇の弟宮にあたり|直《じき》|宮《みや》と呼ばれる秩父宮、高松宮、三笠宮のほかに十一家ある。直宮家以外は主として明治維新の際に伏見宮家から分かれたもので、伏見宮家は北朝の崇光天皇の第一皇子|栄《よし》|仁《ひと》親王を祖とし、梨本、|山《やま》|階《しな》、閑院、久邇など十二宮家を分派している。
私にとっては|長《なが》|門《との》|宮《みや》からの求婚を辞退した手前、皇族はもはや無縁となった。
「華族画報」には伯爵以上の名家の男子と女子の写真を載せ、その人物像を紹介している。これは見合いの重要資料ともなるものであった。
私のぺージには|四《し》|君《くん》|子《し》の|柄《がら》の|振《ふり》|袖《そで》を着て客間のピアノの傍で撮った写真に、宗教……臨済宗、趣味……作文、モダンバレエ、乗馬と記されている。日高玲子については宗教……真言宗、趣味……ハープ、油絵、テニス。山城芳子は宗教……なし、趣味……書道、ピアノ、狩猟となっているが、ほかのおとなしくて没個性的な令嬢達は、申し合わせたように宗教……神道、趣味……お茶、お花としてある。
華族の宗教は明治元年の神仏分離令により、|否《いや》|応《おう》なしに神道を信奉させられたが、家としては神道を建て前としながら個人的には仏教に|帰《き》|依《え》する者がほとんどで、特に大名華族は封建時代以来、禅宗か真言密教を信じる者が少なくなかった。これが戦後になると、マッカーサー司令部による国家神道禁止令と、|現《あら》|人《ひと》|神《がみ》の天皇がみずから「人間宣言」をされたお蔭で、誰に遠慮もなく大半の家は仏教に戻った。
私は「華族画報」のページを繰りながら、公卿、大名、維新の元勲の直系である青年達の記事を丹念に読んだ。そして十一名の名前を原稿用紙に書き出していった。いずれも生活環境が似ていて裕福な大名華族の息子達である。松平、徳川、黒田、島津などが並んだ。もちろん、長男に限る。次男以下は家来と変わりなく、将来分家をするか、他家へ養子にいく運命にあるから除外しなければならない。
その十一名の青年達は、既にパレス乗馬クラブや華族会館や軽井沢などで会ったことがあるから、私自身の結婚の条件に照らして、本人の性格と家庭環境と財産の三点を採点してみた。そして最高点から順に番号をつけていくと、(一)酒井忠元、(二)若狭知英、(三)松平隆久……という結果が出た。
私はあらためて、この|従兄《い と こ》について考えた。忠元は昭和十六年の一月に宮中に参内して従五位を授かっている。華族の跡取り息子は二十歳になると天皇から従五位を賜り、以後正五位、従四位、正四位と位が上がり、従一位(ごく|稀《まれ》に正一位)となる。昇進の時期は爵位によって違い、公爵が最も早く、男爵が最も遅い。この位によって宮中席次が定められるのだ。
忠元の高等科以来の|渾《あだ》|名《な》は「|旦《だん》|那《な》」である。ラグビー部のキャプテンで後輩の|面《めん》|倒《どう》|見《み》がよく、親分の|貫《かん》|禄《ろく》充分だ。私はこの点を高く買った。十一名の中で最も包容力に富んでいることはたしかだ。彼が八方美人で浮気っぽい点は別に問題にならない、皆そうなのだから。ユーモアのセンス抜群で、これは一緒に暮らす伴侶として重要な要素だ。乗馬とダンスとブリッジと旅行の趣味も一致するから、彼とは仲よくやっていけるだろう。しかも伯父の酒井忠正は温厚な人柄だし、家付きの伯母は実に|鷹《おう》|揚《よう》で私を娘のように可愛がってくれている。|小姑《こじゅうと》が一匹[#「一匹」に傍点]もいないのだから余計な苦労もしなくてすむ。よし、元ちゃまにきめよう、と私は決心した。
その数日後に伯母の秋子が邸に来た。秋子と菊子の姉妹は、茶道の裏千家の家元千宗室を京都から月に一、二度前田家の茶席に招いてお稽古をし、私もその席に|連《つら》なることが多い。裏千家家元は代々加賀藩の茶道指南であり、江戸時代以来親交を続けている。薄茶の|点《て》|前《まえ》を終えて渡り廊下を西洋館に戻りながら、秋子が話しかけてきた。
「ミミちゃま、山城芳子さんて、どんな方? ご同級ぐらいでしょ」
「ハア、一年下でございますけど、でもどうして?」
「元ちゃんのお嫁さんにどうかって、宮内省のほうからお写真が届いたの」
「伯母ちゃま、それはおやめになったほうがおよろしいわ。山城さんてとっても評判の悪い方なんでございますよ」
「評判? どんな?」「不良で、浮気者で……いろんな人と片っ端から|S《エス》をなさいますの」
「Sってナアニ?」
「恋愛ごっこみたいなもんですけど」「マア、恋愛?」
「エエ、マア、伯母ちゃま、あんな人は絶対にダメでございますよ。元ちゃまが不幸におなりになるにきまってます」
「そんな人なの。でもおきれいなお嬢さんね。元ちゃんが感心してお写真を見ていたわ」
「だから|自《うぬ》|惚《ぼ》れが強くて嫌味なの。伯母ちゃまの一番お嫌いなタイプよ、女王気取りで、目立つことが大好きで」
「マア、そんな人なの、じゃあ考えてみなければ……」
「そうよ伯母ちゃま、元ちゃまにはもっと真面目な人でなきゃ。酒井家の名誉のためにも」
そのとき母や家元達が近寄って来たので、二人の話はとぎれた。
「お|姫《ひい》|様《さま》、こんど京都へお出ましの節は|政《まさ》|興《おき》どもが琵琶湖の舟遊びにお|伴《とも》申し上げる手筈を調えております」
と千宗室は|如《じょ》|才《さい》なく言った。|若宗匠《わかそうしょう》の|政《まさ》|興《おき》、|嘉《よし》|治《はる》、|巳《み》|津《つ》|彦《ひこ》の三兄弟はそろって美男で、関西のみか東京ソサエティでも人気上昇中である。私は特に|才《さい》|気《き》|煥《かん》|発《ぱつ》な次期家元の政興――通称マイクに強く|惹《ひ》かれていた。彼の姉の良子も典型的な京美人で、桜井子爵と婚約しており、門弟ばかりか数多くのファンを持っている。私はやはり京女にはかなわないと思いながら、彼女の色っぽいまなざしや洗練された振る舞いや、はんなりした口調を盗もうとした。戦時中、海軍航空隊の戦闘機乗りとして活躍した若宗匠に代わり、良子は家元の片腕となって茶道の荒廃を防ぎ、伝統文化の灯を守り続けたのである。
その夜、夫人室に行くと、母は今日の茶席のしつらえを細かくノートに清書していた。
「マミ、ちょっとお話があるの」私は母の|几帳面《きちょうめん》なノートをのぞき込みながら小声で言った。
「なあに、京都へ行きたいんでしょ?」「エエ、それもあるけど。実は私の結婚のことで」
「結婚? なんでまた急に」母はやっと銀の万年筆を置いた。
「私、いろいろ考えたんですけれど、やっぱり元ちゃまが一番いいと思うの」
「エッ、元ちゃま? あなたは元ちゃまのこと好きだったの?」
「エエ、ほかの人に|奪《と》られたくないの」
「そうだったの。マミは千さんや更科さんを好きなのかと思っていたわよ」
「マイクさんも|幸《ゆき》ちゃまも大好き。でも結婚はしたくないの。家元夫人や作曲家の奥さんにはなりたくないの。結婚するなら元ちゃまのほかにないことがはっきりしたの。だって一番いい条件なんですもの。だから皆が|狙《ねら》っているわ。ボヤボヤしてはいられないのよ」
「ヘエー、そうなの。あなたっていつも何を言い出すのか……この間も、どうしても女優になるからなんとかしてくれって言ったかと思うと、二、三日して、やめにします、だなんて。気まぐれ過ぎますよ。いい加減になさい」
「マミ、今度は本気よ。元ちゃま以外の人とは結婚いたしません。絶対に」
「だけど女のほうから言い出すなんて」
「だから、そこを|上手《じょうず》に言っていただきたいのよ。マミはそういうことお上手でしょ。伯母ちゃまにうまくおっしゃって|頂戴《ちょうだい》よ。マミ、お願いだから……ネエ」
私は母の肩に腕を回してその頬に素早くキスした。母はあきれて笑いながらも、娘が望む相手が自分の|実家《さ と》の気に入りの|甥《おい》であることに、けっして悪い気はしていない、と私は見た。
第八章 父――悲劇の将軍
酒井伯爵家の一人息子忠元は、小石川原町の|邸《やしき》で生まれ、就学と同時に塾へ入った。
男子は質実剛健に育てなければならないのに、脂粉の香を|撒《ま》き散らす女達との|贅《ぜい》|沢《たく》な生活を味わわせては、遊惰文弱に流れかねないと|惧《おそ》れて、どこの大名家でもそれを習慣とした。
塾は|榊原寅七《さかきばらとらしち》という退役軍人がチーフとなり、武道の先生達も同居して忠元ら八名の青少年を遠慮なくしごく。朝は庭掃除までしてから登校し、帰れば剣道と柔道、勉強後は座禅による精神修養という日課が、高等科卒業時まで続いた。邸へは週末と学校の休暇中に帰るだけである。もっとも座禅は、ものの十分もたつと青年たちは眠り始め、榊原がいくら躍起になって|警策《きょうさく》(禅僧の持つ板)で肩を打ち据えて回っても、じきに熟睡してしまうので遂に中止せざるを得なかった。
この女人禁制の寮で鍛練を受けた硬派の彼らも、休日には、娘達とダンスやテニス、乗馬をする機会を抜け目なく作っていた。学習院の男子部と女子部は緊密だし、皇族と華族仲間の限られた範囲内での交際は自由である。親たちは息子や娘がとんでもない人と結婚したがる|筈《はず》がないと信じてほとんど干渉せず、子供らも外界には目もくれず同族間での配偶者選びに|鎬《しのぎ》を削った。男も女も売れ残るのは最大の恥なのだ。
土曜日の昼さがり、しぐれ始めた空を|気《き》|遣《づか》いながら、酒井伯爵夫人秋子は|炬《こ》|燵《たつ》の中で美人画の下絵を描いている。彼女は十八歳の時に阿部伯爵の次男の元彦(のちに忠正)を|婿《むこ》に迎えて以来、夫の趣味に合わせて日本画を習い始めたが、人物画ばかりを好んで描いた。
取り巻きの若い男達に、クローデット・コルベール(アメリカの女優)にそっくりだとおだてられてから、秋子はすっかりその気になり、コルベールのブロマイドを鏡台に飾り、同じ形に眉を引き、髪型に作っていた。
夫は農林大臣になったり、帝国農会会長などを務めて政治に没頭し、家付きの妻は|気《き》|儘《まま》に好きなことをして暮らす。彼女は夫の仕事にも口を|挟《はさ》まず、妾たちの噂を耳にしても|詮《せん》|索《さく》もせず放っている。人のことなどいちいちかまってはいられない。
秋子が自分の姿を鏡に映して、きものの|襞《ひだ》の具合をたしかめながら描いていると、
「若様がお帰りにございます」と小間使いが|襖《ふすま》の外から声をかけた。
まもなく庭の彼方から傘もささずにやって来た忠元は縁に上がると、
「|只《ただ》|今《いま》戻りました」と一応両手をついて頭を下げるや|否《いな》や、
「ああ、飢え死にしそう」と炬燵にとび込んだ。
「随分遅かったじゃないの。また華族会館でビリヤードでしょ」
「まあそんなとこね」
秋子は、鍋焼きうどんの二杯目を息もつかずに食べている息子に目を細めながら、
「今日は、あなたに早く話そうと思っていたことがあるのよ」と言いつつ、|象《ぞう》|牙《げ》の長いパイプで煙草をゆっくりくゆらせてフ、フ、フと笑った。
「ミミちゃまがね、あなたにご|執心《しゅうしん》なんですって」「エッ?」
「元ちゃまとでなければ絶対誰とも結婚しないってマミに言うんですって」「ホウ、叔母様が?」
「エエ、さっき電話で、ちょっとお耳に入れておきたいって」
「それはまた面白いことになってきたもんだ。本気かなァ」
忠元は煙草を|揉《も》み消しながら、「しかし、あの娘が可愛らしいことを言うもんだな、案外……」
「そうよ、前からあなたのことを好きだったらしいわ。菊様がいろいろ思いあたることがあるって」
「ヘエー、そうとは知らなかった。僕はまた、あのなんとかいう芸術家気取りの色男がいるでしょ。あいつに首ったけなのかと思ってた」
「それは単なる遊びにきまっててよ。結婚とは別問題ですとも」
秋子も上機嫌である。息子に縁談が殺到し、娘達にもてるということは、母親の自尊心をこの上もなく満足させる。忠元は「ちょっと電話してくる」と襖を開けっ放しでとび出して、ほどなくニヤニヤしながら戻って来た。
「明日銀座でランデブーしようって誘ったら、銀座は松坂屋しか知らないって言うの。結局、帝国ホテルのプルニエで会うことにしちゃった。『一人で行くの?』って|訊《き》くから『あたり前よ、ナースや上等兵なんかのお供を連れずに一人で出て来たら、お嫁さんにしてあげる』って言ったらね、『アラほんと、夢みたいだわ』ってキャッキャッ笑ってんの。まだ子供だなァ、まるっきり」
「からかったら大変よ。叔父様に殺されるから。で、本当にお嫁さんにするの?」
「いいでしょう? ボヤボヤしてるとよそへ|奪《と》られるもん。近衛のボチ(|文《ふみ》|隆《たか》)やミミ(|通《みち》|隆《たか》)達も|狙《ねら》ってるし。早いとこお父様から叔父様へ申し込んでいただこうと思うけど、おたあ様は賛成してくださるんでしょ」
「|勿《もち》|論《ろん》よ。生意気なお嫁さんは|真《ま》っ|平《ぴら》だけど、あの子は性質が可愛いから仲よくやっていけそうよ」
美しい庭園に客を招く|園遊会《ガーデンパーティー》はイギリスの貴族社会で始めたものだが、戦前の日本でも大名華族達は年に一、二度盛大に催していた。当時は、万事に余裕があったから、現代のようにパーティー券を売りつけたり、招かれざる客がまぎれ込むような|不《ぶ》|粋《すい》なことはなかった。駒場の前田家でも春秋に開き、皇族や華族、閣僚、各国大使館員、加・越・能|郷《ごう》|友《ゆう》|会《かい》の人々を招く。父の部下の第二旅団に属する数百名の将校は別の日に招待した。
当日は築地の“|治《じ》|作《さく》”の日本料理と、上野の“精養軒”の西洋料理を取り寄せて|模《も》|擬《ぎ》|店《てん》を作り、みずみずしい日本髪に|結《ゆ》い、揃いの赤い前掛けをした芸者衆が給仕をしたり、桜の枝をかざして踊った。園遊会は絶好の見合いの場でもあり、前田家の分家の子爵令嬢前田島子と、のちの外務大臣岡崎勝男との縁談もそこでまとまった。
小石川の酒井家でも五月初めに会を開く。客はいずこも同じ顔ぶれだが、酒井家は旧藩の子弟で優秀な学生のために奨学金を援助し、邸内の一角に「|白《はく》|鷺《ろ》|舎《しゃ》」と呼ぶ寄宿舎を作っていたが、そこの学生達も招いた。のちに光文社の社長となった|神《かん》|吉《き》|晴《はる》|夫《お》や姫路市長の吉田豊信らも毎年出席した。
庭園には忠元の祖父忠興が作った植物園や、|山椒魚《さんしょううお》が|棲《す》みついている|蓮《はす》|池《いけ》が広がっている。
その日、作曲家の更科道幸は家族の者とともに招かれ、おすしのテントに入って食べていると、
「|幸《ゆき》ちゃま、お久しぶり」と声をかけられた。山城芳子が藤色のレースの日傘をクルクル回しながらほほえんでいる。
「日高賞(日高玲子の父が授ける音楽賞)をおとりになっておめでとうございます。素晴らしい大作だそうで……」「恐れ入ります」
道幸ははにかんで、|額《ひたい》に垂れる前髪をかき上げなから芳子を|眩《まぶ》しそうに見た。ボイルの|透《す》ける布を通して、彼女の|咽喉《の ど》や腕が一層ほの白く|艶《つや》やかだ。二人は同じ公卿一族の血縁で、|幼馴染《おさななじ》みである。連れ立って歩きながら、
「受賞作は|交響曲《シンフォニー》としてはお初めてとか?」
「エエ。ずっと|魘《うな》されながら作ったんです。今やっと抜け出せたって感じ」
「幸ちゃまの曲を幸ちゃまの指揮で、オーケストラをバックに私がピアノを弾く……そんな日が来るかしら?」
「たぶん……来ないでしょう。僕も遠からず戦争に行くし、日本はいまに|惨《さん》|憺《たん》たることになる。あんな歌が|流行《は や》るようじゃ世も末ですよ」
二人は園内に響き渡る太平洋行進曲の安っぽいメロディーを、|苦《にが》|々《にが》しく聞いた。
「私、いまあそこの射的で一等を取ったの」芳子は紙袋から小さい縫いぐるみの象やライオンなどを取り出して華やかに笑う。「幸ちゃまはどこを狙えば致命傷かな? 狙ってみようかな」
道幸の右|肱《ひじ》に指先をかけながら、彼女は近くの|四阿《あずまや》のほうへ促す。そこからは|菖蒲《しょうぶ》ケ池を隔てて小高い月見の丘が見渡せる。丘には大日傘の下で裏千家家元の娘良子が|野《の》|点《だて》をし、賑わう客の中を振袖の娘達がお運びをしていた。道幸はそれをじっと見つめた。芳子はその視線を追いながら、
「前田さんは、こちらの酒井さんとエンゲージなさったのね」「エッ、ほんと?」
「先月の初めに宮内省に許可願いが出されたそうよ」「…………」
彼は無表情を装ったが、顔から血の気が引いた。
つい一昨日も駒場の邸へ行ったのに、全然そんな話は出なかった。持参した『君を慕いて』のセレナーデの楽譜に、甘い甘い歌詞をつけながら、
「ショパンとサンドはこんなふうに愛しあったのかしら」
などといつもの調子で言っていたのだ。
「美意子さんは浮気者の|狩猟家《ハンター》。あの方の言葉は多分に脚色されてるから、どこまでが本心だかわからなくってよ。ご用心遊ばせ」二人の|足《あし》|許《もと》に、そよ風が八重桜と藤の花びらを吹き寄せていた。
私が初めて駒場の家での|公式晩餐会《フォーマル・ディナー》に参加したのは十六歳の一月である。
賓客のために、ホールの正面の壁にはゴブラン織のタピストリー、階段の途中には|蒔《まき》|絵《え》の|薙《なぎ》|刀《なた》と陣笠が飾られ、「雪椿」と「南蛮五双船」の二枚の能衣装が|衣《い》|桁《こう》に掛けられる。コランの「樹下三美人」の額のカバーがはずされ、園芸場の温室から小笠原母島の大|羊歯《し だ》の鉢植えが運び込まれる。
サロンの白と黒の|斑《まだら》のマントルピースには、天皇と父のパリでのゴルフの写真とご下賜の銀製の花瓶が並ぶ。暖炉の両側には、前田家五代藩主綱紀が作らせた上下の別のない二双の屏風を、暖炉の前には樹齢千年を超える台湾|阿《あ》|里《り》|山《さん》の楠の|衝《つい》|立《たて》を置く。
メイプルのピアノラ(電気ピアノ)の上には、バッハやベートーベンやショパンなどの自筆の楽譜を飾り、周囲の棚には|甲冑《かっちゅう》姿のギリシアの武人、|青銅《ブロンズ》の|鷭《ばん》、白大理石の白熊の彫像などが並ぶが、この白熊はフランス彫刻界の第一人者ポンポンが父の懇望によって制作したもので、彼は三年間、毎日動物園へ出かけて、水から上がったばかりの白熊の姿を観察した。その彫像にはひとつの直線も|僅《わず》かな余分の面もなく、スベッとしていて、これが人間の作とは信じられぬほど美しい。
|金《きん》|唐《から》|革《がわ》の壁にはゴーギャンの「タヒチの女」、アマンジャンの「|七月十四日《キャトルズ・ジュイエ》」(革命記念日)、富士山の|刺繍《ししゅう》の額などが掛かる。椅子はすべてピンクと濃紫のビロードの浮彫りで、椅子の足は玉を|掴《つか》むライオンの足を|象《かたど》ってある。
さて、その夜の客は松岡|洋《よう》|右《すけ》外相夫妻、オットー・ドイツ大使夫妻、インデルリ・イタリア大使夫妻をはじめ三国同盟を象徴する面々である。
男性は燕尾服、女性はローブ・デコルテか色留袖で、私は紫の地に大輪の白菊を染めた大振袖に、亀甲の丸帯をふくら雀に結んだ。
サロンでドライマティニやデュボネのアペリティフを飲んだ客は大食堂へ通る。ここは白大理石のマントルピースの前を主賓の席として二十六脚の椅子が並ぶ。三方の壁には|樫《オーク》のパネルが|嵌《は》め込まれ、額の絵は客によってふさわしいものにする。ウェイター達も燕尾服で白手袋をはめて給仕にあたった。
当時の松岡外相は三国同盟を締結させ、|汪兆銘《おうちょうめい》と日華基本条約を結び、そのうえ“|謎《なぞ》に包まれた神秘”とチャーチルを|嘆《なげ》かせていたスターリンとの会談を成功させ、日ソ中立条約、外蒙古・満州の領土保全に関する共同宣言を行なって全世界を驚嘆させていた。モスクワの駅頭でスターリンは、「これで日本は南進できる」と外相の手を固く握ったという。
松岡洋右は、私の右隣の席でコンソメをズルズル|啜《すす》った。私はスターリンやヒトラーと対等に渡り合い、得意の絶頂期にある大外交官を|畏《い》|敬《けい》の目で眺めながらも、田舎の村長のような風貌や物腰に気安さを感じた。
「お嬢さんはロンドンに行っていらしたそうですね」
外相は伊勢海老と格闘しながら、話しかけてきた。宴席では男性が話しかけてくるまでは、レディのほうから口火を切ってはならない。私は話したくてたまらなかったのだ。
「ハイ、四歳まで行っておりました」
「じゃあ、英語はペラペラですね」
「いいえそれが。学校でフランス語をいたしておりますので……英語もしなければと……」
「いや、その必要はない。これからはドイツ語です。ぜひドイツ語をなさるといい」
そして外相は、ドイツ人がいかに優秀であるかを親切に説明した。初恋の人ハインリッヒを|想《おも》って全身を熱くしながら、
「ほんとに、ドイツの男性は男らしくて美しくて、世界一|素《す》|晴《ば》らしいと思います」
「そうでしょう? そうなんですよ。じゃ、日本の男はどうです?」
「あんまり、感心いたしません」
「いやァこれはこれは。ワハハハハ」
外相は|頓狂《とんきょう》な声をあげ、|早《さっ》|速《そく》身を乗り出してオットー大使に語りかける。赤ら顔の大使も満面に笑みを|湛《たた》え、フランス語で、
「前田嬢の美しさに乾杯!」とラインワインのグラスをあげて飲み干すと思いがけないことを言った。
「お嬢さんにプレゼントをさせていただきます。われらが誇るヒトラー|青年団《ユーゲント》の映画を差し上げたいと思うのですが」
「エッ、ユーゲントの、マアほんと?」私は腰を浮かせて叫んでしまった。
「その映画をご覧下さったら、一層ドイツを愛していただけるでしょう。お嬢さんの行っておられる貴族の学校の令嬢がたにも、ぜひ見せてあげて下さい」
「オオそれがいい。しかし日本の男はますます影が薄くなりますな、ワッハッハ」外相もますます上機嫌だった。
翌日、大使館から二巻のフィルムと|薔薇《ば ら》の花束が届いた。画面にハインリッヒの姿は見当たらなかったが、選ばれたナチスの美男達が戦車を|操《あやつ》り、パラシュートで降下し、ギターを弾いて合唱する姿が生き生きと映し出された。バックには牧歌的な民謡と、日本のとは比較にならぬほど|垢《あか》ぬけた軍歌が流れ響く。数日後、女子学習院の講堂に集合した全校生徒は歓声をあげ続け、映画は遂に二回上映された。当時多くの日本人はナチスにベタ|惚《ぼ》れで、“盟邦ドイツ”売り込みの陣頭指揮をとっていたのが、オットー大使その人であったのである。
これは多分にマスコミにも責任があると思うのだが、当時のドイツ|礼《らい》|讃《さん》は大変なものであった。ヒトラーは“軍神の|化《け》|身《しん》”“今世紀最大の英雄”であり、無敵ドイツと軍事同盟を結べば、わがほうの大勝利まちがいなしと国民は信じ込まされていたのだった。
父・前田利為は“悲劇の将軍”と言われるが、彼の悲劇は軍人になどなりたくなかったのに、ならざるを得なかった宿命にある。
彼は外交官を夢みていたのだが、十五歳の時に母の朗子から「前田家の当主は軍人になることを義務づけられている」と説得されて非常に悩む。
それに加えて、叔母にあたる|有栖川宮慰子《ありすがわのみややすこ》妃と叔父の近衛|篤《あつ》|麿《まろ》から、「大名華族の筆頭にある者が軍人になるのは当然のこと。何を迷うか」とお叱りを受ける。
慰子妃は私の祖父・前田利嗣の妹宮で、誇り高い貴婦人として皇族の中でも抜きん出ておられた。慰子妃の孫娘にあたられるのが、高松宮妃|喜《き》|久《く》|子《こ》殿下(公爵徳川|慶《よし》|久《ひさ》の姫)である。
近衛篤麿は貴族院議長や学習院院長であり、文麿の父だが、夫人の|衍《さわ》|子《こ》は前田利嗣や有栖川宮慰子妃の妹になる。
父はそのころの日記に、職業を選ぶ自由がなく、しかも嫌悪する軍人にさせられる嘆きと憤りを書いた。この|懊《おう》|悩《のう》は終始彼につきまとい、三十代になってもなお、軍人をいつやめよう、転職するなら、今をおいてないとあせり続け、周囲は彼に軍人であることを強要し続けたのだった。
利嗣が病死すると父は十六歳で侯爵となり、学習院から陸軍士官学校へ進む。それも彼の意思ではなく、「軍人なら海軍に」と希望したところ、親族や家臣の者達から「ご本家のご当主が軍艦に乗って始終家をあけることは望ましくない」と反対され、やむなく陸軍へ入った。
学習院の優等生であった彼は陸軍士官学校入学の時も一番の成績で、陸軍大学卒業の時は、一番はのちの参謀総長の梅津美治郎、父は三番で、ともに天皇より|恩《おん》|賜《し》の軍刀を拝受したが、陸士で同期であったのちの首相東条|英《ひで》|機《き》は、それより四年も遅れて陸大を卒業した。
生来、父と東条はソリが合わず、父は東条を「頭が悪くて先が見えない男」と批評し、東条は父に、「世間知らずの殿様に何がわかるか」と|反《はん》|発《ぱつ》した。
父が軍人である限り、侯爵とか加賀百万石の殿様という肩書きはプラスどころかマイナスであった。それはやはり義務づけられて軍人となった他の皇族や華族も同様なことで、彼らは軍の中で故意に飾り物にされ、局外に置かれるのだった。諸悪の根源は|羨《せん》|望《ぼう》嫉妬であり、それは権力闘争に明け暮れる軍の内部で特にすさまじく|渦《うず》まいていた。
しかも父は、軍人が徒党を組んで派閥を作る弊害を何より警戒し、自分はあくまで無党派、無派閥で通した。陸軍の全将官の中で断固として派閥に属さなかったのは、梅津美治郎と前田利為ただ二人だけであったという。
華族界きっての|麒《き》|麟《りん》|児《じ》と評され、将来は陸相か首相かと取り沙汰される利為には、当然敵も多かった。反対派は彼を“|贅《ぜい》|沢《たく》”“文弱な軟派”、そして“|男色《だんしょく》”と非難した。
利為が私達家族とともに住んだ駒場の豪邸は、たしかに贅沢なものに違いなかった。
設計の総指揮は東大建築学科の塚本靖博士と、欧州留学から帰国間もない宮内省|内匠寮《たくみりょう》の高橋禎太郎で、施工は竹中工務店があたり、特に電気関係の施設は当時の最先端をいくものであった。本館のスタイルはイギリス王朝風でイギリスのハンプトン製の家具、イタリアの大理石、フランスの絹織物などが使われ、東西古今の美術品がふんだんに飾られて、個人の邸宅では東洋一と評された。
父はこの豪壮華麗な邸宅について、「この家は外国との体面上作ったのだ。自分は欧米諸国を歩いて常々残念に思うことは、わが国には外国からの貴賓を迎え得る邸宅がないということである。日本にもこの程度の家がなければならないのだ」
と語った。事実、前田家がまだ本郷に住んでいた時代から、外務省や宮内省は外国の|貴《き》|顕《けん》が来日されるたびに、前田家でもてなしてほしいと依頼してきた。イギリスのコンノート殿下をはじめ|数《あま》|多《た》のVIP(要人)の迎賓館として前田家は政府から望まれ、父もまた積極的に協力してきたのである。しかし貧乏侍どもは「軍人にあるまじき贅沢三昧」としか見なかった。
父が多忙な軍務のかたわら種々の文化事業に情熱を注ぐことにも、反感を持つ軍人は少なくなかった。むしろ外国との交流の多い海軍軍人達に父の真の理解者がいたが、陸軍の|田舎侍《いなかざむらい》に文化は無用の|長物《ちょうぶつ》でしかない。
大正十二年の関東大震災の時、前田家の財宝や|古《こ》|文《もん》|書《じょ》は、本郷邸内にあった旧藩時代からの土蔵に入れられていたが、隣の大学病院の出火による火の粉をかぶったので、一番貴重な物を収めてある通称“鳥止まらずの蔵”の屋根板がくすぶり始めた。(“鳥止まらずの蔵”とは室町五剣のひとつといわれ、悪霊を払う力を持つ太刀『|大《おお》|典《てん》|太《だ》』を入れてある蔵で、鳥も|怖《おそ》れて近寄らないと言い伝えられた)
幸いに発見が早かったので消し止めたが、もう少し遅かったら中の国宝指定の財宝は焼失していたことになる。そこで父はまず、受け継がれてきた財宝を整理し、比較的重要度が低かったり類似品のある物は売却し、それを基金に財団を設立し、同時に耐震耐火の倉庫や管理事務所を建設した。ここに藩祖利家以来歴代藩主が|蒐集《しゅうしゅう》してきた加賀藩の財宝や古文書の主なものが『侯爵前田家育徳財団』で管理され、尊経閣文庫に収められた。
父は、これらは個人の宝でなく国家的に継承すべき文化財と考え、そのための努力を惜しまなかった。さらに自ら率先して『尊経閣叢書』を刊行して学界に無償で配布したり、蒐集品を整備して『野辺のみどり』『武家|手鑑《てかがみ》』などの編成、『古語|拾遺《しゅうい》』や『土佐日記』などの原本再製、加賀藩史料の刊行などを行なった。さらに、西洋の美術品や世界の一流人の書簡や原稿、楽譜などを買いまくって、学者達の研究閲覧に供した。
毎年一月八日の“陸軍始め”の観兵式のあと、旧藩の石川県と富山県出身の将校と、幼年学校、陸士、陸大の学生達を招いて祝宴を張ったが、海軍兵学校、機関学校、経理学校などの卒業生も招待して晩餐をともにし、祝いに梅鉢のカフスを贈った。特に若い少尉候補生たちが遠洋航海に出て諸外国の高い文化にふれる前に、日本のすぐれた伝統文化を見せておかねばと、雪舟の|屏風《びょうぶ》や正宗の名刀や|古《こ》|九《く》|谷《たに》の飾り皿などを種々展示して、父は「文化を守る軍人になってくれ」と説くのだった。
彼自身、第二次近衛内閣の時に文部大臣の要請を受けたが、「軍人は政治に介入すべきでない」との主義をまげずに辞退し通した。
父はドイツやフランスに私費留学したほか、|頻《ひん》|繁《ぱん》に欧米諸国へ出張し、陸軍きっての外国|通《つう》となる。
|武官《アタッシェ》というものの任務が機密|諜報《ちょうほう》であることは公然の秘密であるが、父もまた滞在国の要人や各国の駐在武官達とゴルフやブリッジに興じながら軍の機密を探り合い、社交界の美人達とワルツを踊りながら情報を|蒐集《しゅうしゅう》した。
彼は|屡《しば》|々《しば》、滞在国の美青年を使ったり何人もの男女のスパイを|操《あやつ》って軍の高官に接近させ、動員兵力、倉庫、航空技術などを探らせた。それを暗号に組んで参謀本部あてに通報する。これをするには途方もない費用がかかるが、父はすべて私費でまかなった。
ある時、父が最も目をかけていた青年がその国の官憲にマークされ、深夜、|邸《やしき》に駆け込んで救いを求めて来た。スパイは死刑を免れない。父はその青年を即座にスイスへ逃がし、スイスの国籍に変えさせ、|密《ひそ》かに日本へ入国させることに成功した。|莫《ばく》|大《だい》な出費だったことはいうまでもない。しかし真相を知らぬ人々は、父のことを“物好きな男色家”と言いふらした。当時日本では、男色を邪道として罪悪視していたのである。
さて昭和十二年十二月、弘前第八師団を|率《ひき》いた前田部隊はソ満国境の|綏《すい》|陽《よう》に布陣して防衛にあたった。零下四十度の雪原である。ソ連軍は絶えず越境して来て|小《こ》|競《ぜ》り合いになるが、父は相手の|挑発《ちょうはつ》に乗るなと厳命して、事態を穏便に|収拾《しゅうしゅう》することに心を砕いた。
しかし当時、植田軍司令官が統率する関東軍やその配下の第三軍(山田乙三中将)の中には、いまだに日露戦争の勝利に|溺《おぼ》れて「ソ連恐るるに足らず」と|嘯《うそぶ》く将官が少なくなく、事ごとに父と衝突した。
父は日本陸軍の実力と物量では、飛行機と戦車を主とする大平原の戦闘は勝ち目がないと進言し、中国とソ連の両国を敵とする二正面作戦は絶対回避すべしと繰り返し意見具申する。わけても関東軍の参謀長の東条英機中将らとは|屡《しば》|々《しば》机を叩いて激論を交わした。
だが戦争回避を主張すればするほど、前田中将は弱気と見られ、関東軍の作戦に|楯《たて》つくと|疎《うと》まれて、遂に十四年一月に解任され、予備役に編入されてしまった。
日華事変を三ヵ月で片付けるつもりだった関東軍は、戦線を広げ過ぎて次第に深みにはまり、甘く見ていたソ連軍にノモンハンで見るも無残に打ち負かされてやっと目が覚めたが、もはや取り返しはつかなかった。十四年九月、父はノモンハン惨敗の報を聞いたとき、日記に「残念至極」とのみ書き、愚かな指導者のためにむざむざ犠牲にされた多くの兵卒たちを思いやって怒りを|抑《おさ》えかねた。
太平洋戦争が始まると、父はボルネオ方面陸軍最高指揮官を拝命して軍務に服したが、十七年九月五日、司令部のあるクチンからミリに向け飛行中に消息を絶った。以来、陸海軍合同の捜索の末、十月十七日ビンツル沖の海中から飛行機の残骸とともに遺骨も引き揚げられた。父が愛用の「|佗《だ》|羅《ら》|仁《に》|勝《かつ》|国《くに》」の軍刀が“く”の字に曲がり、衝撃のすさまじさを物語っていた。
墜落の原因は一人の目撃者もないことから、エンジン故障説、落雷説、敵機の襲撃説などが憶測された。戦後になってアメリカ太平洋艦隊の某提督の、「ジェネラル・マエダはB29の編隊が撃墜した」との話が伝えられたが、それとてもさだかではない。
八重野が血相を変えて呼びに来て、母の部屋にとんで行き、そこで戦死の報を聞いた時、私は「イヤーッ」と絶叫した。夢中で自分の部屋に駆け戻ったが、立っていられなくて壁にもたれ、悲鳴をあげながら泣いた。「どうしよう。どうしよう」と|呟《つぶや》き、耳を|掩《おお》って何も考えまいとした。一番|怖《おそ》れていたことが、遂に現実になったのだ。震えがとまらなかった。
父の写真を見たり、父の持ち物を見たり、ありし日のことを思い出したら、気が狂うと思われた。考えてはいけない、だが父へのなつかしさが煮えたぎって、頭が割れるかと思われた。私にとって父は、この世で誰よりも大事な一番好きな人であったのだ。とうとう私の所へ「不幸」がやってきた。いつかはくると思っていた「不幸」が、こんなひどい形で襲ってくるとは!
私は戦争を|呪《のろ》いながらも、国難に殉じた父の死は最も崇高なものであったと、無理に気持をねじまげようとした。そうでもしなければやりきれなかった。あの時点で、この戦争は軍の野望を満たす無謀な侵略戦争であり、父の死は永久に報われることはない、とわかっていなかったことだけがせめてもの救いであった。大東亜戦争(当時の呼称)は、|虐《しいた》げられたアジアの同胞のために“大東亜共栄圏”という楽土を現出させ、世界に新秩序を打ち建てるための“聖なる正義の戦い”で、その聖戦に命を捧げた父の死は最高の名誉に輝き永遠に戦史に残る、と信じるほかはなかった。
だが、打ちひしがれた悲嘆の底で、「ああ、なぜもっと教えを受けておかなかったか……」というどうしようもない、取り返しのつかない悔いに、私は引き裂かれていた。父から学び受けとめておくべきことは|量《はか》り知れずあったのに、十六歳の私はまだ幼くてその力が足りなかったのだ。あまりにも早い別れであった。
父がボルネオに出征する前夜、私は「きっと帰っていらして」と懇願しながら父の胸に顔を埋めて泣いた。もう再び会う日のないことを予感したのだった。父は遂に「帰る」とは言ってくれなかった。「パパのことをよく|憶《おぼ》えておいで」とだけ最後に言ったのだった。
それからかなりの月日、私は夜眠っているときだけが仕合せだった。夢の中では、父は生きていた。「ミミ、作文を見てあげましょう」と言ってくれた。朝、このまま目がさめないようにと固く目を閉じて、私はどれほど泣いたことだったろう。
母は陸軍大将夫人という立場上、人前では決して涙を見せなかったが、遺骨が無言の|凱《がい》|旋《せん》をした日、子供だけの前ではじめて弱々しく言った。
「パパは国家の方であったと思いましょうね。これからはマミがパパの分も愛してあげますから……」
姉弟は母にしがみついて泣き、私が、「マミが、おかわいそう……」と口走ると、
「パパは、とってもおかわいそう……」と母はとめどもなく涙を流した。
東条首相夫人勝子が真っ先に弔問に駆けつけた。賢夫人の誉れ高い彼女は、玄関を入るや|絨緞《じゅうたん》の上にくずおれるように両手をつき、「奥様、|勿《もっ》|体《たい》ないことでございます」と声をふりしぼってむせび泣いた。
その夜、東条首相も側近に囲まれてものものしく訪れた。二階の父の書斎に設けられた祭壇の前に|額《ぬか》ずくと、彼は報道陣のカメラのフラッシュが一段落するまでずっと頭を下げていた。
東条英機は母の前に歩み寄ると、「まことに、残念であります」と低い声で悔やみを述べた。傍で万感をこめて彼を凝視する私の目と合うと、東条はメガネの奥の象のように小さな目をしばたき、より低い声で、「お寂しくおなりで……」と言う。
無言で一礼しながら私は、「なんだ、小使いさんみたい」と思った。そのころ勤続三十年で表彰され金一封をもらった学校の用務員に、あまりにもよく似ていた。
日本を無謀な戦争に駆り立て破局に|陥《おとしい》れた張本人として悪名高い東条だが、私の第一印象は「大物という感じじゃないな」ということだった。
「東条」と|渾《あだ》|名《な》される学校の用務員のほうは同じ貧相にしても純朴さがプラスされているが、東条はいかにも世渡りがうまそうな、小細工が上手そうな雰囲気を持っている。ヒトラーほどではないにせよ、独裁者ならではの|凄《すご》みや教祖的な迫力を予想していたのに、その|片《へん》|鱗《りん》も感じられなくて私は拍子抜けした。彼は大戦争を持てあまし、世俗にまみれ、雑事に振り回されているように見えた。
東条は明治天皇の「軍人は政治に|関《かん》|与《よ》すべからず」の命に反して首相、陸相、内相を兼任し(のちには文相、商工相、軍需相、参謀総長をも兼ね)て政権を|縦《ほしいまま》にし、しかも戦局は空母四隻を失って大敗したミッドウエーの海戦を境に、下り坂になっていたにも|拘《かかわ》らず、彼はラジオ放送のたびに「皇軍は各地に転戦、連戦連勝まことにご同慶の至りであります」などと虚勢を張っていた。
東条英機と犬猿の間柄と噂されていた父が「東条は宰相の|器《うつわ》ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんでいたが、その本人を目前に見た私も「日本は大丈夫なんだろうか……」と|慄《りつ》|然《ぜん》としたのだった。
当初、父の死は“|陣《じん》|歿《ぼつ》”と発表され、後日“戦死”の訂正発表がなされた。陣歿であると相続税を払わねばならないが、戦死だと免除される。
百万石の相続税は莫大だから、故意に陣歿扱いにしたのではと国会で問題になり、河田大蔵大臣が「陸軍のお|指《さし》|図《ず》次第」と答弁して、戦死に変更されたのである。
父は正二位に叙せられ、十一月二十日に東京・築地の本願寺で陸軍葬が営まれた。
前田家も神道を建て前としていたが、父は仏教に帰依して墓も金沢でなく、青年時代に禅の修行をした京都・紫野の大徳寺に生前に|建立《こんりゅう》し、葬儀も遺言により大徳寺|貫《かん》|主《しゅ》太田常正師らの読経によって始められた。
霊前には勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、満州国勲一位柱国章の三勲章が飾られ、両陛下と皇太后及び各宮家よりの白菊や首相以下各大臣や各国大公使らの供花が|香《かお》った。
葬儀委員長は東部軍司令官中村孝太郎大将、副委員長は参謀次長田辺盛武中将と陸軍省軍務局長佐藤|賢了《けんりょう》少将で三名とも旧加賀藩士である。参列の陸海将官の中にもいずれも旧藩士の林|銑十郎《せんじゅうろう》、阿部信行、蓮沼、磯村(NHK磯村尚徳氏の父君)らの大将、海軍の小栗大将、氏家中将、伍堂中将(商工大臣)らが居並んだ。
芳賀東部第三部隊長の指揮する三個大隊の|儀仗《ぎじょう》兵の「捧げ|銃《つつ》」とともに哀調込めた「吹なす笛」が葬場に流れる時、導師が霊前に進んで引導ののち、勅使をはじめ各宮家や満州国皇帝のお使いのご代拝が行なわれた。
続いて東条首相が進み出て弔辞を読み始めたが、その声は初めから涙に曇っていた。
「(略)……英機、君ト竹馬ノ友タリ。陸軍士官学校ニ於テハ、寝食ヲ|同《おなじく》シ、日露ノ役ニ於テハ、同一旅団ニ死生ヲ共ニセリ。|爾《じ》|来《らい》、星霜四十年、相|携《たずさ》ヘテ軍務ニ|鞅掌《おうしょう》シ、交情常ニ|渝《か》ハルコトナク、互、許スニ信ヲ以テシ……」
東条英機は暫く|慟《どう》|哭《こく》ののちに続けた。
「……巨星|南《なん》|溟《めい》ニ墜チテ|再《ま》タ還ラズ。哀痛|何《いずく》ンゾ|譬《たと》ヘン。英機、君ノ|声《せい》|咳《がい》ニ接スルコト長ク、今、霊位ニ|咫《し》|尺《せき》シテ|猶《なお》生クルガ如キ……」彼は遂に絶句した。
私は顔を|蔽《おお》った首相を、「あの人もかわいそう」と涙ながらに思った。
第九章 |暗《くら》|闇《やみ》の中の青春
戦前の上流社会の女性達の間で、最も人気を集めていた雑誌は「婦人世界」であったが、昭和十七年の七月号に「美貌の侯爵令嬢と新進作曲家とのロマンス」が派手に掲載された。
山城芳子と更科道幸の寄り添った写真とともに、相思相愛の二人はまもなく婚約するであろうと書き立ててある。道幸は芳子から絶えず創作本能をかきたてられ、一夜のうちにノクターンを作り上げたという。
「心が燃え立っていなければ、ノクターンなど作りたくも作りようがありません」
などと、あのはにかみ屋の道幸が|臆《おく》|面《めん》もなくのろけている。
かつて|一《いち》|途《ず》に自分を愛しているものと信じていた彼が突如変心したのは、私の婚約を知ったためとは気づかず、私はカッとしてその雑誌を|屑《くず》|籠《かご》に放りこんだ。が、|慌《あわ》てて拾い上げると、口絵に飾られている照宮成子内親王の匂やかなお写真だけを切り抜き、また投げ捨てた。私は道幸と結婚する気などないのに、彼は一生独身で私を熱愛すべきだと勝手に決めていたのである。
その後まもなく私は、またもショッキングなニュースにぶつからねばならなかった。
ある朝の新聞第一面に大見出しが|躍《おど》っていた。
「長門宮義光王殿下御婚約 公爵日高康忠氏長女玲子姫と今秋御挙式」……
それは当然あり得る組み合わせだった。だが、あれほど束縛を嫌い、自主的に生きようと人生のプランを語っていた玲子が、型にはめられプライバシーの自由を奪われる皇族妃になるとは意外である。
恐らく、現実に宮家からの求婚に接したとき、“|妃殿下《プリンセス》”という称号の持つきらびやかさと誇らしさに目がくらんで、他のマイナス面は|悉《ことごと》く消え失せ、断わるなどとんでもないことになってしまったに違いない。その魅惑に抗しきれる女がいるものだろうか。
私は、かつて父が長門宮家のお申し出を独断でご辞退してしまっていた時の|口惜《く や》しさを、まざまざと思い出した。
――海軍中尉長門宮義光王殿下には御二十三歳にわたらせられるが、殿下が千代八千代の固き|契《ちぎ》りを結ばせ給う妃宮については、かねてより|畏《かしこ》き|辺《あた》りの御内意をうけて松平宮相、春日宗秩寮総裁の間に慎重審議が重ねられていたが、晴れの御配偶として清和天皇第七皇子正紀親王の|後《こう》|裔《えい》にあたる名門貴族院議員公爵日高康忠氏長女玲子姫と御内定、天皇陛下には二十五日勅許あらせられたので、同日この旨宮内省から発表された。御婚儀は今秋|吉《きっ》|辰《しん》を|卜《ぼく》して宮中|賢所《かしこどころ》大前にて盛典を挙げさせられる御予定に|承《うけたまわ》る。皇室の御満悦のほど拝察するだに|畏《かしこ》き極みである――。
新聞は最大級の敬語を連ね、軍服姿の殿下の右にデコルテ姿の玲子の写真を載せている。玲子については、他に並びなき才色兼備の姫君におわし、|殊《こと》の|外《ほか》御慈愛深く女子学習院全校生徒の|亀鑑《か が み》であられ、妃宮にならせ給うためにご誕生遊ばされたような御方、とまで絶讃している。玲子の得意のほどが思いやられた。
天皇の長女照宮成子内親王は、昭和十八年に学習院をご卒業になるとその六月、麹町三番町の御仮|寓《ぐう》|所《しょ》に移られて、和歌、習字、ピアノ、バイオリン、生花、料理などの花嫁修業に励まれた。この時マナーをご指導したのが松平信子夫人である。
夫人は鍋島侯爵の三女で、私の祖母・|朗《さえ》|子《こ》の妹にあたる。駐英大使や宮内大臣を歴任した松平|恒《つね》|雄《お》の妻であり、秩父宮妃|勢《せ》|津《つ》|子《こ》殿下の母君であり、上流社会に重きをなした。戦後もその権勢は衰えるどころか、女子学習院の卒業生で構成する|常磐《と き わ》会の会長として、東宮参与として、皇太子明仁親王と婚約中の正田美智子嬢のマナーの教師として、外交官夫人の|総《そう》|帥《すい》として、新興の自称上流階級の者達に最も|惧《おそ》れられた女傑である。
大名華族の姫であった彼女は、日本の伝統的礼法と、欧米ハイソサエティのマナーの体得者として絶大な尊敬を集めていたが、彼女の|姪《めい》になる母や私が、のちに松平流のマナーの継承者として世に出ることになる。
信子は外務省の研修所でも若い外交官や夫人達をビシビシ仕込んでいた。彼女のテーブルマナーはとりわけ厳しく、|新《しん》|米《まい》の外交官達が骨つきチキンをキイキイ音を立てて切ろうものなら|忽《たちま》ち、「そんな音を立てる人は、正式のディナーの席で絶対にトリを食べてはいけません!」と叱られた。
成子内親王は頭脳|明《めい》|晰《せき》だが、常日ごろ人々からご機嫌をとられ、かしずかれて育って来られたから、低姿勢で人をもてなす|術《すべ》をご存じない。相手が話しかけるまで黙っておられる。そこで信子は、
「お客に対しては『すっかり春めいて参りましたね。|鶯《うぐいす》が|啼《な》いておりますこと』などと、こちらからお話しかけなさいませ」などと、社交のテクニックをお教えした。
内親王の婚約者|東久邇宮盛厚《ひがしくにのみやもりひろ》王は時折訪ねて来られて、夕食をともにされる。王も社交性には|乏《とぼ》しいが|闊《かっ》|達《たつ》な性格で、二人の間の会話は|専《もっぱ》らノモンハンの戦闘談である。陸軍砲兵中尉の王は、ノモンハン第一線部隊長として水もない草原で奮戦した。露営中のテントの近くに敵の砲弾が|炸《さく》|裂《れつ》した時は、目の前で部下達が|斃《たお》れ、
「私も、もう少しで吹っ飛ぶところでした」と、王は思い出しては|昂《こう》|奮《ふん》する。それは二十六年のいままでの人生で最大の事件であった。
「お|危《あぶ》のうございましたこと」内親王はその話のたびに目を見張るしかない。
王の母宮は明治天皇の第九皇女であられたから、二人は親類の|幼馴染《おさななじ》みで、昭和の初めには結婚の内約がなされ、そのとき皇后は柿の模様のついた薩摩焼の花瓶を盛厚王にくだされ、
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渋かろか知らねど柿の初ちぎり(古句)
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の句を添えて幼い未来の|聟《むこ》|君《ぎみ》を祝われた。
皇后は内親王の婚礼道具を調えられるため、デパートから反物を取り寄せたり、胸に富士山、裾に三保ノ松原などと命じて染めさせたり、女官達に|絽《ろ》|刺《ざし》の屏風を刺繍させたりなされた。両陛下お手製の貝の標本もお荷物の中に加えられた。
|納《のう》|采《さい》(結納)に続く|告《こっ》|期《き》の儀、各種の内宴を終えると、内親王はご結婚までの三日間をご両親の|許《もと》で過ごすべく皇居に移られた。
そして十月十三日、宮家の本原事務官は“|妃《ひ》|氏《し》|入《じゅ》|内《だい》の儀”に|参《さん》|内《だい》する。この日、盛厚王は黒地に飛鶴の御|袍《ほう》・お袴の束帯姿でお附武官を従え二重橋正門から参内して賢所へ、成子内親王は|小袿《こうちぎ》・長袴の|袿《けい》|袴《こ》姿でご両親陛下にお別れを述べられ、御儀の間で本原事務官の「妃の官の入内をお迎えに参上す」との|言上《ごんじょう》を聞こし召す。人々のお見送りの中を内親王は、お護り刀を奉じた小倉女官|陪乗《ばいじょう》の自動車で賢所候所に入られて、|五衣《いつつぎぬ》、|唐衣《からごろも》、|裳《も》の御儀服を召された。
賢所では大|榊《さかき》に黄白の|帛《ふ》を垂れ、御鏡を懸け、神代さながらの|設《しつら》いがなされて、その前へ皇族華族や東条首相はじめ文武百官が居並ぶ。
午前九時、王は|笏《しゃく》を、内親王は|檜扇《ひおうぎ》を手にし、庭田|掌典《しょうてん》のご先導で外陣の御座に進まれた。神前に拝礼ののち、盛厚王は成子内親王と結婚の礼を挙げる旨の告文を朗読する。次いで室町掌典は白木の三方にのせた神盃をまず王に捧げれば、三条掌典長が|瓶《へい》|子《し》をとって神酒を注ぎ参らす。両殿下はお盃を受け、幾千代かけての契りを結ばれた。この時、桜田門脇に|屯《たむろ》した近衛野砲隊による二十一発の礼砲が宮城内に|轟《とどろ》き渡った。
続いて皇霊殿と神殿に謁するの儀を終えられたご夫妻は、自動車の列を整えて麻布の東久邇宮家の御殿に向かう。成子内親王の妹宮の|孝宮《たかのみや》と|順宮《よりのみや》、皇族の伏見宮や北白川宮などの姫宮達も女子学習院の中等科以上の学生や卒業生とともに、二重橋に整列された。皆、紫の紋付きに海老茶の袴である。
前駆のオートバイが走り号令がかかったので、私達は上半身を直角に折り曲げる最敬礼をしたままで、頭を上げることはできない。妃殿下の晴れのお姿を拝見できぬままに、車はしずしずと通り過ぎて行った。恐らく皇女はいつに変わらぬ微笑を|湛《たた》えて、沿道の人々のお辞儀ぶりを眺めておられたことだろう。のちに私がその時のご感想を伺うと、
「別に嬉しくも悲しくもなかったわ。お芝居をしているような気持だったわ。もっとも、いつもそうだけれど……」
と言われた。感激のあまり泣いたのは周囲の人々のほうである。
いったん御殿で|供《ぐ》|膳《ぜん》の儀をすましたのち、王は陸軍大尉の軍服に勲一等旭日桐花大綬章副章功四級|金《きん》|鵄《し》勲章を|佩《はい》|用《よう》、妃殿下は純白のローブ・モンタントのドレスに勲一等宝冠章をつけて宮城正門より参内された。これより|朝見《ちょうけん》の儀(天皇が勅語を賜う儀式)が始まる。
天皇は軍服、皇后はローブ・モンタントで|鳳《ほう》|凰《おう》の間に|出御《しゅつぎょ》されると、両殿下は松平式部長官の先導で御前に参進、婚儀のお礼を言上される。それに対し父陛下は勅語を、母陛下は|懿《い》|旨《し》(皇后の思し召し)を賜い、めでたくお盃の儀を終えられた。
その後、ご夫妻の友人を招いてのご披露宴は霞が関離宮(空襲で焼失)に於て時節柄簡素に行なわれた。
これより先、戦争がいよいよ深刻な様相を帯びてきた昭和十八年の九月、外務省は若い事務官達が戦場に狩り出されて人手不足に陥ったため、女子を三十名採用することにした。それは平時なら思いもよらぬことであった。当時諸官庁は、タイピストを除いて女子には門を閉ざしていたのである。
卒業後、校内の|常磐《と き わ》会館で傷病兵の白衣縫いや|繃《ほう》|帯《たい》巻きの奉仕をしていた私は、千載一遇のチャンスとばかり、母や婚約者の忠元を強引に説き伏せて履歴書を提出した。
霞が関の官庁街で最も古ぼけた木造建ての役所――それが天下の秀才が集まる外務省である。三日間にわたって筆記テスト、面接、身体検査が行なわれた。
控え室には、外国で生まれ育ったり、留学した外交官令嬢達が続々詰めかけた。いずれも未婚女子の軍需工場への動員に先がけて、いち早く就職しようと懸命である。三ヵ国語ぐらいを|流暢《りゅうちょう》に操ったり、ハーバード大学卒業などという日本人離れした娘達を眺めながら、私はとんでもない所にまぎれ込んだと、すっかり自信をなくしてしまった。
筆記テストは国語力、語学力、社会常識が試された。「現在の外務大臣の姓名を記し、振り仮名をつけよ」という問題に、娘達の多くは「シゲミツアオイ」だの「ワサビ」などとルビを振った。「シゲミツマモル」が正解である。
数日後に速達が来た。「外務大臣官房政務秘書官室勤務ヲ命ズ」とあるのを見て、私は歓声を上げて家中をとび回った。そここそ外務省の中枢で、私の|狙《ねら》っていた場所だ。せっかく採用されても、会計課や庶務課に配属されたら、みすみす外務省にいながら機密にタッチできず、私が何より興味|津《しん》|々《しん》な“権謀術数”から|逸《そ》れてしまう、と気が気ではなかったのである。父の傍で戦術の本を|貪《むさぼ》り読んでいた私は、今こそ|老《ろう》|獪《かい》な外交官達の虚々実々の渡り合いを見られる絶好の場を得た。
私は井の頭線と地下鉄を乗り継いで通勤したが、ボディーガードの赤羽が応召したのちは一人で通った。役所は冬になっても燃料不足で火の気がないのでスキーズボンをはき、空襲や暴動に備えて|鉄兜《てつかぶと》を背負い、非常用食糧と護り刀を詰め込んだ布製のショルダーバッグをかけるといういでたちである。
毎朝、省内の中庭で朝礼と体操をし、「この|未《み》|曽《ぞ》|有《う》の国難に際し……各員一層奮励努力せよ」の訓示があって部署につく。重光|葵《まもる》外務大臣には三名の秘書官がつき、その下にそれぞれ三〜五名の部下がいる。外交上の補佐をする政務秘書官が、のちの初代国連大使や外交評論家として名高い加瀬|俊《とし》|一《かず》、儀典の面を司る秘書官が、『エチケットとプロトコール』の著書で知られる友田二郎、常に大臣に付き添う|鞄《かばん》持ち秘書官が竹光秀正である。
政務秘書官室は、大臣室の隣にあり、同室者は加瀬秘書官の部下が四名で、いずれも口八丁手八丁の中年紳士だ。彼らは愛想よく親切だがすぐ好色な話をしたがり、きわどい箇所は私にはわからぬようにスペイン語やポルトガル語で話し合っては笑いころげる。
私は加瀬秘書官の左横に机を与えられると、まず省内の一覧表を渡されて局や課の所在と課長以上の名前を覚えるように命じられた。政務局、条約局、経済局、調査局、|弘《こう》|報《ほう》部、電信課、文書課、儀典課、人事課……局は一課から五、六課まである。私は必死で暗記した。
すぐにさまざまな雑用を言いつけられたが、私はこれが自分に対するテストだと気づいてハッとした。秘密を守れる人間か口の軽い女かという点を、同室の五人がさりげなく巧妙に試したのである。
まもなく、電信課から毎朝届く|短波放送《ショートウェーブ》の束が、私の机に積み上げられるようになる。それらの電文を|枢《すう》|軸《じく》(ベルリン、ビシー、ウィーン、バチカンなど)、中立(モスクワ、ウラジオストック、ストックホルム、ヘルシンキ、ベルン、マドリッド、リスボンなど)、近東(アンカラ、ブダペスト、ブカレスト、ソフィアなど)、大東亜(カブール、バンコク、南京、北京、新京、ハルピン、青島など)に分類し、重要な情報と疑わしいものをより分けるのだ。
はじめはすべて重大ニュースに見えたが、慣れるにつれて、|誤報《デ マ》か|惑《まど》わしか見当がつくようになった。どこの国も必死で謀略の限りを尽くしていた。私はそれを|目《ま》のあたりに見たかったのだ。情報のほとんどは世界各地の戦況に関するもので、大本営発表とは裏腹のことを伝えている。
いったい、両方が勝っている戦争などあるだろうか。どちらが本当なのか。私は次第に軍部への不信を深めていった。
各種の機密書類も無造作に机に置かれる。重要度は国家機密、外機密、軍機密、極秘、秘の順になっているが、初めてこれらを扱う時、私は喜びのあまり手が震えた。
外来者の中で最も無作法なのが参謀本部と記者クラブの常連で、彼らはドアをノックもせず、だしぬけに入って来る。ある時、議会の開会前で部屋中がテンヤワンヤの騒ぎの所へ“ハゲ鷹”と|渾《あだ》|名《な》される参謀本部の陸軍大佐遠藤留治がガラリと戸をあけた。見れば秘書官の机には国家機密の朱印が押された書類が出しっ放しになっている。ハゲ鷹が見つけたらどんな騒ぎになるか。
私はとっさに灰皿を引っくり返して、|吸《すい》|殻《がら》をあたり一面にばら|蒔《ま》いた。
「アラッ、私ってそそっかしくて。ごめん遊ばせ。オホホホ」
とアタフタ片付けながら、別の書類の束を国家機密の上にガバとかぶせた。これが帝国陸軍お得意の陽動作戦で、私も|屡《しば》|々《しば》この手を用いた。
現実の戦況は益々厳しく、マリアナ沖海戦で空母と航空機の大半を失い、サイパン、グアム、テニアンも玉砕する。
日本軍は壊滅的な打撃をうけ、戦局は最悪の事態に陥った。
昭和十九年七月、東条内閣は遂に総辞職に追い込まれた。この時、近衛文麿を中心とする重臣達や木戸内大臣、重光外相らは、あくまで政権の座にしがみつく東条を失脚させる工作を進め、加瀬秘書官や松平康昌(内大臣秘書官長)や細川護貞(近衛元首相秘書官)らが憲兵の網の目をくぐって暗躍した。
この|間《かん》のいきさつは、加瀬俊一の著書『ドキュメント 戦争と外交(上)』(読売新聞社刊)の中に克明に記されているが、実はこの記録は当時秘書官が寸閑をさいて走り書きしたメモを私が清書したり、口述されるのを書きとめたものである。その“外相秘書官の極秘手記”には、たとえば次のような記述がある。
「六月二十九日(木)朝、松平秘書官長を宮内省に往訪し時余意見を交換す。同夜、外相は高松宮邸に伺候せるところ、殿下は、皇室を維持する限度をもって時局を収拾し得ざるやとお尋ねありたる趣なり。同殿下はサイパン戦闘をもって帝国海軍は作戦目的を失いたるものなりと仰せられ痛く将来を憂慮遊ばされ居りし由。……」
たまたま戦後に発見された近衛文麿公の日記も加瀬秘書官と同じ日の六月二十一日から書き始められ、同じく約一ヵ月間にわたるが、いかにして東条内閣に代わる内閣を早く作り、米英と和平をはかるか、また予想される共産主義革命をいかに防ぎ天皇制と国体を護持するかという点に心を砕いたさまが、緊迫感をもって述べられている。
その|慌《あわただ》しい動きの中で私は終日電話の側にはりついていて、省外から連絡をとってくる秘書官達の中継の役を果たす。その合間にも、「加瀬秘書官、おるか!!」と憲兵達は|執《しつ》|拗《よう》に電話してきた。
「只今会議中ですからお取り次ぎ致しかねます。何も聞いておりません!!」
と東条の手下どもを突っぱねながら、なんともいえない快感に酔い|痴《し》れた。
ところで、いつとなく加瀬秘書官とのゴシップがまことしやかに外務省内はおろか省外にまで流れていた。
一時は真っ|青《さお》になった私も、それが羨望嫉妬による中傷だと勘づいて、どう噂されようと無視し黙殺することにする。そして|従兄《い と こ》と結婚する十二日前まで秘書官の傍を離れなかった。
作曲家の更科道幸と浮き名を流していた山城芳子が日高公爵の長男康智と婚約、というニュースを耳にしたとき、私は「やっぱり」と思った。芳子もやはり、自分と同じく道幸を愛しながら、結婚する気はなかったのだ。彼は非日常の恋人としては随一だが、日常生活の中の夫としては不安だし、更科家は由緒ある伯爵家ではあっても財産らしいものは何もない。しかも学者気質で融通性のない父、病弱で|気難《きむずか》しい母、カソリックの修道女を志す妹という家族の中に入っていく勇気を芳子も持てるはずはないのだった。
それにしても日高康智と婚約するとは、いかにも計算高い芳子らしい。康智の妹の玲子は既に昭和十七年の秋に皇族の中でも屈指の名門・長門宮の妃になっており、芳子は両殿下の義姉となるわけだ。康智は京都帝大を卒業後は大蔵省に入り、大いに将来を嘱望されている。長年大臣を務めた祖父は病死したが、如才のない康智は着実にエリートコースに乗っていた。大名華族だから財産も莫大だ。
と、条件は申し分なく見えるが、将来、|公爵夫人《プリンセス》(日本では公爵をプリンス、イギリスではデュークと呼ぶ)の座について果たして芳子は型通りに納まっていられるのか、芳子もまた自分と同じく脇役はやれないタイプの女ではないのか、と私はライバルの前途を危ぶんだ。
一方、長門宮妃玲子は見合い結婚であったが、海軍中尉の夫君と熱烈に愛し合っており、恵美子女王と呼ぶ|雛菊《デイジー》のように愛らしい姫君を出産し、今また二人目の子を身ごもっている。夫は軍令部に通勤し、妃は高輪の御殿の一室を赤十字の分室にして、多くの侍女達とともに作業に取り組んでいた。
結婚して初めて男を愛すると、自分のことなどはどうでもよくなり、ひたすら夫に尽くすことだけが喜びとなり生き甲斐になったのである。時が来ればひとりでに開花する花とは違って、女とは男に愛されなければデリシャスな生き物にはなり得ないのだ、と玲子は日ごと夜ごと鏡を眺めては満足の笑みをもらす。それは戦時とはいえ、甘い|芳醇《ほうじゅん》な日々で、玲子の生涯で最も美しい時期であった。
私が、外務省に就職した昭和十八年九月、遂に大学生への出陣命令が下る。文科系学生に対する徴兵猶予制限が撤廃され、十二月一日入隊と決まった。京都帝大に在学中の忠元は帰京するなり電話をかけてきた。
「遂に来たぞ。この先どういうことになるか、わからないけど……それでもいい?」
「いいに決まってるわ」
と私は泣きながら答え、酒井家へとんで行った。明治の初めから住んでいた小石川原町の|邸《やしき》は古びたので、酒井家では忠元の婚約を機会に新宿区戸塚町に引っ越していた。モダンな明るい洋館で、二階の一角は若夫婦のための寝室や私の居間と|納《なん》|戸《ど》も用意されてある。結婚は翌年の三月三日の予定だった。
彼は、「やっぱりミミの言う通り、海軍にする」
と言い、私を抱きしめながら「後悔しないね」とささやく。そしてドアに鍵をかけると荒々しく服を脱がせた。私はソファの上でされるままになりながら、モーパッサンの伏せ字だらけの小説の意味を諒解した。
その夜、帰宅するとナースの八重野が、
「奥方様には何もかもお話し遊ばさないといけませんよ」
と世にも悲痛な面持ちで言う。私の生まれたときから傍についている八重野は、母よりも私のことを知っていて、何も言わなくてもなんでもわかるのだった。
学徒兵達はペンを剣に持ちかえ、日章旗を肩から胴に巻いて陸軍へ海軍へ入隊していった。忠元は多くの学友とともに横須賀の武山海兵団で二等水兵になった。
戦争はいよいよ|猛《たけ》り、誰も彼も追いつめられた。十九年二月、更科道幸が自殺した。遺書もなく作品はすべて焼き捨ててあった。彼は何もかもに|嫌《いや》|気《け》がさして生きることが面倒になったのである。
彼にとって命の泉ともいうべき天来のメロディーがもう数ヵ月来、はたととだえてしまったのだ。作曲ができるうちは天才でも、できなければ“ただの人”にすぎない。ただの人になり下がるくらいならサルにでもなったほうがまだましだ。それやこれやで彼は睡眠薬を飲んだのである。
翌三月、大蔵省勤めの日高康智のところへ召集令状が届く。芳子との婚礼を四月に控えていたのだが、それどころではなくなる。彼は、「来たか。フィリピンだな」と|呟《つぶや》くと、自分名義の財産目録を|繰《く》り、その分配を考えながら遺言書をしたためた。
康智出征の報を受けた山城侯爵家では、ほどなく宮内省を通して婚約解消を申し入れてきた。時局柄、将来の見通しも立たぬため、ご縁がなかったものとあきらめてこの際白紙に戻したい、と使者は言いにくそうに伝える。誇り高い康智は持ち前の皮肉な調子で、
「それは好都合です。こちらから言おうと思っていた矢先でした」
と冷たく笑い、直ちに遺言書を一部訂正する。もともと薄情な芳子は「ご名誉なご出征|誠《まこと》におめでたくご武運長久をお祈り申し上げます」と達筆な手紙を書き送ったが、会うことは避けた。当時は戦争未亡人が再婚することは非難の|的《まと》にされ、事実上不可能であったから、婚約中の娘は|辛《つら》い立場に立たされた。婚約者の出陣が決まったとき、急いで挙式することを望んだ娘達がいた反面、未亡人になることを|惧《おそ》れて婚約を破棄した者も決して少なくはなかったのである。
芳子は徴用|逃《のが》れのために貴族院会計課長の父の秘書という名目のまま、次第に空襲の危険に|晒《さら》され始めた東京を|棄《す》てて、さっさと軽井沢の別荘へ疎開した。軍需会社のトラックを調達すると荷物を満載し、彼女はそれを運転して二往復した。無免許のまま関東平野を突っ走り碓氷峠の難所を越えたのだが、戦闘帽をかぶった男装の麗人を誰一人とがめる者はいなかった。
結局、康智は予想通りフィリピン各地で転戦したが、終戦になるといち早く生還し、大蔵省に復帰する。芳子は早速「私はご無事ご帰還を確信し、結婚もせずお待ち致しておりました」と人を介して伝えてくる。康智は「ああそうですか」と人を介して返事すると、芳子の同級生の春日桃子とこれ見よがしに結婚し、再び着々と出世街道を|驀《ばく》|進《しん》することになるのである。
二度目の出産を一ヵ月後に控えた長門宮妃玲子は、隣室で眠っていた一歳の娘が|脅《おび》えたように泣く声を聞いた。重い体を引きずりながら、前線の将兵へ送る慰問袋に配給の缶詰などを詰めていた妃は、全身に|悪《お》|寒《かん》を覚えて立ちすくむ。秋の日は暮れて闇は深い。
ふと見下ろした窓越しに海軍士官が玄関へ歩いて行く。「宮様が……?」と思ったときに玄関のベルが鳴った。
「|君《きみ》様(妃殿下への呼称)、若宮殿下がご帰還であらせられます」
安川事務官が階下から|慌《あわただ》しく叫ぶ。玲子は転びかけながら階段を駆け降りる。ところが老事務官は玄関で棒立ちになっていた。
「おいでになりません。たしかに窓の下をお通り遊ばしたのに……たしかにベルが……」
と彼はドアの外に出てみたり靴箱を|覗《のぞ》いたりする。瞬間、妃は悲鳴をあげると傘立てに|捉《つか》まったままくずおれて気を失った――。
長門宮義光王はフィリピンのレイテ湾突入を目差す栗田艦隊に参加し、戦艦|武蔵《む さ し》に乗り組んでいた。十月二十四日午前十時三十分、アメリカ艦上戦闘機、急降下爆撃機、雷撃機の編隊が超大型戦艦の大和と武蔵に襲いかかった。第一次の空撃で魚雷を受けて主砲の操作が不能となった武蔵めがけて、第二次、第三次の攻撃が集中する。第四次の来襲で満身|創《そう》|痍《い》の武蔵は艦首を海中に没し始め、さらに百機に余る第五次の攻撃を一身に浴びた。
肩から背を負傷した義光王は、傾斜した左舷の甲板に投げ出された。浸水は|烈《はげ》しく、方々で爆発が相次ぎ、高角砲台は裂けて炎が荒れ狂う。艦と運命をともにする覚悟の将官達は|留《とどま》ろうとする部下をなぐりつけて海へ脱出させ、自分の体を手近な物に縛りつけた。義光王は血潮の中に|俯《うつぶ》したまま、薄れいく意識の底で妻と娘の名を呼び続けた。午後七時三十五分、遂に不沈戦艦武蔵は転覆し、大渦の中へ沈んでいったのである――。
東京への空襲は十一月より本格的となったが、その最大のものは昭和二十年三月九日の夜から十日にかけてであった。
東久邇宮家にご|降《こう》|嫁《か》になった成子内親王は、麻布鳥居坂のご殿にお住みになっていたが、九日の午後にお産の|兆《きざ》しが現われたので、地下の防空壕の中に作られたお産室へお移りになった。折から警戒警報が出て世の中は騒然とし、さすが物に動ぜぬ皇女も恐れと痛さで|蒼《あお》ざめておられた。夫君の盛厚王は千葉の佐倉連隊勤務で、いかに天皇の|聟《むこ》君だとてままならぬ状況である。
夜半になってB29は大挙襲来した。そのころ、内親王は狭いベッドに身動きもならず、次第に強まる陣痛に息も絶えだえになっておられる。塚原侍医と助手と三人の看護婦が付き添い、|壕《ごう》の中は足の踏み場もない。カーテンで仕切った隣室では、新生児を診察するために小児科医の権威・栗山重信博士が早々と待機した。
つけっ放しのラジオからは「東部軍管区情報、B29の編隊は○○方面より○○方面に向けて進行中」と伝えるが、軍機密に触れるので地名を秘すからこれでは言わないも同然である。地上のようすも気になるが壕内の状勢も緊迫しており、栗山博士は立ったり坐ったりしながら天地を引き裂く轟音に耳を押さえ隣室の気配に耳を澄ます。暗幕で|掩《おお》った電灯のかすかな光の中では、何をするのも手探りであった。
ご殿の事務官や侍女達は、防空頭巾の上に鉄兜をかぶり、防空壕の出入口にバケツ、砂袋、火叩きを並べて警護する一方、落下する焼夷弾の防火のために広い邸内や庭内を狂気のように駆け回る。焼夷弾はとめどもなく落とされ、それが空中でほぐれて一面に燃え広がり、烈風に|煽《あお》られて手のつけようもない。この夜来襲したB29三百二十五機は、実に東京の八二パーセントを灰にした。
夜が白むころ、内親王は天皇の初孫の信彦王を安産され、B29もやっと引きあげて行った。この大空襲で塚原侍医の自宅は全焼し、家族の中には死者まで出た。その後、内親王らは伊香保に疎開されたが、五月二十五日の空襲でご殿は焼失し、皇居も炎上、東京は無残な焼野が原になってしまった。
さて第四期の兵科予備学生として入隊した忠元は、武山海兵団で訓練を受け、三ヵ月目には試験に合格して少尉候補生となった。水兵のジョンビラ服から短剣を吊ったスマートな軍服に変わる。さらに久里浜の対潜学校で訓練ののち、教官として百三十名の新兵(十六〜十八歳の少年)の教育にあたった。そしてやむにやまれず特攻隊志願の血書を出した。特攻隊は決して命令ではなかったが、熱血漢の彼は「役立たず」と、偏見や反感を持たれがちな華族の面目にかけて名乗り出ずにはいられなかった。最も危険な第一線に赴くことが貴族の義務だと信じたからでもある。
十一月より呉で特攻兵器の猛訓練が始まった。五人乗りの「甲標的」、一人乗りの「丸四艇」(別名「青蛙」)、人間魚雷の「回天」及び「SS艇」などであったが、これらの兵器を横須賀から呉の光基地へ|曳《えい》|航《こう》中に敵潜水艦によって爆破され、乗るべきものが失われた。
そこで第六特攻戦隊の基地・紀伊防備隊に転勤となる。その合間の二十年三月に急遽結婚式を挙げたのであった。その日も朝から警戒警報発令中で、駒場の邸から花嫁姿の私とともに木炭車に同乗して酒井家へ向かうとき、八重野は|護《まも》り刀と防空頭巾と鉄兜を捧げ持った。あまりのものものしい格好に笑いころげて八重野にたしなめられた。参列の親族の人々は厳粛そのもので悲壮ですらあった。
式は客間に祭壇を作り、数人の神主がとり行なう。仲人は将軍家の徳川家正公爵だが、夫人の正子は日光に疎開中で乗り物がないため上京できず、公爵が夫人の役もつとめた。披露宴には横須賀から予備学生の戦友達が、爆雷でとれた魚を|盥《たらい》三杯分もかつぎ込んだ。|花《はな》|聟《むこ》は軍服、花嫁の私は式服も色直しの服も疎開の荷物にまぎれ込んで、軽井沢か金沢かに行ってしまったので、とり戻す時間もなく色振袖を着た。
翌朝、夫は和歌山県日高郡由良村の紀伊防備隊へ一足先に|発《た》って行った。
由良村は風光|明《めい》|媚《び》な和歌の浦や、|道成寺《どうじょうじ》で名高い|御《ご》|坊《ぼう》に近く、「由良の|門《と》をわたる舟人|舵《かじ》を絶え行方もしらぬ恋の道かな」と歌われたロマンの地である。紀伊水道の彼方に四国の山々が|大和《や ま と》絵のように|霞《かす》むのだが、その四国沖には敵機動艦隊が居すわっており、始終|艦《かん》|載《さい》機を放ってよこす。グラマンは阪神への空襲の往き帰りに由良の上空を通過し、軍港や民家にも爆弾をばらまくのだった。
防備隊に近い農家の二階を借りた私達夫婦は、毎日一緒に暮らせるわけではない。夫は夜半に帰って来て明け方に出航し、一週間も音信不通だったり、午後の数時間をともに過ごすと隊に戻って行ったりする。私の日々は夫を待ちわびることだけがすべてとなった。乏しい材料で精一杯のご馳走を作り、部屋に|罌《け》|粟《し》の花を|活《い》け、さる外交官から結婚祝いに贈られたインドの香料を全身に塗って夫を待つ。ハーレムや大奥の女達やお妾さんとはこんな心情かな、と私は同情とともに|妬《ねた》ましさも感じた。こういう生活を余儀なくされる限り、男と女の愛はとめどなく激しく燃えさかり、しかも危機感は人間を底知れぬ|淫《いん》|蕩《とう》の|淵《ふち》に誘ってやまない。夜半の空襲にも二人は防空壕には逃げず、いっそう情熱的に抱き合った。私は妊娠し、夫はその子を男の子と決めて|忠《ただ》|紀《のり》と名づけた。
食糧も武器も|逼《ひっ》|迫《ぱく》し、敵機動艦隊の本土攻撃が約四ヵ月後と推定された二十年の六月、海軍は遂に最後の切り札“|伏竜《ふくりゅう》”特攻要員を太平洋沿岸各地に配置した。特攻隊として世界に知られるのは航空機と小型潜航艇及び魚雷艇によるもので、この肉弾攻撃でアメリカの空母や戦艦は多数葬られた。
伏竜は別名を|舟艇《しゅうてい》襲撃隊と呼び、人間が海中に|潜《ひそ》み敵上陸用舟艇を爆破するという非人道的な戦法で、実戦に使用される前に終戦になったから、世には知られずじまいとなった。
第三分隊士の夫も鉄のヘルメットにゴムのブルーの潜水服をつけ、高圧酸素ボンベ二本を背負って連日海へ|潜《もぐ》った。敵の艦砲射撃が終わった時点で、隊員は岬の横穴から出て海に入り、五十メートル間隔で三列に並び、約十メートルの水深の海底に伏して待機する。敵の船団が頭上を通過するとき、十五キロ機雷を取り付けた七メートルの竹竿で突撃し自らも爆死する。演習では特攻機や回天より遥かに成功率が高かったという。しかし窒息死、潜水病、炭酸ガス中毒、火傷などの犠牲者が相次いだ。夫も失神し鼓膜をやられた。
紀伊防備隊の三百六十名の隊員達は黙々と八時間も海中での訓練に耐えたのである。その大半は、本職の連中から「お前ら消耗品は……」とことごとに差別された、海には素人の予備学生と予科練の青年達であったのだ。
第十章 |火《ほ》|中《なか》の|不死鳥《ふしちょう》
さしもの大戦争も、無条件降伏の恥を|晒《さら》すことによって昭和二十年八月十五日に終結した。私はホッとしながらも、多くの国民の命を奪ったその|償《つぐな》いを国はどうするつもりかと危ぶんだが、償いどころか、日本人はかつてない窮乏と混乱に直面させられる|破《は》|目《め》となった。
武装解除して復員するとき、紀伊防備隊の中にも、物資を満載したトラックとともに行方をくらました者達がいたが、夫は妊娠六ヵ月の私をかばって帰京しなければならないので、軍の配給品も自分の荷物もほとんどを、世話になった農家の塩田家や近隣の人々に残して由良を|発《た》った。どの列車もごった返し、人々はガラスのない窓から争って出入りする。大阪駅と東京駅のホームで野宿して三日がかりで邸にたどりついた。
八月二十七日、早くもアメリカ海軍は相模湾に入り、進駐を開始する。三十日、マッカーサーが厚木に降り立つ。芝居の回り舞台よりも極端に時代は変わった。そして九月二日、東京湾に|碇《てい》|泊《はく》中のアメリカ戦艦ミズリーの艦上で降伏文書調印が行なわれた。私のかつての上司・重光|葵《まもる》全権と|介《かい》|添《ぞ》えの加瀬秘書官、|従兄《い と こ》の岡崎勝男(のちの外相)、全軍を代表する梅津美治郎全権の姿を新聞で見たとき、終戦以来、無感動だった私は初めてさめざめと涙を流した。二十年の六月以来、外務省幹部は軍の強硬派を押さえ、ソ連に対して英米との和平工作の|斡《あっ》|旋《せん》依頼に全力を投入して来た。それがソ連の卑劣な裏切りで|潰《つい》えた今、わが上司達の無念さはいかばかりであったことか。さらに名将でありながら不遇の梅津全権は亡き父と同期で無二の親友であったのだ。後日の極東軍事裁判で重光葵も梅津美治郎も有罪判決を受けるのである。
占領軍は直ちに目ぼしい洋館の接収にかかる。GHQ(総司令部)から「四十八時間以内に立ち|退《の》け」との通達が来る。頼みに思う日本政府は面倒をみてくれないから、住人達は直接必死で懇願して同居を承知させた。酒井家にもUSアーミーが乗り込んで来て、またたく間に二階と一階と地下に壁を作り、クランシー少将が住むことになった。私達は二階の西北の一角と一階の使用人達の部屋や地下の倉庫を改造して引き移った。
実家の駒場の前田邸は全面接収され極東空軍司令部の公邸となり、のちにマッカーサー元帥の後任リジウェイ大将もここに住む。母や弟妹達は、高輪の別邸にやはり壁を作ってケーシー中将と同居する。祖母の朗子が住んでいた大久保の別邸は焼けたので、彼女は引き続き疎開地の金沢に住む。軽井沢の別荘はアイケルバーカー将軍が使い、鎌倉の別荘はアメリカ政府の高官が使用した。
その年の十二月に私は長男の忠紀を産んで、やれうれしやと思ったのも|束《つか》の|間《ま》、その五日後に|舅《しゅうと》の忠正が戦犯容疑で|梨本宮守正《なしもとのみやもりまさ》王や木戸侯爵らとともに巣鴨プリズンへ連行された。同じく逮捕命令を受けた近衛公爵は、出頭前夜に青酸カリで自殺を遂げた。軍事裁判に出廷すれば天皇の責任問題にぶつかるので、彼は死をもって裁判を拒否したのである。享年五十四歳。
近衛文麿は、皇族の次に|位《くらい》する名門中の名門、五摂家筆頭の近衛公爵家の長男であり、私の父利為の|従弟《い と こ》であった。
四十五歳で首相となり、日華事変以来あくまで戦争回避に苦慮したが、強硬にアメリカとの開戦を主張する東条陸相の要求で総辞職せざるを得なかった。その後も重臣らと|謀《はか》って和平工作を続けていたが、その当時私は重光外相や加瀬秘書官らとひそかに談合する公爵をしばしば見かけていた。|執《しつ》|拗《よう》な憲兵の目をくらますため、その会談の場所は前田家の駒場や高輪や鎌倉の邸がよく使われた。近衛夫人や重光夫人や母や私などもその席近くにいて、外部に対して煙幕を張ったのであった。
そのころのことで、特に|脳《のう》|裡《り》に焼きついている追憶がある。
戦火は本土に広がり、アメリカ軍が南方から沖縄に迫りつつあった昭和二十年一月、京都・|御《お》|室《むろ》にある、近衛公の別荘の奥まった茶室で密談が行なわれた。このことに関しては、やっと昭和五十五年八月になって新聞紙上に秘話として公表されたから、もう隠す必要もなくなったのだが、重臣の岡田啓介と米内光政、それに古くから天皇家とゆかりの深い仁和寺の門跡・岡本慈航の四人が集まっていた。
戦争が最悪の結末となっても、皇室の安泰だけは|図《はか》らねばならない。万一の場合は先例にならって天皇を仁和寺にお迎えし、|落飾《らくしょく》(出家)を願ってはというのが近衛公の構想であった。敵軍も、出家して法皇となられた天皇をどうすることもできまいとのヨミ[#「ヨミ」に傍点]であったという。
すでにその半年前から、天皇は皇太子に譲位し、高松宮を|摂政《せっしょう》とする考えが関係者の間でささやかれていたことは、のちに初の皇族の首相となって終戦処理にあたった東久邇|稔《なる》|彦《ひこ》王の日記にも見られる。
この密議からまもない一月二十六日、近衛公は同じ場所に高松宮を迎えた。両家は近い親類である。そして母と私と同じく親類の三井男爵夫人らも招かれて、二日前に近衛夫妻とともに東京から京都へ発った。秘書官の細川護貞と、のちに吉田茂首相の片腕といわれた白洲次郎も同行した。表むきは近衛家の陽明文庫を拝見するという名目である。
古都は冷えきって雪が降りしきっていた。その中を私達は陽明文庫に行った。火の気のない文庫内で、応仁の乱でも焼失をまぬがれたという王朝文化の|粋《すい》ともいうべきコレクションを鑑賞した。きもの姿の公爵は、いつに変わらぬおだやかな口調で私に語りかけた。
「“親しめども信ぜず、愛すれども|溺《おぼ》れず”これが関白(天皇にかわり政務を担当する役目)というものの信条だったのよ。これで近衛家は七百年にわたる武家政治の世の中を切り抜けてきたのよ」
公爵は女に対しては女言葉を使った。
「それが生き残るための哲学で?」
「そう。ミミちゃんにおできになる? 愛すれども溺れず……」
「夢中になってのぼせあがらない、ということでございましょう? 私はいつもそう……」
「簡単そうにおっしゃるのね」
「そんなに難しいことでございましょうか」
「ミミちゃんは、いままで誰かを好きになったことおありになる?」
「ハア……。でも私、熱しやすく冷めやすくて、生きるの死ぬのというような大恋愛などできないと思いますし、したいとも思いませんけれど……」そして私は小声でそっとつけ加えた。
「それに私、この世で一番愛しているのは自分自身でございますもの。自分以上に誰かを愛するなんて、到底考えられませんの」
「そう。そりゃわたしもまったく同じね」
文麿公は|甲《かん》|高《だか》い声で笑った。
午後二時半、海軍大佐の軍服姿の高松宮がひそかにご到着になった。女ばかりがお出迎えした。誰も近づけてはならないということで廊下の要所要所に見張りが立った。私一人が茶菓や食膳や徳利を持って会談の行なわれている奥座敷に出入りした。外務省秘書官室に勤務する私は、守秘の点で信用されたらしかった。
そこで何が語られたかは記憶にさだかでないが、今も耳に残るのは、
「天皇への最短距離は照宮成子内親王、照宮から陛下へお話を」という言葉である。
天皇は戦争に関することは、参謀総長とか軍令部長とか公式の筋を通さないと受け付けられず、弟宮や近衛公でもお話できない状況だったようだ。稀にみる聡明な最愛の内親王から種々お耳に入れていただくことが、残されたルートだったのかもしれない。
戦後になって成子内親王にこのことをお|訊《たず》ねすると、内親王はいつもながらのポーカーフェイスで、しかしまったく驚いたご様子はなく、
「さあ、どうだったかしら。あのころのことはよく|憶《おぼ》えていないわ」
とおっしゃった。肯定でも否定でもない。忘れたというのは最も賢明な返答である。だがその瞬間私は、何らかのルートでそのお話が内親王に伝わっていたことを直感した。
戦争末期のエピソードが長くなったが、公の服毒自殺より三ヵ月早く東条英機らが逮捕され、連行前に自殺しそこなった東条は裁判の結果、絞首刑に処せられた。
貴族院副議長や農相を務めた|舅《しゅうと》は、事情聴取だけで不起訴のまま一年八ヵ月後には帰って来たが、その間、私達はブレークニー弁護人に会うやら、和英辞典を引き引き、釈放嘆願書を書くやら、拘置所に面会や差し入れに行くやらした。|姑《しゅうとめ》の秋子は神経痛で寝込んだ。戦犯容疑者は財産が差し押さえられたから、売り食いもできなくなってしまった。学徒出陣した夫は京都帝大へ復学したくも事態が許さず、|諦《あきら》めて知人とともに進駐軍の接収家屋などの造園事業の会社を作り、米軍のジープでとび回る生活を始めた。
物価は不気味に高騰を続け、食糧は極度に不足した。戦前はお金の話は|卑《いや》しいとされ、やむを得ぬ場合は聞き取れぬほど声をひそめたものだ。食べ物にしても「お姫様はご|膳《ぜん》|所《しょ》(台所)へいらっしゃるものではございません」と言われ、料理はいつも運ばれてきたものだ。しかし、今や私達家族は、朝から晩までお金と食糧の話ばかりして暮らす破目となった。
戦前は数十人いた酒井家の使用人も四人に減り、彼らは毎日リュックを背負って近県へ出かけ、米を求めて奔走する。私も高田馬場の闇市で米軍横流しの粉ミルクや缶詰や砂糖を買いあさった。闇屋も横行した。ある時、ベビーのために粉ミルクの缶を二ダース、若い闇屋から法外な高価で買った。ところが開けたら、砂だった。こんな|輩《やから》は|成《せい》|敗《ばい》しなきゃ! 刺身|庖丁《ぼうちょう》を掴んだ私は猛然と裏門へ走った。私は自慢じゃないが学習院で百メートル徒競走の記録保持者だ。そして|直真影流薙刀《じきしんかげりゅうなぎなた》の使い手だ。庖丁だって薙刀と同じ要領でやろう、殺さずに大怪我させてやれ、と走りつつ考える。だが、|詐《さ》|欺《ぎ》男は既に逃亡していた。目撃者達によれば、それらしき男はなんとずうずうしくも表門から走り去ったのだという。
東久邇宮妃成子内親王は、疎開先の伊香保御用邸で父陛下の終戦の詔勅放送を聞かれた。内親王はしのび泣く人々を制して、
「さあ、これからですよ。……私は陛下にお会いしに行きます」
と椅子を立たれた。危険だからと取りすがる侍女達を振り切り、事務官に運転させると不穏な東京に出て行かれた。皇女はその時、父陛下とはこれが|今生《こんじょう》のお別れと覚悟しておられたのだ。五時間の行程をフルスピードでとばして、焼け落ちた皇居内のお文庫に入られると、|憔悴《しょうすい》の色濃い父陛下の前に深く|頭《こうべ》を垂れ、
「おもう様、お察し申し上げます」
この一言に万感の思いを託された。天皇はご自身の安全については語られず、皇女もそのことに触れるのは|怖《おそ》れ、ためらう。
真夏の空気は重く|澱《よど》み、ひぐらしの声がひときわ|虚《むな》しく宮城の森に|谺《こだま》した。
今後の見通しが立つまで、皇居に留まるつもりの皇女も、今すぐ陛下に危機が迫ることはなさそうだと判断し、再び夜道を帰って行かれた。
私が亡き父を好きであったように、成子内親王も父陛下をとても慕っておられた。折あるごとに「おもう様が」「おもう様は」とお話が出た。
中等科四、五年に在学中、私達は毎日“反省録”というものを書いて担任の竹田|倭《しず》|子《こ》教官に提出することになっていた。それは誰にも見せずなんでも赤裸々に書いて批判をいただく、先生との文通のようなものであったが、卒業後私は特にお願いして内親王のそれを拝見させていただくことができた。
それはある出版社の懇望によったもので、内親王から掲載してもかまわないとのご許可を得たものの一部をここにあげてみよう。
[#ここから1字下げ]
一月十六日
今日は学校で海軍大臣の講話を伺った。その講話は私の心にいろいろのことを考えさせた。責任の地位にたつ大臣がどれほど頭を悩まし、様々な苦労をしているか、ほんの一部であるが知ることができた。これだけの苦労を、いったい何人の人間が理解していることかと思った。
それにつけても、おもう様はどんなにかどんなにか、み心をお使い遊ばすかという事がより一層感ぜられた。何だかじっとしていられないような気がする。どうしたらお慰さめ申し上げる事ができるだろうか。今日はその事ばかり考えていた。(原文のまま、以下同じ)
三月二十四日
五時四十分、呉竹寮を出て参殿した。毎週金曜日はほんとうに楽しい日である。一週間の変わったでき事や学校の様子をためておいて、ご政務にお疲れ遊ばしたおもう様にお話申し上げる日なのである。いちいちおうなづき遊ばして私のとりとめない物語りをもほんとうにお喜びいただくので、私は又来週もよく勉強して楽しいご報告を申し上げようと心が勇み立った。
昨日、学年末の成績表が交付されたのでそれをご覧に入れたところ、
「こんども大へんよく勉強した。これからもますますベストを尽して努力するように」と、ご満足遊ばしてごほうびを賜わった。ご期待にそうような者に早くならなければと思う。(著者註、内親王のご成績は常に三番を下らず、全甲をよくとっておられた)
九月十日
今年の夏休みは思いがけなく、おもう様、おたあ様のおそばにおかして|頂《いただ》けた。(註、葉山御用邸)住いは違っても毎日お目にかかることができ、私どものためを思い給う深いご慈愛をほしいままにすることができた。同級のお友だち方とちがって、いつも私は両親と別居しているが、この夏は始終お|側《そば》近くいろいろとお手伝いさせて頂け、ほんとうに嬉しく思った。まったく真のよろこびをもって打ち解けられるのは親でなくてはできないものだとつくづく思った。これを知ったことは一つの大きな収穫であったと思う。
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ここにも見られるように、実の親子でありながら内親王は父陛下に対して臣下の礼をとっておられたのである。天皇は「照ちゃん」とお呼びで、|掌中《しょうちゅう》の|珠《たま》のようにご寵愛であったという。
内親王はまた、ご幼少のころからご自分のお立場をよく自覚しておられたが、次の一文にもそれはよく現われている。
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十月二十六日
私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいても私は|優《すぐ》れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。
高い木には風が当り易い。それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分をみるとき、この地位にいる資格があるかどうか恐ろしくなる。自分の能力は誰よりも自分で一番よくわかっている。ともかく私は自分で自分を育て築きあげていかなければならない。
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更にまた、社会の片隅に埋もれている名もない人々の上へも、内親王の暖かいまなざしは注がれていた。戦前、雲の上に住まわれて下界と隔絶されたご生活だっただけに、皇女は国民の生活の実態を知り、人々の心を理解しようとつとめておられた。そしてご自身で得た情報や感想を父陛下にお話なさるのであった。
たとえば昭和十七年の夏休み中に北海道を一周なさり、その時の作文をご発表になったが、それは夕張炭鉱の見聞のことに重点がおかれていた。十六歳の皇女は次のように述べておられる。
「この炭鉱の奥深くで、来る日も来る日も働き続け、世間から忘れ去られ、そして人知れず死に行く運命をもった人々の前に立った時、護衛の警官や大ぜいのお伴をひきつれている自分の姿に、いたたまれぬ申しわけなさを感じた……」
これらのことから|推《お》し|量《はか》っても、内親王は遂に口外こそされなかったが、戦争末期、国民がいかに苦難に|喘《あえ》いでいるかを|逐《ちく》|一《いち》ご報告になって、天皇の|速《すみ》やかな終戦へのご決断を促されたことは、たしかなことであったと私は信じているのである。あの|方《かた》がそれをなさらぬはずはなかったのである。
八月十七日、内親王の舅君にあたる|稔《なる》|彦《ひこ》王が首相の任に就き「一億総|懺《ざん》|悔《げ》」を唱える。
婦人の解放、教育の自由主義化等々、GHQは矢継ぎ早に占領政策を打ち出したが、十月、金持に対する財産税及び富裕税の取り立て、財閥の資産凍結と解体、農地改革等を次々と指令して、ここに上流社会を|潰《かい》|滅《めつ》させた。前田家も酒井家も実に財産の九十パーセントを失ったのである。使用人も十分の一に減ってしまった。
政府は悪性のインフレを抑えるために翌年二月十七日、金融緊急措置令を出す。この日いっさいの金融機関にある預金はすべて|封《ふう》|鎖《さ》され、現に流通している十円以上の紙幣は三月六日までで廃止、以後は新紙幣を使う。封鎖預金の払い出しは世帯主が月三百円、家族は一人百円、俸給も現金は五百円までとなった。
五月、GHQは次のような指令を発した。
一、皇室に信託されている皇族の証券はすべて皇族に返還し、これら証券に対し税を|賦《ふ》|課《か》す。
二、宮内省が皇族に対し動産、不動産を御下賜金、御貸付金として下付することを禁ず。
三、皇族から、宮内省の所管にかかるいっさいの財産に対する権利、所有権及び持ち分をことごとく|剥《はく》|奪《だつ》す。
こうして皇室財産は凍結され、秩父、高松、三笠の三|直《じき》|宮《みや》家を除く十一家五十一名は皇籍を離脱した。彼らに対し皇室経済会議は一時賜金を出したが、東久邇盛厚王ら元軍人だった十一名には一円の支給もなかった。
これまで宮中のことしか知らず宮中しか頼るものを持たない彼らは、皇族としての特権を|剥《は》ぎ取られ、旧宮内官の|更《こう》|迭《てつ》によりまったく無援の状態で敗戦の世に放り出された。何十人もの使用人に取り巻かれ、金銭に手を触れることもなかった生活から、一挙に今日の米がないという生活に突入したのである。家財道具を|二《に》|束《そく》|三《さん》|文《もん》で売り払い、それを明日の食費にあてる。焼け跡に建てた倉には、次々に|空《から》にされた|箪《たん》|笥《す》が立ち並んだ。
皇女から平民に下落された成子内親王は、東大の聴講生として軍人脱却を心がける夫君を助けて鶏や|鶉《うずら》を飼い、六本木の鳥屋と契約して卵の|卸売《おろしう》りをしたり、プラスチック加工の内職までして家計を|捻出《ねんしゅつ》しようとされた。特に「背水の陣よ」と覚悟の上で始められたヌートリアの毛皮動物の飼育は|素人《しろうと》には至難とされたものだが、学生時代に鳥や魚の解剖などを好んでしておられた内親王は、小動物の予防注射などはおろか、蛙を掴まえ、これを刻んで|生《いき》|餌《え》として与えるような、|普通《な み》の女性には真似のできない作業も平気でやってのけられた。
そのころ、私も家財は差し押さえで売れないから、自分のきものなどを売ろうと友人の紹介で道具屋を呼んだ。藤村というその|狡《ずる》そうな道具屋は私が並べた加賀友禅を一目見ると「戦前のヤツは|柄《がら》が古くて」と|難《なん》|癖《くせ》をつける。私のもくろんでいた二十分の一の値段なら「マア買ってもようがす」とヘラヘラ笑う。こんな|手《て》|合《あい》をのさばらしてよいものか!
「ナニヨ! 物の値打ちも知らないで生意気な! もう用はないからさっさとお帰り!!」
言うなり私は長持の|蓋《ふた》を持ち上げていた手をいきなり放した。重い蓋は勢いよく落下し、まだ未練がましく長持の中をのぞき込んでいる道具屋のハゲ頭をしたたかに打ち、十本の指をはさんだ。金切り声をあげる藤村に、
「アラ、わざと落としたんじゃないわ。手が滑っただけよ。だけど藤村さんももっと身のこなしを|敏捷《びんしょう》にしたほうが身のためよ」
と忠告しながら廊下へ出ると笑いころげた。道具屋が怪我したって私のせいじゃない。モタモタしていた藤村が悪いのだ。この乱世にノロマな人間や弱気な人間は破滅するしかないだろう。戦争に負けたぐらいで没落してたまるものか、こんな売り食い生活はもう切り上げねば……その時、突如、素晴らしいアイディアが|閃《ひらめ》いたのである。
リチャード・クランシー少将は酒井家の|館《やかた》の三分の二を占領し、二人のGIと日本人のコックとハウスキーパーとメイドとボーイ兼ボイラーマンとともに住んでいた。マッカーサー元帥を除く他の高官達と同様に妻子は本国に残してきている。
少将が入居した日、私達家族はサロンで出迎えた。彼はグレゴリー・ペックを思わせる|苦《にが》み走った好男子だ。軍人らしい礼儀正しさで一人一人と握手すると、
「立派な家を提供してくれて誠にありがとう。あなた方とうまくやっていきたいと思う。私は平和主義者です。そう見えるでしょう?」
と豪快に笑う。姑の秋子は私を顧みて、
「よさそうな人間じゃないの。だけど女好きらしいから気をつけないと……」
と注意をたれる。日本語を解さぬ少将はますますにこやかに微笑んだ。
その後まもなく、彼は盛大なカクテルパーティーを開いた。集まった占領軍の|猛者《も さ》達はいずれも紳士的で、日本婦人が部屋に入ってくればサッと立ち上がるし、貴婦人にかしずく|騎士《ナ イ ト》のごとく、飲み物や料理のサービスをする。殊に貴族を持たぬ彼らは、華族の女達を、東洋の小島に咲く珍種の花を見るように|慇《いん》|懃《ぎん》に鑑賞した。戦勝国の男としての|驕《おご》りや野蛮性を|微《み》|塵《じん》も表わしはしなかった。クリスマスにはローストターキーとレッドワインをボーイが運んできた。さらに姑にはシャネルの香水、私にはレブロンの化粧品セットが届けられ、カードに「愛をこめて、あなたの|僕《しもべ》」とあった。舅や夫ら男達にプレゼントはなかった。
昭和二十一年の新春になり、生活に追われる日々が続いて、私はこの同居人のことをすっかり忘れていた。時折壁の彼方から陽気なジャズが聞こえてくるが、それは別世界の物音だった。
その音楽を私は不意に思い出したのだ。すぐに少将に電話をかけると、
「オー、|伯爵夫人《コンテッサ》、お会いしたいと思ってました。私は今、一人さびしく本を読んでいたところです。おいでください。プリーズ、プリーズ」
と彼ははしゃいだ声で言う。そこで私はあの道具屋に|貶《けな》された加賀友禅の訪問着を着、桐箱入りの九谷焼の壺を風呂敷で包むと、わが家ならぬUSハウスを訪問した。サロンに通ると、少将はバーボンウィスキーをコカコーラで割ってすすめながら、
「なんとあなたは美しい! まるでボッティチェリの“|春《ラ・プリマベラ》”だ。あなたはまさに春そのものです!」
と|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に感動してみせる。
「お世辞をありがとう。あなたはまさに夏そのものですね」
私は貴族的に微笑む。白人に対する社交感覚がにわかに|甦《よみがえ》ってきた。少将ご自慢の電蓄からは、大流行の“ビギン・ザ・ビギン”のメロディーが何かの開幕を予告するかのように低く流れる。
「今日は私のアイディアを話しに来ました」
と前置きしてから私は、この庭の西南にアトリエとして使っていた小さな家があるので、改装してクラブを経営したいと思うのだがと切り出した。
「オオ、ザッツ、グッドアイディア!」
少将は目を輝かす。
「長い戦争で人々は音楽を求めています。パーティーやダンスに飢えています。今それを提供すればそのビジネスは成功するはずです」
「オオ、|勿《もち》|論《ろん》! 勿論成功します!」
「私はそれをしようと思う。まだ誰一人始めないうちにしたいのです」
「オオ、あなたは実に賢い。素晴らしい人だ!」
「しかし、戦争に負けた私達は今ひどい状態にあります。家はあってもあとは何ひとつありません。酒類や料理やミュージックをどうやって手に入れたらいいでしょう」
「それは私がやる。私にまかせなさい」「ほんとうに?」
「私も実はナイトクラブを経営したいと思ったことがある。これは私の夢の実現でもある。私がヘルプしましょう」
商談は成立した。私は風呂敷をほどくと、九谷焼の壺を取り出してテーブルに置き、
「私のプランにジェネラルはきっと賛成してくださると思ってました。しかし、あなたの援助ばかり受けるわけにはいきません。これは日本で最もすぐれた陶器です。私はこれらの価値ある美術品をたくさん持っています。これらの物とクラブで必要とする物資を交換させてください」
「そんなことは考えなくてよろしい。あなたのために役立つこと、それが私の喜びです」
「ありがとう。でも私は常にあなたと対等でありたいのです。|卑《ひ》|屈《くつ》になりたくないのです」
「オオ、あなたこそ貴族だ。私は、初めてあなたのようなレディを見た。OK、あなたのいう通りにしましょう。私は従僕だから」
二人は見つめ合ってグラスをあげた。九谷の壺はマントルピースに飾られた。壺一面に描かれた牡丹の花は、美と富貴と権勢を兼ね備えた女王さながらである。
さて八〇坪のアトリエは|忽《たちま》ち米軍の手によってバーやステージを持つクラブに変貌した。夫は言い出したら一歩も引かない私にやむなく同意し、彼もジェネラルもあくまで陰にいて、私だけが表面に出ることになった。水曜と土曜の夜は米軍専用とし、あとの日は昼も夜もアメリカ以外の外国人と日本人を入れることにする。「クラブ・|不死鳥《フェニックス》」と命名して、私はこれをオープンさせた。
|早《さっ》|速《そく》客が来始めた。その主流は戦争のお蔭で大儲けした新興成金族だが、皇族や華族や外交団や政界人や芸能人や学生や、ありとあらゆる種族の人々も来始めた。
昼間は事務所代わりの商談やスタジオ代わりの打ち合わせや懇親会や見合いなどに時間ぎめで三つの部屋を貸す。夕方から私はバーに現われてシェーカーを振ってカクテルを作ったり、さまざまな客とジルバやルンバを踊る。各種の酒類をはじめ、物資はふんだんに運び込まれ、日夜現金が転がり込む。かねがね水商売に興味はあったが、これほどそれに向いているとは私自身驚くばかりだった。
その夜も、ドライマティニをかき混ぜているところへ少将から電話がかかってきた。
「若奥様、どこへいらっしゃいます?」
ソロバンをはじいていた八重野が厳しい口調で尋ねた。前田家から私について酒井家に来たナースの彼女は、このところ私の産んだ忠紀の世話からクラブの掃除、食器洗い、会計と日夜目まぐるしく働いている。
「ジェネラルから、新しいレコードが届いたので選びに来てくれって電話なの」
「お気をつけ遊ばせ。クランシーはそろそろ|本性《ほんしょう》を現わすころでございますよ」
「大丈夫ですとも。私のこと、難攻不落だっていう評判なのを知ってるでしょ。簡単に降伏なんかするもんですか。日本軍じゃあるまいし。……じゃ、すぐ戻るから心配しないで」
私はクラブの裏口から庭へ出た。
くちなしの花の香りが漂ってくる。その花をアップに|結《ゆ》った後ろ髪に|挿《さ》すと、去年の夏までは敵将だった人の館へ庭伝いに歩いて行った。
一階のテラスでビールを飲んでいた少将は、
「オオ、|伯爵夫人《コンテッサ》、|今《こ》|宵《よい》は一段と悩ましい!」
などと言いながら近寄ると、私の右手を取ってうやうやしくキッスをする。これは儀礼に属する行為だから、別に驚くこともない。
「レコードはコンテッサのご命令通りラテンアメリカのものばかり到着しています」
と彼は私をサロンに招じ入れた。
日本政府の高官からプレゼントされた竹製のカウンターで、少将はカクテルを作る。
「これなんでしょう? 随分強そうね」
「これこそ僕の苦心のオリジナルで、『コンテッサ・サカイ』と名づけました。いかが?」
「おいしいわ、まるで炎のよう……」
私は二杯飲んだ。ステレオからは強烈なサンバのリズムが熱帯の魔性をまき散らしている。それは、アマゾンのジャングルから湧き起こる原始の呼び声だ。
「二階の書斎にほかのレコードを置いてきたらしい。一緒に行ってくれますか?」
促されて立ち上がった拍子に私はよろけた。どうしたのかしら、カクテル二杯ぐらいで……。音楽が遠く、近く聞こえる。少将に腕を支えられながら雲を踏むような心地で階段を昇る。ああ、ここはわが家だ……。
通された少将の書斎は、かつて私の居間だった。|白檀《びゃくだん》の扇で風を送りながら、呆然とあたりを見回す。酔いざましにと言って、少将は氷の入った得体の知れない飲み物をすすめる。それを半分ほど飲んだとき、私はハッと|我《われ》に返った。
「いま何時かしら。私、帰らなければ」「どこへ帰るのです? ここはあなたのレジデンスでしょう? コンテッサ」
抱きすくめようとするその腕を振りほどくと、私はドアのあけ放してある寝室にとび込んだ。「しまった」と思いながら、その右手奥にあるバスルーム目がけて走る。バスルームの向こうのドアをあければ階段の上のホールに出ることができるのだ。
「そこはあきませんよ、ダーリン」追いすがった少将は、またもや抱きしめようとする。
「キャー、助けて! |プリーズ・ドントゥ《や め て く だ さ い》」「静かにしなさい。使用人が驚く」
「誰か来てェ、殺されるウ……」「静かに!」
少将は人間とは思えぬ怪力で私を羽がいじめにすると、ベッドまで引きずっていった。
「あなたを食べるわけではない。こわがらないで。マイハニー、私の小鳥……」
彼は片手で押さえつけたまま帯をほどきにかかった。私は気絶した振りをするしかない。
「なんと複雑な……」と|呟《つぶや》きながら、彼はやっとすべての|紐《ひも》をほどいた。
「ジェネラル、ワインを飲ませてください」私は薄目をあけながら哀願した。
「ワイン? そういうことをするのが日本の|習慣《カスタム》か?」彼は大まじめで|訊《き》く。「イエス」私も大まじめで|頷《うなず》く。「OK」と言いながら彼は身を起こした。棚に並んだ|瓶《びん》の中からボルドーワインを探すと、グラスに注ぎ始めた。
今だ! はね起きるなり足にからまる着物を床に脱ぎ|棄《す》て、長|襦《じゅ》|袢《ばん》をかき合わせながら私はまっしぐらにベランダに駆け寄った。ドアはあいた。
「逃げるな! ヘイ、ユー」
少将の叫びをあとにベランダの右隅に走る。そこには空襲に備えて取りつけた鉄の非常|梯《ばし》|子《こ》があるはずだ。あった。|手《て》|摺《すり》を乗り越えると、私は|錆《さ》びついた梯子をスルスル降りた。
振り仰ぐと、ジェネラルは心配そうに声もなく|覗《のぞ》き込んでいる。彼に投げキッスをすると、もうあとも見ず芝生を横断してクラブの方角へ。ピンクの|絽《ろ》の長襦袢をまとった私は、まもなく林の中にとび込んだ。
「マア……ミミちゃま、どうなさったの?」
どこからか声が降って来た。|築《つき》|山《やま》の茶室の前に男女の人影が寄り添っている。長いドレスの裾をたくしあげながら若い女が降りて来た。
「芳ちゃま……」「何かあったの?」
「大したことじゃないの。……八重野がクラブにいるから、何か着るものを持って来るようにおっしゃってくださらない? お願い」
「わかったわ。待ってらして」
山城芳子は身を|翻《ひるがえ》すと小走りに去った。|連《つ》れの男は煙草に火をつけると|灯《とう》|籠《ろう》のある闇のほうへ姿を消した。
|藪《やぶ》|蚊《か》の大群を追い払っているところへ、ロングドレスとサンダルを抱えた八重野が芳子とともにアタフタとやって来た。
「だからあれほど申し上げましたのに」「だから何事もなく脱出して来たのよ」
|傍《そば》で芳子はあきれて笑いながら、
「今晩、彼が近ごろ評判のクラブへ行こうって連れて来てくれたの。まさかミミちゃまが経営してらっしゃるとは知らなかったわ。お茶室の前で涼んでいたら女の人が芝生を走って来るでしょ。月はきれいだし、まるで映画のシーンみたいねって見物していたのよ」
「どうも、ほんとに恐縮だわ。さ、クラブへ行って積もるお話でも。八重野、機嫌直してちょうだいね」
そこへ遠慮して隠れていた青年も現われ、四人はクラブ・フェニックスへ戻った。芳子はグリーンのタフタのデコルテに水晶のネックレスをつけ、一段と|妖《よう》|艶《えん》さを増している。三年近く会っていなかった二人は、お互いになつかしく相手を眺めた。
「こちらは桂木靖雄さん。私達十月に結婚しますの」
と芳子は長身で|精《せい》|悍《かん》な顔立ちの青年を誇らしげに紹介した。いかにも|一《ひと》|癖《くせ》ありげな男だ。バーの暗がりで祝杯をあげながら、
「いろいろなことがあったわねェ。私はまだ|二十歳《は た ち》なのに、もう百年も生きてきたような気がするわ」
私がしみじみと声をうるませれば、
「ほんとう。物凄い時代だったわ。私はずっと軽井沢にいましたから一度も空襲には|遭《あ》わなかったけど、食糧買い出しと野菜作りばかり。食べ物とお金の苦労って情けないわねェ」
「戦前の生活は夢としか思えない……大事な人達も死んでしまった。父も近衛の小父様もなんのために死んだのかわからないじゃない?」
「散々苦労なさった末にねェ。玲子妃殿下もお気の毒。殿下がレイテ沖で戦死なさった直後に義明王がお生まれになって、そのあとずっとショックで入院なさっていたのよ。しかも二番目のお兄様も戦死なさるし」
「日高康春さんも沖縄で|桜《おう》|花《か》特攻隊で出撃なさったそうね。うちの主人だってもう少しで危なかった。更科さんだって戦争の犠牲者ね。私達に多少の責任はあったかもしれないけど」
「責任はなくってよ。彼のように美意識過剰な人は、こんな世に耐えられなかったんでしょ。ご自分の才能に自信をなくしていらしたのも事実だし……可哀そうな方……」
「どうも女のほうがしたたかで適応力があるようね。|成《しげ》様(内親王)をご覧遊ばせ。一時はどうなることかと思ったけど、見事に立ち直っておしまいになったわ。株を研究なさって随分お|儲《もう》けになったのよ。お金など見たこともなかった方が。今はうちの主人もお手伝いして犬やいろいろな動物の輸出入の仕事をしていらっしゃるけど、|玄人《くろうと》はだしの才覚をお持ちだって、主人がほとほと感心しているのよ」
「結局は頭の問題でしょう。成様やミミちゃまは特別な例外よ。一般には斜陽族と言われても仕方のない人達が一杯いるわ。悲観して自殺してしまったり、ヤケになって闇屋と|出奔《しゅっぽん》したり、宝石や|骨《こっ》|董《とう》品の|詐《さ》|欺《ぎ》をたくらんであっさり捕まったり、|恥《はじ》|晒《さら》しな連中がいるじゃない。新聞見るたびにゾッとするわ。それに占領軍のミストレス(情婦)になった人も少なくないし」
「今日私がああして逃げ出して来たのは、貞操ってこともあるけど、ジェネラルと共同でこの仕事をする以上、ミストレスになり下がったら立場が弱くなると思ったからだわ。彼にとって私はあくまで|高《たか》|嶺《ね》の花でなければならないのよ。皆、占領軍にペコペコしすぎるわ。男も女も。もっとプライドと駆け引きを見せつけて手ごわい相手と思わせなきゃ、バカにされるばかりじゃないの」
私達二人はハイボールを飲みながら夢中で話し込む。芳子の恋人の桂木靖雄は、ホールで東宝の女優達と踊り続けていた。
「桂木さんてどういう方? どんなロマンス? いったい何人目のお相手かしら」
「フフフ、つい三週間前に知り合って電撃婚約ってわけ。彼はいわゆる新興成金の一族なの。もう皇族も華族もおしまいですもの。これからの実力者は新興財閥でしょ。私は結婚をいままで延ばしてて本当によかったと思う」
「それもひとつの生き方ね。とにかく時代を先取りするに限るわよ」
「私達の同級生も、戦争中のどさくさに早まって結婚するものだから、ご主人が戦死なさるやら失業なさるやらで|惨《さん》|憺《たん》たるものらしいわ」
「夫に頼りすぎるからいけないのよ。頼れるものは自分だけしかないのにね。そして人間は、誰しも“本来無一物”なのよね」
そこへ二人の客が|颯《さっ》|爽《そう》と入って来た。
「マア、日高さん、橘さん、ようこそ」「マダム、ご機嫌いかが?」
その瞬間、日高康智は芳子と目が合って足をとめた。芳子も|瞬《まばた》きもせず見つめている。康智が出征の直前に芳子の希望で婚約を解消して以来の|邂《かい》|逅《こう》だった。二人は一言も発しない。少し離れて橘と呼ばれた男は、|隼《はやぶさ》のような目で双方の表情に視線を移しながら無言で立っている。私は一人で|喋《しゃべ》りながら日高と橘をカウンターに誘い、芳子には、
「もうじきバンドが始まるわ。今晩は私の弟達、慶応ボーイのスウィング・スワローズの演奏の日なの。彼らを格安で雇ってるのよ。サァ、踊ってらしたら? 桂木さんと」とホールへ促した。
「ミミちゃま、康智さんの……奥様は?」
「もうご存じでしょ。春日公爵の桃ちゃまと結婚なさったこと。今、おめでたですって」
「そう……あのお|連《つ》れの方は?」
「橘|雅《まさ》|典《のり》さん。あの方も学習院で松平子爵のご親類よ。東大から大蔵省にお入りになった|凄《すご》いインテリ。今、主計局で日高さんの下にいらっしゃるの。不可解な人物よ。じゃ、またあとで。どうぞお楽しく!」
私はカウンターに戻りながら、今宵はなんとドラマティックな夜だろうと満足した。これだから人間世界も|棄《す》てたものではない。
日高康智は学習院時代から切れ者と噂されていたが、京大在学中に大蔵省と外務省の両方の試験に合格し、迷った末に大蔵省に入ったという逸話の持ち主である。
激戦地のフィリピンに出征しても、無傷で生還した強い運勢の持ち主でもある。
クラブへは橘と二人で来ることが多いが、内外の友人達とも|賑《にぎ》やかに訪れ、如才なく私をからかい、ビジネスの根回しなどし、数曲踊ってはサッと引きあげて行く。
「快楽は極むべからず」が彼のモットーだが、興に乗ればマイクを独占してジャズでもシャンソンでも軍歌でも際限なく歌いまくる。
康智は私の作戦参謀をもって任じてくれており、クラブを会員制にして名誉会員や特別会員をランクづけ、多額な入会金や維持費を取って成金達の競争心を|煽《あお》れとか、皇族を看板にしたパーティーを|催《もよお》したらなどと知恵を授ける。
果たして彼らは争って名誉会員になった。大阪から通って来る人まで現われた。
彼らは「世が世なら……」と泣かんばかりに喜ぶので、私は慈善事業をしている気分になるのだった。
さらに康智の発案で占領軍に大もての特別なショーや映画鑑賞会を開く。果たして、どれほど入場料をつり上げても|忽《たちま》ち超満員となるので、さすがに私も空恐ろしくなるのだった。
橘雅典は、康智と一緒でない時はいつも一人で来る。そんな時はブランデーを飲みなからバーの片隅でしきりに何か書いている。
「何を書いていらっしゃいますの?」とある時、私が|覗《のぞ》き込むと、
「小説です」と彼はぶっきら棒に答えた。
「小説? マアそれは素晴らしいご趣味をお持ちで」
「趣味じゃありません。……今の宮仕えは仮の姿でね、そのうち役所をやめるでしょう」
彼の口調はいつもそっけない。その|醒《さ》めた非情な眼の色は康智とも共通している。彼らにとって女などはゴミのような存在なのかもしれない。男同士の愛情に異常に敏感な私は、いつも二人のことが気になって仕方がないのだった。女の立ち入れない世界だけに好奇心がいや増すのだ。
二人は凡人には通じない会話を楽しんでいるらしい。しかし、近寄れば彼らは澄まして天下国家を論じているのだった。
ある夜、康智達の席にわが夫も加わっていた。夫にとって康智は偉大な先輩でありやさしい兄貴でもある。
「実はおかしな人物がいてね。嫁さんを頼まれちゃったんだ」
と康智が言う。小沢良平という経歴不明で年齢不詳、戦時中に軍関係の仕事をして巨万の富を築いたと評判の男がいて、嫁さんは何が何でも皇族か華族の姫君でなければイヤだ、と|駄《だ》|々《だ》をこねているのだという。
「家内の実家の祖父が宮内省の宗秩寮総裁だったもんだから、|貢物《みつぎもの》を持っては頼みに来るんで|放《ほ》ってもおけなくなったんだ。誰か、適当な姫はいないかなァ」
「|大和《やまとの》|宮《みや》の|栄《さき》|子《こ》女王はどうかしら?」私は夫を突っついてクスクス笑った。
「だって、お世辞にも美人とは言えないじゃないか。あのお姫様には参ったなァ」
実は夫がまだ十六歳の時に、同い年の栄子女王を宮内省から強引に押しつけられて、両親ともども平身低頭してひたすらお断わり申し上げたのだった。女王ももう二十五歳のはずだ。
「いや、美人でなくて結構、だと思うよ。オッサンはサラブレッドの血統証を|渇《かつ》|仰《ごう》してるんだから。その栄子女王とやらはなんとかならないかなァ。試しにお見合いをやらせてみようよ。場合が場合だから、履歴書や写真なんか交換しないで会わせるに限る。ミミちゃん、このクラブでお膳立てしてよ」
私達の遠縁にあたる、元皇族|大和《や ま と》|栄《さき》|子《こ》と「|怪物《モンスター》」と呼ばれる新興成金小沢良平との見合いは、コスモスが風にさわぐある日、クラブ・フェニックスでとり行なわれた。
大和宮家は明治天皇の直系であり、徳川将軍家の血も引く名門で栄子女王はその一人娘である。渋谷の|松濤《しょうとう》にあった御殿は焼けて、事務官の住居に三人の使用人とともに住んでおられる。
父宮は北京で戦病死し、母宮は伊豆で療養中のため老女が付き添って現われた。栄子は例によって能面のように無表情で、仕方なしに生きているふうに見える。なぜか縁談が調わないので、彼女は著しく人間嫌いになり|殻《から》にひそんでいるのだった。
良平はネズミのギャバジンの背広に黒のソフト帽という格好で、日高康智の夫人桃子に伴われてやって来た。彼は堂々たる|体《たい》|躯《く》とは不釣り合いな|甲《かん》|高《だか》い声をしている。
他人の世話をあれこれ焼いてあげることを生き|甲《が》|斐《い》とする日高桃子は、妊娠八ヵ月のおなかもものともせず、いそいそと私の手助けをしてくれる。|春日《か す が》公爵家から日高公爵家へ嫁いだが、公卿華族の姫には珍しく気さくで、庶民的でお人よしであった。
私はもと下級生の桃子を物陰に呼ぶと、
「小沢さんのあの帽子はナアニ? まるでアメリカ映画のギャングみたいだし、だいいち男性は屋内では帽子をとるもんでしょ」
とささやいた。桃子が言いにくそうに小沢に注意すると、彼はしばしためらった末に帽子を脱いだ。見ると髪の毛が一本もない。|唖《あ》|然《ぜん》とした私は|咎《とが》めるように桃子を振り返る。桃子は|悄然《しょうぜん》とし、栄子は平然とし、老女は呆然とした。
栄子は極端に無口で「エエ」「イイエ」と最小限にしか答えないから、会話は一瞬で|途《と》|絶《だ》える。一方、平清盛を|髣《ほう》|髴《ふつ》させる入道良平は、高貴な女人となんの話をしてよいか見当もつかない顔つきで、頭をやたら胸のハンカチーフで拭く。見かねて私は尋ねた。
「小沢さんのご趣味はなんでございますの?」
「……音楽でございまする」
「マア、それじゃあ|栄《さき》様もピアノを遊ばすから、ちょうどおよろしいわ。誰の曲がお好きでいらっしゃいますの?」
入道は途方に暮れて桃子を見る。
「ヨハン・シュトラウスがお好きなんじゃございませんの?」
「ヘエ、さようでございまする」
栄子と老女はそんなやりとりにはまったく関心を示さず、アメリカ製のアイスクリームをただ黙々と賞味している。会話はまるきり|噛《か》みあうことなくとぎれとぎれに交わされ、私は|屡《しば》|々《しば》客たちを|放《ほ》ったらかして配膳所に駆け込むと笑いころげた。
この珍妙な見合いのあと、小沢は早速|貢物《みつぎもの》を捧げて日高家を訪れ、是が非でも姫を|頂戴《ちょうだい》したいと申し込んだ。私が栄子に電話で意向を尋ねると「……どちらでもよろしい」との返事なので、これを承諾と解釈し、桃子の祖父春日元宮内省宗秩寮総裁が仲人となって婚約が成立した。
|華燭《かしょく》の典は帝国ホテルで|賑《にぎ》|々《にぎ》しく挙げられた。戦前の皇族や華族の上流ではリンカーンやキャデラックやビュイックなどの自家用車を家族が一台ずつ所有していたが、落ちぶれた今となっては一台もない。そこで結婚式の当日、小沢良平はある観光会社のハイヤーからバスに至るまでを総動員して、大和家の来賓の送り迎えを命じた。当日のその威勢は末永く語り草となったのである。
同じころ、侯爵令嬢山城芳子は平民実業家の桂木靖雄と結婚し、芳子の異母妹の絹子も日系二世の軍人ジョージ・須藤中尉と結婚した。山城侯爵の|寵愛《ちょうあい》を受けた祇園の名妓珠千代を母に持つ絹子は、まもなくハワイに永住した。彼女は子供には恵まれなかったが、社交の才能に恵まれ、三十年後にはハワイ日系婦人会を|牛耳《ぎゅうじ》るリーダーとなるのである。
この美人姉妹の結婚は「新時代にふさわしい」とマスコミに|誉《ほ》められ、これらのロマンスにはケバケバしい|尾《お》|鰭《ひれ》がつけられた。
第十一章 新しい旅立ち
昭和二十二年五月三日、新憲法が施行され、天皇は国民統合の象徴となられ、その第十四条によって華族制度は廃止となった。マッカーサー草案では、現に爵位を持つ者は本人限りそれを称号として用いてよいとしたものを、衆議院の一部が反対して、その長年|目《め》|障《ざわ》りだった貴族のタイトルをむしり取った。こうして戦前に父や近衛公爵が予言した通り、無血革命は現実となった。
これ以後、地位も財産も失った皇族や華族は斜陽階級・没落貴族と呼ばれて、悲劇と喜劇の両方の舞台に登場させられることになる。私は敗戦直後の食糧難と財政難には打撃を受けたが、いち早く始めたクラブが予想外にあたっていたから、平民となっても別にどうということもない。
私がこの大変動に平静でいられた|訳《わけ》は、かつて生と死の問題に悩み抜いた十五歳の冬の|夕《ゆうべ》、ある啓示を受けて自由人になっていたからだ。さまざまな悩みや|惧《おそ》れや束縛を|棄《す》て去ったのではない。はじめからそんなものは何ひとつなかった、ということを全身で|悟《さと》ったからだ。はじめから何も持たない何にも|捉《とら》われていない自分を発見して、ほんとうの自由を手に入れていたからだ。あれ以来、私は魂そのものを解放されて何ものにも|執着《しゅうちゃく》することがなくなった。この世は虹のような|虚《きょ》|構《こう》の世界であって、|唯《ただ》一つ確認できるのは自由自在な自分の魂だけなのだ。戦争があろうと革命があろうとそれは影絵に過ぎず、私自身は何も変わりはしない。ただ戦前の恵まれた生活の断片は“前世”の思い出として、はっきり|憶《おぼ》えておこうと思うのみだった。
同じ年の十一月には不敬罪と姦通罪も廃止された。他力によって“自由”なるものを得た女達は、脱線暴走してスキャンダラスな事件をまき起こす。新時代の合言葉は「自由」だが、彼らの得た自由とは形の上での勝手|気《き》|儘《まま》であり秩序無視に過ぎない。私は、醜態を演じる自堕落な女達をハラハラしながら眺めた。
もと華族の女達の中にも、マスコミの話題を集めた人が何人かいた。
まず、元子爵夫人の鳥尾鶴代。彼女が、美貌と巧みな英語と才気煥発な社交術をもって、アメリカ総司令部の高官や日本の政財界のお|偉《えら》方を手玉にとったことは、あまりにも有名な話である。
私も後日、彼女に会ったことがあるが、世間で言われるような享楽的悪女とは思えなかった。頼まれるままに、政治家達の公職追放の解除や実業家達の新事業の許可願いの口ききを、彼女はGHQの担当官にしてやったのである。敏腕と絶世の美男ぶりで知られたケーディス大佐とのロマンスもからんでいた。
のちに作家三島由紀夫は、マダム鳥尾をヒロインにして「女は占領されない」という芝居を書いた。人気上昇中の越路吹雪が鳥尾夫人に|扮《ふん》し、日比谷の芸術座で大ヒットしたものである。
近衛公の長女で、公爵島津忠秀に嫁いだ|昭《あき》|子《こ》は、「昭和のノラ」とジャーナリズムではやし立てられた。十八歳で見合い結婚をした彼女は夫と性格が合わず、離婚して出入りの指圧師・野口晴哉と再婚し、その後も仕合せに暮している。弟の近衛文隆は陸軍軍人として出征したが、戦後、近衛公の長男であったため帰国を許されず、長いシベリア抑留の末に病死した。
|愛親覚羅慧生《あいしんかくらえいせい》の天城山心中事件も人々の同情を集めた。彼女は、元満州国皇帝|溥《ふ》|儀《ぎ》の実弟・|溥《ふ》|傑《けつ》と|嵯《さ》|峨《が》公勝もと侯爵の孫|浩《ひろ》との間に昭和十三年に生まれ、「日満親善の申し子」ともてはやされたものだ。たまたま私が在学中に家政科で学習院付属幼稚園の保育実習に参加したとき、慧生はそこにいた。
「わたくし、満州からホテルに乗ってきたのよ」と彼女は愛くるしく話した。豪華船のことをホテルだと思っていたらしいのである。ひときわ目立つ美少女であった。
戦後、父はソ連に連行され、のち中国の収容所に抑留されたままで、彼女達一家は嵯峨家に身をよせていたが、学習院大学文学部の級友、大久保武道とピストルで心中した。彼女は二人の遺簡集「われ|御《おん》|身《み》を愛す」を残している。戦後の自由恋愛の典型ともいえるいたましい事件で、映画や流行歌にもなった。
作家太宰治はその不朽の名作『斜陽』のなかで、かつて存在した華族の社会への哀惜をこめて一人の貴婦人を浮き彫りにした。そのロマンは滅び去った貴族社会への|挽《ばん》|歌《か》でありレクイエム(鎮魂曲)でもあった。以来、“斜陽階級”という言葉が一世を|風《ふう》|靡《び》したのである。
一方、成り上がり族たちのさまも|滑《こっ》|稽《けい》を極めた。彼らは上流人らしく見せようと苦心し、世間の尊敬と信用をかち取ることに|汲々《きゅうきゅう》とした。
ある社長夫人は、夏のパーティーに毛皮の帽子とコートをつけて現われた。ミンクはステータスシンボルとして不可欠のものと信じてのことらしいが、人々は異常体質かと|怪《あや》しみ同情した。
また、さる|一《いっ》|攫《かく》千金男は|宏《こう》|壮《そう》な邸宅を新築したが、「うちの庭の|銀杏《いちょう》の大木は真夜中になると|啜《すす》り泣くのですよ」と触れ歩いた。公卿や大名など古い歴史を持つかつての上流家庭には、必ずマカ不思議な言い伝えが数多く残っており、亡霊の二つや三つは現われないほうが珍しい。そこで新興族はわが家に重みをつけるべく怪談を新造したのである。
上流階級があろうとなかろうと人々はそれに憧れ、模倣しようとし、皮肉を言い合う。人間社会は実にかずかずのおかしさに満ちているのである。
娘時代に私が主宰したいと夢みた欧州貴族風のサロンと雰囲気こそ異なるが、クラブ・フェニックスには新時代の第一線に立つ文化人達が続々訪れて敗戦後の|文芸復興《ルネッサンス》に一役買った。
二科会の総帥東郷青児は画家達を引き連れ、毎晩のように現われた。東郷画伯が私をモデルにした五十号の大作「S伯爵夫人の肖像」を二科展に出品すれば、同じくクラブの常連伊東深水画伯は桂木夫人芳子をモデルに「花蔭」を描いた。
名優の早川雪洲はタンゴを踊り、ジャズ界の旗手浜口庫之助はノー・ギャラで歌う。美術評論家の矢代幸雄や富永惣一、仏文学者の佐藤正彰、そして大蔵省の官吏から作家に転進した橘雅典も来た。元皇族の東久邇盛厚・成子夫妻、竹田|恒《つね》|徳《よし》・光子夫妻、のちに常陸宮正仁親王の妃となられる津軽華子嬢の家族達、のちにロッキード疑獄の立役者となる小佐野賢治と結婚した伯爵令嬢堀田英子、三井や安田の旧財閥一族、毛並みのよい外交官夫妻らがクラブを|彩《いろど》った。
しかし世界の平和は長続きしなかった。昭和二十五年六月、突如朝鮮戦争が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》し、進駐軍はただちに国連軍として出動した。
私はクランシー少将から至急会いたいとの連絡を受けて、壁の向こう側へとんで行った。サロンの中央に少将は後ろ手を組んで立っていた。
「朝鮮動乱のニュースは知ってますね。私も出動することになった。明朝早く出発しなければならない」
「エッ……オー、ノウ」
「あなたともファミリーともお別れだ。ミミサン、ありがとう、そしてさようなら」
クランシー少将は悲しげに別れを告げた。
「あなたからプレゼントされたたくさんの物は皆アメリカのケンタッキーの家に送った。私はそれを見るたびにあなたを思い出すでしょう。カガユーゼン、クタニヤキ、ワジマヌリ、カタナ、ゴショニンギョー、ビョーブ、ツイタテ、ヒバチ、カケモノ……私の家には入りきれないかもしれない……」
「ジェネラル、私達がとても困っていた時に助けてくれてありがとう。あなたがいなければ、私達は、どうなっていたかわからない。それなのに……私は勝手なことばかり言ってごめんなさい。私をわかってください」
「あなたは随分抵抗しましたね。難しいレディだった。こんな女性は初めてだった」
「ジェネラル、あなたもこわい人だった。あなたを一生忘れません。決して……」
ジェネラルはためらいがちに何かを言おうとした。その瞬間ドアが|慌《あわただ》しくノックされ、GIのボブが司令部からの電話を口早に告げた。
「では、さようならミセス・サカイ、幸福で」
少将は私の手をきつく握り、振り返りもせず出て行った。
ジェネラル・クランシーとの攻防戦は終わった。そして彼は、再び帰ることはなかった。彼が朝鮮から本国へ帰ったか、それとも帰らなかったか、たしかめることを私は|怖《おそ》れた。
既に少将の援助がなくてもクラブの経営は成り立つ状態にあったが、私はまもなくこれを閉じた。そろそろ本格的なレストランやナイトクラブが出現し始めており、この|素人《しろうと》商売もこの辺が|潮《しお》|時《どき》と思われた。何事も進撃より|撤《てっ》|退《たい》のほうが|難《むずか》しい。
私は未練を残してクラブを店じまいし、程なくYMCAの山手教室として装いを新たに再開させた。これからは学校経営だ。享楽の時は過ぎて、教育産業の花ひらく|資格《ライセンス》社会が到来しようとしていた。
昭和二十六年マッカーサー元帥が解任され、後任のリジウェイ中将(のちに大将)が来日した。そして極東空軍司令官のホワイトヘッド、タイガー、クラークらの公邸だった駒場の前田邸に入居がきまった。
そのころ母は|高《たか》|輪《なわ》の別邸に住んでいたが、リ中将夫人に呼びつけられた。この看護婦出身のリ夫人は病院の建物を理想と心得るらしく、邸内の壁絹をはがして白いペンキを塗ると宣言し、母を|仰天《ぎょうてん》させた。リ夫人は二世の通訳を通して次々に改装箇所を|厳《おごそ》かに言い渡す。母は通訳を|睨《にら》みつけ、
「お前はお黙り! 通訳を使うと間違いが生じるから、あなたと直接話しましょう」
と夫人をたしなめた。それまで低姿勢の日本人しか見たことのないリ夫人は|暫《しばら》くキョトンとしていたが、にわかに猫のようにおとなしくなり、
「私は日本女性と英語で話せるとは思いませんでした。悪く思わないでください」
と弁解した。しかし改装は|諦《あきら》めず、イギリス王朝風の邸内をアメリカ病院風に変えさせてしまったのである。
“最後の|侯爵夫人《マーショネス》”と外国人の間でも評判の高いわが母のプライドを示すもうひとつのエピソードがある。
皇后陛下の兄君久邇宮|朝融《あさあきら》王は、かつて母・菊子と七年に|亘《わた》る婚約の末、周囲の政略的な思惑が原因で本人の意思を無視されたままこれを解消させられた。
そして伏見宮知子女王を妃に迎えたが、二十二年に夫人は病死した。
一方、母も、夫が戦死して未亡人になっていた。朝融王の|姪《めい》にあたる成子内親王は、伯父が初恋の人菊子との再婚を望む気持を私に伝えて来られた。私が電話でこれを母に話すと、母は|言《げん》|下《か》に|一蹴《いっしゅう》した。しかし王は断念せず、母に直接電話をかけてくる。そのたびに母は居留守を使う。遂に彼は高輪の|邸《やしき》を訪れた。緊張に|蒼《あお》ざめ、王は帽子をとって玄関に|佇《たたず》んだ。
|暫《しばら》くたって前田家の女中頭を務めるたねが玄関に現われると、物腰だけはたいそう|慇《いん》|懃《ぎん》に、
「奥方様はお目にかかる必要はないそうでございますので、どうぞお引きとりくださいまし。|世《せ》|間《けん》|体《てい》もございますゆえ、これ限りのことにお願い申し上げます」
と拒絶した。母は昔の気弱な婚約者を振り通した。朝融王はその後さまざまな事業にかつがれては失敗し、一時は破産寸前に追い込まれ、昭和三十四年に寂しく死亡した。
そのころ、作家の小山いと子は、かつての婚約解消事件の原因は、母が義兄と密通したために起こった、という|卑《ひ》|猥《わい》な小説に作り変えた。前田・酒井両家は名誉|毀《き》|損《そん》で告訴するため、日ごろ親しい新聞社や出版社の社長達と会って意見を|訊《たず》ねた。彼らは、これは許しがたい行為だが裁判沙汰になればかえってその本を宣伝する結果になり先方の思う壺だから、ここは思い|留《とど》まったほうがと勧告し、やむなく両家はそれを受け入れた。
昭和二十年代の後半に日本の|社交界《ソサエティ》を|席《せっ》|捲《けん》したのが在日外交団、|即《すなわ》ち各国の大使館員である。ほとんどの外交官は妻子を伴わずに単身で赴任し、仕事のかたわら日本婦人と|刹《せつ》|那《な》的な情事を楽しみ、二、三年後には渡り鳥のように飛び去って行く。彼らは、「東京バチュラ(独身男)」と呼ばれて大いにもてた。
わけても、その花形は中南米の男達である。第二次大戦後、ヨーロッパ諸国は戦前の威光も衰えて色|褪《あ》せ、代わって登場したのがラテンアメリカの人々であった。
クーデターやゲリラ騒ぎに血道をあげる彼らは熱血漢で、野性の血とラテンのスピリットを併せ持っている。混血の彼らに共通するものは、燃える|眼《まな》ざし、いわくありげな長いモミアゲ、黒豹のような肢体、イタリー男も遠く及ばぬ|口《く》|説《ど》き上手、ダンスとベッドプレイの名手といったことだ。
外交団はそれぞれ自国の|国祭日《ナショナルデー》(独立記念日か元首の誕生日)に大々的なレセプションを催し、それ以外にもパーティーをひんぴんと開く。私や桂木芳子の|許《もと》にも、同日同時刻のパーティーの招待状が五、六通は舞い込んだ。幾つかのパーティーを回り、最終の会場を引きあげる時も、まだ踊り足りず飲み足りない彼らは、日本のミスやミセスをパートナーにし、車を連ねて赤坂のナイトクラブ、ラテンクォーターやコパカバーナに乗り込む。ホテルに消えるカップルもあった。
なかでもブラジルの一等書記官ジョゼ・ガルシヤ・ロドリゲスこそ歓楽のために作られたような男で、その美男ぶりはアラン・ドロンを|凌《しの》いだ。有閑婦人たちは彼を奪い合い、遂に桂木芳子のアマン(情人)となった。
桂木財閥の|御《おん》|曹《ぞう》|子《し》靖雄と結婚して女の子を産んだ芳子は、あまりにも生まれや育ちの違う夫としっくりいかず、ジョゼと遊び回る。戦争のおかげで|辛《しん》|酸《さん》を|嘗《な》め暗黒の青春を送った彼女は、その反動で快楽主義者となった。どうせ泣いても笑っても一度の人生、何を|律《りち》|義《ぎ》に生きることがあろう。明日は明日の風が吹き、なるようにしかならないさ。今を楽しんでやれ、ケ・セラセラ、ケ・セラセラ……。
まもなく彼女と彼の情事は雑誌に|暴《あば》かれてあまねく知れ渡り、桂木夫妻は離婚した。ジョゼと再婚するつもりが、彼は本国の夫人を同伴させられ、中近東に左遷される。傷心の芳子は娘も引き取れぬまま実家に戻り、いよいよ|頽《たい》|廃《はい》的な生活に没入していった。
そのころ私は、三人の息子(次男は病死してしまったが)と一人の娘の母となり、しばらくは育児に専念した。もうこれ以上子供ばかり産むのはやめにしよう。それよりも大事な二男一女をバッチリ育てようと決心した。自宅出産で手遅れのために次男を急死させたことは、生涯あきらめきれぬ悔恨として残った。子供は抵抗力のつく十歳ぐらいまでは健康面で細心の注意を払って育てないととり返しのつかないことになるという教訓を、大きすぎる犠牲を前に|肝《きも》に銘じた。幼児は小鳥のように|脆《もろ》い生き物なのである。
新宿区戸塚町の家はジェネラル・クランシーが朝鮮動乱に急遽出動後、家族連れの大佐や民間人一家が移り住んだが、まもなく接収は解除され“USハウス”の看板がはずされた。ただちに邸を印度大使館に売却し、中央競馬会理事長や復光会会長などをしていた舅と姑は三鷹台の新居に移り、夫と子供三人と手伝いの者一人とで新宿区若葉町の現住所に引っ越してきた。二十八年四月である。
忠紀、美津子、忠澄の三人の子供達は、歩いて三分の距離にある学習院初等科に通い始めた。同じ学習院でも夫や私が学んだころとは大幅に変わっており、初等科は男女共学になっていた。私は三人の子の十日目ごとの授業参観日には、朝から六時間目まで聴講した。自分自身のためにも新かな|遣《づか》いや社会科をノートし、図書館に入りびたった。父母会常任幹事としての用事も多く、私はほとんど毎日学校へ行っていたのである。その意味で教育ママのハシリといえるかもしれないが、現在の教育ママとはまったくニュアンスの違うものであった。
当時、戦後社会に|蔓《まん》|延《えん》した自由主義を放任とはき違え、個性尊重を早とちりして、子供をホイホイ甘やかす風潮が現われ始めていた。しかし戦前、とくに大名華族の家庭では、きちんとした教育や|躾《しつけ》がなされており、男子は質実剛健に育てるべくスパルタ的ですらあった。私達は子供の将来のためにそうあるべきだと信じた。
また、西欧諸国でも躾は極めて厳しく、それは昔も今も同じであった。
「人は生まれながらに人であるのではない。人になるのだ。人になる前は何かといえば、それは子供であり、子供とは未だ訓練されざる動物[#「未だ訓練されざる動物」に傍点]である」
と断言したのは、近代合理主義哲学の父といわれたデカルトだが、この考え方は西洋人の基本的、伝統的な考え方である。“子供とは、天使のような面と野獣のような面を|併《あわ》せもつもので、これを人間に仕立て上げるのが、親のそして大人の義務である”と、良識ある西洋人は信じている。私もこの義務感に全面的に賛成であって、放任などとんでもない話だと思っていた。
子供を未開人のまま放置したら、その結果、衝動的で利己的で他人の迷惑を|省《かえり》みない“未熟人間”ができあがることは目に見えている。その子にとってもこれほどの不幸はない。
親はとにかく、何が善で何が悪か、右も左もわからぬ無知な子供に人間社会の仕組みを教え、周囲にどう適応し振る舞うべきかを指示する義務がある。|物《もの》ごとの善悪、美醜、けじめ、社会のルールなどは誰だって生まれながらに自然にわかるものではない。誰かに教えられ初めて理解するものなのだ。
教育学者ペスタロッチは「教育とは引き出すもの」と名言を吐いたが、引き出すとともに子供にとって必要な知識は充分に注ぎ、与え、補うべきだと思い、実践した。子供達が初等科時代は、夫も私も彼らの上に君臨していた。
「これだけはちゃんとおぼえなさい。もういっぺんやり直し。そう、それを忘れないのよ」
「絶対にそれをやっちゃいけません。あなたがもし人からそうされたらどうかしら? イヤでしょ。じゃ、あなたもやってはダメ」
と絶対服従を強要した。幼児期、私も夫もそのように育てられ、それが最良の方法であることがわかっていた。この基本的な躾には封建主義も民主主義もなく、時代や国境を越えたものであると私達は確信した。
具体的に手とり足とり、復唱させ、おぼえ込ませ、ほめてやる。それは犬や馬の調教と大差ない。欧米人はそのようにして子供を訓練し、一人前に仕立てていく。私達もそれを当然と思い、そうしたのであった。
いま、成人した息子や娘が、こんどは自分の子供達をそのように仕込んでいるのを見て、やはり、あれでよかったのだと思うのである。
躾け方として特に注意した点は、“想像力を豊かに育てること”と“自分自身を客観的に見ること”をしむけることであった。想像力が豊かであれば、他人の気持や立場を察するのに敏感となり、人間関係がスムーズにいくようになる。また、自分を客観的に他人の目で眺められれば、自律的美意識が高まり、言語や動作、|立《たち》|居《い》振る舞いがカッコよく洗練されていく。
小さいうちほど厳しくこまやかに、中等科、高等科、大学と成長するにつれ、だんだんに|手《た》|綱《づな》をゆるめ、子供と密着しないよう徐々に距離をおいていく。そして子供自身の自主性を重んじ、認め、一人立ちさせる。
理想論を唱えるのは簡単だが、これを実行するのはなまやさしいことではなかった。しかし同じ教育や躾を受け、同様の信念をもつ夫と共同作業ができたから、子育ての難事業もまずまず|大《たい》|過《か》なくやり|遂《おお》せることができたのであった。両親のやり方がバラバラだったら、躾は見事失敗し、子供から恨まれる破目になったことだろう。夫は|従兄《い と こ》だから気心が知れており、説明しなくてもお互い|解《わか》り合える。やはり夫は、彼をおいてほかにはなかったと私は思った。
戦争直後、会社を作ったり|壊《こわ》したり苦労を重ねていた夫の、新しい貿易会社も軌道に乗り、私達夫婦は結婚十年目になって、ようやく旧婚旅行に京都へ出かける余裕を得たのだった。戦後の十年はまたたく|間《ま》であった。戦前を振り返る暇すらなかった。
私のために献身的に尽くしてくれた相原八重野は、長い苦労がたたって病死してしまった。
時代が高度成長期にさしかかった昭和三十年代、皇室にも明暗こもごも相次いだ。
三十四年、皇太子明仁親王と日清製粉社長正田英三郎氏の長女美智子嬢の成婚に、人々は“新時代の到来”を叫んだ。
天皇家の次男、義宮(のちの|常陸《ひたちの》|宮《みや》)正仁親王と、もと津軽藩主|末《まつ》|裔《えい》、もと伯爵津軽義孝氏の三女華子嬢の成婚に、人々は“上流社会の復活”をささやいた。
末娘の|清宮貴子《すがのみやたかこ》内親王は、もと伯爵家の島津久永氏と結婚されたが、それに先だつ記者会見で「私の選んだ人を見てください」の名言を吐いて大評判となり、これが流行語になった。
これらの慶事の反面、第一皇女・東久邇成子夫人がガンで逝去した。「享年三十五 内外皆その徳を慕ふ」とその|墓《ぼ》|碑《ひ》|銘《めい》にある。これほどプリンセスとお呼びするにふさわしい方があったろうか。彼女こそ名実ともに皇女であった。戦後一平民に零落され、更にいっそう貴婦人らしかったことを私はただなつかしく、ひたすら惜しく思うばかりであった。青山斎場には炎暑の折にもかかわらず七千人を越える人々が集まりお別れを惜しんだ。そしてきちんと制服を着て居並んだ三男二女の幼い遺児達に新たな涙を|拭《ぬぐ》うのであった。
成子夫人の妹君のもと|孝宮《たかのみや》和子内親王もまた、思いがけない悲劇にまき込まれた。夫の|鷹司平通《たかつかさとしみち》氏がガス中毒で事故死した。彼の傍にバーのマダムも死亡していたことで、世間はさまざまに取り沙汰し、和子夫人の誇りはズタズタに傷つき、いつまでも|癒《い》えることはなかったのである。
第十二章 我が道をゆく
話が多少前後するが、戦中戦後にかけて乱れに乱れていた世の中がひとまず落ちついて、“衣食たりて礼節を知る”時節が到来しようとしていた昭和二十六年、読売新聞社長の正力松太郎が母の前田菊子を訪れた。彼は加賀藩士の|末《まつ》|裔《えい》である。
正力社長は礼節が地に落ちた現状を|憂《うれ》い、これから読売新聞の朝刊に「エチケット相談室」を毎日掲載し、全国の老若男女から質問を集めたいと語り、母にその回答をと要請した。
母は前述の久邇宮事件の被害者として国民各位の同情を集め、その後も婦人雑誌などに掲載されて知名度が高かったのと、日本の伝統的礼儀作法とともに欧米のマナーを実地に体験し精通していたから、エチケットの指南役としてご指名を受けたのだった。
三十九歳で戦争未亡人となり、ひっそりと写経に明け暮れる日々を送っていた母は、にわかに仕事を得て|甦《よみがえ》った。新聞への掲載が始まると、待っていたかのように雑誌、ラジオ、テレビ、単行本、講演、講義の依頼が殺到した。アッという間に母は“時の人”になってしまった。
かつては上流社会で必要とされ整備されていた数々の交際上のルールは、社会の民主化にともない生活全般の洋風化につれて、標準的日本人のために|衣替《ころもが》えする必要に迫られていた。何を従来の形のままで残し、何をどう変形させ、何を捨て去るか、まったく異質の日本と欧米諸国の風俗習慣をどう両立させ融合させ、|納《なっ》|得《とく》いく形で打ち出していくか。母はいちいち「戦前までの日本ではこうしていました。欧米ではこれこれです。現在の日本ではこのへんが|妥《だ》|当《とう》でしょう」といった調子で冠婚葬祭のしきたりや交際上の各種の約束ごとを解説した。当時の社会に見合った新しい様式をも編み出した。
母はフル回転して仕事に打ち込み、すでに結婚していた私も毎日資料集めや原稿の清書などの手伝いをした。母の|傍《かたわ》らで、私もこのような社会と直接かかわりのある仕事をしたい、と切実に望んだ。
やがてその時が来た。三十四年、母が三ヵ月ほどアメリカへ旅行することになり、種々の連載やテレビのレギュラー出演を中断するわけにいかず、その代役を私に、ということになった。遂に出番が来た。
まず東京YWCA学院の教壇に立つ。学院の教養部本科、専科、英語部本科、秘書養成科シニアコース、ジュニアコースは、いずれも必修科目としてエチケットをおいている。
初めての授業は「服装のルール」。観音様、お願いです。誰にも質問させないでください、と念じつつ夢中で|喋《しゃべ》る。いっせいにノートをとる学生達を見ているうち、間違ったことを教えてしまったらどうしようと身をすくめながらも、教えるとはなんと快いものか、先生|稼業《かぎょう》は一生やめられなくなりそう……、とうっとりした。
次いでTBSテレビ(当時KRT)に出演する。毎週火曜日、午後零時四十分から一時までの|帯《おび》番組である。「みんなのエチケット」というタイトルで、毎回いろいろなテーマをとりあげ、モデルを使いながら説明する。
一回目は「紹介の仕方」。台本のための要点を書いて渡し、二人のディレクターと打ち合わせをし、前日はカメラリハーサルというわけで一週間は飛ぶようにたつ。ナマ放送だから、始まったら最後、なんとしてでも格好よくおさめなければならない。まさに真剣勝負だ。初めは神経がクタクタになったが、一ヵ月もすると、もう面白くて面白くて、この番組がなくなったら私は抜け|殻《がら》になりそう……と心配した。
程なく週刊誌や月刊誌の記者達が、ぞくぞく来始めた。「テレビを拝見しまして、うちでもエチケットをやることになりました」と言う。もうボヤボヤしていられなくなった。仕事の依頼はジャーナリズムだけではない。個々の職場のマナーについて語ることが求められた。秘書としての、セールスマンとしての、ウェイターとしての、看護婦としての、スチュワーデスとしての、新入社員としての……私は種々の会社や銀行、デパートやホテル、病院、工場に出かけて行った。
そしてまた、母校の学習院など幾つかの学校、PTAの集会、婦人団体、海外旅行会、映画撮影所、タレント養成所、結婚相談所、農協中央会等々……。
私はそこで多くの人々に会い、マナーについて語りあった。そして再認識したことは、このタテ社会における基本的な倫理感は戦前とさほど変わっておらず、日本人は保守的で、知人の前では[#「知人の前では」に傍点]恥を鋭敏に感じ礼儀作法を気にする、実にきちょうめんで真面目な民族であるということであった。
打ち込むに価する仕事を与えられて、生き甲斐と充実感をおぼえつつ、私は三十代を忙しく生きていた。
ここに、私にとって画期的な事件がもち上がった。
三十四年から「マナー」「エチケット」を表看板にして、執筆や出講などの仕事を始めていた私は、多くの新聞社や出版社とも親交を深めつつあった。その中でとりわけ親密だったのが、当時全盛時代を|謳《おう》|歌《か》していた光文社の週刊誌「女性自身」である。
四十年の八月初め、児玉隆也編集次長から電話を受けた。彼はのちにルポライターとして活躍中に病死したが、目から鼻へ抜けるような典型的なジャーナリストであった。
「先週号の『|兄弟《あにおとうと》両殿下への提言』、お読みになりましたか?」
彼はさっそく切り出した。サブタイトルに「皇太子 常陸宮 そのご結婚の差から考える」とあるその文章を私はたしかに読んだ。読んだどころか、アタマにきていたのだ。
筆者は皇太子のご学友で、共同通信記者の橋本|明《あきら》である。その論旨を要約するとこうなる。
“天皇家の次男、常陸宮の妃華子様が旧華族の出身であることが気に入らない。現在、平民出身の美智子妃は皇室内で孤立しておられるが、それは皇室をとりまく旧皇族や旧華族がそのように|画《かく》|策《さく》しているからだ。旧皇族・華族のこの罪を絶対に許してはならない”という見当違いな暴論である。
たとえば、“皇太子は戦後初期のあまりにひどい旧華族達の腐敗ぶりと、手前勝手な生活を見て、「旧華族の上流からは|妃《きさき》を求めない」という信念を持たれ、美智子嬢と結ばれた”といった|高《たか》|飛《び》|車《しゃ》な調子で華族への攻撃が続く。
「(略)――皇太子の“人を見る目”も実はこうした華族制度、とくに巨大な財産に守られた公、侯、伯爵本家内で育てられた娘が、どの程度信頼をおけるかという価値判断となって注がれたといえる。二十三年(二十二年の間違い)五月新憲法が公布されると同時に華族制度は消滅した。すべてを失い、存在の基盤をうばわれた元華族が、どのようにノタウチ、かつての名誉を自ら|汚《けが》し、|醜態《しゅうたい》を演じていったかは、パノラマのように皇太子の目に|映《うつ》っていったのである。皇太子は、彼らとの永遠の訣別を心に誓った。――」(原文のまま)
「――反美智子妃派をつくり、皇太子ご夫妻を旧派でかためようと考えた勢力とは、戦後完全に消滅したはずの旧皇族、旧華族である。
これら“まぼろしの幽霊部隊”は、いつのまにか皇居の周辺にあって幻想的な旧支配者層の、笑うべき世界観をもちこんで、皇室の内部分裂にすべてを打ち込んでいるのだ。
しかも彼らは、常陸宮妃選考の結果に|快《かい》|哉《さい》を叫ぶ集団である。彼らの存在を、国民が許してよいものかどうか。――云々――」(原文のまま)
以下、このような|罵《ば》|詈《り》|雑《ぞう》|言《ごん》が続くのである。何を書いたって、能なしで腰抜けの華族の連中は泣き寝入りするしかないだろう、という|魂《こん》|胆《たん》がチラチラみえて、私はムカムカした。
彼の「ご感想いかがでした?」に、私は言った。
「事実に反する箇所が多いし、随分独断的でヒステリックですね」
「じゃ、旧華族の立場で、ぜひ反論をお願いいたします」
「私が? とんでもない。男の方に適任者がおありでしょう。だいいち今、それどころじゃないの。明後日からヨーロッパへ行くんですもの」
断わりながら、待てよ、と考えた。
「この記事の反響はいかがでした? 支持と反対とどちらが多かったですか?」
「それがほとんどが橋本さんの意見に反対なんです。もの|凄《すご》い反響なんです」
こりゃ面白くなった、と私はひそかに思った。やってみようか。だが、やり|損《そこ》なったら命とりになる。叩かれて立つ瀬がなくなるだろう。しかし、やろう。旧華族は戦後、いいように攻撃され嘲笑されて来た。みな、黙って耐えて来た。もう限界だ。このまま引っ込んだら、何度でも蒸し返される。放っておいてはいけない。このへんで釘をさしておかねば! だけど、コワイ……。
私の気持はなおも揺れ動いたが、彼は必死で説得し、遂に私は承諾した。それにしても出発寸前のスケジュールびっしりで、書く時間がない。ところが、電話が切れて三十分後に彼はライター、速記者、カメラマンを連れてすっとんで来た。橋本明への批判の投書もかつぎ込んだ。なるほど予想を上回る分量だった。私は言葉を選びながら慎重に話し、翌夜届いたラフ原稿に加筆して、手渡した。
夫は旅行の荷作りをしながら、何をいつまでやっているのか、とせきたてるので「マナーの原稿が手間どっちゃって」と弁解した。反論を書いているなどと言ったら、夫は腕ずくで止めにかかったに違いない。私はその反論を、
「このたびの橋本さんの文章を読み、まず私は、現代の若い人々が、この一方的で、断定的な見解を盲信しては困る、という恐れをいだきました」
と、始めた。
「――もちろん、その記述のなかにあるような、『あまりにひどい腐敗ぶりと、手前勝手な生活』をしていた華族も、一部にはございましたでしょう。しかし、それはあくまで一部の問題ではなかったでしょうか。
私どもは、歴史の上に名をつらねた自分の祖先を、愛しております。|誇《ほこ》りをもっております。その名をけがしたくない、という自負をもっております。気軽にデタラメができるわけがないのです。
支配階級としての自覚ももっておりました。私どもはイギリスの貴族をモットーとしてきたのです。社会のために有意義な存在であろうと努力してきたつもりです。今後も生きているかぎり、この信念を捨てはいたしません。
言論の自由の世であるのを幸い、私は女だてらにあえて一言|呈《てい》しましょう。“華族の真実の姿をよく見てください!”と」
こんなふうに続け、|正常《ノーマル》な考えをもつ華族の人々が戦前戦中戦後をいかに生きたかを率直に述べた。華族という特権階級に対する根強い|嫉《ねた》みや反感にどれほど悩まされ、ことあるごとに色メガネで見られた不愉快な実例も幾つかあげた。更に反論したい六項目については、対抗上語気を強め、たしなめた。
「こうした極言が、まじめに建設的な意欲をもって、戦後の混乱をのりきってきた旧華族全般を傷つけたとしたら、なんといって釈明するおつもりでしょう。まず『言いすぎであった』と、紳士らしく謝罪なさいませ」
「いったい私達が、皇室の内部分裂に|狂奔《きょうほん》したところで、なんのトクになるというのですか。この筆者のお説では、私どもは消えてなくならなければいけない、ということのようですが、これは非礼をきわめたことばというほかはありません」
「現在は、華族は存在しないのです。私どもは精神的にはあくまでも貴族のプライドを持ちつづけていますが、身分は平民です。私どもを疎外しなければならない理由はないはずです」
「そもそも、義宮(常陸宮)妃決定の重要ポイントは、皇后様にあったと|承《うけたまわ》っております。理性的で親思いの義宮様が、妃は両陛下、ことに皇后様に気に入っていただけるかたをと望まれたと伺っております。皇后様が華子様をお気に入りになり、話はトントン拍子に進んだという、このご|親《しん》|子《し》の情愛の美しい発露を、なぜ悪意で解釈しなければならないのでしょうか」
「常陸宮妃の場合をとって逆行という人がいますが、これは誤解です。皇族と華族とは近い関係にあり、交際も自然とひんぱんに行なわれます。したがってご結婚へのコースも、ごく当然のなりゆきなのです」
最後に私は、この論争の発端となった美智子妃と華子妃へ進言する形をとってしめくくった。
「最後に美智子妃、華子妃両殿下にお願いしたいことは、つとめて数多くの人々と直接会われて、言葉を|交《か》わしていただきたいということです。(略)何より大切なことは、両妃殿下がほんとうにうちとけ合われて、お姑様の皇后様を大切にお立て遊ばすことでございましょう。なにとぞ、雑音に耳をかさず、神経を強く持って、妃殿下にしかできない[#「妃殿下にしかできない」に傍点]意義あるお仕事をなさってくださるよう、ひとえに祈り上げております」
三週間のヨーロッパ旅行を終えて帰国すると、大変な騒ぎになっていた。ありとあらゆる出版社やテレビ局が押しよせて来た。スポーツ新聞やインテリア専門誌までやって来た。
それから何ヵ月もの間、私は朝から夜中まで(ほんとうに深夜も電話がかかってきた)皇室の実情、美智子妃と|常磐《と き わ》会(女子学習院の卒業生の親睦団体で、名誉総裁が皇后陛下、名誉会員が各皇族妃殿下)の間柄、元皇族や元華族の生活と意見といったことについて話し続け、書き続けねばならなかった。過労のあまり、胃カイヨウになりかかったほどである。もっとも、それは酒豪|揃《ぞろ》いのマスコミ|人《びと》と飲みすぎたせいもあるけれど……。
それまでは「マナー評論家」という肩書きがつけられていたが、児玉隆也が名付けた「皇室評論家」がもてはやされた。彼はのちに「酒井美意子を売り出したのはボクだ」と人に語ったそうだが、たしかにその通りで、そのほか、このブームのきっかけを作り、結果的にジャンプ台にされてしまった橋本明にも感謝しなければなるまい。
折も折、その三ヵ月後に同じく光文社のカッパブックスから、皇太子のご学友で皇太子をモデルに『孤独の人』を書いて文壇にデビューした作家・藤島泰輔が書いた『日本の上流社会』が出版された。これが売れに売れて忽ちベストセラーになった。この本や彼がその後に出した『上流夫人』など、ともに私たち家族は全面的に取材に協力し、|語部《かたりべ》としての私は息をつく暇もなかったのである。
私は何も好き|好《この》んで、皇室やハイソサエティの内幕を暴露したのではない。戦後三十数年たった今もなお、皇室は依然菊のカーテンで|蔽《おお》われ、内奥を|窺《うかが》い知ることが難しい。同じくいわゆる上流社会も昔から霞に包まれていて、実体はなかなか掴みにくい。そのためにさまざまな|憶《おく》|測《そく》が生まれ、興味本位のデマがまことしやかに入り乱れる。いい加減な想像や作り話や偏見や独断がはびこりすぎているのである。
たとえば美智子妃は、ご自身をモデルにした小説が事実に反していることにいたくショックを受け、傷つかれたという。その小説は某誌に連載中に問題となり中断されたが、私情をまじえぬ良識と正確な実情把握をもって書かれない記事が、関係者に及ぼす迷惑ははかりしれない。この有害な誤解をでき得る限り防ぎたい、故意に曲げられていることを訂正し真相を告げたいというのが、当時も現在も変わらぬ私の真情なのである。
皇室評論家なるおかしな帽子をかぶせられて奮闘していたその|最《さ》|中《なか》、マスコミ界の帝王と|崇《あが》められる|大《おお》|宅《や》|壮《そう》|一《いち》と対談する機会があった。「週刊文春」の“大宅壮一・人物料理教室”で|俎上《そじょう》にのせられたのである。
築地の田村(懐石料理)で、初対面の挨拶が終わるや否や帝王は開口一番|訊《たず》ねてきた。
「いろいろ本を書いていらっしゃるんですね。マナーがご専門なんですか?」
「専門などとおこがましゅうございます。ほかに能もございませんで」
「ほんとにご自分で書かれるんですか?」
「ハイ、へたな文章でお恥ずかしゅうございますが……」
「ア、そうですか。ボクはまた、家老が全部書くのかと思った」
私は吹き出して、すっかり打ちとけた。彼の毒舌は天下に鳴りひびいており、人物評論は“|真《まっ》|向《こう》|唐《から》|竹《たけ》|割《わ》り”とかで、私はどういう目に合わされることかと生きた心地はしなかったのである。帝王は、矢つぎ早に訊ねる。
「ところでね、素っ裸にしたとき、急いで前を隠すのが平民で、平然としてるのが華族なんですってね。そこで区別がつくんですな」
私は「マア……」と言ったきり、二の句が継げない。彼はまじめになったりふざけたり変幻自在、二時間は飛ぶように|経《た》ち、私はすっかり大宅ファンになってしまっていた。氏は暖かくデリケートで、こちらの言わんとする真意を正確に察知することにおいては、超人的な能力の持ち主であった。
後日、「世間知らずなお姫さんを、さんざんからかってやろうと思ったら、キミ、ありゃ、本ものだよ」
と方々で語っておられたと人づてに聞いて、私はこれほどうれしかったことはない。
今後、マスコミとかかわって仕事を続けるにあたり、どうすべきかということについて、私は大宅壮一に教えを乞うた。師匠はやさしく、まじめに教え導いてくださった。
「あなたは今、大事なときだ。うまくやるこってすな。原稿にしろ講演にしろテレビにしろ、依頼があったら片っぱしから引き受けなさい。どんなつまらんテーマだと思っても、聞いたこともない出版社だと思っても、断わっちゃいけませんよ。少しぐらい病気でも絶対断わっちゃだめです。アイツなまいきだ、お高くとまってやがるってことになりますからね。
マ、ここ当分はマナーやエチケット、加賀百万石、皇室評論家の三本立てで売りまくるこってすな。はじめからあんまりいろんなことに手を出しちゃいけません。専門をガッチリ守って深めていくんです。こと専門に関しては、一歩も譲らず堂々と発言するこってすよ。
たまにはホームランもかっとばさなきゃいかん。この間あなたがやった反論、あれがホームランだ。だからマスコミの連中が目の色変えてイナゴのようにとびついてきたでしょ。チャンスはここぞというとき自分で作るんですよ。
そうやって、名前がかなり知れ渡ったなと思ったら、徐々に仕事を|選《え》り好みしていくんです。もうつまらん仕事をやっちゃいかん。申しわけないが時間がなくて、ってていねいに断わるんですな。
そうして一日も早く、名前の上に肩書がつかんでも通用する人間になるこってす。やれ、おヒメさまだの伯爵夫人だのって飾りがチャラチャラつかなきゃわからんようじゃあ、まだだめだ。何もつかなくても通用するようになって、はじめて一人前なんですよ。それは、これからのあなたの仕事に取り組む姿勢と、やった内容次第です。しっかりおやんなさい」
その温情|溢《あふ》れる言葉にうなずきながら、私は幾たびも目を|拭《ぬぐ》った。厚意が身にしみた。あの早口の声音は今も耳に鮮やかである。
大宅壮一はマスコミ塾を経営していたが、その門下には言論界の中枢にあって活躍する幾多の人材がひしめいていた。いずれも一騎当千のつわもので、マスコミの売れっ子であった。
その大宅一家の中で彼の高弟であり後継者であると|目《もく》されていたのが草柳大蔵であった。
眉目秀麗な|顔《かんばせ》、精力的な取材と研究、溢れる博識、|明《めい》|晰《せき》な頭脳を思わせる整然とした文体は、つとに名声が高い。東大を卒業後、雑誌編集者、新聞記者を|経《へ》てルポルタージュに新生面をきり拓いた。『現代王国論』『実録満鉄調査部』などのハードなものから、芸術論、人物論、女性論などを次々に発表し、今もめざましい活躍を続けている。
こうして私もマスコミの中で仕事をする以上は、彼のような多彩で手堅い仕事がしたい。仕事に生きる人間の理想像と仰ぎながら、私より二歳年長である彼を、ひそかに「兄貴」と呼んだ。彼は機会あるごとに私を書籍やテレビの対談の相手役や講演のコンビとして起用してくださった。それは何よりも有難いことであった。
あるとき私は執筆の心得について訊ねた。書く視点がどうもわからなかったからだ。すると彼はにこやかに、明快に答えてくれた。
「それはね、自分の書きたいことを書くんではないんですよ。読者の読みたいことを書くんです。これはボクの尊敬する長谷川|如《にょ》|是《ぜ》|閑《かん》先生が、|駈《か》け出し時代のボクに言われたことなんで、以来、|座《ざ》|右《う》の銘にしてるんです。なかなかできないことなんですね」
眼からウロコが落ちた、とはこういうことかとその時思ったものである。
もう一人、「兄貴」と呼ぶ人物がいた。学習院で一年上級の作家・三島由紀夫である。私は彼の熱烈なファンで、その作品の好きな箇所、とくに絶妙な自然描写のくだりはノートに書き写して、言葉の選定や文章の構成を学んだ。
彼は好んで、あの失われた華族の世界、戦時中まではたしかに存在した日本の上流社会を舞台にして美しい作品を発表した。今は崩壊したあの社会の生活様式や言葉|遣《づか》いや、ものの考え方を克明にメモし、それを彼一流の美意識のもとに物語りとして再現させた。
|畢《ひっ》|生《せい》の大作で、長い間ベストセラーの座にあった『春の雪』の執筆中、彼は前田家の鎌倉の別荘を訪れた。そのロマンに登場する|松《まつ》|枝《がえ》侯爵の別荘のモデルとするため、長時間にわたって庭や裏山を歩き回って、何ごとか書き綴っていた。(ただし、当の松枝侯爵は私の父ではなく、恐らくは架空の人物である)
ある時彼は、|隼《はやぶさ》のような瞳で私を見つめながら愉快そうに語った。
「ミミはまったく非日常的な人ですね。こんなご婦人を日本では初めて見ましたよ」
「アラ、それは|誉《ほ》められたことになるのかしら?」
「そうお思いになりたければ、どうぞご自由に」
そして彼は|傍若《ぼうじゃく》無人の笑い声を立てた。なんという憎らしい人間だろう。なんという気になる男だろう。世俗にまみれているように見せかけながら、現実の日常生活にさっぱり関心の薄い私の正体を、見破ったのは彼だけであった。
自衛隊に突入して決起を促し、自害して果てたニュースを聞いたとき、私は「ああ|惜《お》しい……」と嘆き続けた。彼の残した文章は、並の人間が一生涯かかって努力を重ねたところで、書けるしろものではない。あのような天才は、ごく|稀《まれ》にしか現われはしない。あたら才能をむざむざ|葬《ほうむ》り去るとは! なんともったいないことをしてくれたものだ。日がたつにつれ嘆きは憤りに変わっていった。だが、天才は次元の違う世界に|棲《す》んでおり、あの死はわれわれ凡人には永遠の|謎《なぞ》として深まるばかりである。
さて、いやしくも評論家として世に出た以上、目ざすお手本は草柳大蔵であった。大宅壮一に指示された通り、私はその仕事の中心に「マナー」を|据《す》えながら、人生論、恋愛論、男性論、女性論も書き続けた。また、歴史に題材をとり、わが先祖達がいかに生きたか、戦国動乱の世に百万石の領土を|治《おさ》め、これを三百年にわたって持ちこたえた大名経営学を『君主学入門』(兄・前田|利《とし》|建《たつ》との共著)として出版もした。いずれも書きたくてたまらなかったテーマであり、書き残したい衝動をとても押さえることはできなかったのである。
その|間《かん》、私は功成り名とげた幾多の先輩に引きたてられ、善意の友人達に支えられ、すぐれた編集者諸氏に助けられた。感謝の言葉も見つからない。著書も四十七冊になったが、それらの本に、私一人の名前しか記されないことに、いつも申しわけなさで一杯になるのであった。これら先輩知友の協力がなかったなら、私はとっくの昔、敗戦の時点でゴミのように消えてなくなっていたに違いない。
昭和四十八年、私は一人の非凡な経営者と知り合った。当時雨後の|筍《たけのこ》のように|増《ふ》えつつあった「きもの学院」の中で、堅実良心的な経営と生徒数で日本一の定評をもつ、ハクビ京都きもの学院の創始者であり理事長である水島|恭《たか》|愛《よし》である。
彼は十歳も私より年下で、青年のような|覇《は》|気《き》と情熱をもって、日本の伝統文化を継承し次代に伝え残すための学校づくりに専念していた。私はその使命感と経営理念に共鳴し、組織をリードする手腕に敬服して、|請《こ》われるままにハクビ総合学院学長の椅子についた。
学校という場が好きで、将来学校経営をしたいとは、少女のころから夢み、熱望していたことであった。思いがけなくその念願も|叶《かな》えられ、日々はますます充実した。
学校という教育機関は、そもそも西洋文明|発祥《はっしょう》の地ギリシアに始まる。首都アテネのアカデメイア神苑において哲学者プラトンが学問や芸術の教義を始めたところ、ギリシアの各地からその教えを受けたくて人々が続々集まってきた。
これが人間が知を愛し知恵を学び取ろうとした始まりであった。
東洋でも西洋でも、学校とは生徒達がやみがたい意欲に燃え、勉強したいひとつの目標を掲げて、集まってくる場であった。そこは知的活動の場であり、お互いに人格を高める道場であり、そして同じ道を行くものの楽しいサロンであった。生徒達は教育者達の持っている思想、哲学、技術などを学びとりたい一心で、|敬《けい》|虔《けん》に教えを乞い、教育者はこれに|応《こた》えて、自分の蓄積した知的財産のことごとくを与えようとした。学校教育とは本来そのようなすがたであり、そこに学んだ者の魂のふるさととして、終生郷愁をもたれていたのである。
江戸時代、大藩の大名達が領地内に作っていた藩校や塾も、またそのようなものであり、美しい師弟愛が|育《はぐく》まれ、緊密に結ばれていた。現代の暴力教室など想像も及ばぬ学問の殿堂であった。
私もそういう人間的|絆《きずな》で固く結ばれた、ほんものの学校をハクビに実現させたいと願い、
「私は皆さん方の勉強への意欲に対し心から敬意を表します。人間同士が知り合うということは不思議な因縁によるもので、まして先生と呼ばれ生徒と呼ばれる絆で結ばれたこのめぐり合わせ、このご縁を感謝し、大切にして参りたいと思います。お互いに知り合えてよかったと思えるようでありたい。皆さん方がこの学院を選ばれたことに対し、私達は持っている知識と技術のすべてをお伝えすることで、充分おこたえしたいと思っています」
という意味のことを事あるごとに語り続けてきた。
五十二年よりは、ハクビと姉妹校の間柄にあり関西や北海道等に地盤をもつ|百合姿《ゆ りすがた》きもの学院と京都きもの学院の学長をも兼任することになった。この両校の理事長の松井|伯《のり》|儒《やす》もまたスケールの大きい実業家で、松井総業はじめ幾つかの会社の経営者としても知られる。水島恭愛といい、松井伯儒といい、その経営ぶりを傍で見ていると、管理統率ということは、これは優秀な男性にしてはじめてなし得る仕事で、いかに|小《こ》|賢《ざか》しくても女には無理な難事業だ、女の出る幕ではないと痛感させられる。
本当に“出来る”男というものは、|到《とう》|底《てい》女には真似のできない仕事ぶりをみせる。女性が経営などの仕事にタッチするようになって、まだ日が浅いということとは別に、その資質や能力の面で男女対等、男女同質であるなどと考えるのは浅はかであり|不《ふ》|遜《そん》でもあると悟らせられるのである。
一億総評論家時代といわれて久しく、女性も各分野に進出し活発に仕事をこなしているが、まだ女性が一人も専門家として登場していない場はどこかと調べたところ、“宝石”が未開拓の分野であった。しかも宝石はここ十年来わが国でも急速に需要が増え続け、大いに将来が期待される成長株である。私は宝石研究家としてもレパートリーを広げるべく、講座に出たり、顕微鏡をのぞいたり、専門書をひもといたりし始めている。
社会に通用する資格を取得するには、当然、ある一定期間専門学校に通って勉強し、何回もテストを受け、研究発表を行なわなければならない。そのために要する時間と労力とおカネを惜しんでは、何もものになりはしない。勉強は一生続けるべきことであり、自分自身への投資こそ最大の貯蓄であり、最もたしかな財産であると信じて、日夜|励《はげ》んでいる。
この人生という舞台の最後の幕がおりるまで、私は勉強と仕事を愛し、継続させていくことであろう。そして、限りある持ち時間を自分好みに演出し、演技して生きることを愛し続けるであろう。更に人々をほどほどに愛していくであろう。
エピローグ
敗戦後すでに四十一年、かつての皇族や華族も今はすっかり庶民の中にとけ込んで、地道な生活を営む人々が多い。戦争直後は、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで没落の危機に直面しながら、いつのまにか立ち直ったのである。|霞《かすみ》会館(もと華族会館)の名簿を参考にしながら何人かにスポットをあててみよう。現在の会員は一〇一六人である。
世が世なら江戸城の主、十八代将軍と呼ばれたはずの徳川|恒《つね》|孝《なり》氏は日本郵船に勤務するサラリーマン。|御台所《みだいどころ》(将軍夫人)たるべき|幸《さち》|子《こ》さんは寺島もと伯爵の令嬢で、学習院短大を卒業後は日航の美人スチュワーデスとしてその名を|馳《は》せた。
スポーツの宮様として親しまれてきた、もと皇族竹田|恒《つね》|徳《よし》氏は霞会館理事長。成子内親王の長男で天皇陛下の初孫にあたる東久邇信彦氏は、三井銀行本店営業部勤務。もと侯爵|花《か》|山《ざの》|院《いん》|親《ちか》|忠《ただ》氏は春日大社宮司。もと子爵|河《かわ》|鰭《ばた》|実《さね》|英《ひで》氏は昭和女子大学学長。もと子爵|織《お》|田《だ》|長《なが》|繁《しげ》氏は織田信長の弟・|有《う》|楽《らく》|斎《さい》の末裔で、茶道有楽流家元及び、聖徳学園岐阜教育大教授。もと子爵松平|忠《ただ》|晃《てる》氏は埼玉銀行会長。名|奉行《ぶぎょう》大岡越前守の末裔|忠《ただ》|輔《すけ》氏は、もと子爵家で味の素常務取締役。名将|真《さな》|田《だ》|幸《ゆき》|村《むら》の末裔幸長氏は、テレビ朝日技術局送出部長でもと伯爵家の出身。三井財閥のトップ八郎右衛門氏はもと男爵で、戦後の財産申告も日本一。現在は「若葉会幼稚園」の園長として悠々自適の生活を送っている。
もと伯爵の井伊|直《なお》|愛《よし》氏は、旧藩の彦根市長として現在も地元に君臨中。松山藩でもと伯爵の久松定武氏も地元の愛媛県知事を二十年も勤めたが、さすがは旧藩主、知事選で圧倒的な強みをみせていた。現在は愛媛県美術会会長。
もと伯爵の大谷|光暢《こうちょう》氏は真宗大谷派本願寺法主で夫人の|智《さと》|子《こ》裏方は皇后陛下の妹にあたる。その弟でもと伯爵の東伏見|慈《じ》|洽《ごう》氏は青蓮院の門跡。出雲大社宮司の|千《せん》|家《げ》|尊《たか》|祀《とし》氏は、もと男爵。もと公爵・徳大寺|公《きん》|英《ひで》氏は美術評論家。もと男爵家の團伊玖磨氏は作曲とエッセイで名高い。もと侯爵家の池田隆政氏は、旧藩の岡山にあって池田牧場・池田動物園を経営。夫人の厚子内親王は天皇家の第四皇女で、成子内親王の妹君。赤穂義士で有名な浅野家の本家(もと侯爵家)の当主・浅野|長《なが》|愛《ちか》氏は、学習院高等科教諭で高等科・中等科長。萩藩でもと公爵家・毛利|元《もと》|敬《たか》氏は防府毛利報公会会長。高知藩のもと侯爵山内豊秋氏は、地元の山内興業社長。福岡藩のもと侯爵家・黒田長久氏は私の|嫂《あによめ》前田政子の弟で、自然環境保全審議会委員、|山《やま》|階《しな》鳥類研究所研究部長。久留米藩のもと伯爵・有馬頼義氏は作家(故人)。熊本藩のもと侯爵家・細川護貞氏は日本いけばな芸術協会会長。その長男の細川|護《もり》|煕《ひろ》氏は旧藩の熊本県知事。次男の|忠W[#「W」はWinIBM拡張文字 Unicode="#7147"]《ただてる》氏は近衛家の養子となり日本赤十字社勤務。夫人は三笠宮|崇《たか》|仁《ひと》親王の長女・※[#「※」はUnicode="#6a63"から「木偏」を外したもの]子内親王。鹿児島藩のもと公爵家の島津忠秀氏は島津興業会長。豊臣秀吉の|末《まつ》|裔《えい》でもと子爵の木下|俊※[#文字が画像で代替されていたため不明。ごめん]《としひろ》氏は恵比寿会館社長。氏の著書には「豊臣秀頼は薩摩で生きていた」とあるとか。五|摂《せっ》|家《け》のもと公爵九条道弘氏は伊勢神宮司庁祭儀部次長。大隈重信家のもと侯爵・大隈信幸氏は日本リース会長。井上馨家のもと侯爵・井上光貞氏は東大教授。もと男爵の三井|高《たか》|陽《はる》氏は女子美術大学理事長。
もと伯爵で作法の小笠原流の|宗《そう》|家《け》(本家)三十二代目の|忠《ただ》|統《むね》氏は日本儀礼文化協会の総裁などをつとめるが、私の夫の|従兄《い と こ》にあたる。彼の姉松子さんは出家して日英尼公と呼ばれ、近江八幡市にある瑞竜寺の門跡となっている。
官内庁の式部官や侍従職や女官さんは、昔から華族出身者が多いが、私の兄のもと侯爵前田|利《とし》|建《たつ》は式部官。もと伯爵の黒木|従達《じゅうたつ》氏は東宮侍従(故人)。終戦時に皇居に乱入した叛乱軍から、天皇の終戦布告放送の録音盤を守ったことで有名な徳川|義《よし》|寛《ひろ》侍従長は、もと男爵。東宮侍従から聖心女学院教諭に転じた浜尾|実《みのる》氏は、もと子爵というように著名人が並んでいる。
皇后女官長は、もと皇族北白川宮|永《なが》|久《ひさ》王の未亡人の|祥《さち》|子《こ》さん。夫人は尾張の徳川家の出身で、常陸宮華子妃の叔母にあたる。東宮女官長の松村|淑《よし》|子《こ》さんは、もと伯爵島津家の令嬢である。
こうしてあげればキリがないが、女性の活躍にも目をとめたい。
終戦直後は、もんぺ姿で庭の畑をたがやして自給自足の生活をはかったかつての貴婦人達も、一時期はバーやレストランやお汁粉屋、洋裁店などを経営する人、英語、ピアノ、お花、お茶、書道、料理などの先生となって生活の立て直しをはかる人などさまざまであった。
もと皇族妃であった|賀《か》|陽《や》敏子さんは現在、常磐会の会長であるが、代々木クッキングスクールの講師として多くの生徒を育てた。美術評論家として著書も多い白洲正子さんは樺山伯爵家の令嬢であった。もと男爵令嬢の田中千代さんはデザイナーの第一任者として名声が高い。同じく男爵令嬢でエリザベス・サンダース・ホーム園長として戦争孤児の救済に生涯を捧げた故沢田美喜さんもあまりに有名である。
佐賀錦を広めたのは、その制作教授にあたったもと子爵夫人の鍋島政子さんと毛利愛子さんである。裏千家家元の千宗室氏の姉で桜井子爵に嫁いだ良子さんも茶道の普及に貢献した。
もと伯爵夫人林貞子さんは、名門幼稚園のナンバーワンといわれる松濤幼稚園の園長として、夫君の林友春氏は学習院大の教授としてともに人気が高い。
ヒゲの殿下として国民に親しまれている三笠宮|寛《とも》|仁《ひと》親王と結婚された|麻生《あ そ う》家の令嬢・信子妃は、娘時代この松濤幼稚園の英語教師として園児達に慕われておられた。
戦後いち早く東宝ニューフェイスとしてデビューし、浮沈のはげしい芸能界にあって第一線スターであり続けた久我美子さんは|久《く》|我《が》侯爵の息女であるし、長年にわたって大スターの貫禄をみせた故東山千栄子さんや入江たか子さんも華族の姫であった。
これら戦中戦後に辛酸をなめ、あくまでねばり強く生きた人々の中で、特筆すべきは|李《り》|方《まさ》|子《こ》さんである。彼女ほど時代の荒波を|真《まっ》|向《こう》からかぶり、彼女ほどそれをくぐり抜けて雄々しくも悲しく生きた女性は稀であろう。
明治三十四年、梨本宮守正親王の第一王女として生まれた彼女は、皇后陛下の|従姉《い と こ》であり私の祖母|朗《さえ》|子《こ》の|姪《めい》にあたる。方子さんの母の梨本宮|伊《い》|都《つ》|子《こ》妃は朗子の妹だが、さらにその下の妹・松平信子夫人といい、佐賀の鍋島侯爵家の三姉妹はいずれも女傑のほまれ高かった。そのシンの強さは男性を|凌《しの》いだ。方子さんもその血を引いていたのである。
“日鮮(韓国)融和”という美名のもとに、大正九年四月、軍部の圧力で政略結婚を|強《し》いられたのだが、十六歳のとき、新聞紙上で|麗《れい》|々《れい》しく報じられているのをみて自分の婚約をはじめて知ったという。この命令に|背《そむ》くことは許されなかった。
韓国の|李《り》王朝最後の王世子といわれた|垠《ぎん》殿下と結婚後、最初に見舞った悲しみと憤りは長男・|晋《しん》の急死であった。親子三人で韓国に滞在中、晋は血を吐き続けて母の腕の中で息絶えた。毒殺だと噂された。名目上は日本の皇族と同格だが、夫君は、日本軍部の|人《ひと》|質《じち》であり、方子さんは両国の板ばさみとなって苦労の連続であった。彼女は夫の国の風習に従おうと朝鮮服を着続け、朝鮮料理を食べ続け、互いになんとかわかりあいたいと心を砕いた。
ほんとうの苦難は戦後に襲った。昭和二十二年、GHQの命令で、天皇の弟宮の秩父、高松、三笠の三宮家を除くすべての皇族は皇籍を|剥《はく》|奪《だつ》されたが、このとき悲惨を極めたのが李王家であった。
当時、韓国大統領であった李承晩は政治的|思《おも》|惑《わく》から垠夫妻の帰国を許さなかったのである。無国籍で帰る国もなく財産も没収されて、毎日の生活がやっとの日が続く。この不安な日々の中で、夫妻は助けあい、愛情は更にこまやかになっていった。
その後次男の|玖《きゅう》がアメリカへ留学し、親子三人水入らずで|束《つか》の間の仕合せを得た。
三十八年、ようやく韓国への帰国が許されたが、夫は重病の床にあった。タンカで運ばれる夫につきそって、方子さんは韓国へ旅立った。夫の死後、彼女はソウル市の楽善斎の一室に起居しながら、社会福祉の仕事に打ち込んでいる。
「私は韓国人、過去はもう忘れたい。夫の遺志を継ぎ民衆の役に立つこと、それが私の生き甲斐です」
と言いきる方子さんの表情は晴れやかである。彼女はソウル文化章などを受け、人々の絶大な尊敬をあつめている。
もっとも、皇族や華族にも、|誉《ほ》められる人ばかりとは限らない。なかにはハレンチな行為で人々のひんしゅくを買い、実家の体面を傷つける女性も現われた。
その一人は、情痴問題のもつれから、仲裁に入った知人を猟銃で誤殺した綾小路|章《ふみ》|子《こ》。もと公卿華族の子爵・綾小路護氏の娘の起こしたけたたましい事件に、マスコミが湧いたことはいうまでもない。
新しいところでは、華道の家元夫人の池坊|保《やす》|子《こ》。彼女もやはり公卿華族の出身で、もと子爵|梅《うめ》|渓《たに》|通《みち》|虎《とら》氏の娘。巨額な脱税をおかしたとて、マスコミの非難を浴びた。
こうして見てみると、華族の中でも最も人数が多いにもかかわらず大名華族の人々のみは、つまらぬ情痴沙汰や法律にふれるスキャンダラスな事件を起こしていないことに気づく。それはなぜか。恐らくは、先祖の名を引きあいに出されて傷つけられることへの|惧《おそ》れ、|自重《じちょう》、用心深さの|故《せい》であろう。最も多彩に活躍しているのも武家の|末《まつ》|裔《えい》達である。私はそこに何百年の風雪に耐えて生き残った大名家ならではの、たくましい生活力と、時代にそくした合理性を見ないわけにはいかない。血は受け継がれていくのである。
あとがき
実は、自伝を書いてみないかというご要望を、十数年来幾つかの出版社からいただいていた。しかし自伝などという晴れがましいものは、功成り名とげて死ぬ|間《ま》|際《ぎわ》に書くものという思い込みがあったから、それを書くのはまだ遠い将来のことだと私はのんびりしていた。
それが急遽早まったのは、AP通信の記者バリー・シュラクター氏との出会いによる。彼はかつて存在した“華族”の実態についてくわしく知りたいとインタビューを申し込んできた。私はのべ九時間語った。彼はすっかり|興《きょう》に乗って「これは書くべきだ。あなたは歴史の証人として書く義務がある」と説得する。いずれ七十歳を過ぎたら書くつもりだと答えると、「こんな面白い話をなぜ先に延ばすのか。今すぐにペンをとれ」と|促《うなが》す。そこで、現存の人々も多いからフィクションの形でなら、と思わず私もつりこまれた。ところが間もなく、アメリカの各新聞紙上にシュラクター氏の署名原稿で、「ミセス・サカイはこの華族社会のことを小説に書く準備に入った」と出たのである。その記事が日本の各紙に転載されるや忽ち祥伝社の雑誌部長・桜井秀勲氏からその小説を同社の隔週週刊誌に一年間の連載でと言ってこられた。私の念願の小説「鏡と仮面」はこうして出来上がった。
そしてこのたび主婦と生活社の文芸編集長田村一郎氏より、小説ではなく正真|正銘《しょうめい》の自分史をというご依頼を受けた。遂に機は熟したと感じたので、長年の懸案であった半生記に取り組む決心をしたのである。
私は今まで秘蔵していて是が非でも書きたかった事実をこの本にすべて書いた。日本人が初めて経験したすさまじい敗戦を境に、戦前の華族社会の人々がいかに生きたかを客観的に書いた。シュラクター氏も桜井氏も田村氏も言われたように、立場上私でなければ知りようのなかったことを書きとめたつもりである。
戦前の華族は、伝統文化の継承と西洋文化の導入という面で、それなりの役割を果たしてきた。戦時中は華族ゆえにその義務感から|率《そっ》|先《せん》死地に|赴《おもむ》き、血と涙にまみれた。そして戦後に地位も財産も失い、想像を絶する辛苦の中で生活を立て直した。その真実の姿を私はありのままに書き残したかったのである。 私自身、多くの先輩知友に恵まれ、激動の時代を自主的に生きることができた。常に自力本願で望み通りの人生を|創《つく》ってきた私には、今更ウーマン・リブにみられる女性論など、こと新しいこととも思われない。苛酷な現実に直面すれば、女とは随分したたかになれるものでもある。
私を執筆に踏みきらせた前記の諸氏と、出版にあたり細心のお世話をいただいた主婦と生活社の皆様、とりわけ藤田幾子氏と、美しい装丁をしてくださった中島かほる氏に厚くお礼を申し上げます。なお文中、敬称や敬語を|省《はぶ》き、一部を仮名に変えさせていただいたことを深くお詫びいたします。
ペンをおくにあたり、とうとう|臆《おく》|面《めん》もなく書いてしまったというきまりわるさと、これでいつでも死ねるという解放感とを味わっております。
〈文庫版追記〉 戦前の前田家の資産や生活費等についてのお尋ねが多いので、その一部を公開させていただく。
●昭和十四年の歳入の主なもの
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(1)父の陸軍将官としての俸給
(2)株券・債券等の配当・利子
(3)北海道の山林・牧場、台湾・朝鮮・満州等の不動産による収益
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●同年の経費
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年間       四七万三〇〇〇円
経費の内わけ
祭典費        二〇〇〇円
内事費     二一万四〇〇〇円
手許費     三万一〇〇〇円
(家族の小遣い・私は月額二〇〇円)
学事費     一万三〇〇〇円
外出費     二万二〇〇〇円
(私は月額九〇〇円)
衛生費       八〇〇〇円
|庖厨費《ほうちゅうひ》     一万八〇〇〇円
用度費     二万五〇〇〇円
光熱・電話費  一万九〇〇〇円
諸給      五万四〇〇〇円
(使用人俸給)
修理費       五〇〇〇円
庭園費     一万五〇〇〇円
園芸費       四〇〇〇円
会議費        五〇〇〇円
外事費      二万八〇〇〇円
(交際費)
雑費       一万円
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●同年度の税金
一六万六〇〇〇円
[#地から2字上げ](一九八六・五・一○ 酒井記)
〈参考文献〉
『昭和世相史』(社会思想社)
『戦争と外交』(読売新聞社)
『全史 第二次世界大戦実録』(小学館)
『近代の戦争』(人物往来社)
『皇居と離宮』(東京都遺族連合会)
『華族会館の百年』(霞会館)
『学習院百年史』(学習院)
『加賀百萬石』(八千代出版)
『行幸啓記録』(前田家尊経閣文庫)
『大正十四年御婚儀一件書類』(前田家尊経閣文庫)
『華族会館史』(霞会館)
『華族家系大成 上・下巻』(霞会館)
本書単行本は、一九八二年、主婦と生活社刊。
講談社文庫版は一九八六年六月刊。
[著者]酒井美意子
加賀百万石の家柄を継ぐ侯爵前田利為の長女として、一九二六年、東京に生まれる。幼少時をロンドンで過ごし、帰国後女子学習院を卒業。ハクビ総合学院学長。百合姿きもの学院学長。評論家。一九九九年十一月死去。著書『おヨメに行くとき読む本』(主婦と生活社)、『風の戯れ』(中央公論社)、『マナー美人になる本』(講談社)、『皇室に学ぶマナー』(ダイワアート)、『花のある女の子の育て方』(PHP)ほか。
ある|華《か》|族《ぞく》の|昭和史《しょうわし》
電子文庫パブリ版
|酒《さか》|井《い》|美《み》|意《い》|子《こ》 著
(C) Tadanori Sakai 2001
二〇〇一年五月一一日発行(デコ)
発行者 中沢義彦
発行所 株式会社 講談社
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