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古代女王ものがたり
酒井傳六
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序 文
人類文明の故郷である古代オリエントには、輝かしい名を残した女王と王妃が少くない。古代オリエントにおける女性の位置は、エジプトの場合を筆頭として、もっと注目されて然《しか》るべきである。それは古代オリエント史としても、古代女性史としても興味ぶかいテーマである。これを、研究書風にではなく物語風にいつか書いてみたい、とかねがね私は思っていた。そういうチャンスがこのたび与えられたので、私は六人の女王・王妃を選びだして、本書をまとめた。類書がないので、ある役割を果してくれるものと考える。
選びだした人物は四人の女王、二人の王妃であり、うち四人がエジプト人である。これは、エジプト史の場合、他の地域とちがって段ちがいにデータが豊富であることによる。データというのは考古学、碑銘学、古文献のそれである。といっても、私はエジプトにせよ、他の地域にせよ、データに執着しすぎないように心掛けた。
「こういうデータがある。反対のこういうデータもある」とか「こういう説がある。反対のこういう説もある」というような、慎重公平で網羅的な記述方法は、学術書向きではあるかもしれないが、一般読書人向けの書物には適さない。読者は振りまわされるだけであろう。私は、私流のデータの用いかたをして、私流の筋をたどって各主人公の物語をまとめるように心掛けた。そう心掛けはしたものの、出来上りが「心掛け」に合ったかどうか、心配である。
扱う人物の時代は紀元前十五世紀から紀元後三世紀にまたがっており、構成は、エジプトの部をはじめのほうに集め、ついで南アラビアとシリアに移るようにした。いずれも年代順に配列してあるが、クレオパトラの場合は例外で、新しい年代であるにもかかわらず冒頭に置いた。これは、扱った六人の女王・王妃の中でクレオパトラが最も人びとに親しみの深い人物であるからで、こうすることによって読者は気楽に本書を読み進んでくれるのではないか、と私は考えたわけである。
執筆にさいしては多くの文献を参照した。研究書ではない本書で、その一覧表を示すのは適切でもなく、読者に煩わしさを強いるだけのものとなろうから、それは省くことにする。本書の基礎となったのは、一九八一年の夏に朝日カルチャーセンター(横浜)の夏期講座で行った八回の講座である。(講座のさいは同センター支社次長・岩瀬秀夫氏と担当者・宇野純子さんのお世話になった)。
六人の人物の個性は、それぞれの人物の章の標題の中で示してみたが、それで尽きているわけではもちろんない。私はそれぞれの人物に等しく惹かれる。読者はどうであろうか。
本書の出版にさいしては、週刊文春の重松卓氏と文藝春秋出版部の小嶋一治郎氏のお世話になった。重松氏は本書誕生のキッカケを作ってくれた人であり、担当者の小嶋氏は、書名、各章の小見出し、写真・図版の選択とレイアウトに入念な工夫をしてくれた。記して、謝意を表するものである。
一九八六年二月
[#地付き]酒 井 傅 六
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目 次
序 文
クレオパトラ………魅惑と愛国の女王[#「魅惑と愛国の女王」はゴシック体]
[#3字下げ]プトレマイオス王朝/カエサルを捉えた魅力/輝かしい日々/アントニウスとの駆け引き/女王は大教養人/オクタヴィアヌスの宣戦布告/最も愛したのはエジプト
ハトシェプスト………建築と貿易の女王[#「建築と貿易の女王」はゴシック体]
[#3字下げ]最初の偉大な女性/ファラオの称号/断崖の美学/王位の正統性/平和主義と貿易立国/プントの大航海/宰相センムト/芸術の時代
ネフェルティティ………信仰と美の王妃[#「信仰と美の王妃」はゴシック体]
[#3字下げ]美女は来りぬ/多神教の国/宗教改革王アケナトン/人類最初の一神教/アトン讃歌/太陽讃美の系譜/片眼の彫像ハッティ王国の侵略/王妃の座を去る
アンケセナーメン………矢車菊の王妃[#「矢車菊の王妃」はゴシック体]
[#3字下げ]ツタンカーメン王/王と王妃の情景/王の謎の死/矢車菊のことば/ピラミッドと盗掘/王家の谷/カーターが発見した日/ハッティ王国への密使
ビルキス………知恵を求めたシバの女王[#「知恵を求めたシバの女王」はゴシック体]
[#3字下げ]乳香と没薬の贈物/ソロモンの知恵/神殿と王宮の建設/香料の国/インセンス・ロード/独身で才色兼備/エルサレム訪問/ソロモンとの問答
ゼノビア………尚武の女王[#「尚武の女王」はゴシック体]
[#3字下げ]砂漠の隊商都市/ローマ皇帝の共同統治者/ローマヘの挑戦/商業活動の保護/アウレリアヌスの作戦/女王捕虜となる
[#3字下げ]古代オリエント略年表
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クレオパトラ 魅惑と愛国の女王[#「 魅惑と愛国の女王」はゴシック体]
プトレマイオス王朝[#「プトレマイオス王朝」はゴシック体]
古代の女性の中で、クレオパトラほど広く知られている人はいないであろう。彼女ほど多く書かれた人はいないであろう。
彼女の生存中に、敵がたのローマは彼女についておびただしい論評を書いた。ついで、ギリシアのプルタークが多くのページを彼女に捧げた。そのあと多くの歴史家と文学者と、哲学者までが、彼女を描いた。シェイクスピアとパスカルはその代表。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史は変ったであろう」と書いたのはパスカルである。
世界の歴史を変えるほどの女王。パスカルの場合、「魅惑の女王」ということが問題になっている。この見方は、その後の著述家をとらえた。そして偏りが生じた。偏り? そうだ。通説に反して、彼女はたぐいまれなる「愛国の女王」だったと私は考えるのである。
そういう彼女の生涯を、これから私は描こうというのであるが、それにはまず彼女の属するプトレマイオス王朝誕生の話をしなくてはならない。
紀元前三三二年の秋、マケドニアの王アレクサンドロスはペルシア支配のエジプトを征服し、ペルシア人を駆逐した。ペルシアの圧政に苦しんでいたエジプト人はアレクサンドロスを解放者とみなして歓迎した。
アレクサンドロスはマケドニアの信仰や習慣をエジプト人に強制せず、むしろ自らエジプトの信仰に服し、シワのアメン神殿に参詣した。彼は地中海岸の一漁村を都の建設地と定め、アレクサンドリアと命名した。王は翌年の春、アジアに向ってエジプトを出発し、後事を部下に託した。
インダス河畔までを征服してアレクサンドリア大帝国を築き、いまや大王となったアレクサンドロスは、帰路、前三二三年にバビロンで熱病のため急死した。大王は直系の継承者がなかったため広大な領土の統治について部将間に争いがおきた。結局有力指揮官プトレマイオス・ソテルがエジプトの統治権をにぎり、エジプト王となった。時に、前三〇五年。直ちに彼はアレクサンドロス大王の遺骸をバビロンからアレクサンドリアに移葬した。このとき、大王の系譜に立つと自負するプトレマイオス王朝がはじまった。わがクレオパトラ女王はこの王朝の最後を飾る人物である。
女王に近づく前に、プトレマイオス王朝の話をなおつづける。クレオパトラの文化的センス、信仰態度、統治能力、さらにまた権力のための骨肉の争いも、その歴史の上に成り立っているのだから。
創始者の後を承《う》けたプトレマイオス二世の時代は大躍進の時代となった。まず大都市アレクサンドリアが完成した。東端に「太陽の門」、西端に「月の門」が建てられ、大通りの幅は三〇メートル、その両脇に列柱が立ち、都市全体は碁盤目のように区画された。その沖合のファロス島に大燈台が建造された。(これはのちにギザの大ピラミッドと並んで世界の七不思議に算えられる)。その燈台の光は沖合一六〇キロからでも見えた。二〇万巻という厖大《ぼうだい》な蔵書と大学をおさめた大博物館が建てられた。(蔵書量はプトレマイオス三世の時代にさらに増大し三〇万巻となる)。旧約聖書のギリシア語「七十人訳」が生れ、マネトによる『エジプト史』が書かれた。この『エジプト史』は後世のエジプト史家の基本資料となる。
アレクサンドリアは、エジプトの中心都市であるにとどまらず世界の中心都市となった。イギリスのエジプト学者H・I・ベルの描写を借りれば「学者、詩人、科学者、商人、船乗り、兵隊、農民、それに単なる見物人までが、すべての地方からここへ群がり集まった。……世界の多くの地方から来た産物が波止場で見られた。象牙、黒檀、金および香料がアフリカから来たし、インドの産物も欠けていなかった。……一方、ギリシア本土からは油、葡萄酒、蜜、イチジク、塩漬けの魚と肉、生パンなどが来た。……この町でも、多くの産物、とりわけガラス、亜麻布、パピルスが生産された」
行政の面では県知事を、従来のエジプト人からマケドニア人またはギリシア人にかえるほかは旧制度を尊重し、信仰の面ではエジプトの神々をすべて承認した。アレクサンドロス大王がアメン神殿に詣でたことを、プトレマイオスの諸王は一度も忘れたことはなかった。
プトレマイオス五世の時代まで、王統は順調につづいた。五世はエジプト信仰とエジプト文化に最も親しくなった王であり、まさしく「エジプト王」であった。彼の時代の重要な記念物に「ロゼッタ・ストーン」がある。彼の治世九年にエジプト全土の祭司が古都メンフィスに会し、王の事績を賞讃し、国民に広く知らせる、というのがこの石碑の銘文であり、事績の一覧表も記してある。これは聖刻文字、民衆文字、ギリシア文字の三種の文字で書かれていて、一八二二年のシャンポリオンのヒエログリフ解読のカギとなったということは、たぶん多くの人が知っていることであろう。
王位をめぐる骨肉の争いがおきるのは、プトレマイオス六世の時である。そして、このあと同種の争いが王朝末期まで慢性の病いのようにつづく。
事の起りはシリア王国の軍がエジプトに侵入し、一部地域を占領し、自分に都合のよいプトレマイオス六世を王位につけ、王として宣したことである。エジプト人は怒り、六世の弟を王と宣し、プトレマイオス八世とした。しばらく共同統治がつづいたものの、自らの権威を確立したいため、両者はともに強国ローマに助けを求めた。ローマがエジプトに干渉するキッカケはこのようにして生れた。骨肉の王位争いはプトレマイオス九世とその弟十世のあいだでも行われた。ついで十一世の時代には自らの妃クレオパトラ・ベレニケを結婚後十九日目に、気にいらぬといって殺す、という血なまぐさい事件がおきた。この出来事は、王自らの死をまねくこととなった。というのは、怒ったエジプト人が王を殺すのである。このとき、プトレマイオス家の直系の継承者は皆無となった。
即位したのはプトレマイオス十二世。彼は十一世の従弟であった。笛を吹くことを好む十二世は別称を「笛吹き王」(アウレテス)といった。十二世はベレニケ四世、クレオパトラ七世、アルシノエの三王女、およびプトレマイオス十三世と十四世の二王子を儲《もう》けた。プトレマイオス王朝の最後を飾る女王クレオパトラはこのクレオパトラ七世その人であり、正式名はクレオパトラ・ピロパトルである。
クレオパトラという名について少し説明を加えれば、十二世の王女以前に六人のクレオパトラ王妃があり、クレオパトラ七世のあとにもう一人の、クレオパトラ八世と呼んでよいクレオパトラがあらわれる。
プトレマイオス六世の時からローマのエジプト干渉がはじまったことは先に記したが、そのあとも強弱の度合のちがいはあれ、干渉はつづいていた。そして、十二世の時も――。
十二世はエジプト人の推挙によって王位に即《つ》いたのだが、ローマ側は十一世がエジプトをローマに贈るという遺言書を残していたと発表し、十二世の地位をゆるがした。十一世の死後十五年目に出された、奇妙な、真偽不明の、そして大胆な内容のこの遺言書に脅かされて、十二世はローマ政府の幹部、とりわけ有力者ポンペイウスに莫大な賄賂《わいろ》を届け、やがて、ポンペイウス、カエサル、クラッススの第一次三頭政治が出現するに及んで、三人に対して金品を出さねばならなかった。そして、十二世は即位から二十年たって、ローマから王位の承認を得た。「遺言書の脅威」はこのとき、やっと消えたのである。
しかし、一難去ってまた一難。ローマは口実を設けてエジプト領であるキプロス島を奪い、一方、エジプト人はローマに隷属しエジプト人に重税を課す十二世に対して不満を爆発させた。十二世はローマに亡命する。
十二世の不在のあいだ、エジプトでは王妃クレオパトラ六世が王位に即《つ》き、この女王が死ぬと、第一王女ベレニケがその後を承けた。ローマとしては、ローマに都合のよい十二世をエジプトに戻すチャンスをうかがい、シリアに駐留するローマ軍をエジプト攻略に向わせた。そのとき、エジプトの要地ペルシウムを奪ってローマ軍を勝利に導いたのが、後年クレオパトラの虜となるマルクス・アントニウスで、時に二十七歳。
プトレマイオス十二世はローマ軍の保護のもとに帰国しアレクサンドリアの王宮にはいり、復位した。彼はわが娘である幼い女王ベレニケを直ちに処刑した。自分の不在中に王位に即いたという罪によってである。王位のためには骨肉の情も捨てるというプトレマイオス家の血筋を、われわれはまたしてもここに見るわけである。
プトレマイオス家の諸王はエジプト王の伝統にしたがって神殿を建て記録を残したが、「笛吹き王」の十二世はとくにこういう文化事業を好んだ。コム・オンボの神殿は六世の時代に着工しているが、十二世はこれを豊富なレリーフで覆った。ナグエルマダムドの神殿では、正面を飾る三つの別館を建てた。ヌビアのデボド神殿の拡張整備もした。デンデラ神殿の後部の建築もした。このデンデラ神殿はやがてクレオパトラに活用されることとなる。
カエサルを捉えた魅力[#「カエサルを捉えた魅力」はゴシック体]
プトレマイオス十二世は前五一年に死んだ。残ったのは十八歳のクレオパトラ七世(以下クレオパトラとのみ記す)を頭に、十七歳の妹アルシノエ、十歳の弟プトレマイオス十三世、八歳の弟プトレマイオス十四世の四人であった。王の遺言は、クレオパトラとプトレマイオス十三世の結婚と共同統治を指示していた。兄妹婚は古代エジプトの長い習慣であって、プトレマイオス王朝はそれを継承したのであった。古代エジプトの兄妹婚の源はオシリス神と、その妹イシス女神の結婚という神話の中に見出される。
十八歳の女性と十歳の男性。結婚は実際には行われなかった。二人は王宮で共同統治の宣言をしたものの、最初から敵対的であった。当事者二人の気質も作用したが、むしろ側近の役割が大きかった。十二世時代の時から王宮の内外ですでに紛争の嵐と陰謀の渦は烈しくなっていた。
エジプト人はクレオパトラ派と十三世派の二派に分れていた。宰相ポティノスは十三世派にくみしていた。野心家ポティノスはこの愚鈍な若者を唯一統治者とすることによって己れの権勢欲を満足させようとしていた。前四八年、ついにポティノスはクレオパトラの廃位を宣し、クレオパトラの追放を決定した。身に危険を感じたクレオパトラはわずかな側近と小さな軍隊をつれてエジプトを去り、シリアに移った。彼女はシリアで兵を徴募し、軍勢充実に奔走した。遠からぬ日にエジプト攻撃によって王位を奪回しようと考えていたのである。
アレクサンドリアでの出来事がクレオパトラに有利に動くこととなった。時に前四八年。
ローマの権力争いはカエサルとポンペイウスのあいだで行われ、戦いに敗れたポンペイウスはエジプトに避難の地を求めようとした。プトレマイオス十二世の復位について貢献したのは自分である、というのがポンペイウスのプトレマイオス十三世に対する恩着せがましい口上であった。エジプト側の三大指導者すなわち宰相ポティノス、軍司令官アキラス、渉外長官テオドトスは合議し、ポンペイウスを受けいれるふりをし、結局は殺す、ということを決定した。
その理由はこうである。ポンペイウス受入れを拒むなら、ポンペイウスとその軍隊はクレオパトラの側に味方し、エジプトを攻撃するだろう。受けいれる振りをすればその危険は避けられる。しかし、真に受けいれるならば、ローマの指導者カエサルの機嫌を損ずるであろう。ならば、ポンペイウスをエジプトの手で殺せばよい。カエサルは自ら手を下さないで敵が消えたことを喜ぶであろう……。
そして事をそのように進めた。アレクサンドリア沖までローマ船で来たポンペイウスは迎えのエジプト船に乗り移って陸地に向った。三人の刺客が護衛のふりをして乗組んでいた。陸地が近づき、ポンペイウスが立上ろうとしてその中の一人の手につかまったとき、刺客は相ついでポンペイウスを刺した。こうしてポンペイウスは六十九年の生涯をおえた。
ポンペイウスの船隊を追って来たカエサルの船隊は十月にアレクサンドリア港にあらわれた。彼はポンペイウスの最後を知り、その首をエジプト人から贈られた。彼は涙を流して敵を悼み、上陸して丁重に埋葬させた。エジプト人に捕えられ投獄されているポンペイウスの側近と部隊も無罪釈放とした。
王宮内に居を構えると、カエサルはプトレマイオス十三世とクレオパトラの和解に乗りだした。もともとエジプトをローマに併合するという説の持主であったカエサルは、まずエジプトに平和と安定をもたらし、然るのち併合工作にはいろうと考えていたのである。
アレクサンドリアに居住するプトレマイオス十三世とシリアの軍営地にいるクレオパトラにカエサルは使いを出し、カエサルの王宮に来るように求めた。プトレマイオス十三世が来ることに支障はなかったが、クレオパトラのほうに問題があった。エジプト軍の監視と警備をくぐって無事にカエサルの王宮まで到着するのは難しいにちがいなかった。途中でエジプト兵に見つかるならば殺されることは必至であった。
クレオパトラは名案によってこの問題を解決した。……夜、シリアの海岸から小舟が静かにエジプトに向った。荷物は薦《こも》包み一個であった。エジプトの海岸に着いた船から、荷物をかついでシチリア生れの大男、アポロドロスが闇の中を、人に気付かれずにカエサルの王宮前まで来た。
「カエサル様への贈物です」というアポロドロスのことばを警備兵は気軽に受けいれた。大男はカエサルの前まで来た。彼は荷物を開いた。あらわれたのは透きとおってみえる亜麻布に身を包み、頭に王冠をつけた若い女性――クレオパトラその人であった。そして、その口から言葉が出たとき、カエサルはクレオパトラの囚われ人となった。その夜、二十一歳のクレオパトラは五十二歳のカエサルと寝室を共にする。彼女が男性に肌を許したのはこれがはじめてであった。
その時からカエサルとクレオパトラの共同生活がはじまった。カエサルはエジプトの王宮にはいったが自らをエジプト王とは少しも考えていなかった。クレオパトラはどうかといえば、カエサルの力を借りて(あるいは利用して)単独統治のエジプト女王の地位を獲得し、エジプトをもっと大きな王国にしようという計画があった。
それにしても、これほど強くカエサルを捉えたクレオパトラの魅力とは一体どんなものであったのか。プルタークによれば「クレオパトラの美もそれだけでは一向比較を絶するものではなく見る人を驚かす程のものでもなかったが、交際振に相手を逃さない魅力があり、その容姿が会話の説得力と一座の人々にいつの間にか浸み渡る性格とを兼ね備え、針のように心を打った。口を開けば声音に歓楽が漂い、絃の多い楽器のような舌を話す事柄に如何にもうまく合せて揮《ふる》い、非ギリシャ人に会う時も通訳を俟《ま》つことは殆どなくて、エチオピア人にもトローグロデュタイ族にもヘブライ人にもアラビア人にもシリア人にもペルシァ人にもパルティアー人にも自分で返事をした。その他いろいろの民族の言葉を覚えていたと云われたが、この人よりも前の諸王はエジプト語さえ習い了せず、中にはマケドニア語さえ忘れたものもいたのである」(河野与一訳『プルターク英雄伝』による。仮名遣いを現代仮名遣いにあらためた)
つまりクレオパトラの魅力は肉体、容貌、仕種《しぐさ》、声、外国語の教養といったすべてのものの渾然《こんぜん》一体化したものだったわけで、カエサルに向って語った言葉はいうまでもなくカエサルの言葉すなわちラテン語であった。このクレオパトラの外国語の知識は、プトレマイオス王家伝統の王宮内文化とクレオパトラの個人的異才が一体となって生みだした一偉観であった。
輝かしい日々[#「輝かしい日々」はゴシック体]
クレオパトラのカエサル観はどうであったか。第一に、彼女が王位の確保と王国の発展のためにカエサルを活用しようと考えていたということは、さきに述べたとおりである。しかし、それだけでカエサルに身体を捧げたわけではない。世界で最も強い男、世界で最も有名な男、そして個人的に男性的な魅力をそなえている五十二歳の男――そういうカエサルにクレオパトラは憧れと愛を抱いたのである。その愛は、そのあといろいろの場面にあらわれることとなる。
クレオパトラと同棲生活をはじめたカエサルはプトレマイオス十三世とクレオパトラの和解という当初の計画を忘れ、すっかりクレオパトラの囚われ人となった。いっぽう、この状況を見て怒ったのはプトレマイオス十三世とその側近だけではなかった。エジプト人一般も怒りだしたのである。
もっとも、エジプト人の怒りについては、ローマ軍兵士の粗暴な振舞いも考慮にいれなければならない。ローマ軍兵士は三千年このかたつづいているエジプトの信仰と習慣に鈍感であった。たとえば、猫が神聖な動物であることを彼らは知らなかった。だから、猫を乱暴に殺したローマ兵士はエジプト人の襲撃を受けて殺されたのである。(第二次大戦直後に占領軍として日本に乗りこんで来たアメリカの軍人の立場を、思いあわせてよいかもしれない)。
そういう日常的な怒りが基礎になって、エジプト人の怒りは爆発したのである。再び内乱。といってもエジプト人同士の戦いではなく、エジプト派とローマ派の戦いであった。
一方にプトレマイオス十三世派のエジプト軍、他方にカエサルのローマ軍とクレオパトラ派のエジプト軍がいた。プトレマイオス十三世は戦死し、彼に味方した王女アルシノエ(クレオパトラの妹)は捕えられ、エジプト軍は降伏した。大陰謀家ポティノスは捕えられて処刑された。他の二人の大物(アキラスとテオドトス)は逃亡して行方知れずとなった。捕えられた王女アルシノエは処刑されずにローマに捕虜として送られた。(のちに彼女はカエサルのローマ凱旋のさいに捕虜行列の中に加えられる)。
この戦い(のちにアレクサンドリアの戦いと呼ばれる)でカエサルとクレオパトラは勝利を得た。クレオパトラは女王の地位を確実に取り戻した。しかし失ったものも小さくはなかった。その中の代表的なものは図書館の蔵書である。火災のために、三〇万巻という蔵書が焼失したのである。(のちにアントニウスは、ペルガモン王国を征服したさい、そこの蔵書一〇万巻をアレクサンドリアヘ運び、クレオパトラを喜ばせるが、それでも質量ともに失われた三〇万巻を補うことはできない)。
クレオパトラの復位を実現したカエサルは、次の弟プトレマイオス十四世を共同統治者として宣し、新時代を祝って、贈物としてローマ領となっているキプロス島をエジプトに返還することを宣言した。クレオパトラと幼弟プトレマイオス十四世は外見的には夫婦としての共同統治者であったものの、クレオパトラは十歳の弟と夫婦関係をもつことは決してなかった。結婚の儀式も行われなかった。
さて、内乱がおわったとき、クレオパトラは妊娠したことを知った。彼女はそのことをカエサルに告げた。カエサルは、そろそろエジプトを去らねばならぬと考えていたのだが、女王の妊娠のことを知ってエジプトにもっと留まりたい気になる。クレオパトラはカエサルをナイルの船旅に誘った。この旅行のためにアレクサンドリアを発した船の数は三〇〇隻に及んだ。その大半はいうまでもなく警備用である。
それは単なる楽しみの旅ではなく、女王にとっては古代エジプト文明の華麗さをカエサルに教えてやる修学旅行でもあった。船はメンフィス付近でギザのピラミッドをはじめ多くのピラミッドを右手に見て上る。ルクソールでは、壮大な神殿についてクレオパトラは誇り高く説明する。一行はアスワンまで達する。クレオパトラは、この旅行のさい、各地に上陸して宗教行事を行った。そしてこの旅行を記念し、カエサルとの輝かしい日々を記録する神殿を古代のファラオ風に築くことを考え、そのことをカエサルに告げ、カエサルを喜ばせる。ここにクレオパトラの、政治的であるとともに文化的である事業が示されている。神殿建造とその装飾レリーフはまさに最もエジプト的である芸術であるのだから。
カエサルはエジプトに九カ月とどまった。漫然と九カ月も居たのではない。短期滞在の予定が九カ月にのびたのは、わが子の誕生を見るためであった。彼女はカエサルと交った初夜に妊娠したのである。
クレオパトラは男子を生み、カエサルはこれにプトレマイオス・カエサルと名付けた。アレクサンドリアの住民はこれを「カエサリオン」という俗称で呼んだ。「小さなカエサル」という意味である。
前四六年六月上旬のある朝、カエサルは軍を集め、小アジアの叛乱征伐に出発した。勝利をおさめた彼は「来たり、見たり、勝ちたり」という簡潔な、力づよい、あの有名なことばをローマの友に送った。
ローマに落ちついたカエサルはクレオパトラに対して、カエサリオンとプトレマイオス十四世を伴ってローマヘ来るようにと使いを出した。プトレマイオス十四世をも一緒に招いたのは、この若い王をアレクサンドリアに残しておくと陰謀の源になると懸念したからである。
カエサルは幾百人もの人妻を誘惑した人物として知られていた。いや人妻が彼に誘惑されるのを望んだ、といったほうが正しいかもしれない。その彼にはいま正妻カルプルニアがいる。にもかかわらず、彼はクレオパトラを招き、彼女との共同生活を楽しむこととなった。エジプトの王家一族を招いたという表向きの体裁をとりながら、実はカエサルはアレクサンドリアの生活の継続を欲したのである。
クレオパトラのローマ滞在は前四六年から前四四年までつづくことになるが、その間、女王はエジプトのことを忘れているわけではない。カエサルの有力な軍が駐留している以上、女王不在の間に叛乱がおこるおそれはなかった。政務は女王の側近である役人が進めていた。特別の問題があれば使者がアレクサンドリアからローマヘ来て女王の決裁を仰いだ。ローマヘ移ってから女王がとくに気にかけたことは神殿とレリーフの完成であった。
ヘルモンティス、デンデラ、フィレの三神殿がその主要なものであった。それらはすでに先祖によって着手され、まだ完成していない建造物であった。それらを完成し、ファラオの流儀に則《のつと》って王家の記録をその壁面にレリーフとして残すことが女王の関心事であった。
デンデラではカエサルと女王と幼いカエサリオンの三人を示す図が彫られた。伝統的なファラオ風デザインであるためここに見る女王の風姿と実際のクレオパトラとはちがっているはずであるが、今日クレオパトラについて述べる書物は必ずこの「デンデラ神殿のクレオパトラ」を示している。クレオパトラのローマ滞在三年目にこれら三神殿はすべて完成していた。エジプト国内の動きは平和であり、順調であった。
しかし、クレオパトラはローマ滞在中、常にカエサルと暮したわけではない。まずカエサルは前四七年から四六年にかけて第二次アフリカ作戦に出た。そして帰ると間もなく前四六年から四五年にかけてスペイン作戦のためにローマを留守にした。
カエサルはこのような作戦行動によって威信をいよいよ固めていったわけだが、それはまたローマに緊張と不安を増す原因でもあった。まずカエサルが新たに神殿を建て、そこに自らの彫像とクレオパトラの彫像を置いた、ということでローマ人は不安になった。ついで、前四四年二月に、カエサルが終身独裁官となったとき、不安は増大した。
「カエサルはローマの王になろうと考えている。カエサルはローマの都をアレクサンドリアに移し、クレオパトラをローマの女王にしようとしている。そしてカエサリオンを皇太子に据えようと考えている」。そういう疑惑がつよくローマ人を、とりわけ政界の指導者をとらえたのである。
前四四年三月、カエサルは友人に、そして自分の実子(庶子)であるブルートスにも裏切られて、刺殺された。しかし陰謀派はクレオパトラ一家を血祭りにあげることはしなかった。その代り、一家が一刻も早くローマを去り、エジプトヘ帰るように、要求した。クレオパトラは自分とカエサリオンのことだけを考えた。プトレマイオス十四世は余計者であった。ローマを離れる前に、彼女は十四世を毒殺した。エジプトヘ帰って何と説明するか。ローマの内乱のまきぞえになって死亡したといえば十分である……。捕虜であったアルシノエは、混乱に乗じて逃亡し、アナトリアに隠れ家をみつけるが、のちにクレオパトラの配下の手で殺される。
アレクサンドリアヘ戻ったクレオパトラは、国民に向って、カエサリオンをプトレマイオス十五世ピラパトル・ピロメトルと改名したことを告げ、十五世が女王の共同統治者であることを宣した。時に女王は二十五歳、共同統治者は三歳である。
カエサルの盛時に、そしてカエサルとの愛の日々に、クレオパトラが構想したことは大エジプト王国の建設であった。カエサルにとっては、エジプトはいずれはローマに併合されるはずのものであったが、クレオパトラとしてはローマがエジプトに合体する日、大エジプト王国の誕生する日を構想しているのであった。
カエサルの消え去ったいま、その構想もまた消え去ったのか。そうではない。カエサルの後継者がローマで力をのばしてゆくのを、クレオパトラは大いなる共感をもって見つめていた。ローマをエジプトヘ引きよせる意図と展望をクレオパトラは決して捨てないでいた。
アントニウスとの駆け引き[#「アントニウスとの駆け引き」はゴシック体]
カエサル暗殺後のローマで何がおきたかといえば……。カエサル暗殺派(共和派)の幹部、カシウスとブルートスに対抗して、アントニウス、オクタヴィアヌス、レピドスが立ち上った。この中のオクタヴィアヌスはカエサルの甥であり、カエサル存命中にその養子となり、相続人に指名されていた。
暗殺派攻撃の火蓋を切ったのはマルクス・アントニウスである。彼はカエサルの葬儀のさい巧みな追悼演説によって民衆を暗殺派断罪の方向に導いた。カエサルの死のさいに「独裁者の死」に万歳を叫んだ民衆は、いまやカエサルを懐しみ、暗殺派を憎む心で燃え上り、暗殺派襲撃のための暴動にまで発展した。そして、カエサル派は力をとりもどした。
翌年(前四三年)、アントニウス、オクタヴィアヌス、レピドスは第二次三頭政治を開始し、軍事的な共和派征伐に乗りだした。前四二年、共和派の二大幹部、ブルートスとカシウスの死によってカエサル派は完全にローマの実権をにぎった。このとき、三頭による属州支配権の分轄《ぶんかつ》が行われた。オリエントの支配権を得たのはアントニウスであった。
前四一年のはじめ、アントニウスは支配地の統一に向って出発した。テッサリアとマケドニアを制圧した彼はアナトリアに移り、エーゲ海に面するエフェソスにしばらく宿営した。彼がエジプトの女王に向って使者を出し、会いたいと申し出たのはこの地からである。
アントニウスのクレオパトラヘの接近の理由については古来いくつかの説がある。若き日にエジプトヘ行ったことのあるアントニウスは、そのときに見たクレオパトラの美しさが忘れられずに再び会い、関係を深めたいと思った――というのが今日最も流布されている説。次は、カエサルの暗殺者でありアントニウスの敵であるカシウスを援軍と資金でクレオパトラが助けたということを査問するために出頭を求めた、という説。これはプルタークの記したところである。
そして、第三の説は、アントニウスのクレオパトラヘの接近は愛欲からのものでなく財政上の理由からだったとする。(イギリスのエジプト学者、アーサー・ウェイゴールの説)。
私はこの第三の説をとる。解雇した兵、および在役中の兵に対する支払いは莫大な金額を要した。征服地からの税だけで(それも徴収はかなり不確かだ)まかなえるものではなかった。そこで、アントニウスは天下にとどろいているプトレマイオス家の富に期待をかけたのである。
一方、エジプト女王に向って最初の使者を出した地点を、ほとんどの著述家は、アントニウスの次の大宿営地タルソスとしているが、私は、ここでもまたウェイゴール説を支持して、エフェソスからと考えて話を進める。
クレオパトラがローマを去り、アレクサンドリアに戻ってから三年半が過ぎていた。彼女は二十八歳になっていた。アントニウスは四十一歳であった。ローマで国際政治について多くのことを実際の場面に即して学んだ彼女は、アントニウスの申しいれをすぐには受けいれなかった。彼女のスパイはオリエントのあらゆる地点に放たれていて、アントニウスの政治上、軍事上、財政上の状況を女王のもとに知らせて来た。エジプトの発展のためにアントニウスが頼れる相手であるかどうかを彼女は調べたのである。
クレオパトラがアントニウスに会いにゆく決心をしたのは、したがってアントニウスを頼れる相手と評価したのは、その年の夏、アントニウスが次の大宿営地タルソスに移って再度の招待使者を差向けてきたときである。
夏のある日、クレオパトラを乗せた船団がタルソスに着いた。女王の船は満艦飾を施し、漕手は笙《しよう》と琴の楽隊の音にあわせて漕ぎ、女王自身は金の刺繍のある天蓋《てんがい》の下に身を置き、エジプト特産の上等の透きとおる亜麻布の衣服をまとい、頭にはエジプト王冠を、胸と腕には重たいばかりの金の装身具をつけていた。彼女をかこんで、これまた透きとおる亜麻布の着衣をした一群の若い美女がゆるやかに、エレガントな仕種で、女王に風を送っていた。他の随伴船はエジプトの富をどっさりと積んでいた。すべての船は芳香を発しその香りは両岸に流れ、人びとを酔わせた。
アントニウスはその夜、クレオパトラを夕食に招きたいと申しいれたが、クレオパトラは例の(あのカエサルを悩殺した)魅力的な声と仕種と話しかたで、いやこちらこそ先に招きたいとアントニウスにこたえる。ローマの英雄はこれを受けいれ、女王の船にはいる。
「噂に勝る用意を目にしたが、殊《こと》に燈火の数には驚いた。話によると、非常な数の燈火が設けられて一度にあらゆる方向から輝き、しかも互いの角度と位置から四角や円になるように配置されていたので、これに勝る立派な観物は殆どないような光景であった」とプルタークは書いている。
次の夜、アントニウスはお返しの夕食会を催したが、豪華さは女王のものに比ぶべくもなかった。第三夜からの夕食会はすべて女王の主催であった。女性として最も成熟した、つまり精神的にも肉体的にも頂点にある二十八歳の女王はアントニウスを決定的に捉えた。彼はローマの女性にこんなに惹かれたことはなかった。ローマに残した妻フルヴィアのことなど、アントニウスは全く忘れていた。
ほぼ一週間、クレオパトラはタルソスにとどまった。最後の夜、クレオパトラはアントニウスに身を任せた。アントニウスは経験したことのない生命の躍動を覚えた。この時から、アントニウスは女王の虜《とりこ》となる。
クレオパトラはアレクサンドリアヘ帰った。彼女の招きによって、間もなくアントニウスもアレクサンドリアに移り、王宮で暮した。
アントニウスはクレオパトラの気にいるためにいろいろと努力する。その中の一番の傑作は魚釣りのエピソードである。
ある日、二人は釣りに出たが、魚がうまくとれない。困ったアントニウスは漁師をこっそり水中に潜らせて、前にとってあった魚を釣針につけさせた。同じやりかたをつづけているうちクレオパトラは仕掛けを知ったが、そんなことは少しも素振りに出さず感心したふりをした。
別の日に、二人で釣りに出たとき、クレオパトラは戯れをした。彼女はアントニウスの漁師より先に自分の漁師をもぐらせて、アントニウスの釣針に黒海の魚の干物をつけさせた。魚がかかったと思ってアントニウスが引きあげると、地中海には見られぬ魚、それも干物と来ているからアントニウスの顔は丸つぶれである。そのときのクレオパトラのことばがいい。「インペラトール、あなたの釣棹を私の国のファロスやカノーボスの王にやっておしまいなさい。あなたの釣の獲物は都市や国家や大陸なのですから」
ここに女王の才智の一端が見られる。彼女は釣りの仕掛けを暴露すると同時に、アントニウスに壮大な野心を燃え上らせたのである。
女王は大教養人[#「女王は大教養人」はゴシック体]
さきにはカエサルと結婚し、いまはアントニウスと夫婦になっている女王を、エジプト人はどんな眼で見ていたか。著述家の中には、クレオパトラはエジプトで人気がなかったといっているものがある。しかし、それは根拠のないことであって、むしろクレオパトラはエジプト人の間で人気は高かった。歴代のプトレマイオスの諸王とちがってエジプト語を話す彼女はエジプト各地を旅し、上エジプトにも足跡を印した。彼女の最大の旅はカエサルと共にしたアスワンまでの旅であり、アスワンまで旅したのはプトレマイオス諸王のうち彼女ただひとりである。デンデラ、ヘルモンティス、フィレの神殿建立とそのレリーフに見るクレオパトラの位置は、クレオパトラの人気を示すものである。クレオパトラの死の直後、クレオパトラの彫像保存のため多額の寄付をしたエジプト人の記録も残っている。
また、クレオパトラヘの愛着と敬意はエジプト人の間で「錬金術のクレオパトラ」という形で語りつがれ、それがのちにギリシアの史家ゾシモスの手で『クレオパトラの対話』という本にまとめられている。これは興味ぶかい史料であるので、以下にその一部を示すことにする。
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そのときクレオパトラは哲学者たちに言った。「植物の性質を見て下さい。植物がどこから来るか見て下さい。あるものは山から来て大地から生長します。あるものは谷から生長します。またあるものは平地から来ます。しかし、いかに生長するかを見て下さい。あなたがたは、ある季節に植物を採取しなければなりません。あなたがたは植物を海の島々の最も高い場所から採取します。そして、植物に役立つ空気を見て下さい。植物が枯れもせず死にもしないようにまわりをかこんでいる栄養物を見て下さい。植物に飲みものを与える神聖な水を見て下さい。植物が個体となったのちに植物を支配する空気を見て下さい」
オスタネスと、彼と同席する人びとは、クレオパトラに答えて言った。「あなたの中には不思議で恐ろしい神秘が隠されています。あなたの光を元素になげて、わたしたちを啓蒙して下さい。最も高いものがいかにして最も低いものに下って一体となり、最も低いものがいかにして最も高いものに上って一体となるのかを、またこれらを成しとげる元素が何であるのかを、教えて下さい。祝福された水が、暗黒の中に縛られ苦しめられているハデスの肉体に、いかにして達するのか、生命の薬がいかにしてそれらの肉体に達するのか、そしていかにして、眠りから覚ますかのようにそれらの肉体を眼覚めさせるのかを、教えて下さい。棺架の上に注がれ、光のあとに来る新しい水がいかにして肉体の衰弱のはじまりの時に浸みとおり、水を支える雲がいかにして海から上るのかを、教えて下さい」
ついで、哲学者たちは、彼らに啓示されたことについて熟考し、心愉しんだ。
クレオパトラは彼らに言った。「水が来るとき、水は肉体を眼覚めさせ、肉体の中に閉じこめられていて弱い精神を眼覚めさせるのです。なぜなら、それらは、再び圧迫を受け、ハデスの中に閉じこめられるものの、暫くすると生長し、立ち上り、春の花のようにさまざまの輝かしい色彩を帯び、春自身が心愉しみ、それらがまとっている美をよろこぶからです。
このことを、私は賢いあなたがたに教えます。あなたがたが植物、元素、石をそれらの本来の場所から採るとき、それらは成熟しているように、あなたがたには見えます。しかし、それは火が試したあとでなければ成熟していないのです。それらが火の輝きに包まれ、輝く火の色彩を帯びるとき、むしろそのとき、それらのものがもつ隠れた輝き、探し求められた美が、神聖な融合状態に変化して、あらわれるでしょう。なぜなら、それらは火の中で養われ、胎児は母の子宮の中で少しずつ成長するのです。そして、定めの時が来ると、もはや外へ出ることを阻止されることはありません。この価値ある術の手順は、かくのとおりなのです。ハデスに次々と来る波は、それらが横わっている墓の中で、それらを傷つけます。墓が開かれるとき、赤ん坊が子宮から出て来るように、それらはハデスから出て来るのです」
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このあと、錬金術についての対話が進められる。アレクサンドリアは学問の都であり、クレオパトラは側近に学者をかかえている大教養人であったから、「錬金術の大先生」ではなかったとしても錬金術について対話する知識はもちろん持っていたはずである。かりに、それを疑うとしても、このような対話篇の主人公がクレオパトラになっているところに、クレオパトラの人気と死後の光輝が確実に存在するのである。
しかし、クレオパトラの死後について語るのはまだ早すぎる。時を、前四一年秋の、アレクサンドリアに戻す。王宮で女王はアントニウスと暮している。しかしカエサルの場合とちがって、アントニウスは女王の客として来ているのであって、ローマの執政官あるいは軍司令官として来ているのではなかった。
前四〇年のはじめ、ローマからの使者はアントニウスに古いニュースを、しかし意外なニュースをもたらした。冬の海は航海を困難にするので、便は著しく遅れるのが普通であり、これに代る陸路の便もまた、マケドニア、トラキア、小アジア、シリアと旅して来るのでこれまた多くの日数を要した。ローマのニュースが古くなってしかアレクサンドリアに届かなかったのは、こういう事情による。
さて、その意外なニュースというのは、ローマの妻のフルヴィアが弟ルキウスと組んで、ローマの指導者オクタヴィアヌスに叛旗をひるがえし、戦って敗れ、逃亡した、というのであった。孤閨《こけい》に悩むフルヴィアは、一種のヒステリー状態になり、この叛乱を企て、若いオクタヴィアヌスを倒し、アレクサンドリアにいる夫をローマの唯一の指導者として帰ってもらう、という展望をもっていたのであった。ところがそれは失敗しただけではなく、この企ての背後にアントニウスがいると信じた二十三歳のオクタヴィアヌスはアントニウスを叛乱者とみなし、ローマ入りを禁止するという決定までしたのである。
そこへまたもう一つの悪いニュースが来た。アントニウスの軍に服したはずのシリアとアナトリアでパルティア人の大がかりな叛乱がおきたというのである。
アントニウスはアレクサンドリアに留っていることはできなくなった。同時に、クレオパトラとしても、シリアの叛乱を鎮めてもらわねばエジプトにとって危険であった。
そこでアントニウスは前四〇年三月、軍を引きつれてアレクサンドリアを後にした。シリアのローマ軍の拠点チロスの備えを堅固にしたアントニウスは海路アナトリアのかつての陣地エフェソスに向い、そこから上陸して、パルティア人の叛乱を鎮めた。
注目すべきことは、この遠征のさい、アントニウスは期待したほど大きな資金援助をクレオパトラから得られなかったということである。隣接地のパルティア人の脅威がある以上、そしてその脅威をアントニウスが完全駆逐するという確実性も限定的である以上、エジプトは他人に貸すよりも自らのための十分な軍資金をもっていなければならない、というのがクレオパトラの立場だった。アントニウスに対する彼女の信頼は、それほど限定的だったというわけである。
オクタヴィアヌスの宣戦布告[#「オクタヴィアヌスの宣戦布告」はゴシック体]
パルティア人を制圧したのち、エフェソスを出発したアントニウスは海路、アテネに向った。彼は妻フルヴィアとそこで会った。アントニウスはフルヴィアの軽挙を非難し、フルヴィアは誰知らぬ者のないアントニウスとクレオパトラとの関係を難詰《なんきつ》した。二人は再会を喜ぶどころか、嫌い合う夫婦となって別れた。フルヴィアはアテネから約一三〇キロの都市シキオネに移り、絶望の日々を送っているうちに急死した。悶死または狂死であった。
奇妙なことは、オクタヴィアヌスが、この機をとらえて態度を急変したことである。叛乱の根源である人物が死んだ以上、アントニウスとオクタヴィアヌスとの間に問題はなく、二人の関係は元に戻るのが当然である、というのであった。
二人はアドリア海に面した都市ブリンディシで会談した。君子は豹変し、英雄もまた豹変する。二人は友好的に話し、統治上の協定を結び、オクタヴィアヌスの提案に基いてアントニウスはオクタヴィアヌスの妹オクタヴィアを妻とすることになった。
ローマの危機は去った。その時、二十五歳のオクタヴィアは夫を失って未亡人の暮しをしていたが、先夫との間に二人の子をもち、いま第三子を生もうとしていた。彼女は美貌をもち、女性のやさしさをそなえていた。しかしクレオパトラのようなセックス・アピールはなかった。
ローマでアントニウスとオクタヴィアが結婚した、ちょうどそのころ、アントニウスはクレオパトラが双子を生んだことを知った。一人は男子で、アレクサンドロス大王の名にちなんでアレクサンドロス・ヘリオスと命名され、もう一人は女子で母の名にちなんでクレオパトラ・セレネと名付けられた、ということも。彼の中にクレオパトラを恋うる心がにわかに燃え上った。同時に、またしてもおきたパルティア人の叛乱がアントニウスをオリエントに引きよせた。新しい協定により、オリエントはアントニウスの支配領地であったから、彼がオリエントに帰るのは当然のことであった。
早くオリエントヘ! アレクサンドリアヘ! しかし新婦オクタヴィアは先夫の子を生んだばかりであった。オクタヴィアが旅行に耐える健康状態となるのを待って、前三九年十月アントニウスはローマを離れた。しかしギリシア滞在中に支配地の異変についてオクタヴィアヌスと協議するためローマヘ帰ったところ、オクタヴィアヌスはアントニウスを軽く扱ったため、再び二人の関係は険しくなった。協定によって、アントニウスは必要な軍事要員をイタリアで徴募する権利をもっていたのに、オクタヴィアヌスはそれを許さなかったということも、二人の関係を悪化させる原因となった。
見ていろ、いずれはオリエントもローマもわが物にして見せる、そしてその全体の王になってみせるという意気込みのアントニウスは、再びアテネに戻り、ここに軍司令部を置き、ギリシアの統治機構を固め、苦心して兵員を集め、オリエント作戦を進めた。前三八年から三七年にかけてのことである。
ギリシアについでアナトリアを制圧し統治機構を設けたアントニウスは、軍司令部をシリアのアンチオキアに移した。シリアまで来るとエジプトはもう隣りである。
クレオパトラに会いたい、二人の子の顔を見たい、という彼の気持は強かったが、軍事情勢と側近の強い要請のため、アントニウスは軍司令部をはなれてアレクサンドリアに向うことはできなかった。彼はクレオパトラに対して、アンチオキアまで出向いてほしいという懇請の使者を出すほかはなかった。
アントニウスがエジプトを留守にしていたあいだ、クレオパトラのスパイはアントニウスの動向を逐一知らせて来ていた。アントニウスとオクタヴィアとの結婚のことも。女王はいずれアントニウスがオリエントに戻り、彼女に会いたがる日が来ることを信じていた。そして、彼女は計画を練っていた。やがて明らかになるが、クレオパトラが愛したのはカエサルであって、アントニウスではない。だから、アントニウスがオクタヴィアと結婚したというニュースを受けて、クレオパトラが嫉妬の余り狂わんばかりになった、と記す多くの著述家の立場に私はくみしない。クレオパトラにとって、アントニウスはエジプト王国の保全と発展のための道具にすぎないのである。
さて、アントニウスの招きを受けたクレオパトラはアンチオキアに向った。アントニウスはクレオパトラに結婚を申しいれ、女王はこれを受けいれた。結婚式は盛大に行われた。前三六年十月のことであり、女王は三十三歳、アントニウスは四十六歳であった。結婚を記念して二人の顔を彫った貨幣が発行された。
この結婚によってアントニウスは事実上自分がエジプトの王になると考えていたが、クレオパトラの展望はこれとは違う。彼女は、この結婚は大エジプト王国を築くための一つのステップであると考えていた。カエサルとの間にもうけた息子カエサリオンはすでに十一歳になっており、この息子が成人して王となるまでの繋ぎの役割を、クレオパトラはアントニウスに期待しているのであった。確かに、得をしているのはクレオパトラであった。
第一に、アントニウスはエジプト王とは名乗らず、独裁者という称号をとった。第二に、結婚に伴うアントニウスのプレゼントは莫大なものであった。シリア、キリキア、キプロス島、クレタ島(の一部)、シナイ、北部アラビアという広大な領土が女王に贈与されたのである。アントニウスのクレオパトラに対する愛の強さを、それは物語っていた。
アンチオキアでクレオパトラとアントニウスは暫く幸福な日々を送った。しかし北部(アルメニア方面)の叛乱がはじまったので、アントニウスは軍を進めることとなった。クレオパトラはアントニウスとともに行動することにした。しかし、ユーフラテス河畔まで達したとき、クレオパトラは体調の乱れから引返さざるを得なくなった。彼女は妊娠したのである。
アレクサンドリアヘ戻った女王は身体をいたわりつつ政務を執り、アントニウスの軍事成果を見守った。前三五年、クレオパトラは男子を生み、プトレマイオス・フィラデルフスと名付けた。プトレマイオス家の名を採ることによって、アントニウスヘの配慮を彼女は示した。(アントニウスヘの愛といわずに、配慮という用語を記したのは故あってのことで、やがて、そのことは明らかとなるはずである)。
アントニウスの北部遠征は失敗におわった。たとえば、ある戦いでは、敵が和平を申し出てきたので全面降伏を求めたところ、敵はそれを拒否し、「黙って撤退するなら妨害はしないが、戦いをつづけるならこちらも戦う」と強気の姿勢を示し、結局、アントニウスの軍は撤退の途を選んだというような有様であった。アントニウスはアレクサンドリアに帰り、一方でクレオパトラとの生活を楽しみ、他方で「アントニウスの王国」について構想を練り直すこととなった。
その時ローマではアントニウスの言動について烈しい批判がおきていた。いうまでもなく、エジプト女王との結婚と女王への領土贈与の問題である。アントニウスはローマにオクタヴィアという妻をもっているのにエジプトの女と結婚するとは、これは何としたことか。ローマ領は祖国ローマに属するのであってアントニウス個人の持物でないのに、勝手に、宝石でも渡すように簡単に贈与するとは何ごとであるか。そういう批判である。
また、それよりさき、妻オクタヴィアが二〇〇〇人の兵をつれてアテネまで来たとき、アントニウスはこれをローマヘ帰らせた、という出来事もあって、このことはオクタヴィアの兄オクタヴィアヌスを烈しく苛立たせていた。この出来ごとのさい、兄は妹に、もうアントニウスの館に住むなというが、妹は「私はアントニウスの妻です」といって従来どおりの館に住みつづけた。ついで、クレオパトラとの結婚に関連して兄が「こんな侮辱は武力で解決する」といったとき、妹は涙を流して「私のためにそんなことはしないで下さい」と兄に懇願するのであった。オクタヴィアはそういう女なのであった。
こうして、オクタヴィアヌスはアントニウスとクレオパトラに対して非難のことばを加速度的に強めていった。アントニウスはこれに対抗措置をとった。彼はローマの妻に離縁状を送り、こんごアントニウスの家に住むことは許さない、と通告した。前三二年のことである。おとなしいオクタヴィアはその通告に服したが、兄の苛立ちはいよいよ烈しくなっていった。
オリエントにおけるローマ領の危機を叫ぶのはオクタヴィアヌスだけではなかった。ローマ本国だけでなく、シチリア、サルジニア、アフリカ、ガリヤ、スペインのローマ領からも同じ声が湧き上った。この大合唱に支えられて、オクタヴィアヌスは決定的なステップを踏んだ。
前三一年、彼はアントニウスを三頭政治の機構から除名し、執政官の権限を剥奪し、クレオパトラに対して宣戦布告をしたのである。
アントニウスに対してではなくクレオパトラに対してであった。アントニウスに対して宣戦布告することはすでに終ったはずの内戦の再発を意味し、それは国民に対して十分の説得力をもたなかった。それに国内にはアントニウス支持派の勢力も残存している。ところが、エジプトの女王クレオパトラを敵として示すことは国民を一致させ、敵愾《てきがい》心を高めるのに大いに効果がある。そういう分析から、オクタヴィアヌスはクレオパトラに(そしてクレオパトラのみに)宣戦布告をしたのである。
すでにこのことあるを予想しているクレオパトラとアントニウスは、ギリシアに向けて艦隊と陸軍を集めていた。アントニウスの軍勢は、戦艦が五〇〇隻、歩兵が一〇万人、騎兵が一万二〇〇〇人であった。ただし艦隊の乗組員は弱体であった。というのは、乗組員の不足から、ギリシアの旅行者やローマの馬方や収穫の人夫や年ごろの若者を寄せ集めたりした有様であったから。
対するオクタヴィアヌスの軍勢は、戦艦が二五〇隻、歩兵が八万人、騎兵が一万二〇〇〇人であった。戦艦の船の数は少ないが、船は操縦しやすく速力があり、乗組員は訓練した要員ばかりであった。
したがって戦闘力としてはアントニウスの陸軍のほうが優位に立っていたわけだが、アントニウスはクレオパトラの意見に従って海戦で事を決することとなった。しかし、エジプトの艦隊は、アントニウスの指揮下にはいるのではなく、クレオパトラの指揮に属した。
最も愛したのはエジプト[#「最も愛したのはエジプト」はゴシック体]
この時のクレオパトラの立場には、冷静な、あるいは冷酷な国家利益が決定的に作用していた。女王は、戦局不利の場合は、エジプト艦隊を無傷で救う、すなわち戦線離脱をさせ得るよう、エジプト艦隊の配置に工夫をした。
前三一年九月二日、戦いがはじまると、アントニウスの艦隊は図体が大きくて機動力に欠けるので守勢に立った。
突然、六〇隻のクレオパトラの艦隊が帆をあげて戦線離脱をはじめた。順風だったので艦隊はスピードに乗って湾外に向った。
この出来ごとはアントニウスを狂わせた。自ら指揮する艦隊をそっちのけで、アントニウスは自らの船をクレオパトラのほうに走らせた。そして、クレオパトラの船に乗り移ったが、クレオパトラは自室にはいったままであった。ペロポンネソス半島南端のタイナロンに寄港するまでの三日のあいだ、アントニウスは船首に、無言のまま、両手で頭をおさえていた。「クレオパトラに対する怒りのためか恥のためかわからないが」とプルタークは書いている。
指揮官に逃げられた艦隊が戦いに勝つわけはない。アントニウス軍の死者は五〇〇〇人、捕った船は三〇〇隻に上った。
クレオパトラはリビア海岸にアントニウスをおろし、自分だけエジプトに帰った。そして「戦いに勝った」と宣言した。エジプト艦隊が無傷で帰ったので、エジプト人はそれを信じた。
しかし、それも暫くのことであった。オクタヴィアヌスの軍がエジプトに迫って来て、勝者がだれであったかが明らかとなったからである。
クレオパトラは無傷のエジプト艦隊を軸としてエジプト軍勢の充実を図ったが、エジプトで戦うのは不利とみて、一旦他の同盟国に逃れて亡命政権を樹立し、決戦の機を待つという計画をたてた。
艦隊を地中海からナイル経由の運河で紅海に移そうとしたが、運河の管理が不備で水深が浅かったため吃水《きつすい》の深い軍船を動かすことはできなかった。女王は艦隊を陸送することにした。この事に難渋しているうち、オクタヴィアヌスの軍はアレクサンドリアにはいり、攻撃をはじめた。すでにリビアからエジプトにはいっていたアントニウスは僅かな兵力で戦いに臨んだ。
アントニウスはオクタヴィアヌスに使いを出して決闘をしようと申しいれるが、相手の答えは簡単なものであった。「そんなことをしなくても、貴殿の死に場はどこにでもあろう」
戦局に希望をもてるはずはなかった。そういうときに、「クレオパトラが死んだ」という知らせがアントニウスのところに届いた。
正確にいうと、「死んだ」という表現の知らせではなかった。クレオパトラの使いの女が「女王は墓にはいられました」と伝えたのを、戦陣の多忙さと神経の乱れとによってアントニウスは「女王は死んだ」と解したのだ。実は、戦乱の中で難を避ける安全な場所としてクレオパトラは古い地下墳墓に身をかくしたのである。
クレオパトラが死んだと信じたアントニウスに、もはや生きつづける勇気も意味もなかった。そこで部下の刃に身を倒して死のうとした。それでも、一目クレオパトラの死顔をみたいと思い、女王の宮殿にたどりついた。そして、生きている女王に会い、彼女の腕の中で息絶えた。アレクサンドリアはオクタヴィアヌスの支配下にあった。オクタヴィアヌスの命により、アントニウスの遺骸は手厚く、ローマ風に、埋葬された。ローマ風に、というのは、ミイラにしないで、という意味である。すでにオクタヴィアヌスの監督下にあるクレオパトラは許されてアントニウスの埋葬式に出席した。
クレオパトラはオクタヴィアヌスを訪ねて、エジプト王国保全の道を探ろうとした。オクタヴィアヌスはそれをことわり、エジプト女王に敬意を表するために自分のほうから出向く、と答えた。そして、オクタヴィアヌスは来たが儀礼的な挨拶《あいさつ》を述べたにとどまった。三十九歳のクレオパトラは、かつてカエサルとアントニウスの心を捉えたころの色香を失っていた。それに、オクタヴィアヌスは恋よりも勝利を求める男性であった。
オクタヴィアヌスは、言葉ではクレオパトラを今後もエジプト女王として立派に遇すると述べていたが、内心では別のことを考えているのであった。実はクレオパトラを最も輝かしい戦利品として、つまり捕虜としてローマに連れ帰り、凱旋式の捕虜行列に加えるという計画をもっているのであった。このことをクレオパトラは買収したローマ軍人を通じて知った。
カエサルのローマ凱旋式のさい、妹のアルシノエが惨めに捕虜行列に連なっていたのを、クレオパトラは思いだした。それは「エジプトの女王」のプライドが許すものではなかった。命ながらえるために恥を忍ぶ、ということはクレオパトラの方法ではなかった。
出航の日が明日に迫ったことをクレオパトラは知った。監視の中で閉門の生活をつづけている彼女の宮殿に、その日、三つの果物籠をもった使用人がはいった。番人はその中身に疑いをもたなかった。
中には一匹ずつ毒蛇がはいっていた。女王は自分用の籠をとり、毒蛇を出し、腕をかませた。やがて、彼女は眠り、息絶えた。最も信用されていた二人の侍女、カルミオンとイラスが女王の服装を整え、化粧を施し、王冠を正しくかぶせたのち、二人とも、同じ方法で女王のあとを追った。時に前三〇年八月三十一日。女王は三十九歳であった。
瀕死のクレオパトラを描いたものとして、フィレンツェにあるミケランジェロの作品が知られている。悲しみと苦痛の表情は印象的である。このルネサンスの巨匠は「永遠の女性」としてクレオパトラを描いたのではあるまいか。レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナリザ」によって「永遠の女」を描いたのにならって――。
さて、死んだ女王の遺骸は、女王の遺言にもとづいて、アントニウスの墓のそばに非エジプト的に葬られた。オクタヴィアヌスが、女王をミイラとして埋葬することを禁じたからである。彼は、女王の身体が早急に腐敗し、早急に女王の威光が消え去ることを望んだのである。(したがって、現代の考古学者がクレオパトラのミイラを探しても、見つかることはない)。
女王の四人の子はどうなったかといえば、カエサリオンは処刑された。実は、カエサリオンは、クレオパトラの命により側近とともに紅海を渡ってインドに逃げ反撃と復権の機会を待つはずであったのだが、途中で側近に裏切られ、ローマ軍に引き渡されたのであった。直ちに処刑したのは、カエサルの子カエサリオンはカエサルの相続人オクタヴィアヌスにとって恐ろしいライバルであり、生かしておくわけにはいかなかったからである。
他の三人、すなわちアレクサンドロス・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・フィラデルフスはローマの凱旋式で捕虜行列に加わったのち、オクタヴィアに引きとられ、養育された。このうち、クレオパトラ・セレネは結婚適齢期になったとき、北アフリカのモリタニア王国(今日のモロッコとアルジェリア)の王妃として嫁いだ。そのさい、二人の兄弟も彼女に同行して北アフリカに渡り、幸せに暮した。クレオパトラ・セレネの彫像が今世紀はじめにアルジェリアのシェルシェルで発見され、同地の博物館に保存されている。
最後に女王クレオパトラが愛したのはカエサルのほうか、アントニウスのほうか、という問題をもう一度考えてみる。
プルタークがアントニウスとクレオパトラの恋について多くのページを割いたために(とくに最後の、アントニウスのわきに葬られることをクレオパトラが望んだというくだり)、またこれを土台にしてできたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』が余りに有名なために、ほとんどの人はクレオパトラが愛したのはアントニウスだと考えている。
私は全く別の立場をとる。クレオパトラが真に愛したのはカエサルであったのだ。第一に、カエサルは彼女の知った最初の男性、最も英雄らしい英雄であった。だからこそ、彼との間に生れたカエサリオンを最も尊重し、つねにその運命を考えて政治的行動をとったのである。次に、神殿に残した自分とカエサルとカエサリオンの図によって彼女はその心情をもまた吐露したのである。
アントニウスについて、彼女はこのようなものを何か残しただろうか。皆無である。プルタークは伝聞によって書いたのであって、上エジプトに残るクレオパトラの遺跡を何ひとつ見てはいない。それゆえ、カエサルとクレオパトラの関係については簡単な記述で足れりとしたのである。古くからの余りにステレオタイプなクレオパトラ像を捨てたほうがよい、と私は思う。
「愛」についてさらに述べるならば、彼女が最も愛したのはエジプトそのものであった。
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ハトシェプスト 建築と貿易の女王[#「 建築と貿易の女王」はゴシック体]
最初の偉大な女性[#「最初の偉大な女性」はゴシック体]
エジプトを訪ねてルクソールに上る人は、デイル・エル・バハリのテラス式神殿を必ず見るであろう。ガイドは、これがエジプトで唯一のテラス式神殿であると説明するはずである。カルナク神殿では今も立っている二本のオベリスクを見上げるであろう。その中の高い方は、エジプトで立てられた最大のオベリスクである、とガイドは述べるはずである。「古代エジプトの摩天楼」という表現がそこで出てくるかもしれない。
この神殿、このオベリスク。その建造者がこれから私が語ろうとする第十八王朝のハトシェプスト女王である。時代は前十六世紀から十五世紀にかけてである。
人物や地理を的確に簡潔な表現で捉える天才、アメリカのエジプト学者、ジェイムズ・ブレステッドはこの女王を「歴史上、最初の偉大なる女性」と形容した。宗教改革王アケナトンを「人類最初の個人」ととらえ、メソポタミアからエジプトにかけての一帯を「肥沃な三日月地帯」と表現したあのブレステッドが――。まことに、彼女は「歴史上、最初の偉大なる女性」と呼ばれるにふさわしい人物であった。
第十八王朝は、異邦人王朝のヒクソス時代を終らせたアフメス一世によってはじまった。この王は国家再建に一生を捧げ、そのアジアとヌビアの遠征による富の獲得が、国家に光明をもたらした。
アフメス一世の王子アメンホテプ一世が、父の死後、二代目のファラオとなった。アメンホテプ一世は正妃との間に王女アフメスをもったが、王子は生れなかった。王子は、側室のほうに生れ、トトメスと命名された。トトメスは王位請求権をもたなかった。
アメンホテプ一世は、王女アフメスとトトメスを結婚させることによって王位継承に問題がおきないようにした。
アメンホテプ一世の死に伴って、トトメスはトトメス一世となって即位した。彼は正妃との間に二人の王子、二人の王女をもうけた。二人の王子の名はワジメスとアメンメ、二人の王女の名は、ハトシェプストと、もう一人は名前不詳。ハトシェプストという名は「高貴なる女性の中の長」という意味である。王は、ほかに、側室に王子トトメスを生ませていた。
嫡流の王位継承資格者が二人もいたのに、この二人がいずれも幼くして世を去った。トトメス一世としては、王位継承をスムーズにするために、自分の父が実践したと同じ形式を子供にとらせることにするほかはなかった。こうして、第一王女ハトシェプストがトトメスを夫として迎え、夫はトトメス二世と称することになった。
トトメス一世の死によって、トトメス二世王とハトシェプスト王妃の時代がはじまった。時に王は、十二歳、王妃は十五歳。前一五一二年のことである。
ハトシェプストは生来、怜悧《れいり》で活動的、その考えかたと行動は男性のようであった。彼女は公式の席では夫のかげにいたが、事実上は年若の夫をリードした。建築への情熱は、すでにこのころ、あらわれた。トトメス二世の名による建築が各地で進められた。カルナクとエスナで神殿を、メディネト・ハブではトトメス一世によって開始された神殿工事を続行した。
ハトシェプストは早くも自らの墓の準備をはじめた。その位置の選びかたは、まことに独創的であった。
王の墓をつくる王家の谷、王妃を埋葬する王妃の谷、この二つの谷の間に、猿を葬る「猿の谷」がある。その谷を見下す断崖は、谷の底から一三二メートルの高さにそびえている。その断崖の中腹部、下から七〇メートル、上から六二メートルのところに、ハトシェプストは自らの墓をつくらせたのである。
それは、上からも見えず、下から見えず、という場所である。そのとき、墓盗人の手からいかにして逃げるかということが、彼女をとらえているのであって、築造に関しては、建築家イネニが関与していた。イネニは、すでにトトメス一世の「隠された王墓」のために貢献した練達の建築家で、トトメス二世の治世中、建築の最高責任者をつとめる人物である。彼は王から受けた寵愛を、自らの墓に、次のように記している。
「私はいかなる場合にも王の寵愛を受けました。私以前のいかなる人も、私以上に王から 寵愛を受けたものはありません。私は王の晩年まで奉仕いたしました。私は王から毎日、寵愛を受けました。私は王のテーブルから、王のためのビール、肉、脂肉、野菜、各種の果物、蜂蜜、菓子、葡萄酒、油をいただきました。王の私への愛のゆえに、私の必要は、私の健康と生命力に応じて、配分されました」
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そういうイネニの工夫によって、ハトシェプストの断崖墓は築造されたのであるが、その構造は次のようなものであった。
墓は西に向いて作られ、秋分の日の最初の日没時の光が第一通廊に直入するように設計されていた。西は死者の国の方角である。
第一通廊は高さ二・二メートル、長さ一七メートルで、ゆるやかな勾配でくだる。行きどまりの右手に小さな前室がある。前室から急勾配の通廊が五・三メートルにわたってつづく。この急勾配がおわると、玄室があらわれる。玄室は幅五・四メートル、奥行五・三メートル、高さ三メートルである。
玄室に黄色砂岩製の石棺が置かれた。石棺のサイズは、長さ一・九九メートル、幅〇・七三メートル、深さ〇・七三メートルであり、これに乗せる蓋は、深さ〇・一七メートルであった。石棺には「王女、王弟、神の妻、王の大妻、二つの国の奥方」と銘刻された。「神の妻」以下の名称は王妃をあらわす習慣的な用語である。ついで、石棺に「死者の書」の文字が刻まれた。「死者の書」は古王国時代の「ピラミッド・テキスト」と中王国時代の「コフィン・テキスト」を吸収して生みだされた新王国時代の祈祷文で、あの世での死者の旅と生活の安全と幸福を祈るためのものである。
墓は玄室でおわらなかった。玄室の中央部から急勾配の通廊がつくられた(特殊な設計である)。この通廊は五メートルつづき、ついで狭い接続部を経て、高さ二メートル、奥行二メートルの室にはいる。墓はそこで終った。地下至聖所に予定された最後の室は完成されなかった。壁面装飾という点からみれば、それはどこにも施されなかった。故あって、この墓は、放置され、未完の墓となったのである。三千年以上たって、一九一六年にハワード・カーターがそれを発見し、石棺をカイロ博物館に移すということになる。その持出しと積下ろしは、現代の技術をもってしても難事であった。ハトシェプストの職人は、いかにしてあの大きく重たい石棺を玄室におさめることができたのか。断崖の上から下ろしたのか、谷底から引きあげたのか。いかにして? カーターも、その後の学者もこの謎に答えを出せないでいる。
このユニークな断崖墓を、なぜハトシェプストが未完のまま放置することになったかというと、身分上の大転換によるのである。それはやがて、記述が進むにつれて、明らかとなるはずである。ハトシェプストはトトメス二世との間に、二人の王女をもうけた。第一王女はネフルラという。第二王女の名は分っていない。王子は生れなかった。王子が生れるのは、トトメス二世の側室からだった。王はこの男子に、トトメスという名を与えた。
トトメス二世の治世八年目に、ハトシェプストは王のかげの妃であることをやめ、前面に出た。王と王妃が共同統治にはいったのである。共同統治という場合、いつでも、どちらかが優位を保つのは当然であって、トトメス二世・ハトシェプストの場合には、ハトシェプストが優位に立った。といっても、家つき娘が婿をないがしろにしたということではなく、夫が健康を損ねて十分に政務に耐え得ないという事情から、妃が乗りだしたのである。
トトメス二世の時代は平和であった。ヌビアでの叛乱に出兵したことはあるが、エジプトの国情を緊張させるほどのものではなかった。
そして、トトメス二世は、治世九年に、すなわち共同統治の二年目に、病いのため世を去った。ハトシェプストは未亡人となった。二十三歳である。
ファラオの称号[#「ファラオの称号」はゴシック体]
王家の直系であるハトシェプストは、未亡人であっても、王位請求権者であった。したがって、新たに夫を迎え、その人を王とすることもできた。
しかし、彼女はその道を採らなかった。彼女は、王女ネフルラに、トトメス三世を夫として迎え、名目上の王とすることにしたのである。
一方、トトメス三世王の実現について、ハトシェプストの野心的動向に不安をいだいている反ハトシェプスト派は別の根拠を用意した。
トトメス三世は王女ネフルラの夫となることによって王位継承者となるのではなく、神アメンの御指名によって王位継承者となるのである――というのが彼らの考えであった。
そこで、彼らはアメン祭司団と組んで一芝居打った。王位継承の候補者すべてを神殿に集まってもらい、神から直接に選んでもらう、というのが彼らの提案であった。指名するアメン神の代理祭司は、トトメス三世がどこにいるかを予《あらかじ》め知っていた。代理祭司は、その少年の前にとまればよいのだ。そして、事は筋書きどおりに運び、トトメス三世は神から指名された王位継承者となった。(このことを、後にトトメス三世は大いに強調することとなる)。
そんなわけで、トトメス三世を王位継承者にするという結論ではハトシェプストもハトシェプスト反対派(あるいは批判派)も一つであったものの、狙いはちがっていた。「神の指名派」は、これによってハトシェプストの勢力を排除し、トトメス三世を前面に立て、これを利用してうまい汁を吸おうというわけである。
ハトシェプストはといえば、彼女は、トトメス三世がまだ幼年であって統治能力がないことを理由に、自らが摂政となり事実上の統治者になることを考えていた。そして彼女は、反対派の動きが大きくならないうちに、自らの体制を固め、摂政となることを宣言した。事は定まった。
「ハトシェプストの時代」はこうして始まったのである――。
彼女は有能な側近をもっていた。幼いときから賢く、男まさりの面をもっていた彼女は、二十三歳の摂政として、自主的判断によって側近を選んだ。最も重要な側近は、建築家センムトと宰相兼アメン信仰の祭司ハプスネブの二人であった。とくに重要な人物は前者で、トトメス一世の時代から王家に奉仕している建築家イネニがトトメス三世登位の初期、すなわちハトシェプストの摂政の初期に死んだあと、その枢要の位置を占めることとなったのである。
もともと、彼は王女ネフルラの教育係として登用されたのであった。平民出身の彼は書記として頭角をあらわし、ハトシェプストの注目するところとなり、王女教育係となったのであった。そしてその教育活動の中で、彼はさらに才能の輝きをみせ、ますますハトシェプストのお気にいりとなり、ついに、最高の建築家(全建築部門を指揮する最高の責任者)となったのである。
若いハトシェプストと有能な側近。二人の親密さは、ついに、君主と奉仕者という関係を越えて、男と女の関係にまで発展していった。それはセンムトの能力発揮の勇気と機会をいよいよ増大させていった。
摂政の二年目に、ハトシェプストは自ら君主として国政を指揮することにした。これがハトシェプストの治世一年となる。しかし、はじめは控え目で、布告や記念物での表現に、自分だけでなく、トトメス三世の姿も並べて示した。治世六年目に、彼女は全面的に君主として統治に当ることを宣言した。
女性の君主、ということになれば、だれでも「女王」という形を想像するにちがいない。現代の例でいえば、イギリスのエリザベス女王のような形を。
しかし、ハトシェプストは、「女王」としてではなく、男性の君主の同等者として、すなわち純然たるファラオとして統治することにしたのである。エジプトに、前にも後にもないことである。そのとき、当然に、さまざまの「新しいもの」が出現する。
第一に彼女の称号。王妃であるあいだ、そして摂政となった初年度は、彼女は王妃の称号を用いていた。それは「王の大妻」「神の妻」「神の手」「アメンを崇拝する聖なる女性」「ホルスとセトを見る女性」というような控え目なものであった。
ここにあらわれたホルスとセトについて少しく説明を加える。あとに出て来る話とつながりがあるから。
エジプトの統治についての最古の神話はオシリス神話である。世界(エジプト)を統治していた理想的な王オシリスは弟セトの嫉みを受け、謀略によって殺される。セトは王位に即《つ》くが、オシリスの息子ホルスが父の仇を打ち、セトを征伐して王位を奪回する。こうして、オシリスは冥界の王として、ホルスはこの世の王として君臨することになった……これがオシリス神話である。当然にファラオの理想と称号はこの神話に結びついている。
ファラオの称号は第一王朝いらい徐々に整っていったのであるが、中王国時代に五つの称号がファラオの完全称号として定まった。それは@ホルス名 A二女神名 B黄金ホルス名 C上下エジプト王名 D太陽神の息子名 という五つであって、@はホルスの化身としての王を、AとBは上下エジプトの神の子としての王を、Cは現実国土の支配者としての王を、そうしてDは太陽神ラアの子としての王を、あらわしている。
初期の実例として、第十二王朝のセンウスレト二世の称号を示すと、@ホルス、繰返す命 A上下エジプトの二女神、繰返す命 B黄金ホルス、繰返す命 C上エジプトと下エジプトの王、太陽神ラア生れる D太陽神の息子、女神ウェセレトの夫、である。
わがハトシェプストはといえば、その五称号は次のとおりであった。
@ホルス、ウォスレトケウ永遠に A上下エジプトの二女神、爽やかな年齢 B黄金ホルス、王冠の聖なるもの C上エジプトと下エジプトの王、永遠に生きるマアトカラ D太陽神ラアの息子、ハトシェプスト。
こうして、ハトシェプストは、女性でありながら男性のファラオとなったのである。
それは当然に、彼女がファラオの服装をまとうことを意味した。身長一七〇センチに及ぶ彼女の体格は、その服装に調和した。彼女は、ファラオの兜《かぶと》をかぶり、男装して公務の指揮にあたった。当然に、彼女の彫像もレリーフもファラオとして作られた。スフィンクス姿のファラオ像も、彼女のために作られた。
そのことはまた、王墓造営について新しい構想を要求した。もはや王妃ではなく、ファラオである彼女は、猿の谷の断崖に掘った墓を必要としなかった。ファラオは王家の谷に永遠の家をもたねばならないのだから。こうして、ハトシェプストは断崖墓を未完成のままで放置し、王家の谷に自らの墓を造ることとなったのである。
墓の設計と造営指揮はもちろんセンムトによっておこなわれた。またしても、入口は断崖に掘られた。そこから、岩盤を急勾配で下る通廊は、途中で横に折れたり、階段部を設けたりして、全長は約一二〇メートルに達した。その最も奥の部分が玄室であった。入口と玄室床の垂直距離は九三メートルもある。そういう大規模な墓の造営をはじめた彼女は、玄室に、何と二つの石棺を置いた。一つはもちろん自分のためのものであり、他は父トトメス一世のためのものであった。父のための石棺を置いたのは、父を自分の墓に移送して、墓の神聖化をはかるためであった。
父のための石棺のサイズは長さ二・二二五メートル、幅〇・七三メートル、深さ〇・九〇メートルであり、彼女の石棺は長さ二・四六メートル、幅〇・八八メートル、深さ一メートルであった。
断崖の美学[#「断崖の美学」はゴシック体]
王墓と葬祭神殿は王が即位とともに開始する死への準備である。王墓に着工した女性のファラオは、こんどは葬祭神殿の仕事に移った。
神殿建造地の選びかたは、まことに独創的であった。ハトシェプストはセンムトを伴って、テーベ近郊を探査したのち、山をはさんで王家の谷の裏側に当るデイル・エル・バハリの湾形地に注目した。すでに第十二王朝いらい、この地は聖なる土地とされ、湾形地の一角に、その王朝のメンツーホテプ一世と二世の築いた墓の遺構がなおも残っていた。それは、方形の王墓の上にピラミッド形の上部構造を乗せた墓であった。
何よりもハトシェプストを惹きつけたのは湾形地をかこむ高さ七〇メートルの断崖であった。未完に終った墓の造営場所が断崖であったことを思い出していただきたい。彼女は断崖の愛好者であり、「断崖の美学」の最初の持主なのである。
細部の設計はセンムトの仕事であったが、原則的な指示はハトシェプストが行うのであった。前方に広い庭と神殿、徐々に上って、奥の神殿は岩窟神殿にしたい――というのが彼女の指示であった。「壮大に、美的に」と、もちろんハトシェプストは要求した。
前もって、ハトシェプストはその神殿に「ゾセル・ゾルス」と命名した。「聖なるものの中の聖なるもの」あるいは「至高に聖なるもの」あるいは「至高の聖所」という意味である。今日用いられている「デイル・エル・バハリ」という名称は紀元後七世紀にアラブがエジプトを征服したさいに付けたアラブ語の名称で「北の修道院」を意味する。古代神殿がそのころ、エジプトのキリスト教徒(コプト)の修道院となっていたからで、いくつもある修道院の中で「北」に位置していたので「北の修道院」と命名したのである。
しかし、今日では、本来の名称である「ゾセル・ゾルス」は忘れられて、デイル・エル・バハリという名称が広く流布している。本書でもこの名称を使ってゆく。
デイル・エル・バハリの神殿を築くに当り、センムトは、まず断崖よりはるか手前に、つまりナイル川の側に、参入神殿を築いた。そこから約八〇〇メートルの参道がつづく。それが最初に達するのは第一前庭と第一神殿である。この区画は約九〇メートル平方であった。前庭の奥が列柱回廊式の神殿であった。前庭の周囲は、上質の石灰岩の壁でかこまれた。
前庭の中ほどから、第一神殿の屋上に向って斜面の通路が設けられた。第一神殿の屋上は、奥に向って広くなり、第二神殿と前庭がそこに築かれた。この区画は幅約九〇メートル、奥行約七五メートルであり、神殿はこれまた列柱回廊形式で建てられた。この前庭の周囲は高い石壁でかこまれた。第二前庭の中ほどから、第二神殿の屋上に向って再び斜面の通路が作られた。第二神殿の屋上から奥に拡がる区域は、こんどは第三神殿(奥神殿)と第三前庭となる。この奥神殿の奥の祭壇は崖の中に(岩の中に)掘ったものである。
各神殿の壁面には、信仰の文字や像、ファラオ・ハトシェプストの事績に開する文や像が、あるいはレリーフの形で、あるいは彩色画の形で、配列された。
第一神殿にはオシリスの姿(死んだ王の姿)をしたハトシェプストの二体の巨像が左右対称にして立てられ、壁面上部にはハヤブサ(ホルス神)、コブラと禿鷲の絵が一杯に描かれた。ハヤブサ、コブラ、禿鷲は、いずれもファラオのシンボルである。
第二神殿は、右半分と左半分に区分され、右側には生誕記録が刻まれ、その奥にアヌビス神殿がある。アヌビスは死の神である。左側にプント航海の記録が描かれ、そのうしろにハトホル神殿が置かれた。ハトホルは愛の神である。
二つの重要な記録のうち、生誕記録のほうから見よう。これは、彼女自身の伝記である。彼女は神聖な誕生と即位の正統性をそこに明示した。記述は絵とならんで、あるいは絵を説明する形で、いろいろな神、いろいろの場面を通じて、おこなわれている。誕生に関するものを左に示す。
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◇アメン神のことば
余はトトメス一世が愛した者、上エジプトと下エジプトの王家の母となる者、ハトシェプスト・ケネメトアメンが生れることを望む。彼女が立ち上るとき、余はその者の守護者となるであろう。余は彼女に、すべての野、すべての山を与えるであろう。彼女は生ける人すべてを導くであろう。余は二つの国を平和のうちに結びつけるであろう。彼女は諸神のために神殿を建て、諸神にすみかを献じ、供物台をにぎにぎしくするであろう。余は必要なときに天の雨を降らすであろう。時到れば、ナイルが大ナイルとなるようにするであろう。諸神は、彼女のうしろにあって、彼女を守護し、生命と安定を彼女に与えるであろう。彼女を讃えるものは生きるであろう。陛下の名を用いて彼女を中傷する者は、余はその人を直ちに死に到らしめるであろう。
◇諸神のことば
われわれはここにそろっております。われわれは彼女のうしろにあって、彼女を守護し、生命と安定を彼女に与えるでありましょう。彼女はこの二つの国において類いまれなる記念碑をたてるでありましょう。
◇アメン神のことば
では行け、カルナクの主のすまいに向え。その若い女性の名を探せ。余は天空の地平の中に、神々の大館の中にいる。
◇トト神のことば
アメン神の語った若い女性の名はアフメスであります。彼女は美しく、この国のいかなる女性よりもまさっております。それは上エジプトと下エジプトの王アケペルカラ(トトメス一世のこと)の妻であります。王が永遠に生きんことを。
◇クヌム神のことば
そのとき、カルナクの主、アメン神が上エジプトと下エジプトの王アケペルカラの姿となって、あらわれました。彼女が宮殿で休んでいるとき、神は彼女を欲しました。神の香気に、彼女は眼ざめました。彼女は微笑しました。直ちに神は彼女のそばへ寄り、心臓を彼女の上に置きました。神は、神の姿が彼女に見えるようにしました。彼女の美しさをよろこんだ神は彼女の肉体の中へ走りこみました。宮殿は神々の香気に溢れていました。すべての香気はプントの国から来ているのでした。彼女は神が楽しむのを許しました。そして、母なる妃アフメスは神を抱きました。彼女は二つの国の玉座の主、荘厳なる神を前にして言いました。「主よ、御身の力はいかに偉大であることか。御身が王と一体化して完全となったとき、そして御身の芳香が私の体を貫くとき、その顔を見るのは高貴なことでありました」
◇アメン神のことば
ケネメタメン・ハトシェプスト、アメンに合体したもの、高貴なる者の中の最上であるもの、これが御身の胸の中に余の置いた娘の名となるであろう。彼女はこの国のすべてに慈愛の王権を行使するであろう。余の魂バアは彼女とともにある。余の力は彼女とともにある。余の白い王冠は彼女とともにある。彼女は二つの国を統治し、すべての生ける者を天球に至るまで、導くであろう。彼女のために余は二つの国を、生ける者たちのホルスの座の上に結びつけ、日を司る神とともに、日ごと彼女を守護するであろう。
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このようにして、神の子として生れたハトシェプストは、ファラオとしての五称号を神々から受ける。一柱の神が一つの称号を記す、という形で五柱の神が五称号を記するのである。誕生シーンと同じように、ここでも、アメンをはじめ神々がそのことばを述べる。
王権を受ける場面では、在位の王が、ハトシェプストを壇上に導き、直接に王権をわたすことばを次のように述べている。
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王は、王の貴顕名士、伯爵、宮内官、指導的市民を召集し、王の腕の中にあるホルス、この娘に対し、戴冠の間で礼拝せよとの布告を伝えた。そのとき、彼女は西の接見の間で王の職務にはいった。参内したすべての人は、魔法の加護の間で跪《ひざまず》いた。そのあと、王は言った。「この娘、ハトシェプストが生きつづけんことを! 余は彼女を余の地位に据える。まことに、彼女こそ玉座を占める者である。彼女こそ、この高貴なる余の玉座の上に腰をおろす者である。彼女は、王宮のすべての方角に対して命令を下すであろう。彼女は諸君を導くであろう。諸君は彼女のことばに従うであろう。彼女の指揮の下に諸君は一致団結するであろう。彼女を讃える者は生きるであろう。彼女の名を汚すものは、死ぬであろう。王の名と彼女を一体に結びつけ、彼女に従うものは、王の場合にそうであったように高みに上るであろう。彼女は諸君の女神であり、神の娘である。見よ、神々は、彼女のために戦い、日ごと、彼女のうしろに、父なる神々の主の命にしたがって、魔法の加護を与えるであろう」
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こうして、第二神殿で、生誕についても即位についても神聖性を誇示したハトシェプストは、逆らう者は神の敵であるとして断罪したのである。
第二神殿で、ハトシェプストが刻ませた重要な記録の第二のものは、プントの国への通商遠征である。これは、ハトシェプストのなしとげた幾つもの大事業の筆頭に置いてよいかもしれない。しかし、その話はあとでくわしく述べることにして、今は神殿構造の話をつづける。
王位の正統性[#「王位の正統性」はゴシック体]
第三神殿の構成はどうなっているかといえば、まず、列柱によせて、幾体ものオシリス形ハトシェプストの巨像が立てられた。前庭には、右と左にいくつもの神殿が配置された。その中で重要なのは右がわの太陽神殿であった。神殿の祭壇は高さ一・六メートル、幅五メートル、奥行四・二メートルで、太陽の階段を上って祭壇に達するように作られた。祭壇は当然に東向きであった。太陽神殿をかこむ囲壁には三つの壁龕《へきがん》が掘られ、太陽神の安息所となった。
左がわの神殿は王家のためのものである。第一に、ハトシェプスト祭壇が設けられ、それと並んで、父トトメス一世の祭壇が置かれた。ハトシェプストが、トトメス二世も三世も眼中になく、ただ父のみを崇めていたことをそれは示している。そして父から直接に王権を受けたのだという立場がそこにあらわれている。彼女にとって、トトメス一世とハトシェプストの間に王は存在しないのである。また彼女は、トトメス一世が側室に生ませた者を、王の一族とはみなさないのである。
第三神殿の中央の奥には、短い通廊があり、そのうしろに岩の中に掘られた至聖所が予定されていた。しかし、この部分が完成する日は来ない。
デイル・エル・バハリの神殿とは、こういうものであった。神殿域が三段になった形式、列柱回廊の形式――それはエジプトで初めてであり、そのあとにあらわれなかった。十八世紀の旅行者はこれをギリシア建築と見誤り、十九世紀の考古学者は、「原ドリア式」という名称をこれに与えた。ハトシェプストの独創性とセンムトの才能がこれを生みだしたのである。
ただし、これは一挙にでき上ったわけではもちろんない。着工からハトシェプストの死ぬときまで工事はつづくのである。ということは、第一神殿の壁面にはそれが完工した時点でのハトシェプストの事績を記し、第二神殿の壁面には、それができ上った時点での事績を記す、そして第三神殿は……という具合に、神殿は事績記録所の意味ももっていたのである。
第二神殿の一方の記録にプント遠征のことがテーマとなり、同神殿の他方の記録に、ハトシェプストの神聖性と王位の正統性が述べられているのは、そういう事情からである。
直系の王家の人である彼女に「王位の正統性」という問題がなぜおきるのか、と問う読者があるにちがいない。事情はこういうことである。
ハトシェプストがファラオとして威信を高めてゆく反面に、これに反抗する勢力もまたあった。トトメス三世を王位継承者とするための神殿の芝居のことを思い出していただきたい。トトメス三世とその一派は、この話をむしかえしては、ハトシェプストを、「王位|簒奪《さんだつ》者」扱いしようとしたのである。
そこで、これを粉砕するために、ハトシェプストは第二神殿壁面に神話的自伝を記し、神と天下に、自己の正統性を誇示したのである。口頭の布告ではなしに、文字による宣言、とくに神殿を介しての宣言は、神聖で呪術的な力をもつのである。
さて、墓と葬祭神殿は自分のためのものである。ファラオたるものは、神のために建造物を捧げなくてはならない。ハトシェプストのこの面での活動も華やかであった。活動は国全体に及んだ。
まずカルナク。このカルナクは、今日のルクソールの北に位置し、ルクソールとは別の地点として区別されているが、古代テーベにおいてはカルナクはその北部の一角なのであった。
カルナクは中王国時代いらい神域として栄えた場所であった。歴代の王は、神殿と付属建造物(塔門やオベリスク)を競って建て、そのために神域はどんどん拡がっていったのであった。もちろん大半の建造物は主神アメンのために築かれたが、他のハトホル、ムート、モンツーというような神々のためにもまた神殿が築かれた。
カルナクはもちろんファラオ専用の場であった。ここでは王妃が建築主となることはあり得ないことであった。王家の谷が、王の専用の場であって、王妃のはいってゆく場所でないように。
女性ではあるがファラオであるハトシェプストは堂々とカルナクに建築を進めた。
まず、彼女は、アメン大神殿に至る神域内参道に大塔門を建てた。そして、その前に四体の自分の巨像を左右対称に配置した。塔門はその後の王によって増設され一〇個を算えることになり、今日、ハトシェプストの大塔門は第七塔門と呼ばれているが、これは全体の中で最もよく原状をとどめている塔門である。それは、堅固に築いたハトシェプストの職人の功績である。塔の壁面のレリーフの主題は、アメン神とファラオ・ハトシェプストであった。
彼女はまた、神域の「聖なる池」の近く中央部に赤色珪岩で小形のアメン神殿を建て、そこにアメン神の前で即位する自分を描いた。さらにアメン大神殿の東がわに、別のアメン小神殿を建てた。東側に向いているこの小神殿は、朝の太陽が奥の神像に直進するように設計されていた。
そのほか、彼女は神域内の建造物の補修再建にも力を注いだ。アメン神殿わきの、こわれている中王国時代のムート神殿を、彼女は全面的に改築した。
テーベ西岸のメディネト・ハブの神殿では、未完部分を、彼女は完成し、壁面に自分の像を刻んだ。テーベ近郊のヘルモンティスでは塔門と神殿を建てた。グルナの神域を復興し、砦を完成した。砦は軍事用ではなく、アメン神の永遠の砦として築いたのであった。
上エジプトのコム・オンボ、中エジプトのクサエ、アクムネインなどの各地にある崩れた神殿を、彼女は復興し、拡大した。同じ中エジプトのベニ・ハッサンの近くでは、その土地の女神パケトのために大神殿を建て、そこに神への賞讃とならんで、異邦人ヒクソスによって荒されたエジプトの復興に努力するハトシェプスト自身について記した。(この神殿はのちにギリシア人に愛好され、「スペオス・アルテミドス」と命名される)。
彼女はまた、ヌビアに神殿を建てた。ナイル第二急流地帯の要地、ブヘン、ファラス、イブリムが建築地点であった。とくにブヘンは、第二急流地帯の政治・軍事上の大拠点であったため、同地の神殿は入念に建造された。美しい円柱列の建築はヌビアでは初めてのスタイルであった。
平和主義と貿易立国[#「平和主義と貿易立国」はゴシック体]
ハトシェプストの治世十五年を祝う記念建築はまた類を抜くものであった。彼女は、二組の花崗岩《かこうがん》製オベリスク(二本で一組)をアメン大神殿の前に建てた。(オベリスクは継ぎ足しの石柱ではなく、一枚岩の石柱である)。一組は、サイズも位置も今では分らなくなっているが、頂上部のピラミィディオン(ピラミッド形の飾り)はカイロ博物館にはいっている。
他の一組のうち、一本はほぼ原状のまま今も立っている。相棒のもう一本のほうは立っていない。ただ、上部の一部が地上に落ちて横たわっているだけである。立っているほうのオベリスクの高さは、二九・五六メートル、重量は三二三トンに達する。一本のオベリスクを切り出すのに、七カ月を要した。彼女は、そのことをオベリスクに刻んだ。すべては石器と銅器で行われた。
オベリスクは、神を喜ばせ、王の誇りを満たすものであるが、ハトシェプストのオベリスクの銘文がどんなものであったかを、今も立っているオベリスクによって少しく見ることにする。(銘文は四つの面に、上段、中段、下段と区分された内容のものが刻んである、ここには中断のものを示す)。
[#ここから1字下げ]
◇南面[#「南面」はゴシック体] ホルス、ウォルレトケウ、上下エジプトの王、二つの国の主、マアトカラ(ハトシェプストのこと)、アメンから輝かしく出でたるもの、アメンによって、大いなる館の輝きの前でホルスの玉座に王として即《つ》くことを得たもの、大いなる群神によって太陽の道の妃となり得たもの。群神はその者を生命と満足と生きる歓びでみたした。ラアの子、ケネメトアメン、ハトシェプスト、神々の王アメン・ラアに愛されたもの、ラアのごとく永遠に生命を授かったもの。
◇西面[#「西面」はゴシック体] ホルス、ウォルレトケウ、二柱の女神に愛されたもの、爽やかな年齢のもの、黄金のホルス、王冠の聖なるもの、上下エジプトの王、二つの国の主、マアトカラ。その者はテーベの主、父アメンのために記念物を建て、荘厳なる門に二本の大いなるオベリスクを建てた。その門の名は、「アメンは大いなる恐れを与える」であり、豊富なエレクトロムで細工され、二つの国を照らす。世のはじまり以来、このようなことは成されたためしはない。ラアの子、ケネメトアメン、ハトシェプストに、アメンを通じて、ラアのごとく永遠に生命を授けて下さらんことを。
◇北面[#「北面」はゴシック体] (前段はマアトカラのところまでが西面と同じ)父アメンはその者の名を確固たるものとした。マケレは荘厳なるイシェドの木の上にある。その者の記録は幾百万もの年月に及び、生命と安定と満足とをもっている。ラアの子、クネメト・ラア、ハトシェプスト、神々の王アメン・ラアに愛されたもの。その者はアメン・ラアのために、第一回の王位祝賀祭のさいに、永遠に生命を授けてもらうために、アメン・ラアをことほいだ。
◇東面[#「東面」はゴシック体] (前段はマアトカラのところまでが南面と同じ)アメンに愛されたもの。その者は父の名をこの記念物の上に確固としたものとして置いた。上下エジプトの王、二つの国の主、アケペルカラ(トトメス一世のこと)に対してこの神から恩寵が授けられたとき、第一回の王位祝賀祭のさいにその者によって二本の大いなるオベリスクが建てられたとき、神々の王はいわれた。「御身の父、上下エジプトの王は、オベリスクを建てよとの命令を下し、その者は繰返し記念物を建て、永遠に生きつづけることを願った」
[#ここで字下げ終わり]
右の銘文はオベリスクの中段のもので、上段と下段はアメン神をはじめとする神々ヘの讃歌、神とハトシェプストの結びつきを述べている。
アスワンに、今も未完のオベリスクが原位置に横たわっている。高さ(長さ)が四一・七五メートル、基部の一辺は四・二メートル、重量は一、一一六トンという壮大なものである。これは、製作完了直前に、亀裂が生じ、放棄されたものである。これも、オベリスクに情熱をもったハトシェプストの仕事である。
このオベリスクの製作もさることながら、輸送もまた大いなる技術を要するものであった。ハトシェプストは、そのことを誇りとして、デイル・エル・バハリの神殿に、その図解記録を残した。プントの大航海をしたエジプト人は、もう一つの驚異的達成をしてみせたのである。
何と一隻の船に、三二三トンのオベリスクを二本(計約六五〇トン)積んだのである。船は長さ約六〇メートル、幅約二四メートル、重量は空船で八〇〇トン、二本のオベリスクの積荷をしたときは一五〇〇トンに近いものとなるのであった。
オベリスクを船に積むのにどうしたかといえば、まずナイルの岸から水をひいて特別の岸壁が作られた。船がそこにはいると、せきとめて、水を汲みだし、水位を下げる。船の甲板が地面と同一水準になったとき、積み荷が進められる。積み荷がおわると、水を誘いいれて水位をあげ、ナイルの水と同一水準とする。
甲板上のオベリスクを固定するのには、横わたしが八本ずつ、縦わたしが三本ずつの、太い綱が張られた。この船を櫂《かい》で動かすわけにはゆかないので、小形の曳船が用いられた。九隻ずつ三列の線をなして(したがって計二七隻)曳き、一隻当り三〇人の漕手がついた。したがって計八一〇人の漕手ということになる。
こういう大形のオベリスクを、建造物の立てこんでいるカルナクの神殿の中に運び、それを立てるというのが、また大仕事であった。(彼女の父が立てたオベリスクは、彼女のオベリスクの半分ほどの重量であった)。これをハトシェプストの臣下はみごとにやりとげたのである。
国政上の個性は、これまたハトシェプストを著しく際立たせるものであった。
古王国時代に王権と統治体制が固まっていらい、ファラオの任務は、神に奉仕し、国威を発揚し、王室を安泰にし、国家に繁栄をもたらす、ということであった。この目的のために、歴代の王は戦争という方法を用いた。そして、外征地から、人間(捕虜)と物資(戦利品)という富を国にもたらすのであった。
わがハトシェプストは別の考えかたに立った。それは、平和の中に国を富ます、ということであった。平和の中に、ということは通商によって、ということであった。軍事征服によってではなく、友好的に、相互に利益を得るということであった。ファラオの理念として、ファラオの政策として、それは全く異例であった。
通常のファラオ像が、初期王朝いらい、敵を打ち殺す場面あるいは捕虜の列を検閲している場面で示されるのに対して、ファラオ・ハトシェプストの場合に、戦争絵巻をつくらないのは、そういう基本理念の故なのである。
プントの国との交易は、ハトシェプストがはじめてではない。最初の交易者は第五王朝のサフラ王である。王の神殿碑文は、プントヘ派遣した船隊は、八万マスのミルラ(没薬《もつやく》、祭事用香料)、六〇〇〇マスの琥珀《こはく》、二六〇〇本の杖(黒檀のはず)を持ち帰ったと記した。プントの国は、祭事用、王宮調度品としてエジプトにないものを豊富に産するところなのであった。そのあと、第六王朝、第十一王朝、第十二王朝の王がプントから産物を得ている。
したがって、プントと交易したという点だけでみれば、ファラオ・ハトシェプストの事業は特に新しさはない。しかし、その意図と規模ということになると、それは断然、抜きん出た事業となる。すなわち、その意図は、さきに示したように平和主義、貿易立国という基本政策に由来している。船隊の規模はといえば、大形船五隻という構成であり、当然に輸出入品の量と質は、過去のプント交易とは比較にならない。
その誇りのゆえに、ハトシェプストはプント交易の事情を、デイル・エル・バハリの葬祭神殿の第二神殿の左半分に、くわしく絵巻物風に描いたのである。(ハトシェプスト以前の王のプント交易船が、実際にプントまで行ったのかという疑問を私はもっている。比較的近い産物中継地あるいは集散地でプント産物をもってきた可能性もあるから。実際、プントの国まで行ったのであるなら、伝統的に記録魔であるエジプト王が、プントそのものについて何がしかの記述を残さなかったのは不自然である。記念物損壊の程度に照しあわせて見ても――)。
プントの大航海[#「プントの大航海」はゴシック体]
プントの国。それは紅海を外れてインド洋に出た地帯、東アフリカのソマリアであった。ハトシェプストの船隊は、スエズから出港してはるばるこのプントの国に向った。ナイルから紅海に出るにさいしては、ツミラト運河を利用した。
ナイルから紅海へ出る経路として最も古いものは陸路であり、その最短距離コースとしてナイルの町コプトスから紅海の港コセイールのコース(約一五〇キロ)が多く用いられた。船はナイルで造り、解体して陸送し、コセイールで組みたてるのであった。それは大きな困難を伴う輸送であった。
第十二王朝のセンウスレト一世王は、運河王であった。彼は、いくつもあるナイル支流の中の東端のブバスチス支流の要地ブバスチスから東に向けて走る凹地、ワディ・ツミラトにそって運河を掘った。それはチムサ湖に注ぎ、ついでビター湖に下ってスエズ湾と結びついた。スエズ湾は、今日よりずっと陸地の内部にまではいっていた。こうして、ツミラト運河をセンウスレト一世は完成した。センウスレト一世はその運河を用いて、シナイ半島の統治と産物獲得に成果をあげた。
そのあと、運河は大して活用されず、埋まっていった。(管理を怠れば簡単に利用不能となる)。
ハトシェプストはその運河を復興し、生命を与え、プント交易船隊を出発させたのである。隊長は練達の人、ネエシ。前例のない大航海と大交易。時に、ハトシェプストの治世八年である。彼女は治世六年にファラオとしての単独統治をはじめているのであるから、さきに述べた大建築事業(運河建設もそこに含ませてよい)とならんで、いかに大きな意図と活力をもってその治世の初期を充実させたかが分る。
エジプトの航海史は古い。ピラミッド時代にアスワンから花崗岩の大きな石材を運んだのは船である。しかしこれは川船である。海洋航海はピラミッド時代に行われているが、沿岸ぞいにゆくレバノンのビブロスとの航路が最長であった。その距離はほぼ六〇〇キロであり、往きに四日間を、帰りに八日ないし一〇日を必要とした。往きのほうが早いのは、地中海の西風と北上する海流のせいである。その船は川船と大差のない構造と規模であった。
いまプントに向う船はその構造も装備も規模も著しく改善強化されたものとなった。ハトシェプストの命によって、造船技術の著しい進歩が達成され、これがプントゆきの船隊を造りあげたのであった。外見ですぐに分る点をあげれば、船の帆は今までになく広いものとなり、多くの綱がそれに結びつけられ、船の中央に置くマストは太く高いものになり、二本の前部支柱と一本の後部支柱で補強された。マストの頂上には金属部が設けられ、索具の移動を容易にし、摩擦を少くするようになった。
船は帆だけを頼りにしているのではない。櫂とその装置もまた備えてある。竜骨が初めて用いられ、船の長さは約三〇メートル、幅は約九メートル。
これから、その航海と交易を見るわけだが、デイル・エル・バハリの神殿に描かれ、かつ記されたプント航海は、まことに生き生きとしているので、それに即して状況を見てゆくことにする。(碑文の解読はジェイムズ・ブレステッドの『エジプト古記録』によった)。
出 発[#「出 発」はゴシック体] 五隻の船がいる。三隻はすでに帆をあげている。他の二隻はまだ係留されている。最後尾の船の船長が「港へ着けよ」と命令している。近くに、木につながれた別の小さな船がある。そこにこう記してある。「陛下の生命と繁栄と健康のために。プントの国の女神ハトホルよ、風を与えて下さいますように」海路平安を祈る儀式がテーベの岸でおこなわれているのである。
航 海[#「航 海」はゴシック体] 特別の絵はなく文字だけが次のように事情を説明している。
「海に乗りだし、神の国へ向って順調な航海をはじめ、プントの国に向って、二つの国の主の軍によって平和な旅をつづける。これみな、神々の王、テーベの主、カルナクの支配者、アメン神の命によるものであり、あらゆる国の見事な物をアメン神にもたらすためである。アメン神は上エジプトと下エジプトの王、ハトシェプストをいたく愛している。天の主、地の主、彼女の父アメン・ラアは、これまでこの国にあらわれた他のいかなる王よりも深く、彼女を愛している」
プント到着[#「プント到着」はゴシック体] 図の右側では、エジプト王の使者が兵士の先頭に立って進む。エジプト産交易品が彼の前に山と積まれている。ネックレス、手斧《ちような》、刀などである。図の左側では、プントの国の王ペレフが進む。そのうしろに、王妃エティがつづく。彼女の尻は異常に肥大している。そのうしろに、二人の王子と一人の王女。その近くで、三人のプント人が驢馬《ろば》に乗っている。背景にプントの風景がある。ミルラの木の繁みと、その下で草を食う牛。椰子の木がある。ジラフがいる。豹もいる。犬もいる。グレーハウンド系である。幾本もの柱の上に建てた丸い住居(高床式住居)と穀物小屋がある。そこに梯子《はしご》がかかっている。下は海。文字はこう述べる。
「エジプト王の使者は、随伴する軍とともに、プントの国の指導者たちの前に着く。プントの女神ハトホルのために王宮から出されたあらゆる良いものが着く。陛下に生命、繁栄、健康を。
プントの指導者たちは頭を下げて従順の意を表してあらわれ、王の軍を歓迎する。彼らは、神々の王アメンを讃える。彼らは平和のため祈っていう。エジプト国民の知らないこの国に、どのようにしてあなたがたは着いたのか。天の道から降りて来たのか。それとも水に乗って、神の国の海に乗って来たのか。ラアの道を踏んで来たのか。そもそも、エジプト王の与える息によってわれわれが生きるというような道はないものか」
交 易[#「交 易」はゴシック体] 図の右に王の使者のテントがある。王の使者はその前に立っている。彼の前にプントの産物が山積みされている。左から、さらに産物をもったプント人の列。先頭には指導者夫妻。さらに左に、プントの風景。猿がいる。狒々《ひひ》がいる。
テントの上の文字はいう。
「海辺のプントの国の、ミルラの木の茂る台地で、エジプト王の使者と軍のテントを張り、プントの国の指導者たちを歓迎する。彼らのために、パン、ビール、葡萄酒、肉、果物、および王宮で命ぜられたとおりの、エジプトで見つかるすべてのものが用意される。
プントの指導者からの贈物を、エジプト王の使者が受けとる。
海辺で、プントの指導者はエジプト王の使者の前に贈物をもって来る」
積 荷[#「積 荷」はゴシック体] 図では、二隻の船が、ミルラの木、ミルラの袋、象牙、木材、猿を満載している。岸では人夫が木と袋を運んでいる。
文字はいう。
「足に気をつけよ。人に気をつけよ。見よ、荷は非常に重い。繁栄がわれわれとともにあらんことを。神の国のまっただ中のミルラの木のために、アメンの館のために。マアトカラ(ハトシェプストのこと)の命により、マアトカラの神殿のためにミルラの木を育てる場所がここにある」
「プントの国の珍品名産で船荷は非常に重い。神の国の芳香を放つ木のすべて、ミルラの樹脂、生きのよいミルラの木、黒檀、傷のない象牙、緑色の金エム、シナモンの木、ケシトの木、イフムトの香、ソンテルの香、眼の化粧品、猿、狒々、犬、南方豹の皮、プント人と子供が載せてある。世のはじまり以来、他のいかなる王の時にも、このような物が運ばれたことはない」
帰 路[#「帰 路」はゴシック体] 図では三隻の船が荷を満載している。文字はいう。
「プントの国の指導者たちを後にして、テーベに向って、二つの国の主の軍によって、歓びを心にみたして、平和のうちに旅し、到着する。プントの国の見事な品々であるがゆえに、またテーベの主、尊崇された神アメンの偉大さがあるゆえに、このようなものが他のいかなる王のためにも運ばれたことはない」
贈 品[#「贈 品」はゴシック体] 図では、右のハトシェプストの称号に向って二人のプントの指導者が歩みよる。そのうしろに、エジプト人とプント人がミルラの木と他のプントの産物を手にしている。文字はいう。
「プントの国の指導者は、ウォルレトケウ(ハトシェプストのこと)の国に口づけし、頭を垂れて従順の意を表し、陛下のいる場所に対して贈物を届ける。すべての国は陛下の領土である。プントの国の指導者たちは陛下のために平和を祈りつつ述べる。エジプトの王のために、太陽のごとく輝くラア、御身の主、天の女神のために拝礼。御身の名は天のきわみまで届き、マアトカラの名は海をかこむ」
アメン神殿[#「アメン神殿」はゴシック体] プントからもちかえった珍しい、貴重な交易品を前にして、ハトシェプストは左に立っている。文字はいう。
「王そのひと、上エジプトと下エジプトの王、マアトカラ(ハトシェプストのこと)は、プントの国の珍しい品々、神の宝物、および南の国々の贈りもの、憐れなクシュの国の年貢、黒人の国の籠を、テーベの主、カルナクの支配者、アメンに捧げる。上エジプトと下エジプトの王の生命、繁栄、健康のために。王が生き、とどまり、その歓びが心にあふれ、ラアのごとく、二つの国を統治しますように」
こういう具合に、プント遠征は成功のうちに終った。(神殿碑文と図のほうは、このあとも延々とつづく)。国威を発揚し、富を得、神をよろこばせるという目的は達成されたのである。遠征隊は治世八年の夏に出発して、翌九年の春に帰着したのであった。紅海では、夏は北風が優勢である。また、夏は、ナイルの増水期であってツミラト運河の機能が最も発揮されるときである。いっぽう、紅海では、春は南風が優勢となる。こういう季節風のメカニズムを活用して、ハトシェプストの船隊はプントの国への大通商航海を実現したのであった。
宰相センムト[#「宰相センムト」はゴシック体]
プントの交易品の中でとくに注目されるのはミルラの生木である。商船隊は三一本の生木を損わずにもちかえり、デイル・エル・バハリの神殿に植えたのである。ハトシェプストが神殿碑文に、誇りをこめて「余はアメンのために、アメンの庭に、プントを作った」と記したのは、このことを指す。
産業開発は貿易立国の理念と結びついていた。ハトシェプストはシナイ半島に鉱物資源の開発隊を派遣した。隊は、ツミラト運河を経て海路によってシナイ半島に達した。
シナイ半島では銀、銅、トルコ石が早くもピラミッド時代からエジプト人によって採掘されていた。金を豊富に産するエジプトに欠けているのはこの三種の鉱物資源であった。この中で、トルコ石は装飾品、スカラベ、護符の材料として珍重された。採掘は中王国時代までつづいたが、そのあと、ヒクソスの時代はもとより、第十八王朝の初期の諸王も、この採掘事業に手を出さなかった。
その鉱山の再開をしたのがハトシェプストである。数次にわたって開発隊が派遣された。セラビト・エル・カディムとマガラが主要採掘地であった。採掘地にハトシェプストは女神ハトホルのための神殿もたてた。この女神は「トルコ石の女神」として崇拝されていたからである。
採掘した鉱物は、銀、銅、トルコ石のほか、孔雀石、緑色長石、カルセドン、藍玉《らんぎよく》に及んだ。ハトシェプストは、これらによって、まず神殿を、ついで王宮を飾り、また彼女自身の装飾品を豊かにした。
こういう公的生活とならんで、もちろん、彼女の私生活(感情生活)があった。この私生活で登場するのが大建築家センムトである。
ハトシェプストの単独統治の初期に、祭司出身の宰相ハプスネブと書記出身の王室|傅育《ふいく》官センムトが指導的側近であることはすでに見たとおりであるが、ハプスネブは治世五年に宰相の地位を退き、最高祭司の任に就き、代って、すでに建築家として評価を高めていたセンムトが宰相の地位に就いた。
彼は怜悧であり、精力的であり、美男であった。すでに傅育官時代にハトシェプストと接する機会をもった彼は、宰相になると、さらに多くハトシェプストと共にいる時間をもつこととなった。彼は傅育官時代からハトシェプストに憧れを抱いていた。
それはやがて愛になり、あるとき、ついにハトシェプストはそれを受けいれた。臣の一線を越えたセンムトは勢力を拡げた。彼の弟センメンは、王室筆頭布告官に任命された。
センムトは、デイル・エル・バハリの神殿のハトホル殿の一角に自らの名と像を描くことを許された。その銘文にはこう記された。「テーベを支配するハトホル、聖所の中の聖所に位するハトホル、完全なる神マアトカラ(ハトシェプストのこと)と王宮の長官センムトを愛するハトホル」。また彼は、すでにテーベ西岸のシェイク・アブデル・グルナに自分の墓を準備していたのであるが、いまデイル・エル・バハリ神殿の地下に第二の墓を掘ることを許された。彼は、その墓の到るところに、ハトシェプストの像と、その前に礼拝する自分を描いた。自分自身のための記念碑の頂上には、ハトシェプストの名を刻んだ。カルナクの女神ムートの神殿では、ハトシェプストに模した女神の前に跪く自分を描いた。
センムトは、また、デイル・エル・バハリ神殿に、特別の文字の工夫をした。ハトシェプストヘの愛を示すために、ハトシェプストという公式名が万一、何かの事情で削られることがあっても、(事実、それは遠からずおきる)一種の組合せ文字でハトシェプストの名前を永遠に残るようにしたのである。
その同じ組合せ文字(暗号文字といってもよい)を、彼は自分の墓にも記した。そして、それに付随した銘文に、彼は「わが心の命ずるままに、われ自身の命ずるままに、古代の人びとのいかなる記録にもあらわれることのなかった文字」ということばを刻んだ。問題の組合せ文字を解読したのは、フランスのエジプト学者、エティエーヌ・ドリオトンで、一九三八年のことである。それは通常の神や女神の像の組合せによって、「マアトカラ」(ハトシェプストのこと)と読み得る形としたものであった。
センムトはおびただしい数の自分の彫刻をつくることを許されたばかりでなく、ハトシェプストの娘ネフルラを抱いている自分をさえ彫らせた。その姿は、まるで、彼が、少女の傅育官というよりは、少女の父であるかのようである。(センムトの彫像は二二体も発見されている。臣下の彫像としては異例の数である)。
治世十一年のあるレリーフでは、ハトシェプスト、ネフルラ、とならんでセンムトの姿も描かれている。
そのセンムトも、治世十九年に栄光の生涯をおわった。自然死か暗殺か。たぶん後者であったろう。増長したセンムトはハトシェプストに嫌われたのである。愛することにはげしかったハトシェプストは、憎むこともまた、はげしかったのである。そして、彼女の意を体した工作員がセンムトに死を与えたのである。
そのとき、デイル・エル・バハリの彼の墓は完成していなかった。それにまた、ハトシェプストはこの臣下をその墓におさめることを禁じた。かくして、センムトは、最初に用意した墓のほうに埋葬された。
この治世十九年は、ハトシェプストの「終りの始まり」の年であった。宰相センムト謀殺の年であるとともに、この年は、ネフルラの死の年でもあったからだ。一時、ハトシェプストは自分の娘ネフルラを「ファラオ」にしようと考え、共同統治の布告を出し、国内はもとより、シナイ半島に建てた神殿のレリーフにもそのことを明記したのであるが、計画が動き出して間もなくネフルラの病死にあったのである。
ハトシェプストの治世の、そもそもの起りが「幼君トトメス三世の摂政」であったことを、そして、トトメス三世の妃がネフルラであったことを、想いだしていただきたい。
いま、トトメス三世は二十歳をこえている。無視された地位に自ら怒るのも自然であった。同時に、当初からトトメス三世派となっていた高官と祭司は、つねに、ハトシェプストの退場のタイミングを早からしめようと画策していた。
ついにハトシェプストは、トトメス三世との名目上の共同統治を認め、自分とトトメス三世をならべた姿を記念物(レリーフや銘文)に描いた。
エジプト国内の権力層に亀裂が生じていることは、当然に、外地領ではエジプトの弱さと受けとられ、叛乱が頻発することとなった。アジアではパレスチナとシリアで、南ではヌビアで――。
ハトシェプストの平和主義は内と外から挑戦を受けることとなった。しかし、彼女は原則を維持し、大規模な出兵をすることは考えなかった。一方、デイル・エル・バハリの神殿の建造は休まずつづけた。
実際、彼女は芸術の守護者であり、推進者であった。戦争によってではなく、建築、彫刻、レリーフ、絵画など新たな達成によって名を残した数少いファラオであった。
芸術の時代[#「芸術の時代」はゴシック体]
そもそもエジプトの芸術はその始まりの時から、つねに信仰に奉仕してきた。それはいつの時代にも変りはなかった。「芸術のための芸術」という観念は、エジプトにはなかった。だから、信仰が昂揚するとき、芸術もまた生き生きと開花するのであった。
そして、ハトシェプストの場合、その熱い信仰は、新しい芸術を生みだす原動力となった。ハトシェプストを権力亡者のようにみるのは偏見である、と私はいいたい。
芸術上の達成をここで総括してみると、まず、デイル・エル・バハリのテラス式神殿。多くの旅行者と学者が類いないその美に打たれた。前世紀にはじめてこの神殿を考古学的に発掘したスイスのエドワール・ナヴィルはこう書いた。「残存建造物から判断すると、ハトシェプストはそれまでの墓専用の地下建築を、神崇拝のために最初に適用した人である。彼女とともに、あるいは彼女の建築とともに、エジプトの岩窟神殿がはじまったのである」
同じく前世紀から今世紀にかけてエジプト学に一大貢献をしたフランスのオギュスト・マリエットは「これはエジプトの建築活動の中の一つの例外であり、一つの事件である」と賞讃した。現在のエジプト学者というならば、アメリカのライオネル・カーソンの次のことばを引用しよう。「建物はあたかもそそり立つ壮大な絶壁からほとばしり出たかのように見える」
この神殿に飾られたハトシェプストの彫像は一九〇体に達した。このような彫像集結は、前になく、後にない。その彫像制作事業は、いかに彫刻家全体を活気づけたことか。
この神殿に描かれたプント航海の絵巻物は、これまた、テーマといい、様式といい、エジプト芸術で唯一のものである。出来事を、これほど詳細に、まるで連載ルポルタージュのように、壁面の一角に、まとめて描いたことは、レリーフの美しさ、その様式とともに、ハトシェプストの名誉である。
彫像もまた新しさを創りだした。それまでの王の像は、伝統的に威厳をもって、難しい顔をしたスタイルで作られてきたが、ハトシェプストのファラオ像は顎がまるく、頬はふっくらとし、眉はやわらかくまがり、唇はかすかに微笑をもらしている。これは、彫像に格別のやわらかさと明るさを与えている。
立方体像の発達も、ハトシェプスト時代の特徴である。坐っていて、マントを着ているという姿でつくられる立方体像は、中王国時代に生れたスタイルであるが、ハトシェプストはこのスタイルを奨励し、とくにセンムトがおびただしい数の立方体像をつくった。
ハトシェプストはそういう「芸術の時代」をつくったのである。
しかし、終りが来た。治世二十二年六月十日、彼女は病いのため世を去った。四十五歳であった。治世十九年におけるネフルラの死が彼女の活力を奪い、それいらい肉体も精神も衰弱していった。そして、すでにその時から実権はトトメス三世に移っていたのである。
ハトシェプストの埋葬は王家の流儀にならっておこなわれた。彼女はミイラとされ、王家の谷の彼女の墓に葬られた。葬儀主宰者はトトメス三世であった。彼は長いあいだ日陰者とされてきたことについて、ハトシェプストに恨みを抱いていたが、死者となったハトシェプストを丁重に扱い、王家の葬送儀礼を守るという節度は、少しも失わなかった。彼女は、彼女の用意した王家の谷の墓に、父とならんで石棺にはいった。
ハトシェプストの葬儀ののち、トトメス三世は即位宣言をした。彼はハトシェプストの葬儀のほうは豪華に行ったものの、彼女の地上の記念物については、彼女の名を削り、そこに自分の名を刻むことに努力した。多くのハトシェプストの彫像と銘文がこの作業の犠牲となった。デイル・エル・バハリの神殿では、彼は最上段テラスに新たに建造物を加えた。
トトメス三世の対外政策はハトシェプストの場合とは逆であった。彼は徹底した征服政策と膨張主義を採った。頻繁にエジプト軍が外地に動いた。アジアでの大出兵は何と一六回にも及んだ。
トトメス三世は、エジプト領上を、前になく、後にもないという広さにまで拡大した。アジアのほうは、ユーフラテス河畔までがエジプトに服した。彼がエジプト学者からしばしば「古代エジプトのナポレオン」と呼ばれるのは、こういう事情によってである。
ハトシェプストのミイラは、まだ見付かっていない。
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ネフェルティティ 信仰と美の王妃[#「 信仰と美の王妃」はゴシック体]
美女は来りぬ[#「美女は来りぬ」はゴシック体]
古代エジプト三千年のあいだに、最も大きな建造物を建てたのは第四王朝のクフ王である。カイロ郊外のギザの台地にそびえる大ピラミッドがその建造物で、原サイズは基辺二三〇メートル、高さ一四六メートル。それを建てるのに、平均二トン半の石が二三〇万個積みあげられた。今日、頂上部約一〇メートルと被覆層を失っているが、その堂々たる姿は見る人を威圧する。
最も大きな帝国を築いた王となると、第十八王朝のトトメス三世の名をあげなくてはならない。
彼はしばしば「古代エジプトのナポレオン」と形容される。戦争と征服の王であった彼は南はヌビアの第四急流より南まで、東はユーフラテス河畔までをエジプト支配下に置いた。
最も個性的な王はといえば、同じ第十八王朝の宗教改革王アケナトン(アメンホテプ四世)である。その妃がネフェルティティである。ただし、この王妃は王のかげにある尋常の妃ではない。その堅固な信仰心とならんで、「古代エジプトの最も美しい王妃」という評価に輝く人物である。その名「ネフェルティティ」がすでに美しい。これは「美女は来りぬ」という意味であるから。
彼女の美しさは西ベルリンのエジプト博物館の彩色胸像とカイロのエジプト博物館の未完成頭部像に、みごとに示されている。このうち西ベルリンの胸像の発掘物語は興味ぶかいので、話をそこから始めることとする。それは、この美人王妃に現代の学者と国家がいかに魅入られたかの物語である。
一九一二年十二月六日、中エジプトのテル・エル・アマルナで発掘を進めていたドイツの調査隊がこの胸像を発見した。荷物の積出しを急いだドイツ隊は、規定によってエジプト政府考古局の出土品検査を受けた。
大して眼を惹かない陶片や彫像断片や石碑断片をどっさり積みあげた箱の底にこの胸像は置かれていた。類いまれな出土品の場合には、考古局の検査官はエジプトの所有権を主張することができるのであったが、「大した出土品なし」というドイツ隊の話をそのまま正直に受けとって、外から簡単に眺めて、「発送承認」の検印をした。
ネフェルティティの胸像はこうしてエジプトを去りドイツに渡った。しかしベルリン博物館がこれを陳列したのは第一次大戦後になってからである。エジプトは不法持出しとしてドイツを非難し、返還を求めたが、ドイツはこれを拒否した。その後、ドイツの調査隊はエジプトで長いあいだ発掘を許されなかった。ドイツ・エジプトの関係はある時期にはきわめて緊張したものとなった。
一つの胸像がそれほどの国際問題を生んだのである。ついで、エジプトはエジプト所有のファラオの頭部像二点と引きかえにネフェルティティの胸像を渡してほしい、と提案した。「二人の王に匹敵する一人の王妃」という表現で、人びとは驚きをあらわした。
ドイツはこの提案にも応じなかった。こうしてネフェルティティの胸像はずっとベルリンの(第二次大戦後は西ベルリンの)エジプト博物館の輝かしい所蔵品となっているわけであるが、発見時からの歴史はまさしくこの胸像の魅力と価値の大きさを物語っている。
現代にこのような波紋を投じたネフェルティティは、クレオパトラ女王より千三百年以上も古い時代の人である。この人自身の話にはいる前に、アケナトン王の宗教改革の起る時代背景にしばらく眼を注ぐことにしたい。
太陽信仰は古代エジプト三千年を一貫して堅固な位置をもちつづける基軸信仰である。これは太陽を万物の根源、創造神として崇めるのである。太陽はラアと呼ばれ、象形文字では円盤をもって示され、初期王朝の時代から信仰された。王名としてラアを含む最古のものは第二王朝の「ネブラ」王の名であり、この王名は「ラアはわが主《しゆ》なり」を意味する。
ラア信仰の本拠は下エジプトのヘリオポリスであり、そこの祭司が王家の信仰に影響を及ぼした。時には祭司自ら政府の頂点に立った。第三王朝のジョセル王は最初のピラミッド(階段ピラミッド)を築いた王であるが、彼の宰相はヘリオポリスの上級祭司イムホテプであり、彼の発想と設計によって、高さ六〇メートルの六段の石造ピラミッドが築造されたのである。
ピラミッド建造は下エジプトのメンフィスに都する第四王朝で頂点に達するが、その時の宗教上の中心思想はラア信仰であった。王は太陽の子であり、死とともに昇天して太陽に帰一し、永遠の生をはじめる、というのがピラミッドの思想であった。カフラ、メンカウラという王名はラア信仰のつよさを示している。
ピラミッドが王墓として、「永遠の家」としてさかんに築かれたのは第四王朝から第六王朝にかけてであり、それゆえに、正しくは「古王国時代」と呼ばれるこの時代をエジプト史家はしばしば「ピラミッド時代」と呼ぶのである。
ピラミッド時代の末期の衰弱、これにつづく第一中間期を経て、上エジプトのテーベに都する中王国時代がはじまり、新しい国家信仰、新しい国家神があらわれた。アメン神である。アメンとは本来「隠されたもの」を意味し、眼に見えない神を意味したはずであるが、多くの場合、人間の姿で、時として人間の身体に山羊の頭をつけた姿で造形化された。アメン神は戦いの神であるとともに平和の神であり、護国の神であるとともに家庭の神でもあった。
第十一王朝から第十三王朝に至る中王国時代は国内分裂状況の中に終り、エジプトはアジアからの侵入者ヒクソスの支配する第二中間期にはいった。ヒクソスはエジプトの知らない武器によってエジプトを征服したのであった。その武器とは、戦車と馬である。ヒクソスは第十五王朝と第十六王朝を形成し、約百五十年にわたって君臨した。ついで、テーベの豪族が第十七王朝を樹て、テーベを本拠として反ヒクソスの戦いをはじめた。
ヒクソス撃退の戦いが勝利をおさめるのは第十八王朝初代の王アフメス一世の時である。このとき新王国時代がはじまり、第二十王朝までつづく。新王国時代の信仰上の特徴は上エジプトのアメン神と下エジプトのラア神の融合である。ここにアメン・ラアという合成神が生れた。この神はラア神の性能をことごとく吸収した。
「ヒクソスの時代」がエジプトに与えた衝撃は大きかった。海と砂漠という地理上の境界で守られていて、閉鎖的に平和を楽しんでいたエジプトはヒクソスによって外敵の侵入と支配を初めて経験したのであった。政治上、軍事上の国際感覚を初めてエジプトの指導者がもつこととなった。
ヒクソスを、ヒクソスの持ちこんだ武器(戦車と馬)でエジプト領から駆逐したのち、エジプトは攻撃性の強い軍事国家となり、軍を東に進めた。征服地にエジプトの総督を置き駐留軍を配備した。この征服行動が頂点に達したのは、第十八王朝の六代目の王、トトメス三世の時代である。
トトメス三世のあと、その子アメンホテプ二世が即位した。この王はエジプト王の中で最も大きくて頑丈な体格の持主で、その外征活動も体格に似合って旺《さか》んであった。彼はトトメス三世以上に攻撃的であった。彼は叛乱者に対しては、エジプト王としては珍しいことだが、残忍な処刑をした。メソポタミアの征服地から三万人の捕虜を連れかえったこともある。
多神教の国[#「多神教の国」はゴシック体]
彼のあと、その子トトメス四世の時代がはじまった。トトメス四世は、エジプトの国際的威信を保持するのに、軍事力だけでは十分でないと理解した最初のエジプト王である。彼は国際結婚による友好関係(同盟関係)を重視した。こうして、北のハッティ王国と南のエジプト王国との間に位置するメソポタミアの強国、ミタンニ王国から妃を迎えることとなった。
ミタンニ王国の王女からエジプトの王妃となったその人の名はムテムイア。ミタンニでの彼女の本来の名は分っていない。ムテムイアという名はエジプトヘ来てからの新しい名で、エジプト語で「ムート神は聖なる船の中にある」という意味である。エジプトの王は一人の正妃のほかに多くの側室をもっており、中王国時代いらい外国の女性がエジプト王宮に側室となってはいることは習慣化していたが、正妃となったのはムテムイアが初めてである。
この国際結婚から生れたのがアメンホテプ三世。彼の即位時には、エジプト本国も外地領も従来になく平和であった。王は各地に神殿を建て、神像と王像をそこに飾った。今日、テーベ西岸に立つ「メムノンの巨像」はアメンホテプ三世の像である。この王の葬祭殿の正面に、この巨像は建てられたのである。像の高さは台座ともで約一八メートルに達する。
「メムノンの巨像」という誤った呼称は古代ギリシア人の命名で、日の出のさいに音を発することから、ギリシア神話の曙の子メムノンになぞらえたのである。今日もその呼称がなお使われるのは、その呼称のもつロマンチックなひびきのせいである。なぜ巨像が日の出のさいに音を発したかというと、地震で損傷を受けたさいに像の内部に亀裂を生じ、それが日の出のさいの温度変化と空気の移動で音を出すようになったのである。今日ではその現象は見られない。
アメンホテプ三世の妃はチイという。彼女の父ユヤは王宮の馬匹《ばひつ》長、母ツヤは王宮ハレムの監督者であった。
アメンホテプ三世の治世はまた文運隆昌の時代であった。高官が競って書記の像の姿で自らの像を作らせたのは、この時代の特徴であり、文芸と学問の人である書記がきわだって尊重されたのである。その像は、きまった形であって、足をくんで坐っている書記がパピルスの巻物を開いて書いている様を示している。
アメンホテプ三世は遊興の人でもあった。とくにハレム(側室)のにぎわいは格別であり、諸外国の王女を数多く迎えた。そこには女好きの王であると同時に、コスモポリタンな傾向の王がみられる。ミタンニ王国からは二人の王女が来た。一人はギルキパといい、他の一人の名はタドゲパ。前者は治世の初期に、後者は治世の末期にエジプト王宮にはいった。
後者をネフェルティティと同一人物であるとする説がかつてエジプト学界で人気をもっていた。そのユニークな顔立ちと、「美女は来りぬ」(ネフェルト・イティ=ネフェルティティ)という名前、およびミタンニ王からの手紙がその説の根拠とされていた。その説によれば、彼女はアメンホテプ三世のためにエジプト王宮にはいったのだが、老王が死んだので、その王女は若い王の妃となり、本来の名前を捨て、エジプト語の名前「ネフェルティティ」を与えられたというのである。この説は、今日では多くの学者によって否定されている。私もまたこの旧説を採らない。
王は、正妃のほかに自分自身の娘シタメンを妃としていた。王家の血の純潔を守るために血族結婚をするというのは古くからのエジプトの習慣であった。彼女の地位はいわば正妃と側室の間であった。
遊興の人アメンホテプ三世は、ボート遊びをことのほか愛した。王はテーベに広い池を掘り、ナイルの水を引き、そこに王の船を浮べて楽しむのであった。そのさい、王はもちろん多くの美女をかしずかせていた。
王の船の一つは「アトンの輝き」という名をもっていた。アトンとは太陽を指す言葉でやがてあらわれる宗教改革時の神の名であるが、アメンホテプ三世のときには、まだアトンは物理的な太陽を指しているだけであって、信仰上の用語とはなっていない。
アメンホテプ三世と正妃チイとの間に生れた子が、宗教改革王アケナトンである。といっても、彼は当初からアケナトンという名をもっていたのではなく、生れた時に与えられた名はアメンホテプ四世であった。
アメンホテプ四世が生れたのは前一三八六年、テーベの王宮においてだった。彼はアメンホテプ三世と正妃チイとの間に生れた第二王子であった。彼の前に第一王子トトメスと第一王女シタメン(シトアメン)が生れているが、トトメスは幼くして死ぬ。アメンホテプ四世のあと、二人の弟と一人の妹が生れる。これは腹ちがいである。すなわち、ツタンカーメンとセメンクカラの二人の王子、バケタトン(バケトアトン)という一人の王女である。この三人はアメンホテプ三世と第二王妃シタメンとの間にできた子である。いっぽう、このシタメンという女性はアメンホテプ三世が名の知れない女に生ませた自分自身の娘である。
ツタンカーメンとセメンクカラは、あとでくわしく触れることとなる。ここではアメンホテプ四世のみに眼を注ぐ。
アメンホテプ三世は自分の子に自分と同じ名前を与えたのであるが、その名の意味は「アメン神は満足す」ということである。すでにそこに王室のアメン神への帰依の心が示されているが、王はテーベ(ルクソール)にアメン神のための大神殿を築いた。
王室の帰依する神に奉仕するアメン祭司団の勢力は大きかった。各神殿は神殿区域以外に特権的な広大な土地と財産をもっていた。そのほかに、規定納入あるいは寄進という形で、毎年、国と王家から多額の黄金のほか家畜を得ていた。さらに、神殿も祭司も免税特権をもっていた。こうした特権の中で、やがてアメン祭司団は政治集団の性格をもち、王権を牽制する力をまでもつようになった。
ただし、ここで注意しなければならないのは、アメン信仰が|唯一の信仰《ヽヽヽヽヽ》として国民に強制されたのではない、ということである。エジプトはその文明の誕生の時から、多神教の国であった。地方ごとに、あるいは都市ごとに、「主神」はあったが、それは他の神々の存在を許さないというものではなかった。たとえば、ヘリオポリスの主神はラア、メンフィスの主神はプタハ、テーベの主神はアメン、アスワンの主神はクヌムであったが、他の神々との共存が常に可能なのであった。むしろ、エジプト人にとっては、神の数が多ければ、それだけ救済される可能性がふえるのであった。
テーベについてみると、その郊外(北)に当るカルナクにあるアメン大神殿は、第十二王朝いらい歴代の王によって増築されてきた神殿域であるが、ここにはアメン大神殿のほかにメンツー神、コンス神、オペト神、ムート神のためのそれぞれの神殿が共存していた。
宗教改革王アケナトン[#「宗教改革王アケナトン」はゴシック体]
アメンホテプ四世はそういう宗教上、政治上の環境の中で育てられた。いうまでもなくアメン信仰が第一義の思想として教えられた。
前一三七〇年、十六歳のアメンホテプ四世は一つ年下の従妹ネフェルティティと結婚した。ネフェルティティがここで初めて公式舞台に登場する。
彼女の父アイは、アメンホテプ四世の母チイの弟に当り、馬匹庁長官という職責を占める高官であった。当然に、幼時からネフェルティティとアメンホテプ四世は顔見知りであった。ネフェルティティもまたアメン信仰を奉ずる家庭で育った。
アメンホテプ四世とネフェルティティが結婚したその年、老王アメンホテプ三世は即位三十年祭を行い、それを契機に、若い王子を共同統治者として宣言した。
王が後継者問題の紛争を起さないために、ある年齢に達した王子を共同統治者として内外に宣言するというのは、中王国時代からのエジプト王室の習慣なのであった。そうすることによって、若い王子は、後継者としての統治行為を実際に即して会得《えとく》することができるのであった。
さて、わがアメンホテプ四世は、戦いとスポーツを好む通常の若者ではなかった。第一、生れつき、その弱々しい体格は戦いとスポーツに向いていなかった。彼は行動よりも思索を好んだ。
ある朝、彼はテーベの王宮で昇る太陽を見つめた。太陽はいつもと同じように昇っているのであったが、その朝、彼の精神は経験したことのない衝撃を受けた。偉大な信仰の誕生は、自然現象を契機とした啓示である場合が多く、モーセにもマホメットにもわれわれはそれを見るのであるが、アケナトンはそういう経験のはるかなる先駆なのであった。
太陽を崇拝するラア信仰は古くからエジプトにあった。太陽は創造神として、生命の根源として信仰されているのであった。いまその太陽への崇拝が、もっと深い意味と洗練された要素をそなえてアメンホテプ四世の魂の中に燃え上ったのであった。そして、ラア神の娘である女神マアト(正義と真理の神)のもっている性格がアトンに付与されたのであった。
こうして、太陽は生命・愛・公平・正義・真理の源となった。彼はそれをアトンと呼んだ。アトンという単語そのものは、トトメス四世の時代から使われ出し、アメンホテプ三世の時代にもっとも多く使われるようになっていたのであるが、そのころは信仰上の用語ではなく、天体を指す通常の用語なのであった。
アメンホテプ四世は「アトン神こそ真の神である」と信じたが、当初はまだ「これが|唯一の神《ヽヽヽヽ》である」という信仰ではなかった。若い妃は夫の信仰をきき、直ちにそれを理解した。二人は、毎朝、日の出を拝み、アトン神を讃えた。|アメン《ヽヽヽ》ホテプという名をもつ若い王が、対立するアトン神に傾倒してゆくのは、いずれは解決を迫られる一種の矛盾であった。
アトン信仰に直ちに共鳴した高官は、アメンホテプ三世の宰相ラモーゼであった。すでに、アメン祭司団の横暴を許す状況に老王の末期症状を見ていたラモーゼは、若い王の信仰を支持して新しい時代を開きたいと望んでいるのであった。といっても、彼は政治的意図からアトン信仰に共鳴したのではなく、伝統的なアメン信仰に宗教上の疑問と嫌悪をいだいていたのであった。
アトンを偉大なる神として信仰する若い王としては、当然に、この神のための神殿を建てることが義務となった。父の老王は若い王の新神殿造営計画を理解し、支持した。頑固なのはアメン祭司団であった。若い王が危険な道を歩みはじめている、と彼らは感じた。新しい神の支配するテーベになりはしないか、と彼らは不安を感じたのである。
そこで、アメンホテプ四世は、アトン神殿はアメン神殿と共存できるのであって、アメン神殿にとって危険なものとなるのではない、と説くことによってアメン祭司団の不安を和げることができた。しかし、徐々に彼は「アトン神が|唯一の神《ヽヽヽヽ》であって他は偽りの神である」という考えを固めていった。ただ、父がアメン神を頂点とする多神教の信者であることもあって、「アトン神が唯一の神」と公言する勇気はもてなかった。
ところで、アトン神への霊感を最初に受けたのはアメンホテプ四世であったが、妃のネフェルティティは夫以上に熱烈にそれを信じる人となった。彼女は自らの名を「ネフェル・ネフェル・アトン・ネフェルティティ」とあらためた。「美わしきアトン、ネフェルティティ」という意味である。美貌で頭脳明晰である彼女は、人びとから「幸福と美の女神」として崇められ、親しまれた。
彼女の別称は数多く作られた。「好ましい顔の人」「幸福の女王」「慈《いつく》しみに溢れた人」「偉大な愛の人」などがその主要なものであった。いかに、彼女の人気が高かったか、それによってアトン信仰の普及にいかに大なる役割を果したかを、われわれは容易に想像できる。
そういう彼女であったので、彼女は反対者を説得する策を夫に授けるとともに、自らも説得や交渉に当ることがあった。そのさい、彼女の個人的魅力のほかに、馬匹庁長官アイが父であるという事情もいくらか威力増加の作用をしていた。
即位二年目(結婚二年目)に、第一王女が生れた。王は直ちに「メリトアトン」という名をこの王女のために選んだ。「アトンに愛された者」という意味がある。王女誕生と即位二年目を祝う式典が行われた。アトン神殿建立の議も設計もこの年に決定され、直ちに着工した。
即位三年目に、第二王女が生れた。彼女は「マケトアトン」(アトンに保護された者の意)と命名された。
この年、アトン神のための最初の神殿「ゲムパアトン」が完成した。神殿区域の周囲は一・六キロに及んだ。神殿名は「アトンは発見されたり」という意味であり、アトン信仰の成立を公式に位置づけるのに最もふさわしい名称であった。
神殿の前面には王の巨像だけでなくネフェルティティの巨像もまた飾られた。巨像は三種のサイズに分れ、最大のものは五・三メートルに達し、中級は四・五メートル、小さいものでも三・五メートルもあった。王妃が王とならんで対等の扱いを受けていることは、従来の神殿では皆無であった。
壁面レリーフも、王の姿だけでなく、王妃と二人の王女の姿を描いていた。それらの人物は、すべてアトン神を礼拝する、あるいはアトン神に供物を捧げる図で示されていた。アトン神は、円い太陽、そこから出る光の線、その先端の手という形で描かれた。それが生命・愛・公平・真実の神、アトンの表現であった。伝統的に神の姿は鳥獣の頭部をもつ人体として描かれてきたのであるが、全く新しい神、全く新しい表現があらわれたのであった。
神殿落成式のさい、王は鳥獣の頭部をもつ神を表現することについて禁止令を布告した。
即位四年目から五年目にかけて、アトン神のための小神殿、祭壇の造営が次々と行われた。
「ゲムパアトンの中の聖なるベンベン石の家」「ゲムパアトンの中の仮小屋」「アトンの建造物は永遠なり」「そびえ立つアトンの建造物は永遠なり」「アトンの大広間」「光り輝く建造物」「アトンの家」という名の七つの建造物と名称不詳のもう一つの建造物、計八つの建造物が建てられた。「ゲムパアトンの中の」とある二つは最初の大神殿の域内に、他の六つは域外にそれぞれ独立して建てられたのであった。
その中の、ある建物のレリーフでは、ネフェルティティの姿だけが描かれるということもあった。また、捕虜を検閲したり、犠牲の人頭を殴打するという場面の王妃が描かれることもあった。このような行為は従来は王のみに許されたものであった。アトン信仰推進に関して、王妃が果した役割の大きさを、これは示していた。
若い王と王妃の、このような動きを、アメン祭司団は手をこまねいて見ていたわけではない。有形無形の妨害活動(たとえば神殿労働者への信仰上の脅迫)が彼らの手で進められた。
即位五年目に、アメンホテプ四世はアトン神のために新しい都を開くことを決意した。一つの理由は、テーベにおけるアメン信仰とアメン祭司団の力の強さである。もう一つの理由(この方が優先順位は高い)は、新しい神に新しい町をというエジプト宗教の伝統的な方式であった。ラア神はヘリオポリスを、プタハ神はメンフィスを、クヌム神はアスワンを、そしてアメン神はテーベをその町として持ったのであった。いま問題となっているテーベに多くの神々が共存していたにせよ、テーベはもともとアメン神の町なのであった。
すでに側近を通じて候補地を探していたアメンホテプ四世は、即位第六年に、メンフィスとテーベの中間に位置する地点をアトンの都「アケトアトン」(アトンの地平)とすることにした。それは今日テル・エル・アマルナ(略してアマルナ)と呼ばれている地点である。
王がこの地を選んだ事情と、国民に告げた言葉を、今も残っている碑文(アマルナ境界碑文)そのもので読むことにしよう。
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第六年、第二季、四月の十三日、王はアトンの地平の都(以下アトンの都と記す)に来た。王は東の地平に上るときのアトンのように輝く琥珀金の大型車に乗り、国をその愛によって満たした。王は快い早駈けをした。空は爽やか、地は歓びにあふれ、王を見る者の心はすべて幸せとなった。王はパン、ビール、角のある牡牛、角のない牝牛、家畜、家禽《かきん》、葡萄酒、香、香料、すべての良き草を、アトンの都の境界決定のこの日に、犠牲として捧げた。
そのあと、アトンの歓びが得られ、王はアトンの都から王宮へ帰り、玉座に着いた。王は心愉しみ、玉座は光を放った。王は父なるアトンの前にあり、アトンは王に光を与え、王の体に力を与えた。
王は述べた。「王の友をすべて王のもとに集めよ。高位の者も、有力の者も、兵の指揮官も、全国土の貴族も、すべて」。直ちに彼らは招集され、王の前にあらわれ、地にひれ伏した。
王はいった。「アトンの都を見よ。アトンは永遠のために王の名において建造物を建てることを余に望んだ。なぜなら、アトンの都に余を導いたのはわが父アトンである。貴族が余をあの地に導いたのではない。王がこの地にアトンの都を築くのがふさわしい、と余に告げたものはエジプトにはいなかった。まさに、余がアトンのために建造物を建てるようあの地に余を導いたのは、わが父アトンである。見よ、王は、あの地がいかなる神にも、いかなる女神にも属さず、いかなる王子にもいかなる王女にも属さないということを知った。あの地の所有者の資格で行動できる権利は、だれにもなかった」
彼らは答えていった。「アトンの望む地を王に示したのはアトンである。アトンはわれわれの王以外のいかなる王の名も挙げない。アトンはわれわれの王以外の者を称揚しない。王は、全国土をアトンに惹きよせる。王は、自らのために建てた町々をアトンのために美しくする。産物と貢物を出すすべての地方、すべての国、ハネブの人々(地中海の人々)を、自ら生命の源である者のために、光によって生命と呼吸を与える者のために、王は美しくする。アトンよ、光を放って永遠を与えたまえ。まことに、アトンの都は天のアトンのごとく永久に、永久に繁栄するであろう」
王は王を生んだ天に向って手をあげていった。「まことにわが父ラ・ホラクティ・アトンは生きてある。アトンは偉大にして生きたるもの。生命をつくるもの。百万キュービットのわが砦。余に永遠を思いださせるもの。永遠に属するものについての証人。永遠はそのかたの手に成るもの。創り主を知らざるもの。毎日、休むことなく上り、そして沈み、存在を示すもの。天にあるときも、地上にあるときも、なんぴとの眼もそれを見る。それは国を光でみたし、すべてに生気をあふれさせる。アトンの都のアトンの神殿に、毎朝それが上るのを見るとき、そして光によって愛をふりそそぎ、余に命を与えるのを見るとき、わが両眼よ、満ち足りてあれ。
余はわが父アトンのために、この地に、アトンの都を建てようと欲する。町を南にも、北にも、西にも東にも建てようとは思わない。アトンのためにアトンの都を築くために、余は南の境界も北の境界も越えないであろう。余はまた、西の岸に町を建てないであろう。余は、わが父アトンのためにアトンの都を、東の岸に築こうと欲する。そこに、アトンは自ら、自らのために、岩によって囲まれた場所をつくり、その中に供物を捧げることができるように平野をつくってある。
これがその場所である。他にアトンの都にふさわしい場所がある、と王妃は決して言わないはずである。この国のいかなる貴族も、いかなる住民も、他にアトンの都にふさわしい場所がある、と決して言わないはずである。余は、上流についても下流についても、西についても東についても、このアトンの都を捨てて他のふさわしい場所に逃げ、アトンの都を築こう、とは決して言わないであろう。そんなことはあり得ない。余は、アトンのためのアトンの都を見付けたのである。アトンは自らそれを望んだのであり、アトンは永遠に満足するのである。
余はわが父アトンのためにここにアトン神殿を築こうと考える。わが父アトンのために、大王妃ネフェルティティのために『太陽の影』を建てたいと考える。余はわが父アトンのために、ここに、『アトンは祭りで際立つ』島に、『アトンを歓ばせる家』を建てたいと考える。余は、わが父アトンのために必要なすべての仕事をなしとげようと思う。
余は余自身のために、王宮を建てたいと考える。余は王妃の宮殿をここに建てたいと考える。東の岩の中に余のための墓が掘られるであろう。余はそこに埋葬されるであろう。大王妃ネフェルティティはそこに埋葬されるであろう。もし余が北、南、西、東の町で死ぬようなことがあるとしても、わが身体はここに運ばれ、葬儀はアトンの都で執り行われなくてはならない。大王妃ネフェルティティが北、南、西、東の町で死ぬようなことがあるとしても、その身体はここに運ばれ、葬儀はアトンの都で執り行われなくてはならない。大祭司、聖父、アトン祭司の墓は東の岩の中に掘られ、彼らはここに埋葬される。
まことにラ・ホラクティ・アトンは生きてある。祭司のことばは、即位第四年までに余が聞いたものより悪くなっている。アメンホテプ三世が聞いたものより悪くなっている。トトメス四世が聞いたものより悪くなっている」
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碑文の最後のことばは、アメン祭司団の敵対的態度がもはや耐えがたいものに達していることを示している。(解読文はブレステッドの『エジプト古記録』による)。
人類最初の一神教[#「人類最初の一神教」はゴシック体]
新都の名を「アケトアトン」と定める一方、王はわが名を「アケナトン」(アク・エン・アトン)と改めた。その名は「アトンを歓ばせる者」という意味である。
新都の準備は急ピッチで進められた。都市は設計に基いて建設された。設計に基く都市として、これは古代エジプトの最初のものであり、唯一のものである。在来のエジプトの都市は、王宮、神殿、王墓(とくにピラミッド時代)に付随して、その近辺に官庁を核として自然に発達したものであり、設計による都市造りではなかった。
アマルナの都は、ナイルの東側に設計され、南北約一〇・五キロ、東西約五キロのほぼ長方形であった。中央に、正面三〇〇メートル、奥行八〇〇メートルの囲壁にかこまれた大アトン神殿が置かれ、その近くに王宮と官庁が建てられた。王宮御用の職人(芸術家)宿舎と工房も近くに設けられた。都の南端と北端に離宮が置かれた。
大神殿の開放性と明るさは、アトン信仰の性格を反映していた。従来のアメン信仰の神殿は、暗くすることによって神秘性を生みだし、奥へ進むほど暗くなっていた。そして、その暗がりの中で、祭司たちは祈りと呪術を執り行うのであった。いま、アトンの神殿の内部は、覆うものはなく、天からの光をさえぎるものはなかった。太陽は至るところに降りそそぐように建てられていた。最も奥の祭壇には、従来は動物の姿をした神像が置かれていたのであるが、いま、アトン信仰ではそのような偶像は存在しなかった。供物台は神殿の内と外に二〇〇〇個以上が設けられた。市民のために開放するためである。
治世六年のはじめ、第三王女が生れた。アケナトンはこの王女をアンケセンパートン(アンク・エス・エン・パ・アトン=アトンによって生きるもの)と命名した。
意気大いに上るなかで、遷都はその年に行われた。そのとき王は、力づよく伝統と因習を断絶し、自立の思想を発見し、人類最初の一神教を唱え、それを推進する「人類最初の個人」となった。時にアケナトンは二十二歳、ネフェルティティは二十一歳。彼に奉仕する役人、軍人、職人、および新都に新生活を期待するテーベの住民がアマルナに移った。
長く老王アメンホテプ三世の宰相であり、共同統治になってからは共同統治の宰相であったラモーゼもまたテーベを去り、若い王の宰相となった。アメンホテプ三世はこのあと数年間生きるし、彼の存命中は共同統治という形態は名目上存続するが、事実上、このときからアケナトン王の単独統治となる。アメンホテプ三世あての外国からの手紙が数多くアマルナから発見されているのはそういう事情による。アマルナ遷都のさい、アメンホテプ三世は「余あての手紙は今後すべてアマルナにまわせ」と側近にいいわたしたのである。
実際、アメンホテプ三世と王妃チイの、アケナトンに寄せる愛と信頼は大きかった。ツタンカートン(のちのツタンカーメン)の命名についても、ツタンカートンのアマルナでの養育についても、チイのアマルナ訪問についても、そのことはあらわれていた。(アメンホテプ三世は老齢で旅行が無理であるため、一度もアマルナヘ来なかった)。
アマルナに移った高官の中で注目されるのは馬匹庁長官アイとホレンヘブ(ホル・エム・ヘブ)将軍である。テーベですでに高位にあったアイは王の最高の助言者となった。テーベで軍人として高い評価を受けていたホレンヘブは、アマルナ移転のさい、アトン信仰への忠誠を示すために、その名をパアトンエンヘブとあらためた。「アトンによって生きる者」という意味である。(この将軍はのちに王位にまで登ることとなるが、今はその話にはいるタイミングではない)。
他にも、アマルナの高官として重要な人物が数人いた。一人はアトン神殿の祭司団長パネヘシである。彼は宗教部門の最高責任者であるが政務にも関与することができた。次がマイ。彼は「王の唯一の同伴者」という肩書の高官であり、文書と国璽《こくじ》の最高責任者であった。ツツは外務担当の最高責任者であった。
これらの側近にかこまれて、アケナトンとネフェルティティは、信仰上にも政治的にも、自由に、大胆に、振舞うことができた。華麗な「アマルナ時代」、エジプトが見たことのない躍動的な文化の時代がここに開幕したのである。
アケナトンがアトン信仰の確立のために、大胆に開始したのは、まずアメン神の抹殺である。彼は軍隊を全国に派遣し、神殿と記念碑からアメン神の名、アメン神に直結するシンボルをすべて削りとらせた。先祖の王名であっても、その部分を削らせた。そして、各地に、アトン神のための神殿と記念碑をたてさせた。王の信仰行事は、以前の信仰の場合とちがって単純であった。パン、牛肉、家禽の肉、花を供え、香をたき、祈りと讃歌を唱えるだけであった。
実際、この祈りと讃歌こそアトン信仰の核心であった。詩人であり思索家であるアケナトンは、アトン信仰のためにアトン讃歌(経文)を次々と書いた。宗教的にいえば、それは経文であったが、文化史的にいえば、生気あふれる新文学であった。今日にまで残っている最も長い讃歌は次のとおりである。少し長いが、アトン信仰の直接表現として、きわめて重要な讃歌であるので、全文を示すことにする。こういう文(詩)は、要約や部分引用で分った気になるのはいけないのであって、全文を、ゆっくりと、読み、味わい、感じ、理解しなくてはならない、と私は考える。(フランスのエジプト学者、フランソワ・ドーマの解読文によって酒井が邦訳した)。
アトン讃歌[#「アトン讃歌」はゴシック体]
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御身は天の地平に美しくあらわれる。
生命を創った生けるアトンよ。
御身が東の地平に上るとき、
いかに全き姿をすべての国にもたらすことか。
御身は美しく、偉大にして、世界のすべての上にあって輝く。
御身の光は、御身の創った世界のすべての国の果てまでを包む。
御身はすべての国の果てまでを征服した。
太陽であるがゆえに。
御身は、御身の愛する子のために、すべての国を結びつける。
いかに遠くにあろうとも、御身の光は大地に達する。
御身はわれらが眼の前にある。
しかし御身の歩みは見えない。
御身が西の地平に沈むとき、
世界は闇の中に沈み、死せるが如くになる。
人間は室の中で眠り、頭を包む。
なんぴともその兄弟を見ることはできない。
頭の下に置いてある財産を奪われても、
彼らには分らない。
すべての獅子は洞穴から出た。
すべての蛇は噛む。
闇はかまどの闇に似て、
世界は静寂の中に横たわる。
彼らを創りしものがこの地平に憩うがゆえである。
しかし、曙、御身が地平に上るや否や、
そして御身がその光を放つや否や、
二つの国(上下エジプトのこと)は祝いことほぎ、
人間は眼ざめ、自らの足で立つ。
御身が彼らを立たしめるがゆえである。
彼らは、身を浄めるや否や着衣する。
彼らの腕は御身の出現に礼拝する。
世界のすべてが仕事にかかる。
すべての家畜は草に満足する。
木と草は緑をなす。
羽根を拡げて巣から飛び立つ鳥は、
御身の前で御身に礼拝する。
すべての獣は四つ足で跳ぶことをはじめる。
すべての飛ぶもの、すべての静止するものは、
御身が彼らのために上ったとき、生きる。
船は川をくだり、川を上る。
御身の出現により、すべての道は開かれた。
魚は川の面で御身めがけてはねる。
御身の光がいと大いなる緑の海の底に達するがゆえである。
女体に種を育てるものは御身である。
男の中に精液をつくるものは御身である。
母体の中で子に命を与えるものは御身である。
子の涙をとめて子を安らげるものは御身である。
母体の中にある者の乳母となるものは御身である。
御身の創ったもののすべてに命を与えるために、たえず息を吹きこむのは御身である。
御身の創ったものが、誕生の日に呼吸するため母体から外へ出るとき、
御身はその口を全き形に開き、必要なものを与える。
雛がまだ卵の中にあって、早くも殻の中でさえずるとき、
彼に命を与えるために御身はその体内に息吹きをおくる。
殻を内部より破れさせるため、
定めの時を御身は彼のためにつくった。
彼は定めの時に、卵から出てさえずり、
卵から出るや否や自らの足で歩く。
御身の創ったもののいかに多いことよ。
われらの眼から見えないとしても。
決して類いのない、唯一の神よ。
御身はただひとりで、
心のままに世界を創った。
人間、家畜、野獣を、
地上にありて自らの足で歩くすべてのものを、
空の高みにあって羽根を拡げて飛ぶすべてのものを、
山の国々、シリアとスーダンを、
そしてエジプトの野を。
御身は人間の一人一人をその所に置き、必要なものを与えた。
各人は必要な食糧をもち、その寿命は限られている。
言葉は、それぞれの表現をもって分れている。
性格は、皮膚の色のようにちがっている。
御身が異邦人を区別したがゆえである。
御身は地下の世界にナイルを創り、
エジプト人を生かすために思いのままにナイルを導く。
御身は御身のためにエジプト人を創ったがゆえである。
彼らとともにかほどの苦労を共にする彼らの神、御身よ、
彼らのために御身を上らせる世界の主よ、
おどろくべき威信をもつアトンよ、
いかに離れた異国であろうとも、御身はそれをもまた生かす。
御身は天にナイルを置き、ナイルは彼らのためにくだる。
ナイルは山の上にも大いなる緑の海にも流れをつくり、野と国土をうるおす。
御身の意図はいかに効果あることか、永遠の主よ。
天のナイルは、御身が異邦人に与えた贈りもの、
自らの足で歩く山のすべての獣に与えた贈りもの。
愛された国のために地下の世界から来るナイルのごとくに。
御身の光は野を養う。
御身が輝きを発するや否や、植物は生き、
御身のために伸びる。
御身は、御身の創ったすべてのものを育てるために、季節をつくる。
冬は季節を冷やすために、暑さは季節が御身を味うためにある。
御身の創ったすべてのものを、上って見おろす前に、
御身ははるかな空の旅をし、
ただひとりでありつづける。
御身が生けるアトンの形で上るとき、
アトンは現われて輝き、
はるかに遠くにあり、しかし近くにある。
御身は御身自身の幾百万と知れぬ姿を見せることをやめない。
しかし、御身はただひとりである。
都市、地方、野、道、川、
それらのすべての眼が御身を正視する。
御身は世界の上のアトンであるがゆえである。
しかし、御身が去り、
御身の創ったものが何ひとつ存在しなくなった時も、
御身はわが心の中にある。
御身を知るものは、
御身の子、ネブケペルラ・ウワエンラ(アケナトンのこと)を措《お》いて他にない。
なぜなら御身は、その子に御身の意思と力を教えたがゆえに。
世界は御身の手の上に生れた。
御身が上るとき、世界は生き、御身が没するとき世界は死ぬ。
御身は生命そのものの長さであり、人は御身によって生きる。
眼は、御身が没するときまで、御身の全き姿をとらえつづける。
御身が上るとき、
御身は王のためにすべてを増やし、
すべての足を急がせる。
御身より出た御身の子のために、
真理に生きる上下エジプトの王のために、
二つの国の王、ネフェルケペルラ・ウワエンラのために、
真理に生きるラアの子、王冠の主、アケナトンのために、
御身が世界を創り、出現させた時このかた。
王の命よ大きくあれ。
王の愛する偉大なる妻、
二つの国の女王、ネフェル・ネフェル・アトン・ネフェルティティよ、
永遠に生き、永遠に若くあれ。
[#ここで字下げ終わり]
太陽讃美の系譜[#「太陽讃美の系譜」はゴシック体]
これが、アトン信仰の神髄を示す「アトン讃歌」である。この一神教がモーセの一神教(ユダヤ教)に影響を及ぼし、ユダヤ教がキリスト教の誕生に役割を果し、ユダヤ教とキリスト教がイスラム教の出現に寄与していることを思うとき、われわれは人類宗教史の中でアケナトンが果した稀有の役割に眼を見張り、前十四世紀の彼が今日の精神世界と直接につながっていることに気付き、何か不思議な感じさえするのである。
「アトン讃歌」そのものについてみれば、それは旧約聖書の詩篇一〇四に直接的に投影している。この関係をはじめて指摘したのは、前世紀末に活躍したアメリカのエジプト学者、ジェイムズ・ブレステッドであり、異論を立てる者がないわけではないが、多くの人はブレステッドを支持している。私もまた、そうである。
旧約聖書の詩篇一〇四の一部を左に示すことにする。読者はさきに示した「アトン讃歌」との酷似にすぐに気付くはずである。(日本聖書協会訳による)。
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水はたたえて山々の上を越えた。
あなたのとがめによって水は退き、
あなたの雷の声によって水は逃げ去った。
山は立ちあがり、
谷はあなたが定められた所に沈んだ。
あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、
再び地をおおうことのないようにされた。
あなたは泉を谷にわき出させ、
それを山々の間に流れさせ、
野のもろもろの獣《けもの》に飲ませられる。
野のろばもそのかわきをいやす。
空の鳥もそのほとりに住み、
こずえの間にさえずり歌う。
あなたはその高殿からもろもろの山に水を注がれる。
地はあなたのみわざの実をもって満たされる。
あなたは家畜のために草をはえさせ、
また人のためにその栽培する食物を与えて、
地から食物を出させられる。
すなわち人の心を喜ばすぶどう酒、
その顔をつややかにする油、
人の心を強くするパンなどである。
主の木と、主がお植えになったレバノンの香柏とは豊かに潤《うるお》され、
鳥はその中に巣をつくり、
こうのとりはもみの木をそのすまいとする。
高き山はやぎのすまい、
岩は岩だぬきの隠れる所である。
あなたは月を造って季節を定められた。
日はその入る時を知っている。
あなたは暗やみを造って夜とされた。
その時、林の獣は皆忍び出る。
若きししはほえてえさを求め、神に食物を求める。
日が出ると退いて、その穴に寝る。
人は出てわざにつき、その勤労は夕べに及ぶ。
主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。
あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。
かしこに大いなる広い海がある。
その中に無数のもの、大小の生き物が満ちている。
そこに船が走り、
あなたが造られたレビヤタンはその中に戯れる。
[#ここで字下げ終わり]
そして、ずっと後の、十三世紀のアシジの聖フランシスコ作の「太陽讃歌」に、同じような詩を見る。(もっとも、この場合には、太陽を主による被造物と見ているが)。われわれは、そこに、はるかなるアケナトンの「太陽讃歌」とのつながりを感ずることができる。
その詩の一部を左に示そう。(訳文は、オ・エングルベール著、平井篤子訳『アシジの聖フランシスコ』創文社刊による)。
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おお たたえられよ わが主
すべての被造物によって
わけても兄弟なる太陽によって
太陽は昼をつくり
主は かれによって われらを照らす
かれはなんとうるわしく
なんと大いなる光輝を発していることか!
いと高きおん方よ
かれこそは おん身のみ姿を宿す
おおたたえられよ わが主
姉妹なる月と無数の星とによって
おん身はそれらを天にちりばめ
光もさやかに気高くうるわしくつくられた
おお たたえられよ わが主
兄弟なる風によって
また 空気と雲と晴れた空と
あらゆる天候とによって
おん身は これらの兄弟で
つくられたすべてのものを支えてくださる
おお たたえられよ わが主
姉妹なる水によって
水は益多く謙そんで とうとく清らかなもの
おお たたえられよ わが主
われらの姉妹 母なる大地によって
大地はわれらをはぐくみつちかい
八千草の実と
色とりどりの草と花とを生み出す
[#ここで字下げ終わり]
太陽と、太陽を軸とする自然への畏敬と讃歌の系譜はかくのとおりなのであって、その最初の輝きをアケナトンが発したのであった。
片眼の彫像[#「片眼の彫像」はゴシック体]
熱烈な信仰行為は王と王家に限ったものではなかった。側近高官もまた、熱意ある信者となった。主要高官として宰相ラモーゼ、馬匹庁長官アイ、軍司令官パアトンエンヘブを挙げることができる。彼らはアトン経典を暗誦し、王に随伴して、朝と晩の祈りの式典に加わり、エジプトの王と国と民の平和と幸を祈るのであった。信仰行為の別表現として、彼らはまたアトン信仰に基く墓を造営した。エジプトでは、王に限らず、高官もまた生前に自らの墓をつくるのである。
王の信仰行為は祭事式典に限られてはいなかった。愛・正義・真実を要素とするアトン信仰は、生活と文化の全体に作用を及ぼすのである。
王家の生活についてみれば、王と王妃が民衆と接する試み(それはアケナトン以前には皆無であった)はすでにテーベ時代になされていたが、いまそれは、誰|憚《はばか》るところなく頻繁につくられた。王は王妃とつれだって馬車に乗って都を出歩いたし、王宮の一角は民衆に顔をみせる場(窓)として設計されていた。馬車行のさい、王は手綱をとり、王妃はその王を抱いているという場合が多かったが、時には逆に、王妃が手綱をとっている場合もあった。ネフェルティティはうつむくのではなく、常に誇り高く顔を天に向けていた。
それは民衆に対して、とりわけ女性に対して大きな希望を与えるものであった。女は奴隷のように男に奉仕するために生れてきたのではないということを、ネフェルティティは説き、そのことを自らの行動で示しているのであった。男はあらためて女を認識し、女は生きる歓びを見出すのであった。
民衆の生活水準や様式がいきなり変ったというわけではもちろんない。変ったのは、根本的な精神と心の中身であった。革命が心に来たのである。
美しいネフェルティティは、長いカツラを頭につけ、透きとおるリンネル布の衣裳に身を包んで、民衆の前に姿をあらわした。美貌の王妃は、王家と民衆を、そして新宗教と民衆を結びつけるのに大きな役割を果した。スリムな八頭身の王妃は、民衆の讃美の的であった。民衆にとって、ネフェルティティは抜群のスターでもあった。
彼女は当然にモードの源泉であった。流行というものを作りだすのは彼女であった。短い袖のシュミーズが流行し、胸で紐を結んで締め、下は足まで垂らすという服装があらわれた。カツラはかつて王家の専用装飾であったが、余裕のある女性一般にもカツラの着用が流行した。王妃の服飾を臣下がまねるということは、かつてはタブーであったが、今はむしろ奨励されるほどであった。おどろくべき変りかたであった。
芸術の面では、モチーフの多様化と写実主義表現が促進された。王、王妃、王女の日常的な生活風景も作品の題材となった。「威厳ある王」という一点に注意を払ったアケナトン以前の表現とは全くちがう作品が次々と生れた。対象は人物に限られなかった。自然の風景、鳥獣草木の美もまた彫刻され描かれた。
王室専用の芸術家(職人といってもよい)の中で、抜きん出た評価を王室から与えられたのは二人の彫刻家、ベクとトトメスである。制作準備のさいに、彼らは宮中に参上し、宰相立会いのもとに王と王妃の原図を作るのであるが、工房で制作がはじまると、こんどは王と王妃が、単独で、あるいは連れだって、工房に出向いて来るのであった。
王は直接に芸術上の指導もした。王の美しくない体形の表現に芸術家がためらっているとき、王は真実を表現せよと求めた。
後退している額、やつれた顔、半ば閉じた眼、長い鼻、薄い唇、長く下っている顎、くぼんだ頬、肩から前に突き出ている首、猫背の肩、隆起している胸、布袋《ほてい》腹、肥った尻、膨んだ腿《もも》、ひょろ長い臑《すね》――そういう弱点を王は正確に表現させるのであった。
唯一の例外は性器をもたぬ王を彫らせたことである。裸体の王は男性の性器をそなえていない。といって女性の性器を彫ってあるわけでもない。「無性の王」となっているのである。実は、これは宗教理念の表現なのであった。王は、男性でも女性でもない公平なアトン神の使徒を、この姿で表現しようとしたのであった。
王の指導と助言は王と王妃の像にかぎらなかった。彫刻制作全体についても、王は指導し、助言した。だからベクは「私は王の御指導によって制作した」と自らの墓に明記した。ベクは父子二代の彫刻家であり、父はテーベでアメンホテプ三世に奉仕した「彫刻の長《おさ》」であった。
ベクは主として王の彫像制作にたずさわった。今日残っているアケナトンの像は彼の手によるものである。興味ぶかいことは、ベクが、妻とならんでいる自己の肖像を、王の布袋腹とそっくりに作っていることである。彼の称号は「職人の長」および「彫刻の長」であった。
主としてネフェルティティの彫刻制作に力を注いだのはトトメスである。彼もまた「職人の長」および「彫刻の長」の肩書をもっていた。
十九世紀にアマルナの発掘がはじまっていらい、ネフェルティティの美しい彫像はほとんどトトメスの工房から出ている。このトトメスという名で、王名のトトメスを思いだし、それとの血縁関係を想像する人がいるかもしれないが、そういう血縁関係は全くない。トトメスとは「トトの子」あるいは「トトから生れた者」の意であって、トトとは知恵の神である。書記や芸術家にとって、それは職業上の神なのであった。
西ベルリンのネフェルティティ胸像もまたトトメスの工房から出た作品である。その美しい彫像の左眼の瞳が欠けていることについて、ネフェルティティとの、「特別な男女関係」を想定する説がある。二人は特別に親密になっていたが、あるときから、ネフェルティティはトトメスをないがしろにした。恨みをいだいたトトメスは、美しい王妃の像を作り、左眼だけを身体障害者とした。こうして「左眼のない王妃」をつくったトトメスは、それを工房の土深くに埋めて王妃の心変りを(トトメスにとってはそうみえた)呪った。……こういう筋書きを、その説は考えている。
左眼が欠けていることについては、その他にいくつもの説がある。主要なものをいくつか挙げると、その第一の説は、それは生徒に模範作品として示す先生の作品であって、右側が完成していればよいので、左眼は未完成のまま放置した、とする。第二の説は、本来は左の黒眼もはいっていたのだが、アマルナ時代の終末のさいの混乱時、あるいは考古学者の発掘時に、何かにぶつかって黒眼が落ちてこわれた、と考える。第三の説はこの胸像の完成直前に、トトメス大先生が死亡し、像は未完のまま保存された、とみなす。第四の説は、胸像の完成直前にアマルナ時代の終末という異常事態が生じ、左の黒眼のはいるチャンスが永遠に失われた、と推理する。
それぞれに、それぞれの根拠はあるものの、またそれぞれに弱点ももっていて、私としては、確定的といえるものは一つもないという説明を加えてこの話を総括することとする。
確かなことは、トトメスはネフェルティティのお気にいりの彫刻家だった、ということである。そして、ネフェルティティの好みのポーズが顔をあげて天を向くというポーズであったということである。そのポーズの代表的なものを、われわれはカイロ博物館の未完成頭部像に見ることができる。
ハッティ王国の侵略[#「ハッティ王国の侵略」はゴシック体]
アトン信仰と国際関係はどうかといえば、アトンは愛と平和の神であり、戦争を好まぬ神であった。(古いアメンの神は戦争の神であった)。戦争をやめよ、ただ祈れ、というのがアケナトンの基本政策であった。世界がアトン信仰に服すならば世は平和になる、と王は信じていた。ネフェルティティもまた。
しかし、アトン信仰とは無縁な民族と国家がエジプトの北方に君臨していた。ハッティ王国(俗にヒッタイト帝国)である。尚武の民族によって建てられたこの国は、事あるごとに戦いを進め、領土をひろげていた。アメンホテプ三世の晩年からエジプトの方をうかがっていたこの国は、アケナトンの治世になってエジプトのアジア領支配がゆるんだのを見てとると、直ちに進出をはじめた。あるときは武力によって征服し、あるときは巧みに言いよって同盟関係を結び、エジプトから引きはなした。
当時の、危機を訴える手紙、救援を求める手紙は、十九世紀のアマルナの発掘で多数発見されている。そのいくつかを読んでみよう。(地名、人名について個々に注をつけることは避ける。文脈で全体状況がとらえられればよろしいのであるから)。
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◇シリアのカタナの知事アキッジからの手紙
私はカタナの知事であります。私は食糧を与えられた部隊をもっておりますが、他に国を占領しヌクハシを確保する部隊を要請いたします。到着が遅れますならば、アジル(ハッティの同盟国アモルの王)が成功するでありましょう。部隊が本年三月に前進しないならば、アジルはこの国の全体を占領するでありましょう。ハッティの王は一つの都市を焼き払い、戦利品を取りました。アジルはカタナの住民を捕虜としました。私は彼らのための身代金を送って下さるよう懇請いたします。ハッティの王はまたわが父の神の像シャマシュを奪いました。それを取戻すための代償金を送って下さるよう懇請いたします。
◇レバノンのビブロスの知事リブアッバディからの手紙
私は、アムッリを占領するアブダシルナの息子たちによって苦しめられております。ツムラタとイルカタのみが残されておりまして、私はいまツムラタに来ております。グブラ、ジムリダ、ヤパアッドの知事は私に背いて逃亡いたし、そこには知事がおりません。ツムラタの部隊は逃亡いたしました。ツムラタとイルカタのために部隊を送って下さるよう懇請いたします。
ハッティの王はラパナの王チウワッティ、ルキジの王アルザウイアを誘惑しようと努力しております。アイダガマ王はすでにハッティの王に同盟いたしました。ヌクハシ、ニイ、ジンザル、キナタの諸王はエジプト王に忠誠を守っております。部隊を速かに送って下さるよう懇請いたします。アルザウイアとチウワッティがウビの国に迫るなら、ウビは失われてしまうでありましょうから。彼らはたえずアイダガマに呼びかけて、ウビを征服せよと煽っております。
◇同じ王からの別の手紙
グブラの女神が王に力をお与え下さいますように。アジルは王の敵であります。アジルは私の部下十二人を奪い、銀五〇を身代金として要求しております。アジルは、私がツムラタに派遣した兵員をイブリヤで奪いました。ツムラタ、ビルタ、ジドナの船はすべてアジルの国に去りました。ヤパアッディとアジルは私を攻撃し、私の船の中の一隻を奪い、他の幾隻もの船を奪うためにその船で海へ出ました。私の部下は、救援がなければ、敵側に渡るでありましょう。私はツムラタを守っておりますが、敵に包囲されております。アマンナに、エジプトヘ行ってもらいます。ヤリムタから食糧が得られますように救援を懇請いたします。ヤパアッディはアジルと一緒になって、アマンナがエジプトヘ行くのを阻止するかもしれません。
[#ここで字下げ終わり]
このような救援懇請の手紙に、アケナトンは対応しなかった。二つの事情によってである。
第一は王の信仰。さきにも記したように、王は戦いよりも平和を愛し、武器による支配よりも信仰による統治を求めた。そして、国際紛争は武力によってではなく話し合いによって解決せよと求めていた。
しかし、王はいかなる武力行動も厳禁したというわけではない。王は、在来の国軍を解体はせず(これが重要なポイントである)、ホレンヘブ総司令官のもとに保持していた。王は、場合によっては、つまりエジプトに危機が迫るときは、外地で武力介入をすることも辞さないという立場をもっていた。信仰の人である王は、同時に統治の責任をもつ王の立場を忘れてはいなかった。
ここで、第二の事情がからんで来る。すなわち、事態が著しく危険であったにもかかわらず、そうではないという認識を王に持たせた人物がいたのである。そういう認識を王に持たせるならば、王は国軍を動かさない、ということを、その人物は知っていたのである。
その人物は外務大臣ツツである。おどろいたことに、彼は敵側と通じ、賄賂を受けていた。彼は、王にほんの少しの情況報告をしただけだった。少しばかりの現地通信を王に見せただけだった。王がアジア情勢について正しい認識をもつことは、このように故意に妨害されたのである。
ツツとはいかなる人物であったのか。彼は利権欲のつよい男であった。アメンホテプ三世の王宮で彼は外務担当の役人として活動していたが、いつか大臣のポストを手にいれたいと機会を狙っていた。アメンホテプ四世が新王として登位し、アトン信仰を唱えはじめると、ツツは熱烈なアトン信者となった振りをして王に近づき、王の信頼を得ることに成功した。そして、アマルナの都が活動をはじめたとき、彼はそこで外務大臣のポストを手にいれたのである。そして、同時に、外国との通謀をはじめたのである。
軍司令官ホレンヘブがある程度の情報をつかみ、自己権限の裁量で外地に対して処置したとしても現地の状勢に対抗できるものではなかった。
こうして、アジアのエジプト領も同盟都市も、次々と失われていった。この状況はテーベのアメン祭司団の攻撃材料の一つとなった。
「新しい神はエジプトに何をもたらしたか。無である。それどころか新しい神のために、エジプトは多くのものを失った。エジプトは領地を失い、富を失い、不幸になった」。こんな説明を彼らはエジプト全土に流すことができた。
アジアの方面では、たしかに一方的にエジプトは失っていた。裏切りの外務大臣は「問題はおきていません」と王に報告しつづけた。しかし、地中海、とくにクレタ島との関係は緊密であった。クレタ島との通商関係はすでに中王国時代にはじまっていたが、アマルナ時代の文化国家としての名声はクレタの芸術家を惹きつけることとなった。こうして、アマルナ芸術の開花にクレタの芸術家もまた一役買ったのである。
王妃の座を去る[#「王妃の座を去る」はゴシック体]
アマルナの王宮内で何がおきていたかというと、ネフェルティティはテーベで生んだ三人の王女につづいて、三人の王女を次々に生む。
第四王女は治世八年に生れ、ネフェルネフェルアトン(美わしいアトン)と名付けられた。王家のアトン信仰はもちろん揺らいでいなかった。
同じ年、テーベの老王アメンホテプ三世の王宮で王子が生れた。アケナトンの進言で、この王子(アケナトンの弟)はツタンカートン(トゥト・アンク・アトン=アトンの生けるしるし)と名付けられた。これよりさき、ツタンカートンの上の王子がアメンホテプ三世に生れたとき、アケナトンは治世二年目でまだ影響力をもっていないため、命名に関与せず、その王子はセメンクカラ(ラアを讃えるもの)と名付けられたのであるが、いまツタンカートンの時には、事情は変ってきていたのである。
翌年(治世九年)、ネフェルティティは第五王女を生んだ。王女の名は、アトンの神名をふくまず、ネフェルネフェルラ(ラアは美わし)となった。さらに次の年(治世十年)、ネフェルティティは第六王女を生んだ。アケナトンはこの王女をセテプエンラ(ラアを讃えるもの)と名付けた。
この二人の王女の命名に、アケナトンの信仰の揺らぎがあらわれていた、いや、信仰の揺らぎというよりは、政治的配慮があらわれていた、というほうが適切である。テーベのアメン祭司団、それに支配される民衆との妥協を、アケナトンは考えはじめていたのである。
宰相ラモーゼが生きている間は、王はその考えを公然とは出さなかった。ラモーゼはネフェルティティと同様に熱烈なアトン信者であったから。
ラモーゼが死んで、ナクトが宰相となるに及んで事情は変ってきた。ナクトはアトン信者ではあったが、ラモーゼほどではなく、むしろどのようにも対応できる能吏型の宰相であった。「テーベとの和解」に彼は反対ではなかった。
治世十二年に、アケナトンを気弱にする出来ごとがおきた。それは第二王女マケトアトンの死である。アトンの神は、王に幸をもたらすはずであった。しかし、王の願いにもかかわらず、ネフェルティティとの間に生れるのは王女ばかりで王子は一人も生れなかった。これは王の嘆きであった。そしていま、第二王女の死。未だ経験したことのない深い悲しみの中で、アケナトンとネフェルティティは娘の埋葬をした。(その嘆きの図を描いたレリーフが今も残っている)。
ネフェルティティが信仰の強さをみせるのは、このときである。気弱になったアケナトンがテーベとの和解策を具体的に検討しはじめるのを見て、ネフェルティティは烈しく反対する。かつて信仰一筋だった王は、いま政治的考慮をせざるを得ない「統治者」の責任を感じているが、ネフェルティティは今までどおり信仰一筋であった。
こうして二年の歳月がすぎた。治世十四年、ついにアケナトンは、宰相ナクトをはじめとする側近の支援を受けて、ネフェルティティを王妃の座から外すことに決定した。すべては、テーベとの和解という方向で動きだしていた。だから、最も熱烈なアトン信者であるネフェルティティを遠ざけねばならなかったのである。
しかし、それは王からの一方的な制裁だったわけではない。また喧嘩別れの夫婦といった形だったわけでもない。二人は事情を理解し合い、国家理由のために、いわば泣く泣く別れたのである。だから、アケナトンは、ネフェルティティに公式の活動は認めないものの、北の宮殿を専用の宮殿としてネフェルティティに与え、実生活上は従来と変らぬよう処遇し、ネフェルティティの信仰生活を認め、王女の教育を彼女にまかせたのである。彼女のもとに暮す王女は第三王女のアンケセンパートン以下第六王女までの四人であった。
ネフェルティティを中央から遠ざけたあと、アケナトンは第一王女メリトアトンを妃の位置に据え、内外に公表した。公式記念碑のレリーフにはもはやネフェルティティの姿はなく、王とメリトアトンの並んだ姿が描かれるようになった。
それから一年後、アケナトンは、こんどは末弟セメンクカラを共治者とした。王は自分の息子をもたなかったから。共同統治者の役割はテーベとの和解ということにあった。セメンクカラはテーベの王宮に住み、即位二年目にアメン神のために神殿をたてた。
注目すべきことは、セメンクカラの妃となってテーベに赴いたのがメリトアトンだったということである。アケナトンは、さきに自分の妃としたばかりのメリトアトンを、セメンクカラに譲ったのである。
では、アケナトンは独身になったのか。そうではない。彼はこんどは、第三王女アンケセンパートンを妃として迎えた。ネフェルティティを廃位したあと、アケナトンがメリトアトンを王妃としたのも、アンケセンパートンを王妃としたのも、形式を整えるためであって実際に夫婦関係があったわけではない。身は離れていても、ネフェルティティとアケナトンは互いに心で愛しつづけていた。王は、狩猟や乗馬を口実に北の宮殿を訪ねることもあった。
治世十七年は破局の年となった。まず第一に、テーベのセメンクカラが死んだ。まだ十九歳であった。アメン祭司団の陰謀の犠牲となったのである。(未亡人となった王妃メリトアトンは公的舞台から退いた。彼女はアマルナには戻らずテーベで暮す)。ついで、アケナトン自身、生来の病身のため、一生を終った。三十二歳であった。時に紀元前一三五三年。
直ちに王位継承の問題がおこった。未亡人となった若い妃アンケセンパートン(のちのアンケセナーメン)が夫を迎えることによって、問題は解決した。夫となったのはツタンカートン(のちのツタンカーメン)である。
ネフェルティティはアケナトンの死後、三年間生き、アトン信仰の最後の砦としての役割を果したのち死んだ。三十四歳であった。
ネフェルティティのミイラは、まだ見付かっていない。
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アンケセナーメン 矢車菊の王妃[#「 矢車菊の王妃」はゴシック体]
ツタンカーメン王[#「ツタンカーメン王」はゴシック体]
紀元前一三五三年、十二歳の未亡人王妃アンケセンパートンは年下の叔父ツタンカートンを夫に迎えた。新しい王はわずか十歳であった。
このような少年少女の結婚は、当人の意思によって行われたのではもちろんない。王宮の高官が王宮の法と習慣にもとづいて立案し、実行に移すのである。
最大の王宮の高官は宮内大臣アイであった。ネフェルティティの父であり、アケナトン治世の大半を王室馬匹庁長官として奉仕し、ついで宮内大臣となった人物である。ネフェルティティはなお生きている。公式の場に出ることはないが、父との接触はもちろんあり、その考えはアイに通じている。アンケセンパートンを軸として王家が保たれること――これがネフェルティティの考えであった。
アケナトンの末弟ツタンカートンがきわめて自然に、候補として浮び上った。アイは彼の次の高官、軍司令官パアトンエンヘブに説明し支持を求めた。軍司令官は求めを受けいれた。ついで、アイはテーベに赴きアメン祭司団に説明した。アイは練達の政治家であり、アメン祭司団と平和的に話をすることができた。アイは、アトン神は唯一のものではなく、多神教の中の一つの神にすぎない、と説明した。したがって、アメン信仰の活動は自由であり、こんご王家もアメン神殿の復興に努力するであろう、と彼は約束した。すでにセメンクカラのアメン神殿建立によってアマルナの新しい政策のしるしを見ていたテーベのアメン祭司団はアイの説明を受けいれた。
そのさい、アメン祭司団は、王と王妃の名がアトン信仰の信徒であることを示しているのはよくない、と述べて注意喚起をした。アイは、遠からずその名も変える、と答えて祭司団の了解を得た。
「直ちに」といわないで「遠からず」と答えたのは、アマルナに熱烈で非妥協のアトン信者、ネフェルティティがいたからである。そして彼女の影響力がなお小さくはなかったからである。ある時間がたてば、ネフェルティティも王家の置かれた状況と父の立場を理解し、王名と王妃名の変更を認めるであろう、とアイは展望していたのである。
と同時に、王名と王妃名を直ちに変えることは、アメン祭司団への全面降伏を意味し、それはネフェルティティにとってだけではなく、アイ自身にとっても耐えがたいことだったのである。信仰の上からも自尊心の上からも――。
一方、アメン祭司団の立場はどうなっていたかといえば、アケナトンの死によって彼らの怒りは著しく鎮まっていた。アイの一連の説明を受けいれた情勢には、アイの巧妙さはもとよりとして、このような祭司団の心理の変化もまた作用しているのであった。
こうして、アケナトンの死後、あわただしく、アマルナで、ツタンカートンとアンケセンパートンの結婚式が行われたのである。
アマルナでは、依然としてアトン信仰がつづき、テーベのアメン信仰は進出して来なかった。ネフェルティティは、北の宮殿で以前と変らぬアトン信仰の生活をつづけた。
ツタンカートンの治世三年目、三十四歳のネフェルティティは死を迎えた。アイは、ネフェルティティの死がこんなに早く来るとは思っていなかった。ネフェルティティは、用意されたアマルナの王室墓地に、アトン信仰の儀礼に則って、埋葬された。
ネフェルティティの死はアイにとって深い悲しみであったが、全体の状況からすれば、それが王家の再出発にチャンスを与えてくれたのも事実であった。
都をテーベに戻すこと、アメン信仰を王家の公式宗教とすること、王名をツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン=アメンの生けるしるし)に、王妃名をアンケセナーメン(アンク・エス・エン・アメン=アメンによって生きるもの)とすることが、ネフェルティティの死後、決定された。
直ちに遷都の準備が進められた。治世四年のはじめ、ツタンカーメンとアンケセナーメンはアマルナを後にしてテーベに向った。宮内大臣アイをはじめ軍司令官ホレンヘブらの高官もテーベに移った。ホレンヘブは、アマルナ時代にパアトンエンヘブという名をもっていたが、王の改名にタイミングを合わせて、自らもアトン神名を含む名を捨て、本来の名ホレンヘブに戻ったのである。
アイが自らの名を変えなかったこと、ホレンヘブがアメン神に迎合した名を自らの新しい名として選ばなかったことは、二人のプライドと自立性を示している。(ホレンヘブとは正しくはホル・エン・ヘブであり、ホルス神への信仰をあらわす名である)。
芸術家も、政府職員も、アマルナを去った。ただし、芸術家のすべてがテーベに向ったというわけではない。北の都メンフィスに向った芸術家も少くなかったのである。(メンフィスは古王国時代の王都であり、中王国時代以後、王都がテーベに移ってからも、なお北部の政治・軍事上の重要都市でありつづけ、政府と軍の大きな出先機関がそこに置かれていた。当然に、多くの貴族と高官も住んでいた。メンフィスに移ったアマルナの芸術家は、彼らのために制作し、生活を営むのであった)。
しかし、王家も高官も、廃都となったアトンの都に深い愛惜の念をもっていた。アトン信仰の祭事を営む数人の祭司をはじめ、なおアマルナにとどまりたいと思う住民はそうすることが許された。芸術家は作品を、自らの思いとともに、ていねいに工房の底に埋めた。(すでに王家に納めてあるツタンカーメンとアンケセナーメンに関する作品はもちろんテーベに移された)。役人は公文書類を文書館におさめて封印した。(この文書が、これから約二二五〇年後の十九世紀末に発見され、「アマルナ文書」として輝かしい光を放つことになる)。
テーベに移ったツタンカーメンは(もちろん側近の指導によってだが)ツタンカーメンの顔をしたアメン神像を数多く作って王宮を飾り、全国のアメン神殿復興計画に乗り出し、アメン神殿とアメン祭司の特権を復活させた。
治世四年の布告はその復興事業を述べているが、その要点は次のとおりである。
アメンの子である王は、倒れているものを起して永遠の建造物を復興した。玉座の上で真理がくもっていたので、それを払い、罪を滅ぼした。嘘は排せらるるようになり、王は真の王としての姿をあらわした。
エレファンチネからデルタ地帯の沼地に至るまで、神々と女神のための神殿は倒れ、忘れられていた。祭壇は廃墟となり、雑草が生い茂っていた。神々と女神の住居はまるで一度も存在しなかったかのようであり、歩行者のための道のようになっていた。国は病いを患っている最中であった。神々はこの国を見捨てていた。軍が遠征に出ることがあっても成功を得たためしは一度もなかった。人びとが神々に救いを求めても、神々では決して来てくれなかった。人びとが女神に祈っても、同じであった。
このようにして歳月が流れたのち、王が玉座に即いた。王はホルスの地を統治した。エジプトと外国は王の統治に服し、すべての国は王の力の前に服従した。王はトトメス一世神殿の地に位置する王宮に、天の中のラアとして、はいった。王はこの国を組織し、輝きを与えた。
王はあらゆる機会をとらえて、父アメンのために良いことを果すよう努力し、上質の黄金で神像をつくるよう努力した。一三本の横木の輦台《れんだい》が神のために作られた。聖なる神像が上質の黄金、ラピスラズリ、トルコ石、その他あらゆる貴石によって作られた。過去において、神は一二本の横木の輦台に乗っただけであった。
王は神々のために記念建造物を建て、外国の最上の国から採れた上質の黄金で神像をつくり、神々のために祭壇を築き、それらを永遠につづく形でつくった。王は日々の食糧の形で供物をささげ、地に置かれた供物の菓子に気を配った。王は、先祖のはじまりの時いらいなされたことより多くのことをした。
王は供物台を黄金、銀、青銅、銅で豊かに飾った。作業場には奴隷、女、男および王の戦利品がみたされた。
王は神殿の収入を増やした。王はそれを二倍、三倍、四倍とし、上質黄金、黄金、ラピスラズリ、トルコ石、その他すべての貴石、王家の布、撚り糸の布、上質リンネル布、オリーブ油、杉油、テレビン樹脂、イベメのミルラ、アンティウのミルラで支払った。良いものを渡すことに何の制限もなかった。
王はレバノンの最上の杉で川船をつくった。王はナイルに明りをつけた。王は王宮で奉仕する奴隷、男、女、女性歌手、踊り娘を浄めた。王は神々と祖先を満足させるようにした。この国に住む神々と女神は、心愉しんだ。国じゅうが大喜びし、にぎわった。大神殿の中の神々の手は、永遠の祭りを讃えて伸ばされた。神々の授けるすべての生命と繁栄は、神々の王アメン・ラアの息子、復活したホルスの鼻孔に吹きこまれる。
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王と王妃の情景[#「王と王妃の情景」はゴシック体]
冒頭部にアトン信仰の時代についての言及があり「国は病いを患っていた」と述べていることに、とくに注目していただきたい。アトン信仰の時代は、このような格付けをされたのである。
信仰上の公式の変化はこのように厳然たるものであったが、王家の生活はアマルナ風に行われ、芸術家もアマルナ・スタイルを継続した。王夫妻は、威厳をそなえようと格式ばるのではなく、自然であるように振舞った。
ツタンカーメンとアンケセナーメンは一緒に車に乗って都を歩き、民衆に顔をみせた。家庭では「姉さん女房」の雰囲気で、王妃が王の面倒をみることが多かった。夫妻は愛しあっていた。二人は人間味をもった生活を営んだ。
ツタンカーメンとアンケセナーメンの日常生活の風景はツタンカーメン王墓の副葬品にかなり多く残されている。これほど華麗豊富な副葬品が王墓から出た例は他にはないので、私としては、この副葬品に即して生活描写をするのが適切であろう。
まず第一に玉座の背に描かれた絵。椅子に腰かけた王は、右手を椅子にかけ、左手を膝に置き、妃を見つめている。王が椅子に腰かけた姿はいろいろあるが、これはそのリラックスした様子であって、格別の魅力をたたえている。
王妃は上体を王のほうに傾け、右手を王の左肩にかけ、左手に香油の壺をもっている。香油は宗教上、衛生上、美容上の必需品で、王妃はそれを王にふりかけようとしているのである。王妃の衣服は透きとおるリンネル製のもの。彼女のうしろには、飾り台におかれた大輪の花がある。
カーターはこの図について次のような感想を記している。「この情景からうける印象は、しばらく、わたしたちをして、年月のへだたりをとびこえ、時代感覚を失わせてしまう。あでやかで少女っぽい王妃アンケセナーメンは、なにか大切な仕事で王宮へはいろうとする若い国王の襟に香油をひとふりかけ、王の身仕舞いを正している光景がみとめられる」
次は金張りの厨子《ずし》の外側にレリーフで描かれたかずかずの絵。
その一。王は椅子に腰をかけ、左手に花束をもち、右手で王妃の手に香油を注いでいる。王妃は、王の前で、クッションに坐り、左肘を王の膝に預け、右手で香油を受けている。王妃の左肘が格別の愛とくつろぎの様を示している。(カーターは、これを、書斎で休息をとっている王夫妻の図と見た)。
その二。王は椅子に腰かけて、左肘を椅子の背に乗せ、右手を膝に置いている。その前に立つ王妃は、両手で王の頸に花の頸飾りを巻き、結んでいる。
その三。王は椅子に腰かけ、左手を椅子の縁に置き、右手に花束をもっている。そこに立つ王妃は右手にもった水差しから、その花束に水を注いでいる。その左手には睡蓮と雛《ひな》げしの花束をもっている。
その四。王は立ち、左手に王杖をもち、右手を王妃の前で立てている。王妃は左手でアンク(生命)のシンボルを王に捧げ、右手にハトホル神(愛の女神)のシンボルをもっている。
その五。王と王妃は狩猟に出ている。王は左手に腰かけて、弓を引きしぼっている。狙う獲物は鴨《かも》で、右に群をなしている。王妃は、王の膝もとに坐り、顔を王の方に向けて右手で矢を差し出している。左手は、特に肥った鴨のほうを指している。「あの鴨を狙って下さい」と言っているようである。
別の手箱にも、以上のようなものと似た図柄で、多くの日常生活が描かれている。「似た図柄」といったのは、そっくりではなくて、変化がつけてあるからだ。たとえば、王と王妃が同じ位置関係の図で、魚を狙っているという場合もある。
右のような代表的生活風景を捉えた上で、もっと王家の私生活にはいってみよう。
王宮内では、夫妻は、読書、娯楽、遊戯を楽しんだ。アマルナ時代にツタンカーメンもアンケセナーメンも教育を施されているので、文字を読むことも、もちろん二人はできた。第十八王朝は恋愛詩の発達した時期であるので、二人は当然にそれを読んだ。また、宴会で歌い手や朗誦者がそういうジャンルの作品を歌い、読んだ。そういう作品の一つ二つをあげれば――。
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おお私の神よ、私の友よ、
あなたの前で水にはいり、
浴《ゆあみ》することの、何と快いことよ。
わが美しさよ、あなたの眼を楽しませよ。
最上の王室リンネルのブラウスに身を包み、
水に濡れるとき。
わたしはあなたと一緒に水にはいる。
私は赤い魚をとらえ、
手のあいだに輝かせながら、
私はあなたのほうに行く。
ああ、そばに来て。私を見つめて。
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これは恋人同士が浴するよろこびをうたったものであるが、次の詩はナイルを泳いで渡り、向う岸の恋人に会いにゆく姿を描いている。
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私の美しい娘《ひと》の愛は向う岸にある。
川の腕は私たちの間にある。
鰐《わに》は砂の腰掛けに休んでいる。
私は水にはいり、波に身を沈める。
私の愛は流れの上で強い。
水は、私の足の下の大地のようである。
あのひとへの愛ゆえに、私はかくも強い。
私は川の危険を冒して進む。
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古代エジプトの恋人たちは、もちろん接吻をした。ツタンカーメン夫妻もまた。次のものは接吻に関する詩である。
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私があなたに接吻をするとき、
あなたよ、腕をひらいておくれ。
私は香りにみち、
プントから来た男のようである。
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ツタンカーメン夫妻は文学のほかにもちろん娯楽を楽しんだ。娯楽の中では、チェスをとくに好んだ。音楽も楽しみの一つであった。王がトランペットを吹くこともあった。
王宮外では、スポーツと狩猟。身長一七〇センチの王はとくに狩猟を好んだ。アンケセナーメンはとくに草花を見ることを好んだ。エジプト人の花好きは昔からであるが、アンケセナーメンはとくに睡蓮、雛げし、矢車菊に惹かれた。この花の花束を彼女は王に捧げたり、花束で自らの室を飾って楽しんだ。
このような心愉しむ私生活の時間だけが、王と王妃の時間であったというわけでは、もちろんない。王と王妃は公生活に大きな時間を捧げなければならないのであった。君主としての勤めである。
第一に政務があった。実際には実力者が処理するといっても、王は国事を議する会議には出席しなければならなかった。外国使臣を接見するのも政務の一つだった。第二に宗教行事(祭事)があった。朝、昼、晩のお勤めをしなければならない。国と首都の大祭もある。先祖のための例祭もある。
祭事では、アメンを讃える経文が祭司によって朗誦された。アメン信仰の教義を学んだ王は、時には自ら読経することもあった。経文の一例をあげよう。
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正義を愛するものはラアの聖者である。
わが心の故郷はアメン・ラアの神殿にしか存在しない。
余の幸福はアメンを見ることにある。
アメンが余のうしろにいるとき、余は何ものをも恐れない。
アメン・ラアは悩めるものの避難所である。
アメン・ラアの愛は余の生命の守護者である。
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王夫妻は公務のため、あるいは個人的楽しみのために旅行することが多かった。乗物は、ある場合は船であり、またある場合には戦車であった。短距離の場合には、奉仕者が輦台に王と妃をのせて運んだ。
王の謎の死[#「王の謎の死」はゴシック体]
王家の生活がアマルナ風であること、それを描く記念物(現代のわれわれから見れば「美術品」に区分される品々はすべて、エジプト人にとっては宗教上・政治上の記念物である)にアマルナ・スタイルがつづいていることに、アメン祭司団は不満をもっていなかった。少くとも、公式に不満表明をすることはなかった。彼らが組織的にアトン神のための記念物を破壊するということもなかった。散発的にそういう破壊があったとしても――。
彼らのがわでは、伝統的な多神教が復活し、アメン神が指導的位置を占めていることで、アケナトン時代のような欲求不満はなくなっていたのである。同時に、かつてアマルナで枢要なポストを占めていた二人の人物、すなわちアイとホレンヘブが、一人は宰相として、他の一人は軍司令官としてにらみを利《き》かしており、これがアメン祭司団とその手先の過激な行動を抑制していたのである。(アマルナでいかがわしい行動のあった外務大臣ツツはテーベではポストを失った)。
国内的ににらみを利かしていたホレンヘブは、外地に対してエジプトの威信を回復する作戦をはじめた。ラア、アメン、プタハの三神の名をもつ三つの軍団が戦場の軍編成として創設された。われわれはさきに、アマルナ時代に、東はシリア、パレスチナで、南はヌビアで、エジプトの威信が失われたのを見たが、その回復にホレンヘブは乗り出したのである。アマルナ時代に弱体化したエジプトの軍事力はおいそれと立ち直るものではなかったが、それでもホレンヘブの作戦はヌビアとパレスチナで効果をあげた。ツタンカーメン王自身が軍事行動に加わるということはなかった。(王の記念物のいくつかに王の軍事行動が描かれたのは、外地征服の王の威信を示すための儀礼的ないし呪術的意味からである)。
さて、ツタンカーメンは、即位六年目に十五歳となった。十五歳という年齢は古来、人間が幼年時代と別れ、一人前の人間になる境とされているが(日本の元服を思い出していただきたい)エジプトでもそうであった。ツタンカーメンは自らの考えをもち、主張できる段階にはいった。側近の顔ぶれにも、王の好む人物が選ばれ、王の寵愛を受けるようになった。
王室財務管理者マヤと王室付将軍ミンネクトはとくに王に愛された側近であった。マヤはすでにアマルナの王宮で奉仕した経験をもっていた。ミンネクトはテーベで王に登用された人物である。
治世九年、ツタンカーメン十八歳、アンケセナーメン二十歳のとき、王は謎の死をとげた。アンケセナーメンはまたしても未亡人となった。
ツタンカーメンの王墓は一九二二年にハワード・カーターによって発見され、ついで一九二五年に王のミイラが発見されている。その後、ミイラについてのレントゲン検査を含む科学的調査が幾度か行われたにもかかわらず、王の死因を確定できる証拠は得られていない。一般に考えられている説は三つである。
第一は病死説。アメンホテプ三世の子はすべて病身で、長頭水腫症を患っていた。第一王子トトメスは幼少で死に、第二王子アケナトンも三十代で死に、第三王子セメンクカラも(謀殺ではあったが)健康な身体の持主ではなかった。第四王子ツタンカーメンも、同体質で、若くして病死することとなった……。
第二は事故死説。ツタンカーメンは大のスポーツ愛好者であった。獅子狩りや鰐狩りに頻繁に出かけた。そのさい、落馬あるいは野獣の逆襲によって死を招いた。ミイラの左頬の耳朶のすぐ前の凹みは、その傷である……。
第三は謀殺説。王位と権力を狙う陰謀は三千年のエジプト王朝史を通じて絶えたことはない。アメン祭司団あるいは別の系統の野心家が、王を謀殺した。ミイラの左耳朶の前の凹みはそれと関係がある……。
この謀殺説について、最近、フランスの古代エジプト研究者、ジャン・ルイ・ベルナールは王を暗殺したのは王妃アンケセナーメンその人である、と述べている。いかにして? いかなる事情で? ベルナールの、事件の日についての記述は次のとおりである。
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ツタンカーメンは彼の宮殿で死んだ。彼は親愛なる家族のまっただ中で、オリエント流の精密な共謀と洗練された演出ののち、慎重に殺されたのである。たぶん事前に薬を飲まされて、彼は横向きになって眠っていた。そのとき、運命の一撃を彼は受けた。衝撃のため、薬は作用を停止したであろうか。王は、頸に血を流しながら起き上ったようにみえる。たぶん、無意識の中に生れた悪夢または何がしかの予感が彼を眼覚めさせたのだ。しかし、いささか遅かった! ついで、典型的にエジプト風の反応がおきた。暗殺されなくてはならない人間は、死ぬ前に、暗殺者の顔を見るために全力をしぼらねばならない。死んだあと、亡霊となってその人物に取り憑くために。
だが、ツタンカーメンがベッドの上に起き直り、断末魔の苦悩にもかかわらず、暗殺者を見据えたとき、彼は手に金槌をもった人物を見た。だれか?
われわれが答えよう。彼の妻である。
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(画像省略)
ベルナールは、アンケセナーメンが夫を愛していたことに、いささかも疑いをはさんでいない。しかし、政治上・宗教上の理由(いわゆる国家的事由《レゾン・デタ》)が、その個人的感情を越えたというのである。
ベルナールのいう政治上・宗教上の理由というのはこうである――。アトン信仰の力はなおも強く、アトン信仰の直系の娘であるアンケセナーメンは、表向きはアメン信仰に服したようにみせながら、実はアトン信仰の復権と支配を願うグループと結びついていた。そこで、今やアメン信仰の手先となった王を暗殺することが、政治上・宗教上の、彼女に課せられた義務となった。
問題の、ミイラの左耳朶の前の窪みについては、ミイラ発見直後にこれを調査したエジプト大学解剖学教授、ダグラス・E・デリーの報告が最初のもので、そこには次のように書いてある。
「左頬には、耳朶のすぐ前に、まるい凹みがあり、それを皮膚が覆い、かさぶたに似ている。凹みの縁はわずかに盛りあがっており、そのまわりの皮膚は変色している。この傷害がいかなる性質のものであるかは分らない」
私としては「アンケセナーメン犯人説は認めがたい。死因は謎である」と記すにとどめよう。たしかなことは、王の死が突然であったということである。そのことは、ツタンカーメンの墓が王墓として異例に小さいものであったことに示されている。エジプトの王は即位すると、早くから王墓を用意するのが普通であるのに、その形跡はなく、慌しく既製の小さな墓が王墓に転用されたのである。そして、死からミイラ化完了まで七〇日間の猶予があるので、その間に墓と葬祭用品と副葬品の整備が行われたのである。
実際、小さな墓と豪華な葬祭用品・副葬品の対照は、ツタンカーメン王墓における一大特徴である。墓は本来、臣アイのものなのであった。
そのレイアウトは、羨道《せんどう》、前室、副室、玄室、宝物室から成り、サイズは、前室が幅八メートル、奥行三・六メートル、副室が幅四メートルと奥行二・九メートル、玄室が幅六・四メートルと奥行四・〇三メートル、宝物室が幅四メートルと奥行三・五メートルという質素なものである。それでも全室の壁面装飾などとてもできず、玄室の二壁面だけをやっと玄室らしく飾ることができたという慌しさであった。
副葬品は、王がアマルナ時代から用いた戦車、家具、調度品、装身具をはじめ、多数の新作のもので構成された。新作のものは、神像、護符、厨子、ウシャブティ(あの世で奉仕する者をあらわす小彫像)、食糧容器、装身具などであった。副葬品の総数は二〇〇〇点を越えた。
七〇日間で達成された作品として最もおどろくべきものは、王のミイラをおさめる八重の装置である。
一番外側に木製金張りの大型厨子、次がその中にはいる大きさの大型厨子、三番目も、二番目の中にはいる大型厨子、そして四番目の厨子。ついで、五番目は石棺、六番目から人型棺となる。外側の人型棺は木製金張り、その中にはいる人型棺も木製金張り。八番目すなわち王自身(ミイラ)をおさめる人型棺は純金製であった。そして、その中にはいる王の顔には純金のマスクをかぶせた。これらすべての作品に精巧な図案と祈祷の文字が刻まれた。唯一の欠陥は、厨子の一部が寸法ちがいで歪んでいたこと、人型棺の寸法に不揃いがあったこと、である。
矢車菊のことば[#「矢車菊のことば」はゴシック体]
玄室の壁面にはアイが祭司となってツタンカーメンの「開口の儀」を執行している図が描かれた。「開口の儀」というのは死者が口に生命の息を吹きこんでもらう儀式であり、これなくしては死者は「あの世の永生」を実現できないのである。
この図が示すように、アイが葬儀委員長となって、アメン祭司団の司祭によって、王の葬儀は執り行われたのである。時は四月であった。王妃アンケセナーメンはもちろん、葬儀の最後の段階まで加わった。
黄金のマスクをつけた夫のミイラに別れを告げた王妃は、純金人型棺の蓋がしまると、その上に矢車菊を置いた。第二の人型棺の蓋が置かれたときも、彼女は矢車菊を置いた。第三の人型棺の蓋のときも。そして、石棺の蓋がしめられたときも、王墓発掘者のカーターはこの矢車菊に感動したが、私もまた王妃の心情を思う。
「さようなら、ツタンカーメン王! 私はこれからどうなるでしょうか。私を守って下さい。そして、あの娘たちも守って下さい」
これが、アンケセナーメンの矢車菊のことばであった。
「あの娘たち」――それは早産して死んだ彼女の二人の子のことである。
アンケセナーメンの母ネフェルティティは多産のひとであった。ネフェルティティは六人の娘を(娘だけを)生んでいる。アンケセナーメンはその三番目の娘であって、母の体質を受けつげば多産となっても不思議ではなかった。
しかし、彼女は二人の女児を(女児だけを)生んだものの、早産で死なれたのであった。そして、二人の早産児は、ミイラ状にして、父の埋葬のさい、父の墓におさめられたのであった。
出産がいつであったかは分らない。双生児ではなく、別々に生れたことは確かである。
王の死の数年前に、たぶん王が十五歳をすぎたころに(十五歳は体力と男性的欲望がそろって生殖能力を発揮し始める年齢である)、アンケセナーメンは第一児を出産した。しかし早産で死んだので、王夫妻はこれをミイラ化して、王宮内に安置した。一年後、あるいは二年後に、第二児が生れたものの、同じ結末だったので、同じように安置した。そして、王が死んだとき、アンケセナーメンがこれを王墓に移したというわけである。
早産児が古代エジプトの墓で発見された例は、このほかにはない。アンケセナーメンがいかにわが子を愛していたかを、それは語っている。
二人の早産児は名前をもたなかった。二人は家庭風景のレリーフにあらわれることもなく、記録に書きとどめられるという幸せももたなかった。
二人の早産女児のことが明らかになったのは、ハワード・カーターのツタンカーメン王墓発掘によってである。それはどういう状態であったのか。発掘協力者の一人であるエジプト大学解剖学教授、ダグラス・E・デリーの医学所見に語ってもらうことにする。(この早産児が、その後行方不明になっているので、なおのことこの「所見」は重要である。発掘当時、二胎児はエジプト大学医学部の保管するところとなったが、その後、行方不明になったのである。エジプトの独立、その後の第二次大戦という激動の中で、二胎児の管理が不完全になっていったからである)。
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(A) たぶん女性である早産児。遺体頭頂から踵《かかと》の先までの長さは二五・七五センチメートルである。
遺体はリンネル布によって入念に包まれていたが、リンネル布はハワード・カーター氏によって取りはずされた。腹部の切り口はなく、遺体保存法について示唆するものは何もない。
皮膚は灰色がかっており、非常にしなびており、こわれやすい。鎖骨、肋骨、肋骨部軟骨はすべてその皮膚を通してはっきりと見える。四肢では、皮膚は下に置かれた繊維の乾燥のために本来の豊かさを失い、ちぢんでヒダをなしていた。ここでも、両手の骨は明らかに識別される。
四肢は十分に伸ばされており、両手は大腿骨の上に置かれている。
眉または睫毛《まつげ》のしるしは何もない。瞼はほとんど閉されており、現在残っている両唇の間の開口部は、明らかに、乾燥によって生ずる各部位の収縮の一つである唇の収縮に伴う副次的な結果である。
頭には、絹のような外観を呈する美しい白っぽい髪がみられる。たぶん、生ぶ毛の残りである。
臍《へそ》の緒の一部は残っており、その長さは二一ミリメートルである。臍は今も低いところにある。
遺体の全般的な収縮を考慮してみれば、胎児の身長、眉と睫毛《まつげ》の欠如、瞼の状態から、生れたときの子供の子宮内年齢は五カ月を越えていることはあり得なかったと判断される。
(B) たぶん女性。頭頂から踵までの長さが三六・一センチメートルのこの子供もまた、早産児である。
皮膚の色も状態も、若いほうの胎児と全く同じである。きわめてこわれやすい状態にあるリンネル布包帯は、今もなお部分的に子供に付着している。
四肢は十分に伸ばされているが、こんどの場合には、両手は大腿骨のわきに、内転の位置で置かれている。
頭皮は、後頭部の非常に美しいいくらか下向きの毛を別として、毛髪からはなれている。しかし、毛髪のほとんどは、たぶん包帯と一緒に消え去った。眉は明確であり、わずかばかりの睫毛が残っていた。
両眼は広く開かれており、眼窩は詰めものなしで収縮した眼球だけをもっている。
前部|ひよめき《ヽヽヽヽ》を通して頭を開いたところ、頭蓋の窪みはリンネル布で詰めものされているのが発見された。リンネル布は、明らかに何か塩気のある物質にひたしたものであった。
臍。臍の緒のしるしは何もないが、収縮していない臍の穴の外観は、臍の緒が腹壁に接したところで切られ、取りのぞかれたこと、臍の緒が子供の生きていた時とちがったふうに干上ったものではないこと、を示唆する。
腹壁は鼠蹊帯《そけいたい》の真上の左がわで、それに平行している長さ一八ミリメートルの切り口によって切開されていた。切り口は樹脂の封印によって閉されていた。腹部の窪みは、何か塩気のある物質にひたしたリンネル布によって埋められていた。
爪は十分に生長しているようにみえる。しかし、柔かい繊維の収縮を考慮すると、爪は十分に発達していなかったということもあり得る。
頭の最長部は八四ミリメートルであり、幅は七三ミリメートルである。
胎児の長さと外見上の発育状況は、それが出生のときに約七カ月であったことを結論させるであろう。
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ピラミッドと盗掘[#「ピラミッドと盗掘」はゴシック体]
王の埋葬の話にもどる。副葬品には、アトン信仰を示す調度品と銘文が少からず含まれていた。
アトン信仰を邪教として断罪したアメン祭司団が、このようなアトン・アメン混合の王墓を認めたのはなぜであろうか。
その背景には、アトン神への愛着を今ももち、アメン祭司団に全面服従はしていない二人の実力者、アイとホレンヘブの存在があった。
墓の整備、副葬品の取りまとめという実際上の仕事に当ったのは財務管理官マヤと将軍ミンネクトである。二人は、六体の本彫王立像、天を向いて寝ている王の姿を示す小形の木彫像とその台を、墓室に奉納し、王の冥福を祈ることば、および、王と自分との関係を簡潔に、しかし深い情をこめて述べていることばを、それらの奉納品に記した。そのことばを読んでみよう。(左の文中のネブ・ケペル・ラアとは王の名である)。
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◇ミンネクトのことば
君主のために貢献した、まことのしもべ、国王の書記ミンネクト、その君主、オシリス神、上下エジプトの支配者、神の前に正しと裁かれし者、ネブ・ケペル・ラアのために、これをつくる。
国王の書記、将軍ミンネクト、その君主、オシリス神、国王、神の前にて正しと裁かれし者、ネブ・ケペル・ラアのために、これをつくる。
君主に愛されし下僕、将軍ミンネクト、その君主、オシリス神、国王、神の前にて正しと裁かれし者、ネブ・ケペル・ラアのために、これをつくる。
国王の右側にありて扇を奉持せし者、将軍ミンネクト、その国王、オシリス神、ネブ・ケペル・ラア、神のために正しと裁かれし者のために、これをつくる。
◇マヤのことば
国王ネブ・ケペル・ラアのために貢献せし下僕、財務管理官マヤ、これをつくる。
陛下のために貢献し、ただただ国王のために、終始、良いことをもとめて、すぐれたものを見出し、華麗な宮居において、立派な業をなせし下僕、永遠の宮居の建設作業管理官マヤ、これをつくる。
国王に貢献し、永遠の宮居にて立派な業をもとめし下僕、西方における建設作業の管理官、国王の寵愛をうけ、国王の命ぜられしことを行い、いかなるよこしまも許さざりしもの、国王の利益となることを心勇んでなすとき、その顔《かんばせ》よろこばしきもの、国王の書記、国王に愛されし財務管理官マヤ、これをつくる。
正しと裁かれし国王、ネブ・ケペル・ラアの語りしことば。天より降《くだ》りたまえ。わが母なるヌートよ。御身の翼をひろげて、われを庇護し、われをして御身のうちにある、滅ぶことなき星ならしめたまえ。イムセティ、ハピ、塗油の儀式をつかさどるアヌビス、ドゥアムテフ、ケペ・スネウェフ、ホルス、オシリスとともに栄誉を分ち、与えたまえ。
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ミンネクトとマヤは、このように、王の生前にも、王の死後にも誠実に王に奉仕した人物であった。ツタンカーメン王墓が、奇跡的に、ほとんど無傷で発見されることとなるのは、この二人の奉仕のせいである。
ツタンカーメン王墓が「奇跡的に」ほとんど無傷で発見されたことを今日の人びとは感動的に語る。しかし、なぜ「奇跡的」であり得たかの真剣な考察を、不思議なことに、だれもしていない。
その「奇跡」の話をする前に、いかに歴代の王の墓が墓荒しに襲われたかの事情を見ることにする。そういう事情を知らなくては「ツタンカーメン王墓の奇跡」の度合いが理解できないであろうから。
王墓荒しは早くもピラミッド時代から始まっている。
第四王朝の始祖スネフル王は三つのピラミッドを築いた唯一のファラオであり、彼はエジプトの威信をヌビアとアジアにまで拡げた最初の人物である。彼の妃はヘテプヘレス。
三つのピラミッドというのは、メイドムのピラミッド、ダハシュールのピラミッド、屈折ピラミッドであり、メイドムのピラミッドは最初の純正ピラミッド(四角錐)として、屈折ピラミッドは二重勾配をもつ唯一のピラミッドとして特別の地位を占めている。
エジプト人は死後もつづく世界を信じており、そのためには遺骸を完全に保存することが必要であった。はじめは簡単であった墓が、この信仰の発展とともに堅牢で威厳のある建造物に移っていった。こうして第三王朝のジョセル王の時に、はじめて石造の大建築物(高さ六〇メートル)が、階段ピラミッドの王墓として出現した。それが、さらに発展して、第四王朝のスネフル王のピラミッドになったという次第である。
そのスネフル王は、三つのピラミッド造営ということが示すように、伸びる国力の上に立って大権をにぎる大王であった。当然に王室墓地の保護管理は厳重であった。王はピラミッドの下に埋葬され、王妃ヘテプヘレスの墓はダハシュールのピラミッドのわきに築かれ、王妃はそこに埋葬された。
次の王、クフ王の時代に、早くもヘテプヘレス王妃の墓が荒された。クフ王というのは、あのギザの大ピラミッドを築いた王である。当然、この時代も王室墓地の保護管理は厳重であった。それにもかかわらず、ヘテプヘレスの墓が荒されたのであった。これを知った役人は、王の怒りを怖れて、それを知らせなかった。そして、クフ王の大ピラミッドの建造地のすぐわきに、新たに竪穴墓を作って再埋葬した。(今世紀にはいって、アメリカの調査隊がこれを発見した。残存したヘテプヘレスの宝物が、こうして現代人の前にあらわれた)。
クフ王の側近は、この墓荒しの出来ごとに愕然とした。「ピラミッドも安全ではない」と考えた彼らは、クフ王のピラミッドを最も複雑な構造とするように設計した。現代人を神秘的な解釈にまで誘う内部構造がこうして生れた。
しかし、それでも安全ではなかった。堅固で複雑なピラミッドも、墓盗人の執念と巧妙さには勝てなかった。第六王朝末期に、王権が衰えたとき、すべてのピラミッドは荒された。墓盗人からすれば、地上に高くピラミッドがそびえていることは、「ここに王の宝物がどっさりはいっているよ。さあ、おいで」と招いているようなものであった。
ピラミッド時代のあと混乱期(第一中間期)を経て生れた中王国時代には、中型のピラミッドが築かれた。この時代の王は、墓としてのピラミッドが安全でないことを、実際に見て知っていたのであるが、なおも墓としてピラミッド形を選んだ。
彼らの考えかたはこうであった。「ピラミッド時代の宗教がよくなかった。宗教が、王と貴族だけのもので、民衆のものでなかったということがいけなかった。あれでは、民衆が王に反感をもつのは自然の成りゆきだった」。そこで彼らは宗教を民衆にも及ぼす工夫をした。石棺とピラミッド・テキストによって永遠の生を得るという王と貴族のみの葬制に批判が加えられた。
こうして、ピラミッド時代には無かった祈祷経文、コフィン・テキスト(棺柩文)が生れ、だれでも使えるようにした。棺は木造のもので簡便に作れるようにした。さあ、これでよし、と……。
そうではなかった。墓は荒され、ピラミッドは開かれ、エジプトヘ潜入した外国人勢力(ヒクソス)は一部のエジプト人と結んで、王権をたおし、ヒクソス時代を作った。第二中間期と呼ばれるものが、これである。「ピラミッドも墓も必ず荒される」と観念したヒクソスの諸王は(エジプト人との信仰上のちがいもあってだが)ついに墓らしい墓を築かなかった。(だから、現代の考古学者はヒクソスの墓を発見できない)。
第二中間期のあと、ヒクソスを駆逐したテーベのエジプト人指導者が第十八王朝を開き、ここに輝かしい政治・経済・文化の時代、すなわち新王国時代がはじまった。王墓についての革命的な思想が生れるのは、この第十八王朝においてである。
王家の谷[#「王家の谷」はゴシック体]
初代の王アフメス一世は、戦乱収拾時であったため、慣習的な王墓を造っただけであったが、二代目の王アメンホテプ一世は、神殿のそばに墓を置く伝統とは全く違うレイアウトの墓をつくった。それは、テーベ郊外のドラ・アブ・エル・ネガの岡にある、目立たぬよう、石の下にかくした墓であった。さらに、墓そのものの設計も入念で、墓道の奥に玄室らしくみせた偽りの竪坑をつくった。そこで墓が終るように見せて、実はずっと奥に真の玄室を設けたのである。
神殿のそばに墓を置く、というよりは墓のそばに神殿を置くというピラミッド時代からの伝統的レイアウトも、同じ王が打破するわけだが、伝統的レイアウトはどんなものかというと――。
ピラミッドは、死者の永生のために、永遠に死者のミイラを保護するための装置として生れ、そのピラミッドのすぐそばに必ず神殿(葬祭殿)が築かれた。この神殿で、祈祷行事、食糧奉納の行事が毎日三回(朝、昼、晩)おこなわれるのである。死者はこの食糧と祈祷によって、永生を保つことができる、というわけである。この思想と建築上のレイアウトは一千年以上もつづいてきたのであった。
ところが、第十八王朝のアメンホテプ一世は、墓と神殿を引きはなし、墓を「隠れた場所」に設けたのである。墓制についての革命的な思想がここに生れた。「王墓は、永存するためには目立ってはいけない。人眼の届かぬところに造営しなくてはならない。そうでなければ、墓荒しに抵抗できるものではない」。これが彼の考えなのである。豪華に自己の墓をピラミッドとして築くのは、王としては十分に権勢欲と自尊心を満足させるが、それは墓盗人に対しては無力である。このことを、長い王墓掠奪の歴史を見たアメンホテプ一世は知ったのであった。
死後ひっそりと隠れる、というのは王の自尊心にも威厳欲にもふさわしくなかった。しかし、王墓の永続(すなわち王の永続)のためには、その苦痛も耐えなくてはならない。アメンホテプ一世はこう考えたのである。
次の王トトメス一世は、この考えかたを前進させた。アメンホテプ一世の墓は、地下にあるとはいえ、岡に位置している。もっと徹底的に隠れる必要がある。
こうして、トトメス一世の発見した場所は、テーベ西岸の、岩山にかこまれた谷の一角であった。彼はその一番奥に、彼の墓を築いた。これが王家の谷のはじまりである。
王墓を隠れた場所に築くとしても、王墓建造に関与する職人の口をどう封ずるかという問題が当然に起った。王室は職人の「閉鎖された村」を作ることによってこの問題を処理した。場所はテーベ西岸の一角、デイル・エル・メディナという地点である。職人は各分野における熟練者であった。彼らは外部との接触を絶たれて暮した。しかし、それは獄舎であったのではない。家族と一緒にくらし、給与も悪くはなかった。同時に、彼らは仕事についてプライドをもっていた。王の「永遠の家」を造る者としてのプライドである。秘密保持は、彼らの隔離状況と、彼らの義務と、彼らのプライドとによって、保たれたのである。
王墓築造の責任者は首席監督官イネニであった。彼は王墓の一角に自伝を残し、こう記した。
「余は陛下の竪穴墳墓を掘る作業を監督した。余ただひとりで、いかなる人も見ず、いかなる人も聞かぬようにして」
この表現から、作業員は戦争捕虜であって、彼らは工事終了とともに殺された、と考える者がある。(ハワード・カーターもこういう推定をした)。しかし、作業員は熟練を要し、不意に思い立って養成できるものではない。デイル・エル・メディナの職人村に思いを致さねばならない。職人村の遺跡は今もかなりよく残っていて、最古の物証がトトメス一世であるということは、「工事後の殺害」という方法が存在しなかったことを物語るのである。
トトメス一世以降の王はすべて、王墓築造のさいに彼にならった。トトメス一世の選んだ谷は王墓の谷となった。これが、現代のわれわれが「王家の谷」と呼ぶところのものである。
「隠された場所」であったはずの王家の谷といえども、墓盗人の手から免れることはできなかった。第二十王朝に至って墓荒しは破局的となった。この王朝のラムセス九世時代の、すさまじい墓荒しの裁判記録がそれを語っている。一味は八人から成り、そのうち五人の名は分っている。石切工ハピ、職人イラメン、農夫アメネブヘブ、水運搬人ケムウエセ、黒人奴隷エヘネフェの五人である。彼らは岩の中にトンネルを掘って王と王妃の間に達したのである。
被告人は墓荒しの模様を次のように述べている。
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わたしたちは、すべてを突き破りました。わたしたちは、王妃が生けるがごとく休んでいるのを発見しました。わたしたちは、いくつもの棺を開き、包んでいる覆いを開きました。
わたしたちはこの王様の堂々たるミイラを発見しました。その胸には護符と黄金装飾品の数多い品目表がありました。ミイラの頭は黄金のマスクをかぶっていました。この王様の堂々たるミイラには、くまなく黄金がかぶせてありました。その覆いは、内側も外側も、黄金と銅で細工してありました。また、あらゆる高価な石で象眼してありました。
わたしたちはこの王様の堂々たるミイラの上に見つけた黄金を、胸の上にある護符と装飾品を、ミイラを包んでいる覆いを、剥ぎとりました。
わたしたちは王様の妃が同じようになっているのを発見しました。わたしたちは彼らの覆いに火をつけました。わたしたちは、彼らの調度品を盗みました。それらは、彼らと一緒に見つかったものでありまして、黄金、銀、青銅の器でありました。この二つの王様の上に、つまり彼らのミイラの上に見つけた黄金、護符、装飾品、覆いを、わたしたちは八等分いたしました。
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王家の谷の墓盗人の活動の第一段階は、もちろん、墓地護衛官を買収することであった。第一に、墓の位置と構造を彼は知っているから。次に、一夜で仕事を終えることはできないために、護衛官の継続的な協力が必要であったから。護衛官を殺すのは、一夜で仕事を完了できる簡単な墓の場合は別として、墓盗人の採らざるところであった。
事態はいよいよ悪化し、第二十一王朝になると、ついに移葬すなわち再埋葬と集合葬の時代となる。個々の王墓、王妃墓を安全管理することは絶望的となったため、王家としては、先祖のミイラを別の場所にまとめて隠すという以外に対策はなかったのである。アフメス、アメンホテプ一世(墓制についての革命的な思想とレイアウトの主)、トトメス二世、ラムセス二世、ラムセス三世などの諸王がこうして移葬された。セティ一世は王妃インハピの墓に移葬された。さらに、一三人の王のミイラがアメンホテプ二世の墓へ移葬された。
前七世紀の第二十六王朝のころ、ピラミッドをはじめとして王墓はすべて荒されたままだった。無傷のものはなかった。復古精神のさかんなこの王朝は、「これはあんまりだ」と嘆いて補修に乗りだした。しかし、ピラミッドについての補修をするのがせいぜいだった。
そして、荒れたまま時がすぎ、十九世紀の考古学者がテーベの王墓に手をつけたとき、集合葬の隠し場にある憐れなミイラを見て驚くことになる。同時に、彼らは、古代の墓荒しのあと、現代に至るまで、その仕事がつづいていたことに驚く。
十九世紀末から二十世紀はじめにかけての考古学者の活動は目ざましかったが、彼らはどこへ行っても、先行した墓盗人の所業を必ず見るのであった。五千年の墓荒し!
カーターが発見した日[#「カーターが発見した日」はゴシック体]
テーベについてみれば、ここで長期に発掘したアメリカのセオドア・デーヴィスは、一九一四年に「もはや王家の谷において発見されるものは何もない」と断言し、発掘権を返上した。ある竪坑でツタンカーメン関係の遺物を数点発見した彼は、これがツタンカーメン王の埋葬所であると、断定した。
そのとき、これを受けいれずに、ツタンカーメン王墓の発見を期待して仕事にかかったのが、イギリスのハワード・カーターである。出資者は同じイギリスの貴族、カーナーヴォン。不毛と嘲笑と苦悩の六年ののち、ツタンカーメン王墓は、ほとんど無傷で、一九二二年十一月四日に発見される。この発見・発掘の物語は、幾度聞いても、心躍らせるものをもっている。しかし、いま、そのことに深入りすると話はひろがりすぎる。それはやめよう。
そうはいっても、一九二二年十一月二十六日、前室の壁に穴をあけて王墓の中身を初めて見た日の、カーターの記述は示しておきたい。カーターが「もっとも輝かしい日、わたしが経験した日々のうちでもっともすばらしい日、そして再びそれに類する日を将来経験できるとは、もちろん決して期待できないような日」と形容したその日、その時のことを。
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階段、入口、通路、扉という配置具合は、当然のことながら、現在の発掘現場のすぐ近くでデーヴィスが見つけたアケナトンとチイの遺物隠匿所のことを思い出させた。そして、ツタンカーメンの印象が同じようにそこにあらわれた事実はまた、わたしたちの推理が正しいことを示すほとんど確かな証拠であるかのように見えた。そこに封印された扉があった。そのうしろには、問いに対する答えがあるのだ。
ゆっくりと(見守るわたしにとって、それは法外にゆっくりと思われた)、扉の下のほうの部分を覆っている通路のガラクタが除かれた。そして、ついに扉の全体がわたしたちの前にあった。決定的瞬間が来たのである。
震える手で、わたしは左側上部の一角に小さな穴をあけた。そこに闇があった。そして、検査用の鉄棒が届く範囲には、空間があった。そのことは、向う側が空っぽであること、わたしたちが清掃したばかりの通路とちがって物で一杯になっているのではないこと、を示していた。あり得る危険なガスに対する予防措置として、蝋燭による検査が行われた。ついで、穴を少しばかりひろげて、わたしは蝋燭をさしこみ、じっと覗きこんだ。カーナーヴォン伯、イヴリン嬢およびキャリンダーは判決をきくように、わたしのわきに心配して立っていた。
はじめ、わたしには何も見えなかった。室の中から逃げてくる熱い空気が蝋燭の火をゆらゆらさせた。しかし、いま、眼がなれてゆくにつれて、室の中の細部が、ゆっくりと、霧の中から浮かびあがってきた。かずかずの奇妙な動物、彫像、黄金。いたるところに黄金のきらめきがあった。
しばらくのあいだ、わたしは驚きに打たれて沈黙していた。そのしばらくのあいだは、わきに立っている他の人たちにとっては、永遠の時間のように感じられたにちがいない。カーナーヴォン伯が、もうこれ以上は耐えることができなくなって、心配そうに、「何か見えるかね」とたずねたとき、わたしには「はい、すばらしいものが」という言葉を発するのが精一杯だった。
[#ここで字下げ終わり]
問題に戻る。私が問題にしているのは、これほど長く、これほど執拗な墓荒しにもかかわらず、ツタンカーメン王墓が、これだけが、なぜ「奇跡」的に無傷で残り得たか、ということである。
王墓発見者のカーターは、『ツタンカーメン発掘記』の中で、この問題にもちろん言及した。しかし、きわめて、あっさりと、である。そこにはこう書いてある。
「ツタンカーメンは幸運にも後代の容赦ない墓荒しを免れた。ある理由から、墓が見失われたからである。墓は谷の非常に低い部分に位置していたので、豪雨が一回ふるだけで、その入口のすべてのしるしを洗い流したであろう。また、墓が安全であったことは、後代のある王の墓を掘るために使われた労働者のための多くの小屋がその墓の真上につくられたという事実に負うているかもしれない」
これは説得力のあるものとは思われない。カーター以後の、ツタンカーメン王墓に触れる学者、著述家も、この問題について説得力のある見解を出していない。
しかし、私は将軍ミンネクトと財務官マヤの墓室奉納品に注目し、そこに答えがあると考える。
臣下からのこの異例の墓室奉納品に記してある二人の心情と経歴については、王の埋葬のくだりですでに記したので、ここでは繰返すのをやめる。王と特別の関係をもつこの二人に関連して、私は次のような状況を考えるのである。
マヤはツタンカーメン王墓造営の責任者であり、埋葬封印後も、その保護管理についての責任者であった。ところが、王墓封印後数年にして一回の盗掘があった。現場の役人がもちろん関与していた。マヤがそれを修復してから、数年後に、第二回の盗掘に襲われた。いずれも実害は軽微であったが、事態は楽観を許さなかった。
マヤは、盟友である将軍ミンネクトに協力を要請した。現場の警備隊と担当職員は他のポストに移され、ミンネクトの選んだ近衛兵による警備隊がこれに代った。警備は完璧となった。
この二人の行動の背後には、二人の最高実力者、すなわち宰相アイと軍司令官ホレンヘブがいた。ツタンカーメンの死後、アイの王位時代、ついでホレンヘブの王位時代を迎えることとなるが、この間、マヤは引きつづいて王室財務管理官(王墓造営と管理の仕事も担当する)となり、ツタンカーメン王墓を警備しつづける。王との個人的関係があって、彼は義務以上に入念に、王墓の安全をはかった。
こうしてツタンカーメンの死から四十年近くのあいだ、マヤの努力によって、ツタンカーメン王墓は荒されなかった。そのさい、広大な規模の他の王墓とちがって、この墓が段ちがいに小さい王墓であったということも、警備上および秘密保持上の利点であった。マヤが引退したとき、王墓の位置を知っているものはマヤだけであった。もはや警備の対象からも消え、忘れられ、地下に埋もれた王墓は、誰に知られることもなく、そのまま、ひっそりと、安息をつづけた……。
ツタンカーメン王墓の「奇跡」の事情を、私はこのように考えるのである。
ハッティ王国への密使[#「ハッティ王国への密使」はゴシック体]
話をツタンカーメンの死のときに戻す。王妃アンケセナーメンの生涯は、ツタンカーメンの死とともに終ったのではないから。
ツタンカーメンの死のとき、アンケセナーメンは二十歳。最も魅力的な年齢であった。エジプトの法では、彼女と結婚する者が正統の王となる。自薦他薦の候補者がひしめいた。
当然に、最高実力者の動きが重要となる。ホレンヘブは、アイが王位に即くことを、アンケセナーメンとアイに対して助言し、かねてからその気になっていたアイは自ら、直接に、アンケセナーメンに求婚する。王家の血統を継ぐ女性と結婚することによって、非王族の者は、正しい王位継承者となることができるからである。
二十歳の未亡人に求婚したとき、アイは六十歳を越えていた。二人が祖父と孫娘の関係にあることは、現代人が考えるような支障とはならなかった(エジプト王室では、しばしば父と娘が結婚する)が、アンケセナーメンはこの老人を好まなかった。「七〇日の猶予を下さい」と未亡人は答えた。死んだ夫の埋葬の日まで、エジプト葬祭の法によって、七〇日の時間があるからだった。当然に彼女は、お気にいりの側近と相談した。側近にとっても、新しい王がだれになるかは自分たちの運命にも関係する重大事項であった。
アンケセナーメンがとった行動は予想もつかないことであった。彼女は、側近の協力を得て、何と、北方の大国、 ハッティ王国(俗にヒッタイト王国)の国王シュッピルリウマシュに密使を送り、信書を届けさせたのである。この国の都はボガズキョイにあった。
信書にはこう記してあった。
「わたしの夫は死にました。わたしは、あなたが幾人もの成人した御子息をおもちであるということを聞き及んでおります。御子息の中の一人をわたしのところへおくって下さい。わたしは、その人を夫といたします。その人は、エジプトを支配する王となります」
ハッティの国王は顧問官会議を開いてこの申し出を検討した。エジプト側に何か邪《よこしま》な意図がかくされているかもしれない。何かトリックがあるのではないか。ほんとに王は死んだのか。ほんとに、王子はいないのか。……そういう議論が会議で出た。そこで、王は、真相を確める使者を出すことにした。
ハッティ王国の使者を引見したアンケセナーメンは、ハッティ国王の疑惑をいたく嘆いた。彼女は信書をその使者に託した。
その文面は次のとおりであった。
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なぜ陛下は「エジプト人はわたしを欺こうとしている」とお考えになるのでしょうか。もし私に息子がありますならば、どうして、私自身にとっても私の国にとっても屈辱的であるような手紙を、陛下にお届けしましょうか。陛下は、私を信用なさっておらず、その旨をはっきりと述べております。
私の夫は死んだのでございます。そして、私は息子を一人ももっていないのでございます。では、私は、私の奉仕者の中の一人を選び、その人を夫とすべきでありましょうか。私は、他のいかなる国に対しても信書を送っておりません。私は陛下にのみ、信書をお届けしたのでございます。
人びとの語るところによれば、陛下は沢山の御子息をおもちと伺います。その中の一人を、私のところへおくって下さい。陛下の御子息は私の夫となり、エジプトの王となるのでございます。
[#ここで字下げ終わり]
ハッティ国王はこの信書を見て、信用することにした。彼はエジプトヘ、王子の一人、ザンナンザをおくることにした。王子は、警護の部隊と土産物の列をつれて出発したが、王子の一行はエジプト到着以前に消えてしまった。どこへ? そして、なぜ?
しかしそれより前に、アンケセナーメンはなぜハッティ王国の王子を望んだのか、という問題がある。
すでに見たように、ハッティ王国は、アケナトンの時代に膨張をはじめ、アジアのエジプト領を奪っていた。そして、ツタンカーメンの時代に、ホレンヘブの努力によって幾らか取り戻したものの、ハッティ王国の威勢は依然として大きかった。そのとき、アンケセナーメンは、国際情報にくわしい側近の助言もあって、外国の王女と結婚してエジプトの安全と国際平和を実現した先祖の例(近い例ではアメンホテプ三世)を想起した。それは政治的次元での判断である。
次は彼女の個人的な次元での好悪の問題。ハッティ国王にあてた第二の手紙の中に「私は、私の奉仕者の中の一人を選び、その人を夫とすべきでありましょうか」とあるのは、事を明快に説明している。彼女は老人アイに言い寄られ、うんざりしていたのである。二十歳の彼女は若い夫を欲したのである。
そして、ハッティ王国の王子がエジプトに着かなかったことには、嫌われたアイが関与していたのである。アンケセナーメンの秘かな計画を知ったアイは、ホレンヘブの軍を使って、エジプト領へはいる前に、ハッティの王子とその一行を一人残らず始末したのである。エジプトの軍が関与したことをハッティ王国へ戻って報告する者は、だから、一人もいなかった。
もう、アンケセナーメンには出口はなかった。彼女はアイとの結婚を受けいれた。こうして、ツタンカーメンの埋葬のさい、玄室の壁画に、アイは、冥界の王オシリスの姿となった死せるツタンカーメンの前に、生きた王の姿をした自分自身を描かせた。その図で、アイは、死せる王に「開口の儀」(死者に永遠の生を吹きこむ儀式)を施している。
アイの治世は五年でおわった。アイの死によってである。アンケセナーメンは、三たび未亡人となった。時に、彼女は二十五歳。
王位継承問題は、こんどは彼女を軸として動かなかった。アイの死後、最高の実力者となった軍司令官ホレンヘブが、ネフェルティティの妹、ムトネジメと結婚して王位に即いたのである。王位の血をひかない彼は、王家の血縁者(アンケセナーメンにとっては叔母)と結婚することによって、王位の略奪者ではなく、正統な王位継承者であると主張することができたのである。
このときから、アンケセナーメンは公式の舞台から消えた。そして、いつ、どこで死んだかも分らない。
ホレンヘブは一般にアトン神の記念物を破壊した人物とされている。しかし、記念物の入念な検討によって、スイスのエジプト学者(ジュネーブ大学教授)ロベール・アリは、通説を打破し、アマルナをはじめ各地のアトン神の記念物を破壊したのは、のちの、第十九王朝のセティ一世とラムセス二世であることを証明した。私は証明力のあるこの説にくみする。ホレンヘブは粗野な軍人ではなく、均衡のとれた行政官だったのである。
彼はアマルナ時代とアケナトン一家に、つねに愛着をいだいていた。ネフェルティティの妹と結婚したのも、王位の正統性を得るための手段という即物的な事由のほかに、アケナトン一家への愛着という心情作用が働いていたのである。ツタンカーメンの死後、アンケセナーメンに対して冷淡になったのは、彼女が事実上のエジプトの敵国(まだ正面衝突はしていない)ハッティ王国の王子との結婚を考えたからである。
アンケセナーメンのミイラは、まだ見付かっていない。
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ビ ル キ ス 知恵を求めたシバの女王[#「 知恵を求めたシバの女王」はゴシック体]
乳香と没薬の贈物[#「乳香と没薬の贈物」はゴシック体]
これまでの各章は、エジプトを舞台とする話であった。こんどは、アラビア半島とパレスチナが舞台となる。時代は紀元前十世紀。エジプトは第二十一王朝の時代にある。
シバの女王が著名な存在となったのは、エルサレムにソロモン王を訪問し、そのことが旧約聖書で数カ所にわたって記述されたからである。『列王紀』上第十章はこう書いている。
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シバの女王は主の名にかかわるソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようとたずねてきた。彼女は多くの従者を連れ、香料と、たくさんの金と宝石とをらくだに負わせてエルサレムにきた。彼女はソロモンのもとにきて、その心にあることをことごとく彼に告げたが、ソロモンはそのすべての問に答えた。王が知らないで彼女に説明のできないことは一つもなかった。シバの女王はソロモンのもろもろの知恵と、ソロモンが建てた宮殿、その食卓の食物と、列座の家来たちと、その侍臣たちの伺候ぶり、彼らの服装と、彼の給仕たち、および彼が主の宮でささげる燔祭《はんさい》を見て、全く気を奪われてしまった。
彼女は王に言った、「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたことは真実でありました。しかしわたしがきて、目に見るまでは、その言葉を信じませんでしたが、今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています。あなたの奥方《おくがた》たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞く家来たちはさいわいです。あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをイスラエルの位にのぼらせられました。主は永久にイスラエルを愛せられるゆえ、あなたを王として公道と正義とを行わせられるのです」。そして彼女は金百二十タラントおよび多くの香料と宝石とを王に贈った。シバの女王がソロモン王に贈ったような多くの香料は再びこなかった。
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ここに鮮かに浮ぶ二つのことがある。一つはソロモンの知恵、次はシバの女王の香料である。その知恵ゆえに、二四〇〇キロの砂漠の道もいとわずに、駱駝の旅をつづけて、シバの女王はエルサレムを訪ねたのである。一方、彼女がもっていった香料の量たるや、空前にして絶後だったのである。
「シバの女王」とはいうまでもなくシバ王国の女王ということである。彼女の名はビルキス。シバ王国はアラビア半島西南部を占めるイェーメン(政治的には今日南北イェーメンに分れている)に栄えた国である。
何によって栄えたかといえば、武によってではない。もっぱら香料の産出国として栄えたのである。そういう国の女王であったがゆえに、空前絶後の香料の贈呈でソロモン王に感銘を与えたのである。
古代社会における香料の重要性は今日の石油にも比ぶべきものであった。したがって、シバ王国は、今日のアラブの産油国がもっているような位置を占めていた。(ただし、今日のイェーメンは、アラビア半島では例外的な非産油国である)。
香料は何よりも信仰行事用の必需品であった。香をたくことは何よりも神意にかなうことであり、神意にかなうことは、王家と国家に恵みを受けることとなるのである。香料はまた薬物としての機能ももっていて、珍重された。さらに、化粧用品としての役割もあった。アラビア半島の住民は強い体臭があったので、それを消す香りとして用いられたのである。(現代の香水がヨーロッパで発達したのも同様であって、ヨーロッパ人の強い体臭を消すためなのであった)。
シバ王国の産する香料は、乳香《にゆうこう》と没薬《もつやく》であった。乳香はカンラン科ニュウコウ属に属する乳香の木からとれる樹脂で芳香を発する。いっぽう没薬は、カンラン科ミルラ属に属するミルラの木からとれる樹脂で、これまた芳香を放つ。いずれも、火にかけていぶすことによって芳香が得られる。
たださえ魅力的であったビルキス女王が、全身に芳香をただよわせてソロモンに接したとき、その魅力が魔力のごとく抵抗しがたいものとなるのは当然であった。
しかし、ビルキス女王の話にはいる前に、彼女を引きよせたソロモン王の輝きについて語るのが自然であると思われる。女王を惹きつけた魅力の男性がどんな人物であったかをまず知るために。
多くの人は、ソロモンの名を聞いて、直ちに三つのことを思うはずである。まず「ソロモンの知恵」、ついで「ソロモンの神殿」、そして「ソロモンの栄華」を。
ユダヤ人がパレスチナ(カナンの地)にユダヤ教を軸とした共同体をもつようになったのは、神(ヤーウェ)のことばに従い、モーセが指導者となって、エジプト在留の同胞を率いて前十三世紀後半にエジプトを脱出してからのことである。(モーセ自身はパレスチナの地にはいる前に死を迎え、そのあとはヨシュアが指導者となって同胞をパレスチナまで導いた)。
パレスチナにはいった彼らは信仰を軸として十二種族連合というのを作った。それは国家にまでは進まなかった。彼らは原住民諸部族と、ついで戦闘的なペリシテ人と長く戦わねばならなかった。前十一世紀中葉に武人指導者サムエルが軍事的成果によって、ユダヤ人共同体にある安定をもたらし、次の指導者サウルはイスラエル王国を建て、自らその王となった。時に、サウル三十歳。
サウル王の治世はわずか二年でおわった。彼の死後、ダヴィデが王位に即いた(前一〇〇〇年)。彼は当初はパレスチナ南部のユダ王国の王であったが、やがて全イスラエルの王となった。この王が、ソロモンの父となる人物である。
ダヴィデの生涯は(したがってソロモンの誕生にまつわる話も)ロマンチックであり、また悲愴でもある。
ダヴィデはサウルの子でもなく一族の子でもなかった。彼はベトレヘムの羊飼いの息子であった。年ごろの若者となったとき、サウル王の面前で卓抜の武技をみせるという機会に恵まれ、それがキッカケで王のお気にいりの戦士となり、これからどんどん昇進栄達の道を進んだ。彼は武人であっただけでなく芸術家でもあった。彼は詩を作り、琴を弾いた。彼は、その琴の音によってサウル王の憂いを慰めること、しばしばであった。
彼の武勇はとどろき、サウル王の王女ミカルは彼に惚れこみ、王の反対を押しきって彼と結婚した。至るところで国民はダヴィデの武勇を讃え、王の威信がかげるほどであった。
王は怒り、ダヴィデを敵とみなした。危険を避けるため、ダヴィデは逃亡し、放浪の旅に出た。やがて、彼は、かつての敵ペリシテ人の軍にはいり、隊長となった。一方、サウル王と三人の王子は、ともに戦場で死をとげた。ダヴィデは放浪中にパレスチナの各部族と接触して、いつの日にか指導者となるための基礎を固めていたので、それがいま効果をあげることになった。
こうして、彼はイスラエル王国の第二代の王となった。そのとき、ペリシテ人はふたたび彼の敵となったが、ぺリシテ人の戦法を知りぬいている彼はみごとにそれを打ち破った。彼は終始、武の人であった。武によって国家に統一をもたらした人であった。彼は都を、はじめの七年間はヘブロンに置き、そのあとエルサレムに移した。
英雄色を好む、というのは両洋古今の共通現象である。武人英雄の彼は、好色の王としても豪の者であった。
彼は、自分の部将ウリアの妻バテシバが自宅で水浴しているのを、王宮のテラスから見て淫らな心を昂ぶらせた。ウリアは戦線にあった。王は彼女に王宮で奉仕するように誘い、彼女は通い妻となった。彼女は身ごもった。そのスキャンダルをかくすために、すなわちその子が夫の子であるという形をととのえるために、王は戦場のウリアに帰宅を命じた。ウリアは自分の家の前まで来たものの、「仲間が戦場で死に直面しているのに妻と寝るわけにはゆかぬ」といって、家の中へはいらず、そのまま戦場に引きかえし、戦陣の露と消えた。
そこで、バテシバは、密かなる通い妻ではなくなり、公然たる王の側室として王宮に住むこととなった。バテシバは四人の男子を生んだ。その末っ子がソロモンである。
ダヴィデ王は、正妃と側室とあわせて八人の妻をもっていた。(バテシバは八番目の妻)。八人の妻はそれぞれ幾人もの男子を生み、その合計は一九人に達した。それらの王子は当然に王位継承の競争者であり、そのチャンスを狙っていた。
ダヴィデが死の床にあったとき、長子アドニアが王位奪取の陰謀を仕組んだ。これがバテシバを通じてダヴィデの耳に達すると、彼は怒り、かねてからその抜群の知恵のゆえに特別に愛していた王子ソロモンを、直ちに王位に即けた。時にソロモン十八歳。前九六〇年のことである。ダヴィデは程なくこの世を去った。
ソロモンの知恵[#「ソロモンの知恵」はゴシック体]
ソロモン王の時代が開幕する。ソロモンの「知恵」と「神殿」と「栄華」の時代がはじまる。
ソロモンの「知恵」はまず結婚にあらわれた。彼は即位の直後に、エジプトから王女を妃として迎えた。当時エジプトは第二十一王朝のシアメン王に統治されていた。(王都はデルタ地帯のタニス)。その王の娘を彼は得たのである。
通説は、それを、エジプトとの関係を好くするためのソロモンの政略結婚とみる。それは単純すぎる。賢いソロモンは幼時からエジプト文化の偉大さを理解していた。そこで、エジプト文化への敬意あるいは憧れの結果として、エジプト王女を妃としたのである。エジプト王女が外国へ妃として出ることはまことに異例であり、それが実現したということは、ソロモンのエジプト王への挨拶が政治的以上のものを含んでいたことによるのである。
そのとき、ソロモンの知恵は大外交官として、大文化人として表現されたのであった。
エジプト王女は多くの土産と多くの随員とともにソロモンの王宮にはいった。多くの土産の中には、ゲゼルの町やパピルス(文献資料)も含まれていた。ゲゼルの町は、南パレスチナの要地で、エジプト王はこれを攻略して、娘の土産としたのである。
多くの随員の中には、書記や建築家も含まれていた。彼らはソロモンをかこむ文化的環境の重要部分を形成することになった。彼らはソロモンの時代を築くことに、重要な貢献をするのである。
そんな具合で、ソロモンの知恵は、早くも結婚にあらわれた。
ソロモンの知恵は、当然に統治の技に発揮された。そのとき彼は大政治家である。彼は中央政府の責任ポスト(高官)として、祭司、書記官、史官、軍の長、代官の長、王の友、宮内卿、徴募の長を定めて、任命した。(「王の友」というポストがエジプト中央政府の高官職名と同一であることに、エジプトの投影をみることができる)。全国の行政については、地方を十二に区分して代官を配置した。各地区は一年に一カ月要品(食糧と家畜)を供給する義務をもっていた。
ソロモンの知恵が宗教的・文学的側面であらわれたものは、旧約聖書の執筆と編纂である。そのとき彼は大宗教家であり、大文学者である。
旧約聖書の編纂はダヴィデの時代に少しずつはじめられていたが、ソロモンの時代に、その作業は組織的に大規模に進められた。ソロモン自身、思索家として、また詩人として、作品を書いた。旧約聖書の『箴言《しんげん》』、『雅歌』、『伝道の書』、『詩篇』に、彼の多くの作品がおさめられている。彼は箴言三〇〇〇、詩一五〇〇篇を書いた。
『箴言』第一章の冒頭部には、知恵の重要性について次のように書いてある。
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ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
これは人に知恵と教訓とを知らせ、
悟りの言葉をさとらせ、
賢い行いと、正義と公正と
公平の教訓をうけさせ、
思慮のない者に悟りを与え、
若い者に知識と慎みを得させるためである。
賢い者はこれを聞いて学に進み、
さとい者は指導を得る。
人はこれによって箴言と、たとえと、
賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。
[#ここで字下げ終わり]
このあとに『箴言』そのものがつづく。次のように。
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主を恐れることは知識のはじめである、
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、
母の教を捨ててはならない。
それらは、あなたの頭の麗《うるわ》しい冠《かんむり》となり、
あなたの首の飾りとなるからである。
[#ここで字下げ終わり]
『箴言』の全体に、ソロモンの時代のエジプトで代表的知恵文学として位置の確立している作品、すなわち『プタハホテプの教訓』、『アニの教訓』、『アメンエムオペトの教訓』の投影がみられる。それは偶然のことではなく、ソロモン王宮におけるエジプト人随員(書記)の貢献なのである。
ソロモンの知恵は『雅歌』にも美しく表現されている。『雅歌』第一章の一部を左に示そう。
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ソロモンの雅歌。
どうか、あなたの口の口づけをもって、
わたしに口づけして下さい。
あなたの愛はぶどう酒にまさり、
あなたのにおい油はかんばしく、
あなたの名は注がれたにおい油のようです。
それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。
あなたのあとについて、行かせてください。
わたしたちは急いでまいりましょう。
王はわたしをそのへやに連れて行かれた。
わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、
ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。
おとめたちは真心をもってあなたを愛します。
エルサレムの娘たちよ、
わたしは黒いけれども美しい。
ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。
わたしが日に焼けているがために、
日がわたしを焼いたがために、
わたしを見つめてはならない。
わが母の子らは怒って、わたしにぶどう園を守らせた。
しかし、わたしは自分のぶどう園を守らなかった。
[#ここで字下げ終わり]
ソロモンの知恵は、文芸・思想・宗教にとどまらなかった。彼は、百科事典的な知識をもっていた。彼は草木を論ずることができ、レバノンの香柏はもとより、石垣に生えるヒソプという植物についても知っていた。彼は獣類、鳥類、魚類についても広い知識をもっていた。
しかし、「ソロモンの知恵」の名声が古代オリエントの全域に鳴りひびいたのは、彼の裁判によってであった。箴言、詩、植物学などとちがって、裁判はつねに民衆の生活に結びついていたので、裁判の話は最も早く伝わり、最も広く、最もよく民衆に理解される事柄だったのである。その実例を、一つ左にあげる。
二人の遊女が王のところへ来て訴えた。その中の一人がいった。「王様、わたしはこの女と同じ家に住んでいましたときに、子を生みました。わたしのお産から三日目に、この女も子を生みました。住んでいるものは私たち二人だけでした。あの女は自分の子の上に寝たのでその夜のうちに子は死んでしまいました。彼女は夜中に起きて、私の眠っている間にわたしの子とその死んだ子を取りかえました。朝、眼がさめて、乳を飲ませようとしたところ、私のそばの子は死んでいましたが、よく見ると私の子ではありませんでした。私の子を取りもどして下さい」
すると、もう一人の女はいった。「いいえ、生きているのが私の子です。死んだのはあなたの子です」
二人の女の間に口論がはじまり、いずれも「生きているのは自分の子だ」と主張して譲らない。
これを見てソロモンは衛士に向っていった。「刀をもって来なさい。生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよう」
すると、はじめの母親は、胸がはりさけるほど痛くなり、王に向っていった。「王様、生きている子を彼女に与えて下さい。生きている子を決して殺さないで下さい」
もう一人の女はいった。「それをわたしのものにもあなたのものにもしないで分けて下さい」
そのとき王の判決がくだった。「生きている子をはじめの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女こそ、その子の母である」
神殿と王宮の建設[#「神殿と王宮の建設」はゴシック体]
「ソロモンの神殿」に話を移す。先王ダヴィデは、軍事的征服と統一ということに生涯をかけ、神殿建築には全く手をつけなかった。(ダヴィデは血を流しすぎたので、神は神殿建築の機会を彼に与えなかった、というのが神学的解釈である)。
ソロモンは軍事的側面に配慮しつつ(たとえば三つの「戦車の町」を作った)、神殿建築をなしとげた。ここでもエジプト出身の妃とその随員の貢献があった。妃はソロモンに対してエジプト神殿の豪華さを語り、随員の専門家はその方法、スタイルについてソロモンに進講したのであった。
ソロモンがエルサレムで神殿建築をはじめたのは治世四年目のときである。この建築の大きな協力者は隣国、チロス王国(レバノン)のヒラム王であった。ヒラム王はダヴィデ王の時代からイスラエル王国の友好国となっていたのであるが、ソロモンの神殿建築にさいしては、石材、木材、という物資および職人の供与によって協力した。
レバノンは木と石の産地であり、これに関係する熟練の職人が多かったのである。一方、金《きん》については、レバノンはこれを産出しないが、古い時代からフェニキア人のもつ得意の海洋航海と貿易の才によってこれを入手し、ソロモンに供与したのである。
ソロモンの支払い手段はといえば、それはイスラエルの主農産物である小麦とオリーブ油であった。とりわけ、オリーブ油は上質のものを豊富に産したが、一方、チロス王国はそれをもたないので、それによる支払いは、両者にとって好都合であった。これだけで足りないときは、ソロモンは時として領土の一部を渡すこともあった。
神殿は、七年をかけて、治世十一年に完成した。神殿そのものの規模は、正面約一〇メートル、奥行約三〇メートル、高さ約一五メートルであった。
この神殿内に本殿がおさまっていた。本殿は、正面も奥行も高さも、そろって約一〇メートルであった。本殿の外面と床が純金でおおわれた。本殿の至聖所には、ダヴィデがエルサレムにもってきた「神の箱」が安置された。また本殿の中に二体の天使ケルビムの像が置かれた。いずれも高さは約五メートル、その翼は約二・五メートルの長さをもっていた。ケルビムの外装は純金でなされた。
神殿のまわりには、脇間が築かれ、その壁面は外側も内側も咲いた花の形のレリーフで飾られた。
神殿前部(拝殿)の入口は、オリーブの木の四角い脇柱で仕切られ、二つの扉は糸杉製で、いずれも二つに折りたたむ折り戸であった。
扉には、ケルビム、椰子の木、咲いた花のレリーフが施され、そのレリーフ全体が純金でおおわれた。拝殿は地面より高く、参拝者は階段を登って拝殿にはいるようになっていた。
これらの神殿、脇間、植込庭などの設備全体を厚い石壁がかこんでいた。
この神殿は、規模においてエジプトの神殿のような壮大さはなかったが、設計と装飾の華麗さは類いまれなものであった。まさに、「古代の不思議」と呼んでもよいようなものであった。
「古代の不思議」といえば、だれでも前二世紀のギリシアの数学者フィロンの作成した『古代の七不思議』を思いだすはずである。それは@大ピラミッド、Aアレクサンドリアの燈台、Bバビロンの吊り庭、Cロードス島の巨像、Dハリカリナッソスのマウソロス墓陵、Eエフェソスのアルテミス神殿、Fオリンピアのゼウス像、である。ところが、十九世紀のフランスの著名なオカルト学者、エリファス・レヴィ(一八一〇―七五)は、これを修正したリストをつくった。彼は、在来リストからAの「アレクサンドリアの燈台」を外し、代りに「ソロモンの神殿」をいれている。この新リストに同意する、しないは別問題として(追加でなくて、いれかえる、となるとだれでも当惑する)、私は「ソロモンの神殿」を「古代の不思議」の一つと呼んでも不当ではないと考える。
ソロモンはエルサレム以外の地にも神殿を建てたのであるが、神殿とならんで注目されるのは王宮の建設である。それは十三年をかけて建てられた。神殿と同様に、これまた石を主建築材とする建物であった。
宮殿は公務用、私生活用に区分して建てられた。公務宮殿は、正面約一〇メートル、奥行約五〇メートル、高さ一五メートルで、三階建てであった。有名な裁判の広間もここに設けられた。
私生活宮殿は、同じ規模で、この公務宮殿のうしろに造られた。ほかに、エジプトからきた妃のための家も建てられた。(妃の家についての旧約聖書の特別な言及――『列王紀』上第三章と第七章――は、彼女がソロモン治世で果した役割の大きさを示すものである。ソロモンの妃となったものの数は七〇〇人に達し、その中で外国出身の者はかなりの数に及んでいるのに、他の妃については、そのような言及はしていない)。
神殿と宮殿の建設は、当然に、その中で使う金属製品の職人の技術を発達させた。こうして、金、銀、銅、鉄による装飾品、祭器、武器、生活用品が豊富に生産された。まさに、この金属産業が「ソロモンの栄華」を造りだす主力だった。飾った戦車に乗って走るソロモンの姿は、そのシンボルであった。馬はエジプトからの輸入品であった。
この馬の輸入が示すように、貿易もまた「ソロモンの栄華」をささえる大きな力の一つであった。はじめ、海外通商は、主としてチロス王国のヒラム王を通じて進めていたのであるが、やがてソロモンは自らも貿易活動をはじめた。ヒラム王の協力で、紅海に商船隊を送ったのは、最も注目すべき活動であった。陸路の隊商通路を管理して、通行税と関税を徴収し、それを王国経済の重要財源の一つとしていたソロモンの王国は、南の国の富を海路で輸入し国を富ますようになったのである。南の国の富、とはシバ王国の富である。
以上が、ソロモン王の知恵と神殿と栄華の概要である。この部分に、私は少し時間をかけすぎただろうか。そうではないと思う。シバの女王を最も強く惹きつけたものが何であったかを知ることは、シバ女王の内面傾向をのぞくのに役立つと思われるから。
これから、シバ王国とその女王ビルキスの物語にはいる。
香料の国[#「香料の国」はゴシック体]
シバ王国が香料の国として繁栄したのは、古くさかのぼると、アフリカ大陸の分裂のおかげである。シバ王国、すなわち今日のイェーメンはアラビア半島に位置していながら、その地勢は例外的に非アラビア半島的である。
アラビア半島の地勢高低図を見ると、だれにでもすぐ分ることであるが、イェーメンはアラビア半島の中で例外的に高地に位置する。海岸地帯の平地は狭く、ほとんどの面積が海抜二五〇〇メートルから三〇〇〇メートルに位置している。北イェーメンの首都サヌアの近くにあるベニ・シャブリ山は四二〇〇メートルに達し、アラビア半島の最高の山である。
なぜか? 本来は一つであったアフリカ大陸とアラビア半島が、地殻変動で分裂するさい、その分裂エネルギーが余りに強烈であったために、イェーメンの部分は、山を引き裂いて分れたという形になったのである。
もちろん、これは地質学的年代に属する、はるかな、はるかな遠い昔のことであるが、これによってイェーメンの他の個性もまた生れた。すなわち、イェーメンの動物、植物、鉱物の系統が、アラビア半島よりも東アフリカ(のソマリア)に属するということである。そして、その一つが、というよりは、その代表が香料であった、という次第である。
人間の歴史からみても、イェーメンはまた特別な立場にある。最初の人類が生れ、発達していったのは東アフリカとされているが、その一つの枝が対岸のイェーメンにひろがっていった。東アフリカのソマリアとイェーメンをはなす海峡、バブ・エル・マンデブはわずか三三キロの幅しかない。
イェーメンに発達した人種は、一方は西に進んでペルシア湾をわたり、他方は北上してシリアに達した。こうしてメソポタミアの東セム族とシリアの西セム族が生れた。したがって、イェーメンはセム族の原郷である。移動しないで、イェーメンに住みつづけたグループももちろんいた。それがイェーメンのセム族で、これがシバ王国を建てる人びとの祖先である。
イェーメンの住民は前十五世紀ごろに、ある文化段階にはいった。細工をしていない巨石による神殿が築かれた。石の配列は直線のこともあり環状のこともあった。素朴な神像も作られた。月の女神が主神であった。
各地に町が作られ、部族が割拠した。前十一世紀のおわりに、それは二つの王国となった。最初に生れたのは、シバの町に拠る部族、シバ族の国、シバ王国だった。遅れて、マインの町を本拠とする部族の国、マイン王国が生れた。二国の中で、シバ王国の方がずっと優勢であった。強力になったシバ王国は都の名をマリブと変えた。(のちに、イェーメンに、右の二国とは別にカタバン王国とハドラマウト王国が生れる。しかし、数百年後のことである)。
香料は近隣諸国から強く求められていた。駱駝はすでに輸送用に登場していた。シバ王国は、香料の生産と通商路を支配することによって、富を得るとともに、「香料の国」としての名声を高めていった。
前十五世紀に、エジプトのハトシェプスト女王が香料を求めて、はるばるプントの国(ソマリア)まで商船隊を送ったということを、私たちはすでに見たが、前十一世紀になると、プントの国は香料の国としての名声をすでに失い、これに代ってシバ王国が登場したのである。プントの国は、乳香と没薬を乱獲するだけで、木の手入れもしなかったので、そしてまた東アフリカを襲った気象上の変化という不可避の条件もあって、香料の生産は衰え、香料の国としての名声を失ったのである。ひょっとしたら、ハトシェプストの商船隊が大型船五隻分の香料を積みだし、さらに香料の生木までも多数もちだしたとき、プントの国の香料産業は恢復不能の打撃を受けたのかもしれない。
前十世紀にはいってシバ王国はますます力をのばした。ビルキス女王の即位はその発展のさ中のことである。
女王の即位の物語は、シバ王国の数代目の王エハスエからはじまる。
エハスエは狂気の発作をおこす人であった。彼は、古代の王がつねにそうであるように、多くの妻を迎えた。しかし、あるいは宮廷内の陰謀により殺される者、あるいは王自身の手によって殺される者、あるいは妃自身が自殺する――といった具合で、次々と五人の妃は命を失った。
六番目の妃はアナバシスといった。彼女は賢明にも郊外の離宮にくらし、宮廷内陰謀の犠牲とならずにすんだ。彼女は王との間に四人の息子をもうけた。
離宮に暮す妃とは別に、王は王宮に住む妃を迎えいれた。七番目の妃である。彼女の名はシムヒ。彼女は一人の娘を生んだのち、陰謀によって殺された。
このように宮廷内に陰謀があったのは、国家の貧しさのせいではなく、豊かさのせいであった。富裕なシバ王国を支配したいという欲望が宮廷の内と外に燃えていたということである。
娘は離宮に移され、六番目の妃から生れた異母兄と一緒に育てられた。この娘がビルキスである。ビルキスとは、シバ語で、「お転婆」という意味である。王女の名としてはいささか軽薄な名であるが、命名は誕生直後にはなされず、幼年時代になってその性格に似合ったものとして、この名が選ばれたのである。それにまた、兄が四人もいては、王位継承の可能性もほとんどないわけで、そんなこともあって、気軽にビルキスという名が与えられたのである。
彼女はどんな容姿をしていたか。野上豊一郎氏は「シェバの女王」という興味ぶかい文章で次のように記している。(氏のシェバは私のシバと同一である。文中のバルキスは私のビルキスである。引用文は現代仮名遣いにあらためた)。
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彼女は夙《はや》くから両手利きと二重関節の二つの顕著な生理的特長をあらわしていたが、成長するに従い、子供ながらも見惚れるほどの美しさを示して来た。……雪花石膏《アラバスタ》の如き皮膚と、硬玉色の目、火蛇《サランマンドラ》のような髪毛と、しなやかな体躯と、細っそりした手足と、そういったものの第一流の結合を見せたほかに、性質が明朗で、快活で、敏捷で、溌剌として、無類の|おはね《ヽヽヽ》で、はしゃぎ屋で、ふざけ好きで、廷臣たちが王女としての命名をしなければならなくなった時も、バルキス(おはね)という名前以上に適切な名前を発見し得なかったほどであった。
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母を陰謀の犠牲として失ったビルキスは、その方法をこんどは自分が取ることにした。十五歳をすぎ、王位に関心を抱く年ごろとなった彼女は、四人の異母兄を始末することを考え、次々に実行した。ついに、王位継承権者として、彼女は唯一の生き残りとなった。
インセンス・ロード[#「インセンス・ロード」はゴシック体]
こうして、シバ王国でビルキス女王の時代がはじまった。競争者とこれにつながる勢力を除去したビルキスは、統治体制を固め、シバの経済、文化、信仰に新時代をもたらした。
経済では、いうまでもなく香料産業の振興に力を注いだ。香料の道は、シバを基点としてさまざまの方向に発達した。近ごろわが国で人気の高い「シルクロード」という英語式呼称にならっていえば、それは「インセンス・ロード」であり、インセンス・ロードを通って商品以外のもの、外国についての情報と新知識もまた交流していった。
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いくつかの道があった。幹線は、海岸の都市アデンから北西に上り、王都マリブを経て、紅海海岸にそって北上し、マイン→ヤトリブ(のちのメディナ)→デダム→ペトラに至る道であった。(ペトラは今日のヨルダン領の地)。ペトラから道は四つに分れ、東へゆけばバビロンへ、西へゆけばエジプトへ、北へゆけばエルサレム、北西に向えばガザに達するのであった。ガザは地中海貿易の要港であった。シバの香料は遠くギリシアにまで達するのであった。
もっとも、ギリシア人はシバの香料、南アラビアの香料について正確な認識をもったことはなかった。ビルキス女王より五百年も後の、前五世紀のヘロドトスですら、次のように、空想的な記述をしている。
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南方では、人類の最末端はアラビアで、乳香、没薬、カシア、シナモン、レダノンの生育するのは世界でこの区域のみである。没薬を除いてすべてのこれらの香料の採取には、アラビア人は容易ならぬ苦労をする。アラビア人は乳香を採取するのに、フェニキア人がギリシアへ輸出しているステュラクス香を焚《た》く。乳香を採るのにステュラクスを焚くというのはなぜかといえば、乳香を産する樹はそのどの株にも、形は小さいが色はとりどりの有翼の蛇が無数に群がってこれを衛《まも》っているからで、これはエジプトを襲う蛇と同類のものであるが、これを樹から追い払うにはステュラクスの煙をもってする以外に方法がないのである。
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つづいて彼は、カシア、シナモン、レダノンについても同様に、空想的な記述をしている。いうまでもなく、樹液をとるときは、木に傷をつけて滲み出るのを採取するのであって、それ以外の方法はない。
話をインセンス・ロードにもどす。
アデンから海岸ぞいに東へゆく道、マリブまたはマインから内陸を東へ進む道もあった。いずれもペルシア湾を経てバビロンに達するのであった。マリブ、マイン、アデンの他に、イェーメンの重要通商都市として活動したのは、ソボタ(のちのシャブワ)、チムナ、カナというような都市であった。
海路もあった。アデン港から東アフリカの町へ向う経路、同じ港から紅海を経てスエズまたはアカバに向う経路もあった。アカバ→アデン航路は、ソロモンがフェニキア人と提携して開始した経路である。
このような経路によって、イェーメンの香料は、メソポタミアに、パレスチナに、エジプトに、地中海沿岸諸国に運ばれたのであった。
運搬(通商)に税はつきものである。それがどんなものであったかについて、前十世紀の記録はないが、紀元後一世紀のローマの著述家プリニウスはこう書いている。私たちは、これを前十世紀にあてはめても大きな誤りを犯すことにはならない。事情を変える特別の条件はないのだから。
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香料は、集められると、駱駝の背に乗せてソボタまで運ばれる。ソボタには、参入者用の門は一つしか開かれていない。輸送中に幹線から出てゆく者に対して、法はみごとな処置を定めた。
ソボタで、運搬者は祭司に、彼らがサビアと呼ぶところの神のために、重さによってではなく、量によって、十分の一税を払わねばならない。この支払いをしないうちは、香料を処置することは許されない。この十分の一税によって公費がまかなわれる。というのは、ここへ来るまでに幾日もの旅をした異国のひとすべてを、神は気前よくもてなすのだから。
香料はゲバニト人の国を通じてのみ輸出できる。それゆえ、ある税が同じように王に対しても払われる。……全貿易は、さながら、巧みに組みたてられた壮大な機械である。
……一定量の乳香は、祭司および王の秘書に納付される。さらに、荷物を監視する兵士、門番、その他さまざまの職種の人びともまた一定量の乳香を受けとる権利をもっている。そのほかに、道中ずっと、ある場所では水のために、別の場所では飼料のために、あるいはまた休憩所を借りるために、支払いをしなくてはならない。さらにそのほかに、さまざまの持出税と持込税がある。
そういうことがどういう結果を生むかというと、海岸に着くまでに要した駱駝一頭当りの経費が六八八デナリになるということである。(一デナリは約五グラムの銀貨)。
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こういう税制がシバ王国の経済の根幹をなしていたのである。
ビルキス女王は、文化の面では、フェニキアのアルファベットを転用して自国語の文字とした。それまでは、シバ王国は文字をもっていなかった。
フェニキア文字転用のキッカケは、ソロモン王の商船隊にあった。商船隊にはフェニキア人が乗組んでいたので、彼らを通じて、ビルキスはフェニキア文字の存在を知り、専門家をフェニキアのチロス王国に派遣して学習させ、彼らの帰国をまってシバ王国文字を制定したのである。制定されたシバ王国の文字の数は二九であった。
ソロモンの商船隊がビルキスにもたらしたものはフェニキア文字だけではない。ソロモンの知恵と神殿と栄華の物語もまた、この商船隊によってもたらされたのである。船員の語る話は、大げさなものであった。「シバの女王の知恵と神殿と栄華は眼を見はるものがある。しかし、ソロモン王の場合は段ちがいに輝かしい」と主張する彼らは、くわしい話を女王の側近に語るのであった。
ビルキス女王は、時にはフェニキア人の船員あるいは船長を王宮に招いて、直接に話を聞くこともあった。ソロモン王への特別の感情が女王の中で育っていった。
特別な感情とは、一方に憧れを包み、他方に競争心を含むものであった。憧れは、独身で才色兼備の女王の心から生じ、競争心はこちらにも抜きん出た知恵と神殿と栄華があると自負するシバ王国の女王の心から出てくるのであった。
ある年、彼女は公式の常駐大使をエルサレムに派遣した。この大使が、あの有名な、ビルキスのソロモン訪問を準備するのである。
しかし、ビルキスの生涯のクライマックスを飾るその訪問の話にはいるのは、まだ早すぎる。さきに述べた「競争心」の事情について、もっと語らねばならない。
女王ビルキスは、ソロモンに対して香料を供給している国として誇りをもっていた。そして香料産業によるシバ王国の繁栄に自負をもっていた。一方、文字の制定によって通商活動のみならず宗教活動に新たなエネルギーを導きいれ、そのことを得意としていた。ソロモン王の誇る神殿に対しては、ビルキス女王もまた神殿建築の華麗さを誇ることができた。
宗教は多神教であった。最高神は月の女神イルムクであった。二番目の神は、太陽の女神ダト・ヒミヤムであった。太陽が男性神ではなくて女神となっているところに、他の地域の太陽神とちがう姿がある。月の息子と太陽の息子は星であり、星の神(男性神)はアスタルであった。
なぜシバ人は月の女神を最高神としたのか。月は砂漠の旅の守護者だったからである。この暑熱地帯で旅する者は、夜間行進に主たる時間をあてる。そのとき、道を照らすのは月である。だから月を最高神としたのである。太陽は好まれなかったが、ないがしろにするわけにはゆかず、そこで「女神」という優しい形の神とし、二番目に位置づけたのである。多神教体系の中で、石、木、鳥、獣に対する崇拝もあった。シバ人は、それらの中に、神のあらわれを見るのであった。
独身で才色兼備[#「独身で才色兼備」はゴシック体]
ビルキス女王の建てた神殿は一七に及んだ。建造地は王都マリブをはじめ、重要な交易都市であった。
神殿には人間の姿をした神、あるいは動物の形をとった神の像が置かれた。神殿にはまた、手を加えていない自然石が「聖石」として安置され、礼拝の対象となった。祭壇のレリーフには、好んで獅子、鷲、牡牛、馬、蛇が描かれた。神殿には王家の祈願あるいは戦勝報告を記した記念碑も置かれた。
神殿も祭壇も安置する神像も、すべてが石造であった。シバ王国の職人、あるいは芸術家たちは、石を巧みに処理した。神殿の石材はほとんど国内に産する石灰岩とアラバスターであった。石彫像にシバ人の芸術的感覚が最もよく表現された。信仰が、そのような感覚と手腕をつくりだすのであった。
ほぼ長方形の顔、まっすぐで短い鼻、長い眉、長い頸、固く締まった口、見つめる力強い眼。そういう像が多かった。(ビルキス自身を明示する彫像が残っていないので、われわれはこれらの彫像からビルキスの顔を推定することとなる)。時には、眼も口もない単純化された像もあった。
神々ヘの信仰の最も強いしるしは、動物あるいは人間を犠牲として捧げることであった。そのさい、犠牲とされる人間は通常の国民ではなく、奴隷であった。このような祭事をおこなうのは王家、高官、祭司であった。普通の人は、信仰心の厚さを示すために、香を焚き、金や宝石を神に捧げた。また、誓いの神、ハルファンの前に武器を供えて祈願すれば、武器は神聖化され、無敵になるものと信じられた。
墓は一般人の場合、神殿東側に作られた。あるいはまた、崖の中に掘られた。神殿そのものの前に建てる貴人の墓もあった。この墓は立石を並べて家形に建てるのである。
死者はあの世で日常品を必要とする、とシバ人は信じていた。そこで、死者が生前に愛用した皿、鉢、宝石、香料壺などを、死者の遺骸とともに墓に埋葬した。アメリカの考古学者、ウェンデル・フィリップは、一九五一年にマリブとチムナで発掘したさい、この種の副葬品を多数発見した。「発見した」といっても、砂の上にころがっているのを見付けたということではない。前十世紀の文化層まで達するのは大変な作業なのであって、地下二〇メートルまで掘らねばならないのである。
イェーメン考古学(広くいえば南アラビア考古学)について一言述べるならば、これは新しい分野であって、初めての本格的な発掘調査がおこなわれたのは一九四九年のことである。それはアメリカの考古学者、ウィリアム・オールブライトの調査で、そのさい彼はインセンス・ロードのイェーメンの宿場町、ハズシャル・ビン・フメイドで、地下二〇メートル以上の、前十世紀の文化層まで発掘し、駱駝を描いたブロンズ板を発見した。これによって、前十世紀に駱駝が使われていることが証明されたのである。
右の二例で分るように、前十世紀、すなわちビルキスの時代の遺跡・遺物は地下二〇メートルまたはそれ以上の底に沈んでいる。三千年に及ぶ自然的堆積(風と砂による)のほかに次々にあらわれる新居住者の建築物と廃棄物の堆積によって、過去はどんどん地下にもぐるのである。
話のついでに付け加えると、アラビア半島の大半を占めるサウジアラビア、つまりイェーメンから見て内陸部となる地域について、多くの人ははるかなる昔からそこは砂漠であったと思うかもしれないが、実はそうではない。少くとも二千年前までは、オアシスは至るところにあった。そういう場所に都市は発達した。近年、サウジアラビアの数百の地点で考古学的調査が進められている。最近の顕著な発見は、イェーメンの北方四〇〇キロの地点エル・アラでサウジ・英・米三国の協同調査隊が行ったもので、十二年がかりで砂の中からローマ時代の幻の都市ファオを掘りだしたのである。
岩壁の中に掘ってつくられた神殿、彫像、住居はみごとに復活をとげた。調査隊は「これはナポレオンの遠征隊がエジプトでなした大発見に比ぶべきもの」とまで述べ、その概要を一九八一年八月二十三日号『ニューヨークタイムズ・マガジン』に発表した。都市は紀元前一五〇年から紀元後一〇〇年まで栄えたことが明らかになっている。
これ自身は前十世紀のインセンス・ロードについて新たなデータを加えるものではないが、こんごの他地点の発掘はインセンス・ロードについて新たなデータをもたらす可能性が大いにある。
ビルキス女王の話にもどる。さきに、彼女は一七の神殿を建てたと記したが、その中の最大のものは王都マリブの神殿である。それは、周囲三〇〇メートル、高さ九メートル、厚さ四・一二メートルの楕円形の城壁にかこまれていた。外側の石は長さ一・五メートルに成形した石材であった。城壁の入口は、三つの門に分れていた。各門は幅一九メートルであった。
ダム建設もまたビルキスの事業であった。この高地の国に都市と農業が発達できたのは、このダムのおかげであった。シバ人が没薬とミルラの木を育て、羊を飼育することができたのは、このダムのおかげであった。ダムは高さ二〇メートル、長さ二〇〇メートルの築堤によってアドハナ川とその支流の水をせきとめ、貯水する設備であった。
このようにして、ビルキスの王国もまた知恵と神殿と栄華の時代を進みつつあった。ビルキスがソロモン王の訪問を決意するのは、そういう時代状況の中においてだったのである。
美しい容貌・姿態の中に男性的性格を包んでいるビルキスは、シバ王国の富を示すに足る財宝を用意させた。まだ二十代のはじめの、独身の、魅力あふれる女王が名声とどろく異国の王を訪ねることに、側近は不安をもっていた。いろいろの懸念の中で最大のものはこうだった――。女王はソロモン王の虜となって、そのままエルサレムに住むことにならないだろうか。対等の一国の女王ではなしに、ソロモン王に属する一個の女性とならないだろうか。そして、王位放棄を宣言しないだろうか。あるいは、女王の地位を保持したまま、シバ王国をイスラエルの属国にするというような宣言をしないだろうか。イスラエルは、大エジプトから妃を迎えるほどの、地中海の大国ではないか。
側近は当然に、女王の出発前に女王の結婚を実現しようと努力した。何人かの候補者が女王の面接を受けたが、いずれも女王の気にいらなかった。というよりは、女王は側近の助言を受けいれたふりをして、一応の見合いはしたものの、最初から結婚するつもりはなかった。彼女は、独身であり才色兼備の自分のほうが、あらゆる面で最も有効に機能することを知っていたのである。「あらゆる面で」ということは、国内的にも国際的にも、ということである。「国際的にも」という点でいえば、彼女は独身の女王としてエルサレムに乗りこむことの有効性を承知していた。そして彼女は賢者ソロモンに征服されるのではなく、賢者ビルキスのほうがソロモンを征服するのだ、という自負をもっていた。
ビルキスのソロモン訪問について、経済的視点に立つ一つの説がある。ソロモンの商船隊が余りに大きな貿易成果をあげ、とりわけイスラエル人がアラビア半島南部のどこかにあるオフルという場所に金鉱山を発見してそれを開発してからは、シバ王国の経済が破壊的な打撃を受けたので、ソロモンに泣きついて調整策を見つけようとしたのだ――というのがその説である。私はこの説を採らない。シバ王国は財政上に危険をもたず、オフルはシバ王国の影響下にあったのだから。
オフルの地はどこにあったかについて、古来多くの説が出されている。東アフリカ(ソマリア)、南アラビア半島、南アフリカ(ローデシア)、ペルシア湾、さらにはインドまでが比定地として挙げられている。しかし、「金、銀、象牙、猿」を産するオフルは、当時の航海区域、動物相を考慮すれば東アフリカ(ソマリア)説が最も妥当となってくる。
エジプト第十八王朝のハトシェプスト女王が前十五世紀にプントの国から大量の香料を輸入したことを、読者は記憶しているはずである。当時、プントの国は「香料の国」であった。時移っていま前十世紀、「香料の国」の名声をもつのはシバ王国であり、プントの国ではなかった。しかし、プントの国はその後、黄金産出国となり、オフルという地名に変っていた。そして、オフルはシバ王国の影響下にあった。(このことはのちに、シバの女王の子がエチオピア王朝を開くという出来事につながっていく)。
エルサレム訪問[#「エルサレム訪問」はゴシック体]
さて、シバの女王、ビルキスの生涯のクライマックスとなるエルサレム訪問の日が近づいた。経路はすでに、陸路のみときめられていた。交易ルートとそこにある都市の実見、現地指導者との友好接見のためである。
おびただしい数の駱駝が集められ、飾られ、山なす土産物が整えられた。オフルの地から入手して用意した黄金は一二〇タラントに達した。一タラントは低く見ても約二〇キロに当るので、一二〇タラントの金は約二四〇〇キロの黄金、すなわち二トンと四〇〇キロの黄金ということになる。いま、「低く見ても」といったのは、時代によっては一タラントが約三〇キロに相当したこともあったからで、この大きな数値を採用すれば、三六〇〇キロ、すなわち三トンと六〇〇キロの黄金ということになる。
土産は、そのような金と香料が中心をなし、そのほかに、銀、銅、象牙、宝石、黒檀、山羊などであった。宝石の種類は、赤褐玉《サルデイウス》、黄玉《トパーズ》、ダイアモンド、緑玉《ベリル》、縞瑪瑙《オニクス》、碧玉《ジヤスパ》、サファイア、エメラルド、紅宝玉《カーヴアンクル》、硬玉《ジエイド》、などであった。
ある夕方、隊列は王宮を出発した。その隊列は三日三晩間断なく都を出発するほどの長いものであった。隊列の編成を、ガストン・ポートというシバ女王史の研究家は次のように記している。(野上豊一郎氏の文章、「シェバの女王」に出ている要約による)。
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行列の主体は駱駝隊と轎輿《きようよ》隊で、先駆として警護の一箇大隊がいずれも単峰の|ぶち《ヽヽ》の駱駝に乗って列を組み、次に廷臣たちが砂塵よけの紗を張ったきらびやかな轎輿を連ね、奴隷たちを従えて続き、次に警護の第二大隊が、これは女王の寵愛の十匹の猫を鍍金の籠にいれて大事に捧げて行くと、それには猫に食わせる黒金魚をいれた水槽二十箇が附属する。その後から、宮廷の奴僕と調髪師と美爪師《びそうし》の一群が、これ等は侍女頭ソプホニスバの監督の下に随い、女王の象牙の浴盤と二十頭の牝驢馬もその列に加わった。牝驢馬は毎晩女王の入浴に乳を供給するためであった。
その次が女王の鸞輿《らんよ》(君主の車)で、三十頭の強壮な縞馬《しまうま》に輓《ひ》かせ、輿には宝石をちりばめ、硬石《ジエイド》の車輪は金で装飾し、三十頭の縞馬には銀の鈴を附け、輓具にはダイヤモンドの飾鋲を打ち、車の中には女王が糸|硝子《ガラス》の簡単な旅行服を着て、髪毛を砂塵によごさないため象の毛で織った頭巾をかぶって、日ごとにイエルサレムの王宮の有様を想像に描いていた。……
女王にとって一番大事なものは、その次に駱駝五百頭に載せて運ばれた彼女の身の周りの衣類・化粧用具・調度品の大行李隊であった。……例えば、女王がイエルサレムのエフライムの門を入る前に着換えた上衣第四六一号の「緑|ざね《ヽヽ》の上衣」なるものについて見ても、アラビヤの緑色の蜥蜴《とかげ》三百万四千九百五十八匹を潰してその頭を小|ざね《ヽヽ》おどしの如く綴り合せたワンピイスの伊達《だて》着であり、そういった物が数限りなく運ばれたのだから、さながら世界一の花嫁行列の如くであったに相違ない。その他、女王に属する侍女・夢うらない・書記・料理人・奴隷、等等、夥《おびただ》しい人数で、王ソロモンヘの贈物を載せた駱駝三百頭とトガルマの駿馬・ケダルの小羊等はこのリストの外である。
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「月の砂漠をはるばると、旅の駱駝がゆきました。金と銀との鞍置いて、二つ並んでゆきました」というわが国の有名な童謡を、ここで思いだす人も多いにちがいない。
ビルキスの旅の経路は紅海よりの、二四〇〇キロのコースであった。砂漠をゆく駱駝の巡行速度は一日に三五キロないし四〇キロである。単純計算で六〇日の距離となる。しかし、ビルキスは途中で宿泊休養し、シバ王国に隷属する部族、あるいは友好部族からの表敬訪問を受けなくてはならない。こうして、ビルキスの旅行隊は八〇日を要してエルサレムに着いた。彼女は直ちに、ソロモン王に、豪華な土産を贈呈した。
ソロモン王は彼女のために、女王にふさわしい宿舎と食事とサービスを用意した。女王は神殿へも案内された。多神教の彼女は、一神教(ユダヤ教)の神殿で儀礼上の参拝をし、その壮大華麗な神殿に搏《う》たれたが、ユダヤ教に改宗するつもりはなかった。有名なソロモンの「神殿」と「栄華」は、エルサレムの滞在二日にして、ビルキスに理解できた。
彼女の最大の関心事はソロモンの「知恵」にあった。それが、ビルキスの心に、競争心と憧れの交錯した特別の感情を生みだす根本要素なのであった。
ソロモンとの問答[#「ソロモンとの問答」はゴシック体]
三日目に、ソロモン王はビルキス女王とゆっくり語る夕ベを設けた。その夜である。女王が王の知恵をためす問いを次々と発し、その問いが、次々と、よどみのない答えを得たのは。
いかなる問答を二人はしたのかというと――。
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問い[#「問い」はゴシック体] 蛭《ひる》にふたりの娘があって、
「与えよ、与えよ」という。
飽くことを知らないものが三つある。
いや、四つあって、
皆「もう、たくさんです」と言わない。
それは何か。
答え[#「答え」はゴシック体] 陰府《よみ》、不妊の胎《たい》、水にかわく地、
「もう、たくさんだ」といわない火がそれである。
自分の父をあざけり、
母に従うのを卑《いや》しいこととする目は、
谷のからすがつつき出し、
はげたかがこれを食べる。
問い[#「問い」はゴシック体] わたしにとって不思議にたえないことが三つある、
いや、四つあって、わたしには悟ることができない。
それは何か。
答え[#「答え」はゴシック体] 空を飛ぶはげたかの道、
岩の上を這うへびの道、
海をはしる舟の道、
男の女にあう道がそれである。
遊女の道もまたそうだ。
彼女は食べて、その口をぬぐって、
「わたしは何もわるいことはしない」と言う。
問い[#「問い」はゴシック体] 地は三つのことによって震う、
いや、四つのことによって、耐えることができない。
それは何か。
答え[#「答え」はゴシック体] 奴隷たる者が王となり、
愚かな者が食物に飽き、
忌みきらわれた女が嫁に行き、
はしためが女主人のあとにすわることである。
問い[#「問い」はゴシック体] この地上に、小さいけれども、
非常に賢いものが四つある。
それは何か。
答え[#「答え」はゴシック体] ありは力のない種類だが、
その食糧を夏のうちに備える。
岩だぬきは強くない種類だが、
その家を岩につくる。
いなごは王がいないけれども、
みな隊を組んでいで立つ。
やもりは手でつかまえられるが、
王の宮殿におる。
問い[#「問い」はゴシック体] 歩きぶりの堂々たる者が三つある、
いや、四つあって、みな堂々と歩く。
それは何か。
答え[#「答え」はゴシック体] 獣のうちでもっとも強く、
何ものの前にも退かない、しし、
尾を立てて歩くおんどり、雄やぎ、
その民の前をいばって歩く王がそれである。
[#ここで字下げ終わり]
これは旧約聖書の『箴言』に出ている。(文章の中間に、「それは何か」ということばをいれたのは著者である)。「ソロモンの答え」という形で出ているわけではないが、このたぐいのものと考えて誤りはない。
このようにして、ソロモンの「知恵」はビルキスの前で鮮かに確証されたのである。ビルキスは、ソロモンの「知恵」と「神殿」と「栄華」がまことであることを知って、感動した。競争心は消え、憧れと愛の心が彼女をみたした。ビルキスは、この人の子をほしいと思うようになった。いっぽう、ソロモンはビルキスの美しい容貌、若い身体、澄んだ頭脳に惹かれていった。
問答のあったその夜、二人は寝室を共にした。ビルキスは処女の身をソロモン王に捧げた。次の夜も、さらにその次の夜も……。ビルキス滞在は二週間に及んだ。ビルキスはソロモン王の子種を宿した。
ビルキスのエルサレム滞在は二週間に及んだ。この間の、ソロモンとビルキスの関係は対等であった。ビルキスがソロモンに惹かれて身をおとしめないか、祖国をおとしめないか、というシバの女王の側近の不安は杞憂《きゆう》にすぎなかった。いっぽう、ソロモンは、イスラエルの威光と個人的名声に乗じて、不当な野心をビルキスと彼女の国に対して抱くことはなかった。ビルキスが、女王としての品位と威厳を失うことがなかったからである。
ビルキスは、エルサレム滞在中に、もちろん国家的用務も果した。その第一は、通商と友好のための協定であった。ビルキス女王の名声がイスラエル国内にとどろいたため、シバ王国で働きたいというイスラエルの識者や職人もあらわれた。彼らはシバ王国で好遇を受ける保証をビルキスから与えられた。
出発は、来たときと同じような隊列編成でおこなわれた。ソロモンは受けとったものと等しい品物をビルキスに贈った。ビルキスの受けとった最大の贈物は子種であった。旧約聖書の執筆者はそのことをこう記した。「ソロモン王は彼女の望みにまかせて、すべてその求める物を贈った」。「すべて……」とあるその見事な表現に読者は格別の感銘を受けないであろうか。
九カ月後、ビルキスはシバの王宮で男子メネリケを生んだ。彼女はこれをエチオピアの王とした。対岸の地エチオピアはシバ王国の勢力下にあったのである。エチオピアの王朝は、このメネリケをもって創始者とする。(現代のエチオピアに長く君臨したハイレ・セラシエ皇帝はシバ女王と、ソロモン王の子孫であることを誇りとし、自らを「ユダヤの獅子」と称した)。
ビルキス女王のもとにシバ王国は繁栄し、女王亡きあともそれはつづいた。アラビア半島の他の諸国が栄枯盛衰をくりかえすなかで、この国だけはつづいた。
彼女の死の事情は分っていない。しかし、知恵を求めてソロモン王を訪ねたことは、後世の人を感動させた。九百年後のイエス・キリストは彼女に言及してこう語る。(新約聖書『ルカによる福音書』第十一章)。
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「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、何のしるしも与えられないであろう。というのは、ニネベの人々《ひとびと》に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。……」
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イエス・キリストのことばにおけるシバの女王のイメージは、「知恵を求める女王」であり、私もまたその立場で彼女を捉えているのであるが、これとは全くちがう「誘惑する女性」のイメージも、他方で生れている。そのイメージによる描写の代表的なものは、十九世紀フランスの小説家G・フロベールの『聖アントワーヌの誘惑』の文章である。
……シバの女王は、夫としてソロモンを選ぼうという考えを一旦はもったが、この考えを捨て、エジプトの隠者アントワーヌに狙いをつける。アントワーヌは富も地位も捨てて、エジプトの王都テーベ郊外の砂漠に神を求めて隠遁している若者である。
彼女は、アントワーヌを誘惑しようとする最初の人物となる。彼女はきらびやかな行列をしたがえて、どっさりと土産を積み、魅力一杯の服装と姿態でアントワーヌに云いよる。彼女は、彼を見つけるために、いかに苦労したかを述べ、見つからないといって捜索隊が帰ってくるとき、いかに嘆いたかを、こう語る。
「夜になると、あたくしは壁に面をふりむけて泣きました。涙は、とうとう、モザイクの床に、小さな孔を二つ穿《うが》ってしまいました。海辺の岩に水の溜りが出来ますように。あなたをお慕いしているのですもの! ええ! ほんとうでございます。身も世もなしに!」
そして、本題に移ってこういう。
「ああ! あなたがあたくしの良人になってくだされば、お召物もお着せしますし、香料もお附けします。無駄毛も抜いて差上げますわ。……悲しそうな御様子ねえ。小屋をお棄てになるのがお厭なの? あたくしは、あなたのために何もかも、――ソロモン王まで棄てましたのに。しかも、ソロモン王は稀代の知慧者で、戦車を二万台おもちのうえ、美しいお鬚《ひげ》までもっておいでですのよ。あたくし、あなたに婚礼の贈物を持ってまいりました。お選びになって頂戴!」
シバの女王の、物と姿態と言葉の誘惑はこのようにしてつづくが、アントワーヌは応じない。女王は諦めて去る。(右の訳文は、渡辺一夫・平井照敏訳『聖アントワーヌの誘惑』筑摩書房版による)。
この話はフロベールがエジプトはじめオリエント各地で聞いたシバ女王伝説の一つをもとにしたものであろう。なぜなら、初稿の『聖アントワーヌの誘惑』(一八四九年)には、シバ女王の物語は全く出ていないのに、オリエント旅行後の決定稿(一八七二年)に、それが出てくるのだから。
しかし、シバの女王を聖アントワーヌに結びつけるのは、年代的に不可能である。シバの女王は紀元前十世紀の人であるのに、聖アントワーヌは紀元後三世紀の人であるから。
そういう不合理はあるものの、シバの女王を誘惑する人として描いた興味ぶかい文章として、私は本章の末尾で、これに触れた次第である。
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ゼ ノ ビ ア 尚武の女王[#「 尚武の女王」はゴシック体]
砂漠の隊商都市[#「砂漠の隊商都市」はゴシック体]
これまでの人物はすべて紀元前に属するが、こんどの女王ゼノビアは紀元後の人である。その国の名はパルミラ。パルミラは都市であり国であった。都市国家という呼称はギリシア史でしばしば使われるが、オリエントでもまた都市国家は発達したのであった。(都市国家という段階をもたずに民族国家に進んだのはエジプトのみである)。
ゼノビアがパルミラ王国を統治したのは紀元二六七年から二七二年までで、わずか五年間である。しかしその五年間は、パルミラにとって他のいかなる時代をも越える黄金時代であった。砂漠の一つの町が、近隣の大国ローマとペルシアを制圧し、オリエントの支配者となったのである。すべてがパルミラを軸として動いたのである。まことに歴史上にも稀有のできごとであった。
シリアの首都ダマスクスから北東二三〇キロに位置するパルミラは、今日は遺跡名として著名である。ここに人間が住みだしたのは紀元前二三〇〇年までさかのぼることが、考古学上の調査で明らかになっている。歴史記録に登場するのは前十九世紀になってからで、アッシリアの契約書に「二人のタドモル出身の立会人」ということばで出ている。パルミラは古くはタドモルと呼ばれていたのである。(タドモルの語源は不明)。
ついで、前一一一〇年のアッシリア帝国の皇帝チグラト・ピレセル一世の戦勝記録に記されている。皇帝はユーフラテスから地中海に至る西方世界を征服する戦いのさい「タドモルから敵アラム人を打ち破った」と述べている。タドモルは尚武の民アラム人(セム族の一種族)の本拠だったのである。
アッシリア皇帝は威勢のいい記述をしたがその征服は一時的なものであった。砂漠のまっただ中の町に大軍を常置しておく余裕はアッシリアにはなかった。アッシリア軍の手うすになるのを待って、アラム人はほどなくタドモルを奪回し、ふたたびその主人となった。砂漠に鍛えられたアラム人の弓騎兵はとくに強力精悍であった。アッシリアの威力が去ると、こんどはペルシアの嵐がシリアに来た。前六世紀にペルシアは、シリアからエジプトまでの一帯を帝国の領土とした。しかし、砂漠のまっただ中の町パルミラは、その地理上の事情によって嵐にまきこまれなかった。
前四世紀に、こんどは東からマケドニアのアレクサンドロス大王の東征隊が来た。彼はエジプトを手はじめにペルシアの勢力を吹きとばした。そして、シリアに、パルミラに、ギリシア文化がもちこまれた。しかし、パルミラの政治体制に変動はなかった。アレクサンドロス大王の東征は東と西を結ぶ文化と隊商のルートを開く役割を果した。アラム人は、パルミラを隊商路として発展させた。そして、古い地名タドモルを捨て、ギリシア語のパルミラという名を、「椰子の町」を意味する名を、この町に与えた。
アレクサンドロス大王の死に伴って、アレクサンドロス帝国は大王の部将によって分轄《ぶんかつ》された。シリアはセレウコス将軍の統治区となり、セレウコス王朝が生れた。都はアンチオキアに置かれた。この時代も、パルミラはほとんど嵐の圏外にあった。
前二世紀に、こんどは、イラン北部に興ったパルティア人の王国がセレウコス王朝をたおしてシリアの支配者となった。パルミラはパルティアの攻撃を受けなかった。軍事的にいえば、パルティア人は砂漠の戦いが苦手であり、またパルミラの弓騎兵の強さを知っていたので、攻撃を見合せたのである。
同時に、政治的にいえばパルティアとしては、勃興しつつある西のローマに対する緩衝国家として、あるいは牽制力として、パルミラの存在を必要としたのである。パルミラは隊商路の重要オアシスとしての地位をますます高めていった。
勢力をのばした西のローマはついに、前一世紀、シリアに乗りだしてきた。前六四年、シリアはローマの属州となった。(前三〇年に、エジプトも同じ運命をたどる)。しかし、パルミラは別格であった。パルミラは独立の町、独立の国でありつづけた。パルティアの場合と同じように、ローマ軍もまた、パルミラの地理状況と砂漠戦争のむずかしさのため、無用の冒険は避けたのであった。前四一年、クレオパトラの章で見たローマの英雄アントニウスは、パルミラの富を自らの軍資金にしようとしてパルミラに攻撃をかけたが、敗退した。
不死身のパルミラ。しかし、ローマはこれをいつまでも支配の圏外に置きたくはなかった。ローマ帝国二代目の皇帝チベリウスは、パルミラを朝貢国とすることに成功した。地位の落ちたパルミラ。しかし、エジプトがすでにローマの属州となっているのと比べれば、どうしてどうして、パルミラの地位は堂々たるものである。
そのあと、トラヤヌス帝のとき、ついにローマ軍はパルミラを制圧し、ローマの将軍が総督となった。が、うまく統治できず、長つづきしなかった。パルミラの抵抗が強かったからである。結局ローマ皇帝ハドリアヌスのときに、パルミラは「自由都市」という地位を得て、行政(したがって通商活動も)はパルミラ住民の手で行うことになった。ローマ皇帝はこの町を「ハドリアナ・パルミラ」(ハドリアヌスのパルミラ)と呼んだ。時代は、紀元後二世紀である。
パルミラには各地の商品があらわれ、取引きされた。中国から、インドから、南アラビアから、トルコから、エジプトから、品物が集まった。羊毛、紫布、絹、ガラス器、香水、香料、オリーブ油、乾燥イチジク、堅果、チーズ、葡萄酒などが――。
それらの品物は、パルミラで諸国の商人の間で取引きされて、ほとんどが再びパルミラを出て新しい客の土地へ流れてゆくのであった。ローマはパルミラ経由で一年に百万セステルティウム(ローマ金貨の単位)相当のインド産物を買いいれた。
パルミラは砂漠のまっただ中にあるというのにどうして繁栄したかといえば、駱駝あるいは驢馬による隊商は安全な経路と町を望み、パルミラがそれに合致したということである。
他にも利用できるルートはあった。が、第一にパルミラはユーフラテスと地中海のちょうど中間に位置していて、東から来る商人にも、西から来る商人にも好都合であった。
第二に、パルミラの弓兵隊は強力であり、この軍事力を背景にしてパルミラは沿線の部族長に隊商の安全確保の要請をすることができ、その要請はほとんど守られた。前十世紀いらい隊商都市として栄えてきたペトラのごときはパルミラ王国に併合された。この経路の安全ということが隊商にとってパルミラ・ルートの魅力なのであった。
第三に、パルミラにパルミラ自身の特産物があった。それはパルミラの金銀細工で、それは他の国の人々から珍重された。もちろん、パルミラの基本産業としては椰子の育成・収穫という農業があった。
三世紀にはいると、パルミラは著しい発展をとげた。その常住人口は三万人に達した。三万人は少いといってはいけない。砂漠のまっただ中の町が三万人の人口をもつということは当時としては一偉観なのである。
町には多くの石灰岩で建てた家がならんだ。泥煉瓦の家は少くなった。都市計画が実施され、グレコ・ロマン風の石柱に飾られたメイン・ストリート(大列柱道路)とこれに交わる道路が次々と作られた。集会所も生れた。建造物の中で最も重要なものは大神ベルに捧げた神殿であった。パルミラはだれ言うともなく「砂漠の女王」とか「砂漠の花嫁」とか呼ばれるようになった。
時代はゼノビアに近づいた。
ローマ皇帝の共同統治者[#「ローマ皇帝の共同統治者」はゴシック体]
三世紀中葉に、ゼノビアはアラビアのベニサマヤド部族のシェイク(長)、ザッバイの娘として生れた。母はギリシア人。彼女の本来の名はバト・ザッバイであった。彼女はこれをのちにローマ化して、ゼノビアとあらためた。彼女自身はマケドニア系のエジプト王朝の血を引く者と称していた。
彼女は美しく、そして知的であった。彼女は良い教育を受けた。ギボンは『ローマ帝国衰亡史』(村山勇三訳・岩波文庫)の中で次のように描いた。
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ゼノビアは、女性のなかで最も愛らしく、そして最も英傑的であると見られた。彼女は浅黒い顔をしていた。彼女の歯は真珠のように白く、その大きな黒い眼は異常な光輝をもって光ると共に、極めて魅力ある優しみをもってぼかされていた。彼女の声は強くそして婉麗であった。彼女の男優りの理解力は学識によって深められ、飾られていた。彼女はラテン語にも不自由でなかったが、ギリシア語・シリア語及びエジプト語にも同等に熟達していた。
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彼女を見初めて妻としたのは、パルミラの指導者オデナトであった。彼は軍人で、馬と弓の達人であった。彼は武勇の誉れ高い家系の子であった。三世紀はじめに、パルミラのオデナト一世がローマとの争いで処刑されている。その子ハイランは「パルミラ王子」という称号を用いた。このハイランの子が、ゼノビアと結婚したオデナト二世である。
ゼノビアは夫の行軍に常についていった。男性のスポーツにも加わった。軍服姿で馬に乗るのを彼女は好んだ。獅子狩りや豹狩りにも出掛けた。歩兵隊の先頭に立って徒歩で長距離を歩くこともあった。
ローマ皇帝は依然としてパルミラを自由都市として扱っていたが、主権者(統治者)はローマ皇帝にあるという立場を捨てていなかった。
ある出来事がオデナトの地位を向上させることになった。その出来事の経過はこうである。
当時の、パルミラをかこむ国際情勢はといえば、西にローマ帝国、東にペルシア帝国がそびえ立っていた。ペルシア帝国は、以前のダレイオス王朝ではなく、新しく三世紀はじめに生れたササン王朝であった。ローマ帝国のほうは、ペルシアの膨張に苛立ち、ゴート族の小アジア進出に不安をいだき、ペルシアとゴート族が手を結んだらローマ帝国の危機だと情勢分析していた。
二五六年、ペルシアの皇帝シャプール一世が行動をおこした。彼はローマ帝国領カッパドキアに兵を進めたのである。あちこちの出兵に手一杯のローマではすぐには対応できず、皇帝ヴァレリアヌス自身の指揮によってローマ軍がシリアのアンチオキアに着いたのは二五九年。ここを基地にして対ペルシア戦をはじめた。
この皇帝は二五三年に即位し、息子ガリエヌスを共同統治者としていたが、キリスト教の迫害で知られる人物であった。彼は布告を出してローマ帝国のすべての住民に、帝国公認の神々に犠牲を捧げ忠誠を誓うことを要求し、これを拒んだキリスト教徒を罰したのであった。財産の没収、流刑や死刑にあうキリスト教徒はおびただしい数に上った。
ペルシア人の神々はもちろんローマ人の神々とはちがっていた。恐れを知らぬ、あのペルシアの不逞《ふてい》のやからめ! ヴァレリアヌスは張りきってシリアヘ来て戦いにはいったが、翌年までつづいた戦いに、ローマの神々は微笑しなかった。ローマ軍は敗れ、何とヴァレリアヌス皇帝がエデッサの戦いで捕虜になったのである。ローマの武将の裏切りによってであった。
オデナトがこんどは行動をおこした。彼は別にローマ皇帝救出という目的をもっていたわけではない。シリアに出しゃばってくるペルシア軍に我慢ができず、一発くらわしてやりたかったというだけのことである。
これには、ちょっとした前史がある。
オデナトは自信の強い男で、早くからペルシアの王と対等につきあいたいと考えていた。あるとき、土産物をもたせてペルシア王に信書を出した。
「パルミラの王よりペルシアの王へ」とそこには書かれていた。ペルシア王はおどろきあきれ、土産物をなげ捨て、「どこの何者とも分らぬ者から土産物は受けとれぬ」といって使者を追いかえした。
オデナトはこのことを忘れず、いつかペルシア王に痛い一撃を加えてやろうと、チャンスを待っていたのである。
オデナトの軍はアンチオキアに派遣された。ただし、指揮はオデナトではなく、ゼノビアが執っていた。ゼノビアは風のごとくあらわれ風のごとくに去る、という戦術をもっていた。彼女の部隊は夜陰に乗じてひたひたとアンチオキアの敵陣地に迫り、夜襲をかけた。パルミラの軍は夜襲がお手のものであった。砂漠で訓練された眼は、闇でも戦うことができるのだ。
ペルシア軍は敗れ、ペルシアのシャプール一世も逃走した。捕虜に訊問したところ、ローマ皇帝はすでに処刑されたということであった。身体と首は別にし、身体の皮ははいで道になげ、首は木に吊した、ということであった。
ゼノビアの報告をきいたオデナトは、まずパルミラ軍の威力のほどを大いに讃え、満足したあと、ローマに使いを出した。
ローマはヴァレリアヌスの死を嘆いたが、しかし、仇敵ペルシアをアンチオキアから蹴散らしてくれたことについて、大いにオデナトに感謝した。時のローマ皇帝はガリエヌス。彼はヴァレリアヌス帝の出陣のさい共同統治者としてローマに残った皇帝であった。このガリエヌスが、オデナトヘの感謝を示すために、オデナトをパルミラの「共同統治者」とする旨を通知してきた。
もっとも、これはゼノビアの手柄のせいだけではなかったかもしれない。というのは、このガリエヌス帝はローマ帝国内に地方自治を促進しようという珍しい考えをもった人物で、多くの都市がこの新帝のもとに新しい地位を得ていたのだから。そのことで、ローマ帝国の貴族やローマ派遣の地方官憲(特権者)は帝を嫌い、奇妙な雰囲気が帝国内にみなぎっていた。
そういう一般的事情はあるにせよ、とにかく、パルミラとしては、やっと本来の地位をとりもどしたのであった。
ローマヘの挑戦[#「ローマヘの挑戦」はゴシック体]
共同統治者。ここにパルミラは王国となり、オデナトは「パルミラ王」を正式に称することができるようになったのである。ゼノビアは王妃という称号をとなえた。パルミラは主権をとりもどした。時に紀元二六〇年。
ついで、オデナトはローマにサービスするために、ローマ皇帝の頭痛の種である小アジアのゴート族の討伐に出た。そして成功した。意気揚々として帰ってきたオデナトは、しかし、やがて不運に見舞われる。
甥のマエオニスをつれて、あるとき彼は狩猟に出た。獲物があらわれたところ、君主をさしおいてマエオニスが先に槍をなげた。第一の槍は君主が投げるという法と礼にそれは違反していた。怒ったオデナトはマエオニスの馬を取りあげた。馬なしで歩く彼は、このとき、この上ない不名誉という罰を受けたが、罰はそれだけにとどまらなかった。オデナトはマエオニスを軽禁固の刑に処したのである。
これを恨みに思ったマエオニスは、いつか報復したいと考えていた。ある夜、大宴会が催された。マエオニスは、かねて抱きこんでおいた無法者のグループをつれて乱入し、オデナトを刺し殺した。
直ちにゼノビアが女王として即位した。まだ子供であった王子ワフバッラトを共同統治者として宣した。ゼノビアはマエオニスを叛逆罪として直ちに処刑した。国民はオデナトの功績を知っていたので、マエオニスの処刑は当然だと思った。と同時に、美しく、賢く、男まさりの行動力のあるゼノビアの治世に期待した。
いま、ゼノビアが「女王」として即位したと記したが、ローマの側からすれば正しくなかった。彼女は「女王」ではなく、パルミラ自由都市の自治体制における一個の指導者であるにすぎなかった。ローマの考えかたでは、「共同統治者」という称号は、オデナト個人に与えたものであって、その称号は一代かぎりで無効となる性質のものであったからだ。
ローマ皇帝は当然にその旨をゼノビアに通報し、地位称号の不法僣称を許さないと警告した。ゼノビアはこれを無視した。ついに、ローマ皇帝は討伐軍を出したが、パルミラ軍の前に敗退した。ゼノビアには、夫とともに男性に伍《ご》して戦場を走りまわった経験という強味があり、パルミラ軍は彼女を信頼し支持していた。つまり士気旺盛であった。いっぽう、ローマ軍はといえば、「たかが女の指揮官」と高をくくっている上に、砂漠の戦いという馴れない状況に面くらった。こうして、ゼノビアはローマ討伐軍を敗走させた。さきに東のペルシア軍を破り、北のゴート族を敗退させたパルミラ王国は、いま西のローマ軍を倒したのである。
この出来ごとに、近隣諸国は直ちに反応した。アラビア半島の国々もアルメニアもそしてペルシアも、パルミラとの友好関係を求めてきた。俗なことばでいえば、揉手《もみで》をして「お手やわらかにねがいます」と述べる挨拶なのである。
ゼノビアのローマヘの挑戦は、これでおわらなかった。彼女はローマ領エジプトの征服に乗りだしたのである。
すでに二世紀以降、エジプトの紅海側の海港都市コセイルにつながるナイル河畔都市コプトスに、パルミラの商人は移り住み、居留民団を形成し、活発な商業活動をつづけていた。彼らから来るエジプト情報は、ゼノビアにとって貴重であった。ローマ人に統治されたエジプト人の反ローマ感情ははげしくなっていた。パルミラの介入を求める高官も少くなかった。
エジプトの反ローマ感情は前一世紀のクレオパトラ女王の時代から一貫したものであった。ローマ人は現地機構を尊重するという名目のもとに、旧来の特権階級に依存して、搾取に専念していたからである。ローマヘゆく小麦の持出しの量だけでも莫大なものであった。土地の耕作、租税の支払い、夫役《ぶやく》等はエジプト国民にとって以前にもまして重荷になっていた。耐えられなくなった農民が土地を放棄する。すると役人は拘束して強制小作に従事させる。……そういうことも珍しくなかった。
また、しばしば住民の逃亡ということもあった。ローマから来ているエジプト総督は、帰村を求める命令を出して彼らを拘束した。二世紀には、デルタ地帯の牛飼いが蜂起して、アレクサンドリアが占拠されそうになるという緊迫した事態まで生じた。古くからのエジプト人の都のテーベでとくに反ローマ感情がつよく、叛乱の火種が常にくすぶっていた。パルミラ商人の基地であるコプトスとテーベは眼と鼻の間にある。ゼノビアは、はじめは商人を通じて、ついで正式な使者を通じて反ローマのエジプト人組織と手を結んだ。
二六九年、ゼノビアは軍をエジプトに向けた。パルミラ軍の指揮官はザブダス将軍であった。パルミラ軍はエジプトの高官ティマゲネスの誘導によって短時間で作戦地点を占拠し、エジプトを征服した。つづいて、ゴート族撤退後の小アジアを支配下におさめた。
いまや、ゼノビアはユーフラテス河畔からエジプトまでを支配する女王となった。このような広い領土を支配した君主は、エジプト第十八王朝のトトメス三世いらいのことであった。彼女は自らを「東方の女王」と称した。大ペルシア、大ローマも手出しができないでいた。
商業活動の保護[#「商業活動の保護」はゴシック体]
彼女はしかし戦争をのみ好んでいたわけではない。余暇が見付かるときは、自ら学習にはげみ、三人の息子にも自ら教育した。彼女の常用語はアラム語であるが、諸外国の言葉もマスターした。ラテン語、ギリシア語、シリア語、そしてエジプト語も。自分用に東洋史を自ら執筆するという知識と能力と情熱ももっていた。彼女の学問上の顧問は、ギリシア人の碩学《せきがく》ロンギヌスであった。この学者の指導のもとに、彼女はホメロスとプラトンを(もちろん原文で)読むという時間ももった。
パルミラの武力は、アラム人兵士のもともとの強さを根本としているが、豊富な馬と駱駝の装備がなければ、その力も発揮できるはずはなかった。
そのパルミラ軍の豊かな装備は、パルミラの商業活動から来る収益の所産であった。パルミラの商業活動とは、隊商の出入り、宿泊、取引き、ということである。他方、商業活動が治安確保のために軍の活動に依存するという面もあった。
では、パルミラの商業活動とその収益はどんなものであったか。興味ぶかい隊商税の法律が発見されているので、それを見よう。(その法律は二世紀のものであるが、三世紀のゼノビアの時代に当てはめても大した狂いはない)。
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奴隷の場合[#「奴隷の場合」はゴシック体] パルミラまたはその領土に奴隷を送る者は、奴隷一人当りに二二デナリが課税される。市内で奴隷を売り、市外に出さないときは、売られた奴隷が成年者の場合は、一人当り一二デナリを、未成年者の場合は一人当り一〇デナリを課税される。買手が奴隷を輸出するときは、奴隷一人当り一二デナリが課税される。(デナリは約五グラムのローマ銀貨)。
乾燥商品の場合[#「乾燥商品の場合」はゴシック体] 乾燥商品を積んだ駱駝をひいてパルミラまたはその領土に来る者は、積荷について三デナリを、駱駝の入城について三デナリを課税される。驢馬の積荷の場合は、入城と出城についてそれぞれ二デナリずつ課税される。
紫毛の場合[#「紫毛の場合」はゴシック体] 染めた紫の羊毛のときは、一フリース当り、輸入も輸出も、それぞれ八デナリが課税される。
香料の場合[#「香料の場合」はゴシック体] アラバスターの壺または瓶に詰めた香油が駱駝で持ちこまれるとき、駱駝一頭当り二五デナリが課税される。山羊皮の袋に詰めた香油が駱駝で持ちこまれるとき、一頭当り、入城のさいに一三デナリが、出城のさいに七デナリが課税される。アラバスターの壺または瓶に詰めた香油が驢馬で持ちこまれるとき、一頭当り入城のさいに一三デナリを、出城のさい七デナリが課税され、香油が山羊袋に詰めて驢馬で持ちこまれるとき、一頭当り入城のさいに七デナリ、出城のさいに四デナリが課税される。(高級香油はアラバスターの壺で、普通香油は皮袋で運ばれた)。
水の場合[#「水の場合」はゴシック体] 市内の水の二つの泉を使うについて八〇〇デナリが課税される。
彫像の場合[#「彫像の場合」はゴシック体] 青銅の絵と像はいずれも青銅そのものとして課税される。一つの彫像は積荷の半分相当として課税される。二つの彫像は積荷全体相当として課税される。(「青銅の絵」はレリーフのこと。駱駝の積荷全体は二〇〇キロが標準であった)。
売春婦の場合[#「売春婦の場合」はゴシック体] 一回の行為に一デナリを請求する者は、月額一デナリを課税される。一回の行為に八アスを請求する者は月額八アスを課税される。一回の行為に六アスを請求する者は月額六アスを課税される。(アスは一二オンスの銅貨)。
塩の場合[#「塩の場合」はゴシック体] 塩は人びとの集まる広場で売るのがよろしい。自分個人用に塩を買う者は一|枡《ます》ごとに一イタリア・アスを払わねばならない。塩に関する課税はパルミラにおいてもその他の地方においてもアス単位で評価される。塩は商人に売りわたし、商人は習慣に従って売る。
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商品種類の一部がここに見られるわけだが、売春婦の項目のあるのは、いかにも隊商都市らしい。水は隊商都市の根本資源だから、当然にこの税は高く、収益は多かった。大きな隊商になると、一千頭もの駱駝が連なったというのであるから、そのさいの水収入は莫大なものとなったわけである。
武人ゼノビアは商業利益によって武力を充実し、その武力がこんどは商業活動を保護し、発展させるのであったが、信仰と建築の面でも彼女は熱心だった。
二世紀いらい大神ベルに捧げた神殿をはじめ、アグリコル、アッラト、アタルガティス、バール・フシャミン、ベルハンモン、エルコネラ、イアルヒボル、イシュタル、マラクベル、マルドク、ナナイ、ネボ、ネルガル、サドラファ、サマス、シャマス、シンというような多くの神・女神のために神殿と祭壇が建てられていた。ゼノビアは、これらの神殿を美化補強し、神々の加護を祈願した。
大列柱道路の中央部に八本の特別に高い列柱が今も残っているが、この中の第二柱と第三柱はゼノビアが建てたものである。ゼノビアは第二石柱には自分自身の名と肖像を刻み、第三石柱には亡き夫オデナト二世の名と肖像を彫った。二本の石柱の建立は二七一年のことであった。(厳密にいえば、ゼノビアの部将が女王と先王のために建てたと碑文には記してあるが、ゼノビアの意を受けて部将が建てたものである以上、ゼノビアが建てさせたものであるといってよい)。
ゼノビアは新しい神殿を築かなかったが、武人の女王らしく城壁の整備には大いに力を注いだ。築かれた内部城壁と外部城壁は神域を守るためであるとともにパルミラの住民を守るためのものであった。
「東方の女王」のプライド、あるいは野心はいよいよ大きくなっていった。
アウレリアヌスの作戦[#「アウレリアヌスの作戦」はゴシック体]
紀元二七二年、ゼノビアは今までにない大きな一歩を踏みだした。彼女は、成年に達した長子ワフバッラトを「皇帝アウグストス」と命名し、自分の名を「アウグスタ」とあらため、これを世界に公表し、これを記念するコインを発行したのである。
息子の名はローマの初代皇帝の名であり、ゼノビアの新しい名はその女性形であった。ローマは昔日のローマに非ず、世界はパルミラを軸として動く――というゼノビアの自負がそこに出ていた。彼女にとっては、ローマがパルミラの領土になることもあり得るのだった。彼女がローマに君主として乗りこむこともあり得るのだった。
しかし、こんどはローマはおとなしく構えてはいなかった。パルミラの小僧が「皇帝アウグストス」だと! そしてコインだと! 時のローマ皇帝はアウレリアヌス。二年前に皇帝になったばかりであった。皇帝の意気も兵の士気も大いに昂まっていた。皇帝はローマ軍を二つの方向に向わせた。一つはエジプト、次はシリアである。
エジプトのパルミラ軍は大した抵抗もしないで敗れた。勝ったローマ軍は、少しの警備隊を残してシリアヘ応援に向った。一方、シリアに当初から向っていたローマ軍はアンチオキアに駐屯した。かつてセレウコス王朝が都をおいた地、かつてアントニウスが軍司令部を置き、クレオパトラを招いた地。
ゼノビアは軍をアンチオキアに向わせた。指揮は、さきのエジプト作戦で軍功をたてたザブダス将軍に任せた。ゼノビア自身も、軍服馬上の人となって、前線に出て兵をはげました。
パルミラ軍は軽装射撃隊と鋼甲に全身を包んだ重装騎兵隊から成っていた。ローマ軍は騎兵隊と軽装歩兵隊で編成されていた。かなりの長期戦ののち、やっとローマ軍は優勢に立った。
ゼノビアは第二陣地での迎撃戦を命じた。第二陣地はエメスに設けられた。ローマ軍は、エメスでも苦戦ののち勝利者となった。ゼノビアは軍の大半を失った。再編して大攻勢をかけることは不可能であった。彼女は生存部隊をパルミラに引きさげ、パルミラに残してある部隊と連合してパルミラで決戦をすることとした。一方、ローマ軍も、二度の会戦で傷手《いたで》を受けていたので、態勢建直しのため、かなりのあいだエメスに駐屯する必要があった。勝敗はまだ決定的になったわけではない。
アウレリアヌスは、ローマ元老院あてに、ゼノビアについて次のような手紙を送った。
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ローマ人は私が一人の女と戦争していると言う。まるでゼノビアが大軍を引きつれてではなく、彼女ただひとりの力で戦っているかのように――。いかに豊富な戦争の力を彼女がもっているかを、私は叙べることができない。二台または三台の石弓を設置していないような砦は彼女の側にはない。われわれを苦しめる火が、われわれの上に奔り落ちるのである。……この女が何者であるかを知ったなら、もし会議における彼女の慎重さ、彼女の目的の不動性、軍を指揮するさいの彼女の威厳、必要なときに示す彼女の寛大さ、まさにそのあるべきときに執る厳格さ、を知ったならば、私を非難する者は私を十分に賞讃する術を知らぬということになろう。
ペルシア人から得たオデナトの勝利、シャプール一世の逃走、クテシオンヘの前進は、すべて彼女によるものであるということを、私はここに指摘する。オリエント人に比べて、エジプト人に比べて、抜きん出ているこの女の恐ろしさはかくのごとくであり、彼女はそれゆえに、アラブ人を、サラセン人を、アルメニア人を釘付けにして動けぬようにしたのである。
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こうして、アウレリアヌスは休養しつつ次の作戦について考えていた。敵をあなどらず、正しく理解するということはむずかしい。右のような手紙を書くアウレリアヌスは、皇帝としては、まれに見る賢人であり知謀の将であった。彼は泣言をいっているのでは毛頭ない。
イギリスのパーシー・サイクスがその著『ペルシア史』の中でこの二人の戦争にふれ、「アウレリアヌスの天賦の才を見誤ったのはゼノビアの不覚であった」と記したのは適切である。相手は、これまでのペルシアの王とも、小アジアの王とも、ローマの皇帝とも、ちがっていたのである。
女王捕虜となる[#「女王捕虜となる」はゴシック体]
まことに、リュシウス・ドミティウス・アウレリアヌスは天才であった。農家に生れた彼は、一兵士としてローマ軍にはいり、頭角をあらわして昇進し、軍人の最上位まで達したのち、二五八年にコンスルに任ぜられた。そして、皇帝クラウディオス二世に愛され、信頼されて、その養子となり、後継者に指名された。人民と軍は一致してこの指名を批准《ひじゆん》した。……そういうアウレリアヌスなのであった。
皇帝となった彼は、ゴート族、ヴァンダル族、サルマト族と戦い、勝ち、戦略家としての天賦の能力を発揮した。……そういうアウレリアヌスなのであった。
さて、わがゼノビアは、この休戦時間を最大限に利用しなければならなかった。ゼノビアは城壁固めを急いだ。ほとんど工事がおわったころ、ローマ軍が行動をおこした。パルミラは神から見捨てられていた。ローマ軍はついにパルミラの城内にはいりはじめた。勝敗はもう明らかだった。
そのとき、ゼノビアが考えたことは逃亡であった。彼女は最も早い乗用駱駝に乗ってパルミラを後にした。(ワーテルローで敗れたナポレオン・ボナパルトがアメリカヘ逃げようと画策したのを思いあわせる人があるかもしれない)。
クレオパトラの家の血を引くと称していたゼノビアは、クレオパトラのように国とともに自らの命を絶つという考えをもってはいなかった。彼女がパルミラから一〇〇キロ東まで進んでユーフラテス河畔に近づいたとき、ローマの騎兵隊が追いついて彼女を捕えた。
女王捕虜となる――の報に、パルミラ市民の戦意はたちまちにして消えた。パルミラは降伏した。
アウレリアヌス皇帝の前に連行されたゼノビアは、「ローマの諸皇帝に対して何故に不逞にも刃を向けたか」というアウレリアヌスの問いに対し、「それはアウレオルスとかガリエヌスとかのような者をローマ皇帝と考えるのが嫌でございました。貴方だけは私は自分の征服者としてまた君主として承認いたします」と答えた。勝者にはいさぎよく服する、という武人の論理であったのだろうか。
ゼノビアは一貫性を欠く女性であった。(一貫性をもつということは男の英雄にとってもむずかしいことだが――)。勝っているときは強く、負けると別人になる人であった。彼女は逃亡を企てただけではなく、忠臣を不当な犠牲者とした。
忠臣とは、学者ロンギヌスである。ゼノビアは、すべての悪しき計画、ローマに反抗する計画はロンギヌスから出たものであり、自分はそれに曳きずられたのである、と断言したのであった。そのため、ロンギヌスは直ちに処刑された。処刑場に向うとき、彼は一言も嘆きをいわなかった。彼はゼノビアの不幸に憐みを示し、嘆く友人を逆に激励し、従容《しようよう》として死に赴いた。
パルミラの降伏に伴い、パルミラに服していたオリエントの国でも、ローマに忠誠を誓った。パルミラの力のために失われていたかつてのローマ帝国領は、すべてローマにもどった。パルミラ戦争は、アウレリアヌスの対外遠征の仕上げとなった。
そこで、皇帝は全遠征の勝利をまとめて祝う一大凱旋式をローマで挙行した。ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中で次のように書いている。
ローマ建国以来、いずれの将軍もアウレリアヌス以上に高貴な凱旋祝に該当した者はなかったし、またどんな凱旋祝も、今度のもの以上の誇りと壮大とをもって挙行されたことはなかった。その行列の先頭をきったのは二十頭の象・四頭の大虎および北方・東方・南方の様々な風土に産出された二百頭以上の極めて珍奇な種々の獣であった。その次には、円戯場の危険な娯楽に当てられた一千六百人の格闘士。次にはアジアの財宝、多数の被征略国の武器や標章・シリア女王の綺羅びやかな什器調度、これらのものが適当に、即ち芸術的に整頓排列されていた。世界の最も遠隔な諸国――エティオピア、アラビア、ペルシア、パクトリアナ、インド及び中国等の諸国の使節連は、みんなそれぞれ自国の見事な又は異様な服装によって異彩を発揮し、ローマ皇帝の名声と権力に光輝を添えた……アウレリアヌスの連戦連勝を立証するものとしては、この凱旋に嫌々ながらも参列した捕虜の長列、ゴート人・ヴァンダル人・サルマティア人・アレマン人・フランク人・ガリア人・シリア人及びエジプト人があった。……ゼノビアの麗美な姿は黄金の櫂《かい》をもって埋められ、彼女の首に懸けられた金鎖を一人の奴隷が持ち支えていた、そして彼女は、堪え難い珠玉の重みにほとんど息も切れそうだった。彼女は曾てはそれに乗ってローマの市門を入ろうと希望した壮麗な戦車の前に徒歩で行進した。その後ろにはさらに一層壮麗な二つの戦車が――オデナッスとペルシア王との戦車が続いた。……
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捕虜となった憐れなゼノビア女王の姿がそこにある。行列が豪華であればあるほど、よたよたと歩く女王の姿は憐れである。
しかし、そのあとに彼女を待っているのは処刑ではなかった。僭称の罪、国家叛逆の罪が彼女に対して確定したにもかかわらず、アウレリアヌスは彼女にチボリの美しい別荘を贈り、裕福に暮せるように配慮した。
彼女はローマの生活になじみ、別人のようにおだやかな婦人となった。あの戦闘的で反ローマ的な女王の片鱗はそこにはなかった。奇妙な変化であった。その娘たちはローマの貴族と結婚して子孫をもうけた。
ゼノビア去りしあとのパルミラはといえば、ローマ軍による市民の大虐殺がおこなわれ、わずかに生き残ったものに居住と生活の権利が認められたものの、パルミラが再び活気をとりもどす日はついに来なかった。戦火のためだけでなく、北方に隊商路が開かれたこともその理由であった。
五年間、古代オリエントの中心をなしていたパルミラ王国が滅びると、西のローマ帝国と東のペルシア帝国は再び国境をのばす活動にはいった。
[#地付き]〈了〉
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古代オリエント略年表
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(エジプトを中心として、本書に登場する人物の関連事項を記した。人名は主なる王、女王、王妃、皇帝。年代の重複は複数王朝の併存を示す)
※ゴシック体は本書に登場する人物です。クリックするとその章が表示されます。
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第一王朝(BC三一〇〇─二八九〇)
ナルメル(メネス)。
第二王朝(BC二八九〇─二六八六)
ラネブ。
第三王朝(BC二六八六─二六一三)
サナクト、ジョセル、セケムケト、カベ、フニ。
第四王朝(BC二六一三─二四九四)
スネフル、クフ、ダドフラ、カフラ、メンカウラ、シェプセスカフ。
第五王朝(BC二四九四─二三四五)
ウセルカフ、サフラ、カカイ、ウナス。
第六王朝(BC二三四五─二一八一)
テチ、ウセルカラ、ペピ一世、メルエンラ、ペピ二世。
第一中間期[#「第一中間期」はゴシック体]
第七王朝(BC二一八一─二一七三)
第八王朝(BC二一七三─二一六〇)
第九王朝(BC二一六〇─二一四〇)
第十王朝(BC二一四〇─二一三三)
第十一王朝(BC二一三三─一九九一)
メンツーホテプ一世、同二世、同三世、同四世。
第十二王朝(BC一九九一─一七八六)
センウスレト一世、同二世、同三世。
第二中間期[#「第二中間期」はゴシック体]
第十三─十四王朝(BC一七八六─一六三三)
第十五─十六王朝(BC一六七四─一五六七)
第十七王朝(BC一六五〇─一五六七)
セクエンエンラ、カメス。
第十八王朝(BC一五六七─一三二〇)
[#2字下げ]アフメス一世、アメンホテプ一世、トトメス一世、同二世、ハトシェプスト[#「ハトシェプスト」はゴシック体]、トトメス三世、アメンホテプ二世、トトメス四世、アメンホテプ三世、同四世(アケナトン)、ネフェルティティ[#「ネフェルティティ」はゴシック体]、セメンクカラ、ツタンカーメン、アンケセナーメン[#「アンケセナーメン」はゴシック体]、アイ、ホレンヘブ。
第十九王朝(BC一三二〇─一二〇〇)
[#2字下げ]ラムセス一世、セティ一世、ラムセス二世、メルエンプタハ(この王の治世中にモーセを指導者とするイスラエル人のエジプト脱出)、セティ二世。
第二十王朝(BC一二〇〇─一〇八五)
[#2字下げ]ラムセス三世、同四世、同五世、同六世、同七世、同八世、同九世、同十世、同十一世。
第二十一王朝(BC一〇八五─九四五)
プスセンネス一世、シアメン、ピヌジェム一世、同二世。
[#1字下げ]◇イスラエルにおいて君主制はじまる。サウル、ダヴィデ、ソロモン(BC九六〇─九三〇)。
シバの女王ビルキス[#「ビルキス」はゴシック体]、ソロモンを訪問。
第二十二王朝=リビア人、(BC九四五─七一五)
シェションク一世。
第二十三王朝(BC八一八─七一五)
オソルコン三世。
第二十四王朝(BC七二七─七一五)
テフナクト、ボカリス。
第二十五王朝=ヌビア人(BC七四七─六五六)
ピアンキ、シャバカ、タハルカ。
第二十六王朝(BC六六四─五二五)
プサメチコス一世、ネコ二世。
第二十七王朝=ペルシア人(BC五二五─四〇四)
[#2字下げ]カンビセス、ダレイオス、クセルクセス、アルタクセルクセス一世、ダレイオス二世、アルタクセルクセス二世。
第二十八王朝(BC四〇四─三九九)
アミルタエウス。
第二十九王朝(BC三九九─三八〇)
アコリス。
第三十王朝(BC三八〇─三四三)
ネクタネボ一世、同二世。
第二次ペルシア人統治時代(BC三四三─三三二)
アルタクセルクセス三世、ダレイオス三世。
マケドニア人統治時代(BC三三二─三〇五)
[#2字下げ]アレクサンドロス三世(大王)、アルリダエウス、アレクサンドロス四世。
プトレマイオス王朝(BC三〇五─三〇)
[#2字下げ]プトレマイオス一世、同二世、同三世、同四世、同五世、同六世、同七世、同八世、同九世、同十世、同十一世、同十二世、クレオパトラ七世[#「クレオパトラ七世」はゴシック体]。
ローマ帝国属領時代(BC三〇─AD三九五)
アウグストス、トラヤヌス、アウレリアヌス。
[#1字下げ]◇パルミラのゼノビア[#「ゼノビア」はゴシック体]、エジプトを攻略(AD二六九)。
単行本 昭和五十七年五月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年七月二十五日刊