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バタイユ入門
酒井 健
目 次
はじめに――若い読者へ
第一章 信仰と棄教
1生涯と作品
2ベル・エポックと父親
3信仰
4棄教
第二章 聖なるものと政治
1スペインからシュルレアリスムへ
2『ドキュマン』時代の試み――低い唯物論
3革命とファシズム
4秘密結社と聖社会学
第三章 極限へ
1「力への意思」から「好運への意思」へ
2「非‐知への哲学」
3価値の転倒
第四章 明晰性の時代
1冷戦構造と核戦争――政治・経済の問題
2文学の至高性
3芸術の視点から
4エロチシズムの問題
あとがき
[#改ページ]
はじめに[#「はじめに」はゴシック体]――若い読者へ[#「若い読者へ」はゴシック体]
教師という職業柄、若い人たちから、私がどのようなきっかけで自分の専門とするバタイユと交わり始め、いかなる経緯をへて今日に至り、今何を考えているか問われることがよくある。最近はとくにそうである。この場を借りてこうした問いに答えておきたいと思う。あわせて日本におけるこれまでのバタイユ受容の特徴も記しておきたい。
†バタイユとの出会い[#「†バタイユとの出会い」はゴシック体]
二十一歳の頃だったと思う。近所にかなり風変わりな友人が一人いて、用のあるなしにかかわらず、私の部屋によく現われた。この男、大学は数学科に所属していたが、その方面の勉強はまったくせず、授業にもほとんど出席していなかった。ハイデガーの哲学に精通している風を装いつつ、難解な音楽理論を語ってみせたかと思うと、そのための著作を準備していると言いながら、中古のピアノを自己流に調律し直して気分の赴くままこの奇妙な音階の楽器をぱらぱらと奏でていた。
沈丁花《じんちようげ》の花が香りはじめた三月のある夜、彼は一冊の書物を携《たずさ》えて私の部屋にやってきた。持ってきたのは、出口裕弘氏の翻訳によるバタイユの『内的体験』である。彼はその第二部「刑苦」の冒頭を開けて、私に読んでみるように促した。「君にぴったりだ」というのである。読むなり私の目にとびこんできたのは次のような迫力ある文章だった。
[#ここから2字下げ]
私は感性的体験によって生きているのであって、論理的釈明によって生きているのではない。神聖なものについて私はある狂気じみた体験を持っている。それがあまりに狂気じみているので、私がそのことを語ると人々は笑いだすかもしれない。
アリアドネの糸が切れてしまうときがある。そのとき、私はむなしく神経のみ苛だち、おのれが何者なのかももはや知らず、餓えと寒さと渇きに責められる。そうしたときに意志に訴えてみたところでなんの意味もありはしない。問題となりうるのは、成算ありげな態度に対する嫌悪、私が今までにいいえたこと、書きえたこと、つまり私を束縛しかねないことがらに対する嫌悪のみであろう。このとき私には、おのれの誠実さがただの無味乾燥とも見えるのである。私の心をかき乱す相矛盾した不安定な気分には脱出口というものがない。しかも、脱出口がないからこそ、そうしたさまざまな気分は私を充足させるのである。私は疑惑に囚われ、もはや私自身の中に、亀裂と、無能力と、むなしい擾乱《じようらん》しか見ることができない。おのれの腐臭が感じとれる。私の触れるものはことごとく腐っている。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『内的体験』出口裕弘訳)
こうしたバタイユの言葉に私は面食らってしまった。著者自身の不安な心理があまりに赤裸々に綴られていたからである。日本の私小説作家にさえなかなか見当らないこの自己の動揺のあからさまな独白に、私は、これが本当にフランス人の書いた文章なのかといぶかった。私の眼前に初めて現われたバタイユは、それまで日仏学院やアテネ・フランセで接していた高慢でよそよそしいフランス人からはとても想像のつかない混乱した情念の持ち主、そしてその情念に正直な人だったのである。
それが、バタイユとの最初の、そして衝撃的な出会いであった。
†理性と情念[#「†理性と情念」はゴシック体]
しかし私はそのままバタイユの世界に入っていったわけではない。むしろ逆にバタイユの表現していた情念の混乱から遠ざかろうとしていたように思う。友人の感じていたとおり、その頃の私もまた程度の差こそあれ、「心をかき乱す相矛盾した不安定な気分」に始終見舞われていた。しかしこれを理性で制御しようと躍起になっていた。そうすることが人間的な成長をもたらすと信じていたからだ。しかし、うまく果せないで失意を味わうことの繰り返しだった。「感性的体験」に対してもその感動にただ浮かされているばかりで、ましなことはほとんど語れずにいた。
友人は私以上に「感性的体験」にのめりこみ「神聖なもの」に取り憑かれていた。だが私にバタイユを紹介してから一年あまりのちにこの世を去ってしまう。理由は分からないが自殺だったらしい。独得の神秘的気配を漂わせながら、芸術や哲学について私を刺激し続け、また同人誌をいっしょに試みもしたこの友人の死は、私に重大な喪失感をもたらした。それと同時に「感性的体験」に憑かれた生の行く先は死なのではないかという疑念を私に抱かせた。それ故私は、以後一層この体験に呪縛された生き方を怖れ、嫌悪するようになる。だが、心の片隅では、この体験に動かされる自分の情念は嘘ではないと、そしてその感動を理性の制御から何とか救いたいと、思い続けもしていた。人間や自然、音楽作品や絵画に接したときに得られるあの特別な印象、何かしら自由で生き生きしたものと接している、さらにはそれがこちらの内部に入ってきて明るい空間を作り出すという印象、これだけは自分の身に照らして信じうる真実だと、その頃の私は考えていた。そしてこの「感性的体験」の感動は、政治イデオロギーとは別次元にあると見ていた。政治に関心は持っていたが、しかし左右の政治思想はどちらも一神教のように狭く固定的な善悪観を持っていて、そこから眺められ語られると、あの生き生きと自由に躍動していたものはたちまちのうちに生命を奪われると感じていた。
当時仏文科の最終学年にいた私は卒業論文の題材にフロベールの最晩年の作品『ブヴァールとペキュシェ』を選んだ。ロマン主義を乗り越え写実主義に向かったこの作家の最後の姿勢を知って、自分の人生の指針を得たいと願っていたからだ。そこにはまた「感性的体験」からの逃避願望も働いていたと思う。しかしフロベールの諸作品、つまり初期の習作、『ボヴァリー夫人』『感情教育』『ブヴァールとペキュシェ』、そして幾通かの書簡を読んでゆくうちに分かったことは、この作家は根底においてつねにロマン主義者であり続け、最後にはそのロマン主義は神秘主義に結びついて人間の理性の所産をことごとく相対化あるいは愚弄するに至ったということだった。
フロベールに関する勉強を進めながらも、私はバタイユのことが忘れられず、時間を見つけては彼の文章に読み耽った。そうしているうちに、フロベールとバタイユの間には問題意識において似かよったところがあることに気づきはじめた。ともに理性と情念の葛藤を生きながら、人間の理性の力を超える神秘的なものに触れ、これを重要視している。両者とも素朴なロマン主義者ではなく、理性の必要性を十分認めたうえで理性を超える聖なるものについて肯定的に語ろうとしている。ただしバタイユは、作家である以上に思想家であったから、この姿勢、価値観をより鮮明に打ち出し、それをもとに人間の活動のさまざまな分野(宗教、芸術、社会学、経済学など)へ考察を進めていた。私は自分の「感性的体験」の真実もこうすれば救えるのではないかと思いはじめた。「死は欺瞞である」(『内的体験』)というバタイユの言葉も私には有効に作用した。生死の境を横滑りするのが「感性的体験」のあり方だと言うのだ。私はバタイユに同道して、理性の制御に対する強迫観念から、この強迫観念が引き起こす偏頗な精神状態から、脱出しようと考えた。とともに彼の厖大な著作世界を駆け巡って、この人間の世界を読み解く鍵を手に入れようと考えた。
†日本のバタイユ受容[#「†日本のバタイユ受容」はゴシック体]
フロベールで卒業論文を書き上げた私は、バタイユ研究に向かうべく大学院へ進学した。一九七八年のことである。当時、日本においてバタイユはまだ、前衛的・尖端的思想家の部類に属していた。
バタイユの著作が日本語に翻訳された最初のものは、一九五九年刊行の『文学と悪』(山本功訳)に遡る。原著がフランス本国で出版されてからまだ二年、バタイユも存命中だった頃の話だ。六〇年代に入ると彼の主著の幾つかが翻訳されだす。『エロチシズム』(室淳介訳)、『エロスの涙』(森本和夫訳)、『有罪者』(出口裕弘訳)、『青空』(天沢退二郎訳)、『わが母』(生田耕作訳)といったぐあいに。七〇年代前半には二見書房から『バタイユ著作集』一五巻が刊行された。
これら総計二〇冊有余に及ぶ初期の訳業の出来栄えは、正直言って、玉石混淆だった。三島由紀夫をして「よくまあこんな文章を、日本語の文章として、天下に公表する気になるものだ」と言わしめた翻訳書も一冊ならず、いやかなりの数あったのである。しかし他面、初期の翻訳家たちが不利な条件を背負わされていたことも忘れてはならない。
まずバタイユの思想の難解さである。当時、仏文学者の間でバタイユは難解な現代の書き手三傑のなかに、そのトップに位置づけられていた(名前が皆Bで始まるところから|3B《トロワ・ベー》と呼ばれていた――残り二人はブランショとベケット)。バタイユ思想の理解が困難であった理由は、三つある。まず第一に、彼の著作がきわめて多くの分野に渡っていること、第二にヘーゲル、ニーチェといった哲学者との影響関係がかなり複雑であること、そして彼自身の文章が混乱していることの三点だ。
それ故、フランスにおいてさえ、彼の思想の全貌を解き明かす解説書は一冊も出版されていなかった。七〇年代初めまで本格的なバタイユ研究はフランスにおいてもまだ始められていなかった。これが日本の初期翻訳者たちが受苦していた不利な条件の二つ目である。
三つ目は辞書が完備していなかったこと。当時の仏和辞典(大修館『スタンダード仏和辞典』初版、白水社『新仏和中辞典』)でバタイユを読みこなすのは至難の業《わざ》だといってよい。フランスで出版される仏仏辞典にしても、バタイユがよく用いたキーワードとなる単語や熟語がバタイユの考えていた意味において説明を加えるようになるのは、やっと八〇年代に入ってからのことである。
このような状況であったから、七〇年代前半までの日本においてはバタイユの翻訳にこぎつけるのがやっとで、バタイユについて本格的に語るのはまだ困難なことだった。ただ、記しておきたいのは、初期のバタイユ紹介者(翻訳者とほとんど重なる)の間にはバタイユを神聖視する傾向があって、それがバタイユ論への生産意欲を阻害していたということである。「論証的釈明」ではなく「感性的体験」によって生きていると言明する思想家の真正の享受の仕方は理知的な論文の執筆にはないというわけだ。おそらくこうした理解を反映してのことなのだろう、出口裕弘氏は一九七〇年刊『内的体験』の「訳者あとがき」で次のような強い言葉を語っている。「私たちとしては、自分は哲学者じゃない、聖者だ、狂人だ、といっている人物を、アカデミズムの調理台で骨抜きにしたり、思想史の中に適材適所式にはめこんだりする昔ながらの悪癖だけはきびしく警戒しなければならない」。
†三島由紀夫の場合[#「†三島由紀夫の場合」はゴシック体]
以上は主として初期の翻訳者たちによるバタイユの受容である。彼らとは別の人の際立ったバタイユ解釈をあげるとすれば、それは作家の三島由紀夫の場合だろう。三島は、バタイユの邦訳の熱心な読者であったし、バタイユの神聖視(つまり体験者としてのバタイユを重視し、享受する側も体験をもって応えるという態度)も共有していた。いや、これを一つの極端な形式において現実化したといってよい。
一九七〇年一一月の自決の直前に行われた古林尚との対談「三島由紀夫最後の言葉」のなかで三島は、「ぼくが現代ヨーロッパの思想家でいちばん親近感をもっている人がバタイユ」と告白している。彼はバタイユのエロチシズム、残虐、侵犯(罪)のテーマに共鳴していた。そこに超絶的なもの(観念的なもの)、すなわち神との出会いの契機があると考えていたのだ。対談のなかでの彼の発言を拾っておく。
[#ここから2字下げ]
三島[#「三島」はゴシック体]――(……)つまり現代生活というものは褻《け》だけに、日常性だけになってしまった。そこからは超絶的なものがない限り、エロチシズムというものは存在できないんだ。エロチシズムは超絶的なものにふれるときに、初めて真価を発揮するんだとバタイユはこう考えているんです。
三島[#「三島」はゴシック体]――さっき申しあげた美、エロチシズム、死という図式はつまり絶対者の秩序の中にしかエロチシズムは見い出されない、という思想なんです。ヨーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエロチシズムは存在しないんです。あそこには厳格な戒律があって、そのオキテを破れば罪になる。罪を犯した者は、いやでも神に直面せざるを得ない。エロチシズムというのは、そういう過程をたどって裏側から神に達することなんです。
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これらの発言からは、三島の理解するバタイユの思想と数日後に決行された三島の自決との類縁性が見えてくる。三島は東京市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地へ乱入、総監を縛りあげ七人の自衛隊員を負傷させるという「罪」を犯して、「裏側から」彼にとっての神である天皇に接近、自らの肉体を滅ぼしてこの聖なる神との精神的合一を果たそうとしたのだった。しかし当のバタイユは、カトリックの神を、半ば俗なる理性的な実体と見ていた。そして聖なるものの「感性的体験」についても、その極限の形式は完全な自害ではなく「小死」と呼ばれる生死の境界線上での曖昧な揺れ動き、横滑りにあると考えていた。
だが実はこのようにバタイユと三島の異同を語るのは容易なことなのであって、問われるべきなのは、もっと根本的なレヴェルにある三島の西欧主義なのである。バタイユをはじめ自分が積極的に摂取した西欧人のものの見方はそのまま日本の社会に適用されうる、そう三島が無批判に信じていたことが問題なのだ。西欧における聖俗の対立は、日本の晴れと褻《け》の対立とは緊張度を異にする。罪の考え方も異なるし、エロチシズムにいたっては西欧人が捉えているようなエロチシズムは日本にはないといっても過言ではない。同様に、人間宣言以前の天皇であってもけっしてキリスト教の神と同等に扱うことはできないのだ。
しかし三島が行った無批判の西欧受容は、一人三島だけの問題ではなく、明治以来今日まで続く日本の知識人の共通の病いだといってよい。バタイユ受容に関してもこれが顕著に見られる。とりわけ一九八〇年代においてはそうだった。
†神秘のヴェールを脱ぐバタイユ[#「†神秘のヴェールを脱ぐバタイユ」はゴシック体]
八〇年代に入ると、バタイユの神聖視およびそれにともなう沈黙主義(バタイユ論はあえて書かないとする態度)は消えうせる。バタイユは神秘的な体験者から一人の二〇世紀の思想家へ脱聖化され、翻訳者を含むさまざまな知識人によってさかんに論じられだす。その発端付近に位置するのが八二年二月号の『現代思想』のバタイユ特集号だとすれば、終局付近にあるのが八六年二月号の『ユリイカ』のバタイユ特集号だということになろう。
一九八一年には、バタイユの諸理論を踏襲し支柱にすえた栗本慎一郎氏の『パンツをはいたサル』が出版され、ベスト・セラーになった。八三年には、バタイユ論を含む浅田彰氏の『構造と力』がこれまた爆発的な売れ行きを示した。このバタイユ論のなかで浅田氏は、バタイユの思想を、近現代の西欧思想の流れのなかに置き、バタイユ後のドゥルーズとガタリの思想に乗り越えられてしかるべきものとして呈示している。カント以来西欧の思想を特徴づけてきた二元論(構造とその外部)による現実把握を抽象的だと断じる氏は、バタイユの思想もまたその系譜に属するとしてこれを斥け、『アンチ・オイディプス』のドゥルーズとガタリにならって、現実を「力の絡み合い」という具体相においてのみ捉えるべきだと主張する。
当時の日本において浅田氏の人気は絶大であったが、難解なドゥルーズとガタリに依拠する氏の主張が真に理解され共感を得られたとはとても思えない。それでもバタイユをもはや尖端的な思想家とは見ないという氏の視点は、知識人を中心に徐々に受け入れられていったと思う。
そもそも一九八〇年代中葉の日本は、大学所属の若手知識人が中心になって西欧の最尖端の思想家に新たな知の可能性を求めてゆくニュー・アカデミズムの風潮の最盛期にあった。そこで注目されていたのは、バタイユよりはむしろ、フーコー、ドゥルーズ、デリダといったポスト構造主義者と呼ばれる現代フランスの思想家たちだった。彼らの新概念がそのまま移入されもてはやされてゆくなかで、バタイユは脱聖化からさらには時代遅れ扱いされるようになってゆく。彼の理論はもはや現代を読み解く尺度を与えてくれない、彼の作品は今では現代の古典だ、そんなふうに思われるようになっていった。アカデミズムによるバタイユ受容への出口氏の危惧が最悪のかたちで現実化してしまったのである。
†アカデミズムの問題[#「†アカデミズムの問題」はゴシック体]
私はバタイユを神聖視する世代には属していなかったし、また八〇年代のニュー・アカデミズムの風潮にもまったく関係していなかった。ただし大学というアカデミズムの機関には東西において所属していた。
八二年にバタイユの主著『無神学大全』をテーマにした修士論文を書き終えたあと私は、さらに勉強を進めるべく博士課程に進学した。八三年には仏政府給費生としてパリ第一大学に留学し博士論文の作成に向かった。このようないわば学究的なアプローチがバタイユに反するとは当時の私は考えていなかった。というのも、バタイユはたしかに西欧の理性のあり方を根源的に批判した人だったが、その批判は単純な反理性主義ではなく、理性を究めることによって理性の圏域から脱出するというものだったからである。
それにしても私が留学中に思い知らされたのは、バタイユ以下、西欧の理性を根本から疑った現代の思想家たちに対するアカデミズム側の人間の冷淡さである。もちろん彼らの作品は読んでいるし、彼らを扱った学位論文もそれ相応の形式を踏んでいれば受け付ける。しかし深い所で彼らの思想とは一線を画していた。たしかに若手の大学知識人のなかには、デリダならデリダの影響下で勉強を進めていた者もいるが、しかしその人たちにしても、先達の思想を自分の拠り所にし彼らとの連続性に安住するというのではなく、逆に彼らと自分の相違を、自分の独自性を打ち出すことに懸命になっていた。このような状況であるから、日本のニュー・アカデミズムのような現象は起ころうはずがない。フランス・アカデミズムの世界において、西欧の理性へのラディカルな批判者たちの思想が手放しで迎えられ熱い共鳴の声でもって語られるなどという光景を、私は計四年半に及ぶ留学体験のなかで一度も目にしたことはなかった。
一般の反応にしても冷淡だった。『バタイユ全集』は、大手のガリマール社より、「今世紀の最も重要な書き手の一人」というフーコーの序言付きで一九七〇年に刊行が開始された(一九八八年に全一二巻をもって一応完結)。しかし、いまだにローマ教皇庁編纂の『カトリック教会の教理問答』なる大部の書物が、発売(九二年一一月)とともに連続九週間売り上げ一位の座を占めるこの国において、『無神学大全』の著者に人気が集まるわけがなく、全集の売り上げ部数はまったく伸びていないという話だった。私が留学した八三年には、ジャン=リュック・ナンシーによる内容の濃いバタイユ論「無為の共同体」が名もない文芸誌に発表され、これに応える形でバタイユの朋友ブランショが『明かしえぬ共同体』という小冊子をミニュイ社から出版していたが、この真剣なやりとりも世間に注目されることなく静かに進行していたのである。
†西欧を相対化する[#「†西欧を相対化する」はゴシック体]
私が博士論文の審査を受け日本に帰国した八七年には、ニュー・アカデミズムの風潮はすでに下火になっていた。バタイユをめぐる動きとしては、バタイユそのものを扱う論文は影をひそめ、八〇年代半ばに始まっていた未邦訳の重要作品を訳出する試みが地道に続けられているところだった。すなわち八五年に『宗教の理論』(湯浅博雄訳)、八六年に『〈非‐知〉閉じざる思考』(西谷修訳)、八七年に『聖社会学』(兼子正勝、中沢信一、西谷修訳)、そして『エロティシズムの歴史』(湯浅博雄、中地義和訳)といったぐあいに。私もまた翻訳にたずさわった。八九年から一年間再渡仏したのち、九〇年末に共訳でバタイユの遺稿作品『至高性』を、九二年に単独訳で『無神学大全』第V巻の『ニーチェについて』を、九四年にバタイユ後期の重要論文のアンソロジー『純然たる幸福』を上梓した。
こうした留学体験と翻訳の作業を通して私は次のような考えに逢着した。
バタイユの西欧批判は理性批判にしろ神学批判にしろ西欧人が触れてほしくない所に突き刺さっている。彼の「感性的体験」も西欧人が見まいとしてきたものを見ようとする体験だ。バタイユがフランスにおいて読まれないことの本質的な理由の一つがそこにある。だが同時にまたバタイユの思想は深く西欧的なのだ。それはドゥルーズの方が進歩的で脱西欧に成功しているということでは全然ない。西欧の思想家が前提にし取り組んでいる問題が西欧的だという意味でのことである。聖なるもの、神、ロゴス、文章表現、他者といった問題は西欧に特有の緊張をはらんでいるのである。それだから、彼らの思想の成果をうのみにして語るという日本の伝統的な西欧主義は疑問に付されねばならない。
バタイユがどの限りにおいて西欧の根源的な批判者なのか、どれほど西欧的であるのか、この重要な問題は、われわれが西欧主義に流されているうちは、いっこうに見えてこないだろう。次々に生まれる西欧の思想に対し、その上澄《うわず》みを無批判に摂取するという態度をとり続けるのならば、当の思想の理解は徹底できないし、われわれ固有の思想も生まれはしない。実存主義、構造主義、ポスト構造主義を積極的に導入したのにもかかわらず、その当事者たちからはそれぞれの思想のパラフレーズのような発言しか聞かれなかった。自分のなかに西欧を相対化するという視点をしっかり据《す》えておかないと、西欧は見えてこないし、われわれも思想を生み出すことができないのである。
さまざまな分野でその根本となる理念を創出する動きがある今日、本家本元の思想の分野の人間が西欧思想の後追いに終始し、エクリチュールだのデコンストリュクシオンだのといった概念を、日本でどの限り根を持ちうるのか精査もせずに平気で用い、時がたてばこともなげに捨て去るというのでははじまらない。西欧思想のうのみ、後追いという西欧主義は実は一種の精神の眠りであり鎖国主義なのであって、そこからは独自の思想の産出は望めない。西欧文明のなかに私たちとの根源的な異質性を(例えば灰汁《あく》の強い人間性を、自我の暴力を)感じこれを意識化する。私の言う西欧の相対化とはそうした西欧への開けのことだ。哲学が不在だといわれるこの日本に今後もしも哲学が生まれるとすれば、それは西欧との接触のなかで彼我の根本的な不連続性に覚醒し、その寄る辺ない状態で思索し続けるという態度からでしかないのではあるまいか。
その一方で私は、まったく矛盾したことに、私たちの内面にもバタイユと連続したところ、近いところがあると考えている。それは若さという要素だ。この場合、若さとは情念の豊かさと、それ故の精神の揺れ動き、さまよいのことである。つまり、精神の安定を得ようと何かしら観念的なものに生の指針を求める、しかしすぐにこれを疑いだす、一つの観念に縋《すが》ってもじきにこれに満足できなくなるという定めない運動のことである(言うまでもなくこれは浅薄な西欧思想の後追いとは次元を異にする)。バタイユの思想の根源にはこうした動きが常にある。私たちのなかに若さがある限り、私たちはバタイユの内面の近くにいて、これに触れることができるのだ。私はいまだに情念が過剰で五里霧中の精神状態にあるが、とりわけ自分の青春を振り返ってこのような考えに至っている。
本書において私は、バタイユを、西欧の近代への批判者として浮き彫りにすることをめざす。彼のさまざまな反西欧近代的な概念(非‐知、至高性など)は先に述べたようにそのままではとても日本の近代性批判には使えないものだ。読者の方々には、この不連続性と、今しがた述べた熱きさまよいにおける連続性とをともに感じていただきたい。そのために私はできるだけ平易に書くことに努める。難解なことを難解なままに語るのは実は容易な作業なのであって、平易に語ることにこそ困難は伴うのである。この困難さを避けてきた知識人への批判意識も私のなかに働いている。入門書はその意味で努力の場であり、試練の場であると考えている。
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【第一章】[#「【第一章】」はゴシック体]
信仰と棄教[#「信仰と棄教」はゴシック体]
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1 生涯と作品[#「生涯と作品」はゴシック体]
†第一期(一八九七―一九二七)――混乱期[#「†第一期(一八九七―一九二七)――混乱期」はゴシック体]
ジョルジュ・バタイユは、一八九七年九月一〇日、フランス中部の山岳地帯オーヴェルニュ地方の小さな町ビヨンで生まれた。父親はこのときすでに梅毒を患《わずら》っていて全盲状態、兄弟に七歳年上の兄マルシャルがいた。肉体も精神も徐々に滅んでゆくこの父親の存在はバタイユの少年期を混乱に満ちたものにし、その後の思想形成にも重大な影響を与えた。
第一次世界大戦勃発直後の一九一四年八月カトリックに入信、敬虔な信者になっている。
一九一六年動員されるが、戦場へ行く前に発病(肺結核)、直接野戦病院へ連れて行かれた。復員後の一九一八年には、処女作となる護教的で情熱的なエッセー『ランスのノートル・ダム大聖堂』を少部数出版。同じ年、パリの古文書学校に入学し、中世の文献の研究に向かいだす。成績は概して優秀だった。
一九二二年、パリ国立図書館に司書として就職。ニーチェ、フロイトの著作に読み耽る一方で、遊蕩《ゆうとう》にも耽り始めた。二四年(二七歳)にはもはや完全に信仰を棄てていた。
この頃からシュルレアリスム運動に接近するが、運動の正規のメンバーにはならなかった。当時の彼は精神的にきわめて不安定な状態が続き、ついには精神分析の治療を受けるに至っている。結局、棄教後から一九二七年(三〇歳)まで、バタイユは数本の学術論文以外、何も発表できずに終わった。
†第二期(一九二八―三九)――過渡期[#「†第二期(一九二八―三九)――過渡期」はゴシック体]
一九二八年はバタイユにとって公私ともスタートの年だった。まず、一一歳年下の女優シルヴィア・マクレスと結婚している(三四年に両者は離婚、シルヴィアはジャック・ラカンの妻になる)。初めての小説『眼球譚』の執筆、出版もこの年である。最初の思想的な論文「消滅したアメリカ」も雑誌に発表している。
二九年になると文化総合誌『ドキュマン』を主宰し、毎号論文を発表して、西欧伝来の観念論を辛辣に批判した。これがシュルレアリスム運動の主導者アンドレ・ブルトンの神経を逆撫《さかな》でするところとなり、激しい非難の応酬に発展する。
三一年『ドキュマン』が廃刊になると、反スターリン主義の左翼政治集団〈民主共産主義サークル〉に加入、三四年の解散までその機関誌『社会批評』に斬新な論文を発表し続けた。なかでも「消費の概念」、「国家の問題」、「ファシズムの心理構造」は重要。
一九三六年、内外のナショナリズムに反抗する政治団体〈反撃《コントル・アタツク》〉を結成。この団体はしかし、半年あまりの活動で瓦解する。バタイユは一転、政治には背を向けて、宗教の世界へ走ってゆく。宗教とはいっても神が不在の宗教である。意識のなかに現われる形もなければ意味もない何ものか、恐怖と快感の矛盾した感覚として火花のごとく輝き消えてゆく神秘的な何ものか、この聖なるものを彼は秘密結社〈無頭人《アセフアル》〉とともに、密儀秘祭によって追求した。同名の雑誌も発行し、三七年には社会における聖なるものの存在理由を考察する講演形式の会〈社会学研究会〉も発足させた。
この時期のバタイユを特徴づけているのは理性に対する激越な反抗だ。理性主義的な道徳や美学に抗って彼は、スカトロジー、残虐行為、病的な妄想、醜さ、浪費、暴力革命を積極的に肯定している。〈無頭人〉なる名称にも、人間の頭部の存在およびその働きへの彼の憎悪が現われている。だがこうした反理性主義は、激越である分、思慮に欠けるものになっていた。バタイユは知らず理性の働きに与《くみ》し、非理性的なものを純粋なかたちで救えずにいた。聖なるものを、強力な権威、支配者道徳、有形な共同体(の組成)に関係づけるという誤謬を犯していたのである。バタイユに理性への省察を深める契機を与えたのはアレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル哲学講義だった(彼の受講期間は三四年から三九年まで)。バタイユはヘーゲル的なものを自分のなかに、そしてニーチェのなかにも見出して、先の誤謬を正してゆく。が、この修正を完成に導いたのはブランショだった。
†第三期(一九三九―四五)――絶頂期[#「†第三期(一九三九―四五)――絶頂期」はゴシック体]
一九三九年九月に始まった第二次世界大戦は〈無頭人〉と〈社会学研究会〉を解散に追い込み、バタイユは孤立する。ナチス占領下のフランスで彼は対独抵抗運動にも対独協力にも関わらず、一人「内的体験」と称する神秘的な瞑想体験、感性的体験に耽り始めた。
一九四一年の冬に出会ったモーリス・ブランショは、バタイユに、内的体験はそれ自体が権威であり価値である、ただしこの権威・価値は持続せず体験の終了後に異議申し立てされると指摘。バタイユは、この指摘はそれまでの自分の考えを正すとともに西欧の宗教と哲学にコペルニクス的転回をもたらすと判断し、ただちに新たな思想の練り上げに向かった。そうして生まれたのが「非‐知の哲学」、「好運への意志」と命名された彼の思想であり、『内的体験』(一九四三)、『有罪者』(一九四四)、『ニーチェについて』(一九四五)という作品である。
その詳しい内容は後で見てゆくが、重要な点は、「内的体験」において聖なるものがそれ本来の性格である偶然性、瞬間性、主観性、無用性(無意味さ)を回復するようになるということである。人間の理性の働きは、聖なるもののこれらの本性をすべて逆転させ、聖なるものを必然的で持続的なものへ、物のような客体へ、何かに役立つものへ、変えてしまうのだ。「内的体験」の極限でバタイユは、内部から溢れ出る非理性的な力《フオルス》に従って、こうした理性の働きと闘争してゆく。これは同時にニーチェの「力《ピユイサンス》への意志」との戦いであり、また同じく力《ピユイサンス》の思想であるヘーゲルの弁証法との抗争でもあった。
バタイユは聖なるものの本性に身をまかせながら、聖なるものについて思索を進めた。そのため彼の思索は偶発的で瞬間的なものになった。こうした思考の不連続な展開を、彼はさらに断章(アフォリズム)という表現形式を用いて、忠実に写し出そうとした。断章形式で書いた思想家は西欧史上にあまたいるが、バタイユの断章は文章の引き裂かれた体裁といい、内容の緊迫感といい、独自の境地を行く。彼以後も、少なくとも今のところは、これに匹敵するものは書かれていない。『無神学大全』(先の三作品の総題)のバタイユは、思想とその表現において、彼自身の個人史だけでなく、西欧の思想史全般においても、一つの頂点に達したといってよい。
†第四期(一九四六―六二)――明晰性の時代[#「†第四期(一九四六―六二)――明晰性の時代」はゴシック体]
第二次世界大戦が終わると、それに応じるかのようにバタイユの実生活も安定してくる。ディアーヌ・コチュベ・ド・ボアルネと新たに結ばれて夫婦生活に入り(正式の結婚は一九五一年)、持病の肺結核からも快癒して四七年には図書館員に復帰(四二年から休職していた)、初めは南仏カルパントラ図書館の管理職に、次いで五一年にはオルレアン市立図書館の館長に就任し以後死の半年前までその職にあった。
一九四六年に創刊した月刊の書評誌『クリティック』も、発行部数はサルトルの『現代《レ・タン・モデルヌ》』には遠く及ばないものの、高い評価を受け四七年には年間最優秀雑誌賞に輝いている。
一九六二年七月八日、頸部動脈硬化症で死去するまで、とくにこの病いが進行し始める五〇年代半ばまで、バタイユの執筆活動は旺盛だった。この時期の彼の作品の特徴は二点ある。まず、『無神学大全』のような、内的体験とそれに発する哲学的思想を息詰まる断章で綴る作品は影をひそめ、冷静で論理的な著作、いわゆる理論書が多くなるということである。第二点は多様な分野にわたって作品が書かれているということである。
この時期の彼の主要作品をあげてみよう。一九四九年には経済学原論『呪われた部分』(これはのちに『蕩尽』と改題される)、五七年には性の問題を考察した『エロチシズム』、遺作となった、聖なるものをめぐる政治制度史・社会史の考察『至高性』(以上三作をもって『呪われた部分』と題する著作群を作る構想をバタイユは持っていた)、同じく遺作だが四八年頃書かれた『宗教の理論』、五五年には二つの絵画論『ラスコーの壁画』と『マネ』が出版されている。五七年には文芸評論集『文学と悪』、五九年には中世の貴族ジル・ド・レの残虐行為の歴史的意味を問うた『ジル・ド・レ訴訟』序文、六一年には先史時代から現代までの絵画表現におけるエロチシズム史を扱った『エロスの涙』が上梓された。その他『クリティック』を始めさまざまな雑誌に厖大な数の論評が発表されている。小説作品としては『C神父』(一九五〇)、『不可能なもの』(一九六二)、『わが母』(遺作)も執筆された。
こうした多数を占める理論書の根本の主旨は何だったのだろうか。まず指摘しておくべきことは、『無神学大全』で語った聖なるものの体験と省察が宗教と哲学だけでなく、その他多くの人間の活動分野で重要な意味を持っているとバタイユが確信していたことである。彼はさまざまな分野で聖なるものが重要な機能を発揮している、あるいは発揮しうると考えていた。次に大切なのは、各分野での聖なるものの意味に対する一般読者の覚醒が急務だとバタイユが判断したことである。寸断されたアフォリズム表現よりも理解が容易な論理的表現にバタイユが頼った理由がここにある。そして最後に、なぜこの覚醒が急務であったかというと、それは、戦後の冷戦のなかで第三次世界大戦(それも核兵器を使用しての)の可能性が高まっていたからである。バタイユは聖なるものへの意識不足が戦争につながると考えていた。聖なるものへの覚醒を促して西欧を、いや、人類を救うという視点がこの時期のバタイユの根底にはあったのだ。
2 ベル・エポックと父親[#「ベル・エポックと父親」はゴシック体]
†バタイユが生まれた時代[#「†バタイユが生まれた時代」はゴシック体]
バタイユは、一八九七年ベル・エポック(良き時代)の訪れとともにこの世に生まれ出た。西欧先進諸国が自国内において平和と物質文明の繁栄を享受した時代、第一次世界大戦が勃発するとき(一九一四年)まで続いた西欧の幸福な時代、この時代の幕開けにあたる年に彼はフランスに生まれた。
産業革命においてフランスは、イギリスにくらべ後発であったが、一八七〇年代には工業の中心を軽工業から重工業に移す第二次産業革命を達成させている。九〇年代には、地方に至るまでの鉄道網・銀行網の形成、都市の整備と拡大、労働関係法の制定などを終えて近代産業国家の骨格を持つようになっていた。しかし他方、フランスは他の西欧諸国と同様、一八七三年から九六年まで、長期の大不況にみまわれていた。この大不況は資本主義が新たな段階を迎えるための過渡期と理解されている。
ともかくバタイユは、フランスが長期の不況から脱出し好況に転じた最初の年、近代産業国家の骨格をバネにして未曾有の経済発展を遂げてゆくその初めの年に生を授かった。
†理性的人間への信頼[#「†理性的人間への信頼」はゴシック体]
ベル・エポックにおいては、程度の差こそあれフランス国民の大多数の者が物質文明の恩恵に浴した。彼らは物質文明をもたらした科学の力、より根源的には人間の理性の力に全幅の信頼を寄せていた。フランス人が理性に信頼を寄せるようになったのは、むろんベル・エポックからのことではない。淵源は一七世紀のデカルト哲学、古典主義文学・芸術に求められようが、一般的になりだしたのは一八世紀半ば以降である。すなわち一八世紀後半の啓蒙思想、これを受けた大革命期の政治、その後のブルジョワ文化がきっかけになって、人間の理性は尊重され称揚されはじめた。
ベル・エポックにおいてはこの理性信仰がより広汎に国民の間に行き渡ってゆく。これには、一般の日常生活に役立つ(あるいはこれを潤す)工業製品の普及ということのほかに、パストゥールやキュリー夫人などの科学者の際立った功績も影響している。
科学(とくに自然科学)の発展は、自然の未知の部分をどんどん消し去って、人々に自然への怖れを減じさせ、自然に対する人間の優位を確信させていった。自然は克服しうるという楽観的な展望を多くの人に与えたのだ。
人間理性への信頼は、公教育の局面では、理性的人間を生み出す制度の確立という具体策に発展してゆく。この公教育の理念は大革命期、第一共和政時代に明文化されるが、制度化されるのは、やっと第三共和政の時代において、つまりキリスト教会側の干渉を打破した一八八一年と八二年のフェリー法(初等教育の無償化、義務化、非宗教化)においてである。この法案は「科学と理性の学校」(フェリー自身の言葉)の創設をめざしていたのであり、そこには時代とともに増してきた科学崇拝、理性信仰の精神も影響していた。
科学崇拝、理性信仰の隆盛は、大学を中心とする高等教育の世界、とりわけそのなかの人文系の学問分野にも影響を及ぼした。そこでは実証主義の傾向(つまり直観や感受性、印象といった主観的要素を極力排して史実や史料などの客観的データをもとに厳密、冷静に考察を進めてゆく傾向)が主流になってゆく。バタイユが通うことになるパリの国立古文書学校も、実証主義的文献研究の牙城になったところだ。
†ナショナリズム[#「†ナショナリズム」はゴシック体]
バタイユが生まれた時代は、ナショナリズムの高まりによっても特徴づけられる。
フランスにおける近代ナショナリズムの誕生はフランス革命の時代にさかのぼる。フランス人による不可分の国家統一体、いわゆる国民国家の考えがこの時代に打ち出された。
この国民国家主義としてのナショナリズムはとりわけ一八七〇年代からは右翼、国粋主義、人種差別という狭隘な様相を帯びて時代の重要な思潮になってゆく。その基底にあったのは普仏戦争の敗北に端を発する対独復讐感情だった。
フランスの狭隘なナショナリズムは、一九世紀末の国内の一大|騒擾《そうじよう》であったドレフュス問題に大きな影を落としている。ドレフュス事件(一八九四年ユダヤ系フランス人将校アルフレッド・ドレフュスがドイツへの軍事機密|漏洩《ろうえい》という事実無根の嫌疑を軍部よりかけられて軍法会議で終身刑に処された冤罪《えんざい》事件)は、ちょうどバタイユが生まれた九七年から、再審請求を主張するドレフュス派(急進党系政治家、社会主義者、進歩派文化人)とフランス国家・軍隊の威信を擁護する反ドレフュス派(国粋主義者、反ユダヤ主義者、王党派、カトリック勢力)との間で国をあげての大論争に発展したが、その経過は反ドレフュス派が良しとする方向で長らく進んだのだった。
他方ナショナリズムは帝国主義という相貌も持った。帝国主義は広いナショナリズムといえる。広い≠ニいうのは、他国・他民族の方へ出ていってこれを自己に同化・吸収し、自己の拡大をはかるという意味でのことである。自国民と自国を絶対視する態度は国粋主義の場合と同じだ。
フランスは一八五〇年代から、植民地化、保護国化、特殊権益の獲得、租界・租借地の設定などの手段によって、アジアとアフリカに勢力の拡大をはかっていた。八〇年代に教育改革策を進めた共和主義左派の政治家ジュール・フェリーは、また植民地獲得策を積極的に展開した人でもあった。フェリーにしてみれば、この二つの政策にいささかも矛盾はない。理性的人間を育成することと啓蒙思想に則して革命を成し遂げた理性大国フランスの拡大をはかることとは連続したことだった。理性の肯定は善だという思想が彼を支えていたのだ。アジア・アフリカの諸地域をフランス化することは、野蛮を文明へ導く善行だと彼は信じていたのである。これは一人フェリーだけの問題ではなく、第三共和政(一八七一―一九四〇)を指導した政治家たち、彼らを支持した国民に共通の態度だった。
帝国主義というナショナリズムはフランスだけでなく、一九世紀半ばから第一次世界大戦までの欧米各国に顕著に見られた現象である。二〇世紀初頭までに地球上のほぼすべての地域が帝国主義下の西欧列強によって分割され、それぞれの支配を受けるに至っていた(残余の地域もヨーロッパ的政治体制の施行を強要されてヨーロッパ化していった)。それ故その後は同じ地域の権益をめぐって西欧諸国が相争うようになる。フランスとドイツはモロッコをめぐって一九〇五年から対立を深めていた。一九一四年六月のサラエヴォ事件をきっかけにドイツは八月にフランスに宣戦布告、フランスは右翼から左翼までいとも簡単に結集して祖国防衛のための挙国一致の体制(ユニオン・サクレ)を形成した。こうして始まった第一次世界大戦は西欧帝国主義列強間の「内乱」といわれている。
†バタイユの父親[#「†バタイユの父親」はゴシック体]
さて、バタイユはこのようなベル・エポックの初頭に生まれたわけだが、成年に達するまでのその後の彼の人生はベル・エポックとは正反対の悪しき道行き、日に日に不幸の度を増す暗き旅路となる。第一の原因は彼の父親にあった。
バタイユの父親ジョゼフ=アリスティッド・バタイユは、バタイユが生まれる前に梅毒に感染していて、そのためバタイユの誕生のときにはすでに全盲になっていた。バタイユの父親は公務員(収税吏)であったが、全盲となったのちこの職業を全《まつと》うしえていたとはとても思えない。バタイユ家は一九〇〇年頃北フランスの一大都市ランスへ移り住む。彼らは、個人主義が行き渡り人間関係が希薄になった近代の大都会のなかに身をひそめるように暮らした。彼らの親戚縁者はランスには一人もいなかった。
ランスは古代ローマ時代の昔から栄えていた都市だ。早い時期に大司教座が置かれ、歴代のフランス王の多くがそこの大聖堂(一三世紀に壮麗なゴシック様式に改築されている)で戴冠の儀式を行っている。一六世紀には大学も建てられた。大革命以前からすでにランスは、北フランスの代表的な総合都市になっていた。ベル・エポックには人口一〇万を越えている(当時のフランスで人口一〇万以上の都市は一六しかなかった)。
ランスでバタイユは、大都市の繁栄や華やかさとは逆の生活を送ることになる。
梅毒は当時まだ死に至る病いだった。それも、肉体と精神を徐々に、そして残酷に滅ぼしてゆくきわめて痛ましい病いだった。視力を奪われたあと、バタイユの父親は梅毒のため今度は脊髄癆《せきずいろう》を患《わずら》うようになる。四肢の自由がきかなくなる病いだ。全盲で全身不随ではもはや大小便すら一人ではままならない。バタイユは子供のときから父親の介助にあたらされ、そのたびごとに難儀する父親の姿、その醜悪な表情、不潔なありさまを見せつけられ、不快な衝撃を胸に刻みつけられた。時は「パストゥール革命」の波及効果で、市民生活の衛生度の向上が声高に叫ばれていた時代である。理性的人間の生活の重要な要素として清潔感、美しさが積極的に追求されていた。バタイユの父親は、このような時代の流れに逆行して、日々粗相を繰り返し汚物にまみれて、非理性的な人間に、いや野蛮な生き物に転落していった。
この父親はそもそも面差しからして醜く、息子を威嚇《いかく》した。「父は先の尖った、手入れの悪い、灰色の口髭《くちひげ》を生やし、鷲《わし》のような大きな鼻と、じっと虚空を見つめる、くぼんだ大きな眼をしていた」(『息子』)。父親の眼は、とりわけ排泄行為の際には大きく見開かれ、さらには瞳が上にあがって白眼に変貌してしまうのだった。こうした父親の鷲のような顔、白眼に転じる大きな眼は、少年バタイユの心に鮮明に焼き付き、おぞましさの強迫観念となって彼の内部に棲みついてゆく。彼の最初の小説『眼球譚』の主題の源泉は、父親の醜悪で汚濁にまみれた排泄行為と巨大な白眼とにある。
年を追うごとに父親の肉体は脊髄癆の進行で痛々しく滅んでいった。ついには父親は下肢に走る電撃性の疼痛《とうつう》から獣のような叫びを発するようになった。やがて精神も異常の兆しをみせ、しばしば突拍子もない言葉や意味不明の呪文をわめきちらすようになる。父親は間欠的に狂気の発作を起こすようになったのだ。こうした父親を襲った身心の崩壊はそのまま家庭の崩壊につながってゆく。母親は絶望のあまり何度か自殺を試みた。バタイユの証言によれば、河に飛び込んだり、屋根裏部屋で首を吊ろうとした。そうしたなかで、バタイユの精神も揺れ動き、安定を失ってゆく。学業などにはとうてい身が入らず、近くの田野にさまよい出る日が続き、ついには高校から放校処分を受けてしまう。
†近代西欧の外側[#「†近代西欧の外側」はゴシック体]
すでに述べたように一八世紀後半からフランスでは人間理性への信頼が高まっていた。一九世紀末からのベル・エポックにおいては特にそうであった。こうした事情は、他の西欧諸国においても同様だったといってよい。理性の力を万能として信じ、理性的人間の進歩と幸福を確信する理性主義的傾向は、近代西欧の一般的な特徴だった。
この世に生まれ出てからバタイユが毎日体験させられたのは、そのような近代西欧人の理性への信仰が覆《くつがえ》される世界、非理性が理性を上回り理性の力が絶対的なものとして信じられなくなる世界だった。
理性的人間を文明人として称《たた》え、これを増産させようとしていた時代に、バタイユの父親は、自ら理性的人間を崩壊させ、狂気と野蛮を体現していった。科学の力に訴えて有益な物を作り出し、また理性的物体としての個人と国家を成長させようとする実体信仰(確固たる物への信仰)の時代に、バタイユの父親の肉体、この個物はどんどんと解体していった。それとともに家庭という実体も壊れていった。
病いとは、考えてみれば、自然の非理性的な力が人体で発揮され、これを次第に(あるいは一挙に)滅ぼす現象である。医学や生物学、物理学といった自然科学がめざましく進歩し、自然界が人間の理性の力によってどんどん照らし出され開拓され、理性の軍門に下っていた時代に、バタイユが父親を通して見ていたものは、むしろ人間の理性の弱さ、自然の非理性的な力の強さだった。
要するにバタイユの父親体験は、近代西欧のさなかにありながらこれを限界づけて眺められる地点に、近代西欧を相対化しうる所に、近代西欧の外側に、彼を立たせていたという点で重要なのである。バタイユの思想の一大特徴は近代西欧への批判というところにある。彼の父親体験は後年の彼の思想にとって一個の重要な拠点になった。彼は終生父親のおぞましさが忘れられずにいた。死の前年にあたる一九六一年、バタイユは唯一人の兄マルシャルに、手紙のなかで、幼少年時代の父親との共生についてこう書いている。「くだんの事態〔=父親との共生〕から私は、当初、気が狂うまでになりながらやっと生へと抜け出たのでした。〔……〕五〇年前の出来事はいまだに私を震えあがらせているのです」。
3 信仰[#「信仰」はゴシック体]
†ベル・エポック期の信仰の状況[#「†ベル・エポック期の信仰の状況」はゴシック体]
バタイユは、一九一四年八月、第一次世界大戦勃発直後にランスの大聖堂でカトリックに入信している。信仰に篤い家庭であったわけではない。父親は無宗教の人間で、死に臨んでは司祭の立ち会いを拒否したという。他方母親は信仰に無関心だった。
このようにキリスト教に深くかかわらない家庭はベル・エポック期にはふえていたようだ。そもそもフランス大革命は、カトリック勢力を含む旧体制《アンシアン・レジーム》へのブルジョワジーと一般民衆の反抗であったのであり、非キリスト教化の運動は第一共和政下で官民あげて激しく燃え上がった。その後一九世紀を通じ旧体制派は何度も巻き返しをはかり共和政の進捗をしばしば阻害することになる。しかし結局、第三共和政の時代になると教会側は力を失ってゆき、共和政府との妥協の道(いわゆる|ralliement《ラリマン》)を模索してゆく。ついに一九〇五年には政教分離法案が採択されて、教会側の勢力範囲は狭く限定されてしまう。
こうしたキリスト教の衰運には、国民一般における合理主義の浸透が大きく作用していた。もはや神の力に頼らなくても、人間理性の力、科学の力で幸福に生きてゆけるという確信が広まり始めていたのだ。都市のブルジョワジー、男性労働者にとくに教会離れが目立つようになる。ミサのために教会へ通う熱心な信徒の数は減少の一途をたどった。
だがその反面、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、文化人のなかには合理主義に染まった近代西欧に反抗して、神秘主義へ、最終的にカトリック信仰へ向かう者が少なからずいた。例えば作家のユイスマンスは小説『彼方』(一八九一)で神秘主義への傾斜を、続いて小説『大聖堂』(一八九八)ではカトリックへの愛着を露《あら》わに表明している。叙事詩『ジャンヌ・ダルクの愛徳の聖史劇』(一九一〇)の作者ペギーも同様の軌跡をたどった。
他方、第一次世界大戦が勃発するとにわかに、教会へ行きミサに参列する人が増加した。これは、戦争に際し自分自身や親族への加護を神に願う気持ちが一般の間に高まったことによる。例えば一九一四年八月のランスの大聖堂には毎朝兵士たちがつめかけ、大司教の説教に聞きいったという。フランスのカトリック教会(共和政主導の挙国一致戦時体制にすぐさま協力していた)にとって、これは信仰の復活として歓迎すべき事態だった。
†バタイユの場合[#「†バタイユの場合」はゴシック体]
合理主義が浸透したこの時代にバタイユはカトリックへ帰依したわけだが、その理由には今語った二つのカトリックへの回帰の動きと重なるところがある。
一九一四年八月の時点ですでにランスの情勢は緊迫していた。八月三日、ドイツはフランスに宣戦布告しただちに「シュリーフェン作戦」を展開、ベルギーに侵攻してそこから弧を描くようにしかし電撃的な速さで大軍を南下させ北フランス国境に迫った。国境からランスまでは一〇〇キロしかない。ランスに集結したフランス軍兵士がミサのため大聖堂に足を運んだのは、このような交戦が間近に迫った状況のなかでのことである。バタイユが大聖堂で入信したのも、ちょうどこの逼迫《ひつぱく》した雰囲気のなかでのことだった。
八月末にはランスは最前線の都市になる。市当局は住民にランスからの退去勧告を出し、多くの市民と同様バタイユ一家もこれに従った。ただしランスから脱出したのは彼と母親だけである。父親はランスに残したままだった。兄のマルシャルはすでに出征していた。
おそらく父親は、かろうじて残存していた理性に訴えかけて、妻と息子をランスから発つように命じたのだろう。母親とバタイユは母親の故郷であるオーヴェルニュ地方の小村リオン=エス=モンターニュへ旅立つ。その数日後、ランスはドイツ軍の猛爆撃を受け、市街は壊滅状態に陥った。バタイユの父親はこの戦火を免れたが、しかし相変わらず最前線にあるランスで、家政婦一人だけに看病されながら、家族と二度と顔を会わすことなく、一九一五年一一月息をひきとった。戦争のため余儀なくされたとはいえ、またたとえ父親が命じたにしても、戦地に大病を患う肉親を置き去りにして死なせたことは、バタイユに重大な罪の意識をもたらし彼を生涯苦しめることになる。
†運命からの逃避[#「†運命からの逃避」はゴシック体]
だが彼のカトリックへの入信は、このランスへの父親の置き去りという事件に端を発しているのではない。それより前の出来事だ。にもかかわらず父親と深く関係している。これは要するに、忌まわしい自分の運命(身心ともに崩れてゆく父親の気圏のなかで自分の精神も荒廃し不安定になってゆくという運命)を是非とも回避したい、この運命から自分を救い出したいと欲する気持ちが、彼を信仰へ駆り立てたということである。
「私の信仰は逃避の試みでしかない。私は何としてでも運命から逃げたかったのだ。そうして私は父を〔ランスに〕捨てたのだ」(『息子』)。
幼児の頃、バタイユは父を好いていた。だが一四歳の頃(一九一一年頃)になると愛情は憎悪に変わってしまう。父親の病いの進行が原因であることはいうまでもない。戦争が始まる一年前(一九一三年)に父親は狂気の発作を起こすようになるが、そうなるともはや憎悪は恐怖に転じる。彼の精神も生活も激しく動揺し混乱をきたすようになる。
戦争が勃発する年には少年バタイユの気持ちはもう限界に達していた。そこへ追い討ちをかけるようにドイツ軍の進軍である。彼の精神は混乱の極に達していたといってよい。第一に父親のもたらす運命によって、第二に戦争によって生じた精神の混乱を収拾するために、彼はカトリックへの帰依に踏み切った。この段階ですでにバタイユは父親の非理性と死の予兆の気圏に訣別している。精神的に父親を捨てていたのだ。
†神秘主義への傾斜[#「†神秘主義への傾斜」はゴシック体]
バタイユの母方の祖父母はリオン=エス=モンターニュ村の中央に、簡素ながらも広壮な家を持ち、他所に農場も所有していた。比較的裕福な暮らし向きだったようだ。その後のバタイユが学業を続けられたのは、彼らのおかげだったのかもしれない。
第一次世界大戦中のバタイユは、兵役に服した一年を除き、この祖父母の家で暮らした。旧友のデルテイユによれば、彼は「勉強と瞑想の規律を自らに課して、聖人の生活を送っていた」。勉強は、哲学の大学入学資格《バカロレア》を得るための受験勉強だったが、同時に宗教と神学の研究にも向けられていた。他方、彼はごく近所にあった古いロマネスク様式の教会に足繁く通い、暗い堂内の十字架上のイエス像の前で祈祷と瞑想に耽った。
キリスト教は第一に、神の愛による人類の救済を説く宗教だ。天の神(父としての神)は、人類の罪を贖《あがな》うためにイエス(子としての神)を地上につかわし、その身を一度滅ぼさせた。言い換えれば、イエスは人類への神の愛を体現して、罪深き人類の身代わりになって十字架上で死したということである。キリスト教はこうした神の愛に感謝すること、愛をもって応えることを信者に求めている。
祭壇上のイエスの磔刑《たつけい》像を前にしての祈りと瞑想は神に対する信者の愛の表明である。もっと正確に言えば、神が人間に寄せる愛と人間が神に寄せる愛との交流である。信者が高い情熱の持ち主だった場合、この愛の交流は、しばしば、激しくまた神秘的なものになる。この信者は、我を離れて恍惚境に達し(仏語の恍惚=bextase《エクスターズ》 の語源はギリシア語のektasis、自分の外に立つこと≠ナある)、神との神秘的合一《ウニオ・ミステイカ》に至る。リオン=エス=モンターニュのバタイユも、こうした神秘的体験に到達していたのだろう。
むろんその一方で彼の信仰は、父親との共生で壊れかかった精神を建て直すこと、さらには父親をランスに置き去りにした罪の責め苦から救われることをめざしたものだった。一言で言えば、理性的個人の回復が重要な要件になっていた。
神秘的体験は、基本的にこれとは反対の運動だ。理性的な自我から抜け出てゆこうとする運動である。若いバタイユは、ユイスマンスやペギーのように、カトリック信仰に、近代の西欧が忘れていた神秘主義を求めてもいた。
彼の信仰はこうした相矛盾する二つの傾向を持っていた。このことは、彼の事実上の処女作『ランスのノートル・ダム大聖堂』(六ページ程の小冊子で棄教後のバタイユによっては一度も言及されず、彼の死後数年して再発見された)にも見出せる。
†『ランスのノートル・ダム大聖堂』[#「†『ランスのノートル・ダム大聖堂』」はゴシック体]
バタイユは、一九一七年、カトリックの瞑想体験をより徹底的に追求するために、オーヴェルニュ地方のサン=フルールの神学校に寄宿生として入学する。将来、司祭か修道士になろうかとも考えていたらしい。『ランスのノートル・ダム大聖堂』は翌年サン=フルールの出版社から少部数限定で出版された。一種のエッセーである。主題は、第一次世界大戦で疲弊したフランスの青年たち、とくにオーヴェルニュの若者たちに向けた情熱的で敬虔《けいけん》な激励である。古文書学校時代の学友アンドレ・マッソン(画家のアンドレ・マッソンとは別人)は最初の読者の一人であったが、彼によればこの小品は「最も不出来なユイスマンスの作品に似たもので、一つの熱情に、やがてまったく別の理想に向けられることになる一つの熱情に刻印されている」となる。ともかくバタイユの信仰の二つの側面――精神の救済と神秘主義への傾斜――がよく読みとれる。
[#2字下げ] 我々の間には、あまりに多くの苦痛、あまりに多くの暗闇がある。〔……〕我々の死の日は、盗人のように、前々から我々を窺《うかが》っている。それ故我々は慰めに飢えた者になっている。たしかに神の光は我々すべてのために輝いているのだが、我々は日々の不幸のなかでさまよっている。〔……〕ところで或る日、私は、みすぼらしくこの不幸を嘆いていたときに、友人から「ランスの大聖堂を忘れるな」と言われ、すぐさま大聖堂を思い起こしたのだったが、そのとき追憶のなかの大聖堂はあまりに崇高であったため、私は、自分自身の外へ、永遠に新しい光のなかへ、投げ出されたような気がしたのだった。私はこのとき大聖堂を、神が我々に残した最も高く素晴しい慰めとして見た。そして私は、たとえ廃墟になっても大聖堂は我々のなかで、死にゆく者のための母親として在り続けるだろうと思ったのである。これはまさしく、独房のなかで長い苦痛にあった至福のジャンヌ・ダルクを慰めていたヴィジョンにほかならない。というのも、かつて彼女は人間たちよりも大きな、すべての不幸よりも大きな欲求で、勝ちほこる光を求めていたのだったが、ランスの大聖堂の鐘は、まさにその彼女のために、どんな忌まわしいときにも絶えずそのような勝ちほこる光のなかで高鳴っていたのだから。私自身このジャンヌ・ダルクのヴィジョンを体験し、四年経た今でも深く動かされているのであるが、このヴィジョンこそ、陽光にまとわれたランスのノートル・ダム大聖堂とともにあなたたちの欲求に私が捧げる光なのだ。
この作品の底に横たわる基本的な図式は、暗闇(死、不幸、失意)対光(生命、幸福、希望)の対立である。そして基本のテーマは、暗闇から光へ出てゆくように若者を励まし促すことである。暗闇は戦争がもたらしたものだ。ランスの大聖堂もドイツ軍の爆撃によって、遺骸《なきがら》のような廃墟と化してしまった。バタイユ個人について言えば、暗闇は父親が作り上げていた世界である。他方、光は神が発するものだ。暗闇のなかに沈んでいたバタイユは、ランスの大聖堂を恍惚的に追想することによって、この光と交わり、壊れかけていた精神を建て直すことができたのだった。
ここで注目すべきなのは、本来恍惚は、理性的精神からの離脱の運動(そしてその結果の境地)であるのに、理性的精神の再建に貢献しているという点である。なぜこのようなことが起きるのだろうか。それはひとえに光が意味付けされていることによる。
†神の光[#「†神の光」はゴシック体]
そもそもキリスト教の神が発する光は、我々の肉体の眼で見ることができる自然的な、物質的な光ではない。「光あれ」という神の命令でできた被造物としての光ではない。超自然的で非物質的な光であって、この光は人の眼には見えないキリスト教神の属性の一つになっている。ただし一属性であるため、他の属性(理性、善、愛など)と密接に結びついている。自然の光のように中性的で無意味であることはできないのだ。
バタイユはランスの大聖堂の追想体験のなかで「自分自身の外へ、永遠に新しい光のなかへ、投げ出されたような気がした」のだが、この神の光は、あらかじめ、人を救済するものという意味付けがなされている。神自身の精神とその意図に染められている。それだからバタイユは、この光によって慰められ、更生の機会を得たのだ。
恍惚の体験はバタイユの思想を最初から最後まで貫く大きなテーマである。信仰を棄てたのちも、彼はこの神秘的体験に深く魅せられた。いや正確に言えば、恍惚の体験を一層極めたために、彼はカトリック信仰を棄てるに至った。脱自の行程の果てに、彼はもはや何の意味付けもされていない、無色で純粋な何ものかを、神の光よりももっと純粋な聖なるものを見出して、棄教したのだった。
4 棄教[#「棄教」はゴシック体]
†国立古文書学校[#「†国立古文書学校」はゴシック体]
バタイユがカトリック信仰を棄てるきっかけとなった体験は、一九二〇年九月、彼が国立古文書学校の学生であったときに起きている。まず彼の学生生活がどのようなものだったか簡単に見ておこう。
国立古文書学校(一八二一年パリに創設)は、大学とは別の高等専門教育機関いわゆるグランド・ゼコール(文系・理系さまざまな学校があり、今日までフランス社会の各方面に有能な人材を輩出してきた)の一つで、古文書保管員や図書館司書の幹部候補生を養成することを目的にしている。入学に際しては、大学入学資格《バカロレア》の試験のほかに、かなり難関の入学試験に合格しなければならない。在学の期間は三年半で、その間学生は準公務員扱い、俸給が支給される。主な授業科目としては、古文書学(古い文献の成立過程、言語、様式などを科学的に研究する)、歴史的公文書学、図書分類学などがある。ハードな勉学ののち、卒業に際しては、卒業試験にパスすることと学位論文の提出が義務づけられている。
哲学で大学入学資格を取得したバタイユは、少なくともいっとき大学は哲学科か医学部に進む考えを持っていたようだ。だが経済的理由でこれを断念、国立古文書学校を受験する気になったらしい。むろんそのような消極的な理由が受験の中心的動機ではなかったろう。その点、学生時代の同僚アンドレ・マッソンの証言は貴重だ。同期生のなかでこの分野の勉強に最もすぐれた才能を発揮し将来を嘱望されていたとバタイユを誉《ほ》め称《たた》えたあと(事実バタイユはのちにオルレアン市立図書館長になっている)、彼はこう続けている。
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バタイユが古文書学校に入学したのは、彼がランスの大聖堂を訪れて発見した、そしてまたレオン・ゴチエの『騎士道』を読んで発見したロマンチックな中世に惚れ込んでいたからである。彼は、〈叙任式〉前夜の騎士の精神状態で入学試験を準備していた。言語の研究に情熱を覚え、古典的文章の構造には軽蔑心に満ちていた彼は、ラテン語からフランス語への変移をなす半ば不純正な言葉にすっかり満足していた。「聖女ウーラリ哀歌」は、彼が文献の予習をするときのおきまりの呪文であった。彼はまた、その正確な記憶力で苦もなく覚えた文献学講義のあれこれの長い列挙文を、くぐもった声でうっとりと朗唱したものだった。
古文書学校一年次における彼の愛読書は、レミ・ド・グールモンの『神秘ラテン語』であった。一九二〇年以前のジョルジュ・バタイユという人物は、故に、それ以後彼が体現することになる諸人物とはたいへん異なっていたわけである。しかし両者の間にはつねに共通の点が存在していた。ロマンチックな神秘主義、内的な高揚感がそれである。この特徴は、彼のすべての作品のなかに捜し出せるものだ。
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†野蛮な£世[#「†野蛮な£世」はゴシック体]
この証言にある「ロマンチック」なる語には注意を払ったほうがよい。たしかにバタイユは神秘的な瞑想癖の持ち主であり、甘美な夢想にふける空想家でもあったが、しかしフランス中世への彼の関心は、「ロマンチックな」中世よりもむしろ「野蛮な (= |barbare《バルバール》)..」中世に向けられていた。
まずランスの大聖堂についていうと、この中世の大伽藍《だいがらん》は、その外観の優美さ、壮麗さ故に今ではフランス・ゴシック建築の女王と評されている。しかし中世のゴシック建築それ自体が、その全部が、ヨーロッパではルネサンス以来長いこと野蛮な[#「野蛮な」に傍点]建築物とみなされてきたのである。そもそも「ゴシック」なる語(仏語のgothique)は「ゴート人の」という意味の後期ラテン語 gothicus に発し、この「ゴート人の」という意味には「野蛮な民族の」という軽蔑的な内容が多分に含まれていた。実際、ルネサンス以来の理性主義的な古典主義美学(ギリシア・ローマの美学を範とする)に照らすと、ゴシックの大聖堂は常軌逸脱、怪異、過剰、不均衡という側面が目立って見えてくる。
次にゴチエの『騎士道』であるが、この研究書の主たる目的は、クレチアン・ド・トロワ(一一三五―八三)らの宮廷風騎士道物語に歌われた騎士のイメージ、すなわちキリスト教道徳にそって理想化され美化されたイメージを払い捨てて、中世の騎士の実像をその起源から呈示することにあった。その実像とは、熱きゲルマン民族の血潮を受け継いで勇猛果敢に振る舞う、いやむしろ凶暴残虐な行為に走る封建諸侯の荒々しい姿だった。自分のエネルギーを、生命をも、無益に費やす戦士たちの非理性的な姿だった。
†ラテン語への嫌悪[#「†ラテン語への嫌悪」はゴシック体]
マッソンの証言でもう一つ注目したいのはバタイユのラテン語への関心のあり方である。
まずラテン語それ自体について確認しておくと、ラテン語とキリスト教はヨーロッパ文明の共通の伝統的基盤だということである。ラテン語は古代ローマ帝国内の共通語だったのであり、その帝国の面積は属州を含めると全盛時には今のヨーロッパ(ロシアを除く)のほぼ三分の二に達していた。ローマ帝国がキリスト教を国教に定めたのは西暦三九二年であったが、その頃にラテン語翻訳の聖書のなかで最も重要な『ウルガータ聖書』ができあがっている。以後、ローマ帝国崩壊後もキリスト教はヨーロッパ内に一層普及し、それに応じラテン語も聖職者を中心にして広まっていった。二〇世紀初頭までカトリック教会の公用語はラテン語だった。また中世以来学術語としても用いられ、エリート知識人になるにはラテン語の習得は必須の条件になっていた。フランスの近代ブルジョワジー文化においてもギリシア・ラテンの古典は知的な教養として尊ばれ、ラテン語の授業は中等教育以上で重視された。ラテン語が理解できるということは、ブルジョワジーのステイタス・シンボルであったのだ。庶民階級の人間がブルジョワジーに上昇しようと思ったら、ラテン語学習は避けて通れない関門だった。
国立古文書学校におけるラテン語教育は、教養のためというよりは専門研究のために行われていたが、しかしラテン語の研鑽を積んだ卒業生が、将来、公務員の上級職につきブルジョワジーの上層部の一員になっていた構図そのものは否定しがたく存在する。また、これとは違った見方をして、国立古文書学校こそは古典語重視のブルジョワジー文化の頂点にあった所だといえなくもないだろう。
役立たずの下級官吏の子として生まれ、呪われた家庭に育ち、母方の祖父母の援助でかろうじて学業を続けることができていたバタイユが国立古文書学校を受験したときに、はたしてどれほどこの境遇から上部ブルジョワジーへの上昇の意図に駆られていたかは分からない。しかしともかく彼が同世代の青年たちのなかで人一倍ラテン語を学び、これに習熟して最終的に市立図書館長という社会的に高い地位についたことは事実なのだ。
にもかかわらず彼はラテン語が好きではなかった。ヨーロッパ文明の基盤であるラテン語、近代ブルジョワジーの象徴、その仲間に入るための必要条件であるラテン語を彼は嫌悪していた。とくに、堅固な文法体系に支えられたラテン語の文章構造を憎悪していた。逆に彼が好んでいたのは壊れてゆくラテン語である。マッソンに従えば「ラテン語からフランス語への変移をなす半ば不純正な言葉」だ。この場合のラテン語とは、ローマ帝国領内でほぼ均一の様相を呈していた口語ラテン語(俗ラテン語とも呼ばれる)である。ローマ帝国崩壊後、この口語ラテン語は各地域で特有の変化を遂げてゆく。ロマンス諸語(イタリア語、フランス語、スペイン語、ルーマニア語など)の原点にあたる語、例えば古フランス語は、この変化の果てにできた言語だ。バタイユは、古フランス語へ向けて解体してゆく口語ラテン語の言葉、「半ば不純正な言葉」が気に入っていたのである。ちなみに「不純正な」という形容詞は正式の規則を無視している、これから逸脱しているという意味だが、この形容詞は「野蛮な」という意味を第一に持つ |barbare《バルバール》 という語である。
次にバタイユの愛読書であった『神秘ラテン語』(一八九二年初版)について簡単に触れておくと、この本は、五世紀から一三世紀のキリスト教聖職者、修道僧が教会ラテン語で作った詩を、注釈を付して紹介する試みであった。「神秘」というのは、この場合、彼らの内面の葛藤、魂のなかでぶつかりあう矛盾した欲求、夢想を意味している。具体的に言えば、非道なサディズムと良心の呵責《かしやく》、男色と羞恥心、肉欲と禁欲などの間の相克である。古代ローマのラテン語詩にあるような高潔で堅実な抒情とは程遠い混乱した内面世界のことなのだ。それ故これを詩に表現しようとするならば、古代ローマの正統的な硬直したラテン語表現ではうまくゆかなくなる。彼らが用いた教会ラテン語とは、正確に言えば、「新たな諸感情のために作られた、独立的にして特徴のはっきりした言語で、いかなる古典文法、いかなる規範にも依存せず、ヘブライ語法を浸透させ、民衆の言い回しやイメージを豊富に持ち、堅固にして野蛮《バルバール》、だがその堅固さにおいて偉大であり、|野蛮さ《バルバリー》のなかに神的優美さを漂わす言語」(『神秘ラテン語』「序章」、著者グールモンによって引用されたA・グルニエの言葉)である。
こうして見てくると、国立古文書学校入学前後のバタイユの精神を捉えていたものは、中世文化が持っていた「野蛮さ」、情念の過剰さ、理性的な様式からの逸脱であったことが分かるだろう。この非理性への傾斜は、まもなくすると彼にキリスト教信仰を棄てるように駆り立てる。
†ベルクソンとの出会い[#「†ベルクソンとの出会い」はゴシック体]
バタイユがカトリック信仰を棄てるに至った経緯は、『内的体験』第三部「刑苦の前史」や一九五三年の講演「非‐知、笑い、涙」のなかなどで回想的に語られている。それらの告白を総合すると、彼の棄教は次のようにまとめられる。
一九二〇年九月、二三歳になったばかりのバタイユは、古文書学の研究活動のために、ロンドンを訪れていた。そこで偶然、哲学者アンリ・ベルクソン(当時六一歳)と夕食をともにする機会に恵まれた。しかし会ってみると老哲学者は慎重で、バタイユは話にも人物にも大いに失望した。だがこの会見のために急遽《きゆうきよ》読んでおいたベルクソンの小著『笑い』は、内容面ではバタイユを刺激しなかったものの、彼に笑いを考察の対象にしうるという可能性を示唆した。『笑い』を読んだことにより、バタイユは、以後笑いという情動の体験を対象化し、これに意識を差し向けるようになる。それにつれ、彼のなかでカトリック信仰が相対化されてゆく。笑いの体験が神学の神を乗り越えると彼は思うようになるのだ。「笑いの領域にできるかぎり深く降りてゆく可能性を自分に課して以来、まずその最初の結果として私は、キリスト教の教義が私にもたらしていたすべてのものが、一種の氾濫する潮流にさらわれてゆき解体されてゆくという感じを持ったのです。結局このとき、私の信仰のすべてとこれに結びついた行為のすべてを自分のなかで維持しておくことはまったく可能だと私は感じたのですが、しかしまた、私が被った笑いの潮流がこの信仰を一つの戯れにしてしまい、この戯れを信じ続けることもできるけれども、所詮、この戯れは笑いのなかで示されるもう一つの戯れの運動によって乗り越えられてしまっているとも感じたのです」(「非‐知、笑い、涙」)。「最初の日から私はもはや疑いはしなかった。笑いが啓示であり、世界の深奥を開いて見せてくれるということを」(『内的体験』)。
†笑い[#「†笑い」はゴシック体]
一九二〇年以降のバタイユにとって「世界の深奥」はもはやキリスト教の神ではなくなる。神を超えて存する何ものかだ。それは笑いの体験とともに現われる。
とりあえず、彼ののちの思想に照らして簡単に言っておくと、この「世界の深奥」は、「無 (= |rien《リアン》)..」であり、無意味さ、非理性、戯れ(遊び、真面目さの欠如)を特徴にする。
笑いの体験の本質的な局面の一つは、意味や真面目さを誇っていたものが一瞬のうちに逆に滑稽なものに変化して見えてくるということにあるだろう。
この逆転現象は、ある場合には、当の意味あるもの、真面目なものが自分に破綻を招いたために、あるいは自分で自分の調子を狂わせてしまったために、生じる。別の場合には、より一層大きな意味、より偉大な真面目さに引き合わされたために生じる。が、こうしたコントラストが最もはっきりするのは、周囲がすべて無意味、戯れであるという状況だ。
いずれの場合でも、無意味さ、戯れがはっきり感じられるときに笑いは生起する。言い換えれば人が笑うとき、その人はバタイユの言う「世界の深奥」に遭遇しているのである。
†光のなかの大聖堂[#「†光のなかの大聖堂」はゴシック体]
無意味さ、戯れという「世界の深奥」と対比されると、もはや大聖堂すらも滑稽なものに見えてくる。次の断章は、バタイユが完全に棄教した直後の笑いの体験を回想したものだ。
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二〇歳のとき〔実際は二三歳のとき〕笑いの潮流が私を連れ去った……。私は以前そう書いた〔『内的体験』第三部のことを指す〕。私は光といっしょに踊っている気持ちがしたのだ。同時に私は、自由奔放な肉欲の快楽に耽ったのだった。
かつて世界が、世界に笑いかける者にこれほどよく笑いかけたことはなかった。
私は思い出す。そのとき私は、シエナの大聖堂が、広場に立ち止まった私に笑うように駆り立てた、と言い張ったのだった。「そんなことはありえないよ。美しいものは可笑《おか》しくない。」と人に言われたが、私はうまく説得できなかった。
しかし私は、大聖堂前の広場で子供のように幸福に笑ったのだ。大聖堂は、七月の陽光の下、私の目をくらませた。
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[#地付き](『ニーチェについて』)
ここで語られている光は、『ランスのノートル・ダム大聖堂』で歌われていた光とは違う。非物質的な神の光、キリスト教の教義によって意味付けされた光ではない。肉体の眼で見える太陽の光であって、いかなる意味も持たされていない。ともに踊っている気分にさせる戯れとしての光、「世界の深奥」を分有している光なのだ。
夏のイタリアの燦々《さんさん》と降り注ぐ陽光の下では、シエナの大聖堂はひどく滑稽に見えた。超然とした姿、美を誇るその姿が逆にこけおどしの代物《しろもの》に、一つの遊びに、バタイユには映ったのだ。
†西欧の外側へ[#「†西欧の外側へ」はゴシック体]
かくしてバタイユは西欧文明の二大基盤であるラテン語とキリスト教から離脱してゆく。カトリック信仰に関しては、先の一九五三年の講演(「非‐知、笑、涙」)にもあったように、一九二〇年九月に直ちに棄てたわけではなく、徐々に離れていったようだ。
完全に棄教しキリスト教道徳の拘束から解かれると、バタイユは自由奔放な性の体験に耽った。もともと情念は人並みはずれて豊かに持っていた男である。信仰時代はその豊饒な情念に駆られて恍惚のうちに神との神秘的合一を果たしていたのであるが、棄教後は、情念の自由に一層忠実に従って性の世界へ向かった。忘我、脱自という恍惚の過程は同じだ。しかし脱自の果てに彼が出会っていたものは、神学の神以上に純粋な聖なるもの、つまり贖罪も救いも保証しない意識の特別な時空、喜悦と不安の感情として現われるのだがそれ自体は完全に無意味な何ものかである。いや、何ものでもないものといったほうがよいかもしれない。実体なき、形も持たない「無《リアン》」なのだ。それは、笑いの体験においてバタイユが見ていた「世界の深奥」と同じものである。
近代の西欧は、この「世界の深奥」を見まいとしてきた。「世界の深奥」のありよう、運動、力をしっかり直視しないままに人間の理性の優位を信じ、唱え続けてきた。
バタイユの父親が日々その肉体と精神の解体を通して表わしていたものは、この「世界の深奥」だったといってよい。カトリックへ入信することによりバタイユはそこから逃避したわけだが、棄教し、笑いとエロチシズムの体験に深く入り込むうちに再び父の方へ、「世界の深奥」の方へ接近してゆく。西欧が眼をそむけていたもの、西欧の外側に彼は今やしっかと眼を見開く。そして、そこから、「世界の深奥」と交わることのできる地点から、西欧を捉え直し、西欧の批判へと向かうのだ。思想家バタイユの誕生である。
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【第二章】[#「【第二章】」はゴシック体]
聖なるものと政治[#「聖なるものと政治」はゴシック体]
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1 スペインからシュルレアリスムへ[#「スペインからシュルレアリスムへ」はゴシック体]
†スペインの体験[#「†スペインの体験」はゴシック体]
一九二二年二月、バタイユは学位論文の審査を受け国立古文書学校を卒業した。彼の論文は一三世紀の韻文小品『騎士団』についての文献学的・歴史学的な研究で、資料の処理に若干の問題があったものの、全体的に古文書学校の教官たちの意に沿う実証的で手堅い論文だった。これにより彼は次席卒業の栄誉に輝きマドリッド留学の機会を与えられた。
バタイユは卒業と同時にスペインに発《た》つ。留学の目的はスペインの図書館に所蔵された中世フランスの古文書を渉猟することにあった。留学中彼はこれに真面目に従事した。
彼がスペインの民衆文化に眼を向けるようになったのは、留学開始後数カ月たってからのことである。五月七日、マドリッドのトロス闘牛場に足を運んだバタイユは若手人気闘牛士マノーロ・グラネロの凄惨な死の場面に遭遇した。熱狂的な観衆の見守る中での闘牛士の痛ましい死に立ち会った体験は彼にとって決定的となった。以後バタイユは、死がスペインの民衆文化の鍵を握ると考えるようになる。
スペイン民衆は、一歩間違えば本当に死が生じる、そんな危険な状況を見るのが好きなのだ。死を予感させ不安を覚えさせる光景・雰囲気が同時にまた無上の快楽を与えもするという矛盾した事情をスペイン人は肉体から熟知している。スペイン民衆文化の本質は、死を恐れつつも、この最上の悦楽を求めてあえて死と(その近似表現と)戯れるところにある。闘牛だけでなく、フラメンコ舞踊、カンテ・ホンド(深い歌)と呼ばれる民俗歌謡もこのスペイン人の気質を反映している。バタイユはこのような確信に至ったのだった。
ところで、日常の理性的な生活から死の擬似体験の方へ超出して、最高度の興奮と快感に浸るというのは、恍惚体験の極まった形態だといってよい。バタイユを驚かせたのは、スペインではこの過剰な恍惚体験が民衆規模で行われていること、他の西欧諸国と違って一つの文化を形成しているということだった。
†スペインの非西欧性[#「†スペインの非西欧性」はゴシック体]
バタイユはこのときのスペイン留学を回想してこう述べている。「私は、スペインに数カ月滞在してフランスに戻ったのだが、そのとき、この数カ月間自分はまったく別の精神の世界にいたということを再認識したのだった。フランスとは別の、穏やかでなく優しい現実味もない世界、しかし他方、フランスよりもずっと心を魅了する世界にいたということを私は再認識したのだった」(拙訳『純然たる幸福』所収「スペインの文化」(一九四六)、原題は「アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』について」)。
ここでバタイユが問題にしている相違はスペインとフランスの相違に留まらない。スペインと他の西欧諸国全般との相違に行き着く。彼自身、この論文(「スペインの文化」)の末尾で、欧米先進諸国やソ連に赴いてもスペインでのように「精神の大胆さと自由が到達するものを、際限のない展望のなかで見るということはないだろう」と書いている。
バタイユにとってスペインという場《トポス》は、小説『眼球譚』『空の青』、雑誌『アセファル』の宣言文「聖なる陰謀」などで重要な役割を演じている。その重要性は、結局、スペインが近代の西欧を相対化し批判する拠り所を提供しているということにあった。バタイユにとってスペインとは身近に生き生きと現存する非西欧世界だったのだ。
スペイン以外のヨーロッパでは古くから、ピレネー山脈の向う側(すなわちスペイン、ポルトガル)はヨーロッパではないといわれてきた。その理由としては、スペインが長らくイスラム文化圏にあったこと(七一一年から一四九二年まで)、スペインが産業の近代化に著しく立ち遅れ貧困状態にあったことがあげられよう。
バタイユの眼にスペインが非西欧に見えたのは、先にも述べたように高度の恍惚体験が民衆文化として存在していることにあった。だがこれは煎じ詰めれば、民衆規模で情念が、無益に、非生産的に消費されているということだ。人間の情念の非理性的な発露、ここにバタイユはスペインの非西欧性を感じていた。スペインの近代化の遅れと貧困、スペインに特徴的な過激な無政府主義《アナーキズム》運動もこの角度から理解できると彼は考えていた。
ここまで私は、バタイユが体験した非西欧的なものを幾つかあげてきた(異形の父親、中世の騎士道と言語)が、スペインもその列に加えることができるだろう。
†東方への欲求[#「†東方への欲求」はゴシック体]
バタイユはすでに一九二〇年頃から東洋への旅立ちという考えに取り憑かれていた。スペイン滞在中にもモロッコやチベットへ旅に出る夢を従姉に書簡で打ち明けている。
一九二二年六月、バタイユはパリに戻りパリ国立図書館の司書になるが、そこでも東方への欲求はやまなかった。彼は図書館勤務のかたわら、東洋語学校に籍を置いて、いっとき中国語、チベット語、ロシア語の習得に努力した。
ただし彼のこの傾向は、一九世紀半ば頃からフランスで見られた東洋趣味《オリエンタリズム》とは異なるものだ。後者の東洋趣味では、西洋を相対化するという視点は希薄で、せいぜいのところ西欧文化のなかに東洋的なものを取り込んで西欧文化の活性化をはかる、ひどい場合には西欧の優越を誇示するために東洋を利用するという意図に貫かれていた。
バタイユの東方への欲求がこのような西欧中心主義的な東洋趣味と一線を画していたことは、一九二六年から二九年まで芸術・考古学の学術季刊誌『アレチューズ』(沢蘭属)に発表された諸論文、とくに「ムガール王朝の貨幣」からも窺《うかが》い知ることができる(バタイユの論文はすべて古銭学に関係したものだった――当時彼はパリ国立図書館の賞牌《しようはい》部門、つまり古い貨幣・メダルを保存し展示する部門に配属されていた)。
この論文は形式・内容ともオーソドックスな研究論文であるが、行間からはインドのイスラム皇帝たちの自由奔放さ、熱狂的な振る舞い、残虐さに寄せる著者の共感が読み取れる。近代西欧の道徳が否定していたものを、バタイユは、東洋の貨幣に彫り込まれた図像に発見し、これを肯定しようとしているのだ。
この傾向は、『アレチューズ』とは別の雑誌に発表され、バタイユの思想家としての出発を告げることになる論文、すなわち「消滅したアメリカ」(一九二八)や雑誌『ドキュマン』第一号掲載の「アカデミックな馬」(一九二九)においてずっと鮮明に打ち出される。そしてそこで――正確にはそれ以後の『ドキュマン』掲載の諸論文で――問題にされる非西欧は、もはや東洋に限られなくなる。コロンブス以前の中南米文明、古代ケルト文明、中世フランスの宗教画、紀元後二・三世紀エジプトのグノーシス主義というぐあいに広がってゆく。が、そこへ入ってゆく前に、彼とシュルレアリスムとの関係を見ておこう。
†第一次世界大戦後のフランス[#「†第一次世界大戦後のフランス」はゴシック体]
時代を遡って一九一八年のフランスから眺めてみることにする。
バタイユが国立古文書学校に合格したのが一九一八年一一月八日、それから三日後の一一月一一日にドイツの無条件に近い降服をもって第一次世界大戦が終結している。戦勝国となりながらも、フランスの払った犠牲は厖大だった。兵士の死者だけで一四五万人(一般市民の死者は四万人)、傷痍軍人一二〇万人、物的損害の総額は五五〇億フラン(一九一三年当時の国民所得一四カ月分に相当)に達した。フランスがそれまで経験したなかで最大規模の悲劇的な消費だった。これによりフランスは、戦前の債権国から債務国へ転落する。
にもかかわらず、戦争への根本的な反省はフランス国民の間に生まれなかった。甚大な損失を出したとはいえ、またアメリカの資金援助・参戦協力があったとはいえ、勝利は勝利であり、しかもそれはドイツに対する勝利であった。勝ちをもたらした体制・文明のあり方への疑いは生ぜず、第三共和政はそのまま支持された。国民の大多数は「ベル・エポック」への回帰を欲し、その資金をドイツに賠償金という形で支払わせようとした。言い換えれば、フランスは帝国主義的欲求を敗戦国ドイツにつきつけたのである。ヴェルサイユ条約(一九一九年六月二八日調印)には、ドイツに対するフランスの領土的・金銭的要求がかなり露骨に盛り込まれた。これが今度はドイツ国民のなかにナショナリズム、反仏感情、ヴェルサイユ体制打破の気運を生み出し、彼らを再度、軍事力を背景にしての領土獲得運動へ、帝国主義的な膨張主義へ向かわせる。要するに第一次世界大戦を経験しても、西欧列強は、基本的に戦前の一九世紀型帝国主義のあり方を存続させていたのである。
†知識人の対応[#「†知識人の対応」はゴシック体]
ただしフランスの知識人は大戦後彼らなりに反省し、考える所を表明してはいた。まず左翼知識人は作家ロマン・ロラン執筆の「精神の独立宣言」の末尾に名を連ねた(この宣言文はヴェルサイユ条約の機先を制するがごとくこの条約締結二日前に当時の社会党機関誌『ユマニテ』に発表された)。宣言文の主旨は、理性を狭隘な国家主義《ナシヨナリズム》に隷属させたこれまでの大多数の西欧知識人への批判、そして今後理性をインターナショナルの次元に、全人類の地平に開くことへの決意からなる。
これを受けてシャルル・モラスらの右翼知識人は一九一九年七月一九日に『フィガロ』紙上に「知性党のために」を発表する。その主張の骨子は「知性と古典主義的方法という王道に従ってのフランスの民衆精神の再建、あらゆる文明の守護者であり勝者であるフランスの庇護のもとでのヨーロッパと世界の知的連合」の形成の二点にあった。
これら二つの宣言文は、国家主義か国際主義かの相違はあるものの、底辺では理性への疑いを呈さないという共通項を持っていた。その点、ポール・ヴァレリー(一八七一―一九四五)の「精神の危機」(『フランス新評論』一九一九年八月号)は、もう少し深い反省を行っている。つまり第一次世界大戦を経た今、西欧文明それ自体が、これを支えてきたヨーロッパ的知性そのものが、危機に立たされていると論じているのだ。しかしこの反省も、次のような疑問に終わるに留まっている。ヨーロッパはただ単に「アジア大陸の小さな岬になってしまうのだろうか」。それとも、ヨーロッパは今までのように、「地上の世界の貴重な部分、地球の真珠、巨大な身体の頭脳であり続けるのだろうか」。
この論調からは、ヴァレリーがヨーロッパ文明の未来に懐疑を抱きつつもヨーロッパ文明を深く愛していること、かつてのようにヨーロッパが世界の知性として君臨し続けてほしいと願っていることが一目瞭然である。
一九二四年にバタイユと遭遇して交友関係を開始したミシェル・レリス(一九〇一―九〇)は、当時バタイユがヴァレリーのことを「アカデミズムの最も完成された代表者」とみなし、それ故に自分の「第一の敵」と考えていたと伝えている。実際バタイユがそののち思想家として行おうとしていたことは、ヨーロッパ文明を「アジア大陸の小さな岬」という地理的枠組のなかに還元するだけでなく、ヨーロッパ文明、ヨーロッパ的知性が広大な世界のなかの浮き島にすぎないこと、笑いの体験のなかのキリスト教神学のように、巨大な戯れのなかの一つの戯れにすぎないことを言うことにあったのである。
†シュルレアリスム[#「†シュルレアリスム」はゴシック体]
やがてバタイユは、レリスを介して、シュルレアリストたちと知り合うようになる。パリのフォンテーヌ通りに本拠地を置く主流派のうちルイ・アラゴンとは一九二五年に、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールとは二六年に初めて話を交わしている。バタイユは、支流派のブロメ通りのグループ、シャトー通りのグループの人々とは初めて会ったときから親近感を覚えていた(とくにブロメ通りの代表格である画家のアンドレ・マッソンとは終生深い友情で結ばれた)。しかし主流派の人々の人格、思想、発言には違和感を、次いで強い反感を感じるようになってゆく。彼はシュルレアリスムの要《かなめ》の部分、シュルレアリスム運動の試みの本質的な部分に批判的であり、その批判の度を徐々に強めていった。
バタイユの見るところ、主流派の人々は、革命、革命と声高に叫んでいるのにもかかわらず、実際の試み、姿勢においては生温《なまぬる》く、不徹底で、いささかも革命的ではなかった。西欧批判の発言を繰り返しているのにもかかわらず、彼らの言う「シュルレアリスム革命」の内実はあいかわらず西欧的であった。
†二つの要請[#「†二つの要請」はゴシック体]
「シュルレアリスム革命」は二つの要請の実現をめざしている。要請の一方は文化の領域、とくに芸術、そのなかでも詩の創作における西欧の刷新である。もう一方の要請は、既存の社会・経済制度の刷新である。当事者たちの資質は、おおむね、前者の文化の領域にあった。実際、シュルレアリスム運動はまず文化運動として出発したのであり、その方面で新たな作品を多く残した。他方、社会・経済制度の刷新に関しては、シュルレアリスト、とくに主流派の人々は、共産主義に加担することによりこれを果たそうとする。一九二七年、ブルトン、アラゴン、エリュアールは、こぞってフランス共産党に入党した。
バタイユもそうだが、一九二七年頃に三〇歳に達していた男性は、青春の早い時期に動員令を受け第一次世界大戦に参加し、からくも戦地から生還してきた人たちである(バタイユは、戦場に赴く前に結核にかかり、野戦病院で呻《うめ》き苦しむ傷病兵たちに囲まれて地獄を体験したのち復員している)。彼らは一般に「復員兵の世代」と呼ばれた。
ブルトン、アラゴン、エリュアールはいずれも「復員兵の世代」に属する。彼らは、その戦争体験から、西欧の理性主義文明に対してヴァレリーの懐疑よりももっと厳しい批判意識を抱いていた。理性による進歩を信じたがために西欧はこのような未曾有の災厄を自らに招いたのではなかったか。不幸の元凶である西欧の理性信仰は叩き壊してしかるべきではないのか。
戦争から引き揚げてきた彼らの胸の内にはおよそこのような憤怒の念が宿っていたのであり、それが彼らの文学への関心・野心に結びついて、彼らを新たな詩表現の創造へ駆り立てた。戦時中にスイスのチューリッヒで起きたトリスタン・ツァラ主導のダダイズム運動は、彼らの詩の刷新の意欲に一つの有力な方法を与えているかのように見えた。ダダイズムは、西欧の既存の価値すべてに否《ノン》をつきつけ、文章の統辞法も完全に解体して無意味な表現を作り出し、それを詩とみなしていた。ブルトンらは当初ダダ的な詩の創作に打ち興じていたが、やがてその単調で愚劣な表現に飽きてくる。そして彼ら自身の方法、すなわちフロイトの精神分析から想を得た自動記述によって、超現実的《シユルレエル》なイメージ(合理主義的な現実生活からすれば衝撃的で不快であるがある程度の意味[#「意味」に傍点]、斬新な美しさ[#「美しさ」に傍点]を備えたイメージ)の描出に向かう。他方、文化の刷新は社会の刷新と密接な関係にあるとの考えから、彼らは政治の分野へも乗り出してゆく。しかしこの方面で、本質的に共産主義を上回る革命理論を持ち合わせていなかったため、彼らはフランス共産党に入党したのである。
バタイユはフォンテーヌ通りの主流派たちのこうした姿勢に不徹底さを感じていた。二つの要請それ自体を肯定しつつも、彼は、文化の領域におけるシュルレアリスム的革命に、さらにはダダ的解決法にも不満を抱き、社会の改革については、フランス共産党に与《くみ》する態度、既存の共産主義にそのまま依存する態度では西欧の刷新は図れないと考えていた。
「ベル・エポック」の再現をめざす大戦後のフランス社会において、西欧あるいはフランスへの反省はそもそも稀薄だった。西欧あるいはフランスを反省した者はごく少数だった。バタイユの西欧批判はその少数者の誰よりも深く行われた。右翼知識人の「知性党のために」はもちろんのこと、左翼知識人の「精神の独立宣言」よりも深く、両宣言よりも一歩踏み込んだヴァレリーの「精神の危機」よりも一層深く、そして西欧に対するヴァレリーの懐疑を憤怒に変えたシュルレアリストよりさらに徹底して行われたのである。
2 『ドキュマン』時代の試み[#「『ドキュマン』時代の試み」はゴシック体]――低い唯物論[#「低い唯物論」はゴシック体]
†『ドキュマン』という雑誌[#「†『ドキュマン』という雑誌」はゴシック体]
バタイユは、『ドキュマン』(資料)の編集長の職を、創刊から廃刊まで一五号のあいだ(一九二九年四月―三一年一月)まかされた。『ドキュマン』を興したのは、先の『アレチューズ』と同じく、ピエール・デスペゼルであり、彼はバタイユにとって四歳年長の古文書学校の先輩、パリ国立図書館賞牌部門の同僚だった。デスペゼルは、『アレチューズ』よりも多くの分野(考古学、美術、人類学)を対象にした学術誌を作る目的で画商のヴィルデンシュタインに資金を仰ぎ、『ドキュマン』を発行したのだった。
執筆陣としては、パリのトロカデロ人類博物館長のポール・リヴェ、副館長のジョルジュ・アンリ・リヴィエール、この当時中央アフリカ学術調査団員として活躍中でのちにパリ大学の人類学の教授となるマルセル・グリオールらの進歩派学者がいた一方、ダダイズムに影響を与えた小説家・美術史家のカール・アインシュタイン、ブルトンと袂を分かち、バタイユのもとに集ってきたシュルレアリストたち(レリス、デスノス、ランブール、プレヴェール、クノーら)がいた。初めの頃は学者たちの論文も目立ったが、先述の学問分野のほかに雑録《ヴアリエテ》という分野が設けられてから(第四号以降)はシュルレアリストたちの文章が優勢になってゆく。バタイユは毎号健筆をふるい、独自の論陣をはった。
バタイユの論文は、デスペゼルの考える学問的枠組を逸脱していた。第一号が出た段階ですでにデスペゼルは、バタイユの論文がバタイユ自身の「精神状態の資料《ドキユマン》」にすぎないとして、早急に雑誌創刊の企図に戻るように警告している。
†バタイユの意図[#「†バタイユの意図」はゴシック体]
バタイユは、『ドキュマン』においても、しばしばパリ国立図書館所蔵の遺物資料(仏語の|documents《ドキユマン》 は考古学ではこの意味で用いられている)を写真付きで紹介している。しかし『アレチューズ』においてはこれらの資料について学問的に、客観的に、議論を進めていたのに対し、『ドキュマン』ではこれらの資料をもとに自分の思想、自分の価値判断を語ってゆこうとしている。そしてある意味で結局これは、デスペゼルの言うとおり、バタイユ自身の「精神状態」の呈示になっていた。
『ドキュマン』時代のバタイユの思想を彼自身の言葉を用いて一言で言い表わすならば、〈低い唯物論〉ということになるだろう(彼は一九三〇年に「低い唯物論とグノーシス」という論文を発表している)。〈低い唯物論〉のめざすところは何か。これも単純化して言うと、人間と自然界の非理性的な力の発露への注目およびこの発露の肯定ということになる。
低い≠ニいう語 (bas) は、フロイトの精神分析理論のうち場所論(心の機能を空間的に捉える見方)に関係しているが、さらに低劣、下品、醜悪という意味も含んでいる。
唯物論(materialisme) は、観念論(物質的世界を超えて存する精神的実在に、例えば神に、物質的世界の本質を見る立場)を否定して、物質的世界そのものに、物質 (matiere) に、物質的世界の本質を見る立場である。ただしバタイユの場合さらに厳密になる。「ほとんどの唯物論者は、あらゆる精神的実在を排除しようと欲したのにもかかわらず、結局のところ、階層的関係が観念論特有の≠ニ特徴づける事象の秩序を描きだすに至ってしまった。彼らは、さまざまな次元の事柄の伝統的な階層の頂点に、死んだ物質を置いてしまったのだ。それも、そのようにして知らずに彼らは、物質の観念的な[#「観念的な」に傍点](=理想的な[#「理想的な」に傍点])形態、つまり物質とはこうあらねばならない[#「あらねばならない」に傍点]というものに他のいかなるものよりも近づいている形態、これへの盲目的執着《オプセツシヨン》に従っているのだ」。バタイユが肯定する唯物論とは、「人間心理や社会に関する事柄」に直接的に立脚している唯物論である。それ故、彼によれば「まさにフロイトにこそ物質の表現を仰がねばならないのだ」(「唯物論」一九二九年六月)。
†聖なるもの――異質なもの[#「†聖なるもの――異質なもの」はゴシック体]
「人間心理や社会に関する事柄」についてバタイユが第一に注目したフロイトの著作は『トーテムとタブー』(一九一三)である。フロイトはそのなかで、見ること、触れることを社会的に禁じられた事物を取りあげ、これに対する人間の矛盾した心理、両面的《アンビヴアレント》な感情を問題にしている。この場合、禁止された事物とは、不潔で危険で醜いもの、例えば人の死骸である。人間は、これを恐れ、嫌悪する感情を持つ反面、これに触れてみたい、これを間近で見てみたいとする心理を無意識裡に持っている。言い換えれば、この事物は、人間を恐怖感、嫌悪感で遠ざける力(物理学の用語で社会学に入ってきた言葉を用いれば「斥力」)を発すると同時に、人間を引き寄せ誘惑する力(「牽引力」)を放っている。
ところでこの問題でバタイユは、ルドルフ・オットーの『聖なるもの』(一九一七)からも想を得ている。この作品でオットーは、キリスト教の神概念の深奥の部分、すなわち人々が通常理解している神の合理的な属性(「精神、理性、意志、目的を設定する意志、善なる意志、全能、本質的統一者、意識者など」山谷省吾訳)の底にひそむ不合理な暗部に注目し、この暗部を聖なるものと名付けた。
オットーもまた、聖なるものの二面性を強調している。聖なるものは、人を戦慄させ、畏怖させ、不安に陥れると同時に、人を魅了し、引きつける何ものかなのだ。このことのほかにバタイユが注目したのは、「力あるもの」という聖なるものの特徴づけである。そしてもう一つ、「まったくの他なるもの」(das Ganz Andere――山谷省吾訳では「絶対他者」)という聖なるものの特徴づけである。オットーは、合理的なものとの根源的な差異をいうためにこの表現を作り出したのだった。聖なるものの他なる側面とは、彼によれば、「奇怪なるものであって、〔人々が〕慣れているもの、理解できるもの、親しめるもの、したがって精通しているものの領域から脱出していて、それらに対立しており、そのゆえ[#「そのゆえ」に傍点]に人間の心情をまったく驚きをもって満たすものである」(山谷省吾訳)。
バタイユが『無神学大全』のなかで語るキリスト教の神の概念は、オットーが前提にしている二重性(合理的な層と不合理的な層)をそのまま反映させている。このことはよく覚えておこう。『ドキュマン』時代の、続く『社会批評』の時代のバタイユは、聖なるものの感覚を引き起こす存在をキリスト教の神から切り離して一般の事物のなかに見ようとした。聖なるものの体験を唯物論の地平に導入しようとしたのである。そのため、彼は聖なるものという宗教的な言葉は捨てて、しかしオットーの「まったくの他なるもの」の見方はそのまま尊重して、異質なもの(l'heterogene) という語を使用した。
社会的にタブー視された事物としてフロイトが言及したもの、オットーが神概念の深層の聖性として呈示したもの。バタイユは、これを人間、社会、自然界が作り出した事物のなかから捜し出してきて、『ドキュマン』の読者の前に差し出した。その事物は、例えば、ケルト人の貨幣に彫り刻まれた醜悪な馬の図像、「サン=スヴェの黙示録」と呼ばれる一一世紀の聖ヨハネ黙示録註釈本に付された不気味な挿絵(そのなかの胴体がバッタ、顔は人間の怪物の絵はロマネスク教会堂の柱頭彫刻の怪物像に発展していった重要なものである)、釣鐘草の生身の(花弁を取り去られた)雄蕊《おしべ》と雌蕊《めしべ》、人間の眼球、駱駝《らくだ》、埃《ほこり》、人間の足の親指、屠殺場で捌《さば》かれた動物の骨付き肉、工場の煙突、紀元後三世紀エジプトのグノーシス派の神の彫像(脚は人間、胴体は蛇、頭は鶏)、胴体と頭部がくっついた双子の赤ん坊、ピカソやダリの抽象画、子供の描いた絵、ローマのサンタ・マリア・デラ・コンチェッチオーネ教会俗称|骸骨寺《がいこつでら》の地下聖堂《カタコンベ》(修道士たちの無数の遺骨で装飾されている)などである。
ただし付言しておくと、これらの事物がそのまま聖なるものというわけではないのだ。聖なるもの、少なくともバタイユが考えていた聖なるものは、客体のなかにはない。主体の意識のなかに現われるものなのだ。恐怖と陶酔の感覚として現われる何ものかなのである。バタイユが列挙した事物は、あるとき一瞬、この両面的な感覚を主体のなかに引き起こし聖なるものを生誕させる。換言すれば、聖なるものはきわめて不確定なものなのだ。人によっては、また時と場合によっては、この感覚が生じないこともあるのだから。
†「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」[#「†「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」」はゴシック体]
ともかくバタイユに言わせると、これらの事物は、人間あるいは自然界の非理性的な力が直接的に作用したために異様な形態を持つようになったということになる。
例えば、紀元前四世紀頃のケルト人たちは、同じ時代のギリシア人たちの貨幣を真似して、その表面に馬の図像を彫り込もうとしたのだが、しかし彼らの図像は、彼らが「直接的な示唆を、すべての暴力的な感情をただ自由に流出させ」ていたために、ゴリラのように醜い馬の図像になってしまった。これは、ケルト人たちの技術不足というよりも「積極的な常軌逸脱」の問題なのであって、彼らが好んで内面の「ばかばかしくて不調和な興奮」に、「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」に従っていたことの現われなのである。
他方ギリシア人たちの貨幣の均整のとれた馬の図像は、彼らが超越的な観念(=イデア)をひたすらに欲していたこと、彼らの精神が上昇志向であったことを表わしている。そもそも馬は、自然界の生物のなかで最も調和のとれた理想的な形姿をしているのであって、生物の形態の位階の上位に、観念(=イデア)に一番近い所に位置している(下位を占めるのは河馬《かば》や蜘蛛《くも》、駱駝)。「いずれにせよ崇高で確固とした観念が事物の流れを規制し指導するのを見たいという欲求に最も従った民族が、馬の体を描くことによって、容易に自分のこの偏執を表現することができたということなのだ」(「アカデミックな馬」)。
†第一次過程の無意識[#「†第一次過程の無意識」はゴシック体]
『ドキュマン』の時代を通してバタイユはしばしばフロイトの精神分析理論の用語である「心理過程」という言葉を用いた。例えば次のように。「絵画におけるアカデミックな構図の消滅は、社会的安定と最も相容れない心理過程の表現に道を開いた(そしてその結果この心理過程を称揚することにも道を開いた)」(「建築」一九二九年五月)。
バタイユが問題にしている心理過程は、フロイトの唱える第一次過程の無意識のことだ。バタイユにとって重要だったのはフロイトの『夢判断』(一九〇〇)である。そのなかで(とくに第七章「夢事象の心理学」において)フロイトは、無意識を二種類に分け、第一次過程の無意識を場所的に心の最下層に位置づけている。第二次過程の無意識は前意識と呼ばれ、第一次過程のすぐ上に位置づけられている。機能としては、理性の働きとほぼ同じ働きをする。第一次過程には、この第二次過程の前意識によって抑圧された想念が群がっている。しかもそれらの想念には興奮状態にある無意識的欲望が固着している。前意識はこれらの想念を制御し調和あるものに加工しようとするが、ときとしてこれらの想念を見捨ててしまうことがある。そうなるとこれらの想念はその非理性的性格を増大させ度はずれな幻想に発展していってしまう。
一般に人は、第二次過程の前意識がうまく作動している限り、社会的な生活を営むことができる。前意識は社会的だといってよい。それに反し第一次過程の無意識は非社会的だ。社会が大戦後のフランスのように一九世紀型の理性信仰を堅持している場合は、なおのことその非社会性は際立ってくる。
バタイユの言う「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」とはこの第一次過程の無意識のことにほかならない。彼に従えば、ケルト人の貨幣に刻まれたグロテスクな馬の図像は、第一次過程に渦巻く非理性的な幻想の無媒介の(前意識による加工を被らない)表出ということになる。同様に「絵画におけるアカデミックな構図の消滅」、言い換えれば、ギリシア・ローマの理性主義美学を範とした古典主義絵画の没落、つまりマネに始まる印象派から二〇世紀の抽象画に至る流れも、第一次過程の幻想の直接的表出への欲求の高まりだということになる。フロイトはそのような見方はしなかったが、バタイユは第一次過程の非理性を自然界のなかにも認めて、醜悪なあるいは不定形の形態の自然物にその直接の表出の跡を見ようとした。
†エス[#「†エス」はゴシック体]
ところでフロイトは一九二三年『自我とエス』を発表し、それまでの意識―前意識―無意識の心の構造論を一変させた。今や心の空間は超自我―自我―エスと改められる。第一次過程の無意識はこのなかのエスに吸収された。エスは無意識の熱きエネルギーの大海であって、自我はそこに浮かぶ小島である。下方からつねにエスの非道徳的な衝動に攻め立てられ、揺れ動いている。その一方で自我は上からも超自我の攻撃に悩まされている。超自我は過剰な道徳性、非現実的な観念(=理想)の化身であって、自我に苛酷な裁きと命令を加える。自我はエスの侵入を少しでも許すと、超自我から厳しい抑圧を受けてしまう。
自我の立場がこれほど弱いものとして描かれたことは、一九世紀以後の西欧においてはなかったことだった。今日ですら西欧人は、確立された自我(換言すれば個人の主体性)を人間の第一条件とし、その存在を当然のごとく誇示しようとする。フロイトの描く自我は、個人でないものに攻められて、容易にその存在を確立しえずにいる。エスとは自分のなかにあって自分ではないもの、非人称的な何ものかだ(独語 |Es《エス》 は、英語の it と同様、それ≠ニいう意味の代名詞になるとともに、非人称構文の仮の、意味のない主語にもなる)。他方、超自我は、直接的にはその人の実際の父親の威厳を反映しているが、民族の伝統を背景にしている。超自我の道徳性は、例えば西欧においては、中世のキリスト教道徳から、いや古代ギリシア文明から連綿として続く理性主義道徳の歴史を反映している。
フロイトは何よりも医者であったのであり、その立場から、危うき西欧人の自我を救うことをめざした。バタイユは違う。超自我への強迫観念、西欧の伝統的道徳への強迫観念、これが自分の時代に根強く存在していることを感じて、エスの立場から超自我への西欧人の偏執を批判しようとする。バタイユはあくまでエスに立脚しようとするのだ。
[#2字下げ] 何よりも大切なのは、自分と自分の理性を、何であれより高いものに従わせないということである。私という存在に、そしてこの存在を武装させる理性に借り物の権威を与えてしまうどんなものにも私という存在とその理性を従わせないということである。実際、この存在とその理性は、より低い[#「低い」に傍点]ものにしか、権威の猿真似に役立ちえないものにしか、従うことができない。それ故私は、物質と呼ばねばならないもの――なぜそう呼ぶかというとそれ[#「それ」に傍点]〔エスの意味もかけられている〕が私の、そして観念の外に存在しているからだ――に全面的に従う。そしてそのため私は、私の理性が私の語ったことの限界になることを認めない。というのも、もしこれを認めるのならば、私の理性によって限定された物質がただちに一個の優越した原理という価値を帯びるだろうからだ(隷属的な[#「隷属的な」に傍点]理性は嬉々としてこの原理を自分の上に掲げて、権威を得た役人として語りだすことになるだろう)。低い物質は、観念〔=理想〕を欲する人間の渇望と無縁であり、その外に位置している。そしてこの渇望の成果である存在論の大きな機械に還元されるままになることを拒んでいる。
[#地付き](「低い唯物論とグノーシス派」)
†「低い物質」[#「†「低い物質」」はゴシック体]
バタイユが「物質」、あるいは「低い物質」と呼んでいるものは、観念(すなわち超自我)と自我の下位に位置する異質なもの≠フことだ。それはあれこれの個物ではない。エスを指しているといってよい(エスの仏語の訳語としては現在のところ|cela《スラ》 の日常語|ca《サ》 があてられているが、一九二〇年代ではまだca という訳語は定着しておらず、|soi《ソワ》(自己)という言葉に固執する者もいた――バタイユはcela を使用している、しかし『無神学大全』では|ce《ス》 |qui《キ》 |est《エ》「在るもの」という表現に変わってゆく)。論文「低い唯物論とグノーシス派」では、さらに「暗闇」、「無法状態の悪しき力 (|force《フオルス》)..」と言い換えられている。心の底でマグマのごとく熱いまま無秩序に流動している力、「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」、これがバタイユの考える物質だ。
『ドキュマン』におけるバタイユのねらいの一つは、「低い物質」を表出させている事物をグラヴィア付きで紹介して、読者に聖なるものの感覚を持たせることにあった。言葉と映像に触発されて読者もまた「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」を湧出させ、恐怖と陶酔の入りまじった感覚に突き動かされること、彼はこうした事態を欲していたのだ。
†戯れの価値観[#「†戯れの価値観」はゴシック体]
バタイユは、「低い物質」を肯定しながらも、これを自分の思想の超越的な原理にしようとはしなかった。古い概念の支配を否定しておきながら支配の構造自体はそのままにしておいて、古い概念に新たな概念を取り代えるという批判・刷新のやり方(例えばフランス大革命のときに起きたキリスト教神から「理性」、「最高存在」への交代劇――一七九三年に「理性」の祭典が、九四年には「最高存在」の祭典がそれぞれ大々的に挙行された)。この西欧の伝統的なやり方をバタイユは踏襲しない。人間が神格化し絶対視した概念に人間が従属するという構造、超越的概念と人間との間の神学的構造(神もそれに代わる概念も人間が作り出したものだという理解に立てば、これは人間中心主義的な構造ということになる)、この構造自体をバタイユは否定する。
彼が行おうとしていることは、戯れ、遊びというこの世界の実際のありようのなかに人間の、とくに西欧の同時代人の、意識を連れ戻すということである。エスと同様の無秩序な状態にあるこの世界に西欧人も帰属しているという事実、彼らの理性主義的・人間中心主義的な価値観もたかだか一個の戯れにすぎないという事実、絶対的な概念など存在せず、その概念が絶対性を誇れば誇るほどシエナの大聖堂のように笑いを誘うという事実、バタイユはこれを西欧人にはっきり認識させようとした。
しかしこの試みは容易ではない。なぜならば自分が肯定的に語ったことをもただちに笑いとばさなければならないからだ。そうしないとその肯定的な事柄は超越的な概念へ成長していってしまう。戯れの思想をバタイユがこの段階にまで深化させるのは、『無神学大全』の時代でのことである。
†ブルトンの反応[#「†ブルトンの反応」はゴシック体]
さてブルトンの反応であるが、彼は、一九二九年一二月(『ドキュマン』の第七号が出たか出ないかの段階で)、バタイユの唯物論を自分の美学への批判と受け止めて、これに応酬した。『シュルレアリスム第二宣言』の末尾付近の数ページがそれだ。
『ドキュマン』のなかでバタイユは、これ以前も以後も一度としてブルトンのことを名指しで非難してはいない。シュルレアリスムなる語も一度しか使用していない(ただし暗示的には数度言及している)。これには二つの事情があったのではないだろうか。一つは、デスペゼルからまかされた雑誌を私的な論争に利用することはできなかったこと。二つ目の理由としては第一の理由と矛盾するが、バタイユの批判意識がもはやブルトン個人を超えていたこと、つまり敵の神を撃つ≠ニいう態度からブルトンの背後にある西欧的なものに批判の矛先を向けていたということだ。
ブルトンの反論はけっして理論的なものではなかった。際立っているのは、バタイユへの嫌悪、彼の物質観とそれに応じて差し出された事物への不快感、そして美しく清潔なものへのブルトンの好み、観念への強い信仰である。これは一人の西欧人の反応だといえる。
たしかにブルトンは、『シュルレアリスム第一宣言』(一九二四)のなかで、同時代の合理主義的価値観に抗ってシュルレアリスムを「理性によるいかなる検閲も不在のときに、美学・道徳のいかなる執着からも離れて想念を書き取ること」と定義している。
だがその実ブルトンは、一九一六年インターンとして精神異常者に初めて対面したときからすでに、狂気の深奥の表現、獣的で不気味で醜悪な表現に尻込みし、背を向けている(詳しくは拙著『バタイユ――そのパトスとタナトス』所収の「〈驚異のもの〉への対応――マンディアルグ、ブルトン、バタイユの場合」を参照のこと)。『第一宣言』には夢(睡眠時に見る夢)への賛辞が綴られているが、そこで問題になっているのは結局、第二次過程の前意識の検閲と加工を経た一貫性ある夢なのだ。また、「自動記述《エクリチユール・オトマチツク》」なる手法によって先の定義にある「書き取り」が行われるわけだが、この手法に従ったとされる作品にはあろうことかヴァリアントが残されているのである(ブルトンは推敲をしているのだ)。シュルレアリスムのイメージの本質的要素である「驚異のもの」にしても、もっぱら美しいものとだけ定義されている。
そして忘れてならないのはブルトンがシュルレアリストの活動に道徳の遵守《じゆんしゆ》を強く求めていたことだ。『第二宣言』のブルトンは、シュルレアリスムと名乗るあまりに多くの作品から汚れたものを取り除こうとしてかつての同志たちを非難している。だが、これがさながら超自我による裁きの観を呈しているのである。
†病いの問題[#「†病いの問題」はゴシック体]
ブルトンのバタイユ批判でもう一つ注目に値するのは、バタイユの物質観をバタイユ個人の偏執に、彼個人の病気の問題(ブルトンの診断によれば「古典的な神経衰弱」)に還元して、彼の思想の減価をはかっている点だ。
ブルトンは、精神の病いを、個人の枠のなかで捉えその個人を人間として貶《おとし》めるものとみなしている。この限り彼は、正常な個人を人間の基準に据える西欧の人間中心主義的な見方に立っている。バタイユは違う。フロイトと同様、個人でないものの視点に立って精神の病いを捉える。神経衰弱についていえばこれは、自我を舞台にしたエスと超自我の戦いなのだ。広大な下方から噴出してきた非人称のエネルギーとその噴出を責め立てる文明の道徳性との相克なのである。
ブルトンは、一九二六年バタイユと初めて顔を会わせたときすでに彼を「偏執狂」とみなし、以後彼を疎《うと》んじた。実際このときバタイユは重度の神経症《ノイローゼ》を病み、精神的に危機的な状況にあった。この頃の彼はすでにキリスト教神への信仰を完全に棄てていた。ということは、あの大戦時の罪、重病の父親を最前線の都市に置き去りにし死なせたことの罪から彼を救ってくれる存在はもはやいなくなっていたということだ。バタイユはキリスト教道徳をも棄てていたが、それで超自我が消滅したわけでは全然ない。彼の心の最上段には超自我があいかわらず君臨し、彼の罪を責め立てた。それも人並み以上に強くである。
フロイトによれば、超自我のエネルギーはエスから供給される。エスに豊かなエネルギーを蔵している人間は、それだけ超自我も強力である場合が多い。バタイユはもともと情熱家であり、人一倍激しいエスの持ち主だった。超自我すなわち西欧の道徳の責めもその分、誰よりも激しく執拗だったのだ。棄教後の彼は、夜ごとパリのサン=ドニの娼婦街で性の体験に耽りエスのエネルギーを自由奔放に放出させていたが、このことも彼の超自我の厳しい断罪の対象だったはずである。
一九二六年頃のバタイユの自我はエスと超自我の狭間で滅びかけていた。そのさなかに書かれた断章形式の作品『太陽肛門』(性的かつスカトロジックなイメージによって太陽への愛を歌った異常な作品)は当時の彼の危機的状況をよく反映している。これを読んだ友人たちは精神科医による診療を彼に勧めた。小説『眼球譚』はその治療の一環として書かれた作品で、これにより彼は一応の精神の安定は得た。作品中に散りばめられた想念、そして主題自体あいかわらずの異常ぶりだが、言語と筋の展開の仕方は正常になっている。
『ドキュマン』時代のバタイユは自分のなかの超自我に対してエスの側から戦いを挑んでいたということができる。デスペゼルの指摘するとおり、彼の論文は彼自身の精神状態の開示だった。だが正確には、バタイユという個人を舞台にして行われた西欧道徳に対する非西欧的力の闘争――それも双方の存在が一段と強力になっている闘争――の開示というべきだろう。続く『社会批評』の時代になると闘争の対象は西欧の政治体制になってゆく。
3 革命とファシズム[#「革命とファシズム」はゴシック体]
†バタイユの政治参加[#「†バタイユの政治参加」はゴシック体]
一九二〇年代の活動に関する自伝的記述のなかで、バタイユは手短に「私は、すべての私の世代と同様に、マルクス主義へ傾斜していった」と記している。たしかに彼の周囲にいた「復員兵の世代」、とくにシュルレアリスムと何らかの形で関係をもった青年たちには、マルクス主義に共感を覚える者が多かったといえよう。『太陽肛門』には、「低い唯物論」の視点から共産主義労働者の革命を肯定的に捉える次のような断章がある。
[#ここから2字下げ]
自分の内部に噴出の力を蓄えている人々は、必然的に下に位置づけられている。
共産主義の労働者たちは、ブルジョワたちにとって、性器のある毛むくじゃらな部分すなわち下方の部分と同じほどに醜く不潔なものとして映る。遅かれ早かれ、彼らから破廉恥な噴出が生じ、そのさなかに、ブルジョワたちの、性に無関係で上品な頭が刎《は》ねとばされるだろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『太陽肛門』)
すでに指摘したように、バタイユはブルジョワジーに抑圧され搾取されている労働者であったわけではない。いわばキャリア組≠フ公務員で、将来の出世はかなりの程度保証されていた。一九二四年の賞牌部門への配属も当時の彼の年齢では異例の抜擢《ばつてき》だった。
シュルレアリスムの雰囲気《オーラ》のなかにいたバタイユの同時代人たちは、彼のような上級公務員ではなかったが、おおむね知識人であってプロレタリアートではなかった。彼らは、自分の職業的身分から、また実生活のなかから、共産主義に駆り立てられたのではない。人道主義的な倫理感、道義心から共産主義に走ったのである。彼らの見るところ、共産主義は被抑圧者(プロレタリアート、あるいはモロッコなどの被植民地人)を善、抑圧者(ブルジョワ社会)を悪とみなして、前者のために後者を打倒する正義の政治イデオロギーだった(一九二五年フランス領モロッコのリフ族の独立運動に際し、時の左翼連合政府はこれを強硬に弾圧、既成政党では唯一共産党だけがこの措置に反対していた)。ブルジョワ社会に対して彼らはまた、自分たちを戦場へ差し向けた元凶として憎悪し、さらにその精神性の乏しい成金趣味、文化的創造力のなさ、伝統への固執にも嫌悪を覚えていた。
バタイユが彼らとある程度まで政治意識を共有していたことは認めねばならない。しかし彼の政治的言動を第一に特徴づけているのは、彼固有の「低い唯物論」の立場だ。先の『太陽肛門』の断章にあった捉え方――エスのエネルギーを豊かに蔵している者はブルジョワ社会では下位の貧しく汚《きたな》い♀K層に位置しているが、このエネルギーの噴出がプロレタリアート革命を引き起こすという捉え方――は、一九三五―三六年の〈反撃〉の時代までバタイユの政治思想の根幹を形成していたといってよい。そして何より強調されてよいのは、バタイユ自身が自らの底に過剰なエスを蔵していて、階層的にはけっして下位にはいなかったものの、時の理性主義的なブルジョワ社会に対しまさに生理的なレヴェルから齟齬《そご》をきたし強い反感を覚えていたということである。
†フランス共産党[#「†フランス共産党」はゴシック体]
バタイユは、マルクス主義がブルジョワ社会の転覆をめざしているが故にこれに親近感を覚え接近していった。しかしフランス共産党には入党しなかった。その理由の根本は、フランス共産党の基本方針、すなわちボリシェヴィキ主義にあったと見てよい。
フランス共産党は、一九二〇年一二月、社会党の多数派が党から脱退して、コミンテルン・フランス支部を形成したのが始まりである(共産党を正式に名乗るのは二二年から)。コミンテルン(第三インターナショナル、一九一九年発足)は、ロシア共産党の主導する国際的な共産主義組織であったが、事実上はロシア共産党の中央集権的、あるいは専制主義的な組織だった。フランス共産党はその支部として発足したものの、当時の党員のなかには、コミンテルンに対し、留保付きで支持する者、懐疑的である者、批判的である者がかなりいて、党としてのまとまりはきわめて緩《ゆる》かった。これに業《ごう》を煮やしていたロシア共産党は一九二四年レーニンの死の直後から積極的な介入を始め、フランス共産党を自己の純粋な下部組織に仕立て上げてゆく。批判分子、不純な分子は続々党から除名された。いわゆるボリシェヴィキ化≠ェ進められたのである(ボリシェヴィキとはもとは多数派の意味だったが、のちにロシア共産党の別称となり、そこから一党独裁制、排他性、独善性が含意されるようになった)。
このことの重大な一帰結として、主体的に政治思想を考察しない、自主的に新たな革命思想の模索に向かわないという消極的な事態がフランス共産党に生じた。この党は、何も考えない、思想を営まない集団に変化したのである。思考するのはロシア共産党であり、フランス共産党はその指示内容を無批判に実践するだけのロボットと化したのだった。フランス共産党がロシア共産党の思想を疑わなかった理由としては、この思想がロシア革命を成功に導いたという動かしがたい、そして輝かしい歴史的事実があったことも指摘しておかねばならない。
だが、ともかく、フランス共産党はただ実践活動に専念するばかりで、独自には思想的な何ものも営もうとしなかった。マルクスの著作の紹介、仏訳すらろくに試みなかったのである。いわんやマルクス、レーニン以外の思想家に学ぶなどということは考えもしなかった。バタイユは違う。主体的に思考して、形骸化した革命思想を活性化しようとする。
すでに一九二〇年代初めからヨーロッパでは全般的に革命の気運が退潮ぎみになっていた。フランスでも共産党の人気は、二四年以降党のボリシェヴィキ化が進めば進むほどそれが災いして、下降の一途をたどっていた(二四年に二六名いた国会議員が三二年には一一名に減少している)。バタイユは、こうした革命の気運の衰退を深刻に受け止めた。そしてその再興をはかるべく、マルクス・レーニン思想とは異なる角度から革命に関する理論的考察を進めようとした。この異なる角度とは「低い唯物論」を指すが、その背後にはフロイトの精神分析理論があり、さらにマルセル・モースの贈与論が加わる。いずれもフランス共産党がブルジョワ思想として全面的に斥けていた思想だ。真に革命のことを考える人間は共産党に所属することができない。バタイユは共産党の外部、左翼政党のさらに左側の外部に位置して思索を進めた。その彼に、同じような理由から共産党の外部に立った男が発言の機会を与える。ボリス・スヴァリーヌ(一八九五―一九八四)がその人だ。
†スヴァリーヌと『社会批評』[#「†スヴァリーヌと『社会批評』」はゴシック体]
スヴァリーヌは、一九二一年からフランス共産党の役員会のメンバーであり、同時にモスクワにおいてコミンテルンの幹部を務めていた。しかしコミンテルンが各国の共産党にボリシェヴィキ化を強要しはじめた二四年、共産党から除名される。彼は、ボリシェヴィキ主義に批判的だった人だ。そして既存のマルクス・レーニン主義に捉われない自由な左翼的見地から革命について、国の内外の状勢について、考えることをめざした人でもある。
一九二六年スヴァリーヌは党を除名された同志たちと政治研究会〈民主共産主義サークル〉を結成した(当初の名前は〈マルクス・レーニン共産主義サークル〉、シュルレアリストたちも参加していた)。三〇年代に入ると、隔月発行の雑誌『社会批評』を出版する。その第一号(一九三一年三月)の創刊の辞にあたる文章で彼は、当代のヨーロッパ、なかでもフランスにおける「革命知性の危機」、すなわち左翼の知的状況の停滞と貧困を嘆いている(左翼諸政党の機関誌にあふれる生気なき既成観念、ファシズムなどの新興勢力への無関心)。そして『社会批評』の目的を、新たな思想の生誕と育成への貢献、具体的には政治・社会問題および人文科学諸分野における最新の動向と近刊本の紹介に置いている。むろん〈民主共産主義サークル〉のメンバーやその近辺にいた知識人の論文も掲載した。論文の執筆者として目立っていたのはスヴァリーヌ自身、若きシモーヌ・ヴェイユ(一九〇九―四三)、マルクス経済学の生き字引きルシアン・ローラ(一八九八―一九七三)、そしてバタイユだ。彼は、第三号(一九三一年一〇月)から論文や書評を続々発表した。なかでも「消費の概念」、「国家の問題」、「ファシズムの心理構造」は重要な論文である。
†低い唯物論と史的唯物論[#「†低い唯物論と史的唯物論」はゴシック体]
『ドキュマン』誌におけるバタイユの主題は「低い唯物論」であった。「低い物質」とは人間と自然界の底辺に潜む非理性的な力のことだ。バタイユは、その表出物に読者の目を向けさせながら、西欧の理性主義的な価値観がいかに表面的であるかを示そうとした。『ドキュマン』の雑誌としての重点は、考古学、芸術、人類学に置かれていた。それに応じ、「低い唯物論」の議論もこれらの分野でなされる場合が多かった。『社会批評』の重点は政治と経済である。バタイユの「低い唯物論」もこの分野で検討が進められる。対象となるのは、革命、ファシズム、生産と消費の経済活動だ。が、第一に問題になるのは(バタイユはこの問題に正面から取り組んでいないが)、マルクス主義の根本思想の一つである史的唯物論と「低い唯物論」の関係である。
エンゲルスはマルクスの思想を汲んで史的唯物論という言葉を作り出した。エンゲルスが典拠しているのはマルクスの『経済学批判』(一八五九)の序文の次の一節である。
[#2字下げ] 物質的生活の生産様式〔=「現実の土台」、社会の下部構造〕は、社会的、政治的、精神的生活諸過程〔=上部構造〕を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
[#地付き](『経済学批判』武田隆夫他訳)
マルクスもまた下部による上部の転覆を考えている。しかし彼の考える下部構造は「物質的生活の生産様式」だ。マルクスにとって人間の本質は、物を作り出すという生産行為(=労働)である。経済の過程(生産、分配、交換、消費)の主導役であり包摂者であるのも生産行為だ。生産は人間の理性的行為であるが、しかしマルクスは単純な理性主義者ではなくこの行為の底に「欲求」(独語でBedurfnis、仏語ではbesoin)という契機を見ている。ただしこの「欲求」はもっぱら理性を稼動させる、言い換えれば理性に貢献する力であって、フロイト流にいえば第二次過程のエネルギーなのだ。
マルクスによれば「社会の物質的生産諸力」がある段階に達すると、それまでの生産関係が拘束となり、これを破壊しようとする革命が生じる。この革命は、初めは封建制下の生産関係を覆すブルジョワ革命として、次にブルジョワジーの資本主義体制を覆すプロレタリアート革命として起きる。歴史はこのプロレタリアート革命に向けて、その成果である共産主義体制に向けて、進歩してゆく。
史的唯物論は、生産を人間の活動の本質に据えている点で、そして進歩史観に立っている点で、一九世紀型の西欧の理性主義の枠内にあるといってよい。共産党はこれを党是としていた。『社会批評』の編集部も基本的に史的唯物論を支持していた。それ故バタイユの論文「消費の概念」に対してこれを掲載するときに冒頭に次のような断りがきを付けたのである。「この著者は我々の思想の基本方針に対し多くの点で矛盾をおかしている。しかし研究雑誌たるものはこのような見解の違いを禁止すべきではないだろう」。
†「消費の概念」[#「†「消費の概念」」はゴシック体]
この論文でのバタイユの主張を要約すると以下のごとくになる。
人間の生の真の目的が非生産的な消費(例えば奢侈《しやし》、葬儀、戦争、祭典、豪奢な大建造物、遊戯、見世物、芸術、生殖目的からそれた性行為)にあるのにもかかわらず、近代の西欧社会は生産と蓄積という人間の生にとっては手段の地位にある活動ばかりを重視してきた。消費が肯定されてもその消費は生産に貢献する消費でしかなかった。こうした近代の西欧を指導してきたのはブルジョワジーであるが、これに敵対するプロレタリアートの内部には破壊転覆の力が沸騰している。この力はまた「強制力 (force contraignante)」でもあって、社会に対し階級間の闘争を劇的な動乱として展開するよう差し向ける。この階級闘争、プロレタリアート革命こそは社会が実現しうる最も壮大な非生産的消費なのだ。
ざっとこのようなことが語られているのだが、この論文の草稿の一部もバタイユの思想のありかを明確に示しているので引用しておく。「物質的世界は戯れでしかないのであって、労働などでは断じてない。生産工場のごとく表現されている世界は、有神論者と観念論者の世界なのだ」。
本文ではバタイユはまたモースの『贈与論』(一九二五)に典拠してポトラッチという非合理な浪費的交換(相互に莫大な贈り物をしあって富を誇示し、地位や名誉を競いあう北米インディアンの風習――ときにはこれで破産する者もでた)を持ち出して、合理的な物々交換に経済の原初形態を見ようとする近代経済学(バタイユは言及していないが、マルクスの『資本論』もこの立場に立っている)の狭さを批判、その相対化をはかっている。
他方、論文の末尾には遠回しながら、進歩史観を斥ける文章が書きこまれている。
ということはもはや「低い唯物論」と史的唯物論との接点は、プロレタリアート革命の肯定という一点にしかないということだ。が、この革命にしてもバタイユは非生産的な消費と捉えている。つまりプロレタリアート革命はそれ自体で人間の生の目的になると考えているのだ。この理解は、アンドレ・マルローの『人間の条件』(一九三三)に寄せた書評(『社会批評』一〇号〔三三年一一月〕)のなかでは、さらに次のように明確に語られる。「〈革命〉は実際には[#「実際には」に傍点](それが良く思われようが悪く思われようがたいしたことではない)単純な有用性、手段などではなくて、生、希望、場合によって耐え難い死を可能にする無私無欲の興奮状態に結びついた価値[#「価値」に傍点]なのだ」。
シモーヌ・ヴェイユはこの革命観に強く反発し、バタイユに対する批判文を書き始めていた(結局完成されなかったが、残された文面からは、革命を断固として手段と捉える彼女の強い姿勢が読み取れる)。バタイユにしてみれば、革命後の制度化された社会よりも、革命のさなかの力の沸騰状態の方が重要だった。その根本の理由はどこにあるのだろうか。
革命の沸騰状態が人間の目的であり価値であるということは、そこで人間が何にも従属せずに生きられるということである。言い換えれば、この沸騰状態は人間を従属させようとするものが打ち消されてゆく、笑いとばされてゆくという状況、つまり絶対的なものが何もない戯れとしての世界のありようがじかに現われる場だということである。バタイユにとって革命は、近代の西欧が引き裂かれて非西欧が現出する時空だった。それだから重要だったのだ。
ただし、この時空はプロレタリアート革命に固有のものではないだろう。戦争でも神秘的体験でもよいわけだ。バタイユにプロレタリアート革命のみに執着する理由はない。ということはマルクス主義に固執する理由もなかったということだ。彼のその後の道行きを先取りして言えば、宗教的秘密結社〈アセファル〉とともにバタイユは政治活動と密着することをやめる。そして『無神学大全』の時代ののち再び政治について、共産主義について語り出すが、そのときの彼の視点はもはや戯れとしての世界の方に置かれてしまうのだ。
†ファシズムの問題[#「†ファシズムの問題」はゴシック体]
「消費の概念」が発表された一九三三年一月に、ドイツではヒトラーが首相として政権に就いている。これは同論への重大なアンチ・テーゼだった。なぜならば、プロレタリアートの力がそれ自体ではいかに弱いかを決定的に象徴する出来事だったからである。
ドイツのプロレタリアートは、ブルジョワ社会への怒りを露わに表明していたのにもかかわらず、結局はこの社会を変える「強制力」など生み出すことはなく、逆に多くの者はヒトラーのナチスのイデオロギーに吸収され、場合によってはその熱烈な賛同者になってしまった。左翼的反抗心を持ち続けた者たちも、暴力的な弾圧にあって、ヒトラーの政権奪取を阻止できずに終わったのである。
ファシズムの台頭を機にバタイユの「低い唯物論」は変更を迫られる。論文「ファシズムの心理構造」(『社会批評』一〇号〔三三年一一月〕と一一号〔三四年三月〕に分割掲載)から政治団体〈反撃〉(三五年一〇月―三六年五月)までの彼の活動は、「低い唯物論」の変化・進展の軌跡である。この変化は簡単にいうと次のようなものだ。
「低い唯物論」は一種の力の思想だといってよい(この場合の力は仏語で|force《フオルス》、英語でもforce、独語では|Kraft《クラフト》)。この力に対する考え方をバタイユは改める。人間や大自然を根底から衝き動かしている力、この力は無規律で気ままで、そのままではとうてい社会を変える強制力にはならない。この力は、その意味で、弱さ、非力さとして存在している。プロレタリアート革命を引き起こすためには、彼らの内部の力を「強さ」へ転じる必要がある(この場合の「強さ」は|puissance《ピユイサンス》 という仏語、英語のpower、独語の|Macht《マハト》 に相当する)。そのとき求められるのが有機的で規律ある運動体の形成だ。沸騰してはいるが散漫で定めないプロレタリアートの力をこの運動体のなかに結集させ凝縮し「強さ」へ生成させる。この「強さ」をもってすればブルジョワ体制は覆るだろう。およそバタイユはこのような考えに逢着したのだった。
†ファシズムの心理構造[#「†ファシズムの心理構造」はゴシック体]
「ファシズムの心理構造」という論文は、豊饒にして複雑、なおかつ矛盾を少なからずかかえているため、ここにすべての内容を要約することはできない。右の「低い唯物論」の進展との関係で重要な点を拾いあげるに留めておく。
近代の西欧社会では、「異質なもの」(「低い物質」の言い換えだ)は二つの仕方で現われてきた。一つは「体制転覆的」な仕方、もう一つは「命令的」な仕方である。命令的な仕方で現われる「異質なもの」は、軍事権力、宗教権力、王権となって、社会の同質的部分(有用性を重んじて生産を司っているブルジョワ階級)を支配している。ファシズム権力も命令的な「異質なもの」であるが、これらの権力をすべて自己に集めているきわめて強力な権力だ。他方、体制転覆的な仕方で現われる「異質なもの」は、労働者、農民、あるいは抑圧された民衆の力であって、これまで反‐王政、反‐封建制の運動を引き起こしてきた。言い換えれば、打倒すべき権威が明確である場合、この力はそれに向け容易に結集し威力を発揮する。現代の民主主義体制にはその権威がない。したがって「民主主義のなかで発展する革命運動には何ら希望をかけることができない」。とはいえ、既存の革命運動にはなかった新たな力のあり方を構想することはできるだろう。論文はここで終わっているが、〈反撃〉の時代になるとこの新たな力のあり方がより明確に呈示される。
†〈反撃〉の時代[#「†〈反撃〉の時代」はゴシック体]
一九三四年に〈民主共産主義サークル〉が解散になると(『社会批評』も同時に廃刊)、バタイユは翌年そのなかの一派、および旧敵のブルトンらシュルレアリスム主流派(アラゴンは除く)とともに、革命知識人共闘組織〈反撃〉を結成する。
ここで注意すべきは、今日までしばしば〈反撃〉は反ファシズムの政治団体と紹介されてきたが、それは正しくはないということだ。〈反撃〉のマニフェストやパンフレット(ほとんどがバタイユの起草)を読むと、たしかにファシズムも反撃の対象になっている。だがそれは他の対象である資本主義、議会制民主主義、人民戦線、共産党と並列に置かれている。〈反撃〉の真の闘争対象はこれらが一致して支持している国家主義だった。
ファシズムについて言えばバタイユはその新しさを、独裁者への諸権力の集中という点のほかに、民衆の情念の組織化とそれによる強力化に見ていた。が同時に、ムッソリーニとヒトラーのめざす目標が一九世紀型の帝国主義国家であることも十分に承知していた。
ソ連に関しては彼はすでに論文「国家の問題」(『社会批評』九号〔三三年九月〕)で、ボルシェヴィキ主義がファシズムと同様に強力な国家主義を志向している点を指摘、スターリンのなかに「ドイツとイタリアの警察機構の恐ろしさに結びついた」反革命の冷酷さを見てとっていた(これに対し当時の大半の左翼知識人はまだソ連を正義と人間性の国と認識していた――三四年八月マルローはモスクワでソ連を自由の国と礼賛、知識人にはファシズムかコミュニズムかの選択が迫られているとし、また同年一〇月ジッドは人間はソ連において真の人間に生成したと語っている)。それ故バタイユは三九年八月の独ソ不可侵条約にも一向に動揺しなかった(共産党支持者はこれにより重大な混乱に陥った)。
三五年六月にフランス共産党主導のもとに結成された人民戦線(ファシズムに対抗しての左翼諸党の提携)にしても、バタイユはこれに、同年五月締結された仏ソ相互援助条約とのつながりを認め、ドイツを押さえ込むソ連の帝国主義的戦略を読み取っていた。なおこの頃からフランス共産党は「祖国」の概念を肯定的に導入し国家主義を容認する立場に回って、国民の支持を広汎に獲得し始めていた。
要するに一九三五―三六年のバタイユが国の内外に見出していたのは、第一次世界大戦をもたらしたのと同じ国家主義、帝国主義の伸張だった。「いたるところに不自由と不安を増長させながら、国家主義がその夜を全地球上に徐々に広げている。貧乏な国々の攻撃的な国家主義に豊かな国々の恐怖にかられた国家主義が対峙している[#「貧乏な国々の攻撃的な国家主義に豊かな国々の恐怖にかられた国家主義が対峙している」に傍点]。/貪欲さや恐慌で盲目的になった人間の諸集団が今や数百万単位で殺し合いをしようとしている」(「労働者たちよ、諸君は裏切られている!」三六年三月)。
†普遍的共同体と有機的運動体[#「†普遍的共同体と有機的運動体」はゴシック体]
〈反撃〉は世界戦争の元凶たる各国の国家主義に闘争を挑む。さしあたりフランスにおいて権力の奪取をめざすが、この新たな権力はフランスという国家の枠のなかに閉じこもらず、全世界の人間(とくに国家主義のもとで抑圧されている民衆)との連帯を志向する。
〈反撃〉のバタイユには二つの共同体構想があった。一つは、権力の奪取に向かう闘争的な共同体である。その構成員は、破壊転覆的なエスの力を沸騰させているプロレタリアート、民衆、知識人などだ。具体的には、一九三四年二月一二日、三五年七月一四日、三六年二月一八日にパリで大々的に左翼デモを展開した群衆がイメージされている。バタイユは、これら未組織で不定形の人々を「有機的運動体」に結集させて、その力を「|強さ《ピユイサンス》」へ転化させようとする。この「強さ」は、「革命的権威」に満ちた、「命令的」で、「仮借のない」ものだ。「主人として[#「主人として」に傍点]振る舞う」ことを可能にし、「諸事態を統御して[#「統御して」に傍点]、平和を課し、生産と富を秩序づけることのできる権力《ピユイサンス》」だ。このような「強さ」を備えた組織でなければ革命は実現されないとバタイユは考えていた。なお彼のこうした「強さ」の思想にはニーチェの「力《ピユイサンス》への意志」の教説が影響を及ぼしている。また民衆の高揚した力を結集する「有機的運動体」については、敵であるところのムッソリーニ、ヒトラーの戦術に多くを学んでいる。バタイユの言い分はこうだ。「我々の敵が一新させた手段〔=ファナチスムへの人間の根本的欲求を利用すること〕は必然的に悪い手段なのだと思いなすのはやめねばならない。我々は、逆に、彼らに対抗するためにこの手段を用いねばならない」(「現実の革命に向けて」『〈反撃〉手帖』三六年五月)。
「有機的運動体」は、ファシストのように伝統的な国家主義の新版を築くことではなく、いかなる国家主義をも打破して地球上の人間と広く結びつくことをめざす。バタイユの言葉を拾ってゆくと、それはフランス人共同体に対する「人類共同体」、フランスに対する「地球」、国家主義的意識に対する「普遍的意識」となる。
バタイユにあってこれら二つの共同体構想は、〈反撃〉の時代だけの問題ではなく、その後の時代のテーマにもなってゆく。すなわち「有機的運動体」は、非政治化されたうえで、宗教的秘密結社〈アセファル〉、その対《つい》の〈社会学研究会〉において実践された。普遍的共同体の方は、『無神学大全』の時代に「不定形の共同体」として受け継がれてゆく。
〈反撃〉は、結局、内部分裂がもとで三六年五月瓦解する(ブルトン派のシュルレアリストがバタイユを「超《シユル》ファシスト」と決めつけたのが内部分裂の原因)。三六年五月はまた総選挙で人民戦線側が勝利した時でもある。バタイユはそこに、国家主義へのフランス国民の選択を読み取ったことだろう。これを機に彼は、政治の実践的次元に立って西欧を撃つことをやめる。より深奥の次元に分け入って、つまり人間の生存に関する社会学的、宗教的、哲学的な議論に踏み込んで、西欧への批判、西欧の乗り越えを試みる。
4 秘密結社と聖社会学[#「秘密結社と聖社会学」はゴシック体]
†〈アセファル〉と〈社会学研究会〉[#「†〈アセファル〉と〈社会学研究会〉」はゴシック体]
バタイユによれば、この二つの共同体は表裏一体の関係にあった。
先に作られたのは〈アセファル〉(無頭人の意)の方である。一九三五年五月〈反撃〉が解散になると同時にバタイユによって結成されている。主たるメンバーは、〈反撃〉にも参加していたバタイユの友人で、ジョルジュ・アンブロジーノ(物理学者)、ピエール・クロソウスキー(のちに特異な小説家、思想家になる)、パトリック・ヴァルドベルグ(のちに『クリティック』の編集に参加)、そして当時のバタイユの愛人であったコレット・ペーニョ(通称ロール)らである。彼らは「宗教的[#「宗教的」に傍点]目的(ただし反キリスト教的な、主としてニーチェ的な目的)」のために密儀秘祭の挙行に向かった。秘密結社であったため参加者たちは自分たちの実行した祭儀の詳細を明らかにしていないが、末期には人身御供《ひとみごくう》まで計画したらしい(供犠《くぎ》の犠牲《いけにえ》になる人物はいたが、供犠を挙行する人間が見つからなかったためにこの計画は未遂に終わったらしい――なお犠牲として命を捧げる申し出をしたのはヴァルドベルグによれば、なんとバタイユその人であった)。他方バタイユは、雑誌『アセファル』を刊行(三六年から三九年まで四号を上梓)して、この秘密結社に対する自分の意図の一部を発表している。
〈社会学研究会〉は、三七年三月、若きロジェ・カイヨワ(一九一三―七八)と、二〇年代からの盟友レリスとともにバタイユが創始した講演会形式の研究会である。三人のうち講演の回数は圧倒的にバタイユが多かった。この会の目的は、社会における聖なるものの発現形態を考察することにあったが、単に考察することに留まらず、聖なるものを生きることもめざされていた。つまりそれまでの大多数の研究会が研究対象と研究者の立場を截然《せつぜん》と分けて研究対象の客観的な考察に向かったのに対し、この会はそれに充足せず、参加者が研究対象である聖なるものを生きる、換言すれば会自体を聖なるものの発現の場にする、情念の力《フオルス》が噴出される熱き祝祭共同体にする、ということまで求めていたのである。
†〈悲劇的なもの〉[#「†〈悲劇的なもの〉」はゴシック体]
〈アセファル〉と〈社会学研究会〉におけるバタイユの共通のテーマは、聖なるものと共同体であった。より正確に言えば、聖なるものの体験に拠りながら共同体を組成することであった。〈アセファル〉は、このテーマを実践の次元で尖鋭に追求した。〈社会学研究会〉はこのテーマを理論面で追求しつつ、同時に、〈アセファル〉のような祭儀の集団に化しはしなかったものの、このテーマが現実化される場たらんともしていた。
この時期のバタイユは、聖なるものを〈悲劇的なもの〉と呼んでいる。〈悲劇的なもの〉は、哲学者ニーチェの生涯を貫く重要な概念の一つだった。この概念は、ニーチェにおいては〈ディオニュソス的なもの〉というもう一つの重要な概念とも重なっている。〈悲劇的なもの〉は、煎じ詰めれば、苦悩と恐怖をもたらしつつも同時に恍惚と陶酔をもたらす何ものかである。これはまさしくオットーが聖なるもののなかに見ていた両面性、すなわち人を尻込みさせる斥力と人を魅惑する牽引力とに対応している。
一九三六―三九年のバタイユは、斥力、牽引力という言葉を多用するが、共同体の問題に関しては〈悲劇的なもの〉の牽引力に多くを期待していた。なぜならば、この牽引力(正確には斥力が牽引力に転じる運動)こそが共同体を成立させる根本の原理だと考えていたからである。ただしこの場合の共同体とは、何らかの形を有する人間集団(フランス社会だとか宗教団体だとかの)を意味している。
例えば〈社会学研究会〉でバタイユがしばしば問題にしたのは、中世からのフランスの村落共同体とその中心部に必ず存在する教会の建物である。彼は教会を「聖なる核」と呼び、それの〈悲劇的なもの〉――具体的には聖遺物、地下墓地、祭壇上のイエスの磔刑像――が牽引力を引き起こして村落共同体を組成させていたと説いている。
要するにこの時期のバタイユは、まだ、形ある共同体の存在を思索の重要な課題に据えていたのであり、それ故〈悲劇的なもの〉の牽引力に期待を寄せていたということである。
念のため繰り返しておくと〈非劇的なもの〉すなわち聖なるものは、聖遺物や磔刑像などの事物それ自体を指すのではない。これらの事物に接し内部の力《フオルス》が刺激された場合にその人間のなかで起きるかもしれない[#「かもしれない」に傍点]怖れと喜びの感覚のことだ。聖なるものは、主客の出会いの状況、主体の状態や感性などがうまく作用したときに、主体の側で一瞬生じる。偶然性に左右され、また生誕しても持続しない、不確かなものなのだ。キリスト教は聖なるものを客体のなかに閉じ込め永続化をはかった(この客体化は十字架から大聖堂まで試みられたが、神はその最大の所産)が、聖なるものはその分不純化した。この時代のバタイユはキリスト教の客体化に抗って聖なるものの体験に向かっている。が、真に聖なるものの偶然性、瞬間性、主観性に従うようになるのは『無神学大全』の時代に入ってからのことだ。
†無頭の共同体[#「†無頭の共同体」はゴシック体]
この頃のバタイユの時代認識はおよそ次のようなものだ。西欧先進諸国の社会は、脱聖化し聖なるものへの執着を失ったために、そしてまたこれと重なることだが、個人主義がすみずみまで浸透したために(バタイユはこれを「民主主義的な微粒子化」と呼んだ)、衰退、風化、解体の危機に直面するに至った。そのなかで、イタリア、ドイツ、そしてロシアは、独裁者を戴く全体主義の体制に解決を求め、社会の再組成をはかろうとした。その際、聖性も活用された。すなわち独裁者自身を、民族を、祖国を、神聖化するという手段がとられた。しかし結局、これらの社会においては「悲劇への怪しげな欲望を≪罰する欲求《ブゾワン》≫」が勝《まさ》ってしまった。バタイユは、こうした独裁主義の解決に抗する形で、独裁者を戴かない無頭の共同体という構想を打ち出す。
[#2字下げ] 一人の首長が創設する独裁主義的な統一体に[#「一人の首長が創設する独裁主義的な統一体に」に傍点]、首長が存在せず悲劇の執拗な[#「首長が存在せず悲劇の執拗な」に傍点]像《イマージユ》によって結合している共同体が対立している[#「によって結合している共同体が対立している」に傍点]。生は人間たちが集合することを求める。だが人間たちが集合するのは、首長によるか悲劇によるかのどちらかの場合しかないのだ。「頭《かしら》なし」の人間共同体を追求することは悲劇を追求することである。首長を死刑に処すること自体悲劇であり、悲劇への欲求であり続ける。ここに次のような真理、人間の事象の様相を将来一変させるであろう真理が始まる。共同の実存に執拗な価値を与える情動的な要素は死である[#「共同の実存に執拗な価値を与える情動的な要素は死である」に傍点]。(……)この≪ディオニュソス的な≫真理はプロパガンダの対象にはなりえない。そして、この真理は、それ自らの運動によって、|強さ《ピユイサンス》を招来し、深い神秘を取り巻く組織体という構想に意義を与える。
[#地付き](「ニーチェ的年代記」『アセファル』三七年七月)
一人の絶対者を頂点に据える単頭型の(あるいは神学構造型の)社会体制は、何もムッソリーニやスターリンによって創始されたわけではなく、西欧においては古代ローマ帝国の昔から連綿と続いてきたものである。二〇世紀の独裁者たちはこうした西欧の伝統に沿って自分たちの社会を蘇生させようとした(この意味でヒトラーがナチス・ドイツを第三帝国と規定したことは示唆的である――ちなみに第一帝国は神聖ローマ帝国(九六二―一八〇六)、第二帝国はドイツ帝国(一八七一―一九一八))。
バタイユの無頭の共同体〈アセファル〉は、西欧の神学的共同体構想への反措定《アンチ・テーゼ》にほかならない。それは、〈反撃〉の時代の「有機的運動体」と同様、一つの有形の組織体であり、「|強さ《ピユイサンス》」を備えた団体である。しかしこの「強さ」を「悲劇」あるいは死との接触によって生成させようとしている点が「有機的運動体」の構想とは違う。そしてそのように得られた「強さ」を〈アセファル〉はもはや革命や権力奪取に差し向けない。なぜならば「革命の破壊のあとにはきまって社会構造とその頭《かしら》の再生が起きるからである」。また、プロレタリアートを中心にした民衆の結集ということももはや問題にならない。〈アセファル〉は、同志による「選択的な共同体」である。バタイユはさらに「心の共同体」とも言い、カトリックの言葉を用いて「修道会」、「教会」、「霊的交流の統一体 (l'unite communielle)」とも形容している(霊的交流(communion) はミサの中心的儀式である聖体拝領――イエスの血としてのブドウ酒と肉としてのパンを授かる――において実現される信者相互の、そして信者とイエスとの交わり)。もちろんこれらのカトリックの用語は一神教の意味合いを取り除かれて用いられている。
無頭の共同体が民主制であれ独裁制であれ既存の西欧社会と根本的に異なっていた点は、〈悲劇的なもの〉の体験に直接的に関係していた点である。そして〈悲劇的なもの〉の体験によって、世界へ、「大地」へ開けようとしていた点である。
†「大地」[#「†「大地」」はゴシック体]
〈反撃〉の時代の「有機的運動体」はフランスではなく「地球 (= la Terre)」へ開けてゆくことがめざされていた。〈アセファル〉が開けゆく「大地 (= la Terre)」も同様に国家の枠組を越えた普遍的な地平である。
バタイユの世界観は、一九二〇年代からニーチェの影響のもとに形成されたが、この「大地」の概念に至ってニーチェとの連続性は明確に打ち出される。ニーチェは『ツァラトゥストラ』のなかで「大地への愛」を高らかに歌いあげていた。それは、「大地」を憎悪し神の国という背後世界を設定したキリスト教徒への反歌であった。この場合の「大地」とは、ヘラクレイトス的な万物流転の運動を展開している広大な地上界のことだ。個体を豊饒に生み出し続けながら同時にそうした自分の産出物を惜しみなく滅ぼしている矛盾に満ちた運動体のことである。ニーチェは、こうした「大地」の運動の気ままさに注目してこれを幼児の「遊び」に喩《たと》え、また「大地」の節度のなさ、過剰さという点、苦悩と歓喜の両面感情を惹起させる点に着目してこれを「ディオニュソス的」と形容した。
バタイユの「大地」は、以上のニーチェのヴィジョンの諸点を汲んで、神を戴かない無頭の、戯れの、力《フオルス》溢れる世界として描かれている。ただし創造と破壊の運動に関しては、バタイユの「大地」は、破壊という悲劇的な側面に、産出した事物を蕩尽する消費の側面に力点が置かれている。存在者を死へ導く「大地」のこのとめどなく抗し難い運動をバタイユはまた「時間」と呼びもした。
ニーチェと同様この頃のバタイユも、「大地」の象徴としてディオニュソス神(もとはギリシア神話のなかの酒、陶酔、狂気、豊饒の神)をもちだしているが、しかし彼は、「大地」(=ディオニュソス)を、天空(=ウラノス神)と地底(=冥界の神々)との上下の対立構造のなかに置き入れて後者に結びつけている。ウラノス神が象徴する天空は、明るく理性的で規律を重んじる頭部的世界であり、対する地底は母なる「大地」の腹部にあたり、暗く醜悪で、熱狂と犯罪への衝動に満ちている。バタイユは、両者のうちむろん地底の世界の方に加担しているのだが、これは二〇年代からの「低い唯物論」の視点の存続であると同時に、反ナチスの姿勢の表明でもある。すなわちナチスの御用理論家アルフレッド・ローゼンベルクがその著『二〇世紀の神話』のなかでディオニュソス神ならびに冥界の神々への反感を示し天空の神々への賛意を語っているのを受けて、バタイユは自分とニーチェがナチスとは違う世界――いや正確にはソクラテス以後の西欧の大方の思想家が過小評価してきた世界――へ開けてゆくことを表明しているのである。
†戦争[#「†戦争」はゴシック体]
ソクラテス以前のギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、万物流転の世界の運動のなかに、対立物の相克という闘争の様相も見ていた(「戦いは万物の父」というのが彼の箴言《しんげん》)。ニーチェは思索の最初期からヘラクレイトスに注目し、例えば『ギリシアの悲劇時代における哲学』において、彼の闘争状態の世界という見方を賛嘆の念をこめて紹介した。その一節をバタイユは『アセファル』(第二号〔三七年一月〕)に掲載する(拙著『バタイユ――そのパトスとタナトス』所収の「スイスの自然と神の死」を参照のこと)。そして同時発表の「命題」と題する論文のなかで彼はこう戦争について語る。
[#2字下げ] 近代の経済が命じてきた生気に乏しい戦争であっても、「大地」の意味は教えている。だが教えられるのは、頭が計算と短見でいっぱいの裏切り者たちなのだ。それだから教え方も、情け容赦のない仕方になり、意気阻喪させる猛威のこもったものになる。現代の戦争という目的のない大惨事は法外で心引き裂く性質のものであるが、しかし我々はそのなかに時間の爆発性の巨大さを認めることができるのだ。
[#地付き](「命題」)
「大地」はその上でさまざまな対立、衝突を引き起こしながら自分の豊饒なエネルギーを惜しみなく消費している。近代の戦争は帝国主義諸国間の利害打算が原因であるが、それは表面的なことであって、根本的には人間のなかの非個人的な部分、フロイトがエスと呼んだ過剰な力《フオルス》の層、「大地」とつながる人間の根底の生が原因なのだ。「大地」が人間を根底から稼動して引き起こすもの、それが戦争にほかならない。戦争は「大地」の意味を教えるとバタイユが言うとき、彼はこのような理解に立っている。世界の実相を知るためには、恐れることなく戦争を直視しなければならない。戦争を起こさないようにする手立ても、逆説めくが戦争を正視する力強い態度からしか生まれないだろう。だが、バタイユの同時代人の多くが戦争から目をそむけようとしていた。
一九三八年九月、英仏独伊のミュンヘン会談で、英仏首脳は戦争回避のため対独宥和策に出て、ヒトラーにチェコのズデーデン地方への進駐を認めた。イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相は帰国すると議会やマスコミから歓呼の声で迎えられた。バタイユら〈社会学研究会〉のメンバーはこの安易な平和主義的反応を深刻に受け止め、三八年一一月「国際的危機に関する〈社会学研究会〉の声明」を発表する。それによると、「〈社会学研究会〉は戦争を前にしての活力ある反応の一般的欠如を人間における雄々しさの欠如[#「雄々しさの欠如」に傍点]の兆候とみなす。同会は、ためらうことなくその原因を、ブルジョワ個人主義の進展に発する社会の現代的絆の弛緩、そのほぼ完全な不在に見る」。そして「人間相互の生の絆の創造」が唯一の解決策だとして、〈社会学研究会〉自体をそのための「エネルギーの発生源」、すなわち牽引力を放つ聖なる核にすると言明している。もちろんこの聖なる核はフランス社会を再興させるためのものではなく、地理的・社会的枠組を超えた普遍的な人間共同体のためのものである。
しかし結局、聖なるものを介してのバタイユの共同体構想は時代の情勢を変えられずに崩壊してしまう。〈悲劇的なもの〉の体験を核にして有形の共同体を築き、これを無形の普遍的共同体へ、さらには「大地」へ開かせる彼の構想は、明確な成果を得られないまま、第二次世界大戦の勃発とともに頓挫する。三九年九月に〈社会学研究会〉も〈アセファル〉も解散に追い込まれてしまうのだ。バタイユは否応なく戦争に対峙させられ、そのなかでこれまでの思索と試みの矛盾をただしてゆく。そして一層深い宗教的見地に立って『無神学大全』の執筆に向かう。
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【第三章】[#「【第三章】」はゴシック体]
極限へ[#「極限へ」はゴシック体]
[#扉(img/front3.jpg)]
1 「力への意志」から「好運への意志」へ[#「「力への意志」から「好運への意志」へ」はゴシック体]
†ブランショとの対話[#「†ブランショとの対話」はゴシック体]
一九三九年九月一日ドイツ軍はポーランドに侵攻した。第二次世界大戦の始まりである。英仏は九月三日にドイツに宣戦布告する。バタイユはその二日後に日記をつけ始めた。戦争の勃発が執筆の動機であるが、しかし戦争の諸情勢について語るためではない。戦争のなかにいる自分を表現するためである。
ナチス・ドイツとの戦争のさなかにあってバタイユは、対独抵抗《レジスタンス》運動にも対独協力《コラボラシオン》活動にも与《くみ》しなかった。直接的な政治活動からはいっさい離れて彼はひとり神秘的な体験に沈潜した。日記には、この神秘的体験とそれに発する哲学的な省察が、日ごと、明確な脈絡なしに綴られた。当初バタイユにはこれを一冊の書物に編む心積もりはなかった。しかし一九四四年これらの記録は『有罪者』という題名の書物にまとめられ、大手出版社のガリマール社から出版される。五四年になると、『無神学大全』という総題の作品群のプランが公表され、『有罪者』はそのなかの第U巻に位置づけられた。
『無神学大全』の第T巻は『内的体験』で、これは四三年の初頭に同じガリマール社から出版されている。バタイユは三九年九月からつけ始めていた日記を四一年冬にいったん中止して、『内的体験』の制作に専念、これを四二年の夏に完成させたのだった。
『内的体験』はのちの彼の言葉によれば、『無神学大全』のなかで「一番まとまりのある作品」、「理解可能な(しいて言えば)一総体を一冊だけで呈示している唯一の書物」ということになるが、最も重要な点は、この作品において彼の神秘的体験がそれまでとは違う次元に達したということである。そのきっかけとなったのは、四一年の冬に交友を開始したばかりのモーリス・ブランショとの対話であった。
[#2字下げ] ブランショとの対話。私は彼にこう言った。内的体験は、内的体験を正当化する目的も権威も持たない、と。たとえ私が一個の目的、一つの権威への配慮を粉々に吹きとばしてしまっても、少なくとも一つの空白が残存することになるだろう。ブランショは私に、目的や権威が推論的思考の要求事項だということを想起させてくれた。私は固執して、最終段階の形態の内的体験を描いてみせ、どうしてこれが権威も何もなしに可能だと思うのかと尋ねてみた。ブランショは私に、体験それ自体が権威なのだと答えたのだった。ただしこの権威は罪ほろぼしをしなければならない、そう付け加えもしたのだった。
[#地付き](『内的体験』)
権威を贖《あがな》う必要性についてはバタイユはすでに三〇年代末にニーチェの言葉(『ツァラトゥストラ』「自己超克」)を通して知っていたが、しかし彼を体験と権威の新平面に立たせ『内的体験』の執筆に向かわせたのは四一年冬のこのブランショの助言だった。
†権威の問題[#「†権威の問題」はゴシック体]
このブランショとの対話のなかで取り沙汰された権威の問題は、バタイユの思想の根幹に関わる問題であった。
権威(仏語でautorite)とは、他人を圧倒し服従させる威力のことである。バタイユはこれに一九二〇年代から取り憑かれていた。論文「低い唯物論とグノーシス派」のなかで「借りものの権威」を批判していたことを想起しよう。彼は「低い物質」が、真の、自律的な権威を生むと信じていた。〈反撃〉の時代の「有機的運動体」の構想では、労働者や民衆の「低い物質」の力《フオルス》を凝集させて強力な権威に生成させることがめざされていた。〈アセファル〉の時代においてもバタイユは権威に執着している。それは次の言葉にうかがえる。「真の〈教会〉〔=信徒・同志の集まりとしての〕を組織する必要がある。≪教権≫〔=世俗の政治的権力に対する宗教的権力〕を求めねばならない。伸張し影響を及ぼすことのできる力《フオルス》を構成しなければならない」(「戦争の脅威」『アセファル』三九年六月)。
バタイユにおいて権威の問題は三つの主題に関係していた。
第一は有形の共同体という主題である。バタイユは、本来定めない人間の力《フオルス》を形ある共同体のなかに結集させて権威を作り出そうとしていた。
第二は|強さ《ピユイサンス》あるいは力〔= puissance〕という主題である。強さとは、自分の外部にある人間なり物なりに影響を及ぼして、これを自分の思う方向に変化させる作用のことである。場合によっては、この外部のものを自分の支配下におさめて所有しもする。強さは力《フオルス》の表情のうちの一つだといえるかもしれない。もっと正確に言うならば、一瞬の表情として力《フオルス》は強さを呈することがあるかもしれない。しかし一瞬では強くないともいえるのだ。力《フオルス》は、定めなさ、気ままさを本分にしているのであって、持続的な|強さ《ピユイサンス》を示すことができない。だからむしろ力《フオルス》は、弱さとして、|非力さ《アンピユイサンス》〔= impuissance〕として現存していると述べた方が適切なのである。バタイユは、この力《フオルス》を持続的な強さに成長させて権威を生み出そうと考えていた。
第三は価値の主題である。マルローの『人間の条件』に寄せた書評文のなかでバタイユが革命の沸騰状態それ自体を人間の価値だとみなしていたことを想い起こしてほしい。力《フオルス》が|強さ《ピユイサンス》になり権威となって革命を引き起こしているとき、この熱き強さ〔=権威〕は人間にとって最高の価値であると、到達すべき善、達成すべき目的であるとバタイユは考えていた。
ここで注意すべきことは、バタイユが求めていた有形の共同体、強さ、価値は、みな持続性を持っていた、言い換えれば固定的な性格を持っていたということである。これは力《フオルス》の本質に反する性格である。力《フオルス》は、風のように、つねに運動状態にあって変化している。強度を強めたり弱めたり、破壊的になったり創造的になったり、恐ろしげになったり柔和になったり、力《フオルス》はその様態を瞬間ごと気ままに変化させている。
バタイユは、自分の神秘的体験を「内的体験」あるいは「好運」と呼んでいたが、これは何よりも力《フオルス》の体験であったのだ。自分の内部の力《フオルス》が潮のように高まり沸騰してゆく好ましき偶然の成り行きに身をまかせて、恍惚状態へ、脱自の境へ、生と死、存在と無の境界線へ出てゆき、そこで瞬時さまよい、力のままに激しく揺れ動く。バタイユの「内的体験」「好運」とはこのような体験のことなのである。この力《フオルス》の体験に固定的な性格を与えるということ、概念にしろ組織にしろ持続的な枠組を課すということは力《フオルス》の体験それ自体に対し矛盾をおかすことにほかならない。ブランショはこの根本的な矛盾を指摘し、バタイユに、より力《フオルス》に忠実であるように促したのだった。
†コペルニクス的転回[#「†コペルニクス的転回」はゴシック体]
体験それ自体が権威なのであるが、その権威は罪ほろぼしをしなければならない。このブランショの助言の意味するところは、体験の権威は体験のさなかにだけあって、体験が終了すると自らを打ち消さねばならないということである。つまり権威は持続せず、自分を否定してゆく、もしくは異議申し立ての運動に自らをさらして滅びるがままになる。あるいはこう言い換えてもよい。シエナの大聖堂のように真面目さに硬直して滑稽に見えたとたん笑いとばされてしまう、ということである。
バタイユは、ブランショの助言を受けたあと、その重要性を吟味して、次のような結論に達したのだった。「そのとき私は、この答え〔=ブランショの助言〕が宗教的生活に関するすべての論争に終止符を打つものであり、思考の行使の局面ではガリレオ的な重要度の転回を含むものであると、つまりこの答えは、諸〈教会〉の伝統に取って代わると同時に、哲学にも取って代わると、理解したのだった」(『内的体験』)。
諸〈教会〉と哲学の問題に関し、ブランショの助言は、天動説を地動説へ覆したコペルニクス(そしてガリレオ)の転回に匹敵するとバタイユは判断したのだった。だが、何よりもバタイユ自身に対して、この二つの問題でブランショの返答は革命的であったのだ。
†不定形の共同体[#「†不定形の共同体」はゴシック体]
力《フオルス》の神秘的な体験が持続的な権威を帯びないとなった以上、先の三つの主題(有形の共同体、強さ、価値)はもはや体験と結びつかなくなる。体験を固定化させようとするあれら三つの主題はどれも打ち消されてしまう。
まず有形の共同体、つまり〈教会〉の存在が打ち消される。ただしバタイユは共同体の構想すべてを捨ててしまったわけではない。「共同体という言葉は〈教会〉あるいは修道会とは異なった意味で理解される」(『内的体験』)。彼は以後、明白な絆を持たない共同体を念頭に置くようになる。「私としては、形態が人の望みうる限り緩い共同体、不定形ですらある共同体を想像することができる。この共同体の唯一の成立条件は、道徳的自由の体験が、個人の自由という凡庸な意味――自由の意味それ自体の自己無化、自己否定にほかならない意味――に還元されずに、共有化されること、これだけである」(『ニーチェ覚え書き』一九四五)。
バタイユの神秘的体験は西欧の個人主義的自由を擁護するためにあるのではない。彼の恍惚〔=脱自〕の体験は、逆に、個人の殻、個人という存在の全一性に対する否定である。この体験においては内部の力《フオルス》が噴出して個人の一体性が破られる。この個人の破綻を言うためにバタイユは、「亀裂」、「裂傷」、「開口部」なる言葉を用いた。西欧の個人主義道徳の立場からすれば、この体験は悪ということになる。だが体験のさなかに、その脱自の境地に視点を置くならば、この体験は、西欧個人主義道徳の彼方、善悪の彼岸、「道徳的自由」の体験ということになる。
バタイユは、こうした個人の否定においてしか、「裂傷」を通してしか、人間間の真のつながり、彼の言うところの「交流《コミユニカシオン》 (= communication)」はないと考えていた。「不定形の共同体」とは、「裂傷」を自らに穿《うが》った者同志の「交流」のことである。ただしバタイユのこの「不定形の共同体」には二つの次元があった。
†「友愛」による共同体[#「†「友愛」による共同体」はゴシック体]
一つは、『無神学大全』という書物の存在理由(この問題についてはあとで詳しく語る)にも関わってくるが、バタイユの言葉に共感を覚え彼と同じ体験に向かう不特定の人たちとバタイユとの間の共同体である。バタイユは読者にこの共同体への参加を強制したりはしない。ただ読者の「友愛」に期待するだけだ。「私は、悪意のある人たちにはほとんど語りかけておらず、そうではない人たちに私のことを見抜いてくれる[#「私のことを見抜いてくれる」に傍点]ように求めているのである。友愛の目さえ持っていれば、かなり遠くまで見ることができる。(……)私は説教師の本を書いているのではない。深い友愛を払ってのみ人は私のことを理解しうるということが私には良いことのように思えるのである[#「深い友愛を払ってのみ人は私のことを理解しうるということが私には良いことのように思えるのである」に傍点]」(『ニーチェについて』)。この自由な視点から、読者に対する次のような呼びかけもなされている。
[#ここから2字下げ]
私の文章を読んでくれている君、君が誰であろうとかまわない。君の[#「君の」に傍点]好運を賭けたまえ。
私がしているように慌《あわ》てずに賭けるのだ。今これを書いている瞬間に私が君を賭けている[#「私が君を賭けている」に傍点]のと同様に君も賭けるのだ。
この好運は君のでも私のでもない。すべての人の好運であり、すべての人の光なのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『ニーチェについて』)
†人類との共同体[#「†人類との共同体」はゴシック体]
もう一つの共同体は、今引用した最後の文で暗示されている「すべての人」の次元にある限りなく広大な共同体である。『無神学大全』を読む読まないに関係なく存在する共同体、この地上に生存してきた人類たちと結ばれる共同体である。「内的体験」の極限において、バタイユは、「すべての人間の巨大で、滑稽な、そして苦しげな混乱」に、「さまざまな、気まぐれ、嘘、苦悩、笑いのシェークスピア風悲喜劇的総和」に関係していると感じる(『ニーチェについて』)。これもあとで詳しく見るが、「内的体験」の極限に達して自己の限界線上をさまようときバタイユは、一個の人間の抱え持つすべての欲求を葛藤状態で生きるのであり、そのようななかでこの葛藤状態、この混乱を、人類全体の生存のありようと実感してゆくのである。「災禍、愚行、犯罪において、下劣であり心優しくもあり、また何よりもさまよっている[#「さまよっている」に傍点]」人類の「遠方の像」(「作家の二律背反について――ルネ・シャールへの手紙」一九五〇、拙訳『純然たる幸福』所収)が、今の自分のあり方、限界線上を定めなくさまようその様と同じだと彼は見るに至るのだ。
ニーチェの遺稿の断章「だが人間のなかにある偉大なもの、崇高なもののすべての流れは最終的にどこへ注がれるのだろうか。この激流のための大洋があるのではないだろうか。――その大洋になりたまえ、大洋は必ずあるだろうから」をバタイユは自分の共同体の観点から解釈してこう述べている。
[#2字下げ] 体験のさなかではもはや限定された存在などありはしないのだ。体験において一人の人間は他の人々とまったく区別されることがない。この人間のなかには他の人々のなかの激流的なものが注ぎ込まれるのである。「その大洋になりたまえ」というたいへん簡潔な命令は、極限[#「極限」に傍点]と結びつきつつ同時に、一人の人間を、民衆に、砂漠に、変える。この命令は共同体の意味を要約し明確にする表現なのだ。体験しか対象にしていない共同体について語ることで、私はニーチェの欲求に答えることができる(ただし共同体を指し示しつつ私は≪砂漠≫を問題にしているのだ)。
[#地付き](『内的体験』)
晩年のニーチェは有形の祝祭共同体の創設を夢見ていたのだが、それとともに数々の教説で、個人の制約を否定しその外へ開けてゆく欲求を肯定的に語り、さらに彼自身、曖昧で不徹底な仕方でではあるが、この欲求を体験として実現しもしていた。バタイユは、「内的体験」の極限で切り開かれる不定形の巨大な共同体のなかで、脱自を欲し実行していたニーチェとも交流しうると考えていた。
この広大な共同体をバタイユは「砂漠」だという。彼がイメージする「砂漠」とは、個体としての人間の諸特性――もっと正確に言えば、自分を孤立した個体へ閉じ込める人間の諸属性、例えば生産・所有への意欲――を砂のように滅ぼそうと願っている所である。近代の西欧人はこの諸特性を重んじてきたのであり、その意味では「砂漠」から遠い存在であるのだが、しかしその彼らが世界大戦という非個体化の最悪のやり方で二度も「砂漠」を体現したのである。「砂漠は≪現代人≫の腐敗を被《こうむ》った。もはや砂漠のなかには、この腐敗が残す災禍以上に大きな場所を占めているものは何もない状態だ――この災禍は≪砂漠≫に≪砂漠特有の≫真理を与えている」(『内的体験』)。バタイユは世界大戦の勃発を望みはしなかったが、「内的体験」の極限で、戦争のさなかにいる人類と交わっている感覚を持った。これは、不定形の共同体(=「砂漠」)のきわめて苛烈な感覚であったといってよい。
†ニーチェを超えて[#「†ニーチェを超えて」はゴシック体]
ブランショの助言はとくに哲学の分野でコペルニクス的転回を引き起こすとバタイユは考えていた。当時のバタイユにとって哲学とはとりわけヘーゲルとニーチェの哲学であった。ヘーゲル哲学に対する彼の考え方は次節で詳しく見るとして、ここではニーチェ哲学に対する彼の態度を検討してゆく。その際問題として立ち現われてくるのが、権威に関わりながら切り捨てられていった残りの二つの主題、強さ(=力《ピユイサンス》)と価値なのである(ただし価値については表現の問題とも関連しているため第三節で扱うことにする)。
バタイユは一九二三年頃にニーチェの著作を主として翻訳で耽読した。このとき彼は、自分の考えがニーチェによって完全に語り尽くされていると、ニーチェを超えて語るべきことは自分には何もないと賛嘆まじりに感じていた。この「決定的な印象」から二〇年余りのちにバタイユは『ニーチェについて』(一九四五)という書物を発表する。副題には「好運への意志」と付けられた。この副題には後期ニーチェの一大教説「力への意志」を批判的に乗り越えようとするバタイユの態度が示されている。今や彼はニーチェの哲学に対しそれを上回ることが語れるようになったのだ。
†「力への意志」[#「†「力への意志」」はゴシック体]
ニーチェは「力への意志」の力(独語の|Macht《マハト》、仏語で|puissance《ピユイサンス》)をさまざまな意味で用いていたが、第一義的には、より多くのものを支配して自分を一層強大にする働きという意味で用いていた。簡単にいえば権力ということかもしれない。しかし権力という言葉は国家権力、警察権力などのように具体的で特殊なイメージを喚起しやすい。ニーチェとしてはもっと普遍的な次元に立ちたかったのであり、事実彼は地上のすべての生命体に「力への意志」が、つまり他を支配し強大になろうとする意志が見出せると考えていた。「私が生あるものを見出したところ、そこに私は力への意志を見出した。そして、奉仕する者の意志のなかにさえも、私は、主人たろうとする意志を見出した」(『ツァラトゥストラ』「自己超克について」)。
ニーチェの生の概念は地上の生命体すべてを通底する根本原理であり、その内実は非理性的な力(独語の|Kraft《クラフト》、仏語の|force《フオルス》)である。この生の力《フオルス》と「力への意志」の力《ピユイサンス》は、ニーチェにおいてどのような関係にあるのだろうか。端的にいうと、力《ピユイサンス》は、生命体の力《フオルス》の強度に応じて、それに適したやり方で、外部のものを支配下におさめ所有し、個体としての自己を強大にする。ここで注意すべきなのは、理性の介在である。たしかに「力への意志」の力《ピユイサンス》のエネルギー源は生の力《フオルス》だ。しかし理性が生命体のなかの力《フオルス》の程度を観測して、その程度に応じてこの力《フオルス》を力《ピユイサンス》に変え生命体のために運用するのである。生の力《フオルス》が低い生命体にはそれなりの力《ピユイサンス》(ニーチェに言わせれば卑劣な力《ピユイサンス》)しか生ぜず、逆に力《フオルス》が漲《みなぎ》っている生命体の力《ピユイサンス》は強さを(ニーチェに言わせれば高貴さを)呈する。しかしいずれの場合も力《ピユイサンス》は生命体の個体性のために作用している。なぜならば理性の根本の役割は、生命体の個物としての一体性を維持しながらその生命体を存続させる、あるいは成長させることにあるからだ(ニーチェは「大いなる理性」と言い、人間の精神という狭い領域の外に、精神を包み込む身体全体に、他の生物ならばその存在全体に、理性の存在を見ていた)。「力への意志」は、つまるところ、個体を富ます思想だったといってよい。そしてこの教説は、非個体化を求めるニーチェの他の重要な教説(「悲劇」、「ディオニュソス的なもの」、「大地への愛」、「運命愛」、「神の死」、「遊戯」等)と根本的に矛盾をきたしていた。
†帰結としての「好運への意志」[#「†帰結としての「好運への意志」」はゴシック体]
ニーチェは、生としての力《フオルス》の強度を高いレヴェルで持っている人間の力《ピユイサンス》を、その強さを愛していた。この傾向は、彼の「超人」の教説に影響しているし、また史上の権力者(チェザレ・ボルジア、ナポレオン、ビスマルク)への肯定的発言にも反映している。ここに、ニーチェと「力への意志」説がナチスの御用学者アルフレート・ボイムラーに利用された由縁もある。
バタイユの「好運」は、高い強度の力《フオルス》への肯定であっても、理性を介さない(極限へ力《フオルス》を高めるために理性の働きに訴えて「企てによる企てからの脱出」、「至高の操作」、「劇化《ドラマチザシオン》」という手段を用いることがあるが、そのときでも理性が力《フオルス》に対して覇権を持つことはない)。力《フオルス》が強さとしての力《ピユイサンス》に転じることはなく、強力な人間を生み出すこともない。高い強度の力《フオルス》がそのまま発露されるのであり、それ故、主体に非個体化を迫り、「裂傷」を穿つ。「死なずに死ぬ」、「部分的な死」、「小死」といった表現をバタイユは好んで用いたが、これは、「好運」の体験の二重の要謂――生命を維持しつつ非個体化という死への運動を生きる――を伝える言葉である。
矛盾に満ちたニーチェの哲学に帰結を与える。バタイユはニーチェに対する自分の態度をこう規定していた。「好運」の体験がこの帰結に相当する。「力への意志」説を排しつつ、バタイユは非個体化を語るニーチェの他の教説の実践として「好運」の体験を打ち出したのだった。
†前提なき体験[#「†前提なき体験」はゴシック体]
その意味で『ニーチェについて』の中心部分は、バタイユが自分の日々の「好運」の体験を語った「第三部日記(一九四四年二月―八月)」だといってよい。分量から見ても第三部だけで全体の六割を占めている。
バタイユは、自分の力《フオルス》の体験に前段階を設けない。力《フオルス》を高めるために修行僧のように密室にこもったり、禁欲的苦行に徹したり、あるいはまた薬物を使用するなどということをしない。彼の力《フオルス》の高まりはまったくの偶然に依拠している。「好運」と命名されている理由がここにある。
バタイユにおける力《フオルス》の沸騰は、第一に、彼自身の内発的な生理の問題である。気ままに強度を高めたり低めたりする力《フオルス》の自律性に関わることなのだ。だがまた力の沸騰は外的な偶発事によっても引き起こされる。嵐、洪水、草木の開花、夏の夜の森の幻想的な光景といった自然現象との出会い、恋人や市井の人々との触れ合い、戦況の推移により戦線の真只中に置かれた体験等々によっても、彼の内部の力《フオルス》は点火される。キリスト教徒ならばこれらの偶然の出来事は神の恩寵とみなすところだが、バタイユは体験外からの権威付け、意味付けをいっさい拒否する。
†浮遊する思考[#「†浮遊する思考」はゴシック体]
「好運」の体験の極限は「非‐知の夜」と呼ばれる状況だ。そこでは人間の知的行為、つまり何かを認識する行為(知る≠ニいう行為)や論理的に思考する行為(考える≠ニいう行為)、及びそれらの成果は消滅する。認識と思考、そしてその成果を哲学の本質とするならば、「非‐知の夜」は哲学が消滅する所、哲学が哲学外のものに開けていって消えゆく所である。
バタイユは思想史における自分の位置をこう規定している。「私が導入した思考の仕方において大切なものは、けっして断言なのではない。自分が語ることを私はたしかに信じてはいる。けれども私は、自分のなかに、断言がもう少し先のところで消滅することを欲する運動があることを知っている。万が一、思想史のなかに私の位置を設ける必要がでてくるとしたら、それは、私が、人間の生における≪推論的現実の消滅≫の諸効果を見極めたこと、そしてこれらの効果の記述から消えゆく光を引き出したことによるだろう」(『内的体験』)。
自分が断言した事柄が異議申し立てされ消滅してゆく「非‐知の夜」。これについてはあとで詳しく見ることにする。バタイユが自分の行ったことで思想史上のコペルニクス的転回に相当すると感じていたことがもう一点ある。それは浮遊する思考、定点不在の思考の仕方だ。力《フオルス》の強度の移ろうままに思考する態度である。「非‐知の夜」はこの思考の極限に位置している。
バタイユはこの思考の仕方によって次々に自分の考えや判断を語ってゆくわけだが、それらは当然のこと一貫性の乏しいものになる。力《フオルス》の各強度ごとまちまちの内容になってゆく。実際、『ニーチェについて』第三部を読むと、力《フオルス》が萎えて「好運」の体験を嫌悪するバタイユに出会う。「好運への意志」という副題と矛盾することが語られているのだ。そして、力の萎えたバタイユは、書くという生産的な行為に縋《すが》って何とか自分を建て直そうとしている。蕩尽、破壊、供犠という言葉を威勢よく語っていたバタイユはどこへいったのかと読者は思う。
一貫性のなさ、無秩序、矛盾、これが浮遊する思考の特徴だ。もう一つ特徴がある。目的に向かう持続力の欠如、言い換えれば不連続性、瞬間性である。バタイユは何か一つの目的をめざす「企て」、およびその行為(彼の用語では「行動」)に思考を従属させない。ある課題を論証する思考(=推論的思考)は、「企て」に則った「行動」の一種である。「行動」はすべて一つの目的に従属している。バタイユは思考を目的達成という持続的ノルマから解放し、自律性を回復させてやる。思考はもはや瞬間ごとの運動となり、相互につながりがなくなる。この場合、瞬間とは一分のこともあれば一時間のこともある。力《フオルス》が一つの強度をどれだけの間保っているかにかかっているのだ。
このような浮遊する思考を実践した哲学者はバタイユ以前には一人もいなかった。みな推論的思考を行っていたのである。ただし先駆者ならば一人いる。ニーチェだ。狂気に沈む数カ月前にニーチェはこう述べている。「私の記憶の中には、かつて自分が何かのために努力した、という思いがない。――奮励努力[#「奮励努力」に傍点]の跡が私の生涯の中には辿れない。私は英雄的人物のおよそ対極にある人間である。何かを得ようと努力する≠ニか、何らかの目的≠竍願望≠絶えず忘れないでいるとか――こういったことを私は経験的に知らない」。「私は偉大な任務と取り組むのに、遊戯[#「遊戯」に傍点]とは別の遣り方を知らない。遊戯こそは偉大さを示すしるしであり、その本質的な前提である」(『この人を見よ』西尾幹二訳)。
前半の引用文にはいささか誇張がある。ニーチェは目を病んで大学教授の職を辞さねばならなくなるほど古典文献学に「奮励努力[#「奮励努力」に傍点]」した人なのだ。彼の書き残した文章も、バタイユほど激しい混乱は呈していない。『無神学大全』のバタイユは、「遊戯」という思考態度をニーチェよりももっと徹底的に実践したのである。
†|非力さ《アンピユイサンス》の哲学[#「†|非力さ《アンピユイサンス》の哲学」はゴシック体]
力《フオルス》を純粋に発露する人間は、たとえ暴力的であっても非力だ。哲学も同様である。思考の運動を力《フオルス》の気ままさにまかせればまかせるほどその所産は非力になる。矛盾に満ちた役立たずの言葉の群れ。さながら廃物の山のようになる。
従来の哲学はそうではない。程度の差こそあれ、堅固で力強い体系を備え威猛高《いたけだか》だ。自分の主張があたかも普遍的に正しいかのようにその妥当性、正当性を誇る。他の発言を圧倒し自分の支配下におさめようとする。従来の哲学はどれも力《ピユイサンス》の哲学なのであり、これを築き上げる論証的思考は「力への意志」なのである。
バタイユがニーチェの「力への意志」説を批判するとき問われているのは、ニーチェのこの教説だけではない。それまでのすべての哲学であり、それらを成り立たせていた論証的思考なのだ。
浮遊する思考は「好運への意志」だといえる。「好運への意志」とは、好運を目的にしてこれを追求することではない。力《フオルス》のままに生き、力《フオルス》の潮位が上昇したときには極限までその上昇に従うということだ。浮遊する思考は、「好運」の体験が訪れたとき、そこで自分が消滅することを快く受け入れる。いや、これを非理性的に欲するのだ。「断言がもう少し先のところで消滅することを欲する運動」になりきるのである。
バタイユは、浮遊する思考を実践して、思想史上はじめて非力さの哲学を呈示した。もちろん先駆者ニーチェの存在を喚起することも忘れていない。彼によれば、言葉として残されたニーチェの思索の跡は、全体として、広大な星雲状の混沌を形成している。ニーチェの哲学は、非力な矛盾の総体なのだ。「力への意志」説は、そのなかの一項にすぎないのであって、けっして彼の哲学全体をカヴァーするものではない。
バタイユの「力への意志」説への批判は、結局のところ、ニーチェその人を通り抜けてしまっている。この批判の真の標的は二つある。一つは、すでに述べたように、それまでの西欧の哲学のあり方全般である。もう一つは、西欧の近代人の生き方である。バタイユの見るところ、西欧の哲学はヘーゲルによって極められたのであり、また他方、西欧の近代人の生き方の本質はヘーゲルの哲学によってあますところなく語られていた。
「力への意志」を「好運への意志」に変えたバタイユの批判意識、これに関しては彼のヘーゲル批判を見てゆくことにより、その窮極的内容の全体に迫ることができるのである。
2 「非‐知の哲学」[#「「非‐知の哲学」」はゴシック体]
†ヘーゲル哲学の摂取[#「†ヘーゲル哲学の摂取」はゴシック体]
バタイユは、一九三四年から三九年まで、パリの高等研究院におけるアレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル哲学講義を熱心に聴講していた。
三三年から始められていたこの講義には、バタイユのほか、ラカン、クロソウスキー、メルロ=ポンティ、サルトル、R・アロン、J・ヴァールら後年名をなす若き知識人が多数出席していた。
ヘーゲルの主著『精神現象学』の読解に向けられたこのコジェーヴの講義は、ヘーゲル受容が著しく遅れていた当時のフランスにおいて、最初の本格的なヘーゲル哲学の紹介という意味を持つ。何しろフランスでは、ヘーゲル(一七七〇―一八三一)が没して百年が過ぎてもこの主著の仏訳すら試みられていなかったのである。
前世紀後半から第二次世界大戦前まで第三共和政下のフランスにおいては一般にドイツ系の近現代思想の専門研究が遅れていた。後年のルイ・アルチュセールの言葉を借りればフランスは「哲学上の白痴化の長い時代」にあった。すでに述べたように、マルクスの著作はフランス共産党の実践中心主義のために党外部の少数勢力によってわずかに翻訳が進められていたにすぎず、またフロイトに対してはフランス精神医学の権威筋がこれに頑《かたく》なな抵抗を示していたし、ニーチェについては翻訳こそ出版されていたが大学教育の場からは追放されていた。
この時代の、とくに両次大戦間のアカデミズムの世界で歓迎されていたのは、ベルクソン哲学とフランス流の新カント主義であった。後者は、カント哲学への回帰を第一にめざし、さらにデカルト、プラトンなどの伝統哲学への溯行に熱心であった。裏を返せば、カント以降のドイツ哲学(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェ)に眼差しは向けられなかったということである。
「復員兵の世代」およびそのあとの若い世代のなかのすぐれた知識人は、このようなアカデミズムの世界に不満であった。不満の原因は、アカデミズムの世界が現代へつながる哲学の発展を無視していたということのほかに、そこで語られていたのが、多くの場合、観念的で現実味のない、あるいは柔和で退屈な人間像だったということにある。同時代の人間模様の荒々しさ、愚劣さ、矛盾、そうしたなかで没落してゆく西欧文明、そしてその没落からくる不安感、このような差し迫った問題からアカデミックな哲学は遠ざかっていた。また、フランス国家を擁護する保守的な姿勢(例えば第三共和政体の肯定に行き着く理性主義的進歩史観)にも彼ら若い知識人は失望していた。彼らは哲学に、人間の生々しい、それでいて暗く不分明な部分への問いかけを、そしてそこから出発しての新たな希望の地平の呈示を期待していたのである。コジェーヴの講義はこれに応えるものだった。
†人間の闇の部分[#「†人間の闇の部分」はゴシック体]
『ドキュマン』時代のバタイユは、ヘーゲルを汎論理主義(世界や歴史のいっさいを論理・理性の実現とみなす立場)の権化として嫌悪していた。そのバタイユが五年の長きに渡ってコジェーヴの授業に出席するようになったのは、コジェーヴの説明の明晰性、巧みさもさることながら、ヘーゲル哲学のなかの非理性的側面が強調されていたことによる。例えばコジェーヴは、ヘーゲルの次のような人間理解を紹介している。『精神現象学』(一八〇七)を書き進めていた頃のイエナ大学での講義録から引用された文で、バタイユの心を深く捕えていた一節である。
[#2字下げ] 人間は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる闇であり、空しい〈虚無〉なのである。言い換えれば人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫なのであるが、しかしこの表象やイメージのうち一つも、人間の精神に正確に現われることはない。あるいは実際に現前するものとして存在することはない。そこに、つまり人間の内に存在しているのは闇なのである。自然の内部、もしくは内奥なのである。さらに言い換えれば、純然たる個的な〈自己〉なのである。幻影の表象に囲まれて周囲はすべて闇になっている。こちらに突然血まみれの頭が現われたかと思うと、あちらに白い亡霊が現われ、そしてまたそれらが突如消え失せたりするのである。一人の人間の眼のなかを覗き込むと見えるのはこのような闇なのだ。その人間の眼のなかに、われわれは闇を、どんどん恐ろしさを増す闇を、見出しているのである。まさに世界の闇がこのときわれわれの眼前に現われているのである。
人間のなかにある恐ろしい闇、「精神に正碓に現われることのない」つまり意識によってはっきり捉えられない幻想の宝庫、実体を持たない空しい不定形の〈虚無〉。これはまさにフロイトの第一次過程の無意識を先取りしている表現だ。そして『ドキュマン』時代のバタイユの「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」に通じる観察である。
しかしヘーゲルは続けてすぐこう述べているのだ。
[#2字下げ] このような闇からあれらのイメージを明るみに出したり闇に捨て置いたりすることのできる力[#「このような闇からあれらのイメージを明るみに出したり闇に捨て置いたりすることのできる力」に傍点](= |Macht《マハト》、仏語では|puissance《ピユイサンス》)、この力《ピユイサンス》こそが自己の定立[#「自己の定立」に傍点]〔すなわち自由な創造〕であり、内的な[#「内的な」に傍点]意識であり、行動[#「行動」に傍点]である。たしかに、与えられた存在として実存するものが引きこもってしまったのはこの闇のなかだった。しかしまた、こうした力《ピユイサンス》の〔弁証法的〕運動が措定されているのもこの闇のなかなのだ。
[#地付き](〔 〕内の言葉はコジェーヴの註釈)
†力《ピユイサンス》と弁証法[#「†力《ピユイサンス》と弁証法」はゴシック体]
この文章で注目したいのは、まずヘーゲルにも力《ピユイサンス》という概念があったということである。この力《ピユイサンス》は、人間の闇のなかに位置しつつも闇に左右されることはなく、逆に闇を支配し、そこから自在に不分明なものを取捨選択して、その人間に「自己の定立」を、「行動」を、「弁証法的運動」を可能にする。
『精神現象学』の中心主題でありヘーゲル哲学の核心であるのは、弁証法だ。これは、自己を定立させてゆく運動、自己の定立を目的にした理性的な「行動」である。力《ピユイサンス》はこの弁証法の運動を導く原動力にほかならない。
『精神現象学』の有名な「序論」によれば、この人間の自己確立の過程は、けっして平坦な道のりではなく、「真剣さ(=真面目さ)」と「忍耐」を要求される「苦痛」に満ちた「労苦(=労働)」の道程である。というのもそこで人間、つまり「生ける実体」、「主体」は自分に向けて二つの「否定作用」を行使していかなければならないからだ。一つは、「直接態」「根源的統一態」と呼ばれる生来の与えられた自己に対する否定、もう一つはこの否定によって二つに分裂し対立的になった自己に対する否定、つまり二重化した自己を再統一する作用である。
バタイユは、この二つの「否定作用」を劇的に表現した『精神現象学』「序論」の次の一節をとくに重要視していた。
[#2字下げ] 分解の働きというものは、悟性という最も驚嘆すべき最も大きい、あるいはむしろ絶対的な力《ピユイサンス》の勢力であり労働である。(……)周りのものから分離せられた属性的なるものが、つまり本来は他と結びつけられ他との連関においてのみ現実的であるものが、独立の実在と分離した自由とを獲得するということは、〈否定的なもの〉の恐るべき巨大な力《ピユイサンス》によることであり、こういうことは思考の、純粋自我の、エネルギーの致すところである。このような非現実を我々は死と呼びたいのだが、死こそは最も恐ろしいものであり、死を保持することは最大の力《フオルス》を必要とすることである。(……)〈精神〉の生は死を前にして怖《お》じ気《け》づき、死を避け荒廃から身を守る生ではなく、死に耐え、死のなかに自らを維持する生なのだ。精神は、絶対的な引き裂きのなかに自分自身を見出しはじめて自分の真実を手に入れるのである。精神がこの力《ピユイサンス》であるのは、〈否定的なもの〉に背を向ける〈肯定的なもの〉であるからではない。われわれがある事柄についてこれはたいしたことではない、これは偽りだと言って、この事柄を清算し、別な事柄に移る場合とはわけが違うのだ。精神は、もっぱら〈否定的なもの〉を真正面から見すえて〈否定的なもの〉の近くに留まるが故に、この力《ピユイサンス》なのである。しかしこのように留まることこそは、〈否定的なもの〉を〈存在〉へ転換する魔法の力《フオルス》なのだ。
バタイユは、ここで語られている死の体験――「絶対的な引き裂き」のなかに身を置き、その危機的状況を真正面から見すえる体験――に深い共感を覚えていた。「好運」の体験の極限で彼自身が遭遇する状況、そして彼がそこでとろうとする態度がここにみごとに語られているとバタイユは感じていた。しかし他方、彼もよく認識していたことだが、ヘーゲルの語る死の体験とバタイユの「好運」の体験の極限とは根本的に異なっている。前者の死の体験は、徹頭徹尾、「主体」の統一性、その個体性を完成させる行程のなかに組み込まれている。「主体」の確立のための弁証法的運動の枠内の出来事なのだ。言い換えれば、ヘーゲルの語る死の体験は、力《ピユイサンス》が引き起こす体験だということである。ニーチェの場合と同様、力《ピユイサンス》はここでも個体性の存続・発展のために理性が操作している働きである。弁証法の「主体」はこの力《ピユイサンス》に導かれて死の体験をしているのにすぎない(力《フオルス》(独語ではKraft)という表現も用いられているが内容的には力《ピユイサンス》(独語ではMacht)に帰属している)。それだからヘーゲルは、死に対して「非現実」であるとか「〈否定的なもの〉」、さらに別のところでは「抽象態」などといった負価の表現を与えるのである。弁証法の「主体」はけっして現実的な生々しい死を体験することはない。
ヘーゲルの弁証法の第一の否定作用は、第二の否定作用と表向き役割りこそ異なっているものの、根底では力《ピユイサンス》の動作として連続している。両者は二つで一個の「行動」を、つまり個体性を維持しつつ「主体」を富ます生産的で理性的な行為を形成している。
†狂気の淵のヘーゲル[#「†狂気の淵のヘーゲル」はゴシック体]
ヘーゲルがこのように「行動」に加担した理由として、バタイユは彼の狂気の体験をあげている。
[#2字下げ] 簡単な、喜劇的な復習――私思うにヘーゲルは極限に触れたのだ。彼はまだ若く、自分が発狂するのではないかと考えた。私は、ヘーゲルが逃避するために体系を練りあげたのだとさえ思っている(おそらくどの種類の征服行為も脅威から逃げようとする人間の所作なのだ)。最終的にヘーゲルは充足[#「充足」に傍点]に到達し、極限に背を向けた。彼のなかで嘆願は死んだのである[#「彼のなかで嘆願は死んだのである」に傍点]。救済を追い求めることはまだしも許せる。そうしたとき人は生きることをやめてはいないし、確信などは持てず、嘆願し続けねばならないのだから。ヘーゲルは生きながら救済を手に入れ、嘆願を殺し、自分を毀損したのだ[#「自分を毀損したのだ」に傍点]。彼に残ったのはシャベルの柄だけだった。つまり一人の近代人だけだった。だが自分を毀損する前にヘーゲルは極限に触れ、嘆願を体験したのである。記憶が彼をこのとき見た深淵へ連れ戻す。しかしそれは、深淵を無化するためなのだ[#「深淵を無化するためなのだ」に傍点]。体系とは深淵の無化にほかならない。
[#地付き](『内的体験』)
このヘーゲルの狂気の体験もコジェーヴの講義のなかで紹介されていたものだ。コジェーヴが典拠しているのは一八一〇年五月二七日付けヴィンディシュマン宛てのヘーゲルの書簡である。この書簡によればヘーゲルは、過去において数年間「心気症《ヒポコンドリー》(=実際に病気ではないのに心身の不調にひどく悩み苦しむ状態)」に陥り生命の「限界点」を体験したと告白している。この「限界点」は「自己の存在が緊張する夜の地点」、「諸現象の混沌」であり、「光が輝いているものの深淵に取り囲まれそれに揺り動かされて、何かを明るく照らすというよりは虚像を映し出している暗き地帯」である。まさにこれは先の講義録にあった「人間の闇」、「自然の内奥」の光景だといってよい。ヘーゲルは、自分のなかでこの個人ならざるものが潮位を上昇させ個体としての彼を溺死させるのを感じて、救いを嘆願していたのだ。
コジェーヴは、ヘーゲルのこの「心気症」の体験を二五歳から三〇歳までの期間に位置づけている。そしてこれに打ち克って、「学の体系」の第一部たる『精神現象学』の完成(ヘーゲル三七歳)に至ったのだとしている。バタイユはコジェーヴの註釈から出発して、ヘーゲルにおける「体系」の成就は「深淵」を無化するためにあったという理解に達する。その後のヘーゲルには『精神現象学』の弁証法しか、西欧近代を特徴づける「行動」、この「労苦(=労働)」しか残らなかったというのだ。
†「絶対知」とその彼方[#「†「絶対知」とその彼方」はゴシック体]
ヘーゲルの「体系」の頂点にあり、彼の弁証法の終局にあるのが「絶対知」である。これは、『精神現象学』の彼の言葉を用いて端的に言えば、「絶対の他的存在のうちにおいて純粋に自己を認識すること」である(およびこの認識によって得られた知識のことである)。
「絶対の他的存在」とは、第一の否定によって二つの対立存在に分解してしまった二重の、矛盾せる自己のことである。第二の否定は、その力《ピユイサンス》によって、この「絶対の他的存在」(=「〈否定的なもの〉」)を「存在」へ転換し統一性ある自己を実現する。ただしそのとき自己の二重性、矛盾性は消し去られるわけではない。第二の否定は、第一の否定以前の矛盾なき「根源的統一態」へ自己を連れ戻す働きではない。「存在」の構成要素という「〈肯定的なもの〉」になりうる限りにおいて矛盾を維持し保存し、そうして自己を統合させるのである。「絶対の他的存在」は、絶対的にではなくある程度だけ他的なままに[#「ある程度だけ他的なままに」に傍点]、自己の統合へ参画させられる。ヘーゲルは、こうした第二の否定を「止揚(= |aufheben《アウフヘーベン》、廃棄する=A保存する=A昇華する≠フ三つの意味を同時に含む)」と呼んだ。第二の否定の結果、「主体」は自己を完成させる。自己実現したこの「主体」をコジェーヴは、「賢者」、さらには「人神(=神になった人間)」と言い換えている。「絶対知」はこの第二の否定に対応している。つまり「絶対の他的存在」のなかで自己の統合に導きうるものを認識し、知識として保存しておく作用のことである。自己を破綻させない限りで他なるものを吸収してゆく、これはまさにヨーロッパ近代の典型的な知性のあり方だといってよい。
バタイユからすれば、そもそもヘーゲル弁証法の過程のなかに「絶対の他的存在」などありはしない。彼は、ヘーゲル弁証法を登りつめたその彼方に、「絶対の他的存在」つまり認識不可能なものを見る。
[#2字下げ] だが、もしこのようにして、伝染によって、また真似によって、私が自分のなかでヘーゲルの循環的運動〔=弁証法的運動〕を達成すると、私は、到達された限界線の彼方に、もはや未知のものをではなく、不可知のものを、画定することになる。この不可知のものが不可知である由縁は、理性の不徹底さにあるのではなく、理性本来の性質にあるのだ(……)。それだからたとえ私が神になり、世界のなかでヘーゲルの確信(懸念も疑いも消滅させた確信)を持ち、すべてを知る(……)としても、まさにこのときに、人間の存在、神の存在……を永久の闇のなかへ奥深く迷い込ませる問いが発せられるのだ。それは、なぜ私が知っていること[#「私が知っていること」に傍点]は存在せねばならないのか、なぜそれは必然であるのか、という問いである。この問いのなかには、ひとつの極限の裂傷が、あまりに深いため恍惚の沈黙しか答えられないような裂傷が隠されている――この裂傷ははじめのうち姿を現わさないのだ。
[#地付き](『内的体験』)
バタイユにとって、「絶対知」によって得られた知識は必然的なものではなく、偶然的なものである。なぜならば「絶対知」を行う主体自身――これは結局ヘーゲルその人に重なる――が、偶然的な存在にすぎないからである。バタイユの見るところ、この世への各人の出現は、投擲《とうてき》された骰《さい》の目と同じ偶然の出来事にすぎない(「好運《シヤンス》」のほかに「偶発的到来《エシエアンス》(= echeance)」「運《アレア》(= alea)」がこのことを言うためのバタイユの用語だ)。これは、幼児の砂遊びのように気ままに築いては壊す世界の戯れの一様相だといってよい。
世界の戯れは力《フオルス》によって起きている。そして世界のこの力《フオルス》は、個人の存在の底にも流れ込んできている。「心気症」に陥ったときヘーゲルの内部では基底の力《フオルス》が満ちわたってきていたのだ。世界は彼を弄ぼうとしていたのだ。さながら賭博《とばく》台の上に所持金を投げ出し賭けるかのように。だがヘーゲルは、救いを求め嘆願こそしたものの、この主体の危機の体験を極めようとはしなかった。それ故、意味もなく築いては壊す世界の戯れを、本当の矛盾の運動を、真の「絶対の他的存在」を、意識できずに終わったのである。ヘーゲルには、世界のなかにおける自己(そして自己の認識の所産)の位置への意識が欠如していた。バタイユは断言する。「ヘーゲルには、自分がどの程度正しいのか分からなかったのである」(「ヘーゲル、死と供犠」)。
†「非‐知の夜」[#「†「非‐知の夜」」はゴシック体]
バタイユがヘーゲル弁証法の彼方で遭遇するとしている不可知のもの、ヘーゲルが「心気症」の体験のなかで垣間見、恐れをなした深淵、それが「非‐知の夜」である。バタイユはさらにこれを「無《リアン》 (= rien)」、「不可能なもの」、「至高性」と呼んだ。そこに現われるものはことごとく対立しあい、葛藤し、何ものにも結実しない。個体化しないのだ。そもそも夜と名付けられていながら、そこでは対立物が交差しスパークして、目の眩《くら》むような光を発している。「私が夜と名付けているものは、思考の闇とは違う。この夜は光の激しさを持っている。/夜は、それ自体、思考の青春であり陶酔であるのだ。これは、夜が夜である限り、夜が激しい不一致である限り、そうなのである。人間が自分と不一致であるときに人間の青春の陶酔は夜になるのだが、人間の最も甘美な陽春はこの夜の背景に浮かびあがるのだ」(『有罪者』)。
まずあげねばならない不一致、対立は、知と非‐知の対立である。『内的体験』の核心にあたる第二部「刑苦」にはこうある。
[#ここから2字下げ]
非‐知は裸形にする。
この命題は頂点である。だがそれは次のように理解されねばならない。裸形にする、それだからそのときまで知が隠していたものを私は見る[#「私は見る」に傍点]、けれども見るならば私は知る[#「私は知る」に傍点]のである。実際私は知り、だが私が知ったものを非‐知は再び裸形にする。言い換えれば、無意味が意味になっても、この無意味という意味は消え去って、再び無意味になる(この繰り返しは可能な限り続く)ということである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『内的体験』)
「非‐知の夜」は、「内的体験」の極限に、存在の限界線上に切り開かれる漠とした広がりである。激しい運動状態にある何ものかである。バタイユはそこで未知のものに出会う。この未知のものは不可知のものでもある。未知のものは、「非‐知の夜」それ自体のことであり、その先に広がる「宇宙」、「広大無辺性」とバタイユが呼んでいるもの、「私は非‐知の夜から眺められる世界を、賭けへの投入、と名付けている」(『有罪者』)と彼が言うときの世界のことでもある。賭け(= jeu、遊び≠フ意味も持つ)への投入とは、築きあげたものを無意味に蕩尽してしまう非理性的な所作のことだ。
人は、「内的体験」の極限に至ったとき、自在に戯れる世界を、あるいは「非‐知の夜」自体を見る。だが見ると、その光景を認識してしまうのだ。認識された「非‐知の夜」の光景は、もう「非‐知の夜」そのものではない。「非‐知の夜」は絶えざる運動・変化のなかにあり、認識された光景はスナップ・ショットのごとく固定化されているからだ。つねに色を変え形を変える「非‐知の夜」のそれ(認識された光景)は、切り取られ不動化された一様相(「非‐知の夜」の)にすぎない。いや様相というのも当たらない。それは、もはや二重の意味で虚像である。つまり、運動を失っているという意味と、全体ではなく部分にすぎないという意味で。かくして「非‐知の夜」は、叫び、恍惚境、さらには「すべての牛が黒くなる」シェリング風の絶対の神秘的暗夜などというふうに描写され、意味付けされてゆく。
バタイユの「非‐知」は、この認識の虚像創造の運動に逆行する。物のごとく固定化され輪郭づけられた「非‐知の夜」、既知化された「非‐知の夜」を破壊して、原風景を、「非‐知の夜」そのものを開示する。「非‐知の夜」のなかにいる人間にその状況を自覚させてやる。自己への真の意識を持たせてやる。ただしこの場合の自己は、個体化していない引き裂かれている自己だ。「非‐知」は、虚像解体、知識破壊、裸形化の運動であり、覚醒の働きである。
「非‐知の夜」ではそのほかにもさまざまな矛盾、対立が生じている。個体化への欲求と非個体化への欲求、生への本能(理性的な生活を指導する欲望)と死への本能(理性的な生活を壊してしまいたいとする欲望)、死に対する不安と有用な生から解放される喜び、死との接触を恐れてこれを禁止する欲求と禁止を破る侵犯への欲求、救い求める嘆願の叫びと恍惚の沈黙、道徳を遵守する真面目さとこれを愚弄する笑い、神あるいは完全者となって他を圧倒しようとする力への意志と道化師となって笑われたいとする気持ち……。
「内的体験」の極限では、人間の抱え持つすべての対立、すべての矛盾が次々に発現し交錯してゆく。この矛盾の集大成がバタイユにとっては「総体性」であり、それを生きた者が「全体的人間」である。バタイユの「総体性」は、ニーチェの「総体性」の概念を体験のレヴェルに引き上げ、より劇的にして実践したものだ。ニーチェはゲーテを例にあげてこう述べている。「彼〔=ゲーテ〕は一八世紀の最も強烈な本能の数々を内に蔵していました。すなわち多感性、自然に対する偶像的崇拝、反歴史的なもの、理想主義的なもの、非現実的で革命的なもの(……)。彼は生から遊離せず、生のうちへと身を置き入れました。彼は弱気になって怯んだことはなく、できるだけ多くのものを引き受け、担い、自分の中へ取り入れました。彼が欲したもの、それは総体性[#「総体性」に傍点]であったのです。彼は理性、感性、感情、意志がばらばらにならぬように戦いました」(『偶像の黄昏』、西尾幹二訳)。
「全体的人間」に対するバタイユの定義はこうだ。「結局、全体的人間とは、その内で超越性が消滅する人、もはや何ものも分離していない人のことにほかならない。何ものも分離していない、つまり、いくぶんかおどけ者で、いくぶんか神で、いくぶんか狂人で……これが、透明性なのだ」(『ニーチェについて』)。
†神について[#「†神について」はゴシック体]
バタイユにとって超越性とは個体のことである。樹木や自動車といった個物、外から眺められた場合の人間、国家という有形の共同体、そして一神教の神だ。「キリスト教は聖なるものを実体化〔=個体化〕した」というのがバタイユのキリスト教神への基本テーゼである(「聖なるもの」一九三九)。聖なるものは本来、主体の意識のなかにしか存しない主観的なものだ。そして偶発的で瞬間的で無意味のものである。キリスト教はこれを主体の外へ実体化して、必然的で永続的で意味に満ちたものに造り変えてしまった。換言すれば、聖なるものの外側に出て知る≠ニいう俗なる行為を発動させて、聖なるものを概念化してしまったのである。そしてこのことに満足してしまった。
『無神学大全』のバタイユは、聖書から始まる神学の歴史よりも、個人における、とくに神秘家における神概念の生誕を問題にした。例えばホアン・デ・ラ・クルース(一五四二―九一、十字架の聖ヨハネとも)は、バタイユによれば、瞑想体験において「非‐知の夜」に触れた。「闇夜」というのがこの神秘家の言葉だが、この神秘家はしかし「闇夜」のなかに真に留まろうとせず「闇夜」を神だと認識した。神の理性があまりに明るいため、人間の理性には暗闇に映るというのである。ちょうど太陽を直視した人間の眼が盲《めし》いてしまうように。かくして「非‐知の夜」は認識され説明づけされて一個の神へ実体化されてしまう。そしてキリスト教神学にある神の理想化された諸規定、人間的なそして人間のための諸規定(善、愛、全能、理性、完全者、創造主等々)で満たされてしまう。
ただしバタイユは神を完全な俗なる物体としてではなく、俗化した聖性として、聖俗の混合物として見ていた。
[#2字下げ] 神秘神学は、肉体のけがれを嫌悪し憎悪で顔をしかめるが、自分を引きつらせる恐怖を実体化してもいるのである。この実体化の運動の中で生み出され知覚された正価《ポジテイフ》の物体こそ神秘神学が神と呼んでいるものなのだ。好ましいことに実体化の作用の全重量は嫌悪感に基づいている。神は二つの現象の衝突するところに位置しているのであって、神の右には、深淵(多種多様な深みを秘めた深淵の不浄で恐ろしい眺め――時間……)があり、左には、深淵をふさぐ重量感ある否定(敷石のように、深淵をつつましく、悲劇的に閉ざす否定)がある。神よ[#「神よ」に傍点]! この叫び、この病弱な呼びかけの中に我々は絶えず人間くさい省察を投げ入れてきたのだ……。
[#地付き](『ニーチェについて』)
この神の捉え方には、先に紹介したルドルフ・オットーの二重化された神概念の理解(神に関する人間的な諸規定は表層で、深層には不合理な戦慄すべき聖なるものが潜んでいるとする理解)が影響している。また注意を要するのは、『無神学大全』のバタイユは、同じ神という語(大文字で始まる|Dieu《デイウー》 という仏語)を表層と深層の両方の神にあてていることである。ただしこの深層の神は、もはやオットーの枠を超えていて、非キリスト教的な神になっている。自己を神と認識することに充足しない神、そのような自己認識が生まれれば即座にこれを乗り越えてゆく存在である。「神はいかなるもののなかにも充足を見出さず、いかなるものにも満足しない。(……)彼は欲望をいやすことができず、同様に知る[#「知る」に傍点]ということができない(知は休息なのだ)。彼は渇き、そして知らずにいる。神は知らずにいる[#「知らずにいる」に傍点]ので、自分のことについても無知である。(……)神は自分の虚無〔=不在〕についてしか認識を持てない。それだから神は深層において無神論者なのだ。もしも神が自分を神だと思おうものならば、すぐに神は神でなくなってしまうだろう(もはやそうなると神の恐ろしげな不在のかわりにぼうっとした愚鈍な一存在〔=表層の神〕しかいなくなるだろう)」(『内的体験』)。この深層の神は、限界体験のさなかの主体の意識の内にのみ現われる。バタイユは「非‐知の夜」のなかで一瞬この神になる。
神について付言しておけば、バタイユは十字架上のイエスについては肯定的に見ていた。「神は深淵の否定であるのだが、しかし十字架刑に処されている神、血まみれの肉となった、また女の汚れた局部のようになったこの神は深淵そのものになっている」(『ニーチェについて』)。聖書によれば、十字架上のイエスは、死のまぎわに「わが神、わが神、なぜわれを見棄てたのですか」と叫んだとされるが、自他ともに神の子と認める男のこの問いこそは、根源的な自己矛盾の露呈であり、バタイユによれば、「非‐知の夜」にいたことの証左にほかならない。
†歴史の完了[#「†歴史の完了」はゴシック体]
さて、コジェーヴの講義に戻ると、彼のヘーゲル解釈の特色は、キリスト教神学の色彩を強く残す『精神現象学』の思想内容を人間中心の世界観のなかへ、人間の地平へ、引き降ろしたところにあった。この特色が顕著に出ているのが、歴史に対するコジェーヴの捉え方である。ヘーゲルにとって、人類の歴史は、キリスト教神と相似の「世界精神」(「絶対精神」とも)が自己実現してゆく過程である。コジェーヴはそう考えない。人類史はあくまで人類が自己実現してゆく過程である。
コジェーヴは、マルクスと同様、『精神現象学』の第W章にある「主人と奴隷の弁証法」に注目し、奴隷が労働と闘争に訴えて主人の支配を覆してゆく過程に人類史の原理を見た。ヘーゲルの労働の理論を敷衍《ふえん》しつつ、コジェーヴはこう述べている。「一方において労働は、世界を造り変え、世界に形態を与え、より人間に順応したものにすることによって世界を人間化する。他方、労働は、人間を造り変え、人間に形態を与え、より観念[#「観念」に傍点]に順応したものにすることによって人間を人間化する――この観念は、人間が人間自身について持つ観念であり、当初は抽象的な[#「抽象的な」に傍点]観念、つまり理想にすぎない」。人間が自分について持つ観念とは、自分の自由についての観念である。労働の段階ではまだ抽象的であったこの観念を、奴隷は、主人に対する命がけの、死を恐れない闘争によって具体的に実現してゆこうとする(奴隷は、死を恐れたために主人に隷属し、その下で労働に向かったのだった)。
この闘争は階級闘争であり、革命のための「行動」である。これによって主人の既存の政治体制が覆され、新たに普遍的で階級差のない国家が樹立されたとき、人類の歴史は完了する。コジェーヴは繰り返しそう説いた。彼によれば、普遍的で階級差のない国家は、一度ナポレオンによって築かれかかったが、完成にはいたらず、その後の西欧においても実現されていない。この実現をコジェーヴは講義のなかで唱導していた。最終年度(一九三八―三九)の講義録にはこうある。
[#2字下げ] ヘーゲルによって予見された完全な国家がいまだに実現されていないという事実は我々にとって何を意味しているのだろうか。このような状況において、ヘーゲルの哲学、とくに『精神現象学』の人間学は、現実[#「現実」に傍点]を開示していないのであるから、真実[#「真実」に傍点]であることをやめている。だがそれ故にこの人間学が誤謬だということには必ずしもならない。ヘーゲルが抱く普遍的で等質の国家は不可能だ[#「不可能だ」に傍点]と証明されたときはじめて誤謬ということになりもしようが、そう証明することはできない。ところで誤謬でも真実でもないものは観念である。より適切に言えば、理想である。この観念が真実[#「真実」に傍点]に成り変わりうるとすれば、それは否定の行動[#「行動」に傍点]によってだけである。この行動は、観念に適合しない世界を破壊し、この破壊によってさらに、理想に適合する世界を創造してゆく、そういう行動である。換言すれば、最終的に問題となる完全な人間(賢者)がいまだ実現されていないと知りながら『精神現象学』の人間学を受け容れることができるとすれば、それは、この人間の実存に不可欠なヘーゲル的国家の実現のために行動[#「行動」に傍点]すると望む限りでのことである。
[#地付き](『ヘーゲル読解入門』)
コジェーヴは、言うところの「『精神現象学』の人間学」をマルクスの歴史観・革命観に結びつけようとしている。普遍的で等質の国家をヘーゲル的国家としながらも、コジェーヴは、マルクスの「自由の王国」すなわち共産主義社会のことを念頭に置いている。受講者たちもこの点をしっかり認識しながら、彼の説明に聞き入っていた。なかでもサルトルとメルロ=ポンティは、コジェーヴの解釈を肯定的に受け止め、これを大戦後彼らの実存主義思想のなかに取り入れて発展させた。社会と人間の変化を求める彼らのマルクス主義的な行動の美学は、コジェーヴの講義の延長線上にある。また、時代はずっと下るがフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(一九九二)の原点にもコジェーヴはある。
†脱進歩史観[#「†脱進歩史観」はゴシック体]
バタイユは、コジェーヴの歴史解釈、彼の進歩史観に批判的であった。
[#2字下げ] 私は、次のような完了した歴史展開を想像してみることはできる。すなわち到達した限界を越える飛躍や希望を斥けて、老人が余生を送るようなぐあいに行動の諸可能性を残しておく。そういう歴史展開である。革命の行動は、階級のない社会を築くかもしれない――この社会を越えるような歴史にかかわる行動はもはや生じえなくなるのかもしれない。こうしたことを私は少なくとも想定してみることはできる。しかし私は、このことに関し一つ指摘をしておかねばならない。一般に明らかなことなのであるが、人間にあっては、生産されたエネルギーの総量は生産に必要なエネルギーの総量をつねに上回っているのである。このことから、沸騰状態のエネルギー――我々を際限なく頂点へ駆り立てる――が恒常的に余るということが生じている。このエネルギーの余剰は、邪悪な[#「邪悪な」に傍点]部分、我々が共通の善[#「善」に傍点]のために消費しようと試みる(だがたいていうまくゆかない)部分を作り出している。罪ある[#「罪ある」に傍点]浪費、無益な、あるいは有害でさえある浪費を考えることは、善への配慮および未来の優位に心を支配されている人間にとっては、嫌悪を催させることである。ところで革命によって歴史が完了し、今日まで無限の浪費に口実を与えてきた行動の動機が我々からなくなるとしてみよう。そのとき人類は、一息つける可能性に表向き出会うことになるのかもしれない……。しかしそうした場合、我々から溢れ出るエネルギーはいったいどうなってしまうのだろうか……。
[#地付き](『ニーチェについて』)
バタイユはコジェーヴが語った「歴史の完了」説を仮説として用いているのにすぎない。バタイユが真に言いたいことは、コジェーヴの考える歴史――労働と闘争の二つの「行動」(=「否定作用」)によって完成されてゆく歴史――の流れを垂直に越え出てしまう沸騰エネルギーなり力《フオルス》が人間には避けがたくあるということである。バタイユは、この力《フオルス》を「使いみちのない否定作用」と呼びもした。自然界に力《フオルス》があり余っている以上、そこに生きる人間にも必然的にこうした進歩の歴史に貢献しない、余剰としての「使いみちのない否定作用」が生じてくるのである。
コジェーヴによれば、奴隷が死を恐れずに主人に闘争を挑んでいるが故にヘーゲルの歴史観は無神論なのだという。つまりコジェーヴの考えでは、キリスト教においては人間界の外に神が主人として永遠に存続していて、逆に人類はすべて永遠に死を恐れたまま奴隷の身にあり続けているというのだ。しかしよく見てみると、コジェーヴとマルクスの歴史観においては、自由の観念という理想が一個の神になっている。人類は、個人の自由の実現という超越的な目標を主人として仰ぎこれに隷属したきりなのだ。よしんば自由を実現したとしても、その個人は人神(=「賢者」)というキリスト教神の一変奏になるだけである。コジェーヴとマルクスの歴史観は、根本的に有神論であり神学的である。この歴史観は、ヘーゲルの歴史観の人間学的転換であるが、この転換は西欧の価値観のなかでの出来事にすぎない。いうなれば西欧の歴史像のマイナー・チェンジなのだ。
西欧の近代人は、人間の理性の力《ピユイサンス》に多大の信頼を寄せていた。ヘーゲルの弁証法は、この力《ピユイサンス》に訴えて人間が神にまで進歩してゆく行程であり、その限りにおいて、西欧近代人の理性信仰を極めた表現だったといってよい。進歩史観も同様に西欧の近代人の理性信仰、力《ピユイサンス》への信頼、人間中心主義を表わしている。科学の力によって自然界が次々に「人間化」され、政治・経済・軍事の力によって地球のほぼ全域がヨーロッパの支配下に入っていった時代の状況を受けて、西欧人は、人類が(正確には西欧人自身が)世界を自分の望む方向へ進歩させてゆけると信じていた。マルクス、そしてコジェーヴの革命史観も基本的にこのような進歩史観の枠のなかにある。進歩の主役を奴隷、つまり被抑圧者に置きこそすれ、彼らもまた人間の力《ピユイサンス》の可能性を信じていたのだ。
バタイユの歴史像は進歩ではなく反復の歴史像、終わりなき流動の歴史像である。そしてこの流動は自然界の生滅流転の運動と混然一体になっている。自然を動かしているのと同じ非理性的な力《フオルス》が人間のなかにあって、これが歴史を動かしているというのだ。西欧の近代のなかでこのような歴史観を持つ者は死者のように孤立する。以下はバタイユが「非‐知の夜」から見た巨大な歴史の流れであり西欧近代人が見ようとしなかった光景だ。
[#2字下げ] 現代の世界を遠くから見ている者――現代の世界に対して言わば死者である者――、数世紀の間に急速に[#「急速に」に傍点]つぎつぎ押し寄せた大きな波たちに照らして現代の世界を見ている者、この者は、今しがた通り過ぎた新たな波があとに多くの難破者をだし、彼らが波の去ったあとに残された漂流物にただしがみつくばかりになっているのを見て、笑うのだ。この者は、荒々しい波の連続しか見ない。諸時代の底から際限なく現われては、もろい絆や硬直した言葉を圧倒して通り過ぎてゆく、そういう荒々しい波の連続しか見ないのだ。この者の耳にはもはや、血で赤く染まった狂奔する水の轟音《ごうおん》しか聞こえてこない。目まいのする天空、広大無辺の運動(彼はこの運動の広大無辺性[#「広大無辺性」に傍点]しか知らない、というのもこの運動の始点と終点を彼は知らないからだ)は、彼の見るところ、彼自身の人間の本性、彼のなかで休息への欲求を打ち砕いている人間の本性である。まことにこれは、あまりに巨大な光景であって、彼を不幸にする。彼はうちのめされ、絶息してしまう。だがこの光景を見るまでは彼はまだ人間ではなかったのだ。叫びを押さえられないほどの感嘆を彼はまだ知らなかったのだから。
[#地付き](『有罪者』)
3 価値の転倒[#「価値の転倒」はゴシック体]
†ニーチェと価値の転倒[#「†ニーチェと価値の転倒」はゴシック体]
「内的体験」の権威は、体験のさなかにだけあり、体験が終われば打ち消される。バタイユは、このブランショの助言が共同体としての〈教会〉と哲学の歴史にコペルニクス的転回をもたらすと判断したのだった。バタイユにとって哲学とは第一にニーチェとヘーゲルの哲学であった。バタイユは、両者にある力《ピユイサンス》〔=強さ〕の思想を、非理性的な力《フオルス》に忠実に従うことによって、言い換えれば|非力さ《アンピユイサンス》に徹することによって、コペルニクス的に転回する。人間という個体の強大化を肯定し推進する力《ピユイサンス》の思想を力《フオルス》によって突破して、個体を存亡の危機にさらし、力《ピユイサンス》の思想が隠蔽《いんぺい》していたもの、抑圧していたものを見ようとするのである。それは「非‐知の夜」であり、人間の総体性であり、終わりなき歴史の眺めであった。これらは、ニーチェが不確かな形で体験していたものでもあった。
哲学に対するコペルニクス的転回は、バタイユにおいては、価値の問題とも関係してくる。ここでもニーチェはある程度バタイユの先駆者であった。
ニーチェは、一八八六年夏に『力への意志』という標題を持ち副題に「あらゆる価値の価値転換の試み」と添えられた四部構成の体系的な哲学書のプランを構想した。八七年一一月出版の『道徳の系譜』のなかでは、この書物を目下準備中であると明確に公言している。このことからは、当時のニーチェが「力への意志」説をかなり重要視していたこと、そしてこの教説を「価値の転倒」という主題と密接に結びつけていたことが分かる。だが八八年二月末にはもう彼のなかで『力への意志』という題名の書物を公刊する気持ちがぐらつきだし、同年九月にはこの企ては放棄されてしまう。代わってニーチェは、副題であった『あらゆる価値の価値転換』を標題とする体系的な書物群(四書からなる)を構想して、『アンチクリスト』をその第一書としこれを九月三〇日に書き上げた。だがしばらくすると、この新たな書物群の構想も揺らぎだし、同年一一月には『アンチクリスト』一冊が「あらゆる価値の価値転換」の書そのものとみなされ、これが副題に付けられるようになる。しかしこの副題「あらゆる価値の価値転換」もすぐに打ち消され、「キリスト教呪詛」という別の副題に取り換えられた。そして明くる年一八八九年の一月初頭に彼は、狂気の闇のなかへ沈んでいってしまうのだ。
こうしためまぐるしい構想の変化を追ってみて言えることは、ニーチェのなかで「力への意志」説は持続的には重要性を持っていなかったということ、そして「価値の転倒」の主題との結びつきも徐々に緩くなっていたということである。さらに言えば、「価値の転倒」の主題も、時間を移して、似たような運命、つまり浮上しては消えてゆく軌跡をたどったということだ。もしもニーチェの思想の主題のなかにこのような定めない変化を肯定したものを探すとすれば、すでに紹介した「遊戯」の主題が第一にあげられる。さらに「祝祭」、「悲劇」、「ディオニュソス」という主題も関連してくる。意図的であったかどうかは別として、これらの主題をニーチェ自らが生きていたから、体系化という一種の個体化の試みは破綻した、ニーチェはさまようばかりになっていたということができるだろう。
以上のことを踏まえて、価値の問題に関してバタイユがニーチェをどう乗り越えていったのか見てゆこう。その際、まずバタイユとハイデガーの関係に立ち寄ってみることにする。ハイデガーもまたバタイユと同じ頃にニーチェを乗り越えようとしていたからである。
†バタイユとハイデガー[#「†バタイユとハイデガー」はゴシック体]
『社会批評』時代からバタイユの同志であったパトリック・ヴァルドベルグによれば、一九五三年頃にマルティン・ハイデガー(一八八九―一九七六)は、「今日ジョルジュ・バタイユはフランスの思索する最良の頭脳だ」と賛辞を述べたという。ハイデガーがどの程度バタイユの文章を読んでいたかは分からない。が、ともかく彼は、自分がめざす思想の方向へバタイユもまた進んでいると感じていたのだろう。実際、両者の思想の構造は一見してよく似ている。ハイデガーは、一九二九年の『形而上学とは何か』以来一貫して、人々の意識を、「存在者」(人間を含む個体)から、「存在者」をあらしめている「存在」自体へ差し向けることに努力した。彼にとって西欧の近代は、「存在者」への関心で充満した時代、「存在」忘却の時代であり、批判すべき対象である。また西欧の哲学に対しては、プラトン以来ずっと「存在者」のための議論に終始し「存在」を顧みることをしなかったと繰り返し批判しもした。ハイデガーの用語において、「哲学」、「形而上学」は「存在者」への問いを意味し、「存在」を問う「思索」(= Denken、仏語のpensee に相当)の下位に位置づけられている。バタイユに「思索する頭脳」という表現を与えたということは、彼がバタイユのことを「存在」を問う者として高く評価していたということだ。
バタイユは、ハイデガーとのこうした類似を表面的なものとみなしていた。『無神学大全』の時代以来つねに彼はハイデガーと自分との間に根本的な差異があることを強調していた。ハイデガーは知性主義者だというのがバタイユの言い分である。
[#2字下げ] この生〔=ハイデガーの教授然とした研究のための生〕は、恐ろしい情念に支配されている[#「支配されている」に傍点]ようには見えない。ハイデガーにおける真正なものからヒトラー主義への移行(必然的ではないが起こりうる移行)もそれだから驚きには値しない。ハイデガーを支配していたものは、おそらく、論証的言語《デイスクール》(哲学の言語)によって存在を(実存ではなく存在を)開示しようという知的な欲求だったのだ。
[#地付き](「実存主義から経済の優位へ」一九四七年)
[#2字下げ] 私が見る限りハイデガーの公刊された作品は、一杯の酒というよりも酒の製造所だ(いや製造の概論にすぎない)。彼の作品は大学教授の仕事であり、その方法は従属的で成果に貼りついた[#「貼りついた」に傍点]ままである。私から見て大切なのは、逆に、成果から離れてゆく[#「離れてゆく」に傍点]瞬間なのである。私が教示しているのは(もしもそれが本当ならば……)陶酔であって哲学ではない。私は哲学者ではなく聖人[#「聖人」に傍点]なのだ、おそらくは狂人なのだ。
[#地付き](『内的体験』)
認識の成果すなわち知識から離れてゆく瞬間、このうえない恍惚の陶酔感へ導かれる瞬間、これは知から「非‐知の夜」へ高まってゆく瞬間である。この「非‐知の夜」への導き手は、個体を引き裂いてしまう「恐ろしい情念」だ。ハイデガーはこの情念を押し殺したため、認識と知識の段階に留まっていた。バタイユはそう見る。
『存在と時間』(一九二七)のなかで「真正性」は、既存の個体の世界に埋没した生き方から自分の死を意識しつつ自分固有の未来へ超出することだと規定されている。これは、俗なる生き方から聖なる生き方への脱出といえるかもしれない。しかし「真正性」には「恐ろしい情念」というモチーフが欠けている。ハイデガーのナチス党への加入が、この「真正性」の実践であったことはよく知られている。バタイユに言わせれば、「恐ろしい情念」によって聖なる生き方を極めなかったから、同じことだが個体を引き裂くことなく知的な態度に徹していたから、ハイデガーは、聖なるものを国家、民族、独裁者に実体化したナチス党へすんなり入ってゆくことができたということになる。ただしバタイユは、ハイデガーのこの選択を政治の次元で過剰に責め立てることには賛成していない。
†ハイデガーのニーチェ論[#「†ハイデガーのニーチェ論」はゴシック体]
さてハイデガーは、一九三六年から四〇年までフライブルグ大学で行ったニーチェ哲学講義の記録と、四〇年から四六年までの間に書きためたニーチェ論とを合わせて大部の論考『ニーチェ』を出版した(一九六一年)。彼がニーチェ哲学と取り組んだ右の期間(一九三六―四六)は、バタイユが雑誌『無頭人《アセフアル》』、そして『無神学大全』においてニーチェを問題にしていた時期とほぼ重なる。ライン河をはさんで東と西でほとんど同じ時期にニーチェに対する尖鋭な問いかけがなされていたわけだが、両者の相違は結局「知的な欲求」に導かれるか「恐ろしい情念」に導かれるかの相違であったように思われる。
ハイデガーの態度は、そもそも最初の講義のなかで示されている。「抽象的思惟は、多くの人にとって苦業である――私にとって、良き日々には、それは祝祭であり陶酔である」と語るニーチェの遺稿断片を引用しつつ、ハイデガーはこう締めくくっている。「私たちがその祭典にまで到らず、ただ思惟の祝祭の前祝いだけを予感し、省察の何たるか、問うことをわが家とすることの何たるかを経験するだけに終わろうとも、それはかまわない」(薗田宗人訳)。
ハイデガーは、ニーチェ全集(『歴史的批判的全集』、一九三四年より刊行されたが大戦で頓挫)の編集委員であっただけに、先に紹介した『力への意志――あらゆる価値の価値転換の試み』という著作の構想の行方《ゆくえ》(すなわち『力への意志』を正標題に持つ著作の計画も、副題の「あらゆる価値の価値転換の試み」を正標題に昇格させた著作群の試みもいずれも消えていったという経緯)をよく知っていた。にもかかわらず彼は、ニーチェの妹が一八八七年三月の兄の計画表(著作の題名と章の題名が箇条書きに記された簡単なもの)をもとに勝手に編纂し出版した『力への意志――あらゆる価値の価値転換の試み』(一九〇六)をニーチェの主著とみなし、ニーチェを「力への意志」説の哲学者と規定して、ニーチェとの対決をはかろうとする。ハイデガーは、動くニーチェをあえて固定化しているのだ。
そうして得られた彼の結論は、ニーチェは西欧の「形而上学」の完成者だったというものである。つまり「力への意志」説においてニーチェは無制約的な主観性を唱えたのであり、そこでは「存在」への問いは完全に封殺され、「存在」は「離反」「外留」というネガティヴなあり方を余儀なくされているというのである。
むろんハイデガーは、ニーチェがプラトン以来の西欧の形而上学を転倒させようとしていたことは知っている。しかしハイデガーにとっては、ニーチェによる形而上学の転倒(すなわち現実の生成の世界の彼方に超越的な真実在を設定する二世界説の否定)は、ハイデガーの考える「形而上学」の転倒ではなく、むしろその完成である。その理由は、ハイデガーによれば、一元化されたニーチェの世界像つまり生成の世界そのものが「力への意志」と規定されていることにある。ハイデガーが典拠としているのは、ニーチェの妹の編纂した『力への意志』の最後の断章(一〇六七番)、ニーチェの世界像が語られたテクストのなかで最も有名になった一八八五年の遺稿断片である。長大であるため部分的に引用しておく。
[#2字下げ] そして君たちも、私にとって「世界そのもの」とは何であるのか知っているのか? (……)この世界とは、すなわち、初めもなければ終わりもない巨大な力《フオルス》、増大することもなければ減少することもなく、消耗するのではなくて転変するのみの、全体としてはその大きさを変ずることのない青銅のごとくに確固とした力《フオルス》の量、(……)一定の力として一定の空間のうちにおさめられてはいるが、どこかが「空虚」であるかもしれない空間のうちにではなく、むしろ力《フオルス》として遍在し、諸力の戯れ、諸力の波浪として一であると同時に多であり、ここで集積するかと思えば同時にかしこでは減少するもの、おのれ自身のうちへと荒れ狂い入り溢れ入る諸|力《フオルス》の大洋、(……)君たちはこの世界にとっての一つ[#「一つ」に傍点]の名前を欲するのか? (……)この世界は力への意志である[#「この世界は力への意志である」に傍点]――そしてそれ以外の何ものでもない[#「そしてそれ以外の何ものでもない」に傍点]! しかもまた君たち自身がこの力への意志であり――そしてそれ以外の何ものでもないのである。
[#地付き](原佑訳―一部改訳)
この遺稿断片でニーチェは二つの力の概念を用いて生成の世界を表現しているが、ハイデガーが重視しているのは「この世界は力への意志である」という末尾にあるニーチェの断定の方だ。ハイデガーに言わせれば、「力への意志」は、意志という言葉が示すとおり、第一に人間の様態であり、これをもって世界を規定することは世界を人間化して捉えること、つまり「存在者」に適合させて捉えることにほかならない。世界という「存在者」の総体をそのように「存在者」に適合させて捉えてしまうと、もはや各「存在者」をあらしめている「存在」へ意識を向ける道は封鎖されてしまう。しかもまたニーチェは、生成界を否定したイデアや神に代わって、生成界を全面的に肯定し生きる人間を「超人」といい、あまたある個体の「力への意志」のなかでもこの「超人」の強い「力への意志」を高く評価した。世界を人間化し、そのなかで「超人」という最強の人間を肯定するニーチェ哲学は、ゆえに、「形而上学」の極点に位置している。
ニーチェが「力への意志」を価値の問題に結びつけたことも、ハイデガーにしてみれば、「存在」からの離反を進める所作にすぎない。価値の問題に関してハイデガーが捉えた限りでのニーチェの発見はこうだ。善悪の道徳的価値は、個体が自己の体制を維持する、あるいは拡大するために作り上げたものにすぎない。個体の「力への意志」の所産が価値なのだ。ということは逆にその価値によって力《ピユイサンス》の発揮は条件づけられているということでもある。例えば一層の拡大強化をめざす個体は、既存の価値を否定して新たな価値、新たな自分にみあう価値を定立せねばならない。ニーチェにとってとくに重要であったのは、弱き「力への意志」に発する西欧伝来のキリスト教型価値観を覆して、強き「力への意志」に発する「超人」の価値観を定立することだった。
こうした価値をめぐる議論には、「存在者」の個体としてのあり方への問いしかなく、「存在」自体への問いはない。ハイデガーはこう断じ、一九世紀末から台頭してくる「価値の哲学」、「存在」忘却の最たるこの哲学の元凶にニーチェを置くのである。
†力《フオルス》の視点[#「†力《フオルス》の視点」はゴシック体]
以上のようなニーチェ解釈ができあがるのは、先にも述べたようにハイデガーが、運動し変化してゆくニーチェを一点に、それも自分にとって都合のよい一点に、固定化しているからである。自分の哲学を際立たせるためにハイデガーはニーチェをハイデガー化している。彼自身にあうように、本来的な動くニーチェを非本来的な不動のニーチェに造り変えて、その変造したニーチェを自分の思想圏に収めて支配している。ニーチェを語るハイデガーこそが「力への意志」の哲学者なのであり、一個の「存在者」に留まっているのだ。
動くニーチェに迫ろうとするならば、「知的欲求」という「力への意志」を排し、「恐ろしい情念」に、非理性的な力《フオルス》に従わねばならない。だがハイデガーは、力《フオルス》の発露される祝祭の陰に、その前夜に身を潜めたままなのだ。それだから、つまり激しい力《フオルス》を生きないから、彼の力《フオルス》への省察も貧弱である。ハイデガーは、ニーチェの力《フオルス》の概念が合理的計算に役立たせられる物理学の力《フオルス》の概念と異なることは知っている。だがニーチェの力《フオルス》の概念が物理学への彼の強い関心に由来していること、そしてこの物理学への関心が、フロイトの場合と同じく、生命体の内部と外部に連続性を見出そうとする態度――「存在者」の内部を「存在者」の外部に開けてゆくものとして捉えてゆこうとする態度――に発していることを看過している。
ニーチェの力《フオルス》の概念、フロイトのエネルギー(=力《フオルス》)論は次のような歴史的文脈のなかにあったのだ。
[#ここから2字下げ]
先に触れたようにフロイトの無意識論は、ある意味ではエネルギー論である。心の中にはさまざまな動き・働きがある。ある観念が忘れられたり、それがまた思い出されたりする。こうした変化はなんらかのエネルギーを想定しないと説明がつかない、とフロイトは考えたのである。これは一八世紀から一九世紀後半にいたる自然科学の発達の影響を受けている。この時代には、物理学者ばかりでなく、生理学者や心理学者、さらには作家や詩人までもが、宇宙はなんらかの力あるいはエネルギーによって動いており、それと同じエネルギーが人間をも動かしていると考えた。
すでにニュートンは、すべての物理現象・生命現象を説明しうるような流体が存在し、それが万物に浸透し、同時に万物を取り巻いている、と考えていた。自然科学者たちはその正体不明の流体をなんらかの物理力と考え、神秘主義者たちは神秘的・霊的なものと考えたが、その両者の差は紙一重であった。
(鈴木晶「フロイト――無意識の発見者」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]岩波講座『現代思想3・無意識の発見』)
†バタイユの「存在」[#「†バタイユの「存在」」はゴシック体]
ニーチェもまた「正体不明の流体」を自分の内部ばかりでなく世界のなかにも認め、それを力《フオルス》と呼んで世界像を描いた。先に引用した一八八五年の遺稿断片にある世界像、すなわち巨大だが一定量の力《フオルス》が一定の空間のなかを戯れながら転変するという世界像がそれである。バタイユも同様に「正体不明の流体」を便宜的に力《フオルス》と呼んで世界像を描くが、しかしニーチェと違って無限の力が無限の空間を戯れていると表現した。この相違については次章で詳しく語る。
ともかくバタイユが「存在」を力《フオルス》と捉えていたことを確認しておこう。「聖なるものは物体などでは全然ない。物体とは反対のものだ。それは力《フオルス》の伝染[#「伝染」に傍点]なのだ。この場合の力《フオルス》とは、我々のなかにある存在が力《フオルス》であるように見えるという意味での力《フオルス》である」(「サドと道徳」一九四七)。念のため言っておくと、バタイユは力《フオルス》の概念を永遠不動の価値として定立しているわけではない。「非‐知の夜」のなかで滅ぼされる一原理として見ているだけだ。より正確には、「非‐知の夜」のなかで力《フオルス》は概念としては滅ぼされるのだが、バタイユはしかしこのとき、裸形化された力《フオルス》を、力の内実を、生きるのである。つまり個体性の破壊、他者あるいは世界の力《フオルス》への開けという力《フオルス》の伝播の運動を、聖なるものとして、恐怖と陶酔の感覚として、生きるのである。
ハイデガーも『ヒューマニズム書簡』(一九四七)のなかで「存在」を力《フオルス》と定義している。ただし彼は「静かな力《フオルス》」といっているのであって、これは「存在者」を、知識人である彼を、引き裂くていのものではない。バタイユの「存在」は荒れ狂う力《フオルス》である。
[#ここから2字下げ]
この「存在」、よりよく言い換えれば、我々が横目で避けるようにして眺めたがっている(眼が太陽の輝きを見るときと同様に)我々のなかのこの未知なるもの、これは、それ自体において恐ろしいものなのだろうか、煩《わずら》わしいものなのだろうか。たしかにそうなのかもしれない。哲学者たちの「〔我考える故に〕我在り」だとか「存在」は、紙の純白さのようにきわめて特徴のない、きわめて意味に乏しい事態なのだ。しかしほんの軽い衝撃でこの事態は狂熱へ変わる。突如真赤に激高し、それまで自分が名指すことのできていた事物たちの明晰判明な静謐《せいひつ》さに無関心になる「存在」――この突然の無関心によって「存在」は、自分の在りよう[#「自分の在りよう」に傍点]である奔流、輝き、叫びの可能性を明示されるのだ――は、稲妻のように噴出するエネルギーなのであり、同時にまたエネルギーの噴出故に生じる死の危機への意識でもあるのである。存在するということは、実際、強い意味では、瞑想する(受動的に)ということではなく、行動するということでもない(というのも行動することによって我々は将来の目的のために現在の自由な振舞いを断念してしまうからだ)。存在するということは、ほかでもない荒れ狂う[#「荒れ狂う」に傍点]ということなのだ。
(「人間と動物の友愛」一九四七年、
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]拙訳『純然たる幸福』所収)
†ニーチェの|非力さ《アンピユイサンス》[#「†ニーチェの|非力さ《アンピユイサンス》」はゴシック体]
荒れ狂うということは、何かを造り変え取り込み支配することができないという意味で、つまり「存在者」の拡大強化に役立ちえない、生産的な「行動」を成立させることができないという意味で、|非力さ《アンピユイサンス》であり、弱さである。バタイユにとってニーチェは、本質的に「力への意志」の哲学者ではなく、非力さを生きた人間だった。そうしたニーチェの姿を彼は『力への意志』という作品のなかにまで見出してゆく。
[#2字下げ]ニーチェの非力さは救いようがない。
[#地付き](『ニーチェについて』)
[#2字下げ] 『力への意志』所収の断章のなかでは、行動のプラン立て、目的や政策を練り上げる試みは、ただ迷宮に達するばかりである。最後の完成作品『この人を見よ』は、目的の不在を、あらゆる企図に対する著者の不従属を、明言している。行動の見地から眺めると、ニーチェの作品は、破綻――それも最も弁護しがたい部類に入る――なのであり、彼の人生は、挫折のそれでしかない。
[#地付き](『ニーチェについて』序文)
ニーチェとその作品を真に理解しようとする者は、故に、ニーチェが生きた非力さを自分自身でまず体験してみなければならない。「神的な非力さ[#「神的な非力さ」に傍点]が確実に人を陶然とさせる、しかしまた涙が出るほどにその人を引き裂く」(『有罪者』)、そういう地点へまず出てゆくことが必要なのだ。この地点はまた矛盾に満ちた人間の「総体」が現われ出る所でもある。「人は、総体へのあの光輝く溶解を生きる[#「生きる」に傍点]以前には、ニーチェ作品の一語たりとも理解できていないのだ」(『ニーチェについて』序文)。この総体を生きる「全体的人間」は祝祭のさなかにある人だ。「全体的人間とは、その生が〈無動機的な[#「無動機的な」に傍点]〉祝祭である人間[#「祝祭である人間」に傍点]のことである。しかもこの祝祭は、語のすべて[#「すべて」に傍点]の意味における祝祭、つまりけっして何ものにも従属しない笑い、踊り、|乱痴気騒ぎ《オルジー》のことであり、目標や日々の糧、道徳をいっさい顧みない供犠のことなのである」(『ニーチェについて』序文)。
要するにハイデガーとニーチェの関係が「存在者」対「存在者」という近代西欧的な個人の関係(「存在」を開示する「知的欲求」に駆られる「存在者」ハイデガーが「存在者」に閉じ込められたニーチェと対決する構図)であったのに対し、バタイユとニーチェの関係は、「存在」へ開けてゆく者同志の共同体の関係になっているということだ。
†価値の問題の継承[#「†価値の問題の継承」はゴシック体]
同様に、ニーチェが抱えていた価値の問題もハイデガーとは違った捉え方をされてゆく。バタイユからすれば、ニーチェは「超人」が定立する価値を最上の価値とみなしてそこに留まろうとしていたのではない。「ニーチェの弱さ。それはすなわち、彼が、自分自身その始まりも終わりもつかむことができなかった――当然のことだが――運動する[#「運動する」に傍点]価値によりながら批判をおこなっていたということである」(『ニーチェについて』)。
ニーチェは、一つの不動の価値観に依拠して何かを批判したり肯定したりしていたのではない。彼の価値観はつねに流動していた。ニーチェには、永続的な信仰の対象となりうるような絶対的な善などありはしなかった。『善悪の彼岸』にある彼の有名な定式はこうだ。「すべては許されている。真なるものは何もない」。
この定式の意味するところは、むろん静態的な相対主義・虚無主義(「君も正しいし私も正しい」、「あれもだめこれもだめ」)ではない――この立場をとる人間の自己は結局のところ温存されている。そうではなく、ある期間一つの価値を全身をあげて信じ、そののちこれを疑い、やがては放棄してゆくという運動である。言い換えれば、一見して堅固な価値観の地盤に乗り上げるのだが、しばらくすると「正体不明の流体」がその人をこの地盤から追い出して、足下に何もない、縋《すが》るものが何も見当らない状況に宙吊りにするという事態である。バタイユに言わせれば、この宙に浮いた状態、恐ろしげなしかし軽やかな状態こそ、「善悪の彼岸」であり「好運」の体験の境地である。
だが、ともかくもバタイユは、ニーチェのなかに流動する価値の立て方を見出し、これを継承してゆく。この継承は、もちろん、リッケルトらの「価値の哲学」――ハイデガーに言わせると「もろもろの価値そのものが物自体のように見られ、それが〈体系〉のなかに排列される」哲学(『ニーチェ』薗田宗人訳)――への発展とは異なる。
[#ここから2字下げ]
価値への異議申し立て[#「異議申し立て」に傍点]〔= contestation〕、価値を問題に付すること[#「問題に付すること」に傍点]〔= mise en question〕、価値を賭けに投じること[#「賭けに投じること」に傍点]〔= mise en jeu〕、これらの間に相違はない。懐疑は、諸々の価値、その本質が不動であることにある価値(神、善)を次々に破壊してゆく。しかし賭けに投じるという行為は、この行為に価値があることを前提にしている。ある対象を賭けに投じているとき、価値は、ただ単に、この対象から賭けへの投入自体に、異議申し立て自体に移っているだけということになる。
しかしながら、問題に付する[#「問題に付する」に傍点]という行為は、諸々の不動の価値を排して、賭けへの投入という流動的な価値を導入する。賭けへの投入にあっては何も好運に対立していない。(……)好運と呼ばれるものは、ある一定の状況において価値なのであり、その価値自体変動するのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『ニーチェについて』)
既存の価値に対する破壊も、「好運」の体験も不動の価値にはならない。「ある一定の状況」が去れば、善の、正価の価値ではなくなってゆく。が、この運動は言語活動をも巻き込んでゆかなければ、不徹底のそしりを免れないだろう。
†言語の問題[#「†言語の問題」はゴシック体]
バタイユは、言語の問題にまで立ち入りながら、ニーチェの価値の問題を継承してゆく。ニーチェに、言語への反省意識が欠如していたわけではない。生成界の流れに、人間の生の戯れの運動に言語が追いついてゆけないことをニーチェはしっかり認識していた。だが彼は、他面、自分の語った言葉がどういう運命をたどるかに無自覚だった。書き残した自分の言葉の運命を彼はかなり楽観視していた。
言語活動は、表現されたものという一つの物体を作り出す生産的行為である。言語活動は表現者の「力への意志」によって導かれる一種の「行動」である。表現されたものは、故に、力《ピユイサンス》に、つまり権威を帯びた不動の価値になって、受け取り手を圧倒しようとする。書き言葉の場合、表現されたものの不動性は絶対的になるだろう。読者は、書かれた言葉を神のごとく信仰しはじめる。あるいは、より強い「力への意志」を持つ読者はこの書かれた言葉を自分の拡大強化のために利用しようとする。ナチスの場合だ。ニーチェのように「運動する価値」に従って書いている者にとっては、いずれも誤読である。ニーチェの残した言葉はこの二種類の誤読にさらされ続けた。
ならばニーチェは沈黙していた方がよかったのだろうか。価値観を変化させて次々に異なった肯定・否定を繰り出す所作は、ただ思索のレヴェルだけに留めておいて、その痕跡は文章に残さないということの方が賢明だったのだろうか。が、もしもそうしていたならば、この価値観の変化、そしてそれを導く力《フオルス》の存在は、誰にも伝達されなかっただろう。力《フオルス》は本質的に非力であり、自分自身では確乎とその存在を明かすことができない。「正体不明の流体」であり続けるほかはないのだ。ましてや「力への意志」の時代である西欧の近代においては、非力なる力《フオルス》は、何もされなかったならば、隠蔽を余儀なくされるだけなのである。
ニーチェのあとを受けて流動する価値定立を実践しようとするバタイユは、沈黙すべきか語るべきかという二者択一に迫られていた。最終的に彼のとった解決法は、沈黙を志向する表現というものである。書かれたものの不動性を拒否しながら、つまり文法に則って構築された文章を解体させながら、しかし完全には解体させないで意味が伝達されるように書くというものである。これは、ブルトンらシュルレアリスム主流派がダダイズムの無意味の詩表現から脱出して、意味ある詩表現へ回帰していった運動とは逆方向の運動である。意味伝達として完成されている文章の地平すなわち論証的言語《デイスクール》の地平から離脱してゆく文章、その運動が形に表われている文章である。
この運動は、「有罪者」の次元から「好運」の次元へ向かう運動だということができる。バタイユはともかくまず「祝祭の翌日」に、つまり「好運」の体験でエネルギーを消尽してしまったあとに、身心ともに萎えてしまっているときに、文章を書き始める。「祝祭の翌日」とは、言ってみれば善悪の此岸であり、西欧近代の道徳律の真只中である。バタイユは憔悴しきったなかで、無意味な体験に耽った自分を、さらにはあてどなく浮遊するばかりの自分の生き方全体を激しく叱責する。神経症に陥るまで自分の有罪性を責め立てる。そしてその罪を贖うために、つまり西欧の道徳律の地平で一人前になるために、合理的な文章の作成という「行動」に向かう。だがこれは持続しない。力《フオルス》が満ちてくるのに応じて、彼は合理的な文章を壊してゆく。文脈のつながりを断ち切って長さも内容も個々ばらばらの断章を作り、そのなかの一文一文に対しても接続詞を取り払ったり、中断符記号(……)を入れたり、目的語の位置を大きくずらしたりして、解体してゆくのである。「書くことは他所へ向け出発することだ」(『有罪者』)、「書くことは好運を追い求めることだ」(『息子』)という言葉通り、バタイユの文章は、「好運」への途上にある。言語の価値の完全なる「賭けへの投入」をめざしながら、その手前にある。
こうしてできあがった『無神学大全』の各断章は、ニーチェのアポロン的な美文の断章とは対照的にディオニュソス的な混乱した様相を呈している。そしてそれはまたトマス・アキナス(一二二四頃―一二七四)の『神学大全』から最も遠い言語の世界になっている。
†『神学大全』と『無神学大全』[#「†『神学大全』と『無神学大全』」はゴシック体]
バタイユは、トマス・アキナスの『神学大全』を批判する目的で、『内的体験』、『有罪者』、『ニーチェについて』を書いたのではない。これら三作品には、トマスの名も『神学大全』の名も一度として語られていない。バタイユが『無神学大全』という標題を思い立ち、その下にこれら三作品を統《す》べることを構想したのは、一九五〇年になってからのことだ。この総合標題は『神学大全』という標題の愉快なパロディーだと思えばよい。
だが、こと言語に関して、『無神学大全』は、『神学大全』の対蹠地にある。『神学大全』は、莫大な規模の書であるが、全体はきれいに細分化されている。まず大きな〈部〉に分かれ、各〈部〉は〈問題〉に分割され、各〈問題〉は幾つもの〈項〉を含んでいる。そして各〈項〉のなかでは緻密な論証が展開されている。それは次のような弁証法の運動に従っている。まず問いが立てられる。次いで、権威ある異論が述べられる(「……だと思われる」という表現をとる)。続いて、これに対する反対の権威ある主張が述べられる(「これとは反対に……と言われている」)。最後に、これら二つの考えを調和させる答えが述べられる(「私は答えを次のように言わなければならない」)。
すべての項がこのような堅固な形式を踏まえて議論を進展させているのだが、注目すべきは、答えの言葉において権威は絶大になっているということだ。ともに権威ある異論と反対論を統合する答えは、最強の力《ピユイサンス》を誇っているといってよい。どの項でも、この答えにおいて言葉の支配が達成される。そしてこの支配は神によって支持され、正当化されている。まったく揺るぎのないものなのだ。
バタイユの『無神学大全』の各断章は、このような弁証法の運動とは完全に無縁である。答えに到達して完了するということがまったくない。各断章の言葉は逆に最終的な問い(「なぜこの言葉が存在しなければならないのか、その必然性はどこにあるのか」)に向かって開いていて、権威を失う運命にある。
バタイユは、ヘーゲル、ハイデガー、ヤスパースなどの哲学者の概念、キリスト教の用語をふんだんに使用しているが、彼はそのようにしてそれぞれの権威におもねろうとしているのではない。バタイユの言葉をこの部分はヘーゲル的、この部分はキリスト教的と出所元に、その権威に、還元して読むことほど愚かなことはないだろう。バタイユは、それぞれの概念・用語を帰属先から解き放って宙に浮かしているのである。
バタイユの言葉は、解体しかけている分、難解であるが、しかし軽やかだ。それは、神やその他の超越者から解かれたこの世界、偶然性によって動いているだけのこの世界の軽さに近い。「好運は世界の隅々にまで活気を与えている。星々のまたたきは好運の力であるし、野原の花は好運の魔術的な効果だ」(『息子』)。バタイユはこのような世界に自分の文章を対応させようとしている。
ともかく、神の言葉によって世界が創造されたと長らく信じ、次いでその宗教が主役をおりてからは人間の言葉に絶大の信頼を寄せてきた西欧において、バタイユの『無神学大全』はまったくの異端の書だといってよい。自分の助言からこれほどの作品が生まれたことに驚いたブランショは、『ニーチェについて』のイタリア語訳の序文のなかで、「この作品はまったく別格である」と言い切っている。
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【第四章】[#「【第四章】」はゴシック体]
明晰性の時代[#「明晰性の時代」はゴシック体]
[#扉(img/front4.jpg)]
1 冷戦構造と核戦争[#「冷戦構造と核戦争」はゴシック体]――政治・経済の問題[#「政治・経済の問題」はゴシック体]
†バタイユと戦後の状況[#「†バタイユと戦後の状況」はゴシック体]
第二次世界大戦は、ユダヤ人の大量虐殺と広島・長崎への原爆投下という未曾有の殺戮《さつりく》を経たのち、一九四五年八月ようやく終了した。
バタイユはこのときすでに『無神学大全』三作を出版し終えている。『内的体験』『有罪者』『ニーチェについて』は、いずれもバタイユが正名を付し大部数で刊行した作品だった。いわば正面切って自己の主張を世に問うた試みであった。だが反応は期待はずれに終わる。彼の「コペルニクス的転回」はまったく正当に理解されない。小説『嘔吐』(一九三八)、哲学書『存在と無』(一九四三)で名声を得、当代の第一級の知識人と目されていたサルトルにしてからが、「新しい神秘家」と題する『内的体験』論(一九四三)で、バタイユのことを、死んだ神への追慕の念から「非‐知の夜」「無」という新たな神を捏造したキリスト教神秘家の新版と決めつけた。
他方、三〇年代にバタイユの同志であったクロソウスキーも、評論集『わが隣人サド』(一九四七)所収の論考「ニーチェにおける神の死の体験とジョルジュ・バタイユにおける真正の体験へのノスタルジー」のなかで、バタイユの体験を神の空位を埋めるための所作と誤認する(再版のときにクロソウスキーはこの論考をそっくり削除している)。サルトルといいクロソウスキーといい、バタイユの無神学を神学のマイナー・チェンジとしか理解できていない。
一九四六年になると、バタイユは月刊の書評誌『クリティック』を創刊し、毎号健筆をふるった(彼は他人の新刊本を素材にして自分の思想を自由に展開した)。だが『クリティック』は、四八年に年間最優秀雑誌賞に輝くものの、売れ行きはさっぱりで最初から赤字経営を余儀なくされる。バタイユの名は世に浸透しない。バルドベルクによれば、五三年頃バタイユの愛読者は多くて三〇〇人程度だったという。雑誌『ドキュマン』が五〇〇部ほどの販売部数だったというから、バタイユの読者は一五年経てもいっこうに増えなかったわけだ。いや減りさえしていたのかもしれない。
戦後のフランスで光輝いていたのは、サルトルを主幹にする総合誌『現代《レ・タン・モデルヌ》』であり、彼が主導する実存主義運動だった。個人とその時代の状況の変革を求めるこの運動は、すぐにマルクス主義に接近してゆくが、そのことでサルトルの人気はまったく衰えない。というのも戦後のフランスにおいてマルクス主義はそれまでになく広く国民から信奉されていたからである。一九五〇年代半ばにバタイユはこう記している。「今日、共産主義の道徳上の影響力は、他を圧倒している」(『至高性』)。なぜこのような事態になったのかというと、その第一の理由は、第二次大戦中に、フランス共産党が「祖国の解放」のために対独抵抗運動に積極的に参加し、その中核として最大の犠牲者を出したということ、そしてその威光が戦後も長らく続いたということにある。実際、終戦直後の総選挙でフランス共産党は第一党になっている(全議席数の三分の一強を占めた)し、その後の第四共和政下(一九四六―五八)の総選挙、国民選挙でもつねに二〇パーセント台の支持を得ていた。支持者は労働者と知識人であったが、彼らは共通して共産党に自由と正義、そして理性の高き実現者を見て疑わなかった。
世界に眼を転じれば、一九四六年三月の前英国首相チャーチルの演説(アメリカのフルトン市で行われた)を機に東西の二大陣営による冷戦が始まる。チャーチルは「鉄のカーテンがヨーロッパ大陸を横切っている」と言明して、東欧側の軍事的・経済的結束を、かなりの危機意識をもって批判した。冷戦は、言ってみれば、米ソ超大国の帝国主義の対立である。そして当時においては、第三次世界大戦への序曲、それもヨーロッパを主戦場にする核戦争への序曲とみなされていた。
要するに、バタイユが『無神学大全』を出版し終えたのちに現われた状況は、すべての点で、出版以前の状況と変わりがなかった、いや核戦争の危機を考慮すれば、より悪くなっていたということである。一九世紀からの西欧近代文明が、この文明自身の破滅の見える地平へ進展していったということである(アメリカのある雑誌の作成する「終末時計」によれば、一九四七年における核戦争の危機の度合は、勃発の七分前、四九年は三分前、五三年には二分前にまで達していた)。
†覚醒への要求[#「†覚醒への要求」はゴシック体]
このように自分の思想とまったく違う方向へ進んでゆく時代の流れを前にして、バタイユは新たな対応を迫られる。「内的体験」のなかで自分が見たものへ同時代人の眼をもっと確実に見開かせねばならない。そのためには、『無神学大全』とは異なった仕方、別の表現法をとる必要がある。混乱した断章形式で綴っていては、同時代人は離れてゆくばかりだ。もはや論証的言語《デイスクール》で明晰《めいせき》に語ってやらねば、彼らを覚醒に導くことはできない。
そして語られる内容も彼ら同時代人にもっと開かれている必要があるだろう。「内的体験」のなかで見えたもの、つまり世界の巨大な流動と人間の「総体」、この本質的に無意味なものが彼らにとってどういう意味を持つのか、彼らの生活のなかでいかなる意味を持っているのか、明示してやらねばならない。無意味なものの社会的な意味、文化的な意味、道徳的な意味、戦後のバタイユは、一転してこのような無意味なものの意味を明晰な言葉で語ってゆこうとする。ただし明晰な言葉とはいっても彼のそれは通常の学術論文の合理性、平明さからは依然遠いものになった。彼の論証的言語《デイスクール》は無意味なものの近くで展開されている。そして随所で、無意味の世界への回帰をめざしていることを表明している。
†アウシュヴィッツ[#「†アウシュヴィッツ」はゴシック体]
同時代人に対する覚醒への要求、バタイユにとってそれはまず、身の毛もよだつようなおぞましさ、醜悪さに目を見開くことへの要求であった。このおぞましさ、醜悪さとは、ほかならない人間が体現しているものである。つまり第一にバタイユは、残虐このうえない人間の行為とその犠牲になった人間の惨状をしっかり見つめよと求め、次にこの双方の人間によって示されるおぞましさ、醜悪さが、当事者だけの問題ではなく、人間一般の深層の現実であることを認識せよと求めているのである。
その点で、ナチスのユダヤ人虐殺を扱った彼の論文「死刑執行人と犠牲者(ナチ親衛隊と強制収容所捕虜)に関するいくつかの考察」(一九四七)は重要である。ナチスは、支配下に収めたヨーロッパ諸国のユダヤ人を東方(ポーランド)に移しアウシュヴィッツやヘルムシュテッツの収容所で惨殺した。その数は六〇〇万人にのぼるといわれている。バタイユはまずこの恐ろしい現実に対峙《たいじ》することを求める。「尻ごみして見ようとしない者はほとんど人間とはいえない。見ようとしない者は、自分の何たるかを知らずにいるということを根本条件として選択したのだ」。
自分の何たるか、つまり人間の本質が、アウシュヴィッツの悲劇には見てとれる。フロイトがエスと名付けた各個人のなかの非個人的なもの、この人間の根底に巣くう非人称の恐ろしげな力《フオルス》がアウシュヴィッツを引き起こしたのである。ということは、誰しも状況が変われば、この力《フオルス》に衝《つ》き動かされて、ナチスの人間たちと同じことをしたかもしれないということだ。運が、偶然が、この力《フオルス》を焚《た》きつけ、当の人間を残虐行為へ差し向けたということなのだ。それ故、ナチスの戦争責任者を非人間扱いして断罪するというのは、人間の本質から事態を捉えない狭い道徳的態度ということになる。「道徳的断罪の既存の形式には、否定するという逃避的なやり方がある。人は結局こう言うのだ。あそこに化《ば》け物《もの》たちがいなかったのならば、あのようなおぞましさは生じていなかっただろうに、と。この粗暴な判断において人は、化け物たちを人間の可能性から引き離している。可能性の限界を超えたということで人はこの化け物たちを断罪するのだが、そのとき人は、この化け物たちの過剰さこそがまさに可能性の限界を画定しているということを見ないでいる」。
バタイユのこの文章は一九四七年一〇月に発表されている。フランスではまだ解放直後の「知識人の粛清」(対独協力者であった知識人を論壇・文壇から追放する運動、この運動の中心人物の一人にサルトルがいた)が尾を引いていた時期である。ニュルンベルクの国際軍事裁判も終わって一年しかたっていない。文明の名の下にナチスの戦争責任者が極刑を宣告されたことは、まだ人々の記憶に新しかったはずだ。
バタイユは同時代の支配的な道徳判断に抗っている。彼にしてみれば、このようにナチスの戦争責任者や対独協力者を文明社会から切り離す態度それ自体が、つまり人間の何たるかに盲《めし》いたままでいる態度自体が、当の文明社会を戦争に導く原因なのである。
もはや自明なことであるが、バタイユはナチスを擁護しようとしているのでは断じてない。各人のなかにナチスの可能性が潜んでいることを肯定したうえでなくては、言い換えればナチスの残虐行為が人間の「総体」の一部に含まれることを知ったうえでなくては、人類を破滅から救う善後策は生みだせないと考えているのである。
†広島[#「†広島」はゴシック体]
一九四七年には「広島の人々の物語」という重要な論文も発表されている。これは、ジョン・ハーシーのノン・フィクション『広島』(一九四六)の書評という体裁をとっているが、バタイユはそのなかで今度は犠牲者のおぞましさの方に読者を注目させようとしている。ハーシーが描きだす被爆直後の広島市民の悲惨な光景。それは、眉が焼けただれてなくなった者、顔や手から皮膚が垂れさがっている者、痛さのあまり両手をあげたままでいる者、吐きながら歩いている者の光景だ。そしてまた、助け起こそうと腕をとるとその皮が手袋のごとくごっそり抜けてしまう女性、河口付近でうめく瀕死の負傷者たち、彼らをやっとのことで土手の中腹に移してやっても夜のうちにそこまで潮が満ちてきて皆|溺死《できし》してしまう、「これはみんな人間なんだぞ」と絶えず自分自身に向かって意識的に言いきかさなければやってゆけない、そんな尋常ならざる人間の光景なのだ。
広島市民の証言をもとにこのように惨状の内側に入ってその多様な様相を描きだすハーシーの手法を、バタイユは「動物的[#「動物的」に傍点]な見方」として高く評価している。「動物的な」というのは「感覚的な」ということであり、知性が錯誤を強いられるという意味である。ハーシーの描きだす光景は、一種の「非‐知の夜」の眺めなのだ。
原爆についての「人間的[#「人間的」に傍点]な表現」は、バタイユによれば、トルーマン大統領のそれである(「この爆弾の威力はT・N・T火薬二万トン以上に相当する。その爆発力は、兵器技術がかつて開発したなかで最大の爆弾である英国のグランド・スラムより二千倍も強力である」)。トルーマンは原爆を外側から眺めている。この態度によれば知性は順調に機能し、原爆の威力は恐怖も嫌悪も与えずに歴史の一事項に収まってしまう。
バタイユは、こうした「人間的な」、超越的な見方を排する一方、広島を別格視し世界を呪う感情的態度も斥ける。彼は、ハーシーの描く広島の不幸の本質を、つまり「人間の生の一構成要素である不幸の、あの深い無意味さ」を、虚心に正視することを求める。
虚心にというのは、バタイユに則して言えば、至高の仕方でということ、つまり未来のための行動から離れた自由な現在時(=瞬間)の視点・立場からということである。だが、『無神学大全』のバタイユと違い、戦後のバタイユは、行動の視点・立場を同時に維持して、人類の将来を破滅から救いだす方策を考えてゆこうとする。彼には、人類が将来も存在し続けてほしいという願いがある。人類への愛があるのだ。「それでもこの人間の生、今まだ存続し、総体として見れば、美しく素晴らしく愛するに値する人間の生を、捨てさるわけにはいかないだろう。瞬間の至高性が有用性を上回っているように見えるときでさえ私はいささかも、この持続可能な人類から思いをそらしたりはしない」。
これはキリスト教的な人類愛ともヨーロッパ近代の人道主義《ヒユーマニズム》とも異なる。愚劣さ、残虐さをも含めた「シェークスピア風悲喜劇的総和」としての人類、理想的な何ものもめざさないたださまようばかりの人類への愛である。
†普遍経済学[#「†普遍経済学」はゴシック体]
このような第三次世界大戦への危機意識と人類への愛に発して書かれたのが『呪われた部分』(一九四九)だ。バタイユは副題に「普遍経済学の試み」と付けた。普遍経済学は、彼の独自の教説であり、彼によれば経済学史にコペルニクス的転回をもたらす発想であった。その理由は、普遍経済学の二つの特徴にある。第一の特徴は、利潤の増大を最優先する功利主義的立場を逆転して非生産的な消費を最重要視している点(これはすでに一九三三年の論文「消費の概念」で打ち出されていた)、第二の特徴は、地球規模の視点に立って人間の経済活動を捉え直している点(それまでの経済学は国家や地域を対象にする限定経済学であった)である。
第二の特徴については若干説明を要する。注目すべきは、バタイユが地球上のエネルギー(=力《フオルス》)の恒常的な過剰を議論の出発点にしている点だ。このエネルギー過剰論は二〇世紀の宇宙物理学に依拠して得られた理論である。
一九世紀の天文物理学は、マイヤーのエネルギー保存の法則の影響を受けて、有限の量のエネルギーの転変を説いていた。ニーチェの永劫《えいごう》回帰の教説はこれに典拠しているのだが、それはともかく、一九世紀の宇宙像は有限な一個の実体であったのである。しかし一九三〇年代に西欧の宇宙物理学は、天体望遠鏡の長足の進歩と量子力学の発展を受けて、新たな宇宙像を確立するに至る。それは、エネルギーを無限に増産させながら絶えず拡大膨脹してゆくという動的で非実体的な宇宙の姿であった。太陽の寿命の算定も、一九世紀にはたった五千万年と見積もられていたのが、一九三〇年代には一二〇億年という途方もない時間に引き延ばされたのである(拙著『バタイユ――そのパトスとタナトス』所収の「自然の体験と近代性への批判」「スイスの自然と神の死」を参照のこと)。
宇宙全体のエネルギーが増大の一途をたどっているということ、そして何より地球に直接影響を及ぼしている太陽がほとんど無限にエネルギーを放出しているということ、バタイユの普遍経済学はこれらの発見に基づいて次のような根本原則を立てる。「地表の生物にあっては、生産されたエネルギーの総量は生産に必要なエネルギーの総量をつねに上回っている。したがって余剰エネルギーが恒常的に存在している」。
バタイユはすでに第二次大戦中にこの根本原則に到達し、コジェーヴの「歴史の完了」説を覆す論点にもしている(本書「第三章 極限へ、2「非‐知への哲学」、†脱進歩史観」の『ニーチェについて』からの引用文を参照のこと)。
この根本原則にはマルクスの「剰余労働」の理論も影響している(マルクスによれば、労働者は自分の生存に必要な分以上のものを生産しているが、この「剰余労働」は資本家によって搾取されている)。しかしバタイユはマルクスのあずかり知らぬ地平に出て行き、生産されたエネルギーの地球規模での余剰を問題にしているのだ。この余剰は地球上で不均一に(言い換えれば遊戯的に)生じている。余剰が生じているのは先進諸国であるのだが、しかしそこでは余剰の消費は、無益なものであればあるほど呪われ、罪悪視されている。その結果、余剰は戦争という最も悲劇的な形式で蕩尽されるほかはなくなっている。
この悪循環を断ち切ること、これが『呪われた部分』においてバタイユが実践面で主張している最大の要求である。それ故、例えば、「普遍経済学は、適切な処置として、アメリカの富をインドへ無償で譲渡することを提案する」。
一九四九年当時のバタイユにとって、マーシャル・プラン(四八年から五一年まで行われたアメリカによる巨額のヨーロッパ援助計画、総額の八九パーセントが無償の贈与だった)は、普遍経済学の発想に近いものと映った。この経済援助が政治的もくろみのまったくない純粋な蕩尽だとはバタイユも思っていない。しかし結果的にソ連の封じ込めに寄与し、冷戦の深刻化をもたらしたことは当時の彼の予想を超えていた。
が、ともかくバタイユの根本のねらいは、非生産的消費としての国際経済援助政策の必要性を読者に理解させることにあった。先進諸国がこの必要性に真に気付き始めたのは、一九七〇年代に入ってからのことである。グローバル・ポリティクスの名の下に低開発国への非植民地主義的援助がようやくこの頃から現実化されだすのだ。バタイユは、ゆうに二〇年、時代を先取りしていたといえる。
†未完の書『至高性』[#「†未完の書『至高性』」はゴシック体]
一九五四年、『内的体験』を再版したときに、バタイユは二つの作品群のプランを公表した。一つが『無神学大全』、もう一つが『呪われた部分』のプランである。それによると、『呪われた部分』は、第T巻『蕩尽』、第U巻『エロチシズム』、第V巻『至高性』の三部作となっていた。第T巻の『蕩尽』は、今まで見てきた四九年出版の『呪われた部分』を改題しただけのものである。第U巻の『エロチシズム』は、紆余曲折を経たのち五七年出版の同名の作品『エロチシズム』に落ち着いた。
バタイユは、第V巻の『至高性』を五三年春から五四年夏にかけて執筆したが、結局完成に至らず、出版もしなかった。ただしそのなかの幾つかの章は諸雑誌に発表している。九割がたできあがっていたこの遺稿作品を読むと、その中心の主題が、歴史上の政治・経済制度における至高性の命運だったことが分かる。ハイデガー流に言えば、バタイユは自分の時代にまで及ぶ至高性の「外留」の歴史を浮き彫りにしようとしたのである。
冒頭の彼の定義によると、至高性の体験は未来と関係を持たない自律した現在時におけるエネルギーの蕩尽ということになる。この体験を生きる者、すなわち至高者は恐ろしくも見え、また光輝いても見える。「好運」に恵まれたとき人は誰でも至高者になることができる。だが、歴史を振り返って明らかなのは、軍事面での勇者、つまり過剰な情念から命を惜しまず戦いの先頭に立った勇者が至高者と崇《あが》められ、その後はこの勇者が支配者として君臨し、搾取した財を蕩尽して至高性の顕示に努めた、そして財の蕩尽を子孫に受け継がせて地位の世襲化をはかったということである。角度をかえて言えば、民衆はこうした王や君主たちに自己を同一化させて彼らの桁外《けたはず》れの至高性の発露に自分の最上の至高性を見出し、この疑似的・間接的な至高性の体験に満足し続けたということだ。
これは、封建制下の至高性のあり方であり、西欧では古代エジプト王朝からフランス革命の直前まで続いた。バタイユはこの至高性のあり方を支持しない。なぜならば、至高性が支配に、力《ピユイサンス》に、結びついているからだ。純粋で無限定な至高性ではなく、支配者の有用性に関係させられた不純で限定的な至高性だからである。ニーチェならば支持したかもしれない。「私に言わせれば、ニーチェの欠点――それは本質的ですらあるのだが――は、至高性と力《ピユイサンス》の対立関係を十分に見て取らなかった点にある」(『至高性』原註)。
歴史上の革命は、このような支配者に結びついた至高性に対する闘争だった。バタイユにすれば、フランス革命もロシア革命もこの点で同一の現象である。そして革命後の社会、片やブルジョワ社会、片や労働者のための社会も、大同小異の産物でしかない。ともに蕩尽という無益な、そして危険でさえある消費を否定している。肯定されているのは、いずれの社会においても、生産と蓄積だ。この傾向は、ロシアの社会、とくに第二次大戦後に計画経済を着実に実行していたスターリン政権下のソ連の方がより鮮明に現われていた。
バタイユにとって冷戦下の東西陣営の対立は、イデオロギーの問題ではなく、労働に関する制度の違いでしかなかった。状況の思想家サルトルが「ソ連は平和を望んでいるし、日々このことを立証している」(『共産主義者と平和』一九五二―五四)と語っていたときに、バタイユは、状況を超え、反共か否かの単純な対立を乗り越えて、次のような危機意識に達していた。
[#2字下げ] ソ連的な共産主義のうちには、ある危険が存している。それは、蓄積行為が戦争以外の目的に向かうことができないという事情に発する危険である。たしかに区別を追求するということ〔=資本主義社会に見られる階層《ヒエラルキー》の追求〕、そしてまたそれに対応する仕方での富の使用も、戦争のなかに、自分に好都合な可能性を見出すということも起こりえよう[#「起こりえよう」に傍点]。だがソ連でのように人間間の相違を撤廃しようとすることは、戦争以外の出口を閉ざしてしまう方向へ進むのだ。もしもソ連の権力者たちがそうした他の出口を自由に切り開くことができないのであったら、ことによると賽《さい》はもう投げられているのかもしれない。
[#地付き](『至高性』)
†至高性への回帰[#「†至高性への回帰」はゴシック体]
『至高性』の最後の章でバタイユは、こう断言している。「世界全体をいつ爆発するかも知れぬ巨大な火薬樽に変えてしまったこの前例のない蓄積を、戦争なしに[#「戦争なしに」に傍点]消尽することが重要な問題なのだ」。しかしバタイユは、そのための具体的な方途を示すことはしない。カフカの文学世界へ移るところで原稿は終わっている。おそらくそこには、一九五〇年『クリティック』誌に発表され、後の五七年刊行の評論集『文学と悪』に収録された「共産主義者の批判を前にしてのカフカ」という論考が来ることになっていたのだろう。
大切な点は、政治という行動の地平で議論を進めていたバタイユが最終的に文学という非政治的な地平へ入ってゆこうとしていることだ。この傾向は、先の『呪われた部分』ではいっそう顕著である。この政治的著作の最終節は「富の窮極の目的への意識と≪自己意識≫」となっている。この場合の自己意識は、ヘーゲルの言う自己意識、つまり個体として完成された自己への意識ではなく、自分の力《フオルス》を蕩尽しながら矛盾に引き裂かれている自己ならざる自己への意識である。至高者となった自分への意識といってもよい。
第二次大戦後のバタイユは、政治について語っても必ず至高性の次元へ、人間の|非力さ《アンピユイサンス》が実感される場へ、回帰してゆく。そこが、一九三〇年代の彼の政治的発言と決定的に違うところだ。すでに見たように、この頃の彼はまだ力《ピユイサンス》を求めていた。
戦後のバタイユは結局、各人が至高性の意識を持たねば戦争は回避できないと考えていたように見える。彼の文学への問いかけもこのような視点からなされていたといえよう。
2 文学の至高性[#「文学の至高性」はゴシック体]
†カフカの社会的位置[#「†カフカの社会的位置」はゴシック体]
『至高性』のなかでバタイユは共産主義をこう捉えている。「人間は、何にも還元できない欲望《デジール》として、情熱的に[#「情熱的に」に傍点]、気まぐれに[#「気まぐれに」に傍点]、存在しているのだが、共産主義はこの欲望に、全面的に生産活動に専念する生と両立可能な我々の欲求《ブゾワン》を置き換えた」。要するに人間の本質は情熱的で気まぐれな欲望であるのに、共産主義はこれを拒否して、生産活動に向かう欲求のみを重視したというのだ。『文学と悪』に収録されたカフカ論では、カフカはまさにこのような欲望を徹底的に生きようとした文学者として描かれている。そして彼の闘争の対象であった父親(厳格な事業家)と第二次大戦後の共産主義者(カフカの書物を焼いてもかまわないと考えていた)が同一の次元に置かれて論じられている。
カフカの父親は、「全面的に生産活動に専念する」人間であったのであり、その限り共産主義が是認する人間と同じであった。言い換えれば、事業の今後の発展のために働く資本主義的なカフカの父親と、未来の理想の社会(マルクスの言う「自由の王国」、つまり階級差も搾取もない社会)のために労働し闘争する共産主義的な人間とは、「行動」の肯定と実践という点で、同じ地平に立っている。バタイユの見るところ、資本主義と共産主義は同一の「行動」のイデオロギーの二つの表情でしかない。その差は、共産主義の方がより尖鋭に、合理的に、「行動」を追求し、資本主義は個人が破綻しない限りで消費を肯定しているという程度のものだった。
子供と同じの気まぐれな欲望に駆られていたカフカは、それ故、彼自身の社会環境すなわち第一次大戦前のオーストリアのユダヤ人社会(封建的で旧弊な人種観を持つ当時のオーストリアではカフカの父親のようなユダヤ系の人間はただ事業の成功にしか活路が見出せずにいた)においても、資本主義社会でありながらこと言論界ではサルトルを発火点として共産主義支持の雰囲気が蔓延《まんえん》していた第二次大戦後のフランス社会においても、長期計画経済と大量の粛清(=強制労働)の二本柱によって生産性を高めようとしていたスターリン治下のロシアにおいても、その存在を肯定されることはない。
バタイユに言わせれば、「彼〔=カフカ〕が望んでいたことは、〔父親の「行動」の〕圏内で――排除された者として[#「排除された者として」に傍点]――生きることだった」。ただし、カフカは排除された者として萎縮していたのではない。『変身』の主人公グレゴール・ザムザのごとく昆虫になったまま家の隅で身内から物を投げつけられるという受動性に留まっていたわけではない。そのような物語を書いて彼は闘っていたのである。「彼は彼なりの仕方で、自分の諸権利を十全に保持しつつ父親の社会のなかへ入ってゆこうと命賭けの闘争を行なったのだ。とはいえ、たった一つの条件でしかこの闘争の成功を認めはしなかっただろう。その条件とは、自分自身そうであるところの無責任な子供であり続ける[#「自分自身そうであるところの無責任な子供であり続ける」に傍点]、というものだ」。
[#地付き](『文学と悪』)
†非対称の闘争としての文学[#「†非対称の闘争としての文学」はゴシック体]
このようなカフカの位置、そして闘争は、そのまま文学に対するバタイユの考え方を集約しているといってよい。文学は、「行動」の大人《メジヤー》の世界のなかで、未成年《マイナー》の位置にあり、そのようなものとして自己の真正性を承認させるべく大人の世界に闘争を挑んでいる。これがバタイユの根本の文学観だ。と同時にこれは、戦後フランスにおける――いや近代の西欧におけるといってよい――バタイユ自身の文筆家としてのあり方でもあった。
未成年《マイナー》ということは、非力《アンピユイサンス》ということである。つまり力《フオルス》に忠実であるということだ。「行動」の大人《メジヤー》の世界に対する文学の闘争は、故に、二つの質の異なる力すなわち力《ピユイサンス》と力《フオルス》の間の闘争、質的に相違する者が対峙する非対称の闘争なのである。とすれば、勝敗のあり方も独得のものになる。つまり子供じみていて気まぐれな欲望であるところの力《フオルス》は、たとえ「行動」の力《ピユイサンス》に勝利することがあっても、その勝利を体制として存続させることができない。もしもそうしたならば、力《フオルス》は、その真正性を失って、大人《メジヤー》に、力《ピユイサンス》に、なってしまうだろう。文学が勝利を収めるとすれば、それは、瞬間の出来事であり、「行動」の地平を超え出るというあり方でしかない。そしてその瞬間のあとでは、文学は「行動」の道徳観によって断罪され、自らを有罪者、悪と認めねばならない。
バタイユはおよそこのような闘争のなかに文学を置いて捉えていた(すでに見た「内的体験」に関するブランショの助言がここにも影響していることは明瞭だろう)。こうして見てゆくと、『文学と悪』の「まえがき」にある一見して不可解な次の言葉も合点がゆく。
[#ここから2字下げ]
文学とは悪を――悪の激しい形態を――表現したものなのであるが、この悪は、私が思うに、我々にとって至高の価値を持つのである。とはいってもこの捉え方は道徳の不在をうながしているのではなく、≪超道徳≫を求めているのである。
(……)
文学は無垢ではない。そして最終的に自分を有罪だと認めねばならないのだ。私は本書でゆっくり説明したいと思うのだが、文学とはやっとのことで再発見することができた子供時代のことなのだ。ところで子供時代とは、何かを支配するようになったら、そのときもはたして真理を宿しているだろうか。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『文学と悪』)
†悪[#「†悪」はゴシック体]
「行動」とは、ある未来の目標(社会の改革でも名誉の獲得でも給与を得ることでもかまわない)を達成するための理性的行為であり、大人はさまざまな形でこれに専念している。子供は未来のことなど考えずその時々の気分で好き勝手に遊んでいる。この子供の自由奔放さは、子供だけのものではない。大人になってもその個人の内部に生き続けているものだ。大人は、「行動」を第一に重視するから、自分のなかの子供を悪とみなし極力抑圧しておこうとする。子供らしさを発露させたならば、とても「行動」など実現できはしないのだ。そして大切なのは、大人のなかの子供は、発露されると、抑圧されてきた分、子供の無垢な遊びからは想像もつかない恐ろしさを呈するということである。
バタイユは小説家でもあったが、彼の書いた小説は、大人のなかの子供の恐ろしさを、この極めつけの悪を主題にしたものばかりである。『眼球譚』(一九二八)では主人公の少年と少女が神父を教会内で性的に凌辱し殺害しその死体を毀損《きそん》して話は終わるが、この小説は精神治療の一環として書かれたものであり、主人公たちの荒ぶりはバタイユ自身の内面を形象化したものと考えてよい。その他『空の青』(制作は一九三五年、出版は一九五七年)では道徳を逸脱した男女の恋愛が、『マダム・エドワルダ』(一九四一)では娼婦の魔性が、『死者』(制作は一九四三年頃、出版は著者の死後の一九六七年)では愛する者と死別した直後の女性の美しくも悲しげな放縦ぶりが、『C神父』(一九五〇)では最愛の二人の人物をナチスの秘密警察《ゲシユタポ》に売り渡す神父の裏切り行為が、『わが母』(制作は一九五五年頃、出版は死後の一九六六年)では母子の近親相姦が、それぞれ簡潔な筆致で描かれている。
バタイユは、このように大人のなかに潜む子供の悪を小説で語るわけだが、しかしそれでこの悪を尊ぶべき価値として、つまり大人の「行動」の目標よりも勝っている価値として、定立したりはしない。彼は、悪の復権を意図しているのではなく、「行動」に盲従する大人に対して、そのような自分がいかに相対的存在であるかを知らしめようとしているのである。大人各人の自我が内部の恐ろしげな子供の上に浮かぶ小島にすぎないことを自覚させようとしているのだ。
たいがいの大人は、そのような不安な相対主義に陥ってもこれを解消しようと努めるが、すぐれた文学は、大人の自我が引き裂かれる瞬間があることを教える。
[#ここから2字下げ]
奇跡のような我々の喜悦は我々を引き裂き状態へ導いてゆくのだが、文学とは、そのようななかで引き裂かれずにいることはできないという我々の置かれた輝かしい不可能性に対して我々が与える唯一の声、それも破れた声のことなのである。文学とは、何も解決することなく最後まで引き裂き状態に自らをゆだねたい、それもはっきりと、幸福なうちに、ゆだねたいとする欲望に我々が与える声のことなのである。だが多くの場合文学は、逃げようとし、お粗末な解決策を考え出そうとしている。文学にはそのような軽薄になる権利も認めてやらないわけにはいかないのではないか。
(「エロチシズムの逆説」一九五五、
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]拙訳『純然たる幸福』所収)
†詩について[#「†詩について」はゴシック体]
バタイユにとって詩こそは、この自我の引き裂きを映す最高の文学表現、「破れた声」の極限の形態である。詩は叫びなのだ。「詩は日常言語の可能性を超えるものに表現を与える。詩は、言葉の秩序を覆すものを語るために言葉を用いる。我々の内にある還元しえぬものの叫び、我々の内にあって我々よりも力ある[#「我々よりも力ある」に傍点]ものの叫び、それが詩なのだ」(「石器時代からジャック・プレヴェールへ」一九四六)。
バタイユ自身、詩を書き、『大天使のように』(一九四四)という詩集を出版している。その他『無神学大全』のなかにもふんだんに自作の詩を挿入した。『有罪者』のなかに現われる無題の詩の数節を引用しておこう。
[#ここから1字下げ]
黄色い犬
そいつはここにいる
恐怖
阿呆のようになって吠えながら
そして なくなった手のなかへ
自分の心臓を吐き出しながら
私は叫んでいる
私は夜空に向かって叫んでいる
この雷鳴の引き裂きのなかで
叫んでいるのは私ではないと
死につつあるのは私ではなく
星空なのだ
星空が叫び
星空が涙を流す
私は睡魔におそわれていて
世界は世界自身を忘れてゆく
私を太陽のなかへ埋葬してくれ
私の愛の戯れを埋葬してくれ
私の妻を埋葬してくれ
裸のまま 太陽のなかへだ
私の接吻を埋葬してくれ
そして私の白い涎《よだれ》をも
[#ここで字下げ終わり]
詩表現に対するバタイユの定義はこうだ。「『見させる』はエリュアールの詩集の題名だが、見させるもの[#「見させるもの」に傍点]ということこそ詩の最も適切な――最も単純な――定義である。他方、日常の散文言語は、感受性に訴えることがなく、たとえ感覚的なものを描いても、認識させる[#「認識させる」に傍点]のである」(「石器時代からジャック・プレヴェールへ」原註1)。
詩は感覚的なものを感覚させる。本質的に不可知であるものを、つまり例えば自分の内部から沸き上がってくる不分明で混乱した叫び、自分ではない何ものか、自分を滅ぼしもする何ものかが発する叫び、これを詩は理性的言語の秩序を壊しながら、読者に感覚的に、この叫びに近い形で、伝えようとする。
だがまさにそのときに詩は挫折してしまうのだ。なぜならば、詩が描こうとした叫びが一瞬後には消えてゆく、あるいは定めなく変化してゆくのに対し、詩表現の叫びは文字として凝固し、持続してしまうからである。
†詩の裏切り[#「†詩の裏切り」はゴシック体]
この点について『文学と悪』のボードレールの章(これはサルトルの『ボードレール』(一九四六)への反論で当初『クリティック』誌に「≪あらわにされた≫ボードレール――サルトルの分析と詩の本質」(一九四七)という題で発表された)のなかでバタイユは次のように語っている。「詩表現として存続する詩はたしかにいつも詩の反対物である。というのも、滅ぶべきものを対象にしていながら、詩は、それを永遠のものに変貌させるからである。が、これは、次のようになれば、たいして重要なことではなくなる。すなわち詩人の振る舞い――その本質は詩の対象を詩人自身に結びつけることにある――が、詩の対象を、失意した詩人、挫折で屈辱をなめ不満足でいる詩人に、絶えず結びつけるようになれば、ということである。そうなった場合、還元不可能で不従属の詩の対象・世界は、折衷的な詩作品のなかで形象化されても、つまり詩によって裏切られても、詩人の生存困難な生によっては裏切られていないことになる。詩人の長期に渡る死苦だけが、少なくとも最終的に詩の真正性を立証するのである」。
サルトルからすれば、ボードレールの苦悩は欺瞞にすぎない。なぜならば、サルトルの見るところボードレールは、大人の既成の善(=「行動」の目標)を新たな善に変えようともせず、この既成の善を不動のものと設定してそれとの対比で自分を悪として断罪し悩んでいたからだ。
バタイユは、違う見方をする。ボードレールは、どのような善であれ、善との「行動」の関係のなかに自分を固定することができなかったから、換言すれば詩の対象にどこまでも忠実であったから、つまり世界のなかにも自分のなかにもある無限定の子供らしさ、固定的なものを絶えず否定する子供らしさにどこまでも忠実であったから、自己への断罪を繰り返して苦悩していた。バタイユはこのようにボードレールを捉え、そしてその自己への断罪に人間自身への深い愛を見ようとする。彼の極めつけの定式はこうだ。「人間は、自分を断罪するのでなければ、自分を徹底的に愛することはできない」。
なお、詩の裏切りについては、バタイユは、そこに世界の戯れとしてのあり方、絶えず自分を裏切る世界のあり方を見ていたということも付言しておく。
3 芸術の視点から[#「芸術の視点から」はゴシック体]
†主体の供犠と客体の供犠[#「†主体の供犠と客体の供犠」はゴシック体]
一般に供犠《くぎ》 (sacrifice) とは、神と良好な関係を得るために神に犠牲《いけにえ》を捧げる宗教的な儀式を意味している。無神論者バタイユにおいて供犠とは、人間が生きてゆくうえで、大切なものを滅ぼして、実体も名前もなく現われたかと思えばすぐに消えていってしまう何ものか、聖なるものと仮りに呼んでおくしかない何ものかを意識の上に出現させる行為である。
人間が生きてゆくうえで大切なもの、それはまず人間自身の存在、主体の存在だ。「内的体験」は、この主体を完全にではなくとも滅ぼそうとする「主体の供犠」にほかならない。生きながら自らのなかで死を味わう、あるいは「死なずに死ぬ」(一六世紀スペインの修道女アヴィラの聖テレサの言葉でバタイユが愛好していた表現)「小死」の体験、「部分的な死」の体験である。
芸術は、主体以外の大切なもの、主体の外部にある大切な事物・秩序を滅ぼして、あるいは不安定化して、聖なるものを出現させようとする。「客体の供犠」、バタイユはそうみなしていた。芸術のなかで例えば詩は、すでに検討したように、日常の理性的言語を混乱させて、聖なるものを「見せる」のである。ならば、小説や演劇はどうであろうか。前衛的なものを除いて、日常の言語を壊しているようには見えない。絵画や音楽にしても、我々が接する多くのものは、調和《ハーモニー》を重んじていて、何かを滅ぼしているようには思えない。はたして「客体の供犠」といえるのだろうか。バタイユの見解はこうだ。
[#2字下げ] 実際のところ、芸術の名が帰せられる諸活動は調和《ハーモニー》を表現しているのだが、この調和は、その根本が調和の不在[#「不在」に傍点]であるところの調和、言い換えれば無秩序から生まれる気まぐれな調和なのである。(……)この種の調和は、必然的な秩序の調和に対立している。この種の調和は、現存する秩序のなかで、余白のようなもの、それも放縦にゆだねられた余白のようなものなのである。結局それは、掟(決定されたもの)が支配する世界のなかで、掟の反対物に、気まぐれに、あてられた分け前なのであり、もしもこの分け前がなかったのならば、我々は、つねに秩序に無秩序が、善に悪が、決定作用に無限定なものが対応しているあの総体に無縁になってしまうだろう。かくして我々はこう言うことができる。すなわち我々は一瞬の間引き裂かれて、我々の規則正しくも隷属的で限定された人格を自由な運動にゆだねるのだが、芸術とは本質的に、そうなるための広大な、しかし正当化されえない、回り道なのだ、と。
[#地付き](「芸術とアンドレ・ジッドの涙」一九五一)
芸術作品の鑑賞は、人間の主体を直接的に滅ぼす体験ではない。客体が滅んでゆくのを眺め、聖なるものが立ち現われるのを感覚し、そのようななかで自分の主体も揺らぎだすという回り道を経る体験である。その分、主体が引き裂かれ滅んでゆく度合、それにともなう不安と恍惚も弱まったものになるだろう。が、ともかく、一見して穏やかな調和をかもしだしている芸術作品も、芸術家の内面の不調和から出来上がっているのであり、また鑑賞者を日常の秩序から離脱させ、力《フオルス》が気まぐれに戯れる次元へ、人間の「総体」が感じられる地点へ、つれてゆくのである。
バタイユは、絵画、演劇、映画、音楽など芸術作品を広く愛好しその感動を随所で語ったが、とりわけ彼の関心を引いていたのは絵画であった。一九五五年には二つのすぐれた絵画論『ラスコーあるいは芸術の誕生』と『マネ』を出版している。
†人間の誕生[#「†人間の誕生」はゴシック体]
彼の『ラスコー』は、絵画の分野にだけ閉じこもった狭い美術評論ではない。人類学の地平に立った広い美術評論、こう言ってよければ芸術人類学の書である。そこで問われている人類学のテーマは、動物から人間への移行、単純に言い換えれば人間の誕生という最も根本的なテーマである。バタイユにおいてこのテーマは、ほとんど完成されていたにもかかわらず出版に至らなかった重要な理論書『宗教の理論』(制作は一九四八年頃)以来、陰に陽に絶えず思索され語られていたものだった。
バタイユにおけるこのテーマの出発点は、コジェーヴによって紹介されたヘーゲルの人間観である。これを乗り越えることがバタイユの第一の課題であった。
すでに見たように、コジェーヴが説くヘーゲルの人間観は、労働と闘争によって確立される理性的人間を完全な人間として肯定している。ただしこの人間観は単純な理性主義のそれとは違い、欲望という契機を重視している。コジェーヴは、この欲望を動物的欲望と人間的欲望に分けて説いた。動物的欲望は、自然にあるものだけをただ欲し、死への恐怖から自己保存を欲している。人間は、この動物的欲望を内に持ちつつも、これを理性と結びつけて人間的欲望に昇華させ労働と闘争の原動力にする。すなわち労働において人間は、自然の事物を人間の産物へと造り変える。物を作るこの行程において人間は、気まぐれな感情や快感の充足などは切り捨てて、彼自身一個の物のようになって存在する。次いでこの人間は、労働する自己の存在を、その正当性を、他者に、正確に言えば彼に隷属的境遇を強いている主人に、承認させるべく、死を恐れずに命賭けの闘争をおこなう。この闘争に勝利して主従の関係を撤廃しかつての主人と相互承認に達したとき、この人間はすぐれて人間的な人間になるのである。
バタイユにすれば、このような人間観はいまだ人間の「総体」の半分しか語っていない。真の人間の誕生を告げてはいないのだ。
バタイユも動物的欲望を語るが、これはコジェーヴの説く動物的欲望とは異なる。彼の動物的欲望は、死を恐れて自己保存に駆りたてるということはせず、逆に主体を滅ぼそうとする。ならばコジェーヴの言う人間的欲望と同じかというと、それとも違う。人間的欲望が死を恐れずに闘争を展開するとはいってもこれは、労働する個体という自己のあり方を承認させるための闘い、つまりこのあり方を維持しながらの闘いでしかない。ヘーゲルの弁証法の行程で死の体験が真正のそれとは違っていたことを想起しよう。主人と従僕の戦いは、弁証法におけるこの段階(つまり自己が二極に分解する段階)に対応している。
†禁制と聖なるもの[#「†禁制と聖なるもの」はゴシック体]
バタイユは、ヘーゲルとコジェーヴの人間観のなかで労働が禁欲によって成立している点には注目して、この点を自分の思想圏のなかで発展させている。
労働する人間は、自分の個体としての一体性を滅ぼしかねない動物的欲望を抑制しておく必要がある。が、この抑制は一人ではうまくゆかず、自分を超えた何か普遍的な制度が求められるようになる。道徳がこの禁止の制度になるだろう。動物的欲望の自由な発露を悪として断罪するのだ。外的な事物や生物でこの発露を引き起こすものがあれば、道徳はそれに近づくことや触れることも罪悪とみなし禁止してゆく。
重要であるのは、この禁止への欲求が生じたときに聖なるものへの感情も同時に生まれてくるということだ。聖なるもの、これはあくまで人間の主観の問題であり、聖なるものへの感情あるいは意識としてしか存在しない。動物的欲望で充満している動物たちには聖なるものへの感情がない。主観、つまり主体としての意識が、確立されていないからだ。意識をともなった個体として自分を確立しようとする欲求が、非個体的なものへの意識を生誕させるのである。しかし、まだこれでも十分な説明ではない。
非個体的なもの、すなわち死の脅威を漂よわせつつも何かこちらを強く魅惑するもの、これを聖なるものと感じるためには、個体としての自己の存在、そしてその生活(労働に専念する生活)を俗なるものと感じていなければならないのである。言い換えれば、道徳によって禁止されていたもの、悪とみなされていたものは、たかだか個体の維持のためにそう処置されていたにすぎないということをしっかりわきまえておく必要があるのだ。禁止を破って悪をなすことが、実は狭い人間性を超えてゆく行為であることを、そしてそのようにして得られる聖なるものの感情が人間の深い可能性であることを認識しておかねばならないということである。
バタイユの見るところ、ヨーロッパの近代人はこのような認識をはっきり持てずにいた。しかしヨーロッパ人の最初の人、ラスコーの壁画を描いたクロマニョン人たちはこの認識を明確に持っていたのである。
†ラスコーの壁画[#「†ラスコーの壁画」はゴシック体]
クロマニョン人は、後期旧石器時代(B・C・三万五千年―B・C・一万年)に現われたホモ・サピエンス(知恵の人)の一種族で、知性の程度といい顔の形、全体の容姿といい、現代の白人種とほとんど同じで、その直接の祖先だといわれている。彼らは、フランスからスペインにかけて、年代的にはB・C・二万五千年からB・C・一万年にかけて展開した洞窟壁画芸術(フランコ=カンタブリア美術と呼ばれる)の担い手だった。ラスコーの壁画はそのなかで中期の最大傑作とみなされている(最近発見されたコスケール洞窟、ショーヴェ洞窟の壁画は初期の傑作であり、有名なアルタミラは後期の傑作である)。
ホモ・サピエンスの出現する以前、中期旧石器時代にはホモ・ファーベル(作る人)が生存していて、そのなかのネアンデルタール人は、道具を製作できる知恵とともに死者を埋葬する習慣、つまり死体を不吉なものと捉えこれを日常の生活から隔絶しておこうとする一種の禁制の習慣を持っていた。ネアンデルタール人は猿に近い容貌ではあったが知恵を備えていたわけで、それ故、考古学者たちはネアンデルタール人からクロマニョン人を区別するのに後者をホモ・サピエンス・サピエンス(知恵のなかの知恵を持った人)と呼ぶ。
バタイユはそのような知性の度合によってではなく、芸術衝動によって、ネアンデルタール人からクロマニョン人への進化を捉えようとした。労働に専念する生活からすると、芸術作品とは本質的に無用の産物であり、これを作ろうとすることも無用の行為、つまり遊びであって、悪をなすことにほかならない。クロマニョン人も埋葬の習慣を持っていたのであり、禁制への意識は十分に有していた。ラスコーのクロマニョン人たちは、壁画を制作することによって、禁制を意識的に破り、労働の道徳観が隠蔽していた人間の可能性の方へ、聖なるものの感情の方へ、あえて踏み込んでいったのである。彼らにおいてはじめて人間の「総体」は生きられたのであり、それ故彼らにおいてはじめて動物から人間への移行は完遂されたといいうる。バタイユはそう考えた。
当時の考古学の権威アンリ・ブルイユは、バタイユとは逆にクロマニョン人たちの壁画制作を有用な行為と解釈した。狩猟という労働の成就への呪《まじな》いのために壁画は描かれたというのである。ラスコーの洞窟内にあるのはたしかに動物像ばかりなのだが、しかし彼らの狩猟の第一の対象であったトナカイの図像は一つしかなく、この点でブルイユの解釈(呪術《じゆじゆつ》説)は覆されてしまう。だがバタイユは何よりも、ラスコーの動物像の特徴である躍動感に遊びと無用性を感じ取り、そこから呪術説を覆してゆこうとする。そしてまたバタイユは、彩画、線刻画あわせて一千あるラスコーの図像のうち人物像がたった一つしかないという事実、しかもそれがバイソンを前に鳥の仮面をかぶったまま死にかかっている(あるいは倒れかかっている)人間の図像である事実に注目して、ラスコーの人々が狩猟によって生きる自分たち人間のことを批判的に捉えていた、労働の生を相対化していたと主張する。愉快に戯れる動物たちを前に「人間は人間であることを恥じていたのだ」。
動物から人間への移行のテーマでバタイユが真に問題にしたかったのは、進化論の見直しなどではない。いつの時代の個人にも、とりわけヨーロッパ近代の個人には、動物から人間への完全な移行が、つまり人間の可能性の深奥まで行くことが、求められているということ、バタイユはこのことが言いたかったのだ(拙著『バタイユ――そのパトスとタナトス』所収の「闇の中の抒情」「ラスコーの壁画をめぐって」を参照のこと)。
†エドアール・マネ(一八三二―八三)の絵画[#「†エドアール・マネ(一八三二―八三)の絵画」はゴシック体]
マネ論において、バタイユは一転して一九世紀のフランスへ眼を向ける。現在では「印象派の父」と称讃されるマネの絵画作品がいかにヨーロッパ近代の美意識に抗うものであったか、いかにバタイユの考える芸術の本質に迫るものであったか、を明示してゆく。
まずマネという人間をバタイユはこう捉える。「私が思うにマネは、外面においては軽薄な嘲笑家であったが、内面においては詩を求める創造的な情熱にさいなまれていた」。マネもまた「調和の不在」に、熱き力《フオルス》に駆られた芸術家だったのだ。そして彼の絵は詩の実現になった。ただしその詩は、真の詩、既成の調和を破壊する詩であった。以下はバタイユの『マネ』論の核心部分である。
[#2字下げ] 過去の芸術とは、マルセル・プルーストが言う「巨大な神学的詩作品」、他を黙らせようとする詩作品にほかならない。神学的な、ときとしては神話的な(あるいは単に王朝的な)詩作品、ともかくそれはつねに、地上的なものを超越する真実の、人が見ていたもの[#「人が見ていたもの」に傍点]の彼方にある真実の表現だったのだ。この魅力的で詩的な世界、しかし心底から因習的なこの世界から『オランピア』は裸になって――ただし女神ではない一人の娘として――現われ出てきたのである。(……)詩は、最終的には、想像しうる因習いっさいに対する否定である。暴力的にそうなのだ。詩は、権力など持たない単純な、非現実的な、風化される詩になろうと欲している。そうなるために詩は自分の魔力[#「魔力」に傍点]を自分自身からだけ引き出そうとする。政治的秩序が神や君主の威厳の幻想に対応している世界、詩はそういう世界を形成することから魔力[#「魔力」に傍点]を引き出そうとはしない。『オランピア』は、近代詩と同様、そういう世界に対する否定なのだ。オリンポスへの否定、神話的な詩とモニュメントへの否定、(古代都市国家の古い現実に典拠する)因習への否定なのである。『草上の昼食』もまたジョルジオーネの『田園の奏楽』を否定したのだ。ジョルジオーネはこの作品で、ルネサンス期の楽士たちのそばに裸婦を置きはしたが、古代ギリシアの神話を肯定する形でそうしたのだった。
[#地付き](『マネ』)
マネの初期の大作『草上の昼食』(一八六三)は官展《サロン》での展示を拒否されている。「落選者展」に出品を許されたが、観衆の嘲笑、いや爆笑の的になっただけだった。『オランピア』は一八六五年の官展の審査に合格し展示されたが、これも観衆とジャーナリズム美術評論家から痛罵された。
当時のアカデミズムの画壇、そして一般の美術愛好家の趣味を支配していたのは、ルネサンスに端を発する古典主義の絵画観だった。古典主義の絵画は、古代ギリシア・ローマの神話や聖書の一節を主題とし、これを明確で堅固な理性主義的様式で描き上げるところに特徴があった。マネは、古典主義のこの主題のあり方と描き方の双方を破壊した(つまり供犠に投じた)のである。それだから同時代人から手ひどい批判を受けたのだ。
バタイユがマネの斬新さとして特に強調しているのは、主題のあり方への破壊の方である。古典主義の絵画は、絵画の外部にある物語を語るという労働を強いられている。言語の仕事を課せられている。換言すれば、絵画としての自律性を失って、神話や聖書の話を説明する道具に堕してしまっているのである。マネは、こうした外的な物語との従属関係を断ち切って、絵画に自律性を回復してやったのだ。マネにおいて絵画は、何かを語ることをやめ、沈黙に徹することになる。色彩の美しさ、奥深さ、形態の迫力、気品といった意味を持たない感覚的なものだけを表現するようになる。
『草上の昼食』はティツィアーノの『田園の奏楽』(現在ではジョルジオーネではなくティツィアーノの作とみなされている)を、『オランピア』は同じくティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を、それぞれ同時代のフランス人の社会のなかに置き入れて作り変えた作品である。絵のなかの人物も風景も神話世界から解放され、押し黙ったまま、意味不明の瞬間的現実を表わしている。
マネ以降の近代絵画の流れ――印象派、野獣派《フオーヴイズム》、キュビズム、シュルレアリスムと続く展開――の底辺には、沈黙への加担、自律的絵画への肯定がある。「マネ以後の様々な絵画は、沈黙が深く支配している新しい地帯、芸術が至上の価値になっている新しい地帯で見出された様々な可能性なのである」。
近代絵画の歴史は同時代人からの罵倒・無理解の歴史だった。担い手の画家たちは、しかし、西欧近代の美意識に抗って、無意味さの恍惚的感覚という人間の秘められた可能性の方へ出ていった人々だった。人間の「総体」を生きた人々だったのだ。
4 エロチシズムの問題[#「エロチシズムの問題」はゴシック体]
†バタイユ自身の性生活[#「†バタイユ自身の性生活」はゴシック体]
すでに述べたように、カトリック信仰を棄てたあとのバタイユは、性の快楽に耽るばかりになった。夜になると娼婦街にくりだし、そこで昼間司書として稼いだ金を湯水のように使って淫楽にふけった。三一歳で女優のシルヴィア・マクレス(当時二〇歳)と結婚したが、バタイユはその後も性懲《しようこ》りなく放蕩生活を続ける。深夜にまで及ぶ遊蕩はしばしば翌朝の出勤を困難にし、バタイユは賞牌部門の一般利用者から開室の遅れをなじられた。左遷に匹敵する彼の印刷文書部門への転属の一因はこのことにあったらしい。
売春宿での彼の遊びはすさまじく、謹厳実直な盟友ジャン・ピエルにこう告白して驚かせている。「なあジャン、こう言ったら君にも分かってもらえると思うけれども、二人の間での性交と何人もの間での性交とでは、風呂に浸《つか》るのと海水浴ほどの違いがあるのさ」。
その上さらに彼は、死姦(死体と性交すること)の妄想に捉われていた。実行はされなかったようだが、母親の遺骸に性的衝動を覚えて以来、この尋常ならざる性愛の可能性に絶えず取り憑かれていた。
当時の(今でもそうだろうが)社会通念からして、私生活におけるバタイユは、本当にどうしようもなく下らない奴、自堕落で変態で、人間の屑としか言いようのない男だった。バタイユ自身そのことは知っていて、自分の体《てい》たらくに、その「使いみちのない否定態」に心底|懊悩《おうのう》して、夜のパリの街角であたりかまわず嗚咽《おえつ》にむせぶことがしばしばあったらしい。小説『空の青』を読むと、主人公トロップマンを通して当時のバタイユのあり様がかなりの程度窺い知れる。
だが考えてみれば、性に翻弄されているだけの人間ならば当時いくらでもいたわけで、そのなかにあってバタイユは自分の無節操な性生活から絶えず新たな思想を立ち上がらせようとしていた。彼は第二次大戦後にその成果を論文や書物(『エロチシズム』、『ジル・ド・レ訴訟』序文、『エロスの涙』)にまとめて発表する。性の問題について語りながら、聖なるものへの覚醒を同時代人に促そうとしたのだ。
†死とエロチシズム[#「†死とエロチシズム」はゴシック体]
バタイユのエロチシズム論の鍵を握っているのは死の問題である。死の感覚がエロチシズムを引き起こす。バタイユはそう考えていた。彼の死姦への執着もこの捉え方と関係している。
『エロチシズム』(一九五七)の序論の冒頭にある定式「エロチシズムとは死におけるまでの生への称揚である」は、同じ序論の末尾付近にある次の言葉によって補完されるべきである。「まず初め、直接的な興奮によって我々は、すべてを乗り越えてゆく印象、つまり非連続的存在の立場に関係した陰鬱《いんうつ》な展望が忘れ去られてゆく印象を持つ。次いで我々は、こうした若々しい生に開かれた陶酔を越えたところで、死に正面から対峙して、そこで不可解で不可知な連続性への開口部を見出すことができるようになる。この連続性への開口部こそエロチシズムの神秘であり、ただエロチシズムだけがこの開口部の神秘をもたらすのである」。
不連続的存在とは個々の人間、個人としての人間のことだ。死とはいうまでもなくこの個別的人間存在への否定である。性の体験において人は、素朴な陶酔感を超えたところで、この死の危機に直面する。死をもたらすのは、繰り返し述べてきたように、人間の内部に潜む力《フオルス》である。強度を増し横溢してきた力《フオルス》が人間の一体性を破って死をもたらすのである。バタイユの考えるエロチシズムの体験とは、まず、力《フオルス》の湧出に身をまかせ、死の一歩手前のところまで来て、自己の個体の破れを部分的ながら生きることなのだ。次いで重要な要素は、この個体の部分的な破れが「不可解で不可知な連続性への開口部」になっていることである。バタイユは、「連続性 (continuite)」あるいは「連続体 (continuum)」という言葉を広い意味に用いて、万物が生滅流転するこの世界の運動状態のことを指している場合があるが、エロチシズムの体験に関しては、この体験のさなかにだけ存する、つまり瞬時に現われては消えていってしまう人間間の力《フオルス》の「交流 (communication)」を指している。エロチシズムとは、だから、死を生きながらの力《フオルス》の「交流」だとひとまず定義することができよう。
†エロチシズムの人間性[#「†エロチシズムの人間性」はゴシック体]
力《フオルス》は、人間という個体の内部にありながら、そこから出てゆき、他の人間の力《フオルス》と交わろうとする。しばしば他者の力《フオルス》を湧出へ駆り立ててまで交流しようとする。バタイユは、このような顕在化しながら広がってゆく力《フオルス》を聖なるものと呼んだ。部分的に一度引用した一節であるが、確認のため引用しておく。
[#2字下げ] 聖なるものはけっして物体ではない。物体とは反対のものだ。それは力《フオルス》の伝播[#「伝播」に傍点]なのだ。この場合の力《フオルス》とは、我々のなかにある存在が力《フオルス》に見えるという意味での力《フオルス》である。聖なるもの、それは、我々の内奥にあって我々の外部では維持されえぬものの伝播、物体に還元されえず、逆に我々が様々な物体を物体として破壊する(供犠において)ときに我々が解き放っているものの伝播である。聖なるものとは、我々が物体[#「物体」に傍点]の秩序に固有の拘束を認めないときに、我々[#「我々」に傍点]がなるところの限りない痙攣のことなのだ。大量殺戮、サテュルヌ祭〔=古代ローマの収穫祭で一時的に解放された奴隷も加わって狂騒状態が繰り広げられた〕、大祝祭、度を越した性の振舞いがそのイメージとしてあげられる。
[#地付き](「サドと道徳」一九四七)
聖なるものが主体の感覚あるいは意識としてしか存在しないことはすでに述べた。このような感覚ないし意識を持てるのは人間だけであり動物は持てずにいるわけだが、その理由を人間の高等性(人間だけが感受性なり意識・理性を有しているということ)にのみ求めるのは十分な理解とはいえない。人間だけが死への感覚、死への意識を持たされることがあるという点が重要なのだ。個体として生きるそのあり方が突如地震にでもあったかのように内部の何ものかによって揺すぶられ崩壊しかけたとき、人は、自分の生存の危機を、死の可能性を意識する。死を意識するということは、個体としての自分の存在がいかにもろいものであるかその卑小さあるいは相対性に気づくということだ。さらにこのとき人は、孤立という個体の制約が打ち消されたことにも気づく。外部への開け、つまり他者(および世界)の力《フオルス》との交流を喜びをもって意識するのだ。バタイユは力《フオルス》の伝播を聖なるものと呼んでいるが、この伝播は個体の死と他者(および世界)への開けという二つの事態からなる。聖なるものはこの二つの事態への意識として存在する。ただしこの場合の意識は知る≠ニいう知的で冷静な意識ではなく、恐怖と喜悦の感情をともなった情動的《エモーシヨネル》な意識、感覚あるいは直観に近い意識のことだ。エロチシズムの人間性とは、このように力《フオルス》に導かれながら主観的な聖性を生きることに存する。これは、個体としての人間を尊重する通常の人間性の彼方にある人間性だ。ところがたいがいの人間は個体としての生存を第一に重視し、力《フオルス》への十全な意識を持たぬままこれを禁制で抑圧する。そして以後はそのような自己の卑小さ・相対性を忘れて、いわんや聖俗の区別などには完全に無自覚のまま、つまり脱聖化していることすら分からないまま、生き続けてゆく。
†ジル・ド・レとサド[#「†ジル・ド・レとサド」はゴシック体]
バタイユが見るヨーロッパの近代人の相貌は、このような無自覚な脱聖化状態に陥った人間のそれである。
一五世紀の陸軍元帥ジル・ド・レは、当の軍事の分野で封建時代の非理性主義が近代の理性主義に徐々に入れ替わってゆく過渡期に生きながら、その変化に気づかぬまま徹底して非近代的に振る舞った人間だった。バタイユはジル・ド・レの人生の悲劇的な破滅は、封建社会それ自体の悲劇だったと断じる。
戦《いくさ》を命賭けの遊びとしてだけ捉えひたすら武勇を誇示することばかりを考えていたジル・ド・レは次第に時代から取り残され、無用者扱いされていった。にもかかわらず、財産を浪費する貴族趣味はいっこうに改まらなかったため、彼は必然的に破産へ追い込まれてゆく。そのさなかに彼は悪魔を呼び寄せる降霊術に取り憑かれ、さらに倒錯的で残虐な性行為に耽った。すなわち幼児を自分の城に連れ込んでは性的に虐待し殺害するという異常を繰り返したのである(犠牲になった子供の数は二〇〇とも三〇〇ともいわれる)。結局、財産問題で襲撃したサン・テチエンヌの館が運悪く聖職者の館であったため彼は宗教裁判にかけられ、そこで悪魔信仰と性的残虐行為も暴かれて、破門に処されてしまう。続いて世俗裁判では死刑を宣告されるのだが、しかしバタイユはこう言ってはばからない。「サン・テチエンヌでの馬鹿げた襲撃があったからこそ司法当局は行動を起こしたのだ。これほどの大領主が貧農の子供たちの喉《のど》をかき切ったところで司法当局は動きだしはしない。動きだすようになるのは、もっと時代がたってからのことである」(『ジル・ド・レ訴訟』序文)。
まさに時代が下り近代になると、大貴族といえどもその乱脈行為は処罰の対象になってしまう。サド侯爵が性的虐待行為のかどで有罪判決を受けたのは、近代の初頭、フランス大革命が勃発する直前のことだった。牢獄のなかでサドは、エロチシズムのありとあらゆる形態を開示すべく、小説の執筆に没頭した。時代が極限的なエロチシズムを断罪してゆくなかで、サドは逆にこれに理性の明晰な眼差しを向けていった。バタイユに語らせてみよう。「監獄のなかでサドは二つの可能性を自分に切り開いた。すなわち誰一人としてサド以上に遠くまで精神の醜悪さへ関心を至らしめた者はいなかった。同時に彼は自分の時代のなかで認識欲に最も駆られた人間の一人だった。(……)サドは、誰も用心できないような仕方で、おぞましさの混ざった変則性[#「変則性」に傍点]という教説を開陳した。彼は意識を不快にさせたかったのであり、また意識を明晰にさせようともしたようだ。しかしこの両方のことを同時に実現することはできなかった。ただ今日になって我々に分かるのは、サドの残酷さがなかったのならば、我々は、最も耐えがたい諸真実が隠されているあの地帯、かつては近づくことがむずかしかったあの地帯にこれほど容易に接近することはできなかっただろうということだ」(『エロチシズム』)。
†『エロスの涙』[#「†『エロスの涙』」はゴシック体]
最後の作品となった『エロスの涙』(一九六一)のなかでバタイユは、サドのあとを受けて、エロチシズムに対し読者の正常な意識を不快にさせつつ研ぎ澄まさせるという困難な作業に向かった。彼のとったやり方は、先史時代から現代までのエロチシズムに関する美術作品をグラヴィアで呈示するというものだった。最後の数ページでは一九二五年以来彼の心を強く牽引し続けた凄惨な処刑中の中国人の写真も紹介されている。
もちろん文章も綴られている。彼が語っていることは、エロチシズムを題材にした西欧絵画の歴史のほかに、エロチシズムと宗教の結びつきである。つまり芸術作品に表現されているエロチシズムの諸相(淫らな法悦、醜悪さ、残虐さ)は宗教の本質的諸相と同一であるというのだ。
[#ここから2字下げ]
エロチシズムの意味は、エロチシズムの宗教的[#「宗教的」に傍点]意味を見ない者には理解できない!
逆に、全体としての宗教の意味も、宗教とエロチシズムとの結びつきを無視する者には理解できない。(……)
我々は、宗教を法に結びつける習慣、宗教を理性に結びつける習慣を持っている。だが、もしも我々が諸宗教全体の[#「全体の」に傍点]根本をなしているものに視点を合わすのならば、我々はこの習慣を捨てなければいけない。
宗教というのは、おそらく破壊転覆的なものなのだ。根本においてさえそうなのだ。宗教は法の遵守から人々を引き離す。少なくとも、宗教が命じているのは度はずれな行為である。つまり最終的に恍惚感へ至る供犠や祝祭なのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『エロスの涙』)
宗教とエロチシズムの極限的な体験はともに法と理性から一瞬の間逸脱してゆく。しかしこの体験は動物性への回帰ではない。聖なるものの感覚というすぐれて人間的な可能性への超出なのである。バタイユは最後の著作でもこの点を強調してやまない。
だが『エロスの涙』におけるバタイユの窮極の狙いは、先にも述べたように、グラヴィアを通して読者に聖なるものの感覚を持たせるという点にあった。彼は、言語の地平から体験の地平へ読者を連れていってそこで読者の眼をエロチシズムの諸相に見開かせようとしているのである。第二次大戦後の彼の文章表現はほとんどの場合|論証的言語《デイスクール》でなされた。バタイユはしかしいつも論証的言語に充足せず、これを体験の沈黙の地平へ、理性的言語が壊されて声なき叫びに成り変わる地平へ、反転させようとしていた。『エロスの涙』はその顕著な所作だったといってよい。『エロスの涙』は『エロチシズム』の結論部にある彼の次の発言の明示的な実践にほかならない。
[#ここから2字下げ]
労働と比較すると侵犯は一つの遊びなのだ。
遊びの世界では哲学は解消する。
哲学に基礎として侵犯を与えること(これこそ私の思考の方法だ)、これは、言語を無言の凝視に置き換えることである。これは[#「これは」に傍点]、存在の頂点で存在を凝視することなのだ[#「存在の頂点で存在を凝視することなのだ」に傍点]。言語が消滅するなどということは一度も起きはしなかった。そもそも論証的言語が頂点への入口を明示しなかったのならば、頂点への接近ははたして可能であったろうか。だが頂点への入口を表現する言語は、決定的な瞬間[#「瞬間」に傍点]には、つまり侵犯それ自体がその運動のさなかに侵犯に関する論証的説明に取って代わるときには、もはや意味を持たなくなるのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『エロチシズム』)
†性の解放への疑問[#「†性の解放への疑問」はゴシック体]
西欧ではすでに一九五〇年代半ば頃から性の解放運動が始まっていた。はたしてこの動きにバタイユのエロチシズム論がもちこたえられるのかどうか、最後にこの問題を簡単に検討しておこう。
バタイユもこの新たな傾向のことはよく知っていた。五七年二月の講演「エロチシズムと死の魅惑」においては、禁制をエロチシズムの重要な要素と見る彼に対し、性の解放家たちから「司祭」という軽蔑的な罵声が飛んできたという。しかしそれで自己の主張を修正するようなことはバタイユはまったくしなかった。
性の解放家の考えでは、禁制は不自然であってこれに固執するのは反動的だ、禁制を無視して、あるいは禁制にこだわらずに生きることが自由で進歩的なのだ、ということになる。仮りに夏の浜辺や野外のコンサートだけで全裸になることに飽き足らず、街中やオフィスでも全裸のまま生活することを実行した者がいたとしよう。バタイユはこのような人間を否定したりはしなかったはずだ(何せアウシュヴィッツまで人間の可能性だと考えていた思想家なのだから)。ただ、この人間にはエロチシズムはないと断言しただろう。着衣のまま仕事をしている人間と最終的に同じだと言い切ったにちがいない。なぜならば、全裸の人間は、全裸のままでいることが善だという発想のなかにいるからである。個定的な善の価値のなかで全裸になっているのにすぎないからである。そのため、この人間は一個の物体になってしまっている。単なる肉の塊として個体化したきりになっている。衣服を着て労働することは善だと考え、これを実行している人間と同じ不動の実体になっているのだ。
いや自分はそのような着衣の社会的道徳を無視しているのだと全裸の人は言い張るかもしれない。だが侵犯というのは瞬間の出来事であって、持続的な状態には結びつかないのである。あのブランショの助言(「体験の権威は体験のさなかにだけあり、体験が終了すれば異議申し立てされる」)はここにおいても意味を持っている。侵犯の体験ののちにも侵犯の権威を誇ろうとすれば、それはすでに禁制の圏域のなかにある力《ピユイサンス》の人の態度だということになる。性の解放家こそ深く西欧的であり「司祭」呼ばわりされてしかるべきなのだ。
バタイユのエロチシズム論は、着衣の人も、全裸のままでいる人もひっくるめて個体の存在を引き裂くことに、死の危機に放り込むことに本質がある。だからもしもこのエロチシズム論を覆そうと思うのならば、死への意識を否定してゆけばよいということになるだろう。だがこと西欧においてこれは困難な作業だ。死への恐怖、裏を返せば個体としての存在を擁護してゆく姿勢は、ヨーロッパでは今でも根強く存続している。個人の自立と自由、個人の主体性と独自性、こういった個人に関する価値を西欧人が声高に叫ぶとき、彼らの意識の底では個体の消滅への度の強い恐怖感が作用していると見てよい。個体としての人間を肯定してゆく態度は西欧の本質なのだ。宿痾《しゆくあ》といってもよい。
西欧が西欧であり続ける限り、バタイユのエロチシズム論は滅びはしない。西欧人が個体の存し方に執着する限り、彼のエロチシズム論は西欧の外部を指示する思想として有効であり続けるだろう。
[#改ページ]
あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
この二、三年、私はまとまったバタイユ論を書き上げたいと思っていたが、さまざまな方々のご指導、励ましがあってここにようやく完成させることができた。パリ大学に提出した博士論文からは一〇年の月日が流れている。当時では思い浮かばなかった解釈、見方が本書には導入されている。その点、バタイユを専門的に研究されている方々にも手応えの感じられる内容になっていればと願っている。むろん本書は入門書であって、私はバタイユをまったく、あるいはほとんどご存知ない読者のことをつねに念頭に置いていた。最後にその読者に手頃なバタイユの邦訳書をご紹介しておきたい。
まずお薦《すす》めしたいのは山本功訳の『文学と悪』(かつては紀伊國屋書店から出版されていたが今は筑摩書房より刊行されている)だ。この文芸評論集にはバタイユの思想の主要なテーマがほぼすべて語られている。訳文は喚起力があるという点で名訳だと思う。留学中、私は、フランス語を書くことも読むこともままならなくなったとき、自室でこの訳書を開き、ずいぶんと元気づけられた記憶がある。所収のエミリ・ブロンテ論、ボードレール論、カフカ論はとくに読み応えがある。次にお薦めしたいのは、新訳なった『エロスの涙』(樋口裕一訳、トレヴィル社)だ。宗教、エロチシズム、芸術の問題が死への意識の視点から分かりやすく語られている。図版を見るだけでも刺激になる。小説からバタイユに入ってゆきたいと思われる方には、『空の青み』(伊東守男訳、二見書房『バタイユ著作集』第4巻)と『わが母』(生田耕作訳、同『著作集』第5巻『聖なる神』に所収)を推薦したい。いずれもかなり逸脱した愛情が主題だが、ストーリーの面でも面白い。
いきなりバタイユの神秘主義に触れてみたいと思う方々もおられるだろう。その方々には、『無神学大全』のうち『内的体験』(出口裕弘訳、現代思潮社)の第二部「刑苦」、『有罪者』(出口裕弘訳、現代思潮社)の「友情」の章をお薦めしたい。またバタイユの「好運」の体験を知りたいと思う方には、『ニーチェについて』(拙訳、現代思潮社)の第三部「日記」をお読みいただきたい。豊かな自然を背景に彼の体験が明るく綴られている。
バタイユの生涯については何といってもM・シュリヤ著『G・バタイユ伝』(西谷修、中沢信一、川竹英克訳、河出書房新社)がみごとだ。また評論としては拙著『バタイユ――そのパトスとタナトス』(現代思潮社)をご一読いただければ幸いである。
なお、本書のバタイユの引用文は冒頭の出口裕弘氏のものを除いてすべて拙訳である。
本書の出版に関しては筑摩書房編集部の井崎正敏氏、山本克俊氏にたいへんお世話になった。末筆ながらここに御礼を申し上げておきたい。
酒井健(さかい・たけし)
一九五四年、東京に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科修了。一九八三年から八七年、一九八九年から九〇年、パリ大学大学院留学。一九八六年「Georges Bataille - forces et traces le chemin de la somme atheologigue(ジョルジュ・バタイユ――力と跡『無神学大全』への道)」でパリ大学博士号取得。電気通信大学助教授等を経て、現在、法政大学文学部教授。二〇〇〇年『ゴシックとは何か――大聖堂の精神史』でサントリー学芸賞(思想・歴史部門)受賞。著書に『バタイユ――そのパトスとタナトス』『バタイユ――聖性の探究者』『絵画と現代思想』『バタイユ――魅惑する思想』『死と生の遊び』、訳書にバタイユ『ニーチェについて――好運への意志』『純然たる幸福』『ランスの大聖堂』『エロティシズム』等がある。
本作品は一九九六年九月、ちくま新書の一冊として刊行された。