[#表紙(表紙.jpg)]
若竹七海
悪いうさぎ
目 次
前 哨 戦
序 盤 戦
前 半 戦
中 盤 戦
後 半 戦
終 盤 戦
前哨戦再び
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主要登場人物
葉村 晶……フリーの調査員
滝沢美和……行方不明になった少女
滝沢喜代志……美和の父・二八会メンバー
辻 亜寿美……美和の母
平 ミチル……美和の友人
平 義光……ミチルの父・二八会メンバー
平 貴美子……ミチルの母
柳瀬綾子……美和の友人
水地佳奈……  〃
明石香代……美和の乳母
野中則夫……二八会メンバー
大黒重喜……  〃
相場みのり……葉村晶の友人
牛島潤太……みのりの男友達
光浦 功……葉村晶の大家
桜井 肇……〈東都総合リサーチ〉スタッフ
世良松夫……  〃
柴田 要……武蔵東署刑事
速見治松……  〃
村木義弘……〈長谷川探偵調査所〉スタッフ
長谷川……〈長谷川探偵調査所〉所長
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前 哨 戦
いまどき刃物で刺される、などという事件は珍しくもない。新聞を開けば毎日のように、ほんのささいなきっかけで、誰かが誰かを刺している。ひとは記事を読みながら、ひどい話だ、とか、物騒な世の中だ、とか、これもすべて環境ホルモンのせいだ、とか、ともかくさまざまな感想を持ち、次の瞬間には別の記事に注意を奪われている。世界に満ちあふれている暴力や破壊のひとつひとつ、そのすべてに、心の底から怒っていてはとうてい生きていけない。そうでなくてもストレス要因は多いのだ。それに、〈刺殺された〉と〈刺されて重傷〉では、深刻さの程度に違いもあるわけだし……。
とはいうものの、刺されたのが自分自身となると、話は別だ。
わたしは葉村|晶《あきら》という。国籍・日本、性別・女、年齢・三十一歳。数年前から長谷川探偵調査所という小さな探偵事務所と契約している、フリーの調査員である。長谷川探偵調査所に社員として三年間勤めた後、長谷川所長の勧めもあって自由契約に落ち着いた。人手もしくは女手が必要になると、所長がわたしのところへ電話をよこす。わたしはそれに応じて駆けつけ、働く。フリーの調査員といえば聞こえはいいが、要するに何でも屋、フリーターだ。月に六十万以上稼ぐときもあれば、六千円のときもある。忙しいときは寝るヒマもないし、仕事がなければ即、飢える。
幸か不幸か親兄弟はわたしに関心を払ったことがほとんどないので、ちゃんとした仕事につけとか、やりたいことを見つけろ、結婚しろなどとうるさく説教してくる人間は誰もいない。たまに、自分でもどうしてこんなのら猫みたいな生活をしているのか疑問に思うことはあるが、深くは考えない。自分で稼いで収入の範囲内で生活し、貯金もしている。税金も払っている。電車のなかでは携帯電話の電源を切り、ゴミはきちんと分別する。怒りは手近の電柱かサンドバッグで晴らし、ストレスは主人公が暴れまわる小説か女友達との長電話で解消する。これ以上、社会人になにを望む? 立派なものではないか。
もっとも、探偵という職業を立派だと思う人間は、そう多くはない。
長谷川所長から電話があったのは、四月にしてはよく晴れた暖かい日の夕方だった。
「東都からご指名なんだ。葉村くんをよこしてくれって。信頼されてるな」
所長は言った。東都総合リサーチは中堅の探偵会社で、社長の久保田氏と長谷川所長とは肝胆あい照らす間柄だ。そこで、長谷川探偵調査所で手に負えないほど人手を必要とする依頼が来ると、東都にまわすか応援をよこしてもらう。一方、東都のほうからも、所長の人脈めあてに相談がくるし、ときには仕事をくれる。わたしも東都総合リサーチの連中とは顔なじみだった。
「光栄ですね」
「たいした仕事じゃないからな」
所長はからかうように言った。仕事内容は家出中の十七歳の女子高校生を家に連れ戻すというものだったが、所長も詳細を知っているわけではなかった。所長は代々木の住所を言い、復唱させ、近くの路上に駐車中の東都のスタッフと合流するように指示をし、つけ加えた。
「三十分で行けるか?」
「大丈夫です」
地図で場所を確認しつつわたしは答え、電話を切った。三十秒でグレーの麻のパンツスーツに着替え、三分で化粧を終え、五分後には大江戸線の中井駅のエスカレーターを駆け下りていた。わたしにはたくさん欠点があるが、支度が遅いと責める人間はいない。
と、思っていたのだが、世の中そんなに甘くない。電話から二十二分後、目的地のマンションから少し離れたところに停車している東都総合リサーチの車に乗り込むと、わたしはすてきな歓迎の挨拶を浴びせられた。
「やれやれ、やっと来たか。これだから女は困るぜ。ずいぶん待たせやがって」
文句を発したのは助手席の男だった。座っているというよりふんぞりかえっていると言ったほうがよさそうだ。シートはこれ以上無理というほど後ろに下げられ、ぼてぼてした腹と、行儀悪く組んだ足と、雑巾のような色合いのスーツが見てとれた。車の窓はどれも細く開けられていたが、それでも車内にはこの男の体臭らしき、酸っぱいような臭いがこもっていた。初めて見る男だが、一目惚れはしなかった。
「初めまして。よろしく」
男は身体を起こしてじろじろとわたしを眺め、でかい顔につきでている分厚い唇をなめまわした。
「ま、一応女みたいだな」
「急に呼び出して悪いね、葉村。こいつは世良《せら》松夫、先月うちに入ったばかりの新人だ」
運転席の桜井|肇《はじめ》が男をさえぎった。車での尾行を得意とするベテランで、幾度となく一緒に仕事をしている。温和で、気が長い。その桜井にして、世良を紹介する声にはどことなくとげが感じられた。
「仕事の内容は聞いてるか」
「家出中の十七歳の女子高校生を自宅へ連れ戻す」
「彼女はその先のマンションにいる」
わたしは桜井の視線を追った。煉瓦風のタイルを外壁に貼りつめた、安っぽい建物だった。二階建て、築二十五年前後、これをマンションと呼ぶのはものすごく楽天的な不動産業者だけだろう。もっとも土地の名前だけは都会、という町にはたいていこの手の〈マンション〉が存在する。
「本人の名前は平《たいら》ミチル、いまいる部屋の番号は二〇三号室、部屋の持ち主は宮岡重光という男だが実際に住んでいるのはその息子の公平、二十一歳。ふたりは二週間ほど前に知り合い、数日前からあの部屋に寝起きしている。昨日の夜、ふたりが怒鳴りあう声を近所のひとが聞いている。ミチルの家出はこれが初めてだし、どうやらその初めての冒険にうんざりしかけているようだから、迎えが来たとわかったら、喜んで出てくるだろう」
すばらしい。わたしは拍手をするべきか考えた。
「ミチルの家出の原因は?」
「心当たりはない、と両親は言っている。青い反逆ってとこだな」
「クスリがかんでる可能性は?」
「ない」
「ふたりの喧嘩は深刻なもの?」
「そうじゃない、と思う。聞き耳をたてていた近所のひとってのは、パトカーを呼ぶチャンスを絶対に逃したくないタイプだ」
探偵の神様からの贈り物のようにうるわしいケースだ。わたしはドアをノックし、家出した女子高校生を自宅に連れ帰り、礼を言われて一万円也の日当を頂戴する。なにひとつ問題はない。わざわざ応援を頼むほどの事件とも思えないのに、ここにこうしてわたしがいる、という事実を除けば。
それについて問いただそうとしたとき、さきほどから激しい貧乏ゆすりを繰り返していた世良が、奥歯から巨大な食べこぼしをつまみだしながら言った。
「いつまでもこうしているこたあねえだろ。アバズレを野郎の股ぐらから引きずり出し、ケツのひとつもはたいてやって、さっさとあがろうぜ」
……なるほど。
バックミラー越しに桜井と目があった。桜井は目をまわして見せると外へ出た。わたしが続き、最後に世良が唾《つば》を歩道に吐き捨て、もがきまわりながらなんとか車外に脱出すると、派手に車のドアを閉めた。まともな頭を持った人間なら誰でも思いつくだろうが、停車した車のなかから見張りをするとき、貧乏ゆすりや派手なドアの開閉はいたずらに周囲の関心を引きつけることになる。桜井はげんなりしたように二メートル近い世良の巨体を見上げ、わたしたちに言った。
「これから二〇三号室へ行く。葉村が事情を説明し、おとなしく帰るように説得する」
「俺はどうするんだ」
世良が不満げに鼻を広げた。桜井は厳しく言った。
「相手の頭に血がのぼってバカなことをしでかさないかぎり、なにもしない。こういう場合、女性のほうが説得しやすい。俺は父親にも会って事情を飲み込んでるから、こじれそうなら俺も説得に加わる。世良、絶対によけいな真似はするなよ」
世良はバカにしたように鼻を鳴らしたが、なにも言わなかった。わたしたちはひとかたまりになってマンションに入り、二〇三号室のブザーを押した。すぐにぶっきらぼうな若い男の声で返答があった。
「はい」
「平ミチルさんのご両親の知り合いです」
「ミチルの?」
インターフォンの向こう側で、女の声がなにごとか叫ぶのが聞こえた。
「ご両親に頼まれて、ミチルさんの無事を確認しにきました。彼女に会わせてもらえないでしょうか」
室内から、ミチルと公平の慌ただしいやりとりが漏れてきた。背後で世良が、バカじゃねえか、宅配便とでも言やあいいのに、と呟き、桜井にわき腹を突かれて黙った。次に応じたのはミチルで、ほとんど喧嘩腰だった。
「うちの親の知り合いってどういうこったよ。どうしてここがわかったんだよ」
「あなたのお父さんから依頼された調査会社の人間が捜し当てた。あなたのお父さんが直接あなたを連れ戻しに来ると言ったのだけど、そうなると、あなたのお友達に迷惑がかかることも考えられる。だから、第三者であるわたしが仲介することになったというわけ」
「なんだよそれ。帰れよ」
ミチルは言ったが、本気ではなかった。わたしは冷静に繰り返した。
「とにかく、顔を見て無事でいることを確認させてもらいたいの。引きずって帰るような真似はしない。約束する」
「あんた、ひとり? 名前は?」
「葉村晶。いいえ、ひとりじゃない。調査会社の人間をふたり連れてるわ」
わたしの右手にいた世良が悪態をつき、桜井がしっと声を出した。
「男?」
「わたし以外は」
インターフォンは静まり返った。ややあって、ミチルの声がした。
「部屋に入るのはあんただけ。それならいいよ」
「わかった」
受話器をかけたらしいがちゃっという音がした。わたしはやや安堵して、桜井と顔を見合わせた。鍵の開く音がして、ドアが細く押し開けられ、隙間から若い女の子がのぞいた。細っそりしたスタイルのいい子で、ウエーブのかかった髪を真ん中で分け、白い半袖のTシャツをチェックのインド綿のパンツの上に着ている。大きくて賢そうな、警戒心でいっぱいの瞳がわたしの目とあった。わたしは微笑《ほほえ》んで言った。
「こんにち……」
は、という音を発する前に、わたしは後ろに飛んでいた。激しく背中を打ちつけられ、一瞬、気を失ったらしい。なにが起こったのかとっさに理解できなかった。髪をわしづかみにされて後ろに引きずり倒され、廊下の壁に激突し、その場に崩れ落ちたこと、右足をてひどく踏まれたこと、その犯人がまぎれもなく世良だということに気づいたとき、目の前の二〇三号室のスチール製のドアはゆっくりと閉まり始めていた。
一歩踏み出したとき、右足の甲に不吉な痛みが走った。前のめりになってドアノブをつかみ、引いて、屋内に踏み込んだ。そして、目を疑った。
部屋は必要最小限の家具しかない、がらんとしたワンルームだったが、四人の男女が入り乱れているので狭苦しくみえた。世良がでぶでぶした腕を若い男の喉にまわし、ひどく嬉しそうに締め上げていた。桜井とミチルが罵声を発しながら世良を引っ張り、あるいは殴ったり蹴ったりしていたが、厚いのは面の皮ばかりではないとみえてびくともしていない。若い男の顔からは徐々に血の気が失せ始めていた。
わたしは周囲を見回し、白いプラスチック製のまな板を手にとった。足を引きずりながら近寄り、ミチルを押しのけ、地肌の見える世良の脳天にまな板を思いきり振り下ろした。ものすごい音がして、まな板がまっぷたつに割れた。わたしは手にしたまな板を信じられない思いで見下ろし、以前、長谷川探偵調査所の同僚・村木義弘が勧めてくれた特殊警棒を買っておけばよかったと、つくづく後悔した。
だが、安物のまな板でもそれなりの効果はあったようで、世良の腕がゆるみ、若い男──宮岡公平は気を失って床に滑り落ちた。ミチルがけたたましい悲鳴をあげて公平に駆け寄り、世良は頭を押さえ、うつろな目つきでわたしをにらみつけた。
「邪魔しやがったな、クソ女」
「邪魔したのはおまえのほうだ」
桜井はこめかみに青筋をたてて、世良の腕をつかんだ。
「いったいなにを考えているんだ。おとなしく引っ込んでることもできないのか」
「嘘つき」
ミチルは公平の頭を膝の上に抱えあげ、涙ぐんだ大きな目でわたしをにらみつけた。
「あんただけが話を聞くって言ったくせに。公平がなにしたっていうんだよ」
「あまっちょろいんだよ、あんたらのやり方は」
世良が桜井に指をつきつけた。
「家出して男とヤリまくってるようなアバズレと話をするだ? 男にヤキ入れて、小娘をトランクに押しこんで親に引き渡せばすむじゃねえか。あんたらにできないなら俺がやる。最近の若いやつらはこの程度の目にあわしてやらねえとこたえねえんだよ」
「あたし帰んないからね」
ミチルがわめいた。
「冗談じゃない、こんなひどい真似しやがって。あたし、絶対帰んない」
世良は意外なすばやさで腕を伸ばし、ミチルの髪をつかんでぐいっと引いた。公平の頭がミチルの膝から床に落ち、ミチルがガラスも割れるほどの金切り声をあげつつ引きずりあげられた。桜井が怒鳴った。
「クライアントの娘から手を離せ。また訴えられたいのか」
なるほど。また、ね。
世良は空いているほうの腕を振り、エルボーを桜井の顔面にくらわせた。桜井は鼻血をまきちらしながら倒れ、世良はせせら笑って言った。
「いや、悪い悪い。このアバズレが暴れるもんだから、つい手が滑っちまった」
ミチルはいまや恐怖に顔をひきつらせ、ひたすらもがいていた。世良はミチルの胸をわしづかみにし、文句あるかと言わんばかりにこちらを見た。
「会社にはこのアバズレが発狂して暴れたって報告すりゃあいいんだよ。そうすりゃどっからも文句は出ない。ヤリまくりの淫売があとでなにを言おうが、誰も信じない。前もそれで通ったんだからな。わかったら外へ出てろよ、クソ女。ちょっと楽しんだら、アバズレを無事に家に連れ帰ってやるからよ」
わたしは世良の急所を蹴りあげた。
室内に入るとき、土足のままだった。長い時間歩くことが多いので、頑丈な平底の靴を愛用しているが、残念ながらこの手の靴は先がとがっていない。それでも効果は十分で、世良は白目をむいてぶっ倒れた。不吉にうずく足で体重を支えていたので、将来、世良の性的嗜好が方向転換を余儀なくされるほど力を入れることはできなかったが、仮にそういう結果になったとしても少しも後悔しなかっただろう。わたしはミチルに駆け寄った。
世良はミチルの髪を握りしめたままだった。生温かく、べとべとする世良の指を顔をしかめながら引きはがし、ミチルを助け起こした。彼女はぶるぶると震えていた。
「悪かったわね。こいつがこんな変態だとは知らなかったのよ」
ミチルはなにか言おうとして口を開いたが、声にならなかった。わたしは周囲を見回した。薄いブルーのブレザーとミニスカートが壁にかかっていた。ピンクのボストンバッグが部屋の隅に転がっていた。
目につくかぎりの女性ものをバッグに詰め、三人の様子を見た。公平は意識を取り戻したらしくうめき声をあげて咳きこみ、桜井も鼻を押さえて半身を起こしていた。壁にぴったり背中をつけて震えているミチルのところへ、バッグを持っていった。
「いい、これからあなたを車に乗せて、ご両親の待つ家に連れ帰る。車に乗り込むと同時に調査会社に連絡する。どういうふうに対処すべきかは会社とご両親が相談して決めるだろうけど、たぶん、あなたを面倒に巻き込みたくないとご両親は考えるはずよ。わかった?」
ミチルはなにを言われているのか少しもわからないというように、わたしを見返した。
「もし家に帰りたくなければ、お友達か親戚か、安心してあなたを預けられる場所に送り届けるから、そう言ってちょうだい。とにかくここから離れたほうがいい。それとも、ここにいたい?」
ミチルは子どものように激しく首を振った。
「い、家はやだよ」
「わかった」
「と、友達も──」
しゃくりあげていたのが本格的になって、激しく泣き出した。どういうわけか、世間一般には女のほうが同情心が厚く、ひとをなぐさめるのにむいていると思われているようだが、わたしは苦手だ。どうしたいのかはっきりしなさい、泣いてる場合じゃないだろう、と怒鳴りつけたい気持ちを抑えてミチルの肩を抱き、出口のほうに押しやると桜井に声をかけた。
「キーは?」
桜井は片手で鼻を押さえ、片手で車のキーを投げてよこした。くぐもった声で言った。
「すまん。彼女を頼むよ」
「後をよろしく」
ミチルをせかすと彼女は顔を両手でごしごしこすりながら、わたしをにらんだ。
「どこ行くのさ」
「それはあなたが決めて」
「あんたんち」
「え?」
「あんたんちがいい」
わたしはぽかんとしてミチルを見たが、冗談を言っているわけでもなさそうだ。世良を横目でにらみ、一呼吸して答えた。
「わかった」
ミチルは当然だと言わんばかりにうなずき、さっさと靴を履き始めた。わたしは足を引きずりながら後を追い、保険証のことをぼんやり考えていた。
ミチルに続いて玄関を出かけたとき、背後で桜井がなにか叫んだ。振り返ると、宮岡公平が立っていた。果物ナイフを持ち、妙に据わったような目でこっちを見ていた。
ナイフはわたしのわき腹に突き刺さった。
救急車で病院に搬送され、手術を受け、入院した。ナイフがもし一センチずれていたら肋骨に当たらず、重要な内臓を傷つけて死んでいたかもしれない、と医者は言った。あんたは運がいい、と丸顔の外科医師は繰り返し、わたしが少しも感動しないのに驚いていた。歩く悪徳の身代わりに刺されてみれば、あの医師も自分は運がいいとは思えないだろう。
刺し傷よりも問題は足だった。右の中足骨のうち二本にひびが入っていたのだ。これで体重を支えて急所を蹴りあげたとは、と細面の整形外科医師は驚き、事情聴取に来た刑事は疑った。事情聴取にわたしは事務的に応対したつもりだが、ことによると、世良の悪行の数々を形容詞で飾り立てたきらいがあったかもしれない。
手術が終わり、意識を取り戻したとき、ベッドの脇には長谷川所長と東都総合リサーチの久保田社長が座っていた。所長は簡単に状況を説明してくれた。平ミチルはあの後パニックを起こし、駆けつけた警官に──例の〈近所のひと〉がすかさず一一〇番通報をしていたのだ──わたしが刺されたことを含め、なにもかも世良の仕業だと断言したらしい。そもそも、世良が宮岡公平を絞め落としたりしなければわたしは刺されなかったわけで、あながち嘘でもなく、事情が許せばわたしも喜んでミチルの証言に乗っただろうが、さすがにそうは問屋がおろさなかった。公平は血まみれのナイフを手にしたままだったのだ。
宮岡公平は傷害で、世良松夫は暴行容疑で逮捕された。久保田社長はわたしを見ながらこう言った。
「今回のことはまったく申し訳ないし、こちらとしても入院費を含め、十分なことをさせてもらいます。ごらんの通り、個室をとったんだ」
わたしは長谷川所長を見た。所長は片方の眉をあげ、社長は続けた。
「しかし、確かに世良は問題の多い男だったが、少し配慮してやれば、あそこまでの事件は起こさなかったと思うと、つくづく残念だよ」
所長の眉が両方持ち上がった。
「あれはコツさえ飲み込めば、むしろ扱いやすい単純な男で、まあ、そこまで望むのは要求がすぎるかもしれないが、ただ、単純な男だからねえ、ことに女性に対しては」
所長は久保田社長の肩をたたいた。
「そろそろ行こうか。葉村には休んでもらわなければ、な?」
麻酔で頭がぼけたのかと思ったが、長谷川所長の慌てようからして、どうやら勘違いしているわけではなさそうだった。久保田社長は、このわたしが女らしい気配りをして世良の顔を立てていればこんな事件は起こらなかった、と言っているのだ。だから入院費を肩代わりしてもらったことで満足して、よけいな騒ぎを起こさないでくれ、と。さすがに社長ともなると、高度な表現方法をご存知である。
数日後、桜井が見舞いにきて、裏事情をそっくり話してくれた。
「世良は社長の姪の息子なんだよ」
桜井は鼻にガーゼをあてたままだった。ガーゼからはみ出した部分は紫色、黄色、緑色に美しく変色していた。
「社長の一番上の姉の孫。これがすごい女傑なんだが、世良の小さいときに両親が死んで引き取ってから、猫かわいがりにかわいがってるらしい。二十八にもなって、上から下まで全部ばあさんに着替えさせてもらってるっていうんだからな」
わたしはいろんな意味で驚いたが、ことに世良の年齢にはびっくりした。てっきり四十に近いと思っていたのだ。
「過保護がいかに人間を腐らせるか、あれはいい見本だね。自分は正義の味方だ、世の中のために甘ったれたアバズ……いやその、女の子は懲《こ》らしめる必要がある、と真剣に考えてるんだからあきれるね。うちの女房もひとり息子に甘いんだが、もう少し引き締めてやらなきゃならないな」
「世良はクビになった?」
「社長はばあさんが苦手なんだ」
桜井はぽつんと言って煙草を取り出し、病室だと気づいて慌ててしまった。
「俺も他のスタッフも、口をそろえてこのままじゃ会社がつぶれると社長を脅したんだがな。世良はまったく懲りてないし、反省してる様子もない。弱みのあるアバズ……その、女の子とイッパ……いやその、寝てどこが悪い、とほざいてるんだ」
この仕事を長く続けているわりに、桜井は羞恥心というものを持ち合わせている。
「会話の調子じゃ、あれが初めてでもなかったみたいだけど」
「ここだけの話、三回目だ。先月入社して初めての仕事が、家出した女子中学生の居場所を確かめる、という件だったんだがね。堀越のおばちゃまと新庄の担当で、六本木のクラブにいるところを見つけ、ヤサを確かめるために尾行した。下北沢のアパートにいるのがわかって、おばちゃまは世良に一晩中見張っとけと命じ、新庄とふたりで引きあげた」
堀越聖子は五十代の調査員で、ダンナの素行を自分で入念に調べて離婚にこぎつけた後、この仕事についた元主婦だ。新庄は高校中退後に入社した二十歳そこそこの生意気な男で、盛り場に詳しく、会うたびに髪と目の色が違う。見た目まったくふつりあいなコンビだが、欠点をカヴァーしあって成果をあげている。
「世良は誰に対してもあの態度だからな。おばちゃまも腹にすえかねたんだろう。ところが翌朝来てみると、見張っていたはずの車がない。世良と連絡もとれない。逃げ帰ったのだとばかり思って、マル対の部屋にいったら、怯え切ったその子と友達が部屋の隅にうずくまってる。夜中に男がやってきて、一晩中彼女の名前を叫び、ドアの前で騒ぎ立てていたそうだ。あんまり卑語が多くて大声なんで、近所の誰かがたまりかねてパトカーを呼んだら、どこかに行っちまったそうだけどね。女の子を家に連れ戻し、出社してきた世良を社長ともども問いただしたら、けろっとして自分がやったと認めた。ガキの分際で家出して遊び歩いているような小娘に、ちょっとばかりお灸《きゆう》をすえてやっただけだそうだ」
桜井は鼻を鳴らした。
「社長はもとよりばあさんとことをかまえたくないから、それも一理ある、とかなんとか言ってうやむやにした。クライアントにもうちの人間のやったことだとはバレてなかったしな。おばちゃまも新庄も二度と世良と組まない、と社長に抗議したもんだから、世良は高木・石丸組にまわされた。あいつらは企業人事担当だから問題ないと誰もが思った。ところが、たまたま調査の過程で、ある企業の役員が十二歳の女の子をホテルに連れ込んだところに居合わせた。いくらなんでも放っておけないから、その子を家に連れ帰ることになった。高木も石丸も、まさか世良でも子どもに手を出すようなことはしないだろうと思って、後部座席に女の子と世良を乗せちまった。そしたら」
「もういい」
わたしは吐き気を催して、桜井の話を止めた。彼は大きなため息をつき、髪に手をつっこんでかきまわした。
「平ミチルの父親は娘から話を聞いて、頭から湯気立てて乗り込んできたよ。あの子の居場所を突き止めるのに一週間もかかったが、結局依頼料はもらえずじまい。それどころかいくらか見舞金を包むことになった。長谷川さんとこにも……」
桜井は慌てて口をつぐんだ。所長が自分のスタッフ──わたしのことだが──を当分使い物にならないような状態にされて、おとなしく引っ込むはずもないと知っていたわたしは聞き流した。桜井は愚痴をこぼし続けた。
「東都の信用はがた落ちだよ。平ミチルの父親は平義光って、大手ゼネコンのユニコーン建設の専務なんだけどね。うまくいけば企業人事の仕事をもらえるんじゃないかと社長も思ってたらしいけど、それもパア。うちを平に推薦してくれたのは、平の狩猟仲間で企業コンサルタント会社の社長の野中とかいう人物だったんだが、今期でうちとの契約を打ち切りたいと言ってきた。久保田社長はかんかんだよ。世良を怒鳴り、世良を押さえられなかった俺を怒鳴り。ああ、女性がついていれば、世良もクライアントの娘に手出しできないと思って、葉村に来てもらったというのに──あ、いや、別に葉村を責めてるわけじゃないんだが」
手出しできなかったじゃないか、とわたしは思ったが口には出さなかった。気まずい雰囲気になりかけたとき、ノックがして、相場みのりが現れた。
「頼まれたもの持ってきたよ──あ、失礼しました。お客さん?」
桜井はそそくさと立ち上がり、もごもご挨拶して出ていった。みのりは気にする様子もなく病室の扉を閉めると、紙袋をベッドサイドのテーブルに置いた。
「下着、本、ラジオ、ティッシュの箱にトレーナー。最近はこういうの、病院で貸し出してくれるんじゃないの?」
「うん、だけどただじゃないからね」
「相変わらずケチだねえ。これはお見舞い」
みのりは薄皮をむいたグレープフルーツを詰めた密閉容器を差し出して、桜井が座っていた椅子に腰を下ろした。
相場みのりとわたしは中学校以来の友人だ。数年前、みのりの婚約者が自殺して、新婚家庭になるはずだったマンションに彼女はひとりで住むことになり、ルームメイトにならないかとわたしを誘った。
共同生活はうまくいった。おおかたの夫婦生活よりよっぽど順調だったと思う。わたしもみのりも靴下を脱ぎ散らかすことはないし、食器は自分で片づけるし、電気機器の扱いに強い。おたがい金の節約になり、ひとりでいるより安全で、説教される心配もない。
共同生活を解消したのは半年ほど前。ある事件がきっかけだったが、事件はその時期を早めただけだ。なにしろこの同居は居心地が良すぎた。こういう生活を続けると、女は絶対に結婚できない。共同生活を解消する頃には、婚約者に自殺されたみのりの傷は癒え、次のオトコを求め始めていた。わたしがいたのでは、まとまる話もまとまらなくなる。とはいえ、同居を解消したからといって即座に都合よくオトコが現れるわけもなく、わたしたちはおたがいの家の合鍵を持ち、二週間に一度はどちらかの家に行って飯を食い、五日に一度は長電話をしているのだが……。
わたしは横たわったまま、みのりを見上げた。図書館勤めということもあって、寒色系の作業着ばかり着ている女が、今日は薄紅色のワンピース姿だ。
「具合、どう?」
「ま、死なずにすんだわ」
「それは見ればわかる」
みのりは顔をしかめた。
「あんたもさあ、いいかげんその仕事やめたら? 好きでやってるわけじゃないんでしょ。他にとりえがないからって、危険にもほどがあるよ」
わたしは目をぱちくりした。みのりがわたしの仕事のことで説教するなど前代未聞だ。そう言ってやると、彼女はますます顔をしかめた。
「こんな大怪我すること自体が前代未聞なんだよ」
「本棚が倒れてきて鎖骨を折った図書館司書がいたね」
みのりは無意識に胸へ手をやり、口をとがらせた。
「あれとこれとは違います。あんたは刺されたんだよ。少しは怯えたり不安に陥ったり心療内科の世話になったりしたら、どうなのよ」
「神経が太くて悪かったね。いまどき、どこでどんな仕事についてたって、安全ってことにはならないよ」
「まったく、三十すぎても少しも角《かど》がとれないんだから。そんなじゃ晶、いつまでたっても結婚できないよ」
わたしは深呼吸をした。はずみで傷が存在を主張し出したが、それどころではない。
「で?」
わたしは訊いた。みのりはぽかんとした。
「で、ってなによ」
「あんたのオトコ」
「は? なんの話よ。いまはそういうこと言ってるんじゃなくて」
みのりはごまかそうとしたが、あまりうまくはなかった。嘘の下手な女なのだ。
「まったくやだね。探偵なんて友達に持つんじゃなかったよ」
しばらくしてみのりはあきらめたらしく、ぶつぶつと言った。
「だいたい、まだオトコってほどでもないんだ。うちの図書館に来て、調べ物手伝ってあげたらお茶に誘われて。メール交換するようになって、一度、一緒に食事をしたってだけでさ」
「展開が急だね」
「文句ある? これだから探偵は」
「文句なんかないよ。いちいちつっかかんないでよ」
「そっちがしつこいんじゃないよ」
わたしたちは黙り込んだ。女友達にはなんでも話す、オトコのことも洗いざらい全部ぶちまける、という友人関係もあるだろうが、わたしたちはそうではない。おたがいの性格を知りつくしているだけに、照れくささが邪魔をする。
「ま、確かにわたしの知ったこっちゃないけどさ」
咳払いして、わたしは言った。みのりは鷹揚にうなずいた。
「その通り。まだ話すほどのつきあいじゃないんだから」
「話すほどのつきあいって、どの時点からのことを言うわけ?」
「晶、あんたってホント、やらしいね」
「ふーん、へーえ、なるほど」
「なるほどって……あ、バカ。そういう意味で言ったんじゃないよ。ち、違うからね」
わたしはわき腹を押さえて爆笑した。みのりは下を向いて悪態をついていたが、やがて自分でも笑い出した。
息が落ち着き、傷の痛みが穏やかになったところで、わたしは訊いた。
「で、相手は何者よ」
「三十三歳の歯医者。それ以上は訊かないでよ。こっちだってまだよく知らないんだから」
「調べてやろうか。みのりなら安くしとくよ」
「やめてよ、まったくもう。まだたんなる友達なんだからさ。すごく聞き上手で、慰め上手で、一緒にいるとなごむの。こういうひとと気まずくなりたくないんだ」
「ごちそうさま」
みのりはそわそわしながら立ち上がり、時計を見た。
「悪いけど、用事があるんだ。また来るよ」
「忙しいのに悪かったね」
「それから、もしよかったら、退院したらうちに来ない? 片足じゃ不便でしょ。うちはエレベーターもあるし、買い物はあたしがするし。晶ならしばらくいてくれても全然邪魔にならないし」
みのりは善意の申し出をするとき、絶対にこちらの目を見ない。病室のドアをにらみつけている友人の横顔は険しかった。みのりをよく知らないひとが見たら、嫌々ながらの社交辞令と勘違いするところだ。わたしは思わず微笑んだ。
「ありがとう。ひとりで無理だってわかったら、迷わず甘えさせてもらうよ」
「そうして。ま、あんたなら、部屋がつぶれようが崖から落ちようが、片足で平然と這い出してくるだろうから、心配はしてないけどね」
じゃあね、と手を振って、みのりは出ていった。わたしはため息をついて考えた。彼女とわたしの世界は違ってしまった。彼女は次のステップへ踏み出し、わたしは相変わらず同じ場所にいる。少なくとも、みのりはそう思っている。
それでもよかった。彼女が望んでいるものが得られそうなのだ、本当によかった。
グレープフルーツは生温かくて、少し苦かった。
この時点でもうすべてが始まっていたこと、巻き込まれたわたしがやがて最悪の九日間を送ることなど、もちろん、そのときのわたしはまったく気づいていなかった。
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序 盤 戦
二週間後に、わたしは退院した。さらにその十日後に固定包帯をはずされ、医者からこれで治療はおしまいだと申し渡された。世の中が薔薇色に輝いて見え、わたしはうきうきと部屋へ戻った。
みのりとの共同生活を終えることに決めた直後、住まいを探したが、予算にはおのずから限度がある。たいした期待もせずに長谷川所長に相談したところ、光浦功《みつうらいさお》という人物を紹介してくれた。光浦は新宿区中井に、誰も借りたがらない建物を一軒、持っていた。
「いま建て直したんじゃねえ、ものすごく小さな建物しか建たないのよ」
光浦は耳の羽根つきピアスをひらめかせながら、建て直しせずにほったらかしてある理由をそう説明した。
「だけど、このあたりは大江戸線が開通したおかげで、人気があるんでしょう?」
「まあね。だけど、うちは他にもアパートを二軒持ってるし、持ち家もあるし、別にお金には困ってないから」
光浦はもごもごとごまかした。建て替える金がないのだろう。
問題の物件は七、八軒の店が申し訳程度に営業しているうらぶれた商店街のどんづまりから路地へ入る、その入口にあった。侘しい感じのコンクリート製の二階建てで、頑丈に作られていた。一階は長らく休業中の和定食の店で、わたしが借りることになったのはその二階だった。部屋は広いが、畳からは得体の知れない臭いがして、トイレは和式で、風呂場のタイルは黄ばんでいたし、キッチンの設備は高度成長期に建てられた団地なみだった。業者を入れる金が惜しいからこのまま貸す、自分で好きなように手を入れていい、と光浦は言い、火災保険に入れば敷礼金なし、月五万でどうかしら、とつけ加えた。その瞬間、彼はわたしの大家になった。
ヒマを見つけては部屋の手入れをした。畳をはずして捨て、板を敷きつめてラグを敷いた。天井と柱を塗り直し、ベニヤ板に安い手すき紙を貼ったもので壁を覆った。虫よけの臭いがしみついた押入れを風にあて、アルコールで消毒して壁紙を張り、ふすまの上から藍色の布を張り、引き手を取り替えてクローゼット代わりにした。台所の物入れの扉も全部はずし、棚にペンキを塗り、格子じまのカーテンをつけた。
部屋にある家具のほとんどはもらい物か拾い物だ。光浦が、店子《たなこ》がダイニングセットを捨てたがっているけど、と教えてくれた。テーブルと四脚の椅子のセットだったが、テーブルはクレヨンの落書きとシールだらけ、椅子も二脚は足が折れて使い物にならなかった。わたしが大喜びしたのに光浦は呆れたらしい。いらない本棚をおまけにつけてくれた。テーブルも本棚もあまったペンキを塗って、テーブルのトップに布をかけ、ガラス板を置いた。椅子の布をはがして、カーテンの残り生地をステープラーでとめつけた。
貧乏くさいと言われればそれまでだが、わたしはこの部屋に満足している。よく女らしくないと言われるし、自分でもそう思うが、染色体に〈巣作りを好む〉と刻み込まれているのだけは確かなようだ。とはいうものの、素人の手直しには限度がある。傾きかけたさびだらけの外階段などは手のつけようがない。それを片足で一段一段登る苦労がいかなるものか。
使わなかった筋肉がもとに戻るまでにはもうしばらくかかるだろうし、スキップはおろか花いちもんめもしたくなかったが、両足がそろっている幸せをかみしめながら、内職にいそしんだ。光浦にアクセサリーを作る手内職を紹介されたのだ。台座に開いた小さな穴にボンドを流し入れ、竹串の尻をなめて爪の垢ほどの大きさのラインストーンをくっつけて取り、その穴にはめていく。ひとつのイヤリングにつけるラインストーンの数は三十個。イヤリング一組で九十円の儲けになる。
キッチンテーブルで黙々とこういう作業をしていると、いかにも地道でありがたい気分になってくる。退院してからの十日間で、わたしは二万二百二十回竹串の尻をなめ、三百三十七組のイヤリングを完成させ、三万三百三十円を稼いだ。内一割は税金だ。ときどき竹串のとがったほうで、新聞紙上の政治家の鼻の穴を大きくしてやったが、たいした憂さ晴らしにはならなかった。
三百三十八組目のイヤリングを作り終え、箱に並べ終えたとき、携帯電話が鳴り出した。かけてきたのは長谷川所長だった。
「病院で捕まえようと思って行ったんだが、一足違いだったみたいだな。包帯とれたんだって?」
「ええ」
「それじゃ、もう大丈夫だな。重要な用があるんだ」
わたしは思わず苦笑を浮かべた。所長はあれこれと便宜をはかり、仕事をくれる恩人だが、甘やかしてくれたことはない。死なない程度に刺され、歩きづらい程度に骨をやられただけで、所長の態度が変わるはずもなかった。
「重要な用ってなんですか」
「仕事だ」
きまってるだろう、と言わんばかりの口調で所長が言った。
「十七歳の高校生の娘がいなくなった、探し出して家に連れ帰ってほしい、という依頼が来た。これからクライアントに会いに行くんだ。いま家か? 車で迎えに行くから支度しとけ」
「ち、ちょっと待ってください」
「なんだ? 問題でもあるのか」
所長はすっとぼけた声を出した。
「勘弁してくださいよ。当分、十七歳の女の子には近づきたくないんです」
「あれとは別件だし、今回は直にうちの仕事で、あの変態坊主は抜きだ。おまけにクライアントが葉村を名指ししてきた」
好奇心が頭をもたげてきた。
「どうしてわたしを?」
「さあね。とにかく葉村晶を連れてこいの一点張りでね。怪我のことは説明したんだが、どうしてもと言うんだ。どうする?」
入院中、ほとんど運動らしい運動をしていない。傷は治ったが癒えたわけではない。歩行にいつもの倍の時間がかかる。体力はないに等しい。これでいつも通りの仕事ができるとはとうてい思えない。
キッチンテーブルに戻って椅子に座った。作り終えたイヤリングがぎっしり詰まった箱と、ラインストーンの入った袋と、まだ終わっていないイヤリングの型を見下ろした。
わたしは深く息を吸って答えた。
「行きます」
まぶたのむこうが暗くなり、緑と水の匂いが濃厚に漂ってきた。わたしは目を開けた。新緑から青葉へと移るさなかの樹々がのびのびと枝を伸ばし、初夏の風にざわめいていた。まだ若い緑は日を浴びて、輝いていた。
「ここは? 井の頭公園ですか」
運転席の長谷川所長がこちらを見て、にやりと笑った。
「いいタイミングで目を覚ましたもんだ。それにしてもよく寝てたな」
「すみません」
「気にするな。──ところで、ここは依頼人の家だ」
車はゆっくりとではあるが、進み続けている。わたしは口をぽかんと開け、同時に完全に覚醒した。長谷川所長はときどき面白くもない冗談を言うことはあるが、ホラを吹くことはない。
「いったい敷地面積はどれくらいあるんです」
「井の頭公園と隣接しているからばかでかくみえるだけだ。それでも三千坪はくだらないだろう。聞くところによれば、先代が亡くなる前にはこの五倍以上の面積があったそうだがね。相続税と土地の切り売りでだいぶ減ったとはいえ、たいしたもんだ」
所長の口調に皮肉や嫌みは感じられなかった。わたしは三センチほど開けていた窓を閉め、バッグからポーチを出して顔の脂をせっせと拭き取り、化粧を直した。コンパクトに映る顔はひどいものだった。もう三十年以上同じ顔を見暮らしているわけで、いまさら造作に文句を言うつもりはない。ただ、もう少し化粧ののりがよければ──と鏡をのぞき込んでいたが、長谷川所長がにやにやしているのに気づいてコンパクトを閉じ、膝の上の古い経済誌を熱心に見るふりをした。依頼人・滝沢|喜代志《きよし》の顔がにこやかにこちらを見上げてきた。いかにも腹黒そうな笑顔だ。貧乏人の常として、財界人には偏見がある。
滝沢喜代志は全国と世界に五十七ケ所あるロイヤルハリウッドホテル・チェーンの会長だ。年齢は四十七歳、十年前、死んだ父親から株式と不動産を譲り受けた典型的な三代目で、経営手腕はまるでなく、バブル破綻後に大失敗をやらかし、現在は名目だけの会長。そのせいか趣味が多い。乗馬、狩猟、ヨット、釣り、ゴルフ。
車はゆっくりと左へ折れた。通り過ぎてしまってから、門をくぐったことに気づいた。コンクリート舗装された道は刻み目の入ったゆるやかな上り坂になっていて、コルサのタイヤがばりばりと鳴った。大金持ちに呼びつけられた私立探偵、とくれば、カリフォルニアの石油王ばりの屋敷を期待するのが人情だと思うのだが、前方に現れた家を見て、わたしはがっかりした。
家は確かに大きかった。横にも縦にもでかかった。そして、悲しいくらいみっともなかった。タージマハルもアメリカ南部のコロニアル風館もベルサイユ宮殿もギリシャの神殿もすばらしい建造物には違いないが、すべてをいっしょくたにしたら、田んぼのなかのラブホテルになる。
玄関前に車を停めた。呼び鈴に応じて現れた人物を見て、所長が一瞬身をひいた。出迎えたのは依頼人たる滝沢喜代志そのひとだった。たぶん、所長も執事か、せめてお手伝いさんが出てくると思っていたにちがいない。
「長谷川です。こちらが葉村晶です」
「入ってくれ。時間通りだな」
玄関ホールの天井は高く、扉を閉めると同時に暗くなった。つやのある床は目の玉が飛び出るくらいの金をかけて一級の木材を使って作ったものだろうし、ピンク色の大理石はイタリアから取り寄せたのだろう。シャンデリアも特注品と思われる。だが、全体から受ける印象はぞっとするほど寒々しい。せめて花を飾るとか、敷物を置くとかすればいいのに、と思いつつ、わたしは足を引きずらないように意識しながら、所長の後について玄関脇の部屋へ入った。そして、今度こそ度胆を抜かれた。
玄関とはまったく趣のちがった部屋だった。変わりすぎていた。テーマを一言で言えば、ログハウス、いや狩猟小屋だろう。
壁面に巨大な暖炉があり、洋酒が──主としてスコッチが──ぎっしり詰め込まれたこれみよがしなカウンターがその脇にしつらえられていた。床にもソファセットにも毛皮の類が山ほどかけられており、壁からは鹿とバッファローとクマの首、家具や床のあちこちにキジや猿や犬やその他もろもろの動物のはく製が置かれ、ガラスの目玉でこちらをじっと見つめていた。この部屋のインテリアにかかった費用だけで、おそらく七十平米以上の広さのあるマンションがひとつ買えるだろう。
「いつもは家政婦がいるんだが」
滝沢喜代志は暖炉とバッファローと鹿を背景に、淡々と言った。
「今日は休みをやった。あんたがたと話をするのに、他人がいないほうが気が楽なもんでね」
お茶は出ない、と言いたいわけだ。急に喉が渇いてきた。新宿からの車中、口を開けて寝ていたのだ。
所長とわたしは北極グマからはぎとられたとおぼしき白い毛皮のかけられた、ふかふかのソファに腰を下ろした。滝沢は反対側の椅子に腰を下ろし、わたしをじろじろと眺め回した。
「あんたのことは友人から紹介された」
滝沢は所長を無視してわたしに話しかけた。わたしは肩をすくめた。
「平義光さんですか」
「ほう。どうしてそう思う」
「おふたりとも狩猟がご趣味だそうですから」
「狩猟が趣味なんてやつは、大勢いるさ」
確かにそうだが、財界人で、しかも葉村晶という名前を知っている狩猟好きがそうそういるとは思えない。
「平の娘を助けて刺されたんだそうだな」
要約すればそういうことになるだろうか。わたしはあいまいに首を振った。滝沢は別に返事を待っていたわけではないようで、勝手に話を進めた。
「平の娘とうちの娘は、同じ高校に通ってる。私立セイモア学園。知ってるだろう」
幼稚園からの一貫教育校で、家系を恐ろしく重要視する学校だ、ということは知っていた。莫大な金がかかるが金だけでは入学できず、およそ民主主義とはほど遠い思想を遵守している。
「平の娘はうちの美和とは幼稚園の頃からの友人なんだが、昔から問題を起こしてばかりいた。美和は優しい子で、いつもあのトラブルメーカーをかばってやってたんだ。こないだのその」
滝沢は顎でわたしの足を示した。
「騒ぎの後、平の娘が復学するにあたっても、私はもちろん、美和がずいぶん面倒見てやったんだ」
長谷川所長がとってつけたように言った。
「平さんもお嬢さんも、感謝してらしたでしょうな」
「平はな。娘のほうは知らんが」
「それで、ミチルさんからわたしの名をお聞きになったわけですか」
「あの娘は、美和のことをなにも知らないというんだ」
滝沢は不意にソファから立ち上がり、部屋のなかをうろつき始めた。
「美和が行方不明になってから、もう十日になる。美和もいまどきの娘だ、遊ぶし、男友達もいるだろう。外泊することだってあった。だが、十日は長すぎる。外泊するときだって、ちゃんと私に連絡を入れてたし、学校には行っていたんだ、これまでは。それが、この十日というもの連絡はない、登校もしていない。なにかあったにちがいないんだ」
「警察には連絡なさったんですか」
「当たり前だ。警察にも病院にも連絡した。思いつくかぎりの美和の友人たちに訊いてもみた。おまえら探偵が考えそうなことはすべて、自分でやったんだ。もれはない」
滝沢はわたしをにらみつけた。このあたりが素人のかわいらしいところである。同じ人間に同じようにあたるのでも、おっかないオヤジが頭ごなしに怒鳴り散らすのと、質問のしかたを心得た人間が話をきくのとでは、結果に雲泥の差が出る。そうでなくても、近親者は冷静さを失い、結論に早くたどり着きたがるから、肝心の事実をきちんと把握できていないことが多いのだ。
「具体的に、美和さんが最後に目撃されたのは、いつ、どこでだったのですか」
尋ねると、案の定、滝沢喜代志はぽかんとした顔になった。
「──だから、十日前だ」
わたしは腕時計を見た。今日は五月十五日だ。
「ということは、五月五日の土曜日ですね」
「いや──目撃ということになると、三日だ。美和はその日家で昼食をとった。私は留守だった。美和は休みの間、近所の友達と遊ぶからしばらく帰らないかもしれない、と家政婦に言って出かけたそうだ」
「誰と?」
「柳瀬綾子だったか、そういう名前の子だ。父親は保険会社のセールスマンだが、娘は美和とわりに仲がいい」
滝沢は渋面を作り、意地になったようにつけ加えた。
「美和は実にやさしい娘なんだ」
わたしは反対しなかった。少なくとも、この父親よりは気だてがよさそうだ。
「四日の午前中に私は家に戻ったが、美和はいなかった。昼食をとってすぐに私は出かけ、六日の夜帰宅した。そのときも美和はいなかったようだが、私も疲れていたのですぐに休んだ」
「では、美和さんからの連絡がとだえていることに気づいたのは、七日の朝ですか」
「いや。確か──その日は早朝から会議があったので六時に家を出たし、帰宅したのは夜の十時すぎだった。帰るなり家政婦が、学校から美和が無断欠席しているという連絡が入った、と言ったのだ。私は驚いた。あの子は連絡もしないで休むようなことはしない。そこで柳瀬の家に電話をかけて美和のことを尋ねてみた。すると、彼らは五月三日から一家でハワイに行っていた、というんだ。ゴールデンウイーク中に、二泊四日でハワイだと。信じられん。なぜ、もっとすいている時期に、もっとゆったりとすごさないんだ? それが普通だろう」
軽蔑しきったような言いかたで、そもそもそういうひとたちのおかげで自分が豪邸に住んでいられることなど考えたこともないようだった。
「それで、その日のうちに知り合いの警察関係者に連絡をとり、彼があちこち調べてくれたが行方はつかめなかった。少なくとも警察の死体置き場で身元不明の──つまり、死んではいないし、記憶をなくして病院にいるわけでもない、とわかった」
娘の身を案じているにしてはずいぶん冷静なもの言いだが、滝沢は突然、膝から下の力が抜けたように、ソファに座りこんだ。
「警察としてはいまのところ動きようがない、と言われた。だから、うちの会社の人間に美和を探させた。見つからなかった。役立たずどもめが」
「学校にはどう説明したんですか」
「急病と届けてある」
「行方不明の話はしていないわけですね」
「当たり前だ。美和が家出したなどと誤解されては困るから、会社の人間にもそのへんは口をつぐむよう、じゅうぶん言い聞かせておいた」
それで役立たず呼ばわりされたのでは、たまったものではない。宮仕えでなくてよかったと心の底から喜べるのは、こういうときだけだ。
「しかたがないので、平に相談した。平は、娘は調査会社の人間にひどい目にあわされたが、少なくとも彼らは数日で居所をつきとめてきた。東都総合なんとかいう会社は避けたほうがいいが、よそをあたってみたらどうか、と言った。私はその前に、平の娘にも話をきかせてもらいたい、と頼んだ。美和が親切にしてやっていたのだ、なにか知っているかもしれないと思ったのだ」
「ミチルさんはなんと?」
「あれはまったく、ひどい娘だ」
滝沢は突然、感情を爆発させた。
「挨拶もまともにできないし、ろくに口をきこうともしない。美和のことなどなにも知らないの一点張りだ。友人の悪口は言いたくないが、親のしつけがなっとらん。なんでもいいから思い出せと怒鳴りつけてやったら、泣き出しおった。まったく、泣き出したいのはこっちのほうだ」
わたしは唇を噛んで笑いをこらえた。滝沢喜代志は怒りのあまり震える手でテーブルを叩いた。
「あの娘はなにか知っている。私の勘がはずれたことはない。だが、あの娘は貝のように口を閉ざし、平のやつは自分が聞き出しておくから帰れと私を追い出した。そのくせ翌日電話をかけてきて、うちのミチルはなにも知らないと言ってるぞ、と冷たいことを言う。家出して男と同棲するようなバカ娘が学園に残れるようにはからってやったのはこの私だぞ。それなのに、まったく、なんという」
滝沢喜代志はまたしてもソファから立ち上がり、そのお育ちの許す範囲で悪態をつきまくった。わたしも長谷川所長も黙って待った。水の一本でも持参すればよかった、と思った。
「平ミチルはあんたに助けられたと聞いた」
ややあって、少し落ち着いた滝沢は咳払いして話を続けた。
「だから、あんたならあの娘から美和の行方を聞き出せるかもしれん。やってくれるか」
わたしは少し考えた。滝沢は苛立たしそうにソファのけばをむしった。
「迷うことはないだろう。なにか聞き出したら三十万払おう。それとも、平の娘は救えてもうちの美和は助けられないというのか」
「お引き受けする前に、確認しておきたいことがあります」
わたしは言った。
「この依頼は、平ミチルさんから娘さんについての情報を聞き出す、それだけですか。娘さんの居所をつきとめてほしい、ではなくて?」
滝沢はテディベアが喋り出すのを目撃したかのように、口を開けてわたしを見た。
「それは……その、つまりだ。平の娘の口を割らせれば、美和の居所もつかめるかと」
「それはどうでしょうか。確かに、ミチルさんは美和さんの所在についてのヒントを、なにか知っているかもしれません。でも、この場合、美和さんが自分の意志で身を隠したとは考えにくい」
「どういう意味だ」
滝沢は、美和は家出するような娘ではない、無断外泊もしない、絶対に自分に連絡をする、と繰り返し主張していたくせに、わたしがほのめかした事実がたいそう気に入らなかったようだ。わたしははっきりと言った。
「つまり、美和さんはなんらかの事件に巻き込まれている可能性が高い、と申し上げているんです」
「そんなバカな。だったら警察から連絡が……」
「監禁事件はたいてい、被害者が逃げ出した後に発覚します」
もしくは、被害者の死体が見つかった後だ、と思ったが、さすがにそれは口にできなかった。そうでなくても滝沢の顔は血の気を失っていた。
「あ、ありえない。娘が監禁だなんて。あれはそれほどバカではない」
「失踪したとき、娘さんはいくら持っていましたか、つまり、お金を」
滝沢は言葉に詰まって、首を振った。
「クレジットカード、もしくはキャッシュカード、そういったものが失踪後使われたということは?」
「クレジットは知らんが、キャッシュカードは使われていない」
「身のまわりの衣類や持ち物で、なくなっているものはありますか」
「あれは事件に巻き込まれるようなバカな娘じゃない。そうだ、この間の模擬試験でも全国で三十位の成績をとった」
わたしはため息をついて、指摘した。
「美和さんは親切な娘さんなんでしょう? そういう女の子は騙しやすくもあるんです。かっこいい男の子の誘いには応じなくても、病気で苦しんでいるひとを家まで送ることはありえます」
「病人が美和を監禁できるか。あれは毎日鉄アレイで鍛えている」
滝沢に対する同情は、喉の渇きがひどくなっていくのに比例して、どんどん干あがりつつあった。
「誰でも病気で苦しむ真似くらいできます」
「あんたはいったいなにを言いたいのかね。警察はなにも言ってこないんだ、監禁などありえん」
「葉村くんが言いたいのは」
長谷川所長が穏やかに言葉をはさんだ。
「もはやなりふりかまっている場合ではない、ということです。美和さんの身の安全を確かめるのが最優先事項です。世間体や学校側への対応など、無事に発見されてから考えればよろしい。美和さんがどんな事情、あるいは事故、事件で姿を消されたのかはわかりませんが、十日以上も行方不明というのは尋常ではありません」
「それじゃあきみは、美和が無事に戻ってきたあとで、平の娘のように家出して男と同棲してたと誤解されてもかまわないというのか」
「あなたには世間から美和さんを守ってあげる力がおありだ。違いますか」
滝沢の目が落ち着きなく動いた。経営の分野を含めたあらゆる種類の判断力の欠如を物語っているような目だ、とわたしは思い、そんなことを考える自分が嫌になった。
「わかりました。それではこうしましょう」
わたしは助け船を出した。
「まず、すぐにでもミチルさんと会って話をします。なにか聞き出せるかもしれない。ただ絶対に聞き出せるという保証はないし、そもそもミチルさんには本当になにも思い当たるふしはないのかもしれません。とにかくその結果、美和さんの居所がわかれば、それでこちらの仕事は終わりです。わからなかったときは、ご依頼を美和さんの居所をつきとめる、という内容に変更してください」
問題を先送りしただけだったが、滝沢は一も二もなく飛びついてきた。
「いいだろう。そうしてくれ。──だが、まさか平の娘から聞き出した内容を隠して、仕事をとろうとしているわけじゃなかろうな」
「そんなことをすれば、信用問題に関わりますよ。それは調査会社にとっては死活問題ですから」
長谷川所長は穏やかに説得を続けていたが、わたしはもはやなだめ役を続ける気力を失っていた。
東京郊外の武州市にある私立セイモア学園は、明治時代に宣教師ジョン・セイモアによって作られたミッション系の女子校である。旨とするところは愛、清純、奉仕の心、その他その他。本気でそんなことを生徒にしこむつもりなら家系差別をしなくたってよさそうなものだが、数々並べ立てられた美徳のなかにも謙遜や謙譲は入っていない。
内部のまったく見えない、レンガの高い塀沿いに歩いた。武州は世田谷と同じく幹線道路から一歩入ると細く、入り組んだ道になっているので知られた土地だが、学園前の道も狭かった。車同士がのろのろとすれちがいあっている。学園内には大きな樹もたくさん植えられているようだったし、校門前にはあざやかなピンクの花を咲かせているつつじの植え込みもあったが、お世辞にも恵まれた環境とは思えない。
校門から少し離れたガードレールに腰を下ろし、ハンカチで口を押さえつつ、滝沢を脅したりすかしたりして聞き出した滝沢美和のデータを思い返してみた。母親の名は辻|亜寿美《あすみ》、滝沢とは十年前に離婚した宝飾店の経営者兼デザイナーで、現在は赤坂の高級マンションにひとりぐらしをしている。美和の居所について母親に尋ねてみたか、という質問に、滝沢は怒り狂ったあげく、「あの女の知ったことではない」と、暗にではあるが、まったく訊いていないことを認めた。これで探偵くらい誰にでもできると見得を切るのだから、恐れ入る。
おまけに、美和の部屋を見せてほしいという申し出は、即座に却下された。調査が継続されれば見せてくれるかもしれないが、その許可を得るために彼の憤懣《ふんまん》をどれほど癒してやらねばならないか考えると、頭が痛かった。
平ミチルが校門から姿を現したのは、三時五分すぎだった。あやうく見過ごすところだった。まるで坊主のようなショートヘアになっていたのだ。宮岡公平の部屋にかけてあった、薄いブルーの制服を身につけ、まっすぐ前を向いて歩いてくる。周囲の女の子たちがきゃあきゃあ笑い合っているなかで、彼女だけが別の種類の生き物に見えた。
わたしに気づくとミチルは足を止め、迷ったように目を泳がせてから顎をつき出してみせた。挨拶のつもりらしい。
「その節はどうも」
わたしは言った。ミチルは近づいてきて、わたしをにらみつけた。
「なんだよ。なんか用?」
「うん、ちょっと。訊きたいことがあるんだけど」
「金ならないよ。オヤジは払わないって言ってる。あたしはちゃんと説明したんだよ。文句があるならオヤジに言ってよ」
「その金っていうのがわたしに対する慰謝料とか報酬という意味なら、もちろんあなたのお父さんにはそんなもの払う義務ないわね」
ミチルは髪に手をやりかけ、とまどったようにその手を下ろした。
「だってあんた、あたしのこと助けてくれたじゃん」
「それがあのときのわたしの仕事だったんだし、わたしはあなたのお父さんとではなく別の調査会社と契約してる。決められた報酬はちゃんともらったわよ。ご心配なく」
「傷、痛む?」
ミチルは礼儀上しかたなく、といった調子で訊いた。滝沢喜代志が言うよりはマナーを心得ている。
「おかげさまで、大笑いしなければ大丈夫な程度には回復したわよ」
ガードレールに座ったままで話していると、背後をすり抜けていく女生徒たちの視線の集中砲火を浴びた。ミチルはいちいちにらみかえしている。わたしは尋ねた。
「少し時間もらえない? なんなら、お茶でもおごるから」
ミチルはぼんやりした目つきで黙っていたが、返事もせずに歩き出した。わたしは足を引きずりながら後を追った。
学園から歩いて八分ほど行ったところの武州郷土公園に、ミチルは入っていった。二十年ほど前に亡くなった文豪の邸宅だった場所が市に寄贈され市民公園となった、邸宅は現在郷土博物館となっている、入場料おとな百円、などと書かれた看板が門のところに掲げられている。市民公園のくせに金をとるのか、と思いながら二百円払った。もっとも、武蔵野の面影を残すうっそうとした雑木林にわき水、といった公園である。無料で開放したら、戦争ごっこをするガキどもに園内をめちゃくちゃにされてしまうだろう。
林のなかに丸太を組み合わせた小道が作られていて、息を切らせながら登っていくと四阿《あずまや》に出た。小高い場所にあって、ここだけは周囲に樹がなく、芝生の敷きつめられたなだらかな斜面を風が通り抜けていく。
自動販売機でウーロン茶を買って、腰を下ろした。芝生の向こう側では、うさぎやにわとりが柵のなかで放し飼いにされていた。小屋のそばに一匹だけ、びっくりするほど大きな白いうさぎが、狭い檻に入れられてふて腐れていた。
「なんだか変わった公園だね。よく来るの?」
ミチルは髪をかきあげるしぐさをし、気づいてその手を下ろすと顎で動物たちを示した。
「たまに。あいつら、捨てられたんだよ」
「あいつらって、うさぎとかにわとり?」
「誰かが置いてきぼりにしやがったんだ。猫とか犬とかも捨てられてるらしいよ。猫はどうにかなるけど、犬は保健所に連れてかれる。殺されるんだ」
急に運動したせいか、足が鈍く痛み始めていた。ふくらはぎやアキレス腱をゆっくりマッサージしつつ、本題に入った。
「滝沢美和って知ってるよね」
ミチルはウーロン茶の缶越しにわたしをじろりと見上げた。
「あんた、滝沢のクソオヤジに言われてきたんだ。そうなんだ」
「その通り」
ミチルは下唇を引っ張った。
「親切なうちの美和ちゃんがお情けで面倒見てやったのに、なにも知らないとぬかしてるバカ娘からなんか聞き出してこい、って命令されたんだろ」
わたしは噴き出した。
「まあ、そういうことだわね」
「やってらんないよ、まったく。あれほど知らないって言ったのに、嘘ついてるとか決めつけやがってさ。あんたもそれを信じたわけ? あのクソオヤジの言うこと」
「ああ居丈高になられたんじゃ、誰だって素直に喋らないだろうからね」
「あたし、ホントになにも知らないよ」
ミチルは小声になった。わたしは肩をすくめた。
「美和さんとはどういうつきあい?」
「聞くことないだろ、あの……」
「クソオヤジがどう思ってるかは知ってる。それは置いといて、本当のところはどう?」
ミチルはしばらく考えた。手がまた髪をかきあげるしぐさをした。
「美和とは話くらいはするし、一緒に帰ったこともあるし、親同士が友達だから家で会ったりもする。学校で、だけじゃなくて。けど、なんてのかな、おたがい煙たいっていうか……」
「親が親しかったから?」
ミチルは勢いこんでうなずいた。
「そう。そうなんだよね。あいつ、オヤジにべったりじゃん。うかつになんか喋ったら、たちまちあのオヤジ経由でうちの親の耳にまで入りそうでさ。あたりさわりないことっきゃ喋んないようにしてた。おまけにあのコ成績抜群で、すぐうちの親が引きあいに出すタイプだし」
「美和さんのほうも、あたりさわりなかったわけ?」
「うーん。美和がなに考えてるかなんて、あたしは知らない。あっちもフツーの世間話しかしなかったし」
「世間話ねえ。オトコの話は出た?」
「したことないな、そういえば。だけど、十七にもなって、いちいちオトコができたのどうのって騒がないよ。よっぽど頭に血がのぼってりゃ別だけど」
おっと。わたしはこみ上げてきた笑いをウーロン茶でごまかした。いまのセリフをみのりに聞かせてやりたいものだ。
「なるほどね。ところで、最後に美和さんに会ったのはいつ?」
ミチルは考え込んだ。手をあげかけ、また下ろした。苛立たしげにその手を振り回した。
「よく覚えてないな。だからたぶん、ゴールデンウイークの四連休あったでしょ、あの前に学校で会ったのが最後だと思う」
「クラスは一緒なんだ」
「ううん、うちのガッコ、自由選択制なんだよ。基礎科目は必修だけど、あとは好きに選べんの。美和とはデザイン美術やパソコン基礎なんかで一緒で──そうだ、だからやっぱり四連休の前の日だったよ。あの日って水曜日だよね。午後、古典のクラスで会ったと思う。特に話したりしたわけじゃないけど、いなかったら気づいたはずだから」
ぺらぺら喋っているようで、ミチルのガードは固かった。わたしは滝沢喜代志を呪った。最初からちゃんとした調査員が話を訊いていれば、もう少し違った結果になったはずだ。ミチルが重大な事実を隠しているとは思えなかったが、下手になにか喋れば〈クソオヤジ〉に筒抜けになる、と思い込んでいる相手から、率直な意見を引っ張り出すのは大仕事だ。
「美和さんの友達、他に誰か知らないかな。例えば、柳瀬綾子とか」
「ああ、アヤのこと。知ってるよ。でも、あのコ美和とは仲良くなかったよ。美和と大喧嘩してるとこ見たことあるし」
「それ、いつの話?」
「うーんと、春」
わたしは笑い出した。ミチルは、よく熟れたドリアンを部屋に持ち込もうとした客を発見した、ホテルマネージャーのような目つきでわたしを見た。
「あんだよ。なんかおかしい?」
「だって、春ったっていつの春なんだかわかんないじゃない」
「あ、そっか。ええと、それじゃあね──三月の終わりくらいだったと思う。今年の」
「根拠は?」
「え? ああ、どうして三月だと思うかってことね。美和は革のコート着てたから。あのコの誕生日に母親がやったんだ。黒の、シンプルなやつ。美和みたいな太めのコにはあんま似合わなかったけど」
「喧嘩の内容は?」
ミチルは答える前に、たいして残っていないはずのウーロン茶を飲むふりをした。
「よく覚えてない。あたし、たまたま用事があってジョージに出たんだよ。したら井の頭公園でふたりが喧嘩してるとこ、偶然見ちゃったんだ。でも、あんま気にしなかった。美和ってときどき、すっごくオヤジくさい説教こいたりするんだよ。そういうのってすごく気にさわることあるじゃんか。アヤも嫌気がさしたんじゃないの?」
「それじゃあ、それ以来口もきかない仲だった、とか」
「そうでもないと思うけど。あたしは別に、美和やアヤにくっついて歩いてるわけじゃないんだからさ」
らちが明かない、とはまさにこういう状況にぴったりの言葉だ、と思い、方向を変えてみることにした。
「ところで、あなたがた三人って、いったいどういう知り合い?」
「アヤと美和は──」
言いさして、ミチルは黙り、しばらくたってから続けた。
「誰か、共通の知り合いがいたみたい。あたしは美和からアヤを紹介されただけ」
「共通の知り合いって?」
ミチルはウーロン茶の缶を缶入れに放り込むと、芝生を駆け下っていった。わたしも後を追ったが、さすがに駆け下りることはできなかった。
ミチルは柵にもたれかかって、うさぎたちを眺めていた。公務員を退職後公園管理の仕事についた、とおぼしき年配の男が野菜くずを箱に入れてやり、少し取り分けて檻のなかのうさぎの鼻先につき出した。うさぎはおっくうそうに臭いをかぎ、ぶすっとしてキャベツの芯をかじった。
「おじさん、ねえ、そのうさぎ、どうして檻に入れてるの」
ミチルが大きな声で男に尋ねた。男はまじめくさって答えた。
「ああ、こいつはね、悪いうさぎなんだよ」
わたしとミチルは新たな興味でふて腐れたうさぎを眺めた。言われてみれば、なるほどいかにもワルそうな顔をしている。きっと、牝うさぎを端から襲っては、ぼこぼこと子を生ませているのだろう。
「どんな悪いことしたのさ」
「足が悪いんだよ」
わたしとミチルは脱力し、沈黙した。おそらく日に何十回も同じ冗談を言っているのだろうが、おじさんはひとりで大笑いをしている。幸せそうでけっこうなことだ。
「ねえ」
ミチルがやがて、つっけんどんに尋ねてきた。
「あんた、どうして訊かないんだよ」
「なにを」
「この頭。目に入らないはずないだろ」
「そりゃそうだけど。なんだか、あんまり気に入ってないみたいだから、聞かないほうがいいかと思って」
「そんなにひどい?」
「そうでもないよ。顔が小さいとベリーショートも似合うんだねえ」
「ベリーショート。これが。これはただの坊主頭だよ」
ミチルは頭を撫であげ、つけ加えた。
「自分でやったんじゃないんだ」
大きな目がいっそうひきたって、男の子みたいでかわいかったが、よけいなことを言うのはやめにした。ミチルはしばらくの間、哀しそうに頭をかきむしっていたが、やがてため息をついて話を変えた。
「美和、どうしちゃったんだと思う?」
「よくわからないわね。まだ。いまのところは」
わたしは正直に答えた。
「わたしが話を聞いたのはふたりだけ。ひとりは──父親だからしょうがないけど──偏見の塊で、娘を本気で心配しているけど、同時にだちょうみたいに砂に頭をつっこんで、見たくないものは見ないようにしてる」
「もうひとりは?」
「嘘つきじゃないけど、質問をはぐらかし、あたりさわりのない話をするのがたいへん上手だね」
ミチルは一瞬、満足そうな顔をしたが、我に返ってむっとした。
「それじゃ、あたしの言ったこと信じてないってことかよ」
「そうは言ってない。ただ、なにかひっかかってることがあるんだけど、それを話すつもりはなくて、話題がそのひっかかりにふれそうになると、鉤《はり》に気づいた魚みたいに逃げてく。違う?」
「考えすぎだよ、おばさん」
ミチルは冷笑したが、目が落ち着きなく揺れ動いた。わたしは続けた。
「美和さんが父親と喧嘩でもして家を出て、誰か友達のところに転がり込んで、親を心配させて憂さ晴らししてるだけならいいと、わたしも思う。ただ、滝沢さんの話は割り引いて聞くとしても、正義感が強くて、お小遣いに不足はなく、おまけに父親とも離婚した母親ともわりとうまくつきあっていたらしい美和さんが、十日以上も音沙汰なしってのは気になる」
「どうしてさ。誰だって家出くらいするよ。知ってるくせに」
ミチルの言葉にわたしは笑ったが、真顔に戻って続けた。
「美和さんは三日の昼すぎに家を出たとき、家政婦さんに、近所の柳瀬さんの家に行くと言い残した。確認はしてないけど、いかにも近所に行くような格好だったんだろうし、となると、家出の用意をしていたとは思えない」
「そんなのわかんないよ。前もってコインロッカーに隠しとくとか、友達に預かってもらうとか、やりようはあるよ」
説得力がある。わたしは眉をあげてみせ、続けた。
「そんなことする必要はない。滝沢さんは留守だったし、滝沢家では美和さんの外泊には寛大だった。二、三日友達の家に泊まるとでも言っておけば、大きな荷物を持ち出しても誰も怪しまない」
「それじゃ、急にそんな気になったんじゃないの」
「かもしれない。それで、二度と家には帰りたくなくなったのかもしれない。帰る気があるなら、連絡くらいよこすだろうから。でも逆に、帰りたくなくても連絡はよこすと思う。美和さんはバカじゃないんだから、連絡さえ入れておけば父親は騒ぎ立てない、連絡がないからこの騒ぎになった、それくらいの先は読めると思う」
「確かに、美和は頭いいけど」
「それに、誰のところに転がり込んでいるにしても十日もたてばお金がいる。キャッシュカードから現金が引き落とされた形跡はないし、家出が突発的なものだったら、前もってそのために大金を用意する、なんてことはないわけだ」
「あんたの話聞いてると、怖くなってくるよ」
ミチルはぽつんと言った。わたしは待った。待ったが、ミチルはなにも言わなかった。押したらいったんは引くのが、話を引き出す際の鉄則である。
「携帯の番号教えとくから、なにか思い出したら連絡くれる? どんなにつまらないことでもかまわないから」
「うん。いいよ」
柵に頬杖をつき、悪いうさぎを眺めているミチルと別れた。
滝沢喜代志に電話でインタビューの模様を告げた。できるだけ言葉を選び、配慮したつもりだったが、予想通り、滝沢は怒鳴り散らした。
「それではなんの進展もないじゃないか。どいつもこいつも役立たずが」
「ミチルさんは本当に、美和さんの居所についてはなにも知らないと思います。ただ、少し気になることがあるようで、それには美和さんと柳瀬綾子さんの共通の友人が関係しているのだと思います。柳瀬さんに話を聞いてみたいのですが、連絡先を教えていただけないでしょうか」
「なに? やっぱり柳瀬の娘が美和になにかしたのか。おかしいと思った、ハワイだなんて嘘をつきおって」
「違います、共通の友人、と申し上げました」
「なんだ? それはどこのどいつだ」
「それを知るのに柳瀬さんと話したいんです。連絡先を」
「いや、いい。私が直接話を聞き出す」
あんたじゃ無理だ、邪魔だ引っ込んでろ、という言葉を、婉曲かつ丁寧に伝えるすべはないものかと考えた。
「わたしのほうが年齢も近いし、冷静に話を聞くことができます。滝沢さんが直接乗り込んでいかれては、柳瀬さんは驚いて不安になり、ミチルさんの場合と同じように口を閉ざしてしまうでしょう。お任せいただけませんか」
「馬鹿馬鹿しい。素人でもできるようなことにもったいをつけて。いいか、後は私がやる。あんたの仕事はこれで終わりだ」
「ちょっと待ってください」
耳ざわりな音をたてて電話は切れた。わたしは悪態をつきながら長谷川所長に連絡をとった。所長はうんざりしたように言った。
「放っとけ。約束通り、三十万はもらったんだ。例によって二十パーセントをピンハネさせてもらうが、残りは明日にでも葉村の口座に振り込むよ。よかったな、三週間も無収入だったのに、ここに来て半日で一ケ月分の稼ぎが出て」
「でも、所長」
「滝沢が柳瀬綾子から共通の友人を聞き出せるとは思えんし、聞き出せたとしてもその友人が実際に滝沢美和の失踪に絡んでいるとすれば、その行方をつきとめるのは容易なこっちゃない。すぐに音《ね》をあげるだろう。それまで放っておくんだ」
「美和さんにはもう、あまり時間が……」
「そんなことは葉村に言われなくたってわかってる」
所長が不意に爆発した。
「あのわからずやのバカ親父のせいで、事態がどんどん悪いほうへ転がっているのは俺だって知ってる。先週の月曜日の時点でうちに任せてくれていれば、うちじゃなくてもどこでもいい、ちゃんとした調査会社に依頼していればよかったんだがな。だが、いまさらそんなこと言ったって始まらないだろう。頭を冷やさせるよりしかたないんだ」
わたしは考え込み、ひとつの解決策を思いついた。
「滝沢美和の母親はどうですか」
「ああ、その線は俺も考えた。だが、彼女が知っているならともかく、まさか、こちらから告げ口するわけにはいかない。そうだろう?」
所長の口調は意味ありげだった。わたしは息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
「それはもちろん、そうですとも」
「よし。わかったら家に帰って内職の続きでもしてろ」
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろしたところで、めまいに襲われた。現場復帰初日にしてはものすごい仕事量だった──とはいえ、成果はゼロに等しい。もしかしたら、アクセサリー作りを本業にすべきなのかも。これなら少なくとも成果が一目でわかる。
死んだ祖母の座右の銘〈人間落ちこんだら食え〉を思い出し、ご飯を炊き、具沢山の味噌汁を作り、作りおきのコロッケを揚げているところへ相場みのりがやってきた。
「ああ、疲れた。あたしの分、ある?」
手土産のアンデスメロンをどすんとテーブルに置き、上着を脱いで放り出した。
「都庁で図書館連絡評議会の会合があったの。ものごとを停滞させたかったら会議にかぎるね。いい匂い。あたし、三個食べる」
わたしはコロッケを三個、油に投入した。
「包帯とれたんだ。いつ?」
「今日」
「それじゃあそろそろ仕事に復帰するわけだ。するつもりがあるならの話だけど」
「もう始めたよ」
「もう?」
みのりは身体を起こした。
「あきれたもんだね。刺されて手術してからまだ一ケ月もたってないんだよ」
「あらそう? 五年くらいたったかと思ってた」
キャベツを刻み、胡瓜とセロリの千切りも混ぜた。こういう仕事をしていると、コンビニのおにぎりとビタミンゼリーが主食になりがちなので、家で食べるときは食品数を少しでも稼ぎたくなるのだ。
「晶、あんたちょっと異常だよ。わかってる?」
「東京に住んでてまともなやつなんているの?」
「そうじゃなくってさ。ここんとこ、なにかに取《と》り憑《つ》かれてるみたいだよ。探偵の仕事、前はフリーター気分でやってたのに」
「取り憑かれてるのかもね」
わたしは首筋を撫でながら答えた。みのりは言いにくそうに続けた。
「例えばさ。こういうこと言うと気にさわるのはわかってるし、あたしがそうだから言うわけじゃないんだけど、オトコを作ろうとは考えてないわけ?」
「考えてない」
「全然? 大学生の頃はつきあってたやつだっていたでしょうが。その後だって、まるでチャンスがなかったわけじゃないし。今度さ、誰か紹介……」
「やめとけ」
「そりゃまあ、あたしだって、一年前にそういうこと言い出すやつがいたらぶん殴ってただろうけど、ここらで世界を変えてみるってのも悪くないよ。そろそろホルモンの曲がり角なんだしさ、ひとりでいるのは健康によくないよ」
わたしは天ぷら鍋から目を離し、みのりをにらみつけて言ってやった。
「ふーん、へーえ、なるほどね」
「なんだよ、なるほどって……あ。いや、別にだから、そういう意味じゃないって。あたしと牛島さんはお友達で」
「牛島さんっていうんだ」
「そう。牛島|潤太《じゆんた》さん。でも、誤解のないように言っておくけど、七、八回ほど食事をしただけだし、相談相手っていうか、愚痴を聞いてもらってるっていうか、まあ、その、少し進展があったといえばあったんだけど……」
みのりは十一時半すぎまで三時間以上ものろけたあげく、ようやく帰っていった。全身が重く、目を開けていられないほど疲れていた。風呂に入って足の裏を思う存分こすりたて、ベッドに入った。枕に頭を載せた途端に意識を失いかけたが、その瞬間、電話がかかってきた。電話の主は呼びかけに応じず、悪戯だと思って切りかけたとき、声がした。
「あの、葉村さん?」
平ミチルだった。わたしはあくびを噛み殺し、そうだと答えた。ミチルは小声で早口に言った。
「来てもらえませんか、その、話の続きをしてもかまわないかも」
めざまし時計を持ちあげた。馬もネズミに戻って寝ている時刻だ。
「いまどこ?」
「ケーサツ」
「……はい?」
「だから警察。の、トイレ。おなか壊してるって嘘ついて、こっそりかけてんの」
いま行きます、と怒鳴る声がして、けたたましい水音がした。
「なんで警察にいるの」
「連れてこられた。急いで来てよ。ヒマないんだからさ」
ミチルはいつもの調子を取り戻しつつあった。わたしは氷山と衝突した老朽船みたいな気分だった。怪我をした右足はもちろん、かばっていた左の太腿がひどくだるい。航海を続けるくらいなら沈没したほうがましだ。
「どこの警察?」
「井の頭公園の近く」
電話は切れた。頭のなかで、ミチルに思いつくかぎりひどい言葉を投げつけてやって、立ち上がった。
けたたましくサイレンを鳴らすパトカー数台とすれ違いながら、タクシーは武蔵東警察署に到着した。イヤリング五十個分に相当しそうな金額だった。この世は不条理に満ちている。誰かに不条理のお裾分けをしてやりたいもんだと思いながらドアを通ると、格好の餌食が正面階段を駆け下りてきた。
「柴田くん」
柴田|要《かなめ》巡査部長はわたしの顔を見るなり、回れ右をしかけた。わたしは声をかぎりに呼びたてた。
「おーい、柴田くん。奥様はお元気?」
「やかましい」
柴田は大股にこちらに近づいてくると、二の腕をがちっとつかんで物陰に連れていった。彼は昔、ある調査の過程でわたしと知り合い、その後、妻の素行調査を頼んできた。結婚八年目になる妻にべた惚れで、自分が探偵を雇って尾行させたと妻に知られないためにはあらゆる努力を惜しまない。
「なにしに来た、葉村」
柴田はひどい見幕だった。わたしは肩をすくめた。
「探偵なんかしてると、たまには仲のいい夫婦が見たくなるんだよね」
「冗談じゃないぜ。刺されて死にぞこなったくせに、まだやめてないのか」
「他にとりえがないからね。あのさ」
「話すことはなにもない」
柴田は胸を張った。わたしはため息をついた。
「そう。ならいいわ。──あ、そうだ、この間は入院見舞いをありがとう。奥様にぜひ直接お礼を言って、快気祝いをお返ししたいと思ってるんだわ」
「お、おまえはいったい何度、警察官を脅迫したら気がすむんだ」
「あら失礼ね。わたしがいつそんな真似を? 奥さんの浮気調査だって無料で引き受けてあげたじゃない」
柴田は深々と息を吐き、ちらっと周囲を見回した。
「悪いが、探偵とじゃれてるヒマはないんだよ」
「なにかあった?」
タクシーの運転手が、今日はパトカーが多いな、と呟いていたのを思い出した。
「殺し。被害者は近くに住む女子高校生。詳しくは明日の新聞を読めよ。忙しいんだ、またな」
わたしは下唇をこすりつつ、柴田の背中に言った。
「柳瀬綾子」
柴田は飛び上がって戻ってきた。
「葉村、おまえどうしてそれを」
「え? どうかした?」
「いま柳瀬綾子と言っただろう」
「そうだったかしら」
「そうだったかしら、じゃねえよ。おまえどうしてこの件に絡んでるんだ」
「ノーコメント。ねえ、明日の新聞に載る程度のことを、いま聞かせてもらうわけにはいかない?」
「見返りは?」
「公務員がヤクザに見返り求めてどうすんのよ。でも、そうね。手間をひとつはぶいてあげられるかもよ」
柴田は天を仰ぎ、探偵と呼ばれる悪魔についてひとしきり私見を述べ立てた後、早口になった。
「ここだけの話だぞ。──死体は十一時半頃、井の頭公園の弁天池の近くで公園の夜間警備員に発見された。死後一時間以上、死因は扼殺《やくさつ》」
わたしは安堵と不安を同時に覚えた。どんなに気が強くても、平ミチルが自分の手で柳瀬綾子をくびり殺すのは無理だろう。だが興奮しきっている美和の父親には可能だ。
「警備員の話じゃ、三十分前に見回ったときには死体はなかったそうだ。どこかで殺して運んできて、放り出していったんだな。バッグは持っていなかったが、首から東南アジアの民芸品みたいな手作りの小さなお守り袋みたいなものを下げてて、そのなかに小銭入れと学生証が入ってた。それで身元が知れた。柳瀬綾子、都立新国高校三年、住所は井の頭公園から歩いて十五分くらいのところに住んでいる。三人兄妹の末っ子で、両親に連絡をしたが、彼らは娘が出かけていることすら知らずに寝ていた」
「犯人は顔見知りだと思う?」
「性犯罪を臭わす形跡はなかったようだが、なにしろ扼殺だからな」
柴田は顔をしかめた。扼殺そのものが性的な臭いのある殺害方法だ。ある種の男は女性の首を自分の手で締め、殺すことで性的満足を得る。
「だが、親も知らない間に娘が夜外出していたっていうんだから、通りがかりの犯行とも断定できない。新聞記事は以上だな。で、いったいなにをしてくれるっていうんだ」
「とってもかわいい女の子がここにいるでしょ。髪が短くて、頑固で、喧嘩腰のが」
柴田は大きくため息をつき、わたしを二階へ連れて行った。広々とした捜査課の室内には、寝不足気味の捜査員たちが十人近くうろうろしている。部屋の隅に、わたしは平ミチルを認めた。むこうも同時にわたしを見つけ、飼い主を見つけた子犬のように駆け寄ってきて、わめき始めた。
「葉村さん、こいつらひどいんだよ」
ミチルを取り囲んでいた刑事ふたりと婦人警官が、うんざりしたようにこちらを見ている。
「パトカーが見ろって言わんばかりにランプまわしてっから、近寄って行ってのぞいただけで、こんなとこまで引っ張ってきてさ。あたし、なんにもしてないよ。なのに帰そうとしないんだ」
「あんた、この子の知り合いですか」
刑事が白髪まじりの髪を手ですきあげながら速見《はやみ》と名乗り、わたしに訊いた。
「別に勾留してるわけじゃないんですがね、名前も住所も言わないし、話しかけたら逃げようとするし。こっちも困ってるんですよ」
「だから、なんであたしを連れてきたのか理由を教えろって言ったでしょ。理由さえわかればいつでも名乗ってやるよ」
「ちょっと彼女とふたりで話してもよろしいでしょうか」
わたしは丁寧に尋ねた。刑事は渋い顔をした。
「あんた誰?」
「彼女のご両親の代理です」
「両親の代理? こっちはその両親に連絡しようと思って話を訊いてたんだ」
「彼女が自分で電話するとは言いませんでした?」
「言ったよ、あたし。だけど電話させてくれないんだ」
ミチルが再びわめき、わたしはせいぜいにこやかに言った。
「怒鳴ることないわよ。どうやらあなたはここに来ることを承知したわけでも納得したわけでもなかったようだから、怒りたくなるのも無理はないけど」
ミチルはぴたっと口を閉じ、傷ついたようにわたしを見上げた。仏頂面で口を開きかけた刑事の機先を制してわたしは言った。
「ご心配なく。この子には事実をちゃんと話させます。そうすればおたがい手間がはぶけるし、よけいな問題も起こらない」
「この部屋からは出さんぞ」
速見刑事は顎をしゃくった。わたしは誰もいない部屋の中央にミチルを連れていった。刑事たちから十分離れるやいなや、ミチルは噛みついてきた。
「葉村さんなら、黙ってあたしをここから連れ出してくれると思ったのに。これ以上、学校に警察沙汰がバレたら、ホントに退学になっちゃうよ。そしたら責任とってくれんのかよ」
わたしは机に座り、腕組みをして彼女をにらんだ。
「あいにく、わたしはあんたの守護天使じゃないのよ。呼べばわたしが飛んできて、今度は刑事のキンタマ蹴っ飛ばしてくれるとでも思ってたの? 事実を直視しなさい。あんたが黙ってたって警察はあんたの身元をつきとめる。遅くとも、今日の正午までにはね。それから学校に連絡が行くことになったら、事態はいっそう深刻でしょうが」
「そんなことできるわけないよ」
「それじゃ、好きなだけ砂のなかに頭を埋めてんのね。滝沢美和の父親と同じように」
ミチルはショックを受けたようだった。
「あんなのと一緒にすんなよ」
わたしは黙っていた。ミチルはいらいらしたように腕を振り回していたが、ややあって、小声で言った。
「アヤ死んじゃった。井の頭公園で殺されたって。おまわりがそう話してた」
「どうやらそうらしいわね」
「どうしてだよ。誰もなにも教えてくれないんだ」
ミチルは下唇をかみしめ、やがてわっと泣き出した。絞り出すような声で、こんなことに巻き込まれた自分を憐れんでいるわけでも、死を思って感傷的になっているわけでもなさそうだった。意外だった。ミチルと柳瀬綾子がそれほど親しいとは思っていなかったのだ。
しばらくすると、ミチルは盛大に鼻をすすり、ティッシュを受け取って涙を拭いた。
「バカみたい。いいよ。あたし話すよ」
わたしは速見刑事を手まねいた。あちらはわたしを追い払いたいようだったが、いなくなった途端ミチルにまた貝になられてはたまらないと思ったのだろう。わたしは傍聴を暗に認められた格好だった。
いったん喋り出すと、ミチルはきちんと筋道をたてた。名前、住所、生年月日、学校、両親の名前に勤め先を説明し、やがてどうしてあの時間あの場所にいたか、という質問にたどり着いた。
「柳瀬綾子さんと約束があったから」
刑事たちがぴくっと反応した。
「彼女とはどういう知り合いなんだね」
「友達」
「学校の?」
「ううん、学校の友達の友達で、いまはあたしの友達」
「どうしてあんな時間に、あんな場所で会うことにしたんだね」
「約束したのは十時半だったよ。吉祥寺の丸井の前で会おうって」
「十時半だって遅い時間じゃないか」
「宵の口だよ。アヤとはよく夜遊びしてた。アヤの親うるさくて、九時すぎて親が寝てからじゃないと出かけらんないから」
「それじゃ、九時半くらいに待ち合わせてもいいはずだ」
「あたしもそう言ったんだけど、先約があるって」
「先約? 誰だか言った?」
「言わなかった。けど、あんま会いたい相手じゃなかったみたい」
「どうしてわかる」
「できるだけ早くそっちに行くって言ってたから」
「ふん」
速見刑事は考え込んだ。わたしも心のなかで言った。ふん。
「その相手について、もう少し覚えていることはないか」
「別に。興味なかったから聞かなかったし」
「そうか。で?」
「で、って?」
「きみは丸井に何時に着いたんだ?」
「十時半すぎ。もう少し早く着くはずだったんだけど、明大前で事故があったとかで、電車が少し止まっちゃったから」
「それで?」
「もう来てるかと思ってたんだけど、アヤいないし、携帯も切れてるし。一時間待ったところでうんざりしちゃって帰ろうかと思った。そしたらパトカーのサイレンが聞こえてきて、急に心配っていうか、それで見に行った」
「どうして心配になったんだ?」
「どうしてって言われても」
「柳瀬さんは時間に几帳面なほうだったのかな」
「全然」
「約束をすっぽかすことは?」
「しょっちゅう」
「それじゃあ心配することもないだろう」
「でも、携帯の電源切れてるってめったにないよ。あのコ、自分でも携帯中毒だって言ってたし。一時間くらいメールも電話もないと、めちゃ不安になるって」
「なるほどね。──ところで、どうして今夜会う約束をしたのかな」
わたしは緊張した。ミチルはしゃらっと答えた。
「たまには遊ぼうって。ここんとこ、いろいろあってストレス溜まってたから、発散しようと思っただけ」
「ストレスねえ」
刑事は小娘の分際で、とでも言いたげな顔をした。ミチルは敏感に反応したが、わたしの顔を見て押し黙った。
「柳瀬さんが殺される理由に、なにか思い当たることは?」
「やっぱ、アヤ殺されたんだ」
「やっぱりということは心当たりがあるんだね」
「殺されたんでなきゃ、通りがかりのあたしを引きずってきたりしないだろ。ねえ、こっちは質問に答えたんだから、そっちも話してよ。アヤになにがあったんだよ」
「柳瀬さんに親しいボーイフレンドはいなかったかね」
刑事はびくともしなかった。ミチルはものすごい顔で唇を引き結び、てこでも答えまいとした。わたしはそっぽを向いてひとり言を並べた。
「柳瀬綾子はおそらく男に締め殺された。そいつは井の頭公園に彼女を運び、粗大ゴミみたいに捨ててった」
「おい、あんた」
「刑事さんの質問に答えて。彼女に親しいボーイフレンドはいた?」
ミチルは首を振った。
「いたけど冬頃別れちゃった。むこうが二股かけてたんだって。以来、ちょっとアヤおかしかった。やけになって遊んでたみたい」
「その遊び友達との間に、トラブルがあったとかいうことは聞いてないかね」
速見刑事は主導権を取り返した。
「聞いてない」
「どういう相手とつきあってたかは?」
「遊び相手の話なんか、よっぽど面白くなきゃしないよ。ストーカーされたなんてことがあればしたかもしんないけど、そういうことは全然」
「彼女とはいつも、どこで遊んでたんだ?」
「五日市街道沿いの〈オレンジ・キャッツ〉って店」
「ああ、卓球台とか玉突き台とか置いてあるとこか」
「そ。真夜中に明るく楽しくテーブルスポーツしてストレス発散してんだよ、あたしたち」
刑事の渋面がひどくなった。賭けや未成年者の飲酒について説教したかったのだろうが、からくもそれを飲みこんで、続けた。
「柳瀬さんの遊び相手はそこで?」
「アヤが失恋してすぐくらいに、一度〈オレンジ・キャッツ〉で会ったんだけどさ。なんかオトコの誘いにものすごくべたべた応じてたんだ。見てらんなくて、途中で帰った。それから三ケ月くらい〈オレンジ・キャッツ〉にもアヤにもご無沙汰で、だから詳しいことはあたしにはわかんない」
「それじゃあ、今日の約束はどっちから?」
「だから、あたしから」
「どうして急に?」
「ストレス溜まったからって、さっき言ったじゃんよ」
「待ち合わせ場所は?」
刑事の質問は輪廻のように死んでは生まれ、同じところをくるくる回った。わたしは何度も気絶しそうになった。ようやく解放されたときには午前五時をまわっていた。
警察署の前で客待ちをしていたタクシーに乗り込み、成城の自宅までミチルを送っていくことにした。
「ひとりで帰れるよ。それとも、葉村さんちに泊まっていってもいいよ」
「あなたのお父さんに会って事情を説明しておきたい。遅かれ早かれ警察から連絡がいくでしょう。娘が殺人事件に関わった、なんて寝耳に水で知らされたんじゃご両親がお気の毒よ」
「関わってねーよ」
「関わったことになるんです。事情を知らなければね。ところで」
わたしは疲労にぼやける頭を、なんとか集中させようとした。
「今日、美和さんのことで柳瀬さんと会う約束をしたんでしょう」
ミチルは突然、寝たふりをした。
「さっき警察で美和さんの話をしなかったのはどうして」
「されたら困ったくせに」
ミチルは薄目を開けて言った。そんな場合ではなかったが、わたしは笑いを止められなかった。
家に着くまで、それきりどちらも口を開かなかった。
早朝の成城は静かだった。昔からの住人らしき年配の女性が、道を丁寧に掃き清めていた。しゅっ、しゅっ、というほうきの音がタクシーの中まで聞こえてきた。
平義光の家は滝沢喜代志の豪邸ほど大きくもなく、悪趣味でもなかったが、金の匂いをふんだんにまき散らしていた。地中海風の真っ白な壁が薄い朝日に照り映え、TAIRAという金属製の表札がまばゆく光っている。
またしてもアクセサリー数十個分の金額を運転手に渡し、ミチルの後について門をくぐり、玄関までの階段を登った。ソテツが玄関脇に絶妙のカーブを描いてそそり立ち、階段にはちりひとつない。
鍵を開けて中に入った。正面に巨大な水槽があって、アロワナが数匹泳いでいる。
「いま、パパを呼んでくる」
ミチルは家にあがれとは言わなかった。わたしも入りたくなかった。理由はわからない。疲れすぎていたせいかもしれない。
奥歯をかみしめつつ待つこと十分、パジャマの上にナイトガウンをはおった初老の男が現れた。眠っているところを起こされたせいか、不機嫌きわまりない様子だった。
「ミチルに聞いたが、世話になったそうだな。これをとっといてくれ」
平義光は大きな札入から数枚の万札を取り出して、無造作に突きつけてよこした。
一日の締めくくりとしては最高の部類に入るだろう。わたしは指を伸ばし、万札の束から一枚だけ引き抜いた。
「真夜中にお嬢さんに呼ばれて武蔵東警察署に行きました。うちから警察署、警察署からここまでのタクシー代はこれでたります。これは領収書です。それじゃ」
ポケットからタクシーのレシート二枚を取り出して、平義光の足元に落とし、回れ右をした。
「待ってくれ。警察署? なんのことだ。あんたは変態にレイプされかけたミチルを助けてくれたとかいう、女探偵じゃなかったのか」
「その女探偵ですよ」
「それがどうして──また警察が出てくるんだ」
振り返った。平義光は困惑していた。わたしは手短に説明した。
「滝沢喜代志さんに雇われて、ミチルさんから滝沢さんの娘さんの情報を聞き出すように頼まれたのです。それで昨日、ミチルさんとお会いしました。ミチルさんは滝沢さんの娘さんが気がかりになったようで、共通の友人である柳瀬綾子さんと吉祥寺で会う約束をした。ところがその柳瀬さんが殺害されたんです」
「なんだそれは。殺害? いったい全体どうなってるんだ」
それはわたしも知りたかった。ミチルがミネラルウォーターのペットボトルを傾けながら、ぶらっと奥から現れた。見ている間に、自分がどれほど渇いているか気がついた。どうやら金持ちと名のつく人種は、絶対に探偵には水分を与えようとはしないらしい。
「ミチルさんは友人の事件解決に協力するべく、さきほどまで警察に情報を提供していたんです。わたしはご両親の代理ということでミチルさんに付き添いました。ミチルさんが警察に犯人と疑われているわけではないんですが……」
「犯人? 今度は殺人事件の犯人だと?」
平義光は茫然としてわたしとミチルを交互に見た。玄関扉の上の採光窓から漏れる朝日が平をまともに照らし出していた。白茶けたガウン姿の平は、胃の摘出手術を受けたばかりのように見えた。
「違います。犯人ではありません。柳瀬さんを殺したのはおそらく男性で、警察もその点は疑っていないはずです。男性なみの腕力の女性がいないともかぎりませんが、ミチルさんが疑われることはまずないでしょう」
「どうしてそんなことがわかる」
「柳瀬さんは扼殺でした」
「扼殺……」
平義光の顔からさっと血の気が引いた。身体が凍りついた。光のなかに浮き沈みしていた埃までもが、瞬間、ガラスのなかの気泡のように動きを止めたかに見えた。
後ろにいたミチルはこの驚愕ぶりに気づかなかったらしい。ペットボトルから顔を上げて、こちらに問いかけてきた。
「扼殺ってなんだよ」
「手で絞め殺すことよ。ひもやなにかを使うのではなくて」
わたしの言葉が終わるか終わらないかのうちに、奥のほうからなにか不思議な物音が響いてきた。金属がこすれあうような音だった。平ははっと振り返り、スリッパのまま三和土《たたき》に下りてきて、わたしの腕をつかみ、もう一方の手で玄関のドアを開けた。
「ミチルのために尽力いただいて、感謝する。だが、今日のところはお引き取りいただきたい。後でまた連絡させてもらう」
押し出されるようにして外へ出た。平の背後に、歪んだ笑顔のミチルが見えたが、それも扉で断ち切られた。
門の前にはタクシーが待っていた。さっき乗ってきたタクシーだった。
「お話しの様子では、あの娘さんを送ってまたすぐお戻りのようだったんで待たしてもらいました」
運転手は気がきくだろうと言わんばかりに革手袋をはめた手を振ってみせたが、礼を言うような状態はとうに通り越していた。新宿の中井とだけ告げて、目を閉じた。眠り込むかと思ったが、眠れなかった。
車が環状六号線に出たとき、初めて気がついた。金属がこすれあう音ではない、あれはひとの声だった。
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前 半 戦
十一時すぎに電話がけたたましく鳴って、目が覚めた。うめき声とも応対ともつかぬ声をあげると、長谷川所長があきれたように言った。
「葉村も貧乏性だな。なにも仕事再開初日の真夜中、警察まで出向かなくたってよさそうなもんだ」
わたしは身を起こし、ついでにめまいを起こして生返事をした。
「もうお耳に入りましたか」
「武蔵東署の速見|治松《おさまつ》って刑事と会っただろう」
「……お粗末?」
「治松。本人に言うなよ、気にしてんだから。ゆうべ、というか今朝だな、平ミチルに事情聴取した刑事だよ。葉村がうちと契約してるって聞きつけて、電話をかけてきた」
「ご迷惑おかけします」
「滝沢喜代志のほう、どうにか警察には隠し通したようだな」
「平ミチルに口止めしたわけじゃないんですが、彼女も黙っていたもので、結果的にそうなりました。無駄だとは思いますけどね。滝沢美和の捜索願は武蔵東署に出されたんだろうし、わたしが報告した直後に、滝沢喜代志が柳瀬家にまた怒鳴りこんだとすれば、いずれはそのお粗末刑事の耳にも入るでしょうから」
「滝沢喜代志がその柳瀬綾子を殺《や》っちまったと思ってるのか、葉村は」
「だったとしても驚きませんが、どうやら柳瀬綾子は両親の目を盗んで犯人とおぼしき人物に会いに出かけてるんです。怒鳴り散らされて懲りてるだろうから、滝沢とひとりで会うとは思えません」
「希望的観測だな」
所長はのんびりと指摘した。言われるまでもない。仮に、滝沢が柳瀬綾子を殺したのだとすれば、そのきっかけを作ったのはわたしということになる。
「それはともかく、滝沢から電話があった。一時すぎに自宅へ来てほしいそうだ」
「美和の捜索依頼が正式になったということですか」
「それはまだわからんがね。押すべきところは押しといたから、期待していいだろうな」
昨日と同じように迎えに行くから、と所長は電話を切った。わたしはベッドから文字通り這い下りた。ふくらはぎはぱんぱんに張っているし、足の甲が熱っぽい。浴室に行って、熱い湯と冷たい水を交互に浴びた。足にマッサージオイルを塗り込み、ゆったりした形のパンツを選び、いちばん軽いスニーカーを履くことにした。どこで誰に会うことになるかわからないからスニーカーは避けたいところだが、歩けなくなるよりはましだ。
バッグに筋肉をクールダウンさせるスプレーとミネラルウォーターを入れ、日焼けどめ程度の化粧をし、腕時計をはめたところで所長がやってきた。昨日から気になっていたのだが、腕時計の電池が残りすくなになっているらしく、時間が遅れ気味だ。冷蔵庫からカロリーメイトを一箱ひっつかんで車に乗った。
滝沢邸で待っていたのは、滝沢喜代志だけではなかった。昨日は不在だった中年太りの家政婦に案内されて居間に入ると、背の高い、グラマーな女性がいらいらと室内を歩きまわっていた。アイシャドウの起源は魔よけと聞いたことがあるが、黒々と縁どられたこの女性の目は、魔はおろかあらゆる外敵をはねつけそうに見えた。
「辻亜寿美です。美和の母親の」
女性は滝沢の紹介を待つつもりなどまったくないようで、わたしたちにまっすぐ腕をつきだしてきた。わたしはすてきな長い爪に自分の手を突き刺さないよう、細心の注意を払ってその冷たい手を握った。ごくシンプルなシルクのベージュのドレス姿だったが、宝飾デザイナーだけあって、指にはいくつも指輪がはまっている。そのうちのひとつは、腕時計の文字盤ほどもある巨大なエメラルドだった。
「滝沢からあらましは聞いています。十日以上も美和が行方不明だというのに、あなたがたの捜索の申し出を断ったそうですね。あきれたもんだわ。このひとのことは放っておいてかまいません。美和を見つけ出してください。お金は私が払います」
「そういうわけにはいかない。彼らは私が雇ったんだし、金は私が払う」
ソファに座った滝沢は昨日よりもさらに神経質になっているようだが、「俺が俺が」としゃしゃり出る癖が治ったわけでもないようだ。顔色を変えて面子《メンツ》を守ろうとするのを、亜寿美がやっつけた。
「あなたはひっこんでらっしゃい。こんなに時間を無駄にしたのは、あなたのせいなんですからね」
「私は自分で美和を見つけられる」
滝沢はだだをこねた。亜寿美があしらった。
「あなたに任せておいたら、美和がおばあさんになっても見つかりません。素人のくせに探偵の真似事ができると思ったら大間違いよ」
「なんだと。亜寿美、おまえはいつもそうやって俺を無能者扱いするがな」
「実際、無能なんだからしかたがないじゃないの。それをわきまえて、餅は餅屋に任せておけばいいんです。美和が病気になったときも俺が治してみせると言い張って、妙な薬を山ほどのませて、あやうく美和を死なせるところだったの、忘れたわけじゃないんでしょうね」
滝沢はぶつぶつ言いながらそっぽを向いた。辻亜寿美は艶然と微笑んで、わたしたちのほうへ向き直った。
「とまあ、こんな具合にこのひとのほうは私が片づけます。そちらはそちらのやり方で、美和を探してください。よろしいかしら」
「お引き受けする前に、確認しておきたいことがあるんですが」
わたしはちらっと所長を見やってから口を開いた。所長はとぼけた顔で家政婦が運んできた麦茶をすすっている。
「どうぞ。なんなりと」
「いえ、滝沢さんにおうかがいしたいんです。昨日、わたしが柳瀬綾子さんについてお尋ねした後、柳瀬さんに連絡をとりましたか」
「いいや」
滝沢はわたしをにらみつけた。
「柳瀬の家に直接出向いて、あの娘に聞き質すつもりだったんだ。だが、その支度をしているところへこいつから電話がかかってきて、それどころじゃなくなった」
「誰かから電話がありましたの」
辻亜寿美はきびきびと口をさしはさんだ。
「娘さんが大変なことになっている、嘘だと思うなら滝沢に聞いてみろ、と言われました。このひと最初、美和が行方不明になっているの、ごまかそうとしたんですよ。信じられないわ」
「信じられんのはこっちのほうだ。その電話をかけてきたやつは美和の失踪を知っている。もしかしたら、美和の居所を知っているかもしれないんだぞ。話を長引かせて、聞き出すべきだったんだ。金はいくらでも渡すと言えば、あるいは……」
「だったら美和がいなくなったこと、私に一言連絡しておいたらよかったんですよ。それにあれは脅迫電話じゃありません。作り声だったけど、不快な感じじゃなかったわ。美和の身を案じた誰かが気をきかせてくれたのよ」
「誰がそんなでしゃばった真似を……社員には手当てをたっぷりと渡して、口止めしておいたのに」
わたしは所長を見るまいと必死になった。見た途端に噴き出してしまいそうだ。
「それでは、昨日は柳瀬さんとは会わずじまいだったわけですね?」
「ああ」
「電話やメールで連絡をとったということは?」
「それどころじゃなかった。こいつがやってきて、ぎゃんぎゃん騒ぎ立ててたんだからな。──ああ、もういい。あんたが直接、柳瀬の娘と話せばいいだろう」
滝沢は責任の預けどころに困っていたのだ、と思った。長谷川探偵調査所や得体の知れない女探偵に責任を預けるのが不安で、自分でやると言い張った。元の妻がその責任を引き取ってくれることになり、心の底では安堵している。
その安堵を叩き潰さねばならない。わたしは深く息を吸った。
「柳瀬綾子さんは昨夜、亡くなりました」
滝沢は口を開けた。辻亜寿美が鋭く言った。
「どういうこと?」
「殺されたんです。死体が井の頭公園で見つかりました。朝刊に載っています」
亜寿美は飛び上がって部屋を出ていった。家政婦に朝刊のありかを尋ねる大声が聞こえてくる。滝沢は目を激しく動かして、わたしと所長を半々に見ながら言った。
「だって、あれは美和とおない年なんだから、まだ十七かそこらだろう」
「そうです」
「それがなんだって殺されたんだ? 痴情のもつれか」
痴情のもつれという言葉が会話にのぼるのを、生まれて初めて聞いた。返事のしようがなかったが、滝沢は勝手にうなずいた。
「平の娘といい柳瀬の娘といい、どうしようもない連中だ。親はいったいなにをしている」
「あなたが言うことじゃないわよ」
新聞を読みながら戻ってきた亜寿美は滝沢をぴしゃりとたしなめたが、ただの条件反射だったとみえて、蒼ざめた顔をそのままわたしに向けた。
「これが美和がいなくなったこととなにか関係がある、と言うんじゃないでしょうね」
「まだわかりません。偶然かもしれません」
わたしは平ミチルの話をした。
「ミチルさんの前に綾子さんが会う約束をしていたあまり気の進まない相手というのが、もしかしたら滝沢さんではないかと思ったのですが」
「冗談じゃない」
滝沢は飛び上がった。
「あんた、この私が小娘を殺したとでも言いたいのか。失礼にもほどがある。首だ。他の探偵を雇う」
「雇っているのは私で、私は首にするつもりはありません。彼女の言っていることはきわめてまともよ。私だって、そういう状況ならあなたを疑うわ」
「この私が人殺しに見えるのか、え?」
この元夫婦漫才を拝聴するのは楽しそうだったが、やむなく割って入った。こういうときは依頼人のご機嫌をとらずにすむ、小説のなかの探偵たちが羨ましくなる。
「お気にさわったのならお詫びします。ただ、滝沢さんは娘さんを本当に大切に思っておられるようですので、美和さんのためなら究極の手段に出られることもありうるかと思いました」
「うん……まあ、確かに美和のためとあれば、たいていのことはするが」
滝沢はあっという間に軟化した。辻亜寿美がおみごとと言わんばかりに、わたしに向かって眉をあげてみせた。
「警察は滝沢さんが柳瀬さんと連絡をとりたがっていたことを知りません。平ミチルさんが柳瀬さんに会おうとしていたのは、おそらく美和さんの行方について相談したかったためだと思いますが、そのことも警察は知りません。柳瀬さんの事件と美和さんの行方不明がつながっているかどうか、まだ皆目わかりませんが、つながりがあると納得すれば、警察は本腰を入れて美和さんを捜し始めるでしょう。ただの家出人ではなく、事件の関係者として」
「要するにあなたは、これが警察を利用できるいいチャンスだと言いたいわけ?」
辻亜寿美はずばりと訊いた。わたしはひるみながらもうなずいた。
「そう言ってしまうと語弊がありますが、まあ、そういうことです。どう考えても警察のほうが、わたしたちより広範囲の捜査ができます」
「なるほどね。わかったわ。あとで滝沢を警察に行かせます」
滝沢は慌てたように身を起こした。
「おい、待ってくれ。それでは美和が行方不明になっていることが世間に知れてしまう。学校に事情がばれたら、せっかく決まった美和のセイモア学園大学部の進学だってどうなることか」
「そんなものはどうにでもなります。なんのために日頃、俺は金持ちだ、世間のやつらとは違うんだ、とふんぞり返っているんです。いざとなったら校舎のひとつも寄付してやればいいのよ。それより、美和の安全が第一です。すでに女の子が殺されてるのよ、いい娘だったのに」
「柳瀬綾子をご存知だったんですか」
「あれは二月の終わり頃だったわね、美和がうちに連れてきたの。一週間遅れであの子の誕生日祝いをしたのよ。ミチルさんと柳瀬さんが来てくれたわ」
「俺は聞いてないぞ」
「美和は友達が少ないのよ。せっかくお友達ができても、育ちが悪いとか下々《しもじも》だとかひどいこと言う父親がいて追い払ってしまうの。でも、あのふたりはちゃんとした娘さんたちだったわよ」
「挨拶もろくにできず、男と同棲するようなバカ娘たちだぞ」
「これでもあなたより人を見る目があるのよ。あなたのことも信頼するわ、葉村さん」
辻亜寿美はわたしを真正面から見据えた。
「警察も動かしますけど、あなたにも働いてもらいます。お話の様子じゃ、あなたのほうが警察より少し先をいっているみたいですからね。美和を──助けてやってちょうだい」
切れのよかった辻亜寿美の口調が、初めて乱れ、湿り気を帯びた。亜寿美は唾を飲みこんで、次に喋り始めたときには、またしゃきっとした調子を取り戻していた。
「さ、言ってちょうだい。まずなにから始めるの?」
「美和さんのお部屋を拝見したいんです。家政婦さんからもお話を聞かせていただきます。それから、滝沢さんが部下の方に頼んで美和さんの行方を調べさせたそうですが、その報告書があれば見せていただきます。美和さんはパソコンをお持ちですね?」
「いや、あれは持っていない」
滝沢は言下に否定した。
「私が買ってやらなかったのだ。インターネット犯罪には詳しいんでね」
「馬鹿馬鹿しい」
辻亜寿美が鼻を鳴らした。わたしもまったく同感だった。
「他には?」
「辻さんにもお話をうかがいたいんですが」
「七時に自宅のほうへ来てちょうだい。ゆっくり話せるから。それと?」
「学校側に話を聞くことになるかもしれませんので、連絡をしていただくか、もしくは委任状のようなものを一筆お書きいただけると助かります。後は、調べていく過程で必要があれば、そのつど申し上げます。わたしひとりで手が回らないところは、長谷川探偵調査所がバックアップしてくれますので、細かい契約については所長とお話しいただけますか」
「わかりました。美和の部屋は二階の右の一番奥です」
辻亜寿美は注意を所長に向けた。戦闘開始の合図というわけだ。わたしは立ち上がって部屋を出た。
ドアを開けると同時に、グレーのスカートが反対側の壁の後ろにさっと消えるのが目に入った。おなかまわりにみっちりと肉のついた家政婦だったが、動作は素早い。追いかけていき、立ち聞きを盾に脅してあれこれ聞き出そうかと思ったが、やめにした。ここにどのくらい長くいるのかは知らないが、あの滝沢の下で働いているのだ、下手な脅しなど効きそうもない。
美和の部屋は三十畳以上の広さのある、天井の高い部屋だった。南と西に広々とした窓があって、窓からは樹々が生い茂っているさまが見てとれる。床はフローリングだったが本物の栗材で、ロマンチックな天蓋付のベッドが中央にあった。
花柄のカーテンが天井近くから床に重く垂れ下がっていた。それと調和しているが、およそ勉強するためとは思えない、フランスのものらしいアンティークのみごとな机。なるほどパソコンがこんなに似合わない机もないだろう。小さな本棚がひとつ、チェストがひとつ、部屋の隅には応接セット。どれもが机とおそろいのアンティーク。
ヨーロッパの一流ホテルをイメージして作った部屋だとすれば、大成功している。たまに泊まるとか、雑誌の写真で見て憧れるのなら、すばらしい部屋だ。わたしは滝沢美和の匂いの残ったものはないかとあたりを見回した。
本棚には教科書と参考書が並んでいた。下のほうに児童書が数冊。ぴかぴかの児童書だ。手に取って開いてみると、発行日は一昨年だった。辞書もあったが、これも使いこまれているとはいいがたい。雑誌なし、娯楽本なし、マンガもなし。十枚ほどCDがあったがどれもいわゆるリラクゼーションCDだ。
机を捜してみた。一番上の抽斗《ひきだし》には文房具がきちんと分別されて入っている。二番目は書類だったが、古い通信簿や学校からの連絡帳といったものばかり。滝沢が自慢するだけあって、成績も品行もオールA、教師の寸評は「正義感の強い、優しいお子さんです」となっている。もっとも父親があれだ、教師といえども滝沢の気にさわるようなコメントなど書けるはずもない。
一番下の抽斗には、手紙やはがきが詰まっていた。これもまた、古いものばかりだ。祖父母からと思われるもの、父親からのもの、教師や学校の友人からの年賀状や暑中見舞い。
平ミチルや柳瀬綾子、それどころか辻亜寿美からのものも一通もない。
平たい抽斗は便箋やはがきなどの郵便関係入れになっていた。キャラクターものといったおちゃらけた便箋はひとつもない。
ため息をついて、チェストにとりかかった。一番上には、母親からもらったのか、宝石類がごろごろしている。バッグやハンカチ、ティッシュケースといった必需品がきちんと整理されている。バッグは一つ残らず調べたが、すべてからっぽだった。切符が入っているとか、使いかけのティッシュが残っているとか、アメの包み紙があるとか、そういったことはまったくない。
部屋中捜しまわった。ぬいぐるみもなかった。日記もなかった。アルバムもなかった。滝沢美和という少女の存在をしめすようなものは、なにひとつ見つからなかった。
ベッドの反対側に扉があった。そこを開けた。
広々としたウォークイン・クローゼットだった。扉を開けるなり勝手に灯りがつき、大量の洋服がどっと目に飛び込んできた。クリーニングの袋がかけられているものが大半で、室内と同じく、徹底的に清潔に保たれている。
抽斗を開けて、中を見た。ようやく年齢相応のTシャツや下着類、靴下などが出てきた。下のほうには高級そうな下着もあるにはあったが、身につけた様子はない。人間、なにがいちばん心地よいかはひとそれぞれで、十七歳にして老婆のような趣味の人間もいるだろうが、少しほっとした。Tシャツは主として中間色の、無地か縞か花柄だったが、かわいい犬のイラスト入りのものやハンドメイドらしい刺繍をあしらったものも数枚あった。
ここで初めてあたりが出た。膨大なTシャツを底までひっくり返し、やけになって抽斗の中敷きをめくったら、クレジットカードの利用控えが出てきたのだ。利用者は滝沢美和、日付は今年の一月十日、金額は三十五万少々。店は秋葉原にある大手の電器屋で、パソコン用品代となっている。
平ミチルによれば、滝沢美和は学校でパソコン基礎の科目をとっていた。彼女がパソコンを購入したというのもありうる話だ。この利用控えがこんなに丁寧に隠されていたのでなかったら、買ったが父親が送り返したものと考えて、放置したかもしれない。
すみずみまで調べたが、見つかったのはこれだけだった。あきらめて、クローゼットを出ようとしたとき、一番奥にある革のコートが目にとまった。クリーニングに出さなかったのだろう、むき出しのままだ。
だめでもともととポケットを探った。硬い紙が手にふれた。一枚の絵はがきだった。不細工な猫が爪をといでいるイラスト。差出人はカタカナで〈カナ〉とあるだけで、郵便物として使われた痕跡はない。
こないだはどーも。美和はいいって言ったけど、お金のあてができたんでご報告。アヤの紹介のバイト、すっごくワリがいーんだよ。三日で全額払えるくらい。でもヤバい話じゃないからね。んだからルスにするけど、いつものように好きに使って。じゃ。
セロテープをはがしたあとがかすかに認められた。滝沢美和はメモとしてどこかに貼ってあったこの絵はがきを、はがしてきた。おそらく、カナの部屋から。
背筋がすうっと寒くなった。わたしがなにか大きな勘違いをしているのでないかぎり、女子高校生に話のくるお金の儲かる安全なバイト、なんてものは都市伝説でしかない。
絵はがきとクレジットカードの利用控えをバッグにしまい、クローゼットを出た。ドアを閉めると同時に、クローゼットは暗闇に包まれた。
家政婦は名を加藤愛子と言った。冗談かと思ったほど似合わぬ名前だった。
「私はなにも知りませんよ。ただの雇い人ですからね」
加藤愛子は鼻をすすりながらつっけんどんに応じた。
「この家をひとりで切り盛りしてらっしゃるんですか」
わたしはあたりさわりなく尋ねた。家政婦は茶碗を拭く手をとめて、宙を見据えた。
「昔はもっとひとがいましたよ。旦那さんが毎日会社に出かけているときはね。あのとおりやかましいひとですが、なにしろお給料がいいからちょっとやそっとだったら我慢できるんです。けどほら、バブルがはじけた後、大しくじりをやらかして名誉職になってからは、ずっと家にいてうろうろしてるでしょう。ヒマだからますます口うるさくなる。四六時中、おまえは俺が買ったんだ、この役立たず、という態度でいられたら、どんなにお給料がよくたって嫌気がさしますよ。奥さんが間に立ってくれているうちはそれでもよかったけど、ついに離婚されたしね。それで次々みんなやめちゃって、いまは私ひとりなんです」
「こんな広い家じゃ、お掃除だって大変ですね」
加藤家政婦は軽蔑のまなざしでわたしを上から下までなめまわした。
「まあ、とんでもない。一週間に二回、ハウスクリーニング・サーヴィスが来るんです。庭は二週間に一度、その業者さんが来ますしね。お食事だってケイタリング・サーヴィスです。それも、そこらの程度の低いケイタリングじゃございませんわ。一流店の一流シェフが、旦那さんのご注文に応じて作るんです」
それじゃあんたはいったいなにをしてるんだ、という疑問が顔に浮かんだのだろう。家政婦は背筋を伸ばした。
「私はそういった業者をとりしきっております。この家の面倒はすべて私がみているんです」
「それでは、美和さんが家を出られた理由にも、なにか心当たりがおありなのでは?」
加藤愛子は忙しく茶碗を拭き始めた。
「ございません。美和さんは旦那さんと違って文句をおっしゃるようなタイプじゃありませんでしたからね。旦那さんをなだめられるのはお嬢さんだけでしたよ。勝手にいなくなって、私がどれほど八つ当たりされたことか」
「美和さんを最後に見たのは加藤さんのようですが、そのときの美和さんの様子は?」
「いつも通りでしたよ。あの日はお昼にドライカレーを召し上がって、その後、近所の柳瀬さんのところへ遊びに行ってくる、と言われました。もしかしたらしばらく帰らないかもしれないけど、そのときはパパに連絡しとくからって、おっしゃって」
「実際、近所に出かけるような格好でした?」
「小さな赤いリュックを背負って、スニーカーを履いて帽子をかぶっておいででした。野球の応援にでも行かれるような感じでしたね。珍しくジーンズを穿いてらっしゃったし。お尻が大きいのを気にしてるから、普段はスカートなんですよ」
加藤愛子の声には少し毒が感じられた。
「それが最後ですね」
「ええ、そうですよ」
「翌日の午前中に滝沢さんが戻ってこられたとき、美和さんの話は出ましたか」
「いいえ。旦那さんはいつもの狩猟のお仲間と福島のほうへ二泊三日でお出かけになるご予定で、そのことで頭がいっぱいだったようですから。お茶漬けを一杯召し上がって、すぐに車でお出かけになりました」
「滝沢さんは美和さんがいなくなった日とその翌日の午前中、どちらへ行かれたんでしょう」
加藤愛子は小さな目を眼鏡の奥で瞬《まばた》かせた。
「毎日出社することはございませんが、旦那さんは会長さんですから。月に一度は出社されます」
月に一度ねえ、とわたしは思った。美和がいなくなったことが発覚した月曜日、滝沢は早朝から会議に出たと言っていた。
「滝沢さんは福島にも別荘をお持ちなんでしょうね」
「ええ、もちろんですとも。福島だけではなく、神奈川県の葉崎にも別邸をお持ちですし、都内にもマンションがあります」
「美和さんがそういう別宅を使われることは?」
「勝手にお使いにはならないでしょうね。旦那さんはご自分のテリトリーを侵されるのを嫌いますから」
まるで犬だ。
「美和さんって変わった娘さんですね」
わたしは攻略法を少し変えることにした。
「さっきお部屋を見せてもらったんですけど、ぬいぐるみとか、子どもの頃に読んでいた絵本とか、そういうのは物置にでもしまってあるんですか」
「汚いものは旦那さんがいやがります。捨てたんでしょう、旦那さんが」
「滝沢さんは美和さんの部屋に、勝手に入るんですか」
「親なんだから当然でしょう。旦那さんにはいろいろと不満もありますが、美和さんをかわいがっていることだけは間違いありません。それに、束縛しているわけでもない。お小遣いは月五十万与えていたし、外泊も許していたし、男友達を作っても怒らなかったでしょうね。最近の若い女の子は、いろいろとおぞましい真似をするようですが、旦那さんが美和さんにそういう女の子になってほしくないと思っている気持ちはわかりますからね」
わたしにはさっぱりわからなかった。部屋に勝手に入って娘の持ち物を捨てるのはかまわなくて、多額の小遣いや外泊や男友達はよい、というのが。後で辻亜寿美とよく話し合ってみる必要がありそうだ。
加藤愛子はじっとわたしを見て、唇をなめた。
「さっき新聞で読みましたよ。井の頭公園で殺されてた女子高生って、美和さんのお友達でしょう?」
「そのようですね」
「柳瀬さんが殺された事件、美和さんがいなくなったことと関係があるんですか」
「さあ、そこまでは。どうしてそう思うんです?」
黙らせるつもりで言ったのだが、逆効果だった。加藤愛子はカウンターをまわって、わたしが腰を下ろしているダイニングテーブルにやってきて、よいしょ、と隣の椅子に座った。
「私ねえ、一度見たことがあるんですよ。井の頭公園で美和さんが男と会っているところ。それもずいぶん年上の男でしたよ。三十はすぎていたでしょうね。なんかヤクザっぽくて嫌な感じでした」
わたしは驚きを表さないように、つとめて冷静に訊いた。
「ふたりはどういう雰囲気だったんですか。その、男と女の関係なのか、さほど親しくないのか」
「私にはそういうこと、よくわかりません。遠くから見ただけだし。でも、そうですね。それほど親しそうには見えませんでしたよ。美和さんが男を問いつめてるみたいでした」
「いつ頃の話です?」
「あれは、まだ桜の花が残っていた時分だから、四月の初め頃かしらねえ。──いえ、どうしてこんなこと言い出したのかっていうと、つい先日も同じ男を見たんですよ」
「井の頭公園で?」
「いえ新宿で。先週の休みに妹と会って、買い物をして中村屋の一階でコーヒーを飲んだんです。あそこ、新宿通りが見えますよね。そしたら目の前を柳瀬さんがきょろきょろしながら通り過ぎていったんです。それからしばらくして、男が携帯電話でなにか話しながら歩いてきて、そしたらまた柳瀬さんが、今度はその男のほうを見ながら、まるで歩調を合わせるようにして駅のほうへ歩いていきました」
「柳瀬さんが男を尾行しているように見えたわけですね」
加藤愛子はたいへんよくできました、といったように大きくうなずいた。
「そのときは別になんとも思わなかったんですよ。あら、あの男、前に美和さんと井の頭公園で会ってた男とそっくりだわって気がついたのは、帰りの中央線の中でした。間違いなく、同じ男だったんです」
「特徴を覚えてます?」
「髪の毛は五分刈りっていうんですか、すごく短めで、背は美和さんと同じくらい。男にしては小さいかしらね。細くて貧相な感じ、目つきがどろっとしてて。落ち着きがなくて、時々身体をひきつらしてました。なんか悪いクスリでもやってるんじゃないですか。ね、どうしましょう。警察に話したほうがいいでしょうね」
加藤愛子はいずれ警察にもこの話をするだろう。そのとき、クスリうんぬんという憶測は避けてもらいたいものだが、注意するのはやめた。そんなことをしようものならこの家政婦はよけいに張り切って、ドラッグ中毒者の症状をぞろぞろ並べ立て始めるにちがいない。
「当然、警察は関心を持つと思いますよ。貴重な情報ですものね」
ぼってりとした顔に満足げな笑みが浮かび、どういうわけか愛想がよくなった。わたしに茶をすすめ、どら焼きまで出してきた。
「あの男が柳瀬さんを殺したんですかね。そう思います?」
「可能性はあるでしょうね」
「だったら私、殺人犯を見たんだわ。妹に話してやらなきゃ。妹は信じないんですよ。この屋敷内のかかりのこととか、美和さんが行方不明になったこととか。そんなお金持ちの娘がどうして家出なんかするんだ、もったいないって、妹は言うんです。専業主婦なんかやってると、どうしたって自分の家計簿以上のことが考えられなくなるんだわね」
「加藤さんの家族はその妹さんだけ?」
わたしはどら焼きをほおばりながら尋ねた。家政婦はすっかりくつろいで、
「弟夫婦が両親と一緒に田舎で鉄工所やってますよ。私は十五年前に離婚して、その後ここで住み込みで働くことになったんです。修羅場をくぐって独り者に戻ったから、たいていのことにはびくともしないし、旦那さんのヒステリーも聞き流せるんです。妹なんか、姉さんはたいした仕事もしないで高いお給料もらって、ってよくやっかむんですけどね。それじゃ代わってみろって私は言ってやるんですよ。亭主と子どもの世話しかしたことがない女には、一週間も勤まりませんよ」
「ねえ、ここのご夫婦、いつ離婚したの?」
「十年前ですね。奥さんは赤坂の大きな宝石店の娘だったんですよ。それで宝飾デザイナーっていうんですか、そういう仕事をしていて、旦那さんと知り合って、結婚したらしいんです。それで十二年ほど前にお父様が亡くなられて、赤坂のお店を奥さんが切り盛りするようになったんですが、それと並行して旦那さんはどんどん落ち目になってったでしょう。普通の男のひとだって面白くないでしょうけど、あの旦那さんですからね。結局奥さんが出ていかれることになったんです」
「美和さんを奥さんのほうがひきとる、というふうにはならなかったの?」
「そうしたいのは山々だったんでしょうけど、旦那さんがそれだけは絶対に譲らなかったんです。美和を置いていけば十億やるとまで言ったんですよ。奥さんはお金は受け取らなかったかわりに、美和さんとは好きなときに会えるようにした。結果として離婚してよかったんじゃないですか。美和さんが小さい頃は乳母がいたしね」
乳母とはまた時代錯誤な、と思ったが、念のために聞いてみた。
「その乳母って、名前はなんていうんです?」
「明石|香代《かよ》。ああ、でももう亡くなりました。いいひとだったんですけどね。私と同じように婚家を追い出されたんですよ。私と違って乳飲み子がいたらしいんですけど、その子も取り上げられてね。そのせいか美和さんのこと、ずいぶんかわいがってましたよ」
「どうして、いつ出ていったんです?」
「二年ばかり前ですね。なにか事情があったみたいだけど、それは言いませんでした。去年の夏頃、亡くなったって知らせが来て、美和さんにはずいぶんショックだったようです。ずっとお部屋にこもって泣いてましたよ」
加藤愛子は大仰に首を振った。
「でも、子どもって立ち直りも早いですしね。乳母がいなくなってからは、旦那さんの溺愛ぶりに我慢できなくなると奥さんのところへ行く、奥さんは忙しいから寂しくなるとここへ戻ってくる、っていうぐあいにね、美和さんもうまくバランスとってましたよ」
「それじゃあやっぱり、美和さんは家出したんじゃないってことかしら」
「私にはなんとも言えませんね。ただの雇い人ですから。でも美和さんはきっと、柳瀬って子があの男からクスリでも買ってるのに気づいて、やめさせようとしたんじゃないですか。それであの男にどうにかされたんですよ。美和さんって親切な子でしたからね」
加藤愛子は初めてびっくりしたように口を開け、さかしらげにうなずいた。
「そう、美和さんって本当に親切だったんです。ちょっとうんざりするほどね。私が風邪ひいたとき、部屋に来て看病するってきかなかったんですよ。こっちはかえって気ぶっせいだし、後で旦那さんに恩着せがましくされるから、やめてくれって言ったんですけどねえ。そういう意味じゃ、確かにあのふたりは親子ですよ。なんでも自分でできるって思ってた。自分ならうまくやれるって。それで、なにか手に余るようなことに首つっこんじゃったんじゃないかしらねえ」
車のなかで所長と打ち合わせをした。
滝沢喜代志から預かった美和の写真をみせてもらった。焼き増し次第、十枚ほどもらうことにしたのだが、着物姿のとりすました修整写真で無個性もいいところだ。滝沢はこれぞというのを出してきたのだろうが、ひと探しの役には立ちそうもない。写真と現実の人間の照らし合わせは意外に技術がいる。もう少し自然な写真を辻亜寿美に借りることに決まった。
美和が購入したパソコンに、滝沢はまったく覚えがないようで、なにかの間違いだと言い張った。購入した秋葉原の電器店で配達先を調べる仕事はこっちでやろう、と所長が言った。
「村木に任せよう。やつはそういうの得意だから。その怪しげな男については、武蔵東署の保安課にそれとなく尋ねてみるよ。売人だったらすぐあたりがつくと思うがね」
「あと、美和の乳母だった明石香代という女性について調べたいですね。もう死んでますが、美和がずいぶんなついていたそうだから、なにか出てくるかもしれません。美和の個人的な書類や手紙類など、全部が全部、父親に捨てられたわけでもないでしょう」
「ずいぶん薄い線だな。そいつは後回しでもいいだろう」
わたしは時計を見た。三時半を回っている。七時には辻亜寿美を訪ねることになっているが、それまでにやっておきたいことがあった。
「ひとつ、お願いがあるんですが」
「おお怖わ。葉村がそういう口調になるとロクな展開にならねえんだよな。なんだ」
「東都総合リサーチから平ミチルの情報をもらいたいんです。ミチルと同棲してた宮岡公平」
「葉村を刺したやつか」
「どこでどうやってミチルと知り合ったのか、ミチルが遊び歩いていた場所、会っていたひと、そういうことが知りたいんです。東都の桜井さんに直接聞くのが手っ取り早いんですが、どうもわたしはいま、東都では評判悪くて」
「ひがむなよ。桜井なら直接電話したほうがいいと思うぞ。あいつ、葉村の怪我の具合、気にしてたからな。葉村に恩を売られたら、喜んで買うよ」
「そういや、所長。わたしの怪我を口実に、久保田社長から見舞金巻き上げたんですってねえ」
「もう残ってねえよ。全部パチンコですっちまった」
代わりと言ってはなんだが、と所長に行動資金として十万円もらい、新宿の西口公園で落としてもらった。桜井は携帯に出て、小声でいまはまずい、と言った。
「仕事中なんだ。書類書きだがね。五時すぎにもう一度電話するよ」
こんなことなら部屋まで送ってもらえばよかった、と後悔しつつ、電話を切った。途端に呼び出し音が鳴り響いた。平義光だった。
「娘からそちらの電話番号を聞いた」
しゃちこばった口調で彼は言った。
「今朝方はたいへん申し訳なかった。娘を助けるために怪我をして、その傷もまだ治りかけだというのに、深夜、娘から呼び出されて警察まで出向いてくれ、そのうえ家に送り届けてくれた。そういうひとに対して、失礼なことをしたと思っている」
真正面から謝罪されるとは思っていなかったので、とっさに声が出なかった。わたしはようやくのことで、はあ、と、まあ、の間のような音を発した。
「ついてはお詫びの印に一席設けさせていただきたいのだが、ご都合はいかがだろうか。今晩などは?」
「お気持ちはありがたいのですが、仕事もありますし、体調もまだ万全ではありませんので、ご遠慮させていただきます。その、警察の件はわたしが好きでやったことですから、お気になさらないでください」
仕事上、心にもない謙遜やお愛想をふりまかねばならないので、それ以外の場面では社交辞令は使わないようにしている。つまりこれは本心だったのだが、平はじらされていると受け取ったらしい。
「それでは明日はどうだ? ミチルもあなたに会うのを楽しみにしているのだ」
こっちもミチルに会わねばならない理由があったが、父親同伴では意味がない。
「お気持ちだけでじゅうぶんです。ご存知とは思いますが、滝沢喜代志さんの娘さんを捜す仕事をしておりまして、本当に時間がとれないんです」
「いやいや、是が非でも会ってもらわねば困る」
平義光は頑固に繰り返した。
「どうせ食事はしなくてはならないんだろう。おおげさに考えなくていい。新宿のデパートの上の懐石料理の店はどうかな。老舗の出店だからうまいが値段は高くない。そちらの負担になるほどの奢りではないから」
負担だよ、とため息をつきかけて、気が変わった。滝沢家と家族ぐるみのつきあいをしている平義光なら、ことによると美和失踪の裏事情をなにか知っているかもしれない。費用あちらもちでインタビューできるなんて、考えてみれば願ってもないチャンスだ。
「そこまでおっしゃるなら、お受けいたします」
平義光はほっとしたようで、そこはかとなく愛想が良くなった。明日の午後七時に小田急百貨店の十三階で、と約束して電話を切った。
建設的なヒマつぶしの方法を考えた結果、四谷三丁目に行くことに決めた。タクシーを使った。贅沢なのはわかっているが、足の痛みはおさまるどころか激しくなってきている。二、三日のんびりとすごしたいものだと切実に願った。だが、選択の余地はあったのに、仕事を選んだのは自分自身なのだ。ことを起こしてから後悔する癖は一生治らないのかと思う。
以前、アルバイトをしていたことのある建築資材の業界新聞社に立ち寄った。わたしが働いていたときの社員はほとんどがやめて、残っているのは工藤|咲《さき》という友人だけだった。名だたるチェーンスモーカーの彼女は、なんと禁煙パイポをくわえて猛烈な勢いで原稿を打ち込んでいた。
「悪い。今日は山場なんだ、時間は割けないよ。足、どうかしたか」
「踏まれた。ねえ、資料棚のぞかせてもらっていいかな」
「なに調べてんだ?」
「平義光について、ちょっと」
「平義光? ユニコーン建設の平専務のことか」
「そう」
「あんたもたいがい忙しい女だね、葉村。専務昇格のときにインタビューして作ったファイルがどっかにあるはずだ。好きなだけ捜しなよ」
木製の資料棚にとりついて、平義光の資料を捜した。この資料棚は特注だが大工が板の厚さを計算に入れ忘れたため、A4サイズの資料が立たない。ファイルがすべて横に寝かせてあるのをいちいち引っ張り出していたら山が崩れ落ち、そのなかに〈ユニコーン〉と銘打たれたファイルがあった。
空いていた机を借用して、ファイルを調べた。平義光の資料はクリップでまとめられていた。新聞や雑誌の切り抜き記事が数点。いずれもその専務昇格時に掲載されたもののようだ。
平義光は工業大学を卒業した技術系の人間で、いくつかの工法を考案して特許を取り、その功績で七年前に四十歳の若さで開発本部長に就任し、二年後には取締役を兼任することになった。三年前に汚職やら総会屋やら政治家やらの絡んだ、ゼネコンおさだまりの騒動がユニコーン建設にも持ち上がり、いっせいに辞任した前首脳部の後を受けて、専務に大出世。技術系で金の流れと比較的縁が薄かったため、クリーンなイメージを打ち出すべく担ぎあげられたわけだ。経営手腕は未知数、家族は妻と娘ひとり、多趣味で知られている。
記事をめくっていくうち、手が止まった。平義光と滝沢喜代志を含む、七人の男たちの写真。九八年十一月の情報雑誌『新世界』の四頁のグラビア記事だった。ヘッドラインに「七人の若きサムライ」とあり、やや小さめの文字で、「財界のホープたちが結成する二八会・その野望と展望を直撃!」と記されている。全員がイタリア製のファッションを身につけ、こった照明を受けつつも自然体に見せている、というオヤジ雑誌特有の、へどが出るほどスタイリッシュな写真だ。
やたら(笑)の多出するインタビューを読んでいくと、「二八会」メンバーは弁護士から企業コンサルタント会社の経営者まで、さまざまに「成功」している連中ばかりだ。「力を合わせて、新しい感性で二十一世紀の経済界をリードしていくことをめざして」いるのだそうだ。そのわりに「二八会」の名は、彼ら全員の生年が昭和二十八年であることに由来していたりする。その程度の感性を新しいと自画自賛できるくらいでなければ、二十一世紀の経済界はリードできないらしい。
メンバーの名前を一応目に留めた。丸山寛治というのが弁護士、山東銀行の児玉健夫、天保生命の大黒《だいこく》重喜、企業コンサルタント会社社長の野中則夫、そして某省のキャリア公務員の新浜秀太郎。
──皆さんは余暇を一緒に楽しまれることも多いとうかがいましたが。
滝沢 ヨットや狩猟、ゴルフなどを共にします。男の醍醐味ですよ。
野中 家内には、にらまれますけどね。「あら、また二八会? 男ばかりでなにやってるんだか」なんて(笑)。
新浜 おかげで半年に一度は、家族会を持たなきゃならなくなった。あれは失敗だったなあ。嫁さん同士の交流が始まって、変なところで嘘がバレる(笑)。
野中 バレるような嘘つくからだよ(笑)。
ざっくばらんな男の友情フル回転、といったところか。わたしは鳥肌をさすりながらその記事のコピーをとり、工藤咲に礼を言った。工藤は眼鏡を持ち上げた。
「なんでまた平専務のことなんか調べてんの」
「企業秘密。ねえ、直接会ってどういう印象だった?」
「えらぶったところのないひとだよ。平専務って知られざる悲劇のひとだからかな。記事ではふれられなかったんだけど」
「どういうこと?」
「たまには自力で調べろよ、探偵」
「あら。いままでわたしに優しくしてくれてたのは、ひょっとしてニコチンだったのかしら」
「ったく。この状況を見てあたしが忙しいって見当もつかないようじゃ調査員失格だね。ヒントだけあげる。一九八〇年」
工藤はそれきりパソコン画面に向き直ってしまった。わたしはもう一度礼を言い、建物を出た。
御苑近くの図書館に行くことを考えたが、そろそろ閉館する頃だろう。だいたい、平義光について調べても滝沢美和の失踪に結びつくことはなさそうだ。
ファーストキッチンに入ってチーズバーガーを買い、新宿二丁目近くの公園のベンチで食べた。出勤途中のおかまの皆さんをぼんやり眺めながら、近くの寺から漂ってくる線香の匂いに包まれて夕暮れの公園に座っていると、途方もなくもの哀しくなってきた。探偵などやめて、マッチ売りにでも転職すべきかもしれない。
五時半頃、携帯が鳴った。
「遅くなってすまん。社からなかなか離れられなくてさ」
桜井は息を切らしていた。
「こっちから葉村に連絡しようと思ってたんだ。いつぞやはすまなかった。やつあたりするつもりはなかったんだが、社長から世良への被害届をとりさげろとうるさく言われて、つい」
「とりさげたの?」
桜井は黙った。そういえば、わたしは宮岡公平に関する事情聴取は受けたが、世良松夫への被害届など出した覚えがない。平ミチルも怪我をしたというわけでもなし、東都側との和解はすんでいる。顔が歪んだ。東都総合リサーチは退職警官を多く雇い入れている。久保田社長がその気になれば、世良に対する処分を軽くすませることなど造作もない。そもそも、世良は桜井と宮岡公平には意図的に暴行を加えたわけだが、わたしの足を踏んづけたのは偶然──と言い抜けることもできる。
「世良はもう釈放されてるわけ?」
「釈放じゃないよ。書類送検ですんだんだから」
「──なんですって?」
疲労のあまり幻聴を聞いたのかと思った。桜井は開き直ったように強い口調になった。
「逃げる心配もないし、本人も自分のしたことは認めたわけだから、しかたないだろう。別にうちの社長が手をまわしたとかそういうんじゃないぜ」
「平ミチルをレイプしかけたって認めたわけ?」
「いや、その話はほら……。だけど心配しなくていい。葉村には絶対近づかせないから。社長もそれだけはするなと厳しく言い聞かせている」
ということは、世良はわたしを逆恨みしているわけだ。これはまた、電話会社の料金請求書なみに嬉しい便りである。
言ってやりたいことは山ほどあったが、桜井に怒鳴っても始まらない。気を取り直して、平ミチルの居場所を突き止めたいきさつを尋ねた。やましさいっぱいの桜井は理由も聞かずにぺらぺらとまくしたてた。
「調査としては定石通りだったな。パソコンのメールボックスから個人的に親しい友人を数人割り出して、個別に当たった」
「その友人って覚えてる?」
「ひとりは確か、滝沢美和といった。父親が知ってたんで、話が早かった。学校帰りにつかまえて、質問した。初めのうちはずいぶん怯えてたよ。本当に家出なのか、と何度も確かめてた」
「本当に家出なのか……?」
「最近は事件が多いからな。でも、親と大喧嘩して、でかいバッグを二階から投げ落として夜のうちに姿をくらました、タクシーの運転手が下北沢まで乗せた、と聞くとほっとしたらしく、あれこれ教えてくれたよ。下北沢でミチルの友人が姉とふたり暮らしをしてるから、そこに行ったんだろうというわけだ。案の定、ミチルはその晩とその翌晩、友人の家にいた。だが友人の姉が家に帰れと説教したら、ぷいと出ていったというんだな。そこで糸が切れたわけだ。で、もうひとりの友人、柳瀬とかいう子にあてたミチルのメールを拠り所にして彼女に会った」
「柳瀬綾子?」
「そんな名だったかな。とにかく、彼女は最近ミチルとは会っていないと言い張った。おかしな話だが、この子も少し怯えてたみたいだ。俺の人相、そんなに悪くなったかね」
桜井は日だまりのお地蔵様みたいな風貌をしている。美和とアヤが怯えていたとしても、桜井の人相が原因とは思えなかった。
「だが、ミチルのメールに劇団うんぬんという内容があったのを思い出し、問いつめたら白状した。ミチルは家出する一週間ほど前、親に内緒で劇団に入ってたんだよ。劇団ったって、学生のサークルみたいなもんだけど。そこで宮岡公平と知り合って、同棲してると判明して、あとはご存知の通りだ」
要するに、ミチルは自分で言っているより滝沢美和や柳瀬綾子と親しかったわけだ。ミチルがなにかを隠していると思った滝沢喜代志の勘は、これに関してははずれていなかったらしい。
だが、いったいなにを隠してるのだろう。
考えがよそにいっていたせいで、桜井の言葉を聞きそびれた。
「ごめん、なんですって?」
「少しは参考になったかな」
「おおいに。どうもありがとう」
「いやいや。──ああ、それでさ、葉村」
桜井は言いにくそうに言葉を濁した。世良と久保田社長の件でまたしても不愉快な思いをさせられるのかと身構えたが、桜井はもってまわったような口調になった。
「本当はこんなこと喋っちゃいけないんだが、耳にいれておきたいことがあるんだよ。葉村には世良の件で助けてもらったし、礼のつもりだ」
「あんまり役には立たなかったみたいだけど」
「嫌みを言うなよ。葉村が世良を止めてくれなかったらもっとひどいことになってたって、俺にもわかってるさ。だけど──あー、言いにくいな」
「なんなのよ」
「実は、こないだからある男の身辺調査をやってるんだ。俺の担当じゃないんだが、応援を頼まれて張り込みの手伝いをした。男はある女性とデートしてたんだが、その女性っていうのがさ」
「待った」
わたしは止めた。こめかみがずきずきと脈打ち始めていた。
「まさか」
「葉村を見舞いに行ったときに病室ですれ違った女性だよ。知り合いだろ?」
知り合いどころか、おたがいの部屋の合鍵を持っているほどだ。
「念のため、女性の名前は相場みのり、住まいは武州市緑丘のマンション。よけいなお世話かもしれないが、葉村には知らせておいたほうがいいと思って」
確かによけいなお世話だが、ここまで聞いたからには一番恐ろしいところにつっこまないわけにもいかない。
「それでその男、いったいなにをやらかしてるわけ」
「結婚詐欺と脅迫の証拠をつかもうとしてるとこなんだ」
わたしはベンチから滑り落ちそうになった。通りすがりの美しいゲイボーイが軽蔑したように目を背けた。
「嘘でしょ」
「こんな嘘つかないよ。三ケ月前にその男はある女性から三百万借りたんだ。結婚の約束をしたと女性は言うんだが、男は行方をくらまし、連絡がつかなくなって数週間後、女性の家に写真が送られてきた。大股びら……えー、たいへんプライベートな写真だ。手紙はついていなかったが、意図するところは明白だな」
オトコの話をするだけで照れてしまう友人が〈たいへんプライベートな写真〉を撮られる、と考えただけで総毛立った。わたしはうめき声をたてた。
「勘弁してよ」
「最近の女性はそれで引っ込むほどやわじゃない。復讐に燃えてうちに調査を依頼してきた。名前も住所もでたらめで、携帯はプリペイド式、手掛かりゼロだったけど、写真がものを言ったね。ああいう写真だから、プライベート・ラボの顧客だろうとあたりをつけたらあっさり本人が見つかった」
「依頼主は警察に訴えなかったわけ?」
「彼女の希望は金と写真を取り戻すことなんだ。それに、相手がどれほどの人物かわからない。恐れ入りました、と頭を下げてくれればそれで一件落着だが、写真は送り返してやっただけだ、金は貢がれたんだ、文句があるなら訴えてみろ、とでも開き直られたら困る。できるだけ相手の弱みをつかんでおきたい、とまあ、クライアントはかく申されるわけだな」
「それで、つかめそうなの?」
「弱みか? 山ほど。明日には本人と対決する予定だが、クライアントの希望通りにことを運べそうだ。だけど、刑事告発するわけじゃないから、葉村の友人が彼氏の事情を知ることはないだろう。もちろん男がびびって詐欺や脅迫から手を引くこともありうるけど、俺の勘じゃ、あれはそんなにかわいいタマじゃないね。むしろクライアントに金を取り戻されて焦った男が、葉村の友人にぐっと接近することになるんじゃないか、と思うんだ」
手近に樹や塀がなくてよかった。あったら頭突きして額を割っている。
「だから葉村の口から真相を告げてやったほうがいいよ。いまならまだ間に合う」
桜井は良い行ないをした喜びからかさわやかに言った。こちらはありがたく思うどころではない。自分でも驚くほどドスのきいた喋り方になっていた。
「桜井さんがそれほどおめでたいとはね。具体的な事実もなしに恋する女を止められるわけないよ。ヤブヘビになるに決まってるじゃない。どうしてくれるのさ」
桜井が慌てふためいているのが電磁波を通して伝わってきた。
「いや、具体的な事実って、それはやっぱり、守秘義務というか。これだけ話すんだって本当は会社にバレるとヤバいんだ」
「せめて、もう少し教えてよ。その男の本名は?」
「それはちょっと」
「桜井さん!」
「う、牛島潤太」
してみると、みのりに名乗ったのは本名だ。これはますます厄介である。
「結婚してる?」
「してない」
「対決は明日の何時頃?」
「あー、たぶん、午後九時くらいかと」
「場所は?」
「おい、まさか乗り込んでくる気じゃないだろうな」
桜井は悲鳴をあげた。わたしは同情しなかった。
「そんなことしません。本人を尾行して、みのりに害が及ばないかどうか確認するだけ。それならかまわないでしょ」
「ああ、わかったよ。明日、場所と時間が決まり次第連絡してやるよ」
桜井はこのことをよそには漏らさないようにと、しつこく念をいれて電話を切った。当事者が悲惨であるほどはた目には滑稽に見える、という成句を思い出しつつ、わたしは頭を抱え込んだ。
辻亜寿美のマンションにたどり着いたときには、わたしは半ば朦朧となっていた。受付には制服を着た警備員が座っていて、一瞥するなり素早く手を動かした。こちらからは見えなかったが、なにかのブザーを押したのだろう。
「御用ですか」
貧乏人がなんの用だ、と言いたいらしい。わたしは無言のまま彼を上から下まで眺め回した。色の白いのっぺりした顔の若い男で、いざというとき頼りになるとも思えないが、高級マンションの受付にはぴったりだ。制帽のマークから察するに、業界大手の壱國警備の社員らしい。
色白の顔が赤くなってきたところで、許してやることにした。
「五〇三号室の辻亜寿美さんと約束があります。葉村晶です」
警備員はキーボードを叩き、マイクを使って誰かになにごとか尋ねかけるとうなずき、右手で奥を指さした。
「扉を通って中央のエレベーターに乗ってください。階数ボタンを捜す必要はありません。自動停止します」
億ションを買える人間は少ない。が、これだけの警備を置けるほどの管理費を月々払いこめる人間はさらに少ないだろう。ドアを通り、ちょっとした宴会場ほどもある総御影石作り、巨大な生花の入った花瓶が三つ、監視カメラ五台のエレベーターホールに出つつ、辻亜寿美は毎月いくらくらい管理費を払っているのか考えた。三十万、いや五十万か。面倒くさがり屋の長谷川所長が、せめて管理費と同じ額を辻亜寿美から巻き上げてくれているといいのだが。
揺れどころか動いていることすら感じられないエレベーターが、わたしを五階へと運びあげた。五〇三号室の目の前で扉が開いたときには、感心する気さえ失っていた。
辻亜寿美は黒い麻のパンツスーツに着替え、くつろいでいた。身じろぎしただけでしわになりそうな服を部屋着にするとはたいしたものだが、ま、ひとはそれぞれだ。彼女は忙しそうに電話をつかみ、わたしをソファに追いやった。
「悪いけど、急いで連絡をとらなきゃならないことができたのよ。それ、滝沢の部下の作った報告書。読みながら、お寿司でもつまんで待ってて頂戴」
亜寿美は英語を受話器に注ぎ込みながら、隣の部屋へと消えた。ドアが閉まる直前、部屋の向こうから男の声が聞こえた。聞き違いとは思えなかったが、滝沢喜代志のはずはない。クライアントの機嫌を損ねずに、部屋に隠した男からも事情を聞きたいと切り出せるかどうか考えた。そんな方法はまったく思いつかなかった。
目の前の漆塗《うるしぬ》りのテーブルには、寿司桶と小皿にしょうゆ、それに茶封筒が載っていた。封筒をとりあげて、ざっと目を通した。
あれもダメ、これもダメと滝沢に範囲をせばめられた調査のわりにはまともな報告書だった。柳瀬一家は確かに五月三日から六日までハワイに旅行している。滝沢美和名義の通帳、クレジットカード、いずれも行方不明になって以後使用された形跡なし。金銭面は二ケ月前までさかのぼって調べたが、一ケ月に使った額はそれぞれ二十万円前後。高校生の一ケ月分としては相当なものだが、月々五十万もの小遣いを与えられていたお嬢様にしては質素かもしれない。少なくとも、滝沢美和は重度の薬物中毒者ではない。葉崎、都内の別邸に美和が立ち寄った形跡なし。
調査した人間は柳瀬綾子にも接触したようで──滝沢が怒鳴りこんだから、彼女にいまさら隠してもしかたないと思ったのだろう──、その顛末も記されていた。柳瀬綾子は滝沢美和についてこう述べている。美和の居所なんか知らない、美和とはしばらく前に喧嘩して以来会ってない、喧嘩の原因はネイルを真似したとかされたとか、そういうこと。
取りつく島もなかったわけだ。
報告書のなかに、セイモア学園の教職員と学生のリストが付いていた。〈カナ〉という呼び名に匹敵しそうな名を捜した。一年生に飛島加奈子、三年生に五台花菜が見つかった。教職員にも小林叶子という養護教諭がいたが、どう考えてもあのメモを残した人物とは思えない。
一番確率の高そうなのはこの五台花菜だ。赤鉛筆で丸をつけているところへ、辻亜寿美が戻ってきた。かすかに頬を染めていて、照れ隠しのようにばたんと扉を閉めた。
「お待たせしてごめんなさい。あら、全然召し上がってないのね」
「すませてきましたので。お忙しそうですから、辻さんはどうぞお食事をなさってください。その合間に話を聞かせていただきます」
「助かるわ。それじゃ、そうさせてもらうわね」
辻亜寿美は床に座り込むと猛然と寿司を食べ始めつつ、わたしの手元を示した。
「なにしてたの、それ」
「美和さんの友人に〈カナ〉と呼ばれる女の子がいたようなんですが、ご存知ないですか」
「カナねえ。どっかで聞いたことあるような気もするけど。どういうこと?」
わたしは例の猫の絵はがきを亜寿美に渡した。亜寿美は眉を寄せた。
「なんだか危なっかしそうな友達だわね。あなた、これをどう考えてるの?」
「まだ憶測の域を出ないんですが」
「かまわないわ。話して」
わたしは美和の部屋に私物といえるようなものがほとんどなかったこと、美和がパソコンを購入していたことを説明した。
「それにこのメモの文面を総合すると、美和さんはどこかに一種の隠れ家のようなものを持っていたんではないかと思われるんです。カナの部屋がそれにあたっていたのではないでしょうか。美和さんは裕福でしたが、高校生が保証人も立てずに部屋を借りるのは難しい。でも社会人のルームメイトを見つけられれば部屋を確保するのは容易でしょう。そうした申し出に応じてくれたのが」
「カナだった。──ふん。確かに憶測だわね」
「辻さんは美和さんの私物を預かってらっしゃいますか」
辻亜寿美はウーロン茶で寿司を流し込み、首を振った。
「預かってないわ。あの子がここに来るのは二ケ月に一度くらいだった。そういえば、一年くらい前まではもっと頻繁に来てたのよ」
「その頃、なにか変わったことでもありましたか?」
辻亜寿美はウーロン茶にむせ、ちらっと奥の部屋へ目をやり、首を振った。ここで一気に突撃しても、得るところは少なそうだ。わたしは次の質問へ移った。
「滝沢さんは都内に別のマンションをお持ちだそうですが」
「ああ。でもあそこに美和が行くとは考えにくいわね。コレがいるから」
辻亜寿美は質問が変わってほっとしたらしく、にっこりと小指を立ててみせた。
「どういう女性ですか」
「水商売系のひとらしいけど、よくは知らない。別れた亭主が誰とつきあってようが、私には関係ないもの。美和の二度目の母親になるんだったら放ってはおけないけど、そうなるまではとやかく言うつもりないし、だいたい滝沢が再婚するとは思えないしね」
亜寿美は鮭の切り身ほどもある巨大なトロを口いっぱいに詰め込んだ。時間稼ぎとわかっていても、早く喋れというわけにはいかない。寿司を食えと言ったのは失敗だった。
「滝沢ってものすごく縄張り意識が強いの。お城のなかでは王様でいたいのね。それを侵すと猛然と噛みついてくる。しばらくの間、それがわからなくて往生したわ。だって離婚修羅場の後でも、外で会うとめちゃくちゃ穏やかなのよ。ところが彼の家に電話して、美和に代わってくれなんて言おうものなら大変な見幕で怒り出す。なのに、美和がうちに泊まるのは平気なの。自分の家の外でだったら、なにやってくれてもかまわないみたい」
加藤家政婦が似たようなことを言っていたのを思い出した。旦那さんはご自分のテリトリーを侵されるのを嫌いますから。
「家政婦さんから聞いたんですが、滝沢さんは美和さんに多額のお小遣いを与え、連絡さえ入れれば外泊も許していた。でも、美和さんの部屋をチェックして、持ち物を勝手に破棄したりもしていた、と」
「そう。それよ」
亜寿美は大きくうなずいた。
「美和も似たようなこと言ってたわ。あの家はあくまでパパの家で、わたしはその付属品なんだって。だからときどきここに来て、神経を休めるんだって。あの子にはわかってたのね」
「滝沢さんには暴力傾向がありましたか。自分の領内でならなにをしてもかまわない、といったような意味ですが」
「そうね──ない、と断言はできないわね。会社や家、家には別邸も含まれるんだけど、そういうところでは滝沢、めちゃくちゃ強気でいばってるから。気のきかない社員が平手打ちくらってるとこ見たことあるもの。でも、その暴力が美和にむけられたか、という質問なら答えはNOよ。ありえない」
「絶対に?」
「絶対に。いろいろ欠点の多いひとだけど、あれで彼なりに美和のことはかわいがってる。世界で二番目に愛してると思うわ」
一番目が誰かは訊く必要がなかった。もちろん、滝沢本人だ。
「滝沢を疑ってるの?」
亜寿美は探るようにわたしを見た。わたしは首を振った。
「そういうわけではありません。美和さんが家出をする原因がなかったかどうか確認しただけです。最初の話に戻りますが、仮に美和さんが隠れ家を持っていたとして、それに滝沢さんが気づいたとしても、それが親子間のトラブルになるとは考えにくいわけですね」
「そうだと思う。私にバレたって、美和は気にしなかったでしょうね。ちょっとがっかりはするでしょうけど。美和が子どもの頃」
亜寿美は不意にくすっと笑いを漏らした。
「滝沢の家の敷地内に古いコンテナが放置されてるの。そこに美和がもぐり込んで、秘密基地みたいにして遊んでたのね。ずっと私にもばあやにも知られてないと思い込んでたらしいのよ。だけど、ある日お客が来ることになって、ばあやを呼びにやったのよ。ずいぶん長いことふくれてたわ。あの子ふくれると、よけいにかわいくて……」
亜寿美は言葉を切って、宙を見上げた。
「やだもう、わさびの入れすぎよ」
わたしは目をそらした。その視線が写真立てにとまった。サイドボードの上に、いくつか写真が飾ってある。わたしは立ち上がって、手近の写真を取り上げた。辻亜寿美と平ミチル、新聞記事で見た柳瀬綾子、そして中央にいる、滝沢美和。
望んでいた通りのいきいきとした写真だ。
記念写真のせいか全員笑顔だったが、美和の笑顔がいちばん屈託なく見えた。ふっくらした頬に押し上げられて目が細くなり、きれいにそろった歯がのぞいている。やわらかそうな福耳が一番の特徴だろうか。美人とは言いがたいが、あどけなさと女らしさが絶妙のバランスで同居した顔だ。
対照的に、平ミチルは笑っているというよりは歪んだような表情だったし、柳瀬綾子はつけまつげをつけ、黒々とラインを引いた目を大きく見開き、口だけで笑っていた。
写真の右下に日付があった。2001、2、27。
「これは、美和さんの誕生日パーティーのときの?」
「ええ」
辻亜寿美は鼻をかんだ。
「この写真、お借りできませんか」
「写真ならもっといいのがあるわよ」
亜寿美は抽斗から何枚もスナップを出してきた。どの写真でも、美和の優しげな印象は変わらないが、よく見ると顎のラインはきつい。
左右の耳の見える写真数枚と、誕生日パーティーの写真を借りることにした。
「焼き増しを作ったらお返しします」
「やっぱり柳瀬さんが殺されたことと、美和の失踪と関係があると思ってるの?」
誕生日の写真を借りるのは柳瀬綾子も写っているせいだ、ということにすかさず気づいたらしい。動揺している亜寿美にこれ以上憶測を聞かせたくはなかったが、彼女にごまかしは通用しない。
「柳瀬さんの事件が解決するまではなんとも言えません。柳瀬さんは失恋してから自暴自棄になって遊んでいたそうですから、彼女個人のトラブルが原因とも考えられます。でも友人同士の高校生のひとりが行方不明、ひとりが殺された、それも二週間ほどの間にです。無関係と決めつけるわけにもいきません」
「それもそうね」
辻亜寿美は大きく息を吐いた。わたしは疑問をぶつけた。
「美和さんと柳瀬さんがどうして親しくなったか、ご存知ですか」
「さあ」
亜寿美は記憶をたどるように目を閉じた。
「知らないわね。聞いたことないもの」
肝心なことになると、この母親も滝沢に負けず劣らず役に立たない。わたしは皮肉を感じさせないように注意しながら訊いた。
「美和さんの失踪を昨日までご存知なかったそうですが」
辻亜寿美は不可解な間をおき、早口になった。
「ゴールデンウイーク明けから海外に行ってたの。宝飾デザインの勉強のためによくヨーロッパに行くんだけど、空いてるし気候はいいから毎年五月と決めてるの」
「旅行中、美和さんと連絡は?」
「帰国したのが四日前で、そのとき美和の携帯に連絡を入れたんだけどつながらなかった。さっきも言った通り、滝沢の家に電話すると大騒ぎになっちゃうから、連絡はいつも携帯なの。帰国するなりお店でトラブルが待ってて、その処理に追われて忙しかったのよ。だから、美和のことはあまり気にしてなかった。あの子も忙しいんだろうって思ってた。少しも──言い訳にはならないけど」
話題を変えることにした。
「平義光さんのご一家とは家族ぐるみのおつきあいだったそうですけど、ミチルさんとは昔から親しくなさってました?」
「美和とおない年で幼稚園からずっと一緒だったから。ミチルちゃんと美和は昔から仲良しよ。なんたって美和の初恋の相手ですからね」
わたしは面食らったが、女の子が女の子に恋したと聞かされたせいではなかった。辻亜寿美がどこか悲痛な表情になったからだ。
「それはいったい──」
「美和はミチルちゃんにならなにか話してるかもね。訊いてみた?」
亜寿美はそらぞらしく小首をかしげた。
「ええ、まあ。美和さんとは最近ではあまり親しくなかったと言ってます」
「そんなはずないわよ。それとも喧嘩でもしたのかしら」
知らないとみてとって、ミチルの家出と同棲についてざっと説明した。亜寿美は眉を寄せて聞いていたが、やがてうなずいた。
「それならわかるわ。母親が言うのもヘンだけど、美和はそういうのに批判的だから。ミチルちゃんが知り合ったばかりの男と同棲した、なんて聞いたら怒り出したはずよ。十七歳の娘があんまりあけっぴろげじゃ困るけど、といって、明治生まれみたいにお堅くてもねえ」
実感がこもっていた。わたしは隣の部屋の扉を見ないように心がけた。
「美和さんにつきあっていた男友達はいなかったんですか」
「一年くらい前、一度うちに彼氏を連れてきたわ。名前は藤崎|悟史《さとし》、R大学文学部の三年生だった。だけどすぐ別れたみたいね。魅力的なコだったのにもったいない、っていったら、段階を踏まない男は嫌いだって。レイプでもされかけたのかと飛び上がったら、知り合って二週間でキスなんて早すぎる、ですって。耳を疑ったわよ。こんなご時世で、八方破れの両親持ってて、どうしてあそこまでお堅くなるかしらね。ばあやの影響かしら」
「ばあやというのは明石香代さんのことですか」
「そうよ。いいひとだったわ。美和が一歳になる前から家にいて、ずっと面倒みてくれてたの。なにしろ滝沢とは美和が生まれる前からもめてたから、私も外へ出るようにしてたのね。だから美和はばあやに育てられたようなものよ。あのひとがいなかったら、私も美和を置いて滝沢の家を出る決心がつかなかったかもしれない」
辻亜寿美の口調には、感謝と恨みが同時にこめられていた。が、彼女はふと宙を見据えて呟いた。
「あ、そうだ。カナよ」
「なにがです?」
「だからカナよ。ばあやの娘がカナって名前だった。ばあやがやめるとき、うちにも挨拶に来たのよ。理由をしつこく問いただしたら、元の夫とその母親が死んで、娘と一緒に暮らせるようになったからだと答えたんだけど、そのとき確か、娘の名前はカナだって言ってたわ」
辻亜寿美は興奮して両手を振り回した。同じ格好をしてみたくなったが、依頼人と探偵が寿司をはさんで向かい合わせですることとも思えない。代わりに深呼吸した。
「美和さんと明石さんの娘さんは知り合いだったんでしょうか」
「でしょうね。ばあやがやめてからも、あの子はたびたび会いに行ってたはずだから。美和ったらばあやが病気になってから、自分の小遣いを渡してたらしいのよ。ばあやが死んだ後も、その娘と親しくするってこと、十分ありうるわね。隠れ家の件もそれなら納得いくわ。美和は自分の部屋も作るって条件で、ばあやの娘に家賃を出してやってたんじゃないかしら。ねえ、そうだわ、きっと。すぐにそのカナを見つけてちょうだい」
「明石香代さんについてご存知のことは、他にありませんか」
「美和なら」
詳しいとでも言いかけたのだろう、辻亜寿美は茫然として言葉を切った。わたしは目をそらし、面白いことを発見した。先刻亜寿美が音を立てて閉めた隣室への扉が、一センチほど開いている。風で開くほど安普請でもないだろうし、そもそも風など吹いていない。
「──滝沢の家には履歴書とか残ってるかもしれないわね」
「明石さんの出身は?」
「神奈川の葉崎よ。滝沢の別邸の管理人の紹介だったから、そこで聞けばなにかわかるかもしれない」
住所を聞いたところで面談は終わった。亜寿美には毎日、わたしもしくは所長から進捗状況の電話を入れることになった。わたしは立ち上がり、できるだけさりげなく言った。
「猫か犬でも飼ってらっしゃるんですか」
「どっちも嫌いよ。なぜ?」
亜寿美はわけがわからない、という顔をした。わたしは扉を指さした。
「室内で生き物を飼っているひとはよく扉を開けておく癖があるから、辻さんもそうなのかと思って。失礼しました」
亜寿美の性格から考えて、すんなりと「あ、実はお客さんが来てるの」とでも認めるかと思ったが、彼女はあいまいに笑い、出口へむかって顎をしゃくった。
辻亜寿美のマンションの周辺は、見張りにはもっとも向かない場所だった。近所には大使館がいくつかあり、警官の姿も多い。昔だったらこんなところに夜の八時すぎに、ぼうっと立っているわけにはいかなかっただろう。だが、いまは強い味方がいる。携帯電話だ。これで喋っていれば、どこにいてもさほど怪しく見えない。
だが結局、辻亜寿美のマンションを見張るのはとりやめた。あまりに閑静すぎて声がべらぼうによく通ってしまうし、マンションの外部撮影用監視カメラにどうやっても姿が入る。それに、どういう姿形かもわからず、そもそも今晩中に辻亜寿美の部屋を出るかどうかもさだかではない人物を、こんなところで見張ってもしかたがない。
タクシーを止めて、部屋に戻った。運転手はむやみと喋り好きな男で、話題は彼の持病──痔《じ》の治療法に終始した。
「アルマジロの尿が効くって話を小耳にはさんだんだけど」
運転手は言った。
「アルマジロの尿っていったいどこで買えばいいのかわからなくて、困ってるんです。これがいまいちばんの悩みですよ」
わたしは彼が心底うらやましかった。
部屋の近くのコンビニの前で下ろしてもらい、冷たい天ぷらうどんのセットとアイスティーを買った。足を引きずりながらさびしい商店街をゆっくり通り抜けていたとき、前方から不気味な叫びが響いてきた。わたしの部屋の方角だ。
住宅街にひとけはまばらで、街灯が薄暗く光っていた。わたしは手をかざして前を見た。再び、かん高い叫びがした。
コンビニの袋をバッグに無理やり押しこみ、バッグをななめにかけ直した。いつでも一一〇番できるように携帯を握りしめ、少しずつ前に進んだ。
そのとき、突然黒い影がものすごいスピードで突進してきた。わたしは悲鳴をあげてしゃがみこんだ。影はわたしの頭上を越え、かん高く叫びながらUターンしてくる。
カラスだ。
カラスは戻りざま立ち上がりかけたわたしの頭をくちばしでつつこうとした。バッグを振り回した。カラスは悠々とこれをかわし、うちの前の電線にどすんとばかりに着地して、もう一声、得意げに鳴いた。
わたしはカラスをにらみつけ、二階への階段を登ろうと手すりに手をかけた。わたしは慌てて手を引いた。ぬるっとしていたのだ。よく見ると、階段のあちこちに生ゴミが散乱している。顔をしかめて上まで登った。部屋の扉の前にほとんど空になったゴミ袋が、腹を裂かれ、内臓を引きずり出された動物の屍のように、くたりと横たわっていた。涙がにじんでくるほど強烈な臭いがした。
カラスが飛んできて、階段の手すりに止まった。ゆうゆうと下りてきて、まだ残っている残飯をいくつかつまみあげ、ばさばさとどこかへ飛んでいく。
ゴム手袋とゴミ袋で始末をした。カラスは悪戯には飽きたらしく、しばらくこちらを眺めていたが、じきに姿を消した。もっとも、遊びを続けたくても固形ゴミはほとんど四方にぶちまけられていて、残っているのはぬるぬるの液体だけだから、遊びようがなかったのだろう。
ホースを取り出して階段と道をきれいに流した。通りがかりのサラリーマンや塾帰りの子どもたちが、夜分にいったいなにごとだ、と言わんばかりの不審なまなざしを投げてよこした。世の中にはたくさん不幸がある──娘の失踪とか、変態に足を折られるとか、恋人に三百万持ち逃げされたうえ〈たいへんプライベートな写真〉を公開されそうになるとか。それにくらべれば、体調が万全でないにもかかわらず一日外で働いて、帰ってみたら家がゴミとカラスに襲われていた、なんてどうってことはない。
──とでも思わなければ、やってられない。
掃除が終わった頃には、全身がすっかりかぐわしくなっていた。スニーカーも明日は履けない。身につけていたものすべてを脱いで放り出し、バスルームの棚の奥からみのりが引っ越し祝いにくれた、フランス製の薔薇のボディシャンプーというのを取り出した。過激なまでに薔薇の香りが凝縮されていて、使うと鼻毛がぐんぐん伸びていくような気がするという代物だ。暴力を暴力で制するやり方は好きではないが、この際しかたがない。
薔薇の匂いをまきちらし、くしゃみを連発しつつバスルームから出た。洗濯機に着ていたものを放り込み、洗剤を普段より多めに入れた。冷やしうどんを冷蔵庫にしまい、みのりが持ってきたメロンの残りを全部食べた。脚にマッサージオイルをすり込み、本棚からいちばんお気楽な小説を取り出してベッドに入った。
携帯電話が鳴った。
電話の相手は無言だった。電波がよくないのかと思い、切った。
再び電話が鳴った。
今度は無言ではなかった。荒い鼻息のようなものが聞こえる。と、むこうから切れた。
顔をしかめて携帯電話をバッテリーに戻したとき、表のドアが激しく叩かれた。わたしは飛び上がって転び、はずみで床に尻を打ちつけた。その間にも、ドアは蝶番《ちようつがい》がねじきれそうなほど叩かれている。くそっ、とわたしは思った。村木に会ったら、今度こそ警棒を手に入れなければ。
できるかぎり早く台所へ飛びこみ、包丁を握りしめたところで声がした。
「ねえ、葉村ちゃん。いないのぉ」
わたしは仏頂面でドアを開けた。わが大家・光浦功がドアを叩く握りこぶしを宙に浮かせたまま、わたしを見下ろしていた。
「なんだいるんじゃないの。早く出てよ」
「大家なんだからここんちのドアがどれだけもろいか、知ってるでしょ。夜中にいきなりがんがん──驚くじゃないよ」
「夜中ってまだ十時じゃない。ね、あがっていい?」
初対面のときにおない年だと判明して以来遠慮のない男だが、ここまでなれなれしくされる覚えはない。わたしは釘をさした。
「ゴミの件だったら、わたしがやったんじゃないよ。文句なら時間外にゴミを出す人間とカラスに言って」
「ゴミ? なんの話よ。ちょっと頼みがあるんだってば」
わたしは長々とうなった。このうえ光浦の粘《ねば》っこい女言葉を延々聞かされては倒れてしまいかねない。だが、大家といえば親も同然──とは思わないが、アクセサリーの内職を紹介してくれた恩がある。わたしは顎をしゃくった。
「どうぞ」
テーブルセットを運び込むのを手伝ってくれて以来、部屋にあがるのは初めてで、彼は珍しそうにあたりを見回し、ついでにじろじろわたしを見ると口を開いた。
「葉村、あなたいつもそんな格好で寝てんの?」
わたしは着古したTシャツにショートパンツという自分の姿を見下ろした。
「なに着て寝ようがわたしの勝手でしょ」
「乳首透けてる」
「やかましい」
デニムのシャツをはおって戻り、人差し指を光浦の鼻先につきつけてやった。
「十分あげる。用件を言いなさいよ、用件を」
「うちのソテツ荘に飾磨《しかま》って夫婦が住んでるの」
こちらの不機嫌をようやく察して、光浦は早口になった。光浦のいうアパートは古い木造の二階建てだが敷地が広く、中央に巨大なソテツが植わっており、扉が黄色く塗られていて趣がある。おまけにアパート内部に手を入れるのを許しているから、金のない美大生やデザイナーの卵にわりと人気があるらしい。
「夫婦なんて住んでたの」
「ダンナは大学生。奥さん──恭子ちゃんは山手通り沿いのレストランでバイトしてる。できちゃった婚だけど、流産しちゃって子どもはいない。結婚するとき双方の親から勘当されて、仕送りなし。ダンナのほうは大学生といったってもう四年で、コンピューター・プログラマーとして週四日働いてるし、卒業したらいまの会社に就職も決まってるんだけど、さすがにそれだけじゃ暮らしてけないから、恭子ちゃんに知り合いのレストランを紹介してあげたのよ」
光浦は親の遺産を受け継ぎ、広い自宅にひとりで住み、アパート二軒とこの部屋からあがる家賃収入で食っている。おめでたい身分だが、朝から晩までこまごまとアパート回りの雑用を片づけていて、遊んで暮らしているわけでもないようだ。
「飾磨の奥さんは月曜日から金曜日、十一時から二時までと、五時から十一時まで働いてる。閉店間際にダンナが迎えに行って、ふたりで仲良くお手々つないでおうちへ帰るわけ。ところが、四月から水曜日にダンナの会社で食事付夜間会議が開かれるようになった。その会社、完全フレックスタイムで全社員そろうのは夜中なんだって。だから、水曜日には恭子ちゃんはひとりで帰宅することになったわけ。──ねえ、お茶かなんかなあい?」
わたしは手つかずのアイスティーをコップに移して、出してやった。
「それで?」
「帰り道の林芙美子記念館のあたりは夜中女ひとりで歩くのはぞっとしないけど、広い道だし、近くに引っ張りこまれる恐れのある空き地もないでしょ。別に不安もなかったみたいなんだけど、最近、どうも誰かに尾《つ》けられてるような気がしてしょうがなくなってきちゃったんだって」
「姿を見たの?」
「だからさ。尾行されてるって確信がないからアタシに相談してきたの。はっきりしてりゃあダンナに言うでしょ」
「どうして」
「学業と仕事の両立で疲れ切ってるダンナを、気のせいで心配させちゃ申し訳ないってさ。けなげでしょ。で、話を聞いてアタシは言ったわけ。ダンナが留守のときはボディガードしてあげるわよって。だけど、それじゃ問題の解決にもならないじゃない? 尾行してるやつが腹立てて、別のときに恭子ちゃん襲ったりしたら困るもの」
「彼女に心当たりないわけ? しつこく口説かれたりとか、そういう経験は?」
「ないみたい。聞いたわけじゃないけど」
光浦はけろりとして続けた。
「ひどいことにならないうちに、その尾行野郎を取っ捕まえなくっちゃね。そこでひらめいた。そういえば、うちにはトラブル解消にうってつけの人材がひとりいた、ってね」
わたしはげんなりした。親の反対を押し切っての結婚、流産、学生と仕事の両立、飾磨夫婦は確かにけなげだ。だからといって、何の関係もないわたしがあるかどうかも怪しげな悩みを、なぜに解決してやらねばならんのだ。しかも、これほど忙しいときに。
「やってくれたら、アタシ、葉村の言うことなんでも聞く。操を捧げてもいい」
「いらん」
「と、言うと思った。来月の家賃、五十パーセント・オフでどう?」
「……やりましょう」
力いっぱい答えてしまってから、はっとした。
「ちょっと待て。今日、何曜日?」
「水曜日」
光浦は時計を見上げてにんまりした。
「あと三十分で十一時」
山手通り沿いのレストラン〈マナーハウス〉の灯りが消えた。わたしは腕時計をのぞき込んだ。十一時五分前。最後のお客はまだ店に残っている。
「あの店、ポークカツがおいしいのよ。今度、お礼にご馳走するわよ」
中井駅側、店の対面の暗がりに身をひそめて、光浦がささやいた。このあたりは大江戸線の出口ができて明るくなったが、道路の拡張工事に取り残された木造の家がいくつか、ぽつんぽつんと建っている。問題の店も外観はそういった家とさほど変わるところがない。あれに〈マナーハウス〉とは、まただいそれた名前をつけたものである。
「彼女、携帯持ってる?」
「いや。店の電話なら番号わかるけど」
「かけて、わたしに代わって」
光浦は言われた通りにした。電話の向こうの飾磨恭子はあどけない声で、すみません、と言った。
「黙って聞いてね。時間通りに店を出て、普通に帰って。あなたの前を光浦さんが行く。後ろはわたしがフォローします。このことは、店のひとにも言わないで。いい?」
「はい」
「それじゃ」
五分たって店の扉が開き、女の子が店から出てきた。光浦が言った。
「あれが恭子ちゃん。いい子だけど、どう見たって熱烈に口説かれるタイプじゃないでしょ」
飾磨恭子は夜目遠目で見るかぎり、小さくておとなしやかな容貌だ。白いブラウスに膝の出るくらいの丈《たけ》のピンクのギンガムチェックのスカートをはき、かかとの高いミュールをつっかけている。髪はストレートで前髪が中途半端に伸び過ぎ、ごく薄い化粧しかしていない。けつまずきそうな足取りで横断歩道に向かった。下半身は意外に肉づきがよい、というところまで観察して、わたしは呟いた。
「おいおい」
「なあによ」
「熱烈に口説かれたりはしないかもしれないけどね、ありゃ痴漢に喜ばれそうなタイプだわ。おとなしそうで小さくて、遠くからでも一目で若い女だとわかるような髪、服装、しかもあのミュール。ミュールでどうやってダッシュして逃げるのよ」
「はあ。そんなもんなの」
「あのレストランって制服?」
「そうだけど」
「ダンナがいないときは、往復のスタイルにはもう少し気を使わないと。今回は彼女の気のせいだったとしても、いずれひどい目にあいかねない」
光浦がなにかぶつぶつ言った。おっかないとかなんとか言ったのだろう、わたしは彼のむこうずねを蹴り飛ばした。
「先回りして。ゆっくりアパートまで戻る。悲鳴が聞こえたりしないかぎりは振りむかない。携帯の電源は入れといて、彼女が部屋に帰り着くまではよそからの電話は切って」
「はいはい」
光浦がゆっくりとソテツ荘への道を歩き始め、飾磨恭子はときどきミュールを踏みはずしそうになりながらその後に続いた。舌うちをして周囲をうかがった。これまでのところ、あたりに恭子を見張っているらしき人影はない。
じっとしていたせいか、肌寒くなってきた。ブルゾンの袖を下までおろし、恭子を追った。妙正寺川のほうへ下りていく坂道だ。足がずきずきと脈打ち、存在を主張し始めた。わたしはバーゲン品に弱いおのれの性格を思いきり罵った。いま重要なのは滝沢美和の行方を知ることだ。もちろん、みのりの件もある。こんなことをしている場合ではない、少しでもいいから休まなくてはならないのに。
飾磨恭子が西武新宿線の踏切にさしかかったときだ。踏切手前に止まっていた車から男がひとり降り立った。あたりを見回してそっと車のドアを閉め、歩き始める。暗くてよくわからないが、中年以上の年齢のスーツ姿の男だ。それだけならどうということもないが、ひとつおかしな点があった。履いているのがスニーカーなのだ。わたしは車のナンバーを書き取り、携帯を押した。光浦が出た。
「あたりが出たよ。変なやつが飾磨さんを尾けてるみたい。そっちへ向かってる」
広々とした一本道で、しかも下り坂だ。わたしの位置からは尾行男、飾磨恭子、先頭を行く光浦の姿まではっきりと見てとれた。光浦は軽く飛び上がったようだった。
「ア、アタシどうすればいい? ええと、オーバー?」
トランシーバーじゃない。
「ソテツ荘を行き過ぎて、五の坂あたりで様子をうかがってて。通信、つないだままで大丈夫?」
「平気」
「それじゃ、つなげといて」
わたしたちは一列に進んだ。男はときどききょろきょろしていたが、まさか自分が尾行されるとは予想だにしていないらしく、わたしには気づいていない。一定の距離を置いて、飾磨恭子の背後をぴったりとマークしている。
わたしたちは林芙美子記念館の前を通りすぎ、店じまいした花屋をすぎた。そのあたりから、なにか低い、ぼそぼそとした呪いのような声が聞こえてきた。背筋がすうっと冷たくなった。
「お〜きな袋を肩にかけ……」
なんと、光浦の歌声だ。夜道でこんなものを聞かされては痴漢よりよほど心臓に悪い。
「か〜わをむかれてあかハダカ〜」
わたしは慌てて携帯で光浦に申し渡した。
「ちょっと。その歌やめてよ」
「しかたないでしょ。アタシの母親、童謡歌手で、この歌ばっかり聞かされて育ったんだから。無意識に出ちゃうのよ」
「せめてもう少し明るいメロディにしてよ、薄気味悪い」
ふと気づくと、光浦、恭子、男、わたしの歩調ははかったように一緒になっていた。左、右、左、右。わたしはいぶかしんだ。男が恭子を尾行しているのはもはや間違いないようだが、痴漢にしてはやっていることがおかしい。
やっとのことで、光浦がソテツ荘にたどり着いた。そのままぎこちない足取りで五の坂へ向かう。角に、玄関に三輪車を置いている家があるのだが、その陰に隠れたところで、わたしは指示を出した。
「恭子さんが部屋に入ったら、男の様子を見て押さえる。わたしが声をかけるから、光浦も背後から出てきてくれない?」
「了解」
「恭子さんが部屋に入るまで気を抜かないでよ」
恭子がソテツ荘の中庭に入っていった。わたしからは姿が見えなくなる。男はソテツ荘の壁際に立ち止まり、中をうかがっている。わたしは少し離れた電柱の陰に身をひそめた。電話から光浦の声がした。
「恭子ちゃん、緊張してるらしくて鍵落として捜してる。あの野郎、なんかじりじりしてるみたいよ」
「鍵開けた瞬間、部屋に押し入るって痴漢の常套手段だから、気をつけて」
「わかった。あ、恭子ちゃんがドアを開けた」
そのとき、男が忙しく周囲を見回し、早足でソテツ荘の入口へと向かった。わたしは足が痛むのも忘れて駆け寄った。
「ちょっとすみません」
男は飛び上がって、振り向いた。ドアが急いでばたんと閉まる音がした。
「失礼ですが、お聞きしたいことがあるんですが」
「な、なんだあんた」
近くで見る男は頬がこけ、目がでっぱり、ヤニだらけの歯の、不審きわまりない人相の持ち主だった。二時間ドラマの九時五十分あたりで殺される、変態にして脅迫者、といった役回りに採用されそうな趣がある。わたしは手ぶらであることを、またしてもつくづく後悔した。
「いまあなたが尾けていた女性の友人です。西武線の踏切近くに駐車してあった車から、ずっと尾行してらっしゃいましたよね。理由をお聞かせいただけますか」
「そんなことはしていない」
男は後ずさりして光浦にぶつかり、飛び上がった。
「嘘つけ、おっさん。あんたなに? 痴漢?」
「冗談じゃない。たまたま通りかかっただけだ」
「彼女はこのところ、水曜日になると誰かに尾行されて怯えてました。あなたは車を下り、わざわざここまで徒歩で来た。しかも、彼女が鍵を出して、ドアを開けた途端、踏み込もうとした。わたしと彼が証人です」
「おまえらみたいな怪しいやつの証言なんか、しらん」
「どういうことか、事情を説明していただきましょう」
「おまえらに説明しなければならないことなどなにもない」
「それならそれでもかまいません。車のナンバーは控えさせてもらいました。もし、今後彼女をつけまわしたりしないと約束すれば、そのままにしておきます。でも、懲りずに彼女を尾行すれば、警察に被害届を提出することにします」
「誰をつけまわそうが俺の勝手だ、バカ野郎」
わたしはむっとしたが、光浦はさらに腹を立てたらしくこう言った。
「アタシはこのアパートの大家よ。店子が被害にあって困ってるのよ、どこででも証言してやるんだから」
「なんだ、大家だと?」
なぜか尾行男は急に興奮して、腕を振り回し始めた。
「てめえが大家だって? ふざけやがってこの野郎」
「誰がふざけてるですって」
光浦は男のよろよろしたパンチを避けて、猛然とつかみかかった。言葉は女っぽくても力は男だ。わたしは慌てて引きはがそうとして、絶叫した。光浦が右足を思いきり踏みつけたのだ。
あちこちで窓の開く音がした。ソテツ荘のドアもいくつか開き、店子が数人飛び出してきた。光浦と男を引き分ける作業は彼らに任せ、わたしは壁によりかかって涙を拭った。もし、また骨にひびが入っていてみろ、四ケ月分、いや、半年分の家賃を棒引きにさせてやる。
痛みがやや収まったところでおそるおそる足を下ろし、体重をかけてみると、どうやら骨に異常はなさそうだった。光浦と尾行男はおたがい意味不明な怒鳴り声をあげている。見たところ、ソテツ荘の住人たちはこの降ってわいたような騒動を、心ゆくまで楽しんでいるようだった。まあまあ、と言いながらふたりを引き分けたかと思うと、手を離して殴り合いをさせ、また割って入っている。
「あんたみたいな変態、警察につきだしてやるわ」
光浦がわめいた。
「あんたみたいな非常識な大家は、免許をとりあげるべきだ」
尾行男が言い返した。
「ばーか。大家に免許なんてあるわけないでしょ」
男は言葉につまってまた腕を振りあげた。店子の誰かが止め、誰かが叫び、騒ぎを鎮めるというよりは盛り上げているところへ、髪を茶色に染めた若い男が現れて、どうかしたんですか、と言った。光浦が顔をあげた。
「あ、飾磨くん、あんたも一発殴ってやんなさい。こいつ、おたくの奥さんに痴漢行為を働こうとしやがったのよ」
「恭子に?」
クマのプーさんそっくりの飾磨は目をぱちぱちさせながらけげんそうに相手の顔を見て、ハチに刺されたように飛びすさった。
「げっ、お義父さん」
ソテツ荘の関係者は静まり返った。光浦がオウム返しに言った。
「おとうさん?」
「おまえなんぞにお義父さんよばわりされる覚えはない」
変態人相男が怒鳴った。
「おまえみたいな男に恭子は守れん。娘にひとりで夜道を歩かせやがって。俺がもし痴漢だったら、いまごろ恭子は部屋で、ら、乱暴されてたかもしれないんだぞ。この──卑怯者」
ドアの隙間から様子をうかがっていた飾磨恭子がミュールをはいて、飛び出してきた。恭子の父とおぼしき男はくるりと娘に向き直り、腕をつかんで引っ張った。
「さ、恭子、帰るぞ。こんなやつとは別れればいい。離婚届はこっちで出してやる」
「ちょっと待ってくださいよ」
恭子の父親は光浦、ソテツ荘の住人とわたし、それに飾磨をはったとにらみまわして罵った。
「親の許しも得ないで結婚した夫婦に部屋を貸す大家、その店子に、車がどうしたなどとくだらないことをぬかす女。こんなバカどもと一緒にいるから怖い目にあうんだ」
たちまち、耳をつんざかんばかりの抗議が巻き起こった──当然だが。いちばん大声で抗議しているのが飾磨恭子だと確かめると、わたしは足を引きずって人ごみを抜け出し、部屋へ戻った。
携帯電話が鳴り響いて、目が覚めた。よだれを拭いながら起き直った。枕元のめざましは八時五分を示している。
「葉村か。柴田だ」
武蔵東署の柴田要だった。
「近くまで来てるんだ。話があるからそっちへ行く」
答えるヒマもなく、電話が切れ、それと同時に扉が叩かれた。
寝ぼけ眼でベッドから下りて立ち上がった途端、右足の甲から頭のてっぺんまで激震が走った。再び座りこみ、足をそっとさわってみる。昨日にまして腫れて熱を帯びていた。そうでなくてもかばって歩いているから、両脚ともがくがくする。腰も痛い。
またしても扉が叩かれた。わたしの知り合いには気が短い人間しかいないらしい。
「おい、葉村晶。出てこい」
今度まとまった金が入ったら是が非でもインターフォンを取りつけようと心に誓いつつ、よろよろと扉に向かった。武蔵東署の柴田要が仏頂面で立っていた。
「さっさと目を覚ませ。どれだけ待たせれば気がすむんだ」
わたしはため息をついて寝癖のついた髪をかきあげ、手真似で中へ入れと勧めた。柴田は遠慮なく入ってきて、キッチンテーブルの椅子に腰を下ろした。わたしはぼうっとしたまま、それでもゆうべの一件を思い出し、デニムのシャツをはおってやかんを火にかけた。
「こんな時間になにごとよ」
「礼を言いに来てやった」
ひとをたたき起こした警察官は大いばりで周囲を見回した。
「こんなとこに住んでるのか」
「こんなとこで悪かったね。礼ってなに」
「ま、前に住んでたトイレ共同のアパートにくらべたら、天国みたいなもんだな。あのカーテン、おまえが作ったのか」
「そうだけど。ねえ、なにしに来たのよ」
「意外にマメだけど、相変わらず男っけのなさそうな部屋だねえ」
「ほっといて。ちょっと、話があるんじゃないの?」
「まあね。あ、俺コーヒーな」
よく見ると柴田の目は充血していた。わたしは言ってやろうと思っていた文句を全部飲み込んでコーヒーを入れ、ついでにビスケットとチョコレートを添えてやった。柴田は皿の上のビスケットを洗いざらい口に押し込み、もごもごと言った。
「柳瀬綾子殺しの犯人、捕まったよ」
わたしはコーヒーにむせ返った。望んでいた通りの反応だったとみえて、柴田は嬉しげに笑った。
「滝沢邸のお手伝いのおばちゃん──葉村が情報を提供するように言ったんだってな。あのひとの証言がものを言った。柳瀬綾子の家から大麻が見つかったんで、最初からヤクがらみの線を追ってたんだが、あのおばちゃんが前科者の写真みてくれて、売人の特定ができた。ゆうべからその売人を署に呼んで、締め上げてやってたんだ。時間はかかったがさっきようやく吐いた。これにて一件落着だ」
「犯人は何者なの?」
「名前は小島雄二、三十八歳、暴行と薬物取締法違反の前科があって、最近では個人タクシーの運転手をするかたわら自家栽培の大麻を売ってた。タクシーの乗客に話をもちかけてはさばいてたんだな。柳瀬綾子もそれがきっかけで顧客になったらしい」
いまどき女子高校生がマリファナをやってた、というだけでは驚けないが、個人タクシーで自家製大麻を販売するとは。時代は家内制手工業へと回帰しつつあるらしい。
「柳瀬綾子はこの数ケ月ほど、ずいぶん生活が荒れてたらしいな。おまえのほら、知り合いの女子高校生」
「平ミチル」
「あの子も言ってた通り、派手に遊び歩いてたらしい。彼女の家はごく普通のサラリーマンで、たいした小遣いを持ってたわけじゃない。若い女の子が遊ぶ金を手に入れる、お定まりのコースをたどったんだろう。小島の言うには、三月の中旬頃、柳瀬綾子を六本木で拾い、タクシーのなかで大麻を買わないかと持ちかけてみた。柳瀬綾子は金がないと断った。それなら別のものを提供しないかと誘い、柳瀬綾子がそれに応じた。井の頭公園近くの人けのない木立に車を停めて、関係を持った」
朝っぱらからなんともうるわしい話だ。わたしは胃を押さえてコーヒーを下に置いた。
「ふたりはその後も数回、大麻と身体を引き替えた。ところが、数週間後、柳瀬綾子の友人・滝沢美和にそれが知れて、綾子は二度と小島とは会わないし、大麻も買わないと言い出した。小島は腹を立て、綾子をつけまわし、自分と会わないと両親や学校に大麻や肉体関係をばらすと脅した。すると滝沢美和が綾子の代理だとやってきて、自分の父親は大金持ちで、いろいろとルートも持ってる。わたしがパパに頼めば、あんたみたいなけちな男のひとりくらい、いつでも処分できる。死にたくなければ綾子には近寄るな、とまあ、そんなような意味のセリフを並べたわけだな」
滝沢美和の頑固そうな顎のラインを思い出した。
「小島雄二は即座にびびりはしなかったが、滝沢美和の周辺を調べてあのでっかい豪邸に行き着いた。まんざらホラでもなさそうだ、と悟って、本人いわく『他に若い女がいないわけじゃなし』と、柳瀬綾子から全面撤退したわけだ。ところが」
「五月三日に滝沢美和が失踪し、柳瀬綾子は小島を疑った。よせばいいのに直接尋ねようと小島を呼び出した」
「ひとのお株を奪うなよ」
柴田要はむっつりと答えた。わたしは起き抜けにしては精一杯、柴田の機嫌をとってやった。
「失礼しました。で?」
柴田はわざとらしく煙草を取り出し、手間暇かけて火をつけた。
「柳瀬綾子は小島を呼び出したとき、『美和がいなくなった、あんたに会いたい』と言ったらしい。綾子にしてみれば、美和がいなくなった事情を知りたいから小島に会って話をしたい、という意味だったんだろうが、小島は『邪魔者がいなくなったから、あんたに会える』と言われたんだと勘違いした。喜び勇んで会いに行ったら身に覚えのないことで責め立てられ、かっとなって車のなかで首を絞めた。死体の始末に困って、タクシーから運べるだけ遠くへ運び、放り出して逃げた。綾子の電話やバッグなんかは、家に持ち帰った。以上」
「ちょっと待って」
わたしは灰皿を柴田の鼻先に押し出した。
「身に覚えがない? つまり、小島は滝沢美和の失踪とは無関係ということ?」
「本人の供述ではそういうことになる」
納得できないと顔に書いてあったのか、柴田はわたしをのぞきこんだ。
「昨日、滝沢喜代志が署に来たよ。よほど家族仲が悪いんでないかぎり、娘が自ら家出したなんてたいていの親はなかなか信じないから、滝沢美和の失踪はただのから騒ぎだと思ってた。しかし、おかげさんで事情が変わった。小島雄二には引き続き滝沢美和について話を聞くし、美和の失踪も事件性を考慮して捜査することになると思う」
「助かるよ」
「助かるよ、ねえ」
柴田は皮肉な目つきでわたしを眺め回した。
「おまえ、滝沢美和の失踪に事件性があると本当に思ってるのか。彼女がお金持ちのお嬢さんで、失踪後家族に連絡も入れず、荷物も持たず、金も引き出してない、というのは滝沢喜代志から聞いたが、だからって家出でないとは言い切れない。気の強いお嬢さんのようだから、両親の力を借りずに生きていきたい、なんて青くさい思想に燃え、自立をめざして家出したってことだって考えられる。俺の個人的な感想だけど、小島雄二は滝沢美和に関しては本当になにも知らないんじゃないかな。しょぼい野郎なんだよ。もしあいつが美和を殺したんだったら、今ごろ死体が出てる」
柴田の言う通りだといいと心から願った。だが、そうは思えなかった。どうしても。
「ともかく、俺も滝沢美和の周辺をあたることになったから、葉村と同じ事件を追っかけることになるわけだ。そこで相談なんだが、なにかわかったことがあればすぐに知らせてくれよ」
「それが、相談?」
「わかった。お願いだ」
「警察が探偵頼ってどうすんの」
「公共機関と国民が共に痛みを分かち合う時代がやってきたんだよ。──いや、正直な話、俺、他にも仕事抱えてんだ。滝沢美和ばっかり追いかけているわけにはいかないの。おまけに八月には子どもが生まれるから、たまには女房の手も握っててやりたいしさ」
「へえ、それはおめでとう。すごいじゃない」
柴田はたちまちやにさがった。
「いっときはあきらめてたんだけど、ついに。初めての子どもなんだ。男の子だって。将来パパと同じ警察官になりたいなんて言われたら、どうしよう」
子どもについてののろけ話は、恋人や配偶者ののろけにまして相槌の打ちようがない。とりあえず一緒ににこにこしていたが、まだ生まれてもいない息子自慢がはてしなく続き、頬がだるくなってきた。
「無事に生まれたら知らせてよ。お祝い送るから」
「いいよ、お祝いなんて。それより、そういうわけだからね、調査の過程で判明した事実は武蔵東署までどしどしお送りください。いまわかってることだけでも教えてくれていいんだよ」
柴田はおばあさんに化けた狼が赤ずきんちゃんにみせたような愛想をしきりと振りまいた。わたしはまじめくさってうなずいた。
「警察に協力するのは市民の義務ですから、喜んで。でも、なにしろ依頼を受けたのは昨日の午後だからね。美和の部屋を調べ、家政婦と母親の辻亜寿美に話を聞いただけで、たいして進展してないんだ」
「美和の部屋から失踪と関係ありそうなものは見つかったか」
柴田は興味なさそうに爪をはじきながら訊いた。
「なんにも。家政婦から聞いたでしょ、父親は娘の部屋に入って、気に入らないものは片っ端から捨てちゃうらしいんだ」
「母親はなにか言ったか」
「関係ありそうなことはなにも。美和がいなくなった直後に海外へ出かけていて、一昨日まで失踪を知らなかったって本人は言ってる。娘はお堅いタイプだったとも。一年前につきあってたボーイフレンドの名前を教えてくれたから、今日あたってみるつもり。辻亜寿美について、気になることがあることはあるんだけど」
わたしは言葉を濁した。柴田は爪をはじきながら、顎をしゃくった。
「亜寿美にはあまり公にしたくない恋人がいるんじゃないかと思うのよね。ゆうべもどうやら亜寿美の部屋にいて、こっそりこっちの話を聞いてたみたい。もちろん、雇ったばかりの調査員に、こちらが私の彼氏ですと紹介する人間も珍しいし、探偵が失踪調査に来てると聞けば誰だって好奇心をそそられるだろうから、ただの下司の勘ぐりかもしれないけど、ちょっと気になるわね」
「なるほどな。それだけか」
「いまのところは」
「進展があったら連絡くれよ。直接俺のとこへ。頼むわ」
「直接俺のとこへ?」
わたしはそらとぼけて小首をかしげてみせた。
「速見お粗末刑事じゃダメ? あのひと、好みなんだけどな」
「治松。いいから、俺に連絡しろ」
柴田は少々慌てたように見えた。わたしは軽くゆさぶりをかけることにした。
「そういえば、前科者リストってすぐ検索できるよね」
「なんなんだよ、急に」
「ひとつ、名前を調べてもらえないかなあ。これは個人的な頼みで、今回の件とは関係ないんだけど」
「おまえは人権って言葉を知らんのか」
「牛島潤太」
わたしは桜井から教えてもらった字をメモに書いて渡した。
「前科があるかどうかだけ。柴田だってわたしとは長いつきあいじゃない。自分だけ幸せになりたいとは思わないでしょ」
柴田は絶句してしげしげとわたしを眺め、罠にひっかかった。
「お、そうか。そういうことか。葉村にもついに春が来たのか」
わたしはうつむいてもじもじしてみせた。柴田は破顔して大きくうなずいた。
「どこの野郎か知らないが、度胸は相当なもんだな、え? こんな疑り深い女に手を出そうとは。よし、わかった。調べてやる。その代わり、葉村も滝沢美和の件で進展があったらすぐ俺に直接連絡するんだぞ」
「もちろんよ」
わたしたちは堅く握手を交わして別れた。柴田はわたしを騙せた、滝沢美和の件にそれほど興味がないと思わせることに成功した、といまごろほくそ笑んでいるはずだ。残念ながら、わたしはそれに気づいていた。小島雄二の家宅捜索の結果、滝沢美和に関するブツが出てくる可能性はかなり高い。わたしからの情報で、柴田が手柄を立てたがっているのは明白だった。
一方、わたしは〈カナ〉の件を伏せることができた。美和のパソコンの配送先がわかり、明石香代の娘の所在を確認できれば、滝沢美和にぐっと近づくことができるはずだ。
おまけに、みのりのオトコについての情報までもらえる。わたしはおおいに満足だった。公共機関と国民が共に痛みを分かち合わなければならないとしても、痛みの割り当ては国民負担分のほうが大きいに決まっている。たまにその比率が逆転したところで、国民はいっこうに困らない。
知り合いの名簿斡旋業者を拝み倒して、R大学文学部藤崎悟史の住所を手に入れた。長野出身で新井薬師にアパートを借りている。うちのすぐ近所だ。
美和とつき合っていた去年、三年生だったということは、今年は就職活動に明け暮れているだろうとは思ったが、直接あたってみることにした。幸い、藤崎は部屋にいて、朝飯おごってくれるなら話してもいいっすよ、と言った。
変に客にこびたり、趣味に走ったり、インテリア雑誌をそっくり真似たり、そんな店は新井薬師かいわいにはほとんど見あたらない。そんななかでもことに地に足のついた感じのする、すすけた駅前の喫茶店に入った。藤崎悟史は辻亜寿美が「魅力的だった」というだけあって、なかなか精悍な顔立ちの若者で、朝から焼きうどんを平気な顔でたいらげ、コーヒーを二杯飲んだ。
「美和とつきあってたって、なにしろ二週間かそこらだったから。こっちも長続きはしないだろうと思ってたけど」
「どうやって知り合ったの?」
「友達の紹介っすよ。てゆーか、俺ていよく逃げられたっていうか。そのコにアタックしたら、別のコ紹介されて。けっこうかわいかったから、ま、いっかと思って」
わたしは目をぱちくりさせた。
「つまり、あなたが好きだった女の子に美和さんを紹介されてつきあい始めたと」
「そーゆーこと。でもね、最初からうまくいきっこねーなとは思ってたんっす。だって、二度目のデートでいきなり母親紹介されて、それがすっごい高級マンションに住んでて、俺、気に入られていきなりコレもらったんっすよ」
藤崎悟史は左腕を持ち上げた。ロレックスの腕時計がはまっていた。
「そりゃ嬉しくないことはないけど、やっぱ、こーゆーのってマズイっすよ。俺も人間だから、つい、次はなにもらえるのかとか、期待しちゃうし。女の子の親にモノもらって喜んでるって、男としてどうかと思うし。それに、美和っていいコなんだけど、いまいちぴんとこないっていうか、相性が悪いっていうか。あのコ融通きかないんだよね」
「それでキスしたわけだ」
藤崎悟史はでへへ、と笑い、きれいに日焼けした顔をこすりあげた。
「まあね。ここだけの話、人前でキスしたらこのコ、どんな反応するかなって興味あって。俺、心理学科なんすよ」
それとこれとどういう関係があるかわからないが、藤崎は勢いづいてまくしたてた。
「やっぱ、親がだらしないっていうか、世間のルールからはみだしてると、子どもって逆にものすごく秩序を重んじるようになるんだよね。俺、いろんなパターン収集してんだけど、そういうケース、意外に多いんっすよ。美和は怒ったけど、キスされて怒ったんじゃなくって、自分の考えるステップと違ってたから怒ったんだよね。これがあと一週間先で、家まで送って玄関先の暗がりだったら絶対怒らなかったと思う。探偵さん──葉村さんでしたっけ」
藤崎はわたしが渡した〈長谷川探偵調査所調査員 葉村晶〉という名刺を見ながら言った。
「葉村さんってひとり暮らしでしょ。それもけっこう長い。上に兄弟が何人もいる──たぶんお姉さんが。あたってます?」
わたしは度胆を抜かれた。藤崎悟史は悦にいったようにうなずいた。
「パターンっすよ。ストローの紙の始末とか椅子の座り方とか、服装とか顔の表情とか、そーゆーのでだいたいわかっちゃうんっす。たぶん、俺が葉村さんにキスしたらぶん殴られるだろうけど、それって理由はその気がないのにキスされたからってだけで、他には全然意味ないんだろうな」
十も年下の男の子に分析されて、ひどく老けこんだような気がした。
「えーと、それで、そのキス以来、美和さんには会ってないの?」
「全然。俺、いろいろパターン集めてたんっすよ。卒論書くのに必要だから。その気のない女の子追っかけまわしてるヒマないし。念のため言っとくけど、そのためだけに美和とつきあったわけじゃないっすよ。俺、そこまでひどいことしないし。普通は卒論のためだってちゃんと断って、話聞いて、ためしにキスして反応みるだけで。でも、ホントのとこ、美和から連絡なくってホッとしたけど。ああいう世界の違う女の子とつきあうと、こっちの金銭感覚とかもマヒしちゃいそうで、マズイもんね」
どういう理屈なんだ。頭が痛み出したので、話題を変えた。
「美和さんを紹介してくれた女の子って、誰?」
「ああ、カナですよ。水地《みずち》佳奈」
藤崎悟史はすらっと言った。顔色が変わるのが自分でもわかった。
「あなたとはどういう知り合い?」
「行きつけの映画館で彼女が働いてて、そこで。俺、映画ってけっこう好きで、その頃桜上水に住んでたから、下高井戸にある映画館の会員になったんっす。ビデオで見るより画面がでかいから迫力あるし、いっとき病みつきになって毎週行ってたら顔見知りになって。レイトショーが終わった後、飯一緒に食わないかって誘ったんっすよ。それからたまに会ったりメールのやりとりとかするようになって、そのうちこっちもマジになっちゃって。だけどちょうど間が悪かったんだよな。佳奈のお母さんその頃入院してて、佳奈はその気晴らしで俺とは愚痴友達してたわけ」
「愚痴友達?」
「なんてーかな、それほど親しくないから気楽に愚痴とかこぼせるってことあるっしょ。それ。親しいひとには言いづらいけど、いつでも会うのやめられる相手にはなんでも言えるってやつ。俺、それだったんっすよ。佳奈のお母さんって離婚して佳奈とはずっと会ってなくって、お父さんとか祖母さんとか死んで一緒に暮らせるようになって。だけどお母さんがすぐ病気で倒れて、佳奈は甘えるどころか働いたり看病したりしなきゃなんなくて。そーゆー状況だとさ、愚痴こぼしたくなるよね。でもそれって、あんま知られたくないことでしょ。死にかけてるお母さんの悪口言ったなんて、知らない人間が聞いたら、なんか、すっげーひどいやつみたいだし。葉村さんも佳奈のこと、そーゆーやつだと思ってたでしょ」
「え?」
突然お鉢がまわってきたので、まともに反応できなかった。かえってそれがよかったのかもしれない。藤崎悟史はしたり顔で言った。
「さっき顔色変わったし。知ってたっしょ、佳奈のこと。けど、言っとくけど、ホントはいいコなんすよ。んでさ、佳奈のお母さんが死んだ後は、佳奈は俺に会いたくなかったわけ。悪口言ってた事実と俺が一体化しちゃってっからさ。俺としちゃ不本意だったけど、でも、しょーがないっしょ。したら、佳奈が俺のことすっごくいいひとだからって、美和に紹介したって、そーゆーことなんだけど」
「佳奈さんと美和さんが一緒に住んでた、なんて話は聞いてない?」
「知らないなあ。でも、佳奈のこと助けてあげてるんだって、美和は言ってたけど」
「それは経済的にってこと?」
「さー、そこまでは。ありうるとは思うけど。美和が金持ってたのは確かだし。んでも、佳奈が美和から黙って金受け取るとは思えないけどな。金が絡むと友達やってらんなくなるって、いつか話したことあったし」
藤崎悟史が水地佳奈に惚れていたのは確かなようだ。美和に対しては批判的だが、佳奈のことは美化している。
「美和さんと別れてから、佳奈さんとは会った?」
「一度か二度会ったし、メールのやりとりはしたけど。住んでた桜上水のアパートからこっちに引っ越したから、映画館にも行かなくなって、もう半年以上連絡とってないかな。あ、でも、年賀メールはもらったっけ。あけましておめでとうってだけだったけど」
「佳奈さんの連絡先を教えてもらえるかしら。彼女なら、美和さんの居場所も知ってるかもしれないから」
「いいっすよ。けど」
藤崎悟史は急に上目遣いになった。
「佳奈に会ったら、俺のこと、さりげなく言っといてもらえないっすか。会いたがってたとか、その程度でいいんっすけど。半年たって、佳奈も気が変わってるかもしれないし」
お安い御用っす、と約束して藤崎悟史と別れた。
藤崎の姿が見えなくなるなり、教えられた佳奈の携帯に電話を入れた。彼がこちらより先に佳奈に連絡をとるのはマズイ、ととっさにとった行動だったが、その番号は現在使われていなかった。
となると、直接、水地佳奈の家に行くしかない。住所は三鷹市下連雀にあるマンションになっていた。これは意味深長だ。滝沢美和の家のある吉祥寺と学校のある武州市、どちらからも距離的に近く、バス路線上に位置している。
歩き出そうとした途端、冷や汗が背中をつたった。足が──脚も──痛い。病院から松葉杖をもう一度借りたほうがいいかもしれない。
近くの薬局で湿布薬を買い、その場で貼った。昨日のスニーカーはゴミ臭くて履けたものではなかったので、今日は紐で縛るタイプの革のウォーキングシューズにしていた。湿布を貼った足を靴にねじ込むのは至難の業だった。薬屋の椅子を借りて作業をすませ、それだけで今日一日の体力をすべて消耗した気分で表へ出てタクシーを拾った。車が中野に出たあたりで携帯が鳴った。長谷川探偵調査所の村木義弘だった。
「葉村か? パソコンの配送先わかったぞ」
「水地佳奈、三鷹市下連雀のマンション富山五〇二号室」
電話のむこうで村木は沈黙し、ややあって、苦々しそうに言った。
「葉村ってときどき、首の後ろにあざを作ってやりたくなるほどかわいいよな」
今度はわたしが沈黙する番だった。村木は咳払いして続けた。
「所長に言われて、俺もそっちへ向かってる。途中で拾ってやろうと思ってたんだけど、いまどこだ?」
マンション富山の前で落ち合うことに決めた。
問題のマンションは、ごく平凡な建物だった。築十五年、コンクリート外壁、五階建て。建物と建物に挟まれて、ひょろっと細長く見える。北向きの暗い入口には〈関係者以外立入禁止〉という白いプラスティックのプレートが貼ってあった。
ひとりで踏み込もうかと思った。村木は頼りになる同僚だが、女性に突然会いに行く場合、こっちも女性ひとりで応対したほうがわりにうまくいく。──というよりも、わたしはひとりで水地佳奈を問いつめてみたかったのだ。
だが、そんなことをすれば、村木はもちろん長谷川所長だって良い顔はしないだろう。
ヒマつぶしに近所をぶらぶらと歩いた。得体の知れない工場や研究所などが住宅やアパートにまざって建っているせいか、埃っぽくて落ち着かない所だ。住宅地としても商業地としてもいやに中途半端で、彩りに欠ける。それでも新しくて立派なマンションがいくつも目についた。バスを使わなければ電車の駅には出られない場所だが、その分値段が安くすむので人気があるのだろう。ある巨大なマンションなどはバス停の真正面にあって、一階には照明器具やステンドグラスの店、花屋などが並んでいた。ごく平凡な日本人が思い浮かべる優雅な生活のイメージに、哀しいほどぴったりとあてはまるような店ばかりだった。
店並びの一番端に、不動産屋があった。このあたり、いくらくらいするのだろうとのぞいてみた。三LDK中古の売りマンションが二千八百万前後。賃貸では二LDKで九万前後だった。安いといえば安いのかもしれない。どっちみち、わたしの手が届かないことに変わりはないが。
ひやかし気分で窓にずらりと貼られた間取り図付のチラシを見ていたが、ある一枚に目がとまった。台所と風呂とトイレに振り分けの六畳間がふたつ。家賃八万五千円。即時入居可。住所、三鷹市下連雀、マンション富山五〇二号室。
水地佳奈が住んでいた部屋だ。
どういうことだ?
わたしは引き戸を開けて、声をかけた。いまどき珍しく、安っぽい事務服を着た中年女性が笑顔でわたしを見上げた。
「表に出ている部屋の件なんですけど。このマンション富山の五〇二号室」
「マンション富山の五〇二号室?」
事務員の笑顔が引っ込み、木で鼻をくくったようなもの言いになった。
「ああ、それね。見たいですか」
「ちょうどこういうの、捜してたんです。見せていただけますか」
「ちょっと、いま担当者が出ててねえ」
「鍵をお借りできれば、ひとりで行きます」
「それは私じゃ決められないわねえ」
事務員はわざとらしい大あくびをして、鼻をかみながら言った。
「これでもひやかしとそうでない客の区別くらいできるんだよ。あんたはひやかし。そうだろ?」
この仕事を始めて六年、ずいぶん神経が太くなってきたと思うが、こういう相手にでっくわすとぞっとする。
「あの部屋、いつから空いてるんですか」
事務員は手を振って追い払うようなしぐさをした。わたしは食い下がった。
「大家さんだけでも教えてもらえませんか」
「やなこったよ、ずうずうしい。質問されるのは大嫌いなんだ。あの部屋について知りたければマンションの管理人にでも聞くんだね」
追い払われて店を出ると同時に、村木の4WDがやってきた。
「部屋番号は五〇二。そっちと同じか」
挨拶もそこそこに彼は言った。
「そうなんだけど、ちょっと問題が」
不動産屋のチラシを示し、事情を説明すると、村木も驚いたように目をむいた。
「せっかくの手掛かりがなんとも宙ぶらりんなこった」
「管理人に話を聞くしかないでしょうね」
「わかった。で、どうする? 葉村ひとりがよければ、俺は待機してるが」
「え?」
村木は煙草を車の灰皿にねじこんで、肩をすくめた。
「当分、葉村の足になってやれって所長に言われてるんだ。つまり、葉村の使い走りってことだな。自由に使ってくれてかまわねえよ」
わたしはぽかんと口を開けた。村木は元警察官で、わたしが長谷川探偵調査所に勤め始める前からのスタッフだ。年齢はふたつしか違わないが、キャリアは倍ほど違う。実際、長谷川探偵調査所は村木の働きでもっていると言っても過言ではない。その先輩をわたしの下にまわすとは。
冷静さを取り戻すまで、少々間が開いた。村木はわたしのこういう反応を予想していたらしく、にやにやしながら車にもたれている。わたしは彼をにらみつけた。
「よければ一緒に来てよ。話を聞いておいてもらいたいし」
「オーケー、ボス」
わたしたちはマンションへ踏み込んだ。五〇二号室の郵便受けにはやはり名札が貼られていなかった。顔を見合わせたところへ、声がかかった。
「なんか用か」
管理人室と書かれた正面の扉が開いて、男が顔をのぞかせていた。六十代後半だろう、口をへの字に結び、絵に描いたような頑固ジジイに見える。
「水地佳奈さんに会いにきたんです。ここの五〇二号室にお住まいでしたよね」
管理人は健康サンダルを履いて、わたしたちに近寄ってきた。
「水地さんになんの用だ?」
「それはご本人に直接話します。彼女はここに……?」
「もう住んどらんよ」
管理人の口調は、いまいましさとわたしたちを失望させる喜びをあい混ぜたようなものだった。村木がわたしをちらっと見て、口をはさんだ。
「本当かな。彼女の友人にここだと聞いてきたんだけど」
「嘘を言ってどうなる。もう住んでない」
「いつ引っ越したんだい?」
「そんなこと聞いてどうする。さっさと帰れ。そこに書いてあるだろう。関係者以外立入禁止だとね」
「いつ引っ越したかくらい、教えてくれたっていいじゃないか」
村木は煙草を取り出して、ちらっと袋を見せた。パッケージに千円札を数枚はさみこんである煙草を、彼はいつも用意している。これがけっこういろんなひとの口の滑りをよくするのだが、この場合は逆効果だった。管理人はしみの浮き出た顔を意地悪げに歪めた。
「若い女が不愉快な目にあう世の中だからな。誰かひとりくらい節度ってもんを守らにゃならん。おら、とっとと帰れ。警察を呼ぶぞ」
わたしは滝沢美和の写真を取り出して、彼の鼻先につきつけた。
「わたしたちは母親に頼まれてこの子を捜しているんです。水地さんはこの子の友人です。話を聞きたいだけなんですが」
管理人は鼻を鳴らした。
「口じゃなんとでも言えるな。ともかく水地さんは引っ越して、もうここにはいないんだ。よそをあたるんだね」
「それじゃせめて、この子が水地さんの部屋に出入りしてなかったかどうかだけでも教えてもらえませんか」
「知らねえよ。出てけ。警察を呼ぶぞ」
管理人はぶるぶる震える手で受付にある電話の受話器をとりあげた。呼ばれて困るようなことはなにもないが、事情を知らないおまわりさんにこれまでの経緯を長々と説明する気にもなれなかった。とげとげしい視線を背中に浴びせかけられつつ、わたしたちは外へ出た。
「水地佳奈があのマンションから引っ越したってのはホントらしいな」
車に戻りながら、村木が首をひねった。
「それにしてもガードが固すぎる。どういうこった」
出会うひとすべてが喜んで情報を提供してくれる──わたしが生きている世界は、残念ながらそれほどファンタジックではない。そもそも自分だって、街頭のチラシ配りを無視し、電話セールスは叩き切り、毎週のように新聞勧誘員とバトルを繰り広げているのだ。藤崎悟史みたいにぺらぺら喋ってくれる情報提供者など、東京では珍獣に等しい。しかし村木の言う通り、それを考慮に置いたとしても、不動産屋の事務員とマンション富山の管理人の反応はいささか不自然だ。
「さてと。どうする?」
所長に登記簿を調べてもらって大家を捜し出すか、柴田要に言って国家権力を動員するか。どちらにしても時間がかかる。あの管理人が警察手帳にどんな反応を示すかぜひ見物したいところだが、まずは水地佳奈の勤め先、下高井戸の映画館に行くことにした。
「水地佳奈、滝沢美和の失踪に関係してると思うか」
甲州街道に出たところで、沈黙していた村木が訊いてきた。わたしは顔をしかめた。
「わかんない。わからないけど──イヤな予感がする」
「なんでだ?」
「今朝、柳瀬綾子を殺した犯人が捕まったと聞いたときには、これで滝沢美和の居場所もすぐにわかるだろうって思ったんだけどね。水地佳奈の携帯電話の契約が解除されてて、マンションを引っ越したと言われて、なんだか映画館に行っても水地佳奈には会えないような気がしてきた」
「どうしてだよ」
「東都総合リサーチの桜井さんから聞いたんだけどね、彼、平ミチルが家出したときに滝沢美和と柳瀬綾子に話を聞いてるんだ。ふたりは平ミチルがいなくなったと聞かされて怯えてたそうよ。単純な家出だとわかって、安心したらしいけど」
「なんだそりゃ」
「ミチルの話じゃ、美和と綾子はある共通の友達の紹介で知り合ったって。ミチルはその〈共通の友達〉については思わず口を滑らせたって感じで、それが誰なのかは答えなかった。いま思うと、ミチルも怯えてたみたい」
「よくわからんな。なにが言いたい」
「その共通の友達ってのが水地佳奈で、まず佳奈が行方不明になったんだとしたら?」
村木は無言で混雑を避け、旧甲州街道へ車を乗り入れた。わたしは続けた。
「美和が持っていた絵はがきの文面を見ると、佳奈はなにか危ないアルバイトに首をつっこんだように思えるのよね。佳奈には近しい血縁者がいない。行方不明になったところで、心配するのは滝沢美和や友人たちだけでしょう。つまり……」
「憶測だな。全部」
村木はにべもなく言った。
「水地佳奈が行方不明になったかどうか、まだわかってない。滝沢美和が隠れ家を持っていたのかどうかも定かじゃない」
「美和の買ったパソコンが水地佳奈の部屋に届けられていたのに?」
「それはそうだが、水地佳奈はあの管理人ジジイに嫌気がさして引っ越しただけなんじゃないか」
「かもね」
下高井戸の映画館は市場の裏手の、見落としてしまいそうな場所にあった。午前の遅い時間だというのに、市場からは威勢の良い呼び込みの声が、五月の風にのって流れてくる。足はまだ痛んでいたが、歩くのは苦にならず、手入れされたこぢんまりとした家々の続く路地を進んでいくと〈シネマ杉並〉という小さな看板があがっていた。現在上映中は『エリザベス』と『グリーンマイル』。レイトショーはビリー・ワイルダー監督の『シャーロック・ホームズの冒険』。うーん、観たい。
映画館関係者へのインタビューは期待外れ、いや、予想通りだった。
「水地さんなら辞めましたよ」
事務所でパソコンに向かっていた若い男はそう言って頭を掻いた。
「それはいつですか」
「ええと、あれは──ちょっと待って」
男は古めかしい黒い綴りを持ってきてめくった。
「三月だね。三月二十日になってる」
「どうして辞めたんですか」
「ところで、あんたたち、なに?」
水地佳奈さんに莫大な遺産がわたることになったんです、とかなんとか言ってやりたい気持ちを抑え、正直に説明した。映画館の男は美和の写真を見て、ああ、と言った。
「この子なら、先月訪ねてきたよ。やっぱり水地さんを捜してるって言ってたな」
「先月のいつです?」
「はて」
男は見えないスクリーンを見上げているような格好で、半眼になった。
「セイモア学園の制服を着てたな。学校帰りだった。だから四月の一週目ってことはないと思う。もう桜がすっかり散って、そこの道にほうきかけてるとき来たんだから、十日前後じゃないかな」
やはり滝沢美和は水地佳奈を捜していた。あたっても少しも嬉しくない予想だった。
「それで、彼女にはどんな話を?」
「水地さんがいつ、どうしてここをやめたのか聞きたがってた。あのときはね、金曜日──だから三月十六日か。金土日と三日間休ませてくれって言ってきたんだよ。もうひとりの受付のおばちゃんが学校の用事だの子どもの病気だので休むと、代わりに働いてくれてたから、ここらでご褒美と思って三連休をやったんだ」
「休む理由は言いましたか」
「法事じゃないかな。彼女の母親が一年くらい前に死んで、その母親のことで、と言ってたから」
絵はがきの文面とは一致しないが、法事と風邪はずる休みの二大口実だ。仕事先に別のアルバイトをするから休みますとは言わないだろう。
「それで、それっきりですか」
「そう。月曜日の十二時に──うちは平日十二時から上映するんだけど、来なかった。電話を入れたが留守電だったし、携帯はつながらないし。無断欠勤するようなコじゃないから心配はしてたんだよ。翌日も連絡がなかったら、家まで行ってみようかと思ってたら、火曜日の朝に電話があって……」
「水地さんから?」
「いや、彼女の叔父さんから。事情があって佳奈はもうそちらにはうかがえない、辞めさせてほしいって」
わたしと村木は顔を見合わせた。
「急にそんなこと言われても困るし、未払いの給料もあるから、一度でいいから顔を見せてくれと言ったんだけど、勝手に辞めさせてもらうんだから未払い分はそちらで処理してくださってけっこうです、長い間佳奈がお世話になりました、がちゃん」
男はおおげさに肩をすくめてみせた。
「それで終わり?」
「そう。それで終わり」
「そのこと、美和さん──このコにも伝えたんですか」
「ああ、隠すことじゃないし。びっくりしてたみたいだな。水地さんに叔父がいるなんて聞いたことがないって。近親者は去年死んだお母さんが最後だと思ってたって」
話している間にも、お客が数人、会員証らしきものをちらっと提示して背後を通り抜けていった。十分ほどで十二時になる。男は立ち上がって、悪いけど、と言った。
「そろそろ上映の準備しなきゃならないんでね」
「あと少しだけ。水地さんはどうしてこちらで働き出したんです? 保証人は?」
「二年ほど前に、求人広告を見てやってきたんで採用した。保証人なんていないよ。盗まれるようなものもないし」
「履歴書が残っていれば見せてもらえませんか」
「ないよ。そのコにあげたんだ」
男は美和の写真に顎をしゃくった。
甲州街道沿いの和風ファミリーレストランでカツ丼を食べ、三鷹市役所へ取って返した。最近では便利な印鑑キットというのがあって、すぐに三文判が作れる。なんでもそろっている村木の車のなかから印鑑キットを捜し出し、〈水地〉の三文判を作った。
「ねえ村木さん、前に特殊警棒譲ってくれるって言ってたよね」
作業を退屈そうに眺めていた村木は、サングラス越しにわたしをちらっと見た。
「ああ。いま必要か」
「早いほうがいいな」
「なんだよ、今度はどういうトラブルなんだ?」
「東都総合リサーチの世良」
「葉村の足を踏みつぶした野郎か」
「よっぽどわたしのこと、恨んでるらしいんだわ」
「いざってときに大事なところ蹴とばされたんだもんなあ」
「刺されたうえに骨にひび入れられるよりマシじゃないよ」
「まったく。──わかったよ」
村木はあちこちごそごそ捜していたが、三十センチほどの銀色の細い棒を取り出してきた。
「とりあえず、これ持ってろよ。ここをこうすると」
村木は柄の端についている輪になったひもに手を通し、ボタンを押してぶんと振った。棒の先端が伸びて、長さが倍になった。
「この部分は強化プラスティックになってる。先端のこの球を相手の首筋かこめかみに打ちつけてやればかなりのダメージを与えられる」
試してみた。伸びた部分は鞭と同じようにしなる。
「だけど、これはお守り程度に考えておいたほうがいい。むこうが油断しているときに一撃加えてひるんだところを逃げ出す、その時間稼ぎのお守りだ。武器なんか振り回しても腕捕まれたらアウトだからな。こいつが敵に渡ったら、逆におまえのほうが不利になる」
「そうだね」
「それに、調子に乗ってバコバコ叩いて重傷を負わせちまったら、過剰防衛になりかねない。手近の花瓶かなにかで応戦したのと、あらかじめ武器を用意してたのじゃ、警察の心証だって変わってくる」
「わかった」
「いざってとき、すぐ取り出せるかどうかも怪しいもんだ。こいつを出すことにこだわって無意味に時間を使い、逃げられるものも逃げられなくなったんじゃバカだ。葉村は格闘の経験が少ないんだから、こいつを過信しないほうがいいぞ」
棒を元通りのサイズに収め、ジーンズの後ろに差し込んだ。上から麻のジャケットを着て隠した。村木はにやりとした。
「今度わき腹に吊せるホルスターをプレゼントしてやるよ」
市役所の住民票窓口へ向かいながら、頬がゆるんでくるのを感じた。新しくて面白いおもちゃをもらった子どもみたいな気分。
バカな話だ。
水地佳奈の住民票は移動されていなかった。下連雀のマンション富山のままだ。やはり、引っ越したというのは怪しい。
辻亜寿美の言っていた、葉崎の滝沢別邸の管理人に明石香代・水地佳奈親子について話を聞く必要が出てきた。そろそろ武蔵東署の柴田要にも、この件を伝えなくてはならないかもしれない。
そう思いながら駐車場に戻ると、車の外で携帯電話に耳を押し当てていた村木がわたしに気づいて片手をあげた。
「所長からだ。辻亜寿美が依頼をとりやめると言ってきたそうだ」
「……なんですって?」
わたしは村木から携帯をひったくった。パチンコ店のなかにいるのだろう、けたたましい音楽と機械音が鳴り響いている。
「もしもし、所長?」
「おお、葉村か。お聞きの通りだ。辻亜寿美が依頼をとりさげてきた」
「いったいどういうことなんです?」
「柳瀬綾子を殺した、小島雄二って野郎が警察に捕まったのは聞いてるな?」
所長は周囲の騒音に負けじとばかでかい声で言った。
「聞きました。マリファナの売人だとか。でも、柳瀬綾子の殺害は自供したようですけど、滝沢美和についてはまだなにも喋ってないって話ですよ」
「小島の家からリストが見つかった。二十人くらいの女の名前ばかりのリストだ。名前、携帯番号、住所、学校、そういうのの一覧表だ。そのなかに滝沢美和の名前があったそうだ」
声も出なかった。所長は続けた。
「しかもよりによって、滝沢美和の名前に印がついてた」
全身が震えた。
「警察は滝沢美和の行方についても小島雄二を徹底的に締め上げる、と滝沢喜代志に約束した。辻亜寿美はそれを聞いて、もう探偵に調査を続けてもらう理由はなくなったと判断した。おまえには感謝してる、よろしく言っといてくれ、とさ」
「だけど、所長……」
「残念だったな、葉村。でも、後はそれこそ警察の仕事だよ。日本全国どこにあるともわからん死体を俺たちが捜し出すのは無理だ」
死体。
わたしも滝沢美和が生きているとは思っていなかった。だが、死体と言われて冷や水を浴びせかけられたような気がした。
「所長、あの……」
「武蔵東署の速見治松かおまえさんの友人の柴田に連絡とって、わかったことは全部教えて恩を売ってやれ。辻亜寿美がボーナスをくれると言ってる。たった三日でずいぶん稼いだな、葉村。三週間の休養分のもとはとれたじゃないか。これでこの件は終わりだ」
「所長、お願いがあるんですけど」
「なんだ」
「その、小島の部屋にあったというリスト。見たいんですが」
「ダメだ」
「所長」
「ダメと言ったら、ダメだ。葉村、おまえさん足まだ痛んでるんだろ。家に帰ってベッドに寝ころがって、預金通帳のゼロの数でも数えてろ」
「もうひとり、行方不明になってる女の子がいるんです」
わたしは必死に喋りかけた。
「例のカナです。本名は水地佳奈。いつの間にか引っ越して、仕事も突然やめてる。例の絵はがきにあったバイトの後すぐだと思われるんです。住民票は移してないし、その行方を滝沢美和が捜してるんです。美和が知らないうちに、水地佳奈は行方をくらましたんですよ。それには男がかんでます。彼女の叔父と名乗って、勤め先に電話をしてきたんです」
「それも小島雄二のしわざなんじゃないか」
パチンコ店の雑音が、耐え切れないほど耳ざわりになった。わたしは怒鳴った。
「冗談でしょう、所長にもわかってるはずですよ。死体を井の頭公園のまんまん中に放置して慌てて逃げ出すようなバカに、水地佳奈の荷物を引っ越しと偽って処理し、叔父と名乗って仕事先までごまかそうとする頭なんか、あるわけないじゃないですか。だから」
「そうかもしれん。だが、それはうちの仕事じゃない」
所長は手厳しく答えた。それから少し語調をやわらげた。
「葉村、そういう手加減しないとこがおまえのいいとこなんだけどな。領域外にまで手を広げると、また、ひどい目にあうことになるぞ」
電話は切れた。わたしは携帯を放り投げようとして村木に止められた。
「やるんなら自分のにしてくれよ」
わたしはむっつりと村木に携帯電話を返した。村木が言った。
「葉村はやれるだけのことはやったさ。水地佳奈のことも警察に任せとけよ」
「警察は小島雄二に全部責任を押しつけるよ。水地佳奈のことも、滝沢美和のことも。でも絶対違う」
「俺もおまえも小島雄二って男を知らないんだ。確かに、水地佳奈の消え方を考えると、発作的に殺人を犯して慌てふためくタイプがやったこととは思えないが」
「それに、もし全部小島雄二がやったんだとしたら、柳瀬綾子は三番目の被害者ってことになるよね。少なくとも水地佳奈が最初で、次に滝沢美和、それで柳瀬綾子って順番でしょう。なのに、水地佳奈のときは手際よく消しておいて、慣れてきた頃慌てふためくって、おかしいよ」
「水地佳奈が殺されていれば、その通りだな」
ぴしゃりと言われてわたしは顔をあげた。村木は顎をさすってわたしを見下ろした。
「だけどまだ、そうと決まったわけじゃない。そうだろ?」
「それは……その通りだけど」
「おまえ、疲れてるんじゃないのか。長い間休んでて、身体がまだ本調子じゃないのに急に歩きまわってさ。そういうとき、憶測や想像で事件の先を読もうとすると、ロクなことにならんのよ。俺にも経験あるから言ってるんだけどさ」
わたしは答えなかった。村木は大きなため息をついた。
「武蔵東署まで送ってってやるよ」
これまでにも、調査が佳境にさしかかったところで打ち切られる、というケースがなかったわけではない。だが、滝沢美和の調査がこれほど気になるのは、事態の深刻さと調査を取り巻く状況があまりにも噛み合っていないせいだ。オーケストラ全楽器がフォルテシモで演奏を始めたかと思ったら、五小節目からは幽霊の歯ぎしりみたいなメロディがへなへなと続く、といった類《たぐい》の現代音楽を聞かされているようだ。苛立ちが募《つの》る。
武蔵東署の雰囲気はせわしなかった。いろんな人間がせかせかと動いていて、緊張感がみなぎっている。わたしと村木は顔を見合わせた。
「ちょっと探りを入れてくるわ」
村木は姿を消し、わたしは携帯で柴田要を呼び出した。柴田は慌てたようだった。
「おい、いまどこだ」
「署の一階にいる。手持ちの情報を洗いざらい手渡しに来たんだけど」
「ちょっと待ってろ」
やがて現れた柴田は、今朝よりもなおひどい面持ちだった。
「帰って寝てたかと思った」
「そうもいかなくてな。滝沢美和の件な、小島の部屋から……」
「女の子のリストが出てきたって話なら、知ってる。そのことで相談があるんだけど」
「どうせそのリスト見せろって言うんだろ。ダメだ」
「滝沢美和の行方をつきとめるのに必要かもしれない。共に痛みを分かち合うんでしょ」
「今朝の話はなかったことにしてくれ」
「そっちから言い出したことでしょう」
「公共事業は見直されるのが時代の趨勢なんだよ。葉村、滝沢の元女房も手を引いたはずだぞ。死ぬまで粘っても絶対にダメだ。悪いが、今日はこのまま帰ってくれ。いずれ連絡するから」
柴田は背を向けた。わたしは言った。
「もうひとり、消えた女の子がいるのよ」
柴田はたちまち戻ってきた。
「どういうことだ?」
「滝沢美和と柳瀬綾子の共通の知り合いで、もうひとり行方がわからない女の子がいる」
くそっ、と柴田が吐き捨てた。わたしは驚いた。
「いったいなにごとよ」
「その女の子の名前は」
「リスト見せて」
「取り引きする気分じゃない。女の子の名前は」
「リスト見せてくれたら教える」
「吐かなきゃ公務執行妨害で逮捕する。脅しじゃねえぞ」
柴田はわたしの胸ぐらをつかんだ。わたしはにらみ返した。柴田がなにか言いかけたとき、村木が音もなく近寄ってきて柴田の腕を引きはがし、早口で言った。
「行方不明になってるのは、水地佳奈だ。三月二十日以前から姿を消して、勤め先には男の声で退職するという連絡も入ってる。三鷹の下連雀のマンションからも引っ越した。マンションの管理人や不動産屋がなにか知ってるらしいが、俺たちには喋らなかった」
柴田はわたしから離れ、歪んだネクタイを直し、村木を見た。
「聞いたんだな」
「後始末が大変だな。同情するよ」
「探偵なんかに同情されたくねえよ」
柴田はわたしをもうひとにらみして歩き去ろうとし、戻ってきた。上着の内ポケットから紙を取り出してわたしに押しつけた。
「約束は約束だ。俺の感想を言わせてもらえば、いかにも頭でっかちでプライドの高い葉村みたいな女がひっかかりそうな男だ。赤の他人のケツ追っかけてるヒマがあったら、自分の人生なんとかしろ、このバカ女」
武蔵東署の外に出るまで持ちこたえられたのは、我ながら奇蹟に近かった。敷地を出るなりわたしは村木に噛みついた。
「わたしに任せてくれるとか言ってなかったっけ? なのに、なによ勝手に」
「落ち着けよ」
村木は煙草を引っ張り出してくわえた。
「これが落ち着いていられるか。リストを見せてもらうためには水地佳奈の名前と引き替えにするより」
「小島雄二が死んだんだ」
「引き替えるより方法がないことくらい……」
わたしは息を止めた。
「……なんだって?」
「小島雄二が死んだ。自殺した」
「自殺? 嘘でしょ。こんな真っ昼間、警察署でどうやって」
近くを歩いていた男がこちらに注意を向けた。村木はわたしの肘をつかみ、強引に車に押し込んだ。ドアをロックして周囲をうかがい、続けた。
「今朝十時から柳瀬綾子殺害の供述の続きをやってたらしい。昼飯どきになったんで、カツ丼をとってやった。小島はおとなしく割り箸を割って、いただきますと挨拶し、次の瞬間いきなり立ち上がり、右目に箸を押しつけて、取調室の壁に突進した──ってことだ」
「えーっと、それはつまり……」
「細かいとこまで考えるんじゃない」
村木はおぞましそうにさえぎった。
「ともかく、小島はすぐに救急車で病院に搬送されたが、病院に到着してすぐ死亡が確認された。マリファナの売人だと言ってたが、他にもクスリやってたんだろうな。でなきゃ、そんな死に方しないだろう。あ、いや、死に方は考えないことにして」
考えるなと言われても、無理な話だ。胃がきゅっと縮まった。
「村木さん、わたしたちのお昼もカツ丼だったよ」
「やめろって」
村木はげんなりと言った。
「死に方はともかく、武蔵東署がいまどういう状況かわかるだろ。こんなときだ、柴田だって頭に血がのぼってる。追いつめてもろくな結果になるもんか。署内で自殺されたってだけでも上から下まで処分の対象になるうえに、ヤクに女子高生殺し、割り箸で自殺、マスコミが面白がってとりあげそうなネタだ。もうそろそろ──ほら、来やがった」
テレビ局の中継車らしきグレーの大型ヴァンが通り過ぎていった。
「小島雄二に死なれたんじゃ、もし滝沢美和がやつに殺されていたとしても死体がどこにあるんだかわかりっこない。このうえ水地佳奈まで問題のリストに載っててみろ、警察の失態は倍増しだぞ。柴田を恨むなよ」
ため息しか出なかった。そういうことなら確かにしかたがない。とはいえ、滝沢美和も水地佳奈も、小島雄二に殺されたとはどうしても思えないのだ。短い間に友人同士のひとりが行方不明、ひとりが殺人、無関係とは考えにくい──とは、ゆうべ、わたし自身が辻亜寿美に言った言葉ではあるのだが。
「ところで、これなんだ」
村木がわたしの手から紙をひったくった。さっき柴田がくれた紙だ。
「牛島潤太。結婚詐欺で前科二犯?」
わたしは村木から紙を奪い返した。
「これは個人的なことだから。村木さんには関係ない。所長にも黙っててよ」
「個人的って、おまえ」
村木は言葉を飲み込んだ。どうせ柴田の捨て台詞と似たようなことを言いかけたにちがいない。わたしは紙をバッグにしまいこんだ。
六時まで部屋でふて寝した。起きてみると、足の腫れはかなりひいていたが、ミニスカートにパンプスなどという格好ができるほどではない。暑くなったり寒くなったりするこの時期、着るものに迷うのは毎度のことだが、ますます選択の幅がせばまっている。コットンセーターにクリーム色のパンツを合わせ、サマーコートをはおることにした。どうせ相手は金持ちだ。わたしごときがどんなにふんばったって、感心されるはずもない。
薔薇の形の珊瑚のピアスをして、化粧を明るめにした。二ケ月も美容院にいかないうちに、髪はだらしなく伸びていた。ポニーテイル用のムースを伸ばし、後ろで結んで黒いバレッタで止めた。
困ったのは警棒だ。食事をするのにコートを着たままというわけにはいかないし、ぴったりしたセーターの上からでは一目でわかってしまう。バッグに入れて上から傘袋をかぶせた。まさか、こんな平凡な女が警棒を持ち歩いているとは誰も思わないだろう。
そうそうタクシーばかり使ってもいられないので、大江戸線で行くことにした。中井駅までの道すがら、ソテツ荘の前を通りかかった。雑草を抜いていたわが大家・光浦功がわたしに気づき、羽根つきピアスをひらめかして駆け寄ってきた。
「ゆうべはどうもありがと、葉村ちゃん。おかげさまで助かったわ」
「どうなったの、あれから」
「恭子ちゃんがかんかんになって、絶対家には帰らないって言い渡したら、オヤジさん空気が抜けたみたいにしょんぼりと帰ってった。ちょっと可哀想だったけど、まあ、そのうち仲直りできるでしょ。飾磨くんが一所懸命取り持とうとしてたしね」
「そりゃよかった。だけど、彼女に服装のこと注意しといてね。水曜日だけはせめて走りやすい靴をはけって」
「そっちはなかなか治んないみたいねえ」
あんたが踏んだからだよ、と言いかけてやめ、歩き出すと光浦が寄ってきた。
「ねーえ、実は変な話聞き込んだんだけど」
「よしてよ。またこき使うつもり?」
「そうじゃなくって。ゆうべ、家の外回りの掃除してたんだって?」
「カラスがゴミ袋ぶちまけてくれちゃってね」
「そのことなんだけど、葉村ちゃんの家の対面、駐車場になってるでしょ」
車が五台しか停められない駐車場だが、ここも光浦の持ち物だ。
「あそこ、商店街の豆腐屋さんに貸してるの。そこんちの息子がゆうべの九時ごろCDを取りに車に行ったら、男が葉村ちゃんちの外階段あがっていって、扉の前でごそごそなにかやってたんだって」
思わず足をとめた。光浦は続けて、
「ほら、冬頃この近辺で連続放火事件があったじゃない。ゴミとかバイクとかその程度が焼けただけですんだけど。豆腐屋の息子、もしやそれじゃないかと気にしたんだけど、そいつそのまま階段下りてったそうよ」
「どんな男だって?」
「うーん、あそこ暗いから。でもなんかでかい男だったらしいよ。心当たりあるかしら」
世良松夫のばかでかい風体が甦ってきた。わたしは身震いし、光浦に話そうとして思い直した。彼だという証拠はない。ああいうやつが地道にゴミをまく嫌がらせから始めるかどうかも自信がない。
「女のひとり暮らしだと思って、なめてかかったバカがいたんじゃないの?」
「かもね。だけど念のため今度、葉村ちゃんの部屋の前の外の電灯、明るいのに替えようかと思うんだけど。どーお?」
「あ、それは助かる。よろしくお願いします、大家さん」
光浦はいかにも誠実な大家らしく鷹揚にうなずき、歩き出したわたしの背中に向かってつけ加えた。
「すぐにやっとくから心配しないでいいわよ。それで費用なんだけどね、ざっと見積もって二万五千円ってとこなのよ。ゆうべ割り引いた家賃とおんなじ金額だなんて偶然ねえ。そういうわけだから、来月もちゃんと五万円払い込んでくれていいわよぉ」
「なんだと?」
声をあげたときには光浦の姿はすでになかった。いまいましい。光浦は持ちアパートの管理をすべて自分の手でやっているから、外灯りのとりつけに必要なものくらい、全部持ち合わせているに決まっている。
不機嫌なまま、約束の新宿のデパートの懐石料理店についた。店の入口で平ミチルが待っていた。私服姿を見るのは三度目だったが、いかにも女子高校生といった感じのかわいいTシャツにジーンズという一昨日とは違い、スリーピースのパンツスーツにネクタイまで締めている。まるで七五三──それも男の子のお祝いといったところだ。かわいくないこともないが、全然似合っていなかった。
ミチルはわたしを見ると、軽く顎を突き出した。
「奥でお父さんとお母さんが待ってます」
「お母さんもいらしてるの?」
「うん。パパは連れてこないつもりだったんだけど、どうしてもって」
ミチルはなにか言いたげだったが、約束の七時になろうとしている。店の奥に進みながら、わたしは彼女にささやいた。
「あなたとふたりで話がしたいんだけど」
「いいよ。食事終わったら、どっかふける?」
ミチルはぶっきらぼうに答えたが、心なしか目が輝いた。
「悪いけど、今日は九時すぎには別件で動かないとならないんだわ。明日にでも時間とってもらえない?」
「葉村さんちに行ってもいいなら、時間とったげてもいいよ」
「よっぽどわたしの部屋が見たいらしいけど、たいして面白くないわよ」
「誰も龍宮城なんか期待してねーよ」
一番奥の個室に、平義光と女性が待っていた。高級そうな藤色のスーツを身にまとい、美容院でセットしたての髪にほっそりとした白い指。髪は黒々としていたが、化粧は浮いていた。
「ミチルの母の貴美子でございます。このたびはいろいろとお世話になりまして」
三つ指ついて挨拶され、わたしは困惑した。こちらも大仰《おおぎよう》に挨拶すべきなのだろうが、幸か不幸か足が痛い。簡単に答えた。
「葉村晶です。今日はお招きありがとうございました。あいにく足がまだ痛みますので、立ったままで失礼します」
たちまち平夫婦からとほうもないいたわりの言葉が返ってきた。席順を決める大騒ぎが持ち上がり、またしても足を理由に入口に一番近い席をもらった。掘りごたつ式で足が伸ばせるのがありがたい。やれやれと思ったが、それでは終わらなかった。飲み物をなににするか、メニューはどうするか、おしぼりを使え、お茶をどうぞ、葉村さんはお酒はいける口ですか、本当にミチルがご迷惑ばかりかけて、うんぬん。
その間、ミチルは冷笑を浮かべて黙っていた。気持ちはわかる。わたしだって、孔雀が羽根を広げあうようなこの手の儀式は好きではない。
社交的手順がひととおりすむと、全員が沈黙した。折よく口取りが運ばれてきて、間の悪さを救ってくれた。平貴美子はメニューを手に、料理の一品一品を読み上げた。実際おいしい料理だったが、高らかに感嘆されるほどでもない。間の悪さを通り越して、気まずくなってきたとき、平義光が言った。
「滝沢の娘はどうやらたいへんなことになったようですな」
会話の接ぎ穂に困ったのだろうが、よりによって最悪の話題を選んでくれたものだ。ミチルはうつむいて、蓴菜《じゆんさい》をつまみあげるのに専念している。貴美子が割り込んできた。
「今日のお昼のワイドショーで見ましたわ。美和ちゃんも、あのアヤとかいう子を殺した犯人に殺されてたんですってね」
「いえ、まだそう決まったわけでは」
「でもテレビでそう言ってましたもの。なんですか、犯人の部屋に美和ちゃんの名前の入ったリストがあって、それに印がついてたとか。だけど、犯人は美和ちゃんを殺したとか死体をどこに埋めたとか、そういうことなんにも白状しないで自殺しちゃったんですってねえ。ほっほっほ」
思わず箸が滑り、卵豆腐がぼとっと下に落ちた。
「やめなさい」
平義光が短く言った。貴美子はふくれた。
「あら、いいじゃありませんか。葉村さんは美和ちゃんの行方を捜してらっしゃるんでしょ。あなたもミチルも心当たりがあったら、教えてさしあげなさいな。警察より先に見つけたら、葉村さん、懸賞金をもらえるかもしれないわ。そうでしょう?」
「懸賞金が出ているという話は聞いていませんね」
わたしは精一杯穏やかに答えた。
「まあ、滝沢家は懸賞金出してないの? あんなお金持ちのくせしてケチなのね。わからないでもないけど。滝沢さんのところはご夫婦そろって、お子さんに対する愛情が薄いから。でなきゃ離婚なんかするもんですか。ふたりともがめついくせに、異性にだらしなくて……」
「よさないか」
「もしかしたら亜寿美さんが美和ちゃんを殺させたのかもしれないわね。あの小島って犯人に」
平貴美子は夫の制止など気にもとめなかった。
「あのひとの宝石店、経営不振で赤字続きだっていうじゃない? なんでも銀行にものすごい借金があるとか。野中さんの奥さんが勝ち誇ったようにおっしゃってたわ。亜寿美さん、海外旅行に行ったなんて嘘ついて、実は金策に走りまわってたんですって。大変よねえ」
美和の失踪について尋ねたときの辻亜寿美の不可解な間《ま》を思い出した。なにもわたしにまで見栄を張らなくてもよさそうなものだ。それとも、そうまでしなくてはならないほど、経済的にいきづまっているのだろうか。
「野中さんって、二八会に所属してらっしゃる方ですか」
平義光は救われたようにうなずいた。
「よくご存知ですな。企業コンサルタント会社を経営している友人で、野中則夫といいます。アメリカで企業の人事マネージャーをしていたんだが、帰国してその経験を生かして会社を始めたわけなんだ。いまはどこの企業も機構改革に取り組んでいるから、けっこう繁盛しているようだよ」
雑誌に掲載されていた二八会メンバーの記事を思い返してみた。野中経営戦略研究所所長、という肩書きがあったが、さすがに面や細かい経歴までは覚えていない。
「たまにテレビでコメントしてらっしゃいますね」
当てずっぽうだったが、的を射た。平は苦笑して、
「昔から目立つことの好きな男でね。テレビや雑誌、新聞に講演会と忙しく走りまわってるようだ。今じゃ二八会の中心的人物になって、遊びの音頭をとってますよ」
「アメリカの上流階級の男どもがやるみたいな、排他的でマッチョな遊びが好きなオヤジなんだよ」
突然、ミチルが口をはさんだ。わたしは驚いたが、平義光はもっと驚いたようだった。まるで初めて見る生き物のように、娘を見つめている。
「葉村さん、私の考え、どうお思いになります? 亜寿美さんが美和ちゃんを殺したんじゃないかしら」
平貴美子はせっかくそらした話題を再び持ち出した。わたしはあきらめてつきあうことにした。
「どうして亜寿美さんが美和さんを殺すんですか」
「だから、滝沢の財産めあてよ。美和ちゃんがいなくなれば、滝沢の財産は全部亜寿美さんのものじゃないの」
「離婚した奥さんには一銭も渡りませんよ。それだったら滝沢さんを殺して美和ちゃんに財産を相続させ、後見人の立場でお金を自由にするでしょうね」
「あら」
平貴美子はがっかりすると同時に我に返ったようだった。
「そうかもしれないわね。ごめんなさい、葉村さん。私ったらせっかくのお食事の最中にこんなこと言い出して」
「親しいひとたちに大変な事件が持ち上がったんですから、どうしたってあれこれ考えてしまいますよ。──おいしいですね、このお刺し身」
平義光はキューをもらったように、急いで釣りの自慢話を始めた。逃した魚は大きくなるというが、平の釣りかけた石鯛はホオジロザメほどのサイズだったらしい。適当に相槌をうち、頃合いを見計らってさりげなく尋ねた。
「確か、滝沢さんの別邸が葉崎にあると聞きましたが、よくそこで釣りを?」
「ああ、夏など全員家族連れでよく行ったもんだ。ここしばらくそんな機会もなくなったが。その、皆それぞれ忙しくてね」
とってつけたような言い方だった。ミチルが悪意のこもった口調で割り込んだ。
「魚より動物を撃ち殺すほうが面白くなったらしいよ。マッチョの伝統にのっとってさ」
平はびくっとし、卓を叩いて怒鳴った。
「黙れ」
わたしは箸で目を(うぎゃっ)突き刺しそうになった。はずみでコップがひっくり返り、ビールがこぼれ落ちた。ミチルはぽかんとして父親を眺めている。卓についた平の手はぶるぶると震えていた。
「まあ、いったいどうしたの、あなた。葉村さんがびっくりしてらっしゃるじゃありませんか。ミチル、あなたもパパにそんな口のきき方をして。よくないわよ」
貴美子は手早くコップを戻し、お絞りでビールを拭き取った。平義光は肩を落とし、姿勢を戻して誰にともなく謝った。
「すまん。最近、仕事が忙しくて疲れているようだ」
貴美子はわたしに笑いかけ、平義光がいかに会社で頼りにされているか、とうとうと語り始めた。口のなかの天ぷらをようやく飲み込むことができたが、個室の天井あたりに緊張の名残りがふわふわと漂っていた。
奇妙な食事会は八時半に終わった。ミチルが化粧室に行き、貴美子が会計をすませに立つと、平義光は形をあらためた。
「今日はお礼のつもりだったのだが、あまり楽しくない食事になってしまった。せっかくお越しいただいたのに申し訳ない」
平義光の目の下は黒ずんでいた。昨日今日現れたものではない、すでに彼の一部となっているようなクマだった。建築資材の業界新聞社の記者・工藤咲のセリフを思い出した。平義光は知られざる悲劇のひと。
「それで、これは失礼とは思ったのだが、ミチルの面倒をみていただいたお礼だ。少ないがお納めいただきたい」
差し出された封筒はケーキ作りの素材の板チョコなみに分厚かった。まさかビール券の束ということはあるまい。
「滝沢の娘やもうひとりの友達がひどい死に方をして、ミチルもさぞ心細いと思う。家出して男と同棲していたようなバカ娘だ、親の言うことなど聞きもしない。どうかこれからも、あれの助けになっていただけないだろうか。よろしく頼む」
額を畳にすりつけられて、わたしは困惑した。口の悪い工藤咲が珍しく、平義光をほめていたのが思い出された。確かに平義光にはどことなく、重荷を背負ってよろよろと坂を登っている巡礼を思わせるところがある。こういう人物を突き飛ばしたいと思うのは、よっぽどのサディストだけだ。
「これは受け取れません」
わたしは封筒をつき返した。
「でも、ミチルさんがわたしに助けを求めてきたら、できる範囲の手助けをするとお約束します」
顔をあげた平義光に、わたしは笑ってみせた。
「もし、それで実費がかかるようなことがあれば後で請求書をまわしますよ。このあいだのタクシー料金みたいに」
どうにかこうにかなごやかに店を出た。別れの挨拶の際、平貴美子が家族から離れ、わたしに近寄ってきて小声で言った。
「葉村さんみたいなかたと、ミチルがお近づきになれて幸いでした。反抗期っていうんですか、ミチルもいろいろありましたが年上の女性とおつきあいすれば少しは生活態度も変わってくると思いますの。やっぱり同じ年頃の女の子では、どうしたって振り回されてしまいますものねえ」
「はあ」
「でも葉村さん、ミチルはまだ未成年なんですからね」
平貴美子は悪戯っぽい笑顔になった。
「そりゃあ私も、男女の仲では女のほうがいろいろと不利な面が多いことも存じてますが、それでも葉村さんのほうが年上なんですから。ミチルが無茶なことしそうになったら葉村さんがやめさせてくださいませね」
「……はあ?」
「最近の女子高生にミチルが弄《もてあそ》ばれるのは我慢できなかったんです。私もまだおばあさんなんて呼ばれたくないし。でもよかったわ、道理をわきまえた女性とのおつきあいなら、たとえ子どもができたとしても処理できるでしょうし。ミチルの将来に傷をつけないよう、そのことだけはわきまえていてくださいね」
「あの……」
「心配しないで」
平貴美子はくすくす笑ってわたしの腕をたたいた。
「私、それほどお堅い母親じゃないつもりよ。子どもが成長していく過程で、こういった問題が出てくるってこと、ちゃんと知ってますから。高校生が異性に興味を持つのは当然ですものね。でも葉村さんなら安心だわ」
それじゃあ失礼します、と平家の三人は去っていった。ミチルが去り際になんともいいようのない表情で振り返ったが、唖然としていたわたしに挨拶を返す余裕はなかった。
10
小田急百貨店からさほど遠くない場所にある、二十四時間営業の喫茶店に入った。
平一家のことを頭から追い出そうと、ダブルエスプレッソを頼んだ。酔いざましにやってきたサラリーマンやヒマつぶしにいそしむ若者のグループが多く、BGMが聞こえないほどの喧騒だった。
エスプレッソを飲みながら、武蔵東署の柴田要からもらった牛島潤太の資料を広げた。
この手の資料についているものにしては、まともな顔写真だった。お坊ちゃま風の、顔立ちの整った男だ。自殺した相場みのりの婚約者とどことなく似ている。
昭和四十二年生まれ、本籍・東京都杉並区和泉、職業・歯科医師。平成九年九月と平成十一年三月に、結婚詐欺で訴えられ、逮捕された。一件目は被害者側と和解が成立し、被害者が告訴を取り下げた。二件目では有罪、だが執行猶予のつく判決だ。
備考欄に書いてある内容が気になった。牛島は歯科医師の家に生まれて自らも歯科医師となった。実家は裕福で、本人も実家の病院を手伝うなどして金回りはいい。ギャンブルや借金などの問題もなし。
いったいどういう男なんだ。
九時少し前に、東都総合リサーチの桜井から連絡が入った。
「これから牛島潤太をおさえることになってるんだ」
桜井は早口で言った。
「場所は?」
「京王線の代田橋駅。やつは毎週木曜日に習字教室に通ってて」
「──なにに通ってるって?」
「だから習字教室。七時半から九時まで代田橋のカルチャーセンターでやってるんだ。獲物をあさる猟場ってとこだな。うちのクライアントとも池袋のカルチャーセンターで知り合ったんだ。そのときはコラージュ講座だったらしいけど」
習字にしろコラージュにしろ、受講生の大半は女性で、しかも若い男性が通ってもさほど不自然ではない科目だ。これがちぎり絵やパンフラワーアートを学ぶ男だったら、それだけで女はひくかもしれない。きわめて性差別的発想だが。
「それで、牛島をおさえるのは代田橋のどこ」
「センターを出たところを捕まえて、近所のファミリーレストランにでも行こうと思ってる。駅の北口にパディントンズ・カフェがあるから、たぶんそこだろう。だけど、あんたは店に入るなよ。こっちの担当者は葉村の顔見知りばっかりだ。俺が密告したってバレちまう」
「桜井さんの迷惑になるようなことはしないよ。約束する。ところで、牛島潤太に結婚詐欺の前科があること知ってた?」
「もちろん。けど、それは切り札にはなんないな。クライアントもあらかじめ聞かされてたんだ。ひどい女に引っかかって結婚しろと脅されて、断ったら訴えられたって。確かにやつは男前で引っ込み思案に見えるからそういう目にあっても不思議じゃないように思えるかもしれない。だからってどうして、そういう過去のある男に、大金渡したりすっ裸の写真撮らせたりするんだかね」
京王線の乗り場に急ぎながら、どうしてかを考えた。武蔵東署の柴田がわたしに投げた捨て台詞を思い出した。頭でっかちでプライドの高い女が引っかかりそうな男だ、と柴田は言った。一理ある。裕福な歯科医師という肩書き、頼りなさそうな二枚目、「悪い女に引っかかってひどい目にあった」経験。どれをとってもある種、魅力的だ。あたしがついててあげなくちゃ、あたしだけが彼をわかってあげられる、彼はエリートなのに心は少年みたいなところがあるの、といったところか。
京王線が代田橋に到着するまで、ため息のつきどおしだった。みのりの様子から察するに、もはや牛島の正体を教えてやってもどうにもならないのはわかりきっていた。牛島を否定しろということは、〈牛島をわかってあげられる特別な自分〉を否定しろということだ。せっかく手に入れたすてきな自分像を、そう簡単に手放せるわけがない。
そこまで考えて、つくづく自分に嫌気がさした。なるほどわたしは頭でっかちだ。どうして素直に、失恋して傷つく友人を見たくない、というふうに思えないのだろう。
何十回目かのため息をつきかけ、閉まりかけた扉に突進した。あやうく降りそこなうところだった。急いで階段を駆け下り、北口へと出た。
甲州街道を渡ったところにパディントンズ・カフェがある。一階は駐車場で店舗は二階という典型的な様式だ。周囲を見回した。対面に別のファミリーレストランがあった。不味いので有名な店だ。店内はがらがらで、窓際の四人席をひとりじめできた。
六車線分の距離と首都高速の橋脚と汚れた窓ガラスの向こう側に、それとおぼしき集団を認めた。ひとつ離れたテーブルにぽつんと座って書類をいじくっている桜井、そして一番奥のテーブルについた東都のスタッフが二名、髪の長い女性、うつむいている男──あれがおそらく牛島潤太だ。
バッグから小型カメラを出してズームでのぞいた。それでも遠すぎて状況ははっきりしない。女性がテーブルに身を乗り出し、しつこくなにか言い募っている。それをなだめつつ、牛島に話しかけている東都のスタッフはこの手の交渉ごとを得意とする男だ。わたしは腕時計をのぞいた。九時半。彼らが店に入って二十分といったところか。
紅茶を頼み、じっと待った。桜井は自信ありげだったが、牛島潤太があっさり金を返すかどうか疑問だった。事態はどうやらわたしの読み通りに展開しているようだ。十時になっても十一時になっても、彼らの話し合いは終わらなかった。時折レンズ越しにのぞくと、桜井は延々と書類に手を入れるふりをし続け、牛島は笑みを浮かべつつブリーフケースの紐をいじくり、首を振ったり短く答えたりしている。
日付が変わったあたりで我慢できなくなり、桜井に電話した。レンズのなかの桜井が携帯を引っ張り出した。他の四人も桜井に注意を向けた。
「分が悪いみたいね」
単刀直入にわたしは言った。桜井は据えかけた腰をあげ、店を横断しつつばか丁寧に答えた。
「ああ、これはご無沙汰しております。ええ、その通りなんですよ」
「手札は全部使っちゃったんだ」
「はい、まあ」
「それでもダメなんだ」
「そうですね。ところでいま、どちらですか」
「向かいのファミレス。もう二時間半以上も居座ってる」
「ご同様です。おたがい大変ですな」
「ということは、クライアントの負け?」
「でも、ありません」
写真か金、そのどちらかは取り戻せそうだということだろう。
「写真が返ってきそうなの?」
尋ねたところで桜井が店の外へ出た。彼はこちらの店をにらみつけた。
「いいや、ありゃ思ったよりひどいやつだぜ。金はくれたものだと思っていたが、困っているならもちろん返す、とむこうから言い出しやがった。写真については絶対に返さないし、返す理由がない。合意の上で撮影した写真をボクが持っててなぜ悪いの? だとさ」
桜井は吐き捨てるように言った。
「ありゃ楽しんでやがるんだ。前科も他の複数の女関係もSM系の風俗店に出入りしてるってのも、両親に告げる、警察へ行く、告訴する、患者に知られたら困るんじゃないか──すべて効果なし。どうぞ好きにしてください、だそうだ。あいつは騒ぎを面白がってる。告訴されて刑が確定しようが屁でもない、それどころかそうなったら新しい経験ができて嬉しいくらいに思ってる。勲章が増えて大喜びさ」
これほど厄介な相手だとは思わなかった。わたしは椅子の背にもたれかかった。
「で、どうするの」
「今日のところは引き下がるしかないだろう。このままですませるつもりはないけどな。少々荒っぽい手を使うことになるかもしれない」
「シャブのパケでもポケットに入れてやって、警察にたれ込んで家宅捜索させて、押収した写真とネガを内部から横流ししてもらう──ってとこ?」
「葉村、あんたマンガの読みすぎだよ」
桜井は電話のむこうでくっくっと笑った。わたしは真面目になった。
「ねえ、ああいうタイプって自己顕示欲強いよね。もしかして〈牛島潤太と犠牲者たち〉とかって内容のホームページ開いてないかな。調べてみた?」
「そんな悪趣味なホームページがあったとして、だからなんなんだよ」
「自己顕示する場所がなくなったら、ちょっとはショックなんじゃないかってこと」
桜井は黙り込んだ。わたしは店内に目をやった。疲れ切ったような追訴側に向かって、立ち上がった牛島潤太がにこやかにお辞儀をしている。
「桜井さん、動いたよ」
桜井ははっと店をうかがって、早口になった。
「その手のことに強いやつがうちにいる。あたってみるよ」
携帯が切れた。桜井は何食わぬ顔で一同とすれ違って席へ戻った。わたしは迷った。牛島を尾行して自宅の住所だけでも確認するつもりだったのだが、すでに終電は出てしまっている。本籍地がわかっているのだ、後はなんとかなるだろう。
甲州街道のタクシー乗り場へ歩いていった。木曜日の夜中ということもあって、車は猛スピードで通り過ぎていく。乗り場の目印にたどり着くと、幸い一台のタクシーが停車した。肩からバッグを下ろしかけたちょうどそのとき、背後から来た男につき飛ばされた。男はわたしを見もせずにタクシーを奪った。走り去る車のテールランプが涙を通して虹のように輝いた。
またしても、またしても足を踏まれたのだ。
畜生。
そのまま歩道にへたりこんでいると、声をかけられた。
「大丈夫ですか」
声も出せぬまま大丈夫という身ぶりをしつつ見あげて、わたしはぎょっとした。心配そうに手を差しのべているのは、牛島潤太そのひとではないか。
「け、怪我してる足踏まれちゃって」
わたしはつっかえながら急いで応対した。牛島を見た驚きを、痛みで顔がひきつっただけだと思いこませるために。幸い成功したようだ。彼は親切に言った。
「災難でしたね。よかったらつかまってください」
断りたかったが、自力で立てる自信もない。わたしは牛島に引っ張ってもらって立ち上がった。
「足、どうしたんですか」
「骨にひびが入って──もう治ったんですけど、踏まれたりするとまだちょっと」
「診てあげましょうか。あ、ぼくは医者なんです。歯医者ですけど」
断る間もなく、牛島はかがみこんでわたしの靴を脱がせ、足の甲に触れた。わたしは身震いが出そうになるのをこらえつつ必死にその姿勢を保ち、牛島の肩に手をかけたまま、この姿を桜井や東都のスタッフに見られていないように祈った。
牛島はごく事務的に足を押したり曲げたりし、足に靴を戻して立ち上がり、照れくさそうににこっと笑った。
「骨は異常ないみたいですね。ひどく腫れてるけど。歩けますか」
「ええ、タクシーで帰りますから」
「すぐ来るといいんだけど。よかったらそれまでぼくにつかまってていいですよ」
牛島はべらぼうに感じがよかった。相当な演技力だ。内部情報に通じているわたしですら、ぶっきらぼうな返事ができなかったほどだ。
「本当に平気ですから」
「あれ、警戒させちゃったかな」
牛島潤太は再び、内気そうな笑みを浮かべた。
「こんなご時世だから警戒するのが当然だけど。でも、ぼく酔ってないし、歯医者だってのも本当ですよ」
驚くなかれ牛島はスーツの内ポケットから名刺を取り出した。街灯のあかりでそれを読んだ。歯科医師・牛島潤太。くそっ、とわたしは思った。本名か。
この男がつきあっている女性にどの程度正直なのか──というより、なにを基準に隠しごととそうでないものをより分けているのかまったくの謎だが、下手にみのりにわたしと出会った顛末がバレでもしたら最悪だ。正攻法でいくしかない。とっさにわたしは目をぱちぱちさせ、明るく驚いてみせた。
「あらっ、牛島潤太さん。もしかしてあなた、わたしの友人をご存知じゃないかしら」
「お友達、ですか」
牛島はただ驚いているだけに見えた。
「相場みのりっていうんですけど」
「えっ、あなた相場さんのお友達?」
牛島は満面の笑顔になった。嬉しそうな純粋の笑顔だ──少なくともそう見える。これは面白いことになってきた、とか、騒ぎのネタが増えそうだ、とか、そんな悪意が隠れているとはとうてい思えない。
「これは驚いた。すごい偶然ですね」
「本当に。みのりからあなたのことは聞かされてます。というより、わたしが聞き出したんですけど」
「やだな、相場さんぼくのことなんて言ってるんです?」
「中学時代からの親友に聞かされた内緒話を、ぺらぺら喋っちゃうように見えます?」
「いやあ、でも知りたいなあ。女のひと同士の打ち明け話って強烈なんでしょう」
「まあね」
だんだん疲労が増してきた。わたしは牛島の肩越しに車の列を見やった。空車ランプの点いたタクシーが信号待ちをしている。生まれて初めてタクシーが白馬に見えた。
「突然で失礼かもしれないけど、よかったら一緒にお茶でも飲みませんか」
牛島はちらとタクシーを見やって、さらりと言った。
「相場さんの話、聞かせてほしいんです。実を言うと彼女とは──その、わかってもらえるかな、なかなか進展しなくって。どうしたらいいか、悩んでるんですよ。ここで偶然相場さんの友達に会えるなんて、神様のおぼしめしみたいなもんだ。どうでしょう、相談に乗ってもらえませんか」
芝居ごっこにも限度がある。わたしはぴしゃりと答えた。
「他人の恋愛に首つっこむ気はありません。たとえそれがみのりのでもね。──タクシーが来たみたい。ありがとうございました。失礼します」
「おやすみなさい」
しつけのいい犬のように、牛島潤太はしょんぼりと答えた。車中、わたしは爆発しそうだった。どうしてあんな結婚詐欺師にすまないと思わなきゃならないんだ。どうしてよりによってみのりはあんな男に引っかかったりしたんだ。他人の恋愛に首をつっこむ気はない? すでに頭のてっぺんまでつかっているではないか。
化粧を落として寝る以上のことは思い浮かべられないほど疲労困憊して、帰り着いた。商店街と路地の間で下ろしてもらい、最後の力をふりしぼって部屋の下まで歩いた。
悪臭が鼻先へ押し寄せてきた。
部屋の前に、破れたゴミ袋が置いてあった。
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中 盤 戦
なにか大切なことを忘れている──それがなにか思い出せず、もがきながらわたしは目覚めた。外で音がしていた。ひとの気配も。反射的に枕元の警棒をとり、立ち上がった。
とたんに床に転がった。いきなりだったので、立ちくらみを起こし、よろけたが脚が身体を支えきれなかったのだ。
大きな音がしたせいだろう。外の物音がやみ、ノックとともにわが大家・光浦功の声がした。
「あーら、葉村。起こしちゃった?」
心臓がばくばくいっている。わたしはラグの上に倒れたまま、力なく答えた。
「うう」
「外電灯とりつけちゃうわよ。ちょっとうるさいけど、すぐすむから」
「うう」
十秒ほど頭を床にこすりつけ、やっとのことで夢と現実の境界線から復帰した。時計を見た。十一時。信じられない時間だ。
警棒をベッドに放り投げ、携帯電話の電源を入れた。なんの連絡も入っていない。その気になれば今日一日、なにもせずにごろごろと寝ていられる。ひとさまの部屋の前にゴミを撒き散らす不届き者を待ちぶせもできる。
寝る前にまた薔薇風呂に入りマッサージしたせいか、そろそろ慣れてきたせいか、案じていたより脚が軽い。マラソンはおろか階段を駆け下りるのも難しいが、不可能というほどではなくなってきた。
洗濯をして掃除をした。例の冷やしうどんの賞味期限が切れていたので、ネギとしいたけと豚肉を足して煮た。
やたらぶつぶつになったうどんを、しまいにはスプーンですくって食べながら、昨日読みそこねた夕刊に目を通した。柳瀬綾子殺害犯人署内で自殺、というニュースはそこそこ大きく扱われていた。もっとも肝心の事件については『小島雄二容疑者は男女関係等のトラブルで発作的に柳瀬さんを殺害したと自供』と、ごくあっさり触れられているにとどまった。署内で自殺、というほうがニュースバリューがあったとみえる。
一方、朝刊にはややつっこんだ記事が掲載されていた。
『小島雄二容疑者は、柳瀬さんの他にも、柳瀬さんの友人で今月初めから行方がわからなくなっている女子高校生についてもなんらかの事情を知っていたものとみられており、それだけに今回の自殺は、武蔵東署と管轄する警視庁に大きな衝撃を与えている。』
テレビをつけて、チャンネルをワイドショーに合わせた。割り箸自殺は世の関心を集めているが、えらい自殺もあったもんだ、では番組にはならないわけで、重々しさを装ったコメンテイターらが矛先《ほこさき》を警察に向けて、オチをつけていた。たとえ下司の野次馬番組でもちょこっと警察を批判すれば社会正義を追求しております、という風情を醸《かも》し出せる。警察って便利だ。
少なくともこの局では、滝沢美和の本名は流していなかった。美和は未成年だし、麻薬がらみの事件だから当然の配慮だろう。水地佳奈に関してはまったく触れられていない。
武蔵東署の柴田要をもう一押ししようかと考えながら、洗濯物を干した。いまはその時期ではない、というわかりきった結論にたどり着いた。柴田の頭にはまだ血がのぼったままだろうし、長谷川所長が終わったことだと片づけた以上、あまりつつくのは得策ではない。水地佳奈の調査のスポンサーが現れれば、話は別だが。近親者のいない佳奈捜索の依頼人候補で思いつくのは例の大学生・藤崎悟史だけだが、彼に金があるとは思えないし、第一そこまで佳奈に思い入れがあるかどうか。
外の騒音がおさまって、光浦が呼ぶ声がした。
「できたわよ。ちょっと見に来ない?」
わたしはつっかけを履いて外へ出た。得意満面の光浦が扉の上を指さした。まばゆいほどの光がこうこうと灯っている。
「ちょっと明るすぎない?」
「そこがポイントなの。下りてみて」
光浦に続いて階段を下りた。後二段で地面というところで、カチッと音がしてライトが消えた。
「対人センサー付警戒ライトよ。すごいでしょ」
「すごーい」
「やあねえ、もっと感心してくれなくっちゃ。張り合いがないんだから。誰かが階段を上りかけるとライトがぱあっとつく仕組みなの。葉村ちゃんが帰ってきて、ドアを閉めてしばらくしたら灯りは消える。一晩中こうこうと灯りがついてたんじゃ、ご近所迷惑だし電気代もかかるけど、これならいいでしょ」
わたしは少し、いやかなり感動した。
「──ありがとう」
「あんた、アタシが必要以上の経費をふんだくったと思ってたでしょ」
光浦は横目でわたしをにらんだ。
「冗談じゃないわ、これ、出血大サービスよ。よくよく感謝しなさい」
部屋に戻り、着替えて外出した。下落合の新宿区立図書館に寄って、一九八〇年の新聞の縮刷版を借り出した。
どういう記事を捜せばいいのかわからなかったので、とりあえず頭から順番に見ていった。あまりに細かい文字を大量に見せられて、五月あたりで目がかすみ始めた。
途中、目薬を二度さし、うんざりしかけたところで当たりが出た。六月十日の一面トップ。子どもの営利誘拐事件の記事の大見出し。流しかけたところで名前に気がついた。
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五歳幼児誘拐される 警察公開捜査へ
警視庁は、先月三十一日に営利目的で誘拐され、行方がわからなくなっている五歳の男の子の公開捜査に乗り出した。
東京の大手建設会社社員・平義光さんの長男で満ちゃん(5)の行方がわからなくなったのは、先月三十一日夕刻のこと。庭で遊んでいたはずの満ちゃんの姿が見えないことに気づいた母親の貴美子さんが探しに出ようとしたとき、五百万円の身代金を要求する男からの電話があった。「警察に知らせるな」という脅迫に平さんは金を用意、男の指示に従って今月一日午後十時すぎに、二子玉川園近くの公衆電話ボックスに五百万円を置いた。その後犯人からの連絡はなく、不安になった平さんが三日の朝、警察に通報。事件が明らかになった。
警視庁と成城警察署では合同捜査本部を設け事件の捜査にあたっていたが、事件発生から日数がたち、これといった手掛かりが得られないこと、犯人からの接触がみられず、隠密裡の捜査には限界があることなどから、公開捜査の方針を打ち出したものとみられる。
警視庁広域犯罪捜査課の南卓司捜査主任は「子どもの身の安全を第一に考え、これまで捜査は非公開で行なってきた。だが事件発生からすでに十日が経過し、広く市民からの情報を得ることが解決の糸口になるとみて、公開捜査に踏み切った。本事件は身を守るすべのない幼児を誘拐し、家族の不安につけこんで金品を奪うという卑劣な犯行であるが、子どもが無事に帰れば情状酌量の余地もあろう。愛する我が子の安否を気づかうご両親の緊張と不安はピークに達している。一刻も早く満ちゃんを無事な姿でご両親のもとに帰してやりたいと願っている」と述べ、情報提供を呼びかけた。
満ちゃんは五歳、おかっぱ頭で、誘拐されたときには薄いブルーのTシャツにアニメのクマのアップリケのついたストライプのジャンパー、紺の短パン姿だった。
(お断り・新大東新聞社では人質の身の安全に配慮し、事件の報道をこれまで控えてきました)
[#ここで字下げ終わり]
社会面にも詳細が掲載されていたが、内容はほぼ同じようなものだった。そういえばこんな事件があった、とかすかに思い出した。わたしが小学生のときに起きた二十年も前の事件だから、うろ覚えだ。ただし、結末だけははっきりと覚えている。
やりきれない気持ちで『満ちゃん、無事に戻って──祈る子どもたち』とか、『寄せられる情報、怒りの声』などという見出しを読み飛ばした。公開捜査から三日後、わたしの記憶通り、事件は急展開をみせる。
[#ここから1字下げ]
誘拐幼児他殺体で発見、犯人を逮捕
昨夜未明、多摩川河川敷にゴミ袋を投げ捨てて走り去ろうとした不審な車を、付近をパトロール中の警察官が職務質問。ゴミ袋のなかから幼児の死体が出てきたことから、車を運転していた男を死体遺棄の現行犯で逮捕した。
逮捕されたのはS大学に通う大学生・草野龍一(21)で、武州警察署の取り調べに対し、幼児の身元は先月三十一日、身代金目的で誘拐され、行方がわからなくなっていた東京の建設会社社員・平義光さんの長男・満ちゃん(5)であること、誘拐直後に満ちゃんの首を手で絞めるなどして殺害し、その後平家へ脅迫電話をかけて身代金五百万円を奪ったことなどを自供した。警視庁では草野容疑者を殺人、営利誘拐等の罪で再逮捕し、調べを進める方針である。
調べに対し草野容疑者は「街金融等に約三百万の借金があり、返済に悩んでいた。たまたま成城の平家の庭から出てきた満ちゃんを見て、こういう大きな家の子どもなら誘拐して金をとることができると考え、とっさに車で連れ去った。騒がれたので黙らせようと思い、手で首を絞めて殺した。満ちゃんの遺体は自宅の冷蔵庫に入れてあったが、三日前から公開捜査になって反響の大きさに怖くなり、死体を処分しようと車で多摩川べりに行って投げ捨てた」などと供述している。
警視庁広域犯罪捜査課の南卓司主任は記者会見で「最悪の結果となってしまった。情報を寄せてくれた皆さんには感謝しているが、ご両親の心痛を思うと言葉もない。今後も草野容疑者の取り調べを続け、事件の全容解明に努めたい」と語った。
[#ここで字下げ終わり]
言葉もない。その通りだ。子どもがらみの犯罪ほど汚いものはない。
だがいま、わたしの言葉が出ない理由は別にあった。
平満。
これは普通なら〈たいら・みつる〉と読む。でも、もしかしたら〈みちる〉と読むのかもしれない。
満は手で首を絞められて殺された。扼殺されたのだ。
平家にミチルを送っていった朝、「手で絞め殺すことよ」と言った途端、家の奥から聞こえてきた悲鳴。平義光は「知られざる悲劇のひと」。娘に男の子のような服装をさせ、ミチルとわたしをまるで男女の関係であるかのようにとらえていた平貴美子。ミチルは美和の初恋の相手だと言いかけ、黙ってしまった辻亜寿美。
ああ、もう──冗談じゃない。
無性に煙草が吸いたくなって、外へ出た。これは仕事ではないのだ、と自分に言い聞かせた。仮に、ゆうべ平義光からあの分厚い封筒を受け取っていたとしても、だ。彼は家庭内の秘密を表ざたにしてほしくてわたしに金を渡そうとしたわけではない。わたしだってミチルの面倒をすべてみますと約束したわけでもない。
わたしはただの調査員だ。金で雇われて働く探偵にすぎない。
図書館の外のベンチに腰を下ろし、携帯用の灰皿を片手にむやみと煙草をふかしていると、電話が鳴った。東都総合リサーチの桜井だった。
「葉村、ありがとう。おかげで大当たりだったよ」
このところ、わたしとの電話はすべて小声だったが、今日の桜井は元気いっぱいだ。わたしは面食らった。
「大当たりって、なにが?」
「だから、牛島潤太のホームページだよ。今朝、その方面に詳しいスタッフに訊いてみたんだ。最終的にはサーバーの登録名簿に片っ端から侵入しなくちゃならないとしても、まずはヤフーの検索から始めたらってそいつが言ったもんでね。牛島だの潤太だの、思いつくかぎりのキーワード入力してったら三十分で大フィーバー。葉村の勘、さすがだな」
「それで、どういうホームページだったの?」
桜井のテンションが急に低くなった。
「あー、まあ、なんというか、予想通り、いやそれ以上の悪趣味だったわけで」
「牛島脅す材料に使えそう?」
「社長が弁護士に相談してる。この内容なら人権侵害で訴えることができるんじゃないかってね。訴える相手は牛島じゃなく、ホームページを管理してるサーバーのほうだけど。訴訟が可能なら、サーバーを訴えて牛島のホームページを閉鎖させ、かつよそのサーバーにも手をまわして二度とこんなふざけたホームページ開けないようにしてやる、と脅せると思う。自己顕示できる場所がなくなったら、やつもおとなしくなるんじゃないかって葉村の説、たぶん正しいよ。他のスタッフも社長も同意見だ」
「ねえ、それってわたしの友人にも効果があるかしらね」
桜井は低くうなった。
「たぶんな。だけど……なあ、葉村。悪いことは言わない。このホームページのぞくときはだね、椅子に深く腰を下ろして、周囲に割れものがないか確認し、思いっきり覚悟してから見たほうがいい。友達に教えてやるかどうかは、見てから判断すべきだろうな」
奥歯にもののはさまったような言い方だった。よほど悪いものを見たとみえる。
ホームページのアドレスを書き取って、電話を切った。途端に電話が鳴り響いた。
「葉村さん?」
平ミチルだった。さっき読んだ新聞記事を思い出し、胃が痛くなった。
「今日時間とってくれって言ってたじゃん。いまからなら空いてるよ」
時間を確認した。ちょうど一時半だ。
「こんな時間に授業が終わったわけ?」
「言っただろ、うちのガッコ、自由選択制なんだって。あたしのとってる授業は終わったんだ」
嘘をつけ、と喉もとまで出かかった。どういう授業内容であろうと、一時半などという中途半端な時間に終わるわけがない。
真面目に高校に通っとくんだった、と思った。サボりの常習者だった過去がなければ思い切り説教できるのに。
「話長くなりそうだから、家に帰って着替えておいでよ。その後どこかで会ってほしいんだけど、場所はあなたに任せるから」
「葉村さんち」
ミチルは含み笑いをした。そうくると思った。
三時に大江戸線の中井駅まで迎えに行くことにして、部屋に戻った。途中、生協で一週間分の食料を買った。現金がたりず、所長から預かっていた滝沢美和の調査の経費を少し使い込んだ。早く精算をしに長谷川探偵調査所まで行かなくてはならない。せっかく桜井が教えてくれた牛島潤太のホームページものぞきたい。ミチルから話を聞き出し、できれば水地佳奈の調査を続けられるように環境を整備したいし、そのためには佳奈の母親の明石香代のことをよく知るという、葉崎の滝沢別邸の管理人を訪ねたい。部屋の前にゴミをばらまいていく不届き者もつかまえたいし……。
やることは山ほどある。どれもこれも一銭にもならない。あきれたもんだ。
いまなら平義光の分厚い封筒、絶対に受け取るな、と思いつつ食料その他を部屋に運び込んだ。階段の二段目にさしかかると、とんでもなくまぶしい光線が目を射た。すっかり忘れていた。転げ落ちるところだった。
この〈対人センサー付警戒ライト〉には、ミチルも感銘を受けたようだ。
「おっもしろーい。やっぱ、葉村さんって探偵だね」
「それとこれとは関係ないの。ところで、さっきから気になってたんだけどずいぶん大荷物だね」
ミチルは見覚えのあるピンクのボストンバッグを持ち替えつつ、にやりと笑った。
部屋に入るとミチルはあちこち見回して、ベッドの脇にバッグを放り、昔みのりがクリスマスプレゼントにくれた大きなクッションの上に座り込んだ。
「いい部屋じゃん。わりに広いしきれいだし。うん、このクッション、あたしのにする」
「待て。誰がクッションをやると言った?」
「部屋からは持ち出さないよ。ここにいる間だけ、使わせてもらうの」
「あのねえ、はっきりさせておきたいんだけど」
「しばらくここで居候する」
ミチルは言い放ち、上目遣いにわたしを見た。
「大丈夫。学校にはちゃんと行くし、家事も手伝う。お小遣いから食費も出す。パパたちも葉村さんと一緒なら文句言わないし」
「なんか勘違いしてるんじゃない? わたしはあんたが思ってるほどお人好しじゃないし、気難しくて、疲れているときは誰とも口をきかないような人間だよ。ベビーシッターが欲しけりゃよそをあたりなさい」
「誰も甘やかしてほしいなんて頼んでねーよ。いいんだって、のら猫かなんかがうろうろしてるとでも思っててくれれば」
「あんたはのら猫じゃない」
「ねえ、いいじゃんか。迷惑かけないから。あたしはただ、家にいたくないだけ」
「そういうわけにはいかないでしょうが」
苛立ってきた。ひとり暮らしを再開して気づいたのだが、わたしはやっぱりひとりでいるのが好きなのだ。自立したみのりとの同居ですら、ときどき神経にさわることがあった。よりによって、この平ミチルとうまくやっていけるわけがない。
「怪我をして体力がない、仕事もうまくいってない。わたしはいま、そういう状態なの。そういうときは、自分でもなにするかわかんないのよ。あんたに当たり散らすかもしれない。あんたを傷つけるかもしれない。いきなり他人の生活に入り込むってそういうことなんだよ。わかってんの?」
ミチルはきゅっと唇を噛んだ。
「あたしのこと追い払わないほうがいいよ、葉村さん。そんなことしたら、後で泣くよ」
「へえ、どうしてよ」
「このまま家にいたら、あたし、ママのことぶっ殺しかねない。そうなったら、葉村さんも責められるよ。未成年の必死のSOSを拒絶した冷たい女だとか言われてさ」
冗談めかしていたが、ミチルの顎はかすかに震えていた。
しばらくにらみあってのち、わたしはミチルから目をそらした。
「赤の他人になに言われようが、かまやしないけどね。真面目な話、いまこの部屋には問題があるのよ。どこかのバカが二日連続して部屋の前にゴミを捨てに来た。あのライトはそのせい。だから──」
ミチルはものすごい目つきでわたしをにらんだ。わたしは続けた。
「だから、夜遅くなったら部屋から出ないように。わたしが外出中、外で物音や誰かが訪ねてくるなんてことがあっても、絶対にドアを開けないこと。毎日ご両親に連絡をとること。それから、ホントにちゃんと学校行ってよ」
ミチルは黙ってうつむいていたが、やがて顔をあげてぽつんと言った。
「……わかったよ」
やれやれ。
図書館で新聞記事など読むんじゃなかった。
「水地佳奈、知ってるよね」
マットレスを出したり歯ブラシを所定の位置におさめたりする騒ぎが一段落して、オレオクッキーとお茶で一息入れた。ミチルはぎくっと顔をあげた。
「うん……」
「どうして最初に尋ねたとき、彼女のこと隠してたの?」
「隠してたわけじゃないけど。ちょっといろいろややこしいんだ」
「どういうふうに」
ミチルはどう答えたものか困っているようだった。コンピューターと同じで、正しい質問をしなければ答が返ってこない。ミチルはそういう生き物だ。
「最初から教えてよ。美和さんと佳奈さん、佳奈さんと柳瀬綾子さんがそれぞれ友人同士だったわけね?」
「うん。佳奈はあたしたちより三つ年上なんだよね。アヤと佳奈は病院で知り合ったんだ。佳奈のお母さんが入院してるとき、隣のベッドにアヤのおばあちゃんがいて。アヤっておばあちゃんが大好きで、よくお見舞いにいって泣いてたんだって。それを佳奈がなぐさめてくれて、それで友達になったって」
「佳奈さんのお母さんは去年の夏頃、亡くなられたんだったわね」
「そう。で、アヤのおばあちゃんもその後死んじゃって。あたしさあ、こないだ警察で、アヤが遊び歩いてたの、冬頃失恋したせいだって言っただろ。それ嘘じゃないんだけど、アヤがトチ狂ったの、失恋と、おばあちゃんが死んだのと、家族といろいろトラブってたのと、全部だと思う。ま、たんに男好きだってのもあるけど」
ミチルはおとなびたため息をついた。
「で、佳奈さんが美和とアヤを引き合わせた……?」
「うん。美和は佳奈のお母さんにずっと育てられたんだって? で、佳奈とお母さんが一緒に暮らすようになってからも、ときどき会いにいってて。美和って金持ちじゃん。佳奈のお母さんが死ぬとき、佳奈のこと頼むって美和に頼んだんだよ」
「なるほどね」
「だから美和、佳奈のお母さんが死んだ後も佳奈がマンションの部屋に居続けられるようにしてあげたわけ。美和もクソオヤジが大事なもの勝手に捨てちゃうから自分だけの部屋欲しがってたし、ルームメイトになって家賃とか光熱費とか、美和が小遣いから出してさ。佳奈も助かってたと思う。けど」
「けど?」
「佳奈さ、お母さんとはちょっとしか暮らせなかったわけだよね。その間、そのお母さんと美和は一緒に住んでた。そういうのってフクザツでしょ。佳奈、美和には借り作りたくないって言ったことがある。あたしもアヤもそれは同じだったけど。別に美和が金にもの言わせてえばったりするわけじゃないんだけどさあ」
わたしがこの子たちくらいのときも、妙に潔癖な一面があったものだ、と思い出した。
「とにかく、この一年ほど四人でわりと仲良く遊んでたわけね」
「四人一緒ってのはあんまりなかったな。美和は佳奈の部屋に入り浸ってたし、佳奈とアヤもたまにつるんでた。あたしは美和とはガッコで一緒だし、アヤとは夜〈オレンジ・キャッツ〉で遊んでた。アヤが男狂い始めるまでだけど」
「佳奈さんとミチルは? あんまり遊ばなかった?」
「そうだね」
ミチルは面食らったような顔をした。
「別に話題もないし。てゆーか、あたしは佳奈ってあんま得意じゃなかったから、ふたりきりで会ったことないよ。おっとな、って感じで喋りづらくてさ。ピントはずれの説教するし」
「美和さんもあんたに説教してたんでしょ」
「うん。でもあいつはガキんときからの友達だから、ま、しょーがないってとこもあったんだけど、佳奈にまで説教くらう理由ないし」
ミチルはテーブルを離れて床に座り込み、長い足の指を伸ばしつつ、質問に答え続けた。三月二十日頃には、ミチルと綾子はメール交換し、たまに顔を合わせる。佳奈とはほとんど会うこともない。美和とは学校で顔を合わせ、他のふたりの話を聞かされている。
「それで、その後は?」
「春休みが始まった頃に、美和からすごい勢いで電話かかってきたんだよ。佳奈がいなくなったって。美和が日曜日に部屋に行ったら、メモがあって、アヤに紹介されたバイトでしばらく留守にするって書いてあったんだって。そんときは気にしてなかったらしいんだけど、三日後にもう一度行ったら、佳奈、部屋から引っ越してて。不動産屋に聞いてもマンションの管理人に聞いても、引っ越したっていうだけでなにも教えてくれない、どうしようって美和泣きそうだった」
ミチルはバッグからポーチを取り出し、さらにマニキュアを出した。
「あたしさあ、そんときはたいしたことだと思わなかったんだよね。きっと佳奈は美和にうんざりしてたんだ、そのわりのいいバイトってやつで大金入ってやってけるようになったんで出てっただけだって、思ったんだよ」
「そういうふうに、美和さんにも言ったわけ?」
「──言っちゃった」
ミチルはうつむき、マニキュアの蓋をこじ開けて、なんと足の指でマニキュアを足の爪に塗り始めた。
「したら美和ものすごく怒って、あたしのこと──オト──その、めちゃくちゃ言い出したんだ。こっちも言いたいこと全部言ってやったけどね」
「アヤさんが小島雄二──アヤさんを殺した犯人だけど、彼からマリファナを買ってたってこと、あんたは知ってたの?」
「うーん」
ミチルはあいまいにうめきつつ、爪をピンクに塗り立てた。
「どっちよ」
オレオを食べようと手を伸ばすと、ミチルは鼻にしわを寄せた。
「葉村さんさあ、オレオの食べ方ヘンくない?」
「どこがよ」
「はがして中のクリームだけ食べて、あとから外側の黒いとこ食べるなんてさ」
「いいじゃない、自分ちでオレオをどんなふうに食べようが。それより、あんたこそどういう塗り方よ、それ」
「あたし、足の指が器用なんだよ。たいていのもんはつかめるね。唯一の自慢」
佳奈の話に戻そうと試みた。
「で、知ってたわけ? マリファナの件」
「本もめくれるし、テレビのリモコンも使えるよ」
ミチルはそっぽをむいて足の指をがばっと開いてみせた。わたしは目をむいた。
「ちょっと。まさかあんたもやってたわけじゃないでしょうね」
「だーれもそんなこと、言ってないじゃん」
「言ってるのも同じだよ。ったく、あんたねえ」
「いいじゃんよ、自分ちでハッパくらいやったって。中毒にはなんないし、煙草よりよっぽど健康的だってアヤも言ってたもん」
「それが原因で殺されちゃったんじゃ、健康的もなにもあったもんじゃない」
「やめろよ、そういう言い方」
ミチルはむっとしたらしく、マニキュアをポーチに戻した。
「あんた、アヤさんのことはよほど好きだったんだね」
ミチルはバカじゃないか、という目でわたしを見たが、やがてふうっと息をついた。
「……あいつのエッチの話ひどくて、車のなかでやったとか、ラリってやったとか三人とやったとか、そんなんばっか聞かせて、うざったかったけど──あたしが家出決めたとき、わかってくれたのアヤだけだった」
ややあって、ミチルは落ち着きを取り戻した。
「アヤが死んでから、ずっと考えてたんだ。佳奈がいなくなって、なんかむちゃくちゃになっちゃったんだなあって。美和、意地でも佳奈のこと自分で探し出してやろうって思ってたみたい。アヤが佳奈にバイトなんか紹介してないって言ったもんだから──」
「ちょっと待って。それ、ホント?」
「ホントだよ。アヤから聞いたんだから間違いない。それに第一、そんないいバイトだったら、アヤ自分でやるに決まってんじゃん。アヤだって貧乏してたんだから」
それもそうだ。
「だけど美和信じなくて、こっそりアヤのこと調べてたんだね。そのうちハッパのことがバレて大喧嘩になったって。やめなかったら警察にチクってやるとまで言ったらしいよ。美和は佳奈が行方不明になったの、ハッパと関係してるって決めてかかって、アヤがその売人に佳奈を売ったんじゃないかとまで言い出してさ。美和、なんかいかれちゃったみたいだった」
ミチルはいやな顔をした。
「ちょうど新学期が始まった頃だったけど、あたしもとばっちり食って最悪だった。美和は口きかないし、ママは相変わらずだし、アヤにハッパもらって試してみたけど、頭痛くて吐きそうになっただけ。情報誌に載ってた劇団ってのに行ってみたけど、面白くもなんともなかったし」
わたしのわき腹を刺した宮岡公平──彼とはその劇団で知り合ったはずだ。そのことを問いただそうかと思ったが、やめにした。ミチルの問題は根が深い。ことのついでで手は出せない。
スケジュールを考えてみた。水地佳奈が行方不明になったのは三月十六日。十九日には映画館を無断欠勤し、翌二十日に叔父と名乗る男からの電話が映画館にあった。その翌日あたりに、滝沢美和が佳奈の〈引っ越し〉に気づく。おそらく、その〈引っ越し〉が行なわれたのは三月十九日か二十日あたりだろう。
美和は「アヤから紹介されたわりのいいバイト」にこだわって柳瀬綾子の周辺を調べ、小島雄二に行き着く。四月の初めには綾子と小島、双方を脅して取り引きをやめさせ──あれ?
わたしは首をかしげた。そこまでたどり着いていたのに、美和は行方不明になった五月三日までの一ケ月、いったいなにをしていたのだろう。
「あんたが家出したのって、四月二十日だったわね」
ミチルは宙を見あげてうなずいた。
「そんくらいだったと思う」
「それまで美和さんやアヤさんとはコンタクトしなかった?」
ミチルは真顔になって紅茶茶碗を下に置いた。
「アヤとは一度会った。相談にのってもらってたんだ」
「相談って、なんの?」
ミチルは肩をすくめた。わたしは引っ込んだ。
「わかった。──そのとき、佳奈さんの話は出た?」
「美和ほどじゃないけど、アヤも佳奈がいなくなったこと不思議がってた。ふたりは仲良かったじゃん? 美和が嫌になったからって、アヤとまで縁切る理由はないし。──アヤがなんか怖いって言ったんだ」
ミチルはぼんやりと遠くを見た。
「佳奈は身よりもいないし、いなくなっても心配するのはあたしらだけ。消えたら消えたまんまじゃん、それって怖いよねって。しばらくはアヤも新しい男と出歩くのやめちゃったくらいだよ。そしたら、親がゴールデンウイークにハワイ連れてってくれることになったって、すっごい喜んでて……」
羨ましそうな口調だった。わたしはずばりと訊いてみた。
「それで家出してみたわけ?」
怒り出すかと思ったが、ミチルは鼻を鳴らしただけだった。
「それっぱかりの理由じゃねーけどさ。あたしのことはどうでもいいよ。とにかく、アヤが怖がるの、無理ないだろ? 佳奈の消え方フツーじゃねーもん。本人だけならともかく、部屋の荷物まで全部消えたんだよ。美和のものだってたくさんあったはずなのに。大がかりな犯罪組織が絡んでるって、葉村さんだって思うだろ?」
金があり、嘘のつきかたを心得ている人間なら、荷物を消すことくらいできるはずだ。ひとひとり──美和の持ち物を入れると二人分の荷物となるとかなりの量だから、楽々すませられるとも思わないが。
「だからなんとなく、佳奈の話はできない雰囲気だったんだ。美和が消えたあとはなおさらだよ。アヤは心当たりにあたってみるとか言ってたけど、あたしはもう、佳奈にも美和にも近寄りたくなかった」
自分のことで精一杯だったのを恥じているのか、ミチルはうつむいた。
「美和さんがいなくなったのは佳奈さんの行方を探したからだって、あんたは思ってるわけね」
「だって、美和はずっと佳奈のこと探しまわってた。家出から帰ったあと聞いたんだけど」
「どういうこと?」
「パパが、あたしがガッコに戻れたの滝沢のクソオヤジのおかげだって言ったんだ。だもんで、美和には礼を言っといたんだ。そんとき、目が据わってるっていうか、様子がおかしくてさ。こいつ、ハッパどころじゃないクスリ始めたんかってちょっとぞっとしたんだよね。したら、美和が──」
「美和さん、なんて?」
「美和が笑って──すっげえ気持ち悪い笑いかたしてさ」
ミチルの顔が醜く歪んだ。
「あたしもわりのいいバイトにありつけそうだって」
夕方近くになって、わたしは長谷川探偵調査所へ精算しに行くことにした。事務所のパソコンを借りて報告書も仕上げたいし、ついでに牛島潤太のホームページものぞくつもりだった。
ミチルはどうしてもわたしについていくと言い張った。
「じゃましないってば。どうせ晩飯食べないとなんないしさ」
「あんた料理できるんでしょうね」
「料理? それなに」
家事を手伝う話はどうなったんだ、と言ってやると、ミチルはふくれた。
「だから教えてよ。教えてくんなきゃわかんないじゃん」
言い争うのも面倒になり、結局ふたりで部屋を出た。商店街の真ん中で光浦功と出くわした。ミチルを紹介すると、光浦は非難がましくわたしを見た。
「葉村ちゃん、男っけがないと思ってたらそういうことだったの? それならそうと、言ってくれればよかったのにぃ。店子の男、誰か紹介しようかと思ってたのよ」
「あんたわざと誤解してない?」
光浦は大仰な身ぶりで胸をなでおろした。
「あら、やっぱり? よかったわ。アタシ、これでも見る目はあるつもりなのよ。葉村ちゃんはストレートだと確信してたの。はずれたら、史上初めてってことになるもの、どうしようかと思っちゃった」
わたしの留守中なにかあったら頼むと言うと、光浦はうなずいた。
「もっちろんよ、まかせてちょうだい。ミチルちゃんだっけ? 変な男につけまわされでもしたら、すぐ声かけてね。アタシんちは葉村の部屋をまっすぐ行った六軒目の青い屋根の家ですからね」
光浦はヴェトナムの手編みカゴをぶらさげ、さわやかに手を振って魚屋へ消えた。目を真ん丸くしていたミチルは、光浦の姿が見えなくなると訊いてきた。
「ね、あのひとゲイ?」
「知らない。だったとしても驚かないけど」
「どうして知らずにいられんの? 男だか女だか、はっきりさせたくなんない?」
「あのひとは最高の大家だよ、いまのところはね。それだけわかってれば十分じゃない」
ミチルはなにか言いかけてやめた。
光浦に気をとられていたので、気がつくと時計店を通り過ぎてしまっていた。戻るのも面倒だった。腕時計の電池を替えるのは次にしようと思い、駅前の鍵屋へ向かった。合鍵を作り、ミチルに渡した。居候をやめるときには返すように厳命したが、ミチルの返事は上の空だった。
「公平も合鍵はくれなかったよ」
ミチルは興奮気味に言って、胸からお守り袋を引っ張り出してなかに入れた。東南アジアの民芸品だろう、手作りらしい品物だ。ふと、武蔵東署の柴田要の言葉を思い出した。柳瀬綾子の身元は、彼女が首からさげていた手作りのお守り袋で知れたと言っていた。
「その袋」
「え?」
「それ、どこの?」
「タイかミャンマーだったか、よく知らない。皆で買ったんだ」
「皆って?」
「だから、美和と佳奈とアヤとあたし。下北沢の雑貨屋で買ったんだ。おそろいで同じやつを。どうして?」
「いや──皆、大事にしてたんだろうね」
「たぶんね」
少なくとも、ミチルと綾子は大切にしていたわけだ。
「あんた、佳奈さんの写真って持ってない?」
ミチルはうなずいた。
「あるよ。アルバムに貼ってある」
「後でコピーとらせてもらえないかな」
「いいけど、どうすんの」
警察が小島雄二の──柳瀬綾子を殺した犯人の事後捜査を進め、滝沢美和や水地佳奈についても調べているのなら問題はない。だが、美和はともかく水地佳奈の行方を探しているかどうかは怪しいものだ。念のため家出人捜索願を出しておきたいのだ、と大江戸線のなかで説明した。
「アヤ殺した犯人が美和と佳奈も殺したんじゃないの?」
ミチルは大きく目を見張った。
「美和さんについては、その可能性も捨て切れない。小島の部屋から美和さんの名前に印のついた女の子のリストが出てきたそうだしね。だけど、佳奈さんのことはまだわからないわけだから」
「葉村さんが佳奈を探してくれるの?」
「そうはいかない。依頼人がいないもの。個人的には調査を続けたいんだけど、わたしは慈善事業で探偵やってるわけじゃないし、せめて実費を負担してくれる相手を見つけないことには動けない。美和さんの調査も打ち切られたし」
ミチルはなにか考え込んで、口をきかなかった。
長谷川探偵調査所のオフィスには村木がいた。ミチルを見て、問いかけるように眉をあげた。
「なにも訊かないで」
わたしは先手を打った。
「滝沢美和の調査の経費を精算しに来たんだけど。所長は?」
「パチンコ。よく飽きないよな」
所定の用紙に記入し、領収書を貼りつけた。急いで報告書を作成した。ミチルはおどおどとソファに縮こまっていたが、やがてオフィスの空気にも慣れてきたらしく、言い出した。
「ねえ、探偵雇うってどれくらい金かかんの?」
「どんな調査かによるな」
村木が料金表を出して、ミチルに見せた。ミチルはげっ、という顔をした。
「これって高くない?」
「良心的な値段だよ」
「パパってば、あたし探させんのにこんなに払ったんだ」
ミチルを知らない村木は、わたしにむかって再度眉をあげた。わたしは首を振った。
「訊くなってば。──ミチル、あんたがわたしを雇おうって魂胆ならお断りよ」
「さっき葉村さん、実費だけでもいいって言ったよね」
ミチルはにやりと笑った。村木が手を振った。
「葉村、あんたはうちとはフリー契約なんだから、外でいくら仕事とってもかまわないんだぜ」
「よしてよ。ミチルは未成年で、お金も親のものでしょうが。他あたるから、よけいなこと言わないでよね」
「他あたるって、あてはあるのか」
わたしはやりこめられていらいらとデスクを殴った。
「あったらこんなとこでぼんやりしてないよ」
「実費くらいなら払えるよ、あたし」
ミチルが割り込んだ。わたしは彼女をにらみつけた。
「とにかくそれはダメ。ゆうべ、あんたのお父さんから札束押しつけられそうになったの断った意味がないでしょうが」
「バカだな、もったいない」
「もらっとけばいいのにぃ」
村木とミチルは声をそろえた。仲がよくてけっこうなことだ。
幸いにして電話が鳴った。村木が取り上げ、目を丸くしてわたしを差し招いた。
「辻亜寿美から、葉村にだ」
電話のむこうの辻亜寿美の声は、ひどくくぐもっていた。
「葉村さん? その節はどうもすみませんでした。やはり調査はこれっきりということにさせていただこうと思って」
「その件については所長から聞きました」
「さっき警察からお話がありました。犯人が自殺して、結局、美和は──美和の死体って言ってた、死体……」
わたしは椅子を引いて腰を下ろした。ミチルがソファで足を抱え、不安げにわたしを見上げている。亜寿美は数分間、錯乱したように支離滅裂の単語を並べていたが、やがて受話器を手でふさいだらしく、柔らかな物音がした。
「もしもし、亜寿美さん?」
「美和を見つけたいの」
亜寿美は絶叫した。
「死んでるっていうならそれでもかまわない、美和の身体だけでも連れ帰ってほしい。だから、葉村さん──」
背後で誰かが喋っている。わたしは聞き耳を立てた。受話器は再び手で覆われた。
「もしもし、聞こえますか」
「──ごめんなさい、取り乱してしまって」
「美和さんのこと、もう少し調べてみましょうか」
かすかな希望が湧いてきて、わたしは強く言った。
「もちろん警察は小島雄二の家宅捜索で押収した品物から、美和さんの──居所をつきとめる手掛かりを得ているはずです。でも、わたし少し気になることがあって。例のカナ、見つかりました」
「カナ? ああ、美和が隠れ家にしていたんじゃないかっていう部屋の娘ね」
「亜寿美さんの言った通り、明石香代の娘でした。水地佳奈。ところが彼女も三月二十日前後に姿を消しているんです。美和さんはその佳奈さんの行方を探していたらしいんですよ」
「水地佳奈の行方を、美和が? でも、美和は柳瀬綾子さんを殺した麻薬の売人に殺されたって彼──警察が、言っていたわ」
「そこがおかしいんです。美和さんは小島雄二のことも、柳瀬綾子さんとの関わりも四月上旬には知っていて、関係をやめるようふたりに迫っていたんです。もし水地佳奈と小島にもなんらかの関係があることを美和さんが知っていて、それを小島に悟られていたとすれば、小島雄二が美和さんを五月三日まで手にかけないはずもないし、美和さんも小島を放置しておくはずはないんです。水地佳奈の行方をつきとめれば、美和さんについてもきっとなにか出てくると思います」
辻亜寿美は答えなかった。また受話器がふさがれている──そして亜寿美は誰かと喋っている。
「亜寿美さん?」
「あの、葉村さん、あなたのおっしゃることはわかりましたけど、でもこれはやっぱり警察の仕事だと思います。申し訳ありませんが、もう美和のことも水地佳奈のことも、忘れてもらえませんか」
「亜寿美さんはどうしてわたしに電話をかけてこられたんですか」
わたしは努めて冷静に尋ねた。
「警察を信用できないからでしょう? 美和さんになにかしてあげたいからじゃないんですか」
荒い息づかいだけが聞こえてくる。わたしは必死になった。
「せめて三日だけ時間をもらえませんか。収穫がなければ実費だけで、報酬はいりません。でももし、三日のうちに水地佳奈と美和さんの失踪につながる手掛かりが得られたら、そのときは──もしもし? 亜寿美さん?」
「お願いします、葉村さん」
電話は切れた。受話器を戻したわたしに、村木が問いかけた。
「どうした?」
「誰か他の人間がいたみたい。最後の声、まるで離れたところから受話器に向かって叫んでたみたいだった」
「なんだそりゃ」
お願いします、というのが依頼のことなのか、それとも水地佳奈や滝沢美和については頼むからもう調べるな、という意味なのか。わたしは都合のいいほうをとることにした。
報告書をまとめている村木が出前をとるというので、便乗させてもらうことにした。水地佳奈と滝沢美和の調査の続行を決めたので、餃子とビールを追加注文した。村木はしきりと首を振っていた。
出前が来るまでの間、オフィスのパソコンを借りることにした。牛島潤太のホームページを開いたとき、わたしは桜井の忠告をすっかり忘れていた。
〈牡牛座JUNTAの猟人日記〉というタイトルが現れた。一番新しい日付をクリックして、読み始めた。
五月十七日木曜日
[#ここから1字下げ]
新たな獲物を物色するべく、新しく代田橋のカルチャースクールに通い始めたけど、これといった女がいない。こりゃ時間と手間のムダで、今日はネタなしか? と思ったところへ、すごい事態が発生。前に、金巻き上げてやったゴダイミチコ(仮名)がなんと探偵をふたりもつれて現れた! ゴダイミチコ(仮名)には住所も本名も教えてなかったんだけど、物好きにもつきとめたらしい。金返せ、俺たちはおまえが結婚詐欺やってることも、SM風俗に通ってることも知ってるぞ、だって。
金は返してもいいけど、写真は返してやんないよって俺は言った。そしたら探偵たち慌ててやんの。ゴダイミチコ(仮名)の毛深いモロ出し写真なんか、持ってたってしょーがないけど、おそれいりましたって返したんじゃ、オモシロクないもんね。ゴダイミチコ(仮名)のやつ、ヒステリー起こしてやがんの。こないだまで、結婚してくれ、あなたのためならなんでもするわとか言って、アンダーグラウンドのポルノ雑誌でもお目にかかれないようなカッコして写真までとらせたくせに、どうなってんのかね。
ところで帰り際、オモシロイ偶然があった。タクシーに乗ろうとして、つき飛ばされてすっころんだまぬけ女がいて、声かけてみたらこいつがアイバミノリ(仮名)の友人だった! アイバミノリ(仮名)って、図書館の司書やってるお堅い女だよ。なかなか手も握らせなかったくせに、ヤリ始めたら声がでかくって──
[#ここで字下げ終わり]
「葉村さん、大丈夫?」
ミチルが駆け寄ってきた。わたしは村木とミチルに助け起こされ、椅子へ戻った。
「バカだなあ。足悪いくせに、どうして椅子から転げ落ちるかね」
ふたりは不審げにわたしを見ている。落ちたとき、足を妙な具合に打った。わたしは泣きべそを作り笑いでごまかして、ホームページへ戻った。
[#ここから1字下げ]
──声がでかくって、録音のしがいがあった女。アレの合間に自分の過去とか語っちゃうタイプで、そんなこと聞かされて男が喜ぶとでも思ってんのかね。婚約者に自殺されたそうだけど、こんな女と結婚するハメに陥ったら誰だって自殺くらいするよな。
その女の友達とでっくわすなんて、ラッキー。女同士が俺をはさんで牙むきあってるとこ、何度やってもオモロイもんな。今後の新たな展開に乞うご期待って言いたいとこだけど、アイバミノリ(仮名)の友人がまた、えらい警戒心の強い女で、怪我したとこ診てやるってさんざん足なでまわしてやったのに反応ゼロ。ありゃたぶん、不感症だな。
[#ここで字下げ終わり]
「誰が不感症だよ、この野郎」
わたしはパソコンに向かって怒鳴りつけた。はずみでさすっていた足をぐきっと曲げてしまったが、それどころではない。
「葉村、おまえいったいどうしたんだ」
「なにがっ」
わたしは勢いよく振り返った。村木とミチル、おまけに出前持ちと長谷川所長まで背後に立っていて、全員ぽかんと口を開けている。
「なにがって、なんかいま、ものすごいこと言わなかったか」
「あー、えーと……なんでもない」
パソコンを叩き割ってやりたい気持ちを抑え、ホームページを読み直した。冒頭に〈この日記はあくまでフィクションでーす。実在する団体・個人とはなんの関係もありませーん〉というふざけた但し書きがついている。みのりをはじめとする牛島潤太の女友達には、関係ありませーんで通用するわけがない。それを承知でやっているんだ、と思った。
桜井たち東都のスタッフがこのホームページを閉鎖させてくれればいいのだが。
歯を食いしばって、すべてに目を通した。下劣さが充満した内容のなかに、さらにおぞましい文章を発見した。
[#ここから1字下げ]
こないだ振ってやったフジキミコ(仮名)って女が自殺した。これで俺にふられて死んだ女は二人目※[#ハート白、unicode2661] 十人めざしてガンバロー!(笑)
こいつバカでさ、親にマンション買ってもらってお金持ちの歯医者と結婚する、なんて周囲に言いふらしてたらしい。どあほ。あんな中身のないすかすか女が、どうして自分には幸せになる権利があるとか思うかね、ずうずうしい。泣きながら俺に電話かけてきたから、そう言ってやったらぽーんとマンションから飛び降りちまった。新居にする予定のマンションだったらしいけど、バカ丸出しって感じ? 後で親がうちに怒鳴り込んできたけど、こういうとき、うちの母親は頼りになるのさ。「まあ、言いがかりはよしてください。婚約したどころかプロポーズもしてないのに、思いこみの強いお嬢さんですのね。こちらもいい迷惑ですわ」
ほーんと、その通り。
バカ女は死ななきゃ治らない(笑)
[#ここで字下げ終わり]
胃がむかついて、せっかくの餃子も食べられなかった。
帰り道、いったいどうやってみのりを牛島潤太から引き離したものか、考え続けた。あのホームページを見せれば百万年の恋も冷めはてるだろうが、わたしですら心臓が急停止しかけたのだ。みのりがどうなっても不思議ではない。
商店街の中ほどまでさしかかったとき、ミチルが声をあげた。
「ねえ葉村さん。あれ」
わたしの部屋の前にパトカーが止まり、赤いライトが周囲を規則的に染めていた。
足が許すかぎり急いだ。野次馬をかきわけてパトカーのむこう側をのぞきこむと、例のライトにこうこうと照らされた階段の途中に光浦が腰を下ろし、警官となにごとか喋り合っていた。ここにいるようにミチルに言い、光浦に近寄った。
「ああ、葉村ちゃん」
光浦は顔をあげた。ハンカチで耳元を押さえている。その布が赤く見えるのはパトランプのせいだけではないようだ。
「いったいなにごとよ」
「さっき角のポストに郵便を出しに行ったのよ。帰ってくるときふと見たら、前をゴミ袋持ったばかでかい男が歩いてるじゃない。あ、こいつが葉村ちゃんちにいやがらせしてるやつだと思って、あとを尾《つ》けたわけ。そしたら」
「そいつに殴られたの?」
わたしは自分の血相が変わるのを感じた。光浦はうんざりと答えた。
「ううん、ライトに驚いたらしくて、そいつ足を滑らせて落ちてきちゃったの。アタシはその下敷きに……えへへ」
わたしはその場にへたりこんだ。
「えへへ、じゃないでしょう。怪我はそこだけ? 病院に行かなくて大丈夫なの?」
「平気よ平気。大騒ぎになって悪かったわねえ。アタシもびっくりしちゃったもんだから、つい、殺されるーっとかね、悲鳴あげたもんで、誰かがパトカー呼んじゃったの」
「謝ることはない。殺されたんでなくてよかったよ。──それで、その男は?」
「あれ、サイコパスもいいとこよ。俺の邪魔をしやがったクソ女に天誅を加えてやるんだとかなんとかわめいて、アタシに蹴り入れて逃げてったわ」
このやりとりをあきれたように見守っていた警官たちの動きが、不意に慌ただしくなった。パトカーは走り去り、わたしとミチルで光浦をわたしの部屋へ運び込んだ。幸い、光浦の怪我は耳たぶを切っただけで、出血のわりにはたいしたことはなかった。
「ねえ、葉村ちゃん。あんた、あの男に心当たりあるんじゃないの?」
ミチルがいれた世にも不味いコーヒーを飲みながら、光浦が探りを入れてきた。大男、クソ女、蹴り──やはり、世良松夫だ。ミチルに恐怖の体験を思い出させたくはなかったが、光浦功には知る権利がある。わたしは事情を説明した。
「まあ、なんてこと。とんでもない男ね」
話を聞き終わると光浦は憤慨した。
「それでいやがらせだなんて、逆恨みもいいとこじゃないの。アタシも急所蹴りつぶしてやればよかったわ」
ミチルはかすかに青ざめて、床に座り込んだ。わたしは言った。
「世良松夫だと決まったわけじゃなかったからこれまで黙ってたんだけど。ミチルはカタがつくまで家に帰ってたほうがいいんじゃない?」
「やだよ」
ミチルは吐き捨てた。
「そりゃあいつと顔を合わせるのは怖いよ。けど、家に帰るのはもっと怖いんだ。ここにおいてよ、葉村さん」
わたしは黙り込んだ。光浦がわたしたちを見比べ、遠慮がちに言い出した。
「葉村ちゃんはこのコのこと心配してるんでしょ。大丈夫よ。葉村ちゃんが留守のときは、アタシがみといてあげるから。店子や商店街のみんなにも声かけて、あのでかいのが捕まるまで気をつけてもらうし」
いまの段階で捕まってもたいした罪になるわけではない。世良松夫はますます恨みを深め、いやがらせを続けるだろう。
さて、どうしたものか。東都総合リサーチの久保田社長に抗議するか、せめて注意をしておくべきかもしれない、と思ったとき、表の戸が叩かれた。さきほど光浦と話していた警官が立っていた。
「先刻の男を逮捕しました」
ミチルと光浦が歓声をあげた。手放しで喜ぶ気になれなかったわたしは警官に尋ねた。
「階段から転げ落ちただけで逮捕? どうして」
「それが、職務質問をした警察官を神田川に投げ込んだんです」
ミチルと光浦が異口同音にえーっ、と合いの手を入れた。
「公務執行妨害!」
「それって傷害罪になると思うよ、ね、葉村さん」
「殺人未遂かも。やったわ。とうぶん外へは出てこられないわよ」
ミチルと光浦は抱き合って飛びはねている。わたしは警官に謝った。警官はむすっとした顔で光浦に、調書をとるのにご協力いただきたいと告げた。光浦は嬉々としてこれに応じ、わたしとミチルも同道することになった。
新宿西警察署に留め置かれていたのは、まぎれもなく世良松夫だった。わたしは彼とのいきさつを今度は警察に説明し、ミチルもこれを補足した。神田川に投げ込まれ、腕の骨を折る重傷を負ったという警官には気の毒だが、これでひとつ肩の荷が下りた。
いささかほっとして、ミチルを促して署の廊下を曲がったとき、東都総合リサーチの久保田社長と出くわした。彼は年配の女性を連れていた。おそらく、世良松夫を育てたという久保田社長の姉、噂の女傑だろう。
「葉村くん。これはいったいどういうことかね」
久保田社長は出会い頭に噛みついてきた。わたしはできるだけ穏やかに、ことの次第を説明した。
「信じられん」
話を聞き終わると、久保田社長は吐き捨てた。
「あいつにはあんたに近寄るなと命じておいたんだ。なにかの間違いじゃないのかね」
「わたしの部屋の大家に怪我をさせたんです。それはまあ、事故みたいなものですが、警官を神田川に投げ込んだのはまぎれもない事実ですから」
「だったら、どうして止めなかったんだ」
わたしは久保田社長を見返した。もしかしたら、彼はわたしの能力をとほうもなく高く評価しているのかもしれない。ありがたい話だ。
「その場に居合わせたわけではありませんので」
「それは──その通りだが」
久保田社長は途方に暮れたように黙った。そこへかん高い声が割り込んできた。
「あんたがうちの松夫ちゃんに精神的苦痛を与えた女探偵ね」
久保田社長を干からびさせたようなその女性は、わたしをすさまじい見幕でにらみつけている。
「だからあたしは言ったのよ。この女に自分のしたことの責任をちゃんととらせておけって。それを、長谷川の子飼いかなにか知らないけど、放置しておくからこんなことになったのよ。松夫だけが警察にいかされたり、ひどい目にあわされて、この女はおとがめも受けないで平然と遊び歩いて。不公平な扱いに松夫が怒ったの、無理ないじゃないの」
二週間の入院と十日間の怪我治療を、わたしなら〈平然と遊び歩いて〉とは表現しないが、まあ、世の中には言論の自由というものがある。
「あんたのせいよ。すべて、あんたが悪いの」
女傑はヒステリックに叫んだ。
「松夫ちゃんに謝りなさい。あんたが代わりに牢屋に入ればいいのよ。さ、いますぐ刑事さんのところへ言って、自分が悪かったんだから逮捕はやめてくれって土下座しなさい」
「このババア、イカれてるよ。薄気味わりーの」
ミチルが呟き、わたしは周囲を見回した。わたしたちを連れてきた警官、光浦その他のひとびとが、遠巻きにしている。女傑がじろりとミチルをにらみつけた。
「なによ、この小娘は」
ミチルはわたしの背中に隠れ、首だけ出して言い返した。
「あんたの松夫ちゃんに襲われかけた小娘だよ。葉村さんが助けてくれたんだ。あんなやつ、死刑になればいいんだ」
「まあ、よくもそんなことを。最近の若い娘はどいつもこいつも自分勝手で冷酷で」
「自分勝手はてめえのほうだ、ババア」
「葉村くん、これはどういうことかね。どうしてこの娘がここにいるんだ。松夫の罪を重くしようって魂胆なのか」
久保田社長が詰め寄ってきた。確かに、ここに前回の犠牲者が顔をそろえていれば、そういうふうに見えなくもない。
「誤解です。ご両親に頼まれて、彼女を預かっているだけです」
「どうして葉村くんが──おかしいじゃないか。まさか、あんた本当に松夫をハメようとしたわけじゃあるまいな」
「もちろん、この女が仕組んだのよ」
女傑が入れ歯の音をかちかちさせながら言い立てた。
「あの優しい松夫が事件を起こしたにはそれなりの事情があったに決まってる。この女が松夫をおびき出して、警官をけしかけたのよ。可哀想に松夫ちゃんはパニックに陥って、精神状態がおかしくなっちゃったんだわ」
久保田社長は疑い深くわたしを見た。否定するのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
「もちろんそんなことしてません。怪我をした警官に、わたしにけしかけられたかどうか訊いてみればいいでしょう? 第一、どうやっておまわりさんをけしかけるんです? 犬じゃあるまいし」
最後の言葉を周囲にも聞こえるように強調してやった。久保田社長の顔は赤く染まった。場合と場所を思い出したらしい。わたしはつけ加えた。
「わたしは世良松夫さんの連絡先を知りません。どうして彼がわたしの住所を知っていたのか興味はありますが」
久保田社長は咳払いをして、顎をしゃくった。
「ちょっと話がある」
Tシャツにしがみついているミチルを引きはがし、隅へ寄った。社長は小声で言った。
「松夫が迷惑をかけた事実は認める。だが、そっちにも落ち度はあるだろう」
「どんな落ち度です?」
「それはつまり、いきなり警察に連絡しなくたって私のところへ知らせてくれれば……」
「警察を呼んだのは近所の住人です。わたしが帰宅したときにはすべて終わってました」
「だから、前もって知らせてくれれば」
忍耐にも限度があった。
「久保田社長。今回のことはすべて世良さんが勝手にしでかしたことです。わたしが挑発したわけでもなんでもない。彼に踏みつぶされた足がまだ本調子に戻ってもいないのに、自分の身を危うくするような真似、誰がします?」
「なあ、葉村くん、ひとつおとなになってもらえないか。姉は──あれは私の姉で、松夫の祖母にあたるんだが、松夫が刑務所に入れられでもしたら心臓発作を起こしかねない。姉の言うように、葉村くんが松夫を脅したことにしておいてもらえれば、すべて丸くおさまる」
わたしは長谷川所長と、彼に受けた数々の恩義を思い出そうと努力した。この猿面を叩き潰してやりたい気持ちが、かろうじて少し遠ざかった。歯ぎしりしつつ、言った。
「いまの話、聞かなかったことにします」
「葉村くん、きみにも悪いようにはしないつもりだ、だから」
話の途中で女傑がつかつかとやってきて、わたしの腕をつかんだ。
「さ、がたがた言ってないで、正直に自分のやったことを白状し、松夫に許しを乞うんです。人間誰でもやったことの責任をとらなきゃならないんですからね」
我慢の臨界点をついに越えた。急に頭が冷たく冴えた。かさかさと不快な女傑の手の感触に耐えて、わたしは彼女にしか聞こえない声で囁いた。
「松夫さんってよほど頭が悪いんですね」
「──なんだって」
女傑は面食らったように目を見開いた。
「自分の頭じゃものごとを判断できないと実の祖母にまで言われてしまうなんて。お気の毒にね」
「ふざけんじゃないよ」
女傑はまんまと引っかかり、止めようとする久保田社長を振りきって、わたしに躍りかかった。
「松夫はね、優しくてできのいい、天使みたいな子なんだよ。あれはこれまで一度だって、間違ったことなんかしたことない。あんたみたいなスベタが大手振って歩いてる世の中のほうがおかしいんだ。その女と、権力ふりかざしたおまわりが、無邪気で、かわいい松夫に、ひどいこと、したに、決まってるんだ」
一言ごとにバッグでぼかぼか頭を殴られた。やがて警官が割って入り、女傑は大声でわめきながら連れ去られた。
「覚えておいで、おまえたち全員。松夫がどんなに立派な人間か、後でわかって反省したって遅いんだからね。特にその女探偵、覚えておいで。松夫をバカにした罪は必ず償ってもらうからね」
本人の姿が見えなくなった後も、女傑の声はきいきいと響き渡っていた。久保田社長は肩を落とし、どっと老けこんだ様子で立ち去った。少し気の毒になった。他人を黙らせようとするやり口自体は汚いが、あんな姉の面倒をみさせられてきたのだ。同情に値する。しかし、世良松夫が東都総合リサーチに居座り続けた場合、社長にとってはもっと気の毒な事態が起こりかねない。いささか意地悪だったかもしれないが、これでよかったのだと思った。
「ひえーっ、葉村さん大丈夫?」
ミチルがぴょんぴょん飛んできて小首をかしげ、床に座り込んだわたしを見下ろした。
「信じらんないよ、あのババア。殴り返してやればよかったのに」
「警察署の真ん中で?」
「あたしなら我慢できない。どうして我慢できたのさ」
「我慢なんかしてないよ。さ、帰ろうか」
警察署を出ると、目を丸くしたままのミチルがわたしに言った。
「なんかすごいよ、こういうのって。葉村さんはしょっちゅうこういう目にあってるわけ?」
「それじゃ身がもたない」
「でもよくあるんでしょ。どうして平気でいられんの、あんなめちゃくちゃなこと言われてさ」
「平気じゃないよ」
「だって、平気に見えるよ」
「見えるだけだよ。そう努力してるだけ」
「どしてそんな努力すんの?」
「おとなだから」
「ふーん」
ミチルは深刻そうに考え込んだ。世の修羅場をかいま見て、思うところがあったのかもしれない。それにしても「おとなだから」ってのはちょっとカッコよすぎたか、と内心苦笑したとき、ミチルが顔をあげて訊いた。
「ねえ。スベタって、なに?」
あくびをするミチルをベッドに寝かせ、わたしは客用のふとんをキッチンに敷いてそこで寝ることにした。ミチルは口を開けて熟睡している。よほど疲れたのだろう。
携帯を持って風呂場へ行き、風呂桶に腰かけて長谷川所長に連絡をとった。所長は眠そうに答えた。
「そりゃあ大変だったなあ。あの婆さん、世界は孫を中心にまわってると思い込んでるんだ。前にもそれで問題起こしたことがある。世良松夫が高校生のときに本屋で万引して補導されたんだが、同級生が松夫を脅して万引させたって言い張ってさ。同級生の女の子の顔に大怪我をさせて暴行で逮捕されてるんだ」
覚えておいで、という叫び声が耳の底に甦り、わたしは身震いした。
「葉村、大丈夫か」
「はい」
「久保田社長には釘を刺しとく。婆さんからは目を離さないようにしておこう。久保田がどう思っているか知らないが、これで心臓発作を起こしてぽっくりいくようなかわいげのある婆さんじゃないからな」
「すみません」
結局、最後は所長に頼っている。携帯電話を切りつつ、わたしはしかめ面をし、警棒を取り出して振る練習を少しした。
携帯が鳴った。相場みのりの声が聞こえてきた。
「ちょっと、晶。いったいどういうことよ」
腹を立てているときの癖で、みのりの声がオクターブ低くなっている。
「牛島さんがゆうべ、足を引きずってるあたしの友達に代田橋で会ったって言ってたけど、それってあんたのことでしょう。他に考えようがないじゃない」
違うと言っても通りそうもない。
「いやあ、名刺もらってびっくりしたよ」
わたしは明るくごまかした。
「タクシー乗り場につっこんできたオヤジがいてさ、はね飛ばされちゃったんだよね。助け起こしてくれたのが、まさかみのりの牛島さんだったなんて。奇遇ってこういうことを言うんだよね」
「なにが奇遇よ」
みのりはわめいた。
「あんた、このあたしを偶然でごまかせるとでも思ってんの? 東京の人口いまどれくらいだと思ってんの。安手のサスペンスドラマじゃあるまいし、そんな都合のいい偶然あるわけないじゃないよ」
「実際あったんだからしかたないでしょ」
代田橋という場所にふたりが居合わせたのはなるほど偶然ではないが、助け起こしてもらったのは偶然である、と理屈をつけて、わたしは強弁した。みのりは鼻を鳴らした。
「ごまかそうったってムダよ。晶のことはわかってる。よけいなおせっかいしてんでしょ。牛島さんがどんな男か、尾けて確かめようとしたんだ。いくら仕事が調査員だからってね、あたしの私生活に首つっこむ権利、晶にないってことくらい、考えたらわかるだろうが」
「わかってるよ、そんなこと」
「だったら、二度と牛島さんに近寄らないで。あたしのこともほっといて。あんたには関係ないんだから」
「みのり、あんたあいつがどういう男か知っててそんなこと言うわけ? わたしだってね、たまたま悪い噂聞き込まなかったら、放っておいたわよ」
「ほら、やっぱり尾行してたんだ」
みのりは勝ち誇ったように言い放った。
「やっぱりそうじゃない。前から思ってた通りだ。でなきゃ、そんな仕事にそこまで打ちこめっこない」
「──どういう意味だよ」
「あんたは根っから他人の生活に鼻つっこんでのぞいて歩くの好きなんだって意味。自分じゃオトコも作んない、まともな仕事につこうともしない。ただ他のひとの生活のぞき込んで生きてるつもりになってるだけじゃん。探偵ってそういう仕事だよ」
血圧がどっとあがった。怒鳴り返しかけ、とりあえず十数えた。
「みのり、あんた牛島になにか言われたの?」
「牛島さんを呼び捨てにしないでくれない」
みのりは冷たく言い返した。
「言っとくけど、彼はあんたが自分を調べてたなんて知らないんだからね。よっぽど教えてやろうかと思ったけど、不愉快な思いさせたくないから黙ってたんだ。あのひとはひとがいいからさ、晶のことも勘違いしてホメてたけど、そんなの大間違い」
「頼むから落ち着いてよ。あんた誤解してる」
「誤解? あたしが? ふざけんなよ」
ボルテージがますますあがってきた。
「あんたの聞き込んだ噂って、牛島さんが結婚詐欺で訴えられたことなんだろうけど、残念でした。あたしもちゃんと知ってる。あのひとに優柔不断なとこや、他人につけこまれやすいとこがあるの知ってて牛島さんと一生つきあっていくって決めたんだ。あたし、あのひとを護ってやるつもり」
「まさか──プロポーズされたわけじゃないでしょうね」
「あんたに関係ないだろ。結婚式には呼ばないから安心しな」
冷や汗が全身に湧いて出た。
「みのり、あんた騙されてるんだよ。落ち着いてゆっくり考えてよ。ほんとにちゃんとプロポーズされた? あいつがつきあってる女はあんたひとりじゃないし……」
「黙れ」
みのりは吐き捨てた。
「晶、あんた自分じゃなにひとつモノにできないくせに、他人より自分がえらいとでも思ってんの? だけどあんたほど不幸な女めったにいないよ、可哀想。同情するよ」
わたしは唖然とした。
「気の毒なのはそっちのほうだよ。牛島とあんた、絶対結婚しない。賭けてもいい」
「へえ、どうしてさ。足さわらせれば彼を持ってけるとでも思った?」
気がつくと、わたしは警棒で洗面台を叩きつけていた。
「わたしがあんな男欲しがってるとでも? あの腐れ野郎は、自分が足さわってもわたしがもじもじしなかったって理由で、ひとを不感症よばわりしやがったんだよ。自分がコナかければ誰でも落ちると思ってる、あんなおぞましいナルシスト、わたしの自由にできるんなら放射性廃棄物と一緒にドラム缶に詰めて日本海溝に沈めてやるよ」
「晶、あんた」
受話器のむこうでみのりが深いため息をついた。
「まさか、そこまで根性曲がってるとは思わなかった」
「……なに?」
「牛島さんが晶を不感症よばわりした? どうやったらそんな話、思いつけるんだよ。あのひとは晶のこと、感じのいいきれいなひとだって言ってた。やっぱり牛島さんの言ってたことはあたってる。女友達は片方が先に幸せになろうとすると、もう片方がひがむもんだって。あたしはそんなの男の妄想だって笑い飛ばしてやったんだけど、本当だね。そこまでひどい作り話──」
「作り話だと思うんなら、牛島の作ったホームページ読んでみりゃいいでしょ」
わたしはわめいた。
「あれを見れば、牛島がどういうやつかいっぺんでわかるよ。〈牡牛座JUNTAの猟人日記〉ってヤフーで検索すれば……ああっ」
慌てて口を押さえたが遅かった。みのりがうさんくさそうに言った。
「牡牛座JUNTAの──なんだって?」
「なんでもない」
わたしは早口にさえぎった。
「なんでもないってことはないだろ」
「ほんとになんでもないってば。ともかく、あいつには気を許しちゃだめだ。牛島は最低の男なんだから。──もしもし、みのり?」
電話は切れていた。わたしは警棒をしまい、タイルの床に落ちて砕けたコップを見下ろした。
ガラスの破片は細かく、つなぎあわせることなどできそうもなかった。
藤沢行きのロマンスカーはほぼ満席だった。ミチルは無言のまま雨の車窓を眺めていた。
土曜日だから学校はお休みだ、とミチルは言い張った。そのうえ、葉崎にも強引についてきた。水地佳奈の友人が一緒のほうが、見知らぬ調査員だけよりは相手の口もほぐれるかもしれない。そう思って連れてきたのだが、これでよかったのかどうか自信はない。
「ミチルをどうかよろしく頼む」
今朝早く電話をすると、平義光は弱々しく言った。
「こちらは葉村さんになら安心して任せられると思っている」
ゆうべの警察署での騒ぎを聞いても安心していられるかどうか怪しいものだが、よけいなことを告げるのはやめておいた。あの誘拐事件について知ってからというもの、重荷を背負った巡礼、という平義光の印象がますます強くなっている。
「水地佳奈さんの写真、見せてもらえる?」
ミチルは面倒そうにうなずくと、バッグからアルバムを取り出した。写真屋でおまけにくれるアルバムを六冊ほどひとまとめにして、厚紙と布できれいに表紙をつけてある。
「かわいいじゃない。自分で作ったの?」
「好きなんだ、こういうこと」
ミチルは照れたように笑い、ぱっと開いたページを指さした。
「これが佳奈だよ」
滝沢美和とのツーショット写真だった。
佳奈はきれいだった。切れ長のひとえまぶた、額を出した髪型、表情のせいかスクエアな印象を受けるが、唇がぽってりとふくれて色気がある。美和は佳奈の腕に楽しそうにすがり、相変わらず無邪気に笑っていた。
写真の下のほうにかわいいラベルが貼りつけられていた。ふたりの名前と撮影の日付がブルーのペンで書き込まれている。去年の十二月十日。
「三人で映画見に行ったんだよ。そのとき撮ったんだ。佳奈の写真で一番新しいの、これだから」
「借りてもいい?」
「あげるよ。前に一度、なくなって焼き増したからネガの場所、すぐわかるし」
「なくした?」
ずいぶん大切にしているように思えたのだが。ミチルはふくれた。
「あきれなくたっていいだろ。いつのまにか消えてたんだよ」
頁をめくってみた。亜寿美から借りた、美和母子と柳瀬綾子、ミチルの四人の写真もそこにあった。この四人の写真にはいくつかのバージョンがあった。
「これは?」
「美和の誕生日のお祝いに、美和のママがあたしたち呼んでくれて。そのときの写真だよ」
「佳奈さんは呼ばれなかったの?」
「ばあやの娘だ、なんて思われるとおっくうだから来なかったんじゃない? どしてさ」
亜寿美の部屋に飾ってあった写真だけを見ていたときは、てっきりセルフタイマーを使ったと思っていたのだが、他のものと見比べるとそうではないとはっきりわかる。
「この写真、誰が撮ったの?」
ミチルは眠たげにぼんやりと写真を眺め、うなずいた。
「ああ、野中のおっさんだよ」
その名前には聞き覚えがあった。
「野中って、二八会のメンバーで企業コンサルタント会社社長の野中則夫?」
「そ。アメリカ帰りの保守系マッチョ。知ってる? あいつ総入れ歯なんだよ」
「まだ若いのに」
「違う違う。全部抜いて、きれいな瀬戸物と入れ替えたの。アメリカでは歯はステータスシンボルなんだって自慢してさ。だからあたし、必要以上に歯がぺかぺかしてるやつは信用しない」
わたしはふき出した。ミチルは唇をとがらせて、
「企業コンサルタントとか経営アドバイザーなんてみんなイカサマだよ。パパもそう言ってた。利潤追求とか言っちゃって、下の社員の人数絞って、残りは殺す寸前まで働かせて、出た利益は首脳部で独占。そんなふうに構造改革させるんだって。そんなことしたら、上にへいこらするしか能のない社員しか残んない。長い目で見たら誰の利益にもならないのにって、パパ怒ってた」
ミチルがこんなことを考えているとは意外だった。
「お父さんとよくそういう話するんだ」
「たまたまだよ、たまたま」
ミチルは面白くなさそうに言い捨てた。
追及してみたかったが、藤沢までもう時間がない。要点だけ訊いた。
「で、どうしてこの場に野中さんがいたわけ?」
ミチルは訊くまでもないじゃないかと言わんばかりに肩をすくめた。
「美和のママのお店のパトロンだからでしょ。面白くもおかしくもないオヤジギャグ並べて、いつまでも帰んないで、若い女の子ってどんなこと考えてるんだい、とか言っちゃって、ひとのノートとかアルバム、のぞき見してさ。すっごい邪魔だったよ」
藤沢からバスで葉崎駅前に出た。そこからミチルの案内で、タクシーを滝沢別邸へと走らせた。あいにくの空模様だったが、葉崎海岸にはぽつんぽつんとひとの姿が見えた。
滝沢別邸は太平洋に突き出た葉崎半島の先端の小高い丘の上にあった。惜しみなく金をかけたらしい立派な石造りの建物だったが、霧雨に沈んで、さむざむとした眺めだった。
管理人夫婦は別邸の下のこぢんまりとした家に住んでいた。周囲の人家はどれもこれも別荘風に見えた。管理人夫婦がわたしたちの突然の訪問をさほど怪しむでもなく迎えてくれたのは、見慣れない人々の出没に慣れているせいでもあったのだろう。夏のシーズンを前にして、葉崎は低い雲の下に眠たげにうずくまっているようだ。少なくとも探偵の訪問は、眠気ざましの刺激物になる。
「水地ってのは、私の母の遠縁にあたるんですよ」
管理人──東間《あずま》と名乗った──は「水地佳奈さんの友人だが彼女の力になりたい、ひいては彼女の生い立ちを知りたい」というひどくいかがわしい訪問理由をそのまま受け入れ、キッチンのテーブルに肘をついて南京豆の殻をむきながら話し始めた。
「昔、いま滝沢別邸の建っている場所にはミズチを祭る神社があったんです。ミズチ、わかりますか」
「龍の一種ですね。鮫とも書く」
「よくご存知ですな。そう、水神さまみたいなもんですわ。その神主を務めていたのが水地の一族で、伝説によれば一族の祖先の娘が、しけにあって行方しれずとなった漁師である父親の帰還を願って身を投げた。すると数日後、父親は生きて戻ってきます。父親は娘の行動を聞かされて嘆き悲しむが、ある日岸に鮫がうちあげられ、その鮫の中には玉のような赤ん坊がいた。これぞまさにミズチの嫁になったわが娘が送ってよこした子どもにちがいない、というわけで父親はその子を大切に育てるわけですが、長じたその子は不思議な力を持っていて、彼が祈るとどんなに荒れた海も静まり、よその海で不漁が続いてもこの近辺で水揚げのない日はなかった、ということです。明治維新後に鮫神社がこの先の猫島明神に合祀されるまでは、漁師たちの信仰を集めて地域の中心的役割をはたしていた、と聞いてます」
佳奈のことを聞くはずが歴史伝説講義が始まってしまい、ミチルは唖然としている。わたしは笑いを噛み殺した。
「まあ、そういういわれがあるもんだから、水地の家はプライドが高い。うちの両親が結婚するときも大変だったようですよ。代々平凡な漁師だというんで、おふくろの親戚である水地一族から猛反対された。水地の縁のものとは釣り合わない、恥さらしとまで言われたそうですからね。おふくろは結婚前から地元の漁業組合で働いてたくらいだから、十分釣り合ってると思うけど、なにせ昔のことだからねえ」
東間の奥さんが麦茶をいれ、新宿の小田急線乗り場で買ってきた手土産のバームクーヘンを開けながら口をはさんだ。
「あら、いまだってそうですよ。この間も水地の従兄弟がこぼしてたもの。親戚がうるさくて、俺このままじゃ結婚できないって。そろそろ四十になるっていうのに、気の毒よねえ」
水地佳奈には親戚がいる──この情報はわたしを元気づけた。が、東間氏は妻に向かって首を振った。
「話は順序よくいかなくちゃ。よその土地から来たひとにはわかりづらいだろう」
奥さんはふふっと笑い、わたしたちに軽く目くばせを送った。長い話になるから気をつけろと言いたいらしい。
「佳奈ちゃんのお父さんの三郎さんは、その名の通り水地本家の三男です。その時分の水地家は小さな干物工場やってるくらいだったから、三郎さんは中学を出てすぐ横浜の自動車工場で働き始め、二十歳をすぎた頃、明石香代さんと知り合って結婚した。香代さんってひとも葉崎の出身で、家柄がどうのというほどの出じゃないけど、実家は土地持ちでね。まあ、三男の嫁だから大目にみられたらしい」
東間氏はぱちんと南京豆の殻を割った。
「ところが、佳奈ちゃんが生まれて少したった頃、水地の長男と次男が交通事故でいっぺんに死んじゃったんです。そこで三郎さんが急遽、水地本家に呼び戻された。そうなると彼は跡取りだ。三男の嫁としては不足のなかった香代さんだが、跡取りの嫁には失格だと姑が言い出した。これが悪魔も裸足で逃げ出すような婆さんでね」
「あなた」
「だってそうじゃないか。家柄を盾に香代さんをいびり出したんだ。三郎さんも意気地がないが、あの婆さんに逆らうのは並大抵じゃない。ご両親から香代さんが相続した家土地財産は、全部水地の干物工場に吸い取っておいて、赤ん坊とりあげて追い出すって法があるかい」
「ごめんなさいね」
東間の奥さんはわたしたちに笑いかけた。
「このひと、昔ちょっと香代さんに気があったもんだから、この話になるとついむきになっちゃうのよ」
「いい年こいて岡焼きしやがる。俺はね、香代さんが気の毒だと思ってただけだよ」
「可哀想だってなあ、ホレたってことよ」
奥さんがまぜっかえし、東間氏はうんざりしたように手を振った。ミチルが声をたてて笑った。
「こいつのことはおいといて」
東間氏はつるっと顔を撫でて、話を続けた。
「香代さんとうちのおふくろは仲がよかったんです。おふくろも水地の家のおかげでひどい目にあってましたからね。親父と結婚したときに反対されたと言ったでしょう。親父の親族だって、まさか自分たちがごたいそうな家柄だなんて思っちゃいなかったが、格下だの下々だのと罵られたんじゃ面白くない。結婚当時はおふくろ、ずいぶん嫌みを言われたらしい。だから香代さんのこと、他人ごととは思えなかったんじゃないかな。香代さんが着のみ着のままで追い出されると、おふくろが美和お嬢さんの世話係を探していた、滝沢の旦那さんに紹介し、それで香代さんは滝沢の家で働くことになったわけです」
「水地佳奈さんはそのいきさつをご存知だったんですか」
「佳奈ちゃんが中学生になったときに、うちのおふくろが教えてあげたんです。お母さんに会いたがってねえ。以来、婆さんの目を盗んで、香代さん親子は年に二度、別邸で会ってた。いつか娘と一緒に暮らしたいっていうのが、香代さんの願いでね。やっと望みがかなったっていうのに、一年ちょっとで死んじまうなんて、運がなかったなあ」
「本当にねえ」
東間夫婦はしんみりと顔を見合わせた。
「悪魔──いえその、佳奈さんのお祖母さんとお父さんは亡くなられたわけですか」
「そう。もう三年になるかな。三郎さんがすい臓ガンで死んで、婆さんはそれがずいぶんこたえたらしくてね。子ども全員に先立たれたんだから、悪魔だってがっくりする。三郎さんの葬式の最中に倒れてそれっきり。で、水地の家は佳奈ちゃんの弟が継ぐことになって──」
「ちょっと待って下さい。佳奈さんに弟さんが?」
ミチルを見ると、彼女も驚いたようで首を振った。
「三郎さんは香代さんと別れてすぐ、姑も認める女と再婚したんですよ。そこで生まれたのが哲朗くん。この哲朗くんのお母さんの里美さんってのがやり手でね。干物工場を弁当工場に変えて──知ってます? 葉崎名物・猫島豪華弁当」
「あたし知ってる」
ミチルが声をあげた。
「雑誌で読んだ。猫の顔の形のお弁当箱の二段がさねで、京都の老舗の割烹料理店の板前さんが開発したってお弁当でしょ。一日三十食しか作んないからめったに食べられないんだって。お弁当箱もコレクターズ・アイテムだって書いてあった」
「ハマグリのごはんにアジのマリネ、葉崎ファームの牛肉の入ったメンチカツがついて二千八百円。それが大当たりをとったおかげで弁当の注文が殺到した。だから、三郎さんが死んだときには──あのひとは商売の役には立ってなかったそうだけど──、水地弁当工場はなかなか羽振りがよかった。いまも儲かってるようだけどね」
東間氏は麦茶をぐいっと飲みほした。
「さて。婆さんが死んだ後、佳奈ちゃんは香代さんと一緒に暮らしたいと言い出した。水地の親戚筋は大騒ぎ。弁当工場を佳奈ちゃんに相続させて実権を握りたいやつらがいたんだな。でも、佳奈ちゃんは頑固でまっすぐだ。里美さんとはうまくいってなかったようだけど、工場はお義母さんのものだ、自分の相続分は放棄して家を出る、と決めた」
「里美さんはそれを認めたんですか」
「内心では、あら、さよなら、と言いたかったかもしれないが、親戚の手前、佳奈ちゃんを追い出したみたいになるのは嫌だったんじゃないかな。すったもんだのあげく、戸籍はそのまま、父親の相続分は里美さんと哲朗さんで分けるがいくらかまとまった現金を佳奈ちゃんに渡す、というところへ落ち着いた」
「実を言うとね」
東間の奥さんが割り込んだ。
「佳奈ちゃんが出ていった裏には、そうしないと親戚の誰かと結婚させられそうだった、ってのもあったのよ。ほら、血筋にうるさい連中だって言ったでしょう。佳奈ちゃんの相続する予定だった財産も欲しいし、だからぜひ従兄弟の誰それと一緒に、なんて話が持ち上がったりしてね。あきれちゃうわよね、二十一世紀にもなって」
ミチルは異世界の話でも聞かされたように目を白黒させている。
「さきほど、佳奈さんがまとまった現金をもらったとおっしゃいましたが」
「ああ、あれは香代さんの治療費で消えちゃったみたいだね。三月頃ここへ来て、佳奈ちゃんぼやいてたもの。お墓を建てる費用がない、どうしようって」
「お墓」
わたしとミチルはいっせいに声をあげた。東間夫婦は不審げにこちらを見た。
「お墓って香代さんの?」
「そうだよ。三年前の台風十七号で、明石家のお墓がふっとばされちゃってね。いまは墓石もない、ただの平たい石が載ってるだけで、元通りにしようと思ったら二百万かかる。そんなお金ないって、佳奈ちゃん悩んでた。そしたら美和お嬢さんが助けてあげることになって──」
「美和が」
ミチルが再度声をあげ、わたしを見た。東間氏はミチルをしげしげと見た。
「そういやあお嬢さん、美和お嬢さんのお友達じゃなかったかな。滝沢の旦那さんのご友人の娘さんだったよね。顔に見覚えがある」
「平義光の娘です。こちらには二度、来たことがあります」
ミチルは少し硬くなって答え、続いてなにか喋り出そうとした。わたしはテーブルの下でミチルの脚を蹴飛ばした。
「この子は美和さんに佳奈さんを紹介されたんですよ。ところが、ちょっと佳奈さんと連絡がつかなくなったものですから、探してるんです」
「美和お嬢さんには連絡されたんですか」
東間夫婦はなにも知らないらしい。わたしはミチルの機先を制した。
「美和さん、こちらにいらしてるんですか」
「いいえぇ。今年はまだお会いしてませんけど」
「そうですか。──それじゃ、佳奈さんはどうでしょう。お墓を直しにこちらに帰ってきてるってことはありませんか」
東間夫人は首をかしげた。
「さあ、お正月に一度会ったけど、その後は。三月の半ばすぎくらいに、三東寺のご住職に会いにきたって聞きました。忙しかったのか、すぐ東京へ戻ったようですけど」
「佳奈ちゃんは東京にいないんですか」
さしも開けっ広げな東間氏もついにいぶかしみ始めた。わたしはちらとミチルを見た。
「この子、佳奈さんと喧嘩しちゃったんですよ。仲直りしようと思ったら、引っ越されて居場所がわからなくて、謝ることもできないって気に病んでいるものだから、こちらにうかがえば佳奈さんと連絡できるんじゃないかと思いまして」
「……反省してます」
ミチルはぼそっと呟いて、わたしの芝居に協力した。
「ああ、そういうことですか。でも、それだったら水地の里美さんか哲朗さんに聞かれたほうがいいかもしれんなあ」
そうしますと答え、水地家の場所を聞き、手厚く見送られて管理人夫婦の家を出た。家を十分に離れたところで、ミチルはわたしに食ってかかった。
「なにもあのひとたちに嘘つくことないじゃん。正直に事実を全部話したって、どうってことないだろ。悪いひとたちじゃないのにさ。気分悪いよ」
「いいひとたちだね。だけどそのぶん、お喋りで遠慮もない」
「そのおかげでいろいろ佳奈のことがわかったんじゃないか」
「そうよ。身寄りがいないと思ってた佳奈さんに義理のお母さんと腹違いの弟がいることがわかった。事情が変わったわけよ」
「どう変わったんだよ」
ミチルは早足でずんずん進んでいく。わたしは追いつけず、声を張り上げた。
「佳奈さんには家族がいる。このひとたちに聞けば、佳奈さんが本当に失踪したのかどうかがはっきりする。はっきりするまでは、失踪の事実は隠しておいたほうがいい」
ミチルは立ち止まって、わたしが右足を引きずりながら歩いてくるのを待っていた。
「ねえ」
彼女は言った。
「お墓って言ってたよね。わりのいいバイトって、そのためのものだったのかな」
「たぶんね」
「美和は佳奈にその墓のお金を貸すつもりだったのかな」
「管理人さんの話を信用すると、そういうことになりそうね」
「佳奈は美和にそのお金を返そうとしてたのかな。美和に借りを作りたくないから」
「そう考えるのが自然でしょうね」
「だけど三日で二百万のバイト? そんなの援交でもクスリでも無理だよ」
ミチルは濡れるのもかまわずガードレールにもたれかかり、海を見下ろした。
「まさかとは思うけどさ」
「なに」
「アヤならともかく、佳奈がAVに出て出演料もらうとか考えられないし、そうするとあたしが思いつくのはさ……」
「言ってみて」
「まさか──まさか、腎臓かなんか売っちゃったわけじゃないよね。金にはなるだろ。それなら佳奈も、苦しんでるひとのためになるんだし、とか理屈つけて、喜んで売り飛ばしただろうし」
ミチルは本気だった。わたしは真顔で否定した。
「臓器売買は法律で禁止されてるし、そう簡単に買い手が見つかるとは思えない。それにあんたの話を聞いてると、佳奈さんてわりと常識的なタイプに思えるのよね」
「うん」
「いますぐ二百万用意しないと誰かの命が危うい、なんて状況ならともかく、常識的な人間が、たかがお墓の借金のために、それも友達から借りた金のために、危険で違法な手段に訴える?」
ミチルの肩の力がすうっとぬけていった。
「それもそーか」
バスでいったん駅前に戻り、葉崎東銀座商店街のコーヒー店で昼食をとった。タクシーで水地弁当工場へ向かった。
水地里美は当初、わたしたちに会おうとはしなかった。事務員と何度も交渉して、十分だけ時間をとってもらった。
弁当工場の二階にある応接室に現れた水地里美は、ごく平凡なおばさんに見えた。経営者だからといって着飾っているわけでもなく、地味なブラウスにスカートをはき、カーディガンをはおっている。身ぎれいにしているのになぜか不潔な印象を与えるひとがいるものだが、里美はまさにそのタイプだ。
「佳奈が行方不明と言われても」
今度は家族が相手なので、ストレートに事情を説明したのだが、里美は当惑しているだけだった。
「若い娘のことだから、男のひとができたとかそういうことなんじゃないですか。滝沢のお嬢さんにもそう申し上げたんですけど」
「美和さん、こちらに来られたんですか」
「先月の中頃だったかしら。佳奈の行き先を知らないかって、すごい見幕で。なんか、お金を貸してたとか言ってましたけど──ちょっと失礼」
水地里美は立ち上がって電話に出た。ミチルが小声で言った。
「美和がここに金のとりたてに来たって? そんなバカなことあるわけないじゃん」
「黙ってて」
里美が戻ってきた。
「滝沢のお嬢さんにも申しましたけど、義理の母といっても最近では行き来もありませんし、父親の法事のときに顔をあわせたくらいで、佳奈がどんな生活をしているか知りません。うちに来られても、佳奈についてお話しすることはないんです」
「佳奈さんはきわめて不自然な状況で姿を消しています。三月十六日を境に連絡がつかなくなった。引っ越しをしていますが、住民票は移されていません。滝沢美和さんの事件についてはご存知ですか」
東間夫婦と同じく、水地里美もそのことを知らなかった。未成年者の匿名報道のせいだろう。
美和の失踪と柳瀬綾子殺害事件、犯人の自殺、美和がその犯人に殺された可能性がある、という事実を並べ立てた。
水地里美はだんだん青ざめてきた。両手をひねりながら、彼女は言った。
「そ、それじゃ佳奈もその事件に……?」
「それはまだわかりません。でも、ぜひ警察に捜索願を出していただきたいんです」
「だけど、もし佳奈になにかあったなら、警察から連絡が来るはずでしょう?」
「犯人は自殺してるんです。彼が実際になにをしたのか、警察もすべてを把握するのは難しいと思います」
里美はカーディガンの裾をまさぐり、額に手をあて、しばらくその姿勢でいた。
「──お話はわかりました。少し、考えてみます」
ミチルがびっくりしたように飛び上がった。
「考えるってなにを? 捜索願出すのになに考えんの? 考えてるヒマがあったらさあ」
「おじゃましました。佳奈さんの捜索願、どうぞよろしくご配慮ください」
わたしはミチルを引きずるようにして表へ出た。ミチルはわたしの手を振りほどいた。
「邪魔をしないって約束はどうなったの」
「だって、あんなのひどくない? いくら佳奈が自分の娘じゃないからってさ。少しは心配したっていいじゃんか」
「事件がありました、娘さんはそれに巻き込まれてます──やぶからぼうにそんなこと言われて、ほいほい信じる人間はいないの」
「こっちが緊迫したほうがむこうだって焦るかもしれないじゃないよ」
わたしはため息をついた。
「探偵はどっち。あんた、それともわたし?」
「ちょっと。バカにしてんの」
「わたしはあんたが小学生の頃からこの仕事やってんの。それなりの理由に基づいて行動を決めてる。それがすべて正しいとはかぎらないけど、調査員が感情的になったら、たいがいの場合失敗する──それは事実なんだ」
「あれで捜索願を出してくれると言いきれんのかよ」
「たぶん出してくれるでしょう。すでに表ざたになっている事件に関係しているとなれば、家族が佳奈さんの捜索願を出してないと外聞が悪いもの」
「ああ、ムカツク。外聞とか血筋とか、そういうの大っ嫌い」
わたしは相手にしなかった。十七歳には十七歳の世間体があり、おとなにはおとなの外聞がある。
不満げなミチルは三東寺に着くまで口をきかなかった。
三東寺の住職は留守だった。彼を待つ間、寺内を見て回った。重要文化財に指定されたという愛染明王の像がガラスケースに納められていた。
「愛って名前の仏様のくせに、なんでこいつこんなにおっかねー顔してんの?」
あとをついてきたミチルはケースに額をくっつけて言った。
「ひとを危難から救ってくれる、そういうタイプの愛だからでしょ」
「だからってなんで」
「子どもが車に轢かれそうだってときに、聖母マリアみたいな笑みを浮かべて駆けつける母親はいないっての」
「ふーん」
ケースにへばりついているミチルをおいて、墓地をそぞろ歩いた。墓石がない墓がいくつも目についたが、さすがにどれが明石香代のものかはわかりようもない。干からびた花束や線香の燃え残りが、こぬか雨を受けて墓にこびりついている。
本堂に戻ると、ミチルが男の子と話しているところだった。
「葉村さん、彼、佳奈の弟だって」
「水地哲朗です。さっき、母とお話しされてるの聞いて、追いかけてきたんです」
哲朗は折り目正しく挨拶した。佳奈と同じように色白の少年で、眼鏡をかけ、白い無地のTシャツにジーンズという姿で畳の上に正座している。
「姉が行方不明になったってことは、先月には俺も母も滝沢美和さんから聞かされてたんです」
哲朗はおとなびた口調で説明した。
「ただ、姉って昔からなに考えてるんだかよくわかんないとこがあって、俺たちそれほど気にしてなかったんですよ。滝沢さんは墓石の代金がどうのこうの言ってましたけど、なんだか要領を得なくって。母は金を返してもらいに来たんだと思い込んでました。そうじゃなかったことは、いまこちらからうかがいましたが」
「お姉さんに最後に会われたのはいつですか」
「三月十一日です」
哲朗はきっぱりと答えた。
「日曜日に姉から電話がかかってきて、この寺にいるけど来ないかと言われました。母と姉はあまり仲がよくなくて、だから実家には来たくなかったんでしょう。ぼくが高校入試に合格したってメールを送ったんで、お祝いを持ってきてくれたんです」
「なにもらったの?」
ミチルが興味津々に質問した。哲朗は眼鏡を持ちあげて、にこっとした。
「映画の人物事典だよ。俺たちふたりとも、映画好きなんだ。親父が昔よく映画見に連れてってくれたから」
哲朗もミチルに対してはかまえることなく喋り、おかげで少しリラックスしたようだ。
「そのとき、佳奈さんからなにか聞いてませんか。生活を変えようとしてるとか、新しい仕事に変わろうと思ってるとか」
「同じことを滝沢さんにも聞かれましたけど、姉貴は映画館の仕事がえらく気に入ってるみたいで、お給料はそれほどでもないけど、めったに見られないような昔のフィルム観られるんだって自慢してました」
「仮に──これはあくまで仮の話なんだけど、映画を作る仕事に誘われたら、お姉さん飛びついたかしら」
「さあ」
哲朗は首を傾げた。
「姉貴は映画を観るのは好きで、シネマエッセイとか書かせてもらえるようになったらいいな、なんてことは言っていたけど、作るほうはどうかなあ。経験知をあげるためにもそういう仕事に携わったほうがいいと考える可能性はありますが、それもよほどちゃんとした紹介があればの話ですね。姉貴は気まぐれだけど、すごくしっかりしてるし、相手がたいした知り合いでもない場合、映画の仕事なんてひとを騙す口実にすぎないってこと、わかっていたはずです」
とても高校一年生の口から出た言葉とも思えず、次の質問まで間が空いた。その隙にミチルが割り込んだ。
「そういや佳奈、昔、それで騙されかかったんだって?」
「そうなんだよ。騙されたのは姉貴だけじゃないけど。うちの弁当を映画の小道具に使いたい、工場でロケさせてもらえないかって話がきてさ。親父も喜んで全面協力を申し出たら、スポンサーにならないかと話が変わって。おふくろが怪しんで、調べて大嘘だとわかったんだ」
「お母さん、腕ききの実業家なんだって?」
ミチルのひやかしに哲朗は動じなかった。
「腕ききかどうかは知らないけど、おかげで俺は食わせてもらってるし、高校も私立校に行かせてもらってるよ」
ミチルは気まずげに黙り込んだ。わたしは話を強引に戻した。
「佳奈さん、実のお母さんのお墓の話はしてませんでしたか」
「しましたよ。いずれはきちんと墓石を建てたいと言ってました。でも、それで困ったことになったとも」
「どういうふうに?」
「滝沢さん──そのときは姉貴の口から彼女の名前は出ませんでしたが──金持ちの友達が、早く墓を直すべきだ、金なら自分が負担する、と言い出したって。いくら金持ちでも自分より年下の女の子に大金負担させるわけにはいかないし、第一、どうして赤の他人にそこまでされなきゃなんないんだと愚痴ってました。だけど、もしかしたら近いうちに、自分で大金を稼げるかもしれないとも」
「どうやって」
哲朗は垂れ下がってきた前髪を払いのけた。
「なんか、ゲームがどうしたとか」
わたしとミチルは顔を見合わせた。
「ゲーム? どんな」
「よくは知りません。テレビでよくやってる賞金付のクイズみたいなもんかと思ってました。俺がヤバいゲームじゃないんだろうなって聞いたら、ゲームはヤバいに決まってるでしょ、って言ったんでちょっと驚いたけど、姉貴言いながら笑ってたから」
ゲームはヤバいに決まってる?
「ねえ、哲朗くん。よく思い出してくれない。そのゲームについて、お姉さんは他になにか言わなかった?」
「うーん」
哲朗は眼鏡をはずして目をこすった。
「滝沢さんにも同じこと聞かれたけど、特には。友達が紹介してくれたと聞かされたんだって言ってましたけど」
「ちょっと待って。──聞かされた?」
「はあ」
「ということは、友達の直接の紹介じゃなく、誰かが、きみの友達がきみを紹介してくれたんだよ、と言ったのね」
「そういうことになりますね」
アヤの紹介のバイト、と水地佳奈は書き残した。つまり、誰かが柳瀬綾子の名前を使って佳奈に接近し、怪しまれないために、柳瀬綾子さんからきみを紹介されたんだが、と言った。佳奈はそれを信じて、アヤから紹介されたと書いた。
だが、柳瀬綾子は水地佳奈にバイトなど紹介していない、とミチルにも美和にも断言している。
佳奈にバイト──あるいはゲームを紹介した人物は、綾子と佳奈、双方を知っていた。
「同じこと、滝沢さんも気にしてたな」
水地哲朗はぽつんと言った。
「それ聞いたら、顔色変えて、黙って帰ってった。どういうことなんです?」
「まだ、よくわからないわ。いまはね。──他に、佳奈さんの言ったことで思い当たることない?」
「ありませんけど」
「直接ゲームと関係してなくてもいいの。意味がつかめないようなことを言い出したとか、急に話題がそれたとか。そんなことはなかった?」
「……ああ。それならありましたけど」
「どんなこと?」
「でも、ほんとに無意味だと思いますよ」
哲朗は困ったように笑った。
「俺、中学で歴史研究会ってのに入ってたんです。高校でも似たようなサークルがあればいいんだけどって言ったら、姉貴が突然、因幡《いなば》の白うさぎの話を始めて」
「因幡の白うさぎ?」
哲朗は、だから言わないこっちゃない、と早口になった。
「白うさぎってワニを騙して橋代わりにして、騙したことがバレて、赤むけにされちゃいますよね。古事記にはワニって書いてあるけど、要するにサメのことでしょう? 鮫、つまりミズチだ。わかります?」
「ええ、まあ……」
「ミズチがうさぎになるのよ」
「──は?」
「だから姉貴が言ったんです。ミズチがうさぎになるのよって。どういう意味かはわかりません。姉貴ときどき、わけわかんないこと言い出すから、俺もたいして気にしてませんでした。それだけです」
三東寺の住職は洒脱《しやだつ》で楽しい人物だったが、調査の役には立たなかった。水地佳奈は三月の半ば頃、滝沢美和は四月上旬に、それぞれ三東寺を訪ねてきたことが確認できただけだった。
別れ際に水地哲朗は、もし母が捜索願を出さない場合は俺が出しますから、と約束してくれた。警察には、柳瀬綾子の事件と関連があるかもしれないと伝えるようにアドヴァイスした。武蔵東署の柴田要が水地佳奈についてはどう動いているかは不明だが、これまで調べていなくとも、これで動き出すだろう。
帰りは横浜へ出て、東横線で渋谷へまわった。途中、何度か相場みのりに連絡をとろうと試みた。みのりは図書館を欠勤し、自宅も留守番電話になっていた。
渋谷に到着し、ミチルに柳瀬綾子の自宅へ行くと告げた。水地佳奈と綾子をともに知る人物──それも、佳奈の叔父と名乗れる男──について、綾子の家族にも確認しておきたいからだと説明した。
「どうする? 先に部屋に戻っててもかまわないけど」
「一緒に行くよ」
ミチルは唾を飲み込んで、言い切った。わたしは怪しんだ。
「大丈夫なの? あんたにとってはつらいし、たぶんたいした収穫も期待できないよ」
「平気。それに葉村さん、あたしがいたほうがいいと思わない? あたしはホントにアヤの友達だったんだから」
柳瀬綾子の家に電話をかけた。お線香をあげさせてもらいたい、と言うと、女の声が投げやりに道順を教えてくれた。滝沢喜代志邸の前の道を三百メートルほど直進した角の家が、柳瀬の家だった。葬式はとうに終わり、ワイドショーの取材もおさまったのだろう。住宅街はよそよそしげな静けさを取り戻していた。
消臭剤と芳香剤の臭いが入り交じった玄関でわたしたちを出迎えたのは、柳瀬綾子の母親だった。十七歳の娘が殺され、娘がその犯人とクスリや肉体関係のやりとりがあったことを知らされ、しかもそれが世間にあまねく知れわたり、マスコミの取材攻勢にさらされた──しかし見たところ、母親は全身美しく装っていた。髪は一筋の乱れもなくセットされ、ほのかな香水の匂いまで漂わせている。
「わざわざお越しいただきまして──どうぞ、おあがりください」
慣れた手つきでスリッパをそろえてくれ、部屋へ招き入れられた。リビングルームはまるで花畑のようだ。花柄のカーテン、花柄のクッション、ドライフラワーのリース。そこらじゅうに置かれたラベンダーの芳香剤。
少女趣味なインテリアのリビングルームの一角に、座布団と遺骨、位牌と遺影が並べられている。遺影の柳瀬綾子はミチルのアルバムの写真のなかの、化粧の濃い、髪を華やかに巻き上げて笑い転げている少女と同一人物には見えなかった。毛をすべてむしりとられた鶏のように、生気のない視線をぼんやりとこちらに投げかけている。
線香をあげて手を合わせた。ミチルは長い手足をもてあますようにぎこちなく花柄の座布団に腰を下ろし、わたしの真似をした。祈りの時間はひどく短かった。
ミチルの代わりに、ミチルと綾子の関係を説明した。聞いているのかいないのか、母親は床にぺたりと座り、お盆をいじくっていた。風が窓から吹き込み、ラベンダーの香りが鼻先へ押し寄せてきた。
話を終えると、母親はミチルを見た。
「警察の方から、綾子は亡くなる前お友達と約束をしていたと聞きました」
「はい、あたしです」
ミチルは聞きとれないほどかすかな声で受け答えをした。
「そう……」
母親はリバティープリントのワンピースの裾をいじった。
「あの娘、どこの誰とつきあっていたのか親の私たちは全然知らなくて。学校のお友達には連絡したんですけど、あなたには申し訳ないことをしたわね」
「いえ……」
「水地佳奈さんとおっしゃったかしら。あなたと綾子を紹介したのは」
「はい」
「滝沢美和さんにはお会いしたことがあります。おうちがご近所だし、美和さんがいなくなられたとき、お父様がここへ来られたものだから、覚えています。美和さんも綾子を殺した犯人に殺されたかもしれないんですって?」
ミチルの唇が震えた。わたしは助け船を出した。
「美和さんは綾子さんを助けようとしたんです。だから美和さんがいなくなったとき、きっと綾子さんも、美和さんを助けなければと思ったんでしょう」
「よけいなこと、しなければいいのに」
母親はうつろな目つきでわたしを見た。
「友達ばっかり大切にして、家族はないがしろにして。この年代の女の子ってどうしてそうなのかしら。親とはろくに口もきかないで友達と長電話。どうして?」
最後の言葉はミチルに向けられていた。
「親のほうが子どもの心配してるに決まってるのよ。なのに、友達の心配ばっかりして。どうして?」
「柳瀬さん……」
「親のことなんかこれっぽっちも考えないで、勝手に遊び歩いて、勝手に殺されて、迷惑いっぱいかけて、謝りもしないで逝っちゃって。母親のこと、そんなに嫌ってたの? どうして嫌われなくちゃならないの? 私がいったいなにしたの?」
淡々と並べ立てると、綾子の母親は餌をねだる犬のようにミチルを見た。わたしは慌てて辞去の挨拶をし始めたが、それをミチルがさえぎって綾子の母親に言った。
「アヤ、お父さんやお母さんのこと、うざったいとかじゃまくさいとか言ってたけど、でも、家族旅行でハワイに行くの、すっごい楽しみにしてた。お父さんが四日しか休みがとれなくて、いまどき二泊四日でハワイなんてせこいと思わない? なんて言いながら、めちゃくちゃ喜んでたよ」
「……そう?」
綾子の母親は尋ね返した。ミチルはそっぽをむいて立ち上がった。
「ほんとだよ。あたし、アヤのこと羨ましかった」
部屋を出たときも、綾子の母親は床に座り込んだままだった。
柳瀬家を出た途端、見慣れた顔が近寄ってきた。
「よう、葉村。こんなとこでなにやってんだ」
武蔵東署の柴田要だった。顔つきから察するに相変わらず機嫌が悪いようだが、背後に速見〈お粗末〉刑事がいるせいか、口調は穏やかだ。
「この子の付き添いでお線香をあげに……」
説明しかけるのを、柴田はさえぎった。
「滝沢美和の母親脅して、調査を続けさせるようにねじ込んだんだってな。そんなことまでして仕事が欲しいのか」
「あのねえ、柴田……」
「娘を亡くした親の弱みにつけこむなんて最低だ」
「あらそう。それじゃ、滝沢美和の居場所は警察が突き止めたのね」
柴田はぐっと詰まって引き下がった。代わってお粗末刑事が身を乗り出してきた。
「柳瀬綾子の母親とは、なにを話した?」
「別になにも。あの状態じゃ、お悔やみを言うだけで精一杯ですから。──それより、水地佳奈のことなんですけど」
柴田があっという顔をした。速見はそれに気づかず、ぽかんとわたしを見返した。
「水地佳奈? 小島雄二のリストにそんな名前もあったな。柳瀬綾子となにか特別な関係でもあるのか」
柴田はわたしが水地佳奈へ注意を向けるように言ったのを、黙殺したらしい。同僚の面前で落ち度を暴いて復讐の快感に酔いしれるのと、恩を売っておいて後で笑うのとを秤《はかり》にかけ、迷わず後者を選んだ。
「滝沢美和と水地佳奈、それに柳瀬綾子の三人は親しい友人だったんです。速見さんにお話ししませんでしたっけ」
「聞いてないぞ」
「リストに掲載された女の子の追跡調査はしてないんですか」
「まあ、おいおい……」
速見は口をつぐみ、咳払いをした。近所の住人が何人も、好奇もあらわにわたしたちを見ては歩き去っていく。柳瀬綾子の家は、とうぶん名所のようなものだ。そのまん前で立ち話をしていて目立たないわけがない。
速見に言われて、彼らの車に乗り込んだ。助手席の速見はずばりと切り出した。
「さっきあんたが言った通り、我々はまだ滝沢美和の行方をつかめていない。滝沢美和と小島のつながりはあのリストだけでね。他には美和の遺品や持ち物等、なにも発見されなかった」
思った通りだ。
「小島に死なれた大失態のおかげで署内は大揺れでね。綿密な捜査なんてものはどっかに消し飛んじまった。滝沢美和が小島に殺されている、という考えの根拠はリスト、柳瀬綾子、それにふたりが美和の失踪の一ケ月前に一緒にいるところを目撃されていること。それだけだ」
速見刑事は白髪を撫であげた。そういえばこのひと、長谷川所長とつながっているんだった、と思い出した。
「いまの署内の空気はこうだ。都合の悪いことはとりあえず小島におっかぶせ、墓の下へ持っていかせろ。──だが俺は納得していない」
「ちょっと速見さん」
柴田が口をあんぐり開けている。速見は含み笑いをした。
「長谷川から聞いたんだが、あんた、あのリストを見たがってるそうだな。見せてやると言ったらどうする」
「そちらの条件は?」
「話が早いね。さすが長谷川の秘蔵っ子だけのことはあるな。そっちの情報をもらいたいってのが条件だ」
「飲みます」
わたしは即座に答えた。
「ただし、その前に教えてください。柴田さんがさっき、わたしが滝沢美和の母親を脅して依頼を続行させた、という意味のことを言いましたが、誰から聞いたんです?」
速見は柴田に顎をしゃくった。柴田はしぶしぶ言い出した。
「そういう抗議が来たんだよ。辻亜寿美の代理って男から。俺が受けて、善処すると約束した。それだけだ」
「リストの女性たちの追跡調査はどうなってるんです?」
「女性はだいたいが女子高生で、男の名前もふたつあった。まだ全員を確認したわけではないが、これまでのところ小島雄二、柳瀬綾子、滝沢美和、いずれかとの関係を認めたものは誰もいない」
「水地佳奈はどうです? 連絡ついたんですか」
柴田は仏頂面で首を振った。速見が助手席から身を乗り出してきた。
「その水地佳奈とはいったい何者で、どうしてあんたはその女の行方を気にしてる?」
「その前に」
わたしはにっこりと手を差し出した。
「リスト、見せてください」
「速見さん、だから言ったでしょう。こいつはこういう女なんですよ。取り引きするだけ損ですって」
柴田がぎゃんぎゃんまくしたてるのを無視して、速見は背広の内ポケットから警察手帳を取り出し、はさんであったコピーをこちらへよこした。広げてみると、紙は小さかった。A6サイズ、パソコンで印刷されており、二十人ほどの名前と住所、電話番号、メールアドレス等が記されている。リストというよりアドレス帳の一頁のようだ。
一番下に美和、佳奈、綾子が並んでいた。美和の名前の横にはなるほど○印がついていた。
「ねえ、それあたしにも見せて」
ミチルがコピーをひったくった。まじまじと見ている。
「心当たりある?」
ミチルはわたしたち三人を順々に見てうなずいた。
「ある。てゆーか、これ、あたしのアドレスデータだよ」
「……なにぃ?」
刑事たちはひっくり返った。
「うん。あたしがパソコンで作ったやつ。載ってる名前、全部あたしの友達だし」
見てよ、とミチルはバッグから手帳を取り出した。小さめの大学ノートに判子やなにかでかわいく表紙をつけた、アルバムと同じような手作りだ。一頁目を開いてわたしたちに見せた。そこに貼りつけられているのは、まぎれもなく〈小島雄二の持っていたリスト〉と同じものだった。
我々おとなは言葉もなく顔を見合わせた。
「それじゃ、どうしてこれが小島雄二の部屋にあったわけ?」
「知らねーよ、そんなこと」
「ミチルは小島雄二に会ったことあるの?」
アヤにもらってハッパやった、とミチルが認めたことを思い出した。だが、ミチルはごく自然に否定した。
「ないよ。あるわけないじゃん。だけど──あっ、そうだ」
「なに?」
「アヤにあげた。これと同じ頁」
「いつ?」
「ちょっと前。アヤ酔っ払ってどっかにアドレス帳落としてきちゃったとか──」
あわわ、とミチルは口を押さえたが、速見も柴田もこの際、未成年の飲酒にかまっている余裕はなかった。
「それでどうした?」
「──だから、美和とか佳奈のアドレス教えてくれって言われたんだけど、たまたまふたりとも書くもん持ってなくってさ。あたしその頃、ポケットタイプのクリアファイルにいろいろ入れてて、アドレスもそん中にあったわけね。で、めんどくさいからこれあげるよって、その紙そのまま渡したんだ。うちに帰ってパソコンから引き出して、も一度印刷すればすむことだし」
それを柳瀬綾子はバッグに入れっぱなしにしていたのだろう。そして綾子を殺し、バッグを持ち去った小島の部屋に移動した、というわけだ。単純な話だ。
唖然としていた速見は、やがて大笑いを始めた。
「我々警察はとんでもない勘違いをしてたんだ。柳瀬綾子の殺害と滝沢美和の失踪を一直線に結びつけてしまった──が、ふたつの事件はまったく別個のものだったわけだ」
まったく別個と言い切っていいものか、事件が続いているだけに怪しい気もする。だが、滝沢美和の失踪だけを重点的に捜査してもらえるほうがありがたい。
わたしはこれまでに調べたことを、順を追って説明した。
速見刑事は早速、三鷹市下連雀へと車を走らせた。マンション富山の管理人は警察手帳を見るなりわたしや村木が尋ねたときとはうって変わり、それはそれは卑屈に喋り出した。
三月十九日月曜日の午前中、水地佳奈の叔父と名乗る人物が現れて、不動産契約の解除を申し出た。急な解除の理由を〈叔父〉はこう説明した。佳奈はストーカーに狙われている。しかもどうやら彼女の友人が、そのストーカーに情報を流しているらしい。こっそり転居するのはそのためである。誰に聞かれても、佳奈の引っ越しについては黙っていてもらいたい。管理人は佳奈の大家である不動産屋の場所を教えた。
〈叔父〉はライトバンでやってきていて、一緒に来た男とふたりで荷物を運び出した。粗大ゴミを含むかなり大量のゴミを管理人に出してくれるように頼んだ。佳奈の災難に同情した管理人は、快くその仕事を引き受けた。
「そしてもちろん、かなりの額の心づけをもらった」
速見は管理人をにらみつけた。老人は震え上がり、わたしは内心、溜飲を下げた。
「粗大ゴミの収集にも金がかかりますし、手間だって大変なもんなんですよ。それに若い娘さんがストーカーに脅かされてるなんて気の毒だと思ったんだ。人助けのつもりだったんだよ。だからこないだそちらさんに聞かれたときも、答えなかっただけで」
管理人は目をしょぼしょぼさせてうつむいた。速見は言い訳を無視した。
「身分証明書かなんか見たのか」
「い、いえ、まさか」
「どんな男だった?」
「五十前後の立派な紳士で──」
「特徴は?」
「髪を七三に分けて、スーツを着て、眼鏡かけてて、金回りもよさそうで」
「それのどこが特徴なんだ?」
速見は息つく暇もあたえずたたみかけていく。
「勘弁してくださいよ。むこうはストーカーに見張られてると困るってそわそわしてたし、荷造りの手伝いも断られたんですよ」
「ライトバンにもうひとり男がいたと言ったな。そいつの面は?」
「制服みたいなの着て、目深にキャップかぶってたんで顔までは」
「どんな制服だ?」
「宅配便の運転手が着てるような、オレンジ色の。そういうの着てる相手じゃ、顔までは見ませんよ。日に焼けてたけど、あんまり若くはなかったと思いますが」
「ライトバンの特徴は?」
「白。白ってだけ。ナンバーは見てません」
「ゴミにはどんなものがあった」
「服やなんか布が入ってる袋とか、台所用品とか、皿とか、机やファンヒーターとか椅子とか」
「それじゃ持ち物洗いざらいじゃないか」
「はあ、かなりの量でした」
「いくらストーカーに狙われてるか知らんが、家財道具一式ほとんど捨てていく引っ越しがあると思うか」
「いまの若い子はものを大切にしないものだから」
「引っ越しに来たのは五十前後の男だったんだろう」
「金持ちもものを大切にはしない」
速見はため息をついた。
「で? ゴミは全部処分しちまったのか」
「もったいないから、使えそうなものはリサイクルショップに売りました」
「ここに残っていないのかと聞いてるんだ」
「あれから二ケ月たってるんですよ。──ああ、まったくついてない。こんなことだとわかっていれば、私だってすぐに警察にお知らせしましたよ」
管理人は音をたてて鼻をすすった。いささか哀れを催した。
不動産屋の証言も似たり寄ったりだった。〈叔父〉は鍵を返し、一ケ月分の家賃を払い、ストーカーについての作り話を聞かせ、不動産屋を同情させている。男は五十歳前後、ストーカーに見張られていると困るからというのですぐに立ち去った。だから顔はよく覚えていない。ライトバンの特徴? 店の外まで見送ったわけじゃない。
「どうやら、あんたの読みがあたったな」
話を聞き終わり、車に戻ると、速見刑事はわたしに言った。
「水地佳奈が事件に巻き込まれている可能性は大だ。問題はいったいどんな事件か、だ。そのゲームってのに心当たりはまったくないのか」
速見に見られて、ミチルはどぎまぎしたように首を振った。
「全然ないよ。美和はわりのいいバイトとしか言わなかったし」
「若い女の子の間で、流行ってるゲームってあるのか」
「二百万ももらえるゲームなんて、聞いたこともないよ」
「だろうな」
速見はこめかみをぽりぽり掻いた。
もう一度、あの〈リスト〉がミチルのものであることを説明してほしい、と言われ、武蔵東署へ行った。このところ、毎日警察署に来ているような気がする。ミチルを待つ間、みのりに電話をした。留守電が応対した。なにかメッセージを残したかったが、言葉が浮かばなかった。
あきらめて長谷川所長にかけた。所長は珍しくオフィスにいて、報告書読んだぞ、と言った。
「よく追っかけてるようじゃないか。感心だ」
「感心ついでに、ひとつ頼まれていただけませんか。辻亜寿美と野中則夫という人物のつながりを知りたいんです」
所長はせんべいをかみ砕いているらしい騒音を、ばりばりとたてながらこともなげに答えた。
「それならもう、調べてあるがね」
わたしは一瞬、絶句した。
「もう? どうして」
「依頼人にしようって相手の下調べをしとくくらいの知恵がなくて、探偵事務所の所長が務まるか」
所長は気持ちよさそうに言った。
「二年ほど前、亜寿美は傾きかけた宝石店を建て直すべく、経営アドバイザーとして野中と契約したんだ。やがて野中は亜寿美の信頼を得て、経営にも参画するようになった。ついでにデキちまったらしいという噂もある。実際、野中は亜寿美のマンションに入り浸っているようだから、根も葉もない噂ではなさそうだ」
「そんなことまでよく調べましたね」
「亜寿美のマンションに入ってる、壱國警備にはつてがあってね。そういや葉村、あそこで警備員にガンつけたんだって?」
うわっ。
「野中は企業コンサルタント会社の社長として、健全な経営をサポートする企業の味方、といった顔をしているが、なに、企業にとっては生き残りが最重要課題だ、とかなんとか理屈こねたあげく、何万人もの職を奪ったような人間だ。このご時世だ、それはしょうがないとしても、下の首切るんなら経営陣にも責任とらせるのが筋だが、そこには知らん顔。早い話が、世は金だ、弱肉強食だ、というタイプだな」
所長にしては珍しく、きつい言い方だった。野中則夫をダニかハイエナみたいに思っているのは、なにも平親子だけではないようだ。
「一応は名の通った野中のような人間が、さほど大きいとも実入りがいいとも思えない亜寿美の宝石店に手を貸した目的は、亜寿美から経営権を奪うことではないか、と話を聞かせてくれた内部通報者は思っているようだが、亜寿美はそれにはまだ、気づいてないようだな」
平貴美子は、野中の妻は、亜寿美が海外旅行にも行かず金策に走り回っていると、勝ち誇ったように語っていたと言っていた。二八会内部でも滝沢喜代志の金持ちぶりは桁外れだし、夫と亜寿美は噂になっているし、野中の妻が亜寿美をおとしめたくなっても不思議ではない。
「どうしてその内部通報者はそう思ったんですか」
「野中が入って、店は取り引き銀行を変えたんだ。その山東銀行の幹部は野中とつながりがある。一年ほど前、亜寿美は一年返済の約束で店や在庫を担保に、ショーを開くために銀行から金を借りた。ショーは不成功に終わったが、亜寿美は返済期限が来ても野中がなんとかしてくれると高をくくっているらしい。しかしこれがすべて野中の目論見だったとしたら。ショーを開くアイディアを出したのも、銀行を仲介したのも、もちろん、野中だ。不動産の価格が下がっているとはいえ、赤坂の一等地の店舗、宝石店が有する在庫、すべてひっくるめれば数億じゃきかないはずだ。銀行は大儲けだ。当然、野中にもキックバックが入る」
なんてすてきなお話。
唾を吐きたくなったが、警察署の廊下にそんな真似をする勇気はなかった。
平義光にもミチルの無事を知らせておいたほうがいいかと思い、電話をかけた。電話に出たのは平貴美子だった。
「あら、葉村さん。ミチルは元気にしてますかしら」
貴美子は明るくわたしに尋ねた。
「遊びたい盛りだし、葉村さんになら安心してお任せしてますけど、あんまり長い間家を空けられると私も心配になってきますの」
「ミチルさんにもおうちに電話するように伝えておきます」
「そうしてくださる? やっぱり、年上のかたなら安心ね。遊びにしたって目配りができますもの。それからね、葉村さん」
「はあ」
「先日、お食事をご一緒したとき、主人が急に怒り出したりしてごめんなさいねえ。あのとき、ほら、ミチルが二八会の悪口申しましたでしょう。二八会のことになると、主人神経質になるんですよ。男同士、気がねなく遊ぶのをちゃかされるのが嫌なのね。皆さん忙しくて最近は顔を合わせる機会も減ってますし。今年に入ってから集まりがあったのは三月の一度だけだから、寂しいのねきっと。でも、葉村さんにはご不快を与えてしまって」
「別に気にしていません。お嬢さんのことも、ご安心ください」
長々しい詫びの言葉を切ろうと、いいかげんな相槌を打った。昨日今日、ミチルが体験したことを考えると、ご安心できるような滞在ではないが、そう言うしかあるまい。
平貴美子は爆発したように笑い出した。
「いやあね、葉村さんたら、お嬢さんだなんて。お疲れなの? うちのだいじな息子を女にしないでくださいな」
満ちゃん誘拐事件の記事を読んだときから、うっすらわかっていたことだった。それがはっきりと目の前に突きつけられ、わたしは息を飲んだ。
「ミチルは小さいときからお嬢さんって言われることが多くて、困ってるのよ。よそ様が面白半分に女の子にしようとするから、ミチルまでその気になりかけて、男と同棲したりして。だから葉村さんにお預けしたのよ。私、息子をゲイにする気なんてないんですからね。それだけははっきり申し上げておきます」
「平さん、あの」
わたしは唾を飲み込んだ。
「事情は──知っています。息子さんのことお気の毒だと思います。でも」
「気の毒? おかしなことおっしゃるのね。ミチルになにかあったんですか」
「いえ、ミチルさんは元気です。そのミチルさんじゃなくて、誘拐された息子さんの満さんのことで」
「いったいなにをおっしゃってるのかわからないわ」
貴美子の声は冷たく響いた。
「葉村さんまでそんなわけのわからないこと言い出すなんて。まさかあなた、他の連中と同じように、ミチルをゲイにするつもりなの?」
「そんな気はまったくありません」
わたしは断言した。嘘ではない。
「そう、ならよろしいですけど」
貴美子が持っていたわたしへの信頼感が、八割方流れ出たのが感じとれた。わたしは女きょうだいばかりいるもので、とか、仕事が忙しくて疲れておりまして、とか、懸命に自己弁護した。その甲斐あって、電話を切る頃には貴美子は再び、わたしへの信頼を強調し始めていた。
「びっくりしましたわ、葉村さん。もちろん、あなたになら、安心してミチルを預けられると思っております。でも、念のために申し上げておきますけど、私、息子を男らしく育て上げたいんですの。その邪魔をされたら、なにをするかわかりませんわよ」
このひとなら、確かになにをしでかすかわからないな、と思った。
ミチルを苦しめている原因は、間違いなくその母親だ。だからといって、平貴美子の病的な錯覚を電話一本で解消できると思うほどおめでたくはなれない。とりあえず、ミチルを家に連れ戻されるよりはましだ、と思うことにした。
どっと疲れてベンチにへたりこんでいると、缶ジュースが差し出された。柴田要が隣に腰を下ろした。
「こないだは悪かったな」
柴田は大いばりで謝った。
「それから、水地佳奈の情報を俺が握りつぶしたこと、黙っててくれて助かった」
「どういたしまして」
「どうした。元気ないじゃないか。ま、無理もないけど」
柴田は胸に一物あるとき特有の笑いを浮かべた。わたしは心の底からげんなりした。
「まだ、なにかあるっての?」
「聞いてないのか」
柴田はわたしの手から缶ジュースをとり、プルトップを引きあげて戻した。
「おまえの彼氏が闇討ちにあったそうじゃないか」
ジュースはわたしのジーンズに吸い込まれた。わたしは飛び上がった。
「なんだって?」
柴田はハンカチを渡してくれながら、にやりと続けた。
「牛島潤太が何者かに襲われて、怪我をしたんだ。たいした怪我でもなかったらしいが、被害届が提出されたんでね。俺にはすぐにぴんときた」
まさか、あのホームページを読んで──みのり、あんたいったいなんてことを。
頭にどっと血がのぼったおかげで、柴田の言葉が脳にしみこむまで時間がかかった。
「──いま、なんて言った?」
「だから、ゆうべ村木が牛島潤太について教えてくれと言ってきたってことだよ。それから数時間とたたないうちにやつは襲われたわけだから、俺ほどの名刑事でなくたって、一と一を足すな」
わたしは日に焼けた柴田の横顔を茫然と見つめた。
「む、村木って、長谷川探偵調査所の村木義弘のこと?」
「他に村木がいるかよ」
「なな、なんだって村木さんが」
「だからさ。幸せの青い鳥は近くにいたってことなんじゃないの?」
柴田は嫌味たっぷりに言って、わたしのわき腹をこづいた。
「おまえもさ、身の程知らずにも理想を高くして結婚詐欺師なんかに引っかかってないで、手近な男をよく見て、手を打てってことだな。よくも俺の女を騙したな、とばかり復讐してくれるなんて、そんな物好きな男、葉村が百万年待ってたって他には現れないぞ。賭けてもいい。──ああ、そんなに動揺しなくていいよ。このことは誰にも言ってないから」
けっけっけ、と柴田は高笑いを残して去っていき、わたしはベンチにへたりこんだ。
──嘘だろ、おい。
10
ミチルがどうしてもと言い張るので、吉祥寺のステーキハウスで夕食をとった。肉屋の脇の狭い階段に行列すること三十分、ようやくありついた肉は確かにとても柔らかく、美味だった。
「探偵って腹減るよね」
健啖ぶりを発揮するミチルの隣で、わたしはかなり無理して大部分の食事を胃におさめた。わたしは四人姉妹の末っ子──それもまったく甘やかされなかった末っ子だ。わたしが生まれたとき、一家のお姫さまの座は三番目の姉のものだった。姉はがんとしてその座を手放さなかったし、わがまま放題で愛らしく、皆からかわいがられていた。男だったら事情は違っていたかもしれないが、結局のところ、物心ついたときにはわたしは家族にも忘れられがちな存在となっていた。食事を残せなくなったのは、そのせいかもしれない。生存競争の厳しさを身をもって知っているからだ。
食事代はわたしが払った。ミチルは甘いものを食べたい、自分がおごるからと言った。喫茶店に移動してケーキを食べ、ふたりでぼんやりとコーヒーを飲んだ。
「さっき、あんたのお母さんに電話したよ」
ミチルがカップをきつく握りしめた。
「──帰ってこいって?」
「いや。そこらへんはうまくごまかした。けど、その、聞いておきたいんだけど」
「なんだよ」
「お母さんはちゃんと治療を受けてるの? カウンセリングに通うとかして」
「ママが狂ってるとでも言いたいのかよ」
ミチルは笑ってみせたが、唇が歪んでいる。
「お兄さん──満ちゃんのこと、新聞で読んだ」
わたしは穏やかに答えた。
「まだ五歳の子どもを誘拐されて殺されたら、心に傷を負うのが当然だと思う。それも深くて大きな傷だもの、なめときゃ治るってわけにはいかないよ」
ミチルは前歯でカップをがりがり噛んだ。
「知ってたんだ、葉村さん。なんで? 探偵だから調べたのかよ」
「あんたたち親子を調べまわる仕事を引き受けた覚えはないよ。ただ、気になって」
「どーしてさ。無関係のあんたの気にすることじゃないじゃん」
「あんたのお父さんに、あんたをよろしく頼むって言われたからね」
「よけいなこと言いやがって」
ミチルは悪態をついた。
「ああ、いいよ。教えてやるよ。ママは精神科になんか通ってないよ。それが聞きたかったんだろ。だけど、狂ってようがどうしようが、ママとあんたは関係ないじゃん」
「ミチルとは関係があるよ」
「なんでさ。あたしも狂うとでも思ってんの。寝てる間に首切り取られやしないかって心配してんの」
「自分でも信じてないこと、他人に押しつけんのはやめときなさい」
わたしはぴしゃりとたしなめた。
「母親の心が病んでるってことと、その娘の精神状態とは別問題よ」
「きれいごと言ってら。あんただって血筋とかそういうの、全然考えないわけじゃないくせに。ママがおかしい、だからその娘もおかしい。血がつながった親子だから。ふん」
「あんたのお母さんは」
わたしは深呼吸をして、言い出した。
「息子を殺されてしまった傷があんまり痛むから、あんたやあんたのお父さんにしがみつき、噛みついて、痛みに耐えてる。ぎゅーっと歯を食いしばって自分の痛みをこらえてる。あんたたちも、お母さんの痛みをやわらげるために、我慢して噛まれてあげてる。でも、誰だって、どんな理由があろうと、限度を越えた痛みには耐えられない」
ミチルはしばらく黙って前歯でカップをかじり続けていたが、やがてそれに気づき、乱暴にカップを置いた。
「──初めてヘンだって思ったの、幼稚園のときだった」
ミチルは言った。
「ママが作ってくれた制服を着て、幼稚園に行ったの。セイモア学園は小学校までは共学なんだよね。そしたら先生が、どうしてお嬢さんに男の子の格好をさせてるんですか、って言ったの。ママ、ぽかんとして先生に言った。あら、だってうちのミチルは男の子ですけどって。結局どう処理したのか、あたしは男の子の格好で幼稚園に通うようになった。よくからかわれたよ。みんなに」
美和の初恋の相手がミチルだったのは、そういうわけだったのだ。
「それまでも、子ども心になんかおかしいなって思うことよくあった。あたし、甘いもん大好きなんだけど、ママは『ミチルちゃんは嫌いだから』って言う。髪を伸ばしたいって言っても相手にしない。ぬいぐるみが欲しいって言ってるのに、『ミチルちゃんは車が大好き』ってミニカーを買う。小学生になって、どうもママはあたしのこと、男だと思ってるって気づいたんだけど、でも、たまにはママ正気に返ってあたしが女だって気づく。そういうとき、ママは怒る。『どうして女の子に生まれ変わってきちゃったの』って」
「そういうとき、お父さんはどうしてたの」
「歯が痛いみたいな顔して黙ってる。──あたしね、ずっと、あたしがすごく悪い子だからママが怒ってるんだと思ってた。そうじゃないんだって、パパが満の誘拐とかそういうこと教えてくれたの、中学にあがる前。パパ言ってたよ。満兄ちゃんが殺されて、ママも死体みたいだった。口もきかない、食事もしない。だけどあたしができて、やっと生気を取り戻したんだって」
ミチルはふうっと息をついた。
「ママはあたしを満の生まれ変わりだって言い張った。名前も同じにするっていうのを、やっとのことで女の子でも通用するようにカタカナにさせたんだって。ママは前の満とあたしを同じ人間だって思ってた。あたしが少しでも前の満と違うことしようとすると、それは間違ってるって決めちゃうんだ。生理が始まったときなんか、病院に連れてかれた。あたしが髪を伸ばすと寝てる間に切っちゃう。ビーズの指輪とか、子ども用のお化粧とか、美和がくれても捨てちゃうんだ」
しかし、子どもは成長する。五歳のままの男の子の満と、どんどん大きくなっていく女の子のミチル。まったく別の人格、身体の持ち主を同一視しようとすれば、どうしたって無理が出てしまう。
「パパから話を聞くまでは、あたし自分が悪いと思ってた。でも、そうじゃないってわかってほっとしたし、ママが可哀想になったんだ。ママがそう思いたいんなら、あたし満のふり──男のふりしてあげようって決めた。朝、男の格好で家を出て、駅のトイレで女子校の制服に着替えたりしてさ。ママのためにずっとそうしてた。でも……」
ミチルは唇の皮をむき始めた。見ているだけで、ひりひりした。
「誰にだって、限界はあるよ」
「限界だったかどうか、どうしてわかんの? あたしはただ、嫌になっちゃっただけだよ。学校の連中はあたしのこと、まるでタチの悪い病原菌みたいに扱う。美和とか二、三人のコ以外は、口もきいてくれない。うっかりよろけてぶつかったりすると、変態、キモいってつき飛ばされる。ヘンに勘違いして、あたしを男として扱おうとするコもいる。性同一性障害の説明しだしたりしてさ。──あたし、男になりたいわけじゃないんだ。このまんまでいいんだよ」
「だから家出したの?」
「パパはずっと、なんにもしてくれなかった」
ミチルは熱に浮かされたように喋り続けた。
「仕事が忙しいって遅くまで帰ってこない。たまの休みは二八会で遊んでる。前は集まりにあたしたちも連れてってくれたことあるんだけど、ママが年頃の男の子は手が焼けて、とか、美和にあたしを誘惑するな、とか、二八会の皆の前でまくしたてたことがあって、それからは絶対に連れてかなくなった。今年の三月頃──あとで思うと佳奈がいなくなった頃だけど、あのときなんかもう、最低だった。それまであたし、服とか自分で買うようにしてたんだよね。ママが買ってくるものは──ホントは男物だからヤなんだけど、ダサいからってごまかしてさ。だけど、期末バーゲンで買い物に出かけたママが、あたしに──ブリーフ買ってきたんだよ!」
わたしは開いた口がふさがらなかった。
「あたし、キレたよ。ぶちキレた。その場でパンツ下ろしてわめいたよ。見てよ、あたしのどこにおちんちんついてんの、あたしは女だよ、あんたの娘で息子じゃない。そしたらママ、真っ青になって、ミチルちゃんゲイになるつもり? だと」
ミチルの唇に血がにじんできた。
「だからパパに言ったの。ママをどうにかしてくれ、って。だけどパパは、ママの悪口言うのよしなさい、ママは事件のせいでとても傷ついてるんだから優しくしてあげろって、いつもの説教並べて、猟銃抱えて二八会のお遊びに出かけてった。動物殺してる暇があったら、他にやることあるだろうにさ」
ミチルは血のにじんだ唇の皮を、なおもむきちぎった。
「それがあってしばらくしてから、パパが言ったの。ママがミチルがゲイになるってヒステリー起こしてるから、もうしばらく様子みてほしいって。つまりあたしに息子の芝居を続けろってことだよ。しばらくっていつまで? とにかくしばらくだってパパは言う。もう疲れたよってあたしが言ったら、パパが、パパだって疲れてるんだって怒鳴ったの。あたし、パパに怒鳴られたの初めてだったから、もう少しだけがんばることにしたんだ。長くは続かなかったけど」
ミチルは唇をなめて、痛そうな顔をした。が、手は休みなく唇の皮をむいている。
「ある日学校から帰ってきたら、部屋の前にエロ雑誌が積んであった。最初、なんでこんなもんがこんなとこにあるんだって不思議だったけど、すぐママの仕業だってわかった。キレる元気もなくなって、会社から帰ってきたパパに雑誌見せて言ったんだ。ママを病院に連れてって。ママはおかしい、病気だ、さっき葉村さんが言ったみたいなことを。パパ、それだけは絶対ダメだって言った。お兄ちゃんが殺されたあと、ママを病院に入れたことがある。ママは薬漬けにされて、死体みたいになったのはそのせいだ。ママは病人じゃない、普通に生活してるじゃないか。このままふたりで面倒をみてやればそれでいいんだ──畜生」
わたしはテーブル越しに手を伸ばして、ミチルの手首をつかんだ。細い、親指と人差し指の円のなかに納まってしまうほど細い手首だった。強引に下におろさせて、紙ナプキンを渡した。
「血が出てる。焦らなくていいから」
ミチルは紙ナプキンで唇をおさえ、それで鼻をかんだ。ちょっと笑った。
「あたし言ってやった。ママが薬漬けにならなきゃ、あたしがクスリ漬けになってもいいんだなって。アヤからもらったマリファナ、リビングの真ん中で吸ってやった。だけど、パパ黙って部屋から出ていった。家を出ようって思ったの、そのときだった」
男と寝ようと思ったのもそのときだったのだろう。ミチルはわたしの考えを素早く読みとって、肩をすくめた。
「そうだよ。ここで一発、オンナになってやるとも決めたんだ。アヤもがんばれって言ってくれたしさ。相手は誰でもいいってわけにはいかなかったけど、宮岡公平ならまあ、悪くないかと思ったし。ムダだったけどね。だって、ママの〈ミチルちゃんゲイ説〉を裏づけちゃったんだもん。全然意味なかった。それどころか、すっごい修羅場になっちゃって」
世良松夫に羽交い絞めにされたのを思い出したのだろう、ミチルはぶるっと身を震わせた。
「あれはミチルのせいじゃないわよ」
「あったりまえだよ。あんな化けもん連れてきやがってさ。おまけにパパやママが変わってくれるかと思ってたけど、相変わらず。ママはあんなふうだし、パパはゴールデンウイークも仕事だって逃げちゃうし。いやになるよ」
ミチルの声はもう湿ってはいなかった。
とがってはいたが。
喫茶店が閉まるまで、わたしたちは黙って向き合って座っていた。十時をすぎて、ようやく帰途についた。ふたりともふらふらしながら部屋に戻り、ミチルはシャワーを浴びてベッドにもぐり込み、自分のものと決めたクッションを抱きしめて、あっという間に眠りについた。息をしているのか心配になるほどの熟睡ぶりだった。
逆にわたしは寝つけなかった。村木にもみのりにも連絡がつかない。ミチルをこのまま預かっておいていいわけないが、といって、ちょっとやそっとで平貴美子を癒せるはずもない。おまけに、いずれ必ず貴美子はミチルを帰宅させろと言ってくるだろう。
──このまま家にいたら、あたし、ママのことぶっ殺しかねない。
寝返りを繰り返していたら、ふとんのなかが蒸し暑くなった。起き出して、麦茶を飲んだ。最近は控えている煙草を取り出して、台所の窓を細く開けて吸った。自分ちでなにを遠慮してるんだか、と思うと馬鹿馬鹿しくもあったし、苛立ちもあった。自分の領域を侵されたくない──そこらへんはわたしも、滝沢喜代志と同じだ。
二本目の煙草に火をつけたとき、かちっと音がして、窓の外が明るくなった。と思ったら、すぐまた暗くなった。
対人センサー付警戒ライトが作動した、とすぐにわかった。
警棒をとりに枕元に急いだ。引っ張り出して玄関へ行き、外の様子をうかがった。ひとの気配はない。猫かカラスだろうか、と思い、額ににじみ出た汗を拭って時計を見た。十二時ジャスト。嫌な時間だ。
携帯をとって、村木とみのりに電話をかけた。ふたりともつながらない。どうしてこれほど心配ごとを抱え込まなければならないのか、だんだん腹が立ってきた。世良松夫に痛めつけられ、宮岡公平に刺されたあたりから、いや、それよりもっと以前から、不条理の神様に目をつけられ、頼んでもいない恩恵をたっぷりと与えられているような気がする。
手のなかの携帯が突然鳴り響き、わたしは飛び上がった。
「もしもし?」
「やあ、葉村晶さん。覚えてますか、ぼくのこと」
心臓が尾てい骨のあたりまで沈み、ゆっくりと浮上してくるような感覚を味わった。さわやかなその声には聞き覚えがあった。牛島潤太だ。
「ど、どちらさま?」
「忘れられちゃったか、がっかりだなあ。牛島潤太ですよ。ほら、相場さんの友達の。代田橋のタクシー乗り場で会ったでしょう」
「どうしてわたしの携帯の番号をご存知なんです?」
わたしは名乗りさえしなかったはずだ。
「もちろん、相場さんから聞いた──ってのは嘘です。相場さんはあなたの名前しか教えてくれなかった。それで、相場さんのアドレス帳をね、ちょっとのぞいたんですよ。昔から数字を覚えるのは得意なんです」
「なにか御用ですか」
「あれ、冷たいなあ。人恋しくなったもんだから、あなたの声を聞かせてもらおうと思っただけですよ。いけませんでしたか」
「嬉しくはないわね」
「ひえーっ、そうまで言われたの、初めてだ」
電話のむこうで牛島ははしゃいでいる。
「珍しいな、あなたみたいなひと。なんかガゼン、興味出てきましたよ」
「わたしは猟人日記のネタにはならないと思うけど?」
うっ、と言ったきり牛島は沈黙した。
「あれを読んで、あんたの根性知ったうえで、あんたみたいな腐れ男とつきあう女、いないと思うけど?」
「あんた……」
「もっとも、すぐ店じまいすることになるでしょうね、あのホームページ。この頃じゃインターネット上の倫理問題もうるさくなってきてるし、どこのサーバーだって訴訟沙汰に巻き込まれたくはないでしょうしね。残念ね、自己顕示できる場所がなくなって。まあ、そんなしょぼい自我、誰もろくに見てないでしょうけど」
受話器のむこうからうなり声が響いてきた。やがてそれは笑い声へと変わった。わたしは唇を引き締めた。
「あんたバカだな」
牛島は喉の奥でまだ笑いながら、そう言った。
「俺のホームページが閉鎖されても、俺は日記を書き続けるし、公表し続ける。俺の名前がブラックリストに載ったって、痛くもかゆくもない。他の人間の名前使えばすむだけの話だもんな。プライドばっかり高い嫁き遅れが俺と結婚したくてみっともねえ真似しやがるの、がんがん書き続けてやる。止めようったってムダだよ、葉村晶」
殺意がわきあがった。怒鳴りつけ、罵ってやりたかった。みのりを思った。本気でこの腐れ野郎を信じて、わたしに嫉妬までして、結局は傷つくだけ傷つくだろう彼女のために、仕返しをしたかった。
でもなにかがわたしを止めた。そんなことをしても、こいつにはかすり傷さえ負わせられない。こいつはそれを日記のネタにするだけ。喜ばせるだけだ。だけど、それじゃあ、どうすればいい。どんな言葉を投げつけてやれば、こいつの薄気味悪い自己満足を撃沈できる?
はっとした。
さっき自分で言った言葉。あんたのしょぼい自我なんか、誰もろくに見ていない──。
「それならそれでもいいけど」
わたしはさりげなさを装った。
「……なんだと?」
意表をつかれて牛島は黙り込んだ。わたしは優しく言い聞かせてやった。
「ホームページ開けっぱなしでもかまわないって言ったの。根性だけじゃなくて耳も頭も悪いのね」
「頭が悪いだと? 誰に向かって口をきいてんだ」
牛島の荒い息づかいに向かって、わたしは淡々と喋った。
「猟人日記の読者があれを読んでどう思ってるか、教えてあげましょうか。この作者、妄想で頭やられてるぜ。次から次へと女を弄んでるようなこと書いてるけど、こういうやつって絶対、モテねーんだろうなあ。ほんとにモテる男がこんなこと書くわけないよな。女に相手にされなくて、欲求不満がいっぱいで、その恨みを頭のなかだけで晴らしてる。かわいそーなヤローだぜ」
牛島はとまどったように言い返した。
「ふ、ふざけんなよ。俺は女に不自由したことはない。どんな女も俺には一発でひっかかる。俺はモテるんだ。それに、俺のホームページを喜んで読んでるやつだっているんだ。どっかのチャットでそういう意見を読んだことがあるんだ」
「あら、そう。で?」
「で、だと?」
「ええ、で、その意見を書いた男って、どうなの? 女にモテはやされてそうだった? 私生活に満足してた? どうかしらね。それこそ女に相手にされてなくて、欲求不満がたまってそうな男だったんじゃない?」
牛島は完全に沈黙した。わたしは必死に自分の口調をコントロールした。
「粗大ゴミを出すと、もれなく細かいクズが出るのよね。たまたまクズが崇めてくれたからって、あんたが粗大ゴミだって事実は変わらない。──まあ、それだって、あの日記が本物だとすればの話だけど」
「あれは本物だ。事実しか書いてない」
「嘘ばっかり。フィクションだって冒頭に書いてあるわよ」
「違う、あれは万一訴えられたときの予防だ。あそこに書いてることは全部事実だ。俺はいろんな女とヤリまくってんだ。誰が、誰が欲求不満なもんか」
牛島は絶叫した。わたしは鼻で笑ってやった。
「誰も信じないわよ。たいていの人間は、あんな病的な自慢話、うざったいとしか思わないもの。どうぞ、どんどんお書きなさいな。書けば書くほど、あんたが日本中に嘲られるだけだもの。気の毒だ、哀れだ、まだ妄想垂れ流してやがる、いいかげん気づけよ、てめえが女に相手にされない負け犬だってことによ──ってあきれられるだけなんだから」
「この不感症のクソ女」
牛島は噛みつくように言い返してきた。
「俺は負け犬じゃねえ、俺はエリートだ、優秀だ、だからバカ女どもをぐちゃぐちゃに踏みつぶせるんだ。おまえの友達の相場みのりだって踏みつぶせる。試してみようか。あの女をどっかの屋上から飛び降りさせてやる。俺が放り出してやる。殺してやるんだ」
「どうもありがとう」
わたしは目の前が怒りで真っ暗になるのを感じながら、かろうじて冷静に答えた。
「な、なんだと……」
「ありがとうって言ったのよ。いまの言葉、ちゃんと録音させてもらった。もし、みのりがどこかで死体で見つかりでもしたら、わたし、このテープ持って警察に行くわ。みのりが牛島潤太に殺された証拠になるものね」
「きさま、そんな都合よく、ひとを殺人犯になんか──」
「みのりから聞いてないの? わたしの仕事、警察とは深い関係があるの。だから知ってるのよ。警察ってお役所は検挙率あげるの大好きなの。それで予算も決まるのよ。殺人事件が解決できたら、自殺の後片づけより、ずっと喜ばれるでしょうね。それもはなから犯人がいるんだから、捜査にお金もかからないし。知り合いの刑事さんに借りも返せるし、わたしも助かるわ」
柴田が聞いたら卒倒するような嘘を並べた。牛島はまんまと引っかかった。
「そんなことしてみろ、冤罪で訴えてやる。マスコミは冤罪事件で警察いたぶるの、大好きだからな。そうだ、やってみろよ。お気の毒だな。おまえと警察は無実の人間を犯人にしたてた悪魔で、俺は気の毒な犠牲者になる。俺がもてはやされて、脚光を浴びるところ眺めて、せいぜい悔しがって胃に穴でも開けるんだな」
「ホームページが公開されて、この会話がテレビで流れれば、確かにあんたは脚光を浴びるでしょうね。気の毒な犠牲者としてではなく、精神病理学者の症例として。二、三回コメントされて、二日ほどネット上の話題になって、すぐに忘れられる。でも、あんたの顔と名前は、世間に知れわたる。そうなってから、あんたにひっかかる女なんているかしら」
「おまえだな」
牛島潤太は突然、鬼の首でもとったように叫んだ。
「ゆうべ、俺を背後からぶちのめしてくれたやつ、あれはおまえだったんだな。そうだろう。間違いないだろう。間違ってたってかまうもんか、あの犯人は葉村晶だったと、警察に訴えてやる」
すうっと背筋が寒くなった。
「もう被害届出したんでしょ。そのとき犯人はわたしだって言ったの? 後になって思い出すなんて、そんなご都合主義が警察に通用するとでも? 警察だってあんたのことなんか信じない。あの猟人日記を読んだら、みんなはあんたのことをどう思う?」
「俺には社会的地位が」
「虚言癖があって」
「俺には金持ちの両親が」
「幼稚な自己愛のかたまりで」
「誰もが俺を信用する。金と社会的地位と頭がある、だから俺は信用されるんだ」
「しかも詐欺の前科がある、根っから嘘つきのサイコ野郎だとみんなが思うに決まってる。警察も、他の誰も、あんたなんか信用しない」
しばらくの間、牛島潤太の荒々しい息づかいと、冷蔵庫のぶーんといううなりしか聞こえなかった。わたしはかたずを飲んだ。と、牛島がかすかに言った。
「お、覚えてやがれ」
電話は切れた。全身びっしょりと汗をかき、膝ががくがく震えていた。携帯電話を左手から引きはがし、テーブルに置いた。高揚感と自己嫌悪を同時に感じ、おそろしく気分が悪かった。
シャワーを浴び直し、麦茶に砂糖を入れてかき混ぜて飲み、血糖値があがるのを待った。やがて潮が引くように身体の不快感は消えていったが、そのときにはもう、精も根もつき果てていた。すべてを放り出し、二、三日休養したかった。
ふとんに倒れ込んだとき、テーブルの上に置きっぱなしになっていた携帯電話が鳴り始めた。この呼び出し音ほど心臓に悪いものは世にふたつとあるまい。胸を押さえて起き上がり、這うようにして電話に出た。
最初はなにも聞こえなかった。眉を寄せて耳をすますと、かすかに物音が聞こえる。それがなにかわかった瞬間、冷や汗がまたどっと吹き出てきた。
女のすすり泣きだ。
わたしは酸素をもとめて口をぱくつかせ、ようやくかすれ声を出すことに成功した。
「もしもし、もしもしみのり? あんたなの? どこにいるのよ」
「夜分すみません、あの、辻です」
脱力して、床にへたりこんだ。辻亜寿美だった。
「……ああ、どうも」
「と、突然で申し訳ないんだけれども、お話ししたいことがあって」
亜寿美の声はか細く、とぎれがちだった。
「なんでしょうか」
「遅くて申し訳ないのだけれど、いまからお会いできませんか。その、直接お目にかかって聞いてもらえればと思うんです」
時間を見た。そろそろ一時。体力を示す針はEに近い。とっさには答えられなかった。
「あ──すみません、非常識でしたね」
亜寿美は慌てたように囁いた。かすかに鼻をすする音が響いた。
「ごめんなさい、あたしったら自分のことしか、考えてなくて。その、忘れてください」
有能で、手厳しく、切れのいい言葉をぽんぽん発していた亜寿美──いまの彼女は、まるであのときの亜寿美にシーツをかぶせたみたいにたよりなかった。
まったくもう。
「亜寿美さん、いまお宅ですか」
「ええ、そう。そうですけど」
「これからうかがいます」
「でも……」
「大丈夫ですから」
「ありがとう、お待ちしてます」
髪だけとかし、着替えた。いつも持ち歩いている大きなショルダーバッグから、財布とティッシュと携帯電話だけを小さめのポシェットに移し替え、警棒を差し込んだ。パンツのポケットにハンカチをねじ込んで、ベッドを見た。ミチルはぴくりともせずに夢のなかにいる。辻亜寿美の部屋へ行ってくる、とだけメモに書き、少し考えて時間を記した。テーブルの上に置いた。厳重に施錠して、部屋を出た。
タクシーを拾うためには山手通りまで出なくてはならない。急ぎたかったが、右足が思うように動かなかった。痛みはとれてきているが、局部的な筋肉疲労が脚全体に広がって、重い。三十数年生きてきて、わたしは自分自身について新たな発見をした。とんでもないところに筋肉が存在していたのだ。痛まなければどこにどんな筋肉があるか、なかなか気づかないものだ。
西武新宿線の踏切を渡り終え、ソテツ荘の近くまで来て、わたしは振り返った。なにか聞こえたわけでも、なにかを感じたわけでもない。なぜ振り返ったのか、自分でもわからなかった。夜風は涼しく、熱を帯びた身体と頭を心地よく撫でていく。気怠《けだる》い。頭のなかには霞がかかっている。わたしはポシェットから警棒を引き抜いた──いや、引き抜こうとした。
次の瞬間、肩がかっと熱くなった。道の脇に駐車してあった車のサイドガラスに顔面からぶつかり、そのショックで目が覚めた。白い車体に身を預けるように滑り落ち、とっさに姿勢を低くしながら叫び声をたてた。
声はすぐに止まった。背中を殴打されて出せなくなったのだ。続いてまた衝撃が来た。さらにもう一度……。
意識が遠ざかった。
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後 半 戦
夢うつつのうちに、男の低いささやきを聞いた──。次の瞬間、ばん、と大きな音がして、わたしは我に返った。
咳き込み、もがきながら身体を起こした。息ができない。喉の奥になにかがつかえている。考える間もなく手をあげて、口へ持っていった。呼吸の邪魔をするものを口からはぎとり、あえいだ。次の瞬間、つかえたものが甘ずっぱい臭いを放ちながらどっと放出された。
鼻で呼吸しつつ、出せるものはすべて出した。四つんばいになり、顔がじんじんとしびれてくるまでその姿勢でいた。やがて胃が落ち着き、呼吸も落ち着いてきた。手を使って身体を移動させ、腹をかばうような格好で横たわった。
いったい、なにが起きたのだ?
肩と首のつけねが重苦しく痛んでいた。身体を動かそうとすると、背中に激痛が走った。致命的とはいえないまでも、恐ろしいダメージを受けているかも、と悟った瞬間、呼吸が浅くなった。息が苦しい。心臓も。
目をきつくつぶり、大きく息をした。感じるのではなく、考えようとした。嘔吐したということは、少なくとも首はまだ身体についている。四つんばいになって身体を移動できたということは、手足も身体に残っている。
心温まる情報だ。
やがて、鼓動が落ち着き、冷や汗も止まった。そっと手を持ち上げて、痛みの具合を調べてみた。座ってみた。立ってみた。歩いてみた。どれも、難なくというわけにはいかなかったが、『2001年宇宙の旅』の猿人役のオーディションに参加できる程度にはこなせた。
あらためて周囲を見回した。小さな部屋のようだった。暗かったが、天井と壁の境目の隙間から光がさしこんでいる。狭苦しい、金属製の部屋。少し傾いている。
この頃には目が慣れていたので、いまいる場所がどこだかわかった。再びパニックに襲われるところだった。
トラックの荷台。
大きさから考えて、二トンのボックスタイプのトラックの荷台だ。最初に倒れていた場所は、扉の正面だった。扉はきっちりと閉まっている。からっぽで、なにもない。
両手で押し、殴り、叫びながら蹴飛ばした。扉はこゆるぎもしない。
閉じ込められたのだ。完全に。
怒りを感じた。自分でも途方にくれてしまうほど強い怒りだった。なぜ、わたしがこんな目にあわねばならないんだ。
その怒りを扉にぶつけた。繰り返し、体当たりをした。五度目に首のつけねに激痛が走らなければ、そのまま体力を完全に消費するまで無意味な抵抗を続けていたかもしれない。
声も出せなくなって、その場にへたりこんだ。やがて痛みが遠ざかった頃には、このまま感情にまかせることの不利益に気がついていた。
理性を働かせようと、歩き回り、観察した。天井と壁の隙間に亀裂が生じている。水がたまり、さびが浮き出ていた。おそらくこれは廃車だろう。扉は外から施錠され、内側からは開けられない。耳をすませても、人の声や雑踏の響きなどは聞こえてこない。もっともそれは、早朝だからかもしれない。そうだといいが。
少なくとも、少しの水と空気はある。それがわかって安堵した。おかげで、考えることに専念できそうだ。
わたしをここに押し込んだ犯人は、いったいなにを考えていたのだろう。殺すつもりだったのか。もしくは殺したつもりだったのか。
殺したつもり、というカードはすぐに捨てた。どんな素人だか知らないが、呼吸や脈を確かめもせずに〈死体〉を持ち運び、放置したりはしないだろう。
逆に、殺すつもりだった、という考えはわりに気に入った。たぶん、ひとけの少ない場所に野ざらしになっているであろうトラックの荷台にわたしを押し込んだのは、ほうっておけば死ぬと考えたからだ。
さっき吐き出したものを足で脇に寄せ、床の上から粘着テープを拾い上げた。これのおかげで窒息するところだった。被害者が粘着テープを口にはられ、窒息死し、強盗事件から強盗殺人事件へ変化してしまった例がある。だが、この場合、わたしに声を出させないようにするため、あるいは窒息させるために粘着テープを貼ったのだとしたら、ついでに手足も厳重に縛りつけておくはずだ。
それでは、目的はなんだ?
答えはあっさり出た。わたしを苦しめたかったのだ。
わたしがこの狭苦しい空間のなかでみっともなくじたばたし、声をかぎりに助けを呼び、絶望と苦痛のうちに泣き叫ぶ──そんな姿を想像して楽しむ。あるいは……。わたしはぞっとした。
犯人はこの近くにいて、そのわたしの声を、悲鳴を、実際に味わおうと待っている。
恐ろしい話だが、そうであるほうがありがたい。近くでこちらの様子をうかがっているのだとすれば、さっきドアを叩き蹴飛ばしたあたりで、わたしの意識が戻っていることを犯人は知った。その後、わたしが静かに息をひそめていれば、じれったくなった犯人はなんらかのアクションを起こすはずだ。むこうから車体を叩き、結局は扉を開ける。
根くらべといこう。
トラックを揺らさないように気をつけて座った。口のなかが苦かった。喉も渇いている。口のなかに唾をため、飲み込んだ。脱水症状が現れるまでどれほどかかるだろう。それまでに、犯人が待ち切れなくなってくれればいいのだが。
頭が朦朧としてきた。横になりたかったが、せっかくのチャンスを逃したくはない。壁にもたれかかり、考えをめぐらせることにした。考える値打ちのある疑問をくれた犯人に感謝することにした。
わたしを襲い、ここに閉じ込めたのはいったい誰か。
そんなことをしそうな人間の心あたりは、ありすぎるほどあった。
まずは滝沢美和、水地佳奈の失踪事件の重要な容疑者である〈叔父〉。
松夫をバカにした罪は必ず償ってもらうからね、と捨て台詞を残した世良松夫の祖母。
同じく、覚えてやがれ、と言った牛島潤太。
ミチルを自分の期待通りにするためならなんでもする、と言い放った平貴美子。
やれやれ。一週間のうちに、葉村晶もずいぶん人気者になったものだ。
ひとりひとり考えてみた。平貴美子は大穴だな、と思った。いざとなったらなにをしでかすかわからない、歪んだ母性の持ち主ではあるが、いますぐわたしをどうこうしようとは思っていなかっただろう。だが、警察署からの電話の後、不安になった彼女が部屋の近くでわたしたちを見張っていて、深夜、ミチルを置いて外出するわたしに、突拍子もない恨みを抱いた可能性はある。だいじな息子《ヽヽ》を置き去りにするからには、この女、誰か別の男と浮気する気か、とかなんとか。なんとも馬鹿馬鹿しい話だが、可能性ゼロとも言いきれない。微妙なところだ。
次に可能性が低いのは〈叔父〉だ。彼──一緒に荷物を運び出しにきた男を含めると彼ら──が襲撃犯で、わたしがすでに彼らのしっぽをつかんでいると思い込み、口封じをもくろんだのだとすれば、こんな手間のかかる、不確実な方法はとらないだろう。ぶち殺して、山林に埋めて、おしまいだ。
とはいうものの、彼らが美和と佳奈を殺害したのだとすれば、〈ゲーム〉という言葉に暗示されるのは快楽殺人である。犠牲者が苦しめば苦しむほど楽しくってたまらない、口封じだけじゃもったいない、と一粒で二度おいしい人殺しをもくろんだ可能性もある。
本命をどちらにするか、かなり迷った。
わたしが襲われたのは、牛島潤太との電話の直後だ。世の中に携帯電話という、便利だがアリバイトリックにとっては悪夢のような発明品さえなければ、牛島はすぐに疑惑の圏外へ去ったはずだ。
だが、やつはわたしの家の住所を知っていて、あの電話を近くからかけてきたのかもしれない。八桁の携帯番号を暗記できるなら、五つの数字でなりたっている住所も覚えられただろう。あの呪われたナルシストのことだ、きみのことが忘れられない、近くにいるんだけど、とでもいえば、わたしがほいほい部屋にあげると思い、近所から電話をかけてきた、と考えられなくもない。そして、怒りおさまらぬままうろついていたら、都合よくわたしが出てきた。
この考えの欠点は、だとすると牛島はとっさにわたしを襲い、とっさに思いついた廃トラックの荷台にわたしを運び入れたことになる、という点だ。やつは相当に磨きのかかった変態だが、これまで女性を騙したり見下げたりして楽しんできたものの、言葉以外の暴力沙汰とは無縁のはず。いつか女性を監禁したくなると予想し、あらかじめ都合のいい場所を用意していた──とは思いがたい。
となると本命はやはり、世良松夫の祖母になるだろうか。いくら気力十分の女傑であっても、あの婆さんがひとりでわたしを襲い、身体を運んだとは考えられないが、そのためのひとを雇うことならありうる。牛島潤太との電話の前に、例のライトが点滅したのも、雇われた人間がわたしの部屋の様子をうかがっていたからかもしれない。部屋の前に張り込んでいた雇われ者が、たまたま出てきたわたしを見て、チャンスとばかり襲って連れ去った。そういう仕事を専門にしている人間なら、監禁場所の五つや六つ、はなから準備してあっただろう。
そういう意味では、世良松夫の祖母犯人説がいちばん信憑性がある。あの婆さんなら、ただ雇って襲わせるだけでは満足できず、わたしが泣き叫ぶさまを聞いて溜飲を下げたいと思うはずだ。ただ、この説の短所は、一晩中わたしの部屋を張り込むほど仕事熱心なプロの襲撃屋というものが、現実に存在しているか、そして即座にその人物を雇う知識が世良松夫の祖母にあったかどうか、という点だ。
女傑とことをかまえたのはゆうべのことだ。いくらなんでも手回しがよすぎる。
さんざん考えたあげくの結論はこうだ。誰が犯人かわからない。
ため息をつくと、身体のあちこちが痛んだ。仕事のたびに後頭部を一撃されても、ものの三十分ほどですっかり回復してしまう類《たぐい》の男たちが羨ましかった。体力を要求される仕事だし、力業が必要になることも皆無ではないから、簡単な護身術の講座も受けたし、ストレッチや走り込みは──足を痛めるまでは──欠かさないように心がけてきた。しかし、いったん仕事にかかると、朝早くから夜遅くまで拘束されることが多い。帰ると疲れ果て、運動どころではない。無理に運動などしようものなら心臓が止まってしまう。とんだお笑いぐさだ。
ごく平均的な三十すぎの女の体力を判断するのに、襲われてさんざん痛めつけられても平然と持ちこたえられる、という項目が使われることはない。
脚を伸ばして座り直した。全身の痛みがひどいせいか、足の痛みはかなり薄まっている。わたしについている神様は、皮肉な性格をお持ちとみえる。足を治すためにしばらくゆっくり休養したい、という望みが、まさかこんな形でかなえられるとは。
しばらく、外の音に耳をすました。一度、カラスの鳴き声が聞こえ、葉ずれらしい音がする他は、静まり返っている。車の音、人の声、希望が持てそうな物音はなにもない。
誰かが耳をすませて待っている気配もなかった。
がくっと頭が倒れ、わたしは目覚めた。いつのまにか、気を失っていたらしい。重くなった頭を持ちあげて、周囲の様子をうかがった。
天井と壁の隙間からさしこんでいる光の角度が、さっきとはだいぶ変わっている。隙間に目を向けるとまぶしかったのに、いまはそうでもない。だが、暑い。指がふくれているようだし、喉の奥の奥まで乾き切っている。
舌で喉をなめ、顎のつけねをマッサージした。少しずつ唾が湧いてきた。二回にわけて飲み込んだ。最初に目覚めたときよりもずっと全身が重い。ふくらはぎと肩を、注意してゆっくりともみほぐした。指を屈伸させ、靴を脱いで、足の指と足首も同じように動かしてみた。
これほど喉が渇いているのに、尿意を覚えた。無視することにした。
全身を調べた。まず、しなくてはならなかったはずなのに、一度目は頭が働いていなかったようだ。Tシャツ、ジーンズ、スニーカー、どれも部屋を出たとき身に着けていたものだ。ポシェットはない。ジーンズの尻ポケットに押し込んでいたはずの携帯電話もなくなっている。忘れていた怒りが甦ってきたが、考え直した。もし、携帯電話をとり忘れるほどまぬけな犯人にこんな目にあわされたのだとしたら、もっと腹立たしいはずだ。
腕時計は残っていたが、ポケットに入っていたハンカチはなくなっていた。
犯人はわたしを襲い、殴りつけ、持ち物をすべて奪ったが、身ぐるみはぐ気はなかったようだ。せめてもの情けかもしれないが、ありがたみなど感じなかった。これを理由に情状を酌量せいと言われたら、わたしは暴れる。
外部と連絡をとる手段はない。トラックに出入りしているネズミや飼い猫もいない。叫ぶしか、わたしがここにいることを報せる手段はないし、といって、外の様子では、わたしの悲鳴を聞きつけるのはカラスと犯人だけだ。
絶対に悲鳴なんかあげてやるもんか。
そう思いながら、不安で胸が苦しくなった。このままではやがて体力は失われ、脱水症状で動けなくなり、飢えと渇きで死んでしまう。そんなことになる前に、助けを呼ぶほうがいいんじゃないか。世良松夫の祖母だって、まさかわたしを殺したいとは思わないだろう。悲鳴をあげて、泣いて許しを乞えば──それでここから出してもらえるなら──。
反射的に立ち上がっていた。扉に駆け寄った。叫ぼうとした。
声を出す寸前、かろうじて思い止まった。
戦略上、それはまずい。外に犯人がいれば、相手は喜んでわたしを出さない。いなければ、わたしは体力を消耗するだけだ。
明らかに誰かいるとわかるまでは動くな。
声をかけられても動くな。
相手がわたしの状態を確かめたい気を起こすまで我慢しろ。
それでも叫びたい気持ちは止まらなかった。二の腕に歯を食い込ませて耐えた。肌の塩気をなめ、天井の隙間にたまったわずかばかりの水滴を指にひたし、鉄臭い水をなめた。
そうこうするうちに、落ち着いてきた。
落ち着くと同時に、忘れていた尿意が甦ってきた。
座り込んで、いったい何時頃だろうと考えた。昼はすぎているような気がする。ミチルはどうしているだろう。目覚めてメモを読み、わたしが一時すぎから帰っていないことに気づく。怒るかもしれない。不安になるかもしれない。そうしたら、彼女は──あっ。
めまいを覚えた。
肝心なことを忘れていた。
辻亜寿美だ。
あんな時間に部屋を出るはめになったのはそもそも辻亜寿美のせいだったというのに、彼女について考慮していなかった。誰が一番わたしを襲いやすかったか。もちろん、辻亜寿美だ。娘を失った──かもしれない──女性が泣きながら電話をかけてくれば、誰だって少々の無理を押してでも会ってやろうと思う。あの電話は単純に、わたしを部屋からおびき出すために、かけられたものかもしれない。
しかし、なぜ?
どうして亜寿美がわたしを襲わねばならないのだろう。事件から手を引かせたければ、単純に、やっぱり気が変わったから手を引け、といえばすむだけの話だ。わたしは滝沢美和と水地佳奈の調査にしつこく食い下がっていたし、亜寿美のあの中途半端な依頼が取り下げられたとしても、調査をあきらめる気もなかった。それに、たとえわたしがあきらめたとしても、武蔵東署の速見刑事が動き始めている。
ただ、そのことを亜寿美は知らないはずだ。
辻亜寿美はわたしに話があると言っていた。泣いていた。あれはすべてまやかしだったのだろうか。
違うと思いたかった。否定材料を探した。そうだ、もし彼女が犯人なら、あの赤坂のマンションの部屋にわたしが到着するのを待って、それから襲えばいいのだ。
わたしは舌打ちした。いや、それはできない。あの高級マンションには警備員がいるし、監視カメラがある。わたしがマンションに入っていき、出てこなかったら不審を招く。あるいは駐車場の監視カメラに、運ばれていくわたしの姿が映るかもしれない。辻亜寿美犯人──あるいは共犯説は、否定できない。
考えはひとところをぐるぐる回っていた。眠気を催した。うつろな頭で考えた。以前から思いついていたこと、美和の誕生日パーティーの写真を見たときから、ミチルの話を聞いたときから怪しんでいたこと。
例の〈叔父〉は、辻亜寿美のパトロンで二八会の野中則夫なのではないか。
一センチほど開けられた、辻亜寿美の部屋のドア。わたしと電話で話す亜寿美のかたわらで息をひそめていた誰か。
野中則夫は少なくとも、柳瀬綾子と面識があった。あのパーティーの場で写真を撮ったのだから。美和の母親と親しくしているなら、美和と顔をあわせる機会も多かったはずだ。水地佳奈のことは、美和から聞かされていたのではないか。お母さんのお墓を建てたいと言ってる友達にお金を貸したいと思ってるんだけど、くらいの話はしたかもしれない。
仮に野中が、金を欲しがっていて誘いに乗りやすく、うるさい係累のいない若い女の子を探していたとすれば、水地佳奈はまさに条件ぴったりだ。実際には、佳奈には義母と腹違いの弟がいたわけだが、若い女の子が「お母さんの墓を建てたい」と言っていると聞けば、近しい親族すべてに死なれたように誤解しやすい。ミチルも佳奈に弟や義母がいることを知らなかったのだから、その事実を美和も綾子も知らなかったのだろう。
それに野中はミチルのアルバムを見ている。佳奈の顔を知っている。
滝沢美和は水地哲朗から〈ゲーム〉の話を聞かされ、それは佳奈が「友達の紹介だと聞かされた」バイトだと知って、顔色を変えた。美和もわたしと同じように、〈叔父〉が水地佳奈、柳瀬綾子、双方を知っていると気づき、野中則夫に思いあたった。〈ゲーム〉という言葉にも覚えがあったのかもしれない。
もうひとつ、辻亜寿美が野中則夫に経営権を奪われそうになっているという噂。所長が誰に聞いたのかは知らないが、美和の耳にその噂が入っていたとしたらどうだろう。彼女が正義感の強い少女だということは誰もが認めるところだし、佳奈の失踪の謎を解くことが母親を窮地に追い込んだ男を追いつめることにもなるとしたら、美和は絶対に躊躇しなかったはずだ。
身体が細かく震え始めていた。
ミチルのアルバムから「いつのまにか消え」た佳奈の写真……。
ミチルはあのメモを見て、それからどうしただろう。近くにいる光浦功に相談してくれ、と強く念じた。光浦なら、わたしが消えたこと、メモが残っていたことをすぐ長谷川所長に相談するだろう。だがもし、ミチルが直接、辻亜寿美のところへ問いつめに行ってしまったら──。
どうしたらいい。
ミチルになにかあったら。
自分は調子に乗っていたのだ。そのことを思い知って、口の苦い味が一段と濃くなった。世良松夫の祖母を罠にかけ、逆上させて追い払った。牛島潤太をたたきのめした。光浦の頼みもそつなくこなし、ミチルの内心の思いを吐き出させた。美和・佳奈失踪事件について辻亜寿美から再度依頼を引き出し、警察に情報を提供して、事件の様相を一変させた、それはわたし、一介のフリー調査員・葉村晶がやったことだ、どうだすごいだろう……。
わたしが本当にしなければならなかったのは、失踪事件について知り得た事実を整理し、いまやってのけたように、きちんと考えることだった。辻亜寿美からの電話の前に、彼女の背景をおさらいしておくべきだったのだ。
そうしていれば、わたしは深夜、やすやすと部屋を出たりはしなかった。出ても用心を怠らなかった。疲れていたとか、問題が次々降りかかってきて対応に追われていたなどということは、言い訳にはならない。わたしがここで死ぬだけなら、しかたがない、自分の未熟と傲慢の責任を自分でとるだけだ。
だが、ミチルは。
たとえ〈叔父〉が野中だとしても、わたしをここに閉じ込めたのは野中のしわざとは思えなかった。彼ならわたしを間違いなく殺したはずだ。他の誰か、もう誰でもいい、そいつの手にわたしが落ちたせいで、ミチルが辻亜寿美のところへ行き、その行動が野中の不安をかきたてたりしたら。いや、不安どころではない。ミチルは水地佳奈よりも、滝沢美和よりもかわいらしい女子高生だ。もし、野中のくそったれが手中に落ちたミチルによからぬ思いを抱いたりしたら。
立ち上がった。扉に寄った。叩いた、蹴った、怒鳴った。ここから出せとわめきちらした。
答えはなかった。
次に目覚めたとき、あたりは暗くなっていた。鼻をつままれてもわからない、真の闇だ。
風の音も、鳥の鳴き声も聞こえない。周囲にひとの気配はない。
寒かった。同時に熱っぽかった。
目を閉じても、開いても、暗い。
アンモニア臭と嘔吐物の酸っぱい臭いが鼻先をかすめた。さほど悪臭とも感じなかった。鼻が慣れてきたのかもしれない。そんな臭いのなかにいてすら、猛烈に腹がすき、食欲を感じていた。
犯人以外の誰も、わたしがここにいることを知らない。わたし自身すら、ここがどこかわからないのだ。
このまま放置されたとして、わたしが発見されるのはいつだろう。わたしがここに閉じ込められ、不安におびえながらすごしたことを、いつかみんなは知るのだろうか。そのときどんな思いを抱いたか、想像してみるのだろうか。
腐っていく死体。誰からも顧みられず、ただ存在を終えて──。
いやだ、そんなの、耐えられない。
気がつくともがいていた。闇に見えない両手を突き出し、見えない足をばたつかせ、息をすることさえ忘れ、なんでもいい、なにかを感じたくて自分の両腕をひっかいた。
手が、腕時計に触れた。
耳に押しあてた。規則正しい音が、鼓動のように耳の底に響いた。その音が、わたしを正気に戻らせた。
騒ぐんじゃない。騒いでもムダだ。かえって不利になる。
なにか、考えようと思った。柔らかいステーキとか、おいしいコーヒーとか、所長や村木たちと交わす皮肉混じりの会話の応酬ではなくて、別のなにか。
みのりはどうしているか。いまのわたしと同じように絶望と希望の縁で、ふらふら揺れているのだろうか。
いや──みのりのほうが、つらい思いをしているに決まっている。
いっそ死んだほうがいいと思うほど、つらい気持ちを抱いて眠れずにいる。
わたしは絶対、死ねない。こんなところで腐ってたまるか。
手探りで扉ににじり寄った。耳を扉に押しつけた。心のなかで犯人を呼んだ。
早く来い。わたしが死にかかっているか、恐怖におびえているか、見物にくればいい。
天井の隙間から差し込む光が弱かった。物音が聞こえ、わたしは起き直った。
雨が降っている。荷台の天井にぱらぱらと雨粒があたっている。
隙間に指を伸ばし、何度も水滴をなめとった。ほんの一口も飲んでいないはずなのに、冷えたせいか、また尿意を覚えた。尿毒症にかかるよりましだとわかっているし、二度目からはハードルが低くなっているはずだが、それでも我慢してそこらを歩きまわった。
硬く冷たい床に横になっていたのに、傷は昨日ほどは痛まない。痛みは全身に広がっている。ただ、背中だけは独自の存在を主張している。
雨のむこうに足音が聞こえないか、耳をすませた。ひとの存在を示す音であれば、やかましくてへたくそな音楽でも、生意気な小学生数百人のわめき声でも、違法改造の暴走車でも右翼の宣伝カーでもなんでもいい。
雨の音が落ちる場所によって音階を変え、乱れ、秩序だって、ぽつぽつ、ぴしゃぴしゃ、ざあっと、聞こえるだけだ。
音は、頭のなかに食い込んでくる。
何度となく、あれこそはひとの足音だと思った。そのたびに、わたしは扉を叩き、床を踏み鳴らした。
反応はない。
雨の音がする。それが笑い声になり、悲鳴になり、ささやきになる。誰かが扉の向こうで、わたしにささやいている。なにを言っているのか聞きとれない。耳を扉につける。叩く。叫ぶ。
返事はない。ただ、延々とささやき続けている。
ぶつぶつ、ぶつぶつ。
なに、なんて言ってるんだ。
怒鳴りかけて、わたしは我に返った。
違う、あれはひとの声じゃない。雨の音がそう聞こえるだけだ。希望的観測、いや、希望的妄想、幻聴だ。
違う、幻聴じゃない。誰かがわたしがここにいることを知っている。犯人が。彼が戻ってきたのだ。わたしの存在を確認しにきたんだ。
わたしの存在は無視できないはずだ。忘れられないはずだ。だから戻ってきたんだ。
扉に頬をつけ、待った。どれほど待っても、聞こえてくるのは雨の音、ささやき、呟き。
嘘だ、あれは幻聴なんかじゃない、誰かがいる。わたしが忘れられていいわけがない、そんなの間違ってる。だってわたしはここにいるんだから、間違いなくいるんだから。
扉と扉の間に、爪をねじ込んだ。隙間は爪をはじき出した。鋭い痛みが走って、わたしは自分の状態に気がついた。同時に、発作がわたしを襲った。血圧があがり、アドレナリンが一気に分泌され、鼓動がけたたましく早まった。必死に深呼吸を繰り返した。悪臭を肺の奥まで吸い込んで吐き、また吸い込んだ。
むせ返った。
トラックの奥まで床に尻をつけたまま後ずさり、倒れ込んだ。
考えろ。感じるな。頭だけ使って、心は動かすな。
そんなの無理だ。
無理じゃない、大丈夫だ。おまえには他にとりえもないじゃないか。
我慢するんだ。必ず、やつはやってくる。確かめにくる。
何度となく、眠っては目覚め、発作に襲われては倒れた。
いったいいまはいつで、あれからどれくらいたったのだろうと思った。
全身から、嫌な臭いが立ちのぼっている。腐臭だ。
頭といわず身体といわず、みごとなまでにべたついている。溶けかけているような感触さえある。
腕を見ようとした。見えなかった。暗闇のなかにいる。
手があると思ったのは、錯覚だろうか。身体があるというのも、勘違いかもしれない。
とっくに腐れ果てた死体のなかに、まだわたしの魂が残っていて、ハチミツに落ちた蠅のようにもがいている。
違う違う、冷静になれ。
わたしはゆっくりまばたきした。
大地震や建築物の崩落の下敷きになって、身動きもとれないまま助けを待つひとだっている。それに比べたら、わたしは恵まれている。雨水が飲める。窒息するわけでもない。身体を動かすゆとりもある。歩きまわることもできる。
しかし、そういう事故にあったひとたちは、いずれ救助がくると信じられたはずだ。わたしは──わたしは──
首を振った。わたしの読みが間違っていなければ、これは悪質な嫌がらせだ。絶対に誰かがわたしの様子を見にくる。救助しにくるわけではない。だから、そのときに正気を保っていなければならない。
闇のなかでストレッチをした。自分の荒い息づかいだけが聞こえる。立ち上がって、両手を振り回した。
絶対にあきらめたりするものか。生きのびてやる。ああ、でも──
ミチルになにかあったら。
全身が冷えきった。がくっと膝が折れた。誰も来ないのは、まさか、ミチルをとらえたから? それで手一杯だから?
落ち着け。
わたしは反射的に口に出した。声は闇に消えた。吸い込まれるように。
なにもかも吸い込まれて、消えてしまう。
がくがく震えながら、必死で探した。なんでもいい。正気を保たせてくれそうなもの、自分の支えになるもの。自分がここにいて、まだ生きていると気づかせてくれるもの。
自分の腕に爪を立てた。痛みを感じるはずだ。鋭い、はっきりした痛みを。
感じている。でも、それはどこか遠く、ぼんやりとした痛みだ。
指のつけねに噛みついた。顎に力をこめた。鈍い痛みが全身に広がっていく。だめだ、これでもだめ。痛みさえもが闇に吸い込まれていく。
気がつくと、再びもがき始めていた。時計、と思った。時計の秒針の音、鼓動に似たあの音。
急いで腕時計を耳に押し当てた。目をきつくつぶり、待った。
ずっと待った。待ち続けた。
全身の血が引いた。耳までおかしくなったのかと思った。
音がしない。なにも聞こえない。
嘘だ、そんなはずはない。時計が壊れたのか、いや、そうじゃない、電池が切れたのだ。電池を替えなきゃと思いつつ、そんな暇がなかったから。
本当に、そのせいか。
電池のせいじゃなく、ただわたしの聴覚が失われていて、聴覚だけでなく、あらゆるものすべてが失われていて、とっくにわたしの存在さえ失われている。
落ち着け、落ち着くんだ。腕時計のベルトをはずし、よく振ってみた。何度も何度も振っては耳に押しつけた。聞こえるはずだ、あの頼もしい、規則正しい──
振った手が滑り、腕時計がすっぽ抜けた。床がかん、と鳴って、それきり静かになった。
わたしはうなりながら闇のなかをはいまわった。ない、ない。手に触れるのは床の冷えきった、よそよそしい感触だけ。
ああ──
もう我慢ができなかった。わたしは扉があると思われる方向へ腕を伸ばし、よろめきながら歩いていった。距離感がつかめない。手をしたたかに壁に打ちつけた。
「開けろ、ここから出せ」
わたしは絶叫しながら壁を叩きつけた。
「出せってんだよ、卑怯者。早くここから出せ、扉を開けろ」
返事はない。なんの物音もしない。耳の底が痛むほどの静けさ。
「開けて、嫌だ、なんでもするから。お願い、助けて」
わたしは叫びながら息を飲んでいた。それだけは言わないつもりだった。その言葉だけはけっして口に出さないと覚悟したはずだったのに。
立っていられなかった。
しゃがみ込み、泣きじゃくりながらわたしは壁を叩き、叫び続けた。
「いやだ──お願い出して。ここから出して。もう許して、助けて、お願いだから」
どれほどの時間がたっただろう。
天井と壁の境目から、薄い光がさしこんでいた。
ぐったりと壁に頭をもたせかけたまま、動けずにいた。
わたしは自分が強い人間だと思い込んでいた。頭もいい、状況に対処する力を持っていると信じていた。
どうせなら、勘違いしたまま幸せに死にたかった。
情けなかった。みじめだった。無知と傲慢がもたらした災厄を甘んじて受けるしかない、そんなしょぼくれた存在を、それでも心配しているだろうひとたちにせめて詫びたかった。それもできない。
車の音がした。話し声も聞こえる。まだむなしい希望を捨てられず、幻聴を聞いてしまう自分を哀れんだ。
どすっという鈍い音がして、トラックが揺れた。わたしは目をしばたたいた。いまのも、妄想なのだろうか。
またひとの声がした。男の声と女の声。なにごとか話し合っている。
立ち上がった。力一杯扉を叩いた。叫んだ。助けを呼んだ。耳をすませた。
話し声がやみ、静けさが戻っている。わたしは歯を食いしばり、泣き出しかけた。
そのとき、扉がごんと鳴った。外側から。そしてぼやけてはいるが、声がした。
「おい、誰かいるのか」
わたしは耳を疑いながら、全身全霊をこめて叫んだ。
「お願い、助けて。閉じ込められて、出られないんです」
むこう側で、再び話し声がする。祈った。
やがて金属がこすれるような音がして、あっけなく扉が開いた。なにかの間違いではないか、なにかの罠ではないかとさえ思った。
目の底が鈍く痛み、涙が視界をかすませた。だが、まぎれもなく新鮮な外気を浴びて、わたしはこれが夢でないことを悟った。
荷台から転げ落ちるところを、がっしりした腕が支え、下に下ろしてくれた。湿った土の香りがする。へたりこんで目をこすり、周囲を見回した。中年の男女が仰天したようにわたしを見下ろしていた。
「あんた、いったいどうした。なにがあったんだい」
喉の奥に塊があって、思うように声が出ない。息もできない。あえぎながら、ようやく言った。
「ここ、は、どこですか」
女が男の腕をつかみ、その陰に隠れるようにしてわたしとトラックを見比べていた。
「銅ノ倉だけど」
「ど、銅ノ倉?」
「栃木の銅ノ倉。知らないのかい? いったいどうしてこんなところにいるんだい」
「誰かに連れてこられて、押し込められて──」
男のほうが、ひえーっと声をあげた。
「いつから?」
「二十日の午前二時頃、だと、思います」
男女は口を開けて顔を見合わせた。
「それじゃあ丸二日もこのなかに? ひでえな、いったい誰がそんな真似を」
「今日は、すると……」
「火曜日。二十二日の朝の五時だ。大丈夫か、立てるかい」
手を貸してくれた男が顔をそむけたのに気づいた。猛烈に臭っているのだろう。わたしはふたりから離れ、息をつきながら周囲を見回した。
薄汚い、およそ生気のない雑木林のなかだった。そこらじゅうに大量の粗大ゴミが散らばっている。わたしが閉じ込められていたトラックは、思った通りここに置き去りにされた廃車だった。四輪ともタイヤがなく、塗料が剥げ、へこみ、傾いている。
ふと見るとトラックの脇に冷蔵庫が転がっていた。使い古されたものだが、雨ざらしにはなっていない。わたしは救い主と、すぐそばに停められている黒いピックアップトラックをまじまじと見くらべた。
「警察に行かなくちゃならんかね」
男がおそるおそる、といった調子で言い出した。
「これってたぶん、事件だよな。やっぱり警察に行かなきゃだめかね」
やっかいなことに巻き込まれて、男の口調には迷惑がありありとにじみ出ていた。そりゃそうだろう。彼らは家電リサイクル法に身勝手な抵抗を試み、冷蔵庫を不法投棄しにきたのだから。こんな時間、こんな場所になにをしに来たか事情聴取されたら、ひどく困ったことになる。
身体の奥から、なにかがこみあげてきた。気がつくと、わたしはげらげらと笑い転げていた。
「ねえ、大丈夫」
女が不気味なものでも見るように、一歩後ずさりしながら言った。
「とりあえず、病院に行ったほうがいいんじゃないの?」
わたしは身体を二つ折りにしながら手を振った。発作がおさまるまで、救い主たちは辛抱強く待っていてくれた。
「警察は、いいです」
ようやく落ち着くと、わたしは涙を拭い、Tシャツの袖で鼻水をかんで言った。
「病院もたぶん、大丈夫です。友達に電話して迎えにきてもらいますから、近くの公衆電話まで連れていってもらえませんか。それで、あの、必ずお返ししますから、電話代を貸していただけないでしょうか」
「そりゃかまわんさ」
男女はほっとしたように顔を見合わせたが、すぐに気が咎めたように男が言った。
「だけど、あんたをここに押し込めたやつが、また襲ってきたりしないのかい。そうなったら目覚めも悪いしさ」
男は鼻をうごめかした。
「えーと、よければ家まで送っていってあげてもいいよ」
「そうだよ。かまわないから、乗っていきな」
ぶっきらぼうな女の言い方に、涸れたはずの涙が吹き出しかけた。わたしは首を振った。
「東京から来たんです。公衆電話まで、荷台に積んでいっていただければ、それで十分ですから」
「東京」
ふたりは異口同音に叫んだ。
「それがどうしてまた、こんなとこまで連れてこられたのかね」
「悪戯だったんだと思います。もう、むこうはわたしのことなど忘れてます、きっと。荷台にちょっと乗せていってもらえれば──」
「とんでもない、ひどい目にあったんだ。中にお乗りな」
押し問答の末、わたしは荷台に乗せられて、雑木林のなかのゴミ捨て場を離れた。公道からそう遠くない、四十メートルほど入った場所だった。そこを出ると田んぼが広がっていて、そのさらに向こう側は新興住宅地らしく、ぴかぴかの人家がたくさん見える。
元はバス停だったとおぼしき、掘っ建て小屋のような屋根のついたベンチがあって、その脇に緑色の公衆電話と自動販売機があった。そこで下ろしてもらった。
「本当に大丈夫かい? お友達が来るまで、一緒にいてあげようか」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございました」
女は首を振り、にかっと笑った。
「もう明るいから、悪さするやつもいないとは思うけどね。もうちっとすると、この道、東北自動車道に出る道でけっこう車も通るようになるから、なにかあったら大声出すんだよ」
「それじゃ、これ」
男が千円札を差し出した。わたしは礼を言って受け取り、名前と住所を紙に書いてもらえないかと頼んだ。彼らは首を振った。
「返してくれなくていいよ。使いなさい」
「でも……」
わたしは手のなかの千円札を見下ろした。数枚ある。
「これじゃ多すぎます。お言葉に甘えて、一枚だけ頂戴します」
「いいから、とっておきなさい。入り用になるかもしれないから」
これ以上会話を続ける元気はなかった。わたしはおじぎをして、命の恩人に名前を告げようとした。男は首を振った。
「いいよ、知らないほうが。それじゃあ、気をつけてな」
ピックアップトラックは走り去っていった。数えてみると、千円札は五枚あった。五千円もあれば冷蔵庫の引き取り代が払えたはずだ。再び笑いの発作に襲われそうになった。
自動販売機でスポーツ飲料を買い、お釣りを公衆電話に注ぎ込んだ。暗記している唯一の番号をプッシュした。長谷川所長はいつもの眠たげな声で応対した。
「なに、栃木? ボックストラックの荷台? まったく、どこへ消えたかと思えば」
「──申し訳ありません」
「とりあえず、その場から動くな。公衆電話の番号、読んでくれ。村木を迎えに行かせるから」
「ミチルは、平ミチルは無事ですか」
「他人の心配してる場合か。光浦が面倒みてくれてるよ。安心しろ。連絡しとくから」
なにごともなかったような言い方だった。ベンチに座ってスポーツドリンクをちびちびなめながら、おかしさと困惑を一度に感じていた。丸二日間。何十日も拷問に耐え抜く人間だっているというのに、わずか二日であっさりと負けた自分。
驚くべきことに、世界はごく平然と、そのまま変わらずにあるらしい。
二時間ほどたった頃、村木義弘の4WDが現れた。わたしを見るなり、村木の顔がこわばった。
「──おいおい」
「そんなに臭い?」
「そういう問題じゃない。まったく、なんのために警棒を貸してやったんだか」
「ああ、そうか。ごめん。持ち物全部とられちゃったみたいでさ」
村木はため息をついた。
「弁償するから勘弁してよ」
「いいから早く乗れ」
窓を開け、新聞紙を敷いて助手席に座った。狭い車内にわたしの発する臭いが充満し、涙が出るほどだった。窓を全開にし、身動きしないようにした。村木は黙って運転しながら時折横目でわたしを見ていたが、急にハンドルを切った。
「来るとき、二十四時間営業のラブホテルの看板を見たんだ。気になるんだろ。ひと風呂浴びて帰ればいい」
「やっぱ、臭いんだ」
「そりゃ少しは臭うが、あんたが気にしてるほどじゃない」
「いくらひどい目にあった同僚だからって、遠慮しなくていいよ。臭いのは自分でもわかってるから」
村木は舌打ちをした。
「周囲は敵だらけだっていうのに、真夜中無防備にほっつき歩いて、殴られて監禁されるようなバカに、誰が遠慮なんかするか」
うすら寒くなるほど派手なラブホテルに入った。一番安い部屋を選び、風呂場に直行した。鏡の前で服を脱ぎ捨てた。背中を見た。濃紺と紫と黄緑色が広がっている。
顔は見たくなかった。ひどいざまに決まっているからだ。
備えつけのシャンプーで盛大に泡をたて、全身くまなくこすりたててシャワーで流した。気のすむまで熱い湯を浴び、筋肉をほぐした。髪の水気を絞り、バスタオルを取りかけて、わたしは鼻を鳴らした。
まだ臭っている。
シャワーの下に戻り、シャンプーをたっぷりと髪にすり込んだ。耳のなかまでこすり、シャワーを浴びながら歯ブラシも使った。
それでも臭い。
洗い続けるうち、シャンプーの容器が空になった。壁に投げつけた。湯の下で腕をこすった。力一杯こすった。
「おい、葉村」
扉が細く開いて、村木の声がした。わたしはいらだたしげに答えた。
「なに」
「なにって、いつまで入ってんだ。もう一時間以上だぞ」
「臭いがとれないんだから、しょうがないでしょう。──ちょっと」
村木はずかずかとバスルームに入ってきた。わたしは慌ててバスタオルをひったくった。村木は遠慮もなく、立ちすくんだわたしの髪をつかんで、臭いをかいだ。
「臭すぎるぜ」
「だから、言ったじゃないの」
涙が出てきた。村木は離れて、腕を組んだ。
「ちがう。シャンプー臭すぎるって言ったんだ」
「気を使ってくれなくても……」
「その腕、見てみろ。自分の腕」
見た。すりむけて、うっすらと血が流れていた。
「幻臭だよ。あんたの気のせいだ。わかったらさっさとあがれ。ただでさえ体力を消耗してるときに長風呂なんかしてみろ、心臓止まっちまうぞ」
村木は顔をそむけて出ていったが、すぐに戻ってきて脱衣かごを中に入れた。
「着替えだよ。俺のTシャツと短パン。洗ってあるから我慢して着るんだな。それから下着買っといてやったぞ。おまえ、靴下は?」
「聞くな、そんなこと」
怒鳴り返してシャワーを止めた。急いで着替えた。髪を拭きながら外へ出た。村木はベッドにひっくり返って煙草を吸っていたが、わたしを見ると起き直り、腕を消毒して薬を塗ってくれた。村木の指の感触に、ある衝動が起こった。それを押さえ込むために、ほとんど干あがってしまった忍耐すべてを費やした。
「他に怪我してるとこ、ないか」
村木はわたしの目を見ようとせずに、そう訊いた。
「だ──大丈夫。あざが残ってるけど、それだけ」
「これ、飲んどけ。効くぞ。少なくとも、効くと書いてある」
よく冷えた壜を受け取って、金色と赤で彩られたラベルを見た。〈中国四千年幻の薬草配合・大蛇伝説・銀河を越えるぜ激烈パワー〉などと書いてある。
「笑うんじゃない」
村木は渋面を作ったが、唇の端がぴくついていた。
「とりあえず、東京までもってもらわないと困るんだからな」
「銀河を越えられるんだから、東京なんて軽いよ」
飢餓を体験した後ならどんなものでも美味に感じられると思っていたのだが、〈大蛇伝説〉はひどかった。一口なめて吐き気を催し、なんとか二口だけすすった。からっぽの身体をこれ以上刺激したくはなかったので、それでやめておいた。
キャッチコピーほどではないにしろ、効果はあった。帰り道、どろどろに疲れているのに、わたしの目はぱっちりと見開かれたままだった。
ミチルと光浦功は熱烈にわたしを出迎え、思いきり甘やかしてくれた。熱いスープを飲まされ、お粥を与えられ、毛布でぐるぐる巻きにされて足湯を使わされ、頭まで撫でてもらった。おいてけぼりにされた後、数百キロ歩いて元の飼い主一家を捜しあてた犬みたいな気分になった。
目覚めてわたしがいなくなったことや残されたメモに気づいたミチルは、なにかの事情で帰宅が遅くなっているのだと思い、近くの店に朝ご飯の買い出しに行ったそうだ。そこで光浦と出くわして、事情を説明した。
「アタシ、おかしいってすぐに思ったわけよ」
光浦はわたしのキッチンをわが物顔で使いつつ、得意げだった。
「葉村ちゃんが連絡もなしに、朝まで帰ってこないなんてヘンだって。朝ったって、もう昼近かったしね。ミチルちゃんはメモに残っていた、辻とかいうおばさんのとこへ行くって言い張ったんだけど、それはやめといたほうがいいわって止めたの。そのおばさんに葉村ちゃんが捕まってたらどうする気って。だから長谷川のオジ様に連絡したの。長谷川さん、びっくりしてたみたいだけど、その辻っておばさんに直接聞いてくれて、でもって、そこんちに葉村ちゃんが着いてないことがわかったわけよ」
「美和のママ、葉村さんが来ないって怒ってたよ」
ミチルが顎をつき出した。
「大喧嘩しちゃったよ。てっきり嘘だと思ったんだもん。だけど、所長さんが警備会社経由で調べたら、美和のママのマンションには絶対に葉村さんは出入りしてないってわかって大騒ぎになってさ。一昨日と昨日、ずっと探してたんだ、みんなで」
感謝を表明するどころか、自己嫌悪が深まっただけだった。わたしは黙ってうなずいた。村木が話題を変えた。
「で、いったい誰にやられたんだ」
「背後から襲われたから、相手の顔は見てない。けど──」
わたしは閉じ込められている間中、考えていたことを順序だてて説明した。
話を聞き終わると、村木はうなり、ミチルはすっとんきょうな声をあげた。
「野中のおっさんが? 佳奈と美和を? 嘘だろ」
「筋は通るが、いまいち説得力がないな。そもそも〈叔父〉が犯人かどうかもわかっていないし、その野中が犯人だとして、どうして葉村を殺さなかったんだ?」
「どうしてわたしを殺さなかったかはわからない。わたしの知ってるかぎり、二日間、誰も様子を見にきたりしなかったから、最初の考えが間違ってたのかもしれない。つまり、楽しみで閉じ込めたわけじゃなかったのかも」
「もしくは、すっかり参っちまうのを待って登場する気だったのか」
村木は言い放ち、光浦が顔をしかめた。
「いやあねえ、あんたたち。いつもそういう会話してんの?」
「他の容疑者をはずした理由が、他にあるのか」
村木は光浦を無視して続けた。わたしはうなずいた。
「後で思い出したことなんだけど、踏切を渡ったところで背中殴られて、勢いでわたし、停車中の車のサイドガラスに顔をぶつけたんだよね。暗かったし、どんな車かはっきり覚えてるわけじゃないんだけど、白かったのだけは確か。そこへ立ったまま顔をぶつけたということは、ある程度の車高のある車ということになる。つまり」
「〈叔父〉が佳奈の引っ越しに使った白いライトバンか」
村木は顎を撫でた。
「なるほどね。いくら深夜といったって、都会の住宅街だ。とんでもない時間にうろつく人間は少なくない。となると、自分の車の近くで襲撃し、即座に中へ放り込んでしまう、というのが目撃されないためにもいいね。だけどずいぶん都合のいい場所に駐車できたもんだな」
「あの時間、赤坂まで行くにはタクシーを使うしかないし、タクシーを拾うためには山手通りまで出る必要がある。坂を登って東中野駅の方面へ出るという方法もあるけど、〈叔父〉たちがわたしを見張っていたとすれば、足を痛めていることにも気づいてたろうし、だからわたしが坂を登る確率は低いと踏めるでしょう。なおかつ、明るくて安全でいかにも女性が歩きそうな道で、悲鳴が聞こえても住民が起きてくるのに時間がかかる──あそこは絶好のポイントよ。偶然じゃない」
「下調べしてたってのか」
「わたしを襲撃するための下調べだったかどうかは知らない。でも、少なくとも何度かうちの周囲を調べたと思う。ライトバンの停車していた場所に一番近い家、玄関先に三輪車が置いてあるんだよね。小さな子どものいる家、だからたぶん、宵っ張りはいなさそうだ、それくらいの見当はつけたと思う。土曜日の深夜だから、平日よりも夜更かししてるひとが多いわけだし、危険度は高いでしょう」
ミチルは黙って話を聞いていたが、唇をとがらせた。
「だけどさあ、白いライトバンなんてそこら中にいるよ。偶然じゃねーの?」
あやうく、ガキはすっこんでろ、と言いかけた。いちいちつまらない質問に答えたくなかった。いらいらする。
「葉村はわかった範囲のことを言ってるんだ。偶然の可能性もおり込み済みだ。素人に言われるまでもないんだよ」
村木がミチルをたしなめた。すかさず光浦がショウガ湯をわたしの鼻先につき出した。
「ほら。これも飲みなさい」
「もう、おなかがぼがぼ」
「医者を呼んどいたんだけどね」
光浦はわたしの抗議など歯牙にもかけなかった。
「注射の一本くらい打ったって、害にはならないでしょ。すぐ来るようにって言ったんだけど──遅いわねえ。なにやってんのかしら、あのヤブ医者」
たちどころに影がさして、医者がドアをノックした。背の高い、痩せこけた、無愛想きわまりない年寄りで、光浦が形容詞たっぷりに宣伝したわたしの災難を聞いても、眉ひとつ動かさなかった。
「これは病人じゃない。すぐ来いというから、どんなケースに出会えるか、楽しみにしとったのに」
「いいから、元気が出そうなやつ、ぶちかましてやってよ。来月の家賃、二割引きにしといてあげるから」
「恐ろしいことを言うな。元気より休養が先だ。三日くらい眠らせてやろう」
診療鞄をごそごそと探り出したので、わたしは飛び上がった。
「待ってください。まだ、やらなくちゃならないことがあるんです。眠っているわけにはいかないんです」
医者は鼻を鳴らし、それならとにかく診療させろと言った。否も応もない勢いで、眠り薬をあきらめさせるためには、他に方法はなかった。光浦と村木を追い出すと、医者は打ち身の具合を調べ、軽蔑したように言った。
「湿布をやろう。痛みはやわらぐはずだ。それから、栄養剤を打っといてやる」
「ホントに栄養剤なんでしょうね」
「文句を言うなら、永遠に眠らせてやろうか。まだ人体に試したことのない薬がたくさんあるんだ。人類の未来に役立ちたかろう」
光浦の店子だけあって、とんでもない医者だ。
手際よく注射を打つと、医者はむっつりと帰っていった。ミチルに手伝ってもらい、背中と首筋に湿布を貼った。ついでに足湯でかいた汗で湿っぽくなった村木のTシャツを脱いで、自分のスウェットに着替えた。
「わたしがいない間、光浦の家にいたの?」
「うん」
ミチルはうなずいた。
「光浦さんが、二階の鍵付きの部屋貸してくれるって言ったんだ。鍵があろうがなかろうが、アタシは女の子に興味ないけど、あんたはそのほうが安心でしょって。いいひとだね、あのひと」
「家に連絡は?」
「約束だから、毎日してる。葉村さんのことは言ってないけど。無事に戻ってきたから、またここに居候続けさせてもらうね」
「申し訳ないけど」
わたしは吐き気をこらえて言った。
「しばらく、ひとりにさせてもらえない?」
ミチルの笑顔が凍りついた。
「どういう意味だよ、それ」
「あんたがどうこういうんじゃないの。ただ、わたしが──疲れすぎてて、下手な気を使う根性がないってだけ」
「気なんか使う必要ないじゃん。葉村さんの家なんだからさ。好き勝手してればいいじゃん」
「人間がふたりいれば、まったく気を使わないなんて不可能なんだよ。ねえ、もし、いまの仕事が片づいて、わたしが元気を取り戻せたら、そのときには戻ってきてもいいよ。だけど、いまはダメ。考えただけで耐えられそうもない」
「どうしてさ」
どうしてどうしてどうして。わたしのなかでなにかが切れた。
「自分のことだけで手一杯だって言ってるでしょ。あんたのお守りまでできない。自分の身さえ守れなかったのに、あんたの心配までしたくない。悪いことは言わない。しばらく我慢して家に戻りなさい。そのほうが、少なくとも安全なんだから」
「また、誰かが葉村さんを襲うと思ってんの」
「わからない。わかんないけど、そういうことが起こり得るだろうって考えるだけで、たまんないんだ」
「ひとりよりふたりのほうが安全かもしれないよ。ねえ、約束したじゃん。しばらくここに置いてくれるってさ。約束破るなんて卑怯だよ」
「あんた、学校は?」
ミチルははっとしてそっぽをむいた。
「──今日は開校記念日なんだ」
「嘘つきなさい。学校へは行く約束だよ。それを破っといて、わたしにだけ約束を守らせようっての」
「しかたないだろ。だって、緊急事態だったんだからさ。長谷川所長さんにも葉村さんと一緒に聞いた話を伝えたりして、あたしだって役に立ったんだから。邪魔だけしてるわけじゃないよ。ホントだよ。だからさあ」
「ともかく」
吐き気がひどくなり、めまいまで起きてきた。
「ひとりにして。どう説明していいかわからないけど、しばらくひとりでいたいし、いなきゃならないんだから」
「あたしが葉村さんを助けてあげるよ」
ミチルは小さな声で言った。わたしは反射的に言い返していた。
「よしてよ。そんなことできるわけないくせに」
ミチルはしばらくぽかんとしていたが、やがて立ち上がった。
「なんだよ」
怒りで顔をひきつらせている。
「バカじゃねえの。えらっそうに。たった二日ばかり閉じ込められてただけで、しょぼくれちゃってさ。あーあ、見損なったよ。あんたなんか、自分はなんでもできますって顔してるけど、ホントはただの見かけ倒しじゃねーか。ちぇっ、なんだよ。つまんねー女。あんたなんかとかかわって、期待しただけ損だった。無駄だったよ」
ミチルはパンツのポケットから鍵を出して、わたしに投げつけた。
「返すよ、こんなもん。出てけばいいんだろ、出てけば。あんたなんか、一生ひとりで寂しく暮らしてろ」
部屋中が揺れるほどの勢いでドアを叩きつけて、ミチルは出ていった。
悪夢に目覚めると、西側の窓から赤みを帯びた光がさしこんでいた。その光をまともに受け、まぶしそうに眉を寄せていた村木が振り返った。
「よう」
いつベッドに横になったのか、まるで覚えがない。起き上がり、村木に聞いた。
「いま何時?」
「五時すぎ。よく寝てたな」
「寝るつもりなんかなかったのに、急に意識が……あっ、まさかあの医者」
「文句言うなよ。目覚められるだけましじゃないか」
これには一言もなかった。
「村木さん、ずっとここに?」
「所長に頼まれてるからな。しばらくついててやってくれって」
冗談じゃないと思ったが、それについては後で話せばいいだろう。八時間も無駄にしてしまったのだ、状況の整理が先だ。
またシャワーを浴び、麦茶をがぶ飲みした。後で胃が痛くなるとわかっていたが、我慢できなかった。冷たい液体が大量に喉を通っていく快感は、なにものにも代えがたい。
「わたしがいなくなったこと、まさか武蔵東署の速見さんや柴田なんかにも話したんじゃないでしょうね」
「それが、葉村の荷物が警察署に届けられてたんだ」
長谷川所長のことだから、わたしがいなくなった途端に遺失物の手配くらいはするだろうと思っていたが、まさか本当に見つかっていようとは。
「いつ。どこに」
「日曜日の夕方頃、北区の小学生が交番に届けていた。公園の植えこみに落ちていたそうだ。本人が出向かないと受け取れないが、警棒はともかく、携帯電話や財布なんか、ほとんど無事のようだ。それから、もうひとつ」
村木は額をばりばりと掻いた。
「今朝、栃木の警察に匿名の電話があった。女性がひとり、銅ノ倉の近くの雑木林のなかのゴミ捨て場のトラックに閉じ込められている。行って出してやったらどうだ、という内容の電話だったそうだ」
わたしは息を飲んだ。村木は顔をしかめた。
「犯人はいったい、どういうつもりだったんだろうな。少なくとも、葉村を殺す気ではなかったということになるが、それじゃあなぜ、葉村を閉じ込めたりしたんだろう」
それはわたしが知りたい。
「辻亜寿美に連絡をつけたいんだけど」
考えた末に、次の行動を決めた。
「彼女、いまどこかしら。まだ店にいるの?」
村木は黙っていた。奇妙な緊張を感じて、わたしはグラスを下に置いた。
「辻亜寿美に──なにかあった?」
「あった」
村木は言い、テーブルをまわってわたしのほうへやってきた。
「彼女は自殺した」
言葉が出なかった。村木は顔をそむけて早口になった。
「死んだのは日曜日の深夜、葉村がまだ荷台に閉じ込められていたときだ。睡眠薬を大量に飲んで、風呂場で手首を切った。発見が遅くて、間に合わなかった」
「どうして──」
「詳しいことは俺もまだ知らない。所長が手をまわして調べてるところだ。なにかわかれば連絡をくれるだろう。──おい、大丈夫か」
両手でテーブルの縁をつかんだ。村木が肩を押さえてくれた。
「話したくはなかったが、知らせないわけにもいかなかったんでね」
辻亜寿美がくれた最後の電話。あのすすり泣き。
くそっ。
テーブルのグラスが小刻みに震えていた。わたしも揺れ、それにつれて村木の腕までが震えている。
「おまえ、例によって自分のせいにしようとしてるだろ」
村木がわたしの耳元で言った。
「葉村のせいじゃない。たとえ、早く駆けつけても間に合わなかった。辻亜寿美がなにを抱えこんでいたのか知らないが、赤の他人の葉村が代わりに背負ってやることはできなかった」
村木の手が温かかった。その温かみは救いだったが、同時に危険だった。彼から離れ、テーブルの反対側の椅子に座ってひじをついた。深呼吸した。考えた。
「──所長から聞いたんだけど、野中則夫は辻亜寿美の宝石店の一切合切が銀行に渡るようにお膳立てしてたとか」
「そういう話だな」
村木はわたしの正面の椅子に腰を下ろした。
「返済期限は一年で、銀行に金を借りたのは約一年前だと聞いてる──あっ、そうか」
「もしかして、こういうことだったんじゃないかな。土曜日の夜、辻亜寿美がわたしに会いたいと言ってきたのは、返済の期日が月曜日だったから。土曜日の深夜には、辻亜寿美は金策をしつくし、ついに野中則夫に引導を渡された」
「返済日時を調べる必要があるな」
村木はあくまで冷静だった。わたしは続けた。
「亜寿美がわたしに美和の調査の続行を頼んだのは、金曜日の夜で、そのとき彼女のそばには誰かがいた。たぶん、野中則夫が」
「ふん」
「亜寿美としては、愛人でもあり、店の経営の中枢にいて、しかも銀行との橋渡し役だった野中がまさか自分を裏切っているなんて、なかなか考えられなかったと思うのよね。野中だって、最後の最後まで亜寿美にはそんなそぶりをみせなかっただろうし。まかり間違って、亜寿美が金を用意してしまっては困るから。例えば、滝沢喜代志なら、辛抱強く説得するなりおだてるなりすれば、金を出すかもしれないもの」
「まあ、そうかもしれないな。だが、それが亜寿美の自殺につながっているとして──失踪事件とはどう結びつく?」
「だから、亜寿美は土曜日の深夜にわたしを呼び出したのよ」
わたしは立ち上がってキッチンを歩きまわった。
「金曜日に、わたしは亜寿美と電話で話した。そのとき、亜寿美さんはこんなことを言った。『美和は麻薬の売人に殺されたって彼──警察が、言っていたわ』」
「その彼とはすなわち、野中則夫か」
「でね。わたしはその考えはおかしいと指摘したのよ。亜寿美はしばらく背後の人物と話し合ったうえ、まずは調査をやめろと言い、しかしお願いしますと叫んだ」
「いったい、なにが言いたいんだ」
村木が煙草をくわえ、わたしは食器棚から灰皿を出した。
「その時点で、亜寿美はまだ野中サイドだった。生殺与奪を野中に握られていたようなものだから、おかしいと思っても抵抗できなかったのかもしれない。けれど、土曜日の深夜、亜寿美は野中から突き放され、同時にこれまで故意に目をそむけてきた疑いが一気に噴き出してきた。美和の失踪に、野中が絡んでいるのではないかという疑いが」
「もしそうであれば、その情報は野中則夫への切り札になるな。娘の失踪との関連を暴き立てられたくなかったら、銀行へ返済を伸ばすように話をつけろ、あるいは返済金をおまえが用立てろ、と脅すことができる」
わたしは少しためらった。村木の言っていることは正しい。だが、まるで亜寿美が店を娘より大切にしているように受け取れる。
亜寿美は娘と店と、両方失うのに耐えられなかったのだ。そのふたつが彼女のすべてなのだから。娘の生死や行方を、脅迫の材料に使えるかどうかというだけで知ろうとしていたわけではない。
そう、思いたい。
「ともかく、亜寿美が土曜の深夜わたしを呼び出したのは、野中を追いつめる材料を手に入れ、美和の居所をつきとめるためだった。実際その段階で、この失踪事件に綾子と佳奈双方を知っている人物が関わっていることがわかっていたわけだし、わたしたちが会って情報交換していれば、事件は一挙に解決して──いたかもしれない」
「だが、葉村は拉致監禁され、亜寿美と話し合うことはできなかった」
「わたし、亜寿美さんに言ったのよ。せめてあと三日、調査させてくれって。野中はその会話を聞いて危機感を募らせたんじゃないかと思う。宝石店が手中に落ちる前に、わたしと亜寿美に会われては困るでしょう。だからわたしを閉じ込めて──」
「あれ。ちょっと待てよ」
村木は根元まで吸いつくした煙草を灰皿に落とした。
「そいつはおかしいな」
「どこがよ」
「野中と失踪事件が結びついていると知れれば、野中の立場は危うくなる」
「もちろん。だから……」
「宝石店を手に入れる前だろうと後だろうと、失踪事件の関係者として目をつけられたらヤバいのにかわりはない。そうだろ?」
その通りだ。わたしは抜け道を探した。
「野中はわたしがどこまで自分に迫っているか、知らなかったんじゃないかな。殺すほどのこともないと思ったんじゃない?」
「ふたりも女の子を──おそらくは殺しておいて、葉村だけ助けたとでも? そんなおめでたいやつなのか、野中則夫という男は」
「わたしがすでにトラックから逃げ出していたことを知って、殺意があったと思われないために警察に電話を入れておいたとか」
村木は次の煙草に火をつけ、わたしにも一本くれた。
「落ち着いて考え直してみる必要があるとは思わないか。──監禁事件はひとまず措くとして、失踪事件のほうだけ考えてみろよ。葉村が野中則夫を疑っているその根拠はなんだ? 野中が滝沢美和の身近にいたこと、おそらく佳奈と綾子の双方を知っていたこと。〈叔父〉の背格好が野中にも当てはまること。それだけだ」
わたしは久しぶりの一服にくらくらしながら、必死に考えた。
「うーん。それはその通りなんだけど」
「だけど?」
「なにか、もうひとつふたつ、野中を疑う根拠があったと思う」
「思うってだけじゃなあ」
「それはそうなんだけど、絶対なにかあったよ。それがなんだか思い出せないけど」
頭を抱え込んだとき、村木の携帯が鳴った。村木はしばらく話していた。
「所長からだったよ。葉村を襲ったのは、野中じゃなさそうだ」
「どういうこと?」
「アリバイあり。土曜日の夜から、滝沢喜代志その他の二八会メンバーや家族と一緒に、メンバーの別荘のある軽井沢に出かけてた。月曜日の朝、辻亜寿美の訃報が入って、引きあげてきたようだが」
わたしは椅子にへたりこんだ。
「葉村の襲撃が野中の仕業ではなかったとなると、失踪事件との関連を裏づけるのはますます難しくなるな。一度、野中を容疑からはずしてみたらどうだ?」
それはできなかった。なぜだか自分でもわからない。だが、美和と佳奈の失踪には、絶対に野中がかんでいる。
自分でも不思議なほど、そんな確信があった。
所長から武蔵東署の速見刑事に連絡して、野中則夫の写真を水地佳奈のマンションの管理人と不動産屋に見てもらうことにした。わたしがいなかった二日間、速見刑事はちゃくちゃくと捜査を進めていた──と言いたいところだが、佳奈が完全に姿を消したと確認しただけだった。速見からの連絡もあって、葉崎警察署は水地佳奈の捜索願をたんなる家出人ではない扱いにし、水地哲朗などからも事情を聞いたらしいが、かんじんの〈ゲーム〉がなにを意味し、誰が絡んでいるのかは相変わらず不明のままだった。
所長は野中則夫の身辺調査も行なったが、いまのところ、野中の女関係であがったのは辻亜寿美のみ。夜ごと女子高生を買いあさっているとか、乱交パーティーにはまっているとか、そういった話はいっさい出てこない、という。
わたしを襲撃した──かもしれない──他の容疑者たちについても、はっきりしなかった。世良松夫の祖母は興奮のあまり持病の心臓病が悪化し、あの後、新宿西警察署から救急車で病院に搬送され、いまだ入院中とのこと。牛島潤太は家に閉じこもっていたというし、平貴美子も同じらしい。世良の祖母が病院から〈襲撃屋〉を雇ったかどうか、牛島と貴美子が本当に家から出ていないのかどうか、いずれもさだかではない。
わたしは村木の車で北区の警察署へ赴き、ポシェットを取り戻した。警棒以外の中身はすべて、小銭にいたるまで無事だった。事件のノートを大きなバッグに入れたままにしておいて幸いだったのかもしれない。あれを読まれていたら、わたしは殺されていた。たぶん。
「だからさ。野中則夫は脇によけとけよ」
村木が運転席でうんざりしたように言った。
「ひとつの手掛かりに執着すると、他のを見落とすことになるぞ」
長谷川探偵調査所のオフィスで所長が待っていた。所長はわたしを上から下まで眺め回し、にやっと笑った。
「まったくまあ、葉村も忙しい女だな」
「ご心配をおかけしました」
「これも一応、仕事になったからな」
所長はデスクに積もった書類の山の、一番上に載っていた封筒をぽんと放ってよこした。わたしはデスクに近寄らないように腕を伸ばし、封筒をとった。
「昨日の夕方、届いた」
差出人は辻亜寿美だった。封筒はパッキングの入ったタイプで、中に箱の跡がある。
「中身は金庫に入れてあるよ。貴金属だ。手元に現金がないので、これを調査料にしてくださいと書いてあった。さすが本職の持ち物だな。闇で売っても数百万はするだろう」
わたしあての手紙が封筒にへばりついていた。読んだ。
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私は死にます。
ひょっとすると葉村さんのことだから、もうご存知かもしれませんね。私が野中則夫に騙されていたことを。土曜日の夜、電話ではっきりと言い渡されました。彼は私に店の経営を任された最初から、いずれはすべてを巻き上げるつもりだったのです……
[#ここで字下げ終わり]
わたしと村木が想像したとおりのことが、めんめんと綴られていた。亜寿美はまんまと野中則夫の手に引っかかり、結局すべてを失うことになったわけだ。
美和の失踪と野中について、彼女は疑ってもみなかった。というより、疑いたくなかったのだろう。だが、いったん野中の正体を知った後、いろいろ考えあわせると、思いあたることがいくつかあった。
美和が野中になにかしつこく問いただしていたこと。野中は当初、逃げ腰だったが、後には美和とひそひそ話し込んでいたこと。わたしが亜寿美宅を訪れたあの日、やはり野中は隣室にいて一部始終を聞いており、亜寿美に調査をやめるように言ったこと。
そこまで読んで、わたしは失望した。これでは野中への疑いの合理的な根拠とはとてもいえない。
手紙の最後に思いがけない記述があった。
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──私は考えました。考えに考えぬいた結果、ひとつの方法を思いつきました。野中に復讐すると同時に美和の居所をあきらかにするための方法を。
他に道もないので、実行することにしました。
葉村さん。あとはお任せします。
[#ここで字下げ終わり]
「これはいったい、どういうことですかね」
わたしは所長に尋ねた。所長は肩をすくめた。
「辻亜寿美の宝石店は会社組織になっているわけじゃない、つまり彼女個人の持ち物ということになる。銀行が金を貸した相手は、おそらく辻亜寿美本人だろう」
「だから?」
所長は太った猫のような顔に笑みを浮かべた。
「返済期限より前に、亜寿美が死んでしまったら、借金や店舗や商品在庫はどうなると思う?」
わたしは手を打った。
「そうか。娘の美和が相続することになるわけだ。でも、その美和は失踪中で──」
「生死不明。相続手続きもとれない」
「もし、野中則夫が滝沢美和の失踪に関わっているとしたら、彼女の居所がわかっているとしたら」
「生きている彼女、もしくは死体を引っ張り出さなきゃならなくなる」
村木がしめくくり、所長に小首をかしげてみせた。所長はえへん、と咳払いした。
「もちろん、ぬかりはない。すでに東都に頼んで桜井他数人を貸してもらい、徹底的に野中則夫を張らせてる。実はな」
所長は一枚の紙を取り出した。
「野中則夫の会社も、同じ銀行から多額の融資を受けているんだ。その銀行の貸し付け担当重役ってのが、例の二八会メンバーのひとりでね。たぶん、野中はこいつと組んで、辻亜寿美をはめたんだろう。自分の借金を減らすために」
だが、それは亜寿美の自殺のおかげで、土壇場になって宙に浮いた。野中は焦っているはずだ。
「動きますかね、野中則夫」
「動くと思う。ただ、どう動くかは謎だがね」
「明日の朝、直接野中に会おうと思うんです」
所長はソファにどかっと座り込み、目を細くした。
「やっこさんを煽ろうってのか」
「辻亜寿美の葬儀はどうなってるんですか」
「葬儀はしない。遺体は滝沢喜代志が引き取ったそうだ」
「滝沢喜代志が?」
別れた亭主がなんでまた。
「亜寿美には音信不通の叔母がひとりいるだけで、他に身内はいないからな。遺体は司法解剖の後、滝沢の屋敷に送られた。明日には荼毘《だび》に付されるだろう」
「司法解剖?」
「なんせ、遺書のない不審死だからな」
わたしは亜寿美の手紙と所長を見比べた。長谷川所長の憤りを感じた。てんからの怠け者で、この長谷川探偵調査所の経営すら面倒がっている所長の、精一杯の嫌がらせだ。
わたしはそれにはふれずに別の質問をした。
「どうして明日、荼毘に付されるとわかったんです?」
「滝沢が明日の十一時に武州の火葬場を予約してる。武蔵東署の速見が辻亜寿美の自殺に興味をしめしていてな。いまここでわかっていることは、全部あいつの耳にも入るってことをわきまえといてくれよ」
速見〈お粗末〉刑事に不満はないが、野中則夫を途中で持っていかれたくはなかった。わたしは顔をしかめた。
「明日の朝、野中もその火葬場に行きますかね」
「どういうわけか、行くと言っているんだな、これが」
明日の行動を決め、三人で食事をとった。まともな固形物を食べるのは久しぶりだったので、顎がしびれるほどよく噛んで食べた。その後、わたしは村木の車で部屋に帰り、帰る途上で買い物をし──携帯用の消臭剤だ──すぐ光浦宅へ出向いた。案の定、ミチルは彼の家にいた。
「なんか、ずいぶん派手に喧嘩しちゃったみたいじゃないの」
光浦はピンクのつっかけをはいて出てくると、玄関先でひそひそとささやいた。
「あのコ、葉村さんには失望したとか言って、ずいぶん荒れてるわよ」
「ご迷惑をおかけします」
「いえ、うちはいいのよ。あのコ、便利なんだもん。力仕事は任せられるし、計算も得意だし。いまね、うちの税金の前納の書類、見直してもらってるとこなの。だけど、あれほど葉村ちゃんにべったりだったのに、どうしちゃったのよ、いったい」
「本性を見たり、ってとこなんじゃないかな」
「ふうん。見られて困るような本性でもないと思ってたけどねえ」
わたしもつい数日前まではそう思い込んでいた。
「いまやってる事件が片づき次第、ミチルともきちんと話し合って、なんとかする。すみませんが、それまで預かっていただいてかまいませんでしょうか」
「おえっ」
光浦は陽気に吐く真似をした。
「葉村ちゃんにすみません、とか、かまいませんでしょうか、なんて言われるとキモチ悪くなるわ。いいわよ、うちは全然かまわない。安心してちょうだい」
礼を言って部屋へ戻った。平貴美子がこのことを知ったら大騒ぎになるのは目に見えていた。ミチルの両親にも連絡をしておきたかったが、やめておくことにした。
あれやこれやで、すでに十一時をすぎていた。村木はあくびを噛み殺していた。
「朝早くから遅くまでつきあわせて悪かったね、村木さん。わたしならもう大丈夫だから、帰って寝たら?」
村木は驚いたように顔をこすりあげた。
「俺ならいっこうにかまわんぜ。今晩くらい一緒にいてやるよ」
「せっかくだけど、今晩くらいひとりでいないと」
説明したくなかったが、村木はなにかを察したらしく、渋い顔になった。
「たまに誰かに助けてもらったって、別に罰《ばち》は当たらないと思うがね」
「ダメ」
反射的に叫んだ。自分でも驚いて、わたしはしどろもどろになった。
「つまり……とにかく、もう十分助けてもらったし、この先ずっと、誰かにとりすがってるわけにもいかないし……だから、その……」
「ま、葉村がそう言うなら、俺は出ていくよ」
村木は素っ気なく答え、テーブルの上に置きっぱなしになっていた煙草をとりあげてジャケットにねじ込んだ。
「……ごめん」
「別に謝ることはない。気持ちはわかるからな。だけど、これだけははっきり言っとく」
村木のこわばった顔をまともに見られずに下をむいた。彼は靴を履き、振り返った。
「葉村、おまえな」
わたしは身構えた。村木は宣誓するように右手をあげ、厳《おごそ》かに言った。
「──もう、臭ってないよ」
村木が出ていくと、なぜか激しい空腹を覚えた。夜道が怖くなかったわけではないが、しばらくすると、その飢餓感は耐えがたいものになってきた。もたもたしていて、もっと遅い時間になるよりはましだ、そう言い訳をして財布を持ち、部屋を出た。階段を駆け下り、足が地面についた途端、対人センサー付警戒ライトが消えた。
視界が暗転した。次の瞬間、いきなり脈拍が早まった。口のなかが一瞬にして乾き、呼吸ができない。鳥肌がたち、めまいがした。脇の下から汗が垂れ落ちていく。
アスファルトに膝をつき、あえいだ。もがきながら四つんばいになって階段を登った。ライトがぱっと点いた。
震えながら階段に腰を下ろし、光のなかで肩を抱いて丸くなった。
闇が怖い。
わかりやすい神経症だ、そう自分に言い聞かせた。暗闇のなかに閉じ込められ、あれほど恐ろしい思いをしたのだ。急に真っ暗になって、怖くなった。当然の反応だ。少しもおかしくない。わたしも人間だったわけだ。それだけのことじゃないか。
再び階段を下りていく勇気は、どうしても出てこなかった。
部屋に戻り、家中の灯りをつけたまま眠った。
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終 盤 戦
あまり眠れないまま、朝になった。
洗濯をして、掃除をして、朝ご飯を食べた。背中のあざはかなり薄くなってきている。二日間たっぷり休めたおかげか、足の甲も痛んでいない。どこの誰のしわざかわからないが、ありがたいことだ。
九時すぎ、朝ならいるかと思い、相場みのりに電話をかけた。相変わらず留守電だ。話したくないなら話さなくてもいいから、メールだけでもくれと伝言した。
憂鬱な気分のまま、荷物をまとめ、服を選んだ。場所がらを考え、黒のパンツスーツを引っ張り出した。不思議なもので、そのために買ったわけではないのだが、一度不祝儀に使ってしまうとふだんそれを着る気にはなれない。半年ぶりに着てみると、ウエストがゆるかった。一瞬顔がほころびかけたが、なぜかおなかまわりはきつくなっている。上の肉が下に落ちただけのようだ。重力は偉大である。
外はよく晴れていた。暑くなりそうだ。グレーの半袖のTシャツを中に着ることにしたが、靴をどうしたものかと考えた。スニーカーというわけにはいかないし、パンプスでは心もとない。手持ちの革靴の黒いのを全部引っ張り出して考え込んでいると、扉がけたたましく叩かれた。
武蔵東署の柴田要は三和土に足を踏み入れかけて、うわっと言った。
「おまえみたいに身なりにかまわない女でも、こんなに靴を持ってるのか」
「商売道具ですからね。あがれば?」
柴田には連れがいた。速見刑事は白髪を朝日に輝かせつつあがってきて、見ないようにして部屋中を眺め、特に本棚を念入りにチェックしている。麦茶をいれて出しながら、わたしは親切に言ってやった。
「マルクス・レーニン全集は倉庫に預けたんですよ。精神世界本も。殺人や爆弾のハウツー本は文庫の裏に隠してあるんです」
「おもしろーい」
柴田が気怠く相槌を打った。
「朝も早よから世界平和のために働くおまわりさんをからかうなんて、二日監禁されたくらいじゃひねくれた性格直すにはたりなかったようだな、葉村。どうだ、三年ほど懲役刑受けてみるってのは」
「どういう罪で」
「そりゃおまえ、傷害罪よ。牛島……」
柴田は速見の存在に気づいて言葉を濁し、話題を変えた。
「ええ、その監禁事件についてだが、野中のしわざじゃなかったようだな」
「軽井沢の別荘に、二八会のメンバーと一緒にいたってアリバイが確かならね」
「それは間違いない。軽井沢の別荘ってのは山東銀行重役の児玉健夫の持ち物なんだがね。児玉夫妻に例の滝沢喜代志、弁護士の丸山寛治、おまけに別荘番の夫婦。全員が野中のアリバイを証明している」
「そう。滝沢喜代志もいたんだ」
「それがどうかしたか」
野中が土曜日の深夜に電話で亜寿美に引導を渡した、というのが気になっていたのだが、その理由が飲み込めた。まかり間違って辻亜寿美が元亭主から金を引き出したりしないよう、野中は滝沢に張りついていたわけだ。
「いえ、たいしたことじゃないんだけどね」
「たいしたことじゃないなら深刻な面すんな。似合ってねえぞ」
「今日あんたを訪ねたのはだね」
速見刑事が割って入った。
「野中の写真を佳奈のマンションの管理人と不動産屋に見せた結果を報せたかったからなんだ」
「どうでした?」
「きわめてあいまいだな。似ているように思うが、絶対にこの人物だったか確信はない」
目撃者の典型的な回答だ。
「それじゃあ、野中則夫は無罪放免ですか」
「当面は経緯を見守る──というところだな」
「野中則夫を疑う根拠が弱いことはわかってます。野中に柳瀬綾子との面識があったことは確かですが……」
昨日から幾度となく繰り返してきた〈言い訳〉を、速見はあっさりと断ち切った。
「それだけじゃない。やつは柳瀬綾子とその後も何度か接触している」
急に目が冴えてきた。
「それは美和がいなくなる前の話ですか」
「後だ。今月の七日、九日、十日、十四日。少なくとも四回電話している。通話記録が残ってた」
「柳瀬綾子からの電話だったんですか」
「そうだ」
野中則夫が柳瀬綾子とコンタクトし続けていた? わたしは思わず速見を見た。彼はわたしが言わんとするところを素早く悟って、首を振った。
「いや、勘違いしてもらっちゃ困る。柳瀬綾子を殺したのは小島雄二に間違いない。柳瀬綾子の遺体からやつの指紋が出ているし、池のほとりからやつの靴跡も見つかっている。自白にも不審点はない」
「小島雄二と野中則夫に接点は?」
「あるわけないだろ」
柴田が言下に否定し、速見もうなずいた。
「少なくとも、小島の部屋から野中につながるものは出てこなかった」
ま、それはそうだ。つながりが発見できていたりしたら、あまりの偶然にかえって眉に唾をつけたくなる。
ただ、こうは考えられないだろうか。柳瀬綾子は滝沢美和がいなくなり、当初、野中則夫に疑念を抱いた。もしかしたら、彼女も〈ゲーム〉の話をにおわされたことがあったのかもしれない。そこで綾子は野中に連絡をとり、美和の居所を知っているのではないかと食い下がった。
野中則夫はコンサルタント業に従事している。若い女の子を言いくるめるくらい朝飯前だろう。小島雄二の存在を聞き出し、彼が怪しいと綾子に吹き込む。綾子は小島をつけ回し始め、やがて夜の公園で話を聞き出そうとして、殺された。
柳瀬綾子は不特定多数の男たちとつきあっていた。かなり冒険心の強い、危険に無頓着な性格といえる。とはいえ、ひとけのない夜の公園に小島を呼び出してふたりきりで会った、というのは──小島の供述通りならそうだったわけだが──いくらなんでも無防備すぎる。綾子は野中のバックアップがあると信じて小島と会ったのではないだろうか。もちろん、野中にしてみれば、綾子が小島にどんな目にあわされようがかまわなかった。殺されることまで予測していたわけではないだろうが、危害を加えられる可能性は考慮していたはずだ。いや、そうなることを願って、野中は綾子に小島を問いつめ、責め立てるように指示していた……。
こういう流れで柳瀬綾子が殺されたのだとすれば、佳奈・美和の失踪と柳瀬綾子の殺害が短期間のうちに立て続けに起こった説明がつく。
ふたりの刑事は黙ったまま考え込んでしまったわたしを、じっと見ていた。わたしは指を組み合わせた。
「例の管理人の話だと、〈叔父〉はもうひとり男を連れてきていたはずですよね。それが誰かはわかってるんですか」
「いや」
速見は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「むしろ、そっちがなにかつかんでるんじゃないかと期待していたんだが」
「運送の手伝いをさせるだけなら、野中の関係者である必要はない。そこらの便利屋でも連れてくればすむ。それとも葉村を監禁したのが、野中の命令を受けたその男だとでも思ってるのか」
「便利屋にも口はあるでしょうからね」
わたしは柴田をいなした。
「野中には腹心の部下なんていないの?」
「バカ言うな。野中は企業コンサルタント会社の社長であって、ヤクザの組長じゃないんだぞ。犯罪の片棒を担いでくれるほどの子分なんか、いるわけがない」
柴田に言い返そうとしたとき、なにかがちらっと脳裏をかすめた。わたしが野中を疑う別の根拠……
その瞬間、携帯電話が鳴って、わずかな光明は瞬く間に消えてしまった。わたしは舌打ちをして電話をとりあげた。長谷川所長だった。
「おい、えらいことになったぞ」
所長の声はいささか慌てていた。
「どうしたんです?」
「さっき、桜井から連絡があった。野中則夫が女子高生を連れて、滝沢邸へ入っていったそうだ」
「ちょっと待ってください、それってまさか」
「わからん。野中の尾行を頼んだ東都の連中には、滝沢美和の写真など渡していなかったからな。俺としたことがえらい失敗だったよ」
まさか。滝沢美和が生きていた──?
安心して喜ぶべきなのに、そうは思えなかった。わたしは時計を見た。九時少し前。
「これから滝沢邸へ向かいます」
「野中とほぼ同時に、もうひとり男が滝沢邸へ入っていったそうだ。気をつけろよ」
靴を選んでいるゆとりはなかった。刑事たちにこの情報を告げると、大きいほうのバッグを抱え、手近な黒靴に足をつっこんで部屋を飛び出した。
ひとの部屋にあがりこみ、麦茶まで飲んだくせに、柴田はわたしを車に乗せてはくれなかった。東中野へ出て、東西線で吉祥寺に出た。へろへろになってたどり着いたが、滝沢邸の近くには桜井の姿は見あたらない。滝沢邸の門は固く閉ざされていて、中をうかがい知ることはできない。
呼び鈴を押した。無愛想な女性の声がした。思わず身を引いた。わたしが話を聞いた、あの加藤愛子家政婦とはあきらかに別人だ。
「葉村晶と申します。滝沢喜代志さんはご在宅でしょうか」
「出かけております」
「それでは、加藤さんはいらっしゃいますか」
「そういうものはこちらにはおりませんが」
「加藤愛子さんです。家政婦の」
「一昨日、やめられたひとですね」
「やめた? どうして」
「さあ、私は昨日こちらへ来たばかりなので、詳しいことは存じません」
がちゃりと音がして、インターフォンが切れた。わたしはやっきになって呼び鈴を鳴らしたが、返事はなかった。
タクシーを拾い、目的地を武州火葬場と告げた。バッグから数珠を取り出し、左手首に巻きつけ、もう片方の手で桜井に連絡をとった。
「連中、武州火葬場へ向かっているところだ。一足違いだったみたいだな」
「警察は?」
「さあ」
「せめて警察と同時に、野中の連れてきた女子高生の顔、拝みたいんだけど」
「拝むのはいいけど、あいつらの顔の区別なんかつくのかね。──ま、いいや。刑事らしいのが来たら、なんとか足止め食わしてやるよ。ただ、聞いた話だと武州の火葬場って去年建てられた豪華な代物で、入口で職員がずらーっと並んでお出迎えしてくれるんだそうだ。通り抜けるのに相当勇気がいるだろうな」
意外に内気な桜井の述懐を聞き流し、タクシーの運転手に、時間がないのでできるだけ急いでほしい、と頼んだ。幸いなことに、運転手は武州営業所に所属していて、いつも駅前で客待ちをしているという。住宅街のなかの裏道をみごとなハンドルさばきですり抜けていく。
おかげで火葬場〈武州メモリアルホール〉に到着すると同時に、霊柩車と黒塗りのハイヤー二台が滑り込んでいくのが見えた。プロの仕事に感動してチップを渡し、領収書はしっかりもらって車を下りた。火葬場の向かいのコインパークに停車している旧型スカイラインから、桜井が手を振った。
「早かったな」
「警察は?」
「それらしき気配なし。どうする?」
わたしは火葬場の入口に目をやった。ちょうど霊柩車からお棺が引っ張り出され、僧侶を先頭に数名の小集団が中へ入っていくところだ。〈待合室2F〉という矢印付の看板が見てとれた。
「お棺がオーブンに入れられるまで五分かそこらでしょうね。それまで待つ。彼らが待合室へ入ったところで、行ってみる」
「おい、大丈夫か」
「まさかあちらさんだって、火葬場でわたしの首絞めやしないでしょう。ところで、ここまで来たのは誰と誰」
「坊さんと滝沢喜代志、野中則夫と女子高生、それと男がもうひとり。たぶん、こいつじゃないかな」
桜井は一枚のカラーコピーを引っ張り出した。わたしが建設関連の業界新聞社でもらった、二八会についての雑誌記事のものと同じ写真だ。桜井が指さしているのは丸山寛治という弁護士だった。野中の軽井沢でのアリバイを証明したメンバーのひとりだ。
これはうさんくさくなってきた。
桜井に滝沢美和の写真を見せた。
「野中の連れてきた女子高生ってこの娘に間違いない?」
桜井は百円玉を弄びつつ、気乗り薄に写真を眺めた。
「わかんね」
「ちょっと、桜井さん」
「ちらっとしか見てないし、だから本当にわからないんだって。葉村だって見ればそう言うよ。それより牛島潤太の件なんだけど、うちのクライアントがえらいことを……」
そのとき、ようやく柴田の運転する車が見えた。わたしは急いでスカイラインから飛び出した。つかつかと入口へ向かう柴田と速見刑事の背後にいかにも連れらしく続く。ふたりはちらっとわたしを見たが、黙ったまま止めなかった。
そのまま入口を抜けた。タイミングよく、奥から僧侶と滝沢喜代志が出てきた。滝沢の顔はどす黒く濁り、やつれ、げっそりと頬がこけている。初めて会ったときとは、別人のように面変わりしていた。
柴田と速見は滝沢に歩み寄った。滝沢はおびえたように瞬きした。
「武蔵東署のものです。このたびはご愁傷様です」
速見が如才なく挨拶をして、滝沢の背後をすかし見た。
「実は、お嬢さんが戻られたとうかがってきたのですが」
「ええ、はあ」
滝沢は乾ききった唇を力なく動かした。
「まあ、こういう状況ですから無理もないとは思いますが、警察のほうにもご一報いただきたかったですね。ホトケさんがお骨になるまでのあいだに、お嬢さんから事情をうかがいたいのですがね」
「それはいったいどういうことですか」
滝沢が出てきた部屋から、弁護士の丸山が姿を現した。その背後に野中則夫と──わたしは目を疑った。
セイモア学園の制服を着た十七歳くらいの少女だった。背格好は美和に似ている。しかし桜井の言った通り、彼女が滝沢美和であるかどうかを一瞬で判断するのは難しかろう。顔にはブロンズ色のファンデーションがこってりと塗られ、シャドウとハイライトがこれでもかと入れられている。眉はほとんど自然な形をとどめておらず、つけまつげを上下につけてアイラインを黒々と引き、まぶたは青と白に輝いている。写真ではごく自然な色合いだった髪は鬱金《うこん》色になり、家畜のお尻を拭いたあとの藁のようにばさばさと垂れ下がっていた。
少女はふて腐れたまなざしで、わたしと刑事たちを見返した。丸山が言った。
「美和さんのお母さんがまさに荼毘に付されているんですよ。そういうときに、警察が常識をわきまえない行動をとるとは感心できませんな」
わたしと同じくあんぐりと口を開けていた速見が、ようやく立ち直った。
「辻亜寿美さんは美和さんの行方を最後まで気にされていた。捜索願、いや、柳瀬綾子殺害事件との関連もある。こちらが一刻も早く、美和さんから事情を聞きたいと思う事情もおくみ取りいただきたい」
「誰も警察から逃げ隠れしているわけじゃありませんよ」
丸山弁護士はせせら笑った。
「お望みなら、亜寿美さんのお骨を自宅へ連れ帰った後、彼女を武蔵東署へ連れていきましょう。とにかく、この場はお引き取りいただきたいものですな」
「とりあえず、一点だけ確認させてもらったら、すぐにでも引き下がりましょう」
速見は落ち着き払って言い返した。
「その女性は、間違いなく滝沢美和さんなんですね」
「失礼なことを言うな、あんた」
野中則夫が割り込んできた。直接、彼と顔をあわせるのは、これが初めてだと気づき、わたしは野中を観察した。薄い眉、薄い唇。恨みと怒りのせいか思わず爬虫類を連想したが、飛び抜けて個性的な顔立ちとは言いがたい。眼鏡をかけ、地味なスーツを着れば、群衆に溶け込んでしまうだろう。
野中は速見を居丈高に怒鳴りつけた。
「美和さんでなければ、父親がこういうところへ連れてくると思うかね」
速見はまっすぐ女性を見た。
「あなたの名前は?」
「滝沢美和だよ」
少女は化粧によって大きく見える目をぎろりと動かして、言い返した。
「この少女はあなたのお嬢さんの滝沢美和さんに間違いないんでしょうな」
速見は滝沢に訊いた。滝沢の視線は宙をさ迷っているばかりで、答えようとはしない。手が細かく震え、額に汗が吹き出ている。
「どうしました、滝沢さん。このひとはあなたの娘なんですか」
派手な少女が野中に背中を押され、歩み出て滝沢の腕をとった。
「どうしたんだよ、パパ。あたしが美和だって、このオヤジどもに言ってやんなよ」
滝沢は激しく腕を振り払った。少女は顔を膨らませ、ぷいとそっぽをむいて真っ黒に塗られた爪をこすりあわせ始めた。ふと気づくと、僧侶、葬儀社の社員たち、メモリアルホールの従業員たちが、わたしたちを興味津々に眺めていた。
「滝沢さんは、元の奥さんが亡くなられて、たいへんなショックを受けているんだ」
丸山弁護士が再び割り込んだ。
「そういうときに精神的ショックに拍車をかけるような行為は厳に慎むべきだろう」
「滝沢美和さんは、当初、殺人事件の被害者だと思われていたんです。それがこうして現れた」
「そういえば、あんたがたは被疑者を警察署の取調室で死なせたんだったな」
速見はむっとしたように押し黙った。丸山弁護士は嵩《かさ》にかかって言い立てた。
「美和さんが殺されているなどという間違った捜査もしていた。それはあくまであんたがたのミスであって、滝沢さんご一家にはなんの責任もない。こういう場で、なんの権利もなく、おふたりを動揺させるような言動は控えてもらいたいもんですな。お引き取りいただこう。でないと、警視庁に厳重に抗議します」
速見は食い下がった。
「それではせめて、この女性が美和さん本人かどうか、確認させていただきたい」
「こうして親がついてきてるんだ、間違いなどあるわけないだろう」
「申し訳ありませんが、写真とあまりに顔が違うものでね」
速見は野中に美和の写真を差し出した。野中は顔を背けた。
「美和さん──でしたな。顔の確認をさせてもらいましょうか」
「人権侵害だ」
丸山弁護士はあくまで冷静に言い立てた。
「あんたはまさか、ここで、美和さんの化粧をとれとでも言うんじゃないだろうな」
「なにか問題でも?」
「女性の化粧を落とせだなんて、よくそんなひどいことが言える。場所がらをわきまえろ。不謹慎だ」
〈美和〉の化粧のほうがよっぽど場所がらをわきまえていないように思えるが、弁護士の言い分も正しい。化粧をした顔に慣れてしまっている女性にとって、それを人前でとれとは裸になれというのも同じだ。わたしは口をはさんだ。
「それなら、美和さんの友人に確認してもらってはどうでしょうか」
一同の視線がわたしに集まった。丸山弁護士はうさんくさげにわたしを見た。
「誰です、あんた」
「葉村晶といいます。辻亜寿美さんから、美和さんの調査を依頼されました」
「その依頼は断ったはずだぞ」
野中則夫が叫んだ。わたしはせいぜい愛想よく答えた。
「亜寿美さんは一度は調査の中断を申し出られましたが、再度ご依頼がございました」
「そんなはずはない。亜寿美がお願いしますと言ったのは、お願いだから無駄な調査をやめてくださいという意味だったのだ」
ほーお。わたしは穴の開くほど野中を見つめてやった。やはり、長谷川探偵調査所にかかってきた亜寿美からの電話のそばにいて、亜寿美を黙らせようとしていた人物は野中則夫だったわけだ。しかも彼は「亜寿美」と呼び捨てにした。
野中自身もそれに気づいたのだろう、一瞬顔が青ざめたが、すぐに落ち着き払ってつけ加えた。
「電話の依頼では、依頼があった証拠にはなるまい」
「それが、亜寿美さんからお手紙をいただいたんですよ。きちんと書面が残っています。お望みなら、コピーをお見せしましょうか」
野中は軽く顔を歪めた。わたしは続けた。
「確かにそちらの弁護士さんのおっしゃる通り、こういう場で女性の化粧をとれとは少しひどすぎますものね。もっと穏やかな方法をとったらいかがでしょう。幸い、美和さんの通っていらっしゃるセイモア学園はこの武州市にあります。美和さんの友人を呼び出しても、故人がお骨になられる前、そうですね、二十分もあれば到着するでしょう。お友達と五分も話せば、美和さんの気も落ち着くでしょうし、これ以上騒ぎを大きくしないですむ。警察も引き取るでしょう」
柴田が文句を言いかけたが、速見が目顔で止めた。野中、丸山弁護士、美和と名乗った少女の間に緊張が漲《みなぎ》り始めていた。
「──ひとを疑うのが職業の警察官はしかたないとして、あんたはなんだ。たかが探偵だろう? 死人の依頼ででしゃばるのもたいがいにしたらどうだ」
「亜寿美さんからいただいた調査依頼書には、調査の中止は依頼人本人の指図によるものか、または調査料がたりなくなったとき、と明記されています。依頼人の生死は関係ありません」
「こうして滝沢美和が見つかった以上、調査は終了したわけだ」
「美和さんご本人であると確認できれば、おっしゃる通りです。わたしも早く調査を終わらせたいと思っています。──美和さん、お友達の平ミツルを知ってますね」
野中が止める間もなく、少女は口走った。
「知ってるよ。ミツルだろ? まさかあんなうざいやつ連れてくるんじゃねーだろーな」
「あらまあ」
わたしは困ったように肩をすくめてみせた。
「しばらく留守にしている間に、幼稚園のときからの親友の名前も忘れちゃったの? ミチルよ、ミツルじゃなくて」
〈美和〉ははっとして後ずさった。藁のような髪が動き、耳が見えた。本物の美和のふっくらとした耳たぶとは大違い。痩せて貧相な耳だ。
彼女は贋者だと、あらためて確信した。
それにしても、野中則夫も考えたものだ。つい先日、世田谷で通り魔被害にあった「十六歳の女子高生」が実はセーラー服を着た四十四歳だったという、嘘みたいなホントの事件があった。事情を訊いた警官は、当初そのことにまったく気づかなかったという。制服と化粧──それもこのタイプの化粧は、いくらでもごまかしがきく。美和と名乗っているこの女性、どこから連れてきたのかは知らないが、あとで素顔で面とむかっても、同一人物かどうか判断できないにちがいない。
「き、汚い引っかけだ」
野中則夫が唾を飛ばした。わたしは小首を傾げた。
「すると、引っかかったそのお嬢さんは滝沢美和さんではないとお認めになるんですか」
「誰もそうとは言ってない」
丸山弁護士が野中を押しのけた。
「あんたにも、警察にも、ここで騒ぎを起こす権利はない。後で彼女を警察署に連れていくと言っただろう。この場はとりあえず引き取ってもらいたい。さあ」
わたしも刑事たちも一歩も動かなかった。ここで目を離したら〈滝沢美和〉はまたしても姿を消してしまうだろう。野中則夫も丸山弁護士も「まさか彼女がまた行方をくらますとは」と驚いてみせればすむ。
「平ミチルに連絡をとりましょう」
わたしは携帯電話を取り出した。
「彼女も美和さんのこと心配していたから、喜んで飛んでくるでしょう」
「ちょっと待て」
野中が大股に近づこうとする前に、柴田が立ちふさがった。わたしは小走りに葬儀場の外へ出て、ミチルの携帯に電話を入れた。
つながらない。セイモア学園の番号を調べかけてやめ、まずは光浦に電話をした。
「ミチルちゃんなら、朝早くから出かけていったわよ」
光浦はのんきに答えた。
「学校に?」
「そうじゃないと思う。制服着てなかったし」
わかってたんならどうして止めなかったんだ、と怒鳴りかけた言葉をかろうじて飲み込んだ。光浦にはミチルを学校に行かせる義務はない。
「どこに行ったか、心あたりない?」
「いったんおうちに帰るのかって訊いたら、なんかそれっぽいこと言ってたからそうだと思ったんだけど──ねえ、なんかあったの?」
ミチルが家に帰った?
ママをぶっ殺しかねない、と言ったミチルの声が脳裏に甦った。
焦りを感じた。が、滝沢一行を見やったとき、それは別の不安へと変わった。野中が携帯を引っ張り出し、刑事たちに背を向けて受け答えしている。やがて彼は満面の笑みを浮かべ、丸山弁護士になにか囁いた。弁護士の身体から緊張のこわばりが消えた。弁護士が落ち着き払って刑事たちに言うのが聞こえてきた。
「わかりました。お骨上げが終わるまででよければ、上の待合室でそのお友達とやらを待つことにしましょう。それでよろしいですな、刑事さん」
野中はしてやったりというように、ぺかぺかした歯をむき出しにした笑いをわたしに投げかけ、ニセ美和と丸山弁護士を連れて階段を登っていった。死人《しびと》のような顔色の滝沢喜代志がそれに続いた。
まさか。
汗で携帯電話がぬるりとした。
〈叔父〉の連れ、白いライトバンの運転手。
「もしもし、葉村ちゃん?」
光浦がけたたましく喋っている。わたしは慌てて電話に注意を戻した。
「ね、ミチル、ホントに家に帰るって言ったの? それともはっきり答えたくないからごまかしただけ? どっち?」
「そんなにまくしたてないでよ。えーと、大きい荷物は全部置いてってるみたいね」
「どこに行ったか、なにか思いつかない?」
「そんなこと言われても……」
「ねえ、なんでもいいから思い出して。今朝のミチルの様子は?」
「眠そうだったけど、六時に起き出して、銀行がまだ開いてないからお金貸してくれないかって」
「いくら」
「新宿になら二十四時間ATMがあるってからかうつもりで教えてやったら、ならそこで引き出すって」
「ゆうべは早く寝たのかな」
「ああ、そういえば、ゆうべおかしなことがひとつだけあったっけ。ほら、葉村ちゃんも知ってる通り、アタシ童謡好きでしょ」
いらいらしながら光浦の言葉に相槌を打った。
「昨日、例によって寝る前に廊下で童謡口ずさんでたら、ミチルが部屋からすっ飛び出てきて、も一度歌ってくれって」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
童謡? わたしは目を閉じて、ふっと思い出した。水地佳奈が〈ゲーム〉について残した言葉。
「その童謡って、ひょっとして、因幡の白うさぎと関係ある?」
「うん。あるある。『大黒様』だもん」
光浦の店子の飾磨恭子を家まで〈護衛〉したときにも、大きな袋を肩にかけ、と光浦が陰々滅々と歌っていたのを思い出した。
「だけど、それがどうかした? もしもし、葉村ちゃん?」
わたしはバッグを地面に下ろし、二八会の記事を取り出した。それぞれの名前、肩書き、そのなかに。
大黒《だいこく》重喜。天保生命保険営業統括マネージャー。
大黒。ミズチ。うさぎ。
水地佳奈の残したセリフの意味がわかったように思った。
おそらく、ミチルもそれに気づいたのだ。
光浦に詫びを言って、震える手で携帯電話を切った。中堅どころの保険会社だった天保生命は三年ほど前に倒産している。大黒はいまどこで、なにをやっているのか。
わたしははっとした。
野中則夫からどうしても疑いをそらせなかった理由。ずっと気になってしかたがなかったこと。
野中則夫が気になっていたのではなかった。いや、もちろん野中の名前がもっとも気になっていたのだが、彼だけではない。わたしの神経のどこかをつついていたのは二八会そのものだった。
滝沢邸の家政婦・加藤愛子の言った言葉。旦那さんはいつもの狩猟のお仲間と福島のほうへ二泊三日でお出かけになるご予定でした。
それはまさしく、滝沢美和の失踪と重なっている。
ミチルが言った言葉。今年の三月頃、後で思うと佳奈がいなくなった頃だけど──パパ猟銃抱えて二八会のお遊びに出かけてった。
佳奈の失踪時も美和の失踪時も、二八会は福島にある滝沢喜代志の別荘に行っていた。
ずっと、どこかで気になっていたのはこれだった。
偶然だろうか。
男たちが若い女の子を集めて恥知らずな催しを実行する──なんてことは、珍しくないかもしれない。だがいくらなんでも、実の父親が娘を乱交パーティーに参加させたとは思えない。初めて会った滝沢喜代志の様子から、彼は本当に美和の居場所に心当たりがなさそうだった。
いや、偶然ではない。なにかある。ニセの美和を登場させたのは、辻亜寿美の財産めあてというだけだったのだろうか。滝沢喜代志のやつれ、抜け殻のような姿。喜んでそうしているとは思えないのに、ニセ美和を追い出そうとはせず、野中と丸山に警察への対応を任せ切り、ろくに口もきかないあのていたらく。
そう、野中ばかりか丸山弁護士まで登場してきたのだ。わたしの勘が正しければ大黒重喜もだ。ことは、二八会全体に関わる問題ではないのか。
二八会。
平義光。
会食の際、突然激昂した平義光。
まさか。そんな馬鹿な。──だが、つじつまはあう。
わたしは火葬場から表の道路へ飛び出して、駅へと急いだ。
ユニコーン建設の建物は、お茶の水のお堀近くに建っている。建物も立派だが受付の態度もごたいそうなもので、平専務に会いたいと言ったところ、お約束のない方はお通しできませんと、丁重に拒絶された。おだてたりすかしたりしたあげく、わたしは脅しにかかった。
「わたしの名前だけでも取り次いでもらえませんか。ここだけの話だけど」
サイボーグより完璧な髪型メイクの受付嬢の耳元で囁いた。
「お嬢さんのミチルさんのことで、緊急事態なんです」
観葉植物と革張りのソファの間を行ったり来たりしながら、待った。情報の断片をまとめあげた結果、生まれてきた新たな想像に、じっとしていられなかった。間違っているように願った。
長いこと待たされた気がしたが、一分とたっていなかったかもしれない。受付嬢に呼ばれた。
「そちらのエレベーターで十五階までおあがりになって、右手つきあたりが専務室でございます」
飛びついてキスしたいところだったが、せっかくの化粧を崩すにしのびなく、言われた通りに上がっていった。たかが会社のエレベーターがガラス張りで、外が丸見えだ。こういう類の乗り物は苦手で、いつも内臓が全部下に落ちていくような気分を味わうのだが、今日は別だった。暗いよりましだ。
平義光は専務室の応接セットに座り、ざる蕎麦《そば》を食べていた。そういえばもう、昼休みに入っているはずだ。
「ミチルがどうかしましたか、葉村さん」
会社の重役として対面しているせいか、今日の平義光はこれまでとは違い、自信に満ちあふれ、リラックスしているようだった。野中則夫から連絡をもらった様子もない。わたしは大きく息を吸った。
「いなくなりました」
平義光は蕎麦つゆにむせ返った。
「なに──どうしてそんなことが。葉村さんにはミチルのことを、よくよく頼んでおいたはず……」
「苦情はあとまわしにしてください。ミチルさんの居所についての心あたりはあります。彼女はおそらく拘束されているはずです」
「拘束?」
平義光はぽかんとなった。
「バカ言ってもらっちゃ困る。いったい誰がミチルをそんな目にあわすというんだ」
「大黒重喜。ご存知ですね」
平の視線がわずかに揺らいだ。
「もちろんだ。彼も二八会のメンバーだからな」
「ミチルさんは大黒に会いに行ったと思われるふしがあります。理由は水地佳奈という美和さんとミチルさんの友人の失踪に、大黒が絡んでいる可能性があるからです」
「なんだって?」
平義光は茫然としている。わたしはたたみかけた。
「平さん。正直に答えてもらえませんか。うさぎ、と聞いて思い当たることは?」
平義光の手が滑り、蕎麦|猪口《ちよこ》が倒れた。絨緞に汁がたれていく。
「やっぱりなにかご存知なんですね」
「いや──知らんね」
真っ青になりながら、平義光は首を振った。わたしは言った。
「それでは〈ゲーム〉は?」
平義光はいまにも気を失いそうに見えた。無意識に右手がネクタイをほどき、首もとを緩めている。
「な──なんのことだかわからんね。葉村さん、あんたいったい何が言いたいのかね」
「わたしにもまだよくわかっていません。わかっているのは、おそらくミチルさんが大黒に捕まっているということだけです。その結果、ミチルさんが〈うさぎ〉になるとしたら?」
「そんなバカな」
平義光は絶叫した。
「いったいどうしてミチルが──」
「わたしの言っていることが間違いかどうか、野中則夫に尋ねてみたらどうですか」
平義光はしばらく迷っているようだったが、やがて大股にデスクへ歩み寄り、受話器を持ちあげた。わたしはソファに座って待った。
「やあ、私だ」
平はわたしをちらっと見ると、むしろ尊大に喋り始めたが、すぐにその声音《こわね》は不安に彩られ始めた。
「きみ、ミチルの居場所を知っているのか」
「大黒のところにいるというのは本当なのか」
「どうして? そんなことはどうでもいい。いるのかいないのか、どっちなんだ」
「大声を出すなだと? いや──それはそうだが」
「もちろん、それはわかっている。しかし──」
「無事に返すって──あんたは大黒と一緒にいるわけじゃないんだろう」
「ちょっと待て。あんたが大黒にやらせたのか」
「私を脅すな」
「ああ──わかった、わかっている。だが──もしもし野中、おい」
平義光は膝から下の筋肉がとろけたような感じで、椅子に座り込んだ。平義光の脳に情報が浸透するまで、わたしは黙っていた。
「どうやら、あんたの言った通りのようだ」
やがて平義光は顔をあげ、しわがれ声で言い出した。
「だが、拘束はおおげさだ。ミチルは無事に帰ってくる。野中はそう約束した」
「滝沢美和は帰ってきませんでした」
残酷だと思ったが、わたしは言った。
「滝沢美和は五月三日に姿を消した。その翌日から二八会は福島で狩猟をしている。以後、美和は戻ってこない。おまけにどういうわけか、さっき、野中則夫は美和の贋者を連れて現れた」
「ち、ちょっと待ってくれ」
「平さんはゴールデンウイーク中もお仕事だったんですってね。ミチルから聞きました。だから、美和がいなくなったときの狩猟には参加していない。でも、水地佳奈が消えた三月二十日前後と同時期に行なわれた狩猟には参加している。先日食事をご一緒させていただいたとき、平さん、ミチルに狩りの話をされて怒ってらっしゃいましたね」
「あんた──」
平義光は笑おうと努力したが、結局できずに顔を手に埋めた。
「二八会はなにかを隠そうとしている。平さんもまたそのことを隠したがっている。でも、平さんはその隠し事を恥じている。だからミチルに狩りの話をされたとき、あれほど激昂されたんでしょう」
平義光にはもはや、自信などみじんも残ってはいなかった。
「平さん、教えてください。大黒重喜はいまどこにいるんですか」
「──福島だ」
「福島? 滝沢喜代志の別荘のある?」
「大黒は天保生命が倒産した後、滝沢の別荘番に雇われたんだ」
ミチルは光浦に借金を申し込んだ。遠出に必要だったからだ。
わたしはきびすを返した。エレベーターへ急いだ。昼休みが終わりに近づいているせいか、エレベーターはなかなか来ない。
昨日、ミチルを部屋から追い出すべきではなかったのはわかっていた。だが、ミチルとふたりきりですごすのは無理だった。わたしは自分が思っていたほど冷静でも強くもない。それを思い知らされたいま、不安定な精神状態の若者とまともにむきあっていくことはできない。結局わたしはエゴイストなのだ。
背後にひとの気配を感じて振り返った。平義光が決然とした足取りでこちらに歩み寄ってきた。
「私の車で行こう。そのほうが早い」
地下駐車場に停められていた平義光の車はボルボだった。黒塗りの社用車でお出迎えされているとばかり思っていたが、考えてみると平義光には、もったいぶった儀式を受けつけないようなところがある。
彼はまだショックから立ち直っていなかった。福島に入るまではわたしが運転し、途中で交代することに決めた。平義光は反対しなかった。無言で助手席に座り、無言で考え込んでいる。わたしは脇の下に消臭剤をぶちまけると上着を脱ぎ、窓を細く開け、出発した。
平日の水曜日とはいえ、都内を出るまでは一苦労だった。箱崎まで地上を走り、そこから首都高を乗り継いで、川口ジャンクションから東北自動車道に入った。浦和、岩槻を過ぎると車の数は目に見えて減少し、わたしは追い越し車線をぐんぐん飛ばした。
佐野のサービスエリアでガソリンを満タンにした。空腹を覚え始めていたのだが、食べながらの運転ははばかられて、とりあえずものすごく甘ったるい缶コーヒーを買い、チョコバーを数本買い込んだ。それから長谷川所長に連絡を入れた。
平ミチルが現れないので、ふたりの刑事は引き下がるはめになった。そして案の定、後から丸山弁護士からとってつけたような詫びの電話が入り、美和が再び家出をした、と言ってきた、と長谷川所長は教えてくれた。
「桜井がニセの滝沢美和の写真を数枚撮った。これで顔の輪郭や耳の形等を照らしあわせて、あれが贋者だったと証拠立てられればいいんだがね」
「こっちは大黒を押さえます。野中の尾行を続けてもらえますか」
「それはかまわないが、丸山弁護士が武蔵東署の署長に直接抗議したらしいんで、速見たちは当分動けないかもしれないな。武蔵東署はいま、ささいな問題にも神経をとがらせているから」
それで凶悪事件の犯人を逃がすはめになったら本末転倒ではないかと思ったが、口には出さなかった。そんなことは所長も、速見や柴田も、よくわかっている。目先のことにとらわれて身動きできなくなるのは、公の機関も企業もマスコミも個人も同じだ。
「それより、葉村。無茶するなよ。後始末が大変だから」
所長はのんびりと釘を刺した。わたしは苦笑した。
「ご心配なく。様子をうかがって、わたしの手に負えないようならすぐ警察に連絡します。実の父親が誘拐だ監禁だと騒げば、警察もすぐ来てくれるでしょう」
平義光にウーロン茶を渡し、出発した。栃木市を通過した。これでひとつ、謎が解けたように思った。福島の別荘番をしている大黒重喜なら、東京と何度も行き来するうちに銅ノ倉近辺に立ち寄り、東北自動車道へ抜ける道をひょいと右折してしまい、あの粗大ゴミの不法投棄場に行きあたったなどということもあったかもしれない。わたしを助けてくれた中年女性が、東北自動車道の話をしてくれたときに、すぐ滝沢の福島の別荘を思い出すべきだった。
「私は狩猟がそれほど好きではなかった」
宇都宮から日光街道に入った頃、平義光がぽつりと言い出した。
「野中や滝沢はハンティングに夢中で──野中は特に、アメリカでさんざんハンティングをやってきたせいか、大物狩りは男の証だとか、狩猟の技術を身につけてこそ一人前だとか、やたらとそういうことを言い出す。私はそういうおおげさな考え方にはついていけなかったが、それもつきあいだと思っていた」
「二八会のつきあいは、平さんにとって唯一の息抜きだったんでしょう」
わたしはあたりさわりなく答えたが、平義光はその言葉にすがりついてきた。
「そう、そうなんだ。それに、狩猟そのものが好きだったわけではないが、気の合った仲間たちと一丸となって狩りをして、獲物をしとめ、さばいて、自慢話や失敗話で盛り上がりながら鍋をつつく──ストレスや世俗のしがらみをすべて忘れて。なんと説明すればいいかわからないが、自分たちでとらえた動物を調理し、食う──買ってきたものではなく、自分の力だけで手に入れたもので腹を満たす。それが腹以外のものも満たす、というか──」
鍋の材料は狩りの獲物だけではなかったはずだ、と茶々を入れかけてやめた。平義光の気持ちはなんとなく想像できた。
「でも、私は釣りのほうが好きだ。生き物を殺して食うのは同じだが、魚はうまそうに見え、鴨は可哀想になる。我ながらおかしなもんだと思うが、そう感じるのだからしかたがない。ハンティングの醍醐味を語らせると止まらない野中によれば、殺しと狩りを別物と認識できないようでは上達しないそうだ。専務に昇進してからは忙しかったこともあって、気の進まない狩猟には参加しなかった。だが、三月の半ば頃──その、いろいろあって──」
「ご家庭内のことは、ミチルさんから聞いてます」
平義光はぎょっとすると同時に、安堵したようだった。
「そうか。ミチルのことをお願いしたとき、あらかじめお話ししておくべきだったかもしれないが、その、外の人間にどう説明したらいいものかわからなかったもので──」
わたしは言葉をつくして平を安心させた。いまは平家の内部事情より、知りたいことがある。
「それで、今年の三月の狩猟には参加されたわけですね」
「猟銃を握るのは二年ぶりだった。滝沢も野中も、二八会の遊びにハンティングは欠かせないだろう、と私の久しぶりの参加を歓迎した。私は勘も鈍っているし、足手まといになりたくないので、狩猟そのものには参加しないつもりだと言った。みんなが戻ってくるのを別荘で待っていようと思っていた。だが、他のみんなが承知しなかった」
「二八会の七人全員がそろっていたんですか」
「新浜以外の全員がいた。新浜はしばらく前から二八会の集まりに顔を出さなくなっていた。思い返してみると、やつは今年は年賀状もよこさなかった。それには理由があったんだ……」
平義光はしばらくの間、車窓の景色に見入っていたが、意を決したように話を続けた。
「狩猟は昼過ぎから始まった。開始前に野中が挨拶をした。今回は前回十一月のハンティングに引き続き、特別なゲームを用意しました、と彼は言った」
「ゲーム?」
「前回のゲームが一部で不評だったので、今回はえりすぐったかわいいうさぎです。大黒の骨折りに感謝しましょう──他の連中は拍手と歓声で盛り上がっている。私はわけがわからないながら、拍手に加わった。うさぎはすでに山中に放たれている、二手に分かれてうさぎを追いつめる。野中はそう言って、班を分けた。滝沢の所有する二つの山林のほぼ中間地点ですでに大黒がうさぎを放したということだった。我々は出発点を二つ決め、それぞれ車で向かった。私は滝沢と野中のグループに入れられ、彼らに挟まれるような形で山林を進んだ」
想像していた通りの内容だったが、話が進むにつれ全身が冷たくなってきた。平義光はぼそぼそと続けた。
「運動不足だったから、歩き出して二時間としないうちに疲れてうんざりし始めた。寒かったし、怖くもあった。滝沢には妙な自信があって、自分が運転していれば絶対に自動車事故は起こらないし、猟銃は暴発しないと信じ込んでいるんだ。ときどき猟銃を肩にかけるから、銃口がこっちを向く。やめてくれと言ったって聞きやしない。できるだけ距離を置くようにすると、今度は野中が文句を言う。じゃあおまえ先に行けよと言っているうちに、前方で銃声がした。私たちは慌てて駆けつけた」
平義光は手の甲で目をこすった。
「道を走っていくと、滝沢がすっころんでもがいていた。その前方を白いものが走り去っていくのがちらっと見えた。滝沢が私に早く撃て、逃げられちまうぞ、とわめいたが──私は動けなかった。その白いものはうさぎにしてはでかすぎた。おまけに、一瞬しか見えなかったが──二本足で走っているように見えたんだ」
寒けがいっそう強くなってきた。
ゲームには〈獲物〉という意味もある。
水地佳奈は弟になんと言ったか。──ゲームはヤバいに決まってる。
「滝沢は起き上がると、すごい勢いで白いものの後を追い始めた。野中が無線で大黒のチームに連絡を入れた。そして私に早く行け、あっちのチームも近い場所まで来ているんだ、先にやられちまうぞ、と怒鳴って走り出そうとした。私は野中を必死に止め、あれは人間だと言った」
平義光は首を振った。
「野中は笑って、『あれはうさぎだ、わかるな。うさぎなんだ。自分からゲームになりたいと志願してきたうさぎなんだ。逃げきれば大金をもらえると思い込んでいる、俺たち人間が殺傷能力のある武器など持っているはずもないと思い込んでいる、逃げるしか能のない、家族もいない、ひとりぼっちの哀れなうさぎなんだよ』と言った。どういう意味なんだ、と私は訊いた。ひとを殺すつもりなのか、と。野中は私をあざ笑った。『くだらないことを訊くな。我々はハンターだ。狩りと殺しは別物だ。第一、あれはうさぎだ。それだけ頭に叩きこんどけ』そして、こうつけ加えた。『二八会は一蓮托生だ。全員がこのゲームを楽しんでる。他の連中の楽しみを台なしにして許されると思ってるのか』──私は、野中に追い立てられるようにして、狩りに戻った」
これ以上、とても運転できそうになかった。日光街道から駒止バイパスに入る手前で車を停めた。平は憑かれたように喋り続けていた。
「その後、うさぎは見つからないまま日が暮れ始めた。野中と滝沢は不機嫌になっていたが、私は安堵していた。そしてこうも思った。あれは見間違いだったのではないか、野中の言葉に含みがあったように思ったのも気のせいだったのではないか。いくらなんでも、そんな恐ろしいことをそれと承知でするはずもない。なにしろ疲れていた、早く狩りを切り上げて戻りたかった。そのとき、どこか遠くで銃声がした。野中の持っていた無線機が鳴った。『くそっ、あっちがしとめた』と野中が言い、ゲームを拝みに行こうぜ、と私たちに告げた。逃げ出したかったが、自分がいまいる場所すらわからない。ふたりについていった」
平の身体がぶるぶると震えていた。
「どれほど進んだか、大黒が連れている犬の鳴き声がした。道のむこう側に大黒と丸山、児玉が立っていた。山道で輪になって、うつぶせに倒れたものを取り囲んでいた。滝沢が大声でやったな、と呼びかけ、大黒のチームは嬉しげに答えた。やっぱりいきがいいうさぎは狩りのしがいがある、と。私はおそるおそる近づいていった」
平義光はウーロン茶をがぶ飲みした。ややあって話し出したときも、声の震えはよりひどくなっていて、聞きとりづらかった。
「それは頭だけが白かった。耳が長く──だが、それ以上、見ることができなかった。顔をそむけ、その場にしゃがみこんでしまった私に気づき、野中が大黒になにか指図したようだ。シートかなにかで覆ったのかもしれないが、その後の記憶がほとんどない。どうやって車へ戻り、どうやって別荘にたどり着いたのか、覚えていない。自分の車が見えたとき、逃げ出したくなった。気分が悪い、これ以上いるとみんなを白けさせてしまうからといって、挨拶もそこそこに別荘を飛び出した」
「どうして──」
わたしが訊きかけるのを、平はさえぎった。
「私を見送ったのは野中ひとりだった。彼は笑いながら私に言った。『うさぎ一羽で事故を起こすなよ。奥さんやミチルちゃんは、あんたがいなくなったら無事に生きていけるかどうか、怪しいもんだからな』と」
遠回しの脅迫を、平義光は的確に受け止めたというわけだ。平貴美子の精神状態がああでなかったとしても、平は沈黙せざるを得なかっただろう。同情はできないが理解はできる。
「車で日光へ出て、旅館に三泊した。宿の人間は私が自殺を図るんじゃないかと心配していたろうな。私は何度も考えていた。あれは夢だったのか、現実だったのか。温泉につかっているうち、夢のように思えてきた。東京に帰って仕事に戻った頃には、すっかり自己暗示にかかっていた。あれは夢だと。そう思いたかったんだ」
平義光は薄い笑いを唇に浮かべた。
「私たちが二八会を結成したのはまだ大学時代で、もとは私と新浜、丸山、児玉の四人だった。全員が昭和二十八年生まれで、野望に燃えていて、いずれそれぞれの希望するジャンルで頭角を現し、第一線で働きたい、そしていずれは業種の枠を越えて意見交換をし、新しい社会システムを創造する──そんな若者らしい理想を持っていた。我々は四人とも裕福な家庭に育ち、学業成績も優秀で、学生の頃から自家用車を乗り回していた。俺たちは他の連中とは違うんだ、そんな意識がまったくなかったわけじゃない。それでもすばらしい社会の実現のために、自分たちでやれるだけのことをやりたいと真剣に考えていた」
ノブレス・オブリージュ、恵まれた環境に生まれ育った者はその分社会にお返しする義務がある、という思想。平義光やその仲間たちが生きていた時代には、まだささやかながらそういう考え方が残っていたわけだ。
「だが現実の社会には、理想論を語れる場所などなかった。あるのは目先の利益、目先の業績、目先の物質欲。そんなものだけだ。二八会がなければ、私も現実に追われ、いつしか理想を忘れていただろう。唯一熱く語り合える場所──それが二八会だった。やがて、滝沢や野中たち残りのメンバーが入ってきた。彼らもまた、私たちと同じような階級で、同じような考え方を持っていた」
ごく自然に階級と言ったことに、平義光は気づいていないようだった。
「もっとも、それぞれが家庭を持ち、順調に出世していくにつれ、理想論は言葉だけになり、二八会は親睦の集まりになった。我々も──いや、特に私がそれを望んでいたのかもしれない。技術畑を歩いてきた私はそれほど出世はしないだろうとあきらめていたし、家庭は──あんな事件が起こったおかげで、腐ってしまった。さっきあんたが言った通り、二八会は私の唯一の安らぎの場だった。それがどうして、あんな恐ろしいことを始めるほどねじれてしまったのか、私には……わからない」
しばらく平義光が落ち着くのを待って、わたしは滝沢の別荘への道を尋ねた。平義光は自分で運転すると言った。胸につかえていたものを吐き出したせいか、顔色がよくなっている。席を交代すると、平はネクタイをとり、上着を脱ぎ、腕時計もはずしてワイシャツの袖をまくりあげ、黙ったまま車を発進させた。
車がバイパスから林道に入った頃、着信があった。所長が相変わらず太平楽な口調で悪いニュースを告げた。
「おーい、桜井たちが野中にまかれたぞ」
「いつの話です、それは」
「三時間ばかり前のことだ」
「どうして早く知らせてくれなかったんです」
「と、俺も言ったんだが、あっちはあっちで捜し当てられると思ったみたいでな。思いつくかぎりの場所をあたったらしいんだが──」
そんな素人みたいなことを、と言いかけて言葉を飲み込んだ。
「どこで見失ったんですか」
「滝沢邸に戻った後、野中だけが車で出かけていった。やつの車は武州インターから首都高へ入り、以後行方不明。つまり、そっちへ行ったということだ。そっちはどうだ?」
「もうすぐ別荘に到着します」
「時間がかかったな」
「いろいろありまして、これでも急いだんですが」
「そうか。まあ、追いつかれることはないだろうが、野中が来るかもしれないということは念頭に置いとけ」
ミチルが別荘にいることを確認次第、警察に連絡すると約束して電話を切った。平義光は話の内容を察したらしく、なにも訊かなかったが顔はこわばっていた。それでも、彼の運転ぶりは堂に入ったものだった。くねくねと蛇行する道を危なげなく進んでいく。
「大黒重喜について教えてください」
平の様子を見ながら、わたしは尋ねた。平はむしろ話ができるのを喜んでいるようで、ハンドルさばきに乱れはなかった。
「大黒が二八会に入ったのは、確か野中の紹介だったように思う。彼は大学時代にアメリカに短期留学し、そこで野中と知り合ったんじゃなかったかな。二八会に来た頃にはすでに天保生命に入社して、着実に売り上げを伸ばしていた。さわやかで嫌みのないセールストークを駆使する男で、我々もいつのまにか天保生命に加入させられていたよ。彼の口癖は、いずれは物品より情報が高い価値を持つようになる、情報を制するものが世界を制するってことだった。あらゆる経済誌に目を通し、いち早く自宅にコンピューターを買い込んだ。そんなやつでも自社の倒産を予測できなかった──そんなものかもしれないがね」
「大黒はどうして滝沢の別荘番に? 確か、天保生命では営業部門の統括マネージャーだったんですよね」
「そのあたりの事情はよくは知らない。ただ、滝沢には尊大なところはあるが、ケチでもしみったれでもない。間違っても友人を安く使おうとは思わないはずだ。天保生命の倒産後、大黒は女房と離婚し、就職活動も思うように進まず、半ばノイローゼになっていたからな。休養させるために別荘番を頼んだ、ということだったんじゃないかと思う」
「誰も大黒の再就職を世話しなかったんですか」
「みんなでいくつか申し出をしたよ。ただ、やつが断った」
「それはまた、どうしてです?」
「うーむ」
平義光は横目でちらっとわたしを見た。
「説明はできないが、私も同じ立場で就職活動をしなければならなくなったとしたら、仲間の世話にはなりたくないと思うだろうな」
でも結果として、大黒は二年以上も滝沢の別荘番に甘んじている。
「大黒は犬を飼ってると言ってましたね」
「一匹だけ。小さめの日本犬だが、猟犬としては優秀らしい」
「もしかして、白いライトバンを持ってますか」
平義光はその質問に驚いたらしかった。
「ああ、持っている。別荘に停めてあるのを見た。──もうすぐ着く。この先をまっすぐ行って、右に二百メートルほど入ったつきあたりだ」
わたしは車についている時計を見た。四時半をすぎて、日が傾き始めていた。
朝、あれほど急ぎの出発でなければ、別のを探し出すところだったのに。もっともその別の腕時計というのは、数年前になにかのおまけでもらった千円もしないデジタル時計なのだが。時間は携帯電話でもわかるが、時間を確かめるだけにバッテリーを消費したくはない。
車が山道へ曲がりかけたそのとき、道端に落ちているものが目に止まった。わたしは叫んだ。
「停めてください」
飛び降りて、走った。道のきわの茂みに落ちていたもの、それは見覚えのある手作りのお守り袋だった。開けてみた。中には深大寺のお守りと、平ミチルの名入りのカードが入っていた。
「平さん、ミチルは間違いなく別荘にいると思います」
降りてきた平にお守り袋を見せた。
「彼女はこの別荘に来ています。たぶん、どこかに大黒を呼び出し、その後、車で連れてこられ、隙を見てこれを投げたんでしょう。状況ははっきりしました。警察に連絡します」
「待ってくれ」
平義光はわたしの携帯電話を奪い取った。
「警察はまだ──そんなことをしたら、ミチルがまた殺されてしまう」
また殺される。
また。
そのたった二文字が、貴美子ばかりでなく平義光自身も、ミチルは誘拐されて殺された息子・満の生まれ変わりだと思っていることを示していた。だが、いまはそれどころではない。
「このままのこのこ大黒に会いに行ったところで、三人ともやられるだけです。いくら〈うさぎ〉を〈ハンティング〉したつもりでも、実はただの人殺しだということ、それも若い女の子を楽しんで殺したのだという事実を、野中や大黒が認識していないはずはありません」
「だが、警察が信じるか?」
平は心もとなげに呟いた。死体もなく、彼自身すら夢のような気持ちでいるあの経験を、警察にうまく説明する自信がないのだろう。
「とりあえず、うさぎ狩りはあとまわしです。まずはミチルを無事に別荘から連れ出せればいい。あなたは父親でミチルは未成年者だ。警察には、家出した娘がここに来ているらしいがトラブルになりそうなので同行してもらいたいとでも頼めば、手を貸してくれるでしょう。よければ、念のためうちの所長からこっちの警察へ、話を通してもらいます」
「しかし、そんなことをしているヒマがあるのか」
わからない、というのが正直なところだった。火葬場で野中が電話を受け、ほくそ笑んだ──あれが十一時すぎ。おそらく、大黒はミチルの詰問を受けて、ミチルの身柄をどうするか、野中に相談したのだろう。そして野中が大黒に、ミチルを押さえておくようにと指示を出した。
ミチルがどこで大黒と会ったのかはわからないが、別荘に入ってからかれこれ四時間ほど経過しているとみて間違いないだろう。殺して埋めるのに、じゅうぶんな時間だ。
だが、望みはあった。大黒はわたしを閉じ込めたが、結局殺しはしなかった。殺しと狩りは別物──彼はひとをうさぎと偽って狩りをすることはできるかもしれないが、殺しはできない。そう信じるしかない。
「急がば回れ、といいます。平さんはこのまま最寄りの警察署へ行ってください。わたしは所長に連絡次第、別荘の様子を見にいきます」
「大丈夫か」
「ええ」
平義光の目をまっすぐ見て、即答した。
「様子を見るだけです。ミチルさんが無事なら手は出しません。あなたと警察の来るのを待ちます。ですから急いでください。野中則夫が到着してしまったら、状況は悪くなります」
不承不承ではあったが、平義光は出ていった。走り去るボルボの後ろ姿を見ながら、深呼吸をした。所長に連絡を入れ、歩き出した。
予想よりも山風はずっと涼しかった。上着のボタンをとめ、考えて、電源を切った携帯電話を右の上着のポケットに入れ、バッグのなかをひっかきまわした。武器になりそうなものはなにもない。消臭剤とチョコバーを一本、お守り代わりに尻ポケットに移すだけで満足した。その頃には、わたしは滝沢の別荘に到着していた。
その巨大なログハウスに、わたしは笑いを禁じ得なかった。狩猟用の小屋と聞いた滝沢は即座に丸太小屋をイメージし、その通りに建てさせたにちがいない。だが、雰囲気はあったし、なにより丸太小屋というにはあまりにも立派だ。
周囲は樹々を取り払い、開けた明るい空間になっていた。まだ五月ということもあってか、草もさほど密生していない。濃い森に取り囲まれた別天地、という趣だ。別荘の領分には部外者など絶対に入れないと決意をかためているらしく、うかつには近寄れないように石垣で取り囲んである。だいたい昔から森のなかの家など、のぞき込んだ途端に人肉を食する魔女にとっつかまる、と相場が決まっている。
道の行き止まりに低い石垣があって、手前には砂利が敷きつめられ、駐車場になっていた。白い古ぼけたライトバンと、村木の愛車と同じ車種の4WDが停められていた。村木の愛車はエンジ色だが、こちらはアゲハ蝶の幼虫なみに鮮やかなグリーンだ。なるほどこれでは都内ではあまりにも目立ち、印象に残りやすいだろう。水地佳奈の〈引っ越し〉の際もわたしの拉致のときも、ライトバンを使った理由が飲み込めた。
駐車場の手前の木の陰に隠れ、景気づけにもう一本チョコバーをかじりつつ考えた。これでは内部の様子などうかがい知ることはできない。這っていっても犬に見つかるのがオチだし、見つかって騒ぎになって、はずみでミチルが殺されでもしたら悔やんでも悔やみきれない。ここでこのまま騎兵隊の到着を待つべきだろうか。いや、警察は説得の手助けに来るだけだ。うちには絶対に入れない、と大黒に拒絶されてしまったら、家の中に押し入るわけにはいかない。平義光がちょっとやそっとで引き下がるわけもないが、彼はどちらかといえば嘘や言い訳の苦手なひとだ。そのうち野中がやってきたりしたら、警察もろとも言いくるめられてしまう可能性はある。
おまけに、大黒は別荘内部を熟知している。どこかにミチルを隠されたら、見つけ出すのは至難の業だ。
他に道はない。
わたしは道の真ん中を歩き、犬の吠え声を聞きながら石垣をまたぎ、玄関に立って呼び鈴を鳴らし、大声で呼ばわった。
「ごめんください」
犬が家のなかでけたたましく吠えている。しばらく待って、もう一度呼び鈴を鳴らした。やがて、分厚いドアのむこうで、ひとの気配がした。
「誰だい?」
低い男の声。トラックに閉じ込められたとき、夢うつつに聞いたあの声。
わたしは唾を飲み込んだ。
「葉村晶と言います。こちらにおじゃましている友人を迎えに来ました」
返事はなかった。やがて、鍵が回る音がして、ドアが開いた。わたしはゆっくりと顔をあげて、その男と目を合わせた。
たとえ現れた男に角としっぽがあろうが、目から稲妻を走らせていようが、驚けなかったと思う。しかし、そこに立っていたのは普通の男だった。いや、普通というのはおかしな言いぐさだ。彼は日に焼けた精悍な顔立ちで、髪を短く切り、色あせたデニムのシャツを着ていた。肩幅も広く、体力のありそうな、感じのいい男だった。わたしは動揺し、それを隠そうと必死になった。
男は──大黒重喜はじっとわたしを見ていた。わたしは平静を装って見返した。この男はわたしを知っている。そう直感した。因幡の白うさぎをめぐるただの想像が、初めて三次元に立ち上がったように思った。
「こちらに平ミチルさんがおじゃましていると思います。お父さんが心配しておられるので、連れ帰りに来ました」
精一杯の愛想を振りまいた。大黒は首を振った。
「ミチルちゃんなら、昔からよく知っているけど、しばらく会ってないな。なにかの間違いじゃないのかい」
「いいえ、ミチルがここに大黒さんを訪ねると書き残しているんです」
「へえ」
しばし間が空いた。ぶっつけ本番の生放送中、間違った箇所で間違った台詞を言ってしまった俳優のような気分になった。しまった。きっと大黒はミチルから、誰にも知らせずにここへ来たと聞き出したのだ。しかし、わたしがここにたどり着いたということで、大黒はミチルのほうを嘘つきだと思うだろう。もはや、ミチルの安否を確認せずに、ここから離れることはできなくなった。
「あのですね。平義光さんに報告をしなくてはならないんです。彼はとても心配しています。もしかしたら、ミチルから口止めを頼まれたのかもしれませんが、せめて無事な姿を一目だけでも見せていただけないでしょうか」
「だから、ミチルちゃんにはしばらく会ってないし、ここにも来てないよ」
大黒は真っ白い歯を見せて笑った。
「でも手紙があったんです」
大黒の背後から犬が顔をのぞかせた。猟犬にしては確かに小さめだが、とぎ澄まされた歯を見せびらかすように大口を開けている。そもそも動物と仲良くなれたためしはないが、この犬とは特に相性が悪い。犬はわたしが動くチーズかなにかに見えているらしく、さくっとかぶりつきたいものだ、と言わんばかりによだれを垂らしている。
「失礼ですが、家のなかを調べさせていただけませんか。わたしとしても、絶対にこの家にはいないと確認しないと、引き下がれないものですから」
「すまないが、ここはボクの家じゃないんでね」
大黒は犬を叱りつけた。犬はいかにも惜しそうにわたしを一瞥し、奥へ引っ込んだ。
「頼まれて友人の別荘の管理をしているんだ。その友人の許可もとらずに勝手に他人をあげるわけにはいかない」
「滝沢喜代志さんの許可ならとってあります」
だんだん嘘をつくのが楽しくなってきた。大黒は目を細くした。
「滝沢の? そんなはずはない」
「平義光さんが滝沢さんの許可をとると言ってくれました」
「つまり、あんたはそれを確認したわけじゃないんだな」
「平さんと滝沢さんは親友です。滝沢さんがお断りになるはずないと思いますけど」
「はずがないってだけじゃな」
大黒はぐいと前に出てきた。わたしはドアの端をつかんだまま一歩下がった。威圧され、臆している──自分でもそれはわかっていたが、しっぽを巻いて逃げ出すにはいろんなものを犠牲にする必要がある。いずれも簡単に諦められない、大切なものばかりだ。
わたしと大黒はにらみ合った。
「ずうずうしい女だな。どんなに粘ろうが、中に入れるつもりはない」
「ミチルを監禁しているからですか」
「ミチルちゃんはここにはいないと言っただろう」
「慌てて門前払いを食わせようとする人間の言うことなど、信用できません」
「不審人物を追い払うのも俺の仕事だ。さっさと帰らないと、犬をけしかけるぞ」
「さっさと中にあげないと、警察をけしかけます」
大黒は再び目を細くした。
「やれるもんなら警察と一緒に戻ってくるんだね。そうしたら入れてやるよ」
大黒はノブを力一杯引いた。わたしは全体重をかけてドアを引っ張った。ここで大黒に時間を与えると、ミチルを家のどこかに隠される。指にささくれが食い込んだ。力では絶対に大黒にかないっこない。引っ張り合いが始まるとすぐ、じりじりとわたしの身体は動き、大黒の顔には嬉しそうな表情が浮かんだ。勢いよくわたしの指をドアにはさんだ瞬間の感触を想像しているような、笑みだった。
わたしはとっさに言った。
「うさぎ」
大黒の力が緩んだ。わたしはたたらを踏みかけ、あえぎながら続けた。
「わたしはうさぎに志願しに来たのよ」
大黒はドアから手を放し、棒立ちになってわたしを眺めた。とろんと鈍く光り、黒目と白目の境目が消えたような目だった。
「そういうことなら早く言えよ」
きびすを返して奥へ入っていく。ドアに手を置いたまま、しばし呼吸を整えた。大黒に続いて建物の中へ足を踏み入れた。
大黒が入っていったのは、玄関右手のスペースだった。天井が高く、土足の人間と犬が転げまわってもなおあまりある広さを有していた。吉祥寺にある滝沢喜代志邸の応接間をこしらえたのと同じ趣味の持ち主がインテリアを担当したことは、わたしほどの慧眼の持ち主でなくてもすぐに察しがついただろう。毛皮とスコッチウイスキーと暖炉と壁からつき出た動物の生首。
大黒は部屋の奥にある一人用のソファに歩み寄り、脇のテーブルの上から機関部を開放した猟銃を取りあげて腰を下ろした。犬もついていって、彼の足元に座り込んだ。そしてそのソファの脇には、ひとひとりがやっと入れるほどの、犬小屋よりは少し大きめの檻がぽんと置かれていた。
いまは、身体を丸めたミチルが入っていた。
「このうさぎが、うさぎだってことをなかなか理解してくれなくて、参ってたんだ」
大黒は猟銃を閉め、頭部の間隙を調べながら檻を蹴った。
「悪いうさぎだな、おまえは。え?」
檻は蹴られて少し動いた。ミチルは張り裂けそうなほど目を見開き、首を振っている。口に粘着テープが貼られ、両手もテープでぐるぐる巻きにされていた。
「せ、せめてテープだけでもはずしてあげれば?」
わたしはできるだけさりげなく言った。
「前にわたしも口に粘着テープ貼られたことがあるんだけど、危うく窒息するところだったのよ」
「うさぎは噛むんでね」
大黒は檻を三度蹴った。
「おまけにわめいたりもする」
また蹴った。
「自分がうさぎだってこともわからずにいる。うさぎはバカだからしかたないけどな」
檻はだんだんわたしの足元に近づいてきた。ゆっくりとした動きで檻へ寄った。
「でも、ここにこうして志願したうさぎがもう一羽現れたんだから、こっちのうさぎは必要ないでしょ」
「ゲームが多ければ多いほど、狩りは楽しくなるんだよ」
「二兎追うものは一兎をも得ずってことわざ、聞いたことないの?」
大黒は笑って銃口をわたしに向けた。弾丸が入っていないとわかっていても、銃口というもの、あまり楽しい眺めではない。
「大丈夫。もうじきハンターもふたりになるから」
平義光はなにをもたもたしているのだろう。
「もうじき日も暮れるけど? 暗闇のなかで、ひとりずつ一羽のうさぎを追いかけまわすなんて真似、できるのかしらね」
「そんなこと、うさぎが心配する必要はないさ。大丈夫。こっちのうさぎは説得に時間がかかりそうだから、あんたからやってやるよ」
よし。わたしはバッグを肩から下ろし、同時に上着のポケットから携帯電話を出して、バッグの陰になるようにしながら、両方とも床に置いた。
「逃げきれたら二百万もらえるって話はホントなんでしょうね」
そっと携帯を足でミチルの足のほうへ押した。ミチルの足の指が檻から出ている。そこへ携帯を押しやった。ミチルが身じろぎをした。
「まず罠でうさぎを集める」
大黒はあくびをして布で銃を拭いた。
「うさぎを山のなかへ放してやる。うさぎは頭が悪いから、ひとが自分たちを殺して食っちまおうと思っていることなど、全然気づかない」
「つまり全部嘘ってわけ」
さらに携帯をミチルの足へふれさせた。ミチルは気づかない。脇の下から汗が吹き出し、腹へと滑り落ちていく。ひどく臭った。
「おいおい、うさぎは口答えなんかしちゃダメだ」
「わたしは志願しただけで、まだうさぎになったわけじゃないのよ。それに、ホントはあなた、まだうさぎを狩ったことがないんでしょ」
大黒は眉を寄せた。
「最初のうさぎを仕留めたのは丸山寛治でしょう? あんたが仕留めたわけじゃない。二番目のうさぎを仕留めたのは誰だった?」
大黒は瞬きした。さあ、言え。わたしは身構えた。滝沢美和を殺した人間の名前を言え。
「そういやあ、俺はまだ、うさぎを仕留めたことはないな。一番最初にクマを撃ったのは野中だったし」
クマ?
平義光の言葉を思い出した。狩りを始める前、挨拶に立った野中は「前回のゲームが一部で不評だった」と言った。水地佳奈と滝沢美和の前にも、誰かが〈ゲーム〉にされていたのだ。
「それじゃあ、二番目のうさぎを狩ったのは誰? 誰がうさぎを連れて帰ったの?」
「いちいち獲物を連れて帰るか。俺たちはハンティングそのものを楽しんでいるんだ。仕留めたらそれで終わりだ。食物連鎖って知ってるか」
わたしは答えなかったし、大黒も返事を待っているわけではなかった。
「動物は土にかえって、森を肥やす。うさぎもクマも、いまでは森を豊かにするのに一役買っている」
唇が震えかけたのを、前歯で押さえ込んだ。
「それで? 二番目のうさぎは誰に撃たれたの?」
大黒は小首を傾げてうなずいた。
「俺たちのなかで一番の狩人が仕留めた。目にも止まらぬ早さで銃口を向け、うさぎの頭部を撃ち抜いた。それはもう、すばらしい早技だったぜ」
「誰の早技だったの?」
訊かずにはいられなかった。答えを悟りながらも、どうしても訊かないわけにはいかなかった。大黒は無造作に答えた。
「滝沢喜代志さ」
時計が五時を告げた。大黒はため息をつき、立ち上がった。粘着テープを取り上げて、十センチほど切り、わたしに差し出した。
「口に貼れよ」
ためらっていると大黒はミチルの檻を蹴り飛ばした。
「さっさとしろ」
とりあえず、おとなしく言うことを聞いてやろう。わたしは自分でその薬臭いテープを自分の口に貼った。大黒は愛情のこもった目でわたしを見て、にっこりとうなずいた。
「おまえはいいうさぎだな。前のうさぎたちも、いいうさぎだったが、おまえほどじゃないな。一度罠にかかったうさぎってのは、ホントにおとなしくなるもんだ」
大黒はわたしを引き寄せて、粘着テープの上にちゅっと音をたててキスをした。今度こそ本当にえずきそうになった。窒息したくない一心で、テープ越しの薄気味悪い感触に耐えた。大黒はさっとわたしから離れ、部屋の隅にある戸棚に歩み寄っていった。わたしは急いでミチルの目をとらえ、足元を見た。ミチルはようやく気づいたようだった。足の指を動かしている。わたしはさらに携帯電話をその足へと押しやった。ミチルの足が携帯電話を覆った。長い指が動く。滑った。また指が動き、携帯をつかんだ。そっと引き寄せていく。
「あんたにはこれが似合うと思うな」
間一髪のところで、大黒が振り向いた。わたしは大黒の手のなかにあるものを見て、愕然とした。それは頭をすっぽり覆う形の、うさぎのかぶりものだった。ふわふわの毛でできていて、耳が長く、目と鼻に穴がある。真っ黒いうさぎのマスク。
大黒は長い指を伸ばし、マスクを撫でながら近づいてきた。後ずさりながらも、目がマスクから離れなかった。首のところに針金が通っているのが見えた。先が輪っかになっている。
「これをかぶれよ。俺が手作りしたんだ。サイズもちょうどいいと思う」
内側が見えた。妙に黒く、てかっていた。
闇のように黒いゴムだった。
わたしは大黒を突き飛ばし、入口めがけて走った。犬が吠え立てて追いかけてくる。部屋を出てドアに飛びついた。犬は上着に食いついた。上着に犬をぶら下げ、引きずりながらなおも走った。猟犬にしては小型ながら、重かった。走りながら粘着テープをはがし、はずみで転んだ。犬はわたしの背中に前足を乗せ、耳が壊れるほどの音量で吠え猛っている。
大黒が近づいてきた。髪をつかまれて引きずり起こされ、あらがうひまもなくマスクをかぶせられた。首の後ろでかちっと音がした。
マスクが持ち上げられ、皮膚がひきつれた。よろめきながら立ち上がった。視界が狭い。世界が暗く見える。息ができない。大黒がなにか言っているが聞こえない。上に引っ張りあげていた力が弱まり、わたしはまたしても地面に倒れた。倒れながら顔をかきむしった。首とマスクの間に指を入れ、引きはがそうとした。針金が気管を圧迫し、咳き込んだ。首の後ろに手をやった。南京錠らしきものが指にふれた。
大黒がまたしてもなにか言った。聞きとれない。マスクはぺたりとわたしの顔に密着し、目の縁から指を入れようとしても入らない。
再びマスクをつかまれて引き起こされ、青虫色の車まで連れていかれた。トランクに放り込まれ、ドアが閉められた。暗くなった。暗い──耐えられない。息ができない。
わたしは暴れた。精一杯あちこち蹴飛ばして、暴れた。無駄な抵抗をして体力を消耗してはいけないとじゅうぶん理解しているのに、心が言うことをきかない。
やがて、車が一度、大きく揺れた。大黒が乗り込んだのだろう。エンジンのかかる音がして、車が動き出した。
なにも考えられず、ひたすら両足でドアを蹴った。鼓動が爆発しそうに激しい。じっとしていられない。口で呼吸ができない。意識が遠ざかっていく。だが、気絶することもできない。わたしをとらえている感情はひとつだけ。怖い、怖い、怖い。
もはや正常の域を踏み越えてしまったのかもしれない……。
揺れているのが車なのか自分なのか、その区別すらつかず朦朧となった頃、車が停まった。トランクが開き、わたしは引きずり出された。ずいぶん長い間引きずられていたが、やがて大黒がしゃがみこんで、マスクをぐいと持ちあげた。
「ずいぶん暴れてたな、え?」
目と同じ高さに大黒の目があった。声は水のなかで聞いているようにぼやけている。
「前に閉じ込めてやったときは、あんなにおとなしかったのに。悪いうさぎだ。こんなところで暴れてちゃ、逃げられなくなるぞ。それじゃハンティングがつまらなくなるじゃないか」
突き倒された。
「狩りは日没後に始める。目印をつけておこう」
シンナーの臭いがした。わたしは忙しく首を振って、大黒がなにをしようとしているのか見極めようとしたが、見えなかった。大黒は笑った。
「心配すんな。このうさぎは俺が必ず仕留めてやる」
ぽんぽんと頭を叩き、大黒は大股に車へと戻っていく。わたしは必死に起き上がり、車の後ろめがけて走った。
大黒が助手席からなにかを取り出し、振り返った。わたしは立ち止まった。彼はにやりと笑って追いかけてくる。わたしはくるりと回れ右をして逃げ出した。
大黒がなにかを投げつけた。わたしの頭上を越えて、その先にそれは落ちた。立ち止まった。振り向いた。そのときには大黒は再び運転席に乗り込むところだった。
「待って」
よく動かない口で言った。だが次の瞬間、青虫色の車は走り出した。みるみるうちに距離が広がっていき、やがて車の姿は見えなくなり、音も聞こえなくなった。
走るのをあきらめて、しゃがみこんだ。
しばらくはその場から動けなかった。
疲れきっていたし、口で息ができなくてひどく苦しい。
吹き出ていた汗がいったん静まると、今度は寒くなってきた。このままここで動かずにいて撃ち殺されたほうがましなのじゃないかとさえ思う。
そのうち完全に日が暮れる。森のなかで、真の闇がわたしを襲う。そうなったらもう、逃げ場はない。どこにもないのだ。
手を地面について、起き直った。めまいをこらえながらゆっくりと立ち上がる。とりあえず、車が走り去った方向へ行こうと考えて、それはまずいのではないかと考え直した。大黒だってわたしがそちらに向かうことは読んでいるだろう。待ちぼうけの歌みたいに、出口で鉄砲かまえて待ってればうさぎが飛んでくる、と思っているかもしれない。だが逆に、奥へ奥へとわたしが逃げ込むと予測しているかもしれない。
どっちがいいか。
森のなかでのサバイバル法などわたしは知らない。奥へ逃げて、ハンターたちに見つけられずにすんだら命拾いをするというものでもない。平義光が警察を連れて別荘へ行きミチルを助け出すのは、そう先の話でもないだろう。もしかしたら野中と大黒がハンティングに出発する前に、警察が彼らの身柄を押さえてくれるかもしれない。長谷川所長だって、いくらなんでも今日くらいはパチンコに行かずに事務所にいて、采配をふるってくれているはずだ。
誰かが助けにきてくれるまで、生きのびる。そう決めた。
怖いのは銃弾よりも暗闇だ。さ迷って体力を消耗すること。喉の渇きや空腹に耐えられなくなること。
日のあるうちに、できるだけ早く、公道に出よう。
大黒が投げたものに近寄り、拾いあげた。かなり大きなサイズの赤いアノラックだ。寒さでわたしが動けなくなると狩りがつまらなくなる──やつは本気でそんなことを心配しているらしい。
小脇に抱え、下を向いて歩きながらタイヤ痕を探した。マスクがひどくうっとうしかった。何度も手で引き裂こうとしてみたが、そのうちやめた。日のあるうち、まだ明るいうちに、ひとのいるところに出なければ──。
まっすぐな山道をどれほど歩いただろう。不意に道が二手に分かれた。ひとつは下っていて、右側は登っている。どちらも車が通れる幅があり、どちらにも車がつけたとおぼしき跡がある。はっきりと見極めたくてもすでに日が落ちて、視界がきかなくなってきた。
トランクに放り込まれただけで、あれほど冷静さを失ったことを悔やんだ。車の動き、向き、そういったものにもっと注意しているべきだったのだ。ゆっくりと、夜が訪れようとしている。高く生い茂った樹の影が、わたしをますます混乱させた。
どうしよう。下るか、登るか。
下ればいずれ人家か公道に出るかもしれない。だがそれまで、どれくらい闇のなかを歩き続けなければならないかまったくわからない。暗闇が怖くなくたって、懐中電灯はおろかライターすら持っていないのに、足をくじかずに下りていく自信はない。ましてやパニックに陥って走り出しでもしたひには、間違いなく転んで脚を骨折するか、頭を石にぶつけて割る。
反面、登ればおそらく、公道からはますます遠くなるだろう。ミチルが助け出され、大黒が捕らえられ、わたしが山中に置き去りにされたことが判明し、救助隊が組織されて出発したとしても、登ったことでその救助隊と出会う可能性は低くなる。
考えているうちにも、どんどん暗くなってきた。
半ばやけになってわたしは決めた。
登ろう。
月が見えるかもしれない。下へ向かうよりは明るいはずだ。救助隊と出会えないかもしれないが、ハンターに出会うこともなくなりそうだ。だいたい、這って登ることはできるだろうが、這って下りることはできない。
意を決して登り始めた。手がべとついていた。汗だと思ってアノラックにこすりつけたとき、妙な臭いがした。手のひらを目の高さまで持ちあげた。
光っている。
蛍光塗料だ。大黒が目印をつけると言っていたのはこれだったのか。あの男は、うさぎの頭に塗料を吹きつけていったのだ。
ざまあみろ。
なにも知らずにわたしを助けるなんて、バカ野郎。いい気味だ。
わたしは暗闇が怖いのも、口で息ができない苦しさもつかのま忘れた。
アノラックを腰に巻いた。目をこらし、足場を確認しながら登った。そのうち、マスクをしたまま呼吸するコツが飲み込めてきた。吸い込むのは鼻、吐き出すのは口。口から吐き出した息は頬のあたりを伝って、目の縁から外へ抜ける。くすぐったかったが、じきに慣れた。
それにしても、うさぎのマスクをかぶって山登りする女は初めてだろう。
笑いかけて、やめた。無駄に呼吸する力はない。
おまけにおそらく、水地佳奈と滝沢美和は、絶対におかしいとは思わないだろう。
どれくらい登っただろうか。日は完全に落ちた。もう、ほとんどなにも見えなくなっていた。梢がとぎれると、その隙間からのぞく空が白く濁って見える。道には棒のようなものが見えたり、石のようなものが見えたりするが、距離感すらつかめない。
暗くなっていく。暗闇に閉じ込められる。
冷や汗が吹き出てきた。足がふらついた。口で呼吸できずに苦しいのか、不安の発作で苦しいのか、それすらわからない。急がなければ、と思った。まだほんの少し進んだだけなのだ。頂上に到達する前に壊れてしまうかもしれない。
がむしゃらに進もうとして、転びかけた。周囲を見回した。手頃な長さの枝が落ちていた。拾い上げ、すがりつくようにしながら登った。道は狭くなり、急になったかと思うと、広くなり、緩やかになった。
汗が吹き出ていたが、同時にひどく寒かった。アノラックをはおり、前をしっかりとめた。自分がどれほど疲れているか、見当もつかなかった。頻繁に休んだ。気がついたら一歩も動けなかった、などということにはなりたくないから頻繁に休んだが、休むとまた震えが襲ってくる。
三度目の休みをとりながら、じっと手を見た。
光っている。心がなごむ。まさか蛍光塗料に癒し効果があるとは。
暗闇が怖いにかわりはなかったが、光っているものを見るだけで驚くほど落ち着けた。
それにしても、口で楽に呼吸できないというのがこれほどつらいとは予想だにしなかった。
マスクに口が開いていないのは、うさぎが悲鳴をあげたり助けを呼んだりできないように、というためなのだろうが、同時に動きを制限する目的もあったのかもしれない。こんなものをつけていては、全力疾走は不可能だ。
水地佳奈はいったいどの時点で、自分が遊びの〈ゲーム〉ではなく、正真正銘の〈獲物〉だと気づいたのだろう。
滝沢美和はいったいいつ、父親が自分を撃とうとしていることに気づいたのだろう。
座って考えているうちに、わたしは無意識に口を包み込んでいる柔らかい、けばだった布を指でむしり始めていた。びりっという感触が伝わってきて、初めて自分のしていたことに気づき、驚いた。
布の一部が破れた。だが、内側のゴムはまだだ。爪を立てようとしたがはじかれた。ゴムはそう簡単には破れそうもない。
無駄な体力を使うな。わたしは自分を戒めた。だが、あのくそったれの大黒がこのマスクを嬉しそうに手作りしている姿を思い浮かべると、我慢できなかった。指でゴムを口の内側に押し、前歯を食い込ませた。ゴムの臭いと感触に、吐き気を催した。まずい。ここで吐いてしまったら、それこそ自分の嘔吐物で窒息する。
胃をさすり、手のひらを眺め、落ち着こうとした。横たわってじっとしていると、風が吹いて木立がざわざわと鳴り、すぐ脇をなにか小動物が走り去っていった気配を感じた。わたしは鼻でゆっくりと何度も深呼吸を繰り返し、もう一度ゴムに前歯を食い込ませた。ぎゅっと噛んで、何度も歯を擦りあわせた。
前歯が疲れると、今度は糸切り歯を使った。指で押して、ここぞという場所に食い込ませ、こすりつけた。
これは無理だ、とあきらめた瞬間、ぷちっと小さな音がして、歯がゴムを突き抜けた。わたしはやっきになって舌でゴムを押して歯をはずし、穴に指を押し入れた。穴は少しずつ大きくなり、親指が通るほどになった。両手の指を入れて、上下に引っ張った。なんとか口が出るくらいの穴になった。
有頂天で呼吸を繰り返した。多少ゴム臭かったが、たいした問題ではない。あのとき逃げ出して、粘着テープをひっぺがしておいて、本当によかったとしみじみ思った。粘着テープで口をふさがれ、かつマスクをかぶせられていたら、それこそ穴を開けるのは不可能だったはずだ。
立ち上がって、また登り出した。ゆっくりと前へ進んだ。登っているはずの道は時折下り、また急な登りになる。頂上なんてもの、本当にあるのだろうかと思った。
その瞬間だった。ばきっと音がして、杖代わりにしていた枝が折れた。前方に投げ出され、反射的に顔をかばった右腕を地面に強打した。慌てて足を踏ん張ったが、それが頼りなく滑った。悲鳴をあげるまもなく、わたしは山道を落ちた。
しばらく気を失っていたらしい。我に返ると腹をかばい、頭をかばい、丸くなって斜面に横たわっていた。
血の味がした。顔を横にむけて唾を吐いた。唾はとろりと顔の脇を流れ、わたしはそっと手をあげてそれを拭った。
暗闇がわたしを包んでいた。なにも見えなかった。手も、足も、地面も空も。
全身が震え出した。めまいがして、頭が重い。どうして気絶したままでいられなかったのだろう。どうしてこんなところにいるんだろう。みのりの言う通り、探偵なんて仕事をやめて、適当なオトコを見つけて結婚するなり、もっと楽な仕事につくなりすればよかったのだ。そうすればこんなところでのたれ死にしなくてもすんだはずなのに。
死ぬ?
山道から少し転げただけで。暗闇が怖いというだけで。
ちょっと待て。
いくらなんでもそれは、なんというか──バカバカしい。
わたしは大きく息をついて、身体を起こした。全身くまなく痛んだが、我慢できないほどの痛みではない。おそるおそる立ち上がった。右足の甲が再び不吉な脈動を伝えてきてはいたが、要するに足がなくなったわけではないらしい。
手探りで、もう一度歩き出した。
杖なしで歩くほうが疲れるが、安心感は強かった。登り続けた。下りにさしかかると休んで、ポケットにしまっておいたチョコバーを半分食べた。手が草で濡れたので、その手をなめた。子どもの頃に読んだインチキくさい科学雑誌の記事を思い出した。砂漠で遭難した場合、サボテンを探すといい。サボテンを割ると、中には水分がたっぷり詰まっている。
山のなかにサボテンは生えていそうもない。
幾度となく、下ったほうが正解だったのではないかと考えた。水があるのは下のほうだろう。そういう考えが脳裏をよぎるたびに、いまさら遅いと自分に言い聞かせた。沢につきあたり、身動きとれずに凍えるよりはいまのほうがいい。そのはずだ。
いつのまにか四つんばいになっていた。そうしなければ登れない。手の蛍光塗料が剥げて、薄れていく。樹はますます生い茂り、空も見えない。ときどき、びっくりするほど近くから、恐ろしい叫び声のようなものが聞こえてきた。絶滅したと思われていた獣を、この期《ご》に及んで発見したりしませんようにと祈った。
何度か急いで進もうとして転びかけ、膝を打った。右足の甲の痛みが執念深い亡霊のように甦ってきた。蛍光塗料は消えかけている。自分の激しい息づかいと、アノラックがかさかさと鳴る音だけが響く。
涙と汗と鼻水がどっと出てきた。暗いんじゃない、とわたしは自分に言い聞かせた。涙で前が見えなくなっているだけだ。
膝ががくがくと震えている。筋肉疲労で震えているのか、恐怖で震えているのか、それすらわからない。ここから出たかった、出口がないのはわかっていたが、それでも出たかった。
「落ち着け、落ち着け、落ち着け」
いつしかわたしは口に出して呟いていた。その声に励まされるように、登った。目をつぶって休み、残りのチョコバーをたいらげた。カカオの香りが緊張をほぐしてくれた。大丈夫だ、と思った。大丈夫、登り切れる。頂上にたどり着ける。
そう言い聞かせる段階すらすぎて、やがてわたしはただただ機械的に四肢を動かすようになった。なにも考えず、上へ上へと自分を引きずりあげた。上へ、闇から逃れるために、上へ。月のある場所、光のある場所へ。
その願いは、まったく不意にかなえられた。気がつくとわたしは、大きな岩にもたれかかっていて、頭上をすっぽりと覆っていた樹と、樹の作り出す底知れぬ闇の外へと出ていた。風が身体を打ち、髪を巻き上げ、汗を奪い取っていく。濃厚な緑の匂いだけがうず巻く、あっけらかんと空虚な場所に、わたしはへたりこんでいた。
風を避けて、岩の陰に座り込んだ。
空が、うさぎのマスクの目の穴越しに、広がっていた。
わたしはゆっくりと頭をめぐらせた。
まだ、まぶしいとはいえぬ細い月。
満天にちりばめられた星々。都会の空では絶対に見落としようのない一等星でさえ、ここではあまりの数の星に埋もれて、どれがどれともわからない。
ひとつひとつの星の光はどれもあるかなしか、ほんのささやかな光だった。太陽、いや蛍光塗料とさえくらべものにならないほどの小さな光の点だった。
だが、満足だった。わたしの目と心にはじゅうぶんに明るい。
星は夜空を満たすと同時に、わたしを満たしてくれた。
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前哨戦再び
東京に戻ったのは、それから三日後のことだった。翌朝、日が昇るとほぼ同時にわたしは救助隊に発見され、無事に下界へと連れ戻された。
自分では大冒険を成し遂げたいっぱしのヒーロー気分でいたのだが、後で聞くと、わたしが登った高さはせいぜい五百メートルほど。小学生の頃遠足で行った、高尾山より低い山を息も絶え絶えに登っただけだったのだ。それでも、全身あざだらけでかつぎこまれた地元の病院で、わたしはたいへんな人気者だった。なにしろ地元の消防団と警察の合同救助隊が最初に見たのは、赤いアノラックを着て手を振っているうさぎだったのである。救助隊に参加した人々は、孫子の代まであの光景を語り継ぐ、と言ってくれた。
わたしが大黒に連れ去られてすぐ、野中則夫が別荘に到着した。そのときにはもちろん、ミチルはわたしの携帯電話を使い、警察に連絡していた。野中は警察の到着を知ると、ミチルを檻ごと部屋の隅にあった床下収納庫へ押し込み、そのうえに毛皮を敷いて、そ知らぬ顔で警察と平義光とを出迎え、家に入れた。滝沢喜代志の別荘に閉じ込められている、助けて、という通報を受けていた警察は、もちろん別荘をしらみつぶしに捜索したが、ミチルは見つからない。勝ち誇った野中は平義光に面と向かって、あのお嬢さんは母親の影響で頭がいかれてるんだとまで言い放ったそうである。
床下から携帯電話の着信音が聞こえてくるのに気づいた瞬間の野中則夫の顔を、わたしも見てみたかった。
大黒重喜は警官が呼んだ応援部隊が到着する前に別荘に戻り、事態に気づいてそくざにハンドルを切って逃亡したが、数時間後には検問に引っかかって逮捕された。
平義光はすべてを警察に話した。二八会のメンバー全員が警察に任意同行を求められ、まずは平と同じくハンティングを避けるようになっていた新浜秀太郎が、〈クマ〉を追った顛末を自供した。もっとも彼は平義光とは違い、最初のうちはマンハントに興味を抱き、実行推進におおいに賛同したらしい。だが、実際に撃ち殺された人間の死体を見て、恐ろしくなってしまったという。この新浜の反応が他のメンバーにも微妙な影響を与えたことから、大黒が獲物──ゲームにマスクをかぶせることを思いついたらしい。
やがて、他のメンバーたちも徐々に口を開き始め、最終的には滝沢喜代志以外の全員がすべてを白状した。最後まで粘っていた大黒重喜の自供によって、山中に埋められていた水地佳奈と滝沢美和、それに身元不明の中年男性の死体が発見された。
捜査の詳しい内容は、わたしも知らない。武蔵東署の速見お粗末、じゃなかった、治松刑事と柴田要は忙しくなり、事件についてなにか聞き出すどころか、会うことすらままならなくなった。だからわたしが知っているのは、その後半月余りもマスコミを騒がせた、その報道による〈事実〉である。
マンハントを言い出したのは、野中則夫だった。彼はアメリカで実際にマンハントに参加したといい、ひとを撃ち倒す快感をメンバーに語り聞かせた。自分の領域内ではなにをしても許されると思っていた滝沢喜代志と、大黒重喜がそれに同調し、他のメンバーたちも「半ば冗談だと思って」それに従った。
〈クマ〉は大黒が見つけてきたホームレスの男だった。彼は──それから、後には水地佳奈や滝沢美和も──大黒の説明を聞いて、これを本当にただのゲームだと思い込んだ。山のなかの猟場を逃げ回り、二日間逃げきれば二百万円もらえる、追う側が使用するのはペイント弾だ、という説明だったらしい。これではちょっと度胸のある人間なら試してみたくなるだろう。使われているのが実弾だと気づいたとき、その男は怒り狂って追手に襲いかかってきたという。そして野中に散弾を浴びせられ、殺された。
野中則夫は警察の取り調べに、たまたま水地佳奈の存在を知ることがなければ、マンハントはあれ一度でやめただろう、と言ったそうだ。
辻亜寿美が開いた美和の誕生日パーティーで、ミチルのアルバムを眺めているとき、物怖じしない柳瀬綾子から、写真の人物についてあれこれ説明をされたそうだ。母親の墓を建てるための金を欲しがっている、一人暮らしの若い娘──わたしの推測通り、野中は水地佳奈を天涯孤独の境遇と思い込んだ。大黒を差し向け、狩猟のゲームにならないかと誘わせた。佳奈は綾子の名前が出たことですっかり心を許し、かつ、自分の才覚で大金を手に入れられるというので乗り気になった。山中を逃げ回る、ということがどんなことか、その危険性を認識していなかったわけではないだろうが、浴びせられるのがペイント弾だということで、命の危険までは心配しなかったのだろう。
水地佳奈は別荘に連れていかれ、翌日の昼、マスクをかぶらされてわたしが連れていかれたのと同じ地点に放置され、ハンティングが始まった。ただ、佳奈が出発前、ちらと漏らした「部屋に友達へのメッセージを残してきた」という言葉が、野中と大黒を怯えさせた。どうせ天涯孤独の人間だ、追いかけてくる家族はいないのだ、と思った彼らは、水地佳奈の痕跡を消し去ることにした。マンションを解約し、荷物を捨て、パソコンや日記の類だけを運び去った。滝沢美和のものだったそのパソコンは、滝沢の別荘から発見され、押収された。つけ加えると、警察が押収したもののなかには、例のうさぎのマスクが他に五枚ほどあったそうである。
誰も佳奈など探しやしない、そう高をくくっていた彼らを、滝沢美和が追いつめた。彼女は水地佳奈の足取りを根気よくたどり、やがて野中則夫に目をつけた。母親を騙しているのではないか、という疑いをも持っている彼女を、野中はそのまま放置しておけなかった。大黒に始末を命じた。だが、大黒はハンティングならいくらでもするが、人殺しは絶対にごめんだと言い張った。
ならば、というわけで、野中は言葉巧みに滝沢美和を〈ゲーム〉に誘った。水地佳奈も同じゲームに参加した。だが、あれで死ぬことは絶対にない。彼女は二百万受け取って、浮かれてどこかへ遊びに行き、そこでなんらかの事件に巻き込まれたのではないか。若い娘が二百万も持っていれば、悪いやつに捕まる可能性はある。〈ゲーム〉そのものは佳奈の失踪とは無関係だ。その証拠にきみのお父さんも参加してるんだ。こっそり、美和ちゃんも参加してみるか?
滝沢美和はその言葉に乗せられて、五月三日、大黒の運転する車で福島に行った。そこが自分の父親の所有する別荘だということも、彼女を安心させたのかもしれない。だが、そこで彼女は信じられないものを発見する。佳奈の部屋から消えた自分のパソコンだ。
大黒はミチルにしたように美和を縛り上げて檻へ押し込め、一昼夜をすごさせた。そして野中が滝沢や他のメンバーを誘い出している間に、美和にマスクをかぶせ、山中に置き去りにした。滝沢喜代志が美和を撃ち殺すことになったのは、彼が功を焦っていたというだけの偶然なのか、わたしには疑問だ。
柳瀬綾子が小島雄二に殺された顛末にも、想像通り野中がかんでいた。あの事件で彼の思惑が狙い以上の効果をあげたことで、野中の自信は最大限に膨れあがったのだろう。自殺しろと言わんばかりに辻亜寿美を切り捨てたのも、亜寿美の財産を手に入れるために美和の贋者をでっちあげる作戦を立て、かつ滝沢喜代志を巻き込んだのも、そんな自信の現れだったのだ。野中則夫はお得意の弁舌で、主犯の座を大黒や滝沢に押しつけようとしているらしい。滝沢喜代志といううってつけのスケープゴートがいることでもあるし、ひょっとすると、成功するかもしれない。亜寿美の遺骨を持ち帰ったその晩、滝沢喜代志は猟銃をくわえて足の指で引き金を引いたのだと聞いた。
マスコミには、よくもこんなにいるものだと感心するほどの数の、精神病理学者、精神科医、心理カウンセラー、犯罪心理学者等々が登場し、色とりどりの解釈を披露に及んだ。コンプレックスや歪んだエリート意識、大黒重喜にいたっては、子どもの頃の両親の離婚から作文まで持ち出され──ひどいことに、平満の誘拐殺人までが掘り起こされ──、なにもかもが明るみに出され、きれいさっぱり日の光にさらされてしまったかに見える。
あげられたさまざまな心理学的な理由や動機、そのどれもが正しいのだろう。滝沢喜代志の複雑な劣等感と優越感。野中則夫の男性優位主義、いや自己優位主義。大黒重喜の失業と妻に捨てられたことから生まれた、自信喪失と歪んだ性欲。メンバー全員が持っていたエリート意識、自分たちがこれほどがんばって理想に燃えて努力しているのに、ひたすら現実に追われる日々、そしてその日々に少しも終わりが見えない焦燥感。
わたしの意見を言わせてもらえば、あの二八会のメンバーは子どもだったのだと思う。人間どんなにえらくなろうと、大金、すばらしい容貌、人気、幸福を得ようと、どんなに努力して社会を改善し、功績を残そうと、全世界から大絶賛されるなんてことはありえない。誰しも食べて寝て排泄して、ささいな問題にふりまわされる日常から逃れることもありえない。そんなごく単純な真理が飲み込めなかった、哀れな子どもだったのだ。
東京に戻った翌々日、わたしは荷物をまとめ、間違ってもマスコミに捕まったりしないようにという長谷川所長の配慮に従ってとんずらし、山奥の温泉に十日ほど滞在した。事件の報道がひと段落して戻ってきた頃には、東京は梅雨入り間近で肺のなかまで蒸気におかされているような気がするほどの陽気になっていた。
「あーら、葉村ちゃん、お帰りなさい」
にこやかに出迎えてくれた光浦功は、羽根のピアスを色違いに変えていた。なぜかわたしの部屋のドアと階段の手すりの色まで塗り替えられていた。
「どうして青にしたの」
「落ち着くと思って。この色、嫌い?」
「いや別に。嫌いじゃないけど」
「あ、そうそう。葉村ちゃんが留守の間に、ミチルちゃんから手紙もらったわ。元気そうね」
わたしは一瞬、返事ができなかった。平ミチルは一度だけ入院先の病院に顔を見せた。ぶっきらぼうに、助けてくれてありがと、とだけ言うと、父親に引きずられるようにして去っていった。湯治中、幾度となくミチルに手紙を書かなければと思ったのだが、いったいなにをどう書いたらいいのかわからず、そのままになっていた。
これはけっしてわたしのせいではない──それは重々承知しているのだが、わたしの調査の果てに、平家は完全にばらばらになった。ミチルは長野にいる貴美子の姉のもとに引き取られ、平義光は──情状酌量の余地があるとはいえ、殺人の事後従犯の罪で起訴され、勾留中。会社も辞めたはずだ。そして貴美子は入院した。退院の見込みはたっていない。
「さっきねえ、郵便屋さんがあんたに小包を届けに来たわよ」
光浦はにんまり笑って、背後にまわしていた手を突き出した。受け取って、差出人を見た。ミチルからだ。
階段に腰を下ろして開けてみた。中に入っていたものを見て、わたしは思わず笑い出した。それは小さな、うさぎのかたちをした常夜灯だった。
「あら、かっわいい」
光浦が黄色い歓声をあげ、間が悪そうにわたしを見た。
「アタシがミチルちゃんに手紙で知らせちゃったのよ。葉村ちゃん、あの監禁事件で暗闇恐怖症になって、大変だったって。──悪いことしたかしら」
小包には一行だけの手紙がついていた。
これが葉村さんを助けてくれると思います。
助けてくれる、か。
わたしはうさぎをにらみつけた。うさぎは丸い、とぼけたような目を見開いているだけだ。
「ねえ、怒ってるの?」
「怒ってないよ。ありがとう」
光浦はしなを作り、スキップしながら去っていった。後ろ姿を見送って、わたしは部屋に入った。見慣れた部屋がまるで知らない空間のように映った。
窓を開けて空気を入れ替え、掃除をし、洗濯をした。買い物に行って戻ってきたとき、携帯電話に着信があった。長谷川所長からだった。
「骨休めはどうだった?」
パチンコの騒音を背景に、所長は怒鳴っていた。
「おかげさまで、すっかり生き返りました」
「そりゃよかった。柴田から、聞いたか」
「牛島潤太のことなら、先日電話をもらいました」
わたしはにやにやと笑いながら答えた。牛島潤太はわたしに復讐しようと、数日間考え抜いた末、自分で階段から転げ落ち、葉村晶にやられたと警察に通報したそうである。あいにくわたしはそのとき、福島県内の病院に担ぎ込まれたばかりで、完璧なアリバイが成立した。おまけに牛島は階段から落ちた──というよりは飛び降りたはずみで、左脚の皿を粉砕骨折したそうだ。
「村木が心配しとったぞ。葉村がとんでもない結婚詐欺師とつきあってるらしいって」
「いえ、その話は……」
「まあ、カタがついたようでなによりだ。世良松夫の婆さんも入院中にすっかり気弱になったそうだし、今度なにかしでかしたらただじゃすまないと、久保田社長をよくよく脅しといたから、ま、大丈夫だろう」
「それはよかった」
「よかったといえば、葉村がいない間にもうひとつ、いいことがあってな──おっ」
所長の言葉がとぎれた。じゃらじゃらとけたたましい音が聞こえているところから、どうやら大当たりが出たらしい。電話から、しばらく所長の怒鳴り声がとだえた。わたしは麦茶を作り、米をとぎ始めた。炊飯器をセットした頃、電話口に所長が戻ってきた。
「いやあ、大フィーバー──って、なんの話をしてたんだっけ」
「わたしがいない間に、大当たりを出したって話でしょ」
「違う違う。あのな──そうだ、村木が結婚するんだよ」
「は? 誰が」
「だから村木義弘が」
「誰と」
「なんでも行きつけのバーのママさんだって聞いたぞ。むこうは子持ちの再婚なんだそうだ」
あ、あれっ?
「──それはおめでたい話ですね」
「結婚祝いになにかやらんとならんが、どんなものがいいか、相談しようと思ってたんだ。明日、オフィスに来てくれないか。仕事もあるし」
「仕事?」
「素行調査。集合は十時。やるか。それとも温泉ボケしてとうぶん働きたくないか。辻亜寿美の調査料がたんまり入ったことだし、寝て暮らしてたっていい。ただ、ちょっと特殊な調査なんで、一日三万保証できるんだが」
「やります」
即答して電話を切った。奇妙な感情がいろいろと起こった。面白くないという気分が大半を占めていたが、結局のところ、わたしは笑った。まったくもう。柴田のやつ、覚えてろよ。でもまあ、考えてみれば、牛島潤太を襲ったのが村木だったら少々の怪我ですむわけがない。火葬場前の駐車場で桜井が言いかけていたことを考えあわせると、牛島を襲ったのは桜井のクライアントだったのだろう。
ちえっ。
まだ明るいうちに食事を終えて、ミチルに手紙を出しに行った。金属が入った少し重い手紙になったので、切手をしこたま貼りつけた。ついでにメロンを買って、部屋に戻った。
寝る直前、携帯電話の留守番電話サービスにメッセージが残っていることに気がついた。みのりの不自然にうわずった声がした。
「えーと。あたしはまだ死んでないよ。えーと。またね」
うさぎの常夜灯をコンセントに差し込んで、他の電灯を消した。ベッドの脇で、うさぎはまるまると太って鈍く光っていた。助かるよ、ミチル。そう思った。わずかな光さえあれば、わたしは生きていける。目を閉じた。
しばらくしてからわたしは起き上がり、ベッドサイド・スタンドのスイッチをひねってあたりを明るくした。
いくら暗闇恐怖症を克服しなきゃならないといったって、怖くて眠れないんじゃ明日の仕事に差し支える。
めざまし時計をチェックして、電灯に顔を向けてもう一度、目を閉じた。
単行本 二〇〇一年十月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十六年七月十日刊