[#表紙(表紙.jpg)]
若竹七海
依頼人は死んだ
目 次
冬の物語 濃紺の悪魔
春の物語 詩人の死
夏の物語 たぶん、暑かったから
秋の物語 鉄格子の女
ふたたび冬の物語 アヴェ・マリア
ふたたび春の物語 依頼人は死んだ
ふたたび夏の物語 女探偵の夏休み
ふたたび秋の物語 わたしの調査に手加減はない
三度目の冬の物語 都合のいい地獄
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冬の物語
[#小見出し] 濃紺の悪魔
1
十二月とは思えないほど、暖かい一日だった。そのせいか、雲が低くたれこめていた。いまにも降り出しそうでいながら、雲はただ新宿をすっぽりと覆っていた。
わたしはついに一日中持ち歩くことになってしまった革のコートを持ち替えながら、住友ビルの最上階にあるラウンジに入った。なにか勘違いしたらしいウエイターが「お待ち合わせですか」と低い声で尋ね、うやうやしく窓際の席にわたしを案内し、うやうやしく椅子を引いてくれた。すばらしい夜景が眼下に広がり、恋人たちは平凡きわまりない本来の姿をひととき忘れ、映画かドラマの登場人物になりきって、陶酔の数時間をすごす……たぶん、いつもならば。あいにくそのとき窓ガラスの向こうに見えるのは、どす黒い雲ばかりで、かろうじて向かいの高層ビルの赤いライトだけが、ぼんやりと灯って見えた。
あんな高い場所にあるライトにも蛾が集まってくるのだろうか、と運ばれてきた水をすすりながら考えた。レモンの味のする水だった。わたしはレモンの味のする水が大嫌いだ。
十五分ほどしたところで、所長がやってきた。
わたしは葉村|晶《あきら》という。性別・女、現在無職。以前は、長谷川探偵調査所という零細な探偵社に勤めていた。職を転々とし続けている人間にしては驚異的なことに、この探偵社には約三年も在籍していた。理由はいくつかあった。好奇心を大いに満たしてくれたこと、だんだん仕事が面白くなっていったこと、ある程度の金が手に入ったこと。そして、この長谷川所長。
彼は常に眠そうな顔をしていて、パチンコが好きで、淡泊で冷静な人柄だった。いったん部下に仕事を任せると、後は本人のやりたいようにやらせてくれ、責任問題が生じたときには所長の名において責任をとってくれた。三年ばかりの短い期間だったが、所長の部下にしてもらえたことは、わたしのささやかな自信の源になっている。
所長は、よう、というように片手をあげて、隣の席に滑り込んできた。全身から煙草の臭いが立ち上った。本人は何度も禁煙に挑戦しているのだが、パチンコ店で長時間|燻《いぶ》されるので、吸おうが吸うまいが結局は同じことなのだ。
「注文はすんだ?」
「はい」
「よし」
所長はおしぼりで手を拭きながら窓の外を眺め、苦笑いをした。
「曇天割引にしてほしいところだな。──ところで」
彼は重いまぶたを半分だけ持ちあげて、わたしを見回した。
「もう落ち着いたかな」
わたしは無言で肩をすくめた。長谷川探偵調査所に在籍していた当時、わたしは二度ほど殺人事件と関わったことがあった。探偵社の仕事が殺人事件に行き着くなんてことはめったに起こらない。その〈めった〉が、一年半に一度の割合で起こった。それが所長のせいでなく、他のスタッフのせいでもなかった証拠に、ここをやめた途端、今度はわたし自身が殺されかけたのだ。実の姉によって。
ショックでなかったと言えば嘘になるが、その珠洲《すず》という姉はどうしようもないろくでなしで、いずれこんなことになるのは目に見えていた。珠洲は逮捕直前に自殺を図って失敗し、運ばれた病院で二度挑戦してようやく成功した。彼女を気の毒に思うべきなのはよくわかっていたが、二度目の失敗の後に、
「晶が死んでくれていたら、わたしはこんなことしないでもすんだのに」
と言っていたと親切な刑事に教えてもらって以来、悩むのをやめにした。
上のふたりの姉には、そういうわたしの気持ちが理解できないらしい。彼女たちはわが家の黒い羊である三番目の姉が生きていたときにもそうしていたように、死んだ後も珠洲をわたしに押しつけてきた。あんたがもっと珠洲ちゃんに親身になってくれていたら、わたしたちが外聞の悪い思いをせずにすんだのに、というわけだ。珠洲がうろついていたおかげで、わたしがまともな職につけなかったことや、まともな家財を持てなかったこと──珠洲には金がなくなると、わたしの部屋からいっさい合財持ち出して売り払うという癖があった──、彼女をなんとかしてほしいという頼みにまったく応じてくれなかったことなどは、本人の死とともに葬り去られた。
この殺人未遂事件の顛末《てんまつ》やその後の家庭内のごたごたを、所長はすべて知っているわけではない。所長のことだから知っていてもおかしくはないが、口に出したことはなかった。このときも彼は、飲み物が運ばれてきたのをしおに、話題をすぐに事件からそらした。
「葉村くん、きみ、いま、なにやって食ってるんだ?」
「ここしばらく、仕事についている暇はありませんでした。本屋の棚卸しの手伝いや、雑誌に穴埋め記事を書くことで食いつないでるところです」
「で? これからどうするんだ?」
「考えていません」
所長は思わせぶりなまなざしをわたしに注いだ。
「葉村くん、きみ、いくつになったかな」
「来月で二十九です」
「正社員になるのなら、ぎりぎりというところだね」
「そうでしょうね」
「他人事みたいだね」
「正社員になるなんて考えたことが、ないものですから」
所長は喉の奥でぐつぐつと聞こえるような音をたてた。笑い声だと気づくまでに、少々時間がかかった。
「もったいぶっても仕方がないから、率直に言わせてもらいます。葉村くんに戻ってきてもらいたいと考えているんだよ。うちのような零細企業でも、このところ大手から回してもらう仕事以外に口コミでやってくる依頼人が増えてね。慣れた女性スタッフがどうしても必要なんだ」
所長から呼び出しがあったとき、そういう話になることは想像していた。わたしが長谷川探偵調査所をやめたのは、珠洲が給料の前借りに行くことをほのめかしたからだった。所長にもスタッフにも、もちろん仕事そのものにも、なんら不満はない。
わたしはもうすぐ二十九になる。世の中の景気はいっこうによくならないし、職を転々としてきたおかげで知識だけは増えたが、自慢できるほどではない。無能とまでは思わないが、有能というほどでもない。不細工とは思わないが、平凡な容貌だ。セールスポイントは貧乏を楽しめること。口が固いこと。体力があること。百人いれば、そのうちの三十人くらいにはあてはまりそうな売り文句だ。要するに、長谷川探偵調査所以外の会社がわたしを雇いたがるとはとうてい思えなかった。
「そうおっしゃっていただけて、感謝してます」
「ということは、戻ってくる、という意味にとってもいいのかな」
わたしは言葉を探した。
「つまり、なんというか、所長からの仕事は喜んでお引き受けしたいと思っています。ただ、安定した身分になるのが……」
「おいおい、零細探偵社の所員が安定した身分かい」
「わたしにとっては十分に、そうです」
真顔で答えたせいか、所長もいったん緩めた表情を引き締めた。
「きみが定職につかないようにしていたこと、うちのようなヤクザ稼業に入ってきたこと、それすら辞めたこと、その理由はすべてひとつだし、その理由はもうこの世から消えてなくなったと思っていたが」
珠洲のとりすました顔が一瞬、浮かび、すぐに消えた。
「そうです。ただ、最近考えるんです。姉をわたしの人生から蹴り出すのが、本当に難しかったのかどうか」
所長は黙ったまま、軽く顎を動かして先を促した。
「本気でそうしようと思えば、できない相談ではなかったんです。確かに彼女は執拗だったし、病的だった。おまけになんといっても近親者だった。彼女から逃げ出すことは簡単ではなかったでしょう。でも、わたしには守るべき仕事も恋人もなかった。東京を離れ、地方で暮らすことだってできた。探偵社に勤めるようになってからは、ある程度の決まった収入もあったわけですし、完全にゆくえをくらます方法も覚えました。なのに──そうしなかった。だから、もしかしたら姉の行動は、わたしにとって都合のいいものだったのかもしれません。決まった職につかず、地に足をつけないことへの言い訳になるから」
窓の外に目をやった。ライトは周囲の雲をも赤く染めている。その鈍い光は窓ガラスにも映り込んでいた。
「世の中どんどん悪くなってる。おかげで我々の仕事が増える」
ややあって、所長は水割りを口に運んだ。
「説明するまでもないがね。うちにやってくる依頼人の半分はナメクジ。ときどき塩をたっぷり撒いてやりたくなるけど、それはできない」
「仕事だから」
「我々の仕事じゃないからだよ」
苦々しげな口調だった。意外な気がした。探偵調査の仕事がきれいごとですまないことくらい、わたしにだってわかっている。社会や人間の汚い面に生々しく触れることも多いのだから、時には、ヘドロに首まで漬かっているような気持ちになることだってある。ヘドロが身内に溜まっているように思えてもくる。だが、所長はそんな段階をとっくに通り越していると思っていた。
所長はわたしを見やり、唇を歪《ゆが》めた。
「心配しなさんな。愚痴を垂れ流したりはしないから。今さら言っても始まらないことだしね。ただ……」
所長は言いかけた言葉を飲み込んで、話題を変えた。
「実は、大きな仕事を引き受けてきたところでね。この仕事には、とにかく女手がいるんだ。仕事に慣れていて、信用できる女がね。手伝ってもらえるとありがたい」
「手伝う?」
「肩慣らしのつもりで引き受ければいいんだ。正社員に戻るかどうかは、この仕事が終わってから考えてみたらいいじゃないか」
所長はにやりと笑い、わたしもつられて微笑《ほほえ》んだ。唇が微笑みの形を覚えているとは思わなかった。
わたしはハンカチで口を拭き、努めて平静に訊いた。
「いったいどんな仕事ですか」
2
重い雲は雲のまま数日がすぎて、ようやく雨に変わった。
わたしは都内のホテルの裏玄関で、松島詩織を待っていた。彼女はロビーで出版社の若手編集者と立ち話をしていた。編集者の背後で、なにげない顔つきで競馬新聞を読んでいる男から目をそらし、時計に目を落した。十二月三日、午後六時十三分。五分だけ表で待っててちょうだい、と言ったきりすでに十四分になる。地下駐車場から車をここへ運転してくるはずの城都《しろと》勇も、いまだに姿を見せない。冬の雨が重く身体を濡らし、わたしは身震いした。わたしのような人間が仕事をもらえただけでもありがたく思わなければいけないのだが、そうは思えなかった。たった三日で、嫌気がさし始めていたのは、探偵稼業のブランクのせいだけではない。
不意に、この一年ばかり連絡がとれずにいる友人を思い出し、電話をしようかと携帯電話をとり出したとき、松島詩織が編集者に別れを告げて、こちらへやってくるのが見えた。わたしはうんざりするのをやめて、周囲に目を配った。さっきからずっと、一台の四輪駆動車が鼻先をこちらに向けて停車しているのが、気になっていた。運転席には人影も見える。通常ならこんなところに車を止めておくはずはない。いまの状況では、なにもかも怪しく見えてしまう。気にしすぎかもしれないと思いながらも、念のため、その四駆のナンバーをひかえた。
十五分をすぎたのに、城都も詩織の車もまだ来ない。自動ドアの前でそれに気づき、詩織の顔が歪んだ。待たせるのは得意だが、待たされるのは苦手、という性格なのだ。もっとも、そうでない人間などどこにもいない。
詩織は身体をドアにぶつけるようにして、外へ出てきた。わたしに向かって口を開く。怒鳴りつけるつもりだったのかもしれないが、残念ながらそれは聞きそこねた。次の瞬間、わたしは彼女を突き飛ばし、自分も身を翻して後ろに倒れ込んだ。詩織の悲鳴、誰かの叫び声、激しいブレーキ音。裏玄関へ向かって急発進してきた四輪駆動車が、ひっくりかえったわたしと彼女の間をきわどく走り抜け、ガラス扉を破ってロビーに飛び込んでいった。都内でも屈指の一流ホテルのロビーの床は大理石造りで、しかもよく磨かれていた。車は面白いように奥へ奥へと進んでいった。
ガラスの破片を払いつつ立ち上がり、詩織の肘をつかんだ。城都の運転するセダンが、タイミングよくわたしたちのまえに停車した。車に詩織を押し込み、自分も乗り込んだ。運転席の城都が目を丸くして、振り返った。
「なにごとですか」
「いいから出して」
「逃げちゃっていいんですか」
「桜井さんがいるわ。わたしたちまで残ってどうするのよ。あのガラスの復元でもするつもり?」
車が発進するまでの間に、ホテルの内部が見て取れた。玄関には大きな穴が開いている。車はロビー奥のラウンジの真ん中の噴水に激突し、もうもうと煙を吐き出し、人々は残らず壁に貼りついていた。競馬新聞を読んでいた男、桜井が編集者の下敷きになってもがいている。ヒステリックな笑いがこみあげてくるのを、あのひとを食ったような所長の顔を思い出すことで、無理やり抑え込んだ。
「一日三万円なんだよ。なんなら、その日払いにしてもいい」
所長は二杯目の水割りをなめながら、そう言ったものだ。泣きどころをさりげなくついてくるところが、いかにも所長らしい。わたしは先手を打った。
「借金の取りたては、嫌いなんです」
「知ってるよ。そうじゃない。若い女性の身辺警護なんだ」
「どういうことですか」
日給三万円はあまりにも魅力的だった。そしてたいてい、魅力あるものは危険をも引き寄せる。所長は申し訳なさそうに言った。
「依頼人は松島詩織なんだ」
わたしは口笛を吹いた。松島詩織は一部に知られた有名人だった。三年前ある出版社が、三十代の知的女性向け雑誌、というなんだかよくわからない雑誌を立ちあげたのだが、そこで彼女は人気を得た。肩書きは実業家、ということになるのだろうか。大手企業のOLから、カルチャースクールのフラワーアレンジメントの講座で勉強した知識を生かして花屋へ転身して成功、現在では花屋、雑貨屋、ケーキ屋等々十五もの店を経営している。嫌味のない容貌とセンスでカルト的人気を博し、エッセイの連載も月に九本、講演会もひっきりなし、絵に描いたような成功をおさめている、という女性だ。
もっとも、詩織は実はかなりの資産家のお嬢様で、経営はすべて親族に握られ、自身は看板娘のようなものだ、と聞いたことがある。雑誌で人気を得たのもイメージ戦略の結果なのだそうだ。そんな戦略に乗せられて『松島詩織さんの、わたしにふさわしい生活』などという記事に熱中している読者のどこが〈知的女性〉なんだろうとは思うが、それにしてもメディアを通じて見るかぎり、詩織が警護を依頼しなくてはならないような問題を抱えているようには見えなかった。
「なにから警護してほしいっていうんですか」
「それがはっきりしないんだ。本人はストーカーだろう、自分には心当たりがない、と言っているがね。どうも、嫌がらせの主は松島詩織の知り合いらしい。どうだろう。手伝ってくれないか。うさんくさい仕事であることは保証するが」
妙な保証を付けられて、しかしわたしは承諾した。期間は二週間、その間休みはないが、四十二万円の収入が見込める。ありがたいかぎりではないか。
松島詩織は成城学園前の閑静な住宅街──というよりお屋敷町──にある、マンションに住んでいた。安く見積もっても一億はくだらない四LDKのそのマンションに、彼女は一人で寝起きしていた。一口に四LDKといっても、リビングルームだけで四十畳もある。わたしは一室をあてがわれ、二十四時間彼女に張り付くことになった。長谷川所長の部下の村木義弘と、さきほど競馬新聞を読んでいた桜井肇のふたり、それに大手探偵社から応援にやってきた城都勇は、外出に付き添うかたわら、外の車からマンションの見張りをする、という手筈《てはず》だ。いかに大金持ちとはいえ、ずいぶん経費のかかる警備を頼んだものだ、と思ったが、じきに、それも無理はないと考えるようになった。
所長に連れられて挨拶に行くと、彼女のマンションのファクシミリはいやがらせの文章を次々に吐き出していたし、昨日一日、ビルの上から植木鉢が落ちてくる、狭い路地をわざとのように車がスピードを出してきわどいところで擦り抜けていく、車に乗り込む寸前に殴りかかってくる男は現れる、宅配便を開ければうじがたかった生肉が転がり出てくる。今日は午前中に一度、いやらしい郵便物が届けられただけだったが、これで終わるわけがない、と思ったのはまったくもって、正しかった。
詩織は隣のシートで凍りついていたが、やがて煙草を取り出して火をつけ、煙を吐いた。そのパックをわたしにも投げて寄越した。横目で見ると、彼女の顔は強張《こわば》り、青ざめている。昨日の一連の騒ぎでは、慌てていたのはむしろこちらのほうで、逆に詩織は落ち着いたものだった。慣れていたのかもしれない。しかし、さすがにさっきの車の突撃にはショックを覚えたのだろう。わたしは彼女に若干、尊敬の念を覚えた。こういう場合、警備対象がパニックに陥ってよけいな手間暇を警備陣に与えがちだが、詩織は少なくとも、ヒステリーを起こすようなことはなかった。
わたしは煙草をくわえ、携帯電話で所長に事故車のナンバーを伝えた。その間、詩織はなにも言わなかった。
「車が突っ込んできたのは、偶然ですかね」
城都が信号待ちの際、呟くように言った。
「欠陥品のオートマチック車じゃあるまいし。第一、あの四輪駆動、ホテルに到着したときからあの場にいたわよ」
「でも、偶然でないとすると、ずいぶん敵が多くないですか」
城都は無神経に言いはなった。わたしは苦笑した。昨日、詩織に殴りかかってきた男はわたしたちによって取り抑えられ、表沙汰にはしたくないという詩織の意向を酌んで、長谷川所長の顔のきく警察署に内々に下げ渡された。路地の暴走車の〈犯人〉もナンバーから割り出し、これも、長谷川所長の知りあいの強面《こわもて》を送り込んでかたをつけた。植木鉢とファックス、それに生肉の犯人はもっかのところ判明していないが、城都が気にしているのは男と暴走車、それぞれがまったく別の事情から詩織に恨みをもっていた、ということだった。
男のほうは、かつて詩織に解雇された菓子造りの職人で、その後定職につけないのを恨んでの犯行だ、という。一方、車のほうは、かつて詩織に夫を寝とられた──詩織は妄想だと一笑にふしたが──主婦だった。それ以外の嫌がらせがすべて、それぞれ別人の犯行と決まったわけではないが、城都の言い分もわからないではなかった。
詩織は根本まで吸いつくした煙草を灰皿に押し込んで、城都をにらんだ。
「そんなことより、あなたどうして車を出すのが遅れたのよ。十五分はかかりすぎじゃなくて」
「地下駐車場の入口で、車がエンストしてたんですよ。それで遅くなったんです」
「その車のナンバーは?」
わたしは口を挟んだ。城都は慎重に車を発進させながら、
「三台先だったから、ナンバーまではわかりません。でも、濃紺のBMWでしたよ」
「早く言ってよ」
わたしは再度、所長に連絡を入れた。所長は相変わらず緊張感のない口調で言った。
「桜井から連絡があったよ。ホテルに突っ込んだ車の運転手は女だったそうだ。名前は鈴木たか子、頭部打撲で病院に運ばれたんだが、まずいことに松島詩織を狙ったとホテル中に聞こえるような声で、わめきちらしたそうだ」
「鈴木たか子──何者ですか」
「いま、村木が調べているが、どうやら松島詩織の熱烈なファンだったらしい」
「気違いじみたファン、というやつですか」
「さあね。だとしたら、じみた、なんて婉曲表現は使えないな」
電話を切ってふと見ると、詩織の顔はますます青ざめ、唇が小刻みに震えていた。
「松島さん、鈴木たか子という女性に心当たりでもあるんですか」
「ないわよ」
たたきつけるように、彼女は言った。
「あなたがたの仕事はあたしの身を守ることで、詮索《せんさく》をすることじゃない。そんなことのために、金を払ってるんじゃないわ」
まったくもって、おっしゃるとおり。シロアリ退治を請け負って、ついでに家の査定まですることはない。彼女がこの二週間で長谷川探偵調査所に支払う金額は、三百万円ではきかないだろう。だが、二週間でかたをつけるには、城都の言うとおり、どうにも敵が多すぎる。
わたしたちはマンションに戻った。松島詩織はこの二週間、店に出る機会を極力減らすことに同意していた。店やその客まで守ることはできない。おまけに悪い噂ほど早く、よりひどくなって伝わっていく。
わたしと城都勇は彼女を挟んでマンションの玄関に差しかかった。郵便受けには十通近い封書が入っていた。そのうちの五通は毒々しい赤い文字で宛名が書かれていた。詩織は眉ひとつしかめるでもなく、ごく事務的にそれを城都に渡した。
部屋に入り、コートを脱ぎながらファックスをチェックした。長いファクシミリ用紙が床になだれ落ちていた。拾い上げてみると、どれも似たような文面だった。ブスとか死ねとか、そういったたぐいの、およそ想像力のない代物ばかりだ。丹念にチェックしていくと、一枚だけ送信先が明記されたファックスがあるのに気づいた。会社の名前は〈オフィス・T〉。ご丁寧にファックス番号まで載っていた。
「心当たり、ありますか」
「その、心当たりって言葉、大嫌い」
松島詩織は冷たい麦茶を乱暴に置くと、ファックスをひったくった。
「知らないわね、こんな会社……ああ、でも、もしかしたら」
彼女は分厚いシステム手帳をめくり、眉を寄せた。
「そう、彼女だわ。ラジオ番組のパーソナリティーの内村|利里《りり》の所属している事務所よ。彼女の番組が打ち切りになって、あたしの番組がそのあと始まったの。でも、そのあたしの番組だって三か月で打ち切られたんだから、今さら嫌がらせなんてするかしらね」
所長に連絡を入れた。詩織のファックス番号を変更するのは容易《たやす》いことだったが、どのみち役にはたつまい。所長はさすがに、電話の向こうで悲鳴をあげた。
「またかい。勘弁してくれ」
「わたしに言われても。わたしが嫌がらせをしているわけじゃないんですから」
「これじゃ、俺は眠る暇もない。家中のノミを一匹ずつつぶしてるみたいだ。一匹つぶしても、どんどん卵がかえって増える」
「殺虫剤が必要ですね」
電話を切って振り向くと、松島詩織が妙な表情を浮かべてこちらを見つめていた。
「なんなの、殺虫剤って」
わたしは説明した。その内村利里の件は、直接所長が出向くことになった。とにかくまた一匹片づいたわけだが、確かに所長の言うとおり、すぐに次の卵が孵化してしまうだけだ。
「松島さん。あなたがご自分の周囲を詮索されたくないのはわかります。でも、この騒ぎのどこかに、中心があるはずです。みんながいっせいに、偶然に嫌がらせを実行するなんてことありえません。その中心に心当たりはないんですか」
松島詩織はじろりとわたしをにらみつけた。
「偶然よ。中心なんてもの、ないわよ。楽しようと思ってそんなことを言い出したって……」
「楽しているように見えますか?」
詩織は唇を噛んで、黙った。
「いまのまま対症療法を続けていても、二週間でことが片づくとはとても思えません。もちろんあなたは有名人だし、名前で仕事をし続ける以上、似たようなことは起こるでしょうが、現状があまりにも不自然だということくらい、あなたにもわかってらっしゃるんでしょう」
「きっと、あのせいね」
詩織は目を泳がせた。わたしは身を乗り出した。
「なんのせいですか」
「今年の四月頃に、新しい雑誌の編集長にならないかって話があったの。結局実現しなかったんだけど、その話が外部に漏れてしまったの。わかるでしょ? あたしはそれまでも嫉妬《しつと》されてた。嫌われる理由もわかってるつもり。大して頭もよくないし、十人並みだけど美人でもない。あたしのやっていることくらいなら、自分にもできる、なのに自分ではなく松島詩織がやっている。それが許せない、不公平だって思ってるようなひと、けっこう多いのよ。その嫉妬が編集長の話できっと、臨界点を越えたのね」
この女は本気でそんなことを考えているのか。一日三万円をほうり出して、帰ろうかと思った。だがそのとき、詩織の手に気づいた。詩織の細く長い指、なんでもうまくつかみ、つかんだら離しそうもないその指は、自分の言葉を裏切って細かく震えていた。
3
それからの一週間あまり、それはまさに地獄の日々だった。一日三万円どころか、三十万でも引き合わない。詩織への嫌がらせは日に日にエスカレートしていった。ファックスはやむことなく続き、郵便物や宅配便は山のようになった。現場を取り抑え、警察に引き渡した者だけでも七人、名前と住所を確認した相手も二十人はくだらない。詩織はヒステリックになり、あるときはうって変わって不気味な沈黙を続けるようになった。原稿を書く様子もない。内密に処理する限界はとうに越えていた。
眠れず食べられないのはわたしも同じだったが、いいこともあった。小動物の死骸《しがい》が宅配便で送られてくることが度重なったため、すっかり腐臭に慣れたのだ。いまでは始末をするのも鼻歌まじり、人間とはどんな環境でもひとつくらいいいことを見つけられる生き物だ。
ことここに至っても、詩織は〈中心〉についての心当たりを頑として話そうとはしなかった。事情を訊き出そうとするたび、彼女は尖《とが》った目つきでわたしをにらみ返し、形のいい唇をぎゅっと結んだ。
だが、ある日、転機がやってきた。マンションに閉じ籠《こも》り続ける詩織を外の自動車のなかから護衛していたはずの村木義弘が、なんと警察に連れていかれてしまったのだ。近所の誰かが怪しんで、通報したらしい。城都勇が半ば笑いながら、そのいきさつを話してくれた。
「所長ったら、地元警察に話を通してなかったのかしら」
わたしは首をかしげた。城都はリビングのソファに心地よさそうに背を預けながら、
「さあねえ。通してあったと思うけど」
「のんきなこと言ってるのね。これが敵の策略でないって、どうしてわかるのよ」
「策略だけど、敵のじゃないさ。所長はきっと攻めに出たんだな。村木さんを外せば、ここぞとばかりに親玉がやってくるだろう。そこを一気に捕まえて、一件落着という寸法さ。さっき、所長から連絡があったんだ。うちの探偵社の連中を五人ほど寄越してほしいってさ。いよいよ始まるまえにトイレにでも行っとけよ、葉村。……ところで、お姫さまは?」
「そうするわ。彼女は、そっち」
わたしはこそりとも音のしない寝室に顎をしゃくって、立ち上がった。城都勇はふらりと身体を起こし、猫のように足音も立てずに寝室へ向かい、ノックをしてドアを開けた。その瞬間、わたしは城都の背中めがけて駆け寄り、はずみをつけて思い切り彼の身体を蹴り飛ばした。城都はつんのめって寝室に転がり込んだ。わたしはドアを閉め、脇にあった大きな箪笥を渾身《こんしん》の力で押していき、ドアをふさいだ。骨董品とおぼしき、巨大で重い箪笥だった。なかから城都がわめき散らしながら、ドアを殴りつけているのが聞こえてきた。寝室の窓は東向きにひとつあるだけだし、足をかけるところもないつるつるの外壁に面しているから、城都はまさに、袋の鼠だ。
携帯電話を取り上げ、所長に連絡した。案の定、城都の言ったことはすべて嘘だった。所長がわたしに無断でそんな危ない橋を渡るはずがないのだ。
警察署に村木を引き取りに行っている桜井を、すぐにまわす、と所長は言った。電話を切ったところでめりめりと音がして、箪笥の上に見えている寝室のドアが割れ、歯をむき出した城都の顔がその隙間からのぞいた。彼はすさまじい形相でわたしをにらみ、割れ目に金属バットをねじこんで、穴を大きくし始めた。やれやれ、とリビングから逃げ出しながら思った。用心のために、寝室に金属バットを置いておくことを詩織に勧めたのは、ほかならぬわたしだったのだ。
詩織は書斎のソファに横になり、あらぬかたを眺めていた。このところ彼女は、いつもこんなうつろな目つきをしている。それも無理はない。護衛よりも、彼女のほうがよりひどい思いをしているのだ。わたしがどたどたと駆け込んでロックし、手近の机や椅子をドアの前に積み上げ始めると、しかしさすがに詩織は驚いて、起き直った。
「書斎には入らないように、言っておいたはずよ」
「緊急事態なの。死にたくなかったら、おとなしくソファの下にでも隠れてて」
次に窓に飛びついた。雨戸を閉めて、二重に鍵を掛ける。その作業が終わらぬうちに、どうやら箪笥が倒れたらしい鈍い音が、リビングのほうから聞こえてきた。
「死にたくなかったら、ねえ。あはは」
詩織はソファのまえでかん高い笑い声を立てた。慌てて彼女の口を押えた。
「お願いだから、静かにしてよ」
「気にすることないわ。こんな狭い家なんだから、すぐに居場所がばれるわよ」
「参考までに聞いておくけど、こんな狭い家を、あんたいくらで手に入れた?」
「一億二千万。どうして」
「それにしちゃ、安普請だと思って」
「失礼ね」
松島詩織は眉をつりあげた。次の瞬間、金属バットが扉に叩きつけられる音が聞こえてきた。わたしは詩織を見た。
「所長に連絡はしたけど、間に合うかどうかわからない。警察呼ぶわよ、いいわね」
「好きにして。こうなったら、表沙汰になったってかまいやしないもの」
書斎の電話に飛びつき、110を叩いた。扉が破られる嫌な音が閉め切った部屋に響き、とにかく緊急事態であるということは即座に伝わったようだ。わたしは勝ち誇って扉の向こうの城都に叫んだ。
「聞いたでしょ。警察に連絡したわ。あんたのことも所長に知らせた。このまま続けても無意味よ」
扉の向こうで城都は沈黙した。わたしは重ねて言った。
「ちょうどいいわ。教えてもらおうじゃない。いったいどこの誰に、頼まれたのよ」
どかん、とバットが扉を殴りつける音に続いて、調子の狂った城都の笑い声が聞こえてきた。
「馬鹿だな、晶。俺に頼んだ人間が、まだわかんねえのかよ」
「どういうことよ」
「俺は依頼主を裏切ったりしてないってことさ。警察に連絡したって? 被害者が届けを出さなきゃ、それまでだ。出せっこないよな、松島詩織さん」
わたしは振り向いた。詩織は追いつめられた鼠にそっくりの目でこちらを見上げた。謎が氷解するのを覚えながら、再開された破壊音に向かって、わたしはあらんかぎりの声でわめいていた。
「この状況では、わたしだって被害者なんだけどね。わたしまで被害届をとりさげるとでも思ってんのなら、とんでもない間違いよ。絶対、訴えてやる」
「やれるもんなら、やってみろ。そのかわり、依頼主を裏切ったかどで、あんたもただ働きになるんだぜ。それでも俺を訴えるか」
「あんたが捕まって泣きべそかいてる姿を見られるなら、三十万くらい安いもんよ」
「本気か」
「もちろん」
「葉村、まえから思ってたんだが、あんた変人だな」
城都はまぎれもなく呆《あき》れていた。理由はどうあれ金属バットで扉を壊して回るような変態に、変人のお墨付きを貰えるなんて、人間生きていればいいこともあるものだ。
玄関のチャイムが鳴り響いた。金属バットの投げ出される鈍い音がした。わたしは詩織を振り返った。彼女はこれまでとは違うはっきりとしたまなざしで見返してきた。
「彼の言ったこと、信じるの?」
「信じない」
わたしは答えた。廊下で桜井と城都の話し声がしている。やがて、桜井が扉の向こうから、片づいたぜ、と言った。詩織はわたしを見続けていた。
「どうして信じないの。あれ、ほんとよ。ほんとのことよ。あたしよ、あたしが頼んだのよ」
「冗談でしょ」
「なんで信じないのよ」
わたしは肩をすくめた。
「失礼だけど松島さん、あんた大枚はたいて自分を襲わせて、挙句それを白状するほどお人好しには見えない」
松島詩織はぽかんとわたしを眺めていた。それからやおら目をそらし、まるで泣き声のような声をたてて笑い出した。
雨戸を開け、バリケードを片づけ、廊下の扉が開かれても、詩織は笑いやめなかった。
4
「あたし、死ぬほど疲れてたの」
砂糖をたっぷり入れたカフェオレを飲みながら、長谷川所長、桜井、わたしをまえにして詩織は言い出した。
「三年ほど前、OLだったあたしはリストラの対象になった。雑用ばかりの会社勤めなんかやめて、好きなフラワーアレンジメントの仕事をしたいと思ってた。そこで、あの雑誌の企画製作の仕事をしていた伯父が、話を持ちかけてきたわけ。読者モデルとして誌面に登場してくれたら、伯父の持っている花屋をまかせてもいいって。ふたつ返事で飛びついたわ。あんな大きくとりあげられるなんて思ってもいなかったし、人気が出るとも考えてなかった。ただ、花の仕事ができるっていうのが嬉しくて、それ以上なにも考えてなかった」
詩織は大きく溜息《ためいき》をついて、ソファにもたれかかった。
「ご存じの通り、予想以上にあたしは成功した。嬉しくなかったわけじゃない。でも、伯父が勝手にエッセイや講演会の依頼を引き受けるし、店は増えていくし、花の仕事はできないし、忙しくて彼氏にもふられた。外面だけは人気者だけど、そのくせ中身のない自分自身が嫌になった。ちゃんと花の仕事を勉強したいと伯父に頼んでも、聞いてもらえない。そんなこんなで滅入っているときに、たまたまある酒場に寄ったの。今から一か月くらい前だったと思う」
酒場の場所は、青山だということ以外よく覚えていない、と詩織は言った。その日は伯父と口論になり、仕事を放り出してひとりで飲み屋を転々としたからだ。
「大して飲めもしないくせに、えらそうにカウンターに座ってカクテルを注文したのは覚えてる。どうやら、酔って自分でも気づかないうちに、屈託した思いが言葉になっていたのね。隣に座っていた男が不意に話しかけてきたの」
「なんて」
「あなた、そんなに死にたいんですかって」
わたしは思わず詩織の顔を見直した。彼女は顔をゆがめて、
「自殺したいとかなんとか口走ったらしいのよ。もちろん、本気じゃなかった。ただもうストレスがたまるその状況から、逃げ出したい一心だった。それだけ。でも」
詩織は半ば芝居がかって〈自殺願望の女〉を演じ、その男と話した。軽い気晴らしのはずが、男はやがて言い出した。
『だったら、なぜ死なないんですか』
『だって、怖いじゃない。いざとなると』
『死は大いなる休息だ、という言葉があります。あなたはまだその領域に達していない。つまり、現世の苦しみがたりていないということですね』
『そんなことないわ。十分、大変だもの』
『よかったら、死なせてあげましょうか、あなたを。経費込みで三百万円で』
詩織はそのときのことを思い出したらしく、両手をもみ合わせながら呟いた。
「あたし、ぜひお願いします、なんて馬鹿みたいに答えてから、相手に質問した。よく小説や映画なんかであるじゃない? 自殺したくて、でも自分で死ぬ勇気がなくて、殺し屋を雇うんだけど、そのあとで気が変わって、必死に依頼をキャンセルしようとするって話が。だから、あたし言ったの」
『あなた、人を殺したことあるの? キャンセルしたくなったらどうするの? 報酬をどうやって受け取るの?』
『ご心配なく』
男の首の右側には、奇妙な形をした大きな青いあざがあった。男がにやりと笑うと、そのあざまでがまるで自分をあざけるように歪んだ、と詩織は言った。
『大丈夫ですよ。むろん、キャンセルはできません。金はもらいますよ。でも、簡単なことです。あなたが死ぬ気にならなければ、いいんですよ』
「変なこと言うなあとは思ったんだけど、あたしにとって、それは酒の席でのジョークだった。それから二日たって、あたしのキャッシュカードが送られてくるまでは、本当にただの冗談のつもりだったのよ」
「キャッシュカード?」
「その男がこっそり盗《と》っていたのね。普段使っていなかった銀行のもので、なくなっていたことに気づかずにいたから、慌てて調べてもらったら、きっちり三百万円引き出されてた。カードと一緒に、手紙が入ってた。一言だけ、書いてあった。期限は三週間って」
詩織は書斎からその手紙を持ってきた。桜井がそれを受け取り、一瞬、面食らったような表情を見せたが、すぐに部屋を出ていった。長谷川所長が言った。
「それで、嫌がらせが始まったわけですな。カードが送り返されてきたのは何日ですか」
「十一月二十一日」
「我々を雇われたのが、確か十二月一日でしたね。二週間の約束だ。すると」
「念のためよ。ほんとに三週間で終わるかどうか、自信がなかったから」
わたしは計算した。期限が三週間だとすると、締切は十二月十一日だ。今日は八日。あと三日、ということになる。
「どうしてその事情を教えてくれなかったんです?」
恨みがましいふうでもなく、所長は言った。詩織は激しく首を振って、
「信じてもらえないと思ったからよ。実際、伯父は信じてくれなかった」
「こんなに嫌がらせが続いているのに?」
「その嫌がらせを、伯父はあたしがやらせている、と思ってるの」
「なに、それ」
わたしは思わず呟いた。詩織はすがりつくような目つきでわたしを見て、
「伯父はあたしが仕事のことで文句を言ったことで、感情を害しているのよ。つまり──なんて言ったらいいかしら。彼は仕事の鬼だし、せっかく自分の後ろ盾で有名にしてやったのに、そのことが気に入らない人間なんているはずはない、と思ってる。そこへこれでしょう。伯父は、あたしがおかしくなって、伯父に嫌がらせをしていると思ってるの。松島詩織の名に傷がつくということは、伯父の事業がダメージを受けるということだから」
所長はうなずいて、まとめにかかった。
「つまり、あなたを自殺に追い込むために、その〈殺し屋〉はあなたの現世を我慢ならないものにしようとした。手を尽くしてあなたに恨みを持っている人間をかき集め、なんらかのサジェスチョンを与えて、嫌がらせの集中攻撃を始めた。なるほど、このままなら誰だって精神の均衡を失って自殺しかねませんね」
「あいつは悪魔よ。自殺しなくたって、この騒ぎで花屋の仕事にだって戻れやしなくなった。それどころか、人間関係は残らずめちゃくちゃ。こんなにあたしを恨んでいる人がいたなんて思ってもみなかった。仕事どころか、それ以前のあたしにだって──どうやって戻ればいいんだか──」
彼女は声の乱れを次の瞬間、抑え込んだ。
「身辺警護を依頼するまえに、あたしこれでも手を尽くして調べたのよ。最初に、友人があたしへ無言電話をかけてきたのに気づいて、問い詰めたの。そしたら彼女、なんて言ったと思う? あたしが、このあたしがよ。彼女にやらせたんじゃないかって。そういって、五万円と手紙を見せてくれた。差出人はあたしだった」
詩織の顔がくしゃくしゃに歪んだ。わたしが彼女に手を伸ばしかけたそのとき、初老の尊大な感じのする男がふたりの男を引き連れて、前触れもなくリビングに入ってきた。
「詩織の伯父です。このたびは姪がお世話をかけまして」
彼はぶっきらぼうにそう言うと、詩織の肩に手をかけた。
「話は聞いた。きみは精神状態がとても良くない。ちゃんと、治療をしたほうがいい」
「どういうこと」
松島詩織は真っ青になった。詩織の伯父は猫なで声で、
「これ以上、周囲に迷惑をかけてはいけないよ。このままここに留まっていることはない。私の家に来なさい」
「いやよ。伯父さん、あたしをどこに連れていこうっていうの。家じゃないでしょう。まさか──まさか、病院に」
助けて、と詩織の目が叫ぶのがわかった。立ち上がりかけたわたしの腕を所長がつかんだ。
「松島さん。伯父さんの言うとおりにしたほうがいい。私の部下でさえあのざまだ。そのほうが安全だ。あと四日間だけ、辛いだろうがそうしたほうが、あなたのためだ。これ以上、不安と恐怖にさらされたら、あなたは本当におかしくなってしまうよ」
「信じてないのね。あたしの言ったこと、やっぱり信じてないのね」
いまやがたがたと震え出した詩織の腕を、伯父の連れであるふたりの男がとった。部屋を引きずり出される詩織の視線は、最後に一瞬、わたしにすがりついた。目が眩《くら》んだ。
……珠洲の目に似ていた。
後片づけをして鍵を締め、部屋を出た。警察から戻ってきた村木が車で待っていて、事務所へ戻ることになった。車窓から見る空には薄く雲がかかっていた。寒々とした、つやのない空だった。
道すがら、所長が言った。
「城都のやつ、松島詩織から三十万貰ったんだと。本人に頼まれてやったのだから、罪にはならないと言い張っているよ」
「彼女がいつ、城都さんにそんなことを依頼したっていうんですか」
「手紙でだ。彼はその手紙を警察に見せた。筆跡鑑定を依頼したよ」
「それはつまり……」
「松島詩織の筆跡、そっくりだということだ。他の加害者の中にも詩織が先に嫌がらせをしてきたんだと言っている連中もいる。ラジオのパーソナリティーもホテルに車を突っ込んだ鈴木とかいう女も、皆そう言っているんだ」
およそ信じられないような話だった。仮に、松島詩織の頭がおかしくなって、周囲の人間に金を渡して自分への嫌がらせを依頼したとする。あるいは松島詩織のほうから先に、周囲の人間に嫌がらせをしたとする。だが、普通の神経の持ち主だったら、そんな不気味な依頼を受けることはないだろうし、嫌がらせを返すような真似をすることもないだろう。
「葉村くんの言いたいことはわかるがね」
所長はわたしを横目で見た。
「実際問題、やったやつがいたんだ。それも大勢」
「だけど、どうしてなんですか。理解できません」
「気晴らしのレクリエーションに金がついてきたということだろう」
「わたしがもし、松島詩織に恨みを持っていたとして、本人から嫌がらせの依頼がきたとしても、トラブルの匂いを感じて、近寄らないようにすると思うんですけど」
所長は黙ったままだった。わたしは訊いた。
「所長は松島さんの話を信じないんですか」
所長は奇妙な表情でわたしを見た。
「いいか、城都の三十万だけじゃないんだ。ほかにも金をもらっているやつがいる。実際に酒場の男が存在したとしても三百万くらい、あっというまになくなってしまう。そんな割に合わないことをやるやつなんかいるわけないだろ。さっき、彼女が出してきた手紙」
「桜井さんが持っていった、あざ男からの手紙ですか」
「あの筆跡だって、松島詩織のものにそっくりだった」
「割に合わないのは、本人だって同じじゃないですか。そんな死に方をする人間が、どこの世界にいるんです」
所長は溜息をついて、言った。
「松島詩織の母親は二十年前に亡くなっている。自殺したんだそうだ。どうやらその母親には、分裂症の傾向があったらしいんだよ」
「だからなんなんです? 分裂症が遺伝するとでも思ってるんですか、馬鹿くさい」
「遺伝なんかするか。だが、娘に影響を及ぼした可能性は否定できない。だろ?」
「なんだかまるで松島詩織は最近流行の多重人格で、もうひとりの彼女の仕業だと言ってるみたいですね」
「私は精神科医でも心理分析官でもない。ただ、説明をつけようと思えばつけられる、と言っているだけだよ」
納得できなかった。少しも。どの角度から見ても、納得できないことだらけだった。なにより、松島詩織の伯父の出現で、そのすべてが曖昧《あいまい》に仕舞い込まれてしまうことが納得できなかった。
5
事務所につくと、所長は約束通り二週間分の報酬をくれた。わたしは支給されていた携帯電話と、三日分の日当を封筒から引き出して、返した。
「とっときなさいよ、葉村くん」
所長はのんきらしく言った。
「ちゃんと松島詩織の伯父さんとやらが、彼女の口座からまとめて払ってくれることになっているんだから」
「そういうわけにはいきません」
所長は顎を撫でながら、わたしを見上げた。
「その分だと、うちに戻ってくる気はなさそうだね」
「──はい。申し訳ありませんが」
「あの女の言ったことが本当かどうか、調べるつもりなんだな」
「本当だと信じているわけじゃありませんが」
「妙な筋の通し方だね。うちの所員だったときだって、終わった事件を勝手にほじくり返していたくせに」
村木が背後で笑い声をたてた。耳が熱くなるのを感じながら、頭をさげた。
「お世話になりました。失礼します」
「まあ、待ちなさいよ」
所長は指をこすりあわせながら、わたしを見上げた。
「これで終わりにすることはないじゃないか。フリーがよければフリーのままでいればいい。この仕事が嫌いなら無理じいはしないが、正社員としてではなく、手のたりないときにはうちを手伝ってくれる、そういうとりきめにしておくことは可能だろう? 契約探偵というわけだが、どうだ?」
わたしは面食らった。
「かまわないんですか」
「こっちだって、年金だの保険料だの負担しなくてすむ分、助かるしね。所員の給料を稼ぐために無理して仕事をとってくる必要も、少しは減るというもんだ」
所長は先日と同じように笑い、笑顔のままつけ加えた。
「だけど、葉村くん、こういう話を知ってるか。世の中には奴隷と乞食の二種類しかいない。奴隷は自由がないかわり、食うには困らない。乞食は自由だが、飢えて死ぬこともある。他にもっと優秀な女性スタッフが現れたら、仕事はなくなるということだ。その覚悟は──できてるのかな」
顔が強張った。頭ではわかっていることでも、他人の口から告げられると、やはりきつい。喉の奥の塊を飲み込むのに少し手間取ったが、わたしは答えた。
「よろしくお願いします」
青山近辺にある、カウンター・バーを片端から訪ね歩いた。九軒目で、詩織のことを覚えている店に出くわした。バーテンダーはしかし、男のほうには覚えがない、と言った。
「彼女のことは知ってましたよ。だから、気にしていたんだけど、男なんかいたかな」
「首のところに青あざのある男なんです」
「俺、記憶力はいいほうなんですけどね。だめだ、まるっきり思い出せないや」
わたしはビールを注文した。カウンターは磨き込まれていて、どっしりとしていた。頬杖をついて考えにふけるには、もってこいだった。
見たもののいない青あざの男。詩織の筆跡を真似ることができ、短期間に彼女のことを調べあげることができ、三百万円をすべて費やして詩織を自殺に追い込もうとした男。他人を破滅に導く悪魔。
確かに空想じみていた。それは認める。
お替わりを注文しようとして、手が滑った。グラスがカウンターに砕けた。わたしは身を引き、来たるべきバーテンダーの非難に身構えた。だが、彼は妙にぼんやりとそのグラスを見つめていた。
「思い出した」
彼は急《せ》き込むあまり、ふきんを揉みくしゃにしながら言った。
「なんで忘れてたんだろう……いましたよ、そういう男が。やっぱり松島さんがそうやってグラスを割ったんです。そのとき、男が松島さんの手をとって、怪我はしませんでしたか、と聞いて──なんか、すっごく不快な笑い声をたてたんだ。そのひとの首に、青っていうより黒に近いような色のあざがありましたよ」
「そいつのことで他になにか覚えてない?」
「松島さんのこと、詩織って呼び捨ててたな。ああ、そうそう、車のキーを持ってた。確か、BMWのやつを」
勘定もそこそこに、わたしは店を飛び出した。例の車が突っ込んだホテルまで、タクシーを飛ばした。地下駐車場の係員は、幸いにもあの日と同じ人物だった。
「濃紺のBMWですか。出口でエンストを起こした? ええ、こんな高級車がなんでまたこんなところで、と思ったからよく覚えてますよ」
「乗っていた人間のことは、どうですか」
「三十代初めくらいの男性でした。首のところにあざがありました。感じのいいひとで、しきりに謝っていましたよ。まだ運転に慣れていないんだって」
ホテルのロビーで公衆電話を探した。長谷川所長は話を聞くと、一言うなったきり黙ってしまった。
「男は実在してたんです。松島詩織の話は嘘じゃなかったんですよ」
「葉村くん、きみをこの依頼に巻き込んだのは俺だ。だから、こんなことを言いたくはないが、いま証明されたのはそういう男がいたってことだけで、その男が詩織の依頼を引き受けたかどうかは別問題なんだよ」
「なにが言いたいんですか」
「その男は松島詩織を呼び捨てにしていたんだろう。彼女は彼氏にふられたばかりだった。自分を失恋させたその男に悪魔の役割をふり当てたのかもしれない、ってことさ」
わたしは息を飲んだ。確かに、それはありうることだった。いかにもありえそうなことだった。悪魔が実在する、ということより、はるかに。
「残念ながら、今はもう、どちらでも同じことだ。納得できないのは辛いだろうが、忘れることだな」
詩織は伯父に病院に連れていかれる途中で逃げ出そうとして車から飛び降り、反対車線からやってきたトラックにひかれ、重傷を負ったそうだ、と所長は言った。食い下がってようやく、病院の名前を聞き出した。
病院の通用口の側でタクシーを降りた。妙にしらじらとした夜だった。雲が空を覆いつつあった。白熱灯が通用口を示す看板を照らしていた。強い光だった。
タクシーが去ると、通用口とわたしの間に一台の車がやってきて、停まった。
ウインドウが下りた。運転しているのは男だった。首のところにあざのある男だ。
「葉村晶さん。彼女に代わって、あなたに受け取ってもらおう」
一瞬だけ、目があった。わたしはめまいを覚えた。濃紺のBMWは走り去っていく。
手のなかに一枚の紙が残された。紙にはこう記してあった。
『領収書 松島詩織さま 三百万円也』
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春の物語
[#小見出し] 詩人の死
1
窓を開けると風が入り込んできた。濡れた土のにおいを含んだ本物の春風だ。これまで暮らしていた部屋には、排気ガスと酸化した油が混じり合った空気だけがときどき侵入してくるだけだった。わたしは胸いっぱい空気を吸い込み、吐き出した。それからそっと、背後の相場《あいば》みのりを見やった。
彼女はなにも気づいていないらしい。手際よく段ボール箱を開け、中の本を作りつけの本棚に並べている。
「晶《あきら》って、何にもない部屋に住んでいたようだけど、それでも少しは家財道具があったのね」
みのりはちょっと笑った。
「少しはね。あとは自分でやるから、休んでれば?」
「よしてよ。休めばってセリフ、飽き飽きした」
みのりはつっけんどんに言った。はずみで手にした一冊の詩集が床に落ちた。みのりはしばらくそれをぼんやりと眺め、思いもよらない偶然にどぎもを抜かれているわたしを哀れむように、肩をすくめた。
「でもまあ、たまには休むべきかもね。お茶いれてくる」
彫刻よりも生気のない笑みを見せて部屋を出ていく彼女の後ろ姿に、わたしは溜息をつき、三か月前に出版されたばかりの薄い詩集を拾い上げた。タイトルは『桃源境崩壊』。作者は西村孝。みのりの婚約者だった男。
窓に腰を下ろし、頁を繰った。保守的な言葉と畜生言葉が交互に並んでいる。西村孝にはどうやら、読む側を刺激しようという意図があったとみえる。少なくとも、その意図は、多少は成功していた。壁に叩きつけたくなるほど、刺激的な本だった。
たぶん、作者である西村も同じように感じたのだろう。彼は一か月前、運転していた車をまっすぐにトンネル入口脇の壁に激突させた。本を叩きつけるのも、作者を叩きつけるのも、似たようなものだと思ったのかもしれない。おかげで、結婚後ふたりが暮らすはずだったマンションはみのりひとりの住居となり、西村の書斎になるはずだった部屋は、彼が残した数百冊の蔵書込みで、わたしに無料で貸し出されることになったのだ。
いまにも崩れ落ちそうなトイレ共同アパートから、新築の家具付マンションに移ることができて、有頂天にならない人間がいたらお目にかかりたい。ただあいにく、この幸運は友人の不幸のうえに成り立っている。いくら社会性に乏しいわたしでも、おおっぴらに春風を味わうわけにも、詩集を壁に叩きつけるわけにもいかないのだ。
詩集を棚に戻し、他の荷物を整理していると、お盆に茶と菓子を載せたみのりが戻ってきた。わたしたちは床に腰を下ろし、茶をすすった。
「悪いんだけど」
ややあって、みのりが言い出した。
「午後にでも、うちの母親に会ってもらえない? 近くに来るって言うの」
「なぜ、わたしが」
「親ってものを知ってるでしょう。でも、あたしは会いたくない」
「親が心配するのは当然じゃない」
「わかってるけど」
「まあ、いいわ」
同意の印に肩をすくめて見せた。家賃だと思えば友人の親をなぐさめるくらいお安いご用というものだが、嬉しくはなかった。それに、ただより高いものは、この世にはないことになっている。これまでの経験で、わたしはいやというほどそのことを知っていた。
「親に会ってほしいのには、もうひとつ、理由があるのよ」
わたしは身構えた。案の定、みのりはこう言葉を継いだ。
「探ってほしいの。うちの母親が、死ぬ前の西村になにを言ったのか」
無言のまま、煙草を取り出した。みのりはついと腰を上げ、大きな白い灰皿を手にして戻ってきた。
「あいつがそう簡単に自殺するわけがない。遺書はないし、関係者一同、誰にも心当たりがない自殺なんて、晶、あんた信じられる? あたしは信じない。自殺したというなら、それなりの理由があったはずだと思う」
例えば、わたしの姉・珠洲《すず》のような。
みのりはそうつけ加えたかったのかもしれない。妹を殺しそこねたといったわかりやすい理由があれば、誰だって自殺を試みるだろう、と。その気持ちはよくわかったが、残念ながらわたしにとってはそれすら、珠洲が自殺した真の動機とは思えなかった。今でも、あんなエゴイストがなぜ自殺したのか、わたしには理解できていない。世間にとってわかりやすい理由が、関係者にとってわかりやすいとはかぎらない。自殺の動機などどう探っても無駄だ。きっと死んだ当人にさえ、わかってはいなかったのだ。
わたしは気のない返事をした。
「西村さんのお姉さんが、彼は詩人だから自殺したって言ったそうだけど」
「あのひとは、西村が大した詩人だと本気で信じ込んでたんでしょうよ。創作者にはありがちなことなんだって、太宰や芥川まで持ち出してさ。あのね、あたし西村のこと好きだったけど、とてもそんな形而上学的な理由で自殺したとは思えない。屈折を表看板にしてたけど、根は楽天的だったのよ。あいつは詩集が出て、しかも売れて、とっても喜んでた。やっと自分ひとりでできることが見つかったんだってね。詩を書くことより、自分一人でできることが見つかったってことのほうが、大切だったみたい。死ぬ前の晩だって、大学の文芸部の先輩に嬉しそうに自慢してたそうだし、あたしにも今年の夏にまた──去年行った海辺のホテルに泊まりに行こうぜって──」
「西村さんはみのりの母親になにか言われて、それで死んだと?」
みのりはひきつった笑みを見せた。
「うちの親、派手な式をやりたがるし、早く孫の顔を見せろってうるさく西村にあたってた。西村が子どもは嫌いだ、式は挙げないって言ったもんだから、大騒ぎよ。うちの母親があたり散らした以外には、彼にトラブルはなかったの。昔から詩人になりたくて、でもそれで食べていけると思うほど現実離れしているわけじゃないから、ちゃんと公務員として働いていてさ。結婚間近で、出版された詩集は完売してて。人生これからじゃないの」
その人生これからの楽天家が、婚約者の母親に嫌味を言われて自殺したというくらいなら、彼は詩人だったから死んだ、という墓碑銘のほうがまだましに思えた。
「親子喧嘩の火種をほじくるなんて、断る」
「親子喧嘩には巻き込んだりしない。それは約束する。だけど、知りたいんだ。親子の間だと、聞き出せないこともあるんだから」
「親にあたり散らしたくなった理由が、他にもあるんじゃないの」
婉曲な皮肉が核心をつくとは思わなかったが、みのりは泣き出した。わたしは手にした茶碗を黙って見下ろしていた。しばらくすると、彼女はシーツの縁で盛大に鼻をかみ、口を開いた。
「あんたって最高よ。ひとを泣かしておいて、微動だにしないんだから」
「同情がなぐさめになった経験がないからね」
「ふん。確かにね。少なくとも、あんたのほうがいくらかいいわ。表面ではお気の毒にとか言いながら陰で、だから私は反対したんですよ、とか、玉の輿に乗りそこなっていい気味だ、とか言い出すやつらよりはね。……なに妙な顔してんのよ。西村は資産家の御曹司だったのよ」
みのりは煙草をひったくって、むやみと吸い込んだ。
「あんたはともかく、友人のなかではあたし、一番の嫁《い》き遅れなんだから。相手はただの公務員より資産家の息子ってほうが、聞こえがよかった。おかげでつけが三倍になって返ってきた。羨望と嫉妬がチームを組んでることくらい、承知してたのにさ」
「それなの?」
「なにが」
「自殺の理由」
「さあね。資産家が自殺する、詩人が自殺する、婚約者が自殺する。どれが一番ありそうなことだと、あんたは思う?」
開け放した部屋の扉から、リビングルームが見えた。真新しいソファセット、真新しい食器棚、真新しいテレビ。茶碗も茶托《ちやたく》もお盆も、そのすみに載っている台拭きさえもが、下ろしたてのようにきれいで、光り輝いていた。
いやになるほど。
みのりの母親に会う前に、図書館で一か月前の新聞を探した。二月の末、地獄のように寒い日だった。記録的な氷点下の夜の空気の中、西村孝は運転していた乗用車を鎌倉近くのトンネルの入口脇の壁に体当たりさせ、救急車のなかで息を引き取った。目撃者とタイヤ痕から、事故ではなく覚悟の自殺と考えられた。自殺した詩人など一人も知らなかったが、詩人にしては派手な自殺に思えた。もっとも、婚約者や資産家の御曹司の自殺にしては地味、というわけではない。
「お気の毒なことだとは思いますけど、やはり精神のほうがどうかしていらしたんじゃないかしらねえ。そういうところ、女親だけだとどうしても点が甘くなるっていうんですか、みのりには悪いことをしたと思ってますのよ。ちゃんとした相手なのかどうか見定めてやらなくちゃならないのに、それを怠ったなんて、葉村さんもさぞ呆れてらっしゃるでしょう。なんて親かしら、まったく。でも女手ひとつで子どもを育てていくのって、本当にたいへんなんですもの。わかっていただけるわね、きっと」
みのりの母親は話し始めて三十秒とたたないうちに、死者に対する敬意をかなぐり捨ててまくしたて始めた。彼女と会うのはこれが二度目で、最初はみのりの父親の葬儀会場、いまから五年ほど前のことだった。立派に働いている二十歳をすぎた娘を〈女手ひとつで育てていく〉と表現する人間に会ったのは初めてだ。世の中には、わたしごときの常識では計り知れないことが、数多く転がっている。
「でも、葉村さんがみのりの近くにいてくださって、本当に感謝しておりますのよ。本当は、私が一緒に住むべきなんですけどね。友人が一緒に住んでくれるからって、断るんですの。母親の私より赤の他人に身近にいてほしいなんて、変な話ですわね。あんなきれいなマンションに、私だって一度は住んでみたいと思っていたのに。いえね、実家を空けておくわけにもいきませんけど、手回り品を置いておいて、たまに顔を出すことだってできるわけでしょう。娘なんて、母親の気持ちを少しも考えてくれないんだから」
赤の他人としては、黙るより他なかった。母親は居丈高に続けた。
「もっともあの娘、ほうっておくとなにをしでかすかわからないから、ひとりにしておくよりはよっぽどましですわ。先週なんか、私がお見合いの写真を持っていっただけで、大暴れしたんですのよ。知り合いにいい精神科のお医者さんを紹介していただいて診《み》てもらったんですけど、婚約者に自殺されたばかりなんだから、そっとしておいてあげたほうがいいって言うだけ。おまけにその医者、この私に精神安定剤を処方したりしてそそっかしいんですのよ。もしや葉村さん、もっといいお医者さんをご存じないかしら」
わたしはその医者こそ天下の名医だと請けあったが、みのりの母親は手品師がからっぽの帽子のなかから何十枚もスカーフを取り出すように、ありもしない心配ごとを並べ立てるのに忙しく、聞いてもいなかった。
「みのりが少しおかしいのは、あなただって認めてくださるでしょう。やっと身を固める気になったと思ったら、子どもは作らないだなんて。どうかしてます。やっぱり私の教育方針が間違っていたのかしら。ひとり娘だから大学までやって、卒業したらお嫁に行かせようと思っていたのに、あの娘はそそくさと就職してしまったわ」
ふと、みのりの母親の経済状態が気になったが、ゆっくり考える暇などなかった。彼女はまくしたて続けた。
「就職先だって、まあ、あなた、もっと将来有望な男性がたくさんいる職場だってあるでしょうに、小さな町の図書館ですって。そのうえ司書のひとたちって、皆さん変わってますわ。化粧っ気はないし、お地味だし、本の話しかなさらないの。そのうえ、私が娘には早く結婚して孫を生んでもらいたいと申しましたら、そんなことは本人が決めることだ、なんて反対なさるんですのよ。いったいどんな本を読んだらあんなに身勝手になれるのか、参考のためにうかがっておけばよかったわ」
みのりの母親は不満を吐き出すと、餌を待つオットセイのような姿勢で宙を見上げた。彼女にとっては孫のいる人生というものは絶対に譲れないもので、その人生設計を乱そうとするものはたとえ実の娘でも許さない、などと考えているらしかった。娘と死者、さらにはその家族への不平不満の奔流ぶりに、意識がもうろうとし始めた頃、不意に話題が核心に近づいたので、わたしは覚醒した。
「車の弁償、ですか?」
「ええ。ひどい話でしょう。なにもうちの車で死ななくてもよさそうなものじゃありませんか。それも勝手に使ったんですからね。私、お通夜の席で言ってやったんですよ。自動車は弁償してもらいますって。当然でしょう、他人が乗っていたんじゃ保険だって下りやしないし、愛着のある車を台無しにされたんですからね。そしたらあちらの家の弁護士が……」
「西村さんは、相場さんの車を乗り逃げしたんですか」
「ええ、そうよ。みのりが留守のときに家にやって来て、この私に指図しようとしたのよ。ぼくたちの結婚に口を出さないでください、ですって。だから、これはみのりの結婚で、女手ひとつで育ててきた母親の私には口を挟む権利があるんだって、言ってやったのよ。だってそのとおりでしょう」
わたしは冷静にひとつ、うなずいた。母親は満足したように続けた。
「こうも言ったわ、おぼっちゃまに私たち親子の苦労がわかるもんですか、公務員になれたのも、公団の新築マンションに入居できたのも、詩なんか出版できたのも、全部父親が手をまわしたおかげでしょうって。そしたら、驚くじゃないの。車のキーひったくって、黙って出ていっちゃったのよ。ご近所の手前もあるから、真っ昼間から騒ぎ立てるわけにもいかないし、夜にでも電話してきつく言ってやろうと思ったら、自殺でしょう。ほんとに失礼しちゃうわ。ねえ、葉村さんからも、あちらに一言伝えていただけないかしら。弁償しろって。そのくらいのお金はあるんだから」
2
強引に押しつけられた名刺に電話をすると、いきなり弁護士本人が出た。用件を告げると、噛んでふくめるようにこんこんと説明された。自動車本体の弁償はすんでいること。しかも査定よりは上積みされていること。精神的慰謝料と車とは何の関係もなく、しかも婚約者本人である相場みのりは、慰謝料そのものを拒絶していること。引きさがらざるを得なかった。
新宿に出て大きな書店に入り、詩集のコーナーを探した。『桃源境崩壊』はなかった。顧客らしい老紳士に向かい、博識ぶりを披露していた店員の手が空いたのを見すまして声をかけた。
「ああ、覚えてますよ。見たこともない新人の詩集がいきなり出たんで驚いたんです。きっと、作者はこの近くの方なんですね。お友達らしいひとが、予約注文でまとめて買っていかれましたから」
「在庫はないんですか」
「ええ。版元でも品切れなんですよ。出て三か月でね。これは驚異ですよ」
店員は不得要領なこちらの顔つきに気づいたらしく、揉み手をしながら解説した。
「詩の本はそうは売れないんです。もちろん、うちは御覧のとおり、詩のコーナーがあるから、ここを目当てにやってくるお客さんがたくさんいらっしゃいます。でも、普通の書店では、よほどのベストセラーでもないかぎり、あまり扱ってないでしょう。だから刷り部数も、せいぜい二千部くらいなんです。もちろんこの世界にも人気の高いひとはいて、そうなるともっと行きますけどね」
「では、詩人はどんな風に世に出るんですか」
「新人だと普通は雑誌や自費出版で名をあげて、十数年をかけて本になる、というパターンが多いですね。もちろん、作者にもよります。大きな賞をとったり、批評家に認められて話題になったり、他分野からこの世界に入ったりするひともいますから」
「西村孝さんは、どれに含まれるんです?」
「どれにも当てはまらないんです。だから驚いたんですよ。まったくの無名詩人が初版いきなり五千部ですからね。いまじゃ純文学でもそうはいかないっていうのに」
「でも売れた。出版元は有名なんですか」
「黒亀堂書店ですね。ええ、もちろん。といっても、詩や短歌の本の世界では、という意味ですが。かっちりと細部まで手を入れた、良い本を作るんです。そこが出版したというだけで、一流のお墨付きをもらったようなものでした」
「それじゃあ、『桃源境崩壊』はいい詩集だったんですね」
「私は本屋の店員で、批評家じゃありません。でも良い本なら知っています」
自尊心をこめて言い切ると、店員はいくつかの詩集を手にして薦め始めた。子どもの頃、初めて夜店のバナナ売りを見たときの感動が蘇ってきた。感傷的な記憶など持つものではない。数冊の詩集で綿のコートのポケットをだらしなく膨らませて店を出ると、店員とわたしのやりとりをそばで聞いていた男がわたしを追ってきた。
「失礼ですが、相場みのりさんではありませんか」
膝まである色褪せたコットンセーターの下にスパッツを穿き、イヤリングを下げた三十男に声をかけられることなど、そうざらにあることではない。自分は相場みのりではない、と認めるのが残念に思えた。
「ですが、彼女の友人です。葉村晶といいます」
「遠藤雄一、西村の先輩です」
果物屋の二階のパーラーで向かいあって座ると、遠藤はしきりとみのりに対する詫びを口にし始めた。
「夕暮れになってから起きだし、朝早く眠るという生活をしているうえに、新聞をとっていないんです。西村の死を知ったのは、一週間後のことでした。せめて線香でもと思ったんですが、ぼくはやつのおやじさんに嫌われていましたし、その当の父親の具合が良くないというでしょう。なにも気の毒な病人の血圧をあげに行くこともないと思った。でも、みのりさんには一度お悔やみを言わなければならないと思ってました」
「自己満足のために?」
「率直なひとですね」
遠藤は気を悪くした様子もなく、受け流した。
「そのとおりですよ。前の晩、ぼくに会ったときにすでにやつは自殺を考えていたのかもしれない。それが見抜けなかったのだから責任がある。少しはこいつを軽くしたくてね」
「詩集が売り切れて、それで世をはかなんで自殺したとおっしゃるんですか」
「ばかな、あいつは飛び上がって喜んでました。詩を書くことを教えたのはぼくですからね。西村は中学生の頃からおやじさんと仲が悪くて、爆発寸前だった。爆発せずにすんだのは、詩のおかげだったと言ってましたからね。それが世に認められて、あいつもやっと自信が持てた。いいことじゃないですか。たとえ、父親と黒亀堂書店の社長が昔からの知り合いだったとしても、ね」
バナナジュースが運ばれてきた。遠藤はちゅばちゅばっ、というような音を立ててジュースを吸い込んだ。わたしはストローから顔を遠ざけ、いまほのめかされた事実について少し考えた。
「西村さんは父親と仲が悪かったんですか」
「そりゃもう。父親は昔気質の年寄りです。あいつが生まれたのは父親が四十八歳のときじゃなかったかな。世代だって違いすぎるし、年齢がいってからやっと授かった息子ですからね。おやじさんは、自分の理想通りに息子を育てあげようとやっきになる。西村のほうは、そうはなるまいと依怙地《いこじ》になる。聞くだに恐ろしいでしょう」
遠藤は眉をひそめてみせたが、その目は面白そうに輝いていた。
「おやじさんは、ぼくがやつに詩を教えたというんで腹をたてていたけど、女装やドラッグを教えるより、よっぽどましじゃないですか。そもそもやつが詩人として死んだなんてことは、ありえませんよ」
「どうしてです」
「だから、今説明したじゃないですか。西村にとって、詩を書くという行為はおやじへのあてつけだった。『桃源境崩壊』を読みましたか。思い込みと自己の世界のなかだけで成り立っているような詩ばっかり。創作には、客観性というものが不可欠なんですよ。だから、言ってやったんです。第一詩集が出たのはめでたいことだけど、これで殻をひとつ破るべきなんだと。いつまでも父親への恨みつらみでもないだろうって。先輩からの忠告ですよ」
「でも、父親がそれほど詩を嫌っていたのなら、なぜ出版に手を回したんですか」
「誰もそんなことは言ってませんよ。事実を述べただけです」
遠藤は薬指で唇についたバナナの破片を丁寧に拭い取った。西村孝がみのりの母親から突然車のキーをひったくった、という事実を思い出した。それは、詩集は父親のおかげで出たのだ、とほのめかされた直後の出来事だった。
「詩集の出版が父親のしわざだとわかって、絶望したってことはないですか」
「あるわけないじゃないですか。だったら公務員にだってなりやしなかったでしょう。それに、詩集は売れたんですよ。それで次回作を書き始めたんだから」
「なら、いったいなんのために西村さんは自殺したんですか」
「それなんですよ」
バナナジュースを飲み終わった遠藤は、物欲しげにわたしのコップを見つめ、
「思い当たることはひとつだけだな。あいつの仕事、ご存じですよね」
「武州市役所の文化部にいたとか」
「そう。なんでも、中央文化センターというのが三か月後にオープンの予定で、やつはそこの準備室に所属していたんですよ。地方自治体の文化センターだから、財団法人作って市役所の組織とは分離独立することになる。世の中の流れを見ても、それはあたりまえのことですよね」
「ええ」
「ところが、そうは思わなかった人たちがいる。財団法人に組み込まれる図書館の司書たち──みのりさんもその一人ですが──で、ほら、司書って利用者の秘密を守ることに関してすごくうるさいじゃないですか」
「当然でしょうね」
「法人化された図書館の司書は地方公務員ではなくなるわけだから、公務員法の適用がどうとか、このところもめているらしいんですよ。西村のやつ、悩んでたし怒ってもいたな。図書館が財団法人に組み込まれることなんか三年も前にわかっていたことだし、議会の承認も受けた、そのあとになって騒ぎ出すなんてって。だけど、司書ってもともと浮き世離れした連中なんだから、しかたないですよね」
どんな温厚な司書でも、スパッツを穿いた男に浮き世離れよばわりされたら、砂利道に座らせ、膝のうえに国会図書館蔵書目録を積んでやりたくなるだろう。
「まあ、たんなる仕事上のトラブルというだけなら、それだけですんだ。でも婚約者が敵対してるとなると、話は別かもしれない。思い当たるのはそれくらいですか」
遠藤は澄まし返って、ゲップをした。わたしはこちらに押しやられた伝票を取りあげつつ、一矢《いつし》報いてやるつもりで最後の質問をした。
「ところで、遠藤さんの詩は本になっているんですか」
「ぼくは本物の詩人ですから」
遠藤には応えた様子もなかった。
「商業ベースに乗る必要はないし、それどころか出版する必要だってないんです。ぼくの詩を読めない一般大衆には気の毒なことですけどね。魂のエリートにしか、理解できないものっていうのもあるんだなあ。だから、あなたにはお聞かせしませんよ。わかりっこないから」
会計をすませるあいだも、遠藤はわたしの飲み残しのバナナジュースを店内に響き渡るような音を立ててすすりこんでいた。
3
豪快な笑い声が電話の穴から流れ出た。隣の公衆電話に張り付いていた女の子が、目をぱちぱちさせて振り返った。
「そんなわけないじゃないですか。それが自殺の動機なら、死ぬのは相場のほうだわ」
「どうしてですか」
「どうしてって」
みのりの司書仲間である清水恭子は、不意にうたぐり深い声音になった。
「あなた、相場のお友達なんでしょ。相場は西村さんとあたしたちの板挟みになっていたわけだから、西村さんより立場としてはきつかったと思いますよ。それで、西村さんに当たり散らしたことがあったのかもしれない。でも、そんなことくらいで自殺するわけないでしょう。西村さんは今回の件が原因で死んだんじゃないですよ」
「それじゃ、どういう動機なんでしょう」
「知るもんですか」
清水恭子はあっけらかんと言い放った。
「自殺の動機なんて、他人には、たぶん本人にもわかりっこないでしょ。ただ、これは噂ですけど」
清水は少し言い淀んだが、
「ねえ、もし相場が自責の念でも感じて悩んでるんなら、彼女に教えてやってもらえません? 西村さんが自殺して相場は一か月も休んでるけど、そのあいだに噂が出回ってるよって。文化センターの建設で談合があったらしいとか、おかげで西村建設が予定最低価格よりよっぽど高い値段で落札したこととか、そもそも設計や内装を決める段階で西村建設が自分の下請け業者に有利なようにことを運んでいることとかね」
「西村建設というと」
「もちろん、彼の父親が会長を務めているあの建設会社のことよ。例えば、当初の予定ではセンターのロビーは低い天井にすることになってた。それが蓋を開けてみたら、吹き抜けのロビー、しかもシャンデリアつきになっていたってわけ」
「つまり、それはランニングコストの問題に……」
「そうよ、もちろん。あんなに天井が高くっちゃ、職員が電球を替えることはできない、つまり専門の業者を呼ばなきゃならない。他にも、中庭を作ってグリーンで埋め尽くすことになっていたり、噴水を通すことになっていたり、一番笑っちゃうのがギャラリーのエレベーターの件ね」
清水恭子は嬉しそうに説明した。二階に美術ギャラリーがあるが、美術品の搬送は余計な衝撃を避ける必要があるため、わざわざ地下駐車場直通の、ギャラリー専用のエレベーターを作った。ところが駐車場の入口には高さ制限があって、搬送用トラックが駐車場に入れない。
「しかもそのギャラリー、防火装置がスプリンクラーなのよ。信じられる? 美術品に水かける馬鹿がどこの世界にいるってのよ。ハロゲン化物消火が常識じゃない。おまけにスプリンクラーの吹き出し口は、展示ケースのなかだもの。高い金かけて作った挙句、あれじゃどこの美術館でも収蔵品の貸出を断わってくるわね」
いい気味だといわんばかりの清水恭子に、図書館の書庫はどうなっているのか尋ねてみたい誘惑にかられたが、仕事中だということを思い出したらしい清水は早口でまとめにかかった。
「ともかくそんなわけで、建物があらかた出来上がってみたら当初の計画とはちがうことが山のようにあるし、それで儲かるのは西村建設の関連会社ばっかり。清掃会社もレンタルグリーンの店も、エレベーターの管理会社もね。使えないエレベーターでも毎年一度は定期点検をやることになってるし、やれば金がかかるし、その金はすべて税金。西村さんが直接この件にかんでいたとは思えないけどね、彼、良い意味でも悪い意味でもおぼっちゃまだったから。実家がらみの噂の渦中にあって、嫌気がさしたんじゃないのかしらね」
散々わめきちらして落ち着いたのだろう、清水恭子はしんみりと付け加えた。
「相場のせいじゃないって、そう彼女に言ってやってよ」
電話を切って、以前勤めたことのある建設関係の業界新聞社に電話を入れた。わたしと一番仲のよかった工藤咲という女性を捕まえたかったのだが、彼女は席を外していた。電話に出たのはその代わり、一番の情報通でもっとも口の軽い男だった。
「西村建設? おや、その名前、最近ずいぶん話題になってるね」
「どうして」
「例の証券スキャンダルに巻き込まれそうだからさ」
思いがけない掘り出し物に、眉に唾をつけたくなった。
「そんな大事件に、西村建設がからんでるの?」
「なんだ、葉村。おまえ知らずに聞いてきたのか……まあ、いいや。あの一件で逮捕された大物総会屋が、証券会社や銀行と西村建設を取り持ったと自白したって噂があるんだ。建設会社の強引なやり口は今に始まったこっちゃないけどね、当節、国民だって建設会社なんぞの損失補填に税金使われて黙っちゃいない。証券会社や銀行がどんな目にあったか、知ってるだろ。これが公になれば、公共事業から締め出し食うだろうから、いま西村建設の幹部連中、戦々恐々として各方面に必死の運動を展開中だよ。おまけに、頼みの綱の西村会長は愛息の自殺にショックを受けて寝込んでいるっていうから、かなりきついだろうね」
「会長の具合、悪いの?」
「さあねえ。こういうときは無責任な噂が出回るからな。けどいい年だし、あちこちガタがきてたっておかしくはないだろう」
「西村建設と証券スキャンダルの噂って、いつごろから出始めたのよ」
「そうさな、証券会社や銀行が新聞の一面で扱われるようになってすぐだから、二か月か三か月くらい前ってことになるかな」
西村孝の自殺以前ということになる。わたしはメモを取る手を休めて考えた。
「会長はそのときすぐに運動に加わらなかったの?」
「運動? 七十六にもなるじい様が、なぜいまさらスポーツに血道を上げると思うんだ」
「ばか。各方面への運動のほうよ」
「冗談だよ。相変わらず融通のきかない女だな」
つまらない冗談を言う男にかぎって、受けないと冗談にではなく相手の性格に問題があると決めつけるのはなぜだろう。わたしは苦笑した。
「西村会長の具合が悪くなったのは半年も前からなんだ。理由はいろいろ取り沙汰されているけど、たんなる病気だなんて信じているやつはいないね。ここしばらく、建設景気はジリ貧の一途だろ。そこへ持ってきて、会長の娘婿派と現社長派の争いだろ。会長としてはなんとか血をわけた息子にあとを継がせたくて、だからどっちにもうんと言わなかった。そうこうしているうちに、現社長造反の一幕があってさ。上層部がごたごたしていた間、人員整理も構造改革も、環境対策もいい加減なまま。なんにもしないで乗り切れるほど、今の不景気は半端じゃない。以前は業界三位の線だったけど、今じゃ十位にも入ってないんじゃないか」
「それで、頭に来て倒れた、と」
「そうさ。もともと高血圧の気味だったんだろうけど、よりによって建設省の役人呼んでの接待ゴルフの真っ最中に倒れて救急車で運ばれた。おまけにそれがすっぱぬかれて、西村建設ますます大変で……」
「いまも入院中なの?」
「いや、一時はあちこちで喪服の虫干しが始まったらしいけど、戦前生まれはしぶといやね。退院したさ。でもそのあと、最愛の息子に死なれちまったから、面会謝絶で自宅療養中だとさ。気の毒に、このままくたばったらあのじいさん、西村建設の不祥事すべての責任と一緒に墓穴に入るはめになりかねんぜ」
「その息子だけど、西村建設を継ぐ予定はなかったの?」
「本人にはその気は全然なかったらしい。不肖の息子で平凡な地方公務員なんだと。公務員試験に受かったのは本人の実力だろうけど、ポスト見つけて押し込んだのは、おやじさんだったって。ま、会社を継ぐ気はなくても、会長が死ねば、持ち株の半分は息子のものになっただろうから、もし生きていたらどんなことになったかわかんないけどさ」
西村孝の自殺は誰にとっても都合が悪かったようだ。彼を取り巻く状況は、昔の喜劇映画を思い出させた。導火線に火のついた真ん丸い爆弾を、あっちのやつ、こっちのやつとあたふたしながら押しつけ合っているようなシーンを。誰も窓からそれを投げ捨てて、全員を救おうとは思っていない。
ただ、自分の手元にさえなければいいと、それしか考えていないのだ。
話が終わっても、しばらくの間、みのりは黙ったままだった。わたしは自室に戻り、死者のものだったベッドにひっくりかえった。煎餅布団をかびくさくなった押し入れから引きずり出して、背中に床から這い上ってくる湿気と冷気を感じながら眠った日々、わたしはどんなにこういう眠りを夢見ていたことだろう。実際はこれほど居心地が悪いとは、予想もしていなかった。
いつのまにか寝入ってしまったらしい。気がつくとみのりが見下ろしていた。
「あんたって本当にひどい女ね。あふれんばかりの事実とあたしを置き去りにして、自分は太平楽に寝てるなんてさ」
「それが望みだったくせに」
「誰がそんなこと、言ったのよ」
「泣いてみせたじゃないか」
みのりは鼻を鳴らしてグラスをひとつ、中身をベッドにこぼしながらわたしに押しつけた。しかも、それはジンジャーエールだった。
「ほんと、やな女だね。罰として明日、つきあいなよ」
「どこへ」
「西村の家。お姉さんから電話がかかってきた。父親があたしに会いたがってるんだと」
みのりは他人ごとのように言い、またしてもわたしを巻き込んだ。
「で、決まったの?」
「なにが」
「どれを取るかよ。資産家の自殺、詩人の自殺、婚約者の自殺」
「それを決めるのはあなたでしょ、みのり」
「あんただったらどれをとる?」
「公務員の自殺、っていうのはどうよ」
みのりはジンジャーエールを吹き出した。
「西村が公務員として自殺した? ふざけんな、ばか」
「発作的に死にたくなる理由としては、一番もっともらしいじゃない。どこに行っても父親の影から逃れられず……」
「つまり、それは詩人の自殺ね」
みのりは決めつけた。わたしは一瞬、なにかひらめくものを感じたが、それ以上の啓示は得られなかったので、肩をすくめて続けた。
「しかし精魂こめた文化センターの仕事は父親の建設会社に身ぐるみ巻き取られていて、そのことに責任を感じた彼は……」
「資産家の自殺だわ」
「そのうえ彼は結婚間近で、いまさら無職になって妻に養ってもらうわけにも」
調子に乗って続けたわたしは思わず口をつぐんだ。みのりは薄く笑って結論づけた。
「それは、婚約者の自殺の亜流じゃない? だめよ、だって彼は公務員であることそのものに疑問を感じたことなんかないんだもの。感じたとすれば、なぜ西村建設の会長の息子なんだ、とか、こんなやっかいな時期にどうして婚約……婚約なんかしちまったんだろう、とか、そういうことじゃない」
みのりはグラスのへりを、爪でひっかいた。
「だから、結論を出すことなんかないんだ。きっと全部。全部ぐちゃぐちゃにもつれあって、西村は死んだんだ」
「西村さんは、公務員をやめても詩人として何とかやっていけたかもしれないじゃない。詩集は売れたんだし。おまけに父親は死にかかっているというし、だとすれば、遠からず相当額の遺産が転がり込んでくる。妻を養っていけないって理由じゃ、死ねないよ」
みのりは返事もせずに、ガラスに爪を立て、音を立てて小さく言った。
「くそ、あの野郎。自殺するなら、最後までけりをつけていけばいいのに。きっちり遺書書いて死ぬぐらいの礼儀は心得てると思ってたのに」
わたしたちが知り合った頃を思い出した。わたしはおどおどした転校生、みのりは正義感あふれる同級生。ある昼休み、級友たちがバレーボールに誘ってくれた。加わってすぐに、わたしはある種のターゲットとして誘い込まれたことを悟った。抜けるような青い空に真っ白いボールが舞う。追うこともできず、打つこともできず、まるでいくつものボールが無限に現れるように。そもそもコミュニケーションのためではなく、一方的な敵意を伝えるために打ち込まれ続けるボール。次々に、休むまもなく、輪の中央めがけて。三百六十度、遮ることもできない、完全な悪意の輪。
その輪を破ってくれたのはみのりだった。そしていま、輪の中心に力なく座っているのはみのりだった。
わたしではなく。
4
海岸線沿いの平日のドライヴというなんとも優雅な道行は、順調だった。葉崎山を通りすぎたあたりで、車は路肩に停まった。まだ寒々とした春の海は、それでも幾人かの物好きを受け入れて、雲と風の下でうごめいていた。
サイドブレーキをぐいっと引くと、みのりはサングラスを前方の道路に据えたまま、ぶっきらぼうに言った。
「あそこが入口。ご大層なお屋敷にたどり着くまで、ちょっとした山登りになるわ。海を見晴らす別宅ですってさ」
「来たことがあるの?」
「一度ね。鬼の居ぬ間にって、ふたりで。来るんじゃなかったと思うけどね」
そのときになってようやく、わたしはみのりの眺めている道の先に、トンネルの入口があることに気づいた。西村孝の入りそこねたトンネル。みのりはサングラスをあげ、まぶしげに目を細めた。
「でも一見の価値はあるわ。なかはアンティークの山よ。全部、お姉さんが集めたものだって聞いたけど。楽しみに行ってくるといい。あたしはここで待ってるから。坂道から転げ落ちないように、気をつけてね」
車は発進した。わたしはしばらく周囲を見回していた。砂っぽく、照り返しの強い道路。その向こう側に見える邸宅の入口とやらは、土砂崩れのあとにしか見えなかった。
道路を渡り、坂道を登り始めた。息を切らしながら半ばまで登ると、にわかに鉄の門が現れた。錆びついて、かしいでいた。隙間に身をねじ込んだあとで、外にインターフォンがあることに気づいた。門の内側からインターフォンを押して、まぬけな気分を味わうことにした。
そこから道はさらに急勾配になった。退院した病人がこの坂を登れたはずはない。高血圧には体力を増強する副作用があるのかもしれない、と考えて、自分がとことん金持ちの発想ができない人間なんだと思い知った。金さえ払えば、年寄りをかついで運んでくれるひとを何十人だって見つけられる。
登り終えた頃、興ざめな建物が目の前に現れた。趣のある門とはうって変わって、レンガ作りでも石作りでもない。そこらの住宅街にざらにころがっているような、ただ大きさがその三倍はあるだろうといった家だった。平均値から三つほどずれているだけで個性という形容をしてしまう国の建設会社会長にふさわしい、すばらしい家だ。
息子の婚約者の代理人はすみやかに邸内に招き入れられた。みのりの言ったとおり、玄関にもリビングルームにもヴィクトリア朝の家具があふれかえっていた。やや、あふれかえりすぎている感はあった。ソファセットとダイニングテーブルのセットと二つの食器棚、三つのサイドボード、おまけにコーヒーテーブルや用途の見当もつかないようなこぢんまりとした家具で、足の踏み場もないほどだった。アンティーク家具とペルシャじゅうたんの下に、不燃材の床が見えた。
西村孝の姉、西村悦子はみのりの代わりに第三者がのこのこやってきたことに対して、不快と安堵を隠そうともしなかった。せっかくお近くまでいらしたのにだの、父がお友達に会いたがるかどうかだの、散々牽制球を放っておきながら、わたしが弁護士どころか法律的知識の持ち合わせがまるでない人間だと悟ると、手のひらを返した。紅茶をスージー・クーパーのカップに注いでくれたことを考えれば、歓迎されたのだろう。もしわたしが弁護士だったら、さしずめ景徳鎮の蛍透かしかなにかが出てきたはずだ。もっとも紅茶そのものは、蒸らす時間が少ないうえに、これもアンティークのティーストレーナーに注がれて供されたため茶カスだらけで、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
「みのりさんはお元気にしてらっしゃいますの」
西村悦子はこれで三回目になる質問をした。
「いくらか元気をとり戻してきたようです」
「無理もないけど。気の毒に。孝は衝動的な性格だったから。思いつくが早いか実行に移して、いつだってそれを後悔しますのよ」
悦子の言いたいのが自殺のことなのか婚約のことなのか、わたしはいぶかしんだ。
「お父様のお加減はいかがですか」
「いくらか元気になってきたってとこかしらね。元気になればなったで、わがままで困るんですけど」
「失礼ですが、なんのご病気なんですか」
「あら、病気じゃないわ。たんなる年齢のせいね。生まれて七十六年もたてば、あちこち傷み出してきますわよ」
悦子は視線を部屋中にさ迷わせながら言ったので、これまた骨董家具の話なのか父親の話なのか、さっぱりわからなかった。
「あなた、『桃源境崩壊』をお読みになって?」
「はい」
「どう思ったか、感想を聞かせていただけるかしら」
「刺激的な本でした」
「そんなに頭に来たかしら」
悦子は唇の端をきゅっと持ちあげて見せ、表題作の一節をそらんじてみせた。
「桃源境崩壊──それは安らかに、すみやかに……だったかしら。あの子ったら、二十八にもなってわかんなかったのね。安らかに崩壊する理想郷など存在するわけないってことに。いつだって言葉を弄《もてあそ》んでいただけなんだから」
「そもそも理想郷なんて、どこにもないと思います」
「それはどうかしらね。私にはあるわよ。ほら」
悦子は両手を広げて見せた。それまで気づかなかったが、隅のほうに古ぼけた箪笥があって、白黒の写真が一枚、薔薇をあしらった銀の額に納められて飾られていた。写真のなかには母親と子どもがいた。すでにこの世にはいないふたりに違いなかった。
「母よ。四十五歳で孝を産んだの。それからすぐ、ね」
もし私の言葉が死んだ弟に対してきつすぎるように感じられたら、ごめんなさい、でもほら、私には弟を恨むだけの理由がちゃんとあるわけなの、という隠されたエクスキューズを、わたしは黙殺した。
「孝さんが言葉を弄んでいただけ、とおっしゃいましたが」
「ええ、言ったわよ。あの子の父親や私への反抗は、もっぱら言葉にかぎられていたんですもの。どうせなら行動で示してほしかったわね。汚い言葉を怒鳴りちらすだけじゃなくて。なんだかんだ言ったって、親離れできなかったのよ、あの子は。父が公務員採用ポストを見つけてきたときだって、大学の裏口入学をあっせんしたときだって、俺を侮辱しやがってとかなんとか言いながら、結局言いなりになったんですもの。みのりさんのお友達に向かってこんなこと言うのはなんですけどね」
悦子は含み笑いをしながら、
「孝はみのりさんと婚約したって、そりゃもう威張りくさって私たちに引き合わせたものよ。反対されると思い込んで、修羅場の予行演習を積んでいたにちがいないわ。反対ですって、とんでもない。ふたりのつきあいは、私たちとうに知ってましたとも。みのりさんの母親という人は、親戚としてもろ手をあげて迎え入れたいようなタイプでもないけれど、亡くなったお父様は古典学者として一流でいらしたんだし、みのりさんだって浮わついたところのないお嬢さんですもの。もっとも、反対されて職も親も捨てて駆け落ちでもしてくれたら、よっぽど孝が好きになれたでしょうよ。言葉を弄ぶだけよりよほどいいわ」
「それなら、今は」
「ええ、もちろん」
悦子は最後まで言わせなかった。
「好きよ」
なんの脈絡もなく、誠実な政治家とは死んでしまった政治家だ、という言葉を思い出したとき、ベルが鳴った。悦子はすぐに戻ってきて、無表情に父親が会うと告げた。
西村会長の寝室は、一階の奥にあった。暗く湿っぽい殺風景な部屋で、ひとつきりの窓は北向き、なんのために山登りまでしてこの部屋に行き着いたのかわからなかった。
部屋の大部分を、巨大なベッドが占めていた。そのうえに横たわっているのは、大会社会長の地位にある人物に見えなかったばかりではない、人間にさえ見えなかった。しみだらけの猿のような顔で、シーツや枕カバーやその他清潔きわまりない布に埋れ、ポプリまで枕元に置きながら、なおすえたような臭いを放っていた。
「おすわんなさい、お嬢さん」
黄ばんだ目がぎょろりとわたしを見据えた。
「あのドアが見えるかね」
「ええ」
西村会長は顎をわずかにしゃくった。窓の反対側に扉が見えた。
「頭も目も確かなようだな。あんたがみのりさんの友人だということは、どうやって証明するかね」
「ここにいることでは証明になりませんか」
「そうだな。なるだろう。十分なる」
会長は咳き込みもせず、耳が遠いふりもしなかった。
「私も娘も、みのりさんに会えなくてほっとしとるんだよ。わかるかね」
「いいえ」
「これははっきりしたお嬢さんだ」
会長の顔が歪んだ。
「そうか、では説明しよう。たぶんみのりさんは困っているんじゃないかな」
「ええ」
「そうだろう。困っている。困惑している。理由がないと、人間は困惑するもんだ。かつての私がそうだったように。孝がなぜ親である私に反逆したがるのか、理解できずにずいぶん困ったもんだ。だから、理由を差し出すんだ。ありがたく受け取るだろう?」
「ええ、たぶん」
「ずいぶん苦労したが、それなりの価値はあると思った。会社には私が信頼できる人間が必要なんだ。孝をその地位にあげるためには、とにかく時間がなかった。あいつには荒療治が必要だった。詩など書いても意味はないということを、はっきり思い知らせなくてはならなかった。まったく、黒亀堂の社長には借りを作る、金だってかかった。それで結果はどうだね。病気を追い出してみたら、患者が死んでおったわ。くだらない」
西村会長の声はかすれ始め、内容は意味をなさなくなりつつあった。
「精魂込めて築きあげた会社を、息子に譲りたいと思うのがそんなに悪いことか。どんなことをしても目を覚まさせてやりたいと思うのが、親というものじゃないか。あいつはふっとんできた。みのりさんの車を盗んでまでやってきた。詩集の出版に私が噛んでいることに、やっと気づきおったんだ。馬鹿なやつだ。そうと決まっているじゃないか。それだけわかれば良かったのに、それであきらめれば良かったのに、あいつは見て、馬鹿なやつだ、私から逃げようと……」
睡眠の世界へ溶けていこうとする会長に、わたしは声をあげた。
「失礼ですが、なにをおっしゃっているのかわかりません」
「だからドアだよ、お嬢さん。桃源境への……」
立ち上がって、ドアに近づいた。布の山の間から不規則な寝息が聞こえている。わたしはノブを握って、引き開けた。
車は向きを変え、坂道の真下に停車されていた。みのりは外に出て、車にもたれかかっていて、わたしをじろりと見た。
「なによ、その格好。本当に転ぶことないでしょうが」
言われてわたしは泥だらけの膝とすりむいた手のひらに気がついた。
「で、ここで結論は出たわけ? どれだったのよ。資産家の自殺、詩人の……」
「どれでもない」
わたしはできるだけ軽い口調で答えた。
「どれでもなかった。西村孝は息子として、自殺した」
みのりの頭越しに、にじんだような春の空とそこにぽっかりと浮かぶ真っ白い、まるでボールのように丸い雲が見えた。その白さはわたしの目を強く射たが、それでもいま見てきた光景を消し去るほどではなかった。
ドアの向こう側、部屋に隙間もなく積み重ねられたおびただしい本。予約注文のまとめ買いでかき集められた、五千冊近い『桃源境崩壊』……
[#改ページ]
夏の物語
[#小見出し] たぶん、暑かったから
1
八月の空は秋よりも移ろいやすい。曇ったと思ったら晴れ、晴れたと思ったらどしゃぶりになった。雨がやんだ後はアスファルトから水蒸気が立ちのぼり、町はもやでかすんだ。
忙しい一週間だった。長谷川探偵調査所が回してきた仕事の内容は、縁談相手の素行調査というありきたりなものだったが、調査対象は驚くべき多趣味活動家の家事手伝いで、このところの暑さをものともせず毎日のように出歩き、素人演劇集団を仕切り、ボランティアを三件、英会話にお花にお茶、夜はコンサートに芝居に映画と走り回っていた。仕事柄歩き回ることには慣れているが、これほどアクティヴな尾行対象は初めてだ。長谷川探偵調査所に入ったばかりの若い男性スタッフは三日で音をあげ、事務所をやめた。わたしは後半の四日間、たったひとりで調査するはめになったが、去年の誕生日にみのりがくれた万歩計を見たら、昨日など実に三万五千歩を歩いていた。熱射病で倒れなかったのが不思議なくらいだ。
彼女について強いて難点を探すなら、顔が広過ぎ、男友達も多いところだったが、特定の相手はいない。これからまとめる報告書も長所だらけになるだろうし、まずはめでたいことだったが、正直な話、縁談がまとまるとは思えなかった。調査を依頼してきた中年女性は「彼女がうちのぼくちゃんの嫁にふさわしいかどうか」を気にしているわけだが、そんな母親の「ぼくちゃん」が彼女の旦那にふさわしいはずもない。
徒労と不毛でよれよれになりながら、それでも明日からの〈なんの予定もない数日〉にほっとしつつ、帰った。マンションのドアを開けると、奥から話し声が聞こえてきた。反射的に足元を見た。見慣れないベージュのローヒールが一足、きちんと揃えてあった。いぶかしみながらよく冷えた部屋に入ると、みのりが助けを求めるようなまなざしで、おかえり、と言った。
「遅かったね、晶。こちら──」
「ご無沙汰致しております、晶さん」
はあ、と言いながら、わたしは小首をかしげてその女性を見返した。見たことがあるような気もしたし、ないような気もした。
「夜分遅く、お疲れのところお邪魔しまして。覚えていらっしゃいますか、市藤《いちふじ》清乃です。中野新町に住んでいた頃、お隣だった」
こらえにこらえていた疲れがどっと出た。わたしは遠慮会釈なくソファに腰を下ろし、冷たい口調で答えた。
「申し訳ありませんが、覚えておりません。中野新町に住んでいたのは、わたしが一歳の頃までですので」
「あら」
市藤清乃は顔を赤らめた。
「そうでしたわよね。おばさんの悪い癖ね、自分が知っているのだから、晶さんも覚えていてくださると思い込んでしまって。そう、晶さんは一歳でしたね。うちの犬と一緒に小屋にもぐりこんで、行方不明になったと大騒ぎになったことがありましたっけ」
麦茶を運んできたみのりの肩が細かく震えていた。わたしはそれをひとにらみして、深呼吸した。
「覚えていなくて申し訳ありません」
「いいえ、当然ですわ。ごめんなさい、あの、てっきりお母様から御連絡がいっているものとばかり思っていたので」
「母から、ですか」
その瞬間、誇張でもなんでもなく、爪先から頭のてっぺんまで悪寒が走った。
わたしの母は──なんと説明したらいいのだろう、よく言えば芸術家タイプで、気まぐれで、世界が自分のためにあると思っているようなひとだ。子どもたちを猫かわいがりするかと思えば、その存在をすっかり忘れている。この数年、わたしは彼女に会っていない。黒い服が嫌いだという理由で、珠洲《すず》の葬式にも出てこなかったような母親なのだ。
自室の机の上に、数日分の郵便物を封を切らないまま放り出してあった。そのなかに殴り書きの葉書が一枚混ざっていた。差出人の名はない。母は、誰もが自分を知っていると信じていて、一度しか会ったことのないような相手にさえ、「あたしよ、あたし」としか名乗らないのだ。
葉書には、あんたもよく知っている市藤さんの例の悩み事を解決するように、とだけ書かれていた。わたしはそれを市藤夫人に見せた。
「母はおっちょこちょいなひとですから」
わたしは言葉を選んだ。
「わたしが市藤さんを、全然、知らないことや、例の悩み事と言われても、全然、見当もつかないことを、忘れていたみたいですね」
全然、を強調したのがきいたとみえて、市藤夫人は顔をさらに赤らめた。これで帰ってくれるかも、と思ったのも束の間、彼女は身を乗り出した。
「では、あらためてわたくしのほうから事情をお話しさせていただきます。念のためおうかがい致しますが、晶さんは、お母様のおっしゃったように、探偵でいらっしゃるんですわよね」
違います、と言いかけて、長谷川探偵調査所の名入り封筒がソファのうえに堂々と置いてあることに気づいた。
「……ええ、そうです」
「お願いです。お忙しいのはわかっておりますし、こんな夜分に押しかけて非常識なのも重々承知の上でのお願いです。他に探偵さんの知り合いなどおりませんし、広告を見ても不安で恐ろしくて、とても興信所など行く気になれませんし、でも娘のことが気になって夜も眠れないんです」
「あの、市藤さん」
「お願いします」
市藤夫人は深々と頭を下げた。母の友人だけあって、このひともずいぶんおっちょこちょいだ、とわたしは思った。広告は信用できないくせに、赤ん坊の頃会ったきりの人間を簡単に信用するなんて。改めて見直すと、市藤清乃はひどいありさまだった。髪の生え際に白髪がめだち、しばらく染めていないことをうかがわせる。化粧けのない顔によれよれのシャツ。握りしめたハンカチは見るからに薄汚れていた。
わたしは溜息をついた。
「とにかく、お話だけでもうかがいましょう。ただ、わたしは現在探偵社とは自由契約を結んでいるんです。仕事の依頼をするなら、そこを通して、ということをお約束してください」
市藤夫人は慌ただしくうなずくと、支離滅裂に事情をまくしたてた。
二週間前、市藤夫人の娘、恵子が職場で上司を刺し、重傷を負わせた。傷そのものはさほど深いものではなかったが、感染症で一時は生命さえ危なかったという。恵子は殺人未遂の容疑で逮捕された。恵子の供述によれば、「上司を刺したことはよく覚えていない。気がついたら相手が床に倒れていて、自分がねじまわしを持って立っていた」とのこと。恵子が不眠症で精神科に通院していたことから、警察は精神鑑定を受けさせることにしている。
「それでは、事件は落着しているわけですね」
わたしはあくびを噛み殺して訊いた。市藤夫人はハンカチで額を拭いた。
「落着している──ええ、そうですわね」
「では、いまさらお金を使って調べたところで──興信所に調査の依頼をすれば、それなりの料金をとられるわけですからね──、新しい事実は出てこないと思うのですが」
「いいえ。新しい事実が欲しいんじゃありません。恵子がひとを刺したのは事実ですから。でも、いまのままでは恵子があんまりかわいそうで。雑誌にも、嫉妬と逆恨みで逆上のあげく上司を刺した、悪逆無道の女であるといわんばかりの書かれ方をされて、わたし、わたし」
市藤夫人の頬に涙がつたった。喉に詰まる声でとぎれとぎれに言う。
「そりゃあ、あの子だって一人前の女だったんですから、親には言えないいろんなことがあったとは思います。ですけど、あの子は本当は優しい子なんです。ずっと以前に死んだ恵子の妹のことも、いまだに忘れずに悲しんでいるんです。お願いです。恵子の本当の姿を調べてください。あんないいかげんな、先入観の塊みたいな雑誌の記事が、恵子の姿を歪めて世間に垂れ流しているのに、もう耐えられないんです。晶さんは恵子とは年も近くて、あの子の気持ちがよくおわかりになると思うんです。あの子、面会に行ってもわたしにはなにも話してくれないんです。ただ迷惑かけてすまないって謝って、あとは黙りこくっているばかりで。このままでは恵子の罪状も重くなるばかりじゃないかって、夜も眠れなくて」
「お気持ちはわかりますが……」
「お願いします。このとおりです」
拝まれてわたしは困惑した。年上のひとの涙ほど苦手なものはない。しかしそんな厄介な仕事など、断じてごめんこうむりたいところだ。事実関係なら調べようもあるが、ひとの心のなかまでのぞけるわけがない。今日の調査対象にしたところで、本当はなにを考えているのかはわからないのだ。
「ここに、三十万円あります」
市藤夫人はハンドバッグから茶封筒を取り出してテーブルに置いた。
「少しですが、どうぞ調査の費用にお使いください。足りなくなった場合はご連絡ください」
「先程も申し上げましたとおり、仕事の依頼でしたら、わたしの契約している探偵社を通して正式な料金でですね」
「わたくし、晶さんのことは信用します。でも、そういう機関を通すことは恐ろしくてできません。もし、もっと恵子に不利なことが出てきたら……」
なるほど、とわたしは思った。市藤夫人は要するに、自分も娘のためにできるだけのことをしたと、自分自身に思い込ませたいのだ。娘を信用しているわけでも理解しているわけでもない。万一、娘にとって──自分にとって──都合の悪い事実が出てきても、友人の娘であるわたしなら、黙らせることができると思っているのだ。
「さっき、お約束したはずです。個人的には仕事を引き受けたりしないと」
「お願いします、この通りです」
市藤夫人は蛇のようなしつこさで頭を下げ続けた。わたしは舌打ちをした。
「精神鑑定の結果は、どうだったんですか」
「軽いうつ病の傾向があるそうですけど、刑事責任は問えるそうです。ですから、よけいに──お願いです、引き受けてください」
ついに夫人は声をあげて泣き出した。途方にくれるわたしの耳元で、みのりが囁《ささや》いた。
「泣く母親と地頭には、絶対勝てないよ。あきらめな、晶」
2
翌日遅くまでふて寝して、新世界出版社に到着したのは午前十一時を少し回った頃だった。以前、この出版社で数週間だけアルバイトをしたことがあった。そのとき同じアルバイターで、今は社員になっている柏原佳隆《かしわばらよしたか》に会った。三日ばかり休みをとってタイに行ってきたとかで、地黒をさらに日焼けさせ、なまずそっくりになった顔から白い歯をのぞかせながら柏原は言った。
「恐怖のOL逆上事件について調べてんのか。そいつは俺、詳しいからいろいろ話してやってもいいぜ。なんたってあの事件、取材して記事をまとめたのは俺だもん」
柏原は先週号の雑誌を取り出して、自慢らしく記事を見せびらかした。『恐怖の逆恨み 妄想OL職場で逆上』と下品きわまりないキャッチが躍っている。
「身内がショックを受けるのも無理はないわね」
「なんだよ、それ。晶、この女の親に雇われてんのか。そりゃまあ、ショッキングな事件だから読者の目を引くだろうととりあげたわけだけどさ、なにも最初っから加害者側だけが悪いと思いこんで取材したわけじゃないぜ。公正で綿密な調査をしたんだ」
柏原の口調は真剣だった。それは、嘘ではないだろうとわたしも思った。そういう点では真面目な男なのだ。だが、どんなに中身が事実に即していようとも、タイトルがこれではどうしようもない。世の中、きちんと記事を読む人間より、新聞や車内の広告でキャッチだけしか読まず、勝手に中身を想像する人間のほうが、はるかに多いのだ。
「そんなこと言ったって、読者の頭のなかまで責任とれないよ。それに、言葉は少々どぎつくたって真実は真実なんだぜ。ちゃんと周囲の人間にだって取材をしたんだしさ。市藤恵子が佐久間徹という、加害者とはなんの利害関係もない善良な男を突然刺したのは、事実なんだから」
柏原はわたしを資料室に連れていくと、むっとしたまま立ち去っていった。わたしは溜息をつき、机に資料を積み上げ、片端から読み直していった。一時間後に把握した事実は以下のようなものだった。
事件が起こったのは、二週間前の七月二十二日、午後一時二十五分前後のことである。現場は大手建設会社東洋ニッポン建設人事課のオフィス。総務課に所属する市藤恵子二十六歳は、事件の起こる五分ほど前に人事課を訪れ、課長の佐久間徹四十二歳と話し込んでいたのを、室内にいた同じ人事課の人間二名が目撃している。その際言い争っている様子は全くなく、突然、佐久間がうめき声をあげて床に崩れ落ちたときには、なにが起こったのかとっさにはわからなかったという。
佐久間のワイシャツが血に染まっていることと、市藤恵子の右手に血のついたねじまわしが握られていることに気づいた同室者が慌てて恵子を取り抑え、救急車を呼んだ。恵子は大した抵抗もなく素直に逮捕に応じたが、動機その他の取り調べに対してはのらくらとわけのわからないことを言うだけだ。
市藤恵子の職場での評判は、可でも不可でもない。めだつほど有能ではなかったが、言われたことはきちんとこなすというタイプ。いささか神経質なところがあり、ヒステリックになることもあったが、上司や同僚の受けはよく、その年の総務の新人教育を担当していた。大学時代の友人の男性と五年越しの交際を続けており、社内のゴシップの対象になることはなかった。
被害者の佐久間徹はいささか野心的だが、上層部の信頼も厚かった。三歳年下の妻とふたりの子どもがいる。女性問題などの噂は皆無。市藤恵子とも仕事や社内の宴会で顔を合わせたり、人事課と総務課の合同社員旅行の際に同行したことがある程度。彼らが個人的につきあっていた様子はまるでない。ねじまわしを胸に受け、傷の具合はたいしたことなかったものの、一時は傷口から入った雑菌による合併症で生命も危ないところだったが、現在は持ち直し、警察の取り調べにも応じている。だが、刺される覚えは全くない、直前までの会話は、今年総務に配属になった新人についてのもので、突然市藤恵子の正気が失われたとしか思えない、と語っているという。
記事の締めくくりには、市藤恵子が佐久間徹に片思いでもしていたのではないか、その感情が本人と話しているうちににわかに暴発し、手近にあったねじまわしをつかんで凶行に及んだのではないか、という趣旨のことを匂わせてあった。これが本当なら、柏原の言うように、刺された佐久間徹こそいい迷惑だ。
記事を置いて考え込んだ。いくつか気になるところがあった。わたしは柏原を探しに行った。彼は幸い、まだデスクにいた。
「ちょっとおうかがいしたいんだけど。恵子さんが佐久間徹を刺した凶器のねじまわしってのは、いったいどこから出てきたの。まさかねじまわし片手に人事課にやってきたわけじゃないんでしょ」
「ああ、それね」
柏原は具合の悪そうな声音になった。
「よく、わからないんだよ」
「わからないって?」
「恵子が持ってきたものでないことは確かなんだ。恵子は手ぶらで部屋にやってきたそうだからな。だけど、被害者の持ち物でもないんだ。ま、どうせ警察が佐久間に事情聴取をしたときに、出どころくらいはつきとめてるだろうさ」
公正で綿密な調査と自慢するだけのことはある。わたしは呆れた。
「事件が起こる直前にふたりの会話に出ていた、総務の新人っていったい何者よ」
「田野倉かすみっていう、短大を出たての二十歳の女の子だよ。恵子とは仲が良かったらしくて、話を聞こうにもめそめそ泣いててなあ」
「会話の中身は? その田野倉かすみがなにかしでかしたとか?」
「そうじゃないよ、それは口実だって。市藤恵子は佐久間に会いたかったんだよ。仕事中、その気持ちが高じてわざわざ人事課に出向いたんだ」
「でも、それは柏原の想像にすぎない」
柏原はむきになって怒鳴ってきた。
「他にどんな考えようがあるっていうんだよ。晶だって、仕事中にオトコにどうしても会いたくなって、口実作って押しかけたことの一回や二回あるだろ」
「ない」
「身も蓋もないやつだな。あのな。いまさらこんな事件ほっくりかえしたって、しょうがないんだからな。人間には衝動性っていうものがあるんだ。事件のあった日は気温三十四度の真夏日だったし、当時人事課はエアコンが故障して蒸し風呂みたいだったっていうから、魔がさしたんだよ、魔が」
「だったら、どうして市藤恵子は覚えていないの一点張りなのよ。暑くてぼうっとしていて発作的にやりました、わたしが悪うございましたと泣き伏すのが普通でしょ」
「俺が、知るか」
柏原は一語一句区切るように言うと、背を向けた。
3
お盆が近づいて人影もぐっと少なくなった街を、喫茶店の窓越しに眺めながら、わたしはレモンスカッシュを一口、すすった。田野倉かすみの指定したのは、東洋ニッポン本社に近い、表通りのガラス張りの喫茶店だった。そのほうがかえって会社のひとに見られても安心だ、と彼女は言ったのだ。
「恵子先輩のおかあさま、ご心配なさっているんですね。ちっともお役にたてなくて」
癖のない髪、白のブラウスに卵色のスカートといういでたち。田野倉かすみは品の良い女の子だった。頭もよさそうだ。会社でも、おじさん族のアイドルなのだろう。
「失礼だけど、恵子さんとのおつきあいはどの程度ですか」
「入社して、二か月間研修があって、総務課に配属されたのは六月の一日のことでしたから、二月弱ってところです。初めはわあ、おっかなそうな先輩だなって思ったんだけど、すごく親切にしてもらって。二回ほど、あたしともうひとり同期の女の子と三人で食事に行きました」
「そのとき、どんな話をしたかしら」
「どんな話と言われても。仕事とか映画や旅行の話とか、男の話も出たかなあ」
「佐久間さんの話も?」
「い、いいえ」
田野倉かすみはいささか怯《おび》えたような目になった。わたしはにこっと笑ってみせた。
「そんなに緊張しないでいいのよ。佐久間さんの話が出たとしても、別に不思議じゃないでしょ。社内の男の品定めなんて、日常会話でしょ」
素敵な笑顔が功を奏したのか、かすみもぎこちなく笑った。
「そういえば、佐久間さんの話もでたことがあります。といっても、ちらっとだけです。こういっちゃなんですけど、佐久間さんってわざわざ品定めするほどの男じゃないんですもの。ていうより、男だと思ったこと、一度もないな」
「あなたは佐久間さんと親しかったの」
手厳しいご意見にたじろぎながら尋ねると、かすみの顔を狼狽《ろうばい》のようなものが走った。
「そんなこと、ないです。口をきいたこともほとんどありません」
「そう」
わたしはわざとそっけなく答えたが、かすかな疑いを禁じ得なかった。なぜ佐久間の名前にいちいち反応するのだろう。いくら事件の被害者だからといって、事件は落着しているのだ。わたしは恵子側であることははっきり言ってあるのだから、そんなに神経質になる必要はないはずだ。
「それじゃ、恵子さんと佐久間さんの間になにかあったというようなことは、まったく感じていなかったわけね」
「あたりまえです。恵子さんだって、佐久間さんなんか問題にしてなかったと思います。週刊誌にはあれこれ書かれていたけど、爬虫類みたいな男なんですよ」
「それじゃ、なぜ恵子さんが突然佐久間さんを刺したりしたのか。特別な関係がなにもないのに、どうして佐久間さんを刺す必要があったのかしら。あなたはどう思う」
かすみはうつむいて、吹き出してくる汗を拭った。
「よく、わかりません。あの日はエアコンが壊れていて、とっても暑かったし、話しているうちに苛々《いらいら》してしまったんじゃないかしら」
「恵子さんがあの日、佐久間さんを訪ねて人事課に行った理由に心当たりはあるかしら。佐久間さんの証言では、あなたが話題に上っていたそうだけど」
「全然、わかりません。あたしになにかミスでもあったなら、恵子先輩はまず、直接あたしに言うはずです」
わたしは話題を変えた。
「あなたが事件を最初に知ったのは、いつだった?」
「ええと──あの日は暑くて、びっくりもしたし、実を言えばあんまりよく覚えていないんです。お昼になる前から眠くて、ぼうっとしてました。人事のほうで騒ぎが起きて、皆が集まっていくんで、あたしも他のひとと一緒に階下の人事課に走っていったことだけは覚えてます。部屋の奥のほうに背広を脱がせてもらっている佐久間さんと、うつむいている恵子さんの姿が見えました。あたし、人ごみをかき分けて走り寄りかけて、恵子さんにとめられたんです」
「恵子さんに?」
「帰れって。心配することないからって。あの、ごめんなさい。そろそろ昼休みが終わってしまうんです」
かすみは千円札を一枚財布から抜き出し、テーブルに置いた。
「いらないわ。こっちで払うから」
「そういうわけにはいきません。恵子先輩のこと、よろしくお願いします。先輩がやったのじゃないかもしれないんでしょ」
「残念ながら、そういう結果になるとは思えないけど」
「無実を証明するために調べていらっしゃるんじゃないんですか」
わたしは驚いて、額の汗を拭いているかすみを見た。実の母親でさえ、恵子が無実だとは考えていなかった。
「目撃者がいて、刺したほうも刺されたほうも、恵子さんが犯人だと言っているのに、どうして無実だと思うの?」
「目撃者って言ったって、刺すところを見ていたわけじゃないんですもの。それに、あたし、佐久間って信用してないの。自分の都合のいいように話をねじ曲げるの得意だし。始終べたべたさわってくるくせに、言い逃れがうまいんだから」
「恵子さんの言葉は?」
「恵子先輩、なにか勘違いしてるんだと思います。──申し訳ありませんが、ほんとに時間がないので、あたしはこれで」
かすみは千円札をそのままに出ていった。わたしはすっかり水っぽくなってしまったレモンスカッシュの残りを飲みほした。日ざしが一瞬かげり、また強く照り始めた。
初めて、市藤恵子という女性に、本気で興味をそそられていた。
市藤恵子の五年越しの恋人、森尾章太は眼鏡を外して疲れたように眉間を揉んだ。わたしは二杯目のレモンスカッシュを押しやって、彼を観察した。
森尾は恵子とは大学の同級生にあたる。学習塾の講師をしていたが、塾が大手に吸収合併され、現在は英会話教材のセールスマンをしている。平日の真っ昼間の呼び出しに、彼が異をとなえなかったのはそのせいだろう。
背も高く、ごついがそれなりに整った顔立ちの男だった。写真で見た佐久間徹のしょぼくれた様子を思い浮かべ、どこをどう押したら、恵子の片思い・妄想・逆上という図式が浮かび上がってきたのか、不思議に思った。
「恵子とは長いつきあいだし、いずれは結婚するつもりだったんです。彼女の母親には反対されていましたけど、今度のことがなければ、そうなったでしょうね」
「おつきあい、やめるんですか」
森尾は餌を欲しがる小犬に似た悲しげな瞳を瞬かせた。
「しかたないでしょう。恵子が相手に負わせた傷は実際はちくっと刺した程度のことだったみたいだけど、傷害事件は傷害事件なんですよ。それに運悪く相手は怪我が元で死にかけたんだ。恵子の弁護をするわけじゃないけど、あいつはなんの理由もなくそんな真似をするような女じゃない。だけど、やれ勝手な片思いだの、相手にされない逆恨みで刃傷沙汰に及んだのと週刊誌には書かれて、しかも本人はなんの釈明もしていないんですからね。俺にだってプライドっていうものがあるんだ。つきあってた女が他の男に入れあげて逆上したなんて、いい笑い者ですよ」
そりゃま、そうだ。流れる汗を拭い、唾を飛ばしながらしゃべくる森尾の姿にわたしは少々同情した。が、森尾は──話を聞いてくれる人間が現れて、嬉しかったのかもしれない──こう続けた。
「だいたい恵子は、少しばかり美人を鼻にかけてるところがありましたからね。だから、自分に目もくれない男にかっとなったんだ。皆にちやほやされなきゃ気が済まなかったんでしょうよ」
「ずいぶんなおっしゃりようですね。恵子さんが被害者を追いかけ回していたという事実は確認されてないし、被害者は女性の妄想をかきたてるようなタイプでもない。週刊誌の記事のほうを信用するつもりなんですか」
きつい言い方をするつもりはなかったが、途中から森尾が下を向いた。と思ったら、驚くなかれしゃくりあげはじめたではないか。仕方なく、紙ナプキンを彼の前に押しやった。森尾は無言でナプキンを取り、とんでもない音をたてて鼻をかんだ。
「すみません」
消え入りそうな声で、森尾は言った。
「ずっと、苛々していたもので。恵子はなんの弁解もしないし、面会に行っても会ってくれないし。友人に愚痴をこぼしても、みんなうすら笑いを浮かべているだけだし」
「お気持ちはわかりますが」
わたしは声をやわらげた。こんな図体の大きな男にまた泣き出されたのでは、たまったものではない。
「すみません」
「あなたは本気で恵子さんが佐久間さんに相手にされずに逆上した、と考えているわけではないんでしょう」
「ええ。──いや、よくわかりません。恵子は普段はおとなしいんです。俺とのつきあいを母親に反対されても、どうにもうまく親元から離れられずにうじうじしているところがありました。妹さんが死んでから、母親にべったりすがられて、でもつき離せずにいる。だけど時々おそろしく気の強いところをみせるんです。学生の頃、彼女が後輩の女の子と一緒に電車に乗っていて、その子が痴漢にあったことがあるんです。恵子は痴漢の腕をひっつかんで、持っていたカッターナイフをこうチキチキチキッと出して」
森尾はカッターナイフの刃を出すジェスチャーをした。
「降りろってそいつを電車から引きずり出したんですよ。他にも、万引きを疑われた友達をかばって警備員に食ってかかって逆に殴られたとか、その手の武勇談はけっこうあるんです。そりゃ相手に怪我させたことはないけど」
「でも、相手に非がないのにいきなり逆上したことはないんでしょう」
「そう。ええ、そうですね。もしかして、佐久間にセクハラされたのかな」
都会で女をやっていれば、バッグで痴漢の頭を殴ったり、ヒールで足を踏みつけてやったりするくらいは、武勇談のうちにも入らないくらいだ。カッターナイフはいささかやりすぎという気もしないではないが。
「だったらそう言うでしょうね。傷そのものは深くなかったんだし、正当防衛になる可能性も高いんだから」
そうだ、一番の謎は、恵子が黙秘している点、自分の行為になんの釈明もしていない点なのだ。
森尾の話のなにかが気になっていた。それを見極める前に、森尾が言った。
「そういえば事件の起こる二日ほど前に、恵子と会ったんです。なんだか会社で嫌なことがあったって、言ってました。詳しくは話してくれなかったけど。あ、そうだ」
森尾は驚いたように顔をあげた。
「そのとき人事課の話が出たんだ。社員の身辺調査は確かに人事の仕事だけど、それを自分のために利用するなんて卑怯だって、恵子かんかんになって怒ってた」
「だめだめ。その話は外部にしちゃいけないって言われてんだよ。あんた誰? マスコミかい? 事件はとっくに終わってるじゃないか」
事件当日同室で仕事をしていた人事課の田中氏は、靴のコマーシャルに出てくる犬そっくりの垂れ目を困ったようにまたたかせ、よれよれの封筒を小脇にはさんで、急ぎ足で歩いていく。さっきは喫茶店の寒さに二時間耐え、今度はこの暑さの中三時間も東洋ニッポン本社の前で張り番をしていたのだ。ここで逃げられてなるものか、とわたしは懸命に追いすがった。
「お願いします。人事を担当されている方の口の固さは承知してます。ただ、一つだけ教えていただきたいんです。事件の日の、エアコンの故障の件です」
田中氏はようやくのことで足を止め、あたりを見回した。
「あんたもしつこいな。エアコンのことだけだよ」
彼はぶっきらぼうに言った。
「エアコンが壊れたのは、あの日の午前中。うちのビルは古くてね、各部屋に業務用の巨大なエアコンが置いてあるんだよ。あいにく朝からものすごい暑さで、すぐに業者に連絡をして、昼休みには修理のひとが来てくれたけど、なんしろ古い機種で部品の取り寄せに時間がかかる。結局その日は直らないことがわかって、要領のいいやつはみな資料室なんかに逃げ出してしまって、蒸し風呂みたいな人事課の部屋には、課長を含めて三人しか残ってなかったんだ」
「修理の業者は、エアコンを見るため、一度は部屋を訪れたわけですね」
「そうですよ」
「では、凶器のねじまわしはその修理のひとの忘れ物だったんですね」
田中氏はぎょっとしたようにわたしをまじまじと見、口籠った。
「さあ。その辺は警察で調べたんじゃないか。ぼくは知りませんよ」
言うなり身を翻して、地下鉄への道を急ぎ足に去っていく。空気が急に重くなった。田中氏の持っていた封筒には、社名が印刷されていた。それは東洋ニッポンのものではなく、大手の興信所のものだった。
4
「そういうことだったら、なんでも聞いとくれ」
工藤咲はにやりと笑って腕組みをした。わたしは彼女のグラスにすかさずビールを注ぎ足した。
工藤咲とは、以前のアルバイト先の建設関係の業界新聞社で知りあった。疲れを知らずに歩き回ってネタを集め、ひっきりなしに煙草をふかしつつ原稿を書く記者だ。得意分野は経済で、東洋ニッポンの内部事情を知りたいと思ったときに、真っ先に頭に浮かんだのは彼女の顔だった。ビールを遠慮なく飲み干し、つまみの南京豆をかじっていた彼女は、前ぶれもなく話を始めた。
「東洋ニッポンは、ゼネコンのなかでは中堅といったところかな。業界内ではいち早く組織改革に着手したし、環境問題にも真面目に取り組んで、株価もよかった。ところが、去年の暮れに、神奈川の住宅供給公団の手抜き工事が発覚した」
「それは確か、下請けの仕業だったんじゃなかったっけ」
「下請けのせいだろうがなんだろうが、受注したのは東洋ニッポンなんだからね。入居して一年で家具がずれるほど床が傾いたってのは、冗談ごとじゃすまされない。この一件で東洋ニッポンの株価は大下落。社内では責任のなすりあいが始まって、そのせいかこれまで隠してきた不祥事が、どっと外部に漏れ始めたんだ」
「それは、どんな?」
工藤咲はじらすように笑い、焼き鳥をゆっくり食べて口を拭いた。
「地質調査の結果をごまかして、買い取った化学工場の跡地にマンション建てたり、下請け会社に無理難題押しつけて、担当者を三人も自殺させてたり」
「無理難題って、具体的にはどんな」
「要するに、コストダウンのために下請けに払う金を叩くんだな。断れば出入りを止めさせる。それも、納期を急にくりあげたりとか、材料を横流ししているという噂を流したりとか、嫌がらせに近い口実を作って出入り差し止めにする。うちは下請けを苛《いじ》めるような会社じゃありませんよ、環境にも配慮していますし、という態度を崩さなくてもいいようにね。──ちょっと、こんなに飲んでも平気?」
「平気平気。じゃんじゃん飲んで」
軍資金がでかいと気も大きくなる。工藤は苦笑して続けた。
「ところがさすがにやり過ぎたのと、手抜き工事の一件とで、ダムが崩れた。先月のあたま頃だったか、ニュース・チャンネル2がこの問題をとりあげた。下請けの悲惨な現状が手抜きに繋がった、という趣旨の特集で、そこに現役の東洋ニッポン社員が出て、証言をしたんだ。証言というより内部告発だな。顔も名前も隠し、声を変えているから誰だかわからないが、内容からしてある役職以上の立場にいる人間なのは確か。おまけにそいつは、会社上層部の権力抗争が今回の事態の背景にあること、公団の入居者はその犠牲になったんだ、と言ってのけた」
「それは大変」
「上を下への大騒ぎになったらしいよ。東洋ニッポンの専務の秘書を知ってるんだけどさ。専務は、九月の株主総会の前までに事態を収拾させるんだ、と怒鳴り散らしていたらしいからね。裏切り者を捕まえろという騒ぎにもなっているらしくて、課長会議や部長会議が冷戦時代のスパイ組織の会議みたいだった、とその秘書は言ってた。そいつ、スパイ小説が好きでね」
「ふうん。で、わかったわけ、誰だか」
「わからない。だけど、何人か営業所にとばされたのや、系列会社に回されたのがいるらしい。系列会社ったって、お掃除屋さんだからね。これまで本社でエリートコース順調に歩んできてそれじゃ、誰だっておかしくなるさ。かといって辞めたって四十、五十じゃなかなか仕事もないし。気の毒にねえ」
「でもこれだけリストラが流行しているんだから、覚悟も準備もできてたはずでしょ」
「甘いね。世の中の大半の会社員はね、仕事が終われば野球中継見ながら一杯やる以上のことはしないの。それで何十年もすごすの。新しい知識を得ようとか、新しい技術を身につけようとか、そんなことしないの。とりあえず、目の前の仕事を片づければそれでいいわけよ。──なあ、葉村。気をつけなよ」
工藤咲は不意に真顔になった。
「あんたの話を聞くまでは、あの傷害事件と、東洋ニッポン内部のごたごたを結びつけたことはなかったけど、もしかしたら、関係あるのかもしれない」
「どういうことよ」
「その専務ねえ、田野倉善次郎っていうんだ」
部屋に戻ると、みのりがぼんやりとテレビを見ながら髪を乾かしていた。残りご飯をお茶漬けにして茄子の漬物で食べながら、わたしもテレビを見た。お約束のサスペンスドラマだったが、疲れた頭にはちょうどよかった。
えらそうなことは言えない、と思った。自分だって、いつなんどき仕事がなくなるかわからないんだと長谷川所長に脅されていながら、やりたいことを見つけるでもなく、知識を増やすでもなく、与えられた仕事をこなすだけで疲労|困憊《こんぱい》して、帰宅すれば風呂に入って寝るだけなのだ。それでも長谷川探偵調査所からの仕事がなくなれば、やっぱりうろたえるし、困るだろう。特に、あと十年もたってからなくなったりしたら。
5
翌日早起きをして、東洋ニッポンの本社にもぐりこんだ。拍子抜けするほど楽な仕事だった。受付は空だし、警備員は折り畳み椅子の上で居眠りをしている。問題を抱えた会社のセキュリティーが、こんなにおめでたいとは思わなかった。この暑いのにスーツを着て眼鏡をかけ、髪型まで変えてきた努力を、あっさり無にしてくれるような応対だった。
問題のエアコンのメーカーを確かめ、会社を出るまで五分とかからなかったが、事件当日エアコンの修理にあたった人間を探り出すのにはかなり骨が折れた。ようやくのことで、伊佐権六《いさごんろく》という、時代劇に出てくる博打好きの中間《ちゆうげん》のような名前の担当者を聞きだし、彼が修理に出向いている西新宿の雑居ビルにたどり着き、つかまえたときにはすでにお昼時だった。昨日の晩、パソコンで作った新世界出版社名入りの名刺を渡し、昼食をご一緒しながらぜひお話をうかがいたいと持ちかけると、人のよさそうな伊佐氏は、
「そんじゃ、牛丼をごちそうになろうかな」
といささか照れくさげに言った。そこで連れ立って牛丼屋にやってきて、ねじまわしのことを尋ねたのである。
「冗談じゃないよ、お嬢ちゃん。俺たちのじゃないよ」
すきっ歯の間から唾を飛ばしつつ、彼は言った。
「警察にもそんなことを聞かれたし、凶器っつうの? あのねじまわしも見せられたけど、うちのじゃないよ。そんな、大事な道具を置き去りにできると思うかね」
「そう、ですか」
わたしは落胆した。こんなふうに考えていたのだ。ねじまわしはエアコンの修理屋が置き忘れていったもので、それを預かっていたのが佐久間課長である。恵子がやってきて佐久間課長と話しているとき、佐久間課長のほうがねじまわしを持ちだした。つまり、恵子が佐久間課長に横恋慕していたのではなく、その逆で、佐久間課長のほうが恵子に思いを寄せていて、ねじまわしをとりだすような精神状態になった。そこで恵子がそれをひったくって逆に佐久間課長を刺した、という筋書きである。
まあ、でも、この説には無理が多すぎる、とわたしは丼を抱え込みながら考えた。なにごとか争いがあったのだとしたら、同室者がそれに気づいているはずだ。こんなことならなにも苦労して伊佐氏を見つけ出さなくてもよかったのだ、と思っていると、生卵をすすりこんでいた伊佐氏が言った。
「それに、後で刑事さんが、あのねじまわしは総務課の備品だったと言ってたよ」
「総務の備品?」
わたしは飛び上がった。
「おじさん、それ、ほんと?」
「間違いないよ」
伊佐氏はわたしの見幕にのけぞりながら答えた。
「これであの、なんとかいう総務の女の子があらかじめ課長さんを刺すつもりでいたことははっきりしたって、刑事は言ってたよ」
最悪。肩を落としたわたしに、伊佐氏は見当外れのなぐさめの言葉をかけてきた。
「そんなに気を落とすことないよ。ともかく、殺さなくてよかったじゃないの」
伊佐氏と別れ、スーツの上着を脱いで歩きながら考えた。
動機。市藤恵子が佐久間課長を刺した動機はなんだろう。
ひとつだけ、わかっていることがあった。森尾章太の言葉を信用するなら、市藤恵子はとても正義感の強い人間だということだ。彼女がカッターナイフで痴漢を撃退したのも、警備員に食ってかかったのも、自分を守るためではなく後輩や友人をかばってのことだったのだ。
もし、彼女が誰かのためにかっとなって凶行に及んだのだとしたら、その誰かとは、田野倉かすみ以外には考えられなかった。専務の娘か姪か、とにかく近しい関係にあるだろうと思われる彼女。恵子は事件の数日前、森尾にもらしている。人事課と身辺調査。
わたしは手近にある電話ボックスに飛び込んだ。電話帳をめくり、昨日田中氏が抱えていた興信所の住所を確認する。四谷だった。わたしは丸ノ内線に乗り込んで、四谷をめざした。
地図を見ながらたどり着いた興信所は、想像よりも大きな会社だった。さすがに企業の人事課が利用するだけのことはある。これは一筋縄ではいきそうもない。わたしはともかく、その会社がよく見える喫茶店に腰を据えた。
三時を回った頃、願ってもないことが起きた。興信所から事務服を着た厚化粧の若い女がふらふらと現れ、まっすぐこちらに向かってきたのだ。待っていると彼女はわたしのいる喫茶店にやってきて、物慣れた様子でアイスコーヒーを頼み、席について煙草をふかしながら雑誌をめくり始めた。
十分ほどたつと、彼女はバッグを手にして化粧室へ向かった。わたしは深呼吸をして、後を追った。
化粧室には彼女しかいなかった。わたしは彼女の隣に並び、コンパクトをのぞきながらさりげなく話しかけた。
「あなた、お向かいの興信所の人でしょ」
「調査会社よ。社長はそう言ってるわ」
うさんくさそうに鏡の中のわたしを観察しながら、彼女は答えた。
「調査会社に仕事を依頼するのって、お金がかかるんでしょうねえ」
「まあね。なによあんた、依頼人?」
「会社の依頼人になるつもりはないけど、あなたの依頼人にだったらなってもいいわね」
わたしはそしらぬ顔で言った。彼女はくるりと向き直った。
「どういうこと?」
「おたくの会社は仕事の資料を全部保存してあるんでしょう」
「まあね」
「それを個人的に見せてほしいっていったら、どうする」
「見せるわけないじゃないの」
彼女はつっけんどんに言い、それからにやりと笑って口調を改めた。
「無料では」
「そんな失礼な願い事はしないわよ。まず目的の人物の資料があるかどうか確かめてくれたら、二万円。資料があったとして、そのコピーを持ってきてくれたら五万円。どう?」
「コピーに十万」
彼女はにべもなく言った。わたしはすかさず切り返した。
「合わせて十万」
彼女はうなずき、小声になった。
「名前をメモして。五分ほどしたら店を出て、角の煙草の自販機のとこで待ってて」
一歩外に出ると、アスファルトに足が沈み込むかと思われるほどの熱気が襲ってきた。めまいを覚えながらわずかな日陰に身を寄せていると、やがて彼女が小走りに戻ってきた。ほら、と無造作に差し出された封筒の中身を確認し、金を渡した。
「ありがとう」
「礼を言うのはこっちのほうよ。これで旅行にも行けるし、社長に復讐できたし。あたし、今月いっぱいであの会社、やめさせられんのよ」
「どうして」
彼女は一筋の乱れもなく整えた前髪をひと振りした。
「飽きたんだってさ。じゃあね」
走り去る彼女の後ろ姿を見送り、早足で地下鉄の駅に向かった。
新宿の京王線乗り場の近くにある、パニーニの専門店に入って資料を広げた。興信所の彼女は律儀な性格だったようだ。田野倉かすみと市藤恵子、二人のスナップ写真までがコピーされていた。
深呼吸して、まずは市藤恵子の資料を広げた。
すでに知っている内容ばかりだった。森尾章太とのつきあい、妹を亡くしたこと、それ以来ずっと不眠症にかかり、ハルシオンを常用していたこと。
田野倉かすみのほうも期待外れだった。かすみはやはり、田野倉専務の姪だった。特定の相手はいないし、友達も身元の知れたひとばかり。借金も浪費癖もないし、これといった犯罪歴も病歴もない。趣味は読書とガーデニング。きれいなもんだ。このまま見合い写真に添付できる。
いささか、きれいすぎるくらいだった。
わたしは鼻に皺を寄せて、真っ赤なオレンジジュースを一口飲んだ。冷房の効き過ぎでまた寒くなってきていた。温かいカフェラテでも頼むんだった、と思った。
東洋ニッポンの内部問題。仮に、佐久間課長がくだんの内部告発者だったとしたら、どうだろう。ばれれば即座に首だ。正体がばれなくても、仲間内の罪のなすりあいが激しさを増し、側杖を食って──この場合は、自業自得ということだが──飛ばされる可能性はある。そのためには、威を借りることのできる虎が必要だった。例えば、田野倉かすみの伯父である、専務。
佐久間はかすみにとって不都合な情報を、人事のファイルから削除したのではないか。森尾章太が言っていた、人事の資料を私欲のために利用するなんて卑怯だ、という恵子の言葉は、そのことを示していたのではないだろうか。
冷房が骨身にしみてきた。わたしはジュースをあらかた残して店を出て、公衆電話を探し、市藤清乃に電話をかけた。
6
「田野倉かすみさんとあなたの身元調査をした興信所から、資料を手に入れたの」
ガラス窓の向こうで、市藤恵子は初めてその青ざめた化粧気もない顔をあげた。彼女の母の代理ということで、ややこしい手続きの末にようやく面会が許されたのである。埃っぽい部屋の空気はいささか生温かった。わたしはハンカチで額を抑えると続けた。
恵子の手がかすかに震えたが、相変わらず彼女は黙りこくっていた。残酷だとは思いながらも、わたしは言葉を継いだ。
「事件当時のことは覚えていない。あなたはそう言っているそうね。それは嘘ではないと思う。あなたが常用しているハルシオンには、健忘という副作用がある。事件の瞬間のことを覚えていなくても不思議じゃない」
恵子は答えなかった。視線をわたしの背後の壁に向けたままだ。
「だから、わたしが教えてあげる。あのとき起きたのは、こういうことだった。──数日前、あなたは佐久間課長が、保身のために田野倉かすみさんの内部資料に手を入れたことを、なにかの理由で知った。かすみさんがどういう問題を抱えているのかはわからないし、個人的には会社に個人のプライバシーを掌握する権利はないと思う。でも、他の社員があれこれ調べられているのに、人事課長が個人的な都合で、資料の改ざんをしていいわけはないわよね」
恵子は汗でへばりついた前髪を、うっとうしそうにはがした。
「かすみさんはたぶん、そのことで佐久間に脅された──というより、頼まれたんだと思う。つまり、かすみさんに便宜をはかってやったんだから、かすみさんのほうも伯父に働きかけて、自分の地位を守るべきだ、とかなんとか。あの事件が起こる直前、昼休みで人けの少なくなった人事課の部屋で、ふたりの間にそんな話し合いがあったのだと思うのよね。というのも、かすみさんはわたしに言ったのよ、暑かったって。あんなに暑い部屋にいたら、誰だっておかしくなって不思議じゃないって。だけど、総務課のエアコンは壊れていない、壊れていたのは人事課の部屋。そこが暑いって、どうして彼女が知ってるの」
壁に向かって話しているのも同じだった。恵子は前髪をいじり始めた。
「かすみさんはあの日、人事課に行った。ねじまわしを持っていった理由はわからないわ。佐久間に脅される見当がついていて、護身用のつもりだったのかも。とにかく彼女は佐久間のところへ行き──彼を刺した」
わたしは唇をなめた。恵子はなんの反応も見せなかった。
「佐久間はエアコンの壊れた部屋のなかで上着を着ていたそうね。それは、刺された傷を隠そうとしたためだと思う。専務の姪に刺された、なんてことになったら、専務を後ろ盾にするどころじゃないし、やけになったかすみさんが人事資料の改ざんについて、喋り出すかもしれない。そうなったら、系列会社に飛ばされるどころじゃすまない。傷も深くはなかったし、ごまかせると佐久間は思った。かすみさんのほうも、せいぜい佐久間を脅し返してやる程度の気持ちで、ちょこっと刺して、ねじまわしを置いて人事課を出ていった。彼女、一見上品でおとなしそうだけど、ひょっとしたら以前にも似たような真似をしているのかもしれないわね」
恵子はこちらを見ようともしない。つまらないテレビのように、黙殺している。
「総務に戻ってきたかすみさんの様子がおかしいのに気づき、あなたは人事課を訪れて、佐久間に質した。すでに、資料改ざんのことをあなたに知られていることを知ったのと、思ったより傷が痛み出してきたのとで、佐久間は倒れた。あなたはたまたま、かすみさんが置いていった、総務課のねじまわしを手にとっていた。そこで、犯人はあなたになった。それは佐久間にとっても、かすみさんにとっても、都合のいいことだった」
ふと気づくと、市藤恵子がわたしを凝視していた。強い目の光だった。わたしを通り抜けて、どこか向こうを見ているような。
「あなたはハルシオンの副作用のせいで、わけがわからなくなった。でも、もしかしたら覚えているのにかすみさんをかばっているという可能性もある。あなたは妹さんを亡くしているんですってね。その死をいまだに悲しんでいるって、お母さんが言っていたわ。妹さんのような、後輩や友人を、いつもかばってきたんでしょう?」
市藤恵子の唇が、ちらっと動いた。わたしは身を乗り出し、喋り続けた。
「もちろん、わたしの言ったことは全部憶測よ。証拠はないわ。被害者である佐久間ですらあなたの仕業だと認めているんだから。でも、かすみさんが告白してくれるか、あなたがすべてを話すか。そうすれば、無実が証明されて、あなたのお母さんもきっと喜んでくれると……」
恵子が不意にガラスに近づいてきた。彼女は微笑みながら、囁いた。
「あのね。いいこと教えてあげる」
「なに?」
「忘れたって、嘘。全部覚えてるの」
わたしは唾を飲み込んだ。
「それじゃ、やっぱり、かすみさんをかばって……」
恵子は微笑んだ。薄い唇から、声があふれ出た。
「馬鹿じゃねえの、あんた。誰がかばうかよ、あんな汚い女」
なにが起こったか、わからなかった。身体を強張らせたままのわたしに向かって、恵子は小声で喋り続けていた。
「あいつ、いつも汗だらだら流してんの、どうしてだか知ってるか。クスリやってんだよ。専務の姪ってだけでお嬢様のふりなんかしやがって、汚いんだよ。どいつもこいつも」
わたしを憐れむように見下ろして、市藤恵子は言った。
「あの馬鹿女に言っといて。あんたの世話にはならないって」
「ば、馬鹿女って……」
「あんたに金を渡したやつのことだよ。母親だよ。くそっ、思い出すと頭痛くなってきた。あいつはさ、毎日言うんだよ。妹が死んだから、わたしには恵子しかいない。恵子はずっとわたしのそばにいて、結婚なんてとんでもない。わたしから離れちゃだめよ、わたしは恵子のことならなにもかも知ってるって。毎日毎日。ほんとに、まったく、どいつもこいつも──佐久間のやつ、死ねば良かったのにな。そしたら二度とあの女に会わずにすんだかも」
わたしは椅子を引いた。恵子はにやりと笑った。
「それじゃ、佐久間課長を刺したのは」
「しー。聞かれるじゃねえか、馬鹿だな」
「佐久間課長を、どうして、刺したの」
市藤恵子は小鹿のようなまん丸い、無邪気な瞳でわたしを見て、小首をかしげた。
「さあ、たぶん、暑かったからじゃねえか」
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秋の物語
[#小見出し] 鉄格子の女
1
その家は海に面した小高い丘の中途に建っていた。わたしは車を降りて、目の上に手をかざした。
海は家の正面、南側に広がっていた。午前の陽光を浴びて輝きながら広がり、やがて空と溶け合っている。風も冷たくなり始めた九月の四週目、それでもいくつかの人影が海岸線にぽつりぽつりと見受けられた。
「すっごい、絶景でしょ」
榊琴音《さかきことね》は運転用のサングラスを外しながら、まるで自分のもののように自慢してみせた。わたしはおとなしく答えた。
「ええ、確かにそうね」
わたしは振り返り、今度は家を眺めた。まるで箱のようだ、というのがその家の第一印象だった。真っ白に塗られた外壁がそそりたち、屋根は見えず、上はまっすぐ横に一直線に切り取られている。縦に細長い窓が三つ、並んで開いていた。実物を見たことはないが、スペイン風、とでもいうのだろうか。窓の縁にブルーの飾りタイルが貼りつけられていて、独特のアクセントになっていた。窓の下にはソテツが植わっている。正直なところ、少々失望した。なにも知らなければ、趣味の悪い金持ちの別荘そのものだ。
「ま、がっかりするなら中を見てからにすれば」
琴音が荷物を引っ張り出しながら、まるでわたしの心を読んだかのように言った。気を取り直して、資料の詰まった鞄を手にした。撮影機材の入った鞄が他にふたつある。東側にある玄関も壁にいきなり白い扉があるだけで、不気味なほど無機質、期待はいやがうえにもかき消され、荷物がいっそう重く感じられた。
玄関を開けると、人の住んでいない家特有のすえたような臭いがした。榊琴音はずかずかと家に上がり込み、わたしは慌ててそのあとを追いかけ──足を止めた。
「なんだ、こりゃ」
琴音のすっとんきょうな叫び声に、わたしはまったく同感しながら立ちすくんでいた。外目には立方体の箱と見えた家の内部は、実に奇妙な形をしていた。中央に中庭があり、それを取り囲むようにして四方に細長い部屋がある。それだけなら、それこそスペイン風の建物ということになるのだろうが、その中庭に面した壁は、北側の部屋を除いてどれも四十五度の角度で傾いているのだ。おかげで、部屋は天井が中庭に向かって斜めになっていて、歩きにくいことこのうえない。中庭に近づこうとすると、嫌でも腰をかがめないと、天井兼壁に頭をぶつけそうになるのだ。部屋を縦に割って横から見たら、三角定規と同じ形をしているに違いない。
わたしたちは苦労して家中をぐるぐる回ったすえに、唯一、壁がまっすぐ立っている北向きのアトリエとおぼしき部屋に、中庭に通じる扉を見つけた。家のなかとは逆に、中庭だけは開放感にあふれていた。傾いた壁のおかげで、日ざしがまんべんなく入ってくる。だが風が通らず、ひどく蒸し暑い。琴音は背伸びをしてわたしを見た。
「変な造りよね、まったく。中庭なんて、本来は多雨の日本にはふさわしくないけど、これじゃ雨がふったら中庭は洪水よ。おまけに、どこの部屋にも通り抜けができない、それどころか窓すらないなんて」
確かに、中庭には、アトリエからの大きな窓と扉以外、開けられる窓はなかった。わたしたちはこの不思議な家のさまに、思わず黙り込んだ。
2
探偵稼業には波がある。
何週間もぶっ続けで働くこともあれば、何週間も、迷い犬を探す仕事すら来なくなることもある。ことにわたしの場合は、そもそも長谷川探偵調査所の人手がたりなくならなければ、仕事は回ってこない。
友人の相場みのりのおかげで、ただで新築のマンションに住め、ふたりで暮らしているおかげで光熱費も食費も、ひとりのときより安くあがるようになった。たまには家事をやって骨休めするのも悪くない。とはいえ、仕事のない日が続くと、このまま仕事が来なくなったらどうしよう、などと不安にかられる。榊浩二の〈仕事〉を引き受けたのも、そんな不安のせいだったのかもしれない。
榊浩二との出会いは単純だった。ピアノ教えますとか、英会話の教師求むといった銀行の自由掲示板の貼り紙のなかに、『アルバイト募集。調査依頼あり』と書かれたものがあったのだ。
依頼主の榊浩二は大学生だった。なにを食っていればこんなに育つんだ、と思うほど無駄にでかく、金髪で、耳が見えなくなるほどピアスをしていた。わたしの全身を眺め回した榊は、うっひょー、あんた本物の探偵? と感嘆してみせたあとで、こう切り出した。
「金の心配ならいらないから。ちゃんと払うから。成功報酬込みで、十万でどう?」
実家は地方のパチンコチェーン店を経営、仕送りも月百万を越えるという。
「仕事の内容にもよりますね」
「俺、そういえば探偵と寝たことなかったな。それも込みにしようか」
「ピアスごと耳を引きちぎられたい?」
「クライアントにそういう口のきき方は、ないんじゃない? ちぇっ、たいていの女は、いいけどー、とか言って、やらせてくれんのにな」
「仕事を頼みたくないなら、帰るけど」
「はいはい、おっかねえな。試しに言ってみただけだよ。──あのさ、俺、大学生なんだよ。大学で書誌学ってのとってんだ。普通の講義はテストとかレポートとかの提出なんだけど、かったるいことに書誌学の教授ってのがさ、困った課題だしてきてさー」
榊の説明のほうがよほどかったるい。二時間以上もかかった説明を要約し、かつ日本語に翻訳すると、こういうことになる。
書誌学の林教授は、まだ四十代なのに、偏屈が着物を着て歩いているような人物で、実際に和服姿でキャンパスを歩いている。講義の時は椅子にあぐらをかき、ふんどしを丸出しにして自分の研究についてとうとうと述べていく。質問は受けつけないし──もっとも誰も質問など思いつかないのだが──初心者向けの解説もない。二か月たっても、いったい書誌学というのがどんな学問だか見当もつかないような、得体の知れない講義だ。受講者は八十人くらいいるらしいのだが、出席者は五、六人といったところ。榊も、もし真面目に単位を取らなければ留年が決まってしまう、という緊急事態でなければ講義に出ることもなかった(でも俺、あのせんせー、嫌いじゃねーけどさー)。
その林教授は前期最後の講義の際、受講者を見回して、こうのたまった。
「私はこの夏、とても忙しい。とても諸君のつまらないレポートなど読んでいる暇はない。諸君とて、他の科目の試験やレポートの準備がたいへんだろう。そこで、レポート提出は夏休み後、九月最終火曜日の、最初の講義の際とする」
題目は『特定の人物をひとり選び、その人物に関する文献・図書の目録を、可能な限り精密に作り上げること』だった。ラッキー、と榊はそのとき単純に喜んだ。有名人の文献目録なんてどうせ誰かがすでに作っているだろうし、それを丸写しにすればすむ、と思ったのだ。
ところが、夏休みも八月に入って残り半分となった頃、同じ書誌学を受講している友人の薗田《そのだ》から電話がかかってきた。
「おまえ、書誌学のレポート、どうした?」
「まだ手をつけてもない。誰にするかも決めてねーよ」
「俺、早目に片をつけちまおうと思ってさ。先月のうちから始めたんだよ」
薗田は疲れ切った声で言った。
「それでわかったんだけど、これ、えらい作業だぞ。なにが忙しいからレポートの提出は夏休み後にするだよ、あのオヤジ。夏休み全部使っても終わるかどうか」
薗田が選んだのは、著名なアニメーション映画の作家だった。文字を書く作家よりは書物の数も少ないだろう、と決めたというのだが、
「これがとんでもない誤算だった。作品目録とかはすでにあるんだけど、たとえばエッセイも書いているし、雑誌に載ったインタビューだろ、作品の紹介記事だろ、展覧会の場所や日程、その広告、おまけに映画がテレビで放映された日時、本人のインタビュー番組、公開前の特別番組、ファンの作った同人誌。それも本人のだけじゃなくて、プロデューサーやら声優だって、映画の売り込みにあっちこっちのメディアに顔出してるからな。おまけにあのひとは海外でも人気なんだぜ。日本語だってこれだけたいへんなのに、海外までとなると、もう」
薗田は絶句したが、長い溜息をついて、
「俺、大宅壮一文庫の半年会員になったよ。とにかく三週間通っても、全然らちが明かないんだ。夜は夜でインターネットで海外のサイトにアクセスし続けだし、これが終わったら映像センターに通いつめることになるだろうよ。春川は国会図書館、外居は神奈川近代文学館の常連になったってさ。なあ、悪いこと言わないからさ。早く始めるこったね」
ついでに言うけど、有名人はできるだけ避けろよ、という薗田に、さすがの榊も焦りを感じ始めた。そこで思いついたのは姉の琴音のことだった。彼女は実家のある県の近代文学館で、学芸員をしている。琴音に相談すれば、なんとかなるかもしれない。榊浩二はさっそく実家に電話を入れた。
「書誌を作るなんて、最低でも半年はかかる作業なんだよ。それを一か月でやろうなんて、無理だね」
「そー言わないでさ、ねーちゃん。楽できるやつ、誰か知らねー?」
「ばか。あんた、なにしに大学行ってんだい」
散々|罵《ののし》ったあとで、琴音はふと思いついたように言った。
「さ来月、うちの文学館で森川早順の特別展やるのよ」
「森川早順? 誰だそれ」
「画家。五年前に、三十一の若さで自殺したのよ、覚えてない?」
「なんで文学館で画家の展覧会すんだ」
「早順って最初のうちは挿絵画家だったの。作家の熊井亨とかのね」
琴音は他の有名作家の名前を二、三人あげた。
「こういうひとたちの雑誌掲載の小説に挿絵を描いていたし、装画を担当したのも何点かあって、人気も高かったわけ。ところが、死ぬ三年前に出版の仕事から手を引いて、三浦半島に自分で設計した家に奥さんとふたりでこもってしまった。で、これまでとは画風の違う、ものすごく写実的な絵を発表し出した。熊井亨が全面的にバックアップしてくれたし、挿絵画家のときからのファンがついていたから、画家としてもまあまあうまく売り出しかけていた──そんなとき、悲劇が起こった」
琴音はもったいをつけて、浩二の苛立ちをつのらせた。
「妊娠三か月だった妻の鎮子《しずこ》さんが熱射病で死んだのよ。早順はいったん絵を描き始めると、他のことはいっさい忘れてしまうようなタイプだったらしくて、奥さんがでかけたきり帰らないのに丸一日まったく気づかなかったのね。彼女が、早朝玄関の前で倒れているところを新聞配達に発見されたときには、もう手遅れだった。鎮子さんが死んで半年後、早順は自殺した。挿絵や装画を別にすると、残った絵画は十点。これらをすべて集めるから、一度展覧会をやってもらえないかと熊井亨に言われたわけ。熊井先生はうちの文学館の評議委員のひとりでもあるし、面白い切り口だというわけで、特別展開催の運びになったという次第なのよ」
「で、それが書誌学のレポートと何の関係があるんだよー」
浩二がうんざりしながら尋ねると、姉は答えた。
「やだね。ばかだばかだと言ってるうちに、ほんとにばかになったのかい。つまり、展示にあたってまずあたしのする仕事といえば、早順の作品リストを作るということで」
浩二は携帯電話を握りつぶすところだった。
「お姉さま。一生ついていきます。感謝します」
三十一歳で死んだのなら、文献の数はそれほど多くはないだろう。おまけに画家だ。しかも寡作、すでにリストがあるときた。まったく、おあつらえむきではないか。
「言っとくけど、うちにあるのは早順の作品リスト、それに熊井先生が書いた早順についての文章のリストだけだよ。残りは自分で調べるんだね」
そこまで話して、榊浩二は期待のこもった瞳をわたしに向けた。残りを調べるのはわたしというわけだ。
三万円を前払いさせ、領収書を渡し、残りはできあがったリストと引き替えという約束を取り交わした翌日から、わたしは森川早順の調査にとりかかった。
正直に言えば、この仕事を始める前は、榊浩二に軽蔑の念を抱いていた。大学生が、レポートくらい自分で仕上げろ、と思ったのだ。だが、いざ作業を開始すると、考えが変わった。
榊琴音が作った完璧な早順の作品リストのおかげで、おそらくは他の学生たちより楽な調べ物だったはずだ。が、まずその作品リストに目を通してわたしは仰天した。早順は絵画は十作品しか残さなかったものの、約五年間の挿絵画家時代には千点を越すイラストを描いていたのだ。これほど人気のあるイラストレーターだったとは知らなかったのだが、実物を見て納得がいった。早順のイラストはわたしにさえ見覚えがあるものだった。
榊琴音の作ったリストをもとに、調査を進めた。早順が自殺したとき、新聞や雑誌は多量の追悼記事を載せた。それらをひとつひとつ丹念にあたり、さかのぼって記事をチェックしていった。鎮子の事故を報じる記事、エッセイを書いていた鎮子の作品リスト、熊井亨やその他の作家が早順について書いた文章、早順の師匠に当たる芸術大学の恩師についての記事、テレビやラジオ番組への出演。イラストレーター時代にやった企業のノベルティーの仕事まで含めると、リストは長くなる一方だった。早順が好きだったという『真実を見据える心』という泥臭い言葉の出典を見つけるまでに、なんと三日を要したのだ。
書誌学の専門課程をとっている学生ならいざ知らず、こんな面倒な作業を自分でやっても時間の無駄、と見切りをつけてひとを雇うとは、榊浩二という男、ひょっとして大物になるかもしれない。この仕事で十万円では、値切られたようなものだ。経費を引いて、時給に直すと五百円くらいになってしまう。
だが、調べていくにつれ、わたしはだんだん森川早順に興味を引かれ始めた。彼は、謎の多い人物だった。一番謎なのは、死の三年前に三浦半島に引きこもった理由。東京にも出てこなくなった理由。そして、イラストから絵画に移った途端、画風ががらりと変わってしまったこと。リスト作りに追われ、それを調べている暇はなかったが、その謎はわたしの心に根をおろした。
十日がすぎて、あらかたリストが完成した頃、榊琴音から電話がかかってきた。
「あんたを雇ったってことは、弟から聞いたわ、葉村さん」
榊琴音は単刀直入に言った。
「で? リストはできたの?」
「ええ。明日にでも弟さんにお渡ししようと思っているんですが」
「明後日、あたし仕事で東京に行くのよ。リストのコピーを一部、そのときもらえない?」
「ええ、かまいませんけど」
なぜ弟に直接頼まないのだろう、という疑問が声に出たらしく、琴音は硬い口調で言った。
「浩二には、あたしに資料のコピーを渡したこと、内緒にしてもらいたいの」
「はあ?」
「あれにかかると、とんでもない金額を要求されかねないのよ」
わたしは噴き出した。榊浩二は間違いなく、大物だ。
「もちろん、あなたに迷惑はかけないわよ。万一あとで浩二にばれても、あなたは依頼者の姉に頼まれてコピーを作っただけなんだから、善意の第三者、ということになるわけよ。どう? 一万円くらいなら、払えないこともないわよ」
返事をする前に、わたしは少し考えた。
「追加料金をいただこうとは思いませんけど、教えていただきたいことがあるんです」
「なに?」
「森川早順の絵は、どうしてあんなに画風が変わったのか」
榊琴音は電話の向こうで黙り込んだ。やがて、短い笑い声が聞こえてきた。
「あんた、探偵なんだって?」
「ええ」
「それってやっぱり、職業意識?」
「かもしれません」
「そう。気に入った。明後日、コピーを持ってきて。説明してあげる」
琴音は都内の一流ホテルのラウンジを待ち合わせ場所に指定して、電話を切った。
3
まずいコーヒーだった。これで千二百円とるのだから、きっとウラニウムかなにかが入っているのだろう。
わたしはカップを置いて、自分で作ったファイルをとりあげた。一番上には、サングラスをかけた森川早順の肖像写真。その下には、どちらかといえば暗いタッチで線も荒く、鉛筆で殴り描きした無造作な絵柄のイラストや装丁画。そして、十点だけ残された絵画の複製。こちらはまるで写真のような精密なものだ。一人の画家の画風がここまでがらりと変わることがあるのだろうか、というのが、早順を調べるうちにわたしが抱いた疑問だった。
榊琴音は約束の時間ぴったりに、ラウンジに現れた。背丈も髪の色も浩二とは違っていたが、目つきだけはそっくりだった。早順の写真の入ったファイルを振ると、彼女はまっすぐやってきて、座り、紅茶を注文した。自己紹介も時候の挨拶もすべて抜き、リストのコピーを受け取ると、彼女はすぐに説明に入った。
「早順の画風が変わった──というより、晩年の絵画はアメリカン・リアリズムの影響を受けた、というのが熊井先生のご説なのよ」
「アメリカン・リアリズム?」
「ま、説明を聞くより見たほうが早いでしょ」
琴音は数枚の絵葉書を出してきた。わたしはその一枚を手にとった。キャロライン・ブラディという画家の『朝食のテーブル』と題されたその絵は──まったくもって、朝食のテーブルそのものだった。窓に面した透明なガラスのテーブルの上に、皿とスプーンとティーカップ、ナプキンやバター、果物のはいった緑色のガラスの鉢、それに勢いよく芽を吹き出した球根などが並んでいる。ガラスのテーブルには窓からの光で、これらのものたちが映り込み、しかも下のじゅうたんなどが透けて見えている。これが絵か、と疑ってしまうような精密な出来栄えだった。
「すごい。すごいけど──これだったらなにも、絵じゃなくて写真でかまわないような気もする」
「まあね。でも、早順の絵がこれにきわめて近いものだっていうのは、認めるでしょ」
琴音の説明によると、早順の絵画の実物のうち、遺作となった作品は現在、熊井亨の預かるところとなっていた。係累の少なかった早順の遺族は、十五歳の姪だけだ。著作権もこの姪が所有しているわけだが、事務処理などできる年齢でもないので、熊井亨が代行しているらしい。
「早順の絵の実物を見たことがないから、写真みたいで意味がない、なんて悪口を言うのよ。実際本物を見てみなさい。鳥肌が立つから」
「そんなにすごいの?」
「すごい、という言葉の意味にもよるね。三年間で十作品というのが、たいへんな量に思えてくるほどの執念を感じるよ。見たい?」
「ええ、ぜひ」
「そう言うだろうと思った。実はこれから熊井先生の家に行くのよ。全部というわけにはいかないだろうけど、一枚は間違いなく見られるよ。行くでしょ」
さっさと紅茶を飲みほし、会計をすませた琴音は、礼を言うすきも与えずに先に立った。タクシーで小一時間、熊井亨の家は登戸の近くにあった。車内でわたしはかつて読んだ彼の小説を必死になって思い出してきたのだが、本人は留守だった。感じの悪い痩せた細君が出てきて、仏頂面でわたしたちを応接室へ通した。タイトルをただ一言『女』というその絵は、その部屋の中央にかかっていた。
一目見て、衝撃を受けた。前面に鉄格子が黒く、容赦なく描かれている。その向こう側に女がひとり、壁にもたれてうずくまっていた。夜なのか、それとも暗い監獄のなかなのだろうか、壁も女も青い。その澄み切った青い光のなかに浮かび上がった女の顔には、対照的にまぎれもない恐怖と絶望がにじみでている。そそけだった女の頬や乱れたワンピースの裾から、床に散らばった埃まで、絵にはすべてが切り取られていた。
わたしが言葉もなく琴音を見やると、彼女は顔を歪めた。
「このモデル、誰だかわかる? 鎮子さんよ」
早順の他の絵画はすべて、いわゆる静物画だ。対象を定めると、マニアックなまでにそれに対して執着を示し、すさまじい目つきですべてを──毛穴や肩に落ちたフケにいたるまで描き出そうとする早順に、雇ったモデルは次々に逃げ出していった。最後に残ったのが妻の鎮子だったわけだが、
「どこかに閉じ込められて、モデルにされたらしいわよ。あまりのしつこさに鎮子さんは着のみ着のままで三浦の家を逃げ出して、真夏の炎天下をさ迷って、それで熱射病にかかったという噂さえあるの。発見されたとき、彼女は裸足だったそうだから」
「納得できないのは」
わたしはおそるおそる琴音に尋ねてみた。
「なぜ、早順は死の三年前を境に、そんなふうな描きぶりになったのか、ということなんです。単純にリアリズムの影響を受けたから、というには、あまりにも絵に対する姿勢が違いすぎませんか。早順の執念深い一面は、三浦半島に引きこもるまで表に出てきてはいません。むしろ、毎月締め切りに追われて、すさまじいスピードで仕事をこなしていた。三浦半島に引きこもった本当の理由は、いったいなんだったんでしょう」
琴音はからかうように、わたしを眺めた。
「あんたはどうしてだと思う、女探偵」
「商業主義に嫌気がさした。リアリズムの影響を受けた。でも、決定的な素因にはなりえないでしょうね」
力尽きたような鎮子さんの顔を見ているうちに、わたしは嫌な想像をした。芸術家が芸術のためにインモラルなことをしでかすのは、そう珍しいことではない。『地獄変』ではないが、画家は自分の絵のために身重の妻をどこかに閉じ込め、モデルにした。
芸術のために。
だが、芸術は口実にすぎず、本当の狙いは妻を苦しめることだった、とは考えられないだろうか。『女』を見ていると、モデルの苦しみがいやがうえにも伝わってくるのだ。
「意外にロマンチストだね」
榊琴音は呆れたように、わたしの想像を否定した。
「ロマンチスト? どこがですか」
「だって夫婦間の愛憎だなんて、今時メロドラマにもならないわよ、古臭すぎて」
「こういうのに流行はないんじゃないですか。それに、でなければどうして早順は妻をつれて三浦に引っこんだのか、三年もの間どんな誘いをも断って東京に出てこなかったのか。熊井先生と画商だけですよね、三浦の家に出入りしていたのは」
「まあ、確かに鎮子さんというひとは、見かけによらず発展家だったらしいけど」
琴音は渋々うなずいた。
「そもそも鎮子さんが早順の妻になったのだって、イラストに惚れて自分のほうから押しかけたらしいって話だけど。だけど、そういう、まあ言ってみれば我がままな女が、よく三年も早順とふたりきりで三浦にこもっていたと思わない? あたしだったら、こんなひどい絵のモデルにされる前に、逃げ出してるわね。なんでかしら」
「待っていたんですよ」
わたしたちはぎょっとして振り向いた。応接間の入口に、茶をふたつお盆に載せた熊井亨の細君がぬっと立っていた。
熊井亨は御年五十五歳。三十年前に純文学と大衆文学の賞を同時受賞して以来、日本を代表する文学者であり、国語審議会のような公的機関の理事などを務め、大学の講義も持ち、ついでに写真映りの良いグラビア・キングとしても名高い。細君は彼よりも五歳ほど年下のはずだったが、まるで七十歳くらいに見えた。彼女は鼻を鳴らしながら入ってきて、お茶をこぼしながらテーブルに置いた。
「待っていたって──なにをです」
「この女はね」
細君は絵を顎で示すと、
「熊井の愛人のひとりだったんですよ。したたかで、図々しい女でしたね。森川さんは自分の妻がこともあろうに恩人と関係してることを知って、それで東京を離れたんですよ。森川さんはスタイリストだったから、妻と恩人の三角関係でもめているところなど、人目にさらしたくなかったんでしょう。でも、熊井が三浦の家に出入りするのをやめさせるわけにはいかなかった。この女と熊井は、森川さんと同じ屋根の下で、ひどい真似をしてた。あの女は、熊井があたしと別れて自分をあそこから連れ出してくれるのを待っていたんです」
わたしと琴音は顔を見合わせたきり、黙っていた。細君はぞっとするような笑みを浮かべた。
「熊井はこの絵が大嫌いですよ。でも、あたしがこの場所にかけさせてる。あんたんとこの文学館で森川早順の展覧会をすることにしたのは、それを機会にこの絵を文学館の管理下に移したいから、自分の目の前から消したいから、ですよ。早順最大の理解者だなんて、騙《だま》されちゃいけないね」
熊井の家を出ると、残暑厳しい九月の熱気がわたしたちを包んだ。
「あの、熊井先生の奥さん」
「怖かったですね」
「正式には奥さんじゃないの。三十年前には熊井先生の担当編集者の妻だったんだそうよ」
琴音は溜息をついて、わたしを見た。
「実は熊井先生から、早順の三浦の家の取材許可を貰ったの。会場に、家の模型と内部の写真を展示するつもりだから。早順が死んだ、五年前のままに保存されてるそうよ。女探偵、あんたも一緒に行く?」
「わたしが?」
「興味あるでしょ。いったい、どんな部屋に鎮子さんが閉じ込められていたのか。あの絵はどういう場所で描かれたのか、ね」
4
アトリエには早順の遺品や画材が散らばっていた。本や花瓶や籠など、静物画の対象になったものたち、そして早順愛用の絵の道具、ライター、青いサングラスなど。五年前の新聞が山になって残っている。壁には『真実を見据える心』という例の言葉が書かれた額が掛かっていた。
榊琴音は絵の画材を発見するたびごとに興奮の叫びをあげ、絵と同じように配置し、写真におさめようとして、ファインダーから顔をあげた。
「この後ろにあるの、なんだと思う?」
わたしは琴音の手から、早順の作品のコピーを受け取った。彼女が写真に撮ろうとしていたのは『硝子の瓶』と題された作品だった。タイトル通り、青と緑と透明なのと三本のガラスの瓶が白いタイルの上に並んでいる、という絵だ。
琴音が言ったのはどうやら、透明の瓶の向こう側に映っている茶色い物体のことらしい。わたしはためつすがめつして、ようやく言った。
「どうやら、なにかの破片みたいだけど」
わたしたちは同時に中庭に目を転じた。中庭には、壁にそってぐるっとコンクリートがうたれているところ、白いタイルが貼りつめられているところがある。隅のほうに、植木鉢の破片が散らばっていた。
これはすごい発見だった。九枚の静物画はどうやら、いずれも中庭に画材を置いて、このアトリエから描かれたのだ。いままで気づかなかったのが不思議なくらいで、どの絵もタイルやコンクリートの質感が表れていた。もしかしたら、この奇妙な造りの中庭は、太陽の光を最大限に取り込むためだったのかもしれない。
興奮する琴音とは対照的に、わたしはひどく落ち着かない気分になった。静物画の原形の写真を撮り終わると、琴音はそれに気づいて中庭から呼びかけてきた。
「どしたのよ、女探偵。元気ないじゃない」
「気持ちの悪いことを、発見したんです」
彼女は大股でアトリエに戻ってきた。そして、わたしが見ていたあの『女』のコピーをひったくって、中庭と見比べた。
「……あんたの発見、正しいと思う。鎮子さんの足下のコンクリート、それに鉄格子の陰になっていて気づきにくいけど、この手前側の床はタイルだ。だけど」
「静物画の画材を中庭に置いて描いたのなら、人物画もそうなのかもしれない」
「そりゃ、そういう可能性はある。あるけど、それなら鉄格子はどこにある?」
アトリエの窓はたんなる素通しのガラスだ。わたしたちはその窓に近寄って、調べた。窓枠の上を引くと、アルミの鉄格子が下りてくることに気づいたのは、琴音のほうだった。格子を下ろし、アトリエに戻り、わたしたちは中庭と『女』の絵のコピーをもう一度見比べた。
「……芸術のためだか嫉妬のせいか知らないけど、こんな風通しの悪い場所に、妊娠初期の奥さんを閉じ込めてさ。こういう開けた場所に、閉じ込めたっていうのも変だけど、でも閉じ込めたわけでしょう。少なくとも、一晩中。それで動物園の動物を観察するように眺めて絵を描いただなんて、芸術家になんか、なるもんじゃないわね」
「その妻にもね」
わたしには森川早順がそんな真似をした理由が、なんとなくわかるような気がした。真実を見据える心。彼は真実を見定めようとしていたのではないか。見定めて、それから先どうするかの見当もつかず、とにかく自分を裏切っている妻の真実の姿を見つめようとしたのではないだろうか。本来なら、彼が見つめなければならなかったのは鎮子の外見ではなく、彼女の心だったわけだが、画家である彼はまず、外見から妻の真実に迫ろうとしたのだ。
物思いに耽《ふけ》っていたわたしの脇腹を、琴音は乱暴にこづいた。
「ねえ、女探偵。鎮子さん、いったいどうやって逃げ出したんだろうね。出入口はここしかないわけでしょ。まさか、こんなに弱っていた彼女が、いきなり四十五度もある壁をダッシュして昇ったわけでもないだろうしね」
「モデルに逃げられた画家が、それを放っておくとも思えないし」
「だからあたし、ものすごいこと考えついちゃった」
琴音は二の腕をさすりながら、
「いったん逃げ出して、ふらふらうろついたあげくに熱射病になって、玄関先で倒れていた鎮子さんを、実は早順が夕方に発見していたのだとしたら、どうよ。重症の鎮子さんを、彼はこの中庭に運んだのよ。それでまた一晩中、彼女の絵を描き続けた」
わたしは『女』に視線を落した。生死の境にあって、夫の助けも得られず、絶望の淵にある女。確かに、この絵の鎮子はそんなふうに見えた。
「琴音さんの言うとおりだとすると、鎮子は元気で家から逃げ出したことになりますよね。だとしたら、彼女は、なんでまた熱射病にかかるまでこの家の周囲をさ迷ったりしたんでしょう」
「だから、それ以前にもモデルとして体力を消耗させられていたから、逃げきれなかったのよ」
「野中の一軒家じゃないんですよ。助けを求められなかったはずがないじゃないですか」
「あんた、なにが言いたいのよ」
わたしはゆっくりと答えた。
「鎮子は逃げ出して熱射病になったわけじゃない。この家で、つまりこの中庭で、熱射病になった。いや──故意にそういう状況に追い込まれたんだわ」
「だって、この絵は夜の絵じゃないの」
榊琴音の悲鳴に似た声を、わたしは黙って受けた。アトリエに残されていた森川早順のサングラスをかけることで。サングラスを通して見る琴音の顔は、世界は、青く澄み切っていた。
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ふたたび冬の物語
[#小見出し] アヴェ・マリア
1
男と女は分厚いガラスをはさんで向かい合い、しばらくの間無言で各々の膝を見下ろしていた。
先に口を開き、相手の目を見たのは女の方だった。彼女は化粧気もない青白い顔をガラスに押しあてんばかりにして彼に言った。声はこもって鈍く響いた。
「この依頼がなにを意味するか、あなたにもわかってるでしょう。真実を見つけるためよ」
「真実を見つけろというんですね」
「そうよ」
「まるでいまここでこうして向かい合っていることは、真実ではないかのようだ」
「そういう意味で言ったわけじゃない。わかってるんでしょ」
「ええ、まあね。でもそこになにか確かな価値があるとは思えない」
「価値がない仕事はしないっていうの、探偵さん」
「その探偵さんという呼び方はやめてもらえませんか」
「どうして」
「嫌いなんだ」
女は沈黙した。殴ろうが暴れようが、けっして割れることのない強化ガラスが彼女の息に白く濁った。男は思った。ここは寒い。ひどく寒い。早く帰って読書の続きをしたいものだ、と。
「それで、引き受けてくれる?」
「ぼくが引き受けなければならない理由はなにもない」
「例えば、お金」
女は言った。男は首を振った。
「あなたに自由にできる大金などあるはずもないでしょう」
「あるわよ」
「どこに」
女は微笑んだ。男は今度は呆れたように首を振った。
「前払いなしで動く探偵がいますか」
「前払いはお金じゃないの」
「では、なんなんですか」
「あなたの好奇心」
男は失笑した。彼女は自信たっぷりに繰り返した。
「好奇心よ。それがなければあなたは今、わたしと会っていない。ここにこうやって座り込んで、お互いの目の色を探りあったりしない」
「好奇心は、確かにぼくの短所だ」
「長所でもある」
「欠点だ。そのせいで読みかけの本を放り出した」
「もっと面白いものを読めばいいじゃない」
「なにを」
「たどるのよ。過去を。記憶を。過去ほど面白い読み物はないわ」
「歴史ものは苦手なんだ」
「やってみる価値はある。わたしが保証する」
「あなたの保証に意味があるとは思えないな」
女は殺風景な部屋と、ガラスに二重に歪んで映る彼女自身の像に向かって小さく微笑した。そして言った。
「たどってみてほしい。たった一日のことよ。あのクリスマス・イヴになにがあったのか、わたしは知りたい。それだけがわたしの依頼なのよ」
2
水のなかから空気に向かって浮上していくように、ぼくは目覚めた。手を伸ばして、昨夜読みながら寝てしまったシャーロック・ホームズの『赤毛連盟』を間違ってつかんでしまった。舌打ちをして時計を捜し、起き直った。十二時をとうに回っていた。
布団から這い出て歯をみがき、新聞をとってきた。熱いコーヒーをすすりながら新聞に目を通した。麻梨子はいない。冷蔵庫うえの白い伝言板に、『ちょっとでかけてきます』という殴り書きが残されていた。ぼくは溜息をついた。きょうはクリスマス・イヴだ。今年の彼女へのプレゼントはどうしようか。最初の年はトルコ石のピアス、次の年は月球儀、去年は……なんだったかな。
仕事用の鞄をとってきて資料の挟まっているファイルを取り出した。一年前に起きた殺人事件の資料だった。まだ新しい事件のことで、ぼくの記憶にもはっきりと残っている。クリスマス・イヴの惨劇、舞台は古い教会、とくれば誰の脳裏にもいやおうなしに残るにちがいない、派手な事件だった。ぼくは依頼人である佐原かおるの青白い、化粧気もない顔を思い浮かべた。探偵という仕事柄、ときには信じ難いような依頼を受けることがある。しかしながら、ドラマや映画に登場する同業者はいざ知らず、実際日本で調査を仕事にしている人間のところに、殺人事件の調査の依頼がくることなどほとんどない、いや皆無と言ってよいかもしれない。
とはいえ、正確に言えばぼくの引き受けた依頼は殺人事件そのものについて調べろというものではなかった。殺人のあった日にいったいどういうことが起きたのかを詳しく知りたい、できれば教会に長い間祭られていて、事件ののち姿を消した聖母マリア像の行方を調べてほしい、というものだったのだ。
ぼくは資料をめくった。教会は都内の住宅地のなかにひっそりと建っていて、信者の数も少なかった。常駐者はおらず、管理人の手に委ねられていて、近いうちに取り壊されるという話もあった。その矢先、管理人である八十二歳の老婆が死体で発見された。当初、彼女の死は自殺と思われた。説教壇の真下で、彼女は心臓を鋭利なナイフで一突きにして亡くなっていた。老婆はもし教会が閉鎖されれば自分の行き場がなくなってしまうと、強い不安を周囲にもらしていた。その不安に耐え切れずに死を選んだのだ、と老婆の死を聞いた人間は誰しもそう想像した。
ところがその後の調べで、自殺者にありがちなためらい傷がまったく見当たらないこと、老婆自身が熱心な信徒で自殺を忌み嫌っていたこと、それもなまじの嫌い方ではなかったこと、なにより説教壇の脇に祭られていた聖母マリア像が消えていたことが、殺人説を急浮上させたのだった。
ぼくはメモ用紙に関係者の名前と所在を書き出した。十人の名前を連ねたところで、電話が鳴った。麻梨子が骨董屋で買い込んできた李朝の銭箱のうえから受話器を持ちあげると、沈黙が伝わってきた。ぼくは電話を切った。このところ、むやみと無言電話が多くなっている。近くを走っている国道のせいかもしれない。時々、自動車電話の電波がなにかのはずみでうちの回線とつながってしまうらしい。
身支度を整え、家を出た。駐車場まで歩いていく途中、知り合いのレストランの店主と行きあった。相変わらず手入れの悪い、人相さえ悪く見せる髭を生やし、てんで似合わない孔雀のような色合いのセーターにつっかけという姿だった。
「お久しぶりです。水谷さん、最近全然うちの店に来てくれませんね」
彼は恨めしそうに上目遣いになった。ぼくは苦笑いをした。
「すみません、忙しくて」
「麻梨子ちゃんは元気なんですか。昔は週に二回はうちに食事に寄ってくれたのに、この一年とんとごぶさたじゃないですか。なにか、あったんですか」
「別に」
ぼくはそっけなく答えた。彼は訳知り顔になり、近寄ってきて小声で囁いた。
「ふたりともどうかしちゃったんじゃないかって、常連のお客さんたちも心配してるんですよ。水谷さん、麻梨子ちゃんみたいないい女、もっと大事にしなきゃ。後で後悔しても遅いんですよ」
「ご心配いただくようなことは、なにもありませんから」
そそくさとその場を離れた。いやな世の中だ、とぼくは思った。なんだってプライベートな生活を、たかが行きつけだった店の主人ごときにいちいち説明しなくてはならないのだ。個人的な生活に……そこまで考えて、ぼくはふとおかしくなった。個人的な生活に首を突っ込むことなら、探偵であるぼくの右に出るものはいないはずではないか。
車を国道に乗せ、舞台となった教会に向かった。慣れたタクシーでも遭難すると言われる、世田谷の入り組んだ細い住宅地の道を、地図と勘を頼りに曲がっていくと、資料で見慣れた教会の真ん前にぽんと出た。ごく普通の四角い建物で、扉に十字架がなければとても教会とは思えなかった。最近、この付近をうろついている暴走集団の侵入を恐れてのことか、窓はベニヤ板で覆われ、鉄門には何重にも鉄条網が巻きつけられていた。
駐車できそうなスペースには、すでに紺色のBMWが居座っていた。散々周囲をぐるぐる回った挙句、ようやくコイン式駐車場を見つけて車を停め、五分かけて教会に戻った。教会の周囲は住宅ばかりだったが、一軒だけラーメン屋があるのが見えた。きれいに掃き清められた道を見回し、ふと、あることに気づいた。教会の門前の側溝の蓋の上が、少し焦げていた。事件当時は弥次馬だの報道陣だのが押し寄せただろうから、彼らが残していった煙草の跡と考えられないわけではない。わけではないが、それにしては妙に新しいし、煙草にしては跡が細長い。これは、とぼくは思った。線香の焼け跡だ。ここで誰かが線香を焚いたのだ。
教会と線香とは、また妙なとりあわせだった。ぼくはこれを一応心に書き留めると、ラーメン屋に入った。活気のない暇そうな店で、一時を回ったばかりだというのに客はぼくだけだった。ネギラーメンを頼むとアサツキが山盛りになったラーメンが出てきた。ネギラーメンといえば当然白髪ネギがのっているものだと思っていたから、これにはちょっと驚いた。
運んできてくれたおばちゃんを呼び止めて、話をした。暇を持て余していたらしい彼女は、ぼくの問いかけをいぶかしみもせずに答えてくれた。
「あのお婆ちゃんはこの店でも顔馴染だったんですよ。年はとってちょっとボケはじめてましたけど、とてもきれい好きなかたでねえ。朝早くから起きて、熱心に掃除をしていましたよ。うちの店の前まで、ついでだから、と掃いてくだすったんで、よくラーメンをごちそうしてました。家族もいないし、教会はあのさびれようだし、お婆ちゃんもさみしかったんじゃないかしら。たぶんね、ラーメンはそうお好きではなかったんだと思いますけど、よくこちらに足を運んでました」
なるほどこの味では、たとえラーメン好きでもしばしば足を運ぶ気にはなれなかったろうなあ、とぼくは思った。ニンニクを入れたかったが、このあと何人の人間に会うことになるかわからないので我慢した。
「あの聖母マリアの行方について、あのあとなにかお聞きになってますか」
「そうねえ。あの当時は週刊誌だのにだいぶ騒がれたみたいだけど、結局犯人が逮捕されてからは報道も下火になっちゃったからねえ」
銀歯をむき出して笑いながら、おばちゃんは意外にまともなことを言った。
「でも近所で、ちょっと噂がたったことがあったんですよ。あの教会は、ほんの三年前までは毎週日曜日には必ず礼拝があったし、日曜学校もあって、この辺の若いお母さんたちが子どもを通わせてました。だから内部についてよく知っている人も多いんですよ。わたしは入ったこと、ありませんけどね」
おばちゃんは自分の茶の入った大きな湯飲みを持ってきて、ぼくの前の椅子に座り込んだ。
「盗まれた聖母マリア像は古い、立派なものだったんだそうですよ。高さ五十センチくらいの小さな色つきの焼物で、一目見たら忘れられないような像だったそうです。それがね、あれは犯人が捕まってしばらくしてから、この先の立田さんの奥さんがある骨董市であれとそっくり同じものを見かけたと言って、ちょっとした噂になりましたよ。まさかあんな信仰厚かったお婆ちゃんがマリアさまを売り飛ばすはずもないし、でも実際なくなったということは、誰かが持ち出したわけでしょう。教会のなかで人殺しをするだけでも十分大それてますけど、そういうものを売るだなんて極悪じゃないですか」
このおばちゃん、妙な語彙を使うな、とぼくは噴き出しそうになりながら、話を整理して、尋ねた。
「それをやったの、犯人だとは思いませんでしたか」
「まさかあんなお金持ちのお嬢さんが、お金目当てにそんなことするわけないじゃないですか」
でもそのお嬢さんが人殺しをしている。新聞に載った佐原かおるの粒子の荒い写真をぼくは思い浮かべた。彼女はこの教会の熱心な信徒で、いささか常軌を逸していた。逮捕された後、わけのわからないことを無邪気に言い立てて、取り調べにあたった刑事を困らせたらしい。一年たった現在では、面会に応じられるほどに回復したわけだが。
「ところで、あの教会、どうして活動を中断していたんですかね」
「もともとあそこの持ち主が自分で勝手に始めた教会だったんですよ」
おばちゃんはこともなげに答えた。
「一種の新興宗教みたいなもので、税金対策だったって話もありますよ。持ち主の香坂さんはミッション系の大学の神学部を卒業されたそうですが、それからしばらくお父さんの跡を継いで事業をしていた。でも身体を悪くされて、それで教会を始められたそうです。香坂さんは身寄りもなかったし、彼が死んだあと教会を引き継ぐものもいなかった。いろいろと悪い噂もありましたしね」
おばちゃんは初めて言葉の切れを悪くした。ぼくが問い直すと彼女は目をそらせた。
「まあ、噂ですから。噂をほじくってもしかたないでしょう」
これ以上聞き出すのは無理と判断して、ぼくは代金を支払って立ち上がった。
「ええ、間違いありませんわ。あの聖母マリア像でした」
立田頼子は小首をかしげて、はっきりと答えた。ラーメン屋のおばちゃんに言われたとおりに道をたどると、立田家は難なく見つかった。こういった一戸建てばかりが並ぶ住宅地の住人は、必要以上に用心深く、インターフォン越しに用件を尋ね、知り合いでなければ絶対に顔をのぞかせたりしない。ぼくは門前払いを覚悟していた。ところが、あの教会の件で、と単刀直入に切り出した途端、彼女は玄関の扉を開いた。
「わたしも気にはなっていたんです」
黄色いモヘアのセーターに包まれた腕を寒そうに組み合わせて、彼女は言った。
「わたし、香坂司祭と同じ大学を出てるんです。神学部ではありませんでしたけど、同窓のよしみで信用したというのかしら。香坂さんは穏やかで優しくて、人をひきつけるような魅力のある方でした。わたしたちがここに越してきたのが四年前ですから、司祭が亡くなるまでの約二年間、娘と日曜日に教会に通っていたことになります。日曜学校はそれは楽しかったらしく、娘はいつもとても楽しみにしておりました。でも司祭が亡くなられてからは、なんの行事もなくなってしまいましたけど。娘は今でも日曜学校で貰ったカードをとても大切にしていますわ」
「あの殺人事件の起きた頃、教会にいらしたことはありますか」
「ええ、実はその三日前に一度。お婆さんと話をしに行ったんです。まんざら知らない仲でもありませんし、ひとりぼっちで教会を守っておられるわけですし、うちの娘がイヴにケーキを焼くと言い出したので、お裾分けをしようかと都合を尋ねに行ったんです。結局、イヴにはもうケーキを持ってきてくれるというひとがいるからと、断られてしまいましたけど。それが佐原さんだったんですね。彼女をのぞけば、わたしがお婆ちゃんに会った最後の人間になってしまったわ」
「そのときにはマリア像はあったんですね」
「ええ。ちゃんと」
彼女は腕をほどいてうなずいた。
「その後、骨董市で同じマリア像を見つけられた」
「翌年の二月のことです。晴海で開かれた骨董市に、主人と久しぶりにでかけたんです。万世堂という名の出店に、まちがいなくあのマリア像がありました。最初はただよく似た別物だと思いました。ところがよくよく見ると、像の下のほうが小さく欠けていたんです。教会にあったマリア像と同じように」
「それで、どうなさいました」
「騒ぎました」
ひとこと言って、立田頼子はにこりとした。
「でも、ばかでしたわ。骨董市でそんなこと言ったって、誰も相手にするわけないですもの。全部の店がそうだというわけではないんですが、どこでどう仕入れてきたのかわからないようなものを並べている店もありますからね」
ぼくは軽くうなずいた。聞いた話だが、箱根のほうに古い石仏がいくつもある峠があり、名所となっていた。ある朝その場所を通りかかった人間は仰天した。夜のうちに誰かがトラックで乗りつけて、仏さまをいっさい合財運び出してしまったのだ。その後、ある骨董屋の店先に苔むした野仏がたいへんな値段をつけられて並べられていたそうだ。その野仏がどこから来たのか、誰にだって見当がつく。
「警察にはこの話をしたんですか」
立田頼子は顔をしかめた。
「話すべきだったと思うでしょうね。でも話しませんでした。第一に主人が反対しました。あのあと三流週刊誌が面白半分に、悪魔の教会、なんて書き方をしたでしょう。それで主人は、わたしや娘があそこに通っていたことはできれば内密にしておきたい、と言ったんです。第二に、わたしは確かにあれは教会のマリア像だと思いますけど、その話を近所でしたときに、そんなはずはないと言われてしまったんです」
「誰にですか」
「青江さん、青江桃子さんです。佐原さんのご友人で、佐原さんのご自宅でマリア像を見たそうです。それが逮捕のきっかけになったと、彼女はお友達を警察に引き渡したのが自慢のタネでもあるかのように、得意そうにおっしゃってましたわ」
「ちょっと、待ってください」
ぼくは下調べのいたらなさを痛感しながら、話の腰を折った。
「佐原さんというのは、あのお婆さんを殺した佐原かおるさんのことですか」
「ええ」
「佐原かおるさんの部屋にマリア像があったと」
「ええ。ですから、それがよそに売り出されていることはありえない、あれはとっくに警察の手に渡っているでしょうって。彼女はそう言ったんです」
立田家を辞し、車に戻りながらぼくはメモ帳をめくり返した。佐原かおるが老婆殺害容疑で逮捕されたのは事件から二週間以上たった、翌年一月十日のことだ。彼女は殺害の事実だけははっきりと認めたが、それ以外は支離滅裂な言葉を繰り返すばかりだった。警察は佐原かおるの精神鑑定を専門家に依頼、長ったらしい病名とともに彼女は責任能力なしと判断されて、現在もまだ専門医による治療を受けている。
ふたつの聖母マリア像。
馬鹿馬鹿しい、マリア像がふたつだろうが三つだろうが、どうでもいいじゃないか。
仕事をする気が急速に失せてきた。早く家に帰りたいものだ。ぼくはメモを乱暴にポケットにねじこんだ。車にすべりこみ、暖房を入れて冷えた身体を温めながら、ぼくはあれこれと考えた。
ぼくはおおむねひとりで仕事をしている。しかし、個人探偵社に仕事の依頼など、そうそうあるわけもない。普通なら、とっくの昔にぼくは干上がり、探偵なんて仕事とおさらばしてどこか小さな南の島で、手作りのココナッツでできた人形でも並べた土産物屋でも始めていただろう。そのほうが幸せなのではないかと思うことがよくある。
ただ、ぼくは長谷川探偵調査所という、これもまた小さな興信所の長谷川所長と懇意にしていて、仕事のないとき助っ人をやらせてもらっているし、時には依頼人を回してくれることもある。長谷川所長は自分のスタッフ以外にも、こういう自由契約の探偵を数人抱えていて、例えば麻梨子の友人の葉村晶もそのひとりだった。今回の佐原かおるの件も、その長谷川所長からの紹介なのだ。それもかなり強引な頼まれ方だった。
親切にしてくれる彼に、悪意があったと思いたくはないが、面倒だからぼくに押しつけたのかもしれない。殺人犯人の、それも精神障害者からの依頼と聞いて、ぼくはためらった。殺人を犯すほど重度の分裂症の人間が、まともな依頼をするとは考えにくかったからだ。佐原かおるの実家は裕福で金をとりっぱぐれることはない、と所長が太鼓判を押さなければ、ぼくはこの仕事を引き受けたりしなかっただろう。この一年、ぼくは仕事をする気がせずに、貯金を食いつぶして家でぶらぶらしていた。所長の強引な押しがなかったとしても、金になる仕事に背を向けるわけにはいかなくなっていたのだ。
どうしようか。ぼくはメモをにらんだ。それから携帯電話を取りあげて、所長に電話を入れた。
「はい、長谷川の携帯です」
電話に出たのは女の声だった。ぼくは一瞬、絶句した。
「長谷川は今、手が放せないんです。手が空き次第、折り返しますが」
「水谷です。佐原かおるの依頼の件ですが……」
「あれ、水谷さん? お久しぶり、葉村です」
思い浮かべたばかりの、契約探偵仲間の葉村晶だった。相変わらずきれのいい、色気も素っ気もない口調で彼女は言った。
「ごめんなさい、所長ったら携帯忘れて出かけちゃったのよ。たぶんパチンコだと思うんだけど、帰ってきたら電話させるわ」
「いや、伝えといてくれればいいよ。葉村、今どこだ?」
「どこって、長谷川探偵調査所の事務所だけど。村木さんと事務のおばさんがインフルエンザで倒れちゃって、暇なわたしが駆り出されたの。どうして?」
電話の背後の音が静か過ぎた。あの事務所は繁華街のど真ん中にあるから、呼び込みテープの声や雑踏で一日中うるさいはずなのだ。気のせいか、葉村の声も少し急き込んでいるようだった。ぼくはにやっとした。あの所長と、あの葉村が。麻梨子が聞いたら驚くぞ。
ぼくは手短に仕事の進捗状況を説明した。葉村は気のない相槌をうちながら聞いていたが、打ち切りをにおわせると急に真面目になった。
「だめですよ、水谷さん」
葉村はてきぱきと言ったが、言葉のどこかに狼狽が感じ取れた。
「だめっていわれてもなあ。やっぱり意味のない依頼だということがわかったんだぜ」
ぼくはいささかめんくらいながら答えた。
「そうかしら。依頼人の言っていることがそんなにおかしいかなあ」
「いや、だって」
言いかけたぼくの言葉を、葉村は遮った。
「その立田頼子という女性が、別の場所で聖母マリア像を見ているわけでしょう? たまたま同じ種類のマリア像がふたつあったのはいいとして、欠けている場所まで同じというのは、偶然過ぎるじゃない。となると、マリア像はひとつしかなかった。立田頼子が嘘をついていないとすれば、青江桃子が勘違いをしているか、嘘をついていることになる。でしょ?」
以前、二、三度、葉村と一緒に仕事をしたことがあった。冷静で、体力があって、めったに泣き言を言わない女だが、仕事のやり方という点になると、がぜんうるさく、筋を通したがる傾向があった。ぼくはうんざりしながら、教会の信者でよくあの像について知っていた女性が、まったく別の場所でそれと出くわしたというのも偶然に過ぎると思うけど、と皮肉を言ったが、葉村は気にもとめずに言葉を継いだ。
「とにかく、青江さんと、その骨董屋の方面までは調査したらどう? 結局見つからなかったとしても、調査をきちんとしたかどうか依頼人にわかってもらえるじゃないの」
「所長はいないのかな」
「さっきも言った通り、外出中です」
「ほんとか? ほんとはそこにいるんじゃないのか」
葉村がひゅっと息を吸い込んだ。
「いませんよ。なんでそんなこと言うんです?」
「別に、なんでってことはないけどさ」
「言っときますけどね、水谷さん。本当はその仕事、わたしがやらせてもらえることになってたのよ。でも所長があなたのこと心配して、一年のブランクの肩慣らしにちょうどいいからって、そっちに回すことになったの」
「自分なら、もっとうまく調査するって言いたいのか」
ぼくは苛立ったが、葉村はにべもなく言った。
「少なくとも、途中で投げ出したりはしないわよ。──あのねえ、こんなこと、あなたよりキャリアの短い女なんかに言われたかないだろうけど、佐原かおるの依頼って、長谷川探偵調査所にとっては重要なのよ。なんたって、佐原家の依頼なんだし、間に入ったのがお得意さまの企業なんだから。もしあなたがいいかげんな調査しかしなかったら、困るのは所長なんだからね」
そこをつかれると弱かった。おまけに、葉村は麻梨子とぼくを結びつけてくれた人間でもある。麻梨子が高校時代の同級生の葉村を訪ねて長谷川探偵調査所に来なければ、ぼくらは知り合うことも、結婚することもなかったのだ。
「わかったよ。とにかく、青江桃子に会ってみるよ。それじゃ、葉村。麻梨子にあんたと話したこと、伝えとくよ」
短い沈黙の後、葉村はこれまで聞いたこともないような優しい声で言った。
「うん。よろしく言っといて」
3
青江桃子は麻布十番のマンションの一室に住んでいた。少なく見積もっても家賃三十万円というところか。ぼくは築二十年を経過したマッチ箱のような我が木造一戸建てを思い浮かべ、いささかわびしい気持ちになって呼び鈴を押した。
「佐原さんの家の方から、探偵を雇ったって電話をいただいたから、今日あたりいらっしゃるんじゃないかって思ってたのよ。あたりだったわね」
青江桃子はタートルネックのセーターの袖をまくりあげながら、紅茶をいれてくれた。
彼女は童話作家ということだった。ここは仕事場兼自宅で、締め切りに追われているさなかだからそうそう長話はできないんだけど、と言いながらソファに腰を下ろした。
「では、ぼくがなにを捜しているのかもご存じですね」
「いいえ。調査所の人間があなたのとこにもいくだろうから、そのときはよろしく頼むって挨拶があっただけ。こっちもほら、かおるの家族にはちょっと後ろめたいことがあるから、つっこんでは聞かなかった」
「後ろめたいとおっしゃるのは」
「わかってるくせに」
凡人がぼんやりと考える童話作家のイメージと、青江桃子は正反対の存在だった。黒のスパッツにぴったりと覆われた長い脚をソファに引き寄せ、ウエーヴのかかった髪を片手で巻き上げながら、こちらを流し見る。
「わたしが余計なことを言わなかったら、かおるは逮捕されなかったわけよ。マリア像に気づいたことを警察にではなく、まず家族に言っていたらもっと違った対処をとれたでしょうしね。あの家族にはそれだけの力がある。現に、かおるは結局責任能力を問われなかったんだものね」
「本来なら責任能力があったと、思ってらっしゃるんですか」
「わたしは専門家じゃないからね。でも、ひとつだけ知ってるわ。かおるの精神鑑定をした大学教授の研究室には、毎年佐原の家から莫大な研究費が流れているのよ」
「精神鑑定は複数の人間によって行なわれたとありますが」
「あら、そう。だったらどこの研究室にもお金が流れてるんでしょ、きっと」
青江桃子は面白くもなさそうに答えた。ぼくは彼女を観察した。こんなに悪意に満ちた人間を、それも悪意をおもてにぶらさげている人間を目の当たりにすることなど、ぼくのような職業の人間にとってもそうそうあることではない。最初に聞いていなければ、児童文学を書いている人間だとは信じられなかった。ぼくが佐原に雇われていることを知っていながらこういう態度を取るとは、この女、ひどく正直なのか、それとも抑え切れぬほど佐原かおるに対して憎悪を抱いているのだろうか。
「かおるさんの居室で聖母マリア像を御覧になったそうですね」
「ええ、そうよ」
「どういう状況だったか、お話しいただけますか」
「一月七日のことよ。毎年その日に友人を集めて、かおるが自分の部屋でささやかな新年会を催すのよ。ささやかといったって、どこぞのホテルのシェフを呼んでつくらせた料理と、青山の高級洋菓子店の主がその日のために特別に考案した、なんだか風流な名前のついたケーキがお茶受けにつくようなパーティーだけどね。で、その席上、高尚な文学の話に飽きたわたしがつい、かおるのクローゼットを開けちゃったの。お嬢様のワードローブにちょっと好奇心をそそられたのよ。そしたら、ものすごく場違いなものがそこにあったというわけよ」
「教会の聖母マリア像だと、すぐにおわかりになったんですか」
「三年ほど前に、クリスマスにちなんだ作品を書くんで、教会のことを詳しく調べたのよ。クリスマスの話って、不思議と人の心をひきつけるのよね。欧米ならともかく、クリスチャンでもない日本人にどうして受けるのかしら。それはともかく、そんなわけで、かおるお嬢様に、通っていらっしゃる教会を紹介してもらったのよ。そこで香坂司祭の話も聞かせてもらったし、許可を貰って内部の写真も撮らせてもらった。ちょっと待ってて」
青江桃子は本棚から〈キリスト教関係2〉と書かれたファイルを引き出した。
「いかにも教会という感じだったし、すてきなマリア像だったから、大きく写真を撮ったのよ」
八つ切りに引き伸ばされたカラー写真が二枚、表情と全身が映っている。懐に幼子を抱き、下目遣いにその子を穏やかに眺めている。全体に古ぼけていたが、きれいに磨き立てられて、なるほど心を打つマリア像だった。
よく見ると、立田頼子の言ったとおり足元の衣の一部が欠けていた。ぼくは写真を青江桃子に返しながら尋ねてみた。
「そのときすぐに、マリア像があの教会のものだとわかりましたか」
「直感したわ。だって普通、クローゼットにマリアさまを隠したりする? その頃にはあの殺人事件のさなかにマリア像が消えたことが騒ぎになっていたし、その教会に熱心に出入りしていたかおるがそれを持っていたなんて、どう考えてもおかしいじゃないの」
「それで、すぐに警察にそのことを知らせたわけですね」
「その日のうちにね」
「友人なのに?」
「友人だからよ。わかってもらえないかもしれないけどね、わたしは彼女のためにやったのよ。言ったでしょう、佐原の家なら全部なかったことにできるって。そうなっていたら、かおるは今頃大爆発を起こして自殺してたかもしれないわ」
「どういうことです」
青江桃子は真顔になり、きちんと座り直した。
「変な話だと思うでしょうけどね。こういうことなの。かおるは自殺未遂をしたことがあるの。それも一度や二度のことじゃない。もともと繊細な人間であるうえに、佐原家によって徹底的にスポイルされたのが原因だと、わたしは思ってる。ああいう金持ちが身内をどう扱うかわかる?」
「いいえ」
「思い通りに扱うのよ。犬や猫みたいにね。餌のかわりに金を与え、雑種を近づけない。着るもの、食べるもの、つきあう人間、通う学校、結婚相手、その時期、すべて管理するわけ。血統書付きの犬みたいに」
「なるほど」
「運悪くかおるは頭がいいのよ」
青江桃子は煙草に火をつけた。
「それも人並み以上に頭がいいの。管理されていることに気づき、それに我慢できないほどいいの。けど、心も身体ももろいの。そういう場合、管理から逃れる手段はいくつかあるけど、彼女は一番てっとりばやい方法を選んだわけ」
「それが自殺」
「そうよ。そういう意味ではお嬢様だわね。苦労しようって気は起きなかったわけ」
ぼくは今得た情報を頭に落ち着かせようと、一呼吸して紅茶を飲んだ。
「しかし、それが殺人とどうつながるのかわかりませんね。あなたの考えでは、かおるさんは正常な精神の持ち主だったんでしょう」
自信たっぷりだった桃子の表情が、そのとき初めてほんのわずか揺れた。
「そうよ。責任をとらせるいいチャンスだと思ったの。刑務所のなかにいたって、自殺するよりはましじゃない。罪を着せたわけじゃないのよ。彼女がしたことを明らかにして、ちょっと背中を押してやっただけよ」
ぼくは彼女をにらみ、彼女は身じろぎもせずにぼくの視線を受けた。
「いいでしょう」
ぼくはやがてにらめっこに疲れて小さく言った。
「聖母マリア像のことに話を戻しましょう」
「どうぞ」
「この写真で見てもわかるとおり、この教会のマリア像は足元が欠けてますね」
「ええ」
「あなたがかおるさんのクローゼットの中で見つけたマリア像も、こうなっていたわけですね」
「そこまでは覚えてないわ」
青江桃子はわざとらしいあくびとともに、時計に目をやった。
「それに、そんなことにどんな意味があるのよ。結局かおるは犯人だったんだから、あれがあの教会のマリアさまだろうが、どこか他のところから持ってきたマリアさまだろうが、どうだっていいことじゃないの」
謎がまた増えてしまった。ぼくはもう一度、長谷川所長の携帯に電話を入れたが、今度は留守番電話サービスが出た。長谷川所長なら警察のコネから、結局捜査の段階であの像がどういう扱いを受けたのか、探り出してくれるだろうに。
いや。
ぼくは携帯電話を切って、首をかしげた。
いつもの長谷川所長なら、その程度のことはまず調べてからぼくに連絡をとるはずだ。マリア像がどうなったのか知りたいという佐原かおるの依頼は、まず長谷川所長が受けたのだから。いつもの長谷川所長なら、電話一本でできる範囲の下調べは行なってから、ぼくを指名するのに。彼らしくないことだ。
ますますやる気をそがれた。彼はやはり、どうでもいい依頼を、だがないがしろにはできない依頼を、ぼくに押しつけただけだったのだ。
急に麻梨子のことを思い出した。自宅に電話を入れた。またしても留守電のメッセージが応対して、ぼくは電話を切った。しかたがない。あともうひとりだけ。立田頼子がマリア像を見たという骨董屋、万世堂にあたってみることにしよう。
万世堂の本店は西荻窪にあった。落日の速度は驚くほど早く、到着したときにはすでにあたりは真っ暗だった。何軒もある骨董屋のなかから万世堂を見つけ出すには、いささか手間がかかった。万世堂は小さな川の側にある、暗い店だった。看板の下の電球がはぜるような音をたてていた。
傾いた扉を開けて中に入った。男がひとり、受話器に向かってしきりとなにか囁いていた。この店の主なのだろう、薄暗い目つきをして、約束だの契約だのについてぼそぼそと語るさまは隠者めいていた。どこかで見た顔だ、とぼくは思った。どこで見たのだろう。
店主の手が空くのを待つ間、店内を見て回った。趣のあるアクセサリーが所狭しと並べられている。はたして本当に由緒ある骨董なのか、ただのごみなのか、ぼくにははかりかねたが、ガラスケースにおさめられたピアスに目が行った。アメジストとシルバーでできた花の形をしたピアスで、細かな黒い石がシルバーの全面に埋め込まれている。これをつけた麻梨子を想像することは、とても容易《たやす》かった。
電話を切った店主に、ピアスの値段を聞いた。店主は予想外に愛想の良い顔になって、ピアスの由来をしゃべり始めた。今年のクリスマス・プレゼントはこれにしよう。
代金を払ってピアスの包みをポケットにしまうと、ぼくは一年前のマリア像について尋ねた。店主は目を丸くし、しかし別段怒りもせずに答えた。
「覚えてるよ。まったくあれには参ったね。店でならともかく、出展先で泥棒扱いされたんだから。こっちはちゃんと正当な手続きを踏んで、買い取ったんだ。そのあと誰に売ろうが、かまうことじゃないだろ」
「どういうことですか」
店主は茶渋に染まったマグカップに口をつけた。
「去年、ある教会が取り壊されるって話を聞いたんだ。早速駆け付けて、なにか売り物になるものはないかって聞いた。管理人らしい婆さんが俺にとりすがらんばかりにして、なにもかも持っていってくれ、これはすべてあなたのものだ、と言ったんだ。だから、とりあえずそのとき持てるマリア像だけいただいてきたんだ。もちろん、ちゃんと金は払ったよ。もっともそのあと自分も連れてけと婆さんにすがられたときには、びっくりしたけどね」
あ、とぼくは思った。どこかで見たことがあると思ったのも道理、店主は死んだ香坂司祭にそっくりだった。ラーメン屋のおばちゃんは、殺されたお婆さんがぼけてきていると言っていた。彼女はこの店主を香坂司祭と間違えたのだ。
「それで、どうしました」
「どうもこうも、そのあと殺人事件だろ。しかも事件の三日後にあの像は売れた。おとなしそうなお嬢さんが、店頭に並んでもいなかった像を名指しで買い取りに来たんだ。ははあん、と思ったけどね、やっかいなことにかかわっちまってどうしたもんかと思っていたから、すぐ売ってやったよ」
「いくらで」
店主はにやりとして答えなかった。ぼくは重ねて尋ねた。
「その後、どうしました」
「マリア像を買ったお嬢さんが犯人だって報道されたじゃないか。事情を説明に行かなきゃいけないのかもしれないと思ったけど、誰か調べにくるだろうと思ったから、だからそのままほっといた。結局誰も来なかったけどさ。そうしたら骨董市でのあの騒ぎだ。あのマリア像と、俺が教会から買ってきたマリア像は、まったくの別物なんだぜ」
「それは嘘ですね」
ぼくは言った。
「骨董市で像を見た女性は、欠けていた場所も同じだったことから間違いないと言っているんですよ。まさかあなたの手元に、足元の欠けたマリア像が二体もあったわけじゃないでしょう」
「鋭いな、お客さん」
店主は困ったように首筋を掻いた。
「実はそのとおり。でもここだけの話だよ。あとで誰が来ようがこっちは否定する」
「かまいませんよ」
「最初に買い戻しにきたお嬢さんに、別物を売ったんだ。間違えてね」
「どういうことですか」
「お客さんにマリア像の蒐集家がいるんだ。頼まれて取り寄せておいた無傷のマリア像が、たまたまそのときうちにあった。そっくりなものがね。そいつをお嬢さんに渡してしまった。そのあと間違いに気づいたんだが、住所を聞いていたわけじゃなし、しかたなく欠けた方のマリアさまをコレクターに見せたんだが、傷物はいらないと断られちまった。だから市に出したんだ。そういうことなんだよ」
4
車を駐車場に停めた。運転中は余計なことを考えまいとしていたのだが、エンジンを切った途端に様々な思いがあふれてきて、とめようもなかった。聖母マリア像はふたつあった。鋳型で作られた同じ型のものが。佐原かおるはそれと知らずに同形の、傷のないマリア像を買った。婆さんが殺されるずっと以前から、教会からマリア像はなくなっていた。マリアさまは事件となんの関係もなかったのだ。
駐車場を出て、自宅に向かいながらぼくは考えた。あの殺人事件そのものが、もしかしたら……。
「水谷」
呼び止められて、ぼくは顔をあげた。駐車場の出入口脇の電柱に立っていた男が、暗がりから現れて不意に声をかけてきたのだ。一瞬すくみ、それからぼくは笑いだした。
「なんだ、所長。脅かさないでくださいよ」
「おまえの帰りを待っていたんだ。一緒に酒でも飲む気はあるか」
「いいですけど。どうしますか。近所に地酒を飲ませる店があるんですが」
「家に行かないか」
「ぼくのですか」
電灯の明りのなかで、長谷川所長は普段より疲労し、目の下に深いしわをこしらえていた。ぼくはためらい、うなずいた。
「いいですよ。なにもありませんけど」
肩を並べて歩き出しながら、ぼくは黙っていられずに今日一日の報告を始めた。所長は黙ってときおりうなずきながら、のそのそと歩いていた。ぼくは言った。
「これはひょっとすると、とんでもないことなのかもしれません」
「ああ」
「なぜ佐原かおるは殺人を犯したのか。殺された老婆はぼけ始めていて、司祭と間違えて骨董屋に聖母マリア像を売り払ってしまった。クリスマス・ケーキを届けに来たかおるがそれを知って怒って彼女を殺したのか。いや、もしかしたら自分がぼけて大事なマリア像を売ってしまったことに気づいた老婆が、かおるに頼んだのかもしれません。自分を殺してくれと」
「一種の自殺だったというのか」
「かおるはケーキを届けに来たんだから、当然ナイフの用意もあったでしょう。それで老婆を刺し殺した。いや、これは例の青江桃子のいうとおりに、かおるが正常な精神状態であったと仮定しての話になりますが」
「そうかもな」
「佐原かおるは覚えているんでしょうか。自分が殺人をしたときのことを。殺人の事実は認めたのだから、当然その認識はあるんでしょうけど、ひとつ気になることがあります」
「なんだ」
「佐原かおるは自殺未遂を繰り返していた。彼女は老婆を殺したつもりはなくて、自分自身を殺したつもりだったんじゃないでしょうか。あれは彼女のなかで殺人ではなく、自殺だったのかもしれない、だったら彼女を責めることはできない」
所長は黙ってぼくを見た。ちょうど家の前に来ていた。家には明りがともっていた。ぼくは玄関の引き戸に手をかけて、長谷川所長を振り向いた。
「この件は、たんに聖母マリア像の行方を追うことではなくて、佐原かおる本人の事件当時の記憶の行方を追うことになったような気がしますね。明日にでもまた彼女に会ってきますよ。そして」
「水谷」
長谷川所長は絞り出すように言った。
「その、必要はない」
「は?」
ぼくはぽかんと口を開けた。
「どういうことですか。佐原かおるの依頼がキャンセルされたんですか」
「そうじゃない。依頼は最初から、なかったんだ」
ぼくは細い明りのなかで長谷川所長の顔を眺めた。所長は悲しそうな、疲れ切ったまなざしを一瞬ぼくに投げ、すぐにそらした。
ぼくは笑い出した。
「どういう冗談なんですか。やだな。ぼくは入院先の病院で、確かに佐原かおるに会いましたよ。彼女の口から直接……」
「水谷。ひとつだけ、聞きたい。今日一日調べた事実だけで、どうして自殺と殺人が佐原かおるのなかで入れ替わったという結論になるんだ。そこまで飛躍できるんだ。そんな材料はどこにもなかった。そんな話を聞いて誰が納得する。仮に殺された老婆が自分の犯した間違いに気づいたとして、自分を殺せなんて言うか? 骨董屋から像を取り戻してくれと言うんじゃないか? かおるは老婆がマリア像を売ってしまったことを知って怒りのあまり老婆を殺し、そのあと骨董屋にマリア像を買い戻しに行った。そしてそれを自室のクローゼットに隠しておいた。それが普通の結論だ」
「それは」
ぼくのなかで、不審が胸騒ぎに変わった。
「あの病院の院長に、ちょっとした貸しがあったんだ」
所長はのろのろと言った。
「佐原かおるという患者が、聖母マリア像の行方について気に病んでいるという話も聞いた。偽物をつかまされたということに、彼女は入院先の病院で警察から下げ渡されたマリア像を眺めていて、初めて気づいたんだ。これは本物ではない、と。それで思いついた。このお芝居を」
「芝居?」
所長はぼくを押し退《の》けて家に入っていった。ぼくはあとに続き、玄関の三和土《たたき》にぬっと人影が立ち上がったのを見て、叫びかけた。
「やあ、水谷」
長谷川探偵調査所の村木義弘だった。ぼくは抗議の声をあげた。
「驚かさないでくださいよ。それになんですか、勝手に他人の家にあがりこんだりして。サプライズ・クリスマス・パーティーでもするつもりなんですか」
「悪いな。ま、あがれ」
「あがりますよ。ここはぼくの家なんですから」
入っていくと、そこにはなんと、葉村晶がいた。彼女は蒼白な顔で煙草をくゆらせていて、ぼくを見ると顔を背けた。ぼくはなにがなにやらわからずに、ぼう然とリビングに立ち尽くした。
「いったい、なにごとなんですか。葉村、あんた事務所にいたんじゃ……そういえば、村木さんがインフルエンザに倒れたって……」
所長は葉村晶に顎をしゃくった。村木がリビングの入口に立ちはだかるように、場所を占めたのにも気づいた。
「一年よ、水谷さん」
葉村はしゃがれた声で言った。
「麻梨子の姿をあなた以外の人間が見なくなって、丸一年。麻梨子に肉親はいなかったけど、友人だっておかしく思うのが当然でしょ。最初はちょっと不審に思う程度だった。タイミングが悪くて電話に出られないのかなあ、と思った。でも、電話をしても、あなたはいつも麻梨子は外出中だって言う。何度試しても連絡はつかない。あんまりおかしいから、最初はわたし、ひとりで調べ始めたの。そこでわかったのは、去年のクリスマス・イヴの晩遅くに、麻梨子がこの家に戻る姿を顔見知りのレストランの店主が目撃したのが最後で、それ以来、彼女は地に潜ったかのように行方をくらませたってこと。水谷さん、あなたが関わっていることは明らかだった」
「なんの話です」
「できれば、そうは思いたくなかったんだけどね。麻梨子がたんにあなたとの生活に嫌気がさして出ていったとか、誰かと駆け落ちしたとか、そういうことだって考えられないわけじゃなかった。そうだったらいいのにと思った。でも、麻梨子の周辺を聞いてまわったけど、彼女が誰か別の人間とつきあっていたという話は出ない。あなたと喧嘩したという話もない。麻梨子は勤めていた化粧品販売会社を、去年の十二月二十六日に突然辞めた。話を聞いたら、病気で入院することになったので、という電話が、麻梨子からじゃなくあなたから、あった。二十四日まではぴんぴんしてたのに、と会社のひとも不思議がってた。お見舞いに行きたいから病院を教えてくれと言っても、あなたは答えなかった。そう、おまけにその頃から、水谷さんは仕事をめったにしなくなった」
ぼくはぽかんとして、葉村晶のよく動く唇を眺めていた。彼女は煙草をもみ消すと、立ち上がった。
「なにが起こったのかわからなかったけど、麻梨子の行方を探し出さなくちゃ気が済まなかった。だから、所長に全部打ち明けた。所長は信じなかったけど、知ってるでしょ、わたし頑固なのよ。所長はむしろ、あなたの無実を証明するために、手を貸してくれることになったわけ。──わたしたちはなによりまず、この家の内部を調べる必要があった。だけど、水谷さんは仕事をせず、一日中家にこもっている。押しかけていったって、入れてもらえないだろうし、かえってわたしたちが麻梨子の行方を調べていることが知れてしまう可能性もある。だから、所長がひと芝居打って、この家からあなたをひっぱり出した」
葉村は震える声で言い終わり、所長を見やった。彼は蒼白な顔をこちらに向けようともせずに言った。
「知りあいの女優を佐原かおるに仕立て、あの病院でおまえに会わせた。おまえに仕事をやった。やっかいで、時間のかかる、だけどとてもペイのいい仕事を。そして俺たちは時間を手に入れた。おまえの家を家捜しする時間を」
葉村が嗚咽《おえつ》のような声をあげたが、聞き違いだったのだろう。葉村晶みたいな冷静でタフな女が、泣くわけはないからだ。
「水谷さん。わたしたち、見つけたのよ」
葉村はリビングと和室の間のふすまをがらりと引き開けた。和室の畳が外されていた。その下の土に大きな穴が開いていて、嫌な臭いが立ち上っていた。穴のなかに白いものがちらりと見えた。
「さっき、おまえが言ったのは、おまえ自身のことだったのか。自分を殺したつもりで麻梨子を殺したのか。だからこれは自殺だというのか」
ぼくはぼんやりと穴の縁に座り込んだ。これはいったい、なんだろう。所長や葉村はなにを話しているのだろうか。
誰かが受話器を持ち上げ、三桁の数字を押す音が、ぼくの霧のように曇った頭の隅に聞こえていた。
5
厚いガラス板を間に挟んで、男はうつろな視線を女に投げた。女はにらみ返した。
「そのクリスマス・イヴじゃないわ。その一年前のイヴをたどってほしいとわたしは言ったのよ」
「そうだったのか。でも葉村、その前の年のイヴはみんなでパーティーをやったよな。あんたも一緒だったじゃないか」
「それは、その前の前の年のイヴでしょう。そうじゃない。パーティーの翌年、佐原かおるの調査をする前の年。思い出しなさいよ」
女はきつく言った。
「思い出してよ。さもなきゃ、あんまりよ。どこの誰にもわからない理由で、どこの誰ともわからない方法で、麻梨子がこの世から消えてなくなってしまったなんて」
「変なこと言うなあ。麻梨子が消えてなくなるはずないじゃないか」
「あなたも見たでしょ、水谷さん」
女は椅子から立ち上がり、狭い室内を往復し始めた。
「あなたの寝室に穴があって、骨が……麻梨子の骨が」
「わけのわからないことを言うひとだなあ。麻梨子はぼくとずっと一緒でしたよ。あんたたちが家に押しかけてくるまでは。ちょっとでかけてきますってメッセージを残して」
男の目が不意にうつろになった。女は言った。
「それはその一年前のメッセージよ。一年前のクリスマス・イヴのメッセージを、あなたがそのまま消さずに残しておいただけなのよ」
「今日はクリスマス・イヴだったっけ」
男はぼんやりと女を見て、うっすらと微笑んだ。
「依頼は果たしただろ、葉村? あの一日、あのクリスマス・イヴをぼくはさかのぼった。記憶を読んだ。約束の依頼料は、間違いなくもらえるんだよね」
女は男の顔を見て、ガラス板に手を振り上げ、力なくそれを下ろした。男は思った。ここは寒い。ひどく寒い。早く帰って読書の続きをしよう、と。
「あなたはわたしの依頼を果たしてない。あなたの調査は間違ってるのよ、探偵さん」
「探偵と呼ばれるのは好きじゃないんだ」
男はそっけなく言った。
「この仕事はぼくに向いているけど、好きな仕事じゃない。引き受けたのは金のためだよ。今日はクリスマス・イヴなんだろ? 麻梨子にクリスマス・プレゼントを買わなくっちゃ。最初の年はトルコ石のピアス、次の年は月球儀、その次の年は……なんだったかな」
「なんだった? 思い出して」
女は最後の望みを込めて、男の顔を見あげた。混乱した表情の男はやがて、晴れ晴れとしてにっこりと笑った。
「その次の年は、佐原かおるの調査で行った骨董屋で見つけた、アンティークの銀のピアスだった」
女はぱたりと手を落とした。男は出ていった。部屋には女の呟きだけが残された。
「たどってみてよ。たった一日のこと。あのクリスマス・イヴになにがあったのか、わたしは知りたいの。それだけがわたしの願いなのよ」
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ふたたび春の物語
[#小見出し] 依頼人は死んだ
1
四月十日土曜日。前線が関東地方の上空を通過中とかで、政府高官の答弁なみにはっきりしない空模様だった。今晴れたかと思うと、次の瞬間には曇り、さらに雷が鳴る。わたしは地下鉄の駅を出た途端、霧のように細かな雨の幕の中に飛び込んでしまった。本来、こんな天気の日にはまっすぐ家路につき、ふわふわの毛布にくるまり、P・D・ジェイムズの新作を開いて頭の中を家具の描写でいっぱいにすべきなのだ。しかし、浮き世の義理というやつ、天候を選ぶものではない。
案内状の地図を見ながらギャラリーを探した。場所はすぐにわかった。表通りから一本入った路地に、それはあった。ギャラリーの看板は小さく、来なくてもいいよと言わんばかりの読みづらい凝った文字で作られていたが、住宅地のなかでひときわ明るく、嫌でも注意を引きつけられた。
ドアを開けると、煙草とアルコールの匂いと声高なしゃべり声が雪崩をうって押し寄せてきた。一階はオープニング・パーティーの真っ最中のようだ。コーデュロイのジャケットに黒のハイネックのセーターを着込んだ男たちをこんなにいっぺんに見るのは初めてだ、と思いながらわたしは地下へ向かった。作品の飾られている地下ギャラリーは、こちらがメイン会場であるはずなのに、うってかわって静かで人も少なかった。フロア中央に幸田カエデがいて、わたしに気づくと手を振った。
「やあ、晶。来てくれたんだ」
「来いと言われたからね」
カエデは両手を腰に当て、天を仰いでからからと笑った。その場の全員の視線がいっせいに彼女に向けられた。幸田カエデは最近、新進気鋭の書道家として斯界《しかい》の注目を集めている女だが、そうでなくても高校時代から注目の的だった。その頃から鼻ピアスをし、二百三高地とかいうとうの昔に死滅した髪型に羽織袴で芸大に通学し、麻薬不法所持でアメリカから、風紀|紊乱罪《びんらんざい》で中国から追い帰されたという伝説の持ち主だ。今日の彼女はギリシャ神話の登場人物のように布を身体に巻きつけ、両腕をにょっきり出していた。腕には見事な竜の彫り物があった。
「ま、晶にあたしの作品の善し悪しがわかるはずないけどさ。枯れ木も山のにぎわいっていうことわざもあることだから、パーティーに呼んでやったんだ。ひととおり見て、ただ酒飲んでってよ。どうせ相変わらず貧乏してんだろ、この女探偵」
わたしの肩を思いきり叩くと、カエデは一階へあがっていった。苦笑しながら会場を一巡りした。彼女は正しい。わたしはどうやら右脳に欠陥があるらしく、音楽は騒音にしか聞こえないし、絵を見てもなにも感じない。ましてカエデの前衛的書道など、トイレの悪戯《いたずら》書きとしか思えない。
墨を塗りたくられた猫がころげまわった跡にしか見えない作品を前に首をかしげていると、後ろから遠慮がちな声をかけられた。
「葉村晶さん、ですよね。わたし、カエデのアメリカ留学時代の友人で、佐藤まどかと言います。お噂は彼女から聞いてます」
「どうせ、ろくな噂じゃないんでしょうね」
「そんなこと──と言いたいところですが、まあ、カエデの話だから」
わたしたちは一瞬にして、恐るべき友を持ってしまったもの同士の連帯感で結ばれた。佐藤まどかはいかにも頭の良さそうな女性で、ジーンズにエスニック調のチュニックを着て革のサンダルを履いていた。化粧気はなく、アクセサリーは細い銀のブレスレットだけ。年齢不詳という言葉がぴったりくる感じだった。
「探偵をしてらっしゃると聞きましたが、本当ですか」
「興信所に勤めていたことがあります。いまもたまに手伝うことがありますが、アメリカでいう探偵とはまるっきり違いますよ。カエデがなにを言ったのかしらないけど」
「アメリカでいう探偵も、小説に出てくるのとはまるっきり違いますよ」
佐藤まどかはにやっとしてから真顔になり、
「初対面でいきなりなんですけど、相談に乗ってもらえませんか。わたし、半年前に帰国したばかりで、日本には友人が少ないんです」
「それは友人としての相談事? それとも」
「どちらになるかは話してみないと」
「カエデは知ってるんですか。その、あなたの悩み事を」
「あなただったら彼女に話します?」
わたしだったらたとえ悩みがあっても誰にも相談などしない。しかしカエデに話せないというまどかの気持ちはよくわかった。高校時代、カエデの悩みは「芸術家の才能は神の賜物かそれとも悪魔の恩寵か」などという、とんでもなく形而上学的な代物だった。そういう人物に、彼が浮気をしてるみたいなの、だの、親が結婚しろとうるさくって、だの、職場の上司がしつこく迫ってきて、だのという相談はできない。平和でいいわねえ、と鼻先で笑われるのがオチだ。
「パーティーには出られますか。よかったらどこかで食事をしながら話を聞いてもらえません? もちろん、ごちそうさせてもらいます。相談料代わりと思ってくれていいわ」
カエデが思っているほど、現在のわたしは貧乏ではない。友人の家に居候させてもらっているおかげで住居費がかからないし、興信所の助っ人をするとかなりまとまった謝礼が入るから、自分の食べたものの料金くらい自分で支払える。しかし、わたしは佐藤まどかの誘いに乗ることにした。せっかく本人自ら奢る気になっているのに断っては気の毒だし、ことと次第で友人の相談事にも興信所の相談事にも化けるという話に興味をそそられていた。
一階のパーティー会場では、カエデが芸術の実演の真っ最中だった。もっとも人垣で彼女の姿はまるで見えない。わたしたちはそそくさとギャラリーを後にして、表通りの小さなイタリアン・レストランに飛び込んだ。
まどかが選んだ豪勢な食事をとりながら、よもやま話をした。彼女はカエデがニューヨークにいたときのルームメイトのひとりだった。芸術家を志す女性留学生六人で部屋を借り、若気のいたりで〈オリエンタルドールズ〉と称していたそうだ。そのうちカエデがもとでほとんどのメンバーがドラッグにはまり、まどかはそこを出て結婚し、離婚し、帰国した。
「それでもカエデとだけは縁が切れなくって。彼女は他のひとたちと違って無理に薬をやらせようとはしなかったし、あれで面倒見もいいし。日本に帰ることになったと手紙を書いたら、人手を欲しがってる画廊を見つけてきてくれたの。いまはそこで働いてる」
「彼女がドラッグで強制送還になったって伝説は聞いたことあるけど、いったい、ものはなに」
「さあ。わたしの義理の父親ね、アル中だったのよ。そのせいか酒や麻薬に対する恐怖心が人一倍強いの。わたしは写真家をめざしてニューヨークに行ったんだけど、皆から、芸術家だったらドラッグによる幻影を試してみない手はないって言われて、だったら芸術家になんかならんでもいいわ、ってケツまくっちゃったのよね。マリファナ程度じゃないとは思うけど、わかんないわ。もっとも彼女、わざわざ薬なんか使わなくたって、十分すぎるほどいっちゃってるじゃない」
「同感」
コーヒーが運ばれてきた頃には、共通の友人を吊るしあげたおかげですっかり打ち解けていた。友情を深めるためにはリンチが一番だ。佐藤まどかはバッグから一通の封書を取り出した。新国市役所保健衛生課の名入りの薄い緑色の封筒で、宛て名はワープロ文字をラベル印刷したもの、佐藤まどか本人宛だった。
「昨日の夜、帰ったら郵便受けに入ってたの。読んでみて」
わたしは中に入っていた紙を取り出して、広げた。A4サイズの紙にワープロらしき印字が記されている。そっけないが、重大きわまりないコメントが紙面に躍っていた。
『先日、当市役所主催の三十歳女性定期健康診断の結果、あなたは卵巣ガンを発病されている疑いが濃厚となりました。大至急、専門医に相談されることをお勧めいたします。』
冒頭に、佐藤まどか様とあり、横に保健衛生課課長の岸本滋という名前、それに岸本の三文判が押してあった。
「ひどい悪戯ね」
わたしは封筒を詳しく調べながら言った。佐藤まどかは封をはさみで丁寧に切って開けていた。封筒の口はセロハンテープで止められているが、開けられた形跡はない。自動販売機で買えるぎざぎざのない八十円切手が貼ってあり、消印ははっきりと読み取れた。新国市中央郵便局、四月九日、受付時間は八時から十二時。
「やっぱり悪戯だと思う?」
「当然でしょう。いくら日本の役所が無神経だからって、当人にガンだなんていきなり紙切れで連絡しやしないわよ。それも大至急だなんて。さっさとしないと死ぬぞと言ってるようなものじゃない」
佐藤まどかは紙ナプキンが飛ぶほどの溜息をついた。
「それはよかったわ。ほんとによかった」
言いながら、怒りがこみあげてきたようで、
「まったく、冗談じゃないわよね。ゆうべはほとんど眠れなかったわよ。もちろん、わたしがガンだなんて思ったわけじゃないのよ。三十歳健診には行かなかったんだし」
「最初から行くつもりなかったの?」
「一大決心で受診するつもりで葉書を出して、前日まで行くつもりだったんだけど、寝過ごしちゃったの。──わたしが心配してたのは、誰か別の佐藤まどかと間違われたんじゃないかってことよ。そのひとが本当に卵巣ガンだったとして、それこそ大至急医者に診てもらわなくちゃならないとしても、こんな書類送って寄越されたらその時点で心臓止まっちゃうかもしれないじゃない。どうしようか迷って、なにもしないまま悩んでたのよ。ねえ、どうしたらいいと思う? あなたを雇って犯人をつきとめたほうがいいかしら」
わたしは封筒に書類を戻し、答えた。
「相談料のもらいすぎのような気がするけど、やめておいたほうがいいと思う。悪戯の手紙の犯人をつきとめるのは難しいし、つきとめたところで大した罪にはならない。よけいなお金を使うだけの結果に終わるわね、たぶん」
「それじゃ、わたしはどうしたらいいの」
「まずは役所に直接かけあうことね。ひょっとしたら、本当に役人が送った手紙なのかもしれない。その可能性は皆無ではないわね。その三十歳健診っていつの話?」
「一週間くらい前かな」
「それじゃあ、たぶん間違いなく役人が送った手紙ではないと思う。検査結果が出て、怪しいとなったらまず再検査通知がいくはずよ。一週間でいきなりガンはないわ。でもこの封筒は本物くさいわね」
「本物よ。以前来た健診のお知らせの通知が入っていた封筒と同じなんだもの。比べてみたの。この課長の名前も同じだったわ」
佐藤まどかは第一印象通り、頭のいい女性だった。わたしは肩をすくめて、
「だとしたら、悪戯の犯人が市役所内にいるかもしれない。とにかく徹底的に市役所の保健衛生課に抗議してみたら。犯人がわからなくても、こんなひどい悪戯が横行していることがわかったら、市のほうでもなにか手を打つでしょ」
「打つっていったい、どんな」
まどかは憂鬱そうに言った。わたしは早口になった。
「市報に警告文を出すとか、議会で問題にするとか」
「そんなの意味があるのかしらね」
彼女はもう一度深い溜息をついて、話を切りあげた。彼女のことだから、わたしがあえて触れずにいたもうひとつの可能性のことも、とっくに考えついていたのだろう。そちらの可能性であれば、対抗策はなにもない。第二、第三の嫌がらせが起きるのを待つくらいしか。
外に出ると雨はあがり、月が出ていた。店先でわたしは名刺を手渡し、次はいつでも無料で相談に乗ると言った。彼女も名刺をくれ、わたしたちはそこで別れた。まどかは足が濡れるのもかまわず、水たまりをはね散らかしながらまっすぐにバス停へと歩み去った。それが、彼女との最初で最後の出会いだった。
2
四日後、幸田カエデから電話があった。わたしはこの二日ばかり、ある男性をつけねらうストーカーをつきとめ、その行為をやめさせる、という仕事の援軍に駆り出されていた。尾行の末判明したストーカーの正体はなんと、依頼者の実の姉だった。背後にどんな感情がひそんでいるのか考えたくもない。仕事が終わるとわたしは長谷川所長の手から仕事料をもぎとって一目散に逃げ戻り、妙な時間に眠りについた。そこをカエデがたたき起こしたのだ。
開口一番、彼女は言った。
「晶、あんた喪服って持ってる?」
半ば夢の中にいて、返事にならなかった。カエデはかまわずに大声を張り上げ、
「あたし持ってないのよ。親がこの際だから買えってうるさいんだ。この先も使うことがあるだろうだって。まったく、このあたしが親の葬式なんかまともに出すわけないじゃないねえ。そう言ってやったら、親寝込んじゃってさ。貸してくんないかな。別にどんな格好してったってまどかは気にしないと思うんだよね、あたしのこたあ、よく知ってんだから。けど遺族は気にするかもしんないし、あいつ自分で説明できなくなったんだし、説明しにでてきたらおっかないしさ」
目が醒めてきたわたしはしゃがれ声で、このとりとめのない言葉の洪水に割り込んだ。
「いったいあんた、なんの話をしてるわけ」
「だから喪服だよ、喪服。あ、そっか。晶って貧乏だったね。それじゃ喪服なんか持ってるわけないか。他にサイズ合うやついるかなあ。じゃね」
電話は切れた。わたしは再び目を閉じたが、むっくりと起きて立ち上がった。
時計は五時少し前を指していた。カーテンを開くと、まだ十分に明るい。どうやら朝というわけではなさそうで、子供たちの声が地上から聞こえてくる。わたしは散らかったままの机の上をかきわけて、佐藤まどかからもらった名刺を探し出した。名刺には彼女が勤めている画廊の電話番号が記されていた。
「室町画廊です」
だるそうな女の声だった。わたしが佐藤まどかを頼むと、相手はとりつくろったようにひそひそと答えた。
「佐藤さんのお友達ですか。彼女、おととい亡くなったんですよ」
「死んだ? どうしてですか」
「自殺したんです。睡眠薬となにかお酒を混ぜて飲んで。ご存じなかったんですか」
「……ええ」
「あらそれは……あの、もしよかったら、お通夜の会場をお教えしましょうか」
わたしはぜひ頼むと答え、近郊の寺の名を書き取った。
「ありがとうございました。なんだか、突然のことでびっくりしちゃって」
「そうですよね。わたしはここの画廊のオーナーの身内のものなんです。だから特に彼女と親しくしていたわけではないんですけど、自殺と聞いて驚きましたよ。彼女、そんなことするタイプには見えなかったもの。でも、病気じゃあねえ」
画廊という職場がどの程度忙しいのか知らないが、少なくとも彼女は暇を持てあましているようで、問われもしないのにぺらぺらとしゃべった。もしかしたら、不意に衝撃を与えてしまった〈佐藤まどかの友人〉への、詫び心なのかもしれないが。
「自殺の原因は病気だったんですか」
「なんでも卵巣ガンだって話ですよ。卵巣なら手術でなんとかなりそうなものだけど、よっぽど進行してたのかしらね。それにしちゃ、元気そうだったけど。ただのノイローゼだったのかもしれないし。人間なんてどうなるかわかんないもんよねえ」
礼を述べて受話器を置いた。睡眠不足で頭がうまく働かない。水を飲んで、煙草を一本吸った。
わたしは神様ではない。悪戯の手紙がまどか本人を狙ったものだった、という可能性についてあのとき口に出していれば、まどかの死を止められたはず──とは思えなかった。だが、まどかが初対面の人間に相談するほどせっぱつまった状態にあることに、気づかなかった。ただ食事をご馳走になって、馬鹿話をしただけだ。
相談料のもらいすぎだ。
クローゼットに先月買ったばかりの黒いパンツスーツがあった。わたしは着替え、近所のコンビニで不祝儀袋の一番安いものを買い、三千円包んで出かけた。
寺は思ったよりも小さかった。読経が始まっていたが、焼香に並ぶ列はかなり短かった。日本に友達があまりいない、と言った佐藤まどかの言葉はどうやら本当だったようで、ひとりで異彩をはなっているカエデを除けば、まどかよりもかなり年配の、それも女性の参列者ばかりが目についた。遅れてきたわたしは手持ち無沙汰らしい葬儀社の社員の注目を一身に浴びることとなり、慌てて受付に行って、記帳した。
焼香をすませると同時に読経が終わった。参列者の姿が見えなくなると、受付の人々が香典を手提げ金庫に仕舞い込み、親戚らしい初老の男が持ち去った。受付の最後のひとりである中年女性が焼香に行き、無人になったのを見すまして、わたしは芳名帳に近寄った。達筆すぎるカエデの手跡がいの一番に目に飛び込んできた。続いて梅本姓の人間が数人、佐藤姓、郷田姓が各数人。彼らは親戚に違いない。飛ばしていくと、室町克己という名前、まどかのマンションの住人らしい住所の名前が見てとれた。
最後の頁で手が止まった。わたしの名前の次、記名のある最後の頁に岸本滋という名前があったのだ。
「あのう、なにか」
夢中になっていたので、気づくのが遅れた。受付の中年女性が戻ってきて、けげんそうにこちらを見ていたのだ。わたしはせいぜい申し訳なさそうに言った。
「勝手に見てしまってごめんなさい。知り合いが来ているかどうか、知りたかったものだから」
「お知り合い? 名前は」
彼女は芳名帳を奪い取り、腫れぼったい目でこちらをねめつけた。
「岸本というんですが」
「岸本さん? ああ、あの若い男の方ならもうお帰りになりましたよ。お時間おありでしたら、お清めのほうにいらっしゃって下さい。あちらですから」
中年女性に指示された離れの座敷には二十人ほどの人間がいて、全員が居心地悪そうに寿司をつまんでいた。カエデがこちらに気づいて目を丸くしたのを無視して、わたしは一番端の座布団にそっと座り込んだ。正面にはぼさぼさの白髪頭の女性が座っていて、わんこそば並みのペースでビールを飲んでいた。彼女は夫らしき隣の寡黙な男性に向かって話しかけていた。
「いまじゃいい薬があるから、ガンだって治るのにねえ。まどかちゃんはなんだって自殺なんてしたのかしら。お祖母さんが可哀想じゃないの。勝手なことばっかりして、かけて半年で自殺じゃ保険金だって下りやしない」
男性がものすごい顔つきになったのを、気にもとめずに、
「死ぬんだったら残された家族のことも考えるべきよ。それに、治療費はちゃんと保険でまかなわれるんだし、一言、この私に相談してくれれば良かったんだわ。伊達に長年保険の外交員やって来たわけじゃないんだし、いくらでもうまいこと考えてあげたのに。あの子は薬や医者が大嫌いだったから、治療を受けるのが怖かったのかもしれないし、だとしたら可哀想だけど」
「だったらまどか姉ちゃん、自殺じゃないかもしれないよ、母さん」
口を挟んだのは、わたしの隣にいた男だった。二十歳になるかならずの生意気そうな彼は、明らかにわたしの耳を意識しているようだった。
「薬が怖くて治療できなかったんだったら、なんで薬で自殺したりする? ひょっとして殺されたんじゃないのかな」
「よくそんな恐ろしいことが言えるわね、誠ちゃん」
「なんでさ。殺人なら、母さんの望みどおり保険金が下りるし、そうなったらあのがめついババアも母さんの保険に加入してくれるかもしれないよ。それをめあてに母さんがまどか姉ちゃんを殺したんだったりして」
母親はビールにむせ、父親とおぼしき寡黙な男が〈誠ちゃん〉を叱りつけた。
「こういうときにそういう冗談はよしなさい」
タイミング良く、遺族席に連なっていた親戚たちがどやどやとやってきた。中央には杖をつき、受付の中年女性に手をとられてよろよろと歩みながらも、どこか女王然とした老婦人がいた。彼女はもちろんそれ以外のひとたちも佐藤まどかにどこか似ていた。おそらくまどかの親族たちなのだろう。わたしの脇に座っている三人の親子は、アル中だったとかいう義理の父親側の親族だろうか。まどか姉ちゃんという言葉から察するに近しい間柄のようだが、それにしては遺族席に座らなかったのはどういうわけだろう。
黒ずくめのカエデがこちらにつかつかとやってきた。彼女が動くにつれ近くの人々が静まり返る様はおかしかったが、正面から見て、わたしは後ろにひっくり返りそうになった。ブラウスもタンクトップも透ける素材で乳房がはっきりと見てとれたのだ。
「こんなとこでなにしてんのよ、女探偵」
静まり返った座の中に、彼女の声ははっきりと響き渡った。わたしは慌ててカエデの腕をつかみ、外へ連れ出した。
「カエデったら、いったいなんなのその格好は」
「まどかの花道を飾ってやったのよ。よく考えたらこのあたしが普通の喪服で見送っても、彼女喜びやしないわ。そんなことより、あんたここでなにしてんの。まどかのこと知ってたの? 女探偵がここにいるってことはまどか殺されたの? どうなのよ」
襖一枚へだてた座敷で、一同がかたずを呑んで聞き耳を立てている様子が感じられた。彼女の顎に一発お見舞いすることを考慮し、やめた。わたしは深呼吸し、わざとらしくない程度の大声で四日前のまどかの相談について語った。
「それじゃ、卵巣ガンの話はでたらめだし、まどかもそのことを知ってたってことになるじゃないよ」
カエデは話を聞き終えると、そう言った。座敷がざわめいた。
「それであんた、まどかの死の真相をつきとめようとしてんのね。そういや麻梨子がダンナに殺されてた一件、最初にかぎつけたのも晶だって聞いたよ。今度はまどかの番ってことね。でしょ、女探偵」
「そんな気ないわよ。相談料を多くもらい過ぎたお詫びに参列しただけ。明日にでもこの話を警察にして、あとは彼らに任せるつもり」
「冗談でしょ。あんたが最後まで調べるべきよ。依頼人が必要ならあたしなったげる」
カエデはハンドバッグから聖書並みに分厚い財布を取り出した。わたしは首を振った。
「そんなつもりないって言ったでしょ」
言い捨てて歩き出した。この後、彼らからどんな反応が返ってくるのか、楽しみで仕方がなかった。
3
警察にもどこにも寄らずにまっすぐ帰宅し、携帯電話をバッグから出した。先月買ったばかりなのだ。居候の身でいつまでも大家の電話を借りるのはもちろん、自分用の回線を引くのだってためらわれたし、なんと言っても便利には違いない。だが初めての請求書を受け取った瞬間、死ぬほど後悔した。以来この機械を見る度に、スリッパで叩き潰してやりたくてうずうずする。
留守番電話サービスには七件の連絡が入っていた。まずはカエデからで、わたしの電話番号を数名のひとに教えたというものだった。二件目はまどかの祖母という人物から。三件目は郷田誠から。四件目は室町画廊のオーナー室町克己氏から。五件目と六件目は無言だった。最後の電話は再びカエデからで、警察はまだ自殺と断定したわけではない、というニュースを伝えてきた。考えてみれば、わたしはまだ佐藤まどかの死の状況について、正確な知識をなにひとつ持ってはいなかった。それを聞き出すのに最適な人物がひとりいた。佐藤まどかは自宅のある新国市で死んだのだから、所轄署は新国中央署、そこには知り合いの刑事がひとりいる。
柴田要は眠そうな声で電話に出た。友達が自殺したって聞いたんだけど、と佐藤まどかの名前をあげると、彼はいっぺんに眠気を払われたようだった。
「葉村の友達? あんた、いったい死にかけの友人を何人抱えてるんだい」
「どういうことなのか、教えてくれない」
「教えられるわけないじゃないか。警察をなんだと思ってるんだ」
電話は切れたが、そのまま待った。彼は以前、妻の浮気調査を内々に頼んできたことがあり、わたしは個人的にその仕事を引き受けた。結果として奥さんの無実は証明されたわけだが、わたしを怒らせればどうなるかよくわかっているはずだ。案の定、五分後に家庭の平安を乱したくない刑事からの電話が鳴った。
「ちぇっ、まったくまずいやつにしっぽ掴まれたもんだ」
「つべこべ言わずに白状しなさいよ。ちゃんと見返りあげるから」
柴田要は要点を話した。佐藤まどかは──画廊の受付が言った通り──自宅で睡眠薬を過剰に摂取し、中毒症状を起こして死んだ。死亡推定時刻は三日前の十一日、日曜日の午後八時から十時の間。発見されたのは翌朝八時すぎ。発見者は隣の部屋の住人だった。
「一晩中テレビの音がうるさかったので文句を言いに行ったら、玄関に鍵がかかってなかった。ぶっ倒れている彼女に驚いて救急車を呼んだが、とっくに手遅れだったわけだ。遺体の側には市役所から来た卵巣ガンを示唆する通知書が落ちていた。それで病気を苦にした自殺ではないか、と当初は考えられた。ところが、役所に問い合わせたところ、そんな通知は出していないと言う。そこで、自殺・他殺の両面から捜査しているわけだ」
「通知書がでたらめだったのに、自殺の線が捨て切れないのは?」
「ゴミ箱にアメリカ製の睡眠薬の瓶が捨ててあったし、それにでたらめだったかどうか、彼女にはわからなかったわけだろ。本気にして死んじまったのかもしれない。親戚の話だと、佐藤まどかは病気をひどく怖がってたらしいから」
「彼女が怖がってたのは薬よ。病気じゃない」
「そら来た。衝撃の真実を語る友人A。見返りが始まるんだな」
「わたしの見返りは、奥さんに浮気調査の件をばらさないことよ」
喚き散らす声を尻目に電話を切り、風呂に入ってからぐっすりと眠った。いずれ柴田の耳にも通夜の席での話が入るはずだ。しかし、明日の午前中は自由に動ける。
七時きっかりに目を覚まし、まどかの祖母に電話を入れた。彼女は居丈高に、八時に会いたいから自宅まで来るようにと言った。幸い、ここから十五分もあれば行き着ける。熱々のハムチーズトーストとりんごという朝食をとり、告別式を控えた年寄り向きに、紺のスカートと麻のジャケットを着込んで出かけた。どちらも他人からのもらいものだが、そんなことを見抜けるやつはいないだろう。
まどかの祖母は梅本花子といったが、実に似つかわしくない名前だった。彼女は身体こそ小さかったが、苔むした大木の趣があり、平凡でもなかった。巨大なベッドに寝たまま煙草をふかし、録画しておいたらしい野球の試合を見ていた。わたしを案内したのは通夜の受付にいたあの中年女性で、すでにこちらの正体を知っているらしく、不快そうな表情を隠そうともしていなかった。
居残ろうとする彼女に手を振って下がらせると、梅本花子は単刀直入に言った。
「で、いくら払えば警察にあの話をしないでくれるんだね」
「それはつまり、自殺のほうが都合がいいという意味ですね」
「誰もそんなこと言ってやしないよ。これ以上、騒ぎを大きくしたくないだけさ。自殺だろうが殺人だろうが、死んだもんは帰ってこない。まどかは無礼で傲慢な女だった。帰ってきてくれなくて幸いだがね」
梅本花子にまどかが殺せるかどうか考えた。できないわけはない。上がりこんで、薬入りの飲み物を勧めればいいのだ。もっとも、通夜の席での様子にしろ、今のほぼ寝たきりに近い様子にしろ、この年寄りが夜ひとりで新国まで出かけていって孫娘に一服盛るという考えには、無理があるように思えた。
花子はまるでわたしの考えを読んでいたかのように、鼻で笑った。
「早苗は──まどかの死んだ母親だがね。男を見る目はまるでなかった。二度結婚したけどどっちも失敗だったねえ。まどかの父親は早くに交通事故であの世行き。二度目の亭主はアル中で、酒飲んで暴れんのさ。まどかはそれが怖くて酒や薬が大嫌いだとぬかしてたようだけど、死ぬときに方法をかまっちゃいられないだろ。だからあれが自殺じゃなかったなんて、誰にも言い切れやしないのさ」
「でしたら、自殺の動機はなんなんです」
「そんなこと知るかい。あの子は薬が嫌いなせいか、病院が嫌いでね。健康診断すら受けたがらなかった。あたしが入院したときだって見舞いにも来なかったくらいなんだからさ。自分が病気と聞いて、頭に血がのぼっちまったのさ。それだけのことさね」
「お孫さんを本当に愛しておられたんですね」
彼女は皮肉にも動じず、取り繕うふりすらしなかった。
「あれはほんとに身勝手な女だったよ。早苗が死んだ後、保険金だの財産だの絵だのまで全部ひとり占めにして、断りもなくアメリカなんぞに行っちまったんだ。直系の孫がだよ。病気のあたしの面倒もみないだなんて、信じられないね」
この婆さんと一緒に暮らしたい人間がいるとしたら、そのほうがよほど信じられない。
「ということは、まどかさんの財産を相続するのはあなただけですね」
「当たり前だ。誰にもビタ一文やらないよ」
「彼女が死んで良かったですね」
梅本花子はぎろりとわたしをにらみつけた。
「四の五の言ってないで値段をお言い。欲ばるんじゃないよ、五万円が限界だからね」
「わあ残念。もう警察に話しちゃいました」
嘘をつくほど爽快な気分になれることはない。罵声を浴びながらわたしは退散した。
外に出て、次は誰に連絡すべきか思案していると、電話が鳴った。カエデだった。
「おはよう、葉村くん」
カエデはてんでふざけた調子で、
「さて、今日のきみの使命だが、室町画廊を探ることだ。室町画廊には悪い噂があって」
「ちょっと、カエデ。悪い噂があるような画廊を、なぜ佐藤まどかに紹介したのよ」
「昨日まではそんなこと知らなかったさ」
カエデはしゃあしゃあと答えた。
「調査の手助けをしてやろうと思ってさ。美術業界にはあたしのほうが詳しいもんね。あちこち電話して聞いてみたの。室町画廊のオーナーの室町克己ってひとは、あたしの出た芸大の出身でさ。まどかがこっちに引きあげてきた頃、パーティーで知り合ったんだ。人手が必要だって言うから、これ幸いとまどかを紹介したわけ。むこうもまどかの母親を知ってたから、すぐに話がついて、めでたくご就職と相成ったわけだ」
「それで?」
「ご多分にもれずこの業界も不景気なんよ。老舗ですら店たたんだとこもあるくらい。そのなかで室町画廊は赤字も出さずにうまいことやってるらしい。というのも、室町克己は例の高岩一族と親戚関係にあるからで……」
「高岩一族? 誰それ」
「あんたそれでも女探偵かい。ほら、TIグループの創業者一族だよ」
わたしは数日前の夕刊を思い出した。TIグループの城下町といわれる新国市に、まもなく美術館がオープンするという記事だった。もともとはこぢんまりした文学者の記念館だったものを、市とTIグループが費用を出しあって改築したという話だった。
「室町克己はその美術館のプロデューサーに収まってたから、当然自分の抱えている絵なんかもうまいこと館に買い取らせたんだな。だけど、今の地方自治体に美術館作る金なんか、ましてや余分な絵を買い込む金なんか、本当はあるわけないじゃないか。新国はTIのお膝元だから、これまで市政はグループの意のままだって言われてたんだけど、こう市民税がばか高くなってくれば市民だって黙っちゃいない。室町と高岩、それに市役所内の癒着が噂になって、主婦感覚を売り物にしてる市民団体が今度、市議会で問題にするんだってさ」
わたしは考え込んだが、カエデからの電話を切った途端に、またも電話がけたたましく鳴り出した。なんといきなり、噂の室町克己からのものだった。
「もしもし? 聞こえてますか、葉村さん」
「はあ、すみません。で、ご用件は」
「会ってお話ししたいんですがね。新国駅ビルの二階に〈スクランブル〉という喫茶店がありますから、十時にそこで」
返事も待たずに電話は切れた。死んだまどかの周囲には、カエデといい祖母といいこの室町といい、強引な人間しかいなかったとみえる。他人にも都合があるかもしれない、などとは想像したこともないのだろう。うらやましいかぎりだ。
京王線で府中に出て新国駅南口行きのバスに乗り、新国市役所前というバス停で途中下車をした。市役所の入口には大きなカラー刷りのポスターが貼ってあった。新国市立美術館、四月二十五日オープン、という文字が躍っていた。そのオープニング特別展のタイトルに、思わず我が目を疑った。『オリエンタルドールズ・グループ展 アメリカを中心に活躍する若き女性芸術家たちの作品を集めました』とあり、当然のごとく幸田カエデの名前もそこに含まれていた。
ポスターと同じデザインのビラを一枚もらって、保健衛生課に向かった。感じのいい若い女性職員が、岸本はただ今会議中で、小一時間ほどで戻りますが、と言った。それではまた、とカウンターを離れかけたとき、箱に入った封筒の束が目についた。
「この封筒、いただけるんですか」
「よろしかったらお持ちになってください。必要な方にお分けしているんです。郵便番号や電話番号が変わったうえ、課の名称も変更されることになっているので」
職員の口調は弁解ぎみだった。まだ使える封筒をむやみに放出しているわけではないと言いたいのだろう。予算削減のためには封筒やメモやコピー用紙を節約するよりもっとましな方法があるはずで、わたしは遠慮なく封筒を一枚頂戴した。
美術館へ向かいながら、封筒を調べてみた。郵便番号が三桁しか印刷されていないあたりも、まどかが見せてくれたものと同じだった。あの時点でそのことに気づいていたら、他になにかできることがあっただろうか。あったかもしれないし、なかったかもしれない。あの通知は間違いでも悪戯でも嫌がらせでもなく、まどかの〈自殺〉の動機をでっちあげるためのものだったわけだが、シャーロック・ホームズみたいに封筒一枚でそこまで察せられるくらいなら、今頃こんなところをうろついてはいない。
まどかだって死なずにすんだ。たぶん。
4
オープン前の美術館を眺め、バス停に戻ると十時少し前だった。待ち合わせの喫茶店は平日の午前中にしては混んでいたが、ジャケットに黒のハイネックを着、火のついていないパイプを弄《もてあそ》んでいる男がすぐに目についた。日本人は制服が好きだ。
「幸田くんから聞きましたが、あなたは探偵だそうですね」
室町克己は単刀直入に切り出した。
「佐藤まどかくんの死について調べているんでしょう。失礼だが、あなたが受け取った依頼料の二倍払いますから、あなたの持っている情報を私にまわしてくれませんかね」
「依頼人を裏切れとおっしゃっているように聞こえますけど」
室町はせっかちに髪をかき上げた。
「職業倫理の問題があるなら、現在の依頼を断ればいいんです。なんだったら、私がその人物にキャンセル料を渡してもかまわない」
「新しい美術館を見てきました」
わたしはカプチーノを一口飲んで、言った。室町は仏頂面で、
「そうくると思ったんだ。あんたもぼくを疑ってるんでしょう。新国美術館の件では痛くもない腹を探られて迷惑してるんですよ。不景気のおりに、新設の美術館が主婦どもの神経にさわるのは当然だろうけど、不景気を打ち破るにたる人材を作るのは教育だし、教育のもとになっているのは知性、それを生み出すのは文化ですよ。文化なくして国の将来はない。もっと大きな視野を持たなくちゃ。そうは思いませんか」
民と官との癒着も国の将来を支えるんですかと聞いてやろうかと思ったが、話がややこしくなるのでやめにした。代わりに尋ねた。
「新国美術館での仕事に、まどかさんも関わっていたんですか」
「佐藤くんは新国の住人でしたからね。時々、使いに行ってもらいもしたし、オープニングの特別展についてはかなり働いてもらいました。それにほら、彼女、オリエンタルドールズとは顔なじみだったから。佐藤くんは芸術の道をあきらめた人間、彼らはそれなりに成功しているわけで、最初は内心危ぶんでいたんですが、本人はてんで気にしてないようだったので、彼女に頼んだ仕事も多かったな。ところがね」
室町克己は声を低めた。
「オリエンタルドールズってのがどうも、相当やらかしてたらしいですな、ドラッグを。佐藤くんはそれで悩んでいたようでした」
悩んでいた? わたしはイタリアン・レストランのまどかのあっけらかんとした話しぶりを思い出して、眉をしかめた。室町はそれを誤解したらしく、
「ぼくから聞いたとは言わないで下さいよ。新国美術館に知れるとまたやっかいなことになるから。だいたい、芸術家が少々薬をやるのなんか、しごく当たり前なんですよ。でも法律は法律、犯罪は犯罪だから。ばれたら懲役くらいますよね」
「でしょうね」
「芸術家ってのは身勝手な人種ですからね」
身勝手な人種と、その相手をしなくてはならない人間と、いったいどちらが人殺しへの道をたどりやすいだろうか。室町克己はいっこうに気づかないようだが、薬漬けグループを美術館に紹介したことで、ただでさえ危なっかしい彼の立場がいっそう悪くなったのだ。それに、室町克己なら、岸本滋になりすまして葬式のとき芳名帳に記帳することができたわけだ。佐藤まどかに岸本の名で偽通知を出し、自殺に見せかけて殺したのはこの男かもしれない。
「ところで室町さんは、佐藤まどかさんの母親をご存じだったそうですね」
室町克己は面食らったような顔をした。
「ええ。そりゃいちおう」
「どういうおつきあいだったんですか」
「残念ながら、生前お目にかかることはできませんでした。佐藤くんにもぜひ、うちで扱わせてもらいたいと頼んでいた矢先だったんですよ。まだ五枚くらいは持っていたはずなんだが、あれ、誰のとこに行くことになるんだろう。お祖母さんのとこになるんだと思うし、そうだとこっちも都合がいいんだけど。あそこんちはなにしろ結婚離婚を繰り返してるから、人間関係が複雑で」
「五枚っていったいなんのことですか」
室町克己はわたしをまじまじと眺め、ふき出した。
「もちろん、絵のことだけど」
「絵? 誰の」
「あれ。なんだよ、知らなかったのか。佐藤早苗は有名な絵描きだったんだよ。熱狂的なファンがいて、絵の値段もあがってきてるんだ。そんなことも知らずに探偵だなんて、笑わせてくれる」
好きなだけ笑わせておいてから、早苗の絵の価格を教えてもらった。おかげで、梅本花子の言葉の意味が腑に落ちた。
「ところで、さっきの話だが」
室町は涙を拭きながら、余裕たっぷりに言い出した。
「どうだね。あんたみたいなしょぼい探偵には、二倍の依頼料なんてありがたい話だろ」
「残念だけど、お断りしなくちゃ」
「どうして。今の依頼主にはキャンセル料を払ってやる。なんなら俺がじきじきに払いに行ってもいいんだぜ。領収書もらってきてやろうか」
「あの世に行って領収書もらって帰ってこられたら、そのときまたお話ししましょう」
きょとんとした室町を尻目に、わたしは椅子を蹴った。
告別式の行なわれる寺へ急いで戻った。十二時からの式にはまだ一時間ほどの余裕がある。郷田誠に連絡をとり、寺の近くのファーストフード店で会うことにした。
あまった時間を有効に使うべく、新国居住の知り合いに連絡をした。彼女は美術館のオープンすら知らなかったが、そう言えば、と思い出したように言った。
「噂だけど、市役所内で人事異動があったらしいよ。異動の時期じゃないのに妙だって、図書館勤めの友だちが騒いでた」
「ねえ夏見、それ、いつの話?」
「今年の一月」
「なにそれ」
「確かにおかしいだろ。首すげ替えられたのは文化振興課の上の方で、だから図書館が大騒ぎだったんだよ。晶の言う、美術館との癒着問題が絡んでてもおかしくはないね」
「ところで、あんた、市の定期健康診断って受けたことある?」
「ない。あたしが病院嫌いだって知ってんだろ。一大決心でもしないかぎり、いかないよ。悪いね、晶。あんたの役には立ちそうもないや」
これ以上ないというくらいに役に立ったと感謝して電話を切り、別の場所にかけ直した。室町画廊の受付の女性は、あまり気の入らない調子で、わたしの問い合わせに文句を言った。
「オーナーが新国市役所とのことでもめているのは聞いてますけど、そんな内輪のことお話しするわけにはいきませんですよ」
彼女はだるそうな声で愚痴めいたものを並べていたが、やがて溜息をついて、
「まあ、いいわ。別に法律に触れるわけじゃなし。──あのねえ、オーナーは確かに新国美術館に頼まれて絵を納入しましたけど、安い絵を高く売りつけたわけでも、必要のない絵を購入させたわけでもないんですよ。そもそも新国市なんて、なんとかいう文学者以外ろくな文化人出てないんだから、美術館を建設する意味ないんですよ。でも政治家ってのは功績を欲しがりますからねえ。美術館を建てたっていうのは立派な功績になるわけでしょう。日本国中、いたるところに美術館があるのはそのせいなんですよ」
「すると政治家、例えば市長に頼まれて、室町さんが美術館に関わったと」
「言い出したのは、なんでも高岩一族の遠縁にあたる新国市役所の文化振興課の課長さんだそうですよ。そのひとが、高岩会長に絵に詳しい人物を紹介してくれって言い出して、それでオーナーが引っ張り出されたんです。箱だけで中身がないってわけにもいきませんからねえ。でも、郷土出身の画家なんていないから、誰の絵でもよかったわけ」
「市ゆかりの画家ならいましたよね。例えば、新国在住者の母親とか」
受付の女性はしばらく黙り込んだ。それから、不意に笑い声をたてた。
「確かに佐藤早苗の絵が納入できれば、誰にとってもいい結果になったでしょうねえ。まどかさんはなかなか首を縦にしなかったけど」
「彼女の祖母なら承諾するかもしれない」
「さあ、それはどうだか。オーナーはまどかさんを説き伏せてほしくて、お祖母さんのところに一時、日参していたけど、思うように丸めこめなかったみたいですよ。そのうち市民団体が騒ぎ出して、それどころじゃなくなったし」
いまいましいが有益な機械をしまいこみながらふと気づくと、目の前に郷田誠の顔があった。しばらく前から会話を盗み聞いていたらしく、彼はコーラの入った巨大な紙コップを片手に話しかけてきた。
「今の話、つまりまどか姉ちゃん殺した犯人の手がかりなんだろ。な、そうなんだろ」
「まあね」
放っておけばわたしのほうから話を続けると思ったらしい。そうは問屋がおろさないことに気づいて、彼は不思議そうに首を傾けた。よく見ると彼はまどかに似て、いい顔だちをしていた。ひとり息子のようだし、これまで望むものをなんでも、口に出す前に、差し出されてきたのだろう。こういう坊やは往々にして、羽毛布団だの偽ダイヤだの資格検定試験の通信講座だの、益体《やくたい》もないものを買わされるはめになり、後始末を親が背負い込むことになり、日本経済を支えてくれる。
「あなたはまどかさんのなににあたるわけ?」
「従兄弟だよ。といっても、血のつながりはないけどね。早苗おばさんの二度目の旦那がうちの父親の兄貴なんだ」
「それじゃ、梅本花子さんは」
「花子? あのババアのことかい? あいつは最初の旦那、まどか姉ちゃんの実の父親の母親なんだ。佐藤って名字は早苗おばさんの旧姓なんだよね。佐藤家は皆早死にで、いまや生き残ってんのは早苗おばさんの従兄弟の子供くらいじゃないのかなあ。だから、まどか姉ちゃんの葬式の仕切りも、あの恐怖のババアが一手に引き受けたってわけだよ」
梅本花子はまるで早苗が実の娘であるような口ぶりだった。それもこれも、まどかが持っていた早苗の絵の所有の権利を主張するのに都合が良いからだろう。
「郷田くんはまどかさんと仲がよかったの?」
「ふん。まどか姉ちゃんは早苗おばさんの絵を持ってたからさ。お袋にいわせれば、仲良くしといて損はない相手なんだよ。早苗おばさんが死んだとき、お袋はうちにも絵を一枚もらえるように交渉しろって親父をせっついたんだけど、親父はそういうの嫌いなんだ。それが幸いして、まどか姉ちゃんはおじさんを──二度目の父親だな、相当嫌ってたみたいだけど、うちらとはつきあいをやめなかった。むしろ、あのババアと縁切りしたかったんじゃないかな。でもなんといっても実の祖母だからね。しぶしぶ家にも出入りしてたけど、ババアのせいで居心地悪いってよくぼやいてたっけ。ババアの付き添いやってるひとがかばってくれるからいいけど、そうでなかったらあんな家、絶対に行きたくないって」
郷田誠はどことなく懐かしげにそう言った。自分でもそれに気づいたようで、急に三白眼になると、
「俺にばっかしゃべらせんなよ。どうなってんのさ、調査のほうは」
「まどかさんとあなた、親しくしてたのね」
「まあな。姉ちゃんには小さい頃よく遊んでもらったし、まどか姉ちゃんがアメリカで結婚したときも親戚代表で式に出たんだぜ。あのときは姉ちゃんが渡航費用からなにから出してくれたし、俺がたちの悪い詐欺にひっかかっちまって困ってるとき、姉ちゃんが金貸してくれたんだ。最初、姉ちゃんが役所の通知のせいで自殺したって言われてただろ。俺、課長のとこに怒鳴りこんでやったんだ。けど、間違いだったんだな」
この生意気な若者の目は一瞬、うるんだように見えた。しかし、芳名帳に岸本滋の名を書いた若い男が郷田誠でないとは言い切れなかった。わたしは話題を変えた。
「昨日、梅本花子の周囲にいたひとたちは? あの人たちもまどかの親戚なの?」
「親戚ったってババアの親戚で、姉ちゃんとは親しくもなかったよ。早苗おばさんの絵のことがあるから、突然葬式に来いと呼び集められても、誰もいやとは言えないだろ」
「それじゃあ、まどかさんの財産はやっぱり、あのお祖母さんが継ぐことになるのね」
「だろうよ。あんた、あのババアが犯人だと思ってんのかい」
言葉を濁しながら腕時計を見ると、十二時になろうとしていた。郷田誠は葬式のあとでもう一度会うからと念を押すと、急いで店を飛び出していった。わたしは自分の服装を情けない思いで見下ろした。葬式に出られないほど派手ではないが、喪服の集団の中では鳩の中の猫よりも目立ってしまう。まだ、なんの目鼻もついていない状態で、葬式の客をチェックに来ているだろう柴田要などにつきまとわれたくはない。
ところが、店を出て数歩と行かぬうちに向こうから原色の塊がふわふわとやってくるのが見えた。カエデはわたしに気づくとくるりと回り、ポーズを決めた。
「どお?」
「どおって、どこに行くつもり?」
「葬式だよ、もちろん。まどかはあれでも芸術家仲間だったんだから、目一杯のことさしてもらおうと思って」
「やめときなさい」
カエデを引きずって、今出た店に引き返し、ふくれっ面の彼女を問いつめた。
「オリエンタルドールズの件? それが事件となんの関係があんのよ」
「まだ薬、やめてなかったんだってね」
「あたしはやめたわよ。他の連中については知らないけどさ。自分から触れ回るようなことでもないからね」
「新国美術館の特別展は誰のアイディアだったの」
「あたしだよ。あたしが企画して新国の文化振興課に話を持ち込んだんだ。課長が喜んで口添えしてくれた。ぶちまけた話、最初に企画してたある画家の特別展が土壇場になって流れたらしいんだ。室町さんはそれをカヴァーできたし、あたしたちの知名度アップにもなるし、八方まるくおさまったんだ。あんたがなに疑ってんのか知んないけどさ、あたしたちはまどかに感謝こそすれ、恨むこたないよ」
堂々と立ち去っていくカエデを見送り、二杯目のアイスコーヒーをすすりながら思い出して、新国市役所に電話を入れた。保健衛生課の岸本課長が出た。岸本はかなり当惑しているようだったが、長話のおかげで犯人の見当がついた。服装や警察などにかまっている場合ではなかった。わたしは寺に駆け込み、驚いている郷田誠を捕まえて、あることを尋ねた。
5
「あの通知がまどかさんの手元に届いたのは金曜日の夜でした」
結婚式場とみまごうばかりの火葬場の片隅で、わたしは言った。梅本花子を始めとする親戚一同はまどかの遺体が燃やされている間、控え室で飲み食いしているに違いない。生前のまどかのことなどほとんど知りもせず、その死を悼んでもいない連中に見送られて、まどかは旅立つのだ。
心のどこかが痛んだが、気にしている暇はなかった。わたしは続けた。
「そして死んだのは日曜日だった。犯人は土日のうちに彼女を始末する必要があったんです」
「まどかさんは自殺だったんだから、犯人なんているはずないでしょう」
梅本花子の付き添いの中年女性はぶっきらぼうに答えた。わたしはかまわず続けた。
「土日はたいていの公的機関が休みですからね。その間、あの通知について、役所に問い合わせることはできなかったわけです。そして、土曜日の夜には彼女はカエデのギャラリーに呼ばれて留守だった。帰りは十二時を過ぎていたでしょう。そんな時間に訪ねてこられたら、まどかだって変に思うだろうし、家にあげないかもしれない。相手のすすめる睡眠薬入りの飲み物に手をつけないかもしれない。だから犯行は日曜日の夜になったんです」
「あなた、どうしてこのわたしにそんな話をするんです?」
「郷田誠くんに聞きました。あなたはただの付き添いに見えるけど、ほんとは梅本花子さんの養女だそうですね」
わたしは言葉を切った。彼女の顔がみるみるうちに紅潮していった。
「それがどうかした? あなたには関係ないじゃない」
「病院嫌いのまどかさんに健康診断を受診することを勧めたのは、あなたなんでしょう。梅本さんが、まどかさんは健康診断を嫌がっていた、と言ってました。だったらあなたもその話を知っていたはずですよね。まどかさんはあなたがかばってくれるから、我慢してお祖母さんの家にも出入りしてた。彼女はあなたを信頼してた」
彼女の肩が小さく震えた。
「あの卵巣ガンの通知を送りつけたのもあなたです。新国市役所の保健衛生課の課長、岸本滋の名前を芳名帳に書いたのはあなたです。そうしておけば、悪戯の手紙を書いた男が他にいるように見える、自分は無関係でいられる、と思ったのかもしれませんが、まったくの逆効果でしたね。なぜなら、岸本滋は通夜に参列などしなかったから」
「嘘よ」
彼女は小さく叫んだ。
「そんなはずないわ。だってわたしの目の前で、彼は岸本の名前を書いたんだから。そりゃもちろん、岸本本人に会ったことはないから、誰かが岸本になりすましてやったことかもしれないけど」
「わたしはあの通夜の最後の参列者でした。葬儀社にも確認しましたけど、最後に慌ただしくやってきて、焼香もせずに記帳だけして立ち去った男なんて、誰も見ていませんよ。あの通夜は寂しいものでした。葬儀社の係も手持ち無沙汰だった。だから、見逃すはずないんです」
「だったらきっと、あの男はそもそも別の名前で参列していたのだわ。喪服を着ている若い男なんて、みな同じに見えますからね。わたしも疲れて相手の人相など注意していなかったし」
「誰が岸本になりすましたと?」
彼女は盗み食いをした猫のようにとりすました。
「いいこと、わたしは誰を責めるつもりもないけれど、まどかさんを殺したがっている若い男で通夜の参列者といえば、室町画廊のオーナーかあの郷田誠くらいしかいませんわね。だったら、彼らのうちのどちらかでしょう。オーナーは佐藤早苗の絵を扱いたがって梅本の家に年中出入りしていたのだし、あの坊やはまどかさんにお金をねだっていたみたいだし」
「いくら疲れていたといっても、そこまでよくご存じの相手が別名を名乗って、気づかないなんてこと、信じられません」
「だって、本当によく見てなかったんだから」
中年女性は薄い笑みを口元に浮かべて、つっぱねた。
「その男はあなたが疲れて自分に注意しないだろうと、どうしてわかったんですか」
「さあ。そんなひとたちの考えることなんか、わたしにわかるわけないでしょう。でも、髪型を変えたりすれば、気づかれないと思ったのかもしれないわ」
「室町画廊のオーナーが早苗さんの絵を欲しがっていたのを、あなたは知っていた。つまり、まどかさんの持っていた絵が大金を呼ぶことを知っていたわけですね」
その絵は梅本花子のものになり、そう遠くないうちに彼女の養女のものになるわけだ。中年女性の笑みはしかし、消えなかった。彼女はあくまでもなにも認めようとはしなかった。
「とにかく、お通夜に岸本滋と名乗った男が現れたのを、わたしは見てるんですから。それがオーナーだったのか誠さんだったのか、それは警察が調べることでしょう。さあ、もう行っていいかしら。梅本には付き添いが必要ですからね」
「ところが、あのふたりなら、そもそも岸本滋になりすまそうなどと考えるはずないんです」
わたしの声に、中年女性は立ち上がったまま動きを止めた。
「岸本滋は一月に保健衛生課に異動になったんですが、それまでは新国市役所の文化振興課の課長でした。室町とは親密な交際が噂され、問題になったほど親しかった。郷田誠はまどかさんが死んだ直後に、保健衛生課の課長のところに怒鳴り込んでいます。つまりふたりとも、通夜の前に、本物の岸本滋と面識があったんですよ」
目の端に、柴田要と、いかにも刑事らしいその連れが近づいてくるのが見えた。自信たっぷりだった中年女性の顔が、徐々に不安と混乱に彩られていく。わたしは今後二度とイタリア料理を奢られるのはお断りだと思いながら、わたしからの電話に対応した岸本滋・新国市役所保健衛生課課長の声を思い返していた。
そのてきぱきした、有能そうな女性の声を。
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ふたたび夏の物語
[#小見出し] 女探偵の夏休み
1
オーシャンビュー・プチ・ホテルは海辺の高台にあって、その名の通り申し分ない景観を誇っていた。梅雨が終わったばかりで、前庭の芝生は青々と輝き、紫陽花《あじさい》がピンクの頭を重そうに垂れていた。ハチが眠気を誘うような羽音をたてて芝生の上を旋回していた。暑い夏、だがそれもまだ始まったばかり。真新しい白い柵の向こうに広がる海は、白波を砂浜にむかってゆったりと押し出し、遥か下にあるその砂浜は赤や黄色やピンクの点で埋めつくされていた。海水浴場まで徒歩十五分。時折、風に乗って、海水浴客の無邪気なざわめきが流れてくる。
「来てよかったでしょ、晶」
バルコニーの上にしつらえられたテーブルで、ピンク・レモネードを飲んでいた相場みのりがまぶたをぱちぱちさせながら、わたしに向かって呟いた。
「まあね。だけど」
どうも腑に落ちない、と続くはずだった言葉をわたしは飲み下し、席に戻った。ホテルの女主人が現れて、にこやかに飲み物のお代わりを尋ねたのだ。夕食までまだお時間がありますし、よろしかったら自家製チーズケーキもお持ちできますよ。わたくし自身チーズケーキが大好きなものですから、いろいろ改良を重ねて、今年になって完璧といえるものができたんです。みのりはやや急き込んで、二人分を注文した。女主人はにこやかに伝票に記号を記し、にこやかに引き下がった。
やっぱり、どうにも腑に落ちない。
わたしの生活水準は二、三年前に比べて飛躍的に改善された。なにもかも、いま目の前で水玉のワンピースを着てお嬢様然と座っている友人、相場みのりのおかげである。彼女は一年半ばかり前に、駆け出しの詩人だった婚約者を亡くした。そして、婚約者と一緒に住むつもりで購入していた三LDKのマンションの一室を、わたしに貸してくれたのだ。光熱費と生活費だけ折半すれば家賃はいらない、という実にありがたい申し出で、わたしはトイレ共同の築三十五年の木造アパートから、一夜にして新築マンションの南向きの一室に移ることになった。世紀末と不景気のおかげで興信所からの仕事もとぎれない。支出も減った。以前にくらべれば、かなりゆとりある生活を送ることができるようになったわけだ。
友人と他人の不幸のおかげというわけだが、そのことが腑に落ちないわけではない。日本経済が戦後急成長を遂げたのだって、朝鮮半島とヴェトナムで起こったふたつの悲惨な不幸のおかげではないか。それに、わたしはなにも金持ちになったわけではない。貯金なんか、笑い話にしかならない程度なのだ。
てっとり早くいえば、いくら近場とはいえ、夏休みに二泊三日の旅行ができるような身分ではない。みのりが、旅行中のいっさいの費用を負担するから一緒に来て、と言い出さなければ、おそらくわたしは一生涯、こんなホテルが存在することすら知らなかっただろう。
チーズケーキが来た。女主人は賛辞を受けてにこやかに引き下がった。
「どうする? 浜辺に下りてみる? ひと泳ぎするには少々時間が遅いから、鎌倉まで出てショッピングでもする? なんか欲しいものあったら買ってあげるよ」
「気持ち悪い」
わたしはチーズケーキを飲み下し、ぼそりと呟いた。
「なんだって?」
「気持ち悪いって言ったの。みのり、あんた熱でもあるんじゃないの」
「どういう意味よ」
みのりは気分を害したように眉にしわを寄せた。
「だってそうでしょうが。あんた、わたしになんて言った?『民宿に毛のはえたような小さなホテルなのよ』。そう言ったよね」
「言ったけど」
「なにが民宿よ。このホテル、一泊二食付き二万五千円もするんじゃないの」
みのりは突然、全神経をチーズケーキを味わうことに傾け始めた。わたしは続けた。
「ふたりで二泊して十万円。駅前でご馳走してくれたランチが一人前三千円。電車にタクシー使って交通費が往復……」
「そういうね、細かいことをね、こういうゴージャスな雰囲気のところでね、いちいちいちいち、口に出さないの。いいじゃない、あたしにはボーナスだって入ったんだしさ」
「ボーナスなんてもの生まれてこの方もらったことないけど、不況の影響で軒並みダウンしているくらいのことは知ってる」
「あたしは公務員よ。公務員のボーナスはプラス成長なの」
みのりはフォークを振り回した。
「あんた、なに疑ってるの。ここで、あんたを面倒な依頼人に引きあわせようとしてるとでも思ってるわけ?」
わたしはぐっと詰まった。これまでにも知り合いに拝み倒されて調査を引き受けさせられたことがあった。だから、みのりが指摘した通りの疑惑を抱いていたのだ。
「この年齢まで独身って女友達、あんたしかいないのよ。ひとりで来るのも寂しかったし、かといって、婚約者に死なれてまだ一年半くらいしかたってないのに、男探すってのも嫌だし。だからあんたを誘ったの。それだけ」
確かに、みのりには古風なところがあった。それに婚約者に死なれて、言ってみれば〈羹《あつもの》に懲りて膾《なます》を吹く〉状態になってもいた。一人のバカンスが寂しいのも事実だろう。わたしはみのりの横顔をうかがった。一年半前に比べればいくらかましになってはいたが、それでもまだその頬はどこかやつれて見えた。とはいえ。
なんだか、やっぱり、どうにも腑に落ちない。
2
相場みのりは満足の吐息を漏らして、空になった皿を満足そうに見下ろした。間髪を入れずに香り高いコーヒーが運ばれてきた。その苦みで口の中をさっぱりさせると、もう、この世に欲しいものなどなにもない、という気分になった。
「相変わらず、実にうまかったよ」
テーブルについていた十一人の客たちが、次々に森次《もりつぐ》の言葉に賛同を表した。オーシャンビュー・プチ・ホテルの女主人はにこやかに引き下がっていった。客たちは満ちたりた穏やかな顔を見交わした。
「森次さん、煙草をおやめになったんですってね」
右隣の鳩村君香が真っ赤な巻き紙の煙草に火をつけて、森次夏樹に言った。
「ええ、一昨年からね。そういえば、昨年は鳩村さんご夫妻とはお目にかかれませんでしたね。佐野さんとも。ひとりで寂しかった」
森次が半ば冗談、半ば本気でしょんぼりとうつむいてみせ、一同は少し笑った。君香の夫である鳩村貞夫が情けなさそうに声をあげた。
「残念なことに、お盆だってのに仕事の都合がつかなくて、やっと休みがとれたのが八月の末だったんです。このホテルで、こうして皆さんにお会いできるのだけを心の支えに、一年間頑張っているんですがね」
みのりはおずおずと口を挟んだ。
「それじゃあ皆さん、このホテルの常連さんでいらっしゃるんですか」
「ぼくらも初めてですよ。二度と来られるかどうかも謎ですね。すばらしいホテルだけど、男ばかりで泊まるようなところじゃないな」
学生らしき六人のグループのひとりが笑いながら言い、これから夜釣りに行きますので、と席を立った。それを見送って、佐野麗子がため息をついた。
「まあ、最近の若いひとたちったら、こんな豪勢なホテルに泊まって夜釣りですって」
「そう言いなさんな。年がバレますよ」
森次は佐野麗子に片目をつぶってみせ、皆さん、喫煙室へ移りませんか、と言った。
「よろしかったら相場さんもご一緒にどうぞ。お連れの方は──」
「部屋で寝てます。灯りをつけるのも可哀想だから、ご迷惑でなかったらお仲間に入れてください」
「お連れさんは、ご病気かなにか?」
一同の自己紹介──森次夏樹、四十二歳、都内のケーブルテレビ局の社長。佐野麗子、三十二歳、イラストレーター。鳩村貞夫、四十五歳、薬剤師。妻・君香、四十五歳、美容師。相場みのり、二十九歳、公務員──がすむと、麗子はみのりに聞いた。みのりは肩をすくめた。
「頭痛がするんですって。仕事や考え事のしすぎで疲れたんですよ」
「ずいぶんナーバスなひとなのね。変わったご職業だけのことはあるわ」
みのりは慌てて話題を変えた。
「皆さんは、いつも示し合わせてこの時期にいらっしゃるんですか」
「示し合わせるなんて言われると、まるで悪事を企んでいるように聞こえるけど」
森次は苦笑し、それが癖なのか両腕を振り回した。
「そんなロマンティックな話じゃないよ。ただ顔をあわせるうちに、来年もまたこの時期に会えたらいいね、って話し合っただけ。ぼくがこのホテルに来るようになったのは、まだ十歳の頃の話でね。両親も、そのまた両親も、ここの常連だったんだ」
「このホテル、そんなに古いんですか」
「もともとは大正時代に、とある男爵が建てた別荘だったんだよ。建物はもちろん、庭全体がその頃からのものなんだ。昭和初期に今の女主人のおじいさんが買い取って、外国人向けのホテルにしたのが始まり。うちの祖父はその先々代と欧州行きの船で知り合って、以後、機会があるたび、家族を連れてこのホテルを訪れることになった。うちの親父もそれにならって、ぼくを連れて夏休みの一週間をここですごすのを習慣にしたわけ。ぼくもそうやって引き継ぐはずだったんだけど、大学を卒業してからは仕事は忙しいわ、家内には死なれるわでなかなか機会がなくってね。ようやく七年ほど前に、念願かなって再訪問できたってところなんだ」
「悪事よりよっぽどロマンじゃないですか。三代続けて常連だなんて、上流階級みたい」
みのりがため息をつくと、森次は噴き出した。
「そりゃまあ、祖父の時代には欧州留学するくらいの金はあったらしいけど、戦争挟んですっかり一般庶民だよ。ぼくは四泊するんだけど、宿泊費を貯めるのに一年間、五百円玉を貯金してるんだ。他のお三方とは違いますよ」
「社長にそんなこと言われたんじゃ、あたしたちの立場がないわね」
鳩村君香がふうっと紫煙を吐いた。伸ばした爪をきれいに研《みが》き、口紅やドレスにぴったりあう珊瑚色のマニキュアを塗っている。チャイナカラーのシックな黒のドレスは、彼女を年齢よりずっと若くみせていた。
「おまけに、あたしたち夫婦がここの常連になったのは、もっと低俗な理由からなのよ。このホテルが雑誌に掲載されてるのを六年前に見てね、おおっ、と思って飛んできただけなんだから。常宿があるって、それこそなんだか上流階級っぽくておしゃれ、なんて思ってたびたび来るうちに、すっかり居心地よくてはまっちゃったのね。食事は美味しいし、景色はすばらしいし、静かだし、カラオケも芸能人のゴシップもないし」
「ゴシップ、嫌いなんですか」
「大嫌い。美容室のオーナーなんてやってるとね、お客さんとの会話はどうしたってゴシップに落ち着くんだもの。──ところで、相場さんはどんな仕事をしてらっしゃるの?」
「気をつけた方がいいですよ。ほんとはこのひと、ゴシップが大好きなんだから」
鳩村君香はほっそりした腕をあげて、夫を殴る真似をした。みのりは笑って答えた。
「図書館司書です。でも、仕事でも趣味としてでも読書は好きですね」
「あんたそれ、幸せだわよ」
君香はにやっとしてみせた。みのりは笑い返し、視線を麗子に向けた。
「佐野さんのきっかけは?」
「タイヤのパンク」
麗子は可愛らしく肩をすくめた。シンプルだが、ものすごく仕立ての良いシルクのワンピースを着て、両耳と胸元が大粒のダイヤで飾られている。
「三年前になるかしら。夜遅くにこのあたりをドライヴしてたら、タイヤがパンクしたのよ。電話を借りようと思ってこのホテルに足を踏み入れた途端、一目惚れしちゃったの」
「誰に?」
「このホテルによ。すばらしい建物だと思わない?」
言われて一同は周囲を見回した。年輪を経て研き込まれた木の床、見事な白漆喰の壁。年代物のマントルピースの上には、ドラキュラ城にふさわしいようなごつい鉄のキャンドルスタンドが飾られている。部屋よりも、この喫煙室からの景観の方がよほどいい、とみのりはひそかに思った。いまは真っ暗でなにも見えないけれど、日光がさんさんと照りつける時刻には、常緑樹が青々と揺れているし、芝生の手入れもいい。木立の向こうの見晴台からの景色もまたすばらしい。
「あの壁なんか、今ではあんなふうに塗れる職人さんはいないそうよ」
麗子はうっとりしている。君香が笑ってみのりに言った。
「彼女、イラストレーターなんだけど、本当はインテリアデザイナーになりたかったんですって。暇とお金さえあれば、ここに来て、一日中でも壁を眺めてるのよ。──ところで佐野さん、あなたも去年来られなかったんですって?」
「去年の冬に父が亡くなりましたの。新盆だったから」
麗子は言葉少なに答え、顔を見合わせた鳩村夫妻に安心させるようにうなずいてみせると、口調を変えた。
「ああ、だけど、ほんと、西川さん親娘が羨ましいわ。なんといったって、ここに住んでるんだもの」
「西川さんって?」
「ここの、ほら、女主人の純代さんと娘の由貴子さん」
君香が説明した。
「森次さんの説明でわかったと思うけど、三代前からこのホテルのオーナーなの。でも、最近はかなり経営が苦しいみたいね。だからふたりで料理も作れば給仕もする。フロントも掃除も庭の手入れもしてるわけ。こっちだって、このホテルがなくなっちゃことだからせいぜい宣伝してるんだけど、どうもなかなかねえ。余裕がないのは皆、同じだから」
「家だって、こう古くなっては維持費がかかるだろうしね」
鳩村貞夫がしんみりと言い、佐野麗子が考え込みながら呟いた。
「こういうホテルって、きっとものすごく高いんでしょうね」
「さあ、値段の見当なんかつかないよ。これだけの景観、これだけの建物、でも、敷地がそうだだっ広いわけじゃないし、こんな高台にマンションおっ建てるわけにもいかんでしょう。三億か四億ってとこじゃないですか」
「ふうん、そんなもんなんだ」
麗子が呟き、森次が目を剥いた。
「そんなもん、ねえ。さすが金持ちは違うよ」
「わたしはただ、現在だったら、五億かけてもこれだけの家は建てられないと思って」
「そこまでお誉めいただくなんて、ホテルも本望だと思いますわ」
一同は驚いて振り向いた。女主人がにこやかに戸口にいて、盆を持つ娘を従え、にこやかに入ってきた。
「よろしかったら、デザート代わりに召し上がってください。自家製のチーズケーキなんですの。わたくし自身、チーズケーキが大好きなものですから、いろいろ改良を重ねて、ようやく完璧といえるものができたんです。温かいお紅茶と一緒にどうぞ」
「いつもすみませんなあ。よろしかったら、おふたりもご一緒に一服なさいませんか」
鳩村が如才なく勧めた。純代はにこやかに口を開きかけたが、由貴子がふっくらした頬に笑みを浮かべて遮った。
「ご親切にありがとうございます。でもまだ、仕事がありますので。どうぞ、皆さんでお楽しみください。散歩にお出かけになるときは、崖には絶対に近寄らないでくださいね」
ふたりが去ると、君香がみのりのほうへ身体を傾けて、囁いた。
「去年の夏、晩に酔っ払って崖から転落しかけたひとがいたのよ。灯りくらいつければいいのに、先立つものがないのねえ、きっと」
「そんなに苦しいんだったら」
言いかけて、麗子は顔を赤らめて黙った。君香は続けて、
「由貴子さんは純代さんが二十歳のときの娘さんなんですって。相手の男性とは結局、結婚できなかったらしいわよ。ほら、純代さんは家付き娘じゃない。相手はどうしても婿養子になるのを承知してくれなかったのね」
「おまえ、ほんとにゴシップが好きだな」
夫があきれ顔で口を挟んだが、君香は知らん顔で言いきった。
「それが二十年前の話だから、由貴子さんは今年で二十歳になるわけよ。えらいお嬢さんよねえ。うちの娘なんか、薬屋にも美容院にも足を踏み入れもしない。誘ったって親と一緒に旅行なんて、死んでもやだってこうなのよ。まだ遊びたいさかりだろうに、母親を助けてかいがいしく働いてる。羨ましいわあ」
海風がカーテンを揺らして部屋に舞い込んでくると、涼しさがいっそう増した。一同は黙ったまま、チーズケーキと温かいミルクティーを味わった。
3
シャアッ、という音とともに白い光がわたしを襲ってきた。わたしはうめき声をあげて、毛布にもぐりこんだ。
「おら、朝だ朝だ。起きろ」
「朝っぱらから元気だねえ」
わたしは力なく答えた。みのりは枕元でどたどたと踊りながら、
「せっかくひとが親切で誘ってやったのに、晩飯も食わずに寝ちまったひとに、とやかく言われたくございません。あの一食だけで、一万五千円くらいの値打ちはあったのにさ」
「値段のことは言わないことにするんじゃなかったの」
「夕べはでも、あれから他の泊まり客と仲良くなって、話し込んじゃってさ。楽しかったよ。晶も仲間に入れば良かったのに」
シャワーをあび、一階の食堂で薄いパンケーキにハチミツの朝食をとった。わたしはなぜか、朝食をみっちり食べさえすれば、夕食はゆで卵一個で十分、という体質の持ち主だ。貧乏生活が長かったから、肉体まで安上がりになったのかもしれない。
唇をへの字にきつく結んだ若い女性が給仕をしてくれた。なにもかもが不満だ、と全身で叫んでいるようなきつい顔立ち。依頼人候補第一号、といったところか。わたしはみのりをちらと見やったが、彼女は一心不乱に朝食に取り組んでいるし、意外にも女性は親切で、気前よくお代わりを盛ってくれた。
わたしは再び食べ始めた。みのりが話すことといえば、海水浴と観光のことだけ。依頼人のことなど一言だって言わないし、匂わせもしない。
けれども、やっぱり、なんだか腑に落ちない。なにか起こりそうな予感がする。なにか、良くないことが。
4
二日目の夕食後、一時間ほどたった九時半に、みのりは昨日と同じく喫煙室に降りていった。喫煙室には鳩村夫妻が座っており、森次がバルコニーのフレンチ窓から入ってくるところだった。潮騒がひときわ強く聞こえてきた。
「あら。お連れの方はまた頭痛?」
鳩村君香が呆れたように言った。みのりは肩をすくめて、
「泳ぎ疲れたんでしょう。なんだか遊べるうちに遊んどかなきゃソンだ、って感じで、むやみに泳ぎまくってましたから」
「変わったひとねえ。ま、あたしも今日は疲れたわ。ここに来るとどうしたって食べ過ぎちゃうしね。早く寝ようかしら」
「あたしもあと三十分ほどしたら寝るつもりです。明日は早めにチェックアウトするつもりだから」
「あらまあ、残念ねえ。ぜひ来年もこの時期にいらっしゃいよ。ところで、佐野さんは? 彼女も明日帰るって言ってたけど、もう寝ちゃったのかしら」
「腹ごなしに散歩するって言ってましたよ。妖精みたいにふわふわ行っちゃいました」
森次夏樹がお気に入りのソファにもたれ、のんびりとコーヒーをすすりながら答えた。君香は悪戯っぽいまなざしになると、
「ねえ、森次さん。失礼だけど、奥様に死なれて何年におなりでしたっけ?」
「はあ、十年になりますが」
「もうそろそろ次のお嫁さんのこと、考えてもいい時期じゃなくって?」
森次はむせ返り、咳き込んだ。
「あ、それ以上言わなくてもいいですよ。佐野さんはどうかって言うんでしょう?」
「わかってるなら話が早い。風変わりなところもあるけど、いいお嬢さんじゃない」
「彼女が惚れてるのはこのホテルですよ。散歩に出たんだって、夜のホテルの外観を離れて見たいからってことで」
「建物に惚れてるからって、男に興味がないわけじゃないでしょうに」
「ダメですよ。彼女に問題があるわけじゃない。ぼくみたいなつまんない男はね、自分の数十倍の資産の持ち主と、恋なんかできないんです」
「結婚の話をしてんの。恋する必要なんかないわよ」
「おい、いい加減にしろよ」
鳩村貞夫が妻をたしなめた。君香はかえって目を見張り、
「あら、あなただって言ってたじゃないの。ふたりはお似合いのカップルになるって」
「俺が言ったのは、佐野さんのことじゃないよ。年齢から言ってもさ」
鳩村貞夫の言葉は不意にとぎれた。バルコニーに由貴子が現れて、テーブルや椅子のあたりを探っている。君香が立ち上がった。
「どうかなさったの、由貴子さん」
「さっきお客様から電話があって、サングラスを忘れたっておっしゃるんです」
「夜釣りの学生さん?」
「ええ。たぶん、崖の上あたりじゃないかっておっしゃったそうで、母はそっちを探しに行っています。あ、皆さんはお気になさらずにお話し続けてください」
由貴子が言い終わるか終わらぬかのうちに、なにかが聞こえた。みのりは反射的に立ち上がった。君香が言った。
「いまの、なに?」
「なんだか、悲鳴みたいに聞こえたけど」
由貴子が突然、声を張り上げて母を呼んだ。返事はない。由貴子は顔を強張らせて庭へ降りていき、森次が後を追った。君香が小声で言った。
「まさか純代さん、崖から転落したんじゃ」
「縁起でもないこと言うな」
「だって、こんな暗くて」
言い合っていると、庭に人影が現れた。純代が由貴子に両肩を抱かれ、両腕を振り回す森次と笑いあいながら戻ってきて、にこやかに言った。
「お騒がせして申し訳ございません。ちょっと転んじゃって」
「びっくりさせないでよ。眠気がふっとんじゃったわ」
君香が言い、由貴子が深々と頭を下げた。
「本当にご心配をおかけしました」
純代は両手を膝にきちんと揃えてそれにならった。森次に送られて親子が去ると、君香が夫に言った。
「ねえ、もしかして、森次さんにふさわしいのは由貴子さんだって考えてたの?」
「ああ、いや、違うよ。母親の方だ。あのふたり、幼なじみなんだろう? それに年齢もまあ、似たようなものだし。本人も言う通り、森次くんには佐野さんみたいなお嬢様は少々荷が勝ち過ぎるんじゃないか」
「そうかしら。相場さん、どうお思い?」
みのりはあくびをかみ殺した。
「よくわかりませんけど、森次さんは純代さんがお好きみたいですね」
「困ったわねえ」
君香は顔をしかめた。
「麗子さんの方は森次さんのことが好きなのよ。ほら、彼女は資産家だし、自由業なんだから、本来だったらこんな込み合う時を選ばなくたって、いつだって来られるわけよ。なのにこの時期を選んだっていうのは、ねえ?」
「森次さんが来ているからですか」
「たぶん」
「まあ、おまえの考えもわからないじゃないがね。こればかりは当事者同士のことだから。余計なお節介焼くと、せっかくなじみになったこのホテルに来づらくなるぞ」
鳩村貞夫が眠そうに目をこすりながら言った。三人は黙り込んだ。風がカーテンをゆらし、真っ暗な庭から、海と芝生の匂いを運んできた。森次も佐野麗子も、いっこうに戻っては来なかった……。
5
不意に、わたしは目覚めた。部屋の反対側のベッドにみのりが飛び乗って、ふう、と言いながら伸びているところだった。
「いま何時?」
「あれ、起こしちゃった? 十一時半だよ。よく熟睡してたねえ」
「夢見てた」
「へえ、どんな夢?」
わたしはベッドカヴァーをはいで、起き直った。寝汗がひどく、脇の下や首筋が気持ち悪く温まっている。
「ひとが死んだ夢」
みのりは一瞬ぽかんとしてわたしを見ると、顔をそむけて笑い声をたてた。
「あんた、そりゃ職業病だよ」
「このホテルでひとが殺された夢だった」
「どうやって」
「高いところから突き落とされた」
「へーえ」
みのりはそっぽを向いたまま足の裏をもんでいたが、
「まさか、あたしが突き落としたとか、言わないわよね」
「誰が突き落としたんだかまではわかんなかったよ。それに、ただの夢だ。たぶん」
「ただの夢ねえ」
わたしはシャワーを浴び、戻ってきて窓を細く開けて煙草を吸った。煙が外へ吸い出されていく。庭の向こうの海が、黒くのたうっているのが見えた。
「ここの崖から突き落とされたら、たぶん、死ぬね」
「突き落としてほしいわけ?」
みのりは不機嫌に呟くと、半身起こしてわたしをにらみつけた。
「あんたさあ。せっかくの夏休みにどうしてそう嫌なことばっかり、考えるかなあ。なにも起こってないでしょ。ただの夢なんでしょ」
「そうなんだけど、このホテル──」
言いかけて、わたしは黙った。魂胆があるかないかはともかく、みのりは大枚はたいてわたしをここに泊めてくれたのだ。しかし、言外の意味をみのりは素早く察知して、
「おばけが出るとでもいうの?」
「そんなものを感知する能力はないし、死んじゃってるなら怖くない。あたしが怖いのは生きている人間だけよ」
「べつに、泊まり客にも怖そうなひといないけどな。普通のお客さんと、普通の会話しか交わしてないもの」
「例えばどんなひとと、どんな会話を交わしたわけ?」
みのりはうんざりしたように起き直って、早口でまくしたて始めた。
「夕食が終わってから、他のお客さんたちと話がはずんだのよ。あたしが会ったのは、お喋り好きな奥さんとその旦那と……」
6
時計が六回鳴った。西川由貴子は眠い目をしばたたきながら部屋を出て、立ち止まった。どこからか、風が吹き込んでくる。
ゆうべ、確かにすべての戸締まりを確認したはずだったのに。由貴子は食堂をのぞき、急ぎ足で喫煙室に入った。喫煙室のフレンチ窓が開いていた。女性客がバルコニーに出て、椅子に腰を下ろして海を見ているのが見えた。
「おはようございます。お早いんですね」
「おはよう」
由貴子はほっとして、バルコニーの手すりにもたれた。
「お連れさまは?」
「まだ、眠ってる。ゆうべ、あんまり眠れなかったみたいだから」
「そうですか」
「これから忙しくなるんでしょうね」
「まだ、そうでもありません。あと三十分もすると、朝食の支度で忙しくなりますけど」
「夏の朝って、いいわね」
芝生が露でじっとりと湿り、太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。静かだった。空気が澄んで、硬質ガラスのような空がふたりの頭上に広がっていた。
「由貴子さん」
「はい」
「聞きたいことがあるんだけど」
「なんでしょうか」
「佐野麗子さんは、いったいどうしちゃったんでしょう?」
由貴子はすばやく客の横顔に目をやった。その白い横顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。そして、ゆっくりと由貴子のほうに向いた。
「……やぶからぼうに。驚きましたわ」
「どうしたのかしら」
由貴子は唇をなめた。客はゆっくりと言葉を選ぶように、話し出した。
「本当は、あの時の悲鳴は、お母さんの西川純代さんのものではなくて、夜、遠くからホテルの外観を眺めたいといって散歩に出た、佐野麗子さんのものじゃなかったのかしら。佐野さんは木立の間からホテルを眺めてみるつもりで、崖のほうへ行った。純代さんはお客が落としたサングラスを取りに、やはり崖に向かった。そこで、佐野さんは暗闇から不意に現れた純代さんに驚いて、足を滑らせ、崖から転落した」
「いったい、なんのことでしょうか。確かに佐野さまは、散歩からお戻りになられなかったようですが、うちの庭の崖から転落しただなんて」
由貴子はやや落ち着いて、唇に笑みを浮かべた。相手はゆっくりと息を吐き出すと、
「そうねえ、そんなことあるわけないわよね。あたしはただ、だったらいいなって、そう思っただけよ」
「どういう意味ですか」
気色ばむ由貴子の顔を、客は穏やかに見返した。
「だって、崖から戻ってきたとき、純代さん手ぶらだったじゃない。両手をきちんと膝に揃えて頭をさげてたもの。あなたはお母さんの肩を両手で抱いてたし、森次さんも癖で両腕を振り回してた」
「なにがおっしゃりたいんです?」
「崖は真っ暗だった。夜には絶対に近づかないように、そうあなたが言った。そこへ捜し物をしに行くのに、どうして懐中電灯を持っていかなかったのかしら。純代さんが懐中電灯を持っていたら、佐野さんだって不意をつかれることはなかったわけだし、崖から落ちることだってなかったはず。そうですね」
「ちょっと待ってもらえませんか。いったいいつ、佐野麗子さんがうちの崖から落ちたことになったんですか。どうしてそんなことをおっしゃるんですか、相場さん」
みのりはポケットからぼろぼろの新聞の切り抜きを取り出して、由貴子に渡した。
「二年前、正確に言えば二年弱前になるわよね。一昨年あたしが来たのがちょうどお盆の、一番このあたりが騒がしい頃だった。今年は梅雨明けにいきなり休みをとるように命じられたものだから、ちょっと季節的にはずれちゃったけど」
相場みのりは寂しそうに笑って、
「一昨年は婚約者と来たのよ。覚えてる? 変わったひとで、駆け出しの詩人だった。寝てばっかりいて、退屈だったあたしは森次さんや鳩村さんご夫妻、佐野さんの常連グループに混ぜてもらっておしゃべりしたんだわ。まさか今年の連れもあんなによく寝るとは思わなかった」
「今年はどうして、彼と一緒に来なかったんです?」
由貴子の言葉にはかすかな刺《とげ》があった。
「死んじゃったのよ。去年の春に。自殺だった」
由貴子の頬が赤く染まった。みのりはなんでもないふうに、肩をすくめると、
「あのとき、あたしたち、翌早朝にチェックアウトしたわよね。森次さんにも鳩村さんご夫妻にも、前の晩に挨拶したんだけど、佐野さんには会えずじまいだったから、手紙を書いて渡しに行ったの。ドアの下にさしこもうとしたら、ドアが開いた。ベッドはきれいで、寝た形跡もなかった。そのときはもちろん、気にもとめなかった。他人の部屋をのぞいたのが後ろめたくて、ドアを閉め、手紙を置いて立ち去ったの」
みのりは立ち上がって由貴子と並んでバルコニーの手すりにもたれかかった。
「二年前と変わったわよね、この庭も。あの時はバルコニーから海なんか見えなかった。木立が生い茂っていて、あんな新しい柵もなかった。すっかり作り替えたのね。もっともこのほうが、オーシャンビュー・プチ・ホテルの名にふさわしいけど。──あたしね、図書館の司書でしょう。図書館所蔵の新聞を整理していたら、一昨年の八月二十日付けの新聞が行方不明になってたのよ。わりによくあることなんだけどね。そしたら、新入りのアルバイトの女の子が家から持ってきてくれたの。地方版が違っているから、うちの図書館には入れられなくて、でも、このあたりの地方版が珍しくて、目を通していてその記事を見つけたの。東京都の佐野麗子さん、年齢も職業も同じじゃないの」
「佐野さんが行方不明になったんで、心配になって警察に届けたんです。あなたや鳩村さんがお帰りになってから。三日後に海から死体が……でも、事故だって、警察ではそう言ってました。浜辺を散歩中に岩場に転落したんだろうって」
由貴子の言葉をみのりは遮った。
「あたし、電話したのよ、ここに。お線香でもあげさせてもらいに行こうかと思って、連絡先を聞くために。お母さんが出たわ。彼女あたしに言った。佐野麗子さん? 覚えがございませんが。うちのお客さまにはそういう方はいらっしゃいませんって。一度しか来ていないあたしのことを覚えていないのはしかたがないわ。だけど、佐野さんは暇さえあればここに来て、壁眺めてた。おまけに滞在中に死んじゃったひとなのよ。忘れられるわけないじゃないの」
「もし、あなたの言うように」
由貴子は息を弾ませながら言った。
「母が佐野さんを殺したんだとしたら、理由はいったいなに?」
「さあ。最初は森次さんじゃないかと思ったんだけど、でも、きっと違うわね。たぶん、このホテルよ。佐野さんはこの建物にご執心だった。前の年にお父さんが死んだとか言ってたから、遺産も相続して、自分の自由になるお金がたくさんあった。佐野さんはあなたのお母さんから、このホテルを買い取るつもりでしつこく迫ってたんでしょう。お母さんにはそれが許せなかったのじゃないかしら」
沈黙が下りた。由貴子がこぶしをきつく握り締めた。みのりは静かに言った。
「あたしの連れね。あれで探偵なのよ。あたしが行方不明にでもなったら、あらゆるところをほじくり返して調べ回るでしょうね。それに彼女、あたしと違って寛大でもないし」
由貴子は息を止めて、しばらく海をにらみつけていた。が、やがて、力尽きたようにこぶしをほどくと、へたへたと椅子に腰を下ろした。みのりは彼女を見下ろした。
「ずいぶんやつれたわね。一昨年はほっぺたなんかふっくらしてたのに。心配しなさんな。証拠なんかないんだから。それに、仮にあなたのお母さんが人殺しをしていたとしても、そのことすっかり忘れちゃってるんでしょう? しらばっくれてるんだったらとっちめてやろうと思って、わざわざ探偵連れてきたんだけど──チーズケーキについて一昨年と同じこと言うし、それにあの仮面みたいなにこやかな顔を見て、わかったの。彼女を殺人罪で告発しても、服役させられるような精神状態じゃないだろうって」
由貴子は両手で顔を覆った。
「頑張ってフォローしてきたんです。森次さんは、母がおかしくなっていることに気づいているみたいだけど、でも他のひとには気づかれずにすんでると思ってたのに」
みのりは屋内に入りかけ、ふと足を止めて付け足した。
「あたしの連れは気づいてるわ。はっきりとじゃないけど、気づいている。お母さんの狂気がこのホテルを覆っていることに、勘の鋭いひとなら気づくわよ。──いまのうちに、それなりの処置をしたほうがいいと思うわ」
由貴子は答えなかった。遠くで鳥が鳴いた。みのりは一瞬、朝のすばらしい景色を目に焼きつけるようにじっと見つめ──くるりと振り向いて、出ていった。
7
みのりが支払いを終えて出てくるのが見えた。わたしは荷物を担ぎあげ、歩き出した。女主人がにこやかに、またおいでくださいませ、と一揖《いちゆう》した。
「ちょっと、晶。置いてく気?」
「じっと立ってると、それだけで紫外線をよけいに浴びるような気がするんだ」
「あんたって賢そうに見えるけど、ほんとは馬鹿なんじゃないの。歩こうが立ち止まろうが、紫外線の量に違いなんかあるわけないじゃん」
みのりはぶつぶつ言いながら、財布をしまった。わたしは咳払いをした。
「その、ありがとう」
「え? なにが」
「いや、おかげですばらしい夏休みをすごさせていただきました」
みのりはわたしをにらんだ。
「で、あれかねえ、あたしはあのホテルで面倒な依頼人に引きあわせたかしらねえ」
「大いなる誤解でございました。申し訳ございません。あのホテルをご利用のせつは、ぜひまた費用そちら持ちでお誘いくださいませ」
「二度とやだね」
みのりはふっと笑い、不思議なほど力をこめて繰り返した。
「このホテルには、二度と来ないよ」
坂をゆっくり下りながら、わたしはもう一度だけホテルを振り返って見た。年代物のその建物は、真夏の日ざしを浴びて明るく、健全に輝いて見えた。
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ふたたび秋の物語
[#小見出し] わたしの調査に手加減はない
1
「夢、ですか」
わたしは紅茶茶碗を宙に浮かせたまま、問い直した。そして、横目で相場みのりをにらんだ。みのりは前髪をかきあげるふりをして、こちらの視線をかわした。
「ええ、夢なんです。あのう、なにか……」
リビングルームのソファに窓を背にして座っている女性は、軽く眉をひそめた。まるでとんでもないことを言い出したのが自分ではなく、わたしであるかのように。中山|慧美《えみ》と名乗ったこの女性、若作りをしているが三十七、八歳といったところだろうか。高価そうなスーツをアクセサリーで飾り立て、豆腐と張り合えるほど色が白い。その肌はあらゆる抵抗をはねかえそうとするように、つやつやと光っていた。
「いいえ、別に。それで、夢がどうしたんでしょう」
わたしはあきらめて、続きを促した。中山慧美は尊大にうなずいた。
「友人が出てきます。小学校からの友人で、由良《ゆら》香織さんと言いました。私たち、仲が良くて女子大までずっと一緒だったんですけど、香織は二十三歳、私は二十六歳でそれぞれ結婚しました。お互いに家庭を持ってからは疎遠になってしまって。疎遠のまま、十年前、香織は死にました」
「どうして亡くなったんですか」
みのりが口を挟んだ。慧美はいかにも渋々答えた。
「事故、というふうに聞いていますが」
「詳しいことは」
「存じません。実は、香織が死んだことも、亡くなって二年もたってから聞いたんです」
「二年、ですか」
わたしとみのりは顔を見合わせた。慧美は早口になった。
「香織が亡くなった前後に、私は子どもをふたり生んだんです。年子でした。上の子ができたのと同時に現在の家に移り住んだんですけど、なにしろ忙しくて引越通知を出すひまもありませんでした。年賀状といっしょくたにしてしまったくらいで。とにかく、二、三年というもの、遊びに行くどころか落ち着いて電話もできないほどの騒ぎだったんです。上の子が保育園に入って、ようやく昔の友人に電話ができるくらいになって──そこで、聞いたんです。香織が亡くなったということを」
慧美は長い溜息をついた。自分を責めているのかと思ったが、違った。彼女は自らをなぐさめていたのだった。
「すぐにご両親にご連絡してお墓参りでも、とは思ったんですけど、あまりにも間が抜けていますでしょう、二年ですもの。ためらっているうちに、どんどん月日が流れてしまって、結局そのままになって。生活していると、あとまわしにできることはどうしてもあとまわしになりますよね」
「はあ、そうかもしれませんね」
わたしが返事をしなかったので、慌ててみのりが答えた。慧美はどこかふてぶてしくさえ見える目つきでわたしをにらんだが、すぐに言葉を継いだ。
「ところが最近になって、毎晩のように香織が夢に出てくるようになりました。私の方をじっと、なにか訴えたいことがあるような目つきで見ているんです。まあ、ただの夢と言えば夢なんですけど、あんまり続くので、だんだん気になり出したんです。もしかしたら、香織はなにか私に言いたいことがあるんじゃないか、だから毎晩夢に出てくるんじゃないか、って。そこで、みのりさんのお母様にご相談したら、調査にうってつけのかたをご存じだというので、こうしてうかがったわけなんですが──葉村さん、調べていただけませんか。香織が私にいったいなにを伝えたいのかを」
長くきつかった仕事が一段落したある秋の日のこと、同居人の相場みのりがそれを見計らったように部屋の戸を叩いた。
「晶、忙しいとこ悪いんだけど」
コーヒーをお盆に載せたみのりが戸口に立ったとき、わたしは寝転がって「私の批評に手加減はない」という副題のついたポーリン・ケイルの本を読みながらニタニタ笑っているところだった。お世辞にも〈忙しいとこ〉というような状態ではない。おまけに、分厚く切ったユーハイムのバウムクーヘンがコーヒーのかたわらに添えられていた。バウムクーヘンに〈やっかいな話あります〉と刻印されていても、わたしは驚かなかっただろう。
「頼みがあるのよ。きいてくれるかな」
「大家といえば親も同然、なんていうひともいるね」
「その、親の頼みなんだ。母親のね」
みのりと母親は、目下のところアメリカ大統領とフセインなみの仲良しさんだ。母親は奇襲を心掛け、みのりは査察の受け入れ──母親に部屋をのぞかせること──を拒否している。ところが先日、母親はどういう手段を用いたのか勝手に部屋にあがりこみ、みのりの私物を調べ回った。以来、みのりは母親とは冷ややかな関係を保っている。
ところが、そこがみのりの長所でもあるのだが、母親本人にはどんなにつっけんどんな態度をとっても、母親の友人たちを冷たくあしらうことはできない性分なのだ。
「母親の友達がなにか調査を頼みたいらしくて、それだったらいいひとがいるからって勝手に晶のことを紹介しちゃったらしいんだ。明日うちに来るっていうんだけど、話だけでも聞いてもらえないだろうか」
「そりゃまあ、話くらいなら」
トラブルを予期したらそれほどでもなかったという安堵で、わたしはバウムクーヘンを頬張った。外側のかりかりした砂糖衣を味わっていると、突然彼女は爆弾を落とした。
「うちの母親、最近アートフラワーの教室に通っているんだけど、そこで知り合った友人なんだって。女の人で、昔の友達のことを調べてほしいらしいんだけど──その、さ。娘の友人だから、お金はいりませんとか言っちゃったらしいんだよね、うちの親」
わたしはコーヒーにむせ、四千円近くしたポーリン・ケイルは茶色に染まった。騒ぎは深夜まで続いたが、結局のところ、家賃ただの大家には逆らえず、わたしは中山慧美の依頼を個人で受けることを、本人に会う以前に内心では決めていた。
とはいうものの──夢のお告げを読み解けという依頼は前代未聞だ。わたしは咳払いをして慧美に言った。
「残念ながら、お役には立てそうもありませんね。夢占いの技術は持っていませんし。よろしかったら、知り合いの精神心理学者の卵を紹介しますけど」
「そういう類の頼み事をしているわけじゃありません」
慧美はわたしとどっこいどっこいの冷たい口調で言った。
「私が調べていただきたいのは、香織が私に訴えたいことはなにか、であって、なぜ香織が私の夢に出てくるか、ではありませんから。それに、彼女が夢に出てきた理由は、なんとなくわかるような気がするんです。上の女の子に、とても仲のいい友達がいるんです。ふたりの姿を見ていると、香織とのことをどうしても思い出してしまって」
「でも、香織さんがあなたに何を訴えたいかなんて、どうやって調べたらいいんです? たんに彼女は、あなたに墓参りに来てもらいたがっているだけかもしれない。それとも、近々大地震が来るから気を付けるように、と忠告したいのかもしれない。第一、夢に香織さんが現れるとはいっても、その正体はあなた自身じゃありませんか。中山さんの無意識が、たまたま香織さんの姿をとって、夢に現れるわけでしょう」
慧美がなにか言いかけたのを、わざと無視して付け加えた。
「まさか、幽霊ってこともないでしょうし」
「わかりました」
長い沈黙のあと、慧美はそう言った。
「わかりました。──もう少し、詳しくご説明します」
ほっとしたのも束の間、慧美は無情にもそう言い放ち、わたしはうんざりと答えた。
「どうぞ」
「ここだけの話にしていただきたいんですが──つまり、香織が死んだのは、事故じゃないんです」
「どういう意味です?」
「彼女は自殺したらしいんです」
わたしたちは再び顔を見合わせた。慧美は両手をこすりあわせた。
「もう十年も前の話であるうえに、死んで二年もたってから聞いたので、こちらの記憶も曖昧なんです。ですから、とりあえず覚えていることをお知らせします。──あとでわかったことですが、香織が死んだのは私たちが二十八歳になる年の正月でした。その四か月前に、私は上の子を出産しました。初めての子育てに大騒ぎのさなか、たぶん香織が亡くなる前だったと思います、同じ大学時代の友人から電話をもらいました。落ち着いて話してもいられなかったんですけど、香織の話題が出まして。なんでも別居しているとか、離婚したとか、精神状態が不安定だとか、そんなふうに聞いたように思います」
「精神状態が不安定、というのは」
「ですから、よく覚えていないんです」
慧美は顔を赤らめながら、右手の人差し指と中指をしきりにこすりあわせた。
「別居しているという話が出たのは、確かなんですね」
「ご主人に愛人ができて、しかもその愛人に子どもができたとか。ひょっとしたら、もう離婚しているのではないか、と聞いたように思います」
十分よく覚えているではないか。不幸で面白いところだけは、明確に。
「香織さんのご主人は、どういう方だったんですか」
「いわゆる高級官僚です。香織よりも一回り上でした。在学中に知り合って、香織が卒業するとすぐに結婚したんです。盛大な披露宴でした。香織のお父様は大手銀行の副頭取でいらしたし、ご主人の実家も地方の名家だとかで」
絵に描いたような、喜ばしい縁組だったわけだ。
「香織さんが結婚されてから、あなたが二十六歳でご結婚されるまでの三年間、この間はおつきあいがあったわけですよね。当時の香織さんの様子はどうでした」
「どうって、別に。こちらはOLで向こうは優雅な主婦、たまに会うこともありましたけど、それほど話もあわなかったし」
溜息が出た。つまりこういうことだ。彼女たちは大学時代には友人で、その後はただの知り合いだった。知り合いが友人に再昇格するチャンスはついに訪れなかったわけだ。
「要するに、香織さんが自殺した理由を調べればいいんですね」
「それもありますけど、香織は本当に自殺したのかどうか、それを知りたいんです」
驚くより先に、呆れた。事故が自殺になって、今度は殺人か。この女の話はどこまでが本当なのか、さっぱりわからない。
「事件は十年前に事故だか自殺だかで落着した。そういうことですね」
「警察がどういう結論を出したのかは存じません。香織のご両親は事故死ということで周囲に通知を出したそうです。ただ、二年たって私のところに話が届いたときには、あれは実は自殺だったんだ、ということになっていました」
わたしは首を振った。
「香織さんの死因だけなら、簡単に調べられます。半日もあればなんとかなるでしょう。しかしですね──いったい調べてどうなさるつもりですか。あなたにとって嫌な結果に終わるかもしれない。いくらみのりの母親の紹介でも、普通はただ働きなんかしません。とはいえ、いったん引き受けた以上、調査に手加減はできませんから」
「それは、申し訳ないと思いますわ」
慧美は平然と答えた。
「でも知りたいんです。毎晩毎晩香織に出てこられて、私、本当に参ってしまいそうなんです。なにか、香織に心残りがあるんじゃないか、そんな気がしてしょうがないんです」
「それはもしかして、あなた自身に心当たりがおありだということですか。香織さんを殺した犯人の心当たりが」
「ええ、まあ」
「それは誰ですか」
中山慧美はしばしためらってから、ある名前をあげた。
2
その日の午後、わたしは図書館で十年前の事件の記事を探した。八九年の一月四日付夕刊の片隅に、どうやらそれとおぼしき記事を発見した。港区のとあるマンションの七階のベランダから女性が転落死したというだけの、ささやかなものだった。自殺とも事故とも書いていないし、その女性の名前もない。年寄りが餅を喉に詰まらせて死んだ、という記事のほうがよほど大きかった。わたしが知らないだけで、どうやら餅の事故は初詣や門松と同じように大切な正月の行事になっているらしい。
地下鉄に乗って、問題のマンションに向かった。外壁を塗り直したばかりらしいそのマンションには、幸いなことに管理人が駐在していた。管理人は毛玉のめだつセーターを着、背中を丸めてごみ捨て場の掃除をしていた。口うるさそうな老婆だったが、十年前の転落事故、と一言言うと、感動的なくらい喋り出して止まらなくなった。
「由良さんのことでしょう。あんた、由良さんの知り合い?」
「そんなようなものです」
「そんなようなものねえ。ま、いいわ。十年たって保険金の請求でもないでしょうしね。妙なことじゃなければいいのよ。──このマンションもバブルの頃にはいろいろあったものだけど、あれがいちばんびっくりするような事件だったわね。なにせ入居して三か月であれですもの」
「たった三か月で?」
「そうよ。まるでわざわざここに、死にに来たみたいじゃない? 正月そうそう、いい気分じゃなかったわ。夜中にどすんってものすごい音がしたと思ったら、うちのベランダの正面に落ちてたのよ。酔いもふっとんじゃったわ」
「事故が起きたのは、真夜中だったんですね」
「そう。でも、事故じゃないわよ、あれ」
管理人は目を輝かせて小声になった。
「警察はね、自殺だって言ってたもの。由良さん、なんでもご主人に離婚されて、精神的に参っていたらしいから。この近くにあるカウンセラーのところから出てくるのを見たこともあるしね。ここの部屋を買ったのも、遺体を引き取ったのもご両親だったけど、お気の毒だったわね」
「亡くなったのはお正月の三日の深夜ですよね」
「ええ、そうよ。だから誰が落ちたのかわからずに、てっきり外の人が入り込んだと思ってたくらいで」
わたしのいぶかしげな顔つきに、管理人は説明を補足した。
「あの当時、このマンションに住んでいたのは、そうね、四、五人というところだったんじゃないかしら。投機目的で買っていた人がほとんどだったのよ。お正月には居住者全員が出払って、マンションは無人になっていたし」
「すると、由良香織さんもその日は不在のはずだったんですね」
「詳しく予定を聞いたわけじゃないから。けど、大晦日の夕方に、当分留守にしますからって言って出かけたのよ。帰ってきたのもきっと、夜遅くだったのよ」
つまり、管理人夫婦も彼女が帰ってきた姿を見ていたわけではないのだ。仮に連れがあったとしても、もちろん知らないということになる。
「由良さんは、お正月を家族と過ごされたんでしょうか」
「さあね。そうでなくても、別に驚かないけど」
管理人は嫌な笑みで唇を歪めた。その笑いの意味に気づいたのは、カウンセラーのオフィスを教えてもらい、その場を離れてずいぶんたってからのことだった。由良香織が精神的に参っていたとすれば、両親が手元に引き取るのが普通だ。高級マンションを買い与えるのと手元に置くのと、どちらが親らしい行動なのか、しかし、もちろんわたしに比べられるわけもなかった。
マンションの近くの安っぽいビルの一角に、香織の通っていたカウンセラーのオフィスはあった。東上《とうじよう》学、というそのカウンセラーは、由良香織のことをよく覚えていた。
「こちらに来られる方の心の秘密に属することを、あまり詳しくお話しするわけにもいかないのですが」
東上はもったいぶって、両手を組み合わせた。
「ご迷惑はおかけしません。ただ、香織さんの友人は、一種の罪悪感にかられているようなので、さしさわりのないところでお話しいただければ」
「わかりました」
東上のオフィスは、まるで映画に出てくるアメリカの精神科医の診療室のようだった。ふかふかのじゅうたん、専門書がびっしり入ったガラス戸の本棚、そして長椅子。残念ながら、東上の風貌は二〇年代の無声映画に出てくる中国人のようにいかがわしく、よほど激しい苦悩にさいなまれていないかぎり、この男の前でリラックスなどできそうもなかった。
東上は質問を無視して、自分のキャリアの話をするのに熱心だった。児童相談所に勤めていたこと、アメリカでカウンセリングについて調べ、やがてこのオフィスを開くに至ったこと。医師免許を持っているわけでも、心理学の学位を持っているわけでもない、一種の素人らしいことだけは、よくわかった。彼は次に、トラウマだの深層心理だのという単語をむやみと並べたて、香織について説明した。『羊たちの沈黙』を読んだことのない人間なら、ひょっとして感心したかもしれない。わたしに心に傷を負った娘がいたら、この男にだけは近づけないようにするだろう。
退屈な話が一段落したところで、わたしは尋ねた。
「由良さんはどうしてこちらにいらしたんでしょう。紹介者があったんですか」
「さて、よく覚えていませんが、そうではなかったと思いますよ。お近くに引っ越してこられたとかで、言ってみれば試しに足を向けたというところでしょう」
「都合、何回くらいお会いになられましたか」
「三回くらいですね。すでにおわかりと思いますが、由良さんは自分からすでに癒しを求めていらしたのです。だから自らうちにやってきた。たいていの人間は、心に負った傷が深ければ深いほど、自分が傷ついていることを認めたくないと思うものです。傷などないふりをしたほうが、その傷の原因となった出来事を直視しなくてすみますからね。しかし、能動的に行動したことで、由良さんは半ば、治ったも同然だったわけですよ」
安直なことを、東上はれいれいしくしゃべりたてた。
「では、先生は由良さんの死について、どう解釈されたんでしょう」
東上学の顔がほんの一瞬、不愉快そうに歪んだ。
「私は、半ば治ったも同然、と申し上げたのです。完治したとは言っていません。もっと度々通って下されば、あのような結果にならずにすんだと思うのですが」
「ということは、先生は、由良さんが自殺したと考えてらっしゃるんですね」
東上はぽかんとわたしを見た。わたしは黙って答えを待った。
「──違うんですか。由良さんは──」
「新聞には転落死と出ていました。ご両親は事故というふうに、周囲に連絡されたようです。由良さんが自殺したと、どうして先生は思われたんでしょうか」
壁にかかっているできのよくない油絵を、長いこと東上は眺めていた。そして額をこすりながら、言い出した。
「なにしろ十年も前のことだから、はっきりとは覚えていないんです。あの日、このあたりはパトカーや救急車のサイレンで、しばらくは騒然となりました。私はコートをはおって様子を見に行ったんです。当時はこのオフィスの奥で寝泊りしていたものですから。そこで弥次馬のひとりに、誰かになにかあったのか、と尋ね、若い女性が飛び降り自殺をした、という答えを貰いました。それが由良さんだとわかったのは数日後のことです」
「お葬式には」
「行きませんでしたよ、もちろん。三回しか会っていないわけだし」
「彼女はなぜ傷ついていたんでしょうか。離婚のことは聞きましたが」
東上は首を振った。きっぱり拒絶するようでいて、どこか誘いかけるようでもあった。
「それをお話しするわけにはいきませんね」
「そうですか」
わたしは立ち上がった。
「わかりました。お時間割いていただいて、ありがとうございました」
東上学は椅子にへたりこんでいたが、ドアを出るわたしの背中にこう言った。
「由良さんの死について、罪悪感を持っていらっしゃるというお友達に伝えてください。よかったら、いつでもご相談に乗りますと」
わたしは無言でドアを閉めた。
3
香織の父親が勤めていたという銀行の現在の人事を調べるのに、少し手間取った。香織のマンションの周辺には、およそ商店街というものが見当たらない。あるのはコンビニだけで、コンビニには会社四季報などというものは売っていない。湯気のたつ肉まんのほうが、よほど人気があると見える。
肉まんをかじりながら公衆電話を探した。電話ボックスすら見当たらなかった。わたしはどうも携帯電話を嫌っているらしい。始終忘れてしまう。鉄人二十八号よろしく誰かにコントロールされてしまうのではないかという恐怖を、無意識のうちに感じているのかもしれない。
十一月にしては生温かい空気の中をだらだら歩いて、やっとのことで本屋と公衆電話を発見した。たらい回しにされた挙句に、由良非常勤取締役は本日はこちらには出てきておりません、という木で鼻をくくったような返事を頂戴することができた。
自宅に電話してみることを考えた。だが、これまで得た情報から考えると、香織の両親がもろ手をあげて迎え入れてくれるとは思えなかった。むしろ、調査の妨害に回るだろう。わたしは考えたすえ、大蔵省に電話を入れた。由良香織の元の夫である戸田猛は、最初のうちものすごい勢いで電話を切った。しかし、四度目の電話でこちらに引き下がる意思のまったくないことを確認すると、会うことを承知してくれた。さすがに国家の将来を担う人材だけあって、変わり身も早い。
地下鉄で銀座に向かった。一時、東京中に妙な横文字のショッピング・ビルがわんさとできたものだが、戸田が指定したのはそういったショッピング・ビルの六階にある人けのない喫茶店だった。苦いコーヒーをなめながら待つこと一時間半、六時を過ぎた頃になって、戸田猛が現れた。死んだ由良香織より一回り上ということは、今では五十近い年齢のはずだが、髪は真っ黒で背も高く、初めはそれとわからないほどだった。仏頂面でコーヒーを注文した戸田に、調査のいきさつを説明した。
「なんで今さら、そんな大昔のことを調べたりするのかなあ。いい迷惑だよ」
戸田はかん高い声で吐き捨てた。
「香織のことだって可哀想だと思うなら、墓参りにでも行けばいいじゃないか。葬式にも出なかったくせに、探偵なんぞ雇うなんて」
まさにその通りだと思ったから、わたしは抗弁せずに話を進めた。
「香織さんが自殺した理由について、どのようにお考えですか」
「お考えもくそもない。まあ、世間向けには愛情の薄い夫のせい、ということになるんだろうな」
「他の女性に子どもができて、離婚されたとうかがいましたが」
「ああ、だけど、そのずいぶん以前から香織はおかしくなってたんだ。こっちは働いて疲れて帰ってきているのに、あれやこれやとうるさく騒ぎ立てる。かと思うと、電気もつけずに暗闇のなかでぼんやり座っている。誰だって参ってしまうし、家に帰りたくないと思うさ」
「香織さんとはお見合いだったんですか」
「はっきり聞けばいいだろ。政略結婚だよ」
戸田は薄ら笑いを浮かべておしぼりで手を拭いた。
「香織の父親の人脈やコネには、魅力があった。でも、はばかりながら、うちだってそれなりのお家柄だから、そのへんはまあ、おたがいもちつもたれつというわけさ」
「それでよく離婚できましたね」
「そりゃ原因が香織にあったから」
「どういう意味です?」
「文字どおりの意味さ。あいつは子どもを産めない身体だったんだ。結婚して二年たっても子どもができないんで、病院に行ってそれがわかった。産めない、というのは正確じゃなくて、治療すれば可能性がないわけじゃなかった。そこで不妊治療とやらを続けたんだが──なかなか思うようにはいかなくてね。だいたい、あいつは」
戸田は不意に声を荒らげた。
「わがままなお嬢様だったのさ。生まれてこの方、やりたいと思ったことはなんでもやってきたし、望むものはすべて手に入れてきた。それがそこへきて、世の中自分を中心に回っているのじゃないことを思い知らされた。挫折を知らない人間ほど壊れやすいものはない。たちまち、あいつはこっぱみじんになったわけだ。あいつの両親は俺に頭を下げたよ。娘のわがままであなたに辛い思いをさせた、申し訳ないってね。離婚したあとも、香織の父親は俺の後ろ盾を続けてくれてるよ」
地獄ってこんな風なんだろう、と思った。自分ではどうすることもできないことのために何年も苦しんで、夫の愛人に子どもができてさらに苦しんで、挙句の果てにそれがすべて、実の親にさえ、自分のわがままのせいだと決めつけられてしまう。
わたしの沈黙を、戸田は上目遣いに見た。煙草に火をつけて、盛大に煙を吹き上げた。
「……それでは、離婚は比較的スムーズに進んだわけですね」
「ああ、まあな。泥沼にはならなかった。離婚届に判を押さないなら、省内中に触れ回ってやる、と言われたし」
「は?」
わたしが言葉を飲むのを、戸田は面白そうに眺めた。
「俺のほうから離婚を申し出たとでも思ってたのか。逆だよ、香織が言い出したんだ。これ以上じたばたしていたら、わたしは本当に壊れてしまうからって」
「そう、だったんですか」
「そうだよ。最後の最後で、あいつはいさぎよい女だった。みっともなかったのは、こっちのほうだ」
煙に隠れて、戸田の目をうかがうことはできなかった。わたしは四方八方に飛び散ろうとする感情をからくも抑え、聞いてみた。
「だとしたら、おかしいとはお思いになられませんでしたか。香織さんが自殺したと聞いたときには」
「思わなくもなかったな。だけど、向こうの両親が事故だと言い張ったんだ。自殺じゃない、酔っ払って足を踏み外しただけだって。どちらにしたって美しい死に方じゃないが、自殺よりましだろ、事故のほうが」
「そうですか」
「自殺だっていうんなら、俺たちが殺したみたいなもんだからな。元夫と、実の両親が」
「そうですね」
「だけど、俺たちが突き飛ばしたわけじゃないんだ。香織はいさぎよく俺と別れて、親からも独立して、出直そうとしてた。彼女が前後不覚になるほど酔っ払ったのだとしたら、その責任は俺にあったかもしれない。でも、俺は彼女の足をすくったわけじゃない。最後に会ったとき、彼女は大学時代に専攻していた心理学の勉強を一からやり直したいと言ってた。俺は経済的にも人脈でも、手助けしたいと言った。それって変じゃない、と言いながら、彼女は笑ってた。笑ってたんだ」
コーヒーは手をつけられないまま、冷めつつあった。
4
夜になって、西条華子を捕まえることができた。香織が死ぬ直前に、中山慧美に香織についての噂話を聞かせたという女子大時代の友人だ。フリーで校正の仕事をしているとかで、時間は遅ければ遅いほどいい、この時間でも会うにはやぶさかでない、ただし自宅で、とてきぱきと答えてくれた。
西条の自宅は西荻窪の外れ、一階が酒屋のビルの二階だった。一歩入った瞬間、わたしはめまいに襲われた。玄関から廊下、すべてが本で埋め尽くされ、足の踏み場もない。
本の隙間にできた空間に座らされ、よりかかることもできず、しかしながら胎内に戻ったような居心地のよさを感じながら、わたしは西条華子から繰り出される矢継早の質問に答えさせられることになった。いやあ、女探偵が生きて動いてるのを見るのは初めてで、と西条はひとりはしゃいでいたが、好奇心が満腹になると同時に当初の用件に戻った。
「事情はわかったけど、なんでいまさら慧美がそんなことを知りたがるのか、理解に苦しむわね」
「なぜですか」
「だってさ。慧美あのとき、ずいぶん冷たかったんだもの。そりゃ誰だって、友人より自分の家族が大切よ。あたしは子どもを産んだことがないからよくわかんないけど、初めての子どもができたばかり、というのが大変な状態だっていうのは理解できる。だけどこっちはさ、香織と慧美が親友だっていうことを知っているから、香織の一大事に迷わず連絡したわけよ。辛いときに電話の一本、手紙の一通でも貰えれば、少しは香織のためになるんじゃないかと思って」
西条華子はがぶりと渋茶を飲んだ。
「ところが連絡してみたら、香織のかの字も出せないまま子どもの自慢話ばっかり聞かされてさ。息継ぎの間に、あたし言ってやったのよ。今そんな話、香織にするんじゃないよって。彼女、ほとんどうわの空だったけど、離婚したって言った途端、なんでどうしてって、ワイドショーのレポーターみたいにつっこんできて。嫌な気持ちだったな。結局、葬式にだって来なかったし」
「連絡しなかったんでしょう」
「連絡って、葬式の? 慧美に? もちろん、したわよ。タマキは慧美になんか連絡することはないって怒ってたんだけど、あれでもあのふたり、幼ななじみだったから」
「慧美さんはお葬式の連絡があったこと、覚えてらっしゃらないようでした」
「へえ」
と言ったきり、西条華子は黙ってしまった。ややあって、彼女は首を振りながらこう言った。
「子育てが忙しくて忘れたのか、香織が死ぬわけないからその親の葬式だと思い込んでしまったのか。きっと両方だね。今思えば、葬式の電話したときも、背後で子どもの泣き声が聞こえてて、そっちに気をとられたらしくて受け答えもなんだかはっきりしてなかったし」
「タマキさんというのは、野口環さんのことですね」
「そう。あたしたち、大学で同じサークルに属しててさ。児童文学研究会っていうの。とはいえ、全員が児童文学に対して持っていた感情って、ずいぶん違うものだった。あたしと環はどちらかといえば、いずれ書くようになりたいって思ってた。結局、環は研究者、あたしは細々ながら書いてもいる。香織は子どもができたらこういうの読んであげたいって常々言ってた。だから、子どもができないことで、彼女よけいに傷ついたんだと思う。それが長い間の夢だったわけだから」
「慧美さんは」
「あの子は香織にくっついて歩いてただけ。自分がなにが好きなのか、さっぱりわからないしわかろうともしてなかったみたい。研究会では毎週一冊、児童文学を読んでディベートもしてたんだけど、課題を読んでくるほうがまれだったもの。環なんかいつも言ってたよ。好きでないなら、時間の無駄なんだから会をやめればいいのにって」
「やめなかったんですか」
「やめなかったね。周囲なみというか、人なみということに、やたらとこだわるひとだった。人なみなんて、幻想にすぎないでしょ。どこかに指針が必要なわけだ。慧美にとっての人なみってのは、つまり香織なみってことだった。やめるわけないよ、香織がいる以上」
「辛辣ですね」
「ありがとう」
「野口さんは香織さんと仲が悪かったんですか」
「とんでもない。そりゃ、ふたりは全然似てなかったよ。香織はむやみに空想的でメルヘンチックなとこがあった。よくよく読むと、児童文学ってリアリティのかたまりみたいなものじゃない。現実を子ども向きの記号に置き換えているだけでさ。研究者向きだった環とは、嗜好は正反対。仲間のなかでいの一番に婚約が決まって、香織が勝利者みたいにふるまったこともあったから、女の幸せは結婚だ、なんて思ってる女だったらとんでもなく腹を立てただろうね。実をいえば、あたしも結構むかついた」
西条華子はにやりと笑った。
「あたしは自力でなにかを成し遂げた人間のほうが、たまたま整った環境にいるだけってやつよりもよっぽど上だと思ってる。なのに、王子様に認められた女のほうが、女としては値打ちが上みたいな気がしちゃうのはなんでだろうね。負けた気がして、劣等感感じて、不愉快になるんだ。だけど、環にはそういう感情まるでなし。勝負があることすら知らないのよ。だからこそおたがい、うまくいったんじゃないかな。香織が離婚騒動でくたびれ果てているとき、結局頼ったのはリアリストの環だったし」
西条華子はお茶をいれかえて戻ってきた。わたしは本の山を崩さずに足を崩す方法を発見し、かろうじて姿勢を変えた。
「あのときばかりはあたし、環を見直したな」
西条はお茶をすすりながら、
「一時は大変だったんだ。なにせ騒動の理由が理由でしょ。誰にでも打ち明けられるわけじゃない。ひどいことに実の親までが、香織を我が家の恥だなんて言ったらしいし。旦那と別れて独り立ちするまでには、香織、自殺未遂をしかけたこともあったみたい。環だって研究者としてはまだ駆け出しの頃で、自分だって忙しくて大変だったのに、ずいぶん香織の相談にのってやってた。香織の旦那ってのもそう悪い人じゃなかったらしくて、香織と別れて愛人と結婚する気はないと言ったんだってさ」
「香織さんは離婚したくなかったんですか」
「あたしは結婚もしたことないからね。なんとも言えないけど、行くも地獄戻るも地獄って感じじゃない? そうなるとさ。離婚したいとかしたくないとか、そういうとこまで頭働かなくなるんじゃないかな。結局、環が香織の背中を押してやったのよ。そうまでして結婚生活続けなくても、人生には他にいくらでも道はあるんだから、とりあえず別居でもして頭を冷やしたほうがいいよって。とりあえず、親とか夫とか世間とか、そういう悩みを切り放して、自分自身っていういちばん大きな悩みだけ残せばいいじゃない、それだけでも十分でかい悩みなんだからって。環にそう言われて香織もふんぎりがついたみたい。まさか本当に離婚しちゃうとは、あたしも環も思ってなかったけど」
西条華子は不意に、本当に不意に涙ぐんだ。
「最後のときのこと、よく思い出すんだ。正月ひとりだとわびしいからって三人で集まって、一緒に過ごしたんだ。環の家で。香織は実家出入り禁止にされてたし、あたしは嫁に行けコールが怖くて実家に戻れないし、環は両親が死んで祖母とふたり暮しだった。お祖母ちゃんとふたりで正月祝ったってべつに良かったんだろうけど、環は香織のことが心配でたまらなかったんだ。大晦日に集まって、結局三が日の夜まで一緒に過ごした。なにをするわけでもなく、たわいもないことああだこうだ言い合って──帰りは環が車であたしたちを送ってくれたんだけど、先に車を降りたあたしに、環がそっと言ったよ。これでもう、香織も大丈夫だろうって。死にたいなんて絶対に思わないだろうって。なのに」
それから何時間もたたないうちに、香織は死んだのだ。マンションのベランダから飛び降りて。
「知らせを聞いたのはいつだったんですか」
「環から電話があった。香織の様子がおかしいからこれから部屋まで行く、悪いけど来てもらえないだろうかって。ついたときには香織は飛び降りたあとだった。結局、環も間に合わなかったんだ」
「環さんはどうして香織さんの様子がおかしいと気づいたんですか」
「最後に香織が電話をくれたらしいよ。まったく、ひどい話だよ」
中山慧美の言葉に初めて真ぴょう性を感じた。心当たり。由良香織を殺した心当たり。
野口環。
5
翌日の午後、帰宅すると部屋には中山慧美が待っていた。相手をしていたみのりが荷物を置きに部屋まで戻るわたしを追いかけてきた。
「どうする、あのひと本当に半日で調査が終わると思ってたみたいよ」
「終わったよ」
「会ったの?」
「誰に」
「だから、野口環に」
「いいや」
心配そうなみのりの視線を受け流して、リビングに戻った。中山慧美は会話の一部始終を聞いていたらしい。奇妙な表情で問いかけてきた。
「野口さんにはお会いにならなかったんですね。なのに、もう調査が終わりなんですか」
「野口さんには会えません。彼女はいま、イギリスで暮らしているそうです」
慧美の顔つきが変わった。ずるそうにも見えたし、困惑しているようにも見えた。わたしは口頭で誰に会い、誰と何を話したかを告げた。
「もっとも、これらの調査は無意味でしたけど」
わたしは付け加えた。慧美ばかりか、お茶を運んできたみのりまでもが、驚いたように声をあげた。
「それはどういう意味ですか」
「さっき、警察に行ってきました。コネを使って、香織さんの転落死事件についてのファイルを閲覧させてもらいました。それでわかったんですが、香織さんがベランダから飛び降りるところを目撃していたひとがいたんです。向かい側のビルの住人の夫婦で、真っ暗なマンションにそこだけ明かりがついているので、何気なく眺めていた。そこで、女性が出てきて手すりを乗り越え、下に落ちていくまでその一部始終を見てしまったんだそうです」
中山慧美はしばらく黙りこくっていた。やがて、彼女は顔をあげて言った。
「だけど、それじゃいったい香織はなぜ自殺したんですか。これまでのお話では、野口さんや西条さんの支えで香織は立ち直っていたということでしたわね」
「ええ、立ち直りかけていました。でも、彼女の心のなかにガスはまだ残っていた。そこに火をつけてしまったひとがいたんです」
「それが野口さんなんですね」
慧美は目を輝かせた。
「そうなんでしょう。私、覚えていますもの。香織の結婚が決まったとき、野口さん内心は面白くなかったに違いないんです。だってそうでしょう。香織には立派なご両親がいたけど野口さんにはいなかったし、香織はもてたけど野口さんはもてなかったし、香織はエリートと結婚できたけど野口さんは……」
「火をつけたのは野口さんじゃありません」
わたしは遮った。慧美は面食らったように、唇を噛んだ。
「あら。だけど、香織のいちばん近くにいたのは」
「結局、香織さんの自殺願望に着火したのが誰だったのか、なんだったのか、それはわかりません。本当のところはね」
わたしは言った。
「香織さん自身の心の問題ですから」
「まあ。それは少しひどいんじゃありません? それじゃあ調査の意味なんか、ないじゃありませんか。葉村さん、あなた調査に手加減はなさらないんじゃありませんでしたの」
「ええ、していません。調べました。ですから、ある答えは用意してあります」
「では、その答えを教えてくださらないと」
「お教えします。──自殺した香織さんはあるものを握り締めていました。それはあるひとから送られてきた、一枚の年賀状でした」
慧美の目は急に激しく瞬いた。わたしは事務的に続けた。
「そのひとは香織さんとは特に親しくしていた。香織さんは自殺するわずか三か月前にそのマンションに引っ越したばかりだったそうですが、年賀状はそのマンションの住所宛になっていました。彼女はいろいろあって、精神状態も落ち着かず、その住所をほとんど誰にも知らせていませんでした。知っていたのはマンションを買い与えたご両親、連絡をとっていた元のご主人、そして女子大時代の友人である野口さんと西条さんくらいなものだったでしょう。西条さんはあなたに香織さんについてご連絡したそうですね。手紙でも電話でもしてもらえないかと思って。当然、新住所についても伝えたはずです」
「え……ええ。香織が離婚したことについて、連絡をくれたのは華子でした」
「そのとき西条さんは、香織さんが苦しんでいるその原因についても話した。子どもの自慢話は今の香織さんには毒だからと言った」
わたしが広げた一枚のコピーに、慧美の視線が吸い込まれた。彼女は反射的にソファから立ち上がっていた。
「冗談じゃないわ。そんなはずない。私のせいだなんて、そんなはずないのよ」
失礼するわ、と叫んで中山慧美は部屋を飛び出していった。ドアがいやなきしみ音をたてて閉まった。みのりはあっけにとられて、わたしを振り向いた。
「ねえ、どういうこと?」
「調べさせたりしなきゃ、いいのに。自分でとっくにわかっていたことだっただろうに」
香織が最後に握り締めていた年賀状のコピーには、しわやしみまでが映り込んでいた。香織の結婚を快く思っていなかったのは野口環ではなく、中山慧美のほうだった。立派な両親やエリートとの結婚、そのすべてを妬んでいたのは慧美のほうだった。本人は気づきもせず、とっくに忘れていたはずの悪意。娘とその友人との関係に刺激され、夢を見た。彼女は香織の死を野口環のせいにしたかった。無意識のうちにそう願った。だからわたしに調査を頼んだのだ。自分のせいではない、と言ってほしくて。
十年前のある日、それまで後塵を拝してきた慧美は、初めて香織に〈勝った〉のだ。
丸々と太った、かわいらしい赤ん坊の写真入り年賀状が、その証だった。
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三度目の冬の物語
[#小見出し] 都合のいい地獄
1
暖かい湿った空気が南の海上から流れ込んできて、暖かさのあまり、冬の都心に霧が出た。新宿の、地下にある私鉄の駅を降りて地上に昇っていくと、ふだん見慣れた矮小《わいしよう》で汚らしい景色が、白いヴェールに包まれてとろりと溶けていた。ひとがいつもよりゆっくり歩いている。早く進もうとすると、反対側から突如として現れたひと──向こうもそう思うのだろうが──に激突してしまうからだ。信号までが霧でぼやけていて、横断歩道を歩き始めたら、危うく車にひかれそうになった。誰かの力強い手で引き止められなければ、ひかれていただろう。こんな霧では救急車の到着も遅くなるだろうし、別の方面からやってきた車に次々とひかれる。目撃者にも見えたのは霧だけで、犯人はのうのうと逃げてしまう。死んでも死にきれない。
「ありがとうございました」
わたしは手の主に言った。濃紺のコートの胸と袖だけが見えた。顔は霧に包まれていた。
「気をつけるんですね。偶然の死なんて、退屈で、許しがたいことです」
「は?」
耳を疑って振り返ると、コートの主はすでに白い空気の中に消えていた。
急いで横断歩道を渡りながら、首をひねった。どこかで聞いたことのある声だった。絶対に忘れてはいけないはずの声だ。
渡りきったところで思い出した。
あの、男だ……。
頭に血がのぼり、心臓が激しく打ち出した。駆け戻ろうとしたとき、車の列が動き始めた。歩道の端に踏みとどまったとき、はずみで唇を噛んだ。血の味がした。
長谷川探偵調査所の事務所は、西新宿の雑居ビルの二階にある。一階は喫茶店、三階は不動産屋、四階は法律事務所になっている。いかがわしくはないが、このビルに初めての人間が飛び込むのには少々度胸がいるだろう。入口の階段は狭く、急で、入ったはいいが、仕事を依頼して手付けを渡すまで出してもらえないのでは、という不安が頭をよぎりそうな外観だからだ。ドラマを見過ぎた客なら、秘密をネタにゆすりをかけてこられたらどうしよう、などと思うかもしれない。あいにく、その期待には添えない。長谷川所長はこんな仕事をしているわりに、実に淡泊で猫のような面倒くさがり屋だ。依頼人の利益は俺が守るぜ、などと力こぶをいれることもないが、犯罪行為とも縁がない。
ドアを開けて中に入ると、スタッフの村木義弘がデスクに足を載せて、つまらなそうに週刊誌をめくっていた。
「よう。営業かい? あいにく御覧の通り、仕事なんかないぜ」
「所長に呼ばれたのよ」
「専属のスタッフが開店休業状態だってのに、契約探偵を呼び出してどうしようってんだろ」
「知るもんですか。相変わらず、汚いわね」
「ほっといてちょうだい」
村木の裏声を聞き流し、部屋をよこぎって小さな流しへ行った。途中で段ボール箱に蹴つまずいた。本か書類の山が入っているらしく、足が痛くなった。今日は厄日に違いない。
茶渋がべったりとついたカップとコーヒーメーカーをクレンザーでごしごしこすり、まともなコーヒーをいれると少し落ち着いてきた。窓の外の霧も晴れてきた。村木と情報交換をしていると、大きな紙袋を抱えた所長が帰ってきた。
「珍しいですね、所長。こんなに出すなんて」
村木がマルボロライトのカートンを袋から引っ張り出しながら、笑顔で言った。
「今どき、景品を紙袋に入れてくれることのほうが珍しいが、勝ったときには茶色の紙袋を抱えないと気分が出ないんだよ」
所長は答え、わたしにビスケットの箱を渡しながら、真面目な顔になった。
「せっかく来てもらったのに、いい話じゃないんだ。ビスケット食いながらするような話でもないけど──ま、せっかくだから、食べようや」
わたしたちはコーヒーとビスケットを前に腰を下ろした。
「一昨日、府中に行った」
所長は東京西部の市の名をあげた。村木が眉をあげた。
「水谷の収容されている精神病院ですか」
水谷潔──わたしの友人・水谷麻梨子の夫で、探偵だった男だ。彼は麻梨子を殺害し、死体を床下に埋め、一年近く暮らしていながら、麻梨子を殺害したことも、彼女が死んでいることも、きれいさっぱり忘れていた──あるいはそう主張し、裁判でもそれが認められた──人物だ。
「水谷のやつ、自殺したんだ」
所長は言った。
「あいつはほら、ただ嫁さんは生きている、自分は殺していない、と思い込んでいるだけだったからさ。葉村は死ぬ直前、面会に行ったから知っているだろうが、おかしいのはそこだけで、後は普通の人間とあまり変わらない。一日中本を読んで、テレビを見て、ぼんやりして、つまりは穏やかに、おとなしく暮らしてたわけだ。ところがある日突然、首を吊った。ドアノブにシーツの細く裂いたやつを巻きつけて、座って首を吊ったんだ」
麻梨子を殺したことも思い出せないような男が自殺? わたしは唇を噛んだ。うっかりしてた。さっき噛んだばかりだったのだ。飛び上がるほど痛かった。
「どうした」
気がつくと、所長と村木がこちらを見ていた。わたしは深呼吸した。
「遺書はあったんですか」
「ない。残念ながら」
「それじゃ、彼がどうして麻梨子を殺したのか、その理由は」
永遠にわからないことになったのだ。
溜息が出た。水谷と麻梨子の間になにがあったのか、麻梨子と連絡がつかない時期が長く続いて、不安にかられたわたしは彼ら夫婦の近辺を必死になって調べ回ったし、後に所長や村木も協力してくれた。だが、夫婦間にはトラブルのかけらも見いだせなかった。外目には、彼らは新婚の仲のいい夫婦だった。所長はわたしの疑念を笑い飛ばした。だが、最後には不承不承ではあるが、水谷の自宅を調べる手伝いをしてくれた。それでも、一階の畳が少し歪んでいて、はずしたらその下の床板がずれていて、さらにその下の土が掘り返されたようになっているのを目の当たりにしても、所長はなお信じようとはしなかった。しかたなく、わたしはこの手で土を掘り起こしたのだ。途中までは。
事件は警察の手に移ったが、結局彼らも水谷がなぜ麻梨子を殺したのか、その動機を探り当てることはできなかった。動機は狂気、ということに落ち着いた。
ちっとも落ち着かなかった。水谷はそれまで、おかしな様子は少しも見せていなかったのだ。普通に外食をし、麻梨子は夫に対する、しまいには惚気《のろけ》に落ち着く愚痴をひとつふたつこぼし、クリスマスにプレゼントを贈りあう、そんな夫婦がある日、狂気によって引き裂かれた──どうやって納得すればいいのだ。
くそっ、とわたしは思った。自殺するくらいなら、どうして麻梨子を殺したのか水谷には思い出せていたはずだ。だったら最後にそれくらい、書き残しておけ。
むっとして黙り込んだわたしを気づかうように、所長は言葉を継いだ。
「引き取り手がないっていうんでね。遺骨と持ち物を預かってきた。そこにあるよ」
さっきつまずいた段ボール箱だった。
「水谷さんの骨が、あそこに?」
「置くとこないしな。いずれ、どうにかしなきゃならんが、麻梨子ちゃんと同じ墓もどうかと思うし、水谷の親戚はいないし、いたとしてもえらい遠縁だろうから引き取りたくないと言われる可能性大だし」
「蹴っちゃいましたよ」
わたしは呟いた。村木はぎょっとした顔になり、所長はつるりと顔を撫でた。
「持ち物の方は、処分する前に葉村に見せておいたほうがいいかと思って。中身は本ばかりだが」
「一応、見せていただきます。でも、遺骨のほうはわたしの手の届かないところに置いといてください。でないと、なにするかわかんないから」
所長は慌てて段ボール箱から白木の箱を取り出して、持ったままうろうろした挙句、資料棚の一番上に置いた。水谷に見られているようで落ち着かなかったが、燃えないゴミ入れにでも放り込んでしまえ、とは言いかねた。所長は、彼が麻梨子を殺していたことが明らかになった今でも、水谷を憎めずにいるのだ。
残りの品物はデスクに並べた。衣類はまとめて紙袋に押し込んであった。後は所長の言った通り、本の山だった。ミステリのアンソロジーや時代小説、新書が十冊ばかり。どれも水谷の蔵書を、おそらくは所長が運んでやったのだろう。ぼろぼろになった文庫本が出てきたときには、手が震えた。それは高校生のとき、わたしが麻梨子に貸してそれきりになっていた、レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』だった。表紙の下についているしみに見覚えがあった。
本を開いた。あの頃、麻梨子の両親は健在で、私鉄沿線の商店街の中ほどで小さなハンコ屋を営んでいた。麻梨子はまだ橋本麻梨子だった。出席番号が隣あっていた縁で、肺炎で二週間学校を休んだ彼女にノートを写して届けたりした。そのお礼だといって、麻梨子はわたしの誕生日に、彼女の父親が印刻した蔵書印をプレゼントしてくれた。白と赤の混ざりあったような四角い石で、葉村蔵書、という文字が刻まれていた。晶は本が好きだから使うでしょ、と言われて、わたしは麻梨子に抱きついた。
とにかく嬉しくて、持っているかぎりの本すべてに押しまくった。もちろん、ブラッドベリにもまっさきに押した。
印のあったはずの部分は、黒く塗りつぶされていた。その脇に、明らかに麻梨子のでない字で、水谷麻梨子、と黒々と書かれていた。
「葉村、おまえ大丈夫か」
気がつくと、村木がわたしの顔をのぞきこんでいた。
「平気」
「平気には見えねえけどな。もう、どっちにしたってふたりとも死んだんだ。あんまナーバスになんなよ」
「心がけます」
「かわいくねえ言い方」
「ほっといてちょうだい」
とりあえず、本をすべて見た。念のためにと思って、カバーまではずして見た。病院がおとなしい患者として、自殺の可能性を疑ってみたこともなかったのだとしたら、筆記用具ぐらいは与えてもらえたはずだ。水谷はその気になれば、なにかを書き残すことができたはずなのだ。わざわざ面会に行ったわたしが、どうして麻梨子が死んだのか知りたがっていることも知っていた。
塗りつぶされていた名前。おまえなんかには絶対、教えてやらないと言わんばかりに。
ふと、あることが気になった。
「所長、さっきおっしゃいましたよね」
「なんだ」
「わたしが死ぬ直前、水谷に面会に行ったから、知ってるだろうとかなんとか」
「水谷に面会に行ったのは、俺とおまえだけだからな。病院も、おまえのほうが近い親戚かもしれないと考えて連絡つけようとしたらしいんだが、面会記録に残されていた電話番号が間違ってたらしくて……」
「一年前です」
所長は面食らって顔をあげた。
「なに?」
「わたしが病院の水谷に会いに行ったのは、去年のクリスマス・イヴの一度だけなんです。それで懲りて、二度と行きませんでした。わざわざ滅入りに行くような気がしたものですから」
「だって、おまえ、病院のほうは、自殺する五日前に面会に来たと」
アドレナリンが放出される音が、頭の中から聞こえたような気がした。
「確かめてみてもらえませんか」
「そりゃ、かまわないが。──なあ、葉村、いつもの悪い病気を出さないほうがいい。おまえが責任を感じているのはわかってる。葉村が麻梨子ちゃんと水谷を引き合わせたようなもんだからな。だからといって」
「悪い病気ってなんです」
「確かめて、調べて、白黒つけなきゃ気が済まない病気だよ」
村木が苦笑まじりに口をはさんだ。かっとなった。必死に抑えた。
「わたしは一年前に一度しか病院には行っていない。病院のほうでは直前に面会者が来たと言っている。その面会者が来て数日で、自殺するはずのない水谷が突然自殺した」
「そりゃ、そう並べるとなんだか──」
「確かめてください」
所長はわたしの顔をまじまじと見ていたが、やがて受話器を持ちあげた。
2
京王線の新宿駅に着く頃には、霧は晴れていた。町全体がぬるく、腐りかけているような臭いがした。水谷潔の入院していた病院のある府中駅に降り立っても、やはり空気は生温かだった。
所長が電話を入れたところ、ふたつのことがわかった。その一。半年前に、面会者の受付担当者が変わった。その二。最近、頻繁に水谷を見舞っていた〈葉村晶〉は、男性である。
病院では、事務長補佐、受付担当者その他による、ものものしい出迎えを受けた。得体の知れない人物を患者に会わせ、ひょっとするとそれが原因で患者を自殺させたのかもしれない、という状況が、彼らに不都合だというのはわからないでもない。だが病院側は、〈葉村晶〉に身分証の提示を求めたこと、それに問題はなかったこと、以前一度、長谷川所長の紹介をもらって来ていた──それはわたしのことだが──から、それ以上疑う理由はまるでなかったこと、面会者が帰った後も、水谷潔の態度におかしな点はなかったこと、を繰り返した。まるで、以前わたしが来ていなければよかったのだ、といわんばかりだった。共産主義国家を旅行すると、いたるところで官僚的態度に出くわすと聞くが、知らないうちに日本も共産主義国家の仲間入りをしていたらしい。
こういう連中相手に腹をたてるのは、壁に頭突きをするようなものだ。こっちの頭が痛くなるだけで、向こうはびくともしない。いずれ、知り合いのノンフィクションライターにこの話ばらしてやる、そうなってから泣いても遅いんだぞ、といささか幼稚な八つ当たりを腹のなかでして、問題の〈葉村晶〉がどんな人物だったかを訊いた。
「どんな人物かと言われても」
受付担当者が困惑したように、わたしと仲間の顔を見比べた。
「会ってらっしゃるんですよね」
「ええ、そうですけど」
「それもつい最近のことですよね」
「はあ」
「だったら、どんな人間かくらい、覚えているはずですよね」
「そんなこと訊いて、どうするんです?」
事務長補佐という男が、受付担当者をかばうようにわたしをにらんだ。わたしは深呼吸を二回繰り返した。
「いったいどこの誰がわたしの名を騙《かた》ったのか、それがなぜなのか、知りたいのは当然でしょう。それとも、教えられないわけでもあるんですか」
「教えられなかったら、なんだって言うんだ」
事務長補佐は薄い頭をふりたてて、居丈高になった。わたしは我慢できずに言い返した。
「妻を殺して自宅の床下に埋め、一年間ともに暮らしていた男。事件が発覚した当時、けっこう話題になりました。その男が収容先の病院で首つり自殺、おまけに得体の知れない人物がノーチェックで面会に来ていたとなると、メディアも興味を持つでしょうね」
「チェックはしていた」
「どこの誰かもわからず、人相も特徴も不明。こういうの、おたくではチェックと呼ぶんですか」
「脅迫する気か」
「わたしを追い払いたかったら、さっさと特徴を教えてくれればいいんです」
事務長補佐は舌打ちをして、受付担当者に顎をしゃくった。受付担当者は泣き出しそうに顔を歪めた。
「わからない……思い出せないんですよ……男で、たぶん三十すぎで……」
「服装は」
「ええと……」
「スーツ姿でしたか、それとももっとラフな感じ?」
「ラフではなかったと思います、たぶん」
受付担当者の顔に混乱と焦りが入り乱れていた。嘘をついている様子はなかった。わたしは思いきって、試してみることにした。
「濃紺のスーツかコートを着ていませんでしたか」
受付担当者ははじかれたように顔をあげた。
「そう、そうです。思い出しました。濃紺のスーツを着て、背の高い、頬骨の張った、目の細いひとでした。首のつけねに青黒いあざがありました。一度、見たんです」
「心当たりがあるんですか、あんたの名を騙ったその男に」
事務長補佐が面白そうに身を乗り出してきた。なんだ、うちのトラブルじゃなくて、あんたのトラブルなんじゃないか、と言わんばかりのその態度がなければ、冷静な顔つきでいることはできなかっただろう。
病院を出て、もわっとした空気のなかを歩いた。あの悪魔……二年前、松島詩織という女性、わたしが守るはずだった依頼人を死なせた男。初めは松島詩織の妄想の産物ではないかと思われたその男は、最後の最後にわたしの前に現れ、ひとを食ったような領収書を残して去っていった。
そのことを、忘れたわけではなかった。あの男は品川ナンバーの濃紺のBMWに乗っていて、首のつけねにあざがあった。それだけの手がかりを、わたしは仕事の合間にこつこつ追った。車のほうが、やつにたどり着く最短距離だと思われた。が、どういうわけか、都内にさほど数があるわけではないその色の車を、いくらたどってもあの男には行き着かなかった。持ち主は女性だったり、男性でも年齢が違っていた。三十代前半という年齢の男性の持ち主も数人見つかって調べたが、声も違ったしあざもなかった。
考えられる結論は、やつが自分で車の色を塗り直させたか、さもなければ催眠術みたいな方法で販売店の営業員をたぶらかし、購入記録を消させたか、そのどちらかだった。松島詩織が彼と出会った店のバーテンダーは、あるきっかけが与えられるまではあの男のことをすっかり忘れていたのだ。さっきの受付担当者と同じように。
霧の中でわたしを引き止め、謎めいた言葉を呟いた男。わたしの名を騙って水谷潔に面会した男。
なんのために。
携帯電話が鳴り出した。飛び上がりそうになった。近くを歩いていた女子高校生がけらけら笑ってこちらを見た。
「はい」
「葉村晶さん?」
こめかみがどくどく音をたてた。あの悪魔。
「病院の関係者は協力的でしたか」
声が出ない。言うべきことも、なにも思いつかない。身体も脳みそも、すべてがわたしのコントロールから逃れて、どこかへ散らばっていったようだ。
「あんまり協力的でもないでしょうね。ああいうところがどんなところか、あなたも私もよく知っている」
「あんた、誰」
ようやく絞り出した声は、自分でもそれとわかるほど情けないかすれ声だった。男はくすくす笑った。
「水谷潔を自殺させた男ですよ。松島詩織を死なせた男です。お忘れですか」
「いいや」
「けっこう。こっちもね、葉村さん、あなたのこと忘れてはいませんでしたよ。私はあなたの──そう、言ってみれば、ファンなんです。あなたが私のことを調べ回ったように、こっちもあなたを調べた。気がついてましたか」
これ以上無理というほど緊張していたのに、それでもなお鼓動が早まった。わたしは奥歯で頬の内側をきゅっと噛んだ。
「全然」
「張り合いがないなあ。あなただって、私のファンなんでしょう。でなければ許せないところですがね。私は他人にこそこそ探り回られるの、好きじゃないんですよ」
「わたしもよ」
「探偵のくせに? 他人のことを探り回るのを仕事にしておいて? ずいぶん、ずうずうしくはないですか」
「あんたが言いたいのはつまり、わたしの車の調査がかなりいい線までいっていた、ということ? 気がつかなかったな。こっちはてっきり、失敗したと思ってた」
不意に、けたたましいクラクションが聞こえた。甲州街道を強引に渡ろうとした子どもに、砂利トラックが浴びせかけたのだ。おかげで息も絶え絶えの反撃に効果があったのかどうか、わからなかった。次に話し出したとき、彼は落ち着き払っていた。
「女心は複雑ですね。まあ、いいでしょう。実は葉村さんに熱烈なファンからすばらしい贈り物があるんです」
「遠慮しとくわ。熱烈なファンが多すぎて、うんざりしてるの」
「好みがうるさいのはよく知ってます。だから、プレゼントはふたつ用意しました。どちらかお好きなほうを選んでください。ただし、ひとつだけですよ。選ばれなかった方のプレゼントは破棄します。私からの一つ目のプレゼントは、水谷潔が妻を殺した理由」
携帯電話を握る手に、汗が吹き出してきた。わたしはもつれる舌で問い返そうとしたが、男は続けた。
「もう一つのプレゼントは、相場みのりの安全です」
「……いま、なんて言った?」
「聞こえたんでしょう? 見苦しい真似しないでください。ファンをがっかりさせちゃだめですよ。白黒つけるまで調査をやめない、それがあなたの取り柄じゃないですか。曖昧な態度や言葉や状況が、大嫌いなくせに」
「待ってよ」
恐怖がこみあげてきた。
「待ちません。いいですか。一個目が欲しかったら、京王多摩動物公園駅に来てください。二個目が欲しかったら、都営地下鉄線の新宿三丁目の駅へ。どっちにしても今から四十五分で来てください。でないと、ふられたショックでプレゼントを二つとも捨ててしまうかもしれない」
「いったいどういうつもりよ」
わたしは叫んだ。男は小さく笑った。
「信じたくなければ、信じなくてもいいんですよ。松島詩織と同じように、私を信じないという道もある」
電話は切れた。わたしは駅に向かって走りながら、みのりの勤務している図書館に電話を入れた。
「相場さんなら、今日は出かけてます」
事務的な返答があった。わたしはかみつくように尋ねた。
「どこに」
「都庁の会議室で都内図書館司書連絡協議会の総会があって──でも、つい十分ほど前に、これから昼食をとって戻りますって電話がありましたから、一時間半くらいで帰ってくると思いますよ」
駅ビルについた。エスカレーターを二段飛ばしで駆け上がった。コインを放り込んで切符を買った。新宿行きの急行列車に飛び乗った。
平日の昼間のことで、車内はすいていた。みのりの携帯電話に連絡をいれたが、電源切れか圏外だというアナウンスが流れるばかりだった。
畜生。
電車が調布駅に滑り込んだとき、わたしは口の中で呟いた。平日の昼間、多摩動物公園行きの本数は多くない。にもかかわらず、反対側のホームの掲示が、その電車がまもなく到着することを告げていた。今なら間に合う。今、階段を駆け下りて、乗り換えれば、なぜ麻梨子が死ななければならなかったのか、その理由がわかる。
知りたかった。叫び出したいほどだった。どうして。どうして麻梨子は殺されなきゃならなかったの。
気がつくと、膝ががくがく震えていた。立ち上がって、走り出そうとするのを、必死に抑えつけているせいだ。前の席に座っていた中年女性が、妙な顔でこちらを見ていた。彼女は濃紺のカーディガンを着ていた。胃がぎゅっと縮んだ。ドアが音をたてて閉まり、電車が動き始めた。多摩動物公園行きとすれ違った。
落ち着け、とわたしは自分に言い聞かせた。男がああ言ったからといって、本当に水谷から殺人の動機やそのいきさつを聞き出したとはかぎらないのだ。
だが、水谷は現に自殺したじゃないか、ともうひとりのわたしが答えた。それは、水谷がすべてを思い出したからじゃないの? わたしの名を借りて面会に行ったあの悪魔に、思い出させられたからじゃないの?
後ろめたさを感じた。いま、本当に案じなければならないのは、みのりの身ではないか。やつが約束を守らなかったり──あるいは、わたしが間に合わなかったりしたら。急に、場違いな笑いがこみあげてきた。京王線でよかった。これが中央線で、お家芸の遅れに巻き込まれたりしていたら、四十五分後に新宿三丁目駅なんて、絶対間に合いっこ、なくなるところだ。
濃紺のカーディガンの女性が、薄気味悪そうにわたしを眺め、席を移っていった。常軌を逸しているのは、あの男ではなくわたしのほうかもしれない。
笹塚で都営線に乗り換えた。すぐに出発した。約束より三分早く、新宿三丁目駅についた。人々が足早に出口へ向かっていく。階段を降りてくるひとの列を、苛々と眺めた。
無事でなかったらどうしよう。みのりに会えなかったらどうしよう。
わたしのせいだ。水谷と麻梨子を引き合わせたのは、わたしだから。
みのりになにかあったら──わたしの……
3
悪魔からの電話が切れてちょうど四十五分後に、みのりが現れた。朝でかけたときと同じ薄いグレーのジャケットを着て、大きな革のバッグを下げている。うつろな彼女の視線が、わたしに止まった。
「晶ったら、こんなとこでなにしてんの」
みのりはいつものように、足早に近づいてきた。
「なによ、仕事? 偶然だよね。お茶でも飲みたいとこだけど、生憎《あいにく》、そろそろ館に戻らなくちゃならなくって。──ねえ、どうしたのさ」
わたしはホームの椅子によろよろと座り込んだ。みのりが呆れたように言った。
「なにもそんなに驚くこと、ないじゃない。あんたの事務所だって新宿にあるんだし、こっちは都庁に仕事で来たんだし。ここで会ったって、偶然というほどでもないよ」
「都庁に来た人間が、なんで新宿三丁目にいるのよ」
「それが、どういうわけか急にシシカバブが食べたくなっちゃってさ。前に晶と一緒に行ったじゃん、この先のトルコ料理屋。あそこまで足を伸ばしたんだ。残念だったね、一時間前に会ってれば、一緒に昼ご飯食べれたのに。──ねえ、具合でも悪いんじゃない?」
私は首を振った。
「大丈夫なら行くよ。今晩、遅くなりそうだから、晩飯勝手に食べてよね。それじゃ」
「待って」
わたしはみのりの腕をつかんだ。
「みのり、あんたずっと総会に出てたの? で、偶然シシカバブが食べたくなって、三丁目まで足を伸ばしたって」
「だから、そうだよ」
「誰かに会わなかった? その──例えば、三十代前半くらいの年齢の、濃紺のコートを着た男とか」
「はあ?」
みのりは呆れたようにわたしを見下ろした。
「こんなにあったかい日に、コート着るやつなんかいないでしょ。ほんと、十二月とは思えないほどだよね。昔よりどんどん夏が暑くなって、冬が暖かくなってくみたい。地下鉄なんて、どうして暖房入れてるんだか、まったく」
みのりはバッグの外側のポケットからハンカチを出して、鼻の頭をそっと押さえた。
「みのり──あんた、そんなハンカチ、持ってたっけ」
「へ?」
みのりは不思議そうに、自分の手の中のハンカチを見た。濃紺の、男物のハンカチ。
「ああ、これ? どうしたんだろう。香典返しででももらったんだっけな。──どうでもいいじゃん、そんなこと。ハンカチをどこで買ったかなんて、いちいち誰も覚えてないよ。それより晶、あんたほんとに大丈夫なの?」
わたしは手を振った。新宿方面行きの電車が来た。みのりは不審そうにわたしを一瞥《いちべつ》すると、電車に乗り込んで、行ってしまった。
携帯電話が鳴った。膝を押さえつけて震えを止め、出た。
「プレゼントは気に入ってもらえましたか」
ほくそ笑むような声がした。わたしは椅子の背にもたれかかって、天井を見あげた。
「嘘つき。ひとをからかって、どういうつもりよ」
「からかった? 相場みのりをあなたのもとへ送り届けたのに?」
「偶然でしょ。本当はあんた、水谷の動機についてなにも知らないんでしょう。知っているふりをして、わたしを引っ張り回して楽しんでいるだけなんでしょう、この変態」
「口は慎んだほうがいい」
余裕たっぷりだった声が、初めて強張った。唾を飲み込むような音がして、彼は再びゆっくりした口調になった。
「四十五分後という約束の時間きっかりに、約束通りの場所に、相場みのりが現れたのが、本当に偶然だと思うんですか」
「そう言えば、あんた偶然が嫌いだったわね」
返事はなかった。男のせわしない息づかいが聞こえてきた。
「偶然が嫌い、いや、それよりも偶然の死が嫌いな人間……」
「プレゼントしがいがないひとですね。もう少し喜んでもらえると思ったのに」
男は低く答えた。わたしは精一杯切り返した。
「水谷が麻梨子を殺した動機をタイプして、印刷して真っ赤なリボンでもかけてくれたら、もう少し喜べるかもよ。試してみたら」
「あれならもう、破棄しましたよ」
「破棄した? 嘘でしょう」
不覚にも声が裏返った。男は含み笑いをした。
「捨てたのはあなたですよ、葉村さん。相場みのりの安全をとって、水谷が妻を殺した理由を捨てた」
「だって、普通こういう場合……」
「しかたがないひとですね。人間、なにもかも手に入れるというわけにはいかないんですよ。それじゃ、こうしましょう。もう一度チャンスをあげます。今から十五分後、南北線の飯田橋駅に来てくれたら、さっきのプレゼントが受け取れます」
「それがひとにプレゼントを渡す態度? そっちが持ってくればいいじゃない」
「今の一言、気に入りませんね。どうも最近の女は、他人から高価なプレゼントをもらうのが当然だと思っている。それだけの価値が自分にあると思い込んでいるらしい」
「あなたにプレゼントをくれと頼んだ覚えはないわよ」
「いらないんですか」
わたしは黙った。男は笑った。
「欲しいなら欲しいと、素直に言ったほうがいいですよ。では、十五分後に。ああ、そうそう、同じ時間に都庁の正面玄関前で、村木義弘になにか起こるかもしれません。それじゃ」
心臓が凍った。わたしは叫んだ。
「ちょ、ちょっと待って──」
電話は切れた。新宿方面の次の電車がホームに滑り込んできた。
考えた。これに乗って新宿駅で都営十二号線に乗り換えれば、すぐに都庁前だ。だが、そうするとまた、水谷の動機を失ってしまう。
どうすればいい。村木は長いつきあいの仕事仲間だ。だが、みのりと違って、彼なら自分の身は自分で守れるはずだ。
飯田橋に行かなければ。行けば、麻梨子がどうして殺されたのか、その理由がわかる。だがもし、あいつの言葉がすべてでたらめで、わたしを鼠のように弄《もてあそ》んでいるだけだとしたら。
村木なら大丈夫だ、だが、みのりがここに現れたのが偶然とは思えない。
だが、だが、だが。
目の前で、笹塚行きの電車の扉が閉まった。今にも乗り込みそうな格好のまま立ちすくんだわたしを、車内のいくつもの目がけげんそうに撫でて、通り過ぎていく。
背後に風が起こった。岩本町行きの電車が来たのだ。これに乗って、市ケ谷で南北線に乗り換えれば次が飯田橋だ。そこでわたしはどうしてもほしいものを手に入れる。
目の前でドアが開いた。降りてくるひとびとに押しのけられ、後ろから乗り込もうとするひとたちに押された。乗り込んだ。発車のベルが鳴りやむ。ドアが閉まります、と女の声がアナウンスした。
不意に今朝、事務所でのやりとりが蘇った。水谷の自殺を知らされて、動揺しているわたしに村木がかけてくれた言葉──葉村、おまえ大丈夫か?
「ええい、くそっ」
わたしは声に出してわめき、閉まる寸前の電車から飛び降りた。
階段を駆け上り、地下通路へ飛び出た。丸ノ内線の新宿三丁目駅を通り過ぎ、まっすぐに走った。天気のいい、暖かな日だというのに、地下通路はひとでいっぱいだった。よけたり避けたり、時にはぶつかりながら走った。罵声や呆れたような抗議が背中に投げつけられたが、かまっている余裕はなかった。西口の地下ロータリーにたどり着いたとき、ちらと腕時計に目を落とした。あと、二分半しかない──。
事務所に電話することを考えたが、村木がいるとは思えなかった。あの男のことだ、それなりの手を打っているに違いない。通路を飛び出て、京王プラザホテル脇を駆け抜けながら、村木の携帯に電話を入れることをちらと考えた。そんな暇はなかった。
肺が苦しくなってきた。生温かい空気が喉を灼いた。もう少しだ、とわたしは思った。その角を曲がれば、すぐそこだ。都庁の正面玄関が見えてくる。
玄関前の歩道に、村木義弘が立っているのが見えた。くたびれたワークシャツにヴェスト、不精ひげを生やした、今朝事務所で見たままの姿だった。彼がいつも乗っている、あちこちに傷があり、埃が積りっぱなしの四輪駆動車の側にぼうっと立っている。
馬鹿馬鹿しいほど見慣れた、いつもの村木だった。怒りがこみあげてきた。あのまま飯田橋に行くべきだったんだ。
「村木さんっ」
叫んだつもりだったが、情けないような声にしかならず、村木には届かなかった。彼は相変わらず足に根が生えたように立ちつくしている。
不審に思い始めた矢先、向こう側から白い乗用車が走ってきた。どんどん速度をあげ、歩道に乗りあげる。村木は真正面から車を見ていた。いつもの機敏さをどこかに忘れてきたように、立ちすくんで見ていた。
間に合わない。
「村木さんっ」
どすっ、と鈍い音がした。
4
「左上腕部骨折、あばらに数本ひびがいってます。内臓にも脳にも異常なし、おとなしくしてりゃ治ります。念のため、今晩は入院してもらいますが、明日には退院できるでしょう。お大事に」
愛想のない医者にそっけなく追い払われると、看護婦がやってきた。
「入院の手続きをとりたいのですが、ご家族の方ですか」
「いえ、仕事仲間です。連絡先は本人に訊いてください」
「お会いになれますから、そちらで訊いておいてもらえますか」
忙しそうな看護婦に書類を押しつけられて、わたしは村木のいる病室に入った。
四人部屋の窓際の、カーテンに仕切られたベッドに村木は寝ていた。他の患者の好奇のまなざしを浴びながら、ベッドに近寄った。交通課の警官らしい人物がふたり、話を終えて立ち去るところだった。
村木が目を開けて、よう、と手をあげた。
わたしは頭をさげた。村木は顔をしかめた。
「まだ死んでねえのに拝むなよ」
「わたしのせいです──本当に、なんと言えばいいか」
「なんで葉村のせいなんだよ。大した傷じゃないし、それよりおまえのほうこそ大丈夫なのか。ひでえ顔だぜ。座れよ」
心配そうな声だった。抑えに抑えてきたものが、ほどけた。
「所長にも連絡がとれない。あいつからの電話もない。今はみのりが無事かどうかもわからない。あのとき、わたしが迷わなければ、間に合っていたはず。そうすれば村木さんだって怪我なんかしないですんだ。わたしのせいだ──この性格のせいだ。白黒つけたがる、わたしのせいで、こんなことに」
「いいから、座れよ」
村木はすり傷だらけの顔を右手でこすりあげて、支離滅裂な言葉の洪水を遮った。わたしは折りたたみのパイプ椅子を引き出して座り、ベッドに頭を押しつけた。
「なにがあったんだ。最初から説明してみろ」
顔をあげて、深呼吸した。村木には知る権利があると思った。怒る権利も。
病院を出たところから話した。松島詩織事件のことは、村木も携わっていたから説明は早かった。水谷の動機が知りたくて、村木を見捨てようとしたことも、迷ったことも、だから間に合わなかったことも、全部話した。
村木は最後まで、相槌も打たずに天井を見上げていた。話が終わっても、黙ったままだった。
沈黙に耐え切れなくなったとき、彼が言った。
「俺、どうしてあんなところに行ったのか、覚えてないんだ。電話があった。事務所には俺しかいなかった。電話に出て、話をした。都庁に行くことになった。車がこっちに突進してきたのも見えていた。いつもなら、とうに飛びのいているはずが、足が動かなかった。おまえ、俺のこと呼んだろ」
「ええ」
「それで初めて身体が動いたんだ。おかしなもんだな」
村木は笑い、胸が痛むのかうめき声をたてた。
「大丈夫?」
「平気」
「あんまり平気にはみえないけど」
「どっかで聞いたような会話だな。──葉村、おまえ帰って寝ろよ。疲れてんだろ」
「だけど、村木さん」
「いいか、あの乗用車を運転していた女は、突然足が動かなくなって、ブレーキが踏めなかったと言っているそうだ。それで焦ってハンドルを切りそこなったと。いくら催眠術だってそんなこと故意にさせられるわけがない。これは事故だ。偶然の事故なんだよ」
「あいつが、暗示をかけて」
「暗示にかけられてんのは、おまえのほうじゃないのか、葉村」
わたしは茫然と村木を見た。怒鳴られて、罵られる方がましだった。その思いが顔に出たらしい。村木は黙って目を閉じた。
西新宿救急外科病院から、タクシーで長谷川探偵調査所の事務所まで戻った。死ぬほど疲れていたが、同時に脳みそがぐつぐつ煮えているような気もした。
ビル入口脇の煙草の自販機の前で足が止まった。しばらく吸うのをやめていたが、今は無性に吸いたかった。煙草を一箱吸うほうが、精神安定剤を丼いっぱい食べるより健康にはよさそうだ。それくらいの量でなければ、いまのわたしには効きっこない。
事務所には鍵がかかっていた。所長は相変わらずつかまらない。近くのパチンコ屋をのぞき、顔見知りの女の子に訊いてみた。
「おたくの所長さんだったら、一時間くらい前に出てったわよ。誰か怪我したんだって? 警察から電話があったって、慌ててた」
礼を言って、店を出た。安堵感よりなお苛立ちが募った。
村木の態度は、彼にしてみれば当然だ。みのりの態度だってそうだ。それはわかっていた。でも、わたしは彼らの安全と、自分にとって重要なものを引き替えたのだ。
水谷が麻梨子を殺した理由をどうしても知りたいのに。知らなくてはならないのに。
ビルとビルの狭間に設けられた広場の一角まで歩いて、喫煙コーナーに腰をおろした。真新しい煙草のパッケージを開けて、火をつけた。深く吸い込んだら、頭がくらくらしてきた。長いこと禁煙していると、こうなる。
長いこと──
なにかが気になった。それがなにか、見定める前に、携帯が鳴り出した。
「欲ばるからですよ、葉村さん」
あの男はとがめるように言った。
「どっちもとろうとしたでしょう。水谷も、村木義弘も。そんなことするから、間に合わなくなるんです。村木義弘、もう少し遅かったらあの世行きでしたね」
「嘘つき」
わたしは力なく言った。
「あんたは今世紀最大の嘘つきよ。飯田橋駅を選んでも、そこに水谷の動機なんかなかった。そうでしょう」
「疑うのはあなたの自由ですよ、葉村さん。どのみちあれは破棄します。二度までも見捨てられたプレゼントですからね。とっておくこともないでしょう」
「いい加減にしてよ」
わたしは煙草のパッケージを握りつぶした。
「あれは破棄します、だと。それで、今度はこう言うんだろうね、仏の顔も三度までというから、本当に最後のチャンスですよ。三十分後、下北沢駅に来てください。ただし同じ時間に、今度は──誰の安全を脅かそうってのよ。いったい全体、どういうつもり。どうしてわたしなんだ、このくそったれ」
「捨ててもいいんですよ」
わたしは黙った。男は静かに言葉を継いだ。
「三度目のチャンスが欲しくないなら、やめておきましょう。これですべて終わり。葉村晶は、水谷麻梨子が殺された理由を知ることはできない。葉村晶は、水谷潔を自殺させた男を知ることはできない。葉村晶は、松島詩織を死なせた男を知ることはできない」
じわじわと、なにかが込み上げてきた。
「あなたはそんなことに、耐えられるんですか」
耐えられない。
「返事が聞こえませんでしたよ、葉村さん。チャンスが欲しいですか、欲しくないんですか」
「どうせ──どうせ同じことの繰り返しよ。相手が誰だろうが、わたしはそのひとを放って動機をとりには行けない。結局、知りたいことを教えてはもらえない。だったら、最初から──」
「相手が誰だろうが?」
「あんた、ひとをなんだと思ってんの。村木さんが車にはねられたのは、わたしの目の前だったのよ。あんな思いを二度も繰り返すくらいだったら、水谷のことなんか──どうでも──」
「どうでもいい?」
喉の奥が干上がった。男がたたみかけてきた。
「どうでもいいのならやめましょう、葉村さん。喜んでもらえない贈り物はゴミ箱に捨てる。二度と私からの電話に悩まされることもなくなる」
「どうしてこんなことをする?」
わたしは電話に向かって絶叫した。
「なんでわたしなんだよ、答えろ、卑怯者」
隣のベンチで煙草を吸っていた中年男が煙草にむせながらこちらを見て、気まずそうに席を移った。悪魔が小さくしーっ、と言った。
「怒鳴らないでくださいよ。あなたの側にいてこの会話を聞いているひとが、痴話喧嘩の真っ最中だと誤解するじゃないですか。冷静さが葉村さんのとりえじゃなかったんですか。水谷潔はそう言っていましたよ。あなたは冷静で、タフで、泣き言を言わないひとだって。買いかぶりだったんですかね。嫌なら、帰って眠ったっていいんですよ」
「目的は、なに? あんたがわたしにこんな嫌がらせをする目的は? わたしが濃紺のBMWの持ち主を調べてあんたに近づいていたとしても、あの調査はもう一年以上前に壁にぶちあたってた。それを知らないあんたじゃないでしょう。こんなに時間がたってから、わたしに嫌がらせを始めたのはなぜ? どうしてわたしなの?」
「知りたいことが増えてしまったようですね。あなた、やめる気ないみたいだ」
わたしは大きく深呼吸した。
「どこに行けばいい」
「五分後、長谷川探偵調査所のオフィスへ来てください」
「……なんだって? あんた、いったいどこにいるんだ」
「私はあなたの近くにいます。もう会うことはないでしょう。五分後に、私は死にます」
わたしはベンチから飛び上がった。
日が暮れて、空にはどす黒い雲が吹き出してきていた。暖かい日だったが、さすがに寒くなり始めていた。人々は急ぎ足で広場を通り過ぎていく。寒そうに剥き出しの脚を震わせながら、若い女の子がふたり、寄り添って話し込んでいた。携帯を片手に話しながら、吸い殻を地面に投げているサラリーマン。ソバ屋の出前持ち。早足で出勤していくらしい、派手な化粧の女性。
「急いでください、葉村さん。五分すぎたら、事務所に行っても捜し物は見つからなくなりますよ」
「あんた今、死ぬって言った。自殺するつもり?」
自殺するなら、どうやって死ぬ。わたしは急いで考えた。拳銃で頭を撃ち抜く、それともガス──じゃ、今どき死ねない。となると──。
わたしは視線を上に向けた。広場は二十階以上のビルふたつにはさまれていた。その一方のビルの屋上に人影を見つけた。動きの早い黒い雲を背景に、屋上の縁に立っている人影を。その人影は、こっちに向かって確かに手を振った。
「な……にやってんだ」
「私がなにをするかより、あなたにはもっと大切なものがあるでしょう。水谷潔が妻を殺した動機。知りたいんじゃありませんか。早く行かないと、手に入らなくなりますよ」
「そんな」
「迷うことないじゃありませんか。なぜ迷うんです? 葉村さん、あなたは相場みのりを恨んでいる。村木義弘を恨んでいる。彼らのために、自分の調査が妨害されたからだ。そして今度、あなたの調査を妨害しようとしているのは、友人でも仲間でもない。この私だ。調査と、敵と、どっちが大切なんですか」
人影を見つめた。頭が痛くなってくるほど見つめ続けた。どんなに見つめても焦点があわない。やつの姿がはっきり見えてこない。
「一分たちましたよ」
男は楽しそうに言った。
「ぼんやりしていると、両方とも失うことになりますよ。ついでだから、少し焦らせてあげましょうか。事務所には自動発火装置が仕掛けてあります。あと四分で、水谷潔の動機は灰になるでしょう。そのまま放っておくと、事務所ごと燃えてしまうかも」
「消防署に電話する」
男は黙り、一瞬おいて再び喋り始めた。
「間に合わなかったら、どうするんです? 我慢することないんですよ、葉村さん。あなたは知りたいはずだ。水谷潔が妻を殺した動機を。どうしても、知りたい。知らなければあなたは、水谷麻梨子の死を納得することができない」
わたしははあっと溜息をついた。
「わかった」
「……そうですか。それは良かった」
電話は切れた。わたしは走り出した。急がなければ、間に合わなくなる。
間に合わなければ、わたしのせいだ。わたしの──
5
最後の階段を二段飛ばしに駆け上がった。ドアは開いていた。飛び込んだ。視界がきかなかった。
黒い雲のせいだ。
わたしは息を切らしながら周囲を見回した。右側の一番端、手すりの向こう側に、その男は立っていた。濃紺のコートを身にまとった男。風が吹いて、男の身体が危なかしく揺れた。
「まだ、五分たってないよ」
わたしは声をかけた。
「まだあと三十秒ある。こっちに来てくれない? せっかく自殺を止めに来てやったんだから」
男はゆっくりと振り向いた。わたしの後ろのドアから漏れる階段室の明かりの逆光で、その顔はよく見えなかった。
「どうして、こっちを選んだんだ?」
悪魔は不思議そうに言った。
「あんたの最後のセリフで気がついたからよ。わたしは確かに、麻梨子が死んだ理由を知りたがってる。あんなに若くて、きれいで、幸せだった女が、命を断ち切られなければならなかった理由を知りたい。納得できなかった。でも、水谷にどんな動機があったにしても、それを聞いたところで、不意の死、平和な日常をぶったぎる死を、納得できるわけなどない。死を納得できる理由なんか、どんなすご腕の探偵にも見つけられっこないもの」
男は黙っていた。わたしは一歩、彼に歩み寄った。
「さっき、帰って寝ろって言ったでしょ。村木さんも同じことをわたしに言った。おかげで村木さんがわたしに言った、もうひとつのセリフを思い出した。彼は言ったわ。暗示にかけられているのは、葉村、おまえのほうじゃないのかって」
男の肩が微かに震えた。
「あんた、わたしにも暗示をかけたのね。どうしても水谷麻梨子が殺された動機が知りたくなるように。その気持ちを耐えがたいほど、強くした」
「暗示が解けたのか」
男はぽつんと答えた。わたしは叫んだ。
「冗談じゃない、解けたもんか。いまこうして話してても、麻梨子が殺された理由が知りたくて、知りたくて、気が狂いそうよ。だけど──」
遠くで消防車のサイレンの音が聞こえてきた。男は長谷川探偵調査所の事務所の方角を眺め、声をたてて笑った。それから低い手すりを乗り越えて、こちらに戻ってきた。
「俺がどんな人間か、葉村晶、おまえほどよく知っているやつはいない。俺は松島詩織を自殺に追い込んだ。俺のおかげで他にも多くの人間が、意味のある死を遂げた」
「意味のある死?」
「たいていの人間は無意味な死を遂げる。病気や事故、偶然に起こり、生をぶったぎる、退屈で許しがたい死。いつやってくるかわからない、その死の恐怖に怯えながら生きているのが人間だ。地獄だと、思わないか」
「そうは──」
「思わない? だが、ある人間の死が無意味なら、そいつの生だって無意味だ。自分の人生なのに都合も予定もたてられないんだぜ? だから俺は松島詩織を初めとして、いろんなやつらに、自分の死を選ばせてやった。そいつらの生を輝かせるために。この先、いつまでも地獄で無意味に生き続けるより、やつらの生は、自分自身でピリオドを打つことで、はっきりと意味あるものになったんだ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ、この悪魔」
風が強くなり、声がちぎれた。
「いつ死がやってくるかわからないから、生が地獄だ? そうじゃない、あんたは死を弄びたいだけよ。他人の死を演出して、楽しんでいるだけじゃないか。その口実に、生を地獄だと言い張っているだけ。そんな都合のいい地獄、あるもんか」
「だとしたら、あんたは悪魔を助けたことになるな、葉村晶」
男が近寄ってきて、手を差しのべた。わたしはそれを振り払った。
「──やっとわかった。わたしがあんたを見捨てれば、あんたの自殺はわたしのせいになる。あんたを見捨てなければ、あんたがこれからするすべてのことがわたしのせいになる。自分で自分の責任を負うこともできない甘ったれた馬鹿男が、どっちにしてもわたしを巻き込んで──どういうつもりだか知らないけど──どうしてわたしを選んだのかもわからないけど──」
「あんたになら、安心して任せられると思ったからさ。あんたならきっと、俺が自殺する理由を、探し出してくれるだろうと。相場みのりの婚約者の自殺の動機を見つけ出したように。由良香織の死の真相を突き止めたように。理解できないものに食らいついて離さない、あんたみたいな探偵になら、後を任せられる。俺が自殺する理由を、動機を、必ず見つけ出してくれるだろう?」
「そんな探偵、他にいくらでも」
「仕事に誠実で、妥協しない探偵。そんなやつ、そうはいないよ。だって、そんな探偵、長続きするわけないもんな。長谷川所長のように投げやりになるか、村木のように見て見ぬふりをするか、水谷のように狂気に逃げ込むか」
男はなお近づいてきた。後ずさりしたい気持ちと必死に戦った。怖かった。その恐怖に打ち勝てたのは、怒りのためだった。
「どうでもいいけど、所長や村木さんの悪口はやめてくれない。お誉めに与《あず》かって光栄だけど、わたしは調査を放り出してここへ来たんだから、あんたが考えていたよりずっとチンケな探偵だって、納得いったでしょ」
「どういたしまして。考え違いは一点だけだった。葉村晶は仕事に誠実じゃない。自分自身に誠実だったわけだ。ご苦労様。でも、これで終わりじゃない」
「どういう意味よ」
「震えてるぜ」
男が肩をつかんだ。ふっ、と笑う息が耳元に流れてきた。
「あんたは俺を追い続けることになる。俺が何者で、次は誰を死なせるのか、知りたくてしかたなくなるはずだ」
「何者なのよ。──ひょっとしてあんた、自分でも自分が何者なのか、わかってないんじゃないの? それを知りたいのはあんた自身なんじゃないの? 自殺するとかなんとかわたしを脅しておいて、本当は死ぬ気なんか少しもなくて、ただ──わたしに──」
追いかけてほしいだけなんじゃないの、あんたは本当は誰かに見ていてほしいだけの甘ったれた馬鹿男なんじゃないの、と言いかけて、わたしは口をつぐんだ。代わりに、わたしは口調を変えて言いたした。
「あんたがどこの誰で、なにが目的なのか探り出す前に、わたしのほうが偶然死んでしまうかもね。そうしたら、どうする?」
悪魔の手が肩から首の後ろにまわった。死人のように冷たい手だった。鈍い痛みが伝わってきた。
「偶然の死なんか許せない。さっき、そう言ったはずだよ。きっとあんたも、俺を追い続けていればそう思うようになる。偶然の死なんか許せない、そのくらいなら、偶然ではない、因果のはっきりした死を与えられたいってね。あんたにもプレゼントしてやろうか。確かな、自らの手で勝ち取った死を。あんたの姉の珠洲に贈ったように」
嘘だ、と叫ぼうとした。身体が動かなかった。男と目があった。わたしを通してどこか違う世界を見ているような、細い目の中の、黒く濁った瞳。
その瞳がだんだん広がってきて、視野いっぱいになって、空一面にひろがってきて──
6
その日は朝から急激に冷え込んだ。空気が透明で、朝の日ざしを浴びて、あらゆるものの輪郭が明瞭に見えた。新宿の、地下にある私鉄の駅を降りて地上に出ると、普段は薄汚い町がきらきらと光っていた。
長谷川探偵調査所の事務所のある階段を上り、ドアを開けた。リノリウムの床の真ん中に焼け焦げがあった。大ざっぱに拭いたと見えて汚れが周り中に広がっていた。左手を三角巾で吊った村木義弘が、脚をデスクに載せて雑誌を読んでいた。
「よう」
「おはよう。傷の具合は?」
「車の運転はできねえし、飯もうまく食えない。独り暮らしのわびしさがいっそう身にしみてますぜ」
「村木さんって、結婚してなかったっけ」
「こんな商売でそんな物好き、どうやって捕まえんだよ。おまえのほうこそ、その性格治さないと嫁にいけねえぞ」
「ほっといてちょうだい。──所長は?」
「どうせパチンコだろ。消防署に大目玉食ったって、しょげてたぜ。しかたないけどな。自分の事務所の真ん中で焚き火しちまったんだから」
わたしは溜息をついた。あれから五分後、気づいたときにはわたしは無人の屋上でぼんやりと雲を眺めており、慌てて事務所に取って返した。あらかじめ消防署に連絡しておいたのは間違いではなかった。長谷川所長は閉め切った部屋の中、床の上で書類を燃やしていたのだ。消防車が駆けつけて、煙に気づいてドアをこじ開け、押し入ってくれたからよかったようなものの、そうでなければビルは丸焼け、所長も灰になっていたところだった。
「所長まであいつの暗示にかかってたとはね」
椅子を引き出して座り、買ってきた缶コーヒーのプルトップを引き上げながらわたしは言った。
「どうなんだろう。催眠術ってそんなことまでできるんだろうか。あいつは──本当に悪魔なんだと思う?」
「そう思うからおまえ、所長に自分との契約を破棄してくれって言ったんだろ」
村木が雑誌を放り出して、真顔になった。
「あ、聞いたの?」
「聞いたの? じゃねえよ、このタコ。葉村のこった、どうせ自分が悪魔に目をつけられているから、巻き添え食って車にひかれたりするような人間がこれ以上出ないように、できるかぎり人間関係を断ち切ろうって腹なんだろ」
「別に、そんなつもりじゃ」
我ながら力なく抗弁しかけたところへ、今日は手ぶらの所長が戻ってきた。所長はわたしをじろりと見た。
「なにかごまかそうとしてたな。さっき、葉村のルームメイトの彼女から電話があったぞ。マンション出ていくつもりなんだってな」
「ええ、まあ」
「どこまでひとりで抱え込もうとすれば気が済むんだろうな。馬鹿だよ、葉村は」
「どういう意味ですか」
所長は両手を打ち鳴らした。
「あいつに丸めこまれてるって意味だよ。──ひとつ教えといてやろう。俺も伊達にこの商売で長年飯食ってるわけじゃない。首筋にあざのある男を知らないかって、聞き回ってみたんだ。そうしたら、奇妙な噂が出てきた」
「奇妙な噂?」
「以前、そういう探偵がいたって噂だ。すご腕で、仕事に誠実で、どんなささいなネタにも食らいついていく。依頼を果たすどころじゃない、なにか自分自身で納得できないことがあれば、どこまでも食い下がっていく、そういう探偵が。──誰かに似てると思わないか」
村木がにやにや笑うのに仏頂面を向けてやって、わたしは所長に訊いた。
「それで、その探偵はいったい」
「噂だって言っただろ。詳しいことなんぞ、誰も知らない。伝説みたいなもんだ。ただ、これだけは言える。あいつは化け物でも超人でもない。ただの人間だ。仕事のしすぎかなにかでバランスを崩した、病的な人間ってだけのことだ」
「だけど」
所長は苛立たしげにわたしに向かって手を振った。
「いいか。確かにあいつは多少催眠術が使えるのかもしれない。現に、俺だって、内心この稼業をやめたがっていることを見抜かれて、手当たり次第書類燃やしてしまえ、そうすればやめられる、という誘惑に逆らえなかった。だけど、そいつを過大評価することはない」
所長の冷静な口調が、気に入らなかった。
「だってあいつは、松島詩織や水谷や──それに、珠洲まで自殺に」
「それが過大評価だっていうんだ。やつにはちょっとしたことを忘れさせる能力、思い込ませる能力があるのかもしれない。だが、万能じゃない。松島詩織の自殺のときのことを考えてみろ。なんでもできるやつだったら、あんな手を使わなくたって、松島詩織を自殺させられたはずだ」
「でも、それじゃ水谷は? 水谷はあいつに追いつめられて、だから自殺した」
「それは推測にすぎない。他人を簡単に自殺させられるやつなんかいない、と俺は思う。それを前提にして、こう考えたらどうだ。水谷はやつに会ったから自殺したんじゃない。水谷は少しずつ治療の効果が現れて、自分が麻梨子ちゃんを殺したことを思い出した。だから自殺した。水谷が自殺した後、やつはその直前に水谷に面会したように、面会の受付担当官に思い込ませた。そうすれば、水谷の自殺は自分の力によるものだと、葉村に思わせることができる」
所長の言葉は、ゆっくりとわたしの脳にしみこんでいった。
「でも、あいつはみのりや村木さんに暗示を与えたんでしょう。あの車の運転手にも。それだけの力があいつにあって──」
「落ち着けよ」
村木が口をはさんできた。
「それだけの力しか、ないんだ。おそらく、葉村の友達には時間ちょうどに新宿三丁目駅のホームに行くような暗示を与えた。運転手にも俺にもあの時間あの場所にいくようにしむけ、運転手には足が思うように動かなくなる、俺には身体が動けなくなるような暗示を与えた。だが、最初からやつは、葉村は結局は生きているほうを優先すると、ふんでたんだ。そして友人や俺のところに駆けつけたとき、あいつが背後にいることをにおわせる程度の、なにかが起こればよかった。たまたま、あの姐ちゃんがハンドルをあの位置で左に切ったこと、その正面に俺がいたことは、偶然にすぎなかったんだよ」
「あいつは水谷が麻梨子を殺した動機なんか、本当は知らない──そういうこと?」
「知ってる必要はないからな。葉村は結局、多摩動物公園駅や飯田橋駅へは行かなかった。所長が燃やした書類のなかに、水谷の殺人動機に繋がるものはなかった」
「どうしてそう言い切れるの」
所長がわたしたちを等分に眺め、ゆっくりと言い出した。
「やつの気持ちになって考えてみればいい。葉村はやつが自殺しようとしていることを知りながら、それをほったらかして書類をとりに事務所に戻った。ところが、そんなものはなかった。そのほうが、おまえの受けるダメージはよっぽどでかくなるはずだ」
「所長の言うこともわかりますけど」
わたしは爪を噛んだ。所長はこちらの顔色をうかがうような目つきになった。
「葉村が気にしてんのは、姉さんのことだな。珠洲さんの自殺にあいつが関わっていた、そう思ってるのか」
「そんなはずないと思います。けど、確信はない──持てないんです」
「あいつは悪魔じゃない。万能でもない。とすると、考え方が逆なんだよ」
「逆って?」
「あいつが探偵・葉村晶を買いかぶるようになった理由は、これまでおまえが何人かの自殺の動機を探り当てたせいだった。どうして探り当てることができたか。それは、珠洲さんの自殺のおかげだったんじゃないのか」
わたしははじかれたように顔をあげた。
「葉村だって、すべての調査を成功させているわけじゃない。だが、こと自殺の動機となると、執念深く調べてきた。それは、姉さんの自殺に納得がいっていないからじゃないのか。おまえとあの姉さんの関係が異常にこじれていたせいで、その死に目を向けたくなかった。だが心のどこかで、納得できていなかった。だけど、姉の自殺のことは考えたくない、なぜなら深く追及していくと、自分のせいだということに落ち着きそうだったからだ」
わたしはデスクの脚を蹴飛ばして怒鳴った。
「いくら所長でも、それ以上は」
村木がわたしの言葉を遮った。
「葉村のせいじゃない。いくら本人がそう言い残しても、客観的にはおまえのせいなんかじゃない。俺が言っているのは、おまえの主観的な事実のことだよ。自分のせいにしたほうが、他に理由が見つからないよりましだ、葉村の精神構造はそうなってる」
「おふたりとも、ずいぶんわたしのこと、よくご存じだこと」
村木はにやりとして、顎を撫でた。
「要するに、葉村は珠洲さんの代償行為として、自殺の原因を探すことに執着しているってこったな。やつはそれを知って、葉村を動かすために利用しようとしているにすぎない。もし、珠洲さんや水谷の死があいつのせいだとしたら、葉村は嫌でもあいつを追い続けなければならなくなるから」
ふと、生を地獄だと思わなければ生きていけない気持ちって、どんなものなんだろう、と思った。食料がなかったり戦禍にあったり親しい人間を次々に失ったり、そんな本当の地獄を、あいつが生きているとは思えなかった。実感のない、あやふやな、退屈な日常を生きていて、それに苛立って、無理やり生を地獄と思い込もうとしているんじゃないか、そんな気がした。
架空の、都合のいい地獄。それに現実感を与えるために、やつはわたしを選んだのか。執念深い探偵に狩りたてられることで、いっそう地獄を本物に近づけたいのか。
「いくら契約探偵だって、悪魔と契約したんじゃしゃれにならんだろ」
所長は落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返した。
「葉村が探偵をやめたいというなら、それはそれで仕方がないがね。やめられるわけはないと思うな。だったら、うちとの契約、続ければいい。やめたところであいつが葉村を動かそうと思ったら、どのみちまた、巻き込んでくるに決まってるんだ。それにだ、葉村」
「はあ」
「プライドを持っているのは、おまえだけじゃないんだ」
今度こそ勝ってくる、と呟きながら所長は返事も聞かずに出ていった。わたしは椅子にへたりこんだまま、床の焦げ跡をにらみつけた。
きれいに消してやる、と思った。
この先なにが起こるか、自分がどう対処できるのか、少しもわからなかった。霧の中にいるような状態で、なににぶつかるかわからず、ひょっとすると死にぶつかるかもしれない。死が、後ろからついてきているのかもしれない。それでもとりあえず、いまできることを、できるかぎりの力で、するしかない。
立ち上がって、流し台に向かった。輪ゴムで髪をしばり、痛いほど冷たい水で雑巾を絞って、床を拭き始めた。力いっぱい、ごしごし拭いた。
「葉村、俺んちも掃除してくれよ。ほら、片手だからさ、掃除もままならないんだよな」
「よく言うよ。両手あいてたって、掃除なんかしやしないくせに」
「そう、だから足の踏み場も──」
黙り込んだ村木を見上げた。彼は奇妙な表情で、わたしを見下ろしていた。
「どうかした?」
「いや、葉村、おまえ──」
「なによ」
村木は不思議そうに言葉を継いだ。
「おまえ、首の後ろにあざなんかあったか? そんな青黒いあざなんか」
初 出
「濃紺の悪魔」週刊小説 98年9月4日号所載
「詩人の死」小説TRIPPER 97年冬季号所載
「たぶん、暑かったから」オール讀物 93年11月号所載「ホリデー」改作
「鉄格子の女」ポンツーン 98年11月号所載・改作
「アヴェ・マリア」小説NON 95年2月号所載・加筆訂正
「依頼人は死んだ」別冊文藝春秋228号(99年7月)所載
「女探偵の夏休み」週刊小説 99年8月20日号所載
「わたしの調査に手加減はない」小説NON 99年2月号所載
「都合のいい地獄」書き下ろし
単行本 2000年5月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十五年六月十日刊