【トラブル・トラブル】 若月京子
瀬尾忠志《せのおただし》はいつものように高校に向かうべく、扉を開けて外に出た。朝の光は眩しく、忠志の大柄な体が少しだけ怯む。
キリリとした眉の下の切れ長の瞳を瞬かせながら、忠志はいつものように隣家の住人…幼馴染みの鹿野雅之《しかのまさゆき》宅のインターホンを押した。
すると、さほど待つ必要もなく、同じ制服を着込んだ雅之が姿を現す。忠志と目が合うと、優しく整った顔がニッコリと笑った。
「おはよう」
やわらかそうな髪と、綺麗に透き通る瞳が柔和な顔立ちに合っている。相変わらず「可愛らしい」という表現がピッタリだった。
忠志は慣れてしまっているせいか、それにさしたる感慨も持たず返事を返した。
「おはよう」
二人とも真面目なほうだったので、朝の挨拶は欠かさない。
そのまま並んで駅の方向に歩き始めると、すぐに雅之は小さく欠伸をした。そして眠そうな様子で軽く目を擦る。
「寝不足か?」
「ん…。昨日、ちょっと夜更かししちゃって……」
「お前、自分で寝不足に弱いって知ってて、何で夜更かしなんかするんだ? お前は一度夢中になると、周りが見えなくなるんだからな。ほどほどにしとかないと、どんどん目が悪くなってくぞ」
「うん…今、ちょっと危ない。この前…四月の身体検査で測ったときは〇・六あったんだけど、ずいぶん落ちてる気がするし」
「眼鏡なしで平気なのか?」
その質問に、雅之は意識して遠くを見つめる。かなり大きな字で書いてある看板ははっきりと読むことができず、近くのものでも微妙に輪郭がぼやけて見える。
「もう、作らないと駄目かも」
あまりにも呑気な発言に、いつものこととはいえ忠志は溜め息をついてしまう。
「それでなくてもお前はぼんやりしてるんだから、気をつけろよ。目が見えなきゃ、余計その性格に拍車がかかるだろうが」
「そうだねぇ…」
忠告する忠志に対して、雅之はその返答までもがのんびりとしている。雅之のことをよく知っていなければ、もしかしてネジが一本外れているのではないかと疑うところである。
「とにかく、明日にでも作りにいけよ」
「うん…分かった」
そんなことをとりとめなく話しながら駅に向かっていると、突然上のほうから女性の悲鳴が聞こえてくる。
「キャー……危ないっ!」
咄嗟に上を見た忠志は、すぐ間近に何かが迫っていることに気がつく。考えるよりも先に体が動き、隣りで立ちつくしている雅之の腕を引っ張ると、一瞬の差で身を躱《かわ》した。
ガシャンという音と共に、その何かが地面に叩きつけられる。
間一髪で落ちてきたものから逃れることのできた忠志と雅之が見たものは、小さいとは言えない鉢植えの蘭の花である。
それは大人の頭ほどもあって、当たれば怪我だけではすまないかもしれなかった。
忠志はホッと安堵に胸を撫で下ろした。そして改めて上のほうを見ると、四階で女性が硬直したままこちらを見ている。
「四階か…下手したら死んでたな」
そう呟いた忠志は、自分の腕の中で体を堅くしている雅之に気がつく。雅之は目をパチクリとさせ、不思議そうに無残に壊れた鉢を見ていた。
「雅之? 何が起こったか分かってるか?」
「ええっと…上から鉢が落っこってきて、危ないところで助かった?」
「正解」
小さく頷く忠志に、雅之はお礼を言った。
「また忠志に助けられちゃったんだ。…いつもどうもありがとうございます」
「どう致しまして」
雅之が「いつも」と言うのには理由があった。どうしたわけかこの綺麗な顔をした人物はこういった偶発的な事故に会う確率が高い。しかもそれは、異常な…と言っていいほどの割合なのである。
鉢が四階から落ちてくるのが運命だったとしても、何故かそれが「たまたま」雅之の上にタイミングを見計らったように起きるのである。
それはほんの小さなときから同じで、雅之の両親は真剣に御祓《おはら》いをしたほどである。しかしまったく効果がなく、常に何らかの事故と隣り合わせに暮らしながら、いつもギリギリの線で助かるという体験を繰り返している。
運の悪いことに、隣りに住み、幼馴染みとして仲のよかった忠志も必然的に巻き込まれ、数々の試練を経験させられていた。そしてやがては、それらから自分と雅之を守るまでに成長することになる。
今ではすっかり雅之の両親に頼られ、今の高校に二人揃って進学したのも、雅之の母の「忠志くんと同じ高校に行かないと、雅之みたいにボウッとしているのは事故で死にかねない」とお願いされたからである。
もっともそれも、二人の成績が同じくらいだから可能なことだった。
通学可能区域は限られており、そこから成績で選んでいくとそうたくさんは残らない。大学受験のことを考えれば、自然と志望校は決まっていった。
かくして二人は無事に志望校に受かり、まるで小学生のように、毎日家から一緒に登校しているのである。
「可哀相に…」
雅之はそう呟くと、地面に叩きつけられて茎が折れてしまっている蘭を掌《てのひら》で掬《すく》う。
「接《つ》ぎ木すれば大丈夫かな?」
「ちょっと無理じゃないか? 蘭は繊細な花だって聞いてるぞ」
「うーん…」
とにかくそのままにはしておけないので、二人は持ち主が来るのを待った。
しばらくするとマンションの入口から蒼白になった女性がバタバタと出てきて、忠志と雅之にペコペコと何度も頭を下げる。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 花に水をあげてて、虫がついてないかどうか点検してたら、つい手が滑ってしまって…。ごめんなさい」
忠志たちよりも、その女性のほうがよほどショックを受けたらしい。顔色は紙のように真っ白で、今にも倒れそうである。
反対に忠志たちは、こういったちょっとした事故には慣れていたので、ヒステリックに怒るでもなく言った。
「二人とも無事でしたから、そんなに気になさらないで下さい。でも花を育てるのは構わないんですが、気をつけないと死人が出ますよ。四階ですからね」
「はい。本当にすみません。棚の位置を低くして、倒しても落ちないようにします」
その女性は、ペコペコと何度も頭を下げる。自分の迂闊《うかつ》さを心の底から謝っているのは疑う余地がなかった。
雅之は忠志の後ろから顔を覗かせると、女性に向かって蘭を差し出す。
「あの…これ、大丈夫ですか?」
そっと大切に持っていた蘭を、雅之は女性に手渡した。
「枯れちゃいませんよね? 生き返りますよね?」
蘭は無残な様相を呈している。せっかく咲いた花はひしゃげていたし、綺麗に伸びた葉も酷く傷ついている。何よりも、折れた茎が致命的に見えた。
女性は自分の蘭を見て、悲しそうに顔を歪める。
「難しいですけど…やってみます。私の不注意で枯らしちゃったら可哀相ですから」
「頑張って下さいね」
「はい。本当にすみませんでした」
何度も何度も申しわけなさそうに謝る女性に軽く会釈をして、二人は再び駅に向かう。思わぬアクシデントで少し遅れたため、その足取りは速い。
「五十六分の電車、間に合うか?」
多少慌てながら聞く忠志に、あくまでも雅之はおっとりと答える。
「ちょっと難しいんじゃないかな? でも、三分の電車には間に合うから、遅刻はしないはずだけど」
「ギリギリだなー…」
「しょうがないね。急ごう」
「おう」
二人は更に足取りを速めた。
雅之と忠志の二人は、いつも同じ電車の同じ車両に乗ることにしている。
特別にこだわりがあるわけではなく、朝なるべく多く眠っていられ、更には遅刻しなくても済む電車というだけの話である。乗る車両も、ホームに降りるとすぐに階段のある場所だから都合がいいだけだった。
午前八時三分。
しかし今日はちょっとしたアクシデントで遅くなり、いつもよりも一本あとの電車になってしまった。
二人は若干多いように感じられる人波に押されるまま、電車の奥に入り込む。この時間帯は特に通勤・通学のラッシュ時で、その混み方は酷いものである。一旦ドアが閉まって位置が決まってしまうと、鞄を動かすこともできなくなってしまうほどだった。
そんな中で、雅之はボウッとした顔で電車の揺れに身を任せていた。
見る相手に綺麗だと感じさせる顔立ちは柔和で、おっとりとしている。こんな状況にも関わらず、遠くを見ているような瞳がユラユラと揺れていた。
雅之の背後にいた男が、モゾリと動いた。四十を超えているだろうそのサラリーマンは、狭い空間の中で、雅之の制服の尻を触り始める。
丸みに沿ってペッタリと手が張りつき、ついでサワサワと感触を味わうように動き出す。それは明らかな痴漢行為だった。
しかし雅之はまったく気がつかない。
相変わらず何を考えているのか分からない表情を浮かべたまま、ボウッとして上のほうを見ていた。
だが隣りに立っていた忠志は、すぐに異変に気がついた。
雅之の背後に立った中年のサラリーマンの呼吸は荒く、頬が紅潮している。あからさまに様子がおかしかった。
忠志は雅之の背から腰へと確認していって、やがてはその尻にピッタリと張りついた手を見つける。
怒りに眉を吊り上げると、その痴漢の腕を思いっきり捩《ね》じり上げた。
「おっさん、男相手に痴漢なんかしてんじゃねぇよ」
悲鳴が男の口から漏れたが、忠志は容赦なく力を込めて腕を軋《きし》ませる。そして相手の胸ポケットから名刺を取り上げた。
「ふーん…大手商事会社の部長さん? 男相手に痴漢したなんて会社に知れたら、出世はパーだろう? それどころか、下手したら首かもな」
半ば脅迫めいた言葉にはかなりの威力があったようで、男は目に見えて顔色を青ざめさせた。カタカタと震える体が情けない。
忠志はそれを見て取ると、あっさりとその腕を離してやった。
「おっさん、後悔してるみたいだし、今回は見逃してやるけどな。もし次があったら、そのときは警察に突き出すからな。憶えておけよ」
男は蒼白な顔で何度も頷き、強張ったまま小さくなって下を向く。周りの乗客の冷たい視線が突き刺さっていた。
やがて電車がホームに着くと、男は扉が開くのと同時に脱兎のごとく逃げ出した。
乗り継ぎの多いこの駅でかなりの乗客が降り、車内の人工密度がわずかとはいえ緩む。人と人の間に隙間ができるようになっていた。
雅之と忠志が降りる駅はまだまだ先である。周囲の乗客の好奇心の視線を気にすることもなく、そのまま乗り続けていた。
こんなことは初めてではないのである。
おっとりとした柔な美貌が周囲につけ込みやすい印象を与えるのか、雅之は痴漢さんや不良さんによくもてる。うっかり目を離すと建物の影で恐喝をされてしまうし、人込みの中に放り込めば痴漢が寄ってくる。
忠志はいつものことながら、雅之の鈍さに溜め息をついた。
「長いこと幼馴染みをやってるしな、俺も今更お前に過大な期待は寄せないけどな。せめてケツを触られてることくらい自分で気がつけ!」
雅之は露骨な表現に、少しだけ顔を赤くした。
「うん、ごめん。これから気をつける」
実に素直に言うことを聞くし、記憶力も悪くないのだが、雅之のこういった言葉が守られた試しはない。「喉元を過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があるが、雅之の場合その熱さを感じていないのだから問題である。
忠志の溜め息は、より一層深いものになった。
そんなとき、周囲の迷惑を省《かえり》みず、大きな声で朝の挨拶がかかる。
「いよー、忠志! 雅之! おはよっす!」
忠志は頭一つ分出ている長身を活用して、周りをキョロリと見渡した。すると予想した通りの人物が、自分のほうを向いて手を振って寄越す。
「巧《たくみ》か…。おはよう」
体は人並みに過ぎないが、その分エネルギーが有り余っている友人は、朝から楽しそうに笑いながら元気よく近寄ってきた。
好奇心に輝く瞳が、まるで子犬のような印象を与える。
先程よりはマシになったとはいえ、まだまだ鮨詰《すしづ》め状態の車内である。このギュウギュウ詰めの人込みの中で、上手い具合に間を見つけて進めるのは、やはりその強烈なバイタリティのおかげに違いない。
巧は二人のすぐ側まで来ると、楽しそうに目を輝かせて言う。
「見てたぜ、見てたぜー。相変わらず苦労してんな、瀬尾の旦那は」
「そう思うか?」
「思う、思う。雅之の側にいるって、実際に大変なことだよな」
「……どうして?」
軽く首を傾げて聞く雅之は、本当に意味が分かっていない。やはりポワンとした表情のまま、巧を見上げていた。
「ま、それが雅之だから…」
わけの分からない言葉である。
しかしあいにくと、雅之はあまり一つのことにこだわる性格ではなかったので、巧が別の話題を切り出すと、すぐにそちらのほうに興味が移ってしまう。
「なぁ、宿題やってきたか? 俺、今日は当たり日なんだよ」
「今日は十四日だから、四がつく出席番号ってこと?」
「そうそう。俺、二十四番なんだよな。やっぱ、当たるんだろうなぁ」
そう呟いて、巧は鞄を小脇に抱え、両手を合わせて雅之にお願いをする。
「なっ! 頼む、雅之! 漢文、写させてくれ」
「いいけど…漢文だけでいいの?」
「いい、いい。充分。怖いの有本だけだもん。あとは皆、何とかなるって。宿題を写すのも、結構大変だからな」
「………」
沈黙する雅之に、呆れる忠志。
「お前って、もしかして大物?」
「ま・な。よく言われるぜ」
「………」
臆面もなくそんなことを言う巧に、今度は二人して仲よく沈黙をしてしまった。
「巧って…よく分からない……」
「俺もお前のこと分かんねぇから、おあいこだろうが。別に分かっても得するわけじゃなし。そんなことよか、俺は国語の小テストが心配だ」
「お前は、何でもバランスよく苦手だからなぁ…」
「そうなんだ」
嫌味で言った忠志の言葉を、巧は明るく笑って流してしまう。
どんなに混み合った電車内でも、奥の方に入っていけば意外にゆとりはあるものである。三人はそのまま談笑をしていた。
五月も終わりに差しかかると、窓から入ってくる暖かな陽射しのおかげで、車内は暑いほどである。制服は六月に入るまでは冬服のままで、暑く感じたとしてもこの人込みの中では脱ぐこともできない。
それでもホームから離れた車内には、どことなく落ち着いた雰囲気が漂ってくる。電車の動きに身を任せる乗客たちは穏やかだった。
そんな中、突然電車が急ブレーキをかけた。
ガクンと膝が折れる。
前後にかなり激しい揺れが起こり、立っていた乗客は堪えきれず、そのほとんどが床に倒れ込んでしまった。
忠志は、咄嗟に雅之のことを庇おうとする。相変わらずボウッとしているその腕を引き、自分の大きな体の中に上手く取り込んでしまう。
それら一連の動作を、考える前に体がやってのけてしまうところに、長い長い幼馴染みとしての歴史がある。
何せ雅之はいつもゆっくりとしか動かないので、一人で放っておいたら受け身もできずに大怪我をするに違いない。それでなくても細くて頼りない体が、これだけの乗客の下敷きになって耐えられるわけがなかった。
一方、巧は、庇ってくれる人間もいないまま、横倒しになった人の波に飲み込まれてしまっていた。しかも運の悪いことに、一番下で潰されている。
「いってぇ〜!」
車内のあちらこちらから痛みを訴える声が響き、それでも電車が完全に止まっていることでパニックにはならずにすんだ。
ようやくのことで衝撃から立ち直って、乗客が起き上がり始める。
忠志も雅之を抱えた腕を解き、ゆっくりと腕を引いて立たせてやった。そして体を小さく動かして、怪我がないことを確認する。
「雅之、大丈夫か? 怪我は?」
「んー……」
雅之もまた、首を回したりして怪我の有無を調べ始めた。
「大丈夫みたい。どこも痛くない」
「そうか。よかったな」
「ん。忠志のおかげだ。いつものことながら、どうもありがとう」
「どう致しまして」
二人がほのぼのとお互いの無事を確かめ合っていると、下のほうから暗い声がかかる。恨めしそうな声だった。
「お前らー…、俺のこと忘れてないか?」
「ああ、悪い。忘れてたわ」
「ひでぇ…」
躊躇《ちゅうちょ》することもなくあっさりと頷かれ、恨みがましい目つきで睨む巧に、忠志は苦笑しながら手を差し延べた。
「ほら、大丈夫か?」
「どうせ俺なんて、お前たちにとって豆粒ほどの価値しかないんだ…」
口の中でブツブツと文句を言いながら、巧は忠志の腕を取る。そしてグンと反動をつけて、勢いよく起き上がった。
何があったのか分からずザワザワと動揺する車内に、車掌からのアナウンスが入った。
『ただいま、人身事故が発生致しました。お急ぎのところ誠に申しわけございませんが、発車までもう少々お待ち下さい』
それだけ言って、慌てた様子でプッツリと放送が切れる。
人身事故という言葉と、遅れるかもしれないという事態に、車内のざわめきは大きなものになってしまった。
「…人身事故って、自殺ってことだよな? こんな踏み切りでもないところにわざわざ飛び出すヤツもいないもんな。やだねー…マジで轢《ひ》いちまったのかなー?」
「さぁな。何にせよ、朝の自殺はえらい迷惑だ」
忠志は生真面目なところがあるので、遅刻をするかもしれないということで憮然としている。眉をしかめる忠志に、雅之は困った顔で言った。
「そんなふうに言うもんじゃないよ。自殺するなんて、大変なことなんだから。…よっぽどのことがあったんだよ、きっと」
「だからといって、人に迷惑をかけていいってもんでもないだろう? 轢死《れきし》の場合はな、バラバラになった死体を駅員が拾い集めなくちゃいけないんだぞ? 警察官でもなく、ただのサラリーマンでしかない駅員がだぞ?」
「う…それは……」
思わず呻く巧に、忠志は更に言葉を続ける。
「しかもそんな気持ちの悪いものを目の前で見せられたヤツらだって、しばらく眼に焼きついて離れないぜ。雅之は、そんなものを見せられたらどうする?」
雅之は乏《とぼ》しい想像力を駆使して、その光景を頭に思い浮かべてみた。すると考えるまでもなく、答えはすぐに出てくる。
「吐く」
「だろう? まぁ自殺すれば、どのみち誰かに迷惑をかけるもんだけどな。それにしても電車に飛び込むなんてのは最悪だ」
妙に説得力のある忠志に、雅之は首を傾げる。
「何でそんなに詳しいわけ?」
「父方の従兄弟が…何とかいう駅の駅員なんだよ。何て名前だったかな? この前、たまたま当番で死体拾いやらされたらしいぜ。電話口で延々とその話をされて、最後に、『自殺するときは電車に飛び込むのだけは止めてくれ』って言われた」
「う、うーん…。それもちょっと何だよねぇ。その前に、普通は『自殺なんてするな』って言うべきだと思うけど」
「ま、それはショックを受けたての人間だからな。頭の中はもげた腕やら足やらがグルグル回って、飛び込みしたヤツに対する恨みで一杯だったみたいだし。そのときは、電車を動かすまでに三十分かかったって言ってたな」
「三十分?」
「ああ」
巧は大きく肩を竦《すく》める。
「やれやれ。下手したら三十分もこのままで足留めかよ。俺たちも運が悪いよなぁ。…ところで、俺の鞄を知らないか? どこかに飛んでったらしい」
「鞄ねぇ?」
三人でキョロキョロと下のほうを見回して、巧のすぐ後ろの座席の下に発見する。
「巧、あそこ…」
「ん? ああ、あれだ、あれだ」
そう言いながら、巧は人を掻き分けて鞄に手を伸ばした。指先に、持つ部分が引っかかったのを確認して、グイッと力を込める。
「いてぇ!」
ざわめく車内に響く悲鳴に、忠志たちは顔を見合わせた。
「ど、どうした?」
巧は左手首を押さえながら、苦痛に顔を歪めている。心配そうに覗き込む忠志たちに、低く呻きながら答えた。
「うー…手首、痛ぇ。そういやさっき、倒れたときに思いきり手をついたから、そのときに捻挫《ねんざ》でもしたかな?」
「それは…運が悪かったな。お前、一番下になったから、その分きつかったんだろう」
「まいったなぁ…。もうすぐ水無月祭だっていうのに」
怪我をしていると気がつくと、途端に痛みが込み上げてくる。巧はズキズキと痛みを訴えている左手首を押さえ、ブツブツと文句を言った。
「ああ…でも、お前たちに会ったときから、ある程度のトラブルは覚悟してたんだけどなー…。まさかこうくるとは…」
「俺たち? 俺は関係ないぞ」
「ん? そうだな。悪かった。言い直す。『雅之と会ったときから覚悟してた』だ」
「………」
その言葉に、雅之は困った顔をした。
「別に…僕のせいだとは限らないと思うんだけど……」
オズオズと発した言いわけは、あっさりと否定されてしまう。二人とも難しい表情で雅之を見つめ、きっぱりと首を横に振った。
「そ…そうかな……?」
「そうだ」
「………」
雅之は溜め息をつくと、巧の左手に視線を移す。少し腫れ上がっているように見えて、心配になってしまう。
「大丈夫? 痛そうだけど…」
「痛いけど…大丈夫だ。多分、捻挫だろうから、一週間かそこらで治るだろうし、別に気にする必要はないからな」
「うん……」
そう慰められても、やはりある程度の責任を感じてしまう。少し暗くなった雅之に、巧は慌てて話題を変えた。
「そんなことよりも、国語の小テストのほうが今の俺にとってはよっぽど問題だ。漢字の書き取りだって言ってたよな?」
「うん。あと、その言葉の意味も。でもこれは、何が出るかまったく分からないし、対策の立てようがないけどね」
巧は頭を抱えてしまった。
「ああー…やだなー。堀田のヤツ、半分以下しかマル取れないと机の横に正座させるからなー。しかも授業で答えられないと、一時間そのままだし…」
重い重い溜め息である。
部活動のサッカーに力を入れ過ぎて、学業のほうは苦手だと公言する巧にとって、教師の中で最も厳しいと言われる堀田の授業は苦痛でしかないのである。
「怪我が右だったら、字が書けないからテストも受けなくて済んだんだろうけどね」
「あ、そうか!」
冗談で言った雅之の言葉に頷くと、巧は恨めしそうに右手を見た。
雅之と忠志は真剣に何ごとかを考えている巧に呆れ、顔を見合わせてしまう。ついで苦笑が込み上げてきた。
巧が何を考えているのか容易に想像ができてしまった。
「そうか…って、お前な……」
「怪我をしたのは右手だったことにしよう、なんて考えちゃ駄目だよ。ちゃんと手当てしないと、治るものも治らなくなるからね」
「え?」
ギクリと巧の顔が強張る。
「そ、そんな…何言ってんだよ! 俺がそんなことをするわけないだろうが」
巧の顔にはあからさまな動揺が走っている。その気まずそうな様子からして、図星を指されたことは明白だった。
思わず視線が冷たくなる。
忠志は軽く溜め息をつきながら言った。
「お前…そこまでして……」
「バカ言うなって! キーパーを務める俺さまにとっては、大事な大事な左手だぜ? そんな…たかが小テストのために治療しないなんてあるわけないって」
そう言ってから、巧はしばらく考え込んでしまう。無事なほうの右手で鞄を抱え、ウーンと唸りながら首を傾げた。
「あのな…両手首を捻挫したってのはどうかな?」
「………」
忠志はたっぷりとした沈黙のあと、哀れむような視線で巧を見る。そしてポンポンと優しく肩を叩いて、あえて聞かなかった振りをした。
「どうせ他の皆も遅れてくるだろうし、一時間目はパスしても何も言われないだろう? 俺も保健室に行くのにつき合ってやるよ」
高校の最寄りの駅は、この電車しか通っていない。バスや自転車通学はともかくとして、大多数の生徒がこの事故で足留めをくらうはずだった。
だが巧は、忠志の申し出に不審の目を向ける。
「や…やな目つきー…。お前、俺のことバカだとか思ってるだろう?」
「いーや、ちっとも。ただ、両手首を捻挫したと言ったそのあとで、お前はどうやってものを持ったり弁当食ったりするのかな、と思って。ペンすら握れないんだから、他のことなんて何一つできなくなるんじゃないのか?」
「あっ!」
忠志の冷静な指摘に、巧は声を上げる。少し考えれば分かることなのだが、あいにくと巧はまったく考えていなかった問題である。
己の浅はかな考えと、忠志の冷たい視線に巧は拗《す》ねてしまう。
「どうせどうせ…俺はバカですよ。優秀な瀬尾くんには、お相手していただく価値なんかないんでしょうとも」
「だからー…保健室についていってやるって言ってるだろうが」
「へ!…だ。どうせお前は俺のために行くんじゃなくて、保健のおばちゃんの入れるお茶を狙ってるんだぜ。分かってんだからな」
忠志は巧に悟られないように微かに苦笑する。拗ねきった巧の言葉を否定できないところが、かなり後ろめたかったのだ。
「そんなことないって。純粋にお前のことを心配してやっての、思いやりのある発言だろうが。何てことを言うんだ」
「あやしいなー……」
「あ、鞄持ってやるよ」
「………」
急に親切になった忠志に、巧はブツブツと文句を言う。しかしそれでも持っていた鞄はしっかりと渡し、身軽になった。
雅之は、そんな二人を見ながらクスクスと笑った。
「忠志はね、こう見えてもおばあちゃん子だから。白髪で優しそうな、保健の先生みたいなタイプが好きなんだよね」
「お前…変わってるな。俺は、黒髪で胸も腰もバーンとしたタイプのほうが好きだ。顔は美人なら何でもいい」
「………」
わざと雅之の言葉を曲解したのか、それとも本気で言っているのか今一つ理解しかねる。他の相手ならば今までの仕返しと取れないこともないが、巧の場合は当てはまらない。深くものごとを考えず、恨みを持たない性質なのだ。
どう返答するか悩む忠志を横目に、巧は雅之に聞いた。
「雅之は? どういう子が好みだ?」
「え? 僕?」
「そうだよ。お前の場合、やっぱり女の子らしい可愛い子か? 何となくレースをフリフリさせたのとか、好きそうだよな」
「え、別に……」
答えに窮《きゅう》して忠志のほうを見るのだが、忠志は自分の考えに精一杯で気がつかない。そこを更に巧が追ってくる。
「別にってことないだろうが。それとも、意外に雅之も男で、胸腰バーンバーンのグラマータイプがいいのか?」
いつ動くのか分からない時間を潰すためか、巧は執拗である。瞳を好奇心にきらきらさせて、雅之を見つめている。
雅之は言葉に詰まってしまった。そして隣りで考えごとをしている忠志の制服の裾を引っ張り、助けを求める。
「ちょ…忠志」
「ん?」
「助けてってば」
「何を?」
惚《ぼ》けているのではなく、本当に分かっていない忠志に、雅之は困ってしまう。しかしそれも巧にとっては絶好のチャンスだった。
ズイッと前に出て、忠志の顔を覗き込みながら聞く。
「なーなー、お前はどう思う? 雅之の好みって、可愛いタイプか、それともグラマーなお姉さまタイプか?」
チラリと、忠志の視線が雅之のほうに飛ぶ。
「どうかな?」
「おいおい、隠すなって。赤ん坊のときからのつき合いなんだろう? だったら、それくらい知ってるだろうが」
その言葉に、二人の表情が微妙に揺れた。
「いや、知らない。その手の話はしたことがないからな」
「ない? 全然?」
「ああ」
誰よりも長い時間を一緒にいるのに、二人は女の子の話題を口にしたことがない。この年頃からすれば珍しいことである。
「何? お前らそういう話しないの?」
「ああ」
「………」
巧は首を傾げ、不思議そうに忠志と雅之とを見比べる。
忠志は特別に動揺していないように見えた。ただ巧に指摘されたことで、自分でも初めて気がついた事実に驚いただけである。
そして雅之は…。
俯《うつむ》いて、忠志とも巧とも視線を合わせようとはしない。それどころか、下を向いているせいで、その表情すらよく分からなかった。
妙に気まずい雰囲気が漂う。
電車がようやく動いたのは、それから十分後のことである。
忠志たちが通っている高校は、ちょっとした坂の上にある。その角度もなかなかのものなのだが、問題はその距離である。
やたらと長い。
普通に歩くだけでも、角度が急なせいで体力を失ってしまう。ましてやこの坂を走るとなると、相当な体力を必要とした。
遅刻しそうになっても、坂に阻《はば》まれて走ることができないのである。
校門を目の前にして、鐘が鳴るのを涙と共に聞いた生徒は限りない。あと数メートルを残して、それ以上走ることができなくなってしまうのだ。
この急な坂は街の名物でもあって、おかげで忠志たちの高校も正式の名称で呼ばれることはほとんどなく、「坂上」高校という通称のほうで通っている。
その坂を、巧は忠志に鞄を持たせて身軽に登校した。遅刻は遅刻だが、れっきとした理由があったので慌てる必要はない。
だが靴を履き変えた途端、一番最初に保健室に直行した。何だかんだと言っても、キーパーの左手は大切なのである。
忠志は約束通り巧について、雅之は一足先に教室へ向かった。
「おはようございまーす」
元気よく挨拶をしながら、ノックもなしで巧は保健室の扉を開ける。ここの扉は横に開ける形なので、うっかりすると勢いがよすぎてすごい音がする。
扉はバン!…と派手な音を立て、中にいた保健のおばさんが溜め息をつく。
「おはよう。また君ね。ここの扉は、そんなに力を入れなくても開くって言ってるのに。いつまで経っても憶えられないね」
「そう、また俺です。頭悪いすからねー」
「………」
まったく反省をしていない巧の様子に、溜め息は深くなった。
「…それで? 今日はどこを怪我したの? また球蹴りでやったの?」
「サッカーですよ、サッカー。いい加減憶えて下さいよ。…じゃなくて、今日は電車の中なんです。俺らが乗ってた電車に飛び込みがあったらしくて、急ブレーキがかけられたんですよ。それで床に手をついた際に、手首を捻挫したみたいで」
「どれどれ」
保健のおばさんは、胸ポケットに入れていた眼鏡をかけ、差し出された左手を取る。そしてマジマジと見つめた。
「あらあら…ずいぶんと腫れているわね」
「痛いんすよ、これが。早く湿布《しっぷ》貼って下さい」
「はいはい。ちょっと待ってね」
保健のおばさんは、おばあさんと言ったほうがいいような年に見える。その動きはゆっくりで、緊急の際には向かない。
綺麗に整頓された戸棚を開けて、中から幾つか必要なものを取り出す。そして巧を椅子に腰かけさせ、自分も座った。
「制服の袖を捲《まく》ってちょうだい」
「はいはい」
巧は袖のボタンを外し、言われた通り素直に袖を捲り始める。
差し出した手を受け取った保健のおばさんは、触れるか触れないかの微妙な線で巧の怪我した手を見ていた。
ただの捻挫にしては、やけに長い。
「あら? あらあら?」
「な…何ですか?」
あまりにも時間がかかるので、巧は段々と不安になっていた。心なしか、手首の痛みも時間を増すにつれて酷《ひど》いものとなっている。
保健のおばさんは、表情を引き締めて巧に言った。
「あなた、これ、病院に行ったほうがいいと思うわ。ただの捻挫じゃなさそうだから…」
「ええっ?」
巧は保健のおばさんと、自分の左手とを交互に見る。その顔は、不吉な言葉に見る見るうちに青ざめていった。
「ここからだと、逢坂くんの病院が近いわね。電話してあげるから、今から向かいなさい。場所は知ってるでしょう?」
巧は恐ろしい予感に半ば放心している。保健のおばさんの言葉に答えることができなかったので、代わりに忠志が頷いた。
「同じクラスですから。一度、遊びに行ったことがあります」
さほど大きくもない街ということもあって、生徒会長をしている友人の私立病院はここいらでは有名だった。設備も一番整っている。
「そう。じゃあいいわね。学生証は持ってる? 保険証は次に行ったときにでも持っていけば大丈夫なはずだから」
「はい」
忠志は背中を丸めて座り込んでいる巧の肩を叩いて言った。
「ほら、巧。行くぞ」
「へ…?」
しかし呆然としたままの巧の反応は極めて頼りないものである。顔こそ上げたものの、ぼんやりと忠志を見つめている。
「病院だよ、病院」
「へー……」
忠志は頭を抱えた。
このままでは埒《らち》が明かないと、巧の脇に腕を差し入れ、無理やり立たせてしまう。そして自分の鞄を小脇に抱えた。
「あ、二年A組なんですけど、ウチの担任にわけを説明していただけますか? 怪我人が堀江で、つき添いが瀬尾です」
「はいはい。分かりました」
「お願いします」
忠志は一礼すると、まだぼんやりとしている巧を引き擦って保健室を出ていった。
忠志につき添われて帰ってきた巧は、ほとんど抜け殻状態だった。放心したような虚《うつ》ろな瞳が空を泳いでいる。
巧は自分の席に座り込むと、机に顔を伏した。
その体中から暗くて重い空気を発していて、周りにいたクラスメートが揃って気圧されてしまい、近づくことができない。
雅之は、巧にではなく忠志に聞いた。
「ど、どうしたの? 怪我、そんなに悪かったわけ?」
「うーん…よくはないな。手首にヒビが入ってる」
「ヒビ? だったら、使わないようにさえ気をつけてれば、治るのにそんなに時間はかからないね」
雅之の安堵した様子に、忠志は頷く。そしてつい先ほど、病院で診てもらった医者から聞いた通りに報告をした。
「そうだな。骨がつくまでに一ヵ月。完全に治るには二、三ヵ月ってとこだそうだ。巧は若いし、骨もしっかりしてるから回復は早いってことだ」
「よかったー」
巧のあまりの暗さに、不吉なことを色々と考えてしまった雅之にすれば、それはホッと安堵する報告である。
しかしそう思って巧を見ると、やはりどんよりとした雰囲気を辺りに撒き散らしている。軽症でよかったと喜んでいる様子にはとても見えなかった。
周囲の友人たちの注視の中で、巧は突っ伏していた顔をガバリと上げる。そして迫力のある顔で、脇で興味深そうに成り行きを見ていた克明を睨みつけた。
「何だ?」
「克明…あの小川っていう医者に問題はないのか? こう…誤診が多いとか、患者を安静にさせるためにわざとオーバーに言うとか、だな」
克明は逢坂医院の三男である。最新の設備と優秀な人材を誇る自分の病院の、医師の診断を疑うような発言に顔をしかめた。
「失礼な。小川さんはウチの病院でも五本の指に入る腕の持ち主だぞ。その腕前に親父が惚れて、わざわざ他の病院から引き抜いたくらいなんだからな。それにあの人は、ほぼ間違いなく治る時期を特定できるって評判なんだぞ?」
「うっ……!」
巧は小さく唸ると、再び机に突っ伏してしまう。
「うっ、うっ……」
一人で嘆き始めた巧に、雅之は首を傾げた。巧が何故ここまで落ち込んでいるのか、その理由が分からなかったのである。
「二、三ヵ月もすれば治るんだよね? 何で巧はこんなに暗いんだろう?」
「もうすぐ水無月祭があるだろう。あと…約二週間後だったっけか? 俺たち帰宅部にはあまり関係ないからよく憶えてないけどな」
「ああ、そういえば…あったね。巧は、確かサッカー部のキャプテンだよね。ポジションは…キーパーだったっけ?」
水無月祭は、すぐ近くにあるライバル高校との間に行われる。両校にとっては、非常に重大な意味を持つスポーツイベントである。
両校に共通するスポーツクラブのうち、双方の学長がクジを引いて十一ほど参加クラブを選ぶ。その選ばれたクラブ同士が、当日は力を競い合うのである。
表向きは互いに技を研磨すると言っているが、両校共に相当ムキになっていた。
同じ駅に、同じようなレベルの、同じような校風の男子校があるということもあって、互いのライバル意識は並大抵のものではない。
しかもそれぞれの学校が位置する場所から、地元では高校名ではなく、「坂上」と「坂下」と分けて呼ばれている。
丸一日かけて行われるこのスポーツイベントで、その後の勢力関係が決まると言っても過言ではないのである。
負けたほうは、どうしても引け目を感じてしまう。
この水無月祭に勝つことによって目に見えない力関係が生まれるとあって、全校生徒を挙げて異常な盛り上がりを見せる。
昨年は忠志たちの高校がわずか一敗差に泣いた。いくら興味がないと言っても、そのときの坂下の生徒たちの得意げな表情は忘れられない。
おかげでクラブに入っている生徒たちは、公式試合などで坂下高校と顔を合わせる度に、バカにしたような笑みと共に水無月祭のことを言われたそうである。
一年間の雪辱の意味もあって、坂上の生徒たちは例年になく燃えていた。
今年は選ばれた十一のクラブの内に、サッカーも含まれていた。
全国的なサッカー人気のおかげもあって、双方共に部員数は少なくない。そして双方共に昨年の大会では恥ずかしくない成績を残している。
実力的に差はないのである。
しかしそれも、キャプテンであり、守りの要のキーパーでもある巧が出れないとなれば話は別である。やる前から結果は分かりきっていた。
「ヒビって、二週間じゃ治らない…よねぇ?」
「治らないだろうな」
「………」
教室内に重い空気が広がっていく。
「巧が出れないと、試合ってどうなるのかな?」
「さあな…。ま、相当不利になることは間違いないんじゃないか?」
「それは…困ったね」
「困ったな」
あまり周囲のことに興味を持たない雅之でも、水無月祭の重要さは知っている。
平日に試合が行われるということもあって、選ばれた十一のクラブの応援は授業の一環に含まれているからだ。
「あ…でも、ほら、控えの選手とかいるわけだし、今から頑張って練習すれば、何とかなるんじゃないのかな?」
「そうだな」
雅之と忠志は水無月祭に対するこだわりはそんなにない。
確かに全校を挙げての応援ということもあって、負ければそれなりに悔しいが、絶対に勝てというほどのものではないと思っていた。
だからこそ会話ものんびりとしている。
二人がそんなことを話していると、突然巧がムクリと机から顔を上げた。そして追い詰められた表情で忠志に詰め寄る。
「忠志っ!」
逃げられないように、無事なほうの右手でガシッと肩を掴まれる。
巧のそのあまりの迫力に、忠志は無意識のうちに身を引いていた。
「何だよ。そんな怖い顔をして」
「俺の代わりにキーパー、やってくれ!」
「はぁ?」
言葉の内容こそ理解できたものの、話の流れが上手く掴めない。巧の真剣な表情がなかったら、冗談と取ってしまうところだった。
巧の申し出が本気だということは、忠志にも分かった。しかし、だからといってホイホイと引き受けられる類のものではない。
「おいおい。バカ言うなって。俺みたいなズブの素人を引き摺り出してどうするんだよ。控えの選手がいるだろうが」
「確かにいる。…いるけど、まだ一年なんだ。勘はいいし、素質はあるんだけどな、まずいことに肝が小さい。少しずつ大事に育てていかないと、潰れるに決まってるんだ。入部してからまだたったの二ヵ月しか経ってなくて、しかもあまりキャリアもないヤツに、あの異常な雰囲気の中で試合をしてくれってのは可哀相だろうが」
大変に後輩思いの言葉だが、残念ながら友人のことは考えてくれていない。
忠志は顔をしかめて言った。
「あのなー…俺は体育の授業でしかやったことがないんだぞ。そんな俺に出ろってほうが、よっぽど可哀相だと思わないのか?」
「お前なら平気だ。体はでかいし、授業でキーパーをやったことがあるだろう? あのとき、お前二本か三本シュートを止めたじゃないか」
巧の言葉に、忠志は呆れて頭を軽く振る。
「止めたっていったって、サッカー部のヤツらのじゃないだろうが! 本職のシュートだったら止められないって。少しは冷静になれよ」
「俺は冷静だ!」
そう怒鳴る巧の目は、興奮してギラギラと血走っている。思い詰めたその表情に、忠志はウッ…と小さく唸った。
忠志が気圧されたのを了解と取って、巧は話を先に進めようとする。押しの強さは普段から折り紙つきだった。
「とにかくお前は度胸がいいからな。あとは二週間の間に練習をしてもらって、何が何でも止められるようになってもらう!」
「だから…勝手に話を決めるなって」
忠志が苦笑しながらそう言うと、巧が怖い顔でジリジリとにじり寄る。そして有無を言わせない迫力で睨みつけた。
「どうしてもやってもらうからな…」
声を荒げたものではないだけに、余計に迫力を感じてしまった。だがこのまま押しきられてしまっては大変な運命が待っていると思い、忠志は何とか断ろうとする。
「しかしだな……」
巧はそんな忠志の言葉を遮って聞いた。
「お前…俺のこの怪我に、何か感じるものはないのか?」
「って言うと?」
「可哀相だな、とか。痛そうだな、とか。それに…罪悪感を感じる、とかだ」
忠志はもっともそうに頷くと、答える。
「ああ…可哀相で、痛そうだな」
「それだけか?」
「何が?」
「罪悪感は?」
「別に、ないぞ」
多少のためらいを見せながら忠志がそう答えると、巧は敏感にそれを感じ取る。そして更に忠志との間を詰めにかかった。
「本当か? ホントーに、罪悪感はないのか?」
真正面から忠志の顔を見つめる巧の目は据わっている。そして制服の裾を捲り上げると、包帯に包まれた左手を忠志の目の前に翳《かざ》した。
「この手を見ても、お前は罪悪感がまったくないって言えるのか?」
「いや…でもな、前触れもなく突然急ブレーキをかけて電車を止めたのは運転手で、その原因となったのは自殺したヤツだろう? 俺が罪悪感を感じる必要はないと思うけどな」
それは正論である。
しかしときとして、感情は正論とは正反対のところにあることもある。
巧はクルリと横を向くと、それまで傍観者として巧と忠志のかけ合いを見ていた雅之にターゲットを移した。
「雅之、お前もそう思うのか? 俺のこの怪我に、罪悪感はまったく感じない?」
突然の質問に、雅之は考える余裕がない。二人のやり取りを唖然としながら見ていただけに、思ったままのことを口にしてしまった。
「え? ええっと…ちょっと……感じる、かな?」
「あ、バカ!」
巧につけ入る隙を作ってしまった雅之に、忠志は頭を抱える。
ニヤリと笑う巧。
訳が分からず戸惑う雅之。
「え? え? な…何? 僕、何かまずいこと言った?」
「いーや。全然。なっ! 忠志!」
「………」
「さぁ、めでたく話も決まったことだし」
「………」
「とにかく、水無月祭までは毎日猛練習だ。俺もお前の練習メニューを考えなきゃいけないし、お前も覚悟が必要だろうから、今日はなしにしてやろう。明日からは日が昇ってるうちは帰れないと思えよ」
「ちょっと待てよー……」
忠志の情けない声を、巧は聞き入れない。ビシッと雅之を指差し、言った。
「そして雅之。お前も俺のこの怪我に責任を感じてるんなら、忠志がグズッたら説得してくれ。これはお前にしかできないからな。いいな?」
その顔はあまりにも迫力に満ちていて、雅之は深く考えられないままにコクコクと頷いてしまった。
「よーし。そうと決まったら、俺は保健室に行って寝てくる。昼飯の時間になったら起こしに来てくれ」
意気揚々と教室を去る巧と、ガックリと肩を落とす忠志の様子が対称的だった。
その日の授業を終えて帰る途中、忠志は雅之に元気がないことに気がついた。
それまでは自分の明日からの悲しい境遇に思いを馳せていたため、隣りまで気にかける余裕がなかったのである。
「おい…何か、落ち込んでないか?」
「え? 別にそんなことないけど。ちょっと考えごと」
しかしそう答える声が沈んでいる。
長いつき合いで敏感にそれを感じ取った忠志は、そのまま放っておけずに言った。
「着替えたら、お前の部屋に行くからな」
「………」
雅之はそれに返事をためらう。
「何だよ? 都合悪いのか?」
「ううん…分かった。待ってる。僕も話したいことがあるし」
「話したいこと?」
「うん」
「変なヤツだな。今言えばいいだろうが」
雅之は微かに苦笑する。
「歩きながらじゃ、ちょっとね…」
「まぁ、いいか、別に。そしたらウチから適当に菓子でも持ってくから、俺にはコーヒーか何か入れといてくれ」
「分かった」
雅之の部屋の横には、家を建てる前からあったという大きな桜の木がある。春には綺麗な八重の花を咲かせるありがたい木である。
その枝振りが木登りにあまりにも手頃だったので、忠志はほんの小さい頃からこの木を伝って雅之の部屋に上がり込んでいた。しかしそれも毛虫が発生する夏場は無理で、その期間だけはまともに玄関から入るより他になかった。
しかし六月である今は、まだ毛虫もいない。
肩にかけたデイパックに気をつけながら、慣れた動きでスルスルと登っていった。
幼稚園のときにはすでにしがみついていた記憶がある木である。どこを掴み、どこに足をかけていいのかは熟知していた。
二階の出窓から見える室内には、雅之の姿はない。
忠志は木の上で器用に靴を脱ぐと、それを解いた靴紐で縛って枝にくくりつけてしまった。そして窓をカラカラと開けて中に入り込む。
まるで泥棒のようだが、慣れているので何とも思わない。それに慎重な質の雅之は、忠志から連絡がない限り窓の鍵は二重にかけていることを知っている。
ちょうど出窓を閉めたところで、私服に着替えた雅之がその手に盆を持って部屋に入ってきた。そして忠志を認めると、ニッコリと笑う。
「いいタイミング。入れたばかりだから、まだ熱いよ」
「おう、サンキュー」
忠志はいつもの自分の定位置に座ると、渡されたカップを口元に運ぶ。火傷しないように気をつけながら一口飲み込んだ。
「熱い……」
「だから言ったのに…」
雅之はそう呟くと、慎重にカップを傾けた。
「それにしても、どうしてわざわざ木を登ってくるのかな? 玄関からのほうがよっぽど楽だと思うんだけど」
「俺、木登りが好きだからな。それに子供の頃からこうやってるから、夏でもないのに玄関から入るのはおかしい気がする」
雅之は笑った。
「変な習慣をつけちゃったね」
「そうか?」
大して気にしてない様子で忠志は答えて、自分のデイパックをゴソゴソと探り始めた。そして中から紙の包みを取り出す。
「ほら、これ」
「何?」
「お茶菓子だよ。母さんに持っていけって言われたから持ってきた。俺も中身が何なのかは知らないんだけどな」
雅之は忠志から包みを受け取って、カサカサという音を立てながら包装を剥がしていく。綺麗な和紙に包まれたそれは、柔らかな感触である。
「あ…和菓子だ……」
「和菓子?」
「うん。しかもこれ、この近くのお店のじゃないよ。多分、誰かお客さんからもらったんじゃないのかなぁ? 持ってきていいの?」
「いいんだよ、自分で持ってけって言ったんだから。それにウチは甘い物が好きなヤツがいないからな」
雅之はその言葉に小さく笑う。そして次の瞬間には、何かを考え込んだ表情でジッと手の中の和菓子を見つめた。
「それにしても和菓子かぁ…」
「何だよ。お前好きだったよな?」
「うん。ただね、コーヒーじゃなくて日本茶にすればよかったと思って」
深刻な顔をするから何かと思えば、忠志に言わせると取るに足らないことである。幼馴染みとしての長い歴史がありながらも、雅之のことが今一つ理解できない。何故そんなことで考え込むのか聞いてみたいところだった。
しかしそれをすると、ますます雅之に対する理解から遠のいてしまいそうな気がして、忠志はグッと欲求を堪える。
そしてここに来た本来の目的に思考を移した。
「で? 話ってなんだよ」
「うーん……」
それまでは普通に話をしていたというのに、雅之は途端に口ごもる。微かに不安が見えるその表情に、忠志は眉を寄せた。
「そんなに言いにくいようなことなのか?」
「そうじゃなくて」
一旦そう言ってから、すぐに雅之は訂正をした。
「……そうなんだけど」
「何なんだよ? いいから言ってみろって」
「う、ん……」
「雅之……」
こういうときの雅之に、無理強いは禁物である。忠志は優しく、それでいて断固とした口調を譲らなかった。
床に視線をやったり、忠志に視線をやったりを何度か繰り返したあと、雅之はようやく覚悟を決めたようである。
途切れ途切れにではあるが、話を始めた。
「僕はね、ずっと自分の…このトラブルに会いやすい体質について悩んでたんだ。そうは見えなかったかもしれないけど」
「へー…」
忠志は目を見開き、マジマジと雅之を見つめる。
「何?」
「いや…安心した。俺、もしかしたらお前は何も考えないで生きてるんじゃないかと疑ってたからな」
「………」
本気である。
雅之はそれに、複雑な表情を浮かべた。自分が周りの人間にそういった印象を与えることは知っているのである。
「それで? 悩んだ結果は出たのか?」
「うん、一応。僕が勝手に考えただけだけどね」
「いいから言ってみろよ」
促す忠志に、雅之は少しだけためらう。
「うん…。……多分、僕はどんなトラブルに会っても死なないし、大きな怪我もしないんじゃないかって思う」
「何?」
思ってもみなかったことを言われて、忠志は軽く目を見開く。そして雅之は、そんな忠志に注意を向けながら話を進めていった。
「小学校四年生のとき、僕のクラスが学芸会で『裸の王様』をやったの憶えてる? 忠志は別のクラスで、どういうわけかは知らないけど、僕はお妃さま役だった。ちゃんと女の子もいたんだけどね」
不満そうに顔をしかめる雅之に、忠志は当時、雅之がどれだけその役を嫌っていたか思い出してしまった。
一時は本気で仮病を使うことを考えていたのである。
しかしそれにも関わらず、雅之のお妃姿は非常に好評だった。まだ男女の差のあまりない小学生で、その可愛らしい顔に綺麗な色のドレスがよく似合っていたのだ。
忠志はそのときの雅之の情けない表情を思い出して、喉の奥で小さく笑った。
「お前、あの頃は特に可愛かったからな。ズボンを履いてても立派に女の子に見えたし。知ってるか? あれ、クラスの女どもが、意地悪のつもりでお前に妃役を割り当てたんだぜ。男のお前がドレスを持ってるわけがないし、カーテンでも巻きつけて出させて、恥をかかせるつもりだったんだとよ」
雅之はそれに、盛大に顔を歪める。
学芸会のときの写真は今もアルバムにしっかりと残され、当時の嫌で嫌で仕方がなかった思いも忘れてはいなかったのだ。
女の子たちの意地悪と、それに答えられなかった自分に思わず苦笑する。
「ところが、ドレスなんか持ってるはずのない僕が、体にピッタリと合った綺麗なドレスを着て出たもんだから当てが外れたわけだ…。ウチのお母さん、結婚前は何とか言う有名なブランドのお針子さんだったからね。家に帰って、暗い顔でお妃役になったって言ったら、嬉しそうにイソイソと布を買いに連れてかれたよ。結局僕は、オーダーメイドのドレスを着ることになったんだ」
「まぁな。ちゃんとお前の体に誂《あつら》えた服なんだし。あれ? でも、確かあの劇って、照明か何かが落ちてきて中止にならなかったか?」
忠志の記憶は当たっている。
自分が切り出した話題の核の部分に入ったのを意識して、雅之の表情が微かに強張った。これからが問題である。
雅之はゆっくりと息を吐き出すと、最後に覚悟を決めた。
「……うん、なった。僕の真上の照明が落ちてきて、僕はそれを見ながら『死んじゃうのかな…』なんて考えてた。自分でも不思議なんだけどね、あれって映画みたいにスローモーションに見えたんだよ」
「………」
忠志が雅之から事故のときのことを聞くのは初めてである。雅之はあまりそういった話をしたがらないので、突然のことに多少戸惑ってもいた。
「でも僕の隣りにいた子が照明に気がついて、パニックしながら慌てて逃げようとして、僕を突き飛ばしたんだ。それで僕は助かって、その子は足に八針も縫う大怪我をした。そのまま動かなければ、怪我をしてたのは僕だったのにね」
「………」
何も言わない忠志に、雅之は小さく息を吸い込む。そして尚も話を続けていった。
「それに、これはつい最近なんだけど。駅前の交差点で信号待ちをしてたとき、雨でスリップしたバイクが僕のほうに突っ込んできたんだ。そのときも僕は動けなくて、やっぱりスローモーションで映画を見るみたいに、少しずつバイクが近づいてきた。…でもね、突然右のほうから視界に車が飛び込んできたと思うと、その車がバイクにぶつかって、僕は危ないところで無事だったんだ」
忠志は雅之のその説明にしばし考え込んでしまう。確かに偶然と言うには、これまでの雅之は悪運が強すぎる。
「僕が事故を引き寄せるのかどうか知らないけど、いつも僕はトラブルの中心にいるんだよ。それでいて、実際に事故に会うのはすぐ近くにいる人なんだ。やっぱりさっきも、怪我をしたのはすぐ近くにいた巧だったし…」
「偶然だろう?」
自分でもそんなことを思ってはいないのだが、忠志はあえてそれを口にする。どうやら悩んでいるらしい雅之の心の負担を少しでも減らしたかったのだ。
しかし雅之は、苦しそうな笑みを浮かべて言う。
「僕も最初はそう思ったけどね。いくら偶然だって思おうとしても、これだけ続いたらいくら何でも変だって気づくよ。それにどうやら父方の家系がそういう体質みたいだし…。この前、お祖父さんの家に行ったときに聞いてみたら、やっぱり事故に会いやすくて、いつもそれからギリギリのところで助かってるみたいだ。…周りの人がかなりの大怪我を負っても、どういうわけかかすり傷ですんでるって言うし…」
「それは……」
偶然だと言ってやりたくても、さすがに理性が邪魔をする。よほど混乱でもしていない限り、それを偶然だと言うのは難しかった。
雅之は溜め息をつくと、忠志の顔を見て言う。
「でも一緒にいるのが忠志だと、どういうわけか怪我をしないんだよね。僕に負けずに悪運が強いのか、それとも反射神経がいいからなのかは分からないけど…。だから僕は何も言わないで、忠志に守ってもらわないと死にかねないって思い込ませておいたんだ。……忠志は、僕が頼りなくて、守ってやらないと駄目だって思ってたから側にいてくれたわけだし…」
「ちょ…ちょっと待てよ」
そんなことはないと言いかけるのだが、きっぱりと言いきることはできない。
小さかったあの頃、他に兄弟のいない自分が、守るべき相手を見つけて有頂天になっていなかったとは言えなかった。
雅之を守ることによって、自分の力を周囲に誇示していたのかもしれない。
当惑しながら口を噤《つぐ》む忠志を、雅之は遠い視線で見つめた。そして苦しそうな、小さく弱々しい声で告白する。
「でも…何だか最近、僕は忠志の側にいるのが苦しくなってきた」
言葉通りに顔を歪める雅之に、忠志はズキリと胸の辺りが痛くなる。それが雅之の言葉でなのか、それとも苦しそうな表情のせいなのかは自分でも分からなかった。
雅之は軽く息を吐くと、そんな忠志に言った。
「忠志、ちょっと屈んでくれる?」
「……?」
混乱した表情で、怪訝そうに首を傾げながらも、忠志は言われた通りにする。
雅之は軽く伸びをして、覗き込むようにしている忠志に唇を近づけた。
「………」
驚きに目を見開いた忠志の視界に、目を閉じた雅之の顔が飛び込んでくる。状況についていけない頭の片隅で、その唇が唇に触れたことだけは理解していた。
柔らかく、ほんのりと温かい。
忠志は身動きすることもできずに、混乱した頭でそう受け取った。
初めての口づけに対する感動、もしくは嫌悪感などの感情はまったくわいてこない。ただ感触だけが、現実としてそこにあった。
雅之はゆっくりと唇を離すと、微かに顔を赤らめながら言う。
「その…僕は、ずっとこういう意味で忠志のことが好きだった。だから、忠志が僕のことを守ってくれなくても大丈夫だって言えなかった」
「………」
まだ忠志は口づけの衝撃から立ち直っていない。状況が理解できず、雅之の顔をジッと見つめるだけである。
雅之はそんな忠志に、ニッコリと笑いかける。
しかしその笑みは今にも泣き出してしまいそうなものだったし、震える声もそのことを示していた。
「ファースト・キスだったらごめん…。どうしても一番最初のキスは忠志としたかったんだ。これからは、もういいから。守ってくれなくても、一人でも大丈夫だから。餞別《せんべつ》替わりだと思って、諦めて」
忠志はまだ呆然としている。
突然の雅之の告白と行動が大変なショックだったのか、上手く頭が働いていない。何か言わなければと焦る心と頭が上手く噛み合っていなかった。
広がる沈黙に、雅之は困った表情を浮かべる。
「えっと…ちょっと出かけてくるから。悪いけど、適当に帰ってくれる?」
そう言い捨てて逃げ出そうとする雅之に、忠志の心の中で警報が鳴り響く。このまま逃がしてはまずいと感じる本能が、咄嗟に雅之の腕を掴ませた。
「待てよ!…待て」
「………」
掴まれた腕を振り払おうとして、それができないことを知った雅之は、小さく溜め息をついた。そして静かな声で言う。
「忠志、手、離して。…僕は自分が辛くなってきたから言っちゃったけど、忠志は気にする必要ないから。できれば、忘れてくれると嬉しい」
「……。忘れられると思うのか? お前は忘れられるのか? 忘れて、今まで通りにつき合えると思うのか?」
「思わないけど、努力はするよ」
そう言った表情が苦しそうで、掴んだその腕からは細かな震えが伝わってくる。忠志が考えているよりも、ずっと雅之は緊張しているのである。
忠志はハッと息を飲んだ。
腕を掴まれたまま雅之は、
「正直言って、今まで通りにつき合ってもらうのは無理から、とも思ってる。それくらいの覚悟がなきゃ、こんなこと言えないし…。だから、このことで忠志が負担に思うことないから。無視されても文句言えないし」
と言い、忠志の指から力が抜けた隙にスルリと腕を抜いてしまう。そして忠志に背を向けると、部屋から出ていこうとした。
「おい、こら! 待てって。勝手に言って、勝手に納得するんじゃない! 俺はまだ何も答えてないだろうが!」
「でも……」
困ったような表情でチラリと振り返る雅之に、忠志は訴える。
「そりゃあ、お前はいいよ! 言うまでに悩んで、考えをまとめておいたんだろう? でも俺はな、こんな爆弾発言を心の準備もなしに聞かされたんだからな。それなのにすぐ冷静に答えを返せってほうに無理があるだろうが」
その言葉に、雅之はキュッと唇を噛み締めた。
「だから、答えはいらないって言ってるのに。できれば、聞きたくないんだ…。僕は臆病だから」
「そんなわけにもいかないだろうが。とにかく、少し待て。俺にも考える時間を与えろよ」
そう言って、忠志は腕を組む。そして難しい顔で考え込んでしまった。
「うーん…」
頭の中では必死に脳味噌が回転している。グルグルと色々な思いが駆け巡り、何とか結論を出そうと必死だった。
しかしまだ混乱していることに変わりはない。
まとめようとすればまとめようとするほど、頭の中はパニックに陥っていく。幼馴染みとして大切に守ってきた雅之を、今度は恋人として見れるかどうかは疑問だった。
「う、うーん……」
短時間で答えが出るはずのない問題である。
忠志の悩む様子がますます苦しそうになったのを見て、雅之はすぐに弱気になる。小さな震える声で言った。
「だから…いいって……」
「いや、待てっ! もうちょっと待て! やっぱり、急には無理だ。今すぐなんて、とてもじゃないが答えは出せない」
動揺する忠志に、雅之は溜め息をつきながら言った。
「出さなくていいって言ってるのに…」
「そんなことをしたら、お前はサッサと逃げ出して、明日から俺のことを避けまくるに違いないだろうが。違うか?」
「それは……」
図星である。
こんなことのあとで、雅之がいつも通りに忠志とつき合えるわけがない。おそらくはよそよそしい態度で忠志を避けてしまうはずだった。
忠志はそれを見て取って、小さく溜め息をつく。
「とにかく! お前とはこんなふうに終わりたくないんだよ、俺は」
雅之は、その言葉に微かに顔を赤くする。
忠志は雅之に言って、しばらく保留ということにしてもらった。
雅之の告白からずっと、忠志は考え込んでいた。
夕食もそこそこに、何を食べたかまったく憶えていないほどである。そして夜は布団に入りながら、ほとんど寝ていない。
しかし不思議なことに頭は冴え渡り、目覚ましが鳴って起き出すときにも眠いという気はしなかった。忠志は寝間着を制服に着替え、普段通りの時間に家を出ると、いつもと同じように雅之の家のインターホンを押す。
昨日の今日だけに、心臓がズキズキと痛かった。
もしかすると、雅之は出てこないかもしれないと忠志は思った。
しかしその考えは杞憂《きゆう》に終わり、そう待つまでもなく静かに扉が開く。そして中から目を充血させて、雅之が出てきた。
「おはよう…」
そう挨拶を寄越す雅之の顔は、多少強張っている。だがそれは忠志も同じことで、答えるその声はいつもよりも硬いものだった。
二人は肩を並べると、駅に向かって歩き始めた。
普段ならばどちらからともなく自然に話題が出てくるのに、この日ばかりは緊張した雰囲気でそれどころではない。
忠志は隣りを歩く雅之を妙に意識してしまっていた。
何か話しかけようとチラチラと視線を送るのだが、迷った揚げ句に結局は何も話しかけられないで口を閉ざす。
伏せた睫《まつげ》の長さに、襟元から覗く首の細さにドギマギとしてしまう。
今まで気にもかけなかった細かいことに、忠志は初めて気がついた気がした。視界が突如としてパーッと広がったような感じを覚える。
しかしそれが何なのかまでは理解できず、忠志はただ戸惑うばかりである。
雅之は、そんな忠志の様子に静かに溜め息をつく。
「忠志、こういうの、もう止めよう。僕のこと疎ましく思ってるのは分かるけど、こんなのって苦しいよ」
「えっ?」
フイッと背《そむ》けたその顔が、驚くほど綺麗に見えた。辛そうに微かにしかめた眉も、泣きそうな瞳もとても綺麗で、初めて見る相手のようである。
思わず見惚れた忠志をどう思ったのか、雅之はギュッと唇を噛み締める。そしてポツリと低い声で言った。
「僕、先に行くから」
そう言うやいなや、雅之は忠志を置いて駅まで走る。
混乱している自分に、忠志は頭を抱えた。
何が何だか分からないうちに、最悪の事態に陥ってしまったようである。自分のおかしな態度を、雅之が誤解してしまったのだ。
忠志は初めての困難に、深い溜め息をついた。
その日、雅之は一度も忠志のほうを見ようとはしなかった。
隣りの席だというのに、懸命に前を向いて顔を横に向けようとはしない。しかしそれでも隣りの忠志を意識していることは分かっている。
そして忠志は、そんな雅之を午前中ずっと見つめていた。
授業中だろうが何だろうが眉を寄せて見つめ、時間と共に少しずつ形になってきた思いをまとめようと必死である。
その姿があまりにも思い詰めていた様子だったので、よそ見をする忠志に対して教師たちも注意できないほどだった。
その圧迫感に耐えられなくなってか、雅之は休み時間の度に教室から姿を消す。戻ってくるのは、授業が始まる寸前だった。
そしてまた同じことが繰り返される。
絶対に忠志のほうを見ようとしない雅之と、雅之しか見ようとしない忠志の重苦しい雰囲気が教室中に伝わっていた。
その日の午前中、いつもならば授業中も声を潜めて私語をする生徒たちが、やけにシーンとして黒板に向かうことになった。
そして昼休みになると、学食に直行する者、弁当を広げる者、教室以外で食べる客など各々好きな行動に出る。
昼休みはいつも自分の席で弁当を広げる雅之が、今日は鐘が鳴ると同時に教室の外へ飛び出してしまう。その手には鞄が握られていたことからも、学食へ行ったのではないことはすぐに分かった。
忠志はそれを見送りながら、不機嫌に押し黙って弁当の包みをとく。眉間の皺《しわ》は一向に消えようとはしなかった。
それを見て、巧がいなくなった雅之の席に移ってくる。そして自分の弁当の包みをときながら忠志に聞いた。
「何だよ、お前ら喧嘩したのか?」
「別に…」
「…って言ってもな、『別に』って顔してないぜ。お前にはこれから張りきってもらわないといけないんだから、悩みはさっさと解決してくれ。何だったら、俺のほうから雅之に謝ってやろうか?」
「喧嘩してるんじゃないっつってんだろうが!」
「じゃあ何だよ」
「だから…何でもない」
途端にモゴモゴと口の中で呟く忠志に、巧は呆れた表情を浮かべる。
「あのなー…雅之はお前を見ない。お前は雅之しか見ない。その雰囲気は明らかに重苦しくてだな、何でもないわけないだろうが」
「………」
鋭く指摘をされて、忠志はムッツリと黙り込む。
しかし巧は、そんな忠志に容赦なく言い募った。
「他のヤツらまで暗くしておいて、何もなかったじゃすまないって。あれじゃあ、どんなに鈍いヤツでも気がつくぜ?」
「人のことは放っておけ」
「他のときだったら放っておくけどな、今はなぁ…。今日から猛練習なのに、悩みを抱えたままじゃ、支障をきたすだろうが」
「何て利己的なヤツだ」
「何言ってんだ。あと二週間しかないんだからな。お前がどこまで成長してくれるかが、水無月祭の鍵になるんだ」
忠志は頭を抱えた。それでなくても問題を抱えているというのに、これ以上悩ませないで欲しいというのが本音である。
「あのなー。俺は素人なんだぞ? そんな素人に、キーパーなんて大事なポジションをやらせるんだから、負けは覚悟の上だろうが。過大な期待を寄せるなよ」
「ところがそうはいかないんだな、これが」
「何だと?」
巧は忠志の机の中から紙とペンを取り出すと、そこにスラスラと選ばれた十一のクラブ名を書き出した。そしてその隣りには、丸やバツの印をつけていく。
「いいか、どちらかというとウチに不利な今回の水無月祭の十一ある種目の内、実力的に見て勝てるだろうと思うのがこの丸印の四つ。それでもって、おそらくは間違いなく負けるだろうと思うのがバツ印の五つ。そしてほとんど同じくらいの力量が残りの二つだ。その問題の二つの内の一つが俺たちサッカー部なんだな」
「な…何だとー?」
今まで知らなかった状況をマザマザと思い知らされて、忠志はサッと顔を青くする。興味がなかったからではすまされない、厳しい事態である。
忠志も水無月祭における全校生徒の意気込みを知っていたので、もし自分のせいで負けるとなったら精神的にくるものがあるに違いない。何よりもキーパーというポジションは、他のどこよりも点数に責任を感じる。
「…サッカーって、何試合目なんだ?」
試合は体育館と校庭で分けて行われるが、最初のほうならば問題がない。負けたにしても、それほどのプレッシャーを感じないですむはずだった。
しかし巧は、一縷《いちる》の望みを託して聞いた忠志に、気の毒そうな視線を向ける。そして溜め息をつきながら言った。
「…五試合目…校庭では、ラストの試合だ」
「ラストー?」
「ああ。可哀相だけどな」
「………」
ガックリと肩を落とし、忠志は手の中に顔を埋める。それでなくても苦しんでいるところに、巧がとどめを刺すように言った。
「負けたら、かなりやばいんだ」
「……分かってるよ」
忠志は力なく答えると、食べかけの弁当を残して箸を置いた。
無理やりと言うにも強引すぎる方法で承諾させられて、待っていたのがあまりにも厳しい状況である。考え込まずにはいられなかった。
巧はそんな忠志の肩をポンポンと叩いて言った。
「…と言うわけで、お前はこれからの二週間ばかり、猛練習につぐ猛練習だ。もう覚悟は決まってるだろうな」
「ちょっと待て!」
忠志は考えた末に、やはりどう考えても素人の自分には荷が重すぎるという結論に達した。そしてそれを巧に言う。
「他に…他にはできるヤツはいないのか! その頼りない一年以外にも、キーパーをできそうなのはいるだろうが。たとえどんなヤツだって、まるっきりの素人の俺に比べればまだマシなはずだ」
巧はそれに、同感だといった様子でウンウンと頷く。しかしそのあとに続く言葉は、希望を持ちかけた忠志をガッカリさせた。
「気持ちは分かるぞ、気持ちは。それなら、俺も助かるんだけどな。ところがなー…キーパーって人気ないんだよ。一見すると地味だし、ゴール前から動けないし、ボールは怖いしでなぁ。他のヤツらが皆キーパーに関して初心者も同然だったら、下手にポジションを動かすよりも、お前を鍛えたほうがまだ勝率が高いからな」
忠志は唖然とする。
「そんなポジションに初心者の俺を…」
「だってお前、ボール怖くないだろう?」
「それは、そうだが……」
だが、そういうものではないというのが忠志の考えである。しかし今の巧には何を言っても無駄なようで、忠志は口を噤《つぐ》んでしまう。
「もう分かってるとは思うけどな、俺は考え直す気はまったくないから、お前も諦めて練習に励んでくれ。本番で点数がボカスカ入って罵《ののし》られるよりは、練習で苦しんで責められないほうがいいだろう?」
「………」
もちろん忠志は、両方とも嫌だと思った。
だが巧はそんな忠志の心を読み取ってはくれず、一人で満足気に頷いている。
「よしよし、納得してくれたか。これからの二週間、辛いだろうが頑張ろうな」
「………」
嫌そうに顔を歪めて巧を見るが、巧はまったく気がつかない振りをする。それどころかわざとらしく言った。
「お前がやる気になってくれて嬉しいよ。朝は六時半から練習、放課後も授業が終わり次第練習だから、遅刻しないようにな」
「六時半?」
ギョッとして目を見開く忠志に、巧はあっさりと頷く。
「ああ。何だったら、六時からでもいいぞ。本当は今日から朝練を始めるはずだったんだけど、俺の手はこんなだし、お前の練習メニューも考えなきゃいけないしで、明日からにしてもらったんだ。それにしても…昨日から朝練が始まってれば、俺もこんな怪我をしなくてもすんだのになぁ、畜生」
「そうすれば俺もこんな目に合わなくてすんだんだ」
「まったくなぁ」
二人は揃って悲しげな溜め息をつく。
「だが今更そんなことを言っても仕方がない。こうなったら俺は、お前をしごいて、しごいて、しごきまくって、何とか使いものになるキーパーにしてみせる」
「あー…別に、そんなに張りきらなくても……」
うんざりとした口調で呟いた忠志に、巧はニヤリと笑う。そして楽しそうな…半《なか》ば自棄じみた表情で言った。
「そういえば、言ってなかったな。放課後の練習が終わるのは六時だから。試合が近づいてきたら、許可をもらって七時までやるけどな」
「……っ!」
想像していたよりもずっと長い練習時間に、忠志は恐ろしいものを感じる。思わず口に出して計算をしてしまった。
「待てよ…。週に六時間授業が二回あって、その日が…三時間? 普通でも四時間? 嘘だろう…信じられん」
そこまで考えて、忠志はふと嫌な予感に捕らわれてしまう。恐る恐るといった様子で聞いてみた。
「巧くん、土曜日は…練習あるのかな?」
その質問に、巧はニコリと笑う。
「喜べ! ビッシリ五時間は練習できるぞ!」
「………」
悲しい現実に、忠志は再び手の中に顔を埋めた。だがまた更に恐ろしい疑問がわいてきて、バッとすぐに顔を上げる。
「まさかと思うけど、日曜まで練習があるって言うんじゃないだろうな! 冗談じゃないぞ。俺は絶対に出ないからな!」
「ああ、それはないから安心しろ。日曜くらいは休まないと、体が壊れかねないからな。その代わり、お前には特別メニューを出すけど」
「ひ…ひでぇ……」
呟く忠志に、巧は首を横に振った。
「酷くない、酷くない。試合でボロ負けするほうが、よっぽど酷いんだぞ。俺はそうならないように、愛の鞭を持ってお前を鍛えてやるのだ」
「俺は試合になんか出たくないっつーのに」
「遠慮するなって。試合はいいぞー。それまでの練習の成果を全部出しきって、勝ったときのあの嬉しさといったら…」
うっとりと目を閉じてそのときの感動を思い出している巧に、忠志は呆れながらその反対のことを聞いてみる。
「負けたら?」
「悔しい。特に自分のミスで負けるとなぁ…悔しさのあまり、その日の夜は眠れなくなる。でも、ま、試合を続けていれば、いつかは負けるもんだし」
「そりゃあ、お前はいいよ? また次のチャンスがあるんだからな。俺なんてどうなるんだよ。一回きりの大舞台。しかも普通の大会なんかより、よっぽど盛り上がる水無月祭だ。…盛り上がるって言うより、殺気立つって言ったほうが合ってるか」
「そうだなー。大変だ。お前がポロポロやって、大差で負けたりなんかしたら、お前、次の日から学校に来るのが辛くなるだろうなぁ」
その口調に笑みが含まれていたため、忠志はムッとした。
「……こ、こいつ」
「だからだな、何回も言ってるが、そうならないように練習を一生懸命頑張ろうな。こうなったら、俺も一蓮托生だ」
巧は元気よく忠志の腕を取ると、頭の上に突き上げた。
「ファイト、オー!」
「……オー……」
返す忠志の声は力ないものである。考えれば考えるほど、希望よりも絶望のほうが忠志の肩に重く伸《の》しかかってくる。
しかし巧はそう思わないのか、変わらぬ元気のよさで言う。
「ああ、そうそう。お前に渡すものがあったんだ」
巧は自分の席に戻ると、机の脇にかかっている鞄の中をゴソゴソと探り始めた。そして袋に包まれた四角いものを取り出す。
忠志がそれを見ていると、巧は袋を差し出してくる。
「これを貸してやるから、帰ったら家で見てくれ」
「何だ?」
「ビデオだよ、ビデオ。一本がサッカーの初級者入門用で、もう一本がキーパーのファインプレー集を編集したヤツ」
「へー…」
忠志は袋から中身を取り出すと、手に取ってマジマジと見た。
一本はちゃんとしたパッケージに入れられており、大きく『初級者入門』と書かれている。市販のもののようだった。そしてもう一本は普通の家で使っているようなもので、巧の字でラベルが貼ってある。
「いいか、特にその『初級者入門』のほうは何度も見て、ルールを完璧に憶えてくれ。キーパーは他とのコンビプレイがないぶん憶えやすいんだけど、オフサイドやら何やらのルールを憶えてもらわないと話にならない」
「面倒だな」
巧は素直に頷く。
「そう、面倒。だが面倒でも憶えるんだ」
「へいへい」
それでなくても忠志には考えなければならない重大なことがあるというのに、本当に面倒である。
しかし昨日の夜からずっと考え続けていたおかげで、忠志の頭の中で少しずつ考えがまとまり始めていた。
あとはそれをいかに形にし、雅之に伝えるかだった。
グラウンドでは、数十名のサッカー部の部員たちが体操をしていた。巧に無理やり連れていかれた忠志も、その中の一人である。
「俺は…忙がしいんだよなぁ。必死で考えなきゃいけないときに、何でこんなところでこんなことをするはめに……」
ブツブツと口の中で文句を言いながらやっていると、隣りで同じように体操をしていた巧がすかさず注意をする。
「忠志、気を抜いて体操してると、あとで怪我することになるぞ」
「へいへい」
どうせ文句を言っても抜け出せないのなら、せめてトラブルなく過ごそうと思った。それが家に帰るのに、一番の早道である。
雅之はすでに帰宅している。
鐘が鳴ると同時に、教室から飛び出したのだ。
きっとまた一人で悶々と部屋で悩んでいるに違いないと考えて、忠志の中で奇妙な感情がわき上がってくる。
「あいつ、一人で泣かせとくとなぁ…。普段ボーッとしてるだけに、限りなく落ち込んでいったりするんだよなぁ…」
再び自分の考えに没頭し始めた忠志に、巧はこめかみの辺りを引きつらせる。
「忠志っ!」
「…へいへい」
「いい加減にやってると居残りさせるぞ。ったく」
「それは困る」
「だったら真面目にやれ」
「へいへい」
どうやら考えをまとめるのは無理らしいと判断して、今度こそ忠志は集中して雅之のことを考えないように気をつけた。
しばらくそのまま円陣を組んでの体操が続く。
「よし、これで充分体はほぐれただろう。早速練習を始めるぞ。各自が分かれて、自分のメニューに取り組め」
「はいっ!」
元気よく返事をすると、選手たちはそれぞれがキビキビとした動きでグラウンドに散らばる。そして命令もなしに練習を始めた。
忠志はその様子を見て感心する。
「へー…大したもんだ。よく仕込んだな」
「おいおい、動物じゃないんだから、仕込んだって言い方はないだろうが」
「それもそうだな…。じゃあ…よく躾《しつけ》たな」
一応はそう言い直したものの、内容に大差はない。巧は練習を始める前から、そこはかとない疲労を感じてしまった。
「それじゃあ、同じようなもんだって。もっとこう…自主性のある行動、とかだな。相応《ふさわ》しい言い方があるだろうが」
「そういうの、手前味噌《てまえみそ》って言うんだぜ?」
「放っとけ。本当のことだからいいんだ」
ベーッとそう言いながら舌を出し、巧は篭《かご》からボールを一つ取ってくる。
「これが公式に使うボールと同じヤツなんだけど、結構堅いんだよ。だからうっかり取り損なうと、すっげぇ痛いぜ。強烈なヤツが打つと、マジで手が痺れるからな。それに下手すると、手が裂けたりすることもある」
「手が裂けるー?」
「ああ。この…親指と人差し指のところが切れることがあるんだよ。でも、まぁ、そんなことは滅多にないけど」
忠志は自分の手をマジマジと見ながら、そうなった場合のことを想像してみる。
「ここがねぇ…。痛そうだな」
「そりゃあ痛いらしいぜ。手が裂けるんだから、当然だけど」
「うーん…」
小さく唸る忠志に、巧は幾分慌ててしまった。どうやら余計なことを言ってしまったらしいと気がついたのである。
「おいおい、そんな心配しないでいいって。滅多にないって言っただろう」
「いや、心配してるわけじゃないんだけど。ただ、痛そうだな…と」
巧はその言葉にニッと笑う。
「もっとも、手が裂けるようなボールに触れるようになったら大したもんだけどな。テレビなんかじゃ分からないだろうが、あのボールの速さって言ったらちょっとしたもんだぜ」
「へー、そんなもんかね」
「やってみれば分かるって。それでだな、忠志。水無月祭まで時間もないことだし、まずはボールの速さに慣れてもらうことから始めるから」
「ああ」
巧はピーッと笛を鳴らして、大きな声で名前を呼ぶ。それに答えて、五人の選手が巧の前にズラリと並んだ。
「忠志、この五人がウチの部の中でも特に強烈なキック力を誇る連中だ」
「フンフン。なるほど」
そう言われて見てみると、確かにどの選手も体ができ上がっている。それに何よりも、その腿の太さが際立っていた。
「それでだ、この五人がゴールに向かってボールを蹴る。そしてそれをお前が取る。最初は反応することも難しいだろうが、まぁ、とにかく慣れないことにはな」
「分かった」
あっさりと頷いたものの、忠志は言葉の上でしか理解できていなかった。
実際にゴール前に立ち、選手たちが次々に蹴るボールを見て、体感して、自分がキーパーというポジションを甘く見ていたことに気がつく。
唸りを上げて飛び込んでくるボールを、目が追えないのである。
何発か蹴ってもらったところで、忠志は白旗を上げる。
「駄目だ、巧…。俺にこのポジションは務まらない。今だったら遅くないから、頼りない一年のほうを出してくれ」
「おーい。結論を出すのが早すぎるって」
笑いながらそう答えるのに、忠志は首を振る。
「だって、ボールが全然見えないんだぜ? 見えないものをどうやって取るんだよ、無理に決まってるだろうが」
「誰でも最初はそうだって。もう少しやれば目が慣れてくるから、そのうちに反応することもできるようになるだろう」
「そのうちって、いつだ」
「いつか。お前次第だな」
「………」
巧は手に持ったファイルに何か書き込むと、下を向いたまま、待機している選手たちをペンで差す。
「ほい、そっち。さっさと蹴ってやってくれ」
「はい…。でも、いいんですか?」
ためらいながら聞く相手に、巧は軽く手を振って答える。
「いいから、いいから、気にするな。これくらいで壊れるようなヤツじゃないし、そのうちにビビりもなくなるって」
「鬼か、お前は!」
「はいはい、鬼で結構。はい、蹴って」
五人は困ったように顔を見合わせたが、すぐに気を取り直してボールを地面に下ろす。そして順番に蹴っていった。
巧が脚力自慢をするだけあって、ボールはすごい勢いでゴールを狙い、鋭くネットに突き刺さる。しかも広いゴールの端にばかりではなく、ときとして忠志のすぐ近くに決まるものだから、その恐怖は計り知れなかった。
これに比べれば、授業中にやったサッカーなどほんのお遊びである。さすがに毎日練習をしているだけあって、球威も鋭さも大人と子供ほど違う。
忠志は、『ボールが怖くない』などと言った自分を後悔していた。
「前言撤回だ! 巧、俺はボールが怖いぞ!」
巧はチラリと視線を上げると、肩を竦《すく》めた。
「あっそ。じゃあ、怖くなくなるまで頑張ってな」
「悪魔!」
つけ入る隙も与えず、巧は続けるように言う。
忠志の顔ギリギリをボールが走ったとき、思わず巧に向かって罵《ののし》っていた。しかしすぐに次の選手がボールを蹴ってくるものだから、息をつく暇もない。
「人殺し!」
忠志はボールを止めるため…というよりは、当たらないために、必死で目で追いかけようとした。
右に左に、うんざりするほどあっさりとボールが決まってしまう。いい加減に苛々としてきて、忠志は飛んできたボールに飛びついた。
目が慣れてきたせいか、恐怖よりも悔しさが先に立つ。
しかしまだ触るまではいかない。
「ほー…何だかんだとわめきながらも、少しずつボールに反応できるようになってきたじゃないか。感心、感心」
「お前は呑気《のんき》でいいよ」
そうぼやきながらも、忠志は前を見ていた。
脚力自慢の五人組は、忠志が余所見《よそみ》をしていようが何をしていようが、構わずに蹴り込んでくるのである。油断をしてはいられなかった。
「忠志、相手が蹴る前に読むんだよ。注意してみれば、足の振り、ステップ、視線、そんなもんで分かるようになる」
「初心者にそこまで求めるなー!」
そう怒鳴りながらも、忠志は言われた通り相手の動きにジッと視線を合わせた。
ボールを地面に置く。
少し離れて、勢いをつける。
ボールを蹴るために足を振り上げたのに、忠志は反射的に判断を下した。
『右?』
蹴ろうとしているその足の爪先が右の方を向いていたような気がして、忠志は考えるよりも先に飛んでしまう。
しかしそれは少しばかりタイミングが早すぎたようである。咄嗟にそれを見て取った相手が、器用にも蹴る方向を変える。
ガラ空きになった左半分に、さほど威力のないシュートが決まった。
巧はそれを見て、興奮しながら両手でパンパンと拍手をする。そして嬉しそうに笑い、大声で忠志に言った。
「いいぞ、いいぞ。それでいいんだ」
「嫌味か!」
自分の間抜けた行動に、忠志は真っ赤になって怒鳴る。しかし巧はあくまでも本気で、忠志のことを褒《ほ》めたのである。
「嫌味なんかじゃないって。今のでいいんだよ、今ので。最初はタイミングが合わなくて当然だから、まずはコースを読むことに集中してくれ。そうしたら、少しずつ飛ぶタイミングが分かってくるから」
「へー。才能あるか、俺?」
「あるある。こんな短い時間でボールに反応できるようになるなんて、大したもんだぜ、ホント。えらいもんだ」
「よーし。じゃあ、いっちょう頑張ってみるか」
巧に褒められて、忠志は気をよくする。調子に乗ってそんなことを言っていると、巧が五人に向かって怒鳴った。
「お前ら、もっと真剣にやれよ。忠志はまるっきりの初心者なんだからな。止められたら、グラウンド五周だ」
五人の顔が引き締まったのを見て、忠志がゲッと呟く。
「バカたれ! 煽《あお》るようなことを言うな!」
「それくらい真剣になってくれないと、練習にならないからな。お前もやりがいが増えて、さぞかし嬉しいだろう?」
「嬉しくない!」
そう怒鳴って、忠志はグッと体に力を入れてゴールの中央に立つ。そして前屈みになりながら、蹴る相手を見つめた。
その顔が先ほどよりも真剣になっているのを見て取って、忠志は溜め息をつく。今まででさえ大変だったのに、これで取るまでの道程が長くなったのは間違いない。
しかしそうやって溜め息をついていても仕方がないので、例えどんなボールが来ようと飛びつく覚悟を決める。
瞬《またた》きもせずに蹴る相手のことを見つめ、次第に集中力が高まっていくのを感じた。
行動を逐一《ちくいち》目で追って、相手の視線を読もうとする。蹴るその一瞬前に、視線が左側に走ったような気がした。
蹴ろうとグッと踏み込むその上体が、先ほどよりもずっと深い。
忠志は蹴ったと同時に左側へ飛び、ものすごい勢いで飛び込んでくるボールを防ごうとする。しかしほんの少しばかり地面を蹴る足が遅れたせいで、止めることはできない。触るだけが精一杯だった。
「いってぇ!」
ボールに弾かれた手が、ジンジンと痺れるような痛みを訴える。
「おお、すげぇ! もう触れるようになったか」
「巧、痛いぞ、これ」
手を軽く振りながら言う忠志に、巧は笑った。
「そりゃあ、痛いよ。あのスピードで蹴られたボールに手が当たるんだから。上手くキャッチできるとそうでもないんだけどな」
「両手で取れってか?」
「ああ。一番いいのは、正面から、胸の前で取ることだ。そうすれば手で取ることができなくても、体がボールを止めてくれるから、点数にはならない」
「なるほど。すると、やっぱりより早い反応が必要なわけか」
「そういうことだ。キーパーにとって最も重要な仕事は、自分の体よりも後ろにボールをやらないってことだからな」
「フンフン。努力はしてみよう。…にしても、左側に打たれると、飛びつくのが難しいな。右だとそうでもないんだけど」
「まぁ、確かにそうだろうな。お前右利きだし」
そう答える巧に、忠志は首を傾げながら聞く。
「慣れれば、左も取れるようになるもんか?」
「ああ、そりゃ、もちろんだ。俺なんかもやっぱり、左に打たれると多少は苦手意識があるから。でも、取れないことないぜ」
「ふーん。そうと知ると、がぜんやる気が出てきたぜ。あいつらの蹴ったボールを止められたら、気分いいだろうなぁ。グラウンド五周だし…」
恨みがましい声で呟く忠志に、巧はゲラゲラと笑う。
「そうそう、グラウンド五周な…。おいおい、お前ら。忠志くんがお前らにグラウンド五周させようと狙ってるから。気をつけたほうがいいぜ」
「何がおかしい!」
「おかしくない、おかしくない。ただそのやる気が嬉しいな、と思っただけだ」
「…そうは見えなかったぜ?」
ブツブツと文句を言いながら、忠志は定位置につく。
そんな忠志に、巧はファイルを見ながら言った。
「忠志、お前の練習メニューはこれだけじゃないからな。他にも色々と用意してやったから、楽しみにしててくれ」
「ひ…人のやる気を殺《そ》ぐようなことを……」
「ま、頑張ってくれ」
気楽に言う巧に、忠志は口中で罵る。
そして再び視線を前に向けた。
忠志は思ったよりもずっとハードだった練習に、疲れ果てて帰宅をした。
電車の中、座れたのをいいことに眠ってしまったほどである。おかげで危うく乗り過ごしそうになってしまった。
「ただいまー……」
しかしそれに答える声はない。忠志はそれを不思議に思った。この時間、いつもならば台所から母親が返事を寄越すはずなのである。
「ああ、そうか。祖父さんの法事で、今日から二人して田舎に行くって言ってたんだ。うーん…メシどうするかなー」
とりあえずシャワーは浴びてきていたので、風呂の心配はする必要がない。暖かい湯船につかって、疲れを癒したい気もしたが、やはり一番大切なのは、すでに空腹を訴えている胃を治めることだった。
「やっぱ出前かね。ラーメンでも取るか…」
しかしそれよりも先に、まずは少しでも体を横たえさせたかった。
疲れきった体は、休息を求めている。
体をほぐす体操から始まってビッシリ三時間。途中、五分の休憩が何回か挟まれただけで、ずっと動き回っていた。
最初の一時間はひたすらシュートを止める練習で、あとは何が何だか分からないというのが正直な感想である。
忠志は重い体を引き摺って、階段を上る。
部屋に入ると、壁の電気のスイッチを探ってつける。そして鞄を放り出して、制服も脱がずにベッドの上に横になった。
そのまま腕を大きく伸ばして目を閉じた。
「し…しんどー…。これが二週間も続くのかよ。勘弁してくれ」
体中がギシギシとしていて、明日になったら筋肉痛と打撲に悩まされそうである。
結局、ボールを弾くことはできても、止めるまでには至らなかったのだ。おまけに取り損なった何発かが体に当たって悲惨な目に会っている。
悔しさはあるし、痛いしで散々だった。
しかもこれで忠志のやることが終わったわけではない。昨夜からずっと悩み続けた、重要な問題がまだ残っていた。
「ああ、そうだー…雅之のところに行かないと…。まだ、上手く考えがまとまってないんだよなぁ。どうすっかな…」
そんなことを呟きながら、眠い頭で一生懸命に考えようとする。しかし睡魔は忠志の意思よりも強く、あっという間に眠ってしまった。
そのまましばらく、忠志は電気のついた部屋で顔をしかめながら眠り込んでいた。やらなければいけないことがあるためか、その眠りは苦しそうなものである。
ウーン…と呟いて、寝返りを打った拍子にふと意識が浮き上がる。ぼんやりと目を開き、眠気にもう一度目を閉じようとして、何気なく時計を見る。
針が差すところの意味を知って、驚きに目が覚めてしまった。
「十時? やべぇ!」
忠志はガバリと起き上がると、傍《かたわ》らの電話に飛びついた。そして慌てて雅之の家のナンバーを押す。
どうか雅之が出ますように…と祈っての電話である。
生まれたときからのつき合いで、こんな時間に忠志が電話をかけても雅之の両親は何とも思わないだろうが、かけるほうにとっては心に負担がかかる。
何回かコール音が鳴り、やがてそれが途切れる。
「はい、鹿野です」
聞き覚えのある声に、忠志はホッと胸を撫で下ろした。
「あ、もしもし。雅之か?」
「うん…」
しかし相手が忠志だと分かった途端、雅之の声は小さくなる。返すその声に、忠志は予想通り雅之が落ち込んでいたのを知った。
「雅之、話し合おうぜ」
忠志のその言葉に、受話器の向こうで雅之が震えたのが分かる。微かに息を吸う音が聞こえ、雅之は震える声で言った。
「もう…分かってるからいいよ」
「いいや、お前は全然分かってない」
きっぱりと言いきると、忠志は強引に話を進めてしまう。このまま受話器越しに言い争っても、話が進展しないのは経験上よく知っている。
「そうだな…今日はおふくろたちが田舎に行ってていないから、ウチに来いよ。そうすれば邪魔されずに話せる」
「いいって言ってるのに……」
雅之は深い溜め息をつく。
忠志が出した結論とやらを聞くのが嫌なのだが、忠志の声でそれが許されないことが分かったようである。
お互い、伊達《だて》に長いこと幼馴染みをしていたわけではない。
忠志はその溜め息を了承と受け取って頷くと、言うべきことを言って安心したせいか、途端に胃が空っぽなのを思い出した。
意識すると、空腹に我慢ができなくなる。
しかし忠志には料理などできない。冷蔵庫の中にあるものを適当に炒めて、チャーハンもどきなら作ったことがあるが、あいにくとジャーの中身は入っていない。しかもこの時間では出前もやっていないとあって、突然危機感が募ってきた。
忠志は散々ためらったあと、受話器の向こうで緊張している雅之に言った。
「あー…そうだ……」
「な…何……?」
忠志が不吉なことを言うと怯えてか、雅之の声が不安そうである。だからこそ余計に、忠志は言い出しにくかった。
「いや、あのな…悪いんだけど、何か食うものないか? 出前でも取ろうと思ってたんだけど、ついうっかり眠りこけて…。この時間だと、もう店やってないし」
「………」
小さく雅之が笑う。
「分かった。お母さんに言って、何か作ってもらう。その代わり、少し時間がかかるよ。十分…十五分くらいかな?」
「待ってる。自分で作ろうと思ったら、いつになるか分からないからな。何せ米も炊いてないんだぜ?」
そう笑いながら、忠志は電話を切った。雅之との会話が少しだけ以前に戻ったようで、嬉しかった。
それに考えてみれば、まだ自分の中で形になっていない感情をまとめるのに、十五分の猶予はありがたいものである。
「あ、いかん。その前に少しは部屋を片づけないと」
どうせ雅之には忠志の部屋の状態を知られているが、それでも散らばったままの本と、まだ脱いでもいない制服は問題である。
パパパッと手早く制服を脱ぎ、急いで寝間着替わりのスエットの上下に着替える。そしてバタバタと部屋を片づけて回った。
散らかった本を一つにまとめて、部屋の隅に追いやる。
乱れたベッドを綺麗にメイキングする。
そんなことを機械的にしながら、忠志は頭を必死に回転させる。色々な感情がグルグルと回り、わけが分からなくなりそうだった。
しかし一つだけ分かっていることがある。
とにかく、雅之が隣りにいないのは嫌なのだ。
どこかでまた事故に会っているかもしれないということだけでなく、自分の知らないところにいるのが嫌なのである。
それに無視されるのも気分がよくない。もちろん雅之が顔を合わせられない理由は分かっていたが、それでも嫌なものは嫌なのだった。
自分でも独占欲が強いほうかもしれないと忠志は思った。
そんなとき、フッと朝の奇妙な自分が蘇ってくる。どうしたわけか、雅之がいつもと違って見えた変な自分だ。
雅之がいつもより綺麗に見えた。
もちろん忠志は雅之の顔が整っていることも知っているし、その体も男にしてはやけに細いことも知っている。しかし今朝は、「知っている」という知識ではなく、感覚として捕らえてしまったような気がしたのである。
それは毛皮の手触りを知識として知っているのと、実際に触ってみて経験として知るのと同じくらいの違いだった。
忠志は今朝、初めて雅之の綺麗な顔立ちや、その細い体を意識してしまった。しかもそれは、どこか体を熱くするような感触を伴っていた。
「うーん……」
だがそこから先が忠志にはよく分からない。
考えれば考えるほど行き詰まってしまい、結論からはほど遠くなっていく。何よりもまず、「幼馴染み」という檻《おり》から抜け出ることが難しかった。
長い間に染みついてしまった、「守らなければ」という思いが、雅之を恋愛の相手として見れるかという思考に立ち塞がったのだ。
「う、うーん……」
難しすぎる問題である。
「大体なぁ…俺たちの幼馴染み歴は十七年、それをいきなり恋愛歴にひっくり返したいと言われても、俺にも心の準備ってものが…。しかも男同士だし……」
なまじ相手が雅之なだけに、忠志は悩んでしまう。他の人間だったら、誰に何と言われようが断るだけだった。
「ん……? ちょっと待てよ」
そう考えた自分に、疑問が生じる。
「…ってことは、雅之相手だと、悩む必要があるってことか?」
これは問題である。
悩んだこと自体に問題があると気がついて、忠志は余計に困ってしまう。
忠志の勘はそれをとても重大だと訴えていたが、あいにくと頭のほうがついていかない。今まで健全すぎる青春を過ごしていたため、恋愛問題で悩むのは初めてなのである。
「つまり…つまり……どういうことだ?」
すぐそこまで答えを引き出しかけたような気がするのに、掴む前にスルリとそれが頭の中を擦り抜けてしまう。
忠志はもどかしさに頭を抱えた。
「だ…だめだ……。俺はこういうことを考えるのに向いていない。大体俺は、どっちかというと直感型なんだからな」
結局一人で考えていても答えが出ないので、雅之の顔を見れば自分の中でモヤモヤとしている気持ちが何なのか分かるだろうというのが結論である。
ひとまずそれは脇に置いて、忠志は掃除を急ぐことにした。
それから何分かが経ち、インターホンが鳴ったときも、まだ忠志は部屋の掃除の途中だった。一応は片づいて見えるようになったのだが、床に掃除機をかけるまでは至っていない。しかしもうその時間はない。
「コロコロだ」
手っ取り早く済ませるために、忠志は押し入れに隠れている粘着テープ式の掃除用具を取り出した。そして床の上のゴミなどを除きにかかる。
もう一度インターホンが鳴らされて、部屋の中から大声で怒鳴った。
「開いてるぞ!」
忠志は階下の物音に神経を集中しながら、大まかにゴミを取る。そして雅之が上がってこないうちに、慌てて押し入れに突っ込んだ。
「よし、終わり」
パンパンと手を払いながら、忠志は満足気に室内を見渡す。久し振りに綺麗に片づいた自分の部屋を見るのは気分がよかった。
やがて階段を上る音が聞こえ、扉を小さくノックされる。
「入れよ」
「うん…」
オズオズと扉を開けて入ってきたその顔を見て、忠志はポンと掌を打つ。
泣きそうな…その頼りない表情が、何を言われるか密かに怯えているその表情が、忠志の迷いを断ち切った。
「分かった」
その瞬間、忠志が考えたのは「抱き締めたい」である。
しかも動物や兄弟にするようなそれとは、明らかに違う感情でだった。忠志はそのついでに、「キスをしたい」などとも考えてしまった。
思わず唇に視線が行って、慌てて忠志は首を振る。
雅之は忠志のおかしな様子に、不安が掻き立てられてしまった。
「な…何か……?」
目を見開いて戸惑っている雅之に、忠志は笑いながら首を振る。
「いや、何でもない。こっちのことだ。…ところで、何を持ってきてくれたんだ?」
忠志はそう言うと、ヒョイとお盆を覗き込んだ。
大きなお盆の上には、オムライスと細々としたおかずが乗っている。さり気なく添えられたお新香がありがたい。
雅之は不安そうに忠志を見ていたが、やがて諦めてお盆を差し出す。
「はい。ウチのお母さん特製、ジャンボオムライス。忠志がすごくお腹が減ってるみたいだって言ったら、いつもの倍くらいの作ってくれた」
「おお、ラッキー。旨いんだよな、これ」
忠志は子供の頃からのお気に入りメニューをわざわざ作ってくれた優しいおばさんの心遣いに感謝をする。
その間にも腹の虫は催促をし、忠志を苦しめる。
忠志は受け取ったお盆を机の上に乗せ、雅之に言った。
「ちょっと悪いんだけどな、どうにも腹が減って仕方がないから、これを食べ終わるまで待ってくれ」
「うん。お茶、入れてくる」
「サンキュー」
忠志が皿にかけられたラップを取ると、まだできたてらしく熱い湯気が上る。一緒に乗せられたスプーンを取り、ガツガツと食べ始めた。
「う…旨い!」
激しい練習のおかげで、食欲が増している。しかも眠っていたせいで、いつも七時に夕食を取るところが十時になってしまったのである。
こんなに食事を美味しく思ったのは久し振りだと忠志は思った。そしてこれからの二週間、毎日こんなふうに思うのも悪くないと考える。
しかしそれがこれから先ずっと続くとなったら、また話は別だった。
味わうと言うよりは、貪るようにガッツいて食べていた忠志の耳に、階段を上ってくる雅之の足音が聞こえてくる。
お茶を持っているからか、いつもより慎重だった。
「はい、お茶」
「ん…」
一気に掻き込んだせいで、ちょうど喉が詰まりかけていたところである。忠志は目で礼を言うと、それを受け取った。
「熱いよ」
その言葉に、気をつけながら口に含む。ゆっくりとお茶で流し込むと、ようやく胃のひっくり返った感じがなくなった。
「あー…ひとまず落ち着いたぞ」
そう言いながらも、食べる手を止めることはしない。そのまましばらく食べ続けて、忠志は瞬く間に皿を空にした。
「さて、食い終わったことだし…」
そう言いながら、忠志は残ったお茶を啜る。
「昨日の返事のことなんだけどな……」
「………」
それまでの穏やかな雰囲気が一掃され、室内に緊張が走る。
雅之は、忠志が最後まで言う前に大きな溜め息をついた。どうやらもう、断られるものと決めてかかっているようだ。
「いや、あのな…ちゃんと聞けって」
「分かった。はい、どうぞ」
「だからな、俺もな、お前のことが好きだぞ。そういう意味で」
必死で答えた忠志に、雅之は怪訝そうに眉を寄せる。
「そういう意味? そういう意味ってどういう意味?」
「だから、そういう意味だ」
「??? つまり…幼馴染みとしてっていう意味だよね?」
雅之が本気で言っていると分かって、忠志は脱力する。すでに思い込んでいる雅之には、はっきりと口にしないと通じないようだった。
「鈍いにも、ほどがあるぞ…」
疲れたようにそう呟いて、忠志はすぐに立ち直る。
「雅之!」
「な…何?」
突然名前を呼ばれたことに驚いて、雅之は目を見開いている。忠志はそれを見て取ると、大きく息を吸って言った。
「俺はな、幼馴染みとしてではなく、お前が好きだぞ。つまり、恋愛感情としてっていう意味なんだけどな」
しかし雅之の反応は微妙なものである。まるで意味が分からないかのように首を傾げ、次に戸惑いの表情を浮かべる。
「今更…そんなこと言われても……」
「嫌、なのか?」
思わず不安になって、忠志は雅之の顔を覗き込んだ。
「僕は…その…告白をする前に悩んだんだよ、これでも。それに忠志のことが好きなんだって気がついてから、忠志はどうなんだろうって気になった。ずっと考えて…出た結論は、忠志は幼馴染みとしてしか僕を見てないってことだったんだよ。だから、あの告白も、忠志と恋人同士になりたいからとかじゃなくて、幼馴染みとして平気な顔をして隣りにいるのが辛くなってきたからなんだ」
「全然期待してなかったのか?」
不思議そうに聞く忠志に、雅之はコックリと頷く。
「まったく…?」
「うん」
「何でだ? 普通はそういうとき、多少なりとも期待をするもんじゃないのか?」
「そうだけど…。あれだけずっと一緒にいて、忠志が僕をそういう目で見るときって一回もなかったからね。いつも、すごく普通だった」
その言い方に、忠志は思わず笑ってしまう。真剣な雅之に悪いとは思ったが、何やらおかしな表現の仕方である。
「すごく普通ってのは、何だ? 普通じゃないヤツっているのか?」
「え、結構多いよ?」
聞き捨てのならない言葉に、忠志はピクリと眉を吊り上げる。
もちろんそれは忠志も気がついていたが、雅之の視界に入る前に片っ端から睨んで追い払っていたつもりだったのだ。
「変なヤツ、多かったのか?」
「うん…まぁ…。どうも僕はそういう目で見られやすいらしいし…。そのうちに僕もそういう人を警戒して避けるようになったから、分かるようになったんだ」
小さく苦笑する雅之の表情が、相当なことがあったのでは…と忠志を不安にさせる。守ってきたつもりで、その実そうでもなかったことが分かった。
「大丈夫だったのか…? その……」
思わず言い淀《よど》んだそのあとを、雅之は理解したらしい。
「何もなかったよ。危なかったことは何度かあったけど、僕はほら、悪運が強いからね。いつでも最後には何とかなってるんだよ」
「それは…よかった……」
自分の無力さを感じさせられて、忠志は小さく舌打ちをする。そして今後雅之にそんなことをしようとする人間がいたら、有無を言わさず殴られてもらおうと考えた。
雅之はその言葉にニッコリと笑い、ついで寂しげな表情に変わる。
「忠志は、僕のことを絶対にそういう目で見なかったから。最初は嬉しかったけど、そのうちに悲しくなった……」
「………」
その言葉に、忠志は困ったように軽く頭を掻いた。そして微かに顔を赤らめると、頭を抱えて小さくなりながら言った。
「俺は、無意識のうちに目にフィルターをかけてたんだよな。だってさ、やばいだろう? 幼馴染みの…しかも男に欲情するとなるとな」
「え……?」
言われたことが理解できずキョトンとしている雅之に、忠志は開き直って笑う。
「男はなー…女と違ってバレるし」
「何が?」
「ま、色々と不都合なことが……」
「……?」
多分に含むものを持つ忠志の言葉を、雅之は上手く理解することができない。眉をしかめ、一生懸命に考え込んでしまった。
忠志は思わず苦笑する。
「だってな、考えてもみろよ。俺はお前の部屋にレーザーディスクやビデオを見にいって、そのまま泊まるなんてことはしょっちゅうなんだぜ? その度《たび》ごとに前を隠すわけにはいかないだろうが」
さすがにそこまで言えば雅之にも分かったらしい。それまで不思議そうに首を傾げていたその顔に一気に血が昇った。
「な、な、何言ってんの!」
真っ赤になってそう怒鳴る雅之に、忠志はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。楽しそうな表情だった。
「おお、意味が分かったか。大人になったなぁ」
「バカばっかり言って!」
「バカじゃねぇよ。本音だぜ? 男って、そういう悲しい生き物なんだ」
ウンウンと自分の言葉に頷く忠志は、顔を赤くしたままの雅之を見る。そしてニヤリと笑うと言った。
「ところで雅之…。こうなったからには、覚悟はできてるんだろうな?」
「え?」
「お前、俺がお前のことをそういう目で見てなくて悲しいって言ったよな? だったら今、俺がそういう目で見てるって分かって嬉しいだろう?」
「え? え?」
笑いながらジリジリと近づく忠志に、雅之は気圧されてしまっている。事態が把握できないまでも、不穏な雰囲気は感じられる。
雅之は顔を強張らせて、迫る忠志を凝視していた。
「さっきお前が部屋に入ってきたときから、俺はお前に欲情しっぱなしなんだぜ?」
囁きながら、忠志はチラリと視線を移す。
「その細い首とか、シャツから覗く鎖骨の窪みとかな」
そう言われて、雅之は咄嗟に手で隠してしまった。そしてあからさまに警戒した様子でジリジリと後ろに下がる。
その姿があまりにも子供っぽかったので、忠志はつい声に出して笑ってしまった。
雅之は緊張していたところをいきなり笑われて、キョトンとする。目の前でゲラゲラと笑う忠志に、徐々に怒りが込み上げてきた。
「からかったな!」
手を伸ばすと、雅之は忠志の頭を叩いた。しかし忠志はいつまでも笑いを止めようとしないので、思わずムキになってしまう。
何度もペチペチと叩くその腕を掴まれ、雅之は床の上に倒されてしまった。
「性格悪い! 嫌いだ!」
「いや…悪い悪い。別に笑うつもりはなかったんだけど。つい、な…。可愛すぎるんだもんな、お前ってば」
「またそういうことを言う……」
からかっているのかと思って、雅之は顔をしかめる。
だが忠志は、それまで笑っていた表情を引き締め、真剣な顔を作る。そして上から雅之をジッと見つめた。
「本当だぜ?」
「忠志……」
少しずつ近づいてくる忠志の顔に、雅之の心臓は飛び跳ねそうになる。ドキドキとうるさいくらいに高鳴った。
しかしそれは忠志も同じである。
唐突に奪われてしまったファーストキスと違って、今度は自分のほうからである。上手くできるかどうか多少不安に思いながら、そっと唇を合わせた。
温かく柔らかい感触に、目を閉じる。
そして幾らも経たないうちに、触れたときと同じようにソッと離した。
優しい、だがとことなく困ったような空気が辺りを支配する。妙に照れてしまって、お互いに言葉が出なかった。
上気した顔を見られたくなくて、雅之は横を向いた。
忠志はそんな雅之の顔を見つめながら、嬉しそうに頬を緩める。そして楽しげな弾んだ声で言った。
「セカンドキスは俺からだな」
「………」
横を向いたまま、ますます赤くなる雅之に、忠志は笑う。
「でもな、お前に欲情するのは本当だぜ? 覚悟したほうがいいな。俺は昔から、熱しやすく冷めにくいタイプなんだ。しかも今まで押さえてきたツケが一気にまわってる気もするし…。この顎の線にすらムラムラくるもんな」
そう言いながら、忠志は雅之の顎に軽く唇を這わせる。ビクリと体を引くのに、ますます調子に乗って舌で舐め上げた。
「顎だけじゃなくて、プックラした耳朶《みみたぶ》も危ない」
忠志は意地の悪い笑みを浮かべ、パクリと耳朶を含んでしまう。舌の上で転がすように愛撫しては、熱い息を吹きかけた。
「ちょ…ちょっと……」
「何だ?」
耳元で囁くようにして呟くと、雅之の体が微かに震える。忠志は調子に乗って、腰に手を回してスッポリと抱き込んでしまった。
手が、脇腹を滑る。
唇で首筋に舌を這わせながら、右手で細い体の感触を楽しんでいた。
「や、やだよ!」
忠志の胸のところに腕を突っ張り、雅之は必死で忠志から離れようとする。しかし忠志のほうが力はずっと強く、成功する見込みはない。
「忠志ってば!」
下から嘆願するような瞳でジッと見つめられ、忠志は冗談では済まなくなりそうな予感を覚える。
「何でだ?」
「え?」
「何で嫌なんだ?」
「それは……」
一瞬答えに窮して、雅之は俯いて黙り込む。少しずつ赤く染まっていく首筋に、忠志はまた危険なものを感じた。
やがて上げた雅之の顔は真っ赤である。
「ま、まだ、心の準備ができない!」
そうわめくように言って胸をドンドンと叩く雅之に、忠志は顔が緩んでしまう。このまま押しきるには、確かにまだ雅之の心は幼い気がした。
「分かった…。こういったことは、もう少しあとになってからやろうな」
手を離してそう答えてやる声は、微かに笑みを含んでいる。
「ところで確認しておきたいんだけど。雅之、俺がお前のことをそういう意味で好きだって理解できたか?」
「う…うん……」
まだ動揺から立ち直っていない雅之の反応は今一つ鈍い。
忠志はニヤリと笑って言った。
「どうやらまだよく分かってないみたいだな。仕方ない…こうなったら、もう少し熱烈に教えてやらないと……」
「できた! すっごく理解できた!」
そう言って必死に顔をブンブンと縦に振る雅之を、忠志は豪快に笑った。
「な、何で笑うわけ?」
雅之にすれば大真面目である。忠志にまたその気になられて押し倒されてはかなわないと、一生懸命に答えたのだ。
しかし雅之のその子供っぽさは、忠志を笑わせるだけだった。その上、それまでの艶めいた雰囲気を一掃してしまう。
「何でもない、何でもない。雅之くんに理解してもらえて嬉しいなぁ…っていう、喜びの笑いだ。気にするなよ」
「嘘っぽい……」
ブツブツと文句を言う雅之に、忠志は何とか笑いを止めようとする。
「まぁまぁ。細かいことは気にしないで。それよりも雅之、久し振りに泊まってけよ。おばさんたちもウチに来てるの知ってんだから、大丈夫だろう?」
「え?」
「もう風呂には入ったか?」
「は、入ったけど……」
「じゃあ、このまま布団敷いて寝るだけでいいか」
忠志はそう言いながら立ち上がろうとするが、雅之は返事をしないで警戒心のこもった視線で忠志をジッと見つめている。
「……? 何だよ?」
どうも様子のおかしい雅之に、忠志は首を捻って聞いた。しかし雅之は、座り込んだまま、逃げ腰で壁に張りついている。
「…何もしない?」
下から睨みつけるようにそう聞いてくる雅之に、忠志は一瞬目を見開く。そして次の瞬間、盛大に吹き出した。
「だから! 何で笑う!」
「いや…つい……」
再度に渡る忠志の爆笑に、雅之はプーッと頬を膨らませる。
忠志はさすがにまずいと思いながら、顔の前で手を合わせた。
「ごめん、ごめん。これでも本当に悪気はないんだぜ? だた、ちょっと…お前のその警戒心が可愛かっただけで……」
「け…警戒させるようなことをしたくせに!」
「はいはい。俺が悪かった。もうあんなことはしないから、安心して泊まっていって下さい」
そう言って忠志は立ち上がると、押し入れの襖《ふすま》を開けた。そして中から、ほとんど雅之専用となっている布団を取り出す。
寝間着もキチンと雅之のものが洗濯されて用意してあるが、すでに着ているので必要ない。風呂に入ったという言葉を証明するように、雅之はパジャマの上にカーディガンを羽織ってきていた。
開いたシーツをパッと布団の上に広げ、まだためらっている雅之に言う。
「ほら、お前も手伝え。俺は明日から六時起きなんだ。さっさと寝て、なるべく多く睡眠時間を確保するんだ」
「あ、それってサッカーの朝練?」
「そう」
その言葉に安心したのか、雅之は一緒になってシーツをかけ始める。顔からは先ほどまであった強張りが消えていた。
「ふーん、大変だね。キーパーをやることになったから、巧にしごかれるわけだ。朝の六時かぁ…起きれるの?」
「さぁな。自信はない」
きっぱりと言いきる忠志に、雅之は笑う。その手はセッセと動き、かけ蒲団を押し入れから出していたが、口のほうもしっかりと動いた。
「自信がないって…巧が聞いたら怒るよ。サッカーにだけは熱心だから、一回でも遅刻しようものなら、毎朝電話をかけて寄越すんじゃないかな」
「ありえるな…」
それは忠志が練習をサボれないということでもある。
一日ですでにもう嫌になりかけているのに、これが朝と放課後と二週間も続くかと思うとうんざりする。しかも逃げ出すことも、休むことも許されないのである。
忠志の情けない顔を見て、雅之は笑う。
「珍しい…。忠志のそういう顔。たまにはいいね」
「お前なぁ…」
部外者ゆえの気楽な発言である。
忠志は一瞬顔をムッとさせ、次に意地の悪い笑みを浮かべる。
「安心しろ。お前もつき合わせてやるから。せーっかく両想いになれたことだし、朝も放課後も毎日ピッタリ一緒だ」
「……!」
ギョッとして、雅之は目を見開く。
忠志も決して朝に強いほうではないが、雅之ほどではない。六時に起こすという言葉に驚いたのも当然だった。
「やだよ! 絶対、やっ!」
しかし忠志は聞く耳を持たない。机の上の目覚まし時計を手に取ると、キリキリと、鳴る時間を変えるために針を変える。
「あ、違った。六時起きじゃない。六時に学校に着くようにするんだ。…ってことは、五時起きか……ハードだ」
「………」
雅之は絶句である。
嫌だという思いで体を動かせない雅之に、忠志はひたすら道連れができて喜んでいる。
「頑張って起きような」
「………」
答えられない雅之を布団の中に放り込み、忠志はパチリと明かりを消す。
布団に潜り込むと、疲れきった体はすぐに眠りの世界に入り込もうとする。しかしそれを宥《なだ》めすかし、忠志は雅之に言う。
「忘れないうちに言っておくけどな。お前の心の準備がいつできるか分からないから、これから毎日アタックするぞ」
「ええっ!」
「明日からが楽しみだな。…おやすみ」
「………」
忠志のほうは、問題がすべて解決したとばかりに心がスッキリと整理されている。
数分後、気持ちよさそうに寝息を立てる忠志と、明日からの若干の不安を抱えてなかなか眠れない雅之がいた。
水無月祭が終わるまでは、選ばれた十一のクラブ以外はすべて活動を休止する。
抽選から本番までの二十日間、校庭も体育館もすべて提供して、思う存分それらのクラブに練習させるためだ。
おかげで忠志は、放課後だけでなく、朝もたっぷりと練習させられることになる。
早朝練習の集合時間は六時である。
このとんでもない時間に始まる朝練に間に合わせるために、忠志も雅之も五時に起床し、二十分には家を出ていた。
もちろん朝起きるときに散々ごねた雅之だったが、忠志の鉄の意志の前ではどうしようもない。無理やり起こされたというのが正解だった。
まだ寝ぼけたまま制服に着替えに家に戻り、その後はボーッとしながら鞄に教科書を詰める。幸い昨日の内に用意はしてあったので、何を詰めればいいのか考える必要はなかった。
出かけるには早すぎる時間なので、二人とも朝食を取ってはいない。
五時という時間にガタガタと騒ぐのは寝ている両親に悪いし、眠くて仕方がないので朝食を取る時間を惜しんでいるのである。そのおかげで必然的に昼の弁当もなくなり、学食と購買部のパンに頼るしかなくなった。
途中のコンビニで朝食用にお握りなどを買い、二人は電車に揺られる。
さすがにその時間では乗客も少く、余裕で座ることができた。静かな車内と、電車の心地好い揺れに身を任せ、二人はあっという間に眠ってしまう。
しかし不思議と降りる駅の近くでは目が覚めるもので、まず忠志が起きる。そして次が自分たちの降りる駅だと知ると、隣りで眠っている雅之を起こした。
「ほら、雅之。次だぞ」
「んー……」
何度か肩を揺すられて目を覚ました雅之は、眠たそうに小さく欠伸をする。
「眠い」
「そうだな。でも、降りるぞ」
「うん…」
まだしばらく欠伸を繰り返していた雅之も、さすがに歩いているうちに頭がはっきりとしてきたらしい。口調がしっかりとしたものになった。
二人が話しながら揃って登校すると、部室ではすでに巧が待機していた。
普段は遅刻ギリギリに登校することが多いのに、サッカーが絡むと途端に真面目になる。忠志たちが知る限り、一度も朝練に遅れてきたことはない。
巧は左手でパンを囓《かじ》りながら日誌をつけていた。扉を開けて入ってきた二人を見て、嬉しそうに顔を綻《ほころ》ばせる。
「お、どうやら仲直りしたみたいだな。よかった、よかった」
屈託のないその言い方に、忠志は思わず苦笑をした。
「おいおい。小学生じゃないんだから、仲直りなんて言い方はないだろう」
「喧嘩して、そのあとまた仲よくなるんだから、仲直りで正解だろうが」
忠志は肩を竦《すく》めると、それ以上の言い争いを拒否して、自分に与えられたロッカーを開く。そして持ってきたバッグを突っ込むと、制服のシャツのボタンに手をかけた。
着替えを始めた忠志を横目に、雅之が言いわけするように巧に言う。
「別に…喧嘩してたわけじゃないんだよ?」
「喧嘩じゃない? じゃあ何だよ」
「それは……」
本当のことは言えないので、雅之も口ごもってしまう。
「喧嘩じゃない、喧嘩…。痴話喧嘩かぁ? 仲よすぎるのも大変だなぁ」
「………」
一瞬、雅之も忠志も息を詰めた。
あはは…と笑う巧とは反対に、周囲は静まり返っている。同じようにして着替えている部員たちが、聞き耳を立てていることが分かった。
奇妙な緊張感が部室内に広がる。
「巧! 用意できたぞ!」
急いで着替えを済ませた忠志が、その雰囲気を追い払うように怒鳴った。
「おう。やる気満々だな。いいこった」
ただ一人、巧だけはその場の奇妙な雰囲気に気がついていないようで、忠志のやる気を素直に喜んでいた。
「他の皆も早く着替えて校庭に行ってくれ。水無月祭までもう二週間しかないんだから、少しでも多く練習するんだ」
「はいっ!」
返事も気合いが入っている。もちろん試合に全員が出れるわけではないが、どの顔を見てもやる気充分だった。
五月も終わりとはいえ、朝も早いこの時間では、まだ肌寒い。グラウンドに出ると、冷んやりとした空気が辺りを包んでいた。
ベンチにスポーツドリンクやタオルなど必要なものを用意し、巧は一年生のマネージャーに一言二言指示をする。
「さ、練習、練習。体操するぞ」
「はい」
円になって散らばる部員たちを見ながら、巧はすることのない雅之に言った。
「雅之はベンチで見てろよ。マネージャーがいるから話し相手になってもらえ。暇だったら、部室に行けば漫画もあるぜ」
「ここで見てる」
「そうか?」
「うん」
巧は部員たちの真ん中に立ち、大きな声を出しながら体をほぐすための体操を始めた。
ひとしきり終えたあとはランニングである。全員が足並みを揃え、ゆったりとしたペースでグラウンド内を何周か走る。
少しずつ息が荒くなり、走り終わったときには体が熱く、うっすらと汗をかいている。このあとは各々のポジションごとに別れて練習を始めることになっていたので、忠志はその前にスポーツウェアの上衣を脱ぎにベンチに戻った。
前のベンチに座り、足を抱えてボーッとしている雅之に、忠志は羨ましそうな視線を向ける。
「いいなぁ、お前」
「よくないよー。本当だったら、今頃まだ家で眠ってるはずなのに」
「俺みたいに走らされて、あのものすげぇシュートを止めさせられるよりはマシだろうが。全身筋肉痛で、おまけに痣《あざ》だらけだぜ?」
「だって僕には関係ないのに?」
「関係あるだろ」
キッパリと言い切られて、雅之は首を傾げる。
「どうして?」
「忘れたのか? 俺たちは恋仲だろうが」
「な……」
ジーッという音をさせながら、忠志は上着のチャックを下ろす。袖から腕を抜いて脱ぐと、それを雅之に投げつけた。
「持っててくれよ」
「いいけどさー」
雅之は顔を赤らめながら、照れ隠しに膨れたような顔を作る。
「忠志の負けた顔なんて見たくないから。頑張って」
「任せろ」
ウィンクして走る忠志の後ろ姿を、雅之は嬉しそうな表情で見送った。
これから約二時間、忠志には辛い練習が待っている。巧が目で早く来いと言っているのに、忠志の足取りは重くなりがちである。
昨日のきつい練習のことを考えれば、それも無理からぬことと言えた。何よりも全身に渡る筋肉痛で、一番辛いのが今日である。日を追うにつれ、体が慣れて、楽になる筈だった。
巧はそんな忠志の体の状態をしっかりと読み取りながらも、あえて何も言わず練習に入ろうとする。そして手元のノートを見ながら、忠志の練習内容について言った。
「よし、じゃあ忠志は昨日とまったく同じメニューでやってくれ。まずは軽いドリブルで体を慣らして、そのあとはひたすらシュートを止める練習ってヤツだ。こればっかりは数をこなして、勘が働くようにしないと」
「もしかして、このままずっと同じなのか…? これが普通のキーパーの練習内容ってヤツか?」
うんざりとして聞く忠志に、巧は首を横に振る。
「いいや、普通はこんなやり方はしない。ただ、お前は二週間で形にしないといけないから、かなり変則的にやってるわけだ。でもずっと同じってことはないから安心しろよ。お前の成長の度合いに応じて、少しずつ練習メニューを変えていこうと思っている」
「それはありがたい。毎日同じじゃ、つまらないからな」
「さぁて、どうかねぇ。それはお前の頑張り次第だぜ。でもまぁ、どのみちシュートを止める練習は必ずやることになるけど」
「ウエーッ」
思わず上げた嫌そうな声に、巧は同情の視線を向ける。自分がキーパーなので、忠志が嫌がる気持ちが理解できるのだ。
「しゃーないだろう。キーパーなんだから」
「やなポジションだよな、キーパーって。怖いわ、痛いわであまりいい目を見ないぞ」
「そうだなー。でも、敵のシュートを止めたりなんかすると、カッコいいんだぜ? 見てる連中が、思わずオオッとか言って立ち上がったりするプレーができたら、キーパーも好きになるって。やってみると奥が深いしな」
楽しそうに笑う巧に、忠志は渋い顔で首を横に振る。
「俺は、入り口止まりでいい」
「張り合いのないヤツだなぁ」
「それで結構」
素っ気ない忠志に、巧は肩を竦める。
「よし。じゃあ、早速やるぞ」
「おう」
グラウンドでは、忠志が代わる代わるにシュートを打たれていた。かなり至近距離からのそれを止められることはあまりない。
ゴールの横に立ち、マンツーマンで忠志に教えている巧は、手に持ったメガホンでガンガン怒鳴る。
「洞察力を働かせろよ! 洞察力を! シュートするヤツの目の動きや、筋肉の動きでどこに打つか予測するんだ」
「うるせー! 初心者に無茶言うんじゃねー!」
あまりにも簡単にシュートが入ってしまうせいか、忠志もかなりカッカとしているようである。怒鳴り返すその声が怒っている。
ザンッとネットが鳴って、また一本シュートが入った。
「巧、これ、近すぎるんじゃねぇのか!」
「近くない、近くない。もしもPKになったら、お前はこの距離で相手のシュートを止めないといけないんだぜ?」
「マジかよー」
「マジ、マジ。ましてや同点でPK合戦なんてことになったら、相手のキーパーよりも多く止めなくちゃならないんだからな。キーパーにとっては、あれで負けるのは最高に気分が悪いし…。負けたのが全部自分のせいになる気がするのが堪らん。それが嫌だったら、ちゃんと止められるようになるまでひたすら練習だ」
「うう…くそっ!」
そうして、またいとも簡単にボールがネットを割ってしまう。
雅之はベンチで面白そうにそれを見ながら、隣りに座っているマネージャーに聞いてみた。つい先刻までは忙しそうだった彼も、今はそれほどでもない。
「PKって、そんなに簡単に決められるもんなのかな?」
少しばかり緊張していたらしいその一年生は、幾分堅い微笑みを浮かべながら答える。
「そうですね、ほとんどの場合は決められると思います。あれは、決める場合のほうが可能性が全然高いんですよ」
「そうなんだ…。巧も人が悪いなぁ。あの言い方じゃ、いかにも練習すれば止められるようになるみたいに聞こえる」
「あ、いえ…。確かに、練習すれば止められるようになるんです。こう…打つ相手の動きをよく見て、足の角度がどちらを向いているのか、とか、視線とか。そんなことを一瞬のうちに見て取って、反応すれば…ですけど」
「それは…難しそうだね」
「難しいですよ。僕は、サッカーのポジションの中でもキーパーが一番大変だと思います。普通だったらそう簡単にボールを止められるはずがないんですけど、瀬尾先輩はすごいですね。キャプテンが指名したわけが分かりました」
「…ということは、忠志は止められそう?」
「はい。かなり勘のよさそうな方ですし、ちょっとしたコツさえ掴めれば、止められるのは時間の問題だと思います」
「そっか…」
まるで自分が褒められたように、雅之は照れくさそうな…嬉しそうな笑みを浮かべる。
「忠志が止められれば、ウチが勝つと思う?」
「はい。あっちも強いですけど、ウチだって負けてないんですよ? 強力なフォワードもいるし、ディフェンスだってすごいんですから」
そう答える瞳がキラキラと輝いている。
「ふーん…。サッカーが好きなんだね」
それでいて、彼はあくまでもマネージャーである。
体格は雅之とあまり変わらなかったが、サッカーには他のスポーツに比べて小柄な選手も多いので、やってやれないことではない。
不思議に思って聞いてみた。
「どうして君はマネージャーをやってるの? サッカーが好きだったら、中で一緒にやればいいのに」
「いえ…あの…僕は人より少し気管支が弱くて、皆の練習メニューにもついていけませんし、無理をすると倒れて、皆に迷惑をかけてしまいますから」
困った表情で答えられ、雅之は顔を曇らせる。自分の不用意な質問を後悔していた。
「ごめん…。変なこと聞いて」
「いいえ、気になさらないで下さい」
ニッコリと笑うその顔が優しくて、雅之もつられてニッコリと笑い返す。
「そういえば、君の名前は?」
「西田亨《にしだとおる》です」
「僕は…」
名前を言いかけて、亨は笑ってそれを遮る。
「知ってます。三年生の鹿野雅之さんですよね」
「あれ? 言ったこと、あったっけ?」
「ありませんけど…我が校の有名人ですから。キャプテンと一緒にいるところもよく見てましたし…」
雅之は複雑そうに眉を寄せる。
「有名人…なの?」
「…だと思いますけど」
「………」
自分が、自分の知らない相手にも知られていると知って、雅之は何とも言えない気分に陥る。やはりあまり嬉しいものではなかった。
「あのさ、それってどうしてなのかな?」
「どうしてと言われても…」
どの学校にも、必ず目立つ人物がいるものである。それは生徒会長だったり、スポーツが強かったりと多種に渡っている。
雅之の場合は、その友人がかなりきらびやかなことでも知られている。
よく連れ立って歩く中には生徒会長もいるし、サッカー部のキャプテンを務めている巧もいる。それに忠志はその威圧感と腕っ節で知れ渡っていた。
また、何よりも雅之のトラブルに愛される体質は有名なのである。
一年のときに行った二泊三日の研修旅行でも、たまたま雅之の班だけが人数の問題で離れに移され、たまたまその日に火事が出た。仕方なしに移らされた次の旅館では、夜中に泥棒がやってきて警察を呼んでの大変な騒ぎになった。
二年のときの北海道旅行では、一泊目のホテルには組関係の御一行さまが、二泊目の旅館では大きめの地震が起こり、せっかくの温泉がヒビ割れによって入れなくなってしまった。
その後の高校生活でも似たようなことが山ほど起きている。
それらはことあるごとに、先輩から後輩へと語り継がれ、部活の帰りや合宿の際などに話題として持ち上がることが多かった。
しかしそれを素直に本人に言うわけにはいかない。
亨は口ごもって答えられなかった。
いかにも困っている亨の視線に、雅之は幾分怖気づいてしまう。しばらくためらったあと、恐る恐るといった様子で聞いてみた。
「言えないような、悪い意味で?」
亨のほうは、雅之が別の意味に取ってしまったことに気がついて、慌てて首を横に振る。
「いえ、違います。そういう意味じゃありませんけど…」
「じゃあ、どうして?」
「それは…」
だからといって、言ってしまってもいいものかどうか亨が悩んでいると、突然グラウンドのほうから声がかかる。
「マネージャー!」
「はい」
巧がグラウンドの一角を指で差している。それだけで亨には何が言いたいか分かり、ベンチから救急箱を持って立ち上がった。
「失礼します」
話が中断したことを半ばホッとしながら、亨は雅之に向かって軽く会釈をして、早足で指示された場所に歩いていく。
「うーん…」
雅之は複雑な心境でその後ろ姿を見つめていた。
朝の練習が終わり、シャワーでまだ湿っている頭を拭きながら、忠志は教室に向かう。まだ一日は始まったばかりだというのに、すでに疲れていた。
「うー…ようやく終わったか……」
思わずそう呟くと、隣りで鞄を持たされていた雅之がニコニコと笑いながら言う。
「何言ってるんだか。まだ放課後もあるんだよ? ホッとしてる場合じゃないって」
忠志の大変さも知らず、雅之は明るい口調でそんなことを言う。忠志はついつい恨みがましい視線を送ってしまった。
「お前な…」
「何?」
楽しそうにニッコリと笑われて、忠志は言葉を失ってしまった。雅之の笑顔など見慣れているはずなのに、妙にときめいてしまう。
一瞬息を詰め、それから照れ隠しにわざと乱暴に言った。
「とりあえず、メシ食うぞ、メシ。何も食わないで動き回ったせいか、もう腹が空いて、腹が空いて…。たまらん」
「そうだねー。お腹空いた」
「お前は何もしとらんだろうが!」
思わずムキになってわめく忠志に、雅之は冷静である。小さく息を吐いて、駄々っ子に教えるように言ってやる。
「お腹は、たとえ寝てたって空くんだよ?」
「………そうだな」
何か言ってやりたい気もしたが、忠志はそれ以上の口論を避けるために頷いた。
しばらくそのまま髪をゴシゴシ拭きながら歩いて、コンビニで買ってきた朝食のことを考える。冷たい弁当を食べるよりはと思い、お握りが二つとサンドイッチを買ってきたのである。
「あ、メシ食うのに、飲み物を買っていかないと」
「僕もだ。お握りだけじゃ、ちょっと辛いし。でも学食の飲みものって、牛乳か甘いものしかないんだよね。普通のウーロン茶とか入れてくれないかなぁ」
二人は教室に向かっていた足の向きを変え、校舎の一番端にある学食へと急ぐ。校内で唯一の自動販売機は、学食の片隅に設置されているのである。飲み物と言っても紙パックのものしかないのだが、かなり重宝されていた。
学食は静まり返っている。
さすがにまだ朝も早いこの時間、学食に人影はない。あまりにも静かだったため、忠志の心に誘惑が忍び込む。
自動販売機の前で何にするか悩んでいる雅之の腰を、忠志はグイッと掴んだ。そしてそのまま販売機の陰に押し込んでしまった。
こうしてしまえば、学食の外からは完全に死角になる。
「な、何?」
突然のわけの分からない行動に、雅之は目をパチクリとさせている。
「ちょっと、恋人同士のスキンシップを……」
そう言いながら、忠志は胸の中に雅之を抱き込んでしまう。腕にしっかりと雅之を感じ、その温もりを味わう。
困ったようにソワソワとしていた雅之も、無理に振り払おうとはしない。
軽く顎を掴まれ、上を向かされて、雅之は次に来るもののために目を閉じた。温かい感触にうっとりとしながら、キスを受け入れる。
しかしやがて忠志の手が後ろに回り、制服のズボンに包まれた尻をサワサワと撫でると、さすがに止めさせようとする。
唇を外して、しっかりと抱き締められた腕の中で小さく抗議をした。
「ちょ…ちょっと……」
「んー…?」
「な、何考えてるわけ? こんなところで…」
「大丈夫、大丈夫。こんな時間に来るヤツはいないって」
「そういう問題じゃない!」
学食は階段のすぐ裏にあるため、時折すでに登校している生徒たちの話し声が聞こえてくる。その度に、雅之は体を堅くした。
「忠志、離してってば」
「やだ」
「忠志!」
他の人間に気づかれるかもしれないという恐れから、雅之は大きな声を出せない。自然とボソボソとボリュームを下げ、それでいて強い口調になった。
忠志は仕方ないといった様子で雅之に言った。
「じゃあ、キスしてくれよ」
「キ、キス?」
「そう。キス。お前からしてくれたら離してやる」
「………」
一世一代の勇気を出して告白したときならばともかくとして、今の雅之には少しばかり難しい条件である。つい先刻までしていたことなのに、自分からとなるとどうしてもためらいが先に立ってしまう。
恥ずかしさに顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「嫌なのか?」
「え、と…嫌とかじゃなくて……」
「じゃあしてくれよ」
「………」
しばらく真っ赤になったまま悩んでいた雅之だったが、時間が経つにつれ、人の話し声が増えていくのに気がつく。
このままグズグズしていては、本当に誰かに見つかりかねなかった。
雅之は覚悟を決め、顔を上げる。そして爪先を伸ばして顔を近づけると、勇気を出して唇を触れ合わせた。
ためらいを捨てれば、キスは嫌いではない。
軽く唇を触れ合わせては、離れる。そんな優しい口づけを繰り返したあと、忠志は少しだけ唇を離して囁いた。
「口、開いて…」
言われるまま、微かに雅之は口を開く。
口腔内を割って忍び込んだ舌が、初めてのことに怯える雅之のそれを絡み取る。優しく吸っては、なまめかしく刺激する動きに、雅之の思考は停止してしまう。自分の状態を把握できず、ただ忠志に身を任せるより他になかった。
長い長い口づけのあと、ようやく雅之を解放した忠志は、力の抜けた雅之の体を支えている。初めての強烈な体験に、雅之はぼんやりとしていた。
「朝っぱらからこういうキスはまずかったかな…」
唇を合わせているうちについ熱くなってしまったものの、これから教室に行って授業を受けなければいけないことを考えると辛いものがある。
後悔が忠志を襲っていた。
「まいったな……」
熱に浮かされたまま、突っ走ってしまいたい気持ちが忠志の中にはある。自分で煽《あお》ってしまった欲望が、熱を伴って体の中に燻《くすぶ》っていた。
「巧に鍵を借りて、部室に行くか?」
かなり露骨な誘いに、雅之は我に帰って顔をカッと赤らめる。部室に行けば、どうなるかくらいは分かった。
可能な限り動揺を隠して、雅之は忠志に言う。
「な…何を言うんだか…。授業はどうするわけ?」
「サボる」
きっぱりと言いきった忠志に、雅之は軽い頭痛を感じる。
「バカなこと言ってないで。手、離して」
「だからー…バカなんて言ってないって。本気だぜ、俺」
忠志の腕の中でもがいて、雅之は人が来ないうちに脱出しようと試みる。しかし忠志はそんな雅之の腰に回した腕の力を強め、不思議そうに聞く。
「お前、あのキスで感じなかったのか?」
その質問に、雅之はこれ以上ないくらい顔を赤らめる。告白してからというもの、忠志の発言は過激なものが多い。
「な、な、な……」
上手く言葉にならない雅之に、忠志は難しい表情を浮かべる。
「感じなかったのか?」
忠志は再度言葉を重ねて聞いた。
その表情に、雅之は仕方なしに蚊の鳴くような小さな声で答える。
「………感じたけど…さ…」
「じゃあ、いいだろう?」
「よくないっ!」
このまま曖昧に答えてしまえば強引に連れ去られると判断して、雅之は首を横にブンブンと振った。必死である。
「全然よくない! こんな突然に、しかも学校でなんてことになったら、僕はきっと忠志のこと恨んじゃうよ」
ジーッと下から忠志を睨むと、忠志は困ったように顔を歪める。
「仕方ないな……」
忠志はそう言いながら溜め息をついた。諦めきれないといった様子がありありと見られる、大きな大きな溜め息だった。
雅之はひとまずはホッとしたものの、昨夜の宣言通りグイグイと迫ってくる忠志についていけないものを感じる。まだ抱かれるだけの心の準備の整っていない今、忠志の強引さは恐怖だった。
しかし同時に嬉しくもある。
忠志が自分を求めていると考えると、顔がほてるような恥ずかしさと共に、何とも表現しがたい熱さが込み上げてくる。
だがいざそこに飛び込むとなったら、やはりもう少し時間が必要だった。
一週間も経つと、忠志の腕もかなり上達をしていた。巧の容赦ない練習につぐ練習の効果が早くも表れ始めている。
キャッチングもセービングも、最初の頃のようなぎこちなさがなくなっていた。それはずっと見てきた素人の雅之でさえ分かるほどである。
「ぐえっ!」
ボールに飛びついた忠志の腹部に重そうなシュートが決まる。それは点々と地面を転がり、巧の足元まで転がっていった。
「い…いてぇ…」
蹲《うずくま》って苦しむ忠志に、ボールを返した巧は言う。
「痛くない、痛くない。たとえボールが体に当たっても、キーパーはゴールに入れられなければ痛くないんだ。だから頑張ってキャッチしような」
「ゴールに入ろうが入るまいが、痛いもんは痛いんだ!」
こんな会話はほとんど毎日のことである。
毎日毎日同じことを繰り返す忠志たちにつき合って、雅之も毎日ベンチでそれを見ている。
忠志がしごかれているのを見ているのは楽しいが、ここ一週間ばかり寝不足が続いているので、少しずつ瞼《まぶた》が重くなってくる。
「眠い〜…」
激しく体を動かしている忠志たちと違って、雅之はただベンチに座って練習風景を眺めているだけである。気を抜けばすぐに眠気が襲ってきた。
忠志につき合わされての毎日の五時起きは、普段たっぷりと睡眠を取るタイプの雅之にとってはとても辛いことである。
眠くて眠くて仕方がなかった。
頭の中では「起きてなきゃ」と思うのだが、そのうちに眠気に耐えきれなくなって、瞼が段々と落ちてくる。
ハッと気がつくと頭がカクンと落ちていた。
驚いた拍子にほんの一瞬だけ頭が冴えるが、やはりすぐにぼんやりと膜がかかったようになってしまう。すでに瞼は閉じていることのほうが多い。
雅之は小さく欠伸をした。
「もう…駄目……」
そう呟いて、チラリと腕の時計を見る。
五時十五分。
放課後の練習はいつも六時半に終わることになっているので、今眠ってしまえば一時間十五分も眠れることになる。
雅之はすぐに覚悟を決めた。
忠志が脱いでいったスポーツウェアの上着を肩で羽織ると、雅之は置いてあったバッグを枕替わりにしてコテンと横になった。
ベンチの椅子は固いし、眠るには少しばかり肌寒い。六月に入ったといっても、日が沈むにつれて気温が下がっていく。
しかしそれよりももっと強烈な睡魔のおかげで、雅之はあっという間に眠りの世界の住人となった。
放課後の充実した練習を切り上げてベンチに戻ってきた部員たちは、スースーと幸せそうに眠っている雅之を見つける。
ベンチに置いたタオルで汗を拭きながら、忠志は呆れたように呟いた。
「こ、こいつ…何てヤツだ」
「大物だよな」
巧も感心して、マジマジと雅之の寝姿を見つめる。忠志はそれに少しばかりムッとしながら、慌てて雅之を起こそうとした。
「雅之、起きろよ」
「んん……」
しかし雅之は、少し顔をしかめてコロリと反対側を向いてしまう。
忠志はそれに眉を寄せる。こういうときの雅之が、なかなか起きないのをよく知っていたのである。
「まずいな…。こいつ、寝起きが悪いんだよ」
「へー…。意外だ。でも、分かるような気もするか。雅之はいつもボーッとしてて、何となく眠そうだもんな」
周りの部員から、笑いと共に賛同の声が上がる。
「それにしても…寝起きが悪いって? まさかとは思うけど、無理やり起こそうとすると、殴るとかするのか?」
「いや、そういうことはない」
「何だ。じゃあ別にいいじゃないか。起こしてやれよ。このまま寝かせてるわけにもいかないし、さっさと起こして家で寝かせたほうがいいだろう」
「そうだよな…」
忠志は溜め息をつき、雅之の肩を軽く揺さぶった。
「雅之」
「ん? ん?」
小さく返事をした雅之は、まだ眠りから覚めていない。返事というよりは、反射的に声が出ているだけのような気もした。
「ほら、起きろって」
「やっ」
そう言って、毛布替わりに羽織っていた忠志の上着を頭の上まで引き上げてしまう。
「雅之!」
思わず忠志はムキになって、強く雅之を揺さぶる。
雅之が上着の中からムクリと顔を上げる。そして焦点の合ってないぼんやりとした目で、恨めしそうに忠志を睨んだ。
眠そうな半開きの、微かに潤んだ瞳が妙に艶めいて見える。
周りで成り行きを見守っていた連中が、微かに動揺したのが分かった。
『ちっ…。これだから嫌だったんだ』
普段ならばともかくとして、寝起きの悪いときの雅之はやたら可愛いのである。子供のようにむずがり、起きるのを嫌がる。しかもそれだけではなく、いつものボーッとした表情からは想像もつかない、妙に色っぽい顔をするのが問題だった。
必死で気がつかないようにしていた頃でも、雅之のその顔には危険なものを感じていたのだ。
見慣れている忠志でさえそうなのだから、初めて目にするサッカー部の連中がいけない思いを感じたとしても仕方のないことと言えた。
忠志が困って、起こそうとする手の動きを止めたのをいいことに、雅之はそのまま目を瞑《つむ》って眠ろうとする。
「あ、こら。雅之」
このままでは埒《らち》が明かないと思い、忠志はしぶとく眠ろうとする雅之を肩に担ぎ上げる。そして外の共同の水場に行くと、肩から下ろして力の抜けた体を支える。
雅之の頭を蛇口の下にすると、興味津々の様子で見ていた巧にも何をしようとしているのか分かったようである。
「え? ちょっと、待て! 乱暴だぞ!」
巧が慌てて部室から飛び出してきた。
「平気だよ。こいつ、見かけよりも丈夫なんだから。もう六月だし、これくらいのことじゃ風邪も引かないって」
そう言って、忠志は止めようとする巧の腕を振りきって蛇口を捻る。
制服が濡れるとあとあとが面倒なので、勢いよく飛び出してきた水の下に、頭の先だけが被るように気をつけた。
「わっ! な、何…?」
途端に上がった声に、忠志はすぐに襟を引いて、水の下から引っ張り出してやる。そして持ってきたタオルで、ゴシゴシと濡れた雅之の顔を拭いた。
何が起こったのか理解できず、雅之は驚いて目を見開いている。
「よーし、目が覚めたな」
「あ…? 僕、もしかして眠ってた?」
「ぐっすりとな。呼んでもなかなか起きないから、強行手段に出たんだ。俺たちはもう練習が終わったから、グラウンドを出るし」
「ん。ありがとう」
雅之は寝起きが悪いときの自分の様子を母に聞いて知っている。だから忠志がかなり乱暴な手段に出ても、素直に礼を言うことができた。
「ほら、髪をしっかり拭いとけよ」
「うん」
パサリと頭に放られたタオルを掴み、雅之は言われた通りに髪を拭き始める。丁寧に水気を吸い取ってしまえば、そう時間をかけなくても髪は乾く。忠志が注意して制服は濡れないようにしてくれたので、別に面倒なこともなかった。
しかし隣りで見ていた巧はかなり驚いたようである。目を丸くしながら、部室に戻ってシャワー室に向かおうと用意をしている忠志に聞いた。
「お前、いつもあんな方法で雅之のことを起こすのか?」
「別にいつもじゃないぜ。大体、雅之の寝起きが悪くなるのは体調が悪いときとか、前の日に夜更かしして寝不足のときくらいだからな。それに俺が雅之を起こすのも、泊まりに行ったときくらいだし。大抵は休みの前の日だから、そういうときは自然に起きるまでは寝てるしな。ま、旅行でどっかに行ったときとかくらいで、そうそうあるもんじゃない」
「ふーん。…にしては、思い切った手を使うもんだ。雅之も、ああいう方法で起こされて、腹は立たないのか?」
突然自分に振られて、おとなしく髪を拭いていた雅之は戸惑う。
「え…別に。その、僕は母さんから聞いてるから」
「何を?」
そう聞かれて、雅之は微かに顔を赤らめる。寝起きが悪いのを密かに恥ずかしく思っているのに、それを皆に見られていたたまれなかったのだ。
「だから、寝起きが悪いときの自分を……」
「そんなしょっちゅうなのか?」
「しょっちゅうっていうことはないらしいけど…。八時間以上寝ないと調子が悪いのは自分でも分かってて、でもここのところは毎日ずっと五時起きで、そうも言ってられなくて」
「八時間ー?」
上がった大声に、雅之は不安そうな顔をする。
「お、おかしいかな?」
「おかしいこたないけど…お前、ずいぶん寝るね」
「え? そうなのかな? 寝過ぎ?」
「まぁ…朝練のない日でも、俺はせいぜい六時間だぜ」
「六時間……」
それは雅之からすれば少なすぎる。かなりのショックを受けて、隣りでやり取りを聞いていた忠志に聞いてみた。
「忠志は? 忠志はいつもどれくらい寝てる?」
雅之の部屋に泊まるときも多いが、そういう場合はいつも雅之よりも遅く寝て、雅之が起きるときにはすでに起きている。だから忠志がどれくらい睡眠を取っているのか雅之は知らないのである。
「俺か? 俺も大体は六時間か、もしかすると五時間くらいかもしれないな。あまり寝なくても大丈夫な家系なんだ」
「五時間……」
呆然とする雅之の頭をポンポンと撫で、忠志は笑う。
「人のことなんて気にするなよ。個人差があるんだから。大体お前は、実際に八時間寝ないと調子が悪いんだから、気にしてもしょうがないだろうが」
「それはそうだけど…」
「じゃあ気にするなって」
「うーん……」
小さく唸る雅之に、忠志は笑いながらシャワー室へと向かった。
簡単にシャワーを浴び、泥だらけのシャツを制服に着替えた忠志は、持ってきたタオルでガシガシと頭を拭く。
そして汚れたシャツやタオルなどを、全部一緒くたにしてスポーツバッグの中に突っ込んだ。ここまで汗や土で汚れると、どうせ帰ったら洗濯をしてもらうより他に仕方がないので、その扱いはかなり雑なものである。
この朝と夕の猛練習が始まってからというもの、洗濯ものが倍になったと言って母親は毎日溜め息をついている。
そんな忠志の横で呑気に缶ジュースを飲んでいた巧は、手に持った袋を忠志に差し出した。
「忠志、これをやるから家に帰ったら見てくれよ。この前渡したビデオの中級編だ。セットプレーとか、他のヤツらに対する指示の仕方とかを細かく教えてるから、ちゃんと真剣に見ないとついていくのが難しいぞ」
「ああ、あれね。…っていうと、俺のレベルが中級まで上がったっていうことか?」
「まぁ、一応は。もっとも、どっちかと言うと、もう時間がないから詰め込み学習式でやってるんだけどな。でもお前、確かに憶えはいいぜ。運動能力も高いし」
「そりゃ、どうも。これだけしごかれりゃあ、慣れもするって。この一週間で、俺の体に幾つ痣ができたことか。風呂に入るときなんか、我ながら痛々しいぜ」
顔をしかめて話す忠志に、巧は大きな声で笑う。
「怪我は男の勲章だぜ。気にしない、気にしない。俺もやり始めたときは、何でキーパーなんかを選んだのかなー…と後悔したもんだ」
「俺はなー…お前と違って自分で選んだわけじゃないんだけどな」
「まぁまぁまぁまぁ。何ごとも経験だ。このお前の苦労がだな、やがて血となり肉となりお前に幸せをもたらすんだ」
「いつ?」
「へ?」
「いつ幸せは来るんだ?」
ボールが当たって切れた頬を消毒しながらの質問だったので、その声には不満が表れている。
巧はニヤリと笑うと、立ち上がって忠志の肩に腕を回す。悪巧みをするときのように、顔を近づけて周りに聞こえないように言った。
「今だよ、今。幸せがくるのは、もうすぐだ」
「はぁ?」
「君の幸せはその袋の中にある」
そう言って、巧はピッと自分の渡した袋を指差す。
忠志は手の中の袋を見、ついで巧の顔を見た。両者を比べるように何度も見ては、やがて重い溜め息をつく。
「まさか、このやりがいが幸せだとか、青春を実感できるとか、わけの分からないことを言い出すんじゃないだろうな」
「おいおい。百年も昔の青春ドラマじゃあるまいし。俺がそんなこと言うかよ」
「どうだか…。お前って、体育会系のノリがあるからな」
「ないない。そんな役にも立たない精神論じゃないから安心しろ。その幸せはな、ちゃんと実感があるんだぜ」
巧はニヤニヤと笑う。
「…? 何だよ」
「ポルノだよ、ポルノ。洋ものだぜ。俺の叔父さんが仕事で北欧に行ってさ、そこで買ってきたんだとよ。当然ボカシなしの無修正だ」
相変わらずいやらしい笑みを浮かべながら、巧は楽しそうに言う。
「もちろん俺も見たんだけどな、やっぱ日本のと違って迫力あるわ。女は美人だし、胸もケツもパーンとでかいし、いいぜー。やっぱ憧れの金髪美人ってヤツか? これ、やるからさー。スッキリしてまた明日から頑張ろうな」
「おい、こんなもの…」
いらない…と言おうとして、忠志は黙り込んでしまう。この一週間というもの、なかなか辛い状況が続いたのだ。
とりあえず両想いになったし、雅之のほうから告白をしてきたというのに、なかなか前に進めないのである。
思っていたよりも性的にお子様だった雅之を相手に、そうそう無体なことをできるわけもない。大抵は忠志が迫って、エスカレートしていく愛撫の手に、雅之が猛烈に抵抗するといった感じである。
忠志は雅之の涙には弱く、目が潤んでくるとつい手を離してしまう。
だが若い体はどうにも収まりがつかない。雅之相手に無理強いはできないが、このまま放っておくわけにもいかなかった。
とりあえず欲求不満を治めないことには辛い。
忠志は手の中のビデオテープを見つめ、ジッと考え込んでしまう。そして巧に向かって軽く頭を下げると、丁寧にお礼を言った。
「どうもありがとう」
「どう致しまして」
そんなとき、後ろから雅之がヒョイと顔を覗かせる。
「忠志、まだ?」
「うわっ!」
突然声をかけられて、忠志は飛び上がってしまった。やましいことがあるだけに、反射的に手の中のビデオを雅之に見えないよう隠してしまう。
「……? どうかしたの?」
「な、な、何がだ?」
「何がって…。その慌てた様子が」
「別に、慌ててないぞ。ただ、突然だから驚いただけだ」
「そう?」
忠志の必死の言いわけに、雅之は怪訝そうである。
「さっ! 用意できたから、帰るとしようぜ」
「何か変だなー……」
雅之はどことなくおかしい忠志に首を傾げた。
忠志はビデオの入った紙袋を、できる限りのさり気なさを装ってガサガサと音を立てながらスポーツバッグの中にしまう。
「何、それ?」
「えっ!」
どうしても消え去らないやましい心が、忠志に過剰な反応を返させてしまう。そしてそんな自分に気がついて、忠志は静かに息を吐き出した。
「あ、これね。ビデオだよ、ビデオ。前にサッカーの初級者入門を見せられてて、これはその続きで中級者用だとよ」
「へー…。面白そう。僕も一緒に見ていいかな?」
「えっ!」
再び声を上げてしまい、忠志は慌ててコホンと小さく咳払いをした。目の前の雅之が、訝《いぶか》しげに忠志を見ている。
「こんなのをお前が見ても、多分面白くないと思うぞ」
「そんなことないよ。ここのところ毎日練習を見てるからね。自然にルールとか分かってきたし、結構楽しくなってきた」
「そうか?」
冷静になってみれば、渡された二本のうちの一本はどこかに隠して、雅之にはサッカーのほうだけを見せればいいことである。慌てる必要はない。
「じゃあ、どっちで見る?」
「んー…ウチは、今日は無理かな。八時頃、親戚のおばさんが来るって言ってたから。ほら…あの、美津子おばさん」
生まれたときからの長いつき合いである。自然に互いの親戚とも顔見知りになっており、忠志はその名前ですぐに誰だか分かった。
「ああ、あの世話焼きの…。いい人なんだろうけど、ちょっとうるさいんだよな。だからお前逃避したいんだろう?」
「そうとも言う」
「とりあえず俺の家に逃げ込めば安心だもんな」
「そういうこと」
顔をしかめて頷く雅之に、忠志は笑って答える。
「いいぜ。何だったら泊まっていったらどうだ?」
「それは…遠慮しとく……」
おそらく無意識なのだろうが、雅之はわずかに身を引く。忠志から見れば、警戒しているのがありありと分かった。
忠志は軽く肩を竦めると、部室の時計に視線を向ける。
「やれやれ。もう七時近いのかよ。巧、先に帰るぞ」
「ああ、お疲れ。俺は部室の点検と戸締まりをしていかないといけないからなぁ。キャプテンなんて損な役回りだ」
「大変だな」
忠志は軽く手を振ると、雅之を伴って部室を出た。
食事をして、風呂に入ってから来るとのことだったので、今までの長い経験からいうと、雅之が来るのは九時頃のはずである。
忠志は急いで食事を済ませると、すぐに自分の部屋に引きこもった。
雅之が来るとなると、また若さが暴走しかねない。雅之にはもう少し時間を与えて、こういった行為に心を慣れさせてからでないと無理なのは分かっていた。忠志のことを好きなのは本当なのだろうが、怯えが先立ってしまうのだ。
忠志にはそれがよく分かっていた。
そして充分に分かっていながらも、一緒にいるとやはり若さが理性を押し退けそうになってしまうのである。
そうならないように、渡されたビデオを有効に活用するつもりだった。
忠志はバッグを探り、紙袋を取り出す。そして中の二本のうち、市販のサッカーハウツービデオのほうは脇に置いてしまう。
ビデオは、マスターテープから日本のテープにダビングされたもののようである。背に貼ってあるタイトルも、ワープロ打ちのものだった。
「…『ウルトラSEX』? すげぇタイトルだ」
あまり期待できないかもしれない…などと考えながら、忠志はビデオをセットする。そしてリモコンを手に取ると、ベッドに凭《もた》れかかりながら再生ボタンを押した。
広いハイウェイが映り、クレジットが流れていく。やがて止まった家の扉が開き、中から出てきた女性が運転していた男を迎え入れる。
「お、美人」
画面に現れた金髪の美女は、家に入った途端、音楽に合わせて色っぽく腰を振りながら服を一枚ずつ脱いでいく。
男の服を脱がせて、かなり即物的に求め合った。
この手のビデオでは当然とはいえ、ストーリーはないも同然である。しかしその分、女優は美人で絡みも激しい。
しかし一向に興奮してこない自分自身に、忠志は悩む。
「うーん…まずい。何で結構ハードなのに感じないんだ?」
ビデオを早回ししては好みの部分に合わせるが、やはりなかなか興奮してこない。焦りがどんどん生まれてきた。
そんなとき、小さなノックの音がした。
「忠志ー? 入るよ」
そう声をかけて、ビデオを止める間もなく入ってきたのは雅之である。
「ゲッ! 雅之?」
慌てて停止させようとしたのだが、雅之のほうが早い。
しかも運の悪いことに、テレビの画面は扉に向かって真正面の位置に据えられている。雅之が見てしまったことは疑う余地もない。
雅之は一瞬顔を赤らめ、そして次に青ざめさせた。
「忠志のバカッ!」
そう怒鳴ると、身を翻《ひるがえ》そうとする。
唯一幸運だったことは、興奮しなかったおかげで、忠志がまだ何もしていないことである。雅之が去ってしまう前に、すぐさま追いかけることができた。
雅之が階段を降りようとしていたところを、危うくその腕を掴まえる。逃げようと身を捻るのに、後ろから羽交い締めにした。
それでも雅之は逃れようと必死である。忠志にしっかりと抱き留められているのにも関わらず、ジタバタともがく。
「危ないだろうが。こんなところで暴れるなって」
「離して!」
「いいから。とにかく、部屋に戻るぞ」
忠志は腕に力を入れ、雅之をズルズルと部屋に引き摺り込んでしまう。実際に階段では危なかったし、何よりも会話が下に筒抜けである。
部屋に入って、後ろ手に扉を閉める。
雅之が睨みつけていた。
「忠志なんて、嫌いだ!」
「何だと?」
自分が悪いのだとは分かっていても、忠志もついカッとなってしまう。雅之の腕を取り、噛みつくようなキスをした。
「やだよ。やだっ!」
雅之は必死で忠志の胸に腕を突っ張って逃げようとするが、忠志は容赦しない。無理やり顎を掴むと、再び唇を合わせた。
優しさのかけらもない、怒りだけが伝わってくる口づけである。
忠志の腕の中で少しずつ雅之の抵抗する力が弱まっていき、やがてはすっかりおとなしくなる。忠志はそこに至ってようやく唇を離した。
俯いて顔を背ける雅之は、小さな声で忠志を非難する。
「何であんなことするわけ…?」
唇を噛み締めて泣き出しそうな雅之の表情に、忠志は深い溜め息をつく。このお子様は、本当に分かっていないと思った。
「それじゃあ、一体俺にどうしろって言うんだよ。嫌がるお前を、無理やりやっちまってもいいって言うのか?」
「え……?」
途端に怯えの色を見せる雅之に、忠志の懊悩《おうのう》は深いものになる。
「お前な、今の俺の状態分かってる? 目の前に好きなヤツがいて、しかも手を出せる距離なのに、出せないってのはかなり辛いものがあるんだぜ」
「で、でも…。だからって…」
「しかもキスまではOKで、その先はNOだって言うんだからな…。これって、かなり酷いことだと思わないのか?」
「そんな……」
雅之は顔を歪める。
「俺はお前のことが好きなんだぜ? 分かってるんだろうな」
「うん……」
まるで叱られた子供のように、雅之はシュンとしてしまう。いつもならば嬉しいはずのその言葉も、今は辛いばかりである。
忠志はそんな雅之の様子に、もう一度溜め息をついた。
「あの金髪グラマーには役立たずだったってのに、お前相手だとちゃんと反応するんだもんなぁ。まずいよなぁ」
「………」
「マジで限界に近いからな、俺」
「う…うん……」
真剣な忠志の表情に、雅之にもそれが分かった。
少しだけ勇気を出して飛び越えるだけでいいと理性は教えるのだが、どうしてもその勇気が出ない。
「でも…でも、やっぱり怖いし…」
なかなか勇気の出ない自分が、雅之は情けなかった。
午後の授業が終わり、バタバタと帰り支度をする中、雅之は忠志に言った。
「忠志、僕、今日は先に帰るから」
「どうかしたのか?」
「頼まれものだよ。デパートに注文してたものが届いたらしいんだけど、母さんが行けないから僕が代わりにね」
「分かった。でも、気をつけろよ。あまり周りの人に迷惑をかけるんじゃないぞ」
「んー…。気をつける」
一応頷きはしたが、どう気をつけていいのか分からないのが現状である。
二人で連れ立って歩いて、下駄箱で忠志は部室へ、雅之は校門へと別れる。
久し振りに一人で帰りながら、雅之はせっかくデパートまで足を運ぶのなら、何か父親の好きな和菓子でも買って帰ろうと思った。
あれがいいか、それとも…などと考えながら、のんびりと歩く。
何気なく視界に入った狭い路地で、穏やかならぬ雰囲気が醸《かも》し出されていた。雅之と同じ制服を着た生徒が、他校の制服を着た生徒三人に脅されているようだった。
「困ったな……」
自慢ではないが腕力にはまったく自信がない。しかも一見したところ、相手は三人ともガッチリした体格のようである。
「困ったな……」
もう一度呟いて、雅之はその場に立ち尽くす。
見て見ぬ振りもできず、かと言って自分が飛び出したところで、脅される相手が二人に増えるだけのことである。
警察を呼ぶのが一番いいような気もするが、ここから交番まで軽く五分はかかるのである。駆けつけたときにはすでに誰もいないような気がした。
だからといって、一一〇番するほどの度胸はない。
「うーん…どうしよう……」
雅之はどうしようどうしようと悩んでいる間、ずっとその場にボンヤリと立ったままである。しかも顔はしっかりと男達に向いているとあって、さすがに相手も見られていることに気がついたようだった。
「何、見てんだよ」
低い声で聞かれて、答えることができるわけがない。しかも悪いことに、相手の着ている制服はライバル校「坂下」のものである。
それでなくても仲の悪い坂下の生徒を相手にこういった場面で出くわして、無事ではいられないだろうと思った。
恐怖に固まった雅之の腕を取り、相手は無理やり路地に引き摺り込んだ。
連れ込まれた路地で、初めて恐喝されていた生徒をしっかりと見ることができる。驚いたことに、相手は知った顔だった。
まだあどけなさの抜けない、とても可愛らしいその顔をである。しかし相手の男達を睨むその瞳は険しい。
悔しさが全身から滲み出ていた。
「西田くん?」
「鹿野さん!」
互いに驚きの対面である。朝と放課後には毎日顔を合わせているが、まさかこんなところで会うとは思ってもいなかった。
「練習は? 何でこんなところにいるの?」
「鹿野さんこそ…。僕は部の備品を買いに抜けてきたんです。スプレーとか、少なくなってきたので」
互いに複雑な表情である。
しかし雅之を引き摺り込んだ相手は、ニヤニヤと笑いながら雅之の顔を見る。
「へー…こっちもなかなか綺麗な顔してるじゃん」
そう言われるのに、雅之は顔をしかめる。
「せっかくだから、あんたにも寄付してもらっちゃおうかなー。俺のダチがさー、彼女孕ましちゃったのよ。で、堕胎《おろ》す金が必要なんだわ」
「そうそう。あんた親切そうな顔してるしさ、それくらいいいだろう? こっちの彼からはもうもらってるしな」
相変わらずニヤついた笑みを浮かべながら言うのに、隣りにいた亨がキッと相手を睨みつけた。そして鋭い口調で言う。
「無理やり奪ったんじゃないか! それは部の買い出しのお金なんだから、返せ!」
可愛い顔をして、かなり気は強そうである。
今までマネージャーとして、ニコニコしながら仕事をしている姿しか見たことのなかった雅之は、その気の強さにかなり驚いた。
「うるせぇんだよ!」
そう言って、返す手でバシンと亨の顔を殴る。かなり強烈なそれに、見ていた雅之のほうが痛そうに体を竦めてしまったほどである。
しかし亨は殴られた痛みに涙を滲《にじ》ませながら、気丈にも顔を上げ、尚も殴った相手を睨むことをやめようとはしなかった。
見かけからは信じられない強さである。
相手はそんな亨に、苛立った表情で頬を引きつらせた。
「何だよ、その目は。しつこいんだよな、お前」
もう一度殴ろうとするのに、もう一人の男が肩を竦めていさめる。
「いいから、さっさともらうものもらって帰ろうぜ。俺、腹へってきたしな」
「分かったよ。ほら、出しな」
呆然と見ていた雅之の手から、無理やり鞄を奪い取る。そして中から財布を取り出して、入っていた札を抜いた。
「ケッ、しけてんな。たった五千円ぽっちかよ」
学校の行き帰りに使う金額は高が知れている。買い食いと文房具を買う程度なので、五千円もあれば充分に足りるのだった。
しかし男はまだ他に何かないかと、鞄の中を引っ掻き回す。やがて幾つかに仕切られた内ポケットまで開け始めた。
「ん? 何だよ、この封筒」
中から取り出された薄茶色の封筒に、雅之はハッと顔を強張らせる。自分の小遣いならばともかくとして、それだけは取られるわけにはいかなかった。
「あ、それは駄目!」
咄嗟にそう言ったものの、しかし相手がそれを聞いてくれるはずもない。
取り返そうとする雅之を一人が押さえて、封をしていない封筒の中身を取り出した。
ヒューッと口笛を吹く。
「すっげぇじゃん」
そう言った男の手には、八枚の一万円札が握られている。
「金持ちだな、お前」
「それは僕のお金じゃないよ。頼まれものの代金なんだから、返して」
唇を噛み締めて必死で言う雅之に、相手の男が眉を吊り上げる。そして指で顎を掬《すく》い、力を入れて上を向かせた。
「お…なかなかそそられる顔してんじゃん」
「またかよー。藤森って、相変わらず男女構わずだな。呆れるほど好きだよなー、ホント。ちっとは節操すれば?」
「ほっとけ。俺は男女平等の博愛主義者なんだ」
話し合っている間中、一時も雅之の顔から視線を外そうとしない藤森に、やがては周りの連中も肩を竦めて諦める。
藤森はニヤニヤと笑いながら呟いた。
「俺って、こういう…ちょっとボーッとした、放っておけないタイプに弱いんだよなぁ」
そんなことを言いながら段々と近づいてくる顔に、雅之は恐怖を覚える。まさか…と不安になり始めていた。
「んー……」
しかし相手は冗談で済ませる気はないらしく、腰と顎とを捕らえられて逃げられない雅之にあと少しというところまで迫る。
雅之は冷や汗を垂らしていた。
何とか逃げようと背を反らすものの、それにも限界がある。
すぐ間近に迫った顔に、絶体絶命でギュッと目を閉じたとき、腰の手が外され、後ろからヒョイと襟首を引っ張られる。
「何考えてんだ、一体」
呆れた声が聞こえ、振り向いたその視界に知った顔が飛び込んでくる。
「克明…」
見慣れた友人の顔に、雅之はホッと安堵の息を吐いた。
しかしそのすぐあとには、この友人はあくまでも理論武装派で、こういった腕力を必要とする場面にはあまり向いていないことに気がついた。
まだ一年生にして生徒会長さまになった男である。
一年の九月…生徒会の任期が切れるときに生徒会長に立候補した克明は、入学式のときに新入生代表としてスピーチをしたので周りの生徒にもよく知られている。この進学校で首席の証明でもある代表になるには、相当な頭脳が必要なのだ。
もともとの知名度と持ち前の威圧感、それに巧みな弁舌で、内申書目当ての他の二年生の立候補者を蹴散らしたという実力の持ち主だった。それは今は三年になり、生徒会長としての務めも二年目に突入している。
だが縦に長いその体格は、鍛えられているとは言えない。人数的には三対三になったとはいえ、雅之たちの圧倒的な不利は変わらなかった。
しかもそれを相手も感じ取ったのか、一瞬だけ怖気づいたその表情が、あっという間に元のバカにしたような顔に戻った。
そしてフンと鼻で笑って言う。
「何だよ、ずいぶんとカッコつけて登場してくれたな」
克明はそう言う相手をまったく無視する。
そして視線はまず雅之を見つめ、ついで傍《かたわ》らの一年生に移った。そしてその顔が赤く微かに腫れていることに気がつくと、眼鏡の奥の眼がスッと細くなる。
「こっちの一年生の顔には殴った跡があるけど?」
押さえた声ながら、自然と醸し出される威圧感に男達は気圧される。
「雅之、一体どうなってるんだ?」
「うん…。僕は八万取られて、彼もかなり…。ついでに西田くんは顔を殴られた」
「お前は? 殴られてないか?」
「大丈夫」
克明はピリピリとした雰囲気を身にまといながら、男達に向き直る。そして怒りに顔を強張らせながら言った。
「これは立派な恐喝事件だよ。そっちの子が幾ら取られたかは知らないけど、雅之は結構な額だしね。対象も二人となれば、その分罪も重くなる。こっちの出方次第で、面倒なことになるのは分かってるだろうな」
「何だと?」
穏やかな脅迫に、男達の雰囲気が険悪になる。しかし克明は、そんな雰囲気をものともせずに更に言葉を重ねた。
「水無月祭を前にして、こういった不祥事はまずいんじゃないのか? こんなことが表沙汰になれば、下手するとそっちの高校は一切の行事を中止なんてことにもなりかねない。俺たちは労せずして不戦勝になるわけだ」
「………」
この一言は効いたようである。
男達がウッと怯んだのが、脇で見ている雅之にも分かった。
「そんなことになったら、さぞかし楽しい高校生活を送れるだろうな」
喉の奥で小さくクッと笑う顔が、ゾッとするほど冷たい。
親切だし、優しいし、いざというときに頼りになる友人なのだが、絶対に敵には回したくないと雅之は思った。
「取った金は返したほうがいいね」
克明の親切な脅迫に怖気づいたのか、男達はかなり悔しそうな表情で、渋々とではあるが金を返してくれる。
雅之はホッとしながらそれを受け取ると、元の封筒に戻して鞄の中にしまった。
それは亨も同じである。やはり自分を殴った男を睨んだまま、黙ってそれを受け取る。そして克明に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いや…。運が悪かったね」
「そうですね」
下を向いたままのその眉がしかめられている。
克明はそれを気に止めながらも、傍らの雅之に視線を移した。
「大丈夫か?」
「あ…うん。別に平気」
「そうか、よかったな。お前も運が悪いのはいつものことだし、さっさと忘れろよ。ヤツらも、もう二度とちょっかいを出さないだろうしな」
チラリと横目で見つめる克明の視線に、男達があらぬ方向を向く。不本意そうな表情のまま立ち去ろうとするのに、それまで下を向いていた亨がキッと顔を上げた。
「でも、僕は…納得できない!」
亨はそう言って、いきなり目の前にいた男の顔を殴りつける。それは掌ではなく、固く握り締めた拳だった。
ガンという鈍い音が響く。
「えっ!」
一瞬、空気が凍りつく。
殴られた相手も驚いたようだが、雅之もしばらくは自分の見たものが信じられなかった。
可愛い顔をしているのだ。
もちろん人間を顔で判断するものではないことくらい雅之も知っていたが、それでもこんなに可愛い生物が、自分よりも大きい相手を殴りつけたことを認めるのは難しかった。
いつもは冷静な克明でさえ、呆然と呟いたほどである。
「信じられないヤツだ……」
「ホントに……」
だがその二人の言葉が彼等を我に返らせる引き金になったのか、見る見るうちに殴られた男の顔が真っ赤になる。
顔から湯気を発しそうな様子だった。
「てっめぇ!」
そう怒鳴って、ものすごい勢いで亨に掴みかかろうとする。
せっかく静かに治まりそうだったのが、今ではもうあと戻りできないところまできていることは明らかだった。
「チッ…。雅之、下がってろ!」
克明は素早く眼鏡を外すと、それを雅之の制服の胸ポケットに潜り込ませる。そしてその体をトンと後ろに押した。
「え? え? え?」
克明に手で押され、一歩下がる形で雅之は呆然と鞄を抱えている。何が何だか分からないうちに、目の前で乱闘が始まってしまった。
克明は、仲間を助けようとして亨に襲いかかろうとした二人の間に分け入り、繰り出された拳を腕でブロックする。
相手がバランスを崩したところを狙って、思い切り上から交差した両腕を叩きつけた。
雅之は完全に蚊帳の外で、克明たちは二対三で戦っている。それだけに手加減をする余裕がなく、一発で相手の戦闘能力をなくそうとしているようだった。
亨はその顔に似合わず果敢に一回り以上も大きい相手に向かっていく。それどころか、驚きに目を見開いている雅之の前で何度か殴られているというのに、負けずに殴り返していた。
「気管支…弱いんじゃなかったっけ?」
しかし喧嘩をするのには大して支障がないと見え、亨は元気に暴れまくっている。
「僕が一番役に立たない……」
情けない思いが雅之の中で広がる。
雅之が落ち込んでいる間も乱闘は続き、時折殴られる音が聞こえる。やさ男だとばかり思っていた克明は、意外なほどの強さを見せていた。
「ゲッ!」
リーダー格の男が克明の蹴りに倒れると、途端に状況が一変する。二対二になった喧嘩は、克明の活躍のおかげで見る見るうちに片がついてしまった。
「憶えてろよ!」
「典型的な捨て台詞だな」
呆れたように肩を竦め、克明は雅之の手から眼鏡と鞄を受け取る。
「怪我してないだろうな?」
「う、うん…。見てただけだから…」
「それはよかった」
「………」
複雑な心境に黙り込む雅之に、克明は服についた埃を払いながら呟く。
「俺は忠志に頼まれて、お前のことを見張りにきたんだよ。だが、まさか学校から追いつくまでの間に、こんな面倒に巻き込まれるとは…」
「いや…あの……ごめん」
雅之は小さくなって恐縮した。
しかしそんな雅之に、亨が慌てて言う。
「僕が悪いんです。あんなヤツらに引っかかったから。鹿野さんは、本当に運悪く通りがかっただけなんです」
「それはどうかなー。どうせ雅之のことだから、どうしようか考えて、その場にボーッと突っ立ってたんだろう」
「えっと…当たり、かな」
恥ずかしそうに肯定する雅之に、克明は深い溜め息をついた。
「やっぱり。忠志が俺を寄越したのは正解だったわけだ」
「忠志が?」
「ああ。雅之が一人でデパートまで行くのは危ないから、つき合ってくれって。お前、甘やかされてるよな」
「え…えーっと……」
まるで小学生のような扱いに、雅之は顔を赤くする。
「じゃあ、それでわざわざ来てくれたんだ。ありがとう」
「どう致しまして。見つかってよかった。これでお前があんなヤツに手込めにされてたら、俺は忠志に殺されるところだった」
「そんなことないと思うけど…」
「絶対にあるね。お前、大切にされてるからな」
「………」
雅之は顔を真っ赤にする。
克明の言葉に他意はないと分かっているのだが、恋人になりたてのホヤホヤなだけについ深い意味に捕らえてしまう。特にここのところ、その話題には敏感になっていた。
「とにかく、駅前のデパートに行くんだろ? ついていってやるから」
雅之は慌てて首を横に振った。
「い、いいよ、そんなこと。それよりも早く傷の手当てをしないと…」
「傷? 別に俺、殴られてないぞ」
「え…? そうなの?」
「ああ」
「知らなかった…。克明って、結構強いんだ」
「まぁ、自分の身を守るくらいはな」
苦笑しながら克明は、隣りの亨に聞く。
「そっちの君は大丈夫か? 何発か食らってたみたいだが」
「平気です。そんなに痛くないですから」
「…と言ってもな……」
克明はせっかくの可愛い顔を腫らしている亨に近づく。そして顎を軽く掴むと、頬を自分のほうに向かせた。
「ふ…ん…。少し内出血してるようだが、別に気にするほどのもんじゃないな。今晩冷やしておけば腫れは引くだろうし、痣も一週間もすれば綺麗に消えるはずだ。ガタイのわりに、大した相手じゃなかったって証明だな」
乱闘で何の役にも立たなかった雅之は、その言葉にホッと安堵する。
「そうなんだ…。よかったぁ。あ、克明は家が病院だから、怪我を見るのには慣れてるんだよ。こういうの、『門前の小僧、習わぬ経を詠む』ってやつ? 医者志望だから、実地で役に立っていいね」
「まぁな。ウチは上に二人もいるから跡を継がなくてもいいし、自分の家だから出世の道も開けてるし。兄弟で医者になって、バンバン稼ぐのも悪かない」
「………克明、『医は仁術なり』って言葉、知ってる?」
「…? もちろん。でも映画か何かに、『医は算術なり』ってのがあったな」
「………」
「ああ、安心しろ。お前が怪我か病気で入院したときは、クラスメイトのよしみで、特別に安くしてやるから」
「……ありがとう」
この相手には何を言っても無駄だと思い、雅之は礼を言って話を終わらせた。
「さて、俺たちはデパートに向かうが、そっちの君はどうする?」
「あ、僕も買い物をしていかないといけないので、ここで失礼します」
「ちょっと待っててくれれば、つき合うぞ?」
「一人で大丈夫ですから」
穏やかに辞退をする相手に、克明は頷いた。
「そういえば君、名前は? まぁ、別にヤツらも何も言ってこないと思うが、もしも何かあったときのためにな」
「西田です。西田亨。一年E組です」
克明は胸元から手帳を取り出すと、そこに書き込んでしまう。
「西田くんね。分かった。何かあったら教えて下さい」
「はい、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「それはいいんだけど…君、その性格は直さないと、苦労すると思うよ」
亨はその言葉に顔を赤くさせる。
「すみません。自分でも分かってはいるんですけど…。カーッとなると、つい手が出る性格で……。反省してます」
小さくなって謝る亨に、雅之はクスリと笑う。
「何だか…ビックリ箱みたいな性格だね」
「そうだな」
楽しそうに笑い合う上級生を前に、亨はひたすら恐縮した。
翌日、忠志たちが朝練を終えて教室に行ってみると、そこではすでに噂が花を開いていた。いつもは遅刻ギリギリにしか来ない悪友たちが、珍しく顔を揃えている。
「お、来た来た」
それまで話していたのをピタリと止め、二人のことをニヤニヤとしながら見る。おかしな雰囲気に、忠志たちは顔を見合わせた。
「何だ、お前ら。今日はずいぶんと早いじゃないか」
「ホント…何かあったわけ?」
しかしそう聞くと、意味深な答えを返す。
「まぁな。もっとも俺たちじゃなく、そっちにだけどな」
「え?」
ズラリと並んだその顔の中に、困ったような克明がいるのを見て、雅之はギクリとした。まさか…と思いつつ、嫌な予感がわき起こる。
忠志は隣りで首を傾げていた。
「そっち?」
忠志が聞き返したとき、ガラリと教室の扉が開き、慌てた様子で生徒が一人入ってくる。その彼は、雅之の顔を見て唐突に言った。
「よーっ、雅之ちゃん、おはようっす。昨日、坂下のヤツらに襲われかけたって本当か?」
開口一番に飛び出た言葉に、ドヨドヨと周りがザワめく。そして一瞬シーンとしたあと、忠志と雅之はそれぞれ異なった反応を見せた。
「え?」
「何だと?」
忠志は、雅之のそれに肯定の響きがあることに敏感に気がつく。眉をひそめながら見ていると、慌てた雅之は思わず口走っていた。
「ちょっと待って! 何でそんなこと知ってるわけ? まさか克明…」
状況からしてつい克明を疑ってしまった雅之に、克明は慌てた様子もなく、余裕のある態度で首を横に振る。
「俺じゃないぞ。俺は何も言ってない」
その言葉を弁護するように、周りの野次馬が口を開く。
「そうそう。克明は、貝みたいに口を閉ざして、何も言おうとしないんだよな」
「克明がいたのは分かってんだから、当事者として面白おかしく話してくれりゃあいいのに、生徒会長さまは口が堅くってなー」
「………」
雅之はそれに考え込んでしまう。あそこにいたのはたったの三人で、しかもその内の二人が除かれれば答えは一人しかいない。
まさかと思いつつ、小さく呟いた。
「克明じゃないとすると…まさか西田くんが?」
「違う違う。他のクラスのヤツがたまたま見ててさ、昨日のうちに電話で広まりまくりだぜ。…で、どうせなら、こんな面白いこと本人に聞かない手はないってんでさ、今日はわざわざ示し合わせて早く来てやったんだ」
「…それは、どうもありがとう」
余計なお世話にムッとして答える雅之を気にもせずに、周りの連中は目をキラキラさせて口々に聞いてくる。
「で? ホントなのか?」
「キスされたって?」
「抱き締められたんだよな?」
次から次へと好奇心も露《あらわ》な表情で聞いてくる友人たちに、雅之は慌てて首を横に振る。そして怒りを通り越し、半ば呆れながら答えた。
「そんなこと、されてない」
「ホントかー?」
「別に隠さなくてもいいんだぞ? 本当のことを言えよ」
「………」
どことなくガックリと気落ちしている表情に、雅之は顔をしかめる。そして周りの顔を順に見回しながら言った。
「何だか…何かされてたほうがよかったような口振り」
「い、いやー…そんなー…」
「考え過ぎだよ、考え過ぎ。俺たちは、お前のことを心配してだな…」
「そうそう。邪推はいかんぞ」
「………」
わざとらしいその口調が、雅之の言葉を肯定している。
「友達に恵まれてないな、僕…」
「まぁまぁまぁまぁ。無事でよかったな」
「うんうんうんうん。よかった」
「………」
ガックリと肩を落とす雅之に、今度は自分たちで得た情報を吹き込み始めた。
「そういや、相手のヤツ、サッカー部だって言ってたぜ。何でも前に試合を見にいったときに出てたとか、出てなかったとか…」
「俺も、それは聞いたな」
だが雅之にとって、それは初めて聞くことである。次々と教えられる話を、微かに眉をひそめながら聞いていた。
「雅之…」
低い声で名前を囁かれ、雅之はビクリと体を震わせる。あまりの騒々しさにすっかり忘れていたが、昨日のことは忠志に言っていなかったのである。
「どういうことなんだ?」
「え…? えっと……」
咄嗟には出てこない言葉に、雅之は唇を噛む。周りに人がたくさんいるところで、こんなことを話したくはなかった。
忠志はためらう雅之を見て取ると、騒ぎの最中に戻ってきた巧に手を差し出す。
「巧、部室の鍵」
強い口調で言われて、仕方なく巧はポケットから鍵の束を取り出す。そしてその中の一つをホルダーから外すと、忠志に手渡した。
「やれやれ。一時間目の授業はどうするんだ? サボリか?」
「俺は体が弱いからな。毎日の厳しい練習の疲労が溜まって、体がふらつくんだ」
人を食ったその答えに、思わず巧は苦笑する。雅之に起こったできごとは、どうやら忠志を本気で煮詰まらせたらしいと分かった。
「ああ、そうか、そうか。で、雅之は?」
「一人じゃ歩けないほど辛いんで、つき添いだ」
「分かった、分かった。先生には適当にごまかしておく。別にサボるのは構わないけどな、練習にはちゃんと出てこいよ」
「おう」
忠志は雅之の手を取り、グイグイと引っ張りながら足早に廊下を歩く。部室までの道程で何人か知った顔から挨拶をされたが、すべて無視した。
部室が並ぶ辺りにはすでに人気がない。忠志はそれを好都合に思いながら、手早く鍵を開けて中に入り込んだ。
内側からしっかりと鍵をかけ、何と説明するべきか考えている雅之に向き直る。
「で? 襲われたっていうのはどういうことなんだ?」
「襲われたなんて、大袈裟だよ」
「でもそれに近いことはあったんだろう? いいから説明してみろよ」
雅之はためらいながらも、素直に言ってしまうことにする。
「ほら…昨日、お母さんの頼まれものを取りにデパートに向かう途中、ウチの生徒が坂下の生徒に脅されてるのを見ちゃったんだ。それでどうすればいいのか分からなくて…」
忠志はそこで大きく溜め息をつく。それから先を説明されなくても、雅之が何をしたかくらいはすぐに分かった。
「ただボーッと見てたんだな、それを」
「そう」
雅之が頷く。
忠志は更に先を続けた。
「で、気がつかれて、一緒にカツ上げされたわけだ?」
「そう。よく分かったね」
「そりゃあ…分かるに決まってる。で、そのあとどうしたって?」
「うん。お母さんの頼まれもののお金まで取られそうになって、慌てて取り返そうとしたら、相手の男が変な人で……」
「変な人?」
「うん。男女平等の博愛主義者」
「……?」
当然のことながら、その言葉で忠志が理解できるわけがない。首を捻りながら、もっと詳しいことを説明するように言った。
「男も女も好きな人で、僕みたいなのがタイプなんだってさ」
「………何だと?」
忠志の機嫌が急降下したのにも気がつかず、雅之は呑気なものである。
「多分、その人に迫られたのを見られたんじゃないかなぁ」
「押し倒されたのか!」
あまりのきつい口調に、雅之は目を見開く。そして忠志の不機嫌さにようやく気がついて、慌てて首を横に振った。
「そ、そんなことないよ。ただ…ちょっとキスされそうになっただけで…」
「キスーッ!」
「あ、あ、でも、別にされたわけじゃないんだよ? 危ないところで克明が助けにきてくれて、大丈夫だった」
「本当だな?」
怖い顔で確かめられて、雅之はコクコクと頷く。
「本当。絶対。克明に聞けば証言してくれるよ」
「そうか…。で、相手は誰だって?」
「し、知らない! 知るわけないよ。皆はサッカー部だって言ってたけど、坂下の選手の顔なんて知らないし…」
「それもそうだな」
「でも…あんな変な人が選手だとしたら、坂下って一体……」
思わず呟いた言葉は、雅之にとって薮蛇《やぶへび》となった。
「お前なー、そういう変なヤツを相手に隙を見せるな」
「そんなこと言われても…」
「こうなったら、やはりいっそのこと……」
「……え?」
忠志の言わんとしているところに気がついて、雅之の顔が引きつった。不幸なことに、この部室は鍵がかかる上、周りには誰もいない。
「た…忠志、早まっちゃ駄目だよ?」
ビクビクしながらあとずさる雅之に、忠志は眉を吊り上げる。
「意味、分かったのか?」
「そりゃあ、いい加減僕にだって分かるよ」
「ふーん。進歩だな。それで? やっぱりまだ嫌か?」
忠志に穏やかに質問されて、罪悪感がチクチクと心を苛《さいな》む。
「ご…ごめん……」
溜め息が忠志の口から漏れた。
「仕方ないな。今日のところは引いてやるけど、そういつまでも待てるとは思うなよ」
「分かった」
安堵と罪悪感とが混じった複雑な心境は、ここ何日もの間ずっと雅之の心の中にある。近いうちに答えを出さなければいけないことは分かっていた。
水無月祭の前日というその日、サッカー部の練習は翌日に疲れを残さないために早めに切り上げられた。
久し振りに雅之の部屋でテレビを見ながら二人でゴロゴロしていたとき、雅之が思い出したようにボソリと言った。
「いよいよ、明日は水無月祭かぁ…」
忠志は心臓の辺りを押さえる。
「お前なぁ…。せっかく人が思い出さないように努力してたのに…。緊張して眠れなくなったらどうしてくれるんだ」
「あ、ごめん」
雅之は深い意味もなく言ってしまったので、過敏な忠志の反応に驚く。今まで、こんなふうに緊張している姿は見たことがなかった。
「うー…まいった。心臓がバクバクいってる」
忠志はそんなことを言いながらバタリと仰向けに横になる。雅之はそんな忠志の顔を覗き込みながら、笑って聞いた。
「…大丈夫? 意外と繊細だったんだねぇ」
「何だと?」
忠志は雅之の腕を掴んで引っ張り、自分のほうに引き寄せる。
「わっ…!」
小さく声を上げて、雅之は忠志の上に倒れ込んだ。その際にぶつけた鼻を手で押さえながら、乱暴な忠志に文句を言う。
「痛いなぁ……」
しかし思いがけず間近に迫っていた忠志の顔に、雅之はドキリとした。
忠志はそんな雅之の体に腕を回し、顔を引き寄せる。間近で雅之の顔を見つめながら、苦しそうな声を発する。
「あのな…俺、情けないことに、そろそろ限界なんだよ。それでずっと考えてたんだけど、水無月祭で勝ったらOKっていうのはどうだ?」
「な…何が……?」
答えはすでに分かっていながらも、雅之は聞いてしまう。
「分かってるだろうが」
「うっ……」
「どうせ思いきった何かがないと、なかなか先に進めないって。だったら明日の試合をそのきっかけにしようぜ?」
「でも……」
雅之は突然の申し出に戸惑う。即答するには、臆病な性格が邪魔をした。
「そんなに心配しなくても、あっちは正規メンバー、こっちは肝心のキーパーが素人の俺だからな。勝つ可能性は低いぜ」
笑いながら言ってはいるものの、忠志の目は真剣である。切羽詰まったような色さえ身受けられる。
「いいって言えよ」
「………」
雅之は答えられない。
「雅之……」
決断を迫る忠志の声に、雅之はカリッと爪を噛む。散々悩んだ末に、忠志の言う賭に乗ってみることにした。
自分でもこのままではきっとOKという返事を返すことができないと思ったのである。それならば、一度くらい賭けてみるのもいいと考えた。
「分かった…。いいよ」
忠志の目が驚きに見開かれる。
「本当か?」
「うん」
しかしそう決めたそのすぐあとで、すでに後悔し始めてもいた。
水無月祭は、両校の校長の挨拶と共に始まった。互いに五分間と決めた時間をきっちりと守っての開会式である。
一年ごとに開催校を交換する水無月祭だが、今年は坂上高校で行われる。ホームグラウンドは有利とされているため、実力的には多少不利とはいえ勝つ可能性はある。
両校の全生徒が二手に別れて並んだものだから、妙に対抗意識が盛り上がってくる。
仰々しいことはなしに、試合内容と大まかな時間が発表されたあとで、各々が応援したいところに散らばっていく。
忠志は午後の最後の試合だったので、それまでは他の一般生徒に混じって応援をする。自分が出るわけではないので気が楽だった。
しかし時間が経つにつれて、段々と胃の調子が悪くなってくる。ストレスのためか、しくしくと痛みを訴え始めた。チラチラと時計を見る回数が多くなるにつれ、痛みもどんどん増す。
やがて午前中の試合が終わり、一時間ほどの昼休みに各自が好きな場所で昼食を取る。そしてそのあとは、午後の試合が行われるのだった。
忠志たちの試合は午後からなので、腹にもたれないように昼食は軽いものしか取っていない。もっとも、食べろと言われても食べれるような状態ではなかった。
「うーん…胃が……」
「しっかり」
部室で最後のミーティング中、忠志はヘロヘロの状態である。しかしだからといって他の人間にはどうすることもできず、自力で何とかしてもらうより他にない。
「よーし。そろそろ行くぞ」
「はいっ」
緊張した面持ちでグラウンドに向かったサッカー部員たちは、巧が相手ベンチで何か話している間にアップを始める。
両校のキャプテン同士でスターティングメンバーの交換があり、ベンチに戻ってきたところを他の選手たちがワラワラと寄ってきた。
巧が雅之の隣りに座ったせいで、メンバー表を見る選手たちに囲まれてしまった形になった。そのため、一緒になって見ることになる。
雅之にとって、それはただの名前の羅列にしか過ぎない。相手チームには誰一人として知った顔がいないのだから当然だった。
しかし他の選手たちにとっては違う。何度か試合で顔を合わせているだけに、それぞれ思うところがあるようである。
巧はそれを見ながら、小さく舌打ちをする。
「最初からベストメンバーかよ。くそー…調子よさそうだな」
「俺のマーク、俺のマーク…。うっ…やっぱり斉藤兄弟が出てやがる。俺、あいつら苦手なんだよなー。マークするのに、同じ顔が二つあるのはやり辛くて敵わん」
選手達は互いに勝手なことを言い合う。各自、自分のことだけで頭が一杯のようだった。
「ミッドフィルダーは誰だ?」
「藤森だよ、決まってんだろ」
「だーっ! あいつ、嫌いだ!」
「好きなヤツなんて、いないって。味方ならともかくとして、敵となるとなぁ…。あいつのラフプレーときたら、マジで頭にくるもんな」
どこかで聞いたことのあるような名前に、雅之は首を傾げた。しかもどちらかというと、嫌な感じの部類である。
「藤森…?」
雅之は軽く身震いをして、巧に聞いてみた。
「藤森って、どの人?」
「藤森? あっちの十番だよ。腕にキャプテンマークをつけてるだろう?」
そう言われて、雅之は目を細めるようにして敵方のベンチを見る。しかし最近めっきり落ちてきたと自覚のある視力は、上手く姿を捕らえることができない。
「…見えない」
そんな雅之に、人込みを掻き分けて前に出てきた克明が声をかける。
「おい、雅之。…ちょっと」
軽く手招きをして呼ぶ克明は、珍しく難しい顔をしている。雅之はそれを見てとると、嫌な予感がしつつも素直に近寄った。
「気がついたか? あれ、あのときのあいつだぜ」
「えっ!」
思わず上げた驚愕の声に、忠志と巧が敏感に反応した。
「どうした?」
「え…? 何でもない」
不用意に大きな声を上げてしまった自分を心の中で叱咤して、何とか忠志に気取られないように気をつける。
しかしあいにくと、克明がニヤリと笑いながら言った。
「忠志、前に言ってた、雅之を襲ったあれな、サッカー部のヤツで正解だったぞ」
「ちょ…克明?」
ギョッとして克明の顔を覗き込むのに、克明は下手なウィンクをして寄越す。何か考えるところがあるらしかった。
「何だとー? ってことは、いるんだなそいつ。どこだ?」
「あの十番だよ。ついでに言うと、仲間もいて、六番と十三番もそうだ」
「十番だな。ようしっ!」
ズカズカと勢いのままに殴り込みに行こうとする忠志に、雅之は慌てる。もしそのまま乱闘になったら教師達を前にしての大不祥事である。
「わー…駄目! ”ようし”じゃないって!」
必死で止めようとする雅之を、忠志は振りきろうとする。それを見ていた巧も、忠志を止めるのに参加した。
怒っている忠志と止めようとする人間の間に、ちょっとした諍《いさか》いが起こる。
その騒ぎを聞きつけて、坂下の選手たちの視線がベンチに集まる。この前のときの三人は、ベンチの中に雅之の顔を見つけて驚いたようだった。
藤森が、雅之と視線が合ったのをいいことに、キザな投げキッスを寄越す。
「あの野郎ー!」
思わず避けてしまった雅之をよそに、忠志はますます怒り狂った。
「おいおい。その元気は試合に取っといてくれよ」
巧は後ろからガッチリと忠志を羽交い締めにし、ついでに克明にも手伝わせて忠志を落ち着かせようとする。
「試合で、あいつらをギャフンとさせてやろうぜ」
「………」
しばらくブツブツと文句を言っていたものの、少しずつ落ち着きを見せ始めた忠志は二人に腕を離すように言う。
巧はそれを聞き入れて腕を離すと、忠志をベンチの奥に追いやってしまった。そして隣りの克明にコッソリと耳打ちをする。
「克明、助かったぜ。おかげで忠志から弱気の虫がどっかに飛んでったみたいだ」
「まぁな。あいつの顔を見てすぐに分かったからな」
「まったく。柄にもなく怖気づきやがって。おっと…もう時間か」
巧は選手たちを呼び集め、円陣を組ませる。そしてこの重要な試合を前にして、しっかりと状況を言い含めた。
「いいか? 今のところ、一応はウチの高校が五対四で勝ってるけどな、残りのバスケと俺らのサッカーは互角とは到底言えない状況だ。体育館ではさっきバスケが始まったから、ウチよりも早く結果が出るわけだが…バスケが勝ってくれるならそれでよし。もし負けたら、この水無月祭の勝敗がウチにかかってくるってことを忘れるなよ…」
忠志は嫌そうに顔を歪める。
「ちょっと聞くけどな。ウチのバスケ部ってどうなんだ? 坂下のヤツらと比べて勝てそうなのか?」
「うーん…。正直言うと、かなり難しいかな。あっちは県大会ベスト四。それに比べてウチはベスト十六止まりだったらしいし」
「…ってことは、負ける可能性が高い?」
「そうだな」
「勘弁してくれよー」
「本当にな」
巧にとっても本音である。できれば不利な自分たちの前に、勝敗を決めておいて欲しかったことは否定できない。
「いいか? ディフェンス陣の責任は重大だぞ。忠志はキャッチングこそかなりのレベルまでいったが、とにかく試合慣れしてないからな。その分お前らがキッチリと自分の役割を考えて、点数を入れられないように働け」
「はいっ」
「あと、オフェンス陣もだ。点が何点入るかまったく分からない以上、お前らがガンガン攻めて、坂下を上回るしかないんだからな」
「はいっ」
「よーし、行けっ」
「はいっ」
選手たちはコートの中央に向かって走った。
味方のベンチで、ハラハラしながら雅之はキックオフを見守っていた。
「勝って欲しいような…欲しくないような……。複雑な心境」
それを聞き咎められ、隣りの巧がジロリと睨む。
「勝って欲しくないのか?」
「あ…。もちろん勝って欲しいんだよ? あんな人たちに負けて欲しくないし。でも、こっちにもちょっと理由があって…」
「理由?」
不審そうに聞かれるのに、雅之はパッと顔を赤らめる。
「ま…まぁ…いろいろと……」
「ふーん?」
好奇心にジロジロと見つめる巧を気にしないようにして、雅之は熱くなった顔を押さえながら、試合に集中しようと前を向いた。
コートではせっかくのボールを相手に奪われて、短いパス回しでいつの間にか自陣にまで攻め込まれていた。
マークについたディフェンスの一瞬の隙をついて、ゴールに向かって鋭いシュートが放たれる。
「あっ!」
思わず上げた声は、忠志の必死のパンチングによって安堵へと変わった。
「あっぶなー…」
ホッと安心はしたものの、その後も思わず立ち上がってしまうような場面が多発する。
何度も何度も攻め込まれるが、ギリギリのところでディフェンス陣が踏ん切ってことなきを得る。もちろん忠志も幾つかのシュートチャンスを上手いこと潰していた。
雅之たち、見ている者にとってはハラハラするような危ないゲーム展開である。攻めるよりも、攻め込まれる回数のほうがずっと多い。
前半戦の終了の笛の音が辺りに鳴り響き、雅之は全身から力を抜いた。見ているだけで疲れるような試合だった。
「お疲れさま。すごいね、忠志。まだ一点も入れられてないよ」
ニコニコと笑いながらタオルを渡す雅之に、忠志はドサリとベンチに座り込む。まだ前半が終了したばかりだというのに、疲れきった様子だった。
「し…死ぬ……」
グッタリと背凭《せもた》れに凭れかかり、息も荒い忠志の様子は冗談ではすまない。
「神経が焼ききれそうだぞ」
「お前、よくやってるわ。まさか前半を〇点で終われるとは思ってもいなかったな。とにかく忠志は今のまま、ミスのないように頑張ってくれ」
「分かった」
忠志は頷くと、渡されたタオルを顔に乗せて目を瞑る。疲れきった神経を少しでも休ませたかった。
そして他のメンバーは、ノートを持った巧を前に、次から次へと指示を受けている。
「いいか、分かってるとは思うが、後半からが本当のあいつらだ。前半が〇点で押さえられたことで、ヤツらも得意のラフプレーをし始めるぞ」
「はい」
「特に気をつけなきゃいけないのは、頭にきて自分たちまで喧嘩腰にならないことだ。あいつらと違って、俺たちは審判をだますのが上手くないからな。下手に狙いにいったら、まず間違いなくフリーキックを取られるぞ」
「はい」
巧の手元を見ながら、選手たちは熱心に聞いている。
疲れを取る間もなくわずかばかりの休憩時間は終わってしまい、後半戦が始まる。グラウンドに戻る選手たちの足取りは重かった。
「大丈夫かな…?」
「さぁな」
後半が始まってしばらくして、雅之は体育館からゾロゾロと応援の生徒たちが出てくるのに気がついた。彼等は皆、一様にグラウンドに向かっている。
「バスケ、終わったみたいだね」
「ああ、そうだな」
「どうだったのかな? 勝ってたらいいんだけど」
雅之がそう言うと、巧は苦笑した。
「あいつらの顔を見れば分かるだろうが。まず間違いなく負けたね」
「え?」
巧に言われて見てみると、確かにその通りだった。坂下の生徒たちが嬉しそうなのに比べて、かなり表情が暗い。
「これって…まずいんじゃないの?」
「ああ、まずい。これまでのところは忠志もよくやってるが、そろそろ点が入っちまいそうだ。疲れで集中力が鈍ってきてる」
「………」
雅之は、忠志たちを応援する心のどこかで、バスケ部が勝って水無月祭の勝利を決め、サッカー部が一点差くらいで負けることを望んでいたことに気がついた。
もちろん忠志に勝ってもらいたいのだが、そうすると抜き差しならない状況に陥ってしまう。忠志は好きだが、まだ最後の線を越える覚悟のない雅之には非常に辛いところである。
雅之は思ったようにいかないものだと唇を噛む。
しかし雅之がどう思おうと、結果は一緒である。忠志たちが勝つか負けるか、それは雅之には決められない。
コートでは一つのボールを奪い合って、二十二人の選手たちが右往左往している。一進一退を繰り返し、どちらが有利とも言えないような状況だった。
「あ、やべっ! 佐田が狙われてる」
「え?」
その言葉に、咄嗟に視線を巧の見ている方向に向ける。ちょうど相手のゼッケン六番が、ボールを持った坂上の選手の足を狙って蹴り込んでいた。
蹴られた選手は足を抱えて横転したが、笛の音は鳴らなかった。
ゲームは続行している。
激痛に起き上がれない選手を置いて、他の選手たちはボールに神経を集中する。坂下に渡ったボールは何人かの足を経て、自陣深く攻め込まれていた。
それを見ていた雅之は、ベンチの中で憤慨する。
「何、あれっ! あんなことしていいわけ?」
「いけないに決まってるだろうが。ただ、明らかに反則でも、審判の目を掠めてすりゃあ反則にはならないんだよ。ヤツらはそういうのが得意だから」
「だからって!」
珍しく怒っている雅之を隣りに、巧はボソリと呟いた。
「お前を襲った三人組は、サッカーでもやたらと息が合ってるからな」
「………」
雅之は思わず沈黙してしまった。事情を知らない人が聞いたら、一体何ごとかと勘繰ってしまうような言い方である。
「その…人聞きの悪い言い方、やめてくれる?」
「そりゃ悪かった」
ほとんど上の空で謝られて、雅之は軽く肩を竦める。巧の視線は常にコートの上にあり、神経をすべてそちらのほうに向かっている。
雅之が諦めと共に試合に視線を戻すと、相手のゼッケン十番にボールが渡ったところだった。何か指で指示をしながらボールを器用に操るのに、誰も奪うことができない。
「まずいな…藤森だ」
隣りで呟いた巧は、持っていたノートをクシャリと手の中で潰す。
たった一人のドリブルによってゴール前まで持ってこられ、ボールを奪いにきたディフェンス陣はことごとく振りきられてしまう。審判の目を盗んでは膝蹴りや脛《すね》を蹴り上げるため、その場に蹲《うずくま》る選手が続出した。
「…っとに上手いよな、あいつは」
苛立たしげな呟きが巧の口から零れ、その手は悔しそうに握られている。
その間にも、藤森は一人でどんどんボールを運んでしまう。上手く反則をするということもあるが、それだけではなくボール捌きのほうもかなりのものだった。
ついにゴール前まで辿り着いた藤森は、ニヤリと不敵に笑うと、大きく足を上げてゴール目がけてボールを蹴る。
ものすごいうねりを上げて蹴られたボールは、止めようと緊張していた忠志を狙っている。真正面からの攻撃に、忠志は怯むことなくグッと体に力を込めた。
ドカッという音と共に、ボールは忠志の腹部に決まる。
「忠志っ!」
何とかボールは止めたものの、忠志は苦しそうに呻いてその場に蹲った。腹部を押さえる手が微かに震え、額からは脂汗が伝っている。
「…ってぇ……」
「忠志……」
動揺して、思わず立ち上がってしまった雅之は、隣りで憮然としている巧に聞く。
「わざとだよね、今の。ああいうのって反則にはならないわけ?」
「ならない」
「どうして? 悪質だよ」
「仕方ない。ルールブックには、キーパー目がけてシュートをしてはいけないとは書かれてないからな」
「だからって!」
プンプンと怒る雅之と違って、巧は静かなものである。
「まったく、えげつないヤツだな」
吐き捨てるように呟かれた言葉が、内心ではかなり怒りが募っていることを教える。度重なるラフプレーに、ピリピリとした雰囲気がベンチの中に漂い始めた。
しばらく蹲《うずくま》っていた忠志は、近寄る審判に二言三言聞かれ、それに答えてから立ち上がる。巧に目で合図をした感じからして、大丈夫だと言っているようだった。
中断されていた試合が再開される。
しかし忠志たちは相手のラフプレーによって、負傷者が増えている。そろそろ疲れが出てきたこともあって、動きが前半よりも鈍くなっていた。
味方内で回しているボールが、相手によってカットされる。再び藤森へとボールが渡され、試合は一気に坂下に有利に動いた。
軽い足捌《あしさば》きでボールを奪おうとする選手を躱《かわ》し、ゴール近くまで分け入ってくる。まだ少しゴールは遠かったが、構わず藤森は蹴り込んできた。
今度はしっかりコーナーを狙っている。
忠志は反射的に蹴られた方向に飛び、ボールを止めようとする。しかしてっきりシュートだと思われたそれは、飛び込んできた相手のヘディングによってコースを変えられてしまった。
忠志は完全に振りきられることになる。戻ろうと思っても、不可能だった。
ボールがネットに突き刺さり、審判の笛の音が辺りに響き渡る。
拳を握って悔しがる忠志に、巧は仕方ないといった様子で首を振る。
「ああ…あれは防げない。たとえ俺が出てたとしても、多分点が入ったな」
「そんな、冷静に…。一点入っちゃったんだよ? どうするの?」
「どうするって言ってもなぁ…。俺たちにはどうすることもできないからな。中にいるヤツらが頑張るしかないんだよ」
「それはそうだけど…」
雅之はソワソワとする。つい先ほどまで勝って欲しいのか欲しくないのか分からなかった心は、実際に負けそうになってみると嫌な気分になった。
やはり忠志が負けるのは見たくない。
雅之はいても立ってもいられなくなって、椅子から立ち上がった。
「忠志! がんばれっ!」
そう大きな声で応援を送ると、忠志の耳に届いたようである。
忠志はチラリと雅之のほうに視線を送り、こんな状況にも関わらず中指を立てて見せる。そしてニヤリと不敵な笑みを作った。
唇が、声にならない言葉を形作る。
『か・く・ご・し・と・け』
一文字一文字ゆっくりと、だが正確に読み取った雅之は、カッと顔を赤らめる。その指と言葉が何を意味しているのかすぐに分かった。
「どうかしたのか?」
「な、何でもない!」
心配そうに覗き込む巧に、雅之は真っ赤な顔で首をブンブンと勢いよく横に振る。そして話を逸らすように言った。
「それにしても、サッカーって点の入りにくいスポーツだよね」
「そうだな。他の競技よりも、実力だけじゃなくて運を必要とするからな。…にしても、苛々するな。早いところ一点を返さないと、このままズルズルいっちまう」
「何とかならないの?」
雅之のその質問に、巧はカリッと爪を噛む。
「…って言ってもな…。ウチはキーパーが指示をできない分、どうしても不利になるんだよ。忠志もよくやってるが、厳しい状況だ」
「巧が入れば? 巧は指示ができるわけだから、忠志の代わりに、中で動きながら指示を出すってできないのかな?」
「………」
巧は苛々としながら、雅之の言ったことを考え込む。何とかしようと、頭がグルグルと回転しているのが分かった。
「よし…。こうなったら、スイーパーでもやるか。そろそろ一年が疲れてきてるし、替えどきかもしれないな」
そう言って立ち上がると、巧は急いで体を暖めにかかる。手足の筋をよく伸ばし、その場で念入りに体をほぐす。
巧は着込んでいた上下を脱ぎ、ユニフォーム姿になると、審判に選手の交替を告げた。そして中に入るタイミングを待つ。
大きく弧を描いたボールがコート外に飛び出し、巧は中に入ることができる。一言二言交替の選手と言葉を交わした。
すぐに試合は続けられ、巧は後ろから、オフェンス陣に大きな声で指示を飛ばす。そして自陣に攻められれば、すかさずボールを奪い返しては味方にパスをする。
巧が交替した選手と比べると、やはりボール捌きには多少心許ないものはあったが、その代わり他の選手たちの動きが活発になったような気がした。今までのように、どこか戸惑ったような感じがなくなっている。
「あ…やっぱり動きがよくなった?」
どうやら気のせいではない証拠に、ずっと敵陣に攻め込む回数が多くなってきている。その分忠志は楽になるはずだった。
何度かシュートチャンスはあるのだが、タイミングが悪かったり、敵に阻まれてしまったりでなかなか点数には結びつかない。
しかし時間が経つにつれ、動きのよくなったことに相手チームが焦り始める。
シュートを止めようとした相手チームの反則で、フリーキックを得ることができた。ゴールポストの正面に近い場所からのフリーキックは、ようやく巡ってきた大きなチャンスである。一点が入る可能性は充分にあった。
ズラリと選手が並んでゴール前に壁を作る。
坂上のサッカー部の中でも、特に脚力の強い選手がフリーキックをかって出る。敵の選手を前に、ものすごい気迫を込めてゴールを睨み据えた。
その表情からも、ボールを回してのシュートは有り得ない。
相手のキーパーもそう考えたのか、守るその姿勢がグッと低くなった。
ピリピリとした緊張感が広がる。
大きく息を吸うと、足を振り上げてボールを蹴る。
左下のコーナーぎりぎりである。これ以上ないくらいの会心のコースに決まり、思わずガッツポーズが出た。
それまで息を詰めて見ていた坂上の生徒たちは大喝采である。派手に口笛を鳴らしては、同点になったことを喜び合った。
同点に追いついた事実は、選手たちにも大きく影響する。それまでの切羽詰まった雰囲気がなくなり、肩から荷が降りたようだった。
相手チームが長いパスを出し、それを軽い足取りでカットする。同じように縦に長く蹴り上げて、敵陣深く割って入った。
ポーンと大きく弧を描いたボールは、上手い具合にゴールの前に落ちようとする。そこにキーパーも含めた選手が群がり、奪い合いを繰り広げる。
坂上の選手がヘディングで合わせようとし、キーパーはそれを阻止しようと手を伸ばす。しかしボールは、そのどちらをも擦り抜けて後ろにポトリと落ちた。
転々としたそれは、慌てて飛びつこうとしたキーパーの手が届く前に白線を越えてしまった。
「え…?」
思わずコート内の選手たちの動きが止まるような、まぐれにも似た二点目だった。しかしたとえそれがまぐれだったとしても、点数が入ったことに違いはない。
立て続けの二点目は、巧たちを調子づかせた。
始終走り続けて重いはずの足が、まるで練習のときのように軽く動く。ヒョイと敵を躱《かわ》した足で、どんどんボールを運んではパスを回す。
その後の数分、ゲームは常に坂上の選手を軸に動いていた。
勝っている勢いのまま、果敢に攻め込むのに、相手は守るだけで必死である。試合自体の流れが坂上へと傾き、止めることができなかった。
このまま時間がくれば、忠志たちの勝利である。
雅之は何度も時計を見ては、早く時間が過ぎてくれることを祈る。
時が過ぎ、タイムアップが近づくにつれ、両校の間で緊張が高まっていく。選手よりも、周りで見ている人間のほうがよっぽど緊張していた。
やがてはピーッという笛の音が鳴り響き、それまで走り回っていた選手たちの動きが止まる。確かめるように点数の書いてあるボードを見て、次々にその場に座り込んでしまった。
巧はスコアボードを信じられないといった表情で見つめ、小さな声で呟く。
「か…勝ったぁ……」
喜びよりも疲れのほうが大きいその声が、いかにこの試合に勝つのが難しかったかと教える。
しばらくそのまま静かに喜びに浸っていた巧だったが、まだ試合終了の挨拶をしていないことに気がついて渋々と重い腰を上げる。そして同じようにへたばっている選手たちに声をかけ、腕を引っ張って起こして回った。
巧は最後に忠志の元に行った。
ゴールポストに凭《もた》れかかり、忠志は空を仰いで目を瞑っている。呼吸は荒く、その胸が大きく上下していた。
「えらいっ! よく頑張ったぞ、忠志!」
「まぁな…。明日、奢《おご》れよ」
返す言葉は力ない。
「おう。何でも好きなものを食え」
「その言葉、忘れるなよ」
「もちろんだ」
実際に、忠志がいなければどうなったか分からない。巧は忠志に大きな感謝をしていたので、小遣いを使い果たしてでも奢る覚悟はあった。
「さぁ、挨拶に行こうぜ」
「ああ」
忠志はだるそうに立ち上がると、巧についてコートの中央に向かった。
試合のあと、着替える時間しかなかったサッカー部の選手たちは、汗に汚れた体をタオルで拭き、制服を着込んで閉会式に臨んだ。
二校分の生徒が集まると、決して狭いとは言えないはずのグラウンドが妙に手狭に感じる。並んだ両校の生徒の表情は対称的だった。
昨年は相手校が勝ったために、幾重ものテープが下げられた優勝カップが坂下の生徒会長から、坂上の生徒会長に渡される。
雅之は壇上のセレモニーを見ながら、呆れたように忠志に言う。
「それにしても、普通カップまで作るものなのかな?」
「それだけ互いの校長がムキになってるってことだろう。何でも、カップは校長室の一番いい場所に飾ってあるってよ」
「まったく……」
校長自らが露骨に張り合っているのだから、互いの生徒たちの仲が多少悪かったとしても仕方がないと思った。
「どうでもいいけど、早く終わってくれ」
そう呟いて、忠志は大欠伸をした。昨夜からの緊張と疲労が全身に回っているのか、今にも瞼が落ちそうである。
閉会式まで終えると、すでに時計は三時を回っていた。
どことなく危なっかしい忠志の足取りは、時折目を閉じているせいらしい。
「とりあえず、俺は軽く何か食って寝るぞ」
「そうだね。それがいいよ。疲れてるだろうし」
内心ホッと安堵して、雅之は大きく頷く。これで、覚悟を決めるための時間が少しは稼げると考えていた。
忠志はそれを敏感に感じ取り、ニッと唇を吊り上げる。
「起きたら、お前の部屋に行くからな。窓開けておけよ」
「うっ……」
自分の部屋に帰って雅之は制服を着替える。ふと鏡に映った自分の体を、複雑な思いで見つめた。
貧弱で薄い胸。
筋肉のない情けない腕。
それは常に雅之のコンプレックスの元だったのだが、忠志はそんな自分のことを欲しいと言っているのである。
正直言って、何故かは分からなかった。
しかし雅之は、つい自分が忠志の腕に抱かれているところを想像してしまう。
熱い視線、熱い腕、熱い胸。
忠志はどこもかしこもすべて熱い。その腕に抱き締められキスをされれば、その熱が雅之にも伝わってきた。
洋服越しにでさえその熱さが分かる。素肌で触れ合ったらどんな感じだろうと考えて、雅之はカーッと顔を赤くする。
恥ずかしいことを考えてしまった自分が猛烈に恥ずかしくなり、慌ててシャツを着込む。そして少しばかり悩みながら、窓の鍵をカチリと開けた。
「ああー…どうしよう」
忠志が何時にやってくるのか分からないところが、また雅之の悩みを深くする。せめて時間が分かっていれば、多少は覚悟も決まる気がしていた。
雅之はベッドに俯せになると、枕を抱えて考え込む。
「どうしよう…どうしよう……」
夜も更けた頃、忠志はようやく目を覚ました。まだぼんやりとしている頭で布団を這い出し、顔を洗って意識をはっきりとさせる。
玄関から靴を履いて出て、いつものようにスルスルと木を登り始める。一応コンコンと軽くノックをしてみたのだが、中からの反応はなかった。
忠志は自分で窓を開け、脱いだ靴を木に引っかけて中に入り込む。すると返事のないのも当然で、雅之はベッドで眠っていた。
「何だ、電気をつけっぱなしで…」
毛布もかけずにベッドに横になっている雅之は、苦しそうに眉をしかめ、小さく唸っている。まるで悩んでいるような表情だった。
忠志はそんな雅之に近づくと、軽く肩を揺すった。
「雅之…起きろよ……」
「ん……?」
一応は短く答えたものの、まだ頭は眠っているらしい雅之に微笑みを浮かべながら、忠志はその唇にキスをする。
自然に開かれる唇を割って、舌の絡み合う濃厚な口づけを交わす。雅之は半分眠りながらも、それに応えて寄越した。ここのところ毎日のようにしているので、どうやら体のほうが応え方を覚えてしまったようである。
そんな雅之に悪戯心がムクムクと起き上がり、忠志はいやらしい笑みを浮かべる。
「どこで起きるのかね?」
軽いキスを繰り返しながら、シャツのボタンを外しだす。体重をかけないように気をつけて、白い肌に赤い跡を残す。
なかなか目を覚まさないのに調子に乗って、胸にやんわりと吸いつきながらズボンのベルトにまで手をかけた。
雅之はモゾモゾと自分の体の上で動き回る気配と、何となくくすぐったい感触に嫌々ながら瞼を薄く開ける。
その視界に飛び込んできた光景に、ギョッとして目を見開いた。
「な、な、な、何っ?」
「何だ…起きたのか」
「そりゃあ、起きるよ!」
雅之は自分の姿に顔を赤くする。
シャツは全開になっていたし、ズボンのベルトも外されていた。その上、露《あらわ》になった胸には、点々と赤い跡が散らばっている。
「どうして? 何で突然こういうことになってるわけ?」
「だってお前、せっかく来てやったのに寝てんだもんな。だったら勝手に約束を果たさせてもらおうとだな…」
「だからって…。僕の心の準備は?」
「何言ってんだよ。どうせ、どうしようどうしようってクヨクヨ考えてたんだろうが。お前って、考え始めるとそこでグルグル回るだけで前に進まないからな」
「ど…どうせ……」
図星なだけに、雅之は言葉に詰まってしまう。
忠志はそんな雅之を見ながら、多少強引に進めていくことに決めたらしい。臆病ですぐに殻の中に引っ込んでしまう雅之には、そのほうが効果的だと考えた。
ズボンにかけられた手がそれを脱がそうとするのに、雅之は腰を引いてしまった。
「や…やだっ……!」
しかしささやかな雅之の抵抗は許されない。忠志は雅之の腰を抱えると、空いた手で器用に脱がせてしまう。
ついでとばかりに下着まで脱がされて、ほとんど裸も同然の格好にさせられる。
シャツ一枚を羽織ったきりの自分に、雅之はどうしていいのか分からなくなる。忠志に見られるのを嫌がって、はだけられたシャツを胸元で掻き集めた。
「駄目だ。隠すなよ…」
忠志はそう呟くと、雅之の手を取って無理やり引き剥がしてしまう。
煌々と照らされる明かりの下、シャツ一枚きりで…しかも前を全開にされている状態では隠すものは何もない。
見られているという羞恥が雅之を襲った。
一糸まとわぬ姿にされてしまった雅之は体を小さく縮める。寒さにというよりは、これからのことに身を震わせた。
忠志は不安そうに見上げる雅之の瞳を、まるで迷子の子供のようだと思う。知らないうちに笑みが零れる。
忠志が雅之に向かって腕を伸ばすと、雅之は戸惑い、それでもその腕を取ってくれる。愛しさが込み上げて、雅之を腕の中に抱き込んだ。
優しいキスを何度も繰り返し、雅之の体から緊張を取り除こうとする。そしてキスをしながら、指は胸の赤い飾りをいじり、プックラと可愛らしく立ち上がるのを楽しむ。弾力のあるそれは、触れる度にピクピクと反応する。
「そんなとこ…触らないでって……」
震える声が呟くのに、忠志はうなじに口づけながら耳元で囁く。
「…俺は触りたいんだよ」
指は、胸から下にさがり、微かに形を変えているものにソッと触れた。ビクリと強張る体を押さえながらやんわりと掌で包み込む。
「触れて、お前を感じたい…」
「………」
忠志は雅之の体の色々なところを試すように触れ、口づけ、吸い上げる。その度に少しずつ反応の違うのを楽しみながら、感じていることを確かめた。
刺激するばかりで解放してやろうとしない雅之のものは、すでに立ち上がっている。優しい指先に翻弄され、どうしていいのか分からないようだった。
忠志はそんな雅之を許してやろうとせず、熱くなった体の後ろに指を回すと、震える後孔に濡れた指を這わせた。そのまま何度かこすりつけるようにして、雅之の反応を見る。
雅之は初めての快感に意識がはっきりとしていないようである。熱に浮かされたように息が荒く、時折悩ましい声を漏らす。
忠志は閉じている蕾《つぼみ》を指で押し開いた。そのままクッと力を込め、抵抗する肉襞を掻き分けて内部に侵入する。
「やっ…! 気持ち…悪い……」
「我慢してくれよ」
忠志は宥《なだ》めるように唇を合わせながら、潜り込ませた指をつけ根まで含ませて慣らすように少しずつ動かす。
狭くとても熱い、緊張に引き絞っている内部を指で味わって、忠志は下半身に熱が集まっていくのを感じる。
この中に自分が収まるのかと思うと、腰の辺りからゾクリとする快感が走った。
熱い高ぶりに、忠志は我慢しきれなくなる。急いでズボンのベルトを外すと、雅之の腿を掴んで受け入れる態勢を取らせた。
ほぐされ、開きかけた華を指で押し開き、雅之を怯えさせないように気をつけながら少しずつ侵入を始める。
「……っ!」
腕の中で雅之が体を強張らせるのが分かったが、忠志にももう止めることはできない。そのまま辛そうな雅之を見つめながら、最後まで体を進めてしまった。
「すげ…入ってるぜ?」
忠志は感心したように呟いて、痛みに涙ぐんでいる雅之の指を取る。そしてその手を結合部分に触れさせた。
「ほら。分かるか?」
「バ…バカッ!」
痛いなどと言っていられない羞恥に、雅之はカッと顔を赤らめる。触れさせられた指に、否が応でも自分の状態を想像させられてしまった。
キュッと肉襞が恥ずかしさに収縮する。
煽られるようにきつく締めつけられて、忠志は我慢できずに動き始めた。
「い、痛…い……」
呟く雅之の目の端に、ジンワリと涙が滲んでいる。
忠志は中途半端に放り出されて苦しそうな雅之自身を握り締め、腰の動きに合わせて上下にしごき始めた。
小さな声が漏れた。
痛みと快感とが微妙に入り交じったそれは、ストレートに忠志を刺激する。指の動きが速まり、それと同時に自分自身を快感を追った。
雅之の喉からは、ひっきりなしに喘ぎが溢れている。
「声、出すなよ。下に聞こえるぞ」
「でも……あ、んっ」
深く突き上げられると、痛いのと気持ちの悪いのと奇妙な快感とで雅之は防ごうと思っても声が出てしまう。
「仕方ないな…。ちょっと我慢しろよ」
忠志はそう言うと、雅之の腰の下に手を差し入れて、無理やり起こしてしまう。
「や、いた……」
自分の体重で更に深々と含まされ、前の快感で忘れていた痛みが甦った。しかしその痛みも、忠志が動き、刺激することですぐに分からなくなってしまう。
忠志は雅之の唇を塞ぎ、溢れる声を吸い取った。
息が荒くなり、鼓動は速くなる。
「あっ…ああ……!」
忠志に吸い取られた喘ぎが高くなり、互いの呼吸が重なり合った頃、ほとんど同時に極みに達した。
グッタリとシーツに顔を埋める雅之は、指を動かす元気もない。
後ろから疲れきった雅之を抱き締めている忠志は、肩口にキスを繰り返しながら聞いた。
「どうだった?」
そう聞かれて、雅之は考えながらゆっくりと答える。
「痛くて、恥ずかしかった」
「………」
素直なその感想は、忠志の動きを止めさせる。何度も口づけていた肩を離し、心配そうな声で聞いてみた。
「その…もう二度と嫌か…?」
「嫌…じゃないけど……」
「けど…?」
問い返されて、雅之は眉を寄せる。
「……よく、分からない」
その答えに思わず忠志は苦笑していた。こんなことをしてみても、結局雅之は雅之だということである。どうやらこの優柔不断さは一生治りそうにもなかった。
「俺、今すぐにでもいいんだけどな」
その言葉が冗談ではない証拠に、雅之の足に当たる忠志は熱く高ぶっている。雅之は慌てて首を横に振った。
「じょ…冗談。今すぐなんて、絶対に無理だよ。まだちょっと疲れてて、何かが挟まってるみたいな気がするんだから」
「じゃあ、今すぐじゃなければいいわけだ」
「………」
雅之は自分が見事に引っかけられたことに気がついた。
「忠志って……」
「頭いいだろう?」
楽しそうに笑われるのに、雅之もそういつまでも苦い顔をしていられない。ついつられるように笑ってしまった。
「雅之……」
「何?」
「好きだぜ」
「………」
雅之は後ろを向くと、手を伸ばして忠志の唇に口づける。
「…僕も、好き……」
忠志は嬉しそうに微笑むと、雅之を抱き締める力を強くした。