霧の日にはラノンが視える4
著者 縞田理理/挿絵 ねぎししょうこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)〈地獄穴《じごくあな》〉
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)   あとがき[#地から2字上げ] 縞田理理
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霧の日にはラノンが視える4  目次
[#ここから2字下げ]
星の銀輪めぐる夜に
花の名は〈風〉
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
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[#改ページ]
星の銀輪めぐる夜に
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[#改ページ]
0――始まりのその前
あんたどこから来たのかい
ルララララ ミソサザイに訊《き》いてみろ
時の翼の石に乗り 七の七倍旅をして
星の光の輪のめぐる
(コーラス)
[#地から1字上げ] クリップフォード村の伝承歌
◆◆◆
樺《かば》の枯れ枝が風に揺れ、互いに触れ合って乾いた軽い音をたてた。西風は雨の兆《しら》せかも知れない。この寒さなら、或《ある》いは雪だろうか。
イザベル・マクラブは首を竦《すく》めて暗い森の木々を見上げた。〈樺の精〉の白い手に頭を撫《な》でられると気が狂う、という言い伝えがふと脳裏を掠《かす》める。夜が明け切るまで待てば良かった、と思う。けれど待てなかったのだ。今の時期、太陽が昇るのを待っていたら八時を過ぎてしまう。夜明け前に森の道を歩くのは別に初めてではなかったし、村で生まれ育ってこの森は自分の掌《てのひら》のように知り尽くした場所だ。なのに殊更《ことさら》に気味悪く思えるのは、年末の〈十二夜《じゅうにや》〉の時期だからかも知れない。
ここクリップフォードではクリスマスの翌日から顕現祭《エピファニー》までの〈十二夜〉の期間中には魔が地上を跋扈《ばっこ》すると信じられている。実際、この時期にはしばしば幽霊が目撃されていた。イザベル自身も少女の頃に幾度か〈十二夜の幽霊〉と呼び習わされるその怪異に出会ったことがある。〈十二夜の幽霊〉は形がはっきりしない透き通ったシーツのような白い影で、何も言わずただ静かに立っているだけだった。別段恐ろしくもなくて、むしろ見守られているような気がしたものだ。
良くも悪くもこの寂しい土地では不思議なものの存在は生活の中に深く入り込んでいるのだ。だから少しくらい奇妙なことが起きても実害さえなければ気にするほどのものでもなかった。
それなのに、この胸騒ぎは何だろう。この肌のざわつきは。
イザベルは懐中電灯を持ち替え、木立の間を照らした。もちろん、そこにあるのは木々の間を濃く流れていく朝霧だけだ。
急ごう。夫が起き出したとき、自分が家にいなかったら心配する。それに雪が来るなら農場の動物たちも心配だ。夫も子供も動物たちも、手がかかることは変わりがなかった。
イザベルは七人の子供たちの中で一番手がかかり、一番|愛《いと》しい末っ子をロンドンに行かせたことを今さらながら後悔していた。
親の欲目かも知れないが、ラムジーくらい素直で優しい子は世界中どこを探してもいないのではないかと思う。あの子に〈第七子の呪い〉の兆候《ちょうこう》が顕《あらわ》れ始めたとき、どれほど心配したことか。〈呪い〉に怯《おび》え、苦しむあの子を見ていられなかった。出来ることなら代わってやりたかった。
でもあの子は〈呪い〉を防ぐ手だてを見つけたという。アグネスの言うには、ジャック・ウィンタースという青年が村のタブーである〈時林檎《ときりんご》〉に呪いを防ぐ力があると見抜き、ラムジーに教えたのだという。
そんなことが信じられるだろうか。
昨夜《ゆうべ》アームストロング家の三女アグネスが思い詰めた顔でそのことを相談に来たとき、イザベルは信じられなかった。電話が通じないというだけでラムジーに悪いことが起きたに違いないと言うアグネスの心配は少し冷静さを欠いているように思えた。しかもそれが超自然の災《わざわ》いだというのだ。だがヘイミッシュは即座に信じ、彼女をロンドンに行かせた。アグネスの父のアンガスが知ったら大変なことになるのは目に見えているというのに。
恐らく、夫が信じたのはアグネスではなくジャック・ウィンタースなのだ。
ラムジーは氷河のような眼をしたあの青年を仔犬《こいぬ》のように慕《した》っている。そして夫もあの青年の言葉の裏付けがあったからこそラムジーの、そしてアグネスのロンドン行きを許したに違いないのだ。
物静かで礼儀正しいあの青年に何かしら特別なところがあるのはイザベルも認める。でも、だからといって家の三つ子たちと変わらないような歳の若者の言うことを鵜呑《うの》みにするなんて。あの若者はまっすぐで、だからこそ脆《もろ》い。母親の目で見ると、ラムジーよりも危なっかしいように思えるのだ。
それと、ロンドンにはラムジーの就職を世話してくれたレノックス・ファークハーという男がいる。悪い人ではないと思うが、どうも堅気《かたぎ》には見えなかった。両の腕にとぐろを巻くあの派手な刺青《いれずみ》はいわゆる若気《わかげ》の至りだったのだろうか。今は〈葬儀社〉の役員だというけれど、悪い仲間と付き合っていたりすることはないのか心配だった。
〈林檎の谷〉からオールドオーク・ファームへと戻る道すがらそんなことを考え、ふと目を上げたイザベルは奇妙なものを目にした。
ふわふわと火の玉が飛んでいるのだ。
鬼火《おにび》?
〈十二夜〉に鬼火を見ることは、ままある。けれど、こんなにたくさんの鬼火を見るのは生まれて初めてだった。無数と言っていいほどの光の玉がくるくると木々の間を飛び回っているのだ。鬼火は淡い黄色に輝き、高く低く木々の幹を照らし、降り積もった落ち葉に光の軌跡を描いている。
どこからともなく歌声が聞こえて来た。
[#ここから1字下げ]
おお、おお誰に我らを阻《はば》めよう……
[#ここで字下げ終わり]
イザベルは咄嗟《とっさ》に懐中電灯を消し、道端の大きな松の木の後ろに隠れた。歌声が近づいて来る。
[#ここから1字下げ]
旗印《はたじるし》 いと高くたなびき
猛《たけ》き者ども あまた集う
きらめく刃《やいば》もて 我らは行く
水の底 土の下 誰に我らを阻めよう
[#ここで字下げ終わり]
それは百人を越す大合唱だった。歌声は熱を帯び、地の底から響くように木々の梢《こずえ》を狂おしく震わせた。足音がざくざくと松の葉を踏み、巨大なワームのように途切れることなく蜒々《えんえん》とイザベルが隠れている松の木の前を通過して行く。
歌は美しかった。
高い声、低い声、それら一人一人の声が見事に溶け合い、和声をなして響き渡る。歌の各連《スタンザ》は四行からなり、リズムは単調で、歌詞にはリフレインが入る。それらの特徴はこの歌が古《こ》バラッドの形式に則《のつと》っていることを示していた。けれど数多くの伝承歌を知っているイザベルも全く初めて耳にする歌だった。
[#ここから1字下げ]
勝鬨《かちどき》をあげ 我らは行く
見よや 我らが旗印
幾万の丘を越え 我らは行く
空の上 波の下 誰に我らを阻めよう
[#ここで字下げ終わり]
松の木の前を行列が通り過ぎていく。
歌っているのは何者なのだろう。イザベルの中で恐怖と好奇がせめぎ合った。
こっそり覗くだけなら……。
短い葛藤《かっとう》ののち好奇心が勝利を収め、イザベルは木の陰からほんの少し顔を覗かせた。
鬼火の軌跡が宙に交差する。その光に照らされて歌いながら行進していく人々の姿が見える。ほとんど全てが男性で、着ている服はどことなく古めかしかった。じっと眺めているうちに奇妙なシルエットに気づいた。行列の中でひとつ頭が抜けている影がある。その頭が奇妙な格好《かっこう》なのだ。初めは、大きな帽子を被《かぶ》っているのかと思った。けれどその影が近づいてくるにつれ、それが帽子などでないことが判《わか》った。
猪《いのしし》だった。その男は、本物の猪の頭をしていた。
これは〈妖精行列《フェアリー・ライド》〉なんだわ……!
妖精たちは時として隊列を組み、盛大なパレードを行うという。それを〈妖精行列〉と呼ぶ。
イザベルは百十二歳まで息災《そくさい》だった曽祖母《そうそぼ》の教えを思い出した。
――〈妖精行列〉に出くわしたら決して邪魔をしたり、ついて行ったりしてはいけないよ。彼らの国に連れて行かれてしまうからね――
妖精の国に連れて行かれたら、何百年も帰って来られないのだという。
慌てて頭を引っ込め、十字架を握りしめて早口に祈りを唱《とな》えた。
マリア様、イエス様、お守り下さい。わたしを妖精たちの目から隠して下さい!
がさがさした松の樹皮《じゅひ》に背中をつけて身を縮《ちぢ》こめ、ひたすら待つうちに行列の最後尾が行き過ぎ、歌声も足音も遠くなって行った。それからさらに充分と思えるだけ待ってからイザベルは恐る恐る顔を出した。
鬼火も妖精たちも既に消えていた。
行ってしまったようだ。
溜め息をつき、寒さと緊張でガチガチに強張《こわば》った身体をほぐした。
本当に、〈十二夜〉には何があるか判らない。
彼らは何処《どこ》から来て何処へ行ったのだろうか。でも、考えても仕方のない事だわ。この国《スコットランド》では、妖精は大昔からただ存在しているのだから。
イザベルは妖精たちが姿を消した森の底を眺め、それから朝食の仕度《したく》をするために急ぎ足で家の方角に向かった。
◆◆◆
ランダル・エルガーは狼《おおかみ》の姿のラムジー・マクラブに伴《ともな》われてジャック・ウィンタースの〈惑《まど》わし〉の扉を通った。南ロンドンの一角にあるこの廃《はい》ビルは今やロンドンに住む〈妖精〉たちの最後の牙城《がじょう》だった。
「ジャック王子。遅くなりました……」
「いや。目的のものは?」
「ここに」
アタッシェケースは鎖《くさり》で手首に繋《つな》いである。
ランダルは鍵を外し、慎重に膝の上でケースを開いた。
中に入っているのは古い札束と上限なしのクレジットカードが数枚、それと小切手帳。だが、本当に価値があるのはそれらのものではなく、ジャムの瓶《びん》ほどの大きさの硝子《ガラス》瓶に収められた白い粉末だった。
脇から覗き込んだレノックスが呆れた声を出した。
「〈妖素《ようそ》〉か……! よくこんなに溜めこんだもんだ!」
「備えというのは必要のないときに蓄《たくわ》えておくものです」
「けど、それにしたってなあ……。こんだけありゃ、もっと皆に配分できたんじゃないか……」
レノックスは納得がいかない様子だ。彼の言い分は解《わか》る。同胞《どうほう》に少しでも多くの妖素を分け与えたいことはランダルも同じだ。だが、それは自己満足に他ならない。情けでは〈同盟〉は立ち行かないのだ。会員たちに何と思われようと、不測の事態に備えることが盟主の務めだった。
「非常時ですので同盟メンバーであるなしに拘《かか》わらず魔法が使える者全員に配ります。もちろん、半妖精にも同じだけの量を」
「ありがとう。助かるよ」
ジャック王子が言った。
「貴方《あなた》が礼を言う必要はありません。これは我々の闘いですから」
「僕ら全員の闘いだ」
彼は言い直した。ランダルは思わず頬が緩《ゆる》むのを感じた。
相変わらず、青いことだ。
彼自身のその青さが彼をラノンに居られなくしたのだ。だが今はむしろその若さ、一途な生硬《せいこう》さに希望を見出すべきなのかも知れない。
ランダルはこのメンバーで〈魔術者〉フィアカラに勝てると思うほど楽天家ではなかった。
だが同胞たちの命を諦めることも出来ない。
〈魔女〉シールシャがこちらについたことは確かに心強い。だが、フィアカラはシールシャの師匠であり、恋人だった。年若い魔女の心の弱さを知り尽くしている。
だから、欲するのは奇跡だった。奇跡を願うことは弱さではあるが、罪ではない。
それに、とランダルは考えた。もしかしたら本当に奇跡が起きるかも知れないではないか。
◆◆◆
ケリ・モーガンは父親が嫌いだった。嫌悪《けんお》と言ってもいい。第一世代の〈妖精〉である父は何も知らない母に魔法をかけ、騙《だま》して結婚したのだ。そして結婚後もずっと騙し続けている。自分にだけ秘密を打ち明けたのは、兄弟の中でケリ一人にだけ〈妖精〉の血が濃く表れたからだ。
その父が身勝手な理屈で〈魔術者〉フィアカラに従《したが》い、そのあげく命を落とすのなら勝手にすればいいと思った。電話で話したとき必死に止めたのに言うことを聞かなかったのだから自業自得《じごうじとく》だ。
僕が父を助けに行かなければならない理由なんてどこにあるんだ? そうだ、父は大人なんだから自分で招いた結果は自分で責任をとるのが当然じゃないか。
そこで思考は立ち止まる。
だったらなぜ自分は悩んでいるんだろう……?
ジャックに指摘されたせいだ。
〈グラマリー〉はどんなに長くても数日しかもたない――。
そうなのだ。〈口説《くど》き妖精〉である父が母に魅了《みりょう》の術〈グラマリー〉をかけたとしても魔力は長続きしない。なのに結婚二十四年になる両親は今でも恥ずかしいくらいベタベタなのだ。
母さんは、本当に父さんを愛しているんだろうか。なぜ? 金目当てに騙して結婚した男なのに。
母は資産家の娘だった。祖父は不動産業で財をなした人物で、一人娘だった母は相当額の遺産を相続した。それに対し、父は妖精郷ラノンを追放された流刑者《るけいしゃ》で、しかも妖精の中でもたちが悪い〈口説き妖精〉なのだ。相手を魅了し、意のままに操《あやつ》る魔法〈グラマリー〉を使う。色恋沙汰で傷害事件を起こして追放された父がこの世界に来たときには一文無しで、地位も身分も国籍さえも持っていなかった。父にとって、金持ちの深窓《しんそう》の令嬢だった母は格好の標的だった筈《はず》だ。
でも、だったらなぜ父はわざわざ結婚したんだろう?
財産を騙し取ることだって出来た筈だ。〈グラマリー〉にかかった相手は何でも唯々諾々《いいだくだく》と言うことを聞く。ケリ自身、受け継いだ力の大きさに怖くなるくらいだ。
ただし、魔力は短時間しか続かない。半妖精の自分の力では数時間がいいところだ。妖素がないこの世界では本物の〈口説き妖精〉の父でも術を永続させるなんて出来っこない。
だとしたら母はなぜ父を愛し続けたのか。
父を憎み始めてから一度も考慮しなかった考え――もしかしたら父も本当に母を愛しているのではないか――という考えが頭をよぎった。
そんなことがあるだろうか。
そもそも、〈口説き妖精〉に本当に誰かを愛せるのかどうかも判らなかった。
突然、本当に父が死んでしまうかも知れないということが現実感を帯《お》びて感じられた。父が死ぬということは、もう二度と会って話をすることも出来なくなるということなのだ。ケリは長いこと父とまともに話をしていなかったことに気づいた。
父は、答えを知っているのだろうか。
◆◆◆
レノックスは大きく伸びをした。腕も肩も痛みは全くない。足もだ。自分の足で立って歩くってのがこんなに気分の良いことだとは知らなかった。魔女シールシャの〈治癒《ちゆ》〉の魔法のお陰だ。
やっぱり魔女っていうのは大したもんだ。それに、なんたってシールシャは美人だしな――。
膝《ひざ》まで裂けてボロボロになったジーンズは近所の古着屋で手に入れた新しいのに穿《は》き替えた。少しばかり寸足《すんた》らずだが、昨日の有《あ》り様《さま》を考えれば贅沢《ぜいたく》は言えない。
ガブリエル犬《けん》の仔犬《こいぬ》の入った段ボールをかかえ、階段を駆け降りる。廃屋《はいおく》の前には〈フローリスト〉のバンが停まっていた。
「ギリー!」
車の後ろに段ボールを積み込む。
「こいつらをよろしく頼む。そろそろ骨付き肉を食わせなきゃならん時期だ。空を飛ばせるときは迷子が出ないように気をつけてくれ」
「大丈夫なんだよ。ガブリエル犬なら育てたことがあるんだよね……」
「そいつは好都合だ。白い奴はプランって言ってな、俺がとりあげたんだ。最後に孵化《ふか》したんで他の奴よりちっこい。兄弟犬に苛《いじ》められないように気をつけてやってくれ」
「分かってるよ、レノさん。それより、あんたも充分に気をつけて欲しいんだよね。女神の御恵みを」
「分かってるさ。女神の御恵みを!」
レノックスは〈|森の精《ギリードゥ》〉ギリーが生花店《せいかてん》のバンで潜伏《せんぷく》先の農場へ向かうのを見送った。
万一、自分たちが負けるようなことがあったら当分の間この世界の〈妖精〉はギリー一人になるということだ。もしラノンからまた追放者が来ても誰も何も教えてやれず、そいつはこのロンドンで途方に暮れるだろう。
だが、何故《なぜ》だか負けるような気がしなかった。〈魔術者〉フィアカラがどれほどの物だというんだ。こっちには〈魔女〉がいる。それにダナ王家の直系にして比類なき〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉の保持者、ジャック・ウィンタースもいるのだから。
レノックスはにやりと笑った。
あのカチカチの唐変木《とうへんぼく》は、いざというとき案外頼りになるのだ。
1――騙《だま》された妖精たち
不意に、ペパーミントみたいにひんやりと澄《す》んだ風が頬を撫《な》でた。
ラムジーは恐る恐る目を開けてみた。
頭上には松の枝が、足元には硬《かた》い地面がある。おずおずとレノックスを見上げた。赤毛の巨漢は、にやりと悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「チビすけ。初めてにしちゃ、上出来だ」
小鳥の囀《さえず》りが耳に響く。良い匂いのする松の木の枝。緑の苔《こけ》に覆《おお》われた倒木《とうぼく》。群れて生《は》える小さな茸《きのこ》。落ち葉に半《なか》ば埋《う》もれた松ぼっくりがスニーカーの下でばりんと砕《くだ》ける。
〈低き道〉から出たのだ。
ラムジーは半信半疑でぐるりと首をめぐらせた。ここはどうやら家の裏手の雑木林《ぞうきばやし》の中らしかった。こうしてみてもまだ信じられない。五分前までロンドンにいたのだ。すぐ後ろには森の木々の前に回転する真っ黒な穴のようなものが浮かんでいる。〈低き道〉の出口だ。
その真っ黒な穴から魔女シールシャとアグネスがいきなり森の空間へ跳び出してきた。
「ここがクリップフォードなの? 奇麗な森だわ……」
顔を輝かせて森を眺めるシールシャをアグネスはちょっぴり得意げに見守っていた。
「奇麗でしょ? クリップフォード村へようこそ! ここがあたしとラムジーの故郷なんだ」
「おまえが言った通り美しい土地ね。それに、少しラノンに似ているわ」
「確かに似ていますね」
何処《どこ》からともなくランダルの声がしたかと思うと、黒い影から抜け出すようにランダルとカウラグの姿が現れた。
「だから五百年前の追放者たちはここに住み着いたのでしょう」
「オイラ、こんなトコならずっと住んでもいいヤ!」
と、カウラグ。最後に、ジャックがエスコートするようにトマシーナの手を取って森の地面に跳び降りた。
「大丈夫かい? トマシーナ」
長い睫毛《まつげ》をぱちぱちさせてトマシーナが頷く。彼女がちっとも怖がっていないことにラムジーはちょっと驚いた。彼女から感じられる匂いは驚きだけ――遊園地の乗り物に乗った後のようなピリッとする驚きだけだった。
どうしてなんだろう。半妖精の自分だって初めて〈低き道〉を歩くのは怖かったのに。
ラムジーは仲間たちを数えた。ギリーは仔犬《こいぬ》たちを連れてサマセットに疎開《そかい》し、最後まで迷っていたケリは結局ロンドンに残ったので全部で八人だ。レノックス、アグネス、シールシャ、ランダル、カウラグ、ジャック、そして一行の中で只《ただ》ひとり人間のトマシーナ。
皆、硬い表情だ。ジャックがぐるりと一同を見渡した。
「一つだけこちらに有利なことがある。フィアカラは血の術が使えないということだ。彼はその都度《つど》外から妖素《ようそ》を補給しなければ魔法を使えない」
「奴はまだこちらに来て一年ほどだ。血の中にはまだたっぷり妖素が残っている筈《はず》……」
「来た当初から使えなかったのではないかと思う。理由はあとで説明するよ。今は連れ去られた者たちを探すことが先決《せんけつ》だ。ラムジー、どこか心当たりの場所は?」
「ううーん……思いつかないです。三百人も隠しておける場所なんて……。クリップフォードと言っても村より人が住んでない山地の方がずっと広いんです。森は山の向こうまで繋がってるし、岩山には誰も入ったことがないような洞窟《どうくつ》があるし……」
そのときどこか遠くで人声が聞こえたような気がしてラムジーはきょろきょろと辺りを見回した。洞窟の中で反響するようなくぐもった声だ。
「どうした? ラムジー」
「いま、誰かの声が……」
(……待ぁぁぁってぇ……)
今度ははっきりと聞こえた。声は小さく縮《ちぢ》んだ〈低き道〉の出口から聞こえてくる。
「ケリ……!?」
ラムジーは飛び上がり、咄嗟《とっさ》に消えかかった黒い穴に手を突っ込んだ。手は肘《ひじ》のあたりで止まり、それ以上どうやっても先に進まない。入った時と違って薄いゴムの膜《まく》があるみたいな奇妙にぐにゃぐにゃとした抵抗感がある。
「ラムジー、出口からは入れないぞ!」
「でも、確かにケリの声が!」
穴の中で何かが手を強く掴《つか》んだ感じがした。
何……? 重い……!
掴まれた手がそのままガクン、と真っ黒な穴に肩まで引き込まれた。顔が穴の入り口に押し付けられる。タールのような闇が鼻と口にぴったりと貼り付いて息が出来ない。
ラムジーは無我夢中で右腕を引き抜こうとした。粘りつく闇をじりじりと引き剥《は》がすように少しずつ腕が現れてくる。
ふっ、と抵抗が消え、穴が一気に広がった。そのまま思いっきり引っ張る。
次の瞬間、ぽん! と引き抜けるようにラムジーの手を握りしめたケリ・モーガンが穴から跳び出した。勢い余ってそのまま折り重なるようにごろごろ森の地面を転がる。
「……ラムジー?」
ケリはぽかんとした顔でラムジーを見上げた。慌てて起き上がってケリの上から身をどける。
「ケリ、良かった! 〈低き道〉で迷子になったら永遠に出られないって……」
「えっ、そうだったっけ? 夢中で忘れてた……。ありがとう、ホントに助かったよ」
レノックスが呆れたように地面に転がったままのケリをひっぱり起こした。
「おまえさん、全く無茶をするぜ。一人で〈低き道〉に入ったのか?」
「消えかかった穴を覗《のぞ》いたら、皆の後ろ姿が視《み》えたんです。連れて行ってくれますよね?」
「連れてくも何も、もう来ちまってるだろうが。足手纏《あしでまと》いにはなるなよ。俺はおまえさんのお守《も》りはしてられねえからな」
「判《わか》ってます。そのつもりですから」
ラムジーは嬉しくなった。どういう結果になるにしても何もしないでいたらケリはきっと後悔するだろうと思ったからだ。
「ケリ、やっぱりお父さんのこと心配なんだ」
「違うよ。僕があの人のことを嫌いなのは変わらない。でも、訊《き》いておきたいことがあるんだ。父が死んだら訊けなくなるからさ」
そうは言うけれど、ケリの息からは強い心労の匂いがした。本当はすごく気になっているのだ。でもケリが認めたくないみたいだから、今は言わないでおこうと思った。
〈魔術者〉フィアカラに騙《だま》されてクリップフォードに連れてこられた三百人の〈妖精〉たちの中にたぶんケリのお父さんもいる。フィアカラは〈妖精〉たちを皆殺しにして骨の中の〈妖素〉を採《と》るつもりなのだ。
ジャックがケリの背に手を置いて言った。
「ケリ。お父さんはきっと生きているよ」
「どうして判るんですか? 気休めなら……」
「いや。すぐ妖素を採るつもりならロンドンでやっている」
「そう……ですよね」
ケリがほーっと安堵の息を吐きだした。ジャックが視線を逸《そ》らす。その氷の色の瞳にいつもとは違う自信のなさを読んで、ラムジーは急に不安になった。
「ジャックさん……」
思わず情けない声が出る。ジャックがさっと振り返った。
真っ直ぐな眼が視線を捉える。
「ラムジー、すぐ変身出来るか? 匂いで探索して欲しいんだ」
途端に不安が消し飛んだ。大丈夫、いつも通りのジャックだ。
「はい! いつでも!」
ラムジーは跳び上がって返事をし、セーターを脱ぎ捨てた。ジャックが咳払いする。
「ラムジー。出来ればどこか茂《しげ》みの後ろとか……その、レディ方もいることだし……」
「ごめんなさい、忘れてました!」
顔が赤くなった。狼《おおかみ》になってしまえば服は要《い》らないけれど、服を脱いでから変身するまでは裸だということをすっかり忘れていた。母の手編みのセーターを抱《かか》え、野生のタイムの茂みに駆け込む。
「見ちゃダメですよぉ」
茂みの向こうを気にしながら大急ぎで服を脱ぎ、〈妖素〉の袋からほんの少し掌《てのひら》にあけてぺろりと舐《な》めた。瞬時に抑制が解けて変身が始まる。身体の奥底で白い光のような力が爆発し、膨《ふく》れ上《あ》がり、溢れ出していく。身体が無限に広がるような感覚と共に人間から狼への全過程は終了した。
うぉん!(もう、いいですよ)
「ラムジー、もう変身しちゃったんだ」
アグネスが茂みの陰からひょいと手を伸ばして頭を撫でた。いきなり頭を撫でるのは礼儀に反すると思ったけれど、アグネスが嬉しそうなので何だかこっちも嬉しくなった。アグネスはぐりぐり頭を撫で回し、それから散らばった服を畳《たた》んでタイムの枝にかけた。
その様子を見ながらランダルが言った。
「私は〈遠目《とおめ》〉〈遠耳《とおみみ》〉で捜します」
「では、わたしは風に訊くわ」
と、シールシャ。
「あたしは道案内する。この辺りのことなら、知らない場所はないんだから!」
アグネスが言うと、カウラグが負けじと跳びはねた。
「オイラ、魔法の気配があればすぐ判るヨ!」
「よし。手分けして捜そう。〈伝言精霊〉は盗み聞きされる恐れがあるからやたらと使わない方がいい。ここを起点にしよう。何か見つけたら〈低き道〉でここに戻る。何も見つからなくても一時間|毎《ごと》に戻って報告すること」
「ちょっと待て。それじゃ誰かが残ってなきゃまずい。誰が残るんだ?」
レノックスの問いにジャックが答える前にトマシーナがおずおずと手を挙げた。
「済まない、トマシーナ。また君を一人にすることになるが」
一行のうち唯一完全な〈人間〉のトマシーナ・キャメロンは小さく頷いた。彼女が相変わらず全然怖がっていないことをラムジーは不思議に思った。
◆◆◆
〈妖精〉たちは高らかに歌いながら森の中を行進した。
「もうすぐだな……!」
「ああ、あとちょっとで還《かえ》れるのさ!」
〈角足《スクウェア・フット》〉のジミイは猪《いのしし》の鼻をひくひくうごめかした。空気が旨《うま》かった。森の松の木が放つピリリとした香気《こうき》が清々《すがすが》しい。澄《す》み切った森の空気の中を歩いているとラノンに一歩ずつ近づいているのだという気持ちがひしひしと湧《わ》き上がってくる。すぐ後ろで幾人かの妖精たちがひそひそ囁《ささや》き合っていた。
「ラノンの何処に着くのかな。やっぱり地獄穴《じごくあな》のある王宮の近くかな」
「都はやばいぞ。戻ったことがバレて取《と》っ捕《つか》まったら元も子もない」
「なに、あっちじゃオレらは死んだことになってるんだ。役人どもが気づく前に都から出ちまえば捕まりっこないさ」
ジミイはそれを聞いて少し悲しくなった。ラノンに戻っても自分たちはお尋ね者なのだ。向こうに戻ったら都でぐずぐずしないで辺境地帯の山にでも逃げよう。山の暮らしは悪くないし、辺境では法の手も及ばないだろう。とにかく今はラノンに戻ることだけを考えよう。先のことは、戻ってから考えればいい。
それよりも気になるのは、友達のカウラグの姿が見えないことだった。〈カウラグ・スプライト〉という種族の妖精で、子供のように小さな身体と丸い雌牛《めうし》の耳を持っている。猪の頭を持ったスクウェア・フットと牛の耳を持ったカウラグ。ラノンにずっと住んでいたら決して友達になることはなかっただろう。けれど、この世界では種族の違いは大した問題ではなかった。ここではラノンから来た者は誰も彼も同じ〈妖精〉なのだ。カウラグはジミイの半分の大きさしかないが、話が上手くて楽しい奴だった。この世界に来てちょっとだけ良いことがあったとしたら、それはカウラグと友達になれたことだろう。
ラノンに還ってもずっと友達でいられたらいい。花の香りのするラノンのエールを飲んで、この世界の思い出話をするのだ。地下鉄や自動車や二階建てバス、テレビやラジオやジュークボックス。きっと楽しいだろう。ラノンの連中は、信じないに違いない。この世界ときたら、あんまりにもバカげているからだ。もう二度と見られないと思うとそういった人間の機械さえもちょっぴり懐《なつ》かしかった。カウラグはテレビが好きだった。あいつのためにテレビを一台持って還れたらいいのにな、と思った。けど、ラノンには電気がないから持って行っても駄目だろう。
そのカウラグだが、昨日の総会から会っていない。でも、きっと行列のどこかにいるのだと思った。あまりに人数が多いし、行進を乱すのは悪い気がしたのでジミイは仕方なく歌いながら流れに従って歩き続けた。
[#ここから1字下げ]
おお、おお、誰に我らを阻《はば》めよう!
[#ここで字下げ終わり]
ほんとに、還れるんだな……。
信じられない気がする。
つい昨日まで、ラノンへの帰還は不可能だと考えられていたのだ。だが〈魔術者〉フィアカラが現れて皆をラノンに還すと公約し、ほとんどの同盟員は熱狂的に彼を支持した。そしていま自分たちはフィアカラの一の配下となったデュアガーの指示で森を行進している。
森が終わりになり、明け前の薄紫に照《て》り映《は》える山の端が見えた。小さな尾根を越えると、眼下に山中の窪地《くぼち》のような小さな谷が広がる。
ジミイは息を呑《の》んだ。
流れる朝霧《あさぎり》に覆《おお》われて窪地は仄白《ほのじろ》い。その白くたゆたう霧の底に見事な環状列石《ストーンサークル》が並んでいた。細長い巨大な石が列を成《な》してそそり立ち、円と直線とが直角に交差している。
デュアガーが盛り土の縁《ふち》に立って行列を急《せ》き立てた。
「立ち止まるんじゃねえ! まっすぐ行け、輪の真ん中の石のとこだ! そうすりゃ、ラノンに還れる!」
行列の先頭は既にストーンサークルの中心に到達している。輪の中心には平石があり、その周りを十人ほどが囲んでいる。
次の瞬間、彼らの姿が掻《か》き消《け》すようにふっと見えなくなった。
歓声があがる。行列は形を失い、みな我先に窪地の底に向かって駆け降りた。平石の近くに辿り着いた者から次々に消えていく。
ジミイも我知らず駆け出していた。
本当だったのだ。還れるのだ。何処までも懐かしいラノンに――。
斜面を滑《すべ》り降り、そそり立つ巨石の輪の間を走り抜け、平石に駆け寄る。足元の地面が剛性《ごうせい》を失い、ぐらぐらと波のようにうねった。立っていられない。沸騰《ふっとう》する水のような大地がぱっくりと口を開いてジミイを呑み込んだ。
引き込まれる……!
その瞬間、ふっとこの道の行き先は本当にラノンなのだろうか、という考えが頭をよぎった。けれども悩んでいる余裕はなかった。抗《あらが》う間も無くジミイの身体は果てしない闇を落ち続けていく。
地獄穴に落とされた時とそっくりだ……!
そして突然にふわりと止まった。
ジミイはがたがた震えながら辺りを見回した。
ここはどこなのだろう? ラノンに着いたのだろうか? だが、そんな気はしなかった。ラノンに着いたのなら判るはずだ。ここはラノンではない。
あたりは薄暗かった。鬼火《おにび》がふわふわと漂《ただよ》ってきて土壁を照らす。すぐ脇に、小柄なプーカ族の顔があった。
「み……みんなここにいるのかな……」
ジミイはどうにか平静を装《よそお》った声を出した。大きな自分が震えているのを小さなプーカに悟《さと》られたくなかった。
「うん。みんないるよ」
プーカは答えた。ジミイは改めて辺りを見回した。
洞窟……地底の洞窟だ。随分と広い。人工の石の柱が土壁を支え、天井を木の根が覆っている。ストーンサークルの内側で消えた妖精たちは皆この洞窟の中にいるようだった。随分と広い洞窟のようだ。数人のドワーフと青帽子《ブルーキャップ》が土壁に取りついて熱心に土を掘っている。
「あれは何をしているのかな……」
「煙水晶《ケルンゴーム》さ。ここ、煙水晶がいっぱいなんだ。ラノンに持ってけばオレたち大金持ちだ」
「あんたは掘らないのかな」
プーカはニッと笑ってポケットからプラムの実ほどの煙水晶を引っ張り出して見せた。
「掘らなくても転がってたさ」
「すごいね。けど、そういうの、あまり見せない方がいいんじゃないかな」
プーカが慌てて煙水晶をポケットにしまい込むのを見てジミイは可笑《おか》しくなった。ラノンに還ることだけが望みだった筈なのに、目の前に宝石があればやはり目が行ってしまう。
「そ……それで、ここはどこなのかな」
「判んないよ。でも空気にちょっと妖素があるんだ。きっとラノンの近くなんだよ」
何だか変だと思った。ラノンは全く別の世界にあるのだ。なのに〈近い〉とか〈遠い〉とかあるのだろうか? それに近いから妖素がちょっとある、というのも納得がいかない。けれどプーカの説はかなりの説得力をもって妖精たちの間に浸透《しんとう》していた。彼らは互いの顔を見て頷き合った。
「ラノンは遠いからいっぺんに行くのは無理なんじゃないかな」
「だんだん近づいてるんだよ、きっと」
「あと一回か二回こんな具合に跳べば、きっとラノンに着くのさ」
そう言われるとそんな気もしてくる。
「そ……そうなのかな……」
「そうだよ。アレを見てみなよ」
プーカは洞窟の広がったところにある平石を指さした。その上に、小さな生き物がいる。生き物はシューッと刃物を擦《す》り合《あ》わせるような声を出し、ぽっ、と炎を吐いた。
「ドラゴン……?」
「そうだよ。ラノンの近くだって証拠さ」
ジミイの小指ほどの大きさだが、確かにトカゲではなくてドラゴンの形をしているのだ。だが、ラノンのドラゴンは赤ん坊でも小馬くらいの大きさで、こんな極小サイズのドラゴンなど見たことも聞いたこともなかった。ジミイは芋虫《いもむし》のようなドラゴンをつまみ上げて掌に乗せた。
ちっぽけなドラゴンが怒ったようにライターよりも小さな炎を吐く。
「ご……ごめんよ」
慌ててドラゴンを平石の上に戻した。炎はちっとも熱くなかった。
ドラゴンが小さな口をぱっくり開けて吠《ほ》える。
「ヂィブリャハァァァッ!」
それは追放者、という意味の古語に聞こえた。
「言葉が判るのかな……。おまえはどこから来たんだい?」
「ヂィブリャハァァァッ!」
どうやら判って言っているのではなさそうだった。あんまり小さいし、ラノンのドラゴンとは違うのかも知れない。
それでも、ドラゴンがいるということは吉兆《きっちょう》に思えた。本当にラノンの近くなのかも知れない。もともと、悪い事よりも良い事を信じたい方なのだ。そうなってくると、やはりカウラグが心配だった。はぐれたままではラノンで再会できないかも知れない。ジミイは洞窟の中を歩き回ってカウラグの姿を探した。
「なあ、カウラグを見なかったかな……」
「うんにゃ」
多くの者が煙水晶掘りに熱中している。だが小さなカウラグの姿はどこにもなかった。ジミイはだんだん心配になってきた。カウラグを置いてきてしまったのではないだろうか。もしもたった一人で異世界に取り残されたら、カウラグは生きていけないだろう。
戻って探そうか? ただ、いつここからラノンへ移動するのかをデュアガーたちに訊いておかなければ、と思った。出発に遅れて一人だけ置いてきぼりになるのは御免《ごめん》だった。ジミイはデュアガーか、その仲間のアンシーリー・コートの妖精を探すことにした。
「な……なあ、デュアガーを見なかったかな。スルーアは? ケァルプは?」
「さあ。知らねえよ」
誰に訊いてもそんな答えばかりである。
奇妙な気がした。
どうやら、新|盟主《めいしゅ》の配下となった〈アンシーリー・コート〉の妖精たちは一人も洞窟にいないのだ。〈アンシーリー・コート〉は毛嫌いされているから、いなくても誰も大して気にしてはいない。
だが、変だ。
ジミイは小さな目をしばたかせた。これから皆でラノンに還るなら、連中だって還る筈だ。
なぜ来ていないのだろう。
2――説明するのは難しいんだけど
あんたどこに行くんだい
ルララララ ミソサザイに訊《き》いてみろ
森の緑の故郷さ 七の七倍旅をして
星の銀の輪のめぐる
(コーラス)
[#地から1字上げ] クリップフォード村の伝承歌
◆◆◆
イザベルは家の中と外を行ったり来たりした。不安と苛立《いらだ》ちが胸を蝕《むしば》む。朝十時を回ったというのに、相変わらずロンドンのラムジーの勤め先の生花店《せいかてん》の電話は通じなかった。親会社の〈葬儀社〉の方も昨夜《ゆうべ》から自動応答サービスになったままだ。生花店はともかく、葬儀社の電話が半日以上不通というのは尋常《じんじょう》ではなかった。
アグネスの言った通り、きっとラムジーの身に何か悪いことが起きたのだ。小さなあの子が恐ろしい目に遭《あ》っているのではないかと思うと我が身が引き裂かれるようだった。
アグネスはもうとっくにロンドンに着いている筈《はず》だわ。なのに電話の一つも寄越《よこ》さないなんて、気の利《き》かない――。
ああ、それとも電話をしてこないのは悪い報《しら》せしかないからなのだろうか?
あの娘は良い娘さんだわ。ラムジーを心から好いて、心配していた。なのに昨夜はなぜ信じてやらなかったのか。自分もアグネスと一緒に行けば良かったのだ……。
「イザベル。少しは落ち着いたらどうだ」
ヘイミッシュが言った。
「どうして落ち着いていられるんですか。あの子に何かあったかも知れないのに!」
「だから様子を見てくるようアグネスをロンドンにやったんじゃないか。それにロンドンにはジャック・ウィンタースがいるしな」
「あの人だってまだ子供みたいなものじゃないですか。それにあたしたちはあの人の素性《すじょう》も何も知らないんですよ」
「素性を知れば信じられるというものでもないさ。とにかく、あの男は儂《わし》らよりはよく知っているよ。〈第七子の呪い〉というのが何で、どうして起きるのか」
「妖精の呪いなんでしょう? あたしたちの先祖が約束を守らなかったから……」
「いや。本当の所はそうじゃないらしい。あれは他所《よそ》の村の者がこの村のことをそう言った、というだけだ。セオドアが死ぬ前に散々《さんざん》調べたが、クリップフォードでは〈第七子の呪い〉の起源についての言い伝えは見つからなかったそうだ」
「妖精の呪いじゃなかったら何なんですか。この村は血が濃過ぎるなんて無責任なことを言う人の方を信じるんですか? あたしとあなたの血が近過ぎたから……」
陸の孤島だったクリップフォードでは、昔は縁組みは何らかの血縁関係にある者同士で行われるのが当たり前だった。イザベルとヘイミッシュもいとこ同士にあたる。でも、ラムジーを苦しめる〈呪い〉がそのせいだなんて思いたくなかった。
「どうなんですか、あなた……!」
ヘイミッシュは返事をせずに黙ったまま新聞を読み始め、イザベルは言い過ぎたことに気づいた。
「……少し、外を歩いてきます。アグネスから電話があったら出ておいて下さいな」
イザベルは家の裏の森を歩いた。
森には朝の光が射していた。踏み分け道は明るく、今朝方とはまるで違った場所のように見える。少し歩くと落ち着いてきた。〈妖精行列《フェアリー・ライド》〉を見たのはもしかしたら夢だったのかも知れない。昨夜から呪いだとか超自然の災《わざわ》いだとか、そんなことばかり考えていたからだわ。アグネスは夢見がちな年頃だからすぐに超自然の災いだなんて言い出したけれど、電話は偶然どちらも不通になっているだけなのかも知れない。
数十年前に樫《かし》の巨木が倒れたために森が開けて出来た小さな広場のような場所に足を向ける。少女の頃からそこはイザベルの秘密の場所だった。
「あら……」
木漏《こも》れ日《び》の射す広場には先客がいた。
お下げ髪の若い女性が樫の倒木《とうぼく》の上にちょこんと腰掛けている。その顔に見覚えがあるのに気づいた。二、三日前まで村に滞在していた観光客で、妖精騒動のときケーブルテレビのインタビューに答えていた女性だった。たしか名前はトマシーナ・キャメロンと云った筈だ。
あれも馬鹿馬鹿しい騒ぎだった。目撃したのが村の者だったら、誰もたいして気に留めなかっただろう。昔からこの村では怪異を見ることは珍しくなかった。でもクリップフォードの者がそれを口にしても近隣の村の人間は信じようとしなかった。怪異はクリップフォードの者にだけ姿を見せて他所者には見せないことが多いからだ。だからありもしないものを見るのは近親婚で血が濃いせいだと口さがないことを言う連中も出てくる。そんなこともあっていつしか村では他所者に幽霊や妖精の話をしない習いになっていた。
けれど今回はロンドンからの観光客が目撃者で、たまたま居合わせたケーブルテレビの観光案内番組のスタッフに訊かれるままに話したことで大騒ぎになってしまったのだ。その観光客がいま目の前にいるトマシーナ・キャメロンだった。アームストロング雑貨店のアンガスはこれが商売になると張り切っている。けれどイザベルは厭《いや》だと思った。そんなことになれば〈第七子の呪い〉のことも村の外に知られるようになるだろう。息子は家出するほど苦しんだのに、この上好奇の目で見られるなんて許せないと思った。
もちろん、この人に悪気があったのでないことは判っているのだけれど……。
イザベルは複雑な気持ちでトマシーナを見つめた。トマシーナ・キャメロンはお人形のような青い目できょとんとこちらを見つめている。イザベルは自分の態度が不作法だったことに気づいた。
「こんにちは、ミス・キャメロン。ロンドンにお帰りになったかと思っていましたわ」
彼女は返事をせず、その代わりに曖昧《あいまい》な笑みを浮かべただけだった。ふと、困るような質問ではないのになぜ答えないのだろうと不審に思った。
「宿はどちらに? マクドナルドさんのB&Bは引き払われたんでしょう?」
トマシーナ・キャメロンは無言で肩を竦《すく》めた。どちらとも取れる仕草だ。でも宿を引き払ったのははっきりしている。マクドナルド家では年末年始は宿の営業はしないのだ。
「〈干し草〉亭かしら?」
小さく首を振る。ノーだ。でも村には、この時期に休業しないB&Bはここと自分たち家族が経営するオールドオーク・ファームハウスの二軒しかない。
「では、宿はお決めになっていない?」
再び困ったような微笑。どうも様子がおかしい。もう一度注意深く彼女を眺めた。
コートを裏返しに着ている。
ザックはなく、荷物は傍《かたわ》らに置かれた手提《てさ》げのボストンバッグ一つ。そのうえコートの裾《すそ》から見えているのはフレアースカートにパンプスだった。この服装でキャンプ場に来たとは思えないし、第一、今の時期に軽装でのキャンプは自殺行為だった。
それにこの女性はさっきから一言も言葉を発していない。遠慮がちに笑みを浮かべたり、首を振ったりして意思を表明しようとしていることは確かだ。それなのに、まるで無言の行《ぎょう》を貫《つらぬ》くかのように沈黙を守っている。どう考えてもおかしかった。試しに矢継《やつ》ぎ早《ばや》に質問してみた。
「どなたかとご一緒なの?」
「お車は? キャンピングカーでいらしたのかしら?」
「今夜は他の町にお泊まりなの?」
無言のまま、全てにノーというジェスチャーが返って来る。
そんなことがあるだろうか。
イザベルは慎重に言葉を選んだ。
「ねえ、ミス・キャメロン。宜《よろ》しかったらうちにお泊まりになってはいかがかしら? すぐそこなの。うちのオールドオーク・ファームは年中無休なんですよ」
自殺志願ではないかと思ったのだ。挙動不審の若い女性が真冬にたった一人、それも軽装で森の中にいて、連れもなく、宿もなく、車もなく、荷物は手提げ鞄《かばん》一つ。他に理由が考えられなかった。
「お代はいつでもいいんですよ。とりあえず今夜お泊まりになる場所が必要でしょう?」
トマシーナは口を閉ざしたまま慌てたように首を振った。だが今の時期、夜の森は氷点下になる。どうあっても放って置く訳にはいかない。
「ね、何があったのか無かったのか知らないけれど、とにかくあたしと来て下さいな。暖炉《だんろ》とお茶と暖かいベッドがあるわ。ゆっくり眠れば気持ちも落ち着くというものよ」
トマシーナは相変わらず何も言おうとはしなかった。押し黙ったままただ左右に首を振るだけだ。
「ね、一緒に行きましょう。一人でこんな所に居てはいけないわ」
そっと彼女の腕を取ったイザベルは、倒木の横のタイムの茂《しげ》みにひっかかっている衣類に気づいた。彼女のものだろうか? 手を伸ばして厚い手編みのセーターをタイムの枝から取ったイザベルは、あっと思った。
あたしが編んだセーターじゃないの……!
それは紛《まぎ》れもなくラムジーが一度村に帰ってきたときに荷物の中に入れてやった手編みのセーターだった。
「これ……息子のだわ。どうしてここに?」
セーターだけでなく、衣類一式とそれに眼鏡まで揃《そろ》っていた。茂みの下にはスニーカーもある。
「どういうこと……あなた、息子を知っているの? 息子と一緒だったの?」
トマシーナ・キャメロンは目をぱちぱちさせ、それから手に持っていたリングノートに何事か走り書きした。
【ラムジー・マクラブ君のお母さん?】
「ええ、そうよ、あの子の母親よ! あの子はどこ?」
彼女は頷き、それから首を横に振った。肯定《こうてい》、否定? 再びノートに走り書きする。
【私には説明できません。事情が複雑なんです】
「いい加減にダンマリはやめて教えてちょうだい、あの子はどこ? 服を置いてどこに行ったの?」
彼女は無言のままただ悲しげに首を振った。
イザベルは自分の自制心が限界に達するのを感じた。
「事情ってなに!? 教えて! 息子は無事なの!? どうして服がここにあるの!?」
彼女の腕を掴んで揺さぶる。それでもトマシーナ・キャメロンはただ悲しげに首を振るばかりだ。怒りと混乱で頭の中が沸騰《ふっとう》しそうだった。
警察――この女を警察に連れていこう。それしかないわ――
そのときだった。イザベルが奇妙なものを目にしたのは。
黒い煤《すす》の塊《かたまり》のような小さな点が宙に浮かんでぐるぐる回っている。
手で目をこすった。目の中の塵芥《じんかい》ではないかと思ったのだ。けれど黒い点は一向に消える様子もなく、それどころか物理法則に逆らって宙に浮かんだまま伸び縮みしながらどんどん成長していく。
いったい何なの……これがアグネスの言っていた〈超自然の災い〉なのだろうか……?
見る間に禍々《まがまが》しい黒いものは人の背丈ほどにもなった。まるで空間にぽっかり口を開けた穴のように見える。その真っ黒な穴から、人間の腕がにょっきりと生《は》えた。
腕に続いてひょい、と少女の顔が現れる。
イザベルは上げかけた悲鳴を呑《の》み込んだ。
よく知った顔だった。
「……アグネス?」
金髪の毛先が宙に浮かんだ穴からさらさら零《こぼ》れる。
「あっ! イザベルおばさん……」
穴から顔を出したアグネス・アームストロングはギョッとしたように目を剥《む》いてイザベルを見つめ、一度顔を引っ込めてから勢いよく穴から跳び出して森の地面に着地した。
「こ……こんにちは、イザベルおばさん……」
「アグネス……あなたいったい……夜行バスでロンドンに行ったのでは……?」
昨夜家を訪れたときと同じ服装のアグネスはひきつった笑いを浮かべた。
「あうう、何て説明すればいいんだろ……ええと、その、今朝ロンドンに着いて……それで……とにかくラムジーは無事でした!」
「無事?」
声のトーンが上がるのが判《わか》る。
「電話はまだ不通だったわ。フローリストも葬儀社も。なのにどうして……」
宙に浮かぶ黒い穴に目をやる。
そんな問題ではない、のだ。
そのとき、黒い穴を突き抜けるようにしてアグネスより少し年嵩《としかさ》の少女が姿を現した。
「アグネス、その女は誰なの?」
「あ、シールシャ。この人はミセス・イザベル・マクラブ。ラムジーのお母さんよ」
「では、わたしたちの味方ということだわ」
少女が言った。外国|訛《なま》りが耳についた。
「はじめまして。ミセス・イザベル・マクラブ。わたしはシールシャ。〈風の魔女〉と呼ぶ者もいるけれど、その呼び方は好かないわ」
「は……はじめまして……」
ぼんやりと言ってしまってから眉を顰《ひそ》めた。
魔女、ですって?
禍々しい黒い穴と黒髪の少女を交互に眺める。短い黒髪に黒い瞳、猫に似たきつい眼差し。
かなり小柄でアグネスと並ぶと胸のあたりまでしかない。
「アグネス……あの穴が〈超自然の災い〉なの……?」
「あ、違います! これは〈低き道〉。あたしたち、これでロンドンから帰ってきたんです。ちょっと怖いけど便利なの! ラムジーも一緒に来たんだけど、いまちょっと別行動で……」
イザベルは思わずアグネスの腕を掴んだ。
「あの子と一緒だったのね! ラムジーは、あの子はどこ? 服を置いてどこに行ったの?」
「ええ……と、その、ちょっと探し物があって、ウィンタースさんと一緒なの……」
アグネスがそう言ったとき、再び空中に黒い点が現れた。黒い点はみるみる広がり、次の瞬間、赤毛の大男がその穴から跳び出して来た。
レノックス・ファークハーだった。
「嬢ちゃん、手掛かりは見つかったか? こっちは全然だ……あれ? ラムジーのお袋さんじゃねえか。まずいとこに出ちまったかな」
そう言う間にも次々に空気に穴が開き、中から人を吐き出していく。金髪を一つに結んで背に垂らした壮年の男性。緑の目の少年。鳥打《とりう》ち帽《ぼう》を被《かぶ》った小学生くらいの男の子。
最後に大きな銀色の犬を連れたジャック・ウィンタースが姿を現した。犬はイザベルを見ると嬉しそうに舌を垂らし、ぱたぱたと尾を左右に振った。
「いったいどうなっているの……あなたたちは何なの……?」
もう何がなんだか分からなかった。半《なか》ば喪心《そうしん》状態で穴から現れた一行をぼんやり数える。アグネスを含めて七人。けれど、その中にラムジーはいない。イザベルはジャック・ウィンタースに目を留めた。アグネスは、ラムジーは彼と一緒だと言ったのだ。
「ウィンタースさん……。ラムジーは? あの子と一緒じゃないの……? どうしてあの子の服がそこに……」
「ミセス・マクラブ。実は……」
ジャックが言いかけたとき、彼の足元にいた犬が銀の流れのようにするりと駆け寄って来た。甘えた声を出し、ふさふさした毛をイザベルの足にすりつける。
「ダメよ、あっちに戻りなさい……」
ゥウーン……。
激しく尾を振り、切れ長の茶色の瞳が見上げる。見たこともないほど見事な犬だった。背を覆《おお》う銀の毛並み、アイラインを引いたような目元、旗のような尾、すらりと長い脚。
犬は再び鼻を鳴らした。
ゥウーン……。
不意に、何かがひどく気になった。
イザベルは身をかがめて犬を見つめた。犬はハッハとピンクの舌を出し、口の端をにゅっと上げて楽しげに笑った。
嬉しそうな犬を見ているうちに、あることを思い出した。ずっと昔、まだとても幼かった頃、ラムジーはよく甘えた鼻声を出して自分を呼び、つぶらな茶色の瞳でじっと見上げたのだ。
澄んだ茶色の瞳が一途《いちず》に自分を見つめている。
幼かったラムジーと同じ瞳。
脱ぎ捨てられた服と靴に目をやる。
まさか。そんな……。
膝《ひざ》から力が抜け、ぺたりと地面にへたりこむ。
「…………ラムジー?」
◆◆◆
「つまりあんた達は妖精だ、と。そういうことなのかい」
「少し違う。あなた方が〈妖精〉と呼ぶものが僕ら〈ラノン人〉のことなんだ」
[#挿絵(img/Lunnainn4_051.jpg)入る]
ジャックの答えに、父は無言だった。
暖炉の火がぱちぱちと燃え上がって父の横顔を照らす。ラムジーは身の置き所がないような気がした。
こんなときって、いったいどんな顔をすればいいのか判らない。
母に見抜かれるとは思わなかった。でも、母は目の前の狼がラムジーだと気づいてしまったのだ。人間の姿に戻ると、母は小さかったときみたいにラムジーを抱きしめた。みんなの手前すごく恥ずかしかったけれど、そのままにしていた。母の手は冷たくて、すごく動転しているのが匂いで判ったからだ。
母はいま、押し黙って家の居間のソファの父の隣に寄り添って座っている。
ジャック達はそれに向かい合うように暖炉の前の宿泊客用のソファと安楽椅子《あんらくいす》にそれぞれ座っている。
一緒に家に来て、ジャックは自分たちが〈妖精〉であることを含めてすべての事情を説明した。ランダルは眉を顰めたが、もう諦《あきら》めたのか止めはしなかった。
父は腕組みをし、始めから終わりまで黙り込んで口を一文字に結んだままジャックの説明を聞いた。
ラムジーには父が何を考えているのか分からなかった。今では匂いや声音のほんの少しの手掛かりから人の感情が読み取れるようになったのに、それでも父の心を読み解くことは出来なかった。
ややあって、父がぼそりと言った。
「……それを、信じろと言うのかい?」
「信じてくれなくても構わない。ただ、協力して欲しいんだ。僕らは連れ去られた仲間を探している。今のところ手掛かりはこの村のどこか、ということだけなんだ」
「信じなくてもいい、か。そういや、前にも同じような事を言ったなあ。あれは、あんたがラムジーの〈第七子の呪い〉のことはもう心配しなくていい、と言ったときだったが」
父はどうしてか小さく笑った。
「なぜ儂らに話すんだね」
ジャックは即答した。
「あなた方が同胞《どうほう》だからだ。この村の祖先は五百年前にこの世界に渡ったラノン人なんだ。クリップフォードで生まれた者には僕らと同じ血が流れている。ラムジーやアグネスのようにそれぞれの種族の形質がはっきり顕《あらわ》れる場合もあるし、顕れない場合でも潜在的《せんざいてき》に因子《いんし》を持っているはずだ」
「儂にも、かね」
「間違いなく」
「やれやれ。儂は五十年以上生きているが、そんな途方もない話を聞くのは初めてだよ」
言葉を切り、ふっふと笑う。しかめっ面《つら》に刻《きざ》まれた皺《しわ》が溶けて笑みになる。
「ラムジーの〈呪い〉は妖精の血が濃いからということなのかね」
「いや。七番目だという方が大きいと思う。これは〈呪い〉ではなくて〈祝福〉なんだ。ラノンでも七番目は大きな力を授《さず》かると言われている。ラムジーの症状はその力が解放されず、内にこもったために起きたんだ」
そのとき、それまで一言も口を利《き》かずに座っていた母が突然すっ、と立ち上がった。
「やめて下さい! もう沢山《たくさん》だわ! あれを〈祝福〉だなんて! ラムジーはそのために苦しんだんですよ。可哀想《かわいそう》なセオドアはそのせいで自殺したんだわ」
「イザベル、よしなさい。〈呪い〉はこの人達のせいじゃないんだ」
「あなたは黙っていて下さい!」
止めに入った父を一喝《いっかつ》し、向かい側にいるジャックたちの顔をひとりずつ睨みつける。
「だいたい、あの子がウェアウルフだなんて信じないわ。本当は、あなた達が魔法で犬に変えたんじゃないんですか!? あの子は妖精の子なんかじゃない、普通の人間の子よ!」
いつも穏やかな母の信じられない激しさにラムジーはおろおろした。
「違うよ、お母さん! あの姿が本当のぼくなんだよ。〈妖素《ようそ》〉がなくて、あの姿になれなかったからぼくは苦しかったんだ。あの姿になれて、ぼくはすごく幸せだったんだ。それに、犬じゃなくて狼なんだよ」
「だからって、おまえは関係ないでしょう? 彼らが妖精だというのなら、妖精同士で勝手に争っていればいいんだわ!」
「お母さん! 無関係ではいられないんだよ。だって、ぼくたちは〈仲間〉なんだ。アグネスも、ケリも、ジャックさんも、レノックスさんも。三百人の仲間が捕《つか》まってて、命が危ないんだ。どうして放っておけるの? それに、フィアカラを止めなかったらこの村だってどうなるか判らないんだよ」
そのときアグネスが立ち上がり、狭いテーブルの隙間を無理やり通って母の側に回った。
「イザベルおばさん、聞いて下さい! ホントなんです。あたしもやっぱり先祖返りで、種族は〈巨人〉なの。それを聞いたとき最初はすっごくイヤだった。なんであたしだけ妖精じゃないの、って思った。けど、だんだん、それを含めて自分なんだって思うようになったんです。だって、それを否定したら自分の一部を否定することになっちゃうから。狼のときも人間のときもラムジーはラムジーなの。だから、ラムジーがウェアウルフだっていうことを否定しないであげて下さい! 否定したらラムジーの一部を否定することになっちゃうから。全部ラムジーなんだから! お願いです、イザベルおばさん……!」
なんだかひどく真剣で、いつもとは別人みたいだった。母は魂《たましい》が消えたような顔でじっとアグネスを見つめていた。その顔が泣き笑いに崩れる。
「アグネス……。あなた、良い子ね……」
「イザベルおばさん……」
「……でも、〈時林檎《ときりんご》〉はもうないわ。今朝早く見てきたの。アグネスの言った通りだった。実《み》はひとつも無かった。村の者は誰も摘《つ》まないのに……」
「だから、レミントン・コールがあたしたちの敵のフィアカラなの! あの男が盗《と》ったのよ! あいつをのさばらせておいたら、林檎はこれからも毎年奪われるわ!」
「アグネス。お父さんのアンガスはコール氏は話の分かるご仁《じん》だと言っていたが、見間違いってことはないのかね」
「ホントよ! 確かに見たんだから!」
そのとき皆の陰に隠れて小さくちょこんと座っていたトマシーナがノートに何か走り書きをしてさっと広げた。
【〈フィアカラ〉はワタリガラスの意味の〈フィハッチ〉から来た名。〈レミントン〉はワタリガラスの森から来た者、の意味】
「ほう……。なるほどな」
父が感心したように呟いた。ジャックやレノックスたちも驚いているのが判った。〈ガンキャノホ〉や妖精の人狼のことも知っていたし、トマシーナという人はやっぱりすごく博識なのだ。
「もし……もし、これから先ずっと〈時林檎〉が手に入らなかったら、あの子は、ラムジーはどうなるんですか……」
「他に〈妖素〉を手に入れる方法がなければ変身が阻害《そがい》されてまた発作が起きる」
「そんな……何とかならないんですか?」
「ミセス・マクラブ。僕が死んだら……」
言いかけたジャックを、ランダルが鋭い口調で遮《さえぎ》った。
「王子。その話はなさらないで下さい。仲間たちを救出して〈同盟〉を立て直すことが出来ればまた〈妖素〉の配給を再開できるのですから」
「そうよ、あたしも〈同盟〉に入るわ! そしたら、あたしの分の配給はラムジーに全部あげる! あたしは妖素がなくたって怪力が奮《ふる》えないだけだもん」
アグネスがそう言ったのでラムジーはちょっとびっくりした。でもアグネスはこれ以上背が伸びるのを厭《いや》がっているので、〈妖素〉に触れたくないのかも知れない。ケリがおずおずと口を開く。
「僕の分もラムジーに。でも、あの、僕は少しだけ自分用に取って置きたいんですが……」
「俺も分けてやれるよ。俺は妖素がなくたってやっていけるからな」
と、レノックス。
ランダルが悲しい顔で微笑んだ。
「うるわしい友情ですね。ですが、それも〈同盟〉が再建されれば、という仮定の話です。三百人の妖精がこの村のどこかに囚《とら》われています。彼らを助け出し、〈魔術者〉フィアカラを斃《たお》すことが出来なければ私たちにもマクラブ君にも未来はないのです」
「その妖精たちを助ければ、ラムジーも助かる……?」
母はぼんやりと顔をあげた。
「……あたし、今朝早く〈妖精行列〉を見たわ。何百人も、歌いながら歩いていた。〈十二夜《じゅうにや》〉の幻だと思ったけれど、行列の中に猪《いのしし》の頭の男が……」
「ジミイだ!」
カウラグが椅子から飛び上がった。
「そいつは〈角足《スクウェア・フット》〉のジミイだ! やっぱり皆と行っちまったんだ!」
半泣きで叫びながら鳥打ち帽をパッと脱ぎ捨てる。帽子に押し込まれていた牛の耳がぴょこんと飛び出した。
「……その耳……本物……?」
「そうだよウ……オイラ、カウラグだ。ジミイはオイラの一番の友達なんだよゥ……」
母は目を丸くしてカウラグを眺めている。
「それはどこですか、ミセス・マクラブ」
「〈林檎の谷〉の近くよ。行列は谷の方へ向かっていたわ……」
ジャックが立ち上がる。
「行こう」
「ぼく、変身して来ます!」
「ラムジー、おまえが行かなくたって……」
階段を駆け上がりかけたラムジーは母を振り返った。母は半分泣き顔で、怒りと混乱と悲しみの匂いがした。
どうしよう、と思った。どうしたらいいのか判らなかった。自分のせいで母さんを泣かせるなんて。
だけど、自分で決めなきゃいけないんだ。
ラムジーは階段の途中で深呼吸して、それからまっすぐ母の方を見た。
「ごめんなさい! でも、ぼくじゃなきゃ出来ないことがあるんだ、お母さん」
「ラムジー……」
父が母を抱き寄せる。
母の溜め息を、初めて聞くような気がした。
「……行ってらっしゃい。気をつけるんですよ」
父が小さく頷く。
「ひとつ、いい事を教えよう。そのレミントン・コールという男は今日の午後の村の集会に出席することになっている。大ストーンサークル復元の話をしに来るそうだ。アンガス達がえらく乗り気でね」
「ミスタ・マクラブ。僕らが行くまで彼を集会所に引き留めておいてもらえないだろうか。それと、村として彼の復元計画には協力しないで欲しい」
「難しいな。皆、観光事業に期待している」
「その男は非常に口がうまいが、彼の口車に乗った者はみな後悔することになるんだ。とにかく話し合いを引き延ばして欲しい。仲間を助け出したら僕らもすぐそちらに向かう」
「分かった。やれるだけやってみよう。それが息子のために儂が出来ることならな」
「感謝する。アグネスにはマクラブ氏の護衛を頼みたい。彼に同行してコール氏とフィアカラが本当に同一人物なのか確かめて欲しいんだ。それと君の父上を説得してくれないか」
「分かったわ。でも、説得の方は自信ない。うちの親父、頭悪いくせに頑固《がんこ》なんだから」
シールシャが素早く立ち上がってアグネスの側に回った。
「アグネス、あの男だと分かっても闘《たたか》おうとはしないで」
「うん、分かってるわ。大丈夫、無茶はしない。あんたが来るのを待つからさ」
「約束よ。万一の時にはこれを使って」
胸に下げていたペンダントを外し、背伸びしてアグネスの首にかける。モルト・ウィスキーの滴《しずく》のように褐色《かっしょく》に煌《きらめ》く煙水晶《ケルンゴーム》だ。
「使わないで済めば一番だけれど、おまえやラムジー・マクラブの父親に危害が加えられるようなことがあったらこの中の魔法を解放するといいわ。おまえたちを守ってくれるはずよ。起動状態で封じてあるからおまえにも使えるわ」
「ありがと! これ、すごい綺麗ね!」
アグネスはペンダントを掌《てのひら》の中で転がしながらニコッと笑ったけれど、本当はすごく緊張しているのが判った。アグネスはこの間、ロンドンでフィアカラに殺されそうになったのだ。
「アグネス、ぼくたち、出来るだけ早くそっちに行くから!」
「バカね、あたしなら平気よ! 余計な心配してないで、ささっと変身して来なさいよ!」
「あ……うん!」
アグネスの眦《まなじり》に涙が光って見えたのは、気のせいに違いないと思った。だって、アグネスはその時すごく嬉しそうだったのだ。
◆◆◆
「お腹がすいたよぅ」
洞窟《どうくつ》の薄闇の中でプーカが泣き言を言った。〈角足〉のジミイはポケットをさぐり、昨夜のパーティーの残りのグラハム・クラッカーをみつけた。
「食べるかい?」
プーカは礼を言って受け取ると端からちびちび囓《かじ》り始めた。
「あんたは、食わないの?」
「お……俺は、さっき食べたから」
本当は、この地下の洞窟に来てから何も口にしていない。けれど何となくそう言ってしまった。小さいプーカがちょっとカウラグに似ているからかも知れない。
ジミイは辺りを見回した。初めのうちは煙水晶掘りをしていた連中も草臥《くたび》れて洞窟の壁に沿って座り込んでいる。
「なあ、昼飯は出ないのかな」
「昼飯が出ないってことは、たぶん昼前に還《かえ》れるってことなのさ」
「じゃ、ラノンに還ったら最初に何を食うか、決めておいた方がいい」
「オレはワームのシチューが食いたいね」
「いや、飛びガエルのフライだよ」
「食い物より酒だよ。ラノンのエールさ。花の香りのする甘いエール!」
しばらくの間、空腹を忘れようとするように食べ物の話で場が盛り上がった。あれが食いたい、これが食いたいと好き勝手に言い合って、思いつく限りの食べ物が出尽くした。いくら話したって空腹という事実は変わらないのだ。
誰かがぽつりと言った。
「いつになったらラノンに還れるんだろ……」
「よせよ」
「だって……」
みな、不安に感じ始めている。だがそれをはっきりと口にすることをしないのだ。ラノンでは悪いことを口にすると現実になる、と広く信じられているからだ。ジミイは不安を紛《まぎ》らわそうと大きな声でいま何時ごろだろうね、と言ってみた。
「午前十一時四十三分ごろさ」
振り向くと、ハンサムな赤毛の妖精が地べたに座り込んで金鎖《きんぐさり》のついた懐中時計を眺めていた。ガンキャノホ族だ。
「いい時計だね」
「ああ」
覗き込むと、蓋《ふた》の裏に人間の女の写真があった。とりたてて美人ではないけれど笑顔が感じの良い人間だった。
「妻だよ。この時計は妻からの贈り物なんだ。それに彼女の写真を入れた。ラノンに持って還ろうと思ってね。電池じゃなくねじ巻き式だから大切に扱《あつか》えばずっと動く」
赤毛のガンキャノホは愛《いと》おしむように両手のひらの間でそっと時計を閉じた。
「二十四年連れ添った。三人の子供にも恵まれた。一緒に連れて行きたかったが、彼女は人間だし、ラノンの暮らしには馴染《なじ》めないだろう。私がラノンを忘れられなかったように、彼女は英国を忘れられないだろう。だから、置いてきたんだ」
ジミイは驚いた。ガンキャノホ族は容姿が美しいばかりか、相手を虜《とりこ》にする〈グラマリー〉の魔法を得意とするのだ。どんな女もよりどりみどりだろうに、地味な人間の女と二十四年も連れ添っただなんて。
そのとき、金髪を短く刈り込んだアンヌーン族が話に割り込んで来た。
「おまえさん、角足だね? さっきデュアガーを探しておいでだったね。どうしてなのかい?」
「あ……ここから戻るにはどうしたらいいのかと思ったんだけど……」
「戻る? 戻れやしないよ。わたしらは、もう試してみたのさ。ここでは〈低き道〉は開かないよ」
訳が判らなくてくらくらと目が回る気がした。
「どうして……」
「さあ、判りゃしないよ。判らないから忌々《いまいま》しいのさ」
アンヌーンは賢《かしこ》いことで知られている。そのアンヌーンに判らないことが自分に判るはずがない。
「あの、俺、ジミイ。あんたは?」
「わたしはアーロンだよ。プラント・アンヌーンのチーフさ。もっとも、こうなっちゃチーフなんて何の意味もないけどね」
アンヌーンは吐き捨てるように言い、赤毛のガンキャノホの方に目をやった。
「そこにいるのはシェイマス・モーガンだね? わたしは昨日、おまえさんの末の息子に会ったよ。〈本部〉でね。おまえさんを探していたよ」
ガンキャノホは座り込んだまま答えた。
「ああ……。知っていたが、避けていた。話をしたら決意が鈍《にぶ》ると思ったんだ」
ぼんやりと時計を撫《な》でる。
「難しい年頃でね。私のすることがいちいち気に入らないらしい。あと何年かしてケリがもっと大人になったら腹を割って話せる日も来たかも知れないが……。そんな日はもう永遠に来ないわけだな。ラノンに還るとしても、ここで死ぬにしても」
あっ、と思った。今まで誰も口に出来なかったことを、このシェイマスというガンキャノホは口にしたのだ。
「あの、そんなこと、言っちゃいけないんじゃないかな……」
ジミイはおろおろと言った。だがシェイマスはおかまいなしに続けた。
「言おうと言うまいと結果は同じさ。なあ、アーロン。あんたとは長いつき合いだ。正直に言って、ここからラノンに還れると思うかい?」
アンヌーンは眉を顰めて考え込んだ。
「還れる、と言いたいところだけどね。十中八九、わたしらは騙《だま》されたんだと思うよ」
「な……なんで?」
ジミイは今にも泣き出しそうな気持ちだった。嘘でも還れると信じていたかった。
「考えてもご覧《らん》。新|盟主《めいしゅ》が見せた〈ラノンへの道〉の証拠は、ロンドンのものだった。それがどうしてこんなに遠い所にまで来なきゃならなかったのか、何も説明がない。みな舞い上がって一晩中飲み明かして、そのままの勢いでここに来た。というか、うかうかと連れてこられたんだよ。アンシーリー・コートの連中にね。そして連中は一人も来てやしないのさ」
「あ……」
言われてみれば簡単なことだ。アンヌーンはやっぱり頭がいい。でも、そのアンヌーンも新盟主には騙されてしまったのだ。
「ね、ねえ。なんとかして、ここから出ることは出来ないのかな……」
「〈低き道〉は開かなかったしねえ。正直言って、ここにどうやって来たのかも判らないよ」
「そんな……」
ジミイはどうしていいか判らなかった。ふらふらとさっきの平石の方に向かう。あの芋虫《いもむし》のような小さなドラゴンを眺めて少しでも不安を忘れようと思ったのだ。
シューッ、というドラゴンの唸《うな》り声がする。なのに、姿が見えない。目を凝《こ》らして懸命に石の上を探したジミイはあっと叫んだ。
ドラゴンは豆粒ほどの大きさに縮んでいた。
豆粒のようなドラゴンはもう一度小さく唸り、それからぱちんと弾《はじ》けて宙に消えた。ジミイは茫然《ぼうぜん》と消えたドラゴンがいた辺りを目で追った。影も形もない。
こんなことって……。
涙が出そうだった。最後の希望が消えてしまったような気がした。
自分たちはなんて馬鹿だったんだろう。新盟主の言うことを真に受けて、ラノンに還れると信じて……。
そのとき、何やら香ばしい匂いが洞窟の中を漂ってきた。ジミイは猪の鼻をひくつかせた。魚を焼くような匂いだ。
吸い寄せられるように匂いの方へと足を運んだジミイはその正体を見てがっかりした。小さな焚《た》き火《び》を囲んで料理をしているのは身長一フィートに満たない数人のポーチュン族で、焼いているのは彼らに見合ったサイズのちっぽけな蛙《かえる》だった。ポーチュンは、蛙が大好物なのだ。
「や……やあ。旨《うま》そうだね」
「こんにちは、〈角足〉さん」
ポーチュンの一人が礼儀正しく挨拶《あいさつ》した。
「一緒に食べますか?」
「いや、匂いだけでいいよ。俺には小さ過ぎるもの」
「そうですか」
こんがりと焼き目のついた蛙をひっくり返す。後ろからアンヌーンが覗き込む。
「おや、蛙かい。ポーチュンは蛙が好きだからねえ」
それから、ふと眉を顰めた。
「どうしてこんな地下に蛙がいたんだい……?」
3――〈十二夜《じゅうにや》〉の幽霊
あんた何が欲しいんだい
ルララララ ミソサザイに訊《き》いてみろ
世界にあるもの全てさ 七の七倍旅をして
銀の光の輪のめぐる
[#地から1字上げ] クリップフォード村の伝承歌
◆◆◆
夫が村の集会所である公民館に出掛けると、イザベルはトマシーナ・キャメロンと二人居間に取り残された。こんな時に限って三つ子たちは家にいないのだ。〈六人の三つ子〉たちはそれぞれ朝早くから所用で近隣の町に出掛けていて、夕食どきまで戻らない予定だ。
トマシーナはさっきからずっとリングノートに何かを書き綴《つづ》っていた。
「何を書いているの?」
ペンが素早く動いてノートの別のページに書きつける。
【魔法をかけられたとき、何を喋《しゃべ》ったのかあまり多くて忘れてしまった。だから書いて全部思い出したい】
「そう……」
彼女は話すことができない。数日前までは確かに普通に話していたのに、今は全く声が出ないのだ。レミントン・コールと名乗る魔術師が彼女に切れ目なく話し続ける魔法をかけ、それを抑《おさ》えるためにジャック・ウィンタースが声を封じたのだという。
何の落ち度もなく妖精たちの争いに巻き込まれて声を失ったこの女性にきつい言葉を浴びせたことをイザベルは恥ずかしく思った。
「何かして欲しいことはない?」
彼女はちょっと考えてからノートに書きつけた。
【大ストーンサークルのことを教えて下さい】
「え、ええ。いいわ。クリップフォードのストーンサークルは、かつては二つあったの。小さいのは〈林檎《りんご》の谷〉に。大きいのは山裾《やますそ》を横断《おうだん》して村全体を取り囲んでいた巨大なサークルよ。直径が十マイルあったというわ」
【なくなったのはなぜ?】
「石よ。山から石を切り出すよりは、そこに立っている石を砕《くだ》く方が簡単でしょう。それで昔の人たちはストーンサークルを採石場《さいせきじょう》代わりにしていたの。石の使い道は家畜囲いの石垣が多いけれど、建物にも使われているわね。小さい方のサークルは村のタブーで誰も手を出さなかったから完全な形で残ったのだけれど、大きい方のサークル石は今では数えるほどしか残っていない筈《はず》よ」
【林檎の谷のサークルだけがタブーだった? 由来が違う?】
「そうかも知れないわ。調べに来た学者が年代が違うと言ったの。大サークルは新石器時代にまで遡《さかのぼ》るけれど、林檎の谷のサークルはもっとずっと新しい中世のものだって。わたしたちは腹を立てたのだけれど、五百年前のものだとしたら随分新しいわけだわ」
【私、もう一度博物館へ行きたい】
「あら。あそこはもう年内は営業しないんだけど……」
【あの石をもう一度見たい。何か見落としがあるかも知れない。ウィンタースさんたちにあのときのこと全部を教えたい】
一瞬の迷いののち、イザベルは結論に達した。息子も夫も自分に出来ることをしようとしている。自分にだって何か出来ることがあるのではないか。
「いいわ。博物館は公民館の建物を仕切って使っているだけだから、歌の練習用に借りている鍵で開けられるはずよ」
【ありがとうございます!】
トマシーナはコートを裏返しに羽織《はお》った。
「裏返しよ」
彼女は判っている、というように頷いた。イザベルは上着を裏返しに着ていると妖精の〈惑《まど》わし〉を見破ることが出来るという言い伝えを思い出し、自分も裏返して着た。
「行きましょう」
イザベルはピックアップトラックを公民館の裏手に乗りつけた。預かっている合い鍵の束《たば》を使って裏口のドアを開ける。ふと、いまごろ正面の側の集会場では大ストーンサークル復元に関する話し合いが始まる頃だと思った。夫とアグネスは既にそちらに行っている。
「怖くない? レミントン・コールが来ているかも知れないわ」
トマシーナはほんのちょっと首を振った。怖くない、と言っているのだろうか。
急にぞくっと二の腕に鳥肌が立った。でもそれは畏《おそ》れと言うよりもわくわくと浮き立つような、言ってみればプレゼントの箱を開けるのを待つような感覚だった。イザベルはまるで少女の頃に戻ったような不思議な気分で暗い廊下を小走りに博物館へと向かった。再び合い鍵の一つで〈クリップフォード民俗博物館〉の職員用出入り口のドアを開ける。
休日の博物館は水底のように静まり返っていた。暗い中、手探りで蛍光灯《けいこうとう》のスイッチに手を伸ばしたとき、何か白っぽい物がすーっと目の前を通り過ぎた。
「きゃっ……」
イザベルは小さく悲鳴をあげ、慌てて口を手で押さえた。声が出ないトマシーナも口に手を当てている。目の前でシーツに似た白い影がゆらゆらと揺れ、すうっと漂《ただよ》うように展示室に入っていった。
〈十二夜《じゅうにや》〉の幽霊だ。
「……大丈夫、あれは〈十二夜の幽霊〉よ。何も害はないから。大昔からずっとこの村に居るのよ。この時期にはよく出るの」
トマシーナは眼を丸くしている。イザベルは、村の外の人間から見るとクリップフォードの者の怪異に対する態度は奇異に見えるのだと改めて気がついた。思えばクリップフォードには昔から不思議が多かったのだ。村の者がみな〈妖精〉の子孫だというのなら頷ける話だけれど。
「急ぎましょう」
展示品は、日なたと黴《かび》の匂いがする。最初の部屋に展示されているのは村の昔の生活を伝える品々で、イザベルが子供の頃にはまだ使われていたバター攪拌機《かくはんき》や、荷馬車や、梳毛《すきげ》を毛糸に紡《つむ》ぐ輪回し式の糸紡機《いとつむぎき》や、紡いだ糸をタータンに織り上げる足踏み織り機などだ。
次の部屋は村の周辺で発掘されたさまざまな古代の遺物のブースだ。この部屋には燧石《フリント》の矢じりや錆《さ》びた鉄剣、銅の兜《かぶと》、鹿の骨のヘアピン、素朴な素焼きの壺《つぼ》などが簡単な説明パネルと共に展示されていた。
それらの中でも特に人気があるのは〈クリップフォードの謎〉と綽名《あだな》される金属製の腕の形代《かたしろ》だった。数千年前の地層から発見されたこの腕は、金属が腐食《ふしょく》していないことから異星人の遺物だと言う人もいた。地元考古学者の見解ではアイルランド神話の隻腕《せきわん》の神〈銀の手のヌァザ〉の銀の腕を象《かたど》ったものだという。でもアイルランドの神がなぜ古代スコットランドで祀《まつ》られていたのかは分かっておらず、結局のところ謎のままだった。
オックスフォードから返還された〈顎門《あぎと》の滴《したた》り〉石に似た平石はそれら雑多な第二展示室の古代の遺物に混じって無造作に展示されていた。石はディナーテーブルほどの大きさで、磨《みが》かれたように平らな表面に水紋《すいもん》のような線刻《せんこく》が細かに彫《ほ》られている。
ここで一体何があったのだろう。彼女は妖精の国を視《み》たと言い、居合わせた他の者は彼女の姿が短時間見えなくなったと言う。双方の証言を突き合わせると、トマシーナは短時間だけ妖精の国――ジャック・ウィンタースらによれば〈ラノン〉――に行って帰って来たことになる。
イザベルは息をするのも忘れてじっと彼女を見守った。
また、同じ事が起きるのだろうか?
トマシーナと幽霊はゆっくりと石の周りを一回りした。
何も起こらない。
そのとき、〈十二夜の幽霊〉がトマシーナの鞄《かばん》に触れた。どことなく物言いたげな様子だった。彼女はハッとしたように顔をあげ、鞄からウォークマンを取り出した。カセットテープを入れる旧式のものだ。
「それがどうかしたの?」
彼女はウォークマンのカバーを開けて見せた。驚いたことに、中身は〈クリップフォード混声合唱団〉による民謡カセットだった。
「まあ。懐かしいわ……」
もう十年も前に合唱団で吹き込んで博物館の売店に置いてもらっていたものだ。もちろんほとんど売れなかったのだが、トマシーナは店|晒《さら》しになっていたそれを買ったらしい。彼女は巻き戻しボタンを押し、一曲目の頭を出してイザベルに手渡した。最初に入っている曲はイザベル自身の歌唱によるクリップフォード民謡〈星の銀輪めぐる夜に〉だ。イヤホンから自分の声が流れてくると気恥ずかしかった。耳を傾けながらその一節を口ずさむ。
[#ここから1字下げ]
輪になって踊るよ
ルリルラ ララルラ
〈果てしなき望みの石たち〉が
星の銀輪めぐる夜に
[#ここで字下げ終わり]
迸《ほとばし》る光が、二人の身体を包んだ。
◆◆◆
再び狼《おおかみ》に変身したラムジーは〈低き道〉から森の中へと勢いよく跳び出した。陽《ひ》は中天《ちゅうてん》にあり、冬枯れの森には薄日が射してひんやりと明るい。
うまい具合に母が〈妖精行列《フェアリー・ライド》〉を目撃した場所に出たらしく、すぐに覚えのある匂いが鼻腔《びこう》の奥をくすぐった。お酒とご馳走《ちそう》の強烈な匂い、昨日〈同盟〉で追っかけられた時の妖精たちが放っていたのと同じ匂いだ。匂いはある地点から唐突に始まり、紛《まぎ》れもない濃さで〈林檎の谷〉の方へ向かっている。妖精たちは〈低き道〉で出現して、ここから歩き始めたのだ。
うぉん!(こっちです!)
「おっ、見つけたかチビすけ!」
アグネスが別行動になり、トマシーナはオールドオーク・ファームに預けたので残る一行は六人だ。ラムジーは地面に鼻を近づけて下草の匂いを嗅《か》ぎながら森の踏み分け道をずんずんと歩いた。臭跡《しゅうせき》はほとんど目に見えるくらいはっきりと続き、森を抜け、なだらかな山の稜線《りょうせん》を登っていく。
この道の行く先は……〈林檎の谷〉だ!
斜面を駆け上がって一際《ひときわ》盛り上がった大地の縁《へり》に立つと、眼下に広く開けた〈林檎の谷〉が見えた。楕円形《だえんけい》の窪地《くぼち》にそそり立つ巨石群《きょせきぐん》。その間を縫《ぬ》うように匂いの道は窪地の中心部に向かって伸びている。
ジャックたちが追いついて来た。
「〈林檎の谷〉か……」
皆は窪地の縁から〈林檎の谷〉を見下ろした。初めてこの巨石群を見るケリとカウラグが感嘆の声を漏《も》らした。
「まるでラノンみたいだヨ……」
「このストーンサークルを造ったのは追放ラノン人だからね。巨石には罠《わな》が封じられている。くれぐれも窪地の中で魔法を使わないように。魔法を使えば罠が作動するんだ」
「分かってるって。行こうぜ」
レノックスの返事を皮切りに一斉に斜面を駆け降りる。ラムジーは皆の先頭に立って巨石の林立する窪地を走った。〈歩哨《ほしょう》〉石、〈祈りの手〉石、〈聞き耳〉石……。そんな名をつけられた巨石の一つ一つが恐ろしい罠なのだ。横目で石をちらちらと眺めながら窪地を走り抜け、まっすぐにストーンサークルの内側に走り込む。〈詠唱者《えいしょうしゃ》〉と呼ばれるこのリングの内側だけは石の罠の空白域になっているので安全だ。リングの真ん中には〈顎門の滴り〉石がある。匂いの道はそこで突然終わっていた。石の周りを走り回って匂いを嗅ぐ。匂いはここから先、どこにも通じていない。ここが終点なのだ。
ウォウウォウ!
(ここです、ここで消えてます!)
「ラムジー、皆はこの地下か」
ジャックが理解してくれたので嬉しくなって尻尾《しっぽ》がぱたぱたと躍《おど》り出す。魔女シールシャが不審顔で尋ねた。
「地下、とはどういうことなの?」
「この地下深くに〈共感〉で繋《つな》がった洞窟《どうくつ》があるんだ。恐らく彼らはその中だろう」
ジャックは石を見下ろし、眉を顰《ひそ》めた。
「ラムジー、レノックス。石の文様《もんよう》が変わっていないか?」
えっ、と思った。言われてみると、確かに石の表面に彫られた水紋のような線刻が以前に見たときと違うような気がする。
ケリが石を縦に走る一直線の線刻を指でなぞった。
「この線じゃないですか? 真新しい傷みたいだ。ごく最近彫られたんだと思います」
「おい、どういうことなんだ? ジャック」
「レノックス。この罠にかかった時のことを覚えているだろう? 地下にある石とこの石は瓜二《うりふた》つだった。〈共感〉はそっくりなもの同士の間で働く。文様が変わったということは、〈共感〉が働かないということだ」
「じゃ、どうやって皆を助けるんだ?」
「あのときの手段はもう使えない。他の方法を考えなければ」
「〈低き道〉は開けないんですか?」
と、ケリ。
「ダメだと思うヨ……」
カウラグがリングの内側の芝草《しばくさ》の上に膝《ひざ》をついた。小さな掌《てのひら》で地面を叩く。
「石だけじゃないヨ、この地面にも強い魔法が掛けられてる……! オイラには匂いで判《わか》るんだ、このサークルの内側の地面全体が〈障壁《しょうへき》〉で覆《おお》われてるヨ! その石の〈共感〉が〈障壁〉と一緒にセットされてたんだったら通れるけど、それ以外では無理だヨ!」
ケリがさっと振り返る。
「そうなんですか? ウィンタースさん……」
「ああ。カウラグが正しい。石に掛けられた〈共感〉は罠が仕掛けられた当初からのものだ。だから〈障壁〉があっても例外的に作動するんだ」
カウラグはワッと泣き伏した。
「ああ、ジミイはもう死んじまったのかも知れない! オイラのこと恨みながら……」
「縁起《えんぎ》でもないことを言わないで下さい! まだ死んだって決まったわけじゃない……」
ケリは目を怒らせてカウラグを睨《にら》んでいる。ケリの父もたぶん地下にいるのだ。
「あ……ごめんよォ……オイラ、気が回らなくて……」
シールシャはさっきから両手で腕を抱いてストーンサークルの内側をぐるぐる歩き回っていた。〈顎門の滴り〉石の側《そば》で足を止め、ゆっくりと手を触れる。
「確かに〈障壁〉と〈共感〉が使われているわね。でも、洞窟がこの真下だというのなら直接穴を掘ってはどうなの? 地面に穴を開けるくらい、わたしは簡単に出来るわ」
「本当ですか? だったらそうして下さい、シールシャさん!」
ケリがすがるように叫ぶ。
「お願いします! 今すぐに!」
「ええ、分かったわ。ジャック・ウィンタース。それでいいわね?」
「いや。ちょっと待って欲しい」
ジャックは少し考え込んだ。
「僕は一度この罠に落ちたことがある。罠は地下の霊廟《れいびょう》を守るためのもので、地下空間は不自然に大きかった。魔法で支えられているのだとすると、下手にいじれば一気に洞窟全体が崩れる仕掛けかも知れない」
「その可能性は充分にありますね。この村の追放者たちは遺骨《いこつ》を奪われることを何よりも恐れたはず。骨を奪われるくらいなら霊廟を埋めてしまおうと考えるのが自然でしょう」
ランダルが言った。
「じゃあ、いったいどうしたらいいんですか……?」
ケリの声はほとんど悲鳴に近かった。
不安や焦燥《しょうそう》、形のない怒り、後悔、それら全てがごちゃまぜになった強い匂いを感じてラムジーは胸が痛くなった。ケリが涙を堪《こら》えているのが判る。思わず後足《あとあし》で立ち上がってケリの顔を舐《な》め、すりすりと毛皮をすりつけた。
「ありがとう……ラムジー……」
撫《な》でる手にも力がない。絶対助けなければ、と思った。ケリのお父さんだけじゃない。同盟の仲間たちみんなを。
「ケリ。落ち着いて。まだ諦めるのは早過ぎる。他の方法を考えよう」
ジャックがそう言ったとき、レノックスが奇妙な声を発した。
「うぉっ?」
見事な赤毛の上に、鮮《あざ》やかな緑色の蛙《かえる》が乗っている。レノックスは蛙をむんずと掴《つか》んだ。
「どうなってんだ、こりゃ。だいたい、いまどき蛙は冬眠中だろうが……」
そう言った途端、再び蛙が上から落ちてきてレノックスの頭に貼り付いた。
蛙は何もない空の一点から突然現れ、レノックスの上にぼとぼと降り注ぐ。
げこっ!
「うおぉっ、こんなことをするのは……ポーチュン族か!?」
◆◆◆
ジミイはしゃがみこんでプーカを肩車し、それからポーチュンの一人をそっと両手で抱き上げた。ポーチュンはするするとジミイの背を伝ってプーカの頭によじ登る。ジミイ、プーカ、ポーチュンの三段重ねである。
「だ……大丈夫かな……」
「はい。大丈夫です」
「じ、じゃあ、落ちないようにしっかり掴まって……」
ジミイはそろそろと慎重に立ち上がった。鬼火《おにび》の光を受けて洞窟の壁に映る三人の影はまるで一つの巨大な怪物だ。
「しっかり見つけておくれよ」
アンヌーンが言った。周囲には腹を空かせ、待ち草臥《くたび》れた妖精たちが十重二十重《とえはたえ》に取り囲んでいる。もうラノンに還《かえ》れる、という甘い夢を見ている者はいなかった。嫌々ながらも騙《だま》されたということを認めざるを得なくなったのだ。そうすると今度は新|盟主《めいしゅ》が〈灰のルール〉を燃やしたことの意味を考えるようになる。そこから導き出される結論は、空恐ろしかった。
「おまえさんたちが〈低き道〉で蛙を引き寄せられたのなら、ここを覆っている〈障壁〉のどこかに亀裂《きれつ》があるに違いないよ。それが見つかればそこから〈低き道〉を開いて脱出できるかも知れないからね」
「はい。きっと見つけます」
小さなポーチュンは言った。ポーチュンには、彼らだけが使える特殊な〈道〉がある。普通の〈低き道〉は『行く』だけだが、ポーチュンの〈道〉は反対に穴の向こうのもの――通常は蛙――を無作為に『引き寄せる』のだ。彼らはそれを使って何の気なしに洞窟の中に蛙を引き寄せ、料理していたのである。だから、蛙が現れた地点が判ればそこが〈障壁〉の亀裂ということになる筈だった。
「じ……じゃあ、ゆっくり歩くからね……」
ジミイはポーチュンが滑《すべ》って落ちるのではないかとハラハラしながら出来るだけ身体を揺らさないように洞窟の中を歩いた。
「止まって下さい、この辺りです!」
ポーチュンが甲高《かんだか》い声をあげた。
「い、いいかな? この辺かな……?」
「はい。さっきはここだったと思います」
「どこだい!?」
アンヌーンが飛ばした鬼火が洞窟の天井を淡く照らす。
「確かめましょう。シュキォビィム℃рヘ引き寄せる……」
頭の上のポーチュンが言った途端、天井からぽたりと蛙が落ちて来た。
「判りました! あそこです! あの木の根の間です」
天井の石の間をうねうねと蛇《へび》のように木の根が覆っている。その木の根と根が絡《から》み合《あ》った隙間《すきま》から蛙は落ちてきたのだ。
「あの隙間かい……?」
アンヌーンがガッカリしたような声を漏らした。〈障壁〉に亀裂を作ったのは魔力に対抗する力を持つ林檎の根だった。でも隙間はあまりにも小さく、ジミイの猪鼻《いのししばな》がやっと入るくらいの大きさしかない。
「おまえさんたちだけでも通れないかい?」
「どうでしょうか。かなり狭いですね。私たちでも通れるかどうか……」
ジミイは恨めしい思いで天井を見上げた。もうちょっとでここから出られると思ったのに、やっぱり駄目なのか。
鬼火の光が頼りなく揺らぎ、すーっと暗くなる。肩に乗せたプーカが半べそをかいた。
「オレたち、ここで死ぬのかな……」
「そ……そんなことないよ。俺は、きっと誰かが助けてくれると思うんだけどな……」
「誰かって誰さ?」
ジミイも、それを知りたいと思った。
◆◆◆
ラムジーは空から降ってきた蛙に鼻先を近づけてくんくん匂いを嗅《か》いだ。生臭さにくしゃみが出そうになる。正真正銘、本物の蛙だ。
「蛙が降ってくるってのは、こないだの〈ベルテンの夜〉の蛙騒動以来だぞ。あんときも蛙まみれで参ったが……」
レノックスが蛙を頭から払い落とした。肩にはまだちっぽけな茶色の蛙が一匹乗っている。
「ポーチュンの『蛙引き寄せ』か? あれは引かれる方の座標は特定しないからどこからでも蛙を呼べるのだと聞いたことがある。だが、そのせいで〈道〉が狂いやすいんだ」
と、ジャック。
「それが何で俺の上に降ってくるんだ!」
「一度開いた場所は標識が出来て〈道〉が開きやすくなるというが。〈場〉ではなくておまえが標識になっているのかも知れないな」
「くそ、冗談じゃないぜ!」
「いや、待てよ。ポーチュンの仕業《しわざ》だとしたら、彼らはどこにいるんだ? カウラグ、おまえは彼らを見たか?」
「うんにゃ。〈同盟〉本部にはいなかったヨ」
「彼らの住居は本部の中です。いなかったということは一緒に行ったのでしょう」
「彼らも地下の洞窟にいるということか」
そのとき、ラムジーの目が今度はレノックスの頭上に蛙でないものが降ってくるのを捉《とら》えた。人形だ。まるでスローモーションのように、赤い服を着た人形のようなものが真っ逆《さか》さまに落ちてくる。
『人形』と目が合う。
大きく見開かれたその目に浮かぶのは、紛《まぎ》れもない恐怖だった。
(人形じゃない!)
ラムジーは咄嗟《とっさ》にレノックスに体当たりし、落ちてくるものの真下に身を投げ出した。
どさっ!
軽い衝撃とともに何かが背中にぶつかった。背中の真ん中あたりをもそもそと小さなものが動いている。
耳元でキンキンと甲高い声が言った。
「……あの、すみません。ここはどこでしょうか」
「ポーチュンじゃないか! そこはウェアウルフの背中の上だ。おまえさん、運が良かったな。ラムジーが背中で受け止めてくれてなきゃ地面に激突してたぞ」
「そうだったんですか。ありがとうございました」
(どういたしまして!)
背にかかる重みはお人形のように軽かった。本当に小さいのだ。ポーチュンはいわゆる〈小人〉タイプの妖精で、話には聞いていたけれど会うのは初めてだった。
ポーチュンはラムジーの背に乗ったまま地下で何があったのか皆に話し始めた。
「……残る全員、まだ洞窟にいます。騙されたと気づいて脱出を試《こころ》みましたが、亀裂はとても狭くてポーチュンの中でも一番小さい私しか通れませんでした。〈低き道〉を開くにも狭過ぎたので〈引き寄せ〉の道を逆に辿《たど》って来たんです。だからどこに出るのかも判らなくて、賭けでした」
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「洞窟? 林檎の根が天井を覆っている地底洞窟だな?」
「はい、そうです。その根があったせいで〈障壁〉に亀裂が出来たようでした」
「やはり皆はこの地下か。君がここに出たのはレノックスが標識になっていたからということか」
「そうのようです。たびたびご迷惑をおかけしてすみませんでした、レノックスさん」
「ま、おまえさんも無事だったし、いいってことよ。それよか地下にいる連中を助けなきゃならねえ。その〈道〉は使えないのか?」
「無理です。私が精一杯の大きさでした」
そんな! 皆が囚《とら》われている場所が判って、あと少しだというのに!
そのとき、黙って考え込んでいたジャックが口を開いた。
「ポーチュン。君が来た〈道〉で反対に洞窟の中へ物を送ることは出来ないだろうか」
「標識が出来ているので、たぶん可能だと思います。それが蛙なら確実ですけれど」
「そうか。何とかなるかも知れない。レディ・シールシャ、君に頼みたいことがある」
シールシャは頭をつんと上げて言った。
「これはあの男のしでかした不始末だもの、わたしの力で出来ることならば何なりとするわ」
ジャックはシールシャを見、にこっと笑った。
「出来るさ。君はダナ王国一の魔女だ」
◆◆◆
ジミイはポーチュンが消えた天井の〈穴〉を見つめた。結局、通れたのは一番小さい一人だけだった。〈引き寄せ〉の道は行く先を決められないから、脱出したポーチュンがどこに行ったのかは女神様にしか判らない。
ぽとっ、と蛙が頭の上に落ちて来る。ポーチュンがまた〈引いた〉のだろうか。ジミイは蛙を払いのけ、カウラグのことを考えた。ここに来ていないのなら、カウラグだけでもどこかで無事に生き延びて欲しかった。
剛毛《ごうもう》に半《なか》ば埋《う》もれた目に、ふつふつと涙が浮かぶ。
「カウラグよう……どうしてるんだよう……」
その時だった。
『ジミイ!』
ジミイはきょろきょろと辺りを見回した。カウラグに呼ばれたような気がしたのだ。もちろん、カウラグの姿はどこにもない。きっと空耳だ、と思った。カウラグのことを考えていたからだ。
そのとき再びカウラグの声が聞こえた。
『……ジミイ? そこにいるんだよネ! オイラだよ、カウラグだヨ!』
アンヌーンが驚いたように辺りを見回している。自分の空耳がアンヌーンにも聞こえるなんて、変だ。
『ジミイ! よく聞いとくれヨ! オイラたちはその洞窟の上にいるんだヨ、いま王子たちが皆を助ける算段をしているから、あとちょっと辛抱《しんぼう》して待っててくれヨ……ケロッ……』
「蛙だ! その蛙が喋《しゃべ》っている!」
アンヌーンが叫ぶ。カウラグの声で喋っているのはさっき頭の上に落ちてきた蛙だった。ジミイは地べたに両手をつき、鼻面《はなづら》を突き合わせるようにして話しかけた。
「カウラグ、カウラグなんだな……!」
「たぶん向こうには聞こえないよ、蛙に喋った声を覚えさせて送り込んできたんだよ。こんな術は聞いたこともない。相当に上級の〈魔術者〉の仕事に違いないよ」
アンヌーンが言うそばから再び蛙が落ちて来る。蛙はケロケロ鳴いてから喋り出した。
『アンヌーン族チーフのアーロンはそこにいるか? 近くにいなかったら呼んで欲しい。皆をそこから逃がすための大事な話だ……』
カウラグの声じゃない。若い男の声だ。ジミイは、どこかで聞き覚えがあると思った。
『アンヌーンのアーロン。聞いているかどうか判らないが、聞いているものとして話す。洞窟の中に平たい線刻石《せんこくせき》があるだろう。地上の石とその石の間には〈共感〉が掛かっている。一定量の妖素《ようそ》で作動して物体を移動させるんだ。だが、地上の石は表面に傷をつけられてしまった。このままでは〈共感〉は作動しない。そちらの石に地上の石と同じ傷をつけるんだ。そうすれば作動する筈だ……』
「聞いているよ、この声はジャック王子だね! なるほど、ここへの道は〈共感〉だったわけだね! けどね、地上の石についた傷なんて判らないよ、どうしたらいいのさ!?」
アンヌーンが苛立《いらだ》たしげに呟く。だが声は途切れて蛙はケロケロ鳴くばかりだ。この蛙が覚えた音はもう終わりらしい。
「どうしたらいいのか教えておくれよ、ジャック・ウィンタース王子!」
そこに三匹目の蛙が落ちてきた。蛙は一気に喋り出した。
『アーロン、聞いているか? これからそちらに〈妖素〉とランダルの〈遠目《とおめ》〉を送る。〈遠目〉は特別に本人以外にも視《み》えるように作られたものだが、幻視力《げんしりょく》の強い者でないと無理だそうだ。だからアーロンに頼みたい。レノックスの推薦《すいせん》だ。うまく行けばランダルが視た石の文様がそのまま視える。石に同じ傷をつけ、少量の〈妖素〉を撒《ま》けば周囲にいる者は地上の石の所に転送される筈だ』
「ランダルが来ているのかい……?」
アンヌーンが驚いた声を出した。ジミイも驚いた。ランダルは規則にうるさくておっかないから好きじゃなかったし、だから自分も罷免《ひめん》に賛成したのだ。ほとんどの者がそうだ。なのにどうして助けに来たのかぜんぜん分からなかった。もしかしたら、自分はランダルを誤解していたのかも知れない。
「あっ! 来た!」
四匹目の蛙がぱたりと落ちてくる。
「逃がすな! 捉《とら》まえろ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねる蛙を慌てて両手の中に押さえこむ。蛙の背中には小さな革袋が背嚢《リュック》のように結びつけてあった。急いで袋の口を開けて覗く。袋には、青白い光を放つ〈妖素〉がぎっしり詰まっていた。
「凄《すご》いたくさん入っている! これなら全員で使っても足りるんじゃないかな!」
わああっ、と一斉に歓声が上がった。
ふわ、と赤みがかった小さな光の玉が天井から降りて来る。〈遠目〉だ。本来は作った本人にしか視えないものなのだが、この〈遠目〉は鬼火同様に明るい光で洞窟の内部を照らしながらくるくると飛び回っていた。
差し伸べた右手にすうっ、と光の玉が吸い寄せられる。アンヌーンは光球《こうきゅう》をそっと捉《つか》まえ、両手の間に挟み込んだ。
「〈眼〉よ。教えておくれよ……」
指の間から赤く光が透《す》ける。みな、固唾《かたず》を呑《の》んで見守った。
アンヌーンが、閉じた瞼《まぶた》をゆっくり開いた。
「……視えた! 視えたよ! 石のどこに新しい線がついてるのか!」
◆◆◆
「全く、蛙に〈言《こと》の葉《は》〉を呑み込ませるなんて、わたしは聞いたこともないわ」
シールシャは肩を竦《すく》めた。ジャックが彼女に出した注文は『喋った言葉を蛙に丸暗記させてその通りに鳴かせること』だった。
「だが、うまく行った。流石《さすが》はダナ王国にレディ・シールシャあり、と言われただけのことはある」
「おだてないで、ジャック・ウィンタース」
魔法というのは大方が昔から決まった術によって発現して、一つの術につき一つのことしか出来ない。だから今まで誰もやったことがない魔法を使うのはすごく大変なんだそうだ。でもシールシャは既存の術を幾つか組み合わせて試し、その結果、蛙はある程度の長さの台詞《セリフ》を丸呑みしてその通りに吐き出すようになったのだ。それから彼女はポーチュンの作った〈引き寄せ道〉を逆向きにして、言葉を喋る蛙とランダルの〈遠目〉を洞窟の中に送り込んだ。
あとは、アンヌーンを信じて待つだけだ。
みな固唾を呑んで見守っている。ラムジーは皆の間をうろうろと歩き回った。ケリの不安が伝染して何だかひどく落ち着かない。ケリの指がぼんやりと耳の間を掻《か》く。
唐突に〈顎門の滴り〉石が眩《まばゆ》い白い光を放った。
輝きの中にシルエットのように人影が見える。光が消えると、それぞれ腕にポーチュンを抱いた十人ほどの妖精たちが石の周りに立ち尽くしていた。茫然《ぼうぜん》と顔を見合わせ、それからゆっくりと空を見上げる。
「ああ……! 空だ! 外だ! オレたち助かったんだぁ! 女神様、感謝します!」
小躍《こおど》りして肩を抱き合う。ラムジーはポーチュンを乗せたまま小走りに妖精たちに駆け寄った。彼らと一緒に脱出してきたポーチュン族がラムジーの背の上の仲間に気づき、小鳥が囀《さえず》るようにファララララ! と歓声を上げた。背の上のポーチュンもファラララ、と喜びの歌を歌い返す。
「チビ狼……? おまえさんもオレたちを助けに?」
うぉん!(そうですよ!)
そのときになって彼らはようやくジャックたちに気づいた。視線が宙をさ迷って仲間たちに順々に注がれる。ジャック、レノックス、シールシャ、ケリ。そして最後にランダルの上でぴたりと固まった。
「盟主……どうしてあんたが……」
ランダルがにこやかに応える。
「もう盟主ではありませんよ。ですから来たのは仕事ではなくわたしの勝手です」
「盟主……すいませんでした、オレたち……」
脇で見ていたレノックスが吠《ほ》えるように笑った。
「全《まつた》く! おまえらフィアカラの野郎にコロッと騙されやがって! けど俺たちが来たからにはもう奴の好きにはさせねえ。魔女シールシャとジャック・ウィンタース王子もいるしな!」
「レノの旦那《だんな》……。面目《めんぼく》ない……」
「おっと、安心するのは早過ぎるぜ。ここはまだ罠の中だ」
レノックスは〈顎門の滴り〉石の脇に立って大声で指示を出した。
「おまえら、早いとこ窪地の外まで走れ。窪地を抜けるまで絶対に魔法は使うな! 魔法を使えば罠が作動するからな。窪地の外に出たら〈低き道〉を開いてどこへでもいいから逃げろ!」
「わ……分かった……!」
一人がラムジーの背の上のポーチュンを抱き上げた。ストーンサークルを出て立ち石の立ち並ぶ窪地を走りだす。
再び石が光り、二組目の脱出者が送られて来る。その中に、猪の頭を持ったシルエットがあった。
「ジミイ!」
カウラグが叫んだ。〈角足《スクウェア・フット》〉は光の中から足を踏み出し、自分の半分ほどしかないカウラグに駆け寄った。
「カウラグ、俺、もう会えないんじゃないかと……」
「オイラもだよ、ジミイ!」
レノックスが怒鳴る。
「ここは手狭《てぜま》だ、二人とも先に逃げろ」
「あ……うん!」
ジミイはカウラグを抱き上げて肩車すると本物の猪のような勢いで一目散《いちもくさん》に走り出した。
「父は……どうしたんでしょうか……」
小さな声でケリが呟いた。その声は不安と心配ではち切れそうだった。
「まだ脱出は始まったばかりだ。送った妖素で足りる筈だが」
その時だった。
皆が駆けて行くのとは反対側の窪地の縁に誰かが立っているのが見えた。風に乗って悪意を含んだ匂いが漂ってくる。ラムジーは頭を高く上げて匂いを嗅《か》いだ。
この匂いは、デュアガーだ!
それは紛れもなく昨日、妖精たちを焚《た》き付《つ》けてケリと自分を捉まえようとしたデュアガーの匂いだった。背中の毛がざざっと逆立つ。遠くて表情までは見える筈がないのに、デュアガーがにやりと笑ったように思えたのだ。
デュアガーの手から、何か小さなものが窪地に投げ込まれた。立ち石にぶつかって澄んだ固い音をたて、地面にころころと転がる。
「スグゥィィル″Lがれ!」
デュアガーが大声で叫ぶのと同時にサークルの外側の立ち石が揺らぎ、地面が震えた。
魔法の黒水晶《モリオン》だ……!
黒水晶に封じられていた魔法が解放され、それに反応してストーンサークルの罠が稼働《かどう》し始めたのだ。
地響きと共に〈詠唱者〉リングの外に立つ巨石が大地を離れ、ゆっくりと天に向かって昇っていく。
「みんな戻れ! 外側に動くと落ちてくるぞ!」
列を成《な》して窪地の外に向かっていた妖精たちが慌てふためいて列を崩す。リングに戻ろうとする者、残りの距離をそのまま駆け抜けようとする者、その場に立ち疎む者。空高く昇り切った巨石の一つがぐらぐらと揺れ、真下にいるダナ人めがけて一直線に落ち始めた。
シールシャが何事か叫ぶ。
うずくまったダナの真上、一フィートのところでぴたりと石の落下が止まった。
「はやく、逃げて!」
シールシャは掌《てのひら》を開いて右手を前に突き出し、何かを支えるようなポーズをとっている。
石の真下で頭を抱えていたダナが上を見上げ、ほうほうの体《てい》で石の下から這い出した。シールシャが掲《かか》げていた手の力を抜く。その刹那《せつな》、石は最後の五フィートを落下し、地響きをたてて地面に突き刺さった。
「戻れ! こっちに来い! ストーンサークルの内側には石は落ちてこない!」
先祖が墓荒《はかあら》しから骨を守るために仕掛けたこの罠は窪地の中で魔法を使うと作動し始める。浮き上がった石が窪地の外へ逃げようとする者を狙い澄まして落ちるのだ。内側へ逃げた場合は反応が鈍《にぶ》いが、それでも地上で動くものがあれば結局は落ちてくる。窪地の中で安全なのは罠の死角になっている〈詠唱者〉リングの内側だけなのだ。
一旦リングの外に出た妖精たちは今度は雪崩《なだれ》を打って〈詠唱者〉リングへと殺到した。
別の石がぐらぐらと揺れ、落下し始めた。悲鳴があがる。と、目に見えない力に絡《から》め取られるようにぴたりと宙で停止した。
「急いで! こちらへ!」
落ちてくる石をシールシャが空中で止めているのだ。一つまた一つと石は落ち、シールシャがその全てを止めていく。その間にも〈顎門の滴り〉石は地下から妖精たちを運び出し続けていた。小さなストーンサークルの内側にぎゅうぎゅうと妖精たちがひしめき合う。
「どうすんだ、ジャック! じき一杯だぞ!」
「それより、奴が何を目論《もくろ》んでいるのかだ。とりあえず僕らを足止めするつもりか、それとも……」
〈詠唱者〉リングの内側には増え続ける妖精たち、その外を取り囲むように虚空《こくう》に浮かぶ数十の巨石。
どうしたらいいんだろう?
ラムジーは尻尾《しっぽ》が後ろ足の間に挟まるのを感じた。不安に鼻がクーンと鳴り、目は空に浮かぶ巨石を追う。そして気づいた。
巨石がゆっくりと宙を水平に動いている。
前にこの罠にかかった時には石は一定のポジションから横には動かなかったのに!
ラムジーは石に向かってバウバウと吠えた。
「どうした、チビすけ!」
(空を見て下さい! 石がこっちに動いてます!)
ジャックが石を見上げる。
「……動いている。罠の動きとは違う。デュアガーの黒水晶で動かされてるのか……」
空に浮かぶ石は次第に寄り集まり、〈詠唱者〉リングの上空に集結しつつあった。
一つの石が〈詠唱者〉リングを越えて内側に入ってきた。石は次々にリングの縁を越え、頭上の空をびっしりと覆い尽くすように浮かぶ。石の影が妖精たちの上に落ち、不安な顔をさらに暗く塗り変えていく。
ぐら、と石が揺れた。
来る! 全ての石が瞬時に支えを失い、一直線に落下し始める。
「ケマディィム℃рヘ保つ!」
初めて聞くシールシャの〈呪誦《ピショーグ》〉だった。
落ちかけた石が宙でぴたりと止まった。シールシャが止めたのだ。全ての石はまるでゴム紐《ひも》で吊られているように頭上でぶらぶらと揺れている。
「全部をいっぺんに支えてるのか!?」
「ええ、そうよ、話しかけないで! 気が散るじゃないの!」
今までシールシャの魔法はいつも呪誦無しだった。ジャックやレノックスたち普通の妖精は生来|備《そな》わった一つの力以外の術は呪誦を唱《とな》えないと使えない。でも〈魔女〉である彼女は何十種類もの術を呪誦無しで使える。そのシールシャが今回に限って呪誦を使ったということは、〈保つ〉術は彼女の不得手《ふえて》だと言うことなのだ。
ラムジーはぎっしりと巨石が浮かぶ空を見上げた。見ていると気持ちが悪くなりそうだ。
浮かぶ巨石を見上げていた一人のホブゴブリンが低く悲鳴を上げてリングの外にまろび出し、そのまま一直線に走り出した。
「バカ、危ねえ!」
輪の外にはまだいくつか石が残っている。その一つが狙い澄ましたように一直線に落ちて行く。
潰《つぶ》される! そう思った刹那《せつな》、突如宙に現れた龍のような水流が落下する石を直撃した。
「ひゃああああ!」
石は頭を抱えたホブゴブリンのすぐ横に落下した。レノックスの呼び出した海水流が石に激突して進路を逸《そ》らせたのだ。
「シールシャがガードしている分、こっちの方がましだ、戻って来い!」
「けど、そこはもう満員だ……!」
そうなのだ。地下にはこちらの事情が伝わらないので妖精たちは次々送り出されてくる。すぐにも輪の中が満員になって外に溢れ出すのは確実だった。
「レノックス。掩護《えんご》してくれないか」
ジャックが空を見上げて言った。
「おい、どうする気だ……」
「これはもとからの罠じゃない。石を操《あやつ》っているのはデュアガーだ。奴を倒す」
「倒すったって、奴は輪の外だぞ」
「だから掩護を頼むんだ。ほとんどの石がリングの上に集まっているから、外はかえって手薄だ。勝ち目はある。ラムジー、ケリ。君達にも来て欲しいんだが」
ケリが目を細め、窪地の縁のデュアガーをじっと見つめながら言った。
「デュアガーを〈口説《くど》く〉ためですね」
「そうだ。だが、〈詠唱者〉リングの外は危険だ。いまシールシャは手一杯だから外の石までは気が回らないと思う。だから、無理にとは言わない」
「行きます。シールシャさんだって永遠に石を支えてはいられないでしょう。父はまだ地下だから〈グラマリー〉を使えるのは僕しかいません」
「ありがとう。ラムジーは……」
言われるまでもなく、皆の役に立てる嬉しさで尻尾は勢い良くぶんぶんと左右に揺れていた。ジャックの眦《まなじり》に笑みが浮かぶ。
「よし、行こう」
「おい、おまえら正気か! 俺は自信ないぞ!」
「大丈夫、出来るさ」
ジャックはレノックスにくるりと背を向け、一直線に走り出した。ケリが続く。ラムジーは疾風《しっぷう》のように石の輪の間から跳び出し、二人を追い抜いて先頭に立った。
石が落ちてくる。
轟音《ごうおん》とともに石に激突した水柱が砕《くだ》け、しょっぱい水が雨のように降り注いだ。レノックスの呼び出した海の水だ。水流に進路を逸らされた石は地響きを立てて地面に突き刺さり、またゆっくりと上昇していく。一度落ちた石は再び上昇して落ちてくるまで時間がかかる。その間にどれだけ進めるかが勝負だ。
ラムジーは全力で奔《はし》った。緊張と集中が身体の奥底に眠る力を呼び覚ます。四肢《しし》に力が漲《みなぎ》り、知覚の処理はいつもの数倍の速さに達する。走りながら空の石を横目でちらりと確認した。今の自分には、自由落下の速度はまるでスローモーションだ。
落下の轟音が響く。巨大な水柱が石に当たって砕け散る。地響きと風圧が背後に感じられる。大地を掴む一掻《ひとか》きごとに身体は疾風になった。はるか後ろで妖精たちが歓声をあげるのが聞こえる。ラムジーはジグザグにジャンプして落ちてくる石を避け続けた。
どんどん落ちて来い! そう思った。そうすれば後に続くジャックとケリがそれだけ安全になる。
「ラムジー、行け! 奴を逃がすな!」
(はい! ジャックさん!)
背が弓のようにしなり、矢のように宙を奔《はし》る。窪地の斜面を瞬《またた》く間に駆け上がり、最後のひとっ飛びで弾丸のように土手の上に立つデュアガーの目の前に着地した。
渡り切るとは思わなかったに違いない。仰天《ぎょうてん》した顔のデュアガーは喚《わめ》き声を上げ、くるりと背を向けて逃げようとした。
(逃がさない!)
ジャンプして体当たりした。デュアガーのがっちりした身体がいとも簡単にころりと大地に転がる。そのまま馬乗りになり、喉仏《のどぼとけ》にぴたりと前足をかけた。デュアガーの右手が内懐《うちふところ》に滑り込む。ラムジーは咄嗟に服の上から腕の筋《すじ》を狙ってやんわりと噛みついた。牙《きば》は皮膚を突き通してはいないが、万力《まんりき》で挟んだようにガッチリと締めつけている。握りしめた手からころり、と黒い珠《たま》が枯れ草の上に転がり落ちた。
窪地を走り切ったジャックとケリが土手の縁を登って来る。
「よくやった、ラムジー」
褒《ほ》められて嬉しくなった尻尾がぱたぱたと揺れる。足の下でデュアガーが身もがいたが、押さえ込んだ前足は微動だにしない。
黒水晶の珠を拾い上げたジャックが真上から見下ろした。
「デュアガー。巨石を操る魔法をフィアカラから貰《もら》ったんだろう? 皆が通れるように元通り地面に降ろしてくれないか」
デュアガーはぐぅっ、と短い声をあげ、口をへの字に曲げて下から睨みつけた。
「誰がてめえの言うことなんざ聞くものか! 糞《くそ》ったれのダナ王族め! てめえらのせいで俺たちゃ島流しになったんだ!」
「そう言うと思ったよ」
ジャックは後ろを振り返った。
「ケリ。君の出番だ」
「わかりました、ウィンタースさん。やってみます」
ケリがにっと笑った。ケリは半妖精だ。でもこのときのケリはまるで本物の〈妖精〉に見えた。銅《あかがね》色の髪が風になびき、森の緑を溶かし込んだような瞳がきらりと輝く。
ケリはデュアガーの傍《かたわ》らに膝をつき、独特のビブラートのかかったような声で話し始めた。
「デュアガー。僕をよく見て……=v
十分後、宙に浮かんだ巨石は全て元通りの場所に着地していた。
ラムジーは土手の縁に四肢を踏ん張って窪地を見下ろした。ストーンサークルの内側から妖精たちが溢れ出し、巨石の間を散らばって歩いてくる。
黒い髪のダナ、金髪のタルイス・テーグ、ほっそりしたアンヌーン、小柄なプーカ、毛むくじゃらのボーギー、赤い帽子のレッドキャップ、ずんぐりしたドワーフやホブゴブリン。
みな笑顔で互いの無事を喜びあい、大きく手を振りながら窪地の外を目指して来る。
地下からの脱出の一番最後の組の中に、ケリと同じ銅色の髪に緑の眼の妖精が居るのが見えた。ケリが小さな声をあげ、外側へと向かう妖精たちの波を掻き分けて走って行く。向こうもケリに気づいた。小走りに駆け出す。
ストーンサークルから窪地の縁のちょうど真ん中あたりで父子は抱き合った。しばらくの間抱き合っていた父子は、やがて肩を組んで何か話しながら歩き始めた。
ラムジーは良かった、と思った。
ケリがお父さんと何を話しているのか、意識を集中すれば聴き取れるのは分かっていたけれど止めておいた。それはやっぱり聞いてはいけないような気がしたからだ。でもケリはいつもお父さんの話をするときと違って穏やかな表情で、ときどき小さく笑っていた。
そうしている間にも妖精たちは巨石の並ぶ窪地を脱出して土手の上に上がって来る。
妖精たちが口々にジャックの名を呼ぶ。
「ジャック・ウィンタース王子!」
「〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉の保持者!」
「我々の救い主!」
ジャックは口々に讃《たた》える妖精たちに取り囲まれて困惑顔だ。
「僕一人の力じゃない。レノックスやランダルやレディ・シールシャの力が無ければ無理だった」
それにチビ狼だよ、と誰かが叫んだ。
そうだ、チビ狼の手柄だ、皆の救い主だ!
[#挿絵(img/Lunnainn4_107.jpg)入る]
何本もの手が伸びて頭や背中を撫で、たてがみをもみくちゃにする。
あの走りっぷりを見たかい? さすがはラノンの人狼《ウェアウルフ》だよ。おいらにも触らせておくれ、ああ、おまえさんはなんてすごい奴なんだろうね――。
「なあ、チビ狼。昨日は追い回したりしてすまなかったな、堪忍《かんにん》しとくれや」
牛の蹄《ひづめ》のボゲードンだった。昨日のことはもうほとんど忘れかけていたけれど、皆に撫でられ、褒められてすっかり嬉しくなって完全にどこかに消し飛んでしまった。尻尾を振り回しながら後足で立ち上がってぴょんぴょん跳《は》ねていると、ケリがこちらに駆けてくるのが見えた。父親と一緒だ。
「ジャック・ウィンタース王子ですな。なんとお礼を言っていいのか……」
「ケリの力もあってのことだ。ケリはよくやってくれた。第一世代の〈妖精〉相手に〈グラマリー〉をかけたんだ。お陰で重要な情報も引き出せた。たいしたものだよ」
「私は教えていないんです。子供っていうのはいつの間にか大きくなるものらしい」
「よしてくれよ、父さん。それに、ウィンタースさんは王子と呼ばれるのが好きじゃないんだよ」
ケリはちょっとそっぽを向いて言った。でも、怒っているのではなくて照れているのが判った。
そのとき、レノックスが土手を登って来た。ランダルも一緒だ。
「よう! やったな、ジャック!」
ジャックが振り返る。
「おまえの掩護があったからだ」
「全く、無茶しやがるぜ」
ランダルに気づいた妖精たちが慌てて左右に道を開ける。
気まずさ、という匂いがあるとしたら、まさに今あたりを漂っているのがそうだった。後悔と罪の意識と自責を混ぜ合わせて、その上に『恥ずかしさ』を山ほど振りかけたような匂い。妖精たちは青い顔をし、身を縮め、俯《うつむ》き、救いを求めるようにあちこち視線をさ迷わせてはちらちらとランダルを盗み見ている。かなり長い間|躊躇《ためら》ったあと、ダナの一人が進み出て意を決したように口を開いた。
「……ランダルさん……。済まない、オレたち、あんたを信用しなかった……」
ランダルは東洋の仮面のように静かな微笑を浮かべていた。
「言い訳は後で聞きましょう。安心するのは早過ぎます。すぐここから逃げて下さい。フィアカラを斃《たお》さない限り、安全はありません」
妖精たちはますます蒼《あお》ざめた。〈同盟〉にはランダルの微笑を額面《がくめん》通りに受け止める者はまずいない。
でも、実はその当のランダル本人の内心は穏やかで満ち足りていることにラムジーは気づいた。ランダルは本当は心から仲間の無事を喜んでいるのに、皆にはそうは思われない。損な人なのだ。
「こいつをどうする?」
妖精たちに取り囲まれて小さくなっているのはまだ〈グラマリー〉の余韻でボーッとした顔のデュアガーだ。
「俺たちを騙しやがって! ぶっ殺しちまえ!」
勢い良く賛同の声があがる。今にも実行に移しそうな勢いだ。だが、ジャックは皆を制した。
「命は取らない。おまえの主《あるじ》の下《もと》に戻るがいい」
ジャックに止められて血気に逸《はや》っていた妖精たちは悔しそうに地団駄《じだんだ》を踏んでいる。デュアガーはひああ、と声を上げて妖精たちの輪の外にまろび出た。
「あんな奴に情けをかけるなんて!」
逃げて行くデュアガーの後ろ姿を見ながら黒髪のダナが言った。
「情けではないよ。君等の手を汚させたくなかっただけだ。フィアカラは自分以外の者の失敗に対する寛容さは持ち合わせていないからね」
「なるほどねえ」
そう言ったのはいつになく真顔のアンヌーンのチーフだった。
「狼の坊や。おまえさんの助言を聞かなかったわたしは、とんだ大馬鹿者だったよ」
長い指が、優しく耳の後ろを掻く。
「王子。御身《おんみ》はこれからどうされるのです?」
「僕はまだここでやることがある。フィアカラを野放しにはして置けない」
レノックスが頷いた。ランダルとシールシャとケリ。皆、頷いた。
ラムジーは尻尾を高く上げて短く吠えた。
きっと、本当に大変なのはこれからなのだ。
4――その男を信じるな
あんた何て名なんだい
ルララララ ミソサザイに訊《き》いてみろ
ワタリガラスがわたしの名さ 七の七倍旅をして
時の銀の輪のめぐる
[#地から1字上げ] クリップフォード村の伝承歌
◆◆◆
闇。
音はない。色もない。風もない。
何かが唇をなぞり、開いた唇の中に入り込む。
(喰え)
声が言った。
(喰え)
先端の固く平たい部分を舐《な》め、すべすべとした舌触《したざわ》りを味わう。その周囲はかすかにざらついて柔らかい。
(喰え)
(喰え)
(喰え)
口の中のものに、歯を立てる。堅い。微《かす》かな塩と鉄の味。こりこりした歯触りの中にひどく硬い芯《しん》がある。歯の間に何かを挟《はさ》んだまま顎《あご》はゆっくりゆっくり近付いていく。
歯の間でぶつ、と何かが切れた。
熱く塩辛いものが溢《あふ》れだす。
(喰え)
咀嚼《そしゃく》。
ごりごりごりごりごりごりごり。
痛い。
ごりごり。痛い、痛い。咀嚼。咀嚼。咀嚼。
血の味肉の味骨の味。痛い痛い痛い。
がりごりがりごりがりごりがりごり。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
噛《か》み砕《くだ》かれたものは嚥下《えんか》され、喉《のど》を下り、食道を下り、胃の腑《ふ》に納まっていく。
(喰え。もっと喰え)
口の中にぐいぐいと入り込んでくるものをしゃぶる。歯を立て、囓《かじ》る。囓る。囓る。
がりがりがりがりがりがりがり。
痛い。
フィアカラは悲鳴を上げて飛び起きた。
全身に汗をびっしょりかいている。
左手の先がずきずきと痛み、まさぐるが空っぽの袖《そで》があるだけだ。
そうだった。腕は無いのだ。切断したのだ。
傷口が腐《くさ》って壊疽《えそ》が進行し、ひどい腐臭《ふしゅう》を放っていた、だから切り落としたのだ……。
豪奢《ごうしゃ》な寝台に半身を起こし、辺りを見回す。
ここは、どこだ……?
〈電灯〉の明かりが白く目を射る。
そうだ。先月買った自分の城じゃないか。
寝室は煌々《こうこう》と輝く〈電灯〉の光に満たされていた。闇などどこにもない。寝室だけではない。電気の灯《ひ》は館《やかた》からすべての闇を駆逐《くちく》し、二十四時間まばゆく輝き続ける。
闇など、どこにもないのだ。
再び寝台に倒れ込んだ。
電灯の光の白さが目に沁《し》みる。
〈電気〉というのは実に素晴らしい。人間という種族は取るに足らない存在だが、便利な道具を作り出す術においては人間の右に出るものはない。
手に入れてやる。
ラノンも、この世界も。
そうすれば悪夢も見なくなる、そうに違いない。絶対にそうだ。悪夢を見るのは欲しいものが手の中にないからだ。
この世の全てを手に入れてやらなければ気が済まないのだ。ラノンにあるものも、この世界にあるものも、全部欲しい。なぜなら自分はそれに相応《ふさわ》しいからだ。自分にはその価値があるからそうして当然なのだ……。
唐突に、自分は二つの世界の王になるのだ、という考えが頭に浮かんだ。
そう考え始めると止まらなくなる。
自分は、この運命に出会うためにこの世界に来たのではなかったのか?
そうだ、あのような辛苦《しんく》を舐《な》めたのは、そのためだったのだ。そうに違いない。このフィアカラが捕縛《ほばく》され、〈鉄牢《てつろう》〉に繋《つな》がれるなど、他に理由が考えられないではないか。あの辛酸《しんさん》の一年は二つの世界の王として迎えられるための前段階だったのだ。そう考えれば納得がいく。蛹《さなぎ》だったのだ。臥竜《がりょう》だったのだ。すべては、この為だったのだ。
ひゃはは、と嗤《わら》いが漏《も》れる。
ふひ。ひゃは。ふふ。ひひ。はは……
そうか、そうなのだ。この私は、二つの世界の王だったのだ。なんと美しい響きじゃないか。ダナの摂政《せっしょう》などより遥かに相応しい。腕だって取り戻せる。なんとなればこの私は〈魔術者〉フィアカラだからだ。
それには、まずクリップフォードの巨大ストーンサークルを復元することだ。すべてはそこにかかっている。
フィアカラはスイッチを押してクリップフォードの航空写真を壁に投写した。山裾《やますそ》に抱《いだ》かれた村、山襞《やまひだ》の内側に小さな王冠のように見える〈林檎《りんご》の谷〉の小サークル。巨大ストーンサークルの痕跡《こんせき》はその〈林檎の谷〉を貫《つらぬ》くようにして村の外周をぐるりと一周していた。何箇所《なんかしょ》かに大き過ぎて取りこぼされた巨石が残っている。他の石がどこに消えたのか、問題はそれなのだ。
〈叶える力〉は石に込められている。だから元の石でなければだめなのだ。
巨石の大部分はリングの価値を理解しないクリップフォードの奴らが砕いて石材にしてしまった。なんとも愚《おろ》かな、万死《ばんし》に値《あたい》する連中だ。あれでラノン人の子孫だとは恐れ入る。
だが、連中は知っている。石が自分の家のどの壁、どの石垣に使われているかを知っている。それを全て取り戻さねばならない。一人ずつ〈真実の舌〉で聞き出すのは面倒だし、時間がかかりすぎる。〈真実の舌〉は心にあること全てを喋《しゃべ》らせるが、必ずしもこっちの知りたい情報を優先的に喋らせるわけではない。下手をすると延々とくだらない戯言《ざれごと》を聴かされる羽目《はめ》になるのだ。石の所有者一人ずつにそれをやっていたのでは〈十二夜《じゅうにや》〉が明けてしまう。そうなったら一年待たねばならない。そんなことは到底我慢出来ない。一年は、永遠と同義語だ。
だとしたら、とフィアカラは考える。
連中が自発的に喋りたくなるようにしてやればいいのだ。なに、少しの間だけ甘い夢を見せてやればそれでよい。あの連中は、既に人間と変わらない。人間を手玉に取るのはいとも簡単なのだ。もっとも、愚かさという点では〈同盟〉の馬鹿どもも良い勝負だが。
愚かな〈同盟〉の妖精どもにはジャック王子を捕まえる餌《えさ》の役割を果たしてもらう。そのためにまだ生かしてある。
王子の性格なら必ず助けに来るのは判っていた。あの王子は切れ者だが、同時にとんだ大馬鹿だ。なにしろ、ダナの王にしてやるという申し出を断ったくらいなのだ。王子がいつ来てもいいようにデュアガーに黒水晶《モリオン》を渡して妖精どもを閉じこめた谷を見張らせている。王子が来たらあれを使って輪の中に閉じこめてやるのだ。
〈林檎の谷〉の石の罠《わな》は面白い仕掛けだ。それにちょっと手を加えてあのストーンサークルの内側では〈低き道〉が開けないようにしたのだ。ジャック王子が妖精どもを地下から救い出しても、輪の外に出ればぺしゃんこだ。王子が愚かにも輪の外に逃れようとして大地の染《し》みと化したならそれはそれで仕方がない。が、生きたまま捕《と》らえられれば尚《なお》良しだ。
フィアカラは夢想を奔《ほとばし》らせた。
もし生きたままジャック王子を捕らえることが出来たら、王子の〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉に二つの世界の王となった私を見せてやろう。ダナの王の印《しるし》であるあの霜の瞳を傷つけないように奇麗《きれい》に刳《く》り貫《ぬ》き、末長く美しさ瑞々《みずみず》しさを保つ処置を施《ほどこ》したのち銀糸《ぎんし》で編んだ籠《かご》に入れて飾るのだ。銀の籠の中でゆらゆら揺れるフロスティ・ブルー・アイはさぞ美しいだろう。このフィアカラが、文字通り〈霜の瞳の保持者〉になるわけだ。
くすくす笑いが漏れる。
用無しになった妖精どもは一纏《ひとまと》めに潰して妖素《ようそ》を採《と》ればいい。そして奴らの骨は大ストーンサークル復活に役だつのだ。素晴らしいことではないか。あのような屑《くず》どもでもこの私の役に立つことが出来るのだ。
まず腕。それから、世界だ。
そのためのストーンサークルだった。
上機嫌で鼻歌を歌いながらクリップフォードの馬鹿どもを丸め込むための仕込みを始める。
どうあっても〈十二夜〉のうちにことを終わらせねばならぬのだ。
◆◆◆
ジャックは〈林檎の谷〉を見下ろす土手の上で妖精たちが列を成して〈低き道〉に姿を消すのを見守った。ランダルが入り口の横に立って一人ずつ注意している。
「気をつけて下さい。安全が確認されるまで〈本部〉には近寄らないように」
ランダルの前を通る妖精たちはまるで厳しい家庭教師の前に立たされた生徒のようだ。目を逸《そ》らせ、俯《うつむ》き、そっぽを向いて、出来れば答えたくないという風に口の中でもごもごと小さい声で返事をする。
はい……ランダルさん。わかりました、ランダルさん――。
ランダルの方は、そんなことはまるで目に入らないかのように淡々と注意を続けていた。
「安全になったら〈伝言精霊〉で一斉《いっせい》に報《しら》せます。それまでは油断しないように」
〈低き道〉に向かう妖精たちはジャックに向かって手を振り、王子ご武運《ぶうん》を、女神の加護《かご》を、と口々に叫びながら真っ黒な穴に消えて行く。列の中にカウラグがいた。地下から助け出された猪《いのしし》頭の角足《スクウェア・フット》と一緒だ。
「ジャック王子。悪いけどオイラたち、ロンドンに戻ることにしたヨ。ジミイを助けてくれたこと、忘れないヨ……」
「気をつけて。ロンドンに戻ったらなるべく人間に紛《まぎ》れて隠れた方がいい」
「うん……あのさ、また会えるよネ?」
「ああ。会えるとも」
カウラグと角足は手をつないで仲良く〈低き道〉に消えた。三百人の妖精たちのほとんどがロンドンに向けて出発した頃になって半妖精のケリ・モーガンがクリップフォードに残ると言い出し、父・シェイマスとの間に一悶着《ひともんちゃく》起きた。
もちろん父親はケリが残ることに反対だった。当然だろう。
シェイマスはここにいるとフィアカラとの諍《いさか》いに巻き込まれるから一緒にロンドンに戻ろう、と息子を掻《か》き口説《くど》いた。だがもとよりケリはそのつもりで残る、と言っているのだから噛《か》み合わない。
父子は互いに譲らず、シェイマスが〈グラマリー〉を使ってでも連れ帰ると言い出すに及んでレノックスが口を突っ込んだ。
「シェイマス。ケリだって十八だ。いつまでも子供じゃねえだろう」
「しかし……」
「こっちに残るからって何もケリがフィアカラと真《ま》っ向《こう》から闘《たたか》うわけじゃねえ。俺がさせねえよ」
ケリはゆっくりと父の側《そば》を離れてレノックスとラムジーの側に立った。
「そういうことだから。それに僕は第一世代じゃないから妖素のために狙《ねら》われることはないんだ。父さんの方が危険なんだよ。父さんは早く逃げて、母さんのところに帰って安心させてあげてよ」
まっすぐに父を見つめ返している。
「ケリ……」
シェイマスはケリを見つめ、それから狼《おおかみ》ラムジーとレノックスに眼をやった。
「そうか……」
シェイマスのハンサムな顔が崩れる。泣き笑いのような、それでいてどこか誇《ほこ》らしげな顔だった。
「……気をつけるんだぞ。絶対無理はするな」
「分かってるよ。父さん」
シェイマス・モーガンは息子を一度強く抱きしめてから〈低き道〉に飛び込んだ。
「これで同盟員は全て脱出したわけですね」
〈低き道〉の入り口を眺め、ランダルが安堵の息をついた。
「いや。まだだ。貴公《きこう》もロンドンへ」
「何を言われるのです、ジャック王子。フィアカラの排除は〈同盟〉の最重要課題です。わたしが抜ける訳にはいきません」
「盟主《めいしゅ》ランダル」
ジャックは〈霜の瞳〉でまっすぐにランダルを見つめた。子供の頃から他人を凝視《ぎょうし》してはいけないと言われて来た眼だ。彼は口を開きかけ、呑《の》まれたように噤《つぐ》んだ。
「全ての卵を一つの籠に入れるな、という諺《ことわざ》がある」
今度のことでよく解《わか》った。〈同盟〉の妖精たちは罪を犯しはしたが、基本的には善良な者たちだった。〈地獄穴〉の刑を賜《たまわ》る者は主犯でなく従犯《じゅうはん》の者が多い。信じやすく騙されやすい性格ゆえだろう。妖精たちには彼らを纏め、守っていく者が必要なのだ。それはランダルをおいて他にない。
「フィアカラは僕とレディ・シールシャで何とかする。貴公にあってはロンドンで皆を守り、〈同盟〉の再建にあたって欲しい」
ランダルはしばしの間言葉を失ったように〈霜の瞳〉を見つめていた。
理解したのだろうか。恐らく、理解したのだろうと思った。
「……貴方は……」
そこまで絞《しぼ》り出したが、あとが続かない。
不思議な気がした。この男でも狼狽《ろうばい》することがあるのだ。それはかつていかなる時も氷のように動じないと言われたダナ王が、息子の追放を決めた際に見せた微《かす》かな動揺を思い起こさせた。
「ランダル。もし生き延びてロンドンに戻れたらその時は僕も〈同盟〉に入るよ」
彼は眼を細め、ひゅっ、と小さく息を吸い込んだ。
「……それは、本当ですね? 王子」
「もちろんだ。二言はない」
「では、必ず戻られますよう。準備を整えてお待ちしますので」
ジャックは守るのが難しい約束は初めからするなという父王の教えを思い出したが、もう手遅れだった。その時にはランダルは身を翻《ひるがえ》して〈低き道〉に姿を消し、見ている間に〈道〉の出入り口は小さく縮んで消失した。
「ジャック。俺を忘れてんじゃねえか?」
すぐ後ろに、腕組みしたレノックスが立っている。
「忘れてはいないよ。もう一度意志確認をしたかっただけだ」
「訊《き》くまでもねえだろが!」
にやりと破顔《はがん》する。
「俺はフィアカラの野郎だけは許せねえんだ。コテンパンに熨《の》してやるぜ」
「そう言うと思ったよ」
狼ラムジーが嬉しそうに吠《ほ》え、纏《まと》わりつくようにレノックスの周りをぐるぐる走り回っている。ジャックはこの男がこちらの側で良かったと思った。レノックスはムードメーカーだ。彼がいるのといないのでは皆の士気《しき》が違ってくる。加えて言うなら、ジャック自身の士気もだ。
「出発しよう。目的地はフィアカラがいると思われるクリップフォード村公民館。目的はあくまで彼の計画を阻止《そし》することだ。彼を斃《たお》すということに拘《こだわ》らないように。危険なときは退《ひ》くこと。それと、第一世代は万一のことがあっても彼に骨を渡してはならない」
「分かっているわ。わたしが〈道〉を開くから、案内をお願いするわ」
シールシャが指先で宙に輪を描いて新たな〈低き道〉を開いた。行き先を知っている狼ラムジーが先に立って真っ黒な入り口に跳び込み、皆がその後に続く。
闇の中でレノックスが言った。
「ジャック。あんた、フィアカラは血の術が使えないはずだ、と言っただろ。何でなんだ?」
「わたしも不思議に思ったわ。あの男はこちらに来て一年にしかならないはずだわ」
「そのことか。それは彼が〈鉄牢〉に繋がれていたからだ……」
雲を踏むような〈低き道〉を歩きながら、ジャックは少し躊躇《ためら》った。その理由を説明するには、先祖の恥ずべき罪について話さなければならないからだ。
「〈鉄牢〉は実際には鉄を使っているわけじゃない。鉄が魔法を通さない性質があることと似ているからそう呼ばれただけだ。何百年か前、僕の先祖は妖素を選択的に通したり通さなかったりする非物質的なフィルターのようなものを考案した。初めは、それは水や空気から効率よく妖素を集めるためのものだったんだ。だがある時からそれは別の目的に用いられるようになった。〈鉄牢〉だよ。あらゆる魔法に加えて妖素も通さない膜で覆《おお》われた小空間だ。〈鉄牢〉の中の空気はここと同じで妖素を全く含まない。内部は光も音もなく、一切の魔法が使えない」
「だが、それでも最低二年は血の中に妖素が残るだろう。奴がそこにいた一年を足してもあんたと同じくらいは血の中に妖素が残ってるんじゃないか?」
「いや。〈鉄牢〉に送られる囚人《しゅうじん》はまず全身の毛を剃《そ》られ、少しずつ血を抜かれる。その血を〈鉄牢〉を形作っているのと同じフィルターを通し、完全に妖素を取り除いてから血管に戻すんだ。血中《けっちゅう》妖素が消えたら囚人は〈鉄牢〉に移され、出入り口は封印される。二度と外に出ることはないからだ。囚人が死ねばそのまま〈鉄牢〉が棺《ひつぎ》となる」
「ゾッとする話だな」
「ああ。〈鉄牢〉を発明したことは、僕の先祖が犯した最大の罪だ」
「では、あの男はどうやって脱走したの? 手引きする者などいなかったはずだわ。皆、あの男には愛想《あいそ》を尽かしていたのだもの」
シールシャが言った。尤《もつと》もな疑問だ。フィアカラの嘘と傲慢《ごうまん》に一番うんざりしていたのは彼女だろう。
「おそらく、指だ。彼の左手は義手《ぎしゅ》だった。血中に妖素がなくなっても骨には残る。つまり……」
レノックスが素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。
「うへっ、解った! それ以上言うな!」
「ああ。つまり、そういうことだ」
フィアカラが正気でないという推測の根拠は、それだった。〈鉄牢〉には何一つ持ち込めない。フィアカラが指を切断し、骨をすり潰すのに用いた道具は自身の歯しかなかった筈《はず》だ。
彼は、喰ったのだ。
そして指の骨に含まれる〈妖素〉によって再び魔法が使えるようになり、脱出を果たした。その後、追っ手を振り切るため〈地獄穴〉に飛び込んでこの世界に逃げ延びたのだろう。
「気の毒ではあると思う。彼がそうなった責任の一端《いったん》は僕にある。だから僕が始末をつけなければならないんだ」
狼ラムジーが尻尾《しっぽ》を振りながら短く吠えた。闇の中に見覚えのある公民館の建物が明るく視《み》える。集会所へ通じる出口を見つけたらしい。ジャックは、光の方へと踏み出した。
◆◆◆
アグネスは長い金髪をひねって一纏めにし、野球帽の中に押し込んだ。着ているのはごろごろしたコーデュロイのズボンとダンガリーのシャツだ。胸が少し気になるが、この図体《ずうたい》だからパっと見には男に見えるんじゃないかと思う。身長六フィート強の女の子はショーウィンドーの中の驢馬《ろば》みたいに目立つけど、男ならそうは目立たない筈だ。アグネスはそう願った。とにかく、皆が来るまでの間だけでも〈魔術者〉フィアカラにロンドンで見た巨人族の女を思い出させなければいい。
公民館の建物の中にある集会所にはもう村の人たちが集まり始めていた。いつになく大人数で、板敷きの床に並べられた折畳《おりたた》み椅子は既に九割方が埋《う》まっている。アグネスは汗をぬぐった。スチームと人いきれでじっとしていても汗ばんでくる。
「アグネス。平気かね?」
ヘイミッシュが小さい声で尋ねた。
「平気平気! いざとなったらこれがあるし」
シールシャに貰《もら》った煙水晶《ケルンゴーム》のペンダントに手を触れる。そうしているとシールシャに守られている気がして何となく心強かった。
もうじき集会が始まる。レミントン・コールは来るだろうか。ぶるっ、と背筋に震えが走った。あんなやつ怖くない。これは武者震《むしゃぶる》いなんだから――。
そのとき、込み合うフロアの中に薄くなった金髪をいがぐりに刈り上げた熊のような大男がのし歩いているのを見つけた。父のアンガス・アームストロングだ。
「親父だわ、ちょっと行ってくる!」
アグネスは人込みを掻《か》き分《わ》けて父親に走り寄った。
「父さん。話があるんだけど」
「何だ? アグネス。おまえ、町の友達のとこに泊まりに行ってんじゃなかったのか」
アンガスはそう言ってつらつらとアグネスを眺めた。
「なんて色気がない格好《かっこう》なんだ? まるで男だぞ。少しは姉さん達を見習ったらどうだ」
「そんなこと、どうでもいいじゃない! ねえ、大事な話なんだけど」
「あとにしてくれ。こっちもこれから大事な話だ。コール氏が来るからな」
「その話よ! コールに協力しないでよ、あの男、悪い奴なんだから!」
「何言ってんだ? このバカが。村の発展のために金を出してくれる奇特《きとく》なお人だぞ」
「父さん、あの人は人殺しよ!」
ラノンだとか妖精だとか悪い魔法使いだとか、そういう話をしたって無駄なのは分かっているので、とりあえず一番分かりやすい話で行くことにしたのだ。
アンガスは、目をしばたいた。
「お前いったい何バカなこと言ってんだ?」
「本当よ、この間ロンドンで見たんだから!」
「ああ? 夢でも見たんじゃないのか? まあ、金を出してくれるなら人殺しだろうと何だろうと構わんがな」
「何てこと言うのよ! そのお金だってきっと汚いお金なんだから!」
「バカが。金にきれいも汚いもないもんだ、金は金なんだよ。バカ娘のお前にゃ分からんだろうがな、このバカめ」
「バカバカって何よ! 父さんの方がバカじゃない! ガキにだって分かるわよ、汚いお金で村が良くなるわけないってことくらい!」
「親に向かってバカだと? このバカ娘が! 大人にゃ大人の事情ってもんがあるんだ、バカなことを言ってないで先に家に帰ってろ! 村に観光客が押しかけて店が儲《もう》かったらもっとましな服を買ってやるからな」
「父さん!」
アンガスはそのまま背を向けて上座《かみざ》の方へ向かった。
服なんか欲しくないのに! ホントにバカなんだから!
アグネスはぷりぷりしながら壁際のヘイミッシュの隣の席に戻った。
「ダメだった。親父ときたら、全然取り合ってくれないんだもの」
「ガスは昔から頑固一徹《がんこいってつ》だったからなあ」
それで思い出した。ヘイミッシュと父とは幼馴染《おさななじ》みなのだ。今でも父をガスと呼ぶのはヘイミッシュだけだ。
「来たぞ」
ヘイミッシュが小声で言う。ハッとして上座に眼をやった。カウンシルの職員に案内されて上座の後ろを孔雀《くじゃく》のような男が歩いて来る。アグネスは野球帽を目深《まぶか》に被《かぶ》りなおし、つばの陰からじっと男を観察した。
派手派手しい服装、肩にかかる黒髪、燕《つばめ》の背のような口髭《くちひげ》、くどいくらいにハンサムで厭味《いやみ》な顔。
「間違いないか?」
小さく頷いた。
「百%確かよ」
間違いない。〈魔術者〉フィアカラだ。折畳みの長テーブルにクロスをかけただけの即席の雛壇《ひなだん》の真ん中の席で高々と足を組んでそっくり返っている。隣に並んでいるのは地方自治体委員《カウンシラー》と教区主任代理司祭《ヴィカー》のマッケイ牧師、それに教区委員の人たち。雛壇の端に父の姿を認めて恥ずかしくなった。郵便局長の肩書きで割り込んだのだろう。
地方自治体委員のミズ・フィオナ・マッカランがマイクを握ってコールを紹介した。
「こちらがクリップフォード村の観光開発にご協力下さるレミントン・コール氏です。氏は我がクリップフォードの大ストーンサークル復元に並々ならぬ関心を寄せられ……」
ぱらぱらと拍手が起こる。
ミズ・マッカランは続いて夢のような村の将来の青写真について話し始めた。
「大ストーンサークルが復元されればヨーロッパ最大のものになります。学術的にも重要ですが、それ以上に人を惹きつける魅力溢れるものになるでしょう。ストーンヘンジのことを考えてみて下さい。観光客は倍増、いや三倍増になるかも知れません。さらに巨石観光は季節を問わないのでオフシーズンがなくなります」
会場からほう、という声があがる。
「では、村として大ストーンサークル復元に賛成、ということで宜《よろ》しいですね?」
そのとき、突然隣のヘイミッシュが手を挙げて言った。
「儂《わし》は、反対だ」
前の席の人たちが驚いたように一斉に振り返る。アンガスがミズ・マッカランからマイクを引ったくった。
「ヘイミッシュ、観光客が大勢くればあんたのとこのファームハウスだって潤《うるお》うんだぞ」
「客は今だって充分来ている。そうは思わんかね? ガス。これ以上の観光客が押しかけて来て村で受け入れられると思うか? 泊まり切れない客がキャンプ場に溢れるぞ」
「構わねえじゃないか、それでも……」
「そうかな? ダンカン、おまえさんはキャンプ場の客のマナーが悪いとこぼしてなかったか?」
キャンプ場近くに羊の放牧場を持つダンカン・マクラウドが頭を掻く。
「ああ。ありゃ、客に問題があったさ……」
「何があったんだったかね?」
「ウチの羊の背中にスプレーペンキで卑猥《ひわい》な悪戯《いたずら》書きを……」
間延びした笑いが会場を覆う。
アグネスは感心した。羊落書き事件はもちろん村中が知っていた。でも今さらなその事件を持ち出すことで観光客が増える弊害《へいがい》を思い起こさせ、さらに時間を稼《かせ》いでいるのだ。
「それに、ごみの問題もある。村のキャンプ場には本格的な浄水施設がない。川が汚れたらどうする? 村自慢の地エールが不味《まず》くなるぞ。もう飲めなくなるかも知れん」
エールが飲めなくなると聞いて呑兵衛《のんべえ》揃《ぞろ》いの村の男たちの間に動揺が広がった。
エールがなくなったらそりゃ困る、他所《よそ》のエールなんざ飲めるかい――そんな囁きがあちこちから漏《も》れる。ヘイミッシュは畳みかけるように続けた。
「エールだけじゃない。いったい、この村に来る都会の人間は何を求めてくるんだと思う? 手付かずの自然、昔ながらの素朴《そぼく》な暮らし方、そういったものを求めて来るのじゃないのかな? 大規模な観光開発でそういったものが壊れてしまったら元も子もないんじゃないか? ここは儂らの故郷だ。クリップフォードの歴史と自然は、儂らの誇《ほこ》りじゃなかったのか? それこそが真の豊かさというものじゃないだろうか。その価値を知っているからこそ、都会の人間はここに羽を休めに来る……」
会場はしん、と静まり返っていた。ヘイミッシュの口から滔々《とうとう》と流れ出す言葉にみな呑まれている。日頃|寡黙《かもく》な彼がこんなに長く、情熱的に話すのを誰も聞いたことがなかったのだ。
上座の方からぱん、ぱん、と大きな拍手が響いた。皆の注意が一斉に向けられる。
レミントン・コール――フィアカラが足を組んだまま拍手していた。
「いや、実に見上げた郷土愛だ。感服《かんぷく》したよ。貴殿《きでん》の名は?」
ヘイミッシュは真っ正面からフィアカラを睨みつけ、短く吠えるように答えた。
「ヘイミッシュ・マクラブ」
「マクラブ〈小さな狼〉か。なるほどな」
口髭を青く照《て》り映《は》えさせてにやりと笑う。
[#挿絵(img/Lunnainn4_133.jpg)入る]
「マクラブ氏のご心配は尤もだ。だが、心配には及ばない。それら全ての問題を解決するための資金を提供しよう。キャンプ場と浄水施設の整備、それと大型ホテルの建設だ。ホテルの名称は何がいい?」
精肉店を営《いとな》むゴードン・マクミランがおずおずと言った。
「あの、クリップフォード・ロイヤルホテルっていうのはどうかな……」
「それだ! クリップフォード・ロイヤルホテル。硝子《ガラス》の吹き抜けとシャンデリア、それにプールとテニスコートがある豪華ホテルだ」
クリップフォード・ロイヤルホテル――前の方の数人が魔法をかけられたみたいに前のめりに腰を浮かせて呟く。
「もちろん、全天候型の屋内施設になる。今後は、天気が悪いからといって客が二の足を踏む心配はなくなるわけだ」
夢見るような溜め息が集会場のあちこちから聞こえる。フィアカラはぐるりと会衆を見渡し、畳みかけるように言った。
「それに、十八ホールのゴルフ場だ!」
おお、と会衆はどよめいた。
屋内プールにテニスコートにゴルフ場……近隣の村のどこにもないじゃないか――。
明らかに形勢が悪くなっている。ヘイミッシュが声を大きくした。
「みんな、よく考えるんだ! 外の資本のホテルで村が潤うと思うのは大間違いだぞ。ホテルの客はホテルのレストランで飯を食い、ホテルのインショップで買い物をするだけだ。それに、ゴルフ場は自然を破壊する」
給油所のスコット・マクリーが呟く。
「けどホテルが出来れば職が増えて若いもんが都会に行かなくて済むようになるよなあ」
会場のあちこちから賛成の声があがる。
「自然は腐《くさ》るほどあるだろうが。ちょっとぐらい減ったってどうってことないだろう」
「今だって商店街は閑古鳥《かんこどり》で儲かっていないしな。ホテルに納入するようになりゃ、それこそ売り上げ倍増じゃないか」
「そうだよな。ヘイミッシュの言うことは理想論だ。理想じゃ腹は膨《ふく》れないからな」
クリップフォード・ハイストリートの商店主たちが頷き合う。もちろん、父のアンガスもだ。アンガスは賛成派の筆頭《ひっとう》なのだ。父は集会場に響き渡る大声で言った。
「俺は、コール氏の計画に賛成だ。良いことずくめじゃないか。なあ、みんな?」
恥ずかしさと腹立たしさで顔が真っ赤になるのが判る。親父と来たら、金儲けのためにフィアカラのお先棒《さきぼう》担《かつ》ぎだなんて!
「よし、多数決で行こう。サークル復元に賛成の者は挙手《きょしゅ》!」
一斉に手が挙がった。アグネスは慌てて辺りを見回した。ほとんどの手が挙がっている。手を挙げていないのは、アグネスとヘイミッシュだけだった。思わず立ち上がりかけたアグネスの腕をヘイミッシュが掴む。
「やめておけ」
「でも……」
フィアカラがにやりと笑う。
「決まりだな」
テーブルの上に置かれたアタッシェケースの留め金をぱちんと外した。中には、五十ポンド札がぎっしりと詰まっていた。まっとうに働いていたら、一生お眼にかかれないような大金だ。
「紳士|淑女《しゅくじょ》諸君。ストーンサークルは全てオリジナルの石で復元する。よって君等《きみら》の家に使われている大ストーンサークルの石を全て買い取りたい。巨石の破片ひとつにつき十ポンドだ」
「そりゃあ、豪気《ごうき》だ」
みな、目の色が変わっている。それはそうだ。巨石の破片を千個や二千個使っている家は多いと思う。千個で一万ポンド。家を増築したり、新品のトラクターを買える額だ。
「買い取り契約はこの場で受け付ける。石のありかを教えてくれさえすれば、あとは全てこちらで処理しよう。もちろん、石を新品と交換する工事費用も全てこちら持ちだ」
巨石を使った家に住んでいる村の人たちは我先にと雛壇に殺到《さっとう》し、フィアカラが用意した用紙に石を使っている建物や家畜囲いの場所を書き入れている。
ああ、どうしてみんなそんなに簡単に騙されるのよ!? そいつは人殺しで女の敵で悪い魔法使いなのに!
出入り口のドアをちらちらと振り返る。ジャック王子たちはまだなのだろうか? ラムジーはすぐ来るって言ったのに……。
雛壇の前の行列はどんどん短くなってきていた。このままではフィアカラの思い通りに進んでしまう。
こうなったら、一か八かこっちの正体を明かして時間を稼《かせ》ごう。危なくなったらシールシャがくれた魔法の水晶を使えばいい。
アグネスが野球帽に手をかけ、ばさりと脱ぎ捨てようとしたそのときだった。
後ろの出入り口の扉が音を立てて開き、熱せられた室内の空気の代わりに涼やかな戸外《こがい》の風が流れ込んで来た。
来た!
アグネスは椅子から飛び上がって振り向いた。
「もう! 遅かったじゃな……」
言いかけた言葉を呑み込む。
開いた戸口に立っていたのは、思っていた人物じゃなかったのだ。
アグネスの目に飛び込んできたのは、コートを裏返しに着たイザベル・マクラブとトマシーナ・キャメロンの姿だった。
イザベルはトマシーナの手を引っ張り、左右の椅子の間の通路をつかつかと雛壇に向かって直進した。
「皆さん。その男を信じてはいけないわ」
5――公民館の攻防
クリップフォードでは長い間〈十二夜《じゅうにや》〉の期間中に〈輪〉を回すことはタブーとされていた。水車で麦を挽《ひ》くことも、バター攪拌機《かくはんき》でバターを作る事も、荷車で荷を運ぶことも、糸を紡《つむ》ぐことも禁じられた。従ってそれらの用事はクリスマスが終わるまでに済ませておかなければならなかった。
[#地付き]〈クリップフォード村の歴史と伝承〉より
◆◆◆
イザベルおばさん……?
アグネスは目を丸くしてイザベルを見つめた。
何だか雰囲気が違うのは、いつもきっちり結《ゆ》っている黒髪を下ろしているせい? でもそれだけじゃなく、どこか違うような気がする。どこが、とは言えないんだけど……。
イザベルはトマシーナを従え、白々とした螢光灯《けいこうとう》の灯《あかり》の下を突き進んだ。一度振り返り、大丈夫よ、という顔で微笑《ほほえ》む。それから雛壇《ひなだん》の行列の最後の一人であるスコット・マクリーに向かって鋭い声を浴びせた。
「あらあら、マクリーさん、考えなしにサインしては駄目よ!」
マクリーはぴくりとペンを止め、契約書から顔を上げた。石の在《あ》り処《か》は既に書き記されているけれど、サインはまだだ。
「よかった、まだサインはしていないわね? 契約書にサインするときは裏も表も細かい字までよく読んで、それからじっくり検討するべきじゃなくて? うまい話には裏がある、と言うでしょう?」
「マクラブ夫人……」
「皆さんもよく考えて。この集会ときたら、まるでパーティー商法の即売会場みたいですよ。ミスタ・コールは確かに大金をお持ちだけれど、彼がいったい何者なのか誰も知らないでしょう? そんな人の言うことを簡単に信じて村の未来を託《たく》していいのかしら? これはわたしたち全員に関わることなんですよ」
レミントン・コール――魔術者フィアカラは足を組んだままニヤリと笑った。
「魅力的なご婦人が私を信用して下さらないとは実に悲しいですな。お名前を伺《うかが》っても宜《よろ》しいですかな?」
「マクラブよ。あたしの名はイザベル・マクラブ。旧姓もね。〈小さな狼〉氏族の出身よ。意味はお判《わか》りでしょう」
「なるほど。末の息子さんはお元気ですかな」
「ええ、ぴんぴんしていますことよ。お陰さまで、ね」
言っていることは何気ないのに、二人の間には火花が散っているようだった。イザベルは顔にかかる髪をさっと振り払い、出席者たちの顔を順繰《じゅんぐ》りに見回した。
「ねえ、皆さん。そんなに急ぐ事はないんじゃないかしら。一度家に帰ってゆっくり考えてみた方が良いのではなくて? 契約するのは、そうね、年が明けて〈十二夜〉が終わってからでも遅くはないんじゃない?」
フィアカラの指が神経質に机を叩く。
「何を知っている? ミセス・マクラブ」
「さあ、何かしら。たとえば、あなたがストーンサークルで何をしようとしているとか、契約を急いでいる理由、とかかしら」
地方自治体委員《カウンシラー》のミズ・マッカランが手を挙《あ》げた。
「その理由とは? ミセス・マクラブ」
「お話ししても信じて頂けるかどうか。でも、ミスタ・コールを信じてはだめ。彼が邪悪な人物だということははっきりしているわ」
「そういうことを憶測で言うべきでないでしょう、ミセス・マクラブ」
何も知らないマッケイ牧師がのんびりと言う。
「憶測ではないわ。いいでしょう。お話ししますわ……」
イザベルは一度ゆっくりと瞬《まばた》きし、それから頭をあげて左右の席をぐるりと見渡した。
「今ではほとんど廃《すた》れてしまったけれど、かつてこの村にさまざまなタブーがあったことを皆さんご存じでしょう? その一つは〈林檎の谷〉の〈時林檎《ときりんご》〉の実を食べること、もう一つは七人目の子を産むこと」
会場は水を打ったように静かになった。皆、イザベルが七人の男の子の母親だと知っているからだ。彼女の義弟で、やはり七人目だったセオドア・マクラブが心の病に悩まされて自殺したことも。
「あらまあ皆さん、そんな顔をなさらないで」
皆の緊張を解きほぐすように彼女はにっこりと笑った。
「ええ、皆さんご存じの通り、あたしには七人の息子がいますわ。ラムジーは七番目です。あたしは若かったからタブーなんて信じなかった。言い伝えは真実ではなかったけれど、嘘でもなかった。そのせいでラムジーもわたしたち家族も辛《つら》い思いをすることになったわ。でも、言い伝えの本当の意味を知ることで乗り越えることが出来たんです。タブーにはちゃんと意味があったんですよ。例えば、ほんの半世紀前まで〈十二夜〉に〈輪〉を回してはならない、というタブーが存在していたことを覚えている方もおられるでしょう。〈十二夜〉に糸紡《いとつむぎ》をしてはいけない、バター攪拌機を回してはいけない。災いが村を襲うから、って」
ダンカンが手を挙げる。
「その話は祖母《ばあ》ちゃんから散々聞かされたよ。けど、迷信だよな。年末にバター攪拌機を回したって何もおきやしない」
「もちろん、バター攪拌機には災いをもたらす力はありませんわ。タブーの〈輪〉とは本来は大ストーンサークルのことだったんですよ。〈輪を回す〉とはストーンサークルを元の形にすること。それがタブーの本当の意味だったの。ミスタ・コールが契約を急ぐのは〈十二夜〉に拘《こだわ》っているからよ。彼は〈十二夜〉に〈輪〉を回そうとしているんですよ」
アンガスが口を挟んだ。
「〈十二夜〉明けまでは一週間しかないぞ。この年末に工事が始まるわきゃねえだろう」
イザベルはフィアカラを見据《みす》えて言った。
「いいえ、彼はこの〈十二夜〉の間にストーンサークルを復元することが出来るんですわ。石が揃《そろ》いさえすればね。だから大盤振る舞いに見せかけて石を買い叩こうとしているの。彼にとっては端《はし》た金だから。そうでしょう? ミスタ・コール?」
フィアカラは可笑《おか》しくて堪《たま》らないというように笑い出した。
「全く、夫婦そろって大したものだ。ミセス・マクラブはご主人のストーンサークル復元の反対を後押しするためにおいでになったわけですな。そのために村の伝承まで持ち出すとは恐れ入ったことだ。だが、そんな忘れられた伝承など、誰も気にしてはおらんよ。貴女《あなた》が何を言おうと、ストーンサークル復元は村の総意なのだ」
「ええ、そうかも知れませんわね。でも、あたしの家の石は売らないし、場所もお教えしませんわ」
「これは意地の悪いことを言われますな。だが、こちらとしてはどうしても話して頂かなければならんのでね」
言いながらすっと席を立った。スローモーションのようにゆっくりと一歩ずつイザベルの方に向かっていく。イザベルは通路の真ん中で仁王立ちになったままフィアカラを睨んでいる。
フィアカラが朗々《ろうろう》と唱《とな》え始めた。
「イザベル・マクラブ。これより汝《なんじ》の口から出る言葉はすべて……=v
トマシーナが両手で口を押さえて無音の悲鳴をあげる。
いけない! トマシーナに使った〈真実の舌〉の魔法を使う気だわ!
今こそ魔法の水晶を使う時だ。
胸元の煙水晶《ケルンゴーム》に手を伸ばしたアグネスは顔色を失った。緊張のあまり、教わった筈の使い方が頭の中からきれいサッパリ消えているのだ。
心の中で地団駄を踏む。
あたしのバカバカ! こんな時に……!
その瞬間、凛《りん》とした声が部屋中に響き渡った。
「開きなさい!=v
その声が届くか届かないうちに首に下げられた煙水晶から何か黒いものが飛び出した。それは真っ黒なようにも見えたし、キラキラする光を帯びているようにも見えた。黒いものは瞬きするほどの間にフィアカラとイザベルの間の空間に広がり、寒冷紗《かんれいしゃ》の薄幕《うすまく》のように垂れ下がった。幕に手を触れたフィアカラが悪態《あくたい》をついてひっこめる。
「……すべて真実と……くそ! 無効化しおったな! 〈晶壁《しょうへき》〉か!」
「その通りだわ、フィアカラ。その幕は悪意あるものはすべて遮断《しゃだん》する。人も魔法もね」
アグネスは振り返った。魔女シールシャが戸口に立っていた。
嬉しさのあまり飛び上がりそうになる。
「シールシャ!」
「アグネス、大丈夫だった?」
「全然大丈夫!」
つむじ風のように銀色の狼《おおかみ》が走り寄ってくる。ラムジーだ。続いてジャックとレノックスが会場に足を踏み込んだ。半妖精のケリも一緒だ。
氷が溶けるみたいに安堵が広がる。
「もう! 遅いじゃない!」
「済まん、ちと手間取っちまってな!」
レノックスがニッと白い歯を見せて笑う。このバカでかい図体《ずうたい》をしたブルーマンがこれほど頼もしく見えたのは初めてだった。狼ラムジーがイザベルの足元に駆け寄り、四肢《しし》を踏ん張って尻尾《しっぽ》を振り回す。
「マクラブ夫人、犬は困ります」
「犬じゃないわ。この子は狼よ」
イザベルが狼の頭に優しく手を置く。ミズ・マッカランは目を丸くし、それからジャックたちに視線を向けた。
「あなた方は? これは村の集会なので部外者はお断りしているんですけれども」
「部外者というならそこにいる男もそうだろう」
ジャックがフィアカラを指さす。
「ミスタ・コールは村の観光事業への出資者ですから……」
ミズ・マッカランがそう言いかけたときだった。
ひ、という奇妙な音が室内に響いた。
出席者たちがギョッとした様子で振り返る。
フィアカラだった。
フィアカラが笑っているのだ。眼をぎょろりと剥《む》き、ジャックを凝視しながら痙攣《けいれん》するように笑っている。
ひ! ひ! ひ! ひ! ひー……っ!
ハンサムな顔が奇妙に歪《ゆが》み、唇からつーっ、と涎《よだれ》が糸を引く。
出席者たちは唖然《あぜん》としてフィアカラの狂態をただ眺めるだけだった。
「あの……ミスタ・コール……どうかされましたか……?」
ようやく言葉の接《つ》ぎ穂《ほ》をみつけたミズ・マッカランが恐る恐る声を掛ける。
「あ、いや、これは失礼。気にしないでくれたまえ。何でもない、何でもないですぞ……」
慌てたように舌が誕を舐《な》め取《と》る。それでも熱っぽく潤《うる》んだ視線はぴたりとジャックに注がれたままだ。
「これはこれは……! ようこそ、ジャック王子。ここでお会いできるとは意外でしたな。御《お》出でになられるとは思いませんでしたよ。私がやった迎えはお気に召しませんでしたかな?」
「フィアカラ。お前の趣味の悪さにはうんざりしたよ」
「いや、確かに! あれはあまり良い趣味だったとは言えませんでしたな、デュアガーに貴方《あなた》に関する処理を任せたのは。彼奴《きゃつ》はあまりに粗野《そや》で武骨だ。貴方を地面の染《し》みに変えるなどと、あまりに勿体《もったい》なさ過ぎた。だが、こうしてまたお会い出来たのは女神のお導きに違いない。この私が自《みずか》ら御持《おも》て成《な》し申し上げましょう。たっぷり時間と手間をかけさせて頂きますぞ」
「遠慮しておくよ。それより、お前は何を企《たくら》んでいるんだ? 何のために大ストーンサークルを復元しようとしている?」
「もちろん観光事業のため、ひいてはこのクリップフォード村のためと言うところですかな。村の方々のご理解も頂いている。今さら貴方が口出しする余地なぞありませんからな」
「村のため、か。ならば住人の反対に遭《あ》ったらどうする? 彼らから石を買い取っただけでは大ストーンサークルは復元できないことは承知の筈だ」
ジャックは後ろを振り返った。
「ケリ」
「はい」
後ろの方にいたケリが一番前に出る。
「僕はケリ・モーガンと言います。ラムジーの友人です。僕、コール氏の部下の人から聞いたんです。ストーンサークルの巨石が一番多く使われているのはクリップフォードの中心にある諸聖人《しょせいじん》教会で、だからミスタ・コールは教会を壊してその石でサークルを復元するつもりだと言っていたって……」
ケリの発言は、煮立った豆の鍋に投げ込まれた爆弾みたいな効果をもたらした。
「そりゃ、本当か……?」
「そういや、じいさんから聞いたような気がするぞ。わしらの教会は異教の石で出来てるとか、だから霊験《れいげん》があるとかなんとか……」
「ああ、なんか俺も聞いた。この村がずっと安泰だったのは諸聖人教会のおかげだと」
ミズ・マッカランがおずおずと口を開く。
「ミスタ・コール、あの少年の話は本当ですか……?」
「だとしたらどうなんだね?」
「いくらなんでも教会を取り壊す訳には……。あの教会は私たちの先祖が造り、代々受け継いできた大切な遺産なのですから。残念ですが、この話は白紙に……」
「遅い! 手遅れなのだよ。諸君は既に契約書に石の在り処を書き記したのだ。あとはストーンサークルを元通りの姿にするだけだ」
村の出身で教区主任代理司祭《ヴィカー》のマッケイ牧師が立ち上がった。
「だが、教会はお売りしませんぞ!」
「誰が買うと言ったかね? 教会は使わせて頂く。欲しいものの在り処さえ判れば貴様らに金を払う必要がどこにある?」
会場は一瞬しん、と静まり返り、次の瞬間再び騒然となった。
「そんな言い草があるか! 俺たちの教会は渡さねえぞ!」
「教会は皆の心の拠《よ》り所《どころ》だ。何百年も守って来たものを、俺らの代で壊すなんてとんでもない!」
「そうだ! 帰れ! 俺んちの石だって売るもんか!」
フィアカラがせせら笑う。
「誰がこんな貧乏臭い村に長居するものか。すぐ帰るとも。貴様らの家から石を抜き取ったらな!」
アグネスの目に雛壇の上に積まれた契約書が映った。
そうだわ、契約書!
えいやっ、と野球帽を脱ぎ捨てると押し込まれていた髪が勢いよく溢《あふ》れ出した。髪の一房に結んである水色のリボンを解《ほど》き、結び目を指でたぐって数える。シールシャがくれた三つの結び目のうち、〈風の伝言〉は使ってしまった。でも、あと二つ残っている。〈強風〉と〈微風〉だ。アグネスは〈強風〉の結び目を解きにかかった。サテンの結び目はすべすべと滑《すべ》る。懸命に爪を立て、ようやく硬く結ばったリボンがするっと緩《ゆる》んだ。
どこからともなくゴーっという音が響いてくる。はたはたとリボンがはためく。
来た!
突然、凶暴な風が室内を駆け巡った。バタバタと椅子がなぎ倒される。出席者たちは悲鳴を上げ、互いに抱き合った。目を開けていられない。雛壇のテーブルクロスが吹き飛ばされる。
アグネスは両足をぐいと踏ん張り、なんとか薄く目を開いた。風に巻き上げられた契約書が枯れ葉みたいに部屋中を舞い飛んでいる。
「みんな! 契約書を取り戻して!」
声を限りに叫ぶ。座り込んだり顔を覆《おお》っていた村の人たちは部屋中に舞い散る契約書を捕まえようと躍起《やっき》になった。
「巨人の小娘が、やりおったな! 捻《ひね》り潰《つぶ》してくれる!」
フィアカラが物凄《ものすご》い形相《ぎょうそう》でこっちを睨んでいる。アグネスは血の気が引くのを感じた。魔法の水晶はもう無い。
「アグネス!」
シールシャの鋭い声が響いた瞬間、黒いヴェールのような〈晶壁〉がさっと広がってフィアカラを阻《はば》んだ。
「無茶はしないでと言ったでしょう。後は任せて!」
「シールシャ、ごめん……」
「ううん、おまえはよくやったわ。おまえの勇気をわたしに分けて」
彼女はくるりとフィアカラに向き直った。
「フィアカラ! アグネスを傷つけることは許さないと言った筈よ」
「おや、私の可愛い小鳥ではないか。そろそろ私が恋しくなったのではないかね? 素直に謝るなら戻ることを許してやってもいいのだよ」
「おまえの自惚《うぬぼ》れにはうんざりだわ」
風はもう止《や》んでいるのに契約書は宙に浮かんでいる。シールシャが操《あやつ》っているのだ。その一枚ずつがひらひらと飛んで村人たちの手にゆっくりと舞い降りていく。それを確認したシールシャは右手を高く掲《かか》げた。
「風=I」
ヒューッ、という笛のような音が耳をつんざく。空気の流れが、まるで蛇《へび》のように見えた。八方から空気の蛇がフィアカラめがけて襲いかかる。フィアカラが咄嗟《とっさ》に放った魔法が六匹までを切り裂き霧消《むしょう》させたが、残る二つの流れはほとんど原形を保ったまま突進していく。一瞬、フィアカラの身体が宙に浮いたかと思うとそのまま吹き飛ばされ、派手な音を立てて雛壇のテーブルに突っ込んだ。
「なんと、これが師匠に対する仕打ちとは! さては、私に捨てられた腹いせか!」
「バカなことを言うのは止めて。わたしがおまえを捨てたんだわ、おまえに捨てられたんじゃない!」
「負け惜しみかね、醜《みにく》い小鳥。魅力のない女は往々《おうおう》にして捨てられたことを認めたがらないものだ。特にお前のような貧弱な小娘は」
「ほざくがいいわ。わたしはもうおまえの言葉に傷つきはしないのだから」
再び彼女は風を放った。唸《うな》りを上げ空気の塊《かたまり》が襲いかかる。顔が歪む。雛壇が大きな音をたててひっくり返り、吹き飛ばされたフィアカラを風圧が壁に貼り付けた。
「おまえが捉《つか》まえていた〈同盟〉の妖精たちは一人残らず助けたわ。今ごろ散り散りに逃げている筈」
「なんだと……? この恩知らずめ……」
「諦めてこの村から立ち去りなさい。そして二度とわたしたちの前に顔を出さないで」
シールシャの黒い双眸《そうぼう》は夜空の星を映したようにきらきらと輝いていた。小柄でほっそりとした躯《からだ》の内側から何か圧倒的な力が滲《にじ》み、小さな躯がひどく大きく見える。
これが、〈風の魔女〉と呼ばれたシールシャなんだ。
でも、どうしてフィアカラは反撃しないの? 〈妖素《ようそ》〉の手持ちがないから? 〈時林檎〉をみんな手に入れた筈なのに……。
「ふん。言われなくても貧相《ひんそう》なおまえの顔など二度と見たくもないね」
「だったら、さっさと消えたらどうなの」
風の圧力が弱まり、フィアカラの身体がずるずると床に滑り落ちる。そのとき、皆の背後を忍び足で奥へと向かう一人の男の姿が目に留まった。小柄だが、がっちりしている。村の人じゃない。妖精? 誰?
小男は壁に背をつけて〈晶壁〉の隙間をすり抜け、フィアカラに駆け寄った。
「フィアカラの旦那!」
「おお、デュアガーか。これは良いところに来てくれた」
デュアガー? フィアカラの手下だ!
フィアカラが耳まで裂けるようにニンマリと笑った。右手の指が複雑な形に動き、宙に印《いん》を描く。
パーン……ッ。
乾いた音をたてて白熱した波が空を走った。
白い閃光《せんこう》が網膜《もうまく》を灼《や》く。
この世のものとも思われない凄まじい悲鳴が室内に響き渡った。同時にデュアガーの身体のあちこちから勢いよく白い煙が吹き出し始めた。
燃えている。
デュアガーが燃えているのだ。
しゅうしゅうと音をたて、デュアガーは直立したまま暖炉の中の泥炭《でいたん》のように燃えている。
ぷすぷす、ぱちぱちと音を立てて表皮が爆《は》ぜる。ぱさり、と燃える表皮が衣服と一緒に焼け落ちた。内側に溶岩のように灼熱《しゃくねつ》した赤が覗く。耳や口や鼻のあった場所からひっきりなしに煙と湯気が吹き出した。炎の舌がちろちろと漏《も》れ、空っぽの眼窩《がんか》から射す光が奇怪なハロウィンのランタンのように見える。だが、すぐ近くにいるフィアカラは涼しい顔だ。まるで熱が外には漏れずに内側を向いているようだった。炎に身体が焼かれているのではなく、身体そのものを燃料にして内側から燃えているのだ。
血と肉と骨が焼け焦《こ》げる臭《にお》いが室内に充満していく。
全員が顔色を失くしていた。どた、という音に振り向くとミズ・マッカランが気絶してマッケイ牧師に支えられていた。
蒼白な顔をしたシールシャがやっとのことで言葉を搾《しぼ》り出《だ》した。
「何と言うことを……。フィアカラ、その男はおまえの部下だったのではないの……」
「その通り。部下をどう使うかはあるじたるこの私の裁量《さいりょう》だからな」
たぶん、ほんの数十秒の間の出来事だった。
デュアガーだったものは見る間に燃え尽き、ガラガラと崩れ落ちた。骨も残っていない。床には小さく丸い焦《こ》げ跡《あと》がつき、砕《くだ》けた灰がその床にうずたかく積もる。
灰が青白く光った。
妖素だ。
「礼を言おう、デュアガー。おまえは実に役に立つ部下だ。いや、部下だったぞ」
フィアカラが手を上げ、一本指で手招きした。応《こた》えるように灰がさらさらと立ち上がる。灰は白い蛇のように一本の筋となって宙を飛んだ。フィアカラが掲げた手の少し上、空中に浮かんだ見えない硝子《ガラス》の玉に収まるようにするすると一つにまとまっていく。
「恩知らずのお返しだ」
ハッとしたようにシールシャが振り返る。
ドンッ!
八匹の竜と化した空気がシールシャめがけて一直線に走った。〈晶壁〉が千切《ちぎ》れ飛ぶ。シールシャの身体が吹き飛ばされて集会所の壁に叩きつけられた。壁に長い亀裂が走る。
みし。みし。みし。みし……。
軋《きし》むような音をたててゆっくりと彼女の身体が壁にめり込んでいく。
「シールシャ!」
その声に応えるかのようにシールシャはクッ、と息を吐き出した。指先がぶるぶると震え、印を切る。圧力が消えた。そのままずるずると床に滑り落ちる。
アグネスは椅子を跳《は》ね飛《と》ばし、床に倒れているシールシャに駆け寄った。動かない。揺さぶると、ケホッと咳《せき》をした。唇に血の泡が散る。
「シールシャ、しっかりして!」
死んではいない。気を失っているだけだ。だけど、呼んでも呼んでも返事がない。唇から溢れる血が濃くなっていく。
「弟子の分際《ぶんざい》でこの私に逆らうからだ、愚《おろ》か者め。だが、不肖《ふしょう》の弟子でも役に立つことはある」
フィアカラの手が印を描く。さっきと同じ印だ。
パーン……ッ。
白い波が視《み》えた。
焼かれる……!
逃げたって間に合わない。固く瞼《まぶた》をつぶり、シールシャの上に覆いかぶさった。
それから一秒の半分の間にものすごくたくさんのことを考えた。死ぬんだ、と思った。こんなところで、ラムジーに告白も出来ないままで、内側から焼かれて灰になって死ぬんだ……!
死にたくない、でも焼け死ぬならすぐ終わって欲しい……。
二つ息をした。肌がピリピリする。まるで、ドライアイスに触れたみたいに熱い。
あたし、焼かれてるの……?
熱い……?
混乱した感覚が応える。
違う……これは……冷たいんだ……!
[#挿絵(img/Lunnainn4_157.jpg)入る]
目を開けようとして、慌てた。なぜか瞼が開かないのだ。恐る恐る瞼に触ってみた。
睫毛《まつげ》が凍りついている!
指で氷を取ろうとしたけれど、かじかんでいてよく動かない。
無理に取ったら睫毛が折れちゃう、と頭のどこかで考えている自分に呆《あき》れながらようやくアグネスは睫毛の氷を取り除くことに成功した。部屋の様子が見える。
部屋の向こう半分がキラキラ光る白いもので覆い尽くされている。
氷……? ちがう、霜《しも》だわ……。
壁や椅子は真っ白に凍りつき、床の隅にはさらさらと粉雪が積もっていた。
アグネスは、理解した。
ジャックがやったんだ。彼の〈霜の力〉が押し寄せる熱波《ねっぱ》を相殺《そうさい》し、さらに空気中の水分を急速に凍らせて冷凍庫の中みたいに壁や天井を覆ったのだ。
理解したとたん、寒さが身体の芯まで忍び込んできて全身が震え出した。身じろぎ一つしないシールシャの頬や髪にも白く霜が積もっている。
ジャック・ウィンタースったらやりすぎよ! 加減をする余裕がなかったことは解《わか》るけど、シールシャが凍《こご》えちゃう!
そのとき狼ラムジーがするりと駆け寄って来てふさふさとした毛皮に覆われた身体をすり寄せた。毛皮の奥の温《ぬく》もりがじんわりと伝わって、その暖かさに涙が出そうになる。
「ありがと、ラムジー……でも、あたしは平気だから、シールシャを暖めてあげて」
ラムジーは小さく鼻を鳴らし、横たわるシールシャにぴったり添うように伏せをした。
誰かがくしゃみをした。さっきまで暑いくらいだった室内の気温が一気に氷点下にまで下がったのだ。誰も彼もガチガチと歯を鳴らし、湯気のように真っ白な息を吐いている。一人が壁のフックに掛けられたコートを取りに走ると、全員が大慌てで後に続いた。
「こりゃ……暖房の故障、か……?」
腕を抱き、足踏みして寒さを堪《こら》えながら顔を見合わせる。そんなわけないじゃない、と思った。いくら十二月だからって。でも、それでもまだ信じたくないのだ。
フィアカラが忌々《いまいま》しげに舌打ちした。
「ジャック王子。いつもいつも馬鹿の一つ覚えの〈霜の力〉とは芸のないことだ」
「もう一度試すか?」
ジャックは〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉でフィアカラを見据えていた。氷河の色の〈霜の瞳〉が眼の中で大きく広がって白目の部分がほとんど無くなっている。
「つまらんね、どうせたいした魔法を見せてくれるわけではあるまい」
アグネスは痺《しび》れたみたいな頭でぼんやりと考えた。どうしてだろう。フィアカラはやっぱり妖素を惜《お》しんでいる気がする。いま丸々一人分の灰を手に入れたのに……。
「フィアカラ。おまえが何をしようとしているのかは知らない。だが、これ以上この人たちに迷惑をかけるのは止めて欲しいんだ。このまま立ち去るのなら後は追わない。〈同盟〉にも僕から話をつけよう」
「迷惑? 光栄に思って貰《もら》いたいね。屑《くず》どもが、この私の役に立てるのだからな」
フィアカラは乱れた髪をかき上げ、服についた雪をぱんぱんと払った。そのついでのように何気なく片手で宙に円を描く。
何の前触れもなく真っ黒な〈低き道〉の入り口が空中に出現した。
「これ以上話をする必要はありませんな。ジャック王子、次にお会いするのが楽しみだ。それまでせいぜいその二つの美しい眼を大切にしていてくれたまえ」
それから、アタッシェケースをむんずと掴《つか》むと中の札束を床にばらまいた。
「こんな紙切れなど、呉《く》れてやるわ」
ひゅうひゅうという音がしたかと思うと、皆が握りしめていた契約書が宙に巻き上げられ、真空掃除機に吸い込まれるようにばたばたとアタッシェケースの中に飛び込んで行った。
「それでは、失礼しよう。クリップフォード村の諸君。急ぎの仕事があるのでね。諸君の協力のお陰で二つの世界を手に入れるのに必要なものが揃ったようだ。首尾《しゅび》よく二つの世界を手に入れたら、褒美《ほうび》として諸君らは皆殺しにして差し上げよう」
フィアカラは村人たちに一礼すると真っ黒な〈低き道〉に飛び込んだ。
「待て! 二つの世界とは何だ!」
「決まっておるだろうが。この世界と、そしてラノンだ!」
フィアカラが嘲笑《あざわら》う。ジャックが〈低き道〉に向かって突進する。
宙に浮かぶ黒い穴がぐるぐる回転しながら小さくなっていく。
「さらばだ、諸君!」
空気に笑い声だけを残し、フィアカラはジャックの目前で〈低き道〉と共にぱちんと消え失せた。
逃げた……。
フィアカラの奴、逃げたんだ。
突然、現実感が戻ってきた。
アグネスはシールシャを見下ろした。抱き上げて揺さぶる。顔色は白く、ぐったりとしたままだ。
「シールシャ……シールシャが死んじゃう……」
涙がぱたぱたと落ちる。
あたしを、みんなを助けてくれたのに。
そのとき、誰かの手がそっと肩に置かれた。
イザベルだった。
「アグネス、怪我人を動かしてはだめ。〈時林檎〉をまだ持っている?」
6――クリップフォード諸聖人《しょせいじん》教会
大ストーンサークルの巨石には御利益《ごりやく》があるとされ、積極的に石材として使われた。最も多く巨石が用いられたのは村の中心に位置する諸聖人《しょせいじん》教会である。後期ゴシック様式のこの小さな教会は事実上ストーンサークルで出来ていると言っても過言ではない。〈十二夜《じゅうにや》〉の期間中にこの教会の床に身を横たえて祈ると願いが叶うという言い伝えがある。
[#地付き]〈クリップフォード村の歴史と伝承〉より
◆◆◆
ジャックはイザベルがシールシャの額《ひたい》にそっと手を翳《かざ》すのを見守った。
〈治癒《ちゆ》〉を行うという。
本当に出来るのだろうか。だが、いま〈治癒〉を使える魔術者はシールシャの他に誰もいないのだ。
イザベルが目を閉じて精神を集中する。
ぽうっ、と暖かなオレンジ色の光が彼女の指の間から漏《も》れ出《だ》した。蒼《あお》ざめ、きつく瞼《まぶた》を閉じたシールシャの顔が淡い光に照らされて顔色を取り戻したかのように見える。〈治癒〉の光だ。イザベルは本当に〈治癒〉を行えるのだ。
イザベルはその光でシールシャの身体に上から順々に触れていった。それは、シールシャがレノックスを治した時に似ていた。
睫毛《まつげ》が震えた。夜のように黒い瞳が覗《のぞ》く。
「シールシャ! 良かった!」
彼女の傍《かたわ》らで指が白くなるほど強く手を握りしめていたアグネスがぽろぽろと涙をこぼした。今まで堪《こら》えていたのだろう。シールシャはぼんやりとアグネスを見上げ、小さく笑った。
「ごめん……油断したわ……」
手の甲で唇の血を拭《ぬぐ》い、それから確かめるように胸と脇腹に触れる。
「治ってる……? 骨がみんな折れていたのに。〈治癒〉? いったい誰が……」
「あたしですよ。未熟だけれど、何とかうまく行って良かったわ」
「ラムジー君のお母さん……?」
シールシャがゆっくり半身を起こす。
「ええ。あたしは〈半魔女〉だったの。ついさっき知ったのよ。うまく出来るかどうかは半信半疑だったけれど」
「ありがとう……イザベル・マクラブ。驚いたわ。初めてにしてはとても上出来だわ」
アグネスが拳《こぶし》でごしごし涙を拭う。
「ほんと、助かって良かった……」
ジャックはほっと息をついた。ラムジーがあれだけ濃くラノンの血を引いているのだから、イザベルが半妖精である可能性はあったのだ。だが、まさか〈半魔女〉とは。しかし〈治癒〉は天分《てんぶん》の才だけで出来る術ではない。誰に教わったのだろう。〈同盟〉の者はみな村から脱出した筈《はず》なのだが。
人垣がざわざわと揺れた。皆を掻《か》き分《わ》けるようにして若い牧師が進み出て来る。
「な……治ったのですか……?」
「ええ、少なくとも今は。でもあたしが本当に治したわけではないんですよ。彼女の〈治る可能性〉を呼び出して〈治った〉状態を先取りしただけなの」
「ミセス・マクラブ。その女性はコール氏の弟子だと……」
「元弟子よ。それからコールという名は偽名よ。本当の名は〈魔術者〉フィアカラ」
牧師は小さく十字を切った。
「私には、コール氏……フィアカラは悪魔としか思えません。彼女があの男の弟子だったというなら、彼女や、そこにいる人たちも悪魔だ。その人は部屋を凍らせた。それに貴女《あなた》もだ、ミセス・マクラブ。貴女は自然に反した魔法を使った。私は見ました。悪魔の光が貴女の手の周りで光っていた」
「ええ、フィアカラは悪魔だわ。でもこのお嬢さんは違います。あたしも、その人たちも違いますわ。その人たちは〈|善き人々《グッドピープル》〉ですよ。そしてあたしたちの先祖も〈善き人々〉だったんですよ。クリップフォードに生まれたあたしたちはみな彼等の血族なんですわ。あたしも、牧師さまも、ここにいる皆さん全員がそうなんですよ」
〈善き人々〉というのは裏の意味で〈妖精〉のことだ。英語の〈フェアリー〉という語は侮蔑的《ぶべつてき》とされ、妖精たちを怒らせないように婉曲《えんきょく》に呼んだ名残《なごり》なのだという。
牧師はさも汚《けが》らわしいというように顔をしかめた。
「つまり〈妖精〉という事ですか。貴女方はそうなんでしょう。だが私は……」
「あら牧師さま、オレンジ色の光をご覧《らん》になったんでしょう? あれは人間の眼には視《み》えないんですよ。牧師さまも〈|妖精の視力《セカンド・サイト》〉をお持ちなんですわ。牧師さまも代々この村の出身ですもの。あたしたちには同じ〈善き人々〉の血が流れているんですよ」
牧師は狼狽《うろた》えた。
「いや、だが、しかし……しかし私は……」
彼は信じる教義と視たものの間で板挟みになっているらしい。彼女は若い牧師を励《はげ》ますように明るく言った。
「ご先祖様たちは〈妖精〉だったけれどこの地に立派な教会を建てたんですよ。〈妖精〉であっても同時に善《よ》きキリスト教徒だったと言えるのではないかしら?」
ジャックは集会所に集まったクリップフォードの住人たち一人一人の顔を見渡した。
レノックスもシールシャもきちんと説明出来ないと言うので結局自分が壇上に立つことになってしまったのだ。出席者たちはジャックの言葉の嘘|偽《いつわ》りを見破ってやろうと鼻息荒く待ち受けている。〈妖精〉の子孫である人々の疑心暗鬼《ぎしんあんき》の視線がちくちくと肌を刺す。
無理もない。魔法のないこの世界で育った人々には〈魔法〉〈妖精〉といった単語自体が胡散臭《うさんくさ》く感じられるのだ。だが、どうあっても住人の理解を得なければならない。
ジャックは意を決して話し始めた。
「僕はジャック・ウィンタースという。あなた方の言葉では〈妖精〉だ。信じられないと思うが、聞いて欲しい……」
うまく話さなければと思うのだが、巧《たく》みな話術など元より不得手《ふえて》だった。自分に出来ることをするしかない。だから、ただ淡々と事実を話していった。
妖精郷〈ラノン〉のこと、ラノンの追放者だったクリップフォードの始祖《しそ》たちのこと、この村が彼らの隠《かく》れ里《ざと》だったこと、やはりラノンを追放された自分たちのこと、逃亡者である魔術者フィアカラのこと。
話し続けているうちに人々の表情が僅《わず》かずつ変わり始めた。不審と疑念の色が薄れ、すっかり信用するとまでは行かなくとも頭から否定するという雰囲気はなくなって来ている。
平時だったら信じて貰《もら》うのは難しかっただろう。だが、彼らはいま怪異を目にしたばかりだった。〈晶壁《しょうへき》〉が視えなかった人々にもシールシャとフィアカラの闘《たたか》いやデュアガーの無残な最期《さいご》はすべて視えた筈だ。
「今ここで起こったことの全てが視えた人も、一部しか視えなかった人もいると思う。視えなかった人は上着を裏返して着てみて欲しい。それで視える筈だ」
全くラノンの血を持たないトマシーナでも上着を裏返すことで簡単な〈惑わし〉を見抜くことが出来る。〈妖精〉の血を引く彼らならそれだけでかなりの部分まで視えるようになる筈だ。
ジャックは言った。
「フィアカラがこれ以上この世界に迷惑をかけないよう、僕らの責任で何とかするつもりだ。協力して貰えないだろうか」
会衆《かいしゅう》は押し黙っている。一人が手を挙げて言った。
「話は分かったよ。けど、なんでこの村が協力しなきゃならないんだ?」
「そうだ。先祖はどうあれ俺たちは人間だ。妖精同士の争いに加担《かたん》して、何の得がある?」
「それは……」
ジャックは言葉に詰まった。なんと説明したらいいのだろう。フィアカラの暴走を止めることはこの村を守るためにも必要なことなのだが。
気まずい沈黙が会場を支配した。
会衆の中に一人、上着を裏返そうとしない大男がいた。全く信じないのか、或《ある》いは裏返さなくとも視えるのかどちらかだ。腕を組み、顎《あご》を突き出すようにしてこちらを睨みつけている。ややあって、男が口を開いた。
「あんた、この連中のリーダーか? 何で王子と呼ばれてんだ?」
「別にリーダーじゃない。フィアカラが僕を王子と呼ぶのは僕がダナ王家の生まれで彼が王室付魔術者だったからだ。だが僕はもう王室とは縁を切ったし、この世界ではダナの王室には何の意味もない」
ふーん、と感心したように唸《うな》る。金髪を短く刈り込んだ大男はレノックスより背丈は若干小さいが、目方は同じくらいありそうだ。
「何だか分からねえが、あんたらもあの男も俺たちの先祖の土地から来て、奴は悪い奴で、あんたらは奴を追っかけてんだな?」
「正確には違うが、大筋ではそうだ」
「細かいことはどうだっていい。重要なのは、コールの奴が悪い奴であんたらが奴の敵だってことだ。この国じゃ、昔っから敵の敵は味方ってことになっている。コールの奴は村にとっちや敵だって判《わか》った。ってことはあんたらは俺たちの味方ってことになる。そうじゃねえか、みんな?」
実に単純明快な理屈だった。
その勢いに呑まれたように数人がおずおずと賛同の意を表した。
「そういやそうかもな……」
「かも、じゃねえ。そうなんだ!」
「まあ、そりゃ確かに……」
ぶつぶつと賛成の声があがる。明らかに風向きが変わっていた。ジャックは男に向かって言った。
「理解してくれて感謝するよ。名前は?」
「アンガス・アームストロングだ」
「では、アグネスの……」
「父親だ。奴は、俺の大事な娘を焼き殺そうとしやがった。許せん!」
それで納得した。彼にはさっきのフィアカラが放った熱波《ねっぱ》が視えていたのだ。そういえば金髪で大柄な所と一本気なところがよく似ている。もしかしたら彼も巨人族なのかも知れない。
「それで奴はストーンサークルなんぞを復元して何をしようってんだ?」
「恐らく、何らかの大きな魔法を行うためだろう。それが何なのかは判らないが」
フィアカラが去り際に口にした〈二つの世界〉という言葉が気になるのだ。ラノンとこの世界を手に入れる、と言った。あのストーンサークルには、それほどの力があるのだろうか。
それまで黙って話を聞いていたイザベルが口を開いた。
「ウィンタースさん。あの男にストーンサークルを復元させてはいけないわ。ご先祖様が恐れていたことを現実にしないためにも」
イザベルがそこまで言ったとき、公民館の建物がぐらぐらと揺れ出した。
「じ……地震……?」
そんな筈ない。この国で大地震に遭《あ》う確率は、宝くじに当たる確率くらいなのだ。地鳴りのような音と共に窓ガラスがビリビリ震える。
「見ろ、教会が……!」
ジャックは窓の外に目をやった。
ハイストリートの斜め向かい、村の真ん中にクリップフォード諸聖人教会はある。小さいけれど美しい尖塔《せんとう》とステンドグラスを持つゴシック様式の教会だ。
その教会が、小刻《こきざ》みに揺れていた。
まるで巨大な手が塔のてっぺんを掴《つか》んで揺すっているように、教会全体が右に左にぐらぐら揺れている。
皆は我先に公民館を飛び出し、ぐらぐら揺れる教会を見上げた。
めきめきと生木《なまき》が裂けるような音がした。地響きを立てて揺れる教会と、地面との間に細い隙間《すきま》が出来た。隙間が少しずつ広くなっていく。
めきめきめきめきめきめき……。
爆発するようにステンドグラスが砕《くだ》け、ハイストリートに硝子《ガラス》と鉛《なまり》の枠《わく》がばらばらと降り注ぐ。教会は、ついに基礎部分ごと宙に浮き上がった。そのまま巨大なクレーンで吊られているかのようにじりじりと持ち上がっていく。
「教会に人は!?」
「今日は全員こちらだから誰もいない筈……」
誰かが叫んだ。
「あれを見ろ!」
宙に浮いた教会の正面扉が開き、小さな人影が見える。真っ白な髪をした年配の小さな女性だ。
皆が口々に叫んでいる。
「ジョアン、飛び降りろ! 飛び降りるんだ!」
戸口の高さは地面から十フィートほどで、見ている間にも少しずつ高度を上げている。女性は足の下の地面を見下ろし、戸口に縋《すが》り付《つ》いたままへなへなと座り込んだ。到底《とうてい》飛び降りられそうにない。
ジャックは考える間も無く走り出した。
「レノックス、協力を」
「おう!」
教会の下に達したジャックは教会の戸口に飛びつき、端をつかんでぶら下がった。そのまま反動をつけ、ひらりと戸口に飛び乗る。座り込んでいる女性を抱きかかえた。教会の床とハイストリートの二階屋の屋根は既に同じ高さになっている。躊躇《ためら》っている暇は無い。
ちらりと下にいるレノックスを確認すると、女性を抱いたまま戸口からひらり飛び降りた。
腕の中の女性が魂消《たまぎ》るような悲鳴をあげる。次の瞬間、真下から勢い良く吹き上がる巨大な海水の柱が二人分の重さを噴水の上のボールのように受け止めた。塩辛い飛沫《しぶき》が顔にかかる。レノックスが怒鳴った。
「無事か!? 落とすなよ!」
「大丈夫だ。このままゆっくり降ろしてくれ」
海水の勢いが弱まり、柱がするすると下がり始める。水圧に支えられて静かに地面に降りると、ジャックは壊れ物を扱《あつか》うようにそっと女性を地面に降ろした。
「怪我は?」
言葉が出ないのか、女性はただ茫然《ぼうぜん》と首を振った。村人達が駆け寄って周囲を取り巻く。夫らしい初老の男が皆を掻き分け、彼女を抱き、半泣きの顔で呟いた。
「驚いたな……濡れてないぞ……」
[#挿絵(img/Lunnainn4_173.jpg)入る]
ジャックも濡れていなかった。ブルーマンは分子単位で海水を操《あやつ》る。喚《よ》び出《だ》された海水は一滴残らず海に還《かえ》ったのだ。
男はきつく妻を抱きしめた。
「本当に、感謝の言葉も思い浮かばんよ。ありがとう、としか言えん。ありがとう……」
「怪我がなくて何よりだ」
教会はさらに高度を上げていく。
この騒ぎで通りの家々からばらばらと住人たちが飛び出してきた。首が痛くなるほど上を向き、口をぽかんと開けて空に昇っていく教会を見上げている。
クリップフォード諸聖人教会は鉛色の冬空を背に天高く浮かんでいた。それから教会は宙に浮いたままじりじりと傾き始め、天を指していた尖塔が次第に横向きになり、遂には地面と平行になった。村人達が見守るなか、教会はゆっくり水平飛行を始めた。
「教会が! 私たちの教会が飛んで行ってしまう!」
牧師が半狂乱で取り縋る。
「魔法でも何でもいい! 私たちの教会を取り戻してくれ!」
魂が抜けたように空を飛ぶ教会を見上げていた住人たちがハッと気を取り直した様子で顔を見合わせた。
「そうだ……その人達にしか教会を取り戻せない……」
住人たちの一団がジャック達の方へ歩み寄った。口々に声が上がる。
「俺たちも出来るだけ協力するよ。だから、助けてくれ」
「頼む、手を貸して欲しい」
「そうだ、コールの奴をやっつけて教会を取り戻してくれよ!」
「お願いです、村を守って下さい!」
どの顔も必死だった。ジャックは口ごもった。
「努力はするが、必ず取り戻すと約束は出来ない」
「あんた、妖精の国の王子なんだろう?」
「済まない。現状では、僕らの力を合わせても彼には及ばないんだ……」
そうする間にもクリップフォード諸聖人教会は次第に速度を増し、家々の屋根に巨大な影を落としながらケルンゴーム山麓《さんろく》の方角に向かって飛び去って行った。
イザベルは教会が飛び去った方角を見つめていた。
「何てことかしら。〈果てしなき望みの輪〉が復元されてしまうわ……」
「それが大ストーンサークルの名なのか」
「ええ。ご先祖様が教えてくれたんですよ」
◆◆◆
フィアカラはケルンゴーム山の上空を飛んでいた。実に良い気分だった。飛ぶのは久しぶりだ。ラノンにいたころはほとんど意識することもなしにしていたことが、ここでは恐ろしく贅沢《ぜいたく》なものにつく。
それというのもラノンでは空気にも水の中にも至る所に普遍在《ふへんざい》していた〈妖素《ようそ》〉がないからだ。まったく、信じられんことだ。
僅かな妖素をけちけちと使わねばならない不便さは我慢の限界に達していた。もちろん、〈妖素〉は妖精どもの血と骨から採《と》ればいい。だがせっかく一つところに閉じこめた〈同盟〉の妖精どもにまんまと逃げられてしまった。裏切り者の魔女シールシャのせいだ。小娘が、さんざん可愛がってやったというに恩を仇《あだ》で返すとはこのことだ。
お陰で計画が狂ってしまった。明日は〈十二夜〉も中日《なかび》の大晦日《おおみそか》となる。今から逃げた妖精どもを捜している時間はない。大ストーンサークル復元は手遊《てすさ》びに殺したダナ人と〈同盟〉の魔術者ども、それにデュアガーの骨だけで行うほかないのだ。
風に身を任せ、遥か下を見下ろす。クリップフォード村は尾根に囲まれた山裾《やますそ》にへばりつくようにぽつりと存在していた。稜線《りょうせん》で山は荒々しい岩肌を晒《さら》し、谷筋を森の緑が覆《おお》う。
かつて、その村の外側を取り囲むように巨大ストーンサークル〈果てしなき望みの輪〉は存在していた。今でもいくつか名残の巨石がところどころにそそり立っている。
村が出来る遥か昔から〈果てしなき望みの輪〉はこの地に在《あ》ったのだ。その土地に五百年程前にラノンの追放者がやってきて住み着き、〈輪〉を破壊して作った村にクリップフォードなどという馬鹿げた地名をつけた。クリップフォード、とは〈妖精の渡り場〉という意味だ。追放ラノン人にとって、これほど郷愁《きょうしゅう》をかきたてられる地名はない。
だが、クリップフォードはラノンに通じてなどいないのだ。
そのことは、あのトマシーナとか云う名の人間の小娘に〈真実の舌〉を掛けた時に判った。
テレ・ビジョンで放送されたインタビューを見たときには、フィアカラ自身もてっきりあの小娘がラノンに行って帰って来たのだと思った。だが、よくよく問い詰めてみると違った。あの娘はラノンになど行っていない。それどころか、実際にはどこにも行っていなかったのだ。
それに気づいた時にはひどく腹が立った。八つ裂きにしてやろうと思ったほどだ。だがその折に、全く偶然にだが、娘の知識の中にあった〈果てしなき望みの輪〉の存在を知ったのだ。これは期待せざる成果だった。ラノンに還れるのでは、と一時でも期待させたことは全く許しがたく死に値《あたい》する罪だが、そのことを鑑《かんが》みて寛大にも命は助けてやったのだ。
フィアカラは声をたてて笑った。笑い声が風に吹き飛ばされて切れ切れに散っていく。
すぐ横を尖《とが》った塔のある石の建物が横倒しに航行している。この建物は〈果てしなき望みの輪〉を砕いて造られたのだ。使われていたのはサラセン石《せき》と呼ばれる花崗岩《かこうがん》の一種だ。
ほとんど大抵《たいてい》の石は内部に〈魔法〉を貯蔵することが出来る。貯《た》められる容量は石の種類によって違うが、水晶の類《たぐい》が適しており、中でも黒水晶《モリオン》と呼ばれる黒色の煙水晶《ケルンゴーム》が最も上等だ。
それらの石に比べるとサラセン石は魔法の貯蔵に適してはいない。適してはいないが、この石は魔法ではなく別のものを大量に貯蔵していたのだ。
〈叶える力〉だ。
〈叶える力〉――それは、ラノンの〈魔法〉と似ている。
だが、〈叶える力〉とラノンの〈魔法〉の間には決定的な違いがあった。それは〈妖素〉の介在《かいざい》の有無《うむ》だ。
〈妖素〉は魔法の触媒《しょくばい》であり、それ自体では何の働きもしない。だが、生物の〈望み〉が作用したとき、それに感応《かんのう》してその望むところを具現化することを助ける。それが〈魔法〉という現象の根幹《こんかん》であるとフィアカラは考えていた。
〈望むこと〉はすべての生物に共通する衝動だ。
〈望むこと〉は、生命の基本でもある。
〈望むこと〉によってラノンではあらゆる人や生物がそれぞれ望む姿に変化した。生物は代を重ねるごとにより強く、美しく、あるいは長命になった。体を大きくすることを望んだ者たちは巨人族の祖《そ》となり、小さくなることを望んだ者たちはポーチュン族の祖となった。別種の生物の能力や姿形を取り込むこともあった。ドラゴンやグリフォン、セントール、人魚、翅人《しじん》といった複合的な種族はそうやって生まれたと考えられる。
このように〈自己を変えること〉は〈妖素〉の働きの中核を成《な》す。それをより細かい〈望み〉に対応させたのが〈妖精〉という一群の種族だ。〈妖精〉とは、言語思考によって〈望み〉を的確に意識化し、自己ではなく周囲の環境を変えることに成功した種族の総称だ。つまり意志の力で魔法を使うようになったのだ。魔法は言語能力と密接に結びついており、この力を的確に使うために編み出されたのが〈呪誦《ピショーグ》〉だった。
〈魔女・魔術者〉と呼ばれる者は自己の意識内で望みを的確に具体化することが出来るため、〈呪諦〉なしに数多くの魔法を操ることが出来る。それが、限られた魔法しか使えない〈妖精〉と〈魔女・魔術者〉との違いだ。
だがそのレベルに達してもまだラノンの魔法は限定的だった。なぜなら、魔法を使うためには〈妖素〉の介在が不可欠であり、魔法によって〈妖素〉を造り出すことは出来ないからだ。魔法を使えば妖素は減っていく。それは二律背反《にりつはいはん》な事象だ。
それに対し、〈叶える力〉は〈妖素〉と無関係に直接に望みを具現化する。つまり〈叶える力〉によって〈妖素〉を生み出すことすら可能なのだ。
フィアカラは残された少数の巨石からそれを読み取り、全体像を類推することが出来た。それは、すべての望みを叶えることを可能にする夢のシステムだった。それを何者が造ったのかは不明だが、愚かな追放ラノン人でないことは確かだ。ダナ王室の宮廷付魔術者としてあらゆる魔法を研究した自分だからこそ理解できたのだ。五百年前クリップフォードに移住した愚かな妖精どもが理解できずに砕いたその石に秘められた未知の力を。
飛行を続けながらフィアカラは空を飛ぶ教会に向かってデュアガーの灰を振《ふ》り撒《ま》いた。
「アスジェニィィム♂艪ヘ造り直す!」
原形を保《たも》ったまま航行していた教会の姿が一気に崩れ始めた。石でない部分、屋根の金属や教会内部にあった木製のベンチ、説教壇などが無秩序に落下していく。今まで教会を形作っていた一つ一つの石がばらばらになり、一定の距離を保ったまま飛び続ける。やがて石は空中でぐるぐると回り始めた。大きく、小さく、ぐるぐると回転し、回りながら互いに激しくぶつかり合い、ぶつかった同士が小さな塊《かたまり》になる。いくつかの塊が出来始めるとさらにその塊の周りをぐるぐると石が飛び、吸い込まれるようにぶつかり、くっつき合って成長していく。
カーンカーンカーンカーンカーン……。
石と石がぶつかり合う音が天高く轟《とどろ》き、山体《さんたい》に谺《こだま》して響き合う。
フィアカラは笑った。もうじき、すべての望みが叶うのだ。
◆◆◆
イザベルの陰からトマシーナが手を伸ばしてジャックの袖《そで》を引っ張った。
「トマシーナ?」
声の出せないトマシーナは無言でジャックを見つめている。
ジャックはクリップフォードに来てからずっと彼女のことを忘れていたことに気づいた。彼女を助ける筈だったのに、かえってとんでもない事態に巻き込んでしまった。
「トマシーナ。大丈夫、きっと何とかするから……」
彼女は首を振り、小さなリングノートを差し出した。会話の代わりに使っていたノートだ。ぱらぱらとページを開くと、驚いたことにページがぎっしりと埋まっていた。いったい、いつの間にこんなに書いたのだろう。
トマシーナの代弁をするようにイザベルが言った。
「ウィンタースさん。それにはあたしたちのご先祖様から聞いた話が書いてあるんですよ」
「聞いた? 先祖の遺《のこ》した碑文《ひもん》か何かを見たのでは?」
「いいえ。あたしたちは五百年前のクリップフォードに行ってご先祖様に会って来たんですよ。博物館のあの線刻石《せんこくせき》を使って。あれは〈時の翼〉石と言うの。トマシーナさんが最初に目撃した妖精というのは、実はあたしたちのご先祖様だったというわけなんですよ」
ジャックはあっ、と小さく声を上げた。
ずっと引っ掛かっていた疑問が氷解した。
トマシーナは博物館の石でどこか別の世界に飛ばされ、そこで妖精を見た、という。レノックスらは彼女が短時間ラノンに行って戻って来たのだと考えたようだ。だが、ジャックは疑問に思っていた。トマシーナは景色や花の色が目まぐるしく変わるのを見たという。そんな花はラノンにはない。だが、時を遡《さかのぼ》ったというのなら説明がつく。
〈時の翼〉石は空間ではなく、時間を貫《つらぬ》いていたのだ。〈時の翼〉石は〈顎門《あぎと》の滴《したた》り〉石が空間の移動を可能にするのと同様に〈時間〉の中の移動を可能にするのだ。トマシーナはどこかに行ったのではなく、同じ場所で時を往《い》き来《き》したのだ。彼女が見たのは五百年前のクリップフォードの光景だった。そして彼女は消えた時刻とほぼ同時刻に戻って来た。だから、目撃者は彼女の姿が消えてまたすぐに現れたと思ったのだ。
五百年前――それはクリップフォードの始祖となった追放ラノン人たちがここに移住して村を築いた時期だ。恐らく、移住者の中に一見して判る異形《いぎょう》を持つ者がいたのだろう。妖精伝説に詳しいトマシーナは彼らを見て〈妖精〉だと考え、妖精郷に行ったと思い込んだのだ。
イザベルは続けた。
「二度目は、あたしも一緒に行きました。ご先祖様は自分たちの子孫がこの地にずっと根づいたと知ってとても喜んでくれた。そしてあたしが〈半魔女〉だということや、その他ありったけの事を教えてくれたんですよ。あたしたちは三日間、ご先祖様たちと過ごしたんです。でも三日して戻ってきた時、こちらではまだ集会の最中で、数分しか経《た》っていないことが判ったの」
「〈治癒〉は彼らに教わった?」
「ええ、そうですわ。それに〈果てしなき望みの輪〉の危険性についても」
「貴女の先祖たちがその〈果てしなき望みの輪〉を創《つく》ったのだろうか?」
「いいえ。あのストーンサークルはご先祖様が移住して来たときにはもう何千年もそこに立っていたのですって。そしてご先祖様はそれが危険なものだと判断して取り壊したと言うんですよ」
「危険とは?」
「理解も制御も不能な巨大な力、かしら。ご先祖様たちは魔法のないこの世界で自分たちの力だけで生きて行くと決めてロンドンからここまで逃れてきたの。でも、ここまで来たとき、自分たちには理解できない太古の魔法が眠っていることに気づいたのよ。考えられないほど大きな規模の大魔法がストーンサークルの石に封じられているのが分かったんです。仕組みは解らないけれど、〈望み〉に反応して自動的にあらゆる願いを叶えるそうよ。だからご先祖様はその巨大な石の輪を〈果てしなき望みの輪〉と名付けたんです」
「ちょっと待て!」
唐突《とうとつ》にレノックスが大声を出した。
「すべての望みが叶うのなら、ラノンに還る事も出来たんじゃないか?」
「もちろん、それを利用しようという意見もあったそうです。でも、いろいろあって結局使わず廃棄《はいき》することに決めたんですよ。その力はあんまり大きくて、それを使うとラノンそのものに危険が及ぶ可能性があったから。そしてご先祖様たちは輪を壊してこの地に留《とど》まり、この先もずっと〈果てしなき望みの輪〉が使われることがないように見張ることにしたんですよ」
レノックスが何か言いかけ、黙り込んだ。
ラノンに還ること、それは全ての追放ラノン人の切なる願いだ。だが三ヵ月前、ジャックは敢《あ》えてラノンへの道を塞《ふさ》いだ。この世界の汚染《おせん》からラノンを守るためだった。クリップフォードの始祖たちも同じ気持ちだったのだろう。
それにしても、あらゆる望みを叶える魔法とは。それが本当だとしたらラノンにも存在しない大魔法だ。そのあまりに大きな誘惑を退《しりぞ》けたクリップフォードの始祖たちの勇気にはただ頭が下がる思いだった。
「……貴女がたの先祖は、恐らく正しいことをしたのだと思う」
イザベルは誇らしげに微笑んだ。
「ええ。あたしもそう思いますわ。〈果てしなき望みの輪〉が稼働《かどう》できるのは太陽と地球が特定の位置関係にあるときだけなんだそうです。それがちょうど〈十二夜〉の期間なの。フィアカラもそれに気づいていて、だから急いでいるんでしょう。ストーンサークルの石に籠められた力は砕かれても消えることはないけれど、望みを正しく伝えるには〈輪〉が完全な形で回転していることが必要なんだそうです」
「では〈十二夜〉の間にストーンサークルを復元させなければこちらの勝ち、ということか」
「ええ。今年のところは」
「では、まだ勝ち目はあるということだ」
そのとき突然、ごろごろという雷《かみなり》のような音が通りの方から響いてきた。音の出所《でどころ》はハイストリートの一軒の家だった。その家の壁石が一つずつ外れては宙を飛んでいくのだ。
「ありゃ、オレの家だ!」
「フィアカラだ。契約した石を集めているんだ」
石が逃げ出しているのはその家だけではなかった。村のあちこちの家からストーンサークルの一部だった石が逃げ出していく。支えを失った壁が大音響とともに崩壊する。家の壁や土地の境界線の石塀《いしべい》や古い納屋《なや》がガラガラと崩れ、互いにぶつかり合ってやかましい音を立てながら空に昇って行く。
「ああ、なんてこった、壁が半分なくなっちまった!」
村人たちは空を見上げ、為《な》す術《すべ》も無く自分の家が崩れ、積み石が飛び去っていくのを見守っていた。
空に昇った石は渡り鳥のように隊列《たいれつ》を組んで飛んでいく。山の方から雷のような音が絶え間なく鳴り響く。五キロほど離れたケルンゴーム山の山麓で石が雲のように集まっているのが見える。
「あ!」
イザベルが小さく叫んだ。村外れのオールドオーク・ファームがそのままの形で空に昇りつつあった。
「うちはサインしなかったのに……」
「あの男は契約にかこつけて石の在《あ》り処《か》を知りたかっただけ。初めから約束を守る気なんてなかったのよ。マクラブ家は契約しなかったから、石の在り処が分からなくてそれで家ごと持って行ったんだわ」
シールシャだった。アグネスに支えられるようにしてゆっくり歩いてくる。
「シールシャ、動いて大丈夫なの?」
「わたしは大丈夫だわ。傷は元通りになっている。動くことに差《さ》し障《さわ》りはないわ」
「だって、あんた真っ青よ……」
彼女の顔色は青いというより土気色だった。〈治癒〉は傷が治った状態を先取りして実現するだけで、流した血や身体にかかった負担まで帳消《ちょうけ》しにしてくれる訳ではない。
彼女はかぶりを振った。
「イザベルの言う通りなら、あの男がそんな力を手に入れたらそんな心配もしていられなくなるわ。あの男の欲望はそれこそ切りがないのよ」
彼女は空飛ぶ石の行く先を見つめている。
「わたしが行ってあの男を止めなければ」
シールシャの足が地面を離れた。身体がすーっとまっすぐ宙に浮かび上がる。ジャックは腕を伸ばして彼女の手を掴んだ。
「シールシャ。行っても無駄だ」
彼女はふわふわと風船のように宙に浮かんだまま抗議した。
「放してよ、ジャック・ウィンタース。わたしは行かなければならないのよ」
「君は十全《じゅうぜん》な状態で彼に負けた。いま彼と戦って勝てるとは思えない。最悪の場合、妖素を与えることになってしまう」
「あのときは油断したからだわ。本気なら互角に戦える自信があるわ!」
「問題はなぜ本気になれなかったか、だ。君は手加減したが、フィアカラは初めから君を殺すつもりで攻撃した」
「わたしは手加減なんか……!」
言いかけて口を噤《つぐ》む。気づいたのだろう。
最初は、フィアカラの方が彼女を甘く見て油断していた。シールシャが最初に放った風の一撃に全力を込めていたらフィアカラを斃《たお》せたかも知れない。だが彼女は一度で致命傷を与えず、反撃する隙を与えたのだ。
「……確かに、わたしは甘かったかも知れない。でも、このまま手をこまねいている訳にはいかないわ」
「何も正面切ってフィアカラと闘う必要はない。〈十二夜〉の間に石を全部集めさせなければいいんだ」
「あ……」
目から鱗《うろこ》が落ちた、という顔だった。宙に浮かんだ身体がゆっくりと地面に降りてくる。
「わたしは、あの男を斃すことばかり考えていたわ……」
「僕らが考えるべきことは〈仲間〉とこの村を守ることだよ」
そのとき、アンガスが懐《ふところ》から一枚の羊皮紙《ようひし》をひっぱり出した。
「奴が石を一つ残らず集めようとしてるってんなら、こいつが役に立つんじゃないか?」
ジャックは目を瞠《みは》った。
「それは契約書か! どうやって……」
「なに、奴が鞄《かばん》に契約書を吸い込んでる間、ケツの下に突っ込んでふんばってたのさ」
アグネスが父親に飛びつき、抱きしめた。
「父さん、すごい! 見直したわ!」
「アグネス……く、くるしい……」
「ごめん! あたしの魔力って、〈怪力〉なんだ!」
慌てて腕をほどく。何度も空気中で〈妖素〉が使われているので気づかずに微量を吸い込んでいたらしい。
アンガスはごほごほと噎《む》せた。
「なんだと? そらまた、えらく女らしくない魔力だな……」
「仕方ないじゃない。だって、うちの家系は〈強き腕〉氏族で、巨人族なんだもの。だから父さんも同じかも」
それを見ていたシールシャがくすっと笑った。ここに来てから、初めての笑顔だった。
「ミスタ・アンガス・アームストロング。契約書をこちらに頂戴《ちょうだい》」
「あ……ああ」
シールシャは契約書を受け取るとすっ、と小さく印《いん》を切った。ポッ、と契約書が燃え上がる。
「これでいいわ。あの男は自信過剰でそのぶん迂闊《うかつ》だから、契約書が無ければきっと村のどこに残りの石があるのか判らないわ。石が足りないのに気づいたら必死で捜すだろうけど、その前にわたしはアグネスの家の石が奪われないように防御を張るわ」
「うん。御願い!」
アグネスとシールシャは手を繋《つな》いでアームストロング雑貨店の方へ駆け出した。
7――時の翼石
〈林檎《りんご》の谷〉の〈顎門《あぎと》の滴《したた》り〉石はもとは〈時の翼〉石と呼ばれる石と対《つい》になっていた。〈時の翼〉石は凶事《きょうじ》をもたらすとされ、とくにその側《そば》では特定の歌を歌うことが禁じられていた。〈時の翼〉石は長い間村の中央に安置されていたが、一七〇六年の大合同のおりイングランドに持ち去られた。
[#地付き]〈クリップフォード村の歴史と伝承〉より
◆◆◆
フィアカラは空の上で笑い続けていた。一度笑い出すと止まらないのだ。
石がダンスを踊っている。
「そら行け! くっつけ! もう少しだ!」
教会を構成していた石と村の家々から集められた石は空中をぐるぐる飛び回っている。それぞれの石は細かく砕《くだ》かれても巨石だったときの形状の記憶が残されている。フィアカラは、それに運動性と方向を与えるだけで良かった。石はひとりでに集合し、同じストーンサークルの巨石だった石を見つけだしては衝突《しょうとつ》し、巨大な立体パズルのようにくっつき合っていく。
巨石は元の姿を現わしつつあった。がっちりとくっつき合ったその表面にはもう継《つ》ぎ目《め》も見えない。
「完成したなら行け! 元の場所へ!」
巨石がゆっくりと降下を始めた。村を取り囲む巨大な円に向かい、それぞれが元|在《あ》った場所へと降りていく。
「いいぞ!」
山体《さんたい》を揺るがす地響きをたて、巨石は次々と着地した。もうじき〈輪〉が完成する。すべての望みを叶えてくれる筈《はず》の〈輪〉が。
フィアカラは〈輪〉に何を望むかを陶然《とうぜん》と夢想した。そう、〈望む〉のだ。これは〈果てしなき望みの輪〉なのだから。まず、失った腕を取り戻す。それから二つの世界の王になり、永遠に君臨《くんりん》するのだ。なんと素晴らしいことだろう。
完成しつつある〈輪〉の全体像が見える高さまで高度を上げた。〈輪〉は尾根を横切り、村を中心にぐるりと巨大な円を描いている。山が戴《いただ》いた冠《かんむり》のようだ。
だが、その王冠は一箇所《いっかしょ》歯が抜けたように欠けていた。
フィアカラは悪態《あくたい》をつき、高度を下げた。原因はすぐに判《わか》った。完成せずに空中に留《とど》まっている立ち石があったのだ。
「はやくくっつけと言うに!」
巨石の形に寄り集まった砕石《さいせき》がゴリッ、と音を立てる。だが、それ以上くっつき合おうとはしない。継ぎ目は消えず、子供が粗雑《そざつ》に積み上げた石の塔のようだ。
「くそくそくそ! なぜだなぜだ……!」
宙に浮かんだまま手足をばたつかせる。
石が、足りないのだ。
すべての石が揃《そろ》わなければ石が元の姿に戻る力は働かないのだ。
なぜ足りないのだ。あのマクラブ家を除き、クリップフォードの馬鹿どもは一人残らず契約書にサインした筈だ。マクラブの家は家屋《かおく》も塀《へい》も丸ごと呼び寄せたのだからこれで足りる筈だった。なのに足りない。何故だ。他に知られていない石が在ったのか。それは何処《どこ》だ。村の連中は知っているのか。いや、知るまい。奴らが知っているのは自分の家のことだけだ。
今から捜しに行くか? それで〈十二夜《じゅうにや》〉中に間に合うのか……?
焦燥感《しょうそうかん》がじりじりと身を焦《こ》がす。
だめだ。間に合わない。間に合わない。
来年の〈十二夜〉まで待たねばならない。だが、一年だ。そんなに待てる訳がない。一年は永遠と同じだ。
「ああああああっ! そんなことは許さん、許さんぞ……!」
何を許さないのか、もはや判然としなかった。ただ湧《わ》き起こる怒りを抑《おさ》えられず闇雲《やみくも》に吠《ほ》えるのみだ。
「許さん、許さん、許さん……っ」
これというのも、クリップフォードに移住した追放者たちのせいだ。そうだ。許さん。これからすぐに村に取って返し、あの間抜けな子孫どもを皆殺しにしてくれる。連中が〈輪〉を粉々《こなごな》に打ち壊したのだ。悠久《ゆうきゅう》の時を超えて存在した偉大な〈輪〉を破壊したのだ。奴らが来る遥か前から、何千年もの間そこに立っていた〈輪〉をだ。
そこまで考えたとき、ふっ、と思考が突き抜けた。
「そうか……そうだったのだ……」
ふひゃ、と笑いが漏れる。
ふ。ふ。は。は。は……。
どうして今までこんな簡単なことに気づかなかったのか。
まだ、打つ手はある。
◆◆◆
村中の人間がハイストリートに集まっていた。地響きがどーん、どーん、と大地を揺るがすように響いてくる。
給油所のスコット・マクリーはぶるりと身震いし、集団から一歩下がった。そろそろと後ずさり、誰にも見られないように公民館の建物に駆け戻る。
あんな恐ろしい魔法使いだの魔女だのと付き合うのはご免《めん》だった。逃げるが勝ちだ。こんな村に居られるものか。いつまたあのコールという奴が戻って来るか分かったものじゃない。奴は今度は皆殺しにすると言ったのだ。
だが、その前に忘れちゃいけないことがある。教会や家がぶっ飛んだりしたので村の連中はすっかり忘れているが、あのコールという奴はアタッシェケースの中身を捨てて行ったのだ。何十万ポンドもの札束をだ。あの金があれば、こんな村を出て他の土地でやり直すことが出来る。
忍び足で集会室に足を踏み入れる。内部は思った以上にめちゃめちゃだった。床がびしょ濡《ぬ》れなのはさっき部屋を凍らせた霜《しも》が溶けたせいだろう。一瞬で部屋を凍らせたあの若い男の淡い眼《め》はコール以上に恐ろしかった。ありゃ、人間じゃねえな。いや、実際人間じゃないんだが。
スコットはくわばらくわばら、と唱《とな》えながら床をはいつくばり、濡れてかさばる札を拾い集めた。ありったけのポケットに札束を一つずつ捻《ね》じ込《こ》み、さらにズボンの中や袖口《そでぐち》に詰め込む。持てるだけ持ったら裏から逃げればいい。ふと顔をあげると白いシーツのような影が漂《ただよ》っているのが視《み》えた。〈十二夜の幽霊〉だ。こいつは、見慣れているから別に怖くはない。
「邪魔なんだよ」
手で追い払う。だが、幽霊のことでスカ、と抜けてしまった。頭に来たので、そのまま幽霊の真ん中を突っ切った。何ということもなかった。常日ごろ肝《きも》っ玉《たま》が小さいと馬鹿にされる自分だが、いざとなると案外|胆《はら》が据《す》わるもんだ。
そのまま奥の博物館へと急ぐ。そっちの出口から出れば、村の連中と鉢合《はちあ》わせしないで済む。古代の遺物を展示した第二室に入った時、スコットの目に黒々とした人影が留《と》まった。ポケットの札束が脳裏《のうり》をよぎる。まずい、と思った。咄嗟《とっさ》に展示パネルの陰に身を寄せる。
オックスフォードから返還された遺物の脇にじっと佇《たたず》んでいた男は突然、展示室中に響くような大声で楽しげに歌いだした。
輪になって踊るよ
ルリルラ ララルラ
〈果てしなき望みの石たち〉が
星の銀輪《ぎんりん》めぐる夜に
この歌なら知っていた。クリップフォードの民謡〈星の銀輪めぐる夜に〉だ。確か、この歌にもタブーがあった。子供の頃、不用意に歌って祖母に叱《しか》られた記憶がある。〈十二夜〉にこの歌を歌うと妖精の国に連れていかれてしまうとか何とか……。
男の顔がこちらを向いた。
気障《きざ》な口髭《くちひげ》、浅黒く精悍《せいかん》な顔だち。
レミントン・コールと名乗って村にやって来た男の、狂気を帯《お》びた黒い眼がまっすぐに身体を射ぬく。
口が耳まで裂けそうにニタリ、と笑った。
背中に冷水を流し込まれたようにぞーっとなって床にへたり込んだ。逃げなければ、と考えるが足が言うことをきかない。腰が抜けたのだ。袖口から札がこぼれ落ちる。
金なんか拾いに来ないでさっさと逃げればよかったんだ。焼き殺されちまう、さっきの小男みたいに……!
神様、お助けください……!
突然、フラッシュを焚《た》いたように眩《まばゆ》い光が閃《ひらめ》いた。
◆◆◆
魔女シールシャが言った。
「これでいいわ。家の周り全体と、地下にもぐるりと〈障壁《しょうへき》〉を三重に張り巡らせたわ。これでどんな魔法の力もこの内側には及ばない。いくらあの男でもこの〈障壁〉の内側に干渉することは出来ない筈だわ」
ジャックは瞬《まばた》きし、セカンドサイトを使ってシールシャがアームストロング雑貨店に施《ほどこ》した〈障壁〉を視た。一分《いちぶ》の隙も無い見事な出来栄《できば》えだ。確かにこれならフィアカラも手を焼くだろう。
アグネスの二人の姉たちはせっかく無事に残った家を追い出されて不満そうに雑貨店の建物を見上げている。その周りを白い影がふらふらと飛んでいた。
「あれは?」
「あら、〈十二夜の幽霊〉だわ。〈十二夜〉だから出てきたのね」
彼女達は事も無げに言った。
「毎年同じ幽霊が?」
「そうよ。大昔からいるのよ」
これには少し驚いた。ラノンでは死者はすみやかに輪廻《りんね》の列に加わると考えられている。幽霊として地上に留まるのは何か特別な理由がある場合だけだ。だから長い年月、同じ幽霊が存在し続けるというのは尋常《じんじょう》ではない。だがこの村では当たり前のことらしく、村人たちは誰も気にしていなかった。
姉妹の父親のアンガスが笑った。
「あんた、自分が妖精のくせに幽霊が珍しいのか?」
「いや。珍しくはないが……」
そのとき公民館の建物から一人の男が転がるように飛び出して来た。
「た、た、た、たた大変だぁ……!」
「どうした、スコット!」
アンガスが男の肩をつかんで揺さぶる。
「こ、コール……レミントン・コールが、は、博物館に……」
「博物館で何をしてたんだ!?」
「わ、わからない……い、石が光って……光って、消えた……」
男はぺたんと地面に座り込んだ。全身が木《こ》の葉《は》のようにわなわなと震えている。よほど恐ろしかったらしい。
「石とは?」
「こ、こないだ村に返された石だよ……〈顎門の滴り〉石にそっくりな……」
レノックスがさっとこちらを振り向いた。
「ジャック。そりゃ、さっきイザベルが話した〈時の翼〉石じゃないか?」
「ああ、恐らく」
そのとき急に空が暗くなり始めた。日は既に西に傾いていたが、まだ夕暮れには少し早い。
にもかかわらず、空の色はみるみるうちに失われ、深い藍色《あいいろ》に変わって行く。通りには濃い影が落ち、互いの顔を判別するのも難しい暗さだ。人々は不安げに顔を見合わせた。
「なんだ、一体どうなってるんだ……」
「あれを見ろ!」
誰かが叫んだ。
「見ろったって真っ暗だ!」
「ちがう、山だ! 光っている!」
山の端が、光っていた。
鈍《にぶ》い真珠の色をした光の帯のようなものが山裾《やますそ》を横断して広がり、そこだけが明るく光り輝いている。反対側に目を転じると、やはりそちらも空に向けて真珠色の光が仄《ほの》かに漏れている。光の帯はぐるりと村の外を一周しているのだ。
ヘイミッシュが呟いた。
「あれは、大ストーンサークルがあった所だぞ」
「ああ! 言われてみりゃ、そうだ! あっち側までずっと明るい!」
ほどなく、村は完全な闇に閉ざされた。
空は塗りつぶしたように黒く、王冠のようにぐるりと村を取り巻く光の輪だけが地上から天に向かうオーロラのようにゆらゆらと輝いている。光の輪はある時は銀色に、ある時は真珠のような輝きを帯び、ぬめぬめと不気味にゆらめいた。
「子供が家にいるんだ、心配だ、見てくる!」
そう言った声を、レノックスが引き留めた。
「待て、こう暗くちゃ行ったってどうにもならねえ。こいつを連れてけ!」
ぽうっと淡い光が闇を照らした。鬼火《おにび》だ。レノックスは次々と鬼火を作って周囲に飛ばした。村中が暗い中、どの家にも灯《あかり》が点《つ》かないのは確かに奇妙だ。暖かな黄色い光に人々の不安な顔が浮かぶ。
「大丈夫、熱かねえよ。一度触ればずっと付いて来る」
初めはびくびくしていた村人たちも闇の濃さに背に腹は代えられず、次々に鬼火を受け取った。
「うは。こりゃ明るいな……」
各人、鬼火を連れて自宅へと向かって行く。ハイストリートのパブ〈積《つ》み藁《わら》〉亭のオーナーは店に入るとすぐまた飛び出して来た。
「電気も電話もだめだった。いったいどうなってるんだ?」
イザベルが呟いた。
「〈果てしなき望みの輪〉が動いたんだわ……」
「だが、〈輪〉は復元されていない」
「ええ、だから訳が解らないんですよ」
アームストロング雑貨店にある石はしっかり封印されている。フィアカラは〈輪〉を完成していない筈だ。だが、異変は明らかに大ストーンサークルの在った場所で起こっているのだ。
イザベルは目を細め、村をぐるりと取り巻く真珠色のオーロラを見上げていた。
「あれは〈星の銀輪〉よ。〈星の銀輪〉は〈果てしなき望みの輪〉が動くとき生まれるんだそうです。目に見えるあれは次元の断層のようなもの。〈輪〉が動くと時間と空間に歪《ゆが》みが生まれてしまうんだそうよ。ご先祖様は〈時震《タイムクウェイク》〉と呼んでいた。〈時震〉が起きると同時に〈|時滑り《タイムスライド》〉が起きて、輪の内側は別の世界にずれてしまうんです。だから電気も通信も止まってしまったんだわ。ご先祖様はこうなることを恐れていたんですよ」
ジャックは考え込んだ。
この現象の原因はやはりフィアカラか。なぜ彼は博物館の石の側《そば》に居たのだ。そして何処へ消えたのだ?
「〈時の翼〉石を造ったのはクリップフォードの始祖たちだろうか?」
「いいえ。あれもご先祖様たちが来たときには既に在ったそうよ。ご先祖様たちはそれに自分たちの子孫が使えるような仕掛けを付け加えただけ」
「だとしたら〈時の翼〉石は〈果てしなき望みの輪〉が造られたとき一緒に造られたと考えていいだろう。あの石で、さらに過去まで遡《さかのぼ》ることも出来るのだろうか?」
イザベルは少し考えてから答えた。
「きっとそうですわ。あの石は年毎《としごと》の〈十二夜〉を結んでいるんです。もっと昔まで行くことも出来たのかも知れない。あたしたちはそれ以上は遡らなかったけれど」
もやもやとした考えが突然形をとり始めた。
あの石は時間を貫《つらぬ》く〈時の翼〉石だ。消えたということはフィアカラは過去に戻ったということではないのか。
〈輪〉が何者かによって造られたとき、もちろんそれは完全な姿だった。
〈時の翼〉石が〈果てしなき望みの輪〉と同じ時代に造られ、その時代まで時間を貫いているとしたら、当然そこまで遡ることが出来るはずだ。
フィアカラがそのことに気づき、〈輪〉が健在だった遠い過去に遡ったとしたら。過去のクリップフォードで〈果てしなき望みの輪〉を動かしたとしたら。そのことによって〈時滑り〉が起きたのだとしたら……?
「マクラブ夫人。僕らを〈時の翼〉石の所に案内してくれないか」
イザベルとトマシーナが先導してジャックたち〈第一世代〉三人を博物館の〈時の翼〉石の展示コーナーに案内した。狼《おおかみ》ラムジーが少し離れてついてくる。
「あれですよ」
真っ暗な展示室を鬼火の灯がぼんやりと照らしていた。ジャックは〈時の翼〉石の黒々と滑《なめ》らかな表面を見つめた。水紋《すいもん》を思わせる文様《もんよう》は林檎《りんご》の谷の〈顎門の滴り〉石と確かによく似ている。
シールシャは石の表面に手を伸ばし、慌てて引っ込めた。
「とても強い力を感じる……。ジャック・ウィンタース、この石で何をしようというの?」
「恐らくフィアカラはこの石を使って〈輪〉が完全な時代に戻り、そこで〈輪〉を稼働させたんだ。過去から現在に至るまでクリップフォードではその〈時滑り〉の影響が続いているのだと思う。だから僕も過去に戻って〈輪〉に願うつもりだ。クリップフォードを元の次元に戻してくれるように」
イザベルが言った。
「〈時の翼〉石を動かす引き金は〈星の銀輪めぐる夜に〉という民謡なんです。クリップフォードの古い歌で、やはり〈十二夜〉には歌うことが禁じられていたの」
恐らくその歌詞自体が〈呪誦《ピショーグ》〉になっているのだ。普通の人間でも作動させられるのは子孫がラノン人の形質を受け継がなかった場合を考慮してのことだろう。
「では、僕は行くよ。レノックス。シールシャ。後を頼む。フィアカラはいつ戻ってくるか分からない。クリップフォードの人たちを守って欲しいんだ。万一、僕が失敗したときには君たちのどちらかが後を引き継いでくれ」
「失敗するなんて口にしては駄目だわ、ジャック・ウィンタース! 女神様のお耳に入ったら……」
「大丈夫、ここには女神様はおられないよ」
ジャックは無言のまま腕組みして突っ立っているレノックスにちらりと目をやった。
「おまえは反対するかと思ったよ」
彼は憮然《ぶぜん》と言った。
「あんたは、止めたって無駄だからな」
これには思わず笑った。
「大分解《だいぶわか》ってきたじゃないか」
「ふん。必ず帰って来いよ、唐変木《とうへんぼく》」
「心配は無用だ。イザベルとトマシーナは無事に過去から戻ってきた」
ジャックは、二人が行ったのは五百年前でこれから赴《おもむ》こうとしているのはそれより遥か遠い時代であることは黙っていた。心配しても仕方のないことを心配する必要はない。
「レノックス。この石を守ってくれ。これがなくなったら僕はこの時代に帰って来られなくなる」
「おう。任せておけ」
「頼む」
狼ラムジーが不安げに鼻を鳴らす。
「ラムジー。すぐに戻るよ」
トマシーナが小型の音楽再生機を差し出した。ヒナギクのような睫毛《まつげ》をぱちぱちさせ、巻き戻しと再生のボタンを懸命に指し示す。使い方を教えようとしているのだろう。ジャックは小さく微笑《ほほえ》んだ。
「大丈夫。使い方は知っているから」
〈再生〉ボタンを押してイヤホンを耳にあてた。イザベルの美しい歌声が聞こえてくる。聞こえるままに同じ歌詞を口ずさむ。
石が眩い輝きを放った。
◆◆◆
光が消え、ジャックの姿も消えた。
レノックスはじりじりしながらジャックが消えた辺りを睨んだ。
待つ必要はない筈だ。時間を遡って向こうで三日過ごしたイザベルとトマシーナだって数分の誤差で戻って来られたのだから。
一分。二分……ひどくのろのろと時間が経過していく。
畜生《ちくしょう》、なんで戻ってこないんだ!?
「レノックス。皆でここに居ても仕方がないわ。アグネスたちの所に戻った方が良いわ」
「分かってるって、シールシャ」
狼ラムジーがこちらを見上げ、寂《さび》しそうに小さく鳴いた。
「ジャックの奴は戻ってくるさ。奴は約束を守る奴だ。そうだろう? ラムジー」
ラムジーの頭を軽く撫《な》で、自分に言い聞かせるように言う。
そうとも、奴は唐変木だ。約束は必ず守る。その奴が、帰ってくると約束したんだからな。
レノックスは公民館からハイストリートへと出た。気温が急激に下がっている。時間の狭間《はざま》にあって太陽の恩恵《おんけい》を受けられないせいだ。突然猛烈な風が吹きつけ、イザベルが小さく悲鳴をあげた。吹き飛ばされそうになってトマシーナと抱き合う。
「風の楯《たて》=I」
シールシャが風を切り裂く。風は二人の直前で二手に分かれ、彼女たちの周囲は突然完全な無風状態になった。
「ああ、助かったわ、シールシャさん。他の人たちも助けてあげて」
「ええ、もちろんだわ、イザベル・マクラブ」
向こうからアグネスが小走りに駆けてきた。
「シールシャ! レノックス!」
「おう、嬢《じょう》ちゃん、無事だったか」
「うん。でもなんか村中が訳が判らないことになってるわ。ジャックは?」
「クリップフォードを元に戻すために過去に行った。用が済めばすぐ戻る筈なんだが……」
吹きすさぶ風のため歩くのが困難だった。インクを流したように黒い空からゴーッ、と不気味な音が響く。ハイストリートに浮かべておいた鬼火が吹き散らされてネズミ花火のようにくるくる回転していた。本来、鬼火は風の影響は受けない。なのに煽《あお》られているのはこの風が自然のものではないからだ。
真っ黒な風が轟々《ごうごう》と吠え狂う。めきめきという音とともに〈積み藁〉亭の看板が吹き飛ばされ、宙に舞った。アグネスの二人の姉たちが悲鳴を上げる。今にも風に吹き飛ばされそうな二人の手を、アグネスががっちりと掴んだ。
「アグネス、いったいどうなってるの……あたしたち、どうなるの……?」
「大丈夫、きっと何とかなるから!」
アグネスは二人をイザベルとトマシーナのいる〈風の楯〉の中に押し込んだ。彼女達の周囲半径数メートルだけは無風地帯だ。髪を嬲《なぶ》る強風が突然なくなって二人の姉娘は茫然《ぼうぜん》とあたりを見回した。
「マーガレット、キャサリン。ここなら安全よ。イザベルの側を離れないで!」
「あ……あんたは?」
「あたしは大丈夫!」
アグネスは肩掛鞄《かたかけかばん》に手を突っ込み、〈時林檎〉を取り出して一口|囓《かじ》った。
「あたしさ、〈巨人〉だから!」
風が甲高《かんだか》い唸《うな》りを上げる。真っ暗な空に稲光《いなびかり》が走った。
「ありゃ何だ!?」
レノックスは風に逆らい、空を見上げた。
〈星の銀輪〉に切り取られた山裾をぐるぐると渦《うず》を巻く細長い漏斗《ろうと》が降りてくる。
舌がからからに干上《ひあ》がった。
竜巻《たつまき》だ……! 壁や土台の石が抜けてがたがたになっている家屋はあんなのが来たらひとたまりも無い。シールシャが大声を張り上げた。
「イザベル・マクラブ、この村にはどれくらい人がいるの?」
「三百人くらいかしら」
「では全員を一箇所《いっかしょ》に集めて〈風の楯〉を張るわ。わたしは外で竜巻を防ぐ。おまえは内側で〈風の楯〉を保っていられる?〈保つ〉の応用だわ。わたしは〈保つ〉があまり得意ではないの」
「出来るかしら……。でもやるしかないのね」
「きっと出来るわ。おまえは生まれて初めて使う〈治癒《ちゆ》〉でわたしを治してくれたじゃないの」
シールシャは風上に向かって指を突き立て、流れを切り裂いた。
「風の楯=I」
たちまち無風地帯が生まれる。新しい無風地帯は細長く広がってイザベルたちがいる場所とひとつに繋《つな》がった。
「おーい!」
通りの向こうでアンガスが風に負けじと大声で怒鳴る。
「マクファーソンのとこの家が倒れた! さっき壁の石を半分がた持ってかれて、穴だらけのとこにこの嵐で……!」
レノックスは怒鳴り返した。
「家に誰かいたのか!?」
「年寄りがいた筈だ!」
「あたしが行く!」
アグネスが駆け出した。
「〈妖素〉は持ってるか!?」
「うん! 〈時林檎〉もまだあるわ!」
林檎をぱきん、と二つに割ってアンガスに手渡す。
「父さん、これ食べて! 〈時林檎〉よ。たぶん父さんも〈巨人〉の力が出せると思うから!」
アンガスは一瞬|躊躇《ためら》ったが、すぐ思い切ったようにがぶりと一口囓った。
「なんか……力が湧《わ》いてくるぞ……!」
「アグネスの親父さんも巨人族か! ミスタ・アームストロング、悪いがラムジーと一緒に村を回って他に瓦礫《がれき》の下敷きになっている人間がいないか捜してくれねえか」
「んなこた、わざわざ他所《よそ》もんに言われなくても行くに決まってるだろ! ラムジーってのはヘイミッシュんとこの末っ子のラムジーか? 何処にいるってんだ?」
狼ラムジーが尻尾《しっぽ》を上げて短く吠えた。
「そいつさ。ラムジーだ」
「まさか……この犬が?」
「犬じゃねえ、狼だ。ラムジーは人狼《ウェアウルフ》なのさ。言葉は喋《しゃべ》れないが、聞く方は全部解る。この姿のときは不死身だし、耳も鼻も人間の何百倍も利《き》くからな」
褒《ほ》められたと思ったのか、嬉しそうに尻尾を振り回す。
「全く、こりゃたまげたもんだ! あの一家は変わり者だと思ってたが……」
「父さん、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! あたしはマクファーソンさんを助けてくるから、父さんは他を頼むわ! 怪我人がいたらイザベルおばさんのとこに運んで!」
「よっしゃ!」
アグネスが鬼火を一つ連れて駆け出し、慌ててアンガスもラムジーを連れて後を追った。何だかんだ言いながら順応《じゅんのう》しているようだ。レノックスは辺りを見回し、イザベルの側にいるケリを見つけた。
「ケリ! ちょっと頼まれてくれ!」
風を突いてケリが小走りに駆けて来る。
「何ですか、レノックスさん」
「村の連中を素早く〈風の楯〉に誘導しなきゃならねえ。だが、信じてない奴もいる。〈グラマリー〉を一人じゃなく大勢相手に薄く広く使えるか?」
ケリは自信がない様子で頷いた。
「やったことないけど……やってみます」
◆◆◆
ジャックは白光《はっこう》に包まれ、足元から底知れず落ちて行くような感覚に襲われた。
周囲のすべてが遠くなっていく。光と闇が帯のように流れ、その狭間にさまざまなものが視えた。影のような人々が視野を横切る。見たことのない大理石の部屋。制服を着た男の恐怖に引《ひ》き攣《つ》った顔。
光。闇。光。闇。光。闇。光。闇。
突然、戸外《こがい》に居ることに気づいた。足は湿った芝草を踏んでいる。
ジャックは顔を上げ、息を呑《の》んだ。
美しいブルーグレイの髪と山羊《やぎ》の足を持った人物が驚いたようにこちらを見つめている。
グラシュティグ族だ。
ドクン、と心臓がひとつ拍《う》ち損《そこな》う。
「カディル……?」
そんなはずはない。三ヵ月前、カディルはロンドンで死んだのだ。この世界に馴染《なじ》めず、心を病《や》み、自《みずか》ら命を絶《た》つことを選んだのだ。一瞬、時間を遡ってカディルが生きていた時間に戻ったのでは、という考えが頭をよぎる。だが、空の端に輝く〈星の銀輪〉が目に留まった。ここはラノンでもロンドンでもない。ここは五百年前のクリップフォードで、目の前のグラシュティグはここに移住した追放ラノン人なのだ。
そう思ってよく見れば、それほどカディルと似てはいなかった。緑の眼はカディルより濃く、髪は肩の辺りまでしかない。だがグラシュティグ族に特有の磁器《じき》人形を思わせる精緻《せいち》な顔立ちや、嫋《たおや》かで中性的な雰囲気は厭《いや》でもカディルを思い起こさせた。
グラシュティグ族は美しい新緑の色の眼でジャックを見つめ、小さく呟いた。
「〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉……。おまえさまは……?」
「あ……僕は……」
音楽再生機から歌声が零《こぼ》れる。白い光の中にグラシュティグが消え、再びジャックは光と闇の帯の中にいた。
景色がくるくると変わった。
タータン姿の兵士が騎馬で草原を駆け抜けるのが視えた。
草原に森が興《おこ》るのが視えた。
裸体を青くペイントした戦士が剣と盾《たて》で互いに激しく闘《たたか》うさまが視えた。
粗末な毛皮の衣服を纏《まと》い、石斧《いしおの》と石槍《いしやり》で巨大鹿を追う狩人《かりゅうど》たちが視えた。
どの時代にも地平には〈星の銀輪〉が輝いている。だが時を遡るにつれ〈輪〉が次第に小さくなっていくのが分かった。〈果てしなき望みの輪〉が動いたその時間にまで遡れば〈輪〉は完全に見えなくなるのだろう。
テープを巻き戻し、再び音楽再生機のボタンを押す。
輪になって踊るよ
ルリルラ ララルラ
〈果てしなき望みの石たち〉が
星の銀輪めぐる夜に
昼と夜が目まぐるしく入れ替わっていく。花は一瞬で蕾《つぼみ》になり、若芽《わかめ》になり、地中に引っ込む。光と闇が細い筋になって流れ、やがてすべてが混ざり合った。
灰色が流れていく。
気づくと、茫々《ぼうぼう》とした雪原《せつげん》に立っていた。傍《かたわ》らには半《なか》ば雪に埋もれるように〈時の翼〉石がある。
空に〈星の銀輪〉は見えない。
終点だ。
8――円環《えんかん》
かつてクリップフォード村は〈果てしなき望みの輪〉と呼ばれる巨大なストーンサークルに取り囲まれていた。どのような民族が造ったのかは定かでない。年代は非常に古く、五千年とも六千年とも言われる。〈十二夜《じゅうにや》〉の期間中に〈果てしなき望みの輪〉の石の側《そば》で祈りを捧《ささ》げるとあらゆる願い事が叶うと云う言い伝えがあり、これは『〈十二夜〉に〈クリップフォード諸聖人《しょせいじん》教会〉の石の上で祈ると願いが叶う』と云う言い伝えと完全に呼応《こおう》している。
[#地付き]〈クリップフォード村の歴史と伝承〉より
◆◆◆
ジャックは自分が降らせたのではない雪を踏みしめて歩いた。
どのくらい時を遡《さかのぼ》ったのだろう。
降りしきる雪が目に入り、溶けて眦《まなじり》から流れ落ちる。雪原《せつげん》には人の生活を示すものは何一つなかった。なだらかな丘の斜面には砂糖の衣《ころも》を着たような針葉樹《しんようじゅ》の森が広がっている。それでも寒さは感じなかった。生まれつき感じないのだ。雪の感触は肌に心地よいが、気づかぬうちに凍死する危険があった。
急ごう。
ジャックは足を速めた。
雪はしんしんと降り続いている。
フィアカラは〈果てしなき望みの輪〉に何を望んだのだろう。
〈魔術者〉フィアカラと初めて遭《あ》ったのは十四のときだった。そのころ彼は宮廷魔術者として最高の地位に在《あ》った。鮮《あざ》やかな弁舌《べんぜつ》と煌《きら》びやかな服装、そして術の切れ味でダナの宮廷を――特に貴婦人方を魅了《みりょう》していた。
ほどなくフィアカラはジャックの養育係のカディルに取り入った。宮廷には庶出《しょしゅつ》の王子であるジャックの味方は少なく、カディルは簡単に彼に籠絡《ろうらく》された。
彼は公然とジャックを支持し、ダナの歴史において〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉を持たない王の治世は必ず乱れたと喧伝《けんでん》した。それは一面では事実だ。だが、〈霜の瞳〉が王座に就《つ》いていたときも必ずしもダナ王国が安泰《あんたい》だったわけではない。結局のところ、王の真価は王自身の資質で決まるのであって、瞳の色で決まるわけではないのだ。
だからジャックは愛する弟、ニムロッドが王位を継ぐことに何の異存もなかったが、中には瞳の色を問題にする者もいた。弟の瞳は左右とも暖かな栗色だったのだ。
ニムの瞳が左右のどちらか片方でも〈霜の瞳〉であれば――父王がそうだったように――異論は出なかっただろう。だが、ダナの宮廷は揺れていた。国王の正妃を母に持ち、最も祝福された第七子であるが〈霜の瞳〉を持たないニムロッド。第六子であり、側室《そくしつ》を母とするにも拘《かか》わらず左右の瞳ともに〈霜の瞳〉のジャック。
継承条件のねじれは弟の王位継承を危ういものにした。だから父王に告げたのだ。宮廷付魔術者フィアカラは謀叛《むほん》を企《たくら》んでいる、王位|簒奪《さんだつ》を持ちかけられた、と。そのことによりフィアカラは獄《ごく》に繋《つな》がれ、ジャック自身は廃太子《はいたいし》となった。それですべてうまくいくと思っていた。カディルによる皇太子ニムロッド暗殺未遂事件が起きるまでは……。
いつのまにか歩《あゆみ》が止まっていた。
肩に髪に雪が降り積もっていく。
ジャックは顔を上げた。白一面の世界に、一点の曇《くも》りのように黒々とした影が浮かんでいる。
「お迎えに上がりました、ジャック王子」
肩に掛けたコートを不吉な翼のようにはためかせ、魔術者フィアカラはゆっくりと雪原に降り立った。
「フィアカラ……」
足を雪から抜こうとしたが、動かない。いや、身体が動こうとしないのだ。ジャックは腕を動かそうとした。だが指先を持ち上げるのがやっとだった。
「これは……〈記憶の枷《かせ》〉……か……」
「その通り。きっと御出《おい》でになると思いましたのでね。こうも簡単に掛かってくれるとはあっけない。いったい何を後悔しておいででしたかな? 私の申し出を断ったこと、それとも私を密告したことですかな?」
フィアカラは嘲笑《あざわら》った。
「お得意の〈霜の力〉を使いますかな? この雪の中で?」
知らぬうちに罠《わな》に踏み込んでいたのだ。なんという迂闊《うかつ》さだろう。この時代にフィアカラがいることは当然予想するべきだったのに。
そう考えた途端、何かがぶら下がるように身体が重くなり、ジャックは柔《やわ》らかな雪にがくりと膝《ひざ》をついた。〈記憶の枷〉の中では後悔は重さに変換されて手足に纏《まと》いつく。
「また何か後悔されたようですな。今度は何ですかな? あの憐《あわ》れなグラシュティグを死なせたことですかな? カディルとかいう名の。彼は貴方《あなた》の巻き添えで〈地獄穴《じごくあな》〉に落ちたそうですな。だが、妙だ。貴方がニムロッド皇子を暗殺しようとするとは。あれほど執着しておられたのに」
「忘れたよ。とっくに過ぎたことだ……」
猜疑《さいぎ》に満ちた眼がジャックの顔を覗き込む。その瞳孔《どうこう》がすっと窄《すぼ》まり、底意地の悪い微笑が浮かんだ。
「ああ、なるほど! 皇太子暗殺はカディルが独断で計画したというわけですか! 気の毒に、余程思い詰めていたのでしょうなあ。年を経《へ》たグラシュティグは視野が狭い。貴方のことしか考えられなかったのでしょうな。それもこれも、貴方が彼の期待に応《こた》えてやらなかったせいで」
フィアカラの指摘は的を突いていた。カディルの願いを知りながら無視し続けた自分があの事件を招いたのだ。カディルの精神が尋常《じんじょう》でないことにも気づいていた。なのに何もせず、ただ手をこまねいていたのだ……。
伸し掛かる後悔が急激に重さを増し、ずぶずぶと身体を雪にめり込ませていく。
「……フィアカラ。僕が憎いのなら命を取ればいい。この眼が欲しいのなら呉れてやろう。だが、クリップフォードの人々は関係ない。〈果てしなき望みの輪〉にクリップフォードを元に戻すように願って欲しいんだ。このままだとクリップフォード村は永遠に世界から孤立してしまう」
「残念ながら、貴方の命は取引材料としての価値はありませんな。貴方を殺すのは止《や》めにしたのでね」
革手袋をした手が額《ひたい》に触れ、左手が愛撫《あいぶ》するように頬の輪郭《りんかく》をなぞった。
「そう、〈霜の瞳〉。何度見ても美しいものだ。この眼を刳《く》り貫《ぬ》いて記念に取って置きたいと考えたものだよ」
指先が瞼《まぶた》をぐっ、と押した。このまま眼球を抉《えぐ》る気なのだろう。ジャックは息を詰め、予想される苦痛に備えた。
が、指はそこで止まった。
瞼を離れた指は頬から顎《あご》へゆっくりと降りていき、喉頸《のどくび》を掴《つか》んだ。五本の指がじわじわと喉に食い込んで行く。呼吸が出来ない苦しさに身体が震える。それでも身じろぎひとつ出来ない。手足が痺《しび》れ、意識が遠のく。朦朧《もうろう》とした意識の中でフィアカラの声だけが聞こえていた。
「初めは、ただ単に殺したいと思っていた。こんな風に縊《くび》り殺《ころ》すのもいい。次に、私が〈鉄牢《てつろう》〉で苦しんだのと同じ年月|責《せ》め苛《さいな》んでやろうと考えた。だが、それも何か物足りない。もちろん、貴方を生かしたまま百通りの苦痛を与えることは可能だ。手足を油で煮ることも、肉をささらに割《さ》くことも、骨を鑢《のこぎり》で削《けず》ることも出来る……」
不意に圧迫が消えて呼吸が楽になった。ジャックは頭《こうべ》を垂《た》れ、激しく空気を貪《むさぼ》った。耳元で毒が滴《したた》るような声が囁く。
「だが、苦痛を与えれば、貴方はただひたすらそれに耐えるだろう。貴方が考えるのは苦痛のことだけだ。他のことは何も考えはしない。貴方の性格を考えれば、苦痛はある意味で逃避を手助けするようなものだ。それでは私の思いを遂《と》げたことにはならない。それで、考えたのだよ。私が真に何を望んでいたかを。そして解ったのだ……」
雪はしんしんと降り続いている。フィアカラはジャックの髪を掴んで顔を上向かせた。
「私は、貴方に出来るだけたくさん後悔して欲しかったのだよ。私を密告したことを」
「……急進派からニムロッドを守るためにはそうするしかなかったんだ」
「ニムロッド! あの凡庸《ぼんよう》な王子が即位すればダナ王国もさぞ安泰《あんたい》でしょうな」
「ニムには〈霜の力〉はなくとも人望がある。あの子はきっと良い王に……」
「私は、貴方を見込んだのだ。貴方は稀代《きたい》の王になれたのだ。私は名摂政《めいせっしょう》として歴史に名を残す筈《はず》だった。だが貴方の裏切りによって私の名は逆賊《ぎゃくぞく》としてダナの歴史に刻《きざ》まれたのだ」
「見込み違いだ。僕はもともと国王になど向いていなかったんだ……」
「ご謙遜《けんそん》を」
フィアカラは心底満足げに笑っていた。
「その眼は、眼窩《がんか》に残しておくことにしましたよ。貴方には見て欲しいのですよ。私が二つの世界の王となるところを。私がダナ王国を滅《ほろ》ぼし、貴方の凡庸な弟を殺すところを。〈同盟〉の愚《おろ》かな妖精どもとクリップフォードの住人どもを皆殺しにするところを。貴方が可愛がっている人狼《ウェアウルフ》が私の忠実な奴隷《どれい》となり、貴方の仲間のブルーマンや半妖精や巨人女を噛《か》み殺すところを。その眼ですべて見て欲しいのですよ」
「やめろ……! 彼らは関係ない……!」
ジャックは叫び声をあげた。すると、なぜか突然手足が軽くなった。湧《わ》き起こった怒りが後悔を凌駕《りょうが》し、〈記憶の枷〉が緩《ゆる》んだのだ。
そうだ。後悔は無益《むえき》だ。
過ぎてしまったことを悔やんでも何も変わらない。過去に自分がとった行動は確かに最善ではなかった。だが、常に最善の行動をとれる者などいる筈がない。だから生きている限り、いま出来ることをするべきなのだ。たとえそれが最善でなかったとしても、後悔をしないためには行動するしかないのだ。
歯を食《く》い縛《しば》り、半《なか》ば雪に埋もれた身体を動かす。僅《わず》かだが、動ける。唇を噛み切った。微《かす》かな鉄と塩の味。妖素《ようそ》を含んだ血が口の中に広がる。眼の中で〈霜の瞳〉が拡張していく。ジャックは持てる〈霜の力〉を最大限にまで高め、解き放った。
「凍れ=I」
炎をも凍らせるほどの冷気が一直線にフィアカラに突進して行く。直撃すれば一瞬で氷の彫像《ちょうぞう》になる筈だ。雪が巻き上げられ、視野が真っ白になる。
斃《たお》したか……?
真っ白な世界に黒い影が揺れた。
どこからともなく笑い声が響く。
ふ。ふ。ふ。ふ。ふ。
雪の中、影が走る。
「なんと芸の無い! このフィアカラが本当の氷の使い方を教えて進《しん》ぜよう」
突然、ジャックの周囲の雪がシャーッと音を立て、数本の雪の柱のように立ち上がった。雪はねじれ、圧縮されて細長い氷のように互いに編み合わさっていく。
氷の鎖《くさり》……!?
「見たまえ、氷は、こう使うものなのだよ!」
ジャックは逡巡《しゅんじゅん》した。こちらと同じ氷で攻撃されることは想定したことがなかった。さらに熱を奪うか、氷の楯《たて》で防ぐべきか。
[#挿絵(img/Lunnainn4_223.jpg)入る]
迷いが隙《すき》を作った。氷の鎖が四方から蛇《へび》のように素早く躍《おど》りかかる。あっと思う間も無く鎖はぐるぐると巻き付き、締め上げ、全身の自由を奪った。
「氷の鎖の味は如何《いかが》かね? 貴方は永遠にこの雪原に繋がれるのだ。お得意の雪と氷のために貴方はじき死ぬ。だが、〈時の翼〉石を使えば私は何度でも死ぬ前の貴方に会いに来ることが出来る。つまり私にとっては貴方の苦しみは永遠と同じなのだよ。会いに来る時はその都度|土産《みやげ》をお持ちしよう。最初の土産は、貴方の弟の首だ」
鎖がピンと張り、ギリギリと身体に食い込む。目に見えない手に引き上げられるように氷の鎖が身体を宙に吊り上げていく。ジャックは苦痛の呻《うめ》きを漏らした。
「では、王子。ご案内しましょうか。〈果てしなき望みの輪〉へ」
◆◆◆
アグネスは道を塞《ふさ》いでいる横転したトラクターを片手でどけた。
マクファーソンの家は屋根が完全に無くなり、壁が倒れている。アグネスは瓦礫《がれき》の山をひっくり返し、ソファやサイドボードをひょいひょいと拾って投げ捨てた。〈時林檎《ときりんご》〉のお陰で木材も重い大理石のテーブルもバルサ材のように軽い。
「マクファーソンさん! 大丈夫?」
倒れ掛かった天板《てんいた》と壁との隙間に縮こまっていたジョン・マクファーソンを助け起こす。幸い、怪我はないようだ。
「竜巻が来そうなの。安全なとこに連れていくから、あたしにおぶさって!」
「アームストロングのお嬢ちゃんか、無理だよ、儂《わし》は目方《めかた》が十五ストーンもある……」
「へいきへいき!」
アグネスは屈《かが》んでマクファーソンを背に負うと立ち上がった。小猫ほども重くない。
「行くわよ、しっかり掴《つか》まってて!」
背中でうひゃあ、という声が上がる。アグネスは荒れ狂う風をついて駆け出した。
アンガス・アームストロングは真っ暗なハイストリートを鬼火《おにび》を頼りに走った。銀の背の狼《おおかみ》がかろやかに先導する。
こいつがヘイミッシュんとこの末っ子だなんて、信じられるわけがねえ。
だが頭でそう考えるのとは裏腹に心の奥底ではアンガスは狼がラムジーだということをこれっぽちも疑っていなかった。頭の裏と表で考えることが違うのはアンガスには別に珍しいことではなかった。
狼はときどき立ち止まって振り返る。アンガスがついてきているか確認しているらしい。
全く、たまげたもんだ。こっちの言うことは全部|判《わか》るみてえだしな。第一、あの狼の妙に気の良い感じは、全くもってあのヘイミッシュんとこの末っ子そのままじゃねえか。
考えてみりゃ、もともとあの一家は変わり者だからな。七つっ子の呪いってのは、このことだったのかも知れん。こっちだって〈巨人〉だって言うが――。
狼が短く吠《ほ》えた。
「なんだってんだ?」
窓が割れた真っ暗な家の方に鼻先を向け、こちらを見ては短く何度も吠える。
「あの家にまだ誰かいるんだな?」
ウォン!
「よっしゃ! 行こう」
狼は銀色の流れになって割れた窓に飛び込んだ。鬼火が真っ暗な室内を照らしだす。
「おーい! 誰かいるか!」
「ああ、ここにいるぞ……アンガスか……」
頼りない声がした。マクリールのとこのマイケル爺《じい》さんだ。
狼が嬉しげに尻尾《しっぽ》を振り回す。
全く、たまげたもんだ。
シールシャは竜巻を見上げた。荒れ狂う風が頬を掠《かす》める。急激な圧の変化が大気に流れを作っているのだ。
稲光《いなびかり》が走った。垂《た》れ込《こ》める雲から竜巻の尾が長く伸びる。凄《すさ》まじい音をたてて〈星の銀輪〉の輝く縁《ふち》を舐《な》め、はじき飛ばされ、ゆらゆらと踊るように進みながら地上にあるものすべてを吸い上げ、破壊し、投げ飛ばす。
シールシャはゆったりと足を開いて立ち、大きく息を吸って吐き出した。吸って、吐く。吸って、吐く。
息は、風だ。
風が轟々《ごうごう》と吠え狂う。シールシャはすかさず風の脚《あし》を捉《とら》えた。そのまま大きく吸い込む。身体の中に巨《おお》きな力が入ってきて何かをぐるぐると回すのが判る。
これが〈風の息〉だ。
それは身体の中で唸《うな》りを上げ、圧縮され、変換され、吐き出される。
フィアカラに命じられた魔術合戦以外ではこの術を使ったことはない。あまりに破壊的過ぎるからだ。あれは魔術者同士の意地だけをかけた無意味な闘《たたか》いだった。
だが、今は違う。
シールシャはこの力を持って生まれたことを女神に感謝した。自分に与えられた力で仲間たちやアグネス、そして彼女の愛する故郷を守ることが出来るかも知れないのだ。
大きく息を吸い込み、うねうねとうねる竜巻を見据《みす》える。
来るがいいわ。
わたしは〈風の魔女〉シールシャ、おまえなどに負けはしない。
「おーい! こっちだ! ここに安全な場所がある!」
レノックスは荒れ狂う風に負けじと大声で怒鳴った。無くなってしまった教会の礎石《そせき》の上ではイザベルが巨大な〈風の楯〉を内側から〈保ち〉続けている。狼ラムジーとアームストロング父娘《おやこ》は自宅にいた村人たちを次々とハイストリートに連れて来ていた。ケリは〈楯〉の側で〈グラマリー〉を広く薄く使って集まってくる村人たちに呼びかけている。
「皆さん落ち着いて行動してください。建物の中よりも〈風の楯〉の方が安全です。僕らの仲間が誘導しますから押し合わないで並んで入って下さい……=v
ケリの声を聞いた村人たちがぞろぞろと〈風の楯〉に入っていく。多人数相手の〈グラマリー〉は自信がないと言っていたケリだが、うまくやっているようだ。うますぎて、下手をするとこっちまですぐにも〈風の楯〉に入りたくなってくる。レノックスは頭を振って気を引き締めると、手当たり次第に鬼火を飛ばして住人たちの避難路を照らした。
「一人ずつだ! 慌てるな、ゆっくり動かないと中には入れねえ。おっと、その線からはみ出すなよ、安全なのは線からその礎石のとこまでだ!」
〈風の楯〉は人間の目には視えない。楯の中に避難しろと言われても、どこからどこまでが安全なのか彼等《かれら》には視えないのだ。村中の避難が完了しないうちは魔法を使える自分らは外で誘導しなければならない。
自治体委員《カウンシラー》の女性が髪を振り乱して駆け寄ってきた。
「スチュワートさんが避難しないと言い張ってるそうです。あの人は集会に出ていなかったし、家の石は一つも盗まれていないので魔法の話を信じないんです。ボイラー室で竜巻をやり過ごすって……」
確かに、普通に考えれば竜巻が来るのに戸外《こがい》に避難しろというのは理屈に合わない。
レノックスは怒鳴り返した。
「こいつは普通の竜巻じゃないんだ。これから何が起こるか判らん。いざと云う時、イザベルとシールシャの近くに居た方が安全だ」
そのとき、後ろで誰かが怒鳴った。
「私が行って説得しましょう!」
レノックスは振り向いた。さっきまで苦悩していた若い牧師だった。
「牧師さん、あんた……」
「〈妖精〉は主《しゅ》の創《つく》り賜《たも》うたものではないが、悪魔のものでもない。私は、あなた方を信じることにしましたよ」
どうやら信仰と目の前の現実との間で折り合いをつけたらしい。レノックスは特大の鬼火を作りだして牧師に渡した。
「済まん、牧師さん! こいつを使ってくれ!」
「礼を言われることはありません。人々を守るのは私の使命ですから」
牧師はおっかなびっくり鬼火を受け取ると真っ暗な村に向かった。
〈風の楯〉の周りでは公民館の集会に出ていた村人たちが口から泡を飛ばして出席していなかった連中にこれが超自然の災《わざわ》いであることを講釈している。
「信じられねえと思うが、ホントなんだ! 教会は空を飛んでっちまったんだよ!」
その様子を見ているうちに、レノックスは村人の数人に一人は確実にセカンドサイトがあることに気づいた。セカンドサイトを持つ者にはどこからどこまでが〈楯〉の領域なのかはっきり視えている。だから自然と視えている者が視えていない者を〈楯〉の領域内に誘導するようになってきたのだ。お陰で避難の効率が大分《だいぶ》上がった。
「な? ゆっくり動けば通れるだろ! そんで、中は無風なんだ!」
ややあって、通りの向こうから牧師と初老の男が駆け戻ってきた。説得に成功したようだ。
続いて白髪の老女を背負ったアグネスが大股に走ってくる。これで何往復目かだが、疲れは微塵《みじん》も見せない。
「親父たちは?」
「戻ってる。ラムジーが走り回って確認したから、居残りはこれで最後の筈だ。竜巻はシールシャが何とかすると言ってる。嬢ちゃんも早く〈風の楯〉に入れ!」
「うん!」
レノックスはハイストリートの真ん中に立つシールシャを見つめた。小さく華奢《きゃしゃ》な姿は今にも風に吹き飛ばされそうだ。
あの小さい身体で本当に竜巻に立ち向かえるのか……。
だが、信じるしかない。
◆◆◆
手首からぽとりと血が滴り、新雪に吸われて薄赤く滲《にじ》む。
ジャックはゆっくり息をして苦痛に耐えた。巻き付いた氷の鎖はピンと四方に張りつめて身体を宙に吊るしている。足の先から雪原まではわずか数フィートだが、どうあっても届かない。
「蜘蛛《くも》の巣にかかった虫さながらですな、王子。ご気分はいかがですかな?」
フィアカラは呵々《かか》と笑った。
「見るがいい、これが〈果てしなき望みの輪〉だ!」
目の前にあるのは圧倒的な巨大さの石の柱だ。降りしきる雪の中に在《あ》ってその表面には全く雪が積もっていない。巨石は数十フィートの間隔《かんかく》で雪原に一列に並んでいる。それが形作る円があまりに巨大なため、一部分では直線にしか見えなかった。
「この〈輪〉には〈叶える力〉が封じられているのだ。我々が石に魔法を封じるのと似ているが、〈叶える力〉は魔法の種類を特定しないのだよ。言い換えれば、どんな願いでも叶えられるということだ。この力を使うには〈輪〉を回転させ、〈望み〉を強く伝えるだけでいい。それだけであらゆる望みが叶う。それだからこれは〈果てしなき望みの輪〉なのだ。〈輪〉は〈妖素〉を必要としない。我々の知る魔法体系とは異なった古代のシステムなのだ。私は過去の研究からこの石に秘められた偉大な力、その可能性を類推することが出来たのだよ」
「……よく解らないものを使うのは危険なことだ。だからクリップフォードの始祖《しそ》たちはこの輪を破壊したんだ」
「彼らは腰抜けだったのだよ。見たまえ! 〈輪〉の力は既に実証済みなのだ」
革手袋を脱ぎ捨てる。ジャックの目はその左手に釘付《くぎづ》けになった。義手《ぎしゅ》ではなく、生身の手だ。
フィアカラは両手をひらひらさせた。
「美しいだろう? 私は〈輪〉に願ったのだ。私の左腕を失う前の健康な状態に戻して欲しい、とね。するとどうだ! たちまち腕は元通りになったのだ」
どこからか取り出した義手を雪原に投げ捨てる。金属と樹脂《じゅし》の義手は新雪にずぼりとめりこんだ。
「我々の〈治癒《ちゆ》〉では身体の欠損《けっそん》は治せない。傷口を癒《いや》すだけだ。だが〈輪〉の〈叶える力〉にはそんな制限はない。どれだけ素晴らしいことか、理解出来たかね?」
「だが、それは既に〈時震《タイムクウェイク》〉を引き起こしたんだ。その影響でクリップフォードは世界から隔絶《かくぜつ》されてしまった」
「知ったことではない。私はこれからラノンを手に入れるのでね。もちろん、ダナ王国もだ」
黒々とした絶望が広がった。フィアカラはラノンを支配し、ニムを殺すつもりだ。ただ自分に見せつけるために。
いったいどうしたらいい……?
〈霜の力〉でフィアカラを斃《たお》すことは出来ない。だが、自分自身の心臓を凍らせることは出来る。
今ここで自分が死んだとしたら?
昔からフィアカラは飽きっぽく気紛《きまぐ》れだった。自分に見せると云う目的が無くなれば復讐にも飽きるかもしれない。だが、それでもやはり彼は世界を支配し、戯《たわむ》れに皆を殺すかも知れない。
堂々めぐりだ。
絶望に苛《さいな》まれながらどうすることも出来ず、ただフィアカラを目で追う。
フィアカラが満足げに喉《のど》を鳴らした。
「見ていたまえ、ジャック王子。私は二つの世界を支配する王となり、永遠に崇《あが》められるのだ」
言うなり、巨石のひとつに手をつく。
「動け=c…〈果てしなき望みの輪よ〉!」
地響きが雪原を揺るがした。
居並んだ巨石は重さを失ったようだ。地面を離れ、ゆっくりと空に昇っていく。
おんおんおんおんおんおんおん……。
奇妙な低い音が大気を震わせ、骨の髄《ずい》にまで染《し》み渡《わた》った。〈輪〉の巨石それ自体が震え、音を発しているのだ。上昇を続ける巨石は垂《た》れ込める雲に没《ぼつ》し、上半分が霞《かす》んだ。やがて空に浮かぶ巨石は水平に移動し始めた。それぞれの石がゆっくりと一方向へ動き、それが少しずつ速くなる。
回転しているのだ。〈果てしなき望みの輪〉全体が宙に浮いてぐるぐると回っているのだ。
おんおんおんおんおんおんおん……。
回転は加速度的に速くなり、やがて回る石を目で捕《と》らえることが出来なくなった。〈輪〉の残像がぬめぬめとした真珠色に光り、雲を切り裂いて巨大な光の帯のように空を取り囲む。
これは……〈星の銀輪《ぎんりん》〉だ。
ジャックは氷の鎖の苦痛を忘れて〈銀輪〉を見上げた。
フィアカラが指揮者のように両手を高く掲《かか》げ、大声で呼ばわる。
「〈果てしなき望みの輪〉よ! 我の望みを聞きたまえ。我にラノンを与えたまえ!」
ジャックは息を詰めて〈輪〉を見つめ続けた。だが、何も起きなかった。フィアカラが地団駄《じだんだ》を踏む。
「どうしたっ! なぜ応《こた》えん!? さっきはすぐに望みを叶えたではないか!」
フィアカラは両手両足を広げて雪の中にばったりと倒れ込み、ごろごろと転げ回った。たちまち滑《なめ》らかな雪の肌が蹴散《けち》らされていく。
「くそくそくそくそっ! どんな望みも叶えるのではなかったのか!」
駄々《だだ》っ子《こ》のように手足をじたばたさせる。と、突然がばっ、と顔を上げた。雪にまみれた顔に満面の笑みが浮かぶ。
ふ。ふ。ふ。ふは。ひゃはははは……!
「そうか。解った、解ったぞ! 〈輪〉は〈ラノン〉が何か知らんのだ! 知らんものは与えようがあるまい。だったら教えてやるまでだ……」
ふらりと立ち上がる。首を一振りして雪を払い、〈輪〉に向かって大声で叫んだ。
「〈輪〉よ、聞け! ラノンとは、この世界とは別の世界にある世界だ。偉大なる女神が知ろしめす美しい世界なのだ。その地形はこの世界のロンドンと同じ、自然はこの土地と同じだ。その中心には西から東へとロンドンのテムズ河と同じ形の大河イスが流れる。イスの源流は雪を被《かぶ》った気高《けだか》く美しい西の霊山《れいざん》の中だ。その美しさはこの世界のすべての山の美しさを合わせて百倍にしても足元にも及ばぬほどだ……!」
フィラカラの見開いたまなこに涙が浮かんだ。頬を伝い落ちる涙を拭《ぬぐ》おうともせず、腹の底から絞り出すようにラノンの美しさを縷々《るる》と語り続ける。
「ラノンを囲む海は青く、森に緑滴り、空気は澄み、風は甘い。泉には清い水がこんこんと湧く。冬は暖かく、夏は涼しい。野原には常にさまざまな花が咲き乱れ、鳥は歌い、川には魚が、野には獣《けもの》が遊ぶ。夢のような世界だ。そこでは犬と鳥が交《まじ》わって子を成し、蛙《かえる》が空を飛び、ドラゴンやグリフォン、そして一角獣《ユニコーン》が闊歩《かっぽ》する。動物たちは望む姿になり、人は様々な妖精の種族に分かれ、ある者は巨大に、ある者は小さく、ある者は獣の姿を我が身に取り入れる。すべての種族がそれぞれに強く美しい。なぜならそうなることを望んだからだ。ラノンとは私の故郷、この世の外にある楽園なのだ……!」
〈輪〉の唸りが一段と高くなった。空を囲む真珠色の光は輝きと速度を増し、甲高《かんだか》い唸りとともに目も眩《くら》む速さで回転する。
どんよりとした雪雲が渦《うず》を巻き、稲光が走る。雲は〈果てしなき望みの輪〉の回転に合わせるようにぐるぐると天空に輪を描いて回転した。渦を巻く雲がレモン色に輝き、その瞬間薄くなった雲の中心部に何かが見えた。
河だ。
雲の渦の中に大河が横たわっている。
[#挿絵(img/Lunnainn4_237.jpg)入る]
西の空から東の空へ、のたうつ大蛇《だいじゃ》のように蛇行《だこう》するその姿は記憶に刻《きざ》まれた母なるイスの流れ――そしてテムズの流れそのものだった。
「ヒャハハハハ! 見ろ! イス河だ! ラノンだ! なんと美しい……!」
回転する雲の渦の中に緑の沃野《よくや》が広がっているのが見える。それは三ヵ月前、カディルが呼び出したラノンの入り口と同じだった。
だが、何かが違うような気がする。
再び稲妻《いなずま》が走り、雲の中に逆さまに浮かぶラノンを照らし出す。ジャックは吊り下げられたまま顔を上げて目を凝《こ》らした。
イスの流れは記憶にある通りうねうねと大地をたゆたっている。だが、その畔《ほとり》にある筈のものが見えない。イス河が大きく蛇行する特徴的《とくちょうてき》な位置にある筈のラノン城の硝子《ガラス》のドームがどうしても見つからないのだ。それだけではない。イスにかかる七つの大橋も、家々のいらかも、市場を埋《う》める天幕《てんまく》の群れも、街の中心となる広場もどこにも見当たらなかった。
イスの岸辺に広がるのはきらきらと光を反射する葦原《あしはら》の緑、さらにそれを囲むこんもりとした美しい森の緑だけだ。
フィアカラが両手で頭を抱え、大声で喚《わめ》き散らした。
「何故だ? 何故ラノン城がないのだ!? 街も、塔も、広場もない!」
ジャックは空に浮かぶラノンをじっと見つめた。見ているうちに、答えが解った。
「そうか……解った……」
「何だ? 何が解ったというのだ!」
突然、身体を吊り下げていた氷の鎖が張力《ちょうりょく》を失い、ジャックは雪の上に転げ落ちた。
ブーツの底が頭を踏みにじり、雪にめり込ませる。
「言ってみろ、ジャック・ウィンタース!」
ジャックは口の中に入り込んだ雪を吐き出した。
「……簡単なことだ。あれは、この時代のラノンなんだ。何千年か前の。だから王宮はない。もちろんダナ王国だってまだないんだ」
「な……んだと……?」
フィアカラは眼を剥《む》き、空に浮かぶ緑のラノンを茫然《ぼうぜん》と見上げた。
「何て事だ、六千年……六千年前のラノンなど、なんの意味もない! 貴様のニムロッドのいないラノンになど用はない!」
「〈輪〉に〈望み〉を伝えるのは簡単じゃないようだな」
「くそくそくそくそくそっ! 小賢《こざか》しいことを! 賢《かしこ》いつもりか!」
雪を蹴立《けた》て、ブーツの先がジャックの身体を蹴る。ブーツの先がめり込む苦痛を内臓に感じながらジャックは雪の中で笑った。とりあえずニムの身への危険は遠ざかったのだ。
「おのれ、ラノンには時を下ってから行けばよいのだ。〈妖素〉さえ大量にあればロンドンの〈穴〉を開くことが出来ることは分かっているのだからな!」
彼は〈輪〉に向かって再び両腕を高く差し伸べ、有らん限りの声で怒鳴った。
「〈果てしなき望みの輪〉よ! 我に無尽蔵《むじんぞう》の〈妖素〉を与えたまえ!」
願う声が雪原に虚《むな》しく吸い込まれていく。〈果てしなき望みの輪〉は沈黙を守ったままだ。
「くそっ、妖素が解らんのか! 妖素……妖素は……そうだ、妖素は私の骨の中に在る! 青く光る物質だ! 焼かれて滅《めつ》することなく、意志に逢って魔法を可能にする奇跡の元素だ! これを無窮《むきゅう》に増やしてくれ!」
空の上で〈輪〉が甲高い唸りを上げた。真珠色がぐるぐる回転する。
「見ておれよ! 妖素さえあれば……」
不意に、言葉が途切れた。
そのまま長い沈黙が続く。
どうしたんだ……? あの冗舌《じょうぜつ》な男が。
ジャックはフィアカラを見上げた。
フィアカラの顔が、異様に歪《ゆが》んでいた。
目が飛び出し、顔の輪郭が倍ほどに膨れあがっている。顔だけではなかった。腕や脚が奇妙に膨れているのだ。
一体、どうしたというんだ……?
フィアカラが奇妙な音を立てた。
がはっ!
その口から血の塊《かたまり》が吐き出される。
「フィアカラ……?」
ぐぐぐはっぐはっぐはっ……!
フィアカラは再び血を吐いた。雪に散る血に青い光が混じる。
妖素だ。
フィアカラの血中には妖素はない筈だ。だが、血はまるでそれ自体が光源であるかのように青々とした光を放っていた。光の色は普通では考えられないほど濃い。妖素を含んだ血ではなく、血の混じった妖素を吐いていると言った方がいいくらいだ。
ジャックはフィアカラが〈輪〉に願った言葉を思い返した。
(骨の中にある妖素を無窮に増やしてくれ)
確かに彼はそう願った。
〈果てしなき望みの輪〉はその願いを忠実に実行しているのだ。彼の骨中の妖素が果てしなく増殖《ぞうしょく》し、体の中に溢《あふ》れてなお増え続けているのだ。
風船人形のようにまるまるとなった指が差し伸べられ、空を掴む。
「……タ……た……ス……け……テ……」
「駄目だ……僕にはどうしようもない……」
がはぁッ! はぁッ! はぁッ! はぁッ!
喘《あえ》ぎながら血と妖素を吐き出す。皮膚《ひふ》の下の妖素が青く透《す》け、彼の身体は青いランプのように光り輝いていた。
身体の至る所が風船に空気を吹き込むように膨れあがり、みりみりと音をたてて変形していく。ぱんぱんに膨らんだ手の甲の皮膚がピリッ、と音を立てて裂けた。裂け目から青い光が溢れて雪を照らす。血の赤は、光の青に掻《か》き消されてほとんど見えない。至る所で皮膚が張り裂け、体内に収まり切らなくなった妖素が洩《も》れ出《だ》してくる。
耳から、口から、妖素が流出し始めた。内圧に堪《た》えかねた眼球がぼこりと飛び出し、糸を引いてぶら下がり、ぽっかり開いた眼窩の奥から妖素が滔々《とうとう》と滝のように迸《ほとばし》り出《で》た。
衣服が裂け、釦《ボタン》が次々弾け飛んだ。胴体は果てしなく膨張《ぼうちょう》を続け、腕も脚も頭も丸々としたその中にずぶずぶと埋もれていく。
がアアアァァァああああッ……ッ……!
悲鳴は、そこで途切れた。
ジャックは目を背《そむ》け、せめて彼が既に息絶えていることを願った。
やがてフィアカラだったものは一部に疎《まば》らな毛の残る球体となり果て、雪原をころころと転がった。雪はたちまち青い光に染められていく。
ジャックは言葉を失い、少し前までフィアカラだったものをただ見つめた。球体は九つの穴と無数の裂け目から絶え間なく妖素を噴き出し、たちまちのうちに雪を青く染めていく。
なんということだろう……。
欲の深さがこの男を滅ぼしたと考えるのは容易《たやす》い。だが、誰だって欲望は持っているのだ。誰が望みを持つなと言えるだろうか。
より良い人生を、幸せを、富を、美を、愛を、権力を、そして何よりも生きることを人は望む。
望むことは生命の本質なのだ。
天を仰《あお》いだ。渦巻く雲の中に逆さまになった緑のラノンが浮かんでいる。
六千年前だと言った。あれは六千年前のラノン、まだ誰の手も触れない無垢《むく》のままのラノンだ。やがてあの緑の地に文明が興《おこ》り、小国が興亡《こうぼう》し、村ができ、都市に成長し、ダナ王国が建国され、自分やフィアカラが生まれ、〈地獄穴〉を通ってこの世界にやって来る。そして――。
突然、ジャックは理解した。
これは時の円環《えんかん》なのだ。
彼は、フィアカラは、〈果てしなき望みの輪〉に望むことによって〈ラノン〉そのものを創り出したのだ。
「そうだったのか……フィアカラ、おまえは僕ら全ての生みの親だったんだ……」
雪の中で泣きながら笑った。
では、無駄ではなかったのだ。自分が生まれたことも、〈地獄穴〉でこの世界に来たことも、すべては〈ラノン〉を誕《う》み出《だ》す円環の一部だったのだ。フィアカラと自分、そして今までに出会った多くの仲間たち、その一人一人が環《わ》の一部なのだ。うちひとつが欠けても円環は途切れ、〈ラノン〉は誕まれなかっただろう。
顔の上に舞い降りる雪がひどく心地好《ここちよ》い。
このままこの清らかな雪の褥《しとね》で永遠の眠りにつくのは悪くない考えに思えた。ゆるゆると瞼が下りる。
そういえば子供のとき、雪の中で眠ろうとするとカディルにひどく叱られたっけ……。
(ジャック様。雪の心地よさは偽りのもの、身を任せてはいけませんよ。雪と寒さはあなた様を害するのですよ)
小さかった頃、寝かしつけるときにいつもそうしたようにカディルは優しくジャックの額にキスをした。白い山羊《やぎ》の足、ミントグリーンの瞳。
「カディル……」
目を開けると、カディルの幻は雪に溶けるように消えた。
(ジャックさん)
どこからともなく懐かしい声が聞こえてくる。
(ジャックさん、眠っちゃだめです)
心配そうに見つめる暖かな栗色の瞳の少年が瞼の裏に浮かぶ。弟に似ているけれど、少し年嵩《としかさ》だ。
ああ、そうだ。あれは、ラムジーだ。
ラムジーはきっと心配しているだろう。それにレノックスもだ。いや、彼は心配するというよりは腹を立てるに違いない。今にも怒鳴り声が聞こえてきそうだ。
(眠るな、この馬鹿! あんたは寒さを感じないんだからな! てめえで気をつけやがれ!)
思わず笑みが零《こぼ》れる。
ああ、その通りだな、レノックス。
こんなところで凍死する訳にはいかない。自分には、まだ為《し》なければならないことがあるのだ。
氷の鎖が外れないか試してみた。フィアカラが死んでも鎖は硬く巻き付いたままで緩む気配はなかった。〈霜の力〉は温度を下げるばかりだから、氷の鎖を解くのには何の役にも立たない。だが、自分に出来る魔法で何か別の方法があるはずだ。
半身を起こして周囲を見回してみる。雪の上にフィアカラの衣服の残骸が散らばっていた。
ジャックは氷の鎖に縛られたままごろごろと布きれのところまで雪の上を転がった。
「ドーィム*lは燃やす……」
ボッ、と布きれが燃え上がった。手首に巻き付いている氷の鎖を燃える布に近づける。炎が皮膚を舐める。顔をしかめながらさらに炎に近づけた。少しずつ氷の鎖が溶け、透明な雫《しずく》となって滴り落ちる。充分に細くなったところで、腕を交差させて力一杯|捻《ひね》ると氷の鎖はぱっきりと折れた。手間はかかるが、確実な方法だ。
そうやって一本ずつ全ての鎖を解き、そろそろと立ち上がった。手足が強張《こわば》って思うように動かすことが出来ない。寒さのせいなのだろう。
ジャックは頭上で回転する〈星の銀輪〉を見上げた。次第に回転速度が落ち、〈銀輪〉の中に巨石の形がぼんやりと見える。
早く望まなければ。
だが、何を?
もちろん、クリップフォードを元に戻すことが第一だ。だが……他の望みも叶えられるとしたら?
どんな望みも叶うというのなら、カディルを生き返らせることも出来るかもしれない。或《ある》いはカディルがまだ生きていた時間に戻り、彼の自殺を止められるのでは? いや、ラノンに戻ることも……。
天に浮かぶラノンの入り口を見つめる。
六千年前のラノン。知っている者の誰もいないラノンに行ってどうするというのだ? それとも、〈果てしなき望みの輪〉に正しく願いを伝えることが出来ればうまく自分が生きていた時代に戻ることが出来るのだろうか。それは自分が〈地獄穴〉に送られる前、それとも後だろうか? もしも前だとして、すべてを事前に修正し、フィアカラも自分もこの世界に来ないとしたら、ラノンはどうなるのだろう……?
〈輪〉がラノンを誕《う》み出《だ》したのなら、消し去ることもまた可能に違いない。
ジャックは妖素を生み出す珠《たま》と化したフィアカラに目をやった。そして、ラノンに還れると知りつつ〈輪〉を破壊したクリップフォードの始祖たちの賢明さを思った。
望みは決まった。
ジャックはフィアカラがしたように両腕を高く上げ、〈星の銀輪〉に差し伸べた。
「〈果てしなき望みの輪〉よ。僕の望みを聞いてくれ。フィアカラを――妖素を生む珠をラノンに送ってくれ。そうしたらこの世界とラノンとを切り離し、ラノンへの入り口を塞いで欲しい」
〈輪〉が唸った。
〈妖素を生む珠〉――フィアカラがふわりと宙に浮かんだ。珠は絶え間なく妖素を噴き出しながら上へ上へと昇っていく。
やがて珠は上空に口を開いたラノンの入り口へと辿り着き、遥かに霞《かす》むラノン辺縁《へんえん》の深山《しんざん》へと向かって転がり落ちて行った。
「フィアカラ……。還れ。ラノンへ」
ジャックは珠が小さくなって見えなくなるまで見つめ続けた。〈妖素〉はフィアカラの欲望が物質化したものなのだろう。これから彼は自《みずか》ら創造したラノンで〈妖素〉を作り続けていく。ラノンの大気も水も〈妖素〉に満ち満ちるまで。
レモン色の稲光が輝いた。
雲の輪の中に浮かぶ緑の野が揺らぎ、次第に遠ざかり始めた。蛇行するイス河の流れが不鮮明になり、森の輪郭が滲むようにぼやける。ラノンは薄れながら遠くへ遠くへと離れていく。ラノンとこの世界とはこうして切り離され、ラノンでは人も獣も妖素によって独自の進化を遂《と》げていくのだ。
灰色の雪雲が渦を巻き、最後に残された緑の点を呑みこむように流れ込んで行く。
空に浮かんだラノンの入り口は雲の渦にかき消されるようにふっ、と消えた。
喪失感がナイフのように胸を抉《えぐ》る。
深呼吸して気持ちに区切りを付け、〈輪〉を見上げた。既に巨石のひとつひとつをはっきりと見分けられるほどに回転速度が落ちている。
最後の望みを言う時だ。望みは正確に伝えなければならない。しかし、自らの真の望みを知ることは当の本人にさえ難しいのだ。
ジャックは慎重に言葉を選んだ。
「〈果てしなき望みの輪〉よ。僕を僕の在るべき場所に戻してくれ。そして時滑《じすべ》りを起こしたすべての時代のクリップフォードを元に戻して欲しいんだ」
〈星の銀輪〉が唸りを上げる。
おんおんおんおんおんおんおん……。
真珠色が、ぐるぐると回転する。
眩い光が視野を包み、雪原が揺らぐ。
朧《おぼろ》に霞む雪の世界にジャックが最後に見たのは、形のはっきりしないひとつの白い影だった。
◆◆◆
避難は完了した。レノックスはシールシャに目を留めたまま後ずさり、自分もゆっくりと〈楯〉の中へと入った。
竜巻が近づくにつれ、風は一層凶暴に轟々と唸りを上げた。竜巻の先触れの突風が通りに停められていたワゴン車をひっくり返す。風に嬲《なぶ》られ、樫《かし》の大木が奇怪なダンスを踊る。根こそぎ倒れた楡《にれ》の木が風の手に大通りをずるずると引きずられて行く。あらゆる物が巻き上げられて宙を舞っている。一台のピックアップトラックが宙を飛んで行った。ソファが、家の壁が、屋根が竜巻の周囲を取り巻くように回転し、吸い込まれて行く。圧倒的な大気の力だ。何処《どこ》かの家の屋根が一直線に〈風の楯〉に向かって飛んできた。悲鳴があがる。が、屋根は〈楯〉の表面に触れて弾き返された。〈風の楯〉は速度の速い物は何物も、空気さえも通さないのだ。
稲光が光る。真っ黒な風の漏斗がゆらゆらとツイストを踊りながらこちらに進んでくる。
シールシャは竜巻の進行方向に立《た》ち塞《ふさ》がっていた。
彼女の口から長い長い息が吐き出される。
「風の息=I」
レノックスは目を疑った。上空から、するするともう一本の竜巻が降りてきたのだ。二本目の竜巻はほぼ一直線に最初の竜巻に向かって進んで行く。
二つの竜巻が衝突した。ぶつかり、逆巻き、凄まじい音を立てて互いに削り合う。
見ているうちに解った。
二つの竜巻は、風の向きが逆なのだ。もちろん、そんなことは有り得ない。あの二本目の竜巻はシールシャが魔法で造り出した超自然の竜巻、竜巻を喰う竜巻なのだ。
二つの竜巻は番《つが》いながら互いを喰い合う巨獣のようにぶつかり合い、戯《たわむ》れ、悲鳴を上げ、痩《や》せ細っていく。それでも巨大な大気の力は屋根を吹き飛ばし、木々を薙《な》ぎ倒《たお》す。
ひゅうううおうおうおうおうおう……。
竜巻は断末魔の声を上げた。等しい力を持つ二つの巨大な空気の渦は互いを食い尽くして下の方から次第に消えていく。
風の唸りがぱたりと止《や》んだ。
ハイストリートには、小さなつむじ風に煽られたように木《こ》の葉《は》がくるくると舞い踊っているだけだった。
「すげえ……」
思わず嘆息が漏れた。彼女が〈風の魔女〉と呼ばれる理由が初めて判った気がした。
シールシャは小揺るぎもせず風に頭を向けている。雲の動きは相変わらず速い。竜巻をひとつ消し去ったからと言ってこの村が次元の狭間にあることに変わりないのだ。そのとき、突然上空から不気味な音が降って来た。
今度は何だ……?
レノックスは〈楯〉の中から〈輪〉を見上げた。
〈輪〉が回っている。
〈星の銀輪〉は殷々《いんいん》と唸りを上げ、真珠色に点滅しながら回転していた。
おんおんおんおんおんおんおんおん……。
突然、〈輪〉に囲まれた天空に満天の星々が煌々《こうこう》と瞬《またた》き、一斉に円を描いて流れた。
輝く尾を引き、一点を中心に星の光の環が天球を回旋《かいせん》する。
一瞬、全天が真っ白になった。
強烈な白光《はっこう》が地上を白と黒の二色に塗り分ける。破壊された家々が真昼のように鮮明に照らし出され、鮮烈な白が全ての色を呑み込む。あまりの眩しさにもはや何も見えない。
次の瞬間、すべての音と光がふっと消えた。目の前が真っ暗だ。
くそっ、眼をやられたか……?
レノックスは腕をあげ、天鵞絨《ビロード》のような闇に眼を見開いた。
初めは何も見えなかった。が、光の残像が消えるにつれて物の形が徐々に輪郭を現し始めた。
風は止んでいた。
壊れた建物のシルエットが濃い夕空を背に浮かんでいる。東の空は暗く、西の地平は杏子色《あんずいろ》の夕焼けだ。筋雲が薄くたなびき、透き通った夕焼け空は東から広がるプルシャンブルーの夜空と淡く交わっている。
澄み渡った宵《よい》の空に静かに星が瞬いた。
「終わった……のか……?」
レノックスは〈風の楯〉の外に出た。風はほとんど止み、空気は冷たく爽《さわ》やかだ。
「おーい! 外に出ても大丈夫だ!」
〈風の楯〉に避難していた村人たちが恐る恐る外に出てくる。
避難が迅速だったお陰で死者は一人も出なかった。だが村はひどい有り様だった。木は倒れ、屋根が飛び、窓は砕け、家の中にあったものが表に吹き散らかされている。通りで唯一無傷なのは〈障壁〉に守られていたアームストロング雑貨店だけだった。
夕暮れのハイストリートにシールシャがひとりぽつんと立っている。天を仰いで星を見上げ、そして振り向いて花のように笑った。
「終わったのね……」
「ああ。きっとジャックの奴がうまくやったんだ」
そうだ……ジャック! ジャックが戻って来ているんじゃないか?
レノックスは公民館に向かって駆け出した。
公民館の屋根は無くなっていた。集会所と博物館との間仕切りの壁は吹き飛び、展示品が辺り一面に散乱している。〈時の翼〉石が置かれている第二展示室に駆け込んだレノックスは息を呑んだ。展示品の鉄製の斧《おの》が〈時の翼〉石に倒れ掛かってその真ん中に刃が突き立っているのだ。
「なんてこった……石が……!」
斧が食い込んだ場所から〈時の翼〉石の端まで大きな亀裂《きれつ》が入っていた。表面の文様は無残に打ち砕かれている。〈顎門《あぎと》の滴り〉石は文様に少し傷がついても正常に作動しなかった。石自体に亀裂が入ってしまったら、一体どうやって直したらいいんだ?
この石を守ると奴に請《う》け合《あ》ったってのに!
ジャック、ジャック……あいつはもう帰ってこないのか……あの唐変木《とうへんぼく》のツラをもう二度と見ることはできないのか……?
「畜生っ! 俺は間抜けだ! 役立たずだ!」
突っ伏し、何度も何度も拳骨《げんこつ》で石を殴り付ける。
畜生、畜生、畜生……。
シールシャがそっと肩に手を置く。
「レノックス。血が出ているわ」
「放っておいてくれ! 俺は、自分の間抜けさ加減が許せねえんだ! 俺が約束を守らなかったせいで、ジャックの奴は時間の迷子になっちまったんだ。永遠に過去から戻ってこれねえんだ……!」
「本当におまえは馬鹿ね、レノックス・ファークハー。顔を上げて後ろを見なさい」
シールシャが常日ごろ高飛車な口の利き方をするのは知っていた。今まで気にならなかったが、今回ばかりは腹に据えかねた。
「シールシャ、魔女だかなんだか知らねえが、何の権利があって俺を馬鹿呼ばわり……」
そこまで言って肩越しに振り返ったレノックスは、ぽかんと口を開けた。
博物館の薄暗がりの中、〈霜の瞳〉の保持者が静かに立っていた。
「やあ……ただいま……」
「ジャック……本当にジャックか……? 似合わない事を言いやがって! 幽霊じゃないだろうな……!?」
ジャックはぼんやりと辺りを見回した。
「さあ、どうだろう。恐らくまだ生きていると思うが……」
「恐らく、だと? この唐変木め! いったいどうやって帰って来たんだ、〈時の翼〉石が割れちまったってのに!」
「この世界が、僕の在るべき場所だからだ……」
「なんだ? おい、答えになってないぞ。まともに答えろよ」
ジャックは答えず、くすりと笑った。
「……村はどうなった? 皆は無事か?」
普段あまり笑わないくせに何でこういう時に限って笑うんだと思いながらレノックスは急いで答えた。
「おう! 〈星の銀輪〉は消えた。建物は壊れちまったが、クリップフォードの住人は全員無事だ」
「そうか……よかった……」
不意にぐらりと頭が傾いたかと思うと、ジャックの身体は膝から崩れた。
「ジャック!」
倒れる寸前に抱きとめてギョッとなった。まるで氷柱《つらら》のように冷たいのだ。
「どうした、一体何があったんだ!」
蒼白い眼が見上げる。その時になってジャックの顔に全く血の気がなく、唇はゾッとするような紫色だということに気づいた。
「フィアカラはもうこの世にいない。すべてが終わりまた始まった。環が、繋《つな》がったんだ……」
瞼が落ちた。腕の中の身体が突然ずしりと重くなる。
「ジャック?」
手の甲で頬を叩いた。反応がない。
「おい! ジャック、冗談だろ? 返事をしろ! ジャック! ジャック! ジャック!」
凭《もた》れ掛《か》かる身体を揺さぶったが、人形のように手応えがなかった。
「レノックス、彼を横にしなさい!」
シールシャの命令口調を気にしている場合ではなかった。シールシャが膝をつき、ジャックの身体に順々に触れていく。
「……内臓に何箇所か損傷があって、手首の傷の回りが凍傷にかかっているけれど、それ自体は大した事はないわ。でも体温がひどく下がってしまっている。身体が芯まで冷え切っているの。〈治癒〉では治せないわ」
「なんてこった!」
レノックスは冷たく固い身体を肩に抱え上げて駆け出した。
9――永遠に、ラノン
あんた何を為《し》たんだい
ルララララ ミソサザイに訊いてみろ
わたしの故郷を造ったのさ 七の七倍旅をして
時の光の輪のめぐる
[#地から1字上げ] クリップフォード村の伝承歌
◆◆◆
ジャックは、雪の中にいるのだろうと思った。とても心地がよかったからだ。けれど、少し違うとも思った。雪は心地よいけれど、暖かくはない。ここはとても暖かいのだ。
うっすらと目を開けてみる。
どこかで見覚えのある天井が見えた。清潔で暖かな寝床、愛らしい小花模様の調度。
ここはどこだっただろう……。ひどく懐かしい気がする。
「おう。目が覚めたか、唐変木《とうへんぼく》」
そう言ったのは見覚えのある大男だ。ジャックは寝台の上にゆっくり上体を起こした。
「ここは?」
「オールドオーク・ファームだ。最初はアグネスの家に運び込んだんだが、シールシャがすぐこの家と教会を〈復元〉で元に戻したんでな。嵐で壊れた家はそうも行かないんで、まだあちこちの家が壊れたままだが」
そのとき、ノックの音がしてイザベルが顔を覗かせた。
「ファークハーさん。ウィンタースさんのご様子は? あら、お目覚めになったのね。良かったわ。何か欲しい物はないかしら? 暖かいチキンスープはいかが?」
「ありがとう、ミセス・マクラブ。世話をかけて申し訳ない」
彼女はにっこりと笑《え》んだ。
「ラムジーの言う通り、本当に生真面目《きまじめ》な方ね」
そのときイザベルの後ろに隠れていた人間の姿のラムジーがそっと顔を出した。
「ジャックさん、大丈夫ですか。心配したんですよぉ」
「ああ。心配をかけて済まなかった」
「ほんとに、心配だったんです……」
ラムジーは笑顔を作って眦《まなじり》の涙を拭《ぬぐ》った。
「済まない。ラムジー……」
「おまえは謝ってばかりいるのね、ジャック・ウィンタース」
どこからともなく現れてそう言ったのは魔女シールシャだった。
「少しは素直に世話になったらどうなの? みんなおまえを待っていたのよ」
それから三十分ほどの間に、ケリとラムジーの六人の兄達とヘイミッシュ、アグネスと二人の姉と父親のアンガス、そして村の人々が代わる代わるやって来た。狭い部屋は立錐《りっすい》の余地もないほどいっぱいになり、終《しま》いにはレノックスに全員追い出された。
「全く。病人を何だと思ってるんだ」
「レノックス。僕は病人じゃないが」
「立派な病人だ。あんたは凍傷と低体温症に罹《かか》ってたんだぞ。全く、寒さが判《わか》らないならてめえで気をつけろってんだ」
あまりに予想通りの反応に、ジャックはクスッと笑った。
「何がおかしいんだ?」
「いや、別に……」
なんだか笑いが止まらなかった。ジャックは笑いながら、小奇麗な小さな部屋を見回した。
ここが、この世界が、自分が戻ってくるべき場所だったのだ――。
「おい。どうかしらまったんじゃないか? あんた」
「どうもしないさ。還《かえ》ってこられて良かったと思っただけだよ」
「そうか。そうだよな……」
レノックスはいっしょになって笑った。
「あんた、フィアカラはもういないと言ったな。過去で奴と遭《あ》ったのか? 奴は死んだのか? トマシーナに掛けられていた〈真実の舌〉が消えたんだ。シールシャが言うには奴は死んだか、この世界からいなくなったか、そのどちらかだと」
「そのどちらも正しい。彼は命を落としたけれど、ある意味で永遠の存在になったんだ」
「どういうことだ? 過去で一体何があったのか、ちゃんと話せよ」
「ああ。とても長い話なんだ。あとでゆっくり説明するよ」
ジャックはレノックス、シールシャ、イザベル、トマシーナの四人を部屋に集め、六千年前のクリップフォードで起きたことについて説明した。
全て話し終えたあと、しばらくの間みな無言だった。
シールシャは一言小さく「馬鹿なひと」とだけ呟いた。
レノックスは理屈が呑み込めないと云う顔で腕組みしてただ唸《うな》った。
イザベルは柔らかく微笑《ほほえ》んだ。
「では、ご先祖様たちはクリップフォードに来たのではなくて、還って来たのね」
「そうだ。僕らは最初から同胞だったんだ」
その時ジャックは皆の後ろに座って黙々とペンを走らせているトマシーナに気づいた。
「トマシーナ? 〈真実の舌〉は消えたんだろう? シールシャに〈沈黙〉を解いて貰《もら》わなかったのか?」
シールシャがふふ、と笑った。
「おまえに解いて欲しいのですって。彼女はおまえが目覚めるのをずっと待っていたの」
トマシーナは目の縁《ふち》を少し赤らめ、素早くノートに書きつけた。
【約束でしたから】
「ああ、そうだ。済まなかった。すぐに解こう」
ジャックはトマシーナの頭に手を置き、一言短い呪誦《ピショーグ》を唱《とな》えた。
「もういいよ」
トマシーナは睫毛《まつげ》をぱちぱちさせた。躊躇《ためら》いがちに小さく声を出してみる。
「……あー……ああっ! 声が出ました! ウィンタースさん、私、喋《しゃべ》れます!」
「〈沈黙〉は簡単な術なんだ。僕じゃなくても解けたんだが」
「いいえ! だって……あの、ウィンタースさんが掛けたんですし……」
「心配だったんだね」
「え、いえ、その……」
彼女は恥ずかしそうに俯《うつむ》いた。この数日間、大変な思いをしたのだ。ジャックはその償《つぐな》いをしたいと思った。
「あの……ウィンタースさん。魔術者フィアカラは片腕が義手だったんですよね? 民俗博物館の紀元前コーナーに金属の腕があるんです。彼の義手ではないでしょうか」
イザベルが両手を拍《う》ち合《あ》わせた。
「そうだわ。あの銀の腕、〈クリップフォードの謎〉。あんなものが何故《なぜ》この村で発掘されたのか、ずっと不思議に思っていたの」
「ええ。たぶん金属部分はチタン製ですから、樹脂《じゅし》部分が腐食《ふしょく》して無くなっても残るでしょう。それで、もしかしたら、同じ地層に堆積《たいせき》しているんじゃないでしょうか。お話に出てきた……〈妖素〉が」
あ、と思った。あのとき〈妖素を生み出す珠《たま》〉と化したフィアカラは純粋な妖素を大量に吐き出した。妖素は魔法を使うこと以外では滅《めっ》しないから、腕が見つかった場所には今も残っている可能性がある。あれだけの妖素があればラムジーに必要な分はおろか、同盟の数年分を賄《まかな》えるだろう。
「トマシーナ、君ほど聡明な女性には会ったことがないよ。ラノンでも、この世界でも」
トマシーナはぽっと頬をピンクに染めた。
「そんな……困ります。たまたま思いついただけなんです……」
「ああ、済まなかった。困らせるつもりはなかったんだが」
トマシーナはますます顔を赤らめた。シールシャがくすくす笑っている。
「レディ・シールシャ。笑うのは失礼だよ」
「彼女を笑ったのではないわ。レノックスがおまえを唐変木と呼ぶ訳が分かったわ」
トマシーナを笑ったのではないとすると、自分が笑われたのだろうか。何か笑われるようなことを言ったかどうか考えてみたが、やはり解《わか》らなかった。
「あの……ウィンタースさん。私、気になることがあるんです」
トマシーナが慌てたように鞄《かばん》から古ぼけた小さな本を取り出した。
「フィアカラが〈果てしなき望みの輪〉のことを知ったのは、私が〈真実の舌〉を掛けられたときに喋ったからなんです。〈輪〉のことは〈クリップフォードの歴史と伝承〉という古い本で知ったんです。随分昔に自費出版されたもので、ほとんど市場《しじょう》には出回っていないと思います。私は勤めていた古書店で偶然見つけて旅行に持って行ったんです。断片的ですが、〈果てしなき望みの輪〉のことが書かれています」
ページをめくり、折《お》り印《じるし》のついた箇所を開く。
「気になるのはこれなんです。クリップフォードの民謡で、〈ワタリガラス〉という人物が出てきます。この人物は、魔術者フィアカラのことではないでしょうか」
ジャックはトマシーナから本を受け取って見開きのページに印刷された四番までの歌詞を丹念に読んだ。確かに〈ワタリガラス〉がフィアカラを、〈ミソサザイ〉が自分を暗示しているようにも思える。
「そうかも知れないが、フィアカラが死んだのは六千年前だ。それが歌になって残ったと考えるのは少し難しいのでは?」
「いいえ。問題はそのことではないんです。これを見て下さい」
トマシーナは本をめくって次のページを示した。そこには、五番の歌詞が書かれていた。
イザベルが眉を顰《ひそ》めた。
「この歌は知っていますわ。〈ミソサザイに訊いてみろ〉という曲よ。でも歌詞は四番までで、五番はなかったと思いますわ」
「ええ。ここに来る前に読んだ時、本にも四番までしか載《の》っていませんでした。でも、〈輪〉が消えた後で見たら、なかった筈《はず》の五番のページがあったんです……」
ジャックは注意深く五番の歌詞が印刷されたページとその前のページを見比べてみた。変色した紙の古び方も、書体も印刷の薄れ具合も四番までのページと全く同じに見える。イザベルとレノックスも順々に本をためつ眇《すが》めつしてみたが、どこにも不自然な点を見つけることは出来なかった。
一同は顔を見合わせた。
これが事実だとしたら、〈輪〉が回る前と後でクリップフォードの伝承歌に――つまり歴史に変化が起きたということになる。
「ラノンを誕《う》み出《だ》した〈時の円環《えんかん》〉は完全な円ではないのかも知れないな……」
繰り返しめぐる環が毎回全く同じではなく、ほんの僅《わず》かずつ異なった道筋を辿《たど》っていくとしたら、いつか時の環の分岐がラノンが誕まれない道筋に繋《つな》がってしまう可能性もあるのではないか。
「歴史が別の道を歩むこともあるのかしら」
「ああ。だが僕らはその道では存在すらしないかも知れない」
「冗談じゃないぜ。俺たちが存在しない世界なんぞ真《ま》っ平《ぴら》ご免《めん》だ」
と、レノックス。シールシャが言った。
「心配しても仕方のないことだわ。わたしたちが存在しないなら心配も出来ないのだもの」
皆は押し黙った。
確かにそれはそうだが、ラノンが永遠に存続するように〈時の環〉の巡《めぐ》りを守ることは出来ないものだろうか。
白い影がふわりと視野を横切っていく。〈十二夜《じゅうにや》の幽霊〉だ。幽霊は物言いたげに揺れながら宙に留《とど》まっている。
「どうした? ジャック」
「いや……」
白い影を視線で追う。
「少し疲れたよ。申し訳ないが、しばらく一人にしてくれないか」
「それみろ。あんたは病人なんだ。おとなしく寝てろ」
「忠告に従うよ。ああ、トマシーナ。その本を少し貸しておいてくれないか?」
皆が部屋を出て行ったあと、ジャックは横にはならずに身を起こしたままトマシーナが置いて行った本を眺めていた。
まだ部屋に留まっている〈十二夜の幽霊〉にちらりと目をやり、〈ミソサザイに訊いてみろ〉のページを開く。
歌詞はバラッドによくある問答形式で、名無しの主人公がさまざまな質問をし、その度《たび》に〈ワタリガラス〉が〈ミソサザイ〉に訊け、と返している。
どこから来たのか、という問いには『時の翼の石に乗り』とだけ答える。これは明らかに〈時の翼〉石のことだろう。どこに行くのか、という問いには『森の緑の故郷』。ラノンは森と緑の美しい地だ。何が欲しいかという問いに対しては『世界にあるもの全て』で、かつてのフィアカラの貪欲《どんよく》を彷彿《ほうふつ》させる。自ら名乗る『ワタリガラス』は『フィアカラ』の語源だ。『七の七倍』はバラッドの決まり文句で数が多いことを表すが、七という数字自体が魔力を持つとされる魔法数であり、ラノンの第七子信仰との関連も窺《うかが》わせる。
そして問題の五番の歌詞だった。
あんた何を為たんだい
ルララララ ミソサザイに訊いてみろ
わたしの故郷を造ったのさ 七の七倍旅をして
時の光の輪のめぐる
本から目を上げた。〈十二夜の幽霊〉は相変わらず天井のあたりを漂っている。形のはっきりしない半ば透き通った影は六千年前の雪原《せつげん》で最後に見た白い影を思い起こさせた。
そうなのだろうか。六千年は幽霊にとっても長すぎる時間だ。だが、やはりそんな気がするのだ。
ジャックは考え込んだ。
しばらくの間ためらい、それからそっと声に出して言ってみた。
「フィアカラ」
白い影がゆらゆらと揺らめいた。笑ったようにも見えた。
「フィアカラ、なんだろう……?」
十二夜の幽霊はゆっくり天井のあたりを一周し、それからかき消すように消えた。
やはり、あの幽霊はフィアカラなのではないかと思った。
〈十二夜〉にしか現れないこと、にもかかわらず長い年月同じ土地に留まり続けていることなど、尋常《じんじょう》な幽霊とは考えにくい。あの時死んだフィアカラが時の円環に囚《とら》われて〈十二夜の幽霊〉となったのではないだろうか。
歌が残された訳は、いつの時代にかクリップフォードにフィアカラと――〈十二夜の幽霊〉と意思の疎通《そつう》を交わした者がいたからではないか。霊媒の素養のある者がいたのか、ヴィジャ盤《ばん》のようなものを使ったのかも知れない。とにかく誰かがそうやってフィアカラと会話し、それを歌に書き残したのだ。〈十二夜〉にしか現れないのは、一年のうち他の期間はラノンで過ごしているのか、或《ある》いは〈果てしなき望みの環〉と連動して十二夜の期間にだけ存在しているのかも知れない。
だが、クリップフォードの住人たちは誰もあの幽霊を恐れてはいない。害を為《な》すことがなかったからだろう。〈十二夜の幽霊〉は決して悪霊《あくりょう》ではないのだ。むしろ長い年月、この村を見守っているようにも見える。
故郷を造った、か……。
ジャックは時の彼方で死んだフィアカラを想った。彼の死と引き換えにラノンのすべてが生まれたのだ。彼は〈時の環〉に囚われ、その生と死との境にラノンを誕《う》み出《だ》し続ける。
恐らく彼はラノンの創造主になったのと同時にクリップフォードの守り神となったのだろう。そしてラノンを誕み出したこの〈時の円環〉を永遠に見守るのだ。
◆◆◆
ランダル・エルガーはレノックスが作成した最終報告書に〈トップシークレット〉の判を押し、厳重に金庫にしまった。ジャック・ウィンタースが語ったラノンと妖素の起源に関するこの文書は公《おおやけ》にするには危険過ぎ、破棄《はき》するには重要過ぎた。この秘密は後の世代に先送りされることになるだろう。
ノックの音がした。
「盟主《めいしゅ》。そろそろ始まりますが……」
そう言って呼びに来たのはタルイス・テーグ族の若いチーフ、トロロープだ。
「例の準備の方は?」
「は。全て抜かりなく」
「では、五分で行きます」
今日は〈同盟〉の新年会なのだ。普段は取り立てて行わないが、今年は急遽《きゅうきょ》執《と》り行《おこな》うことにしたのだ。中途に終わった〈総会〉の後始末をしなければならない。
フィアカラの死によってロンドンは再び安全になった。ランダルの〈伝言精霊〉を受け取った妖精たちは〈同盟〉に戻り、再び盟約を結んだ。〈葬儀社〉の方も立て直しが進み、数日中には通常通りの営業を再開できる予定になっている。
表面的には、すべて元通りだ。
だが、今までと完全に同じではなかった。
変わったのはメンバーたちの気持ちなのだ。彼等《かれら》は一度ランダルを罷免《ひめん》した。それは撤回され、ランダルも彼等を許すと宣言した。真っ先にフィアカラに従ったアンシーリー・コートの者たちも処罰しなかった。
それでも一度出来てしまったしこりは澱《おり》のように沈殿して決して消えはしなかった。ランダルは折りにつけ彼等との間に出来た溝《みぞ》を感じずにはいられなかった。
「ジャック・ウィンタースか……」
準備は万端《ばんたん》だった。彼のために二重、三重の包囲網《ほういもう》を用意したのだ。いかな彼でも今度ばかりは逃げられはしまい。
この件についてランダルは秘密裏《ひみつり》に事を進めてきた。レノックスにも報《しら》せていない。レノックスは開けっぴろげな男で、秘密を保つには向いていないのだ。
ひとりでに笑みが零《こぼ》れる。
今日は、〈同盟〉にとって記念すべき日になる筈だ。
◆◆◆
ジャックは当惑していた。
わだかまりは消え、〈同盟〉に加盟することにはもはや異存はなかった。だがランダルの呼び出しに応じて来てみたものの彼には会えず、その代わり代理だというタルイス・テーグ族に新年会への出席を強く求められたのだ。新年会のことなど何も聞いていなかったし、午後は自転車便の仕事の予定を入れてある。
「申し訳ないが、今日は加盟するだけのつもりだったんだ。僕には仕事がある」
「はい、それは重々存じております。しかし盟主が是非にと」
若いタルイス・テーグ族は今にも泣き出しそうだった。
「お召し物も用意して御座《ござ》いますし、このまま帰られては私が叱られます! 盟主は、その……ここだけの話ですが、怒るととても恐いんです……!」
「新年会に出るだけなら、わざわざ着替えることもないと思うが」
「いいえ! 後生《ごしょう》ですからどうかお召し替えになって下さい、私が叱られます! ささ、早くそのくたびれた、いえその、年期《ねんき》の入ったジャンパーをお脱ぎになって」
仕方なく衝立《ついたて》の陰で用意されたスーツに着替えた。衝立の向こうで、タルイス・テーグがおずおずと尋ねる。
「サイズは如何《いかが》でしょうか?」
「丁度良い……ようだ」
実際、誂《あつら》えたようにぴったりだった。袖《そで》を通した瞬間からスーツはするりと吸いつくように身体に馴染《なじ》んだ。この国の衣服のことは詳しくないが、これが最高の素材と技術で仕立てられていることは解る。ジャックはネクタイの結び方を知らなかったので、タルイス・テーグが進み出て恭《うやうや》しく結んだ。
「殿下《でんか》、実にお似合いです! 選んだ甲斐《かい》があるというもの!」
「ありがとう。だが、本当に長居は出来ないんだ。ちょっと顔を出すだけだよ」
「分かっていますとも! ささ、参りましょう。皆が首を長くして待っておりますよ!」
会場には既に大勢の妖精たちが集まっていた。
グラスを手に談笑していた出席者たちはジャックの姿を見るとざわざわと騒《ざわ》めいた。今日出席している者たちのほとんどが〈林檎《りんご》の谷〉の地下|洞窟《どうくつ》から救出された者だった。ダナ、タルイス・テーグ、プラント・アンヌーン、ゴブリン、ドワーフ、ピスギー、プーカ、ブラウニー。見覚えのある顔もちらほら見える。
彼らは目を輝かせ、口々に囁いた。
ああ、ジャック王子だ、我らの救い主だ!
ジャックはたちまち群がってくる妖精たちに十重二十重《とえはたえ》に取り囲まれて身動きがとれなくなってしまった。一人ずつ順番に握手をしながら泳ぐように妖精たちを掻《か》き分《わ》ける。
「ああ、済まない、ちょっと通してくれないか……」
やっとのことで妖精たちの輪を抜け、レノックスの所に辿り着いた。
「よう、ジャック! よく来たな。随分《ずいぶん》めかしてるじゃないか」
「ランダルの差し金だ。会には出ないつもりだったんだが、タルイス・テーグの泣き落としにあって……」
「性格を読まれてるな。だが、あんたはスーツが似合うぜ。俺はさっぱり駄目だ」
そう言う彼はダークスーツにカラーシャツという出で立ちだ。体格が良いから似合わなくはないが、確かにあまりらしくない。
「今日の新年会は中途になった総会の仕切り直しって意味もあってな。だから皆正装だ」
その時、人波の向こうから甲高《かんだか》い声が聞こえてきた。
「ジャック殿下! 久しぶりだネ!」
猪頭《いのししあたま》の〈角足《スクウェア・フット》〉が片腕にカウラグを抱き、片腕で人垣を掻き分けながらやってくる。その腕からカウラグがぴょこんと飛び降りた。
「殿下、思ったよりお元気そうで良かったよゥ! オイラ、もう殿下に会えないんじゃないかと思ったんだヨ……」
「また会おうと言っただろう?」
「あ、うん、そうだったよネ! ほら、ジミイも挨拶《あいさつ》しなヨ。ジャック殿下だヨ!」
「あ……殿下、あの……その……あのときはホントに……」
猪の頭をした大男がもじもじと言いかけたとき、照明がすっと暗くなってスポットライトにさっきのタルイス・テーグの姿が浮かび上がった。
「えー、皆さまご歓談のところ大変失礼いたします。これより〈同盟〉新年会を開催いたします。初めに、盟主ランダル・エルガー氏による新年の挨拶を」
ライトが移動してランダルの姿が浮かび上がる。
ジャックはレノックスの耳元で囁いた。
「彼の挨拶が終わったら僕は帰るよ」
「堅物《かたぶつ》め。挨拶が終わってからが楽しみだってのに」
「仕方がないだろう。仕事があるんだ」
スピーチが始まる。ジャックはランダルに視線を戻した。盟主在任二十五年目ということで、さすがに堂々たるものだ。
「……昨年暮れ、我々は数名の仲間を失い、厳しい時を過ごしました。何もかも私の至らなさが招いた結果。私の不徳の致すところであります。本来なら今日ここでもう一度私自身の信任が問われるべきでした。が、もしも信任されたとて、かような事態を招いた責任が消えるわけではありません……」
彼はそこで一呼吸おくと、会場全体に響き渡る声で言った。
「本日を以《もっ》て私、ランダル・エルガーは〈在外ラノン人同盟〉盟主を辞任致します」
会場は水底のように静まり返った。傍《かたわ》らでレノックスが茫然《ぼうぜん》と呟く。
「嘘だろ……? 聞いてねえぞ……」
「しっ。彼が何か言う」
ランダルが右手をあげて何やら合図する。
「これが、盟主として私の最後の仕事になります。私の後任として、彼、ジャック・ウィンタースを指名します」
次の瞬間、ジャックは一人スポットライトの中にいた。
「え……僕は……」
何が起こったか、咄嗟《とっさ》には理解できなかった。光の壁が周囲を包み、その外に広がる闇は不気味なほど静まり返っている。
一拍の間を置いて、会場がわっと沸《わ》き立《た》った。
「ジャック・ウィンタース盟主!」
「〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉の保持者が我らの盟主に!」
レノックスが耳元で怒鳴《どな》る。
「俺は聞いてねえぞ!」
「ああ解ってる!」
レノックスが知っていて隠せるわけがない。
はめられたのだ。このスーツも、会の前に顔を合わせなかったのも、全部計画されていたのだ。正装してこんなところに立っていたら妖精たちに既成事実だと誤認されてしまう。
ジャックはスポットライトから逃れようとした。だが、どこに動いても光の輪はついてくる。
「待ってくれ、僕は受けるとは……」
熱狂する妖精たちの歓声に掻《か》き消《け》され、ジャックの声は彼らの耳には全く届いていなかった。
妖精たちは口々にジャックの名を叫び、讃《たた》えている。そんな風に讃えないでくれと思った。自分は立派でも特別でもない。彼らを助けたのだって自分一人の力ではない。〈霜の瞳〉はただ珍しいだけで、力ある魔術者なら〈霜の瞳〉などなくても〈霜の力〉くらい自在に使えるのだ。
「僕は……!」
突然、会場全体がパッと明るくなった。歓喜に沸く妖精たちの姿が目に飛び込んで来る。
ランダルは今まで一度も見せた事がない満面の笑みを浮かべていた。
「ジャック・ウィンタース殿下。引き受けてくださいますね?」
[#挿絵(img/Lunnainn4_277.jpg)入る]
「僕は……」
ジャックはぐるりと会場を見渡した。
会場全体が固唾《かたず》を呑んでジャックの返事を待ち受けていた。
カウラグと角足《スクウェア・フット》が固く手を結び合わせて祈るような目でじっと見つめている。ジャックと同じダナ人たちはさらに熱烈な嘱望《しょくぼう》の眼差しだ。
ダナだけではなかった。タルイス・テーグ。プラント・アンヌーン。ドワーフ。プーカ。ブラウニー。ゴブリン。ホブゴブリン。ウリシュク。ボーギー。レッドキャップ。ブルーキャップ。グーナ。ピクシー。ボゲードン。ポーチュン……。
多種多様な妖精たち。そのすべてが同胞なのだ。
期待に満ちた目が自分に注《そそ》がれている。
ラノンでは自分は必要とされていなかった。ダナ王国に必要なのは自分ではなくニムだと解ったから、国を捨ててこの世界に来たのだ。
今、ここに自分を必要とする者たちがいる。
何を迷うことがあるのだろう?
彼らの期待に応《こた》えることが出来るかどうか、それは今後の自分次第なのだから。
「……僕は、謹《つつし》んでお受けしよう」
会場がわっという歓声に包まれた。カウラグが奇声をあげてぴょんぴょん翔《と》び跳《は》ねる。
レノックスがにやりと笑って背中を叩いた。
「よう。ジャック盟主!」
エピローグ
レノックスは来客用の駐車スペースに新車のジャガーを停《と》め、〈ラノン&|Co《カンパニー》葬儀社〉の石段を一段飛ばしに駆け登った。
エントランス・ホールには滴《したた》るような百合《ゆり》の香が満ちている。ホールを横切っていくと、ダナ人の受付係がこちらに気づいて挨拶《あいさつ》した。
「おはようございます、レノックスさん。お早いご出勤ですね」
「おうよ! 仕事が山ほどあるからな」
〈葬儀社〉は昨年暮れの総会から二週間近く休業を余儀《よぎ》なくされていた。その間の通常業務が溜《た》まりに溜まっている。休業期間中に前渡し金を支払った生前契約《プレニード》の顧客《こきゃく》が一人も身罷《みまか》らなかったことは不幸中の幸いだった。もしそんなことになっていたら失った信用を取り戻すのは並大抵のことではなかっただろう。
鏡の前でネクタイを直し、大股に盟主《めいしゅ》執務室に向かったレノックスはノックしようとした手をふと止めた。細く開いたドアの向こうから言い争うような声が聞こえたのだ。ジャックとランダルだ。何とも声を掛けにくい。が、気になって立ち去るにも立ち去れず、どうしたものかと思案するうちに聞くともなく二人の会話が耳に入ってきた。
「ランダル。どうして僕の住んでいるビルが〈葬儀社〉の名義になっているんだ?」
ジャックだ。すかさずランダルが答える。
「買い取ったのですよ。〈ラノン&Co葬儀社〉の代表取締役が不法占拠者《スクウォッター》では何かと拙《まず》いですから。悪くない買い物でした。上の階には近々《きんきん》に内装工事を入れてうちの支店を置く予定です」
「勝手な事を。だいたい、誰が代表取締役なんだ? 僕は同盟盟主は引き受けたが、葬儀社の社長まで引き受けたつもりはない」
「しかし、盟主が社長を兼任するのが同盟の伝統ですので」
「僕は聞いていないぞ!」
「今、言いました」
レノックスは腹の中で笑った。蛙《かえる》の面《つら》になんとやら、だ。
ランダルはジャックに逃げられないように入念に準備を整えていたのだ。ご丁寧《ていねい》なことに新年会の日、ジャックの仕事先の自転車便会社にはジャック自身の声でキャンセルの電話が入っていたという。もちろんランダルの仕業《しわざ》だ。
最初は、自分がこの素晴らしい陰謀から外されたことに腹が立ったが、知っていたら絶対にジャックに感づかれただろう。なにせ隠し事というのはてんから苦手なのだ。
隠し事と言えば、〈時林檎《ときりんご》〉だ。
すべてが片づいてから聞かされたのだが、なんと〈時林檎〉の実を枝から盗んだのはフィアカラではなく、ランダルだったのだ。〈総会〉の前日のうちに人間を雇《やと》って顰《ひそ》かに収穫《しゅうかく》させ、加工して〈灰〉とは別の場所に隠してあったのだという。
その話を聞いた時は心底|呆《あき》れた。あれほど息子の身を案じているイザベルの前でよくもまあ知らない顔が出来たものだ。もちろん、あの時点で時林檎のことが無ければマクラブ・ファミリーの理解を得るのが難しかったというのは分かる。フィアカラが時林檎を盗んだというアグネスの思い込みを利用して、ランダルはまんまとイザベルの協力を引きだしたのだ。全く老獪《ろうかい》というか奸智《かんち》に長《た》けているというか。自分だったら情に流されて喋《しゃべ》ってしまったに違いない。
まあ、人には向き不向きがあるものだ。自分にはジャックを説得して盟主を引き受けさせることなど到底無理だった。
ドアの向こうからは、相変わらずジャックの抗議など何処《どこ》吹く風といった体《てい》でさっさと話を進めるランダルの声が聞こえてくる。
「午後から写真撮影がありますから、〈ラノン・ラノン〉で御髪《おぐし》を整えておいて下さい。十一時に予約を入れてあります」
「いったい何の撮影だ? 身分証用の写真なら駅の証明写真で……」
「当社のパンフレットとウェブサイトに掲載する新社長の写真です。腕の良い人間のカメラマンを呼んでありますから、お逃げにならないように」
ジャックが溜め息をついた。
「逃げはしないさ。だが、本当に自信がないんだ。僕は会社経営のことも、この世界の宗教も、葬儀のしきたりも何も知らない」
「では、これから勉強なさって下さい」
「簡単に言うな。そんなに何もかも一人で出来る訳がないじゃないか……」
小さく舌打ちする。全く、相変わらずどうしようもない唐変木《とうへんぼく》だな。
これ以上、黙って聞いていられるものか。
レノックスはノックを省略していきなりどかどかと執務室に踏み込んだ。
二人が驚いたようにこちらを振り返る。が、非礼は承知の上だ。
「誰が一人だ? ジャック」
「レノックス……」
「あんたの悪い癖だ。一人で何でもやろうとする。だが、あんたは一人か?」
デスクにどん、と手をつく。
「俺も、ランダルも、ラムジーもいるだろうが。ダナもアンヌーンもタルイス・テーグもだ。みんな、あんたの指示を待っている」
しばらくの間、ジャックは呆気《あっけ》にとられた顔でこちらを眺めていた。それから、氷が溶けるように破顔した。
「ああ。おまえの言う通りだな……」
「本当に解《わか》ったんだろうな? ジャック、あんたは頭が良いくせに自分の事はさっぱり解らないと来てるからな」
ランダルが眉を顰《ひそ》めた。
「レノックス。彼は盟主なのですから、今までのような呼び捨ては……」
言いかけたとき、ジャックが遮《さえぎ》った。
「いや、いいんだ。その方が僕の気が休まる。〈同盟〉の在《あ》り方やルールもこれから僕なりに少しずつ変えていくつもりだ。人間との関わり方や、同盟員の家族の扱いも見直していく。僕を後任に指名した以上、異存はないな?」
ランダルは少し驚いた顔で彼を見つめ、それから会心《かいしん》の笑みを浮かべた。
「もちろんですとも。ジャック・ウィンタース盟主。私は〈葬儀社〉会長として、全力で支援させて頂きます」
「ジャック、俺に出来る事は何でも言ってくれ」
「おまえがそう言ってくれると頼もしいよ」
「おう。任しとけ!」
レノックスは、これから忙しくなるぞと思った。
まずジャックのために偽の身分証明書を手配しなきゃならんし、〈同盟〉や〈葬儀社〉の仕事についてあれこれ教えなきゃならん。それに生活もちゃんとさせなきゃならん。このあいだ抱え上げたときに判ったのだが、こいつは痩《や》せ過ぎだ。ろくな物を喰っていないのに違いない。自分で寒さに気づかないから、こっちが気をつけてやる必要もある。
全く、こいつは手が掛かる唐変木だからな。
◆◆◆
ラムジーは店先の一番目立つところに赤いガーベラと黄色いフリージアを並べた。ガーベラは華やかだし、フリージアは香りが良い。
花がぎっしり入ったバケツを並べていくとたちまち店先に小さなお花畑が広がった。
真っ白な鉄砲百合《てっぽうゆり》や優雅な黄色い薔薇《ばら》、清楚《せいそ》な松虫草《まつむしそう》、耳飾りに似た小さなスズラン、けぶるような紫のクリスマスローズ、赤いカーネーションと色とりどりの元気なチューリップ、背の高いデルフィニウムやルピナス。
花の香はどこまでも甘く爽《さわ》やかだ。ラムジーは、こんな風に朝一番に店先に花を並べるのが好きだった。
サマセットに避難していたギリーが戻ってきて、〈フローリスト〉は一月|半《なか》ばに新装開店した。こうしてまたお店を再開することが出来て本当に良かった。ケリは学校の勉強が忙しくなって週一でしか来られないと言っていたから、余計に自分が頑張らなくちゃいけない。
〈森の精〉ギリードゥ族で店主のギリー・グリーンが目を細めて見守っている。
「ラムジー君ね、そこが終わったら一休みしていいからね。手紙がね、来てるからね……」
「ホントですか?」
今まで、住んでいる建物が不法占拠《スクウォッティング》で住所がなかったので、手紙の送り先には店の住所を使わせて貰《もら》っていたのだ。本当はもうあのビルを〈同盟〉が買ったので堂々と郵便を受け取ることが出来るのだけど、連絡するのを忘れていた。
「店は私がみてるからね、奥で読んでくるといいんだよね……」
ギリーは樹皮《じゅひ》のような顔に優しい笑みを浮かべてピンク色の封筒を手渡した。
差出人は、アグネス・アームストロング。ネッシーからだ!
「ありがとうございます! グリーンさん」
待ちきれない気持ちで店の奥に駆け込んだ。歯を使って封の端を開ける。
手紙は封筒と同じピンク色の便箋《びんせん》にびっしりと手書きで書かれていた。
親愛なるラムジー様
元気?
こっちはあれから嵐の後片づけで大変。あたしも手伝ってるんだ。重機《じゅうき》が入れないとこで岩とかトラックとか動かしたり、逃げた家畜を捕《つか》まえたり。
あの日の事は、『局地的な竜巻《たつまき》被害』っていうことで落ち着きそう。保険会社の調査員が来てるけど、村中で口裏を合わせてるから。あと、近在の村で『低緯度《ていいど》オーロラ』を目撃した人が大勢いるけど、誰も写真撮影に成功しなかったって話。やっぱりあれって写真には写らないんだと思う。
あの後、きちんと調べたら村の五人に一人はセカンドサイトがあって、そうでない人も三人に一人は少し視《み》える程度の力があるって分かったの。クリップフォードでは当たり前だからみんな気にしていなかったというわけ。
シールシャはこっちに残ってフィアカラが復元した大ストーンサークルをもう一度家や塀《へい》に復元しなおしたり、イザベルに魔法を教えたりしてるわ。イザベルはラノンに生まれていたら上級魔術者だっただろうって。イザベルは御返しにシールシャにクリップフォードの歌を教えたり、ショートブレッドとかドロップスコーンとかの簡単なお菓子をいっしょに焼いたりしているの。シールシャはそういう普通のことがすっごく楽しいみたいで、まるでホントの母娘《おやこ》みたいなんだ。
そうだ、合唱コンクールの話は聞いた? クリップフォード混声合唱団がスペイサイド地区の大会に出ることになったの。みんなすごく張り切ってる。公民館がまだ使えないので、教会に集まって練習しているわ。本番はさ来月よ。
そういえば大ストーンサークル復元がダメになって、村で新しく考えついた観光事業っていうのが傑作《けっさく》なんだ。〈妖精の里・クリップフォード〉で売り出すんだって! みんなで寄り集まって、妖精マグカップとか、妖精のお守りとか、妖精Tシャツとか、妖精のハーブとか、せっせとアイディア商品の案を練《ね》っているわ。ウチの親父なんか姉貴たちに妖精っぽい格好をさせて、写真撮ってパンフに載せるんだって。姉貴たちは二人とも全くの人間だったんだけどね。
それから、ウィンタースさんの発案で村に〈同盟〉のお客さんが来るようになったんだ。観光案内所でB&Bの予約するとき例の合言葉、〈ノコギリソウ〉〈ヘンルウダ〉を言うと半妖精のホストファミリーを紹介して貰えるって仕組み。まだ休業中のB&Bが多くて予約が取りにくいんだけど、春までにはだいたいオープンするから、そしたら軌道《きどう》に乗りそう。
こっちはそんな具合。そっちはどう? あたしもそのうちまたロンドンに行く予定。その時は今度こそ〈同盟〉に入らなくちゃ。そうそう、イザベルも入るって。規約が変わって半妖精の入会が簡単になったから。
それじゃ、また! 返事書きなさいよ!
[#地から6字上げ] あらあらかしこ
[#地付き] アグネス・アームストロング
読んでいるうちに何だか胸がじーんとなった。ラムジーは、しみじみと手紙っていいな、と思った。もちろん電話の方が早いけど、やっぱり手紙の方が暖かい感じがする。
そうだ。返事を書かなきゃならないんだ。
いったい何を書いたらいいんだろう。手紙を貰うのは嬉しいけれど、書くのはどうも苦手なのだ。とりあえず、思いついたことをノートに下書きしてみることにした。
ええと。ジャックが盟主になったことはもう知っているんだっけ。
それじゃ、最初の頃はジャックと仲が悪かったレノックスが今ではすっかりジャックの右腕になって働いていること。それがすごく嬉しいこと。
ジャックの発案で〈同盟〉が人間の外部顧問を置くようになったこと。もちろん、第一号はトマシーナさん。彼女がジャックの計《はか》らいでまた古書店で働けるようになったこと。それから、ジャックが古代遺跡の本を山ほど買ってレノックスに怒られたこと。
あと、ジャックが不法占拠していたビルは〈葬儀社〉が買い取ってきれいに改装されたこと。ジャックは地下室から一番上の階に引っ越し、ラムジーの部屋も窓ガラスが入って明るくなったこと。これはすごい進歩だ。
あ。そうだ。一番のニュースは仔犬《こいぬ》たちが空を飛ぶようになったことだ! これを忘れちゃいけない。まだ上手とは言えないけれど、とにかく短い距離を滑空《かっくう》できるようになった。じき夜の公園で飛行訓練を始める予定だということ。それが楽しみだということ。
こちらは元気で、毎朝起きるのが待ち遠しいこと。目が覚めるたびに生まれ変わったみたいな気がすること……。
ううーん。あと、何だろう。まだ何か忘れているような気がするんだけど。
何かすごく大切なことだったような気がするのに、どうしてか思い出せない。
そのとき、ギリーが呼ぶ声が聞こえた。
「はい、いま行きます!」
ネッシーの手紙をノートに挟んで鞄《かばん》に仕舞《しま》おうとしたラムジーは、ふと手を止めてもう一度ピンク色の封筒を眺めた。
そうしたら心臓がとくとく鳴った。胸の底から暖かなものが湧《わ》き上がって来て、なんだかすごく幸せな気持ちになってくる。
ラムジーは、それはきっとみんなが元気で幸せに暮らしているからなんだろうと思った。
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花の名は〈風〉
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レノックスは今日十七回目の溜め息をついた。
ロンドンに戻って来てから気になって仕方がないことがある。
魔女シールシャのことだ。
シールシャが誰かに似ていると思っていたのだが、ようやく分かった。ジャックだ。
ジャックとシールシャは妙に似たところがある。頑固《がんこ》で一本気なところや、生き方が不器用で容易に他人を寄せ付けないところ、そのくせ本当は情に厚いところだ。
似てるってことは、「似合い」ってことじゃないだろうか。ダナ王国の元王子とダナ最高の魔女。歳も近い。
ジャックは、良い奴だ。誠実で、信頼できる。人を裏切らない。嘘をつかない。自分に対しては厳しいが、他人に対しては思《おも》い遣《や》りがある。まあ、それに、言ってみればなかなか美男子だ。奴の氷の壁みたいにそっけない態度も、若い女から見れば「クール」ってことになるかも知れない。
似合いだとは、思う。だがもし本当にそんなことになったら、二人を祝福出来るかどうか自信がない。
どうしてかって?
今日十八回目の溜め息が出る。
レディ・シールシャは、美人だ。誇《ほこ》り高く、凛《りん》として、粋《いき》で、ちょっとばかし生意気で、気は強く、だが心根は正しく、気高《けだか》く、情が深く、本当はとびきり優しく……ラノンにもこの世界にもあんな女は他にいやしない。
シールシャをクリップフォードに残してロンドンに帰って来て気づいた。あれ以来、明けても暮れても魔女シールシャのことばかり考えているのだ。一人竜巻に立ち向かったあの小さな後ろ姿、そしてあの一瞬に見せたあでやかな笑顔が目に焼き付いて離れない。
やっぱり、惚《ほ》れちまったらしい。
今ではあの頭ごなしな物言いでさえ懐かしく思える。今頃どうしているのか。ラムジーの実家に身を寄せていると聞いているが――。
上着のポケットで携帯が鳴り、レノックスは上の空で受信ボタンを押した。
『レノックスさん?』
誰かと思ったら、ラムジーだ。電話してくるとは珍しい。
「おう。チビすけ。何か用か?」
『あ。ええと……実は家から手紙が来て、今夜クリップフォード村公民館でケイリーがあるそうなんです。良かったらレノックスさんや同盟の皆さんも一緒にどうぞ、って。でも、仕事が終わってから普通に行ったら間に合わないので、それで……』
「〈低き道〉か? なんでジャックに頼まないんだ?」
『その、こういうことってジャックさんには何だか頼みにくくて……』
思わず笑った。ジャックの奴は超の字が付く堅物《かたぶつ》だ。それでも、ラムジーの頼みは断らないだろうが。
クリップフォードのケイリーか。前に行った時にも一度招かれたが、陽気なダンスパーティーみたいなものでなかなか悪くなかった。なにしろあそこの地酒は旨《うま》いしな……などとぼんやり考えているうちに、不意に頭の中にパッと光が走った。
クリップフォードといえば、シールシャはまだあっちにいるんじゃないのか?
「ラムジー、ちょっと聞きたいんだが、そのケイリーにはシールシャも来るのか?」
『もちろんですよ。公民館の補修が終わったから、村中総出なんです。母さんはシールシャさんと一緒に作ったショートブレッドを持っていくって』
「おう、そうか! そりゃ旨そうだ!」
今にも躍《おど》り出しそうな気持ちをぐっと抑《おさ》え、努《つと》めて平静を装《よそお》って言った。
「それじゃ、フローリストの仕事が終わる頃に迎えに行く。そこから〈低き道〉を開いて一緒に行けばいい。ギリーはクリップフォードを知らねえが行けば気に入るだろうし、ケリも行くんじゃねえか?」
『はい! ありがとうございます。ジャックさんにも電話しておきますね!』
「ジャック? あ、ああ、そうだな……」
ジャックの奴も来るのか……と思ったところで電話は切れた。考えてみればラムジーがジャックに声をかけない訳がなかった。
ジャックとシールシャが顔を合わせるのか……。
まあ、しかし奴は誘われても行かないかも知れない。賑《にぎ》やかなことは嫌いだしな、などと極力都合良く解釈し、レノックスはいそいそと仕事を片づけにかかった。
何はともあれ、今夜シールシャに会う口実が出来たのだ。
◆◆◆
ランダル・エルガーは赤みを帯《お》びた小さな光球《こうきゅう》を両の掌《てのひら》に挟み込み、〈目〉〈耳〉が見聞きしたものを頭の中で再生した。自転車で街を走るジャック・ウィンタース。フローリストのギリーが葬儀用の花輪を作っている。忙しく仕事を片づけるレノックス……。皆、元気そうだ。
唇に微《かす》かな笑みが浮かぶ。そのとき、執務室のドアを敲《たた》く音がした。
「開いていますよ」
静かにドアが開き、お下げ髪の女性がおどおどと躊躇《ためら》いがちに入ってきた。〈同盟〉の外部顧問となったトマシーナ・キャメロンだ。
「あの……ウィンタースさんは……」
「今日は用事があって早退したのですよ。私ではお役に立てませんか?」
ランダルは、ウィンタース新盟主はどうして彼女を初代の顧問にしたのだろう、と訝《いぶか》しんだ。〈人間〉の協力者というだけなら他にいくらもいるだろうに。もちろん秘密を知ってしまったということはあるし、妖精伝説には詳しいのだが。
「あ……本を届けに上がっただけなんです。古代遺跡とオーパーツの研究書で、入手困難だったのがやっと手に入ったので……」
「では、渡しておきましょう」
「お願いしますわ、エルガーさん」
トマシーナが愛《いと》おしむような手つきで古い書物を紙袋から取り出すのを眺め、ふと奇妙なことに気づいた。この女は、どうやってここまで来たのだろう。
「ミス・キャメロン。一人でここまでいらしたのですか? ここの〈惑《まど》わし〉は上着を裏返しただけでは視《み》えない筈《はず》なのですが」
トマシーナは小さな陶器《とうき》の器を取り出した。
「〈妖精の塗り薬〉ですわ。ウィンタースさんが送ってくれたんです」
〈妖精の塗り薬〉は四つ葉のクローバーを主体とした薬効成分を含んだ軟膏《なんこう》だ。これを瞼《まぶた》に塗ることで高度な〈惑わし〉も見抜くことが出来る視力が得られる。
「では、それを片方の瞼に塗ったのですね」
「いいえ。両方の瞼に塗りました」
ランダルは眉を顰《ひそ》めた。
「貴女《あなた》がご存じない筈はないでしょう。〈塗り薬〉の贈り主は薬を塗られた方の目の視力を奪うことが出来ることを。両方の瞼に〈塗り薬〉を塗って、裏切った時には……」
「ええ。存じています。でも、私は信じていますから。私自身と、それにウィンタースさんを」
驚いて彼女を見つめた。女性として魅力的というには少しばかり痩《や》せすぎで、髪型も着ている服も眼鏡も野暮《やぼ》ったい。だがその眼鏡の奥の瞳は夏空のように澄み渡り、強い意志と知性が宿《やど》っているのが見て取れた。
これは、やはりジャック・ウィンタースの見立てが正しかったか――。
「ミス・キャメロン。初めてお会いした時、私は貴女に失礼なことを言いました。いまこの場を借りて謝罪させて下さい。あのときは、ご無礼を言って申し訳ありませんでした」
「気にしていませんわ、エルガーさん。貴方《あなた》にはお立場があって、仲間を守らなければならなかったことは分かっていますわ。それに事実私は〈人間の女〉ですもの」
トマシーナは何かを思い出そうとするように遠くを見て微笑《ほほえ》んだ。
「では、私はこれで失礼しますわ。ウィンタースさんによろしくお伝え下さい」
本をデスクに置いて退出しようとするトマシーナに、ランダルは思わず声をかけた。
「ミス・キャメロン。今日これからのご予定は?」
◆◆◆
ジャックは二年の間通い慣れた〈自転車エクスプレス社〉の細い外階段を昇り、赤く塗られたドアを敲いた。
「仕事なら入って! 強盗はお断り!」
「どちらでもないよ」
赤いドアを開けて中を覗《のぞ》く。
「エマ。携帯電話とヘルメットを返しに来た」
デスクの向こうで痩せた赤毛の女性――社長のエマ・アンセルが受話器を静かに置いた。
「君。辞《や》めるの?」
「実はそうなんだ。貴女には長いこと世話になった。今まで僕がこの街でやってこられたのは貴女のお陰《かげ》だよ。本当にありがとう」
ジャックは支給品の携帯電話と自転車用の白いヘルメットをデスクの上に並べた。初めてこの事務所に来た日、エマが貸してくれたヘルメットだ。
「バカね。自転車のお陰、でしょ」
「だが貴女は素姓《すじょう》の知れない僕を黙って雇ってくれた」
ここで働き始めて大分《だいぶ》経《た》ってから知ったのだが、労働許可を持たない不法滞在者を雇うと雇った側も罪になるのだそうだ。エマは摘発《てきはつ》される危険を冒《おか》して自分を雇ってくれたことになる。
「ま、ね。あたしはこれでも人を見る目はあるつもりなのよ。アーニーの推薦《すいせん》もあったし。で、これからどうするの? 故郷《くに》に戻るの?」
「いや。故郷には戻らない。ここで新しい就職先が決まったんだ。なんと説明したらいいか難しいんだが……実は、葬儀社の雇われ社長を引き受けることになって……」
「あら、凄《すご》いじゃない。一国一城の主ってわけね」
「それは貴女だろう、エマ。僕は単なる雇われだから」
「吹けば飛ぶような紙の城よ」
彼女はそう言うが、一人でこの事業を立ち上げ、切り回して来た手腕はたいしたものだった。
「とにかく、良かったわ。ずっと暗い顔をしてたからどうしたかと思ってたわよ。でも最近吹っ切れたみたいだし」
「僕はそんなに暗かった?」
「ええ、そりゃあもう! 君が入ってくると部屋の温度が五度下がったわ。常連のお客も気にしてて、でも、とてもじゃないけど理由は訊《き》けなかったって」
カディルの死後かなり長い間、笑顔を作るのが難しくなっていたのは事実だ。妖素《ようそ》がなかったのだから無意識に〈霜の力〉を使った筈はないのだが、彼女がそう感じるほど暗い顔をしていたのだろう。仕事中は出来るだけ顔に出さないようにしたつもりだったのに、すっかり見透かされていたのか。
「心配をかけて済まなかった。でも、もう大丈夫だ。仲間も見つかったし」
「仲間、ね。君は本当に自分の事は何も言わなかったわね」
「そういう約束だったから」
「バカね、約束って破られるためにあるようなもんじゃない。君くらい固い子って、ホント他にいないわよ!」
「そういえば、よく唐変木《とうへんぼく》と言われる」
「上手いことを言うわ。君にそんなこと言えるのって、誰?」
「年上の友人だよ。今後は同僚になるんだが」
レノックスの豪快《ごうかい》な笑顔を思い浮かべながら言った。
そうだ。友人なのだ。ラムジー、レノックス、ケリ、シールシャ、アグネス。今では、みな大切な友だった。
「それにしてもその若さで葬儀社の社長とは驚いたわ。君なら似合いそうと言ったら悪いのかしらね。新社長はお迎えの車でご出勤?」
「まさか。自転車で通勤するつもりだよ。本社はサウスウォークだから近いんだ」
「あら、そう!」
突然、デスクの上のヘルメットがこちらに投げ渡された。
「だったらメット、持って行きなさいよ」
「しかし、これは自転車便の仕事のために貸してくれたのだから……」
エマは真っ赤な唇で三日月のように笑った。
「ホントに唐変木ねぇ。それは餞別《せんべつ》ってことよ。ところでアーニーには、もう言ったの?」
実のところ、アーニーと会うのは気が重かった。カディルの死をどう伝えればいいのか解《わか》らなくて、結局まだ言っていないのだ。だが、いつかは言わなければならないことは解っていた。
〈シティ〉を自転車で流していると、やがて見慣れた屋台が見えて来た。ペダルを止め、ゆるゆるとスピードを落とす。
アーニーはジャックに気づき、手を止めて真夏の太陽のような笑顔を向けた。
「よお。ジャック。久しぶりじゃねえか。景気はどうでえ?」
アーニーの笑顔に、言葉が胸につかえた。
「アーニー……僕は、おまえに言わなければならないことがあったんだ……」
「なんだ? 言ってみろよ」
「ああ……実は……実は……」
握りしめた掌に爪が食い込む。
「カディルのことなんだ……。カディルは……亡くなったんだ。自殺だった……。亡くなって、もう三月になる。済まない、おまえはずっと気にかけてくれていたのに、言えなくて……」
褐色《かっしょく》の指が、紙コップのシールを剥《む》いている。アーニーは黙ったままぱりぱりとシールを剥き続け、ややしばらくして大きな溜め息を吐くように言った。
「……まあな、俺もそんなこっちゃねえかと思ってたよ」
「アーニー……」
「おめえさん、鏡で自分の顔を見たことがあっか? 二、三ヵ月、まるで死人みたいだったよなあ。おめえが言う気になるまで、こっちからは訊けねえと思ったよ」
「……エマにも同じ事を言われたよ。顔に出していないつもりだったのに。やっぱり、僕はまだ子供なんだな……」
「ああ、ガキだ。けど二年前に比べりゃちっとは大人になったぜ」
「そうか……?」
「まあな。背も伸びたんじゃねえか?」
「えっ。そんな筈は……」
「そう見えるぜ」
アーニーは冬空を見上げた。
「たぶん、〈別嬪《べっぴん》さん〉が生きるにゃこの世界はちっとばかり汚すぎたんだろうよ。〈別嬪さん〉はきっと奇麗《きれい》な空の上の国に行ったんだろうさ」
ジャックも見上げた。この季節には珍しく青く晴れ渡り、空の縁に薄く白い雲がたなびいていた。
空の上の国、か……。この街の空はまだラノンに繋《つな》がっているのだろうか。あの夜、カディルの魂は、無事にラノンに還《かえ》れたのだろうか……。
「そんで、おめえさんはこれからどうするんだい? おめえがいつまでもめそめそしていたら〈別嬪さん〉も浮かばれねえぜ」
「僕は、大丈夫だ。仲間が見つかったんだ。新しい仕事も決まったよ。だから、自転車便の方は正式に辞めて来た」
「そうか。そりゃあ良かった。そんじゃあ、何だ。今度は俺がおめえの仕事で世話になれるってわけかい?」
「いや。それは出来ない」
「そうかい、ジャック。お偉くなってジャマイカくんだりの奴とは付き合えねえってのかい」
しかめっ面《つら》でぎょろりと大目玉が睨《にら》む。そういえば、今日はいつもと違ってスーツ姿だ。ジャックは慌てて訂正した。
「違うんだ、アーニー。新しい仕事というのは、葬儀社なんだよ。だから……」
アーニーは大きな目をさらに丸くし、それからブッ、と吹き出した。
「こりゃ参ったな、葬儀社かよ! けどよ、誰だって一度は死ぬんだからよ。そんときはちゃんと葬式を出して貰《もら》いてえよなあ」
「ダメだ、アーニー。おまえはこの街で死んではいけないんだ。いつか故郷に還るって言っていたじゃないか。僕は還れないけど、おまえは還れるんだ」
「まあな。けど、先のことは分からねえ。それにな、よく言うじゃねえか。住んでるとこが故郷だ、ってよ」
「初めて聞いたよ」
「そりゃそうさ。今俺が作ったんだからな」
今度はジャックが吹き出した。
「ああ、とても良い言葉だと思うよ」
そのとき、耳慣れた野太《のぶと》い声がジャックを呼び止めた。
「おい、ジャック!」
◆◆◆
レノックスは屋台カフェで立ち話をしているジャックの肩を後ろからどん、と叩いた。
「ジャック、こんなとこで何をしているんだ? ラムジーから電話がなかったか?」
「ああ、レノックスか。携帯は自転車便を辞めるので返してきてしまったんだ」
「しょうがねえな、さっさと新しいのを買え。〈伝言精霊〉はなるべく使いたくねえからな」
ジャックの耳元で囁く。〈人間〉がいるのが気になるのだ。
「ジャック。そのデカブツは誰でえ?」
いつの間にかカフェのおやじが屋台の外に出て来ている。そのおやじに向かってジャックは驚くほど朗《ほが》らかな笑顔を見せた。
「ああ、アーニー。彼はレノックス・ファークハーという。僕の仲間だ。レノックス、こちらはアーニー・ブラウンだ。ロンドンに来た時、彼にはいろいろ世話になったんだ」
「ああ、そうか」
レノックスは短く言った。早くこの場を離れた方がいい。〈人間〉にこちらの内情を知られたくはない。
カフェおやじは大きな目玉をぎろりと剥いてレノックスを見上げた。
「へえ、お仲間かい。ジャックに仲間がいたとは、こりゃ驚きだ。てっきり天涯孤独《てんがいこどく》ってやつかと思ってたぜ」
「ジャックの仲間は、俺たちだ。こいつが世話になったそうだが、今後はこいつの面倒は俺たちが責任を持って見る」
「仲間じゃなくたって面倒くらい見られるんだぜ、でっかい旦那《だんな》。自慢じゃあねえが、ジャックに自転車の乗り方を教えたのは、この俺なんだからよ」
自転車……?
何かがふっと脳裏《のうり》をよぎり、眉間《みけん》に皺《しわ》が寄る。自転車。アーニー・ブラウン。カフェ。立ち飲み。故買屋《こばいや》。ラム酒。不法占拠《スクウォッティング》……。
「あっ!」
レノックスは小さな叫び声を上げ、ぴしゃりと額を叩いた。
「思い出した! あんたか! 『立ち飲みカフェのアーニー』ってのは!」
「おうよ。だったらどうだってんだ?」
「いや、済まん、そうだったのか!」
傷を負《お》い熱にうなされていたあの晩、あの地下室で、ジャックは寝物語に話したのだ。どうやってこの世界を知り、仕事と住む場所をみつけ、どうやって生きてきたのか。だが、今の今まで話を聞いたこと自体、すっかり忘れていた。
そういえば、あのとき熱のせいでえらくこっぱずかしいことを口走ったような気もするが……。レノックスは顰《ひそ》かに顔を赤らめ、えいや、とばかりにその記憶を意識の彼方《かなた》に押しやった。
そんなことはどうだっていい。重要なのは『立ち飲みカフェのアーニー』がジャックを助けたということなのだ。アーニーの手助けがなかったら恐らくジャックはカディルを抱《かか》えて路上生活をすることになっただろう。その結果がどういうものだったか、想像するだに恐ろしい。
レノックスはアーニーの手を強く握り、上下に振り回した。
「いや、俺からも礼を言う! 本当に感謝の言葉もないくらいだ! ジャックが一人でやって来られたのは全部あんたのお陰だったんだってな!」
アーニーは相好《そうごう》を崩した。
「なに。どうってことねえよ。知らねえ国で頼る相手がいねえってのがどういうことか、俺にも覚えがあったからよ」
「あんたもか?」
「おうよ。来た頃は、そりゃ苦労したぜ」
しばらく苦労話に花が咲いた。いちいち覚えがあるようなことばかりで、レノックスは〈人間〉も知らない土地では異世界の〈妖精〉と大差ないのだと気づいた。そして、もし自分がこの街に墜《お》ちてきたとき最初に出逢ったのがアーニーのような人間だったら、自分の人間観も変わっていただろうな、と思った。
人間、か。人間ってのもそう捨てたもんでもないのかも知れないな……。
そのとき、ジャックが言った。
「レノックス。さっき、ラムジーから電話とか言っていなかったか?」
アーニーと話し込んでいたレノックスはハッと我に返った。
「ああ、そうだった! ジャック、あんた今夜なんか予定あるか? 実はラムジーがな……」
◆◆◆
閉店間際になり、ラムジーはフローリストの店先をせっせと箒《ほうき》で掃《は》いた。レノックスが迎えに来る前に片づけておきたいのだ。花のバケツを店内に運び込んでいるとき、お洒落《しゃれ》な服装の赤毛の紳士が店に入って来た。ケリのお父さんだ。
一緒に片づけをしていたケリが凍《こお》り付いたみたいに手を止めて振り返った。
「父さん……。どういう風の吹き回し?」
「どうって……。父親が息子の働きぶりを見に来たらいけないのかね?」
「だって、僕がアルバイトするのに反対だったじゃない」
「別に反対したわけじゃない。小遣《こづか》いは充分な筈だと……」
「それが反対してるって言うんだよ。だいたい、『小遣い』だなんてさ。僕だってもう十八なんだから。大学の学費は〈同盟〉から奨学金が出るんだし、自分で使う分を自分で稼《かせ》ぐのは当たり前じゃないか」
「不自由はさせていないつもりだったが」
「そういう問題じゃないんだよ、父さん!」
じれったそうに言う。ラムジーは、ケリの気持ちが分かったし、ケリのお父さんのシェイマスの気持ちも分かった。二人とも互いに気を遣《つか》っているのに、素直に言えないのだ。
シェイマスが肩をすくめて言った。
「まあ、おまえの好きなようにすればいいさ。今日は母さんに花を買っていこうと思ってな」
「母さんの誕生日は来月だよ」
「別に誕生日じゃない日に花を贈ったっていいじゃないか。どんな花がいいだろう。白い百合《ゆり》なんか似合うと思うんだが」
「百合は葬式向きの花だよ」
「そうか? 母さんは好きなんだがな。じゃあ、蘭《らん》はどうだ? 華やかだ」
「いま蘭は良いのがないんだ。薔薇《ばら》は?」
「ああ、薔薇は良いな。ピンクが良い」
「ピンクより赤の方が良いと思うけど。ピンクは俗《ぞく》っぽいよ」
「いや。ピンクが良いんだ。ピンクにしてくれ。淡い色の蕾《つぼみ》のがいい」
「分かったよ。支払うのは父さんなんだから。ラムジー、〈プリティー・ウーマン〉の蕾、在庫たくさんあったっけ?」
「あったと思います。奥を見てきます!」
走り出す背に向けてシェイマスが言った。
「ラムジー君、きっかり五十本頼むよ」
「母さんは五十二だよ」
「女は少し若く見られたいものなんだ」
ラムジーはピンクの薔薇を数えながらふと思った。ピンクの薔薇の花言葉は、たしか『満足』とか『感謝』とかだったはずだ。
ケリのお父さんは五十本の〈プリティー・ウーマン〉の花束を両腕に抱きかかえてお店を出て行った。幸せそうだった。
そのとき、頭の後ろの方がちりちりする感じがした。この感じは――。
「ジャックさん、レノックスさん!」
◆◆◆
レノックスはロンドン橋からバトラーズ・ワーフに向かって急ぎ足で歩いた。石畳《いしだたみ》を濡らすフローリストの灯《あか》りが見えてくる。
「よう、ラムジー。ジャックを連れてきたぜ」
架空《かくう》の尻尾《しっぽ》を振り回す仔犬《こいぬ》さながらにラムジーが店から飛び出して来た。
「あっ、レノックスさん! よかった、ジャックさんの電話が通じなくてどうしようかと思ってたんですよぉ」
「あ、いや。道で偶然会ってな」
レノックスは、ジャックは誘われても断ると思っていた。ところが、今日に限って珍しく断らなかったのだ。
「ちょうど今日は〈自転車エクスプレス社〉に挨拶《あいさつ》に行くために半休を取っていたから」
と、言う。その辺はやはり律儀《りちぎ》というか堅物だが、今回ばかりはちょっと間が悪い。ジャックがクリップフォードに行くということは、シールシャと会うということでもあるからだ。
ま、だがしかし、こいつは超の字がつく朴念仁《ぼくねんじん》だからな。万一シールシャの方がジャックに気があったとしても、こいつが気づく心配はないだろう。
小さなフローリストの店内は表のディスプレイ用の花を全部中に片づけたために花畑のような状態になっていた。甘い香りと色彩に頭がくらくらしそうだ。
花か。そうだ、シールシャに花を買っていこう!
「ケリ。まだレジは閉めてないよな?」
「あ、大丈夫ですよ。レノックスさんならツケでもいいですし。どれにしますか?」
「そうか。そうだな……ううむ」
レノックスはうなり声を上げ、花でいっぱいの店内を見回した。シールシャには、どんな花が似合うだろうか。
花の女王、薔薇か。清楚《せいそ》な白百合か。カサブランカの華やかさも良いし、艶《あで》やかな胡蝶蘭《こちょうらん》、優雅なカラーも似合いそうだ。美人には、どんな花だって似合うだろう。だが最も相応《ふさわ》しい花となると、なかなか難しい。ミックスにしても良いのだが、単品種でボリュームのある花束の方が女心をくすぐるような気がするのだ。
ふと、店の奥に海のように澄んだ青色の花があるのに気づいた。
「ケリ。あれは?」
「ああ、アネモネです。奇麗でしょう?」
確か、『アネモネ』とはギリシャ語で『風』という意味だった筈だ。青く透き通るような花弁は儚《はかな》げだが凛とした気品があり、同時に艶《つや》めくように美しい。これこそレディ・シールシャにぴったりの花だ。
「よし。そこにある青いアネモネ、全部|貰《もら》おうか」
「全部ですか?」
「ああ、全部だ!」
ケリは目を丸くしながら一抱えもあるアネモネのブーケを作った。ジャックは手持ち無沙汰《ぶさた》な様子でそれを眺めていたが、何を思ったのか突然一つの切り花を指して尋ねた。
「ラムジー。あれは何という花だ?」
ジャックの指し示す先にあるのは、見開いた目のような白と黄の地味な一重《ひとえ》の菊だった。
「ええっと、ヒナギクの一種で、スノー・レディっていう品種です」
「そうか……そのスノー・レディを二本、包んで貰えないだろうか」
レノックスは思わず口を挟んだ。
「二本? えらく半端《はんぱ》じゃないか。何でだ?」
「あ……いや。何となく」
ジャックが珍しく口ごもる。
「買うならドバッと買えよ」
「そうだな……。じゃあ、一ダース」
「はい!」
ラムジーが嬉しそうに束にしたヒナギクを不織布《ふしょくふ》で包み始める。
それを眺めながらレノックスは複雑な気分だった。
まさか、ジャックもシールシャに花を持っていくつもりじゃないだろうな……。
それにしちゃ、随分と地味な花だが。だいたい、二本って何だ? まったく訳が分からん。
店の奥からギリーが顔を出した。
「ケリ君、ラムジー君、今日はもうお仕舞《しま》いにしていいからね……」
「よう、ギリーも一緒に行くか?」
「ああ、そうしようかね。ラムジー君のご両親にも挨拶したいしね……」
「じゃあ、店仕舞いにしたら出発するぜ!」
「はい! 村のみんなが待ってますよぉ!」
元気いっぱいにラムジーが答えたとき、どやどやと賑やかな一団が店に雪崩《なだ》れ込んできた。
「レノの旦那! オイラたちも連れてってくれよゥ!」
カウラグだ。角足《スクウェア・フット》のジミイもいる。
「レノさん、聞いたよ。わたしらを置いてパーティーに行くなんて、冷たいじゃあないか」
恨みがましい声で言ったのはアンヌーンのアーロンだ。タルイス・テーグ、ホブゴブリンにブラウニー、ダナにウリシュクにフェノゼリーも来ている。
「レディ・アグネスは三人姉妹だって聞いた。つまり、あと二人いるってことだよ!」
「すげえ美人だって話だ」
「他にも妙齢《みょうれい》のご婦人がいるかも知れんし」
「おまえら、みんなそういう下心か!」
「いいじゃん、みんな退屈してるんだからサ。クリップフォードは良いとこだしネ!」
レノックスはラムジーを振り返った。
「ラムジー。えらい大人数になっちまうが、大丈夫か……?」
「全然構わないですよぉ。同盟のみなさんもって言ってたし、ケイリーは立食だし」
「ほらほら、そういうことだからさ!」
「しょうがねえな、じゃ、全員で行くか!」
レノックスは妖素の灰を一つまみ撒《ま》き、大声で唱《とな》えた。
「テエェーム!♂艪ヘ行く!」
ぐるぐると回転する黒い穴が空中に出現する。
「さあ行くぜ! おまえら迷子になるなよ!」
〈低き道〉から一歩外に踏み出すと、そこには光と音楽が溢れていた。上手《うま》い具合に公民館の中に出たのだ。一行を出迎えたのはヘイミッシュ・マクラブだった。
「やあ。よくいらした」
ヘイミッシュは〈低き道〉に驚きもせず、真っ黒な穴から現れる妖精たち一人一人に朴訥《ぼくとつ》な笑顔を向けた。
「おう、ラムジーの親父さんか! 元気か?」
「ああ、お陰様《かげさま》でな。この間は世話になった。あれで大晦日《ホグマネイ》のケイリーが出来なかったんで、今夜はその代わりということなんだ。ゆっくり楽しんでいってくれ」
ケイリーは既に始まっていた。この間の騒動で壊れた屋根も補修され、椅子を片づけた集会場は賑やかなケイリー会場に早変わりしている。軽やかなジグのリズムが耳を打つ。聞いているだけでひとりでに足が踊り出しそうだ。カウラグがぴょんぴょん飛《と》び跳《は》ねた。
「こりゃ楽しそうだネ! オイラも踊ろうかナ!」
「私も」
「オレも!」
妖精たちは踊りの輪に飛び込んだ。元来、酒とダンスと食べることが何より好きなのだ。彼らは見よう見真似でステップを踏み、たちまちのうちに村人たちに溶け込んでしまった。
「ぼく、飲み物取ってきます!」
ラムジーがぱたぱた駆け出した。ケリが慌てて後に続く。カウラグが手を振る。
「ジャック殿下とレノの旦那も入んなヨ!」
「いや、僕は……」
ジャックはヒナギクを手にぐずぐずしている。そしてレノックスは、ダンスどころではなかった。
何としても、ジャックより先に花を渡さなければ。
逸《はや》る気持ちを抑えて会場を見回す。フロアの踊りの輪、壁際の立食コーナー、奥にしつらえられた小さな仮設舞台。その何処《どこ》にもシールシャの姿はない。
シールシャ、まだ来ていないのか……。
がっくり肩を落としたとき、耳元で囁くように声を掛けられた。
「レノさん、レノさん!」
レノックスは飛び上がり、振り向いてアンヌーンのアーロンを睨んだ。
「なんだ、アーロンか。驚くじゃないか」
「いいからあれを見てごらんな」
アーロンの視線を追ったレノックスは我が目を疑った。ランダルが見慣れぬ若い女を連れているのだ。ポプラの木のように姿勢が良く、しゃんと頭をもたげた立ち姿が美しい。ほっそりとした肩のまわりで金の糸のような髪がふわふわ揺れている。
「ありゃあ、誰だ?」
「何を言ってるんだい、顧問殿じゃあないか」
「……トマシーナ・キャメロン……?」
レノックスは目をこすった。まるで別人に見える。いや、よく見れば顔立ちそのものが変わったわけではない。きっちりとお下げに編んでいた髪を下ろしてウェーブをつけ、エクステンションを編み込んで軽く遊ばせているだけなのだ。身に纏《まと》っているパステルイエローの膝丈《ひざたけ》のドレスはオーソドックスなデザインだが、普段が地味なだけに引き立って見えた。全体に控えめだが、清楚《せいそ》で愛らしい。
あの人間の娘、案外|可愛《かわい》いじゃないか……。
アーロンは悪戯《いたずら》っぽくうふふと笑った。
「ほんと、女ってのはちょっとしたことで変わるものだよねえ。それにしても、何でランダルがエスコートしているんだろうね?」
「あ……ああ」
呆然とトマシーナを眺めていたレノックスは、突然あることに気づいた。
トマシーナ・キャメロンは、ヒナギクに似ている。シールシャが華やかなブルー・アネモネなら、トマシーナは白と黄の可憐《かれん》なヒナギクの花だ。
そして、ジャックが急にヒナギクの花を買った理由はそれに違いないと思った。絶対にそうだ。奴は、ヒナギクを見てトマシーナを思い出したのだ。
待てよ。あの唐変木は、自分じゃ気が付いていないんじゃないのか……?
ジャックはと見ると、ひとりで奥に向かおうとしている。
「ジャック!」
レノックスはフロアを突っ切って猛然《もうぜん》とジャックに向かって突進した。
「ジャック! 何処に行くんだ?」
「ああ、レノックス。イザベルを見なかったか? このヒナギク、オールドオーク・ファームに飾って貰おうと思ったんだが……」
レノックスは地団駄《じだんだ》を踏んだ。やっぱり、ぜんぜん解《わか》っちゃない!
「駄目だ駄目だ! 花ってのはな、未婚の女性に渡すものなんだ」
「そうなのか?」
「そうだ! それがここの習慣だ」
「急にそう言われても……誰に渡せばいい?」
「そりゃ……」
レノックスはぐるぐる会場を見回し、ランダルにエスコートされてダンスの列に向かうトマシーナを指さした。
「彼女がいい。ドレスの色がちょうどヒナギクにぴったりじゃないか」
「ああ。そうだな」
ジャックはそう言うとこれっぽっちの躊躇いも見せず、真《ま》っ直《す》ぐにフロアを突っ切ってトマシーナの方へ歩いて行った。
「トマシーナ」
「ウィンタースさん……」
トマシーナの顔がパッと輝く。一瞬前まで普通に可愛らしいだけだったのが、今は鄙《ひな》にも稀《まれ》な器量好《きりょうよ》しだ。
「見違えたよ。別の人かと思った」
「ランダルさんが〈ラノン・ラノン〉に連れていって下さったんです。そこのヘアデザイナーさんがこの髪型に……」
「とても似合っている。ところで、このヒナギクを貰ってくれないか」
トマシーナは頬を真っ赤に染め、俯《うつむ》いたままヒナギクの花束を受け取った。
よし、良い雰囲気じゃないか。ジャック、そのままダンスを申し込め!
だがジャックとトマシーナはフロアを離れ、壁際に寄って話し始めた。聞こえてくるのは遺跡やら神話伝説やらの色気のない話だ。二人ともダンスの輪に加わる気は皆目《かいもく》ないらしい。
ああ、何やってんだ、この朴念仁め!
背後で低く含み笑う声が聞こえた。
「なかなかお似合いだとは思いませんか?」
ハッと振り返ったレノックスは、チェシャ猫のようなランダルの微笑と出くわした。
「全く。お見通しってわけか」
「余計なお節介《せっかい》だったかも知れませんけれどね」
ランダルはにんまりと笑った。招《よ》ばれもしないのにこれ見よがしにトマシーナを飾り立てて連れて来て、さっさとジャックに譲《ゆず》ったのはそういう訳か。
二人に目を戻した。オーパーツとやらについてえらく熱心に話し込んでいる。
まあ、あれはあれで良いのかも知れねえな……。ある意味、確かに似合いだ。
とにかく、ジャックがシールシャに花を贈ろうとしていたのではないということが分かって一安心だった。
それにしてもシールシャは遅い。たぶん、イザベルと一緒に来るのだと思うが――。
落ち着かない気分でフロアを眺めたレノックスの目に、アグネスとお喋《しゃべ》りしながらこちらに向かってくる黒いドレス姿が映《うつ》った。
ほっそりとしなやかな肢体《したい》、夜の色の髪、涼やかな瞳、紅い唇。
瞬間、他の全てのものは輝きを失った。
綺麗だ……。
心臓の鼓動がドラムのように鳴り響く。音楽は急《せ》かすような速いリールに変わっている。
レノックスはアネモネを後ろ手に持ち、踊りの輪に突っ込んだ。くるくる回る踊りの輪を掻《か》き分《わ》ける。シールシャがこちらを見て微笑んだ。カーッと頭に血が昇る。
「や、やあ! レディ・シールシャ」
「今晩は。レノックス・ファークハー」
「ああ、この間は、その、なんだ……」
舌が縺《もつ》れたみたいになって言葉がスムースに出てこない。何か気の利《き》いたセリフを言って花束を渡そうと思っていたのだが、とんでもなかった。これじゃまるで十代の若造に逆戻りだ。
シールシャが小首をかしげて言った。
「その後、手足の調子はどう? 〈治癒《ちゆ》〉の揺り戻しは来ていない?」
「ああ! いや、お陰様でな、この通りピンピンしてるぜ!」
彼女は眉を顰《ひそ》めた。
「本当は全治半年の傷だわ。無理をするなと言ったのをおまえは覚えていないの?」
「あ、ああ。そういえば、あんたも重傷だったんじゃないか! 具合はどうなんだ?」
「私は、大丈夫だわ。イザベルの〈治癒〉はとても上手だったわ」
「そうか、そりゃあ何よりだった! ところで、あの後どうしてたんだ? ずっとラムジーの家に?」
「ええ。半分はね。でも、半分は〈アメリカ〉に行っていたの」
「そりゃまた、何だってあんなところに……?」
アメリカは〈人間〉の物質文明の中心地であり、たいがいの妖精は怖気《おぞけ》を震う土地だ。レノックスも行ったことはない。
「何故《なぜ》って……それは、大切な人がいるからだわ」
「大切な……人……?」
「ええ、そうだわ……私の、大切な人」
シールシャの白い頬が、薔薇色に染まった。
「初めて〈アメリカ〉に行った時に彼に会ったの。彼、芸術家なの」
レノックスはたっぷり三秒の間、ぽかんと口を開けたままシールシャの顔を見つめていた。
「そ、そうか。芸術家か。そいつは、すごいな」
胸の中で何かがぱちんと砕《くだ》けてしゅうしゅうと萎《しぼ》んでいくのが解った。シールシャは恋をしているのだ。その憎らしい気障《きざ》な鼻持ちならない糞《くそ》ったれの芸術家とやらに。
「……そいつは、妖精なのか?」
「いいえ。人間よ。彼、チョークで道に絵を描くの。私は空を飛んでいて上からそれを見たの。とても、とても美しかったわ」
そりゃ、芸術家じゃなくて大道芸人《だいどうげいにん》じゃないか! レノックスはもう少しでそう叫び出しそうになった。シールシャはこっちに来て日が浅いから、それが分からないのだ。
「……道に絵を描いたって売れないだろう?」
「だからいつもお金がないんだわ。それに絵を描く以外のことは何も出来ない人なの」
シールシャは、夢見る乙女の眼差《まなざ》しで言った。黒曜石《こくようせき》の瞳は天の星を宿《やど》したようにきらきらと煌《きら》めき、上気した肌はこの上なく美しかった。
彼女がこんなにも美しいのは、恋をしているからなのだ……。
その相手は自分でもジャックでもなく、ただの人間で、しかもどうやらかなりの駄目男と来ている。くらくらと目眩《めまい》がしてきた。シールシャが好きな相手がジャックだったら、まだ諦めもついたというものだが……。
「だが、それじゃ、生活が立ち行かないんじゃ……?」
「ええ、その通りだわ。あの人、私がついていなければ駄目なのよ」
「そうか……」
何をか言わん、だ。
畜生《ちくしょう》……! やっぱり人間なんか大嫌いだ……!
レノックスはがっくりと肩を落とし、その幸運な糞野郎にひそかに呪詛《じゅそ》を送り、後ろ手に持っていたアネモネの花束を差し出した。
「〈治癒〉の礼だ。受け取ってくれ……」
「まあ、とても綺麗だわ。ありがとう、レノックス・ファークハー」
「なに、ほんの気持ちさ……」
「本当に綺麗だわ。あの人、花の絵がとても得意なの……」
唇に笑みが零《こぼ》れる。シールシャは青いアネモネの花束を抱き、春風のように歩み去った。
花の名は、風なのだ。決してこの腕には捉《とら》えられない美しい幻なのだ……。
魂が抜けた、というのはこういう状態を言うのだろう。レノックスは強《こわ》ばった笑顔のまま飲み物のテーブルに直行し、紙コップに地酒をなみなみと注いだ。芳醇《ほうじゅん》な琥珀色《こはくいろ》の液体を一気に干す。喉《のど》が灼《や》け、腹の底がカーッと熱くなる。
[#挿絵(img/Lunnainn4_325.jpg)入る]
畜生、今夜はとことん飲んでやる……。
耳の底に音楽が鳴り響いた。フィドルが目まぐるしく歌い、バグパイプが啜《すす》り泣く。陽気なアコーデオンの音さえ物悲しい。音楽はリール、ジグ、マズルカと移り変わっていく。
両手に紙コップを握りしめてあたりを見回していたラムジーがアグネスの姿を見つけ、ぱたぱた走り寄って行った。
「ネッシー! ジュース飲む?」
「あら。たまには気の利いたことするじゃない」
アグネスは気取った風に紙コップを受け取った。ラムジーはいつも通りにこにこしている。
「あのさ、ネッシー。手紙、ありがとう……」
「あんた、ちっとも返事くれないじゃない!」
「うう〜ん、下書きは作ってみたんだけど……なかなかうまく書けなくて……」
「バカね、何もうまく書くことなんかないのよ! ロンドンの名所絵葉書だってなんだっていいんだから! あんたからなら……」
アグネスは顔を赤らめ、言葉を濁《にご》した。
「ね、ねえ! ラムジー、せっかくだから踊らない?」
「あ……うん!」
ラムジーとアグネスは手に手を取って踊りの列に加わった。アグネスは俯き加減に視線をそらし、それでもちらちらラムジーに目をやっている。何とも微笑ましく、見ていたら思わず頬が弛《ゆる》んだ。もともとアグネスはキュートだが、今日は内側から光を放っているかのように輝いて見えた。ラムジーは相変わらず幸せそうに笑っている。尻尾があったら振り回していそうだ。
音楽は陽気なマズルカからゆったりとしたリズムのストラスペイに移っている。フロアでは、男女が向かい合って踊り始めた。楽しそうに〈角足〉のジミイの相手をしているのはなんと面食《めんく》いだというアグネスの姉のキャシーだ。ラムジーの兄の〈六人の三つ子〉たち、ケリ、アンヌーンのアーロン、ボーギー、ブラウニー、ホブゴブリンも踊っている。口べたのギリーは飲み物のテーブルでヘイミッシュと何やら話し込んでいた。
畜生……みんな楽しそうじゃねえか……。
今夜この会場で一番不幸なのは自分に違いない……。
とぼとぼと飲み物のテーブルに戻ろうとしたとき、どん、と後ろから背中を叩かれた。
「よう、あんた! 楽しんでるか!」
アグネスの父、巨人族の血を引くアンガス・アームストロングだった。
「ああ……まあな……」
「あんだ? しけたツラしやがって! こっちに来てうちの娘と踊ったらどうだ!」
娘? ああ、そういえば三人姉妹だったっけな……。このあいだもちらりと顔を合わせた筈だが、大騒動の最中だったからあまり印象に残っていなかった。
アンガスは雷《かみなり》のような声で言った。
「こいつが、長女のマーガレットだ」
レノックスはぼんやりとしたままアンガスの後ろの女性に目をやった。
「レノックスだ。よろしく……」
豊かな亜麻色《あまいろ》の髪をした若い女性が俯き加減にレノックスを見上げている。途端に心臓は脈拍を速め、ドラムのように勢いよく全身に血液を送り始めた。
美人だ……。
マーガレット・アームストロングが蕩《とろ》けるように甘い声で囁く。
「今晩は、レノックスさん。踊って下さる?」
「あ、ああ、喜んで!」
マーガレットの手をとり、踊りの輪に加わった。音楽はちょうどスリップ・ジグと呼ばれる九拍子のジグだ。マーガレットが一、二、三、とステップを刻《きざ》む。一、二、三。一、二、三。一、二、三。彼女は体重がないかのように軽《かろ》やかに舞う。踵《かかと》に羽が生《は》えたような心持ちだ。
「レディ・マーガレット……」
「マギーとお呼びになって」
「マギー、良かったら今度ロンドンに遊びに来ないか? 皆、歓迎するぜ」
「まあ、すてき」
くるくると踊りの輪が廻《まわ》る。彼女はラノン人の形質が表に出ていない普通の人間だというが、そんなことはもう気にならなかった。レノックスはダンスが終わったら交際を申し込もう、と心に決めた。
やがてダンス曲の演奏が止《や》み、ドレス姿のイザベルがマイクに向かって歌い始めた。
あんたどこから来たのかい
ルララララ ミソサザイに訊《き》いてみろ
時の翼の石に乗り 七の七倍旅をして
星の光の輪のめぐる
あんたどこに行くんだい
ルララララ ミソサザイに訊いてみろ
森の緑の故郷さ 七の七倍旅をして
星の銀の輪のめぐる
あんた何が欲しいんだい
ルララララ ミソサザイに訊いてみろ
世界にあるもの全てさ 七の七倍旅をして
銀の光の輪のめぐる
あんた何て名なんだい
ルララララ ミソサザイに訊いてみろ
ワタリガラスがわたしの名さ 七の七倍旅をして
時の銀の輪のめぐる
あんた何を為《し》たんだい
ルララララ ミソサザイに訊いてみろ
わたしの故郷を造ったのさ 七の七倍旅をして
時の光の輪のめぐる
聴衆《ちょうしゅう》からコーラスが沸《わ》き起こった。
時の光の輪のめぐる
時の光の輪のめぐる!
リフレインのコーラスがケイリー会場に響き渡る。
繰り返しの多い四行詩の譚歌《たんか》は、ブルーマンのバラッドにも似ていた。
合唱自体は、決して澄んだ声でも見事な調和でもない。だが、ハイランドの自然のように味わいのある歌声は聴くほどに心に沁《し》みていくようだ。
ふと思った。
たぶん、こんな風に続いて来たのだろう。クリップフォードとラノンの歴史は。そしてこれからもまた続いていくのだ。特別でない日々のつらなりが営々《えいえい》と積み重なって歴史を作っていく。そしてラノンを誕《う》みだした時の環《わ》を回すのだ。
レノックスは、傍《かたわ》らのレディ・マーガレットにちらりと目をやった。彼女が交際の申し込みを承諾してくれるかどうかは、まったく未知数だ。だが、そんなことは本当は大した問題じゃないのだ。大切なのはこの時間なのだ。自分が今ここに存在しているってことなのだ。特別ではない一秒一秒が、本当は特別なんだってことなのだ。
たぶん、これが幸せって奴なんだろう、とレノックスは思った。
[#改ページ]
あとがき[#地から2字上げ] 縞田理理
こんにちは。縞田理理《しまだりり》です。この本は〈霧の日にはラノンが視《み》える〉シリーズの第4巻で、これが最終巻になります。このシリーズは二〇〇二年の夏から二〇〇五年の冬にかけて小説ウィングスに掲載され、文庫化にあたって各巻一話ずつの書き下ろしを加えたものです。
思えば四年前、〈ラノン〉の第一話を書き上げて投稿したときにはよもやここまで来ることが出来るとは想像もしていませんでした。支えて下さった方々のおかげです。担当様、編集部の皆様、いつも素晴らしいイラストを描いて下さったねぎしきょうこ先生、そして何より支持して下さった読者の皆様に、深く深く感謝いたします。ありがとうございました!
この物語は「もし現代社会にケルトの〈妖精《ようせい》〉が生きていたら彼らはどんな風に暮らしているだろうか」というちょっとしたアイディアから生まれました。そこからラムジーやジャックやレノックス達が生まれ、どんどん世界が広がっていったのです。
〈ラノン〉には私の好きなものがぎっしり詰まっています。
妖精。人狼《ウェアウルフ》。伝説。英国。スコットランド。巨石《きょせき》遺構《いこう》。ケルト。変身。魔法。バラッド。
〈ラノン〉は私の夢の玉手箱《たまてばこ》なのです。
特に〈星の銀輪めぐる夜に〉は連載の最終回だったので、思いっきり好きなことをさせてもらっちゃいました。大ストーンサークルはいつか絶対使いたいと思っていたのです。イギリスには結構な石器時代の遺跡がいっぱいあるのです。ストーンヘンジは何度行っても良いです。でも一番好きなストーンサークルはヘンジの北の方にあるアヴェバリイ村の巨大ストーンサークル。ここは柵《さく》がなくて、石にじかに触れるのです! いやあ、石って良いですよね〜。
4巻の読み切り『花の名は〈風〉』は大事件が収束《しゅうそく》したあとの後日談なのでキャラ達へのお疲れさまの気持ちで書いたものです。レノックスがメインの話ですが、キャラクターほぼ総出演。3巻読み切りに登場したアーニーとエマも顔を出しています。この話に出てくるアネモネの花はレノックスの言う通りギリシャ語の「風《アネモス》」から来ているのですが、調べてみたらいろいろな花言葉がありました。「あなたを愛します/期待/はかない恋/見放《みはな》される/恋の苦しみ」などなど。なんだか内容を暗示してますねー。それから、トマシーナとジャックが話している〈オーパーツ〉とは OUT OF PLACE ARTIFACTS の略で、その時代に存在し得ない遺物《いぶつ》のことです(存在し得ない、って考え方は現代人の傲慢《ごうまん》みたいで好きじゃないですが)。
シリーズを通して登場する〈低き道〉は〈|ロモンド湖《ロッホ・ロモンド》〉というスコットランドのバラッドに謡《うた》われているもの。歌の中で死《し》に逝《ゆ》く男が友人に自分は〈|低き道《ロー・ロード》〉で先に故郷に帰る、君は〈|高き道《ハイ・ロード》〉で後から来てくれ、と告げています。悲劇的な内容に反して曲想《きょくそう》は淡々として美しいのです。
ところで、このバラッドとは物語性の強い民謡の形式のことで、日本語では『譚歌《たんか》』『譚詩《たんし》』という字が当てられています。実を言うと、このバラッドというのがまた好きでして……。そういうわけで自作バラッドまで使ってしまいました……(やりすぎ・汗)。
〈ラノン〉シリーズのBGMはアルタン、カパケイリー、チーフスタンズ、ダーヴィッシユ、ボシー・バンド等のケルト系トラッド・バンドでした。『晴れた日は魔法|日和《びより》』『花の名は〈風〉』のケイリーのシーンで聞こえている音楽はその辺の感じです。興味がある方は聴いてみて下さい(ケルト音楽入門にオススメはカパケイリー、かな……)。
それでは、また。また次の本でお会い出来る日を楽しみにしています。
この本をお読みになったご意見やご感想などございましたら新書館ウィングス編集部気付でお送り下さると嬉《うれ》しいです。
二〇〇五年四月吉日
[#地から1字上げ] 縞田理理
ホームページ/よこしまです。 http://www.geocities.jp/ririshimada/
ブログ/縞田理理の〈とろいのです〉 http://blog4.fc2.com/ririshimada/
[#改ページ]
[#挿絵(img/Lunnainn4_335.jpg)入る]
[#改ページ]
底本:「霧の日にはラノンが視える4」新書館ウィングス文庫、新書館
2005(平成17)年5月25日初版発行
初出:
星の銀輪めぐる夜に 小説Wings’04年秋号(No.45)
花の名は〈風〉 書き下ろし
入力:
校正:
2009年12月24日作成