霧の日にはラノンが視える3
著者 縞田理理/挿絵 ねぎししょうこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)〈地獄穴《じごくあな》〉
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)   あとがき[#地から2字上げ] 縞田理理
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霧の日にはラノンが視える3  目次
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ミソサザイの歌
この街にて
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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ミソサザイの歌
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[#改ページ]
0――予兆
夕刻、雨に洗われたロンドンの空気は冴《さ》え冴《ざ》えと澄み渡っていた。雲の合間から上弦《じょうげん》の月が白い顔を覗かせる。
ジャックは黒く濡れたコンクリートの路面を自転車で滑走《かっそう》した。夜風が心地よかった。おそらく、正常な感覚の持ち主ならば寒いと感じるのだろう。だが、生まれつき『寒さ』という感覚が欠落しているジャックには雨上がりの北風は甘やかなだけだった。
冬至《とうじ》も過ぎた十二月の二十六日から年の初めの六日までの期間をこの世界では〈十二夜《じゅうにや》〉と呼ぶ。一年のうちで最も陽《ひ》の恵みが弱まる時期だ。だがそれに反比例してラノンから来た自分たちは気分が高揚し、感覚が鋭くなる。身に備わった魔力も増すようだ。
風を切ってヴィクトリア・コーチステーションの脇の坂を下る。ステーションの前の道をどこか見覚えのある女性が大きな鞄《かばん》を引きずるように歩いていた。鶴《つる》のように痩《や》せた手足、髪はきっちりとした二本のお下げ編み、伸ばした背筋はポプラの木のようだ。
誰だっただろうと一瞬考え、思い出した。行きつけの古書店の店員、ミス・キャメロンだ。
ジャックは月の光の滲《にじ》む路面を徐行し、自転車を寄せた。
「今晩は、ミス・キャメロン」
ミス・トマシーナ・キャメロンは大儀《たいぎ》そうに荷物を下に置き、ヒナギクのような睫毛《まつげ》をぱちぱちさせてジャックを見つめた。
「まあ。今晩は、ウィンタースさん……」
どちらまで、と言いかけ、路上の鞄に目をやる。車輪の付いていない旧式の旅行鞄はどう見ても細身の女性の手に余る代物《しろもの》だった。
「重そうだ。そこまで持とう」
「あ、いえ、そんな、悪いですわ……」
皆まで聞かず、鞄を手に歩き出す。
「悪いけど、自転車を押して貰《もら》えるかい?」
「あ……はい。本当に済みません……」
トマシーナ・キャメロンは繰り返し礼を言い、ステーションの入り口まで来ると、ここまでで大丈夫です、自分で持ちますと言い張った。
「本当に済みません、お客さんに……」
「いや。こちらこそいつも世話になっているから。どこか旅行に?」
「実は、クリップフォードのストーンサークルを見に行くんです。ちょうど遺跡関係のイベントがあるんですよ。何でも遺跡の一部が村に返還されるとかで……」
この人間の女性はよほど遺跡や不思議が好きらしい。思わず小さく微笑《ほほえ》むと、彼女は慌てたように付け加えた。
「あ、あの、改装工事で今週いっぱい店がお休みなので、それで……」
「そうか。楽しんで来るといい。あそこはとても良い所だよ。では、良い旅を」
「……本当にどうも有難《ありがと》うございました」
何度もお辞儀《じぎ》をしながら長距離バス乗り場に向かうトマシーナを見送る。遺跡を見に行くのがよほど嬉しいのだろう、彼女は幸せそうに顔を輝かせていた。
1――クリップフォードへ
トマシーナは長距離バスの座席に身を沈め、先刻《せんこく》の出会いについて想いを巡らした。
ジャック・ウィンタースは彼女が勤める古書店の常連客だった。歴史や神話、それに妖精伝説関係の本をよく買って行く。
あの人、わたしと本の好みが同じ――。
それだけで、火が灯《とも》ったように胸の奥が暖かくなる。
トマシーナ・キャメロンは本の虫だった。
小さな時分からそうだった。本なら何でも好きだった。活字が印刷してあるものなら辞典でも冷蔵庫のマニュアルでも読んだ。でも一番好きなのは神話や伝説、それに妖精の本だ。読んでいる間だけでも夢を見られるから。反対に言えば、夢を見ていられるのは本を読んでいるときだけ、ということになる。
本当は夢なんか見ていられる御身分じゃないのだ。父親は家に寄りつかず、給料は貰うはしから賭博《とばく》で擦《す》ってしまう。下の弟たちはまだ学校に行く歳だし、上の弟は学校は出たけれど定職がない。だから自分がしっかり働いて、少しでも多く家に仕送りしたかった。
それなのにロンドンに出て見つかった仕事は古書店の臨時雇いだけだった。本に囲まれた書店の仕事はトマシーナにとっては夢のような職場といえた。でも給料は安く、母親が自分に望む立派な勤め先というにはほど遠い。だから自分の都合を優先しているようで後ろめたいのだ。
――店がお休みなので、それで――
ウィンタースさんにわざわざあんなことを言う必要なんて無かったのに。みっともないわ。
よく知らない人に、まるで知人みたいに言い訳するなんて。
お馬鹿さんのトマシーナ。あの人はただのお客さんで、王子様じゃない。ただ荷物が重そうだったから、持ってくれただけ。
それでも、ちょっと気を許すと夢想してしまう。同じ本を読んで、感想を話し合えたら。遺跡や、神話や、妖精の話。彼は他にどんな本を読んでいるのかしら。どんな小説が好きかしら。贔屓《ひいき》の作家とかいるのかしら……。
ジャック・ウィンタースという青年にはどこか秘密めいた不思議な雰囲気があって、それがトマシーナの想像を刺激した。
彼が近寄り難《がた》く見えるのはきっとあの氷のように淡い色の瞳のせいだわ。それとも闇の色の髪のせい。森の谺《こだま》のように深い静かな声のせい。彼はどこの出身なのかしら。英国生まれではないような気がする。言葉には少し訛《なま》りがあって、巻き舌気味の重々しいイントネーションで話す。ロシアか東欧《とうおう》か、或《ある》いはどこかもっと遠い国から来たのかも――。
トマシーナは小さく溜め息をついた。
バカみたい。よく知りもしない男性のことをあれこれ勝手に想像するなんて。
ジャック・ウィンタースのことを頭から振り払い、これから向かう場所に意識を集中する。
念願だったクリップフォードのストーンサークルを見に行くのだ。ロンドンから日帰りで行けるストーンヘンジやアヴェバリイのストーンサークルには何度か行っているけれど、クリップフォードは初めてだった。あまり有名ではない遺跡だけれど、他に類を見ないユニークな様式のストーンサークルだという。それを見に行くと思うと胸が弾んだ。
トマシーナにとって巨石《きょせき》遺構《いこう》は特別な存在だった。もう妖精や魔法やアーサー王の魔法使いマーリンを信じる歳ではない。けれど巨石遺構は確かにこの地上に実在しているのだ。そして、どんな時でもトマシーナに太古の夢を見せてくれる。
勤め始めてから今まで一度もまとまった休みを取っていなかったのだし、たまには自分のために時間とお金を使っても罰《ばち》は当たらない筈《はず》だ。発掘品の返還という大イベントと店の休みが重なるなんて機会、そうそうあるわけじゃないんだから。
窓の外をハイウェイの白線が流れていく。
いずれにしろもうバスに乗ってしまったのだもの。お店が休みの間だけ、少しだけ夢を見て、そうしたらまた元の単調な生活に戻るんだわ……。
トマシーナは自分に言い聞かせるようにそう呟き、クリップフォード行きを決めた本当の理由がジャック・ウィンタースに薦《すす》められたからだということを意識の外に押し出した。
◆◆◆
レノックスは盟主《めいしゅ》の執務室のドアをノックした。
いつもと同じ穏やかな声が応《こた》える。
「お入りなさい。開いています」
ここ〈在外ラノン人同盟〉は全ての追放ラノン人――この世界の言い方をすれば〈妖精〉たち――を統括《とうかつ》する組織であり、その盟主であるランダル・エルガーは事実上そのトップに立つ人物だ。だが、本部の奥深くにあるこの執務室はまるで獄舎《ごくしゃ》のような質素さだった。盟主ランダルはこの独房《どくぼう》めいた執務室に身を置いて二十五年近くになるという。休暇は年に一日しかとらず、週のうち半分は隣の仮眠室に泊まる。
まったく、よくそんな生活に耐えられるもんだ、と思う。
この殺風景な執務室だって、明るい色の壁紙を貼るとか、絵を飾るとかすればちっとはましになるだろうに。だが、進言《しんげん》しても無駄なことは判《わか》っていた。ランダルは一見穏やかで人当たりが良いが、他人の意見で自《みずか》らの考えを変えることは決してないことをレノックスは彼の側《そば》にいた十年で学んでいた。
「年次総会の準備は順調ですか」
「問題ないです。ケータリングの手配も済んでます。会場は〈葬儀社〉の大斎場《だいさいじょう》で。出席予定者は三百人って所ですか」
「今は団結が必要なときです。一人でも多くに出席してもらうように」
「は……」
〈同盟〉の年次総会は毎年決まって年末年始の〈十二夜《じゅうにや》〉の期間中に開かれる。〈十二夜〉はこの世界が最も〈魔〉に近づく時期だという。レノックスは自分が魔性だとは思わないが、この時期には妙に気が浮き立つのは確かだ。
気分が昂《たか》ぶるのは他の〈同盟〉メンバーたちも同様で、〈十二夜〉の間はみな少し落ち着きがなく、少し抑《おさ》えが効かなくなり、荒っぽい種族は日頃抑えている本性をちらりと覗かせたりする。特に〈|祝福されざる宮廷《アンシーリー・コート》〉と呼ばれる一群の妖精たちが問題だった。
彼らはもともと国家や社会に属さず、群れを作らないため協調性がなく気性が荒い。人間の言う〈魔〉に最も近いのが彼ら〈アンシーリー・コート〉の妖精たちだろう。〈灰のルール〉による縛《しば》りが無ければ真っ先に殺し合いを始める連中である。〈十二夜〉の時期、アンシーリー・コートの妖精たちを大人しくさせておくのは一苦労だった。
だから総会をこの時期に行うのは豪華な宴会でガス抜きをするのと同時に組織のたがを締めるという意味もある。
総会では当代盟主の信任も問われるがこれは形式的なものに過ぎない。好き嫌いはあるが、実際問題としてランダルの代わりを務められる者など同盟のどこを捜してもいないからだ。
ランダルは手元の書類をめくり、何気ない調子で言った。
「それはそうと、ジャック・ウィンタース王子の加盟問題はどうなっていますか」
「いや、それが奴はまだ首を縦に振らないんで……」
ジャックは今|以《もっ》て〈同盟〉に入る事を潔《いさぎよ》しとしない。奴はその理由をはっきりとは言わないが、王位継承権争いを逃《のが》れてこの世界に来たジャックが同盟内のいざこざに巻き込まれることを嫌っていることは想像できる。要は潔癖なのだ。初めはとんでもない唐変木《とうへんぼく》と思ったが、最近はやはり青いのだと考えるようになった。これっぽっちも可愛げはないが、奴はあれでまだ二十になるかならずだ。
「しかし、前よりは軟化してますんで。俺を見ても厭《いや》な顔をしなくなってますし……。とにかく、俺が責任をもって加盟させます」
「そうして下さい。そうでないとお互いにとって不幸な結果を招くでしょうから」
「は……」
冷や汗が出てくる。同盟には自分らを追放したダナ王国の王族に恨みを抱く者もおり、ジャックが同盟に入れば某《なにがし》かの軋轢《あつれき》が起きるだろう。だが、このまま入らずにいても問題は起きる。そして恐らくその問題の方が大きい。王室を奉《ほう》じるダナ人の集団がジャックを担《かつ》いで同盟から離反《りはん》する可能性があるからだ。全メンバーの三割を占《し》めるダナ人が出て行ったら、同盟は事実上崩壊する。
事がこじれたとき、ランダルは本気でジャックを排除するだろうか。そのとき自分はどうしたらいいのか。同盟を裏切ることは出来ない。だが、ジャックも見捨てられない……。
汗をかきながらあれこれ思索するレノックスをランダルが見透かすような眼で見上げた。
「ところで、レノックス。この記事を読みましたか」
そう言って彼が手渡したのは、〈ウィークリー・グランピアン〉、スコットランドの地方紙というよりはミニコミ紙といった方がいいようなタブロイド紙だった。
記事のタイトルは『文化財、故郷に帰る』。
その記事の横の粗《あら》い二色刷りの写真にレノックスは釘付けになった。
磨《みが》かれたように滑《なめ》らかな表面に水紋《すいもん》を思わせる線刻《せんこく》が幾重《いくえ》にも刻まれた平石《ひらいし》。
〈顎門《あぎと》の滴《したた》り〉石だ。
「貴君《きくん》がクリップフォードで見たものと同じですか」
「この写真じゃ何とも……しかし、恐らく、九分《くぶ》九厘《くりん》……」
クリップフォードは五百年ほど前にラノンを追放された政治犯たちが大挙《たいきょ》して移り住んだハイランドの小村《しょうそん》だ。村には今もその子孫が暮らしている。その第一世代の追放者たちの墓を探しに行ったとき、墓のある〈林檎《りんご》の谷〉でこれと全く同じ文様《もんよう》を刻まれた石を見たのだ。地上と地底に一つずつ置かれた互いにそっくりな線刻石は〈顎門の滴り〉石と呼ばれ、墓荒らしから〈妖素〉を含んだ貴重な遺骨を守るための仕掛けの一部だった。
「読んで下さい」
「は……」
声に出して読み始める。
「……オックスフォードの博物館の倉庫に長年眠っていた来歴不明のこの石は本来あったと思われる場所に返還されることになった。ケルンゴーム山麓《さんろく》の村クリップフォードに極めて似た遺物があることが判ったためで……」
さっと新聞から目を上げた。
「盟主。こりゃあ、やっぱり……」
「続きを」
「この……この石にはいくつもの逸話《いつわ》があり、その一つは石に幽霊が憑《つ》いているというもので、博物館関係者ならば一度はその幽霊に遭《あ》っているという。一方で憑いているのは幽霊ではなく妖精だという説もある。いつのまにか向きが変わっていたり、ひとりでに梱包《こんぽう》が解けたりということが再三《さいさん》あったといい、守衛の一人は冗談交じりに『こんな気味の悪い石とはさっさと縁を切りたい』と……」
何度もつかえながらそこまで読んだレノックスは、冷やかな声に遮られた。
「クリップフォードの二つの石には、互いに〈共感〉が掛けられていたそうですね?」
「そうです。妖素に反応して近くにいる者を片っぽの石からもう片っぽの石へ飛ばすように設定されて……」
「では、この石と対《つい》となる石は?」
ハッとなった。〈顎門の滴り〉石が一つの場所から別の場所へ人を移動させるものなら、片割れの石がどこかになければおかしい。だが、クリップフォードで見た石は〈林檎の谷〉の二つだけだ。この石と対になる石は見ていない。
「仮定の話ですが、もしも、対となる石がラノンにあるとしたら?」
咄嗟《とっさ》には言葉が出てこない。もしこの石の片割れがラノンにあるとしたら――石を使って向こうに帰れるかも知れないのだ。
ラノン――。
女神が知ろしめす麗《うるわ》しき世界。そこでは至る所に妖素が溢《あふ》れ、空気は甘く、竜《ドラゴン》や一角獣《ユニコーン》が闊歩《かっぽ》し、人々の暮らしを魔法が支える。
ラノンに、還《かえ》る。それは全ての追放ラノン人の切なる願いだ。
レノックスは新聞記事に目を戻した。発行日は五日前の日付だ。石はもうクリップフォードに返されていることになる。
「すぐさまクリップフォードへ行って下さい。この第三の石の意味は何なのか、対の石はどこにあるのか、それを使うことは出来るのか。詳しく調べて下さい」
「は……。しかし、総会の方は……」
「トロロープにやらせればいいでしょう」
なるほど、と思った。トロロープはタルイス・テーグ族の若いチーフで、多少軽いところはあるが与えられた仕事はきちんとこなす男だ。そろそろ責任ある仕事を任せてもいいだろう。
「引き継ぎを済ませたらすぐ出発します」
ランダルは丁寧に新聞を折りたたみ、鍵のかかる引き出しに仕舞《しま》った。
「このことは他言無用ですよ。〈魔術者〉フィアカラのこともあります。くれぐれも慎重に」
「もちろん、解《わか》ってますって!」
そう答えながら、レノックスは浮き足立つような気持ちを抑えきれなかった。
ラノンに、還れるかも知れないのだ。
◆◆◆
男は湯気で曇《くも》った姿見《すがたみ》を掌《てのひら》で拭《ぬぐ》った。自慢の口髭《くちひげ》を専用の櫛《くし》と鋏《はさみ》で心ゆくまで整える。
まったく、我ながらいつ見ても惚《ほ》れ惚《ぼ》れするような好《い》い男だ。既に中年と呼ばれる年齢に差し掛かっているが、男の場合むしろ年輪は魅力に磨きをかけるから、若い頃より二割方男ぶりが上がったくらいのものだ。
〈魔術者〉フィアカラはもう一度鏡の中の自分を眺め、にんまりと笑った。
バスルームを出て裸足《はだし》のまま毛足の長い絨毯《じゅうたん》の上を歩くと、バスローブがひらりと宙を舞ってひとりでに身体に纏《まと》いつく。大事の前に〈妖素《ようそ》〉を節約するべきだという考えがちらりと頭を横切る。が、じき大量に手に入る予定だから構いはしない。
それにしても、この世界に〈妖素〉が存在しないというのは誤算だった。ダナ王国の宮廷付魔術者をしていた時に、ダナの王室が後生《ごしょう》大事に隠していた〈地獄穴〉の秘密を探り出したのだ。〈地獄穴〉の行き先は地獄に非《あら》ず、異世界であるという所までは判った。だが、その異世界がどんな所であるのかまでは判らなかった。まさか〈妖素〉がないとは。
用心深く左腕の切断面に触れる。腕は肩の少し下で細くすぼまり、その先で丸くなって突然に終わっていた。名医と名高い人間の外科医に執刀《しっとう》させただけあって傷跡は奇麗だ。
左手の傷口から広がった壊疽《えそ》が肘《ひじ》近くまで達していたから、いずれにしても腕は切らねばならなかった。何より、骨の中の〈妖素〉が必要だったのだ。
だから思いきり良く二の腕での切断に同意したのだが、あとになって〈妖素〉は他の連中から摂《と》れば良いということに気づいて猛烈に腹が立った。だから腹立ち紛《まぎ》れに最初に見つけたダナ人を文字通り『骨抜き』にしてやったのだ。あれは面白かった。水母《くらげ》みたいになってもまだヒイヒイ悲鳴を上げておったっけ。尤《もっと》も、殺すのにいちいち魔法を使っていたらそれだけ〈妖素〉が減るわけだから、そう遊んでもいられないのだが。次からは効率よくまとめて片づけんといかん。この世界では、何でも効率が大事だからな。
先日、狼の小僧に食い折られて破損した義手の代わりが届いているので早速装着してみる。悪くない。よく動く関節を持ち、残された部分にぴったり合わせて樹脂《じゅし》と金属とで形作られた義手はなかなか良く出来ているが、思い通りに動かすためには魔法の力を必要とした。つまり、この義手は〈妖素〉を喰うのだ。本末転倒な話ではある。
これもすべて忌々《いまいま》しいダナ王国の連中の所為《せい》なのだ。捕らえられ、思い出すのもおぞましい辱《はずかし》めを受け、呪わしい〈鉄牢《てつろう》〉に幽閉されたからなのだ。
〈鉄牢〉での一年は永遠にも等しい。
〈鉄牢〉は牢獄であると同時に墓場だ。中の囚人が死ねばそのまま〈鉄牢〉ごと地底深くに埋められ、その魂は輪廻《りんね》を阻《はば》まれ、永遠に其処《そこ》に囚《とら》われる。
〈鉄牢〉の内部には音も光も妖素もない。ただ濃密な闇があるのみだ。自分の声さえも壁に吸い込まれて消える。〈鉄〉という名に反して内壁の表面は柔らかく、拳《こぶし》で叩こうと頭を打ち付けようと何も感じない。〈妖素〉がないため鬼火《おにび》を灯《つ》けることも出来ない。伏せたドームのような半球形をしており、いくら壁伝いにぐるぐる歩いても終わりがなく、自分のいる場所の大きさを知ることも出来ない。多くの者はこの無音の闇の中ですみやかに正気を失うと言われる。
瘧《おこり》のように身体が激しく震え出した。記憶の底に押し込めた闇と静寂が折りあらば外に出ようと窺《うかが》うのだ。畜生《ちくしょう》め。くそったれの闇め。二度とこの私に触れさせるものか。食《く》い縛《しば》った歯の隙間《すきま》から獣《けもの》じみた唸《うな》り声が漏れる。
くそくそくそくそくそくそ……!
自分は、〈鉄牢〉を脱《ぬ》けたのだ。誰も為《な》しえなかった事を為し遂げたのだ。
そう考えると次第に震えが収まり、今度は引《ひ》き攣《つ》るような笑いの発作に囚われる。笑い声が広間の天井に谺《こだま》して幾重にも響く。
考えてみればこの世界に魔法を使う者がいないのはかえって好都合ではないか。〈妖素〉さえあれば好き放題が出来るのだ。ラノンを追放になった連中はもちろん多少は使うが、大した奴がいないことは調査済みだ。〈同盟〉の魔術者など、まったく程度が低く物の数にも入らない。魔女シールシャは別だが、〈風の魔女〉などと呼ばれようが所詮《しょせん》はたかが小娘だ。この私に盾突《たてつ》くなど、百年早い。
二十四時間|煌々《こうこう》とシャンデリアの明かりが輝く広間を横切り、良く冷えたモエ・エ・シャンドンをなみなみとグラスに注いだ。この泡の立つ白葡萄酒《しろぶどうしゅ》はラノンにはないこの世界ならではの逸品《いっぴん》だ。この世界にもいろいろと優《すぐ》れたものがある。金さえあれば、それらすべてが手に入るのだ。
この世界に落ちて数ヵ月の間に学んだことは、ここでは富が全てということだ。そして少し魔法を使えば富を手に入れるのは実に簡単だった。現在の住居であるこの古城も維持できなくなった貴族から買い上げたものだ。
一息に飲み干し、二杯目を注ぐ。壁一面にしつらえられたのはテレ・ヴィジョンという装置だ。水晶玉を覗くように過去や現在や遠く離れた場所で起きていることを見ることが出来る機械である。大いに気に入ったので受信機を数十台並べて取り付けてある。
スイッチを入れる。騒々《そうぞう》しい音楽と人声が広間に響き渡った。この賑《にぎ》やかさが堪《たま》らないのだ。テレ・ヴィジョンの中では脈絡《みゃくらく》もなく人が死に、飲み食いし、歌い、笑い、踊る。
一つの単語が、ぼんやりとテレ・ヴィジョンを眺めていたフィアカラの注意を惹《ひ》いた。
「『……風光明媚な観光地、ここクリップフォード村は連日の妖精騒動に揺れています……』」
クリップフォード。聞き覚えがある地名だ。手元のコントローラーですべての画面をそのケーブルテレビ局に切り替えた。画面でレポーターが興奮気味に喋《しゃべ》っている。
「『〈顎門の滴り〉石と呼ばれる線刻石がオックスフォードから返還されて以来、村では奇妙な現象が起きています。このトマシーナ・キャメロンさんはロンドンから観光旅行でクリップフォード村に来られ、超常現象を体験しました。トマシーナさん、どうぞ!』」
お下げ髪の貧相《ひんそう》な若い娘が大写しになる。娘は俯《うつむ》き加減でぼそぼそと喋り出した。
――ええと、わたし、よく解らないんです。急に周りの人がいなくなって、あたりの景色が変わって……建物が消えて、花が咲いてました。見たことがない花です。見る間にどんどん色が変わって……それに不思議な人たち。妖精みたいに見えました。いいえ、羽がある小さな人じゃありません。妖精って、そういうのじゃないんです。一般的な妖精は――
娘は妖精の定義について話し続けようとしていたが、レポーターはマイクを奪い返した。
「『はい、有難《ありがと》うございました。ロンドンのトマシーナ・キャメロンさんでした。次に村の郵便局長にお話を伺《うかが》います……』」
レポーターは何人かの村人のインタビューを取った。だが、実際のところ彼らは何も見ていなかった。彼らが見たのは、トマシーナという娘の姿が突然|掻《か》き消《け》すように消え、数分後同じ場所に現れたことだったのである。
「クリップフォードか……」
思い出した。この間、シールシャと巨人女アグネスとの会話を盗み聞きしたときに聴いた地名だ。
そういえば、巨人女は妖素入りの林檎を持っていたっけな……。
画面の端の痩《や》せた娘をもう一度眺める。
これは、面白くなりそうだ。
◆◆◆
トマシーナはバス停へと急いだ。もっと早く戻るつもりだったのに、超常現象騒ぎで帰りが一日遅くなってしまった。これだとロンドンに着いたらそのまま出勤になってしまう。けれどそんなことは少しも気にならなかった。あんなにも素敵な体験をしたのだから――。
トマシーナは小さく微笑《ほほえ》んだ。胸の底が暖かい。クリップフォードに行って本当に良かった。これから何があっても生きて行ける気がする。この数日の思い出があれば。
〈林檎の谷〉の遺跡は素晴らしかった。けれどその感動すら薄まってしまうほどの体験をしたのだ。
あれが何だったのか、はっきりとは分からない。
でも――と、トマシーナは考える。
あれはきっと〈妖精郷〉なのだ。|常若の国《チル・ナ・ノグ》、マム・メル、イ・ブラシール、その他さまざまな呼び方をされる妖精世界を垣間見《かいまみ》たのだ。
石が返還されてから他にも奇妙なことがいくつも起きて、テレビ局の取材も来た。みんな興味本位で、何を話してもネス湖の怪獣やミステリー・サークルと同じように本気で相手にはされないだろう。何かを見間違えたのだとか、幻覚を見たのだとか、或いは法螺吹《ほらふ》きだとか言われるだろう。
でも、構わない。幻だろうと、気のせいだろうと、確かに妖精たちは自分にその姿を見せてくれたのだもの。そのことだけで、明日からの単調な生活に立ち向かっていける。
「ミス・トマシーナ・キャメロン?」
ハッと振り返る。一瞬、ジャック・ウィンタースかと思ったのだ。だが、目の前に立っているのはあの冬の瞳をした青年とは似ても似つかない派手な中年の男性だった。
「え……ええ。そうですが」
「やはり貴女《あなた》ですな。実はテレ・ヴィジョンを拝見しましてね」
男は真っ白な歯を見せて笑った。口髭が燕《つばめ》の背のように青みを帯《お》びて輝き、二つの目は黒曜石《こくようせき》のように黒かった。
「貴女の目撃した超常現象についてお話し願いたいのですがね」
「でも……テレビでお話しした以上のことはありませんから」
オカルト・マニアだろうか? でも神秘主義者的なところは少しもなかった。オカルト・マニアの多くは全く身仕舞《みじま》いを気にしないか、あるいは修道僧のような黒に身を固める。いずれにしても質素だ。それに反してこの男からはお金の匂いがぷんぷんとしていた。身につけているものは全て一流品。だが、趣味の悪さの方も一流だった。毛皮の襟《えり》のついたカシミアのロングコートを肩にひっかけ、イタリア製のスーツに合わせた絹地のシャツは深紅《しんく》。ご丁寧にベストには刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》されている。
まるで孔雀《くじゃく》だわ、とトマシーナは思った。顔立ちもハンサムではあるけれど、何だかひどく胡散臭《うさんくさ》い。髪も肩まであって、ラテン・ダンスのダンサーみたいだった。すくなくとも英国人のセンスじゃないわ、と思った。外国|訛《なま》りがあるし……そこまで考えて、どうしてジャック・ウィンタースを思い出したのか気づいた。巻き舌の訛りが似ているのだ。
男は芝居がかった大仰《おおぎょう》な口調で言った。
「貴女は妖精を見たそうですな?」
「え……ええ。でもよく覚えていませんの。あの、急ぐのでもう失礼しますわ」
トマシーナは男に背を向けて速足で歩き出した。何か解らないけれど、厭だった。この男と関わってはいけない。
「貴女は嘘つきのようだ、ミス・キャメロン」
突然、黒い影が目の前に立《た》ち塞《ふさ》がり、トマシーナはひっと息を呑んだ。
「それに、どうやら物忘れもひどい」
男が、目の前に立っている。一瞬のうちに空気中に現れたとしか思えなかった。
悪魔……?
逃げなきゃ、と思った。なのに身体が竦《すく》んで動かない。
にやり、と男が笑う。
「どれ。私が治して進ぜよう」
コートが翼のように広がる。革手袋をした手がトマシーナの口を押し開かせ、むんずと舌を掴《つか》んで引きずり出した。悲鳴を上げようとしたが、泡が弾けるような水っぽい呻《うめ》き声が漏れただけだった。
「トマシーナ・キャメロン。この時を以て汝《なんじ》の口より出る言葉はすべて真実となろう=v
ジュッという音とともに舌から白い湯気が立ち昇る。真っ赤に灼《や》けた鉄を圧《お》しつけられるような痛みと、手袋の革の味。肉が焦げる臭いで息が詰まり、眦《まなじり》に涙が滲む。
「さあ、お嬢さん。見たことを洗《あら》いざらい喋ってもらおうかね」
男は笑っていた。その笑い声が、遠ざかり行く世界の最後の音だった。
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2――信じたい事と信じられない事
「盟主《めいしゅ》。そろそろ始まりますが……」
未決の書類に目を通していると、タルイス・テーグ族の若いチーフが呼びに来た。
「すぐ、行きます」
ランダルは手にした書類を『未決』の箱に放り込んで会場へと向かった。
〈葬儀社〉の大斎場《だいさいじょう》には〈同盟〉に所属する〈妖精〉たちが続々と集まりつつあった。
ダナ、タルイス・テーグ、プラント・アンヌーン、レッドキャップ、ホブゴブリン、ドワーフ、ピスギー、プーカ、ブラウニー……そしてその他|諸々《もろもろ》の少数種族たち。錚々《そうそう》たる顔触れである。人間を完全にオミットしたこの総会では異形《いぎょう》をもつ者たちも平然とその姿を晒《さら》していた。
小柄なプーカ族が背伸びして猪頭《いのししあたま》のスクウェア・フットに耳打ちしている。ダナとタルイス・テーグがグラスを手に談笑し、赤い帽子で正装したレッドキャップ族がずんぐりしたブラウニーの背中を叩いて大笑いしていた。
〈総会〉は今年で四十三回を数える。種族間の対立により開催が危ぶまれた年もあったし、〈葬儀社〉の経営|不振《ふしん》のため会の規模が縮小された年もあった。だが、とにかくも創設者から引き継いだこの〈同盟〉を崩壊させずにここまで来られたことは、女神に感謝しなければならない。過去に存在した同じような組織はすべて短期間で解散しているのだ。
ランダルは和《なご》やかな雰囲気に包まれた会場を見渡し、小さく微笑《ほほえ》んだ。多種多様の妖精たち。彼らすべてが同胞なのだ。
考えようによっては、これはひどく奇妙な会合だった。このような会はラノンではあり得ない。それぞれの種族は決して仲が良いとは言えないからだ。だが、島流しにされたこの世界ではラノン人同士手を携《たずさ》えて生きて行くしかなく、それは皆|心得《こころえ》て日頃はうまくやっているのだが、それでも種族の利害や面子《メンツ》が絡《から》むとどうしても小競《こぜ》り合《あ》いが起きてくる。だから会の運営には細心《さいしん》の注意が必要だった。酒と料理はいくらあっても多すぎるということはない。席次《せきじ》を決めると必ず揉事《もめごと》が起きるので、宴席《えんせき》は設《もう》けず立食形式だ。
「えー、皆さんご歓談のところ大変失礼いたします……」
レノックスに代わって急遽《きゅうきょ》進行役を任された若いタルイス・テーグ族がマイクに向かっておずおずと話しかける。
「ご静粛《せいしゅく》に願います。本日はお忙しいところおみ足をお運び頂き、誠に有難《ありがと》うございます。これより第四十三回在外ラノン人同盟年次総会を開催致します。まず在任二十五期の節目《ふしめ》を迎えられる盟主ランダル・エルガー氏による開会の辞《じ》を……」
開会の辞に続きこの一年に亡くなったメンバーへの追悼《ついとう》、新規に加わったメンバーの紹介、関連企業の業務実績の報告と式次第は順調に進み、残るはランダルの盟主再任への信任を問うのみになった。これが終われば後は無礼講の宴会となる。皆、それが楽しみで来ているようなもので、早くもそわそわと落ち着かなくなっていた。
「では、続きましてランダル・エルガー氏の盟主再任の信を問わせて頂きます。エルガー氏の再任を支持する方はどうぞ大きな拍手を……」
そのとき、会場の空気がゆらりと揺らいだ。空中に回転する黒い点がぽつんと現れる。
〈低き道〉が開く前触れだ。何者かが〈低き道〉の出口を開けようとしているのだ。
一人の男の顔が脳裏《のうり》をかすめ、冷たい手で撫《な》でられたように首筋がひやりとした。
まさか……。
ランダルは息を詰めて宙に浮かんだ煤《すす》のような黒点を注視した。
黒点は伸びたり縮んだりしながらぐんぐん大きく広がっていく。やがて、空間にぽっかりと開いた穴から一人の男が姿を現した。
カラーシャツに派手なタイ、刺繍《ししゅう》の施《ほどこ》された黒のジャケットといういでたちだ。
残念ながら、悪い予感は的中したのだ。
「皆さんお揃《そろ》いのようですな。乾杯には間に合ったかね?」
〈魔術者〉フィアカラは機嫌よく会場をぐるりと見渡し、それから初めて気づいたかのようにランダルに目を止めた。
「おや。ランダル殿。これは気づかなかった。何しろ貴公《きこう》は影が薄い」
「悪趣味なご登場ですね、魔術者フィアカラ」
「どういうわけか招待状が届かなかったものでね」
出席者たちは興味|津々《しんしん》の体《てい》でこの派手派手しい闖入者《ちんにゅうしゃ》を遠巻きに眺めている。彼らにとってフィアカラは総会に〈低き道〉で乗り込むという不作法を行った新参者《しんざんもの》に過ぎない。だがこの男は同盟メンバーを惨殺《ざんさつ》し、遺体の一部を箱詰めにして本部に送りつけるという暴挙を行ったのだ。遺体は想像を絶する状態だったため、〈葬儀社〉の火葬場で秘密裏《ひみつり》に荼毘《だび》に付《ふ》した。
ランダルはこみ上げるえずきを押し殺し、着飾った烏《からす》のような男を凝視した。
いったいどういうつもりなのだ……。
ジャック王子はフィアカラは既に正気ではない、と言った。だが、狂っているとしても狡猾《こうかつ》な狂人であることは間違いない。そしてその狂った心の求める何らかの欲求に従ってここに乗り込んで来たのだ。
「魔術者フィアカラ。御存じかと思いますが、貴方には仲間殺しの罪で死刑の裁定《さいてい》が下りています」
「おや、欠席裁判かね? いかにも偽善者の貴公らしいな。ランダル・エルガー殿」
「貴方が殺したことは明白です。犯行声明のカードは貴方のものだった」
妖精たちはフィアカラを遠巻きにし、葉擦《はず》れのようにひそひそと囁きを交わしていた。
「あいつ、何者だ?」
「知らないのか? 〈魔術者〉フィアカラ。何かと評判の悪い男だよ」
「ダナ王国で謀叛《むほん》を起こして失敗したんだろ?」
「ああ、知ってる。悪い奴だ」
フィアカラがぴくりと顎《あご》をあげた。
「今|喋《しゃべ》った者!」
会場がぴたりと静まり返る。
「黙っていても解《わか》るぞ。おまえだな」
突然、大きな手でつまみ上げられたように一人のプーカ族が宙に浮かび上がった。そのままふわふわと皆の頭上を運ばれる。
「ひええぇっ! お助けを……!」
「なに、ちょいと話がしたいだけだ。お前はなぜ私が悪い奴だと思ったのかね?」
フィアカラの目の前につり下げられたプーカは手足をじたばたさせてもがいた。
「別にオレの考えじゃないよ! 他のヤツからそういう話を聞いただけで……!」
「誰に聞いたのかね?」
「誰って……〈同盟〉の連絡網だよ!」
「結構。ご協力、感謝する」
ぱたり、と絨毯《じゅうたん》の上に転げ落ちたプーカが泣き声をあげながら仲間の方へ這って行く。フィアカラは得意満面に会場を見渡した。
「つまり、そういうことだよ。盟主殿は欠席裁判で勝手に有罪を決めたというわけだ。もちろん、ダナをひとり殺したことは否定しないがね。だが〈同盟〉の規約には正当防衛は罪に問わない、という一文があった筈《はず》だ」
ランダルは呆気《あっけ》にとられた。
よりによって正当防衛とは。よくも言ったものだ。生きている犠牲者の身体から一本ずつ骨を抜き、それで死んだのは相手の勝手とうそぶいたこの男が。
「話にもなりませんね。どうしたらあれを正当防衛などと言えるのですか」
「では、まずそちらが正当防衛でないと証明してみせたらどうなのだ?」
もちろん、そんなことは出来はしない。犠牲者は口を利《き》かない。真実を知るのは殺害者のみだ。
埒《らち》もない。この男とこれ以上話しても無意味だ。
答えはとっくに出ている。この男とは、いかなる取引もしない。してはならないのだ。
ランダルは手を上げて小さく合図した。後ろには最前より〈同盟〉の魔術者たちが控《ひか》えている。
「盟主殿、我らにお任せを」
フィアカラがせせら笑った。
「貴様ら、さっぱり顔を見ないと思ったら揃って地獄穴送りか。〈魔女・魔術者連盟〉の下《した》っ端《ぱ》でもこの世界ではお山の大将というわけだ」
「黙れ!」
ラノンで〈魔女・魔術者連盟〉に所属していた彼らはフィアカラの傍若無人《ぼうじゃくぶじん》さをよく知っている。四名の魔術者は声を揃えて唱和した。
「キアングリイィィム♂艪ヘ縛《しば》る!」
フィアカラの動きが止まった。
〈束縛《そくばく》〉の呪誦《ピショーグ》だ。寸分の狂いもなくびったりと合わせて唱和した場合、呪誦によって引き出される力は四倍ではなく四乗になる。いかに上級魔術者といえ、四乗の〈束縛〉に抗《こう》せる筈がない。
フィアカラは動かない。
やったのか……?
そう思った次の瞬間、フィアカラが堪《こら》え切れなくなったように吹き出した。
「いや、愉快だ! その程度の術でこの私を捕まえられると思ったかね?」
笑いながら両の手をパン、と打ち合わせる。
がっ、という鈍い音がした。
魔術者たちの身体がそれぞれ奇妙な格好で宙に浮いている。衣服の皺《しわ》が平らに均《なら》され、硝子《ガラス》板に押し付けられたようにべったりと顔がひしゃげる。肺から搾《しぼ》り出された空気がひーっ、とふいごのような音をたてた。
目に見えない二枚の壁が彼らを挟んで押し潰しているのだ。じりじりと熨《の》されながら手と足が虚《むな》しくもがく。
ひーっ……かっ……ぐぐ……。
静まり返った会場に、じりじりと潰されていく魔術者たちの苦悶《くもん》の呻《うめ》きが不気味に響く。みり、という音がした。挟まれた顔が異様に歪《ゆが》む。頭蓋骨《ずがいこつ》が軋《きし》む音が辺りに響き渡る。
ついさっきまで面白がって事の成り行きを見物していた妖精たちは色を失い、固唾《かたず》を飲んで見つめている。
みり。みり。みりみりみりみり……。
なんとかしなければ。このままでは彼らは確実に死ぬ。
ランダルはさっとフィアカラを振り返った。
「……よく解りました。これが貴方のやり方というわけですね、魔術者フィアカラ」
「人聞きが悪い。これこそ正当防衛だろうが。だが私は貴公と違って慈悲深い」
突然、支えを失ったように四人は床に転げ落ち、血反吐《ちへど》を吐き、激しく痙攣《けいれん》した。生きてはいる。だが、もはや彼らに闘《たたか》う力がないことは明白だった。
フィアカラは妖精たちを見渡した。
「諸君。盟主殿はこうやって邪魔な者には言いがかりをつけ、配下の魔術者を使って一方的に処刑するのだ。そして灰の半分は御自分のポケットに入る」
「それこそ言いがかりです。灰の半分は〈同盟〉のもので、私のものではない」
「同じことではないかね? 〈同盟〉の取り分は貴公が勝手に使っているそうじゃないか」
それまで凍りついていた人波が突然ざわりと揺れた。水面に小石を投げ入れたように、騒めきの輪は次第に大きく広がっていく。
「言われてみりゃ、そうだ」
「そうさな、半分ってのはちょいと多すぎやしないか?」
「オレたちにはほんのちょっぴりだぜ」
ランダルは胸騒ぎを覚えた。
灰の二分の一が同盟の管理下に置かれることは昔からの取り決めであり、皆知っている。が、日頃それを意識することはあまりないだろう。改めてそれを指摘されたことで、それまで漠然としていた不満が急速に形を取ろうとしているのだ。
〈同盟〉と〈葬儀社〉を運営し、維持し、同胞を守っていくためにはどうしても妖素が必要だった。だが、その遣《つか》い道を逐一説明することは難しい。だからそれは創設者の時代から今日までずっと非公開にされてきたのだ。
「勝手に遣っている訳ではありません。〈同盟〉全体のためにです」
「ほう。全体か。では訊くが、諸君らは〈全体〉として恩恵《おんけい》に与《あずか》っているかね?」
妖精たちは首を傾げた。
「なんかためになったか?」
「うんにゃ。分かんねえな……」
互いに顔を見合わせ、かぶりを振る。
拙《まず》い、と思った。根が単純な妖精たちはフィアカラのペースに乗せられかけている。
フィアカラが進行役のトロロープを振り返り、ニッと真っ白な歯を剥《む》き出《だ》した。
「そこの君、ちょっとそのマイクを貸してくれんかね?」
「は、はい、どうぞご自由に……」
「済まんな」
マイクをもぎ取り、指先でとんとんと軽く叩く。そしてフィアカラは爆弾を落とした。
「聞きたまえ、諸君。盟主殿は諸君らを欺《あざむ》いている。ラノンに還《かえ》ることは不可能だとな。だが、ラノンに還ることは可能なのだ」
束《つか》の間《ま》会場に沈黙が降り、次の瞬間には煮えくり返る豆の鍋みたいな騒ぎになった。
「ウソだ! ありえねえ!」
「そうだ。還る方法があるなら、とっくに誰かが実行している筈じゃないか!」
フィアカラがマイクの音量を上げた。
「静かに! 三月ほど前、このロンドンの夜空にラノンの幻を視《み》たものはおるだろう?」
「視たけどあれは次元を越えた蜃気楼《しんきろう》の一種で実体はなかったって、盟主が……」
「それが嘘だと言うのだ」
フィアカラは内ポケットから二つに折り畳んだ紙をすっと取りだした。
「これは諸君もよく知っているあの公園に生《は》えていた草だ。瞬《まばた》きしてよーく見たまえ」
前列のブラウニーがあっと叫んだ。
「青く光っている! 妖素……!?」
「その通り! あの夜、あの公園には〈妖素〉の雨が降ったのだ。蜃気楼が〈妖素〉を降らすかね?」
ブラウニーに草を手渡す。妖精たちはブラウニーの周囲に詰めかけた。
「本当だ! 葉脈《ようみゃく》に妖素が光ってる!」
「寄越《よこ》せ! 俺にも見せろ!」
枯れ草が手から手に渡る。
――妖素の雨が降った? そんなバカな。いや目の前にあるじゃないか。あの夜、通路は開いたのか? 俺も見たぜ、あれが蜃気楼だなんて全くおかしいと思ったんだ――
「静粛に! 還る方法はあるのだ。盟主殿は御存じだった筈だ。だろう?」
「答える必要はないと思いますが」
「聞いたか、諸君! これで明白だ。盟主殿は御存じだったのだ。それから今ここに居ないようだが、何とかいう名のブルーマン。奴も知っていたようだな」
待っていたように声が上がる。
「レノックスだ! ブルーマンで盟主の片腕だ!」
「畜生《ちくしょう》、ブルーマンの奴に騙《だま》された! 信用できる奴だと思ってたのに!」
「盟主殿、本当にラノンに還ることは出来るのか? だったら何故《なぜ》言わない?」
「そうだ! なぜ我らに隠していた?」
妖精たちは口々に叫びながら詰め寄ってくる。
何ということだろう……。
ランダルは居並ぶ妖精たちをぐるりと眺め渡した。
二十四年の昔、盟主に就任した時からこんな日が来ることを恐れていた。
三ヵ月前、ロンドンの上空に開きかけ、ジャック・ウィンタースが危うい所で閉じたあの巨大な〈穴〉の存在は盟主の座とともに〈同盟〉創設者である先代盟主から引き継いだ秘密だった。そしてその〈穴〉がラノンを崩壊させる道なのだということも。あの〈穴〉は一度開いたら容易に閉じる事は出来ず、底の抜けたバケツのようにこの世界に在《あ》るものをラノンへと流し込む。やがてこの世界はラノンに、ラノンはこの世界になるだろう。そうなっては、還る意味さえもない。
偉大な魔術者であった先代はすべてを知っていた。だが、会員たちには明かすことは出来ない。同胞たちはだいたいにおいて愛すべき存在ではあるが、あまり理性的な存在ではない。子供と同じで、道理を説いても無駄なのだ。ラノンを危険に晒すことになるから道を開くことは出来ないと説明したところで彼らは納得しないだろう。多くの者が、それでもなお帰還することを望むに違いないのだ。
ゆえに〈同盟〉盟主のすべきことは二つ。この世界の同胞を助けること。
そしてもう一つは、〈穴〉を開かせないこと。
つまり、彼らをラノンに還らせないことこそが盟主の真の役割なのだ。
今まで〈穴〉の存在に気づき、道を開こうとした者が皆無だった訳ではない。だが、彼らはランダル自身の手で排除された。
すべてはラノンのため――ラノンを守るためならばこの手を血で汚し、罪の上塗《うわぬ》りをすることも厭《いと》わなかった。
「では、答えましょう」
妖精たちの輪がじり、と狭《せば》まる。
異形のある者、ない者、変身する者、しない者。そのすべてが同胞なのだ。愛すべき同胞たち。真実を知ったとき、彼らは自分を殺すだろう。
ランダルは微笑み、乾いた唇をそっと湿《しめ》した。同胞たちが、自分の言葉を待っている。
「〈穴〉が存在したところで、開けることが出来ないのなら存在しないのと同じだからです。ならば知らない方が幸せでしょう」
彼らは呆気《あっけ》にとられた顔でランダルを見つめ、それから気を取り直したように口々に叫び出した。
「詭弁《きべん》だ!」
「オレたちをバカにしてんのか!?」
妖精たちの怒りの声が会場を埋め、またひいて行く、その絶妙のタイミングでフィアカラが口を開いた。
「ランダル殿。貴公はダナ王国の生まれだそうだが、生粋《きっすい》のダナ人ではないな。その金髪はダナにはあり得ないからな」
「わたしがダナとタルイス・テーグの血を引いていることは別に秘密でも何でもありません。二大勢力の融和《ゆうわ》を図《はか》るためにむしろ役立っていますよ」
「だがラノンに戻れば何の役にも立たない。つまり、こういうことだ……」
「つまり……?」
妖精たちは爛々《らんらん》と目を光らせ、今か今かとフィアカラの答えを待ち受けている。
ランダルは眉根を寄せた。
皆知っていることだ。今さらそんな周知の事実を持ち出して、いったい何を言おうというのだ……?
フィアカラが唇の端をねじまげてにやりと笑った。
「つまり、だ。ランダル殿はここでなら権力をほしいままに出来る。諸君、彼は権力の座にしがみつきたいがために諸君らをこの世界に引き留めた、ということだ」
ランダルは唖然とした。
「何を馬鹿なことを……」
馬鹿馬鹿しい。呆れて物も言えないとはこのことだ。
盟主を務めることと権力とは何の関わりもない別次元の事象だった。ランダルにとってそれは贖罪《しょくざい》だった。盟主職は自《みずか》らに科した懲役《ちょうえき》であり、執務室は独房《どくぼう》であり、日々の職務は罪の贖《あがな》いだった。
「お話にもなりませんね。権力など……」
会場は、不気味なほど静まり返っていた。
あたりを見回す。怨嗟《えんさ》と敵意に満ちた数百の眼が自分を見つめている。
自分が見ている物が信じられなかった。
まさか、会員たちがあんな与太話《よたばなし》を信じるとは。だが、絡みつくように向けられる敵意は見間違えようがなかった。
一人のタルイス・テーグが口火を切った。
「権力志向のダナ人め!」
ダナ人が怒鳴り返す。
「その金髪がダナなものか、そいつはタルイス・テーグだ!」
「何を言う! 我らタルイス・テーグに裏切り者などいない!」
ダナの代表が手を上げて言った。
「盟主殿! 我々ダナは盟主殿の明解な回答を要求する」
「我らブラウニー族も盟主殿の説明を求める」
「我々ホブゴブリン族もだ。回答を!」
「我々レッドキャップも……」
「我らドワーフも……」
違う、出鱈目《でたらめ》だ、と言おうとした。だが怒号《どごう》に掻き消されて届かない。
「冷静になって下さい、権力など何の意味もありません。私は常に平等を……」
「嘘をつけ!」
罵声《ばせい》とともにオードブルのクラッカーが飛んできて肩に当たった。それを皮切りに次々と物が投げつけられる。ランダルはたまらず腕で頭を庇《かば》った。一直線に飛んで来たグラスがその腕にがつんと大きな音を立ててぶつかる。もはや収拾がつかない。
フィアカラが笑っている。
はめられたのだ。
一瞬、視線が合った。闇色の眼に勝《か》ち誇《ほこ》った笑みが浮かんでいる。
「静粛に! さて、諸君らはランダル・エルガー氏への信任を問うところだったな。改めて諸君に問おう。エルガー氏の盟主再任に賛成の者は?」
瞬時にしてあたりは水を打ったように静まり返った。フィアカラがやれやれというように大袈裟《おおげさ》な仕草で両手を上げる。
「賛成はいないようだな。では諸君。誰を盟主に選ぶ? 最大勢力のダナのチーフか? それともタルイス・テーグのチーフか?」
毛むくじゃらのボーギーが怒鳴る。
「願い下げだ! そいつらは今までだって良い目を見てるじゃないか!」
「なるほど。さて、それではどうしたものか」
ぐるりと妖精たちを見回し、にんまりと笑う。
「ならば、こうするのはどうだ? 諸君らはこのフィアカラを盟主に迎えれば良い。規約によれば現盟主による任命、または会員の三分の二以上の賛同を得れば就任だった筈だ」
「な……」
なぜ気づかなかったのか……!
〈同盟〉を丸ごと乗っ取ること。それがフィアカラの目的だったのだ。
総会に乗り込み、妖精たちを扇動《せんどう》してランダルに対する反感を煽《あお》ったのはそのために周到《しゅうとう》に用意された計画だったのだ。
瞬間、我を忘れた。
そのまま掴みかかる。
「仲間殺しの貴方に同胞を導《みちび》く資格はない!」
「おっと。暴力はいかんな」
伸ばした右手が襟《えり》を掴む筈だった。だが、なぜか届かなかった。スローモーションフィルムの中に捕らえられたように速度が落ち、やがて完全に止まる。
〈束縛〉……!
動かない身体を動かそうとし、ランダルは微《かす》かな呻きを漏らした。
「まあ、おとなしく見ていてくれたまえ」
フィアカラがふふんと嗤《わら》った。耳元で囁き、ぱちんと額を弾く。痛みは感じる。だが、表情ひとつ変えられない。
「さて諸君。ランダルは〈灰〉の二分の一しか諸君らに分配しないが、私ならもっと多くを分配する。そして〈灰のルール〉だ。私が盟主に就任したら真っ先に破棄する。あんなものは必要ない。なぜなら諸君らはラノンに還るからだ。私は〈穴〉を開くことが出来る。私についてくる者は必ずラノンに還すことを約束するぞ」
妖精たちは顔を見合わせた。
「どうする……?」
「本当に還れるのか……? なら……」
「けど、あいつ人殺しなんだろ」
「それがどうした? 俺だって一人殺してる。ラノンに還れるなら、人殺しだろうと叛逆者《はんぎゃくしゃ》だろうと関係ないじゃないか」
「違いねえや」
盟主に就任して初めて、ランダルは絶望的な無力感を味わっていた。
〈魔女・魔術者連盟〉と縁のなかった一般のラノン人はフィアカラの悪評を間接的にしか知らない。ましてダナ王家に対する謀叛など、対岸の火事としか思えないだろう。罪人であることは問題にならない。会員たち自身も罪人だからだ。
だが、ここの者の多くは若さや愚かさから、或いはやむを得ない事情から罪を犯したに過ぎない。
フィアカラは違う。あの男は確信犯だ。また平気で同じ罪を犯すということなのだ。だからダナ王国の司法は彼を地獄穴送りにせず、〈鉄牢〉に繋《つな》いだのだ。
ランダルは唯一動かせる視線を動かし、妖精たちに必死に訴えかけた。
どうか気づいて欲しい、フィアカラは生きたまま還れるとは言っていないのだ……!
だが、誰一人ランダルに注意を払ってはいなかった。ラノンに還れる、ただその事に心を奪われている。
ぱん、と乾いた拍手がひとつ会場に響いた。
「俺はフィアカラの旦那《だんな》を支持するぞ! 何しろ、俺らをラノンに還してくれるんだ!」
〈アンシーリー・コート〉のデュアガーだった。レッドキャップがぱちぱちと手を叩く。
「我々レッドキャップもあんたを支持する。ラノンに還れるならな」
「我らもフィアカラ殿を支持するぞ!」
ホップが大きく手を打った。つられるようにぱらぱらとあちこちで上がり始めた拍手が、やがて割れんばかりに会場を埋め尽くす。
「新盟主、万歳!」
「フィアカラ殿とラノンに還ろう!」
フィアカラはマイクを手に上機嫌で万雷《ばんらい》の拍手に応えた。
「諸君。盛大なる拍手に感謝する。それでは、初仕事だ」
フィアカラが指をぱちんと一つ鳴らすと〈大斎場〉空中に羊皮紙《ようひし》の束が現れた。〈血の盟約書《めいやくしょ》〉だ。本人の血で捺印《なついん》されたこの盟約書がある限り、告発された者は逃《のが》れることが出来ない。この〈血の盟約書〉に記《しる》された〈灰のルール〉こそ〈同盟〉の根幹《こんかん》を成すものだ。
「これが諸君らを縛ってきた〈灰のルール〉の原本《げんぽん》だ。最早《もはや》こんなものは必要ない」
もう一度指を鳴らす。羊皮紙の束は宙に浮いたまま炎をあげて燃え出した。
「〈灰のルール〉は消滅した。ラノンに還るまで、諸君は好き勝手にやればいい」
熱狂が会場を支配している。
彫像《ちょうぞう》のように手を差し伸べたままランダルは妖精たちの歓呼《かんこ》の声を聴いた。
絶望の黒い焔《ほのお》が身体の奥底を灼く。
万事休《ばんじきゅう》す、か……。
恐れていたことが、最悪の形で現実になってしまったのだ。
◆◆◆
クリップフォード村はスコットランド北部、ハイランド地方のケルンゴーム山麓《さんろく》に位置する。ひどく不便な土地で、以前はほとんど訪れる者もない寒村《かんそん》だった。それが変わったのはここ二十年ほどのことだ。自動車道路が整備され、自然を求める観光客が訪れるようになったのだ。
農家はファームハウスとかB&Bと呼ばれる民宿を営《いとな》むようになり、それでちょっとした副収入を得ている。もちろん、湖水《こすい》地方のような有名観光地と比べれば足元にも及ばない。無名であるうえ、自然の他にこれといった売りがないからだ。
[#挿絵(img/Lunnainn3_051.jpg)入る]
「だから、うちの親爺《おやじ》ときたら舞い上がってるのよ。これで観光客が山のように押しかけてくる、って」
スコットランド松の大木の下でそう言ったのは、アグネス・アームストロングだ。淡いピンクの唇をつんと尖らせ、長く垂らした金髪の毛先を所在《しょざい》なげに弄《もてあそ》んでいる。
「なるほどな」
レノックスはにやりと笑った。六フィートを越す長身、豪気《ごうき》にして純情なこの少女にはラノンの〈巨人族〉の血が濃く顕《あらわ》れている。クリップフォードの〈先祖返り〉の一人だ。
「親爺はさ、人がいっぱい来たらショッピングセンターも出来るとか言ってんの。ホント、馬鹿なんだから。そんなのが出来たらウチの商売は上がったりじゃない」
アグネスの家は郵便局だが、同時に電球から食料品まで何でもありの雑貨店も営んでいる。クリップフォードには他にあまり店がないから、商売はほとんど寡占《かせん》状態だ。
「親爺さんにも考えがあるんだろうさ」
「さあね。こないだの妖精騒動でマスコミの人がたくさん来たから〈干し草亭〉は良い商売だったみたいだけど」
「おう。問題はその妖精騒動だ」
レノックスは身を乗り出した。第三の〈顎門《あぎと》の滴《したた》り〉石が返還されたあと、村では奇妙な事件が相次いだ。やれ、石が勝手に動いた、奇妙な音がした、光った、火の玉が飛んだ……だので、揚《あ》げ句《く》、妖精を見た、という人間まで現れたのである。
最初にその話を聞いたときには小躍《こおど》りした。盟主の推測通り、第三の〈顎門の滴り〉石がラノンに繋がっているに違いないと思ったのだ。だが、〈林檎《りんご》の谷〉の石が作動した時と同じ条件で〈妖素〉を振りかけてみたところ、第三の石は沈黙したままだったのである。そのときの失望ときたらロンドン上空に現れたラノンの鏡像《きょうぞう》が消えたときにも等しかった。過大な期待は禁物《きんもつ》と自戒《じかい》しながらも、還れるのではないかと心の何処《どこ》かで考えていたのだ。
「嬢ちゃんは、なんか心当たりはないのか」
「でも、あたしは何も視てないんだもん」
不満げにアグネスが言う。
レノックスも視ていない。にもかかわらず、セカンドサイトを持たない普通の人間が怪異を目撃している。石にはなんらかの魔法が掛けられており、それが怪異を引き起こしていることは確かなのだが、いったい何なのかが解らないのだ。
「クソっ、どういう時に現象が起きるのか、その法則が判ればな……」
クリップフォードへ来て二日、盟主に報告出来ることがほとんどない。やはりジャックを引っ張ってくれば良かったと思う。奴は人付き合いはてんで不器用だが、こういうことになるとやたらと頭が切れる。そもそも二つの〈顎門の滴り〉石のからくりに気づいたのもジャックだったのだ。おまけに妖精を見たというのはロンドンからの観光客で、入れ違いにロンドンに帰ってしまったという。全く間が悪い。
「畜生。いったんロンドンに戻るか……」
「そうすれば? マクドナルドさんちの宿帳《やどちょう》を見ればそのお客の住所は分かるわよ。〈妖精〉ならそれくらい出来るんでしょ?」
「まあな……」
アグネスはまだレノックスが〈妖精〉だということに納得がいかないらしい。アグネスの考える可愛らしい妖精と自分が属する〈ブルーマン〉という海の種族がかけ離れていることは認めざるを得ないが、ブルーマンだって立派に〈妖精〉の範疇《はんちゅう》に入るのだ。
そういえばさ、とアグネスが言った。
「親爺たちはこの妖精騒動をネタに本格的に観光開発しようとか盛り上がってるの。そのために大きい方のストーンサークルを復元しようって」
「大きい方のサークルってのは?」
以前に見たのは〈林檎の谷〉のストーンサークルだ。円と十字が交差して巨石が立ち並ぶ見事なサークルだった。そして〈顎門の滴り〉石はその中心に置かれていた。
「うん。〈林檎の谷〉のサークルはね、あれで小さい方なんだ。昔は村の外側をぐるっと一周する巨大なストーンサークルがあったんだって。随分《ずいぶん》昔に撤去《てっきょ》されちゃって、今ではいくつかしか石が残ってないけど、復元されればヨーロッパ最大のサークルになるって」
初耳だった。
村を取り囲むほどのストーンサークル。それはレノックスの想像力を超えていた。ラノンにだってない。〈林檎の谷〉のサークルは追放者の墓を守るための罠だったが、そんなでかいサークルは何のために作られたんだ?
「そいつを、復元するのか」
「そ。お金を出してくれる人を見つけたんだって。レミントン・コールっていうバカなお金持ち。ミスタ・コールはホントに凄《すご》い大金持ちで、自家用ジェットも持ってるし、お城を買い取ってそこに住んでるんだって」
レノックスは考え込んだ。やはり、この件は自分の手に余る。盟主の判断を仰《あお》ごうと思い、ここでは携帯が通じないのを思い出した。便利なようで、案外不便なもんだ。
「嬢ちゃんとこで固定電話を借りられるか?」
アグネスが悪戯《いたずら》っぽくウィンクした。
「長距離は高いわよ、お客さん」
◆◆◆
トマシーナは一人とぼとぼと道を歩いた。
古書店を馘《くび》になったのである。ぶつぶつと独り言が口から漏れる。
「『……でも仕方がないわ、だってウィーバーさんにあんなことを言ったんですもの、肥《こ》え太《ふと》った吝嗇漢《りんしょくかん》だなんて実際そうだとしても口にしちゃいけないことだわ、言うつもりはなかったのにでも止められなかったの、これからどうしたらいいの? 家にだって帰れない、だってわたしきっと母さんにひどいことを言ってしまうわ、いつまで夢にすがっているの父さんは帰ってきやしないのよ、あんなだらしのない賭博狂《とばくぐる》いのアル中が父だなんて恥ずかしくて友達にだって言えなかったのよ』……」
道行く人々が奇異の目でちらちらと自分を見ているのが分かる。おかしいと思われているのだろう。自分だってそう思うのだから。
バス停であの悪魔のような男に襲われて以来ずっと喋ることが止められないのだ。頭に思い浮かぶこと全てが言葉となって止めどなく口から流れ出てくる。
口髭の男は聞きたいことを聞き終えるとあっさりとトマシーナを放り出した。逃げだして、なんとかロンドンに戻って、それで古書店に出勤したけれどずっとこの調子だった。店主のウィーバーさんにはもう来なくていいと言われた。このままではもうどこも雇ってくれないだろう。
一体どうしたらいいのだろう? いっそテムズ河に飛び込んで……。
「『ああ、死んでしまいたい! 神様お助け下さい悪魔の業《わざ》からわたしをお守り下さいああ神様神様神様』……」
そのとき、聞き覚えのある特徴的なアクセントを持った声が彼女を呼び止めた。
「ミス・キャメロン? いったい……」
ジャック・ウィンタースだ。驚いた顔でこちらを見ている。途端にトマシーナの口は勝手に動いて喋り出した。
「『ジャック・ウィンタースさんだわ、書店のお客さんでわたしと本の好みが同じなの、彼は冬の瞳をして森の谺《こだま》の声で話すの、ウィンタースさんは素敵なひとだから奇麗な恋人がいてわたしになんかは目もくれないわ、いや、いや、いや! こんなことを言ってしまってわたし本当に死んでしまいたい……』」
トマシーナは身を翻《ひるがえ》してジャック・ウィンタースの前から逃げ去ろうとした。
「ミス・キャメロン!」
彼が追ってくる。数歩も行かないうちに腕を掴まれた。蒼白《あおじろ》い眼が間近で見つめる。
「ミス・キャメロン、舌を見せてくれないか」
「『何なの、この人わたしにどうしろと言うの舌を見てどうするの何が判るの……』」
「いいから口を開けて!」
予想外に強い口調に縮《ちぢ》み上がり、おずおずと舌を出す。
彼は難しい顔でトマシーナの舌を眺め、それから溜め息をついて難病を告知する医者のように言った。
「〈真実の舌〉だ……。ミス・キャメロン、誰にされた? 誰が君にこんなことを?」
「『トマシーナと呼んで、わたしの名前はトマシーナ・キャメロンよ、黒い髪と口髭《くちひげ》のハンサムな悪魔がわたしに呪いをかけたのとても恐ろしかったの、真実の舌って何なのこの人なぜ知っているの……』」
「くそっ。フィアカラか……。それじゃ僕には歯が立たない」
「『この人に悪態《あくたい》は似合わないわ、ウィンタースさんは思慮深くて気高《けだか》い人だもの』……」
「ありがとう、トマシーナ。だけど、君をこのままにしてはおけない。何とかしてみよう」
そう言うと、彼はポケットナイフを取り出して自分の手の甲をすっと切り裂いた。
「『ああ、血が! 痛そうだわ古い傷がたくさんあるわこの人の手は傷だらけだわ、とても痛々しいわ……』」
彼は喋り続けるトマシーナを無視して傷ついた手を宙に掲《かか》げた。
「ファンサヴァウゥハッ$テまれ!」
何も起きない。彼は短く息を吸い込み、再び舌を噛《か》みそうな言葉を唸《うな》るように唱《とな》えた。
「ファンサヴァウゥハッ!$テまるんだ!」
「『この人何をしているの何かの魔法の呪文なのうまくいかないの何をし……』」
そこで唐突に声が途切れた。
止まった。言葉の洪水が止まったのだ。彼が止めてくれたのだ!
嬉しさのあまり踊り出したい気分で彼に礼を言おうとした。が、どうしたことか言葉は喉に引っ掛かって止まった。咳払《せきばら》いをしてもう一度言おうとする。やはり駄目だ。声が出ないのだ。洪水は治まったけれど、今度は一滴も流れないのだ。トマシーナは口をぱくぱくさせて喉を指さした。声が、出ない。
「済まない。僕に出来るのはこれだけなんだ。不満なら、元に戻すことは出来る」
元に戻す? またあの状態になるということ?
慌てて首を横に振った。それなら死んだ方がましだ。
「分かった。戻すのは厭なんだね。何とか方策を考えるから、僕と来てくれないか」
トマシーナはただ呆然と彼を見つめた。
この人は、いったい何者なのだろう……。
言葉の洪水を止めた、ということは彼は魔法を使ったということ……?
不意に恐ろしくなった。そういえば彼の発音の訛《なま》りはあの口髭の男と似ている。この人もあの男の仲間なのだろうか……?
咄嗟《とっさ》に胸元に手を伸ばし、首から下げている小さな銀の十字架を引っ張り出す。
(あなたは、悪魔の仲間なの!?)
トマシーナはジャック・ウィンタースの目の前に十字架を掲げた。彼は蒼白い眼で哀しそうにただ十字架を見つめた。畏《おそ》れる風ではなかった。
「確かに僕は君達と同じ人間ではないよ。でも君達の信仰を畏れる謂《いわ》れはない。君を傷つけるつもりもない。助けたいんだよ」
冬の瞳が寂しげに笑った。
(あ……)
自分は、なんという事をしたのだろう。
彼は助けてくれたのに、悪魔の仲間と疑うなんて。恥ずかしかった。ごめんなさいと言いたかった。だけど声が出せない。だからただ大きく頷いた。
彼を信じよう、と思った。信じたかった。
トマシーナはジャックについて空《あ》きビルの階段を降りた。うら寂しい南ロンドンの裏通りの、何年もうち捨てられていたような建物だ。地階の廊下は行き止まりになっている。
「ここだよ」
彼の手が何かを掴もうとするように壁面《へきめん》を泳ぐ。がちゃり、と音がした。トマシーナは声にならない叫びをあげた。何もない灰色の壁だった場所に、突然ドアが現れたのだ。
こんな場面の出てくる妖精物語を読んだことがある……。
それは、〈妖精の惑《まど》わし〉と呼ばれていた。
この見えないドアの向こうには、クリップフォードで見たような世界があるのだろうか。でも伝説によれば異世界では時間の流れが違っていて、向こうに行った人間がしばらくして戻ってくると数十年、或いは数百年が経っているという。
彼が促《うなが》した。
「入って。大丈夫、戻ったら百年後なんていうことはないから」
彼の顔を見た。小さく頷き返す。
信じると決めたんだから……。
トマシーナは見えない戸口をえいとばかりにくぐった。
ゆらゆらと裸電球が揺れた。
そこは配管が剥《む》き出《だ》しの地下室だった。テーブルの上にはテスコ・スーパーのレジ袋、ソファに散らかった衣類、そして部屋のあちこちに積み上げられた本、本、本。ちょっと本が多すぎるけれど、それを除けば普通の一人暮らしの男性の部屋という感じだった。
他のどんな光景が広がっていてもこれほどは驚かなかったに違いない。彼は自らを人間でないと言い、実際に魔法を使うのだ。だから見えない扉の向こうは異世界とか、そうでなくてもそれなりの場所だとばかり思ったのに、まるで弟の部屋みたいなのだ。
「悪いけどミルクは切らしているんだ」
そう言ってマグで出されたお茶にトマシーナはますます面食《めんく》らった。黄色い紙箱から取り出されたティーバッグは、どう見ても自分が買っているのと同じ特価品だ。
「こんな場所でがっかりした?」
慌てて首を横に振る。いいえ、いいえ、ただ驚いただけよ。
彼が笑った。
「実を言うと不法占拠《スクウォッティング》なんだ。さて、君に起こったことを説明しよう。君は〈真実の舌〉という魔法をかけられている。かけた奴は力ある魔術者で、僕の力で解くのは無理だった。だから応急処置として上から更に〈沈黙〉をかけたんだ。ここまでは解るかい?」
トマシーナを瞼《まぶた》をぱちぱちさせた。いきなりそんなことを言われても理解できない。理解できないというより、不法占拠とか特売の紅茶とか散らかった部屋とかがあまりに現実的すぎて、魔法や魔術者という単語と結びつかないのだ。
「解らないか……。じゃあ、こう言ったら解るかな。僕らは君達の言う〈妖精〉なんだよ」
◆◆◆
フィアカラは執務室の椅子に深々とそっくり返って座ってデスクに足を乗せた。
辛気臭《しんきくさ》い部屋だ。おまけに椅子も机も安物ときている。
ノックの音がした。一礼して入ってきたのは小柄でずんぐりとしたデュアガー族だった。
「言われた通り片づけやした」
「ご苦労」
フィアカラはにやりと笑った。
「前盟主殿には、失礼のないようにな」
「そりゃあもう。当社管理下の快適な納骨堂《のうこつどう》に蟄居《ちっきょ》頂きましたんで」
デュアガーは茶色い歯を剥き出して嗤った。
「実にじめじめした、何とも言えない臭いのする所でしてね。蛆《うじ》やら埋葬虫《しでむし》やら蚯蚓《みみず》やら百足《むかで》やら、ふさわしいお友達には事欠きませんぜ」
「大変よろしい」
このデュアガーは〈|祝福されざる宮廷《アンシーリー・コート》〉の妖精だ。
今まで彼らは同盟内ではひとまとめに〈その他少数種族〉の扱いにされてきた。そのため〈同盟〉に不満を持ち、特にブルーマンのレノックス・ファークハーが〈その他少数種族〉のチーフとして権勢を振るうのを面白くなく思っていたのだ。彼ら〈アンシーリー・コート〉の妖精たちを唆《そそのか》して〈同盟〉を裏切らせるのは実に容易《たやす》いことだった。
「ランダル殿には水も食事もお出ししなくていい。それでもしばらくは生きているだろう。こっちが知りたいことを聞き出すくらいの間はな」
デュアガーには黒水晶《モリオン》を渡して幽閉《ゆうへい》場所には〈障壁《しょうへき》〉を掛けさせてある。外部の者が救出しようとしたところで〈障壁〉を越えて〈低き道〉を開くことは不可能だ。
全く、ランダル・エルガーという男はもう少し賢いと思っていた。あの愚かさには飢《う》えと渇《かわ》きによる緩慢《かんまん》な死が似合いだ。それだとて〈鉄牢〉で永《なが》らえる一年に比べれば短いものだが。
「他の者達はどうしている?」
「ラノンに還れるってんで、飲めや歌えの大騒ぎで。御目出度《おめでた》いこった」
「楽しませておけ。じき骨になる運命だ。ラノンという餌《えさ》をチラつかせれば連中は喜んで墓穴《はかあな》に飛び込んでくれるだろうよ」
全く馬鹿な連中でさ、とデュアガーが嘲笑《あざわら》う。貴様もな、とフィアカラは腹の中で呟いた。役に立つうちは生かしておいてやるが。
「連中をクリップフォードへお連れする前に邪魔しそうな者は始末しておけ。骨は駄賃《だちん》だ。くれてやる。それともう一仕事だ。〈フローリスト〉で人狼《ウェアウルフ》のチビが働いている。行ってそいつを生《い》け捕《ど》りにして来い」
デュアガーはへえ、と渋い返事をした。どうやら人狼が相手では自信がないと見える。
「なに、人狼と言っても半妖精の弱っちいやつだ。何人か〈アンシーリー・コート〉の連中を連れていけばいい」
そうしやす、と言ってデュアガーは出て行った。うまくすればチビ狼はジャック王子に対するカードとして使えるだろう。王子はあのチビ狼をえらく可愛がっているようだからな。
フィアカラは椅子の上で長々と伸びをした。我知らず忍び笑いが漏れる。〈同盟〉は手中に収めた。次はジャック王子だ。まさかこの世界で王子を見つけられるとは思わなかった。これも女神様の第三の顔のお導きに違いない。
悦《えつ》に人《い》って一人にやにやと笑っていたフィアカラはびくっと身を縮めて飛び上がった。
カタ、と何かが落ちるような音がしたのだ。
慌ててあたりを見回す。だが別段、何も落ちていない。
畜生、またも糞《くそ》忌々《いまいま》しい幻聴か……。
〈鉄牢〉に幽閉された悪夢の一年以来、幻聴に悩まされ続けている。現実に目にし耳にすることと、そうでないことの区別がなかなかつかないのだ。尤《もっと》も、〈鉄牢〉を脱出することを可能にしたのはこの幻聴だった。もしも正気であったならあの声には決して従わなかっただろう。だが、あの時は頭の中で命令する声に従うくらいにおかしくなっていた。声に従い、その結果、自分は今まで何人《なんぴと》にも脱出不可能であった牢を脱《ぬ》けることが出来たのだ。
「さ……出掛けるとするか」
声に出してぽつりと呟いてみる。こんな辛気臭い部屋に長居は無用だ。
右手を上げて宙に円を描く。たちまち渦を巻いて現れた黒い穴にフィアカラはよっこらしょと足を踏み入れた。
◆◆◆
ジャックは物言わぬ女性を前に辛抱《しんぼう》強く繰り返した。
「僕らはラノン人だ。ラノン人は、君達の伝説に出てくる〈妖精〉に極めて近いんだ。全く同じという訳ではない。でも僕らが自身を呼ぶときの種族名と、君達の伝説の中の妖精の名はほとんど合致《がっち》する。特徴もだ。君は神話や伝説に詳しかったね。僕は|ダナ人《ダナ・オ・シー》と呼ばれる種族だ。この世界のディーネ・シーと同じだと思う。ディーネ・シーは最も一般的とされる妖精だね。ダナもラノンで一番数が多い種族だ。姿形は君達人間と全く同じで、髪と眼は黒い。僕のこの眼は種族的なものじゃなくて、僕の家系だけの色変わりだ。他に身体の一部に動物の部分を持つ種族や、変身する種族がいる。姿はさまざまだが、僕らは皆同じラノン人なんだ」
言葉を切り、トマシーナの反応を見た。
彼女は青い目を真ん丸に見開いたままジャックを見つめている。
どこまで理解してくれたのだろうか。それが判らないのでどうも話がしづらいのだ。彼女が妖精伝説をどれくらい知っているのかも判らない。だが、恐らくはかなり詳しいと思う。ジャックが伝説について調べるために買った本の大半は彼女に教えてもらったものだ。だからたぶん、理解している。そう考えてジャックは話の続きを始めた。
「僕らは、ラノンを追放された者だ。もう向こうには戻れない。だからこの世界でひっそりと生きている。こちらの人間との摩擦《まさつ》は出来るだけ避けることになっているんだが、中には無視する者もいる。君に〈真実の舌〉をかけた男はフィアカラと言う。あの男はいろんな意味で破格なんだ。あの男は追放者でもない。逃亡者だ。あの男は何十何百という種類の魔法を自在に使える。そういう者を僕らは特別に〈魔術者〉と呼んでいる。僕は魔術者ではないから〈真実の舌〉を解く事は出来ないが、他にも追放になった魔術者は何人かいた筈だ。僕は彼らを捜して術を解いてくれるよう頼むつもりだ」
彼女が不安げに眉を曇らせ、ジャックは言い方が拙《まず》かったことに気づいた。
「ああ、心配しなくていい。別に世界の果てまで捜しに行く訳じゃないんだ。魔術者はこのロンドンにいるんだよ。心当たりがあるから、そんなに時間はかからないと思う」
安心させようと微笑んでみた。だが、それが成功だったかどうかはよく分からなかった。女性に向かってこんな風に笑うこと自体が不慣れだし、自分の蒼白い〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉が見る者をぞっとさせることは経験から知っている。
ジャックは改めてトマシーナ・キャメロンという人間を眺めた。痩《や》せて手足が長く、長い髪をお下げに編んでいる。本を探すときは眼鏡をかけ、瞳はソーダ水の青、それを縁取《ふちど》る睫毛《まつげ》はヒナギクの花びらのように長い。神話や伝説関係の書籍に詳しく、遺跡好きだ。
それがトマシーナについて知っていることのほとんど全てだった。
なぜフィアカラは彼女に〈真実の舌〉をかけたのだろう。あの男のことだから気紛《きまぐ》れということも考えられるが、トマシーナはジャックがしばしば訪れる書店で働いていた。そのことが理由だとしたら彼女が奇禍《きか》に遭《あ》ったのは自分のせいなのだ。
〈真実の舌〉は心に浮かぶことすべてを話させる術だ。人が心の奥底にしまっておきたい記憶も、何気なく心に浮かんでは消える泡のような思考も、何一つ選ぶところなく言葉に変えてしまう。あんな状態は、知的で聡明な彼女には堪《た》え難《がた》いことだろう。
ジャックは自転車便の会社から支給されている携帯電話を取り出し、レノックスの番号にかけた。
「レノックスか? 僕だ。ああ。詳しいことは分からないが人間の女性で、フィアカラの犠牲者だ……」
レノックスは運転中だった。彼の話では同盟にはいま四名の魔術者がいるが、いずれも上級者ではないということだった。それでも、自分が解くよりは可能性がある。
『分かった。同盟に戻る前に会おう。俺は環状線に入るとこだから、三十分後だな』
「恩に着るよ」
『なら、さっさと同盟に入りやがれ』
「それとこれとは別だ。三十分後に」
会えばまた言うのだろうなと思いながら待ち合わせの場所を決め、通話を切った。
彼には悪いがやはり同盟に入る気にはなれなかった。おそらく一人でいることの心地よさに慣れてしまったからだろう。
この世界に来て初めて自分は自由になった。
王族という軛《くびき》から逃れたのだ。ここにいる限り、生まれにつきまとう煩《わずら》わしさと無縁でいられる。〈仲間〉は必要ない。今の自分には友と呼べる者たちがいるのだから。ダナの宮廷にはいなかった本当の友人が。
ふと、魔女シールシャからの伝言が思い出された。
(おまえは本当にそれでいいの?)
魔女シールシャはこの世界に来てアグネスという良き友を見つけた。おそらく、彼女もラノンでは孤独だったのだろう。その彼女の言葉は自分にはことさら重く響く。だが、同盟に入ることが解決にならないことは解っていた。同盟に係わればまた別のややこしい問題が起きてくる。同盟に入ることで起きるだろうと予想される様々なごたごたや、種族間のバランス工作や面子を賭けた駆け引きに利用されるのは御免《ごめん》だった。
「トマシーナ、僕はこれから魔術者を知っている男に会いに行く。君はここで待っていてくれないか。そこの箱に入っているものは適当に食べていいし、本も好きに読んでいていい。ああ、君は読んだものばかりかも知れないが。電気|湯沸《ゆわ》かしの使い方は分かるね?」
トマシーナは何事か訴えるようにジャックを見上げている。
「不安なのは解るよ。大丈夫、きっと〈真実の舌〉を解くことができる魔術者を探してくるから、心配しないで待っていて欲しい」
物言いたげなトマシーナを残し、ジャックは〈惑わし〉のドアを抜けて約束の場所へと向かった。
3――〈同盟〉最後の日
レノックスはちらりと時計を見た。午後四時。ジャックとの約束の時間までまだ二十五分ある。念のため盟主《めいしゅ》の携帯に連絡を入れたが、電話に出たのは自動応答サービスだった。まだ〈総会〉が終わらないらしい。
愛車のジャガーを転がしながら最前のジャックからの電話の内容を反芻《はんすう》する。フィアカラに〈真実の舌〉をかけられた人間の女を保護しているという。
どうするか。こいつは少々|厄介《やっかい》だ。
問題を複雑にしているのは女が〈人間〉だということだ。たとえ同盟の魔術者が術を解くことが出来たとしても、秘密を知った人間をそのまま放免するわけにはいかない。ジャックは怒るだろうが、女の記憶を消すか――。
車はロンドンに入り、黒ずんだ空《あ》き商店のシャッターが続く通りを走った。治安の良くない地域だが、その分渋滞知らずの抜け道なのでついこの道を使ってしまう。滑《なめ》らかなステアリングで路地の角を回る。と、狭い道路を塞《ふさ》ぐように立ちはだかる二つの人影が見えた。
なんだ、強盗か? 面倒だな……。
一瞬、このままバックギアに入れて逃げ出そうかと考えたが、見ればなんのことはない、同盟メンバーのスルーア族とライネック族だった。〈アンシーリー・コート〉の彼らは少々荒っぽく厄介な連中で〈同盟〉の中でも浮いた存在だ。だが今は二人とも〈その他少数種族〉のメンバーとして大人しくしており、レノックスとはもちろん顔見知りだった。
ボタンを押して窓を開ける。
「おう。おまえらどうした? 〈総会〉は?」
「……レノさんよ。あんた、知ってたんだってな」
幽霊のように陰気なスルーアが言った。
「ああ? 何の話だ」
「ラノンに還《かえ》れる、ってことだよ」
言うなり、後ろ手に持っていた鉄パイプでフロントグラスをぶっ叩いた。強化|硝子《ガラス》に蜘蛛《くも》の巣のようなヒビが走る。
「うわああっ、俺のジャガーに何しやがる!」
「なにがジャガーだ! てめえばっかりいい目をみやがって! ランダルの腰巾着《こしぎんちゃく》め!」
レノックスは運転席を飛び出し、スルーアから鉄パイプを毟《むし》り取《と》った。が、今度はライネックが隠し持っていた鉄パイプを揮《ふる》った。
ガッ! ガッ! ガッ!
フロントグラスが玉砂利《たまじゃり》のように砕けてフレームから崩れ落ちる。スルーアが一つまみの妖素《ようそ》の灰に息を吹きかけながら唱《とな》えた。
「ブリスィィイム♂艪ヘ破壊する!」
めき、と車体が歪《ゆが》む。めき、めき……。
ジャガーのドアがガタンと外れ、車体が巨大な足に踏みつけられたかのようにぺしゃんこに潰れていく。レノックスは目を剥《む》き、屑鉄《くずてつ》になっていく愛車を呆然と眺めた。
「ちっくしょう……てめえら、何やってんのか解《わか》ってんのか!」
「よーく解ってるさ、レノの旦那《だんな》」
ぎょろりとした大目玉のライネックが言った。
「俺達はこれからあんたをぶっ殺して、骨を粉に挽《ひ》いて〈妖素〉を取るのさ」
「何を世迷《よま》い言《ごと》を言ってやがる! 〈灰のルール〉を忘れたか!」
「んなもんは、もう存在しねえ。フィアカラ様が破棄したからな」
「何だと……」
一体何を言っているのだ、と思った。〈血の盟約《めいやく》〉を破棄できるのは同盟員の三分の二以上によって信任された盟主だけだ。
「ランダルは失脚したんだよ。これからはフィアカラ様が盟主だ。フィアカラ様はわしらをラノンに連れていって下さる」
スルーアはひひ、と笑った。
「あんただってもう〈その他少数種族〉のチーフじゃない。デュアガーがチーフだ。あんたはランダルとグルになって俺達を騙《だま》してたんだ。あの夜、皆が視《み》たラノンの幻は本物だったんだってなあ」
レノックスは言葉に詰まった。確かに知っていたのだ。三月ほど前、ロンドンの上空に巨大な〈穴〉が開きかけた。大量の妖素と高度な魔法技術があれば埋もれている〈穴〉を呼び出し、開くことが出来る。だが、それはラノンを破滅に導く道なのだ。
「秘密にしてたのは訳あってのことだ、あの穴は使っちゃならねえんだ!」
「そんな言い訳が通じると思ってんのか?」
ライネックは拳骨《げんこつ》の中に握っていた〈妖素〉にパッと息を吹きかけ、唱えた。
「スラキィィイム♂艪ヘ引き裂く!」
「うおっ!」
両手両足が目に見えない何かにがっちり掴《つか》まれ、じりじりと引っ張られ始めた。〈引き裂き〉は緩慢《かんまん》な速度で、だが確実に四肢《しし》を四つの方向に裂いていく。レノックスは歯を食《く》い縛《しば》り、渾身《こんしん》の力で抵抗した。筋肉の一本一本が軋《きし》み、びりびりと震える。
「気分はどうでえ? レノの旦那」
「上々さ。お陰で背が伸びたぜ……」
「そうかい」
ライネックが握りしめた拳《こぶし》をぐっ、と前に突き出し、力を込めて左右に引き離した。
ぴき、と筋肉が弾《はじ》ける音がした。
「うおおおおおおおおおおおっ!」
激痛が電撃のように全身を貫《つらぬ》き、意識が遠のく。
ぴき。どこかでまた筋肉が切れた。ぴき。ぴき。限界を越えて関節が引き伸ばされる苦痛に体毛が逆立ち、全身から滝のように脂汗《あぶらあせ》が噴き出す。
「ざまあみろ! さんざんでかいツラしやがって! 思い知れ、くそったれのブルーマンめ!」
「しまいにゃ手足がすっぽ抜けて胴体《どうたい》がころりと地べたに転げ落ちるぜ」
二人は呻吟《しんぎん》するレノックスの周囲で歌いながらぴょんぴょん踊りだした。
胴体が落っこちる、ころりころころ落っこちる!
ライネックが二本の指に挟んだ剃刀《かみそり》の刃をひらひらさせる。
「こいつが何だか判《わか》るかね、レノの旦那」
スルーアが手を打って囃《はや》したてた。
切れ目を入れろ、そうすりゃ千切《ちぎ》れ易《やす》くなる! 切れ目を入れろ! チョイと入れろ!
こいつら、本気か……。
関節をつなぐ腱《けん》を切って手足を引き千切る気なのだ。
レノックスは苦痛に濁《にご》った目で、切れ目を入れろ、と叫んでいる妖精たちを眺めた。
彼ら〈アンシーリー・コート〉の妖精たちを監督するのはレノックスの役割だった。協調性のない彼らに対し厳しくあたったことは確かだ。だが、それにしたってこれほど嫌われていたとは……。
全身の筋肉と関節が悲鳴を上げていた。だが、それは単なる余韻《よいん》で新しい痛みは加わっていない。ライネックが拳を引き離す動作をしていないからだ。
ふと、奴は一度の呪誦《ピショーグ》だけでは魔法を完了できないのではないか、そう思った。この魔法は閉じていない。だとしたら……。
剃刀を握りしめ、残酷な期待に目玉をぎらつかせながらライネックが近づいてくる。
来い。もっとぐっと近くまで寄れ……。
ひやり、と剃刀の刃が皮膚《ひふ》に触れる。その瞬間、レノックスは有らん限りの声で怒鳴った。
「ファアリィム! 我は防御するっ……!」
「なんだと? そうはさせるか!」
ライネックは大慌てで〈妖素〉に息を吹きかけ、呪誦を唱えようとした。
「スラキ……=v
言えたのは、そこまでだった。
巨大な高波がビルの谷間を押し寄せて来る。
ライネックが唱えるのよりも早く、奴の妖素を使って〈海〉を呼んだのだ。防御の呪誦は奴に妖素を使わせるためのフェイントだった。母なる海の水を呼ぶのに呪誦など必要ない。
レノックスは声を立てて笑った。地響きがビルを揺るがす。背と腕を彩《いろど》るブルーマンの渦巻《うずま》き文様《もんよう》が拍動《はくどう》しているのが分かる。ライネックは大目玉をまんまるに見開いたまま押し寄せる高波に呑み込まれていった。波は白く水煙《みずけむり》をあげ、逆巻《さかま》き、砕け、泡立ち、塩辛く通りを満たす。海水は優しく抱くように身動き出来ないレノックスの身体を水面にまで運びあげ、そしてゆっくりと降ろした。
不意に苦痛が消え、手足の自由が戻って来た。ライネックが気絶したために魔法が中断されたのだ。
ざーっ、と通りから海水が引いていく。
スルーアとライネックは遥か向こうまで押し流され、濡れた路面に俯《うつぶ》せに倒れている。生死を確かめに行く余裕はない。レノックスは腕を動かそうとした。左肩は脱臼《だっきゅう》しているらしい。立ち上がると刺すような痛みが足から脳天まで走った。
だが、行かなければ。
ラムジーとジャックが危ない。〈同盟〉を掌握《しょうあく》したフィアカラが次に狙うとしたら、あの二人だ。
◆◆◆
花と緑の香りはいつも通り爽《さわ》やかだった。
ラムジー・マクラブは『ラノンズ・グリーン・フローリスト』の店先でいつものように花の水を換え、霧吹《きりふ》きで蕾《つぼみ》に霧を吹いた。冬の日は短い。四時になるともう店の前の街灯が灯《とも》り始め、通りの石畳《いしだたみ》に柔らかな光の輪を落とす。今日は店主のグリーンが〈総会〉に出掛けているので、同じく半妖精でアルバイトのケリ・モーガンと二人で店番である。
「〈総会〉って何をするんでしょうか」
黄色い薔薇《ばら》を束《たば》ねてミニ・ブーケを作りながらケリが言った。
「第一世代の親睦会みたいなものだってさ。タダ酒が飲めるんで出席する奴が多いって」
「へえぇ」
そういえば、ケリの父親は第一世代の〈妖精〉だから出席している筈《はず》だった。ケリは父親とうまく行っていないみたいで、そのせいでか第一世代の妖精に対してちょっと斜《しゃ》に構えているところがある。だけど、店主のグリーンやジャックやレノックスだって第一世代なのに、とラムジーは思う。
「あ」
「どうしたのさ、ラムジー」
「帰って来ました。いま、角を曲がって」
人狼《ウェアウルフ》の特殊な感覚でラムジーはよく知った人ならば遠くからでも感じ取れるようになっていた。それはちょうど犬が飼い主の帰りを誰より早く知るのと似ている。
二分後、予想通り店主で森の妖精のギリー・グリーンが青い日除《ひよ》けスクリーンをくぐって店に入って来た。おかえりなさい、と言いかけたラムジーははっと口をつぐんだ。
「どうかしたんですか、グリーンさん……」
不安と恐怖の匂いがするのだ。人間の姿の今、ラムジーの嗅覚《きゅうかく》はそれほど鋭くない。だが恐怖の匂いはそれでも判るほど強かった。
「あのね……大変なことになったんだよ……」
そこまで言って、言葉が途切れた。もともと話すのが得意でないのだ。ケリが素早くコップに水を汲んで戻って来る。
「ギリー、落ち着いて話して下さい。何があったんですか」
「……盟主がね、罷免《ひめん》されたんだよね……」
コップの水を一息に飲み干したグリーンは、とつとつと驚くべき話を始めた。
〈総会〉に魔術者フィアカラが乗り込んできたこと。ラノンへの道の秘密を暴露し、ランダルの盟主再任を阻止《そし》したこと。ラノンへの帰還を餌《えさ》に新盟主として信任を受けたこと……。
「……みんなはね、喜んでるよ。ラノンに還れる、ってね。でもね、わたしは思うんだよ。あの男は嘘をついている、みんなを騙そうとしている、ってね……」
「そうですよ! グリーンさんは正しいです。フィアカラさんはすごく悪い人です!」
「ラムジー、悪い魔法使いを『さん付け』で呼ぶことないよ」
「あ、そうですね。でもぼく、年上の人はさんづけで、って教わって、それで一応……」
呆れ顔のケリが遮《さえぎ》った。
「それでランダル・エルガー氏はどうなったんですか?」
「分からないんだよ。チーフたちに取り囲まれて、どこかに連れて行かれたんだよね……」
古木の樹皮を思わせる皺《しわ》の刻まれた膚《はだ》を涙が伝った。
「あの男は、フィアカラはよくない者だよ……。どうして皆信用するんだろうね……」
「泣かないで、ギリー。他の出席者はどうなったんですか?」
「皆、まだ残っていると思うよ。私のように抜け出して来た者の数は少ないよ……」
袖口で涙を拭《ぬぐ》う。
ラムジーはただ呆然とケリとグリーンのやりとりを聞いていた。天地がひっくり返ったかのようだった。
ランダルさんが盟主の座を追われて、それで悪い魔法使いのフィアカラが新盟主で……。
いったいどうしたらいいんだろう……?
突然、ケリが口を開いた。
「そうだ。父はまだきっと会場にいる!」
ケリは携帯から電話をかけ、長い呼び出し音のあとにようやく出た相手と話し始めた。
「父さん? 魔術者フィアカラが盟主になったって本当……? だって、そいつ悪い奴なんだよ! なんだってそんな奴に付いてくのさ! ラノンに還るって、じゃあ母さんはどうなるの! 父さん! 父さんってば!」
ケリは携帯電話を睨んでいた。通話はもう切れている。
「……このままラノンに還る、もう家には戻らないって、いったい何なんだよ……。解ってくれ、だって? どう解れって言うんだよ! そのうえ、母さんを頼む、って? よく言えたもんだ、クソおやじ!」
「ケリ、お父さんをそんな風に言うのは……」
「……分かってるさ。けど情けないんだよ。あんな男が父親だってことがさ……」
泣きたいのを堪《こら》えているように、顔が真っ赤だった。
「僕、本部に行って父に会ってくる!」
上着を肩にひっかけ、そのまま外に飛び出そうとするケリをラムジーは慌てて止めた。
「待って下さい! ぼくも行きます!」
「君は関係ないじゃないか。君の両親は人間なんだし……」
「関係ありますよ! 先祖返りだって、ちゃんと準会員なんですから!」
ケリ一人を行かせられない。それに、ランダルやレノックスのことも気になるのだ。
「グリーンさん、ぼくたち本部の様子を見てきます!」
「二人ともね、気をつけるんだよ。あれは恐ろしい男だからね……」
「大丈夫ですよ! ぼく、フィアカラの匂いを知ってるから、離れてたって解ります!」
狼の姿じゃない時は不死身じゃないということは考えないようにしよう、と思った。ケリだって他のみんなだって誰も不死身じゃないんだから。
◆◆◆
クリップフォード村では〈アームストロング雑貨店〉の三姉妹は美人看板娘ということになっている。長女マーガレット、次女キャサリン、そして三女のアグネス。三人とも美人だが、三番目のアグネスだけはちょっとばかり大きすぎる、というのが世間の評だった。〈雑貨店〉の二階にある三人共通のベッドルームで、長女のマーガレットが丹念《たんねん》に爪を磨《みが》きながら言った。
「コールさんって、本当に物凄《ものすご》いお金持ちなんですって。それにとってもハンサム」
「だってオヤジでしょ? マギー」
長い亜麻色の髪を梳《す》く手を止めずキャサリンが応《こた》える。
「あら、キャシー。好《い》い男は年取っても好い男だわ」
そう言ってマギーは中年になっても美男で鳴らす映画スターの名を並べたてた。
「そーね、なら考えてもいいかも……」
「でしょう? うまくすれば玉《たま》の輿《こし》よ」
アグネスは半《なか》ば呆れて姉たちの会話を聞いていた。話のネタになっているのはストーンサークル復元に資金を提供するという富豪、レミントン・コールのことだ。マギーだけがコールを見かけたのだが、それが水も滴《したた》る美男子だったというのだ。
「あんたはどうなの、アグネス」
「あたしはオヤジには興味ないもん」
アグネスは口を尖《とが》らせた。姉二人は、はっきり言って男にモテる。美人で華奢《きゃしゃ》で可愛らしくて、男性の保護欲をそそるタイプだ。
「だいたい、顔と財産だけで決めるなんて! すごく厭《いや》な性格だったらどうすんの?」
「あら。我慢するわよ、お金があれば」
「我慢出来なければ、離婚してがっぽり慰謝料《いしゃりょう》を貰《もら》えばいいじゃない?」
二人の姉はころころと笑った。全く、この性格を何とかして欲しい。姉貴たちの親衛隊の男どもに聞かせたいわ。この顔と甘ったるい声にコロリと騙されてるんだから。
そのときマギーが窓から外を見て言った。
「あ。コールさんだわ!」
「どこどこ?」
キャシーが身を乗り出す。
「わー、ほんと渋くて素敵なオジサマね! その辺の青二才とは一味違うわあ」
「でしょう? あたしの目に狂いはないわよ」
「でも服の趣味はちょっと悪いんじゃない?」
「あら、似合ってるからいいわよ」
二人はブランド品を品定めするように目を細めて男を眺めている。アグネスは自分が好きなのは幼馴染《おさななじ》みのラムジー・マクラブだし、お金持ちの中年なんてぎとぎと脂《あぶら》ぎっているに決まってる、と思う。思うのだが、マギーが挙げた映画スターの中には好きな俳優もいたし、やっぱりちょっとは気になってくる。
とうとう我慢出来なくなって姉の後ろからひょいと顔を出して窓の下を覗いた。黒髪を肩まで垂《た》らした派手な服装の男が〈干し草亭〉の主と話している。
ちらりと男の横顔が見えた。
浅黒く彫《ほ》りの深い顔、艶《つや》やかな口髭《くちひげ》――。
腰が抜けるかと思った。
〈魔術者〉フィアカラだ……!
指の先が細かく震えた。あの顔を見間違える筈がない。あの夜、公園で自分を殺そうとした男だ。
「マギー……あの口髭の男がレミントン・コールなの……? ストーンサークルを復元しに来た……?」
「そうよ。あんたも素敵だと思うでしょ?」
そんな問題じゃない。だって、レミントン・コールはフィアカラなのだ。人殺しで女の敵でおまけに悪い魔法使いなのだ。
一体、このクリップフォードへ何をしに……?
ストーンサークル復元なんて嘘っぱちで、もしかしたら助平《すけべい》オヤジと呼んだ仕返しをしに来たのかもしれない。
深呼吸して考え直す。バカね、そんなことあるわけないじゃない。だったら何故《なぜ》――。
ハッとなった。
〈時林檎《ときりんご》〉だ。
あのときの闘いで妖素を含んだ時林檎を使ったから、林檎の実を奪いに来たんだ!
アグネスはそのまま部屋を飛びだした。
「ちょっと! あんたどこに行くのよ?」
「やぼ用! 姉貴たち、あの男だけはやめといた方がいいよ! すっごく悪い奴だから!」
なーに言ってんだか、というキャシーの声を無視して階段を駆け降りる。店を通らないで裏口から出れば鉢合《はちあ》わせしないで済む。
目指すは、〈林檎の谷〉だ。あいつより早く着かなければ。
四時半。陽《ひ》は落ちて森は暗い。アグネスは懐中電灯を手に村外れの森の小径《こみち》を走った。
〈林檎の谷〉には先祖の墓と、墓を守るストーンサークルと、そして先祖からの贈り物〈時林檎〉の木がある。墓から〈妖素〉を吸い上げた〈時林檎〉は秋には妖素を含んだ赤い小さな実を実《みの》らせるのだ。
ストーンサークルの奥、二つの石に守られた林檎の古木に一直線に走り寄ったアグネスは思わずあっ、と声を上げた。
林檎の実が、ない。ただの一つも。
やられた。フィアカラに盗まれたんだ……。
この前に見に来た時にはまだ枝にたくさんの実が残っていた。村では〈時林檎〉を摘《つ》むことはタブーで、鳥や獣《けもの》もこの実は食べない。だから果実は地に落ちてまた吸収され、年ごとに含まれる〈妖素〉を濃縮していったのだ。
なんてことだろう、こんなことなら全部摘んでしまえば良かった。手持ちは念のためとっておいた数個だけだ。ラムジーは一年間に必要な十二個を瓶詰《びんづ》めにしたと言っていたけれど、それ以上の余分は持っていない筈だ。
どうしよう……。
レノックスがいれば相談出来たのに、今朝早くロンドンに発《た》ってしまったのだ。
「そうだわ……電話……」
レノックスの携帯番号なら知っている。アグネスは大急ぎで家に駆け戻ると名刺に印刷された番号に電話した。
『おかけになった番号は電源が切られているか受信|圏外《けんがい》に……』
「刺青《いれずみ》男のバカっ!」
とっくにロンドンエリアに着いている頃だから、圏外なんてあり得ない。きっと電源を切っているのだ。
大バカっ、妖精だからって、携帯電話の使い方くらいちゃんとマスターしなさいよ!
罵《ののし》りながら今度はラムジーの勤め先、〈ラノンズ・グリーン・フローリスト〉にかけてみる。あの店で働いているのは全員〈同盟〉の関係者だ。アグネスはいらいらしながら電話が繋《つな》がるのを待った。
早く出て、早く!
プッ、という音と共に回線が繋がる。
次の瞬間、不通を示すブーッという音が耳に響いた。慌てていて番号を間違えたのかしら? もう一度慎重にナンバーを押す。
ブーッブーッ……。
同じだった。この番号が不通なのだ。
どういうこと……? だって、営業時間なのに。不吉な想いが胸をよぎる。
まさか、ラムジーの身に何か……そんな……。
手が震えた。
落ち着いて、落ち着くのよ、アグネス……。
まだ連絡先はある。レノックスの名刺にある〈ラノン&|Co《カンパニー》葬儀社〉代表番号だ。
震える手で〈葬儀社〉の番号を押した。
『恐れ入りますが只今お客様のご都合によりこの電話は使用出来なくなっております……』
受話器が手から滑り落ちた。
そんな筈はない。葬儀社の電話は二十四時間受付の筈だ。
ロンドンで何かあったのだ。レノックスも電源を切っているのではなく、もしかしたら……。
(ぼく、闘《たたか》うから)
無邪気に言ったラムジーの笑顔が胸に刺さる。まさか、フィアカラと闘って、それで……。
頭をぶんぶんと振る。悪いことを考えたらそれが現実になるような気がする。今はラムジーが無事でいると信じなけりゃ。
だけど、どうしたらいいの?
他に連絡先を知っている所はない。ラムジーは電話を持っていない。ジャック・ウィンタースは持っているが、番号を知らない。何で聞いておかなかったんだろう、と自分を呪いながらアグネスはうろうろと廊下を歩き回った。ラムジーの安否《あんぴ》を知る方法が何もないのだ。
否。一つだけある。
残された林檎を持って、アグネス自身がロンドンに行って確かめる方法だ。
けれどそれには大きな問題が二つあった。一つは、つい半月前にロンドンに行ったばかりだから父親のアンガスが許可してくれないだろうということ。もう一つは、お金がないということだった。親爺《おやじ》の許可なんて、この緊急事態の前には無視する覚悟だ。でも、先立つものがないのは如何《いかん》ともし難《がた》い。こんな時に魔法が使えたらどんなにいいだろう。でも、セカンドサイトを除けばアグネスに使える魔法は〈怪力〉だけなのだ。〈怪力〉なんて何の役にも立たない。
(……そうだ。姉貴たちに……)
ばたばたと部屋に駆け込む。
「何よ、騒々《そうぞう》しい」
「マギー、一生のお願い! 百ポンド、ううん、五十ポンドでいいから貸して!」
マーガレットは奇麗にエナメルを塗った爪に息を吹きかけながら言った。
「アグネッシー、あんたの『一生のお願い』はとっくに使い果たしてるわよ」
「今回だけ! これっきりだから!」
キャシーが脇から言った。
「ばかね。マギーが貸すわけないじゃないの」
「じゃ、貸してよ、キャシー姉さん!」
「頭冷やしたら? なんであたしたちがあんたにお金を貸さなきゃならないのよ」
「それは……言えない」
異世界ラノンだとか妖精だとか悪い魔法使いだとか、そんな話を姉たちにしたって頭から信じてもらえないだろう。この目で魔法を目にし、不思議を体験した自分も初めはなかなか信じられなかったのだから。
「あっきれた! バカも休み休み言いなさいよ。金を貸せ、理由は言えない、だなんて」
「じゃあさ! こないだあたしがロンドンで買った服と靴をあげるから!」
正確には買ったのはアグネスではなくて一緒にロンドン観光をした魔女のシールシャだけれど、詳しいことを説明してはいられない。
「どう? 最新流行のよ!」
「冗談! あんたのサイズじゃぶかぶかのお引きずりになっちゃうわ」
マギーとキャシーは顔を見合わせて笑った。
「いくら流行だって、サイズ八半のブーツなんて、ねえ!」
「もう、いい! 頼まない!」
ばたんとドアを閉め、足を踏みならして階段を降りた。姉たちに頼んだ自分がバカだった。
やっぱりこれは自分一人でなんとかしなければならない問題なのだ。
だけど、どうしよう。
◆◆◆
レノックスは携帯電話の電源ボタンを押し、悪態《あくたい》をついた。海水はブルーマンには優しいが、携帯電話には優しくない。海水に浸《つ》かった携帯はすっかり駄目になっていた。
畜生《ちくしょう》、役立たずの文明の利器め。財布とクレジットカードは潰れた愛車と運命を共にした。これでは電話もかけられない。
とにかく、ラムジーたちに知らせなきゃならん。〈フローリスト〉はここから二、三マイルくらいだろう――。
レノックスは脱臼した左腕を右手で支えて歩き出した。関節が悲鳴を上げる。足を地面につける度《たび》に焼けた杭《くい》を打ち込まれるように痛む。
ずきん、ずきん……。
ワンブロックも行かないうちに痛みは堪《た》え難《がた》いほどになり、閉まったシャッターの前に座りこんで一休みした。焦《あせ》りがじりじりと身を灼《や》く。こんな調子ではいったいいつ着くか分からない。
不意に、頭上に影が落ちた。
レノックスは顔を上げた。毛糸帽に薄汚れたジャンパーの浮浪者風の男が両手をポケットにつっこんだまま立っている。
物取りか、と思った。今日は、とことんブルーマンの厄日《やくび》なのか……。
男が言った。
「どうしたんだい、あんた。酷《ひど》い有《あ》り様《さま》だな。そこいらの若いやつにやられたのか?」
「ああ、まあそんなとこだ。金もみんな失くしちまった」
「そうか。そりゃあ、災難だ」
男はポケットに手をつっこみ、何やらごそごそと漁《あさ》った。それから何かをレノックスの手に握らせた。
冷たく丸い金属の円盤《えんばん》。二ポンド硬貨《こうか》だ。
レノックスは目を丸くして硬貨を眺めた。
「おい、あんた……」
「少なくてすまんな」
男はそう言ってさっさと歩み去った。
「……女神のお恵みを!」
思わず男の背に怒鳴った。ホームレスと思ったのか。だが男自身、裕福であるようには見えなかった。なぜ金を恵もうと思ったのか。
この世界に来てから〈人間〉に親切にされたことなどない。レノックスは基本的には人間を信用していなかった。だから〈仲間〉が大事だったのだ。それが今日はその〈仲間〉に殺されかけ、〈人間〉の情けを受けるとは。今日という日は奇跡の日なのかもしれない。
しばらく休むとまた動けるようになった。レノックスはなんとか地下鉄の駅に辿《たど》り着《つ》き、男にもらった硬貨で切符を買った。驚くべきことにロンドン橋駅までの切符代は二ポンドちょうどだった。
奇跡は続いているようだった。階段では見知らぬ人間が肩を貸してくれ、地下鉄の車内では席を譲《ゆず》られた。そしてロンドン橋駅に着くと別の若い人間の男が列車を降りるのを手伝ってくれた上、地上に出るまで付き添ってきてくれたのだ。
「本当にここで大丈夫ですか? ちゃんと医者に診《み》てもらった方がいいですよ」
「いや、大丈夫だ、ちょっと転んだだけなんだ。ありがとう、本当に助かった」
若い人間に礼を言って別れ、足をひきずって〈フローリスト〉へと急いだ。次の角を曲がれば、もう目の前の筈。
壁に手をついて角を回り、立《た》ち竦《すく》んだ。
いつもは美しく花が並べられている店先に無残に百合《ゆり》や薔薇の切り花が散らばっている。
足の痛みを忘れた。
「ギリー!」
花とバケツが散乱する店内に駆け込む。
「ギリー! ラムジー! ケリ!」
店内のショーケースは粉々に打ち砕かれ、胡蝶蘭《こちょうらん》の鉢《はち》は真っ二つになって床に転がっていた。電話は壁から引き千切られ、レジはこじ開けられて小銭が散乱している。
「ちくしょう……。遅かったか……」
そのとき啜《すす》り泣く声が耳に飛び込んで来た。
「ギリー!?」
奥に駆け込む。店主のギリー・グリーンが倉庫の片隅で泣いていた。
「ギリー、無事だったのか! 何があったんだ? ケリとラムジーは?」
「レノさんか……同盟はもうお終《しま》いだよ……」
ギリーは涙に濡れた顔を上げた。
彼はフィアカラが盟主就任の信任を求めたときに拍手せず、こっそり会場を抜け出したのだという。
「そしたら、デュアガーたちが来たんだよね。半妖精の人狼がいないか聞くので、いないと言ったら腹を立てて店をめちゃめちゃにして行ったんだよ……。フィアカラは、自分に従わない者には何をしてもいい、という許可を出したんだというんだよね……」
「俺も襲われた。〈灰のルール〉が破棄されたんだ。もう誰も安全じゃない」
たがが外れたのだ。〈十二夜《じゅうにや》〉のこの時期、それでなくとも妖精たちは浮かれている。今まで押さえつけられていた〈アンシーリー・コート〉の妖精たちはやりたい放題になっているのだろう。いや、〈アンシーリー・コート〉だけではない。〈灰のルール〉が破棄されたいま、ロンドンはラノンから来た者たちが妖素を求めて互いに殺し合っていた時代に逆戻りしているのだ。
〈同盟〉は、殺したら殺される、という実に単純明快なルールでメンバーたちをお互い同士から守ってきた。その代わり、良い子にしていれば誰でも〈妖素〉の配給が受けられる。表面的にはそれでうまく行っていた。だが、自《みずか》らの力を頼む者にとってはそのシステムは悪平等《あくびょうどう》と思えたのではないか。その上、配給の〈妖素〉は僅《わず》かで、全体量の半分は〈同盟〉の管理下に置かれ、盟主の裁量《さいりょう》によって使われていた。そのことへの不満は確かにあった。フィアカラはそういった状況をうまく利用したのだ。
ラムジーを探していたのはフィアカラの命令か。自分が襲われたのも恐らくそうだ。同盟を掌握《しょうあく》するため邪魔者を始末する気なのだ。
「そのときラムジーはいなかったんだな? どこに行ったんだ」
「ケリと二人でね、お父さんを探しに行ったんだよね……」
「本部にか!?」
涙を拭きながら頷く。
畜生、なんてこった……。それじゃ飛んで火に入るナントカじゃないか……!
走り出そうと足を踏みだした瞬間、激しい痛みが身体を貫いた。少しの間忘れていた関節の痛みが倍になって襲ってくる。
「レノさん……?」
「……何でもねえ……」
ずきずきと脈打つ疼痛《とうつう》をやりすごそうと身体を二つ折りにし、獣のように唸《うな》る。
小さな黒い目を細め、疑り深い様子でじっとこちらを見つめていたギリーが突然大声を出した。
「何でもなくない、レノさん、あんたひどい怪我《けが》をしているね!」
「いや……大したことねえさ。筋《すじ》だけで、骨はどうもなってねえし……」
「たいしたことない……とね?」
ギリーの手がいきなり伸びて左腕を掴む。焼け火箸《ひばし》で関節を掻《か》き回《まわ》されるような激痛にレノックスは思わず吠《ほ》えた。
「うがぁあっ! 何しやがる!」
「レノさん。脱臼してるね、肩」
「い……そうかもな」
「足もだね? レノさん、あんたまっすぐ立ってもいられないんじゃないのかね」
「いや、ちょっとばか痛むだけ……」
ギリーは出口に立ち塞がり、首を左右に振りながら断固とした口調で言った。
「ダメだ、レノさん。そんな身体で行ったって二人の助けにならないよ」
理屈は解っている。だが、他にどうしたらいいんだ? チビどもがみすみす火の中に飛び込むのを黙って見ている訳にはいかないじゃないか!
◆◆◆
ジャックはいらいらしながら時計に目をやった。
レノックスと約束した時間は既に一時間過ぎていた。渋滞に巻き込まれたとしても、いくらなんでも遅すぎる。何度か携帯にかけたが、圏外で通じない。やはり一旦部屋に戻ろうかと思った。トマシーナは一人置き去りにされて不安に思っているに違いない。
席を立ちかけたとき、ポケットの中で電話が鳴った。相手はこちらの返事も聞かず、出るなり喋《しゃべ》りだした。
『ジャックか!? 俺だ、今どこにいる?』
レノックスだ。
「おまえこそどこだ? 僕はまだ約束のカフェにいる」
『〈フローリスト〉の車で移動中だ。よく聞いてくれ、非常事態だ……』
そう言うと、レノックスは一気に話しだした。聞いているうちに次第に眉が険《けわ》しくなってくるのが分かる。〈同盟〉はフィアカラに乗っ取られたのだ。
「じゃあケリとラムジーはフィアカラの支配下にある〈同盟〉にいるのか?」
『恐らくな。さっきからケリの携帯にかけて確認してるんだが、自動応答になってて出ねえんだ』
「賢い子だ」
『ああ。俺たちはそっちに向かう。あんたは恐らく指名手配だから、来るんじゃねえ』
「おまえもそうだろう?」
『だが奴らはまだ俺が生きていることを知らねえと思う……うう、だから……』
妙な具合に間が空く。
「レノックス?」
返事がない。次の瞬間、電話を奪うようにしてたどたどしい声が喋りだした。
『あんた、ダナの王子様かね? わたしはギリードゥ族のギリーだよ、レノさんを車に乗せてるよ。レノさんは、大怪我をしてるんだよ。だから止めたんだよね。でも言われて聞くひとじゃない。だから、わたしも行くんだよ。わたしは小者だから大丈夫なんだよね』
「充分用心して欲しい。僕もすぐ行く」
『王子様、レノさんは何て言ったね? あんたもひとの言うことを聞かないひとだね?』
「時と場合によるよ」
『わたしはわかったね、あんたは聞かないひとだよ。この車はすぐそのカフェの前を通るよ、そしたら一緒に行くんだよね』
「わかった。合流しよう」
細かな雨が降りだしている。濡れて光る石畳の道を大型の白いバンがゆっくり走ってきて停まった。〈ラノンズ・グリーン・フローリスト〉と書かれた後部のスライド・ドアが音をたてて開き、レノックスの顔が覗く。
「来るな、って言ってんのに、しゃあねえな。乗れ」
背をかがめてバンに飛び乗った。大きい鉢植えを積めるようにフローリストの配達用バンの天井は高く、荷台の床は平らで広い。レノックスはその床に両足を投げ出すようにしてぺたりと座りこんでいた。
「どうしたんだ……?」
「ちょっと油断して、へまをしたのさ」
「いや。その格好《かっこう》だ」
レノックスの左肩には緑色の粘着《ねんちゃく》テープがべたべたと貼られている。左腕は首から吊《つ》られているのだが、使われているのは花のラッピング用のひらひらしたピンクの不織布《ふしょくふ》を三角に折ったものと、金の筋の入った赤いリボンだ。
「笑うな! テーピングに使えそうなもんがこれしかなかったんだ!」
「こんな時でなければ笑うんだが。痛むのか?」
「たいしたことねえ。脱臼は元に戻してある」
運転席のギリードゥ族がこちらを振りかえって言った。
「王子様だね? わたしはギリーだよ。レノさんは、うそつきなんだよ。肩の脱臼だけじゃないんだよ、手も足も大怪我なんだよね」
「ギリー、前を見て運転してくれ! ジャック、ギリーは大げさなんだ……」
荒く息をつく。一言話すごとに歯を食い縛り、額には大粒の汗が噴き出している。
「レノックス。正直に言えよ。本当のところはどことどこが痛むんだ?」
「筋だけだ、骨はどうもなってねえ。痛むのは……右腕と右足と左腕と左足ってとこか」
それじゃ全部じゃないか。
手を伸ばしてレノックスの腕に触れた。熾《おこ》った石炭《せきたん》のように熱い。足もだ。ジーンズの上からでも膝《ひざ》の腫《は》れがはっきり判る。
ジャックはポケットナイフを取り出した。
「おい何を……」
「動くなよ」
レノックスのジーンズを裾《すそ》から膝のあたりまで一気に裂き、思わず目をそむけた。膝は両方ともぱんぱんに腫れ上がっていた。ぶよぶよと膨《ふく》らんだ表面は熱をもち、腐《くさ》った牛肉を思わせる赤紫のまだらに変色している。これでは歩くどころか立てるかどうかも怪しい。
ナイフでかさぶただらけの手の甲にひっかき傷をつけた。赤い線に微《かす》かに妖素の青が光る。
「おい、ジャック……?」
「動くなと言っただろう。加減が難しいんだ」
傷をつけた手をかざし、燃えるように熱い膝をじっと視つめる。眼の中で〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉が拡張していくのが判る。
〈霜の力〉は雪や氷を産み出すが、その基本は熱を奪うことだ。ジャックは凍らせないように注意しながら〈霜の力〉を使って腫れ上がった膝の熱を取り去った。それから肘《ひじ》、肩と損傷した関節の熱を順に冷やして行く。
[#挿絵(img/Lunnainn3_101.jpg)入る]
レノックスが、長々とした息を吐き出した。
「すまねえ……すげえ楽になった……」
「冷やしただけだ。僕に〈治癒《ちゆ》〉は使えない」
「充分だ。これでしばらくは動けそうだ」
ギリーがまた後ろを振り向いた。
「もうじき〈葬儀社〉だよ。どうするね」
「手前で車を停めるんだ。レノックスはエンジンをかけたまま待っててくれ。十分経って戻ってこなかったら車を出してそのまま行け」
「おい、勝手に決めるな! 俺はちゃんと歩ける……」
ジャックはぴしゃりと抗議を遮った。
「これが最良の選択だと思う。僕は運転が出来ない。おまえは走れない。ギリーは? 向こうはどうなっているか判らない。行きたくないならレノックスと待っていればいい」
ギリードゥ族は極めて大人しく気が小さい種族だ。無理ではないかと思った。
けれどギリーは黒い小石のような目をしばたかせ、おずおずと笑った。
「もう決めたんだよ。ケリはね、小さいときから知ってるんだよね……」
◆◆◆
ラムジーはケリと身を寄せあうようにして〈葬儀社〉の中を歩いた。ケリは少しでも見覚えのある妖精を見かけるたびに呼び止めては同じ質問を繰り返していた。
「あの、父を探しているんです。見なかったですか? ガンキャノホ族の……」
「知らねえな」
〈葬儀社〉は大混乱状態になっていた。
酔って浮かれた第一世代の妖精たちは宴会場から溢《あふ》れだし、異形《いぎょう》も露《あらわ》に〈葬儀社〉の中を歩き回っている。
「あの……こっち側は〈同盟〉サイドじゃないですよ……人間に見られると……」
「人間がなんだ! 俺たちゃ、ラノンに還るんだ! ルールなんかクソ喰らえ!」
小柄なプーカ族はそう叫んで、突然天井に届くほどの大男に変身した。次の瞬間には小馬になり、ガチョウになり、兎《うさぎ》になり、しまいにはバケツに変身して大笑いしながら廊下の向こうまで転がって行った。うろうろしていると、今度は全身を粗《あら》い茶色の毛で覆《おお》われたボーギーが大声で怒鳴った。
「今日は俺達の日だ、半妖精の出る幕じゃねえぞ!」
「ご……ごめんなさい……」
もともと気が荒いうえに酔っているのだから始末が悪い。ラムジーはケリの袖を引っぱり、人気のない廊下に出た。大声で歌ったりがなったりの乱痴気《らんちき》騒ぎが少し遠ざかる。
「ねえ、これじゃとても見つからないよ。もう一度お父さんに電話してみれば?」
「でも、さっきも繋がらなかった。きっと僕と話すのが嫌で電源を切ってるんだ」
そんなことはないと思うんだけど、ケリはお父さんのことになるとひどく頑《かたく》なだから今は言わないでおいた方がいい。
「〈同盟〉の側に行ってみてそれでダメなら戻ろうよ」
「うん……」
瞬《まばた》きをして〈惑《まど》わし〉の行き止まりを抜け、同盟側に入る。こちらの方が静かだ。
「こっち側、人がいないね……」
「やっぱり皆、宴会の方なのかな」
「あ。そうだ」
ラムジーは、大事な事を思い出した。
「仔犬《こいぬ》たち、きっとお腹を空《す》かせているよ。これじゃ誰も面倒を見ていないんじゃ……」
仔犬と言っても、本当は犬じゃなくて背中に水鳥の翼を持ったガブリエル犬の雛《ひな》だ。ラムジーとケリが飼育の責任者になっている。
「そうだね。せっかく来たんだから」
二人が育雛室《いくすうしつ》に入ると、小さな翼を生《は》やした十二匹の仔犬たちは吠《ほ》えたり、鼻を鳴らしたり、ケージの中をくるくる駆け回ったりの大騒ぎをし始めた。
「ちょっと待って、今やるからさ……」
大袋からドッグフードをざらざらと皿に空ける。仔犬たちは歯を剥きだし、唸り声を上げながら猛烈な勢いで平らげていく。ラムジーは目を細めた。
「わー、よく食べる!」
「羽も生えそろって来たし、もうじき飛ぶんじゃないかってレノックスさんが」
「そしたら飛行訓練だね」
「餌もそろそろ成犬用に変えないと」
そのとき、聞き覚えのある声がした。
「チビ犬たち、何を騒いで……」
慌てて振り向いた。死体盗難事件のとき助けに来てくれたアンヌーン族のチーフが育雛室のドアの隙間から覗いている。
「この間はありがとうございました!」
「おや、あの夜の坊やたちだね。あの時はこちらも楽しませて貰ったからねぇ」
金髪を短く刈り込んだアンヌーンは悪戯《いたずら》っぽくうふふと笑った。
「すみません、父を見ませんでしたか?」
「いや。出席はしていたけれどね」
「そうですか……」
「済まないね、役に立たなくて」
アンヌーンは急に真顔に戻って言った。
「それより、君らはここにいちゃいけないよ。ラムジー君を捕まえるよう新盟主から各種族のチーフに触れが回っている。じき他の者にも知れるからね」
「えっ、ぼく?」
どうしてだろう。このあいだ狼の時に腕に噛《か》みついたからだろうか。でもあの腕は義手だったから痛くなかったと思うんだけど……。
「でも、どうして教えてくれるんですか?」
「今一つ信用できないからね、あの新盟主は」
「だったらどうして信任を……」
彼は、とても悲しそうな顔になった。
「すぐにでもラノンに還れる、と言われて反対できる者がいるとお思いかい? 信じたいことを信じてしまうんだよ、私らはね。みな熱狂していて、とても反対は出来なかった。だけど、あの男についていくかどうかまだ本当に決めたわけじゃない。一族にとって何が良いのか私が決めなきゃならないんだ」
「ぼくは、フィアカラさんは悪い人だと思います」
アンヌーンはちょっとの間考え込んでいた。
「ううん。君の鼻は確かだからねえ……」
「あの、ランダルさんとレノックスさんのことは知りませんか?」
「レノさんは解任されたけど、一昨日《おととい》から出張だったから総会には出ていなかった。ランダルは罷免されたよ。チーフたちはみな彼の罷免に賛成だった。新盟主が止めなかったらその場で八《や》つ裂《ざ》きにされかねない雰囲気だったよ」
「どうしてチーフたちはランダルさんを……」
「ううーん。正直言って彼は愛される盟主、っていうタイプじゃなかったからね。有能だったから二十四期も盟主を務めたけれど、内心で彼を嫌っていた者は多かったと思うよ。妖素の分配のことではいつも不満がくすぶっていたしね。〈同盟〉の取り分が二分の一というのは多すぎるとか、彼が個人的に流用しているんじゃないかとか、取り巻きに多く配分しているとか、そんな噂もあったんだよ。すべて憶測だけれどね。〈同盟〉の取り分の妖素をどういう基準でどう使っているのか、彼は何も説明しなかったから」
「そうだったんですか……」
ラムジーは〈時林檎〉の扱いをめぐってランダルと話したことを思い出した。ランダルは自分がすべて処理するから心配しなくていいと言ったのだ。一人で何もかもこなそうとして、彼はひどく疲れているように見えた。
「それで、ランダルさんは?」
「どこかに連れていかれたけれど、行き先を知っているのはデュアガーと新盟主だけだろうと思うよ」
「どうしてデュアガーが?」
「デュアガーはレノさんに成り代わって〈その他少数種族〉のチーフになったのさ。あれは以前から買収《ばいしゅう》されていたんだろうよ」
「そうですか……ありがとうございました」
レノックスの携帯も繋がらないのだ。でもとりあえずここにいないという事は判った。
「さて。私はもう皆の所へ行かなけりゃ。君らは気をつけてお逃げ」
アンヌーンはそう言って出ていき、ケリが腕を引っ張った。
「ラムジー、僕は諦めるよ。早く逃げよう」
「うん……」
腹がくちくなった仔犬たちはもう眠くなり、小さな口でアクビをし、身を寄せ合ってうとうとしている。ラムジーは後ろ髪を引かれる気がした。次に誰かが餌をやりにくるのはいつになるだろうか。もしかしたらもう誰も来ないかもしれない。
「ねえ、ケリ。チビたちを連れていこうよ」
「えっ。だけど……」
「だって、ここに置いてはおけないよ」
ケリは仔犬たちを眺めて溜め息をつき、そうだね、と言った。
「じゃあ、六匹ずつ段ボールにいれて……」
箱を抱えて育雛室を出る。腹がくちくなって眠たい仔犬たちはずっしりと重い。
「知らんぷりをして、このまま出よう」
重たい箱を抱えて〈同盟〉と〈葬儀社〉の境界線を越えた、その時だった。
「おい、おまえら何やってる」
雷のような声に思わず身体が縮む。さっきのボーギーだ。
「ええーっと、その、あの……」
素早くケリが言った。
「僕たち、不用品を運ぶように言われて」
「目障《めざわ》りだ。とっとと失《う》せな」
「はいっ」
互いに目配せし、次の瞬間には二人とも走りだしていた。
「うまくいきそうだね!」
「うん、でも油断は禁物《きんもつ》だよ」
迷路のような〈葬儀社〉の廊下を右へ左へと走り、吹き抜けの階段を駆け降りる。そのとき、下の階に誰かがいるのが見えた。小柄だが肩幅のあるずんぐりとした体型で、髭はない。ドワーフに似てるけど違う……。
あっ、と思った。デュアガーだ!
デュアガーは訝《いぶか》しげにこちらを見上げ、それから叫んだ。
「あっ! おまえは人狼のちびじゃないか!」
やばい!
「ケリ、戻るよ!」
Uターンして今降りてきた階段を二段跳びに駆け上がり、さっきのボーギーが座り込んでいる前を今度は逆向きに走った。デュアガーが大声で怒鳴りながら階段を昇ってくる。
「人狼のちびを捕まえろ! フィアカラ様の命令だ! 褒美《ほうび》がでるぞ!」
その声に妖精たちが宴会場からぞろぞろと現れ、ラムジーとケリを追いかけ始めた。赤い帽子のレッドキャップやがっちりしたドワーフや真っ黒な牛の蹄《ひづめ》のボゲードン、毛むくじゃらのボーギーに猪頭《いのししあたま》の角足《スクウェア・フット》、日頃は温和なホップやブラウニーまでが酔った勢いに乗って雄叫《おたけ》びをあげ、廊下いっぱいに広がって雪崩《なだ》れのように押し寄せて来る。
ちび狼を捉《とら》まえろ、捉まえろ!
「ケリ、早く!」
だがすぐにケリが遅れだした。箱が重いのだ。妖精たちとの差が徐々に縮まっていく。
「ケリ!」
「ダメだ、もう走れないよ……! ラムジー、君は先に逃げろよ!」
そんな、追われているのはケリじゃなくて自分なのに! そう思ったとき、頭の後ろの方でなにかチリチリする感じがした。
この感じ。まさか。でも……。
その感覚は間違えようがなく確かで、ラムジーに馴染み深い安心感をもたらした。
「ケリ! 次の角まで頑張ればきっと助かる!」
「なんでさ!」
「いいから!」
最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》って突き当たりの角を回る。予想は、裏切られなかった。
「ラムジー!」
ジャックだ。灰色の廊下の向こうから、ジャックとギリーが駆けてくる。
「ラムジー、ケリ、こっちへ!」
「ジャックさん!」
ほっと力が抜ける。ジャックさんだ。ジャックさんが来てくれたからもう大丈夫……。
その瞬間、妖精たちが押し合いへし合いしながら廊下の角に押し寄せて来た。集団に追い付いてきたデュアガーが大声で喚《わめ》く。
「ダナ王族だ! そいつも捕まえろ! フィアカラ様のご命令だ!」
ボーギーが両手を突きだして突進して来る。が、どうした訳か三歩も行かないうちにつまずいて頭から床に突っ込んだ。緑の匂いが濃く宙を漂う。ボーギーは緑色の汁に汚れた顔をあげて喚いた。
「こん畜生、なんだこりゃ……」
ラムジーは目を瞠《みは》った。いつの間にか絨毯《じゅうたん》の上に緑の芝草《しばくさ》がびっしり生え、その一株一株の茎《くき》が互いに結び合って草の輪を作っている。ボーギーはその小さなトラップに足を取られたのだ。ギリーが絨毯の上に細かな種を振《ふ》り蒔《ま》く。種は見る間に発芽《はつが》して足元に小さな罠《わな》を作った。〈緑のゆび〉の魔法だ。ギリードゥ族は生得的《せいとくてき》にこの術を使うと聞いていたけれど、実際に目にするのは初めてだった。
「今のうちだよ、みんな、逃げるんだよね!」
「はい、ギリーさん!」
箱を抱え直し、走り出した。ケリとジャックが続く。
「ラムジー、その箱は?」
「仔犬です、ガブリエル犬の」
大理石のエントランス・ホールが見えてくる。だが、見慣れたホールはいつもと全く違った様子になっていた。クリスマス飾りに使う棘々《とげとげ》のヒイラギがホール全体にはびこっているのだ。鋭い棘のある葉はびっしりとホールを埋め尽くし、枝はくねくねと何層にも絡《から》み合《あ》いながら天井近くまで伸びている。
「来るときね、蒔いておいたんだよね……」
ギリーは嬉しそうに言い、歌うようにすらすらと唱えた。
「ひいらぎいばら、ネトルにシスル、すべて鋭いトゲトゲの葉、おまえの友を通しておくれ、なれど敵は通すまい=v
ヒイラギがざわざわと揺れ、絡み合った枝がみるみる解けて目の前に一本の道を開く。
「さ、はやく!」
ギリーを先頭に薄暗いヒイラギの林に踏み込んだ。枝はうねうねと動いて道を開き、また四人の後ろで絡み合って閉じていく。行く手を阻まれた妖精たちが罵声《ばせい》を上げるのが聞こえる。ジャックが小声で囁いた。
「ラムジー、ケリ、外へ出たら左へ走れ。その先でフローリストのバンが待機している」
「はいっ」
後ろでばきばきという大きな音がした。ラムジーは振り返った。黒い山のように巨大な一頭の牡牛《おうし》が長い角《つの》を振り立て、ヒイラギの木を引っかけて根元から引き抜いている。ボゲードンが完全な牛に変身したのだ。ボゲードンの牛は棘をものともせずにブルドーザーのように枝をへし折り、真っ黒な蹄で踏みにじりながら突進して来る。
ギリーが大急ぎで唱える。
「ひいらぎいばら、トゲトゲの葉……=v
ギリーの声に応えてヒイラギが枝を伸ばす。ボゲードンの角が薙《な》ぎ払《はら》う。
ヒイラギの道をたどるラムジーの目の前が突然明るく開けた。林の外に――エントランス・ホールの出口に辿り着いたのだ。ギリーは唱え続けていた。
「ひいらぎいばら、トゲトゲの葉……=v
「ギリー、もういい、早く逃げるんだ!」
石の表階段を駆け降りる。外はもう真っ暗だ。ヒイラギの道を通り抜けた妖精たちがエントランス・ホールの外に現れる。大胆にも異形のままだ。
「行け! このまま車まで走れ!」
そのときジャックの左手に血がついているのに気づいた。ヒイラギの棘で怪我をしたのかと思ったが、そうじゃなかった。親指の腹に赤い一本の筋のようなナイフの傷がぱっくり口を開けているのだ。赤い滴《しずく》がぽとぽとと濡れたコンクリートに落ちる。
「ジャックさん、手!」
「いいから行くんだ! 僕は後から行く!」
[#挿絵(img/Lunnainn3_115.jpg)入る]
ラムジーは小雨の中を駆け出した。ケリとギリーが遅れがちについてくる。ボゲードンの黒牛を先頭に妖精たちは異形のまま道路に飛び出して追って来た。雨の向こうに白いバンが見える。ハッチバックの後ろのドアが開いていた。
「ラムジー! 乗れ!」
運転席のドアを開けて怒鳴ったのはレノックスだ。
「でも……!」
遅れて走っていたギリーがばったりと転ぶ。ボゲードンの黒牛が頭を下げて突進して来る。
ジャックが立ち止まった。牛がギリーを蹄にかけようと立ち上がった瞬間、ジャックは短く一言発した。
「凍れ=v
その声が宙に消えるか消えないうちに、彼が立っている場所から後ろの道路全体に見る間に氷が張って行った。路面を濡らす雨がコンクリートの上で瞬時に凍りついたのだ。後ろ足で立ち上がったボゲードンの蹄がつるりと滑った。そのままバランスを崩してどう、と横倒しになる。立ち上がろうともがくが、濡れた氷の上で蹄はそれぞれてんでばらばらの方向につるりつるりと滑ってしまう。
つるり、どすん。つるり、どすん……。
蹄足《ていそく》ではない他の妖精たちは氷の上をそろそろと歩こうとしていた。だがスケートリンクのような氷に足をとられ、立ち上がっては転び、よろよろと歩いてはまた転びでまともに歩ける者はいない。
ジャックはギリーを助け起こし、道路に血を点々と垂らしながら走ってきた。血が雨に混ざって広がるにつれて氷は彼についてくるように地面の上を伸びてくる。彼がしんがりを務めたのは、そういう訳だったのだ。
ラムジーはバンの荷台に仔犬の箱を押し込み、振り返って叫んだ。
「ジャックさん!」
「先に乗れ!」
頷き、慌ててバンに乗りこむ。そこへやっと息を切らしたケリが追い付いて来た。仔犬の箱を受け取り、手をひいて引っぱり上げる。レノックスが後ろ向きに怒鳴った。
「ジャック! ギリー! 何やってんだ、早く来い!」
ようやくバンの後ろに辿り着いたジャックがギリーの背を押して荷台に乗せ、自分も飛び乗った。
「みんな乗ったか? 行くぜ!」
ハッチバックのドアをばたんとしめると、バンは勢い良く発進した。氷の上では妖精たちが口々に罵声を上げている。
「全員無事か?」
運転席のレノックスが言う。
「はい、レノックスさん。仔犬たちも」
そう言ってから、ラムジーは目をぱちくりさせた。レノックスの腕を吊ったリボンとピンクの不織布がひらひらと揺れる。
「あの……レノックスさん、その格好……」
「これっきゃなかったんだ!」
ジャックが声を立てて小さく笑った。
「笑うな!」
それを聞いたら、急に助かったという実感が湧《わ》いてきて、なんだか力が抜けた。
「これから、どうするんですか?」
4――人間と妖精と
レノックスは一人で歩けると言い張り、実際に車から空《あ》きビルまでは歩いたが、地下室への階段を降りる段になって遂《つい》に音《ね》を上げた。ジャックは肩を貸して体重を支えた。大男は半端《はんぱ》でない重さだった。
一段ずつ慎重に階段を降りる。切れかけた蛍光灯《けいこうとう》が音を立て暗く足元を照らす。足が地に着くごとに彼は微《かす》かな苦痛の呻《うめ》きを漏《も》らした。全員が無言だった。どんな時にも明るさを忘れないラムジーでさえ瞳に浮かぶ不安の色を隠せずにいる。
ジャックは不意にトマシーナを部屋に待たせたままだったことを思い出した。彼女は訳が解《わか》らないまま何時間も一人で放っておかれてさぞ心細い想いをしているに違いない。ジャックはレノックスを肩に担《かつ》いだまま大急ぎで〈惑《まど》わし〉のかかったドアを開けた。
「トマシーナ、遅くなって申し訳なかった。ちょっとトラブルがあって……」
言いかけて、言葉を切った。
部屋の様子が、違う。部屋のあちこちに積み上げられていた本の山が一まとめに整理され、テーブルの乱雑さも影を潜《ひそ》めている。だが、彼女の姿はなかった。
「トマシーナ?」
いない。この小さな部屋に隠れる場所がある筈《はず》もなかった。一人で出て行ったのか。だがドアには〈惑わし〉がかかっていて、人間の目には映らなかった筈だ。人間の中にも稀《まれ》に幻視者《タビスヴァー》と呼ばれるセカンドサイトの持ち主がいて〈惑わし〉を見抜くと言われているが、さきほどの彼女にはドアが視《み》えている様子はなかった。セカンドサイトを持った何者かがここに侵入し、彼女を連れ去ったのだろうか。だが、何のためだ? もしそれがフィアカラの一派によるものなら、この場所は敵に知られているということになる。
「……ジャック?」
苦しげな声にはっとなった。とにかく今はレノックスを休ませることが先決《せんけつ》だ。
「いや、別に。マットレスの方へ。お前の図体《ずうたい》じゃソファは無理だ」
「だが、そこはカディルの……」
「気にするな。もう使い道もない」
それにこの男はあの夜カディルの死を悼《いた》んで泣いてくれたのだ。かつてこの部屋で共に暮らしていたカディルが昼も夜も座り続けていたマットレスに大男を座らせる。彼は上体を支えていることが出来ず、唸《うな》り声をあげてそのまま横倒しになった。
「レノックスさん、大丈夫ですか……」
ラムジーが心配そうに膝《ひざ》をついて覗き込む。レノックスは、なおも虚勢を張って笑った。
「たいしたことねえよ。明日になりゃ治る」
「〈治癒《ちゆ》〉を使える者がいれば、だ。同盟の魔術者がどうなったのか分かるか?」
ギリーがおずおずと口を開いた。
「フィアカラが半殺しにしたよ。あの男は慈悲をかけると言った。でも、私は思うんだよ。皆が見てない場所で殺されたとね……」
ジャックは言葉を失った。これで、レノックスの手足を治せる見込みも、トマシーナにかけられた〈真実の舌〉を解くあても無くなったということだ。
「レノックス。この場所は敵に知られていると思うか?」
「いや。カディルの一件があってから未加盟者のデータは作成しないことになった。あんたに関するファイルも破棄された。だから知ってるのは俺とランダルだけの筈だ……」
「それが確かならいいんだが」
だが今はそれを信じるほかなかった。この状態で移動するのは難しい。レノックスは立つのも困難だ。それに他に行く当てもなかった。
「ケリ。君はお父さんに会えたのか?」
「会えませんでした。〈葬儀社〉の中は大混乱になっていて。でも僕たち、アンヌーンのチーフと少し話をしたんです。彼は僕らを見|逃《のが》してくれたんです。フィアカラを信用していないとも言ってました。信用はしていないけれど、それでもラノンに還《かえ》してやると言われたら逆らえない、って」
「そうか……」
フィアカラは昔から口が上手い男だった。一般に妖精たちは疑うよりも信じることを好む。耳に甘い言葉ならば尚更《なおさら》だ。フィアカラにとって彼らを口車に乗せるのは赤子の手をひねるようなものだったに違いない。
罷免《ひめん》された盟主《めいしゅ》ランダルはその場で取り押さえられ、どこかに連れて行かれたという。彼はまだ生きているのだろうか。ランダル・エルガーという人物にはあまり良い心証《しんしょう》を持っていなかったのは確かだ。政治家肌で、時として非情にもなる男だ。だが、彼は彼なりに〈仲間〉と〈ラノン〉を守ろうとしていた。それは理解できるのだ。
「レノックス。ランダルはフィアカラに寝返るだろうか?」
「あり得ねえ。奴は嫌な奴だが、自分を変えるってことは絶対にない。何があってもだ」
「そうか……」
ではまだ生きているとしても早晩《そうばん》に殺される。すぐに殺さなかったのはランダルが何か切り札を隠している可能性を考慮したからだろう。
問題は、なぜフィアカラが〈同盟〉を乗っ取ったかということだ。彼は〈同盟〉盟主の座に納まって、それで満足するような男ではない。他に何か目的がある筈だ。それを考えるとひどく憂鬱《ゆううつ》な気分になった。その『何か』の想像がついたような気がしたからだ。だが、はっきりするまでは口にすまいと思った。ケリやラムジーに余計な心配をかけたくない。
「ケリ。君は家に帰った方がいい。もしかしたらお父さんが戻られるかも知れない」
「でも……」
その時、何者かがドアを叩いた。全員に緊張が走る。
「誰だ?」
返事はない。再び無言のままノックの音が繰り返される。
妙だ。果たして敵が礼儀正しくノックをするだろうか?
ジャックは、用心深くドアを開けた。
開いた戸口には、レジ袋をぶら下げたトマシーナ・キャメロンがポプラの木のようにまっすぐに立っていた。胸の奥から安堵《あんど》と驚きがこみあげて来る。同時に、少しばかり苛立《いらだ》たしく思った。こんな時にこれ以上心配事を増やして欲しくなかった。
「心配したよ。どこに行っていたんだ?」
トマシーナは手にしたレジ袋の中の物をひとつ取り出して見せた。牛乳パックだ。
ミルクを買ってきてくれたのか。そういえば切らしていた。
ジャックは礼を言うべきなのか文句を言うべきなのか分からなくなってしまった。やはり、礼を言うべきなのだろう。
「……ありがとう。でも、どうやって出入りしたんだ? ドアは視えなかった筈だ」
ソーダ水の瞳が物言いたげに見つめる。それから、彼女は着ている上着の裾《すそ》を引っ張ってみせた。
上着を、裏返しに着ている。
なるほど。そうだったのか。
彼女の意図を理解するにつれ自然と口元が綻《ほころ》んでくる。簡単な〈惑わし〉は、上着を裏返しに着るだけでも視破ることが出来る。もちろん彼女は知っていたのだ。
「入って。長く待たせて済まなかった」
彼女は部屋に足を踏み入れると、びっくりした顔でラムジー達を順々に眺めた。
「ああ、彼らは〈仲間〉だよ」
トマシーナは自分の口を指さした。彼らが術を解いてくれるのか、と訊いているのだ。
「いや。彼らは仲間だけれど魔術者じゃない。申し訳ないけれど魔術者は見つけられなかった。こちらの事情なんだ。でも、他にも魔術者はいる。いまロンドンに居ないが連絡が取れ次第、協力を頼むつもりだ」
「あの……ジャックさん、そのひとは誰ですか?」
ラムジーが遠慮がちに訊いた。
気がつけばあとの三人はどうしたら良いのか分からないという表情でいる。ジャックは苦笑した。どうやら気を回して言い出せずにいたらしい。
「彼女は人間の女性だ。名前はトマシーナという。フィアカラに〈真実の舌〉という魔法をかけられている。僕には解けないから〈沈黙〉をかけたんだ」
「人間なんですか?」
「君のご両親と同じにね。トマシーナ、彼はラムジー。君が遺跡を見に行ったクリップフォード村の出身なんだ」
「よろしく、トマシーナさん。ラムジー・マクラブです」
トマシーナは差し出された右手をおずおずと握り、ちょこんと首を傾《かし》げた。どうも説明の仕方が拙《まず》かったらしい。自分らは異世界から来たと言ったのに、ラムジーがクリップフォード出身というのが腑《ふ》に落ちないのだ。
「クリップフォードは五百年前にラノンから来た者たちの隠れ里だったんだ。村の人々はすっかり忘れているが、今でもときどき先祖返りの半妖精が生まれる。この子は人狼《ウェアウルフ》だし、他にも混血の半妖精の子がいるんだ」
ラムジーがあっ、という顔をした。
「……あの、ジャックさん。人間のひとに、そんな事を話していいんですか……?」
「僕は同盟員じゃない。だから僕が先に話してしまえば君らの誰かが秘密を漏らしたことにはならないだろう。それに彼女はもう深く関わってしまっているんだ」
「あ。なるほど、そうですね……」
ラムジーは得心《とくしん》が行ったという顔でにっこり笑い、それからぺこりとお辞儀《じぎ》をした。
「あの、ごめんなさい、トマシーナさん。フィアカラさんは特別に悪い人なんです。ぼくたちの仲間はたいていは気が良くて、人間に悪さなんかしないんです。迷惑をかけて、ほんとにごめんなさい!」
トマシーナは睫毛《まつげ》をぱちぱちさせてレジ袋から真新しいリングノートを取り出した。大急ぎで何か書きつけてパっと広げる。
そこには、こう書かれていた。
【ありがとう、でもあなたのせいじゃない】
「そうだけど、でも仲間といえばやっぱりそうだし……」
【あなたもウィンタースさんも良い妖精】
「ジャックさんは、もちろんいい妖精です。ぼくはジャックさんの言ったように人狼なんですけど」
トマシーナはますます目を丸くしてラムジーを眺め、それからまた大急ぎで書いた。
【人狼も妖精の一種】
「あ、そうです。詳しいんですね」
ケリが横から割り込んだ。
「はじめまして、ミス・キャメロン。僕はケリって言います。半分だけガンキャノホです」
彼女は驚きを含んだ微笑を浮かべると、ノートにこう書きつけた。
【よろしく、ケリ。私を口説《くど》かないでね】
「やだな、初対面の女性にそんな失礼なことしないですよ。……参ったな、この人、本当に詳しいよ。僕だって自分がそうだと知るまでは〈|口説き妖精《ガンキャノホ》〉なんて知らなかったのに」
ジャックは、小さく笑った。
「彼女は僕がこの世界の妖精伝説について調べるのを助けてくれたんだ。トマシーナ、彼はギリードゥのギリー」
ギリーがおずおずと手を差し伸べる。
「ギリーだよ。気の毒にね、あんたも災難だったんだよね……」
【はじめまして、優しい森の精。お会いできて嬉しい】
最後に、壁際のマットレスに足を投げ出して座っているレノックスに紹介した。
「ブルーマンのレノックスだ。レノックス、彼女がさっき電話で話したフィアカラの犠牲者だ」
「レディの前だが、座ったままで失礼させてもらうぜ。ちょいと足を痛めちまって、すぐには立てねえんだ……」
【大丈夫ですか?】
「なに、どうってことはねえ……。あんた、フィアカラに〈真実の舌〉をかけられたのか。いったい何でだ?」
【わからない。でもあの男は博物館の石の側《そば》で起きたことを知りたがっていた】
「あっ!」
レノックスが叫んだ。
「どっかで聞いた名前だと思ったんだ! あんた、トマシーナ・キャメロンか! クリップフォードで怪異を見たっていう!」
トマシーナがびっくりした顔で頷く。
「そうなんだな? 俺はこの女に会うためにロンドンに戻って来たんだ! 畜生《ちくしょう》、それじゃフィアカラに先を越されたって訳か……」
「どういうことだ? レノックス」
「どうもこうも! クリップフォードで小規模の〈穴〉が開いたらしいんだ。唯一の目撃者がその女だ。フィアカラは、手っ取り早く目撃談を聞き出すために〈真実の舌〉をかけたのに違いねえ……」
レノックスは血走った目を眇《すが》め、トマシーナを睨んだ。
「……ジャック! その女にかけた〈沈黙〉を解け! 話を聞くんだ!」
「駄目だ。〈真実の舌〉が解けるまでは〈沈黙〉は解かない。彼女が望まない限りは」
「フィアカラは俺たちの知らない情報を手に入れたんだ! 本当に、ラノンに還れるのかも知れないんだぞ!」
「僕はそうは思わない。フィアカラがひとつでも本当の事を言うと思うか?」
「ああ……だが……だが、何かきっと……」
彼は壁に背を擦《す》るようにして立ち上がり、おぼつかない足で一歩踏み出した。
「教えてくれ! あんた、何を見たんだ……」
伸ばした右の手が空を掴《つか》み、足元が大きくふらつく。バランスを失った巨体が倒れる寸前に抱き止め、ギョッとした。熱い。損傷した関節だけでなく全身が高熱を発している。
「レノックス。横になっていろ」
「……ジャック、あの女に訊いてくれ……何を見たのか……」
「分かった。あとで訊く。今は休め」
慎重にマットレスに座らせる。彼は呻き声をあげ、そのまま横倒しになった。汗をかいている筈なのに身体は乾いている。顔色は土気色を通り越してどす黒い。
トマシーナは呆然と立ち竦んでこちらを見つめている。
「驚かせて済まなかった。この男は、普段はこんなじゃないんだ。今は怪我《けが》で気が立っているだけなんだ」
彼女はぱちぱちと瞬《まばた》きし、大急ぎでノートに書きつけた。
【その人は大丈夫?】
「心配しなくていい。何とかするから」
さすがに大丈夫だとは言えなかった。無理をしたせいでレノックスの状態は明らかに悪化している。膝は今では赤子の頭ほどに腫《は》れ上《あ》がっていた。適切な治療をしなければ彼は一生手足が不自由になるかも知れない。
不意に、自分がひどく無力な存在に感じられた。トマシーナにかけられた術を解くことも出来ず、レノックスの苦痛を取り去ってやることも出来ない。いったい、自分はここで何をしているのだろう。
狭い室内を見渡す。ラムジーは心配そうにレノックスの側についている。青ざめた顔のケリ。森の精ギリーは途方に暮れた様子で問い掛けるようにこちらを見つめていた。
「僕が、何とかする」
ジャックはもう一度声に出して言った。
何かを、今すぐにすべきなのだ。
◆◆◆
濃さを増す闇の中に〈オールドオーク・ファームハウス〉はひっそりと佇《たたず》んでいた。
アグネスは意を決してドアベルを鳴らした。
「はい、どなた?」
澄んだ上品な声が応《こた》える。ラムジーのお母さんのイザベル・マクラブだ。
「あの、アグネス・アームストロングです、ラムジーのことで大事なお話が……!」
イザベルはにっこり笑った。
「まあ、アグネス。お久しぶりね。お話って何かしら? とにかくお入りなさい」
「ありがとうございます!」
〈麗《うるわ》しき声の〉と言われるイザベルはほっそりとした美人で、とても七人の大きな男の子の母親には見えない。涼やかな目元に皺《しわ》の一本もなく、漆黒《しっこく》の髪に一筋の白髪もないのだ。
「それで、ラムジーのことで話って?」
「あの……ラムジーの勤め先に電話が繋《つな》がらないんです! それだけじゃなくて、親会社の葬儀社にも、レノックスさんの携帯にも!」
「今日はお休みなのではないのかしら?」
「いいえ! 葬儀社は創立記念日だけど営業は休まない筈だったんです。フローリストも休まないからラムジーは店番だって言ってた。レノックスさんとは今朝話したばかりで、その時は何も言ってなかった。だからきっと、何か悪いことが……」
イザベルは柔らかい微笑《ほほえ》みを浮かべた。
「ねえ、アグネス。あなたの思い過ごしではないかしら?」
「あたしも、思い過ごしならいいと思います! でも、他にも思い当たることがあって、あたし、心配で心配で……!」
「アグネス、落ち着いて。悪いことが起きたと決まったわけじゃないわ。もしかしたら長距離電話の回線のせいかも知れないもの。電話をしてみるから、ちょっと待っていてね」
イザベルは部屋の隅の電話から何ヵ所かにかけると、眉を顰《ひそ》めて無言のまま切った。
「……あなたの言う通りみたいね。フローリストも葬儀社も不通だわ。でもロンドンへの長距離回線には何も問題がないみたいなの」
その意味が判《わか》らずきょとんとしていると、イザベルは小さく微笑んだ。
「ロンドンの天気案内にかけたのよ。今日は一日中冷たい雨ですって」
あ、と思った。どうして思いつかなかったんだろう。
「でも、これだけじゃ悪いことがあったとは限らないわ。それに本当に何かあったのなら警察が何か言ってくるんじゃないかしら。ね? アグネス」
「いいえ! 警察は助けてくれないの。だってこれは〈呪い〉に関係のあることなんです!」
これは、一《いち》か八《ばち》かの賭けだった。散々考えたすえ、アグネスはラムジーの母親のマクラブ夫人に事情の一部を明かして助力を頼むという賭けに出ることにしたのだ。信じてもらえるかどうかは甚《はなは》だ心もとない。でも、マクラブ家の人々はラムジーにかけられた〈第七子の呪い〉を信じている。本当は〈呪い〉ではなく〈祝福〉なのだけれど、妖素《ようそ》がないこの世界ではその力はマイナスにしか作用しないのだ。
アグネスは、肩掛け鞄《かばん》から〈時林檎《ときりんご》〉を取り出した。
「これ、何だか判りますか?」
「まさか、〈時林檎〉……? アグネス。それは食べてはいけない林檎よ」
「祟《たた》り話は知ってます。でもあの伝説は林檎を守って後世に伝えるためだったんです! 時林檎には不思議な力があって、ラムジーは毎月この実を食べれば〈呪い〉の発作が起こらなくなるんです。だからラムジーは一年分、十二個を瓶詰《びんづ》めにしてロンドンに持っていったの。残りの林檎は自然に落として来年また実《みの》るのを待つはずだったんです。でもさっき見たら一つもないの、盗まれたんです!」
イザベルはまあ、と呟いて小さな赤い林檎を疑わしげに見つめた。
「いったい誰がそんなものを?」
「あのレミントン・コールに決まってるわ! あの人、すっごく悪い人なんです!」
「コールさんって、あのストーンサークル復元事業に資金を出される方……?」
「そうよ! あたし、見たんです! あの人、本当はレミントン・コールなんて名前じゃないの、本当はフィアカラっていう名で、残忍な人殺しなんです。この間ロンドンであたしとラムジーのことも殺そうとしたの! 嘘じゃないんです、あたしたち、その時に時林檎の秘密を知られてしまったんです……!」
こんな話、どう信じて貰えるというのだろう? もっと筋道を立てて話さなければと思うのに、冷静に話そうとすればするほど頭に血が昇ってくる。
「コールは悪い奴で、そいつがラムジーの大切な時林檎を盗んだんです! 音信不通もそいつの仕業《しわざ》かも知れない、ラムジーの持っていった瓶詰めも盗まれたかも! だからあたし、残りの林檎を持って確かめに行きたいんです、ラムジーが無事でいるかどうか……!」
熱いものがこみ上げてきて眦《まなじり》から溢《あふ》れた。
「お金を、貸してください……。お願いします、ロンドンまでの交通費がないんです……」
「そう言われても……困ったわね、アグネス。お父さんには言ってきたの?」
涙を拭《ぬぐ》いながらかぶりを振る。なんでこんなに簡単に涙が出るんだろう? ずっと泣かないようにしてきたのに、ラムジーのことを考えると心の堤防《ていぼう》はぐずぐずと崩れてしまう。
「どうせ許してくれないから。こんな話、誰も信じてくれないと思います……。でも、これだけは信じて欲しいんです。ラムジーに危険が迫っているんです、それは超自然的な危険で、警察は助けにならないの。だからあたしが行かなくちゃならないの……!」
涙とともに無力感が込み上げてくる。いくら説明したって無駄なのだ。失敗だった。自分だって、こんな話をいきなりされたら信じる訳がない。ぐい、と涙を拭う。
「もう、いいです……。あたし、ヒッチハイクして行きますから!」
「アグネス、落ち着いて。それはあたしもラムジーのことは心配だけれど、あなたがヒッチハイクだなんて……」
「止めても無駄です、あたしがその気になったら誰にも止められないんだから!」
ぐずぐずしていたらバスがなくなってしまう。コートを鷲掴《わしづか》みに立ち上がりかけたとき、後ろで嗄《しわが》れた声がした。
「待ちなさい、アグネス。ジャック・ウィンタース氏はそのことを知っているのかい」
振り向くと、キッチンとの境目にラムジーの父、ヘイミッシュ・マクラブが立っていた。
「さっきからそこで聞いていたんだがね。この間、ウィンタースは儂《わし》に〈第七子の呪い〉はもう心配ない、と言ったんだが、それは時林檎を使うからということだったのかね」
「ええ、そうです、彼は全部知っている、彼が教えてくれたんだもの! 〈第七子の呪い〉って何なのか、どうして七番目にだけ起きるのか、どうしたら防げるかも……」
ヘイミッシュは唸り声を上げて腕を組んだ。沈黙が続く。
ああ、どうしよう、と思った。お父さんが出てくるなんて。昔から、アグネスはこの寡黙《かもく》な人物が苦手だった。大声で叱《しか》ったりしない分、子供心には底知れず怖かったのだ。
「ジャック・ウィンタースか……あれは不思議な男だな。彼は呪いを信じられるなら救いも信じられる筈だと言った。あの男の言った通り、ラムジーは〈呪い〉から自由になった。それが、今また危険が迫っているというのなら信じないわけにいかないだろう」
「ヘイミッシュおじさん……」
「儂がその林檎を預かって様子を見に行くのでは駄目かね、アグネス。我が家の呪いにあんたが関わることはない」
「駄目なんです、あたしでないと視えないから! 呪いはあたしにもかかっているんです、ラムジーとは別の形で。あたしにはラムジーと同じものが視えるし、だからこれはあたしの問題でもあって……」
「そうか」
ヘイミッシュは短かく言って、壁のフックからジャンパーを取った。
「隣町の高速バスの停留所まで送ろう。今から行けば早い便に間に合うだろう」
アグネスは飛び上がった。信じられない。あの頑固《がんこ》そうでおっかないヘイミッシュおじさんが信じてくれるなんて!
「本当ですか? ありがとうございます!」
イザベルが非難と困惑の入り交じった声をあげた。
「あなた、そんな。他所様《よそさま》のお嬢さんを……」
「アグネスが言い出したらきかないことはおまえも知ってるだろうが。ヒッチハイクで行かれるよりはましだと思うがな」
アグネスはバスの最後列の座席で横になってみたが、ほとんど眠れなかった。座り直して窓の外を流れていく反射板の光を見つめる。なんだかまだ信じられない。ヘイミッシュは車で隣町のバス停まで送ってくれ、お金も貸してくれたのだ。その代わり、万一ラムジーの消息が分からなくても一日で村に戻る約束になっている。家には隣町の友達の家に泊まると電話しておいた。これで一日やそこらはばれない筈だ。
アグネスは髪に結んだ水色のリボンを解いた。リボンの三つの結び目は魔女シールシャからの贈り物だ。ひとつ、ふたつと数えて三つ目の結び目に触れる。この魔法は、一度ずつしか使えない。
使おうか。使うまいか。
〈風の伝言〉は一旦|放《はな》てばシールシャが世界のどこにいても言づてを伝えてくれるという。その速度は風の速さだ。彼女が確かに伝言を受け取るまで言づては風から風へと伝えられて世界中を回り続ける。彼女しか読めないので他の魔術者に盗聴される恐れもない。
決めた。今使わなくていつ使うというの?
彼女はクリップフォードは知らないけれどロンドンなら知っている。伝言を受け取れば〈低き道〉でひとっ飛びに来られる筈だ。
爪をたてて固い結び目を少し緩《ゆる》める。
「シールシャ、聞こえる? あたし、アグネス……」
なんだか留守番電話に吹き込んでいるような感じだった。ラムジー達と突然音信不通になったこと、フィアカラがレミントン・コールと名乗っていること、なぜかストーンサークルを復元しようとしていること、時林檎が奪われたことを話し、すぐロンドンに来て欲しいと告げた。
「ロンドンに着いたら心当たりの場所を順に探すつもり。もしラムジーの部屋で会えなかったら、あの二人で大笑いしたカフェで待ってるから……」
これでよし。結び目をするりと解く。手の中でリボンがはたはたとはためいた。風だ。風は車内を駆け巡り、開け放った窓から外へ飛び出して行った。
行ったんだ……。
出来ることは全部した。あと出来ることは、祈るだけだ。
ラムジーが無事でいてくれますように……。
煤塵《ばいじん》でくすんだ標識がロンドンが近いことを告げる。
アグネスは、もう絶対に泣かないと決めた。再びラムジーに会うまでは。
冬の日の出は遅い。午前八時のロンドン橋はまだ朝靄《あさもや》に包まれていた。この角を曲がったら〈フローリスト〉が見える。
もしかしたら、全部思い過ごしだったのかも知れない。ラムジーは何事もなかったように店先を掃《は》いているかもしれない。びっくりした顔をして、それからネッシーどうしたの、って言うんだわー。
ああ、そうでありますように!
気合いを入れて角を曲がる。
〈ラノンズ・グリーン・フローリスト〉のシャッターは開いていた。店の前には萎《しお》れた花が散らばっている。
嘘……!
息が止まりそうだった。店はめちゃめちゃだった。砕けそうな膝で店内を歩き回る。誰もいない。ガラスは割れ、花は踏みにじられて萎れている。
全身の力が抜けた。
ああ、神様。どうしよう。本当に悪いことが起きてしまったんだ……。
握りしめた拳《こぶし》が震える。
だけど……だけど、もしかしたら別の場所にいるのかも知れないじゃない!
アグネスは店を飛びだし、そのまま全速力で走り出した。
〈葬儀社〉のエントランス・ホールは奇怪《きっかい》なことになっていた。まるで〈眠り姫〉のお城の周りのように一面に棘《とげ》だらけのヒイラギが生《お》い茂《しげ》っているのだ。
「……誰かいないの?」
返事はない。ヒイラギの茂みには細く道が開いていた。思いきって丈高いヒイラギの道へ分け入る。棘々した葉に気をつけながら歩き、やがてホールの端の受付が見えてきた。このまえ来た時には黒い髪のハンサムな受付係が座っていた席は今はからっぽだった。
「ねえ、誰か! いたら返事をして!」
〈葬儀社〉は嵐が通り過ぎたあとのように静まり返っていた。
宴会をしていたらしい大ホールは飲み物や食べ物が散乱し、机はひっくり返っている。
アグネスは葬儀社の中をくまなく歩き回った。
大ホールにも、小ホールにも、控室にも、斎場《さいじょう》にも、霊安室《れいあんしつ》にも誰もいない。
こんな……こんなことって……。
早鐘《はやがね》のように鳴る心臓が今にも不安の手に握り潰されそうだ。
そうだわ、〈同盟〉の側に誰かいるかも!
妖精たちがいなくなっても、〈惑わし〉の壁はまだ機能していた。瞬きをして一気に突き抜ける。
「ねえ、誰かいないの!」
返事はない。
身体の底から絶望感がひしひしと湧《わ》き起こってくる。ラムジーもレノックスも、アグネスに言い寄った好色な妖精たちも、誰一人いないのだ。悪い夢を見ているみたいだった。いっそラノンや妖精や魔法に関すること全部が長い夢だったら、と思った。目覚めたら自分の部屋で、ラムジーはずっと村にいて……。
泣くもんか……!
空きビルに行こう。まだジャック・ウィンタースが不法占拠《スクウォッティング》している空きビルがある。きっと、そっちにいるんだ。
再び〈惑わし〉の壁を抜けようとしたときだった。ぎい、とドアが軋《きし》む音がした。
「誰!?」
風もないのに執務室のドアが揺らいでいた。
誰かいるんだ!
アグネスは大股に取って返し、ばたんとドアを開いた。
「誰かいるの!」
執務室はからっぽだ。声が空気に溶け消える。
「ねえ、いるの、いないの! ホントにいないんならはっきりしてよ!」
デスクの下から、か細い声が聞こえた。
「……だーれもいないよウ……」
いるんじゃない!
膝をついてデスクの下を覗き込んだ。怯《おび》えた真ん丸な目が見返す。子供? 子供だ。小学生くらいだけど、やけにひねた顔をしている。瞬きをして、あっと思った。子供の耳は茶色い毛に覆《おお》われた丸い雌牛《カウ》の耳だった。
「牛耳《カウラグ》……!」
「そうだよ、オイラはカウラグだよゥ……。そう言うあんたは、何なんだよぉぉ」
「何って、巨人族よ。文句ある?」
「うひゃ、巨人族かィ! あんたも新盟主の手下なのかィ……?」
「新盟主ってどういうことよ? ランダル・エルガー氏は?」
雌牛《めうし》のように黒々と丸い目がさらに丸く見開かれる。
「新盟主を知ンないんだ! あんたホントに新盟主の手下じゃないンだ!」
ひねた子供のようなカウラグはデスクの下から這い出すと、ワッと泣き出した。泣きながらがむしゃらにしがみついてくる。
「オイラ、怖かったんだよゥ、巨人族の姉ちゃん……」
小さな両手で首にかじりつき、胸に顔を埋めてわあわあと泣く。
「ち……ちょっと……ねえ、いったい何があったのよ?」
「怖かったんだよォ……」
「もう大丈夫だからさ、泣かないでよ。他のみんなはどこ?」
「みんな、行っちまったんだヨ……」
「行ったって、どこへよ?」
カウラグは洟《はな》をすすり、涙でくしゃくしゃの顔をあげた。
「〈クリップフォード〉にだよゥ……」
5――まだ出来ることはある
地下室の天窓から白く朝日が射《さ》していた。
朝か……。
レノックスは薄ぼんやりと目を開けた。痛みのためほとんど眠れなかったのだが、かといって意識がはっきりしていた訳でもない。ジャックとギリーが交互に介抱《かいほう》してくれたのは覚えている。熱に浮かされた夢現《ゆめうつつ》の状態でジャックと何か長い話をしたような気がするのだが、どうしてもその内容を思い出せなかった。
「目が覚めたのか。気分は?」
氷河の色の瞳が見下ろす。こうして見ると、ジャックの霜の瞳は案外暖かそうな色だった。
「ジャック……。あんた、寝てないんじゃないのか……」
「いや、そうでもない。ギリーが交代で看《み》てくれたんだ。氷を作ったのは僕だが」
額に濡れタオルが乗っているのに気づいた。腫《は》れた関節には氷水の入ったビニール袋が当てられている。その冷たさが、ひどく心地よかった。
「済まねえ。随分《ずいぶん》よくなったみてえだ……」
「氷が心地良いのはまだ熱があるからだ。よくなったわけじゃない」
「皆はどうしている?」
「ケリは家に帰した。薬局が開いたら人間の医薬品を手に入れてくることになっている」
「あの女は……」
「二階だ。ギリーとラムジーが護衛についているよ。仔犬《こいぬ》たちも二階だ。彼女が面倒を見ている。上着を裏返しに着てるから仔犬が視《み》えるんだ。チビたちも彼女が気に入ったらしい」
「そうか……」
レノックスは目を閉じ、考えを巡らせた。ジャックなら、昨日の奇妙な体験の意味が判るのではないか――どうしてかそんな気がした。
「……なあ、ジャック。あんたは仕事柄、俺よりも人間とのつき合いが多いよな。〈人間〉を、どう思う?」
「それほど多い訳じゃない。僕の仕事は話をする必要があまりないからね。ただ、一つ言えることは一口に〈人間〉と言ってもそれぞれだということだ。一様《いちよう》じゃない。だが、それは僕らもそうじゃないか? 〈妖精〉だからとおまえと僕を一まとめにされても困るだろう」
「そりゃ、違《ちげ》えねえや……」
はは、と力なく笑う。
〈人間〉は素晴らしい都市や機械を造りはするが、情に欠ける種族だと思っていた。十年前、この世界に落ちてきたときの彼らのすげなさは今でも覚えている。ここは何処《どこ》なのか、路を往来する鋼《はがね》の車は何なのか、人間たちに何を訊《たず》ねてもまともな返事はなく、訳がわからないまま路上で数ヵ月を過ごしたのだ。
だが昨日は違った。二ポンド硬貨《こうか》を恵んでくれた男。地下鉄で席を譲ってくれた女。肩を貸してくれた若者。
人間は様々だからなのか。たまたま昨日は親切な人間にばかり出会ったのか。その話をすると、ジャックは即答した。
「たぶん、それはおまえが助けを必要としていたからだ。日頃のおまえはその図体《ずうたい》だし、態度も横柄《おうへい》だ。近寄り難《がた》いと思う」
「えっ。俺の態度はでかいか?」
「自分では気づいていないのかも知れないが、そう見える。初めてここに来た頃のおまえはまるで……」
レノックスは慌てて遮《さえぎ》った。
「あのときは……その……無礼をした。俺が悪かった。一度謝ろうと思ってたんだ……」
ジャックがダナ王族であることに加えて弟王子を殺そうとしたという噂を信じていたため、喧嘩腰と言っていいくらいに慇懃無礼《いんぎんぶれい》な態度で臨《のぞ》んだのだ。誤解は解けたが、それ以来ずっと謝り損《そこ》ねていた。
「全く面目《めんぼく》ねえ……先入観だったんだ……」
「別に気にしていないよ。だが、問題はその先入観だ。人間にも同じだよ。おまえは〈人間〉に対して先入観を持って構えているんだ。それが壁を作る。一人一人をよく見れば良い人間も悪い人間もいるはずだが、それを見ていないんだ」
「壁か……」
「昨日のおまえは弱っていて、だから壁が低くなって彼らはおまえに歩み寄った。そういうことだと思う」
ジャックの言うことは、妙に説得力がある。
なるほどな、と思った。
これがランダルが言う静かなカリスマという奴なのかも知れない。だがそうやって人のことを指摘するジャック自身、誤解されやすい損な性格をしているのだ。だから少数の側近は彼に心酔《しんすい》したが、距離を置く者にとっては冷淡な王子としか映らなかったのではないか。
間に立つ者がいれば違っただろう。
そうすれば、こいつは良い王になれただろう。
名君《めいくん》と言われたかも知れない。だがジャックは誤解を受けたまま弁明もせず〈地獄穴《じごくあな》〉に送られた。そのお陰《かげ》でこいつは今ここにいる訳だ。もしもジャックが追放になっていなかったら、と考えると妙な気がしてくる。ひょっとしたら〈穴〉のこちら側にいる自分たちからすると、ジャックが追放になったことはえらく幸運なことだったのかもしれない。
「なあ、ジャック……」
ジャックはドアの方を見ている。
「ケリか?」
「いや……」
次の瞬間、ドアの外から全く予想外の声が聞こえてきた。
「ねえ、いるなら開けて! あたし、アグネス・アームストロングよ!」
◆◆◆
もう何が何だか分からなかった。
アグネスはカウラグを片手で抱きかかえたまま、ジャック・ウィンタースの地下室のドアをどんどんとノックした。
ラムジーは、無事だった。部屋にいたのだ。それは良かった。神様に感謝してもいい。
でも、またしても狼《おおかみ》モードなので話が出来ないのだ。おまけにラムジーの部屋には見も知らないもじゃもじゃ頭のおじさんとお下げの女がいて、背中に羽の生《は》えた仔犬たち――これがガブリエル犬らしい――が我が物顔に部屋中を駆け回っている。何がどうなっているのか訊《き》こうにもラムジーは嬉しそうに尻尾《しっぽ》を振り回すばかり、お下げの女は何を訊いてもダンマリで、おじさんの方は言うことがぜんぜん要領を得ない。
「ウィンタースさん! いるんでしょ……」
目の前でドアが開き、ジャックが顔を出した。
「アグネス。どうしてここに?」
「どうもこうもないわよ! フローリストも葬儀社もめちゃくちゃで……」
言いかけて、部屋の奥に気づいた。刺青《いれずみ》男のレノックスがマットレスの上に半身を起こしている。
「やあ。嬢ちゃん……」
「レノックス?」
アグネスは息を呑んだ。レノックスの腕は渦巻《うずま》き文様《もんよう》が判《わか》らないくらいに変色していた。両膝はメロンみたいに腫れ上がり、目をそむけたくなるような鉛《なまり》色のまだらになっている。
「どうしたの……それ、ひどい……」
「ドジを踏んじまったのさ。嬢ちゃんはなんでカウラグと一緒なんだ?」
「あっ、そうだ! こっちも大変なの!」
アグネスはロンドンに来るまでのいきさつを話した。
「報《しら》せようと思って電話したらどこも通じないし、それであたし、心配で心配で……」
そこまで言ったところでジャックに遮られた。
「一人で来たのか。ご家族には?」
「友達のとこに泊まるってウソついた。でもバス代がなくて。そしたらラムジーのお父さんが貸してくれたの。すごく厳しい人なのに。ウィンタースさんのこと、何か感づいてるんだと思う。時林檎《ときりんご》のことは話したけど、〈呪い〉を解くっていう以上のことは言ってない」
一気に喋《しゃべ》って、どっと力が抜けた。ラムジーもジャックも無事だった。レノックスはあんまり無事じゃなかったみたいだけど、とにかく生きてはいた。
「ねえ、いったい何があったのよ? ラムジーの部屋にいる人達は誰?」
「こっちもいろいろあったんだよ。何から話したらいいか……」
ジャックは言い、それから悪夢みたいな一日のことを淡々と説明した。
「……それで、僕がラムジーにトマシーナの護衛を頼んだんだ」
「そうだったんだ……。〈同盟〉には誰もいなかったの。いたのはこの子だけ。可哀想に、ずっとクローゼットに隠れてたんだって」
腕に抱いたカウラグの背中を撫《な》でる。よっぽど怖かったのか、しがみついて離れないのだ。レノックスが苦しい息の下で笑った。
「……アグネス嬢ちゃん。そいつ、子供じゃねえぞ。俺より歳上だ」
「えっ? だって……」
突然カウラグはするりと腕を抜けて飛び降り、耳まで裂けそうにニッと笑った。
「巨人族ってサ、胸もでかいんだネ!」
カーッと頭に血が昇《のぼ》る。そういえば、なんだか触り方がイヤらしかったような……。
「このぉ! ぶっ殺すわよ!」
「うひゃ、おっかねエ!」
そのままぴょんぴょんとマットレスの方へ駆けていく。
「レノの旦那《だんな》! ご無事だったンですかイ! てっきりヤツラに殺《や》られちまったかと……」
「どうにか生きてるぜ。おまえはどうしたんだ?」
「旦那、こっちも聞くも涙、語るも涙の話なんで……!」
カウラグは真ん丸な目に涙を浮かべて喋り出した。
「オイラ、クローゼットん中に隠れてたんで。そいで聞いちまったんだヨ。新|盟主《めいしゅ》とデュアガーが喋ってるのを……」
どうして執務室のクローゼットに隠れていたのかというと、どうも盟主のいない隙に何か盗もうと入り込んでいたらしい。そこへフィアカラが現れて出るに出られなくなった、ということみたいだった。
「そんで、新盟主は言ったんだよゥ。皆、じき骨になる運命だ、ラノンに還《かえ》れるって言えば喜んで墓穴《はかあな》に飛び込むだろう、ってサ……! 新盟主は〈灰のルール〉を燃やしちまって、皆を骨にする気なンだ……」
「それで皆はどうしたんだ!」
「ああ、オイラ、非力なカウラグなんで……。オイラ、ただ隠れて見てたンだ……。皆が〈低き道〉で〈クリップフォード〉ってとこに連れてかれるのを……」
カウラグはおいおい泣き出した。
「皆、騙《だま》されて殺されに行っちまったンだ……。オイラに出てって教えてやる勇気がなかったから……」
「誰も責めはしないよ。貴重な情報をもたらしてくれたんだ」
ジャックが言った。
「ランダル・エルガーの消息については?」
「それも言ってたヨ! 納骨堂《のうこつどう》に閉じこめて水も食事も与えないで飢《う》え死《じ》にさせるって! ああ、新盟主に比べたらランダルの方が百倍もマシだったってのに、皆で寄ってたかって追い出したンだ!」
「どこの納骨堂だ?」
「分かんないヨ、デュアガーは『当社管理下の快適な納骨堂』って……」
「畜生《ちくしょう》、なんてこった……」
レノックスは唸《うな》るように言い、マットレスに手をついて立ち上がろうとした。ジャックの表情が険しくなる。
「レノックス。やめろ。立つな」
「立てるさ。昨日だって歩いたんだ……」
何気ない風に片足に体重を乗せ、歯を剥いて笑顔を繕《つくろ》う。
「だから悪くなったってことが解らないのか?」
「けど、ランダルを見殺しには出来ねえ。奴は厭《いや》な奴だが、いつだって仲間のことを一番に考えてた。休みだって年に一日しか取らねえ。二十五年間、仲間のために働き詰めだ。揚《あ》げ句《く》、その仲間に裏切られてこれだ。あんまりひどいじゃねえか……」
壁に寄りかかって立ち上がる。そのままゆっくりと一歩踏み出した。
二歩。唸り声が漏れる。三歩。とても見ていられない。アグネスは我知らず飛び出して大男の右側を支えた。アグネスの身長はレノックスといくらも変わらない。腕力だって〈怪力〉の魔力を使わなくても並の男より強いくらいだ。
「寝てなさいよ、刺青男! エルガーさんはあたしが助けに行くから!」
「莫迦《ばか》言うな、嬢ちゃん……」
「あんたの方がバカよ! そんな足でどうしようっていうのよ! あたしだって巨人族なんだから! 時林檎もあるし、それくらい出来るわよ!」
「あいつら、今やルール無視なんだぞ。俺だって不意打ちを喰らってこの様《ざま》だ!」
「だったら、今度はこっちが不意打ちを仕掛けてやればいいじゃない!」
レノックスはぽかんと口を開けた。
「凄《すご》いこと言うんだな、嬢ちゃん……」
「基本よ」
「アグネスの言う通りだ」
レノックスの左をジャックが支えた。
「不意打ちは戦いの基本だよ」
「あとはチームワーク、じゃないですか?」
今の、誰?
パッと振り返るとドアの所に奇麗な銅《あかがね》色の髪と緑の目をした少年が立っていた。大きなデイパックを背負《せお》い、折畳《おりたた》みの車椅子を脇に抱えている。
「薬、手に入れて来ました。湿布《しっぷ》と消炎鎮痛剤《しょうえんちんつうざい》と抗生物質《こうせいぶっしつ》、あと固定用のテープと包帯も。車椅子は駅で借りてきました」
「ケリ。駅の車椅子は構内専用だろうが。貸し出しなんぞ……」
少年は含羞《はにか》んだ眼差しで笑った。
「快《こころよ》く貸してくれましたよ。ちょっと話しかけ≠スらね」
「俺の考えじゃ、ランダルが幽閉《ゆうへい》されているのはこの墓地だ」
車椅子に座ったレノックスが地図の一点を指した。ロンドンの南の外周に近い場所だ。
「ハイゲイト墓地ほど有名じゃないが、ヴィクトリア朝時代の古い墓地で納骨堂もある。何より〈葬儀社〉に近い」
「レノックスの推理を信じよう」
ジャックが言った。
「悪いが、またギリーに運転してもらう。ケリはここでトマシーナとレノックスを守って欲しい」
「おい、俺は青二才の半妖精にお守《も》りして貰《もら》わなきゃならんほど落ちぶれてないぞ!」
「鎮痛剤と車椅子を誰が確保してきたのか考えた方がいいんじゃないか、レノックス」
「そりゃ、そうだが……」
初めのうち、レノックスは人間の薬なんぞ呑めないと言って抵抗していたのだ。でも人間の作る酒は呑むだろう、とジャックに指摘されてしぶしぶ鎮痛剤を呑んだ。薬は効《き》いたみたいで、今は随分楽そうになっている。鎮痛剤は〈妖精〉にも効くのだ。
「ケリ、その男がまた歩けるとか言い出したら〈グラマリー〉で大人しくさせてもいいぞ」
「何てことを言うんだ、ジャック!」
緑の目の少年が笑った。
「分かりました、ジャックさん。あんまり使いたくないですけどね。特にレノックスさんには。あとが恐いですよ」
「俺だって御免《ごめん》だ。ケリに首ったけなんてな」
ケリ・モーガンはラムジーが紹介すると言っていた半妖精の子だった。ガンキャノホ族と人間のハーフで、〈グラマリー〉という魅了の魔法を使う。でも、あんなにハンサムならそんな魔法は必要ないんじゃないかしら、とアグネスは思った。
「アグネス。ランダルを助けに行くという気持ちに変わりはないかい?」
「当たり前よ。言い出したあたしが行かなくてどうするの?」
「ラムジーはどうする? 僕らと行くか?」
テーブルの下で『伏せ』のポーズを取っていたラムジーは身体を起こして短く一声吠えた。ハッハとピンクの舌を垂《た》らし、千切《ちぎ》れんばかりに尻尾を振っている。
「訊くまでもなかったな。一緒に行こう」
それからジャックは部屋の隅で小さくなっているカウラグに目を向けた。
「カウラグ族は〈惑《まど》わし〉が得意だと聞くが」
「自慢に聞こえるかも知れないけどサ、確かに得意だと言えるネ」
「そうか。おまえは、墓地で僕らのすることが人間の目に触れないように出来るか?」
「出来るか、だって? 簡単すぎて涙がでるネ! ラノンにだってオイラの術が見抜けないヤツはいっぱいいるンだぜ」
「それはすごいな」
ジャックは柔らかく微笑《ほほえ》んだ。
「僕に、その力を貸してはくれないだろうか?」
カウラグが丸い目をさらに丸くした。
「オイラが? アンタに? ダナの王子に?」
「そうだ。おまえに来て欲しいんだ」
「うひゃ! こりゃ驚きだ、ダナ王族の御方《おかた》がこのオイラに頼み事だって!」
カウラグはぴょんぴょん飛び跳《は》ねた。
「殿下《でんか》、もちろンご一緒させて頂きますとも! ランダルは新盟主より百倍マシだしネ!」
「よし、これで決まりだ。出発しよう。アグネス、準備はいいかい?」
「いつでもOKよ。時林檎も持ったし」
ラムジーが嬉しそうに尻尾を高々と上げる。
「運転はわたしに任せてほしいんだよね……」
もじゃもじゃ頭のギリーが言う。
「ギリー、済まねえ。運転くらい俺が出来りゃよかったんだが、その前に階段が上がれそうにねえ……」
「いいよ、レノさん。乗りかかった船だよ」
ギリーはラムジーが働く生花店の店主で、森の精〈ギリードゥ〉だという。でも、どう見ても気の良い普通のおじさんという感じ。レノックス以上に妖精らしくなかった。
レノックスが車椅子を回してジャックの脇まで行った。
「ジャック。本当は、これはあんたに頼める筋《すじ》じゃねえのは解ってる。だが、後生《ごしょう》だ。ランダルを助けてやってくれ」
「別に恩に着なくてもいい。はじめからそのつもりだった」
「けど、ランダルはあんたを……」
「彼が僕をどう思っていたかはどうでもいいことだ。彼は必要だよ」
「何にだ?」
ジャックは少しの間ためらい、それから顔をあげてまっすぐに一同を見渡した。
「〈同盟〉再建のためにだ」
古い墓地は草に埋もれて自然に還ろうとしているみたいだった。死人の手のように垂れ下がる樫《かし》の枯れ枝。葉を落としたニセアカシア。トネリコの大木。茂みのなかで木蔦《きづた》のつるが石の天使を抱き締めている。
突然、枯れた木の梢《こずえ》で小さな小鳥がびっくりするほど大きな声で囀《さえず》り出した。ミソサザイだ。
アグネスは、なんだか幸先《さいさき》がいい気がした。太陽の光が弱まる冬のさなか、小さな体に似合わない大声で歌うミソサザイは昔から〈鳥の王〉だと言われている。クリップフォードではその羽は無病息災《むびょうそくさい》のお守りにされてきたし、朝一番にミソサザイの歌が聴こえるのは縁起《えんぎ》がいいと言われる。
カウラグが〈妖素《ようそ》〉の革袋を取り出すと少量を掌《てのひら》にあけ、フッと息を吹きかける。
「これでオイラたちの姿は視《み》えないし、声も聴こえないヨ。オイラたちが場所を移動しても〈惑わし〉はついてくるからネ」
ジャックが狼ラムジーの首のあたりの毛皮を両手で挟むように撫でた。
「よし。ラムジー。最近ランダルがこの辺りを通ったかどうか分かるか?」
狼はこくりと頷くと、慎重にあたりの匂いを嗅《か》ぎ始めた。地面に鼻を近づけ、くんくんと嗅ぎ回りながら大小さまざまな形の墓碑《ぼひ》の並ぶ小道を足早に歩き回る。軽やかな足取りで木蔦に覆われた墓の間をすり抜け、飛び乗り、飛び降りる。ある場所まで来たとき、ラムジーは足を止めて熱心にあたりの地面の匂いを嗅ぎ始めた。頭をもたげ、鼻先を空気に晒《さら》してひくひくと風の匂いを嗅ぐ。狼の頭がぴたりと一つの方向をむいた。
「分かったの?」
ウォフッ! 狼が短く吠えた。尻尾が旗のようにあがる。
ラムジーは弾むようにリズミカルなフットワークで墓碑の間の小道を走り出した。石の十字架やレリーフのある石棺《せっかん》の間をくねくねと、だが迷う事なく駆けていく。
「待って!」
ラムジーを追って慌てて走り出した。銀の流れのような背中を見ながら大地を踏む。足の下で枯れ葉がざくざくと砕ける。ジャックがすぐ横を走っていた。地面に足が着いていないような身軽さで、ほとんど足音をたてない。チビのカウラグも跳ねるようにあとを付いてくる。
アグネスは奇妙な高揚感に包まれていた。
〈巨人〉だっていい。狼になったラムジーとこうして並んで走れるのなら。一緒に走っているだけで言葉なんかなくても気持ちが通じるような気がする。
あたしたち、仲間なんだ。
狼ラムジーは木立の間を走り、倒れた石碑《せきひ》を飛び越えて一段と荒れた緑の濃い一角へと皆を導いた。
「あれを見て!」
常緑のイチイの陰に半《なか》ば隠れるように古い納骨堂が佇《たたず》んでいた。ギリシャ神殿を模《も》したファサードには雨水が滲《にじ》み、黄と緑の苔《こけ》がレリーフの輪郭《りんかく》をまだらに包んでいる。狼は二本の石の柱に挟まれた細長い青銅《せいどう》の扉を前脚でかりかり引《ひ》っ掻《か》いた。ジャックを見上げ、左右に大きく尻尾を振る。
「見つけたんだね、ラムジー」
ジャックは納骨堂の入り口のステップに膝をつき、コンクリートを指でなぞった。
「間違いない。最近動かした跡がある」
ようやく追いついてきたカウラグが彼の足元で鼻筋に皺《しわ》を寄せて言った。
「魔法の匂いがする! ジャック殿下、ここには大きな魔法がかかっているヨ!」
「ああ、そうらしい。何の魔法か分かるか?」
「オイラの見立てじゃ、〈障壁《しょうへき》〉だと思うネ」
「ああ。僕もそう思う」
「まったく厄介《やっかい》でサ」
二人にはそれだけで何のことだか分かるらしい。でも、アグネスにはさっぱりだった。
「ねえ、〈障壁〉って何よ?」
「あらゆる魔法を通さない壁だよ」
ジャックが言った。
「物理的な壁ではないが、〈低き道〉も〈遠耳《とおみみ》〉も〈遠目《とおめ》〉も〈伝言精霊〉も通さない。だから外部と通信も出来ないし、脱出も出来ないんだ」
なーんだ、と思った。そんなことで深刻な顔をしてるわけ?
「あたしがやるわよ」
アグネスは肩掛け鞄《かばん》から〈時林檎〉を取り出し、一口|囓《かじ》った。林檎に含まれる〈妖素〉が生まれ持った巨人族の力を目覚めさせ、細胞のひとつひとつに力が漲《みなぎ》るのが分かる。
納骨堂の扉の青銅のリングをむんずと掴《つか》み、引く。ぎ、ぎ……。ライオンの口に銜《くわ》えられたリングは軋《きし》み、ゆっくりと変形し、そして音をたてて根元から折れた。
「このぉ!」
「アグネス、魔法はこの建物のある場所にかかっているんだ。この場の外から内への干渉はすべて遮断《しゃだん》される。だから声も聞こえない」
「場所……?」
神殿に似た納骨堂を見上げる。立派な造りだが、大きさは鶏小屋《とりごや》ほどだ。
「だったら……」
林檎をもう一口囓った。納骨堂の横に回り込む。石造りの建物は充分に堅牢《けんろう》そうだ。アグネスは納骨堂の壁面に両方の掌をつき、足を前後に開いて立ち位置を決めた。下腹に息を吸い、腰に力を溜め、そのままじりじりと全身の力を壁についた両手にかけていく。石の壁はびくともしない。さらに力をこめ、大地に足を突っ張る。
ずっ……。
納骨堂が、動いた。
土台のコンクリートの上、石の建物はじりじりと横|滑《すべ》りを始めた。止まったらダメだ。勢いを失わないように、一歩、また一歩と足を踏《ふ》ん張《ば》りながら納骨堂を押し、押しながら前進する。
ず、ず……。
巨大な蝸牛《かたつむり》の這ったような跡をコンクリートの土台に残し、納骨堂は本来あった場所からそれ自体の幅と同じだけ真横に移動した。息をつき、額から乱れた髪を払う。
「これでどう……?」
「たいしたものだ、アグネス。納骨堂の建物は〈障壁〉の場から離れたよ」
小憎らしいカウラグが心底感心したように嘆息《たんそく》をつき、すんげえや、と言った。ちょっといい気分だった。
アグネスは青銅の扉の前に回り、どんどんと叩いた。
「エルガーさん、聞こえる? 扉から離れて!」
片足をあげ、力を加減しながら持ち手の取れてしまった扉を蹴《け》る。蝶番《ちょうつがい》がめきめきと折れ、扉はすさまじい音を立てて納骨堂の中に倒れこんだ。砂埃《すなぼこり》が舞い上がり、黴《かび》と腐敗《ふはい》の臭《にお》いが鼻を突く。
ジャックが納骨堂に足を踏み入れる。
「盟主ランダル、無事か? 迎えに来た」
射し込む光の帯に砂埃がきらきらと光っていた。薄暗がりに目が慣れて来る。いくつもの棺《ひつぎ》が折り重なって転がり、その中にうっすらと人の形のシルエットが浮かんで見えた。
[#挿絵(img/Lunnainn3_163.jpg)入る]
「これはまた、大層《たいそう》なお出迎えですね……」
ランダル・エルガーは棺の一つに腰掛けたままこちらに顔を向けた。いつものパリッとしたスーツ姿は少しよれよれになっていて、ネクタイも緩《ゆる》んで曲がっている。
「エルガーさん、大丈夫? ちょっと乱暴なやり方だったけど、怪我《けが》はなかった?」
「ええ、大丈夫ですよ。レディ・アグネス」
眩《まぶ》しそうな目で一同を眺める。
「巨人族のレディ。カウラグ・スプライト。英国生まれのウェアウルフ。そしてダナの王子。なんとも奇妙な取り合わせですね……」
「もう王子ではないよ」
「私も、もう盟主ではありませんよ」
ランダルはひび割れた唇で嗤《わら》った。
「承認を得て再び盟主の座に戻ることも出来るだろう」
「〈同盟〉は崩壊しました。〈灰のルール〉なしに同盟は存続し得ません」
ジャックは彼に向かって手を差し伸べた。
「だったら、もう一度作ればいい」
◆◆◆
レノックスは車椅子に座ったまま全員の顔を見渡した。
狭い地下室には少々多すぎる頭数だ。
カウラグ、ギリー、アグネス、ケリ、そして物言わぬトマシーナ。一昼夜飲まず食わずで納骨堂に幽閉されていたランダルはさすがに疲労の色を滲ませている。ラムジーは狼の姿のままテーブルの下に寝そべり、落ち着かない様子でしきりに前足を舐《な》めていた。
「これからどうするか決めたい」
ジャックが言った。
「カウラグはフィアカラは彼に従った者たち全てをクリップフォードで殺すと話しているのを聞いたという。本当かどうか分からないが、あの男ならやりかねない」
ランダルが口を開いた。
「少し前、フィアカラは書簡で私にある提案をしてきました」
「どんな提案だ?」
「〈同盟〉メンバーの半分を殺し、その骨中《こっちゅう》の妖素で〈穴〉を開いて残りの半分をラノンに還すというものです。誰を殺し、誰を生かすかの選択は私に任せると」
「なんという事を……」
「私は拒否しました。私を幽閉するときフィアカラは言ったのです。提案を呑んでいれば半分は助けてやったのに、と」
「いや。あの男の言葉には一かけらの真実も含まれていないと考えた方がいい」
「おそらく、そうなのでしょう。しかし、もしも本当だったとしたら、三百人殺されるより百五十人を助けることが出来た方が上等だったと思いませんか?」
「思わないよ。死んでいく一人にとっては、その一つの死は全ての死と同じだ。そして生きる者はその死を背負う。貴公《きこう》は解っていると思うが」
ランダルは唇を歪《ゆが》めた。
「貴方《あなた》に言われるとはね」
「誰だって気づくさ。あの執務室を見れば」
ジャックは言った。
「僕は、クリップフォードに行くつもりだ。出来る事なら彼らを助けたい。これは危険だし、フィアカラに勝てる望みは少ない。だから一緒に来てくれとは言わない。行くか行かないか、みな自分自身で決めて欲しい」
「御身《おんみ》はどうなのです、ジャック王子。貴方にはなんの義理もない筈《はず》だ。貴方は同盟にも入ろうとしなかった。なのに何故《なぜ》今になって彼らを助けに行こうと思いついたのです」
「自分でも不思議だと思うよ。僕は自《みずか》ら望んでこの世界に来た。王族の義務を放棄して国と民を捨てたんだ。だがもしその僕にこの世界の同胞を救うことが出来たなら、僕がこの世界に来たことに何かしらの意味があったということになるんじゃないか?」
ランダルがいつもの穏やかな表情で笑った。
「相変わらず青いのですね、王子」
「生まれ持った性格はそう簡単に変えられないさ。変えたら僕は僕じゃなくなるだろう」
ギリーがおずおずと手を上げた。
「わたしは、これ以上いても役に立たないんだね。だから見つからないところに行こうと思うんだよね……」
「行く当ては?」
「サマセットに鉢物《はちもの》の生産を委託《いたく》している契約《けいやく》農場があるんだよね。そこに行こうと思うよ」
「いい考えだ。出来れば仔犬たちも頼みたい。それからレノックスの事も」
「おい、俺は……」
「その足が治ったとき、僕らがまだ生きていたら加勢を頼むよ」
「畜生、骨は拾ってやるぜ!」
レノックスは歯噛みした。悔しいが、今の状態では足手|纏《まと》いになるだけなのは目に見えている。〈治癒《ちゆ》〉を使える魔術者がいさえすればすぐにも歩けるようになるのに、人間の医療はまだるっこしい。
「カウラグ。おまえは?」
「オイラ、〈角足《スクウェア・フット》〉のジミイが行っちまうのを止められなかったンだ……。友達なのに、見捨てたンだ。オイラに勇気がなかったから……」
カウラグはいつになく神妙《しんみょう》だった。
「オイラ、非力なカウラグで、一人じゃなンにも出来ない……出来ないけどサ……オイラも連れてってくんないかナ……」
「何も出来ないなんてことはない。誰にだって出来ることはあるんだ。それに、おまえは一人じゃない。僕らは仲間だろう?」
「殿下、勿体《もったい》ないよゥ……」
カウラグは涙声だった。権威など端《はな》から馬鹿にし、悪ふざけとゴシップにしか興味がないカウラグがジャックに拝脆《はいき》している。レノックスは半ば呆れ、半ば感心した。まるで魔法を使ったみたいだが、そんな訳はなかった。
「アグネスはどうする?」
「もちろん、村に戻って闘《たたか》うわ。あたしの故郷だもの。あんな奴にあたしたちのクリップフォードを好きにさせるもんですか」
「分かった。ラムジーは……」
テーブルの下で、プロペラのように尻尾をぶるんぶるんと振り回している。
「訊くまでもなかったな。ケリ。君はどうする? お父さんと連絡は取れたかい」
ケリは硬い表情でかぶりを振った。彼はずっと父親の携帯にかけ続けているが、一度も応答がない。ケリの父も恐らくクリップフォードへ連れて行かれたのだ。
「父は……自業自得だと思います。母さんを捨てて一人でラノンに還ろうなんて考えるから、そんな目に遭《あ》うんだ」
狼ラムジーがケリの膝にあごを乗せた。つぶらな眼がまっすぐに見上げる。
「そんな眼で見ないでくれよ……。僕は、父が許せないんだ。〈グラマリー〉で母さんを騙して結婚して、今度は捨てるんだ……」
ジャックが言った。
「ご両親は結婚して何年になる?」
「二十四年、かな……。兄が二十三だから」
「ケリ。君は気づいていないようだから一応言っておく。〈グラマリー〉はどんなに長くても数日しかもたないよ。きっかけはそうでも、その後の二十四年は本心だった筈だ」
「あ……」
「どうするかは、自分で決めればいい」
ケリはますます青ざめて唇を嚼《か》んだ。父親に反発していた少年はそんな簡単なことにも気づかなかったのだろう。いや、気づこうとしなかったのか。
ランダルが部屋の隅で無言の行《ぎょう》を続けるトマシーナ・キャメロンに目を向けた。
「その女性は? 人間に見えますが」
「彼女は人間だよ。フィアカラに〈真実の舌〉をかけられている。フィアカラは彼女がクリップフォードで見た何かを知りたかったようだ。それが何なのかは解らないが、僕は彼女に助けると約束し〈沈黙〉をかけた」
「では、フィアカラが得た情報を我々も知るべきです」
「〈沈黙〉を解けというのなら断る。それは彼女の尊厳《そんげん》を損なう」
「人間の女の尊厳など、どうでも良いではないですか。同胞を助けると仰《おっしゃ》ったのでは?」
「どうでも良くはない。この世界は人間たちのものだ。僕らはそこに間借りする不法占拠者《スクウォッター》に過ぎない。いつかは僕らも彼らと融和《ゆうわ》していかなければならないんだ。クリップフォードの始祖《しそ》たちのように」
「私は、その考えには賛同出来ません。しかしこれ以上話しても無駄なようですね。貴方は剛直《ごうちょく》なお方のようですので」
「フィアカラも同じ事を言ったよ。レノックスは唐変木《とうへんぼく》と言ったが」
レノックスは苦笑した。面と向かってジャックにそう言ったのは三月ほど前のことだが、随分と昔のような気がする。
「あんた、よくそんな細かい事を覚えてるな」
「クソ馬鹿と言ったことも覚えているよ」
「まったく性格悪いぜ、あんたは!」
そう言ったとき、突然部屋の空気が揺らいだ。黒い点が空中に生まれ、ぐるぐると回り出す。
「〈低き道〉!」
さっと緊張が走る。ほとんど時を置かず、回転する黒い点はいきなり広がって空間に通路を開いた。黒いショールを纏《まと》った小柄な姿が現れる。黒い髪、黒い瞳、猫のように吊り上がった眦《まなじり》、ほっそりとしなやかな肢体《したい》。典型的なダナ美人だ。
「アグネス!」
〈風の魔女〉シールシャは穴から踏み出すなりアグネスの姿を探した。
「アグネス、良かった、無事だったのね!」
「シールシャ! 来てくれたんだ! あたしの伝言を読んだ?」
「さっき受け取って、読んですぐ戻って来たの。遅くなって悪かったわ。伝言を運んだ風が北極圏《ほっきょくけん》で嵐に巻き込まれていたらしいの」
「ううん、来てくれてすごく嬉しい! こっちはちょっと大変なことになってるけど、ここにいるみんなは無事だったし。レノックス以外はね」
「いったい、何があったの? おまえたちはどうしてここに集まっているの」
小柄な魔女は部屋を見回した。恐らくこの部屋の奇妙な状態は、彼女の理解の範疇《はんちゅう》を越えているだろう。
「そりゃ、説明するのに半日かかるくらい、いろいろあったんだが……」
レノックスは大急ぎで車椅子をシールシャの側《そば》へと回した。
「そいつを説明する前に一つ訊いてもいいか? レディ・シールシャ、あんた、もちろん〈治癒〉の術は使えるよな……?」
◆◆◆
ジャックは魔女シールシャがレノックスの手足に〈治癒〉を施すのを見守った。呪誦《ピショーグ》は使わず、患部《かんぶ》に順々に触れていくだけだ。
「いいわ。そっと立ってみて」
レノックスがゆっくりと車椅子から立ち上がった。慎重に床に足をつき、一歩前に出る。
「立てる! ぜんぜん痛くねえ! シールシャ、あんたは最高の魔術者だぜ!」
うおお、と伸びをし、どすどすと足を踏みならす。
「おまえは人の注意を聞いていなかったの?」
シールシャは切れ長の眦をさらに吊り上げて睨んだ。
「〈治癒〉の術は本当に治すわけではないと言ったでしょう? 治った状態を先取りしているだけ。死すべき運命の者を〈治癒〉で治すことが出来ないのはそういう理由だわ。この術は閉じていないし、だからもし術が解けたり、本当に治るのにかかる期間よりも早くわたしが死んだりしたら元の木阿弥《もくあみ》だわ。その間に無理をした分は倍になっておまえにはね返ってくるわ」
「あんたは死にやしないさ、別嬪《べっぴん》さん」
「女神様は無慈悲なお方だわ。これから先、何が起きても不思議じゃないわ」
「シールシャの言う通りだ。レノックス、おまえは少し自制した方がいい。今朝方まで熱があったんだ。体力は落ちている」
「どうってことねえさ。喰えばなおる。俺よりランダルの方が草臥《くたび》れてるんじゃないか? なんたっていい歳だしな!」
「聞こえていますよ、レノックス」
と、ランダル。
「わたしには何の問題もありませんよ。出発する前に貸金庫に預けてあるものを取りに行きたいのですが」
「ケリに行かせては? 貴公は休まれた方が」
「いいえ。貸金庫のキーは生体認証なのです。パスワードは〈舳先《へさき》に砕ける千の波〉という譚詩《たんし》の一節なのですけれど、ね」
突然、レノックスが咳《せ》き込《こ》んだ。
「あんた……知ってたのか……?」
「何をですか?」
「い……何でもねえっ!」
レノックスは熱がぶり返したみたいに赤い顔をしている。どうやら彼は何かレノックスの弱点を握《にぎ》っているらしかった。
「待て。一人では危険だ。ラムジー、彼と一緒に行ってくれるか?」
狼ラムジーは『伏せ』の姿勢から油のように滑《なめ》らかに立ち上がった。ランダルの左側にぴったりと付き、ふさふさとした尾を左右に振りながら茶色の眼で見上げる。ランダルは狼の両耳の間を軽く撫《な》でた。目尻に微《かす》かな笑みが浮かぶ。
「頼もしいですね、マクラブ君。では、三十分で戻ります」
一人と一匹は〈惑わし〉の扉を抜けて出ていった。
ラムジーと一緒なら心配ないだろう。ジャックは〈風の魔女〉シールシャに目を向けた。
「シールシャ。僕らはこれからクリップフォードへ同盟員たちを救出しに行くが、君は……」
年若い魔女は即座に答えた。
「もちろん行くわ、アグネスが闘うと言っているのだもの」
「だが、相手はフィアカラだ」
フィアカラは彼女の預かり親であり、同時に恋人だった。
シールシャは軽く顎をあげ、挑むようにジャックを見返した。
「それが何? わたしはいつかはあの男と決着をつけなければならなかったんだわ。きっとそれが今なんだわ。女神様は無慈悲だけれど公平なお方だもの、いつまでもあの男の好きにはさせておかないわ」
「そうか」
ジャックは小さく笑った。彼女は自分がフィアカラを名前で呼べずにいることに気づいていないようだが、少なくとも対決する気構《きがま》えでいるようだ。とりあえず、彼女がこちらにつくのは心強い。シールシャはラノン屈指《くっし》の魔女だったのだ。
「シールシャ。一つ頼みがあるんだ。君はフィアカラのかけた術を解くことが出来るか?」
ジャックはトマシーナを呼んでシールシャに紹介した。
「彼女はトマシーナ。この世界の人間だ。フィアカラに〈真実の舌〉をかけられている」
「〈真実の舌〉……?」
トマシーナが小さく頷く。
「全く、魔法を使えない人間相手になんてことをするのかしら! いいえ、判ってるわ、あの男はそういう奴なのよ!」
腹立たしげにそう言った彼女はトマシーナの舌を観察し、眉を曇《くも》らせた。
「ごめんなさい。わたしには無理だわ。この女にかけられた〈真実の舌〉は閉じていない。あの男と繋《つな》がったままなのよ。だから一度解いてもすぐまた元通りになってしまうわ。あの男自身が解くか、あの男が死なない限り解くのは難しいわ」
「そうか……」
つまり、いずれにしろフィアカラに勝たなければ〈真実の舌〉を解く事は出来ないということなのだ。
「トマシーナ。僕らはクリップフォードへ行く。君はここで待っていてくれないか。僕らが勝てば〈真実の舌〉も解けるだろうし、もしも負けて僕が死んでも〈沈黙〉は閉じているから大丈夫だよ」
彼女は何事か訴《うった》える目でこちらを見つめ、人さし指を唇に当てた。
「おまえが死ぬ話はするな、って言っているわ」
「どうして解るんだ?」
シールシャが笑った。
「どうして解らないのか、解らないわ」
「ホント、鈍いんだから、男って!」
アグネスも笑う。トマシーナは目の周りを少し赤らめ、大急ぎでメモに何か書きつけた。
【私も行きます】
「だが、危険だ」
【私が見たことをまだ全部説明していない】
「それはそうだが……」
正直言って、彼女を守れる自信はない。
クリップフォードで何が起きるか判らないのだ。レノックスの話ではフィアカラは気の荒い〈アンシーリー・コート〉の妖精たちを味方につけているという。彼らの中には人間を食料とみなす者もいる。万一、同盟員たちの救出に失敗した時にはフィアカラは大量の〈妖素〉を手に入れることになり、ラノンにいたときと同じ十全《じゅうぜん》な魔力を揮《ふる》えるようになるだろう。そうなっては勝ち目はほとんどない。
それに、アグネスが言っていた巨大ストーンサークル復元計画のことも気になる。それほど巨大なリングは一体何のために造られたのか。なぜフィアカラは復元しようとしているのか。或《ある》いはそれが大量の妖素を必要としており、そのために同盟メンバーたちの骨中《こっちゅう》の妖素を一気に奪おうとしているのではないか。だとしたら、それほど大量の妖素を必要とする大魔法とはいったい何なのか……。
レノックスの声がジャックを現実に引き戻した。
「何を悩んでるんだ。連れてけばいいじゃないか。本人の希望だ」
「だが、不確定要素が多すぎて危険だ」
「考え過ぎるのはあんたの良くない癖だぜ」
レノックスはどん、と背中を叩いた。
「〈風の魔女〉シールシャがこっちに付いたんだ。これで魔法じゃフィアカラと五分五分だ。その上こっちにゃ、あんたと俺とランダルがいる。アグネスとラムジーと、おまけにカウラグもだ。負けるわけないだろが!」
「そうだな……」
口元がひとりでに綻《ほころ》んでくる。レノックスの話を聞いていると本当に負けないような気がしてくるから不思議だ。
ジャックは人間と半妖精と妖精の奇妙でちっぽけな混成チームを見渡した。このメンバーで何が出来るかは分からない。だが、一番小さなミソサザイはすべての鳥の王なのだから。
「ランダルが戻り次第、出発しよう。僕らにだって出来ることはある筈だ」
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この街にて
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0――地下室
裸電球の光が目に眩《まぶ》しい。
いつの間にか膝《ひざ》に宛《あ》てがわれた氷嚢《ひょうのう》の中身が溶けてぬるま湯になっている。
どくん。
素早い電光に似た痛みの先触れが左の膝から身体を駆け上がった。
レノックスは身体が発するサインを無視しようとした。気のせいだ。あれだけ冷やしたのだから腫《は》れは引きつつある筈《はず》だ。だから、痛むのは気のせいだ――。
疼痛《とうつう》が押し寄せてくる。
どくん。
どくん。
数秒もしないうちにレノックスの希望的観測は打ち砕かれた。引き伸ばされた全ての靱帯《じんたい》と筋肉は再び悲鳴を上げ始め、万力《まんりき》で締め付けられるようにずきずきと疼《うず》いた。関節はメロンのように腫れ、熱を持ち、一つ息をするたびに苦痛の波を送りだしてくる。
レノックスは湿っぽいマットレスの上で身体を丸め、息を止めて押し寄せる痛みの波をやり過ごそうとした。だが、すぐに息の方が続かなくなった。吐く息が喘《あえ》ぎになり、食《く》い縛《しば》った歯の間から呻《うめ》き声が漏《も》れる。
「レノックス?」
ジャックだ。ソファで仮眠を取っていたところを起こしてしまったらしい。
「どうってこと、ねえよ……」
蒼白い眼が見下ろした。フロスティ・ブルー。霜の青だ。ダナの王の徴《しるし》。氷河。窓ガラスの霜。厚く降り積もった新雪。いや、それとも南極の氷山か……。とりとめの無い思考が熱で鈍《にぶ》った頭をぐるぐると駆け巡る。
ジャックが湯になった氷嚢に触れて眉を顰《ひそ》めた。
「すぐ氷を替えるよ」
彼は〈霜の瞳〉で流しの水を一睨みして凍らせ、ざくざくと砕いてプラスチック袋に詰めた。即席の氷嚢は言葉に出来ないほどの心地良さだった。
氷嚢の氷を全部取り換えるとジャックは湯を沸かし、固く絞《しぼ》ったタオルで汗にまみれたレノックスの手足を拭《ふ》き始めた。
「ジャック、そこまでしないでいい……」
「気を遣《つか》うことはないよ。僕は慣れているから」
そう言いながら手際よくシャツを剥《は》ぎ、上から順々に拭いていく。
「済まねえ……あんたにこんなことをさせるなんて……」
「言っただろう。慣れてるんだ」
ジャックは絞ったタオルをスチームパイプに掛けながら言った。
拭き、濯《すす》ぎ、干す。一連の動きは事務的で澱《よど》みがない。
レノックスは慣れている、という言葉の意味を噛《か》みしめた。
カディルか……。
ジャックは少なくとも半年、何も出来なくなったカディルを一人で介護《かいご》していた。
ジャックの育ての親のカディルはグラシュティグ族だった。山羊《やぎ》の足を持つ長命種族グラシユティグは別の意味でも野生山羊に似ている。美しく繊細《せんさい》だが、同時にひどく神経質なのだ。齢《よわい》八百を超え、グラシュティグとしても高齢だったカディルにとって人間の作ったこの騒々《そうぞう》しい世界は堪《た》え難《がた》いものだっただろう。
レノックスが二人を見つけ出したとき、カディルは既に心を失っていた。いま自分が横たわっているマットレスに無言で一日中ただ座っていたのだ。ジャックはこの世界に落ちてから二年近く同盟と関わりを持たず、自転車便の仕事で日々の糧《かて》を稼《かせ》ぎながらたった一人でカディルの世話を続けていた。
いったいどうしてそんなことが出来たのかと思う。ジャックはダナの王位継承者として宮殿で育った。王室専属の養育係だったカディルに、それこそ蝶《ちょう》よ花よと育てられたのだろうに。
レノックスは殺風景なコンクリートの地下室を見回した。古ぼけたソファとマットレス、そして乱雑に物が置かれたキッチンテーブルが一つ。大量の本と雑誌が床に平積みされているが、テレビもラジオもない。二年間、どうやってこの部屋で暮らして来たのか……。
何かがひんやりと額《ひたい》に触れる。ジャックの手だ。
「あんたの手、冷たいな……」
「まだ熱があるんだ。明日になっても〈治癒《ちゆ》〉を行える者が見つからなかったら人間の病院に行こう」
「いや。〈同盟〉と契約している半妖精の医者がいる。そっちに連絡を……」
「フィアカラの手が回ってるかも知れない。同盟関係者は避けたほうがいい」
「そりゃ、そうだが……人間の医者はもっと信用ならねえ……」
人間の医者に身体をいじられるなんぞ、真《ま》っ平《びら》ご免《めん》だ。奴らは初歩的な魔法すら使えないのだ。ジャックは嘆息を吐くように言った。
「おまえは人間が好きじゃないみたいだな」
「アンシーリーの連中の方がまだマシさ……」
人間は魔法も使わずに蟻《あり》のように働いてこの複雑怪奇な巨大都市を造り、そして戦争でそれを壊す。何を考えているのかよく解らない薄気味の悪い連中だ。
「そう嫌うこともないと思うが」
言いながら、ジャックは水の入ったマグカップをレノックスの口元に運んだ。
「水分を補給した方がいい。ゆっくり飲むんだ」
これじゃまったく赤ん坊だと思いながらレノックスはマグの水を少しずつ飲んだ。砂漠のようにからからの喉《のど》に水が沁《し》みこむ。熱を帯《お》びた身体はじゅうじゅうと水を吸い込み、いくら飲んでも渇《かわ》きは癒《い》えなかった。
辛抱《しんぼう》強くマグを支えながら、ジャックがぽつりと言った。
「そういえば、カディルも人間が苦手だった……」
ハッとなってジャックの顔を見上げた。カディルがトリニティ・スクウェアで自《みずか》らを焼いて果てたあの夜以来、ジャックがカディルの事を口にするのは初めてだった。
「人間だけじゃない。カディルは人間の作り出すもの全てを恐れていたよ。電灯も、自動車も、コンクリートも、地下鉄も、テレビも、ラジオも、信号機も」
「信号機もか……」
「ああ。カディルには、何一つ受け入れられなかったんだ」
「だが、あんたは違うな……。あんたはたいがいの奴よりうまく適応してる。同盟の支援もなしに、よく一人でここまでやってこれたもんだ……」
ずっと不思議に思っていた。〈同盟〉では新しくラノンから来た者に対し各種の支援を行っている。教育プログラムもその一つだ。この世界で生きて行くのに必要なさまざまな知識を教えるのだ。そうしなければ追放者たちは到底ここで生きて行くことは出来ない。ジャックはいったいどうやってたった一人でこの世界のルールを覚え、仕事を見つけ、その上それをうまくこなせたのか。
「僕は一人じゃなかったからね」
「だが、カディルは……」
「カディルは、僕の支えだった。彼を守るという目的があったから、僕はこの街で生き抜くことが出来たんだ。でも、僕を支えたのはカディルだけじゃない」
「誰だ? 話せよ……」
「面白い話じゃないよ。それよりおまえは眠った方がいい」
「こう膝が疼いちゃ眠れやしねえ……。話してくれよ……ちっとは気が紛《まぎ》れる……」
「じゃあ、少し話そうか」
ジャックはマグカップをテーブルに置いた。こもったような硬い音が地下室の壁に響く。裸電球がゆらゆらと揺れ、影法師が壁に躍る。天井がぐるぐる回る。関節は熾火《おきび》のように燃えている。痛みの波が寄せては返す。
「あれは、僕が〈地獄穴の刑〉を賜《たまわ》ったその日だった。カディルは僕の後を追って一緒に穴に飛び込んだんだ。僕らがともに墜《お》ちた場所は、今考えるとミレニアムマイルのどこかだったと思う……」
1――この街に墜《お》ちて
アーニー・ブラウンはいつものように市庁舎前広場にカフェの屋台を広げた。
テムズ南岸《なんがん》の再開発のお陰《かげ》で川沿いの散歩道は格好《かっこう》の商売場所になった。特にロンドン市庁舎前のこの小さな広場は最高だ。名所中の名所のタワーブリッジは目と鼻の先だし、向こう岸にはロンドン塔も臨《のぞ》める。もっとも、天気が良ければ、だが。
今日もまた天気が悪い。ロンドン塔はぼんやりと霧にかすみ、ミレニアムマイルのぴかぴかの石畳《いしだたみ》は寒々しさを増していた。
まったくまだ九月だってのに、何て寒さだ――。
この街で迎える秋はこれで八回目になる。
アーニーは、今年こそ冬が来る前に故郷に帰りてえな、と思った。
故郷ジャマイカにゃ冬なんてもの自体がなかった。ジャマイカでは一年中お天道《てんとう》様がさんさんと輝いているのだ。この街ときたら一年の半分以上は寒くて湿っぽく、雨ばかり降りやがる。
ま、お陰で暖かい飲み物がよく売れるわけだが。
カメラをぶら下げた観光客がぞろぞろと石畳の上を歩いていく。
さて、商売、商売と。
小さな黒板に手書きメニューを書く。コーヒー、紅茶、ホットチョコレート、カフェラテ、カプチーノ。どれもインスタントだが、客はそんなことは気にしない。腹の中から身体が温まればいいのだ。書き上がった看板をワゴンの脇に置いたとき、アーニーは川沿いの石畳にうずくまる奇妙な二人組に気付いた。
最初はホームレスか、と思った。だが、それにしてはなんだか妙だった。
一人はきらきらする縫《ぬ》い取《と》りのいっぱいついた短い上着を着た黒髪の若い男だ。もう一人はと言うと、これが生まれてこのかた一度もお目にかかった事がないというくらいの別嬪《べっぴん》だった。裾《すそ》を引きずる緑色のガウンのようなものを着ていて、これがまた見た事がないほど長い綺麗な髪が銀の滝のようにガウンの上を流れている。
アーニーは子供の時分に通っていた教会にあったマリア像を思い出した。そりゃあ綺麗なマリア様だった。毎週欠かさず日曜学校に通い、お説教そっちのけで飽きずに見つめていたが、大人たちはなんでアーニーが急に熱心に通い出したのか誰も気付きゃしなかったのだ。石畳にうずくまっている銀髪の女は、そのマリア様に似ていた。殺風景な川沿いの石畳に白い百合《ゆり》の花が咲いたみたいだった。
アーニーはつらつらと奇妙な二人組を眺め、この近所のグローブ座の役者に違いないと結論づけた。テレビで観《み》たシェイクスピア劇の役者がなんだかそんな格好だったからである。
なんというか、この世のものじゃないみてえに綺麗だ。お姫さまかなんかの役に違《ちげ》えねえ。あんな別嬪の女優が出るんなら糞《くそ》面白くない古典劇も悪かねえかも知れない――。
そうこうするうちに観光客の波が押し寄せてきてそれっきりアーニーはマリア様に似た女優と若い役者のことは忘れてしまった。いつの間にか霧が雨に変わっていたが、温かい飲み物はこれくらいの陽気の方がかえってよく売れる。観光客の一団が去って手すきになったとき、ふと見るとまだ奇妙な二人組は肩を寄せ合ってうずくまっていた。マリア様に似た女優の銀の滝のような髪が細かな水滴にけぶっている。
見ているうちに、腹が立ってきた。あの若いのは何で彼女を雨に濡れないところに連れていってやらないんだ? だいたい、あの二人は何時《いつ》からあそこにいるんだ? 思い返すと、店を出したときからいたような気がする。どんな理由があるんだか知らないが、劇場に帰れない訳があるんならあんな所にいないで何処《どこ》へでも行けばいいじゃないか。
いや、本当に役者なのか? どうも何だか変だ。
そのとき男の方が顔を上げ、真っ正面から目が合った。
アーニーはぎょっとした。男の眼は、雪か氷のように蒼白かったのだ。
薄気味が悪い、と思った。まさか、悪霊《ダピー》じゃねえだろうな。女の方はあんまり綺麗すぎるしな……。
氷の眼をした男が立ち上がり、こちらに近づいて来る。
おい。冗談じゃねえ。来るのか?
アーニーは素早く主《しゅ》の祈りを口の中で三回|唱《とな》えた。悪霊なら来るな、オレは何もしちゃいねえからな……。
だが祈りも虚《むな》しく氷の眼の男はまっすぐに屋台のカウンターにやって来た。
「……ひとつ、尋ねたいんだが」
唸《うな》るような奇妙な発音で言う。
「へえ」
「おまえは、何を商《あきな》っている?」
「そりゃ、見りゃ分かると思うがね。茶とコーヒーとホットチョコレート。追加のトッピングは二十ペンス」
男の顔をじろじろ見ないようにしようと努《つと》めたが、無理な話だった。間近で見ると男の眼はますます人間離れして見えた。白人には青い眼はそう珍しくない。が、この男のように淡い青色の眼というのは未だかつてお目にかかったことがなかった。南極の氷に日が当たってほんのうっすら青味がかっているような写真を見たことがあるが、この男の眼の青はそれと同じくらい薄いのだ。
まったく、あんな雪玉みてえな目玉で本当に物が見えるんだか。色素が足らないのに違いねえ。それなのに髪はタールのように真っ黒ときている。それがひどくアンバランスで気味が悪いのだ。
そんなことを考えていると、再び男が口を開いた。
「その、それは飲むものだろうか?」
アーニーは面食らい、まじまじと男を眺めた。
黒い髪が濡れそぼって額に貼り付いている。蒼白い眼は気味が悪いが、そこに浮かぶ表情はどちらかというと必死だった。やっぱり悪霊ではなく人間らしい。
「まあ、普通は飲むもんだ。気に入らない奴にぶっかけてもいいけどよ」
「そうか……」
男は少しの間考え、中指から大きな金の指輪を抜いてコトリとカウンターに置いた。
「金子《きんす》の持ち合わせがない。これで売ってもらえないだろうか」
「本物か?」
「先祖伝来の品という意味なら、そうだ」
アーニーは指輪をつまみ、手の中で転がした。絡《から》み合う蔓《つる》のような浮《う》き彫《ほ》りが全体に施《ほどこ》してあり、キラキラとよく光る石が嵌《は》め込《こ》んである。ブランド品ではないからわざわざ模造するには手が込み過ぎているし、何よりずっしりと重い。これほど重い金属は二種類しか思いつかない。金と鉛《なまり》だ。鉛をこんな風に細かに細工出来るとは思えなかった。
先祖伝来の品、だとよ……。
指輪と男を交互に眺め、それから雨に打たれてうずくまるマリア様に似た女に目をやった。
ちくしょう、マジで似てやがるな……。
アーニーは黙ったままラージサイズの紙コップを二つ並べて紅茶を滝れ、自分用のラム酒を注《つ》いだ。それから余分の砂糖と一緒に指輪をカウンターに戻した。
「ほいよ。持ってけ。釣《つ》りがねえからこいつは受け取れねえ」
「しかし……」
「若いの、人の好意を無にすんじゃあねえ。言っとくがおめえのためじゃねえからよ。あの別嬪さんのためだからよ」
「……感謝する」
氷の目の男は奇妙なアクセントで礼を言い、急ぎ足でマリア様に似た女に熱い紅茶を運んで行った。
アーニーは眉根を寄せた。ジャマイカ生まれの自分が言うのも何だが、あの男の訛《なま》りはひどい。賭《か》けてもいいが、あいつは絶対シェイクスピア役者じゃあない。それに悪霊でもない。悪霊は金の指輪と紅茶を取り換えようとしたりはしない。
だったら何なんだ?
アーニーは八年前、初めてこの国にやって来たときのことを思い出した。ジャマイカは英国の旧植民地だから人国の時はとやかく言われなかった。だが、この国で働くとなったら話は別だ。昔と違ってこの国はそういう事にひどくうるさくなっているのだ。労働ビザがなければまともな職につけやしない。下手をしたらとっつかまって強制送還だ。それでも旧東側諸国やアジアからはより良い暮らしを求めて不法移民の群れが押し寄せてくる。コンテナに隠れて人国しようとして窒息死《ちっそくし》した連中もいるし、悪《あく》どいシンジケートに引っかかって売春組織に売られちまったという話も聞く。
そうなのかも知れねえな、と思った。何しろ、あんだけの美人だ。あの二人は東欧か南米のどっかの国から裏ルートで密入国して、そんで売られそうになってシンジケートから逃げ出して来たのかも知れない。まあ、オレには関係のない事だがな。
そんなことを考えているうちに、氷の眼の男が紅茶を飲み終えて紙コップを返しに来た。アーニーは呆れ果てた。
「そりゃ、返さなくていいんだ。そこらのゴミ箱に捨てちまってくれ」
「ああ、そうなのか」
男はひどく驚いたようだった。
「常識だぜ、まったく」
いったい、どんな僻地《へきち》から出てきたんだか。
いや、自分だって八年前はこの街の事は何一つ知らなかったわけだが。だが、自分には仲間がいた。この国には昔からジャマイカ人のコミュニティーがある。だから、困った事はなんでも仲間に相談すれば良かった。
「おめえ、仲間はいねえのか。同郷のもんとか?」
「分からない。ここへは僕ら二人だけで来た」
溜め息が出た。金もなきゃ仲間もいないのか。もっとも、いたら一日中ミレニアムマイルの石畳に座っているなんてことは無い訳だが。
アーニーはメモ紙に簡単な地図を書いて男に渡した。
「よう。その指輪を売る気があんならここへ行きな。アーニーの紹介だって言やあ真《ま》っ当《とう》な値で引き取ってくれるからよ。ただし、質屋《しちや》じゃねえからいっぺん売ったもんはあとで惜しくなっても取り返せねえ。そんでも良いなら持って行きな。間違っても紅茶一杯と取っ換えたりすんじゃねえよ。金が出来たら今夜は二人で屋根のあるとこに泊まって、あの別嬪さんに暖かいものでも食わしてやんな」
男は驚いたように地図とアーニーの顔を見比べた。固く引き結ばれた口元が緩《ゆる》み、おずおずとした笑みが浮かぶ。
「ありがとう。感謝する。この恩は忘れないよ。アーニー、だったな」
「ああ、そうさ。オレはアーニー・ブラウンってんだ。おめえは何て名だい?」
氷の眼をした男は、今度は真っ白な歯を見せて笑った。
「僕は、ジャック・ウィンタースだ」
翌日、同じ場所で開店準備をしているとあの氷の眼の男、ジャックが再びやって来た。
「礼を言いに来た。昨日はいろいろ済まなかった。指輪を売った金で昨夜《ゆうべ》は宿屋に泊まることが出来たんだ」
アーニーはにやりと笑った。ジャックが故買屋《こばいや》に着く前に電話して、氷色の目の男が指輪を売りに来たら近所の安全な安宿を教えてやるように頼んでおいたのだ。だがそんなことはおくびにも出さずに言った。
「そいつァ良かったな。ところで、あの別嬪さんはどうしてんだ?」
「カディルは気分がすぐれないようなので宿に残してきた。彼も感謝しているよ」
「へ? 彼?」
アーニーは素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出した。
「ってぇことは、あの別嬪さんは、男なのかい……?」
「ああ。皆、間違えるんだ。彼の種族は髪を切るということをしない。だから歳を経《へ》ると男も女も非常に髪が長くなる。外見からはほとんど区別がつかない」
「ああ、畜生《ちくしょう》。なんてこったい、男だったのかよ。オレぁ、てっきり飛びっ切りの美女かと思っちまったぜ。そりゃ、オレの故郷でもラスタの連中は髪を切らねえけどよ……」
もっとも髪が短かったらあの別嬪が男に見えたかどうかといえば、それはそれで別の話だ。髪が長かろうが短かろうが、この世のものじゃないくらい綺麗だったってことに変わりはなかった。まあ、考えてみれば教会のマリア様とおんなじで、見るだけで触れないのなら男女どっちでも変わらないってことだが。
「ま、間違えたのはオレの勝手だ。別嬪さんに宜《よろ》しく言っといてくれ」
「いや。おまえのお陰で金子を工面《くめん》できたわけだから、昨日の飲み物代は払うよ。これで足りるか?」
男はカウンターに五十ポンド札を置き、蒼白い眼で見上げた。
「足りるかって、おめえ……」
「足りないのか?」
もう一枚置く。
紅茶二杯に百ポンドだって?
こいつはオレを担《かつ》いでるのか、それともおつむが足らないのか?
だが、どっちにも見えなかった。男の表情はうんざりするほど真剣だし、それにこの若いのは言葉遣いはおかしいが頭の回転はいたって良さそうだった。
「おめえ、昨日の指輪、幾《いく》らで売ったんだ?」
「この紙の札《ふだ》二十枚と交換した。これがどれほどの貨幣価値《かへいかち》なのか判《わか》らないんだが」
思わずヒュッと口笛を吹いた。
「ってこたぁ、一千ポンドかよ! 一ヵ月は暮らせるぜ」
「一ヵ月は何日だ?」
「細けえ奴だな、三十日でも三十一日でも大差はねえだろ!」
「つまりここでの一ヵ月は三十日か三十一日なのか」
「問題はそこじゃねえだろが、一千ポンドは大金だってことだろうがよ!」
「ああ、そうなのか。それで、昨日の飲み物の価格は?」
「まだ言ってやがる。ありゃ奢《おご》りだ」
「いや。知りたいんだ。ああいうものは幾ら位で、食事や宿代は幾ら位が適正なのか」
「適正、ときたもんだ。うちのお茶はラージサイズが一ポンド五十だ。適正価格だぜ? けど宿に居るんならスーパーで安いティーバッグでも買った方がよかねえか?」
「〈スーパー〉とは何だ? 〈ティーバッグ〉とは?」
アーニーは目を剥《む》いた。冗談だろう。だが相変わらずこの若者の表情は真面目そのものだ。念のため、もう一つだけ訊《き》いてみることにした。
「なあ、おめえにひとつ尋ねるが、ここが何て街だかぐれえは、判ってるよな……?」
ジャックは少しのあいだ躊躇《ためら》ってから答えた。
「いや。実は知らないんだ。ここはどこなんだ? 随分と大きな街のようだが」
今度こそ、溜め息ものだった。
つまりこいつは立ち飲みの相場もスーパーもティーバッグも知らず、それどころかここがロンドンだということすらも分かっていない。飛び切りの別嬪(男だが)を連れて、この生き馬の目を抜くロンドンで文字通り右も左も判らずにいるのだ。
アーニーには即座に二人の未来が十通りばかり予想できた。一番ましな運命でもうんざりするような内容だった。
もちろん、こいつらがどうなろうと自分には関係ない話だ。関係ない筈なんだが……。
ちらりとジャックに視線を戻す。
この時になってアーニーはこの男が最初に思ったよりもずっと若いことに気付いた。えらく若い。首筋の固さや口元の柔らかさ、それに全体の線の細さがそれを物語っている。男というよりはほとんど子供と言った方がいいくらいだ。一人前の男に見えたのは、今まで緊張して肩肘《かたひじ》を張っていたからだろう。
「ボーイ。おめえ、歳はいくつだ?」
ジャックはちょっとムッとした顔をし、胸を反《そ》らせるようにして答えた。
「十七だ。言っておくが、僕の国では十七は大人だ」
思わず鼻で笑った。自分を大人だと言いたがるのは、子供だけだ。
「そうかい。けどここじゃ違うんだ。誰かに聞かれたら十八と六ヵ月だと言っときな。家出のガキと間違われたくなかったらな」
「ああ、そうなのか。いろいろ済まない。もし訊かれたらそう言うことにするよ」
アーニーは十七歳は大人だと主張する氷の眼をした大人子供をもう一度眺め、それからあのマリア様に似た別嬪のことを考えた。
そういや、お袋がよく言ってたっけな――いいかい、アーニー。野良犬に餌《えさ》をやるんじゃないよ、いっぺんやったらずっと面倒をみなけりゃならなくなるんだからね――
いつだってお袋は正しかった。まあ、考えてみりゃこっちは一つも言う事を守らなかったんだけどな。
「まったくよ。オレは観光客の相手で忙しいんだよ。おめえの質問にいちいち答えてなんぞいられねえんだ」
アーニーは新品の紙コップの束《たば》からプラスチック・シールを剥《は》がしながら言った。
「ここはロンドンだぜ、若いの。日が暮れる頃もう一遍《いっぺん》来な。そしたら一から教えてやっからよ。この街の暮らし方ってヤツをよ」
◆◆◆
ジャックは川沿いの通りを走っていく真っ黒な鋼《はがね》の荷車《にぐるま》を眺めた。頭の上に見たことがない形のランプがついている。
「アーニー。いま通りを行った黒い鋼の荷車は何というんだ? 黄色いランプがついているが」
アーニーがにやにやしながら答えた。
「おめえ、黒塗りオースチンのタクシーも知らねえのか? ロンドン名物だぜ」
「〈黒塗りオースチンのタクシー〉……」
ジャックは復唱《ふくしょう》しながら宿屋から持ってきた書簡箋《しょかんせん》に書き留めた。
「〈黒塗りオースチンのタクシー〉の黄色い『TAXI』のランプは何のためなんだ?」
「そりゃ、客に空車か客が乗ってるか教えるために決まってるだろうがよ。それにな、タクシーじゃないオースチンもあるし、オースチンじゃないタクシーもあるわけだ。タクシーかどうか一目で分からないようじゃ通りで客を拾えねえだろ?」
「なるほど。客のための目印なのか」
どうやら〈タクシー〉というのは乗り合いドラゴンのようなものらしい。鋼の荷車は総称して〈自動車〉と言う。自動的に動く車だ。操縦者が右前方に座り、円形の肘木《ひじぎ》を使って操作する。後部には細い煙突のようなものが突き出しており、そこから吐き出される煙のため大通りの景色は少しけぶっていた。驚くべきことに、何十万というこの〈自動車〉が日夜煙を吐きながらこのロンドンの街角を走り回っているというのだ。
「それからよ、オースチンじゃねえタクシーはもぐりが多いからな。乗るときは遠回りしてボラれねえよう気をつけな」
「なるほど」
どう気をつけたらいいのかはよく分からなかったが、とりあえずジャックはそう答えておいた。あまりに基本的なことを知らないのは拙《まず》いように思えたからだ。今のアーニーの話から推測出来たことは、〈タクシー〉は決まった道を走るのではなく、乗客の求めに応じて走行し、走った距離に応じて課金《かきん》するらしいということだった。
〈タクシー〉についての考察を書簡箋に書《か》き綴《つづ》っていると、今度は驚くほど巨大な四角い〈自動車〉が赤い巨体を揺さぶるようにして角を曲がって来た。
「アーニー、あれは何だ?」
「ありゃ英国名物ダブルデッカーバスに決まってるだろが」
「なるほど」
よく見ると人が乗る部分が|二階建て《ダブルデッキ》の構造になっている。だから〈ダブルデッカー〉バスなのだろう。〈タクシー〉と違って多数の人間を乗せて走っているところを見ると、道筋は予《あらかじ》め定まっているのだろうか。
「あれは公共交通機関なのか?」
「おめえ、難しいことを言うなあ。公共って言やあ、そうだなあ。皆が乗るからな。最近のは車掌《しゃしょう》が乗ってないことが多いんで、小銭《こぜに》を持ってないと厄介《やっかい》だぜ」
「なるほど。公共のものだが有料なわけか」
ジャックは急いで書簡箋に書き込んだ。『ダブルデッカー・バス/公共交通機関。乗車料は有料。小銭で支払う』。
〈ダブルデッカーバス〉が走っていく道路の際には縞模様《しまもよう》のポールが立っている。
「アーニー、あの道路|際《ぎわ》に立っているポールはなんだ? 上の部分の丸い玉がさっきから光ったり消えたりしている」
「ああ、ありゃベリーシャ標識だ。歩行者専用の信号灯みてえなもんかな」
〈ボールペン〉をとり、〈ベリーシャ標識/光の点滅《てんめつ》により通行の安全を報《しら》せる〉と書簡箋に書き込む。注意して観察すると、〈自動車〉と歩行者は光の合図によって交互に通行していた。確かにそうでなければこの大通りは危険だろう。
「なるほど……。合理的だ」
アーニーの褐色《かっしょく》の顔が二つに割れるように笑った。
「おめえ、なるほどばっかりだな」
「ああ、そういえばそうだ」
つられてジャックも笑った。
この世界に墜《お》ちて今日で七日になる。
あの日からジャックは毎日アーニー・ブラウンの屋台に通っていた。アーニーはジャックの無知に呆れながらも仕事の合間に一つずつ質問に答えてくれた。アーニーが答えることが出来なかった質問は保留になっている。例えば、〈自動車〉がどうして動くのかアーニーは知らなかった。ジャックは聞いたことすべてを箇条《かじょう》書きにして書簡箋に書き込んだ。その項目は既に百に上《のぼ》る。
〈スーパー〉〈ボールペン〉〈自動車〉〈ネオンサイン〉〈地下鉄〉〈ランナバウト〉〈ティーバッグ〉〈ジーンズ〉〈電気〉〈信号〉〈タワーブリッジ〉〈スニーカー〉〈インスタントコーヒー〉〈シリアル〉〈携帯電話〉〈飛行機〉など。
全てが驚異だった。
もっとも驚くべきことは、それらの驚異の道具には魔法が使われていないということだった。
この世界には魔法が存在しないという。
初めは信じられなかった。ラノンでは魔法なくして社会は成り立たない。人の暮らしのすべてが魔法に依存しているからだ。ましてや魔法なしに文明が成立するなど考えられない。
ラノンには多くの種族が住んでいる。外見はさまざまで、異形《いぎょう》や複数の種の特徴を持つ種族も多い。これらの種族が〈人〉であるか〈魔物《フーア》〉であるかどうかは『言語』『魔法』を使うかという二つの点に掛かっていた。言語によるコミュニケーションか魔法、このどちらかが備《そな》わっていればその種族は〈人〉であると見なされる。その代表格がジャックの属するダナ人や金の髪をしたタルイス・テーグだ。魔法と言語の双方を使う種族はラノンにおける支配的種族であり、その中でもダナがもっとも栄えていた。
だが、ジャックもこの世界に来てから魔法が使えなくなっていた。カディルもだ。何度も試してみたが、駄目だった。この世界では一切の魔法が作動しないのだ。
この世界に来る前、ジャックは〈地獄穴《じごくあな》〉の向こうにある世界がどんなものなのかあれこれ想像していた。だが、この世界の現実はどんな想像をも凌駕《りょうが》していた。
魔法のない世界。
いったいラノンの誰がそんな世界を想像し得るだろうか。長年に渡って〈地獄穴〉を処刑の道具として使ってきたダナ王室の魔術者たちでさえ考えもしないだろう。この驚異の世界が〈地獄穴〉によってラノンと直接に結ばれていたのだ。
ジャックは魔法が作動しない原因について既に自分なりの仮説を立てていた。この世界には鉄が――魔法を阻害《そがい》する性質を持つ〈冷たい鉄〉――があまりに多いからではないかというものだ。ラノンでは考えられないことだが、乗り物から橋に至るまで、ここではありとあらゆる物に鉄が使われていた。この街は鉄と硝子《ガラス》と人工石とで出来ていると言って良かった。
この世界にはもともと鉄が多かったから魔法が発達しなかったのか、魔法がなかったから鉄を使うようになったのかは分からない。だが結果としてこの世界では魔法技術が発達せず、その代替《だいたい》として科学技術と呼ばれる全く異なった技術が発達したのだ。ラノンの魔法と比べればさまざまな不便はあるが、ここの人間たちは科学技術のみを用いて高度な文明と巨大な都市とを築き上げたのだ。まったく驚くべきことだった。万に一つ、ラノンに還《かえ》るようなことがあったらこの事実を王宮の魔術者たちに報せたいと思った。そして魔法なしでの文明社会の可能性について彼らと論じてみたかった。
通りに視線を戻すと、今度は〈自動車〉の車列の横を奇妙な二輪の乗り物が通りを走っていくのが見えた。
「アーニー。あの二輪の乗り物は何と言うんだ?」
「呆れたもんだな! おめえ、自転車も見たことねえのかよ」
「〈自転車〉……」
ジャックは急いで書き留め、軽やかに走る〈自転車〉を眺めた。
なんと不思議なものだろう。乗り手は小さな鞍《くら》に跨《また》がり、金属の肘木で方向を決める。本体を支える大きな二つの車輪は前後一直線に並んでついているので今にも倒れそうなのだが、どういうわけか倒れもせずにすいすいと走るのだ。あんなに薄く不安定に見えるのに、どうして倒れず走り続けることが出来るのだろうか。
「アーニー、〈自転車〉は……」
「なんで倒れねえのか、だろ? んなこた解《わか》るワケねえじゃねえか。オツムで考えてないで、自分で試してみたらどうでえ?」
「僕がか?」
「他に誰がいるってんだ? ここじゃ自転車に乗れねえのは赤ん坊だけだぜ」
ジャックは滑《すべ》るように走って行く〈自転車〉を目で追った。〈自動車〉と違って覆《おお》いがないので乗り手がよく見える。乗っているのはたいがい若い人間だが、白い髪をした年配の人間もいた。鞍に跨がり、風を切って走っていくさまは乗馬にも似ている。
「僕にも、乗れるだろうか」
アーニーは仕事の手を止めず、にやにや笑いながら言った。
「やってみなきゃ分からないだろうがよ。明日はちょうど仕事が休みだ。自転車はオレが何とかするから、やってみな」
次の日、約束通りアーニーは何処からか自転車を一台持ってきた。
「この代価は……」
「気にすんな、そこらの道で拾ったもんだからよ」
「しかし……それでは本当に捨てられていたのかどうかは判らないんじゃないのか」
「全くお堅いな。ま、おめえは故郷じゃちゃんとした暮らしをしてたのかも知れねえがな。ここじゃオレと同じ不法滞在者だ。郷《ごう》に入れば郷に従えってことよ。それとも強制送還で故郷に帰るか?」
「いや。僕らは還りたくても還ることは出来ないんだ。永遠に」
「また大袈裟《おおげさ》だな。ま、人それぞれいろんな事情があるってこった。そんで、この自転車に乗るのか、乗らねえのか?」
「乗る」
ジャックは短く答えた。ラノンに還ることが出来ない以上、この街で生きる術《すべ》を学ばなければならない。そのためには多少のことには目を瞑《つぶ》ることも必要だった。
〈自転車〉の肘木を両手で掴《つか》んでみる。ほとんどの部分は金属のパイプで出来ており、肘木には樹脂《じゅし》の握りがついていた。
「どうやって乗るんだ?」
「なに。サドルにケツを乗っけて、両足でペダルを漕《こ》ぎゃあいいんだ」
「そんな事を言ったって……」
車輪の幅は一インチもない。とにかく言われたように鞍に跨がってみるが、ペダルに足を掛けようと地面から足を放した途端に左右のどちらかに倒れそうになる。
「これでどうやったらペダルを漕げるんだ?」
「しょうがねえな、オレが後ろを押さえててやっから!」
アーニーが鞍の後ろの部分を手で掴んだ。それでも不安定なことには変わりがないのだが、なんとか右のペダルに足を乗せることに成功した。
右足が深くペダルを踏みこむ。車輪が回転し、ぐっ、と前に出る。
「行け! どんどん漕いでけ!」
左足をペダルに乗せた。車体がぐらり、と揺れる。上体を使ってバランスを取った。よろよろと、前に前にと進む。今にも倒れそうだが、倒れない。
ペダルを踏む。右。左。右。左。右。
「アーニー! 手を放さないでくれ!」
「ああ、分かったよ、放さねえよ!」
後ろの方で怒鳴る声が聞こえた。
ハッと振り返る。遥か後方で手を振っているアーニーの褐色の笑顔が見えた。
一人で走っているんだ、と思った瞬間、バランスが崩れ、ジャックは派手な音をたてて自転車もろとも路面に転倒した。
「ひどいじゃないか。放さないでくれと言ったのに……」
アーニーが手を差し伸べながらニヤニヤ笑う。
「ああ、そうだったかい? けど、一人で乗れただろが?」
「確かにそういえばそうだが。いつ手を放したんだ?」
「さてな。動き出してすぐ、だったか」
これには思わず苦笑した。乱暴なやり方だが、支えられていると思っていたから思いきり良く漕ぎだすことが出来たのだ。ジャックは最初に自転車があった地点に目をやった。大した距離ではないが、確かに自分一人の力でここまで走って来たのだ。
「もう一度やってみるよ。コツが掴めそうなんだ」
さっきので解ったが、これは動いている限り倒れないのだ。ペダルはしっかりしているので、乗馬のとき鐙《あぶみ》に体重を乗せるのと同じ要領で足を掛ければいい。
ジャックは両手で肘木をしっかりと掴むと左の足をペダルにかけ、右の足で地面を蹴《け》った。そのまま体重をペダルに移し、ひらりと鞍に跨がる。車輪が回転し、車体が倒れることなく前へ前へと進み始めた。ペダルを交互に漕ぐ。右。左。右。左。右。
自転車はすべるようにコンクリートの道を走り始めた。
「アーニー! 僕一人で走ってる!」
「ああ、そうみてえだな!」
アーニーの声が小さくなっていく。
「おぉい! 言い忘れたが、止まるときはハンドルのブレーキを掴むんだぞ!」
だが、ブレーキを引く余裕などなかった。止まったら倒れてしまう。ジャックは夢中でペダルを漕ぎ続けた。
風が頬を撫《な》でる。速度が増すにつれ自転車は地面に吸い付くように走った。ペダルを漕ぎ、止め、惰性《だせい》で走行し、また漕ぐ。少し慣れてくると、速度を落としても倒れないコツが解って来た。重心の移動でバランスを取るのだ。ペダルを強く踏めば自転車は速度を増し、肘木を右に向ければ右に、左に向ければ左に進む。それがひどく小気味が良い。
[#挿絵(img/Lunnainn3_209.jpg)入る]
ジャックは路地から路地へ自転車に乗ったまま走り回った。速い速度で移動しながら眺める街は生き生きとした色彩を帯びている。さまざまな商店、道行く人々、荷を満載した自動車。この街の速度と〈自転車〉の速度はちょうど合っているのかも知れなかった。
確かにこれは乗馬と似ていた。故郷ではよく遠乗りをしたが、自転車の爽快感は非常にそれに近い。
ひとしきり路地を走り回ったあと、ぐるりとUターンしてアーニーのところに戻った。
「見てくれ、アーニー。僕は〈自転車〉に乗れるようになったよ」
その頃には、〈自転車〉の車体はもう自分の身体の一部のように感じられた。
ジャックはペダルの上に両足で立ったまま地面に足をつけずに自転車を停めた。肘木を傾《かし》げて角度をつけ、重心を微妙に移動してバランスを保つ。二十数える間そのままその場に停止していたあと、再び走り出して今度は馬が竿立《さおだ》ちになるように前輪を上げて後輪だけで立ち上がって見せる。自由自在だ。
「アーニー、これはとても面白いよ」
「まったく、呆れたもんだな。ついさっきまで触ったこともなかったくせによ」
「理屈が解ったんだ。それから先は簡単だった。これは独楽《こま》と同じなんだ。回転しているものは倒れない。あとはバランスだ」
「独楽か。おめえはほんとに面白いことを言う奴だ。そういや、似てるかも知れねえな」
アーニーは自転車を操るジャックを眺め、にやにやしながら言った。
「停めとく時は気をつけろよ。黙って持ってく悪い奴がいるからな」
2――この街に生きて
ジャックは宿屋にカディルを残し、シャッターの降りた商店の並ぶ通りを一人で歩いた。
指輪を売った金はいつまでもある訳ではないので、宿屋住まいが長引くのは避けなければならなかった。それで、アーニーの友人が見つけてくれたただで住めるという空き家に移ることにしたのだ。
落書きをされた建物が続く通りを二ブロックほど歩き、路地に入ってさらに行くと目印の空き地が見えた。その空き地の隣が目指す建物だった。
「よう。来たな」
アーニーとアーニーの友人たち――みなジャマイカという所の出身で褐色《かっしょく》の肌をしている――は既に空き地で待っていた。赤と緑のカラフルな縞《しま》の帽子を被《かぶ》った男はビリー、黒い毛糸の束《たば》のような髪を背中まで垂《た》らした男はジョンだと名乗った。
「よろしく。僕はジャック・ウィンタースだ」
「ああ、堅《かて》えことは抜きだ。おまえさん、アーニーのダチだってな」
ジョンが言った。
「けど、ほんとに凄《すご》い眼だな。アーニーには聞いてたけどよ」
〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉のことだ。ジャックはぎくりとした。
「……ああ。生まれつきなんだ。他人から見ると気味が悪いだろうと思う」
「おめえ、ばっかだなあ。んなこと気にすんなよ。誰だって持って生まれたもんは変えられねえんだからさ。俺らだって肌の色は変えられねえ」
彼らは屈託無《くったくな》く笑った。
「ああ、そうか。そうだな……」
ジャックは、この世界の人間にとっては〈霜の瞳〉も珍しい色の眼に過ぎないのだと実感した。それと同時に、彼らの言葉からは白い肌が多数派を占《し》めるこの国ではアーニーたち褐色の肌の者には苦労があるのだろうということも窺《うかが》い知れた。ラノンの各種族間の差異の大きさに比べれば肌の色など問題にならないような小さな差に思えるのだが。そういえば、この世界では異形《いぎょう》のある種族を見ない。肌の色が違うだけで差別があるとしたら、山羊《やぎ》の足を持つグラシユティグや猪《いのしし》の頭を持つ角足《スクウェア・フット》のような種族はどんな扱いを受けるか想像に難《かた》くなかった。
「そんじゃ、ちょっくら不法占拠《スクウォッティング》のやり方を教えてやっからよ。この国じゃ、ちょっと前までは不法占拠は犯罪じゃなかったんだ。家ってのは空き家にしとくより誰かが住んでた方が傷《いた》まねえんだな。だから長いこと大目に見られてた。ところが、法律が変わっちまって下手すりゃ捕まるし、そうなったら不法滞在者は強制送還だ。だから、見つかんねえように充分注意しなきゃなんねえ」
「わかった」
「んじゃ、『物件』を見てみようぜ」
ジャックは廃墟のような建物を見上げた。四角い三階建ての建物は至る所に落書きがされ、外壁の一部は剥《は》がれ落ちていた。本当にここに住めるのだろうか。そう思っていると見透かしたようにアーニーが言った。
「悪くない物件だぜ。五年は空き家のまんまで持ち主はほったらかしだし、その割にゃ悪ガキ連中の溜まり場にもなってねえ。ちょいと手を入れりゃあすぐ住めるぜ」
「そうか」
「ああ。だが上の階は硝子《ガラス》が割れてるし、物騒《ぶっそう》だ。地下はどうだ? 天窓にゃ鉄格子《てつごうし》がついてるから、そっから押し入られる心配もねえ」
「僕もそれが良いと思う。カディルは外が見えない方が安心するんだ」
「よっしゃ、決まりだ」
アーニーは言い、てきぱきと仕事を割り振った。
「電気は裏からビリーが引っ張ってくる。水道は生きてるみてえだから、元栓を開けるだけでいい」
「〈電気〉?」
「おめえ、まさか電気もねえようなとこから出てきたわけじゃあるめえな?」
「実は、そうなんだ」
ジャックは言った。下手に知ったかぶりをしても馬脚《ばきゃく》が出るだけだろう。何なのか全く分からないが、今のニュアンスだと地方では無い場合もあるようだったからだ。
「まったく、呆れたもんだ」
アーニーは階段を降り、脚立《きゃたつ》の上に立って地下室の真ん中にぶら下がった黒いキャップのようなものに透明な硝子の球をカチリと押し込んだ。
「ここのはよ、バヨネット式なんだ。他国じゃあんまり見かけないがな。押し込んで、回す」
それから、外で作業をしているビリーに向かって怒鳴った。
「ビリー! 電気はどうだ?」
オーケイだ、入れてみな、という怒鳴り声が返ってくる。
「よっしゃ。ジャック、そのスイッチを入れてみな」
「これか?」
ジャックは壁に取り付けられた小さな黒い棒状のスイッチをかちりと押し下げた。
その瞬間、アーニーが取り付けた硝子球から白い眩《まばゆ》い光が溢れ出し、部屋中を照らした。
「なんと。明るいな……」
「まさか、ほんとに電球を見たことがないんじゃあるめえなあ」
ジャックは光る硝子球――電球――を見つめた。鬼火《おにび》よりも遥《はる》かに強い光だ。眩《まぶ》しくてすぐに眼が痛くなる。そういえば宿屋の部屋の灯《あか》りもこれに似たものだったが、覆いがしてあったのでこんな風に硝子の球を取り付けて使うということは初めて知った。〈自動車〉の光る目玉や、街を彩《いろど》る〈ネオンサイン〉の光も恐らく同じ〈電気〉なのだろう。
ジャックとアーニーが――主にアーニーが――地下室を片づけて人が住める状態にしている間にジョンがドアに新しい鍵とチェーンを取り付けた。
「これでひとまずは安心だ。明日からでもここで暮らせるようになったってわけだ。電気が通ったから、湯沸かしも使えるしな」
「〈電気〉で湯も沸かせるのか?」
「ホテルに紅茶用の電気ポットがあったろうがよ」
言われてみれば確かにそれらしいものはあった。使い方が判らなかったので使っていなかったのだ。宿に戻ったら研究してみよう。どうやら〈電気〉はラノンにおける〈魔法〉に相当する基幹《きかん》動力《どうりょく》であるらしい。
「あとは家具と電気製品だが、古物市《こぶついち》で掘り出し物を探すって手と、廃品《はいひん》集積所《しゅうせきじょ》で拾ってくるって手がある。ま、最初は廃品で我慢するこったな。良いのが集まる場所を知ってるからよ。人手もあるし、何ならこれから一緒に拾いに行きゃあいい」
「ありがとう、アーニー。本当に感謝するよ。なんと礼を言ったらいいのか……」
「なに、いいってことよ」
アーニーは褐色の顔に真っ白な歯をニッとむき出して笑った。
「ところで、あの別嬪《べっぴん》さんはどうしてる?」
ジャックは目を伏せた。
「ああ……。実を言うとカディルはあまり具合が良くないんだ」
「どっか悪いのか? 医者に診《み》せた方がよかねえか?」
「いや。気の病なんだよ。カディルは僕以外には気を許さないし、とても人を怖がるんだ」
宿屋に居るとどうしても人間と顔を合わせることになり、その度《たび》にカディルは神経をすり減らしていた。宿屋の前の通りを走る〈自動車〉の音に怯《おび》え、人声に怯えて夜も眠れずにいる。
「そりゃ難しいな」
「ああ。本当に心配をかけて済まない。でも、ここは静かで人も来ないから、ここに移ればきっと良くなると思うんだ……」
ジャックは地下室の扉をそっと開けた。真っ暗だ。
「カディル?」
手探りで壁のスイッチを入れる。部屋の真ん中に吊り下げられた電球がパッと灯《とも》り、ソファの隅にうずくまったカディルの姿を照らしだした。
「……ジャック様……」
カディルがゆっくりと顔を上げる。
「カディル、真っ暗なままでどうしたんだ? 灯の点《つ》け方は教えただろう?」
「わたくしは……あの光は好きませぬ。なにやら禍々《まがまが》しい感じがいたします」
「確かに目に優しくはないが、恐れるようなものではないんだよ。あれは電気と言って稲光《いなびかり》と同じものなんだそうだ」
「稲光! ジャック様、充分恐ろしゅうございます! 部屋の中に稲妻《いなずま》が落ちたらどうなるのでございますか」
「いや。落ちないんだよ、カディル。稲妻が野生のドラゴンだとすると、〈電気〉は飼《か》い馴《な》らされたドラゴンのようなものだ」
「……ドラゴンでございますか」
恐々と電球を見上げる。カディルが相変わらず〈電気〉を信用していないことは明らかだった。
カディルがこの世界に来たのは自分のせいだった。
あの日、カディルは〈地獄穴《じごくあな》の刑〉に処《しょ》されるジャックの処刑執行の立会人《たちあいにん》としてラノン城の北にある刑場に居た。ジャックの父であるダナ王の指名だった。
硝子の処刑台の縁《へり》に立ち、漆黒《しっこく》の〈穴〉から吹き上げる風を胸に吸い込んだとき、ジャックはカディルの蹄《ひづめ》が階段を駆け上がる音を聞いた。誰も彼を止めなかった。父は、おそらくこうなることを予見《よけん》していたのだと思う。彼が後を追おうとしたら止めるなという触《ふ》れが下《くだ》っていたのだ。
そして二人は抱き合ったままもろともに〈穴〉に落ち、気付いた時にはロンドンという名のこの巨大な都市の一隅《いちぐう》に立って居たのだ。
ジャックは初めから〈穴〉の向こうが地獄ではなく、別世界だということを知っていた。
〈地獄穴〉がラノンとは異なった世界に繋《つな》がっている事はダナ王室に代々受け継がれた秘密だったのだ。
〈穴〉の向こうの世界について判《わか》っていることは少なかったが、ジャックにはそれで充分だった。最愛の弟ニムロッドの確実な戴冠《たいかん》のために自分がダナ王国から消えること、それが目的だったからだ。他国に出ることも考えたが、自分がラノンに居る限りニムに百パーセントの安全はない。庶出《しょしゅつ》の自分がダナ王の徴《しるし》である〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉を二つ持ち、正統である筈《はず》のニムは一つも持っていないからだ。
八つ違いの弟、素直で優しいニム。あの子が自分に向けてくれる裏表のない笑顔は刺々《とげとげ》しい宮廷の中にただ一つ湧《わ》く清らかな泉のようだった。
カディルを含めて宮廷の大人たちはジャックとニムが遊ぶことにいい顔をしなかった。けれど大人たちの思惑など関係なかった。ニムはジャックの後をついて歩き、ジャックはたくさんの本を読み聞かせた。眼を輝かせ、嬉しそうに物語に聴き入っていた小さなニム。あの子の笑顔の為なら何だってしようと思った。
王位継承問題が取り沙汰《ざた》され始めてからジャックは真剣にニムと片方の目を取り換えられないものかと考えていた。そうすれば二人とも一つずつ蒼白い〈霜の瞳〉と暖かい栗色の瞳を持つことが出来る。けれど王宮の書庫にある魔法書という魔法書を漁《あさ》り尽くしても眼を取り換える魔法を見つけることは出来なかった。だから自《みずか》ら〈地獄穴の刑〉を賜《たまわ》るように仕向けたのだ。未知の世界への旅は恐ろしくはあったが、同時に新しいものを見たい、知りたいという気持ちもあった。
〈穴〉の行き先がどんな所かについては、僅《わず》かだが推測の手掛かりがあった。王室に伝わる秘密文書によれば王朝が成立して間もないころ、向こうの世界からラノンに渡ってきた者が居たというのだ。来訪者はラノンの事を全く知らず、魔法も使えなかったが、外見はダナ人によく似ていたと伝えられている。その男はダナの女性と結婚し、年老いて死ぬまでラノンで暮らした。ダナ女性との間に生まれた子供はまったくダナ人と変わらず、魔法も普通に使えたという。
ダナ王室の魔術者たちはその男は〈地獄穴〉の向こうからやって来たのだろうと考えた。だが、その男自身どうやって来たのか知らなかったし、〈穴〉の存在も知らなかった。その男以外にその世界からラノンに来た者は知られておらず、〈地獄穴〉を通って向こうに行ったラノン人で戻って来た者は誰もいなかった。
そうした経緯《けいい》から〈地獄穴〉は処刑ではなく追放の道具として使われるようになった。〈地獄穴の刑〉は斬首刑《ざんしゅけい》よりも一等軽く、死罪に値《あたい》するが情状酌量《じょうじょうしゃくりょう》の余地のある者に適用される。王室はその事実を秘《ひ》し、刑一等を減《げん》じる代わりに受刑者に偽《いつわ》りの死の恐怖を味わわせることにしたのだ。
ジャック自身はその事実を知っていたから〈穴〉に飛び込むとき死を覚悟する必要はなかった。だが、カディルは知らなかった。数百年をダナの王宮で暮らし、多くの王子王女を育てたにも拘《かか》わらず〈地獄穴〉の秘密を知らなかったのだ。カディルは何も知らないまま、地獄に墜ちると信じて飛び込んだ。それだけでも充分恐ろしかっただろうに、墜ちた先はこの信じ難《がた》い世界だ。初めのうち、カディルはこの街を地獄だと信じて疑わなかった。
「……ジャック様。ジャック様はここは地獄ではないと言われます。なれど本当に地獄でないと言い切れるのでございますか。わたくしたちはあの時にもう死んでいるのではないと……」
「僕らは生きているし、この街の人々も生きた人間だよ。魔法がないだけで、それほどラノンと違う訳じゃない。人や街をよく見てごらん。ここの人間の姿はダナ人によく似ているし、言葉や文化も似ているよ」
「魔法のない世界が地獄でなくて何なのです? 人は魔法なくしては生きて行けぬものでございましょう」
「だが、現実にこの世界の人々は魔法なしで暮らしているんだよ。この街も魔法を使わずに築かれたんだ」
「なれども、このままではわたくしは何のお役にも立てません。せめて、魔法を使うことが出来れば……」
「そんなつまらないことを気に病《や》まないでおくれ。魔法なんか使えなくてもおまえが僕の大切なカディルであることに何の変わりもないんだから」
ジャックは母の顔を知らない。母はジャックを産むのと同時に亡くなったのだ。毒殺だったという噂を耳にしたことがある。真偽の程は判らないが皇后派の暗殺者が身重の母に毒を盛り、ジャックが生まれる前に母子をもろともに葬《ほうむ》ろうとしたというのだ。暗殺者の思惑とは反対に母は死に、ジャックだけが生きて産まれた。だが生まれて来たジャックの眼が左右とも完全な〈霜の瞳〉であったため、育たないと思われてその後の難を免《まぬが》れたという。
〈霜の瞳〉の保持者は寒さ、冷たさを感じない。片方の眼だけなら感覚が鈍《にぶ》いという程度で済む。だが、ジャックのように双眼《そうがん》とも〈霜の瞳〉である場合は寒さという感覚が完全に欠落《けつらく》する。感覚だけでなく、寒さで身体が震えたり鳥肌が立ったりという防御反応も欠落しているのだ。寒さを知らず、寒さから身を守る術《すべ》を持たない幼子《おさなご》は簡単に体温を失って死ぬ。
王宮では、ジャックが五歳になるまで誕生日を祝わなかった。生き延びると思われていなかったのだ。実際、幼い頃は病気ばかりしていたという。だが、カディルの細やかな育児のお陰で一番危険な最初の五年を生き延び、さらにはこの歳まで無事に育つことが出来た。
「小さい時はおまえがずっと僕を守ってくれた。今度は僕がおまえを守る番だよ」
この世界に墜ちて来た当初は途方に暮れるばかりで、どうして良いのか判らなかった。だが、今は違う。僅《わず》かだが、この世界のことが判ってきた。こうして住む場所も出来た。もう右も左も分からない異世界の迷い子ではないのだ。
未知の世界の生活にはさまざまな困難があるだろう。だが、困難は乗り越えればいい。やってやれないはずはない。自分の力でカディルを守り、この世界で生きていくのだ。
「聞いておくれ、カディル。僕は〈自転車〉に乗れるようになったんだよ」
「〈自転車〉……でございますか。それは危ないものではないのですか」
「別に危険なものじゃないよ。馬に乗るのと変わらない。でも生き物じゃないから、水も飼葉《かいば》もいらないんだ。とても速く走れるし、自転車に乗ってこのロンドンのどこにでも行くことが出来るよ」
「危ないことはなさらないで下さいませ! この街は恐ろしいところです。〈自動車〉にぶつかったらどうするのですか」
「大丈夫、僕はとてもうまく乗れるんだよ。自動車になんてぶつからないさ」
「なれど、ジャック様……」
「そうだ、僕が着てきた上着を覚えているだろう? あの上着の飾り釦《ボタン》が百ポンドで売れたんだよ。この世界では金剛石《ダイヤモンド》はとても価値のある宝石なんだそうだ」
「金剛石には魔法は溜められませぬ。光るだけの石でございましょう」
「ああ。でもこの世界にはそもそも魔法がないからね。金剛石の硬さと光の反射が珍重《ちんちょう》されるんだ。釦はあと五つあるし、袖口《そでぐち》にも使ってあるから当分の間はこれでしのげるよ。その間に僕は働き口を探すつもりだ」
「働くのでございますか。ジャック様が……?」
「そうだ。この先ずっと売り食いをしていく訳にはいかないからね」
カディルは信じられないという顔で眦《まなじり》の涙を拭《ぬぐ》った。
「ジャック様、お労《いたわ》しゅうございます……。わたくしがお役に立てないばかりに……。魔法さえ使えれば決してジャック様にそのようなご苦労をさせは致しませぬものを……」
ジャックはカディルの美しい髪をそっと撫でた。綺麗で優しい母のようなカディル。彼は母であり、父であり、教師であり、兄であり、友人だった。物心ついたときからずっと世界で一番好きだった。
「いいんだよ、カディル。カディルは何も心配しなくていいんだ。僕はもう子供じゃないんだよ。この街で、二人で生きて行くことくらい出来るさ……」
イースト・エンド地区はこの街を南北に二分《にぶん》するテムズ河の北東部にある。ジャックとカディルが暮らす南岸《なんがん》と同様の貧しい地区だが、こちらの方が活気《かつき》があった。
ジャックはアーニーに描いてもらった地図をたよりに入り組んだ路地を歩いた。あたりには小さな商店が軒《のき》を連《つら》ね、異国風の料理店からはエキゾチックな香りが漂《ただよ》ってくる。大分《だいぶ》迷ったあげく、ようやく目指す建物を見つけた。古いビルの、人一人がやっと通れる細階段を上がった二階が目指す〈自転車エクスプレス社〉だった。
「ここか……」
ここで雇《やと》ってくれるかも知れないと言う。
指輪と飾り釦を売って得た金子《きんす》はまだ残っている。だが、いくら高値で売れてもそうやって一つずつ売って食いつぶして行けばいずれは底を突く。そうなる前に自分の力で日々の糧《かて》を得られるようになりたかった。
もちろん、これまでのジャックの人生は働いて報酬を得るということとは全く無縁だった。
だがここでは誰もがそうやって働き、労働の対価を得て暮らしているのだ。自分にだって出来ない筈はない。
ジャックは深呼吸し、それから〈自転車エクスプレス社〉の赤く塗られた扉を叩いた。
「強盗だったらお断り、仕事の依頼なら入って!」
女性の声だった。扉の隙間から覗く。
「どちらでもない。アーニー・ブラウンの紹介で来たんだが」
「アーニーの? 入りなさい!」
デスクに座っているのはかりかりに痩《や》せた中年の女性だった。アーニーたちジャマイカ人と違って皮膚の色は白く、髪は赤い。女性は〈電話機〉の通話口を押さえてジャックに向かって怒鳴り、それからまた通話に戻った。
「はい、確かに承《うけたまわ》りました。スミス商会様ですね? マーブルアーチの。十分以内に集荷に伺います……」
真っ赤に塗られた爪が受話器の台を押さえ、素早く数字のボタンを押す。
「あ、エディー? マーブルアーチのスミス商会にピックアップお願い。荷は出来てるからって。八分以内で。頼むわ」
通話を切るか切らないかのうちに再び電話のベルが鳴り出し、女性は同様の調子で右から左へ次々と仕事を回した。十件近い電話をこなしたあと彼女は受話器を電話機に戻し、ジャックの方をちらりと見て言った。
「ふう、やっと終業間際の波状《はじょう》攻撃が終わったわ。……君。面接希望ね。あたしが電話してた取引先の名前、いくつ言える?」
「……最初がスミス商会、それからアーサー・プライス・コーポレーション、テイラー&カンパニー、ヒルトップ商店、リチャーズ釣具店、ギルマン&サンズ、アトリエ・アトウッド……まだひとつあったが、判らない」
赤く塗られた唇がキュッと弓の形に上がった。
「お見事! 九割正解は記録じゃないかしら。アーニーが言ってたハンサムで頭の切れる若い子って君のことね」
彼女は品定めするように眼鏡《めがね》を持ち上げてジャックをじろじろ眺めた。
「確かにハンサムね。でも外見はどうでもいいの。自転車に乗れて、得意先が覚えられさえすればね。君、うちで働きたいの?」
「出来ればそうしたいんだが」
「出来るかどうかは君次第。こちらで用意するのは携帯だけよ。自転車は自分持ち。ペイは完全|歩合《ぶあい》制。携帯を私用で使ったら通話料は報酬から差し引く。それでいい?」
「異存はない」
「じゃ、一週間の試験採用ね。あたしはエマ・アンセル。ここの社長よ。エマと呼んで頂戴《ちょうだい》」
「ジャック・ウィンタースだ」
差し出された手を握った。痩せた細い手は、乾いて暖かかった。
「君がどこの出身かってことは訊かないわ。君も故郷のこととか個人的なこととかは一切|喋《しゃべ》らないで頂戴。君が地球の反対側だとか、ひょっとしてアルファケンタウリの出身だったとしても、あたしは一切関知しない。労働局の手入れがあって君が捕まって強制送還されても、あたしは関係なし。なーんにも知らないで雇ってたってことだからね」
ジャックはアルファケンタウリというのは何処《どこ》なのか興味を引かれたが、尋《たず》ねるのはやめておいた。
「僕は故郷のことは何も言わない」
「よろしい。沈黙は金なりよ。じゃ、業務内容について説明するわね」
エマはジャックのする仕事について簡潔に説明した。ジャックは自分の自転車で好きに街を走り回る。その間に〈携帯電話〉――これは〈伝言精霊〉に似た機能を持つ小さな機械だ――に連絡が入ったら言われた場所に荷物を取りに行き、迅速《じんそく》に自転車で指定された場所に届けるというものだ。
「毎日このオフィスに来る必要はないわ。君は仕事をしたい時に携帯の電源を入れる。そうすれば位置情報が送信されてすぐ集荷に行ける状態だってことが分かる。電話のオペレーターは――たいがいはあたしだけどね――依頼が入ったら出来るだけ近くにいる配達員を見つけて仕事を割り振る。だから、仕事にありつくには得意先をよく知ってその近くに居ることが肝要《かんよう》よ。依頼主はほとんどがリピーターだから、まずその名称と場所を全部覚えて」
「判った」
「うちは、速さが売りなのよ。電話があってから三十分以内が理想ね。小回りの利《き》く自転車の直送だからこそ出来るってわけ。そこにロンドン地図があるわ。赤い丸印がお得意さんのオフィス。青いのはお得意さんがよく使う配達先よ」
壁には大きな紙の地図が貼られている。その地図を見上げ、ジャックは息を呑んだ。
「これが、ロンドンなのか?」
「君、ロンドン地図も見たことがないの? AZマップを買って勉強しなさい」
だが、エマの言うことは半分も耳に入ってこなかった。ロンドンの地図に心を奪われていたのだ。地図に描かれた青い蛇《へび》のような大河を指でなぞる。
「この河は……?」
「ホントになんにも知らないのね! ロンドンはテムズ河の賜物《たまもの》よ」
ジャックは食い入るほど地図を見つめた。
これがテムズ河……?
だが、どう見てもこの河の流れはラノンの中心を流れるイス河の流れに見えるのだ。
いったいどういうことだ……?
この街はラノンとは全く似ていない。にも拘わらず河の流れだけがそっくり同じなのだ。テムズの流れは大蛇《だいじゃ》のようにのたうって西から東へと街を二分し、河が大きく蛇行《だこう》する手前の北岸には五角形の城郭《じょうかく》が描かれている。ラノン城のある場所だ。
「ここは? 城なのか?」
「ロンドン塔。英王室の古い持ち城だけど、今じゃ観光地よ。行ってないの?」
ジャックは首を振った。河との位置関係でみると、ロンドン塔のある場所はラノン城の場所と全く同じだった。道を一本挟んで城の北西には緑色に塗りつぶされた小さな楕円《だえん》が描かれている。ちょうどラノンで〈地獄穴〉のある場所だ。
「これは……?」
「タワーヒルのトリニティ・スクウェア・ガーデンズよ。小奇麗な公園になってるけど、昔はタワーヒルっていえば処刑場だったって話。幽霊が出そうであたしはイヤだわね」
「その……処刑にはどういう方法が用いられたんだ……?」
「変なこと訊きたがるわね。斬首よ。斧《おの》で首をちょん! と斬ったの」
彼女は人差し指で首を切る真似《まね》をしてみせた。
「ロンドン塔に行ってみなさいよ、首切り台が展示してあるから。ゾッとするわよね。タワーヒルで処刑されたのは貴族とか王族とかの身分のある人だけだったそうだけど。一般庶民はタイバーン処刑場で縛《しば》り首。でもどっちも昔の話よ。英国は死刑廃止国家なんだから」
「では、そこに〈穴〉はないのか……」
「穴? いったい何を言ってるの?」
不審《ふしん》の眼差《まなざ》しが向けられているのに気付き、ジャックは慌てて話題を変えた。
「済まないが、この地図を借り受けられないだろうか」
「これはダメよ。うちのオフィス用なんだから」
彼女はそう言うと引き出しから分厚《ぶあつ》く角張《かくば》った地図帳を取り出した。
「ロンドンAZマップよ。特別に貸したげるから、よっく睨《にら》んで裏通りまで頭に叩き込みなさい。最初は〈シティ〉周辺からね」
「ありがとう。感謝するよ」
「どういたしまして。君、ヘルメットは持ってる?」
「いや。法で義務づけられてはいないと……」
言い終える前にいきなり何かが無造作に投げ渡された。両手の中に咄嗟《とっさ》に受け止めたものは、自転車の乗り手がよく被《かぶ》っている龍の頭蓋骨《ずがいこつ》に似た白いヘルメットだった。
「ついでに貸しとくわ。ちゃんと被りなさい。法なんかどうだっていいのよ。でもいざというとき命を守ってくれるのは、メットよ」
ジャックは手の中のヘルメットとエマの顔を交互に眺めた。
「どうしてなんだ? 貸すのは〈携帯電話〉だけだと……」
エマは眉をあげ、ほんの少し肩を竦《すく》めた。
「君くらいの歳だと、みんな自分だけは事故らないって思ってるわ。そうでしょ? でもオバサンはそうじゃないって知ってるの。オバサンはね、若い子が事故ったり死んだりするのは厭なのよ」
季節はゆっくりと秋から冬に向かっていた。通りの鈴懸《すずかけ》は黄色に色づき、テムズから這い上がってくる川霧が路面をゆらゆらと白く漂う。
ジャックは〈自転車〉のペダルを漕《こ》ぐ足に力を込め、スレッドニードル通りに入った。ロンドンの中央部に位置するこのエリアは〈シティ〉と呼ばれ、ダークスーツに身を包んだビジネスマンたちで溢れ返っている。〈シティ〉はロンドン経済の中心地であり、だからこそ自転車便の活躍できる場だった。
スレッドニードル通りを西に流すと、右手に〈縫《ぬ》い針通りの老婦人〉の異名を持つイングランド銀行本店が見えてくる。その向かいに立つのは古代の神殿を思わせる王立証券取引所だ。これらの古い石造りの建造物だけを見ていると、ここがラノン城の城下町であるかのように錯覚《さっかく》してしまう。だが、背後にそびえる超高層建築がそれを否定していた。〈シティ〉地区とその東の〈ドックランズ〉地区にはロンドンの他の地区では見られないほどの密度で高層建築が存在している。その高さは文字通り天に届くほどで、それ故《ゆえ》にそれらの建物は摩天楼《スカイスクレーパー》と呼ばれていた。古さと新しさが混在する街、それがロンドンなのだ。
路上に連《つら》なって立ち往生《おうじょう》している〈自動車〉の列を尻目にそのままヴィクトリア女王通りに入った。速度で勝《まさ》る自動車も渋滞した道路では自転車に敵《かな》わない。スポークがからからと回り、霧に濡れた路面が黒い河のように車輪の下を流れていく。自転車は軽やかに風を切り裂き、左右の景色は一瞬のうちに背後に飛び去る。あたかも自分自身が風になったかのようだ。
この感覚を言葉で言い表すなら、おそらく〈自由〉だろう。
自転車でこの街を走るとき、ジャックは何者でもなかった。生まれた時からついて回ったしがらみ、〈霜の瞳の保持者〉であること、庶出の王子であったこと、にも拘わらず第一位の王位継承者であったこと、ある人々にとっては存在自体が邪魔であったこと、それら全てのことから自由だった。
ここでは誰もジャックの過去を知らない。ジャックはただのジャック・ウィンタースであり、それ以上でも以下でもない自分自身だった。
時折、ジャックの眼をしげしげと眺める者はいる。だが、それは単なる好奇心であり、〈霜の瞳〉の意味を知っているからではない。彼らはただ単にこの眼が珍しいのだ。面と向かってこの眼を不気味だと言う者も、反対に美しいと褒《ほ》める者もいた。どちらもラノンでは考えられないことだ。
ラノンでは支配と権力の象徴である〈霜の瞳〉は恐れられ、誰もジャックと視線を合わせようとしなかったが、ここでは目が合えば当たり前のように笑顔を返された。だからジャックも笑みを返した。王宮で暮らしていたときには笑う機会などほとんどなかったから微笑を浮かべること自体に不慣れだったが、この頃はごく自然に微笑が出るようになった。
この眼がコンタクトレンズか、と訊かれることもあった。〈コンタクトレンズ〉とは驚くべき現代文明の産物で、眼の中に直接入れて使う眼鏡なのだ。視力を矯正《きょうせい》するためのものだが、色付きのものを使えば瞳の色を変えられる。そのことを知ったとき、もしもラノンに〈コンタクトレンズ〉があれば、と思わずにいられなかった。そうすればニムが瞳の色のことで王位継承をとやかく言われることもなかっただろうに。
ジャックは空を見上げた。ライトをゆっくりと点滅させながら〈ジェット旅客機〉がロンドン上空を通過して行く。渡り鳥に似た鈍重《どんじゅう》な鋼《はがね》の翼は数百人の人間を乗せて大洋《たいよう》を渡るのだ。
何という街だろう。何という世界だろう。ここでは、瞳の色さえ変えられるのだ。
路地を曲がると目的の建物が見えてきた。依頼を受けてから十二分。荷を預かってから七分。まずまずの成績だ。
「自転車エクスプレス便です。荷物をお届けに……」
「ああ、速いな! 今電話があったとこだよ」
アトリエ・アトウッドの店主は巨体に似合わぬ身軽さで立ち上がって中身を確かめ、伝票にサインした。
「型紙七点、確かに。これはファックスじゃ送れないからねエ」
それからデスクの上に常備されている菓子|籠《かご》を掴《つか》んで差し出した。
「ひとつどうだい? このヌガーナッツ・バー、けっこう旨《うま》いよ」
「どうもありがとう」
そう言って薄荷《はっか》味のキャンディーをひとつ摘《つま》むと、店主は腹をゆすって笑った。
「キミは小食だねえ。だからスリムなんだろうけど。これからもよろしく頼むよ」
「こちらこそ宜《よろ》しく」
自然にそう言えた自分に少し驚いた。ダナの宮廷では、愛想《あいそ》のない人嫌いの王子で通っていたのだ。
ジャックは微笑し、薄荷キャンディーを口に含んだ。この世界の生まれでなくても、魔法が使えなくても、こうして当たり前のように仕事をしてこの街で生きることが出来るのだ。
ほどなくして、週百ポンドほどを稼《かせ》ぐようになった。必要充分とは言えないが、これくらい稼げば宝石を売った金を取り崩さずにカディルと二人で暮らしていくことが出来る。
給料が出るのは毎週金曜日だった。ジャックはその日を心待ちにするようになった。金曜の夕方、エマは契約している配達員がその週にどれだけ配達したか計算し、それに応じて報酬を支払う。
その週、ジャックが給料袋を開けてみると自分で計算したよりも五十ポンドほど多く入っていた。
「エマ。計算が違っているようだが」
「違ってないわ。それはボーナスよ。この二ヵ月、君は真面目によくやったからね。欠勤《けっきん》なし、誤配《ごはい》、遅配《ちはい》なし。ボーナスっていうにはちょっと寂しい額だけど、気は心ってヤツよ」
エマは真っ赤な三日月のようにニーッと笑った。
「ボーナス……」
ボキャブラリーにない単語だったが、今ここで訊《たず》ねるのは拙いように思われたのでジャックはただありがとう、とだけ言った。
「厭だ、君の稼ぎなんだから礼を言うことはないのよ。好きなものを買ったらいいわ。服とか、靴とか、CDとか」
「好きなもの……」
急にそう言われても、何も思いつかなかった。靴も服も既にこの街で違和感のないものに買い換えていたし、CDというのは何のことか分からなかった。
カディルに何か買おうか。だが、カディルはこの世界の人間の作ったものは何でも嫌った。服は着たきりだし、山羊の蹄《ひづめ》のある彼に靴は必要ない。何か美味《おい》しいものを食べさせてやりたいと思うが、グラシュティグ族はもともと肉や魚はあまり好まず、食べるのは生の果物と野菜が主だ。それも最近は食が進まない様子なので心配だった。
ジャックは望外の五十ポンドを何に使うか思案しながら帰途についた。
散々《さんざん》迷ったあげく、スーパーで緑の小さな林檎《りんご》と干し無花果《いちじく》を買った。緑の林檎はラノンのものとよく似ているからきっと気に入ってくれるだろう。無花果は南国からの輸入品で、大きくて汁気がある。ラノンにはこんなに大きな無花果はないし、この国でも採《と》れないらしい。この国の気候は、かなりラノンに近いのだ。
これらの物に加えていつもの食料と日用品を買っても、ボーナスの五十ポンドは手付かずのままだった。やはり、これは何かの時のために取っておこうと思った。自分が怪我でもして働けなくなったらすぐにも暮らしに困る。そう考えながら路地をゆっくりと自転車で流していると、一軒の書店が目に付いた。間口の狭い古びた小さな店で、大通りにあるような硝子張りの大型書店とは全く趣《おもむき》が違う。この道は今までも何回となく通っている筈なのに気付かなかった。おそらく、気持ちの余裕がなかったからだろう。
書物か……。
この世界に墜ちてからずっと書物を手にするような余裕はなかった。日々の暮らしを生きて行くことだけで精一杯だったのだ。
不意にラノン城の蔵書室で過ごした長い時間が思い出された。書物はいつも多くの知識と楽しみを与えてくれたのだ。
ジャックは懐《ふところ》の余分な五十ポンドのことを考えた。
(好きなものを買ったらいいわ)
いや。せっかくの五十ポンドを無駄《むだ》にしてはいけない。だが、少し見るくらいなら構わないのではないか。そう、見るだけだ。
ジャックは吹き硝子が填《は》め込《こ》まれた木枠《きわく》の扉をそっと推《お》した。
間口が狭い割には奥が深く、天井までぎっしりと革の背表紙が並んでいる。微《かす》かな革の匂いが鼻をついた。それと枯れ葉と埃《ほこり》の混じったような匂い。古い書物の匂いだ。
ここは古書を扱う店なのだ。
新しい本の多くは軽い紙だけで作られているが、ここに並んでいる古い本は城の蔵書室にあったのと似た型押しの革の装丁《そうてい》だった。懐かしさに一冊手に取った。
ぱらぱらとページをめくる。この国で使われる文字を読むことは難しくなかった。もともと言葉が極めて似ていたから、来てすぐの頃にアーニーとも意志の疎通《そつう》が出来たのだ。未知の単語が出てくるとお手上げだが、古い書物にはそれが少ないためかえって読みやすかった。
手に取った本は、古代について書かれた専門書のようだった。この科学技術に支配された世界にもさまざまな神話や伝説があったことをジャックは初めて知った。神話にはラノンの神話と似ているものもあったし、全く似ていないものもあった。驚くべきことに魔法についての記述もあった。この世界にもかつては魔法が存在したらしいのだ。それが失われたために、代わりに科学技術が発達したのか。だが、この本の著者はどうして魔法が失われたのかについては全く述《の》べていなかった。魔法は、ただ失われたのだ。
おかしい。何故そんな重要なことに触れていないのか。
ジャックはいつしか夢中で読み耽《ふけ》っていた。
「あの、お客さま……」
ハッとして顔をあげる。金髪をお下げに編んだ若い女性が覗き込んでいた。ソーダ水のように鮮《あざ》やかに青い眼が瞬《まばた》きしてジャックを見つめている。
「あ……あの……あと十分で閉店なのですけれど……」
「えっ。僕はそんなに長くここに居たのか?」
「ええと、あの、二時間くらいです」
しまった、と思った。自分では十五分くらいのつもりだったのだ。本に気を取られている間に時間がどこかに消えてしまったみたいだった。
「この書物の価格は?」
「はい。百五十ポンドになります」
ジャックは溜め息をついて本を棚に戻した。
「済まない。僕には買えないよ」
彼女は微笑《ほほえ》んだ。
「私にも買えません。この棚のは稀覯本《きこうぼん》なのでビックリするようなお値段がついているんです。でも、右側の書棚には新刊本より安いものも置いてありますわ」
[#挿絵(img/Lunnainn3_239.jpg)入る]
「閉店まであと十分あるんだね?」
書店で二時間も潰《つぶ》しておいて一冊も買わずに店を出るのはかえって口惜《くや》しい気がしたのだ。革表紙の本が買えなくても代わりに何か手頃な値段のものが買えないかと思った。
「何かお薦《すす》めのものはあるかな。十ポンドくらいで買えるもので、この国の神話や伝説についての本はないだろうか」
「十ポンド以内で神話伝説の本、ですか……」
ポケットから眼鏡を取り出し、ぱちんと開いて片手で掛ける。
「それでしたら……」
彼女は花柄のスカートを翻《ひるがえ》し、左右にそそりたつ本の壁に沿って歩き出した。ほとんど立ち止まらず、歩きながら手を伸ばして一冊ずつ抜いていく。
「これと、これと、それからこれ。こちらもお薦めです。この棚のペーパーバック版でしたら、三冊で十ポンド以内に収まりますわ。神話でしたらフレイザー、伝説関係でしたらイェイツ、カイトリー、ブリッグズあたりがお薦めです」
「驚いたよ。これだけ本があって、何処にどの本があるか全部|解《わか》るのか?」
彼女は少し頬を赤らめた。
「あ……いえ、実はこのへんの本は読んでしまったので……でも、店の主《あるじ》には内緒です」
城の蔵書室で長い時間を過ごしてカディルに叱られた記憶が浮かび、思わず微笑が漏れる。
「では、その三冊を買うことにするよ」
「ありがとうございます」
彼女はにっこりと笑みを返した。ソーダ水のように青い眼を縁取《ふちど》る麦藁《むぎわら》色の睫毛《まつげ》がぱちぱちと瞬《しばたた》く。
ジャックは、それがヒナギクの花びらのようだと思った。
3――〈地獄〉の街にて
ジャックとカディルがこの街に墜《お》ちて来てからほぼ半年が過ぎ、ロンドンは春を迎えようとしていた。道路脇の芝生《しばふ》には水仙《すいせん》やスミレの可憐《かれん》な花が顔を出し、自転車便の仕事に潤《うるお》いを与えてくれた。この街の人間たちは非常に花を愛しており、街のあちこちには公園や花壇が造られている。公園には木や池があり、気持ちの良い場所だった。
ロンドン中心部の空気は〈自動車〉の吐き出す煙のために少し厭《いや》な匂いがする。水もあまり良くないが、この街には泉がなく、川の水を浄化して使っているからだという。水は鋼《はがね》の配管を通して供給され、かすかに錆《さび》と藻《も》の匂いがする。飲めないことはないが、余裕のある者は遠い土地から運ばれた瓶詰《びんづ》めの水を買う。ジャックも瓶詰めの鉱泉水《こうせんすい》〈ミネラルウォーター〉を買うようになった。それくらいは自分で稼《かせ》げるようになったのだ。
この半年でさまざまな事を覚えた。〈自動車〉は地底で採《と》れるペトロルオイルを燃やす内燃《ないねん》機関で動いていることを知ったし、映画館の大スクリーンに映し出される動画の仕組みも知った。ロンドン名物の二階建ての赤いバスや、〈チューブ〉と呼ばれる地下鉄道の乗り方も覚えた。観光客に混じってラノン城と同じ位置にあるロンドン塔にも行ってみた。城というよりも城塞《じょうさい》に近い堅牢《けんろう》な造りで、瀟洒《しょうしゃ》な硝子《ガラス》のドームを持つラノン城とは似ていなかった。だが、城郭《じょうかく》が五角形である点、川の水を引き込んだ堀で囲まれていた点は同じだった。ロンドン塔の中を歩き回ると、自分が二つの場所に同時に存在しているような奇妙な感覚を覚えた。
そして自分たちがこの世界では〈妖精〉と呼ばれていることも知った。
あの裏通りの古書店で手に入れた神話伝説の本の中で発見したのだ。この国の伝説で〈妖精〉と呼ばれる魔性《ましょう》の者は、ラノンの住人にそっくりだった。各種族の特徴《とくちょう》とそれぞれの名称がほぼ一致するので偶然とは思えない。恐らく〈地獄穴《じごくあな》〉を通ってこの世界に来たラノン人たちがこれらの伝説の元になったのだろう。ラノンで最も人口の多いダナ人は一般的な妖精と言われる〈ディーネ・シー〉、カディルの属するグラシュティグは女の顔と山羊《やぎ》の足を持つ山の精〈グレイスティグ〉だと思われた。
伝説によれば〈妖精〉にはさまざまな種類があり、〈惑《まど》わし〉などの魔法を使うと書かれている。この本の記述が正しいとすると、かつてこの世界に来たラノン人は魔法を使うことが出来たのだ。だから自分たちもこの世界で魔法を使う方法がある筈《はず》だった。
だが、自分はもう魔法がなくても生きて行けると思った。この街で、自分の力だけで生きて行ける。極論《きょくろん》すれば〈霜の力〉など冷凍冷蔵庫があれば必要ないのだ。
〈自転車エクスプレス〉の仕事は順調で、多い時には週に二百ポンドを稼《かせ》ぐこともあった。同じエクスプレス社の配達員や社長のエマ、それに顔なじみとなった客と短い言葉を交わすことも小さな楽しみだった。
楽しみと言えば、〈スーパー〉で商品を選ぶことも面白かった。〈スーパー〉は現代文明の象徴とも言われる巨大商業施設だ。驚くほど豊富な商品が床から天井まで並べられ、客は自由にそれらを選び取って最後に金を払う。これは一種のゲームのようなものだった。商品を吟味《ぎんみ》し、金額を計算しながら選んで籠《かご》にいれ、最終的に購入した物品の合算《がっさん》が予算内に納まるようにするのはなかなかスリリングな経験だった。商品の価格は常に変動するので価格のアベレージを覚えてそれよりも下がった時に買い、上がった時には手を出さないということも覚えた。
自分で働いて稼ぐようになってから、金銭の重みがよく解《わか》るようになっていた。この世界に来てすぐの頃、紅茶一杯に五十ポンドを払おうとしたことと比べると格段の進歩だ。あのときのアーニーの顔を思い出すと可笑《おか》しくなる。彼はさぞ戸惑っただろう。奇妙な服に奇妙な言葉|遣《づか》い、この世界のことを何一つ知らない異邦人。だが、彼はその異邦人に温かいお茶を御馳走《ごちそう》してくれたのだ。
アーニーの屋台には今も週に幾度か立ち寄っていた。「いつもの」と言うと彼は紅茶にラム酒を垂《た》らしてくれる。素朴《そぼく》な甘い香りのこの酒は彼の故郷の味だという。酒類販売免許を持っていないという理由でラム酒の分の料金は取らない。もともとラムは売り物ではなく、寒い日に自分で飲むために置いていたのだそうだ。
アーニーはジャックの顔を見ると満面の笑みを浮かべ、こんな風に言った――やあ、ジャック、元気かい? ジャック、景気はどうだい?
そしてラム酒入りの紅茶を飲みながら一言二言会話を交わす。たいていは天気や、仕事や、街の噂などの他愛《たわい》のない雑談だ。それから、彼は必ず訊《たず》ねた。
ジャック、ところで別嬪《べっぴん》さんはどうしてる?
アーニーはカディルが男だと判《わか》った後もずっと彼を〈別嬪さん〉と呼んでいる。彼の故郷のマリアという女神の像に似ているのだという。彼はいつもカディルのことを気にかけてくれていた。
――食欲がねえ? いけねえな、やっぱ医者に診《み》せた方がいいんじゃねえのか? なんならモグリの医者を紹介してやろうか――
だが、医者には掛かれないのだ。
この世界には異形《いぎょう》を持つ種族がいない。この世界の住人たちは自《みずか》らをただ人間、と呼ぶ。肌や髪や眼の色こそさまざまだが彼らはみな同じただ一種類の〈人間〉で、翼や毛皮や蹄《ひづめ》や余分な腕を持った者はいないのだ。
ダナやタルイス・テーグなら〈人間〉と言っても通用するだろう。だが、グラシュティグのカディルは山羊の足という一目瞭然《いちもくりょうぜん》の異形を持っている。しかも具合の悪いことにこの国では二つに割れた山羊の蹄は悪魔の徴《しるし》と見なされているのだ。ジャックは、このことはカディルには教えないでおこうと思った。そんなことを知ったらカディルはますます引《ひ》き籠《こ》もってしまうだろう。そうでなくてもこの世界に馴染《なじ》めずにいるのだ。
ジャックは俯《うつむ》き加減にマットレスの上に座っているカディルを振り返った。
「カディル」
ゆっくりと顔があがり、ミントグリーンの瞳がふらふらと宙をさ迷う。一拍遅れてその視線がジャックを捉《とら》えた。
「……なんでございましょうか」
「今度一緒に外に出てみないか。公園には緑もたくさんあって気持ちがいいんだ。たまには外の空気に触れた方が身体に良いだろうし」
見開いた眼がそのまま凍りついた。
「……ジャック様がお望みなら……」
そう言う言葉の端が震える。ジャックは溜め息をついた。
「いいよ、無理をすることはない」
「申し訳ございません……」
「謝らないでおくれ、無理を言った僕が悪いんだ」
ここに移った日以来、カディルはこの地下室から一歩も外に出ようとしない。バスや自動車の行き交う大通りが恐ろしいのは解る。けれど安全に歩くことが出来る場所もあるのだ。折りに触れそう言ってみるが、カディルは頑《かたく》なに外出を拒《こば》んでいた。ロンドンに墜ちてきた時の恐ろしさが忘れられないのだ。カディルは魔術者ではないが、それに近いほどの魔法の力を持っていた。その力を失ったことが彼を打ちのめした。この世界の騒々《そうぞう》しい機械文明がそれに追い打ちをかけた。自動車、電気、飛行機、テレビジョン……彼にとっては何もかもが恐怖だった。
カディルにはこの半地下室だけが安住の地だった。小さな天窓しかない半地下室は外が見えないので安心出来るらしい。ジャックは出来るだけカディルが快適に過ごせるように地下室を整えた。床にはマットレスが敷かれ、ガレージセールで買った小さなテーブルと椅子のセットも置かれた。電灯の明かりが嫌いなカディルのために週末の骨董市《こっとういち》でオイルランプも買った。ほんの百年ほど前まではこの世界でもそんな原始的な道具が使われていたのだ。カディルはランプを気にいり、そして一日中ランプの淡い炎を眺めていることが多くなった。
「そうだ、カディル。新鮮な苺《いちご》があるんだ。瑞々《みずみず》しくてとても良い香りだよ。少し食べてみないか?」
「……申し訳ありません。今は、頂《いただ》きたくないのです。後で頂きます」
「きっとだよ。ここに置いておくから」
だが、後で食べるという約束はほとんど守られたことがなかった。カディルはいつも気分がすぐれず、食欲がなかった。ジャックはカディルが喜びそうな新鮮な野菜や果物を見つけては買い求めたが、その度《たび》に徒労《とろう》に終わった。
グラシュティグが生きて行くためにはこの世界は騒々し過ぎ、汚すぎ、野蛮《やばん》過ぎるのだ。グラシュティグ族の山羊の脚は険《けわ》しい岩山を崖《がけ》から崖へ跳び渡る強靭《きょうじん》さを備《そな》えているが、その心は野生山羊にも似て繊細《せんさい》で頑なだ。齢《よわい》八百歳を超えたカディルはグラシュティグとしても高齢だった。
本当なら、カディルはとっくに引退して故郷の西の霊山《れいざん》で静かに百年足らずの余生《よせい》を過ごしているはずだったのだ。だが十七年前、双眼《そうがん》とも〈霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉の自分が生まれたためにカディルは引退を延期して宮廷に留《とど》まった。ジャックが無事に五歳の誕生日を迎えるまでという約束は十歳の誕生日までになり、次には成人するまでに延ばされた。その度に彼は未来のダナ王を育てているのだから苦労など厭《いと》わない、と快《こころよ》く引き受けてくれたのだ。
それなのに自分はカディルが望んでいた即位への道を自ら閉ざし、たくさんの苦労をかけ、その揚《あ》げ句《く》にこんな世界にまで連れて来てしまった。
カディルはここでは生きて行けない。このままこの世界に居たら、きっとカディルは死んでしまう。なんとしても彼をラノンへ、西の霊山へ還《かえ》してやらなければ。
ジャックはテーブルの上にロンドン地図を広げた。
「カディル、これを見てごらんよ。ロンドンの地図だ。僕らの居る場所はこのあたりだ」
河で二つに分断された街の南側の一点を指さす。
「これがテムズ河。イス河にそっくりだろう?」
「……どういうことでございましょうか」
「僕にも解らない。ただ、一つ考えられることは〈共感〉によってこの街とラノンが繋《つな》がっているという可能性だ。形が同じものの間では〈共感〉が働くから」
「この街は、ラノンと似てなどおりませぬ」
「確かに表面的には似ていないが、街の下にある地形はとても似ているんだよ」
ジャックは辛抱《しんぼう》強く繰り返した。今まで何度となく説明しているが、その度にカディルは初めて聞くような顔をしてロンドンとラノンは似ていないと言うのだった。
実際にラノンとロンドンの地形は極《きわ》めて似ている。外周部に行くとスケールの差が広がってしまうが、中心部はほぼ相似形《そうじけい》なのだ。テムズ河とイス河の流れの相似がそれを物語っている。
ジャックは地図上のポイントを一つずつ指で辿《たど》って行った。
「ここがロンドン塔。そしてここがトリニティ・スクウェア・ガーデンズだ。ラノンの〈地獄穴〉と全く同じ場所だが、ここには〈穴〉がないんだ」
なぜラノンとロンドンは似ているのか。これほど似ているにも拘《かか》わらずラノンには〈地獄穴〉があり、ここには円形の公園があるだけなのか。
その答えはまだ出ていなかった。自分たちが墜ちた場所はトリニティ・スクウェアではなくテムズ河の南岸《なんがん》エリアだった。ラノンでその辺りに相当する地域はイス河の南岸に広がる湿地《しっち》帯で、水魔《すいま》だけが住む寂しい何もない場所だ。だが、これだけ似ていて無関係であるはずがない。現にラノンは〈地獄穴〉によってこのロンドンに繋がっているのだ。
「カディル。ロンドンとラノンの相似性の意味を知ることが出来れば、いつかラノンへ還る方法も見つけられるかも知れないよ」
かなり以前から考えてはいた。が、叶《かな》わなかった時の失望の大きさを考えると今までどうしても口にすることが出来ずにいたのだ。けれど今のカディルには希望が必要なのではないか。たとえそれが叶う望みのほとんどない夢であったとしても。
「だから、元気を出して食事をしておくれ。ラノンに還る前に倒れてしまったら困るだろう?」
カディルは呆然とジャックを見上げた。固く凍《い》て付《つ》いた表情が陽に当たった霜《しも》のようにゆるゆると溶け出す。
「ラノンへ……還れるのでございますか。地獄穴から生きて戻った者はいないと……」
「確かに難しいけれど、可能性が全くないわけじゃない。何百年か前、この世界からラノンに来た者がいたという記録があるんだ。それ以外にも偶発的《ぐうはつてき》に渡った者がいなかったとは限らない。二つの世界に類似した習慣があるのは双方向の通行が可能だった証拠だと思う。恐らくこの世界の情報がラノンに持ち込まれたり、その逆もあったんだ。だから、方法さえ解ればラノンへの道を開けるかも知れない」
「では……では、ジャック様とわたくしはラノンに還れるかも知れないのですね」
「いや。還るのはおまえだけだ。カディル」
自分は、この世界で生きて行ける。この世界に来ることは自ら望んだ事だし、ラノンに自分の居場所はないのだ。
「僕は追放を受けた身だ。おめおめと還るわけにはいかないよ。おまえは違う。おまえは僕の巻き添えになっただけなんだ。おまえがラノンに還っても誰も咎《とが》めはしないよ」
ミントグリーンの眼が張り裂けそうなほど大きく見開かれ、唇が震えた。
「……違うのです、ジャック様、わたくしは……わたくしは……」
カディルが何を言おうとしているのか判った。言わせてはならなかった。それを聞いてしまったら、このささやかな平穏は終わりになってしまう。
咄嗟に腕を伸ばし、彼を強く抱きしめた。
「ジャック様……」
「カディル。何も言わずに僕の言うことを聞いておくれ。ラノンへの道が開けたらおまえ一人で還るんだ。いいね。僕のことは心配しなくていいから」
両腕を回してカディルをかき抱いたジャックは、腕の中の肩の薄さに胸を突かれた。
いつの間にこんなに痩《や》せたんだ……。
小さかったとき、こんな風に抱きしめられるといつも安心で幸せだった。父は遠い存在だった。抱きしめてくれたのはカディルだけだ。その頃とても大きく見えたカディルは今はジャックよりも小さく、その身体は小鳥のように細かった。
もっと研究してラノンとこの街の相似の意味を見つけるのだ。そうすればきっとカディルをラノンに還すことが出来る。
ジャックは宥《なだ》めるようにゆっくり背中を叩きながら耳元で繰り返した。
「大丈夫だよ。心配ないから。僕がきっとおまえをラノンに還すよ……」
◆◆◆
カディルはランプの炎をじっと見据えた。
炎が揺らめく。明るい美しい本当の炎。ちかちかと瞬《またた》く。眼を見開いたまま痛くなるまで見つめる。他のものは何も見ない。炎。ゆらゆら揺れる。黄色。光。明るい。何も見えない。何も考えない。何も感じない。何も。何も。
背嚢《はいのう》に荷物を詰めていたジャック王子が肩越しに声をかけた。
「カディル。僕は出掛けるよ。夕方には戻る。テーブルの上に葡萄《ぶどう》があるから」
「……行ってらっしゃいませ、ジャック様……」
静かにドアが開き、閉められる。見ずとも空気の流れで判る。炎は一瞬大きく燃え上がり、黒ずんだ芯《しん》がジジッと音を立てる。王子の足音が遠ざかって行く。
一人残された地下室でカディルは長い息を吐き出した。王子の居ない空っぽの部屋はカディルの吐息を吸い込んで寂々《じゃくじゃく》と静まり返っている。
ジャック様は、わたくしを疎《うと》ましく思われているのだろうか――。
そうなのかもしれない。
だから、わたくしだけをラノンに還すなどとおっしゃるのだろう。
そうだとしても、無理のないこと。
この世界では、自分は全くの役立たずなのだ。悲しいことに、この世界に来てから自分は王子の足手纏《あしでまと》いでしかなかった。鬼火《おにび》を灯《とも》すことすら出来ないのだ。けれど、だからと言ってどうしてこの恐ろしい世界に王子を置いて自分だけがラノンに還ることなど出来ようか?
カディルは、少しでもジャック王子の役に立ちたかった。そう強く心に思うのに、現実に何かしようとすると身体が竦《すく》んで動かなくなる。あの恐ろしい街、〈人間〉たちが造った鉄の街に出て行くと考えただけで身体が震えだし、足が萎《な》えて立ち上がることもままならない。
不甲斐《ふがい》ない……。
自分は、なんと意気地《いくじ》がないのだろう。いったい何のために王子の後を追ったのだ。このままでは王子の負担になるばかりではないか。魔法が使えない自分、王子の役に立てない自分に、いったい何の価値があるのだろう。
それでも、ジャック王子はこの役立たずのグラシュティグに優しくして下さる。御自《おんみずか》ら額《ひたい》に汗して働き、老いぼれたグラシュティグを養《やしな》って下さる。そのような価値はないというのに。
ジャック王子は、カディルが御自分の後を追って地獄穴に飛び込んだ事に負《お》い目《め》を感じておられるのだ。
「ああ、違うのです、ジャック様……」
(おまえは僕の巻き添えになっただけなんだ)
違う。違う。それは真実ではない。
そうではないのだ。自分は、巻き添えになったのではないのだ。
もしもジャック王子に真実を知られたら。
それを思っただけで心臓が潰《つぶ》れるような心持ちがした。
ランプの炎が頼りなく揺らめく。
もしも……もしも、弟君を亡き者にせんとしたのがこの自分だとジャック様に知れたら。
王子は、きっと自分を憎むだろう。
そんなことは耐えられない。毛の筋ほどでも王子に厭《いと》われたなら生きている甲斐はない。
いつかは真実を告げねばならぬと分かっている。今までにも何度も口を開きかけたが、どうしても告げられなかった。王子に憎まれるよりは、嘘を抱えて死ぬる方がよい。
けれど、自分が死ねば王子は悲しまれる――。
どうすればよい……? どうすれば……。
胸が詰まって呼吸が苦しい。北風のような音をたてて澱《よど》んだ空気を吸い込む。指が鉤爪《かぎづめ》のように曲がり、ばりばりと音を立ててマットレスの表面を掻《か》き毟《むし》る。
ばりばり。ばりばり。
「ああ……わたくしは……ジャック様の御為《おんため》を思ってしたのです……」
邪魔なニムロッド皇太子を排除すれば、ジャック王子は再び第一位の王位継承者に戻れる。
ジャック王子はお優しいから弟君の死を嘆《なげ》かれるだろうけれども、いずれは忘れて立ち直るだろうと考えた。そのような些細《ささい》なことよりも、ジャック王子をダナの王位につけることが王国のためと信じたのだ。
思えば何と愚《おろ》かな、軽はずみなことをしたのだろう。お小さい頃からジャック様がニムロッド様を可愛《かわい》がっていたことは日々|再々《さいさい》目にしていたではないか。
けれど認めたくなかった。
そうではないか? ジャック様の母君を暗殺した皇后のお子であるニムロッド様とジャック様が仲良うされるなどある筈がない。だからそれは見せかけなのだと思い込もうとしたのだ。
ジャック王子が皇太子暗殺未遂事件の直後にとった行動はカディルを驚愕《きょうがく》させた。
王子は、御自分がニムロッド暗殺未遂の首謀者であると自ら名乗り出たのだ。御自分さえ消えれば王位継承に関する争い事はなくなり、ニムロッド皇子を弑《しい》する試《こころ》みも絶えるとお考えになったに違いなかった。
王子がそれほどまでに弟君を愛しておられるとは露《つゆ》ほども想像しなかった。
自分は赤子の時からお育てして、ジャック様のお心を一つも解っていなかったのだ。
見開いた眼から滂沱《ぼうだ》と涙が流れ落ちた。
「違います違います違います、ジャック様……そうではないのです……」
爪がばりばりとマットレスを掻き毟る。
何が違うのか、もうよく解らなかった。
何かが間違っていたのだ。
善《よ》かれと思ってしたことだった。
自分には何の価値もない。
足手纏いなのだ。
ジャック様の重荷になりたくない。
死にたい――そう思った。死にたい、死にたい。
けれども自分が死ねば王子を悲しませることになる。
「ああ……ジャック様……わたくしはどうしたらよいのでしょうか……」
ランプの炎が揺れ、壁に長い影を作る。
世界は、とても暗い。
手を伸ばして炎を掴まえようとした。炎は遠ざかり、自分の手もすーっと遠ざかる。空恐ろしくなって手を引っ込めた。何もかも自分から遠ざかっていくように思われた。四方を取り巻く灰色の壁も遠ざかりながら回転し、同時に自分に向かって倒れ掛かってくる。カディルは恐ろしさに目を閉じた。だが目を閉じても同じだった。壁はどこまでも遠ざかり続け、倒れ続け、カディルの世界を取り巻いてぐるりと回った。
ぐるりと回る。ぐるりと。ぐるり。
ああ、厭《いや》だ……厭だ厭だ厭だ……。
きっと、ここは自分のいるべき場所ではないのだ。
わたくしは、行かなければ。
何処《いずこ》かへ。何処かへ。
突き動かされるように足が動いてすっ、と身体が持ち上がった。コトリ、と蹄が床を踏む。
自分が何をしようとしているのか、何処へ行こうとしているのかは分からなかった。ただひとつ、ジャック王子がカディルが外出することを望んでいたことだけは覚えていた。
わたくしは、外に出なければならない。ジャック様のお心のままに。
目を閉じたまま歩き出す。手に何かが当たった。床に落ちて脆《もろ》く砕け散る。鉱油《こうゆ》の臭《にお》い。熱がふわりと広がる。蹄が硝子の破片を踏む。
じゃり。じゃり。
カディルは壁を手で伝《つた》って一歩ずつよろよろと進んだ。
案ずることはない、壁伝いに歩けばきっと出口に行き着ける。迷路に迷い込んだ時には、壁伝いに歩けばいつか必ず出られるのだ。
◆◆◆
ジャックは帰路《きろ》を急いだ。仕事が長引いてすっかり帰りが遅くなってしまった。カディルが心配しているに違いない。
「カディル?」
地下室の戸を開けた瞬間、きな臭い匂いが鼻をついた。暗い中、白い煙が霧のように部屋の中にたなびいている。
全身の毛が逆立《さかだ》った。
「カディル!」
口を押さえて煙の中に踏み込み、手探りで電灯のスイッチを入れた。視線がカディルの姿を捜し求めて泳ぐ。マットレス、ソファ、テーブル。そのどこにもカディルの姿はない。床の上で粉々に砕《くだ》けたオイルランプが目に留まった。カディルが座っていたマットレスの一部が黒く焦《こ》げ、もうもうと白い煙を噴き出している。何かのはずみでランプが落ちて割れ、マットレスにその火が移ったのだ。咄嗟《とっさ》に湯沸かしの中身をマットレスにぶちまけた。じゅうじゅうと音がし、厭な匂いがして部屋中に煙がたちこめる。炎は見えなくなったが、おそらく内側の残り火は消えていない。少しすればまた炎を上げ始めるだろう。
ジャックはこの世界に来て初めて〈霜の力〉が使えたなら、と思った。
〈霜の力〉は熱を奪う。温度を下げればどんな炎も消える。
その瞬間、ジャックはこの世界に来てから一度も感じたことがない感覚を覚えた。眼の中で瞳が拡大していく感覚――〈霜の力〉が発現するときの感覚だ。
まさか、と思った。何故《なぜ》、とも。だが理由をあれこれ考えている暇はなかった。
(凍れ!)
呪誦《ピショーグ》を使う必要もなく、〈霜の力〉がくすぶるマットレスに向かって押し出された。みるみる熱が奪われ、マットレスとその周囲は真っ白に凍りついていく。
これがジャックの身に備《そな》わった〈霜の力〉だった。
この世界に来て以来、初めて魔法が使えたのだ。
だが、何故なのだ……?
部屋にたちこめる煙で目が痛かった。ジャックは強く何度か瞬《まばた》きした。ふと気付くと、床に点々と青く光るものがある。足跡だ。足跡が青く光っている。
屈《かが》みこんで床の上の足跡に触れた。光っていたのは、カディルの蹄の跡だった。
これは、〈妖素《ようそ》〉の光だ……!
ラノンでは普通は〈妖素〉の光を意識することはない。妖素は空気を含めてラノンのすべてのものに含まれ、眩《まぶ》しくて邪魔なためラノンに生まれた者なら誰でも無意識的に妖素光を除いて視《み》る術《すべ》を身に付けている。意図的に視るときにだけ瞬きして視野をセカンドサイトに切り替えるのだ。だから普段は妖素があることすら意識しない。
だが、いまセカンドサイトに切り替わった視界では床に付いた血の跡だけが青く光って視えていた。つまり、それ以外のものには〈妖素〉が全く含まれていないのだ。
「そうか……僕は何て馬鹿だったんだ……」
なぜ今まで魔法が使えなかったのか、その理由が判った。
ジャックは、自分たちが魔法を使えない原因をこの世界に鉄が過剰にあることに起因するのではないかと考えていた。だがそうではなかったのだ。魔法が使えないのは〈妖素〉の欠如《けつじょ》によるものだったのだ。まさか、妖素が全く存在しないとは思いもしなかった。
ラノンのすべてのものには〈妖素〉が含まれる。もちろん、ラノン人の血肉《ちにく》にもだ。いま〈霜の力〉が発現したのは足跡に含まれていた〈妖素〉が空気に触れ、それが触媒《しょくばい》として作用したからなのだ。
ハッと振り返った。
点々と続く光る足跡。あれは、カディルの血だ。
カディルは怪我をして、火に怯《おび》えて、一人で外に逃げたのだ。安全な道も信号も歩き方も何一つ知らないこの街に、一人で出て行ったのだ。
「カディル……!」
一刻も早く見つけなければ。
カディルが事故やトラブルに巻き込まれたりしたら。
そう考えただけで冷や汗が出て心臓が早鐘《はやがね》のように鳴り響いた。
カディルの身に、何か起こったりしたら……!
魔法を使う方法が判ったとはいえ、ジャックの使える術は〈霜の力〉の他には幾《いく》つかしかない。そのなかには居なくなったカディルを見つけ出すのに役立つ術は一つもなかった。自分の足で探すしかないのだ。
ジャックは階段を駆け上がり、夕暮れの街に走り出した。
◆◆◆
カディルは足を引《ひ》き摺《ず》って灰色の石の道を歩いた。
夕闇が空を藍色《あいいろ》に染め、灰色の石の道を〈人間〉の作った稲妻《いなずま》の灯《あか》りが明るく照らす。道に敷かれた石は平らかでどこまでも継《つ》ぎ目《め》がない。
地に着けるたびに片方の蹄の間が痛んだが、他人事《ひとごと》のように気にならなかった。カディルはひょこひょこと肩を上げ下げしながら灰色の石の道を歩いた。
わたくしは、外に出たのだ。
わたくしは、ジャック様の足手纏いにはならない。
わたくしは、ジャック様のお役に立つことをする。
ジャック様は喜んで下さるだろうか? カディルが外に出たことを?
きっと、喜んで下さる。
王子の喜びは、カディルの喜びだ。
胸の奥底から喜びが湧《わ》き起《お》こり、唇から笑みが零《こぼ》れた。
嬉しい。嬉しい。
幸福感が全身を包む。
カディルはうっとりと微笑《ほほえ》んだ。心は軽く晴れやかに澄み渡り、手を伸ばせば夜空の彼方にまで届く心持ちがする。顔にかかる長い髪をさっとかき上げた。微笑み、足を引き摺って歩く。二つに割れた蹄が石畳《いしだたみ》の上で硬いコトコトという音をたてる。コト。コト。歩くうちに、ひとりでに歌が口をついて出た。カディルは声を立てて笑い、その合間に大きな声でラノンの子守歌を歌った。
王子がお小さかった頃には、よくこうして子守歌をお聞かせしたものだった。
ジャック様はほんに良いお子に育って下さいました。ジャック様をお育て出来てカディルは幸せです……。
周囲が騒々しかった。〈人間〉たちがカディルの後ろを付いてきて何やら口々に騒いでいる。
足を止め、くるりと振り向いた。人間たちが立ち止まり、一斉《いっせい》に後ろに下がる。だが、それ以上は離れない。遠巻きに眺めているだけだ。
彼らの顔を眺めているうち、ひとりでに笑みが溢《あふ》れた。
自分はとても幸せだ。この幸せを、彼らにも解って欲しかった。
「〈人間〉たち、よくお聞き……」
カディルは大きく息を吸い込み、高らかに宣言した。
「わたくしは、ジャック様をお育て出来てとても幸せなのです!」
こんなに素晴らしいことなのだから、〈人間〉たちもきっと共に喜んでくれると思った。彼らも自分と同じように幸せに笑ってくれるだろう。
晴れ晴れと人間たちを見渡した。だが、彼らは微笑んではいなかった。
どうしたというのだろう。
カディルはもう一度にっこりと彼らに微笑みかけた。一人一人の顔を見つめる。若い者、老いた者、痩《や》せた者、太った者、白い肌の者、黄色い肌の者、黒い肌の者。
やはりどの顔にも微笑みはなかった。
〈人間〉たちは嘲《あざけ》りの色を浮かべ、或《ある》いは怯え、或いは眉根を寄せ、汚《けが》らわしいものを見る眼でカディルを凝視していた。
あれを見ろ。あれを見ろ!
「ありゃ、蹄か?」
「ああ、二つに割れてるな……」
本物なのか。まさか。作り物だろう。だが見ろ、良く出来ている。まるで――。
猜疑《さいぎ》と恐怖、嫌悪《けんお》と好奇に満ち満ちた顔がカディルを取り巻いていた。
「悪魔!」
年取った太った女が叫んだ。
わたくしが、悪魔? なんと的外《まとはず》れなことを。
カディルは右の蹄を一歩前に踏み出した。
「〈人間〉たち。わたくしはグラシュティグですよ」
人間たちは怯えた顔で小さく後ずさった。
「こっちに来るな、悪魔!」
ひどく痩せたちっぽけな男が怒鳴る。カディルはその男の方に向かって叫んだ。
「わたくしは悪魔ではありませぬ!」
だが、人間たちは耳を貸さなかった。人間たちは合唱した。
悪魔、悪魔、悪魔!
〈人間〉たちの罵倒《ばとう》の声が耳に突き刺さる。
唐突に悲しくなった。〈人間〉たちはカディルが嫌いなのだ。
カディルは彼らに背を向けてひょこひょこと歩き出した。
悲しい。悲しい。
子守歌を口ずさむ。
赤と白の光の川のように、目の前の道を〈自動車〉の灯が流れていた。
赤いと白い。白いと赤い……。
歌いながら白い光の川に向かって段差を踏み出す。
怪物の目玉のように二つに並んだ白い光が自分に向かって突進してくるのをカディルはぼんやりと眺めた。
◆◆◆
アーニーがカフェを店仕舞《みせじま》いしていると、見慣れた自転車がこちらに向かって来るのが見えた。ジャックだ。まるでジェットコースターみたいな速さで歩道を滑走《かっそう》してくる。
「アーニー!」
自転車は屋台に突っ込むぎりぎりで急停車し、ジャックはカウンターの仕切りをどんどんと手で叩いた。
「どうした? 血相《けっそう》を変えて。今日はもう閉店だぜ」
「アーニー、カディルを見なかったか?」
「別嬪さんをかい? いんや、見ないね。そういや、ずっと見てねえような気がするな。どうかしたのか?」
「カディルが、居なくなった」
顔を上げてジャックに視線を向けたアーニーはギョッとした。ジャックの蒼白い瞳が異様に大きく、ぎらぎらとした光を放っているのだ。最初に見たときあの眼のせいで悪霊じゃないかと思ったが、今のジャックはまるで本物の悪霊だった。
「何も分からないのに一人で出て行ってしまったんだよ! 僕は、一体どうしたら……」
「まあ、落ち着きな。心当たりは?」
「分からない。分からないんだ。近所は全部捜した。でも見つからない。徒歩だから、そんなに遠くに行ける筈はないんだ。カディルは乗り物には乗らない。乗れないんだ。地下鉄もバスもタクシーも意味が分からないと思う」
「まるっきり駄目なのか?」
「ああ。カディルは、あの日から一歩も外に出ていないんだ。金銭も持っていない。この街のことは何一つ知らない。ここがどこなのか、どんな場所なのかも分かっていない。説明しても理解出来ないんだ。心が……暗く閉ざされているために」
「えらく難しいことを言いやがるな。つまり、なんだ。悪霊に取《と》り憑《つ》かれてんのか?」
「おまえの言う意味が分からない。この世界に墜ちるずっと前からそうだった。でも僕は、時が経《た》てば元気になると信じていた……」
ふむ、とアーニーは唸った。
気付いていないようだが、いまジャックは随分と妙なことを口走ったのだ。
この世界に墜ちた、だと?
アーニーはもう一度、目の前にいる若いのをよくよく眺めた。
氷の色をしたジャックの瞳は普通の大きさにまで縮んでいた。ぎらぎらした眼の光は既に消え、その代わりに思い詰めた表情が浮かんでいる。
「……僕のせいなんだよ。僕の留守中に地下室でぼやがあって、カディルは外に逃げて、そのまま一人でどこかに行ってしまったんだ。それに、逃げる時に怪我をしているんだよ……」
ジャックは歯を食《く》い縛《しば》り、痙攣《けいれん》するように震える息をした。自分が子供の頃、泣くのを堪《こら》えるのにしたのと同じようにだ。
そこにいるのは、やっぱり途方に暮れた大きな子供だった。
こいつは、悪霊なんかじゃねえな。自分の大切な相手を一生懸命守ろうとしている子供だ。
そういや、最初に見かけたあの日もこいつは〈別嬪さん〉を守ろうとしていたっけな。マリア様に似たあのひとを――。
それから、つらつらと考えた。
まあな、オレにとっちゃ、こいつがどこから来たかなんてことはどうだっていいことなんだからな。どこから来たにしろ、今じゃ同じ不法滞在者だ。
アーニーは携帯電話を取りだし、知り合いの故買屋《こばいや》の番号を押した。
「ちょいと待ちな、オレの仲間に訊《き》いてやっから」
ジャックが何か言いたげに口を開きかけたが、アーニーは無視して電話の相手に〈別嬪さん〉の――カディルの特徴を伝えた。
「……ああ、そりゃもう、すんげえ別嬪だ。一目見てみろ、ありがたくて寿命が伸びるぜ。けど、可哀相《かわいそう》に魂を悪霊に持っていかれちまってる。月の光みてえな銀色の髪で、そいつが足に届くくれえ長い。一応男だが、女にしか見えねえ。皆にも伝えてくれ。じゃあな。見かけたら連絡、頼むわ」
通話を切る。他に二、三ヵ所に電話をかけ、同じ情報をさらに知り合いに電話するように頼んだ。
「オレらの仲間の情報網に流したからよ。誰かが見かけりゃここに電話をくれるって寸法《すんぽう》だ。おめえはここで待ってりゃいい」
「だが僕は、とてもじっとしては……」
「まあ、落ち着け。やみくもに走り回ったからって、見つかるってもんじゃねえ。オレのダチのダチのダチ、そのまたダチまで眼を光らせてんだ。なんせ、見たことがねえくれえの別嬪だってんだから喜んで捜すさ」
ジャックは憑き物が落ちたみたいな顔でアーニーを眺めた。
「ああ。ありがとう、アーニー……。おまえは、どうして僕らに親切にしてくれるんだ?」
「どうしてって、そりゃあよ。いっぺん犬に餌《えさ》をやったら最後まで面倒みなきゃなんねえ、ってのがお袋の教えだったからよ」
「僕は犬か。それにしても……」
「まあよ。ちょいと正直に言やあ、おめえらが異邦人で、オレらも異邦人だからってとこかな。この国じゃあよ」
それに、あの別嬪さんはホントにマリア様に似てるしな。
アーニーはどんよりと曇ったロンドンの夜空を見上げた。
どこから墜ちて来たかなんてことは、このさい考えないこった。まあ、墜ちた、ってんだから〈下〉からじゃなく〈上〉だろうがよ。
「アーニー。もし……もしも僕らが……」
ジャックが言いかけたとき、携帯が鳴った。通話の相手の話を聞いたアーニーは、眉を顰《ひそ》めた。
「ちょっと前にブリクストンの五叉路《ごさろ》んとこでそんな風な髪の美女を見たって奴がいるそうだ。けどよ……」
「ブリクストンの五叉路か、そこなら判る! ありがとう、アーニー、恩に着るよ!」
「おい、ジャック!」
みなまで聞かず、ジャックは自転車に飛び乗って風のように走り出した。夜の街の透き通った闇にその後ろ姿が小さくなって消えて行く。
「まったく、別嫁さんのことになると見境《みさかい》がねえな……」
ブリクストンの五叉路の目撃者は、その美女を見失ったと言って来たんだが。それに、妙なことも言っていたのだ。
そいつが見た長い髪の美女は、どうやら悪霊だったと。
◆◆◆
眩《まぶ》しい。
そう思った瞬間、カディルの両脇を二頭の単眼《たんがん》の怪物が猛烈な勢いですり抜けた。風圧で足がよろめく。
「馬鹿野郎っ! 道路の真ん中にぼやぼや突っ立ってんじゃねえ!」
怪物の背に跨《また》がった〈人間〉が振り返って怒鳴る。怪物は一つだけの眼をぎらぎらと光らせ、尻から臭《くさ》い煙を吐き、グロロロルルウ、と恐ろしい唸《うな》り声を上げた。
「わたくしは、馬鹿ではありませぬ」
だが〈人間〉は鞍《くら》に跨がったままカディルに向かってさらに罵詈雑言《ばりぞうごん》を投げつけ、怪物の腹を蹴《け》って走り去った。臭い煙が吹きかけられる。〈人間〉とは何と失礼な種族なのだろう。
カディルは再び歩き出した。ぎらぎらした光が流れてくる。あれも怪物の眼だろうか。進軍|喇叭《らっぱ》のような咆哮《ほうこう》が一斉に鳴り響いた。怪物の声だ。二つ目玉の怪物が甲高《かんだか》い声を上げて脇を走り抜けた。向かってくる光の輪。一つをやり過ごしても怪物は咆哮を上げながら次から次へと現れ、カディルに向かって突進してくる。
喇叭の音が幾重にも重なって辺り一面鳴り響く。
〈人間〉たちの怒声と笑い声が入り混じる。
(ばっきゃろー……このノロマめ……うろちょろすんじゃねえ……しね、しね、死んじまいな……あはは、はははは……見ろよあいつの格好《かっこう》……)
両手で耳を塞《ふさ》いだ。
厭だ。厭だ。怖い。恐ろしい。
逃げなければ。
よろよろとよろめき、怪物の合間を縫《ぬ》って進む。今まで右手から襲って来ていた怪物が、今度は一斉に左手から現れる。唸り声、臭い煙、光る目玉。絞《し》め殺《ころ》されるような甲高い雄叫《おたけ》びを上げて二つ目玉の怪物が急停止する。
「何やってんだ、この間抜け!」
怪物の中から〈人間〉がひょいと顔を出して怒鳴った。肩から上は外に出ているが、下半身は怪物の身体の中にしっかりくっついていた。
〈人間〉はあの怪物と共生《きょうせい》しているのだろうか――。
道の端で赤と緑の目玉が瞬《まばた》きする。蹄が段差を踏んで石畳に上がった。怪物は追ってこない。蹄の高さほどの段差なのだが、何かの結界があって段差より上には追ってこられないようだ。
〈人間〉の街は何と恐ろしい所だろう。やはりここは地獄なのではないか。
カディルは怪物のたてる恐ろしい唸りや雄叫びから少しでも遠くへ逃げようと、怪物の来ない方へ、〈人間〉の少ない方へと走った。
暗い方へ。暗い方へ。
角を曲がるたびに道は細く、暗くなっていった。どれくらい歩いただろうか。やがて薄暗い洞窟《どうくつ》に行き着いた。洞窟の中にも稲光の白い灯《ひ》がまばらに光っているが、静かで怪物の姿はなかった。きっと、ここなら怪物も追ってこないに違いない。
カディルは洞窟の奥へ奥へと入っていった。〈人間〉の作る眩しい灯もここでは薄暗く洞窟の壁のきわを仄《ほの》かに照らしているだけだ。さらに奥に進むと仄暗い灯に照らされた壁のくぼみに三人の〈人間〉がいるのに気付いた。三人とも若く、汚れたなりをしている。
〈人間〉はヒューッと口笛を吹いた。
「おい。見ろよ、あの女。すんげえ上玉《じょうだま》だ」
「たまんねえな」
「なんか変だぜ。ヤクやってんじゃねえか?」
「かまやしねえさ。イかしてやろうぜ」
〈人間〉たちは意味不明の言葉を吐き散らしながらカディルに近づいて来た。ひどく不愉快だった。
「〈人間〉たち、わたくしの前から去りなさい」
〈人間〉はへらへらと笑った。
「聞いたか? おい」
一人が不作法にも手を伸ばしていきなりカディルの髪の一束を掴んだ。
「うひょお! すげえ長《なげ》えや」
「その手を放しなさい! 放すのです!」
「こうかい?」
髪を放した手が、今度は右の腕を掴む。それと同時にもう一人が左の腕を捕らえた。
「何をするのです!」
「イイことさ、可愛《かわい》コちゃん」
汚らしい手が顔に触れ、顎《あご》を鷲掴《わしづか》みにした。
「しっかり押さえてろよ」
半開きになった〈人間〉の口が近づいてくる。腐《くさ》ったような臭い。ぽっかり開いた赤い肉の洞窟にずらりと並んだ黄色い歯が見える。ワームを思わせるぬらぬらとした唇に涎《よだれ》が溢れ、舌がねっとり舐《な》め回《まわ》す。
〈人間〉はカディルを喰《く》らう気なのだ……!
カディルは必死に身もがいた。だが、左右からそれぞれ腕をがっちりと押さえられ、僅《わず》かの身動きもままならない。
ああ、わたくしはこのまま〈人間〉に喰われてしまうのだろうか……。
生暖かい軟体《なんたい》動物のような口が音を立てて吸いつく。ぺちゃぺちゃとねぶり、肌に歯を立て、啜《すす》りあげる。
カディルは有らん限りの声で悲鳴を上げた。
ジャック様あああぁぁぁ……!
◆◆◆
ブリクストンの五叉路で目撃されたのはカディルに間違いなかった。多くの人間が〈美しい顔をした銀髪の悪魔〉を見たと言っているからだ。〈悪魔〉は何度もバイクや車にぶつかりそうになり、交通渋滞を引き起こし、それでも大通りを渡り切ってカンバーウェル方面に逃走したという。ブリクストンに劣《おと》らず治安の悪いエリアだ。
一刻も早く見つけなければ。
ジャックはカンバーウェルへと向かう細い路地を必死で走った。道路は荒れ、道は細く、街灯は暗く、人を拒絶するシャッターと高い塀《へい》とが延々《えんえん》と続いている。
焦《あせ》りが身を灼《や》き、考えがまとまらない。
カディル、カディル、どこに居るんだ……。
そのとき不意に、どこかで悲鳴がしたように思った。
カディル……?
耳をそばだてる。再びくぐもり、反響するような悲鳴が耳を打った。
どこだ?
響くようで、同時にくぐもった悲鳴。
地下道だ!
たしか、このすぐ近くに古い地下道の入り口があった筈だ。
ジャックは薄暗い地下道の奥へ奥へと自転車を走らせた。
黒ずんだ煉瓦《れんが》の壁にぽちゃりと水音が谺《こだま》する。
「カディル! どこだ!」
地下道の分岐路《ぶんきろ》を曲がったジャックは、息を飲んだ。
辺り一面、血の海だった。だが、カディルの血ではない。瞬きして視野を切り替えても妖素の光が視えないのだ。
血の海の中、煉瓦の壁にもたれかかるようにカディルが座り込んでいた。
「カディル! 無事か!?」
ゆっくりと顔が上がった。
「ジャック様……。わたくしは、魔法を使うことが出来ました……」
「カディル、そんなことはどうでもいい、おまえが無事なら……」
ジャックは言いかけた口を閉じてあたりを見回した。大量の血が路面に流れ、煉瓦の壁には飛び散った内臓と肉片《にくへん》が貼り付いている。
地下道の反対側の壁際に人間が倒れていた。一人、二人……三人。
ジャックは用心深く倒れている人間に近寄り、うっと口を押さえた。三人とも真っ赤な洞窟のような腹腔《ふっこう》から臓腑《ぞうふ》をまき散らして絶命していた。
刃物で切ったような普通の傷ではない。こんなことが出来るのは――。
ゆっくりとカディルを振り返る。
「カディル。おまえが……?」
「はい、ジャック様」
カディルは夢見るように美しく微笑んだ。
「ご覧《らん》下さいませ、わたくしは再び魔法を使えるようになったのです。その者たちはわたくしを喰らおうとしたゆえ、〈膨張《ぼうちょう》〉で腹を膨《ふく》らませて破裂させたのですよ」
ジャックは言葉を失った。
カディルの精神状態が普通でないのは大分《だいぶ》前から気付いていた。この世界に来る以前からだ。だが、人を殺したことの意味が分からないほど悪くなっているとは思っていなかった。
カディルがニムロッド暗殺未遂事件の下手人《げしゅにん》であることは初めから知っていた。そのとき、カディルがそれほどに思い詰めていたことを知ったのだ。気付いていることをカディルに知られてはならないと思った。そのことを知ったら、かろうじてバランスを保っているカディルの精神は崩壊してしまうだろう。
[#挿絵(img/Lunnainn3_277.jpg)入る]
「カディル……おまえは……」
何か言おうと思うが、言葉が続かない。カディルの顔からかき消すように笑みが消えた。
「ジャック様、どうかされましたでしょうか……?」
「ああ……何でもないよ、何でもないんだ、カディル……」
「ジャック様、わたくしはこれでまたジャック様のお役に立てますでしょうか……?」
不安な顔が見上げる。痛ましさに胸が締めつけられた。カディルにはもう善も悪も解らない。ジャックのことしか考えられないのだ。
ジャックはカディルを強く抱きしめた。カディルをこんな状態にしたのは、自分なのだ。
「カディル……可哀相に……」
「ジャック様……?」
「カディル、カディルは何もしなくていいんだ。カディルが黙って側《そば》に居てくれるだけで僕は満足なんだよ」
ミントグリーンの瞳が驚いたように大きく見開かれた。
「お側にいるだけで……?」
「そうだよ、カディル。もうどこにも行かないでおくれ。おまえが居なくなってしまったら僕はどうしていいのか分からない」
カディルはぶつぶつと口の中で何か呟き、それから遠くを見る眼で微笑んだ。
「ジャック様、わたくしはいつでもジャック様の望む通りに……」
エピローグ
地下室の壁に映《うつ》った電灯の影が揺れ、三人分の影のように見えた。
「……その事件のあと、僕は部屋に〈惑《まど》わし〉をかけて人間には視《み》えないようにした。カディルには一人で外に出ないよう注意した。南ロンドン一帯に二つに割れた蹄《ひづめ》のある美女がフーリガンの若者を惨殺《ざんさつ》したという都市伝説が広まってしまって危険だったんだ」
レノックスは終始無言でじっと宙を睨《にら》んでいる。聴こえているのかいないのか。だが、どちらでも構わなかった。ジャックは俯《うつむ》いたまま話し続けた。
「その後、一時的にカディルの状態は良くなったように見えた。カディルは言われた通りに食事をして、いつでも穏《おだ》やかな微笑《ほほえ》みを浮かべて、話しかければ機嫌良く返事をした。オイルランプは危険だから止めようと言えば素直にそれに従《したが》う。もう電気を怖いとも言わなかった。だから僕は安心して電気の灯《あか》りを点《つ》け、カディルを置いて毎日仕事に行っていたんだよ。自分のしていることがカディルの為になっていると信じてね。カディルが僕に言われたことしかしないし、話さないのに気づいたのはそれから随分|経《た》ってからだった」
カディルの返事の内容もいつも同じだった。
――はい、ジャック様。分かりました、ジャック様。仰《おお》せの通りに、ジャック様――
カディルはジャックが安心するような答えだけを人形のように繰り返していた。それなのに、自分はそれに気づかず安心してしまった。美しい微笑みの仮面の下でカディルがどれほど苦しんでいたのか推《お》し量《はか》ることが出来なかったのだ。
「……カディルの表情や言葉は少しずつ乏《とぼ》しくなって行った。変化がゆっくりだったから、僕はなかなかそれに気づかなかった。そのころ僕は自分のことでいっぱいで、部屋で待つカディルのことを気遣《きづか》う余裕がなかったんだ。話しかけても返事が返ってくるまでに長い間があったり、その返事が的外《まとはず》れだったりしても深くは考えなかった。たぶん、僕はカディルの状態が悪化していることを認めたくなかったんだと思う。そんなことが続いたある日、僕は部屋の隅で子守歌を歌っている彼に話しかけた。返事がなくて、もう一度話しかけた。だが、駄目だった。何度も何度も彼の名を呼んだよ。それでも駄目だった。彼は微笑みを浮かべたまま遠くを見て、ぽつぽつと子守歌を歌うだけだった……」
今も耳に残っている。いまレノックスが横たわっているマットレスの上に、カディルは一日中身動きせずに座り込んでいた。ミントグリーンの瞳には、現実のものは何一つ映っていなかった。彼は遠くを見ていた。おそらくは、数百年前に後にした彼の生まれ故郷を。
「それから少ししてからだよ。おまえが知っている完全に無反応な状態になったのは。そんな状態になっても、彼は僕の言うことだけはおとなしく聞いた。僕が言えば素直に食事も口にする。だが、指示しなければ自分では水も飲まない。僕は赤ん坊にするように彼の世話をするようになった。そうしなければ彼は飢《う》え渇《かわ》いて死んでしまう。食べさせて、身体を拭《ふ》いて、ハーブ油を塗《ぬ》って、髪を梳《す》いて、爪を切って……。一度だけ蹄も削《けず》ったけれど、あまりうまく出来なかった。そんな状態が半年くらい続いたかな……」
そして、カディルが命を絶つことになったあの事件が起きてしまった。
悔《く》いるべきことは百通りもある。そのどれ一つをとっても自分は充分に為《な》すことが出来なかったのだ。
「話は、これで終わりだよ。結局、僕は子供だったんだ。カディルのために自分が何か出来ると信じていた。でも、実際には少しも彼のためにはなっていなかった。彼に何かしてやりたい、何か買ってやりたいと思うのも本当のところは僕の勝手な欲だったんだ。僕が、カディルの喜ぶ顔を見たかっただけなんだ。彼をあそこまで追い詰めたのは僕なんだ……」
レノックスが唸《うな》り声をあげた。熱に濁《にご》った眼が一点を凝視するように睨《にら》んでいる。
「どうした? レノックス。痛むのか?」
「ジャック、あんたは……あんたって奴は……」
突然彼はうおおおっ、と雄叫《おたけ》びをあげ、マットレスの上に身を起こした。動かない筈《はず》の腕が伸びてジャックの襟首《えりくび》を掴《つか》む。
「……あんたはよくやった! よくやったんだ、ジャック!」
「ああ、分かった、分かったから。手を放せ」
「いいや、あんたは、ちっとも分かってねえ!」
もう一方の腕が首根っこに絡《から》みついて来た。腕全体がカッカと熱を持っている。下手に振《ふ》り解《ほど》くと傷ついた筋をさらに痛めそうで怖くて無理には外せない。やっと右腕を外したと思ったら今度は左腕が巻き付いた。酔っぱらいなら邪険《じゃけん》に扱えるが、傷病者《しょうびょうしゃ》だけに始末が悪い。
「いいか、あんたは気づいてないかもしれねえが、凄《すご》いことをしてたんだぞ! 同盟の誰にいったいそんな真似《まね》が出来る? 出来やしねえ。一人でこの街で仕事を見つけて、働きながらカディルの面倒をみて……出来るこっちゃねえよ……俺は、最初に〈霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉の自転車便を見たって聞いたときは、冗談かと思った。ダナの王族がそんなことするわけがねえと……けど、あんたはやったんだ。たった一人で、この街で……」
「レノックス。僕は一人じゃなかったという話だったんだが」
ジャックはやんわりと訂正したが、レノックスは聴いている様子はなかった。
「あんたは、本当によくやったんだよ、ジャック。カディルは、幸せだっただろう。カディルは、あんたのことを誰より何より愛していた。そのあんたに、それほど想われて大事にされて、幸せじゃなかったわけがあるか? カディルは本当に幸せだったんだ。実の親子だってなかなか出来やしねえよ……あんたたちは、血の繋《つな》がった親子以上に強い絆《きずな》で結びついてたんだな……。畜生《ちくしょう》、泣けてきやがる……」
熱で赤い顔をさらに真っ赤にし、拳《こぶし》でごしごしと眦《まなじり》を拭《ぬぐ》う。
「……俺は、あんたを冷たい奴だと思ってた。愛想《あいそ》がない生意気な唐変木《とうへんぼく》の若造だと思ってた。けど、そうじゃねえ。俺は、間違ってた。あんたは、ほんとは暖かい奴なんだ。ラムジーが言ってた意味が今頃やっと解《わか》ったぜ、畜生。ラムジーはさすが人狼《ウェアウルフ》だ、最初っからちゃんと解ってたんだな……」
目が据《す》わっている。荒く息をつき、レノックスはもつれた舌で喋《しゃべ》り続けた。
「ジャック、教えてやろう。俺の考えじゃあな、あんたは良い奴なんだ。俺が保証する! そうだ、決めたぞ。俺が死んだら灰は全部あんたにやる!」
「それは規約違反だろう」
「なぁに固いこと言ってやがる、もう同盟はないんだ、かまやしねえ。俺はな、あんたに会えて良かったと思うぞ……あんたは、良い奴だ……いいな、覚えとけよ……ジャック・ウィンタース……」
絡んでいた腕がずるっ、と滑り落ちた。崩れ落ちる重みを慌てて支える。そのまま大男はマットレスに倒れ込んだ。
「知ってるか……あんたは、良い奴なんだぜ……」
ぶつぶつと呟きながら瞼《まぶた》を閉じる。
眠ったようだ。
タオルを水に浸《ひた》して軽く搾《しぼ》り、レノックスの額に乗せた。喉の奥から規則正しく微《かす》かないびきが漏《も》れてくる。
唇に笑みが浮かぶ。
良い奴、か。
たぶん、熱による譫妄《せんもう》だ。朝になったら忘れているだろう。
結局、人間の善い面についてレノックスにうまく説明することが出来なかった。
アーニーやアーニーの友人たち、エマやトマシーナ、そして自転車便の仕事で知り合った人間たち。彼らと出会うことがなかったら今の自分はなかっただろう。そのことをレノックスに伝えたかったのだが、彼の状態を考えれば無理な話だった。いつか、彼が元気なときに話す機会があればと思う。
ジャックは伸びをした。
まだ日は昇らない。夜が明ければ、魔術者フィアカラとの闘いが始まるのだろう。
天窓からは夜明け前の微かな喧騒《けんそう》が忍び込んでくる。家路を急ぐ夜番の足音、早朝の市場に向かう車のエンジンの音。遙か遠くに一番列車の警笛《けいてき》が響く。
ジャックは、目覚めの予感を孕《はら》んだこの時間が好きだった。あと少し経《た》てば人間たちが造り上げた巨大な獣《けもの》のようなこの街は完全に目覚め、生き生きと活動を始める。
ジャックは目を閉じ、街の息吹《いぶき》に耳を澄ました。
これからも、この街で生きて行く。ラノンの仲間たち、そして人間たちとともに。
ロンドン――ラノンの双子都市。この街は決して地獄ではない。
[#改ページ]
あとがき[#地から2字上げ] 縞田理理
こんにちは。縞田理理《しまだりり》です。〈霧の日にはラノンが視《み》える〉をお手にとって頂《いただ》き、ありがとうございました。
この本は〈ラノン〉シリーズの三冊目にあたります。現代イギリスが舞台の、所謂《いわゆる》『ファンタジー』です。設定については、ええ〜と、巻頭に説明がつくことになっている(現段階でそう聞いているので、たぶん……)ので、まずそこをパラ見して頂いてキャラとか世界観とかで何かしらぴぴっと来るものがありましたら試《ため》しにお買いになってみて下さいませ。キーワードは「イギリス」「ケルト」「妖精」「変身」「わんこ」「王子」「魔女・魔術者」あたりです。とりあえず、動物と不思議がお好きな方にはお楽しみ頂けるのではないかと……。
このシリーズは季刊〈小説ウィングス〉に連載されたもので、この巻の一本目〈ミソサザイの歌〉の内容は次に出る予定の四巻収録の〈星の銀輪めぐる夜に〉に続いていきます。
三巻二本目〈この街にて〉は完全な書き下ろしで、現在時間のジャック自身の口からジャックとカディルの過去が語られます。カディルは一巻に登場した人物で、ジャックの育て親です。カディルについてはずっと描きたいと思っていました。カディルが何故《なぜ》ああなってしまったのか、何故あんなことをしたのか、その心情を少しでも伝えることが出来たらと思います。
〈ラノン〉シリーズは次巻の第四巻で完結する予定です。四巻ではこれまでのすべての謎が明かされます。〈ラノン〉は今まで年一冊ののんびりした刊行ペースだったのですが、何の間違いでか「三、四巻は連続刊行で行きましょう!」ということになってしまったため、四巻はこの本が書店に並ぶ日のちょうど二ヵ月後に出版される……らしいです(自分でも信じられません。本当に出るんでしょうか……)。
それでは、この辺で。四巻で再びお会い出来ることを祈っています。
この本をお読みになったご意見やご感想などございましたら新書館小説ウィングス編集部気付でお送り下さると嬉《うれ》しいです。
二〇〇五年二月吉日
[#地から2字上げ] 縞田理理
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(ブログの方は主におやつの話題なんですが……)
[#改ページ]
底本:「霧の日にはラノンが視える3」新書館ウィングス文庫、新書館
2005(平成17)年3月25日初版発行
初出:
ミソサザイの歌 小説Wings’04年夏号(No.44)
この街にて 書き下ろし
入力:
校正:
2009年12月24日作成