霧の日にはラノンが視える2
著者 縞田理理/挿絵 ねぎししょうこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)〈地獄穴《じごくあな》〉
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例) あとがき[#地から2字上げ] 縞田理理
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霧の日にはラノンが視える2 目次
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妖精たちの午後
ネッシーと〈風の魔女〉
キス&ゴー
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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妖精たちの午後
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1――別に嘘ってワケじゃない
気が重い。
レノックス・ファークハーは来客用の駐車スペースにジャガーを停め、地味な褐色《かっしょく》レンガの建物を見上げた。不首尾《ふしゅび》の報告というだけでも胸焼けがするというのに、加えて今日は隠し事も抱えているのである。だが、気の進まないことを愚図愚図《ぐずぐず》と先延ばしにするのも好かなかった。そんなのは、余計に胃痛を長引かせるだけだ。レノックスは腹を決め、〈ラノン&|Co《カンパニー》葬儀社〉の磨《す》り減《へ》った石段を一段飛ばしに駆け登った。
金融街シティ≠テムズ川の対岸に臨《のぞ》むロンドン・サウスイースト地区に本店を持つ〈ラノン&Co葬儀社〉は宗教を問わないきめ細やかなサービスで定評のある近代的な葬儀社だ。しかし余人は知り得ぬことだが、同時にこの葬儀社は妖精郷ラノンからの追放者のための組織、〈在外ラノン人同盟〉の本部でもあった。
大理石のエントランス・ホールには静謐《せいひつ》と百合《ゆり》の香が満ちている。黒と白の市松模様のホールを大股に横切っていくと、ハンサムなダナ人の受付係がこちらに気付いてにっこりと笑った。
「おはようございます、レノックスさん。出張のお土産《みやげ》、皆で頂きました。皆、喜んでましたよ。故郷を思い出すって」
「ああ……そりゃ良かったよ」
胃が痛むのは、その出張の報告が控えているからである。
壁の鏡の前で一旦足を止め、ネクタイが曲がっていないかどうか確かめた。大丈夫のようだ。しかし、ダークスーツにタイという服装はいつ見ても似合わないことおびただしい。何に見えるかと言えば、控《ひか》えめに言ってマフィアのボディーガードだ。なにしろ身の丈が六フィートを優に超える上、レスラーのようにがっちりとした体つきだ。顔はといえば中高《なかだか》でごつく、赤く硬い髪は櫛《くし》を入れて数分後にはものの見事に逆立ってしまう。野放図《のほうず》にあちこちを向く髪を手櫛で整えながらレノックスは小声で一人ごちた。
まあ、仕方あるまい。社内ではスーツ着用の規則は守っているんだからな――。
廊下の角を曲がると行き止まりの白い壁が現れる。人間が立ち入ることができるのは、ここまでだ。
〈ラノン&Co葬儀社〉の本社ビルは迷路のような構造になっている。ぐるぐると建物の外側を巡《めぐ》る回廊と階の途中に突然現れる中二階とのせいで実際には何階建てと呼べばいいのか判然としない。だから〈惑《まど》わし〉によって建物の中に目に見えないエリアが設定されていても誰も不思議に思わないのだが、この建物の中は〈葬儀社〉の面積と同じくらいの広さの〈同盟〉本部が隠されているのだ。
一度|瞬《まばた》きすると壁はゆらりと揺れ、二度目で霧のように薄れて廊下の続きが視《み》えた。そのまま真っすぐ〈同盟〉側に突き抜ける。
さて。早いとこ済ませよう――。
レノックスは咳払《せきばら》いをし、盟主《めいしゅ》の執務室のドアをノックした。待ちかまえていたかのように穏やかな声が応《こた》える。
「入りなさい。開いています」
ごくりと唾《つば》を飲み込み、質素というよりは殺風景《さっぷうけい》な執務室に足を踏み入れた。くすんだ白壁塗りの部屋の奥には鉄格子《てつごうし》の嵌《は》まった小さな窓が一つあり、飾り気のない木製の古いデスクがぽつんと置かれている。その他には書架と金属の書類キャビネットとパソコン、それと来客用の低いソファがあるきりである。
部屋の主である盟主ランダル・エルガーは常にダークスーツ姿で、またそれがスーツを着て生まれたのではないかと思うほど似合っていた。彼は書類から目を上げずに言った。
「……クリップフォード村の調査に関する貴君《きくん》の報告書を読ませて貰ったのですが」
「は……」
反射的に背筋が緊張する。
「要約すると、クリップフォード村に〈妖素《ようそ》〉は存在したが手に入れることは出来なかった、ということですね」
「あ……いや、あれはそもそも初めから入手不可能だったんで……。その、報告書をよく読んで貰《もら》えりゃ解《わか》るんですが……」
しどろもどろである。
「そのようですね」
「は……そうなんで」
ほっと肩の力が抜けた。なんでこの男の前ではいつもヘビに睨《にら》まれた蛙《かえる》のようになってしまうのかと思う。言葉遣《ことばづか》いは丁寧だし、端整な顔には常に柔和《にゅうわ》な表情が湛《たた》えられている。だが、腹の底で何を考えているのかは全く解らなかった。盟主の座に就《つ》いて四半世紀近くになることから少なくとも五十近くにはなっている筈《はず》だが、仮面を思わせるつるりとした顔に年齢を感じさせるものは何もない。
「他には?」
「あー、クリップフォード村が五百年前にラノンから追放された政治犯の隠れ里だったというのは間違いないようです。子孫はみんなそんな事は忘れちまって普通の人間みたいに暮らしていますが」
「彼らはどれくらいラノン人の資質を残しているようですか」
「五百年という時間の割には薄まっていないようです。二日の滞在で準会員資格者を一人見つけました。先日準会員になったラムジー・マクラブの幼馴染《おさななじ》みです。これが写真で」
焼き上がったばかりの写真にはスコットランドの民族衣装に身を包んだ〈ネッシー〉ことアグネス・アームストロングが写っている。写真ではよく判《わか》らないが、勝ち気な瞳をしたこの金髪の少女はレノックス自身といくらも違わないほどの長身だ。
レノックスはアグネスの子供っぽい高飛車な態度を思い出してニヤリと笑った。ずけずけと無遠慮な物言いは猛烈《もうれつ》な照れ屋であることの裏返しだ。まだ本当にガキだが、二、三年もしたら佳《い》い女になるだろう。
「明らかに巨人族の血を引いてます。〈妖素〉が無いんで俺より拳《こぶし》一つ小さい巨人ですが」
「それでもこの世界の女性としてはかなり長身ですね。セカンドサイトは? 最低限、それが準会員資格の要件ですが」
「発現してます。見えない筈の俺の文様《もんよう》を視たんで先祖返りだと判ったんで」
「なるほど。女性会員は常に不足していますから、ぜひ来てもらうように。他には?」
「あ……と、あの辺じゃいい煙水晶《ケルンゴーム》が採れるそうです。うまくすりゃ天然の黒水晶《モリオン》も」
「では、買い付けの手配をして下さい。偽物を掴《つか》まされないように」
「は……すぐに」
「で、他に何か?」
レノックスはごくりと唾を飲み込んだ。本当は、報告すべき事はもう一つある。妖素を含んだ実をつける〈時林檎《ときりんご》〉の存在だ。
もともとこの世界には、故郷ラノンに満《み》ち溢《あふ》れている〈妖素〉が存在していない。それを知った時の衝撃は大きかった。〈妖素〉は魔法を働かせる触媒《しょくばい》であり、これがなければどんな魔法も機能しないのだ。この世界で妖素を手に入れる方法は非常に限られており、同盟は貴重なそれをメンバーに分配するという約束のもとに成り立っている。だから少しでも妖素が手に入る可能性があるなら見過ごすわけにはいかない。
だが、それでもレノックスは〈時林檎〉については口をつぐんでいることにした。
五百年前、ラノンから来てクリップフォード村に住み着いた政治犯たちは妖素を含んだ自分たちの骨が他の追放者に奪われないように墓所《ぼしょ》に入念な罠《わな》を仕掛けた。そしてその上に林檎の木を植えたのだ。罠のせいで骨を手に入れることは何人《なんぴと》にも不可能だが、彼らの子孫は林檎が墓から吸い上げて果実に溜《た》める分の妖素を毎年少しずつ受け取ることが出来る。だからその意味が忘れ去られた後も木は〈時林檎〉と呼び習わされて来たのである。
あの木はクリップフォード村の始祖《しそ》たちが子孫のために遺《のこ》した素晴らしい贈り物だ。昨日今日この世界に来た自分たちが横取りしていいものではない。ラムジーやアグネス、そしてこれから先もクリップフォードで生まれるかもしれないラノンの先祖返りの子供らのために、あの木はそっとしておかなければならないのだ。
「レノックス? 何かあるのですか?」
ハッと顔を上げた。柔らかな栗色の眼が静かにこちらを見据えている。腹の底まで見透《みす》かされそうだ。
「いえ……それだけです」
別に、嘘をついているワケではない。事実の一部を省《はぶ》いただけだ。だいたい、同行したジャックに指摘されなければ時林檎のからくりに気付きもしなかったのだから、見つけられなかったとしてもおかしくない。
「では、もう下がってください」
「は……」
レノックスは止めていた息を吐き出した。
未決の書類箱から新しい書類を取り出したランダルは、次の瞬間にはもうこちらを見てはいなかった。
◆◆◆
ラムジー・マクラブは開店前の『ラノンズ・グリーン・フローリスト』の店内を見渡した。
今日からここで新しい生活が始まるのだ。
『ラノンズ・グリーン・フローリスト』はロンドン橋近くの裏通りにこじんまりとした店を構える生花店《せいかてん》だ。〈同盟〉の直営店である。同盟の本業は葬儀社で、その他に理美容サロンやパブやクラブを経営しているが、ラムジーには向かないだろうといってレノックスが紹介してくれたのがこの生花店なのだ。なんで〈同盟〉で花なのかと思ったけれど、最初は本業である葬儀社に生花を納入するために始めたのだという。店の名に〈ラノン〉を冠《かん》しているのは、もしも知らないラノン人が見たときに分かりやすくするためだ。
ラノンから来た人々はこの世界の言葉で言うと〈妖精〉ということになる。この店の主は〈ギリードゥ〉という森の妖精で、ギリー・グリーンと名乗っていた。もつれた髪と、渋皮《しぶかわ》のような皮膚と、樹皮《じゅひ》に埋もれた小石のように穏やかな眼の持ち主だった。
「ラムジー・マクラブ君だね」
グリーンは野球のグローブのように大きな手でラムジーの頭をぐりぐり撫《な》でた。
「レノさんから聞いているよ。君は、ウェアウルフなんだってねェ」
彼はにっこりと笑い、満月の時期には休んでいいよ、と言った。それから、先輩のアルバイトの子を紹介してくれた。
「ケリ・モーガンだよ。君と同じ半妖精で準会員だよ。何でも聞くといいよ」
「よろしく、マクラブ君。僕のことはケリって呼んでくれよ」
下の兄と同じくらいの歳のほっそりした少年がそう言って右手を差し出した。瑪瑙《めのう》のように深緑色の眼がひどく印象的だった。彫《ほ》りが深い繊細《せんさい》な顔立ちで、秀《ひい》でた額には出来立ての一ペニー銅貨みたいにぴかぴかした銅《あかがね》色の髪がさらりとかかっている。
ケリ・モーガンは半妖精だというけれど、今までに会った〈同盟〉の誰よりもいわゆる〈妖精〉のイメージに近かった。
「よろしくお願いします。ラムジーって呼んで下さい」
「んじゃ、ラムジー。バケツを並べるの、手伝ってくれるかな?」
「はい!」
ラムジーは小走りに水を汲みに走った。花がいっぱいに入ったバケツを両手で抱え、ひとつずつぎっしりと並べていく。店先にはたちまち小さな花畑が広がった。
はじめは鋭敏《えいびん》な鼻に花の香がきつすぎるのではと心配だったが、そんな心配は無用だった。自然の花の香は甘く、青臭く、微《かす》かに脂《あぶら》めいて鼻孔《びこう》を刺激した。真っ白な鉄砲百合《てっぽうゆり》、赤や黄色や紫の薔薇《ばら》、ピンクのカサブランカ、お日さま色の雛芥子《ひなげし》、笑顔がこぼれるみたいに色とりどりのガーベラ、インクで染めたように青いアネモネ、ハイソックスの女の子を思わせる可憐《かれん》なヒナギク、それに女王様然とあでやかな熱帯の蘭《らん》。
「ああ、ラムジー君。あまり無理しなくていいからね。初日だからね」
「大丈夫です、グリーンさん。ぼく、見かけより力があるので」
店主のグリーンはうんうんと頷いてしばらくラムジーの仕事ぶりを見守っていたが、やがてフラワーアレンジメントを作ると言って奥に引っ込んでしまった。
「葬儀用のアレンジメントは、ギリーの得意技なんだよ」
ケリが言った。
「花で故人の名をかたどったブーケとか、フラワー・ピローとか、花の十字架とかね。客商売はあんまり好きじゃないらしくてさ。バイトがいるときは任せっきりだよ。他のバイトもみんな同盟の関係者だしね」
「グリーンさんって、優しそうな人ですね」
「彼は殺人犯だよ」
「えっ……」
「驚くことないだろ。〈同盟〉の正会員はみんな犯罪者なんだから」
そうなのだ。
妖精郷ラノンで重い罪を犯し、〈地獄穴〉に送られた者が辿《たど》り着《つ》く先がこのロンドンなのだ。それはある意味で死刑と同じ片道切符の追放で、こちら側からラノンに戻ることは出来ない。
レノックスやランダルや同盟で知り合った人たちも、みなそれぞれに過去を背負ってこの世界に来ているのだ。
「でも、追放を受けたことでもう罪は償《つぐな》っているわけだから……」
「まあ、理屈はそうだよな。僕の父もだけどさ。ところで、君はウェアウルフなんだって? 君の親も?」
「ええと、そうじゃないんです。ぼくの両親は二人とも普通の人間で、ぼくは先祖返りなんだそうです」
故郷のクリップフォードはスコットランドのハイランド地方にある小さな村だ。そこが五百年前にラノンから追放になった人々の隠れ里であり、自分がその血を引く人狼《ウェアウルフ》だと知ったのはつい最近のことだった。
「何代も前の形質が出るなんてことがあるんだ。君、もしかして第七子?」
こくりと頷くと、ケリはひどく感慨深げな声を出した。
「やっぱりか……。第七子は特別だって、本当なんだね。僕は三人兄弟の末だけどさ。母はこの世界の人間で、上の二人は普通の人間なんだ」
「ケリのお父さんは|ダナ人《ダナ・オ・シー》?」
別に深い意味があって言ったわけではない。ダナ人は一番数が多く、姿も人間と変わらないと聞いていたからだ。彼は、うつむき加減に首を振った。
「似たようなもんだけど、ガンキャノホ族って言うのさ。ダナの親類らしいけど、つまんない力しか持っていない種族だよ」
それが、身内を謙遜《けんそん》するにしては強すぎる吐いて捨てるような口調だったのでラムジーはちょっと驚いた。
「……自分のお父さんにそんな言い方するのって、よくないですよ」
「だって、本当だからさ」
そのとき、朝一番のお客が店に入ってきて会話は中断された。
オフィスに飾る花を選びに来たキャリアウーマン風の女性はクリーム色のフリージアを一抱え買って行った。あの人の仕事場は今週いっぱい優しい甘い匂いで満たされているのだと思うと、何だか素敵な気がした。お客さんは次々とやって来て、ケリは調子よくお喋《しゃべ》りしながら必ずお客が満足する花を選び出した。花を持って店を出るお客さんはみんな幸せそうで、それを見ているとトゲや葉っぱをとったりする作業も楽しかった。
お客の波が去って仕事が一段落し、床に散らばった葉っぱを片づけているとき、ケリがぽつりと言った。
「さっきの話だけどさ。ガンキャノホ固有の力って、〈グラマリー〉なんだ。知ってる?」
ラムジーはかぶりを振った。なんだか『グラマー』みたいな言葉だ。
「魅了する力さ。特に異性をね。ガンキャノホは別名を〈口説き妖精〉って言うんだ。おかげでガールフレンドに困ったことがないけど、それだって僕自身の魅力ってわけじゃないわけだし、かえって複雑だよ」
「それって、〈グラマリー〉のせいじゃなくて実力じゃないかと思うけど……」
「九割方はそのせいさ。父|譲《ゆず》りだよ。時たま異性じゃない相手にも効力を発揮《はっき》するのが困りものだけどね。学校の教師とかさ」
ラムジーは何と応えて良いか判らず、曖昧《あいまい》に笑うしかなかった。
「君は、いいよな。ウェアウルフで」
「そんな良くないですよ。妖素|欠乏症《けつぼうしょう》の発作が出るし」
妖素欠乏症は他の種族にも起こりうるけれど、人狼ほど重い症状は出ないという。人狼の力は人間の容《い》れ物《もの》に入れておくには大きすぎるのだそうだ。人の姿から狼の姿に変わる時には〈妖素〉が必要なのだが、この世界にはそれがほとんどない。狼の血は月の満ち欠けに従い、月が満ちるほど強くなる。だから満月期に変身しないでいると、力が外に出ようとして身体の中で暴《あば》れ回《まわ》るのだ。皮膚《ひふ》に違和感が生じ、感覚は異常に鋭《するど》くなり、身体中が膨《ふく》らんで爆発しそうな幻覚に襲われる。あんなことが毎月繰り返されたら本当におかしくなってしまうだろう。
同じ体質だった叔父《おじ》は自分が人狼だとは知らないまま自殺してしまった。
けれどその叔父が正気を保《たも》っていた最後の瞬間に書いた文字――〈ラノン〉を〈ロンドン〉と読み間違えたお陰《かげ》で、ラムジーは今ここにいる。
「毎月、満月の時期に一度は変身しないと、ムズムズして変になりそうなんです」
「けど、ラノンにだって完全な変身能力を持ったウェアウルフは少ないんだってさ。君は期待されてるよ。僕はガンキャノホと人間のハーフで大して役にたたないから、それで医学部に行くことにしたんだ。同盟の奨学金《しょうがくきん》が貰えるからさ」
「医学部の入学資格が取れるなんて、すごいじゃないですか」
「たいしてすごくないよ。頭のいい奴なんていっぱいいるしさ。魔法の方は〈グラマリー〉の他にはほとんど使えない。練習しようにも配給の妖素は貴重だし」
「あ……」
本当を言うと、自分は配給外の妖素を持っている。クリップフォードの先祖が遺してくれた〈時林檎〉の実を煮詰めて作ったジャムだ。でも、ジャックとレノックスの双方からそのことは誰にも話してはいけないと言われていた。もし誰かに話したら時林檎はクリップフォードのものではなくなってしまうから、と。けれども、皆が欲しがっているのに自分だけが余分を持っているというのはひどく後ろめたい気がする。何か言わなければいけない気がして、けれど何を言っていいのか判らずにラムジーはただ足元へと視線を落とした。
「……妖素って、何なんでしょうか」
「はっきりとは分かんないけど。たぶん、『望みを叶える力の最小単位』なんだと思う」
「ううーん。なんか分かんないけど、ちょっと分かったような気がする……」
ラムジーは、やっぱりケリは頭が良いんだ、と思った。
◆◆◆
ジャック・ウィンタースはロイヤルミント通りを西に向かってゆっくりと自転車で走っていた。自転車エクスプレスの配達エリアはロンドン全域だが、配達先のほとんどはシティ周辺に集中している。地形的にはロンドンのテムズ川の流れはラノンのイス川の流れと等しく、ロンドン塔の位置は生まれ育ったラノン城と等しかったから、ロンドンの地理を覚えるのはそう難しいことではなかった。他に出来ることがないので始めた仕事だが、オフィスからオフィスへ黙々《もくもく》と荷を運ぶ自転車便は人との交わりの苦手なジャックには結果的に向いていた。
ジャックは軽くブレーキをかけてスピードを落とした。
このまま進むとトリニティ・スクウェア・ガーデンズの前を通ることになる。
共にこの世界に落ちたカディルがその場所で命を落として以来、何かと自分に言い訳をつけてその近くを通ることを避けてきた。可能ならば遠回りをするし、それが出来ない場合は仕事自体を断ってしまう。
情けない、と思う。
こんな自分をカディルは喜ばない筈だし、ラムジーだって心配している。レノックスが知ったら、たぶん背中をどやしつけるだろう。
自転車は交差点に差しかかっていた。ガーデンズを避けるならここで曲がらなければならない。けれどジャックはそのまま真っすぐに進んだ。
畏《おそ》れは、克服《こくふく》されねばならない。
ペダルを漕《こ》ぐ足にさらに力を込める。記憶に焼き付けられた公園の緑はぐんぐんと眼前に迫り、そしてあっけないほどの速さで後ろに飛び去って行った。
小さな達成感が胸に広がる。スピードを緩《ゆる》め、ほっと溜め息をつく。
そういえば、ラムジーの就職した生花店はこの近くだった。
ジャックはラムジーに初めて会った時のことを思い出した。かれこれ一月半ほどになるだろうか。追放ラノン人の子孫だとは知らないまま、路上でたちの悪い不良に絡《から》まれているところを通りかかって助けたのだ。田舎から出てきたばかりで右も左も判らないラムジーは二年前にロンドンに落ちてきた頃の自分を見るようで、とても放っておけなかった。
けれど今思うと、ラムジーを助けたというよりも、むしろ自分の方があの子の素直さ、善良さに助けられたという気がする。
特にカディルを失ってからはそうだった。すべてが駆け引きだった宮廷《きゅうてい》の中で唯《ただ》一人小さな弟がそうだったように、ラムジーはただ側に居てにこにこと笑ってくれた。この一ヵ月、ラムジーが近くに居てくれたことでどれほど心強かったか。そんな自分の弱さを見せるまいとしても、ラムジーは人狼の鋭い感覚で見抜いてしまう。同盟では小奇麗《こぎれい》なフラットを用意しているというのに、ラムジーが相変わらず同じ空き家の二階に住んでいるのは自分のことを心配してのことなのだろう。
ラムジーの負担にはなりたくない。そのためには自分がしっかりしなければ。
ラノン人の血を濃く引いていると判ったラムジーは〈同盟〉の準会員になり、同盟|傘下《さんか》の店で働くことになった。同じ血を持つラノンの仲間の役に立ちたい、というあの子の気持ちは誉《ほ》められるべきではある。だが、ラムジーがあまりに素朴《そぼく》で純真《じゅんしん》なのが少し心配なのだ。ラムジーはまだ十六歳で、しっかりしているようで幼い。今、あの子は仲間が出来たことに夢中だが、〈同盟〉は元を正せば流刑《るけい》になった罪人の集団なのだ。その彼らがラムジーの力を何かしらの悪事に利用しようとしたとき、あの子に断ることが出来るだろうか。
やはり様子を見に行こう、と思った。そして同僚や店の主がどんな人物なのかも確かめておいた方がいい。
『ラノンズ・グリーン・フローリスト』はすぐに見つかった。青い日除《ひよ》けスクリーンが歩道に日陰を作り、色とりどりの切り花や鉢植えが並べられている。と、眼鏡《めがね》をかけたエプロン姿の小柄な少年が店先に姿を現した。きょろきょろと何かを探すように辺りを見回している。
胸に温かなものが兆《きざ》し、口元が自然とほころんだ。
「やあ。ラムジー」
「あっ、ジャックさん!」
ラムジーは弾《はじ》けるような笑顔を見せて駆け寄って来た。
「さっきから何だかジャックさんが来るような気がして仕方がなかったんですよ」
「近くまで来たものだからね。仕事は順調かい?」
「はい、楽しいです。店主のグリーンさんはギリードゥ族で、優しくていい人です。あと、同じ準会員のアルバイトの子がいていろいろ話も出来るし。同盟にも半妖精の人ってあんまりいないから」
ギリードゥは子供と自然を愛する温厚《おんこう》な種族だ。植物の知識が豊富なので生花店に配属されたのだろう。
「そうか。それなら良かった。出来ればグリーン氏に挨拶《あいさつ》して行きたいが」
「ううーんと、いま来客中なんです……。時間がかかりそうだし……」
ラムジーは遠回しな言い方が得意とは言えなかった。どうやら、グリーン氏と会わせたくないか、その来客と会わせたくないからしい。そのときラムジーの視線が奥の白菊の列の向こうに吸い寄せられ、ジャックは後者だと悟った。金髪にダークスーツのその男はどう見ても森の住人ギリードゥではなかった。
ジャックに気づいた男は舐《な》めるように無遠慮な視線を投げ掛け、意味ありげにうっすらと笑った。
「これはこれは。こんなところでダナ王族の方にお会いするとは」
「いや。僕はもう王族ではない。ただの一追放者に過ぎない」
「お戯《たわむ》れを。貴方《あなた》がどう言おうと、その霜《しも》の瞳を見れば我等はそう受け取ります」
ジャックの眼のことだ。
この、白に近いほど淡い青色の瞳をラノンではそう呼ぶ。そしてそれはダナ王族の証《あかし》と考えられている。実際には、ジャックのように完全な〈|霜の瞳《フロスティ・ブルー・アイ》〉はダナ王家で生まれる王子王女の約七分の一に現れるに過ぎず、生まれても成人するまで育たない場合が多い。だから歴代の王の中には〈霜の瞳〉を持たない者もいたのだが、初代がそうだったことと、他の家系には全く見られないこと、それとひどく目立つことから『霜の瞳=ダナ王族』という印象が強いことは否《いな》めない。
「どう思われようと僕には関係ない。僕はもう王族ではないんだ。それにここはロンドンだ。ラノンじゃない」
「それが、大いに関係があるのですよ。ジャック王子」
男はやんわりとした口調で指摘した。
「申し遅れました。わたしの名はランダル・エルガー。〈在外ラノン人同盟〉を取りまとめている者です」
今度はジャックが男をまじまじと眺《なが》める番だった。
この男が。盟主ランダル、なのか。
男はダナ人には珍しい金髪を一つにまとめ、ダークスーツを第二の皮膚のように着こなしている。柔和な面差しはまるで百人の人間を平均化したように個性がない。シティのビジネスマンに紛《まぎ》れてしまえばビジネスマンに、学校の中にいれば教師に見えるだろう。だが、生まれつきそうだというよりも、努《つと》めてそのようにしているという印象を受けた。ランダル・エルガーという男の印象を一言で表現するなら、克己心《こっきしん》、なのではないだろうか。
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「単刀直入に申し上げましょう。貴方にはすみやかに加盟を願いたいのですよ。御身《おんみ》の安全のためにも」
「悪いが、僕は同盟に入る気はないんだ」
「なぜです?」
「こちらの事情だ。話す必要はない」
「そう言われると、勘《かん》ぐりたくなりますね」
「勘ぐられて困るようなことはない」
「おや。そうですか?」
盟主は意味ありげに薄く笑い、隅の方で小さくなっているラムジーに目をやった。
「或《ある》いは、マクラブ君のためだとも考えられますね。彼に遺灰《いはい》を遺したいから同盟には入らない。違いますか?」
図星だった。
〈同盟〉は妖素を支給する代わり、生きている間中メンバーを束縛《そくばく》する。そしてメンバーが死亡した時、遺体は専用の焼釜《やきがま》で焼かれ、遺骨は挽《ひ》き潰《つぶ》されて白い細かな灰になる。
それが、〈同盟〉がメンバーに支給する妖素の正体だった。
妖素に満ちた世界から妖素の存在しないこの世界にやってきたラノン人の体内には、向こうで生きた年数に応じた量の妖素が蓄積している。妖素は生物の体内に取り込まれると排出《はいしゅつ》されず、魔法を使うことによってしか消費されない。そして体内を巡って骨に沈着《ちんちゃく》した妖素はもはや自分で使うことは出来ず、その生物が死ぬまでただそこに有り続ける。
追放者たちがそのことに気づいたとき何が起きたのかは想像に難《かた》くない。互いの骨の中の妖素を求めて殺し合ったのだ。そしてその奪い合いを止めさせるために同盟はこのシステムを作り上げたのだという。
だが、ジャックは自分が死んだら遺骨はすべてラムジーに遺すつもりでいた。
〈時林檎〉を見つけた今、ラムジーにはもう必要ないことかもしれない。それでもやはり自分の灰はあの弟によく似た眼差しをした少年に遣《つか》って欲しかった。
「どうだって良いじゃないか。僕のことは放っておいて欲しい。僕が生きようと死のうとそちらには関係ない筈だ」
「そうも行かないのです。皆が貴方の真似をし始めたらどうなります? 子供に灰を遺すために同盟を脱退する者も現れるかもしれない」
「それはそちらの事情だろう」
さっきから息を詰めてこのやり取りを見つめていたラムジーが口を開いた。
「あの……ジャックさん、ぼくのことだったら心配しないで……」
「君は黙っていてくれ、ラムジー。事はそんなに単純じゃないんだ」
途端にラムジーはしゅんとして口をつぐんだ。しまったと思ったが、もう遅い。厭な癖だ。気をつけていても、時折こういう高圧的な言い方が出てしまう。
「マクラブ君は貴方を心配しているのですよ」
「貴公に言われる筋合いはない」
「おや。御気に障《さわ》りましたか、王子。むしろマクラブ君に説得してもらった方がいいかもしれませんね」
「えっ……ぼくは、でも、そんな……」
ラムジーはオロオロして、ジャックとランダルの顔を交互に見つめている。
「言った筈だ。その子は関係ない」
「おお、恐い眼ですね、王子」
ジャックはハッとして視線を外した。ラノンの一般社会では霜の瞳は支配の象徴《しょうちょう》だ。人々はこの眼で見つめられることを畏れる。だから小さな頃から人の目を凝視してはいけないと教えられてきた筈なのに、つい忘れたのだ。
何故かランダルはふふ、と笑った。
「ジャック王子。貴方はご自分が考えているよりも大きな影響力をお持ちだ。我々の敵にならないことを祈りますよ」
彼は陳列棚から白いカーネーションを一輪抜き取ると、そのまま静かに歩み去った。
2――そのつもりなら一日はけっこう長い
レノックスは携帯電話で受け答えしながら大股に出口に向かった。新しい追放者が見つかったとの連絡が入ったのである。
「どんなヤツだ? 種族は?」
電話の向こうの声は恐らくグーナ族だろうと言った。レノックスが属するブルーマンと同じで、グーナは他に一人もいない。ということは、同盟の組織の中では『その他少数種族』の扱《あつか》いになり、レノックスの管轄《かんかつ》になる。
「すぐ迎えに行く」
ラノンで〈地獄穴《じごくあな》〉の刑を食らうヤツは平均して年に七〜八人だ。だが、ロンドンで発見される追放者の数はそれよりやや少ない。ロンドンに着かない場合もあるのかどうかは不明だが、この広いロンドンでいつどこに現れるか解《わか》らない追放者を見つけ出すのが難しいのは事実だった。
レノックスはジャガーをとばした。電話をしてきたのは、ホームレス救済《きゅうさい》施設にボランティアとして潜《もぐ》り込《こ》んでいる会員である。食事を配りながらホームレスの中にラノン人が混じっていないか目を光らせているのだ。警察の留置所《りゅうちじょ》や教会の炊《た》き出《だ》し、それに精神病院も要チェックだった。何しろ、この世界に落とされたばかりの追放者は右も左も分からない。たいがいは車や列車や高層ビルを見て肝《きも》を潰《つぶ》し、静かな場所を求めて公園や広場をねぐらにするようになる。
そう考えると、自力で住む場所と職を確保したうえ、二年に渡って自分だけでなくカディルまで養《やしな》ってきたジャックは随分《ずいぶん》とうまくやった方だ。いや、むしろカディルを守るという目的があったからこそか。だが、そのカディルはもういない。ジャックは仕事を続けているが、一人でいつまでつっぱっていられるのか判《わか》ったものじゃない。
何とかした方がいいのは解っている。解っているのだが、このところ忙しくて奴を捉《つか》まえてゆっくり話をする時間もありゃしないのだ。
ホームレス救済所の古レンガの壁は、少しでも明るく見せるためかクリーム色のペンキで塗りつぶされていた。レノックスは辺りを見回して〈同盟〉から派遣《はけん》されているボランティアを見つけた。
「どいつだ?」
「あの隅です」
視線で指し示す。細長い簡易テーブルの端で痩《や》せこけた黄色い髪の若者が配給の野菜スープにパンの切《き》れ端《はし》を浸《ひた》して少しずつ口に運んでいる。
「分かった」
相手を驚かさないように注意しながらゆっくりと向かいの席に座った。
「よお。あんた、どこから来たんだい?」
「……遠くさ」
男はスープを奪われまいとするように皿を抱え込んだ。短かすぎる上着の袖口《そでぐち》から擦《す》り切《き》れたオレンジ色の毛皮がちらりと覗《のぞ》いているのを確認する。グーナ族の印だ。
「俺もだよ」
レノックスはTシャツの上に羽織《はお》っているジャケットをばさりと脱いだ。二の腕にとぐろを巻く青い渦巻《うずま》き文様《もんよう》があらわになる。
「これが視《み》えるか?」
若者の手からパンのかけらがぽろりと落ちた。
「あんた……ブルーマン……?」
「当たりだ。グーナか?」
呆然《ぼうぜん》と頷《うなず》く。
海峡の種族ブルーマンの印であるこの文様は、この世界の人間には特別な方法、例えば四つ葉のクローバーで瞼《まぶた》を拭《ふ》くか、或《ある》いは服を裏返しに着る――を使わない限り視えない。普通の状態でこれを視ることが出来る者はラノン人、この世界の人間に言わせれば〈妖精〉だということだ。
「……地獄穴に落とされて、死んだと思ったらここに……もう、何が何だか……」
「解ってる」
追放者は、地獄穴が異世界に通じていることを知らされない。本当に一巻《いっかん》の終わりだと思って落ちるのだ。そして行き着く先はこのとんでもない世界だ。混乱しない方がどうかしている。
「もう大丈夫だ。来い。仲間が待っている」
レノックスは〈惑わし〉の壁を越え、落ち着かない様子の新入りを〈同盟〉の応接室に通した。ここなら邪魔されることなくゆっくり話が出来る。
「いつこっちに来た?」
「来た頃はまだ暖かで良かったよ……」
新入りは落《お》ち窪《くぼ》んだ黒い目でおどおどと辺りを見回した。頬《ほお》はげっそりとこけ、トウモロコシのように黄色い髪は伸び放題だ。かなり苦労したらしい。そう言えば、スコットランドにはグーナは妖精の王国からの追放者だという伝説がある。偶然なのだろうが、奇妙な一致だ。
「それじゃ、この世界じゃ魔法がうまく働かないことは気付いているな?」
「鬼火《おにび》も禄《ろく》に点《つ》かない。どうして……」
「空気中に、妖素《ようそ》がないからだ」
若者は、信じられないという顔をした。
「まさか……」
「そのまさか、なのさ。それじゃ、俺たちの組織のことを説明しておこうか」
レノックスは畳《たた》みかけるように言った。
「組織の名は〈在外ラノン人同盟〉だ。地獄穴に落とされてラノンを追放された連中がこの街で寄り集まって造っている。この葬儀社が〈同盟〉の本体だ。他に〈イブラシール商会〉ってのがあって、そっちはクラブにパブにカフェ、生花店《せいかてん》と理美容サロン、それに書籍販売部門を傘下《さんか》に持っている。同盟の各店舗には会員割引がある。合言葉は〈ノコギリソウ〉だ。向こうからそう言われた時は〈ヘンルウダ〉と応《こた》えろ。会員価格になる」
「〈ノコギリソウ〉……〈ヘンルウダ〉……」
「そうだ。パブ『十二夜』亭のおやじはホブゴブリンだ。いつ行っても仏頂面《ぶっちょうづら》だが、新入りにはビター・エールを奢《おご》ってくれる。昼飯を食うなら『グッドピープル・カフェ』がいい。たいがい同盟の誰かがたむろっているからな。店主は気の良いブラウニーで、こっちの材料でなんとかラノンの食い物の味を出そうと頑張ってる」
「ラノンの、食い物……」
グーナの若者は夢見るように呟《つぶや》いた。レノックスは、ブラウニーの創作料理の試《こころ》みが成功しているかどうかには触れないでおいた。
「クラブ『ベルテンの夜』は一番の黒字収益部門だ。ここは一般客のサロンと会員専用サロンは完全に別だから異形《いぎょう》があって人目に触れられない連中もここでなら寛《くつろ》げる。まあ、異形のある種族は少ないがな」
異形を持つ種族は魔法の力が強い代わり、社会性がない場合が多い。たいがいは山奥に孤立して暮らしているから、犯罪に関わって追放の憂《う》き目《め》に遭《あ》うことも少ないのだ。
「それから、髪を切る時はヘアデザイン『ラノン・ラノン』に行け。オーナーは口の上手いガンキャノホだ。おかげで繁盛《はんじょう》している。切った髪の半分はあんたのものだが、残り半分は〈同盟〉に徴収《ちょうしゅう》される」
「なんで……」
「髪の毛には妖素が含まれているからな」
「あ……」
「書籍部門がミニコミ紙とフリーペーパーを発行している。ロンドン生活のヒントなんかが載っているから、バックナンバーを貰《もら》っておくといい。それから本部の図書室に行けばロンドン・ガイドブックや英国生活ハンドブックが無料で借りられる。外国人向けだが、参考になる。この世界でも、地域によっていろいろ生活習慣の違いがあるからな」
「はあ……」
「しばらくしてこっちの暮らしに慣れたら、適性を見て職を斡旋《あっせん》する。今説明した店か、この葬儀社か。あんた、手先は器用か?」
「ええ、まあ……」
「なら、墓石|彫刻《ちょうこく》か葬儀用品製造でもいい。エンバーミングの勉強をして本社所属のエンバーマーになるってのもある。やる気があれば、資格取得の費用はこっちで出す」
「あの……エンバーミングって……」
「遺体に永久保存を施《ほどこ》す技術のことだ」
「いえ……それは……遠慮しときます……」
「そうか? 高収入なんだがな。もし仕事が何も見つからなくても、同盟は最低限の衣食住は保証する。それだけでも今の暮らしよりはましな筈《はず》だ。グーナ族は今のところあんただけだから、加盟したときの所属は〈その他少数種族〉になる。俺はそこのチーフで、レノックス・ファークハーって言う。見ての通りブルーマンだ。よろしくな」
「よ、よろしく……」
レノックスはすかさず羊皮紙《ようひし》の盟約書《めいやくしょ》をテーブルに広げた。
「よし。この盟約書に血判《けっぱん》を捺《お》せば、今説明したすべてがあんたの手に入る。偽《にせ》の出生証明書と身分証もだ。おまけに、だ……」
思わせぶりに声を潜《ひそ》めて言う。
「〈同盟〉は会員に妖素を配給する」
「けど、さっき、この世界に妖素は存在しないって……」
「そうだ。この世界には存在していなかった。俺たちラノン人が来るまでは」
レノックスは通称〈灰のルール〉と呼ばれる三箇条《さんかじょう》を中心とした同盟規約書をひらりとグーナの目の前にかざした。
「こいつを読めばシステムが分かる。よく読んで捺印《なついん》しろ」
グーナは視線を上下させ、時間をかけて貪《むさぼ》るように何度も何度も読み返した。規約書を握る手が細かに震えている。
「あ……つまり……ということは……」
「〈同盟〉が最初に葬儀社を始めたのは、そういうわけだ」
レノックスは、グーナの若者の肩をぽんと叩いた。
「〈同盟〉は生きている限り仲間の面倒《めんどう》を見る。そして死んだときには、今度は自分が仲間の役に立てるんだ。悪かないだろ?」
レノックスは、新入りのグーナから取り付けた盟約書を手に執務室のドアをノックした。
「開いていますよ」
執務室に入った瞬間にいつもと雰囲気が違うと感じたのは、どうやら殺風景《さっぷうけい》なデスクの上に飾られた一輪の白いカーネーションのせいらしい。盟約書を受け取ったランダルは柔《やわ》らかに微笑《ほほえ》んだ。
「ご苦労様でした。新しい身分証が必要ですね。いつも通りお願いしますよ」
「すぐ手配します」
ランダルは盟約書をキャビネットの引き出しにしまいかけ、それから急に思い出したように言った。
「そういえば、今日、ジャック・ウィンタース王子に会いましたよ」
「奴がここに来たんですか?」
「いいえ。フローリストでね。マクラブ君の様子を見に来たようです」
そういえば、ラムジーの就職に口を挟《はさ》まないのは妙だと思っていた。あとからこっそり様子を見に来るとは、何とも奴らしい。
「フロスティー・ブルー・アイというのを初めて間近で見ました。美しいものですね。本当に霜《しも》か氷のようで」
「はあ」
「加盟を勧《すす》めましたが、断られましたよ」
「奴は、コチコチの唐変木《とうへんぼく》なんで」
「困ったものです」
「全くで」
ランダルは少しのあいだ静かにカーネーションを眺めていたが、不意に口を開いた。
「彼は、危険です」
「ジャックがですか?」
「ダナ王は、彼の無実を知りながら追放に同意した。彼の存在が将来王国に不安定要素をもたらすと判っていたからです」
思わず声が大きくなる。
「しかし、奴には野心なんぞなかったわけで……流刑《るけい》も奴|自《みずか》らが望んだ事なんで……!」
「レノックス。何を熱くなっているのです?」
ランダルの静かな声がレノックスに冷水を浴びせかけた。
「俺は、別に熱くなってなんぞ……」
ランダルがうっすらと笑った。
「初めのうち、貴君《きくん》はひどく彼を嫌っていた。しかし、何度か会っただけで考えが百八十度変わったようですね。なぜです?」
変わったと言われれば、そうだ。だがそれは奴が王位のために弟王子を暗殺しようとして流刑になったという風評《ふうひょう》を鵜呑《うの》みにしていたからで、それは全くの誤解だったのだ。
「俺の考え方が変わったわけじゃないです。前は奴を知らなかったわけで……」
「なるほどね。それはそうと、先日の報告書は貴君一人の考えとは思えない穿《うが》った内容でした。大部分がジャック・ウィンタースの言葉の引用だったのではありませんか?」
レノックスは返答に詰まった。そこまで見透《みす》かされるとは。
報告書というのは、クリップフォード村で妖素を手に入れ損《そこ》なった顛末《てんまつ》についてのものだ。あの時、ジャックはレノックスが思いもしないような推理で結論を導き出したのだ。ジャックがいなかったら、あの罠《わな》の巧妙《こうみょう》な仕掛けは見破れなかっただろう。もしかしたらまだあの場所に囚《とら》われていたかも知れない。
「ええと、まあ、そうです。奴の判断の方が俺のよりなんぼか的確なんで……」
「そう思わせる力があるんですよ。そして知性と洞察力《どうさつりょく》と人間的魅力を兼《か》ね備《そな》えている」
「あの可愛《かわい》げのない青二才が、ですか?」
「彼には静かなカリスマがあるという事です。ダナ王はそれを恐れた」
「そりゃ、そうかも知れませんが。だからって危険だとは……」
何を大袈裟《おおげさ》な、と思った。奴はしなることを知らない生硬《せいこう》な若造だ。誰かが支えてやらないといつポッキリ折れてしまうか判ったものじゃない。
「それでなくてもあの眼を見れば彼がダナ王家の出であることは一目瞭然です。王家を憎むのと同じくらい奉《ほう》じる者もいます。彼が同盟の対抗勢力に与《くみ》するとしたら問題です」
「んな、バカな。ジャックの奴は権力なんぞに興味はないですよ。俺の考えでは、むしろ他人とつるむのが嫌いで同盟にも入らないんじゃないかと……」
「皇太子暗殺未遂は彼が望んだことでは無かった、そうですね? それでも事件は起きた」
レノックスは言葉を失った。そうだった。奴の望みとは無関係に奴を担《かつ》ぎ出《だ》そうとする勢力は存在したのだ。
「レノックス。この件は貴君に一任します。ジャック・ウィンタース王子を同盟に帰順《きじゅん》させること。もし、どうしても拒《こば》むようなら別の方法を考えねばなりませんが」
「別ってのは……?」
ランダルは静かに笑《え》んだ。目は笑わず、唇だけが笑んでいた。
「まだ、その話をするのは時期|尚早《しょうそう》でしょう」
レノックスは再びダークスーツに着替えた。これから訪問する場所は上品な場所ではないが、くだけた服装ではなめられるからである。車の中からジャックの携帯にかけたが繋《つな》がらなかった。電源を切っているらしい。
畜生《ちくしょう》、電話くらい出やがれ。だいたいあの莫迦《ばか》はまともに仕事をしているのか……?
目的地のソーホー地区に入っても電話は繋がらず、ジャックを捉まえるのは諦《あきら》めてとりあえず目の前の仕事を片づけることにした。
ソーホー地区にはかつてほどの賑《にぎ》わいはないが、それでも一歩奥へ踏み込むとけばけばしいネオンサインを掲《かか》げる店が軒《のき》を連ねている。ジャズ専門のライヴハウスのすぐ横にはストリップ劇場が、その隣にはエロ本専門書店と個室ビデオ・ショップが並び、蛍光《けいこう》ピンクのSEXの文字がちかちかと躍《おど》っていた。
レノックスは一軒のビルの狭い地下階段を降り、その奥の地味なバーへ足を踏み入れた。客は一人もいない。グラスを磨《みが》いているバーテンがじろりとこちらを睨《にら》んだ。いらっしゃいませ、でもない。歓迎されていないのが露骨《ろこつ》だが、そんなことにはお構《かま》いなくのしのしとバー・カウンターに近づく。
「ラガバーリンの十六年ものをダブルで」
「悪いが、置いてない」
「相変わらずシケた店だな。何でもいいからシングルモルトをダブルでだ」
ショットグラスが目の前に無言で置かれた。シングルモルトかどうか大いに怪しいそれを一息に干し、カウンターに身を乗り出す。
「ミスタ・パクストンに会いたい」
「パクストンさんは約束のない人間には会わない」
「取り次がないと後であんたがどやされるぜ。〈葬儀社《アンダーテイカー》〉の使いだと言えば判る」
こういう時だけは似合わないスーツ姿が役に立つ。バーテンはレノックスが彼らが属する社会の人間と判断したらしく、内線電話を取り上げてこそこそと話し出した。
「……パクストンさんがお会いになるそうだ」
「だろ?」
レノックスはニヤリと笑った。パクストンには、貸しがあるのだ。
分厚《ぶあつ》い絨毯《じゅうたん》が敷き詰められたパクストンの豪華なオフィスは、ランダルの質素な執務室とはえらい違いだった。ただ、趣味は良くない。一言で表現するなら、成り金趣味という奴だ。
レノックスは分厚い詰め物をした客用ソファに高々と足を組んで座った。パクストンの手下は露骨に厭な顔をしたが、ボスの方は鷹揚《おうよう》な所を見せた。
「ミスタ・ファークハー。新入りのバーテンが失礼をした。エルガー氏は息災《そくさい》かね?」
「ああ。お陰《かげ》さまでな」
「この間は、稼《かせ》がせて貰ったよ」
「気にしなくていい」
リッチー・パクストンはジュークボックスのリースで財をなした男である。パクストン商会のジュークボックスを入れない店は、どういうわけかチンピラの標的になる。そういうわけでパクストン商会はロンドンのジュークボックスのトップシェアを誇《ほこ》るまでになったのである。その他にダフ屋の元締め、私設カジノ、ブックメイカー、輸入煙草の密売、盗品故買《とうひんこばい》など手広く商売している。一言で言うなら、ケチな悪党だ。
ロンドンの犯罪組織はパクストン商会だけではないが、ランダルに言わせるとパクストンは並外れて小者なのだと言う。そのくせ欲深で想像力に欠ける点が気に入っているのだと、いつもの穏やかな笑顔で言われた時には少しばかりパクストンが気の毒に思えたものだ。
「で、今回は何が欲しい?」
パクストンはごてごてと指輪で飾り立てられたごつい手で二つのグラスにブランデーを注《つ》ぎながら言った。ブランデーは好きではないが、この際だから貰っておくことにした。
「身分証明書だ。出生証明とこみで。年齢は二十から二十五歳くらい、男、身長五フィート十インチ、髪は黄色、瞳は黒で肌色は白だ」
「東欧《とうおう》系か? なんとかしよう」
「頼んだぜ。で、見返りに何をして欲しい?」
「そうだな……。明日のニューマーケット競馬場の第十レースに〈ブルーゲイル〉という馬が出走するんだが」
「そいつを勝たせるのか?」
「いや。その馬が勝たないようにしてもらいたい。ライバルの持ち馬で、ダントツの一番人気だ」
「お安い御用だ」
〈同盟〉とパクストン商会は古いつき合いだ。接触したのはランダルの方からで、以後持ちつ持たれつの関係が続いている。〈同盟〉は新しくこの世界に来た追放者のために偽の身分証が欲しい。蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で、パクストンは注文に合った身分証を手に入れてくる。その見返りとして、〈同盟〉は少しばかり魔法を使ってパクストンの金儲《かねもう》けに手を貸してやるのだ。
賭事《かけごと》の不正は、〈同盟〉が請《う》け負《お》う犯罪行為の中で最も一般的なものだ。だが、カードやルーレットであまり不自然に勝ちすぎるのは拙《まず》い。その点、馬というデリケートな生き物に結果を左右される競馬は介入がしやすく、得られる利益が大きい。レース中の競走馬のやる気を無くさせるには、初歩的な魔法で十分だ。実際、〈ラノン&|Co《カンパニー》葬儀社〉の設立費用は競馬で稼ぎ出したのである。
「絶対確実なんだろうな。あんたたちは信用出来ると判っているが……」
「心配するな。大船に乗った気でいてくれ」
「しかし、一体どういう手を使っているんだ? 厩舎《きゅうしゃ》関係か? それにしたって、そうそうあちこちの厩舎に顔が利《き》くってのは……」
パクストンは唇を舌で湿《しめ》した。眼にはぎらぎらした色が浮かび、鼻の穴が二割方広がっている。欲の皮のつっぱらかったっていうのは、こういうツラを言うんだな、と思った。
「企業秘密さ、リッチー」
レノックスはブランデーを口に含み、甘すぎる味に顔をしかめた。
「邪魔したな。葬式の時はうちに頼むといい。最高のエンバーマーを紹介するぜ」
〈ラノン&Co葬儀社〉に戻る途中、携帯が鳴った。
「はい。俺です」
電話してきたのはクラブ『ベルテンの夜』を仕切っているダナ人の支配人だった。
『ファークハーか? いま、店中大変なことになってて……すぐ誰かよこしてくれ!』
何やらただならぬ様子で電話は切れた。本来ナイトクラブは管轄ではないのだが、ここからなら本部の誰かを呼ぶより自分で行った方が早そうだ。
『ベルテンの夜』は、オックスフォード通りからワンブロック北にある大人向けの落ち着いたクラブだ。趣味のよい音楽と上質のサービスが売りで、若者向けの騒々《そうぞう》しいクラブとは一線を画《かく》している。表向きには会員制のクラブではなく、金さえ払えば誰もがここで音楽と飲み物を楽しむことが出来ることになっているが、実際には厳然《げんぜん》とした会員制度が存在していた。会員資格はセカンドサイト――つまり、目に見えぬものを視る視力を持っていること。それがなければ一般客用のフロアとは別にある会員専用入り口の存在を知ることも出来ないのだ。
音楽の鳴り響く一般客用のフロアから〈惑《まど》わし〉の壁を突き抜けた途端、会員専用フロアが大混乱に陥《おちい》っているのが見えた。
「そいつを捕まえてくれ!」
気取り屋の支配人が金切り声をあげてレノックスの足元を指さす。
カエルである。
「なんだ? たかがカエルで何を……」
騒いで……と言いかけて呑み込んだ。
一匹や二匹ではない。
青や緑や縞模様《しまもよう》や茶褐色《ちゃかっしょく》やボツボツのある大小さまざまなサイズのカエルが、ケロケロゲコゲコと喉《のど》を鳴らし、床と言わずテーブルと言わずソファと言わず好き放題に跳《は》ね回《まわ》っているのだ。
「いったいどうなってるんだ?」
そう言った途端、どこからともなく降って湧《わ》いたカエルがぺたりと頭に張り付いた。
「うぉっ!」
呻《うめ》き声をあげ、頭の上のカエルを鷲掴《わしづか》みにして既にカエルでいっぱいになっているワインクーラーに放り込む。
「さっきからこの調子だよ。いくら捕まえてもどこからか湧いてきて切りがない」
もちろん自然にカエルが湧く筈もなく、誰かが魔法を使って呼び出しているのだ。イタズラ好きと言えばまずプーカ族だが、プーカの得意技は変身して人を証《たぶら》かすことだし、今この場にプーカはいない。
[#挿絵(img/Lunnainn2_047.jpg)入る]
「待てよ……」
貴重な妖素を使って、なんでカエルなんだ? ふと思い出したことがあって、レノックスは〈同盟〉本部に電話を入れた。
「俺だ。ポーチュンの居住区につないでくれ」
ポーチュン族は、巨人族と正反対にひどく身体が小さい種族だ。大人の身長は一フィートほど。つい先日、人間の家の屋根裏に隠れて暮らしていた数名のポーチュンが同盟に保護された筈だった。何言かポーチュンの代表とやりとりした結果、だいたいの事情が判った。
「大丈夫だ。これでカエルは止まる」
ポーチュンは、カエルが大好物なのである。彼らは変形した小さな〈低《ひく》き道《みち》〉を使ってカエルを引き寄せることが出来るのだが、何かの拍子にその道が逸《そ》れてしまって彼らの夕飯のカエルがここに現れてしまったのだ。なかなかカエルが出てこないので、ポーチュンたちは〈道〉を開きっ放しにして待ち続けていたのである。その間に、こちらはカエルの山になってしまったというわけだ。レノックスは事情を説明し、ポーチュンの代表からの詫《わ》びを伝えた。
「それで良さそうなのを二、三匹持って来て欲しいと言ってるんだが……」
「全部持って行ってくれると助かる」
支配人はワインクーラーから這《は》い出《だ》した一匹を摘《つま》んで戻しながら言った。
「無理を言うな」
「じゃ、どうしろと?」
「そうだな……」
レノックスはカエルの山を眺めた。確かにうんざりする眺めだ。
「フレンチレストランにでも売ったらどうだ?」
車を転がして自宅フラットに戻った時には既に零時を回っていた。
レノックスは溜め息をついた。何で毎日こんな時間になってしまうのか、自分でもよく判らない。
本当なら今日だってポーチュンたちにカエルを届けて終わりにする筈だった。ところが本部に戻ってみたら、ガブリエル犬の卵を暖めている孵卵器《ふらんき》の温度が下がってしまって誰にも直せないという。犬と雁《かり》の特徴をもったこの生き物は本来この世界には生息していないのだが、同盟では魔法を用いて作出《さくしゅつ》することに成功したのだ。とはいえ交配《こうはい》の成功率は低く自然|繁殖《はんしょく》も出来ないため、その数は非常に少なく貴重だ。
冷や汗をかきながらあれこれ機械をいじり、ほとんど絶望と思われたとき、原因が判った。
何のことは無い、孵卵器のコンセントが抜けていたのである。それに気づいたときには全身から脱力した。電源コードの意味が判らない誰かが蹴《け》つまずいて抜いたらしい。ともあれ、元通りコンセントを差し込むことで事無きを得た。卵はあと一週間ほどで孵《かえ》る予定で、その時はたぶん泊まり込みだ。
十二個の卵の無事を確認して今度こそ帰ろうとしたとき、携帯にメールが入っていることに気づいた。盟主《めいしゅ》からだ。
本文は何もなく、〈要連絡〉とだけある。
十秒ほどメールを眺め、それから携帯の電源を切った。
読まなかったことにしよう……。
今日はえらく草臥《くたび》れた。盟主の顔を見るのは、一日二度でも充分過ぎる。
それでそのまま帰宅したのだが、それでもこんな時間になってしまったのである。
郵便受けを覗くと通販の書籍郵便が届いていた。これで今夜のささやかな楽しみは確保された訳だ。同盟の書籍部で買えば割引になるのだが、趣味で買う本については同盟の連中に知られたくないのである。
レノックスは本の包みをサイドテーブルに投げ出し、冷蔵庫を覗いてハムの塊《かたまり》を見つけ出した。三切れほど分厚く切り取って熱したフライパンに放りこみ、じゅうじゅうと音を立てて旨《うま》そうな匂いをあげるまで両面に焼き色をつける。そういえば電子レンジとかいうものを使えば何でも簡単に暖められるらしいのだが、何とは無しにおっかないような気がして使ったことがなかった。テレビも冷蔵庫も携帯電話も使ってみたら別におっかなくはなかったのだが。まあ、電子レンジなど無くてもこうしてちゃんと食い物を調理出来るのだから、別に無理をして買うことはない。
ハムを焼く間に鍋に湯を沸《わ》かしてパスタを茹《ゆ》で、豆の缶詰を開ければ立派な夕食の出来上がりだ。料理を大皿に一つ盛りにし、パクストンの店で呑《の》み損《そこ》なった〈ラガバーリン〉の十六年ものをなみなみとグラスに注いだ。スコットランドの西の海に浮かぶ小さな島の蒸留所《じょうりゅうじょ》で醸《かも》されるこの酒は非常に豊かな燻煙《くんえん》の香りと、舌に残る独特の潮《しお》の風味を持っている。そのくせ喉越《のどご》しはビロードのように芳醇《ほうじゅん》で滑《なめ》らかだ。
この酒が醸される島は故郷の海に似た荒々しい海に囲《かこ》まれているという。一度行ってみようと思い始めて数年になる。だが、失望するくらいなら元から行かない方がいいような気がするのだ。それに何かあったとき、同盟本部と連絡が取れない場所にいるのは拙《まず》い。いや、拙いというよりは怖いのだ。『何か』の時にロンドンに居合わせないということが。
バカらしいとは思う。敢えて誰も言葉にしない『何か』というのは万に一つ、ラノンへの道が開くんじゃないかという淡い期待だ。そんなことは絶対に起きない。起きたとしても、その道を使うことが許されないのは先月の事件で理解した。それでも、一縷《いちる》の望みを捨て切れずにいる。他の連中がラノンに帰り、自分だけがこの世界に取り残されると考えると身の毛がよだった。そんなことは絶対に起きやしないと解ってはいるのだが。
皿の上の物をすっかり平らげると、ハムの脂っこさを潮風の味の酒で洗い流した。三杯目の酒を手に安楽椅子に身を沈め、サイドテーブルの包みを手に取る。
他人には言えない趣味だ。
ペーパーナイフで封を切り、油紙の包装をぱりぱりと剥《は》がす。現れたのはブルーの無地に白抜きロゴの表紙という簡素《かんそ》極まる装丁《そうてい》の薄っぺらな冊子だ。薄い割に値段が高く、一般書店で見かけることは滅多《めった》にない。あったとしても定期購読者の取り置き用だ。
酒を口に含み、潮風に砕《くだ》ける波の息吹《いぶき》に想いを馳《は》せながら『詩の翼』最新号の目次のページを開く。そしてそっけない投稿者一覧の中に一つのペンネームを見いだし、小さな達成感を味わった。
つまり、そういうことなのだ。この冊子は、大半のページが一般から投稿された詩で成り立っている。そして〈同盟〉の〈その他少数種族〉のチーフは、『詩の翼』の常連投稿者なのである。
こんなことは、口が裂けたって言えない。これを同盟の連中に知られるくらいなら、リージェントストリートを端から端まで裸で逆立ちして歩いた方がマシだ。何を言われるか判ったもんじゃない。第一、示しがつかないではないか。
なのに、なぜ詩なんぞを書くのか。
海の民ブルーマンは大昔から譚歌《バラッド》をこよなく愛してきた。大漁の歌、戦《いくさ》の歌、潮風の歌、魚の歌、空を行く雲の歌、アザラシ乙女の歌、そして猥雑《わいざつ》な恋の歌。子供の頃よく聞かされたから、うろ覚えのものも入れれば百くらいの譚歌を詠《えい》じられる。その伝統の形式に自分の言葉を乗せれば新しい譚詩《たんし》が出来る。それを試《こころ》みに一度送ったら載ったのである。もちろん先祖に誇《ほこ》れるような満足の行くものは出来ないが、それでもときどき思いついたものを書き留めては送っている。
おそらく、自分は一生独り身を通すだろう。この世界に来てねんごろになった女がいない訳ではないが、所帯を持つのは無理だ。この世界の女と結婚したら、ラノンの秘密は隠し通さなければならない。自分には、本気で好きになった女に一生嘘をつき続けるなんてことは出来っこない。
この数年間、朝から晩まで同盟のために働いて来た。収入は悪くない。お陰で好きな酒も飲める。だが、それだけだ。死んで仲間に灰を遺《のこ》すことについては異論があるわけではないが、灰しか遺すものがないのだと考えると空《むな》しい。
今、この世界にブルーマンは自分一人だ。ブルーマンの伝統的譚歌を知っているのも自分一人だ。自分が死ねば、それはこの世界のどこにも存在しなくなる。だから自分が存在しなくなる前に譚詩と言う小舟に己の意を乗せ、異世界という大海《たいかい》に流そうとしているのだ。それがいつかどこかの岸辺に流れ着くかどうかは分からないが、何もせずに孤島で一生終わるよりはいい。
ラノンにいた時にはこんなことは考えなかった。金はなかったが、自己の存在意義について考えるなんてことはなかった。先祖伝来の譚歌も古くさいとしか思わなかった。それが今、記憶を辿《たど》って譚歌もどきを書いている。
歳を取ったってことか。
あの頃は若かった。そして若さ故《ゆえ》の過《あやま》ちを犯した。他人の命を奪って死罪となった筈の自分がこうして生きて酒を飲んでいる。充分な筈だ。それ以上を望むのは贅沢《ぜいたく》だとは解っている。いるのだが……。
グラスの氷がからりと鳴った。それで思い出した。
(美しいものですね。本当に霜か氷のようで)
ジャックの眼のことだ。
盟主は、何を考えてあんなことを言ったのだろう。あの氷の眼、フロスティ・ブルー・アイというのは滅多に拝《おが》めないし、初めのころはあの眼で見られると肝が冷えた。だが、別におっかなくはないと判ってよく見れば、確かに綺麗なものだ。しかし、わざわざ口に出して言うことじゃない。
(彼は危険です)
――あのとき、ランダルは俺の反応を見ていた。嫌っていた筈の俺がジャックを擁護《ようご》するかどうかで奴がどれくらい影響力を持っているのか推《お》し量《はか》ろうとしたのだ。そんなことも気付かず、こっちはまんまと盟主の計算にはまったというわけか――
表面的なもろもろの意識が酒で鈍《にぶ》ってかえって思考がまっすぐに回答に辿り着いた。
(拒むようなら別の方法を)
盟主は灰のルール第一項補足を拡大適用するつもりだ。
レノックスは氷が溶けて薄くなった酒を一息に呷《あお》った。
畜生……。
これで、どうあってもあの唐変木の首を縦に振らせなければならなくなった。
3――『誰にも言っちゃいけない』ゲーム
胃がむかつくのは昨夜《ゆうべ》の酒のせいに違いない。レノックスは葬儀社のホールは通らずに裏口から同盟本部に入った。ネクタイを締《し》める気になれないのだが、だらしない服装で社内を歩き回ると盟主《めいしゅ》の叱責《しっせき》を食らう。
盟主に蛙《かえる》事件の報告に行く前にプラント・アンヌーン族のチーフをつかまえた。この金髪で見目良い種族は惑《まど》わしや目眩《めくらま》しに長《た》けている。賭博《とばく》や相場の不正はアンヌーンの担当だった。
「今日のニューマーケット競馬場の第十レースで本命のブルーゲイル号が負けるように仕組んで欲しい。妖素《ようそ》使用許可申告書はあとで上に回してくれ」
「また、つまらない仕事だねぇ。どうせなら相場をいじる方が面白いのに。先物《さきもの》とか」
「面白いかどうかで仕事を選ぶなよ。先物なんぞで大儲《おおもう》けしたら目立ってしょうがない」
「分かってるよ。でも、最近退屈でね。何か刺激的なことをやってみたいのさ」
アンヌーンは物騒《ぶっそう》なことを言い、書類に『ブルーゲイル号/着外』と書き込んだ。
「そうだ。盟主が血相《けっそう》を変えて君を探していたよ。何かやらかしたのかい?」
何だろう。蛙の件だろうか、それとも無視したメールのことか……。思い当たることがありすぎて見当《けんとう》がつかない。
「いや……」
「かなり来てたみたいだよ。彼には珍しいことだよね」
アンヌーンはうふふと笑った。明らかに面白がっている。
「そういえば、昨日の『ベルテンの夜』の騒ぎを聞いたかい?」
胃がむかむかした。
「……その話はしないでくれ」
執務室の扉は開いていた。盟主はデスクについておらず、部屋の中をぐるぐる歩き回りながら書類を読んでいる。記憶にある限り、こんなことは初めてだ。ランダルは眉《まゆ》を顰《ひそ》めてじろりとこちらを一瞥《いちべつ》した。
「昨夜のメールを読まなかったのですか」
「すんません、電源を切ってたんで……」
冷や汗ものである。
「ネクタイを締めて下さい。これから一緒に社の方へ来てもらいます」
ランダルは書類を『未決』の箱に放り込み、執務室を出てさっさと歩き出した。慌てて後を追う。〈同盟〉と〈葬儀社〉の境を越えて彼が向かったのは長い廊下の先にあるひんやりと静まり返った霊安室《れいあんしつ》だった。
高い半円のドームを持つこの荘厳《そうごん》な霊安室は〈ラノン&|Co《カンパニー》葬儀社〉の売りのひとつだ。死者は葬儀までのあいだ、この場所で静謐《せいひつ》に包まれて埋葬《まいそう》までの一時を過ごす。花に囲まれた大理石の祭壇《さいだん》には、マホガニーの棺《ひつぎ》が静かに安置されていた。
「これはミスタ・カークパトリックがご自身のために発注された特別注文の棺です。生前契約《プレニード》のお客様で、無宗教の方ですが葬儀に関しては最高級のヘリテージ・プランをお望みでした」
「上客というわけですか」
「その通り。棺は内張《うちば》りに銅を使ったマホガニー製で最高級のベルベットを敷き詰めたアメリカンタイプのカスケット。オプションで四頭の黒馬に曳《ひ》かせた硝子《ガラス》張《ば》りの葬送馬車で埋葬地まで御送りするお約束でした」
思わず口笛を吹きそうになった。棺だけでも五千ポンド以上だ。オプション代金も含めると幾《いく》らになるのか見当もつかない。
「ミスタ・カークパトリックは先週|老衰《ろうすい》のため他界されました。御遺体は契約どおり当社でお預かりし、葬儀は三日後に執《と》り行《おこな》われる予定だったのですが」
「遺族が解約したがってるんですか? しかし、生前契約の払い戻しは本人しか……」
「いいえ。解約ではありません」
ランダルは棺の上覆《うわおお》いを持ち上げた。
「ただ、肝心《かんじん》の御遺体が届かないことにはどうにもならないのです」
アメリカンタイプ・カスケットは棺の蓋《ふた》の上半分が開いて遺体の顔を確認できるようになっている。最高級のベルベットで内張りされた棺の中にはこれも最高級のシルクサテンの枕が空《むな》しく転がっているだけだった。
「いったい、どういうことで……」
「御遺体は昨夜遅く当社の霊柩車《れいきゅうしゃ》でここに運ばれる予定でした。ところが運転手がちょっと席を離れた隙《すき》に霊柩車ごと消えてしまったのです」
レノックスは口をぽかんと開けた。
「いったいどこのバカが霊柩車なんぞ……」
「それを貴君《きくん》に調べて欲しいのです。もちろん遺体の回収も」
「葬儀は三日後……でしたっけ?」
「そうです。チェンジリングを使うことも出来ますが」
ランダルの言うチェンジリングと言うのはすり替えのことで、同じくらいの重さの丸太に〈惑わし〉をかけてミスタ・カークパトリックに見えるようにするということだ。
「そりゃ、拙《まず》いのでは……」
「ええ、大変にね。葬儀は出来るだけ賑《にぎ》やかにということで、参列者は三百人以上。楽団も呼ばれています。南米やオーストラリアからも来られるとか。世界中に散り散りになっていた親族の大集合です。当然皆ビデオカメラを持ってくるでしょうね」
〈惑わし〉は人間の目は誤魔化《ごまか》せるが、機械は誤魔化せない。たまたま棺の内部が写っていたら、大騒ぎになること必至《ひっし》だ。いや、それ以前に、世界の反対側から祖父《じい》さんに最期《さいご》のお別れをしにくる孫たちに丸太を埋葬させていい訳がない。
「警察には……」
「出来る限り表沙汰《おもてざた》にはしたくないのです。葬儀社の評判に傷がつきますからね。それに、問題は盗まれたのが霊柩車なのか遺体なのかという事です」
ランダルは静かに棺の蓋を閉めた。
「遺体が目的だとすると、内部の犯行の可能性が強い」
「〈同盟〉の誰かってことですか……」
そういえば思い当たることがあった。二日前に、同盟メンバーの一人が自殺したのだ。
同盟メンバーがラノン人を殺害した場合、人間の司直《しちょく》の手には委《ゆだ》ねず、犯人は同盟|自《みずか》らが死をもって罰する。このシステムのおかげで以前は多発していたラノン人同士の殺人は激減《げきげん》した。だが、規約には死体を盗んだ場合の罰則は明記されていない。誰かがその穴を突くことを考えつき、そして同盟メンバーの遺体と間違えてミスタ・カークパトリックの遺体を乗せた霊柩車を盗んだのかもしれない。
考えこむレノックスを横目にランダルが言った。
「或いは、同盟に与《くみ》さず敵対的な態度を取り続けるラノン人である可能性も」
「いや、ジャックは妖素には頼らないと……」
「そのラノン人がジャック・ウィンタースだと誰が言いましたか?」
うっ、と詰まった。またしても盟主の誘導尋問に引っ掛かった自分の間抜《まぬ》けさを呪《のろ》うが、後の祭りだ。
「しかし、それも有り得るかもしれませんね。彼は、ラムジー・マクラブ君の身をひどく案じています。マクラブ君にはより多くの妖素が必要だと考えている。違いますか?」
「そりゃ、そうですが……」
レノックスは腹の底で唸《うな》った。〈時林檎〉の実がある限り、もうラムジーが妖素|欠乏症《けつぼうしょう》を起こす心配はないのだ。だが、〈時林檎〉の存在を秘密にしている以上、そのことをジャックが死体を盗む必要がない理由としてあげるわけにも行かない。
「別に、ジャック・ウィンタースが犯人だと言っている訳ではありません。あらゆる可能性を考慮すべきだと言っているのです。貴君は初めから彼を容疑者リストから外している」
当たり前だ。あの唐変木《とうへんぼく》は五百年前の骨から妖素を取り出すことさえ渋ったのだから。だが盟主にそれを言っても時間の無駄だ。
「とにかく、遺体を取り戻すことが先決で」
「葬儀までに、です。この件を知っているのは貴君と運転手を含めて四人だけです。出来るだけ内密に処理するように」
ランダルはそれから思い出したように付け加えた。
「そういえば、今日は月齢《げつれい》十日でしたね。マクラブ君の力を試す良い機会なのでは?」
◆◆◆
ラムジーは何とは無しに落ち着かない気持ちがして店の中と外を行ったり来たりした。
「どうしたのさ。さっきからウロウロ」
ケリが鉢物《はちもの》に水をやりながら言う。
「ううーん。分かんないんだけど……」
昨日、こんな感じがしたすぐ後にはジャックが現れたのだ。今日は月齢十八日目。満月までほぼ四日だ。満月が近づくにつれて狼の血が優勢になるけど、人間の姿でいる間は匂いで個人が識別出来るほど嗅覚《きゅうかく》は鋭《するど》くない。けれど何か別の感覚があって、よく知っている人が近づいてくると頭のどこかがチリチリするのだ。そういえば、実家の犬たちは家族の誰かが出かけて帰ってくるときには車がカーブを曲がって見え始めるずっと前からそわそわし出す。いつも不思議だと思っていたけれど、自分にもそれに似た感覚が備わりつつあるような気がする。
ラムジーは目を閉じてその捉《とら》え所のない感覚を捉《つか》まえようとした。
(この感じ……レノックスさん……?)
ぱっと目を開ける。通りの向こうからレノックスが歩いてくるのが見えた。
「よう。チビすけ」
「レノックスさん! いま、来るんじゃないかって思ってたんですよぉ」
「そうか? さすが大したもんだな、人狼《ウェアウルフ》のカンってのは」
レノックスはいつものようにニヤリと笑ったが、どこか沈んだようで、心の底から笑っていない感じがした。
「どうかしたんですか? レノックスさん」
「ちょっとな……。ギリーはいるか?」
ラムジーが答える前に、素早くケリが言った。
「彼は配達に行っています。何なら僕が用件を伺《うかが》っておきましょうか?」
「あ、いや……。おまえさんは?」
「ケリ・モーガンって言います。〈同盟〉のミスタ・ファークハーですね? 父がお世話になってます」
「ああ、モーガンとこの伜《せがれ》か。でかくなったもんだ。俺のことはレノックスでいい。親父さんは元気か?」
「相変わらず女をたらしてますよ」
「そう言うな。お陰《かげ》でリピーターが増えて『ラノン・ラノン』は繁盛《はんじょう》してる。今度St.ジョンズウッドに天然ハーブのエステティック・サロンを出店する予定だ」
「でも、経営は父の領分じゃないですから」
ケリはそっぽを向いて言った。ラムジーは、どうしてケリはいつも父親を悪く言うのだろうかと思った。ラムジーは父のヘイミッシュを尊敬している。父は普通の人間だけれど、色々な意味で大きな人間で、大人になっても父を越えることは出来ないような気がする。
そのとき頭のどこかがチリチリして、ラムジーは後ろを振り向いた。店主のグリーンが帰ってきたのだ。
「レノさんじゃないかね。どうしたね」
「ああ、ギリー。実はちょっとラムジーを借りたいんだ。盟主の許可もとってある」
「わたしは良いけれどね。マクラブ君が良ければね」
ラムジーはぴょんと跳《と》び上《あ》がった。
「ぼく? ぼくにお手伝いできることですか?」
「ああ。済まんが、おまえさんの手を借りたいんだ。いや、鼻か」
レノックスはポケットから小さな硝子|瓶《びん》を取り出した。硝子の底に貼り付くようにうっすらと灰が光る。
妖素だ。
「これを使え。〈同盟〉の支給品だ」
つまり、人狼としての能力を期待されているということだ。胸がどきどきする。いよいよ自分の力を同盟のために役立てられるチャンスがやって来たのだ。
「わかりましたっ。ええと、それじゃ、ううーん……ここじゃまずいですね」
いまお客さんがいないとはいえ、やっぱり店先で狼に変身したりするのは良くない。秘密厳守なのだから。グリーンが言った。
「あのね、奥をね、使うといいよ」
「変身する前にちゃんと服を脱ぐんだぞ」
「分かってますよぉ」
レノックスがザックからハーネスと派手なナイロンのバックパックを取り出した。
「服とメガネはこれに入れて持ち歩けばいい。大型犬用だから、サイズは大丈夫だろう」
「犬用なんですか? ぼく、狼なのに……」
「狼用のバックパックなんてあるか。文句言わずにさっさと仕度をしろ。犬用だって高かったんだからな」
ケリがひどく感心したように言った。
「ラムジー、本当に変身するんだ。変身するところ、見てもいいかい?」
「ダメですよぉ。服を脱ぐんだし」
ばたばたと店のエプロンを外す。
「それじゃ、見ないで下さいよぉ」
「わかったよ」
ラムジーは犬用バックパックを抱えて作業場になっている店の奥に駆け込んだ。配達用に箱詰めされた切り花が積み上げられた一角でメガネを外し、服を脱ぎ、きちんと畳《たた》んでバックパックの左右の袋に仕舞《しま》う。
これでいい。〈妖素〉の灰を掌《てのひら》に空ける。別に呑み込まなくても触媒《しょくばい》の効果は働くというのだけれど、なんだか心配なのでやっぱり舌で舐《な》めることにした。
妖素に触れた途端、むずむずとした力の高まりが皮膚《ひふ》を突き破って溢《あふ》れ出《だ》した。骨格がみしみしと変形し、両手はすらりとした前脚に、犬歯《けんし》は太い牙《きば》になり、耳は伸びて三角形にピンと立ちあがる。ラムジーは生《は》え揃《そろ》ったばかりのふさふさした毛皮をぶるりと震わせた。完了だ。荷物を口に銜《くわ》え、カチカチと軽い爪音を響かせて店先に戻った。
「うわっ。ラムジー?」
ケリは腹の底から感心したような声を出した。
「凄《すご》いや、まるで狼みたいだ!」
(だって、狼なんですから)
「撫《な》でてもいい?」
(えっ……でも)
返事をする前にケリはラムジーの首の下の分厚《ぶあつ》い毛を両手で撫で、耳の後ろをかりかりと掻《か》いた。
「ふかふかだなあ。この辺の毛、うちのジョンにそっくりだ。昔飼ってた犬なんだけどさ」
(……犬じゃないんですけど……)
抗議しようと思ったが、耳の後ろを掻かれるのはひどく気持ちが良かったため次の瞬間にはどうでもよくなってしまった。嬉しくなってケリの手をちょっと舐める。ケリは喉《のど》の脇の長いたてがみを両手でごしごしと撫でた。
「ホントに凄いよなあ……。ついさっきまで人間だったのに……」
その間にレノックスは犬用バックパックをラムジーの背中に乗せ、マジックテープとワンタッチバックルで脇腹と胸前のハーネスを留めた。救命胴衣《きゅうめいどうい》みたいな形で胴体の左右に荷物が振り分けられるので重さも苦にならない。
「サイズはどうだ? 苦しくないか?」
うぉん!(大丈夫ですよお)
「よし。行くぞ、ラムジー」
勇んで飛び出そうとしたとき、ケリが呼び止めた。
「待って下さい、ファークハーさん」
「なんだ?」
「鼻を使う仕事って何なんです? 〈同盟〉で何かあったんですか?」
「まあ、ちょっとな」
「僕も、何か出来ませんか?」
「折角《せっかく》だが、俺の考えじゃ今のところおまえさんに出来ることはないな」
「そうですか……」
ケリは沈んだ声で言った。気持ちが萎《しぼ》むのが目に見えるようだった。何だか気になったけれど、そのときレノックスがリードを引いて促《うなが》したので、ラムジーはそのまま小走りに店を後にした。
◆◆◆
ケリ・モーガンは狼になったラムジー・マクラブが翔《と》ぶような足取りで生花店《せいかてん》の外に出て行くのを見送った。
ラムジーは本当に特別だ。自分と同じ半妖精なのに。
どうして自分はガンキャノホなんだろう。
十五のとき、セカンドサイトが発現《はつげん》して見えないものを視《み》るようになった。そして父親から自分は異世界ラノンからの流刑者《るけいしゃ》だと告げられた。それは母や兄姉にも話してはならない二人だけの秘密だと。
何だか自分だけがこっそり特等席の切符を手に入れたみたいな気分だった。兄姉ではなく、末っ子の自分が異世界人の父と同じ力を持って生まれたのだ。自分は特別なのだ、他の連中とは違うこの世にたった一人のユニークな存在なのだと思った。
そして〈同盟〉本部に行き、父の仲間だという妖精たちに紹介された。そこには様々な種族がいて、明らかに人間でない姿の者もいた。特撮《とくさつ》映画のセットの中に来たみたいで、胸がどきどきした。だが彼らはケリを見ると、囃《はや》すようにどっと笑った。
――坊主、ガンキャノホだって? さぞかし女にもてるんだろうな――
そのときは判《わか》らなかったが、あとになって笑われた理由が判った。ガンキャノホとは父の属する種族名で、『口説《くど》き上手』という意味だったのだ。だからガンキャノホは別名を〈口説き妖精〉という。
魔法には誰でも使える一般的なものと、特定の家系や種族に限定された固有のものがある。ガンキャノホ族に固有の力は〈グラマリー〉、異性に対する惑わしの術なのだ。この術にかかった者は一時的に術をかけた相手に夢中になってしまう。だがあくまで一時的なもので、一瞬の熱狂が冷めた後に残るのはきまりの悪さだけだ。
父はこの力を薄く広く使って金持ちの有閑《ゆうかん》マダムたちを〈同盟〉のヘアサロンへ惹《ひ》き寄《よ》せている。おべんちゃらを振《ふ》り撒《ま》くジゴロみたいなものだ。父が流刑になった理由というのも他人の恋人を盗《と》った、盗らないで刃傷沙汰《にんじょうざた》を起こしたからだという。
それを知ったとき、ひどく失望したのを覚えている。映画スターのようにハンサムな父はかつてケリの誇《ほこ》りだったのに、そのことを知った今は軽蔑《けいべつ》しか感じない。
何でそんな男を尊敬していたんだろう――。
もちろん、父親だからだ。そして自分にも同じ血が流れている。
おまけに、ガンキャノホは同盟の中でもマイノリティなのだ。同盟内には種族ごとに分かれた派閥《はばつ》があり、互いに権利を主張しあっている。だが、人数が少ない種族は〈その他少数種族〉の扱《あつか》いとなり、立場は弱い。
でも、レノックスは別だった。彼の名は父からよく聞いていた。レノックス・ファークハーは同盟にたった一人しかいないブルーマンだが、盟主の片腕だという。今日だって秘密の任務についている。同盟の管理する妖素だって、彼はきっと好きに使えるのだろう。
ケリはふと、どうしてレノックスは〈その他少数種族〉のチーフで盟主の片腕なのだろうかと思った。派閥の後《うし》ろ盾《だて》があるわけではないし、この世界に来たのは父よりも後だった。何か認められるきっかけがあったのだろうか。
もしかしたら、自分だって役に立つ所を見せれば盟主に認めて貰《もら》えるかもしれない。そうすればもう〈口説き妖精〉だからといってバカにされることもなくなるのではないか。
そう考えるとうずうずして、じっとしていられなくなってきた。
「ギリー。ちょっと急用を思い出したんだけど、しばらく抜けてもいいですか」
グリーンは、困ったような顔をした。
「でもね、ラムジー君もいないしね……」
「すぐ戻りますから! お願いします!」
ケリはありったけの熱意を込めて言った。グリーンはひどく気弱で、人から強く言われると反対できないことを知ってのことである。
「うん、そうだね……すぐ戻るならね……」
「すいません!」
大急ぎで表に飛び出したが、すでにラムジーとレノックスの姿は見えなかった。
ラムジーたちはどこに行ったのだろう。闇雲《やみくも》に追いかけても見つけられる可能性は低い。レノックスが何の目的でラムジーを連れて行ったのか、まずそれを探らなければ。
ケリは愛用のラジオ付き帽子を目深《まぶか》にかぶり、立ち乗りに自転車を漕《こ》ぎ出した。
◆◆◆
ジャックは細い路地《ろじ》の奥にある一軒の古書店の前に自転車を停めた。少し前に頼んだ本が入荷したという連絡があったのだ。
小さな細長い店には、左右の棚にぎっしりと古い本が天井近くまで詰め込まれていた。革と枯葉《かれは》を混ぜたような古書の匂《にお》いが微《かす》かに漂う。この店に来ると、子供の頃に城の図書室でこっそり本を読んで過ごした時間を思い出す。よく石の床の上で本を読んで風邪《かぜ》を引き、カディルに叱《しか》られたものだ。
「失礼、ミズ。本を頼んであったんだが……」
「はい。こちらですね、ウィンタースさん」
長い髪をきっちりとお下げに編んだ女性がレジの後ろの棚から緑の革表紙の本を取り出した。
「デクラン・オニールの『低地スコットランドの妖精伝説』ですね」
「ありがとう」
ジャックはその場に立ったまま受け取った書物をぱらぱらとめくった。他の書物には収録されていない伝説がいくつか見られる。参考になりそうだ。
この世界の妖精伝説の中には明らかにラノンの住人に関すると思われる記述が多々見られる。それが何故なのか知りたいのだ。
ラノンの〈地獄穴《じごくあな》〉がいつから存在していたのかは定かではない。ラノンに現在のダナ王国が成立した五百年ほど前には既に追放の道具として使われていた。王国成立以前にも偶発的《ぐうはつてき》に〈穴〉を通ってラノンからこちら側に渡った者がいたとも考えられるが、それにしてもこの国には妖精伝説が多すぎる。
この世界に来た当初は二つの世界の差違にばかり目が行ったが、慣れてくると共通点の方が気にかかるようになった。ダナと人間は基本的に同じ姿だし、文化や言語の類似《るいじ》は驚くほどだ。それらの類似と相違の意味を知ることが出来れば、ラノンとこの世界の関係もはっきりしてくるのではないだろうか。
考えを巡《めぐ》らしながら本を閉じ、ふと顔を上げると好奇心をいっぱいに浮かべたソーダ水のような視線と目が合った。
「……何か?」
「あ、いえ……」
彼女の青白い頬《ほお》にパッと朱が射した。伏せた睫毛《まつげ》の先がこまかに震えている。ジャックは、それがヒナギクの花びらのようだと思った。
「ええと……他に何か御入り用の本は?」
「ああ。次に来るまでにストーンサークル関係の本を見繕《みつくろ》っておいて欲しいんだが。出来れば五ポンド以内で」
ラノンでは、ストーンサークルは大掛かりな魔法の場として造られる。だが魔法が存在しないはずのこの世界で、この島国には多数のストーンサークルが存在するのだ。
クリップフォードのストーンサークルは五百年前にラノンから来たラムジーの先祖たちが造ったものらしい。だが、この世界のストーンサークルの歴史はもっとずっと古く、数千年を遡《さかのぼ》るものもあるという。何のために造られたのか。どうしても知りたかった。
ヒナギクの睫毛をした女性がにっこりと笑った。
「ウィンタースさんは、本当に謎がお好きなんですね」
「いや。謎を解き明かしたいんだ」
「あら……ごめんなさい。わたしったら自分が好きなものだから……」
「謎が?」
「ええ、いえ、あの……妖精とか、伝説とか、遺跡とか……その他もろもろです」
ちょっと意外だった。この世界の人間は不思議なものは意識の外に捨て去り、科学技術だけを信じているのかと思っていたのだ。
「すると貴女《あなた》はそういうことに詳しいのかな? ミズ……」
「キャメロンです。ミス・トマシーナ・キャメロン」
はきはきした口調で言ってから、彼女は少しきまり悪そうに声の調子を落とした。
「あ、でも別に詳しいというほどでは……学校で勉強したわけでもなくて……ただ、好きなのでいろいろ本を読んで、何となく解ったような気になって……」
「なるほど」
そう言えば、何度かこの店で神話や伝説の本を探してもらっているが、応対に出るのはいつもこの女性だった。少し風変わりだが、いつも丁寧《ていねい》な応対で感じは悪くなかった。
「ミス・キャメロン。この世界のストーンサークルは何のために造られたのか、貴女の意見を聞かせてもらえないだろうか」
ミス・トマシーナ・キャメロンはヒナギクのような睫毛をぱちぱちさせ、それから蕾《つぼみ》が綻《ほころ》ぶように微笑《ほほえ》んだ。
「それは、百人に訊《き》いたら百通りの答えが返って来ると思います。ストーンヘンジはアーサー王伝説の魔法使いマーリンが魔法で造ったのだという人もいるし、太陽|崇拝《すうはい》の祭祀場《さいしじょう》だったとか、冬至《とうじ》や夏至《げし》を知るためだとか、日食や月食を知るためだとかいう説もあります。アイルランドのニューグレンジ遺跡は冬至を挟んだ三日間だけ太陽の光がまっすぐ一番奥まで差し込むように造られているとか、エジプトの大ピラミッドよりも古いんだとか……」
「クリップフォードのストーンサークルのことは?」
「聞いたことがあります。最近発見された遺跡で、何でもアーガイル地方のものに似た線刻石《せんこくせき》とルイス島のカラニッシュ遺跡に似た十字形のストーンサークルがあるとか……」
今度はジャックが微笑む番だった。
「その通りだよ。貴女は本当に詳しいようだ」
「あら、いえ、そんな……。ウィンタースさんこそお詳しいんですね」
「いや、実を言うと僕はこのあいだそのストーンサークルを見て来たばかりなんだ」
「まあ! クリップフォードのサークルをご覧になったんですか?」
トマシーナ・キャメロンはソーダ水の瞳を煌《きら》めかせてジャックを見つめている。よほど遺跡が好きなのだろうか。
「ああ。遺跡は村から少し離れた〈林檎《りんご》の谷〉という所にあるんだ。そのサークルも壮大なものだが、かつてはもっと大規模な石のリングが村全体を囲《かこ》んでいたそうだよ」
「まあ。素敵ですねえ。あたしも行ってみたいけれど……」
「遺跡だけでなく、村も自然もとても美しい場所だよ。機会があったら行ってみるといい」
ジャックは遺跡好きの古書店員のことを考えながら手に入れた本をデイパックに仕舞った。巨石についてこの世界の人間の意見が聞けたのは収穫だった。この世界の巨石|遺構《いこう》はいったい誰が何のために造ったのか、やはりはっきりしたことは判っていないらしい。調べてみる価値はありそうだ。
自転車を押して通りを横切ろうとしたとき、奇妙な光景が目に入った。
二の腕に青い渦巻《うずま》きの文様《もんよう》のある大男と、派手派手《はではで》しいオレンジ色のナイロンザックを背負った狼――。
あれは、ラムジーじゃないか?
◆◆◆
ラムジーはハーネスに繋がれたリードでレノックスをぐいぐいと先導しながら歩いた。
「頼むぞ、ラムジー」
探し物は、なんと遺体なのだ。
最初はそんな強い匂いのするものならすぐに見つけられると思ったのだけれど、思ったほど簡単でなかった。うっかり霊柩車のタイヤの跡を追って車道の真ん中を嗅《か》ぎ回《まわ》っていると車に轢《ひ》かれそうになるし、なかなか思うように臭跡《しゅうせき》をたどれないのだ。
(だけど何で死体なんか盗んだのかな……)
でもそれは別にどうでもいいことだった。狼でいる時は細かいことは考えなくなる。とにかく歩き、走り、追跡し、与えられた仕事をやり遂《と》げればいい。そうしたら、きっとみんなが毛皮を撫でて褒《ほ》めてくれる。
撫でられるのは嬉しい。褒められるのはもっと嬉しい。
ラムジーは、鼻をあげて空気の匂いを嗅いだ。敏感な鼻は空気中のほんの僅《わず》かな匂いの分子も捉える。匂いの情報はまるでさまざまな色をちりばめた巨大なパズルみたいで、ともすると頭がくらくらしそうだった。
鼻がぴくりと動いた。カラフルな匂いのパズルの中に、はっきりと重要な匂いが感じられたのだ。同時に頭の後ろがチリチリする。
(この感じは……!)
ラムジーはリードをぐいぐい引いて駆け出した。
「おっ! チビすけ、何か見つけたのか?」
尻尾《しっぽ》が旗のように高くあがる。ラムジーは一声|吠《ほ》えるとレノックスを引きずるようにダッシュし、驚きの色を浮かべたジャックに向かって一直線に走り寄った。
(ジャックさあぁぁぁん!)
「ラムジー?」
尻尾をぐるぐると振り回し、後ろ足で立ち上がって狼式の敬愛のあいさつをしようとしたとき、がくんと後ろに引き戻された。思わず鼻がくんくん鳴る。
なんで届かないんだろう?
ラムジーは立ち上がったまま振り向いた。
リードがいっぱいだからだ。
伸び切ったリードの先にぶら下がるようにしてようやくレノックスが追いついてきた。荒く息をつきながらじろりとジャックを睨《ね》め付《つ》ける。
「何を見つけたのかと思ったら……あんたか」
「ご挨拶《あいさつ》だな」
ジャックは眉を顰めた。微かに不快の匂いがする。ラムジーはちょっと不安になった。何か気を悪くさせるようなことをしただろうか? もしかしたら、まだ狼式の挨拶をしていないからかも知れない。
「レノックス。ラムジーをハーネスやリードで繋ぐなんて、どういうつもりだ」
「仕様がないだろ。ここじゃ大型犬にはリードをつけるって決まりだからな」
「ラムジーは、犬じゃない」
わが意を得たりとばかりに、ぱたぱた尻尾が揺れる。
(そう、狼ですよね!)
「いや、犬ってことにしといた方がいいんだ。ハスキー犬とかマラミュート犬の新種と言えば怪しまれないからな」
「そういう問題じゃないだろう。どうしておまえがラムジーを連れ歩いているのか、と訊いているんだ」
「ちょいと、野暮用《やぼよう》なんだよ」
「〈同盟〉のか」
「あんたには関係ない」
「話せないようなことなのか?」
「その言い方はなんだよ。俺たちが何か後ろめたいことでもしてるって言うのか?」
リードが緩《ゆる》んだ。二人の距離が詰まったからだ。その反対に緊張感は高まっている。今からでも挨拶した方がいい。ラムジーは後ろ足で伸び上がった。
「そうは言っていない。事情があるなら話してくれと……うわぁぁっ……」
後半は、ラムジーの体重が仲《の》し掛《か》かったからである。後ろ足で立ち、伸び上がって体重を預けると鼻先が頬まで届くのだ。ラムジーは尻尾を振り回しながらジャックの顔をぺろぺろ舐めた。これがフォーマルな狼の挨拶で、犬との間でも通用する。マナーのポイントは、必ず目下の者が舐めることだ。
「ラムジー、ラムジー……もう分かったから、もうやめてくれったら……」
ジャックの手が優しく押し戻した。気分的にはまだ挨拶し足りないような気がしたけれど、取りあえずの礼節は足りたと思う。
「まったく……」
レノックスは呆れたようにこっちを見ている。
(そうだ。レノックスさんも……)
飛びつこうとした頭を、大きな手が押さえた。
「おっと。俺は舐めなくていいからな」
(そうですかぁ)
顔を見上げて尻尾をぱたぱた振る。二人の間の緊張感は消えていた。やっぱり挨拶して良かった。狼式の挨拶には緊張感を和《やわ》らげる効用があるのだ。
「レノックス」
彼の顔を見ながらジャックが言った。
「理由があるんだろう?」
◆◆◆
ケリは〈グッドピープル・カフェ〉の前に自転車を停めた。同盟の直営店であるこのカフェには、同盟メンバーの中でも特に暇な連中が常時たむろしている。そして彼らの一番の楽しみは、ゴシップだった。
店に入ると何度か強く瞬《まばた》きして視野をセカンドサイトに切り替えた。これを『セカンドサイトを使う』という。興味深いのは、『セカンドサイトを使う』のには妖素は必要ないということだった。物理的な意味では妖素は光を出してはいないらしい。ラノン人が生まれ持つ特殊な網膜細胞《もうまくさいぼう》が妖素に反応して光っているように感じられるだけなのだ。ケリは父親からその変異した細胞を受け継いだお陰で見えないものを視ることが出来るし、〈同盟〉にも受け入れられたのだ。
切り替わった視界で見渡すと、奥の席で〈スクウェア・フット〉がクロスワードパズルをしているのが見えた。猪《いのしし》の頭をした大男だ。恐ろしげな姿だが、実の所ひどく気が小さい。向かいの席にいるのは〈カウラグ〉。ふさふさと柔毛《にこげ》の生えた雌牛《めうし》のような耳をしている他はひねた子供のように見える。
ケリは思い切って彼らに近づくと、合言葉を口にした。
「ノ……ノコギリソウ……」
カウラグはこれも雌牛そっくりの焦《こ》げ茶《ちゃ》の大きな目でじろりとケリを見上げた。
「〈ヘンルウダ〉。まあ座んなヨ。兄弟」
カウラグは椅子《いす》をひいた。
「どっから来たんだイ? 見ない顔だが」
「ええと、僕はこっちの生まれなんだ」
「なーんだ。半妖精か」
カウラグの声音の中の侮蔑《ぶべつ》の調子は無視することにしてケリは椅子に座った。
「最近何か面白い話、ない?」
「面白いってどんな」
「たとえば、〈その他少数種族〉のチーフが大慌てするような、さ」
「うん、そりゃ、面白いよナー」
「あーでもそれは誰にも話すなって……」
猪頭が小さな声で発言した。
「判ってるってサ」
カウラグは口が裂けるほどにやにやと笑った。この二人は、何か面白いネタを知っているのだ。そして見たところ、カウラグの方は話したくてうずうずしている。
「誰が誰にも話すなって言ったんだい?」
「名前は言えないけどサ、アンヌーンだよ」
「じゃ、アンヌーンは誰から聞いたの?」
「ホブゴブリンからだよ。ホブゴブリンはウリスクから、ウリスクはレッドキャップから、その前は確かダナとタルイス・テーグとブラウニーとプーカ。で、みんなが口を揃《そろ》えて言うにはサ……」
「誰にも話すなって?」
「そう。誰にも話すなって!」
「なるほど。じゃ、僕も誰にも話さなければいいわけだよね?」
「そうとも言えるかも知れないネ」
「そうさ」
「うん、そうだよナー。おまえさんが喋《しゃべ》らなきゃ、オレも喋らなかったのとおんなじだもの。でもこれは絶対ナイショの話だから、誰にも言わないでくれよナ」
「誰にもね。で、何があったんだい?」
カウラグはひどく小狡《こずる》い顔をし、早口に囁《ささや》いた。
「それがサ! 葬儀のために預かった死体がなくなっちまったんだって!」
「〈同盟〉のメンバー?」
「違うよ。人間のお客。それも生前契約《プレニード》の客で、五万ポンドの前払い金があるらしいヨ」
「前払い金は二万だって聞いたけど……」
猪頭がおずおずと訂正した。
「いったい、どこからどうやって?」
「霊柩車ごとサ」
「じゃ、霊柩車に乗ってみたかっただけかも」
「だったら死体はテムズ川に投げ捨ててしまうかもだよナ」
カウラグは嬉しそうにクスクス笑った。
「レノックスが必死に探してるけどネ。葬儀までに見つからなかったら大ごとだよネ!」
間違いない。ラムジーは盗まれた死体を探し出すために駆り出されたのだ。確かに狼の嗅覚をもってすれば、死体が数百メートル先にあっても判るだろう。だが、犯人が車で移動しているとなるとどうだろうか。臭跡《しゅうせき》は地面に残らないし、運良く近くに行かない限り見つけるのは難しい。そう考えると、自分にもまだチャンスはあるかも知れない。
「ありがとう。面白い話を聞かせて貰ったよ」
「いいかい、この話はナイショだからネ……」
「大丈夫、僕も誰にも話さないから」
言いながら、この分だと既に同盟中に知れ渡っているのだろうなと思った。
ケリはのろのろと自転車を漕ぎながら考えを巡らせた。
犯人は、どうして霊柩車なんか盗んだんだろう。霊柩車を乗り回してみたい阿呆《あほう》がたまたま盗んだのなら、たぶんすぐに乗り捨てられる。遺体は捨てられているかも知れないし、そのままかも知れない。いずれにせよ、探す間もなく見つかるだろう。
だが、遺体そのものが目的だとしたら?
同盟の正規メンバーの遺体は、ラノン人にとって純金よりも価値がある。骨の中に〈妖素〉が含まれているからだ。しかし、盗まれたのは普通の人間の遺体だ。ケリは得意げなカウラグの言葉を思い出した。
(前払い金が五万ポンド……)
いくらなんでも高すぎる。『誰にも言っちゃいけない』伝言ゲームの途中で尾鰭《おひれ》がついたに違いない。だが、それを差し引いてもたぶん依頼主は裕福《ゆうふく》だったのだ。たいへんな大金持ちだったかも知れない。
ケリは有名人の遺骨《いこつ》や墓石を盗んで遺族に買い戻させる泥棒《どろぼう》の話を思いだした。死体は証言をしないし、失敗して捕まっても生きている人間を誘拐《ゆうかい》するよりずっと軽い罪で済むからだ。
もしそうなら長期戦になる。自分の出番もあるかも知れない。
帽子ラジオがつけっぱなしになっていて、ミニFM局の人気DJが曲の合間のお喋りをしていた。考えの邪魔だ。ケリはスイッチを切ろうとして、ふと手を止めた。
『……すごく変なニュース。昨日、アイスクリームを運ぶヴァンが盗まれたんだけど、そのアイスクリームが全部捨てられて見つかったんだってさ。アイスクリームは溶けないうちにってんで皆で拾って……』
世の中には変なものを盗む奴がいるもんだよな。霊柩車にアイスクリーム・ヴァン――。
そんな変な車が次々盗まれるなんて、統計的におかしくないか?
最初に盗まれたのは霊柩車でなくて死体だと仮定する。だとしたら、目立つ霊柩車でいつまでも逃げ回るのは考えものだ。それに死体というのは常温ではあっという間に臭《にお》うようになる。買い戻し交渉の間ずっと隠し通すのは大変だろうし、運ぶのにだって困る筈だ。
だけどアイスクリーム・ヴァンがあれば?
自転車を止め、急いでFM局へ電話してみた。
「あの、曲のリクエストじゃなくて、今言ってたアイスクリーム・ヴァンのことで……」
四回ほど内線の他の番号に回され、じりじりと待ったあげくやっと欲しい情報が手に入った。ヴァンが盗まれたのはエレファント&キャッスルで、同盟本部の近くだと判った。
これは、もしかしたらもしかするかも知れない。
犯人が霊柩車から遺体を移していなければ、たぶんラムジーが見つける。だけど、もしアイスクリーム・ヴァンに移していたら彼はきっとお手上げだ。いま探すべきなのは霊柩車じゃなくてアイスクリーム・ヴァンだ。この推理に賭けよう。
ケリは懸命に頭を働かせた。盗まれたヴァンを探すにはどうしたらいい?
市が〈渋滞税〉を導入して以来、朝七時から夕方の六時半まで、ロンドン中心部を走行するすべての車両は七百台のカメラによって常時監視されている。読み取られたナンバープレート情報は瞬時にコンピュータ処理され、その日のうちに渋滞税を払わなければ罰金だ。
つまり、すべての車両情報はロンドン警視庁交通課のコンピュータの中にある。
日頃コンピュータを使っていても、ハッキングなんか出来ない。ハックというのは芸術に似た特殊な才能なのだ。
だけど、そういう特殊な才能を持った奴を一人知っている。
ケリは学校のシックス・フォーム・クラスの同級生、フィル・ジョンソンの下宿のドアをしつこく叩いた。何十回も叩いて手が痛くなり始めたころ、ようやく痩《や》せて青白い顔が面倒くさそうにドアの隙間《すきま》に覗《のぞ》いた。
「ケリ・モーガン? 何の用……」
この『成績トップの問題児』は滅多《めった》に学校に出てこないし、クラスの誰とも親しく付き合おうとしない。噂では彼はコンピュータおたくのハッカーで、学校のコンピュータの記録を好きに書き換えられるという。
「忙しいから帰ってくれないか……」
フィルが不機嫌な声で言いかけたとき、ケリは掌の辻の微量の〈妖素〉にふっと息を吹き掛けて言った。
「フィル=v
今まで誰かに何かをさせるために〈グラマリー〉を使ったことはない。それをしたら父と同じになってしまうからだ。だが、背に腹は代えられなかった。
「入ってもいいかな=v
生まれ持った魔力でビブラートをかけるように言葉を振動させ、相手の頭の中に直接に送り込む。隈《くま》に縁取《ふちど》られたフィルの眼がしばしばと瞬《しばたた》いた。それから靄《もや》がかかったようにとろんとなり、俄《にわか》に熱っぽい輝きを帯《お》びた。
「……も、もちろん! もちろんだよ、ケリ、さあ、どうぞ中へ入って!」
「ありがとう」
フィルには悪いけど、うまく〈グラマリー〉にかかってくれたようだ。フィルはあたふたと部屋を片づけ、所狭しと積み上げられたパソコンやらモニターやら周辺機器の隙間に何とか二人分の空間を確保した。
「ケリ……ケリ、なんか君いつもと違うよね、何て言うかすごく……。こんなこと言ったら、変だと思われるだろうけど……」
「いや、別に思わないよ、フィル」
ちょっと後ろめたい気がした。これから彼にやらせようとしていることは、十八禁のサイトから画像をダウンロードするのとは訳が違う。バレれば手が後ろに回る。でも、ここまで来たらやるしかない。ケリは持てる能力を最大限に使い、厚い眼鏡の奥を見つめながら囁いた。
「ねえ、頼みがあるんだ……=v
「じゃね、フィル。助かったよ」
ロンドン警視庁交通課のコンピュータをハックして入手した情報を手に入れて部屋を後にするとき、フィルはまだ熱っぽい目でひたすらにケリを見つめていた。
「ケリ。あした、学校で会えるよね……?」
「え? ああ、そうだね」
明日には一過性の熱みたいに冷めているだろうけど、ひどく後味が悪かった。
でも、お陰で知りたかった事が判った。問題のアイスクリーム・ヴァンが盗まれてから撮影された時間と場所だ。
ケリは移動するヴァンの撮影|箇所《かしょ》を時系列順に並べたものと地図とを突き合わせた。ヴァンは同盟のあるサウスウォークから西へ移動して、最後の撮影ポイントはテムズ南岸のヴォクソールだった。
ここから先は渋滞税エリアから外れる。南東部の寂れた地区に入るからだ。この界隈《かいわい》にあるのは卸売《おろしう》り市場、倉庫、河岸《かがん》公園、|迷い犬保護施設《バタシー・ドッグホーム》、それに取り壊されずに残っている旧バタシー発電所の廃墟《はいきょ》。
軽い興奮に背筋がぞくぞくした。発電所の廃墟だって! 盗んだヴァンを隠しておくのにぴったりの場所じゃないか。
ロンドン警視庁は盗難車一台の発見にわざわざ人員を割《さ》いたりはしないだろう。それでもじっとしてはいられなかった。自分が一番に見つけなければ意味がないのだ。
旧バタシー発電所の四隅《よすみ》にそそり立つ白い煙突《えんとつ》は四本の巨大な蝋燭《ろうそく》のようにロンドンの夜空に突き立っている。
ケリは鉄道|高架《こうか》をくぐり、発電所脇の空き地に自転車を乗り入れた。川べりにプレハブの掘《ほ》っ建《た》て小屋がぽつぽつと並び、桟橋《さんばし》へと続く道の脇には何十台もの車が乱雑に停められている。街路灯のある通りから大分《だいぶ》離れているため辺りはかなり暗い。
懐中電灯を持ってくれば良かったと思いながらウェストバッグから妖素の小瓶を取り出し、左の掌にほんの少しなすり付けた。青白く灰が光る。セカンドサイトでこの光を視ても魔法を使ったわけではないから灰の中の妖素は消費されない。
ケリは掌の光をかざして歩き回った。淡い光の中に銀色の四角い車体が浮かび上がる。
アイスクリーム・ヴァンだ。
ヴァンの後ろに回り、メモしてきた盗難車両のナンバーと車のプレートを照らし合わせる。
同じだ。
胸がどきどき高鳴る。
あとは、この中に死体があるかどうかだ。
深呼吸して気を落ちつけ、荷台の留め金を外す。それから思い切って観音扉《かんのんとびら》を開いた。
荷台は空っぽだった。
がっかりするのと同時に、何だかホッとした。バカな冒険もこれでおしまいだ。成果は盗難車を一台発見しただけ。フィルには悪いことをしてしまった。明日もし彼が学校に来たら何て言おうか。でもグラマリーの効力が消えたら、たぶん学校には来ないだろう。
肩を落として振り向いたケリはあっと声を上げそうになった。いつの間にか自分のすぐ後ろに誰かが立っていたのだ。
「なにやってんだ、クソガキ」
いがぐり頭で熊のように猪首《いくび》の男は唸《うな》るように言った。
「あ……すみませ……」
言いかけたとき、男の手の中にある物が目に入った。拳銃《けんじゅう》だ。息を飲み、次の瞬間、硬《かた》いものがガツンと顔の横にあたった。ずきんという鈍《にぶ》い痛みが来て、それから一秒遅れて拳銃で殴られたのだ、と考えた。目の前がちかちかし、すーっと目の前が暗くなる。
畜生《ちくしょう》、気絶なんかしないぞ……畜生、畜生、畜生――。
そのまま意識は闇に吸い込まれて行った。
4――僕は役立たずだ
ラムジーはとぼとぼと生花店《せいかてん》への帰路《きろ》についた。あたりはもうすっかり暗くなっている。
結局、レノックスはジャックに事情を話し、ジャックも一緒に探してくれたのだ。そしてようやく乗り捨てられた霊柩車《れいきゅうしゃ》を発見したのだけれど、荷台は空っぽで臭跡《しゅうせき》もそこで途切れてしまったのである。
「ご苦労だったな。ラムジー。今日はこれ以上は無理だろう」
(すみません、レノックスさん……)
「なに、車が見つかっただけでも前進さ」
レノックスはそう言ったが、動作の端々に失望が感じ取れてラムジーは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。尻尾《しっぽ》がしおしおと垂《た》れる。せっかく初仕事と思って張り切っていたのに、役に立てなかったのだ。
「それじゃ、何かの時にはまた頼むな」
(はい……)
緑の匂いに満ちた店にとことこ入ると、グリーンが一人で後片づけをしていた。
「おお、よくお帰りだね。ご苦労様だったね」
グリーンがにこにこしながら大きな手で頭をぐりぐりと撫《な》でたので、少し嬉しくなって尻尾が左右に揺れた。
「じゃあな。ギリー。ラムジーはちゃんと返したぜ」
二人してレノックスを見送ると、グリーンは衣服の入ったバックパックを外してくれた。
「奥でね、人間にね、戻るといいよ」
(はい。グリーンさん)
バックパックを口に銜《くわ》えて店の奥へタッタと駆け込んだラムジーは土間に置いてあったケリの自転車がないのに気付いた。もう帰ったのだろうか。でも、棚にはケリの荷物が置いてある。グリーンが言った。
「ケリがね、戻ってこないんだよ。すぐ戻るってね、そう言って出かけたのに……」
(えっ……)
「荷物をね、置いて行ったしね。それで家にね、電話したんだけどね、帰ってないんだよ。こんなことはね、初めてなんだよね……」
彼がひどく心配しているのがひしひしと伝わってくる。つられてラムジーも何だか心配な心持ちになってきた。
「もう小さい子供じゃないのはね、判っているんだけれどね……。小さい時からね、知っているもんだからね……」
(うん、そうですよね……)
さっき、出掛けにケリがひどく失望していたことが気になった。それに荷物を置いていくなんてやっぱりおかしい。
ラムジーはグリーンを見上げ、尻尾を低く振りながら一声|吠《ほ》えた。
(グリーンさん。ぼく、ちょっとケリを探しに行ってきます)
ちょうど狼のままだし、ケリの自転車の匂いならよく知っている。だけど、一人で探しに行くならすることが一つあった。ラムジーは自分のカバンに鼻先を突っ込んで手製のジャムの詰まった小さな瓶《びん》を歯であんぐりと銜えて取り出した。万一の時のためにいつも持ち歩いている〈時林檎〉のジャムだ。前足で犬用バックパックのマジックテープを開こうと奮闘《ふんとう》していると、グリーンが不思議そうに尋《たず》ねた。
「ラムジーくんね、どうしたいのかね……」
ラムジーはバックパックを前にお座りをし、彼を見上げて鼻を鳴らした。
ぅウーン……。
グリーンはジャムの瓶とバックパックを交互に眺めていたが、しばらくして解《わか》ったというようににっこり笑った。
「分かったからね、これを着けてまた出かけたいんだよね……」
グリーンは瓶をつまんでバックパックの中に入れ、ラムジーの背にひょいと乗せた。胸の前でハーネスのワンタッチバックルがぱちんと留められる。
オンッ!(ありがとうございました!)
「うんうん……。でも、気をつけなくちゃだからね……」
大きな優しい手が頭を撫でる。
(だいじょうぶですよ。ぼくは、狼なんですから)
グリーンの手に頭を押し付けたあと、ラムジーは放たれた矢のように店の外に向かって走り出した。
◆◆◆
冷気が肌を刺した。薄膜《うすまく》を剥《は》ぐように意識がはっきりしてくる。ケリは壁にもたれ掛かったままぼんやりした頭で辺りを見回した。ズキンと頭が痛んだが、それ以上に痛むのは右の手首だった。その理由を理解するのにしばらくかかった。手錠《てじょう》が手首に食い込んでいるのだ。手錠のもう片方の輪は洗面台の排水管《はいすいかん》のパイプに繋《つな》がれていた。手錠が外せないか引っ張ってみる。ダメだ。きつくて抜けそうにない。
ガラス窓から射し込む微《かす》かな明かりで今いる場所の様子がだんだん判《わか》って来た。がらんとして何もない狭い部屋の中にいる。荒れた事務所のような――プレハブ小屋だ。床の上にぽつんとゴミ処理場から拾ってきたような古いバスタブがあり、その中に白いプラスチック袋に包まれたちょうど人間くらいの大きさの物体が横たわっているのが見えた。
考えたくはないが、十中八九、あれは盗まれた死体だ。死体を盗んだ犯人に閉じ込められたのだ。
なんだかひどく寒い。寒いと言うよりは空気が刺すように冷たい。バスタブの中には白い四角い塊《かたまり》がいくつも放り込まれている。そこから冷気が霧のように流れ出していた。
あの白い塊……あれはドライアイスだ……!
ドライアイスがどんどん気化して二酸化炭素ガスに変わっているのだ。二酸化炭素は空気より重いため霧は床に低くたゆたっている。ケリは白い霧から身体を離そうと立ち上がったが、手錠が洗面台に引っ掛かって中腰《ちゅうごし》の姿勢しかとれなかった。
じりじりと炭火で炙《あぶ》られるような焦燥《しょうそう》が湧《わ》き上がってくる。あれがすっかり気化したら、狭いプレハブ小屋の中は二酸化炭素でいっぱいになるだろう。人間だろうと妖精だろうと、二酸化炭素の中では生きていられっこない。
◆◆◆
レモンのように太った月が夜空を明るく染めている。ラムジーはケリの自転車の匂いを辿《たど》りながら足早に道路を駆けた。自転車は一度途中で止まり、ケリの臭跡は建物の中に入っているけれど、またそこから別の方角に移動していた。匂いを追って再びテムズ南岸沿いの道を西へ走る。
地面を蹴《け》る足が軽い。夜の闇は青く透き通り、身体には重さがないみたいだった。高架《こうか》下の|迷い犬保護施設《バタシー・ドッグホーム》の脇を走り抜けるとき、保護されている犬たちの不安や苛立《いらだ》ちや安堵《あんど》が風に乗って流れ出して来た。ラムジーは走りながら長々と挨拶《あいさつ》の歌を謳《うた》った。数十頭の犬たちが一斉《いっせい》に返す返礼の歌が美しいオーケストラのように夜空に響き渡る。
臭跡は高架をくぐり、不気味な四本の煙突のある廃墟《はいきょ》のような建物の方へと伸びていく。
車のたくさん停まっている空き地に入ると、ケリの匂いは漂《ただよ》っているのが目で見えるくらいにはっきりとしていた。ラムジーはひときわ濃い匂いの溜《た》まりを見つけて駆け寄った。
あれは、ケリの自転車だ!
発見の喜びに尻尾が高く上がる。でも、ケリ本人はいない。地面の匂いをくんくん嗅《か》ぐ。ここからは、自転車を降りて徒歩で歩いている。匂いの先に帽子があった。ケリのだ。ラジオつきの珍しい帽子で、自転車に乗るときケリはいつも被《かぶ》っていた。どうして大事な帽子を落として行ったんだろう。帽子が落ちていた場所にある銀色のヴァンの荷台の取手《とって》から微かにケリの匂いがする。戸が開いたままの荷台は空っぽだった。ひどく甘ったるいバニラとクリームとチョコレートの匂いに混じって何か全く異質な匂いが感じられる。
ラムジーは鼻面《はなづら》に皺《しわ》を寄せた。
これは、昼間探していた匂い――屍臭《ししゅう》だ。
◆◆◆
ケリはビクリとして縮《ちぢ》み上《あ》がった。窓の外から何者かが覗《のぞ》いている。窓ガラスが丸く息で曇《くも》ってよく見えない。と、ガラスを伝うよだれが曇りを拭き取って小さな輪の中にピンクの舌と黒い鼻面が現れた。犬だ。犬は立ち上がって前脚でガラスを引《ひ》っ掻《か》き、何かを伝えようとするようにしきりに鼻を鳴らした。
まさか……?
「ラムジー……?」
犬が……狼が肯定するように短く吠《ほ》える。
やっぱり、ラムジーだ!
「ラムジー、早く誰か呼んで来てくれ! ドライアイスがどんどん気化して二酸化炭素ガスになってるんだ! このままじゃ窒息《ちっそく》して死んでしまう……!」
狼はオーン、と啼《な》くと、くるりと振り向いて窓を離れた。
理解したんだろうか……?
祈るような気持ちで窓を見つめた瞬間、黒い影が砲弾《ほうだん》のように窓を突き破り、ガラスが粉々に砕け散った。反射的に瞑《つむ》った目を恐る恐る開けてみる。部屋の真ん中に、オレンジ色のバックパックを背負った狼が四肢《しし》を踏ん張って立っているのが見えた。
「……なんて無茶すんだよ……」
狼――ラムジーは体をブルブルと振って毛皮についたガラスの破片を振り落とし、ドライアイスの霧を蹴散らして駆け寄って来た。暖かな毛皮をすり寄せ、顔を舐め、手錠の鎖《くさり》をがちがちと噛《か》む。
「無理だよ、誰かを呼んだ方がいい……」
狼の耳がピクリと動いた。耳はぴったりと頭の後ろに伏せられ、遠雷《えんらい》のような唸《うな》り声《ごえ》とともに太い牙《きば》が剥《む》き出《だ》しになる。
「ど……どうしたんだよ、ラムジー……」
狼が見つめているのは、外に通じるドアだ。視線の先で、ノブが小さく回る。
「クソガキ、何をやってやがんだ」
さっきの男だ!
パッと明かりがついた。男は理解できないという顔で割れた窓と狼を眺めている。その刹那《せつな》、狼は霧をついて流れるように走り出した。そのまま一直線に男に向かって突進していく。
「クソッ、なんだ? こいつはっ……」
ラムジーは――狼は地鳴りのような唸り声をあげ、男に跳びかかってがっぷりと腕に食らいついた。男が喚《わめ》き声《ごえ》をあげ、空いている方の手で力任せに殴りつける。狼は弾丸のように跳び離れ、再び男に襲い掛かった。噛みつき、離れ、また噛みつく。
あれがあの大人しいラムジー・マクラブだなんて信じられない。
だが、見ているうちにケリは狼が決して相手の急所を攻撃しないことに気づいた。噛みつくのは腕だけ――訓練された警察犬と同じだ。狼になってもやはりラムジーはラムジーなのだ。
ミルクのように濃い霧の中を男と狼がごろごろと転がる。
「チクショ、放しやがれ、クソ犬っ」
きついコックニー訛《なま》りの悪態《あくたい》が聞こえた直後、一発の銃声が霧を裂いて響いた。
悲痛な、甲高《かんだか》い悲鳴が長々と尾を引く。
男が血の流れる腕を押さえて立ち上がる。
霧の底に、狼が倒れていた。
「ラムジー? ラムジー!」
[#挿絵(img/Lunnainn2_101.jpg)入る]
狼は微かに頭をもたげて哀しげに鼻を鳴らし、それから頭《こうべ》を垂れて動かなくなった。
男がしゃがみこみ、床に横たわる狼を銃口でつつく。
「……けっ。とんでもねえワン公だ」
「やめろよっ!」
「なんだと? このクソガキ、俺に命令すんじゃねエ……」
銃口が真っすぐこちらに向けられた。トリガーが微かな金属音をたてる。
撃たれる……?
ケリは眼を瞑った。が、三つ数えても銃声は鳴らなかった。片方の眼を開けてみる。もう一人、痩《や》せた小柄な男が銃を持った男の腕を掴《つか》んでいるのが見えた。
「ローリー、何やってんだ、このバカが。銃なんぞぶっ放しやがって」
「あ、マットの兄イ。くそ犬が俺に噛み付きやがったんだよう……」
「犬? どっから入って来たんだ」
「知んねえ。窓、ぶちやぶったんだろ……」
「バカ言うんじゃねえよ」
言いながら身をかがめてラムジーのバックパックに触った。
「妙なもんをつけてるな……。警察犬じゃねえだろうな」
マットと呼ばれた男はべりべりとバックパックを外し、銃を持った男に投げ渡した。
「調べとけ。発信機が付いてたらこのアジトはもう使えねえ」
「うへエっ。まさか……」
「用心が肝心《かんじん》ってこった」
それから男はケリの方を向いて言った。
「坊主。てめえの犬か」
「ラムジーは、犬じゃない……」
「ケッ。犬コロが家族だとかぬかすヤツには反吐《へど》がでらア。てめえのお袋は雌犬《めすいぬ》かよ」
「よせ、ローリー」
言われて、コックニー訛りの男は口をつぐんだ。
「悪かったな、坊主。犬は嫌いじゃねえが、こっちにも事情ってもんがあるんだ。明日の取引が済むまでは邪魔されたくねえのさ」
それから二人の男はケリとラムジーを残したまま小屋を出て行った。
ドライアイスの霧の中には毛皮の塊《かたまり》のように狼が静かに横たわっている。胸の横から流れ出した血が銀の毛皮を濡らして徐々に床に広がった。
「ラムジー、ラムジー、しっかりしてくれよ……ラムジー……」
狼は、ぴくりとも動かない。
死んだのか。死んでしまったのか。
自分のせいだ。ラムジーを出し抜いて手柄を立ててやろうなんてバカなことを考えたせいだ。取り返しがつかないことをしてしまった。ラムジーを死なせてしまった。
「ごめん、ごめんよ……。みんな僕のせいだ……許してくれなんて言えないよ……」
生まれてこの方、これほど自分が役立たずだと感じられたことはなかった。なのにまだ死ぬのが恐い。恐くて情けなくて悲しくて涙が出てくる。きっと、自分もじき死ぬだろう。あの世でラムジーに会ったら、何と言って謝ればいいのか。泣きながら狼の方へ手を伸ばす。手錠に阻《はば》まれて届かない。
「ラムジー……ごめんよ、ごめん……」
そのとき、毛皮がぴくりと動いたような気がした。目をこすって涙の膜をぬぐい取る。
「……生きてる……?」
いや、違う。変化しているのだ。
狼の身体はビクビクと痙攣《けいれん》するように震え、飴細工《あめざいく》のように変形していった。ふさふさとした毛皮が消えていく。前脚は手になり、後脚は長く伸び、肋骨《ろっこつ》が大きく盛り上がったかと思うと長々とした息が吐き出された。
ラムジー・マクラブはごろりと仰向《あおむ》けに転がり、瞼《まぶた》をあげて物憂《ものう》げにこちらを眺めた。
「……ケリ?」
「ラムジー! 良かった、生きてたんだ……!」
「うううーん。そうみたい……」
起き抜けのような顔で半身を起こす。コトリ、と音を立てて何かが床に落ちて転がった。
「あれ。痒《かゆ》いと思ったら何か出てきた」
ケリは目を丸くした。ピストルの弾丸だ。
「驚いた……。本当に不死身なんだ……」
「うーん。ぼくも驚いたです……。でも、いつもじゃないと思いますけど……」
ラムジーはケロリとした顔で弾が出てきた胸の辺りをぽりぽり掻《か》いた。呆れて口も利《き》けなかったけれど、今はただラムジーが生きていてくれたことをひたすらに神に感謝した。
「それより、どうしてこんなとこで捕まってるんですか?」
ケリは盗まれた死体を見つけて反対に犯人に見つかって監禁されたいきさつを手短に話した。
「そうだったんですか……。ぼくは見つけられなかったのに、すごいですね」
「感心している場合じゃないだろ。なんとかここを逃げ出さなきゃ」
「待ってください」
ラムジーはそう言うと、目をつぶって手を耳にあてた。
「……この並びの小屋に誰かいます。ブツブツ言いながら小屋の中を行ったり来たり……ボスがどうした、とか……」
「きっと、さっきのヤツらだ」
痩せた方が、明日の取引がどうこうと言っていた。ということは、今夜はずっと小屋で番をするつもりだろうか。
「僕は手錠があるから逃げられないよ。君が変身して誰かを呼んで来て」
「分かりましたっ。ええと……ぼくのバックパックは?」
「オレンジの? 奴らが持って行った」
「えっ。あの中に服とメガネと、あと妖素も入っていたんですけど……」
ケリは慌てて自分のウェストバッグを探した。ない。連中に盗られたのだ。
「畜生、僕のもだよ……」
「妖素がないと変身出来ないんです……。服もないし……なんか寒くないですか……?」
ラムジーは困ったように言い、両腕を身体に回した。毛皮を失って素裸なのだ。
「ドライアイスのせいだよ。窓が割れたから窒息する危険は減ったと思うけど……」
「でも、やっぱり危ないです。ぼく、裸でもいいから人を呼んできます」
「僕の服を着ていけよ!」
「ダメですよ、ここはすごく寒いんだし」
「すぐ助けが来れば平気だよ! ズボンだけでも着ていけばいい!」
「でも……」
まだぐずぐず言うラムジーを尻目に、ケリは片手でジーンズのボタンを外しにかかった。
「ケリ?」
「何だよ!」
「その手、光ってる……!」
「あ……っ」
思い出した。懐中電灯代わりに掌《てのひら》に妖素を擦《こす》り付《つ》けたのだ。
「妖素だよ! ほんのちょっとだけど……」
「ちょっとで平気です」
そう言うと、ラムジーはケリの掌についた妖素をぺろりと舐《な》めた。たちまち変身が始まる。CGのアニメーションを見るように人から狼へと淀《よど》みなく変わっていく。骨格が変形し、耳が伸び、ふさふさした銀色の毛が躯《からだ》を覆う。最後に長い尾がにょっきり生《は》えると、狼は思い切り伸びをした。
「ラムジー、同盟の誰かを! 死体のことは外部に知られちゃまずいから!」
狼は判ったというように鼻面をケリの肩に乗せ、それから軽やかにジャンプして窓の外の闇に消えた。
ケリは出来るだけ二酸化炭素ガスから離れるよう中腰になり、頭を高くした。どれくらい時間が経ったのだろう。骨の芯《しん》まで身体が冷えて手足がうまく動かない。冷気の作る霧は膝《ひざ》の辺りまできていた。
ラムジー、お願いだから急いで……。
窓の外の夜空にレモン色の月が冴《さ》え冴《ざ》えと輝いている。遠くでたくさんの犬が吠えていた。|迷い犬保護施設《バタシー・ドッグホーム》の犬たちだ。犬たちもきっと心細いのだ。
犬たちのコーラスに混じって一際澄んだ遠吠えが聴こえてきた。ドッグホームの犬だろうか。遠吠えは美しく哀調《あいちょう》を帯び、歌うように長々と大気を震わせた。
ケリはふと耳をそばだてた。遠吠えが歌いながら近づいてくるような気がしたのだ。
やがて声はすぐ近くでぴたりと止まった。
窓に黒いボタンのような鼻先が覗く。
「ラムジー? ラムジー!」
狼はウォフッと短く吠え、割れた窓からひらりと跳びこんで来た。低く尾を振りながら身をすり寄せてくる。ふさふさした毛が日なたのように暖かい。ケリは毛皮に顔を埋《うず》めた。
「助けを呼んで来てくれた……?」
ぅウーン……。
鼻を鳴らし、小屋の戸口を振り返る。
ドアが細く開く。
誰……?
「ラムジー」
男の声が呼んだ。
狼は甘えたような声を出し、尻尾を振り回しながら男の足下にまとわりついた。同盟の誰かを呼んできたんだろうか。でも瞬《まばた》きしても完全な人間形態のままで、ラノン人なのかどうかは解らなかった。
ラムジーが身を翻《ひるがえ》してこちらに駆け寄って来た。その後を追うように男が近づいてくる。
「君? 大丈夫か? 誰がこんなことを」
「ええと……いろいろあったんですが……」
ケリは盗まれたアイスクリーム・ヴァンを見つけて殴られたいきさつを話したが、死体の件は省《はぶ》いた。男が同盟の人間なのかどうか判断がつかなかったからだ。
「こういう訳だったのか。ラムジーが僕をひっぱって来たのは」
「あの……あなたは……?」
「ラムジーの友達だよ」
ケリは間近で男を見上げてギョッとした。男の瞳はまるで南氷洋《なんぴょうよう》に浮かぶ氷山のように淡い青だったのだ。月の光を浴びた眼は白々として物凄《ものすご》く、この世のものとも思えなかった。狼のラムジーを友達と呼んでいるし、やっぱりラノン人なのだろうか? だけどもしかしたらラムジーがウェアウルフだとは知らないで友達と言った可能性もある。
「あの……〈ノコギリソウ〉……?」
「合言葉か。生憎《あいにく》、同盟とは無関係なんだ」
「……でも、知っている……?」
「同盟の合言葉は知らないが、推測は出来る。君はラムジーの同僚の半妖精の子?」
「あ、はい、そうです……!」
「もうじきレノックスも来る筈《はず》だ。四本の煙突の側《そば》だと言ったらすぐ判ったらしい」
〈同盟〉のレノックス・ファークハーのことか。そこまで知っていてなぜ同盟と無関係なのか、わけが解らなかった。
「とにかく君を自由にするのが先決だな」
「抜けないんです。鍵がないと……」
「犯人が鍵を渡してくれるとは思えないな」
彼は眼を細めてケリの左手を眺めた。
「手についている妖素を手錠の鎖につけてみてくれないか。出来るだけ手から遠い位置に」
ケリは言われるままに掌に僅《わず》かに残っている妖素を鎖に擦り付けた。
「手首をシャツで覆って。よしと言ったら、思い切り引っ張るんだ」
いったい何をする気なのだろう。
彼は鎖を凝視している。ケリはあっ、と声を上げそうになった。男の眼の中で瞳が拡大していくのだ。薄青い瞳は見る間に眼の表面のほとんどの面積を占めるまでになった。手首が痛いほど冷たい。手錠の鎖の妖素を擦り付けた部分が粉を吹いたように白く変色し、周囲には急速に霜の結晶が育っていく。
「よし! 引っ張れ」
歯が痛くなるような冷たさを堪《こら》え、シャツの上から手錠を掴んで力任せに引いた。突然、小枝の折れるようなパキリという音とともに張力が消失し、ケリは勢いよく背後の壁に叩きつけられた。
「大丈夫か?」
「はい……凄いや、いったいどうやったんですか?」
鎖はまったく伸びず、妖素を塗った部分だけがボロボロに砕けたようになっていた。
「極限まで冷やしてみたんだ。そうすると金属は脆《もろ》くなるからね。うまく行くかどうか判らなかったが、先祖がこの方法で窮地《きゅうち》を脱したことがあったのを思い出したから」
先祖って、どういう種族なんだろう。瞳の大きさはもう元通りになっていて普通のダナ人のように見えるけど、ダナ人がこんな能力をもっているなんて聞いたことがなかった。
そのとき、大きな上背《うわぜい》をかがめるようにして誰かが小屋に入ってきた。
「ジャック?」
野太い声は紛《まぎ》れも無くレノックス・ファークハーだった。ラムジーが尻尾をあげて駆け寄り、まとわりついて毛皮をすりつける。
「チビすけが何か見つけたらしいって?」
「ああ。来てみたらこの子が手錠でつながれて監禁されていた」
「モーガンの伜《せがれ》じゃないか。いったいなんでそんなことになったんだ?」
「ええと、僕は盗まれた死体を探してたんです。あのバスタブに死体が……」
「見つけたのか? 犯人はラノン人か?」
「いいえ、人間です。でも銃を持っていて、二人組です。さっき出て行ったけど、たぶん並びの小屋のどれかにいます」
「判った」
レノックスは言った。
「チビとおまえさんは早くここから逃げろ。後は俺たちが何とかする」
◆◆◆
レノックスは割れた窓から外の様子を窺《うかが》った。小屋の外に出たケリとラムジーが小走りに駆けて駐車中の車の列の間に紛《まぎ》れ込《こ》む。犯人が彼らの逃亡に気づいたとしても、あそこならまず見つからないだろう。
「……安全な場所に隠れたようだな」
溜め息を吐くようにジャックが言う。
「ああ。全く手が掛かるチビどもだぜ」
レノックスはジャックを振り返り、ふと思った。考えてみれば、こいつだってチビたちと逃げれば良かったんじゃないか。同盟のメンバーでもないわけだし、何の義理もない筈だ。
だが、手伝う気があるなら手伝わせるに越した事はない。それに、このままなし崩しに同盟に入るかもしれないからな――。
本当なら、いまはジャックを同盟に勧誘するのに絶好の機会の筈だ。が、どうも言い出しにくい。たぶん最初の時に失敗したせいなのだ。あの時はジャックが王冠のために弟を殺そうとしたという噂を信じ、最低の糞野郎《くそやろう》だと思っていた。思い返してみると、露骨《ろこつ》にそれが態度に出ていた気がする。そのことについて謝るべきなのだが、会うたびに言いそびれ、お陰《かげ》でますます言いにくくなっていた。
ちらりとジャックに目をやる。当のジャックはと言うと、まるで素知らぬ顔でバスタブを覗き込んでいた。
「……死体はその中か?」
「ああ。袋に包まれている」
ジャックは薄汚れたバスタブの中から無造作に霧を吹き出す白い塊を掴んで取り出した。それが何なのか解った瞬間、血の気が引いた。
「バカ、そいつを放せ! 火傷《やけど》する!」
「そうなのか? 熱くはないが」
ジャックは慌てる風でもなく手にしたドライアイスの塊をバスタブに投げ戻した。
「冷たすぎて火傷するんだ! ナントカ炭素《たんそ》ってのが固まったもんだ」
「冷たいならなぜ火傷するんだ?」
「言っただろ、冷たすぎるからだ!」
「なるほど。面白いな」
「面白いだと! 手前《てめえ》の手を見ろ、赤くなってるじゃねえか! だいたい、冷たいと思わなかったのか?」
「感じないからな」
「どういうことだ?」
聞き間違いだと思った。まさかと思うが、感じない、と言ったんじゃないだろうな……。
「ああ、僕には寒いとか冷たいという感覚がないんだ。たぶん、霜の力を使う上で邪魔だったから無くなってしまったのだと思うが」
「感覚が、ない……?」
ジャックはドライアイスの塊を物珍しげに眺めている。
「そうだ。だから感じない。レノックス、これほどれくらい冷たいものなんだ?」
「う……物凄く、だ」
「それじゃよく解らないな」
「んなこた、どうだっていいだろうが! それより、手、火傷になってないか?」
ジャックは思い出したように少し赤くなっている指先に触った。
「いや、大したことはないと思う。特に痛くもないし」
「……痛みも感じないとか言うんじゃないだろうな」
「痛みくらい感じる。多少|鈍《にぶ》いらしいが」
「熱い方は? それも判らないのか?」
「熱いのは判る。だが、冷たいというのがどういう感覚なのか、どうしても判らない。雪や氷は冷たいのだと言われても、僕には心地好いだけだ。それで子供のころ、よく雪の中で寝ようとして叱られた。感じないが、普通に凍死するらしい」
「全く、信じられん奴だ……」
なんだか眩暈《めまい》がしてきた。もしかしたらこいつは、ケリとラムジーを合わせたよりもよっぽど手が掛かるんじゃないだろうか。レノックスの驚愕を他所《よそ》にジャックはしれっとした様子で言った。
「感覚的に判らない分、意識的に注意している。普段はそれで特に問題は起きない」
問題がないのかどうか、大いに怪しいものだと思った。こんな男が、よくここまで無事に育ったものだ。だからこそダナ王室はカディルのような優秀な養育係を常に必要としていたのだろう。ダナ王室以外で霜の瞳の子供が生まれない理由は、おそらく他は死に絶えたからなのだ。
「とにかく、だ。今後二度とドライアイスには素手で触んじゃねえ。解ったな?」
ジャックがクスリと小さく笑う。
「何が可笑《おか》しい?」
「いや、別に……」
全く、訳の解らないヤツだ。今のは絶対笑うところじゃなかった筈だ。
「そこをどけ。それは俺の仕事だ」
レノックスはジャックを押《お》し退《の》けた。ドライアイスに触らないよう注意しながらプラスチック袋のファスナーを開ける。こちこちに固まって不機嫌な白い顔が覗いた。間違いない。カークパトリック老だ。レノックスはドライアイスに負けないくらい真っ白な白髪を軽く撫で、屈《かが》みこんで囁いた。
「じいさん、とんだ目に遭《あ》ったな。すぐに上等の棺《ひつぎ》に移してやるよ。ベルベットとサテンの内張りだ。今度はゆったり眠れるぜ」
◆◆◆
ケリは車と車の隙間《すきま》で息を潜《ひそ》めて辺りの様子を窺った。誰も追って来ないようだ。傍らのラムジーを抱きしめ、柔らかな毛に覆われた耳元で小さく囁く。
「もう大丈夫かな……」
そのとき、遥か遠くからリーン、と澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
「あれが聴こえるかい?」
ラムジーが顔を見上げて鼻を鳴らす。やっぱり聴こえているのだ。ケリは恐る恐る車の陰から顔を出した。
幾台もの霊柩車が連なって走ってくるのが見える。仄《ほの》かな黄色い光を放つ鬼火《おにび》がふわふわと周囲を飛び、磨きこまれた黒い車体に映りこんでバターのように流れていく。
〈同盟〉の霊柩車だ。
先頭の霊柩車の助手席のドアが開いて金髪を短く刈り込んだアンヌーンが降り立ち、〈惑《まど》わし〉の輪を広げた。車列全体が見えなくなる。ケリは瞬きして視野をセカンドサイトに切り替え、隠れ場所から飛び出した。
「あの……! 〈ノコギリソウ〉!」
「〈ヘンルウダ〉。おや、誰かと思ったら半妖精の坊やだね」
アンヌーンは悪戯《いたずら》っぽくうふふと笑った。
「そっちは新入りのウェアウルフの子だね。レノさんは? 呼ばれて来たんだけど」
「あっちの小屋です。案内します」
戻ったら叱られるかも知れないけれど、アンヌーンの惑わしの輪の中にいれば安全な筈だ。
ラムジーが先に立って足もとを駆け出し、小屋のドアをかりかりと前脚で引《ひ》っ掻《か》いた。
レノックスがひょいと顔を出す。
「なんだ、チビすけ。戻ってきたのか?」
屈みこんでラムジーの頭を撫でるレノックスに、惑わしの輪の中からアンヌーンが声をかけた。
「レノさん、来たよ」
レノックスが瞬きをして見上げる。
「なんだ。ケリまで一緒になって戻って来たのか。逃げろと言ったじゃな……」
そこまで言いかけたレノックスは霊柩車の車列に目をやって唸り声をあげた。
「おい。こんなに呼んだ覚えはないぞ」
アンヌーンはどこ吹く風といった体《てい》だ。
「いいじゃない。みんな退屈してるんだから。死体を盗んだ人間を捕まえるなんてさ」
「死体の話は内密だと言ったろうが!」
「だって、どうせみんな知ってたし。本部とグッドピープル・カフェに来てた連中で、知らない奴はいないと思うけど」
「何だとぉ? じゃ、ケリもそこらで聞いたんだな?」
「……ええと、あの、そんなとこです」
ケリは肩を竦《すく》めた。誰から聞いたのかは出来れば言わずに済ませたい。そのとき、アンヌーンの後ろから当の牛耳《うしみみ》カウラグがぴょんと姿を現した。
「見つけたヨ。あっちの小屋に二人いる。でかいのと痩せたの。死体を売った金でナニを買うか算段してるヨ」
「ケリの言った通りだ。捕まえて何で死体を盗んだのか吐かせた方がいいな」
カウラグが牛耳をぱたぱたさせて叫んだ。
「じゃ、オイラにやらせてくれよウ!」
「遊ぶんじゃなくて、口を割らせるんだぞ」
「分かってるって! レノの旦那《だんな》!」
すかさずアンヌーンが口を挟んだ。
「あ、わたしも混ぜておくれよ!」
「わたしも!」
「オレも!」
どこからともなく同盟の妖精たちが続々と周囲に集まって来た。ケリは目を瞠《みは》った。いったいどこからこんなに大勢出て来たのだろう。妖精たちは楽しげにプレハブ小屋を取り囲み、ほどなくして小屋の中から男の悲鳴が聞こえて来た。
〈惑わし〉の作り出す幻に襲われているのだ。
どんな幻なのだろう。ケリは窓に群《むら》がる妖精たちの後ろで背伸びした。目を眇《すが》めてじっと室内を視《み》つめると、自分の首を小脇に抱えた甲冑《かっちゅう》の騎士が二人を追い回しているのが視えた。小屋全体に〈惑わし〉がかけられているため、彼らはそこにある出口を見つけることも出来ずに同じところをぐるぐると逃げ回っている。
騎士が消えた。小屋の壁を突き抜けて駆け込んできた一頭の小馬が二人を背に乗せる。小馬は巨大なガチョウに変わり、二人を乗せたまま芝居の書《か》き割《わ》りのような星空に変わった小屋の中を飛び回った。二人の泥棒は悲鳴をあげ、存在しないガチョウの首にしがみついている。ガチョウはアバタだらけの月の表面にばたばたと降り、泥棒たちを振り落とした。次の瞬間、星空は忽然《こつぜん》と消え、今度は自動車ほどもありそうな巨大な〈首〉がごろごろと転がって来た。
「おい、おまえら! なんで死体を盗んだんだイ?」
カウラグだ。スピーカーみたいに〈首〉の幻を通して喋っている。
「……お、お、おたすけ……」
「なんで死体を盗んだのかって、訊いてンだ」
男たちはひいいい、と悲鳴をあげ、頭を抱えて小さく蹲《うずくま》った。意味を成さない言葉がぶつぶつとその口から漏れる。
「怯《おび》えちまって、ぜんぜん駄目じゃないか」
「幻じゃあ、足りないかア。いっそテムズの水に浸《つ》けてやったらどうだイ? 重しと綱《つな》をつけて、ぶくぶく浮かべたり沈めたりさア」
「そいっぱいい! そしたら焚《た》き火《び》で炙《あぶ》って乾かしてやろう! 両面こんがりとね!」
どっと笑い声が上がる。
背筋が寒くなった。伝説に描かれる気紛《きまぐ》れで時に残酷な妖精の属性を見たような気がした。このままだと彼らは泥棒たちを散々|玩具《おもちゃ》にしたあげくに嬲《なぶ》り殺《ころ》してしまうのではないか。
ケリは思い切って声を上げた。
「待って下さい! 僕にやらせて!」
「なんだ、半妖精の坊主かイ」
「水や火で責めたってますます怯えるだけです。僕が口説《くど》いて聞き出しますから」
第一世代の妖精たちから見れば、自分は半妖精に過ぎない。でも、それでもガンキャノホの力は持っているのだ。
「生意気だな、半人前のくせにサ……」
言いかけたカウラグをレノックスが遮《さえぎ》った。
「待て。坊主にやらせてみろ。ケリ、気をつけて掛かるんだぞ」
「大丈夫です。僕は、ガンキャノホですから」
そう言ったことに自分で少し驚いた。ガンキャノホだというのは、あまり大っぴらに口にしたいことではなかったからだ。
「きっと、聞き出します」
ケリは左手に残っている僅かな妖素を最大限に使えるように舌先で舐め取り、口に含んだ。
これでよし。
覚悟を決めて小屋の戸をそっと開ける。さっきのアンヌーンとレノックスが目配せし、ケリの後に続いて素早く部屋に滑《すべ》り込《こ》んで来た。
「わたしらの姿は見えないよ。存分におやり」
「はい……」
二人の泥棒は小屋の隅で頭を抱えて震えている。まず自分を捕まえた大男のローリーの方を尋問《じんもん》することにした。単純な人間の方が術にかかり易《やす》いからだ。
ケリは自分の脳のどこかにある人間でない部分を意識しながら舌の上に魔力を乗せて転がした。
「ローリー=v
びくり、と大男の肩が動く。〈グラマリー〉が作用しているのだ。ケリはもう一度力を込めて囁いた。
「ローリー。顔を上げて。僕を見て=v
顔を覆っていた手が躊躇《ためら》いがちに外され、ローリーはおどおどと辺りを見回した。今は〈惑わし〉よりも〈グラマリー〉の作用の方が強い。ローリーには自分の姿だけが見えている筈だ。怯えた動物のような目がケリの姿を認めた途端、それまでの恐怖体験を忘れたかのようにローリーの顔はだらりと弛緩《しかん》した。
「おまえ……だれ……?」
「誰でもいい。僕を見るんだ、ローリー。そして僕の言うことをきくんだよ=v
「ああ……俺、おまえの言うことなら、何でもきく……」
「じゃあ、ピストルをこちらに寄越して=v
ローリーはのろのろとベルトに挟んだ拳銃《けんじゅう》を抜き、ケリに手渡した。
「それでいい。ローリー=v
間延びした笑みが顔いっぱいに浮かぶ。多幸症《たこうしょう》か、麻薬で思考が止まったような表情だ。それを自分がしているということにケリは恐怖を覚えた。だが、続けるしかない。
「少し、話をしようか=v
「そうだ。俺、あんたと話がしたかったんだ」
ローリーはこの上なく幸せそうに顔を輝かせた。まるで自分で思いついたようだった。
「俺、話す」
「どうして死体を盗んだのか話して=v
「ああ、俺は、厭《いや》だったんだ……。けど兄《あに》イがボスから言われて……ほんとだよ、俺、死体なんか触りたくなかったんだ……」
肉に埋もれた目頭《めがしら》に涙がつぷりと浮かぶ。
「ほんとに厭だったんだ……おっかなくてよう……けど、兄イには言えねえし……」
男は芋虫《いもむし》のような指で涙を拭《ぬぐ》った。
「おまけに、せっかくアイスクリーム・ヴァンを盗んだのに、アイスクリームは全部捨てなきゃなんなかったんだ……。なのにヴァンのバッテリーが上がっちまって死体を小屋に運ばなきゃならなかったし、犬コロには噛みつかれるしよう……」
そのまま延々と泣き言が続きそうだったので慌てて次の質問に切り替えた。
「ボスというのは誰?=v
「兄イが世話になってるボスだよ。パクストンの旦那だ……」
突然、はたで見ていたレノックスが素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「おい。リッチー・パクストンか?」
ローリーはギョッとしたようにきょろきょろと辺りを見回した。
「だ、誰だ!?」
ケリは慌てて口に人さし指を当ててシーッと言い、最大限の魔力で言葉を震わせて相手の脳の奥深くに埋め込んだ。
「気のせいだよ、ローリー。ここには僕と君しかいないんだ=v
不安に怯えるローリーの目が、再び霞《かすみ》が掛かったようにとろんとなる。
「気のせい……か。うん、そうなんだな……」
「ボスの名は、リッチーかい?=v
「ああ、そうだよ。リッチーの旦那だ」
「教えて。リッチー・パクストンはなぜ死体を欲しがっている?=v
「ボスが欲しがったわけじゃねえんだ。客がいて、そいつが欲しがってんだと……」
「その客の名は?=v
「知らねえ。兄イも知らねえ。知ってんのは、ボスだけだ……」
ケリはがっかりした。それでは、もう一人を尋問しても無駄ということか。でも、レノックスはパクストンの名を知っていた。ということは、同盟と繋がりのある人物……? 正体不明のその客は、もしかしたらやはり同盟の……。
「なあ、側に行ってもいいか……?」
質問もしていないのに突然ローリーが言った。
ハッと顔を上げたケリは自分を見つめる潤《うる》んだ小さな二つの目に出くわした。身も世もないように切なげな吐息が男の厚い唇から漏れる。
「俺……話すだけじゃ、もう我慢できねえよ……」
血の気が引いた。
術が効き過ぎたのだ。〈グラマリー〉は相手に思慕《しぼ》の念を生じさせ、肥大化《ひだいか》させて操《あやつ》る。が、それが肉体的反応に直結する人間もいることをケリは失念していた。考えてみれば、この男は正にそういうタイプの人間だった。
「え……あ、いや、ダメだ……!」
慌てていたため、咄嗟《とっさ》に〈グラマリー〉を使わずに答えてしまった。
「何でだ? 俺、もう変になりそうだ……」
突然、ローリーはうおおお、という唸り声をあげ、両手を突き出して突進してきた。ケリは隅にまで追いつめられた。情けない事に身体が竦んでしまって動けないのだ。
いま〈グラマリー〉を解いたらきっと殺される。解かなかったら……死んだほうがマシなことになりそうだ。
ローリーはじりっ、じりっとにじり寄り、耳元で荒い息を漏《も》らした。
「こんなんは初めてだ……俺、どうしていいか分かんねえんだよう……」
「……だったら止めておいた方が……」
ああ、何を言ってるんだろう? 焦るな、落ち着け。離れるように〈グラマリー〉で命令すればいいんだ。〈グラマリー〉は……ええと、どうやるんだっけ……?
毛の生えたソーセージのような指がおずおずと頬に触れ、ケリは無我夢中で悲鳴をあげた。頭の中が真っ白で、もう何も思いつかない。
次の瞬間――。
「キァングリイィム♂艪ヘ縛《しば》る!」
頬を這い回っていた硬《かた》く生暖かい感覚が、突然一点に静止したように動かなくなった。
いまのは、呪誦《ピショーグ》……?
きつく閉じた目をうっすらと開けた。目と鼻の先に、蝋人形《ろうにんぎょう》みたいにポーズを取ったまま身じろぎもしないローリーの切なげな小さな丸い眼がある。おっかなびっくり動かない腕のあたりをつついてみた。それでもローリーはびくとも動かなかった。
助かった……。
誰かが魔法を使ってローリーの動きを止めたのだ。まだ体中に鳥肌が立っている。ケリは電池の切れたロボットのような男と壁との隙間からやっとのことで抜け出した。
「……ありがとうございました……。今の、レノックスさんですか……?」
「いや、俺じゃねえぞ。一瞬先を越された。あんたか?」
脇にいるアンヌーンに尋ねる。
「あれ? 面白そうだからあとちょっとだけ見物してから助けようかなぁ、と……」
「じゃ、誰だ?」
ケリは小屋の表の方で妖精たちが葉擦《はず》れのようにざわざわと騒《ざわ》めいているのに気づいた。窓にたかって見物していた妖精たちが一人、二人と離れていく。なにか別の興味の対象が出来て、そっちに惹きつけられているみたいだ。不意に、さっきのカウラグがばたんとドアを開けて飛び込んできた。
「来てみろヨ! ダナ王族の御方が、半妖精の坊主を助けたんだァヨ!」
「なんだって!?」
レノックスとアンヌーンの後を追って慌てて外に飛び出す。
小屋の外では、妖精たちが三日月型の人垣を作っていた。輪の真ん中にいるのは、さっきの蒼白い眼をした男――ジャックだ。足元に狼ラムジーを付き従え、妖精たちを睥睨《へいげい》しながら静かに立っている。
呪誦を唱《とな》えて救ってくれたのはあの人なのか。でも、ダナ王族の御方って……?
妖精たちは遠巻きに彼を取り囲み、水の泡のように小さくさざめき合っていた。
(あの目を見ろ)
(フロスティ・ブルー・アイだ)
(霜の瞳だ)
[#挿絵(img/Lunnainn2_129.jpg)入る]
(ダナ王族だ)
(本物? 偽物?)
(まさか……)
(でも……)
アンヌーンが興味津々《きょうみしんしん》な様子でレノックスに話しかけた。
「ねえ、ねえ。あの霜の瞳、本物……?」
「……まあな。騒ぎになるから隠れていろと言ったのに、あの莫迦《ばか》が」
歯軋《はぎし》りするようにレノックスが答える。ケリはおずおずと尋ねた。
「霜の瞳って……?」
「あの氷のような目のことだ。あれは、ダナ王家の直系にしか生まれないんだ」
「じゃあ、本物の王族なんですか……?」
「ああ。奴はそう呼ばれるのを嫌がるがな。王家の跡目《あとめ》争いを嫌って自分からこっちに来た変わり者だ」
ダナ王家の直系。つまり、彼は本当に妖精の王国の王子というわけなのか。
ケリは改めてその人を眺めた。妖精の騎士、という言葉が思い浮かんでくる。彼が着ている黒いジャンパーは恐らく合皮《ごうひ》の安物だし、履《は》いているのはブランド物じゃないジーンズと普通のスニーカーだ。なのに、まるで特別|誂《あつら》えの品のように見える。
妖精たちはさわさわと囁きあい、憧憬《どうけい》と羨望《せんぼう》の眼差しをもって彼を眺めていた。無関心を装っている者もいるが、ケリの見たところ本当に無関心な者は誰一人としていなかった。どうやら彼らは素直にダナ王室を崇敬《すうけい》しているわけでもなさそうだけれど、無視することも出来ないという感じだ。
ジャック・ウィンタースが動いた。つられるように妖精たちの輪も動く。近づきもしないが、離れもしない。
と、彼の後ろで誰かが声を上げた。
「ジャック・ウィンタース王子!」
振り向いたときには、声の主はもう人垣に埋もれてしまっている。妖精たちは調子づいたようにてんでに声をあげ始めた。
「ジャック王子!」
「霜の瞳の保持者!」
「ダナ王国の王太子!」
ジャックは頭を上げ、目を細めてぐるりと妖精たちの輪を見渡した。
「……いかにも僕はジャック・ウィンタースだが」
あたりが水を打ったように静かになる。
「もう王太子でも、ダナ王族でもない」
妖精たちはざわざわとざわめいた。
「王子、何故|御身《おんみ》がこの世界に?」
「内輪の揉《も》め事《ごと》だ。言ったように、もう王子ではない。諸君と同じ一追放者だ」
「なんと勿体《もったい》ないお言葉!」
そう言ったのは黒髪の妖精で、恐らくダナ人だ。黒い髪のダナは大声で叫んだ。
「ダナ王国に栄《さか》え在《あ》れ!」
数人がそれに唱和《しょうわ》する。
「ダナ王室に幸《さいわ》い在《あ》れ!」
妖精たちの輪が歓呼《かんこ》に揺れる。
だがよく見ると声を上げているのはダナばかりで、他の種族は白《しら》けた顔で傍観《ぼうかん》しているだけだった。ダナはマジョリティだが、他の種族全てを合わせたほど多くはない。〈その他少数種族〉に属する妖精たちと、ダナとの間に温度差があるのは一目瞭然だった。
ジャックは少し困ったように妖精たちの輪を眺めていたが、不意に一歩前に出た。
妖精たちの輪がじりっと下がる。
ケリは固唾《かたず》を呑んで見守った。どうするつもりなのだろう。ダナ同胞《どうほう》の歓呼に応えるつもりなのか、それとも……。
ジャック・ウィンタースは燐光《りんこう》のように蒼白い双眸《そうぼう》で居並ぶ妖精たちを眺め渡し、それからよく通る声で朗々《ろうろう》と言った。
「ラノン[#「ラノン」に傍点]に、とこしえの栄え在れ!」
小さなどよめきが起こり、波のように広がっていく。
「ラノンに……」
誰かがぼそりと呟き、そしてそれに釣《つ》られるように妖精たちは口々に叫びだした。
「ラノンに栄え在れ……」
「ラノンに栄え在れ!」
「ラノンに!」
「ジャック王子に!」
「とこしえに! とこしえに!」
今度はダナばかりでなく、カウラグや他の少数種族も熱狂して叫んでいる。
さっきから彼らの輪には加わらずに眺めていたアンヌーンがにやにやしながら言った。
「おや、すり替えたよ。まんざらバカじゃないようだねえ。あのダナの元王太子は」
「まあな」
レノックスはぶすっと呟き、つかつかと輪を掻《か》き分《わ》けた。それから居並ぶ妖精たちをぐるりと見回して怒鳴った。
「おい! おまえら雁首《がんくび》揃えて何やってんだ? 俺たちの葬儀社から死体を盗んだ泥棒どもを放っておいていいのか?」
妖精たちは互いに顔を見合わせた。
「……そうだ。泥棒めらを捉《とら》まえよう」
「捉まえよう!」
口々に叫びながら小屋の中になだれ込んだ妖精たちは、蝋人形のように固まっているローリーを担《かつ》ぎ上《あ》げて意気揚々《いきようよう》と戸口に現れた。悲鳴をあげて逃げようとした兄貴分のマットもたちまち〈束縛《そくばく》〉に絡《から》め取《と》られ、数人の手で担ぎ上げられる。誰かが歌い出した。
きらめく刃《やいば》もて我らは行く
旗印《はたじるし》いと高くたなびき
猛《たけ》き者どもあまた集う……
つられるように一人二人と歌い始め、しまいには皆が声を合わせて歌い出した。
勝鬨《かちどき》をあげ我らは行く
見よや我らが旗印
幾万の丘を越え我らは行く
空の上波の下誰に我らを阻《はば》めよう
硬直した二人の泥棒をレガッタのボートのように頭上高くに掲《かか》げ、妖精たちは朗々《ろうろう》と歌いながら練り歩いた。行列の周囲を高く低く鬼火が飛ぶ。誰かが死体の入ったバスタブも担ぎ出した。さっきまで澄まし顔だったアンヌーンもいつのまにかパレードに加わっている。異形《いぎょう》のある者も無い者もそれぞれに本来の姿を晒《さら》け出《だ》し、歌に酔ったように頬を輝かせていた。日頃、人間のような顔で暮らしている妖精たちが今だけ羽目《はめ》を外して楽しんでいるのだ。それはゾッとする光景だった。けれどそれはこの世のものと思えないほど美しく、魅惑的でもあった。
ケリは目を見開いたままひたすら妖精たちのパレードを見つめ続けた。不意に、あのパレードに加わりたいという衝動が込み上げてきた。彼らと共に歌い、練り歩きたい――けれど、実行に移すだけの勇気はなかった。
すぐ近くで、誰かが小さく口ずさんでいるのが聞こえた。
「……大いなる旗印の下《もと》……誰に我らを阻めよう……」
レノックスだった。
ケリが聞いているのに気づいた彼はぷいと横を向き、それからちょっと顔を赤らめてぼそりと言った。
「その、お手柄だったな、ケリ」
「あ……彼らを殺すんですか……?」
「いや。それを決めるのは盟主《めいしゅ》だからな。連中の好きなようにはさせん。たぶん記憶を消すぐらいで済ますと思うが」
「そうですか……」
それを聞いてホッとした。ケリはやっぱり自分は半分は人間なんだと思った。彼らのように人間に対して無慈悲にはなれない。
「おい。ジャック!」
レノックスは彼に声を掛けた。狼ラムジーを連れたジャックが足早にこちらに向かってくる。
「君。大丈夫だったか?」
「あ……はい! ありがとうございました! 二度も助けて頂いて……」
「無事で何よりだ」
微笑《ほほえ》むと、霜の瞳は案外と暖かな色合いに見えた。ラムジーが嬉しそうに尻尾をぱたぱた振り回す。
レノックスが言った。
「ケリ。今日は本当によくやったな。あとは爺《じい》さんの死体を回収して終わりだ。ギリーが心配しているだろうから、おまえさんとラムジーは早く帰った方がいい」
「あ、はい……」
ケリは妖精たちの行進を振り返った。もう少し見ていたかったけれど、仕方がない。
「行こう、ラムジー」
レノックスはジャックに向かって言った。
「あんたもだ、ジャック。連中は気紛れなミーハーだ。パレードに夢中になっている間に消えたほうがいいぞ」
妖精の王国の元王子は小さく笑って、歌いながら霊柩車に向かって行進していく妖精たちに目をやった。
「そうだな。僕は邪魔者だ」
5――自分からは逃げられない
レノックスは〈ラノン&|Co《カンパニー》葬儀社〉の来客用の駐車スペースに愛車のジャガーを停め、地味な褐色《かっしょく》レンガの建物を見上げた。
今日は、良い報告が出来る。
甘く爽《さわ》やかな百合《ゆり》の香に満たされたエントランス・ホールを横切っていくと、ダナ人の受付係が言った。
「おはようございます。この間は、大捕《おおと》り物《もの》だったそうですね」
「まあな」
「僕も行きたかったなあ。それに捕り物に行った連中はダナの王子を見たって。ダナの僕だって見たことがないのに、不公平ですよね」
レノックスはふと疑問に思った。あの夜、ダナの連中は素直に王室を称《たた》えていた。他の連中は最初は引っ掛かっていたが、案外あっさりとジャックを認めてしまった。
「おまえさんは、ダナ王族を恨《うら》みに思わないのか? 俺たちの追放を決めたのはダナ王国の法律だろうが」
「うん……まあ、そう思わないでもないですけど。でも、別にその王子が裁判官だったわけじゃないですからね。それに王子は皆の前で自分も同じ一追放者だと言ったそうじゃないですか。ちょっとジーンときましたね」
「そうか」
「そうですよ。それに、やっぱり見てみたいです。フロスティ・ブルー・アイ」
そんなものなのか、と思った。知り合いには王族や貴族を嫌う奴が多かったから、もっと反発があるものと考えていたのだ。もっとも、『会って』、じゃなく、『見て』だというところがほとんど珍獣《ちんじゅう》扱《あつか》いだが。
そんなことを考えながら〈葬儀社〉から〈同盟〉本部側に抜け、盟主《めいしゅ》執務室のドアを叩いた。
「開いています」
鉄格子《てつごうし》のはまった小さな窓から簡素な執務室に朝の光が射している。
「死体盗難事件の報告書を持ってきました」
「ご苦労でした、レノックス」
盟主はちらりと書類に目をやってから『未決』の箱に放り込んだ。
「お陰《かげ》でミスタ・カークパトリックの葬儀は恙《つつが》なく執り行われましたよ」
「そりゃ、何よりで」
「ええ、それはもう盛大でした。参列された方の中からこれ以上の規模の葬儀を生前契約したいというお申し込みがありましてね」
なるほど。金持ちの友人は金持ちということか。芋《いも》づる式に顧客《こきゃく》が獲得出来るというわけだ。
「そうそう。あの二人組の死体泥棒ですが、ケリ・モーガンが聞き出した以上の事は本当に知らないようでした」
「じゃ、リッチー・パクストンを取っ捕まえて締め上げますか?」
「いいえ。この仕事にはポーチュンが適任でしょう」
身長一フィートのポーチュンにそんな仕事が出来るのかと思ったが、盟主の采配《さいはい》に口を挟むのは控えた。
「それから彼らがモーガン君とマクラブ君から取り上げた持ち物が届いているのですが」
ランダルは机の上にウェストバックとオレンジ色のバックパックを広げた。
「これは、モーガン君のクレジットカードですね。それから財布と時計。こちらはマクラブ君のですね」
ラムジーに買ってやった犬用バックパックである。確かあれにメガネも入れていた筈《はず》だ。早く返してやらないと不便だろう。
「俺が返しておきます」
「そうして下さい。ないと不便でしょうから」
盟主は極《きわ》めてにこやかに言った。にこやかすぎて、何か不自然だった。
「ところで、レノックス。先日、貴君《きくん》が届けてくれたクリップフォードのサンザシには、皆とても喜んでいましたよ」
「はあ。何よりで」
「クリップフォードには、いろいろと珍しい産物があるようですね。煙水晶《ケルンゴーム》、サンザシ、それに……」
コトリ、と何かがデスクに置かれた。
「こんなものも」
ホテルの朝食で出されるような小さなジャムの瓶《びん》だ。それが何なのか理解した瞬間、全身からさーっと音を立てて血の気が引いた。
「手作りジャムのようですね。マクラブ君の荷物の中にありました」
盟主は瞬《まばた》きして見せた。顔には相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままだ。真綿《まわた》にくるんだナイフのように柔《やわ》らかな声が耳を撫《な》でる。
「どうしてこのジャムには妖素《ようそ》が含まれているのでしょうね、レノックス?」
脂汗《あぶらあせ》がだらだらと背中を流れ落ちるのが分かった。まさか、ラムジーが時林檎《ときりんご》のジャムをバックパックに入れて持ち歩いていたとは。しかもそれが盟主の元に届けられるとは。なんという間の悪さだ。
「は……いや、その……ええと……」
レノックスは腹の底で唸《うな》った。言い訳を考えようとすればするほど何も出てこない。
盟主は考え深げに手にした瓶を眺めた。
「追放者たちの墓があるのは〈林檎の谷〉でしたね。迂闊《うかつ》でしたよ。林檎は非常によく妖素を吸収する植物です。その関連に気付いたのは、ジャック・ウィンタースですね? 彼はこれを自分たちだけの秘密にしようと提案し、貴君は同意した」
「……すんません……俺はただ……」
「おや。謝るのですね」
しまった、とほぞを噛《か》んだがもう遅い。カマをかけられたのだ。いずれにしろシラを切るという選択は全く思いつかなかったのだから仕方がない。
「俺は……あの林檎はあくまでクリップフォード村の……ラムジーのものだと……」
「マクラブ君から林檎をすべて取り上げるとは言っていません。適切な管理が必要だと言うことです」
「どうするつもりですか……時林檎を……」
「それを決めるのは正確な報告書を検討してからです。今度は記載《きさい》漏《も》れのないものを作成して再提出して下さい」
「は……」
「もう下がって下さい。報告書は明日までに」
鍋の中の豆の気分である。一秒でも早くここを出たかった。そそくさと踵《きびす》を返した瞬間、背後で声がした。
「レノックス。私は嘘は嫌いです。今度嘘をつくときには、一言断ってからにして下さい」
思わず足を止めて振り返った。断ったら嘘をつく意味がないではないか。
「は……? どういうことで……」
「嘘つきは、わたし一人でいいのです」
レノックスはまじまじとランダルの顔を見つめたが、仮面のような顔の裏に隠されているものは何も読み取れなかった。
「何を見ているのです?」
「あ、いや、その……」
ランダルは書類に視線を戻し、それから思い出したようににっこり笑った。
「ああ、もう一つありました。来客用のスペースに車を停めるのは止《や》めて下さいね」
◆◆◆
ラムジーは、盟主のデスクの脇に立って執務室のドアを見つめた。
「どうしましたか、マクラブ君」
「あの……人が来ます」
あの足音は、とてもよく知っている足音だ。
いつもよりちょっといらいらした足取りで、大股にこちらに向かって歩いてくる。足音は立ち止まり、ドアの前に立った。ノックをしようかしまいか迷っている。
「開いています。お入りなさい」
開いたドアの向こうには、ラムジーの予想通りジャックが少し驚いた表情で立っていた。ラムジーがここにいるとは思っていなかったのだろう。
「おいでになる頃だと思っていましたよ、ジャック王子」
「では、用件は判っているんだな」
ジャックの声には硬《かた》い怒りがこもっていた。まるで南極の氷みたいに冷たい怒りだ。
「さあ。どうでしょうか」
「では、単刀直入に訊《き》こう。〈時林檎〉を同盟管理下に置くとはどういうことだ」
「文字通りですよ。木には適切な手入れをし、果実は収穫され、加工され、貯蔵《ちょぞう》されます。貴重な実ですから」
「あれは、クリップフォードのものだ。〈同盟〉にあの実を使う権利はない」
「あの実を使う権利がない者がいるとしたら、それは貴方でしょう。クリップフォードの始祖を追放した者の子孫なのですから」
「僕には妖素は必要ないと言った筈だ」
「ご立派な心構えですね。ですが、五百年前の追放者は後世のためにわざわざ木を遺《のこ》した。子孫たちが使わないのなら、我々が有効に使った方が彼らの意志に沿うというものです」
「ラムジーは彼らの子孫だ」
「もちろん、マクラブ君には必要量を支給しますよ。彼はよく働いてくれますしね」
「支給? もともと彼のものだ。その言い方は働かなければ支給しないという脅《おど》しとも聞こえる」
「おや、そう聞こえたなら失礼」
盟主はにこやかに言い、反対にジャックの発する怒りの匂いが急激に強まった。その怒りが向けられているのは自分ではないのは解《わか》るし、自分のために言ってくれているのも解るのだけれど、それでもラムジーは不安に身が竦《すく》むのを感じた。
友達でも家族でも、身近にいる誰かが怒っていたり悲しんだり悩みを抱えていたりするとラムジーはいつも不安だった。皆が幸せならラムジーも幸せだった。人はそれぞれが別なのだと解ってはいても、どうしても共振《きょうしん》するように他の人の感情に反応してしまう。以前からそうだったのだけれど、人狼の血が目覚めてから一層その傾向に拍車がかかっていた。だから自分勝手な望みかも知れないけれど、周囲の皆にはいつも幸せであって欲しかった。
ジャックは口を引き結んで黙り込んでいた。何も言わなくても、腸《はらわた》が煮えくり返るほど怒っているのが判《わか》る。ジャックの怒りと不快はまるで自分のことのように感じられて、首筋と胃のあたりの皮膚《ひふ》をしくしくと刺激した。
「……あの夜ラムジーは銃《じゅう》で撃たれたんだ。ウェアウルフでなければ、死んでいた」
「その前提は間違っていますよ。ウェアウルフでなければ、そもそも彼を捜索に使いませんでしたからね」
「詭弁《きべん》だ」
「事実ですよ」
ジャックは万年氷《まんねんごおり》のような視線でランダルを睨《にら》み付《つ》け、盟主は平然と受け止めた。そのまま睨み合いが続く。
十秒、二十秒、三十秒……。
「あの……ジャックさん……」
緊張に堪《た》えかね、ラムジーはとうとう口を閉じていることが出来なくなった。
「聞いて下さい、ジャックさん……」
「なんだ、ラムジー?」
「あの、ぼくは全然平気なんです。月が丸くて狼でいる時はほとんど不死身《ふじみ》なんだって聞いていたし、実際にそうでした。だから、もう怒らないで下さい……」
「いや。別に怒っているわけじゃ……」
彼は言ったけれど、腹に据《す》えかねているのが分かった。ラムジーは急いで続けた。
「それに、時林檎の事は、ぼくの方から使って下さいって言ったんです」
これは本当だった。レノックスから時林檎のことが盟主にバレてしまったと聞いたとき、なんだかホッとした。秘密を抱えているのは得意じゃない。自分が人狼《ウェアウルフ》だという秘密を隠さないでいい筈の同盟で、隠し事をしているのは気が重かったのだ。
「ぼく、本当は、自分だけ余計に持っているのは心苦しかったんです。だからここに呼ばれて時林檎をどうするかって訊かれたとき、使って下さいって言ったんです。同盟にはぼくみたいに妖素がたくさん必要なひとが他にもいるんです。でも、ぼくがそういう人に直接林檎をあげたりしたら不公平になってまた争いの種になってしまうって。だから同盟で管理して貰《もら》って、本当に必要な人に配った方がいいんです」
「だが、君だって本当に必要な筈だ」
「林檎は毎年使い切れないほど実《みの》るし、ぼくは一年に十二個あれば充分なんですから」
「……本当にそれでいいのか?」
「はい。ジャックさん」
ラムジーは自分に言い聞かせるようにきっぱりと言った。使い切れないほど持っていても仕方がない。食べ切れない林檎は毎年土に還《かえ》るだけなのだから。
「君がそれで良いと言うのなら仕方がないが……」
ジャックはまだ納得できない口調だったけれど、怒りは急速に萎《しぼ》んでいた。
よかった……。嬉しさのあまり思わず彼に飛びついて狼流の挨拶《あいさつ》をしたくなったが、今は人間の姿なのだと気づいてすんでのところで思い止《とど》まった。
「用件はそれだけですか? 同盟へ加入するのでなければ、お引き取り頂けませんか。仕事がありますので」
「言われなくても帰る」
彼はくるりと背を向けた。滲《にじ》むのは落胆――悔しさ。自分のせいだと思うとラムジーは申し訳なさでいっぱいになった。
盟主がその背中に声を掛けた。
「王子。お帰りなら、裏口をお使いになった方が宜《よろ》しいでしょう。エントランス側の通路は今頃見物人でいっぱいでしょうから」
ジャックは肩を怒らせたまま執務室を出て行き、思わずついて行こうとしたラムジーは盟主の視線に呼び止められた。
――一人にしてあげなさい――彼の目がそう言っていた。
見返すと、彼は目を伏せて微《かす》かに笑《え》んだ。
「……本当に、青いですね」
「ジャックさんの眼のことですか?」
「解らなくてもいいのですよ」
そう言って盟主は引き出しから小さな瓶を取り出した。時林檎のジャムだ。
「これは返しておきましょう」
「二度も変身したから、今月はもうなくても大丈夫です」
「持っていきなさい。備えというのは必要のないときに貯《たくわ》えておくものです」
ランダルはそう言うと、小さく溜め息をついた。その息から、強い疲労の匂いがした。
「あの……ぼくがこんなことを言うのはおかしいって解っているんですけど……」
「なんですか?」
「いつもそんな風に気持ちを押し殺していると、身体によくないです。あの……とてもお疲れのようなので」
「ありがとう。君は優しい子ですね」
ランダルはどこか突き放したように微笑《ほほえ》んだ。ラムジーは彼の眼がひどく遠くを見ていることに気付いた。この世界の向こう側を――ラノンを見ている。彼が漂《ただよ》わせている雰囲気はラムジーには理解するのがとても難しかった。
穏やかな――優しい――悲しみ?
彼は言った。
「でも、仕方がないことなのですよ。我々は、皆罪人なのですから」
◆◆◆
レノックスは浮かない顔で廊下の向こうから歩いてくるラムジーに声を掛けた。
「よう。どうだった?」
ラムジーはニコッと小さく笑った。
「大丈夫です。話はすっかり片づきました」
話というのは、時林檎の扱いに関することだ。盟主との会談では、ラムジーもさぞくたびれただろう。
「そうか。じゃ、ガブリエル犬の卵を見て行かないか? ちょうどケリ・モーガンも見学に来ているんだ」
ラムジーの顔がパッと輝いた。
「卵? ガブリエル犬って、卵から生まれるんですか?」
「ああ。もうじき孵《かえ》る頃合いなんだ。見るか?」
「はい! 見たいです!」
育雛室《いくすうしつ》には既にケリが来ていてステンレスの孵卵器《ふらんき》を覗いていた。
「こんにちは、レノックスさん。先に見せて頂いてました」
「ああ、構わんよ。触ってみるか?」
「いいんですか?」
「ああ。十文字の印がついているだろう。手に取ったら、元とは少し角度をずらして戻すんだ。そうやってしょっちゅう回してやらないと、雛《ひな》が殻《から》にくっついて死んじまうからな」
「へええ。大変なんだあ」
ケリは孵卵器のドアを開けて斑模様《まだらもよう》のある握りこぶしほどの大きさの卵をそっと手に取った。ラムジーが恐る恐るその手元を覗く。
「光に透《す》かしてみな」
「あっ、ホントだ。見える。動いてる……」
二人は卵に夢中だった。ラムジーと比べると大人びた顔をしたケリ・モーガンもこうしているとまだまだ子供だ。ラムジーは以前ガブリエル犬の成犬に追い掛け回されたことなどすっかり忘れたように卵の音を聞いたり光に透かしたりしている。
ケリは慎重に卵を戻しながら言った。
「レノックスさん。あのジャック王子っていう人は、どうして同盟に入らないんですか?」
「さあなあ……」
レノックス自身、それが知りたかった。だが、ジャックにとって親も同然だったカディルの死が尾を引いていることは確かだ。ラムジーのこともある。が、その他にもまだ何か理由があるような気がしてならなかった。
「奴は、一人でやっていけるとか何とか、妙につっぱってやがるのさ」
「そうなんですか……。ねえ、ラムジーはどうしてあの人に助けを求めたわけ?」
「えっ……だって、ジャックさんなら、きっと助けてくれるって思ったから……」
「じゃあ、あの人と親しいんだ」
「ううーん。親しいというか、世話になってるっていうか……」
ラムジーは答えに窮《きゅう》している。それもそうだ。ジャックに助けを求めるのに理由が必要だとはラムジーには考えもつかないだろう。
ケリは大きく息を吐き、ため息ともうめき声ともつかない声を出した。
「いいよなあ。ラムジーはさ。狼になれるし、不死身だしさ。ダナの王子とも親しいんだ。僕なんか、何の取り柄もないんだ」
「そんなことないよ。ケリは頭がいいし……」
「だって、僕には何の力もないんだ。変身も出来ないし、水の上も歩けないし、低温を操《あやつ》ることも出来ない。鬼火《おにび》だって禄《ろく》に灯《とも》せない。僕に出来るのは、女を靡《なび》かせることだけ。ほんと使えない奴なんだ、僕って奴は……」
ケリは自分の欠点をあげつらい続けていた。若い者の自己否定は自信の裏返しであることが多い。だがケリの自己否定はあまりに行きすぎとしか思えず、聞いているうちにいらいらしてきた。
「おまえさんは、いったい何を莫迦《ばか》なことを言ってるんだ? おまえさんは、俺にもラムジーにもジャックにも見つけられなかったもんを見つけ出したじゃねえか。お陰で無事じいさんの葬式は出せたし、葬儀社の評判にも傷がつかずに済んだ。同盟の誰がコンピュータに潜り込んで情報を盗むなんてことを考えつく?」
「でも、実際に交通システムをハックしたのはフィルで、僕じゃないんです。僕にはハッキングの才能もない」
「本当に、お前さんは大莫迦だな。出来ないことを数えてどうするんだ? 誰だって出来ないことは山ほどあるんだぞ。そんなんを数えてたら、誰だってダメ人間だ。出来ないことを数えるんじゃねえ。てめえに出来ることを指折り数えろ!」
「出来ること……ですか?」
「あるだろう? ないとは言わせないぜ。今回の事件は始めから終わりまでお前さんの力で解決したようなもんだ。奴らを締め上げて黒幕を吐かせたのだって、おまえさんの力だろうが」
「そうかも知れないけど……でも……」
ケリはまだ何か言いたげに俯《うつむ》いている。レノックスはフローリストの店先でケリが漏《も》らした言葉を思い出した。ケリは父親が仕事に〈グラマリー〉を使うことに引っ掛かりがあるらしい。若者特有の潔癖《けっぺき》さ故《ゆえ》だろう。そのことで日頃父親に反発している自分が同じ力を使ったことが許せないのだ。
「でも何だってんだ? よく考えてみろ。おまえさんが勝手に基準を作って自分を卑下《ひげ》するってことは、自分以外の人間も蔑《さげす》んでるのと同じなんだぞ」
考えたこともなかったのだろう。ケリはぽかんとした表情でレノックスを見上げた。
「僕は、そんなつもりじゃ……」
「おまえさんがどんなつもりだろうとそんな事は関係ねえ。いいか、どんな奴だってこの世にたった一人しかいないんだ。他のもんじゃ替えられねえんだよ。おまえさんの力だってそうだ。判ったか? 坊主」
「でも……」
「でも、じゃねえ。はい、だ」
「は……はい……」
「分かったんなら、大声で言え」
「……はい! レノックスさん!」
「よし」
レノックスは少年の背中をどん、と叩いた。
何だか妙にすっきりしていた。
これで簡単にケリの自己否定|癖《へき》が治るとは思わない。だが、種は蒔《ま》かれた筈だ。理解の助け位にはなるだろう。極端な自己否定も、自信過剰も、若さゆえのハシカみたいな物だ。自分にも若い頃というのはあったから、そういう青さは判るつもりだ。
「よし。二度とつまらんことを考えるんじゃねえぞ。誰にだって取り柄はあるんだ。俺は頭は良くねえが、それくらいは分かる」
レノックスはチビたち二人を育雛室に残して〈葬儀社〉側に戻った。今日はこれから自殺したメンバーの葬儀と遺灰《いはい》の分配の儀式がある。今日の仕事はそれで仕舞《しまい》の筈なのだが何かが気になった。するべきことを一つ忘れているような気がして仕方がないのだが、それが何なのか思い出せないのだ。
エントランスの受付の前を通ると、ダナ人の受付係に呼び止められた。
「レノックスさん、聞いて下さいよ。さっき、王子が来たんです!」
「は? ジャック・ウィンタースか?」
「たぶんそうです。盟主に会いたいって。名乗らなかったけど、一目で判りましたよ。あの眼、すごい色ですね!」
「まて。おまえさんは名乗らない相手を奥≠ノ通したのか?」
「あ……だって、どう見てもダナの王族でしたし、セカンドサイトが無ければ通路は通れないんですから」
やれやれ、と思った。こいつもミーハーか。
相手がジャックだったから良かったようなものの、この世界には悪意あるダナ人だって存在するというのに。
だが、ラムジーが浮かない顔だったのは、もしかしてそのせいか――。
ジャックが時林檎の話を聞いて乗り込んで来たとしたら、ラムジーはかえって立つ瀬《せ》がなかっただろう。ジャックの奴は本当に融通《ゆうずう》の利《き》かない唐変木《とうへんぼく》だからな。
ジャック……ジャック?
ぴしゃりと額を叩く。
忘れていた仕事はそれだ! 今日こそ捉《つか》まえて話をつけてやる。
ジャックの携帯にかけたが出ないので伝言を入れた。果たして奴がそれを聞くか、聞いても来るかどうかはちょっとした賭けだが。
レノックスは自分で指定した時間より大幅に遅れて約束の店についた。葬儀と灰の分配に思ったより時間がかかってしまったのだ。慌てて来たのでダークスーツのままだ。
畜生《ちくしょう》、もういないかも知れんな――。
ロンドン橋近くのこの店は同盟とは無関係で、一人で飲みたいときに来る秘密の場所だ。カディルが死んだとき無理やり引きずってきたから、ここなら分かる筈だった。
薄暗い店内を見回す。諦《あきら》めかけたとき、バー・カウンターの隅にひっそりと佇《たたず》む影のような姿に気付いた。
「似合わない服装だな」
開口一番のセリフが、これだ。どうしてこの若造はこうも可愛《かわい》くないのだろう。
「着替える暇がなかったんだ!」
ジャックはクスッと笑った。まったく、癪《しゃく》に障《さわ》る。
「で、火急の用件というのは?」
「ああ……その、なんだ……」
この際だからまず初対面の非礼を詫《わ》びてしまおうかと思った。一言でいい。あの時はつまらん噂を鵜呑《うの》みにして、悪かった――と。
「……ええと、その……この間はうちの若いのを助けて貰って、感謝している」
忸怩《じくじ》たる思いで歯がみする。言おうとした事と、実際に口から出る言葉が一致しないのは何でなんだ? いつもそうだ。思うに、『謝る』というのが苦手なのだ。謝れば、自らの非を認めたことになる。
「ああ、そのことか。だが二度目のあれば、余計な事だったかも知れないな」
言われてみれば、そうだ。
アンヌーンはいい加減なように見えるが、あの人間が実際にけしからん振る舞いに及ぶ前にケリを助けるつもりだったのだし、レノックス自身だってあの場にいたのだ。ジャックがわざわざ出張ることは無かったのである。それを人の忠告を無視し、大勢の物見高い妖精連中の前に姿を晒《さら》す必然性などまるっきり無かった筈だ。
「全くだぜ! 隠れていろと言ったのに、何でのこのこ出てきたんだ?」
「感謝してるんじゃないのか」
「だから感謝はしていると言っただろうが! ただ、あんたは自覚が足りなさ過ぎる、と言ってるんだ! ラノンの連中があんたの眼を見たらどう思うかってことくらい判りそうなもんだ。それでも足りずに今日は同盟本部にまで乗り込んで来ただと? 全く呆《あき》れたもんだ! あのあと、同盟じゃあんたの噂で持ち切りだったんだぞ!」
「説教をしに来たのか?」
「いや、そうじゃなくて……! 同盟と距離を置きたいなら連中には近づくな、と言ってるんだ! あんたは目立ちすぎるんだ。でないと……クソ、どう説明すりゃいいのか……」
どうも、うまくない。ジャックを同盟に帰順《きじゅん》させる筈だったんじゃなかったのか。だのに同盟に近づくなとは、我ながら支離滅裂《しりめつれつ》だ。
レノックスはショットグラスの酒を一息に空けた。
「……ジャック。〈同盟〉に入れ」
「言っていることがさっきと逆だが」
「四の五の言うな! とにかくあんたが同盟に入れば万事《ばんじ》丸く収まるんだ!」
同盟の連中にとって、今のこいつは〈霜の瞳の保持者〉でしかない。畏《おそ》れるか、敬《うやま》うか、毛嫌《けぎら》いするか。プラスかマイナスか極端だ。中庸《ちゅうよう》はない。
連中が〈霜の瞳〉をやたらと畏れたり敬ったりするのは神秘化することで統治《とうち》支配を強化しようとしたダナ王室の戦略のせいだ。レノックス自身、初めはジャックの蒼白い眼を不気味に感じていた。だが、こうして話してみればやはり同じ一人のラノン人なのだ。いや、どちらかと言えば、おそらくこいつはかなりいい奴なのだ。えらく意固地で不器用で少々人嫌いではあるが。
それが解ったのは〈ダナの元王太子〉でない〈ジャック〉を知ったからだ。同盟の連中も王室の神秘のベールを剥《は》がして本当のこいつを知ればいい。知れば解る筈だ。そうすればやたらとこいつを畏れ敬う必要もなくなる。それには、他の連中と同じ同盟メンバーにならないと駄目《だめ》だ。今のような特異なポジションであり続ければ、こいつはますます偶像化《ぐうぞうか》されてしまう。そしておそらく盟主が危惧するところはそれなのだ。
所詮、〈同盟〉は烏合《うごう》の衆《しゅう》だ。
ラノンから持ち込まれた種族対立や諍《いさか》いもあり、罰則《ばっそく》と報酬《ほうしゅう》によってかろうじて一つに纏《まと》まっているに過ぎない。〈同盟〉が出来る以前にも何度かこうした組織を作る試《こころ》みはあったらしいが、いずれも長続きしていない。先代が創《つく》り、ランダルが引き継いだ現在の組織は今のところうまく機能しているが、一つでも種族や集団が離脱したらそのままバラバラになるだろう。そうなったら再び種族対立と灰を巡《めぐ》る殺し合いが始まることは目に見えている。
ジャックがその引き金になることを盟主は恐れているのだ。
「いいか。もう同盟中があんたのことを知っている。しかも尾鰭《おひれ》をつけてな。これ以上逃げ隠れしたって無駄だ。大人しく同盟に入れ。それが一番だぞ」
「別に逃げ隠れしているわけじゃないが」
「だったら、入ればいいだろうが! ラムジーだって喜ぶ」
「いや。僕はまだ一人でやっていくつもりだ」
「何でそう意固地なんだ? 束縛《そくばく》されるのが厭《いや》なのか? それともラムジーに骨を遺《のこ》したいからか? チビすけがそんなのを喜ぶと思うか?」
「そっちこそ、何故そうムキになるんだ? 盟主に何か言われたのか?」
うっ、と詰まった。青二才のくせに、鋭すぎる。こいつを説得するには最後のカードを切るしかないのか。
レノックスは二杯目の酒を干し、グラスの中の氷の塊《かたまり》を睨みつけた。
「……このままだと、ランダルはあんたを消すぞ」
「ああ。僕が彼ならそうするかも知れないな。組織の安定ということを考えれば」
「なんでそう冷静なんだ! あんたの命の話をしてんだぞ」
「まだそれほど危険という訳じゃないと思う。ランダルは様子を見ている。こうやって情報をリークして、僕の出方を窺《うかが》っているんだ」
「まて。俺はランダルに言われたからってあんたに教えたわけじゃねえぞ。俺の独断だ」
「ランダルは僕の排除《はいじょ》をそれとなく仄《ほの》めかしたんじゃないのか? おまえがどう出るか、あの男に予想出来ない筈がない。おまえは知らずに彼の駒《こま》として使われたんだ」
レノックスは目を剥《む》いた。
仄めかした――正にそうだ。別の方法を、と言ったランダルの口調はひどく思わせぶりだった。
「くそ……ッ。あの野郎……」
「そう怒るほどのことじゃないだろう。別に、それで彼が非情だとも思わない。だが、非情にならねばならない時があることをあの男は知っている。父がそうだった」
ジャックの父は、ダナの現国王だ。王は息子の無実を知っていて彼を追放したのだ。
「俺にはそんな考え方は解らねえよ」
「無理に理解しなくていい。似合わないからな」
「あんたって奴は全く鼻持ちならん奴だな」
「そうかも知れない」
自分で言うな、と思った。そういうところも、可愛くない。分別臭《ふんべつくさ》い口を利くこの男は、これでまだ二十にもなっていないのだ。
「……向こうは、僕が気付くことまで織《お》り込《こ》み済みだろう。次の一手をどう来るかだ」
「厭になるぜ、権謀術数《けんぼうじゅっすう》とやらは」
「僕は、そういう社会で育ったんだ」
ジャックは、グラスに浮いた氷をじっと眺《なが》めている。
もしかしたら、ジャックが同盟を嫌う最大の理由はその辺にあるのかも知れない。宮廷《きゅうてい》の権力争いから逃れるために流刑《るけい》を選んだジャックが手に入れたものは、おそらく『自由』だ。えらく不自由な自由ではあるが。
引き比べて自分はどうだろう。この十年、同盟のために奔走《ほんそう》してきた。いつ盟主からの呼び出しがあるか知れず、私生活などないも同然だ。
「……あんたを同盟に誘っておいて、俺がこんなことを言うのは何だが」
「なんだ」
「時々、あんたのつましい暮らしが羨《うらや》ましいよ。俺は朝から晩まで同盟のために働いて、せっかく貰った給料を遣《つか》う暇もねえ。故郷に似た島があると聞いて、一度行ってみたいと思い始めてもう何年にもなるが、結局行っていない。仕事を放り出してまで行く度胸《どきょう》がねえんだ」
ジャックは怪訝《けげん》な顔をした。
「同盟には、特に仕事をしていない者もたくさんいるんだろう? どうしておまえは一人で走り回っているんだ?」
「どうしてって……。そりゃ、向き不向きってのがあるからな。異形《いぎょう》のある連中は人前に出るのにいちいち〈惑《まど》わし〉を使わにゃならんし、ギリーは対外的な仕事には全く向かんし、カウラグは悪ふざけが過ぎるし、アンヌーンは放っておくと相場に手を出しそうだ」
「それで盟主はおまえに仕事を頼むわけだ」
「まあ、そうだ」
「なるほど」
ジャックはしばらくの間グラスの水滴に指で線を描いていたが、不意に顔を上げて言った。
「仮定の話だが、もし仕事が一切なかったら?」
「え……っ。考えたこともないな」
彼は指摘した。
「もしかしたら余計に疲れるんじゃないか?」
そう言われて、初めて想像してみた。することが何もなく、グッドピープル・カフェに座り込んでクロスワードパズルとゴシップに明け暮れる毎日。唸り声が漏れる。たぶん、そんなのは三日と保《も》たないだろう。
渋々と認めた。
「ああ、まあ、たぶんな。……けど、断じて俺は仕事中毒じゃねえぞ」
「〈仕事〉に限ったことじゃない。おまえは人の世話を焼かずにはいられない性格なんだ。その辺をランダルは見抜いているんだよ。あの男は、人の使い方を心得ているな」
ふと、昼間ケリをどやしつけたことを思い出した。今思うと、別にあんなことを言う義理はなかった。自分はケリの親でも兄弟でもないのだし、言ったところでお節介《せっかい》なオヤジだと煙《けむ》たがられるだけだったかも知れない。だが、放っておけなかったのだ。お節介焼きだの何だのと言われようと、放っておけないものはおけないのだ。
悔しいが、ジャックの分析は確かに的《まと》を射《い》ている。
「くそ……損な性分だぜ……」
「諦《あきら》めろよ。誰だって自分からは逃げられないんだ」
◆◆◆
ランダルは執務室の電話が二十回鳴るのを待ち、それからゆっくりと受話器を取った。
『もしもし! エルガー氏か……?』
「おや。ミスタ・パクストン。お電話を頂ける頃だと思っていましたよ」
電話線の向こうで矮小《わいしょう》な犯罪組織のボスは一瞬の間沈黙した。
『……やっぱり、あんたの差金《さしがね》か? あんたがこれをやっているのか……?』
「それはこちらのセリフでしょう、ミスタ・パクストン。あなたの手下はすべて白状しましたよ」
『マットとローリーのことか? あれは奴らが勝手に……』
パクストンの言葉は水気を含《ふく》んだ奇妙な音によって中断された。
『……勝手にやったことだ。わしは知らんっ……があぁぁぁっ!』
「おや。どうされましたか?」
ランダルは含み笑いを漏らした。何が起きているのか、目に見えるようだ。
――パクストンの傍《かたわ》らには、空っぽのコップ。そして悪趣味に飾り立てられた室内を傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に跳《は》ね回《まわ》る駄
『こ、こ、こ、こんな……こんなことは、絶対にあり得ん! あって良《い》い筈がない……』
「では、気のせいなのでは?」
『気のせいだと! これが気のせいだというのか!? 儂《わし》は、昨日から何も喰《く》っとらん! 水一滴、口に出来んのだ! これというのも、この……この……』
もごもごと言《い》い淀《よど》む。この期《ご》に及んでもなお常識に反する事実は認めたがらないと見える。人間とはなんと愚《おろ》かで頑迷《がんめい》な生き物であることか。
「この、なんでしょうか?」
『……この、クソッタレの蛙《かえる》のせいだ……!』
パクストンは何度も口ごもったあげく、ようやくその単語を口にした。
『……最初は、バーガーだった……。喰おうとした途端、特大の蟇《がま》になっちまった! ピザを注文すれば赤や黄色の蛙がチーズの上を這い回っている! ステーキにナイフを入れれば、切った端から茶色い蛙になってあっちこっちにぴょんぴょん跳んでいきよる! ワインを飲もうとすればグラスの中身はちっぽけな青蛙で一杯だ……。クリームの中にも、トーストの上にも、蛙、蛙、蛙……! 何を食べようとしても、口に入れる前にぜんぶ蛙になっちまう……』
「それは難儀《なんぎ》でしょう」
今この瞬間、パクストンの周辺には無数の蛙が跳ね回っている筈だ。パクストンが口に入れようとしたものは、食べ物も水もすべて蛙に変わってしまうのだから。
「しかし我々との取引を開始したときに、裏切れば後悔する、と申し上げた筈ですが」
『あんたが悪魔の手先だってことは知っていたさ……けど、こんな……こんな……』
パクストンは子供のようにおいおいと声を上げて泣き出した。
『助けてくれ、頼む……このままじゃ儂は飢え死にする……』
「それには、正直にお話し頂かないと。ローリーとマットの二人組に死体を盗む指示を出したのは、あなたですね?」
『……そうだ……儂が命令したんだ……』
「我が社から死体を盗むように依頼した相手の名は?」
『……本名は、知らん。ワタリガラス≠ニ名乗ってる。キザな黒髪の伊達男《だておとこ》だ。あんたらが競馬でやるイカサマの方法を知っていると言った。あんたのとこから死体を盗《と》ってくれば教えると……』
それ以上言葉が続かない。啜《すす》り泣《な》きの合間に、かすかな蛙のコーラスが聞こえる。
「なるほど。ワタリガラスですか……」
ランダルは呟き、考え込んだ。その鳥の名は、不吉な記憶を思い起こさせた。
「……とても参考になりましたよ。ミスタ・パクストン。では、ご機嫌よう」
『切るな! 知っていることはもう全部話した! 助けてくれェェェ!』
リッチー・パクストンの嗄《しわが》れた悲鳴を聞きながらランダルは受話器を置き、書類キャビネットを振り返った。
「ご苦労さまでした。もう止めていいですよ」
「はい。盟主さま」
キャビネットの上にちょこんと腰掛けているのは、身長一フィートほどのポーチュン族だ。
この小さな種族の固有能力は〈蛙引き寄せ〉という特殊なものだ。先日の『ベルテンの夜』の蛙事件は彼らの不注意から起きたのだが、そのお陰で有益な利用法が見つかったのだから何が幸いするか判らない。
ランダルは人形を抱くように両手でそっとポーチュンを抱きあげた。
「あれはなかなか役に立つ人間でしたが、もう使えませんね。他を探さなければ」
「声と目を奪わなくていいのですか」
「そんな野蛮《やばん》なことはしませんよ。我々も近代化しているのですから」
それに昔と違って声と目だけを奪っても充分ではないのだ。手下二人は既にあの夜の記憶を消して路上に放り出した。パクストンの方はもう少し厄介《やっかい》だ。つき合いが始まった時点から記憶を消さねばならない。結果的に十数年分の記憶の全てを消すことになるが、自業自得《じごうじとく》というものだろう。いずれにせよラムジー・マクラブかケリ・モーガンの片方でも死んでいたら、三人には〈灰のルール〉第二項補足により死を以《もっ》て償《つぐな》ってもらうことになったのだから。
だが、それよりも今は死体を欲しがる不吉な黒い鳥のことが気になってならない。
「ワタリガラス、ですか……」
「あの男のことでしょうか」
腕の中のポーチュンに言われて、ランダルは無意識のうちに声に出して呟いていたことに気づいた。
「そうでなければ良いのですけれどね」
ポーチュンを彼ら専用の小さなサイズのドアの前まで運びながら、おそらくそうなのだろうと思った。もしそれが杞憂《きゆう》だとしても、そうではないという前提に立って物事を進めることは危険過ぎた。
「盟主さま。最近こちらに来た仲間から聞いた話で、確かではないのですが」
「なんですか」
「〈風の魔女〉が捕まって、じき〈地獄穴《じごくあな》〉送りになるという話を聞いたそうです」
「そうですか……」
その女性のことは耳にしたことがある。ランダルは溜め息をついた。問題がまた一つ増えたということだ。
「ご苦労様。今夜はよくお寝《やす》みなさい」
「はい。盟主さま」
小さなドアがぱたんと閉まり、ポーチュンの足音がぱたぱたと消えて行く。
緊急事態が起きない限り、今夜の仕事はこれで終わりだ。
書棚に歩み寄り、数冊の本を抜き取ってその後ろに隠されていた一冊の薄い冊子を取り出す。
『詩の翼』最新号である。
もちろん、ランダルが知っている事をレノックスは知らない。だが、〈その他少数部族〉のチーフの筆になるラノンの海の譚詩《たんし》は、盟主の数少ない楽しみの一つだった。
エピローグ
「ええぇぇぇッ! 生まれちまったって?」
レノックスは、電話に向かって素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。
『昨夜《ゆうべ》遅く、最初の卵が割れ始めたんです。電話したんだけど、レノックスさん出なかったから』
電話の向こうはケリ・モーガンだ。そういえば昨夜、ジャックと呑んでいて携帯の電源を切っていたことを思い出した。
「何個だ? 何匹|孵《かえ》った?」
『いま、九匹目が……ラムジーが産湯《うぶゆ》を使わせてタオルで拭《ふ》いてます』
「残りの卵には待つように言え!」
『無茶を言わないで下さい、レノックスさん』
無茶は承知だ。大慌てで上着をひっかけて飛び出す。卵は全部で十二個だ。生まれてしまった九匹は仕方がないが、残りの三匹の孵化《ふか》にだけでも立ち合いたかった。
育雛室《いくすうしつ》に駆け込むと、ぴよぴよと甲高《かんだか》い鳴き声が耳に飛び込んで来た。
「レノックスさん、もう十一匹目ですよ。みんな元気です」
ラムジーは片手に乗るほどのぼってりとした雛《ひな》――というか、仔犬《こいぬ》――をタオルにくるみ、慣れた手つきでごしごしと拭いていた。実家が羊毛《ようもう》農家だから、動物の扱《あつか》いには慣れているのだろう。
レノックスは段ボール箱を覗《のぞ》き込《こ》んだ。雛は一見、生まれたての仔犬のようだが、その背中には小さな丸裸《まるはだか》の翼がある。ぽやぽやの産毛《うぶげ》に包まれた雛たちは互いの体温を求めるように身を寄せ合い合い、てんでにもぞもぞと短い手足を動かしていた。まるでくっつきあった団子みたいで、どこからどこまでが一匹なのか判然としない。
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「おまえら、泊まり込みか?」
「そうなんです。帰ろうと思ったらヒビが入り始めて……」
結局、レノックスが間に合ったのは最後の一匹だけで、残り十一匹の誕生に立ち合ったのはラムジーとケリだった。
「くそぉ、俺が取り上げる筈《はず》だったのに……」
ガブリエル犬の雛は普通の仔犬と違って生まれてすぐに目が開く。そして真ん丸な目で最初に見たものを親と認識する。だからどうしても孵化に立ち合いたかったのだ。
「可愛《かわい》いですねぇ」
ラムジーは乾いてふかふかになった雛に頬ずりした。
雛たちが一斉《いっせい》にきゅーっ、と鳴く。
きゅーイッ!
「ネッシーが来たら、見せてもいいですか?」
「構わんが、同盟に来る気はあるのか? あの嬢《じょう》ちゃんは」
「判《わか》んないです。でも、今度ロンドン見物に来たいって、手紙が……」
ラムジーは、困ったようにもじもじと俯《うつむ》いた。
「ネッシーって?」
「ええと、あの、幼馴染《おさななじ》みで、ホントはアグネスって言うんです。それがこないだ巨人族の先祖返りだって判って……」
「巨人族でネッシー? 凄《すご》いぴったりのあだ名だね」
レノックスは思わず口を挟んだ。
「本人に言うんじゃないぞ。嬢ちゃんは、背がでかいのを気にしてるからな」
ケリは口を尖《とが》らせた。
「言いませんよ、レディにそんなこと」
「まあ、おまえさんなら大丈夫だろうがな。アグネス嬢ちゃんは滅法《めっぽう》気が強いが、案外と純情|可憐《かれん》なとこがあるからな」
「えっ、そうですかぁ……?」
ラムジーが目をぱちくりさせる。
「俺の考えでは、な」
「ううーん。そうかなあ……」
ラムジーはしきりに首を傾《かし》げていた。レノックスの見たところ、アグネスはラムジーに惚《ほ》れている。ラムジーの前で殊更《ことさら》に突っ張って見せるのはそのせいだ。だがチビすけには、まだそういう微妙なことを理解するのは無理だろう。同い年なら女の子の方がませているのはラノンもここも変わらないと見える。
「彼女、美人?」
ケリの問いに、ラムジーはますます困惑気味だ。
「ううーん。よく、わかんないです……。小さい時からずっと一緒だったし……」
「俺の考えじゃ、嬢ちゃんは美人になるぞ。巨人族の女ってのは情が篤《あつ》くて別嬪《べっぴん》だからな」
「へえぇ。そうなんだ……」
ケリの方は年頃らしく興味をそそられたようだった。
「巨人族って言っても、先祖返りのなんですよね? どれくらい背が高いんですか?」
「俺よりは少し小さいぞ」
「じゃ、僕よりは高いですね……」
小さく溜め息をつく。
「でも、同年代の女の子の半妖精は今のところいないから、来ればいいのにな」
ケリは一匹の雛をつまみ上げ、膝《ひざ》の上に抱いてしげしげと観察しながら言った。
「翼の骨は肩甲骨《けんこうこつ》と繋がってるんだね。でもこの翼、まるでローストチキンのみたいだ」
「すぐ大きくなって奇麗《きれい》な羽が生《は》えるさ。おっと、気をつけろよ。腹を減らしてるから、おまえさんの指を囓《かじ》るぞ」
「え……? あいたっ!」
ケリは慌ててひっこめたが、指に小さな穴が開いていた。
「ホラ見ろ」
レノックスはにやにや笑った。
「こいつらは、生まれたときから小さな歯が生え揃っているんだよ」
「何を食べるんですか?」
「最初は、犬用ミルクだ。スポイトでちょっとずつやるんだ。それから離乳食の挽肉《ひきにく》。こいつらはカリカリのドッグフードが大好きだが、翼に羽が生え揃う頃には骨つき肉を食わせないとダメだ。そしたら次は飛行訓練」
「大変なんですねえ」
「なんですねえ、じゃない。おまえさんたちがやるんだぞ」
「えーっ? どうして……?」
「おまえさんたちは、こいつらの親になったんだからな。ちゃんと面倒を見てやれよ」
ケリが泣き言を言った。
「そんな、無理ですよ……。学校にバイトもあるのに……」
「まあ、至らない場合は俺が全面的に手伝ってやる」
「あぁ、よかった……。脅《おど》かさないで下さいよ。ホントに僕らだけでするのかと……」
「だが責任者は、おまえらだぞ」
結果的にほとんどレノックスが自分ですることになるだろうが、チビたちに責任を持たせるのは二人のためにも良い考えだと思った。ラムジーは犬と気持ちが通じ合えるだろうし、ケリは犬たちを遣《つか》えるようになればもっと自分に自信を持てるようになるだろう。
ヒヨコはガブリエル犬の雛たちだけじゃない。こいつらも全くヒヨッコだからな。俺が面倒を見てやらにゃならん――。
苦笑いが漏《も》れた。
自分からは逃げられない、か。
結局、ジャックの言う通りなのだろう。自分は、何だかんだ言っても世話を焼かずにはいられない。損な性格だが、そう言う性分なのだ。無理に変えたら、自分が自分である意味もなくなっちまう。
だったら、とことん自分につきあってやろう。このまま走り続けて、棺桶《かんおけ》の蓋《ふた》が閉まるその時まで自分であり続けてやろう。
それで笑うか後悔するか、その日が来たとき判るはずだ。
願わくは、笑いたい。笑ってやるさ。
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ネッシーと〈風の魔女〉
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0――来訪者
午前四時。
テムズ河岸《かがん》の再開発で賑《にぎ》わうミレニアム・マイルは束《つか》の間《ま》の眠りについている。あと一時間もすれば街は目覚め、再び始まる長い一日に備えてゆるゆると動き出す。だが、今のところ街はまだ眠りのなかにあった。そしてビルの谷間の小奇麗《こぎれい》な広場を根城《ねじろ》とするホームレスの男もまた同様だった。男は風に抗《あらが》って眠りにしがみつこうとコートの前を掻《か》き合《あ》わせ、それから薄く目を開けてぼんやりと広場の様子を眺めた。
枯れ葉がぐるぐると宙を舞っている。
その回転する枯れ葉に抱かれるように暗い空から人の姿をしたものがゆっくりと広場の真ん中に降りてくる。
男は、まだ夢を見ているのだろうと思った。
人の姿をしたものは広場のベンチの上にふわりと舞い降り、辺りを見回して小さく呟《つぶや》いた。
「……ここ、どこ……?」
1――そんなのって、ズルい
これがロンドンかぁ……。
|テムズ河沿いの遊歩道《ミレニアム・マイル》を歩きながら、アグネス・アームストロングは都会なんか珍しくもないという顔をするのに必死だった。懸命に無関心を装《よそお》いながら眼の端でちらちら河辺に立ち並ぶ珍奇な建物群を見回す。本当は、どこもかしこも眺《なが》め回したくて堪《たま》らないのだけれど、そんなことをしたらお上《のぼ》りさん丸出しに見えてしまう。
実際、お上りさんなんだけれど。
故郷のクリップフォード村は英国北部のスコットランドにあってなお北部に位置する寒村《かんそん》だ。バスは一日二本しか走っていないし、映画館もデパートも、スーパーマーケットすらない。ロンドンで見たいものは山ほどある。だけど、今回は物見遊山《ものみゆさん》に来たわけではなかった。もっとずっと大切なこと、どうしても確かめたいことがあって来たのだ。
家出していた幼馴染《おさななじ》みのラムジー・マクラブが一時村に戻ってきたときのことを思い出し、アグネスは密《ひそ》かに赤面した。六週間ほど前のことだ。
考えただけで恥ずかしさで全身がカーッと熱くなる。あのときはラムジーが無事に帰ってきたことでどうしていいか判《わか》らないくらい舞い上がっていて、失敗の連続だった。言わなきゃいいようなことを山ほど言ったし、ラムジーの恩人であるジャックにも随分《ずいぶん》と失礼なことを言った。
けれどさらに問題なのは、別れ際《ぎわ》に走り去るバスに向かって叫んだ一言なのだ。
何で、言ってしまったのか。
あのときは、絶対に聞こえないと思った。バスはもう百メートルは離れていたし、風がびゅうびゅう吹いていた。だから、風に向かって目一杯大声で叫んだのだ。
だけど、後になってラムジーの耳が超人的に鋭いことを思い出して青くなった。
聞かれていたらどうしよう――。
そう思い始めると矢も楯《たて》も堪らなくなる。
会って、確かめたい。
だけど、確かめて、それでどうしようというのかは自分でもよく判らなかった。
自分が男の子に好かれるタイプじゃないことは厭《いや》と言うほど解《わか》っている。小さい時から気が強いと言われたし、大抵の男より大柄だし、可愛《かわい》げがないし、ソバカスだし、〈ネッシー〉と綽名《あだな》されるくらい腕力《わんりょく》があり、ケンカしたって男子に負けたことがない。それに思えば小さい頃、何となく構《かま》いたくて結果的にラムジーを苛《いじ》めていたし……。
ポケットの中でギュッと両手を拳骨《げんこつ》に握る。
断られてもいいんだ。すっぱり断られたらいっそサバサバする。
たぶん、一番我慢がならないのはラムジーに聞こえたのか聞こえなかったのか判らないまま悶々《もんもん》と悩むことなのだ。
決めた。後悔なんか嫌いだ。後腐《あとくさ》れなくハッキリさせた方がいい。このままじゃ、気になって夜も眠れやしないもの。
〈ラノン&|Co《カンパニー》葬儀社〉は何の変哲《へんてつ》もない茶褐色《ちゃかっしょく》の煉瓦《れんが》の建物だった。アグネスはポケットに手を突っ込んで名刺を指でなぞった。名刺の裏側には、人の目には見えない文字でこう書かれている――〈在外ラノン人同盟〉。
ラムジーと一緒に村にやって来た刺青男《いれずみおとこ》のレノックスが〈仲間〉がたくさんいるから遊びに来いと言ってくれたものだ。でも〈同盟〉って何だかよく解らないし、秘密結社みたいでちょっと怖かった。
でもラムジーは、ここにいる。
当たって砕《くだ》けろ、だわ。
塵《ちり》一つ無く磨《みが》き上げられた大理石《だいりせき》のエントランス・ホールをつかつかと横切り、受付のデスクにドン、と手をつく。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど……」
「どんな御用でしょうか、お嬢《じょう》さん?」
黒髪のハンサムが営業スマイルを浮かべて言った。ハンサムな受付係は、ジャック・ウィンタース――あの妖精の国の元王子――にちょっとだけ似たところがあった。
「〈同盟〉ってここでいいの?」
ハンサム男の口が、半開きになる。
「え……ああ、そうです。ええと、あの、お嬢さん、失礼ですがどちらから……?」
「クリップフォード村。レノックスって人が名刺をくれたから」
〈葬儀社〉の名刺の裏を見せる。
「ここに書いてあるわよね? 在外……」
「大きな声で言わないで下さい! 左奥の廊下をまっすぐ行って突き当たりで瞬《まばた》きをして!」
「ありがと!」
瞬きをして? ってどういう意味だろう。深くは考えず、ずんずんと廊下を進んだ。確かに行き止まりになっている。言われた通り、そこでぱしぱしと二、三度瞬きしてみた。
(わお!)
胸の中で思わず声を上げる。行き止まりの壁は透《す》けるように薄れ、向こう側にもこちらと同じように廊下が続いているのが視《み》えてきたのだ。
まるで魔法。ううん、本当に魔法なんだわ……。
自分の先祖が妖精郷ラノンから来たのだと聞かされてもピンと来なかったけれど、こういうのを視るとやっぱりそうなのかと思う。もっとも先祖は〈妖精〉ではなく〈巨人族〉だというからちっとも嬉しくなかった。
人の目には映らない廊下を凝視《ぎょうし》する。ここから先は〈同盟〉のエリアなのだ。ここに足を踏み入れたらもう人間の世界に戻れないような気がして、身体が動かない。
(バカね! 泣き虫ラムジーだってここを越えたんだから……)
アグネスは目を閉じ、えいとばかりに壁に突っ込んだ。
恐る恐る目を開けると、もう向こう側にいた。予想したような違和感も衝撃もなく、あっけないほど簡単に通り抜けていた。
なんだ。どうってことないじゃない……。
ホッと頬が緩《ゆる》む。そのとき、見覚えのある大男が廊下の向こうから大股《おおまた》に歩いてくるのに気づいた。
「よお! 嬢ちゃんじゃないか! よくきたな、電話をくれりゃ迎えに行ったものを」
刺青男――本当は海の妖精〈ブルーマン〉のレノックスだ。
「子供じゃないもの。一人で来れるわよ」
「ま、そういうことにしておこう」
レノックスはにやにやしながら言った。
感じが悪いったらない。すぐ子供|扱《あつか》いするし、がさつだし、口が悪くて、下品だ。おまけにレノックスはアグネスが知るなかで唯一アグネス自身より背が高い男だった。
こんな男が〈妖精〉なのに、あたしが〈巨人〉だなんて不公平じゃないの――。
「嬢ちゃん、〈同盟〉に入る気になったか? 準会員になれば妖素《ようそ》の支給が受けられる」
「ええと、まだ決めてないけど……」
本当を言うと、あまり興味はなかった。〈妖素〉は魔法の触媒《しょくばい》だが、巨人族はもともと魔法が得意でないというし、下手に触れてこれ以上背が伸びるのも厭だった。
「……ねえ、それよりラムジーは?」
「ああ、俺の後ろだ」
アグネスはきょろきょろ辺りを見回した。自分とレノックス以外、誰もいない。
「どこよ?」
「だからそこだ」
レノックスが振り向く。
その視線の先でゆさゆさと尻尾《しっぽ》を振っているのは――一匹の大型犬――ではなくて狼《おおかみ》だ。
口がぽかんと開いた。目が、点になる。
「まさか、あれなの……?」
「ああ、そうだ。今は満月期だからな」
マクラブ家が人狼《ウェアウルフ》を出す家系で、ラムジーが先祖返りの人狼だというのは聞いていた。だけど、いくらなんでもそんな……。
「おい、ラムジー。テレてないでこっちに来いよ」
狼は小走りにこっちに駆け寄って来てお座りした。尻尾が左右に揺れ、『お手』の格好《かっこう》で前脚《まえあし》が上がる。恐る恐るその前脚を握った。ベージュ色の毛はすべすべと柔《やわ》らかかった。
「……あんた、ラムジーなの……?」
狼が小首を傾《かし》げて肯定《こうてい》するようにウウーンと鼻を鳴らす。見上げる茶色の瞳は、ラムジーそのままだ。
やっぱり、ラムジーなんだ……。
アグネスはまじまじと狼を見つめた。脚はすらりと長く、銀の長い毛が背を覆《おお》い、喉《のど》と胸元は純白だ。細長い鼻面《はなづら》と三角の耳、眦《まなじり》にはアイラインのような黒い線がすっと通っている。狼というより、どちらかというと大きな犬みたいだった。毛皮はふさふさと暖かそうで、思わず両手に抱きしめたくなる。でも、犬に見えてもラムジーなのだからそんなことをしたらあとでまた大後悔だ。
「いつ、元に戻るの?」
レノックスはちょっと考え込んだ。
「ええと……な。今ちょっと取り込み中で、いつラムジーの力が必要になるか判らなくてな。出来れば次の新月期までこのまま……」
「ええぇっ!」
次の新月は、二週間近く先だ。そんなに長くロンドンにいられない。
「話、出来ないの……?」
「ああ。声帯が違うからな。こっちの言うことは解るが」
そんなのって、ズルい。酷《ひど》すぎる。散々《さんざん》悩んだあげく物凄《ものすご》い決心をして、ラムジーと話をするために十二時間もバスに乗って来たのに、目の前にいるのに、触《さわ》れるのに、それなのに話が出来ないなんて。
「ラムジー…………」
狼――ラムジーは済まなそうに頭を垂《た》れ、白目を見せて哀れっぽく鼻を鳴らした。
鼻の奥が詰まったみたいに熱くなる。
レノックスがそっぽを向いたまま言った。
「本当は〈同盟〉の中を案内したいところなんだが、俺とラムジーはちょっと用があってな。ま、折角《せっかく》来たんだ。談話室でお茶でも飲んで待っててくれ。みんな大歓迎だぜ」
アグネスは、サウスウォークからミレニアム・マイルまでぷりぷりしながら歩いた。〈葬儀社〉を飛び出して来たのである。
大歓迎――確かにそうだった。
どこから話が伝わったのか、〈同盟〉の談話室には〈妖精〉たち――つまり、妖精の国を追放されたラノン人が二十人以上も詰めかけ、代わる代わる自己紹介した。みなそれぞれに美しかった。人ならぬ美しさ、ってこういうことを言うのだろうかと思った。
「〈同盟〉にようこそ、可愛いレディ。あなたの髪は陽《ひ》の光を編み込んだようだね」
にっこり笑ってそう言ったのは、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほどハンサムな黒い髪の妖精男だった。
「美しいレディ、お茶をいかが」
「花束を」
「チョコレートは好きかい?」
妖精たちはアグネスの周りを取り囲み、次から次とお世辞を言い、プレゼントを持ってくる。同じ〈妖精〉でもあのがさつなレノックスなんかとは全然違う。言葉巧《ことばたく》みで、美しく、洗練された妖精たちに囲まれてちょっとボーッとするような心持ちだった。だが、しばらくして、ふと妙なことに気づいた。
妖精たちは全員男性なのだ。
「……ここ、女人禁制《にょにんきんせい》なの?」
「いや、そういう訳ではないのだが、単純にいないだけで……」
アグネスは、きょとんとした。
「ラノンって、男ばっかなの?」
彼らは困ったように顔を見合わせた。
「もちろん、ラノンにはちゃんと女がいるさ。けど、滅多《めった》に地獄穴送りにはならないから」
なんとなく解ってきた。この世界はラノンの流刑地《るけいち》で、彼らは流刑者なのだ。流刑地で足りないものと言えば――女だ。彼らには、ラノン人の血を引く女が珍しいのだ。
「可愛いレディ、貴女《あなた》が来てくれたことは大変に喜ばしい。だから貴女が誰を選んでもここは恨みっこなしということで……」
「選ぶって何よ」
「今日の花婿《はなむこ》さ」
目が白黒するのが分かった。
「今日の……?」
「左様《さよう》。明日は明日の、明後日《あさって》は明後日の花婿を選べば宜《よろ》しい」
「ちょっと待ってよ! なんであたしがあんたたちと結婚しなきゃならないのよ!」
「男と女で他にすること、あるかい?」
妖精たちは耳障《みみざわ》りな声で笑った。姿が美しいだけに、その声は鼻についた。
――この人たちは、ラノンの血を引いてさえいれば、顔も性格もどうだっていいんだわ。あたしがどこの誰かってことでさえ――
バッカみたい。
まるで自分が品評会に出される雌牛《めうし》になったような気がした。『レディ』だなんてちやほやされて一瞬でも良い気分になっていた自分が情けなくなる。
「……あたし、帰る」
それでそのまま飛び出して来たのである。
全《まつた》く、男ってどうしてああなの?
〈妖精〉だって人間の男と全然変わらない。不潔《ふけつ》で、人の気持ちなんかお構いなしで、デリカシーが無くて、ケダモノ――。
カッカしながら歩くうちに気持ちが落ち着いてきた。
これからどうしよう。
このままロンドンにいてもあの時の一言をラムジーが聞いたかどうか確かめるという当初の目的は果たせそうにない。一つの選択肢《せんたくし》はこのまま長距離バスに飛び乗ってまっすぐ村に帰ることだ。でも、それでは何だか口惜《くちお》しい。折角ロンドンに来たのに、目的も果たせず、何も見ずにすごすご帰るなんて。
ミレニアム・マイルの真新しい敷石《しきいし》の上を人波が通り過ぎていく。テムズ南岸《なんがん》の再開発によって生まれたこの一帯はロンドンの一番新しい顔だった。川岸に並ぶガス灯《とう》風の街灯に豆電球の電飾が飾られている。川上に向かえばミレニアム橋、下れば今一番お洒落《しゃれ》なエリアだというバトラーズ・ワーフだ。
やっぱり、このまま帰るなんて癪《しゃく》だわ。ラムジーと話が出来ないなら、せめてロンドン観光くらいしていかなくちゃ。
そう決めて歩き出した瞬間、いきなり背後から若い男の声が浴びせかけられた。
「よお、ねえちゃん。オレらと遊ばねえ?」
来たわね! と思った。都会の男は不品行《ふひんこう》だから注意しろと散々《さんざん》言われて来たのだ。
舐《な》められてたまるもんですか!
怒気《どき》を漲《みなぎ》らせて振り向いたアグネスは途端に拍子抜《ひょうしぬ》けした。男が声をかけたのは自分にではなかったのだ。三人の若い男が黒髪の少女に歩調を合わせて前と横を囲むように歩いている。
少女が男を避けようと方向を変えた。と、三人のうちの誰かがさりげなく回り込んで行く手を阻《はば》む。結果、彼女の前には常にひとりは男がいることになる。
「ねえちゃん、イカしてるじゃん」
「ロンドンは初めてだろ? いいとこ連れてってやるぜ?」
「そんで四人でいいコトすんのはどう?」
脳みその代わりに藁屑《わらくず》が詰まったような男どもはにやにやしながら吐き気がするようないやらしい言葉を――本当はよく意味が解らないが、とにかく凄くいやらしいと思われる単語を――連発していた。小柄な少女は怪訝《けげん》な顔で男どもを見上げている。言っていることが解らない風だ。笑いながら男の一人が少女の腕を掴《つか》む。
これ以上、黙っていられなかった。
「ちょっと! あんたたち、止《や》めなさいよ!」
男どもはギョッとしてアグネスを眺《なが》めた。体格では完全にアグネスの方が勝《まさ》っている。
「なんだ? お友だちかよ?」
「ち……違うけど。失礼じゃない! いきなり女の子の腕を掴むなんて!」
「ああ? あんたも掴んで欲しかったってわけかい? でっかいねえちゃん?」
「掴んで欲しいのは、腕より胸《ブーザム》じゃねえの?」
みるみる顔が真っ赤になるのが分かった。
ホントに、男って不潔!
「とにかく、彼女を放しなさいよ!」
「彼女はオレらと遊びたいって言ってるぜ?」
「言ってないわよ!」
「放してくれとも言ってないぜ?」
笑いながら、肩を抱き寄せる。
「ほら。嫌がってねえじゃん?」
少女は無言のまま眉を顰《ひそ》め、黒い瞳で男を睨《にら》んだ。
やっぱり嫌がってるじゃないの! 何とかして男どもから彼女を助けなきゃ。
アグネスはホッケーの試合のとき敵陣形《てきじんけい》を窺《うかが》うように相手を睨みつけた。少女の腕を掴んでいる男が手前、あとの二人は半歩下がって左右だ。
(よっしゃ!)
さっと鞄《かばん》を振り上げると見せかけ――男の足を靴の踵《かかと》で思いっきり踏みつけた。男が悲鳴とも罵倒《ばとう》ともつかない声を上げる。少女の腕が自由になった。
「走って!」
少女はひらりと身を翻《ひるがえ》し、数歩行ったところで急に足を止めた。
「何やってんの、逃げて!」
少女はまっすぐこちらに向き直って手を差《さ》し伸《の》べようとするかのように右手を胸の前にかかげている。
「行きなさいってば!」
走り出しながら振り返り、追いすがってきた男の横《よこ》っ面《つら》を今度は本当に鞄でぶっ叩く。少女は呆然《ぼうぜん》とその場に立ち尽くしたままだ。アグネスは差し伸べられた手をとり、そのまま少女の手を引いて石畳を全力で駆《か》けた。もう大丈夫だろうという所まで走り、後ろを振り返る。男どもは人波|遥《はる》かだ。あの連中に追ってくるような根性があるとは思えなかったが、それでもしばらくの間、追ってこないかどうか様子を窺った。大丈夫のようだ。
「あんた、平気だった?」
黒髪の少女を振り返る。少女はぜーぜーと息を切らしていた。足元がふらふらと覚束《おぼつか》ない。しまった、と思った。ホッケー選手の自分のペースで引っ張って来てしまったのだ。
「ごめんね、あたし、人のペースが判んなくて……」
少女は荒く息をついてアグネスを見上げた。ロング丈《たけ》の黒のワンピースの上に大判の毛織りのショールを羽織《はお》っている。ひどく小柄で、まっすぐ立っていても頭のてっぺんがアグネスの胸くらいまでしかなかった。
「大丈夫? あたしの言うこと、解る?」
大きな黒い眼《め》がゆっくり瞬《またた》いた。
「おまえ……わたしを、知らないわね?」
唸《うな》るような巻き舌で、アクセントに強い訛《なま》りがある。外国人だろうか? でもちゃんと聞き取れたし、こちらの言うことも解っているようなのでホッとした。
「え……知らないけど、でも放っておけないじゃない。あいつら、不良みたいだったし」
彼女は呆然とした様子で自分の手を眺めていた。風にそよぐポプラのようにその手が激しく震えている。月のない夜のように漆黒《しっこく》の髪と切れ上がった眦《まなじり》、猫を思わせる小さな白い顔の中で唇だけが紅《あか》い。その紅い唇が急に歪《ゆが》んだ。泣いているのか、笑っているのかよく判らなかった。さっき男に手を掴まれたときは平気な顔をしていたのに、今になって怖くなったのかも知れない。震えるようにか細い、途方に暮れた声で彼女は言った。
「……ここは、どこなの?」
「ええと……たぶん、バトラーズ・ワーフの辺りだと思うけど……」
慌てて地図を引っ張り出す。
「おまえもここに属していないの?」
ちょっと顔が赤くなった。
「実を言うと、生まれて初めて来たんだ。今朝着いたばっかりで、まだ何も見てないの。あんたはどこから来たの?」
「……ここからは、とても遠いところだわ」
「あたしもけっこう遠いかなあ。十二時間もバスに乗って来たんだ。あんたは一人で来たの? 一緒のツアーの人とかは?」
彼女は首を横に振った。
「わたしには、誰もいないわ」
「そっか。あたしも一人なんだ。よかったら一緒に街を観光しない?」
このまま放り出すのは何だか不安な感じだった。それに、何をするにも一人よりは二人の方がいいに決まってる。
「おまえは街を見るの?」
「そう。だから一緒に見ない?」
しばらくして、おずおずと黒い頭が頷いた。
「おまえの言う通りにするのがいいと思う。わたしはおまえと街を見るわ」
「よかった。あたし、アグネス・アームストロング。あんたは?」
彼女は一瞬ためらい、それから頭を上げて一語ずつはっきりと発音した。
「……わたしの名は、シールシャ」
◆◆◆
レノックスは執務室のドアを叩いた。
「誰ですか?」
「俺です。レノックス・ファークハーで」
「分かりました。少し待ってください」
鍵が回る音がし、盟主《めいしゅ》ランダル自《みずか》らがドアを開いてレノックスを招き入れた。
ランダルが〈同盟〉の盟主になって以来、執務室のドアに内側から鍵が掛けられたことは一度もないという。逆に鍵が掛かっていれば主《あるじ》不在の証《あかし》だし、盟主の執務中は執務室への出入りは事実上自由だ。保安上問題があるのではないかと進言したことがあるが、その時は柔和《にゅうわ》な笑みと共に無視された。
それが、今日に限って錠《じょう》を下ろしている。
余程《よほど》の事に違いないと思った。
「マクラブ君は?」
「言われた通り、狼のまま別室で待機させてますが。呼びますか?」
「いいえ。今はまだ」
盟主の表情は常日頃と変わりがない。穏《おだ》やかで、そして何を考えているのか判らない。
「現時点で連絡の取れない者は何名ですか」
「ええと、七人だったんですが、うち一人は人間の女のとこに転がり込んでるのをラムジーが見つけました。あと一人はロンドンの外に出ているのが確認できたんで、いま所在不明なのは五人ってことになりますが」
〈同盟〉メンバーは定期的に所在を本部に報告することになっている。だが連絡を怠《おこた》るメンバーも多い。所在不明者五名というのは別段多い数字ではなかった。
「では、マクラブ君には引き続き不明者四名の捜索に携《たずさ》わってもらうように」
「盟主。不明者は五名ですが」
「一名は既に手遅れなのです。残る四名が手遅れでないことを祈るしかありません」
「いったいどういう……」
「貴君《きくん》は、先月の事件を覚えていますか」
忘れる訳がない。〈同盟〉の経営する葬儀社から死体が盗まれ、それを取り戻すまでに一騒動あったのだ。犯人は欲に目の眩《くら》んだ人間だったが、その背後にいた者については詳しく判らずじまいだった。
「あの人間を唆《そそのか》した男は、〈ワタリガラス〉と名乗っていたそうです」
ランダルはしばし何もない空《くう》の一点を睨んでいたが、不意に口を開いた。
「魔術者フィアカラについて聞いたことは?」
「少しは。元ダナ王室付きの魔術者だとかで」
フィアカラはラノン屈指《くっし》の魔術者だったが、叛逆《はんぎゃく》の疑いをかけられて投獄された。審問《しんもん》を待つ間に脱獄《だつごく》し、反乱の烽火《のろし》をあげるも失敗。再び捕縛《ほばく》されて今度は脱出不可能な鉄牢《てつろう》に繋《つな》がれた。これは事実上の極刑《きょっけい》だ。鉄の呪力に封印され、音も光も妖素も完全に遮断《しゃだん》されたそこから逃れ得た者はかつて一人も存在しなかった。
「一年前、フィアカラはどうやってか鉄牢から逃亡したそうです。ですが、その時には既に狂っていたともいいます。そののち、ラノンで彼の姿を見た者は誰もいません」
「まさか……」
「フィアカラ、とは古い言葉で〈ワタリガラス〉という意味です……」
ランダルは長い息を吐き出すように言った。
「今朝、これが郵送されてきました」
かなり大きな段ボール箱だ。ガムテープには一度|剥《は》がして貼《は》り直した跡があった。
「手遅れとは、こういうことです」
カッターナイフの刃がガムテープをすっと切り裂く。蓋《ふた》があがり、肉色に折り重なった内容物が見えた。
理解することを、理性が拒否した。
「盟主……これは……」
盟主の声には抑揚《よくよう》がなかった。
「所在不明のメンバーです」
それは、巨大な腸詰《ちょうづ》めのように見えた。表面には産毛《うぶげ》が生えていた。空っぽのゴム手袋のような指が見えた。溶けた蝋《ろう》のような皮膚《ひふ》の下に突出した二つの丸い眼球が見えた。平たくひしゃげた顔の中にぽっかりと歯のない口が開いていた。潰《つぶ》れたベリーのような歯茎《はぐき》を剥《む》き出《だ》したその口は、息絶《いきた》えてなお悲鳴を上げ続けているかのように見えた。
「傷は、ありません。切り開かずに全身の骨を抜き取られたのです」
全身から脂汗《あぶらあせ》が噴き出し、氷のように冷たくなってだらだらと流れ落ちる。レノックスは逆流する胃液と必死に闘《たたか》った。
「いったい……どうやって……?」
「力ある魔術者ならば可能でしょう」
ランダルが段ボールに蓋をし、ガムテープで再び封印したおかげで、ようやく普通に息が出来るようになった。
「畜生《ちくしょう》っ、畜生っ……何て事を……!」
それ以上、言葉が出ない。
「このカードが同封されていました」
プラスチック袋に入れられた金縁《きんぶち》のカードには、こうタイプされていた――親愛なる盟主殿へ。不要の品をお返しする。御笑納《ごしょうのう》されたし――。
ラノン人の骨には魔法の触媒である〈妖素〉が含まれている。〈妖素〉の含まれた骨以外は不要のものというのか。泣いたり笑ったり、愛したり愛されたりすることが出来た存在を。
畜生……。こいつだけは許せねえ……。
「マクラブ君にこのカードを渡して匂《にお》いを覚えて貰《もら》って下さい」
「は……」
カードにサインはない。だが裏を返すと黒い不吉な鳥の絵がデザインされていた。
ワタリガラスだ。
「わざわざ送り付けてきたのは宣戦布告《せんせんふこく》ということでしょう。〈同盟〉はこれを以《もつ》て臨戦態勢《りんせんたいせい》に入ります。全メンバーに警告して下さい。単独行動は避け、行き先は必ず事前に報告するように」
「闘うと言っても、どうやって……」
敵の姿も見えず、どこにいるかも判らない。見つけたとしてもフィアカラは最上級の魔術者だ。まともに闘って勝てる相手ではない。
「こちらも先手《せんて》を打つことです」
一通の書類が手渡された。
「読んでおいて下さい。魔術者フィアカラと風の魔女シールシャに関するレポートです」
2――〈ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ〉
目の前で、鉄の扉がひとりでに開いた。中は窓のない小さな箱のような薄暗い空間だ。
シールシャはアグネス・アームストロングに尋《たず》ねた。
「これは、何?」
頼みの綱《つな》のアグネスが、ひどく自信のなさそうな声で言う。
「リフト、でしょ……」
「この中に入るの?」
「うん。たぶん……」
シールシャは眉《まゆ》を吊り上げて大女を凝視《ぎょうし》した。
たぶん? この女はこの世界の人間ではなかったの?
〈タワーブリッジ〉という塔橋《とうはし》の入り口である。川の両側に建つ巨大な二つの塔を上下二層の橋が結んでいるのだ。下の橋は鋼《はがね》の荷車《にぐるま》が走り、上の通廊《つうろう》を人が渡る。ただし上の通廊は天高い空中にあって、渡るには塔の中を目の眩《くら》むような高さまで登らなければならない。そして床に画《か》かれた線で示された道筋は、階段ではなく鉄の箱なのだ。
「……下の橋を歩いて渡ったら?」
「えっ。ダメよ。ここまで来てタワーブリッジに登らないで帰るなんて!」
アグネスが手を引っ張ってどんどんと鉄の箱に乗り込んだ。
「ほら! リフトなんか、全然怖くないわよ」
突然、後ろで扉が閉まった。閉じこめられたのだ。がたん、と足元が揺《ゆ》れる。アグネスは大きな身体を強《こわ》ばらせ、不安顔で箱の中を見回している。
この瞬間、シールシャはこの大女について来たことを激しく後悔した。
この世界の人間だからと思ったのに、ちっとも頼りにならないじゃないの!
がたがたと箱が揺れている。〈地獄穴〉の刑を生き延びたというのに、こんな所で死にたくない。シールシャは叫び出したいのを懸命に堪《こら》えた。箱の中は薄暗く厭《いや》な臭《にお》いがし、息が詰まりそうだった。
がたん、と揺れが止まった。鉄の箱の扉がすーっ、とひとりでに開く。
アグネスが強ばった顔に無理やり小さな笑みを浮かべて言った。
「ほら。平気だったでしょ?」
おまえだって目一杯怖がっていたくせに! が、つい一緒になって笑ってしまった。今は鉄の箱から明るい空気の中に出られるだけで嬉しい。急いで箱の外に出る。
周囲を見まわして、違和感を感じた。
乗ったときと、周りの景色が違う。
箱に乗ったときには戸外《こがい》だったのに、降りたら部屋の中だ。
「シールシャ、こっち!」
アグネスの声に急《せ》かされて煉瓦《れんが》が剥《む》き出《だ》しのそっけない部屋から廊下に出たシールシャはあっ、と思った。ここはすでに空中通廊の中なのだ。あの鉄の箱は、通廊の高さまで塔の中を垂直に移動するためのものだったのだ。
シールシャは斜《なな》めに組まれた白い鋼の面格子《めんごうし》と硝子《ガラス》とに覆《おお》われた通廊を恐る恐る歩き始めた。これほどの高さにあるのに、小揺《こゆ》るぎもしない。
「ほら、ここから外がよく見える!」
アグネスは鋼の面格子の隙間《すきま》から外を覗《のぞ》いている。全《まつた》く、何を言っているのだろうと思った。一刻も早く渡り切ってこんなところから出たいのに。だが彼女はしつこかった。
「せっかく登ったんだから、見なきゃ!」
そういうものなのだろうか。怪《あや》しまれても拙《まず》い。シールシャはしぶしぶと覗き見用の台の上に乗り、息を呑《の》んだ。
なんという眺《なが》めなの……!
河の両岸に遥《はる》か遠くまで広がるのは石と硝子の都市だった。四角い塔の群れ。積み木を積んだように四角い建物の数々。硝子で出来た巨大な球のような奇妙な建物もある。ゆったりと流れる褐色《かっしょく》の大河の遙か先までいくつもの橋が連《つら》なっているのが見え、川面《かわも》には何|艘《そう》もの大きな船が航行《こうこう》していた。
なんという世界だろう。
ずっと以前に、〈地獄穴〉が実は地獄にではなく異世界に通じているのだという話を寝物語に聞いたことがある。帰ってきた者が誰もいないから穴の向こうがどんな様子かは分からないが、別の世界があるのだと。戯言《ざれごと》と思っていたが、男の言った通りだった。
「すごいわ……」
「ね? すごいでしょ。これが見せたかったんだ。あたしも初めて見るんだけどさ」
アグネスは自分のことのように得意げに笑った。
「下の橋は跳《は》ね橋《ばし》なんだって。今でも大きな船が通るときは上げることがあるって」
「どういう魔法なの?」
「やだ。魔法じゃないわよ」
「魔法じゃない?」
「だって、この世に魔法なんてないんだから」
アグネスは言った。しごく当然という口調だった。
魔法がない……?
そんな馬鹿な、と思った。信じられない。そんなことがあり得るわけがない……。
だが、あの不埒者《ふらちもの》たちから逃げようとした時にも魔法は機能しなかったではないか。本当のところ、この世界に降り立ったときからひとつもうまく働いた魔法はないのだ。けれどそれは自分の調子が悪いのだと、地獄穴《じごくあな》の影響で一時的なものだと思おうとして、今までその事実を認めようとしなかったのだ。
魔法のない世界。
初めて、本当に恐ろしいと思った。これが〈地獄穴〉の刑の真の意味なのだ。
魔法なしで、人はどうやって生きられるというのだろう……?
[#挿絵(img/Lunnainn2_205.jpg)入る]
すぐに一つの疑問が浮かんできた。
「じゃあ、どうやって橋を上げるの……?」
「昔は蒸気《じょうき》で動かしたけど、今は電気だって。あ、『蒸気』って単語、解《わか》る? 湯気《ゆげ》のことなんだけど……お湯が沸《わ》くと蓋《ふた》が動くでしょ?」
蒸気という言葉の意味は解《わか》った。言われてみれば、確かに湯気の力で鍋蓋《なべぶた》は動く。けれど鍋蓋を動かす力で巨大な橋を吊り上げるとは、全く思いも寄らない考えだった。
「じゃあ、電気というのは?」
「えっ。『電気』が解らないの? なんて説明したらいいんだろ……ホント言うとあたしもよくは解ってないし……」
アグネスは眉を寄せて考え込み、それからパッと顔を輝かせて天井を指さした。
「あれよ! あの光が『電気』よ」
そこには眩《まぶ》しいほどに白く輝く細長い形の硝子のランタンのようなものがあった。鬼火《おにび》の光ではないのに、明るく煙も出ない。ラノンでランタンは鬼火を灯す力を持たない者だけが使う暗く不便なものだ。シールシャはごく幼いときから自在に魔法を使えたからランタンになど触れたこともないが、それとあの光とが全く違うのは判《わか》った。
光で物を動かすなんて、なんという不思議な世界だろう。
この世界を、もっと知りたいと思った。
◆◆◆
レノックスは魔術者フィアカラと魔女シールシャに関する報告書をめくった。
はっきり言って、どちらも夜道で遭《あ》いたくない相手である。
魔法にはラノン人ならば誰でも使える一般的なものと、特定の種族や家系に限定される特殊なものがある。レノックスの海水を操《あやつ》る力やジャックの霜《しも》の力は後者だ。ラノンにおいて多数を占《し》めるダナ人などの異形《いぎょう》を持たない種族が生得的《せいとくてき》に使える魔法は通常一つだけで、あとは呪誦《ピショーグ》の訓練によって後天的《こうてんてき》に獲得《かくとく》される。それでも使える魔法の数を両手で数えるならば多い方だ。一般的に異形を持つ種族は持たない種族より魔法の力が強いが、数が少なく山奥などで暮らしているため、社会的にはあまり意味がない。
だが稀《まれ》に異形を持たない種族を親としながら、異形を持つ種族を遙かに凌《しの》ぐ魔力を持って生まれてくる者がいる。それが〈魔女・魔術者〉と呼ばれる者たちだ。大概《たいがい》は〈奇瑞《きずい》〉と呼ばれる変異を身体のどこかに持つのでそれと知れる。彼らはときに呪誦もなしに多岐《たき》にわたる魔法を使いこなすが、その力は一代限りのもので子孫には伝わらない。だから〈魔女・魔術者〉の家系というのは存在しないのだ。両親を凌駕《りょうが》する力を持つ子供を躾《しつ》けるのは難しいため、十歳頃になると先達《せんだつ》の魔術者に預けられて指導を受けることになる。
魔女シールシャの預かり親は、魔術者フィアカラだった。
報告書を読み進めながらレノックスは顔をしかめた。全く悪い巡《めぐ》り合《あ》わせと言うか何と言うかだ。
女児《じょじ》の場合、普通は魔女が預かり親になる。だがシールシャの場合、あまりに力が強かった為になかなか彼女を指導出来る魔女が見つからなかったのだ。それで結局、普通よりも遅い十四歳になってフィアカラが預かることになったらしい。
強さを良しとするフィアカラは彼女を大層気に入った。親子ほど歳の違う二人はすぐに男女の関係になる。フィアカラはどこに行くにもシールシャを連れて歩いた。若いシールシャはしばしば年長の魔女や魔術者に身の程をわきまえぬ闘《たたか》いを挑《いど》み、そして常に勝利した。監督する立場である筈《はず》のフィアカラは笑ってそれを許した。恥をかかされて抗議してくる相手に対しては、こう返した――年端《としは》も行かない魔女に負ける方が悪いのだ、と。
大気を操る術を得意としたシールシャはこの頃から〈風の魔女〉という二つ名で呼ばれ、恐れられるようになる。傍若無人《ぼうじゃくぶじん》なカップルは魔術者たちの鼻つまみだったが、彼らに対抗できる者はいなかった。
やがてフィアカラとシールシャの悪名は魔女・魔術者連盟にだけでなくラノン中に知れ渡ることになる。叛逆罪《はんぎゃくざい》に問われたフィアカラの逃走劇と失敗に終わった反乱。風の魔女シールシャはそれらを手助けした。フィアカラが捕縛《ほばく》され鉄牢《てつろう》の刑に処《しょ》せられた後もシールシャは逃亡を続けたが、ついに召《め》し捕《と》られて地獄穴送りを待つ身となったという。
最近の追放者によってラノンからもたらされた情報は、ここまでだ。重要なのは魔女シールシャの刑の執行《しっこう》が間近に迫っていたということだ。つまり近々《きんきん》にこちらに来るか、或《ある》いは既に来ている。
そして盟主《めいしゅ》の推測が正しいとすればフィアカラは脱獄してこの世界に逃げ延び、〈同盟〉メンバーを殺して骨中《こっちゅう》の妖素《ようそ》を奪い、さらに挑戦状を送り付けてきたのだ。
頭が痛くなってくる。
魔術者フィアカラと魔女シールシャが再び手を組んだら、〈同盟〉の総力を挙《あ》げても勝ち目はない。だが逆に、魔女シールシャはフィアカラに対する切り札にもなり得る。先手《せんて》を打つ、とはフィアカラよりも先にシールシャを見つけだすことだ。そして血の盟約書《めいやくしょ》により同盟に帰順《きじゅん》させる。
魔法の触媒《しょくばい》である〈妖素〉がないこの世界では魔女といえど自在に力を振るうことは出来ない。だが、ラノンから来た者の身体の中には妖素が蓄積している。この世界に来て二、三年は髪や血中《けっちゅう》に残る妖素を使えるのだが、妖素が当たり前に存在する世界から来たラノン人はなかなかこれに気づかないのだ。だから体内の妖素を使うということに気づく前ならばこちらが優位にたって交渉できる筈だった。
レノックスは連絡網で全会員および準会員に〈風の魔女〉の人相《にんそう》特徴《とくちょう》を伝え、同時に敵対者の存在と身辺に注意するようにということも付け加えた。こういう場合は電話より〈伝言精霊〉を使った方が速いが、相手が魔術者では漏《も》れる恐れがあるし、会員の中には〈伝言〉を読めない者もいる。
そういえば、未《いま》だに〈同盟〉に入らない莫迦者《ばかもの》が一人いたっけな――。
履歴《りれき》を辿《たど》ってジャックの携帯にかけた。一度の呼び出しで、不機嫌な声が応じた。
『おまえか。いま仕事中なんだが……』
ジャックの仕事というのはフリー契約の自転車急便だ。上司に見張られている訳でもないくせに、堅物《かたぶつ》め。
「切るな! 大事な話だ。フィアカラという名を知っているか?」
『叛逆者フィアカラか? ダナの宮廷にはよく姿を見せていたが』
これには驚いた。だがフィアカラはダナ王室付き魔術者だったわけだから、元ダナ王族のジャックが知っていても不思議はない。
「そのフィアカラだ。そいつがこっちに来ているらしい」
同盟メンバーが殺害されたこと、送り付けられた挑戦状、フィアカラの弟子で愛人だった魔女のことなどを手短かに話した。ジャックは電話の向こうでしばらく黙り込んでいたが、やがて沈んだ声で言った。
『……フィアカラの最初の罪状《ざいじょう》は、僕を次期国王に擁立《ようりつ》しようとしたことだ』
「なんだって!?」
『彼は、魔力の勝《まさ》る者がそうでない者を統《す》べるべきという考え方だった。だから弟ではなく、庶出《しょしゅつ》でも霜の力を持つ僕の方を王位に就《つ》け、自分が摂政《せっしょう》になろうと考えたんだ。僕はその申し出を拒否し、彼は拘禁《こうきん》された。三年ほど前のことだ』
「じゃ、奴はあんたをえらく恨《うら》んでいるんじゃないのか?」
『判らない。ただ、鉄牢の刑は酷《ひど》すぎると思ったが、僕は口を出せる立場ではなかった』
「だろうな」
フィアカラの計画が頓挫《とんざ》したあと、今度は新|王太子《おうたいし》となったニムロッド王子の暗殺未遂事件が起きた。その事件が結果的にジャックに国を捨てさせることになったのだ。
しばらくの間、二人とも黙りこんだ。再び会話の口火を切ったのはジャックだった。
『レノックス、一つ確認したい。魔女の方は、確かに裁判で地獄穴送りを宣告されたのか?』
「そうだ。それがどうかしたか?」
『いや、少し気になっただけだ。仕事中だから、もう切る』
「おい! あんただって危ないんだぞ!」
『用心しておく。報《しら》せてくれて有《あ》り難《がと》う』
「あぁ?」
聞き返す間も無く通話はぷつんと切れた。
まったく、柄《がら》にもないことを言いやがるせいでいろいろ言いそびれた。同盟に入れとか、いつまであんな不便な場所に住んでる気なんだとか。大体こんな時に仕事もないじゃないか。
こんな時といえば、アグネス嬢《じょう》ちゃんもえらい時に来たもんだ。ラムジーには当分|狼《おおかみ》でいてもらうことになるし、早く村に帰した方がいい。
アグネスを待たせてあった談話室に急いで戻った。いつもよりもかなり多い人数がたむろしているが、アグネスの姿は見えない。
「おい、半妖精の嬢ちゃんが来てただろう?」
金髪で背の高いタルイス・テーグ族が困ったように言った。
「それが、怒って帰ってしまったんだよ」
「まったく、怒りっぽい娘さんだよなあ」
小柄なブラウニーが肩を竦《すく》めて言う。
「おまえら、何か怒らせるようなことを……」
「べーつに。皆で求婚しただけサ」
「何だとぉ?」
「この世界じゃ結婚が重視されてるっていうから、正式に申し込んだのに怒るなんてさア」
「おまえら全員でか……?」
「そ。日替わりで結婚すれば問題ない」
「そういうのは結婚とは言わん!」
頭から湯気《ゆげ》を立てて怒っている様子が目に浮かぶ。嬢ちゃんはああ見えて潔癖《けっぺき》なのだ。
「おまえら、ちっとはまともに勉強しろ! それから、すぐ連絡が回ると思うが、仲間が一人殺された。犯人は捕まってない」
「犯人が人間ってことは……」
「いや。残念だが殺《や》ったのはラノン人だ。明らかに〈妖素〉目的だったからな」
騒《ざわ》めきが広がるなか、一人のプーカ族が手を上げて言った。
「でも……本部に居れば安心だよね」
「そうだな。オレたちはここに居るよ」
互いに顔を見合わせて頷き合う。
この暢気《のんき》な連中をどうやって守るかを考えると暗澹《あんたん》とした気分になった。上級魔術者が相手ではここも安全とは言い切れない。
「そう思うが、注意しろ」
それにしてもアグネス嬢ちゃんはどこに行っちまったんだ? 〈同盟〉の宿泊所に泊めてやることになっていたのだが、この分だとここには帰ってこないかも知れない。
レノックスは歯がみした。なんだってこう次々と問題が起きるんだか。
魔術者フィアカラの挑戦状に、いつどこに現われるか分からない風の魔女、四人の所在不明者、ジャックは身の安全に無頓着《むとんちゃく》だし、そのうえアグネスまで行方不明ときてる。
まったく、頭が痛かった。
◆◆◆
鋼と硝子の空中通廊を渡り切り、シールシャは今度は対岸に建つ双子の塔の鉄の箱――リフトの前に立った。真横に立つアグネスにちらりと目をやる。
「わたしたち、またこれに乗るのね?」
「もちろんよ」
キュッと眉を上げてアグネスが応えた。唇の端が堪《こら》え切《き》れないように笑っている。
「さ、乗りましょ!」
正直に言うと、下りは上りよりも少し余計に怖かった。すーっと足下から地底に吸い込まれていくような感覚が気味悪かったのだ。アグネスが小さな声でヘンな感じ、と囁《ささや》いた。シールシャも声に出して呟《つぶや》いてみた。
「本当、変な感じだわ」
塔の外は広々して明るかった。鋼の荷車が連なるように大通りを走っていく。車の道は繋《つな》ぎ目のない一続きの敷石《しきいし》で出来ているので荷車の走りは滑《なめ》らかだ。
「わたしたち、これから何処《どこ》に行くの?」
「やっぱりピカデリー・サーカスのエロス像かな。〈チューブ〉に乗って行けるわ」
「〈チューブ〉というのは?」
「ええと、地下鉄《アンダーグラウンド》のことよ。ここじゃそう言うんだって」
地下《アンダーグラウンド》に乗る? どういう意味だろう。言葉の解釈が間違っているのだろうか。
シールシャはきょろきょろ辺りを見回しながらアグネスの後について歩いた。ラノン城に劣《おと》らない規模の石積みの城を見上げ、二段になった赤い巨大な鉄の荷車に目を瞠《みは》り、高い鉄柵《てつさく》でぐるりと囲《かこ》われた円形の庭の横を通りすぎる。
「あ、ここだわ。タワーヒル駅」
アグネスは地下へと続く薄暗い階段をどんどん降りていく。さっきは空中通廊を渡ったから、今度は地下のトンネルなのだろうか。
「シールシャ、あんた小銭《こぜに》持ってない?」
首を横に振る。小銭どころか、この国の通貨は一銭も持っていない。咄嗟《とっさ》に、財布は掏《す》られたと嘘をついた。
「ええっ? 大変だったんだ。じゃ、あたしが出しとくね」
アグネスが買ってきた掌《てのひら》くらいの四角い紙切れを渡された。通行証らしい。
「ええと、これをここに入れる……んだと思うんだけど……」
彼女が自信なさげにゲートに通行証を差し込んだ瞬間、横棒《よこぼう》が閉まり、目にも留まらぬ速さで紙切れが吸い込まれた。アグネスが突拍子《とっぴょうし》もない大声で叫ぶ。
「やだっ! キップを食べられちゃった!」
が、紙切れは呑み込んだのと同じゲートの少し先の部分から飛び出していた。
「あの……アグネス、あっち側から出て来ているように見えるけれど」
「あれ? あらやだ、ホントだわ」
アグネスが顔を赤らめながら通行証を引っこ抜くと、ゲートの横棒は左右に開いた。そういう仕組みなのだ。
「だって、初めて見たんだもの……。うちの田舎《いなか》には地下鉄だってないし、自動の改札機なんかもちろんないしさ……」
「……わたしも初めて見たわ」
「ホント? あー良かった、あたしだけ知らなかったんじゃなくて!」
大きな身体を縮《ちぢ》こめるように言うので、思わず笑ってしまった。
アグネスの失敗のおかげでシールシャの方はスムーズにゲートを通ることが出来た。そこからさらに地下深くまで階段を降り、大きな丸いトンネルの中に出た。
「すぐに来ると思うけど」
何が来ると言うのだろう。だが、それを尋《たず》ねる前に地鳴《じな》りのような音が暗いトンネルを揺るがせた。思わず身を乗り出す。丸い闇の中、横に並んだ二つの光が近づいてくるのが見える。
何!?
アグネスが何か叫んでいた。でも雷鳴《らいめい》のような凄《すさ》まじい音にかき消されて聞こえない。轟音《ごうおん》と風圧と光とが目と鼻の先を通過していく。まるで音と光を放《はな》つ巨大な長虫《ワーム》のようにそれは目の前を延々《えんえん》と走り、走り、次第に速度を落とし、ゆっくり、鈍重《どんじゅう》に――停止した。
竜が溜め息をつくような音をたてて硝子の扉が開き、人が吐き出される。
驚愕《きょうがく》とともにシールシャは理解した。この鉄と硝子の長虫が〈チューブ〉なのだ。
〈チューブ〉とは、あの〈リフト〉と同じに人を乗せてすごい速度で地底を移動するものなのだ。垂直と水平の違いはあるけれど……。
「シールシャ!」
ふと気づくと、アグネスに腕を掴《つか》まれて後ろに引っ張られていた。
「そんな端にいたら危ないじゃない!」
さっきからアグネスはそう叫んでいたのだ。その意味が呑み込めてきて、急に足が震えだした。巻き込まれたら死んでいたのだ。
「大丈夫? 顔が真っ青よ」
「ええ……ええ、わたしは大丈夫だわ」
けれど心臓は早鐘《はやがね》のように打っていた。ラノンでは怖いものなど何一つなかったのに……。
「これに乗る? 一本待とうか?」
アグネスが訊《き》いた。シールシャは真昼のように明るい〈チューブ〉の中を凝視した。
「乗るわ」
毒喰《どくく》らわば皿まで、だ。ここまで来てこれに乗らずに引き下がるなんて、出来るわけないじゃない。
「あれは何?」
歩きながらアグネスが案内書をめくる。
「ええと、あれは〈ネルソン提督《ていとく》記念柱《きねんちゅう》〉」
広場を見下ろす提督の足下には四体の無翼《むよく》の獅子《しし》像が蹲《うずくま》っている。噴水の周りには大勢の人々が何をするでもなくたむろしていた。
「すごい人出だわ。祭りでもあるの?」
「ううん。普通の土曜日じゃない?」
「この街はとても栄えているのね……」
〈チューブ〉は胸|躍《おど》る体験だった。鋼と硝子の長虫のようなチューブは多くの人々を乗せ闇の中をがたがた轟々《ごうごう》と物凄い速さで突き進む。そして光に満たされた駅舎につくたびにピタリと停まって人が乗り降りするのだ。
チューブを降りて〈ピカデリー・サーカス〉で〈エロス〉という翼人《よくじん》の銅像を見て、それから前後左右を眺めながら二人して大通りを歩いた。何もかもが物珍しかった。
「わたしたち、次はどこへ行くの?」
「真っすぐ行けばハンガーフォード橋。そこから〈|ロンドンの目《ロンドン・アイ》〉がよく見えるって」
「じゃあ、行きましょう」
アグネスがくすくす笑いながら耳打ちする。
「あたしたち、これじゃまるでお上《のぼ》りさんみたいじゃない?」
「だってわたしたち、そうでしょう?」
互いに顔を見合わせ、プッと吹き出した。アグネスは笑いながら小走りに駆けだした。
「はやく行きましょ! もうすぐそこよ」
何本もの白いポールから扇《おうぎ》の骨のようなワイヤーで吊られた吊り橋は、それだけでも充分に見物《みもの》だった。けれど、本当に見物なのは――。
「あれなの!? あれが〈ロンドンの目〉?」
「そう、あれが大観覧車《だいかんらんしゃ》〈ロンドンの目〉よ!」
川岸にそびえ立つのは、天に届くほど巨大な白い鋼の車輪だった。いったい、どれほどの大きさなのだろう。近くにある建物がみな玩具《おもちゃ》のように小さく見える。太陽の光輪《こうりん》のような無数の細い輻《や》が中心から外輪へ放射状に広がり、そのすべてが白く輝いていた。二重になった外輪の外側には細長い硝子の卵のようなものがぐるりと取り付けられている。
「あれに乗ればロンドン中が見渡せるんだって。だからロンドン・アイ」
もう何にも驚かないと思ったけれど、これには本当に驚いた。あの硝子の卵は、人が乗って外を眺める為のものだったのだ。
「わたしたち、あれに乗るの?」
アグネスは首を振った。
「今日は無理ね。すごい人気だから、前もってチケットを買ってないとダメだって」
「そうなの……わたしは残念だわ」
シールシャはがっかりして白く威容《いよう》を誇《ほこ》る〈ロンドンの目〉を見上げた。そしてあの高さから眺めたら、この異形の街はどんな風に見えるのだろうと思った。
「はい。飲み物買ってきた」
アグネスが紙製のコップを手渡しながら言った。甘く香《こう》ばしい湯気が立《た》ち昇《のぼ》る。
「これは何?」
「ええと、キャラメル……何だっけ? とにかくあんた何が好きか分からなかったから、同じの二つにしちゃった」
熱々の飲み物を用心深く啜《すす》る。焦《こ》がした糖蜜《とうみつ》の香り、絡《から》みつくほどの甘さのなかの仄《ほの》かな苦味。シールシャは小さい声で叫んだ。
「これ、美味《おい》しいわ!」
「ホント? よかった」
二人で、熱くて甘い飲み物とともに木の実の入った焼き菓子を頬張《ほおば》った。菓子は、ほろほろと素朴《そぼく》な味がした。
アグネスが椅子の上で伸びをした。
「ああ、楽しかった!」
「ええ、本当に楽しかったわ」
そう答えてから、シールシャはそれが本心だったことに驚いた。地獄穴からこの恐ろしい異世界に落とされて途方に暮れていた筈なのに、そんなことも忘れるくらいに楽しかったのだ。
アグネスが言った。
「ホント言うとさ、あたし一人でロンドン観光しなきゃならなくなって困ってたんだ。当てにしていた相手に会えなくなっちゃって」
「約束していたの?」
「そうじゃないんだけど、いつでも来ていいって言うから村から出て来たのに、来てみたら会えないとか言うんだもの」
「男?」
「男っていうか、ガキよ。幼馴染《おさななじ》みなんだけど、チビでグズでお人よしで。そのくせあたしのことネッシーとか呼ぶ失礼なヤツ」
「ネッシー? 可愛《かわい》い綽名《あだな》じゃない」
「可愛くないわよお。他の男の子みたいにネス湖《こ》の怪獣《かいじゅう》っ、とかストレートに言わないだけまだマシなんだけどさ……」
アグネスの頬が薔薇色《ばらいろ》に染まる。それで、ピンときた。
「おまえ、その子が好きなのね」
「やだっ、違うわよ……ええっと、だから、その……何で分かるの?」
「顔に書いてあるもの」
「えっ! やだ、顔、赤い……?」
彼女はますます真っ赤になり、紙のナプキンを掴んでくしゃくしゃにした。
「好き……っていうのかどうかよく判んない。ちっちゃい時から一緒だったし。けど、その子が家出しちゃって、行方が分からなくなって、二度と会えないんじゃないかと思ったら、もうどうしていいか分からなくなっちゃって。で、その子が村に帰って来た時に、思わず言っちゃったの……」
「相手は何て?」
「ええと、その、それがね……遠くからこっそり言ったから、聞こえたのかどうかも判んなくて……」
「それで、確かめに来たのね?」
「うん……そうだったんだけど、仕事とかあるから話できないって……」
「それは言い訳ではないの?」
「違うわ! ラムジーにはホントに大切な仕事があるのよ。それは解ってるんだけど……」
「なるほどねえ……」
男というのは、往々《おうおう》にしてそういう言い訳をするものなのだ。この街には若者が心を奪われるものがたくさんあるに違いない。田舎から出てきた幼馴染みなど、もう迷惑に思うだけなのかも知れない。でも、アグネスは信じたがっている。夢を見たい年頃だし――。
ふと思った。本当は、自分だってアグネスとそんなに違わない歳なのだ。けれど夢を見る暇《ひま》もなく、ふわふわした恋への憧《あこが》れは一瞬で消えてしまった。自分を摘《つ》み取《と》った男の不実を目《ま》の当《あ》たりにしたときに。
でも、だからと言って無下《むげ》に否定してアグネスの夢を壊したくはなかった。それに、万に一つの確率だけれど、もしかしたらその若者の言い分が本当だということもあり得る。
シールシャは慎重に言葉を選んだ。
「もう少し待ってあげたらどう? 大切なのは気持ちで、時間じゃないわ」
「ううーん、ホントはそうなのよねえ。でも、なんだか気が焦《あせ》って、一人でロンドンまで来ちゃったの……バカみたいでしょ」
「恋は人を愚《おろ》かにするものだわ。でも、そうでなければ本当に恋していると言えないんじゃない?」
「えっ、恋をするとバカになるの? どうしよう……でも、きっと大丈夫だわ。だって、もともとバカだから、これ以上バカになりようがないもの!」
これには思わず笑ってしまった。
「馬鹿じゃないでしょう。おまえは少し……初心《うぶ》なだけだわ」
「それって、やっぱりバカってことじゃない?」
「違うわ、おまえは馬鹿じゃないったら!」
「ううん、ほんとバカなんだってば!」
「馬鹿ね! おまえは馬鹿じゃないと言っているじゃないの……」
一瞬、沈黙が降り、それから二人同時に吹き出した。シールシャは涙を流しながら笑った。
笑いすぎて息が苦しい。
「あぁ、可笑《おか》しい! おなか痛い……!」
「わたしも……」
息をつき、顔を見合わせる。次の瞬間、また笑いの発作に襲《おそ》われた。もう止まらない。テーブルを叩き、身を捩《よじ》る。何がそんなに可笑しいのかも判らないのに、あとからあとから笑いが零《こぼ》れ出てくるのだ。
もうこれ以上は笑えないというくらい笑って、気づいたら店中の注目を浴びていた。アグネスは目の端に浮かんだ涙を指で拭《ぬぐ》い、大きな身体を疎めるように囁いた。
「出よっか……」
「ええ……」
こそこそと席を立って店の外に出た。まだ笑いの余韻《よいん》が身体の奥にくすぶっている。
「あぁぁ、こんなに笑ったのは久しぶり!」
「わたしもだわ」
もしかしたら、初めてかも知れない。普通の娘がするようなことなど、何一つしたことはないのだから。
店にいたあいだに日はすっかり暮れて空には藍色《あいいろ》の闇が降りている。けれど街は明るかった。窓からは暖かな灯《あかり》が漏れ、街灯が石畳《いしだたみ》の路面を明々《あかあか》と照らしていた。
「ねえ、あれを見て!」
アグネスが町並みの上、遙か向こうの夜空を指さす。シールシャは息を呑んだ。
幾本もの――光の塔だ。まるで眩《まばゆ》い宝石をちりばめたようにキラキラと輝き、夜空に蒼白《あおじろ》く浮かび上がっている。
「とても、綺麗《きれい》だわ……」
「うん……ホントに綺麗……。あれ、たぶんドックランズの摩天楼群《まてんろうぐん》よ。一番大きいのがカナリーウォーフ・タワー」
しばらくの間、二人並んで身じろぎせずに光の塔を見つめていた。それから、アグネスが言った。
「シールシャ。あんたこれからどうする?」
3――ここにいてもいいの?
ジャックは部屋のドアを叩《たた》く音に気づいた。この部屋を訪《たず》ねてくる者は滅多《めった》にいない。そもそも〈惑《まど》わし〉をかけてあるのでセカンドサイトの持ち主でなければドアを見つけられないのだ。それにレノックスからの電話の件もある。ジャックは素早く立ち上がると壁際に身を寄せ、すぐにも闘《たたか》いに移れる体勢で誰何《すいか》した。
「誰だ?」
意外な声が返ってきた。
「あの、あたし。クリップフォード村のアグネス・アームストロングです」
そういえば、近々アグネスが上京するとラムジーが言っていた。急いでドアを開ける。金髪長身のアグネスと、黒髪で小柄な少女が寄り添うように立っていた。
「今晩は、ウィンタースさん」
「どうしたんだ? こんな時間に」
アグネスはもじもじと俯《うつむ》いた。
「あの……。今晩泊めて貰《もら》えないかと思って。空《あ》いてる部屋がいっぱいあるってラムジーが言ってたから」
「アグネス。ここはレディが泊まるような場所じゃないよ」
部屋があるといっても、この建物自体が何年も空き家の状態なのだ。ジャックが地下室を不法占拠《スクウォッティング》して二年。今年の秋からは二階の部屋を整えてラムジーが寝起きしているが、他の部屋は荒れ放題だし鍵もない。
「迷惑はかけないから! 食べるものも買ってきたし!」
持ってきたプラスチック袋をかさかさと振る。
「だが……」
「お願い! この娘《こ》、お金を盗まれちゃって文無《もんな》しなの。あたしも行く当てないし」
「レノックスが宿泊所を用意していたんじゃなかったのか?」
「あそこにはもう近寄りたくないんだもの。スケベなオトコがいっぱいいて、危険だわ」
ジャックは苦笑した。
「一応、僕も男なんだが」
「あなたは心配ないわ。だってあなたは……ラムジーの尊敬する人じゃない」
「それは買いかぶりというものだよ」
やれやれ、と思った。アグネスの無邪気《むじゃき》さに敵《かな》う者はいないだろう。しかしこのまま追い返すわけにもいかない。
「ちょっと待っていてくれないか」
アグネスが同盟を飛び出してきたのなら、レノックスは今ごろ心配しているだろう。ジャックはこの間の携帯番号に電話してみた。
「レノックスか? 実は、アグネスがここに来ているんだが」
電話の向こうでレノックスが素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。
『まったく、嬢《じょう》ちゃんはどこへ行っちまったのかと思ってたぜ!』
それから、出来ればそちらに泊めてやって欲しいと言った。
『嬢ちゃんにコナかけた連中は叱《しか》っておいたからそっちは大丈夫だと思うんだが、例の件で〈同盟〉も安全とは言い切れねえからな。敵に知れてない分、あんたのとこの方が安全かもしれん』
しかし、妙齢《みょうれい》の女性を男の部屋に泊めるのはやはり問題だ。ジャックは少し考えてから言った。
「……じゃあ、こうしよう。彼女たちをラムジーの部屋に泊めてもいいか彼に聞いてみてくれないか」
変身中のラムジーは言葉は話せないが、イエス・ノーなら吠《ほ》え声《ごえ》の回数で答えられる。
『彼女たち?』
「ああ、友達が一緒なんだ」
『そうか? さっきは一人だったが。まあ、とにかくちょっと待ってくれ』
ややしばらくして、返事があった。
『OKだそうだ。アグネスによろしくとな』
「言葉が分かるのか?」
『あ、いや、そんな感じってことだ』
「伝えておく。彼には危ないことはしないようによく言っておいてくれ」
『心配すんな。俺がさせねえよ』
よく言うものだ、と思った。前の満月のときにもラムジーは同盟の仕事に駆り出され、人狼《ウェアウルフ》でなければ命を落とすような怪我を負ったのだ。レノックスは約束を違《たが》えない男だが、彼の力にも限界はある。
しかし〈仲間〉のために尽力《じんりょく》するのはラムジー自身の意志だからそれを自分が止めることは出来なかった。またそういうところがラムジーの美点《びてん》でもあるのだが。
ジャックは通話を切り、緊張の面持《おもも》ちで待つ大柄な少女に向かって微笑《ほほえ》んだ。
「アグネス。ラムジーは今夜は戻れないが、自分の部屋に泊まっていって欲しいそうだ」
「本当? ラムジーがそう言ったの?」
「いや、レノックスを通しての伝言だが。よろしくと言っていたよ」
「なーんだ。やっぱりそうなんだ……」
アグネスはラムジーが狼《おおかみ》になっていて話が出来ないことを知らずに上京したらしい。会って、さぞかしがっかりしたことだろう。彼女は落胆《らくたん》の色を滲《にじ》ませたが、すぐに気を取り直した風を装《よそお》ってはきはきと言った。
「でも、泊まる所が見つかって良かった。シールシャ、この人はジャック・ウィンタースさん。前にラムジーを助けてくれた人。こっちはシールシャ。一緒にロンドン観光してるの」
「ジャックだ。よろしく、シールシャ」
「あ……よろしく……」
アグネスの後ろに隠れるようにしていた少女はおずおずと右手を差し出し、ジャックの眼《め》を見上げて驚愕《きょうがく》の色を浮かべた。
「この眼が珍しいかい?」
「いいえ……あの、ご免《めん》なさい……」
「いいんだ。見られるのは慣れている」
それでも少女はジャックの瞳から目を離せずにいた。確かにフロスティ・ブルー・アイー――この霜《しも》のように淡い瞳はこの世界でも珍しく、人目を引く。それにしても彼女の反応は少し度が過ぎているように思えて気になった。それはこの眼を知らないというよりも、むしろその意味を知っているがための驚き――に見えたのだ。
この瞳が特別な意味を持つのはラノン――それも特にダナ王国においてのことだ。
アグネスが彼女の袖《そで》を引っ張って囁《ささや》いた。
「シールシャ、この人ハンサムだけど、本にしか興味がないから見つめてもダメだわよ」
「あ……いえ、わたしはそんな……」
黒髪の少女はようやく視線を逸《そ》らしたが、それでもまだ気になるようで、ちらちらとこちらに目を向けている。
「手厳しいね、アグネス。ラムジーに聞いたのかい?」
「手紙で心配してたわ。食費を削《けず》って本を買ってるって。ちゃんと食べなきゃダメよ」
「参ったな……」
本を買うのはこの世界についてもっとよく知るためだし、別に食費を削っているつもりでもなかったのだが、ラムジーにはそう映っていたらしい。
「ラムジーの部屋は二階だ。案内するよ」
「うん。行こ、シールシャ」
黒髪の少女はアグネスに促《うなが》され、ひどくのろのろと階段を登って行った。
◆◆◆
「あとで予備の毛布を持ってくるよ」
妖精の国の元王子様で不法占拠者《スクウォッター》のジャック・ウィンタースはそう言って部屋を出ていった。彼が空きビルの地下室で暮らしているというのは聞いていたけれど、実際に見るとひどく奇妙だった。こんな所に住んでいるのに、あの人はなんだかやっぱり王子様に見える。
アグネスはラムジーのいない部屋を見回した。
最初の感想は――案外片づいているじゃない――だった。どちらかといえば殺風景《さっぷうけい》という方が正しいのかも知れない。割れた窓には板が打ち付けてあり、古道具のようなソファや机がぽつんと床の上に置かれている。
なんだかどきどきした。
ラムジー、ここで暮らしているんだ……。
小さい時はお互いの家でよく遊んだけれど、町の総合中学校に上がった頃からはしなくなった。中学で新しい友達がたくさん出来て、チビメガネの泣き虫ラムジーと仲良くしているのが恥ずかしくなったのだ。
「アグネス……わたし……」
後ろでためらいがちな声がし、アグネスはシールシャが戸口の近くにぽつんと突っ立ったままだったことに気づいた。
「あ、ごめん。その辺に適当に座って」
「アグネス、わたしここにいてもいいの……? おまえの想い人の部屋なんでしょう?」
「気を遣《つか》わないでよ。ラムジーはそんなこと、絶対気にしないから。優しいのと素直なのと人が好《い》いのだけが取《と》り柄《え》でさ。ホント、天然記念物みたいなヤツなんだから」
シールシャがクスッと笑った。
「アグネスはその若者を好きだって、とてもよく解《わか》ったわ」
「えっ、そう? だって、あいつってホントにそんなだもの」
事実だから、別に誉《ほ》めた訳ではない。それでも気恥ずかしくなり、慌てて付け加えた。
「でも、すごくガキで、泣き虫で、お兄さん子なんだから。おまけに背があんたとあんまり変わらないくらいなの。やっぱりつり合わないわよ。こんなデカ女とじゃ……」
「わたしはおまえよりも大きな女を知っているけれど、その女には何人も恋人がいたわ」
思わず溜め息が漏《も》れた。
「大きくても、美人ならねえ……」
「美人かどうかは、自分で決めればいいことだわ。でも、おまえは充分美人だと思う。ええと……もう少し身に沿った身なりをすれば」
「あんたって上手いこと言うわねえ! でも、この背丈《せたけ》だと着られる服ってあんまりなくてさ。まだちょっと伸びてるし。今着てるのは姉貴のお下がりだから特にひどいんだけど」
姉ふたりは巨人の形質が表に出ていない。可憐《かれん》なタイプで、ピンク色とか小花模様《こばなもよう》がよく似合う。そのお下がりは当然アグネスには小さすぎるし似合わないのだ。でも、背が高いことが必ずしもマイナスではない職業もある。家族はアグネスが得意のスポーツで奨学金《しょうがくきん》を貰《もら》えればいいと思っているらしい。でも、アグネスの希望は違った。
「ねえ、笑わないって約束してくれる?」
「わたしは、笑わないわ」
シールシャはおかしなくらい真剣な面持ちで頷いた。
「じゃ、言うね。あたしさ……ホントはモデルになりたいんだ。ロンドンに来たのは、その下見もあって」
「モデル……?」
「あ、だからファッションモデルよ。背が高い方が有利だもん。服を良く見せるのが仕事だから、顔はそんなに問題じゃないってティーンズ雑誌に書いてあったし。あとは服を着て舞台で恰好《かっこう》良《よ》く歩ければいいだけよ」
「服を着て歩くだけなの? アグネスはそんなことがしたいの?」
「だって、カッコいいじゃない? 世界のいろんな場所に行けるのよ。パリとかニューヨークとかミラノとか……東京や北京にだって! そしたらそこで何か素敵なことが見つかるかも知れないしね。でもそのためには、もっと痩《や》せなくちゃ、だけどさ」
「よく分からないけど……おまえにはたくさん夢があるのね」
「シールシャにだってあるでしょ?」
「さあ……わたしは分からないわ」
シールシャが寂《さび》しそうに言ったので、悪いことを聞いてしまったと思った。いつも一言多いと分かっているのだけれど、ついポロリと言ってしまう。
そういえば、シールシャはどこから来たんだろう。発音に訛《なま》りがあって、言葉遣いはちょっと変わっている。時々妙な単語が解らないことがあるし、たいしたことがないことですごく感動したりする。
だけど、それは自分もおんなじかもしれない。
ロンドンはクリップフォードにはないものでいっぱいで、何もかもが珍しかった。頭で想像していたのとは全然違う。自動改札機の失敗は、今思い出しても恥ずかしいけど……。
そういえば、タワーブリッジに登ったときも可笑《おか》しかった。二人ともリフトに乗るのが初めてなのに、それがバレないように無理に平気な顔をして。シールシャは最初は景色になんか興味がないようなふりをしていたのに、いざ橋の上から外を見たら口をぽかんと開けて夢中で眺《なが》めていたっけ。
クスッと思い出し笑いが漏れた。二人で見物《けんぶつ》した様々な場所や光景、そのときの楽しさがありありと心に浮かんでくる。
今日は本当に楽しかった。ラムジーとは話せなかったけど。でも、その方が良かったのかも知れない。あの時のことをはっきりさせたら答えを聞かなくちゃいけないし、それはやっぱり怖い。これで良かったのだ。
アグネスはプラスチック袋をあけ、サンドイッチとジュースを取りだした。
「もう晩ご飯にしようよ。バジル風味のツナとレモン味のチキン、どっちがいい?」
「アグネス……」
「ねえ、どっち?」
シールシャが躊躇《ためら》いがちに言った。
「アグネス。わたしはおまえにたくさん迷惑をかけているわ」
「えっ。そんなことないわよ」
彼女は首を振り、サンドイッチを指した。
「これもおまえが買ったものだわ」
「そんなこと言わないでよ。あんたと会ったのって、すごくラッキーだったと思うんだ。一人でロンドン見物したって全然つまらなかったもの。あたしたち、きっとおんなじくらい物知らずだしね」
「でも……!」
「困ってるときはお互いさまじゃない。それに、今日はすっごく楽しかったし」
自分が初めての土地で連れもなくお金も失《な》くしてしまったら、どうしていいか分からなくてきっと途方に暮れてしまう。朝会ったときのシールシャはそんな感じだった。道に迷って、大勢の中でたった一人みたいだった。
「だからさ、食べようよ」
黒い大きな眼が瞬《またた》いてアグネスをじっと見上げた。
「ええ、そうね……。そうしましょう」
それが潤《うる》んで見えたのは、光のせいなのかどうか判らなかった。
◆◆◆
執務室のデスクの上に一通の手紙が置かれている。封筒も便箋《びんせん》も黒く、文字は金色だ。
盟主《めいしゅ》ランダルはじっと封書を睨《にら》み、それからつまみ上げてライターの火を近づけた。オレンジ色の炎が黒い封書をちろちろと舐《な》めて燃え上がる。炎が封書を完全に焼き尽くすと灰を崩して水に流した。
内容は一言一句《いちごんいっく》暗記している。
だがこの提案は、呑《の》めない。
ランダルは執務室のデスクの上にロンドン広域地図を広げた。それから〈妖素《ようそ》〉の灰を掌《てのひら》に空け、ふっと息を吹きかけた。
「クルエス≠諱Aスーイル≠諱B〈耳〉よ〈眼〉よ。疾《と》く戻れ、我が元に」
不意に二つの小さな光球《こうきゅう》がデスクの上に現われ、空中を素早《すばや》く飛び回った。遠耳《とおみみ》、遠眼《とおめ》の光だ。一見すると鬼火《おにび》に似ているが、赤みが強く動きが速い。そしてこの光は通常のセカンドサイトでは視《み》えない。この光を視ることができるのは術をかけた当人のみである。
ランダルは諸手《もろて》を宙にかかげ、くるくる飛び回るその光を注意深く左右の掌の間に導《みちび》いた。それからゆっくりと慎重に両掌を近づけていく。そして互いに滑《すべ》るように動く光球を逃《のが》さないよう、合わせた掌の中にぴったりと挟《はさ》みこんだ。
赤い光が、指の間に透《す》けた。俯き、きつく目を閉じる。
「〈耳〉よ、〈眼〉よ。そなたらの見聞きしものを我に伝えよ」
次の瞬間、堰《せき》を切って情報がなだれ込んできた。
人の顔。顔。顔。走り去る車の窓、信号灯、空、ショーウィンドウ、鳥、バイク、怒号《どごう》、喧騒《けんそう》、警笛《けいてき》、会話、会話、会話。
(株式市場は模様眺めの展開で……)(……だからやめとけと……)(サーディンをちょうだい、それとブロッコリー……)(あいつまた遅刻か……)(今週末ゴルフをどう……)
歪《ゆが》んで流れる無数の映像と脈絡《みゃくらく》のない会話の切れ端が一気に押し寄せた。ロンドン市内で無作為に〈耳〉が聞き、〈眼〉が見たすべての音と映像が圧縮《あっしゅく》され、止めようもなく流れ込んでくる。
(……ルシャ。あんたこれからど……)
ぴくりと眉《まゆ》が上がった。
「もう一度」
(シールシャ。あんたこれからどうする?)
大人と子供の境目《さかいめ》にある少女の声だ。鼻にかかったアルト。スコットランド訛りがある。
「〈眼〉は何を見た?」
〈眼〉が映し出したのはウォーターフロントの風景だった。玩具《おもちゃ》のような街灯、硝子《ガラス》のビルディング、真新しい敷石《しきいし》、雑踏、川沿いに立ち並ぶ屋台――。
薄笑いが浮かぶ。テムズ河畔《かはん》の新名所、ミレニアム・マイルだ。ここからいくらも離れていない場所である。
シールシャという名はここでは稀《まれ》だ。全く無いわけではないが、それが今日この近辺で聴かれたことを偶然と片づけるのは愚《おろ》か者《もの》のすることだ。そっと両手を離しながら囁く。
「〈耳〉よ、その声の主を探せ。〈眼〉よ、その目の見たものを映せ」
二つの赤い光の玉はふらふらと掌からさ迷い出て、それから速度を増し、壁を突き抜けて飛び去った。
これで見つかるといいのだが。
風の魔女を味方に付けられれば大きな戦力になる。だが本当にフィアカラを裏切るよう仕向けられると期待するほど楽天的にはなれない。ランダルは最悪の事態について考え、そしてそのとき為《し》なければならないことについて考えた。
引き出しの鍵をあけ、胡桃《くるみ》くらいの大きさの黒水晶《モリオン》を取り出す。夜が凝縮《ぎょうしゅく》したような漆黒《しっこく》の玉は、手の中で微《かす》かな湿《しめ》り気《け》を帯《お》びていた。
これはレノックスにはさせられない仕事だ。
手を汚すのは、一人でいい。
◆◆◆
シールシャは寝台の上で身体を起こし、膝《ひざ》を抱えた。隣でアグネスが静かな寝息をたてている。
もしかしたら、これが友達というものなのかもしれない。一緒に遊んで、笑って、好きな男の子や将来の夢の話をして――。
思い出せる限り、友達と呼べる相手はいなかった。小さな頃から並の大人よりも大きな魔法を使いこなせたシールシャを同年代の子は恐れて近づこうとしなかったし、魔術者フィアカラに預けられてからは悪名は国中に広がった。
アグネスが恐れずに話しかけてきたのは、〈風の魔女〉だと知らなかったから――。
この世界では、誰も自分を知らない。
通りを歩いても、誰も振り向いたり慌てて目を逸《そ》らしたりしない。ほらあれが……というひそひそ声を耳にすることもなければ、物陰から注《そそ》がれる好奇の視線を気にすることもない。まるで空気のように自由だ。
シールシャはしばらくの間アグネスの寝顔を見つめていた。それから彼女を起こさないように気をつけながらそっと寝台から降りた。
確かめなければならないことがある。
地下室への廊下は暗く、扉はところどころ塗装が剥《は》げていた。
シールシャは拳を握りしめ、扉の前で長いあいだ躊躇った。それから腕を持ち上げてゆっくりと二度ノックした。
扉は、すぐに開いた。
「レディがこんな深夜に男の部屋を訪ねるのは感心しないな」
黒髪の青年は読みさしの本を手にしたまま軽く眉を顰《ひそ》めて言った。
「ご免《めん》なさい……眠れなくて……」
彼は小さく笑ってシールシャを招き入れた。
「実を言うと、来ると思っていた。入って。暖かい飲み物でもいれよう」
地下の部屋は狭《せま》く、雑然としていた。つづれ織《お》りのひとつも掛けられていない灰色の壁は牢獄《ろうごく》のように寒々しい。彼は色も形も違う二つの器を小さなテーブルの上に置いた。ふわりと甘い香りが漂《ただよ》う。
「どうぞ。好きな方を選ぶといい」
把手《とって》のついた赤い焼き物の器《うつわ》を恐る恐る取ると、彼は残った青い器を取った。
「口に合うといいが」
そう言って、先に一口飲んで見せる。毒は入っていない、という意味だ。
シールシャは意を決して熱い飲み物にほんの少し口をつけた。独特の香ばしさがあり、舌を蕩《とろ》かすように甘かった。
「……美味《おい》しい」
「〈ホットチョコレート〉だよ」
湯気《ゆげ》の向こうで見つめる二つの瞳は、霜のように蒼白《あおじろ》い。
[#挿絵(img/Lunnainn2_243.jpg)入る]
二年前、ダナ王室は一人の庶出《しょしゅつ》の王子を地獄穴《じごくあな》の刑に処《しょ》した。穴に送られた王子の眼は左右ともに完全なフロスティー・ブルー・アイだったという。地獄穴に送られた自分がいまここにいるのなら、同じく穴に送られた王子がいても不思議ではない。
師であり恋人でもあったフィアカラの言葉が脳裏《のうり》に浮かぶ。
(ここ百年で最も完璧なフロスティー・ブルー・アイの持ち主だ。それに非常に聡明《そうめい》だ。宮廷のバカどもにはそれが解らんのだ……)
フィアカラは王と王太子《おうたいし》を斌《しい》してその王子を王位につけようと画策《かくさく》した。そして当の王子の告発により捕縛《ほばく》されたのだ。
やはりそうなのだろうか?
ジャック・ウィンタースはフィアカラを破滅《はめつ》に追い込んだジャック王子その人なのか、彼は自分の正体に気づいているのか……だとしたらなぜ彼は自分を招き入れたのか?
「少し、話をしようか」
「ええ」
シールシャは身構《みがま》えた。何を話すつもりなのか。フィアカラのことか、彼の叛逆《はんぎゃく》に手を貸したことか、それとも……。
ジャック・ウィンタースが言った。
「今日はアグネスとロンドン観光をしたそうだね。どこに行った?」
予想していたのと全く違う質問だった。面食《めんく》らい、用意していた答えが全部無意味になって、咄嗟《とっさ》に心に浮かぶままを口にした。
「ええと、まず塔橋《とうはし》に登って、〈エロス〉とトラファルガー広場を見て、〈|ロンドンの目《ロンドン・アイ》〉を見て、白い鋼《はがね》の吊り橋を渡って……」
「感想は?」
「とても素晴らしかったわ……」
目を閉じると、二人で見物した様々な場所や驚くべき光景が脳裏に甦《よみがえ》ってくる。めくるめくような体験だった。
「赤い、二段になった大きな鋼の荷車《にぐるま》も見たわ。人がたくさん乗っていた」
「|二階建てバス《ダブルデッカー》だ。この街の名物だよ」
「それに摩天楼《まてんろう》も見たわ。とても綺麗だった」
「ああ。ロンドンの夜景は美しいからね」
「あと〈チューブ〉にも乗ったわ!」
彼はにっこり笑った。
「一日目としては上出来だ」
「アグネスのお陰《かげ》だわ」
「彼女は不案内《ふあんない》な相手を見ると放っておけないらしい。僕も案内をされたことがあるよ」
「あの娘はとても……いい子だわ」
「僕もそう思うよ」
肯定《こうてい》されると、なんだか子供|扱《あつか》いされているようで急に恥ずかしくなった。アグネスの話をしに来たわけじゃないのに。背筋をピンと伸ばして座り直す。向こうが質問するなら、こちらにもする権利がある筈だ。
「おまえもチューブに乗ったことはあるの?」
「時々は」
「チューブも〈電気〉で動いているの……?」
「今はそうだ。昔は蒸気機関車《じょうききかんしゃ》だったと聞いているけれどね」
「鋼の荷車は……?」
「自動車のことだね。あれは大概《たいがい》はペトロルを燃やして走っているんだ。地底から採《と》れる油を精製したものだよ。でも、電気で走る車もある。牛乳配達は電気自動車だ」
「灯《あかり》もみんな電気……?」
「そう。あれもね」
彼は天井からぶら下がっている丸いガラスのランタンを指さした。中心で白い光が眩《まばゆ》く輝いている。
「電気って、何なの? 魔法ではないの?」
「残念ながら、魔法ではない。この世界には、魔法がないんだよ」
「……魔法なしに文明社会が成立するなんて考えられないわ」
「ここの人間は、全く魔法の力を持たない。だから長い年月をかけて別の方法で成し遂げたんだ。知識と知恵によってね」
「鍋蓋《なべぶた》を持ち上げる湯気を使って?」
「最初は、そうだった。それから少しずつ進歩して今の世界が出来上がった。君はジェット旅客機《りょかっき》を見たかい? 巨大な鋼の鳥だ。別の大陸まで数時間で行くことが出来る。ドラゴンに乗るよりずっと速い」
「鋼の鳥の背に乗るの? 滑《すべ》って落ちてしまわないの?」
「いや。中に乗るんだ。快適に空を旅出来るそうだよ」
シールシャは鋼の鳥の腹の中に入って空を旅することを想像してみた。それは、空を飛ぶ〈チューブ〉のようなものなのだろうか。どれくらい速いのだろうか……。
「……わたしは、乗ってみたいわ」
「試すかい? 僕は乗ったことがないんだ」
彼は微笑み、掌に乗るくらいの細長い銀色の物体を取り出した。
「見てご覧《らん》。これは携帯電話という。遠くにいる相手と話す道具だ。伝言精霊みたいなものだが、魔力と関係なく誰でも使える」
「それも、〈電気〉なの……?」
「そうだよ。この中に電気を溜《た》められるようになっている」
「電気って何でも出来るのね……魔法みたい」
「でも、万能《ばんのう》じゃない。魔法と同じにね」
ハッとした。魔法も万能ではない。単純な事実なのだけれど、人並みはずれた力を持ち、ほとんどのことを魔法で行えたから今までそんなことはあまり考えたことがなかった。
「シールシャ、だったね?」
「ええ」
「〈自由〉という意味だ。良い名だね」
「そうかしら……」
器から立ち昇る湯気を見つめた。なぜか長いこと自由ではなかったような気がする。いつからだろう。捕《と》らわれの身になるずっと以前から、少しも自由ではなかった。
そう、フィアカラと暮らし始めてから――。
彼は厳しい師匠ではなかった。むしろ、大甘だったと言っていい。彼はほとんど何も教えようとしなかった。君は特別なのだから教えるまでもない――そう言って、彼はシールシャが真っ赤になるまでキスしたのだ。彼は大人で、美男子で、当代一の魔術者と言われていた。その彼が自分を受け入れてくれたのだ。
幼い頃から両親は自分に対して何とは無しによそよそしかった。普通と違う子供をどう扱っていいのか判らなかったのだろう。けれどフィアカラは自分を理解し、認めてくれた。嬉しかった。彼の愛撫《あいぶ》に応《こた》えるとき、承認されているという確かな実感があった。
あのころ、彼に認められることが全てだった。世界には彼しかいないように思えた。彼に認められないと、自分の存在が消えてしまうような気がした。
あのころ、いつも不安だった。
彼に嫌われたら、見捨てられたらどうしようと思うと不安で、一人では何一つ決められなかった。ごく些細《ささい》なことも彼に伺《うかが》いを立て、彼の承認が得られなければ何も出来なかった。だからいつも彼の顔色を窺《うかが》い、彼を喜ばせるためには何でもした。彼の浮気も、物分かりよく目をつぶった。彼は偉大な男なのだからそれくらいは当然なのだと思おうとした。そしてそんなことのあったあと、彼が耳に注《そそ》ぎ込《こ》む言葉はいつもの二倍甘かった。
シールシャは初めて彼に贈られた指輪にぼんやりと触れた。竜を象《かたど》った台座の目の部分にキラキラ光る透明な石が嵌《は》め込《こ》んである。今見れば、細工の粗《あら》い安物だ。恐らく、いくつも買ってあちこちの女に配ったのだろう。それでも貰ったときには嬉しかった。この指輪を呉れたとき、彼は言ったのだ。
――美しいだけの女なら幾《いく》らもいる。だが、私と並び立つことの出来る女は君だけだ――
そしてこう続けた。
それを、証明しておくれ――。
シールシャは彼に言われるままに年長者に魔術合戦を挑《いど》んだ。勝つたびに彼はシールシャを褒《ほ》めそやし、愛を囁《ささや》いた。
けれど、その結果|奉《たてまつ》られた〈風の魔女〉という二つ名は嫌悪《けんお》と恐怖に結びつけられて語られ、〈魔女・魔術者連盟〉では蛇蝎《だかつ》のように嫌われた。なのに彼は気にするなと言うのだ。連中は妬《や》っかんでいるだけなのさ、と。
でも、誰もが自分を恐れ嫌っているというのに、どうして気にせずにいられるのだろう。
フィアカラが謀反《むほん》の疑いで投獄《とうごく》されたとき、悲しいのと同時に奇妙にホッとしたのを覚えている。しばらく会わずにいると、彼がいかに身勝手な男だったのか判ってきた。嘘つきで、浮気者で、傲慢《ごうまん》で、美男で才能があることを鼻にかけていて――ひどい男だった。
なのに彼が獄《ごく》を脱《ぬ》けて助けを求めてきたとき情にほだされて手を貸し、そのために自分は地獄穴送りとなったのだ。地獄穴に送られたおかげであの男から完全に自由になれたのだから皮肉なものだけれど。ここでは自分は〈風の魔女〉ではないし、誰もそんな名は知らない。ただのシールシャなのだ。
でも、ここに少なくとも一人、自分を知る者がいる。シールシャは顔をあげ、蒼白い眼をした青年に視線を戻した。
「おまえは……本当は、だれなの?」
彼は穏やかに微笑んだ。
「僕はジャック・ウィンタースだ」
「おまえは、自由なの……?」
「働くのも、野垂《のた》れ死《じ》ぬのも自由だ。尤《もっと》も、死ぬのはラムジーたちが許してくれないだろうけどね」
「おまえは、幸せなの?」
「幸せなときも、そうでないときもあるよ」
「どんなときが幸せ……?」
「自転車で風を切るとき、一人で本を読むとき、友人と語らうときは幸せだよ」
「幸せでないときは?」
「二度と会えない相手のことを思うとき……だろうね」
彼は寂《さび》しげに目を伏せた。
やはり、この人は……。
「君の会いたい相手は?」
「……おかあさん……かな……」
結局、一度も里帰りしなかった。
両親が自分を持て余しているのは感じていたし、フィアカラの元で悪名を馳《は》せるようになってからは尚更《なおさら》だった。顔を見て喜ぶ筈《はず》もない。そう思って先延ばしにしているうちに月日は流れ去って行ったのだ。
「……六年会っていなかった。もうずっと会えない……のね」
不覚にも涙が浮かんだ。敵かも知れない相手の前で泣くなんて。でも、もうこの人が敵だとは思えなかった。
「会うことがなくても、君がここで生きること、幸せになることが孝行だ。だから僕も弟のためにこの世界で生き続ける」
「……どうしてわたしにそんな話をするの?」
「君と僕は似ていると思うから」
「そうね……そうかも知れない」
フィアカラの目論見《もくろみ》がなぜ失敗したのか解った。この人は、聡明すぎたのだ。フィアカラの口車に乗らないくらいに。指の背で涙をふり払う。
「わたしは、ここでやり直せる……?」
「君次第だよ」
その言葉が、ゆっくりと沁《し》みた。
やり直せるのだ。新しい世界で。新しい自分になって――。
彼が言った。
「いくつか教えておくことがある」
彼は一枚の地図を広げた。のたうつ蛇《へび》のように蛇行《だこう》する河が街を二分している。
「この街はロンドンという。この国の首都だ。この地形に見覚えは?」
シールシャはあっ、と小さな叫び声を上げた。その河は、ラノンの中心を流れる大河《たいが》と全く同じ形をしていた。
「イス河……」
「そうだ。この河の名はテムズだが、古名はアイシスだ。今でも上流域ではアイシス河と呼ぶ地方がある。〈アイ〉という字は〈イ〉とも発音されるから〈イシス〉とも読める。一方でラノンのイス河も古い時代には〈イシス河〉と呼ばれていたのが判っている」
「どういうこと……?」
「おそらく、ラノンとロンドンは遥《はる》か昔にはひとつのものだったんだ。それが何らかの理由で二つの世界に分かれて存在するようになった。相似《そうじ》であるゆえに〈共感〉が働いて二つは分から難く結びついている。だから地獄穴による通行が可能なんだと思う」
「じゃ、穴から向こうに戻ることも……?」
「いや。こちら側には〈穴〉がない」
「そう……なのね……」
地図でラノン城と同じ位置にはやはり五角形の城がある。その北辺《ほくへん》、〈地獄穴〉のある筈の場所は緑色の小さな楕円形《だえんけい》に塗《ぬ》りつぶされていた。
「これは?」
「トリニティ・スクウェア・ガーデンズだ。ただの小さな公園だよ」
シールシャは緑色の楕円を凝視した。
そういえば昼間、城の近くで高い鉄柵《てつさく》に囲《かこ》まれた丸い庭の脇《わき》を通った……。
「君のしている指輪や首飾りは、金剛石《ダイヤモンド》だね?」
「ええ。価値のある水晶《すいしょう》や色石《いろいし》は捕まったとき全部取り上げられてしまったわ」
水晶の類《たぐ》いは魔法を多く溜められるので、獄では真っ先に取り上げられる。赤玉《ルビー》や翠緑玉《エメラルド》などの色の濃い宝石もだ。けれど光をすべて反射してしまう金剛石だけは魔法を溜めることが出来ないので見逃されたのだ。
「この世界では、金剛石は最も高価な宝石だ。大切にするといい。僕は飾《かざ》り釦《ボタン》を一つずつ売って随分《ずいぶん》長く食いつないだよ」
「まあ……」
金剛石はたくさん採れるので値段が安く、服の飾りによく使われる。キラキラ光るだけの子供だましの石にそんな値打ちがあるなんて驚きだった。でも、魔法がないのだからここの人間には魔法を溜める黒水晶《モリオン》や煙水晶《ケルンゴーム》は意味がないのだろう。
「次が一番重要なことだ。この世界ではなぜ魔法が作用しないのか解るかい?」
「いいえ……」
「妖素《ようそ》がないんだ。空気中にも土の中にも」
「えっ……」
信じられない話だった。妖素はどこにでも普遍的《ふへんてき》に存在し、普段それを意識することすらないものだった。多すぎて邪魔なので、妖素の放《はな》つ淡い光は無意識的に視《み》ないようにするのが習慣になっている。だから言われるまで妖素がないことに気づかなかったのだ。
彼は言った。
「この世界には妖素がなかったから魔法を使う種族が生まれなかったのだと思う。だが、僕らはまだ妖素を持っているんだよ。自分の身体の中に」
4――風の名は〈自由〉
アグネスはふと目を覚ましてあたりを見回した。部屋には、自分一人だった。
シールシャ、どこに行ったんだろう……。
起き上がろうとして、毛布が何かにひっかかった。枕元の電気スタンドをつけてみる。
「あれ……」
襟元《えりもと》に買った覚えのないブローチが留《と》めつけられていた。タラブローチと呼ばれる準環状《じゅんかんじょう》のデザインで、環《わ》の太くなった部分にきらきら光るラインストーンが嵌《は》め込《こ》んである。
ふっと昼間見たものが甦《よみがえ》った。これは確か、シールシャのショールの胸元を留めていたものだ。
どういうこと? まさか……!
そういえばなんだかさっきつまらないことを気にしていた。迷惑をかけてるとか、ここにいていいの、とか。
ああ、どうしてもっと気を回してあげられなかったんだろう!
階段を駆け降り、地下室のドアをどんどん叩いた。
「ジャック・ウィンタースさん!」
「やあ、アグネス」
ドアはすぐに開いた。来るのを予測していたような早さだった。
「あの、ウィンタースさん、シールシャが出ていっちゃったみたいなの!」
「ああ。彼女はついさっきまでここにいた。少し一人になりたいそうだ」
「まさか、一人で行かせたの!?」
こんな真夜中に、女の子一人で? 夜のロンドンは物騒《ぶっそう》なのに!
「ああ、大変! すぐ探しにいかなきゃ!」
「落ち着いて、アグネス。彼女はラノン人だ」
「えっ……」
「君と会ったとき、追放になったばかりだったんだ。だが彼女は魔女と呼ばれる最高位レベルの術者だ。自分の身は自分で守れるよ」
「でも……でも……」
頭がこんがらがった。自分と同じお上《のぼ》りさん観光客のシールシャがラノン人で、おまけに魔女……?
言われてみれば、シールシャは簡単な単語を知らなかったり、チューブに死ぬほど驚いたりしていた。でも、それは外国人だからなんだと思ったし、自分だって自動改札にひっかかったりしていたから……。
「……でも! やっぱり危ないわよ! この街のこと、何にも知らないんだもの!」
朝、ミレニアム・マイルで会った時のシールシャは本当に心細くてたまらないという感じだった。魔女だって迷ったり途方に暮れたりすることはあるのだ。
「車に轢《ひ》かれたり、銃《じゅう》で撃《う》たれたら? 魔女だって死ぬことはあるんでしょう?」
「ああ」
「だったら、やっぱり探しに行かなくちゃ! それにブローチを返すんだから! 勝手にこんなものを置いていって……気にしないでって言ったのに、バカなんだから!」
「ああ、そのブローチか」
彼は手を伸ばしてブローチに触《ふ》れた。
「この世界では高価だから大切にするように言ったんだが。彼女にとっては君に贈ることが大切なことだったようだね」
「高価って?」
「ダイヤモンドだよ。ラノンではあまり価値がない石だけどね」
「ええぇぇっ! これダイヤモンドなの?」
それじゃ、ますます貰《もら》う訳にはいかないじゃないの!
「どこに行ったか分からないの!?」
「……心当たりがないことはないが」
「だったら教えてよ! 探しに行くんだから!」
彼は机の上のロンドン地図を眺《なが》め、小さく溜め息をついた。
「分かった。だが君一人では駄目《だめ》だ。僕も一緒に行こう」
◆◆◆
〈|ロンドンの目《ロンドン・アイ》〉が巨大な車輪のように夜空に白く浮かび上がっている。
シールシャは髪の毛を一房《ひとふさ》切り取って燃やし、その灰を掌《てのひら》にとった。灰の中の妖素《ようそ》が青く光る。
「エトリィィム℃рヘ飛ぶ……」
足がゆっくり地面を離れていく。慣れ親しんだ感覚だった。そのまま風を掴《つか》み、〈ロンドンの目〉の真上まで一気に舞い上がる。眼下《がんか》に広がるのは漆黒《しっこく》の大地に宝石をちりばめたような街だ。
この街は魔法なしに作られ、幾百万もの人々がここで暮らしている。煌《きら》めく光の一つ一つが人の暮らしの証《あかし》なのだ。
川の上をゆっくりと飛行すると、街の灯《あかり》がテムズの水に映《うつ》りこんで金色にゆらゆら揺れるのが見えた。アグネスと登った塔橋《とうはし》が光に照らされて輝いている。ラノン城と同じ位置には石造りの城、そして……あれだ!
シールシャは風に抱かれてふわりと城の上を越え、鉄柵《てっさく》に囲まれた小さな丸い緑地に向かって降下《こうか》した。柔《やわ》らかな緑の草の上にすとんと降り立つ。
そこは小さな、可愛《かわい》らしい公園だった。円形に芝草《しばくさ》が植えられ、花壇《かだん》には花が咲き、片隅には石の東屋《あずまや》があり、篠懸《すずかけ》の大木が葉を落とした枝を広げている。
〈穴〉など、どこにもない。
頭では理解していた。ここに〈穴〉はないのだ。古来、地獄穴送りになって戻って来た者は誰もいない。それでも、自分の目で確かめずにはいられなかった。
これからどうすればいいのだろう。
ジャック・ウィンタースは二、三年は血の中の妖素を使えるからその間にこの世界での身の振り方を考えるといい、と言った。
当座の費用は金剛石《ダイヤモンド》を売ってしのげる。
けれど、問題はそんなことじゃない。生き方の問題なのだ。
生まれたときから特別だった。
特別な力を持って生まれたのだから、常に特別でいなければならないと教えられた。
けれど力を失ったら、特別でなくなったら、自分には何が残るだろう?
フィアカラは孤立《こりつ》は孤高だと、他人より強い力を持つ者の誇《ほこ》りだと教えた。魔法の力において優《すぐ》れた者はそうでない者の上に立つべきなのだと。魔力の弱い種族は劣《おと》った存在であり、支配されるべき者だった。その教えに疑いを抱いたことはなかった。
けれど、〈リフト〉や〈チューブ〉、熱くない光、鋼《はがね》の荷車《にぐるま》、摩天楼《まてんろう》――それらはすべて特別な力を持たない人間という種族によって、一かけらの魔法もなしに作られたのだ。
「……おまえはどう生きるの、ジャック・ウィンタース……」
自分たちは似ている、と彼は言った。彼は王位継承者《おういけいしょうしゃ》として、自分は魔女として特別だった。そのことに縛《しば》られていた……。
空気が揺《ゆ》らいだ。シールシャはハッと頭を上げた。黒い点が空中に現われ、ぐるぐる回転しながら大きくなっている。誰かが〈低き道〉を開こうとしているのだ。
「誰……」
見ている間に〈道〉が完全に開ききり、一人の男が地上に姿を現わした。中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》で歳は四、五十くらい、身綺麗《みきれい》ななりで、金髪を一つに結んで背に垂《た》らしている。
「お迎えに上がりました。〈風の魔女〉」
「おまえは、何者なの」
「〈在外ラノン人同盟〉盟主《めいしゅ》、ランダル・エルガーと申します」
男は穏《おだ》やかな口調で言った。慇懃《いんぎん》だが、声にも顔にも情がない。厭味《いやみ》な感じだと思った。それに呼び方も気に入らない。
そういえば、ジャック・ウィンタースがこの街にはラノンを追放になった者たちの団体があると言っていた。だが、彼自身は加盟していないという。ダナ王族は追放された者たちに好かれないから、と。
「盟主|自《みずか》らお出迎えとは御苦労なことね。おまえたちは会員に何を与えるの?」
「我々は会員に対し、この世界で生きていくのに必要なすべてを提供します。もちろん、貴女《あなた》にはそれ以上の待遇をご用意できます。貴女は特別な女性ですから」
「それで、おまえはわたしに何を望むの?」
「〈同盟〉への帰順《きじゅん》と忠誠です」
「厭《いや》だ、と言ったら?」
「それは賢明《けんめい》でないと存じますが」
「要《よう》は、わたしは好かれていないってことね」
「これは好き嫌いの問題ではありません。我々双方の未来の問題です。どうかご再考を」
再考もなにも、まだ何も決めていない。でも、自分を好いていない者たちと付き合うのは〈魔女・魔術者連盟〉でうんざりしていた。
「わたしは……」
「……貴女は?」
ランダル・エルガーが一歩前に出る。その右手が上着のポケットにするりと滑り込む。
シールシャはすべてを提供するという盟主の申し出と、ジャック・ウィンタースのうらぶれた地下室のことを考えた。そして舌の上でゆっくりと答えを転がした。
「そうね。わたしは……」
◆◆◆
アグネスはジャック・ウィンタースがレノックスと電話で話している間、イライラしながら彼の自転車の脇《わき》で待った。
「……ああ、間違いない。おまえたちが探している魔女だ。あの公園で落ち合おう。僕のことなら大丈夫だ、余計《よけい》な心配をするな」
「どうなの?」
「OKだ。ラムジーを連れてすぐ来るそうだ」
彼は自転車用ヘルメットを投げてよこした。
「これを着けて。後ろに乗って」
アグネスが荷台に跨《また》がると、二人乗りの自転車は風を切って夜の街に滑《すべ》り出した。
頬《ほお》に触れる夜気《やき》が冷たい。アグネスは、ジャック・ウィンタースの背中にしがみつきながら訊《たず》ねた。
「……レノックスはどうしてシールシャを探してたの?」
「彼女が有力《ゆうりょく》な魔女だからだ」
「余計な心配、っていうのは……?」
「あの男は心配性なんだよ」
そうかしら? と思った。あの乱暴な男はとてもそんな風には見えない。むしろ、ジャック・ウィンタースが周囲に心配をかけるタイプだから、という気がする。彼の暮らしぶりを見るとラムジーが心配するのも尤《もつと》もだ。
自転車の車輪がからからと軽い音をたてる。ジャックが言った。
「君らは地下鉄に乗ったのかい?」
「うん。あたしも初めてだったし、シールシャなんか腰を抜かしそうだったわ」
「そうか。次は二階建てバスに乗ってみるといい」
自転車はタワーブリッジを渡り、ロンドン塔を過ぎた。前方に黒い鉄柵が見えてくる。
「あそこがトリニティ・スクウェアだ」
自転車を飛び降りるようにして駆け出した。高い鉄柵の向こう、公園の中でシールシャと見知らぬ男が向かい合って立っているのが見える。
アグネスは思わず両手で柵の鉄棒《てつぼう》を鷲掴《わしづか》みにし、大声で叫んだ。
「シールシャ!」
「アグネス!?」
驚いたように振り返ったシールシャが、こちらに走り寄ってくる。
「おまえは、どうしてここに来たの……?」
「あんたを探しに来たに決まってるじゃない! 心配したんだから! それにブローチを置いてっちゃうし!」
「それは案内のお礼だわ」
「高すぎるわよ! この世界じゃダイヤモンドは貴重品だって、ジャック・ウィンタースの説明を聞かなかった?」
彼女は怪訝《けげん》な顔で聞き返した。
「聞いたわ。だから……ねえ、おまえは今、〈この世界〉と言ったの?」
「そうよ。あんたは異世界のラノンから来たって彼に聞いたんだ。でも驚かないわよ。だって、あたしの先祖もずっと昔にラノンから来たんだもの!」
「えっ……」
「驚いた? あたしも最近知ったんだ。そんときは驚いたけどね」
照《て》れ臭《くさ》くて、ちょっと肩を竦《すく》めて笑った。
「あたしの故郷のクリップフォード村はね、何百年も前にラノンを追放になった人たちが作ったんだって。だから今でも時々あたしみたいなのが生まれるの。あたし、ラノンの先祖返りなんだ。ラムジーもそう。でもあたしは〈妖精〉じゃなくて〈巨人〉なんだって。この世界で育ったお陰《かげ》で、これ以上は大きくならずに済むらしいけど」
シールシャは柵の向こうからぽかんとした顔でアグネスを眺め、それから小さく呟《つぶや》いた。
「アグネス・アームストロング……〈強き腕の〉アグネス。おまえは巨人族だったのね……道理《どうり》で人が好《い》いわけだわ!」
「あっ、やっぱりバカだと思ってるでしょ!」
「違うわ、おまえは馬鹿じゃないとあれほど……」
同時に顔を見合わせ、吹き出した。
「ヤダ……また止まらなくなっちゃう……」
腹の奥から、くつくつと笑いがあふれ出て来る。一度笑い出すと、もう止められない。昼間同様の笑いの発作に二人とも笑い転げた。
「ああもう、お腹《なか》が痛くなっちゃう……!」
「本当に……」
笑って、笑って、笑い転げて息もつけない。そのとき、公園の中から咳払《せきばら》いが聞こえた。
「お取り込み中、失礼します。〈風の魔女〉、まだ答えを伺《うかが》っていないのですが」
アグネスは眦《まなじり》に滲《にじ》む涙を指で拭《ぬぐ》った。
「シールシャ。そのおじさん、だれ?」
後ろからジャック・ウィンタースが囁《ささや》いた。
「アグネス。彼は〈同盟〉盟主ランダル・エルガー氏だ」
「今晩は、レディ。ランダル・エルガーと申します。彼が説明してくれた通りの者です」
アグネスは薄暗い公園の芝生《しばふ》に立つ男を眺めた。スーツをびしっと着て、まるで大企業の偉い人か政治家みたいだ。昼間〈同盟〉で見たちゃらちゃらした連中とは全然違っているし、とても〈妖精〉の親玉には見えない。
「今晩は。ミスタ・エルガー。あの……あなたも〈妖精〉なの?」
「この世界の呼び方ではそういうことになるでしょう。お嬢《じょう》さん、貴女のお名前は?」
「あたしはクリップフォード村のアグネス・アームストロングよ」
「レノックスから話は伺っていますよ。レディ・アグネス。貴女のような方が〈同盟〉に加わって下されば嬉しいのですが」
「でもあたしはこっちの生まれだし……。シールシャ、あんたはどうするの?」
「えっ……わたしは……」
シールシャが口ごもる。
そのとき、彼女のすぐ足下《あしもと》の花壇の中から奇妙な音がした。
「……シー…………シャ……」
アグネスはギョッとして花壇を見まわした。何かを擦《す》り合《あ》わせるような、擦《かす》れた人声のような音だ。植え込みの草がざわざわと身を捩《よじ》るように動いている。草が葉を震わせて人の声のような音をたてているのだ。
「……ルシャ」「シールシャ」「シールシャ」
アグネスはジャックの袖《そで》を引っ張った。
「ねえ、いったい何なの、これ!」
ジャックはぐるりと辺りを見まわした。
「〈木霊《こだま》〉だ。誰がやっているのか……」
立《た》ち枯《が》れたオーナメント・グラスがざわざわと葉を揺らし、灌木《かんぼく》が枝を打ち振って叫ぶ。
「シールシャ!」「シールシャ!」
「ソノオトコヲシンジテハイケナイヨ!」「ソノオトコハ〈もりおん〉ヲモッテイル!」
〈木霊〉に名指しされているのは、どうやら盟主ランダル・エルガーだった。〈モリオン〉とは黒水晶のことで、魔法を大量に溜めることが出来るのだという。
ジャックが鉄柵を掴んで横棒に足を掛けた。そのままふわりと柵の上を越える。アグネスも真似《まね》をして登ろうとしたが、鉄の棒は滑るし柵は高いしで、全く身体が持ち上がらない。
ああ、もう! 置いて行かないでよ!
アグネスは檻《おり》の中の囚人《しゅうじん》みたいに両手で鉄柵を掴み、柵の隙間《すきま》から公園をのぞき込んだ。
公園の中に飛び降りたジャックは叫び声をあげる草木をゆっくりと眺め渡している。彼は葉を落とした一本の篠懸の木に目を留めた。
「……そこだろう? 出てきたらどうだ」
突然、篠懸の木がざわざわと枝を揺らした。不気味な笑い声が梢《こずえ》を震わせる。
「王子。なぜ私がここにいると思った?」
「〈木霊〉を使うには植物に触れていなければならない。この公園で声を上げていない木はその篠懸だけだ」
「さすがだね、ジャック王子。このフィアカラが見込んだだけのことはあるよ」
◆◆◆
シールシャは耳を疑った。
フィアカラは、地獄穴送りにはならなかった。鉄牢《てつろう》を脱走したフィアカラは逃亡を続け、未《いま》だ捕まっていない筈《はず》――。
そこまで考えてハッとした。
まさか。
脱獄したフィアカラを誰も見つけられなかったのは、自ら地獄穴に飛び込んだから……?
普通なら考えられない。ラノンでは地獄穴は魂《たましい》の滅《ほろ》びと考えられているからだ。けれどフィアカラは穴の向こうの別世界について寝物語に語ったことがあるではないか。
フィアカラ……おまえなの……?
篠懸の木の幹《みき》の緑の斑模様《まだらもよう》がゆらゆらと揺らぎ、人の型に木の幹から抜け出た。模様が薄れ、炙《あぶ》り出《だ》しのように男の姿が浮かび上がっていく。
波打つ黒髪、浅黒い肌、口髭《くちひげ》。薄い唇から白い歯がこぼれる。
フィアカラは、満面の笑みを浮かべて篠懸の木から踏み出した。
「これはお久しう、ジャック王子。よもやこの地でお会いするとはね。三年前に私の申し出を断ったことを後悔しているのでは?」
「後悔などしない」
「ではなぜ追放になったのかね? 王冠が欲しくなったからでは?」
「おまえに話す必要はない」
「相変わらず強直なお方だ。だが今からでも遅くはない。私と手を組まないかね?」
「答えは三年前と同じだ」
「おや。後悔しても知らんよ」
シールシャは高鳴る動悸《どうき》を抑《おさ》えてジャックと話している男の顔を見つめた。
厭味なほど甘いマスクも、燕《つばめ》の背のように黒い口髭も、記憶の中にある通り少しも変わらない。色男で、自惚《うぬぼ》れが強く、多情で、独善的で――どうしようもない男。それでも、心臓はシールシャを裏切るように勝手にどきどきと脈打《みゃくう》っている。
ほとんど無意識のままに唇から男の名が漏《も》れた。
「……フィアカラ……!」
フィアカラが振り向いて自分を見た。初めて結ばれたときと同じ、星のない闇夜のように黒い瞳で。彼が口を開いた。
「やあ、君。随分《ずいぶん》と遅かったじゃないか」
舌を呑み込むかと思った。
「なんですって? 遅かった?」
「そうとも。地獄穴送りを待ってなぞいないで、さっさと穴に飛び込んでこっちに来ればよかったものを。私は一年待たされたぞ」
「は。相変わらずね、フィアカラ」
なんて言い草だろう。身勝手で、我《わ》が儘《まま》で、自己中心で――本当に、ちっとも変わっていない。
彼は朗《ほが》らかに言った。
「だが、こうしてまた会えたんだ。また昔みたいに二人で楽しくやろうじゃないか」
楽しんでいたのはおまえだけじゃないの、とシールシャは心の中で毒づいた。お陰で皆に嫌われ、どれだけ居心地《いごこち》の悪い思いをしたことか。
「考えておくわ」
「楽しみだよ」
口髭の下、にんまりと唇の両端が持ち上がる。シールシャが断るという可能性は寸毫《すんごう》ほども考えていないのだ。彼は機嫌よく周囲を睨《ね》め回《まわ》し、今度は盟主ランダルに目を留めた。
「〈同盟〉盟主殿とお見受けするが。私が、フィアカラだ」
盟主ランダルは冷ややかにフィアカラを見返した。
「ランダル・エルガーと申します。魔術者フィアカラ」
フィアカラを見るランダルの眼差《まなざ》しは、何かに似ていた。まるで――そう、湿《しめ》った石の下の虫を見るような目だ。だが、フィアカラの方はそんなことは意に介《かい》さずだった。
「盟主殿、私の提案を検討してくれたかね?」
「いいえ。貴殿《きでん》の提案はいかなる考慮《こうりょ》にも値しませんので」
「現実的な提案だったと思うがね。君はもう少し賢《かしこ》い男かと思っていたよ」
「魔術者フィアカラ。〈同盟〉は仲間を殺して骨を奪った罪科《ざいか》により貴殿を告発します」
「それは少し違うな、盟主殿。私は骨を抜いただけだ。死んだのはそいつの勝手だよ」
盟主は微《かす》かに眉根を寄せた。
「同じことでは?」
「主観の相違だね、盟主殿。順序が逆だ。実際、面白い余興《よきょう》だったよ。知っていたかね? 人体には実に二百以上の骨があるのだよ。それを小さいやつから一つずつ抜いていく。足指から始めて、髑髏《どくろ》で終わりだ。そうしたら今度は葡萄《ぶどう》のように搾《しぼ》る。血の中にもまだたっぷり妖素があるからね。先日君に届けた荷はその搾《しぼ》り滓《かす》だよ」
シールシャは凍りついてフィアカラの顔を見つめた。
彼は笑っていた。なかば唇をひらき、瞳を昏《くら》く輝かせながら。
違う、と思った。フィアカラは確かに人の痛みなど斟酌《しんしゃく》しない男だった。けれど、こんな風に非道な殺しを楽しむことはなかった。
何かが変わってしまった。この男の中で、何かが壊れてしまったのだ。
濡れて光る唇でフィアカラが言った。
「シールシャ。こちらにおいで」
差し伸べられた手に、ぞっとして思わず一歩|退《ひ》いた。
「お断りよ。おまえとはとっくに終わったわ」
「何を言う。私と君の仲じゃないか。私は、妖素の鉱脈を見つけたのさ。この鉱脈は尽きることがない。ダナ王国の連中は毎年新たな妖素資源を送り込んでくれるからね。そいつらを見つけて狩るんだ。私と君でね」
吐き気がこみ上げてきた。フィアカラのいう〈鉱脈〉とは、ラノンを追放された同胞《どうほう》のこと――彼らの血と骨のことなのだ。
「厭よ! もうおまえの言いなりになるのはご免《めん》だわ!」
「聞き分けがない子だね、私の醜《みにく》い小鳥」
「その名で呼ばないでと言った筈よ!」
「おや。どうしてだね? 醜い小鳥」
フィアカラはにやにや笑っていた。その呼び方を、シールシャがどんなに厭がるか知っているのだ。知っていてそう呼ぶ。閨《ねや》でも、人前でも。何度も、何度も。
「君は、本当に可愛い。君の胸の谷間の小さなものもね」
「やめて!」
頭に血が上るのが分かった。
彼が言っているのはシールシャが絶対に他人に見せたくなかったもの――胸の真ん中に小さく突き出た〈奇瑞《きずい》〉のことだ。本来そこにある筈のない器官は役立たずなうえひどく醜かった。いっそ切り落としてしまいたいが、忌々《いまいま》しいことに奇瑞というのは切ったところでまた生えてくる。その醜い奇瑞を、フィアカラは面白がってよく指で弄《もてあそ》んだ。そしてことさら人前で符牒《ふちょう》のように口にしてみせる。その度《たび》にシールシャは身の置き所のないきまり悪さを味わう羽目《はめ》になった。
「忘れたというのかね? 君の可愛い――」
「やめて、やめて! おまえとは終わったと言った筈だわ!」
「おや。随分と生意気な口を利《き》くようになったものだ。ではこうしたらどうかね?」
フィアカラがいきなり手首を掴んで引き寄せた。
「放してよ!」
「厭だね」
爪の先に接吻《せっぷん》する。それから関節に、耳朶《じだ》に、瞼《まぶた》に――。
「君みたいな女を私以外の誰が愛せる? 誰も君を愛しはしない。君は誰にも受け入れられない。君は醜いからだ。君は知っている。自分の醜さをね。君は、醜いんだ。だが、私なら君の価値を理解することが出来る。私だけだよ、君を愛することが出来るのは。君には私しかいないのだよ」
接吻を繰り返しながら耳元で囁く。
「ほら、思い出してごらん。醜い――可愛い私の小鳥。君は、この私なしには生きられないのだよ」
「厭よ……やめて……」
「何をだね?」
接吻が言葉を封じた。
気持ちがずるずると萎《な》えて行く。
彼の許しを得なければ何一つ出来ず、ただ従うだけだった自分が亡霊のように浮かび上がってくる。
またあのときと同じになるのだろうか……。
やり直せると思ったのに。新しい世界で過去を捨てて生きられる筈だったのに――。
そのとき、背後でギギッ、と何かが軋《きし》むような異様な音がした。
ぎ。ぎ、ぎ……。
抱きすくめる力がふっと緩《ゆる》む。彼の顔を見上げた。フィアカラは愛撫も接吻も忘れたように目を丸くして音のする方を見つめている。シールシャは身体をひねって振り返った。
フィアカラを驚かせたものの正体は、アグネスだった。
「シールシャ!」
彼女は叫んだ。その両の手に握り締められた鉄柵の間隔《かんかく》がぎ、ぎ、と音を立てて開いていく。巨人族の怪力だ。鉄の棒はくにゃりと飴細工《あめざいく》のように折れ曲がり、人が通れるほどの隙間《すきま》ができ上がった。
「ラムジー! レノックス! こっちよ!」
「おう!」
一頭の銀色の狼《おおかみ》がするりとその隙間から飛びこんで来た。続いて赤毛の大男が。
アグネスは地面に鋲止《びょうど》めされている木製の長椅子をべりべりと引《ひ》き剥《は》がし、むんずと頭上に振りかぶった。
「シールシャを放しなさいよ! この助平《すけべえ》オヤジ!」
大男が慌てたように言う。
「いや、アグネス、奴はただの痴漢《ちかん》じゃないんだが……」
「判ってるわよ! あいつはスケベな悪い魔法使いでしょ!」
フィアカラがぽかんと口をあけた。
「なんとまあ失礼な娘だ……。この私にそんな口を利いた娘はおまえが初めてだぞ」
[#挿絵(img/Lunnainn2_277.jpg)入る]
「初めてだったら何さ! 何遍《なんべん》でも言ってやるわ、助平オヤジ! あんたがシールシャのことを本当に好きなわけないわよ! 好きだったら絶対! 醜いなんて言わないわ!」
「言いたいことはそれだけかね?」
フィアカラが指を鳴らす。アグネスの身体が突然宙に浮かび上がった。瞬《またた》く間《ま》に篠懸の木のてっぺん近い高さまで舞い上がる。アグネスは浮かんだまま小さな悲鳴をあげた。
彼女が掴んでいた長椅子がその手を離れて一直線に落下していく。木製の椅子は地面に激突してばらばらに砕《くだ》け散《ち》った。
シールシャは息を呑み、フィアカラの顔を見あげた。
どうするつもりなの……? まさか……。
フィアカラがにやりと笑う。
「悪い娘には、お仕置きが必要だ」
空中高くに浮いていたアグネスの身体が真っ逆さまに落ち始めた。
アグネス!
シールシャはフィアカラの抱擁《ほうよう》を振りほどき、手の甲に爪を立てた。滲む血に妖素が光る。自分の中で渦《うず》を巻く力が弾けるように溢れ出した。
「風!」
その刹那《せつな》、空気は旋風《せんぷう》となって地表から空に向かって吹き上げ、落下するアグネスの身体を受け止め、押し戻し、舞い落ちる羽のようにふわりと彼女を地面に下ろした。
「アグネス! 大丈夫?」
アグネスはがくがくと震え、それでも巨人族らしい気骨《きこつ》で笑ってみせた。
「へいき……どうってことないわよ……!」
「良かった……」
シールシャは、身体中の力が抜けてしまうほど安堵《あんど》していることに気づいた。アグネスがあのまま地面に落ちていたら。傷ついたり、万が一死んでいたら……考えただけで震えが止まらない。
「フィアカラ! 彼女を傷つけることはわたしが許さないわ!」
「なに、巨人女はあのくらいでは死なんよ」
フィアカラは事も無げに小さく肩を疎めて言った。
そんな問題ではないことがどうして解らないのか。どうしてこの男はそんなに簡単に人を傷つけられるのだろう……。
銀の背をした狼が風のようにアグネスに駆け寄る。アグネスは狼の首に両腕を回し、たてがみに顔を埋めて泣き出した。
「……ラムジー……ラムジー……」
励《はげ》ますようにアグネスの顔を舐《な》めていた狼が不意に頭をあげ、牙《きば》を剥き出してぐるぐると唸《うな》った。脇腹が波打ち、たてがみが逆立つ。
ジャック・ウィンタースがハッと息を呑み込んだ。
「止《や》めろ! 敵《かな》う相手じゃない!」
フィアカラが振り返る。狼の目が光を反射して満月のようにきらりと光った。狼の身体は弓のようにしなり、一筋の銀の軌跡となる。大地を蹴《け》った狼は、心臓が一つ拍《う》つよりも速くフィアカラに飛びかかった。
金属と堅《かた》い物がぶつかり合うような奇妙な音があたりに響く。
やったの……?
思わず閉じた瞼《まぶた》を恐る恐る開いたシールシャは、奇妙な光景を目にした。
フィアカラの左腕に噛《か》みついた狼が、口でぶら下がったまま四肢《しし》をばたばたさせているのだ。フィアカラは、まっすぐ立ったままにやにや笑っている。
「随分と間抜けな狼だな、ええ? なぜ急所を狙わんのだ?」
ようやく何が起きているのか解った。噛みついた口が腕にくっついて、離れないのだ。なんとも人を食ったフィアカラの魔法だった。
「おまえ、人狼《ウェアウルフ》だな? 人を殺したことがないのか。なんとも情けないやつだ!」
フィアカラはふふんと笑った。
「まあ、〈誓縛《キアンゲル》〉をかけて仕込んでやれば良い猟犬《りょうけん》になるかも知れんな」
狼が哀れっぽく鼻を鳴らす。どうしていいのか分からないのだろう。ジャック・ウィンタースが言った。
「フィアカラ。その子を放してやって欲しい。まだほんの子供なんだ」
「おや。ジャック殿の飼い犬かね? ではますます欲しくなるな。なにしろ人狼は珍しい」
ジャックは氷柱《つらら》に変えてやると言いたげな目でフィアカラを睨みつけた。
「何が望みだ?」
「そうだな。貴公のその二つの眼と引き換えというのはどうだ? 氷に封じ込めたらさぞかし綺麗だろうよ」
嘲《あざけ》るようにフィアカラがそう言った途端、諦めたように大人しくぶら下がっていた狼が猛然と暴れ出した。網《あみ》にかかった魚のように身体をくねらせ、体重をかけ、頭をめちゃめちゃに振り回す。フィアカラが罵《ののし》り声をあげ、慌てたように右手で左腕を掴む。
次の瞬間、バキリ、という音がした。
シールシャは我が目を疑った。フィアカラの左腕が肘《ひじ》の辺りでばっきりと折れ、そこから先の部分が狼の口に残ったのだ。だが、血は一滴も流れない。折れ口から金属の輝きが覗《のぞ》く。
義手……?
フィアカラは肩口を押さえて悪態《あくたい》をついた。
「小さい巨人女に糞《くそ》ったれ狼か、まったく何とも礼儀を知らん連中だ!」
魔法が解けて狼の口からがちゃりと腕が地面に落ちる。アグネスは駆け寄って狼を抱きしめた。
安堵の息をつく間も無く、ジャックが素早い指示を出す。
「アグネス、ラムジー、君らは早くここから逃げろ! レノックス、協力を!」
大男がおう、と怒鳴り返す。何か策があるのだろうか。けれど、彼らの力でフィアカラに勝てるわけがない。アグネスは腰が抜けてしまったように狼を抱きしめたまま呆然と座り込んでいる。
自分が何をすべきなのか判った。もしかしたら、このためにこの世界に来たのかも知れない。
けれど、最後に一つだけ――。
「フィアカラ!」
「なんだね、シールシャ」
「答えて。この指輪を呉れたとき、おまえは何と言ったかを」
指を立て、金剛石《ダイヤモンド》の目をした竜の指輪を彼の目の前に突き出す。フィアカラは興味のない顔でちらりと指輪を眺めた。
「いちいち覚えていると思うかね?」
「そう」
たった一つ残っていた細い絆《きずな》が暖炉《だんろ》の前の雪のように溶けて消えていくのを感じた。
さよならだわ、フィアカラ。
シールシャは意識を集中し、口に出さずに頭の中で複雑な呪誦《ピショーグ》を唱《とな》え始めた。
一瞬にして完全な〈死《ボース》〉を与える呪誦。
フィアカラは強い。生半可《なまはんか》な術では勝てない。勝機は一度。反撃の機会を与えたら負けだ。何をしようとしているのか気づかれる前に一気に勝負をつけなければ――。
「止めるんだ!」
突然の声に集中がかき乱されて呪誦が中断した。ジャック・ウィンタースだ。口に出して唱えていないのにどうして、と思ったがすぐにそれが自分でなく盟主ランダルに向けられたものだと気づいた。
ランダルが右手に掲《かか》げた黒水晶の玉から楕円形《だえんけい》をしたインクの染みのようなものが次々と湧《わ》き出《だ》しているのだ。それはひしめきあって宙を漂い、絶え間なく形を変え、滲み、広がり、空間を蚕食《さんしょく》し――。
「〈虚無《ファース》〉か……!」
フィアカラが唸り、右手で印を切った。近くを漂っていた〈虚無〉がいくつか泡のように爆《は》ぜ消《き》える。シールシャも彼に倣《なら》って自分の周りに流れて来た〈虚無〉を打ち消した。
脇にそれて流れた〈虚無〉が木の長椅子に触れ、パチッと音をたてて消える。椅子の背もたれの部分も同時に相殺《そうさい》されて切り取られたように綺麗になくなっていた。〈虚無〉に触れたものは、すべて等しく相殺されて消えるのだ。木も土も草も、人の身体も。
「アグネス! 逃げて! これに触れたら何でも消滅するわ!」
シールシャは怒鳴りながら次々と〈虚無〉を消した。消すこと自体は比較的簡単だ。だがいちどきに消すことが出来るのは数個だけで、一方で〈虚無〉は際限なく湧いてくるのできりがない。ちらりとフィアカラに目をやった。やはり押し寄せる〈虚無〉のあまりの多さに手を焼き、逐次《ちくじ》消すのに手一杯で反撃出来ずにいる。
〈虚無〉は間断《かんだん》なく湧き出し、物に触れては消え、それでもなお宙に溢れ流れてくる。アグネスと狼が〈虚無〉を避けて公園の中を逃げ惑う。巨人族である彼女には怪力以外の魔法が使えないのだ。
なんとかしなければ。なんとか――。
厄介《やっかい》なのは、ランダルを倒しても意味がないということだ。魔法は以前から黒水晶に封じられていたもので、ランダルはそれを解放しただけなのだ。ランダル自身にも最早《もはや》止めることは出来ないし、たとえ彼が死んでも封じられた分がすっかり尽きるまで水晶は〈虚無〉を吐き出し続けるだろう。
何を思ったのか不意にジャック・ウィンタースが叫んだ。
「アグネス、林檎《りんご》を!」
石の東屋《あずまや》の陰に避難していたアグネスが肩掛鞄に手を突っ込んで小さな紅い林檎を掴み出す。
「ラムジー! 彼に渡して!」
狼は林檎をぱくりと銜《くわ》え、〈虚無〉を巧《たく》みに避けて右に左に跳躍《ちょうやく》しながらジャックの足下にまで辿り着いた。狼の口から林檎を受け取ったジャックが紅色《べにいろ》の果皮《かひ》に歯を立てて、噛んで地面に吐き捨てる。噛み捨てられた林檎の欠片《かけら》から青白い光の粒が天に向かって立ち昇った。
〈妖素〉だ。
なぜ林檎に妖素が? だが疑問に思う間も無く、ジャックが天を仰《あお》いで唱えた。
「降れ、来たれ、降り積もれ!」
シールシャは、夜空を見上げた。
どんよりとした空から白いものがさわさわ音を立てて落ちてくる。
雪……。
雪は暗い夜空から公園の上にあとからあとから舞い落ちてきた。ひらひらと、白い羽のように、飽きることなく――パチパチと弾けるような音がそこら中から聞こえた。
〈虚無〉が降りしきる雪に触れて相殺されているのだ。
雪を、こんな風に使うなんて。
シールシャはその発想に驚いた。
〈虚無〉は〈実《じつ》〉に触れれば消える。触れるものは、実体のあるものなら何でもいい。しかし相殺するには〈虚無〉と同じだけの量の〈実〉をぶつけなければならず、大量の〈虚無〉が発生しているときに〈実〉で消すのは困難だと考えられていた。
けれどジャック・ウィンタースは無尽《むじん》に湧く〈虚無〉に対して無尽に降る雪で当たろうと言うのだ。
ジャックは魔術者ではない。魔術者とは生まれつき数多くの魔法を扱える力を備えた者のことだ。〈霜の瞳の保持者〉であるジャックは雪と氷の術にこそ秀《ひい》でているが、他の術に関しては平均的なダナ人と変わらない筈だ。その限られた力を最大限に使って大きな魔法にも対抗するジャックは、確かに敵に回したら恐ろしい相手なのかも知れない。
「シールシャ!」
フィアカラが呼んでいた。その後ろで空間が黒く歪んでいる。雪のお陰で流れつく〈虚無〉が少なくなり、片手間に〈低き道〉を開く余裕が出来たのだ。穴の前で振り返ったフィアカラが右の腕を差し伸べた。
「シールシャ。私と来い」
「お断りだと言ったはずよ」
「判っているとも。君のことを構ってやらなかったから拗《す》ねているのだろう? これからは君を一番に愛すると約束しよう。世界中の花を贈ってもいい――」
「おまえに貰うどんな花より、道端の雑草のほうが百倍まし」
「愚《おろ》かな小鳥、考えてもご覧《らん》。誰が君を受け入れるというのだね? この世界に君のような者はいない。私だけだ。君を理解し、受け入れることができるのはね。私がいなければ、君はこの世で独りぼっちなんだよ」
[#挿絵(img/Lunnainn2_287.jpg)入る]
「うんざりよ。おまえは、そうやってわたしを縛ってきたんだわ。いつおまえがわたしを理解したというの? 一度もないわ。いつもいつもおまえはわたしの気持ちを踏みにじって、わたしを惨《みじ》めにさせただけだわ……」
少しでも理解していたのなら、あんな仕打ちが出来た筈がない。嫌がることをわざと口にし、これ見よがしに女を連れ込み――。
ハッとなった。そうだ。わざとだったのだ。
傷つけ、惨めにさせ、それから偽《いつわ》りの愛情を投げ与えた。シールシャがそれに縋《すが》らずにいられないようにして、そうやって支配してきたのだ。お陰でいつの間にか彼の承認を得なければ何一つ出来ないお人形になっていた。
けれど本当は、初めから彼に認めてもらう必要なんかなかったのだ。
「解ったのよ……わたしは、おまえに認めてもらわなくても生きられるのよ! 自分の運命は自分で決められるんだわ。わたしは魔女シールシャ、わたしの名は〈自由〉だわ!」
〈虚無〉の群れが一塊《ひとかたまり》になって押し寄せる。フィアカラは舌打ちし、〈低き道〉の入り口に片足をかけて言った。
「後悔するぞ、シールシャ。どうせ君はまた私に惚れ直すに違いないのだからな――」
フィアカラは〈低き道〉に飛び込んだ。黒水晶から溢れ出た〈虚無〉は黒い川の流れのように大挙《たいきょ》して〈低き道〉へと雪崩《なだ》れていく。
〈道〉の入り口がぐるぐると回転し、消し炭のように黒く小さく縮む。フィアカラを呑み込んだ〈低き道〉がぱちんと消えるのと、〈虚無〉が押し寄せるのがほぼ同時だった。空間に開けられた穴は消え、行き場を失った〈虚無〉がゆっくりと辺りに散った。
「……逃げられましたか」
ランダル・エルガーが呟く。
あたりには、降りしきる雪がパチパチと〈虚無〉を消す音だけが響いていた。
エピローグ
コヴェントガーデン市場のアーケードの下を歩きながら、シールシャが言った。
「アグネスの言う通りなのよ。結局のところ、あいつは〈助平《すけべえ》な悪い魔法使い〉なんだわ」
「でも、少しは好きだったんでしょ……?」
「まあね。初めてあいつに会った頃はわたしもほんの小娘だったし」
アグネスはちょっと可笑《おか》しくなった。まるですごく大人みたいな言い方をするんだから。そんな風に言うシールシャは、たぶん今だって自分とあまり違わないくらいの歳だ。
「でも、もうふっ切れたわ。あの男の甘い言葉は、蜜《みつ》でできた罠《わな》みたいなものだったんだわ。べたべたくっついて自由な考えを奪うの」
「サイテーなヤツね」
「本当だわ」
彼女はちょっとのあいだ宙を見つめていたが、アグネスを見上げてにっこり笑った。
「ねえ、もう一軒見て行かない?」
「あら、一軒だけ?」
アグネスはくすくす笑いながら言った。二人とも、既に両手いっぱいにブティックの袋を下げている。
原因は、あのブローチだ。
貰《もら》って欲しい、受け取れない、で押し問答《もんどう》になり、とうとうジャックが折衷案《せっちゅうあん》を出した。ブローチを売って現金にし、そのお金でアグネスがシールシャに『ロンドン風の』服を見立てる。次に服の見立て賃として、アグネスにも同じ店で服を買う――。
なんだか騙《だま》されているような気もしたけれど、この案には二人とも反対の理由が見つけられなかった。ブローチは驚くような高値で売れ、二人でコヴェントガーデン界隈《かいわい》のブティックを総嘗《そうな》めにすることになったのである。
「あんたって、絶対黒スウェードのミニスカートが似合うと思うな。あと、ショートブーツ」
「おまえに、任せたわ」
アグネスは、カフェのカウンターでこの間と同じキャラメル味のコーヒーを二つ買った。足下には戦利品のブティック袋の山がある。
甘い香りのするコーヒーを啜《すす》りながら、シールシャが言った。
「ねえ、おまえのリボンを貸してみて」
「これ?」
細いフィッシュボーンに編んだ金髪に結んでいた水色のリボンをするする解《と》いて手渡す。シールシャは口の中で何か唱《とな》えながらリボンに三つの結び目を作った。
「結び目に風を封じたわ。一つ目は微風《びふう》、二つ目は強風。そして三つ目は伝言。これをほどいたら、わたしがこの世界のどこに居ても風が報《しら》せてくれる。困ったことがあったらこの結び目をほどいて。すぐに駆けつけるから」
「わお! すごい! でも、あんたに助けてもらわなきゃならないような大事が起きるとは思えないけどさ」
「でも、あの男がこれから先おとなしくしているとは思えないし。おまえは面と向かってあいつを侮辱《ぶじょく》したんだもの」
あの男。シールシャの元恋人、ハンサムな悪い魔法使いのフィアカラだ。フィアカラは同盟員の一人をとても恐ろしい方法で殺したのだ。あの公園での出来事は、悪夢だったような気がするけれど……。
それで思い出した。鞄《かばん》から小さな赤い林檎を取り出す。村を出る時、万一のときのためにいくつか鞄に入れてきたのだ。
「これをあげる。〈時林檎《ときりんご》〉よ」
クリップフォード村の〈林檎の谷〉にある古木〈時林檎〉の実には高濃度の妖素《ようそ》が含まれている。盗掘《とうくつ》不能な先祖の墓に植えられた林檎の木は五百年かけてゆっくり墓から妖素を吸い上げ、濃縮したのだ。
彼女は、あ、という顔をした。
「あのときの林檎……」
「そう。これ、あたしたちの先祖の遺産なの。妖素が凝縮《ぎょうしゅく》されているんだって。あの夜、これを一口食べたんで怪力が出せたわけ。いざというとき役に立つでしょ」
「ありがとう。いざというときに取っておくわ」
「ねえ、この木があるあたしの故郷に来てよ。ロンドンとは全然違うけど、綺麗なところ」
「そうねえ……」
シールシャが林檎を眺めて考え込んだそのとき、耳慣れた声がアグネスを呼んだ。
「ネッシー」
胸がどきんと鳴った。まさか……。
ゆっくりと振り向く。子供っぽい丸顔、栗色《くりいろ》の巻き毛、メガネの奥の優しい目――人間の姿のラムジー・マクラブが立っていた。
「ラムジー……戻ってたんだ……」
「うん。その……今回の仕事、一応終わったから……行方不明の人は見つかったし」
ラムジーはもじもじしながらシールシャの方を向いてぺこりとお辞儀《じぎ》した。
「シールシャさん、この間はネッシーを助けてくれてありがとうございました!」
きょとんとした顔でシールシャが聞き返す。
「あの夜……会ったかしら?」
「はい。ぼくは違う姿でしたけれど」
「え……? まさか、あの時のオオカ……」
ラムジーは頭を掻《か》いた。
「うぅーん……その……そうなんです」
「そう言えば、同じ名前……! 先祖返りって、そういうことだったの……。なるほど道理《どうり》でねえ……」
しげしげとラムジーを眺《なが》めていた彼女は、突然スツールを滑《すべ》り降《お》りた。
「わたしは用を思い出したから先に帰るわ」
「えっ、ならあたしも帰る!」
追いかけたアグネスの耳元でシールシャが小声で囁《ささや》いた。
「お馬鹿さん。彼をしっかり捕《つか》まえなさい。ラノンではね、ウェアウルフの恋人は一千足の靴を履《は》き潰《つぶ》しても探す価値がある、って言うんだから!」
かーっ、と顔が赤くなるのが分かった。
「シールシャ!」
「どうぞ、ごゆっくりね!」
くすくす笑いながら彼女は振り向いた。
「ジャック・ウィンタースに会ったら伝えておいて。おまえは本当にそれでいいの、って」
「え? それってどういう意味? 返事は聞かなくていいの?」
「彼には解《わか》るはずよ。そう言えばね。返事はいらないわ。彼が自分で考えることよ」
「あ、うん。分かったけど……」
アグネスは店の戸口のところまで追いかけて言った。
「シールシャ、あんたこれからどうするの?」
◆◆◆
ノックの音がした。
「開いています。お入りなさい」
盟主《めいしゅ》ランダルは書類から目を上げずに言った。執務室に入ってきたのは報告書を手にしたレノックス・ファークハーである。
「盟主。残りの所在不明メンバーは全員無事が確認されました。ラムジーが見つけたんで」
「ご苦労様でした」
「それから、フィアカラの義手を調べたんですが、この世界のものでした。それを魔法で動かしていたようで。ただ……」
「ただ?」
「これは、ジャックの意見なんですが、フィアカラが左腕を失《な》くしたのは〈鉄牢《てつろう》〉のせいじゃないかと。あそこに一年以上いて、正気であるとは思えない、とも……」
「なるほど」
〈鉄牢〉の刑は死刑以上の極刑《きょっけい》と言われ、ひどく恐れられている割にはその実情を知る者はいない。だが、元王族であるジャック・ウィンタースは知っているのだろう。
「ときに、ジャック・ウィンタースは我々より先にレディ・シールシャと接触したようですね。彼は初めから彼女がフィアカラに従わないと考えていたようですが、なぜですか?」
「ああ、それは彼女が〈地獄穴《じごくあな》〉の刑を宣告されてこの世界に来たから、だそうで」
「どういうことですか」
「ええと……ですね。〈地獄穴〉の刑は更生《こうせい》の見込みのある者にしか適用されないんだそうで。つまり……」
「我々はみなダナの司法によって更生可能と見なされた死刑囚、というわけですか」
「そうらしいです」
以前から、薄々感じていた。追放者たちは重罪人だが、救いがたいほど悪に染まった者は滅多《めった》にいないのだ。それに大概《たいがい》はひどく若い。いま目の前にいるレノックスも、ここに初めて来た時にはまだ十代の若者だった。荒れていたが、心根《こころね》は曲がっていなかった。
「だが、フィアカラだけは違うわけで。奴は自分で穴に飛びこんだわけですから」
「それとジャック・ウィンタースも、です」
「盟主。奴は……」
非難めいた言葉を遮《さえぎ》る。
「彼が邪魔をしなければ、或《ある》いはフィアカラを仕留められたかも知れなかったのですが」
「ジャックはひどく腹を立ててます。アグネスやラムジーを危険に晒《さら》したんで」
「彼らが来るのは予想外だったのですよ」
「そのことなんですが……〈虚無《ファース》〉でフィアカラと刺《さ》し違《ちが》えるつもりだったのでは?」
「ジャック王子がそう言ったのですね」
「ええ、まあ、そうですが……」
「つまらない憶測《おくそく》ですよ」
「しかし……」
レノックスは何か言いたげだ。この男は、考えていることがすぐ顔に出る。
もちろん、彼の推察はある程度|的《まと》を射《い》ている。だからこそレノックスとラムジー・マクラブを所在不明者の捜索にかかりきりにさせたのだ。尤《もつと》もジャック・ウィンタースのお陰《かげ》で計画自体が水泡《すほう》に帰《き》したのだが。
「すべては確率と可能性の話です。あの場にフィアカラが現れるか現れないか、〈虚無〉の規模がどれくらいかによっても結果は違っていた筈《はず》です。予測不能の事態についてどうするつもりだったかなど、後から考えても意味がないでしょう」
「そりゃ、そうですが……」
レノックスはまだ納得のいかない顔をしていた。もちろん自分が死んだ可能性も、居合わせた全員が死んだ可能性もある。〈虚無〉を封じた黒水晶《モリオン》は既に亡くなった魔術者の遺品で、その規模も、それを制御できるかどうかも未知数だった。だがフィアカラを倒せる可能性と危険性とを秤《はかり》にかけた結果、試す価値はあるという結論に達したのだ。
「それより、レディ・シールシャは盟約書に署名《しょめい》捺印《なついん》を済ませましたか?」
「はあ。それなんですが……」
レノックスは大判の封筒から盟約書を取り出した。ランダルは羊皮紙《ようひし》を受け取り、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。サインと血判《けっぱん》は捺《お》されている。だが、櫛《くし》の歯に似たラノンの古代文字で書かれた盟約書の一部が書き換えられているのだ。その部分を声に出して読み上げた。
「『わたし、魔女シールシャは、この盟約書が作成された日時より未来における任意の時点より〈在外ラノン人同盟〉に加盟することに同意する。任意の時点とはわたし魔女シールシャか、もしくはアグネス・アームストロングが真にそれを望んだ時であり、その時点より本盟約書は即時に効力を発揮《はっき》するものとする』……ですか」
まんまとやられた。彼女はこれから先、いつでも好きな時に加盟出来る。だがそれまでの間は、忠誠の義務は発生しない。義務を棚《たな》に預けたまま、必要となった時点で権利を行使できるというわけだ。
「いったい呪誦《ピショーグ》もなしでどうやったんだか……。俺はサインするとこを見てたんですが」
「それが上級魔術者と我々の差なのですよ」
だが少なくともこれで魔女シールシャがフィアカラに与《くみ》する危険はなくなったわけである。その意味で、あのレディ・アグネスには感謝しなければならない。もっとも、アグネス自身もまだ加盟してはいないのだが。
「それで、レディ・シールシャはどこに?」
「それが、飛行機を見たいって言うんでヒースロウ空港へ連れて行って、あれこれ説明してやったんですが……」
レノックスは頭を掻《か》いた。
「そこで消えちまったんです」
「なるほどね」
笑いとも溜め息ともつかないものが漏《も》れる。
彼女は、空港で飛行機を見るだけでは物足りなかったに違いない。その日、アメリカかヨーロッパかアジアの何処《どこ》かに向かう便に、〈惑《まど》わし〉を纏《まと》った目に視《み》えない乗客が一人乗り込んでいたのだ。
魔女シールシャに関する噂のほとんどは誇張《こちょう》されたものだったが、真実の一部は伝えていたようだ。曰《いわ》く、〈風の魔女〉は、春風のように美しく、秋風のように自由気ままである、という――。
「ご苦労様でした。もう下がって下さい」
「は……」
レノックスが部屋を退出していき、盟主はひとり執務室の窓から外を眺めた。数日前まで色づいた葉を残していた街路樹も今はすっかり葉を落として枯れ枝を寒気《かんき》に晒している。
あの夜、フィアカラはいつからあの篠懸《すずかけ》の木に隠れていたのか。
ランダル自身が開いた〈低き道〉を伝ってあの場まで来たのなら、公園に着いたのはほぼ同時ということになる。クリップフォードに関するアグネスとシールシャの会話も聞いていたと考えるのが妥当《だとう》だ。
フィアカラは、気づくだろう。
この世界になぜ小さな巨人が生まれたのか、なぜ人狼を生み出すほどの血の濃さが保《たも》たれていたのか――なぜあの林檎には妖素が含まれていたのか。
ひとつの季節が、確実に終わろうとしている。
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キス&ゴー
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シールシャ、本当に一人で大丈夫かな……。
アグネスはカフェのガラス越しに小柄な後ろ姿を見送った。ここから同盟の葬儀社までは、いくらもない距離だけれど……。
「シールシャさん、一人で帰れるかなあ」
後ろで、間の抜けた声がした。ハッと振り返る。
ラムジーだ。
シールシャがこっそり耳打ちした言葉が思い浮かび、また顔がカッカと熱くなって胸がどきどき鳴り出した。ラムジーに聞かれたかも知れないと思うと生きた心地がしない。恐る恐る横目でラムジーの様子を窺《うかが》う。
ラムジーは、にこにこしながら背伸びするようにしてガラス窓に向かってためらいがちに手を振っている。その様子は、どこからどう見てもいつも通りのラムジーだった。
ラムジーの超人的な聴覚は意識を向けている音しか拾わない。だから、たぶん女の子同士の内緒話は聞いていなかったのだ。
アグネスはホッと胸を撫《な》で下ろした。全身から力が抜けて胸の動悸《どうき》が収まっていく。
大丈夫、聞かれなかった――安心した途端、今度は自分の考えを先回りされたような気がしてそれがひどく癇《かん》にさわり始めた。
「大丈夫に決まってるじゃない。シールシャはラノン一の魔女なんだから」
「でも、ロンドンには来たばかりで何も知らないんだし……」
それも、自分が考えていたのと同じことだ。
ラムジーって、どうしていちいち人の考えを先回りするのかしら?
「余計《よけい》な心配してないで、さっさと何か注文しなさいよ」
「う……うん」
ラムジーは注文カウンターに向かったが、カウンターの後ろのメニューを懸命《けんめい》に見上げているうちに後から来た二人連れに割り込まれてしまった。
もう要領《ようりょう》が悪いったら!
思えば、小さい時からそうだった。
小さい子が何人かいっしょに遊んでいて絵本やオモチャの取り合いになったようなとき、ラムジーはいつでも他の子に譲ってしまっていた。明らかにラムジーが先に取ったものでもそうだった。それでもぜんぜん怒らないでニコニコしているのだ。見ていてこっちの方が腹が立った。なんで怒らないのか、自分が先だと言わないのか。ラムジーのオモチャを取り戻そうとして年上の男の子と取っ組み合いの大喧嘩《おおげんか》をしたこともあったっけ。結局、相手をこてんぱんにやっつけてしまって、こっちが悪いみたいにこっぴどく叱られた。なのにラムジーときたらきょとんとした顔をして、ネッシー、なんで喧嘩するの? とか言ったのだ。
その言葉を聞いたとき、どうにもならないほどの怒りがむらむら湧《わ》き起《お》こってきて目の前が真っ赤になったのを覚えている。今思えば、日頃から鬱積《うつせき》していたイライラが爆発したのだと思う。ラムジーのためにやったのに何で解《わか》ってくれないのか、もう歯がゆくて苛立《いらだ》たしくて、ばたばたと地団駄《じだんだ》を踏んだ。
でもどうしてそんなに腹が立つのか自分でもよく解らなかったし、そのもどかしさを言葉で説明することなんかもちろん出来なかった。だからそのまま無言でラムジーをひっぱたき、オモチャを窓から投げ捨てたのだ。
あの日は罰として屋根裏部屋に閉じこめられ、おまけに夕飯抜きだった。
思い出しても腹が立つ。それというのもラムジーがあんまりお人よしで、傍《はた》で見ているだけでやきもきさせられるから……。
ようやく後回しにされた注文の品を受け取ってラムジーがもたもたと席に戻ってきた。
「何にしたの?」
身を乗り出して覗き込む。ラムジーが手にしているのは蓋《ふた》つきの紙コップだ。
「ええと……オレンジジュース」
「バッカね! 折角《せっかく》カフェに来たのにオレンジジュースを頼むなんて!」
「ううーん……だって、メニューがよく判《わか》らなくて……ネッシーのは?」
「そりゃ、ええと、キャラメル……なんとかよ」
アメリカから最近イギリスに上陸したこのカフェはメニュー数が多く、しかもそれぞれに耳慣れない名前がついている。実を言うと、アグネスも今飲んでいるキャラメル味のコーヒーの名称の後半がどうしても覚えられないのだ。途中まで言うと店員が後を引き取って復唱《ふくしょう》してくれるので覚えていなくても注文はちゃんと出来るのだが、それを白状するのは癪《しゃく》だった。
「とにかく、美味《おい》しいんだから!」
「じゃあ、次はそれにしてみる……」
「そうしなさいよ」
言いながらぷいとそっぽを向いて、カフェのロゴの入った薄茶色の紙ナプキンをくしゃくしゃに握りしめた。
なんで、こんな言い方しか出来ないんだろう……。
会いたくてたまらなかったのに、いざこうして顔を合わせるときつい言葉ばかりが口からぽんぽん出てしまう。それでもラムジーは気にする様子もなく、にこにこしながら美味しそうにオレンジジュースを飲んでいる。
気にしないの? それともあたしの言うことなんか、気にもならないの……?
全面ガラス張りのカフェに差し込む光は透《す》き通って明るい。客たちは互いにそっぽを向いて雑誌を読んだり、小さなノートパソコンを広げたりしている。まるで一人一人が別の宇宙にいるみたいだ。なんだか自分とラムジーも別々の宇宙にいて、その宇宙と宇宙が接触することなんか永遠にないような気がしてくる。こんなことならいっそ狼のままで居てくれれば良かったのに、と思った。あの夜、無我夢中《むがむちゅう》で狼のラムジーを抱きしめたのだ。
ふかふかの毛皮の感触、両腕の中に在《あ》った確かな温《ぬく》もり――。
「ネッシー」
ハッと顔をあげる。メガネの向こうから栗色のまっすぐな目が自分を見つめていた。途端に身体中の血が頭に昇ったみたいになって、頬がカッカと熱くなってくるのが分かる。
「な、なによ!」
「ネッシー、急に来るから驚いちゃった」
「手紙出したじゃない! 読んでないの?」
「あ、うん。読んだけど……でも、いつ来るってはっきり書いてなかったし……」
そんなことを言われても、自分でも行くか止めるか間際まで決められなかったのだ。最後まで悩んで、しまいにはエンピツが倒れる方向で決めた。右に倒れたらロンドンに行く、左だったら行かない。祈るように息を止めて震える手を離したとき、エンピツは右に倒れた。だからこれは運命なのだ。
「だって、いつでもいいって言ったじゃない」
「うん……それはそうなんだけど……。ねえ、ネッシー、何か用があったんじゃ……」
「あ……」
言われて突然思い出した。すごく大切な用があったのだ。あんなに思いつめていたのに、なんで今の今まで忘れていたんだろう。
見送りに行ったとき、岩の上からラムジーの乗ったバスに向かって叫んだ最後の一言を聞いたのかどうか――。
「えーっと、あのさ……ちょっと聞きたいことがあったんだけど……」
「なに?」
きょとんとした表情でラムジーが問い返す。無邪気を通り越して何も考えていないような顔を前にすると、なぜか口の中がカラカラになって声が出ない。アグネスは慌てて甘いコーヒーをがぶりと飲んで砂漠みたいな舌と咽喉《のど》を潤《うるお》した。
これで大丈夫。さあ、言おう。言うのよ、アグネス、そのために来たんじゃないの!
「あの……えっと、そのさ……フラワーショップの仕事って、面白い?」
ちがーう!
握りしめた拳《こぶし》がふるふると震える。
あたしのバカバカ! そんなことを聞こうと思ったんじゃないのよーっ!
ラムジーは不思議そうな顔でこっちを見上げた。
「あ、うん。花、好きだし。ロンドン橋の近くの店なんだけど、ぼくらと同じ半妖精の子も働いているし」
「えっ、ホントに?」
アグネスは身を乗り出した。ラノン人と人間との間に生まれた子供でも、〈妖精〉の性質を受け継ぐことは少ないのだという。クリップフォード村は他の村との交流がほとんどなく、長いあいだ外の血があまり入ってこなかった。だからラノン人の血が濃く残っている筈《はず》なのに、今のところ見つかっているのは自分とラムジー、それに亡くなったラムジーの叔父《おじ》さんだけだ。自分たちと同じ半妖精の、しかも同年代の子がいるなんて初耳だった。
「あたしたちの他にもいるんだ! 男? 女? どんな子? なんて名前? 何族?」
「うん。ケリ・モーガンって言うんだ。ロンドン生まれの二世で、ガンキャノホ族」
「やだっ、ガンキャノホって、女たらしの妖精のことじゃない?」
その妖精について本で読んだばかりだったので、思わずぽろりと言ってしまった。その本によると、確かガンキャノホは別名ラブ・トーカー、〈口説《くど》き妖精〉だった筈だ。
「ネッシー、そんな言い方しちゃダメだよ。ケリはそのこと気にしているんだから」
「そうなの……?」
「そうだよ。ネッシーだって巨人って言われるの厭《いや》がってたじゃない」
「えっ、そうだけど……」
それは、生まれは選べないのだからそういう事を言うのは良くないことは判っている。でもそういった事は〈人間〉の問題であって、〈妖精〉はどう転んでも〈妖精〉なんだからそんなことは関係ないと無意識のうちに考えていたのだ。
「よかったら今度紹介するよ。ネッシーのこと話したらケリも会いたがっていたし。ケリは外見は一番妖精っぽいんじゃないかなあ。もちろんジャックさん以外では、なんだけど」
「どんな風に?」
「ええと、痩《や》せてて、赤毛で、緑の眼。それにやっぱりハンサムだし」
確かに赤毛で緑の眼というのは〈妖精〉のイメージのひとつの典型だ。どちらかといえば人間を化《ば》かして喜ぶような悪戯《いたずら》な妖精のイメージだけれど。
自分がラノンの先祖返りだと知ってからアグネスだって勉強したのだ。
一般的な〈妖精〉には羽はなく、身長は一フィートから長身の人間くらいまである。意外な事に髪の色は黒が一番多く、次が赤毛で、金髪は少ないのだそうだ。〈同盟〉でアグネスに言い寄った金髪の妖精男のような妖精は少数派なのでわざわざ〈金髪のタルイス・テーグ族〉のように〈金髪の〉をつけて呼ばれる。そして多くの妖精はちょっと見には普通の人間と全く変わらない姿形なのだという。だからレノックスや盟主《めいしゅ》が〈妖精〉だというのも別段おかしくはないのかも知れない。けれど一方でラムジーのように変身する者、身体の一部に人間でない部分を持っている者もみな〈妖精〉だ。
そう考えると〈妖精〉って何なのかますます解らなくなってくる。
小さいころ絵本で見た〈妖精〉は掌《てのひら》に乗るほど小さくて背中に蝶々《ちょうちょう》の羽があって髪は透き通るように淡い金色だった。だから〈妖精〉というとどうしてもそのイメージを真っ先に思い浮かべてしまう。シールシャはラノンにはそのイメージに似た〈翅人《しじん》〉という種族がいると言っていたけれど、里を嫌って山奥に住んでいるので滅多《めった》に会えないという。そして〈巨人〉は――〈巨人〉についてはあまり考えたくないけれど――ラノンではわりとありふれた種族であるらしい。巨人族の成人女性の身長は七、八フィート。男性は九フィート以上になることも珍しくない。性格は情熱的で人がよく――アグネスには『単細胞』と言われているように聞こえたが――そして〈怪力〉以外の魔法は苦手だという。
去年の夏、アグネスの身長は六フィートを超えた。その頃から成長は鈍《にぶ》くなったものの、まだ完全には止まっていない。だから〈妖素《ようそ》〉には触れたくなかったのだ。成長期にあるうちは、〈妖素〉によって潜在的《せんざいてき》な最大値まで身長が伸びる可能性があるという。この間〈時林檎《ときりんご》〉を食べたときには、摂取《せっしゅ》した〈妖素〉を使い切るためにあとで涙ぐましい努力をした。具体的には素手《すで》でレンガを砕《くだ》いたり、鉄パイプを曲げ伸ばししたりして〈怪力〉の魔力を無駄に浪費したのだ。〈妖素〉は魔法を使うことによってしか消費されず、アグネスに使える魔法は〈怪力〉しかない。だからそうやって力を出して使い切れば〈妖素〉はこれ以上身長を伸ばす方には回らないだろうとジャックが言ったからだ。なんだか甘いものを食べ過ぎたあと痩せるためにせっせと運動をしているみたいで、ひどく惨《みじ》めな気分だった。
これもそれも先祖が〈巨人族〉だったからなのだ。
ジャック・ウィンタースは妖精も巨人も同じもの、と言ったけれどアグネスにはそうは思えなかった。どこがとは言えないが、当のジャックは何とは無しに妖精的に見えるからだ。公園の高い柵《さく》を軽々と乗り越えた身の軽さや、あの氷のように蒼白《あおじろ》い瞳を別にしても。
妖精っぽい男の子かあ……。あたしも〈妖精〉だったら良かったのに。
〈妖素〉は単なる触媒《しょくばい》で、それだけでは何の働きもしないのだという。でも生物が何かを強く望んだ時、それに反応して増幅する。〈妖精〉の先祖は魔法を使うことを望み、〈巨人族〉の先祖は大きく強くなることを望んだから今のような姿になったのだ。
だけど、〈妖素〉が望みに反応するなら、自分の願いも叶えられないものだろうか。
ラムジーの前で上がらないで喋《しゃべ》れるように、とか、奇麗《きれい》になりたい、とか……。
魔法が使えたら何もかもうまく行って幸せになれるのかしら?
でも、シールシャは誰よりも上手に魔法を使えるはずなのに、長いあいだ自分の心を自由にすることさえままならなかったのだ。
ぼんやりと窓の外の通りに目を向ける。冬の日は短い。既に午後三時を回り、傾きかけた太陽が西の空をあんず色に染《そ》めている。
「ネッシー」
ハッと顔をあげた。ラムジーが狼だったときとそっくりに小首を傾《かし》げ、つぶらな目でじっとこっちを見ている。
「ねえ。ぼく、そろそろ店に戻るけど、ネッシーはどうする? どこか観光しに行く?」
「えっ? もう帰るの?」
アグネスは慌てた。
どうしよう。ラムジーが行ってしまう。まだ何も訊《き》いていないのに――。
もどかしさがじりじりと身を焦《こ》がす。このまま別れたら、次に会うときにはまた狼かも知れない。
「ねえ! あのさ……!」
「なに?」
「……ええと……ええとさ……」
身体中が熱くなって、毛穴からどっと汗が噴き出してくる。
さっさと言っちゃいなさいよ、アグネス!
アグネスは深く息を吸い込み、目を閉じて大通りを渡るみたいに一気に言葉を吐き出した。
「……これからエンバンクメントを案内してくれない!?」
言い終えて密《ひそ》かに溜め息をつく。単なる引き延ばしである。これが現時点で自分に出来るぎりぎりの選択だった。行き先をエンバンクメントにしたのは、ロンドンのガイドブックに『エンバンクメントのベンチは恋人たちの理想の場所』と書いてあったからだ。
ラムジーはきょとんとした。
「わざわざ行ってみるほどの所じゃないと思うけど……」
「いいから行きたいの! すぐ店に戻らなきゃならないってわけじゃないんでしょ?」
「ううーん。そうだけど……」
ヴィクトリア・エンバンクメントはテムズ北岸《ほくがん》に沿った弓状の遊歩道で、〈クレオパトラの針〉と呼ばれる石のオベリスクが川岸に立っている。テムズに向かって張り出したテラスがあり、川岸にはイルカの巻きついた街灯や青銅《せいどう》のラクダのひじ掛けのついたベンチが並んでいる。そんな場所で二人でテムズ川に沈む夕日を眺めたら、もしかしたら告白する勇気が湧くかも知れない。
善は急げだ。アグネスは愚図《ぐず》るラムジーの袖《そで》を掴《つか》んで急《せ》ぎ立《た》てた。
「じゃ、行きましょ! この近くなんでしょ?」
エンバンクメントのベンチは、空《す》いていた。
「……ちょっと、寒々しいわね……」
「うん……冬だから」
そうなのだ。ガイドブックに載っていたのは夏の写真だったのだ。篠懸《すずかけ》の緑がさわやかな木陰《こかげ》をつくり――篠懸の木はすっかり葉を落としていて、骸骨《がいこつ》めいた枯枝《かれえだ》に毛羽立《けばだ》った黒いポンポンみたいな実がびっしりぶら下がっているだけ。ムードっぽい、というよりは怪奇映画のムードだ。
ガイドブックの嘘つき! ムードを盛り上げるのに最適、って書いてあったのに……!
だが、自分が言い出したことだから引っ込みがつかない。アグネスは冷え冷えとしたラクダのベンチに陣取《じんど》った。
「ほら。あんたも座ったら?」
「う……うん」
ラクダのベンチに二人並んで座り、目の前を眺める。
テムズ川の水はミルクコーヒーのような褐色《かっしょく》で、どちらに向かって流れるでもなくたぷたぷと重く澱《よど》んでいるだけだ。
まるであたしみたい。立《た》ち竦《すく》んで、どちらの方向にも一歩も進めないでいる……。
言うべき言葉が何も見つからないまま褐色の川をじっと睨み続けた。
沈黙のなか時間だけが無為《むい》に流れ、何艘《なんそう》もの船が目の前を行き来していく。
アグネスはついに我慢できなくなって口を開いた。
「この川、なんで流れないのかしら……?」
「今、上げ潮の時間だから。海から潮が逆流してくるんだって」
「へえ……」
地図の上でロンドンのある場所はテムズ河の河口に近いことは知っていたけれど、実際にそんなに海に近いというのはなかなか実感が湧かなかった。
「なんでそんなこと知ってるの?」
「だって、この街に住んでるんだから」
「そっか……。そうよね……」
泣き虫ラムジーに一人でロンドン生活ができるなんて想像も出来なかった。でも、なんだかんだ言っても一人前のロンドンっ子になりつつあるのだ。
「……街の暮らしってどう?」
「ううーん。いろいろ、かなあ。良いこともあるし、良くないこともあるし。ロンドンはせわしなくて、人は疲れてて……」
「でも、村に帰ってくる気はないワケ?」
「うん。だって、この街にはぼくを必要とする人がいるから」
「それってウィンタースさんのこと?」
ラムジーは何故だかジャック・ウィンタースをむやみと尊敬している。それは手紙の端々からも判ったし、彼を見るときのラムジーの目ときたらほとんど飼い主の一挙一動を注視する忠犬みたいなのだ。
ラムジーは小さく首を振った。
「もちろんジャックさんもだけど、同盟の人たちみんなだよ。ぼくは帰ろうと思えばいつでも帰れるけど、でも、あの人たちには帰る故郷がないから……」
「そうだったんだ……」
予想外の答えにアグネスはちょっと驚いた。ラムジーのロンドン生活にそんな理由があったなんて知らなかった。そういえば、村の公民館でラムジーがロンドンに行くと言ったとき、理由を聞く前に飛び出してしまったのだ。
本当にお人よしなんだから。
だけど、きっと、だから好きなのだ。そんなお人よしのラムジーが。
胸の底で花の蕾《つぼみ》がほころぶみたいにその辺りがくすぐったくなってくる。そのくすぐったさが胸から上に昇ってきて、小さなくすくす笑いになって唇からこぼれた。
「なに笑ってるの? ネッシー」
「ううん……そういえばラムジーが狼のとこ、初めて見たと思って」
「あ、うん。そうだよね」
「あの毛皮、ふかふかで暖かそう」
「うん。雪の中で寝ても平気だと思う」
「狼になるのって、どんな感じ……?」
「ううーん。うまく説明できないけど……自分になる感じ、かなあ。目で見る世界とは違った世界が見えてくるし、いろんなことが判ってくるんだ。世界が透明になったみたいに」
なんだか難しいことを言う、と思った。
「ねえ、狼でいる間、何を考えてるの?」
「あんまりややこしいことは考えないような気がする。走るのは楽しくて、毛皮を撫でて貰《もら》うのは嬉しくて、ソーセージを焼く匂いは最高だってことはよく分かるんだけど……」
「それじゃ、犬とおんなじじゃない」
「うん、そうかも。犬とはすごく話が通じるから。ボディーランゲージが近いんだ」
「ええっ! あんた犬と話せるの?」
ラムジーはにこにこしながら言った。
「話せるわけじゃないけど、犬の気持ちになると互いに考えてることが判る、みたいな感じ。こないだ同盟でガブリエル犬の仔犬《こいぬ》がたくさん生まれたんだけど、チビたちはお腹いっぱいで寄り集まって寝てるときはすごく幸せなんだ。それでチビたちが幸せだとぼくも幸せな気分になるんだ。ネッシーも見においでよ。すごく可愛《かわい》いよ」
「そうねえ……」
アグネスはちょっと複雑な気分になった。それは、仔犬は可愛いだろうし、見てみたい。でも犬の気持ちになる、とか犬の考えが判る、だなんて。
ラムジーは、狼でいる方が自分らしいと感じているんだろうか。だって自分は怪力巨人の自分を受け入れることなんか出来そうにない。
「ねえ、厭にならない? 考えてもみなさいよ。狼男と怪力巨人なのよ、あたしたち。もうバカバカしくて涙がでちゃう」
「それでも、ぼくはぼくだし、ネッシーはネッシーなんだから」
「だけど、すっごくヘンよ。狼男と巨人が並んでベンチに座って川を眺めてるなんて」
「うううーん……そういえば、変かも……」
「絶対ヘンよ! まるで怪奇映画じゃない」
ラムジーが緊張感のない声であはははー、と笑った。
「ぼくたち、怪奇映画かあ……」
「笑い事じゃないわよっ!」
そう言いながら、ラムジーが狼のままベンチに座っているところを想像したら思わず吹き出してしまった。
「もう、ホントにやんなっちゃうんだから……」
笑っているうちに、固まった蝋《ろう》が溶けて流れるみたいに会話が流れ出した。最近の村の出来事とか、ラムジーの生花店にくるお客さんの話だとか、普通のことを普通に話した。
意識しなければこうやって普通に話せるんだ……。
バカみたい。一人で空回りして。
なんだかラムジーの気を引きたくて意地悪をしていた小学生の頃と変わっていないんだと思い知らされたみたいで、そんな自分にちょっとウンザリした。
ロンドンに来たそもそもの目的も今になっては馬鹿らしく思えてきた。ラムジーがあの言葉を聞いたか聞かなかったかなんて、実際のところさして重要なことじゃない。
本当の答えはその先、なんだから。
だから今は聞かないでおこう。それに聞かなければこのまま片思いでいられる……。
聞くのを止《や》めると決めた途端、なんだか妙にすっきりして舌がスムーズに動くようになった。
「あのさ、ラムジー」
「なに? ネッシー」
「ねえ、あの夜の公園でのこと、どれくらい覚えてる?」
あの夜は無我夢中だったから、何かを考えている余裕なんかなかった。本当に怖くなったのはすべてが終わってからだ。そしてあれこれ思い返すうちに、あの夜のラムジーの行動がちょっと不思議だったことに気がついたのだ。
ラムジーはちょっと考えてパッと顔を輝かせた。
「あっ、そういえばネッシー、あのときはすごかったよね。公園の鉄柵を曲げちゃうし、ベンチを……」
「……そうじゃなくて」
聞く前から何だか絶望的な感じだった。この段階で既に五割方気持ちが萎《しぼ》んだが、自分に気合を入れてなんとか気を取り直す。
ダメよ、アグネス。これくらいでへこたれちゃ。あのことを聞くのを止めたんだから、これくらい聞かなくちゃ!
「あのとき、あんた悪い魔法使いのフィアカラに飛びかかったでしょ」
高いところから落とされそうになってシールシャが助けてくれたとき、ラムジーが駆け寄って来たのは覚えている。そして何が何だか判らないうちに矢のようにフィアカラに飛びかかっていた。でも、その直前アグネスは確かにジャックが制止する声を聞いたのだ。ラムジーに聞こえなかった筈がない。
「ねえ、どうして? ジャックが止めたのに」
ラムジーはしばし困ったような顔で考え、それからちょっと肩を竦めて言った。
「ううーん……判んないや。夢中だったから」
「ふうん。そうなんだ……」
何でもないふりを装《よそお》いながらも、なんだか少しガッカリした。
ラムジーがジャックの言うことを聞かないなんておかしいから、ジャックの制止を振り切ってまでフィアカラに立ち向かおうとしたのはフィアカラが自分を殺そうとしたから……なんてことを心ひそかに夢想していたのだ。
夢中かあ……。それって、もしかしたら少しは心配してくれたってことなのかしら……。
でも、考えてみるとあのときはラムジーも危なかったのだ。下手をしたらあのままフィアカラに連れて行かれていたかも知れない。
「もうあんな危ないことするの、やめなさいよ」
「うん……でも……」
「でも、何よ? あんたに何かあったら、お母さんが泣くわよ。お父さんも、お兄さん達もよ」
それに、あたしだって、だ……。
あのとき、泣いてしまった。闘《たたか》いのさなかで、泣いたりしているような場合じゃなかったのにラムジーが無事だと分かったらどうしようもなく涙が溢《あふ》れて止まらなかったのだ。
思い出しただけでなんだかまた顔が熱くなって鼻の奥がツーンとしてくる。アグネスはラムジーに気取《けど》られないように慌てて何度も息を吸いこんでは吐き出した。川べりの空気はじっとりと冷たく、燃えるような顔のほてりは少しずつ鎮《しず》まっていった。
運が悪ければあの夜二人とも死んでいたかも知れない。それを思えばつくづく自分の悩みはなんて小さかったことか。ラムジーが元気で生きていて側《そば》にいる、本当はそれだけでもすごく幸せなことなんだ。
アグネスは石畳に落ちる長い影をつま先で踏んだ。
「……なんか信じられない。あたしたち、ちょっと前まで村で普通の生活をしてたのに、今はロンドンで悪い魔法使いと闘ってる……」
「うん……」
「シールシャは、あの男が大人しくしているわけがないって言ってた。また何か仕掛けてくるだろうって」
「そしたら、ぼく、闘うから」
「なんであんたが闘うのよ」
「だって、ぼくにはみんなを守れる力があるんだから」
頭から湯気《ゆげ》が出るかと思った。
まったく、あんな目に遭ったばかりなのに!
「何言ってんのよ、こないだだって危ないとこだったじゃない!」
「でも、みんな無事だったし。シールシャさんは同盟に入ってくれることになったし。だからきっと大丈夫だよ」
「あんたって、ほんとに楽天家ね!」
「うん。よく言われる」
「それ、褒められてるんじゃないんだから! 判ってんの?」
「うん」
ラムジーはうんうん頷きながらなんだか妙に嬉しそうに笑っている。
「何が可笑《おか》しいのよっ」
ラムジーはしまりのない顔で頭を掻《か》いた。
「ううーんとさ、思ったけど、ネッシーって、ホントは昔と全然変わってないんだ」
「どういう意味よ?」
「大きくなってからネッシーは変わったと思ってたから。でもやっぱりネッシーはネッシーなんだなあ、と思って……」
「当たり前じゃない、そんなこと」
「うん。当たり前なんだけど、当たり前のことが判らないことって多いよね」
ラムジーは口をつぐみ、少しの間黙って何か考えていた。それから急に顔を上げて言った。
「ぼく、判るんだ。ネッシー」
「何がよ?」
「ええと、人の気持ちとか……」
「いったい何を言ってんの?」
「言葉で説明するのって難しいんだけど、狼になってからいろんなことが判るようになったんだ。匂いとか雰囲気とかほんのちょっとの声の調子とかで。そのときの気分とか、相手がどんな感情を持っているかも……」
頭の中でいろんな考えがぐるぐる回った。
匂いで気持ちが解る……? そんなバカみたいなこと……。でも、犬はテレパシーでもあるのかと思うくらい飼い主の気分に敏感だ。もしかしたら狼になったラムジーも……?
「じゃ、あたしの気持ちも……?」
「うん。ネッシーがなんで怒ったり泣いたりしてるのか前はわからなかった。でも今はなんとなくわかる……」
「え……じゃあ、あんた……」
ラムジーは上目遣《うわめづか》いに見上げて言った。
「うん。あのとき、公園でネッシーがぼくのことをどんなに心配してたのかわかったんだ……」
「ストーップ! そこまで!」
顔が真っ赤になっているのが判る。
どうしよう。バレてるなんて思わなかった。ラムジーが心配で泣いたなんて、絶対知られたくなかったのに! そんなことまで解るなんて詐欺《さぎ》じゃない……。
「いい? これ以上その話はナシ! いいわね!」
「あ、うん……。じゃあさ、ネッシー。村を出るとき見送りに来てくれたよね」
頭をぶん殴られたかと思った。
まさに青天《せいてん》の霹靂《へきれき》。
身体中の血が頭に昇り、脈拍《みゃくはく》が倍に跳ね上がる。
こっちはその話をするためにロンドンに来るかどうか決めるのと、やっぱり話すのをやめようと決めるのにあんなに山のように悩んだのに、ラムジーときたらいとも簡単にそれを口にするなんて!
「それがどうかしたっ?」
もう頭がクラクラで自分でも何を口走っているのかよく判らない。
「うん。あのときさ、岩の上で最後に言ったよね。ネッシー、覚えている?」
気絶しそう……と思った。
「……聞こえてたの……」
「うん。ぼく、すごく耳がいいから」
耳の中で血管がドラムみたいに鳴り響いている。
どくどくどくどくどくどくどく……。
「い……厭じゃなかった……?」
「まさかぁ」
ラムジーは人懐《ひとなつ》こい顔でニコニコ笑った。
「厭なわけないよ。どっちかって言うと、嬉しかったかな……。だって、ネッシーはぼくのことを嫌ってるんだと思ってたから。でも、そうじゃないって判ったし……」
ラクダのベンチに座ったままラムジーは居住まいを正し、メガネをかけ直した。
「ネッシー」
「な……なによッ……」
「ううーん。ええとさ……ちょっと目をつぶってて欲しいんだけど……」
澄んだ栗色の目が見つめている。
目の前のテムズは夕日を浴びてあんず色に染まっている。
エンバンクメントの人通りはぱたりと途絶《とだ》えている。
ラムジーは真顔だ。
これって、もしかしたらもしかして……?
本当のところ、十六にもなって男の子とキスもしたことがないなんてちょっと恥ずかしい。見栄《みえ》かも知れないけど、クラスの子の半分は経験済みだって言っている。
でも、自分はその半分に入っていなかった。
ああ、こういう展開になるのが最初から分かっていれば!
前髪が乱れてるし、鼻のあたまに汗をかいてるし……なんてことなの、お昼を食べてから歯を磨《みが》いてないじゃないの!
だって、ファースト・キスがこんなに突然にやってくるなんて思っていなかったから……。
アグネスは目を閉じた。
やっぱりエンバンクメントに来て正解だったんだわ……。
息を詰め、ひたすらに待つ。
ラムジーの息遣い、体温、肩に触れる手。
一秒が一年みたいに感じられる。
もう、何やってんのかしら! 女の子が腹を決めてるのに、するならさっさと――。
そのとき不意に温かなものが唇のわきに触れた。
えっ? と思った。頬っぺたになの? 子供じゃあるまいし――。
熱気球みたいに膨《ふく》れ上《あ》がった期待はそれでも心臓をどきどきと打ち鳴らし続けている。
きっとラムジーだって初めてなんだし、だから……。
温かく湿って柔らかな感触が吸い付くように下から上へと頬をこする。くすぐったくて、思わずくすくす笑いが唇から漏《も》れた。
こんなときに笑うなんて! でも、どうにもくすぐったいのだ。
再び濡れて温かな感触。
半テンポ遅れて、もやもやとした疑問が浮かんできた。
キスにしては何か変じゃない……?
あんまりロマンチックな感じがしないし、何て言うか、変。よく判らないけど、絶対にキスってこんなじゃないような気がする。むしろ、この感じって……。
瞼《まぶた》がぴくぴく震えた。
キスの最中に目を開けるなんてはしたない。と思う。思うんだけど――。
ついに我慢できなくなり、下の方を見ながら薄く瞼を開いてみた。
びっくりしたラムジーの顔が目と鼻の先にある。真ん丸な栗色の目、ちょっとずり落ちたメガネ、そしてピンクの長い舌――。
キスするのに、なんで舌が出るの……?
「ちょっと! 何してるのよ!」
ラムジーが飛び上がった。
「あ……ええと、ネッシー、気が動転しているみたいだから、それで気分を和《やわ》らげようと思って……」
「だからっ?」
「だから、狼式の挨拶《あいさつ》を……目をつぶっててって言ったのに……」
「狼式挨拶……?」
「ごめん! いま人間だって頭では分かってたんだけど、つい忘れちゃって……」
「一体全体、なに言ってるの……?」
もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。ラムジーが何を言っているのかぜんぜん理解できない。
ただ、キスの話をしているんじゃないことだけは確実だった。
人間だってことを忘れた? それって、つまり、頭の中が狼だったってこと……?
はた、と思い当たった。さっきのくすぐったさが何に似ているのか。
犬はやたらと人間の顔を舐《な》めたがる。舐めるのは彼ら流の挨拶なのだ。顔を舐めることで親愛の情を示したり、宥《なだ》めたり慰《なぐさ》めたり――。
ようやくラムジーの言う〈狼式〉の意味が判った。ぽかんと口が開く。
「つまり、あんた、あたしの顔を舐めたってこと……?」
ラムジーがびくっと身を縮《ちぢ》めて退《しりぞ》く。
「ごごごごごめんッ!」
「信じられない! だいたい、なんであたしが動転してるなんて思うのよ!?」
「だ、だって、脈拍がすごく速かったし、体温があがってて、それに神経が昂《たか》ぶってるときの匂いがしたし……」
もう、唖然《あぜん》とするしかなかった。
隣に座っている女の子の心臓がドキドキ鳴って、顔が熱くなって、神経が昂ぶって……それが判るのに、なんでその意味が解らないわけ?
人の感情が解るですって?
誰が動転しているですって?
ぜんぜん解ってないわよ、バカーッ!
本当に、なんてガキなの……!
そのガキに期待した自分が、情けない。情けなくて涙が出そうだった。怒りと脱力感がごちゃまぜになった訳の分からない感情が津波のように押し寄せてくる。
ラムジーがおずおずと言った。
「ネッシー……。怒ってる……?」
「あったり前でしょ!」
「ホントに、ごめんっ……!」
ラムジーは平謝りだ。
もう怒ればいいんだか、笑えばいいんだか分からなかった。
ただ分かっているのは――。
ガバッと立ち上がり、ラムジーの正面に仁王立《におうだ》ちに立《た》ち塞《ふさ》がる。
「目、閉じなさいよ!」
「う……うん」
「歯、食いしばりなさいよっ!」
「うんっ……」
覚悟を決めたようにラムジーがぎゅっと目をつぶる。
それを見て、思った。
ハッキリしていることは一つ。
手を伸ばしてラムジーのメガネを外す。それからゆっくり屈《かが》みこむと、素早くその頬に唇を押し付けた。
「ネッシー……?」
びっくりした真ん丸な目が見上げる。
手の甲でぐいと口を拭《ふ》き、アグネスはエンバンクメントの遊歩道を全速力で駆け出した。
「ネッシー!」
ラムジーが叫んでいた。充分と思えるだけ走り、足を止め、くるりと振り向く。ラムジーはベンチの前に呆然と立ち尽くしている。強度の近眼のラムジーはメガネがなければ数メートル先もぼんやりとしか見えないはずだ。ラムジーに分かるように、オーバーアクションで川べりの欄干《らんかん》にメガネを置く。
これでいい。両手でメガホンを作り、肺いっぱいに空気を吸い込む。そしてありったけの大声で怒鳴った。
「ラムジー・マクラブのバ・カ・ヤ・ローッ!」
◆◆◆
ラムジーはぼんやりしながら夕闇の迫《せま》るミレニアム・マイルを歩いた。〈ラノンズ・グリーン・フローリスト〉の店先から漏れる明かりが石畳を明るく照らしている。
店に入っていくと、店番をしていたケリが奥から出てきた。
「どうしたんだよ、ラムジー。浮かない顔しちゃってさ。彼女に会えなかったの?」
「ううん……会えたんだけど……」
ケリは眉をきゅっと吊り上げた。
「なんだよ。ケンカでもしたのかい?」
「ううーん。そうじゃないんだけど……」
何だかひどく頭が混乱して、何と説明していいのか判らない。でも、ケリは〈口説き妖精〉だから女の子のことをよく知っているかも知れないと思った。
「ねえ、ケリ。ぼく、女の子って、やっぱり何を考えてるのかちっとも判らないや。ケリは判る……?」
「判らないって何が?」
「ううーん。泣いてるのかと思ったら嬉しそうだし、怒ってるのかと思ったらそうじゃなくて、ぼくにはもう何がなんだかさっぱりで……」
ケリはそんなことか、という顔をした。
「そんなもんだよ。女の子ってさ」
「そんなものなのかな……」
「そうさ。僕だって相手を操《あやつ》れても心の中までは分からないんだから」
「ううーん。そうかぁ……」
ラムジーはアグネスの唇が触れた個所《かしょ》にそっと手を触れた。
てっきり打たれると思ったんだけど……。
でも、とにかくネッシーに嫌われているという思い込みはぜんぜん間違いだった。ネッシーは妙にツンケンして意地悪を言うから、ずっと嫌われているとばかり思っていた。だけど意地の悪いことを言うのは本当は心配しているからで、レノックスさんの口の悪いのといっしょだということが解ったのだ。別れ際のネッシーはひどく腹を立てていたけれど、それはどちらかというとネッシー自身に対して怒っているみたいだった。ネッシーは負けず嫌いだからあの夜の闘いの最中に泣いたことや、自分が動転していることに対して腹を立てていたのかも知れない。でも、あんまり色んなことがあったんだからそれは仕方がないと思う。
あの夜、公園でネッシーが悪い魔法使いに殺されそうになったとき、頭の中が真っ白になってそれから真っ赤になった。本当に、あんなことはもう二度と起こっちゃいけない。
掌《てのひら》に爪が食い込むほどきつく拳《こぶし》を握りしめる。
ぼくがしっかりしなくちゃ。そして、みんなを守るんだ。それに、ネッシーも。
走ったあとみたいに心臓がとくとくリズミカルに脈打《みゃくう》っていた。それになんだか胸の底がぽかぽかと暖かいのだ。どうしてなんだろう。そういえば、この間ネッシーが見送りに来てくれたときもそうだった。
もう一度頬に触ってみる。そうしたらなぜだかひとりでに口元がほころんだ。
ラムジーは、それはきっとアグネスが覚えたての狼式挨拶をしてくれたからなんだろうと思った。
[#改丁]
あとがき[#地から2字上げ] 縞田理理
こんにちは。縞田理理《しまだりり》と申します。
『霧の日にはラノンが視《み》える2』をお手にとって頂《いただ》き、ありがとうございました。
〈ラノン〉の二巻を出すことが出来るなんて、なんだか夢のようです。これもウィングス編集部を初め多くの方々の励《はげ》ましのお陰《かげ》だと思います。二巻、となっていますが、一応読み切り形式になっているのでこの巻から読んでも大丈夫です(ただし、蛙《かえる》が苦手な方にはあまりオススメできないかも……蛙さん、てんこ盛りです)。
1話目の『妖精たちの午後』では、主に異世界〈ラノン〉から現代のロンドンにやって来た〈妖精〉たちの生活を描いています。〈妖精〉と言えどロンドンでの生活はなかなか大変なようで、冷や汗をかいたり胃痛を起こしたりしながら仕事に追われています。
なんだかあまり妖精らしくないですけれど、彼らはみな〈妖精〉なのです。
一巻のあとがきでも触《ふ》れましたが、〈ラノン〉の妖精たちはケルトの妖精伝説を下敷きにしています。ケルトの血を引くイギリスの妖精たちはバラエティー豊富で、ほとんど人間に近いものから妖怪と言っていいようなものまで無数に存在するのです。
それにしても読み返してみたら、レノックスってこの巻で一度も魔法を使っていないんですよね。見た目も言動もあんなだし、これでは〈妖精〉と認識してもらえないような気が……。一巻でアグネスに指摘されて以来、本人もちょっと気にしております(笑)。
『ネッシーと〈風の魔女〉』を書くにあたっては、久しぶりにイギリスへ取材旅行に行きました。六年ぶりのロンドンは随分《ずいぶん》変わっていてビックリでした。アグネスとシールシャが歩いたコースのほとんどは今回の旅行で実際に歩いた場所です。トリニティー・スクウェア・ガーデンズは工事中で中へは入れなかったのですが、外から写真を撮ったし、妖精伝説の宝庫と言われるダートムーアにも行くことが出来たので満足です。
少人数のキャラクターで始まった〈ラノン〉もだんだん登場人物が増えて大所帯《おおじょたい》になって来ました。新キャラが登場する度《たび》にねぎしきょうこ先生はステキにイメージぴったりのデザインをして下さるのですが、この巻初登場のキャラではスケベおやじ氏こと〈魔術者〉フィアカラのラフがとりわけステキでした。切れてるラテン系不良中年(髭《ひげ》部所属)、という設定を余すところなく表現してこれ以外にはない、という素晴《すば》らしさ。編集部でも大ウケだったそうです。そしてレノックスの『似合わないスーツ姿』の似合わなさ加減にウットリしたり、わんこラムジーとちびガブたち(注:ガブリエル犬の仔犬)の可愛《かわい》らしさに身悶《みもだ》えしたり……。どのイラストも本当に素敵で、小説に興味がなくてもイラストだけで買う価値あり、です。
〈ラノン〉は二巻を数えましたが、自分的には五合目にさしかかった所という感じです。続きは順次、季刊小説ウィングスにてお届けする予定になっております。お読みになった感想などございましたら編集部気付でお送り下さると大変に嬉《うれ》しいです。
それでは、またいつの日にかお会いしましょう。
二〇〇四年五月吉日
[#地から2字上げ] 縞田理理
追記
[#ここから1字下げ]
ようやくホームページ〈よこしまです。〉を公開することが出来ました。まだ中身はあんまりないのですが、よろしかったらちょっと覗《のぞ》いてみてやって下さいませ。
[#ここから9字下げ]
ホームページアドレス http://www.geocities.jp/ririshimada/
掲示板アドレス http://www.21style.jp/bbs/uraniwa/
(携帯用 http://www.21style.jp/phonemail.cgi?id=uraniwa)
[#ここで字下げ終わり]
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底本:「霧の日にはラノンが視える」新書館ウィングス文庫、新書館
2004(平成16)年5月25日初版発行
初出:
妖精たちの午後 小説Wings’03年秋号(No.41)
ネッシーと〈風の魔女〉 小説Wings’04年冬号(No.42)
キス&ゴー 書き下ろし
入力:
校正:
2009年12月9日作成