霧の日にはラノンが視える
著者 縞田理理/挿絵 ねぎししょうこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)〈地獄穴《じごくあな》〉
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|ダナ人《ダナ・オ・シー》
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(例) あとがき[#地から2字上げ] 縞田理理
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霧の日にはラノンが視える 目次
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霧の日にはラノンが視える
晴れた日は魔法日和
あとがき
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霧の日にはラノンが視《み》える
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0――地獄穴
科《か》せられたのは〈地獄穴《じごくあな》〉の刑である。
|ダナ人《ダナ・オ・シー》の王の私生児にして死刑囚であるジャックは凍《い》てつくように蒼白《あおじろ》いフロスティ・ブルーの両眼を見開いた。
「目隠しを」
「いらないよ」
漆黒《しっこく》の髪をかきあげ、父王が指定した立ち会い人のカディルにちらりと目をやる。ジャックが幼いときからずっと養育係を務めてきたカディルは手折《たお》られた百合のようにうなだれて〈地獄穴〉の周囲を吹く風に嬲《なぶ》られていた。
すまない。今までさんざん世話をかけたけど、結局こんなことになってしまって。
ジャックは処刑台を見あげた。
これが、十七年の人生の締めくくりなのだ。
育ててくれたカディルの名誉のためにも、せめてこの最後の時をダナの王族らしく振る舞おう。
そう決意すると、ジャックは深く息を吸い込んだ。そしてしっかりした足取りで硝子《ガラス》の処刑台に踏みだしながら、もう一度だけ麗《うるわ》しいラノンの都を見たいと思った。
1――都会はおっかない
ラムジー・マクラブはびくっと首をすくめた。視野の端を素早い影がかすめて通ったような気がしたのだ。
深呼吸し、頭をぶんぶんと振る。
落ち着け、ラムジー。気のせいだ。何にも見なかった。ここはロンドンなんだから。夜になっても眩《まばゆ》い光でいっぱいで、呪《のろ》いとか祟《たた》りとかとは無縁の場所なんだ……。
ラムジーはつぶらな栗色の瞳をしたなりたてほやほやの十六歳だった。小柄で丸顔なのと、子羊を思わせる焦《こ》げ茶《ちゃ》の巻き毛のせいで大方の場合、歳より二つほど幼く見られる。顔立ち自体は古典ギリシア風に整っているのだが、濃すぎる眉と度の強いメガネがそれを台なしにしてしまっていた。
だが、ラムジーにとっては人からどう見えるかなどということはさしたる問題ではなかった。それよりもいま自分がどこにいるか、という方が大問題だった。
ガイドブックの地図を広げてつらつらと眺めてみる。が、現在地が判《わか》らないのであまり役には立たない。
「まあいいや。もう少し歩いてみようっと」
ラムジーはカバンを抱《かか》え直《なお》して再び歩きだした。迷い始めてからいくつめかの角を曲がったとき、同年配の少年数人が路上にたむろしているのに出くわした。揃《そろ》って派手なスニーカーにフード付きジャンパーという格好《かっこう》で、まるでテレビで見る不良みたいだった。故郷のクリップフォード村ではまずお目にかかれないスタイルである。本当のところ、少し怖いと思った。
けれど服装で人を判断するのは良くないことだ。そう教わったことを思い出したラムジーは、思い切って一人に話しかけてみた。
「……あの、すみません。ここらにユースホステルはないでしょうか」
少年たちは無言でじろじろとラムジーを眺めた。なんとなく、厭《いや》な雰囲気だった。
「ユースに行きたいんだってよ、こいつ」
年かさの少年が噛《か》み付くようなロンドン訛《なま》りで言った。残りの連中がへらへらと笑う。ラムジーは早くも逃げ腰になった。
「知らないみたいだから、いいです」
「待てよ。知らないとは、言ってねえ」
少年たちはゆっくり路地《ろじ》に散り、周囲をぐるりと取り囲んだ。
「いえ、やっぱり、いいですっ……」
これは、本当にやばいかも知れない。
ロンドンにはお上《のぼ》りさんは絶対に近づいてはいけないデンジャラスなゾーンがあるという。もちろんそれは知っていたが、まさか自分が既にその場所に踏み込んでいるとは思ってもみなかったのだ。
「それ、何が入ってんのか見せろよ」
小柄な少年が素早く近づいてラムジーが抱えていたカバンを引ったくった。
「返してください!」
「ほら返してやるよ」
ジッパーが一気に引き開けられ、膨《ふく》らんだカバンの中身が濡《ぬ》れた路面にぶちまけられる。驚きのあまり、一瞬声もでなかった。
「……ひどいです」
「ばーっか。ひどいってのはこういうことさ」
毛糸帽を目深《まぶか》にかぶった少年が言った。
それが合図だった。次の瞬間、みぞおちへの一撃が見事に決まっていた。
ラムジーはその場にへなへなと座りこんだ。痛くて息も出来ない。すかさず厚底のスニーカーが四方八方から降り注ぐ。止《や》めてください、と叫ぼうとしたけれど、掠《かす》れたようなうめき声が出ただけだった。空《から》になったサイフがぱたりと音をたてて目の前に落ちる。
「シケてやんの。五十ポンドっきりだ」
「隠してんじゃねえか? 剥《む》いちまえよ」
上着が乱暴にむしり取られた。悔しさで涙が滲《にじ》む。どうしてこんな目に遭《あ》わなければならないのか判らなかった。家出をした報《むく》いなのだろうか。けれど、他に選択肢はなかったのだ。あのまま故郷にいれば、いずれ叔父《おじ》と同じ運命を辿《たど》るだけだと判っていたからだ。
そのときラムジーを小突《こづ》いたり足蹴《あしげ》にしたりしていた少年の一人が小声で囁《ささや》いた。
「……おい、やばいぜ。邪眼《じゃがん》の野郎がくる」
「びびんなよ、こっちは五人だぜ」
「けどジョーイたちは五対一で奴とゴロ巻いて、あっと言う間にやられちまったって……」
いつの間にか暴行がやんでいる。ラムジーは頭をかばう腕の間から恐る恐る上を見あげた。
少年たちはひそひそと声を潜《ひそ》め、早口でまくしたて合っている。
「知ってるか? あいつ、悪魔と暮らしてるって噂……」
「バカ言ってんじゃねぇよ、邪眼なんて言ったって、ちょっと気色悪い目ん玉してるだけじゃんか!」
「けど、なんか得体が知れなくてさ……」
年若い暴漢たちは互いに顔を見合わせた。と、同時に路地の向こうから少し奇妙なアクセントのある声が聞こえた。
「おい。貴様ら何してる」
じり、とスニーカーの輪が離れる。次の瞬間、少年たちはわあっと喚《わめ》き、声とは反対の方向にダッシュした。
背の高い痩《や》せた人影が足早に近づいてきた。
「君。大丈夫か?」
力強い手がラムジーを抱え起こす。
「うん……生きてるみたい」
そのときになってようやく、助かったんだ、という考えが頭に浮かんだ。全身がズキズキ痛む。ラムジーは差し出された手につかまって恩人を見あげ、そして二つの眼を見つめたまま動けなくなってしまった。
ハスキー犬みたいな眼だ。
こんなに色の薄い瞳は見たことがなかった。
男の瞳はほとんど白に近いほど淡いブルーで、冬の朝に窓ガラスをびっしり覆《おお》う霜みたいにしらじらと底光りしていた。瞳と白目との境目は滲《にじ》むように鮮《あざ》やかなウルトラマリンの円で縁取《ふちど》られている。そんなに色素が薄いのに、髪も睫《まつげ》も闇夜みたいに黒い。染めているのか、それともあの瞳がコンタクトレンズなのだろうか。霜のような瞳とそれを縁取る漆黒の睫とのアンバランスが絶妙で、とにかくそれがこの世のものとは思えないほど綺麗《きれい》だった。
霜の色の瞳が心配そうに覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「災難だったな。ロンドンに知り合いは?」
その声を聞いて、ラムジーはなんだかホッとした。見た目は氷点下五十度だけど、声は暖かい。それに、目に見えない何かも。
「ユースに泊まるつもりだったんです。でもお金を全部|盗《と》られちゃったし」
「そこまで面倒は見られないな。警察とやらに助けてもらえ」
「うん……でも」
警察に行ったらきっとここにいることを家族に知られてしまう。せっかく一大決心をしてロンドンにやって来たのに。
ちらりと男の顔を見あげる。下の兄と同じくらいだから、歳は二十かその少し前くらいだろうか。黒い革ジャンを着ているのでちょっと不良めいて見えるけれど、さっきの野良犬みたいな連中とは全然違う。不良たちは彼を邪眼とか言っていた。けれどラムジーにはむしろ青年が雪と氷の騎士のように思えた。そういうと何か冷たい印象になってしまうけれど、そうではない。冷たいけれど暖かい、そんな感じがするのだ。
ラムジーは自分は直感力で初対面の人間の性質を見抜けると信じていた。確かに全住人が親族だという村で、六人の面倒見の良い兄に囲まれて育ったラムジーは無条件に人を信じてしまうところがある。さっき失敗したのは直感を理性で無視したからだ。反対に直感的に彼は良い人に思えるのに、面倒は見られないと冷たい言い方をする。カンが狂ったのか、それともロンドンという所ではこれが当たり前なのだろうか。
ラムジーは仕方なく裏返しになってしまった上着をそのまま羽織《はお》り、路上に散らばった荷物を拾い集めた。叔父のノートが少し濡れてしまったが、乾かせば大丈夫だ。
「ありがとうございました。地下鉄の駅はどっちですか?」
霜の瞳の青年は眉根を寄せた。
「金がないのに駅に行ってどうする。寝泊まりする気じゃないだろうな」
「そう思ったんですけど……」
自慢じゃないが寒さには強い方だ。ハイランドの冬に比べたらロンドンの秋なんて真夏みたいなものだし。
「馬鹿か? またチンピラ連中にからまれたらどうするんだ」
「でも、もう盗られるものもないですし」
「向こうはそう思わないかも知れないじゃないか。それに盗られるのは金だけじゃない、他にも――えい、くそっ……」
吐きだしかけた悪態《あくたい》を呑み込み、彼はひどくぶっきらぼうに言い放った。
「来いよ」
「あの。いま、何て」
聞き間違いじゃないだろうか。今さっき、彼は面倒は見られない、と言った筈《はず》だ。
「だから一緒に来いと言っているんだよ。タダで泊まる気なら駅よりましというだけの所だが、来るか?」
「はい! はい! はい!」
ラムジーは飛び上がった。やっぱりカンは狂っていなかった。彼はとっても良い人だ。
「宜《よろ》しくお願いしますっ。ぼく、ラムジー・マクラブと言います」
氷点下五十度の眼がじろりと見返す。
「ジャック・ウィンタースだ」
右も左も絵に描いたようなロンドンの裏町が続いている。ラムジーは歩きながらきょろきょろあたりを見回した。お上りさん丸だしだと思うのだがどうにも物珍しさを抑え切れないのだ。道の両側にはレンガの公共長屋が軒を連《つら》ね、壁や郵便ポストは何層にも貼《は》り重ねられたチラシに覆われている。
十分ほど狭い路地を歩いて二人はジャックの言う『駅よりましな』場所についた。
「ここだ」
彼は外装が剥《は》げ落《お》ちた暗褐色《あんかっしょく》の建物を見あげた。空き家になって久しいという感じだった。黒ずんだ煉瓦《れんが》の壁には、いたるところにスプレーの文字が書きなぐられている。
「す……すごいですね」
「厭なら田舎に帰れよ」
ラムジーはぶんぶん首を横に振った。何があっても村には帰らないと決めたのだ。
「ぼく、いっぺんこういう所に住んでみたかったんですっ」
「好きにしろよ。二階は全部|空《あ》いてるから。僕は地下を使ってる」
空き家の二階は確かに駅で寝るのと大差ないくらい荒れていた。窓ガラスは割れ、板切れが床に散乱している。けれど、ここはロンドンなのだ。そこが大切なところで他のことはどうでも良かった。
信じられないような気がする。今この瞬間、自分がロンドンにいるなんて。
悲壮な決意と共に後にした故郷は遥か遠くになっていた。家族に黙って来たのは心苦しかったが、言えば反対されるのは判りきっていた。
かばんから叔父のノートを取り出す。これを書いた頃、叔父の精神状態がもう普通でなかったことは知っている。そんなものを支えにすることがどんなに馬鹿げているかも。でも、他に頼れるものはなかった。このノートだけがラムジーの心の拠《よ》り所《どころ》だった。
汚れた表紙をそっと指でなぞる。最後のページを開こうとしたとき、ラムジーは二人の人間が言い争う声にハッとなった。片方は、確かにジャックの声だった。
人に親切にされたら、こちらも助け返す。それが自然の厳しい高地地方《ハイランド》で農業を営《いとな》む父の教えだった。ジャックが何か困ったことになっているのなら放ってはおけない。ラムジーは地下を使っているという彼の言葉を思いだし、そろそろと階段を降りた。声は地階の奥の方から聞こえてくる。暗い廊下のどん詰《つ》まり、『管理人室』と書かれたドアから細く明かりが漏《も》れ出《で》ていた。
ジャックの声がした。
「何しに来た。二度と来るなと言った筈だ」
「尊顔《そんがん》を拝《おが》みにきただけさ、王子様」
ドアの隙間にメガネを押し当てる。ソファに高々と足を組んでふんぞりかえっている大男が見えた。破いたTシャツの袖口から青黒い渦巻き模様の刺青《いれずみ》が覗いている。真っ赤な髪はまるでライオンのタテガミだ。プロレスラーみたいに筋肉の発達した体格をしているけど、ちょっとタレ目でおまけに中高《なかだか》の派手な顔立ちをしているから、配役としては悪役じゃなくて〈正義の闘士〉の方だ。
大男が立ち上がると裸電球がゆらゆら揺れた。壁に落ちる影法師《かげぼうし》もゆらゆら揺れる。ラムジーの目は、コンクリートの床にじかに敷かれたマットレスに膝《ひざ》をかかえて座っている人物に吸い寄せられた。
天使様……?
一瞬、本当にそう見えた。
全身をすっぽり包む深緑のガウンのようなものを着ているので男性なのか女性なのか判らないが、細面《ほそおもて》の顔は水仙の花のように清らかで、アイリスのようにあでやかだった。切れ長の二つの眼は若葉を思わせるミントグリーンで、青みを帯《お》びた銀色の髪は床に擦《こす》るほど長く、まるで小さな滝のようにさらさらとガウンの上を流れ落ちている。
なんて綺麗なひとだろう……。
天使のような人をもっとよく見ようと目を細めてハッとした。透き通った緑の瞳は一点を見つめたままどこにも焦点《しょうてん》を結んでおらず、白い顔には表情というものが全くないのだ。だから、本当は天使様というよりは壊《こわ》れた天使人形に似ていると言えた。
思い出したくないことを思い出し、ラムジーはちょっとゾッとして大男に視線を戻した。
雷《かみなり》のような声が轟《とどろ》く。
「まだそいつを引き渡す気にならないか?」
「御免《ごめん》だね。彼の世話はちゃんとしている」
今度はジャックの声だ。だが、その声はさっきとは打って変わって刺々《とげとげ》しかった。
「〈同盟《どうめい》〉に加盟すればこんなしみったれたとこに住む必要もなくなるんだぜ。仕事も身分も保証されるんだ。あんただって、灰もなしにいつまでやっていけると思ってるんだ?」
「生憎《あいにく》と僕は今の仕事が気に入っているんでね。それに、ここでの暮らしに灰は必要ない」
「強情を張るのもいい加減にしろ! 〈同盟〉では口の堅《かた》い医者も手配できるんだぞ。治療すれば回復の見込みだってある」
「医者など必要ない。カディルは狂ってなんかいないんだ。ただちょっと……殻《から》に引きこもっているだけだ」
大男はせせら笑った。
「ふん。物も言いようだな」
なんだかよく判らないけど、どうやら二人はどちらがあの美しい人の面倒を見るかで言い争っているらしかった。大男は病院に入れたがっている。そしてジャックはあくまで自分で面倒を見るつもりなのだ。多分。
「あんたは昼間、こいつにひとりで留守番をさせてる。それだって問題だ。人間に見つかったらどうする」
「大丈夫だ。この部屋には惑《まど》わしをかけてある。覗いても何も見えない筈だ」
「どうだかな。この辺りじゃ、悪魔がどうの、って噂が流れてるぜ」
「噂なんかすぐ消える。ここの人間は目に見えることしか信じない」
「手前勝手な理屈だぜ。だが、これだけは覚えとけ。灰のルールは絶対だ。あんたが、同盟に入ろうと入るまいと、誰であれメンバーを殺したら……」
「誰も殺したりするもんか」
「どうだか。あんたは自分の弟を殺そうとした男だからな。とにかく殺したら次に灰になるのはあんただ。そのときが楽しみだぜ」
「お帰りはあちらだ、レノックス」
ジャックは冷ややかに言った。
「茶も出さないのか。王族ってのは礼儀を知らんらしいな」
レノックスと呼ばれた大男はしなやかな身のこなしで立ち上がり、踵《きびす》を返した。
いったい何のことだろう? 殺すとか王族とか灰とか。それにあの綺麗な人。あの人は病気なのだろうか。やはり叔父と同じ……。
かじりついていた扉が突然音をたてて開いた。頭の中でクエスチョンマークがぐるぐる渦巻いていたので、隠れるということをすっかり忘れていたのだ。つんのめるように部屋の内側に倒れ込んだラムジーを、大男は子猫でもつまむように襟首《えりくび》を掴《つか》んでつるし上げた。
「おい。こんな所に人間のガキがいたぜ」
「放して下さいよう……」
宙ぶらりんのまま手足をじたばたさせる。顔から火が吹き出そうだった。ジャックを助けに来た筈だったのに、そんなことはすっかり忘れて今の今までこそこそ話を盗み聞きしていたのだ。
大男は訝《いぶか》しげな表情を浮かべた野生動物みたいにラムジーの顔を覗き込んだ。
「随分《ずいぶん》ちびっこいな」
「そんなことないですぅ……」
これでも五フィート半はある。そっちが大きすぎるんだ。
「こいつ、覗いてたぞ。たいした惑わしだな、え? 王子様」
ジャックが呆然とした顔で呟《つぶや》いた。
「ラムジー……何やってたんだ?」
「なんだ。王子の知り合いかよ」
「あはは、こんにちは、ジャックさん……」
青白い眼がぎろりとこっちを睨《にら》む。体感温度が一気に十℃くらい下がった。
「こんにちは、じゃないっ! 何を見た?」
申し訳なさでいっぱいになり、ラムジーはうつむいて目をそらした。
「なんにも見てませんよお……」
「けど、話を聞かれたかもな。どうする? 丸焼きにして喰《く》っちまおうか? 旨《うま》そうだぜ」
冷たい手で鷲掴《わしづか》みにされたみたいに肝《きも》が縮み上がる。この大男が言うと冗談に聞こえないから怖い。
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ラムジーは必死でかぶりを振った。
「聞いてないですっ!」
「そういうことだ、レノックス」
大男はひどく面白そうにくすくすと笑った。
「秘密を守るのは同盟の規約なんだがな」
「ここの人間とトラブルを起こさないのも、だろう。その子を放せ、ブルーマン」
「では仰《おお》せの通りに、王子」
突然手を放され、ラムジーはまともに床に落ちて膝を打った。
大男がジャックの耳元で囁くのが聞こえる。
「ふん。落とし前はあんたがつけろよ」
「判ってる」
刺青の大男が暗い階段をのしのし登って行ったあと、地下室に取り残されたラムジーは恐る恐る尋《たず》ねた。
「あの……。怒ってます? ジャックさん」
ジャックはソファの上でちょこんと小さくなっているラムジーの打ち身に濡れタオルを当てながら言った。
「当たり前だ」
霜のような瞳がじろりと睨む。なんだか腹の底まで凍りそうな気がする。
「取って喰ったりしませんよね……?」
彼は苦笑した。
「レノックスの言ったことを真に受けたのか。あれは冗談だ……と、思うが」
言葉の最後のところで少し自信がなさそうになる。
「僕も奴の嗜好《しこう》は知らないからな。とにかく僕は食人種じゃない。安心して話していいぞ」
ラムジーは、それはあんまり安心できる言い方じゃないんですけど、と思った。
けれども彼の顔を見ていたら恐いという感じはどこかに消えてしまった。どうしてか判らないけれど、一番最初に受けた〈いい人〉の印象が強かったからかも知れない。
「あのレノックスって人、ブルーマンってあだ名なんですか? 刺青をしてるから?」
ブルーマンというのは北の海の伝説で、船を沈める荒々しい妖精のことだ。魔物といった方が良いみたいだが、故郷のスコットランドでは妖精は綺麗とか可愛《かわい》いというより恐ろしい怪物であることの方が多かった。人喰いや生き血を吸う妖精の話もある。炉端《ろばた》でそんな話を聞くと恐くて眠れないこともあったけれど、それでも御伽噺《おとぎばなし》は大好きだったのだ。でも今は嫌いだった。実のところ〈妖精〉という単語を聞くのも厭だった。
気づくとジャックが驚いた顔でこちらを見ていた。
「君、あいつの腕の文様《もんよう》を見たのか?」
「だって、目立ちますよ」
見落とす方がどうかしていると思った。彼はまじまじとラムジーの顔を眺めた。
「どうやら、僕の落ち度じゃなさそうだな……。ラムジー、君、もしかして上着を裏返しに着ていないか?」
「あ。ほんとだ」
さっき剥がされたのをそのまま着たからだ。いっぺん脱いでもう一度裏返すと、彼は親切に着るのを手伝ってくれた。
「で、本当は何を見聞きしたんだ?」
「ええと、ジャックさんのことを王子様だって。あと、あの人を病院にいれろとか……」
「それから?」
「……言っても怒らないですか?」
「言ってみなきゃ判らないだろう」
ラムジーはちらりと彼を見あげた。射るような青白い目はすべてを見抜きそうだ。
「あの……弟さんを殺そうとしたって……」
「なるほどな。全部聞いたわけだ」
「ごめんなさい……。聞くつもりじゃ……」
彼は深々とため息をついた。
「君は、変だと思ってるだろう? 僕らのことを怪しい連中だと」
「いえ、別に!」
「いいんだ。疑問に思って当然だ」
それから、ためらいがちに口を開いた。
「本当はこれは秘密なんだが……。実は僕はある小さな王国の現国王の妾《めかけ》の子なんだ」
一瞬、いくらなんでもそんな子供だましの話で胡麻化《ごまか》そうとするなんて、と思った。だがそのとき、彼の爪《つめ》の格好がよく、上流階級の女性のようなすらりとした美しい指をしていることに気づいた。何代にもわたって労働を知らずに育った手だ。
「……二年前、故郷で皇太子暗殺未遂事件があってね。皇太子というのは腹違いの弟なんだ。僕は告発されて、それで亡命した」
「うーん……そう……なんですか……」
既に八割方信じかけていたが、それでもラムジーにはまだ納得がいかない点があった。
「でもホントは無実なんでしょう……?」
この人が権力のために自分の弟を殺そうとしたなんて、どうしても信じられない。
彼は目を伏せた。
「無実だったらここにいないよ」
カンが外れたかなあ……。
だけど、本当に悪い人だったらこんなことをわざわざ話すだろうか。濡れ衣を着せられた、と言っても分かりっこないのに。
「あのレノックスって人は?」
「あいつは重大犯罪で国を追放になった連中の一味だ。奴らはこのロンドンで〈同盟〉という組織を作っている。犯罪者や反王党派の集団だよ。中でもあの男は僕を目《め》の敵《かたき》にしているんだ。僕が元王族だという理由でね」
「そんな悪い人には見えませんでしたけど」
「丸焼きにされてもか?」
そう言われると反論できなかった。確かに取って喰うとか言うし、ジャックとは仲が悪いみたいだけれど、本当は人が悪いだけでそう悪い人じゃないような気がする。それもただのカンで根拠はないのだけれど。
「あの……。それであの人は?」
遠慮がちにちらっと振り返る。天使のような人は、さっきとまったく同じ姿勢で身じろぎもせずに座ったままだ。
「カディルは何というか……幼馴染《おさななじ》みなんだ」
言葉のあいだに、微妙な間があった。
「故郷を出るとき彼だけが同行してくれたんだ。だが、この国の生活に馴染めずに……」
「そうだったんですか……」
ラムジーは天使のような人に今度はまっすぐ視線を戻した。美しい緑の目は大きく見開かれているけれど、何も映してはいない。
ジャックは雑然と物の置かれたテーブルでココアをいれ、息を吹きかけて少し冷ました。焦点の合わない目をした佳人《かじん》の手をとり、しっかりと握らせる。
「飲んで、カディル。ゆっくりだよ」
細い指がマグを握りしめ、物言わぬ天使は自動人形のように飲み始めた。
「ジャックさんの言うこと、判るんですね」
「どうだろうな……。半年前まではまだ話もしたし、一人で立って歩くこともあったんだ。でもこの頃は何を言っても駄目で、もう機械的に反応しているだけなのかも知れない……」
その人が長い時間をかけてマグの底まで飲み終えると、ジャックは握りしめた白い指を一本ずつ丁寧《ていねい》にひき放した。そうしないと、たぶんずっと握っているのだ。彼はカディルのあごを伝うココアをそっと指で拭《ぬぐ》った。そのさりげなさにラムジーはハッと胸をつかれた。それは、毎日の仕事に追われる病院のスタッフにはなかなか出来ない仕草だった。
「あの。カディルさんのことですけど」
「病院にいれろというなら余計なお世話だ」
ラムジーは慌てて否定した。
「違います、入院させようとか言うんじゃないんです……」
この話をしていいものか一瞬迷った。ある意味で家族の秘密だったからだ。けれど彼の秘密を聞いてしまったのだから、こちらも話さないとフェアでないという気がする。
ラムジーは慎重に言葉を選んで話しだした。
「ぼくの叔父の事なんです。叔父は心の病にかかって、長いこと入院していたんです……」
セオドア叔父は父の一番下の弟で、父とは親子くらい歳が離れていた。独身だった叔父は祖父母が亡くなったあとラムジーの一家と一緒に住んでいたのである。発病する前の叔父はハンサムで陽気な夢想家で、小さかったラムジーはそんな叔父が大好きだった。
「叔父さんは眼を開いたまま眠ってるみたいでした。医者は何も理解できないんだと言いました。家族も諦《あきら》めてました。でも、ある日突然目を覚まして喋《しゃべ》りだしたんです」
あれは、|クリスマスの翌日《ボクシング・デイ》のことだった。前日の残りの七面鳥を切り分けたり、プディングを暖め返したりしている最中に病院から電話が掛かってきたのである。それから大慌《おおあわ》てで家族全員がぎゅうぎゅうに車に乗り込んで病院に向かった。父は涙を流していた。今までで最高のボクシング・デイだと。
「それで話をして分かったんですけど、叔父は入院中に誰が、いつ、何を持って見舞いにきたか全部覚えていたんです。見舞った本人が忘れているようなことまで」
セオドア叔父はクリスマスの一時帰宅を許され、それから十二日間を家族と過ごした。素晴らしく素敵な冬休みだった。叔父はよく喋り、笑った。そして明日は病院に戻るという顕現祭《エピファニー》の一月六日、皆が寝静まったのを見計らって鹿《しか》撃《う》ち銃《じゅう》を持ちだし、農場の裏で頭を撃ち抜いた。『自分になりたい』と書《か》き遺《のこ》して。月のない真っ暗な夜だった。
「だから、カディルさんも判らないとか思わないで、いっぱい話しかけてあげてください。本当は全部判っていて、何かのきっかけで殻を破るかも知れないんです。そのとき一緒に話すことがなかったら可哀想《かわいそう》なんです……」
こんなことを言ってしまっていいのか分からなかったけれど、でも言わずにはいられなかった。ジャックは眩《まぶ》しそうにこちらを見ている。近寄りがたい印象が消えて、霜の色の瞳に不思議な暖かさが灯《とも》っていた。
彼はぽつりと言った。
「ラムジー。君はとても良いご家族に育てられたんだろうな……」
部屋の温度が一気に上がって氷がみんな溶けたみたいな、なんだかそんな感じだった。
「君は少しニムロッドに似ているよ。弟は、君みたいに素直で優しい子だった……」
ラムジーは空き家の二階から黒い自転車がすーっと走ってきて真下の路地に停まるのを眺めた。
「お帰りなさい、ジャックさん」
降り積もった雪のように薄青い眼が眩しげにラムジーを見あげる。
「やあ、ラムジー。林檎《りんご》をたくさん買ったんだ。食うか?」
「はい、いただきますっ」
ジャックは自転車便の仕事をしている。テムズ河の北の金融街シティ≠走り回ってオフィスからオフィスへ書類や小包を届ける仕事だ。
地下室の扉を開けると、ジャックは隅のテーブルであまり器用とは言えない手つきで青リンゴを切っていた。
「勝手に袋から食べてくれ」
「ありがとうございますっ」
袖《そで》で拭《ふ》いて丸ごとかぶりつく。すぐに一つ食べ終えてしまい、二つ目に手を伸ばしながらふとジャックの方に目をやった。彼は小さく切ったリンゴを一つずつカディルの口元に運んでいた。そうやっていちいち口まで運んであげないと食べないのだ。
ラムジーは手の中でぴかぴか光っているリンゴに目を落とした。
「何かぼくに出来ること、ありませんか」
見知らぬ国で友人もなく、二人だけで生きてくるのはどんなに大変だっただろう。なのに、助けてもらうばかりでこちらは何にも出来ないのだ。バイトは見つからないし、今だって彼の稼《かせ》ぎで買ったリンゴを食べている。
彼はちょっと考えてから言った。
「そうだな……じゃあ、こうしよう。君が都会暮らしに慣れるまで僕の手伝いをしてもらう。バイト代はあまり出せないけど」
「お金なんていいです。どうせ暇《ひま》なんだし」
「いや、こういうことは最初にちゃんと決めた方がいいから」
「そうですかあ。じゃ、他に何か英国のことで訊《き》きたいこととかないですか」
「そうだな……。イギリスには削蹄《さくてい》ナイフってあるかな? 羊や山羊《やぎ》の蹄《ひづめ》を削《けず》るやつだけど」
削蹄ナイフは小さな鎌《かま》のような形をした道具だ。冬の間運動不足で家畜の蹄が伸びすぎてしまう。そうすると歩行困難になるので、ときどき切ってやらないといけないのだ。
ラムジーはどうして街の暮らしでそんなものが必要なのか首を捻《ひね》りながら言った。
「ぼくの持ってきたロンドンのガイドブックに刃物の専門店が載ってたから、そこなら売ってるかも知れませんけど……」
「ありがとう。君のおかげでいろいろ助かるよ、ラムジー」
ちっとも役に立っていないのに、そんな風に言われると何だか恥ずかしくて身の置き所がない感じだった。何か言わなければと思ったが、ジャックはさっさとラムジーに背を向けてカディルの細く長い指を一本ずつオイルでマッサージし始めた。
「……ぼく、手伝いましょうか」
「いや。彼は僕以外の人間に触れられるのをとても嫌うんだ。君には大分《だいぶ》慣れてきたみたいだけど、もしもということもあるから」
「ジャックさんだけは特別なんですね」
「家族みたいなものなんだよ。本当に小さいときからずっと一緒だったんだ。僕にとって彼は父で、母で、兄で、友人だった……」
彼は爽《さわ》やかな香りのするハーブオイルを手にとった。
「僕が七つのときだったかな……。下級貴族の子とケンカをして、負けてね。僕は悔《くや》し紛《まぎ》れに、その子に王になったら首をちょん切ってやる、って言ったんだ。そのとき、僕はまだ第一継承者だったからね」
「うわっ。それ、ひどいですよ」
「そう。後で父にバレて、ケンカをしたことも含めて手酷《てひど》く叱《しか》られた。僕にはどうして僕だけが叱られるのか判らなかった。ケンカは相手も同罪なのに、向こうはお咎《とが》めなしなんだ。カディルにそう言って泣きついた」
彼はゆっくりとカディルの指にオイルを塗《ぬ》りながら言った。
「そうしたら、お忍びで街に連れていってくれると言うんだ。もちろん僕は大喜びだった。二人で出かけたラノンの市で――」
耳慣れない単語にラムジーは彼を見あげた。ジャックはあっという顔をし、それから目を伏せてそっと笑った。
「……そう。それが僕の故郷の名だよ。とにかくその日は祭りがあって、曲技団《きょくぎだん》の演技を見た。人間の塔という曲芸だった。何十人もが順に肩の上に乗って人間の塔を作るんだ。一番上に乗るのは小さな子供だよ。段の下の方の連中が次々にその子をひっぱりあげて一番上に立たせる。拍手喝采《はくしゅかっさい》さ」
「すごいですね」
「ああ。すごかった。芸が終わって、カディルが訊くんだ。人間の塔の中で一番偉かったのは誰かって。てっぺんに立った子供か? もちろん、そうじゃない。偉いのは下で支えていた多くの人間だ……。僕は恥ずかしかった。王が偉いんじゃない。宮廷も社会も、多くの人々によって支えられているんだ。僕は、必ず良い王になろうと思った。翌年ニムが生まれてその決意は不要になったけど、あのときカディルに教えられなかったら僕は今よりもっと厭な奴になっていたと思う」
「ジャックさんは厭な奴なんかじゃ……」
「厭な奴さ。それは僕がよく知っている。とにかくカディルは言葉で教えないで、自分の頭で理解させるために街に連れていったんだ。彼は昔から神経が細くて街や人混みが大の苦手だったのに、僕のために我慢して」
「じゃあ、ロンドンはカディルさんには良くなかったんですね……」
「何もかも僕のせいなんだ。だから、カディルには出来る限りのことをしたい。彼が僕のためにしてくれた努力には及びもつかないが」
彼はカディルの手を丁寧にマッサージしながら言った。カディルは安心しきった様子でなすがままに手を預けている。心がこの世の向こう側に行ってしまっていても、ジャックのことだけは解るのだ。
少し羨《うらや》ましかった。そんなに信頼できる相手がこの世にいるなんて。
「ジャックさんの故郷って、どんなところなんですか」
「きれいなところだよ。緑が多くて、街の真ん中を河が流れていて」
霜の瞳に夢見るような表情が浮かんでいた。村を出て数日しか経《た》っていない自分でさえもう懐かしくてたまらないのに、彼は二年も故郷の土を踏んでいないのだ。
「いつか、帰れるといいですね」
「帰れないんだよ」
「政治情勢が変わればきっと帰れますよ」
ジャックは俯《うつむ》き、カディルの髪をそっと撫《な》でた。
「……知ったようなことを言わないでくれ。あの国は変わらない。絶対に、永遠に、僕らは帰れない。ここで生きていくしかないんだ」
断定的な口調に、痛いほど帰りたい気持ちが込められていた。
ラムジーはほぞを噛んだ。
彼が故郷の話をあまりしないのは思い出すのが辛《つら》いからだということくらい、どうして気づかなかったのか。相手の気持ちも考えないで思いついたことをすぐ口にしてしまうなんて、なんて考えなしのバカなんだろう……。
鼻の奥がツンとして目頭《めがしら》が痛くなってくる。
ジャックの声が背中に刺さった。
「ラムジー……。ごめん」
まともに顔が見られない。ラムジーは俯いたままチラッと彼を見あげた。
「ごめん。ラムジー。きつい言い方をして悪かった。君は思《おも》い遣《や》りから言ってくれたのに」
謝ることなんかないのに。デリカシーのないこっちが悪かったのに。
「そんなこと……」
こぼれそうな涙を、慌ててごしごしこする。
いやだ、十六にもなってどうしてこう泣き虫なんだろう……。
「本当は、君に見せてあげたいんだよ。僕の故郷の名はラノン――ここの綴《つづ》り方だとLunnainnだ。ロンドンみたいに近代的じゃないけど、長い歴史のある美しい場所なんだよ」
彼は言うと、冬至《とうじ》の陽光のように弱々しく微笑《ほほえ》んだ。
2――ぼくは呪われている
レノックス・ファークハーは鼻に皺《しわ》を寄せ、礼拝堂《れいはいどう》の祭壇を取り囲む種族代表の幹部たちを眺《なが》めた。
祭壇には、焼き釜から引き出されたばかりでまだおぼろげに人の形を留《とど》めた灰が置かれている。熱い灰は冷たい空気に触れ、ステンレス・トレーの上でチリチリと微《かす》かな音をたてていた。
「亡き同志に、黙祷《もくとう》」
盟主《めいしゅ》の呼びかけに会葬者《かいそうしゃ》たちはわずかの時間、拳《こぶし》を胸に押し当てて俯《うつむ》く。
「では、これより遺灰《いはい》を収納します」
会葬者の視線はひたと眼前の灰に注《そそ》がれた。
ハゲタカどもめ。
遺骨《いこつ》は専用のグラインダーで微細なパウダー状に粉砕《ふんさい》され、小型の真空掃除機に吸い込まれていく。葬儀の場に似つかわしくないモーター音とともに灰は透明なプラスチック容器に収まっていき、トレーの上のおぼろな輪郭《りんかく》は脆《もろ》く崩れ消えた。
これでおしまいってわけだ。俺たちはみな、死んで灰になって掃除機のお世話になる。
レノックスは瞬《まばた》きして視界をセカンドサイトに切り替えた。途端にプラスチック容器の中の灰は薄ぼんやりとした青い光を放《はな》ち始める。この世界の人間なら、放射性物質と勘違いするだろう。だが青い光を放っているのは放射能ではない。この世界には存在しない物質――妖素《ようそ》だ。故郷ではありふれすぎているため意識したこともないこの物質が、ここでは同じ質量のダイヤモンドよりも貴重なのだ。
容器に収められた灰の二分の一は〈同盟《どうめい》〉の管理下に置かれ、残り二分の一が一般メンバー及び準メンバーに分配されることになる。
〈同盟〉盟主ランダルがレノックスに向かって尋《たず》ねた。
「故人は何歳だったのですか?」
「十七/三十八です」
十七は生まれてからこちらに来るまでの年数、三十八はロンドンで過ごした月日だ。幹部の一人が言い放った。
「十七年だな」
まったく、ケッタクソ悪い連中だ。
幹部連中にはその人間がこちらに来てからどんな風に生きたかなどということは意味がないのだ。故人がラノンで何年間メシを食い、呼吸したか――それだけが彼らの関心事だった。各種族を代表する幹部たちはそれぞれの取り分を受け取るとさっさと退出した。だが少数種族メンバー代表のレノックスにはまだ残りの灰を個別の種族に分配するという仕事が残されている。
薬匙《やくさじ》で小さなジップつきのビニール袋ひとつひとつに灰を分けながら、レノックスはどう切り出そうか迷った。
「盟主。実は、故人には息子が一人いたんですが」
「それが?」
「父親の思い出に、少しでいいからその子にも遺灰をやって下さい」
「母親はこちらの女性ですか?」
「えー、確かそうです」
渋々答える。考えるまでもない。〈地獄穴《じごくあな》〉送りになる女は数が少ないから、どうしてもメンバーは男に偏《かたよ》る。ラノンの女と結婚するなど、とうてい叶《かな》わぬ夢だ。
盟主は冷ややかに言った。
「では、その子が準メンバーの要件を満たしていれば考えましょう」
レノックスはひそかに舌打ちした。
それじゃ体《てい》の良い拒絶と同じじゃないか。準メンバー資格の要件はその子供がラノン人の形質を持っていることだ。混血の子供がラノン生まれの親の形質を受け継ぐ確率は極《きわ》めて低い。特に長子《ちょうし》の場合は確実にこの世界の人間の形質になる。第二子、第三子と後になるにつれて少しずつその率は上がるのだが。
「それより、未加盟者二名の件は?」
つまりこの件についての話し合いは終わり、という意味だ。
ブロンドで鞭《むち》のようにしなやかな体つきをした盟主ランダルは現実的な男だった。人種的にはジャック王子と同じ|ダナ人《ダナ・オ・シー》に属する。ラノンの支配的種族だ。ランダルはダナ貴族の出ではないが、辺境の種族ブルーマンであるレノックスの目からするとダナ人はどいつもこいつも気取り屋に映《うつ》った。
「ジャックの奴は相変わらず加盟を拒《こば》んでいますが。一般メンバーも奴の加盟は歓迎していないです。なにしろ王家の人間なんで」
メンバーはお上に逆らって重罪に問われた者が大半だ。叛逆者《はんぎゃくしゃ》、テロリスト、役人殺し。それだけにメンバーの王権に対する反感は強い。レノックス自身、役人殺しで地獄穴送りになった身だ。送り込んだ側の人間を〈同盟〉に勧誘するのはどうにも気が進まない。
三ヵ月前、このロンドンでフロスティ・ブルー・アイの男を見たと聞いたときにはまさかと思った。凍《い》てつくようなあの霜《しも》の瞳はダナ王家の直系にだけ現れる。半信半疑で探し回り、かつてのダナ王国王位第一継承者ジャック・ウィンタースを実際に見つけたのが一ヵ月ほど前だ。
その後にこちらに来たメンバーが聞いた噂で大体のことが判《わか》った。ジャック・ウィンタースは庶出《しょしゅつ》の王子で、嫡出子《ちゃくしゅつし》であるニムロッド王子が生まれたのち廃太子《はいたいし》になったのだという。そしてジャック王子は弟王子の暗殺を企《くわだ》てて地獄穴に送られた。殺されかけた王子は当時まだ九歳の幼さだった。
ダナの王族というだけではなから気に入らなかったが、その話を聞いて反感は嫌悪に変わった。幼い弟を殺そうとするとは、畜生《ちくしょう》にも劣《おと》る。それは、自分だってまっさらな身ではない。だが、絶対に自分の親兄弟を手にかけたりするものか。
「奴が組織の保護下に入りたくないというなら、俺としては別に構わないんですが」
同盟――正式には〈在外ラノン人同盟〉という――はある種の『講《こう》』であると同時に相互監視システムだ。灰のルール第一項により、同盟メンバーは同盟メンバー及び非メンバーであるラノン人を殺害してはならない。第一項が守られない場合、違反者には同盟の名の下に死の制裁が加えられる。それが灰のルール第二項だ。
「問題はカディルの方です。今の奴は赤ん坊同然だ。なのに、王子は加盟させようとしない。これじゃ保護のしようがないです」
レッドキャップ族代表で盟主の腰巾着《こしぎんちゃく》のガレスがすかさず口を挟《はさ》んだ。
「あの王室お抱《かか》えのグラシュティグがこっちに来てるのか? 奴は勘定《かんじょう》できねえくらい長生きしてるんだろうな」
今のは聞こえなかったことにしよう、とレノックスは思った。ラノンでは空気にも水にも微量の妖素が含まれ、生きている限りずっと生物の体内に蓄積され続ける。つまり長生きだということはそれだけ多く体内に妖素を持っているということだ。だが、普通はそれを大っぴらに口にするのは憚《はばか》られた。特に、相手がまだ生きている場合には。
「カディルはなぜこちらに?」
「ご存じのようにカディルは王室の養育係だったんです。ジャックの育て親ってところですか。それで奴が地獄穴送りになったとき、発作的に後を追ったらしいです」
グラシュティグ族はラノンの深い山奥に住む長命種族だ。男女ともに美しいことで知られているが、長命であるがゆえめったに子宝に恵まれることがない。そのせいでか、他種族の子供を非常に可愛《かわい》がるのだ。子供好きで博識な彼らは貴族の子弟にとって最高の養育係だった。だが一方で彼らは非常に神経質な面を持ち、里の暮らしを好まない。
そのため彼らを説《と》き伏《ふ》せるのはなかなか難しく、常時グラシュティグを召《め》し抱《かか》えているのは彼らと深い関係にあるダナ王室くらいだ。なかでもカディルはダナ王室の創成期《そうせいき》から数百年にわたって仕《つか》え続け、幾世代《いくせだい》もの王子たちや王女たちを育てた例外的な存在だった。
考え深げに盟主が呟《つぶや》いた。
「カディルは正気ではないのですね、レノックス?」
「俺の考えでは、完全にイカレてますね。どういうつもりか知らないが、王子はそうじゃないと主張してますがね」
無理もない。神経の細いグラシュティグがロンドンの喧噪《けんそう》に耐えられるとは思えない。
グラシュティグならずとも、大方のラノン人にとって汚染《おせん》された空気や交通渋滞、テレビ、飛行機、電話、石油製品、鉄道、コンクリートの大地などは厭《いと》わしいものだった。たとえ自分がその利便性に与《あず》かったとしても。
「盟主。俺の考えを言います。王子がカディルを加盟させないのは、いずれ殺して遺灰を独り占めするためじゃないかと」
「だとしても仕方がありませんね。二人とも未加盟では手の出しようがない」
盟主は灰の入った小さなパケットを指でつまみ、光に透《す》かした。
「……どちらか片方でも加盟すれば第二項補足を適用《てきよう》できるのですけれど、ね」
◆◆◆
ラムジーは洗いあがった洗濯物を詰めこんだ大袋を両手で抱え、地下室への階段を一段ずつ降りた。実は、今日が|コインランドリー《ランドレット》初体験なのである。故郷の村にそんな気の利《き》いたものはなかったのだ。
「カディルさん、入りますよ」
一応声をかけてからドアを開ける。鍵はかかっていない。南ロンドンでも特にこのあたりは治安が悪いと聞いたので物騒《ぶっそう》じゃないかと思ったが、ジャックは普通の奴は入れないから大丈夫、と言う。彼はロンドンはもうけっこう長いわけだし、その彼が大丈夫と言うのだからたぶん大丈夫なのだろう。
ここは地下室といっても半地下で、道路に面した側の天窓から細く光が入ってくる。ジャックの物言わぬ同居人はいつものように部屋の奥のマットレスに静かに佇《たたず》んでいた。青みがかった銀髪が小さなせせらぎみたいにキラキラと光を反射している。白い顔は優雅で清らで嫋《たお》やかで、年齢も性別も超越した美しさだ。
ラムジーはふかふかに乾いた洗濯物をソファの上にぶちまけながら話しかけた。
「カディルさん、コインランドリーって知ってます? ぼく、初めて行きましたよ。洗濯機がいっぱい並んでて、それがみんなぐるぐる回ってるんです。面白いでしょう?」
聞こえているのかいないのか、カディルは美しい緑の瞳でただ穏《おだ》やかに宙を見つめているだけだ。でも、もしかしたら叔父がそうだったように、表に出せないだけで本当は全部わかっているのかも知れない。だからラムジーは出来るだけ色々な話をすることにしていた。それで、いつかカディルの心が戻ってきたときに、話したことを覚えていてくれたらと思うのだ。
「じゃあ、今日はぼくの故郷の話をしますね。何もないけど、きれいなとこです。村の回りには大きなストーンサークルがあって……」
故郷クリップフォード村は英国の北部、|スコットランド高地《ハイランド》地方の山々に囲まれた狭《せま》い谷あいにぽつんと存在する。厳しい気候と地形のため周辺と隔絶《かくぜつ》し、三十年前まで電気も通っていなかったという僻村《へきそん》だ。
目を閉じると懐《なつ》かしさが込み上げてくる。谷間のワタスゲ。人間より多い羊たち。春に咲くピンクのヤナギラン。村を出てからたった半月しか経《た》っていないなんて信じられない。
「それで、村には伝説があったんです……」
そこまで言って、口をつぐんだ。言葉にするのが怖くて、この話は今まで誰にもしたことがない。それでも誰かに聞いて欲しかった。ラムジーは表情のないカディルの顔をじっと見つめた。その顔はいつもと全く同じで白い陶器《とうき》の天使のようだった。
聞いていてもいなくても構わない。カディルなら、きっと受け止めてくれる。
「……伝説って言ってもロマンチックな話じゃありません。クリップフォード村で生まれる第七子は、妖精の呪いで気が狂うっていうんです。言いましたっけ? ぼくには、兄が六人いるんです。ぼくが七番目なんです……」
七番目は、呪われている。
ラムジーだけがその伝説を知らなかった。他の皆は知っていて、ラムジーに隠していたのだ。もっとも、信じてはいなかったようだけれど。信じていたら母は自分を生まなかっただろう。
だがラムジーが十になった年、やはり第七子だったセオドア叔父が発病し、入院したのだ。叔父は二十だった。
叔父が入院してから、村の人たちはラムジーに対してよそよそしいくらい優しくなった。それが優しさではなく憐《あわ》れみだと知ったのは、道具小屋に隠されていた叔父のノートを見つけたからだ。最初のページには、『愛するラムジーへ。もし君が僕と同じ運命を歩むならこれを読んで欲しい』と書かれていた。
ノートの内容は隅《すみ》から隅まで何度も読んだので既に記憶してしまっている。それは、呪いと格闘した叔父が自分が正気なうちにラムジーに伝えようとした遺言だった。
叔父は十五、六の頃から始まった自覚症状を克明《こくめい》に記録していた。幻聴や幻覚、そして皮膚《ひふ》の違和感……。それらの幾つかは、既にラムジーにも覚えがあるものだった。
叔父は異変の原因であるかも知れない妖精の呪いについても書《か》き記《しる》していた。なぜかクリップフォード村には資料が乏《とぼ》しく、わざわざ周辺の村を回って伝説を採取《さいしゅ》したのだ。伝説にはいくつかのヴァージョンがあるが、大筋ではクリップフォード村の先祖が妖精との約束を守らなかったために代々七番目の子供に呪いがかけられるようになった、というものだった。
さらにノートには妖精の呪いを破る方法も記されていた。まずは聖書や聖水、四つ葉のクローバーや蹄鉄《ていてつ》といった一般的なもの。それからナナカマド、オトギリソウ、ノコギリソウ、ゼニアオイ、ウツボグサなどの妖精|忌避《きひ》の効果があるとされる薬草についての覚え書き。後半のページになるとバーベナの花束や開いた鋏《はさみ》や灰で作った十字架、堅くなったパンの皮、上着を裏返しに着るといった首を捻《ひね》ってしまうようなものまで記されていた。だが試した結果、どれもほとんど効果はなかったらしい。
けれど、最も有効だと考えていたらしい方法を叔父は最期《さいご》まで試すことが出来なかった。それは入院直前の走り書きで、ノートの最後のページにほとんど判読できない文字でこう書かれていた。
やった! ついに呪いを解く鍵をみつけた。それはロンドンに行くこと
「……それで、村を出てロンドンに来たんです。バカみたいですよね。そんな伝説に怯《おび》えて、家出して」
声が震えた。本当は呪いなどでなく近親婚のせいなのかも知れない、とも思う。近年までほとんど外部と接触がなかったクリップフォード村では血縁関係のない結婚相手を探すのは難しかったという。けれど、それなら七番目とは関係なく村の誰に現れてもおかしくない筈《はず》だ。
「カディルさん……。ぼく、怖いんです。ときどき変な物が視《み》えるんです。それに皮膚の下に毛が生《は》えてくるような感じとか、体の中で何かが大きくなっていく感じとか……」
それが始まったのは半年前だ。叔父が最初に幻覚を視たのと同じ十五歳のとき。否定しようとしても、日を追うごとに視野の端を素早い影が通過する回数は多くなっていった。
それに、恐ろしいのはそれだけではなかった。ノートは呪いが引き起こした悲惨な事件も伝えていた。三百年ほど前、ラムジーの家系に第七子として生まれた人物が両親と同居の兄弟、止めようとした村人数人を惨殺《ざんさつ》し、自らも命を断《た》ったのだ。
この事件ののち第七子はタブーとなり、二十世紀後半に人々が妖精や呪いを信じなくなるまでクリップフォードで七番目の子供が生まれることはなかった。つまりセオドア叔父がこの三百年で最初の第七子ということになる。
先祖のように、自分も人を殺したり傷つけたりするとしたら――。
そんなことになったらと思うと耐えられなくなる。大好きな家族や友人から遠く離れたロンドンに来たのは、それを恐れる気持ちもあってだった。でもここでも大好きな人たちが出来てしまった。
泣くまいと思ったのに、涙があふれて伝い落ちる。
「考えたくないんです。考えると苦しいんです。ぼく、もしも他の誰かを傷つけたりするんなら、その前に死んじゃいたい……」
緑の眼がゆっくりと瞬《またた》いた。小さな白い面《おもて》がゆるゆると持ちあがり、再びゆっくりと俯いていく。まるで、ラムジーの言葉に同意したかのようだった。
「カディルさん? 聞こえてるんですか?」
ラムジーは触れないように注意しながら膝《ひざ》をついてカディルの顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。けれどほんの一瞬だけ現れたさざ波のような表情は、もうどこにも残っていなかった。
気のせいだったのだろうか。気の毒なジャックは、いつもこんな風にそこはかとない回復の兆《きざ》しに一喜一憂しているのだろうか。
ラムジーは手の甲でぐいと涙を拭った。泣いちゃいけない。自分にはまだ故郷がある。ジャックとカディルにはそれもないのだから。
「ぼく、カディルさんの声が聞きたいです。いつかきっと元気になって、たくさん話してください」
細く射し込む光の中で、カディルはますます天使めいていた。
◆◆◆
ガレスは赤い野球帽の陰から落書きだらけの建物を見あげた。赤帽子はレッドキャップ族の正装だが、この国では故郷でのように敵の血で染《そ》めることが出来ないので仕方なく赤い野球帽で代用しているのだ。帽子をかぶり直し、じめじめとした廃屋《はいおく》に足を踏み入れる。
ダナの王族が、随分《ずいぶん》と落ちぶれたもんだ。ざまあねえ。ラノンじゃ、いい暮らしをしてたんだろうが――。
地下の管理人室のドアに鍵は掛けられていなかった。しかし、いくらノブを回しても扉は釘《くぎ》で打ち付けたみたいに動かない。拒絶のまじないか。特定の相手にしか開けられないようにしてあるのだ。王子は灰を持っていないが、こちらに来て二年しか経っていないからまだ血の術を使える。この世界に追放になって二十五年も経つガレスにはもう使えない術だ。
ガレスはポケットに手を突っ込み、小さな硝子《ガラス》瓶《びん》を取り出した。瓶の底で細かな灰が青白く光る。
――はて、これほどこぞの誰だったか。とにかく誰かの成《な》れの果《は》てだ――。
ガレスはにやりとした。誰だか忘れたが、とにかく有《あ》り難《がた》く使わせてもらうぜ。
注意深くごく少量の骨灰《こっぱい》を手のひらにあけ、ふっと息を吹きかけて解除の呪誦《ピショーグ》を唱《とな》える。途端にドアは難なくすっと開いた。
これからやろうとしていることは明らかに同盟の規約に反していた。バレたら処刑は免《まぬが》れない。が、それでもやってみる価値はあるのだ。このクソッタレな世界からおさらばするためには。
腹を決め、薄暗い地下室に一歩踏み込んだ。気味悪いほど静かだ。部屋の奥に目を転じると、身じろぎもせず壁際に人形のように佇《たたず》むグラシュティグの姿が見えた。
「これが――」
ごくりと生唾《なまつば》を呑む。美しい種族だと聞いていたが、これほどとは。
夜空を染める月光か、露《つゆ》に濡《ぬ》れた白水仙か、まさしく絶品中の絶品だ。かつて、グラシュティグ族を間近で見る機会のない町の住人の間ではグラシュティグには女しかいないという噂がまことしやかに囁《ささや》かれていた。確かにこの美しさなら全部が全部女と思われても不思議はない。
しゃがみこんで陶器細工《とうきざいく》のような顔をじろじろ眺め、目の前で手を振った。が、緑の目は何もない空間を見据《みす》えたままだ。
「へっ、本当にイカレてやがる」
野球帽をひょいと脱ぎ、中に折《お》り畳《たた》んで張り付けておいた羊皮紙《ようひし》の盟約書《めいやくしょ》を取り出した。既に記入済みで、あとは本人の血で爪印《つめいん》を捺《お》すだけだ。細い手首をとり、親指のふくらみに刃をあててザックリ切ると、グラシュティグは美しい眉をわずかに顰《ひそ》めた。羊皮紙に血のついた指の腹を押し当てる。
「よっしゃ。これでこいつはもう〈同盟〉の一員ってわけだ……」
〈灰のルール〉はつまるところ誰かが誰かを殺して灰を独《ひと》り占《じ》めするのを阻止《そし》するために作られたのだ。ラノン人同士の殺し合いは灰を採《と》るのが目的だから、下手人はせっかくの死体を置き去りにしたりしない。
ガレスの狙《ねら》いは、そこにあった。
まず、カディルの手で盟約書に血判《けっぱん》を捺させ、殺して死体は部屋に置き去りにする。それからあの抜《ぬ》け作《さく》のブルーマンに様子を見に行かせるのだ。死体を発見したレノックスはジャック王子が犯人だと思い込んでそう報告するだろう。何しろ死体は王子の部屋にあるのだ。
メンバーであろうとなかろうと同盟メンバーを殺害した者は必ず捕らえ、懲罰《ちょうばつ》と死を与える。それが灰のルール第二項補足だ。王子はカディル殺害犯として処刑され、二つの死体は自動的に〈同盟〉のものになる。十七歳で地獄穴に送られた王子に大した値打ちはないが、重要なのはカディルの死体だ。
ラノンでは、長く生きるほど妖素が体に溜《た》まる。
カディルは恐らくラノンのグラシュティグの中でも最高齢の一人だろう。妖素濃度の濃い深山《しんざん》で生まれ、数百年の人生のほとんどをラノンで過ごしている。カディル一人の血と骨に含まれる妖素量は、ラノンの大型ドラゴンの骨に含まれる量に匹敵《ひってき》する筈だ。
「さて、そこからがミソさ。お前さんの死体を前に、俺様が盟主の耳元で囁くってワケよ。こいつの灰で、俺たちみんながラノンに帰れる手立てがあります、ってな」
ラノンに帰る方法はない――馬鹿な同盟の連中はそう信じている。だが、ガレスは十年以上前にその方法を考えつき、密《ひそ》かに暖めてきたのだ。
本当は〈同盟〉なんぞクソクラエで、奴等まで一緒に連れていく義理はない。だが、連中の手助けは必要だった。帰り道を開くためには、大量の妖素の他に高度なテクニックが必要なのだ。ガレス自身には無理でも、同盟にはそれを行える人材がいる。
ガレスは少しの間、ラノンに帰ったらまず何をするか考えた。
――まずは甘いエールだ。それから女。毛皮か鱗《うろこ》か角《つの》か、とにかく異形《いぎょう》のあるやつがいい。次に食い物だ。飛びガエルのフライ、ワームのシチュー、汁気のあるサンザシの実。こっちの世界のサンザシときたら、不味《まず》くて喰えやしないからな――。
危険を冒《おか》すだけの価値はある。
「聞いてんのか? おい。あんたが死んで、この世界にいる連中みんなが向こうに行けるんだぜ。俺たちみんな、ラノンに帰れるんだ。残念ながらあんたはそれを見られねえけどな」
ラノンで待っているに違いない異形の女どものことを考えながら、ガレスはカディルの耳元でラノンに帰る方法を得々と、事細かに披露《ひろう》した。だが、話がどうやってカディル本人をくびり殺すかに及んでも白い顔には何の変化も現れなかった。グラシュティグの怯《おび》えた表情を期待していたガレスは少々がっかりし、磁器《じき》のように滑《なめ》らかな頬《ほお》を指でなぞった。
まったく、野郎だなんて信じられんな……。
そのときふと面白い考えが浮かんだ。
考えてみればこのまま殺《や》っちまうのも勿体《もったい》ない。男だろうとかまうものか。
殺るのは、姦《や》ってからだ。
長上衣《ながうわぎ》の裳裾《もすそ》をパッとめくりあげる。と、二つに割れた小さな灰色の蹄《ひづめ》と、真っ白な柔毛《にこげ》に覆《おお》われた細い脚《あし》があらわになった。
山羊《やぎ》の足と女の顔。これが、グラシュティグ族の特徴《とくちょう》だ。ガレスは仔山羊《こやぎ》のように細い足首を握り、そのしなやかさと手触りを楽しんだ。胸元をはだけ、手を差し入れる。
「ええ、どうだ? 声を出してみろよ」
急速に膨《ふく》れあがる欲望が痛いほどだ。そのままのしかかる。狂ったグラシュティグはアアア、とかすかな声をたてた。
アアアアアアアア。
グラシュティグの無力で儚《はかな》げな様がガレスの欲望に火をつけた。もっと声をたてさせようと力をこめてこねくり回す。腕の中でか細い硬い身体が魚のように身もがき、悲鳴をあげ続ける。
こりゃあ、まったく堪《たま》らないぜ。
◆◆◆
空き家の二階で寝転んでうとうとしていたラムジーは皮膚がざわつく感じにハッと跳《と》び起きた。身体の底からわけの分からない何かがぐるぐると湧《わ》きあがってくる。それはあの厭《いや》な感じ、半年前に始まって以来周期的にラムジーを苦しめてきたあの発作にあまりにも似ていた。
――ああ、いやだよう。ロンドンにいれば大丈夫な筈なのに――。
大急ぎでスポーツバッグからセオドア叔父のノートを取り出し、最後のページを開く。
……それはロンドンに行くこと
その一文が頭にしみこんで、スーッと気持ちが楽になっていった。
セオドア叔父は生きている間一度もロンドンに行けなかった。だけど自分は今ここにいる。
このロンドンに。だから大丈夫、完全に、絶対に。
ノートの最後のページにはLondon≠ニいう単語がミミズがのたくったような字で何度も何度も書《か》き連《つら》ねられている。叔父は書き続けることで正気を保とうとしたのだろうか。ロンドン、ロンドン、ロンドン……。字はぐちゃぐちゃでnはダブって入っているし、dはaとiに分かれているようになっていたりで、ほとんどロンドンとは読めない。無理して読むとしたらローナン? だろうか。
何かがひっかかってラムジーは眉をひそめた。頭を空っぽにし、最初のしと最後のnの間に書かれた文字がアルファベットの何なのかだけに神経を集中して一つずつ拾い書きしてみる。
L u n n a i n。
確かに無理にロンドンと読むよりこの方が叔父の書いた文字列に近かった。
どういうこと……?
ラムジーは自分が一文字ずつ活字体で書き止めた単語を凝視《ぎょうし》した。綴《つづ》りに覚えがある。
何と読むのだろう? ルネン、ラネイン、ラネン……ラノン。
ラノン?
一瞬、目の前が真っ白になった。
それ、ジャックの故郷の名だ……!
もしかしたら叔父は〈ロンドン〉ではなく〈ラノン〉と書こうとしたのではないかという考えがふっと脳裏《のうり》をよぎった。もしそうだとすると、呪いを解くのはロンドンではなくて〈ラノン〉だということになってしまう。
そんな……。ずっと心の支えにしてきたことが間違いだったなんて。
耳の奥で血管がどくどく鳴り、全身がカーッと熱くなった。目が拒否してまともにノートを見られない。瞼《まぶた》をきつく閉じて何度も何度も深呼吸する。それから恐る恐る目を開き、ゆっくりとノートに視線を戻した。
Lunnainn――ラノン。
一度そう思ってしまうと、のたくるような文字列はもうそうとしか読めなかった。
だけど、ラノンなんて知らない。
そこがジャックとカディルの生まれ故郷であること以外、何も知らないのだ。
血がふつふつと沸《わ》き立ち、再び皮膚の下で何かが出口を求めて蠢《うごめ》き始めた。
そんな筈ない。ロンドンにいれば、いさえすれば大丈夫な筈なんだから……。
パニックに陥《おちい》りながら必死に否定しようとする。だが、何かが皮膚を突き破って出てくるような気味悪い感覚はいっかな消えてくれなかった。
ラムジーはばりばりと両腕を掻《か》きむしった。
だめだ、だめなんだ。やっぱり、ロンドンじゃなくてラノンに行かないと呪いは解けないんだ。
ふらふらと階段を降りる。
ジャックをつかまえて訊《き》くつもりだった。彼が帰れないというその場所がいったいどこにあるのか。彼が話したがらないのは解っていたけれど、この恐怖から逃れるためにはどうしても訊かなければならなかった。
「ジャックさん、ジャックさん!」
鍵はかかっていない。だが、ドアは少し聞いたところで何かにぶつかってそれ以上開かなかった。なんとか通れるくらいの隙間を押し開いて斜《なな》めに体を押し込む。びちゃ、とつま先が何かを踏んだ。ぬるりとした粘性《ねんせい》のある液体だ。
血……?
「カディルさん……?」
ラムジーはあげかけた悲鳴を呑み込んだ。
誰かがうつ伏せに倒れている。背中はめちゃめちゃに切り裂かれ、着ていたものの色が判らないくらい真っ赤だ。慌てて助け起こそうとしてハッとなった。赤い野球帽から茶色のぼさぼさした毛がはみ出している。
カディルではない。もちろん、ジャックでも。
カディルの定位置のマットレスをゆっくり振り返る。マットレスの上は空っぽだった。ラムジーはカディルの姿を求め、さして広くない部屋の中にふらふら視線をさ迷わせた。
「カディルさん……どこ……」
コト、とコンクリートに何か固いものがあたるような奇妙な音がした。慌ててあたりを見回す。が、誰もいない。
[#挿絵(img/Lunnainn1_057.jpg)入る]
コト。コト。コト……。
ラムジーは両手でギュッと耳を塞《ふさ》いだ。
――ウソだ。恐いと思うからだ。本当は音なんかしないんだ――。
そのとき、突然なにも無い空間から男とも女ともつかない声が響いた。
「そなた。こやつの仲間か?」
ラムジーはわっと叫び声をあげた。心臓が狂ったような速さで血液を押し出している。キョロキョロとあたりを見回したが、やはり見知らぬ死人以外には誰もいないのだ。
ひどく泣きたい気がした。幻聴だ。セオドア叔父も病気の最初に幻聴を聴いた。
目の縁《ふち》に盛り上がる涙をこする。と、天窓から射《さ》す光の中にうっすらとした人の輪郭《りんかく》が浮かびあがった。輪郭の内側は空っぽで、暑い日の逃げ水のようにゆらゆら揺れている。
幻聴の次は幻覚だろうか……? もう一度目をこすった。まるで二重露出のように白い顔が、銀の髪が、壁に揺らめいては消える。
「カディルさん……?」
その名を口にしたとたん、揺れるシルエットは突然はっきりと固定され、人の姿をとった。
カディルだった。しかも、自分の足で立っている。
恐怖と安堵と嬉しさがこんがらがって、全身から力が抜けた。見えなかったのは、たぶん光の加減のせいに違いない。
カディルは夢から覚めたようなぼんやりとした様子でラムジーを眺めていた。
「そなた、何者です? わたくしの惑《まど》わしを見破るとは。ラノンの者ではないようですが」
「カディルさんっ、ぼくです、ラムジー・マクラブです。ぼくの故郷のお話をしたでしょう? 思い出して下さいよぉ!」
「マクラブ……? クリップフォードの……」
「そうです! 覚えていてくれたんですね!」
一点を見据《みす》える緑の眼がゆっくりと瞬《またた》く。
「ジャック様は大層《たいそう》そなたを気に入っておられた……。ニムロッド様に似ていると。見れば少しも似ておらぬのに」
「そんなこと、どうでもいいです。早くジャックさんに知らせなきゃ! カディルさんが目覚めるのをあんなに待ってたんだから!」
白い顔を寂《さび》しげな微笑《ほほえ》みがよぎった。
「そなたは優しい子……。そういうことであったのか……」
カディルは小さな足音をたて、ぐるりと円を描くように死んだ男に歩み寄った。
「そ……その人は?」
「知らぬ。わたくしに触れようとしたゆえ殺《あや》めたまで」
殺した……?
くくく、と気味の悪い声が幾重《いくえ》にも谺《こだま》しながら地下室いっぱいに広がっていく。笑い声は、死体を見おろすカディルの喉《のど》から漏《も》れていた。
「性悪《しょうわる》なレッドキャップよ。そなたはなかなか良いことを教えてくれました。感謝しなければなりませんね……」
カディルはラムジーの存在など忘れたように嗤《わら》い続けている。ほとんど思考停止状態になりながらラムジーはカディルを凝視《ぎょうし》した。
そうだ……警察に届けなきゃ……。ううん、その前にまずジャックさんに……。
ぴたりと笑い声が止《や》んだ。
「ラムジー・マクラブ」
「はいっ!」
そろりとドアに向かって足を踏み出したラムジーは、いきなりフルネームで呼ばれて飛び上がった。
「そなた、望みがありましたね……」
「望みなんて、別にそんな……」
肩越しにゆっくり振り向く。天使のような微笑と、血に濡れた刃が見えた。
「いいえ。わたくしに話した筈。自分を失って人を傷つけるなら死んだ方が良い、と」
「あれは、物のたとえで……」
カディルの手にあるのはジャックが欲しがっていた削蹄《さくてい》ナイフだ。カディルはナイフを握《にぎ》ったままコト、と音をたてて近づいた。
「クリップフォード。妖精が渡る場所という意味です。そなた、知らなんだのですか?」
「し……知りません」
ドアに目をやる。ほんの数メートルの距離なのに、無限に遠く思えた。
カディルが一歩近づくたび、コト、という軽く固い音が地下室に響いた。コト、コト……。
長い裾《すそ》からすっと足先がのぞく。
小さな、灰色の、二つに割れた蹄が。
ウソだ……。
全身から力が抜け、ラムジーは床にぺったりへたりこんだ。突然、どうしてジャックに削蹄ナイフが必要だったのか判った。簡単なことだ。カディルが半年も歩かなかったから、蹄が伸びすぎたのだ。……蹄が……。
ラムジーはいつしか泣き笑いしている自分に気づいた。もはや疑う余地はなかった。ラノン――叔父はそう書いたのだ。そこはこの世の土地ではない不思議な場所なのだ。そしてジャックとカディルは、その不思議な世界の不思議な住人なのだ……。
目の前にカディルが膝をつく。ラムジーはひっと息を呑み、目をつぶった。メガネが外される。長い髪がさらさらと音をたて、硬い冷たい指がひんやりと頬を撫でた。
「そなた、祝福されし七番目……」
「祝福じゃなくて呪いですっ……!」
カディルは悲しげに首を振った。
「哀れな子。呪われているのはそなたではなくこの世界。そなたはラノンの祝福を受けて生まれて来たのですよ。けれどこの世界には触媒《しょくばい》になるものがないゆえ、祝福のもたらす力は外に出ることができないのです。いずれ、そなたの力はそなたの心を砕《くだ》くでしょう。そなたが大人になるより前に」
体の中で抑制できない何かが膨らんでいく感じを言い当てられてうなじの毛が逆立《さかだ》った。カディルは知っているのだ。ラムジーの中で何が起こっているのか。
カディルは死体の脇《わき》に落ちている小さな硝子瓶を拾い上げた。人差し指と親指でつまめるくらいの大きさで、底の方に少しだけ青っぽく光る珊瑚砂《さんごすな》みたいなものが入っている。
乾いた指がラムジーの指を一本ずつ開き、押し込むように硝子瓶を握らせた。
「これを持ってお行き。そして心が砕けそうになったら呑み込むのです。しばしの間、そなたを守る薬となりましょう……」
すっと背を向ける。その後ろ姿がゆらゆらと揺れて空気の中に溶け消えた。
ラムジーは長いあいだ座り込んだまま手の中の瓶を眺めていた。それから不意に喚き声をあげ、薄暗い階段を地上へと一目散《いちもくさん》に駆け上がった。
3――ラムジーの大冒険
ラムジーは路地《ろじ》の塀《へい》づたいにのろのろと歩いた。地下室を出てから無我夢中で走ったので自分がどこにいるのか判《わか》らなかった。
路地の風景はぼんやりと滲《にじ》んで見える。地下室にメガネを忘れてきてしまったのだ。強度の近視なのでメガネがないと数メートル先もよく見えないのだが、あの部屋に取りに戻ると考えただけでゾッと身震《みぶる》いがした。
あれは幻《まぼろし》だったのだろうか。それとも……。
ギュッと目を閉じる。血の海に浮かぶ死体と、絡《から》みつくように濃密《のうみつ》な血の匂《にお》いが何度も何度も繰り返し脳裏《のうり》に現れた。それは幻覚だと考えるにはあまりにも生々しかった。
そして、カディルの着物の裾《すそ》に見え隠れしていた小さな灰色の蹄《ひづめ》……。
頭を掻《か》きむしる。全部本当だったのか、全部夢だったのか二つにひとつだ。
恐る恐るポケットに手を入れてみる。ひんやりと確かな硝子《ガラス》の感触が、一連の出来事が夢ではなかったことを告げていた。
小瓶《こびん》を光にかざす。太陽の下では粉の放《はな》つ淡い光はほとんど見えないが、手のひらで陰を作ってやるとそこに青い光が映《は》えた。これを呑めば、本当にあの気味の悪い発作から逃《のが》れられるのだろうか……。
ラムジーはゴクリと唾《つば》を呑み込んだ。コルク栓《せん》に手を触れる。
これを開けて……それで……?
栓を開けかけた手がハッと止まった。どこかで変な声がしたような気がしたのだ。
首をすくめてもう一度栓を抜こうとしたとき、気味悪い咆哮《ほうこう》があたり一面に響き渡った。
うゥぉォォォオオぉぉおおおん……。
今度ははっきりと聞こえた。
ラムジーは耳をそばだてた。何かが来る。何かがまっすぐこちらに向かって来る。
ォウん、ォウん、ォウん、ォウん……。
曲がり角の向こうから、猟犬《りょうけん》に似た灰色の生き物が折り重なるように突進して来るのが見えた。
何なんだ、あれ?
考えている暇はなかった。硝子瓶をポケットにつっこんで走りだす。群れをなす犬どもは狭《せま》い路地いっぱいに広がって猛スピードで迫《せま》って来た。まるで地面に足がついていないみたいな速さだ。息を切らしてどこか逃げ込む場所がないか路地の左右の棟割《むねわ》り長屋に目をやる。
だめだ。
どの家の玄関もぴったり閉ざされ、窓には鉄格子《てつごうし》がはまっていた。ブザーを押して待っている余裕はなかった。足を止めたらほんの数秒で追いつかれてしまう。
路地の角を曲がると、犬どもは狂ったように鳴き騒ぎながら次々と角を回った。絶望感が鉛《なまり》みたいにじわじわ広がって足を鈍《にぶ》らせる。
だめだ。とても逃げ切れない……。
そのとき、一ブロックほど先に救いの神のように大きなスーパーマーケットが見えた。
あそこに逃げ込めば……!
ラムジーは死に物狂いで走った。犬どもが追いすがり、熱い息が踵《かかと》にかかる。
神様、助けて!
最後の一歩と犬どもの動きに一瞬のズレが生まれ、ラムジーはスーパーマーケットのガラス扉の内側にぎりぎりで滑《すべ》り込《こ》んだ。
ぴかぴかの床にぺったり座り込み、ぜいぜいと息を切らす。扉の外で犬どもが口惜《くや》しそうに吠《ほ》えていた。安堵のため息をつきながらガラス扉を見あげたラムジーは、あんぐりと口を開けた。
犬どもが、浮いている。
正確に言うと、犬ではなかった。体は中型のハウンド犬に似ているが、肩甲骨《けんこうこつ》のあたりから白と黒の模様の入った水鳥のような翼《つばさ》が生《は》えているのだ。犬に似た生き物どもはガラス扉の前で隊列を組み、小さな翼をせわしなく動かして宙に浮かんでいる。
こいつら、一体、なんなんだ……。
「大丈夫ですか、お客様?」
呆然としたまま見あげると、店のロゴの入ったエプロンをした店員と視線がぶつかった。
「あの……あれ……」
ガラス扉を舐《な》めるように涎《よだれ》を垂《た》らしながら宙に浮かんでいる犬どもを指さす。
店員はさも心配そうに言った。
「ドアに挟《はさ》まれましたか?」
その言葉の意味が呑み込めてくるにつれ、かいた汗がじっとり冷たくなっていった。あの翼ある犬どもは、他の人間には見えていないのだ。
宙にホバリングした犬どもがスーッと左右に分かれた。上品な白髪の老婦人がガラス扉の方へまっすぐ歩いて来る。
開けちゃだめだ!
扉を押さえようか逃げようか一瞬迷い、貴重な一秒を無駄にした。老婦人が扉を押すと同時に化《ば》け犬《いぬ》は列をなして一匹ずつするするとスーパーの店内に流れこんできた。
逃げなきゃ。
ラムジーは山と積まれた野菜や果物の間を猛スピードで駆け抜けた。化け犬どもが宙を飛んで追ってくる。床すれすれに、涎を垂らし、雷鳴のように咆哮しながら。
(追い詰めろ、追い詰めろ、追い詰めろ!)
吠え狂う声はそんな風に耳に響いた。
商品が美しく陳列《ちんれつ》された棚を犬がかすめ飛び、バラバラとシリアルの箱が落ちていく。缶詰の列を曲がり、冷凍食品のコーナーに逃げ込む。天井近くまで積み上げられたドッグフードの缶詰に高く飛びすぎた一匹がぶつかってがらがらとピラミッドが崩壊《ほうかい》した。
「畜生《ちくしょう》、一体どうなってんだ!」
店員が怒鳴《どな》るのが聞こえた。空飛ぶ犬が見えていないため、ひとりでに缶詰の山が崩れたようにしか見えないのだ。しかし、それはあの翼ある犬どもが幻覚などではなく現実だということも示していた。翼ある犬どもは我が物顔にスーパーの中を飛び回っている。足元を掬《すく》われたお婆さんが悲鳴をあげて転んだ。
店を出なければ、と思った。ここにいたら関係のない人たちを巻き込んでしまう。ラムジーは精肉コーナーの横の丸窓のついたステンレス扉に突進した。ちょうど白衣の店員が丸焼き用のチキンを満載したカートを押して出てくるところだった。
「あっ、こら!」
チキンを何羽かつかみ、追ってくる犬どもに投げつける。犬どもは思いがけない御馳走《ごちそう》につかの間ラムジーを追うことを忘れ、ガツガツと喰らいだした。
今のうち!
血と脂《あぶら》の匂いの染みついた通路を抜け、搬入口から明るい外へと飛び出した。スーパーの裏は小さな駐車場になっていて、野菜のコンテナや段ボールが積まれている。店内と駐車場の間の狭い空間に閉じ込められた化け犬どもは狂ったように吠えまくっていた。
これで少し考える余裕ができた。ラムジーはポケットに手をつっこんだ。指先が瓶の冷たい感触に触れる。ふと、もしかしたら犬どもは自分ではなくこれを追っているのではないだろうかという考えが浮かんだ。
これを捨てればもう追ってこないかも知れない。でも、カディルはこれが心を守ってくれると言った。ロンドンというキーワードが崩れ去ったいま、頼れるのはこれしかないのだ。
「そいつを返してもらおうか、チビ」
ハッとして顔をあげる。搬入口に停めてあるフォークリフトのアームから赤毛の大男が巨体に似合わぬ身軽さでひょいと飛び下りた。
「レノックスさん……?」
その瞬間、スーパーの裏口がバタンと開き、化け犬どもが飛び出して来た。犬どもは翼をたたんでレノックスの足元に次々に舞い降りる。ラムジーはびくっと後ずさった。
「ほう。こいつらが視《み》えてるのか。おまえさん、幻視者《タビスヴァー》だったとは抜《ぬ》かったぜ」
「な……何のこと……」
「おまえさんみたいに見えないものを視る奴のことさ。この程度の〈惑《まど》わし〉なら、上着を裏返して着れば大概《たいがい》の奴には視えちまうがな。ついでに言うと、こいつらはガブリエル犬《ラチェット》だ。雁《かり》と猟犬のハイブリッドさ。普通は見えないから、人間どもは雁の声を聞き違えただけだと思ってくれている」
だらだら涎を垂らす化け犬の頭をぽんぽんとたたく。
「よーしよし。喰い意地が張り過ぎてるのがこいつらの欠点だな。おまえさんを喰いたくてうずうずしてるぜ」
レノックスはポケットからポリ袋に入ったメガネを取り出した。
「このメガネ、どこかで見たと思ったぜ。まさかおまえさんみたいなチビにガレスが殺《や》られるとはな」
「ぼくじゃありません、行ったときにはあの人はもう死んでたんです!」
「刑事ドラマで聞いたようなセリフだな。申し開きは同盟《どうめい》本部でしてもらおうか」
同盟……?
それはもしかして、ジャックが言っていた組織のことだろうか。彼は〈同盟〉は犯罪者の集団だと言っていた……。
レノックスは右腕をあげ、手のひらを前に突き出した。
「だがまず、その瓶を返してもらう」
太縄《ふとなわ》を編んだような二の腕に青い渦巻《うずま》き文様《もんよう》がくっきりと浮かび上がる。それは海峡に住み、気に食わない船を沈める魔物ブルーマンの印だ。文様が生きているもののようにどくんと脈動《みゃくどう》した。青いパターンは震え、腕を離れて空気の中に拡散していく。
どくん。どくん。脈打つたびに文様はほどけて広がり、空中に青い波を描いた。
波が、押し寄せて来る。
逃げる間もなかった。塩辛い水が猛烈な勢いで体を揉《も》みくちゃにし、鼻や喉に入り込む。ラムジーは尻餅をつき、げほげほとむせ返った。なのに、次の瞬間にはもう服も髪の毛もすっかり乾いているのだ。
乾いたコンクリートの上を、レノックスの影がゆっくり近づいてくるのが見える。
「手の中のものをよこせ、チビ。でないと次は溺《おぼ》れ死ぬぞ」
「……いやだ。これはカディルさんがくれたんだ。ぼくを守ってくれるって言った」
セオドア叔父がなぜ〈ラノン〉に行けば呪いが解けると書いたのか判った。
山羊《やぎ》の足のカディルは〈ラノン〉から来た。ブルーマンのレノックスも、化け犬も、そしてたぶんジャックもみんな。
〈妖精〉なんだ。
ラノンが妖精の国なら、そこに妖精の呪いを解く鍵があって当然じゃないか……。
「カディルが? 意識を回復したのか?」
空気中を漂《ただよ》う波がするするとレノックスの腕に戻っていく。何か考え込んでいる様子だ。
ラムジーはポケットに手をつっこんだ。試すなら今しかない。でないと瓶は永遠に取り上げられてしまう。一気にコルク栓を引き抜いた。瓶の底の粉が青く光る。少量を手のひらにあけた。
「あっ、こら! このチビ、何しやがる!」
レノックスが飛びかかるのと、手のひらを舐《な》めるのと、ほぼ同時だった。
ざり。目をつぶって粗《あら》い粒《つぶ》を呑み下す。
体の中で何かが弾《はじ》けた。今までずっと皮膚の下で蠢《うごめ》き、外に出る機会を窺《うかが》っていた何かが体の中心から外側へ光よりも速く膨《ふく》れ上《あ》がって行く。ラムジーは絶叫した。
ダイナモ。引《ひ》き絞《しぼ》られた弓。秒速百メートルの嵐。
どこかでレノックスが呟《つぶや》くのが聞こえた。
「たまげたぜ……。おまえさん、ウェアウルフだったとはなっ……」
その言葉が何を意味するのかラムジーには判らなかった。ただ判ったのは、生まれてから一度もなかったくらいに気分が良いということだった。
薄く目を開ける。近眼が気にならない。と言うより、研《と》ぎ澄《す》まされた聴覚と嗅覚《きゅうかく》が視覚を補完《ほかん》してくれているのだ。前足を地面につく。なめし革のような肉球がしなやかに体を支える。ふと、素朴《そぼく》な疑問が頭をよぎった。
(どうして肉球があるんだろう……?)
ラムジーは目をぱちくりし、数秒前まで自分の手だったものを眺《なが》めた。それは、どう見ても前脚だった。すらりと長く、淡《あわ》いベージュの短毛に覆《おお》われ、指先からは鋼鉄《こうてつ》のスバイクのような爪《つめ》が覗いていた。
ゆっくりと驚きが忍び込んできたが、それより爽快感《そうかいかん》の方が大きかった。急に着ているものが邪魔に感じられ、口で銜《くわ》えてびりびりに引き裂いた。身体が自由になる。
ラムジーは全身の筋肉を使ってながながと伸びをした。そして自分の身体に今まで足りなかった部分があることに気づいた。尻尾《しっぽ》だ。ゆっくりと左右に振ってみる。すると、全身に自信と力が漲《みなぎ》ってきた。
(なんて気持ちがいいんだろう。細胞の一つ一つが喜びを歌っているみたいだ……)
翼ある犬どもが低く唸《うな》った。だけど、怯《おび》えているのが判る。犬科共通の匂《にお》いの基本文法で、紛《まぎ》れもない恐怖のサインを放っているからだ。ちょっと拍子抜けがした。
(なーんだ。本当は臆病《おくびょう》だったんだ)
ラムジーは真新しい牙をちらりと覗かせ、遠雷《えんらい》のような唸り声を響かせた。
ヴォるるるるるるるるッ……。
途端に化け犬どもは哀れっぽい声をたて、尾を垂《た》れて恭順《きょうじゅん》の意を示した。闘《たたか》う必要はない。どちらが強いかは、はっきりしている。
(もちろん、ぼくだよね)
それから小首をかしげてレノックスを見あげた。まっすぐに目が合う。彼は怯えてはいなかった。ひどく驚いているだけだ。本当のところ、悪意も持っていない。彼はただ仲間を殺した犯人を捜《さが》したいだけなのだ。
ぼくは犯人じゃありませんよ、と言おうとしたけれど、代わりにウォフッという短い吠え声が出ただけだった。
「おい、チビすけ……」
仕方なく尻尾を低く左右に揺らす。
(ごめんなさい。ぼく、ジャックさんを捜しに行かなくちゃ)
「おい、待て! おまえさんは……」
ラムジーは尻尾を高くあげ、慌《あわ》てるレノックスの足元をすり抜けて駐車場を飛び出した。
午後の光が眩《まぶ》しい。軽やかな爪音を響かせて南ロンドンの路地をタッタと軽やかに駆ける。走るのがこんなに楽しいなんて知らなかった。全身をバネのように使って軽快に疾走《しっそう》する。たちまちトップスピードに達し、一蹴《ひとけ》りごとにコンクリートの路面が腹の下を翔《と》ぶように流れていく。空気にはさまざまな匂い――つまり情報が満ちている。どんな犬がどれくらい前にここを通ったのか判る。塀の裏に猫が二匹いるのも判る。曲がり角の向こうを誰かがフィッシュ・アンド・チップスを食べながら通った。そういえば空腹だった。誰か何かくれないだろうか。
小走りに|コインランドリー《ランドレット》の前を通りかかったラムジーは、少しのあいだ足を止めてガラスに映る新しい自分の姿を眺めた。
大型の犬によく似ているが、犬にはない野生と気品がある。全身が淡いベージュと銀色とが入り混じった美しい毛皮で覆われ、鼻面《はなづら》は細く長く、耳は三角にピンと立っていた。切れ長の眦《まなじり》はアイラインをひいたように涼《すず》やかで、眼は人間のときと同じ明るい栗色だ。ラムジーはその生き物を知っていた。
その生き物の名は――オオカミだ。
これにはちょっとびっくりした。だが、十六年間ずっと人間だったと考えるとそれも何だか変な感じだった。新しい姿は上等のセーターみたいにしっくり肌に馴染《なじ》んでいたし、今になってみると生まれてからずっとこの姿だったような気もしてきた。
これは、祝福なのだろうか。確かに呪いというには気分が良すぎた。体の中で渦巻いていた訳の分からないエネルギーは形を与えられ、収まるべき所にぴったり収まっている。もう気が狂いそうな気はしない。
セオドア叔父も狼《おおかみ》だったのだろうか。そうだとしたら、叔父の心が壊れてしまった原因はこの姿になれなかったことだ。カディルがあの薬をくれなかったら、遠からず自分もそうなっていた。
そこまで考えて突然、ラムジーはカディルが一人で姿を消したことを思い出した。〈同盟〉は、仲間を殺した犯人を探している。今はまだ疑いの目は自分に向けられているけれど、もしかしたらレノックスはカディルが真犯人だと気がついてしまうかも知れない。何といっても彼だって〈妖精〉なのだから。
ジャックに知らせなければ。そして、二人でカディルを助けるのだ。
◆◆◆
ジャックは愛車のペダルを軽く漕《こ》ぎ、ロンドン塔の北側のタワーヒル通りへと入った。そのまましばらく進むと、右手に丸い形をした公園、トリニティ・スクウェア・ガーデンズが見えてくる。
ラノンではここが〈地獄穴〉だった。
速度を落とし、ゆっくりとトリニティ・スクウェアの脇を通り過ぎる。ここには〈穴〉など存在せず、ガーデンズは楕円形《だえんけい》の緑地に過ぎない。しかし、かつては叛逆罪《はんぎゃくざい》に問われた罪人の処刑が行われた刑場だったという。
叛逆罪。処刑。厭《いや》な思い出だ。
首にぶら下げた携帯電話が鳴った。惰力《だりょく》で流しながら受け答えする。
「こちら自転車エクスプレス便――」
「ジャック? 五分で英国航空のオフィスにピックアップお願い。届け先はロイズ・ビル」
「四分で行きます」
楽勝だ。ペダルを踏み込むとスポークが回転する音が心地よく響いた。ラノンにはなくロンドンにあるもので一番気に入ったものといえば、たぶんこの自転車だろう。初めはなぜこんなものが倒れずに走れるのか理解できなかった。魔法を使っているわけでもないのだ。だが一度乗れるようになると、こんなに面白いものはなかった。
巧《たく》みにペダルをさばき、車列の間をコマネズミのように走り抜ける。二階だての乗合バスが真っ赤な四角い怪物よろしくゆさゆさと角を回った。無認可タクシーがけたたましくクラクションを鳴らす。
ラノンは美しい。だが、ロンドンは面白い。
この世界に来た初めの頃は、自動車やバスが何なのかも知らなかった。人間を喰った鉄の怪物かと思った。この世界のさまざまな驚異も慣れてしまえば何でもない。カディルは、とうとう慣れることが出来なかったが。
ラノンで〈地獄穴〉の刑を賜《たまわ》ってから二年が経《た》つ。あのとき、カディルは制止の手を振り切って処刑台に駆け登った。二人抱き合って穴に落ち、気が遠くなるほどの時間落ち続け、気がついたらロンドンと呼ばれるこの巨大都市の真ん中に立っていたのだ。あまりに信じがたい世界で、初めは本気で地獄に堕《お》ちたのだと思ったものだ。今ではここが地獄ではないと知っている。そして、この街とラノンとの関係も。
この国の空の支配者である英国航空のオフィスから硝子の摩天楼《まてんろう》ロイズ・ビルに荷を届けた帰り、レデンホールの市場の近くに馴染《なじ》みの屋台カフェが店を出しているのを見て一息いれることにした。
「やあ、アーニー。景気はどうだい」
「ぼちぼちさ」
縮《ちぢ》れた髪を何百本ものお下《さ》げに編んだアーニーはジャマイカという所の出身で、十年前にこの国にやって来たのだそうだ。
「お茶だったっけな?」
「ああ。いつものを頼む」
本当は違法らしいのだが、こう言うとアーニーはこっそりお茶にラム酒を垂《た》らしてくれるのだ。
「あんたも多少はロンドンっ子らしくなってきたじゃねえか、ジャック」
「お互いにな」
アーニーは褐色《かっしょく》の顔をくしゃくしゃにして笑った。彼の故郷ジャマイカは陽光|溢《あふ》れる土地だという。太陽の国から来た彼はこの日差しの恵みの薄い国で暮らしていてもなお体の中に陽の光を溜《た》め込んでいる。魔法の国からこの世界に来た自分たちが、体内にまだ魔法を持っているのと同じように。
「ごちそうさま」
ラム酒入りのお茶を飲み終えてプラスチックのカップをカウンターに戻す。が、アーニーは目を細くして通りの向こうを眺めていた。
「あそこを渡ろうってのかい。危ねえなあ」
交通量の多い道路の反対側で一匹の大きな犬がうろうろしていた。犬は恐る恐る車道に降りてみるものの、車の流れに入れずにピョンと跳び戻ってしまう。
その様子がまるでこの世界に来たばかりの頃の自分に思えて、ジャックは思わずクスリと笑った。
◆◆◆
シティ≠ヘロンドンのど真ん中、ウェストミンスターの東隣の地区だ。ジャックはこの街のどこかにいる。ラムジーはロンドン橋を北に渡り、大火《たいか》記念碑《きねんひ》の下を足速に駆けた。オートバイが雷《かみなり》のような音を轟《とどろ》かせてすぐ脇をすり抜けていく。
「ばっきゃろう、この間抜《まぬ》け犬!」
(犬じゃなくて狼なんですよう!)
ラムジーは唇をまくり上げて凄《すご》んだが、尻尾はしおしおと後ろ足の間に挟まっていた。
シティは思ったよりも広かった。人も車もいっぱいだし、おまけに排気《はいき》ガスがひどい。
(ジャックさんの臭跡《しゅうせき》がたどれないよう……)
道路の端をトボトボと歩くうちに不安な気持ちがいや増してきた。おまけに身体が変化したせいか、お腹が空《す》いてたまらないのだ。ちょっと油断するとすぐにジャックを捜すという目的を忘れて食べ物のいい匂いのする方に足が向いてしまう。
匂いにつられ、ラムジーはいつしかレデンホール・マーケットのそばまで来ていた。そういえばガイドブックで読んだことがある。十九世紀に建てられた、華やかなアーケイドとステンドグラスとを持つ市場だ。市場からはありとあらゆる素晴らしい匂いが漂《ただよ》ってくる。市場内のレストランで調理されるさまざまな料理の匂い、新鮮な魚介《ぎょかい》の匂い、馥郁《ふくいく》と薫《かお》る調理されない肉の匂い。
魅惑的に響きあう匂いの交響曲にほとんど陶然《とうぜん》となり、涎を垂らしながら市場に向かおうとしたとき、鋭敏《えいびん》な嗅覚が食べ物とは別のとても気になる匂いを捉《とら》えた。
これは。この匂いは……!
鼻をひくひくさせて風を味わい、含まれている匂いを注意深く分析する。間違いない。ラムジーは高く頭を上げた。道路の向こうの立ち飲みカフェで店の人と話している黒い革ジャン姿が見える。
(わお! 見つけた、ジャックさんだ!)
嬉しくて尻尾がひとりでに揺れる。
(ジャックさんだ、ジャックさんだ、ジャックさんだ!)
怒鳴り声と急ブレーキの音が交錯《こうさく》するなか、ラムジーは屋台にむかって突進した。
ドレッドヘアーを一まとめにした屋台のおやじが口をぽかんと開けて呟く。
「おい。あの犬、こっちに来るみてえだが」
ジャックが怪訝《けげん》な顔でこちらを振り返る。
「ああ、そうみたいだが……」
(わおおお! 会いたかったよう!)
一直線にジャックに駆け寄ったラムジーは、次の瞬間ハタと困った。言葉が話せないのだ。
どうやって意志を伝えたらいいだろう? 鼻をくんくん鳴らしたり、尻尾をぱたぱた振るだけではどう考えても不充分だ。
激しく尻尾を振りながらジャックの顔を見あげる。と、突然|天啓《てんけい》のように答えが見つかった。
舐めれば良いのだ。
(えっ。でもそれって恥ずかしい……)
けれど、彼に対して抱いている敬愛の念を表現するのにそれ以上|相応《ふさわ》しい方法があるとは思えなかった。いや、絶対にそうすべきだった。
[#挿絵(img/Lunnainn1_081.jpg)入る]
内なる声に従《したが》い、ラムジーは後ろ足で立ち上がっておずおずと彼の口元を舐めてみた。
「なんだ。人懐《ひとなつ》こい犬だな……」
氷山の氷が溶けるような微笑《ほほえ》み。爆発するように嬉しさがこみあげ、ラムジーはそのまま彼に飛びつき、押し倒した。ジャックがわあっと叫んだが、もうそんなことはおかまいなしだった。クンクン鼻を鳴らしながら顔中べろぺろ舐め回す。
「おいこら、もう止《や》めてくれよ。止めろったら――」
ジャックは両手でラムジーを押し戻すと、立ち上がって服の埃《ほこり》を払った。
(ああっ。つれないじゃないですか。せっかくフォーマルな狼の挨拶《あいさつ》をしているのに!)
屋台のおやじがにやにや笑った。
「またえらい好かれたもんじゃないか。知ってる犬かい?」
「いや。知らないな……」
(ジャックさん、ぼくですよう、ラムジーです、判らないんですか?)
興奮のあまり尻尾がプロペラみたいにぶんぶん回る。が、懸命の意思表示にもかかわらずジャックは全く的外れな意見を述べた。
「きっと、腹が減ってるんだろう」
(ええ、そりゃお腹は空いてます。でも今はそれどころじゃなくて、カディルさんが――)
「アーニー。辛子《からし》とタマネギ抜きのホットドッグ一つ」
ラムジーはワウワウと吠えた。
(カディルさんが大変なんですうぅ!)
「ほら。食え」
突然、鼻先にこんがり焼けたホットドッグが突きつけられた。香ばしいパンとソーセージのたまらない匂いが鼻|粘膜《ねんまく》を急襲《きゅうしゅう》する。ラムジーはほとんど反射的に食らいついていた。
(わお! おいしいよお!)
ガツガツと二口半で飲み込む。そしてもっとないかあたりを嗅ぎまわり、それからハッと頭をもたげた。ジャックの姿が見当たらないのだ。ふり向くと通りの端に走り去る自転車が見えた。
(ジャックさんに置いていかれたあぁ!)
ラムジーは自転車を追って猛然とダッシュした。数歩で全身を弓のようにしならせる全力疾走に入る。バスや自動車をどんどん追い抜き、たちまち自転車に追いつくと併走《へいそう》しながら必死で訴えた。
ゥオウッ、オウ、オウ、オゥッ!
(ジャックさん、どうしてラムジー・マクラブだって判ってくれないんですか!)
ペダルを漕ぎ続けるジャックの視線が隣を走るラムジーに向けられた。自転車は川辺のだらだら坂をすべるように下りて行く。周囲の景色は無機的で殺風景《さっぷうけい》なものに変わっていた。ドックランズの埋め立て造成地区に入ったのだ。やがて自転車は大きな工場の門をくぐり、人気のない裏手に停まった。
ジャックが訝しげにラムジーを見つめる。
「おまえ……もしかして」
彼は言いよどんだ。
(よかった、判ってくれたんですね、ジャックさん……)
「食べ足りなかったか?」
(そうじゃない〜〜っ!)
人語《じんご》の話せないもどかしさに思わず自分の尻尾を追いかけてくるくる回ってしまった。
「おまえ、変な犬だな。狼みたいだし」
(狼なんですよぉ。それにラムジーなんです)
冬の湖のような瞳をじっと見あげる。と、喉の脇のたてがみを長い指が優しく杭《す》いた。
「悪いけど、僕はおまえの面倒は見られないからな。自分のことで手一杯なんだ」
(前にもそう言いましたね、ジャックさん)
ラムジーは内心そう思った。けれど結局、彼は一から十まで面倒を見てくれたのだ。
狼になってみて、ラムジーは以前は解らなかったことが解ることに気づいた。微妙な声の調子や表情、それに匂いの変化で相手の感情が読み取れるのだ。
(彼は、申し訳なく思ってる……。必要ないのに。それだけ優しい人なんだ……)
そのとき、覚えのある匂いにハッとなった。喉からひとりでにヴウ、と唸り声が漏《も》れる。
こんな場所には不似合いな高級車のジャガーが滑《なめ》らかに工場の角を回った。タイヤがキキッと鳴る。ジャガーから降り立ったのは、予想通りレノックスだった。
「王子。話がある」
「仕事中だ。あとにしてくれ」
そのまま自転車で立ち去ろうとする彼の前にレノックスが回り込んだ。
「こっちは殺人事件の捜査だ」
ハンドルを押さえて言う。
「何の事だ」
「知らないとは言わせないぜ。あんたの部屋で同盟のガレスが死んで発見された。そこにいるラムジーによると……」
ジャックはギョッとした顔をした。
「何だって?」
「判らんか? さっきからそこで唸ってるのはあんたのお友達のラムジーだ」
「嘘をつけ。あの子はこの世界の人間だ。この世界にウェアウルフはいない」
「嘘なもんか。俺こそぶったまげたぜ。目の前で変身しやがったんだからな」
ジャックはゆっくり瞬《まばた》きし、それからラムジーを頭のてっぺんから尻尾の先まで眺めた。
「本当に、ラムジーなのか? やけに懐っこいとは思ったが……」
ラムジーは二本の前脚をきちんと揃《そろ》えてお座りをし、鼻面をまっすぐあげて彼を見あげた。肯定のしるしに尻尾を大きくゆったりと振る。
(そうなんですよ、ジャックさん)
レノックスがごほんと咳払いする。
「とにかくそいつの言い分では、行ったときにはガレスはもう死んでたそうだ」
彼は眼を細めてレノックスを睨《ね》め付《つ》けた。
「何が言いたい」
「可能性は二つあるな。一つ目はあんたがガレスを殺し、カディルも殺して死体をどこかに隠した」
「この僕がカディルを殺すものか」
レノックスは小さく肩をすくめた。
「二つ目はその狼の小僧が灰の秘密を知り、ガレスを殺して盗んだ可能性だ。現場にはそいつのメガネが落ちていたし、ガレスのものだった灰の小瓶を持っていた」
「馬鹿も休み休み言え。あのラムジーにそんなことが出来る筈ないだろう」
(そうですよねっ!)
尻尾が勢いづいてぱたぱたと道路を叩く。が、レノックスはそれを無視して続けた。
「そいつは、瓶はカディルに貰《もら》ったと言ってるがね。お笑いだぜ。奴は自分の名前だって判らないってのに」
「カディルが……? ラムジーはそう言ったのか」
「カディルは行方不明と来てるから何とでも言えるさ。いずれにしろあんたたちは重要参考人だ。一緒に本部まで来てもらう」
レノックスの手がジャックの腕をつかむ。渦巻き文様が轟きだし、空気中に増殖した青い波が彼を取り巻く。
ジャックは眼を閉じて言った。
「……ラムジー。イエスなら一度だけ吠えてくれ。カディルの意識は戻ったのか?」
ラムジーは力をこめて一度吠えた。
オンッ!
(さっきからそれが言いたかったんです!)
「それで、消えたんだな」
うオンッ!
「そうか……」
ジャックの瞼《まぶた》がゆっくりと上がった。
「目を、覚ましたんだ……」
ラムジーはギョッとした。瞳がない。いや、そうではなかった。底光りする薄青い霜《しも》の瞳がいっぱいに広がって、白目の部分がぜんぜん見えなくなっているのだ。
レノックスがあっ、と叫ぶのと同時にジャックは腕をもぎ離し、自分の手に歯をたてて甲の皮膚を思い切りよく噛《か》み裂いた。血の滴《しずく》がぽたぽたとコンクリートの地面に落ちる。
「……霜よきたれ、風よきたれ。しょっぱい水を凍らせろ!」
彼の手を伝う血がかすかに青い輝きを帯《お》びて見えた。あの瓶の粉の輝きと似ているが、はるかに淡い。次の瞬間、身を切るように冷たい風があたりにゴーッと吹きすさんだ。思わず体毛を逆立てる。工場の敷地一面に雪が舞い散り、空気中を漂《ただよ》っていた波が白く凍りついてぼとぼと落ちた。
「畜生っ!」
レノックスは風に逆らって進もうとし、全身に雪のフレークが砂糖菓子のようにまといついた。目を開けていられないほど激しく雪が吹きつけるなか、ジャックは自転車に飛び乗って工場の壁の方へ走りだした。
「ラムジー、来い!」
(はい、ジャックさん!)
彼を追い、強風に逆らってタタッと駆ける。
「逃がすか!」
突然、前足を氷にとられてラムジーはつるりと横に滑った。コンクリートがスケートリンクのようにつるつるに凍っている。レノックスが低く放った海水が瞬時に凍りついたのだ。体勢を立て直そうとしたラムジーは、突然尻尾のつけ根に痛みを感じてキャンと悲鳴をあげた。レノックスが尻尾をつかんでぶら下がっているのだ。
(放して下さい、でないと噛みつきますよ!)
ウナギのように身をくねらせるが、それでもレノックスはしつこく喰い下がってくる。ラムジーは鼻面に皺《しわ》を寄せてがるがると唸った。
(本当に噛みますよおっ……)
「クソッ、おとなしくしろったら!」
万力《まんりき》のような腕が押さえ込みにかかる。レノックスはラムジーの首根っこを抱きかかえ、鼻の頭に青く光る粉を振りかけた。
「これでゲームオーバーだ」
野太い声が唱《とな》える。
「アスジェニィイム♂艪ヘ作り直す!」
その途端、全身からどんどん力が抜けていった。前足が二本の手に変わっていく。突然の寒さに体ががくがく震え出した。
ふかふかの毛皮がなくなってしまったのだ。牙も、爪も、旗《はた》のような尻尾も。
ジャックが自転車を停めて振り返った。
「ラムジー!」
彼の後ろの工場の壁に円形の黒い影のようなものが見える。影はまるで宙に浮かんだインクの染みのように中心が濃く、周囲に行くほど薄かった。ラムジーは目を凝《こ》らした。黒い影はぐるぐると渦を描きながらゆっくり回転しているように見える。壁に穴が空いているのかと思ったが、壁の向こうにある筈のものは何も見えなかった。
「ジャックさん、逃げて!」
レノックスの腕を振りほどく。
「カディルさんは姿を見えなくして一人で出て行っちゃったんですっ! 知らない街で一人っきりで迷子なんです! 早く見つけてあげて! でないと……でないと……」
叔父は目覚めたけれど、結局死を選んだ。カディルも同じことをしてしまうかも知れない。なのにジャックはまだ躊躇《ちゅうちょ》していた。
「行って下さい! ぼくは大丈夫です、だから早く!」
ラムジーは声を限りに叫んだ。森の王者から無力な素裸の人間に戻って何も出来ないけれど、言葉を使うことは出来る。
「……ラムジー、すまない」
ジャックは黒い影に向かって一直線に自転車を走らせた。風がゴーッと吹き、自転車の背が雪にかすむ。ジャックの後ろ姿を呑み込むのと同時に回転する黒い影はどんどん小さくなり、数秒後にはかき消すように見えなくなった。唐突に風がぱたりと止んだ。吹雪《ふぶき》も、自転車も、ジャックの姿も、もうどこにも無かった。まるで初めからなかったみたいにきれいに消えてしまったのだ。レノックスが地団駄《じだんだ》を踏む。
「畜生ッ、〈低き道〉か。青二才のくせに高等技を使いやがって」
ラムジーはまだ凍っている地面に肩をついた。体がカチカチに凍《こご》えてしまって、もう冷たさもあまり感じなかった。
「おい、チビすけ。車に乗れ」
はるか頭上のレノックスを見あげる。頭がボーッとし、体中から力が抜けてしまったみたいだった。
「くそ、手を焼かせやがる」
後ろから抱きかかえられる。手足を動かそうとしたが、体は石みたいにこわばっていた。レノックスはラムジーを後部座席に押し込み、運転席の背に掛けてあったジーンズのジャケットをばさりと放った。
「とりあえずそれでも着てろ。俺が変態だと思われる」
何度か失敗したあとようやくエンジンは咳《せ》き込《こ》むような音をたてて回りだし、ヒーターから温風がゴーッと吹き出した。温まるとかえって今まで感じなかった寒さが身に染《し》みてラムジーはガチガチ歯の根を鳴らした。
「寒い……」
「少しガマンしてろ。これで最強だ」
レノックスの赤毛に凍りついた雪の結晶が溶け落ちる。走りだした車は市の中心部へと逆戻りし、さっき狼の姿で駆けた大火記念碑の下を行き過ぎた。
あれは、現実のことだったのだろうか。
窓の外をロンドンの街並が流れていく。それを眺めながら、これからどうなるのだろうと思った。判っているのは〈同盟〉に連れて行かれるのだということだけだ。あの見知らぬ男を殺した容疑者として。
4――悩まぬ者
コト、という音が石畳《いしだたみ》の歩道に響く。コト、コト……。そのたびに二つに割れた蹄《ひづめ》の跡がくっきりと石畳に残される。
カディルは振り返って自分の残した足跡をぼんやり眺《なが》めた。〈惑《まど》わし〉で姿を消すことは出来るが、足跡を消すことは出来ない。
かまわない。
人間に山羊《やぎ》足を見られてはならない、とジャック様は言われたけれど、足跡については何もおっしゃらなかった。だから、かまわない。
カディルは鉄と騒音《そうおん》に彩《いろど》られたこのおぞましい世界での二年間を思い返した。恐ろしさにいつしか心は死んだようになり、自由にすることがままならなかった。仕《つか》えるべき王子に世話をされているのを知りながら、遠く離れた場所からそれを見ているしかなかったのだ。カディルは冷たい鉄で造られた削蹄《さくてい》ナイフを握りしめた。これで王子は蹄を削《けず》って下さったのだ……。
街路灯の人工の明かりが足元を照らしている。ぎらぎらと醜《みにく》い光だ。この世界の人間の作るものはみな醜い。カディルはナイフで指先を傷つけ、一滴の血を流した。血に含まれる妖素《ようそ》が青く光る。
「ウィル・オ・ウィスプ。我が下《もと》に」
小さな鬼火《おにび》がポッと灯《とも》った。たて続けに幾つか呼び出し、体の回りにふわふわと飛ばす。満足の笑みが浮かんだ。これでいい。
ふと、自分に触れようとした汚《けが》らわしい男のことを思い出して笑みが消える。だがあの男のお陰で王子を故郷にお帰しする手立てが解った。唇の端がキュッと持ちあがる。
ジャック様。今しばらくご辛抱《しんぼう》下さいませ……。
足元で低い唸《うな》り声がした。目をやると、雁《かり》の翼《つばさ》のある犬の群れがいつのまにか周囲を取り巻いている。〈同盟《どうめい》〉のガブリエル犬だ。一匹がぐるぐる唸りながら長上衣《ながうわぎ》の裳裾《もすそ》を銜《くわ》えてひっぱった。
煩《わずら》わしい……。
「……触・れ・る・な」
そのまま見ることもなく印を切る。空中に小さな鎌《かま》が無数に出現した。時を置かず、鎌はくるくる回転しながら犬どもに襲いかかる。かん高い悲鳴があがり、血飛沫《ちしぶき》とともに切断された犬どもの体がばらばらと地面に落ちた。四肢《しし》、胴体、翼……。か細い哭《な》き声《ごえ》が暗い路地《ろじ》に響く。
断末魔の悲鳴をあげ続ける犬どもをぼんやりと踏み、カディルは星のない夜空を見あげた。
どのような手段を用いてでも王子をラノンにお帰ししなければならない。王子が叛逆者《はんぎゃくしゃ》の汚名《おめい》を着せられたのも、故郷を追われることになったのも、すべてこの自分の科《とが》なのだから。
◆◆◆
熱い湯が冷えきった体をほぐしていく。ラムジーはバスタブの中で体を伸ばした。
なんて気持ちがいいんだろう。
廃《はい》ビルでは水しか出なかったから、たっぷりの湯につかるなどという贅沢《ぜいたく》は家出してから初めてのことだった。
ここは同盟のアジトではなく、レノックス個人の部屋らしい。寒さでカチカチのラムジーはまっすぐここに連れてこられ、有無《うむ》を言わさず風呂につっこまれたのである。
「ぬくまったか、坊主《ぼうず》」
隣の居間からレノックスの声がした。
「うん……でも」
ラムジーは湯の中でもじもじした。暖かくはなったけど、浴槽《よくそう》からは出にくい。何しろ、居間と浴室の間仕切《まじき》りは硝子《ガラス》製なのだ。
「じゃ、さっさと出て来い。俺は野郎の裸《はだか》なんか興味ねえからな」
仕方なく湯気で曇《くも》った硝子の向こうを気にしながら大急ぎで体を拭《ふ》き、洗面台の横の椅子に置いてあったスウェットを着た。上下ともだぶだぶで、袖《そで》は指先まで隠れる長さだ。
「これ、レノックスさんの……?」
「文句言うな、坊主。着ていたものは自分で破っちまったろうが」
別にその事について文句を言うつもりはない。むしろお礼を言うべきなのだろうけど、何だかうまく言えなかった。
「……本部とかに行かなくていいんですか」
「ああ。あとでな」
やけに気のない返事である。
「レノックスさんって、人間じゃないんですね……」
「おまえさんもだろうが」
そう言われて、改めて昼間のことを思い返した。なんだか夢を見ていたような気がする。
「ぼく、本当に狼《おおかみ》だったんですか……」
「違うって言って欲しいのか?」
目を閉じ、首を振る。
「……もう一度、なりたいんです」
今もはっきりと思い出せる。風になって走る楽しさ、豊かに溢《あふ》れる音と匂い。人生は単純になり、世界は歓《よろこ》びに満ちていた。
「こいつでか?」
レノックスは二本の指であの硝子瓶をつまんで振った。
「返して下さい!」
手を伸ばすより先にパッと掌《てのひら》が閉じる。
「こいつは死んだガレスのだ。おまえさんのじゃない」
「それ、いったい何なんですか……。変身の魔法の薬……?」
「本当に何も知らないんだな」
「少しは知ってますよ。ジャックさんもレノックスさんもラノンっていう所から来たんでしょう? ラノンって、どこにあるんですか」
そこに行けば呪《のろ》いは解ける。少なくとも叔父はそう考えていた。
レノックスは小さくため息をつくように言った。
「……ラノンってのはな、坊主。ロンドンのことだ。ロンドン、ランドン、ラノン。音が似てるだろう?」
「胡麻化《ごまか》さないで下さいっ!」
思わず声が大きくなる。呪いを解くためにはどうしてもそこに行かなくてはならないのだ。だが、ラムジーの抗議を遮《さえぎ》るようにレノックスは窓を覆《おお》うカーテンをさっと開けた。
「このロンドンじゃない。ラノンは、もう一つのロンドンなんだ……」
ここはテムズ河岸の再開発地区にある高層フラットらしかった。日が暮れて窓の外にはロンドンの夜景が広がっている。まるで黒ビロードに宝石をちりばめたみたいな美しさだ。ラムジーは思わず少しのあいだ見とれた。建物の多くはライトアップされて闇の中でくっきりと輝いている。ビッグベンと、国会議事堂。御伽《おとぎ》の塔のようなタワーブリッジ。大きく蛇行《だこう》して街を二分するテムズ河のほとりには青い光を放《はな》って回る巨大な観覧車ロンドン・アイが見える。
「……ラノンとロンドンは、同じ場所にあるんだ。互いに触ることも見ることも出来ねえがな。建ってる建物や、住んでる連中も違う。だが、ロンドンのテムズ河とラノンのイス河の流れはぴったり重なる。地形はまるで同じだ。ロンドン塔とラノン城の位置もだ。ロンドンは二つの世界をくっつけるヘソみたいなもんらしい。その二つを結んでいるのがラノン城の北にある底無しの〈地獄穴《じごくあな》〉だ」
「ロンドンのどこかにそんな穴があるんですか?」
「それが、見つからないのさ。同盟でも徹底的に調べたんだが……」
「じゃ、どうしてロンドンがヘソだって……」
「俺たちはラノンで死刑を宣告されて底無しの〈地獄穴〉に落とされた。落ちるときは、死ぬと思っている。だが、落ちる先は決まってこのロンドンなんだ。現れる場所は十マイル四方、ほぼロンドン中に散らばっている。だから繋がっているのは確かだが、どこかは解らないんだ」
彼は眼下に広がる夜のロンドンをじっと見つめていた。
「……おかしなもんさ。それは判ってるんだが、みんなこの街を離れられないんだ。この街は、ラノンの匂いがするみたいでな」
ラムジーは、ジャックから聞いた故郷の話を思い出していた。彼は絶対に帰ることは出来ないのだと言った。確かに帰り道がないのではどうしようもない。
突然、ひどく落胆《らくたん》した気分になった。それが本当だとしたらラノンに行くことはまったく不可能なのだ。
「……ラノンって、妖精の国なんですか?」
「いろんな種族がいるさ。こっちの人間が勝手に妖精とか魔物とか呼ぶだけだ」
「でも、魔法を使うじゃないですか」
「そうだな。ラノンでは、鉄と石油の代わりに銅と魔法が文明を支えているのさ」
瓶の底に残った光る粉をさらさらと振る。
「こいつは、死んだラノン人の遺灰《いはい》だ」
ラムジーはゲッとなった。
「ぼく、舐《な》めちゃった……。カディルさんが薬だって言ったから……」
「使い方を知らない奴に教えるには一番手っ取り早い言い方だな。この世界じゃ、これがなけりゃどんな魔法も働かないのさ」
彼の説明によると、ラノンの空気や水には〈妖素〉と呼ばれる物質がごく微量《びりょう》含まれているのだという。妖素は魔法を発現させる触媒《しょくばい》の役割を果たすが、こちら側の世界には全く存在しないのだ。
「坊主。生物濃縮《せいぶつのうしゅく》って知ってるか?」
思いもかけないところで理科の問題を出されてラムジーはうろたえた。確か、環境汚染《かんきょうおせん》について学習したときに習った筈だ。
「ええと、例えば水中の微量物質をプランクトンが取り込んで、それを小魚が食べて、大きい魚が食べて、その魚を鳥が食べて……しまいにはその濃度が水の何千万倍にもなるとか……」
「その通り。よく勉強してるな」
レノックスはニヤッと笑って説明を続けた。
妖素は体内に取り込まれると排出されにくいため、ラノンで生まれ育った動植物には――特に動物の骨には――高濃度の妖素が蓄積している。そしてラノンから来た人間の肉体に含まれる分が、この世界に存在する妖素の総量なのだ。そのため、かつてこの世界に来たラノン人の間で互いの骨を奪い合う悲惨《ひさん》な争いが多発した。〈同盟〉はそれを終わらせることを目的に結成されたのだ。
「だから俺たちは仲間殺しには厳罰《げんばつ》を下す。でないと、最後の一人になるまで殺し合うだろうからな」
レノックスはビニールシートに挟《はさ》まれた淡い褐色《かっしょく》の紙を取り出した。バーコードに似た奇妙な文字が数行にわたって書かれていて、右下の部分に血判《けっぱん》が捺《お》されている。ほんの少し見方を変えるとそれまで赤褐色に見えていた血判はぎらぎらした青い光を放った。
「坊主。おまえさんにゃこの光が見えるのか?」
「うん……。信号灯みたいに光ってる」
実際、血判はあの瓶の粉やジャックの血の微《かす》かな光とは比べ物にならないほど強い光を放っていた。これが見えないなんてことが本当にあるんだろうか。
「これは〈同盟〉の盟約書《めいやくしょ》だ。血の色の濃さから言って捺印《なついん》はカディル本人のものだ。死んだガレスが帽子の中に隠し持っていた。血判をとったあと殺されたらしい」
「ぼく、殺してませんよ!」
「さあ、どうだかな。第一発見者を疑えってのは刑事ドラマの基本だからな」
口元がニヤリと歪《ゆが》む。
「坊主。さっき何で俺に噛みつかなかったんだ? 俺が尻尾《しっぽ》をつかんだときだよ」
「えっ……」
ラムジーはぽかんとした。
「だってあの牙《きば》で噛んだら大ケガしますよ?」
「なるほど、わかったぜ。おまえさんには無理だってクソ王子が言った意味が」
レノックスは笑いながら大きな手でラムジーの髪の毛をくしゃくしゃにした。なんだか判らないけど思いっきりバカにされたような気がする。
「何がおかしいんですか。それに何でジャックさんの事をそんなに嫌うんですかっ?」
「奴は実の弟を殺そうとしたんだぞ。おまえさんこそ何でそんな奴に肩入れするんだ?」
確かに、暗殺未遂に関わったことを彼自身否定しようとしない。でもきっと、何かの事情があって彼にはどうしようもなかったのだ。だが、どうもうまく説明できそうになかったので、自分が一番分かりやすい理由を口にした。
「だって、ジャックさんはいい人ですよ」
「おまえさんを見捨てて逃げたのにか? 犬ころってのは思い込みが激しいから困るぜ」
「ぼく、レノックスさんもいい人だと思いますけど……」
「ケッ。俺は『いい人』なんかじゃねえよ。それよか、おまえさんの事だ」
「はい……」
いよいよこれから本格的な取り調べが始まるのだ。もちろん自分の無実は晴らさなければならないが、真犯人を知っていることも秘密にしなければならない。
ゴクリと生唾《なまつば》を呑む。
レノックスは真っ正面からラムジーを見据《みす》えた。
「よし。もういっぺん訊《き》くぞ。おまえさんは七人兄弟の末っ子。おまえさんの故郷のクリップフォード村は何百年も前から孤立した集落で、親父もお袋も、ひいひいひい祖母さんまで湖《さかのぼ》ってもみな村の生まれ。そうだな? 七番目の子供には妖精の呪いがかけられるという伝説がある。間違いないな?」
「そうですけど?」
ちょっと気が抜けた。それはさっきから何度も訊かれ、その度《たび》に話している。殺人事件の話はどこに行ってしまったのだろう。
「参ったな……」
彼は赤い髪をぼりぼり掻《か》いた。
「俺の考えを言おうか。クリップフォードは、大昔にラノンから来た連中の隠れ里だ」
ラムジーはぽかんと口を開けた。
「ぼく、妖精の子孫なんですか?」
「どうして灰で狼に変身したんだと思う?」
「呪いで……」か、もしくは祝福で。
「違う。おまえさんちは、もともと人狼《ウェアウルフ》の家系なんだよ。おまえさんは人狼に生まれついたが、この世界には妖素がないから今まで変身できなかったのさ」
レノックスは言った。
「人狼の形質は劣性遺伝《れっせいいでん》だ。因子《いんし》を持っていてもほとんど表には出ない。だが、ラノン人の場合、後から生まれる子ほど親の能力が強く伝わる。特に七番目には高い確率でだ。ラノンでは第七子は祝福された子と呼ばれる。家督《かとく》も末子相続《まっしそうぞく》が原則だ」
レノックスの意外な言葉に、すぐには言葉が出なかった。祝福された子……。カディルもそう言ったけれど、あのときはその意味が理解できなかった。そのことが判っていたら、どんなに気が楽だっただろう。クリップフォードでは七番目は呪われた子で、憐《あわ》れみの対象だったのだ。
「どうして……。ぼくの先祖は自分たちのルーツを伝えなかったんだろう……。だからぼくは、呪いで気が狂うんだとばっかり……」
「思い出すのが辛《つら》かったからだろうな」
彼はぽつりと言った。
「だから、二度と帰れない故郷の話を誰もしようとしなかったんだろう」
彼の声に滲《にじ》む苦さにラムジーはハッとした。
あのとき、無責任に帰れると言ってしまったときジャックがなぜ怒ったのか今は理解できた。それは、レノックスにとっても同じことなのだ……。
見つめると、彼はふっと視線を逸《そ》らした。
「そんな顔すんな、チビ」
「だって……」
熱く潤《うる》む目を慌《あわ》ててごしごしこする。
「それより自分の心配をしろ。この世界で暮らす限り、おまえさんには定期的に灰が必要だ。これから大人になるにつれ、おまえさんの力も熟《じゅく》してくる。その力が使えなければ、おまえさんは満月の度に苦しまなきゃならない。末子相続の伝統が呪い話に変化したのは、末子、特に第七子に気がおかしくなる奴が多かったからだろう。血に飢《う》えた半獣人《はんじゅうじん》伝説は、変身できない苦しさで凶暴化した人狼因子保持者が人間や家畜を襲ったからだ」
ラムジーは叔父のノートにあった三百年前の一家惨殺事件を思い出した。叔父は、新月の晩に自殺した。もしかしたら、月が丸くなったとき家族に危害を加えるのを恐れて……?
「ぼく、狼男だったんですね……。レノックスさんはブルーマンでしょう? じゃあ、カディルさんは……?」
「カディルはグラシュティグ族だ。こっちの世界の伝説じゃ〈女の顔と山羊の足を持つ山の精〉と呼ばれてるな。昔、こっちに来たグラシュティグがいたんだろう」
それは、いかにもカディルにぴったりな形容に思えた。ジャックは何なのか訊こうとしたとき、携帯電話が鳴った。妖精が携帯電話を使うなんておかしな気がするけど、そういえばジャックも持っていた。
「……俺です。はい。チビ狼はこっちで押さえてます。えっ、まさか……」
みるみる表情が険《けわ》しくなる。
「どうかしたんですか」
「ガブリエル犬が殺られた。全滅だそうだ」
携帯を握る手がぶるぶる震えている。
「クソ王子め……! 俺の可愛《かわい》い犬どもをバラバラに刻《きざ》みやがったんだ!」
「そうやってすぐジャックさんだと決めつけるのは……」
「他に誰がいる? 畜生《ちくしょう》、もう許せねえ!」
だが、ラムジーは別の可能性を考えていた。
(触れようとしたゆえ、殺《あや》めたまで)
乾いた、冷たい声だった。あのとき、カディルの声には何の感情も感じられなかった。
どこかでコト、という蹄の音が聞こえたような気がした。ゆっくりと視線をあげる。
窓の外に、白い天使の顔があった。
「カ……カディルさん……」
ベランダの腰高の手摺《てす》りの上にカディルが小鳥のようにちょこんと乗っかっている。
ここ、たしか十階……。
カディルは平均台の選手のように優雅に手摺りの上に立ち、まっすぐ手を差し伸べた。掌《てのひら》に走る傷口の朱《しゅ》が鮮《あざ》やかに目を射《い》る。
「ブリースィイイム♂艪ヘ破壊する……」
どんっ、と何か重たい物がぶつかったような衝撃が走り、サッシの厚い二層硝子がひび割れて窓枠から砕《くだ》け落《お》ちた。
「窓がっ! 何てことしやがるんだ!」
レノックスは仁王《におう》立《だ》ちになり、ベランダのカディルを睨《にら》みつけた。
「カディル……。目を覚ましたって本当だったのか……」
[#挿絵(img/Lunnainn1_107.jpg)入る]
じゃり、と蹄が割れたガラスを踏む。カディルは冷ややかにレノックスを眺めた。
「ブルー・マン。わたくしは忘れ物を取りにきた」
「忘れ物だと……?」
カディルの手が宙に模様を描いた。傷口が強く青い光を放つ。ビニールシートに挟まれた紙片がひとりでに宙に浮かんだ。
「あっ! 血判状……!」
「ドーィム……♂艪ヘ燃やす」
紙片は空中でポッと青白い炎を発し、小さく燃え尽きて絨毯《じゅうたん》に落ちた。
「畜生っ! あんたガレスを殺《や》ったのか!?」
「そのような名は知らぬ。汚らわしいレッドキャップならば手にかけた」
「くそっ、それじゃ〈同盟〉の名においてあんたを拘束《こうそく》しなきゃならん」
レノックスは腕を持ちあげ、青い文様《もんよう》を空中に放とうとした。
カディルが小さく呟く。
「ブルーィイイイム♂艪ヘ押し潰す……」
次の瞬間、レノックスの体は目に見えない衝撃波に吹っ飛ばされた。駆け寄ろうとしたラムジーを、鈴《すず》の音《ね》のように澄《す》んだ声が呼び止める。
「ラムジー・マクラブ……っ=v
自分の名が、全く別の物みたいにリーンと空気を震わせた。ラムジーは、糸に引かれるようにゆっくりと振り返った。
「坊主、返事するんじゃねえっ!」
再び空気を衝撃波が走り、レノックスの周囲の壁がドゴッとひび割れる。
「返事するな……魂《たましい》を……奪われる……」
言葉とともに溢れる血を彼は床に吐き捨てた。
「レノックスさんっ!」
裳裾《もすそ》を引きずったカディルがゆっくりとレノックスの横を通りすぎ、目の前に立った。冷たい緑の目が見おろす。
「ラムジー・マクラブ……っ&ヤ事をおし。そなた、ジャック様に会いたくはないか?」
耳の底に響き渡る声に頭がクラクラする。
「は……い……」
ラムジーはほとんど無意識のうちに答えていた。美しい笑みが視野いっぱいに広がる。
「おいで、小さな狼」
乾いた冷たい手がラムジーを抱きとめ、世界は急速に遠ざかっていった。
◆◆◆
レノックスは床に横たわったまま指先を動かし、次に腕を動かしてみた。ぎしぎしと痛みが走ったが、折れてはいない。手と膝《ひざ》を使って慎重に立ち上がり、脇腹の痛みの源をまさぐって小さく悪態をつく。どうやら、肋骨《ろっこつ》が何本かやられているようだ。
それでもこれくらいで済んだのは、持っていた灰で咄嗟《とっさ》に防御を張ったからだ。長生者《ちょうせいしゃ》であることの重みが、この世界ではラノンでの何倍にもなる。環境中に妖素がないこの世界では体内の妖素量の差が決定的な違いを生む。カディルの体内には膨大《ぼうだい》な量の妖素が蓄積しているうえ、こちらに来て月日が経《た》てば消えてしまう血中妖素もまだ高い濃度なのだ。
自分の間抜けさ加減に歯軋《はぎし》りが出る。
クソッ。まさか、カディルだったとは。
心を閉ざしたカディルには何一つできないと頭から決め込んでいたのだ。冷静になってみると、犬たちを殺《や》ったのもジャックではなくカディルなのではないか。霜の瞳をもつジャックが得意とするのは刃ではなく雪と氷の術だ。
壊れた窓からベランダに出てカディルが消えた夜の闇を見おろす。カディルはラムジーを抱いてこの窓から跳躍《ちょうやく》した。岩山から岩山へ跳《と》び移るグラシュティグの足にはロンドンのビル群など飛び石同然なのだろう。
レノックスは折れた肋骨をガムテープでテーピングし、Tシャツをかぶった。何とかなりそうだ。とにかく今はあれこれ考えるよりカディルを見つけることが先決《せんけつ》だった。調教済みのガブリエル犬はほとんど殺られてしまったから、他の方法を考えねばならない。
さっき床に吐いた血痕《けっこん》を注意深く確かめる。血の上を踏んだ蹄の跡がいくつか残されていた。ニヤリと口の端に笑みが浮かぶ。カディルは自分の血のついた血判状を標識としてここを捜《さが》し当《あ》てた。自分にも同じことが出来る筈だ。
◆◆◆
赤と白の光の帯が滲《にじ》むように眼下を流れていく。道路を埋《う》める車のライトの列だ。ラムジーはカディルの腕にしっかり抱かれ、霧にかすむ夜のロンドンを見おろした。
跳んでるんだ。
飛ぶのとは違う。ビルからビルへ数十メートルの弧を描いて跳躍し、そしてまた蹄がしなやかに屋根を蹴《け》って跳ぶ。信じられない跳躍力だった。これも魔法なのだろうか。不思議だけれど恐くはなかった。というよりも、恐いとか楽しいとか嬉しいという感情がすっかりマヒしているのだ。そういえば、レノックスは返事をしたら魂を奪われると言っていたけれど。
ラムジーを抱いたままカディルは青と白のタワーブリッジの欄干《らんかん》からロンドン塔のホワイトタワーへ軽々と跳び移った。さらに最後の大跳躍で城壁と道路を一気に跳び越え、向かいの小さな楕円形の緑地にふわりと着地する。土と草の匂いが鼻孔《びこう》を覆う。
「小さな狼。可哀想《かわいそう》に、そなた、このような世界に生まれて……」
カディルは小さな子供をあやすようにラムジーの体を抱き、ゆすった。子守歌が聞こえる。
ゆっくりとしたリズムでラムジーの腕を叩きながら歌っているのだ。それはとても優しくて、母親の腕に抱かれているように気持ちが良かった。
「お眠り……良い子、可愛い子……」
梢《こずえ》を揺らす風のように途切れ途切れに繰り返される旋律《せんりつ》が不意にぱたりと止《や》んだ。ぼうっとした焦点《しょうてん》の合わない目がラムジーの顔を覗き込む。
「哀れな子……。今まで苦しんだ分、これから先は悩みも苦しみも感じないようにしてあげようね……」
額にかかる髪を長い指がやさしくかき分ける。ひやり、とする刃の感触が首のあたりに触れた。次《つ》いで布が裂ける音が響く。刃物がフリースのスウェットを切り裂いたのだ。ラムジーはぼんやりと、借りた服をダメにしてしまって困ったなと思った。
カディルは優しく微笑《ほほえ》みながら着ているものを順々に切り裂いていった。生まれたての赤ん坊のように素裸になったラムジーの上体を抱きしめ、額にキスする。
「そなたはこれからわたくしに代わり、ジャック様にお仕《つか》えするのです。そなたの大好きなジャック様のお側近くで一生お守りするのです……」
それを聞いたら、なんだか嬉しくなった。ずっとジャックの側にいられて、しかも自分が彼の役に立てるなんて。氷が解けるみたいに口元に笑みが生まれる。
「そう、嬉しいのですね、小さな狼……」
カディルはどこか遠くを見つめたまま晴れ晴れと微笑んだ。
「お聞き、小さな狼。ジャック様はわたくしがお育てしたのですよ。わたくしは長い間ダナの王室に力を貸してきた。もう充分だった。わたくしは、暇をいただいて山に帰る筈だった。けれどもそう決めた年、ジャック様がお生まれになった……。ほんに美しい御子だった。暇乞《いとまご》いを願いに伺《うかが》った日、ゆりかごの中のジャック様は小さな手でわたくしの指を握っていつまでも放そうとなさらなかった。そのときわたくしは暇を返上《へんじょう》してお育てすると決めたのです。この御子を王位につけるのをわたくしの最後の仕事に、と……」
宙を見つめ、ぽつりぽつりと口を開く。ラムジーに向かって話しているというよりはむしろ独り言のようだった。
「あの方はお小さい頃からそれは素晴らしい御子だった。お優しく、何事にも控《ひか》えめな御方。あの方の素晴らしさはお側にいて初めて判るのです。あの方が王位につけば王国は末長く安泰《あんたい》の筈。たとえ、あの方が七番目の御子でなくても……」
美しい眉が曇《くも》る。
「わたくしは口惜《くちお》しい……。ニムロッド様さえお生まれにならなければあの方が末子《まっし》だったのです。しかも、ニムロッド様はフロスティ・ブルーの瞳をお持ちではないのですよ。皇后様の御子であらせられても、王家の跡取りには相応《ふさわ》しくないのです……。そなたもそう思うでしょう?」
ラムジーは困惑した。
そんなことを言われても困ってしまう。目の色で王位が決まるなんて何かヘンだし、ジャックの弟のことだって何も知らないのだから。
「ジャック様……なぜ自ら廃太子《はいたいし》などなさったのです? 恩知らずな者どもはジャック様のお側を離れて必死にニムロッド様の御機嫌《ごきげん》をとろうと……。ニムロッド様よりジャック様の方が遥《はる》かにダナの王に相応しいのに! ジャック様はお優しすぎるのです。だからわたくしは……わたくしは……」
抱きしめていた腕が不意に緩《ゆる》み、ラムジーの体は壊れた人形のようにどさりと芝生《しばふ》に滑《すべ》り落《お》ちた。カディルの喉《のど》から再び子守歌が流れ出す。見開いた眼からぽろぽろと涙が流れ落ち、それを拭《ぬぐ》おうともせず涙を流しながら歌い続けている。
ラムジーは泣かないで、と思った。
何があったのか知らないけど、悲しいことがいっぱいあったのだろうけど、でも、泣かないで。笑えば心も楽しくなるのに。そうすればきっと、砕《くだ》けた心を拾い集めて元通りにできるのに。
その無言の訴《うった》えが通じたのか、突然カディルは泣くのを止めた。涙の跡の残る頬《ほお》にふっ、と笑みが浮かぶ。そして今度は唇がきゅーっと三日月に吊《つ》り上《あ》がった。
「……小さな狼。そなた、ジャック様の御恩に報《むく》いたいですか?」
それは言うまでもなく彼の役に立ちたかった。けれど、具体的に何をすればいいのか見当もつかない。
「そなたは何も考える必要はないのです……」
カディルの指が刃にそって這《は》う。傷口にふっくり盛り上がる血が青く光った。血に濡れた指が胸に何かを描く。それから腹に、両手の平に、膝に、足の裏に。ひどくくすぐったかったけど、体はピクとも動かない。
額に、ぴたりと指が触れた。
四つの文字が描かれる。
JACK。
◆◆◆
レノックスは車のダッシュボードに置いた即席の羅針盤《らしんばん》を睨《にら》んだ。海水を張《は》った小皿に自分の血を塗《ぬ》った寄生木《ヤドリギ》の小枝を浮かべたものである。カディルの蹄や裾《すそ》についた血と、このヤドリギに塗った血は互いに引き合う筈だった。進んでいる方向が正しければ、血を塗った側がまっすぐ前方を指す。難点は方角は判るが距離は判らないということだ。
ブラックフライヤー橋を北に渡ると、寄生木《ヤドリギ》はクルッと右を指した。東か……。ビクトリア女王通りを右折する。寄生木《ヤドリギ》はそのまま直進を示していた。ロンドン塔の方だ。だが道は渋滞し、遅々《ちち》として進まない。
「えいくそっ、この渋滞め!」
イライラとハンドルを叩く。カディルがラムジーを連れていったことが気にかかってならないのだ。名を呼ぶ術は返事をした相手の意志を一時的に奪うもので、それ自体さしたる害はない。だが、なぜカディルはラムジーを連れて行ったのか。目覚めたばかりの混乱した精神状態でラムジーを目にし、子供の世話をするという長年の習性が働いたのか。だが子供と言ってもラムジーはもう十五か六だろう……。
(忘れ物を取りにきた)
あのとき、カディルは血判状のことを言っているのだと思った。だがもしかして、初めからラムジーを指していたのだとしたら……?
半《なか》ば不死身のウェアウルフは、考え得る限り最高の護衛になる。
この世界の科学技術に不吉な面があるように、ラノンの魔法技術にも恥ずべき暗い顔が存在する。その一つが、個人の人格を剥《は》ぎ取って意志を持たない操り人形に変える術だ。奪われた人格を元に戻す方法は知られていない。この術は千年以上前に禁じられたが、個人や国家によってたびたびその禁は破られてきた。支配する側にとってこれほど便利なものはないからだ。
普通なら、グラシュティグのカディルが幼いといっていいほど若いラムジーにそのような術を施《ほどこ》すことなど考えられない。だが、カディルの精神状態は尋常とは思えないのだ。犬たちを殺した残忍さや、問答無用に部屋を破壊して少年を連れ去ったやり方は明らかに常軌《じょうき》を逸《いっ》している。
おそらく長年の宮廷勤めに加えて、この驚異の世界での生活がカディルの心の柔らかい部分を削り取ってしまったのだろう。残されたのは、己の愛するものだけをひたすら守ろうとする山羊にも似た頑《かたく》なな本能だけだ。
(ぼく、レノックスさんもいい人だと思いますけど)
今朝起きたときにはまだ自分の運命も、自分が何者であるかも知らなかった少年の、潤んだようにつぶらな瞳が脳裏《のうり》に浮かんでくる。
レノックスはギリリと歯噛《はが》みした。
「畜生ッ。絶対にさせやしねえ!」
ダッシュボードの羅針盤は東を指し続けている。この先にあるのは、タワーブリッジ、ロンドン塔、それにタワーヒル……。
脳裏に一つの地名が閃《ひらめ》いた。
トリニティ・スクウェア・ガーデンズだ!
ガーデンズはロンドン塔のすぐ北にある小さな円《まる》い公園だ。地理関係で言うと、ラノン側の〈地獄穴〉と全く同じ位置にあたる。そこに穴はなくラノンに戻ることは出来ないのだが、それでも未練で何度か訪れたことがあった。長い自失状態から覚めたカディルが同じことを考えたとしても不思議はない。
行き先がはっきりしているなら〈低き道〉を使った方が早い。
レノックスは道路脇にジャガーを乗り捨てて駆けだした。一斉に抗議のクラクションが鳴り響く。レッカー移動代とおまけに罰金《ばっきん》も食らうことになるだろうが、今はそんなことは言っていられなかった。
走りながら灰の瓶《びん》を開ける。
「テェエエエムっ♂艪ヘ行く!」
空中に、ゆっくり回転する黒い影が現れた。回りの風景がぐにゃりと歪む。レノックスは宙を歩くように不安定な〈低き道〉に足を踏み入れた。ガーデンズの光景を強く思い描きながらそろそろと進む。〈低き道〉は入るよりも出る方が難しい。うっかり気を散らすと、とんでもないところに持っていかれてしまうのだ。通路の周りにいくつかしゃぼんの泡に封じ込められたような景色が現れる。その一つにレノックスの目は釘付《くぎづ》けになった。
芝生に、体中に文様を描かれたラムジーが横たわっている。カディルはラノンの子守歌を切れ切れに口ずさみ、ぐったりした少年の躯《からだ》に忌まわしい誓縛文《キアンゲル》を描いていた。危惧《きぐ》したことがまさに目の前で起きようとしているのだ。
一刻も早く止めさせなければ、少年は永遠に意志のない人形と成り果てる。レノックスは〈低き道〉からカディルとラムジーのいる公園に出ようとあがいた。が、焦《あせ》りが枷《かせ》となって公園が遠ざかっていく。食いしばった歯の間から、長らく口にしたことのない祈りが漏れる。
女神よ、どうか道をお示し下さい……。俺に、あのチビすけを助けさせて下さい!
◆◆◆
霧の中で公園の安全灯がぽうっと光った。
ラムジーは仰向《あおむ》けになったまま、体中に文様が書きつけられるのを遠いところの出来事のように知覚していた。
「良い子ですね……。もう少しの辛抱《しんぼう》ですよ。そなたは、そなたの力が人を傷つけるなら死んでしまいたいと話しましたね。でも、もう何も自分で考えたり悩んだりすることはないのです。そなたはこれから一生ジャック様のことだけを考え、ジャック様のためだけに生きればよいのですよ」
えっ、と思った。ぼんやりした疑問が心をよぎる。もちろん、ジャックのことは好きだ。でも、本当に他のことは何ひとつ考えなくて良いのだろうか。黙って家出したからきっと家族は心配している。それに自分が人狼《ウェアウルフ》だと判ったからには、これからどう生きるのかよく考えなくてはならないのではないだろうか。
意識がふわふわと散らばったような状態から急速にまとまって、はっきりとした芯《しん》を持ち始めた。それはすごく厭《いや》な感じだった。それに恐ろしいし、不安でもあった。まったく突然に泣きたくなったけれど、泣くことが出来なかった。
歌うようにカディルは続けた。
「不安も恐れも悲しみも二度とそなたを悩ませることはありません。あるのは仕える喜びだけです。そなたは〈悩まぬ者〉になり、永遠に苦しみから解き放たれるのですよ」
違うんです、そうじゃないんです、確かに不安や恐れでいっぱいだけど、それを感じないからって問題が消えるわけじゃないんです。自分で考えなくちゃいけないんです――カディルにそう伝えようとしたけれど、相変わらず声が出ない。
胸の上に軽くて乾いたものが置かれた。さらにその上に何か粉状のものがさらさらと振りかけられる。ラムジーは全神経を集中してようやく頭をもたげ、胸の上に置かれた物体に焦点を合わせた。粉のようなものは白いだけで青く光ってはいなかったから、あの魔法の灰でないことだけは解った。
カディルの手が頭を支え、胸の上の白っぽい塊《かたまり》を口元に持ってきた。表面に書かれた文字が見える。
JACK――ジャック。
「さあ、食べさせてあげようね……」
冷たい指が唇を押し開いた。食いしばった前歯に何かがぐりぐり押しつけられ、ひどく塩辛い味が流れ込んでくる。
塩だ……! パンと塩……?
これを食べたらきっと、カディルの言う悩みのない状態になるのだろう。でも、それは死んでいるのと同じだ。必死に口を閉じようとしたが、歯の隙間から小さなカケラがムリムリと口の中に侵入してくるのを止められない。涙が一粒こめかみを伝って落ちた。
厭だ。怖くても悩みがいっぱいあってもいい。ぼくは自分でいたい……!
そのとき、聞き覚えのある声が鋭《するど》く耳に響いた。
「止めろ!」
パンが押し込まれる力が不意に緩んだ。ラムジーは渾身《こんしん》の力で頭を声の方に向けた。黒く渦巻くトンネルのようなものが空中に浮かんでいる。その中から、影のような姿がゆらりと公園の芝の上に歩み出た。
「その子から離れるんだ、カディル」
あの声は……ジャック……?
カディルが幽霊みたいにふらりと立ち上がった。
「なぜでございますか。これは狼の血筋の者。きっとお役に立ちましょう」
「カディル。僕は操《あやつ》り人形になったラムジーなんか欲しくない」
「この子は己《おのれ》の力を恐れております。意志を持たない方が、ずっと幸せに生きられましょう」
「だからってラムジーの意志を奪っていいわけじゃないんだ、カディル」
ジャックが傍《かたわ》らに膝をついた。暖かい手が上体を抱え起こす。
「ラムジー、聞こえるか? 口の中のものを吐くんだ」
ジャックの手が勢いよく背中をどんと叩いた。パンのかけらがケホッと口から飛び出す。
その途端、薄膜《うすまく》のかかったような感覚が消えてすべてのものがはっきりと感じられた。マーマレード色をした鈍《にぶ》い安全灯の光がまるで真夏の太陽のように眩《まぶ》しい。
涙がどっと溢れた。
「ジャックさん……怖かったです……」
「それだけ泣けるなら、心配ないな」
見おろす氷の瞳が暖かな笑みに細くなる。ラムジーは思わず彼の首に抱きついた。涙が出るのと一緒に胸がひくひく痙攣《けいれん》する。ジャックの手があやすように背中を叩いていた。これじゃ赤ん坊みたいだ、と思ったけれど止められない。
彼が言うのが聞こえた。
「カディル。今までおまえがしたことはすべて僕のためだったことは知っている。弟を亡き者にしようとしたことも含めて」
5――永遠のラノン
ラムジーはハッとなってジャックの顔を見あげた。彼は視線を合わせようとせず、腕をほどいて立ち上がるとまっすぐにカディルの方に向きなおった。
「……あの暗殺未遂が起きたとき、すぐおまえの仕業《しわざ》だとわかった。おまえはもう少しで成功しかけた。他の誰にも出来ないことだ」
カディルはかすかに首を傾《かし》げ、哀しげにジャックを見つめていた。
「ニムロッド様は末子《まっし》であられるだけ、取り立てたお力は何もお持ちではありません。あなた様の方がずっと王冠に相応《ふさわ》しい御方です。だからわたくしは……」
「ニムは末子で、そのうえ第七子なんだ。瞳がフロスティ・ブルーでなくても、あの子が王位を継ぐのが当然なんだよ、カディル」
「いいえ! フロスティ・ブルー・アイはダナの王の証《あか》し。雪や霜《しも》を操《あやつ》ることができなくて、どうして国を治められましょう……」
なおも言《い》い募《つの》ろうとするカディルをジャックは静かな声で遮《さえぎ》った。
「確かに僕の先祖は霜を操って国を盗《と》った。三年続けて冷害に見舞われればどんな国も持ちこたえられないからね。でも、それは昔のことだ。氷の術が使えなくてもきっとあの子は良い王になるよ。いま、王国のために必要な力は霜を操ることじゃない。人心《じんしん》を束《たば》ねることだ。小さいとき、おまえは教えてくれたね。本当に偉いのは上に立つ者ではなく、支える者たちなのだと」
ジャックは、幼い日々を懐《なつ》かしむようにかすかに微笑《ほほえ》んだ。
「……ニムは明るくて、人に好かれる性質だ。きっと皆はあの子を支えて国を守ってくれるよ。宮廷でもいつもあの子の回りには人が集まっていたね。でも、僕は違う。僕は小さいときから一人でいるのが好きだった。人との交わりよりも書物の方が好きだったんだ。本当は、僕は王より学者になりたかったんだよ。おまえみたいなね」
「わたくし……のような?」
カディルは立ちすくんで宙を見つめていた。
「わたくしは学者ではございません。ただ永く生きただけでございます……」
「おまえは誰よりも博識で、誰よりも思慮深かった。ずっと、おまえみたいになりたかったんだよ。処刑のとき、立ち会いに来た筈《はず》のおまえが一緒に地獄穴《じごくあな》に飛び込んでくれて、本当に嬉しかった……」
「他に出来ることはございませんでした。あなた様は犯《おか》してもいない罪を告白して、わたくしの罪を背負ってしまわれた……」
「おまえのためだけじゃないよ。ニムのためでもあったんだ。僕がこの瞳を持ってラノンに留まるかぎり、僕を推《お》す者がニムを排除しようとする危険はなくならない。だから消えることにした。地獄穴が別の世界に通じていることは、代々の王位継承者だけの秘密だったんだ。父は事の真相に気づいていたと思う。だからおまえを処刑の立ち会い人に指定したんだよ。おまえはきっと僕の後を追うだろうから。見知らぬ世界への旅に、おまえほど頼りになる道連れはいない」
「いいえ。わたくしは足手まといなだけでした。そのうえ、ジャック様の意に染《そ》まぬことばかりして……」
「もういいんだよ。それより、同盟がおまえを捜《さが》している。どこか遠くに逃げよう。ロンドンを離れて、同盟の手の届かない所へ」
ラムジーは、やっと納得がいった。ジャックがどうして暗殺未遂の罪を被《かぶ》ったのか。真犯人がカディルだと知っていたからなのだ。カディルと弟の両方を守るために彼は永遠に故郷を去ることにしたのだ。
ジャックは黙って追放されたわけでも、逃げ出したわけでもない。彼は自らの意志でその運命を選んだのだ……。
彼が立ち上がってカディルの方へ一歩踏み出したとき、目の前の空間に黒い小さな点のようなものが現れ、歪んだ風船のようにぐにゃりと膨《ふく》れ上《あ》がった。風船の中にレノックスの姿が見える。
「そうはさせねえ!」
回転しながら空気の中で膨らんだり縮《ちぢ》んだりする黒いトンネルから細い紐《ひも》のようなものがシュッと飛び出し、蛇《へび》のように素早くカディルの喉《のど》に巻きついた。
「カディル!」
ジャックが一声叫び、宙に伸びる紐を両手で掴《つか》んだ。カディルはかすれたような声で呻《うめ》きながら喉をしめつける紐を掻《か》きむしっている。カディルの喉を絞《し》め上《あ》げる紐の一方の端は黒いトンネルの中に消えていた。ジャックは必死に紐を引《ひ》き千切《ちぎ》ろうとしていたが、ビクともしなかった。
「そいつは切れないぜ。四つ葉のクローバーの筋《すじ》を集めて編み込んであるからな」
レノックスが回転する空中のトンネルから芝生の上に飛び下りた。
「カディル。同盟の名において、あんたを拘束《こうそく》する。ガレス殺害の容疑だ」
「見逃してくれ!」
ジャックは少しでもゆとりを作ろうと両手で紐をたぐりながら叫んだ。
「頼む! カディルは、病気なんだ。この世界に来るずっと以前から、正常な判断が下せない状態だったんだよ!」
レノックスが呆れたように言った。
「あんた、バカじゃないのか? 聞いたぜ、あんたはそもそもそいつのせいで地獄穴送りになったんだろうが」
「カディルが他人を傷つけるのは、いつも僕のためなんだ。だから、僕も同罪なんだ」
「確かに同罪だな。あんたはカディルが他人に危害を及ぼす可能性を知っていた。だから同盟への加盟を拒《こば》んでたんだ。違うか?」
「そんな風に言わないでくれ。触れられない限り、カディルはおとなしかったんだ……」
「言い訳になるか、クソッタレめ。ラムジーは自分の人生を失《な》くすとこだったんだぞ」
ジャックは低く、ああ、と呟いた。
「まさかあんなことをするとは思わなかったんだ。カディルはラムジーが部屋にいても厭《いや》がらなかった。だから、ラムジーを気に入っているんだと思っていた……」
「ケッ。気に入ったから一生|奴隷《どれい》にするってわけか? 宮廷の連中が考えそうなこった」
黒い穴に対抗する力が弱まり、カディルはじりじりと渦巻《うずま》く穴に引き寄せられていく。
ラムジーは思わず紐に飛びついた。ぶら下がるようにすがりついて黒い穴と綱引《つなひ》きをするみたいに引《ひ》っ張《ば》る。
レノックスが怒鳴《どな》った。
「チビすけ、何すんだ! そいつはおまえさんの心を消しちまおうとしたんだぞ!」
「違うんです、そうなんだけど、そうじゃないんです……! レノックスさん、カディルさんは僕を助けようとしたんですよぉ……」
何と説明していいのか分からなかった。方法は間違っていたが、確かにカディルはラムジーを苦しみから救おうとしていたのだ。
「ぼくが自分の運命を怖がってばかりいたから、カディルさんは苦しみや悩みを消そうとしたんです。でも悩みを全部消すには心を無くすしかなくて、ぼくはそれは厭で、でもカディルさんに厭だって伝えられなくて……」
涙が出てきた。言っている端から自分が何を言っているのか分からなくなってくる。
「カディルさんは子守歌を歌ってくれました……ぼくのためにしようとしたんです……悪気じゃなかったんです……」
そのとき突然ピーンと張り詰めていた力が弾けとび、ジャックとラムジーは折り重なって草の上に尻餅《しりもち》をついた。レノックスが叫ぶ。
「しまった……! 冷たい鉄か!」
カディルは削蹄ナイフで断ち切った紐の残りを首から引《ひ》き剥《は》がした。もう一方の端は張力を失ってだらりと穴から垂《た》れ下《さ》がっている。カディルはそのまま公園の真ん中あたりまで一跳《ひとと》びにジャンプした。
「待て!」
大声で叫びながら突進したレノックスは、数メートルもいかないうちに目に見えない壁に激突して跳ね飛ばされた。
「ちくしょっ……つ……てっ……ぇ」
手をついて立ち上がろうとして大きく顔をしかめ、ペッと血を吐く。
「レノックスさんっ! 大丈夫ですか!」
「何てこたないさ……くそッ……」
「だって、血が! それにさっきフラットでも怪我《けが》したんじゃないですか!」
「へっ、おまえさんに心配されてるようじゃ世話ないぜ……」
見えない壁の向こう側で、カディルがゆっくりこちらを向いた。
「……小さな狼。そなたは、厭だったのですか……? ジャック様にお仕《つか》えするのが……」
「そうじゃありません、ジャックさんは大好きですっ。でも、自分が自分じゃなくなるのは厭なんです……!」
カディルは驚いた表情でラムジーを見つめていた。
「そなたは、あれほど祝福の力を恐れていたではありませんか。そなたがそなたである限り、力から逃れることは出来ないのです。力のもたらす悩みも苦しみも自分で背負わねばならぬのですよ……」
「それは、判ってます……。でも、ぼくがしっかりしてさえいれば……」
天使の貌《かお》に、寂《さび》しさと悲しみの入り混じった形容しがたい表情が浮かんだ。
「小さな狼。どんなに気を確かに持っているつもりでも、自分を見失うことはあるのですよ。そのときそなたは耐えられますか……」
死を選んだ叔父のこと、家族や友人を殺してしまった先祖のことが思い浮かんだ。もしそんなことになったらと思うと、躯《からだ》が震える。
でも、逃げたくない。
ジャックは、自《みずか》ら誰も知らない道を行くことを選んだ。そしてセオドア叔父だって闘《たたか》ったのだ。勝てる見込みが少ない闘いだと解っていても、最期《さいご》に選んだ道が間違っていたのだとしても、叔父は自分であり続けるために闘い、自分の意志で選んだのだ。
ギュッと拳《こぶし》を握りしめる。
「……ぼく、逃げるだけじゃダメだって判ったんです。自分の運命は、自分で闘って選ばなくちゃいけないんです……」
「それがそなたの心を引き裂くことになっても、ですか?」
「だって、それが自分であるってことなんです。ぼくは自分が狼だってことも、自由に狼になれないことも、両方受け入れなくちゃいけないんです。運命は自分の一部なんです。ぼくが狼だったとき、やっぱりぼくはぼくでした。ぼくがぼくでなくなったら、ぼくが自分に生まれた意味もなくなってしまう……!」
「自分に生まれた……意味?」
カディルはこぼれそうなほど大きく眼を見開いてラムジーを見つめていた。やがてその瞼《まぶた》の縁に透き通ったしずくが膨れあがり、耐えかねたようにぽろりと落ちた。涙の粒は次から次へと際限《さいげん》なく溢れて頬を伝っていく。白い仮面のような顔は地下室で身動きせずに座っていた時と全く同じだったけれど、ただ茫々《ぼうぼう》と流れ続ける涙だけが違っていた。
「そう……その通りです……。わたくしは、とても大切なことを忘れていたのですね……。そなたはまだ人生を歩み始めたばかりだというのに、わたくしは何ということを……」
「でも、しなかったじゃないですか! カディルさんがそう思ってしまったのは、ぼくが自分の運命から逃げようとしていたからなんです。ぼく、もう大丈夫です。だから泣かないでください!」
「そなたは、ほんに優しい子……。今更言えることではないのですけれど、これからジャック様をお頼みしますよ……」
カディルは涙を流し続けながら唇でキュッと笑った。その目が、ジャックに向けられる。
「ジャック様。ここはまさに地獄穴と同じ場所。なぜラノンには穴の入り口があり、こちら側にないか考えたことはございますか……」
ジャックは、見えない壁を両手で押したり叩いたりしながら叫んでいた。
「そんなことはどうでもいい! カディル、僕を通してくれ!」
カディルはゆっくり首を振り、暖かな目でジャックを見つめた。
「ジャック様。穴は、あるのです。ただ、十マイルの大きさに薄く広がっているので判らないだけなのですよ。わたくしに触れようとしたあのレッドキャップが教えてくれました……」
ラムジーは、あっと思った。向こうから人が来るとき、現れる場所はロンドン中に散らばっているって……。
「いまからわたくしが隠れている穴を呼び出します。穴が天に見えている間に開門の呪誦《ピショーグ》をお唱《とな》え下さいませ。穴の下にある物すべて、そのままラノンに参りますゆえ」
「全てって、どういうことだ、カディル!」
「ですから、全てでございます。穴は選《え》り好《ごの》みいたしませぬ」
「待て! 直径十マイルの隠れた穴を呼び出すなんて、竜の骨でもなければ無理じゃないか! だいたいどうして僕が最後の呪誦を唱えるんだ。おまえじゃなく……!」
カディルはにこやかに微笑んだ。
「わたくしは、長く生き過ぎました。でもまだわたくしに出来ることがあります……」
「やめろ! これは命令だ。頼む、おまえがいなくなったら僕は……」
ジャックは見えない壁を拳でどんどんと叩いた。叩きながら右へ左へと切れ目を探す。だが、見えない壁は湾曲《わんきょく》して巨大な筒《つつ》みたいにカディルの周囲をぐるりと取り囲んでいた。ジャックはどうしてもカディルに近寄ることが出来ないまま、とうとう筒の回りをぐるりと一周してしまった。
カディルは指についた血で円筒《えんとう》の内側にぐるりと一連の記号を描いた。透明な円筒に描かれた血文字は、まるで宙に浮かんでいるみたいに見える。
「ジャック様。父君も、その父君の父君もわたくしがお育てしたのです。けれど、あなた様ほど優しい御子はおられませんでした……」
全てを包みこむような笑み。柔らかくて暖かく、それなのに不思議なくらい気高《けだか》く見えた。カディルはもう天使人形のようには見えなかった。夢の中にだけ現れる、光り輝く翼を持った本物の天使のようだった。
カディルは何かを迎え入れようとするかのように両手を広げ、わずかに頭をあげると澄んだ声で唱えた。
「ラースィム♂艪ヘ火を灯《とも》す……」
波打つようなブルーグレイの髪に、小さな炎がぽっと灯る。
ぽっ。ぽぽっ。
広げた両の手に、つま先に、炎は次々に現れて淡いオレンジ色にゆらめき、目を閉じたカディルの顔を後光《ごこう》のように照らした。
ジャックはカディルの名を呼びながら狂ったように見えない筒を叩いている。
「カディルっ! やめるんだ!」
「お別れです、ジャック様。あなた様の御子をお育てしたかった……」
天使の笑み。体のまわりでゆらゆら踊っていた炎がごおっと一気に燃え広がってカディルの全身を包み込んだ。円筒の内部は燃《も》え盛《さか》る炎に満たされ、聖堂の燭台《しょくだい》のように暖かな黄色に輝いている。ゆらめく炎のなか、暖炉《だんろ》に投じられた紙人形のようにカディルの姿は脆《もろ》く崩れ落ちた。
ラムジーはただ呆然と炎に満たされた円筒を見つめていた。炎は円筒の中で轟々《ごうごう》と燃え盛り、その色は次第に明るくなり、ほとんど純白に近い輝きを放っていた。公園の木々が濃い陰影《いんえい》を伴《ともな》ってくっきりと照らしだされる。数メートル離れていても放射される熱で顔が熱い。手をあげて目の前にかざす。ジャックが円筒に手を差し伸べる。指の先が輝く円筒にもう少しで触れそうになった瞬間、後ろからタックルしたレノックスが彼を羽交《はが》い締《じ》めにした。
「放せ! カディルが……」
「もう手遅れだ! 触ったら手が灼《や》け爛《ただ》れちまうぞ!」
白熱する円筒から彼を引き離しながら怒鳴《どな》る。
「チビも来い! そこは危ないぞ!」
ハッとして慌《あわ》てて二人の所まで下がった。円筒の中には青い渦《うず》が生まれていた。あの瓶の中の粉と同じ、けれど何百倍も強い青い青い光が目を射《い》るように輝きながら渦巻《うずま》いている。青い輝きはそのままサーチライトのようにまっすぐ上空に向かい、一本の光の柱となってロンドンの上空に垂れこめる雲に吸い込まれた。円筒の内側にぐるりと描かれた血の文様がざわざわと蠢《うごめ》きだし、円筒を離れて螺旋《らせん》を描くようにするすると光の廻《まわ》りを昇《のぼ》っていく。
やがて雲全体が稲光《いなびかり》のようにぴかぴかと周期的に光り始めた。
ラムジーは夜空に目を凝《こ》らした。光の柱を中心にして雲が大きく回転しているように見える。まるで巨大な円盤《えんばん》みたいだ。円盤はみるみる大きくなってシティ地区を越え、ロンドンのほとんどをその傘の下に収めるくらいに広がった。それは、ロンドンの夜空を包囲する巨大なリングのようだった。
リングの中に、ぼんやりと何かの形が現れ始めた。
低く垂れこめる雲がレモン色に輝き、その瞬間、夜空に川のようなものが見えた。けれどそれは天の川ではなかった。西の空から東の空へ、夜空の端から端まで大蛇《だいじゃ》のようにうねうねと横たわるその川は、ロンドン地図で何度も見たテムズの流れと全く同じ形をしていた。
レノックスが小さな叫び声をあげる。
「……イス河……!」
再びレモン色の光が雲間を走り、その瞬間はっきりと見えた。雲の中に浮かぶ家々のいらかが。
街だ……。雲の中に街が浮かんでいる。
空を流れる河のほとりに、逆さまになった城の塔が見える。城は堀でかこまれ、河には優美な跳《は》ね橋《ばし》がかかっていた。
ジャックが呟く。
「ラノン城……」
稲光はストロボのように連続的に光って雲の中に浮かぶ街を照らし出した。城の前の広場からは大通りが街中を伸び、立派な構《かま》えの屋敷が立ち並ぶ。市場とおぼしき場所は小さなテントの連《つら》なりだ。細い路地《ろじ》が入り組む下町には小さな家が軒を連ね、まるで積み木遊びで造ったおもちゃの町のように見える。街を二分する大河の南側には広大な沼地が広がり、緑の森が街の西側を縁取《ふちど》っていた。
ラムジーは首が痛くなるくらい上を見あげた。街は上下をひっくり返したジオラマのように逆さまで、まるで夜空が巨大な鏡になってロンドンの街を映しだしているみたいだった。けれど、同じ街ではない。ロンドン塔と同じ場所にあるお城は硝子のようにきらきら光るドームを持ち、レモン色の光が走るたびに眩《まばゆ》い輝きを放っていた。
「ラノンだ! ラノンが視《み》える!」
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レノックスが大声で叫ぶ。上空から真下に向かって生暖かい風が吹き降ろしてきた。風に混じって霧のように細かい雨がパラパラと降りかかり、頬を濡らす。レノックスは深々と息を吸い込んだ。
「畜生、故郷の匂いがしやがるぜ! こいつはラノンの雨だ!」
ラムジーも風の匂いを嗅《か》いだ。確かに何かが違う。生暖かい空気を胸いっぱいに吸い込むと、不思議な感覚が体の奥深くまで入っていく。突然ざわざわと血が沸《わ》き立《た》ち、全身の皮膚《ひふ》を突き破るように獣毛《じゅうもう》が一気に生《は》え揃《そろ》った。立っているのが難しくなって地面に手をつく。二本の手は、もう前足に変わっていた。
(うわあ。また狼になっちゃった!)
レノックスがげらげら大笑いしながら乱暴に首根っこを抱きかかえた。
「チビすけ、ラノンの空気を吸って狼になったんだな! こっちの方が断然いかすぜ!」
嬉しくなって彼の顔をぺろぺろ舐《な》める。ラムジーは風の匂いがあの灰に含まれる匂いと同質だということに気づいた。雲の中に現れたラノンから妖素を含んだ雨と風が吹き込んだので変身したのだ。
「チビすけ、あれが俺たちのラノンだ」
彼はぐりぐり頭を撫《な》でながら言った。
「視えるか? 城壁のすぐ外、小さな屋根がごちゃごちゃしている所が。あそこが俺が住んでた場所だ。一旗《ひとはた》あげようと思って都会に出てきた頃な。俺も若かったからよく悪さしたもんだ。行きつけの飲み屋、潰《つぶ》れてなきゃまだあの通りにある筈だが。馴染《なじ》みの女もな。ああ、遠すぎて見えねえか……」
毛皮を撫でる手の力が不意に抜ける。
「畜生、十年だ……。このクソッタレな世界に島流しになって十年……。なのに、ラノンはちっとも変わってねえ……」
言葉の最後は、押し殺した嗚咽《おえつ》に変わっていた。慰《なぐさ》めなきゃと思ったけど、狼の姿では言葉が話せないのでもう一度顔を舐めた。
「……ニム……」
鋭敏《えいびん》な耳が微《かす》かな呟きをキャッチした。ジャックの声だ。彼は地面に膝をついたまま天空に浮かぶラノンを見つめていた。見あげると、彼は静かに微笑みかけた。
「ラムジー。君にも視えるんだね」
頷き、尻尾《しっぽ》をぱたぱた振って応《こた》える。
「あれが君に見せたかったラノンだよ。美しいだろう? 科学の代わりに魔法が支配する世界なんだ。ほら、あの城。僕はあそこで育ったんだよ……」
ジャックの手が、優しく頭を撫でた。
「あそこには、弟がいる筈なんだ……。最後に会ったとき九つだったから、今は十一かな……」
彼はまっすぐに天空の街を見つめている。
「僕が八つのときニムが生まれて、僕は王位を継《つ》がなくてよくなった。本当言うと、僕には重荷だったんだ。でも、あの子はあんなに小さいのに、僕の代わりにその重荷を背負わなくちゃならない……」
彼の声には、奇妙なほろ苦さが滲んでいた。それがいったい何なのかよく判らない。寂《さび》しさと、愛しさと、微かな後悔の匂い。
「僕には兄や姉はいたけれど、弟は初めてだった。可愛《かわい》くてね。だから、僕はあの子のために出来ることは何でもしようと誓《ちか》った。でもそのことがカディルの心の歯車を狂わせてしまったんだ。カディルの精神状態が普通でないのには早くから気づいていた。でも誰にも言わなかった。言えば彼は暇《ひま》を出されてしまう。僕は我《わ》が儘《まま》な子供だったから、彼が山に帰ってしまうのが厭《いや》だったんだ。それで自分一人の秘密にして、彼が以前の優しいカディルに戻ってくれることをただ祈っていた。でも悪くなるばかりで、とうとうあの暗殺未遂事件が起きてしまった。僕はカディルを叛逆者《はんぎゃくしゃ》にしたばかりか、もう少しで弟を死なせるところだった。僕は、一番大切な二人を両方とも裏切ったんだ……」
そんな、と思った。それはジャックの責任ではないのに。でも、誰が何を言っても今の彼には通じないような気がした。だから、ただ身をすり寄せた。狼の言葉では、それは慰めを意味するのだから。
ラムジーはジャックの弟がいるという城の硝子のドームを見つめた。向こうからはこちらが視えるのだろうか。ジャックの弟は、ジャックがこの世界で生きていて、こんなにずっと想っていることを知っているのだろうか。
稲光の間隔が短くなっていく。ロンドンの上空に浮かんだ逆さまの街は断続的な光を放っていた。空の中心に向かって真っすぐに伸びている光の柱は薄くなり、地面に近いほうから次第に消え始めている。
レノックスが怒鳴った。
「おい、消えちまう! 早く門を開け!」
「ああ、そうだな……」
だけど、ジャックは空に浮かぶ街をただじっと見つめている。レノックスは苛々《いらいら》と彼に詰め寄った。
「何やってんだ、早く呪誦を! あんたがやらないんなら、俺がやるぞ!」
ジャックは蒼白《あおじろ》い視線を彼に投げかけた。
「……僕がやらなければならないことだ」
右手を空に向かって高く差し伸べる。空全体にレモン色の光が走り、リングの中の街を眩《まぶ》しく照らし出した。
「ニム……。いつまでも大好きだよ」
それからジャックは良く通るはっきりした声で朗々《ろうろう》と唱えた。
「ドゥウネム♂艪ヘ閉じる……!」
ゆっくり回転する空のリングが不安定に揺らぎ、小さくなっていく。
「閉じる≠セと? 開く≠カゃないか、この大馬鹿野郎!」
「いや……。これでいいんだ」
リングの中心を支える光の柱が下からするすると縮《ちぢ》んで消えていく。
レノックスが喉《のど》の奥から絞《しぼ》り出《だ》すような悲鳴を漏《も》らした。
小さくなったリングはロンドンの上空で点滅《てんめつ》を繰り返している。雲が動いた。灰色の雲がぐるぐると渦《うず》を巻いてリングの中心に向かって雪崩込《なだれこ》み、夜空に浮かんだ街を呑み込んでいく。雲に覆われた家々のいらかは鮮明さを失い、もろもろと崩れるようにその輪郭《りんかく》がぼやける。
つかの間、リング全体が再び鮮《あざ》やかなレモン色に輝いた。それは瞬《まばた》きするほどのあいだ続いて雲居にまぎれる街を明るく照らし、そして次の瞬間ラノンの街並を抱いてばちんと消えた。
あとには、元のどんよりと曇《くも》った夜空が広がっているだけだった。
目を剥《む》いて夜空を凝視していたレノックスが、突然くるりと振り向いてジャックの襟元《えりもと》を掴《つか》んだ。
「消えた! 畜生、消えちまった! 何がいいだ、クソ野郎! ええ? 言ってみろ!」
彼は抗《あらが》おうとせず、静かに目を伏せた。
「……殴《なぐ》れ。それで気が済むなら」
「畜生、理由を言え、理由を! 貴様の言い分を聞いてからだ! そしたら存分に殴ってやる!」
ジャックは、ついさっきまでラノンが浮かんでいた夜空に眼をやった。
「……星のない空だ。晴れていてもスモッグでいくらも見えない。寂しいと思わないか」
「何を言いやがる! ラノンに帰れば満天の星が見られたものを!」
「レノックス。ラノンをロンドンにしたいか……?」
レノックスは眉根を寄せて彼を睨みつけた。
「どういうことだ……?」
「すべての物、だ。通路を開けたら、今度はこのロンドンにあるすべての物がラノンに落ちるんだ。考えてみろ。自動車、テレビ、化学物質、プラスチック、拳銃《けんじゅう》、排気ガス、麻薬、そして何百万もの人間……」
振り上げた拳がぶるぶる震える。レノックスは食いしばった歯の隙間から言葉を絞り出した。
「畜生ッ、だからって、みすみす千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスを……!」
「僕自身、驚いている。許してもらおうとは思わないよ」
「くそったれ……が!」
襟元を掴んでいた手が不意に放される。
「畜生……っ。あんたは、正しいよ。ご立派だよ。だが、許せねえ! 帰れたんだ。俺たちみんな、故郷に帰れたんだ!」
「……こうは考えられないか。ラノンが変わらずにいる限り、見えなくても永遠にそこにあるんだ。僕らの覚えている美しいラノンは」
「畜生……畜生……!」
レノックスは両膝をつき、拳を激しく地面に叩きつけた。理性と感情が正反対の方向に振れて彼を引き裂いている。ラムジーは駆けよってすりすりと毛皮をすりつけた。
「ちくしょう、俺を慰めてんのか……。このチビすけが……」
レノックスは太い腕を首に回し、たてがみに顔を埋めた。そのこめかみの辺りをそっと舐める。眦《まなじり》に滲む涙にはさまざまな想いが入り混じり、消化しきれない怒りと悲しみの味がした。
(元気だしてください……)
レノックスの顔を舐めていたラムジーは、いつのまにかジャックが公園の真ん中に立っているのに気づいた。そこにはもう見えない円筒も、光の柱もなかった。カディルがいた場所は今は何も残っていなくて、ただ芝生が丸く焼《や》け焦《こ》げているだけだった。ジャックは焼け焦げから少し離れたところで何かを拾い上げた。
「削蹄ナイフ……。せっかく買ったのに、一度しか使わなかったな……。僕はあまりうまく削ってやれなくて……」
ジャックの頬を涙が伝った。
「……足手まといなんかじゃなかった。支えだったんだ。カディルがいなかったら、きっと生きてこられなかった……」
絶望と悲しみの匂いが強く漂う。
ジャックのそばまで行ってみたものの、彼の悲しみが大き過ぎてどうしていいか分からない。ラムジーは鼻を鳴らし、尻尾を低く振りながらうろうろと彼の周りを歩き回った。
(ジャックさん、そんなに悲しまないで下さい。ぼくまで悲しくなります……)
彼の手が、優しく頭を撫でた。
「ごめんよ、ラムジー。向こうに行ったら君は苦労せずに済んだのに」
カディルの遺言《ゆいごん》に背《そむ》いてまでラノンへの道を閉ざしたジャックに、いったい何を言えるだろう。ゆっくりと尻尾を振る。
(いいんです、ジャックさん……)
それは、ラノンに行きたかったのはラムジーも同じだった。そこでは生まれ持った力を自由に使うことができ、そうすればおそらくあの気味の悪い発作に悩まされることもなくなるのだろう。でも、永遠に故郷を失った彼らの悲しみに比べたらそんなことは取るに足らないことに思えた。
「僕が死んだら、灰は全部君にやるよ」
そう言うとジャックはそのままふらりと公園の外に向かって歩きだした。レノックスがその背中に罵声《ばせい》を浴びせかける。
「クソ王子! あんたどこに行く気だ!」
「どこって……帰るだけだ」
レノックスは彼に追いつくと乱暴に肩に手をかけた。目を細くすがめ、まじまじとジャックの顔を睨《ね》め付《つ》ける。
「帰るだと……? あの地下室にか」
「当たり前だ。他に行くところはない」
ジャックは彼の手を振り払ってふたたび歩きだした。その後を、レノックスがすがるように追う。
「ち……ちょっと待て。あんた、あの地下室に今夜ひとりでいるつもりなのか。カディルが座ってたあの部屋に……?」
「何度も言わせるな」
青白い眼を細めてじろりとレノックスを睨み返すと、ジャックはそのまま公園の出口に足を向けた。
「クソッタレが……」
食いしばった歯の間からため息と罵《ののし》りが混じり合って漏れる。
「えいこのっ、クソッタレが……!」
レノックスはふたたび同じ言葉を吐き出すと、猛然と彼に追いつき、正面に回って立《た》ち塞《ふさ》がった。
「クソ王子! 話がある」
「もう話すことはない」
「そっちになくてもこっちにゃあるんだっ」
その瞬間、ジャックの後ろ姿めがけてあの紐の切れ端が飛んだ。生きているかのように彼の右腕にくるくる巻きつく。レノックスはカディルに切られて短くなった紐の端を自分の腕に巻きとり、ぎりぎりまで距離を詰めた。
「一緒に、来てもらおうか」
「断る」
短く言い放ったジャックが削蹄ナイフで紐を断ち切ろうとした瞬間、レノックスはそれをもぎ取って近くの草むらに投げ捨てた。
(わっ、なんとかしなきゃ!)
ラムジーは大急ぎで草むらに飛び込み、鉄と血の匂いのする削蹄ナイフを見つけ出すと、口に銜《くわ》えてジャックの方へ駆け出した。
レノックスが怒鳴る。
「わからず屋め……。行かせやしねえぞ!」
ラムジーはあれっ、と思って足を止めた。今のレノックスの怒鳴り声には、敵意が全く含まれていなかったのだ。
キョトンとレノックスを見あげる。彼はいまにも湯気を噴《ふ》きそうな顔をしていた。その全身からはまだ刺々《とげとげ》した怒りの匂いを発散していたが、それはジャックに向けられたものではなかった。むしろ自分自身に腹を立てているような感じだった。
(あっ、わかった! レノックスさんが何を考えてるのか!)
「ラムジー、そのナイフをこっちに!」
「チビすけっ、渡すんじゃねえ!」
二人がほぼ同時に叫んだ。けれどラムジーはその声を無視し、ナイフを銜えたまま二人から等距離に離れた所に座った。
「どうしたんだ、ラムジー……」
ジャックは眉をひそめ、黙ってラムジーを見つめた。
「どうやら、ラムジーには何か考えがあるみたいだな」
ゆさゆさ尻尾を振る。
(そうなんです、ジャックさん……)
「わかったよ、ラムジー」
彼はため息をついて言った。
「……レノックス。ラムジーの意見を尊重してもいい。だが、この紐を解いたらだ」
「解いたら逃げるんじゃねえだろうな」
「僕に二言はない」
「ああ、そうだろうよ。あんたはな」
レノックスが小さく悪態をついた。しゅるる、と紐が解ける。
「こっちだ。チビも来い」
むっつりと押し黙ったまま二人は肩を並べて歩きだし、川べりの街をしばらく歩いた。やがて薄暗い路地に入ると、レノックスは一軒の小さなナイトクラブの前で足を止めた。
「……ここだ」
ジャックが不思議そうな顔で訊いた。
「こんな店が〈同盟〉のアジトなのか?」
「いや。同盟の連中はここは知らねえ……」
「じゃあ、いったい何なんだ? わざわざこんなところに引っ張って来て……」
「ええと、その、何というか……」
ラムジーはレノックスを見あげ、ワウッと短く吠《ほ》えた。
さっきからずっと、怒りと一緒にレノックスが発しているのは狼が群れの仲間を気遣《きづか》うときの匂いだったのだ。だからラムジーにはとっくに解っていたが、ジャックには言葉で言わないと解らない。
(ほんとは、ジャックさんを独りにするのが心配なんですよね?)
「ちッ、判ったよ、チビすけ」
レノックスは顔をそむけるようにして小さく呟き、それからつっかえ気味に口を開いた。
「あー、なんて言うかだな、その、ここは俺の行きつけの店なんだ。朝まで開いてる。ツケがきくし、カラオケもジュークボックスも入ってない。暗くて静かだ。ラノンの夜みたいにな。だから、ええと、そのだな……」
しばらくの間、ジャックは張り詰めた表情でレノックスを睨んでいたが、しばらくするとふっと怒りの匂いがほぐれた。
「……世の中なにが起きるか判らないものだな。おまえが僕の心配をするとは」
「ケッ。俺だってしたかねえが、あんたがあんまり融通《ゆうずう》が利《き》かないクソ馬鹿の唐変木《とうへんぼく》だからだ。さあ、入るのか、入らないのか、とっとと決めやがれ!」
ジャックは小さくため息をついた。吐息に諦めと後悔が入り交じる。
「そうだな……。それも良いかも知れない」
きつく引き結ばれた唇が、微かに緩む。
悲しみは消えなかったけれど、そこにはほんの少しの充足《じゅうそく》の匂いが感じられた。ラムジーは嬉しくなり、天に向かって長々と|遠吠え《ハウリング》した。
低く垂れこめる雲にネオンの光が映えている。夜霧のなかにライトアップされたロンドン塔のシルエットがぼんやりと浮かぶ。不意にその形が別のものに見えた。硝子のドームを持つ壮麗な城に。
(あれ? ロンドン塔に硝子のドームなんてあったっけ……)
別にどちらでもいいのかも知れない。ロンドンは、ラノンなのだ。だからときどき、こんな夜には、ロンドンの霧の向こうにはラノンが視えるのだ。
エピローグ
レノックスは注意深く壁紙をひろげて糊《のり》を塗《ぬ》った壁面《へきめん》に置き、中心から外側にかけてすばやくタオルでこすった。入り込んだ空気の泡を追い出して仕上がりをよくするためだ。少し離れて出来具合を確かめ、残りの面も張ってしまおうと糊の刷毛《はけ》に手を伸ばしたとき、玄関のブザーが鳴った。
「こんにちは、レノックスさん」
ドアを開けると、今は人間の姿のラムジー・マクラブがニコニコしながら立っていた。
「よう。入れよ。チビすけ。ちょうど一休みするとこだったんだ」
手についた糊を作業ズボンになすりつける。カディルに壊された部屋の修復は業者に頼んであらかた終わったのだが、ついでに日曜大工《DIY》で壁紙を張り替えることにしたのである。
「で、面接はどうだった?」
「みんな親切でしたよ」
「いや、そうじゃなくて、俺が言ってるのはだな……」
レノックスはやきもきしながらマグにティーバッグを放り込み、少年に手渡した。
〈同盟《どうめい》〉の準会員資格を得るための面接試験の結果を聞きたいのである。準会員資格の対象者は会員の子弟で、ラノン人の形質を持っている者だ。もちろんラムジーは会員の子弟ではないのだが、レノックスの強い推薦《すいせん》で特別に面接を受けられることになったのだ。
準会員には正会員の半量の〈灰〉が支給される。ウェアウルフのラムジーには他の誰よりもそれが必要だった。もし準会員になれなかった時には、レノックスは自分の取り分をわけてやる覚悟でいた。
少年は、ニコッと笑ってポケットから小さな硝子《ガラス》瓶《びん》を取り出した。瓶の底で、灰が青白く光る。
「これ、貰いました」
「受かったのか? 良かったじゃないか!」
「はい。ランダルさんって、いい人ですね」
レノックスは紅茶を飲もうとして咳《せ》き込《こ》んだ。盟主《めいしゅ》の人物評として、これくらい的外れなものもないだろう。怜悧《れいり》とか狡猾《こうかつ》なら判《わか》るが、いい人とは。ラムジーにいい人と言われたことのあるレノックスは、少しばかり複雑な気分だった。
「……おまえさんにかかっちゃ、誰でもいい人なんだな」
「えーっ。そんなことないですよぅ」
少年はニコニコしながら言った。
「期待してる、って言われちゃいましたよお」
ラムジーには、それがひどく嬉しいようだ。
なるほどな、と思った。ウェアウルフは何かと役に立つ人材だ。しばらく同盟には一匹もいなかったから、このさい確保しておきたいのだろう。それにしても、さすがにランダルはツボを心得ている。犬的性格のウェアウルフは他人からの期待にめっぽう弱いのだ。
「それから、こないだの夜起こったことは秘密だって言われました。みんなに変な希望を持たせちゃいけないからって」
「ああ。絶対秘密だぞ」
あの夜の顛末《てんまつ》を報告したとき、盟主は全く驚きを見せなかった。ただ一言、こう言ったのだ――ジャック・ウィンタースはまともな頭の持ち主だったわけですね、と。
そのとき気づいた。盟主は以前から〈穴〉の入り口を呼び出せることを知っていたに違いない。だが、ジャックが穴を塞《ふさ》いだのと同じ理由で会員たちには伏せていたのだ。今回の事も、何らかの自然現象でラノンの幻が現れたということで処理しようとしている。
レノックスはひとりごちた。
――これだから|ダナ人《ダナ・オ・シー》って奴は嫌いだぜ――
この件で一番やり切れないのは、カディルは不必要に死んだのかも知れないということだった。カディルのガレス殺しの罪は実は免責《めんせき》になる可能性があった。押収《おうしゅう》されたメモによると、ガレスは妖素を手に入れるためにカディルを殺すつもりでいたらしい。そうなら、カディルの行為は正当防衛ということになる。
「ところで、ジャックの奴はどうしてる?」
「普通にしてます……。表面的には」
ラムジーの笑顔が曇《くも》った。
「仕事にも行ってます。ぼくの顔をみると、ちょっと笑うんです。でも、ほんとは笑ってないのが分かるんです……」
レノックスはため息まじりに言った。
「俺の考えじゃ、奴は大丈夫さ。おまえさんもついてることだしな」
「そうですかあ……」
心配そうに見あげるラムジーの前髪をくしゃくしゃにする。初めはジャックが自殺するのではと思ったが、取り越し苦労だったようだ。奴はそれほどバカじゃない。少なくともカディルがそれを望まないことくらいは判っているようだから、取り敢えずは平気だろう。
自らを焼き尽くしたカディルの遺灰《いはい》は〈穴〉の入り口を呼び出し維持《いじ》するために費《つい》やされたが、すべてが使い尽くされたわけではない。〈穴〉が消えるとき、なお残っていた灰はひきずられて一緒に向こう側へ行ったのではないか――レノックスはそう考えている。そのことをジャックに話そうかどうか、思案している最中だ。カディルが死んでラノンに戻ったとしてもそれが奴の慰《なぐさ》めになるかどうかは判らないが。
いずれにしろ、もう少し時間が必要だった。そのうちに時を選んでもう一度同盟に勧誘してみるつもりだ。考えてみれば、王家の第六子に生まれたのは奴の責任じゃない。それに、付き合ってみるとそう厭《いや》な奴でもないのだ。元ダナ王族にしては。
レノックスは窓を開けて外の空気をいれた。ゆったりと蛇行《だこう》するテムズ河の水面に反射する光が美しい。間近にSt.ジェイムズパーク、遠くにはハイドパークの緑が見える。
いつの頃からか、晴れた日にはこうやって部屋の窓からロンドンを見渡すのが習慣になっていた。その度《たび》に眺望《ちょうぼう》の良いこの物件を選んで良かったとしみじみ実感する。
眺めているうちに、ふと思った。
昔から、住めば都と言う。ロンドンだって、そう悪い所じゃないさ。
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晴れた日は魔法|日和《びより》
[#挿絵(img/Lunnainn1_157.jpg)入る]
[#改ページ]
――クリップフォード村オールドオーク・ファームハウス
[#ここから10字下げ]
ヘイミッシュ&イザベル・マクラブ様|宛《あて》――
[#ここで字下げ終わり]
家族のみんなへ。黙って家出したりしてごめんなさい。ぼくは元気です。週末にはクリップフォードに帰ります。心配かけて本当に本当にごめんなさい。
[#地付き] ラムジー・マクラブ拝
追伸 ロンドンでお世話になった人も一緒です。
1――懐かしき哉《かな》、我が家
風が、ペパーミントみたいにひんやりと甘い。
ラムジーは夜行バスの窓を開けて外の空気をいっぱいに吸い込んだ。故郷の匂いだ。ロンドンのぬるくて澱《よど》んだ空気とは全然違う、どこまでも澄んで清らかなハイランドの風の匂いだ。
一月前、あんなにも悲壮な気分でこの同じバスに乗っていたのがまるで嘘みたいだった。あのときはこの世界の中で自分がたった一人みたいで、不安で寂しくて自分の運命を呪っていた。だけど今は違う。もう独りぼっちじゃない。自分には〈仲間〉がいるのだ。
窓を開けたまま通路を挟んだ隣の席を振り返る。
「寒くないですか、ジャックさん」
「いや。僕には寒いというのが判《わか》らないんだ」
ジャックは擦《す》り切《き》れたバスのシートの上で小さく伸びをした。積もった雪の表面のように淡いブルーの目が微《かす》かに笑う。
間の抜けた質問をしてしまった恥ずかしさに顔が赤くなる。ジャックが寒いはずがない。彼は、この世界流に言えば〈霜《しも》の妖精〉なのだから。
「でも窓は閉めた方がいいんじゃないかな。他の乗客もいるから」
「あっ、そうですね」
シーズンオフで|長距離バス《コーチ》はがら空《す》きだけれど、言われてみれば後ろの方の座席では何人かが微睡《まどろ》んでいる。ラムジーは大急ぎで窓を閉めた。
バスはハイランドを東西に貫《つらぬ》いて背骨のように横たわるグランピアン山脈を北へ北へと疾走していく。東の空が仄《ほの》かに明るかった。夜空の底は濃紺から紫に、そして白く透《す》けるようなオレンジ色へと変わり始めている。
「ジャックさん。ほら、夜が明けます」
朝の最初の光を浴びて杏子《あんず》色に染まった岩山の輪郭《りんかく》がうっすらと浮かび上がる。彼は輝く山塊《さんかい》を眩《まぶ》しそうに見上げた。
「ああ。とても綺麗だ」
なんだかひどく嬉しかった。この風景を見せたかったのだ。自分が生まれ育ったこのハイランドの自然を。
本当はもう一人の〈仲間〉、レノックスにも見せたかった。でも彼は仕事があるからと言って誘いを断ったのだ。けれど、もしかしたら仕事と言うのは言い訳で、ジャックと同行するのが気まずくて断ったのではないかという気がする。
車窓の風景を眺めていたジャックが不意に尋ねた。
「ラムジー。このあたりは寒冷地なのか?」
「スコットランドはイギリスの北半分で、ハイランドはさらにその北半分なんです。だからロンドンと比べたらずっと寒いですよ。でもジャックさんには関係ないですね」
「いや、感じないだけで、本当に寒さに強いわけじゃない。自分が降らせた雪の中で凍死した先祖もいる。寒いという感覚がないから、凍《こご》えていることに気づかないんだよ」
「そんな……」
凍え死ぬまで寒いのが判らない、なんて。
氷の彫像のように冴え冴えとしたジャックの横顔にそっと目をやる。カディルが死んだあの夜以来、彼は涙を見せていない。けれど本当に笑ったこともないのだ。彼は八歳までは王になるべく育てられた人だから、きっと感情を外に出さない訓練を積んでいるのだろう。だがカディルを失ったジャックの悲しみは消えたわけではない。それどころかその痛みは今も彼を苛《さいな》んでいるのに、彼はそれを心の中で固く凍らせてしまっているのだ。自分にはそれが解《わか》る。だから、そんなジャックを見ているのはとても辛かった。
半月前、ラムジーは自分が妖精郷ラノンの人狼《ウェアウルフ》の血を引いていることを知った。そして人狼として目覚めてから五感が異常に鋭くなったのだ。狼の姿のときはもちろんだが、月が痩《や》せて狼になれない今の時期でも以前なら気づかなかったちょっとした声の調子、表情の変化で他人の感情の起伏が読み取れてしまう。
そんなことを考えながら見つめていたら、反対にジャックの方がラムジーを気遣《きづか》うように小さく笑って言った。
「……今日は、好《よ》い天気になりそうだね」
故郷クリップフォードは煙水晶や黒水晶を産することで有名なケルンゴーム山の懐《ふところ》深くに抱《いだ》かれた小村だ。古い地質に属するハイランドの山々はなだらかで、氷河の底が刻んだ|U字谷《グレン》や|細長い湖《ロッホ》が無数に点在している。クリップフォード村があるのもそんなグレンの一つで、二十年ほど前に自動車道路が出来るまでは周囲から孤絶した陸の孤島だった。
真夜中にロンドンを発《た》った長距離バスは日が高くなる頃になってようやくスペイ川沿いの終点の町に到着した。ここで一日二本のローカルバスに乗り換えれば、あとは小一時間でクリップフォード村ハイストリート停留所に着く。
あとちょっとで、家だ……。
家に帰ったら心配をかけたことを家族のみんなに謝ろう。それから、もう一度ロンドンに行くことを許してもらわなくちゃいけない。
もともとは、叔父《おじ》が震える手で書いた〈ラノン〉という文字を〈ロンドン〉と読み間違えてロンドンに行ったのだ。ロンドンはラノンじゃなかったけれど、そこには妖精郷ラノンを追放された人たちが大勢いた。その人たちが相互扶助《そうごふじょ》を目的に作っている〈在外ラノン人同盟〉にこの世界で生まれた自分も入れてもらったのだ。おかげでどうして見えないものを視《み》てしまうのか解ったし、そして満月のたびに起きる発作を抑える方法も分かった。
でも、自分が人狼であることやラノンのことを口にするわけにはいかない。ラノンのことを内緒にしたまま、どうやって父や母や兄たちに話したらいいのだろう。特に父にはどんな顔で会えばいいのか分からなかった。幼いころ、ラムジーにとってハイランドの自然のように強く厳しい父は絶対的な存在だった。それは今もあまり変わらない。
村の誰もがラムジーに『第七子の呪い』のことを話さなかったのは父が口止めをしていたからなのだと思う。父はセオドア叔父の自殺の理由も、遺書となったノートも隠していた。それが自分を思ってのことだと解るから、尚更に言えない。叔父のノートを信じて家出したなんて。
父に、何と言おう……。
悩んでいる間にもローカルバスは谷あいの山道をくねくね走り続け、最後にがたんと大きく揺れて、ここだけは舗装されたクリップフォード村のハイストリートへと入って行った。週二日だけ歴史民俗博物館になる小さな公民館が見える。道の反対側にはパブ〈干し草〉亭が、その隣には郵便局を兼ねた小さな雑貨店が見える。
くすぐったいような、甘酸《あまず》っぱいような奇妙な気持ちがじわじわ湧《わ》き上《あ》がってきた。村を離れていたのはほんの一ヵ月ほどのことなのに。ラムジーは汚れたバスの窓ガラス越しに一心に通りを眺め、あっと小さな声をあげた。遠目にも鮮《あざ》やかな赤毛の青年が、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでバス停に佇《たたず》んでいる。
「どうしたんだ? ラムジー」
「あれ、兄です! バス停のとこ!」
バスが停車するのを待ちかね、転げるようにステップを降りた。
「ドナルド兄さん……」
「よう、チビ。随分と久しぶりじゃないか」
家族に会ったら最初に何を言うかあんなに一生懸命考えた筈《はず》なのに、いざ顔を合わせるとすっかり忘れて何も思い浮かばなかった。ラムジーは仕方なく上目遣いに兄を見上げてえへへと笑った。ドナルドの眉がぴくりと上がる。
「元気してたか?」
「……うん!」
ドナルドはがばっとラムジーを抱きしめ、背中をどんどんと叩いた。
「このバカチビが! 心配させやがって!」
「ううーん、ごめんなさい……」
謝る声が尻切れトンボになる。兄の手が頭をぐりぐり撫《な》でて髪をくしゃくしゃにした。
「兄さん、子供みたいだよぉ……」
「なーに言ってんだ、ガキのくせに!」
ラムジーはじたばたともがいて兄の抱擁《ほうよう》から抜け出した。少し離れて二人の様子を見守っていたジャックを振り返る。
「あのね、ドナルド。あの人はジャックさん。手紙に書いた、ロンドンでいろいろぼくを助けてくれた人だよ」
「や、そうか。オレはドナルド・マクラブ。よろしくな。こいつの兄だ。どうも弟が世話をかけたそうで、済まんかった」
「ジャック・ウィンタースだ。こちらこそよろしく」
ドナルドはちょっとぎこちない様子で差し出された手を握った。
「うひゃっ。あんたの手、すごく冷たいな」
「ああ、申し訳ない。気づかなくて……」
ジャックは体が冷えていても判らないのだ。説明するとややこしくなりそうなので、ラムジーは慌てて二人の間に割って入った。
「ドニー、ジャックさんにはしばらくうちに滞在してもらって、ゆっくり村を見せたいんだ。部屋、空《あ》いてるでしょう?」
マクラブ家の本業は羊毛農家だが、家が広く部屋数が多いので|ベッド・アンド・ブレックファスト《B&B》と呼ばれる民宿を営《いとな》んでいる。B&Bとは文字通りベッドと朝食を提供するだけの簡易な宿だ。マクラブ・ファミリー経営の〈オールドオーク・ファームハウス〉は農村体験と家庭的なもてなしが自慢で、夏の観光シーズンには束《つか》の間《ま》の農村気分を満喫したい都会人がひっきりなしに訪れて来る。
「あったり前だ。おまえの恩人を他所《よそ》になんか泊められるもんか。今日になって予約が急に一件入ったけど、あとは空いてるしな」
あれ、と思った。クリップフォードは観光地だが秋は特にこれといった観光の目玉もなく、いつもならほとんど客のいない時期だ。こんな時期にお客さんなんて珍しいね、と言いかけたとき、イヤと言うほど聞き覚えのある太いアルトの声が耳に飛び込んできた。
「わーお! 弱虫ラムジーをしばらく見ないと思ったら、のこのこ舞い戻ってきたんだ!」
バス停の向かい、クリップフォード唯一の郵便局でもある雑貨店のドアを半分開けてアグネス・アームストロングが紅潮《こうちょう》した顔を覗かせていた。通称〈ネッシー〉、アームストロング雑貨店の三女でラムジーの幼なじみだ。
「なんだよ、ネッシー。戻って悪い?」
ラムジーはこの大柄な女の子がちょっと苦手だった。村の同年代の子の中でいつも一番大きく、腕力も強かったアグネスはケンカも気の強さも口の悪さも一番だ。いわばガキ大将なのだが、そのガキ大将がなぜか何かにつけてラムジーにちょっかいを出す。弱虫ラムジー、の後にウジ虫、泣き虫、メガネ虫……と続けるのが小学生の頃のアグネスの定番だった。
アグネスはガムをくちゃくちゃ噛《か》みながら長い金髪をかき上げた。
「悪いなんて誰が言った? びっくりしただけよ。だってあんたみたいな弱虫、都会で狼にでも食べられちゃったと思ってたから!」
実際には狼に食べられたのではなく狼になったのだが、アグネスにそうは言えない。
「……それ、店のガムだろ。君の親父さんに言いつけるから」
「家出っ子に言われたくないわよーだ!」
アグネス・アームストロングはやけに晴れ晴れと言い放ち、大きな音をたててドアを閉めた。
(あれ……ヘンなの)
何故だか分からないけど、何かがおかしい気がした。
ドナルドがジャックの荷物をトランクに積み込みながら急《せ》かす。
「何やってんだ、ラムジー。はやく車に乗れよ。お客は前、おまえは後ろだ」
「うん……」
ラムジーはアグネスの消えた雑貨店の戸口をじっと見つめた。
やっぱり変だ。ネッシーときたら、いったい何がそんなに嬉しかったんだろう。
◆◆◆
「で、そのときあんたはいったいどうやってその不良どもを追っ払ったんだい?」
あかあかと燃える暖炉《だんろ》の前で、口を切ったのは五男のロイだった。ジャックが返事をする前に、六人の中で一番|口達者《くちだっしゃ》なコリンが勝手に後を引き継いだ。
「そりゃもちろん、多勢《たぜい》を相手に千切《ちぎ》っては投げ千切っては投げ、に決まってるだろ?」
ジャックは困ったように言った。
「いや。声を掛けたら勝手に逃げ出しただけで、僕は何も……」
次男のアランが素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげる。
「スゲえ! 一声でチンピラを追っ払っちまうなんて! コツを教えてくれよ!」
「いや、別に……。前にちょっとやりあったことがあったから……」
長男のユアンがにこにこしながら言った。
「ほら、やっぱりこの人は強いんだよ。ところで、フルーツケーキをもう一切れどう?」
いや、もう充分……と固辞《こじ》するジャックのカップに、今度は四男のジョルディーが横から静かにお茶を注《そそ》ぐ。
「どうぞ。冷えた体を暖めるには、やっぱり温かいお茶が一番だよ」
「ど……どうも」
マクラブ家の〈六人の三つ子〉に安楽椅子の周囲をがっちりと包囲されたジャックは、明らかに南ロンドンのチンピラを相手にするよりも苦戦していた。
家に着いてからずっとこの調子なのだ。
つい口を滑《すべ》らせて、ロンドン第一日目に不良に袋叩きになっている所を救われた話をしたのがまずかった。二組の三つ子の兄たち――黒い髪をしたユアン、アラン、コリンの上三人とジョルディー、ロイ、ドナルドの赤毛の下三人――は、弟の恩人であることに加えてちょっと謎めいた雰囲気を持つジャックに興味津々《きょうみしんしん》なのである。
「兄さんたち、いい加減にしてよぉ。ジャックさんは長旅で疲れてるんだから……」
なんとかして兄たちのもてなし攻撃からジャックを救出しようと立ち上がった瞬間――。
「ラムジー」
渋皮のように野太い声が背中に突き刺さった。
父だ……。
首を竦《すく》め、ゆっくりと振り向く。
広間の入り口に、たったいま羊の放牧地から戻ったらしいヘイミッシュ・マクラブが、泥のついた長靴のまま突っ立っていた。
「お父さん……」
続けようとしても、声が出ない。
どんなに叱られても、打たれても仕方がないと思った。黙って家を出て、一ヵ月近くも連絡しなかったのだ。
父はもじゃもじゃした眉をあげ、はしばみ色の眼をすがめて鋭くラムジーを一瞥《いちべつ》した。
「元気そうだな」
「うん。元気だった……」
「元気なら、それでいい」
奇妙なくらい静かな口調だった。
気づいているのだ。隠してあったセオドア叔父のノートが無くなっていた理由。そしてラムジーの家出の理由も。
「お父さん、あのね……」
もう大丈夫だから、心配しなくていいからと言いたかった。ロンドンで、運命と向きあうすべを見つけたのだと。
けれど〈同盟〉に入れて貰ったときに、妖精郷ラノンのことはたとえ家族にでも話してはならないときつく釘を刺されている。話していいのは同じ運命を共有する仲間にだけだ。規約違反で除名《じょめい》になったら〈妖素《ようそ》〉を分けて貰《もら》えなくなるし、そうなったらもう狼の姿になることも出来ず、力の内圧が高まって起きる発作に怯《おび》えて暮らさなければならない。
「元気なんだけど……あの……ぼく……」
(またロンドンに行かなくちゃならないんだ)
その言葉が、どうしても言えなかった。
ヘイミッシュは黙ってラムジーを見つめていたが、おもむろに口を開いた。
「ラムジー。台所へ行って母さんを手伝いなさい」
「お父さん……ぼく……」
立ち尽くすラムジーの背中を、父が優しく押した。
「ほら、早く行きなさい。母さんが呼んでるぞ」
結局、ロンドン行きの件は言い出せないままだった。キッチンに入っていくと、母のイザベルはてきぱきと料理の仕度《したく》をしながらまるでこの一ヵ月何事もなかったみたいな風に言った。
「あら、ラムジー。じゃがいもを洗ってくれる? それから冷蔵庫から鱈《ハドック》を出してね」
メニューは|アバディーン名物の鱈《フィンナン・ハドック》に野生の香草を詰めて蒸し焼きにしたもの、葱《ねぎ》とオート麦とチキンを煮込んだコッカリーキ・スープ、生姜《しょうが》を効《き》かせた羊のロースト、それに皮つきのままほっくり焼いたジャケット・ポテト。どれもラムジーの大好物だった。
なんだか涙が出そうになる。
(ごめんなさい……ありがとう……)
夕食時、ダイニングルームのテーブルにはクリスマスか大晦日《ホグマネイ》のときみたいに家族全員が勢ぞろいしていた。両親、兄たち、そしてジャック。
雛菊《ひなぎく》みたいに母が笑《え》む。
「ご自分の家だと思って寛《くつろ》いで下さいね、ウィンタースさん」
「では、お言葉に甘えて」
そうは言うけれど、ジャックは居住まいを崩さない。王族として身につけた長年の習慣はちょっとやそっとでは無くならないのだ。でも、そんな風にいつも背筋をまっすぐにしていたら、いつかぽっきり折れてしまわないか心配になってしまう。
父はぐるりとテーブルを見渡した。
「それはそうと、予約のお客さんは遅いな。夕食も希望だったんだろう?」
「ロンドンから車で来るとか言っていたよ。朝早く出たとして、もう着くんじゃないかな」
コリンがそう言ったとき、家の前の道で車がスピードを落とす音がした。
「ほら。来た」
家の前の駐車スペースにゆっくりと車が停まった。大型の高級セダン――車種はジャガーだ。ハンドブレーキがギギッと引かれる。荒っぽくドアが閉じる。泥道《どろみち》を大股《おおまた》に歩く足音が一歩ずつ玄関に近づいてくる。
呼吸と脈拍《みゃくはく》が速くなるのが分かった。
「ぼくが出る!」
呼《よ》び鈴《りん》が鳴るより早くラムジーは椅子を飛び下りて小走りに玄関ホールへと走った。
まさかと思うけど、でも、あの足音――。
ドアを開けた途端、玄関ポーチで赤毛の大男がニヤリと笑った。
「よう。チビすけ」
「レノックスさん! 予約のお客さんって、レノックスさんだったんですか!?」
「まあな。遅くなって済まん。途中、電話しようと思ったんだが携帯が通じなくってな」
「このあたりは山が深くて電波がよくないんです。でも、どうしたんですか? 仕事は?」
「いや、急に手すきになってな……」
レノックスの仕事というのは〈同盟〉の仕事だ。実際にそこで何をしているのかはよく知らないのだけれど、表向きには〈同盟〉が経営している会社の役員になっているらしい。
「おっ、なんか美味《うま》そうな匂いがするな。俺のメシはまだあるのか?」
「もちろんですよぉ! 食堂の方に来て下さい。ちょうど今からディナーなんです。荷物はあとで部屋に運んどきますから」
「そうか。悪いな」
ダイニングルームにレノックスが入っていくと全員が一斉にこちらを向いた。
「ええと、この人はレノックス・ファークハーさん。ロンドンで友達になって、いろいろ教えてもらったんだよ」
戸口で出迎えた父は握手しながら言った。
「ようこそ。息子の友人なら、電話のときにそう言って下されば……」
「いや、急に休みが取れたんで、チビすけを驚かしてやろうと思ってね」
レノックスはコール天のジャケットを脱いでコートハンガーにひっかけた。下はいつものTシャツで、剥《む》き出《だ》しの二の腕には青い渦巻《うずま》き文様《もんよう》がぐるぐるととぐろを巻いている。もっとも普通の状態であの文様が視えるのは、ラノンの〈妖精〉の血を引く仲間だけだ。
ラムジーは家族の誰かがレノックスの腕の渦巻き文様を視ていないか密《ひそ》かに観察してみた。もしも誰かがレノックスの渦巻き文様を視たとしたら、それはセカンドサイトを持っている――つまりラノン人の形質を持った先祖返りの〈仲間〉だということだ。第七子である自分には先祖の形質が特に強く出たけれど、同じ血を分ける家族の中には自分の他にも先祖返りがいるかもしれない。家族が〈仲間〉だったら、と思う。そうすればジャックやラノンのこと、自分が人狼であること、ロンドンに行かなければならない理由を隠さず正直に話すことができる。
ほんのちょっとで良いのだ。呼吸や動悸《どうき》や体温に現れるほんの些細《ささい》な驚きの兆候《ちょうこう》でも今の自分には捉《とら》えることが出来る。すべての感覚を研《と》ぎ澄《す》まして、ラムジーは父の、母の、兄たちの反応を必死に窺《うかが》った。
数秒後、ジョルディーが口を開いた。
「……お客さんの取り皿を回してくれる?」
ゆっくりと失望が広がった。誰一人として、レノックスの腕を視てはいない。
先祖返りは自分だけなんだ――。
「レノックスさん、じゃあ母さんの向かいに――」
「おう。じゃ、御馳走《ごちそう》になるか」
レノックスが椅子の背を引き、ジャックの方にじろりと目をやった。ジャックの蒼白《あおじろ》い眼がレノックスの視線を受け止める。
瞬間、空気が固まった。話し声やナイフや皿やコップが触れ合う音がぴたりと止み、お喋《しゃべ》り好きなコリンまでが何かが喉《のど》に詰まったように押し黙っている。
ラムジーは、張りつめた空気に手で触れそうな気がした。
一緒にカディルの死を悼《いた》んだあの夜以来、二人は顔を見ればいがみ合うという風ではなくなっている。でも消化できないわだかまりが残っているのは事実だ。ジャックのことは一番好きだけれど、今ではレノックスのことも同じくらい好きになっていた。だから二人にはこの機会にもっと仲良くなって欲しいのだけれど、やっぱり無理な願いなのだろうか。
数時間にも思われる無音の一秒がすぎたとき、唐突に母が口を開いた。
「ところで、ファークハーさんは魚料理はお好きかしら?」
「……実を言うと、目がなくてね」
「良かったわ。今日はとても良いフィンナン・ハドックが手に入ったから」
「それは旨《うま》そうだ」
それをきっかけに沈黙の呪縛《じゅばく》は解け、二人の間の緊張など存在しなかったかのようにテーブルに活気が戻った。
ジャックは何も言わず、ただ静かに目を伏せただけだった。
2――林檎《りんご》の谷
ジャックは騒々《そうぞう》しいほどの小鳥の歌声で目を覚ました。
ここは、どこだろう。
一瞬ラノンに戻ってきたかのような錯覚を覚えたが、そんな筈《はず》はなかった。
起き抜けのはっきりしない頭で見知らぬ部屋を見渡す。明るい小花模様の壁紙と、可愛《かわい》らしいパッチワークのベッドカバー。小綺麗《こぎれい》な小さな部屋を眺めているうちに記憶が戻ってきた。ラムジーの実家に招待されたのだった。
家族に会って、ラムジーがどうしてあんなに素直な性格なのかよく判《わか》った。言葉にしなくても互いを思い遣《や》る、あれが家族の情愛というものなのだろう。自分の育った城にはあんな温かさはなかった。兄姉はライバルであり、小さな弟を愛《いと》しく思う気持ちも表立ってあからさまには出来なかった。
ラムジーを見ていると弟を思い出す。もう二度と会うことのない小さなニムが、今もあの刺々《とげとげ》しい空気に支配された城で暮らしているのかと思うといたたまれなくなる。慰《なぐさ》めは、もう自分があの子の進む道の妨《さまた》げになることはないということ、そしてニムの側近《そばちか》くにも信頼するに足る少数の者たちがいるということだ。
ジャックは居心地の良い清潔なベッドをするりと抜け出し、身じまいを整えて階下に降りた。石造りの建物は古く、天井は黒ずんだ樫《かし》の梁《はり》に支えられている。モーニングルームのテーブルの上にラムジーが書いたらしい丸っこいブロック体のメモがあった。
『ジャックさんとレノックスさんへ。テーブルの上のものを好きに食べていて下さい。ぼくは家畜の世話をしに行ってきます。
[#地付き] ラムジー』
我知らず微笑が漏《も》れる。テーブルには各人が勝手に食べるように朝食用のシリアルや果物や電気湯沸かし器が並べられていた。宿屋は副業だと言うが、確かに訪ねてきた知人を泊めるのと変わらない気安さだ。
そういえば、レノックスの姿を見ない。昨夜の彼の飲みっぷりを思い出してジャックは眉を顰《ひそ》めた。ヘイミッシュ・マクラブ氏のご自慢の地酒《シングルモルト・ウィスキー》をあれだけがぶ飲みしたのだから、たぶん今朝は二日酔いだろう。そういえば、最後に会ったときにも彼は深酒していた。レノックスが自分に向けて奇妙な情けを見せたあの夜、結局先に潰れたのは彼の方だった。
よく解《わか》らない男だ、と思う。日頃自分を目の敵《かたき》にしていたと思ったら、今度は突然に激しいくらい同情する。ラノンへの道を閉ざしたことで今まで以上に憎まれてもおかしくないのだが。けれどあの夜、レノックスがカディルの死に対して示した哀悼《あいとう》の意が嘘や演技でなかったことだけは確かだ。第一、演技のできる男ではない。
昨夜はラムジーの父親が飲ませすぎたせいで、レノックスが何のためにここに来たのか確かめる事ができなかった。一度断ったものを突然に翻《ひるがえ》し、車を飛ばして現れたのには何か訳があるはずだ。直接会ったことはないが、〈同盟〉の盟主《めいしゅ》ランダルは理由もなくレノックスに特別休暇をやるような男とは思えない。
ひとりで朝食を済ませたあと、ジャックは少し外を歩くことにした。昨日は午後いっぱいラムジーの兄たちに捕まっていて景色を眺めるどころではなかったのだ。
澄んだ外の空気は肌に心地よかった。建物から道路へと続く小径《こみち》には落ち葉が降り積もり、足元でかさかさと乾いた軽い音をたてた。消え残った朝霧が落ち葉を踏む一歩ごとに足下にまといつく。〈オールドオーク・ファームハウス〉を振り返ると、何本もの樫《オーク》の巨木が建物を守るように取り巻いているのが見えた。道の両脇にはこんもりとヒースが生《お》い茂《しげ》り、斜面には常緑の松の木が点在している。
なんと清らな場所だろう。
この世界に来てからロンドン以外の場所を訪れたことはなかった。自分を含め故郷を追放されたラノン人はみな〈穴〉の出口があり、ラノンの相似形であるロンドンを離れることになんとはなしの不安を覚えるからだ。けれど、この土地の荒々しい自然はラノンに劣らないくらいに美しい。
――カディルにこの景色を見せたかった――
もしも生きているうちにここに連れてくることが出来たなら、カディルの気《き》の病《やまい》も良くなっていたかもしれない。あの岩山は、幼いときよくカディルから聞かされた彼の故郷の岩山に似ているのではないだろうか……。
後悔は、無益《むえき》だ。
それはよく解っている。けれどもカディルにしてやれなかったこと、してやりたかったことは次から次と湧《わ》き出《で》てきてどうしても心の中から消し去ることが出来なかった。
頭を振って沈んだ気持ちを追い払う。カディルの死を無駄にした自分がいつまでも塞《ふさ》いでいたら、それこそ彼に顔向けが出来ない。それに、ラムジーにこんな顔は見せられない。下手に隠しても、あの子は裏腹な気持ちを一目で見抜いてしまうのだ。
ジャックは気を取り直して道の下に見える細い小川へ降りていった。石がごろごろ転がる渓谷《けいこく》を澄《す》んだ水が小さな滝のように勢い良く流れていく。手にすくってみておや、と思った。澄んではいるが、わずかに褐色《かっしょく》を帯びている。飲んでいいものだろうか。
「飲んでも平気よ。泥炭《でいたん》の層を通ってくるから茶色いだけ。地酒もこの水で作ってるのよ」
振り向くと、上流の岩の上にスラックス姿の少女が立っていた。少女と呼ぶには抵抗があるほど大柄だが、歳はラムジーと同じくらいだろう。少女は用心深くこちらの様子を窺《うかが》いながら近寄ってきた。血色の良い顔には好奇心と警戒心が混ざり合った表情が浮かんでいる。
「昨日、ラムジーと一緒にいた人でしょ」
「ああ。君はラムジーの友達?」
「友達じゃないわ。あんなチビメガネ」
少女はつんとあごを上げ、不機嫌に唇を突き出して言った。
この子から見たら、ラムジーでなくても小さく見えるだろう。近くに並ぶと、自分よりも一インチほど大きかった。着ているピンクのカーディガンは彼女には小さ過ぎてまるでボレロのように見える。そんな風になりは大きいのだが、顔はあどけない。瞳は緑の斑《まだら》の入った灰色で、ふっくらとした頬《ほお》は輝くように健康的な薔薇色《ばらいろ》だ。赤みがかった長い金髪は結んだりせず、自然のままにゆったりと肩から背に流していた。
「あなた、ロンドンから来たの? ロンドンの男って、みんなあなたみたい?」
「残念ながら、僕はロンドン生まれじゃないんだ」
「あらそうなの? でも都会から来たならおんなじだわ。こんな田舎《いなか》、つまんないでしょ」
「そんなことはないよ。この村は素晴らしい場所だと思う」
「都会から来た人ってみんなそう言うのよ。でも、休暇が終わるとさっさと街に帰っちゃう。だから、やっぱり街の方が良いに決まってるわ」
おそらくどう説明しても、今の彼女には理解できないだろう。だがいつか気づく日が来る。
故郷の良さは、離れてみないと分からないものだ。
「ねえ、名前教えて。あたしは、アグネス・アームストロングよ」
「ジャック・ウィンタースだ」
「案外平凡な名前なのね」
大胆に言ってのけた少女は、今度はちょっと畏怖《いふ》するようにジャックの蒼白《あおじろ》い眼を覗き込んだ。
[#挿絵(img/Lunnainn1_181.jpg)入る]
「ねえ、その眼、コンタクトレンズ?」
「いや。本物だよ」
「ラムジーは、どうしてあなたと知り合ったの?」
「彼がロンドンに来た日に偶然にね。それからずっと良い友達だよ」
「あいつ何か仕事してた?」
「いや。仕事口は見つからなくて、それで僕の手伝いをしてもらっていた」
「ふーん、そうなんだ……。ねえ、あなたみたいなイカす人が、なんで泣き虫ラムジーなんかと友達になったの?」
ここに至って、ようやくジャックはこの大柄な少女がいったい何を知りたがっているのかに気付いた。
「ラムジーが好きなんだね」
アグネス・アームストロングは、熟《う》れたトマトみたいに真っ赤になった。
「ち、違うわよ! 誰があんなチビ……」
「でも心配していたんだろう?」
うっ、とくぐもった声が漏れる。
突然の洪水のように、彼女の両目からぽろぽろと涙が溢《あふ》れ出《だ》した。
「だって……あいつ一言も言わずに消えちゃって、ずっと連絡してこなくて……」
あとは、言葉にならない。ずっと我慢していたのだろう。ひとしきりわあわあ泣いて落ち着くと、彼女は川辺の大きな岩の上に腰を下ろしてぽつぽつ話し出した。
「……たぶん、最後にあいつを見たの、あたしなんだ。バス停のとこで大荷物持って。そのときは別に気にも留めなかった。けど、あとで聞いたの。家出して、行方不明だって……。あのときあたしが声をかけてたら、出ていかなかったんじゃないか、って……」
くしゃくしゃの顔をハンカチで拭《ぬぐ》う。
「いや。彼の決意は固かった。誰が止めても無駄だったと思うよ」
「だけど、大荷物持って一人でバスに乗るなんてヘンだって気づけなかったんだもの……。あいつってあんな風にバカでチビでお人よしですぐ他人を信じるから、騙《だま》されて酷《ひど》い目にあってるんじゃないかって……。だから毎日神様にお願いしてた。あいつを守って下さい、無事に村に返して下さい、って……」
ジャックは、昨日のバス停でのアグネスとラムジーのやりとりを思い出した。
「だったら、せっかく帰ってきたラムジーにあんな憎まれ口を利《き》くのは賢いやり方じゃないな。彼はそういうことには鈍感だから、はっきり気持ちを示さないと気づかないよ」
「……気づかない方がいいんだ。だって、付き合っちゃいけないって言われてるんだもの」
「誰に?」
「うちのクソ親父。あいつは七つっ子で呪われてるから近づくな、だって」
「〈第七子の呪い〉か」
「うん。あいつから聞いてる? あいつの叔父《おじ》さんのセオドアも……」
「知っているよ。でもラムジーは大丈夫だ」
この村に伝わる〈第七子にかけられた妖精の呪い〉は実際のところ呪いではない。
ラムジーはおそらく追放ラノン人の遠い子孫だ。〈妖素《ようそ》〉によって魔法を操るラノン人の能力は末の子ほど強く現れ、特に七番目の子供は並外れた力を受け継ぐことが多い。だが〈妖素〉の存在しないこの世界ではそうした力はかえって仇《あだ》になるだけだ。生粋《きっすい》のラノン人でも人狼《ウェアウルフ》の形質が現れるのはほとんど第七子のみであることを考えると、この村の妖精の呪いがなぜ第七子に限定されているのかが解る。〈第七子の呪い〉は人狼特有の妖素欠乏症なのだ。
「大丈夫って、なんで……」
泣きはらした目が恨めしげに見つめる。
「いや、いろいろあったんだが……」
本当のことは彼女には話せない。だが、呪いの話はここでは誰もが知っているようだから、その線に沿った説明の方が受け入れやすいだろう。
「実は、彼は呪いを解くためにロンドンへ行ったんだ。そこでラムジーは呪いに勝つ方法を見つけたんだよ。だから、彼はもう大丈夫だ」
「本当?」
「本当だ」
アグネスは鼻をすすり、手の甲でぐいと涙を拭いた。
「……なんか、ウソでもちょっと安心した。ありがと」
「嘘じゃないよ」
「都会の男って、みんな優しいの?」
「ラムジーに君の気持ちを伝えようか?」
「冗談! やめてよー」
アグネスは流れの際《きわ》に飛び降りて清流で顔をばしゃばしゃと洗った。
「ふー。すっきりした! ねえ、よかったら話を聞いてくれたお礼にとっておきの場所に案内したげる」
ジャックとアグネスは小川の支流に沿って羊歯《しだ》と落ち葉に覆《おお》われた森をしばらく歩いた。色づいた木々の梢《こずえ》ではクロウタドリが素晴らしい声で歌っている。そういえば、ラノンのクロウタドリとここの鳥は同じ種類なのだろうか。この世界とラノンでは双方に共通する生物もいるが、ラノンにしかいない生物もいる。ラノンで〈フーア〉と呼ばれる複合的な生物、蜻蛉《とんぼ》の翅《はね》を持つ翅人《しじん》や魚の鰭《ひれ》を持つ水馬《みずうま》、蝙蝠《こうもり》の翼を持つ飛《と》び蛙《がえる》などはこの世界では見る事は出来ない。一角獣も、ラノンの生態系の頂点に立つドラゴンもここにはいないし、巨鹿《ジャイガント・ディア》などの巨獣は遠い昔に絶滅したようだ。
人間はどうなのだろう。ここの人間はラノンで大勢を占《し》める自分たちダナ人と外見的な差はほとんどないが、セカンドサイトを持たず、簡単な魔法も使えない。その上、この世界にはグラシュティグ族のように身体に異形《いぎょう》を持つ種族は全く存在しないのだ。
あるいは〈妖素〉の欠乏がこの世界の生物に影響を与えているのかもしれない。異形を持つ種族はみな一様に魔法を使うことに長《た》けている。妖素が存在しない世界ではその必要がないため異形をもつ種が生まれなかったのではないだろうか。ラノン固有種の巨獣は魔法を使うわけではないが、体を大きくするために妖素を利用している。実験的に妖素を遮断《しゃだん》した環境で育てると、巨獣の子は成長しても小型亜種の大きめの個体くらいにしかならない。そして魔法に対し高度に適応進化した生物、たとえばドラゴンなどは妖素がなければ半日と生きられない。常に妖素を呼吸し、それを体の中で魔法に変換することによって生命を維持しているためだ。
ラノンには、古くからそれを利用してドラゴンを狩る方法がある。眠っているドラゴンの周囲に妖素を通さない膜《まく》をこっそり張り巡らし、その中で猛烈に妖素を消費する術を使うのだ。不運なドラゴンは気づかぬうちに空気中の妖素を奪われ、眠ったまま膜の中で窒息死《ちっそくし》する。卑劣《ひれつ》なやり方だが、歳を経《へ》たドラゴンの骨は高値で取引されるためこうした違法なドラゴン狩りはいくら取り締まっても跡を絶たない。保護官を増やすべきなのだろうが、しかし――。
「都会の男って、無口ね」
少女の不満げな声に、ジャックは現実に引き戻された。隣を歩いているアグネスがつまらなそうな顔で見つめている。
「ああ、済まない。考え事をしながら歩いていたものだから」
「田舎娘相手じゃ、そりゃ退屈するでしょうけどさ。この坂を登ったらもう目的地よ」
彼女の言葉通り、森が途切れて上り坂に変わった。アグネスは一足先に斜面を駆け登り、盛り土のヘリのように一段高くなった場所に立ってそこから下を指さした。
「ほら、見て! あれが〈林檎《りんご》の谷〉の巨石群よ」
アグネスに追いついたジャックは、彼女の指さす先を眺めて思わず息を呑《の》んだ。
石が立っている。
それも一つや二つではない。窪地《くぼち》の底に巨大な石が何十となく列をなして突き立っているのだ。それぞれの石はナイフのように細長く、どれも人の背丈の二、三倍はあった。列石《れっせき》は微妙なバランスを保って二列に立ち並び、窪地の中心部で十文字に交差している。十字の交差部分は立ち石がない空白になっており、その代わり二回りほど小さな石で出来た環状列石《ストーンサークル》が十字架に掛けられたリースのようにぐるりと輪を描いていた。
「ここ、ガイドブックに載ってないから他所《よそ》の人はあんまり知らないの。最近になって『発見』されたのよ。笑っちゃうわよね、ここらの者は昔っから当たり前に知ってたのに」
少女は窪地の底まで一気に降りると、隠れんぼをするように立ち石の一つに走り寄った。
「名前もついてんだから。これは〈見張り〉石。割れ目の入ったのは〈祈りの手〉石。あっちのは〈囁《ささや》き〉石と〈聞き耳〉石よ」
なるほど言われてみればそれぞれの石は巨大な手や歩哨《ほしょう》や耳の形に見える。明らかに人の手の加わったものだが、表面は粗削《あらけず》りで細かい加工はされていない。
「環状列石は?」
「〈詠唱者〉。それっぽいでしょ。これはちっちゃい方のリングで、昔は大きいリングが村全体を取り巻いていたんだって。そっちは撤去《てっきょ》されちゃったけど、いくつかはまだ残ってるわ」
アグネスは何もないように見える環状列石の内側の草むらを指さした。
「分かりにくいけど、あのへんにも石があるわよ。ほら」
ジャックは草を踏んで石の輪の内側に入った。ストーンサークルの中心部分には半ば草に埋《う》もれるようにダイニングテーブルほどの大きさの平石が横たわっている。石の表面は滑《なめ》らかに加工され、水紋《すいもん》を思わせる線刻《せんこく》が幾重にも刻《きざ》まれていた。
「これは〈顎門《あぎと》の滴《したた》り〉石。意味はよく分かんないけど昔っからそう呼ばれてるのよ」
「何のために造られたんだ?」
「そんなこと、分かるわけないじゃない。偉い学者にだって分かんないんだもん。ストーンサークルなんてスコットランドじゃ全然珍しくないし。でも、ここのは変わってるんだって。|立ち石《スタンディング・ストーン》と環状列石《ストーンサークル》はルイス島のに似てるし、模様を彫《ほ》った石はアーガイル地方にいっぱいあるわ。けど、ここみたいにそれが一緒にあるとこは滅多《めった》にないんだって」
「そうか……」
ラノンでは石は魔法を吸収させて保存するのに使われる。石が大きいほど大量の魔法を長時間保持することができ、さらに石の形や種類によっても異なる。一番良いのは|茶褐色の煙水晶《ケルンゴーム》で、その中でも特に色の濃い黒水晶《モリオン》と呼ばれるものが最高とされる。ジャックは見上げるような巨石の側に寄って石肌に触れてみた。ざらざらした粗い質感は砂岩《さがん》のようだ。上等とは言えないが、その分、大きさでカバーしたのかも知れない。やはり、この見事な列石群を作ったのは追放ラノン人なのだろうか。
立ち並ぶ石の一番奥には幹の太さが二抱《ふたかか》えはありそうな林檎の古木が枝を広げていた。色づき始めた葉の合間《あいま》に、小さな紅い実が見え隠れしている。木の下には二つで一つの奇妙な石があった。どちらも十の子供くらいの大きさで、片方は大地に横たわり、もう片方の石は横たわる石に寄り添うようにまっすぐに立っている。
「あれは?」
「あれは〈時林檎《ときりんご》〉って言うの。あの実を食べると祟《たた》りがあるんだって。だけどあの場所に林檎の木がなくなったら村も滅《ほろ》ぶって言われてるの。だから枯れたら新しい木を植えなくちゃいけないのよ。それであそこの二つの石は〈守る者〉石」
「なるほど」
ジャックは〈時林檎〉の木に歩み寄り、たわわに実った実を一つもぎ取った。
「あっ……」
アグネスが小さく声をあげる。
「祟りが怖いかい? 大丈夫、祟られるのは僕だけだ」
ジャックは少女を安心させるように微笑し、小さな固い実をポケットに押し込んだ。
◆◆◆
レノックスはガンガンする頭を抱えて階段を降りた。呑み過ぎだ。これというのもあの地酒《シングルモルト・ウィスキー》がやたらと旨かったせいだし、暖炉にあかあかと本物の火が燃えていたせいだし、ラムジーの父のヘイミッシュ・マクラブが恐ろしく勧《すす》め上手だったせいだ。
そこまで考えて呑み過ぎたもう一つの理由に思い至り、気が重くなった。
盟主ランダルはいつも面倒《めんどう》な仕事を自分に押し付けて来るが、今回は一段と気が進まなかった。気は進まないが、誰かがしなければならないということは解るから厄介《やっかい》だ。そうすると結局自分にお鉢《はち》が回ってくることになる。〈同盟〉はもともとラノンを追放された罪人の集まりだから仕方がないといえばそれまでなのだが、それにしても使える人材が少な過ぎる。
モーニングルームに入っていくと、ラムジーが心配そうな顔で寄ってきた。
「おはようございます、レノックスさん。大丈夫ですか? 朝ご飯、食べられそうですか」
「うう。喰《く》えば治る。喰わんと治らん。取り敢えずコーヒーを貰《もら》えるか? ブラックで」
立て続けに三杯ブラックコーヒーを飲むとようやく人心地がついた。
「親父さんはどうした?」
「羊の放牧に行きましたけど」
全く、とんでもない。ヘイミッシュ・マクラブは少なくとも自分と同じくらい呑んだはずだ。
「ここの地酒はアルコール度数調整をしてないから、物凄《ものすご》く強いんです。土地の人間は慣れてるけど、飲み慣れない人は大変みたいですよ」
「ううーっ。そういうことは最初に言っといて欲しかったぜ」
四杯目のコーヒーで薄焼きのオーツケーキを流し込む。穀物《こくもつ》そのもののような素朴《そぼく》な味のするさくさくした甘味のないケーキは、どうにかこうにか胃袋に落ち着いてくれたようだ。
「……ジャックの奴は?」
「一人で散歩に行ったみたいなんです。迷子になってないといいけど……」
「ハハッ。おまえさんに心配されてるようじゃ、奴もおしまいだぜ」
「誰がおしまいだって?」
氷柱《つらら》のように素《そ》っ気《け》無《な》い声が脳天《のうてん》に刺さる。
「ジャックさん!」
ラムジーが跳《と》び上《あ》がるようにぱたぱたとジャックに駆け寄った。狼モードだったら千切《ちぎ》れるくらいに勢い良く尻尾《しっぽ》を振っているのが目に見えるようだ。
まったく、この愛想の無い男のどこにそんなに心服《しんぷく》したんだか。人狼ってやつは犬コロと同じで、最初にエサをもらった相手にとことんついていく性癖があるものだが。
存在しない尻尾を振り回しているラムジーを眺めているうちに、レノックスは少しばかり僻《ひが》みっぽい気分になってきた。自分だって結構チビの面倒を見てやっているというのに、この差はいったい何だ。
レノックスの僻みなどにはおかまいなしに、ラムジーはジャックにまとわり付いていた。
「どこまで行ってたんですか? 心配しちゃいましたよぉ」
「ああ、済まない。あまり景色が良いからつい遠出してしまった。途中から君の友達のアグネスが案内してくれたよ」
「えーっ、ネッシーが?」
レノックスはネッシーというのが何だったからょっと考えて思い出した。ネス湖の怪獣だ。
本当にいるのかどうか知らないが、そういえばここはネス湖からそう遠くない場所だ。
「なんだ、女の子にネッシーなんて渾名《あだな》か?」
「アグ〈ネス〉だからネッシーですよ。でもやっぱり怪獣みたいだからかな」
「ラムジー、レディにその言い方は失礼だよ」
「だって、凄い怪力なんです。男子に腕相撲《うですもう》で負けたことないし。女子ホッケーの地区代表チームの選手なんですけど、スティックを叩き折っちゃって、それでいっそハンマー投げに転向しろって言ったコーチをぶん殴って出場停止になったりとか」
「そりゃまた、勇ましい嬢ちゃんだな。美人か?」
ジャックが一瞬考えてから答える。
「美人というより可愛いと言った方が合っていそうだが。背丈は大きいが、子供だよ」
手前《てめえ》だって二十にもならない若造のくせによく言うものだと考えながらレノックスはケーキの残りを飲み下した。
庭の方からラムジーを呼ぶ声がした。母親のイザベルだ。
「あ。ぼく行かなきゃ。ジャックさんもレノックスさんも自由に寛《くつろ》いでて下さい」
ぱたぱたと走って行く後ろ姿がドアの向こうに消えるのを確かめ、レノックスはさりげない調子で言った。
「行ったな」
「ああ」
ジャックが応《こた》える。ラムジーがいてはしづらい話があるのはお互い承知の上だった。
「言いたいことは?」
「いや。あんたから」
蒼白い眼がじろりとこちらを睨《ね》め付《つ》ける。暖炉の炎も凍りつきそうなフロスティ・ブルー・アイだ。あの眼で見られるのは、どうも心臓によくない。
「じゃあ、訊こう。どうして突然気を変えてここに来た」
「俺じゃなくて盟主が気を変えて休暇をくれただけさ」
「気を変えて、じゃなくて命令したんじゃないのか?」
ジャックは上着のポケットに手を突っ込んでちっぽけな林檎の実を取り出した。片手に収まるほど小さいが、紅い。
「さっき散歩に行った先でこの実がなっているのをみつけた」
「美味《うま》そうだな」
「食べてみるか? 祟りがあるそうだ」
レノックスは伸ばしかけた手を慌《あわ》ててひっこめた。
「物騒《ぶっそう》じゃねえか。なんでそんなもんを取ってきたんだ?」
「第七子はラノンでは祝福され、ここでは呪われる。だとしたらここで言う祟りの林檎とは何のことなのか考えてみた」
ジャックはそう言うと、テーブルナイフで林檎を真っ二つに断ち割った。甘酸《あまず》っぱい霧が空中にパッと広がる。
「よく見てみろ。セカンドサイトで」
瞬《まばた》きして眼を細め、じっと林檎を見つめた。瑞々《みずみず》しい切断面からじわりと透んだ果汁が滲《にじ》みだし――。
「あっ!」
レノックスは小さな叫び声をあげた。滴り落ちる一瞬、林檎の果汁が青白い光を放ったのだ。
「妖素か……」
「そうだ。この林檎にはかなりの量の妖素が含まれている」
「こいつを、どこで見つけた」
この世界に妖素は存在しない。それが含まれているということは、自分がここに来た理由と必ず関係がある筈だ。
「どうして僕が素直に教えると思う? おまえは僕の質問に答えていない」
「くそ。分かったよ」
祟る林檎の木がどこに生《は》えているのかは、調べれば判るだろう。だが、このまま一人で仕事をするよりはジャックを引っ張り込んで手伝わせた方が得策だ。
「俺をここによこしたのがランダルの奴だってあんたの推理は、当たりだ」
「理由は」
「ラムジーに関係があることだ。ラムジーが人狼の形質をあれほど強く持っているのは、クリップフォードがラノン人の隠れ里だったからとしか考えられん。〈同盟〉が収集している古い記録を調べたんだが、五百年くらい前に集団でこの世界に島流しになった連中がいた。そいつらは最初はやっぱりロンドンに留まっていたが、妖素をめぐる殺し合いが厭《いや》になってロンドンを逃げ出したらしい」
「五百年前というと、王室がまだ不安定だった時期だな。政治犯か」
「そうだ。そいつらのリーダーはもう妖素だの魔法だのに頼るのはやめて、この世界の人間として生きようと仲間を説得した。説得に応じてロンドンを脱出したのは三十人にもなる。ランダルは、そいつらがクリップフォード村の始祖じゃないかと考えた」
「なるほど。それで?」
「つまりだな。ラノンから来た第一世代はここで人間の女性と結婚して、人間として生きて死んだ。そして子孫にはラノンのことも妖素のことも一切伝えなかった。と、いうことはだ。妖素を含んだ第一世代の骨はまだここにあるってことだ……」
そこまで聞いたジャックは眉を顰《ひそ》めた。
「墓荒らしに来たのか」
「人聞きの悪い言い方をすんな。有効利用って言ってくれ。三十人分のラノン人の骨が手付かずで残ってるかもしれないんだぞ。放っておく手はないじゃねえか。〈同盟〉じゃ誰かが死ぬたびに遺灰《いはい》を皆に分配するが、いくら妖素が欲しくっても、誰かが死ぬのを待つのは後生《ごしょう》が良くねえ。その点、五百年前の骨なら後腐《あとくさ》れがねえしな」
「だが、遺灰を使わなかったのだとしたら、それは彼らの遺志だ。尊重すべきだろう」
「相変わらず石頭だな。いいか、こいつはラムジーのためでもあるんだぜ。チビすけは準会員にはなれたが、準会員への妖素の支給は正会員の半量だ。入会時に支給された妖素はいつまで保《も》つと思う? 使い切っちまったら、次に誰かが死ぬまで支給はない。メンバーの葬式なんぞそうそうあるもんじゃねえ。チビすけは人狼だ。妖素がなけりゃ変身できずに内圧が高まって満月のたびに発作を起こす。そんなことが続いてみろ。あいつの心身はボロボロだ。現に、チビの叔父は自殺したそうじゃねえか」
「それはそうだが……」
ジャックが口ごもる。痛い所を突いたのが判った。
「いっぺんに三十人分の骨が手に入りゃ、準会員にだってたっぷり妖素が行き渡る」
「しかし……」
レノックスはここぞとばかり説得にかかった。
「なあ、手を貸してくれ。この仕事は俺一人の手に余る。だが、〈同盟〉には他に任せられそうな奴がいねえ。骨を手に入れたらそのままトンズラしそうな奴ばっかりでな。あんたは鼻持ちならないが、信用できる」
「僕が持ち逃げするとは思わないのか?」
「あんたがか? 笑わせるぜ」
死人の遺志を尊重するなどと吐《ぬ》かす奴が何を言うか、と思った。清く正しい立派な唐変木《とうへんぼく》だ。本当は、こいつが正式に〈同盟〉の一員になるのが一番いい。こいつが王族だからと言ってああだこうだゴネる奴がいるかもしれないが、そんな奴はぷっとばしてやる。だが、カディルが死んでまだ二週間だ。いまその話を蒸《む》し返《かえ》すのは少しばかり早過ぎる。
「取引といこうじゃないか。手を貸してくれたら、応分《おうぶん》の骨を渡す。あんたの好きにすればいい。例えば、ラムジーにやるとかな」
ジャックは蒼白い眼を細めてしばらく考え込んでいたが、おもむろに口を開いて言った。
「……ラムジーには、秘密だ。先祖の骨だとは知らない方がいい」
3――なんでこんなことに?
アグネスは、ジャックと名乗る男と森の出口で別れてからずっと考え続けていた。
あの人、〈時林檎《ときりんご》〉の実をどうするつもりなんだろう。今更だけど、あのときもっと強く反対すればよかった――。
気圧《けお》されてしまったのだ。なんであんな優男《やさおとこ》の都会者に、と思う。
きっと、あの眼のせいだ。雪か氷みたいに薄青い眼。それに都会から来た年上の人間相手に林檎の祟《たた》りだなんて強くは言いにくかった。実際のところ、アグネスにしても祟りが本当なのかどうかは分からない。でも、子供のころから〈時林檎〉の実を口にしてはならないと聞かされてきたので、それは身に染《し》みついている。あれは食べてはならない林檎なのだ。どういうわけか鳥や獣《けもの》もあの実は食べない。
食べたら、どうなるのだろう――。
でも、本当に一番気になっているのは、あの人がラムジーの友人でマクラブ家の客だということだ。もしかして、あの人が林檎をラムジーにあげたりしたら。ラムジーが知らずに食べたりしたら……。
そう考え始めると、一秒たりとも居ても立ってもいられない気持ちになってくる。
やっぱり会いに行って林檎を返してもらおう。それでも聞かなければ力ずくで――。
アグネスは森に向かって小走りに駆け出した。森を突っ切って上の道にあがるのが村外れにある〈オールドオーク・ファームハウス〉への近道だ。
神さま、あの人がラムジーに林檎をあげていませんように! あと、ついでにあの人も食べないようにお願いします!
なんだかちょっと利己的《りこてき》なお願いの仕方だけれど神様だってそんなにいっぺんにお願いされたら困るだろうし――とりとめもなくそんなことを考えながら落ち葉を蹴立《けた》てて森の小道をひたすらに走っていると、不意に目の前の灌木《かんぼく》の茂みがガサガサと動いた。
鹿?
突進してくる鹿とぶつかったら、人間はひとたまりもない。咄嗟《とっさ》に避《よ》けようと身構えたアグネスは、次の瞬間|仰天《ぎょうてん》して大声を上げた。
「ラムジー!?」
アグネスは、夢か幻を見ているのではないかと思った。突如《とつじょ》藪《とつじょやぶ》の中から現れたラムジーはきょとんとした顔でこちらを見つめている。
「ネッシー? 何やってるんだよ?」
夢じゃない。本物のラムジー・マクラブだ……。そう思ったら、途端に頭に血が昇った。
「な、何って……。あんたこそこんなとこで何よ!」
思わず口に出して言ってしまってから、アグネスはほぞを噛《か》んだ。
なんでこんな言い方しかできないんだろう? でも、ラムジーのことが心配で大急ぎで森を突っ切って行こうとしていたなんて口が裂けても言えない。
「ごめん、ぼく急ぐから」
「待ってよ! あんた、林檎|貰《もら》わなかった?」
「何のこと? ネッシー、ぼく本当に急いでるんだ」
それを聞いてどっと安堵《あんど》が広がった。神様はお願いを聞いてくれた。ラムジーは〈時林檎〉を食べていなかった。それと同時に、今度はあのお客のことが心配になった。
「大変なの、あんたんちのお客が〈時林檎〉の実を持ってったのよ! 早く止めないと、食べちゃうかも知れない!」
「ジャックさんが?」
「あ……あたしはやめろって言ったんだけど……都会の人って祟りとか信じないから……」
ラムジーは立ち止まってちょっと考え込んだ。
「……きっと、何か考えがあるんだ」
そのまま駆け出そうとする。
「考えってなによ! ホントに祟りがあったらどうすんのよ!」
アグネスは怒鳴りながらラムジーの後を追いかけた。
「ネッシー、大声を出さないでよ、ジャックさんたちに気づかれちゃう」
「気づかれるって、誰もいないじゃない」
「ずっと先を歩いてるのが聞こえるんだよ」
ラムジーは瞼《まぶた》を閉じてなにかにじっと耳を澄《す》ましている。
「……五百メートル先の大ニレの木のとこだ。二人で何か話してる……墓とか……やっぱりぼくに内緒で何かしようとしてるんだ……」
その様子を見てアグネスは少し怖くなった。自分には何も聞こえない。そんな遠くの会話が聞こえる筈《はず》がない。もしかしたら、ラムジーは幻聴《げんちょう》を聴いているのではないだろうか。自殺したラムジーの叔父《おじ》がそうだったように。
「それじゃ、ネッシー。林檎のことはぼくがちゃんと話しておくから」
「厭《いや》よ!」
このままラムジーを一人で行かせたら、絶対に後悔する気がした。あのとき、バス停で声を掛けられなかったことをあとでどれほど悔やんだことか。後悔なんて大嫌いだ。だから今度何かあったら絶対に後悔しないように行動しようと心に決めていたのだ。なんとかうまい嘘がつけないものかと思案しながら口の中でもごもごと呟く。
「え……と、だから、あの人が〈時林檎〉を摘《つ》んだ責任はあたしにもあるんだから……」
「だめだよ。これはぼくたちだけの秘密なんだ。ぼくだってこっそり追っかけてるんだから」
アグネスはむっとなった。
男の子って、すぐそうやって男同士で秘密を作ってこそこそ何かしたがるんだから!
「何よ! 追い払おうとしたら大声出すわよ。あーっ! こんなところにチビメガネのラムジーがっ……」
そこまで言ったとき、思いのほか強い力で口を塞《ふさ》がれた。
「もう、わかったから大声ださないでよぉ。でも林檎の話が済んだら帰るって約束だよ」
「約束するわよ」
口約束なんて約束のうちに入らないんだから、と思いながらアグネスは言った。
「じゃ、そっとついて来て」
茂みをかき分けて歩き出したラムジーを慌てて追いかける。ラムジーは降り積もった落ち葉の上をほとんど音もたてずに軽々と歩いていく。走っているようには見えないのに、恐ろしく速い。
ラムジーって、こんなに足が速かったっけ? アグネスは息を切らし、置いて行かれないように数メートル後ろを懸命について歩いた。森の獣のように迷いもなくまっすぐ歩いていく後ろ姿は、なんだか自分が知っているラムジーじゃないみたいだ。今にもふっと森の木々に溶け込んでしまいそうでちょっと怖かった。突然、アグネスはあることに気づいてぶるっと身震いした。この方角だと彼が向かっているのは――〈林檎の谷〉だ。
◆◆◆
ラムジーは当惑していた。アグネスはいつもわざと意地悪したりからかったりして自分を困らせるけれど、今日は何だか違った。本気で心配しているみたいなのだ。そんなにジャックのことが心配なのだろうか。なのにラムジーに会ったとたんに急に嬉しそうになって、ジャックと〈時林檎〉のことなんか忘れたみたいだった。そのくせ今度は人を脅《おど》してまでついて来ようとする。女の子ってよく分からない。
立ち止まって遅れがちなアグネスを待ちながら、ジャックとレノックスを見失わないように耳を澄ます。確かに二人分の足音が聞こえる。もう森の外れに近い。
初めは、盗み聞きするつもりなんてなかったのだ。けれど、二人を置いて庭に出たあとまたケンカをするんじゃないかと心配になって耳を澄ましたら、聞こえてしまったのだ。モーニングルームで二人が話す声が。
――ラムジーには、秘密だ――
そう言ったのは、ジャックだ。前後の会話は聞きとれなかった。そのあとしばらくして、二人は一緒に玄関から出て行った。
内緒って何だろう?
よく考えてみると、あまり仲が良くない二人が揃《そろ》って出かけるのも変だ。
まさか……決闘?
ラムジーは庭仕事の手伝いもそこそこに二人の跡を追いかけて森に入った。今は狼の姿ではないので匂《にお》いで辿《たど》ることは出来ないが、ほんの数分前に人が通った小道にはたくさんの手掛かりが残されているのが判《わか》った。踏まれた車前草《オオバコ》、折れたブルーベル、レノックスの靴《くつ》が苔《こけ》のカーペットにつけた滑《すべ》り跡《あと》。それらの痕跡《こんせき》を追っていたら、運悪くアグネスにばったりぶつかったのだ。林檎のことはうまく話して、なんとか帰って貰うしかない。
ラムジーはジャックたちがいると思われる方角に向けて聞き耳を立てた。人狼《ウェアウルフ》の血が目覚めてから聴力は驚くほど良くなっているが、すべての音が大きく聞こえるわけではない。もしそうだったら五月蠅《うるさ》くてかなわなかっただろう。むしろ指向性が高くなったというか、特定の方向に意識を集中すると他の音が遮断《しゃだん》されて聞きたい音だけが拡大されて耳に飛び込んでくる感じなのだ。
――本当にそこにあると思うか――
――それを確かめに行くんだろう――
間違いない。レノックスとジャックの声だ。
アグネスが追いついてくるのを待ち、ラムジーはまた歩き出した。もう、二人の行き先は判っている。
◆◆◆
空は晴れ、森の空気は爽涼《そうりょう》として清々《すがすが》しい。
レノックスは、これが仕事じゃなければどんなに気分が良かっただろうと思った。色づいた木々は目に美しく、苔は足に柔《やわ》らかく、小鳥の囀《さえず》りは耳に心地よい。
この世界にも、こんな気持ちの良い場所があるなんてな……。
ラムジーの先祖たちがこの土地を終《つい》の住《す》み処《か》に選んだ理由が判る気がする。ここは、ラノンに似ている。空気や景色の美しさだけでなく〈気〉が似ているのだ。
一歩前を無言で行くジャックに声をかける。
「で、その〈林檎の谷〉ってのはどんなとこなんだ」
ジャックはぶっきらぼうに答えた。
「見れば解《わか》る。自分の目で確かめろ」
くそ。本当にかわいげの無い男だな。こっちが何とか会話を続けようとしているってのに。
レノックスは仕方なく話題を切り替えた。
「……昨日、来る途中で村の教会の墓地を調べたんだが、一番古い墓が一六〇七年のだった。それ以前のはひとつもない。だが政治犯グループがこのあたりに移住したのは一五〇五年ごろだ。だから、教会の墓地には第一世代の墓は一つもないってことになる」
「第一世代の移住者は異教徒だ。教会が受け入れなかっただけかも知れない」
「だが、現に林檎には妖素《ようそ》が含まれてたからな。墓がそこにあるとしか考えられん」
「短絡的《たんらくてき》だな。だが確かにあそこは永遠の眠りにつくには最高の場所だと思う……」
そのとき森が開け、木の生えない芝草《しばくさ》の斜面に出た。
「ここを越えれば見える」
斜面を登り、高台のヘリに立って下を見下ろしたレノックスは思わず大声をあげた。
「うおおッ! こりゃ凄《すご》いな……」
「見れば解ると言っただろう」
ジャックが言った。唇の片端が、分かるか分からないかというくらいにほんの微《かす》かに持ち上がっている。
思わず目をこすった。
笑ってんのか……?
レノックスは、ジャックがまともに笑うのを見たことがない。だが、いま何となく笑ったような気がしたのだ。
まさか、驚かそうとしてわざとこの場所の説明をしなかったのか? この男にそんな茶目っ気があるとは到底《とうてい》信じられないが……。
しかし、確かに秘密にしたくなるのが解る眺望《ちょうぼう》だ。
円形の窪地《くぼち》の底にずらりと巨石が並んでいる。交差して十文字を描く二列の立ち石、それに重なる環状列石《ストーンサークル》。見事なものだ。ラノンにもこれほどの列石群はないのではないか。
「あの立ち石の一番奥に一本だけ林檎の木があるだろう。あれが〈時林檎〉だ。そして木の前の二つの石が〈守る者〉」
「そりゃ、まんまじゃねえか……」
レノックスは斜面を駆け降りた。窪地に並び立つ巨石を一つずつ見て回る。まず整列する立ち石の巨大さに圧倒された。でかい。側《そば》に寄って下から見上げると自分がちっぽけに思える。ストーンサークルの輪の内側には、水面に石を投げ込んだような模様のある平石がぽつんと一つ置かれていた。
「それは〈顎門《あぎと》の滴《したた》り〉石と云うそうだ」
「竜が涎《よだれ》でも垂《た》らしたってわけか?」
「この世界に竜はいない。修辞的《しゅうじてき》な意味だとは思うが……」
「あったり前だ。こんなとこに竜がいてたまるか」
レノックスはポケットから小さな黒い石玉を取り出した。
「黒水晶《モリオン》か」
「そうだ。この世界じゃ屑石《くずいし》に放射線|照射《しょうしゃ》で色をつけた偽物が多くてな。天然物を手に入れるのに苦労したぜ」
黒曜石《こくようせき》と見紛《みまご》うほど黒い真正のモリオンはラノンでもこの世界でもごく少量しか産出されない。モリオンが黒く見えるのは入った光をすべて吸収するためだ。それと同じくモリオンは魔法を吸収して中に溜《た》め込《こ》む。もともと水晶類は魔法を溜める性質が強いが、無色の石に比べて有色の石の方がその力が強く、特に漆黒《しっこく》のモリオンは桁違《けたちが》いに容量が大きい。この性質を利用して、起動している魔法を一時的に封じて持ち歩くのに使われるのだ。
「俺はややこしい術なんぞ苦手だからな。ランダルが封印済みのこいつを持たせたのさ」
レノックスは邪魔臭《じゃまくさ》いジャケットを脱ぎ捨てた。三本の指ですべすべした冷たい玉を掲《かか》げ持ち、大声で唱《とな》える。
「スグゥィィル″Lがれ」
魔法は既に起動しているのでこの場合妖素は必要ない。モリオンの中に閉じ込められた力を解放してやるだけだ。指の間で小さな黒い石は次第に熱を帯《お》び、淡い空気の影のようなものをするする吐き出した。〈同盟〉の魔術者によって予《あらかじ》め封じられていた探査の魔法が解き放たれたのだ。空気の影は素早い白貂《しろてん》の幽霊のように巨石の合間《あいま》をクルクルと飛び回り始めた。
レノックスはジャックを振り返ってにやりと笑った。
「あとは、こいつが骨の在《あ》り処《か》を見つけ出してくれるのを待つだけってわけだ」
そのとき――。
ストーンサークルが鳴動《めいどう》した。
◆◆◆
ラムジーは窪地のヘリに登り、〈林檎の谷〉を見下ろした。ストーンサークルの外の立ち石のそばにジャックとレノックスの姿がある。別に険悪な雰囲気ではないのでホッとした。後から登ってくるアグネスを振り返る。
「ネッシー、こっち……」
その瞬間、レノックスが何かを大声で唱えるのが耳に飛び込んできた。〈呪誦《ビショーグ》〉だ。ジャックやレノックスは生来自分に備《そな》わっているのではない魔法を行う時に〈呪誦〉と呼ばれる言葉を使う。意味は解らないが、独特の語感は間違えようがなかった。
大変だ……魔法を使うところをネッシーに見られたら!
「……こっちに来ちゃダメ!」
アグネスは斜面を登りながら口を尖《とが》らせた。
「えーっ、何でよ! せっかくここまで来たのに」
「あ……と、ええと……ジャックさん、ここには来てないみたいだから……」
「ちらっと見ただけじゃ分かんないでしょ!」
アグネスは大またに斜面を駆け登ってラムジーの隣に並んで下を見下ろした。
「ほら。誰かいるじゃない」
「ネッシー、ダメだってば!」
ラムジーは目隠ししようと飛びついたが、腕の一振りでいとも簡単に振り払われてしまった。
「誰、あれ……? なんかヤバそうな人。すっごい刺青《いれずみ》してる……」
その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。ネッシーの言うすごい刺青とは、レノックスの腕の渦巻《うずま》き文様《もんよう》のことだ!
「ネッシー……レノックスさんの腕の文様が視《み》えるの……?」
「そりゃ、あんたと違って視力いいもん」
違う。視力の問題じゃない。この世界に生まれた人間であれが普通に視えるのは、自分のようなラノンの先祖返りだけだ。
ネッシーは先祖返りだ。〈仲間〉なんだ。
そのとき、地の底から伝わってくるような地響きがして、足元の地面がぐらぐら揺れた。
「ヤダ! なにこれ……地震……?」
火山のないイギリスでは、地震はほとんど起きない。ラムジーも生まれてから一度も地震に遭《あ》ったことはない。それが今ここで突然起きるなんて、偶然であるはずがない。
「あとでちゃんと全部説明するから、ネッシーは家に帰ってて!」
ラムジーはストーンサークルに向かって草に覆《おお》われた斜面を駆け降りた。
「あっ! 待ちなさいよ!」
アグネスが大声で怒鳴りながらすぐ後ろを駆け降りて来た。
「来ちゃダメだってば!」
「やだわよ! 金輪際《こんりんざい》、あんた一人じゃぜったい行かせないって決めたんだから!」
なんのこと? と、思う間もなく再び大地が揺れた。
「きゃっ……ヤダッ……」
足場の悪い斜面で足下を掬《すく》われたアグネスの手がラムジーを掴《つか》む。
「わっ……」
掴まれたラムジーもバランスを崩《くず》した。地面が回転する。咄嗟《とっさ》にアグネスを抱きかかえ――というか、抱えられるような格好で、そのままごろごろと縺《もつ》れ合《あ》って斜面を転がり落ちた。
回転が止まった。恐る恐る目を開けてみる。すぐ隣にアグネスが仰向《あおむ》けに転がっていた。
「……ネッシー……大丈夫?」
「なによっ……これくらい、平気に決まってるでしょ……」
目が回っているが、平らな地面の上にいるらしい。窪地の底まで転げ落ちたのだ。アグネスを助け起こし、ぐらぐらする頭のまま草の上に座り込んであたりを見回す。と、呆《あき》れ顔《がお》のジャックと目が合った。
「ラムジー……何をやってるんだ……?」
「あはは……ジャックさん、こんにちは……」
何と言って良いか咄嗟に思いつかず、仕方なく上目遣《うわめづか》いに見上げてえへへと笑った。
そういえば、前にもこれと全く同じことがあったっけ……。
「ごめんなさいっ……ジャックさんたちがぼくに内緒で何かしてるから、つい……」
なんでこんな大胆なことをしてしまったのか、自分でもよく判らなかった。一番の理由は二人がケンカをするんじゃないかと思ったからだけど、そんなことは言い訳にしかならない。昔から考える前に行動してしまう癖があるのだけど、人狼の血のせいかちかごろ前にも増して軽率になっている気がする。
レノックスがニヤニヤ笑いながら言った。
「……跡をつけたってわけか。チビすけの耳が常人離れて良いことを忘れてたぜ」
再び地面がゴーッと音を立てて振動《しんどう》した。恐る恐るジャックに尋ねてみる。
「あの、何が起きてるんですか?」
「解らないが、危険だ。君たちは早くここから離れた方がいい」
解らないってどういうことなんだろう。さっきレノックスが行った魔法のせいじゃないのだろうか。
「あの、レノックスさん……?」
「俺に振るな! 俺だって何がなんだかさっぱりだ。畜生《ちくしょう》、ランダルの奴、不良品を渡しやがったんじゃ……」
唸《うな》るようなレノックスの答えが途切れて空気に消えた。口があんぐりと開いている。その視線の先を追ったラムジーは、わっと叫び声を上げた。
巨石が宙に浮かんでいた。
〈林檎の谷〉の巨石群がゆっくりと地面を離れ、重力を無視したように空中に浮かび上がっていくのだ。見ている間にも石は確実に高度を増し、空へ空へと昇って行く。空高く昇っていく石は次第に小さくなりながら空の青に石の十字模様を描き出した。
「な……に……どうなってるの……?」
アグネスがふらふらと立ち上がり、宙に浮かぶ石を見上げたまま数歩|後退《あとずさ》る。
「危ない!」
ジャックが叫んだ。
ラムジーはハッと首を巡《めぐ》らした。
空の高みで小さく見える巨石の一つがぐんぐんと大きくなり、空気を裂く音が細く長く響く。石はみるみる視野いっぱいに広がった。
落ちてくるんだ!
「ネッシー! 逃げて!」
だが、アグネスは自動車の前に飛び出した猫みたいに身を固くして呆然と立《た》ち竦《すく》んでいる。
間に合わない……!
そう思った瞬間、落ちてくる石の速度が突然ひどく遅くなったように見えた。一秒が数分に引き伸ばされ、石の細部がまるで静止画像のようにくっきりと見て取れる。ラムジーはアグネスに飛びつき、そのまま一緒に草の上を転がった。
半秒後、落雷《らくらい》のような地響きをたてて巨石はラムジーとアグネスのすぐ脇の地面に激突した。と、また重力が消えたようにスーッと宙に昇っていく。地面には、深く土を抉《えぐ》り取ったクレーターが出来ていた。
下敷きになっていたら……と考えた途端、体がガクガク震えて止まらなくなった。
「ネッシー……大丈夫……?」
「へ、平気よ……っ」
だけど、全然平気じゃなかった。ラムジーの耳には彼女の心臓が普段の倍くらいの速さで鳴っているのが聞こえた。唇は真っ白だったし、指先が冷たくなって細かく震えていたし、吐く息には強烈な恐怖の匂いが宿っていた。
「これ……林檎の祟り……?」
「いや。そう単純なものではなさそうだ」
ジャックは険しい顔で空中の巨石を凝視した。
「いいか。全員、その場を動くな……」
言いながら、ゆっくりと一歩後ろに下がる。
その瞬間だった。彼の頭上に浮かんでいた巨石がぐらっ、と傾《かし》ぎ、狙い澄ましたようにジャック目がけて落ちていった。
「ジャックさんっ!」
「動くんじゃない!」
ジャックは石が自由落下に入った瞬間に飛《と》び退《の》き、一直線に落ちた石は轟音《ごうおん》とともに地面に突き刺さった。地面がビリビリと振動し、小石が跳ね上がる。
「……大丈夫だ」
巨石は再びゆっくりと浮上していく。
「やっぱりだ。この石は、動くと攻撃してくるようにセットされているんだ」
「畜生、罠か……」
レノックスが歯軋《はぎし》りした。ジャックは眉根を寄せて浮かぶ石を凝視している。
「レノックス、一歩前に出てみてくれ」
「ちぇっ。俺の番かよ……」
レノックスは用心深く上空を窺《うかが》いながら窪地の中心に向かってそろそろと足を踏み出した。
「あれ? 落ちてこねえぞ」
本当だった。ラムジーは目を凝《こ》らして空を見つめたが、レノックスの頭上の石は小揺るぎもせず浮かんだままだった。
「なんだ。平気じゃないか」
レノックスはさらに歩を進めた。彼の頭上で石がぐらぐらと揺れ始める。
「うわっ! 来やがる!」
空気を裂いて一直線に落下した巨石は地響きとともにレノックスのすぐ後ろに大穴を扶り、それからゆっくりと上昇していった。
「くそっ……死ぬかと思ったぜ……」
レノックスがぼやく。ジャックは石の浮かぶ空を見上げた。
「これで分かった。あの石は、外へ逃げようとする動きに素早く反応するんだ。内側への動きに対しては反応が鈍《にぶ》い」
「そんなことが分かったって、ここから出られやしねえじゃないか!」
「手はある。見ろ。ストーンサークルの石は浮かんでいない。罠を封じてあったのは恐らくあの〈詠唱者〉リングなんだ。力は外側に向いているからあの内側は魔法の空白域になっている筈だ。四人全員、一気にリングの内側まで走るんだ。辿り着いたら、あそこから〈低き道〉を開いて脱出する」
レノックスはちらりとアグネスに目をやった。
「人間がいるのにか?」
「他に方法があるか? ラムジー、君はアグネスを守るんだ。いいね」
「うん」
自分がアグネスを守る、なんてちょっと前にはバカバカしくて考えられなかった。どう考えてもアグネスの方が強いし、足だって速かった。だけど、突然訳が分からない目に遭って混乱して怯《おび》えて、今のアグネスはいつもの無敵のネッシーじゃなくなってしまっている。
ラムジーはアグネスの手を握った。冷たくて、汗をかいている。顔色は一刻前と正反対に真っ赤で、心臓は普段の三倍くらいの速さでどくどくと打っていた。
「大丈夫、絶対うまく行くから」
「……怖くなんかないわよっ……だって……」
だって、何なんだろう。だけど、今それを考えている余裕はなかった。
「走れ!」
ジャックの掛け声と共に、全員が一斉《いっせい》に輪の内側に向かって駆け出した。〈詠唱者〉までほぼ二百五十ヤード。空の石がぐらぐら揺れる。
「立ち止まるな! 後戻りするな!」
ラムジーはアグネスの手を引いて走った。
石が空気を切り裂く。すぐ後ろにズズンと地響きをたてて石が落ちた。残り百ヤード。頭上の石がこちらの動きを察知してから落ち始めるまでの数秒間に石の守備範囲を走り抜け、次の石の領域に入ったらまた……これをこのまま繰り返していけば、リングの内側に辿り着ける。
ずずずん……っ。
石が落ちる。
残り四十ヤード。
轟音とともに再び石が落下した。今度は風圧が感じられるほど近かった。アグネスの足が震えて前に出ない。
[#挿絵(img/Lunnainn1_219.jpg)入る]
「ネッシー、早く!」
「む、無理よ……! あんた先に行って!」
「そんなこと出来ないよぉ!」
少し先を行くジャックがハッとしたように立ち止まり、振り返った。瞬間迷ったかと思うと一歩こちらに向けて足を踏みだした。
ああっ、戻っちゃダメなのに!
間髪《かんはつ》を入れず、上空の石がジャック目がけて一直線に落下し始めた。引き伸ばされた一秒の中で、彼の頭上に迫《せま》る石がはっきりと見える。
「ジャックさァァァんっ……!」
彼はハッとしたように上を見た。
来る! 間に合わない!
その刹那《せつな》、落下する巨石めがけて猛烈な勢いで宙を水が走り、白く沸《わ》き立《た》つ巨大な水の蛇のように石に激突して砕け散った。しょっぱい飛沫《しぶき》があたり一面に飛び散り、轟音が大地を揺るがす。
石は、ジャックの直近《ちょっきん》に落ちていた。
「……莫迦《ばか》野郎《やろう》が。戻るなと言ったのは誰だ?」
一足先にストーンサークルに到着していたレノックスが肩で息をしながら言った。呼び出した海水を一点に集中させて石の進路を逸《そ》らしたのだ。
「……済まない……助かった……」
「まったく、世話が焼けるぜ。ラムジー。その莫迦はおまえさん達が後ろだと気になって前へ進めないそうだ。先に来い。落ち着いてまっすぐ走れ。大丈夫、あと少しだ」
「分かりました。行こう、ネッシー」
「……うん」
手をつないで残された距離を走り抜け、〈詠唱者〉リングの内側に駆け込んだ。アグネスがぺたんと草の上に座り込む。ラムジーはリングの内側からジャックに手を振った。
「ここは平気みたいです! ジャックさん、はやく来て下さい」
彼は頷き、リングまで一気に駆けた。彼が輪の中に走り込むのと同時に彼をつけ狙っていた石はすーっと高度を上げて他の石と同じ高さに戻った。それでも、手が出せない輪の内側に獲物《えもの》がいるのを知っているかのように石は宙に浮いたままだ。
「おい、大丈夫か?」
「……ああ。やはり、輪の内側は空白域なんだな。罠が作動したのは〈探索〉を放ったせいか」
ジャックは荒い息をし、ストーンサークルの石に手をついて体を支えた。レノックスが忌々《いまいま》しげに空に浮かぶ石を見上げる。
「だが、これだけ念入りな罠を仕掛けてるってことは、骨はここにあるに違いねえ。次は、もっとマシな魔法を持って来るぜ」
「その前にまずここから出られたら、だろう」
ジャックは手をついている石をじっと眺め、それからストーンサークルをぐるりと見渡して首を傾げた。
「おかしいな。どの石も砂岩《さがん》だ。容量が小さすぎる。どうやってこれだけの規模の魔法を五百年近く溜めておけたのか……」
「言われてみりゃ、確かにな。黒水晶《モリオン》か、でなけりゃ、少なくとも煙水晶《ケルンゴーム》でもありゃともかくだが」
「彼らは、なにか僕らの知らない魔法技術を持っていたのかも知れないな」
そのとき、地べたに座り込んでいたアグネスがぼんやりと顔を上げてジャックとレノックスを交互に眺めた。
「あんたたち……いったい何なの? 何の話をしてるの? 何でこんなことになったの?」
ラムジーは慌てて口を挟んだ。
「ジャックさんとレノックスさんは、ロンドンでお世話になった人で……」
「あんたには訊いてないわよっ! あたしはその、氷の眼男と刺青男に訊いてるの!」
キッ、とレノックスを睨む。心底頭に来ているのだ。
「刺青男! あんたさっき空中から水出したでしょっ! それに『人間がいる』って言ったわ! あんた何なの? 人間じゃないの?」
「えっ……。えっ? 刺青男って、俺のことか」
「当たり前じゃない! 他に誰がいるのよっ!」
「こいつが視えてるのか? ってことは、つまり……」
レノックスとジャックが顔を見合わせる。二人とも、その意味に気づいたのだ。アグネスは、今度はジャックに向かって怒りをぶつけた。
「ジャック・ウィンタース! あんたはこうなると解ってて時林檎を取ったの!? だいたい〈低き道〉って死人が歩く道じゃない! どうやってそんなとこ通るのよ? あたしは死ぬのはイヤ! まだやりたいことがいっぱいあるもの! 都会だって行ったことないし、おしゃれしたいし、上の学校行って、車の免許とって、外国に旅行したりとか……」
言葉の最後が嗚咽《おえつ》に変わっている。ポロポロと涙がこぼれた。
「……お家《うち》に帰りたいよ……」
ラムジーはどうしていいか分からなかった。小さいときから知っているのに、アグネスが泣くのを見るのは初めてのような気がする。ネッシーは転んで膝《ひざ》を擦《す》りむいても、大きい子とケンカをしても一度も泣かなかったし、だからネッシーは泣いたりしないんだと思っていた。だけど、そうじゃないんだ。アグネス・アームストロングは泣くのを我慢できるくらいに強いだけで、本当は今までだって泣きたいときがいっぱいあったんだ。
「大丈夫だよ、ネッシー。きっとジャックさんたちが何とかしてくれるから……」
「……信用できないわよ。だいたい、その人が時林檎を取ったせいじゃないの……?」
「そうじゃないと思うけど……」
でも、どうしてこんなことになったのかは見当もつかない。救いを求めてジャックの方に目をやる。ジャックは泣きじゃくるアグネスの傍《かたわ》らに片膝をついて一言ずつゆっくり話しかけた。
「アグネス。君を巻き込んでしまって済まない。君たちは、きっと無事に家に帰す」
アグネスは鼻をすすり、赤く腫《は》れた目でぼんやりとジャックを見上げた。
「……ほんとに?」
「約束する。でも、これは君自身の問題でもあるんだ。あの男の腕の文様《もんよう》が視えるんだね?」
「……だって、丸見えじゃない」
ジャックは小さく微笑んだ。
「〈|強き腕の《アームストロング》〉アグネス。あの文様は人間には視えない。君も、ラムジーも、僕たちの同類だよ。この世界の言い方をすれば、君は〈妖精〉の血族ということだ」
アグネスは、ぽかんとした顔でジャックを見つめていた。
「……うそ」
「事実だ。そしてこの浮かぶ石の罠を仕掛けたのは君たちの先祖だ。僕らは迂闊《うかつ》にもその罠にかかってしまったんだ」
「迂闊で悪かったな」
と、レノックスが言った。
「嬢ちゃんも先祖返りか。この村には、ラムジーの他にもいるだろうとは思ってたがな。詳しいことは後だ。さっさと〈低き道〉を開いて脱出しようぜ」
ポケットから小さな革袋を引っ張り出し、ジャックに投げ渡す。
「〈同盟〉の支給品だ。遠慮なく使え。俺にはこんな魔法だらけのとこで道を開く自信はないからな。あんたに任せた」
「分かった。なるべく輪から離れよう」
ジャックはリングの中心――〈顎門の滴り〉石の側《そば》に立った。
「ラムジー。ここでは、〈低き道〉は死者の道と考えられているのかい?」
「スコットランドの古い歌にあるんです。自分が死んだら〈低き道〉を通ってすぐに故郷に帰れるから、っていう内容の……」
「なるほど。何か関係はありそうだ。でも僕らの使う〈低き道〉は死者の道というわけじゃないんだ。世界の外側を通る道だよ。ずっと昔に僕らの先祖はこの道を利用する方法を発見した。道が開いたら、お互いに手を離さないように。〈低き道〉は入るより出る方が難しい。中で離れ離れになったら永遠に出られないかもしれない」
アグネスはこくりと頷いて痛いくらいきつくラムジーの手を握った。ジャックが革袋を開き、中の灰を掌《てのひら》に空ける。
その瞬間だった。
〈顎門の滴り〉石の表面から強烈な光が迸《ほとばし》った。地面がぐらぐら揺れる。アグネスが悲鳴を上げた。レノックスが怒鳴る。
「どうなってるッ……」
「解らない、まだ何も……」
沸き立つように激しく揺れた次の瞬間、突然足下の大地が消失した。地面に吸いこまれるように身体が落ちていく。ラムジーは喉《のど》が裂けるほど叫び続けた。
落ちる、落ちる、落ちる……!
4――顎門《あぎと》の滴《したた》り
唐突に落下が止まった。予想した墜落《ついらく》の衝撃も痛みもなく、夢の中の落下のように気づいた瞬間にはもう固い地面の上に両足で立っていた。ラムジーは瞬《まばた》きして瞳をいっぱいに見開いた。それでも何も見えない。息が詰まりそうに真っ暗だ。
「……ネッシー……? いる……?」
闇の壁の向こうでアグネスの声がした。
「ここよ! ラムジー……!」
「みんな大丈夫か? いま、明かりを点《つ》ける。来い、ウィル・オ・ウィスプ=v
ジャックが唱《とな》えると同時にぽうっ、と暖かな黄色い光の玉が現れてふわふわ宙を飛んだ。淡い光に全員の無事な顔が浮かび上がる。ラムジーはホッと安堵《あんど》の息をつき、辺りを見回した。なんだか洞窟《どうくつ》みたいなところだ。
「これが〈低き道〉なんですか?」
「いや。僕はまだ道を開いていなかった。それにここは〈低き道〉とは全く似ていない」
「こいつも罠だろうよ。くそっ、あの落ちる感じは、〈穴〉に落とされたときとそっくりだったぜ。あれはずっと長かったが……」
光の玉がふらふらと飛んで天井にぶつかった。土が崩れないように太い石の柱が壁を支え、天井は薄く剥《む》いだ石板《せきばん》で補強されている。自然の洞窟ではなくて人工的に作られたものだ。石板の隙間からは太い木の根がはみ出し、無数の蛇《へび》のようにうねうねと石柱に絡《から》みついていた。
ジャックは眼を細めて洞窟の壁面を覆《おお》う木の根を凝視した。
「あれは、林檎の根だ。ここは恐らく林檎の谷の地下だろう。別世界に来たわけじゃない」
「ああ。だがここの空気はちょっぴり妖素《ようそ》を含んでるな。鬼火《おにび》が簡単に点く」
鬼火を呼びだして土壁を照らしたレノックスが低い唸《うな》り声《ごえ》を上げた。
「あれを見ろ! 全部ケルンゴームだ」
洞窟の土壁のそこここから、コーヒーシュガーに似た濃い|褐色の煙水晶《ケルンゴーム》が顔を覗《のぞ》かせている。ジャックが息を呑む音が聞こえた。
「これは……大変な量だな」
「まったく驚きだぜ」
アグネスがおずおずと口を挟《はさ》んだ。
「ねえ、あなたたち知らないの? この山、ケルンゴーム山って言うんだけど……」
「本当か? ラムジー」
「えっ。そうですよ。言わなかったですか……? 煙水晶がたくさんとれるって……」
レノックスが大きな溜め息を吐《つ》く。なんだか、物凄《ものすご》く重大なことを言い忘れていたような気がしてきた。
「なんてこった。俺達はケルンゴームの鉱床《こうしょう》のど真ん中にいるってわけだ……」
ジャックが水晶に手を触れた。
「妖素とケルンゴームか。確かに最強の布陣《ふじん》だな。ラムジーの先祖が移住先にこの土地を選んだのは非常に賢明だったわけだ」
「煙水晶はともかく、どうしてこの洞窟には妖素があるんですか?」
「それは……」
ジャックが口ごもり、レノックスが後を引き取った。
「ここがチビたちの先祖の墓所《ぼしょ》だからさ」
「レノックス、それは言わない約束だ……」
「今さら仕様がないだろが。俺たちは骨探しに来たんだよ。俺は同盟の仲間のため、こいつはおまえさんのためにな」
ラムジーはあっと思った。
秘密って、そういうことだったんだ……。
この洞窟のどこかで御先祖様が眠っているのだ。そう思って改めて見渡すと、確かに霊廟《れいびょう》のような雰囲気だった。洞窟が少し広くなった場所に〈顎門《あぎと》の滴《したた》り石〉にそっくりな水紋《すいもん》の線刻《せんこく》を施《ほどこ》された平石が鎮座《ちんざ》している。
そのとき、奇妙な音がした。ラムジーは耳をそばだてた。洞窟の奥から聞こえてくる。シュッシュッと何かがこすれるような音だ。
「あの……あっちの奥の方に何かいるみたいなんですけど……」
「何だって?」
三人は一斉《いっせい》に洞窟の奥へと続く深い闇を振り向いた。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる……。
猫が喉《のど》を鳴らす声を百倍にしたような音が洞窟内に木霊《こだま》した。二つの大きな目が、闇の中で光をきらりと反射する。瞬間、鬼火がちかちかと頼りなく点滅し、光と闇の合間《あいま》に巨大な生物の影が浮かび上がった。
ラムジーは息をするのも忘れてその生き物を見つめた。
神話か御伽噺《おとぎばなし》の中にしか存在しないと思っていた生き物が、ほんの数メートルの所にいた。
その頭は蜥蜴《とかげ》に似て、四本の長い角《つの》があった。体は犀《さい》ほどの大きさで、中世の武器のようにごつごつした突起で覆われ、首は長く、さらに首と胴を足したのと同じくらい長い尾を重たそうに引きずっている。
信じられないけど、信じられる。魔法を、妖精郷を、浮かぶ石を、低き道を信じられる今なら。
アグネスが呟く。
「……ウソでしょ……」
竜は低く唸り、重々しい足取りで鬼火の光の中に歩み入った。銀色の屋根瓦のように重なり合った鱗《うろこ》がかちゃかちゃと金属めいた音をたてる。
ジャックが竜の前に歩み出た。
「洞窟の主よ。聞いてくれ、我々に害意はない……」
尾がびしりと地面を叩き、ごろごろと腹の底に染み渡るような唸り声が響く。
「……ヂィブリャハァァァ……」
「地底の王よ、我々は追放者だが、あの二人はこの洞窟を作った者たちの子孫だ。彼らのために道を開けて欲しい」
「ヂィブリャハッ!」
竜が頭を上げ下げし、がはっと口を開いた。氷柱《つらら》みたいにずらりと並んだ牙《きば》と、ねっとりしたピンクの舌が丸見えになる。吐く息がぼぼっ、と燃えた。ジャックは素早く飛《と》び退《すさ》り、竜の炎の届くぎりぎりの所で叫んだ。
「竜よ、守る者よ、彼らは正当な後継者だ。彼らには遺産を受け取る権利がある……」
「ヂィブリャハァァァッ……!」
竜が再び火を吹いた。炎の舌がジャックの腕をかすめる。
「聞いてくれ、竜よ!」
ジャックは炎を避けながらなおも竜に向かって話しかけている。レノックスがジャックの肩を掴《つか》んで引き戻した。
「無駄だ、話の通じる相手じゃねえ!」
「だが、あれだけの大きさならかなりの齢《よわい》を重ねている。言葉くらい理解できる筈《はず》だ」
「言葉が通じたって、話が通じるとは限らねえんだよ!」
おずおずとアグネスが尋《たず》ねた。
「……ドラゴンって、言葉が解《わか》るの?」
「うんと長生きすればな。三百歳を超えたヤツはだいたい喋《しゃべ》れる。七百歳なら、たいていの人間より賢くて物識《ものし》りだ。だが百歳以下のヤツだと頭は空っぽ、道理はまるでなし、考えるのは喰うことと寝ることだけだ」
ラムジーは思わず尋ねた。
「食べるって、何をですか……」
「そりゃ、食いでがあって腹持ちのいい肉さ。鹿とか、猪とか、馬とか……人とかな」
ああ、やっぱり……と思った。あの歯を見たときに、そんな気がしていたのだ。
竜は吠え声をあげ、勢いをつけて息を吹き出した。火炎放射器のように炎が洞窟の壁を一舐《ひとな》めする。アグネスが両手を口に当てて悲鳴を呑み込む。
「下がって」
ジャックは妖素の袋をあけ、ふっと息を吹きかけた。急激にあたりの温度が低くなり、大粒の雪がうなりを上げる。彼が吹雪《ふぶき》を呼び出したのだ。雪のつぶてに目を塞《ふさ》がれた竜は首を振り回し、今度はジャックめがけて勢いよく炎の息を吐いた。ジャックが右手をあげる。雹《ひょう》交《ま》じりの雪が炎の舌に向かって猛烈な勢いで吹きつけ、ジュウジュウと音をたてた。
「ヂィィィィブリャハァァァッ……!」
竜はめちゃめちゃに首を振り、尾を打ち鳴らした。洞窟の地面が揺れる。
「何やってんだ、怒らせただけじゃないか! 冷凍ドラゴンにしちまえよ!」
「しかし、あの竜は番人としての職務を果たしているだけだ……」
「なに甘っちょろいこと言ってやがる、こっちが丸焼きになっちまう! 俺がやるから妖素をよこせ!」
投げ渡された革袋を空中で受け止めたレノックスはあたりに灰を撒《ま》き散《ち》らした。二の腕の青い文様《もんよう》がどくん、と脈打つ。
「いいか、俺が海水を呼びだしたら凍らせろ!」
レノックスが言い終えるか終えないかのうちに、空中に現れた太い水の柱は見事な放物線を描いて放水車の放水のように竜に襲いかかった。
「今だ、やっちまえ!」
なおも海水を浴びせかけながらレノックスが怒鳴る。ジャックが一言ぼそりと呟いた。
「……凍れ」
その途端、びしょ濡れの竜は頭のてっぺんから凍り始めた。鱗《うろこ》の一枚一枚にみるみる白い氷の結晶が育ち、浴びせられる海水が瞬時に凍りついて衣《ころも》を着せかけるように分厚《ぶあつ》く竜を覆っていく。竜の動きが鈍くなった。表面を覆う氷が見る間に分厚くなる。滴《したた》る水はたちまち氷柱となり、無数の透明な鍾乳石《しょうにゅうせき》のように洞窟の天井や竜の身体から垂《た》れ下《さ》がった。
「やったか?」
「どうだろうな……」
ついに竜は動かなくなった。ラムジーは飴《あめ》がけのリンゴみたいに氷に閉じ込められた竜をひたすらに見つめた。何故かは分からないけれど、すこし悲しかった。たぶん、竜はあまりにも巨大で魔法的で信じ難い存在だったからだ。こんなにも力強く不思議な生き物でも死ぬことがあるのだと思うと、ひどく心寂しい感じがしたのだ。
「ドラゴン、死んだの?」
アグネスの手が袖《そで》をひっぱり、ぎゅっと強く握る。同じ事を感じているのだと思った。手探りして、袖を掴んでいる手を握り返す。
「分からないけど、でも……」
レノックスは氷の彫像《ちょうぞう》になった竜の首の下に立って見上げた。
「まったく、手間をかけさせやがるぜ。とんでもない番人を置きやがって……」
そのときだった。パチパチと小さな泡が弾《はじ》けるような音が聞こえた。凍りついた竜の身体から細かな氷のかけらが剥がれて落ちる。
「レノックスさん……」
「なんだ、チビすけ」
レノックスがこちらを振り向く。
「上を見て!」
[#挿絵(img/Lunnainn1_235.jpg)入る]
ラムジーとアグネスは同時に叫んだ。
上を見上げたレノックスは大声で悪態をついて飛び退った。竜を覆っている氷に音をたてて亀裂《きれつ》が走り、氷柱がぱきぱきと落ちて地面に突き刺さる。
竜がぶるりと体を震わせるのと同時に氷は粉々に砕《くだ》けて飛び散った。
「ヂィブリャァハァァァ……!」
「刺青《いれずみ》男っ、何とかしなさいよっ!」
「俺だって何とかしたいが……畜生……もう妖素がねえ……」
四人はじりじりと後ろに退《さが》った。すぐ後ろに土壁が迫っている。これ以上、もう後がないのだ。アグネスが強く手を握った。
「ラムジーっ、あ、あたし、あんたに言っとくことが……」
「えっ。なに?」
アグネスを振り返った瞬間、再び竜が勢い良く火を吹いた。こちらに向かってまっすぐに炎の舌が燃え上がる。アグネスが小さく悲鳴をあげてしがみつく。ラムジーはアグネスに覆いかぶさるようにして目をつぶった。そのまま息を止めて心の中で十まで数える。
一、二、三……十。
何も起きない。
止めていた息を吐き出した。ゆっくり目を開けてみる。別にどこも火傷《やけど》していないし、焦《こ》げてもいなかった。アグネスも無事だ。炎は届かなかったのだろうか。ラムジーはアグネスから少し身体を離して恐る恐る竜を見上げた。
ぶぼっ。
ゲップのような音をたてて吐き出された火の玉がそのままぽとりと地面に落ちる。竜はイヤイヤするように首を振り、空気が漏《も》れるような声を立てた。
「……ヂィィィィィィブリャァハァァァァ……」
ラムジーは目をこすった。なんだかさっきより竜の身体が小さくなっているような気がしたのだ。気のせいか、目のせいか、それとも……。
「ねえ。なんか縮《ちぢ》んでない?」
こっちの考えを先回りするようにアグネスが言った。
「やっぱり、そう思う……?」
「だって、さっきは頭を上げたとき天井に届いてたわ」
アグネスは指摘した。そう言えば、今は竜の頭から天井までかなり隙間がある。
「おい、ジャック。どうなってるのか教えろよ」
「僕にも解らないが……確かに小さくなったようだ」
もうハッキリと小さくなっているのが判った。縮み続ける竜は力を振《ふ》り絞《しぼ》るようにして次々に火球《かきゅう》を吐き出した。木の根に覆われた壁に火の玉がぶつかってジジッと音をたてる。
ラムジーは空気の匂いを嗅《か》いだ。何かが変だった。するはずの匂いがしないのだ。さっきから何度も炎は木の根を舐めているのに、少しも焦げ臭くない。根は焼けていないのだ。
「ジャックさん、変ですよ! あの炎、熱くないんです!」
ジャックはハッとしたように縮みゆく竜を見つめた。
「そうか……。多少の妖素があったとしてもこの世界で竜が長く生きられる筈がない。魔法で作り出された偽物なんだ」
レノックスが拍子抜けしたように言った。
「なんだ。こけ威《おど》しじゃねえか……」
「ああ。だがこの竜が墓守《はかもり》のために作られたのだとしたら、随分《ずいぶん》と奇妙だ」
「なんでだよ。俺は充分驚いたぞ」
「驚いただけだろう。実害はない。あの石の罠《わな》を仕掛けた者たちが、どうしてこんなすぐに見破られるようなものを置いたのか……」
鬼火の灯が揺らめいてふっと暗くなった。レノックスが唱える。
「ウィル・オ・ウィスプ!=v
だが、鬼火は電池が切れかけた懐中電灯のように薄暗いままだった。
「解らない……小さくなるなんて聞いたことがない」
今では犬ほどの大きさまで縮んだ竜は〈顎門の滴り〉石に飛び乗り、石の上を行ったり来たりして吠《ほ》えている。ジャックは眉を顰め、暗くなった鬼火と小さくなった竜を交互に眺めた。
「顎門の滴り石か……。顎を伝う……滴《しずく》……? 待てよ……」
じっと考え込んでいたジャックが、唐突に笑い出した。
「そうだったのか……! 解ったよ。はは、完敗だ……」
「おい、ジャック。何が可笑《おか》しい?」
「ああ、僕たちがとんだ道化《どうけ》だからだよ。レノックス、骨探しは諦《あきら》めるしかないようだ」
「諦めるだと? 今回は準備が足りなかったんだ。次に来るときはこっちも本腰入れてもっとマシな魔法を用意すりゃあ……」
「無駄だよ。これは『ドラゴン殺し』の罠と同じ原理なんだ」
「何だと?」
「竜が縮んだのは空気中の妖素が減ったせいだ。鬼火が暗くなっただろう? それで解った。この罠の目的は侵入者を殺すことじゃない。妖素を無駄に消費するのが目的なんだ。妖素を絶《た》ってドラゴンを殺すのと同じ理屈だよ。妖素を持った墓荒しがここに落ちると煙水晶に封じられた魔法が作動して偽の竜を作り出す。竜は動いたり偽の炎を吹いたりするのに洞窟内の妖素を消費する。攻撃すればするほど、この防御システムは自分で妖素を食い潰してしまう。そのうえ攻撃側にも無駄に妖素を遣《つか》わせる。だからその石は〈顎門の滴り〉石なんだ」
「どういうことですか?」
「〈顎門の滴り〉とは顎を伝う滴のことだ。顎は口の近くなのに滴は口には入らない。つまり、手に入りそうで入れられないものの喩《たと》えなんだ。それを教えて諦めさせるためにその石はここに置かれたんだよ」
レノックスがぽかんと口を開いた。
「待てよ……つまり、あんたの言ってるのは、コストがかさんだうえ、骨を手に入れる頃には妖素はなくなってる、ってことか?」
「恐らくは。相手方の攻撃の強さに応じて次々に仕掛けが動くようになっているんだ。巧妙なシステムだ。まったく、ラムジーの先祖はたいした人たちだよ」
「……なんてこった。それじゃ、骨折り損のくたびれ儲《もう》けじゃないか……」
ここぞとばかりに竜が吠える。
「ヂブリァーハ、カエレッ」
レノックスが怒鳴り返した。
「帰るさ! 帰り方が判《わか》ればな」
「地上に戻る方法なら、たぶん分かったよ」
ジャックが言った。
「ほんとか?」
「ああ。さっきは、地上の〈顎門の滴り〉石の上で妖素を遣っただろう。それが落ちて石にかかった。そっくりな二つの物体の間では互いに〈共感〉が働く。だから今度はここの石の上に一定量を超える妖素を置けば……」
「お帰りの際は妖素は置いてけ、ってか? 畜生《ちくしょう》、やらずぶったくりだな……。待てよ。さっきのが最後だぞ」
「これがある」
ジャックは、ポケットからビニール袋に包まれた小さな紅い林檎を取り出した。アグネスが、あ、と小さく呟く。
「時林檎……」
「そうだ。君が教えてくれたね」
今では掌《てのひら》に乗るほど小さくなった竜がキンキン声で吠えていた。
「ヂブリァーハッ、カエレ、カエレ!」
「ねえ。あれ、なんて言ってるの?」
レノックスが答える。
「古い言葉で〈追放者〉って言ってるのさ。おまえさんたちの先祖は性格悪いぜ」
「ここに来るのはラノンの追放者に決まっているからだよ。みんな手をつないで。次の罠が作動しないうちに行こう」
全員で手をつないで〈顎門の滴り〉石の周りに立った。投げ落とされた時林檎の実は水っぽい音をたてて石にぶつかり、空中に甘く爽《さわ》やかな香りが広がった。ほとんど同時に〈顎門の滴り〉石から目が眩《くら》むように明るい光が迸る。
ラムジーはきつく目を瞑《つむ》った。瞼《まぶた》を通して眼球に染み込んでくる光の眩《まぶ》しさに頭がくらくらする。光に包みこまれて身体がふわふわと宙に浮くような感覚が数秒続き、それからストン、と草の上に落ちた。
恐る恐る目を開ける。
空が青かった。
「地上に戻って来たんだ……」
目の前には半《なか》ば草に埋《う》もれた〈顎門の滴り〉石がある。芝草《しばくさ》の上に座り込んでラムジーは空を見上げた。
「だが、まだ最初の問題が残ってる」
レノックスが言った。青い空には、点々と巨石が浮かんでいる。
「あっ、見て!」
アグネスが叫ぶ。悪夢のように空に浮かんでいる巨石の一つが揺《ゆ》らいだ。石が、昇《のぼ》ったときと同じようにゆっくりと降下し始める。
静々と地面に近づいた巨石は地響きを立て、地面にぽっかり開いている穴に寸分の狂いもなく突き刺さった。別の石が降下を開始する。一つ、また一つと石は空から大地へと舞い降りていく。
五分後、まるで何事もなかったように〈林檎の谷〉の巨石群は元通りの姿で佇《たたず》んでいた。
「終わったな」
ジャックが言った。
「ああ」
レノックスが答える。アグネスは草の上に大の字に寝ころんだ。
「……助かったんだぁぁ」
ストーンサークルの輪の中で、アグネスが素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「ええェ〜っ! それじゃ、ジャック・ウィンタースは妖精の国の王子様なの?」
「アグネス。その表現は正しくない……」
ジャックが困ったような顔で言う。
「でも、ラムジーの説明だとそうなるわ。どこが違うの?」
ジャックはラノン人はいわゆる妖精とは少し違うのだとか、自分は追放された廃太子《はいたいし》で、もう王子でも何でもないのだとか懸命に説明しようとしていたが、アグネスの耳には入っていないみたいだった。
「そっかー。王子様なんだ。道理で気品があると思ったわ。それで、ラムジーは何なの?」
「……一応、ぼくは人狼《ウェアウルフ》なんだけど」
「本当? 変身してみせて!」
「今は新月だから出来ない。それにさっき説明したじゃないか。〈妖素〉がないと魔法は使えないって」
ラムジーはアグネスにラノンのことや自分たちがラノン人の子孫であること、〈妖素〉という物質がないためにこの世界では魔法がちゃんと機能しないことなどを説明したつもりだった。だが、アグネスはジャックたちが妖精郷からの来訪者で、自分もその親戚であるということにすっかり夢中になってしまい、説明の細部をちっとも聞いてくれないのだ。
「じゃ、刺青男は?」
「ネッシー……。その人は刺青男じゃなくて、レノックスさん。ブルーマンなんだよ」
「ブルーマンって、凶暴な海の妖精よね? 船を沈めたりとかするの?」
「……しねえよ、んなこと」
レノックスがむすっと答える。ラムジーは慌てて言った。
「ごめんなさい、レノックスさん。ネッシーは悪気があって言ってるわけじゃ……」
「くそ、あってたまるかっ」
アグネスはびっくりしたような顔でレノックスをまじまじと見つめ、言った。
「……なんか下品ねえ。妖精に見えないし」
「あのな、嬢ちゃんの考えるその妖精の定義ってのがそもそも間違ってるんだ!」
そのやりとりを聞いていたジャックが吹き出した。
「何が可笑しいんだっ」
「いや、アグネスにかかったらおまえも形《かた》なしなんだと思って……」
ジャックはまだ笑っている。レノックスは顔を真っ赤にして彼を睨《にら》みつけ、しばらくして大声で笑い出した。
「畜生、全くだぜ。それにしても散々だ。これだけ苦労して、何の成果もなしか……」
「成果はあったよ。〈時林檎〉だ」
ジャックは巨石群の奥にひっそりと佇む林檎の古木《こぼく》を指さした。木の下には〈守る者〉石と呼ばれる二つの石が片方は横倒しに、片方は直立して佇んでいる。そういえばストーンサークルの石と同じで、この二つの石は攻撃に加わらなかった。ジャックは眼を細めて〈守る者〉石の側面を睨んだ。
「何か書いてある。文字はここのアルファベットだ。視《み》えるかい?」
じっと視ていると、石の内側に青く光る文字がぼうっと浮かび上がってきた。人間の目には見えない文字なのだ。アグネスが声に出して読み上げた。
「『……我が子らよ。こは時の林檎なり。触れるなかれ。喰らうなかれ。枯らすなかれ……』これ、言い伝えとおんなじだわ」
「クリップフォードの始祖はこの世界で魔法に頼ることに反対していた人たちだ。だから子孫にも乱用しないよう戒《いまし》めたんだろう。でも、人狼にはどうしても妖素が必要だ。ラムジーは満月が近づいたらこの実を食べればいい。含まれている妖素が力を解放して変身を促《うなが》すから、発作は起こらなくなる」
ラムジーは時林檎の木を見上げた。大きく広がった枝に、紅い実をたわわにつけている。恐らくは自分と同じ先祖返りの人狼だったセオドア叔父《おじ》は満月の度《たび》に訪れる発作に悩まされ、心を病《や》み、死を選んだ。言い伝えに隠された真実に気づいていたら、叔父は死なずに済んだのだ。
「叔父さんはあんなに一生懸命探していたのに……こんな近くに答えがあったなんて……」
アグネスが口を挟んだ。
「叔父さんもラムジーと同じだったの? 七つっ子の呪いって、そういうこと……?」
「うん。そうなんだ……」
突然、アグネスの両目からポロポロ涙が零《こぼ》れ落《お》ちた。
「そんなのって、ひどい! ご先祖様がもっとちゃんと分かるように書いていてくれてたら、あんたの叔父さんは死なないで済んだんじゃない! ご先祖様、意地悪すぎる……」
「ねえ、どうしてネッシーが泣くんだよ……?」
ラムジーはおろおろした。どうしちゃったんだろう。今日のネッシーはすごく泣き虫だ。
林檎の実のように顔を真っ赤にして泣きながら、アグネスが〈守る者〉石に手をついて身体を支えようとしたそのとき――。
「ヤダッ! どうなってるの!?」
石はまるで学芸会のはりぼてのようにぐらぐら揺れて傾いた。
アグネスは大慌てで石を掴み、両手で押し戻して元通りにまっすぐに立てた。
「ああ、びっくりした……。なんで傾いたのかしら」
その様子を見ていたジャックが言った。
「アグネス。ちょっと思いついたんだが、倒れている石を立てることが出来るかい?」
「そんなこと出来るわけないじゃない……」
言いかけて横倒しの石に手をかけたアグネスは、あれっという顔をした。
「軽いわ。これ」
アグネスは他の石より小さいとは言っても数百キロはありそうな石を片手で軽々と引き起こし、つっかえ棒をするように支えた。
ラムジーは呆気《あっけ》にとられた。今日はもうたいていの事には驚かないと思っていたけれど……。
「よし、そのまましっかり支えていてくれ。ラムジー、石の汚れを落とすんだ」
アグネスがいつまで支えていられるのかビクビクしながら、ラムジーはジャックを手伝って長い間地面に接していた石の底を芝草でこすった。びっしりとついた土が落ちて石の元の表面が露《あらわ》になってくる。
「あっ」
底になっていた面にさっきの石と同じ青い光の文字が浮かび上がってきた。
「『子らよ、苦難に直面せしとき、この実を喰らうべし。〈小さき狼〉の子ら、この実を取れ。〈強き腕〉の子ら、この実を取れ。その力もて村を護《まも》るべし……』」
ラムジーが声を出して読み終えたとき、ずっと石を支えていたアグネスが泣きそうな声を立てた。
「……もういい? なんか重くなってきた……ダメ……どいてェェ……っ!」
ジャックとラムジーが飛《と》び退《の》いた一瞬の後、地響きを立てて石は再び横だおしになった。
「ラムジー! 大丈夫!?」
「……うん。なんとか」
ラムジーは倒れた石を凝視した。文字が書かれていた面はまた元のように下敷きになってしまっている。
「この石、最初は向き合って立っていたんだ。でもずっと昔に片方が倒れて、それで前半の文章しか伝わらなかったんだ……」
「恐らくそうだ。『マクラブ』の『ラブ』には〈小さい狼〉という意味がある。ラムジーの先祖は子孫の中に人狼の形質を持った者が生まれる可能性を考慮していたんだろう。だから他の追放者に骨を奪われないように罠を仕掛けた上で林檎の木を植え、石にメッセージを残したんだ。林檎の木は、特に妖素を吸収しやすい性質を持っている。林檎の木の根が洞窟の壁を覆っていただろう。根から吸収された妖素は年毎《としごと》に少しずつ実に溜まり、地面に落ちてはまた吸収される。その繰り返しで長い年月の間に次第に妖素が濃縮《のうしゅく》されて来たんだ。〈時林檎〉とはそういう意味だろう。この木は、先祖から君たちへの贈り物だよ」
「そうだったの……。ご先祖様、意地悪だなんて言ってごめんなさい……。きっと叔父さんもメッセージの前半は読んだけど、言い伝えと同じだから分からなかったのね」
アグネスは大きく枝を広げる時林檎の木を見上げた。
「それにしても、最初は軽いと思ったのにどうして急に重くなったのかしら」
「ネッシー、軽いわけないよ……」
持ち上げたのだって信じられない。いくらネッシーが怪力でも、あの石を片手で持ち上げるなんて。ジャックがにこりと笑った。
「あれは一種の魔法だ。さっきの洞窟で空気中の妖素を吸いこんだのでアグネスが生来《せいらい》持っていた力の一部が解放されたんだろう。だが吸いこんだ量が少なすぎたから続かなかった。石が重く感じられたのはそのせいだよ」
「どういうこと?」
「巨人族の魔力は主に超人的な腕力として顕《あらわ》れるんだ」
「えっ……巨人……って……?」
「つまり、君の属する種族だが……」
レノックスが後を引き取った。
「俺の考えじゃ、嬢ちゃんは巨人族だな」
「僕もそう思う。〈強き腕《アームストロング》〉という名字だから薄々そうじゃないかと考えていたが、今のではっきりした。君は巨人族の末裔《まつえい》だよ」
「ええーっ! あたし、妖精じゃないの?」
アグネスは仰天《ぎょうてん》したように叫んだ。
「妖精も巨人も同じようなものだよ。僕たちダナ人の祖先は魔力をさまざまな形に進化させることに、巨人族の祖先は身体を大きくして力を強くすることに妖素の影響を使ったんだ」
ジャックが付け加えたが、アグネスはひどく落胆《らくたん》した風だった。
「そんなぁ……。妖精だと思ったら巨人だなんて……! ねえ、先祖返りってことは、あたしもっと大きくなるの……?」
「巨人族の女性なら潜在的《せんざいてき》には七フィートを超える可能性がある。でも妖素がない環境ではそれほど大きくはならない筈だ。ただし、時林檎を食べればもっと伸びるかも知れない。君はまだ成長期みたいだからね」
「七フィート? 絶対食べないわっ。これ以上ちょっとだって大きくなりたくないもの! 今だって釣《つ》り合《あ》いが取れないのに……」
「釣り合いってなにが?」
「なんでもないわよっ!」
ネッシーはまたも真っ赤になっていた。体温は高いし、心臓は物凄《ものすご》い速さでどきどき鳴っている。怒ってるんだろうか。泣いたり怒ったり、今日のネッシーは何だか変だ。でもあんまり色々なことがあったから頭が混乱しても無理はないけど。
「ネッシー、自分が人間じゃないなんて、ショックかもしれないけど……」
「あ、あたしは別に平気よ! それに、あんただってそうなんだし……」
どうしてか、ジャックが小さく微笑《ほほえ》んだ。
「日が暮れる前に村に戻ろうか」
森の出口でアグネスと別れた。
「じゃね、ネッシー。今日のことは家の人にも内緒だからね」
「何度も言わなくても分かってるってば。それより今夜のケイリーには来るの? 公民館で『ダンスと歌の夕べ』でしょ。あんたのお母さんも歌うんじゃない?」
「あ。でも今日はお客さんがいるから……」
「客ってどうせその二人だけでしょ? 一緒に来ればいいじゃない。七時からよ」
アグネスはそう言ってハイストリートの方へぱたぱたと駆けて行った。
「全く、威勢《いせい》のいい嬢ちゃんだ」
「すみません、レノックスさん……」
「なんでチビが謝るんだ? 別に気にしちゃいないさ。凶暴だとか下品だとか妖精に見えないとか……っ」
ああ、やっぱり気にしている……。なんだか自分の失敗のように気恥ずかしい。
「ところで、ケイリーってのは?」
「ケイリーっていうのはダンスパーティーみたいなもんです。歌の発表会とか、ダンスとか。飲み物と軽食も出ます。母さんもクリップフォード混声合唱団で歌ってるんですよ」
「そりゃ、ぜひ行きたいな。ジャック、あんたも行くだろ」
「いや、僕は賑《にぎ》やかなことはあまり……」
「チビすけだって行きたがってるぜ。な?」
ジャックが困っているので、どうしようかとラムジーは迷った。けれどカディルが亡くなって以来彼はずっと塞《ふさ》いでいるから、無理にでも誘った方が良いのでは、とも思うのだ。
「えっと、来てくれたら嬉しいです……」
「そう……か」
レノックスがニヤッと笑った。
「決まりだな」
5――さよならは言わない
ジャックは罠《わな》にはめられたような気分でクリップフォード村公民館への道を歩いた。ケイリーはもう始まっているらしく、公民館の窓から溢《あふ》れる光で村の目抜き通りは暖かなレモン色に濡《ぬ》れていた。近づくにつれて哀愁《あいしゅう》を帯《お》びた民話《みんよう》の速い調べが聞こえてくる。
公民館のドアを開けた途端、赤毛の若者がジョッキを手にニコニコと話しかけてきた。
「や、あんたたちも来たのかい。楽しんでいってくれよ」
「ああ……。どうも」
若者が行ってしまうとレノックスが囁《ささや》いた。
「……今の誰だっけ?」
「ドナルド、だと思う。自信はないが」
ラムジーが嬉《うれ》しそうに笑った。
「ジャックさん、よく分かりましたね。近所の人だってよく間違えるんですよ」
ホールでは大勢の人間が立ったまま飲み物を片手にお喋《しゃべ》りに興《きょう》じていた。壁際《かべぎわ》の仮設のカウンターには飲み物とサンドイッチが置かれている。殺風景《さっぷうけい》な白壁は金のモールと造花で飾られ、手製とおぼしきアルミ箔《はく》のミラーボールが飲み食いする人々の頭上でゆっくりと回っていた。
「じゃ、ぼく飲み物を取ってきますね」
ラムジーが人込みをかき分けるのと入れ違いに、人波の向こうでアグネスが手を振った。
「ホントに来たのね、王子さま」
アグネスは深緑を基調にした格子縞《タータン》のスカートとベルベットのベストに着替えていた。無造作に垂《た》らしていた髪は耳の上で細い三つ編みにし、後ろに回して青絹のリボンで結んでいる。
ジャックは微笑《ほほえ》んだ。彼女の装《よそお》いが誰のためなのかは明らかだ。
レノックスがにやにやしながら言った。
「嬢ちゃん、えらいめかしてるじゃないか。けど、半端《はんぱ》に短かないか? そのスカート」
「……去年はヒザまであったのよっ!」
アグネスは真っ赤になって言い返し、それからそわそわとあたりを見回した。
「ねえ、ラムジーは?」
「飲み物を取りに行ったんだが、遅いね」
「グズなんだから。ダンスが始まっちゃう」
音楽が変わった。歯切れの良いリズムのダンス・チューンだ。ギターとフィドルが競《きそ》い合《あ》うように目まぐるしく旋律《せんりつ》を奏《かな》で、アコーデオンの音《ね》が陽気に鳴り響く。アグネスは口を尖《とが》らせて整列を始めた人垣を眺めている。
「ねえ、王子さま。一緒に踊らない?」
「いや。僕はダンスは苦手なんだ」
「じゃ、俺と踊るか、嬢ちゃん。ジャックよか俺の方が背丈《せたけ》が釣《つ》り合《あ》うぜ」
上着を脱《ぬ》ぎながらレノックスが言う。
「ええ〜、刺青《いれずみ》男とぉ?」
「いいじゃないか。ほら、始まるぜ」
アグネスはしぶしぶとレノックスの手を引いて踊りの列に加わった。
音楽が途切れ、始まる。二列ずつに並んだ人々は互いに手を取って踊り始めた。同じパートナーとずっと踊るのではなく、向かい合った相手と踊っては次々にパートナーを交代していく素朴《そぼく》なダンスだ。ジャックはラノンにもこれに似た社交ダンスがあることを思い出した。
両手にグラスを抱《かか》えたラムジーが戻ってきた。
「遅くなってごめんなさい、学校の友達に捕まっちゃって。あれ? レノックスさんは?」
「アグネスと踊りに行ったよ」
「なんだ。じゃあ一つぼくが飲んじゃおう」
ジャックは小さな丸い果実の浮いた飲み物を受け取り、一口飲んでおや、と思った。
「これは?」
「クリップフォード村特製フルーツパンチですよ。今は時期だから生のサンザシを使うんです。このあたりではどこにでも生《は》えてて、秋にはいっぱい採《と》れるんですよ」
「そうか……」
パンチに浮かぶ赤い実は、なんだか懐かしい味がした。踊りの列に参加しているのは半分ほどで、あとは思い思いにホールの隅で談笑している。みな楽しそうだ。
ダンスが一巡し、音楽が終わった。
「ラムジー、君も踊って来たらどうだ」
「ジャックさんは?」
「僕は遠慮するよ。昔から苦手なんだ」
「そうですかあ……」
次の曲が始まる。ラムジーが踊りの列に加わるのと入れ違いにレノックスが戻って来た。
「いや、参った。案外難しいもんだ……」
「当たり前だろう。飛び込みで知らないダンスを踊る奴の気が知れないな」
「下手でもいいのさ。楽しめればな」
レノックスはそう言って上着を羽織《はお》った。
「……が、誰も俺の文様《もんよう》を視《み》なかったな」
「そうか……」
彼らがこの世界の住人になって五百年近くになる。先祖返りの数は多くないのだろう。
「ところで、これを飲んでみたか?」
特製パンチをレノックスに手渡す。一口飲んで、彼はあっと声をあげた。
「こりゃ、ラノンのサンザシじゃないか!」
「やっぱりそう思うか?」
「ああ。この世界にもサンザシはあるが、酸《す》っぱいから生じゃほとんど食わないんだ。こんな甘いサンザシはラノンの品種に間違いねえ……」
「クリップフォードの地物《じもの》だそうだよ」
「なるほど……。この村の先祖の誰かが種を持ち込んで植えたんだろうな……。ロンドンじゃ、誰もそんなことはしなかったが」
レノックスはしみじみとグラスを眺めた。
「盟主《めいしゅ》は、コスト計算で骨を諦《あきら》めるさ。嫌味の一つも言うだろうがな。だがロンドンの連中には、いい土産《みやげ》が見つかったぜ……」
レノックスはサンザシの実ごとパンチを飲み干し、もう一踊りしてくると言って踊りの列に戻った。懲《こ》りない男だ。
フロアではアグネスとラムジーがちょうどペアになって踊っている。ジャックは微笑み、グラスを手にそっと公民館の外に出た。
夜風が心地よかった。コンクリートの段に腰を下ろして甘酸《あまず》っぱいパンチを啜《すす》り、漏《も》れ聞《き》こえてくる陽気な音楽に耳を傾けた。
この村の人々は、血は薄まっていてもその多くが追放ラノン人の子孫なのだ。この地に根を下ろした追放者たちは幸せだったのだろうか。おそらく、そうだったのだろう。だからこそ魔法を捨て、故郷への想いを絶ち切って人間として生きていこうと決めたのだ。
自分には出来るだろうか。ラノンを忘れることが。
不意に足下のコンクリートに影が差した。
「どうしたね? こんなとこで」
顔をあげると、ラムジーの父、ヘイミッシュ・マクラブ氏が案じ顔で立っていた。
「風に当たっていたんです。少し人いきれに酔ったようなので……」
「そうか。実は家内が歌うことになっているんだが、儂《わし》も賑《にぎ》やかなのが苦手でね。ダンスが終わるまで、ここで待つことにしよう」
ヘイミッシュはジャックの隣に並んで座った。ラムジーと同じ焦《こ》げ茶の巻き毛には白いものが目立ち始めている。
「ロンドンでは息子が世話になったそうだな」
「いえ、僕の方こそ」
彼は何も言わずしばらくじっと座っていたが、やがてぽつりと言った。
「あの子は、不憫《ふびん》な子でね。この村には一つの伝説があるんだが……」
「〈第七子の呪い〉ですか」
「あの子から聞いたか」
「だいたいのことは。叔父君《おじぎみ》のことも」
「そうか。なら話がしやすい。儂は、あの子がセオドアのようになるんじゃないか心配なんだよ。あの子を授《さず》かった時には、呪いなんてばかばかしいとしか思わなかった。男ばかり六人も生まれたんで、家内は次こそ女の子が欲しいと言っていたしな。だが生まれてみるとまた男の子だった。七人目だよ。セオドアによく似ていた。元気で、素直で、活発でな。本当に良い子だった。セオドアには、それはよく懐《なつ》いていたよ……」
ヘイミッシュは煙草に火を点《つ》け、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
「セオドアがあんなことになって一番傷ついたのはあの子だろう。儂は、セオドアのノートを隠した。呪いのことを知られたくなかったんだ。だが、あの子は知ってしまった。何も言わないが、家出したのはそのせいだろう。ロンドンに行って、それでどうなるというものでもないだろうに。儂は、あの子をもうどこにもやりたくない。何があっても家族の手で最後まで守ってやりたい……」
ジャックは口を開いた。
「待って下さい。僕は、ラムジーは見かけよりずっと強い子だと思います。ロンドンに行ったのも、彼なりの考えがあってのことです。彼は自分で運命と闘《たたか》うと決め、それを克服《こくふく》しようとしている。息子さんを信じて、好きにさせてあげたらどうですか。呪いに直面しているのは彼なんです。運命も未来も彼のものです。あなたのじゃない」
無言の返答が返ってくる。長い沈黙のあと、彼は一言ずつ噛《か》んで吐き出すように言った。
「あんたの言うことは、正論だろうよ。だが、儂は、親だからな……」
ジャックは目を閉じ、自分の処刑命令書に署名した父の苦悩を想った。そうさせた自分の親不孝を恥じた。
「……ミスター・マクラブ。これだけは言っておきます。ラムジーは、大丈夫です。彼は自分の道を切り開いた。妖精の呪いはもう彼には触れられない」
「それを信じろというのかい?」
「呪いを信じるなら救いも信じられるのでは?」
ジャックは首を巡《めぐ》らしてじっと彼の目を見つめた。しばらくの間ヘイミッシュは目を細めてジャックを見返していたが、やがてその目から少しずつ不信の色が薄らいでいった。
「あんたは、不思議な人だ。なんだか信じられるような気がしてきたよ」
「僕より、ラムジーを信じてください」
「そうだなあ……。しかし、いつまでも赤ん坊に思えるよ。それは上の子達も同じだが」
彼は目尻の皺を笑みに変え、それからもじゃもじゃした眉をふと顰め《ひそ》めた。
「あの子は、またロンドンに行きたいと言うんだよ。どうしたものか……」
「彼がそう言ったんですか?」
そういえばロンドンから帰郷するときラムジーは特に何も言わなかったので、彼がこれからどうするつもりなのか聞いていなかった。
「本人に確認してみます。中途半端な気持ちなら、ここに居た方がいい」
「頼む。あの子はあんたの言うことならきく」
建物の中から大きな拍手が聞こえ、音楽が止《や》んだ。
「……そろそろ歌が始まる時間だ。聴いていくかね?」
「ええ。ぜひ」
ホールに戻ると、ラムジーが手を振って駆け寄ってきた。
「ジャックさん、アグネスを見なかったですか?」
「いや。どうかしたのかい?」
「これからどうするかを話してたら、急に怒ったみたいになって出て行っちゃったんです。どうしたのかな……」
ラムジーは背伸びして人込みを見渡した。
「そのことなんだが、ちょっと話がしたいんだ。お母さんの歌はすぐ始まるのかい?」
「母さんの独唱は『民謡タイム』の最後の方だから、まだ先ですよ」
「そうか」
ジャックはラムジーをひっぱって公民館の廊下に出た。
「お父さんから聞いたんだが、ロンドンに戻りたいというのは本当なのか?」
「ええと……そうなんです」
つぶらな栗色の目が困ったようにジャックを見上げる。
「ジャックさんには話しておこうと思ってたんだけど言いそびれちゃって。それでさっき家に戻ったとき父が居たので、思い切って話してみたんだけど、やっぱりダメだって……」
「どうしてロンドンに行きたいんだ? クリップフォードはとても良いところじゃないか。御家族は心配しているよ」
ラムジーはもじもじしながら言った。
「ジャックさん、こないだぼくが〈同盟〉の面接に行ったのは知ってますよね」
「聞いたよ。だが、君はもう自由なんだ。〈同盟〉に頼らなくても時林檎が君を守ってくれる」
少し前に、ラムジーは〈同盟〉の準会員になった。同盟は妖素《ようそ》を支給する代わりに会員に対し所在確認と一定の奉仕を求める。妖素が必要なラムジーには仕方がないことだったが、ここに来て状況は変わった。時林檎の実があれば、ラムジーは同盟に縛《しば》られる必要はないのだ。
「ジャックさん。そうじゃないんです。ぼく、何かしてもらうんじゃなくて、何かしたいんです。〈同盟〉の事務所に行ったとき、そこでラノンから来た大勢の人たちと会いました。クリップフォードの御先祖様たちと同じ、故郷に帰れない人たちです。でも、慣れない世界でみんな一生懸命に暮らしている。ぼくはちょっとでもジャックさんの役に立てて嬉しかったけど、あの人たちのためにも何か出来ることがあるんじゃないかって思うんです。ぼくは人狼に生まれていろいろ厄介《やっかい》なこともあるけれど、反対にぼくにしか出来ないこともあります。ぼくは、ぼくに出来ることをしたいんです。役に立ちたいんです」
「そうか……」
ラムジーがそんなことを考えていたとは思いもしなかった。だが考えてみればラムジーも十六歳だ。自分なりの考えを持っていて当然だろう。ジャックはヘイミッシュに息子を信じるように言っておきながら、自分の方こそラムジーを子供扱いしていたことに気づいた。
「よく分かった。お父さんには僕からも話してみよう」
「すみません、ジャックさん。ぼく、この世界の生まれだから、みんなにいろいろ教えてあげられますよ」
ジャックは思わず微笑んだ。この村で生まれ育ったラムジーは都会のことをほとんど知らない。ロンドン暮らしについてなら、この世界に来て二年の自分の方が詳しいくらいだ。
「ああ。そうだね」
ホールからピアノの音が流れ、歌はコーラスから独唱に移っていた。澄《す》んだ秋の空のように温かくのびやかな歌声が聞こえてくる。
「戻ろうか。お母さんの歌を聴《き》き逃《のが》したら大変だ」
◆◆◆
翌朝、ラムジーは早くに目を覚ました。昨夜のことが気になってよく眠れなかったのだ。ジャックは父に話してくれると言ったけれど、それで父はロンドン行きを許してくれるだろうか。昨夜話したとき、父は一言《いちごん》の下に駄目だと言った。それ以上、何も聞こうとはしなかった。
心配なのは解る。それでなくとも呪いのことがあるのだ。ラノンのことや妖素のこと、同盟のことを話すわけにはいかないので、大丈夫だと言うラムジーの言い分にはどうしても説得力がない。でも、最初に家を出たときには家族に黙って行ってしまったから、今度はちゃんと許しを得て行きたいのだ。
頭の中でぐるぐると悩みながら居間に降りると、赤毛の兄の一人がソファで寝ころんでいた。ドナルドだ。
「や、チビ。早いな」
「兄さんこそ……」
言いかけたとき、キッチンの方からどやどやと残りの五人が現れた。外はまだ暗い。六人全員がこの時間に起きているなんて普通じゃない。
「ど……どうしたの、兄さんたち……」
兄たちは黙ったままこちらを睨んでいる。最初に口を開いたのは、コリンだった。
「ラムジー、また一人でロンドンに行くつもりなんだろ」
「えっ……」
「親父から聞いたんだ。チビはまたロンドンに行きたがってるって」
ロイが大声を出したのをきっかけに、六人はてんでに口を開いた。
「ロンドンのどこが良いんだよ」
「聞けば、物騒《ぶっそう》なとこじゃないか」
「空気は汚いし、騒音だらけだし」
「ケイリーだってないんだぜ」
「行くんじゃねえ、チビ!」
ぽかんと口を開けて兄たちを眺めているうちに、合点《がてん》が行った。
「兄さんたち……もしかして、このままぼくがまた家出すると思ったの……?」
重々しい口調でユアンが言う。
「今日は、早朝のバスの便がある」
「まさかぁ。そんな乱暴なことしないよう」
「けど、おまえにゃ前科があるからな」
と、ドナルド。
「しないってば。それにまず父さんに許しを貰《もら》わなきゃ」
「親父は反対に決まってるだろが」
アランが付け加えた。
「俺たちはみんな反対だ」
進退きわまってしまった。父を説得するだけでも大変なのに、兄たちまで反対に回ってしまったのだ。
そのとき、玄関のドアが開いて牧羊犬《ボーダー・コリー》のチップを連れた父が外から戻ってきた。
「なんだ、おまえたち。やけに早いな」
「あっ、父さん。チビがまたロンドンに行くって言うから……」
こういうときは、たいがい長兄のユアンが代表して喋《しゃべ》るので、残りの五人は静かになる。ユアンは父に六人全員が反対だと伝えた。六対一では到底《とうてい》勝ち目はなく、ラムジーは仕方なく唯一反対を表明していない犬のチップに話しかけた。
「チップ。元気にしてた?」
ここでは犬はペットというよりは仕事仲間だ。特に牧羊犬頭のチップはとても賢くて、父の命令はなんでも理解して言うことを聞く。でもマクラブ家の息子たちのことは主人と認めておらず、せいぜい群れの同等の仲間程度に考えているようだった。特にラムジーはいくつになってもチップにとって群れの一番年下の仔犬であるらしく、面倒をみる対象でこそあれこちらの言うことはちっとも聞いてくれないのだ。
「チップ、おいでよ」
チップは耳をぴくりと動かし、それからラムジーの足下に来てぴったりと伏せた。今までこんな風にチップが素直に言うことを聞くことはなかったので、ちょっとびっくりした。
「いい子だね、チップ」
白黒二色の柔らかい頭の毛を両手で挟みこむようにして撫《な》でてやる。チップは身体を低くし、小さく尻尾を振りながら恭《うやうや》しく口元を舐《な》めた。服従と敬意を示す仕草《しぐさ》だ。
その様子を見ていた父が不意に口を開いた。
「ラムジー。ロンドンに行って、どうするつもりなんだ? 都会も不景気だぞ」
「レノックスさんの会社で働こうと思って……。そこは中卒でもいいし、ちゃんと就職する気があるなら口をきいてくれるって」
これは嘘ではない。同盟ではいくつかの企業を経営していて、メンバーに就職口を斡旋《あっせん》しているのだ。
「そうか……。辛くなったらいつでも帰って来い」
そう言うと父は背を向けた。
「おやじ! 行かせるのかよ!」
アランが大声で叫ぶ。父が振り向いた。
「アラン。ラムジーの人生は、ラムジーのだ。もちろん、おまえのもな。それから、ジョルディー。奨学金を取れる自信があるんなら、どこの大学にでも好きに行けばいい」
ジョルディーは呆然《ぼうぜん》とした顔で言った。
「知ってたの? 父さん……」
「夜中まで勉強してたことか? 当たり前だ」
父はチップを連れてそのまま出ていった。出産間近の馬がいるから、また見回りに行くのだろう。
「……オレ、ジョルディーが大学に行きたがってたなんて知らなかったよ。全く敵《かな》わないな」
ロイがぽつんと呟いた。
「……ぼくも」
本当だ。やっぱり、父には敵わない。
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エピローグ
ロンドンに行く許しが出て、真っ先に知らせたのはやっぱりジャックにだった。彼はちょっぴり笑って、僕は何もしていないよ、と言った。だけどケイリーのときジャックが父と何か話をしたのは知っている。あの夜、ジャックの服から父の煙草の匂いがしたからだ。
レノックスはケイリーの翌日、一足先にロンドンに発《た》った。〈同盟〉の人たちへの土産《みやげ》に、サンザシの実を山ほど持って。ラノンのサンザシの味がするのだという。クリップフォードのサンザシは、ハイランドでもこの辺にだけ生《は》える種類だ。村の周囲の至る所に枝を広げていて、強い北風を遮《さえぎ》ってくれる。秋に熟する小さな赤い実は甘酸《あまず》っぱくて生でも食べられるし、お菓子やジャムやお茶の材料にもなる。春先には柔らかい若芽も食べられるので、昔は『パンとチーズの木』とも呼ばれていたという。もちろん白い花は五月の祭りの主役だ。
次に村に帰ってくるのはいつだろう。来年のサンザシの花は見られないかもしれない。そんなことを考えながら出発の準備をしていると、なんだかだんだん村を離れがたい気持ちになってくる。
(だけど、もう決めたんだ。ぼくは、ぼくの力を役立てられる場所に行くって)
ここに残って家の仕事の手伝いをするという選択肢もあるけれど、うちには六人も立派な兄がいるのだから。
アグネスとは、ケイリーの夜以来会っていない。途中で不機嫌になって帰ってしまったのだ。自分が何か気に障ることを言ったのだろうか。レノックスは名刺を渡してその気になったら一度〈同盟〉に来るように誘ったらしいけど、アグネスはあまり乗り気でないみたいだった。
荷物はあまりないから、荷造りはもうだいたい終わっていた。かばんの底には〈時林檎〉を煮て作ったジャムが十二個の小さな瓶《びん》に小分けして入っている。これで、少なくとも一年は満月期の発作に悩まされずに済む。
ラムジーは、ノックの音で振り返った。
「これも入れて行きなさい、ラムジー。今年はロンドンの冬も寒いかも知れないから」
自家製の羊毛で作った分厚《ぶあつ》いセーターを手にした母が戸口に立っている。
「お母さん……」
ラムジーがまたロンドンに行くことについて、母は賛成も反対もしなかった。それだけに、心配りが身に沁《し》みた。
「ウィンタースさんは?」
「もう一度山を見たいって、一人で出かけた」
母は柔らかに微笑《ほほえ》んだ。
「あの人、少し穏やかになられたわ」
「ジャックさんが?」
「ええ、そうよ。初めてお会いした時には少し怖いみたいだった。薄氷《うすごおり》みたいに張りつめていて、今にも壊れてしまいそうだった」
母の鋭《するど》さに舌を巻きながらラムジーは小さな声で言った。
「お母さん。ジャックさんはつい最近とても大切な人を亡くしたんだ。でも彼は強いから、悲しくても表に出さないんだよ」
「ラムジー。人は強いから弱いの。あの人がちゃんと笑えるようになるまで、おまえがしっかり側《そば》についていてあげなくちゃ。たとえ自分には何も出来ないと思ってもよ」
「うん……そうする」
胸の奥からくすぐったい泣き笑いがこみ上げてきて、どうしようもなかった。
バス停まで、ドナルドが車で送ってくれた。
「じゃ、また面倒かけるがチビをよろしく頼む。何しろ世間知らずのガキだからなあ」
ドナルドはジャックに向かってそう言って、ラムジーの頭をぐりぐり撫でた。
「兄さん、子供みたいだよぉ」
「なーに言ってんだ、ガキのくせに」
ハイストリートをバスが走って来る。ラムジーは向かいのアームストロング雑貨店のウィンドウを見つめた。アグネスの姿はない。
「ほら、バスが来た。さっさと乗ってロンドンに行っちまいな」
「うん……。じゃあ、兄さん、元気でね」
「おまえもな」
ラムジーは何度も振り返りながらバスのステップを上った。窓際の席に座り、もう一度雑貨店に目をやる。
「……今日出発だって、言っといたんだけど」
「アグネスのことが気になるかい?」
「え……。だって、〈仲間〉だから」
バスはがたがたと揺れながら走り出した。村を出ると道はすぐカーブの多い山あいの一本道になる。バスが大きなS字カーブを回ったとき、道端《みちばた》の岩場に誰かが仁王立《におうだ》ちに立っているのが見えた。ラムジーは目を凝《こ》らした。
「ネッシー……!?」
ラムジーは窓に飛びついた。アグネスが両手でメガホンを作り、バスに向かって大声で叫ぶ。
「ラムジー・マクラブのバカ野郎ーっ!」
[#挿絵(img/Lunnainn1_273.jpg)入る]
バスが彼女の脇を走り抜ける。
「大バカ野郎ーっ!」
アグネスは怒鳴りながらバスを追いかけて走りだした。ラムジーは通路を走っていって一番後ろの窓を開け、顔を出して叫んだ。
「ネッシー、元気でね! 手紙出すから!」
「バカヤロオォー……」
風に声がかき消される。ラムジーは懸命に耳をそばだてた。アグネスの口から零《こぼ》れ落《お》ちた言葉を風が切れ切れに運ぶ。アグネスは大きく手を振りながら走り続け、次第に引き離されてその姿は小さくなり、やがて見えなくなった。
「彼女、何て言っていたんだい?」
「えっと……あの、聞こえませんでした」
そう言ったら、なぜか胸の鼓動が速くなった。ラムジーは、きっとそれはジャックに嘘を吐《つ》いたせいなんだろうと思った。
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あとがき[#地から2字上げ] 縞田理理
はじめまして。駆け出し小説家、縞田理理《しまだりり》と申します。
拙作《せっさく》を手に取って下さって、ありがとうございます。
『霧の日にはラノンが視《み》える』は今を去ること二年前の二〇〇一年夏、ウィングス小説大賞の末席《まっせき》にやっとこどっこいひっかかった作品です。小説大賞発表の日、本を買ってお店を出て、一番近いベンチによろよろ座って、紙袋とビニール包装をびりびり破き、心臓ばくばくってこういうことなのね……などととりとめのないことを考え、びくびくしながら小説大賞通過者の頁《ページ》を開きました。四次……三次……二次……一次……ない……と、肩を落として最初の頁に戻り……そこで幻を見たのです。『霧の……』。いや、そんな。ぜったい希望的見間違いに違いないと思い、一日一本を閉じ、深呼吸し、気を取り直して恐る恐るもう一度開きました。
〈編集部期待作〉のところに、見間違えるにはちょっと長すぎる某タイトルが。
しばし、呆然。夢……? 現実……?
投稿小説を書くからには、いつかは入選、というささやかな希望は持っているわけですが、実際自分の番になってみると夢を見ているようにしか思えないわけで……。
とにかくそれがスタート台に立った瞬間でした。
ここまで来るのには、多くの方々の励《はげ》ましとご助力がありました。元気をくれた友人に、わがままを許してくれた家族に、ありがとうを言います。それからこの物語を書くにあたって有意義な情報を下さった日本スコットランド協会さま、いつも変わらぬ励ましを下さった創作同人サークルの皆さま、的確なアドバイスと書き続ける勇気を下さった通信創作教室のS先生、そして何よりこの海のものとも山のものとも知れぬ新人を拾いあげて下さったウィングス編集部の皆さま、この本の出版に携《たずさ》わった全ての方々に厚く御礼申し上げます。
そしてお忙しいなか目を瞠《みは》るイラストの数々を描いて下さったねぎしきょうこ先生、本当にどうもありがとうございました!
『霧の日にはラノンが視える』はどんな話なのかというと一言で説明しにくいのですが、大雑把《おおざっぱ》に分類するならおそらく〈ロー・ファンタジー〉になるのではないかと思います。現実世界のなかで不思議が進行するタイプのファンタジーです。舞台をロンドンにしたのは何度か行っていてイギリスの空気感みたいなものを肌で覚えていたことと、手元に資料があって新たに集めずに済むから、でした。そういうわけで、今まで小説ウィングスに掲載された拙作は全てイギリスが舞台になっています。おまけに全てに人外《じんがい》が登場していたりします。ええと、その……好きこそ物の上手なれ、ということで……済みません……(滝汗)。
〈ラノン〉は、何と言うか、好きなものをみんないっしょくたに大鍋にぶち込んで、ぐつぐつ煮こんだら出来てしまった闇鍋《やみなべ》料理、みたいなものなのです……。
そしてその好きなものというのは、イギリスとケルト文化、SF、ファンタジー、ミステリー、不思議と妖精妖怪モンスターたち――でした。
この鍋料理のメイン素材はケルトの妖精伝説なのですが、伝説とオリジナルの部分とが混ざり合っていて分かりにくいので少し解説を……。
グラシュティグ:山羊《やぎ》の足を長い裾《すそ》に隠した山の妖精。子供と老人にだけ親切。女の妖精ということですが、裾をまくって性別をしかと確かめた人はいないので〈外見上男女の見分けがつかない〉ということにさせて頂《いただ》きました。
ブルーマン:スコットランド北西部のミンチ海峡に出没する凶悪な海の妖精。日本名は〈青幽霊《あおゆうれい》〉。海峡を通る船を襲って沈めます。韻《いん》を踏んで言い返すことが出来れば沈められずに済むそうです。
ダナ・オ・シー:妖精の祖《そ》と云われる〈トゥアハ・デ・ダナーン〉は基本的に神話の時代の住人なので現代とリンクさせたこの作品には敢《あ》えて使いませんでした。ダナ・オ・シーは典型的なアイルランドの英雄妖精ということですが、ほとんど言及《げんきゅう》されることがなく子細《しさい》は不明です。おそらくはより一般的な妖精の呼称〈ディーナ・シー〉の別称ではないかと……。
ウェアウルフ:所謂《いわゆる》、人狼《じんろう》。イギリス及びアイルランドでは狼の絶滅とともにウェアウルフも絶滅したと考えられていました。
レッドキャップ:スコットランド・イングランド国境付近に多く出没する凶暴なゴブリン。日本名は〈赤帽子〉。常にかぶっている帽子を人間の血で赤く染めるのが趣味。
巨人:ケルトの巨人には邪悪な人食いタイプと単細胞のお人よしタイプがあり、スコットランドやアイルランドの巨人はたいてい気は優しくて力持ち、タイプです。
ガブリエル犬《ラチェット》:非常に古くから知られている空を往《ゆ》く犬の声の怪《かい》です。雁《かり》の渡りの声が地面に反射して犬の吠《ほ》え声《ごえ》のように聞こえるのではないか、という説が有力。ちなみに犬+雁というビジュアルはこの仮説を元に作ったオリジナルです。本編には登場しませんが、実はこのガブリエル犬には卵から生まれるという裏設定もあったのでした。卵から孵《かえ》ったヒナは最初に見たものを親と思い込んでピヨピヨ鳴きながらくっついて歩いたりして……。
ケルト人はヨーロッパの先住民族と云われ、その文化はいまもヨーロッパとブリテン島の一部、そしてアイルランド全土にひっそりと息づいています。イギリス滞在時、どういうわけでか私はこのケルトの魅力にどっぷりはまってしまったのでした。
遠い昔にはラノンと古代ケルト世界は行《い》き来《き》が可能だったんじゃないかとか、この世界に残される妖精伝説はその時代の往来の結果なんじゃないかとか、古代ケルト世界と古代ラノンは言語や文化も似ていたんじゃないかとか、あれやこれやと妄想しているうちに、ラノンでは大昔にケルト系言語が話されていて、今のラノンでは古語としてのみそれが残っているのではないか……なんて事を考えついてしまったのです。
それで、止《よ》せばいいのに本編中で使う〈呪誦《ピショーグ》〉をケルト系言語であるゲール語にする、というえらく無謀《むぼう》なことを試《こころ》みてしまったのでした。ゲール語は現在でもアイルランドとスコットランドの一部で使われているのですが、文法はおろか発音も難解……よ、読めない……(泣)。一語のために〈English/|Gaelic《ゲーリック》〉辞書と格闘する羽目《はめ》になりました。それでも正しく使えているのかどうかはなはだ不安なのですが……。
キャラの名前も益体《やくたい》も無く調べたり考えたりするのが好きで、あれこれひねくり回しました。
〈ジャック〉は霜《しも》を意味する〈ジャック・フロスト〉から付けたのですが、『トランプの王子様』というニュアンスもあったりします。〈マクラブ〉の〈Mc〉は『〜の息子』、ラブは狼の意味。ラムジーは羊の皮を被《かぶ》った狼、という感じで。
〈レノックス〉は首領の意、〈ファークハー〉はハイランドの伝説に登場するブルーマンの名。
〈カディル〉は『小さな戦士』を意味するウェールズ名のもじり。〈アグネス〉はピュア、の意ですが、どちらかというと名字とニックネームがより本人を表しているかと(笑)。クリップフォード村の〈クリップ〉はアンガス地方の言葉で小妖精のこと。あ、あと一つ。〈ランダル〉は『狡猾《こうかつ》な戦士』という意味です。この人の場合、むしろ名前から性格が決まったようなところがあります。
小さい時からとにかく本が好きでした。本の頁を開くとそこにはいつも素晴らしい世界があって、読んでいる間は厭《いや》なことはみな忘れました。小説を書きたいと思ったのはそのせいかも知れません。この本を読んで下さった読者様がほんの少しのあいだ現実を忘れて楽しんで頂けたなら、この物語も、この物語を造り出した私も幸せです。
未熟なタマゴ作家の物語にここまでおつき合い頂いたことに感謝します。
〈ラノン〉の妖精たちの物語は私の中でまだ終わっていないので、これからもまだ書き続けていきたいと思います。この続きは、季刊小説ウィングス誌上にて展開していく予定です。今後とも地上に生きる妖精たちを見守ってやって下さいませ。
お読みになった感想などございましたら編集部気付でお送り下さると大変に嬉しいです。
では、いつかまたお会いできることを夢見て。
二〇〇三年初夏
[#地付き] 縞田理理 拝
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[#挿絵(img/Lunnainn1_282.jpg)入る]
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底本:「霧の日にはラノンが視える」新書館ウィングス文庫、新書館
2003(平成15)年7月25日初版発行
初出:
霧の日にはラノンが視える 小説Wings’02年夏号(No.36)
晴れた日は魔法日和 書き下ろし
入力:
校正:
2009年12月24日作成