[#表紙(表紙.jpg)]
篠田節子
ハルモニア
[#改ページ]
ハルモニア
〈陸中 黒崎海岸 1991〉
岩肌に張りつくように繁茂しているハマボウフウの葉を揺らしながら、湿った風が吹き下ろしてくる。
海は凪いでいる。切り立った崖が水面に藍色の影を落とす海岸線に、屹立する岩々に抱えられるようにして白砂の浜がある。端から端まで三十メートルに満たない浜は、満潮時の今、波に洗われてますます狭く小さくなっていた。
蛇行しながら崖を下りて来た道は、いったん浜をかすめて再び山間に入っていく。
その浜に接して伸びるガードレールに寄せて、古びたカローラが一台止めてある。
波打ち際を、男が子供のようなものを背負って歩いていく。砂に足を取られるのだろうか。やや不規則な足跡が、道路に止めたカローラから続いている。
男は鉛色の空を見上げる。海風になぶられた髪は額に張りつき、目の下には紫色に隈《くま》が滲んでいる。しかし目の色は意外なくらい明るい。歳の頃は、三十代も半ばだろうか。
もはや青年といえる年齢ではないが、沖をみつめる眼差しには、諦観とともにひたむきさが潜んでいて、憔悴した顔とは不釣り合いな若々しい雰囲気を醸し出している。
男はしばらくの間、頭上に乱舞する海鵜《うみう》の黒い影を追っていたが、やがて吹きつける風に、細かい雨が混じり始めたのに気づいたらしく、背負った者のほうを振り返って、二言、三言、何かを語りかけた。
そこにいたのは、子供ではない。
茶色に乾いた肌、落ち窪んだ目。艶のない髪が萎縮した顔を取り巻いている。ひどく小柄な、成人の女だ。まるでミイラのように見えるが、女は確かに生きている。湿った手のひらで、男のシャツの背をしっかりと握っていた。そして生きている何よりの証拠に、深い眼窩の奥の目は黒く艶やかで、肉のすっかり削《そ》げおちた頬には、笑みともいいがたい漠然とした歓喜の表情が漂っている。
痩せ細った身体から、饐《す》えたような匂いを立ち上らせながら、女の魂は至福の世界に飛び立とうとしているかに見える。
男は目をしばたたかせ、再びゆっくりと海に向かって歩き始める。
遥か沖でわずかに雲が切れた。次の瞬間、霧雨を透かして遠い海面が銀白色に輝くのが見えた。
[#改ページ]
1
乾いた芝を踏んで、東野秀行《とうのひでゆき》は長いスロープを登っていく。
平地ではまだ残暑が厳しいが、ここ富士見高原ではすでに空気は透明感を増し、ダケカンバの枝々を渡る風は、忙《せわ》しなく過ぎていく秋の気配を感じさせる。
バスの停留所から十分も歩いた頃、生活寮「泉の里」の白亜の建物が、間近に見えてくる。
東野が、この高原にある精神障害者のための社会復帰施設に、臨時の指導員として通うようになって、まもなく三か月になる。指導員とはいえ、実際の指導をするわけではない。臨床心理士の行なう音楽療法の補助として、チェロを弾いて聞かせるのである。
音大の器楽科を卒業した東野にとって、心理療法というのは馴染みのない分野ではあったが、回を重ねるたびに音楽の持つ予想もしなかった可能性が見えてくる。しかも甲府の自宅から高原の寮までのドライブはなかなか快適で、泉の里の仕事は彼にとっては一種の気分転換にもなっていた。
しかし前日、彼のカローラはちょっとしたブレーキ故障を起こし修理に出してしまったので、東野はしかたなく特急列車と高原バスを乗り継いで来たのである。
楽器とケースを合わせると、重さは十キロを超える。さらに楽譜の数冊入ったカバンを持って坂道を登って来ると、さすがに汗が噴き出してきた。
立ち止まり、ハンカチで流れ落ちる汗を拭っていると、背後から「こんにちは」と声をかけられた。
振り返ると四十過ぎくらいの大柄な女が立っている。
臨床心理士の深谷規子《ふかやのりこ》だ。
「大変ね、持ってあげるわ」
「大丈夫ですよ」
東野は断ったが、かまわずカバンに手をかけてくる。ありがたいことだが、女に荷物を持ってもらうのは抵抗がある。
「重い楽器を担ぐのも、商売のうちですよ」と言うと、深谷は「あら、そう」と肩をすくめ、手をひっこめた。
ベージュのパンツのポケットに手を突っ込み、深谷は大股で東野の隣を歩く。歩を進めるたびに舞い上がる後れ毛が、初秋の陽射しに淡く透ける。
「で、どう? 考えておいてくれた?」
小さく首を傾げ、深谷は東野の顔を覗き込んだ。
「いえ……」
東野は前を向いたまま答えた。
「期待してたのよ」
「申し訳ありません」
深谷は小さく息を吐き出した。
二週間前、東野は深谷から奇妙な申し出を受けたのだった。「あなたの手で、天才を育ててみない?」と。
東野が音楽療法を手伝っているのは、中沢というもうひとりの年配の指導員のほうなので、深谷とはほとんど言葉を交わしたこともない。その深谷から、なんとも唐突な言葉をかけられ、東野は戸惑うと同時に胡散《うさん》臭いものを感じた。
「超感覚的知覚保持者、というのを知ってる?」と深谷は尋ねた。
「超能力者みたいなものですか、スプーンを曲げたりする」
茶化すつもりは毛頭なく東野が言うと、深谷はそばかすの浮いた頬をいくらか緩めた。
「人を驚かせる、という点では似たようなものかもね。神秘的でもあるわ。でも神秘主義的に取り扱われるべきではないのよ。優れた聴覚、それも並外れて……そんなものを持っている子がいるの」
「この施設に?」
深谷はうなずいた。
「彼女は、背負った障害を補ってあまりあるくらいの、すばらしい音楽的能力があるの」
「彼女というと、女の子?」
「ええ。訓練次第でどこまで伸びるのか想像もつかない。もちろん私のほうでプログラムは作るけど、あなたなりの指導方針で天才演奏家を育ててみない? 音楽の先生としては魅力的な話じゃなくて」
音楽の先生、という言い方には、ひっかかりを感じる。日本を代表する一握りのチェリストの中には入れなくても、自分の本業は教師ではなく、演奏家だという自負はある。
「その子に音楽的能力があるかどうか、ということが、深谷さんにはどうしてわかるんですか?」
「見ていればわかるわ」
こともなげに深谷は答えた。
超能力者か超感覚的知覚保持者か知らないが、そうした見せ物的発想から音楽は生まれないし、天才を作るなどと考えること自体が傲慢《ごうまん》ではないか、と東野は思う。
「失礼ですが、深谷先生は音楽をお聴きになりますか。あるいは何か弾かれますか?」
「学生時代に、ピアノを少し。ソナチネくらいまではこなしたわ」
「その『こなした』という感覚が問題なんです。音楽は、本来そういうものではありません」
「あら、そう」
音楽する能力と、音楽を感じる心は違う。音楽を愛する心を無くしたまま、卓越した技術だけを持ち、歓びのない演奏をする者を東野は数多く見てきた。そうさせまいとするのが、東野が生徒に接する場合にいちばん心を砕くところでもあった。
「あなたならできそうな気がするわ」
「優れた器楽の先生なら、いくらでもいますよ」
深谷は無言で東野を見つめていたが、やがて口元だけで微笑した。
「あなたは目立たない人ね。でも地道な努力を続けられる人。地道な努力って、胸の中に何かを突き詰めていく静かな情熱があるからできることよ」
東野は苦笑した。
存在感が薄い、というのが個性といえるのかどうかわからないが、学生時代にも同級生の女性に面と向かってそんなことを言われたことがある。
中肉中背で、醜男でもないかわりに、これといって人をひきつけるものもない。
舞台映えしないし、演奏は堅実だが華がない、と批評されたこともある。それでも努力だけは人並み以上にしてきた。情熱もある。そうでなければ、二十年以上も一つの楽器をいじってはいない。
「彼女にとっては、あなた以上の先生はいないわ」
東野は首を横に振った。
「悪いんですが、考えさせてください」と東野は答えた。
「考えさせてほしい」という言葉で、断ったつもりでいた。現在、音大の受験生や子供たち二十人あまりにチェロを教えてはいるが、「超感覚保持者」を天才演奏家に育てろなどという奇矯な要求に応えられるはずがなかった。
しかし深谷は文字通り、この二週間の間に、東野が熟考して結論を出してくれると考えていたらしい。
言い訳を考えているうちに、泉の里の広々としたエントランスに着いていた。
「それじゃ」と深谷は、東野が拍子抜けするほどあっさりと去っていった。
その後ろ姿を一瞥《いちべつ》し、東野はスリッパに履きかえて中に入る。
「リハビリ棟」と別名のついた本館のロビーや廊下はコルク張りだ。
公営の施設とは一線を画した高級感をアピールするために、当初、玄関は大理石張りで、廊下や床にはじゅうたんが敷いてあったが、主任指導員として招かれた臨床心理士、中沢が約二年かけて理事たちを説得し、張り替えさせた。体のバランス感覚が良くない人や車椅子の人もいる入所者にとって、じゅうたんは見た目の豪華さに反して体の動きを阻害するし、大理石は転倒した際、危険だからだ。
プレイルームに着くと、開始までかなり間があるにもかかわらず、三十畳ほどの部屋には人が集まり始めていた。
部屋の隅で入所者と話をしていた中沢が、白髪頭をかき上げ、「やあ」と片手を上げた。
「みんな君の来るのを楽しみにしてたんだよ」
社会復帰施設という名を掲げているとはいえ、ここで入所者の自立と社会復帰が順調になされているとはいいがたい。今のところ泉の里を出て仕事に就いた人は、ひとりもいない。設立以来、十数年たつが、施設内で一生を終えようとしている人々がほとんどなのだ。地域社会との交流もなく、外部からやってくる自分に入所者が新鮮なものを感じる気持ちは東野にも理解できる。
扇型に椅子を並べた人々の中央に座り、中沢が何か話し出した。
人々の顔触れは、子供から老人までいる。音楽療法の参加者は十数名で、あくまで希望者のみだ。
東野は中沢の用意したプログラムを確認し、丹念に弓に松脂《まつやに》を塗り始める。
音楽療法といっても、さまざまな方法があり、その手法はまだ確立されてはいない。
リトミックを応用し入所者の体の動きを音楽に結びつけることによって、精神の発揚をはかったり、機能訓練を行なったりするもの、音楽療法のために開発されたドラムやハンドベルなどの特殊な楽器や手作り楽器などを使って合奏を行ない、心を解放させようというもの、そうした入所者を積極的に音楽に参加させる方法を取る療法士が多い中で、中沢の場合は、むしろ鑑賞に重きを置く。
しかしそれは健常者の音楽鑑賞と異なり、弾き手としては聴き手の反応に常に気を配りながら、自分の送り出す音楽をコントロールする必要がある。
入所者のわずかな反応や表情の変化を読み取り、的確、機敏に音楽を変えていくということは、CDやテープをかけかえるといったことでは対応できない。そこですぐれた即興演奏者が求められることになる。
本場のアメリカでは、心理療法の専門家であると同時に、音楽的にもレベルの高い即興演奏を自在にできる人々がこうした仕事に携わっているが、音楽療法が一般的に認知されていない日本では、それができる音楽療法士はまだ少ない。
そこで中沢の細かな指示に従い、演奏家の東野が弾くという方法を取っているのである。
東野は一曲目のエルガーの「愛の挨拶」を弾き始める。一人の老女が、席を立ってごく近くにやってきた。当初はこうしたことに驚いたが、しだいにこれが素直な反応なのだ、とわかってきた。彼らと視線を合わせ、笑いかける余裕も出てきた。ここで重視されるのは音楽の機能的側面であって、弾き手の表現や音楽の完成が目的ではない。
たまに東野が入所者に語りかけ、リズムをとらせたり、歌わせたりすることもある。しかしそうしたことが、東野は苦手だ。彼らとの接し方がわからないというよりは、東野にとって言葉よりも音楽のほうが、心を伝えやすいような気がするからだ。
リトミックなどをやっている友人の中には、呼吸するように語りかけ、相手をリズムに乗せることのできる人々もいるが、東野がその真似をしようとしても作り笑いが顔に張りついて、体が強張ってきてしまう。
中沢の選んだ曲目に従い、二曲目にかかったときだ。
視野の端にちらつくものが入った。白っぽいもの、小柄な人影が曲に合わせて揺れている。
客席にいる者がリズムをとることほど、演奏者を困惑させることはない。素人の身体の刻むテンポが、演奏者の内面のリズム感を狂わせてしまうからだ。無視しよう、と東野は努めた。しかし白っぽい衣服に包まれた揺れる小さな身体は、否応なく彼の意識の中に食い込んでくる。しかもこの人影の刻むリズムは、決して不愉快なものではなかった。東野を追い越して軽やかに刻むかと思えば、次の瞬間、抑制の利いたルバートをかける。
熟達した指揮者のタクトのように、うねり、揺らぎながら、音楽を作っていく。
並々ならぬリズム感と感覚の良さだ。東野はその白い人影の動きに音楽を乗せた。狭い会場全体が、そのリズムに乗った。
中沢の指示では、聞いているほうが飽きるので、繰り返しなしで弾き終えることになっている箇所を、東野は譜面通り繰り返した。
集まった人々の感情の揺らぎが全身を包むのを感じた。中沢がサインを送っているのがわかったが、東野は無視した。何か奇妙な感動にとらえられ弓を止めることができなかった。
そのとき強烈な反射光のようなものが、一瞬視野に侵入してきた。彼は視線をそちらに向けた。白いシャツを着た少女がいる。リズムを刻んでいた体を止め、東野を見つめていた。心の底まで貫き通すような強い輝きを帯びたその瞳に、東野は息を飲んだ。ほんのわずかな時間、東野の弓は止まった。
あらためて少女のほうを見たのは、曲を弾き終えたときだった。
いつ会場に入ってきたのかわからない。とにかく中沢と挨拶をしたときには、この場にいなかった。
初めて見る顔だ。緩やかな弧を描いた眉と、ふっくらした頬、ゆるく編んだ髪がほつれて桜色の耳から頬にかけて一すじ二すじまつわりついている。硬く透明な表情に刻まれた石英質の美しさが、どこか生身の人間からかけ離れた感じを与え、東野の背筋を冷たくさせた。
「彼女」のことだ、と東野は直感した。この場に、深谷が送り込んできたのだ。曲が終わった今、少女は両手を膝上に揃え、彫像のように微動だにしなかった。一点を見つめたまま動かない視線が、心の内のはりつめた静寂を感じさせる。
中沢に名前を呼ばれた。
「どうしたんだね?」
「いえ……」
中沢は小さく眉をひそめ、次の指示を出す。
東野は再び弾き始めたが、神経が奇妙に昂ぶり落ち着きを失っている。音程がずれてはっとしたりするが、中沢は気づかない。
目を上げて少女と視線を合わせた瞬間、無意識にテヌートがかかった。少女は微笑んだ。闇の中で、白い花がゆっくり開いていく様を思わせる。
東野は慌てて目を閉じる。気持ちを音に集中させようとしたが、少女の血の気の無い頬に、薄紅を溶かしこむように広がっていく笑みが、網膜に焼きついたまま消えない。
プログラムを終えたとき、少女はもういなかった。
入所者は、それぞれ自分の座っていた椅子を折畳み隅に寄せると、次のプログラムが用意されたそれぞれの場所に移っていく。
「ご苦労さま」と、中沢が肩を叩いた。
「なんだか、ずいぶん芸術的な演奏だったね」
東野は苦笑した。音楽療法としてはふさわしくない演奏という意味だが、それを叱責する口調ではない。
「気になったかね、彼女が」
中沢は尋ねた。
「ええ」
動悸を抑えこむように、ことさら手早く東野は弓についた松脂をこすりおとした。
「リズム感の良さに、感心しました。いやリズム感だけじゃなくて、音楽に対する優れた感受性かもしれない」
中沢は無言でうなずいた。
「深谷さんが連れてきたのだろう」
短く答え、中沢は白く長い眉をひそめた。
前回の深谷の申し出について話そうとして、東野はやめた。ここの二人の臨床心理士の間の関係について詳しくは知らないが、深谷が何か新しい試みをする場合は、中沢に了解を取らなければならないはずだった。
国立大学の臨床心理学の教授であった中沢は、ノーマライゼーションと社会復帰の目標を掲げたこの施設の方針に共鳴し、設立当初、主任指導員としてここにやってきた。そして東京のオフィスで施設経営業務にたずさわり、ほとんど入所者と接することのない名前ばかりの施設長に代わり、ここの臨床心理士二人を含む十二人の指導員と栄養士や調理員、寮母や事務員といったスタッフをまとめている。
「僕は、原則として来るものは拒まない主義だが、一言断ってから置いていくべきだろう。あの人は、そうしたちょっとした配慮に欠ける面がある」
中沢の口から他人に対する批判めいた言葉を聞くのはめずらしく、東野は二人の間柄をそれとなく察することができた。
「ただ、あの子はすばらしい才能を持っているかもしれません」
東野は遠慮がちに言った。率直な感想だった。中沢は静かに首を振る。
「ここでは、音楽技術そのものの向上を目的にしているわけではないんだ」
深谷が自分に直接あの申し出をした理由は、中沢を通していたら話が進まないと判断したからだろう。
「技術の向上以前に、あの子は音楽が好きなのでしょう。弾いていたとき、笑顔を見せてくれました。ビビッドに反応が返ってくるのは、演奏するほうとしてはうれしいものです」
「彼女が?」
中沢は、不思議そうな顔をした。気づいていなかったのか、と東野はそちらのほうが不思議だった。
「天使のような笑顔で、なんだか弾いててこっちが感激してしまって」
「天使か……」
中沢は吐息をもらした。
「違いますか?」
「長い間いろいろな人を見てきたけど、僕は、彼らが好きだよ。精神遅滞児と呼ばれる子供達の無垢な心、曇りがない心……、社会に適応できなかった人々の純粋な精神も、僕は愛してる。だからこの仕事を続けられる。しかし彼女については……、責任持って扱うことはもちろんするが、愛することができるかと聞かれると、自信がない。何年この仕事をしていても、つくづくまだ自分は一人前でないという気がするね」
中沢が何を言おうとしているのか見当がつかず、東野は黙って中沢のこけた頬を見つめていた。
「根気よく彼女と関わっている深谷先生には、頭が下がる。ただし、深谷先生の方法が正しいのか、というと僕は、非常に疑問なんだ」
「深谷先生の方法というと?」
「まあ、それはいろいろあるんだが……」
中沢は言葉を濁す。深谷の東野への申し出も実は知っており、暗に警告しているのかもしれない。
東野はハードケースを担ぐと、中沢のほうを向いて一礼し、先に部屋を出た。自分のような立場の者が、スタッフの人間関係に深入りするのは、賢明ではないということはわかっている。
ダケカンバの林になっている中庭を突っ切って、東野はプレイルームから玄関ホールに向かう。まだ夕方には間があるが、陽射しはもう陰りを帯びている。
そのときダケカンバの金色を帯びた白い幹に、だれかが寄り掛かっているのが見えた。
幻のように気配のない、どこかおぼつかない姿だ。体温も皮膚の柔らかさも感じられない氷のような静けさだ。呼吸によって生じるわずかな空気の揺らぎさえ、その体の回りには感じられなかった。幻を見たような気がして、東野は足を止めた。
少女はひっそりと一点を見つめていた。桜色の透き通るような耳たぶのふちに、ヘッドホンのコードが垂れている。何を聞いているのかと、東野がそのコードの先を追ったそのとき、どさりという音とともに少女の足元に何かが落下してきた。
うめき声が上がった。子供だ。
東野は楽器ケースをその場に置いて駆け寄った。
転がっているのは、六歳くらいのダウン症の少年だ。東野はとっさに上を見上げた。児童宿泊棟の高床式のベランダが張りだしていた。彼はそこから身を乗り出して落ちたのだろう。
頭を切ったらしい。抱き起こすと、幾筋もの血が少年の額から両頬を伝い下りた。小さな目は真っ赤に濡れて、ちらちらと左右に揺れているが、泣き声を全く立てない。
東野は急いで傷口にハンカチを当て、圧迫止血しながら少女のほうを振り返った。
「先生を呼んできてくれ」
少女は一歩も動かない。気が動転しているのだろう。
「早く」
言いかけて、東野は息を飲んだ。
少女は今、そこで起きていることを見ていた。奥二重の涼しげな目の表面には、血まみれの少年の顔が映じている。しかし、感情の波立ちは見えない。水晶玉をはめこんだような目は静まりかえっていた。片方の足先だけが、ぴくぴくと動いている。ショックで筋肉が痙攣《けいれん》しているのだ、と東野は思った。
子供をそっと芝生に横たえ、東野は事務室に走っていった。
この日は非常勤の嘱託医が施設内にいた。息を弾ませて東野は今起きたことを彼に伝えると、医者と女性指導員が、すぐに中庭にかけつけた。
「あそこから転落したんです」
東野は、頭上に張りだしたベランダを指差した。その脇で少女はまだ耳にイヤホンをつっこんだまま立っている。
医者は少年の頭をちょっと押さえた。
「皮膚を少し切っただけだろう。たいしたことはない」
「よかった」
少し遅れてやってきた事務長が、片手で自分の額を拭う。
「こんなことがあると、すぐに施設管理がずさんだ、などと言われるんですよ」
「一応、精密検査に回しましょう」と、医師は事務長に言ってから、東野に向かい「こういう子は泣かないから、慣れてない人が見ると重傷と間違えて驚くんですよ」と説明した。
「でもなんであんなところから落ちたんでしょう」と、東野はベランダを見上げた。
ベランダの手摺りは、子供の胸以上の高さがある。
「由希ちゃんを好きで、どこへでもついていくんですよ、この子」
女性指導員が、少女のほうを一瞥した。少女はユキという名前なのだと、東野は納得した。
「たぶん、下に由希がいたんで我を忘れて身を乗り出したんじゃないですか」
他の指導員たちも集まってきた。
大人が大騒ぎをしている中で、少女だけは身じろぎもしない。怪我をした子供の姿に心を痛めている様子はない。出血を目のあたりにしての興奮や嫌悪感といった感情も見えない。白桃のようにうぶ毛の光るふっくらした顔は、無表情なまま整っている。
指導員に抱かれた少年は、首を不自然にねじ曲げ、少女のほうを見た。少年の目の中に、悲しくひたむきな恋の気配のようなものが感じられ、東野は胸をつかれた。
再び少女の足元に視線を移したとき、東野ははっとした。少女の爪先の動きは、痙攣でも震えでもない。それは一つのリズムのパターンを示している。
少女はイヤホンから流れる音楽を聴きながら、心地よいリズムに身をまかせていた。
東野は少女の白い顔を声もなく見つめていた。
彼女だけは愛せない、と語った中沢の言葉が理解できた。
非情さに腹を立てることはできない。これが彼女がここ、泉の里にいる理由なのだ。人間らしい情緒と親和性の欠如。その美しい容貌の中に閉じ込められ凍りついた心に無残な感じを覚え、東野は逃げるようにその場を後にした。
芝生のスロープをバス停に向かい下りていったときだった。背後から来た古びたアコードが、東野を追い越して止まった。
「考えてくれた? さっきの話」
深谷規子が運転席から顔をのぞかせた。
「由希さん、ですよね。彼女の名前は」
確認するように東野は言った。
「名前を聞いたの? そう浅羽《あさば》由希。プレイルームで、だれかすぐわかったでしょう」
自慢するような口調だ。さきほど起きたことは何も知らないらしい。
「考えさせてください」
東野は、前回と同じことを言った。血を流している少年のそばで、平然とイヤホンから流れてくる音に聴き入っていた彫像のような姿と、プレイルームで見せた豊かな音楽性を示す所作が心の内で重なり合う。
「十分考える時間をあげたつもりだけど。下の駅まで送っていくから、その間に結論を出して」
「いえ……」
「バスなら今行ったばかりよ。次のが来るまで一時間半、待つつもり?」
「わかりました。送ってください」
深谷は笑いながら、助手席のドアを開けた。東野は後部シートに楽器を寝かし、助手席に座った。深谷は車を止めたまま煙草を出すと、気持ちよさそうに深く吸いこんだ。「あなたもどう」とキャメルの箱を差し出す。
いらない、と東野は首を振る。
「彼女は天才よ、わかったでしょう」
「いいリズム感を持ってます」
「それだけ?」
「それと……きれいな子ですね」
深谷は微笑した。
天才という言葉をその専門分野の人間は、軽率に使わない。
音楽の天分といわれるリズム感、音感、そして歌心、それらすべてを生まれつき持っている者が稀にいる。それを幼い頃見出される幸運な者は、その中のごく一部だ。能力のある音楽指導者に恵まれ才能を開花させる者は、さらにその数パーセント。天分に加えて、早期教育とその後の絶え間ない研鑽《けんさん》によって生まれるのが、世界でも一握りの「天才」と呼ばれる人々である。
東野秀行をはじめほとんどの人間は、その天分のどれかが抜け落ちているか、あるいは天性のものなど持っていない。持続的な血のにじむような努力によって、辛うじてプロの演奏家として仕事をしている。
「私の言うことを信用できないの? でも彼女の特殊な能力には、ちゃんと根拠があるのよ」
深谷は、後部座席に手を伸ばすとファイルを引き寄せ、中から数枚の写真を取り出して、東野に見せた。大脳のCTスキャンである。
「あなたに見せようと思って持ってきたのよ。こっちが、健常者のもの」
深谷は、その中の一枚を示した。
真上から撮った脳の写真は、中央に縦に入った溝によって、大きく左右ふたつのパートに分かれ、さらに上半分と下半分に区切られていた。胡桃《くるみ》の実によく似たかっこうのその表面に、無数の皺が黒く刻まれているのが生々しい。
「ずいぶん鮮明な写真じゃないですか?」
父親が少し前、脳血栓で倒れたときに、やはりこんな写真を見せられたことがあった。それは胸部レントゲン写真に似てうっすらと細部の輪郭はぼやけていたが、手元の写真は、まるで頭蓋骨を開けて写したように、繊細な襞の一つ一つまで映っている。しかも、いくらか立体感さえ帯びて見えるほど精緻なものだった。
「病院によっては、どんどんいい機械を入れているからね」
深谷は答え、もう一枚の写真を見せた。
「由希の脳よ。五年前のね」
何気なく手にとって、東野はあやうく取り落としそうになった。
一目見て、異様な写真だ。全体が大きく歪《ひず》んで、本来、上部の膨らんだ楕円であるはずの脳が、平行四辺形に似た輪郭をもっているのだ。目を凝らすと、左の上部、すなわち前頭部の表面が、削がれたようになくなっていて、頭蓋骨との間に黒々と隙間が空いている。
「こんな状態で、生きていられるものなんですか」
東野は尋ねた。
「生きているということだけで言えば、大脳なんて全部除去したって生きていられるわよ。生命維持には直接関係ないから」
感情のこもらぬ調子で、深谷は続けた。
「大脳を全摘出したうさぎだって、ちゃんと立って歩くんですもの」
頭に縫い目のあるうさぎがよろよろと跳ねる様が東野の頭に思い浮かび、それにさきほどの由希の姿が重なって肌が粟立った。
「交通事故か何かでこんな風になったんですか」
「いいえ」
深谷は首を振った。
「もともとの奇形に加えて、使わないと退縮するの。つまり歩かなくなると、足が細くなるのと同じよ」
「足の筋肉と脳は別じゃないですか」
「極端に使わなくなれば、たとえば、特定部位の機能をまったく失った場合なんかは、やっぱり萎縮するわ」
深谷はさらにもう一枚、写真を出した。
「そして、奇跡が起こったの」
普通の写真だ。左上の部分が若干やせて見えるが、左右はほぼ対称に戻っている。
「ここまで、回復したってことですか? まさか……」
東野はまばたきする。目を凝らせば奇妙な点はあった。皺の寄り方が不自然だ。前の写真で、切り取られたようになくなっていた部分を包み込むように、他の部分が伸びてきている。
「見たところは回復しているでしょう。すごく簡単に説明するとね、彼女の場合、外からの刺激、言語的な刺激だろうと私は思うんだけど、それを受容する機能が欠落したわけ。それが始めに見せた写真よ。ここまではわかるわね?」
「はい」
「ただし、それをカバーするように、別の機能を目覚ましく発達させたわけ。言語中枢を覆うように、別の部分が、はっきり目で見えるほどの形で発達したのよ。発達した部分が何かというのは、見当がつくでしょう」
「つまり音楽に関係しているのだと……」
「そう、一部はね。つまり発達した部位の機能をあなたにフルに引き出してもらいたい、というわけ」
「引き出してどうするわけですか」
東野は尋ねた。歪んだ大脳の写真、超感覚的知覚保持者という言葉。そして浅羽由希という少女の凍った心。何か尋常でないものを感じる。
「どうって?」
「めずらしいケースなので実験したい、ということなら、協力する気はありません。彼らがここにいる理由は、そういうことではないと思いますから」
精神に障害のある人々の自立を助け、一日も早い社会復帰を手伝う。それが、泉の里の存立意義であるはずだ。それは中沢からことある毎に教えられていた。
「彼らが、ここにいる理由ですって?」
深谷は唇の片端を上げてちらっと微笑んだ。
「入居費三千万、一か月の収容費四十万。ホテル並みの設備。八ヶ岳の麓の風光明媚な別荘地。なぜ、こんなところに彼らがいると思う? 本来ここは、精神障害者に生活の場を提供し、社会生活に適応できるように指導するところよ。それが、入院の要なしとされたけれど家族が引き取りを拒んだ人々や、精神遅滞の子供たち、痴呆老人までいるのよ。彼らも、彼らの家族も、そして指導員たちさえ、だれも社会復帰なんか期待しちゃいないのよ。地位も金もある人々が、人前に出したくない家族をあずけているのよ。そこの家では、障害のある兄弟や子供たちは外国にいるか、死んだか、そうでなければ始めからいないことになってる」
東野は黙りこくった。そうであることはわかっているが、認めたくはない。
「だからここの入所者に対して何をしてもいいということにはならないでしょう」
「何か間違えているようだけど、私は彼女を被験者にしようってわけじゃないわよ。自立だの社会復帰だのという、ここの先生のおざなりの論議は聞き飽きているの」
「先生」というのが、中沢を指すことは察しがついた。
ある新聞社の社主の孫が、養護学校を卒業して泉の里にあずけられた。地道な訓練のかいあって、彼は封筒に住所を印刷した用紙を貼りつけ、それを郵便番号ごとに分類し、一人でバスに乗って郵便局に運ぶことができるようになった。
しかし彼はここを出て仕事を見つけ、グループホームに住むことはなかった。一つには彼の家族が、彼の存在を知られることを危惧し、施設の外に出さないように理事と施設長に頼んだということもあったし、就職先として協力を要請した企業が不況を理由に採用を断ってきたということもある。何よりも経済的に恵まれた入所者の家族は、わずかな金で彼らの子供や兄弟が単純労働をする必要を認めないし、自立を願ってもいない。
指導員たちが、各種の生活実践訓練や、職場見学、茶話会といったプログラムを将来の見通しもないまま実行に移すことに虚しさを感じているのは、東野にもわかっていた。
「私は彼女を、家族も指導員も予想しなかった形で、ここから送り出してやりたいの。一人の演奏家として」
「つまり天才を作るとか、発達した部位の機能を高めるとかいうのは、彼女に演奏技術を身につけさせて自立を促そうということですか」
深谷はあいまいに笑った。
「楽器を教えてやって。私は中沢さんのように精神発揚や機能訓練のための音楽なんか、あなたに要求しないわ。教えてやってくれればいいのよ。彼女は障害の代わりに優れた才能を与えられた。それを開花させることができたらすばらしいと思わない?」
「僕は単純にレッスンを行なえばいいんですか」
深谷はうなずいた。
「彼女は並外れた能力を持っているわ。音に関しての超感覚的知覚と呼べるような」
「それはもう聞きました」と東野は遮った。
「初心者を教えることは慣れていますが、障害者に本格的なレッスンをつけるのは初めてです。こちらの指示がどのくらい伝わるのか自信がありません」
「障害という言葉は不適切だわ」
深谷は言った。
「彼女は、私たちとは違う形でものを理解することができるのよ。私たちとは違う言葉を持っていて、私たちとは違う筋道でものを考えるの」
「しかし……」
「しかし、何なの?」
「ものを考える筋道がどうこうという以前に、彼女は情緒というのか、人間としての心に問題があると思いますが。人を思いやる気持ちがないというか……音楽を愛する気持ちは、基本的には人を愛する気持ちと同じじゃないでしょうか。音楽を勉強するのはいいことですし、それによって温かい感情が生まれることはありますが、やはりトータルな人間性が根幹になければ……」
深谷は、何度もうなずいた。
「あなたは、目の前に怪我した子供がいて助けを求めていたら、かけつけるわね。いえ、助けを求めてなくても、行くわね」
「さっきのこと、知っていたんですか」
「よくあることよ」
深谷は平然とした様子で答えた。
「だけど、もしも助ける声の周波数が、ものすごく高かったらどうするかしら。あなたの耳に届いてもあなたはその音を感じることはできない。メッセージを受け取ることも、こちらからメッセージを送ることもできない。由希はメッセージを受容できるチャンネルが、人と少し違うの。だからコミュニケーションしにくいのよ」
「そんなものですか」
「中沢さんたちは彼女の健常者とずれた部分を矯正しようとするわ。だけど私は差異は差異で認めたい。そうすることによって、彼女しか持っていない世界の豊饒さを引き出してやれると思うから。彼女と通じ合える手段は、言葉ではないわ。音。どうすればいいか、具体的には私にもまだわからない。ただあなたはそういう意味で、彼女の心を理解できる人だと思うのよ」
東野は、何と答えたらいいのかわからないまま、深谷の横顔を見ていた。
「どう?」
煙草をもみ消しながら、深谷は尋ねた。
「引き受けてくれるでしょう」
「事情はわかりました」
「それじゃ、行きましょうか」
深谷は晴れ晴れとした口調で言うと、エンジンをかけた。
森の中の曲がりくねった道を車は下りていく。
「考えさせてください」から「事情はわかりました」へ。消極的ながら、自分は承諾をしたのだ、とあらためて思いながら、東野は両脇から蔽《おお》いかぶさるように茂っている木々を見ていた。
車は、三十分足らずで小淵沢の駅に着いた。
「それじゃ、よろしく」
東野を降ろすと、深谷は窓から顔を出し、有無を言わせぬ調子で言った。
「あの、中沢さんには……」
「承諾は取るから心配しないで」
そう言い残すと、深谷のアコードは勢いよく走り去っていった。
特急が来るまでしばらく間がある。
果たしてうまくいくのか──。ホームのベンチに腰掛け夕空を見上げながら、東野の心は少しばかり後悔に傾いていた。
自閉傾向のある少女に、チェロのレッスンをつける。ただそれだけのことなのに、ひどく気が重かった。
九月の第二週、小淵沢の駅で深谷と別れてから早くも一週間後に、東野は由希の一回目のレッスンのために、泉の里にやってきた。
あの日、東野が家に帰り着くのを待ち受けたように、深谷が電話をかけてきたのだ。週一回でワンレッスン七千円、現在手伝っている中沢の音楽療法は月に一回ないし二回だが、レッスン日はなるべくそれに重ねる、レッスン開始は、九月の第二週といった条件を深谷は、早口で提示した。
開始日を聞いて東野は慌てた。一週間後では早すぎる、と東野が言えば、深谷は、楽器はあるから大丈夫だと答える。こちらにも準備がある、と言えば「生徒さんを教えるのは慣れてるでしょう。由希のことを特別視して構える必要はないのよ」と言う。
押し切られる形で、この日からレッスンを開始することになってしまった。
泉の里に着いたのは、約束の時間の一時間も前だった。深谷は入所者との面接の最中だったが、レッスン場となる小プレイルームには、楽器が準備されていた。一目で安物とわかるプレス楽器だ。深谷の話によれば、数年前、音楽好きな女性療法士がいて、入所者の間でバンドをつくらせた。その折にいくつかの楽器とともにチェロも購入したのだが、彼女が結婚を機に東京の精神病院に移ってしまったので、バンドも自然に解散した、と言う。
チェロはそれ以来、人の手が触れたことはないらしく、真っ白に埃《ほこり》を被り、糸巻きが緩んで駒が倒れかけていた。しかし幸い傷はない。f字孔から中を覗いてみると魂柱は、しっかりと立っていた。東野は布で丁寧に埃を拭き取った後、駒を正しい位置に立て、弦を張り直す。
そこまですると、覚悟は決まった。
たしかに深谷が言う通り、障害者ということで特別視する必要はないのだ、と思う。音大を卒業してから九年、演奏活動はしてきたが生計の中心になるのは、やはり楽器の個人教授で、今まで教えた生徒は小学生から音大の受験生まで、延べ四十人以上にのぼる。レッスンプロの自覚はないが、人を教えることには慣れている。
相手は人間だ。熱心に教えれば心は通じる。迷ってもしかたない、と自分への激励半分開き直り半分といった気持ちで、音叉《おんさ》を駒の上に立て、A音に神経を集中する。
音叉を外したとき、中沢がそばに立っているのに気づいた。
「どうも」
深谷から一方的に話を進められるまま、世話になっている中沢に一言の報告もしていなかったことに少しばかり後ろめたさを感じた。
「精一杯やってみることだね」
東野の手元を覗き込み、中沢は目尻に皺を刻んで微笑した。それから独り言のようにつけ加えた。
「楽器を習うことが、彼女にとって本当に必要なことなのか、僕には未だに疑問だが」
「わかってます。こっちだって半信半疑なんですから」
「すまない、意欲を削《そ》ぐようなことを言ってしまって」
「で、疑問というのは、何ですか」
東野は尋ねた。
中沢は口ごもりながら答えた。
「音楽的能力以前の、もっと大切なものがあるような気がするんだよ。具体的な話をすれば、今、彼女は、ほんのわずかずつでも言葉を身につけるべき時期だと思う。それともう一つは、自分の外のものに関心を向ける、そういう訓練が必要だと僕は思う。人と触れあうための訓練をおろそかにして楽器を弾けるようになるということは、果たして彼女にとって幸福なのだろうか。障害者にベートーヴェンを弾かせ人をびっくりさせて満足するのは、深谷さんだけではないのか、という気がしてならない」
「障害ではなく、差異と考えることもできますが」
とっさに深谷の代弁をしていた。
中沢は何か言いかけたが口をつぐみ、彼を正面から見つめた。
「確かにそうだ。いまさらこんなことを言うのはよそう。君も引き受けた以上は、それなりの覚悟はあるのだろうし。君自身の勉強にもなると思う。ただし君は音楽家だが、臨床心理士ではない。何かあったら、自分で勝手に判断しないで相談してほしい。力になれると思うから」
東野はうなずき、ふとこの前から気になっていたことを思い出した。
「浅羽由希さんのあれは、生まれつきのものですか?」
中沢はわずかに身じろぎした。
「君が彼女の能力について尋ねているのか、障害について尋ねているのかわからないが、もしも障害のことだとしたら、後天的なものだ」
「後天的?」
「しかしそうした原因はどうでもいい」
どうでもいい、とはどういうことだろう、と東野は中沢の口元をみつめる。中沢は視線を外した。由希の障害の原因となると、深谷も中沢も語らない。
「いずれにせよ、愛情を持って接することが基本だ。ハンディを背負った彼女を自分の身に置き換えて、今、自分はどこまでわかってやれるのか、彼女の痛みを自分の身に感じ取ってやっているのか、いつもとはいわないが、一日一回は、ちょっと立ち止まって考えてやってほしい。我々だって、何年やっても、これでよしということはないものだ。いつも立ち止まり、迷っている」
中沢の落ち窪んだ目に、哀しみに似た色が見えた。
時計を覗き込み、中沢は廊下へ出ていった。スタッフルームで待っていたらどうか、と声をかけられ、東野は中沢について部屋を出た。
そのとき年配の女性指導員がこちらにやってきた。
「簡単なことではないと思うけれど、がんばってね」
挨拶して行き過ぎようとした東野を呼び止め、彼女はそう言いながら、激励するように背中を叩いた。励ましの口調の裏に、心配し案じている様子があった。
「彼女が、ちょっとでも笑顔を見せてくれたら、大成功だと思うことよ。たとえ成果が上がらなくても、自分を責めることないわ。昨日と違うほんの小さな変化でも、大成功だと思って、ね」
彼女は念を押すと、足早に去っていった。
東野は二十年以上も精神遅滞児の生活指導に携わってきたベテランの指導員の言葉をかみしめながら、果たして自分に由希が扱えるのかと不安な気持ちになっていた。
「案外、私たちにできないことが、君にできるかもしれないよ」
中沢はぽつりと言った。
新たな仕事を引き受けるに当たって、いくつかの書類に判を押し、再びプレイルームに戻ると、由希はすでにそこにいた。ブルーと白の縦縞のワンピースの腰に片手を当て、いくらか足元を開いて、ピアノの隣にすっくと立っている。
ピアノの漆黒の肌に映えた、その姿の清々しさに東野は気後れし、立ちすくんだ。とっさに部屋を見回し、深谷の姿を探すがいない。
いきなり二人きりにされるとは予想もしなかった。初日なので深谷が一緒に来て、顔合わせの挨拶くらいするだろうと思っていた。
由希は彫像のように首を立て、真っすぐ東野を見ている。強い視線に、ただならぬ才気が感じられる。
どう扱ったらいいのかと思い悩んでいたのが、姑息《こそく》で、無意味なことに感じられてきた。人を教えるに当たってのマニュアルなどない。音楽への情熱と生徒に対する愛情があれば、気持ちは必ず通じる。そう信じようと思った。
「こんにちは」
東野は緊張しながら語りかけた。由希は自然に視線を外した。東野は困惑しながら、彼女を椅子にかけさせる。由希は素直に椅子に座る。言葉が通じたのか、東野の手真似から意図を汲み取ったのかもわからない。
「まず、楽器を抱いてみようか」
そう語りかけたが、何の反応もない。不自然な笑みを浮かべた自分の顔が、強張ってくるのを感じる。
チェロのエンドピンを由希の足元の床に刺し、由希に抱えさせる。由希は言われるままに腕をチェロに回す。膝を大きく開いて楽器を挟ませなければならない。東野はためらった。ズボンをはかせるように深谷に言っておけばよかった、と自分のうかつさに舌打ちする。深谷にしてもそのくらい気づいてよさそうなものだ。
「足を開いて、挟んでくれる? こんな風に」
東野は自分で構えて見せる。由希はそ知らぬ顔であらぬ方を見ている。躊躇《ちゆうちよ》しながら由希の足元に片膝をついた。その両膝に手をかけて開く。由希は抵抗しなかった。されるままになっている。
東野は素早く楽器を挟ませる。チェロは不安定に傾き揺れた。今度は、楽器の肩を由希の左胸で押さえさせる。チェロに押しつけられたストライプの生地を通して、胸の線が際立った。東野は緊張した。女の弟子はいるが、こんなことをするのは初めてだ。
もう一度かがみこんで、由希の白いソックスの足首を掴んで、膝から真っすぐ下ろす。その拍子に、なめらかに引き締まった内腿が目に飛び込んできた。あわてて目を逸《そ》らし、立ち上がって落ちつきはらったそぶりで汗を拭いたが、心臓は早鐘のように打っていた。
「女の子を教えられていいな。手なんか触ったりして」などと口の悪い友人たちに東野はときおり冷やかされる。そのたびに「こちらはプロだ。妙なことを考えながら教えられるはずがないだろう」と反論するが、ミニスカート姿の生徒に教えるときなど、平然としたふりをしていても、内心はかなり戸惑っている。
始めからこんな調子でどうするんだ、と東野は自分を叱りつけながら、弓を取り出す。
初心者を教えるのにいちばん苦労するのは、弓の持ち方だ。自然に力を抜かなければならない。しかし初めての者にはそれが難しい。
「柔らかく、こうだよ」
東野は由希の指の一本一本を開かせて、弓に当てていく。由希の指は強張り、反りかえっている。根気よく持たせようとするがだめだ。
由希は東野の指示を無視した。まったく言葉がわからないらしい。確かに中沢の言う通り、不完全なものであっても言葉を覚えさせるほうが先決かもしれない。
「まいったな。小鳥を持つようにさ。ぎゅっと握ったら死んじゃうだろ。柔らかく、まるく、しっかり支えるんだ」
独り言のように東野は言う。次の瞬間、由希は、ぴたりと言われた通りの持ち方をした。あっけにとられて、その顔を見る。言葉を理解したのか、それとも気配から東野の意図を把握したのか、わからない。
「そうだよ。その感じだよ。すごくいい勘してる」
ほめ言葉に対する反応は無い。
東野は、由希の手に弓を握らせてゆっくりと開放弦を弾かせる。拍子抜けするほど素直に弾いた。しかし東野が手をはなしたとたん、弓は耳障りな音をたて表板を傷つけながら床に落ちた。
東野はびくりと背を反らせた。自分の身が傷ついたような痛みを感じた。
悪気はないのだ、しかたがないと気を取り直し、弓を拾い上げる。
それを手渡したとき、由希の表情が目に入った。唇を固く結んだまま、由希は冷ややかな視線で、板の表面の白く生々しい傷を見つめていた。
わかっていてやったのだ。そう思うと怒りが込み上げてきた。どんな安物であろうと楽器は大切に扱い、単なる「物」以上の敬意を払う。それが弾き手の生理にまでしみ込んだ感覚なのである。
東野は少しの間、唇を噛んだまま由希の平静な横顔を見つめていた。怒りが静まるに従い、由希の彫刻のように整った美貌が、薄気味悪く思えてきた。中沢教授が「愛せない」と言った気持ちが理解できる。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、東野はゆっくり息を吸う。由希の手を取り、再び弓を握らせる。透き通るように白く冷たい手だ。五本の指は長く揃い、大型弦楽器を弾くには理想的な形をしている。東野は反射的に自分の指と比べていた。
硬く、節高で、手のひらの大きさに比して短い指。中でも小指は極端に短く他の四本に対してバランスを欠き、弦を押さえるにも弓を持つにも、人一倍苦労をしなければならない。
「恵まれてるよ、君は」
独り言のようにつぶやき、由希の指を丁寧に弓にあてがっていく。
由希の表情は硬く凍りついた。人としての情緒がまったく失われているように見える由希の心にも「いやだ、不愉快だ」という感情があるらしい。そのことに東野はむしろほっとした。
緊張感に歪んだ顔とは対照的に、手は完全に脱力している。
「そう、ゆっくり、何もしなくていいよ」
静かに語りかけながら、東野は由希の手を弓ごと握りしめる。冷たさが手のひらから、肩まで上ってきた。その肌の金属的な滑らかさに東野は驚いた。人の皮膚とは思えない。掃除も食事の支度も、生活に関わることは何一つさせられることなく、小さな籠で飼われていたのではないかと思われるほどだ。
由希の手を握ったまま、東野はゆっくり弓を動かしていく。
「ほら、弦に弓の重さをしっかり乗せる。良い音だろう。体に響いてくるのがわかるよな」
とたんに由希は全身で拒否した。がくりと体が後ろにのめった。支える暇もなかった。楽器が揺れて横ざまに倒れる。板の割れる鈍い音がし、続いて衝撃が弦に伝わって一瞬四本の弦の和音が響いた。
東野は小さく声を上げた。自分の肋骨が折られたように胸に痛みを感じた。
それでも由希の手を離さなかった。こちらを放りだして楽器を押さえたら負けだ、と瞬時に判断した。
東野は転がっている楽器のネックを掴み、起こした。そして由希の体の前で構えさせる。由希の手を再び掴み、弓を握らせる。由希は抵抗しない。冷たく静かな従順さを見せて、されるままになっている。東野は静かに弓を滑らせていく。
音が抜けていた。倒した衝撃で、板が割れたのだ。
心理療法士なら、こんなとき無理に弾かせない。由希の一瞬ごとの反応と表情を見ながら彼女が何をしたいのかを理解し、それに従う。決して支配しようとしてはならないというのが鉄則だ。しかし東野は音楽家だった。彼の目的は、治療でも、情操教育でもない。音楽を教えることだ。由希を前にしているうちに、中沢から聞かされている入所者に対する指導員としての心得をすっかり忘れていた。
音の抜けた楽器を脇に退《の》かし、東野は自分の楽器を引き寄せる。
ヴィジャッキーというイタリアのオールド楽器だ。時価四百万という金額はともかくとして、東野が大切に弾き込み、自分の指に馴染ませてきた楽器だった。由希にもう一度同じことをやられたら取り返しがつかない。
躊躇しながら、それを由希の膝の間に置いた。弾かせなければならない、と思った。ここでこちらの腰が引けたら、由希は二度とチェロに手を触れなくなる。
冷静に考えればそんなことは大した問題ではなく、深谷に向かい、「できません」とひとこと言えばすむことだった。しかしそれはできない。どうしても弾かせなければという、意地というよりは、強迫的な義務感にとらえられていた。
楽器を無理に抱えさせられ、脱力した右手に弓を持たされたとき、由希の一点を見つめたきり動かぬ目に、涙が滲んだ。東野は胸をつかれた。
「泣かないで……いいものなんだよ、音楽は、本当はすごくいいものなんだ」
膝を折り、哀願するように、由希の横顔に語りかけていた。しかしその間にも、右手は少女の手に弓を握らせたまま、離さなかった。ゆっくり弓を動かしていく。
G線開放弦の太い音が楽器の胴体を震わせ、その振動が東野の体にまで伝わってきた。そのとたん由希は小さく体を震わせた。春を感じて、小さく羽根を動かす鳥の動作に似ていた。淡く血の色の透けたような紅色の唇が小さく開いた。驚きを含んだ歓びの表情が見える。
音が、彼女の心に届いた。
いままで、彼女が弾いていたプレス楽器とはまったく違う音。磨かれた音色は、チェロの胴体を振動させ、それは触れている膝や胸から弾き手の体全体に広がり、心を震わせる。時を経た楽器の深く暖かな味わい。由希はそれを感じ取ることができたようだ。
右手で由希の手を持って、もう一度、今度は弓の重さを十分にかけて弾いた。そして自分の左手で指板を押さえ、メロディーを作る。
由希はうるさそうに、東野の右手を払った。そして不器用にきしませながら、自分から弓を動かし始めた。
「そう、それでいいんだ」
祈るような思いで、東野は弓の動きを見守る。この少女は音色に対する感受性を持っている。それがわかっただけでも、大きな収穫だ。
飽きる様子もなく、弓を往復させている由希の手を東野はそっと止め、一回目のレッスンを終了させた。
楽器をしまい、プレイルームの防音扉を開け放つと、そこに深谷がいた。
「どうだった?」
部屋の中央に立っている由希のほうを一瞥し、深谷は尋ねる。
「いいですよ」
東野はそれだけ答えた。気がつかなかったが、額から汗が流れていた。
「二時間もみてくれたのね」
深谷に言われて壁の時計に目をやると、確かにそんな時間が経過していた。
「どう、ちゃんとできた?」
深谷は今度は由希の隣に行き、長身を屈める。由希は、無表情のまま視線を逸らせる。
「楽器を買い直してもらえないですか」
東野は裏板に大きくひびの入った楽器を無造作に部屋の隅に退かしながら、深谷に向かって言った。
「それは?」と深谷は指差した。
「壊れました」
「由希がやったの?」
「いえ、僕が足をひっかけて倒してしまいまして。十年も前のプレス楽器ですから、修理したところで板が反ってしまっているので、使えません」
深谷は疑う様子もなくうなずいた。
「わかったわ。すぐにというわけにはいかないけど、買ってもらいましょう」
「それから、もう一つ。チェロのレッスンのときは、なるべくズボンをはかせてください」
深谷は、ベージュ色の口紅を塗った唇の端を小さく引き上げた。
「それは由希のため? それともあなたのため?」
「どういう意味ですか」
「いえ、別に」
「どういう意味なんですか、それは」
東野は詰め寄った。さきほどの困惑の思いがよみがえってきて、深谷の無神経な言葉に腹が立った。
「ちゃんと足を開いて楽器を挟まないと弾けないんですよ」
「わかりました。からかってごめんなさい」
由希は、二人の脇をするりと通り抜けて部屋を出ていった。振り返ったときには、もう姿が見えなくなっていた。
「どうしたの?」
深谷が尋ねた。
「いや……通じなくても、一応、さよならを言いたかったから」
「そうね」と深谷はうなずいて、聞いた。
「ところで、参考までに何かチェロの曲を聞かせたほうがいいわね」
「いえ」と東野は首を横に振った。「特にチェロの演奏でなくていいですよ。本人が楽しんで聞いているものなら何でも。広く音楽に親しんでくれればいいんですから」
楽器の練習を受験勉強と同様に考え、その楽器の独奏曲の鑑賞を子供に無理強いし、練習嫌いどころか、音楽嫌いにしてしまった母親の例を東野は自分が講師をしていた音楽教室で見ている。そうして音楽嫌いになった子供が、再び音楽に戻ってくるのは、高校生くらいになってからだ。たいていは仲間とロックバンドを組んで、彼らは音楽と仲直りする。
二度目のレッスンは三日後だった。まだ新しい楽器は届かないので、東野は自分のヴィジャッキーをケースから取り出し、由希の前に置く。この前は、自分から弓を動かすところまでいったというのに今日は、無関心な様子で横を向いたままだ。
語りかけても、弾いてみせても、持たせようと体の前に持っていっても無駄だった。
困り果てた東野が、小さなため息をもらしたとき、由希はひょいと自分で楽器を持った。まるでからかっているようだ。東野は恐る恐るその足首を掴んで足を開かせ、安定するように楽器を抱かせた。由希は再び開放弦を自分から弾いた。
楽器を抱えること、弓を正しく持つこと、そして弦と直角になるように弓を動かすこと。最初のステップは簡単そうに見えて、初心者にとっては、この上なく複雑な動作を要求される。嫌気がさして投げ出さないように、教える側は一つ一つの技術を丁寧に習得させなければならない。根気のいる仕事だ。
音楽の上では、障害者も健常者もないと東野は考えている。レッスンを引き受けた以上、それを単なるリハビリテーションで終わらせる気はない。確実な技術の向上を目指して、東野は妥協せずに教えていくつもりだった。
レッスンは、一週間に一度ではなく、結果的にもっと頻繁に行なわれることになった。言葉が通じ、文字や楽譜を使うことができれば、教則本を用い次のレッスンまでの課題を出せる。しかし由希の場合はそれができない。代わりにレッスンの回数を多くして補う。
幸いなことに、東野の自宅のある甲府から富士見高原まで、高速道路が渋滞しなければ、一時間少々で着く。
二、三回通ううちに、東野は由希に彼の意図を理解させる呼吸もわかってきた。
言語的理解とも論理的理解とも違う方法で、由希は何かを悟る。由希の意志や興味が、伝わった指示と一致したときに行動が起きる。タイミングは掴めないし、順調に進むわけではない。しかし一段ずつ登っていくことはとりあえずはできる。その一段の上昇に不思議な手応えがある。把握しがたいその行動に付き合っていると、ひょっとすると彼女は将来、巨大な花を咲かせるかもしれない、という気がすることもあった。
レッスンが四回を過ぎた頃、可能性ははっきりとした形を成してきた。由希は、ロングトーンと呼ばれる弓の端から端まで弾くのを繰り返す単調な動作一つにも、耳をそばだて神経を集中させる。
東野は手本として簡単な練習曲を弾いて聞かせた。二分音符と四分音符からなる八小節の曲で、由希に初めて独立したメロディーを弾かせようとしていた。
そのとき彼の弾くチェロの音に混じって、かすかな擦《かす》れ声のようなものが聞こえた。しゅっと舌先で息を吐き出すような音だ。
ため息でもついたのだろうと思った。弓を止めると、今度ははっきりと人の声がした。
由希の喉から出た声だった。口元をわずかに緩め、由希は何かを言っている。
「君……声が出るんだ」
もちろん聾唖《ろうあ》者だとは聞いていなかった。それでもこれまで一言も話さなかった由希の声に驚き、東野はその口元に見入った。思いのほか低く、ざらついた悪声といっていいような声で、言葉は不明瞭だ。
しかし正確な音程がついている。
由希は歌っていた。メロディーは、その直前に東野が弾いて聞かせた八小節の練習曲だった。
東野は即座に弓を手にすると、別の曲のワンフレーズを弾いた。由希はすぐにそのメロディーを口ずさんだ。
リズムも音程も完璧だ。
「すごいぞ」
東野は歌っている由希に向かって叫んだ。
「君は、声が出るんだ。歌えるんだ」
東野は初心者用に編曲されたシューマンの「楽しき農夫」を弾いた。由希は正確な音程で、そのメロディーを歌った。
由希は東野の弾く曲に反応している。それは由希の音楽的進歩であると同時に、東野が由希とコミュニケートできた証拠でもある。
「楽しき農夫」を途中でやめ、東野は同じシューマンの幻想曲に変えた。その流麗な旋律は半音の動きが多く、本来入っているピアノがないから初心者には音形が掴みにくい。しかし由希はすぐにメロディーを復唱した。音とリズムを外すことはまったくなく、楽譜にして二ページ半ほどを正確に再現した。
東野は少し不安な気分になってきた。何かの間違いだ、という気がする。
由希の頭の中で、曲は音符という形で記号化されているのか、それとも単にメロディーで覚えているのか、東野にはわからない。
コル・ニドライ、ザイツのコンツェルト、そして教則本の中にある中等の練習曲……。東野はランダムに数小節ずつ弾いてみる。由希は間違わずに復唱する。
試しにヒンデミットの無伴奏ソナタを弾いた。この現代音楽は、簡単に口ずさめる代物ではない。メロディーと呼べるものはなく、リズムは複雑で、体が自然についていくような流れを拒否している。
東野はそれを数小節で止めることはなく、暗譜しているところまで十分ほど弾き続けた。弓を置くのを待ち兼ねたように、由希が口ずさんだ。鋭いリズムにも、めまぐるしく移動する音にも、寸分の狂いもない。楽譜にして七、八ページ分だ。東野が一小節一小節|咀嚼《そしやく》し、飲み込むようにして暗譜したものをたった一度耳にしただけで、一箇所も間違えることなく声に乗せ再生していた。
アー、ともウーとも聞こえる声で綴られるヒンデミットを東野は複雑な思いで聞いていた。
幼い頃ベートーヴェンの小曲を暗譜させられたことがある。階名で暗記し、指で覚え、メロディーで探す。頭の中が破裂しそうだった。ワンフレーズずつ、根気よく覚えた。それでも発表会の舞台に立つと忘れた。客席のいくつもの顔が、自分を叱責しているような気がした。はきなれない半ズボンのサスペンダーが肩に食い込んできた。ライトが眩しく、うつむいた視線の端で、駒が膨れあがり巨大な門のように眼前に迫ってきた。彼は半ば口を開けたままチェロにもたれるようにして、荒い息をした。弓を握る手のひらが汗でぬるぬるし、やがて腕は動かなくなり、続いてためらいがちにピアノも止まった。
プロになった今でも、その恐ろしい瞬間を夢に見る。
小学生の頃、「Aの音は?」と先生に聞かれた。アーと音をとる。まるでずれていた。ピアノでポンと弾いてくれれば、その先はわかる。しかしいきなりAの音を出せと言われてもできない。東野には未だに絶対音感がない。幼い頃から訓練を受けているにもかかわらず……。
正確無比なヒンデミットは続いていた。東野はぼんやりと由希の口元を見つめていた。空虚な表情のまま由希は歌い続けていた。
「もういいよ」
東野は、小さな声で言った。由希はやめなかった。
「いいんだよ。もう終わりだ。やめてくれ」
哀願するように、東野は言った。
それでも由希はやめない。その正確な音程に、東野は非情さを感じた。
由希の歌が終わったとき、東野はチェロを床に置いた。
今度は右手の人差し指で、フローリングの床を叩いてみる。由希は即座に真似をした。
次に、左手で三拍打って見せる。由希の左手も三拍子を刻む。さらに右手で二つ打ち、その中に左手で三つ入れる。これは少し難しい。由希は今度もついてくる。二分の三拍子に全く狂いはない。次に四拍に五拍、これもやってのけた。つぎに八拍に七拍。東野が間違いなくできるのは、これが限界である。由希は今度は指示もしないのに続けた。九に十、そして、右と左のリズムが、微妙にずれるということしかわからなくなるまで続けてみせた。
驚きよりも、腹立たしさを東野は感じていた。こういう芸当をやる者は、たまに指揮科の学生にいる。才能もあるのだろうが、ほとんどの場合はすさまじいばかりの訓練の成果だ。
東野は床を叩き続ける由希の手を取ってやめさせた。不満な様子もなく、由希は無表情なままそっと両手をひっこめた。
由希が高度な音楽的訓練を受けたということを、深谷は特に語っていなかった。
本当のところはどうなのか?
手元にある譜面の一つを由希の前に置いてみる。
何の反応もなかった。由希の視線は譜面を外れている。東野は音符をゆっくり指先で追いながら、階名で歌う。由希は、膜の張ったような目を東野の口元に向けた。興味も知性も感情も何一つ感じさせぬ、空洞のような瞳だ。東野はたじろぎ、すぐにやめた。
つぎにチェロで、その旋律を弾いてみたが、由希は目の前に置かれた譜面には関心を示さない。
やはり由希はこれまで、まったく音符に触れてきていないのだろうか。正式な西洋音楽教育を受けたことはないのだろうか。
すると、あのヒンデミットをどうやって一瞬のうちに暗譜して、復唱してみせたのだろうか?
音符というのは、音楽における言語だ。抽象化し、整理し、記憶させるための手段である。それの助けなしに、由希はメロディーの連なりをそのまま脳のどこかの部分に定着させて、数分後に引き出すという驚くべき芸当をやってのけたというのか?
世界的なピアニストの中には、確かに一度聴いた曲を間違いなく再現する者がいる。しかし、彼らは音楽的訓練を長期間に亘って受け、体系的な知識を身につけた上で、それができる。
レッスンを終えた後、東野はすぐには帰らず指導員室に寄った。ちょうど午後の面接ミーティングが入っている時間で全員出払っていたので、東野は深谷が帰ってくるのを待った。夜からは音大生を教える予定が入っていたが、深谷に会って確認しなければ、どうにも気がすまないことがあった。
一時間ほど待った後、ようやく深谷は現われた。
「どうしたの?」と怪訝《けげん》な顔をしている深谷に、東野はせっつくように尋ねた。
「由希は、音楽の早期教育を受けていますか」
「ピアノくらいは習ったことがあるんじゃないかしら」
「だれに師事したかわかりませんか」
「さあ」と首をひねりながら、深谷は東野が言わんとしていることを理解したらしい。口元に誇らしげな笑みを浮かべた。
「天才と言った意味がわかったでしょう」
「そうかもしれませんが、彼女がいつ、どんな教育を受けてきたのか知りたいのです。両親に確認しておいてください」
「なぜ」
「指導していく上で必要なので」と言うと、深谷はしぶしぶ承知した。
その答えは、三日後に出た。夜の十時過ぎに電話をしてきた深谷は、由希の父親から聞いた話を伝えた。
由希は五歳のときから一、二年、ピアノを習っていた。ピアノ教師は母親の知り合いで、特に著名なピアニストでもなければ、ピアニストを育てた実績もない。近所の子供に内職のように教えている人だったらしい。家を引っ越し、先生の家が遠くなったので、ピアノはやめた。以後、バレエや絵などいくつかの習いごとをしたが、特に音楽の英才教育はほどこしていない。
特別な教育を受けていないところをみると、あれはやはり特殊な能力なのか、と東野は驚くと同時にわりきれない気分になってもいた。
ピアノを習っていたとはいっても、由希の様子からすると、音符の存在すら知らないように見える。それでもいったん聴いた音楽を正確に再現することができる。
そのこと自体は確かに人を驚かせ、話題になる。素人目には、深谷が言った通り、天才に映る。しかし東野は音楽家として、それを評価するわけにはいかない。
子供の中には、ときおり由希に近い能力を持った者がいる。周囲は驚き、親のほうもわが子を天才児と思い込む。しかし基礎的な勉強をおろそかにして、特殊な勘だけを頼りに弾いていると、始めのうちこそ人並み以上に上達するが、ある段階まで行くと伸びはぴたりと止まってしまう。技術の積み重ねも、努力する習慣もない彼らが、そこで挫折してしまうことを、今まで何人かの子供をみた経験から東野は知っていた。
由希を本当の意味での天才的演奏家に育てたいのなら、特殊な能力に目を奪われることなく、基礎的訓練を積み重ねていかなければならない。
翌週、東野は幼児用の音楽教材を用意して、泉の里に行った。色音符を書いたプレートにシンセサイザーを組み込んだ教育機器は、子供が楽しみながら楽譜を学べるように工夫されたものだ。
ちょうど新しいチェロも納入されていた。国産の普及品だが、際立った欠点はなかった。由希が弾いてくれるか少し不安だったが、特に不満を示すこともなくそれを自分のものと認識したのか、素直に弾いた。
次に東野は、持ってきた色音符の教材を由希の前に広げた。
由希は、そちらを一瞥もしなかった。東野が目の前に教材を置くと、片手でうるさそうに振りはらう。大きく印刷してある五線はもちろん、その上で踊っている色とりどりのおたまじゃくしには何の興味も示さない。
東野はおたまじゃくしに触れてみる。正確な音程で音が出る。つぎつぎ触れると旋律が奏でられる。由希はそちらに顔を向けることもなく、つと立ち上がると部屋を出ていってしまった。
無理に連れ戻して、レッスンを続けるのは禁物だ。東野はうなだれて教材を専用ケースにしまいかけた。
そのとき中沢がドアからひょいと顔をのぞかせた。
「逃げられたのか」
「まあ、そんなところです」
「おもしろそうなものを持っているじゃないか」
室内に入ってきた中沢は、東野の手元を見た。
東野はそのシンセサイザーを取り出し、中沢に見せた。
「失敗です」
東野は大きなおたまじゃくしに手で触れる。電子音が流れた。
「ほう」
中沢は眉を上げた。
「よくできてる」
「幼児用の色音符ですが、だめでした。まったく。由希は興味も示しません」
「僕も自慢じゃないが、ドレミは全然だめなんだ。しかし音符など読めなくても、音楽の良さはわかる。ブルックナーのシンフォニーは、僕のような何の知識もない者にでも、歓びを与えてくれる。音楽はそういうものではないだろうか」
「おっしゃる通りですが……」
その先、何か反論したかったが、自分が何を言いたいのか、よくわからなかった。
「君の仕事は、単に教え込むことではないはずだよ。彼女にとって何が必要なのだろうか、彼女の乾ききった魂に、人間らしい気持ちを吹き込むのは何なのだろうか、彼女の人生をより豊かなものにするのは何なのだろうか……。それは音楽でなくてもいいんだ。なぜ、音楽かと言えば、彼女の感受性が、音に対して歓びをより多く感じるからにすぎない。そうじゃないかな?」
「ええ、まあ、そうでしょうか」
東野は、あいまいに返事をした。理路整然とした反論はできないが、中沢の言葉には納得しかねるものがあった。
音符もシンセサイザーつきの色音符も由希は拒否した。しかしチェロの音だけは、その後も受け入れた。妙なものを東野が持ち出さない限り、由希はレッスン途中で逃げ出すことはない。音楽は好きなのだ。しかし楽譜の読み方を覚えるなどという、おもしろくない勉強はしたくないのかもしれない。これでは新たな曲を与えられたときに、自分なりに解釈して弾いていく応用力がつかない。たとえアマチュアではあっても、由希を馬鹿の一つ覚えのように与えられた曲しか弾けない状態にしたくはなかった。
しかしそれから一か月たち二か月たっても、東野は由希の鼻面に楽譜をつきつけながら無視され続けた。
楽譜と記号の連なりも、音楽通論も、由希の理解を越えているようだった。それどころか彼女にとっては無意味なものらしい。
音大の研究室に問い合わせて、精神遅滞児のための教授法に関する資料を紹介してもらったこともある。しかし実際に当たってみると、由希のケースに応用できそうなものは一つもなかった。恩師の紹介で大学の心理学研究室を訪ねてみたときも、これといった答えは引き出せなかった。由希は幼児でもなければ、精神遅滞とも違う。俗にいう情緒障害というのとも違うように、東野には思える。
彼女の障害というのは、いったい何なのか。それ自体が東野にはよくわからないから、相談にのってくれる人々にもうまく説明できなかった。
にもかかわらず、由希の力は伸び続けた。音程も、弓の扱いも驚くほどの早さで洗練されていく。しかし楽譜を与えて、そこから音楽を引き出すということは、まったくできない。東野はさまざまな試行錯誤に疲れを感じ始めていた。
音大時代の友人である高田|保子《やすこ》に電話をかけたのは、まもなく年が暮れようとしている十二月の末のことだった。
コンサートでのピアノ伴奏を何回か引き受けてくれた保子に、東野は卒業後も変わらぬ思いを抱いてきたが、関係自体は友人という以外に呼びようのないものだ。
学生時代に彼が抱いたいささか即物的な恋心は、今は尊敬に近いものに変わっている。
卒業してまもなく結婚した保子は、現在、演奏活動の傍ら、吉祥寺の自宅で子供たちを教えている。情感溢れるその演奏と卓越した指導力は、音大の仲間の間でも定評がある。特に、暖かく包みこむような口調で語りかけられると、どんな子供でも実に楽しそうにピアノに向かう。
由希を持て余す度に、東野の心の片隅に保子の面影が浮かび、彼女ならどのように指導するのだろうかと考えたことも何度かあった。今まで、保子に由希のことを相談しなかったのは、すでに結婚した女友達の家に電話をかけるのに抵抗があったからだ。
幸いなことに、その日電話に出たのは保子本人だった。
東野は挨拶もそこそこに、自分が障害児の指導を引き受けたこと、その少女が驚くべき能力を持っているにもかかわらず、音符にまったく興味を示さず、一般的な指導ができないことなどを詳しく説明した。そして「あなたなら、どういう風に指導する?」と単刀直入に尋ねた。
いつの頃からか、東野は保子に対して「君」という呼びかけをしなくなった。もちろん「保子さん」と呼んだことはない。名字で呼ぶか、「あなた」と言うか、いずれかだ。名字にしても、高田という新姓になじみがなく、どうしても「あなた」になってしまう。
「音大の受験生というわけではないんですものね」
保子は確認するように言った。
「だからといって、音楽的に不完全でいいということにはならない……」
「もちろん。ただ、そのお嬢さんがどれほどの天才なのか私にはわからないけれど、音符っていうのは絶対的なものではないと思うのよ」
「と、言うと?」
「必要があるから作られて体裁が整えられてきたものですもの。もし彼女にとって、音符が必要でないのなら、無理をすることはないのじゃないかしら。無理強いをして本当の音楽嫌いをつくってしまうほうが、怖いわ。それにもしかすると」
少し口ごもったのち、遠慮がちに保子は続けた。
「その音の出る音符にしても、そんなおもちゃに喜ぶと思われているのが嫌だ、って気持ちが彼女にあるんじゃないのかしら。それからその教材の電子音、それにがまんできないってことはない? そういう子って、とてもかっちりした美意識みたいなものを持ってたりするから」
東野は、はっとした。初めてのレッスンのとき、プレス楽器を壊した由希の感覚からすれば、そう考えるほうが自然だ。会ったこともない由希の心のうちをぴたりと言い当てた保子の洞察力に驚くとともに、普通なら単なるこだわりとしてしか受け取られない由希の感受性の狭さを「美意識」と言い換えてくれたことに、優しさを感じる。
確かにあの機械は、ピーンという安っぽい電子音を出した。いくら訓練のためとはいえ、そんな子供だましの教材を由希に押しつけたのは、愚かなことだった。保子の言う通り、音符はそれを必要とするから作られたものであり、人の記憶を補い、伝達する手段に過ぎない。必要がなければ無理に習得させることはないのだ。そう思うと肩のあたりが急に軽くなった。
「ありがとう、ふっきれた」
「これでいいのかどうか、私もその子を直接、見てないから何ともいえないけれど」
「いや、いいんだ」
東野はもう一度礼を言って電話を切った。
大学のカウンセラーに相談する前に、彼女に相談すべきだった。もしも由希が習うのがチェロでなくてピアノなら、自分は迷わず保子を紹介したと思う。
受話器を置き、東野はしばらくの間、ぼんやりと自分の部屋を眺めていた。保子の声の甘い余韻が耳の底に残っている。
手元にあるのは、ピアノとチェロと楽譜。襖《ふすま》を外した隣の六畳間にはシングルベッドと小さなロッカーダンスがあるきりだ。
整然としているが、ぬくもりはない。仕事の準備をし、楽器を弾き、寝るだけの部屋。生活するというのとは、少し違うかもしれない。保子がそばにいてくれたら、人生はずいぶん心豊かなものになっていただろうと東野は、ふと思った。もちろんそんな可能性は学生時代から少しもなかったのだが。
音符は絶対的なものではない、という保子の言葉の正しさを証明するかのように、その後の由希の上達は留まることも、鈍ることもなかった。
普通の人間なら二年かけて終わらせるエチュードの第一巻を、初めてチェロを手にしてから七か月目の翌年四月に、由希は仕上げた。音符を読んで弾いたわけではもちろんない。東野が弾いた部分を忠実に再現するという方法で、由希は個々の曲を完成させたのだ。再現が確実になるにしたがい由希のハミングはなくなった。
由希は、東野が弾くものをコピーするように記憶し、その通りに弾く。
エチュードの第一巻を終える半月前くらいまで、それでも由希はまるで表情のない人形だった。人形というよりは自動演奏機械に近い。機械にプログラムし、調整するのが東野の仕事だった。しかし一巻を終える頃には、メロディーの中に歌が感じられ始めた。そしてメロディックな第二巻に入ったあたりから、豊かな音楽的情緒が見え隠れするようになった。同時に、東野は由希の底意地の悪さを感じることがある。
ワンフレーズずつ弾いて、東野は音程、リズム、表情のつけかたなどを教えていく。しかしプロとはいっても常に完璧ではない。音程の微妙なずれやリズムの甘さが、ときには出る。かすかに音程が揺らいだ瞬間、由希はそれまで沈黙していた自分の楽器で、ぴたりと正しい音を出してみせる。それも飛び上がるような大きな音で。
東野は恥ずかしさと、情けなさ、そして腹立たしさで、身の置き所がないような気持ちにさせられる。しかし由希のほうは、そんなときの東野の沈黙にはお構いなく、昂然とうなじをそらせて東野を見つめているだけだ。
由希には、相手に恥をかかせようという意図はない。彼女の内面の秩序に音楽は深く関係している。彼女はずれた音を正すことによって、自分の内でずれた精神的秩序を回復しようとしているにすぎない。
理屈としてはわかる。わかってはいても実際にやられてみると穏やかな気持ちではいられない。大人げないとはわかっているが、その後の教え方が荒れてくるのは人間であればしかたがない。怒鳴ることもある。しかし由希は全く意に介さない。彼女には他人の怒りという感情自体が理解できないらしい。苦い後悔にとらえられるのはいつも東野のほうであった。
それでも投げ出さなかったのは、この頃になって、由希が一瞬の笑みをもらすようになったからだ。それは彼に向けられたものでもなければ、彼の演奏に対するものでもない。微笑は聴覚刺激に対する純粋に生理的な快感のあらわれでしかない。それでも白い頬にふわりと広がる微笑は、東野を幸福な気分にさせ、レッスンの間に何度も味わわされる屈辱感や苛立ちといったものを帳消しにした。
この微笑と引き換えに自分はこれまで得た音楽的知識と技術のすべてを与えるのだろうか、と東野はときおり思う。すべてを与えたとき由希はどこかに飛びたっていき、後にはすっかり干涸びたぬけがらのような自分がぽつりと残される。そんな気がする。
自分の弾いたパートを反復する由希の音が、日に日に完璧に、深い音楽性を備えていくのを東野は複雑な思いで聞いていた。
自分にこれだけの才能があったなら、いったいどれほど輝かしい人生を送っていただろうか。
片手にチェロを抱えて歩いた小学校時代、二つ違いの弟よりも体が小さい彼にとって、チェロは泣きたくなるほど重かった。大きくなるまで遊ぶ暇もなく練習を続けたのは、もちろんその楽器が好きだったからだ。
迷いは大学受験のときにあった。好きなことを仕事にできるのは確かに幸せだろうが、将来の不安定な生活を考えると職業として音楽を選ぶのはためらわれた。結果的に一般大学の経済学部を受験したのは、チェロの演奏はあくまで趣味、という世間的な分別が彼にあったからだ。その一方で心の底に捨てきれない熱い思いが残り、音大も同時に受験した。
もちろん他学部との掛け持ち受験ができるほど、音大器楽科の試験は甘くはない。落ちればあきらめがつくだろうと思っていた。しかし彼は、国立大学の経済学部一つを除いてすべて合格した。
音大の合格通知が届いたときの全能感を東野は忘れられない。自分は選ばれた人間で、目の前には輝かしい未来が開けているような気がした。
甲府市の郊外で石材加工業を営む彼の実家は、明治の頃から多少は名の知れた彫刻家や絵描きを輩出している。暮らし向きも比較的豊かなほうで、長男が芸術家の道を進むことに対して、両親は反対しなかった。
そして音大の四年間は、努力に見合った成果を東野に与えてくれた。器楽科とはいえ、その大半が演奏家になることを在学中にあきらめ、卒業後は教員か結婚かという選択をする級友の中で、東野の演奏はつねにトップだった。しかし演奏家を志す、東野程度の腕を持つ学生は、彼の通っていた音大の外にはいくらでもいた。
卒業時に受けたオーケストラのオーディションを東野は軒並み落ちた。一流どころばかり狙ったせいもあるが、一人二人の採用枠に百人を超える応募者が集まる現状では、学科内のトップぐらいでは歯がたたなかったのだ。
それでもこの冬、東野はシティフィルの3プルトにおさまった。たまたま空きができてオーディションを受けたところ、卒業後九年間の努力が実を結び、合格したのだ。
地方オーケストラとはいえ、トップを弾くのはとうていかなわず、かといって最後尾というわけでもない。3プルトというのは、実力からして妥当な席次であり、自分にはいかにもふさわしいようにも思える。
もっとも支払われる給与は生活費の足しにさえならない。これは地方都市の楽団に限ったことではなく、日本有数のオーケストラの団員でさえ、レッスン収入で生活を維持しているのが現状である。
演奏家としての知名度もなければ、安定した収入もない。何人かの女と出会ったが、こんな状態だから結婚を意識したとき、相手は通り過ぎていった。
経済的安定と人並みの人生を求めるとすれば、小中学校の音楽専科教師になる道が残っているが、まだ東野には演奏家としての仕事に未練がある。
今後努力しだいでシティフィル内のポジションを上げていくことはできるだろうし、いつかトップを弾く日もくるかもしれない。しかし自分が独奏者としての地位を築くことは永遠にあるまい、と東野は思う。決して弱気なのではなくそれが限界なのである。
自分が傑出した才能に恵まれていないことに、東野はとうに気づいているが、失望はしていない。この世界に才能のある者などほとんどいないということを知っているからだ。素人が考えているほど、「才能」というものは頻繁に転がっているものではないし、「才能」ある者が現実に華々しい活躍をするわけではない。
たまたま才能があったにせよ、そういう人間に限って真っ先に脱落していく。
東野の音大時代のクラスメートで、すばらしい音楽的センスを持った女性がいたが、ものごとにひどくこだわる癖があり、ある日演奏会でちょっとした失敗をしたことから、弓を握らなくなり、それを機に急に垢抜け、美しくなった。まもなく学校に来なくなり風の便りに、どこかのサラリーマンと同棲を始め、子供ができたので正式に結婚し退学したと聞いた。
センスという点で、やはり東野に激しい羨望の思いを抱かせた男がいた。東野と同い年であった彼は、しかし生来、努力ということがまったくできない性格だった。何があっても一日八時間、寝る間を削ってでも弾く東野と違い、彼は弾くのが嫌になれば、何の連絡もなくレッスンに行かなくなる。数か月後に日焼けした顔で戻ってきて、インドを横断してきたと平然として言う。モデルをしていた女に恋をし、演奏会直前にピアノ合わせをすっぽかして女とドライブにでかけ、中堅のピアニストを怒らせたこともある。彼はその後、卒業だけはしたが、現在チェロは弾いていない。コンピュータソフト会社でゲーム作りに才能を発揮しているという。
数え上げればきりがない。結局、未だに音楽家として生き残っているのは、地道な努力を積み重ねることのできる人間だけだ。しかし、由希のような底知れぬ才能に出会ってみると、自分は単につぶしがきかなかったために音楽を選んだだけではないかという気がしてくる。
由希は思いのほか早い時期に、自分を追い越していくように東野には思える。天分の差は歴然としていた。
東野が苦労して自分のものにした高音域を由希は難なくこなして、初めてチェロを手にしてから十か月目の翌年の七月には、古典派の簡単なソナタを弾けるまでになっていた。
まるで咀嚼した餌を雛に与えるように、東野は小節ごとに分割して弾き、由希にそれをなぞって弾かせることによって音とリズムを認識させる。次にワンフレーズごとに区切って同様のことをする。さらに少しずつテンポを速め、強弱、アクセントなどの音楽的色彩をつけ加えていく。
何段階もの煩雑《はんざつ》な過程を経て、由希は最後に一人で弾いた。意外なことに、そのソナタは、由希の普段の無表情な顔からは想像もつかないような叙情的な響きを放っていた。
東野は驚くと同時に、そうした感情が由希の内側に息づいていたことに感動した。それが自分の大きな誤解だと気づき、大きな失望に変わるまで、さほど時間はかからなかった。
八分音符の上昇にともない増幅される甘さを含んだ悲嘆、頂点に位置する長いA音にこめられた涙の調子、下降音の優しく包むような響き。
それは東野自身の解釈に基づく、彼自身の歌い方だった。楽譜の読めない由希は、東野の弾く音を耳から覚え、自分の楽器で復唱することによって音楽を学んできた。しかしそうすることで、彼女はリズムや音程だけでなく、弾き手の個性が反映されなければならないはずの音質や歌い方まで、そっくり師を模倣してしまったのだ。
東野には自分のコピーを作る気は毛頭ない。由希に限らず、生徒に対して「自分のように弾け」と言うほど思い上がってはいない。演奏にどんな思いをこめ、何を表現するか、というのは、指導の範囲外だ。そうしたことを教えられる教師などどこにもいない。
教師が教えられるのは、音楽の歓びとその歓びに達するための技術だ、と彼は考えている。しかし一般社会からも、家族からさえ隔離され、高原の施設で生活全般を管理されて生きている由希が、いったいどれほどの人生経験を積み、そこから何を表現できるのかと考えると、いささか悲観的な気持ちになる。
当面、彼が関わり合えるのは、月に数回のレッスンだけであり、できることは限られていた。
彼女の乏しい経験を補う手段の一つは、人の演奏を聴くことだ。自分なりの表現とはいっても、まずは多くの優れた演奏に触れることから生み出されるものでもある。
彼女が自然な形で音楽に親しんでいるということは、今思い出しても胸の痛むあの場面、血まみれの子供のそばでヘッドホンをつけ、リズムをとり続けていた姿からもわかる。
しかしチェロの演奏を積極的に聴かせたことはなかった。
できることならチェロに限らず、優れた演奏家の生演奏を聴かせたいが、コンサート会場で由希がどんな反応をするかは予測がつかず、他の聴衆の手前もあり、演奏会に連れていく自信はない。
当面はCDかビデオでも見せるというのが、現実的な方法であるように思える。
準備室にある視聴覚資料を調べてみると、ビデオとCD、テープなどはかなりの点数が揃っていた。しかしクラシック音楽については、「やすらぎの音楽」「思い出の音楽」など細切れの曲を集めたCDしかない。
あきらめかけたとき、ラックの上の棚に、無造作に一枚のCDが置いてあるのに気づいた。手元に引き寄せ、なぜこれがこんなところにあるのかと、奇異な感じを覚えた。まさに東野が探していたチェロの独奏曲だ。
ジャケットにあるのは、最近レコード店で頻繁《ひんぱん》に見る女の顔だ。黒い髪が、細かく縮れて肩に落ちている。ワイヤーのような金属光沢を放つ髪に埋まって小ぶりな顔がある。ほっそりした顎に不釣り合いな真っ赤な大きな口、挑戦的な輝きを持つ漆黒の目もまた、異様に大きい。
琥珀色の肌をした女、ルー・メイ・ネルソン。現代アメリカを代表する若手チェリストだ。奇矯な行動と、一種異様な美貌、黒サテンのビスチェとハーレムパンツというコスチュームは、十六でデビューしたときから変わらない。神話、伝説、ゴシップの類には事欠かない。演奏旅行先のイギリスの権威あるホールで、一曲弾き終えたとき、いきなり舞台上でビスチェを脱ぎ捨て汗を拭き、その場で退場させられたというのも、その一つだ。知名度とファンの多さでは、おそらくヨーヨー・マや、ミッシャ・マイスキーをしのいでいるだろう。
しかし東野は、ルー・メイ・ネルソンの弾き方を認めない。好き嫌いの問題ではない。あのような弾き方や解釈に疑問を感じるのだ。それどころか彼女の演奏には「解釈」などという高級なもの自体がないように思える。
不必要なテヌート、極端なリタルダンド、わざとらしいアクセント。そして音をつぶして演奏するフォルテシモ。フレージングはロマンティックを通り越し、悪趣味と過剰と騒がしさに彩られている。
ある意味で、ルー・メイ・ネルソンの演奏は、すべてに過剰だ。正統に対する異端、というよりは、東野にとってはあってはならない弾き方だ。一方でその猥雑さに奇妙に心を魅かれる。悪女に惚れる心理とでも言おうか。ルー・メイの人気もまさに、彼女が女であることによるところが大きい、と東野は思う。それもその演奏にふさわしい一風変わった美貌をたたえた……。同じ演奏を男や中年の女が行なったのなら、問題外の一言で片付けられ、演奏会につめかけるファンの数にしても、今の五分の一に減るだろう。
ここにあるCDの内容は、フォーレやサン・サーンスの小品を集めたアンコールピースだった。買ってきたきりだれも聴いていないらしく、封は切られていない。
「聴いてみるかい?」
東野はそのCDを由希の前に差し出した。当然のことながら、聴きたいとも、聴きたくないとも、由希は言わない。しかし反応はあった。写真の中のルー・メイ・ネルソンを瞬《まばた》きもせずに、見つめている。
「わかったよ」
無造作に封を切って、東野はそれをプレイヤーにセットした。
由希は無関心な顔でどこか遠くを見ている。
ややあってスピーカーから、微熱を帯びたようなルー・メイ・ネルソン独特の音色が聞こえてきた。そのとたん、由希の視点はぴたりとあった。小鳥の気配に耳をそばだてた猫のように、いくぶん顎を引き、頬のあたりを緊張させている。
その様に、得体の知れない不安が足元からはい上がってくるのを東野は感じた。
リズムを揺らせ、啜り泣き、囁いたかと思えばいきなり晴れやかに歌いだす。フレーズの終わりを重く、ことさら引き伸ばす独特の歌わせ方、不自然なテヌート。いくつかあるルー・メイの録音のうちでも、これは格別彼女らしい演奏だ。
クラシックから逸脱し、限りなく肉声に近いところが大衆受けする。それだけのものではなかろうか。そんなことを思いながら、東野は由希の横顔を凝視していた。
実のところ、東野とルー・メイ・ネルソンはまったく無関係というわけではなかった。東野は、日本ではトップクラスのチェリストである山岡将雄に師事したのだが、その山岡がルー・メイ・ネルソンの兄弟子なのである。山岡はジュリアード音楽院で学び、そのとき師事したチェリストとその後も交流があった。今から十五年ほど前にシカゴにあるそのチェリストの家に招かれたとき、驚くほどきれいな顔立ちをした混血の少女がいて、それがルー・メイ・ネルソンだった、という話を東野は師から聞いたことがある。
ルーツは同じでありながら、山岡将雄の演奏にはその妹弟子、ルー・メイほどの破天荒な情緒の嵐はない。さらに東野秀行とルー・メイとなると、いくら東野がルー・メイの演奏など認めないと叫んだところで、片や世界に通用するチェリストであり、片や地方の交響楽団の一演奏者であり、実力の差は天と地ほどにある。それでも音楽的には同じ系統に属するのは事実だった。
小品が二曲終わったところで、東野はCDを止めた。とたんに緊張が解けたように、由希の両肩から力が抜けた。
魅力的ではあっても、ルー・メイ・ネルソンのCDは、教材にはなり得ない。東野の趣味の問題はさておいて、初心者が参考にするには、彼女の演奏は基本から離れ過ぎているのだ。教材としてはフルニエの演奏のように、レベルが高く、なおかつ楷書的な表現スタイルを持つものが好ましい。
近いうちに何か見繕って買ってこようと思いながら、東野はプレイヤーを止め、その日のレッスンを終えた。
部屋を出ていく由希の後ろ姿を見守りながら、CDを買うのに彼女を連れていったらどうだろう、とふと考えた。なかなかいい思いつきだった。
彼女自身が選ぶ。主体的に何かを選択することが由希にできるかどうかはさておいて、それもまた音楽作りの一歩であるような気がする。そして施設の外に連れ出すことは、彼女の数少ない社会経験の一つになるかもしれない。
ちょうど玄関先で深谷に会った。これから東京に出張するとのことで、彼女は忙しない足取りで駐車場に向かっていた。
「CDを買うのは、もちろんOKよ。領収書を忘れないでね。でも由希を連れ出すのは、もう少し待って」
東野が自分の計画を話すと、深谷は手のなかの車のキーをもてあそびながら言った。
「待つってどのくらい? 中沢さんにでも相談するんですか」
「いえ」
「それじゃいつまで?」
深谷は足を止めた。
「あなたは、月に四、五回、音楽を指導するという形でしか彼女に関わっていないわ」
「回数が問題なんですか」
小さく息を吐き、深谷は真っすぐに東野を見つめた。
「彼女の生活は彼女自身の作り出した厳密な規則によって成り立っているの。いろいろ試みた人はいるけど、今のところ、彼女を内側から拘束するパターンを崩せた人はいないわ」
「厳密な規則って何ですか?」
「彼女は生活習慣の変化を受け入れない。絶対といっていいほど。つまりここを出たら生活できないということ」
「何を心配しているんですか? たかが、半日程度のことを。だいたいかわいそうじゃないですか。年頃の少女が、街の賑わいも知らず、何が流行っているのかも知らず、こんなところに閉じ込められてるんですよ。普通の子だって、気が滅入って変になると思わないんですか」
「ここの人々は、閉じ込められてはいないわよ」
深谷は遮るように言った。
「同じことでしょう。ここの指導員はさかんに言ってるじゃないですか。社会化だのノーマライゼーションだのと。あれは口先だけで、本音では、なるべく世間との接触を断ってここに隔離したいってことですか」
「そういうわけじゃなくて」
「車に乗せて町へ出て、買物して、戻ってくるだけです。他の入所者がしていることなのに、なぜ由希には許されないわけですか」
泉の里では生活実践ゼミナールというプログラムがあり、その中で「社会適応のための訓練」と称し、入所者が指導員に付き添われて町に出かけ、簡単な買物をしたり映画を見たり、といったことを行なっている。しかし由希だけは、そのプログラムから外されていた。
「彼女の場合は、いろいろ問題があって」と深谷は言葉を濁した。
「責任は持ちます」
「あなたに責任持ってもらってもね……」
「彼女を町に連れ出すのが、そんなに危ないことなんですか」
「あなた、由希がいくつだと思ってるの?」
唐突に深谷は尋ねた。
「いくつって、歳?」
普通に生活していれば、高校一年生か、二年生になっていることだろう。
「十六、七ですか」
深谷は笑って首を振った。
「二十八よ。今年で」
東野は息を飲んだ。
「二十八……ですか」
ふっくらした頬ととがった顎、ぎごちないしぐさ、痛々しいほど薄い胸。成熟した女を感じさせるものなど、由希のどこにもない。
「あなたは自分で思っているほど、彼女のことをわかってないのよ。由希は不思議の国のアリスじゃなくて、一人の生身の女だってことを忘れないで」
返す言葉もない。確かに彼が目にした由希は女ではなく少女であり、さらに言えば人より妖精に近かった。性を持った女の生々しい存在感から遠く離れたところにいた。
「で、どこに行きたいの?」と深谷に尋ねられたとき、「松本」という答えが、とっさに口をついて出た。茅野や上諏訪では商品が揃っていないだろうし、自宅のある甲府の町に由希を連れて行く気はしなかった。住み慣れた故郷の町に対しては、それがあまりに日常的で、自分自身の生活に直結しているせいか、軽い軽蔑めいたものを感じるのだ。
松本という響きには、ささやかながらある種の旅情が漂い、由希を連れて訪れるにふさわしい晴れがましさと、非日常性があった。たった今、由希は少女アリスではないと聞かされたばかりだというのに、東野はアリスに少しでもふさわしい舞台を無意識に用意しようとしていた。
「松本ね……」
深谷はうなずいた。
「いいでしょう」
それから少し間を置いて、深谷は続けた。
「いいけど、車はだめ。電車にして。事故があったときに、いろいろ問題が出るから。それから約束して。必ず、半日以内に帰ってくると」
「約束します」
東野は直立不動で言った。
一週間後の木曜日、数日続いた雨は朝から上がっていた。玄関に続く緩やかなスロープを濡れた芝生を踏みしめながら登っていくと、玄関先に立っている由希のブラウスの白い衿が、はっとするような鮮やかさで飛び込んできた。
東野の姿を認め、由希は眩しそうに顔をしかめる。初夏の陽射しに頬のうぶ毛が金色に光っている。
白いブラウスに紺のスカートという服装が、二十八歳の女をやはり少女に見せていた。すぐに深谷がやってきて自分の車に案内する。この日、東野は車で来なかったので、小淵沢の駅まで二人を送ると言う。
「暑さ寒さの感覚が鈍いのよ、彼女。冷房がきつかったらこれを着せて」と深谷は木綿のカットソーを東野に手渡した。それもまた紺だ。
「このことは、他の指導員には内緒よ。中沢さんにも言わないで。独断で外部の人間にこんなことをさせたとわかったら、ひと騒ぎ起こるから」
念を押すように深谷は言って、車の後部座席のドアを開け二人を乗せる。
「午後の三時までには、必ず戻ります」
東野が答えると、深谷は目尻に浅い皺を寄せルームミラーの中で小さく笑った。
「信用してるわ。それから昼食はいらないわ。手をつけないはずだから」
「はぁ?」
「だから食べないのよ。一食くらい抜いても、死にはしないからいいのよ」
「わかりました」
いつも東野が上ってくる広い道路ではなく、左右から木々の枝が被さってくるような狭い山道を抜け、車は二十分足らずで、駅に着いた。
深谷は改札口に立ったまま、いくぶん心配げに見守っている。東野はそちらに小さく手を振り、ホームに滑り込んできたあずさ号に乗りこんだ。
東野は窓側に由希を座らせる。車窓の風景を見せようとしたのだが、由希の顔は列車に乗ったとたん緊張し、そのまま視線が前の座席の背に張りついた。
列車が動き出した。由希の瞳がぶれるように上下左右に動く。
「見てごらん」
東野は窓の外を指差すが、由希はそちらに顔を向けない。目を開いたまま顔をうつむけている。まもなく慣れるだろうと考え、東野はしばらくそっとしておくことにした。
上諏訪を過ぎたあたりで、ふと見ると由希の顔色が透き通るように白く変わっている。「おい、大丈夫か」と声をかけたとたん、吐いた。
何も訴えず、表情も変わらなかったので、体調の悪さに気づかなかった。
しまった、と思ったが、何の用意もない。何をしたらいいのかわからず、立ったり座ったりしたあげく東野にできたのは、座席の下の吐瀉物《としやぶつ》から目を背けながら、恐る恐る由希の背中をさすることだけだった。
激しい不安が込み上げてくる。深谷の細かい注意が一つ一つ思い出される。無理に連れ出したことを早くも後悔していた。
隣のボックスの年配の女性が、立ってきてティッシュペーパーを差し出す。
「すみません」と頭を下げ由希の胸元を拭おうとしたときだ。由希ははっきりと拒否するように東野の手を払った。そして当惑している東野の前で自分のハンカチを取り出し、手や服を拭き始めた。
いったい由希はどの程度まで事情が飲み込めているのか、そして自分のことはどのくらいできるのか、何がわかって何がわからないのか。東野は混乱した思いで、カバンの中の新聞を取り出し、汚れた床を拭いていた。
松本に着いたときには、このまま上り列車に乗って小淵沢に戻りたくなっていた。しかし深谷の前で偉そうなことを言ってしまった手前それもできず、由希を促し改札を出る。
由希の足取りが、思いの外しっかりしているのに少しばかり励まされ、東野はまず駅ビルの中にあるブティックに入った。そこの棚に並べてあるTシャツの一枚を買い、店員に断り試着室の前に由希を連れていった。
「これに着替えて。ブラウス、汚れてて気持ちが悪いだろう」
東野はTシャツを袋から取り出し、由希に手渡す。
由希は黙ってTシャツを見ているだけだ。若い店員が奇妙な顔で二人を凝視している。雰囲気を感じ取ったのか、由希の頬が緊張する。
「ちょっと着替えさせたいのですが、僕も入っていいですか」と東野は躊躇しながら店員に声をかけた。
そのとき年配の女が小走りでやってきた。ここの店長らしい。東野たちを店の奥に案内する。「STAFFS ONLY」と書いてあるドアを開け、「どうぞ。こちらのほうが、広くてようございましょう」と、中の照明をつけてくれた。
隅のほうに段ボール箱やハンガーが重ねてある部屋に入り、東野は由希の前にTシャツを広げる。
「たのむから、自分で着てくれよ」
哀願するように言ったが、由希は唇を結び、冷ややかな表情で立っているだけだ。
東野はわずかの時間迷っていたが、短く息を吸いこんでから、機械的な動作で由希のブラウスのボタンを外した。由希はされるままになっている。
鎖骨の浮いた白い胸から目を背け、新品のTシャツの値札を外す。慌ててむしり取ったせいで、生地に小さなほころびを作ってしまった。
由希の腕をつかんで、袖を通す。反射的に深谷規子の顔を思い浮かべた。由希は抵抗しない。首を通しTシャツの裾をスカートの中に入れるとようやくほっとして由希の顔を見ることができた。
虚ろな光の無い目が東野を突き抜け、どこか遠くで焦点を結んでいた。
「似合うよ。このほうが」
自分の緊張を解くように、東野は由希の肩を軽く叩き、胸元が汚れて嫌な臭いのするブラウスを丸め、紙袋に突っ込んだ。
由希は陶器の人形のようにつっ立ったままだ。なんだか哀れになって、抱き締めてやりたくなった。
東野は汗を拭きながら試着室から出て、店長に礼を言った。彼女は由希の様子をちらりと窺い、眉をよせた。
「ご苦労さまでございますね。施設の方でしょう」
「はあ」
「最近は若い男の方が、けっこう福祉関係の仕事に入るんですって?」
「ええ、まあ……」
「大変ですね、本当にご苦労さまでございますね。頭が下がりますよ」
居心地の悪さを感じながら、東野は何度もおじぎをし、早々に店を出た。
陽射しの下に出ると、ミントグリーンのTシャツは、由希の透き通るような肌の色に思いの外映えて、やぼったいブラウスとは打って変わって、生き生きとした印象を与える。
「何か食べられる?」
東野は尋ねた。答えが返ってこないことはわかっていた。
駅ビル内にあるファストフードショップに入り、マフィンとオレンジジュースを注文したが、深谷が言った通り、由希は食物に手をつけない。目の前で東野が食べてみせてもだめだ。
彼女にとっての食事とは、施設の食堂で、決められた器で、一週間交替で変わる決められたメニューのことなのだ。それ以外の場所で、それ以外の器で出される、それ以外のメニューは、由希にとっては食物ではない。さきほど吐いたので、水ものだけでも取らせようとしたが、無駄だった。
残してしまったマフィンをくず籠につっこみ、店を出て駅前のデパートに行く。
レコード店のある四階のフロアまでエスカレーターで上ると、クラシックのコーナーは、店の奥まった一画にあった。独奏曲のCDの棚に連れていき、数枚を選びとって由希の前に差し出す。由希はさほど興味は示さなかった。ケースについているヨーヨー・マの写真を見せ、「ほら、君と同じものを弾いている」と東野が説明しても、無関心な視線で一瞥したきり、他のCDのケースを意味もなく指先で撫でている。
しかたなく東野は自分の判断で数枚を選び、由希をその場に置いてレジに急いだ。
金を払って戻ると、さきほどの場所に由希がいない。慌ててあたりを見回すが、だれもいない。クラシックコーナーを飛び出し、人々で賑わうポップスやビデオのコーナーを探すが、由希の姿はない。心臓が狂ったように一つ打った。
「由希」
呼んでみる。考えてみれば、彼女がユキという自分を呼ぶ声に反応するのかどうかわからない。
フロアを隅から隅まで探してみるがいない。エスカレーターで下の階に下り、洋服売場や書籍売場など、手あたり次第に探す。由希はいったい何に興味をもつのか、何を見たいのか、自分がまったく知らないことに気づき、愕然《がくぜん》とした。行きそうな場所の見当がつかない。各階を見て、一階まで下りてきてしまった。アクセサリー売場で人をかき分け探してみるがいない。
そう遠くに行くはずはない。しかし地下は長距離バスのターミナルだ。ふらふらと乗り込んでしまったら大変なことになる。
地下への階段をかけ下り、排気ガス臭い一帯を走り回るが、由希らしい姿はない。
再び階段を上り外に出る。信号を無視して交差点をわたり、駅構内を探す。やはりいない。
「由希」
呼びながら、人混みに目を凝《こ》らす。深谷が言った通りだ。自分は由希のことを何も知らない。週一、二回、楽器を教えるだけの関係だったのだ。
自分は、単に器楽のトレーナーにすぎなかった。自分と由希を結びつけるのはチェロだけだ。泉の里のプレイルームを離れ、トレーナーと生徒という関係から離れたとき、自分と由希を結びつけるものは何もない。こんなところに連れて来るべきではなかった。せめて勝手知った甲府の町にすべきだった。
激しい後悔にとらえられたそのとき、サイレンの音が耳に飛び込んできた。救急車だ。
顔から血の気が引いていくのが自分でわかる。こめかみのあたりがずきずきと痛み出した。サイレンはさきほどCDを買ったデパートのあたりで止まった。人の波が動く。人混みをかきわけ、東野は走った。胸を押しつぶすような不安が広がる。
「飛び降りだって」
ささやき声が聞こえた。体中の皮膚がびっしりと鳥肌立った。
人垣に阻まれ、救急車の止まっているあたりは見えない。
「だれなんです、いったい、だれが飛び降りたんです?」
だれかれかまわず尋ねる。背中に冷たい汗が噴き出す。
むりやりに人垣を割って、中に入り込もうとしたそのとき、声がした。
「旅行者らしいよ。若い男」
「男、男ですか」
東野は叫んだ。
「そう、男。頭割って。もうだめだ、ありゃ」
人垣の中から出てきた老人が答えた。思わず「よかった」とつぶやいて、その場を離れる。
ふたたびデパートに戻り、一階のサービスカウンターで呼び出しのアナウンスを頼んだ。呼び出したところで、由希がそのメッセージを理解するとは思えないが、他に方法が思いつかない。
担当の女性に事情を話すと、責任者を呼んでくれた。
「すみません。障害者なんです。言葉ではなく音楽に反応するんで、なんとかお願いします」と東野は手にしたCDを見せる。
「わかりました。おっしゃる通りやらせます」
相手はすぐに納得し、東野からCDを受け取って担当者に手渡した。
東野は、自分が初めて由希のことを「障害者」という言葉で呼んだことに気づいた。由希は、対外的には「天才」でも「他の人と違う方法で世界を理解する人」でもないのだ、と認めざるをえないことが悔しかった。
それまで店内に流れていたコマーシャルがぷつりと切れ、いきなりチェロの音に変わった。
チェロの音は、間違いなく由希に何かの感情反応を起こさせるはずだ。もしもこの建物の中にいるとすれば、この曲の直後に流れるアナウンスに注意を向けるだろう。
音が流れてから数秒後に、東野は自分でマイクを取った。
「生活寮泉の里の浅羽由希さん、浅羽由希さん、すぐに四階のレコード店の前に来てください。浅羽由希さん……」
祈るような思いで呼びかける。
由希は、このアナウンスの意味を理解するだろうか? 浅羽由希という自分の名前は理解できるにしても、四階という数字とフロアの概念を結びつけ、位置を理解しうるのか。レコード店という単語がわかるのだろうか。「来てください」というこちらの呼び掛けを理解し、それに従う意志はあるのか。そしてすべての言葉を結びつけ、総合的に理解し、指定された場所に来るという行動を起こせるのだろうか。
ごく簡単な意志疎通のためにも、頭脳の中ではあまりに複雑な認知システムが働いていることをあらためて知らされ、東野は絶望的な気分になっていた。楽器の練習より、まずは言語能力の習得を、と言った中沢の意図が今はよくわかる。
たかだか数分のことだったと思うが、とてつもなく長く感じた。
ふと首筋あたりに、気配を感じた。振り返ると、ミントグリーンのTシャツの色がまず目に飛び込んできた。体から力が抜けた。
「心配させやがって……」
そう言って、その顔に目をやったとき、東野は驚愕した。由希は微笑んでいた。いつか見た、淡く、漠然とした微笑ではない。笑顔ははっきりと東野に向けられていた。
信頼。安堵。一度も見せたことのない、人間らしい表情がそこにあった。東野は由希の細い両肩を抱き締めた。腕の中の由希の体は人形のようで、何の手応えもなかった。
東野はゆっくりと由希の両肩から手を外す。東野とはぐれていた間の不安、戻って来られたうれしさ。由希の中にはそんな人の感情が、確かに存在しているように見えた。
それだけではない。由希は理解できたのだ。泉の里、自分を呼ぶユキという言葉、レコード店に来いというメッセージ、さらには指定された場所の空間的位置までもが。
「上出来だ」
東野は自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。
「帰ろう」と由希の手を握った。帰り着くまで、この手を離すまいと決めた。
「帰ろうな、家に」
由希は答えない。その顔から笑みはすでに消えていて、物憂く眠た気な表情が戻っている。
案内所に行き丁寧に礼を言った後は、一目散に駅に行き、上りの特急に乗った。
ホームでウーロン茶を二缶買い、飲まないだろうとは思ったが一本を手渡す。
由希は自分でプルトップを開け、飲み始めた。
「上出来だよ」
東野はだれに言うともなくもう一度つぶやいた。慣れない外出に疲れたらしく、電車に乗ると由希は椅子の背に身をもたせかけ、目を開けたままぼんやりとしている。
来るときのような緊張した表情も、気分の悪そうな様子も見えない。東野は手を伸ばして、由希の椅子の背を倒す。由希は二度、三度瞬きし、目を閉じた。まどろんでいる様子だった。その体が傾いてくるのを東野はそっと自分の身を寄せて支える。肩に由希の体の重みと体温が伝わってきたとき、東野は恐る恐る由希の髪に触れてみた。その拍子に前髪が浮いて、額が丸出しになった。
はっとして目を凝らした。傷痕があった。薄く、かすかな、引きつれだ。怪我でもしたことがあるのだろうかと妙に気になり、その傷痕をたどるように由希の髪をかき分けようとしたときだ。由希はぴくりと体を起こし、怒ったように首を振り、窓ガラスのほうに寄ってしまった。
小淵沢の駅に列車が滑り込んだとき、ベージュのスーツを着た深谷が時計を覗き込んでいる姿が見えた。ホームまで迎えに来ている。
「あら」
デッキから降りると、深谷は瞬きをして由希を見た。
「洋服を買ってもらったの?」
「そう。今どき白いブラウスに紺のスカートじゃ、連れて歩くのが恥ずかしかったから」と言いながら、東野は汚れたブラウスの入ったブティックの紙袋を深谷に渡した。
「よかったね。すてきよ」と深谷は由希に話しかける。由希の視線は、どこか遠くで焦点を結んでいる。
発車のベルが鳴った。
「それじゃ、僕はこれで」と、東野はそのまま再び列車に乗った。
「あら、このまま帰るの?」と深谷は言い、それから「そういえばこのまま乗っていけばいいんですものね」とうなずいた。
「後で電話します」
言い終わらぬうちに、ドアが閉まった。深谷が手を振り、由希はこちらを見ている。列車が走り出しても、東野はしばらくの間、デッキにつっ立ったまま、まだ二人の姿がそこにあるかのように、外を眺めていた。
一時間後、自分のマンションに戻った東野は泉の里に電話をし、深谷を呼び出してもらった。
駅でその日起きたことを深谷に報告しなかったのは、特急の停車時間が短かったから、というだけではない。由希がその場にいたからだ。由希は自分の身の回りで起きていること、自分について交わされている会話については、かなり正確に理解しているような気がしてならなかったのだ。
由希が電車に酔ったこと、食事をしなかったこと、周りの景色には無関心であったことなどを東野は深谷に事細かに話した。そして最後に、由希とはぐれ、アナウンスで呼び出してもらったことを報告した。
説教されることは覚悟していたが、深谷は「今度から気をつけて」と言っただけだった。
「彼女はちゃんと呼び出しのアナウンスのメッセージを理解して、言われた場所にきたんです」
念を押すように、東野は言った。
「ええ」と驚いた様子もなく、深谷は言った。
「彼女は理解しているのよ。物事を抽象化したり、記号化したりすることができないだけで」
「でも、四階とかレコード店の前とかいう言葉を理解したってことは、抽象化の能力がないということにはならないでしょう」
「そうね、できないと言うのは正確じゃなくて、私たちとは違う方法でできるのかもしれない」
深谷は言った。
「それだけじゃなくて」と言いかけ、東野は口をつぐんだ。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
自分に対して由希が笑顔を向けてきたことについては、小さな秘密として自分の胸にしまっておくことにした。
松本で買ったCDを東野はその後、由希に何度か聴かせた。スピーカーの前で、由希はさまざまな反応を示した。微笑んだかと思うと、少し哀しげな表情で首を傾げる。由希は一見したところからは想像もつかないような豊かな感情を内包しているのかもしれない。それこそが音楽的資質の重要な部分だと、東野は信じた。
七月と八月は、泉の里のもっとも美しく快適な季節だ。短い夏を惜しむかのように裏庭や施設の回りには、ナデシコやキスゲ、シモツケソウなどが咲き乱れる。日中の陽射しは強いが、空気が乾いているので日陰に入れば涼しい。
どんよりと暑気がたまった甲府盆地を逃れるように、東野はここにやってくる。由希のレッスンは順調に進み、深谷も自分の試みが軌道に乗ったことに安心しているように見えた。
由希の力が飛躍的に伸びたのは、再び初秋を迎え、初めてチェロを持たせてからまる一年が過ぎた頃のことだった。ちょうど階段を上ったような具合だった。普通、しばらく上達の止まる時期と、何かの問題を克服したかのように急激に伸びる時期が交互にくる。しかし由希の場合は、上達の止まる時期や緩やかになる時期がなく、前触れもなく急激に上手になっている。
深谷の話では、泉の里のプログラムにある「自主活動」の時間に、レッスンの復習を由希にさせているということだった。それはしばしば一時間半という定められた時間を越えて続けられ、他のスポーツや生活実践ゼミの時間に食い込んでしまうこともある。しかし深谷は由希からチェロを取り上げ、あらかじめ決められたスケジュールに従わせることはしていないという。
「無理強いはしないの。嫌がることをさせることも、嫌がるのにやめさせることも」と深谷は苦笑しながら語った。
弓のあやつり方にやや硬さは残っていたが、スピッカートやダブルなどの基本的なテクニックはほぼ完璧に仕上がっている。音程やリズムの精緻さ、それにフレージングについては、すでに東野を追い越しつつある。
泉の里を訪れるたびに、由希はひと回りずつ大きくなる。早すぎる進歩は教える喜びを越えて、東野に苦い感慨を抱かせる。
由希の紡ぎ出す見事なフレーズに出会うとき、東野の心は感動とともに、ある種の不吉な予感にとらえられる。多くの作曲家や優れた演奏家のたどった決して幸福とはいえない私生活を思い起こすのだ。
貧困、発狂、自殺……。天才というのは、どこかで凄惨極まる魂の地獄を抱えているような気がする。抜きんでた能力と一対のように与えられた悲劇を由希のこの先の人生に見たいとは思わない。
ときおり由希は東野の神経を逆撫でするような行為に出る。彼の些細な音楽上の間違いをさまざまな行動で指摘するかと思えば、気難しい顔をしたまま一切の指示を受け付けなくなることもある。そんなとき東野は、何もかも投げ出して逃げ出したくなる。しかしつぎに由希のかすかではあるが人間らしい表情の変化に出会った瞬間、そんな気持ちは消えている。
自分は由希を教えているように見えて、実は巧妙にコントロールされているのではないか。そんな疑問がわき起こることもある。
ちょうどボッケリーニのコンチェルトの中程を弾いていたときのことだった。弾いているうちに由希の弦がゆるんだので、東野は、調弦のために自分の楽器でA線を弾いた。
由希のチェロの弦をAの音に合わせさせるためだった。
しかし由希は、糸巻きに手をかけなかった。無表情な視線をどこかに向けたまま、ぴくりとも動かない。その静けさに、不機嫌な気分を感じ取りながらも、東野は「高さを合わせて」と声をかけた。
何の反応もなかった。反抗されているような気がして東野は苛立ち、大きく弓を動かした。空気が震えるようなフォルテシモでAの音が鳴り渡る。そのとたん由希は楽器をその場に置いて、立ち上がった。つかつかと東野に近寄り、彼の楽器の糸巻きをいきなりつかんだ。ぎりぎりと音を立てて回す。止める暇もなかった。
弦が鋭い音を立てて切れたのと、目の下に痛みを感じたのは同時だった。跳ねたスチール弦が、しなやかな鞭のように東野の頬を叩いたのだ。
茫然としたまま、顔に手をやると指先に血がついていた。少し切ったらしい。あと一センチずれていれば、目をやられるところだった。
声も出せずに見守る東野の前で、由希は何事もなかったかのように椅子にもどり、自分の楽器の糸巻きを回し始める。
ぎしぎしと音を立てながら調弦し、やがて力強く弾いた音は、完全なAだった。東野が、自分の楽器でAの音を出してやる必要などなかったのだ。由希の頭の中には、440ヘルツのA音が刻みこまれている。そして絶対音感のない東野の、わずかにずれたAにあからさまな怒りを発したのだった。
東野は怒りとも情けなさとも違う、やり場のない思いにとらえられて、脇に楽器を転がしたまま立ちつくしていた。
不快な音を出した東野の楽器の弦を切り、自分の聴覚と外部環境との間に整合性を取り戻した由希は落ち着いて弾き始める。由希の精神が要求する厳格な秩序に、人の情など入り込む余地はない。
調弦を終えて由希はボッケリーニを弾き始める。弾き込みが足りないせいで表現力はいまひとつだ。しかし正確極まるリズムと音程が、自分を追い詰めてくるように感じられる。東野は弦を切られたチェロをその場に置いたまま、部屋を出た。廊下のつきあたりまで早足で歩き、非常ドアを開け中庭に出た。あのとき由希がもたれていたダケカンバの木はそのままあった。
宿舎の向こうの落葉松《からまつ》が建物に淡い陰を投げかけている。そして東野の耳の中では、まだ由希の完璧な音程のボッケリーニが鳴り響いている。
自分の役目は終わったのだ、と思った。これ以上、由希を指導する自信はない。もちろん総合的な音楽的能力において、まだまだ由希は東野の比ではない。しかしその大きすぎる可能性は負担だった。
プレイルームに戻ると由希はさきほどと少しも変わらぬ様子で、ボッケリーニの一楽章を弾いている。東野が入っていっても、何の反応もないし、わだかまりも見せない。磨きぬかれたダイヤモンドのように、由希はこの先も決して傷つくことなく、他人を思いやることも知らず、硬質な白い光を放って生きていくのだろうかと東野は思う。
正確なタッチで音程をとる由希の白い指をしばらく見ていたが、やがて東野自身も何事もなかったように、由希の隣で第二楽章を弾き始める。由希がそれを忠実に再現するのを聴いた後、「さようなら」という言葉を残して、レッスンを終えた。
[#改ページ]
2
甲府市内にある自宅のマンションに着いたときには、短い秋の日は暮れていた。
自分の体の一部のようになっているチェロが重たい。いつのまにか、その時々の気力をチェロの重さで計れるようになっている。
すべてに前向きに生きているとき、十キロを超える楽器一式を担いで歩くのは少しも苦ではない。ひょいと脇に抱え、人の波をすいすいと泳いでいかれる。しかし失敗した演奏会の後や、恋人に去られた日、彼の分身であるはずの楽器は人生のかせであるかのように重く、ケースの革紐が肩に食い込んでくる。
部屋に入った東野はチェロを部屋の隅に転がし、着ていたポロシャツとジーンズを脱いで、そのまま洗濯機に投げ込みスイッチを入れる。モーターの音を背に冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出す。冷えたビールを飲みながら、買ってきた野菜を刻む。
一人暮らしはすっかり身についている。ここにやってきた女性は過去に二人いたが、二人とも居着いてはくれなかった。
一人は山岡将雄のところの弟子で女性チェリストだったが、ちょっとした気持ちの行き違いから、一緒に食事をしている最中に飛び出していって、それきりになった。
「あなたの煮え切らないところがいやなのよ」とワインを二杯ばかり立て続けに飲んだ後、彼女は怒鳴った。なぜ相手がいきなり怒り出したのか、東野にはまるでわからなかった。未だにわからない。
僕は君を大切にしたかっただけなのだ、と東野は心の中で言い訳した。一人の女性として、一人のチェリストとして、その将来を奪いたくないと思っただけだ。付き合っている間も、飛び出していった後も。
そして二人目は、友達に紹介された女性だったが、彼女は付き合って二か月目に、親から見合いを勧められている、と東野に告げた。見合い相手は通産省のキャリアということだった。
「僕の立場では、何とも言えない」と東野は答えた。ちょうど、市内の中学校の産休代理教員の口がかかっていたときだった。その気になれば、中学校の臨時教員になり、やがて正教員になるというまっとうな道を歩むこともできた。彼女を伴侶として。
しかし決心がつかないまま、「何とも言えない」と東野は答えた。彼女は笑った。悲しい顔で笑った。胸をつかれた。「行かないでくれ」と抱き締めたかったが、できなかった。未練を振り切るように「がんばれよ」と東野が言うと、こちらもまたいきなり怒り出した。
「お見合いの何をがんばれっていうのよ」と叫ぶとドアを叩きつけるようにして出ていって、それきりだ。
それが何年前のことだったのか、もう忘れている。教えることと自分の練習をすることで一日の大半は過ぎていく。一人で洗濯し、一人で食事を作り、一人で食べる。たまに仲間と酒を飲み、ときおりアダルトビデオの世話になる。あまりに普通で、少しも優雅でない独身生活だった。
今さら、郊外にある実家に戻ろうという気にはなれない。いくら明治の頃から彫刻家や絵描きを輩出した家とはいえ、いい歳をした息子が嫁ももらわず、朝から楽器を弾いていて家業の石材業も手伝わないというのは、いささか世間体が悪い。
そしてそれ以上に、年老いた両親の悲しみと虚脱感に満ちた顔を毎日見て暮らさなければならないのが苦痛だった。
十年あまり前、弟が死んでから、両親は残された自分たちの人生をあの世までの通過点と考えるようになった。弟の死は突然のことではなかった。だからこそ、親たちは弟の余命を告げられたとき、それに生活のすべてをかけた。そして彼の死と同時に両親は自分たちの人生も終えた。長男が戻ったところで、何の慰めにもならない。
研磨場や店舗を合わせて三百坪の屋敷は、従業員を帰してしまった後は、しんと静まり返る。その静けさと重く淀んだ空気が東野には疎《うと》ましい。
出来上がった肉野菜炒めと前日からジャーに入れっぱなしの飯で夕飯を済ますと、東野はしばらくの間、腕組みをしてベッドに寄りかかっていた。
やがて決心して跳ね起き、山岡将雄の電話番号を押した。
由希の指導から自分が手を引くとしても、後の面倒を見ないというわけにはいかない。後任を決めなければ深谷は納得しないだろうし、自分より遥かに力量のある教師を紹介しなければ、意味がない。思い浮かぶのは、一人しかいなかった。
山岡将雄。ジュリアード音楽院の出身で、あのルー・メイ・ネルソンの兄弟子。そして日本で三本の指に入るチェリスト。
由希の大きな可能性を託せる人間として考えられるのは、彼しかいなかった。
しかし電話に出た山岡の妻は、彼は今、ヨーロッパ公演に出ており、戻るのは四日後になると答えた。
拍子抜けして、東野は電話を切った。
山岡の了解は取れなかったが、東野は次に深谷に電話をかけ、由希の指導を彼に代わってもらいたい旨を話した。山岡は、弟子が困っていると言えば、まず断らない。巨匠にありがちな偏屈さや高慢さのまるでない人物だった。
「ちょっと、待ってちょうだいよ」
最後まで事情を話す前に、深谷は遮った。
「あなた、由希がどんな子かわかっているはずよ」
「だから山岡将雄なんです。彼は演奏だけでなく、指導についても卓越した手腕をもっています。彼女を指導できる音楽家として、僕が責任持って紹介できるのは、山岡先生しかいません」
「だれが教えるか、という問題じゃないの。なぜ、あなたがやめようとするの?」
「僕の教えられるのは、ここまでです」
そう答えたとたん苦い思いが込み上げた。
「どういうこと?」
「音楽的な限界です。まもなく由希は僕を追い越します。もっと力のある教師が必要です」
「それだけ?」
「ええ」
「よけいなことを考えなくていいのよ」
いささか高圧的な口調で深谷は言った。
「よけいなことではなくて、彼女の能力に僕の指導力が及ばなくなっているんです」
「技術的なものだけではないはずよ」
「より音楽的な問題も含めて、ということです」
なぜここまで言わせるのだ、と東野は深谷の鈍感さを恨んだ。
「あなたでなければならないのよ」
深谷は有無を言わせぬ調子で言った。
「なぜ、僕でなければならないんですか。由希を他の人に見せられない理由でもあるんですか」
電話の向こうで、深谷はふうっと息を吐いた。
「他の先生に頼んだことはあるのよ、実は。始めは声楽、つぎはピアノ。結局だめよ。彼らは苛立ったり、怒ったり、指導力の問題なんでしょうね。由希の難しさは、あなたならわかるわね。音楽の専門的なことは私にはわからないけど、自分で弾く能力と、人を教える能力は別ものだと思うのよ、そうでしょう。いくらすばらしい音楽家だって、人を教えることに長《た》けてるかって言えば、そうじゃないわ。逆に……」
「僕は、弾くほうはだめでも、教えるのはうまい、と言いたいんですか」
「山岡将雄に比べれば、という話よ」
「あなたに言われたくはないですね」
「ごめんなさい」と深谷は言ったが、少しもこたえた様子はない。
「正直な話、男の先生というのは少し心配なのよ」
「僕なら安心というわけですか。甘く見られたものだ」
「とにかく、この際はっきり言っとくわ。私はあなたに由希の指導を依頼したのよ。他の人はお断り。有名な先生をつける気はありません」
反論を封じるようにそう言うと、深谷は電話を一方的に切ってしまった。舌打ちをして受話器を置きながら、東野は反面ほっとしていた。心のどこかで断られることを願っていたのかもしれない。
それにしても由希を他の人間に託すことを拒否する深谷の頑《かたく》なさも不思議だ。
翌週、由希のレッスンは通常通り行なわれた。
一見したところ無表情な由希に、東野は挨拶し、話しかける。それからロングトーンを弾かせ、スタカートの練習、スピッカートの練習、重音の練習、指慣らしの音程練習へと続く。その後、和音を弾き、ようやく曲に入る。
パターンは決まっている。前回と何一つ変わらない。しかし由希の力は前回とは全く違う。上達に加速がついている。
東野は、由希が自分を追い越す日のことは考えまいとした。当面は、曲を完成させてはワンランク難しい曲に挑む。自分が用済みになったら、その段階で先のことを考えればいい。
落葉松が色づき、ナナカマドは真っ赤な実をつけ、華やかな高原の秋はあっという間に過ぎた。冬枯れの景色も束の間、木々は真っ白な雪の花に覆われる。
入所者の多くが各自の家庭に引き取られる年末年始も、由希は泉の里に残っており、それに付き合うように、東野はスキーヤーの車で渋滞する道を半日もかけて通ってきた。
年が明けて最初のレッスン日に、東野はラロのコンチェルトを弾かせた。ラロを選んだことに特に意味があったわけではない。曲の難易度に従い、次第にそのレベルを上げてきただけだ。一年数か月で、難曲ラロのコンチェルトを弾かせるというのが、尋常ではないということはわかっている。しかし由希の恐ろしいほどの進歩を目のあたりにしていると、案外簡単にこの曲もマスターしてしまうのではないかという気がする。
一月二日に、東野によって冒頭部分が弾かれたその曲は、予想したよりも早く仕上がった。表現や音楽性ということを別にして、とにもかくにも破綻なく、由希が最後まで弾けるようになったのは、五月初めのことだった。
東野が見守る中で、由希はめまぐるしいばかりの速さで上り詰めていく音程を弾いている。由希の左指は苦もなく正確な音程をとり、弓は微妙なニュアンスを伝える。
自分がこの曲をマスターするためにかけた時間を、東野は無意識に思い出し、比較している。音大時代の苦行にも似た練習で、六か月。いや、もう少しかかったかもしれない。それさえ「ひっかからずに弾ける」という程度の水準だった。ラロの音楽の核に当たる深部に到達することは、とうていかなわなかった。
屈辱感と陶酔感の入り混じった思いで、東野は由希の隣で、同じ旋律を弾く。
由希は間違うこともなく力強く旋律を歌い上げていく。
しかし驚くべき才能を見せる反面、由希の音楽は大きな欠点を持っていた。
由紀が弾いているのは、あくまで協奏曲のソロパートだ。協奏曲である以上、オーケストラの演奏を伴う。五十を超える管弦楽器の華々しい序奏のあと、チェロという低弦楽器一本で、音楽の中心に飛び出すのは、技術以前に並外れて強い精神力と集中力が要求される。
優れた奏者であっても普段なら考えられないようなミスを犯す。あがり性の奏者が、音の洪水を前にすくんでしまい、両手が動かなくなった例を東野は知っている。
由希は人を恐れるとか、人の目を意識するという感情が欠落しているのでその心配はないが、問題はその対極の部分にある。
由希は人のリズムや指示には乗ってくれない。曲の出だしも東野の指示では出ない。自分の好きなときに、ひょいと弾き出す。リタルダンドもアクセントも、由希の呼吸でつけていく。
東野がその耳元でリズムを刻んでも、強弱を指示するつもりで歌ってみても、まったく無反応だ。それでも音楽的におかしいところはない。むしろ彼の指示のほうがセンスという点では劣っている。
しかし音楽というものは、協調によって成立する部分が大きい。他の楽器とハーモニーが作れないとなると、いくらソロ部分だけ弾けたとしても、その音楽は断片にすぎなくなる。完全にソロだけで成立する曲を選べば、由希の弾ける範囲は著しく狭くなる。独奏曲と銘打たれていても、いくつかの例外をのぞいてはピアノ伴奏がつくからだ。
一か月ほど前に、深谷は由希を人前で弾かせてみたいと言ってきた。泉の里の視聴覚室で、入所者やスタッフを前に弾かせるのだろうと東野は思ったがそうではなかった。
秋に東京で行なわれる予定のセミナーで弾かせたいらしい。
「セミナーは、一種のセレモニーみたいなものだから、ちょっとした文化的催しがあったほうが、みんなの心も和むわ」と深谷は言う。
それ自体に、格別反対する理由はない。しかし人前で弾かせる以上は音楽としての体裁を整えなければならない。本来伴奏のある曲のチェロパートだけ弾かせても、それは音楽とは認められない。
東野はプレイルームの隅にあるアップライトピアノの前に座り、鍵盤に指を乗せる。せめて出だしだけでも揃えようと、由希にチェロの入る部分を指示するが、無視される。
「ここからだよ、ここから一と、二と、三の頭で入ってくれ」
旋律を歌いながら、それでも東野は鍵盤を叩く。由希は二の裏拍で出る。次には四の表で入る。リズム感がないのではなく、初めから合わせる気がないのだから対処のしようがない。
ずいぶん前、由希が簡単な小品をマスターしたとき、東野はピアノ伴奏をしてやったことがある。小品なら気ままに弾くチェロに合わせてやることも可能だ。しかしソナタとなると追い掛けるように弾くのは難しい。ましてやラロのコンチェルトとなったらとうてい無理だ。
伴奏のプロは縦横無尽に動く独奏者に合わせてくれるものだが、それは合わせの基本的な約束事を独奏者が身につけているからであって、由希のように相手の存在をまったく無視するのでは、どんなに優秀なピアニストであっても、伴奏をつけることはできない。
有能であっても協調性や社会性に欠けていて、そのために能力を生かせずつぶれていく人間というのがいるものだが、由希の音楽もまさにそれだ。越えなければならないハードルは思いのほか高い。
チェロの独奏の始まる直前の数小節のオーケストラパートを東野はピアノで弾く。
「ここだよ、この音を聴いたら入るんだ」
もう一度東野は由希に指示する。由希は硬い無表情のまま、勝手に弾き始める。何度言ってもむだだった。
自分の拙《つたな》いピアノに原因があるのかもしれないと東野は思った。鍵盤は専門外なのでうまく弾けない。高田保子なら、いったいどのように弾くのだろうか。そしてどのように指導するのか、と鍵盤の上で踊る節の太い保子の指を思い浮かべた。
旋律を歌うソプラノの滑らかな響きが耳の奥によみがえる。
「ラシラソ、次、入りますよ、一と、二と……」
暖かい笑顔でそう指示されたとき、どんなに練習嫌いな子供たちも、自然に音楽に体をあずける。優れたピアノ教師であると同時に、高田保子は優れたピアニストでもある。
彼女のピアノなら、由希は受け入れてくれるかもしれない。保子は伴奏を通して、アンサンブルの楽しさを由希に教えてくれるだろう。それは由希の頑なな心に、小さな灯をともしてくれるかもしれない。
その夜、東野は保子に電話をかけた。あいにく先方は生徒を教えている最中だった。慌てて電話を切ろうとする東野に、保子は「どうしたの?」と穏やかな口調で尋ねた。
「いや、頼み事があって、電話ではなく直接会って話したいんだけど」
言いかけると、保子は驚くほどてきぱきした調子で、自分の予定を告げた。週末の夕方なら多少の時間がとれるという。時間と場所を決めて、東野は早々に電話を切った。
思いの外簡単に保子と二人きりで会うことになったことに、東野は少しばかりとまどっていた。目的は由希の伴奏だ。それはわかっていたが、奇妙な高揚感があった。
約束した土曜日、東野は少し早めに家を出て本郷にある楽譜専門店に行き、由希のために新しい楽譜を何点か買った。そこは周辺にある学術書専門の書店とよく似た感じの薄暗くすすけた店だった。
しかしそのすすけた店内に足を踏み入れたとたん、ひどく場違いな印象のものが目に飛び込んできた。ドイツ語の目録が重ねてある店の奥の暗がりで、それは挑発するような視線を東野に向けていた。
一枚のポスターだった。文字を見るまでもない。真っ赤に塗られた大きな口、碧《みどり》を帯びた黒い瞳、筋肉質な首、彫刻的な豊かさをたたえた裸の肩。
東野は吸い寄せられるようにそのそばに行った。
黒いビスチェに包まれた胸は写真の中で、ゆっくり呼吸し、上下しているように見える。異様なまでに華やかで退廃の匂いを濃く漂わせた姿。ルー・メイ・ネルソンだった。
その写真の下に、遠慮がちに「無伴奏チェロ組曲連続演奏会」と文字が入っている。来日は半年後となっている。「予約受け付け中」と脇に朱書きしてある。
どこかおかしな印象があった。
一見して華やかな美貌。しかし目を凝らせば、ルー・メイの漆黒の瞳は瞳孔《どうこう》が開き、どこか遠い彼方を見ているようでもあり、顎の線は一年前に来日したときに比べ鋭角的にとがっている。濃い化粧の下の肌はひどく荒れ、頬骨は飛び出し、目の下にはファウンデーションを透かして隈が薄黒く滲《にじ》んでいる。
単純なやつれとも違うそうした変化の一つ一つが、全体として不安定で危うい感じを際立たせている。
もともとルー・メイ・ネルソンは、その容貌やエキセントリックなイメージといくつかの神話のせいで、クラシックファン以外にも、熱狂的な人気を博している。低弦楽器奏者としては異例のことだが、チケットが取りにくいというのもまた、その神話の一つになっているのだ。数年前の初来日の際、文化会館前に殺到した若者たちのことが話題になり、「クラシック音楽復興の秋」などとニュースで報じられたことがあったが、それが単にルー・メイというタレントの人気であり、古典音楽の復興には何の関係もないことを東野は知っていた。山岡将雄などは、「うらやましいね、グラマーなかわいこちゃんは」などとパイプを噛みながら苦笑していたものだ。
そうした上滑りな人気ヘの反発もあり、東野は彼女のコンサートにだけは行ったことがなかった。しかしこのポスターを目にした瞬間、東野は真っすぐにレジに行き、チケットを予約していた。これが最後の来日になるかもしれないという気がしたのだった。だからどうだというわけでもないが、妙に心が騒いだ。
「発表と同時に予約が殺到しましてね、こんな席しか残ってないんですよ」と店員は気の毒そうに、一番端のシートのチケットを見せた。
「かまいません」と東野は答えて、それを買って丁寧にカバンにしまい込んだ。
保子と待ち合わせをした吉祥寺の店に東野が着いたときには、日は暮れかけていた。
保子は先に来ていた。小柄な体を窓ぎわのスツールにあずけ、雑誌を読んでいる。手入れの行き届いた艶やかな髪が流れるように腰まで垂れている。
近づいてみると、保子の読んでいるのが『レッスンの友』というピアノ教師用の専門誌であることがわかった。文字を追う横顔が思いのほか厳しく、東野はすぐには声をかけられず、二つ置いた席にそっと自分の荷物を置いた。
はっとしたように、保子は顔を上げた。
「待たせてごめん」
東野はつっ立ったまま言った。
「いいえ。私も今来たばかり」
保子は東野のために、隣の席のスツールを引く。
「お元気でした?」
さきほどの厳しい表情は、華やかさと優しさをたたえた眩しいほどの笑顔に変わっている。小首を傾げ瞳の奥から微笑みかける様子は、三十を過ぎた一児の母には見えない。
「ごめんなさいね、こんなところに呼び出してしまって。家にお呼びしたいけど、散らかってて恥ずかしいから、おいしいお店へ案内するわ」
保子はこの近くのマンションに住んでいる。しかし学生時代の友人とはいえ、男を家に上げるわけにはいかないのだろう。
夕暮れの公園を抜け、東野は木立に囲まれた落ち着いた感じのレストランに案内された。奥まった壁ぎわの席に座ると、ボーイがワインの注文を取りにきた。
込み入った話を中断されるのは面倒なので、東野はワインと一緒に料理も注文してしまった。
「相談って、たぶん伴奏のお話ね」
グラスにワインを注いでウェイターが去ると、保子はさっそく尋ねた。
「図星」
「また合わせていただけるなら、うれしいわ」
実際のところ、東野のほうが「伴奏していただく」立場なのだが、これが保子の物の言い方だった。
「実は、こんどお願いしたいのは、僕ではなくて……ほら、ずいぶん前、僕が電話で相談したあの女の子」
「どうなの、その後は?」
「相変わらず音符は読めないよ。彼女には、そんなものはいらないことがわかった。ただ、いろいろ問題があってね」
東野は説明した。由希の音楽的な特性や態度、そして性格。もし、性格と呼べるようなものがあればの話だが。それを知った上で由希の伴奏を引き受けてほしいと言った。
保子はすぐには返事をしなかった。
どんな子? 曲目は? どこで弾くの?
微笑を絶やさず、しかし肝心なことは一つ一つきちんと確認していく。安請け合いはしない。学生時代からいつもそうだった。
東野は、由希が学会で弾くのは半年後であること、由希が今まで伴奏つきで弾いたことがないこと、できればこれを機に、他の楽器と合わせることを覚えさせたいということなどを、細かく話した。最後に彼はつけ加えた。
「謝礼については、彼女の担当と相談して、コンサートの伴奏料と込みで……」
「お金のことはいいの」
東野の言葉を遮り、保子は言った。
「お引き受けします」
「ありがとう」
保子の両手を握り締めたかったが、もちろんそんな度胸はない。そのとき保子はひっこめかけた東野の手に自分の手を重ねた。ひやりと冷たく柔らかな感触が伝わってくる。東野はとまどい、照れ笑いを浮かべた。
「今、知的障害の子を教えてるの。とてもきれいな目をしてるわ。彼らは私たちが忘れた心を持っているの。教えようなんて思うのは傲慢なことで、教えられることのほうがよほど多いわ。そのお嬢さんについても、謙虚な気持ちで心を開いて接すれば、必ず私の気持ちは伝わると思うの。気持ちが通じれば、ピアノの呼吸は自然と合ってくるものよ。そうでしょう」
語りながら離れていった保子の手のひらの温もりを東野は惜しんでいた。ためらいながら、テーブルの上に手を伸ばし、ワイングラスを持った保子の指に触れた。保子はくすっと笑った。いたずら小僧を見るような目だ。同じ年月を生きてきて、保子だけが遥かに大人になってしまったような気がする。
「近い将来、自分を追い越していくことがわかりきってる生徒を教える気持ちって、わかるかな?」
東野は言った。保子は黙っている。
「教師冥利につきるなんて、君の前で言う気はない。伴奏がつけられないっていうのは、明らかな音楽上の欠落だ。それを直すために、君にこんなことを頼んでいるんだけど、僕はね、彼女に欠落した部分のあることに気づいたとき、正直な話、ほっとしたんだ」
なぜこんな話をしているのだろう、と東野は思った。白ワインを飲み干す。少しばかり酸味がきつい。酔いが回ってきたらしい。テーブルの上のボトルが空いている。
「習い始めて一年八か月だよ。彼女は天才だ。わかってるけどみじめな気分になることもある。まずいと思いながら、屈折したりしてさ」
「音楽は競うものじゃないわ」
保子は厳しい声で東野の言葉を遮った。
「そのお嬢さんが才能を持っているってすばらしいことだけど、私、東野さんのチェロが好きよ。表面的な派手さはないけれど、とても心のこもった、丁寧な歌わせ方をするじゃない。それは東野さん以外、だれにも真似できない弾き方だと思うのよ」
東野はふと顔を上げた。保子の頬はワインでうっすらと染まっている。真剣な瞳の輝きと優しい笑みの両方がある。自分は弱みを見せて保子の気を引こうとしていたのだと気づいた。あまりにも真摯《しんし》な表情に出会い、急に恥ずかしさを感じた。
「ありがとう」
目を伏せてそれだけ言った。
「最低だね、僕は」
独り言のように付け加えた。
保子は首を横に振った。髪がふわりと肩に広がって、ラベンダーの香りが立った。その清楚な香りに東野は直截的な欲望を感じた。
「自分のことをそんな風に考えちゃだめよ。秀行さんには、秀行さんにしか弾けないものがあるんだから」
涙が滲んできそうになった。秀行さん、と保子から名前で呼ばれたのは初めてだ。
保子はナプキンで唇を軽くぬぐい、腰を浮かせた。
「実家に子供をあずけてきたの。迎えに行かなくちゃ」
東野は慌てて立ち上がる。
井の頭公園を横切って隣の駅に向かった。暗い小道から、木立をすかしてマンションの明かりが見える。
「あそこが我が家なの」
「見たくない」
東野は反対側の池の水面を見た。
「君の家なんか、見たくない」
足を止め、後ろから保子の体に手を回した。酔っているのだ、と思った。長い髪が頬をくすぐる。セーターの下の胸のふくらみを一瞬とらえた東野の手に、保子の指がそっと触れた。冷たく少し湿った長い指だ。
東野は目を閉じた。何もかも忘れそうだった。音楽のことも由希のことも。
不意に保子は振り返り、爪先立ちになって東野の肩に手をかけた。保子の唇が、素早く東野の唇に触れ、次の瞬間、離れていった。とっさのことで棒立ちになったまま、東野はぽかんとして保子の顔を眺めていた。
保子は、少し眉を寄せて笑った。
「しかたのない人ね」
「自分でも、そう思う」
「帰りましょう」
保子は、ひらりと身をかわして東野から少し離れて歩き始めた。
照れを隠すように、あたりさわりのない話をしながら駅まで歩き、そこで別れた。
改札口にとり残されたまま、東野はしばらくの間立ちつくしていた。
保子が泉の里にやってくるまでの一週間は、長かった。東野は落ち着かない気分のまますごした。
保子は昼過ぎに富士見の駅に着き、由希との合わせは夕方近くに終わるはずだ。帰りは東野の車で吉祥寺まで送っていく約束をしてある。
当日、保子が来るのを待ちながら、東野は由希のレッスンを行なった。
ときおり、由希がこちらをちらりとうかがう。東野の落ち着かない様子を察知しているらしい。そのたびに、東野は慌ててぎごちない微笑を返す。
二時過ぎに、保子はやってきた。淡いクリーム色のワンピースの裾をひるがえし、髪をレースのリボンで束ねた姿は、妖精のように愛らしい。
しかし人なつこい微笑の中にときおり表われる気丈な表情は、やはり妖精ではなく子供と多くの弟子に慕われている有能な「先生」のそれである。
「こんにちは」
部屋に入ってきた保子は、東野が紹介する前に、由希に向かって挨拶した。歌うようになめらかなコントラルトだった。だれでも思わず微笑を返したくなる、明るく優しい響きがあった。しかし由希は黙殺した。慌てたのは、東野のほうだ。保子は、笑顔を絶やさぬまま由希に話しかけた。
「わたしは高田保子、よろしくね。きょうから一緒に弾くことになったの。一人で弾くよりは、ずっといろんなことができるのよ。楽しくやりましょうね」
由希は、保子の顔をじっと見つめていた。いや、見つめてはいない。その視線は保子を突き抜けて、どこか遠くの虚空《こくう》を見ていた。東野は保子に言い訳めいた説明をしようとした。
「大丈夫」
保子は微笑してうなずく。
「最初はみんなこうよ。悪気じゃないの。照れたり、とまどったりしているの。愛情を持って接すれば、必ず心を開いてくれるものよ」
保子はピアノの前に腰掛けた。
「まずラロからね。難しい曲だけど、がんばって最後まで通してみましょうね。それじゃ、このテンポで」
保子はゆっくりとしたテンポを、手を叩いて示す。
由希は無視していきなり弾き始めた。インテンポだ。
保子は慌ててその部分の伴奏を探して、由希のチェロにつけた。
由希はそれも無視して勝手に弾いた。少しひっぱりかげんの叙情的なすばらしい歌わせ方だ。
その表現力に東野はあらためて圧倒された。普通なら有秀な弟子を誇るところだ。しかし今、それは由希の決定的な欠落を示すだけのものだった。
伴奏者として一級の腕をもつ高田保子でさえ、由希の勝手なテンポには合わせきれない。それでも保子はかろうじて最後まで弾き終えた。
鍵盤から手を放し、保子は息をはずませて言った。
「すてきよ。すごくいい。でも、今度はほんの少しだけ、ピアノを聴いて弾いてみてね。たとえば、ここの出方、ピアノがこう歌ったら……」
数小節弾きながら、保子はチェロパートを口で歌う。きれいな声だ。東野は保子の横顔に吸い寄せられる。いきなり、同じ部分を由希が弾いた。見事なフレージングだ。ただしあくまでも彼女の歌い方で、保子のピアノには乗らない。
保子は口をつぐんだ。保子の解釈の数段上の弾き方だということを見せつけられたのだ。
由希に悪意はない。ただ、自分の美意識、内なる秩序にしたがって行動する。他人の存在など由希の心にはない。他の楽器の存在も。
保子は一瞬表情を曇らせたが、すぐに笑顔に戻った。
「そうそう、それでいいわ。そのほうが、ずっとラロらしい。でもチェロの出るところはね、ちょっとだけ、ピアノを聴いてね。いいこと……」
保子は一呼吸、言葉を切って由希を見つめた。微笑の下に厳しい眼差しが表われた。
「アンサンブルの精神は、お互いに生かし合って、美しい響きをみつけていくことにあるの。わかるわね? それじゃ……」
保子は、協奏曲の導入部分を弾いた。華奢な体からは想像もつかない堂々たる演奏。本来ならピアノではなく、フルオーケストラで演奏される部分だった。しかしこの調子では、由希はとてもフルオーケストラなど向こうに回して弾けはしない。
序奏が終わって、チェロが出る。とうてい入るべきところなどわからないだろう、と思っていると、意外なことに由希は少しの狂いもなく弾き始めた。東野は喝采を叫びたくなったが、それはすぐに失望に変わった。
曲の作りが序奏とまったく違う。リズムを揺らし勝手にリタルダンドし、ところどころに気まぐれなアクセントをつける。そのつど保子は慌て、指をもつれさせながら、ピアノを合わせる。それでもカバーしきれない部分がある。かと思うと、まだピアノが終わらないうちにチェロが勝手に入る。こうなると音楽以前だ。
しかし由希の演奏それ自体は完璧だ。センチメンタルにささやき、朗々と歌う。傍らで聴いていた東野の耳にはいつのまにかチェロしか聞こえなくなっていた。フルオーケストラのパートを力一杯弾いている保子のピアノは、ただの夾雑物《きようざつぶつ》になり果てていた。
保子の髪はほつれ、青ざめた額に汗でべたりと張りついている。唇を結んで目は譜面を追う。オーケストラパートをピアノの独奏で弾くのだから、協奏曲のピアノ伴奏はそれだけで難しい。その上勝手気ままに動くチェロパートに振り回されるのだ。
一楽章のクライマックスで、保子はいきなり、両手で鍵盤を叩きつけた。ガーンという大音響で不協和音が鳴り渡った。
東野は弾かれたように立ち上がる。それより、保子がピアノの前から離れるほうが早かった。身をひるがえし、逃げるように部屋から出ていく。東野は由希のほうを振り返る。少しの動揺も見せずに由希は弾き続けている。
東野は廊下に出て保子を探した。玄関のほうに走っていったが、そこにもいない。戻って中庭を見ると、ぐったりとダケカンバに寄りかかっている姿が見えた。肩で息をしている保子の蒼白の額に汗が滲んでいた。
東野はかけより、「申し訳ない」と頭を下げた。「僕の配慮が足りなかった……」
保子は唇を引き結び、首を振った。東野を見上げる視線が定まらない。
「頭痛がするの。いらいらして……、あの子の顔を見ているだけで。だめよ、ああいう子に愛情を持つのは無理。弾いているうちに、すごく嫌な音がしたの。なんともいえない嫌な音。倍音と似た音、耳の奥がかき回されるような」
「ごめん。由希は……」
「見えるのよ……譜面を突き抜けた向こうに、決して思い出したくないものが。いいえ、思い出したんじゃないわ。はっきり見えた。あのときのまま、憎しみと、恐ろしさと、なんだかわからない真っ黒な気持ちになって……」
保子は沈みこむように、膝を折った。東野はとっさに両手で支える。
「何を見たんだ? 何を思い出した?」
「あなたの知ったことじゃないわ」
だしぬけに保子は叫んだ。三白眼で睨《にら》みつけられ、東野は思わず後ずさった。こんな保子を見るのは初めてだった。
「あの子が、不愉快だったんだね」
「違うわ。あの子は、何かしたのよ。何かして、私にあれを見せたのよ。いったい何なの、あの子は」
「すまない。僕には、何もわからなかった」
「そうよ、あの子は、私を狙ったのよ。私だけを。敵意は感じていたわ、来たときから。こんな思いをしたのは初めて。勘弁して。嫌なのよ。あの子の顔を見るのも」
「頼む、何を見たんだ? 教えてくれ」
東野は、保子の腕をつかんだ。保子は無言でその手をふりはらった。普段の保子からは想像もつかないとげとげしい動作だった。
「ごめん、すぐ送っていく」
東野は、車の鍵を出す。
「一人で帰るわ」
保子はくるりと横を向いた。ファウンデーションが流れ、鼻の頭がまだらになっている。「ごめんだわ。あなたもあの子も……おかしいのよ」
くぐもった声でいい、こめかみを押さえた。手にした化粧ポーチの口金を開けて、頭痛薬を取り出す。
東野はつい半時間ほど前に、甘い期待を込めてここから駅のほうを眺めたことを思い出した。
由希は保子にいったいどんな悪感情を抱いたのだろうか。由希は自分の保子への思い、下心と言えるようなものを見抜いたのか、それとも保子を単に不愉快と感じて排除しようとしたのか。おそらく、と東野は絶望的な思いで悟っていた。あれは純粋に由希の音楽的秩序に関わるもの、厳格極まる彼女の内的秩序を乱すものに対する排除の意志だったのだろう。
「とにかく下の駅まで、送っていく」
彼は、保子の手を引いて駐車場へ行き助手席に座らせた。保子は何を話しかけても返事をしなかった。小淵沢の駅に着いて「家まで送っていかなくていいのか」と東野があらためて尋ねると、「お願いだから一人にして」と短く答えて車を降りた。
そのまま振り返ることもなく保子は改札口を抜け、構内に消えた。
高田保子が去った後も、東野はつてをたどって何人かのピアニストに伴奏を頼んだ。しかしいずれも由希の勝手気ままな弾き方にあきれ果て怒りだすか、気分が悪いと言って途中で帰っていった。結局のところ、由希を相手にいちばん長時間耐えたのは高田保子だった。何人もの伴奏者たちをはねつけながら、由希の孤独な音楽はさらに磨きぬかれていく。
東野の困惑をみかねて、中沢が発達障害専門の心理療法士を紹介したのは、保子が去ってから三か月もした頃だった。
療法士は音大で音楽教育学を専攻した後、別の大学で臨床心理学の学位を取ったという中年女性で、中沢によれば彼女に任せれば間違いない、ということだった。
中沢に連れられてやってきたその小太りの女は、由希と顔を合わせると、新興宗教の伝道師を思わせるよく響く高い声で挨拶した。馴れ馴れしい笑顔を目にしたとき、東野は嫌な予感がした。
敢然と女を無視する由希にかまわず、レッスンは始められた。もっともこのカウンセラーにとっては、それはレッスンではなく音楽療法のひとつらしい。
由希が弾くと彼女は自分の弾いていた曲をぴたりとやめて、すぐにチェロに合わせる。由希に微笑みかけながら、由希の弾いた旋律をハミングしてみせる。由希がまた別の旋律を弾くと、それをピアノで追う。
「同質の原理といってね、由希のような人々には有効な方法だ。支配しようとするのをやめて、相手のしようとすることに合わせる。自主性を引き出してやるんだよ。君もよく見ておくといい。勉強になるよ」
かたわらで中沢が、東野にささやいた。
東野は返事をせずに、鍵盤を叩きハミングする女を凝視していた。
中沢は何かを間違えている。由希は、自閉症でも情緒障害でもない。本質的なところが彼には見えていないのではないか? 中沢には学問的知識があり、人間への素朴な信頼がある。しかし、由希の行動も思考も彼の理解の枠からは大きく外れている。
中沢は由希を過小評価し、彼の座標の中に位置付けようとする。中沢に欠けているのは、理解を超えたものを理解できないままに認め、対峙《たいじ》してゆこうとする勇気だ。力及ばぬことを自覚しつつも、由希に対決しようとした保子は、遥かにましだったのかもしれない、と東野はあらためて思った。少なくとも保子は自分の限界まで逃げなかった。
女性カウンセラーの弾くピアノの音が、鼓膜を叩く。フェルトを巻いたハンマーが、固く張った弦を叩く物理的な音。音程を持った騒音。
この女性が音大卒業後に、別の分野に進んだのは自分の音楽的資質に絶望したからに違いない。あるいは絶望できるほどの感性さえなかったのだろうか。由希のチェロはすばらしい。その旋律の後をすぐに追うなどということが平然とできるのは、この女に音楽的素養も感性も何もないからだ。
そんなことを考えながら、東野は由希の様子を見守っていた。硬い表情のまま弓を操っている由希の苛立ちが、東野の皮膚を通してひりひりと伝わってくる。
女のぽってりと脂肪のついた首が、左右に揺れる。揺れながらリズムをとっている。
リズムとともに、由希の苛立ちが増幅していく。東野は自分の視野全体がピアノのリズムで揺らぐような気がした。
やめろ。
だれに言うともなく言ったつもりが、言葉はうめき声となって漏れただけだった。冷たい汗が額に流れ、息が詰まった。
不意に、由希は楽器を足元に置いた。
東野の背筋がさっと鳥肌立った。
由希は、つかつかと女のそばに寄っていく。東野は腰を浮かせた。
女は由希を見上げて、にっこりとする。
「ようこそ、わたしたち、お友達になれたわね」
そう言っているような顔だ。女の手はまだ鍵盤の上で、気分の悪くなるようなピアノを奏でている。次の瞬間、わざとらしい笑みを浮かべた女の顔が、唇の両端を引き上げたまま凍りついた。
東野が駆け寄り由希をとり押さえようとしたのと、由希がピアノの重たい蓋を鍵盤の上に落としたのは、同時だった。
すさまじい悲鳴が上がった。蓋の閉まった漆黒のピアノの鍵盤の間から、ぽたぽたと十円玉大の血の雫《しずく》が床に落ちる。それが見る見るつながって大きな血溜りになっていく。
中沢がとんできて、蓋を上げた。
三本の指の先がつぶされていた。圧縮された木でできたピアノ材は重い。もし彼女が鍵盤から手を離すのがもう少し遅かったら十本の指の骨は折れ、二度とあの不愉快なピアノを他人に聞かせることはできなくなっていただろう。
中沢はすばやく女の手をタオルで押さえ、高く上げて止血する。
女は、真っ青な顔で歯を食いしばっている。東野は由希を押さえつけたまま、その様子を茫然と見ているだけだった。膝が震えた。
「なんて真似をしたんだ……」
東野は由希の腕を掴んで、ゆすった。
由希一人が、この場で静かだった。
さきほどまでの青白い炎を瞳の奥底から噴き上げるような冷たい怒りの表情は消えて、解放されたような、静かで満足気な気配を漂わせている。それが東野には気味悪く腹立たしかった。
「何をやったか見ろよ」
由希の体をひきずっていって髪を掴み、ピアノの鍵盤にこぼれた血に顔を押しつけるようにして見せる。由希は、首を振って逃れようとした。血溜りの上に長い髪が、二、三本抜け落ちた。
「わかったか、おまえがやったんだ」
そのとたん東野はこめかみを殴られたような頭痛と吐き気を感じた。腕を緩めるのと同時に体を左右にくねらせて、由希は東野の腕をすり抜けた。部屋の隅まで走っていって、壁に背中を押しつけたまま振り返り、東野を見上げている。何かを訴えているようだ。その表情に怒りと悲しみと誇り高さが錯綜し、眼差しは真っすぐ東野に向けられていた。
中沢は、女を連れて部屋を出ていった。
「わかるよ、君の気持ちは」
東野は由希に言った。
「わかるんだよ。でも、やってはいけないことなんだ」
由希は、目をそらすと顎を少し引き背筋を伸ばして立った。美しく気高い姿だった。
「わかってるよ……おまえは情緒障害なんかじゃない。気難しい天才なんだ……」
東野は、目を伏せた。こちらを見つめている由希の視線に自分の精神がからめとられそうな恐怖を感じた。
東野は雑巾を持ってくると、込み上げてくる吐き気を堪えながらピアノと床にこぼれた血を拭く。どす黒い血の色は胸の悪くなるような女のピアノタッチを思い起こさせる。
「帰っていいよ。今日はもう終わりだ」
ふと振り返り、東野は由希に言う。由希は不思議そうな顔で、雑巾がけをしている東野の手元を見ている。
「帰っていいんだよ」
東野は雑巾をその場に置き、由希の楽器と弓を手早く拭いてケースに納めて、由希に手渡し、その背中を押して廊下に出した。
由希と入れ違いのように中沢が戻ってきた。東野は真っ赤に汚れた雑巾を素早く傍らのくずかごにたたき込んだ。
「どうなるんですか、由希は」
「君が心配することはないよ。しかし深谷さんには、少し考えてもらわなければならないな」
沈鬱な表情で中沢は答えた。
「あれは、彼女のせいじゃありません」
「いつだって、彼女に罪はないんだよ」
「あのピアノが悪かったんです。あんなものを聞かせたんですから、彼女でなくたって怒りますよ」
中沢は、驚いたように顔を上げた。
「何を言ってるのだね、君は」
「僕には、由希の気持ちがわかるんです。彼女の怒りが手に取るようにわかったんです」
「理解することは大切だ。しかし理解と同調とは違う」
「とにかく彼女を別の施設に移したり、閉じ込めたりしないでください」
部屋を出ていこうとする中沢に、東野は追いすがった。
「心配しないでいい、と言ったはずだよ」
中沢はそれだけ言い残して出ていった。
どこをどう運転して自宅に戻ったのかわからない。とにかく一人の人間の指を潰した由希がどう処分されるのか、今後もレッスンは続けられるのか、そんなことを考えているうちに、甲府のインターを下りていた。
その日は、夜の七時から音大受験生の個人レッスンが入っていた。なんとか気分を切り替えて、その男子高校生の指導を始めてしばらくした頃、電話が鳴った。
深谷からだった。
「一人で解決しようなんて考えないでね。ああいうことがあったら私をちゃんと呼びなさい」
確かにその通りなのだが、いきなりそう切り出されたことに少しばかり腹が立った。
「今、レッスン中ですから」
「すぐに連絡を欲しかったのよ、なぜ呼びに来なかったの?」
「呼んだら、その場で由希を罰していましたか」
チェロを抱えたまま、高校生は怪訝そうにこちらを見た。
「そういう問題じゃないの」
「僕が由希だったら、やはり同じことをしたかもしれません」
「どういうこと?」
「僕から見ても、ムカつくおばさんだったんですから」
「やめてよ、あなたまで」
悲鳴のような声だった。普段は冷静な人だけに、別の人間と話しているような気がした。
「それで、あの人の怪我はどうなったんですか」
「指先を蓋にはさんだための打撲と切傷。骨折はなかったわ」
「よかった」
「よくはないわね。やっていいことと悪いことのけじめだけは、つけなければ」
高校生が、またちらりとこちらを見る。
「とにかくレッスン中ですから」
東野は、叩きつけるように受話器を置いた。
「どうしたんですか」と高校生が遠慮がちに聞いた。
「僕の生徒が、人に怪我をさせた」
短く答えて、東野はエチュードのページを示す。
「キレるやつって、多いですよね」と高校生は、同級生が最近、甲府の町ですれ違いざまに他校の生徒を蹴って骨折をさせたという話をした。
堪え性もなく他人に危害を加える若者には不気味さを感じるが、それとまったく違う次元で引き起こされる由希の暴力的な反応のほうが、遥かに救いがたいものかもしれない、と東野には思える。
いったい指導員たちの間でどういう話し合いがもたれたのか、経過は一切知らされぬまま、今まで通りに東野は泉の里に通うことになった。由希が別の施設に移されることも、格別厳重な監視下に置かれることもなかった。
おそらく指をつぶされた療法士はこの一件を自分の恥と認識したらしい。事件は表沙汰にはならなかった。ただ今後は不用意に外部の人間を由希に接触させないように、と東野は中沢から厳しく言い渡された。
「あの人は、あなたが連れてきたんじゃないですか」という言葉を飲み込み、東野は「わかりました」と答えた。
こんなことがあった後、協奏曲のソロを弾かせてみたいという夢を東野は捨てた。ピアノ一台とさえ合わせることができない者が、フルオーケストラをバックに協奏曲など弾けるはずがない。由希の限界を見たことに失望を感じると同時に、安堵感もあった。
自分が育てた者の成長は祝福するにしても、自分を踏み付けながら異常な速さで成長し、やがて追い越していくであろう者を素直に讃えられるほど、東野は老成してはいない。
協奏曲の代わりに、東野はバッハのソナタを由希に与えることにした。
「ヴィオラ・ダ・ガンバとオブリガートチェンバロのためのソナタ」というのが正式名称だが、現在ではチェロとピアノで演奏されることが多い。この曲の場合、古典派のソナタと違って、それぞれのパートが独立した旋律を持っているので、チェロパートだけ演奏したとき、音楽的完全さは失われるものの、一応の格好はつく。
曲目を変えて練習を始めてから、四回目のことだ。東野が泉の里に着いたとき、指導員室にはだれもいなかった。廊下を看護婦が走っていく。何が起きたのだろうと東野は、玄関脇にある医務室のほうをうかがった。
中年の生活指導員が、ひどく取り乱した様子で叫んでいた。由希の身に何かあったのではないか、ととっさに思った。
扉を開け放した医務室の中を覗き込むと、嘱託医の姿が見える。看護婦が掃除機のホースのようなものを操作している。吸引器だ。手元を見ると赤ん坊がいた。喉に何かを詰まらせたらしい。
そのとき背後で深谷の声がした。
「入りなさい」
低く、凄味のある口調だ。東野は振り返った。
「入りなさい、そして自分のしたことを見るのよ」
深谷にしっかりと手首を握られて、由希が立っている。いくらか目を細めた顔には何の感情の揺らぎも見えない。沈黙した唇の薄紅色、形の良い小さな顎、昂然と反らした白い首。
またやったのか、と東野は絶望の思いとともに、声にならない声を洩らした。
東野の顔を一瞥した深谷はすぐに視線を逸《そ》らせた。由希の頬がうっすらと赤い。深谷に平手打ちを食らったらしい。深谷がむやみにそんなことをするはずがない。前に拭き取った血溜りを思い出しながら、東野は赤ん坊のほうを見る。
「入りなさい」
深谷の声がさらに低く、威圧感をともなって部屋に響いた。由希は平然としていた。表情は変わっていない。しかし、由希の全身からなんとも言えない怒気が立ち上っているのを東野はいち早く感じて後ずさった。
中にいた寮母が由希を見た。眉間に深い皺を寄せ、半ば開いた唇の両端を下げて、恐怖と嫌悪と怒りを混在させたまま、寮母の顔は凍りついていた。
「さ、あなたは何をしたの。わかるでしょう?」
深谷は、由希の腕を引っ張った。とたんに感電でもしたように深谷の顔が歪んだ。それでも深谷は手を離さない。激しい苦痛に耐えているようにこめかみの血管を膨らませ、唇を噛んだまま、由希を睨みつけている。
「ちょっと」
そのとき中沢がやってきて、由希と深谷の間に割って入った。
「ここではやめてください。寮母さんの気持ちも考えて」
小声でたしなめている。
「じゃましないでくれませんか」
あえぐように言った深谷の顔は真っ青だった。角張った額には汗の粒が浮いている。
「今、この場で何をしたのか、由希に見せなければならないんですよ。後から言ってきかせてもだめなんです」
「無駄ですよ」
中沢は悲しげに首を振った。
「普段から人間らしい感情を育てるような訓練をしていれば別ですが、こんなときだけ叱責しても何もなりません」
「何もならないって、あなたは何をしましたか? 他の指導員は何をしてましたか?」
深谷の言葉は鋭かったが、語尾が震えていた。顔色はますます青ざめ、膝がふらついている。それでも由希の腕を離さない。何気なく由希の腕を掴んでいる深谷の手に目をやり、東野ははっとして目を凝らした。とうに流行遅れになったデジタルウォッチが、深谷の手首にあった。その文字盤が明滅している。ぱっと明るくなったかと思うと、次には液晶が真っ黒に変わる。妙な故障だ、と東野は首をひねった。その文字盤から再び由希に視線を移そうとしたとき、深谷は由希の手を離した。そして口元をハンカチで覆い、ふらつきながらその場から逃げるように走り去っていった。何が何だかわからないまま、東野はそれを見送る。
「部屋に帰りなさい」
中沢は、とり残された由希の肩に手をかけて言った。
「わかったね。二度とこんなことをしないと約束してくれ」
中沢は由希に言った。深い知性と謙虚さを滲ませた眼差し、と言えなくもない。しかしそんなものは、由希には何の感動も感銘も与えない。反抗的に睨み返すか、視線を逸らすならまだいい。廊下の壁を見るよりも無関心に、由希は中沢の顔を生理的に眺めている。中沢の横顔に、怯《おび》えの表情が走った。
「行きなさい」
彼は、そっと由希の背を押しやった。
由希はくるりと二人に背を向けると、背筋を伸ばし滑るように歩いていく。
「何があったんですか」
東野は尋ねた。中沢は初めて東野の存在に気づいたように、こちらを見た。
「赤ん坊の喉に、ティッシュペーパーを詰め込んだんだ」
沈鬱な声で中沢は答えた。
「ティッシュペーパー?」
よく意味がわからなかった。
「寮母が、産休明けで出てきたんだ。みんなに赤ん坊を見せようと連れてきた。たまたま由希のそばに寝かせて、席を外して戻ってみたら、ああなっていた」
中沢は喉に吸引器をつっ込まれた赤ん坊のほうを一瞥する。
「たまたま嘱託医が来ている日だったからよかったものの、もしもいなかったら」と中沢は首を横に振った。
東野は戦慄し、無意識に手のひらで両腕をこすっていた。
「なぜそんなことをしたんですか」
中沢は沈黙している。
「母親代わりの寮母を赤ん坊に取られて、悔しかった……などということはないですよね」
「そんな感情が彼女にあったら、まだ救われる。憎しみは愛の裏返しだから」
「でしょうね」と東野も同意した。
「由希は……単にうるさかったのだ。赤ん坊が泣きだしたので、あの小さな口にティッシュペーパーを詰め込んだ」
東野は絶句した。そして絞りだすように言った。
「彼女は、自分のやってることがわからないんです」
中沢は首を振った。
「その程度の知性は持ち合わせている。じゃまされたくなかったんだよ」
「もしかすると、そのとき彼女はチェロを弾いていて、それで……」
「いや、違う」
中沢は否定した。
「CDを聴いていた。そばで泣きだされたんで、黙らせた」
東野は長い息を吐いた。
「そういう人間に音楽を教えることに、どれほどの意味があるのか考えたことがあるかね?」
中沢は言った。意地の悪い言い方ではなかった。真摯な問い掛けであるからこそ、返す言葉は無い。逃げ出したかった。いますぐここから逃げ出し、二度と中沢とも深谷とも関わりになりたくないと思った。
「音楽は確かに、あっていい。ただし、最優先の課題じゃないんだよ」
「わかってますよ……」
東野は唇を噛んだ。
無自覚であるだけなら何が悪いのか教えることはできる。悪意があるなら、いつかは後悔し自分の行為に慄然とし、涙することもある。しかし由希は違う。自分の感覚に対して不快な刺激を与えるものを排除する。ただそれだけのことなのだ。いったい何を、どうわからせればいいのだろう。
「中沢先生ならどうします。もっと良い方法があるんですか」
「たぶん」
「それなら、なぜ何もしないんですか」
中沢は、白くなった眉を寄せ、目を伏せた。
「なぜ、手をこまねいているんですか」
東野は詰め寄っていた。
中沢の言葉のひとつひとつが、自分の中で空転するのを感じた。
中沢は、小さく息を吐いた。
医務室は静かになっている。赤ん坊の顔には、血の気が戻っていた。大事には至らなかったらしい。
ふと深谷の腕ですさまじい速さで明滅していた時計の液晶を思い出した。あんな故障は見たことがない。慌てて走り去っていった深谷の様子からして、深谷の体にも何か異状が起きていたのではないだろうか。
気分が悪いといって、逃げていった保子のことを思い出した。由希には何か不思議な力があるようだ。それが音楽的能力と関係しているのかどうかはわからない。
東野は自分の楽器を担ぎ、廊下に出た。レッスンは中止になったが、足はプレイルームに向いた。指導員室に行って、ここの職員と言葉を交わすのはわずらわしかった。
分厚い防音扉を開けたとき、東野は愕然とした。由希がいた。何事もなかったように、東野が与えた曲を弾いていた。狂いのないリズムを刻み、正確極まる音程で。
何が起ころうと、由希は自分の習慣を変えない。そして、赤ん坊を殺しかけたことも彼女にとっては、事が起きたうちには入らないのだ。
人間としての心を持てないことは、人として最大の悲劇なのかもしれないと東野は思った。自分が突出した音楽的才能を持てなかったことなど問題にならないくらいの……。
由希の長い髪がほつれて指板にかかり、指を滑らせる度に髪が引っ張られる。痛いはずだが、本人は気にする素振りもなく弾き続ける。
その姿を見ていると、ついさきほど感じた恐ろしさが急速に遠退いていった。
東野は由希に近づき、指板にかかった髪をそっと後ろに流した。いつか松本の帰りに電車の中で発見した傷痕のようなものが見えた。ふと気になってそれを凝視した。それはこめかみから頭頂部に向かって走っている。白くやや光沢を帯びた傷の部分は髪が生えていない。定規で引いたようなきっちりした線だ。
縫合した痕だ。
怪我ではない。怪我なら傷痕がこんなに整然とした線になるはずはない。
オペかもしれない。
「天才を育ててみない? すぐれた聴覚、それも並外れて、そんなものを持っている子なの」
深谷の言葉の隠された意味に思い当たった。
東野は、息を飲んでその皮膚の上を真っすぐに走る線を見つめていた。
手術だ。由希は手術を受けている。それを深谷はなぜ今まで自分に言わなかったのか。あの日、見せられた歪んだ脳の映像を思い出した。その原因についても深谷は言葉を濁している。
何のための手術かは、わからない。ただ人に言えないようなものなのだ。
心の中で疑惑が膨れ上がるのを感じた。
深谷は自分の学問的な野心のために、由希の大脳にメスを入れたのではないだろうか。
由希の音楽的才能は、天賦のものではない。
彼女は深谷の手によって人間としての情緒を奪われ、人工的に特殊な能力を植えつけられたのではないだろうか。深谷は、一人の人間の人格を剥奪して、突出した能力を持つ天才を作りだそうとしたのではないだろうか。自分は今そんな狂った計画に加担させられようとしているのではないのか。
これまで自分が、深谷の由希に対する愛情と信じていたものは、大事な実験用動物、いや彼女自身の作品に対する執着にすぎなかったのではないだろうか。
自分が由希を松本に連れ出そうとしたときの深谷の用心深さ、由希だけが指導員に連れられて町中に出る社会化訓練を受けられない理由、そして他の人間に託すのを深谷が拒否する理由は、世間に由希の存在を知られては困るからではないだろうか。
東野は由希の額の傷痕に触れた。由希は、即座に弾くのをやめた。その鋭敏な反応に東野は驚いた。
その傷が何か衝撃的な体験に結びついているらしいというのは、想像がついた。
東野は由希をその場に残したまま、指導員室に向かって走っていた。
乱暴にドアを開けると、他の人々に背を向けるようにして座っている深谷の後ろ姿がある。
「ちょっと、聞きたいことがあります」
振り向いた深谷の顔は、血の気を失って土気色をしていた。気分の悪さがまだ治っていないのだろう。
「どうしたの? 興奮して」
「由希は、奇形でも天才でもないでしょう」
「はあ?」
深谷は首を傾げた。
「手術をやりましたね」
奥歯を噛みしめているのか、深谷のいかつい顎が際立った。
「だから?」
「彼女に感情がないのは、そのせいだ。あなたは自分の手で天才音楽家を作るために、由希に手術をした。そして目的を完遂するために僕を遣《つか》っている」
深谷は首を振った。
「そんな都合のいい脳外科手術があると思う?」
「知りません。専門家ではないですから」
「セラピストと医者は違うのよ。どうやって私が手術をするの」
「あなたが直接執刀したということではないにしても……」
「人の脳を切って音楽の天才を作れるほど、大脳や神経に関する研究は発達してないわ」
深谷は椅子を回転させて東野の正面を向き、背筋を伸ばした。
「赤ちゃんを殺しかけたことは、確かにショッキングな出来事だったけれど、現象面だけ見てあなたまで由希を怖がらないで」
「質問に答えてください」
東野は言った。
「由希の頭の傷は何なんですか」
「オペの痕よ」
小さくため息を一つついて、深谷は答えた。
「動脈|瘤《りゆう》だったの。放っておくと大人になったとき、自然に破れて脳出血を起こす病気。それで手術を受けたのよ」
中沢が部屋に入ってきて、東野の後ろを回りこみ深谷の正面に立つと、いつになく厳しい表情で言った。
「ミーティング、お願いします」
「今回の責任をめぐっての吊し上げ?」
深谷は机に肘をつき、ふてぶてしい笑みを浮かべる。中沢はかまわず続ける。
「一応、その前に話しておこう」
「根回しをして、理事の面前では話を穏やかにすまそうってわけ?」
深谷はそこまで言うと、頭痛をこらえるように片手でこめかみを押さえた。
「率直に言うと、浅羽由希にはしばらく接触しないでほしい」
深谷は黙って、中沢を見つめていた。
「他にだれが彼女の面倒を見られるの?」
「深谷さん」
中沢は小さく咳払いした。
「この施設の指導員は、産休をとっている人も含めて十二人いる。そのうち臨床心理士の資格を持っているのは僕と深谷さんだけだが、他にソーシャルワーカーや養護学校教諭の有資格者が五人、資格がない人々にしても、それぞれに見識も熱意もある。入所者のことについては、家族よりもよく知っている。現在も由希については、あなた一人が担当しているわけではない」
「では、由希には何をさせるの? 社会化訓練も、職場見学も、いままで由希は外されていたわね」
「外部的刺激によって問題行動が出る場合があるから、指導員一人では対応できない可能性があるのでしかたなかった」
中沢は口ごもった。東野ははっとして、中沢と深谷の両方の顔を見た。二人が、と言うべきか、この施設がと言うべきか、由希の何か重大な秘密を隠しているようだ。
しばらく沈黙があってから、中沢が口を開いた。
「少し考えてみてほしい。あなたがやっていることが、由希にとって幸福なのかどうか。彼女にふさわしい訓練の方法を別の角度から模索してみる時期ではないかと僕は思う」
穏やかだが、断固とした調子だった。
「由希にとって幸福かどうか、という次元で考えてらっしゃるわけではないでしょう。この施設で、騒ぎを起こしたくないだけじゃなくて?」
「あれが単なる騒ぎかね? 罪もない赤ん坊が死ぬところだったんだ」
「わかったわ、それはわかった」
深谷は首を振って、続けた。
「でも、あなたがたのやろうとしている訓練だの治療だのっていうのは、結果的には、彼女の天分をつぶして、代わりにわずかばかりの言語的能力を授けるだけじゃないの。中沢さんが目指しているのは、多少は扱いやすい、ただの障害者をつくることではないんですか」
「ただの障害者という言い方は、やめなさい」
中沢の口調が厳しいものに変わった。
「ここには、ただの障害者などいません。一人一人に心があり、懸命に生きています。変わりませんよ、僕たちと。能力がなければ生きるに値しないというあなたの認識は、即刻改めていただきたい」
深谷は口元を真一文字に引き締めて横を向いた。そのとき指導員の一人が、二人の間に入った。ミーティングが始まると言う。
席を立った深谷に東野は追いすがった。
「いったい、どうなるんです? まさか由希は閉じ込められるんじゃないでしょうね」
深谷は振り返ると、短く答えた。
「彼女は、人を咬んだ犬じゃないわ」
東野はそのときになって由希をプレイルームに置いてきてしまったことに気づき、慌てて戻った。
由希はもういなかった。だれかに部屋に戻されたのだろう。閉じ込められたのだろうか、それとも注射でも打たれて寝かされたのだろうか。
嫌な想像ばかりがわいてくる。刑務所なら囚人の刑期は決まっているが、ここはいつ出られるともしれない。中で何が行なわれていても、だれかが告発しないかぎりは外の世界の人間にはわからない。告発したところで改められる可能性は低い。
東野は自分の楽器や譜面を片付け、暗澹《あんたん》とした思いでこの先のことを考えていた。
しばらくしてドアの開く音がした。振り返ると中沢が立っている。
「もう終わったんですか」と尋ねて、壁の時計を見た。さきほどから一時間あまりたっていた。
「深谷さんには、僕が受け持っている仕事を一部担当してもらうことにして、由希にはしばらく接触しないということで了承してもらった。そのほうが、深谷さんのためでもあるような気がする」
中沢は言った。
「深谷さんのため?」
「いや、それはいい。君が用済みになったということではない。いずれ由希の音楽教育も再開するだろうが、今のところは優先することが他にあるので、少しの間休ませることになった。その間のレッスン代については支払われるので、心配しなくていいよ」
「しかたないですね」
納得しかねたまま、東野は空調装置を切り、部屋を出る。
「ところで……由希の頭の傷は何ですか」
玄関に向かって歩きながら、東野はさり気ない調子で尋ねた。
「彼女の傷?」
中沢は足を止めた。
「脳動脈瘤を切った痕だよ」
深谷の言葉は嘘ではなかった。それとも口裏を合わせているのか?
「手術は彼女が小学生のとき……、確か十二歳だった。こういうことは、執刀した医師や病院の立場があるから、外部の人間には言わないことになっているのだが」
中沢は、少しためらってから続けた。
「大手術にリスクはつきものだ。病気自体は治ったのだが、手術は彼女に重大な障害を残してしまった。彼女は言葉を失った。それだけでなく人の心、人間らしい情緒も奪われたのだ」
「手術が情緒を奪うって、そんなことがあるんですか」
東野は驚いて問い返した。
「感情をつかさどる部位が傷つけられた場合はね」
「手術は、どこの病院で行なったんですか」
「聖ヨハネホスピタルだ。R大学の付属の。その頃はあそこが最先端だったのだ。もっとも今でもそうだが。ただし手術が失敗したというのは、間違いだ。人の大脳は謎だらけで、思いもかけない結果がしばしば生じる。何もしなかったら、彼女の脳の中でいずれ血管が破裂し、死んでいたか、肉体的にも精神的にも今より数倍不自由な生活を送っていただろう」
東野はいつか見せられた、あのひずんだ由希の脳の像を思い出していた。
中沢は続けた。
「執刀した医師は、患者の命を救うことを第一に考えたはずだ。十六年前の技術水準から見ても最高の処置を施した」
「それで、なぜここへ?」
中沢は、目を細めて少し悲しそうな顔をした。
「考えてごらん、自分の娘がそうなったとして、抱いても話しかけても、鉄のようにはねかえしてくるとしたらどうだろう」
「感情がないのではなく、それに関わる情報を受ける中枢がやられた、と深谷先生が言ってましたが」
「まあ、そういうことだろうが。とにかく昔は、そういうのは何でも一括りにして『自閉症』と呼んだ。いきなり人間らしい情を失った我が子は、親にとっては異邦人だ。家族はあらゆる病院や訓練施設を回った。結局最後まで由希に付き合ったのは母親だったのだが、ついに娘をもてあまし、自分の心が病んでしまった。途方にくれた家族が、万策尽きて彼女をここの施設に入れたのだ。そのときには、手術から六年が過ぎていた。彼女が十八になった年だ」
「お母さんは、ときどき会いにこられるんですか」
中沢は首を振った。
「家族との絆は、切れているよ」
「治療費は?」
「口座に月々七十万ほど振り込まれている。ここは病院ではないので治療費とは言わないがね」
「月七十万ですか? 確か一般の入所者は、四十万でしょう」
「さまざまな費用が合算されているし、彼女の場合一人部屋という事情もある」
「いずれにしても庶民の払える金額じゃないですね」
「彼女の家は、会社を経営していてね。言えば君も知っているような一部上場企業だ。ここに由希をあずけるくらいは金銭的に負担ではない」
東野はやりきれない気持ちで聞いていた。残った子供の将来と一家の名誉のために、彼らは由希が死ぬまで、その金を払い続けることだろう。
「彼女にとっての音楽、というのが何なのか、わかるような気がしないか。浅羽由希は障害を背負っている。しかも家族に捨てられた。深谷さんが、天才的能力と信じているものは、傷ついたために他者と外部世界への無関心が原因となった興味の偏りと、物事への誤った集中による一種の人格障害のようなものなのだ」
「いえ……」
東野は即座に反論した。
「由希の音楽をそんなものと一緒にしないでください。それにちゃんとした情緒を持っています」
「君が彼女の音楽に情緒を感じるとすれば、彼女の傷つけ歪められた感情を音楽表現と誤解しているのだ。悲しみや切なさといったものが君の胸に迫ってくるとしても、それは芸術的なものではない」
「違います」
東野はかぶりを振った。
「音楽的情緒というのは、そういう表面的でセンチメンタルなものではないんです」
「とにかく……」
中沢は柔らかく遮った。
「由希に音楽の訓練をするというのは、恐ろしく狭い対象に、異常な強度の集中を強いるということにすぎないんだ」
「では、何をすればいいんですか」
「視野を広げさせる努力をすること。そして日常的な生活に関わることを幅広く実践させることだ。さらに必要最低限の言葉の習得。ただし、何よりも大切なのは、温かく見守ることだろう。これだけは忘れないでほしい。彼女にとっては、我々が、家族でなければならない」
「そうですか」
東野は中沢のほうを一瞥もせず、玄関に向かって大股に歩き出した。所詮、中沢の言うことは抽象論にすぎない、と心の内で憤慨しながら。
家に帰ってみると、一通の封書が速達で届いていた。
差出人は、ある音楽プロダクションだ。最初の数行を読み、何かの間違いではないか、と東野は宛名と文面を何度も見直した。
Mフィルハーモニーからの出演依頼だ。そこに自分の名前がある。
Mフィルと言えば、日本でもトップクラスのオーケストラだ。なぜ自分のような者に、と首をひねったが、すぐに数日前のテレビのニュースを思い出した。Mフィルのチェロ奏者ばかり八人が乗ったマイクロバスが、演奏会場からの帰りに事故を起こしたのだ。
ベルリンフィルのメンバーによるチェロ合奏が人気を博してから、国内のオーケストラでも、ときおりこの低弦楽器だけによる合奏が行なわれるようになった。Mフィルのチェリストたちはその日、コンサート会場のある群馬県の高崎から東京に戻る途中で事故に巻き込まれた。
彼等を乗せたマイクロバスは関越自動車道で無理な追い越しをかけてきたトラックに接触されて横転し、車体の前半分を空中に突き出し、下の田圃への転落を辛うじて免れ、ガードレールにひっかかっていた。
乗っていた人も楽器も重軽傷を負い、メンバーの中で無事だったのは自分の車で会場に向かった四人だけだった。
ニュースを見たとき東野は負傷者に同情し、関係者は頭を抱えているだろうと思った。しかしチェロパートの人間のほとんどが出演不能になったMフィルが、エキストラとして自分に出演依頼をしてくるとは想像もしなかった。
演奏会は二週間後で、曲目はシベリウスだ。低弦パートに負担のかかる難曲だった。まるで由希のレッスンがしばらくの間なくなったのに合わせるように、大きなチャンスがめぐってきた。
東野は手紙の末尾に書かれたプロダクションに電話をかける。
対応に出たプロダクションの社員は、東野を紹介したのが山岡将雄であることを告げた。Mフィルのチェロ奏者というのは、ほとんど山岡の門下生で占められているので、このときもエキストラの紹介を山岡に依頼したところ、すぐに東野の名前が挙がったという。彼は地方都市でくすぶっている弟子に飛躍のチャンスを与えるつもりらしい。
「ぜひ、弾かせてください」と言い、東野は電話を切った。
すぐに山岡のところに電話をかけて礼を言おうとしたがやめた。演奏会が終わってから報告を兼ねて礼を述べに行くことにした。自分はレッスンプロや、まして心理療法士ではないと、肝に銘じた。
この一年半ほど、由希のことに深入りしすぎ、自分を見失っていたような気がする。
エキストラ出演のプログラムは、生半可なプロでは指さえ回らないシベリウスのシンフォニーだ。東野は無意識に指板を押さえる左手をきつく握りしめていた。
スコアを取り出し、その曲を弾いてみる。
拍子抜けするくらい、問題なく弾けた。すさまじい速さを要求されるポジション移動も苦にならず、指は思いの外滑らかに回り、ボウイングも安定している。
音大卒業後も、地道な練習で培ってきた自分のテクニックの確かさを東野はあらためて知った。由希を前にして打ち砕かれた自信が、戻ってくる。
次に内容を吟味するような本格的な練習に入る。三十分を超えるシンフォニーの中の難所を取り出し、一音一音切り、音程と音色を丁寧に確認しながら、飲み込むように自分のものにしていく。二小節に一時間をかけて完成させる。舞台に立つための気が遠くなるような作業が始まる。
オーケストラの音合わせはその四日後に、東京であった。今回雇われたエキストラは四人で、東野は末席だった。全員が山岡将雄の弟子か、音大の教え子である。
東野より八つ若い音大を出たての若者が混じっていたが、席は彼よりも一つ前だ。プライドの高さが顔に表われたように、弓なりの眉をひょいと上げて人を見る癖のある男だった。
東野は難なく弾いた。動きの速い高音域も、複雑なボウイングも危うい箇所はない。すぐにこの楽団の特徴をとらえ、その流れにきれいに乗ることができた。
音楽は一人でするものではない。アンサンブルの精神、すなわち他の楽器との調和を常に心がけることが必要だ。東野はそう信じていた。出すぎず勝手に歌わず、他のパートを聴いた上で、自分の音を溶け込ませる。
さきほどの若者はとかく歌い過ぎ、全体の流れをしばしば乱していた。
十分弾けることがわかった後も、東野の地道な練習は続く。一つ一つ音に磨きをかけ、シベリウスの音楽を自分なりに研究していく。
いずれレッスンを再開することになるだろうと中沢は言ったが、それがいつになるのか皆目見当がつかない。中沢からはもちろん深谷からも、何の連絡もない。
ひょっとすると、これは運命の神が、優秀なレッスンプロとして終わりかけていた自分を戒め、もう一度、第一線の演奏家として活躍するようにと背中を押してくれたものかもしれない、という気がした。
Mフィルのコンサートは、赤坂のサントリーホールで行なわれた。
一曲目と二曲目はモーツァルトで、オーケストラの編成は小さい。そのためエキストラの後のほうの席次の者は出番がない。東野が弾くのは最後のシベリウスだけで、これがこの日のメインプログラムである。
プログラム前半を舞台の袖で聴きながら、東野は前日、深谷からあった電話のことを思い出していた。
由希のレッスンを再開する、と深谷は告げた。いくぶん勝ち誇ったような響きがあった。
「指導員たちが、由希に幼稚園みたいなゲームを毎日やらせたあげく、ついに持て余したのよ。中沢さんは、もう少し様子を見るように説得したらしいけど、指導員のほうがもう勘弁してくれって泣きついてきたそうよ」
「そうでしょうね」と同意しながら、わずか二週間の間に由希や生活寮泉の里がずいぶん遠いものに感じられるようになっていることに東野は自分でも驚いていた。
来週から、また来てくれるようにという深谷に東野は答えた。
「もしかすると、以前ほど頻繁には行かれないようになるかもしれません」
「なぜ?」と不満そうに深谷は尋ねた。
「僕自身のこともいろいろ考えまして」と東野は言葉を濁した。
「由希は待ってるわ、きっと。CDをせっせと聴いているみたい。指導員たちは楽器は弾かせなかったけど、CDを聴くのまでは止めなかったから」
とにかくそのときは、翌日の本番のことで頭がいっぱいだったのだ。東野は、それでは来週行くから、と素っ気なく答えて受話器を置いた。
第二部開始を告げるベルの音が鳴り渡った。
東野はゆっくり息を吸い込むと、同じプルトの奏者と視線を交わし、ゆっくりと舞台に出て行った。
不意にひどく心細い感じに見舞われた。このホールの客席は舞台を囲んでいるので、最後部の彼の真後ろにも聴衆がいる。その視線をうなじに感じ、恐怖に似た緊張感におそわれる。人の視線に高揚感を覚え、演奏に熱が入るという者もいるが、東野は正反対のタイプだ。激しく心臓が打ち、口の中がからからになった。額や脇の下から冷たい汗が流れ始める。
拍手と短い静寂の後、タクトが振り下ろされた。
すべての思いは断ち切られた。静かな導入、次にくる速いパッセージ。指は回る。オーケストラの響きは完全に把握している。彼のチェロから立ち上る音は、全体の流れに溶け込んでいる。
そうするうちに前のプルトの若者が勝手に歌い始めた。
眉をひそめながら自分のパートを弾く。しかし若者の音が否応なく耳に入ってきて、落ち着かない気分にさせられる。
由希に似たフレージングだ。気のせいかもしれないが、確かに似ている。
これが山岡の弾き方なのだと不意に気づいた。山岡の弾き方であり、同時に山岡の門下生に共通する特色であり、当然のことながら東野自身の弾き方でもある。また山岡の妹弟子、あまりに著名な妹だが、ルー・メイ・ネルソンにつながる音だったのだ。自分の演奏は抑制がききすぎて、特色が表に出にくいだけで……。
自分の演奏とルー・メイをつなぐ糸のようなものを発見したことに、東野は軽い衝撃を覚えていた。
曲は最終楽章の半ばにさしかかっていた。まもなく曲の最大の山場がくる。
金管楽器が吠える。それを受けて低弦楽器が次第にクレッシェンドしていく。
そのときかすかに客席がざわめいた。続いてチェロパート全体に、小さな動揺が起こった。一瞬、首を傾げたが、すぐに心を曲に集中させる。
最大の難所にかかった。これを抜ければ弦楽器がユニゾンになるクライマックスだ。
だしぬけに客席側に座っていた若い男が、東野を突いた。おまえの楽器を貸せと手で合図する。さっきから言っていたのだろうが、東野は気づかなかったらしい。苛ついた表情が見える。
事態を悟った東野は軽いめまいを感じた。何もかもが無駄になった……。
東野は唇を噛んで弓を止めた。楽器を静かに体から外すと、彼に手渡す。
空身になった東野は立ち上がり、くるりと体の向きを変えた。足音を忍ばせて退場する。客席が舞台を四方から取りまいたこのホールの作りがうらめしい。拍手も、大曲を弾き終えた達成感も与えられず楽屋に引っ込む最後尾の奏者を、正面から見下ろす客の視線が痛い。
ファースト奏者の弦が切れたのだ。セカンド奏者は自分の楽器をファーストに渡した。次にセカンドはサードの楽器を渡され、順ぐりに後ろの奏者が自分の楽器を前に回していく。パート自体としては、切れ目なく演奏でき、最後尾は役目を終えて退場した。見事なチームワークだった。
テーマがユニゾンで聴こえてきた。嵐のように歌う低弦。管楽器の輝かしい音色。舞台は圧倒的なフィナーレを迎えている。
ほどなくそれも終わり一瞬の静寂が訪れた。続いて割れるような拍手。
そのすべてを東野は、舞台の袖で聴いた。だれが決めた席順かは知らない。しかし実力の順位であることには、だれも異議を唱えられない。
全体の流れから浮き上がらず、自分の役割を忠実に果たすことのできる身の程を知った男に、楽団はそれなりの席次を与えた。それが東野の実力と天分の限界であることをファースト奏者の切れた一本の弦が、残酷な形で彼に教えた。
拍手がやみ、アンコールのシューベルトが聴こえてくる。このアンコール用小品も練習をしたのだった、と東野はつい昨日のことを遠い昔のことのように思い出した。
出演料の入った封筒を懐にその夜、東野は家に戻った。ひとつの仕事が終わり、可能性は断ち切られた。
心の中に寒々しい空洞ができていた。意味もなく広げた日程表に、由希のレッスン日が青インクで記入されている。
自分を必要としている人がいる、と東野は自分に言い聞かせていた。
翌朝、いつもより早く起き、特急電車で再び東京に出た。目黒にある精神医学関係の資料を集めた専門図書館に向かったのだ。その図書館については泉の里の指導員たちに聞かされていたので知っていたが、ついでのときにと思うとなかなか訪れる機会はなかった。
ビルのワンフロアにある小さな図書館の入り口で、「指導員助手」という身分証明書を見せると、すぐに入館と閲覧を許可された。
由希は変わるかもしれない。昨夜、自分自身の失意の中で、そんな漠然とした希望を東野は抱いたのだった。気に入らないピアニストの指を潰し、泣き声が不愉快だという理由で、赤ん坊の喉にティッシュペーパーを詰め込むような由希の心に、自分は音楽によって人間らしさを取り戻してやれるかもしれない。そのためには門外漢とはいえ、由希の障害についてもう少し知り、その原因をつきとめて、指導方法を探ってみようと思ったのだ。由希の病気がどのようなもので、由希の受けた手術というのは何だったのかという点は未だにはっきり説明されていない。中沢や深谷の言葉はどこかあいまいだ。
そこは専門図書館とはいっても蔵書の幅が意外なくらい広かった。多重人格をテーマにした文芸作品や異常心理を題材にした犯罪事件のノンフィクションもある。そして精神医学と境界を接する心理学書も揃っていた。
東野は、一般利用者のコンピュータ端末の前に行くと、著者名検索のモードにして、「フカヤノリコ」と打ち込んでみた。半信半疑だったが、二冊の書名がCRTに表示される。いずれも共著で、深谷はその中の一章を受け持っているにすぎない。
分類に従って書架に行くと、目指す本はすぐに見つかった。それが認知論に関するものだというのは、内容紹介文で知ることができたが、本文のほうは記号と数式ばかりで東野には歯が立たない。しかしページをめくっているうちに図版に当たった。白い上質の紙に印刷されている白黒の写真は、大脳のコンピュータ画像だった。深谷から由希のレッスンを受け持ってほしいという申し出があった日に見せられたあの写真と同様のものだ。もっともこちらは歪んではいなかったが。
東野は本の奥付を見た。出版年は十五年前だ。奥付の上部に短い著者紹介がある。
深谷は、この本を書いた当時、すなわち十五年前、R大学の心理学研究室に在籍していた。身分は助手である。由希の手術を行なった聖ヨハネホスピタルは、R大の付属である。R大学といえば、日本ではめずらしく学際的研究を行なうということで知られたところだ。
東野は他の章を受け持っている学者の紹介に目を通す。
臨床心理学、教育心理学、そして大脳生理学、さらに医療センター脳外科医長という肩書きを持った者もいる。
深谷の専攻している心理学、そして医学、神経生理学、そうしたものが認知論という学問分野で結びつき、何か実証的な研究が行なわれた。そのときの被験者の一人に由希がいたのではないか。そう考えれば、由希の脳に実験のための人為的な処置が施された可能性が出てくる。
愉快な想像ではなかった。数字と記号で構成された深谷の著書の内容は、東野には理解できないが、深谷が大学在籍中から由希にかかわっていたということは十分考えられる。
東野は図書館の廊下のはずれにある公衆電話から、R大学の学務課に電話をかけた。
深谷の助手時代に指導を受けた学生だと偽り、深谷規子のことについて尋ねたいと言った。電話の相手は何度か代わり、研究室に回された。その電話には助教授と名乗る男が出た。彼が話したその後の深谷の足取りは、次のようなものだった。
由希の手術が行なわれた翌々年、深谷はアメリカの大学に移った。そしてその二年後、今から十二年前に帰国し、生活寮泉の里に指導員として就職した。
アメリカの大学に、どういう身分で、何をしに行ったのかについては、助教授は詳しくは知らないと答えた。
いずれにせよ深谷が泉の里に就職したのが、十二年前だというのがわかったのは重要だった。それは、浅羽由希がそこに収容された時期とほぼ一致する。
深谷は彼女を追ってきた。そのまま大学に残っていれば、助教授から教授へ、と順調な道が開けていたかもしれないのに。その約束され期待された将来を捨て、一指導員として山の中の施設にやってきた理由は何なのか?
追跡調査という言葉が浮かんだ。あの本に名前を連ねた人々が、由希に何かの実験的処置をし、その後、何年にも亘って深谷が観察を続けている。そう考えると深谷の奇妙な履歴と申し出の謎が解けてくる。
由希に楽器を教えてくれ、と深谷は言った。何か楽器を弾くことに関連する能力、超聴覚などというものがもしあるとするなら、そうした訓練を、知らぬ間に自分は引き受けていたのではないだろうか。
一般社会と隔絶された施設の中で、家族から捨てられた少女の体と心に、何かの加工が施され、その完成に自分が加担しているのではないだろうか。
翌週の初めに、東野は約三週間ぶりに泉の里に行った。東京で行なわれるセミナーで由希が演奏する日まで、あと十日しかない。
「また、よろしくね」といつになく甲高い声で呼び掛けた深谷に、型通りの挨拶を返してすれ違いながら、東野は自分の表情が強張ってくるのを感じていた。
「どうしたの?」
深谷は怪訝な顔をした。
「いえ」と首を横に振った。ここで問い詰めたところで深谷が本当のことを言うはずはない。自分のほうが、泉の里から体よく追い払われて終わりだというのはわかっている。たとえ犯罪的実験が行なわれた事実があっても、心理学にも医学にもまったく素人である一介の音楽教師の告発に耳を貸す者はいない。しばらく様子を見ることにした。
東野がレッスン室に着いて、ほどなく由希が一人でやってきた。東野のほうに一瞥をくれただけで前を通りすぎ、すとんと椅子に腰掛けた。何の愛想もない。さっそくチェロを出して弾き始める。
しかし東野にはこれが彼女なりの感情の表わし方であるようにも思え、その横顔を眺めているうちに、甘い感慨が込み上げてきた。
東野が何の指示もしないうちに、由希はバッハのピアノ伴奏つきのソナタを弾いた。
指示を待たずに自分から弾く、何か行動を起こすというのは、由希にとっては大きな進歩だ。ただしその大きな進歩も、計り知れない音楽的才能も、罪のない赤ん坊の喉にちり紙を詰め込むような行為の前には、塵ほどの価値も持たなくなる、というのが人の倫理観だ。
この先彼女をどのように導き、どのように人間社会に適応させていったらいいのかと考えながら、東野はその音に耳を傾けていた。
弦楽器の演奏は、悪い癖がつきやすい。しばらく放っておいたので、由希のボウイングは乱れて、ところどころ音がつぶれたりしていた。その点では由希もやはり初心者には変わりない。そのことにむしろ東野は安堵した。
一楽章の中程まできたときに不思議なことに気づいた。東野が来ない間に何を得たのであろうか、その音楽は魅力を増していた。
何をもって演奏の魅力とするかは難しい。基本の形が乱れたせいで、由希の音質は悪くなっている。曲の流れは各所で断ち切られ、不自然なアクセントがついている。しかしその好ましくない演奏の合間に、強い輝きを放つ表現が現われるのだ。
涙がこぼれそうになるほど切々とした響きは、一転して明るく伸びやかな歌い方に変わった。由希の音楽は、得体の知れない輝きを帯びている。こうした輝きこそが、努力では補いきれない天性のものであり、それこそがどんなに望んでも自分には手に入れられなかったものなのかもしれない、と東野は惨めな形で終わった演奏会のことを思い出した。
弓を返すときに不自然に曲がってしまう肘や、崩れた手首の型は、すぐに直してやらなければならない。しかしそうした容易に修正のきく退歩と引き換えに、由希は何か重要な表現方法を獲得している。
それを自分の教授の結果として素直に喜ぶ気にはなれず、東野はどこか苦々しく憂鬱な気分にとらえられていた。
由希は奔放に弾き続ける。本来、厳格な様式を備えたバッハの曲は、彼女の手によって解体されていた。長調楽章は天空にかけ昇っていくばかりに晴れやかに、沈鬱で内省的な短調楽章はひたすら切なく、啜り泣くように鳴る。
東野はそうした表現方法は教えていない。彼はバッハらしい抑制された歌わせ方で弾いてみせたつもりだ。もちろん由希の音の表情は魅力的だが、バッハの音楽は本来そうしたパトス的なものではない。しかし由希に楽理や音楽史上の約束事など理解できるはずはなく、彼女なりの感性に従って弾いていく。
彼女なりの感性、というところに思いが及び、東野はふとひっかかりを感じた。由希の旋律の歌わせ方、由希の音楽の作り方は、どこかで聞いたような感じがしてしかたがない。
まさか、と否定した。彼が認めない弾き方。過剰なロマンティシズム。
ルー・メイ・ネルソンの演奏をふと重ね合わせた。それはいかにも唐突で根拠のないことのようにも思える。
東野は由希の手元を凝視した。そのとき由希は、弓を止めずに顔を上げ、東野のほうを見た。
そのとたん東野の体の中を、何か戦慄めいたものが走りぬけていった。由希の瞳の底に生々しい歓びの表情が見えた。
抱き締めたい、という強烈な思いが、東野の内側に唐突に込み上げてくる。
挑発している……。確かにそう見えた。東野は唾を飲み込んだ。
「ばかな……」と思わず声に出して叫んでいた。
俺は何を考えているんだ、とかぶりを振る。
とたんに由希は笑った。みずみずしい微笑だった。
東野は瞬きした。
数秒間でその微笑も消え、陶器の人形のように硬く美しい無表情に戻っていた。
由希の顔の変化が、東野の心の揺らぎに応えたものなのか、音の快楽による生理的反応なのかわからない。
その夜、衝撃的なニュースが流れた。
「ルー・メイ・ネルソン、転落死」というニュースがテレビの字幕に現われたとき、東野はこの日のレッスンをすべて終え、自宅で古くなった楽器の弦の張り替えをしていた。
もっとも華やかだったクラシック界のスターの享年は三十二だった。
さほどの感慨はない。師の山岡将雄と若干のつながりがあるにせよ、ルー・メイ・ネルソンと地方のオーケストラでサードを弾いている男とは、もとより縁はない。東野にとっての彼女は、始めから天上の奏楽天使である。
ただし、ルー・メイの私生活は、およそ天上的とはいいがたかった。ハーレムから突然、天才少女としてデビューして以来、その魂の叫びをぶつけるような音と、数々の奇癖、伝説の類で知られた女流チェリストの体は、ハッシシとコカインでぼろぼろになっていた。三十過ぎまで生きたのが不思議なくらいと東野には思える。
東野の手元には、二週間後に迫った来日コンサートのチケットだけが残った。その夜多くのファンがそうしたことだろうが、東野はルー・メイのCDを聴いた。初めて由希に聴かせたのと同じアンコールピースの小品集だった。
啜り泣くようにフォーレのエレジーが鳴る。感情に溺れた弾き方を東野は批判してきた。やっかみも半分混じっていた。しかし今こうして耳を傾けていると、それがルー・メイの彼女自身へのレクイエムのようにも聞こえてくる。
コカインに酔ったあげく、十二階のホテルの非常階段から飛んだ……。それがこのエキセントリックな女性チェロ奏者にまつわる最後の神話となった。
挽歌のテーマが、悲痛な音で繰り返される。不意に涙があふれた。これほどの弾き手はあと百年は現われまい。そんな気がした。リノリウムの床で両膝を抱え、東野は涙を流した。それが今まで自分が口をきわめて非難していた彼女の演奏だというのが嘘のようだ。
少しばかり感傷的になっていたのかもしれない。あるいは心の片隅でルー・メイの音に惚れ込んでいたのかもしれない。抑制のきかないルーズともとれる表現、肉体の重たさとむせかえるような体臭を感じさせる音、それらを軽蔑しながら、どこかで心惹かれていたのかもしれない。
愛と軽蔑の両方の感情を喚起させる音の中に、東野は心の隅に常にあった疑問が膨れ上がっていくのを感じた。
高音を少し引っ張り気味に明るく伸ばす癖、わずかにリズムの頭からずらせた独特のアクセント……。由希の音だ。由希の弾き方に酷似している。いや、由希がルー・メイ・ネルソンに似ているというべきだろうが。
由希は確かに、バッハをこんなふうに弾いていた。それとも自分の思い込みなのだろうか。
その夜のニュースには、ルー・メイ・ネルソンの漆黒の髪をふり乱し大きな目を光らせた写真が、何度も登場した。しかし彼女が酔ったように「白鳥」を弾く洋酒メーカーのコマーシャルは、ぴたりとブラウン管から消えていた。
翌日にはルー・メイの来日コンサートを控えていた音楽事務所が、問い合わせの電話でパニック状態になったという噂が、仕事仲間から聞こえてきた。チケットは払い戻しされることになったが、損失は莫大な額に上るだろうと言われている。もっとも新聞記事によれば、ファンの多くは、その中止されたコンサートのチケットを記念品か、形見のように持っているつもりだということだ。
一方、ルー・メイのレーザーディスクやビデオの類は、あっというまに売り切れ、店頭から姿を消した。音だけのCDよりも画像入りのほうが売れ、買っていく者の多くがクラシックファンではないというのが、いかにもルー・メイらしい。
スターの死は、祭りだ。ルー・メイはまさにスターだった。各地で追悼コンサートが企画され、雑誌はその謎に包まれた半生と死についての特集を組んだ。しばらくの間、ブームは続きそうだった。
そんな騒ぎとは無関係に、由希はバッハを弾いている。東野は、気がつくとその音とルー・メイ・ネルソンの音を重ね合わせ、比較している。
いったんその相似を意識してしまったために、自分の感覚は由希の音を、ルー・メイ・ネルソンの音楽というイメージの中で、無意識に解体し再構成しているのかもしれない。そうとすれば、自分の聴き方のほうを改めねばなるまいという気もする。
セミナーが二日後に迫ったとき、深谷は東野を面接室に呼び、当日の段取りについて説明した。
由希は、深谷の発表の後に弾くことになっていた。正確に言えば、発表の中で弾く予定だ。セレモニー、おそらく懇親会の席上か何かで弾かされるのだろうと思っていた東野は、驚くと同時にやはりという気がした。
「セミナーって、つまり学会ですね?」
東野は尋ねた。深谷はあいまいにうなずいた。
「つまり深谷先生は、学会発表をされるんですね。いったい何を発表されるんですか」
あの日、目黒の図書館で調べたいくつかの事実が記憶によみがえってくる。
「何を発表するのかって?」
「彼女に弾かせるというのなら、トレーナーの僕がそのあたりも知っているべきじゃないでしょうか」
深谷の漆黒の瞳から視線を外さずに、東野は言った。
「わかりやすく説明しましょうか」
深谷はうろたえる様子もなく、傍らの印刷物を裏返して、小さな図形を描いた。マッシュルームのようなものだ。人の脳の形だった。その簡素な曲線に由希の姿を重ね合わせ、東野はグロテスクな感じを覚えた。
「人の脳というのは、ある機能をつかさどる部位に損傷を受けたとき、失われた機能を他の部位が補う。そうした場合、これまでなら失われたものの機能回復に主眼がおかれていたけれど、発想を少し変えてみるとその増殖した部位をさらに発達させることによって、失ったものを補って余りある代わりの能力を引き出すことができるはずなのよね」
「ある機能をつかさどる部位に損傷を受けた、わけですか」
東野は深谷の言葉を遮った。
「たしかに損傷と言われましたね」
「ええ」
「手術によって人為的に損傷を与えたことはありませんか? 先生は、由希が手術を受けたき、R大学の心理学研究室にいましたよね」
「どこから聞いたの?」
深谷は、驚いたように顔を上げた。
「確かにその大学にいたけれど、学問分野が違えば関係ないわ。動脈瘤の手術については、何度も言うけど、医者がやること。医学分野の課題であって、私の研究分野とは無関係なの」
「先生の書いた本を読みましたよ」
「そう……おもしろかったかしら?」
あなたに理解できるとは思えないけど、というあなどりの調子が感じられる。
「正直言って、書いてあることはわかりません。ただ、写真がありました。大脳の写真です。二年前に見せられたのと同じ」
「PET画像よ。造影剤を静脈注射して脳の断層を画像化したものだけど、由希のじゃないわ」
「しかし由希はあなたの研究対象だった。初めから」
深谷はソファに腰をおろすと、しばらく東野を見つめていた。それからベージュの口紅に彩られた唇に微笑を浮かべた。
「嘘をついたわ、あなたに……。ごめんなさい。手術に関わっていないというのは、嘘よ」
あまりにあっさり言われて、東野は聞き違えたのかと思った。
「ちゃんと、話しておいたほうがいいわね」
深谷のそばかすの浮いた頬も、目尻の浅い皺もそのままだったが、親しげな表情は失せ、いくぶん強迫的な目の色が見えた。
「手術に失敗はつきものよ、確率の問題だから。本来、隠すようなことではないはずね。私はメスを持ってはいなかった。脳外科医じゃないから。代わりに電極を持っていた。生体のむきだしの脳を見られるのは、外科手術のときしかないから、心理学者も立ち会うことがあったの。それに脳に直接何か働きかけて反応を調べられるのもそんなときだけ」
「何かするって?」
「大脳皮質にパルスを送るのよ。電極探針を使って。当時、脳外科医による大脳の機能部位の研究がさかんで、かなり行なわれていたけれど、今はできないでしょうね。人権問題になるから」
「人権問題になるのではなく、人権問題そのものではないんですか」
「まあ、そうね」と深谷はうなずく。認めたというよりは、開き直ったような口調だ。
「大脳皮質のある場所に探針が行き当たると、突然忘れていた記憶が意識に上ってくるのよ。『ランダム記憶』と呼ばれるもの。それで記憶や思考などの問題を扱っていた私たちが手術に関わった。実験方法は残酷に思えるかもしれないけど、脳自体に神経はないから痛みは感じないし、もちろん後遺症の心配もないはずだった。ところが、そのとき機械にちょっとした異常が起きた。ちょうどパルスを送った部位に少し多めの電流が流れてしまい、由希の脳は損傷を受けたのよ。それで部分的に機能が奪われることになった。機能を失うことによって、その器官は次第に退縮する。それがいつかあなたに見せたあの歪んだ脳の写真よ」
「つまり由希の脳を電気で焼いてしまった、ってことですか」
「正確には、そういうことではないんだけど」
「そんな重大な損傷を与えておきながら、病院側はどうしたのですか」
深谷は、首を横に振った。
「医療過誤ということで表沙汰になるのは、特殊な場合だけよ。対立する派閥の人間が内部告発をしたり、マスコミにリークしたりして。けれどあのときは、私たちは密告者を出さなかった。オペの前から秘密主義を貫いていた。つまり由希の動脈瘤の手術中にそんな実験を行なった事実はないのよ。たとえやっていたとしても」
「みんなで口を拭ったわけですか」
深谷は答えない。
「それで先生だけが由希を追ってきたのはなぜですか? 普通なら、関係者はビビッて逃げ出しますよね。でも先生だけは由希を追いかけてきた。被験者を長期に亘って観察する目的は何ですか」
急ぎ過ぎだ、と東野は思った。しかしこれ以上疑問を自分の中に留めておくことができなかった。
「教えてください。まさか『私は見事に音楽における天才を作り上げてみました』と学会で発表する気じゃないんでしょう。僕は、二年間、由希に付き合ってきた。あなたがどういうつもりか知らないが、彼女は僕の弟子なんだ。少しばかり出来が良すぎるけれど。弟子だからかわいいとか心配だとか、そういう感情論で物を言ってるんじゃありません。少なくとも知るべきことは知っておかなければ責任ある指導はできないじゃないですか」
「責任ね」
醒《さ》めた声で、深谷は言った。本当は感情論なんでしょう、と言われているような気がして、半分当たっているだけに腹が立った。
「はっきり言っておくけど、天才論なんていうのは十九世紀ならともかく、いまどき学問のテーマにはならないわ」
「それじゃ何を……」
「大脳機能部位の研究と、脳損傷による能力の過剰補償の問題は別もの。そんなことは私はどうでもいいの。由希がこの先、どうやって生きていくかのほうがかんじんなのよ。由希の母親は、彼女を治すためにあらゆる病院やカウンセラーを訪ねた。祈祷師や霊能者の所にさえ行った。そうして自分までおかしくなっていったの。うちの大学の臨床心理学研究室にも来た。教授たちはあの手術のことを隠すために遠ざけた。けれど私は、まだ三十前だったのよ。そして電極を握っていたのは私。逃げそこなったのよ。由希とその母親からではなく自分のやったことからね」
深谷のこめかみの血管が額に青白く透いて見えた。血管とともに、苦悩の表情までも生々しく透けて見えたような気がして、東野は唾を飲み込んだ。
「まず、私がここに移って来て、それから家族に由希をここに連れて来るように勧めたの。そのときは、由希は一生あのまま言葉も感情も失って生きていくものと私もあきらめていたけれど」
「責任を感じたというか、償いのつもりだったんですか」
深谷は、唇の片方だけに笑みを浮かべる。肯定でも否定でもない。複雑な表情だ。
「けれど不思議なものを発見したのよ、やがて。失われた機能に対して人の体って、必ずそれをカバーするものを与える。彼女の言語と一般的抽象化能力の代替に与えられたのは、よくわからない別の力」
「卓越した音楽的能力ってわけですか」
深谷は首を横に振った。
「音楽的能力というのは私たちに理解できる形で表われた一部分でしかない。本当はもっと大きな、得体の知れない力」
「得体の知れない力というのは、何なのです?」
「わからない。そんなものが本当にあるかどうかもね。ただしあると仮定して考えたとき、多くの現象を説明できるとすれば、あるということになるんじゃないかしら」
「まわりくどい言い方はやめてください。わかっているんでしょう、本当は」
あのとき由希の腕を掴んで叱責していた深谷のデジタルウォッチ。それの液晶がめまぐるしく明滅していた様を、東野は思い出していた。そして深谷が浮かべていた苦痛の表情も。さらにはピアノ伴奏に訪れた高田保子の苦痛に歪んだ顔がまざまざと脳裏によみがえる。得体の知れない暴力的な力が、由希の中で吹き荒れるときがあるらしい。
「神秘的な力、としか言えないわね」
「それでは、今回の学会発表は、その神秘な力を深谷先生が解析したものですか」
深谷はかぶりを振った。
「神秘現象をテーマにする研究者がいないとは言わないけれど、そういう人間に学会は席を与えないわ。アカデミズムと神秘主義は相容れない。神秘と仲がいいのはマスコミだけよ。由希に弾かせるというのは、あなたが言ったようなこととは関係ないわ。あなたはとにかく由希に音楽を教えてやって。学会発表のときには、会場に来て。それで自分の目でごらんなさい。そうすれば、私の意図はわかってもらえるはず」
「音楽屋は黙って楽器を教えていろ、というわけですか」
「とにかく会場に来て。そうしたらわかるから」
深谷は繰り返した。承服しかねたまま、東野はそれ以上言い争う気にはなれず、由希の待つプレイルームに行った。そしていつもと同様のパターンで、レッスンが始まった。
ロングトーンに始まる基礎練習が一通り終わり、曲に入ると由希の力は前回に比べ、さらに飛躍的に伸びている。それはレッスン中にも目に見える形で表われる。
恐ろしいほどの進歩……。神秘的力とは、まさにこれだと、東野は思う。明滅するデジタルウォッチの文字盤も、深谷の味わったであろう苦痛も、保子の幻視のたぐいも、彼にとってはさほどの神秘でも驚異でもない。
由希の持つ音程、リズム感、記憶力、表現力、そして音楽を頭でなく生理で解釈してしまう力、そうしたものこそ、東野にとっては神秘であり驚異であり、脅威だった。
ただ、この能力を身につけた経緯がどうであれ、そこに残酷な事実が横たわっているのは間違いない。由希にとっても、そして彼自身にとっても。
神は自分にほんのわずかな才能しか与えなかったが、由希にはちょっとした気まぐれから、求めても決して得られぬ驚くべき能力を与えた。それが由希にとって幸福なのかどうかはわからない。しかし凡庸な者から見たとき、それは許しがたいほどの幸運だ。たとえ深谷が言うように、その原因が電極探針による事故であったにしても。神は彼女を選び、音楽を宿命づけた。そして自分は選ばれなかった。
そんなことを考え、唐突に心に浮かんだ「神」という概念に東野はとまどった。東野は信仰を持っていない。オカルトにも占いにも興味はない。それでも由希を前にしていると、気まぐれで意地の悪い「神」の姿が見えてくる。宿命と言い換えてもいいのかもしれないが。
優秀な弟を夭折させたのも神なら、由希から並の人生を奪って天才を授けたのも神。そして音楽を愛してやまない努力家の男に、凡庸な能力しか与えなかったのも、また神だ。ふと、手術とか深谷の研究意図などというものにこだわっていた自分が、滑稽《こつけい》に見えてきた。
ソナタは、伴奏のピアノが抜けたまま、完成した。
学会当日、東野は会場である都内の大学に一人で行った。
発表は初日の最後なので、午後遅く来ればいいと深谷は言ったが、東野は、開始の定刻までに会場に入った。いったいそうした場所ではどんなことが行なわれ、深谷は何を発表するのかを知りたかった
会場がパティオのついた瀟洒《しようしや》なホールであったことは意外だった。東野は階段教室や講堂を想像していたのだ。
ロビーには机が並べられ、数人の女性が受付をしている。身分を尋ねられ、生活寮「泉の里」の臨時職員だと答えると、相手は名前と住所を書くようにと、受付簿の一つを示した。
「福祉関係者」と受付簿にはある。他には「研究者」「学生」「プレス」「一般」という分類があった。
実費三百円を払い、レジュメを渡される。その表紙には、「すべての人々に、明るい未来を。ノーマライゼーションを考える」などという副題が掲げてある。
想像していたアカデミックで黴《かび》臭い「学会」とは様子が違う。
ホール内は、若者や主婦とおぼしき中年女性たちの姿が目立つ。声高に話している女性たちに遠慮するように、東野は後ろのほうの座席に腰を下ろした。
始めにこの会の代表だという年配の大学教授が挨拶に立つ。そして今回、障害者のノーマライゼーションへの関心を広く持ってもらい、一般市民のボランティアをつのる目的で、通常の専門的な学会とは別にこうした開かれた形での研究発表の場を設けたという趣旨の話をした。
やがて発表が始まったが、内容は、訓練や治療に関する現場からの報告が中心だ。素人の東野には理解できない専門用語も多かったが、こうした仕事に取り組む人々の熱意が伝わってきて、東野は少しばかり感動を覚えた。
「とにかく行ってみるように。行ってみれば私の意図がわかる」という深谷の自信に満ちた言葉は、このことだったのだろう。
午前の部はすぐに終わり、一時間の休憩の後にシンポジウムが始まった。
心理学者と神経科医、それに厚生省の役人などがそれぞれの立場から意見を述べているが、こちらはたてまえ論の域を出ない退屈なものだった。主婦の数人がそっと席を立ち、それを皮切りに薄暗いホール内をぞろぞろと出口に向かう人々の姿が見えた。
学者の話を聞きながら、東野はあくびをした。隣にいた男もあくびをした。
ポロシャツにジーンズという男の服装は、この場の雰囲気にそぐわない。男はテープレコーダーで音を拾いながら、ノートパソコンをときおり叩いている。
その手元から男の顔に視線を移したとたん目が合った。お互い申し合わせたように、にやりとした。
「いやあ。たいしたことないねえ」
男は言った。「ご高説、ありがとうございますってな感じでさあ」
「確かに」と東野は同意した。
「おたくは、養護学校の先生かなにか?」と尋ねられ、東野は「演奏家」とは言えず、臨時雇いの施設職員だと答えた。
相手は、自分は雑誌のライターだと名乗った。「心の科学の最先端」という特集記事を書くためにここに来ているのだという。
「でも、これは科学というより福祉だね。あんまり最先端って感じもしないし。もっとばりばりのネタを期待していたんだけどさ、時間の無駄だったね」
男が失望したように言うのを東野は笑って聞き流した。
シンポジウムが終わり、十五分休憩の後に深谷規子が登場した。
会場の人数は始めの半分に減っていたが、隣の男はまだ残っている。
深谷はグレーのテーラードスーツの背筋を伸ばし、髪をひっつめたいつものスタイルで出てきた。あらためて見ると、学者らしい硬派の知性と上品さが入り混じり、それなりの風格を感じさせる。
「重度な精神障害を持ちながら、高い能力と偉才の孤島を示すケースを通常サヴァン症候群と呼んでおりますが、これまで報告された例では、その障害に比して優れているに過ぎない、そういう事例がほとんどでして、大半はその後消失し、あるいは残存したにせよ捨て置かれた状態にあるわけです。そうしたことから最近では能力の孤島という考え方自体を疑問視する方向に進んでいるわけですが、実際に健常者を遥かに凌《しの》ぐ能力を示す例がいくつか出てきています」
深谷は抑揚のない低い声で話しながらオーバーヘッドプロジェクターを操作し、背後のスクリーンに表を映し出した。
差異を無視して、言語やより実用的な技能の習得に重きを置くやり方に深谷は疑問を投げかける。
「才能の孤島に着目し、彼らの生に、より積極的な意味を持たせよ」という論旨は、深谷の持論で、東野にとっては格別目新しいものではなかった。
隣の男が、メモがわりにキーボードを叩く音が、小さく聞こえてくる。
そのとき、壇上に由希が楽器を抱えて現われた。
「おっ」
男は声を上げた。
「しゃれたことやるね。ライブ演奏ときた。もっとも学会ってのも一種のセレモニーだからな」
東野は由希の姿から目をそらした。深谷の意図はわかっていたが、何か痛ましい感じがして、正視できなかった。
「なかなかの美少女じゃないの」
男は、同意を求めるように言った。
「僕、実はあの彼女のマネージャー」
東野は声をひそめ、舞台の端に茫然としたようにたたずんでいる由希を指す。
男は真に受けたらしく、驚いたように東野の顔を見て、カセットテープのスイッチを押した。
深谷は、才能の孤島の実例として浅羽由希を紹介する。由希は深谷の言葉のタイミングとは無関係に、楽器を抱えて舞台の中央に出ていき、椅子に腰掛けた。
舞台に出て、椅子に掛け、バッハのソナタを弾く。この一連の行動は、昨日東野が何度か由希に繰り返させたものだ。それでも由希がこの期に及んで、その通りの行動を起こすかどうか東野は不安だった。
由希は弾き始めた。
ゆったりした冒頭の旋律が流れると、会場は飲まれたように静まりかえった。隣の男の口元から、笑いが消える。獲物を狙うライターの目が、舞台上の由希に張りついた。椅子をきしませて、男は身を乗り出す。口を開き、瞬きもせず由希を見つめている。
「ちょっといい?」
由希が弾き終わり、まだ余韻が消えないうちに、男は東野の肘をつついた。
「おたく、マネージャーと言っていたけど、彼女は何なの?」
「マネージャーっていうのは冗談です。すみません。あの演奏に、何かおかしいところでもありましたか」
「いや、別に」
男は口を閉ざした。そしてそれ以上は何も話しかけてこなかった。そして司会者が次の発表者の経歴を紹介し始めるやいなや、ノートパソコンとテープレコーダーを抱えて、会場から飛び出していった。東野は首をひねりながら、その後ろ姿を見送った。
由希は確かにいい演奏をしたが、それにしてもそのライターの反応には少しばかり奇妙なところがあった。
[#改ページ]
3
「ルー・メイ・ネルソンが乗り移った!? 自閉症少女に奇跡」
ある隔週誌にこんな見出しをみつけたのは、それから二週間あまり経った頃のことだった。
自閉症という言葉に、東野は舌打ちした。はっきりした形での精神遅滞が見えない、障害を持つ人々を一括りにしてしまうのに、自閉症というのは便利な言葉だ。しかし未だに「自閉症」などという言葉を病名のように使うのは、一部のマスコミ関係者だけだ。
それより東野を不愉快がらせたのは、その記事の中にある、由希の演奏が死んだルー・メイ・ネルソンの演奏そのものだ、というくだりだった。
「話はいささかオカルトじみてくるが、つい最近非業の死をとげたネルソンの霊が乗り移ったとしか思えない異常な迫力の演奏だった」とその記事は伝えている。
さらに由希の演奏の録音テープを、ある著名な音楽評論家に聴かせたとある。
「これはルー・メイ・ネルソンそのものである」とその評論家は即座に答え、なぜ伴奏がないのかと首をひねり、彼女の練習中に録音したものか、と尋ねたという。
くだらない、と東野は吐き捨てるようにつぶやき雑誌を放り出した。
評論家やオーディオマニアの耳を東野は信用していない。
音楽を聴いて、だれの、何年の演奏かなどということを当てて悦に入るのは音楽以前の遊びだ。演奏家は、そういう点には無頓着だ。中堅のピアニスト数人にいくつかの演奏を聞かせ、どれが自分が弾いたものかと尋ねたが、だれも当たらなかったという話さえある。しかし東野自身が由希の演奏の中にルー・メイの音を感じていたことも事実だ。だからこそ、それを他人に指摘されたのがよけいに腹立たしかった。
東野は、CDリストをひっぱり出し、ルー・メイ・ネルソンの項を引き、由希が学会で弾いたソナタを彼女が残しているのかどうか調べてみた。
目指す曲はリストになかった。
バッハのチェロソナタ、正確には「ヴィオラ・ダ・ガンバとオブリガートチェンバロのためのソナタ」をルー・メイ・ネルソンは録音していないし、コンサートで演奏したという記録もない。
死の間際に、バッハのチェロ曲を録音しているが、それは「無伴奏チェロ組曲」だ。
ルー・メイ・ネルソンと由希の音楽が似ていると感じたにしても、実際に同じ曲を聴き比べてみないかぎりは、断定することなどできない。
根拠のない思い込みなのだ、と東野は考えようとしていた。自分もあのライターも、そして記事に登場する評論家も、ルー・メイ・ネルソンがその異常な死によって注目を集め、クラシック界だけでなく、芸能、マスコミの話題をさらったちょうどこの時期、チェリストが若い女性であるというそれだけで、そこにルー・メイの影を見ようとする。さらにそれを利用して話題を作ろうとする。とにかくこの相似は、東野にとっては不愉快で否定したいことだった。確かに人気者に似ていると騒がれることによって、由希に華やかな活躍の場が与えられる可能性はある。ただしそれは一過性のものだ。どこまでいっても相似は相似である。後で出てきたほうが一回り小さくなる。
由希はルー・メイ・ネルソンではない。「自閉症の少女に死んだ演奏家の霊が乗り移った」という言い方は、非科学的であると同時に、当事者に対して失礼な言い方だった。
自分の育てた者が、ルー・メイ・ネルソンのフェイクにされたのではたまらない。
東野はその隔週誌を閉じた。
数時間後、外出先から東野が戻ってくると、部屋の留守番電話に深谷からのメッセージが入っていた。
すぐに自宅のほうに電話を欲しいという。深谷の自宅は、泉の里のある富士見高原から小淵沢の市街地に向かい少し下りたところにあるマンションだ。独身の深谷はそこに一人で住んでいる。
夜の十一時を過ぎていたが、深谷はすぐに電話に出た。挨拶もそこそこに、彼女はこの日、由希に会いたいと施設を訪れた男がいたことを話した。
有村音楽事務所の柏木三郎、と男は名乗った。用件は事務所で企画しているコンサートで、由希に弾いてほしいということだった。
由希との面会について、深谷は事情を話して断り、コンサートに関しては、内部で相談して決めたいとして保留にしたと言う。
「この話、あなたはどう思う?」
深谷は尋ねた。
「中沢さんは何と言っています?」
とっさにそう問い返していた。弾く弾かないという音楽的な選択以上に、施設の方針や、由希の精神状態など複雑な問題がからんでいて、迂闊《うかつ》に答えは出せない。
「私はあなたにどう思うかと聞いているのよ」
「事務所の名前をもう一度言ってください」
「有村音楽事務所」と深谷は繰り返す。
聴いたこともない所だ。
しかし演奏家にとっては、演奏の機会を与えられるというのは、それが学芸会に等しいものでもありがたい。ギャラ云々の問題ではない。練習室で弾くのと、ステージで弾くのとでは、気分的に全く違う。本番のプレッシャーは想像以上のもので、並大抵の精神力ではそれに平然と耐えることはできない。場数を踏むというのは、そうした意味で貴重であるが、それが日本の演奏家の多くには不足している。
しかし一方で、由希の特異な気質と才能を考えると、この段階でステージに立たせるのが果たしていいことなのかどうか疑問だ。だいいち伴奏も付けられない奏者を学会ならまだしも、正式な演奏会で弾かせるわけにはいかない。
「悪いとはいいませんが……」
東野は言葉を濁した。
「どうだというの?」
「まだ、少し早いというか……。深谷さんはどう思いますか」
「由希が大勢の人の前で演奏活動ができるなら、それに越したことはないわ」
きっぱりとした深谷の口調に、東野は少し驚いた。
「施設長と理事たちは何と言ってるんですか」
「乗り気よ。イメージアップになるから」
「由希の家族に、了解とらなくちゃならないですよね」
「了解済み。そんなことをあなたが心配しないでいいのよ。ただし彼女の家庭について一切公表しない、という条件付きでね、他に何か問題がある?」
「由希のことを世間に知られて、深谷さん自身は困らないんですか」
「何を困るというの?」
「あの手術の……」
深谷は小さく笑った。
「こちらが後ろ向きになっていたら、この先に由希の人生はないわ。彼女は天才よ、それはあなたも認めるでしょう」
「ええ」
「でも、本当はまだ天才じゃない。社会的にその存在を認知され、能力を活用されて、初めて天才になるのよ」
確かにその通りだ、と東野は思った。自分はそのためにやってきた。
東野は再度、事務所の名前を確認する。
「そこ、一応調べてみたほうがいいですね」
深谷は「お願いするわ」と言い残して、電話を切った。
翌週、東野は多摩市の高台にある山岡将雄の自宅を訪れた。
あらかじめ約束していた時間に東野がチャイムを押すと、セーター姿の山岡自身が出てきた。「おお、待ってたよ」と山岡は、満面に笑みを浮かべて東野を迎えた。
この前、Mフィルの仕事を紹介してもらったきり、お礼の電話一本かけていなかったことを東野は詫びたが、山岡はいっこう気にしている様子もない。
リビングに東野を上げ、ソファに座らせると、妻に酒のつまみを用意するように言った。
「昼間ですよ、先生」と東野は言ったが「たまのことだ、せっかく出て来たんだ、いいじゃないか」と大仰に笑う。
山岡は音楽事務所に顔がきき、音楽界の裏の情報にも通じている。今回のようなことを相談するには、うってつけだった。
東野が話の糸口を探していると、山岡はサイドボードからグレンフィディックを取り出し、封を切った。
「ドイツに行かれていたそうで……」と東野は言った。
「おお、実によかった。ライン川のほとり」
「ライン川?」
「あれだよ、君、川面に赤い光がきらきら映って。なんとも情緒があるじゃないか」
「はあ」
「その、メッヒェンがね、ジャーマンビューティーだよ、君、典型的な。神々の黄昏《たそがれ》といったところだったが、なんとも……」
盆を持って部屋に入ってきた妻のほうをちらりと見て声をひそめ、「でかいんだ、雲つくような大女でな。いや横にすればみんな同じだ」と天井を向いて笑う。
「しかし東野君、日本の銀座なんか、もうだめだよ。しょんべん臭い娘ばっかりになってしまって。整形でもしてるのかな。みんな同じ顔してるんだ、これが。おへちゃがいないってのは、つまらんよ」
「おへちゃ?」
「ブスっていうことだよ。どうもブスっていう言葉は品が悪くていかん。愛敬があって、抱いてみるとおもしろいっていうのが、おへちゃなんだ。わかるかな」
「はあ……」
「しかたないな、いつか君を連れてってやるよ」
「ドイツですか?」
「そうじゃない、いい女のいる店だよ」
「お願いします」
いつか連れていってやる、と言われて、実際に連れていかれたためしがない。案外、彼の女の話もすべては山岡の願望で、実際にはそんな店もそんな女もいないのかもしれない。
ひとしきり女の話に付き合ったところで、東野は相談事を切り出した。
「有村音楽事務所、か」
山岡はうなずいて、パイプの端を噛んだ。もう酒は飲んでいない。山岡の表情は急に厳しくなった。後ろに撫でつけた銀髪とこけた頬にマエストロの威厳が漂う。
「三流どころだ」
切って捨てるように言った。
「やはりね」
「ルー・メイ・ネルソンのフェイク」という記事を見て、際物趣味でやってきたのだ。一流の事務所であるはずはない。
「三流だが、音楽家に対しては良心的だ」
「そうですか?」
「それで君が所属するわけか。悪くない話だ」
「いえ、僕ではありません」
このとき初めて東野は自分が、施設にいる浅羽由希という女性に教えていることを話した。
ほうっ、と山岡は感心したように言った。
「あの、雑誌で騒がれているあれだろう。君が教えていたとは、知らなかった。で、本当にルー・メイ・ネルソンに似てるのか?」
「それは、聴き方しだいだと思いますが、優れた演奏であることは間違いありません」
東野は少し言い淀んだ。それから付け加えた。
「僕より、まぎれもなく上です」
山岡は真に受けていないらしく、小さく眉を動かしただけだ。
「ま、有村のところとは、今後演奏活動をするつもりなら、付き合っていたほうが何かと便利だ。チケットを置かせてもらえるし、面倒なことを頼めるからな」
東野がさらに、由希の抱えているいくつかの音楽上の問題について、話し出そうとしたときだ。電話が鳴った。受話器を取った山岡は、しばらくの間、何か込みいった話をしていたが、終えると東野に向かい白髪頭を下げた。
「すまん。まことにすまん。トラブルだ」と言いながら、上着に袖を通し始めた。山岡がチェロを担当している弦楽四重奏団の第一ヴァイオリン奏者からの電話だった。気まぐれで自己中心的ということで、とかく業界内では評判の悪い才媛だが、山岡はそんな彼女をとりなしながら、どうにか四重奏団をまとめあげていた。
「せっかくだからきみはもう少しゆっくりしていきたまえ」と山岡は言い残し慌ただしく出ていってしまった。しかし山岡の妻と二人で昼酒を飲んでいるのも気が引けて、東野は早々に引き上げた。
その日のうちに東野は、深谷に山岡と話した内容を電話で伝えた。そして翌週、泉の里を訪れたときには、すでに由希と有村音楽事務所との間で契約が結ばれていた。
「由希に契約能力はあるんですか」
東野は深谷に尋ねた。
「禁治産者宣告は受けてないから、法的にはあるわ。一応、私が代理人というか、使者として交渉はするけど」
「中沢さんは何も言いませんでしたか」
東野はこの前と同じ質問をした。
「こうしたことについて、彼は権限を持たないのよ。身分的にはあくまで指導員の一人にすぎないから。たとえ現場にいなくても、施設長がOKを出せば通るわ」
「そうですか」
半ば呆れて東野は言った。
「それでさっそくこの仕事を持ってきたわけ」と深谷は、一通の企画書を見せる。
「ルー・メイ・ネルソン追悼コンサート」と銘打たれたその内容は、複数の日本人チェリストからなるジョイントコンサートの形をとっている。候補者として名前を連ねた演奏家は、大御所から若手まで多彩で、その中には山岡将雄の名前もあった。
主催は大手の音楽事務所で、有村はその実働部隊らしい。
「で、ここに由希も入れたいというわけ」
候補に挙がっているチェリストは、確かにそれなりの実力のあるメンバーだが、コマーシャル等で顔を売っている人気者は入っていない。地味なメンバーの中で、だれか一人くらい話題性のある人物が欲しいというところなのだろう。
「いいですけど、本番はいつ?」
東野は尋ねた。深谷は黙って企画書の最初のページを指差した。「予定日、十二月二十三日」とゴシック体で書いてある。
「二か月を切ってるじゃないですか」
東野は驚いてその企画書を手元に引き寄せた。間違いなく今年の十二月二十三日だ。日程に余裕のない、いかにも思いつきの企画だった。
「この前、弾いた曲でいいじゃない」と深谷は動じない。
「あれは本来、鍵盤楽器を組み合わせたデュオの曲です」
「でも、別におかしくはなかったけど」
「そういうことではないんです」
東野は説明した。
「学会ではなく、今度はコンサートなんですよ。演奏者として舞台に立つんです。多声部からなる曲の一声部だけでは音楽になりません」
「それなら、伴奏のない曲を弾けばいいじゃないの」
こともなげに深谷は言う。
「独奏曲といっても、ピアノ独奏は別として普通は伴奏が入るんですよ」
「あなた、前に言ってなかった? チェロ一本でやる曲があるって」
「バッハやコダーイの無伴奏曲のことですか?」
「なんだか知らないけど……」
「無理ですよ」
東野は苦笑した。無伴奏の曲とは、伴奏をつけられない演奏者のために書かれたものではない。チェロという単旋律楽器の限界を極めようとする意図で作曲されたものだ。当然その演奏には、テクニックも表現力も並外れたものを要求される。いくら由希の上達が早いとはいえ、彼女の手に負えるとは思えない。何より二か月足らずで仕上げるのは無理だ。深谷は不思議そうな顔をした。
「由希の能力を持ってすれば、できないことはないんじゃない?」
東野は、なぜ無理なのか丁寧に説明した。深谷は退屈そうな、納得しかねたような顔で肩をすくめた。
いずれにしても期限は二か月弱しかない。その間にどうやって完成させればいいのか、だれに伴奏を頼めばいいのか、皆目見当がつかない。
伴奏を付けるのが容易な曲がないことはない。ただしソリストの側に、合わせようという意志がなければそれも無理だ。それは由希がいつかは越えなければならない壁で、できないからと言って避けて通っていては由希の才能は開花しないまま朽ちていく。しかし伴奏者についてはだれも思い当たらない。また怪我をさせたりしてはならない。消去法で行くと最後はだれもいなくなる。確かなのは最後に消えるのが高田保子だということだ。
保子に電話をするまでずいぶん迷った。どうしても、と頼めば引き受けてくれるのではないか、という期待と甘えが東野にはあった。
「はい、高田です」
歌うような優しい声が聞こえたとき、少しばかり緊張した。
「東野です。この前はごめん」
「あ、私のほうこそ、ごめんなさいね」
こだわりのないその口調にほっと胸を撫で下ろした。
「実は、頼みたいことがあって」
「何かしら?」
保子の声が、硬くなった。用件を察知したようだった。東野は話し始めた。
「ごめんなさい。それは、だめ」
最後まで言う前に、保子は遮った。
「あなた以外にできる人がいないんだ」
「悪いけど、私もできないわ」
もの柔らかだが、締め出すような響きがあった。
「由希も変わったよ、あれから」
「私は……変われないわ」
語尾が震えている。
「変われないって、どういう意味?」
「とにかくだめ。もうその話はしないで」
それ以上尋ねる暇も、謝る暇も与えず、電話は切れた。
発信音しか聞こえてこない受話器を持ったまま、東野は途方にくれた。
二か月、二か月、とつぶやきながら、こぶしで電話台を叩いていた。まさか俺がピアノを弾いたりして……と考え、その様を想像して苦笑した。初心者のために練習曲の旋律を右手で弾いてやることはあるが、人前で専門外のピアノなど弾けない。
伴奏を付けられなければ、伴奏なしの曲を選べばよいという、自分が一笑に付した深谷の、いかにも素人らしい単純明快で乱暴な提案をあらためて考え直してみる。
ジョイントコンサートで弾くのにふさわしい、短い曲。バッハの無伴奏チェロ組曲の中から比較的簡単そうな一曲を選ぶことはできないだろうか。
しかし簡単そうとは言っても、それは見かけだけだ。バッハの音楽には、トラップがいくつもしかけられている。似たような旋律、似たようなリズムが頻出し、その一つ一つに微妙な変化がつけられている。完璧に弾き切ったとき、そのトラップはすばらしい音楽的効果を発揮するが、一瞬でも気を抜けばつまずき、曲の流れから転落して巨大な迷宮に飲み込まれる。演奏家にとっては、極限の集中力と緊張を要求される恐ろしい音楽だ。
由希なら少なくとも技術的には完璧に弾くだろう。問題はその完全な技術の上にどれだけ豊かな音楽実体を乗せられるか、というところだ。
賭けではあるが、やってみるしかないか、と東野は短く息を吐いて、スコアを取り出す。
ルー・メイ・ネルソンは、この全六曲のうち、一番から五番までをレコーディングしている。彼女の最後の録音として、死の間際に残している。
由希がそれを弾くということは、由希の演奏とルー・メイ・ネルソンの演奏を比較できるということだ。
由希とルー・メイ・ネルソンの演奏が似ていると言われたところで、似ているという根拠ははっきり示されてはいない。所詮は聴き手のあいまいな印象にすぎないのだ。同じ曲で聴き比べてみれば、その差は歴然とする。優劣はともかくとして由希には由希の音がある。同じ曲をあえて弾かせることによって、由希のオリジナリティーを際立たせてやることもできる。そのときルー・メイのコピーとか、霊が乗り移ったといった低次元な批評は姿を消すはずだった。
由希のことを取り上げた雑誌記事は反響を呼んだ。その由希が弾くとなれば、音楽を鑑賞する以前に事の真偽を確かめたいという人間が会場に押しかけてくるだろう。見せ物であることを期待されているからこそ、見せ物以上の演奏を聴かせて驚かせてやりたいという思いもあった。
決意したその日から、東野自身の練習が始まった。バッハの無伴奏チェロ組曲を東野は過去に何度か弾いている。学生時代の試験の課題曲であったこともあったし、仲間内の演奏会で弾いたこともある。しかし新たにマスターするとなれば、再び練習が必要になる。自分で弾くかたわら大家の演奏によるテープを持ち歩き、ヘッドホンステレオで聴いて、自分の解釈に間違いがないか確認する。テープはもちろんルー・メイ・ネルソンのものではない。フルニエだ。録音は古く、流行のスタイルではない。しかしこのフランスのチェリストのすぐれて楷書的で正統的な演奏は、器楽の教師にとっても演奏家にとっても、多くの示唆を与えてくれる。
一週間後、東野は由希の隣で無伴奏チェロ組曲の第三番を数小節ずつ切って弾いた。
難曲中の難曲であれば、ときおりひっかかったり音が外れたりするのはしかたない。しかし指使いと弓の動きに由希は真剣な眼差しを向け、わずかの音色の変化も聴き逃すまいとするように、片手を耳の上に当てていた。そして数小節を東野が弾き終えると即座に同じ部分を弾いてみせる。それだけではない。東野の外れた音やひっかかった部分まで忠実に再現してみせた。
東野は額から冷たい汗が流れてくるのを感じた。身の置き所のないような、なんとも情けなく惨めな気分になって、東野はその部分を訂正する。訂正された音を聞いた由希はほっとしたような顔をする。間違った音は彼女にとって不快であり、それが訂正されることで、不快が快に変わるらしい。
ここに来るまでの間、彼自身が列車の中で聴いていたテープを、由希に聴かせることを思いたったのは、訂正作業を何度か繰り返した後だ。
指使いや弓の操作については、東野が弾いてみせて覚えさせるとして、旋律の歌い方や音作りを研究するなら、大家の演奏を聴くほうがいい。
東野はすぐに隣の操作室に入り、そこのデッキにテープを入れた。
フルニエの第三番チェロ組曲が流れてきたとき、由希はぴくりと体を動かし、スピーカーを凝視した。由希は確かに聴いているようだった。ときおりリズムをとっている。組曲を構成する短い舞曲が二曲終わったところで、東野はテープを止めた。しかし由希はチェロを足に挟んだまま、ぼんやりと両手を垂らしている。
「ほら、弾いて」
東野はささやいた。しかし動かない。東野が冒頭を弾くとようやく弾き始める。どうやら「まず東野が弾く」というパターンが、彼女が新しい課題曲の音程やリズムを確認し、弾き出すきっかけになっているらしい。同時に東野の弾く生の音と、スピーカーから流れる機械音を峻別《しゆんべつ》しているようでもある。
東野が数小節ずつ切って弾いた第一曲目を、由希はその日のうちに完成させてしまった。さすがに表現力はなく、硬く貧しい音しか出ない。それでも一箇所もひっかからず、間違いなく弾き通すところは驚嘆に値する。
ところどころ音が擦《かす》れたり歯切れが悪かったりするのは、まだ曲に馴染んでいないからだ。弓を支える腕の筋力や、弦を押さえるタッチにも問題がある。それを丹念に直してやるのが東野の次の課題となった。
数日後、東野がレッスンに訪れたとき、由希は先に来て練習していた。
それまでは、先に来ていることはあっても指示をされないうちに、チェロを弾くことはなかった。東野は一般の音大受験生を教えているのと錯覚しそうになった。よほど今度の曲が気に入ったのか、あるいは弾くということの楽しさからもう一歩踏み込み何かを会得したのかもしれない。
ボウイングを直そうと、由希の手首を支えて東野はぎょっとした。
左手は、固いスチール弦の上を何度もすべらせたらしく指先が割れ、血が滲み、右手は弓のあたる親指が腫れ上がっている。
「ちょっと待って」
手を掴んで、慌てて楽器から離す。
「治療が先だ。こんな状態で弾いちゃだめだ」
楽器を床に置き医務室に走っていく。ちょうど嘱託医も看護婦もいなかった。勝手に戸棚を開け、中にあった救急箱を下げて戻る。
部屋の前まで来ると、チェロの音が聞こえてきた。痛みを感じない体質なのか、と首を傾げながら、東野は由希に近づき、その手から再び楽器を外す。
「言っただろ。待ってろって」
東野は由希の左手を取って、傷口の状態を確認した。それほどひどくはない。むしろ、この二年のうちに節高なしっかりした指に変わっているのにあらためて気づき、驚くとともに感動した。
傷口に丁寧にガーゼを巻いて絆創膏を貼りつける。由希はおとなしく手を預け、されるままになっている。手当てはしたが、この状態で弾かせるわけにはいかない。回復するまでテープでも聴かせておこうと考えたそのとき、何の指示も待たず、由希は絆創膏を貼りつけた手でいきなり楽器を持ち、弾き始めた。
その音に東野は驚いた。見事に芯のある音だ。軽い嫉妬さえ覚えた。
恐るべき上達ぶりだった。普通の人間が一か月以上かかって把握するものを、由希は数日で自分のものにしてしまうらしい。由希の音楽能力は、加速がついたまま留まるところを知らない。
音程が激しく飛ぶところにくると、由希はもどかし気に左手の絆創膏を噛んでむしり取った。止める間もない。弦を押さえるリズミカルな音がして、指板に血が飛び散る。
「ストップ。だめだ、止めろ」
東野は飛びついた。由希はなお弾こうと抵抗する。東野はその手を押さえたまま離さず、正面に回って膝をついた。
由希は興奮した目を東野に向けた。
「わかってくれよ」
東野は由希の指を握り締めた。少しは痛みを感じたのか、由希は顔をしかめた。
「チェリストにとっていちばん大事なものは何か、知ってるか? リズム感か? 音感か? 違う。音楽を感じる心? 違う」
割れた指先に、彼は唇を押しつけた。冷たい指だった。鉄っぽい味が舌の上に広がり、何か恋に似た、胸を刺すような思いが広がっていく。
由希の瞳から怒りを含んだ興奮が消えていく。不思議そうに東野の顔を覗き込んでいる。
「な、わかるだろ。いちばん大事なのはこれなんだ」
東野は、由希の手を握り締めてさすった。
「これが商売道具だ。これを壊したら才能なんて何の役にも立たない」
由希はうなずいた。確かに彼の言葉に対し、こくりとうなずいたように見えた。
「え……」
東野は由希の瞳を食い入るように見つめた。確かにうなずいたのだ。コミュニケーションする術を身につけたのか、それとも自分に心を開いてくれたのか。
「本当かよ」
自分の見たものを信じかねたまま、東野は由希がむしり取ってしまった指の絆創膏を貼り直した。
深谷に出会ったのは、レッスンを終えた東野が医務室に向かったときだった。
東野が左手に下げている救急箱を指差し、「どうしたの」と深谷は尋ねた。
東野が事情を話すと、深谷は苦笑した。
「指から血が出るまでやらせた? まるで鬼コーチね」
「言っときますが、僕は強制した覚えはありません」
憤然としてそう答えると、深谷はわかっていると言うようにうなずいた。
「大きな進歩なのよ、わかる?」
「なにが?」
「指から血が出たというのはともかくとして、由希は指示をされないのに、自分から行動を起こしたってこと。これがどれだけ彼女のような人々にとって大きな進歩か、わかる?」
東野は黙って深谷の顔を見つめていた。あまりぴんとこない。東野にとっては、由希の音楽的飛躍のほうが遥かに重大なことだ。
「あの子、痛みなんか感じてないのよ。集中してるから。もっともそれが問題なんだけど。いわゆるがんばりとは違う、ってことを覚えておいてね」
「わかってますよ」と東野はうなずいた。
「だから僕をどこかの運動部のコーチと一緒にしないでください。由希はうなずいたんです、僕の言葉に。はっきり返事をするタイミングで返事したんですよ」
深谷は小さく笑うと、声をひそめて言った。
「ちょっと来て」
深谷は東野の手から救急箱を取ると医務室に行き、すぐに戻ってきた。そして東野の先に立って庭を突っ切り、宿泊棟に向かって歩いていく。
季節は晩秋に入っている。小道に沿って植えられたダケカンバはとうに葉を落とし、吹き渡る風は氷のように冷たい。鉄筋の三階建ての宿泊棟は、静まりかえっている。入所者は昼間は生活棟と呼ばれる本館で過ごすことになっており、病気のとき以外は宿泊棟に残っていることはできない。
東野がここに足を踏み入れるのは、初めてだった。東野は養護施設の和室や病院の大部屋のようなものを想像していたのだが、宿泊棟の内部は企業の研修施設のような機能的な洋室になっていた。ただしドアに鍵はかからず、トイレや洗面所は共用だった。
東野たちは階段で三階に上がった。こちらはショートステイの外来者の泊まるフロアだとのことだった。女性外来者用のフロアの端に、由希の名前のかかったドアがある。
「いいんですか?」
東野はぎょっとして足を止めた。
「しっ」と唇に指を当てて、深谷は微笑んだ。
深谷がドアを開けると、甘やかな由希の体臭が漂ってきた。
東野は後ずさった。
「どうしたの?」
深谷が怪訝な顔で振り返る。
ビジネスホテルくらいの広さのシングルルームの窓際に、パイプフレームのベッドが一つある。ベッドには紺と白の縞のカバーがかけられ、その上にギンガムチェックのブルーのパジャマが買ったばかりのように、ぴんと畳まれていた。
「一人で寝起きしているんですか。それもなぜ外来者のフロアに」
恐る恐る足を踏み入れ、東野は尋ねた。
「ここの入所者は四人一部屋で暮らしているんだけど、由希は他の人と同室にはできないの。何をするかわからないから。それでシングルの部屋のある外来者用フロアにいるわけ」
「何をするかわからない、ですか」
東野はシングルベッドを見つめた。
「ツインじゃなおさらだめだし、寮母さんが一緒だったことがあったけど、やはりだめ」
東野は部屋の中をあらためて見回す。ベッドの脇にクロゼットと折畳みのごく小さなテーブルとスツールがある。スツールはテーブルに対し、測ったように平行に配置され、テーブルの上に置かれた歯ブラシや櫛も、これまた少しのずれも許されないように真っすぐ置いてある。なにか整然としすぎ、息苦しい。それと部屋に残っている由希の体臭がそぐわず、よけいに生々しく妙な感じがする。
「何も知らなかった……」
東野はつぶやくように言った。
「二年以上、彼女に関わってきたつもりだったけれど、音楽以外のこと、由希が普段、何を食べて、朝起きるとどんなことをして、昼間は何をしているのか、僕はほとんど知らなかった」
「何か感じたでしょう。この部屋から」と深谷はいくぶん哀しげに言った。
「由希は手がかからないのよ。だれよりも。ここに来たときから自分のことは、自分でできたわ。ただし彼女のやり方で。たとえば私が適当なパジャマを買ってきて着ろと言っても着ない。着るのはギンガムチェックだけ。たとえそれを買ってきても、すぐには着ない。仕方がないから放っぽっておくわけ。しばらくしてそれが彼女の環境に馴染んだ頃、ようやく袖を通すのよ。すべてがそう。彼女なりの秩序があるから」
「なんだか、たまらない感じですよ、この部屋の空気は」
東野は率直な感想を述べた。
「きれいでしょう。整然と片付いてて」
「しかし何か、居心地悪い……」
深谷はうなずく。
「彼女なりの秩序に従って整えられているのよ。前に指導員の一人が鉢植えの花を飾ってやったことがあった。由希は水をやることもなく枯らしてしまったわ。人間らしい心がない、なんて言わないでね。鉢植えの花に限らず、いきなり持ち込まれたものは彼女の世界の外にあるものなの。それは由希には見えないし、もし見えたらさっさと捨てるなり壊すなりして、排除するはず。彼女は自分の世界を守っているの。自分の世界の秩序を維持し、その中で生きているから。だから自分のことは自分でやって他人には手を出させない。ここの給食は、朝はシリアルにミルク、それに果物と卵、昼は簡単なランチボックス、夜はご飯と、肉と野菜。彼女は丸一年かけてそれに慣れた。今はその生活が続く限り、彼女は生きられる。でも病気をしたら大変。違った器に入ったお粥はだめ、温かくしたミルクは飲まない。指導員や寮母さんたちの苦労は並大抵じゃなかったわ。それが最近変わってきたのよ」
深谷は目を上げて、東野を見た。
「一般の人から見れば大したことではないかもしれないけれど、驚くべき変化が起きているわ。指示なしでいろいろなことをするようになったの。物事への対応も驚くほど柔軟になってきてる。それに表情らしいものが見えるようになった」
「表情の変化は、しょっちゅうですよ」
身を乗り出すように、東野は答えた。
「そう。あなたが来てくれるようになってからね」
「先生の目的は、由希にチェロを弾かせることじゃなかったんですか」
照れ隠しのように東野は言った。
「能力っていうのは、包括的なものなのよ。一つの能力の伸びは他の能力を引き上げる。今、由希のすべての活動性が高まっているの。まったく期待もしていなかった効果があったわ」
深谷は目尻に細かな皺を寄せて微笑した。
「由希を家族が引き取ってくれるということは、残念ながらこの先もありえないでしょうけど、この部屋の有様はきっと変わっていくと思うわ。あなたは専門家である私たちにできなかったことをしたのよ」
「僕にとっての当面の課題は、十二月のコンサートですよ」
東野は毅然とした口調で言って、その部屋から逃げるように廊下に出た。
深谷に見送られ、泉の里を出たとき、少しばかり寒気がしていた。高速道路を走りながら、眠気に襲われた。駐車場から自宅であるマンションまでの短い距離を歩く間も、チェロのケースの紐が肩に食い込んできて、足がふらついた。
布団に潜り込み、熱を測ると三十九度近くある。風邪をひいたらしい。
翌朝の十時には、音大受験の浪人生がレッスンにやってくるから、それまでに治しておかなければならない。慌てて買い置きの風邪薬を飲んで再び横になる。薬の効果らしく、墜落するような急激な眠りがやってきた。その直前に、自分が白と紺のストライプのカバーのついたベッドの上に横たわっている、生々しく鮮明な夢を見た。しかしそこに由希はいない。テーブルもスツールも歯ブラシも、何もかもが真っすぐの部屋の中央で、自分の手足が畳まれストライプのカバーにぴっちり合わせてベッドに置かれている。恐ろしい一方で、滑稽で、どこかエロティックな夢だった。
電話の音が聞こえたのは、その夢から解放されて深い眠りに落ち、ほんの少ししたときだ。
放っておこうと思った。どうせ生徒からの「都合が悪くてレッスンに行かれないので、他の日に変更してほしい」という電話だろう。
音は止まない。留守番電話に切り替えるのを忘れていた。
しかたなく起き上がり、受話器を取る。流れてきたのは聞き慣れた野太い声だった。
「どうしてるかね」
山岡将雄だ。
「先日はどうも」
東野は慌てて、ベッドの上に起き上がる。
「いや、今、ネルソンの追悼コンサート出演の依頼書が送られてきたんだが、君の隠し玉が出るじゃないか。浅羽由希って、これ、この前君の言ってたあの子だろう」
「すみません」
理由もなく後ろめたい感じがした。
「とんでもないやつだな。自分より優秀な弟子なんか持って。しかも美人って噂じゃないかね」
「はあ」
「バッハの無伴奏を弾いちまうって? 大英断だな」
「無伴奏といっても、一部分だけです。他に選択の余地がなかったもので。彼女の場合、すばらしい才能を持っているんですが……」
東野は口ごもった。
「才能はあっても、どうだと言うんだね?」
「つまり、なんと言ったらいいのか、決定的な欠落がありまして」
「どういうことだ?」
「他の楽器と合わせられないんですよ。無伴奏を好きで弾かせるというよりは、それしかできなかったのです」
東野は、これまでの経緯を説明した。途中で逃げていった保子のことも、指をつぶされた心理療法士のことも、隠さずに話した。
とにかく一度、連れて来るようにと東野の言葉を遮って、山岡は言った。特殊なケースのようなので、電話で話を聞くよりは、直接会って目の前で弾かせてみたほうが、対処の方法が見つけやすいだろうと言う。
「いいんですか?」
「もちろんだ。第一、今度は無伴奏ですませるにしても、いつまでもそうはいくまい。今後コンクールに出すにしたって、伴奏なしじゃ課題曲も弾けないじゃないか。いや……君の教え方が悪いと言ってるんじゃないから、気にしないようにな。ただ、ちょっと見方を変えてみると、なんだ、というようなところで、案外解決の糸口が見つかるものなのだ」
「すみません。お願いします」
東野は電話口で頭を下げていた。山岡の言葉の端々に、演奏家としての活動の他に、長く後進の指導に当たり、いくつかの合奏団をまとめ、運営してきた者の自信があふれている。彼と関わることにより、由希は多くの可能性を手に入れるかもしれない。いったん失われた人間性の回復と、音楽的飛躍。その両方を由希が手にすることができたとしたら、由希にとっても自分にとっても、この上なく喜ばしいことだった。
翌朝になっても、熱は下がらなかった。ふらつきながら午前中一人、午後から四人のレッスンを終えたときには、鏡の中の顔はほとんど鉛色になっていた。
市販の風邪薬を飲んでみたがいっこうによくなる様子もないので、夕方近くになってから、診療終了まぎわの近所の病院へ行った。
診断結果は急性肺炎だった。風邪をこじらせたのが原因らしい。入院の必要まではないが、最低一か月の自宅療養が必要と医者に言い渡された。
一か月と聞いて驚いている東野に医者は、胸部レントゲン写真を示した。そこには炎症を表わす白い曇りがはっきり認められた。
抗生物質をもらって家に帰った東野は、生徒たちの家に一軒一軒電話をかけ、病気のためレッスンを休む旨を伝えた。そして最後に深谷に電話をして、とりあえずこの週は休むと伝えた。理由を聞かれ「ちょっと風邪をひいて」と答える。
「今週だけでいいの? 無理しないで。具合が悪かったらまた電話ちょうだい」という深谷に、「大丈夫です。ただの風邪ですから」と繰り返す。
そして約束通り、翌週には東野は微熱を押して富士見まででかけた。抗生物質で高熱は治まっていたが、体はひどくだるい。
「いやだ、あなた、大丈夫なの」
玄関で東野を見るなり深谷は声を上げた。
「大丈夫ですよ、もう」
「だって、顔が土気色」
「どうということはないです」と言いかけ、咳き込んだ。
「だめじゃない、無理したら。ここはただでさえ寒いのに。今朝は霜がおりたのよ」
咎《とが》めるように言うと、深谷は東野の背中を押し、有無を言わさず少し離れたところにあるビジターセンターのほうに連れていった。
「それどころじゃないです。レッスンがあるので」
「いいから」
深谷の言う通り、玄関から門に至る広大なスロープを渡る風は、身を切るように冷たい。芝はとうに薄茶色に変わっている。
東野はコートの衿を立てた。深谷は肩にかけていたウールのストールを外すと、無造作に東野の首に巻き付けた。
「いいですよ」
東野は慌てて外す。
「いいから掛けてなさい」
「やめてくださいよ」
ストールに見えたのは男物のマフラーだったが、深谷の体温とほのかなコロンの香りが残っていて、気恥ずかしかった。
深谷はビジターセンターのティールームに案内すると、東野のためにココアを注文した。
「由希のレッスンの時間ですから」
東野は腰を浮かせた。
「いいから」と深谷は留めて、東野の目を見て微笑する。
「やっと、ここまで来たのよ」
「ええ、あと一か月半しかないんだから、こうしてはいられない」
おかまいなく、深谷は続けた。
「私ね、このまま一人の少女の一生を奪うのか、と手術の後はどうしようもない気持ちだったのよ」
東野が黙っていると、「ねえ」と深谷は東野の手首を握り締めた。
「彼女の魂はバロック真珠なの。わかる」
「はあ……」
「普通の人のように、真丸じゃないだけ。真珠質が分厚く巻いて、いびつでも美しく輝いている。中沢さんたちは、彼女のような人を見ると、完璧な球に直そうとするけど、せっかく巻いている真珠の層を削りとって、貧弱で完璧な球を作るのは無意味よ。そう思うでしょう。彼女の知性も感情も、普通から見れば、かなり変わってる。でもそれはそれ。周りの人がそのまま受け入れてやれば、彼女の演奏は障害を持った多くの人々や家族に勇気を与えるはずよ」
「由希の能力は、それに留まりませんよ」
東野は言った。由希はやがて演奏史上に残る名演奏をするだろう。
「そう、私の目的はそれだけじゃないの。多くの人に音楽的な感動を与えてほしい。由希は天才よ。この先、たくさんの演奏活動やレコーディングをしてビッグネームになっていく。人々に音楽を通して喜びを与え、彼女自身はそうして色々な人と関わりあい、さまざまな人生のニュアンスを掴みとっていくのよ。わかるわね、ここの施設でひっそり生きていく必要はないのよ」
「そのつもりで僕も教えています」
ココアが運ばれてきた。
「車で送るから、それを飲んだら帰りなさい」
「そうはいきませんよ」
言いかけて東野は咳き込んだ。鉄さび色のたんが出た。見つめていた深谷の目が厳しくなり、飲みかけたコーヒーのカップを音を立ててソーサーに置いた。
「由希にうつす気?」
はっとして東野は、深谷の顔をみた。
「由希だけじゃないわ。ここには、病原体への抵抗力がない人たちだっているのよ。ウィルスをまき散らす病人にうろうろされたくないの。わかった?」
「僕が心配なわけではなかったんですか」
東野は、咳き込みながら深谷を見上げた。深谷は少し眉を寄せて、困惑したような哀しげな顔をした。
「少しは同情しましたか」
「ええ、ええ、かわいそうな坊やだこと」
深谷は呆れたように言いながら、伝票を片手に立ち上がった。
外に出ると、来るときにはうっすらと太陽の覗いていた空は、分厚い雲に閉ざされ、あたりは黄昏時のように仄暗く変わっていた。
「また長い冬が来るわ」と独り言のように深谷がつぶやく。
東野を駐車場まで送ってきて、車に乗り込むのを見届けながら、深谷は尋ねた。
「あなたが治るまでの間、何か由希にさせておくことはある?」
「勝手に弾かせておいてください。弾き方が乱れたり荒れたりするかもしれないけれど、後で直してやればどうにかなりますよ。由希のことですから」
ことさら快活な調子で東野は答えた。
三週間後、東野は泉の里にでかけた。高原の秋は終わっていた。長坂を過ぎたあたりから、空は灰色になり細かな氷雨が降り始めた。そして小淵沢のインターチェンジを下りたあたりから、氷雨は雪に変わった。
曲がりくねった森林の道は、しんと静まりかえっている。細かな雪が音もなくフロントガラスに落ちてくる中を、東野は後部座席に積んだ楽器に衝撃を与えないように注意深くハンドルを切り返し、登っていく。やがて正面に広々とした芝生のスロープが開けた。
コンサートはあと二十日後に迫っている。東野の車はスピードを落とさないまま泉の里の敷地に滑り込んだ。
由希は、少し厚手のセーターを着て一人でプレイルームにやってきた。
しばらく会わなかったことについて、特に不思議そうな顔をするでもなく、うれしそうに笑うでもなく、機械的な手つきで楽器を取り出し、東野が指示する前に弾き始める。
流れ出てきた音は、音程も音もアマチュアのものではなかった。バッハの組曲第三番は完成している。
しかし冒頭の下降する音階が終わるか終わらないかのうちに、東野は気づいた。
小節の頭のやや引っ張り気味のぬけるような明るい響き、極端なアクセント。低音に混じるしゃがれたような雑音。
まさか、と思った。何かの間違いだと思った。しかし予想できたことでもあった。
由希は上達した。音程もリズムも完成した。先頃死んだばかりの世界的女流チェリストとアマチュアの少女を遠く隔てていた技術的な壁は消滅しかけており、由希の音楽は「それ」に限りなく近づいてしまっている。
バッハに乗せて、女の体温が、むせかえるような汗の匂いが漂ってくる。八分の一の黒人の血と、四分の一のプエルトリコの血が入り混じった特異な美貌。大きな目を白銅貨のように光らせて、黒のビスチェから見事な僧帽筋をみせて弾いていたあのルー・メイ・ネルソンの気配が、その音の中に濃厚に漂っている。
東野は立ちつくしたまま由希から目をそらせ、二重窓の向こうの暗い空を眺めていた。
鉛色の雪が細かく舞っている。今年初めての本格的な雪だった。
ルー・メイが死んだのは二か月半前、昼の温度が四十度を超したという記録的な暑さにみまわれたロサンゼルスだった。溶けかけたアスファルトの路上に身体をめりこませ、独自の奏法で多くのファンを魅了したチェリストは息絶えた。それがなぜ、こんなところに現われたのかわからない。
一瞬雪のカーテンが割れ、駐車場を隔てた向こうに落葉松の梢が幻のように姿を現わした。
プレリュードが終わり、短い沈黙が訪れた。東野が何か言いかけたそのとき、由希は次の曲に入った。
陽気なジーグが始まった。いくらかスイング気味の、酔っ払ったような、何かに魅入られたような、甘いリズム。極端に速い六連符の後、ダブルの和音が始まる。均衡を失った和音は低弦ばかりが響く。
魅力的だが、あってはならない弾き方だった。ルー・メイがこの第三番組曲を録音したのは、死の間際だ。指揮者の夫に逃げられ、コカインで脳髄をむしばまれていた時期だった。薬で精神を高揚させ虹色の夢に取り囲まれて弾いた恐ろしく陽気なハ長調。普通ならところどころ音程が狂い、音のつぶれた演奏などレコーディングされるはずはない。しかしルー・メイだから、それはプレスされ、驚異的な枚数を世界各国で売った。
それはルー・メイ以外弾けるはずのないバッハだからだ。そしてルー・メイ以外弾いてはならないバッハだった。
それをなぜ由希が弾いているのか? わけがわからないまま、東野は由希の左手を凝視していた。そこにもう傷はない。指には無駄な動きは一つもない。その手の形と手の動きは、あきらかに東野が教えたものだ。正確にポジションを移動させ、ルー・メイの不正確な音を正確にコピーしていた。
最初に由希の演奏の中にルー・メイ・ネルソンの音を発見したのは、由希が赤ん坊の喉にティッシュペーパーを詰め込む事件を起こして、二週間ほどレッスンを休んだ後だった。そのときは気のせいだ、と自分を納得させた。しかし今はもうごまかしようもないほどその相似は克明なものになっている。
レッスンを休んでいる間に、何が起きたのだろうか。
第三番組曲のうち、プレリュードとジーグという冒頭の二曲を終えて、由希は弓を下ろした。
「まずは、譜面通りやってみようか」
東野は、自分の楽器を抱え、始めの一小節を弾いた。とたんに息苦しさが襲ってきた。自分の演奏のほうが弟子である由希より劣っているような気がしたのだ。
由希の演奏がなぜルー・メイに酷似してきたのか、東野にもわからない。たとえわからなくても、今、東野がしなければならないことがあった。由希から他人の真似事ではなく、彼女自身の表現を引き出すことだ。
まずはゆっくりとした正確な弾き方を教え、一小節、一小節、ときには一音ずつ、咀嚼し飲み込ませるようにして血肉化させていくしかない。しかしその正確な、スローテンポの自分の音を聞きながら、東野は全身が萎えてくるような気分を振り払えずにいた。
東野に続けて同じ部分を弾いた由希の音は、すでにルー・メイになっていた。そして区切った一小節を過ぎても弾き続けた。
東野は、由希の目の前で手を叩き正確なリズムを刻む。
由希は敢然と無視した。極端なアクセントを付け、リズムを揺らし、苛立ったように弾き続ける。東野は舌打ちし、由希の弓を持つ手を後ろから掴み、むりやり正確なリズムを刻ませた。
由希の体が強張った。そして次の瞬間、東野の腕をすり抜けていた。風を切るような音を立てて、弓が振り下ろされた。
頬から顎にかけて、衝撃があった。
東野は茫然として、由希を見つめる。由希は何事もなかったように、ついと東野から視線をそらし、またすぐに椅子に掛けると、チェロを弾き出した。
ルー・メイの音が再び聞こえてきた。
唇のあたりが痺れている。触れてみると指先に血がついた。不思議と痛みは感じなかった。ただ怒りで、こめかみの血管が膨れ上がるような気がした。
由希への怒りではない。
由希の背後に、異様に大きな真っ赤な唇が、琥珀色の肩が、黒々とした長いまつげの影を映した大きな目が見えたような気がしたのだ。彼の視線から由希は姿を消し、ルー・メイ・ネルソンが、男を抱くように足の間にチェロを挟み、ヘッドにその長い指をからみつかせて、艶然と微笑む姿が浮かんだ。
幻影を振り払うように、視線を出窓の窓枠に移した。そのときそこに無造作に重ねてある数枚のCDが目に入った。かけ寄って手に取り、やはりと思った。その中の一枚は、ルー・メイ・ネルソンの無伴奏チェロ組曲だった。
ここに来てまもなくの頃、見つけたものだ。あのとき初心者にとって参考になる演奏とは思えなかったので、東野は由希を連れて松本まで、別のCDを買いにいったのだ。
東野はCDを片手に指導員室に走った。しかしそこに深谷はいなかった。傍らの女性事務員に尋ねると、深谷はミーティング中だがまもなく戻るという。
「それよりどうしたんですか」
彼女は眉をひそめて東野の顔を凝視した。
「何が?」と尋ねると、彼女は自分のコンパクトを開いて、差し出す。
小さな鏡の中に、頬に紫色の痣《あざ》を作り、切れた唇の端から血を流している東野自身の顔が映った。
「ああ、ちょっと柱にぶつかって」
「柱? 中沢先生の紹介で来た療法士も指を潰されたそうね」
「え……まあ」と東野はうろたえながら、ハンカチで素早く血を拭う。
「ああいう子は、熟達した専門家に任せたほうがいいんだけどね」
忠告するともなくそう言うと、事務員は部屋を出ていった。
入れ替わりに深谷が入ってきた。東野の顔を見て、やはり同じ質問をした。それには答えず、東野は手にしたCDを差し出した。
「ああ、私が買ったものよ、由希がチェロを始めたばかりの頃に。あなたがレッスンを休んでいる間、聴かせておけばイメージトレーニングにでもなるかと思って」
東野は憤慨するともなく息を吐き出した。
「たしかに効果は絶大でしたよ。何もよりによって、この演奏を聴かせなくったって」
「しかたないじゃないの。私、クラシックのことなんかよくわからないし。自分で買ってきたものだから、とりあえず曲名だけはわかるけど」
「由希がこの演奏家の完全なコピーになっていたんですよ。信じられないかもしれないけれど。普通ならいくら真似しようとしても無理なのですが。技術的にはもちろん、その人固有の感覚があるから、意識的に似せようとしたところで瓜二つにはならない。しかし由希の場合、似ているなんて水準を超えて、そのものになってしまった」
「まあ」と深谷は歓声を上げた。
「すてきなことじゃないの。下手な人に似たら大変だけど」
「あなたが言う天才っていうのは、その程度のことですか」
「有名な演奏家のレベルに達しているってことは、天才じゃなくて? それもこんなに早く。石の上にも三年っていうけど、彼女はチェロを手にして、たったの二年と三か月よ」
東野は首を振った。
「ただの自動演奏機械ですよ。独創性が無い限り、芸術とはいいません。表現というのは形式的なものではないんです。その根にあるのは人格なんです。由希なら由希の総合的な意味での人格」
「何だって最初は模倣から始まるわ。小さい子をご覧なさい」
「あれが、単なる模倣ですか?」
深谷は、ぎしりと音をさせて背もたれに身体をあずけた。目を閉じて何かを考えているようだったが、しばらくして口を開いた。
「失望させたら悪いけど、自分の表現をしないで、他人の情緒を他人の方法でそのまま再現するとしたら、それが彼女の特性なのよ。認めてあげて」
「認められるはずないでしょう」
「彼女は、自分自身を、表現するということはできないの」
さりげない口調だった。
「どういうことですか?」
「表現するものなんてないから」
「表現するものがないって、それじゃ由希はなんなんですか? 由希の人格はどこにあるんですか」
「もう一度言うけど、それが彼女の限界。オリジナリティーを期待するのは間違いよ」
「なぜ?」
「それが、由希の能力の特性だからよ。普通の人間なら訓練なくしては、あんな風に一度聞いただけの音を正確に覚えるなんてことはできないでしょう。私達は、何かを記憶するとき、それぞれのことを関連づけたり、秩序立てたりして覚えるわ。ところが、由希にはそれができないの。代わりに、記憶のシステムに特殊な代替経路ができている。それによって、膨大な情報を自動的に記憶するのよ。それで彼女は他人の演奏の精密な再現をする」
「すると、いままで、彼女が弾いたのは……」
東野は、茫然としてつぶやいた。
「どこかのだれかのコピーよ。あなたのコピーだったかもしれないし、あなたが聴かせたCDのコピーかもしれない。ただ技術がついていかなくて完璧な真似ができないから、違った風に聞こえていたというだけで」
思いあたる節はある。由希の演奏がある程度上達してきたとき、たしかに東野の演奏とアクセントや歌わせ方がそっくりになった。しかし由希が聴いた演奏はルー・メイだけではない。
「なぜ、ルー・メイ・ネルソンになったんですか。今後、別の人の演奏を聴かせれば、つぎつぎに他の演奏家のコピーをしていくということですか」
深谷の顔が緊張した。それも一瞬のことですぐに笑顔に戻った。
「わからないわ。何かのタイミングかもしれないけれど。ちょうど刷り込みのような」
「由希を鳥と一緒にしないでくれませんか」
苛立って東野は言った。鳥の雛が最初に目を開けたとき、目に入ってきたものを親と定めて追うという刷り込みの話は、心理学の専門ではない東野でも知っている。
「なぜ、そのことに失望するの?」
深谷は、不思議そうに尋ねた。
「だれだって真似をしているでしょう。初心者は先生の真似をするし、二流のプロは一流どころの、そして一流の人々は世界の巨匠たちの。由希はそれを完璧にできるんじゃないの」
「違うんですよ」
東野は、かぶりを振った。深谷のような人間に、どう説明したらいいのかわからない。
「ルー・メイなんか巨匠じゃありません。一流でもありません。いや、そんな問題じゃない。演奏家は模倣をします、確かに。でもなんと言ったらいいのか、つまり真似といっても、それは神の真似をするんですよ。神の真似をするサルです。決して芸術家の真似をするサルじゃありません。由希は、神を持っていないんです。神って言葉は、信仰を持ってない僕が言うのは、おかしいですね。理想と言い換えてもいい……。僕でさえ持っています。つまりそれぞれの人格を持った人々が、それぞれの理想に向かって弾いているんで、その到達する手段として、先生や他の演奏家の真似をする段階があるんです。けれど由希は違う」
「だからそれが限界だと言ったでしょう」
低い声で言いながら、深谷は引き出しから傷薬を出して東野に渡した。東野は、それを押し返した。
「僕はそうは思いません。引き出して見せますよ、由希から。必ず彼女自身のものを」
「無理はしないで」
深谷は短く言った。いつになく鋭い声だ。
「仮にそれができたとしたら由希の心に、大きな負担がかかるわ」
「できる、ということですね。方法はあるんですね」
「ばかなことを考えないで」
深谷はやにわに立ち上がり、叫んだ。東野は無言で深谷を見つめていた。短い沈黙のあと、深谷は何かを思い出したように慌てて出ていった。
東野が部屋を出ると、ちょうど中沢がやってくるところだった。
東野の顔の怪我を見て、驚いたように足を止める。
「どうしたんだね」
「ちょっとね」と東野は苦笑した。
「奇跡が起きつつあるそうじゃないか」
中沢は東野の肩をぽんと叩いた。
「深谷さんは、この調子なら社会復帰も夢ではない、と言っている。音楽の先生にここまでやられては、我々は何のためにいるんだか」
「はあ」
「頭が下がるよ。今朝ほど、彼女が何か両手に抱えているのを見かけた。驚いたよ。山鳩だ。病気と寒さで弱っていたのを拾ってきたんだ。胸に抱いて暖めようとしていた」
今の由希なら不思議はないと東野は思った。
「僕もすぐには、信じられなかった。最近の由希の変化はすばらしいものだが、あんな場面を目のあたりにすると、僕は指導員としていったい今まで何をやっていたのか、と恥ずかしい。由希に人間らしい心を取り戻させたのは君だった」
「そうですか……」
東野は、力無く笑った。
人間らしい情感。東野にとって、それは決して最終目的ではない。自分が由希に求めているものが、中沢とも、深谷とも、違っていることを東野はこのときあらためて意識した。
早足でプレイルームに戻ったとき、由希はチェロを抱えて座っていた。しかし弾いてはいない。東野のほうを黙って見ていた。
「弾いていいよ。好きなように」
東野は言った。しかし由希は弓を垂らしたまま、弾かなかった。視線を東野の血の滲んだ唇に向けている。
胸が詰まった。
由希の顔に表情はない。無表情の裏に何かしら自分のしたことを詫びるような感情が潜んでいるのかもしれないという気がした。甘い感傷だとわかっていながら、そんな感覚を拭えなかった。
東野は自分の楽器を抱え、弾き出す。ルー・メイ・ネルソンの音で、由希が繰り返す。
正確に記憶し、正確に再現することが由希の特質であり、彼女の限界。彼女は自分が教えた曲を正確に記憶し、ルー・メイ・ネルソンの弾き方で正確に再現した。
とすれば、自分は何のために由希に音楽を教えたのだろうか。自分はルー・メイという鋳型から音楽を取り出す一人の熟練工を作ったに過ぎないのか?
しかしそれで何が悪いのか、という気もした。この施設の中で、人にも花にも動物にも愛情を注ぐこともなく、だれにも愛されず、日常の雑事を儀式のように厳格に執り行ない生きていくだけだった由希が、変化していく。そして人気者の真似を完璧に行なうことによって、世間から注目される。たとえルー・メイのフェイクだとしても、彼女の演奏に感動する人々がいるとしたら、それでよしとしなければならないのではなかろうか……。
ルー・メイ・ネルソンの追悼コンサートは、暮れも押し迫った十二月の二十三日、東京の赤坂にあるホールで行なわれた。朝方から降りだしたみぞれが、午後には雪に変わっていた。この年、東京で降った初めての雪だ。
午後遅く会場に着いた由希は、カウチンセーターにジーンズという格好のまま、すぐにリハーサル室に入った。リハーサルは、開演時刻が迫っていたため一部分しか行なわれず、楽屋に引き上げた。そちらで深谷が衣装と化粧道具を用意して待っていた。
「心理学の先生が、きょうは付き人ですか」
軽口を叩きながら東野は、深谷の手にしている衣装に目をやる。繻子《しゆす》のような光沢のある白い生地だ。
「ウェディングドレスみたいなものですか」
「まあね」と深谷が忙しそうに、由希の髪にムースをつけてとかしつける。
「深谷先生の見立てですか」
「いえ、有村音楽事務所の柏木さんが、用意してくださったのよ。それより着替えさせるから、出ていってちょうだい」
深谷は東野の背中を押して楽屋から追い出し、ドアを閉めた。
東野は、客席に行く。ホールはほぼ満席である。吹雪模様の天気が、聴衆の出足に影響するのではないかと心配していたから、少し意外だ。ルー・メイ・ネルソンの人気の根強さをあらためて知らされる。
客層は、普通のコンサートとは明らかに違う。若い男が圧倒的に多い。カメラを片手にやってきて、入り口で演奏中は撮影しないようにと注意を受けている者もいる。
まもなく開演のベルが鳴った。
最初に弾いたのは、国内で最近注目されている若手の女性チェリストだ。小柄で地味な容貌の彼女は、明らかにルー・メイを意識した濃い化粧をしている。曲目は白鳥。ルー・メイが洋酒メーカーのCMで弾いた曲で、一般の人々はルー・メイといえば、真っ赤な唇を半ば開いて、仰《の》け反《ぞ》るようにしてこの曲を弾く官能的な姿を思い浮かべるに違いない。しかし今、若いチェリストの弾く白鳥に耳を傾けている聴衆はあまりいない。話し声が会場のあちらこちらから聞こえる。缶ジュースを開ける音、プログラムをめくる音……。客層が違うのだからしかたないとしても、クラシック音楽の演奏会では当然のこととされる会場の静寂はない。
まばらな拍手とともにその女性チェリストは舞台の袖に消え、別の中堅チェリストが登場する。客席のざわめきは去らない。
演奏中も、会場に出入りする者の扉のあけたてが止まない。会場係の女性の制止する声まで聞こえてくる。
ようやく会場が静かになったのは、第一部の最後にルー・メイ・ネルソン自身の未公開ビデオが放映されたときだった。聴衆の多くはこれを目当てに来ていたのだ。
再び日本人奏者の生演奏が始まったとき、会場にはざわめきが戻ってきた。ジュースを飲んでいる聴衆の前で弾くのは、弾き手にしてみればさぞかし屈辱的なことだろう、と東野は同情していた。
由希の番が近づいてきた。舞台の袖にいるべきか、このまま客席にいるべきか、東野は迷っていた。こうした状況で由希が弾き出すのか、不安だった。しかし学会のときには、だれも指示しないにもかかわらず、由希は壇上で弾いた。今回も大丈夫だろう、と自分に言い聞かせ、それでも何かあったときには、すぐに袖に行かれるようにと舞台に通じるドアのすぐ脇の席に移った。
会場の照明が一段弱められる。まるで映画館のような暗さだ。続いて舞台の照明が消えた。するすると舞台にカーテンのようなものが下りてきた。
次の瞬間、そこにルー・メイ・ネルソンの全身像が浮かび上がった。会場からため息が漏れる。舞台の照明がわずかに明るむ。ルー・メイのスライド写真はいくぶん淡くなり、そこにチェロを抱えて歩いてくる人影が映り込む。由希だ。
そのコスチュームに東野は度胆をぬかれた。真っ白なビスチェに、ハーレムパンツ、黒に替えれば、ルー・メイのトレードマークのステージ衣装だ。
会場のざわめきが、さきほどとはまったく異質なものに変わった。
異様な演出にもかかわらず、由希の様子には普段と違ったところは少しも見えない。すたすたと中央に進み出て、すとんと椅子に腰掛ける。
上がるとか、気負うということを由希は知らない。ホールを埋めつくした者の視線に由希は頓着しない。
東野がその姿をじっくり見る暇はなかった。舞台はすぐに暗転した。ルー・メイの巨大な白黒写真がこちらを見つめ、手前に、由希のシルエットが浮かび上がる。
バッハの第三番組曲のブーレが始まった。複数の奏者が弾くため、由希の持ち時間は十分しかなく、第三番の中から東野が選んだのはその一曲だった。
しかしその短い時間に由希は、会場全体を興奮の中に投げ込んだ。
由希はルー・メイ・ネルソンの影だった。特殊な演出の下では、その演奏は、ルー・メイ・ネルソンを一体化した。
やがてライトが少しずつ明るさを増して、由希の姿を浮かび上がらせる。
ぴんと背筋を伸ばした静かな演奏姿勢は、上半身を激しくたわませ、髪を猩々《しようじよう》のように振り乱して弾くネルソンとは正反対である。しかし出てくる音は瓜二つだ。
客席は水を打ったように静まり返った。
東野は長い吐息をついた。ここへ由希を連れてくる前から、こうなることはわかっていた。観客が見ているのは、由希ではない。ルー・メイ・ネルソンだ。由希は口寄せのイタコに過ぎない。しかも今、楽器の音色までそっくりに聞こえる。さきほどリハーサルで弾かせたときは、こんな音色ではなかった。
薄暗い照明に目を凝らし、東野は気づいた。チェロの色が、枯れたような金色を帯びている。肩の線がいくぶんなだらかだ。それまで由希が弾いていた楽器とは違う。
だれかがすりかえたらしい。東野は小さく舌打ちをした。形や音色からして、かなりの古い楽器、おそらく名器といわれるものだろう。どこからか借りてきたのだろうが、いい楽器を持たせれば、その場でいい音を出すなどというのは、素人考えだ。本番直前にサイズも感触も違う楽器に変えられたら、とても弾けるものではない。自分の楽器とツボが違うから音程が狂うし、それ以前に音が出せない。ずいぶん無謀なことをしたものだ、と呆れる一方で、由希がそれを平然と弾いているのに驚かされる。そして何よりも変化を嫌うはずの由希が、直前に与えられた楽器を拒否しないのは意外だった。自分の楽器より良い音がすると感じれば由希は拒否しないのだろうか。少なくとも音楽については、そうした柔軟さを持ち合わせているらしい。
由希が最後の和音を弾き終えた瞬間、まだ最低音の響きが消え終わらぬ前に、客席は総立ちになった。アンコールの大合唱が始まる。しかし由希は素っ気なく立ち上がり、舞台から消えた。そしていくらアンコールが聞こえても、再び舞台に戻って来なかった。
次に登場した山岡将雄こそ災難だった。観客の失望の声が低いうなりとなってホールを包んでいる。ざわめきの中で弾き出したものの、山岡の演奏で客席を静めることはできなかった。だれが弾いても、たとえミッシャ・マイスキーが弾いたとしても、結果は同じことだっただろう。ルー・メイ自身が霊界から戻ってくれば話は別だが。挙げ句の果てに、演奏中だというのにぞろぞろと席を立つものが出てきた。
東野もそれに紛れて席を立ち、楽屋に行った。ちょうど深谷が、裏口から由希を連れ出すところだった。降り積った湿っぽい雪が闇をぼんやりと照らし出している。深谷たちは、インタビューにはいっさい応じるなと音楽事務所から言い渡されていた。事務所としては、彼女をしばらく謎のベールに包んでおくほうが得策だと考えたのだろう。そして深谷にしても、由希が好奇心の対象として扱われることは避けたいと考えているらしい。
ビスチェの上にロングコートを着た由希と、その由希を守るようにぴたりと寄り添った深谷の後に、荷物を抱えた東野が続く。
地下通路を抜け、深谷はホールの隣にあるホテルに入った。ここのスイートルームを今回のコンサートを主催した音楽事務所が押さえてある。今夜、深谷と由希はそこに泊まることになっているのだ。
部屋に入ると、深谷はすばやく由希をビスチェからトレーナーに着替えさせた。
由希は一人で洗面所に行くと歯磨きを済ませ、ベッドにもぐりこむ。二、三分もしないうちに軽い寝息が聞こえてきた。午前中、泉の里を出てから十時間あまりが経過していた。
「よく保《も》ちましたね」
由希の目を閉じた横顔を見下ろして、東野は小さな声で言った。
「ええ」
深谷は手を伸ばして由希のベッドサイドランプを消した。
「施設から一歩出たら、水一杯も飲むことができなかった子が、こんなに色々な場面に適応できるようになっているのよ。まだ信じられない」
気を張り詰めていたせいか、深谷の目の下には赤紫色の隈ができて唇は乾いていた。しかし目の色は浮き立つように明るい。
「おなかすいたでしょう、ルームサービスを頼みましょう」
深谷は、東野にメニューを渡す。
「由希は?」
「眠っているから」と深谷はちらりとベッドのほうを見た。
「さっき楽屋で、泉の里から持ってきたランチボックスを食べさせたの。それに明日の朝、カフェテリアに連れて行きたいのよ。そこで他のお客さんに混じって食べてくれるかどうか」
「だいじょうぶですよ、たぶん」
東野は笑いながら、深谷にメニューを返した。
「サンドイッチとビール」
「それだけ?」
「ええ」
何か胸にひっかかっていることがあって、深谷のように手放しで喜べない。
夜食が運ばれてきて、深谷はワイン風味の清涼飲料水をグラスに注いだ。
「こんな夜にはシャンパンといきたいけど、何があるかわからないから私はこれ。乾杯」
グラスのぶつかる澄んだ音に、眠っていた由希がぴくりと身じろぎし、またすぐにゆっくりした寝息を立て始める。
「これからどうするんですか」
東野は尋ねた。
「色々なところで弾かせてみるわ。もちろん疲れない程度に。長い間あの施設の中しか知らなかった彼女に、世の中の色々なものを見せたいの。演奏活動を通じてたくさんの人に出会い、彼女の興味の幅も広がっていくに違いないわ。言葉で表現することはできなくても、そうすることで多くの人と心を通じ合わせることができるかもしれない」
「そうですね……」
「奇跡というのは起こるものだと、このごろつくづく思うのよ」
上機嫌の深谷を見るほどに、なぜか気が重くなってくる。
チェロを弾かせるということについて、自分が由希に要求したことと深谷の希望したこととはまったく異なるのだと東野は痛感していた。確かに深谷の言う通りで、それが由希の幸福につながるとすればそれでいい。しかし一人の音楽家として、あのコンサートの結果を喜ぶことはできない。観客をどれほど熱狂させようと、あれは由希の音楽ではない。観客はそこにいた幻のルー・メイ・ネルソンに拍手を送ったにすぎない。由希は何一つ、彼女自身の音楽を作り出さなかった。それは由希にとっても不幸なことであるような気がする。
「ところで楽器が変わっていたけど、あれはどうしたんですか」
ふと思い出して、東野は尋ねた。
「ああ、あれね。事務所の柏木さんが、持ってきたのよ。せっかくの演奏会だから良い楽器を使ったほうがいいって。なんとやらという名器だそうよ」
「どこから持ってきたんだろう」
「さあ。借りものだそうで、終わったとたん、すぐにどっかに持っていっちゃったわ」
東野は深谷の無頓着さにあきれた。
「いくら名器だって、深谷先生、普通なら本番直前に楽器を変えられたら弾けませんよ。その柏木って男も男だ。何考えているのかな」
「由希は、普通ではないわ。天才なのよ」
深谷は微笑んだ。
サンドイッチを食べ終わると東野は立ち上がった。
「これから甲府に帰るの?」
深谷が尋ねた。
「いや、泊まります」
「どこに?」
「ビジネスホテル」
「ここに泊まっていけばいいわ」
「まさか」と東野は肩をすくめた。
「そっち、ソファがベッドになるのよ」
深谷は、二間続きになった部屋の向こう側を顎で指した。
「女性二人と一緒ですか」
「いいじゃないの、いまさら」
「遠慮しておきます」
きっぱり言って、東野は自分の荷物を持って廊下に出た。
「本当にありがとう。おやすみなさい」
深谷が笑顔で手を振った。
深谷たちの泊まっているホテルをあとにした東野は、あらかじめ予約しておいたJR駅裏の古いビジネスホテルにチェックインした。
ラブホテルや風俗店に取り囲まれて建っているホテルの部屋は、壁はしみだらけでマットレスは湿っている。
ベッドの上で夕刊を広げると、窓の外の風俗店のネオンサインの青い光が紙面を照らしては消える。その点滅が神経を苛つかせ、焦燥感をつのらせた。
乱暴にカーテンを引き、目を閉じると由希の白いビスチェの上の鎖骨の浮き出た薄い肩があざやかによみがえった。甘く、切ない渇きに似た思いが込み上げてくる。
ルー・メイに似ていて、何が悪いのだろうと、ふと思った。あのときルー・メイの音を借りた由希の体は、生身の女の艶を帯びた。
弓使いを直してやるとき、顎のあたりをくすぐった由希の髪の感触が皮膚の上に生々しくよみがえる。楽器を抱えさせるために膝頭を開かせたときに見えた白い太腿が、彼の顔を力任せに弓で殴ったときのきらきら光る目が脳裏に現われては消えていく。
東野は目を閉じてかぶりを振り、やにわに受話器を取り上げた。
高田保子の電話番号を回す。
二、三回、呼び出し音があって、軽やかな声が聞こえてきた。
「東野です」
「あら……」
困惑したような声が聞こえた。時計を見ると十時を過ぎている。
「東京に出てきているんだけど、会える?」
さりげなく言ったつもりが、我ながら妙に切羽詰まった調子になっていた。
保子は沈黙した。
「会いたい」
「どうしたの」
「会ってくれ。頼む、このままだと……」
「甘えないで」
静かだが、鋭い調子で保子は言った。
「何を期待しているの、私に」
「………」
「私、あなたが思っているような女じゃないわ」
「わかってるつもりだよ」
「何をわかってるの? 生徒も友人も、いいえ、家族さえ、私のことはわかってないわ。あの子のことで何かあったのね、そうでしょう」
どう答えたらいいかわからず、東野は沈黙した。
「あの子が私に何をしたか、教えてあげましょうか」
低く、凄味のある口調だった。東野はうろたえ口ごもりながら言った。
「いいよ……無理に言わないで」
「見えたのよ。思い出したんじゃなくて、本当に見えた。あのときラロのコンチェルトを弾いてたとき。伴奏譜の向こうに、はっきりと。ピアノを弾いている女の子が。苦しそうに体を折り曲げて鍵盤を叩いて、とうとう耐えられず椅子から転げ落ちて、舞台を這って私のほうに来ようとしたわ……あの子、あの由希って子はね、人の心に何か変なことを仕掛けてくるのよ」
「いいんだ、それ以上言わないで」
かまわず保子は続けた。
「音大の付属中学に行っていた頃のことだったわ。クラスに嫌われ者の女の子がいたの。神経質でヒステリックで、お菓子の食べ過ぎで太ってて、歯がぼろぼろだった。喘息《ぜんそく》で、しじゅう学校を休んでいたけど、それでもピアノだけは上手だった。みんなは彼女を無視していたけど、私だけはいつも彼女をかばって、話し相手になっていたの。なぜだと思う。彼女を友達だなんて思ってやしなかった。『そんな子にも優しい私』でいたかったのよ。白豚みたいで、髪が臭くって、そんな最低の子にも付き合ってあげる私でいたかったの。そうしなくちゃいけないって、思っていた。だから彼女一人がピアノのコンクールに出してもらえると決まったとき……喜べるはずがないじゃないの。『見にきてね』って彼女言ったわ。そのとき、えっと思うくらい、彼女はきれいになったの。自信を持つと人はきれいになるものよ。そのきれいな笑顔を見ていたら、急にむかむかしてきた。当日、楽屋に行ったの。彼女、緊張してた。お母さんさえ、楽屋に入れなかったのに、私には会いたがった。楽屋の鏡の前で、私は言ったのよ。『課題曲のモーツァルトは、あなたみたいに暗くて陰険な人には弾けない』って。『性格変えなきゃ、いくらピアノだけ練習したって無駄だ』って。彼女は怒ったわ。私はさっさと楽屋を出た。もう弾けないだろう、と思ったらちゃんと弾いた。けれど曲の途中で、あれは八分休符の後、いつまでたっても弾き出さないと思ったら、いきなり胸を上下させて……。顔が紫色になった。喘息の発作を起こしたのよ。そして担ぎ込まれた先の病院でそれっきり……」
「しかたないよ、子供の頃のことじゃないか……そうだろ。人間いつでも聖人君子じゃいられないんだ」
何を言ったらいいかわからなかったが、とにかく慰めなければと思った。
「君はそのことを片時も忘れず、長い間、罪の意識を引きずって生きてきたんだ。由希を相手にしているうちにそのことを生々しく思い出してしまったんだろう」
「彼女のことなんか考えたこともないわ」
冷ややかな口調で保子は否定した。
「そうでしょう。だれが思い出したいの? 彼女の名前さえ覚えてないわ。罪の意識なんて上等なものを持てるほど、私は立派な人間じゃないのよ。醜い女の子にまつわる不愉快な記憶に過ぎないのよ。あまりに不愉快だから、記憶のいちばん深いところに埋めてしまっただけ。それをあの子は、掘り出して見せた。私は私よ。変わりようがないじゃないの。わかったでしょう。もう電話してこないで。二度と会いたくないわ。あなたにも、あの子にも」
「ごめん……」
東野は、すでに切れている電話の受話器に向かって言った。
心の奥深くに埋めたものの封印を解き、忌まわしい記憶を意識上に浮上させる。これがいつか深谷が言った得体の知れない力なのかもしれない。これも暴力であることには間違いない。人の精神に加える暴力……。
コンサートの反響は大きかった。新聞の文化面はもとより社会面にまで、浅羽由希の記事が載った。テレビのニュース番組で、由希の弾く場面が放送されたことが、それに拍車をかけた。
取り上げ方はルー・メイ・ネルソンの再来として讃えるものもあったが、多くは「障害にもめげず、立派に楽器を弾けるようになった少女」という美談の類《たぐい》だった。
雪をついて、泉の里にも取材の人々がやってきた。施設側は、由希の健康状態に配慮し、彼女を直接会わせず、代わりに深谷が応対に出た。教師としての立場から、東野が呼び出されることもある。
泉の里の施設見学を一通りさせられたプレス関係者は、応接室に通された。
記者やライターに向かい、深谷は熱意をこめて語りかける。
「人間はだれでも、すばらしい能力を持っているのだということ、訓練次第によってそれを引き出せるということを知ってほしいと思いますね。障害は障害ではなく、形を変えた能力であり、それは個性とか個人差という範疇《はんちゆう》で捉えられるものなのです。ノーマライゼーションのノーマルの意味自体を私は、もう一度考え直してみたいのです」
東野はいくぶん苦々しい思いでその言葉を聞いていた。
「浅羽由希さんを育て上げた先生としては、今回の成功をどのようにお感じになっていますか」
ライターの一人が東野に尋ねた。
「別に僕が育て上げたというわけではありません」
東野はテーブルの上で回っている録音テープに視線を落とした。こうしたインタビューに答える言葉を、東野は持っていない。しかし深谷が由希のレッスン日に合わせて取材日を指定し、由希に教えにやってきた東野を引っ張り出すのだ。
東野は口ごもりながら続けた。
「彼女は、天才かもしれませんが、今のところ演奏家とはいえません」
怪訝そうな表情を浮かべた相手の顔から視線をそらせ、東野は続けた。
「浅羽さんは今のところ、再生機に過ぎず、彼女自身の表現がまだ生まれていないので」
「つまり先生からみれば、まだまだ不満なところが多い。由希ちゃんは、もっともっと上手になるだろう、ということですね」
由希ちゃん、と馴れ馴れしい呼び方をしながら、東野の言葉を封じるようにライターは言った。由希の可能性は無限だ、とすかさず深谷が同意する。
ちょうどこの年最後のレッスン日だった。朝から降り続いていた雪が午後に入ってから吹雪になった。白く巻いている雪に追われるようにプレスの人々が帰っていき、東野も帰り支度を始める。そのとき深谷が呼び止めた。
「レコーディングの話があるのよ」
昔と違い、今ではCDのプレスなど素人でもできる時代だ。だからこそ世間の熱狂が醒めないうちに、由希を売り出し一儲けしようと群がる者がいる。業界人のさもしさに東野は腹が立った。
「早すぎます」
「なぜ?」
「いつからあなたは、ステージママになったんですか。コンサートなら一回きりでその音は消えますが、レコーディングっていうのは残るんですよ」
「だから録音の必要があるんじゃないの。由希ほどでないにしても、彼女のような能力を持った障害者はいるのよ。私は、彼らのためにも、正確な記録を残さなければならないし、この先この分野の研究を進める上で意味があるのはもちろんだけど、それだけじゃないわ。多くの障害を持った人々や家族を力づけて希望を持たせることができるのよ」
「そんなものはいらない」
東野は強く首を横に振った。
「観察記録としての録音なんて、とんでもないです」
「そんなこと言ってないでしょう」
「演奏として聴衆が感動できるものを、少なくとも鑑賞するに値する録音を残さなければならない。僕は記録としてしか通用しないようなものを浅羽由希の演奏として残したくはないんですよ」
「十分、人々を感動させたじゃないの。これをごらんなさいよ」と深谷は、積み重なった新聞を指差した。由希に関する記事の載ったものだった。
「あなただって、あの拍手を聞いたでしょう。アンコールが鳴り止まなかったじゃないの」
東野はあらためて深谷の顔を見た。
外の一面の雪を映して顔立ちの陰影は消え、のっぺりした皮膚の上に義務感と真心と真摯さと、俗物的な善意が一緒くたになって乗っている。この二年余りのうちに深谷の中で何かが変わった。それが由希自身の変化と微妙に方向性を違えているような気がして、東野は不安になった。
「深谷先生は、天才を作れと言われましたよね」
東野は言った。
「ま、あれはたとえよ、ひとつの」
「超能力に似たすごい力を持つ天才音楽家は確かにいます。昔、盲目のオルガニストで、ヴァルヒャなんてのがいましたけどね。彼と由希とは、まったく違います。彼には、彼にしかできない表現があった。しかし由希はレプリカです。どんなに巧くても、ルー・メイ・ネルソンのレプリカントなんですよ。商業的に作られる贋作《がんさく》と変わりありません。レプリカというのはいくら似せて作ったところで、その内包する力はオリジナルに劣るんです」
深谷は小さく眉を上げて、首を傾げた。
なぜ? あなたはなぜそんなに意固地になるの。こだわりをすてなければいけないわ。そう言っているような、不思議そうないくぶん同情をこめた眼差しで、東野を見た。
「それでは、よいお年を」
それ以上説明する気にはなれず、東野は立ち上がった。
雪はさらに激しくなって、玄関前にはすでに吹き溜りができていた。駐車場に向かい上半身を倒すようにして歩いていると、背後から肩を叩いた者がいる。
振り返ると中沢が立っていた。
「大成功だったね」
吐き出す言葉が、まんがの吹き出しのように白く凍った。白髪の長い眉毛に雪のつぶが付いて光っている。
「はい」
「すばらしいことだよ。どんな者にも、神様は一人一人にすばらしい力をお与えになった」
中沢はかさついた手で東野の手を握りしめた。その暖かさに奇妙な感動を覚えて、東野は中沢の顔を見つめた。ふいに、これでいいのではないかと思った。自分が由希に要求しているものは、自分自身の果たせ得ぬ夢に過ぎないのではないかという気がした。
中沢に丁寧に一礼して車に乗り込む。
アクセルを踏み込みながら、バックミラーを見ると雪煙の向こうに中沢がいくらか腰を曲げて立ったまま見送っているのが見えた。東野はもう一度黙礼した。
山岡将雄から電話があったのは、吹雪とスキー帰りの車の大渋滞に巻き込まれ、五時間もかけて東野がようやく甲府に戻ってきたときだった。
「いや、完全にやられたね、君の弟子には」というのが、第一声だった。
「はあ」
「しかしあれ、なかなか厳しいな、この先」
続けて言った山岡の声色は深刻なものに変わっていた。
「何が問題か、君にもわかってるだろ」
「はい」と東野は受話器を握りしめた。
「あと二、三か月か、せいぜい半年で、ルー・メイ・ネルソンの名前はマスコミから消える。室内楽や器楽曲の聴き手は、ルー・メイの演奏、特に死の間際のバッハについては際物と位置付けている。それでもルー・メイ・ネルソンは世界的な演奏家ではある。その彼女の真似をあれだけできるということは、あの子がそれなりの技術を持っているということなのだ。しかしご本尊の名前が忘れられたとき、あの子も同時に忘れられる。もっとも我々は人気商売ではないから、それはそれでいいが、ただ、今後地道な演奏活動をしようにも何かと支障をきたす。何よりも、あれではあの子本人がいちばん辛いだろう。確かに演奏は再現芸術ではあるんだが、だれにもできない自分の表現があるからこそ芸術になりうるし、それ以前に、人格も含めた内的表現それ自体が、我々にとっての欲望なんだ。金も名誉も、そんなものは付帯的なものさ。なあ、そうだろう」
「はい……」
「欲望だよ、いい女を抱きたいというのと同じような。いや、そんなことはかすんじまうほど強烈な欲望だ。借り物としての表現しかできないとしたら、いちばん辛いのは本人だ。何のためにこんな苦しく地道な練習をやってるんだってことになる。それに比べりゃ他の楽器と合わせられない、なんていうのは欠点のうちに入らない」
「由希がそれを辛いと感じているのか、何か表現したいなんていう欲望があるのか、僕にはわかりません。彼女の感情は、部分的にしか掴めません。何しろ普通の女の子ではないので」
山岡は笑った。
「女心は、僕にとってさえときに不可解だ。君なんぞにはまだまだ」
そして少し間を空けて、山岡は言った。
「あずけてみないか、私に」
「それはありがたいんですが、ただいろいろ面倒な問題があって……」
深谷の顔が真っ先に浮かんだ。
「変わってますよ、彼女は。障害という言葉は使いたくありませんが、この前、話した通り……」
「心配せんでいい。変わってるくらいのほうが伸びるよ」
大様な口調で山岡は言った。
「とにかくあのままじゃ、もったいない。彼女はこのまま見せ物になってるような器じゃない。訓練次第では日本を代表するチェリスト、いや世界でも十本の指に入るようになると、私は思う。だから言うんだ。今みたいに、ルー・メイ・ネルソンの猿真似をさせてちゃいかん。ネルソンの弾き方は、あれは素人ウケするけどね。何でもかまわず、ネルソン節にしちまうんだ。音楽の本当の奥深さというのは、曲の持っている精神世界を謙虚に理解しようとする姿勢から生まれるものなのだ」
「ええ」
「でもまあ、あれはいい女だったね。私がアメリカにいた頃は、まだほんの子供だったが、みるみる色っぽくなった。そばで見ると、まるっきりの白人より肌なんかきれいだよ。艶が違うんだよ。飴色がかってて、ああいうのがこっちの肌にぴたりと吸い付いてきたらたまらんね」
また始まったかと、東野は気のない相づちを打つ。
「もっとも死ぬ前は、薬でやられて見られたもんじゃなかったがね。僕なんか楽器の代わりにあの太股に挟まれてみたいと何度思ったか……」
愛想笑いで答えて、話を終えた。
受話器を置くと同時にまたベルが鳴った。今度は有村音楽事務所の柏木だった。由希の件で、直接会って話をしたい、という。
「音楽の内容については、自分にはよくわからないから、トレーナーの東野先生に直接、お話を伺うように、と深谷先生がおっしゃいまして」
レコーディングの件についてだろうというのは、想像がついた。深谷は、一応東野に話を通して、事をスムーズに運ぼうとしているのかもしれない。
「ぜひ年内に、一度お目にかかりたいのですが」
年内といったら、あと三日しかない。
「どういったご用件でしょうか」
「それはお目にかかった上で。明日はどのようなご予定ですか」
ずいぶん切羽詰まっている様子だった。返事をしないでいると畳み掛けるように柏木は言った。
「ご自宅まで参ります」
自宅は狭いのでと断り、翌日、甲府の駅ビル内にある喫茶店で会うことにして電話を切った。
雪こそないものの、盆地特有の凍てつくような寒さが身にしみる歳末の町に、東野は出かけていった。短い日は暮れかけ、西の空を淡く彩る残照は黄を帯びて、どこか荒涼として見えた。
初対面の柏木にわかるようにと、東野が「泉の里」と大きくロゴの入った封筒を抱えて店内に入ると、一人の男が椅子から立ち上がって、一礼した。
細い目をした四十半ばの小男だ。脂ぎった業界人を想像して身構えていた東野は拍子抜けした。
柏木は丁寧に腰を折って頭を下げ、名刺を差し出す。彼は甲府の印象やら深谷や東野の仕事についての称賛やら一通りの世間話をした後、おもむろに本題に入った。
レコーディングの話ではなかった。
由希のリサイタルを開きたいというのが、用件だった。柏木はカバンから厚さにして一センチ近い企画書を取り出した。
会場、プログラム原案、広告宣伝とチケットの販売方法、営業計画、収支見込み、協賛企業、楽器や奏者に関わる保険、そして基本コンセプト。音楽の中身を除くあらゆる計画が細密に練られている。東野はあっけに取られた。
「これは、事後承諾ですか」
「いや、めっそうもございません」
柏木は首を振った。自分で言った後に東野は、自分が承諾する立場ではないということに気づいた。彼はただの楽器の教師にすぎないのだ。
「企画書の段階ですから、これが通らなければ何も動きませんもので」と柏木は言う。
「正直言って、浅羽由希の実力は見かけだけのもので、今はとてもリサイタルを開ける水準ではないんですよ。何しろ伴奏さえ付けられない状態ですから」
「またまた……」
柏木は微笑した。
「キャリアはなくても、特別な能力をお持ちだそうですね。実力がないというのはご謙遜と受け取ってよろしいでしょう。それに、伴奏をつけられないということなら、この前の追悼コンサートのように、無伴奏で弾けばよいと思いますよ」
柏木の声はくぐもっていて、聞き取りにくい。そのくせ、多少のことでは動じないしたたかさが感じられた。
「伴奏がつけられない、アンサンブルが組めない、というのは基本的な欠陥なんですよ」
柏木は上目遣いに東野を見た。細い目が、笑っているように見えた。本当は出来の良すぎる弟子をやっかんでるのではないのか、と言いたげに。
「何より由希は今のところ、自分の音楽をまだ持っていないんです」
「それは聴衆の判断することではないかと、わたくしどもは考えておりますが」
柔らかいが断固とした調子で、柏木は言った。
「先生は、日本の音楽家がリサイタルを開くとき、どうするかご存じですよね」
「わかってます……」
「弾かせてくれ、頼むから、やらせてくれ」とプロダクションに頼み込む。しぶしぶプロダクションが承知すれば幸運だ。ただしチケットについては座席数の半分近くを、演奏者自らが引き受ける。聴衆は黒い瞳の演奏者の音楽に三、四千円出すよりは、金髪のアーティストのリサイタルに一万円払うほうを選ぶ。それに自治体や国は、海外の演奏家や一流の奏者にのみ補助金を出すから、実際には国内の二流、三流も、来日音楽家も、チケット代は大差なくなる。一般の人々に売れないとなれば、演奏家は抱え込んだチケットを弟子に売らせるしかない。弟子のほうは月謝の一部とあきらめ、買い取ったチケットを知人にばらまく。「すみません、暇だったら行ってやってください」と頭を下げながら。
事情は山岡将雄クラスの演奏家でさえ、さほど変わらない。日本でプロダクション丸抱えでリサイタルを開けるのは、テレビコマーシャルで顔を売った人気者だけだ。
こんなチャンスは滅多にないですよ、と言う柏木の意図はよくわかる。事実その通りだった。
「先生」
柏木は柔らかな声色で言った。
「この先、浅羽さんをコンクールで入選させる自信はおありでしょうか」
東野は返事に詰まる。コンクール、それも国際コンクールに入賞してデビューするなどということは、伴奏をつけられない由希にはできない。
「今の浅羽さんなら、コンサート入賞という勲章がなくても人を呼べましょう」
「そういう問題ではなくて……」
「スポンサーがつきます。金融会社のフジタですが」
「文化貢献《メセナ》でイメージアップをはかろうというわけですか。バブルの最盛期ならいざしらず」
フジタと言えば、十年前は強引な取り立てで名をはせ、最近では総会屋との癒着や不正融資が発覚して、評判を落としているところだ。
「いえ」
柏木は首をふった。
「会長の個人的趣味ですよ。もともと粋人《すいじん》で、けっこうアマチュアの音楽団体に寄付なんかなさった方ですから。もう七十を越えてらっしゃるんですが、ルー・メイ・ネルソンの大ファンでしてね。年寄りの道楽だとかおっしゃって。あくまで、個人的な協力です。したがって、リサイタルにもフジタの名はかぶせませんし、宣伝もいたしません。ちなみにこの前、コンサートで浅羽さんのお弾きになったチェロ、アマティですが、会長がお貸しになったものでして。アメリカのある企業から、担保物件として取得したものです。時価八億とも、九億とも言われています」
アマティのチェロ……。考えただけでめまいがしそうだ。常人の価値観を持たぬ強みとはいえ、それを震えもせず弾いた由希には驚かされる。
「で、会長は今後事情が許すなら、浅羽由希さんに永久貸与したいと、こうおっしゃってるわけでして」
東野はため息をついた。
「で、リサイタルの日程は?」
「第一回が来年の三月九日、渋谷グリーンホール、それから第二回が五月十七日、横浜の関内県民ホール」
「二回ですか」
「響きのいいホールは早く押さえておかないと」
「無謀ですよ」
東野は言った。
「五月十七日のほうはともかくとして、三月九日なんて」
柏木は口元に微笑を浮かべたまま眉を寄せた。
「困りましたね。ただ一般のプロの方のリサイタルと違いまして、コンサートの時間は少し短めに設定してあります。休憩時間を入れて一時間少々です。わたくしどもが思いますのは、一般のクラシックの演奏会というのは、時間が長すぎます。マニアの方ならともかく、人間の注意力というのはそれほど続きません。途中で寝てしまうのも無理もないことで。エッセンスのような曲を最初からぶつけて、短時間楽しんでもらったほうがいいのではないか。そのほうが聴衆だって、演奏会に足を運びやすいと、そのように考えたわけでございまして」
「とにかくこういう形で準備期間もなく弾かせるということでは、僕としても責任ある指導はできません」
柏木の発想の安直さに呆れながら、東野は遮るように言った。
「準備期間は十分だと思いますが。まだ三か月以上ございますから」
「いいえ。場合によっては、僕は手を引きますよ」
「それだけは、ご勘弁を」と柏木は頭を下げた。しかし頭を上げたとき、彼は付け加えた。
「どうしても、とおっしゃるなら、こちらでどなたかご用意させていただくこともあります」
ばかな、と東野は、保子や指をつぶされた中年の心理療法士や、他の通り過ぎていった何人かの人々の顔を思い出した。それからそうしたことを柏木は承知の上かもしれない、と思い当たった。自分が由希を他人に任せたりはしない、と踏んでいるのだ。
柏木の上目遣いの視線を避けるように東野は窓の向こうに目をやった。
甲府駅のターミナルが眼下にある。真っすぐ伸びた道は渋滞している。その向こうに暮れかけた空。寒気に凍りついたような、薄青い色だ。
この冬でどこまで仕上げられるだろう、と思った。先延ばしにして、いい結果が生まれるとは限らない。それまでに由希の音楽を、ルー・メイを超えた由希の音楽を引き出すことができるだろうか。この話を断ったとして泉の里の関係者でもなく、由希の親権者でもない自分に、他に何ができるのだろうか。
「わかりました。できるところまでやってみましょう」
東野は答えた。
「どうもご無理申し上げて」
柏木はさらに丁重に頭を下げる。それから「で、先生、これからご用事などなければ、ちょっとご案内させていただけませんか。社長の出身がこちらなんで、いい店がございますので、お近づきのしるしに」とそそくさと席を立つ。
「いえ、けっこうです。帰って練習しなければならないので」と東野はぶっきらぼうな口調で断った。
「練習? 先生になられても?」
「当然でしょう」
とまどい気味の顔でつっ立っている柏木と別れ、東野は刺すような寒気の中を家に向かった。
クリスマスから正月にかけては、クラシック音楽に携わる者は一年中でいちばん忙しい。ホテルや文化、観光施設などで各種の催しがあり、演奏の依頼が殺到する。練習と、楽器を抱えての出張で、休む暇もない。合間をぬって音大受験生の特別レッスンも行なわなければならない。
翌日からはシティホテルでカウントダウンパーティーの仕事が入っていた。東野は由希のことをあれこれ考える暇もなく、ダークスーツとドレスシューズを揃え、ウィンナワルツの譜面に目を通す。
一通り弾いてみると、三拍子の頭だけ弾いているようなダンス音楽への興味は失せた。この曲を左回りに踊ることに誇りを感じる人々の感覚を理解できないのは自分だけではあるまい、と思いながら、東野はバッハの第三番のプレリュードを弾き始める。
前回由希に弾かせるために彼自身、苦労しながら練習した曲だ。ハ長調の下降音階。一見、やさしそうだが音楽的に弾くとなると難しい曲……。
山岡の言う通り、確かに演奏は自己表現ではある。しかしそれだけではない。自分の手を使ってその曲にこめられた音楽的世界を引き出してみせることなのだ。ルー・メイ・ネルソンの欠点というのは、何でも彼女の歌にして彼女自身の歌い方で弾いてしまったこと、すなわち狭い意味での自己表現に留まったことではないか、という気がする。
東野は自分の音に神経を集中させた。ルー・メイに比べたところで、話にならないくらい貧弱な音であり、おぼつかない技巧だった。
音程が下降し終わった最後のC音のくぐもった重低音が響く。そこから上昇に転じ、さらにいくつもの分散和音が展開されていく。一見、メカニックな律動の中に、美しい旋律がいくつも編み込まれている。それをルー・メイ・ネルソンは引き出し、しゃがれた肉声を思わせる音で、情感をぶつけるように思いきり人間臭く歌ってみせた。こんなところが、ルー・メイが大衆的な支持を得た理由だ。
しかし東野の弓から流れる拙い音の向こうには、全く違った何かがほの見えている。ことさらに悩ましげな表情はいらない。わざとらしく陽気なリズムを刻ませる必要もない。
人間の感情や知性を超えた果てにある、清冽な美。抜けるような透明な音、一音一音が、丹念に編み込まれた果てしないリング。宇宙、音の流れに姿を借りた偉大な宇宙がこの曲にはおぼろげに感じられる。東野の力量では到底おぼつかない。おぼつかないながらも全身でその存在を感じ取ることはできる。
それはどれほど手を差し伸べても、その裾さえ掴むことのできない、彼の神でもある。ルー・メイ・ネルソンは、それに手が届いたのだろう。長く引いた裳裾の端までには、手が届いたのだ。しかし傲慢な彼女はそれを掴み、彼女の地平まで引きずり下ろした。彼女の神はそのとき息の根を止められ、彼女自身が神に成り代わった。
しかし、東野にとって神は未だに遥か天空にある。
東野は弓を止めて目を閉じた。由希の背には羽根が生えている。彼女の舞台は、少なくともダンスパーティー会場の片隅にしつらえられたボックスではないし、そこで三拍子の頭を弾くこともない。失われたものの代償として与えられた、陽光に輝く真っ白な羽根。彼女は、それで一気に天空をかけ昇ることができる。
いくぶん哀しく、羨ましさの混じる思いで、東野は雪に閉ざされた高原の施設で新年を迎えるであろう彼の優秀すぎる弟子のことを思った。
年が明けて最初の仕事は、由希を山岡のもとに連れていくことだった。
由希の状態が以前とは比較にならないくらい好転してきていることから、深谷も特に反対はしなかった。
松の内の明けない泉の里は、ひっそりと静まりかえっている。暮れから正月にかけて、入所者の中にはそれぞれの家に引き取られた者がいる。それに合わせ職員も長い休暇を取っていた。
しかし送金以外、家族とのつながりの絶えた由希は帰るところがない。妻を亡くしてから敷地内にある職員宿舎に住んでいる中沢や近くに住んでいる深谷も、ここで正月を迎えた。深谷は、職員が減る年末年始は自宅に戻らず、ここのゲストハウスに泊まり込んでいるということだった。
由希は玄関先で待っていた。雪混じりの風になぶられ、真っ赤になった頬に柔らかな髪をまつわりつかせ、東野を見ると小さく目を細めた。
「元気にしてたかい?」
東野は声をかけた。由希は、表情を変えなかったが、不意に東野の手に自分の指を強くからみつけてきた。東野は握り返すこともなく、電撃を受けたように立ちつくした。遅れて現われた深谷は、その様を見て「あら……」と微笑した。
スキー帰りの車で中央道が渋滞するおそれもあり、二人は車ではなく小淵沢から特急に乗った。由希は落ち着いていた。自分がどこに何をしに行くのか、何もかもわかっているようだった。二年前、松本に行ったときと、感触はまったく違う。
多摩市にある山岡の家には、昼過ぎに着いた。応接間で、山岡の妻も入ってしばらくの間、世間話をした。
「いや、君には、すっかり食われちゃったな」
山岡は、上機嫌で由希に話しかけた。みごとな銀髪と射るような眼差し。初めて会う人がたいてい恐れをなすその気難しそうな風貌を目のあたりにしても、由希は物怖じしないし、これといった反応もない。前もって事情は説明してあるので、山岡のほうも由希が無表情なままでも特に困惑した様子を見せない。
不意に由希は目を上げ、山岡の顔を正面から見つめた。東野はうろたえた。由希はめったに人の顔をきちんと見ることはない。別のところを凝視しているか、見ているように見えても、視線は目の前の人間の存在を突き抜けて、何もいないその向こうで像を結んでいる。それが、きらきらと光る挑戦的な感じの眼差しで、山岡を見つめていた。
おそらく由希は目の前の人物の音楽的な力を直感し、彼女なりの敬意を表したのだろう。東野は軽い嫉妬を覚えた。山岡のほうはたじろぐ様子もなく、わかった、というように無言でうなずいた。
「それじゃ、始めるかね」と山岡が腰を上げ、東野と由希はその後に続く。
レッスンルームは住まいと別棟にある。厚いコンクリートの壁のホール並みの完全防音建築で、小さなコンサートなどにも使われているところだ。
山岡は、いつも弟子を教えるときのように由希の隣に自分の楽器を構えて座った。
まず、ロングトーンである。由希はなかなか弾き出さない。いつものパターンと違うので、彼女独特の行動システムが作動しないらしい。
「あの、始めだけ僕がやりましょうか」
東野は腰を浮かせた。
「いや、いい」
山岡は柔らかく制した。自分のペースでなんとか由希に馴染んでみようとしているようだった。東野にしてみれば、由希がかんしゃくを起こすことが心配だ。
山岡はさまざまなことを語りかけながら、自分のリズムに由希を引き込んでいこうとする。しかし言われた通りに由希が楽器を弾き出すには至らない。それでも山岡の口調や眼差しに、由希の緊張が次第に解けていくのがわかる。
三十分ほどで、弓を持たせるところまでいった。山岡がロングトーンの指導のために由希の肘と肩に触れても、東野が危惧したように狂暴な怒りの発作を起こすことはしなかった。しかしそこまでだ。曲を弾き出すには至らない。
「いや、まいったね」
山岡は頭をかいた。気がつくと一時間半が経過しており、この日は開放弦のロングトーンだけで終わった。東野や泉の里の指導員から見れば、初対面の人間とさしたる問題もなくこうして交流できたことは上出来だが、山岡はひどく残念に感じたらしい。
用意した礼金を山岡は受け取らなかった。
「美しいお嬢さんのレッスンを見るのは、僕の道楽だからいいんだ」と山岡は笑っていたが、実のところ予定通りにレッスンが進められなかったことを心苦しく感じているというのが、その様子から見てとれた。
帰りがけに山岡は、東野にささやいた。
「次は君、席を外して応接間で待っててくれないか。母親が見てる前じゃ照れて弾き出さない子供がいるが、あれと同じかもしれない」
確かにその通り、と納得し東野はうなずいた。
一週間後、東野に連れられ再び山岡の家を訪れた由希は、一人でレッスン室に入った。由希は格別不安そうな顔もせず、山岡の後をついていく。ほっとすると同時にいくぶん淋しい思いで東野はその後ろ姿を見送る。
応接間で山岡の妻と話をしながら待っていると、一時間ほどで山岡が由希になにか語りかけながらやってきた。
「どうにかこうにか、だね」
東野の顔を見て、ため息をつくようにそう言った山岡に、憔悴《しようすい》した表情が浮かんでいる。弟子がどうしても上達しないとき、山岡は苛立つかわりに眉間に皺を寄せ、憂鬱そのものといった顔をする。
「弾きましたか」
「ああ」と山岡はうなずいた。
「勝手に弾いてくれたよ、ネルソン節を」
「一応、曲を弾いたんですね」
東野が確認すると山岡はうなずき、気を取り直したように由希に話しかける。
「どうだ? チェロを弾くのは楽しいかい」
由希は何も答えない。それでも山岡は続ける。
「僕がね、初めてスペインに行ったときのことなんだけど……スペインのバロセロナはね、カザルスの故郷なんだ。カザルスって知ってるか? すばらしいチェリストだよ」
反応が戻ってこなくても山岡は動じない。
「このお嬢さんは、ちゃんと理解してるんだよ」
不意に彼は東野に向かって言った。
「注意して見てると、興味のある話にはちゃんと瞳に光が宿るんだ、わかるだろう」
「ええ……」
二、三度会った程度で、それを見抜く山岡の洞察力に東野は敬服した。
「だけどそれが今一つ、僕が言ってることの理解に結びついてくれないんだな。ま、慌てる必要はないが」
「しかしリサイタルまで、あと二か月……」
山岡は、笑いながら東野の肩を叩いた。
「恥をかいたところで、若いうちなら許されるよ、君。むしろ若い演奏家にとって、成功へのプレッシャーが強すぎることが問題なんだ。歓びのない、怯えた演奏に魅力はない」
「確かにそうですが」
「ま、彼女にその心配はない。ただ、表現されるべき内なる音楽が他人のものというのは、淋しい」
東野はうなずいた。
由希が手洗いに立ったとき、山岡は頭をかきながらささやいた。
「まいったね、レッスンの最中、彼女、人が変わったように挑発的になるんだよ」
東野は、ぎょっとして山岡の顔を見た。
「いきなり勝手にネルソン風に弾き出したと思ったら、体中からなんともいえない妖気みたいなものが立ち上るんだ。いや、すごい色気だよ」
思い当たることだった。そんな瞬間が、東野が教えていたときも何度かあった。しかしそこに性的なものを見ることを東野はことさら避けている。
山岡は、東野の沈黙に気づいたらしい。
「心配せんでいい。生娘はオレ、やだよ。もっとも寝てみれば、また、何か見えてくるかもしれんがね」
「先生」
「冗談だよ、ま、そういうこともあるってだけのことだ」
由希が戻ってきた。
山岡は話題を変えた。
目立った成果もないまま、日数だけが経っていった。その間に東野は、プログラムを決めなければならなかった。リサイタルの演奏時間は、柏木の話によれば通常の約半分で、休憩時間を含めて一時間強とのことだった。バッハの第三番はすでに出来上がっているとして、あとは比較的歯が立ちやすい一番か。あるいは……。
六番、というのが頭にあった。バッハの無伴奏組曲は全六曲からなるのだが、ルー・メイ・ネルソンの録音は、この第六番だけがない。CDの解説には、「ネルソンは、全曲終える前に命がつきた。もし、生き永らえてくれたなら、どんなにすばらしい六番を聞かせてくれただろう」とある。しかし東野はネルソンが完奏できなかった本当の理由を知っている。演奏家ならだれでもわかることだ。
第六番をバッハは、ヴィオラポンポーサという楽器のために作曲している。チェロにもう一本高い弦を加えた楽器だ。その楽器は今は滅びているが、傑出したこの曲だけは後世に残った。しかし一弦多い楽器のために書かれた曲の音域は広い。三オクターブをゆうに越え奔放に旋律を編んでいく曲は、現在の四弦のチェロでは演奏の限界とも言われ、すばらしい表現力を持ちながら、数あるチェロ曲の中でももっとも険しい頂きとして屹立《きつりつ》している。
これを弾くチェリストに要求されるのは、単なるテクニック以前に、体の隅々にまで横溢《おういつ》している「力」である。死の間際の凄絶な輝きを見せるルー・メイの演奏ではあるが、それでも第六番だけは弾けなかったのだ。薬でぼろぼろになった身体にいくら鞭打ったところで、すべて弾かせてくれるほどバッハは甘くはない。そのルー・メイの弾けなかった六番を弾かせてみたいという思いが、東野にはある。難曲中の難曲を由希が弾く。技術的問題については、由希はその驚異的な力によって容易に乗り越えるだろうことは予想できた。そしてそのときルー・メイ・ネルソンの弾かなかった六番を、由希はどのように弾くのか。東野はそこに希望を見出した。
三度目のレッスンの日は、一月にしてはめずらしいほどの快晴だった。
降り積もった雪で金色に輝いている玄関先のスロープに、クリーム色のフレアのワンピースを着て、片手にオフホワイトのコートを抱えている由希が立っている。笑っているわけでもなければ、手を振るわけでもない。しかしなんとも楽しげな気分が感じられる。
「彼女、今日、生理日なの」
そばにいた深谷は、何の前置きもなく言った。東野は返答に詰まった。
「疲れたり気分が悪くなったりするかもしれないから、気をつけてちょうだいね。それから、まめにお手洗いを探してやって」
「はい」
東野は直立不動で答えた。
この日は、山岡の家に着いてみると妻はいなかった。ボランティアの会合があって、夕方まで帰らないという。お茶を出してくれる人もいないので、すぐにレッスンに入った。前回同様、東野は応接室に残り、由希はレッスン室に移った。
東野は天井の高い応接間の皮張りのソファに身を沈め、大理石のマントルピースをぼんやりと眺めていた。
三十分もした頃だろうか。オニキスの浴女像が視野に入ってきた瞬間、だしぬけに悪寒に見舞われた。身体が平衡を失って倒れそうになった。
吐き気が込み上げてくる。全身の毛が逆立つような嫌悪感があった。
東野は片手でソファの背につかまり、部屋を見回す。不快なものは何もない。豪華な部屋、柔らかなカーペット、ガラス越しの午後の光……。
そのときオニキスの浴女の横に変なものが見えた。胸を締めつけるような激しい吐き気が再び込み上げる。手だ。節くれだった手。染みの浮いた、煙草の脂で黄色くなった手……間違いなく山岡将雄の手だ。瞬きすると、奇妙な立体映像は消えていた。
東野は応接間を飛び出していた。不安と恐ろしい予感は、二、三歩行くうちに現実的な危機感に変わっていた。庭を横切り、身体ごとドアにぶつかるようにして、完全防音の部屋に入った。
「由希」
彼は呼んだ。
中央にグランドピアノ、その横に椅子が二脚。チェロが一台、横に寝かせてある。その隣に、山岡は、頭を抱えてうずくまっていた。予想した光景と違っていて、東野はうろたえた。
由希はピアノに片手をかけ、目を大きく見開いて立っている。東野は、山岡を助け起こした。
「大丈夫、頭痛だ。ただの……」
山岡は苦しげに言った。
「由希、何をした?」
東野はつぶやいた。そのとき、山岡の手が目に入った。マントルピースの上に見えた幻と同じ、煙草の脂で汚れた手、その指先に血がこびりついている。
由希、とうとうやったのか。今度は何をしでかしたんだ……。声にならない声を上げ、由希のほうを咎めるように見てぎくりとした。由希のスカートが、斑《まだら》になっている。赤茶色にところどころ汚れている。山岡の指に視線を移す。血に汚れた手に外傷はない。何の血液なのかピンときた。
由希に駆け寄り、その下半身に目をやる。
山岡は、ふらふらと立ち上がった。
「君、彼女は立派な大人だ。しゃべらんだけで判断力はある」
由希の足元に視線を走らせる。ストッキングが丸まって足首にからみついていた。
「すごい力を持っているよ、彼女は。人を魅きこむ力だ。彼女のほうが誘ってきたんだ。本当だ、求めてきたんだ。そうでなくて女というものはあんな目で男を見ない」
東野は、山岡の手を無言で見つめた。染みの浮いた二の腕、弦を押さえることで皮膚が鎧《よろい》のように厚くなった指先。
東野は、山岡のアスコットタイの襟首をいきなり掴んだ。
「あんたの周りにいるのが、その程度の女だけだってことだろ」
自分の顔が蒼白になっているのがわかる。冷たい汗が額に流れる。山岡は後退りした。
「落ち着け、東野君。何もしてやしない、いきなりひどい頭痛がして恐ろしい夢を見たんだ。防空壕の中に女の子がいる。肺病病みの子供だ。その子が手を伸ばしてきた。やせこけた手だった。思い出したくないことだ。ひどい頭痛がした。何もしてない。何もできんよ」
東野は、唇を噛んだ。
「本当だ、何かする前にそれが始まった……」
言いおわる前に東野は、放り出すように山岡を離した。山岡は頭を押さえ、壁に背中を付けたまま、その場にうずくまった。
東野は由希の手を取り、その場から離れた。由希の体がよろめいた。足元にストッキングがからまっている。屈んで乱暴にそれを脱がし、その場に捨てた。由希の手を掴んだまま応接室の荷物を取ると、外に飛び出しタクシーを拾った。
由希のコートを忘れてきたのに気づいたのは、駅に着いてからだった。スカートの腰の辺りの斑な経血は、すでに乾き黒ずんでいる。東野は自分のジャケットを脱いで、由希に着せ、汚れたスカートを隠した。
新宿に出てあずさ号のグリーン車に乗り込むと、東野は由希をしっかりと抱いた。由希の体は冷たく、脱力している。
「すまない、悪かった」
何度となく繰り返した。他の乗客や検札に来た乗務員が、眉をひそめて通り過ぎていく。由希はふと顔を上げ、東野を見た。安らいだような表情が漂っている。それから大きな水鳥のようにその首を曲げて彼の喉元に額を押しつけてきた。
東野はじっと動かず、由希の体温を感じていた。
由希は少女ではない。年齢的には成熟した女だ。山岡の言う通り、判断力もある。しかし、嫌だという意思表示をする手段を持たない。
いや、意思表示はした。東野の背筋を戦慄が走った。
由希は抵抗した。山岡がその場にうずくまるほどの、ひどい頭痛を起こさせた。それだけではない。東野に救いを求め、奇妙な幻覚まで見せた。幻覚を見たのは、東野だけではない。山岡も見ている。四十年以上前の光景を。
ずいぶん前、山岡は一度だけ、その忌まわしい記憶について東野に語ったことがある。
戦争末期の話だ。当時、国民学校の生徒だった山岡は、学校の帰りに空襲に遭った。たまたま近くに小さな防空壕があって、中に結核に冒されて動けない少女が寝かされていた。山岡たち数人の男子生徒は、その少女を防空壕の入り口付近に引っ張り出し、自分たちが奥に入った。空襲が止んで外に出てみると少女の胸には大きな穴が開いて絶命していたという。
ひどい頭痛、忘れたい記憶の生々しい再現。高田保子の経験したものと同じだ。
それを由希の単なる精神的暴力と考えるのはまちがっている。人の脳裏に何かを再現するというのは、言葉を使えない彼女の精一杯の抵抗であると同時に、コミュニケーションの手段なのだ。そうでなければ、自分の見た異様な映像は説明できない。あのとき、由希ははっきりと助けを求めてきた。何かが引き金になり、由希の精神活動は異常な高まりを見せる。そして全身で放電するように、ときには周りの者に危害を加えることもある。
由希は、軽い寝息をたてている。おそらくあの現象は、相手にダメージを与えるのと同様、由希にとっても大変な消耗になるのだろうということが、想像できた。やつれてはいるが、その寝顔はあどけなく幸せそうに見えるのが、東野にはいっそう哀れに感じられた。
泉の里に戻ると、深谷が暗くなりかけた部屋で一人ぼんやりと座っていた。雪明かりで、室内はほの明るい。
「ご苦労さま」
二人の姿に気づいたように、深谷は室内の蛍光灯をつけた。
「あら……」
深谷の視線が、由希の羽織っている東野のジャケットに向けられ、それからその下の素足に移った。
「とりあえず彼女には部屋に戻ってもらって」と東野が言うと、深谷も「そうね」と、立ち上がる。
「あの……ジャケットはそのまま」と東野はつけ加えた。
事情を薄々察したように、深谷は由希を連れて宿泊棟に行く。
しばらくして一人で戻ってきた深谷は、東野の正面に腰掛けると、「何かあったのなら、聞かせてくれる?」と落ち着いた口調で尋ねた。
東野はこの日あったことを隠さず話した。
深谷は考え込むように少しの間黙りこくっていた。
「申し訳ありません。僕が軽率でした」
東野は頭を垂れた。
「起きたことはしかたないわ」
深谷は、キャメルを取り出してくわえた。そしてゆっくり煙を吐き出しながら言った。
「由希のほうはともかくとして、山岡将雄はどうなったの?」
「え……」
意外な言葉に、東野は思わず顔を上げた。
「性的暴力も含めて、自分にとって不愉快なことをされたとき、彼女がどんな反応をするか、あなたはこれまでのことからわかっているはずよね」
東野は息が詰まりそうになった。
「つまり山岡先生が無事かどうかということですか。だから彼は、僕が入っていったときうずくまってました。頭が痛いと言って。嫌な記憶がよみがえったようです」
「それだけで済んでいるの?」
「いいんですよ、別にそんなことは」
腹立たしい思いで、東野はかぶりを振った。
「いえ……由希の力はだんだん強くなっているような気がするわ。それを強めているものがあるとしたら……」
「音楽ですか?」
「そう言い切れないかもしれないけれど」
「いいんです、山岡将雄のことは」
「よくないのよ。確かめて」
鋭い口調で、深谷は言った。
「確かめて、変わったことがあったら、すぐに報告してちょうだい」
いまさらどうやって確かめればいいのだ、と東野は思った。電話をかけて本人に訊けというのか?
「すみません、そのあとの状況を正確に説明してください」などという質問を山岡に向かって発することなどできるはずはない。それよりも由希のことが気にかかる。あれが心の傷となり、周りのものすべてに怯え、極端な人間嫌いになってしまうのではないか?
甲府のマンションに戻ったときは、夜の十時を回っていた。結局深谷は今度の一件については、自分の胸に納めると約束した。そして今後二度と他の人間に彼女を委ねないように、と注意しただけだった。
東野は戸棚に入れてあったウイスキーを出して、ストレートのまま呷《あお》った。胃に焼けつくような痛みを感じるだけで、酔いは回らなかった。心の片隅がむしろ覚醒してくる。その覚醒した部分で、山岡の気持ちを理解しつつあった。
自分も彼とさほど変わりはしなかった。違うのは、山岡の自信が自分にないということだけだ。
山岡は本気だった。おそらく由希を見た瞬間、本気で惚れ、本気で育てる決意をしたのだろう。そして思い通りの成果を上げられず本気で悩んだ。
由希が音楽的な情緒を漂わせた瞬間に、その全身を包む妖しい空気を東野は鮮やかに思い起こすことができる。山岡が過ちを犯したとすれば、それを性的誘惑のサインと誤って受け取ったことだ。彼の女性観からすればしかたのないことであるにせよ、やりきれない思いがした。
あのとき自分が掴んだ山岡のシャツの感触、絹のアスコットタイを絞め上げた手触り……。そしてめまいがするほどの怒り。もろもろのものが苦い後味を伴いよみがえってくる。
他人のことを下衆《げす》と言えるのか?
由希に対して、自分は何の欲望も感じなかったと断言できるのか?
東野はグラスの中の残りを飲み干した。
二日後の昼間、学生を教えている最中に電話が鳴った。由希に何かあったのだろうかと慌てて受話器を取ったが、相手は深谷ではなかった。
東野と同じ時期に山岡のところで世話になったチェロの弟子で、今は私立高校で音楽の教諭をしている男からだった。ここ十年以上会っていないので、名前を聞いても、少しの間だれなのかわからなかった。
「しばらくじゃないか。今、レッスン中だから、終わり次第電話するよ」と言いかけたのを遮って、相手は言った。
「山岡先生が危ないらしい」
その言葉を聞いたとたん、顔から血の気が引いた。深谷の言葉を思い出したのだ。口ごもったまま何も言い出せない東野に向かい、電話の向こうの声は、説明を続けた。
「脳出血らしい。二、三日前から頭が痛いと言ってたんだけど、風邪か何かかと思っていたら、そのうちろれつが回らなくなってくるし、吐き気がするっていうんで医者に連れていったら、その場で入院だったそうだ」
「脳出血?」
東野は自分の手を見た。あのとき恩師の襟首とアスコットタイを掴んだ。まさか彼の頭を後ろの壁にぶつけたりはしなかったか? あるいは、放したとき壁に叩きつけはしなかったか?
「それが様子がおかしくて、CTスキャンをかけてみたら細かな出血箇所が無数にあるそうで、手術で取りのぞくというわけにもいかないらしい」
「どういうことだ?」
「普段から血圧は多少高かったが、それにしてもそんなにいっぺんに何箇所も切れるのかな」
「どうして、そんなことになったんだろう?」
「さあ。わからない。たまたま用事があって電話をしたら奥さんが出て、聞いただけだから」と相手は答え、入院先の病院名と面会時間を告げた。
「ただし今のところ面会謝絶だから、もし見舞いに行くなら、もう少し待ってからのほうがいいだろう。また容体が変わったら連絡する」
電話を切ってすぐにレッスンに戻ったが、東野はほとんどうわの空だった。
もしも山岡の脳出血の原因が、自分が彼に加えてしまった物理的暴力の結果だとするなら、まだそのほうがましだ。それが由希の異様な力を示すものでないことを祈った。
もちろんすぐに深谷に報告し、彼女の指示を仰ぐべきだというのはわかっていたが、どうしてもそんな気になれない。
山岡の容体について直接確かめたわけではないし、そこに由希が関係しているのかどうか、今の段階でははっきりしない。はっきりさせることは怖かった。
数日が経過しても、山岡の容体が悪化したという連絡は入らなかった。回復したという情報もない。山岡の自宅に電話をして夫人に訊くべきだとはわかっていたが、それをする勇気はない。
一週間後、東野は山岡の入院先である武蔵野市内の病院を訪ねた。どんな顔をして山岡に会ったらいいものかわからなかった。夫人があの日起きたことをどの程度知っているのかということも定かでない。それでも知らないふりをしてやり過ごすには、あの一件を除けば、山岡は東野にとっては良き師でありすぎた。
受付を黙って通り過ぎ、エレベーターで病室のあるフロアに上がる。廊下を歩いていくと、中年の看護婦に呼び止められた。
「お見舞いの方?」
「はい」
「平日の面会は三時からですよ」
「すみません、時間が取れなくて」
「どなたのところ?」
「山岡将雄先生ですが」
看護婦は、ふうっと息を吐き出し、首を振った。
「遠慮してください。ご病人さんが疲れて治るものも治りませんよ」とナースステーションの中を指差した。
まるで花屋のように、花束で一杯だ。
「病室の中に飾りきれないですし、ご病人さんがかえってわずらわしがるんですよ。有名な方だそうですけど、しばらくの間は本当に心配してくださる身内の方とか、お友達だけにしてほしいんです」
「面会謝絶ではなくなったんですか」
看護婦は叱責するような調子で言った。
「一応、症状は安定してますけど、さっきから申し上げているでしょう。仕事関係の方々に押しかけてこられては、ご本人が辛いんですよ」
「わかりました」
会えなかったことにむしろ安堵しながら、東野は尋ねた。
「それで具合はどうなんですか」
「詳しいことは先生でないとわかりませんけど、危ないところは脱しているんで、落ち着いたらリハビリを始めると思います。どこまで以前の機能が回復するかわかりませんが、希望は捨てないでがんばってほしいですね」
命だけは無事だったということを確認し、東野は病院を後にした。看護婦の言う「以前の機能」ということは、おそらく物を握る、歩く、話す、といった日常的機能のことだろう。以前のように演奏するということは二度とかなわないかもしれない。そう思うと山岡の失ったものの大きさに愕然とする。それが由希のしたこととは無関係であるように、と東野は痛切な思いで願った。
由希のほうはその後、山岡の家で起きたことが大きな精神的外傷になるのではないかという、東野の危惧をよそに、何ひとつ変わったところは見えなかった。
チェロの弾き方は、依然としてルー・メイのままだ。山岡は結局、あらゆる点で由希に何の影響も及ぼすことはできなかった。東野はあらためて由希の心の硬質で堅牢な一面を見せつけられたような気がした。
[#改ページ]
4
由希の演奏に焦りと無力感を覚えながら、一月も終わりつつあった。
ある日、東野が泉の里に行くと、プレイルームから紛れもないルー・メイの音が聞こえてきた。以前の由希は、ルー・メイと同じ歌い方をし、同じ音の出し方をしたが、それでもまったく同じ音色ではなかった。しかしこのとき、音そのものが瓜二つになっていた。
扉を乱暴に開けて、東野は中に入った。
案の定、由希の弾いている楽器が変わっていた。金を帯びた、いくぶん撫で肩のチェロ、追悼コンサートで由希が弾いたアマティだった。暮れに約束した通り、有村音楽事務所のほうから届けられたらしい。
「どう、音が違う?」
深谷が廊下を通りかかって、ドアから首だけ出して尋ねた。
「ええ」と東野は、ルー・メイそっくりに凄味を利かせた音を出している由希を見つめていた。
「私にはわからないわ。弘法筆を選ばずってね、上手に弾けば、どれも同じみたいで。でも、こんな楽器をあずかるのは気を使うわね。うっかり足をひっかけたら最後、一生働いても弁償できないんですもの」
東野は由希が一つのフレーズを弾き終えるのを待って、そのチェロを受け取り、自分で抱えてみた。
手にしたとたん、緊張感で汗が噴き出した。これが、アマティかと思うと弓を構える手が震えた。そっと弓を滑らせてみると、三百年を経た音は、磨きぬかれ円熟の極致に達していた。
世界でも数台しかないといわれるアマティ……。
はっとした。
これが本当に世界で数台しかないアマティだとしたら、いったいどこから来たのだろうか? 持ち主は金融機関の会長。彼は、ルー・メイのファンだったので、それとそっくりの由希に、無料で貸与した。今、ここにある前は、その会長の自宅の金庫にでも入っていたのだろうか? しかし長い間、そうした形で死蔵されていた楽器は、いくら調整してもこれほど自然に音が出ることはない。
東野はアマティを膝から外し丁寧に床に寝かせると、事務所に走った。
電話を借り、有村音楽事務所の電話番号を回す。女性が出た。柏木は外に出ているという。携帯電話を持っているとのことなので、呼び出してくれるように頼んだ。数分後に柏木から電話がかかってきた。
「すみません、あの楽器の所有者はだれなんです?」
東野は挨拶もなしに尋ねた。
「あれ、申し上げませんでしたか? 金融会社フジタの会長、藤田正義さんだと」
「その前の持ち主を知りたいんです」
わずかに間があった。
「AECCというアメリカの不動産会社です。世界的な資金不足のあおりを食って倒産寸前のところを日本のノンバンクの融資で、どうにか命をつないだところですが」
「そのノンバンクっていうのが、サラ金のフジタですか」
「大声じゃ言えませんがね。あのアマティはそのときフジタが売らせたものです、他のビルなどといっしょに」
「なぜ楽器なんかを? そもそもなぜ不動産会社が、アマティなんか持っているんですか」
「向こうではいくらか知りませんが、日本に持ってくれば時価八億円か九億円ですから、へたな不動産より価値はありましょう。それはそれとしてAECCがなぜ持っているかといえば、向こうの企業は文化貢献っていうのをけっこう要求されてましてね。高い金でああいう物を買って将来性のある音楽家に無料で貸与するってことも、メセナの一環としてやるわけです」
「それでは、借りていた音楽家というのは?」
「ルー・メイ・ネルソン」
予想した通りだった。
「彼女が死んだので、アマティは再びAECCの金庫に戻ったわけですが、それに藤田さんが目をつけて、売らせたんですよ。この前申し上げた通り、藤田さんはただのサラ金の社長じゃなくて、かなりの粋人でしてね。若い頃からクラシック音楽が好きで、特にネルソンのファンなんです。そこでその楽器を手に入れたところが、国内にネルソンの再来が現われたと聞いて、それならその人間に貸し出そうじゃないか、ということになったわけです。いや、先生は何も心配する必要はありません」
「いえ、そういうことではなくて」
「あの楽器では不足でしょうか?」
抑揚の無い声で、柏木が尋ねる。
「なぜ今まで、ネルソンの楽器だったということを伏せていたんですか」
「フジタ側の希望ですよ。日本のサラ金の親玉が、融資の見返りに世界に数台しかない名器を売らせたんですよ。あっちには黄色いサルによる文化の掠奪だ、などと騒ぎだす手合いがおりますからね。それに浅羽さんにしたって、飛び降り自殺したスターの弾いていた楽器なんて、気持ちのいいものではないでしょう」
「スター、ですか……」
ルー・メイ・ネルソンのコピーを欲しくてしかたのない手合いが由希に群がり、同じ服を着せ、同じ楽器を持たせる。由希の音楽性も、由希の人格も無視して、由希を通じて音として現われるルー・メイ・ネルソンに出会おうとする。あるいは由希を霊媒の役割をする障害者と見做《みな》し、下劣な好奇心の対象とする。
リサイタルまではあと二か月を切っている。唯一の理解者であり、頼りになる協力者と思われた山岡は東野の期待を裏切り、おそらくは由希によって廃人にされた。
一人の演奏者として育っていこうとする由希を祝福する者はだれもいない。
暗澹とした思いで東野が部屋に戻ってくると、由希は一人でアマティを弾いていた。
第三番の陽気なジーグだった。つぶれたような、しゃがれたような低音が耳を打った。まぎれもないルー・メイの音だ。ルー・メイ最後の録音そのものだ。
いったい、あの最後の録音時、ルー・メイ・ネルソンが見ていたものは何だったのだろうか。
彼女は体調がすぐれず、レコーディングは何度も中断されたと伝えられている。何度となく気を失いそうになり別室に運ばれた。そこで薬を体内に入れると、ふらつきながらスタジオに戻ってきた。スタッフに支えられなければ歩けない状態なのに、椅子に掛けるとしゃんと背筋を伸ばし弾き始めたという。
由希の和音の進行が微妙にずれ、うなりを生じている。
最低だ。東野は吐き捨てるようにつぶやく。そのくせ聴く者の心をとらえて離さない音。東野は由希の後ろに回ると、そっと彼女の手を押さえた。
「ちょっと弾かせてくれないか」
彼はアマティの弦にそっと弓を乗せ、滑らせる。艶やかで甘く、それでいて力強い音が流れ出る。低弦には、ずしりとひびくような重量感とぬくもりがある。和音を弾くと、教会のパイプオルガンを思わせる、豊かな広がりと底知れぬ神秘的な輝きが表われる。
これが本来のアマティの音だ。ルー・メイが引き出すことのできなかった音色、ルー・メイの強すぎる自我が押しつぶしたアマティ本来の音だった。
東野は和音を繰り返し弾いた。組曲の中に現われるアルペジオは、その和音が基本になる。調和と深い色合が、変化しながら壮大なアラベスクを描いていく。
由希は引き込まれるように、東野の手元を見つめていた。東野は弓と楽器を由希に渡す。
由希は同じ和音を弾いた。泥臭い、引きずるような低音が聞こえた。ヒステリックな叫ぶような高音が絡みつく。微妙にずれた五度の音によりうなりが生じる。凄みのあるルー・メイの和音だ。東野は片手で弓の先を押さえて止めた。
「音程をずらしてはいけない。正確な五度だ。変な表情をつけないでいい」
由希は無視して弾く。弓を持つ腕を東野は掴んだ。
「なぜ、わざわざ汚い音で弾く?」
あらぬほうに視線を向けた由希の顔色が青ざめている。
弾け。自分の音で弾け。東野は手を離した。
中断したところから曲は続く。八分音符のアルペジオだ。バランスの悪い、地声を思わせる泥臭い音。
東野は由希を後ろから抱くようにして押さえた。
「なぜだ? 君の頭で考えてくれ。君の耳で聞いてくれ。君の心で感じてくれ。もっと膨らみのある音があるはずだろう」
最後まで言い終わる前に、東野は激痛をおぼえて前のめりに倒れそうになった。由希が、弓の元で、力任せに東野を突いたのだ。はめこまれた金属部分が脇腹に食い込んだ。痛みと吐き気が、同時に込み上げてきた。東野は片手を腹にあてたまま、しばらく息ができなかった。じっとりとした汗が額を伝った。
さきほどから山岡のことが頭にあった。指をつぶされたピアニスト、恐ろしい幻覚を見せられた保子、そして真っ黒になって明滅していた深谷の腕時計。由希を怒らせたら、自分が危ない。わかっているが引けなかった。
由希の腕を離さず、彼女の手から弓をもぎ取り低弦を弾いた。柔らかな音の響きが波のように彼の身体に伝わり、それが脇腹の痛みを増加させた。彼はうめきながら、由希に弓を渡す。
「弾いてみろ」
同じことだった。
「そうじゃないだろ。つぶすな、わざわざ音をつぶすな」
東野は怒鳴った。由希の頬は透き通るように白くなっていた。ひどく苦しげな気配が、陶器のような硬い表情の裏にぼんやりと見えた。それが東野に対する不快感なのか、自分の出している音に対する不満なのかはわからない。
「君が弾くんだ。ルー・メイの音じゃない」
楽器が揺れた。由希の膝が震えている。由希の目は、大きく見開かれている。光を受けた瞳の色は、これまでに見たこともないくらい透き通った薄茶色に見えた。まるでガラス玉のようで、その無機質な美しさに東野の全身に震えが走った。
殺されると思った。山岡将雄同様、脳の血管のあちらこちらを損傷し、この場で死ぬのではないか、と思った。不思議と怖くはなかった。
ひざまずいて、由希の痙攣する真っ白な膝頭を押さえる。
とたんに由希の片足が跳ね上がって、東野の鼻を蹴った。
軟骨が砕ける音が聞こえたような気がした。顔の中心から脳髄を貫くように痛みが走った。由希の白いソックスの上に血が滴《したた》り落ちた。東野は拭いもせず立ち上がると、再び彼女の後ろに回って由希の身体ごと抱え込んだ。そして由希の右手をしっかり掴み、一小節弾いた。
由希の体に吹き荒れていた怒りの表情が、不意に静まった。
澄んだ音が、四本の弦から流れ出た。
東野の中から、痛みもルー・メイのことも、流れ出ていく。アマティの音に乗ったバッハの和声進行だけがある。
と、そのとき、彼の手を由希は払った。二本の弦に弓を乗せると、自分で一気に弾いてみせた。みごとな和音が聞こえた。わずかの曇りもない。清冽な響きだ。
「それだよ、由希。それが君の音だ」
東野は立ちつくしたまま叫んでいた。それは東野が思い描きながら、決して弾くことのできない音だった。
緩やかなテンポで由希は弾く。陽を浴びて透き通った由希の目は、東野も、彼の後ろにある壁も突き抜けて、無限のかなたに焦点を結んでいた。自らを封じ込めるねっとりと重たい闇から解放されたような、晴れやかな表情を浮かべた。
東野は陶然としてその様を見守った。しかしその数秒後、だしぬけに弓が音を立てて由希の手からずり落ちた。ぐらりとゆれた楽器を東野は慌てて押さえる。
楽器を取りのけると、由希はその場に崩れた。抱き起こすと白目をむいたまま、がくりと首を仰け反らせた。色を失った唇の端から、よだれがきらきら光りながら落ちる。
「おい、どうしたんだ」
東野は由希の頬を叩いた。手を握ると冷たい。金属質な冷たさだ。肩を揺すっても反応がない。
全身から血の気が引いた。
由希の胸に耳を当てる。鼓動が聞こえない。
死んだのか?
何かの間違いだ、ともう一度左胸に耳を当てる。何の音もない。呼吸も停止している。
東野は両手で由希の肩を揺すった。
由希は山岡に加えたのと同じ力の矛先をこちらに向けてはこなかった。かわりに自分自身の中で、暴発させてしまった。
なぜだ。
叫びだしたくなる気持ちで、東野はその左胸に耳を当てる。ことり、と小さな音が聞こえたような気がした。
東野は拳を固めた。
「ごめん」
拳を由希の乳房の真ん中あたりに叩き込んだ。小さな息が蒼白の唇から漏れた。変化はない。頬に触れると、さきほどよりさらに冷たくなったように感じられる。
力任せにもう一度、殴りつける。肋骨が折れたって、心臓が止まるよりいい。
再び、由希の胸に耳を当てる。
どっ、どっという規則正しい音がした。心臓の痙攣は止まった。
東野は震える息を吐き出し、両手を由希の胸の上に重ねた。そのままの姿勢で体重をかける。二回ほど行なって、はじかれたように部屋を飛び出して、少し離れた訓練室に飛び込んだ。
中年の女性指導員と入所者が数人、組紐を作っていた。東野は叫んだ。
「医者を呼んでください。病人が出ました」
入所者の一人が、内線電話を取る。東野は指導員の手を掴んで、何も説明しないまま、隣の部屋の由希のそばに連れてきた。
指導員は由希を一目見るなり、「医者を呼んできましょう」と外に走り出そうとする。気が動転しているらしい。
「ここにいて」
東野は、彼女を止めた。
「僕の言う通りしてください」
由希の頭を仰け反らせて気道を確保する。口の中に指をつっこんでみる。何も吐いていない。
「人工呼吸、したことありますか」
「ありません。やりかたは習いました」
指導員は緊張した表情で東野を見上げる。
「お願いします」と由希の口元を指差す。
二回東野が胸を圧した。
「二回吹き込んで」
指導員は言われた通り、マウスツーマウスで二回息を吹き込む。さらに二回、東野が胸を押す。そして再び息を吹き込む。
足音がして、中沢と医務室の看護婦が飛び込んできた。
中断せずに続ける。
少し遅れて嘱託医が到着したときには、由希は正常な呼吸を取り戻していた。
「練習しているうちに、私が叱責するような口調になり、むりやり弾かせたら倒れてしまいました」
東野は説明した。
医務室に運ばれた由希を診た医者は、症状が落ち着いたら検査に回す、と言う。今のところ肉体的な異状は見つからず、なぜ心不全を起こしたのか不明だとのことだ。
「興奮して倒れたのだろうが、それで心臓が止まるというのは考えられないからね」と医者は言いながら、「彼女は暴れたんですか?」と鼻血で汚れた東野の顔を見た。
「ええ、まあ」と東野は言葉を濁す。
「指導員から聞いたが、びっくりするくらい手際のいい救命処置をしたそうだね」
中沢が言う。
「彼女の心臓を止めかけたのは、僕ですから」
東野は口ごもりながら答えた。
「どこで覚えたんだね、救急救命法など」
「弟がいたんですよ。生れつき心臓奇形で、それで心臓除細動の方法は覚えさせられました。結局亡くなりましたが」
中沢がうなずくと、無言で東野の肩を叩いた。
振り返ると、ベッドの上で、由希がぱっちりと目を開けてこちらを見ている。何も語らない。ガラス玉のような目だ。
「深谷さんは?」
東野は尋ねた。
「ビジターセンターに行ってる。このことは僕から話しておくからいい」と中沢は言った。
玄関に出ると、昼間止んでいた雪が再び降りだしていた。ライトにきらめきながら舞いおりてくる雪は、風にあおられてカーテンが開くように割れた。その瞬間、白い視野にぼうっと明るんだスロープや、落葉松の林が幻のように浮かび上がる。
東野は、その場につっ立ってその様を見ていた。
由希が倒れる直前の奇跡のような数小節を思い出した。由希は、ルー・メイ・ネルソンを追い払い、自分の音楽を作り出した。その瞬間の輝くばかりの顔、微笑を越えた晴れやかな表情。
いったいあれは何だったのだろうか。ふとそんな思いにとらわれた。あれこそがルー・メイ・ネルソンの音に封印された由希の音楽の本質なのではなかろうか。
風が吹き込んできて、再び白い視野が割れる。
美しい眺めだった。ときおり丘の上に立つこの白亜の建物をリゾートホテルと間違えてやってくる車があるという。かれらは、ここで永遠のリゾートを与えられた人々のことを知ったらどう感じるのだろうか、と思った。
由希はここを抜け出そうとしている。たとえこの場所に住み続けたにしても、音楽を通じてより大きな世界に、普通のサラリーマンやそして東野が経験する「一般社会」以上に大きな世界にはばたいていく可能性を秘めている。しかしそのためには、大きな代償を払うことになるかもしれない。
なぜあのとき由希の心臓が止まりかけたのか。なぜこちらを攻撃しなかったのか?
その問いに対し、あまりに叙情的な答えを頭に思い浮かべた自分自身を戒めながら、東野は駐車場への道を下っていった。
由希の状態がおもわしくないので次回のレッスンを中止したい、と深谷から電話があったのは、翌日のことだった。
詳しい容体を東野は尋ねたが、深谷ははっきりしたことを言わない。とにかく楽器を弾ける状態ではない、と繰り返すだけだ。
「ちょっとお見舞いに行かせてもらっていいですか」と東野が尋ねると、少しの沈黙の後、深谷は言った。
「あなた由希に何をしたの?」
とっさに答えられなかった。
「すみません」
「何をしたのかって聞いてるのよ」
苛ついたように、深谷は尋ねた。
「由希の中から、ルー・メイ・ネルソンを追い出しました……」
「変なこと考えるのはやめてちょうだい」
東野の言葉を封じるように、深谷は鋭い口調で言った。
「あなたの救急処置の腕は認めるわ。でも、うちの施設にエクソシストはいらないの。わかるわね」
「エクソシストですか」
「由希の様子が少し落ち着いたら説明してもらうわ。とにかく自分一人で解決しようとするのは、やめてね。一人で、由希のすべてを抱え込んでいるという考えは捨てることよ」
それだけ言うと、深谷は一方的に電話を切った。
一週間後、東野は自分のカローラで国道二十号線を飛ばしていた。あれから音大受験を控えた生徒の特別レッスンをしたり、シティフィルの練習に出たりと、慌ただしい生活が続いている。ところが泉の里に行くはずだった週も半ばの午後、ぽっかりと時間が空いた。自分の練習や部屋の楽譜棚の整理など、すべきことはいくらでもあったが、どうにも落ち着かず、いつも通りに家を出た。
意識的に泉の里のある富士見とは反対方向に車を走らせた後、あてもないまま精進湖《しようじこ》の方向に向かった。車をUターンさせたのは、甲府の市街地を抜けてしばらく行き、精進湖道路に入る手前だ。正面に雪を被った富士が迫ってきたとき、白く輝く姿に得体の知れぬ圧迫感を覚えて、逃げるように車の向きを変えていた。気がつくと国道二十号の下り線を走っていた。いつものように高速道路に入らなくても、行きつくところは一緒だった。
二時過ぎに泉の里の駐車場に車を入れ、指導員室に顔を出すこともなく、真っすぐプレイルームに向かった。
かすかにチェロの音が聞こえてくる。はっとして、足を止める。確かにプレイルームの方向から聞こえてくる。
レッスンは中止にしたが、由希はいつも通りやってきて弾いていた。
東野は飛ぶようにそちらに近づいていった。
ドアを開けようとした瞬間、後ろから腕を掴んで引き離された。
深谷だった。
「見えたわよ。あなたのカローラが登ってくるのが」
にこりともせずにそう言うと、「どこか、別の所へ行きましょう」と東野を引ったてるように玄関に向かって歩き出す。
「由希はレッスンのつもりで部屋で待ってるんですよ」
腕を掴まれたまま、東野は抗議するように言った。
「ええ、由希は待ってるわよ。この日、この時間。定められた日時に、定められたことをするためには、あなたが来ても来なくても、自分の体の具合が悪くても、たとえ火事で建物が焼けてる最中でもね。それが彼女の決まりなのだから」
深谷は車の鍵を手にして、外に出る。溶けかけた雪に反射する陽射しがまぶしい。タイヤが半分埋まっている自分の車に近づき、深谷は東野のために助手席のドアを開けた。
東野がしぶしぶ乗り込むと、深谷はフロントガラスの雪を払い、手慣れた様子で発進させた。林道を二十分ほど走ると、左手にスキー場が見えてくる。薄青に輝くゲレンデにリフトが二基動いている。平日のせいか人出は少ない。
「まさか、滑ろうっていうんですか」
東野は、ハンドルを握っている深谷に尋ねた。
「いいわね、あなたはできるの? スキーは」
「だめです」
「音楽一筋?」
「不器用なんですよ。一つのことに夢中になると他のことはできない」
深谷は微笑した。久しぶりに見る笑顔だ。目の回りの小皺が目立つのは、雪の乱反射であたりが明るすぎるせいだろう。魅力的な笑顔だった。
「弟はうまかったですよ。死ぬ前の年に一級を取りました」
「亡くなったの?」
「ええ、高校生のときに」
「事故?」
「心臓の奇形。それを除けばできのいい奴でした」
日焼けした顔に、くっきりと鼻筋が通ったたくましい顔。十六になったばかりの弟の笑顔を東野は思い出した。
「ちょっと見は、健康そうでしたが、手術もできなかったんです。薬で抑えていても、発作が起きるので、家には心臓除細動に使うアメリカ製の電気ショック装置がおいてありました。それがないときには、電気ショックの代わりに、拳で心臓の上をぶんなぐるんです」
「それでこの前、由希が倒れたときに……」と深谷はハンドルを握ったまま、小さくうなずいた。
「講習は受けても、慣れてないととっさのときにはなかなかできないものなのよね」
「ちょっとやそっと叩いても、心臓の鼓動はもとに戻りません。慣れないと、思い切ってなぐれないんです。このやろう、と僕はやりました。僕より頭が良くて背も高くて、野球がうまくて、両親の自慢の弟の厚い胸板をぶんなぐるんです。このときばかりと、思い切り。そう始終発作を起こしたわけじゃなかったんですが、高校二年の夏が最後でした。クラブの合宿の最中にやったんです。あいにく僕はいなかった。救急処置ができる奴が周りにはだれもいなかったんです。病院に運ばれたときはもう手遅れで、それでも一週間生かされてましたが。クラブに入るのを許すんじゃなかった、合宿になど行かせるんじゃなかったと両親は今でも言いますよ。でも僕はあれでよかったと思います。体をいたわって、動物園のパンダのように何十年生きたってしかたないと思いませんか」
「親にしてみればね」と深谷はため息をついた。
「彼は、何をやってもうまかった。才能の総量が僕と違ったらしい。だから長生きできなかったのかもしれませんね。案外、僕みたいなのが細く長く生きていくんだろうな」
東野は自嘲的に言って、話題を変えた。
「深谷さん、家族は?」
「シングルか、って意味?」
深谷は片方の口元を少し引き上げるようにして笑った。
「そういうことではなく……」と東野は慌てて言った。深谷の経歴や生活ぶりからして、当然独身だろうと決めてかかってはいたが、親、兄弟が一緒に住んでいるかもしれないと思った。
「一人。離婚したから」
こともなげに深谷は言った。あまりにさり気ない調子で、それ以上話を続けるきっかけがなくなった。
深谷はレストハウスの前で車を止めた。一階が喫茶店になっていて、数人のスキーヤーが、日焼けした頬をほてらせて、濡れた手袋を乾かしている。深谷はいちばん奥の窓際に東野を案内した。
テーブルの前に座ったとき、深谷の顔には厳しい表情が戻っていた。
「由希の状態について話さなければならないわね」
深谷がここまで自分を連れてきたのは、気晴らしでも何でもない。施設の他の職員に聞かれたくない話をするためだということを東野は悟った。
「あの夜から二日間、失禁状態。意識はあるけど何もしないの。口元まで食物や水を持っていっても、口を開かないし、無理に入れても吐き出すし。とうとう点滴したわ」
東野は言葉を失い、頭を垂れた。
「寮母さんや指導員がつききりで、きょうになって少し良くなってね。由希の心はね、極端なストレスに耐えられないの。感情表現が貧弱だから、鈍感に見えるかもしれないけれど」
「僕が怒鳴ったり、無理強いしたのがいけなかったんですか」
「何のために、怒鳴って、無理強いしたの?」
落ち着いた調子で深谷は尋ねた。
「それは……」
「あなたは何を由希に要求したの?」
「自分の弾き方で弾け、自分の表現をしろ、自分を音の上に解放するのだと」
深谷は小さくため息をもらして、首を振った。
「由希はすばらしく精緻な記憶装置を持っているわ。けれどそれは、普通の人間が意味を体系的に理解して覚える認知記憶とは違うの。彼女の記憶は耳から覚えて、機械的に再生しているだけ。おうむのおしゃべりと一緒。おうむは、自分のしゃべっている意味なんか知らないのよ。ただ、その通りの音を完璧に再生してみせるだけ。だから何かを作りだすのは無理なのよ。その無理なことをあなたはやらせようとしたの。何もないのよ、彼女には。わかるわね、何も……」
東野はかぶりを振った。
「いませんよ、何もない人間なんて。そんなの」
「由希の天才が何に由来するものか、教えてあげましょうか」
深谷はテーブルの上の紙ナプキンを取ると、ボールペンで縦横の線を引いた。
「なぜ、一度聴いただけの音楽を完璧に復元するのか。彼女の頭の中には地図ができているのよ。音符よりも、はるかにたくさんの情報をもり込めるなにか。耳から入った音を一瞬のうちにコード化して記憶し、それを再現する能力があるの」
紙ナプキンには、13×5計65のますがができた。そのますを深谷はアルファベットと数字で埋めていく。文字と数字の配列はまったくランダムで、何か意味のある単語や数字を見出すことはできない。
「三十秒間、見て」
深谷は言った。意図がわからないまま東野は言われた通りにそれを見る。三十秒数えて、深谷は裏返した。
「左上から順番に、言って」
「覚えてるわけないじゃないですか」
「ええ、それが普通。けれど完璧にやってのける人がいる。しかも裏返した直後でなくて、四か月も経過した後で」
「それができて何か意味があるんですか?」
「まあ、いいから聞いて」と再び、深谷はナプキンの表の数字と文字の無意味な配列を見せた。
「そうしたことは子供のほうが起きやすいし、ナイジェリアのある部族では、成人でも一般的に見られるそうよ。おそらく、概念の言語化や、読み書きの能力の習得によって失われてきた人の潜在的な能力ではないかと思うけれど」
「つまり由希には、こういうことができると?」
「いえ」
深谷は、首を振った。
「僕なら、たとえば、これが音符だったらできますよ。この紙一枚分くらいね」
「それとは違うのよ。あなたならこの紙一枚分の楽譜を覚えるときどうする?」
「格別意識したことはありませんが、階名と楽譜から立ち上げたメロディーの両方によって覚え、それから実際に楽器を弾けば、左の指の動き、つまり体で覚えることができるから暗譜はもっと完璧なものになります」
深谷はうなずいた。
「そうでしょう。それが普通の人が記憶する方法。でも特殊な人々にとっては、この数字の羅列は、いったん記憶して想起されるわけではないの。何の加工もされないで、このまま写真に撮ったように像として焼き付いてしまう。後からその焼き付いた像を読んでいくだけで、決して思い出しているわけじゃないの。直観像と言われるものよ。由希の場合、ある情報をコード化する機能が失われているのを補完する意味で、これと似たようなものが耳から聞いたものについてできていると、私は考えているわけ」
東野は以前に目にした由希の脳の写真、退縮した部分を包むようにして発達したその部分を思い出した。
深谷は説明を続けた。
「つまり視覚における直観像に対応するものが、由希には聴覚において存在する、と考えると、彼女の膨大な機械的記憶の説明がつくのよ」
「だからどうだと言うんですか?」
「由希の音楽的能力の本質は、こうした普通の人とは違った記憶のメカニズムによるもの。つまりあなたが由希に要求することとは違う部分なのよ。ある演奏形態とそっくりになるという理由は、この由希の特殊な記憶メカニズムにあるということ。その事実は受け入れて」
「受け入れられません」
「彼女の演奏はあのままでもすばらしいものよ。多くの人々に感銘を与えているわ」
「聴衆はルー・メイ・ネルソンの音楽に感動しただけですよ」
「事実、由希の演奏はすばらしいのよ。それを独創かコピーかなんてことに、なぜそれほどこだわるの? それは演奏家としてのあなたの見解にすぎないのよ」
東野は無言でかぶりを振った。たしかに彼が由希を指導しながら対峙したのは、彼自身の音楽であり、彼の理想であったような気がする。しかしそれだけではあの倒れる直前の音は、説明がつかない。晴れやかで無心な由希の顔、輝かしく透明な音の流れ、あのとき由希は何かから逃れた。ルー・メイ・ネルソンの情念的音楽から逃れたとき、彼女は常人には見えないもの聞こえないものを全身で感じ取ることができるのではないか。
「前々から疑問に思っていたんですが、聞かせてください」
東野は座りなおし、深谷を正面から見た。
「由希がセミナーで弾く前、三週間ほどのブランクがありましたよね。あのとき……」
次の言葉は、喉にひっかかった。赤ん坊の喉にティッシュペーパーを詰め込んだ事件は、思い出すたびにやりきれない気分になり、話題にするのは抵抗があった。
「ああ。あなたがしばらく来られなかったときね」と深谷はうなずいた。
「あの間に何があったんですか」
深谷の表情は変わらない。それがかえって不自然で、何か隠しているとぴんときた。
「確か僕がいない間、由希はCDを聴いていたそうですが、それは何でしたか」
「さあ」
「それから僕が肺炎を起こしてしばらく休んだとき、出てきてみたらプレイルームにルー・メイ・ネルソンのCDが置いてあった。あれを由希に聞かせたのはなぜですか。そもそもなぜあのCDが、この施設にあったんですか」
「私が、買ってやったからに決まってるじゃないの」
「そうなんです。そこが問題です。なぜ、音楽に興味のないあなたが買ったCDが、ルー・メイ・ネルソンだったんですか?」
深谷は、肩をすくめた。
「レコード店で目についたから。あなたはなぜルー・メイ・ネルソンを聴かせたくないの?」
「それは」
「こだわっていたからでしょう」
深谷は東野が答える暇を与えなかった。
「その自殺したチェリストにいちばんこだわっていたのは、あなたのほうでしょう」
「こだわりましたよ。弾き手にとって参考にはならないという意味において」
「あなた自身は、彼女に影響は受けてなかったの? その女流チェリストの弾くのをいいな、と思ったことはないの」
「僕は、手法的な意味でああいう演奏は認めません。深谷先生はまだ僕の質問に答えていない。僕が来ない間に何があったのか。どういう状況で、ルー・メイ・ネルソンのレコードを聴かせたのか。答えてください」
「確かに特殊な状況で聴かせたわ」
深谷は、躊躇するように間を置いた。やがてゆっくりした口調で話し始めた。
「由希が赤ん坊の口にティッシュペーパーを詰め込んだあの後、私の出身大学から、臨床心理学の教授が来たわ。由希の音楽的能力ではなく、音楽を効果的に使うことによって、感情の表出や日常行動が正常化していくことに行動変容の可能性を見出したの。由希を彼に診《み》せるということについては、施設の指導員は全員了解したわ。だって、だれも由希の心を開かせることはできず、あのときはみんな混乱していたの。それで当初は由希を大学まで連れていくことになっていたんだけど、慣れたところのほうが由希がリラックスできるからという理由で彼にここまで来てもらったわけ。それで彼の開発した方法を試みた。他者に対する共感を発達させるための訓練」
「何をしたんですか」
「由希は人と視線を滅多に合わせないし、人の顔を見ることもあまりないでしょう。それで彼が前に座り、たまたま彼のほうに顔を向けた瞬間に、心地よい刺激を与えて強化するという方法を取ったのよ」
「餌でもやったんですか」
深谷はにこりともせずに首を振った。
「本来、好ましい反応をした瞬間に、部屋の明かりをぱっと明るくするという方法を取るんだけど、由希の場合は音楽を聴かせたの。続きを聴きたければ、もう一度人の顔を見なさい、ということ」
「そのとき使った音楽がルー・メイ・ネルソンですか」
「いいえ」と深谷は首を振った。
「別の、何だか知らないけれど、明るくてきれいな曲。それで次の段階では、人の目を見るようにする。そうして徐々に他人の目を見るという行動を身につけさせていく。それと並行して行なったのが、由希に真似をさせてみること。彼が笑い、笑顔を真似させる。悲しい場面をスライドで見せて、悲しい顔をしてみせ、それと同じ表情をつけさせる。それで同じ顔を由希ができたとき、音楽を聴かせてやる」
「いったいそれに何の意味があるんですか。俳優の訓練じゃあるまいし」
「人の感情表現は、一般に思われているように生得的なものじゃなくて、周囲の働きかけによって学習していくものなのよ。そして表現という形を身につけることによって、感情自体も発達していくものなの」
「ずいぶん単純に考えるんですね」
東野は冷ややかに言った。
「で、成功したんですか」
深谷は首を振った。
「人の目を見るとか、笑顔を見せるとかしたとき、いい音楽を聴かせるというのがご褒美なら、その反対もあるの。問題行動が出た場合、たとえばいきなりテーブルを叩き始めて、いつまでも繰り返して止めないといった行動が出たときには、不快刺激を与える場合もある」
「電気ショックですか」
深谷は首を横に振った。
「いまどき、人間にそんなものを使うはずないでしょう。不快音よ。ジェット機の飛び立つような。そんなに大きな音じゃなかったし、私たちにとってはブザーの音を聞くようなものだったけど、今思えば、由希にとっては神経を削られる音だったに違いないわ。そのとたんに由希は彼の顔を凝視したの。私にはそれが怒りだととっさにわかった。でも彼は、由希の無表情な凝視から怒りの感情を読み取ることはできなかった。自分の瞳を正面からしっかり見たということで、ご褒美の音楽をかけたのよ。そのとたん、失敗したと後悔したわ。あのとき私は藁《わら》にもすがるつもりだったのだけど。ぐらっとめまいがしたと思ったら、彼が悲鳴を上げた。脇の出窓に薄い吹きガラスでできた動物の置物がいくつも並べてあったんだけど、まずその一つが音を立てて割れた。いえ、割れたなんてものじゃなかったわ」
言葉を止めて、深谷はいきなり腕をまくってみせた。肘から手首にかけて、白い傷痕がある。
「破裂して、破片が飛んできた。もっと驚いたのは、窓の近くにいた私ではなく、彼の頬に、びっしりと細かな破片が刺さっていたこと。まるで丁寧にガラスを砕いて、皮膚の上に植えたみたいに。私は由希を抱き締めた。だらしない話だけど、どうしたらいいのかわからなかったのよ。頼むからやめて。これ以上トラブルは起こさないでって。由希の体は私がしっかり捕まえているというのに、ガラスの動物はつぎつぎと破裂して、テーブルの上の重たい灰皿が踊り出したわ。私は顔にガラスのかけらを刺したままの彼に、すぐに出ていってくれるように言って、ブラインドを下ろした。部屋を薄暗くしてドアを閉めて、また由希を押さえつけるように抱いた。そんなとき由希に触れていると痛いのよ。心理的なものじゃなくて、本当に痛かった。皮膚の上に電流が走ったみたいに。由希の緊張が極限に達しているのがわかったけど、どうしたらいいのかわからない。医者を呼んで注射をしてもらうしかないのに、それをするのは嫌だった。精神科の医者に由希を扱わせたくないというプライドだったかもしれない。それでとっさにそれまで使っていたCDプレイヤーのボタンを押したの。そうしたらいきなり蓋が開いて、CDの本体が飛び出してガラスにぶつかった。そうだチェロならなんとかなるかもしれないと思って、それで私は、その前から聴かせていたチェロの曲をかけた。今度はCDは飛び出してはこなかった。由希はひどく興奮していたけれど、次第に静まってきたわ。その間、私はずっと片手で由希の目を塞ぎ、ガラスの飛び散った中で座っていたのよ。ずいぶん長い間、そうしていて、気がついたら由希は眠っていた。疲れ切ったのね」
「その結果が、セミナーで雑誌ライターを驚かせたルー・メイ・ネルソンそっくりの演奏ですか。異常な状態で聞いた音楽のあるパターン、ルー・メイ・ネルソンの特徴となっている部分が、由希の頭にこびりついてしまったということですか、さっき言った音の直観像のようなものによって」
「直観像的な記憶、つまり正確で細密な音の記憶が由希の頭の中で保存されたということは、ルー・メイだけでなく、今まで彼女がしてきた音楽を覚えるという行為すべてに当てはまるんだけど、細かなニュアンスまで似ていて、そっくりに演奏するとしたら技術的なことがらも含めていくつかの複合的な要因があると思うわ」
「そんなことはわかっています」
東野は思わず声を荒らげた。
「問題は正確に再生されることではなく、それ以外の弾き方ができないということなんです。何か、強迫的に他の表現を妨げているものがあるんです」
深谷はうなずいた。
「どんな風な弾き方をするかということは、私は音楽の専門家じゃないからよくわからないんだけど、定められた道筋を離れることに、不安や恐怖を感じているんでしょう。スツールや机を少しの角度の違いも許さず揃えるみたいに」
「で、その心理学の先生のほうはどうなりました?」
東野は、無意識に山岡将雄の姿を重ね合わせていた。
「大事には至らなかったわ。顔はもちろん傷になったけど。慣れた人だから、騒がなかったし、ここの職員にも余計なことを言わなかった」
「つまり由希は手を触れずに、そのガラスを破裂させたわけですね」
「それについては、彼もそうとうにショックを受けていたわね。それが私には音楽云々以上の問題なのよ。前からたまに妙なことはあったけれど、こんなにひどくはなかった。音楽の訓練をしてからよ」
「やめますか」
その気は毛頭ないまま、東野は尋ねた。深谷は息を一つ吐き出した。
「やめたところで、なくなるものではないわ。由希は一人で弾き続けるでしょうし、あなたが来なくなっても、いつものレッスンの時間になったら、プレイルームに来るでしょう」
東野は山岡の身に起きたことを話そうかと迷った。しかし結局やめた。場合によっては人の命さえ奪う力を由希が身につけたと知ったとき、深谷がどんな判断を下すのか、わからなかったからだ。
その日、由希に会わずに甲府に帰った東野は、自分の持っているCDやテープなどを調べてみた。
「その自殺したチェリストにいちばんこだわっていたのは、あなたのほうでしょう。あなた自身は、彼女に影響は受けてなかったの? その女流チェリストの弾くのをいいな、と思ったことはないの」という深谷の言葉がなんとなくひっかかっていたのだ。しかし判明したのは、自分はルー・メイ・ネルソンの弾いているものをほとんど持ってないということだ。やはり深谷は、音楽については素人で、演奏家の心の内など理解することはできないのだ、と安心するともなく思ったそのとき、はっとした。
好き嫌いや上手下手にかかわらず、チェロの曲については、東野はひと通りの演奏を集めている。テレビやラジオで放送した学生コンクールのものまで、参考のために録音してある。それなのにいちばん出回っているルー・メイのCD、いちばん放送頻度の高いルー・メイのテレビ放送の録画がない。ことさらに避けていた。それが深谷の言うこだわりだ。
東野は、一本のテープを取り出した。少し前、シティフィルのメンバーと彼自身がチェロパートを受け持った弦楽四重奏である。それをデッキに押し込んだ。自分の音が聞こえてくる。耳を澄ませた。
他の楽器に溶け込む音だ。ファーストヴァイオリンを下から支え、チェロパートが主旋律を奏でるときには、アンサンブルの流れを乱さないように適度な音量で浮き出てくる。
ルー・メイの対極にある弾き方だ。しかし微妙に似ている。音質もアクセントも違うというのに、どことなく似ている。
背筋がぞくりとした。小さく身震いして、うめいた。表面的な表情のつけ方はかけ離れているから、普通なら気づかない。しかし基本的な音の作り方がルー・メイ・ネルソンに明らかに似通っているのだ。
山岡将雄とルー・メイは、同じ師についていた。山岡の弟子である東野が、ルー・メイに似ていて当たり前だった。系図を作れば彼女は東野の叔母に当たる。あまりにも大きな力量の差があって気づかなかっただけだ。
それだけではない。どこかで心を惹かれていたのかもしれない。自分には求めても得られないその奔放さと奔放さを演奏効果に変換しうるその天性の音楽的感性に。
こだわっていた。こだわっていたからこそ、ルー・メイ・ネルソンの演奏をことさら強く否定しなければならなかった。だから由希は異常な興奮状態で聴いたルー・メイ・ネルソンに強烈な親和性を示したし、自分の演奏の中にその演奏パターンを完璧に写し取ってしまったのだろう。
由希が見たものは、聴いた音は、そして感じ取ったものは何だったのだろう。それは確かに深谷の与えたCDの音だが、同時に教師である自分の内側に、ある種のこだわりとして持ち続けたものだったのかもしれない。
由希は、それまでもこちらの心の中を覗いていた。由希はこちらの感情を読み取っていた。高田保子に激しい頭痛を起こさせたのはそれだ。読み取っただけではない、心に侵入してくることさえした……。
由希は、俺の心の内に秘匿していたものを掘り出してしまった。
東野は、自分自身の演奏に耳を澄ませながら唇を噛んだ。
ルー・メイは、由希にとりついた悪霊などではないし、深谷の言うように直観像的記憶によって説明できるものでもない。いくつかの偶然が重なった挙げ句、由希と自分が共同で作り上げてしまった強固な形、「シェーマ」だ。
リサイタルまで、あと一か月しかない。心不全を起こす直前、由希は一瞬ではあったがルー・メイから離れた。命がけでシェーマを壊したのだ。
翌週からレッスンは再開される。もっとも由希の体調の回復次第ではあるが。リサイタルのメインになる曲は、バッハの第六番の組曲と決めてある。あのルー・メイが、とうとう録音を残せなかった、弾ききれなかった第六番だ。これなら、ルー・メイの物真似になりようがない。
しかし由希に細かな指使い、弓使いを覚えこませるためには、東野がまず弾いてやらなくてはならない。これがもっとも現実的な問題だった。
東野自身が弾けなければ、由希は弾けない。死にもの狂いで彼自身も練習したが、それでもひっかかる。音程が微妙にずれる。隣の弦を弾く。音が抜けてしまう。他の曲では決してしない失敗ばかりだ。
バッハの無伴奏チェロ組曲は、本来多声部のための音楽を、たった一本の弦楽器に乗せてしまおうという無謀な試みから成っている。その試みを究極まで押し進めたのが、この六番だ。無謀な試みは奏者に、超人的なテクニックと表現力を要求するが、東野にはそれに応えられる力量がない。
一本の旋律が、伴奏のもたらす和声を内包しながら進行していく。単線で表現されるポリフォニー。その偉大な逆説は、完璧な演奏に出会ったとき、奇跡のような美しさを放つ。このときほど東野は、由希を他のもっとすぐれた弾き手に委ねたいと思ったことはなかった。しかし頼みの山岡は、あまりに人間的な部分で由希に関わり合い、深手を負った。
いったい自分に何ができるのか、と手のひらを見つめた。小指が極端に短く、節々は固く、あちこちにたこのできた醜い手だった。
ふと、それが真っすぐに由希の手につながっていくのかもしれないという気がした。弾く者と弾かせる者、という境界は、実は案外簡単に崩れるものかもしれない。そんな思いが東野に小さな希望をいだかせた。
翌週の火曜日、東野が泉の里に行ったとき、由希は回復していた。少しやつれたのではないか、痩せたのではないか、という心配をしていたのだが、その顔色は艶やかで明るくクリーム色のセーターに映えている。
言葉をかければ、感傷的な気分になってしまいそうで、東野はすぐにレッスンを始めた。
二十分近く基礎練習をした後に、曲に入る。この日初めて、第六番を弾かせることにした。まず二、三小節ごとに区切り、それがどんな曲であるのか、どんな音程で、どんなリズムを持っているのかを教える。これは楽譜の読める者が、譜面から得る情報を耳から与えるということだ。同時に指使いと弓のアップダウンの約束事を覚えさせる。
つまり曲の骨子をとりあえず記憶させる段階だ。しかしこの段階で、東野はすでに弾けない。音程がずれたり、隣の弦に触れてしまったりするたびに、東野は「ごめん、間違えた」と謝る。学生の弟子の中には、こんなときくすっと笑ったりする者もいるが、由希は沈黙したまま、東野が正しい音を弾くのを待っている。そして彼が弾きなおすと、たった一度で完璧な形で繰り返してみせる。しかし完璧な繰り返しの中に、まだルー・メイの音はない。ワンフレーズにも満たない部分を弾くとき、由希の音は電子楽器による演奏のように音程とリズムの正確さを保っているだけで、これといった抑揚も情緒もない。弦の振動によって生じる極めて物理的な空気の振動にすぎない。しかし何度か繰り返すうちに、その音は自然な伸びやかさを帯びてくる。
それは何度目かの誤りの後に起きた。
東野が間違え、謝って、弾きなおそうと思ったその前に、由希は正しい音を再生してしまったのだ。東野はあっけにとられた。あっけにとられながらも、一方で当然のこととして受けとめていた。
深谷によれば、由希はカメラで写し取ったように音楽を機械的に記憶し、異常な集中によって獲得した完璧な技巧を駆使して、正確に再生しているにすぎない。機械的記憶の機械的再生のはずだ。間違えた音で弾けば、そのまま繰り返すはずだった。しかしそうではない。譜面の読めない由希が、初めて聴く曲の演奏の誤りを訂正する。
特殊な能力で、直接こちらのイメージを読んでいるのか? 人に恐ろしげな記憶を再現させて頭痛を起こさせ、切羽詰まると幻を見せることからしても、それができて不思議はない。
しかし東野は、もっと合理的な説明ができる。
由希は指示されなくても、間違った音を正して弾ける。それはつまり、彼女が音楽を体系的、法則的に理解する能力を身につけたということだ。だから東野が外した音を法則にそって補うことができるのだ。
由希はおうむではない。彼女は音楽を正しく理解している。案外、音楽だけでなく、彼女の回りで起きる多くのことを体系的に理解しつつあるのかもしれない。それは自分にとっても、そして由希にとっても、大きな希望につながることであるように東野には思えた。
リサイタルの当日、東野は深谷と二人で由希を施設から渋谷の会場に連れていった。
車は、中沢のローレルを借りた。深谷の四駆では小さすぎるし、時価八億のアマティを乗せるには、東野の中古のカローラでは不安だったからだ。
トランクを開けて由希の衣装や楽譜などを収め、後部座席にケースに入ったアマティを抱いて東野が乗る。
「後ろにエアバックはついてないからね、衝突したときには、あなたが体を張って守るのよ」と軽口を叩きながら、深谷は由希のシートベルトを締めてやりハンドルを握る。
雪解けの道はぬかるんでおり、深谷は慎重にハンドルを切って下りていく。
「さすがに静かですね、高級車は」と東野が言うと、深谷は「運転しづらいわ。他人の車だから」と小さく舌打ちした。
普段よりも時間をかけて麓に下り、小淵沢インターから中央自動車道に乗った。道は予想外に空いていて、高井戸から首都高に入って昼すぎには渋谷のインターを下りていた。
下の道は渋滞しており、歩道は人であふれかえっている。久しぶりの渋谷の街は、この二、三年でまた様変わりした。東野の学生時代から、ずっとここは若者の街だったが、年齢層はさらに下がっている。夜ともなれば、一帯は酔っ払ったティーンエイジャーたちに占領される。
ルームミラーにぼんやりと街の様を眺める由希の顔が映っている。目を開いたまま眠っているようだ。いくぶん顔色は青白いが、ふっくらした頬から顎にかけての線にあどけなさが残り、戸籍上の二十九という年齢をどこかに置き忘れてきたようだ。両脇の歩道をうめつくしている少女たちよりもはるかに幼く見えることに、東野は複雑な感慨を覚えた。
わずか数キロの道を四十分近くかけてホールにたどり着き、隣のビルの地下駐車場に車を入れる。東野が片手に楽器をかついで楽屋口に歩きかけたときだ。
いきなりテレビカメラが近づいてきた。
男が一人、無遠慮に由希の正面に回りカメラを回す。由希は、痙攣するように身体を震わせた。トランクから衣装ケースを出していた深谷が素早く接近したカメラと由希の間に体を入れた。
「ちょっと、あなたたち何なの」
髭の中年男と、ちんぴら風の若い男が無視して由希を追う。
「おい、何やってるんだよ」
東野は慌ててかけつけ、髭の男の肩を掴む。
「きょうのリサイタルの録画を担当させてもらうんで……」
すり切れたジーンズをはいた若い男が、顎を突き出すような仕草で形だけの会釈をした。その間も、汚れたパーマ頭を振りたてた中年男は、カメラを回している。
「そういうことは、前もって言っておいてよ」と、深谷がくってかかる。
「プロダクションさんのほうに、あらかじめ話は通してあります」と若い男が言う。
そうするうちに横あいから、ペパーミントグリーンのワンピースを着た女が現われた。
「浅羽由希さんですね。初めてのリサイタル、おめでとうございます」とマイクを突きつける。
テレビレポーターらしい。由希は、硬い表情で無視する。視線はまったく動かない。女がまるで存在しないかのように、刻まれたような形の良い唇を結んで遠くを見ている。そんな由希の顔をカメラはアップで追う。
やらせだ。彼らは、由希とルー・メイ・ネルソンとの相似、そして彼らの言う「情緒障害」をワンセットにして売ろうというのだ。
「ちょっと悪いけど、あなたね、そのマイクは遠慮して」と深谷がレポーターと由希の間に割って入ったすきに、東野は由希の腕を取り、彼らを振り切るようにして楽屋に入った。
リハーサルまで二時間近くある。その間に由希を落ち着かせ、弾ける態勢を作っておかなければならない。
楽屋に入ると由希は東野がいるのもかまわず、着替えを始めた。ニットのスーツを脱ぎきちんと畳む。絹のハーレムパンツをはき、ブラジャーを外しストラップレスのものと取り替える。一連の動作にはよどみがない。
東野はその隣で、楽器をケースから出す。本番前の緊張感が、照れや気恥ずかしさをどこかへ押しやっている。鞄から取り出した音叉を叩き、その元部分をチェロの駒に軽く当てる。目を閉じると440ヘルツの音が、一筋の光のように鼓膜の奥に直進してくる。糸巻きを回しながらA線を合わせた後、隣の弦とダブルで弾く。正確な五度の奏でる乱れ一つ無い和音を探し、糸巻きを止める。
ふと目を上げ鏡を見ると、背中に腕を回してビスチェのファスナーを上げている由希の姿があった。自然な美しい仕草だ。不安に震え硬くなっている様子はみじんもない。
こんな場面で何のプレッシャーも感じない由希を東野は羨ましかった。
そのとき事務所の柏木に電話をかけ終わった深谷が楽屋に入ってきた。
「もう、何も連絡をしてくれないんだから。テレビのニュースショーで今回のリサイタルを取りあげるんですって。事前に言っておいてくれなくちゃね」と憤慨しながら、由希の髪をとかし始める。
そのとたん、深谷の携帯電話が鳴りだした。舌打ちして深谷は出る。二言、三言話して、困惑したように電話を切った。これからすぐに施設に戻らなければならないという。実母の葬儀のために家に帰っていた入所者が、前日に施設に帰ってきていたのだが、さきほどから不安定な状態になっている。中沢が出張中で連絡が取れないので、泉の里の事務員は深谷に至急戻ってきてほしいと言ったらしい。
「行ってください」と、東野は言った。
「僕、一人でも大丈夫です」
深谷は何か言いかけた。由希に深く関わってきたとはいえ、東野は泉の里の正職員ではない。身分的には楽器教師にすぎない東野に由希を託して帰るのは不安らしい。
「泉の里の入所者は、由希一人じゃありませんよ」
「ええ……」と、深谷は痛いところをつかれたような顔をした。
「新宿までタクシー飛ばして、特急に乗ればすぐ戻れるじゃないですか」
「わかってるけど」と、深谷は小さく息を吐いた。
「くれぐれも無理させないでね」
「わかりました」
東野は由希の痙攣する白い膝頭を思い出した。二度とあんなまねはすまいと思った。
深谷は柏木に連絡を取るためにいったん部屋を出た。東野は弓に松脂を塗り由希に渡す。軽く出だしを弾くことによって、曲の順番を指示する。
由希の音楽は東野に支えられている。今のところ、だれも彼の代わりはできない。由希は常に東野に導かれている。何より彼女が弾ける曲は、あらかじめ東野が弾いて、記憶させた曲だけだ。そのことに東野は軽い誇りに似たものを感じた。同時に、最近では由希と自分の間の不思議な一体感を意識することがある。由希に指示を与えながら、同時に彼女の受けた感覚を自分のものとして受け取っている。そのときはまさに由希が彼自身の感覚受容器になったようにさえ感じるのだ。しかし由希と共有できない感情もある。本番への恐怖と圧迫感だ。そうしたものをまさに二人分引き受けたように、開演時間が近づいてくるに従い、東野は尿意を覚えて何度も手洗いに立った。
舞台の脇を通り、まだ人の入っていない暗い客席を見渡すと、自分が弾くときよりも脚が震えた。鉛でも飲んだように胃が鈍く痛む。
何も心配しなくても、由希は間違えずに弾くはずだと自分に言い聞かせる。東野が教えている学生たちのように、緊張のあまりいきなり音を外したり、途中で止まったりといった大失態を演じることはありえない。
由希が第六番組曲を技巧的に問題なく弾きこなせるまで、わずか二十日しかかからなかった。それでもそれがだれにとっても難曲であることは変わりない。ひと通りマスターした後も、由希の全身に緊張した表情が見えた。ただしその緊張は、怖れや萎縮とは無縁な、由希自身が自分の力の限界を極めていくことに喜びを感じているような、挑戦的で前向きな感じのものだった。
その弾き方はメカニックで、何の表情もついていない。少なくとも、今回はルー・メイに似てはいない。もちろん情感を削ぎ落とした骨格ばかりのようなバッハは、比べてみれば、ルー・メイ・ネルソンにはるかに劣る。
しかし東野はそこに可能性を見出す。くっきりと一音一音を際立たせた分散和音は、ほんの少しアクセントをつけてやれば、曲想に流されて不鮮明になりがちなルー・メイの音よりも格調高い。重音を含んだ長音で構成されるアルマンドは、わずかの音の濁りもない。由希がこの曲にもう一歩踏み込んだとき、いつかはネルソンの肉声に近い感傷的な音色を凌駕《りようが》し、透明で清冽な叙情をたたえた壮大な音の伽藍《がらん》が出現するであろうと思う。
ただしそれはあくまで可能性である。由希は今のところ、国内の「ある程度弾けるプロ」の水準を超えてはいない。そうした意味で、まだ完成にはほど遠い。それでもバッハの音楽には、たとえタイプライターを叩くように演奏したとしても、なおかつ美しさを失わない堅牢な構造がある。
今回は、譜面通りのメカニックなバッハを弾いていい、と東野は思う。なによりバッハの組曲第六番を弾かせて、指が回るチェリストなど滅多にいないのだ。この先、泉の里にいる限り、由希に練習の時間は有り余るほどある。慌てる必要はない。
ほどなくリハーサルの準備ができたという連絡が入った。
楽屋の並びにあるリハーサル室に行きかけると、係がそちらではなく舞台で行なうようにと言う。
無人の客席を前に舞台にだけ煌々《こうこう》と明かりがともっている。袖まで行き、東野は由希を送り出す。
暗い客席に向かい、由希は弾き始めた。そのとき客席から男の声がした。
舞台の袖からうかがうと、通路にさきほどの髭の男がいた。カメラを回しながら、舞台上の由希に向かって注文をつけている。
由希が無視していると、カメラから離れ、つかつかと舞台に近づき怒鳴った。
「あのさ、もう少し動きを出してみてよ。肩とかさ」
由希はそのまま弾き続ける。男は、舞台の床を手のひらで叩いた。
「その地蔵みたいな弾き方なんとかならない? 音は後で入れればいいんだから、とにかく動いてよ」
ルー・メイの弾き方を真似ろというのだ。弾いている最中はシャッターの音さえ気にする演奏家に対し、こんな言葉づかいで、つまらない要求を突き付ける者は普通ならいない。彼らは、由希を演奏家とはみなしていない。東野は裏側の階段を下りるのももどかしく、舞台の袖から客席に飛び降り、男に駆け寄る。
このリサイタルの意味がわかりかけた。由希をさらに完璧にルー・メイ・ネルソンの再来、いや、レプリカに仕立てようとしているのだ。それが主催者側の意図であり、多くのファンの希望であったにせよ、由希をそうした見せ物にする気はない。
男の脇まで行ったものの、東野は奇妙な感じを覚えて言葉を飲み込んだ。
由希は弾き続けている。足元で吠えている男にかまわず、平然と弾いているように見える。しかし何かがびりびりと振動している。男は気づかない。東野は辺りを見回す。男はいくら怒鳴っても由希に無視され続け、憮然としてカメラのほうに戻ってくる。
「ようするに、本物のバカなんじゃないか」
吐き捨てるように叫んだ男の後ろ姿を東野は目で追う。後部のドアが開いて、客席に深谷が入ってきた。そして小さな悲鳴のようなものを上げて天井の辺りを指差した。
その方向を見て東野は立ちすくんだ。
髭の男とアシスタントの若い男と一台のカメラ、その真上に吊された共鳴板が、震えている。粘りのある木を張り合わせた厚さ三十ミリの湾曲した板が、障子紙のように震えているのだ。
パイプオルガンのフォルテシモさえ、あの板を震えさせることなどできない。しかし東野にはその板と板を囲む空気の振動が、はっきりと感じとれた。
「やめろ。やめろ、由希」
東野は叫んだ。G線の開放弦がフォルテで鳴る。ピーンという金属的な音が、長い全音符となってホール全体を揺るがせる。腹の底に響くような低弦の振動が加わる。共鳴板全体がぐらりと揺らいだ。
東野は、舞台に飛び乗り由希を抱きかかえた。
「ひっこめ、ばかやろ」
男の怒号と同時に、アシスタントの悲鳴が客席から聞こえたのはそのときだった。金属の砕ける音が、一瞬、弦の音を消した。ばらばらと人が駆け寄ってくる。横倒しになったカメラが、共鳴板の下敷きになっている。髭の男は、荒い息をしながら肩をさすっていた。落ちてきた板にぶつかったらしい。
深谷が茫然として天井を見上げている。
「深谷先生、帰らないでいいんですか」
東野は近づいていって、ささやいた。
「それどころじゃないわ、たいへんなことになって……」
施設管理係がかけつけてきて、「もし、開演中だったら……」と青ざめた額に浮かんだ汗の粒を、作業着の袖で拭いた。騒然とした場内に、由希の弾くバッハだけが切れ目なく鳴り響いている。
「どうします?」
低い声で、東野は尋ねた。こんな事態を目のあたりにしながら、驚きも恐怖も感じていないのが、自分でも不思議だ。
深谷は唇を噛んだまま答えない。いまさら演奏会を中止になどさせたくない、というのが東野の思いだ。この先、どんな危険なことが予想されようと、ここまできて引き返したくはない。一方深谷の危惧は他のところにある。由希の音楽的能力も含めた意味での、一連の能力の獲得は望ましい。しかし望みもしない負の力が、確実に強まっている。それによって由希が人に危害を加えることを、深谷は何よりも怖れている。理屈ではわかっていても、東野はそれに関心を払えない。悪いのは無礼なカメラマンのほうであり、東野にとって今もっとも重要なのは、由希がどんな演奏をするかということだけだった。
「中止にできますか? 演奏者の一方的な都合で」
詰め寄るように東野は深谷の耳元でささやいた。
「由希は聴衆の頭上に、共鳴板を落としたりは絶対しません」
深谷は黙って唇を噛んでいる。
「今のが由希の仕業だと言えますか? 舞台でチェロを弾いていた人間が、どうやって共鳴板を落とすんですか? それとも由希が昨夜のうちに細工したとでも言いますか?」
深谷は怒ったような顔で、東野を見た。
しばらくして事務所から柏木がかけつけてきた。
アクシデントがあったにもかかわらず、開演の準備は順調に進んでいく。
千六百ある客席は二階席までほぼ埋まった。外人アーティスト並みの入りだ。聴衆は、東野の危惧したような物見遊山の手合いばかりではなかった。しかし多くのクラシックコンサートに見られるようなドレスアップした中高年の男女の姿は少なく、ジーンズ姿で片手に音楽雑誌を手にした一目でマニアとわかる若者の姿が目立つ。由希は、完全にルー・メイ・ネルソンのファンを吸収していた。
残念ながら今回はルー・メイのコピーを弾かせやしないと、東野は舞台の袖から客席を見下ろした。
深谷は泉の里に戻らず、そのままずっと由希に付き添っている。
共鳴板の点検作業が入ったため四十分ほど遅れて、開演のベルが鳴った。
客席が暗くなる。緊張感も疲労感も感じさせないごく軽い足取りで、由希が舞台の袖にやってくる。
東野はもう何も指示することなく、由希を送り出す。
拍手の後、バッハの第六番のプレリュードが始まった。
スポットライトに背筋を伸ばした由希の姿が浮かび上がる。クラシックでは、普通、スポットライトは使わないが、やはり主催者は特殊な効果を狙っているらしい。東野は傍らの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
冒頭の三連符が聞こえてくる。歯切れがよく、予想以上に速いテンポだ。まさに演奏機械そのものだった。さすがの由希も多少緊張しているのかもしれない。
卓越した技巧で知られるシュタルケルの青年期の録音に匹敵する速さ。途中でテンポに乗り切れなくなって崩れなければいいが、と東野が不安になったときだった。
音色が突然変わった。
東野ははっとして腰を浮かした。自分の耳がしばらく信じられなかった。
また、やってきた。
下絵にいきなり色が乗った、そんな感じだった。
あのトーンだ。つぶれたような低音、ジプシーヴァイリオンを思わせる高音、ポルタメントをかけたいくらかずれて、うなりの混じる和音。
客席から、驚嘆のため息が風のように流れてきた。
何が起きたのかは、東野なりに説明することはできた。
音程とリズムの把握、フレージングと強弱の確認、こうした基礎的な手続きがこの瞬間に由希の中では完了し、新たな段階に入った。それと同時に由希の持っていた拙いながらも固有な音楽は消え、強固なシェーマが彼女の魂を覆って現われてきた。
東野は演奏するという複雑な行為を思った。作曲に比べれば独創性が低く、だれかの作った曲を自分の表現に乗せていく再現芸術。その表現でさえ、大部分は模倣により学習したものだ。もしも完璧な技術が奏者に備わり、自分のイメージと寸分違わぬ表現が可能になったとしたらどうだろう。そしてそのイメージ自体がその演奏者の感性にあるひとつの演奏パターンとして焼き付けられたとしたら……。
東野は彼自身が一つの曲をマスターする過程を思った。
最初に、どんな曲なのかとりあえず譜面にあるリズムと音程で弾いてみる。そして一音ずつ繰り返し仕上げていく。二つの音符の間を何度も行き来させて、わずかのずれを修正し、さらに一小節を繰り返し、それが二小節に増え、やがて一つのフレーズを続けて弾く。曲に何らかの表現が乗るのは、さらにその上の段階かもしれない。あるとき、ふと、弓が歌いだす。それがいつなのかわからない。どのように表現しようかという計算はもちろんあるにせよ自分自身の心が解放されたようにごく自然に流れ出るもののほうが遥かに多い。しかし二か月かけて難曲のテクニカルな面をクリアした由希は、今、ルー・メイ・ネルソンの感性をその完璧な技巧の上に乗せてしまった。
本来の心が、ルー・メイの音によって塞ぎ止められているのだとしたら、由希はひどく無意味なことをしていることになる。たとえそれによってどれほどの称賛を得たにしても。
東野は、視線を由希に向けたまま両耳を塞いだ。それでも由希の奏でる泥くさいバッハは指の隙間から、奇妙に心惹かれるアクセントをつけて流れ込んでくる。
アルマンド、クーラント、ガヴォット……組曲は様式としての舞曲の枠を踏みはずし、舞曲そのものになった。ポリフォニーも和声進行もない。解釈さえないまま、何かに憑かれたような奔放なダンスが由希の中でくり広げられる。ルー・メイ・ネルソンが、途中で息絶えて弾けなかったこの曲を由希の身体を借りて完成させようとしているのだ。
上半身を伸ばし、いくらか首を傾げた不動の姿勢のまま、由希は無表情に弾き続けていた。東野は五体に重い疲労を感じた。自分の無力を思い知らされたような気がする。
つぶれ、しゃがれた音。アマティの艶やかさと深みをルー・メイの肉声で押し包んだような、傲慢で、猛々しい音だった。和声のなだれ落ちるような速いテンポと、それを可能にするテクニック。一種の曲芸弾きとも言える。ルー・メイは第六番は残していない。しかしそこにあるのは間違いなくルー・メイの音楽だった。
東野は客席に視線を移した。天井の一角に目をやる。共鳴板の回りだけが、ぽっかりと明るみを帯びている。板が発光している。淡い光が、ぶるぶると震えている。チェロの音が高まる度に震えは大きくなる。下の客席は、人で埋まっている。
東野は立ち上がろうとしたが、身体が動かない。舌が渇き強張って声が出ない。舞台の袖から見える由希の横向きの姿が、急にぼやけた。
視界がいきなり写真のネガのように反転した。雪のように白いビスチェが、真っ黒に変わる。それよりもさらに黒い金属光沢を放つ髪が肩に広がって、腰まで伸びた。東野は声にならない声を上げる。隣で見つめている舞台係は気づかない。客席は静まっている。あれが見えないのか? 天井の板がゆらゆらと揺れている。プレリュードが終わって曲はもっとも技巧的なアルマンドに入った。長い重音が、きしみながら東野の耳を打つ。それに女のささやきが混じった。酔っ払いのような擦れ声、訛りのひどい南部英語のとてつもなく品の悪いスラングで東野を罵《ののし》っている。
東野は目を閉じた。そして再び舞台に視線を移したとき、ルー・メイ・ネルソンの幻は消えていた。わずか数秒間の悪夢だった。
「先生、気分でも悪いんですか?」
柏木が寄ってきて、そっと脇腹をつつく。
「あっ、いえ。疲れたもので、居眠りですよ」
「はあ、余裕ですね」
柏木は間の抜けた相づちを打った。
「柏木さん、ルー・メイ・ネルソンのしゃべったのを聞いたことありますか」
東野は小声で尋ねた。
「ええ。前にインタビューの録音を聞きましたが」
「どんな英語?」
「それはあなた、クイーンズイングリッシュというか、典型的なアッパークラスのものですよ」
「南部訛りは?」
「ご冗談でしょう」
「そうですか……そりゃそうですよね」
東野はうなずいた。
ダウンタウンでルー・メイを拾った初老の音楽家は、彼女に音楽とともに、上流階級のマナーを叩き込んだのだった。同時に寝室の作法も。このあたりの事情は山岡将雄から聞いたのだが、後年のルー・メイの奇矯な行動や早すぎる死も、こうしたことが影を落としているのだろうと東野には思える。
第六番を弾き終え、由希は戻ってきた。どこにも変わったところはない。
二十分という通常より長い休憩を挟んで、再び第三番を弾くために舞台に出ていく。
冒頭のルー・メイそのものの音程の下降が始まったとき、東野の傍らで由希を見守っていた深谷の携帯電話が、また鳴った。
あわてて深谷はその電源を切る。さきほどすぐに泉の里に戻ると連絡をしたまま、深谷は会場に居続けているのだ。
「行ってください。もう大丈夫ですよ。何も起きません」と東野はささやいた。
深谷は不安そうにうなずいた。
「リサイタルが終わるのを待って、僕が由希を車で連れて帰ればいいんでしょう」
「頼んだわね」と東野の目を見つめ、深谷は何度も振り返りながら、舞台の袖から立ち去った。
無事に最後まで弾き終え、由希は舞台から戻ってきた。東野はその手から楽器と弓を受け取り、ケースに収めた。主催者にはアンコールはできないと、あらかじめ伝えてある。
客席の拍手が、嵐のように舞台を押し包んでいた。
「行っておいで」
東野はささやいた。たとえ東野にとって不満な弾き方であっても、由希が聴衆に感銘を与えたことは確かなのだ。
「出ていって、挨拶しておいで」
東野に背中を押されて、由希はふらふらと舞台の中央に進み出た。そして拍手とブラボーの声のただ中に困惑したように立ちつくした。
数人の男から花束を受け取ると、その一つに顔をつっこむようにして匂いをかいで、上気した頬にかすかな微笑みを浮かべた。拍手が高まった。つぎの瞬間、由希は逃げるように舞台の袖に駆けこんできた。
「いいよ。いいんだよ、それで」
東野は笑いながら、由希の肩を抱き締めた。途中でルー・メイの音に変わってしまっとしても、それは由希のせいではない。
いいんだよ、と東野は自分自身に向かって繰り返した。
由希が着替えている間、彼は楽屋の外で楽器と弓についた松脂を落とした。照明が暗く、こびりついた松脂は落ちたのかどうか定かではなかったが、ひと通り拭き終え楽器をケースに収め留め金をかける。アマティのようなオールドの楽器は、木が乾ききっているので脆《もろ》い。裸のまま転がしておいて、だれかが足でもひっかけて倒したらたちまち板が割れてそれきりだ。どんな職人が直しても、元の音に戻らない。何といっても、時価八億円の代物なのである。
時計を見ると、九時を回っている。深谷の乗った特急は、新宿を出たところだろう。後は、ゆっくり事故を起こさないように気をつけて運転して由希を送り届ければ、今日の東野の役目は終わる。
ケースを隅のほうに寄せて、楽屋のドアをノックする。返事はない。いつものことなのでそのままドアを開けて入ると、由希は着替え終わって、鏡の前で髪にブラシをあてているところだった。
由希の衣装ケースを持って部屋を出てから気づいた。楽器を忘れた。
自分の間抜けぶりに呆れながら、衣装ケースを由希に持たせ、慌てて暗やみに立ててあったグレーのハードケースを抱えた。
関係者に挨拶をすませて出口に向かうと、コンクリートの打ちっぱなしの殺風景な廊下に人の気配がした。振り返るがだれもいない。
気のせいかもしれないと、アマティをしっかりと体に引きつける。背後で足音が響く。回りには配管がむきだしの壁があるだけだ。由希を急《せ》かせるようにして裏口から外に出る。住宅街に面したこちら側は、繁華街と接する正面入口とは別世界のようにしんと静まりかえっている。
駐車場に着いて、楽器を後部座席に積み込もうとしたときだった。
「すみません」と叫びながら、だれかが走ってきた。眼鏡をかけた若者だ。
「それ、僕のチェロじゃないですか?」
若者は息をはずませて言った。痩せた顎に額ばかり広い男だ。かなり冷え込んできているというのに、白ワイシャツにノーネクタイという姿がなんとも奇妙だった。
「どういうことですか」
東野は、楽器ケースを抱えた手を止める。
「僕、東京ムジカアンサンブルの者ですが」
そういえば、そんな名前の団体のコンサートを中ホールでやっていたと東野は思い出した。
「おたくの楽器は、廊下の隅に残ってますよ。見たら僕のじゃないし、追いかけてきたんです」
「なんだって」
「楽屋の前に、立ててあったあれでしょう」
東野は車の座席に入れかけたグレーのハードケースに目をやった。ケースはどれも似たような形をしているので見分けがつかない。
「ほら、このシール。僕のですよ」
男の指差したケースの背中の左下に、A・Kという頭文字が貼ってあった。
東野はあっと、声を上げた。
「私のは、どこにありますか?」
声がうわずった。時価八億円。心臓が狂ったように打った。
「だから楽屋の前だと言ったじゃないですか」
東野は助手席のドアを開けた。
「ここで、待ってて。すぐ戻ってくるよ」
早口で由希に伝えた。車に乗り込んだ由希は背もたれに身を投げ出し、東野のほうを見た。
チェロのケースに手をかけ、呆れたような顔でこちらを見ている男を残し、東野はホールに向かって走った。コンクリートの廊下を抜けて、楽屋の前まで戻る。しかしチェロは無い。片付けられたのかもしれないと、警備員室に走る。
「楽器の忘れ物? ありませんよ」
帰り支度をしていた老人は無愛想に言った。
「どこかに連絡は入ってませんか。時価八億のアマティです」
彼はぎょっとした顔をした。ホールの支配人に電話をかける。支配人が飛んできた。もう一度、廊下や楽屋、リハーサル室から化粧室まで探すが、やはり無い。
「東京ムジカアンサンブルですか? あれなら、二時間前に終わって、とっくに帰りましたよ」
支配人は、緞帳《どんちよう》の間に首をつっこんで探しながらぼそりと言った。
「帰ったって、メンバーがですか?」
「ええ、全員出て、楽屋もロックしたはずですが」と警備員の老人が言った。
もしや、と思った。だまされたのかもしれない。半信半疑のまま、事情も告げずに廊下を走り出した。
イニシャルを書いたシールなど、その気になればいつでも貼りつけることはできる。今頃、車ごと楽器を盗んで……。
頭から血の気が引いて、こめかみがずきずきと痛みだした。
時価八億。世界に数台のアマティが盗まれた。自分の責任で盗まれた。考えただけで気が遠くなりそうだ。地下へのエレベーターを待つのももどかしく、非常階段を駆け下り、東野は駐車場に戻った。
ローレルは、元通りそこにあった。男はいない。楽器ケースは……ある。元通りあった。持ってみると、重い。中身を抜かれてはいない。
全身から力が抜けた。その場にへたへたと座り込みそうになった。
からかわれたのだ、と思った。なんという悪趣味だろう、いたずらにしたってひどすぎると憤慨しながらもほっとした。
数秒後、我に返った東野は、あることに気づいて今度こそ全身から血の気が引いた。膝が震えた。
助手席が空だった。由希が消えていた。
東野は、駐車場の入り口にある警備員室に再び走った。鮮やかなブルーの制服を着た老人が一人いた。
「すみません、男、見ませんでしたか」
息をはずませてそれだけ言った。何から尋ねたらいいものかわからなかった。
「男?」
「はい。女の子を連れた男」
「今夜は、あんた、アベックばっかりだよ」
「いえ、あの誘拐です。電話貸してください」
そう言いながら、警備員室の受付にある電話の受話器を取る。
「誘拐?」
老人は奥の電話を指差す。
「そりゃ内線専用だよ。警察に用があるなら、あっち」
中に入って机の上の電話で、110番を押す。電話に出たオペレーターに連れの女性が何者かに連れ去られたことを伝え、今いる場所の地番を言う。
受話器を置いてからパトロールカーが来るまで、ずいぶん長い時間が経ったような気がしたが、時計を見ると五分足らずだった。車から降りてきたのは制服姿の警察官だ。
「誘拐だ」と通報したので、当然、私服刑事がやってくると思っていたので少し意外な気がした。
「連れの女の子の年齢、服装と特徴を教えてください」
警察官は言った。
「年齢は二十九、女の子じゃありません」
東野は答え、由希の外見や着ていたものなどについて話す。
「二十九歳?」
警察官は怪訝な顔で問い返した。東野は由希に障害があること、その容貌は実際の年齢よりも遥かに若く見えることなどを説明する。
「こんな日は迷子が多いので、そうかと思ったら、失踪ですね」
「とんでもない」
驚いて、東野は言った。
「連れ去られたんですよ、男に」
「おたくが、その様子を見ていたんですか」
「だからそうではなくて」と東野は由希がいなくなった経緯を説明する。
「するとおたくが、楽屋に行って戻ってきたら、女性がいなくなっていたというわけですね」
「だから誘拐です」
「人がいなくなったとはいっても、単純な失踪の場合が多いんですよ。それを誘拐事件として扱ったりすると、人権問題も絡んでたいへんなことになりますからね」
警察官は東野を一瞥してそう言い、東野がさらに説明しようとしているのを遮り、パトロールカーの中にいたもう一人と相談を始めた。そしてその一人が無線で、なにか報告している。
二分と立たないうちに、もう一台パトロールカーがやってきた。
制服の警察官に続いて、こちらからは五分刈りで太り肉《じし》のスーツ姿の男が降りてきた。刑事らしい。
「刑事課の杉浦です。いなくなったときの様子を詳しく話してくれませんか」
私服刑事は落ち着き払った口調で言った。東野はさきほどからの警察官の対応に、少し苛立ちながら詳しい事情を話す。
「施設に収容されているというと、浅羽さんは精神遅滞者ですか」
「いえ、そうではなくて、何というか、一般的に情緒障害とか呼ばれている……」
「すると今までにも、放っておくと一人でどこかへ行ってしまうということは、ありましたね」
「自分でどこかへ行ったわけではありません。連れ去られたんです」
東野は強い口調で言った。杉浦という中年の刑事は、東野の剣幕に顔色一つ変えず、質問を続ける。
「ホールに行って戻ってくるまでの時間は、何分くらいありました?」
東野が答えるのを待たずに、警備員にここの駐車場の利用記録を持ってこさせた。
警備員室は、駐車場の入り口にある。車の出入りがあればチェックできる。しかし東野がホールに戻っている間にここを通過した車はないということがわかった。
「で、浅羽由希さんの背丈、年齢、服装は?」
杉浦は、鉛筆片手に尋ねた。
「由希についてですか? なぜ犯人の特徴について聞かないんですか」
「まず、いなくなった方について答えてください」
始めから迷子と決めてかかられているようで、憤慨しながら由希の特徴を話すと、杉浦は手際よく似顔絵を描いていく。
「待ってください」
そのときになって思い出し、東野はバッグから今日のリサイタルのパンフレットを出した。そこには由希の顔写真が大きく載っている。「ほう」と少し感心したように、杉浦はうなずいた。
十分ほど遅れて、数人の捜査員がやってきた。中沢のローレルの内部や車の回りを調べている。ガーという音に振り返ると、捜査員がローレルの床に小型の掃除機をかけているところだった。
「何してるんですか」
「遺留品の採集です。鑑識に送るやつ」
巡査の一人が短く説明する。そのとき杉浦が、言葉を挟んだ。
「それではですね、事情を訊きたいんで、署まで来てもらえますか。まずは捜索願いを出してもらうようですし」
「捜索願いですって?」
東野は、掴みかかるような勢いで言った。
「由希は迷子や家出人じゃありません。誘拐されたんですよ。こんなことをしている暇に、犯人は由希を連れて遠くへ逃げてますよ。緊急配備をするとか、他にやることがあるでしょう」
杉浦は、ちらっと東野の顔を見ると、丁寧な口調で言った。
「今のところ、失踪か誘拐かという判断はつきかねますから、両面で捜査することになりますね」
「誘拐に決まっているじゃありませんか。僕はだまされてこの場から離れたんだから」
「そのとき、楽器を取り違えていると男に言われたわけですね」
車に乗るように東野を促しながら、杉浦は念を押した。
「はい」と答えると、杉浦は尋ねた。
「浅羽由希さんは、知らない男について行く癖などはなかったですか」
「ありません。むりやり連れ去られたんです」
憮然として東野は答えた。
混雑した道をかきわけるようにして車は警察署に向かう。少年少女が酔っ払って、おぼつかない足取りで歩いている。何かわめいている者もいるし、のろのろ運転のパトカーのボンネットを叩く金髪の少年もいる。酔いつぶれて両足を開き、歩道に吐いている少女もいる。歌舞伎町あたりの千鳥足のサラリーマンの群れなら東野も見慣れているが、この街の青少年たちのあっけらかんとした酩酊ぶりには、何か異常な感じを覚えた。
警察署に着き、担当の警察官が泉の里に連絡を入れている間に、東野はもう一度詳しい状況を尋ねられた。
警察側の質問事項は、このときも主に由希の障害と行動パターンについてだった。
「彼女は失踪したんじゃなくて連れ去られたんだ、と何度も言ってるじゃないですか」
苛立って東野は言った。
「一応、浅羽さんの行きそうな所、東京周辺の観光地や彼女の実家などに手配をしますからね」
落ち着いた調子で相手は答えた。
「彼女がディズニーランドになんか行くわけないじゃないですか。検問するなり道路封鎖するなりして、不審な車を調べられないんですか」
「道路封鎖してヘリを飛ばすっていうのは、簡単にはできませんよ。実際に道を塞いだときの市民生活への影響は計り知れないですから。それに人権の問題もありましてね。我々としては、始めからおたくが見たという青年を犯人扱いして捜査を進めるってわけにはいかないんですよ。とにかく浅羽由希さんの安全を確保することを第一に行動しますから、捜査についてはこちらに任せてください」
納得しかねるまま、泉の里には自分からも電話をしたい、と言うと、警察官の一人が電話をかけた。その警察官がまず二言、三言説明をした後、東野に受話器が渡された。
電話に出たのは、深谷だった。さきほどホールを出たばかりなのに、もう到着したのかと驚いて時計を見ると、すでに十二時近くになっていた。思いのほか時間の経つのが早い。
「申し訳ありません」と東野は謝った。
「起きたことはしかたないわ。別にあなたのせいじゃないから」
深谷は冷静な声で答えて続けた。
「とにかく犯人からの連絡を待つしかないわね」
「犯人からの連絡?」
「ええ、山梨県警の刑事さんが、今、逆探知の準備を終えたところ。いくら要求してくるかわからないけれど、金の面はどうにでもなるわ。問題は由希の命よ」
「ええ」
確かにその通りだった。由希の命、それが犯人に直接奪われるという不安だけではない。彼女の精神が監禁やあるいは暴行に耐えられるのかという不安がある。何といっても環境の変化に弱い由希と一緒にいるのは、東野でも深谷でもなく、見知らぬ男なのだ。
「事情聴取が終わりしだい、そちらに行きます」と東野は言って受話器を置いた。
それから傍らにいる杉浦に尋ねた。
「向こうじゃ、逆探の用意をしたそうですが」
「東京の有村音楽事務所にも捜査員が行ってます。失踪と営利誘拐の両方の線で捜査してますので」
「今の段階では犯人が接触してくるのを待つしかないんですか」
「国道や高速道路に設けられた検問所に、捜査員が張りついてます。まだ網にかかったという連絡は入ってませんが」
ばかやろう、と東野は小さくつぶやいた。
なぜ、アマティを持っていかなかった? 八億の宝物を置いて、なぜ生身の女などをさらっていった?
それにしても楽器に気をとられて由希のことを忘れたことについては、後悔してもしきれない。
まもなく東野は別室に連れていかれた。小さな部屋にコンピュータが一台置いてある。そこで東野の記憶に基づいて男のモンタージュ写真が、作成されるのだ。画面に男の顔がいくつか映し出される。
「輪郭はどれですか」
「二番目かな、もっと細いかもしれない」
記憶の中の男の顔の造形はおぼろげだったが、いくつもの画像が差し込まれてくるにしたがい、イメージは鮮明によみがえってきた。
とかげのような男、青白い額は広く頬はこけていた。とにかく痩せた男だ。精悍に痩せているわけではなく、不健康に痩せた白い顔。
眼鏡はメタルフレーム、色は金。違和感を覚えたのは、フレームの幅が顔に合っていなくて、輪郭から飛び出していたからだ。目は切れ長で、どちらかというと顔立ちは整っていたように思う。しかし唇だけは横に裂けたように大きくピンクに濡れていた。しかし個々の造形よりも東野の印象に残っているのは、男の身体全体から発せられていた独特のぬめりだった。その印象が何に基づいたものかわからない。いずれにせよ、およそ活力というものを感じさせない、蝋細工のような男だった。
警察官は手際よく画像を合成して、一人の男の顔を作り上げていった。
事情聴取を終えたときは午前一時を回っていた。帰りがけに記者クラブの前を通ると、半ば開いたドアから内部の騒然とした雰囲気が伝わってきた。
「発表を待ってるんだよ」と脇を通りかかった杉浦が言った。
「一応、報道協定を敷いてる。勝手なことを書かれては困るんだ。こちらの動きが犯人側に知れるとまずいから」
「彼らはこれを誘拐と見ているわけですね」
「失踪ではニュースにならないが、誘拐ならニュースとしての価値があるからね。逆に無関係な青年を勝手に被疑者として報道されるとまずいことになる」
そう言いながら杉浦は東野を追い越し、どこかに行った。
楽器と荷物を持って東野は、白金にある有村音楽事務所に向かう。犯人が身代金を要求してくるとすれば、実家か由希を抱えている音楽事務所だ。しかし由希の実家については、一切世間には公表されてないから、犯人が接触してくるのは事務所である可能性が高い。
品川駅から車で七、八分のところに有村音楽事務所はあった。東野が想像していたようなオフィスビルではなく、古びたマンションの一室だ。
インターホンを押すと、柏木が出てきて東野を中に招き入れた。
ファイルの積み重なった机の前で、五十過ぎのマオカラーのスーツを着た男と、刑事とおぼしき二人組が受話器を挟んで座っている。
「どうですか、何かかわったことは?」
東野は柏木に小声で尋ねた。そのとき「失礼ですが」と初老の刑事風の男が、東野の顔を見て尋ねた。
「東野です。浅羽さんが連れ去られたとき、一緒にいた者です」
東野は答えた。
「ああ、そう」と言ったきり、相手は自分の名を名乗らなかった。
「警視庁捜査一課の丸岡さん」と、柏木が代わりに紹介した。それからマオカラーの男はここの社長だとのことだった。
もう一人の若いほうの刑事はこちらを一瞥したきり、電話に取り付けられたテープレコーダーのヘッドホンを耳に当て、無言で機械の調整をしている。
「取りあえず、それをおあずかりしましょう」と柏木は、東野が担いでいたチェロを受け取り、パーティションの向こう側にあるソファの脇に寝かせた。
「あんなもののために、由希から離れたんですよ」
東野が言うと、柏木は表情を変えずに小さくうなずいた。
電話のベルは鳴らず、何事も起こらないままに、空が次第に明るんでくる。
五時を回ったとき、東野は事務所を出て、マンションの玄関にある公衆電話から泉の里に電話をかけた。
「はい」と深谷の押し殺したような声が、受話器から聞こえた。
「東野です」
「こっちからかけなおします。電話番号を」
早口で深谷が答える。向こうも犯人からの接触を待っているところだったのだ。東野は有村音楽事務所の番号を告げ、受話器を下ろす。
事務所に戻ると、すぐに電話が鳴った。室内にいた四人の顔が緊張した。
「すみません、私宛てです」と東野はそう言って受話器を上げる。
「何の連絡もないわ」と深谷は言った。
「すみません」
東野は謝っていた。だれに謝っているのかわからなかったし、謝ったところでどうしようもないことはわかっている。しかし自分がついていながら、という思いが心を締めつける。
「それより、そっちは?」
「今のところ何も変わってません。彼女の家族は?」
「身代金の要求には、応じられると言ってる」
「彼らも生きた心地がしないでしょうね」
深谷は答えない。東野は沈黙の意味に気づいた。
「自分たちの家に取材に来させるのだけはやめて欲しいと、言ってきたわ」
言葉を失い、東野は受話器を握り締めていた。
「それより、捜査は進んでいるのかしら」
深谷は声をひそめる。捜査員が近くにいるのだろう。
「四十八時間が限度よ、あの子が緊張に耐えられるのは。それを過ぎたら……何が起きるかわからない」
沈鬱な声だ。由希が狭いところに閉じ込められ脅《おびや》かされるのが数時間になるか、数日間になるかわからない。その間、由希は何も口にできないだろう。犯人が食べろと差し出した食物に由希が口をつけることはまずない。一滴の水も飲まないはずだ。異常な環境の下では、点滴でもしないかぎり由希の身体には水分や栄養分の補給はできない。衰弱は急激にくる。
同時にそれとは別の不安を深谷は抱いているのが東野にはわかる。
何か起きる、何が起きても不思議はない。しかし東野にとって、案じられるのは由希のことだけだ。彼女さえ無事に救出されれば、それでいい。
「ちょっと、回線が塞がるんで、緊急の用でなければ……」と丸岡が促した。東野は慌てて電話を切る。
犯人からは何の連絡もないまま朝の九時過ぎになり、捜査員の一人が交替した。社長は用事があるとのことで、いったん自宅に帰った。柏木は飲み物を買うために外に出たが、すぐに戻ってきた。東野はそのまま事務所から動かなかった。
十時間際に、東野の前の電話が鳴った。ためらって丸岡の顔を見上げる。
「出てください」
丸岡は落ち着いた様子で柏木に指示する。
それを待たずに東野は手を伸ばし、受話器を取り上げていた。
「もしもし」
声が擦れて、東野はそれ以上言葉が出ない。
「十六日のロンドンフィルの公演ですが、空席ありますか」
黙って受話器を柏木に渡す。柏木は丁重に断った。その後も何回か電話のベルが鳴り、そのつど、東野は腰を浮かした。いずれもコンサートの予約や、空席の問い合わせだった。そのまま午後になり日が傾いても、犯人からの電話はない。泉の里に電話があったという連絡もない。
「身代金を要求してこないとは、どういうつもりなんでしょうね」と柏木は首を傾げる。
「女の子を誘拐するよりは、あれを持っていけば一生ぜいたくして暮らせるのに、まったく物の価値を知らないということは困ったものだ」と、外出先から戻ってきたばかりの社長が部屋の隅に立てかけたアマティを指差した。
東野ははっとした。犯人は社長の言うように、物の価値を知らなかったわけではない。楽器の価値を十分知っていた。だからこそ「楽器を取り違えた」と嘘をつけば、東野が慌てふためいてその場を離れると考えたのだ。
「ちょっといいですか」
東野は、無言のまま電話の前に陣取っている丸岡の隣に行った。
「これは営利誘拐なんかじゃないですよ。いくら待っても、犯人は身代金なんか要求してきません。目的は、由希そのものなんです」
「はあ?」
「犯人は由希の弾いていた楽器の価値を知ってます。だから僕を騙《だま》すことができた。それにああいうところに出入りするマニアなら、由希の弾く楽器が何かといったことは知っている。金が目的なら、楽器を持っていくはずじゃないですか」
丸岡はうなずき、静かな口調で言った。
「まあ、今の段階ではなんとも言えませんが、美術品の場合裏市場が存在するんですが、楽器ではそういったものはないですからね。換金するルートのないものをわざわざ持っていくかというと、ちょっとね」
「いや、アマティなら身代金を要求できる」と東野は反論した。
「『返して欲しければ、一億円払え、八時間以内に言う通りにしなければ、楽器を壊す』もしそう言われたら、おたくは払うでしょう」
東野は社長のほうを振り返った。
「まあ、たぶん」と社長はうなずいた。
「盗んでいけば身代金を要求できる高価な楽器がそばにあるのに、なんで女を連れていくんです? なんで逮捕されれば遥かに罪が重くなる人間のほうを盗むんです? 目的は金なんかじゃない。由希なんです」
刑事は二人とも、何も答えない。
東野は彼らの座っているテーブルに、両手をついた。
「いたずらされるかもしれない、暴行されるかもしれない。いや、もう何かされているかもしれないんです」
丸岡は、ゆっくりと煙草に火をつけた。
「当然、その線でも捜査してます。ただ向こうが接触してくる可能性もあるので、我々はこうしてここに張りついてるわけで」
「その間に、由希は何をされているかわからないんです。彼女は普通の人間じゃないんですよ」
東野は執拗に訴える。そんなことを言ったところで、どうにもならないことはわかっている。しかしいささか冷静沈着すぎる捜査員たちを見ていると、つい苛立ちと不安を彼らにぶつけたくなるのだった。
「障害のあることは知っています」
若い捜査員が言った。
「障害ではなく、彼女は……」
東野は口ごもった。
抵抗する術を知らない女が、いたずら目的に連れ去られた……。想像するのもおぞましい。舞台に立っていたときから、いや、その前から一人の変質者が彼女に目をつけ狙っていたとしたら。体中の血がざわざわと逆流してくるような嫌悪感があった。
生きててくれ、と思った。何をされてもいい。二度と楽器など弾かなくてもいい。生きていて欲しい、絶望的な抵抗をして殺されるのだけはやめてくれと、東野は祈っていた。
くらりとめまいを感じてその場に座り込んだまま、東野はしばらく動けなかった。
ふと、由希には抵抗する術が全く無いわけではないということを思い出した。
由希の中の負の力……深谷が洩らした通り、何が起こるかわからない。
そのとき肩を掴まれた。柏木が立っている。
「ちょっとね、あちらで、横になられたほうがいいんじゃないでしょうか」とパーティションの奥の長椅子を指差す。
東野は首を振った。柏木は続けた。
「長期戦になるかもしれませんよ。昔、私が芸能プロにいた頃の話ですが、落ち目のアイドルの誘拐事件がありましてね、あのときは一週間、こうしてました。結局、男にそそのかされて、逃げ出しただけだったんですよ」
安心させるつもりの言葉なのだろうが、癇《かん》にさわる。
柏木は東野の表情の変化を見てとったらしい。すっと離れ、丸岡のそばに行った。
「刑事さん、駐車場から一台も車が出ていないってことは、犯人はどうやって連れ去ったんでしょうね」
相手は、少し間を置いた。どこまで話してさしつかえないか考えているのかもしれない。
「逃走経路については調査中なんで、今のところ何とも言えませんね。車の出口に警備員はいても、人の出入り口にはいないから、徒歩ならだれにも見られず連れ出すことは可能ですが」
「どうやって由希を徒歩で連れ出すんですか。彼女は無理強いされれば、きっと抵抗します。何も知らない子供ではないんです」
東野は、口をはさんだ。
「そうですね」
刑事は素っ気なく言っただけだった。
駐車場から出た車は、東野がその場を離れた数分の間はなかった。それとも東野が戻ってきたとき、男はまだ駐車場のどこかに潜んでいたのだろうか。
徒歩で由希を連れて逃げたとしたら、どうやったのだろう。何かもっともらしい理由をつけて、由希を連れ出すことは可能なのか。かりに由希が男の言葉の意味を理解できたとしても、彼女が見知らぬ者の指示に従うとは思えない。
ナイフか何かで脅したのか? これはますます考えにくい。ナイフを突き付けられただけで「このナイフで怪我をしたくなければ、おとなしくついてこい」というメッセージ全体を把握することは、由希にはできない。ナイフと怪我の概念は結びついても、「もしも何々ならば、どうしろ」という論旨は理解できない。言語的能力、抽象化する能力の無い者の限界である。彼女が東野の言葉を理解しているように見えるのは、彼という人間を知り、ある程度のパターンを掴んでいるからにすぎない。
東野は、柏木に言われた通り、パーティションの奥にある長椅子のところに行った。刑事や柏木たちに隔てられると眠気が襲ってきた。頭の中がかきまわされるような、船酔いに似たひどく不快な入眠感覚だ。首ががくりと垂れた。ブラインドの隙間から差し込む西陽が眩しい。光の束が目に刺さる。
だれかがブラインドの角度を変えたらしい。外の景色がブラインドの羽にいくつにも切断されて見えた。
夕焼けだ。大きな川を跨ぎ高架道路が走っている。その下に道が一本ある。小型トラックの行き交う道路に沿って倉庫と工場が点在している。建物の間に緑が見える。
東京にしてはひなびた光景だ。どこか既視感がある。この事務所に来たのは初めてだが、自分は確かにこの景色を見ているような気がする。それにまつわる思い出も、強い印象もないが、どこか馴染んだ感じのする風景だ。自分の見ているものが、どうやら夢らしいとそのときになって気づいた。
だしぬけにチェロの音が聴こえた。悲鳴のようにきしんで、一瞬後に消えた。
嫌な音だった。いまどきめずらしいベニヤでできたプレス楽器の音色だ。
高架道路脇に工場が見える。天井の高い工場の上に、プレハブの住まいらしきものが乗っている。ごく普通の町工場だ。薄暗い工場の奥で、溶接の青白い火花が弾けているのが見えた。
その工場の屋根の彼方に、奇妙な建物が見える。白いドーム状の巨大な屋根と尖塔。どこかで見たものだが、正確な位置は思い出せない。チェロの音が再び聴こえた。神経を逆撫でするようなベニヤの普及品の音。弾いているのは、由希だ。
しかしなぜ由希が、あんな安物の楽器を弾いているのだろう。
苦しい。柔らかな土に首まで埋められたような胸苦しさ。目覚めることも深い眠りに入ることもできない。
どこからともなく電話の音が聞こえた。二回鳴って柏木が出る。東野は飛び起きた。ブラインドはぴったりと閉ざれたままだ。陽はまだ十分高い。
柏木は受話器を年配のほうの刑事に渡した。本部から連絡が入ったらしい。丸岡の声が緊張している。受話器を保留にすると東野を呼んだ。
「東野さん、正直に答えてほしいんですが、あなたは来る途中、車の中で浅羽さんに栄養剤か何か注射しませんでしたか」
「いえ」
「薬の種類は何でもいいんですが、注射をしていないですか」
「いえ、またなぜ?」
「車の中に、セロファンのきれっぱしがあったんですが、それが注射器の袋の一部だったんですよ」
「それなら、車の持ち主の中沢にお尋ねになったほうが」
「すでに確認しました」
「すると」
「遺留品の可能性があります」
「注射……」
東野は顔から血の気が引いていくような気がした。由希は注射されて連れ出された。
「犯人は暴力団関係者ですか」
「違いますね」
丸岡は、なぜかはっきりそう東野に答えると、本部に報告して電話を切った。そして若いほうの刑事を呼んで、小声で言った。
「ディスポーザブル注射器で、売り出してすぐに製造中止になった欠陥品だそうだ。MMRっていう赤ん坊の予防接種用で、都内、それも三多摩のうち、小児科のある病院にしか納品していない」
「医者、ですかね」
若い刑事が、ささやく。
「今、洗っているところだが」
薬で眠らせるというのはたしかに誘拐の常套手段だ。しかし眠った由希をどうやって運び出したのだろう。別の車のトランクにでも入れておいて、しばらくしてから戻った犯人が何食わぬ顔で運び出したのだろうか?
そのとき、インターホンが鳴った。本庁で会った杉浦だった。
「ご苦労さまです」
挨拶して、事務所に上がりこむと丸岡たちと小声で何か話し始めた。東野がそちらに視線を向けると、話し声はぴたりと止まった。
東野が何を尋ねても、捜査の進捗状況は教えてくれない。由希についていちばん知っているのは自分なのにと、東野は腹立たしい気持ちで背を向ける。
「それで、見ているんだ」
杉浦の声が耳に入った。
「エレベーター会社の保守員が、女連れの男が非常階段から出てくるところを。女のほうは、ふらふらで足元がおぼつかなかったらしい。強烈な精神安定剤か何かを射たれたのだろう」
東野ははっとして彼らのほうを見た。謎の一つはとけた。
東野は安定剤を服用している患者を見たことがある。泉の里でも春先になると状態が悪化する入所者がいた。施設から地元の精神病院に通院して薬をもらってくるのだが、強すぎるのか、いつも目がとろんとしてろれつが回らない。反面、扱いやすくなる。抵抗したり考えたりするのが面倒になるらしく、右を向けと言えば、一日でも右を向いているし、背中を押せば素直にそちらに行く。そういう状態であれば由希を連れ出すのは、思いの外たやすいだろう。
駐車場からエレベーターを使わないで階段を上がると、ちょうど道玄坂の裏手に出る。ネオンがまたたき、泥酔した若者でごったがえす界隈だ。そこには薬を射たれた由希と見かけは区別のつかない、泥酔した少女やその少女を待ちかまえる男が大勢いるのだ。
意識を半ば失い朦朧《もうろう》とした由希と、それを引きずるようにして連れていく青年。普通なら人目を引くはずのカップルだが、夜の、しかもウィークエンドの渋谷ではあまりにもありふれていて、だれも注意を向けない。そしていったんあの渋谷の喧騒に紛れこんだら、その足取りを後から追うのは困難だ。彼らは車を拾う必要もない。その時間帯、山手線も、渋谷始発の井の頭線も、そんなカップルであふれている。顔を見られたくなければ、ドアのそばで抱き合っていればいい。男は由希を抱きかかえるようにして街を歩き、混雑した電車を乗り継ぐという、常識では考えられないような逃走手段を使ったのかもしれない。
東野は立ち上がって窓から外を見た。高架道路も工場も、その向こうの白いドームもそこにはない。隣のビルの、雨風に叩かれて塗りの剥げかけた壁があるだけだ。陽はやや傾いて、ビール会社の巨大な看板がビルの壁に斜めにくっきりと影を刻んでいる。
せめて何かメッセージを送ってきてよさそうなものだと考えた後、さきほど見た奇妙な夢がそれだと思い当たるまで、大して時間はかからなかった。
「柏木さん、ロードマップ、ありませんか」
東野は言った。柏木はごそごそと書類棚からそれを取り出し、何も聞かずに手渡した。
大きな川と高架道路、そしてそれと平行して走る道、町工場。そんな場所を地図の上で探す。まず目に入ったのは、江戸川区の小松川近辺だ。京葉道路が荒川を跨いでいる。工場もある。しかし彼がブラインドの間から見た光景とは、全く違うはずだ。彼が見た景観は郊外のものだった。
埼玉県の浦和あたりか? いや、福島近辺でもそんな所はあった。
急に自信がなくなった。わずかの間、自分が見た景色は、こうしてみると何の役にも立たない。何よりも不安のただ中で見た単なる夢である可能性のほうがずっと大きいのだ。
東野は丸岡に尋ねた。
「さっきの話ですが、その注射器を卸したっていうのは、どのあたりの病院だと言ってましたっけ」
彼は、ちらりと杉浦の顔を見た。
「T製薬の多摩営業所が扱っていて、本格的な販売を始める前に、そのあたりの病院と小児科医院に試供品としてばらまいているから……」
「多摩地区ですか」
「いま、病院の職員を洗っているところです」と杉浦が代わりに答える。
「どのくらい、時間がかかりますか」
「立川、国立、東村山、福生、昭島、日野、多摩、八王子、秋川、これがT製薬多摩営業所の受け持ち区域だ。その中にある病院、小さな個人病院や医院も入れると、いくつあると思うかね?」
「わかりません」
「小児科のないところを外すとして、それでも三百を超える」
「そうですか」と東野はうなずいた。
一つのことがわかった。自分の見たあの光景は多摩方向。高架道路は中央自動車道、川は多摩川だ。
車で甲府から東京に出てくるときに見た光景かもしれない。あの光景を目にしたときの既視感はそれによるものだ。ということは、たまたま見たことのある景色が夢に出てきただけという可能性もある。するとあのチェロの音は何だったのだろう。単なる夢かもしれないが、身に危険が迫った由希がメッセージを送ってきた可能性もある。少なくとも、過去に一度、山岡宅で似たようなことは起きているのだ。
町工場の屋根の彼方に見えた白いドームと尖塔は、確かに覚えがある。ただし格別興味がないので、それがどのあたりに位置するかという正確な記憶はない。川と白いドームが見つかれば、町工場の位置はわかるはずだ。
東野は、上着を手にして立ち上がった。
「どこへ行かれるんですか」
静かだが鋭い口調で、杉浦が尋ねた。少し口ごもって東野は答えた。
「ちょっと、コンビニまで」
「由希が夢の中で助けを求めてきた」などと言っても、警察がとりあってくれるはずはない。
通りに出てタクシーを拾った。
「中央自動車道に乗ってください」
乗り込んで早口に言う。
「どこまで?」
「調布か、府中か、そのあたり」
「調布か、府中って、お客さん……」
怪訝な顔をしたまま、運転手は車を発進させた。
「この時間なら、電車がいちばん早いんですがね」
運転手はぼそりと言う。時計は午後四時を指している。東野は聞こえないふりをした。車はまもなく渋滞に巻き込まれ、三十分以上かかって桜田通りを北上し、飯倉ランプから首都高速に乗る。上の道も混雑していることに変わりはない。西新宿の高層ビル群を眺めながらしばらく行くと、ようやく車は流れ始めた。
中央道に入り、調布インターを過ぎたあたりから、東野は窓の外の光景を食い入るように見つめていた。しかし防音壁が高く視界を遮っている。川や空き地、工場などに面した一部分が切れているだけで、そこに尖塔を持つあの白いドームはない。
時刻は五時半を回っている。夕陽が眩しい。
日野市に入る直前に多摩川を渡った。確かにこのあたりだ、という気がする。少なくとも近くまできている。車で通る折に意識しないまま、視野に入っていたあの建物とその前後の風景の記憶がなんとなく結びついている。多摩川は見る見る遠ざかり、再び防音壁に視野を阻まれた。
「すみません、スピード、少し落としてください」
東野はドライバーに呼びかけた。
「どうしたんですか?」
「探しているんです、場所を」
「へえ」
「川を渡るのは、今のところだけですよね」
「大きいのは、そうかな。上の原、猿橋あたりでも渡るけどね。お客さん何を探しているのかね?」
「川を渡った所にある、町工場で……」
うまく説明できなかった。それが実在するかどうかも、こうしてみると怪しい。
「そうだ、白いドームがありませんか?」
「ドーム? 東京ドームみたいなやつ?」
「いえ……」
探し当てるには、何もかもが不確かすぎた。
まもなく防音壁は切れ、道の左右は芝生の斜面になる。谷間のような所を走り、小さなサービスエリアを越えると八王子インターが見えてきた。
「どうします、お客さん。下りますか?」
運転手は尋ねる。
東野は迷った。ここまで来てもないのだから、自分が見たと思ったのは、記憶違いかもしれない。ブラインドの間から見えたあの光景も単なる夢かもしれない。
「もう少し、行ってください」
東野は言った。
八王子の第一出口を通り越し、第二出口も過ぎた。ここまで来れば次の相模湖インターまで下りられない。車は、真っすぐ西に向かう。
そのとき再び川にさしかかった。東野は窓に顔を張りつけた。確かにあの記憶にある川だ。
「これ、何という川ですか?」
「さあ、多摩川の支流じゃないの」
素っ気なく運転手が答える。
残照が川面を金色に光らせている。その遥か向こうに、白い尖塔が一本、夕闇に彩られた空に突き出していた。その下に丸いドーム状の屋根が確かにある。
「スピード落として」
東野は叫んだ。
「お客さん、一応高速道路ですからね」
「あれですよ、あれ」
運転手は、ちらりと東野の指差す方向を見た。
「ああ、高華女学院ね。丘の上に建ってるからよく見えるでしょう。宗教団体がやってるところでね。信者から巻き上げた金でいい校舎を建ててますよ」
東野はあたりの景色を凝視する。
橋を渡りきった。間違いなくこの場所だ。
「運転手さん、降ろしてください」
東野は叫んだ。
「冗談はやめてくださいよ。ここは高速道路ですよ」
「人の命がかかっているんです」
「あんた、さっきから何言ってるの?」
ルームミラーに、気味悪そうに眉を寄せたドライバーの顔が映っている。
「とにかく車を止めて」
東野は一万円札を二枚、運転席に突き出した。
「子供が誘拐されたんです」
運転手の顔色が変わった。車はスピードを緩めて路肩に寄る。
「お客さん、もしかすると、ここで身代金を渡すの」
「え……ええ」
「警察には届けたの?」
「はい、下で待機しています」
車はゆっくりと左に寄り、止まった。
運転手は金を受け取ると「気をつけてよ」と言い残して、走り去った。
車を降りた東野は路肩に立ってあたりを見回した。春とはいえ、夕暮れ間近の風は凍るように冷たい。両脇の高い防音壁に足場はなく、よじ登ることはできない。さきほど高速バスの停留所の前を通過してきたから、そこまで道路を戻れば下りられる。
東野は壁に張りつくようにして、今走ってきた道を戻る。下り線の車が、猛スピードですれ違っていく。風圧をまともに受けて足がふらつく。十分ほど歩いたところに歩道があった。中央自動車道元八王子バス停だ。一般道路に下りる階段がある。東野は駆け下りた。
錆びた鉄の階段を下りきると、栗林に囲まれた狭い道に出た。陽は沈みかけ高架の影になった一帯は薄暗い。あのとき見た光景からすると、工場はさらに戻ったところ、川の近くにあるはずだ。
東野は走った。まもなく道は小さなドブ川に阻まれた。川の土手から夕闇をすかして下流のほうを見ると大きな川と合流している。高速道路はその広い河原を跨いでいた。東野は、高速道路の土手沿いの細い道を走った。町工場や倉庫は見えない。
高速道路の反対側にあるのかもしれない。少し行くと土手に隧道《ずいどう》があった。暗く湿った内部を抜けると、見覚えのある道に出た。あの夢とも現《うつつ》ともつかない浅い眠りの中で見た景色そのものだ。
倉庫がある。その十メートルほど先に、確かに町工場がぽつんと建っているのが見えた。残照を受けて、黒々と浮かび上がった建物の屋根は高い。一般住宅の三階分はゆうにあるだろう。シャッターの閉ざされた工場部分の上に小さな住宅が乗っている。
正面に立ったとき、東野はチェロの音を聴いた。空耳だった。紛れもないアマティの音色だった。しかし幻聴を聞かせたものが何なのか、東野にはもうわかっていた。
中に由希が閉じこめられている。できることなら今すぐ踏み込みたいが、素人がそんな行動に出れば由希の身が危険にさらされる。
雑草の生い茂った空き地や休耕田の間の細道を百メートルばかり行くと、小さな雑貨屋があった。店頭に埃をかぶった赤電話を見つけて、有村音楽事務所に電話をした。
柏木が出た。
「刑事さんに代わってください」と東野は言った。よほど切羽詰まった口調だったのだろう。柏木は何も聞かずに刑事に代わった。
「何をしているんですか」
丸岡らしい年配の男の声が尋ねた。
「突き止めましたよ。由希の居場所を」
相手は沈黙した。
「本当です。いいですか、これから場所を言います。八王子市叶谷町、二丁目十八」
東野は店の柱に表示してある地番を言った。
「犯人はこの近くにいます。由希も一緒です。町工場に閉じ込められています」
自分の言っていることには何の根拠もないのだ、とそのときふと思った。
「おたく、もしや勝手に犯人の要求に応じて会ったの?」
相手の声色が緊張した。
「いえ」
そのとき電話は、杉浦に代わった。
「八王子ですね」
「はい。八王子の叶谷町、二丁目」
最後まで言う前に、杉浦は言った。
「決して勝手に動かないでくださいよ。いいですか、その場にいてください。一人で中に入ったり、容疑者と接触したりしないでください」
受話器を置いて東野は、その場から工場を見上げた。時間が重苦しく流れていく。
犯人がいたというのは嘘だ。あれは客観的には、東野の白昼夢であり幻覚だ。実際は、ここは事件とは何の関係もないかもしれない。自分の通報によって結果的に捜査を攪乱し解決を遅らせることになったらどうしたらいいのだろう。
ふと、妙だと思った。杉浦は、ずいぶんすんなりと東野の言葉を信じた。どうやって東野がここへ来たのかさえ尋ねなかった。
そのとき一台の車が、彼の前に止まった。
「東野さんですね」
スーツ姿の男が一人降りてきて、尋ねた。
「はい」と言うと、男は警察手帳を見せた。八王子警察署の刑事だ。続いて二台の車が止まる。今度は数人の男が降りてくる。
「踏み込みます。渋谷の駐車場で会った男かどうか確認してください」
相手は歯切れのいい調子でそう言うと、工場の上の黒く煤けた建物を指差した。真っ赤に錆びた階段が工場の脇に張りついている。
「踏み込む?」
急に怖くなった。
由希は無事なのか。無事に救出されるのか。踏み込んだとたん由希が人質に取られたら、何か危害を加えられたら――舌がざらつき、背中に冷たい汗が流れた。
足元の土に浮いた鉄錆の粉が、残照にきらきらと光る。あと数分で闇が訪れるはずだ。
東野は自分を取り巻いた男たちを上目遣いに見た。きびきびとした物腰と独特の胸の張り方をした精悍な男たち。彼らが、犯人逮捕よりも由希の命を第一に考えてくれるという保証はない。
不意にこの場にそぐわない音がした。チェロがあたりの空気を震わせるように低く鳴った。太く力強い音が、錆の浮いた階段の手摺りを雷鳴のように振動させた。
男たちの間に流れていた均一で緊迫した空気に、小波が立つ。
東野は棒立ちになったまま、工場の階段を見上げた。
無事だ、と確信した。今度は幻聴ではない。その証拠に、その場にいた男たちも一斉に、東野と同じ方向を仰ぎ見た。
あたりの薄い闇を切り裂いて悲鳴が一つ聞こえたのは、そのときだった。女のものではない。苦痛にみちた男の声だ。
ガラスが割れて頭上から黒いものが、助走をつけたような勢いで降ってきた。飛びのく間もない。東野の肩をかすめてそれは地面に激突した。黒いジャンパーを着た身体の右肩と腕が、跳ねるように持ち上がる。そしてもう一度地面にぶつかると動かなくなった。男たちが一斉に駆け寄る。その直前に、東野は首をねじ曲げて倒れている男の異様に白く広い額と、外れてとんだ眼鏡を見た。紛れもないあの男、自分の手から由希を奪っていった男だった。
東野は工場を見上げ、階段にとりついた。
「ちょっと、あんた」と刑事が止めるのを振り切って、跳ぶように昇り始める。パトロールカーから降りてきた巡査が二人、後を追ってくる。
急な階段を昇りつめると、汚れたスチールドアがあった。ノブをがちゃがちゃやったが開かない。鍵がかけられている。中からチェロの音が聴こえる。安物のベニヤ楽器の音だ。しかしそれにそぐわない見事な演奏……。
「由希」
叫びながらノックする。巡査の一人が東野の腕を掴んでその場からひきはがした。
「下がって」
そう言うとバールで鍵をこじ開け、素早くドアを開けた。
「えっ」
中に入ろうとした巡査が足を止め、仲間と顔を見合わせた。
部屋の中で由希が一人、チェロを弾き続けている。東野がいつか繰り返し弾かせた、和声の部分だ。
男が落ちてくる間も、踏み込もうとした直前も、切れ目なく続いていた音楽を彼らは、CDか何かの録音されたものだと思っていたらしい。
土足のまま、Pタイルの床に上がって東野は息を飲んだ。異様な部屋だった。昔、この工場の事務所として使われていたとおぼしい十畳ほどの部屋は、ルー・メイ・ネルソン一色だった。正面の壁には、挑発的な視線をこちらに向け、片手でチェロのヘッドを撫でているルー・メイの巨大なポスター。左手には仰け反るようにして目を閉じ、弓をいっぱいに持ち上げてチェロを弾いている洋酒メーカーのポスター、暗い瞳に可憐さの残る初期の白黒写真や、メイにしてはめずらしい横顔のポートレートなどがある。壁にも窓にもマットレスが貼りつけてあり外光は入らない。音を吸収させるためだ。
隅に置いてある黒いパイプベッドのシーツに乱れがないのを東野は無意識のうちに確認した。壁面に巨大なスピーカーが二つある。厚い板でできた箱は、弦楽器や木管楽器に適したものだが、骨董の部類に入る。その間に大画面のテレビがあり、それがこの部屋にどことなく不釣り合いだ。反対側の壁にはラックがありLPレコードやビデオ、音楽雑誌や書籍がある。CDが見当たらないのが、マニアらしいこだわりかたを示している。
それらのものが少しの乱れもなく並べられ、その中心で由希がチェロを弾いていた。足元には、ビデオカメラが投げ出してあり、それだけがこの秩序立った部屋に乱れを生じさせている。
東野は瞬時に理解した。あの青年は長い間の夢を実現したのだ。
東野は由希に近づく。その間も由希は弾き続けていた。
ひどい楽器だ。しかし紡ぎだされる音楽は、楽器の音色に不釣り合いな、いくらか枯れた深い趣がある。何の誇張もない、至純の美しさ。
これが由希の音だった。ルー・メイの音楽ではない由希の音に、東野は場違いな感動を覚え、立ちすくんだ。
巡査が由希に何か呼びかけた。由希は聞こえないように弾き続ける。
東野は言葉もなく、目の前にいるのが本当に由希であることを確認するように、その伸ばした背筋や、乱れた髪の間からのぞくうなじを見つめていた。
無事に生きてここにいるだけで十分なはずなのに、この瞬間に、由希のこの音を世界中の人々に聞かせたい、と東野は思った。ようやく目的を達したという喜ばしさと、これから由希を連れてさまざまな国を旅し、あらゆる曲を弾かせたいという希望とも野心ともつかないものに東野はとらえられた。
「浅羽さんだね」
再び、巡査が呼びかける。東野は我に返ると由希の腕をとり、弾くのをやめさせた。楽器を床に置いて、由希はゆっくり立ち上がる。夢を見ているような表情だ。東野は、黙って由希の肩を抱いた。由希の唇は渇き、目の下には痣《あざ》のように紫色の隈が浮いていた。額に触れると少し熱い。脱水症状を起こしている。
こんな由希の状態を目にしていながら、今しがた自分の心の大半を占めたのが、音楽的な歓びであったことに東野は驚き、罪悪感を覚えた。
「救急車の用意をお願いします」と東野は巡査に向かって言った。
「もう来てますよ」と巡査は、あの男が突き破って落ちていった窓のほうを顎で指した。
「さ、行こう」
東野は由希を立たせた。そのとたんぼんやりと膜がかかったような、夢見るような由希の目の中に、怯えの表情が走った。怯えの表情は、一瞬後には生理的な怒りを示すものに変わった。
「危ない」
東野は半ば無意識に叫び、由希の体を両手で抱き抱えた。
「離れて、この部屋からすぐに出ていってくれ」
巡査に向かって怒鳴ったが、彼らは首を傾げるだけだ。腕の中の由希の体が痙攣し、高熱を出したように熱くなった。
「由希、大丈夫だ。もう大丈夫」
本棚の上にある読書灯の電球がいきなり破裂した。ガラスの破片が飛んでくる。
巡査二人は、口を開けたまま、その様を見ている。
「出ていってくれ、早く」
室内のカーテンがいきなり燃え上がった。巡査が後退りした。
「死にたくなけりゃ、ここを出ていけ」
カーテンはまるでマグネシウムのように一瞬のうちに燃え、白い灰になった。
由希の体を抱く腕が痛い。無数の針に刺されたようだ。巡査が振り返り、下に向かって何か指示した。
「静まってくれ、頼むから」
東野は哀願した。
投げ出されていたビデオカメラに気づいた。まだ回っている。とっさに由希を投げ出し、カメラの中のテープを取り出し、それを傍らのデッキに押し込む。途中まで巻き戻して再生ボタンを押す。
その間にも、本棚の上の雑誌が風もないのにばらばらと表紙がめくれ、天井の蛍光灯の電球が破裂して破片が頭上に降り注いだ。
一呼吸置いて、スピーカーから音が流れ出した。しかしその脇にある大画面テレビには何も映っていない。電源ランプはついているが、映らない。しかし今は音だけあれば十分だ。
何でもいい、音楽があれば静まる、と東野は以前深谷に聞いた話から、とっさに判断したのだった。
そしてスピーカーから流れてきたのは、チェロの音だった。由希の弾く音だ。男が窓を突き破って落ちてくるどれくらい前に録音された部分なのかわからない。由希はルー・メイ・ネルソンの音で弾いていた。
自分の弾いたルー・メイ・ネルソンの音を聴きながら、由希は静まっていった。わずか数秒のことだった。由希の体温は下がり、とらわれていた子鳩のように衰弱し、うなだれた体だけが東野の腕の中にある。
振り返ると、担架を手にした救急隊員が巡査の隣に立っている。
「お願いします」と東野は抱きかかえた由希を担架に乗せた。救急隊員が、すぐにその体の位置を直し、オレンジ色の毛布で覆いベルトで固定する。ものの数秒で、由希は急な階段を下ろされていった。東野は自分がかけたテープを止めようとした。
そのときテープの音が止まった。何かがきしむような音、金属のこすれる音、それから再び音楽が始まったが、それも突然途切れた。次に聴こえたのは、少しの歪みもない和音、由希の音が聴こえてきた。
東野ははっとして立ちすくんだ。由希の音が変わった。何かがあったのだ。このビデオは、重大な秘密をはらんでいる。東野はテープを少しだけ巻き戻した。
いきなり肩を掴まれた。
「ちょっと、外に出てください」
巡査が指示した。
「すみません」とデッキからテープを出そうとすると、「手を触れないで」と怒鳴られた。
東野は部屋を出て階段を駆け下り、由希に付き添って救急車に乗り込む。
由希は市内の救急病院に運び込まれた。脱水症状を起こしている他は、疲労しているだけで特に身体的な異状は見つからなかった。
点滴に精神安定剤を入れられて不自然な眠りにつくまで、由希の意識は、ずっとあった。しかし目を開いているというだけで、外界のすべてに対して閉じてしまったように、呼び掛けても体に触れられても、何の反応もない。
泉の里から深谷が駆けつけてきたのは、午後の八時過ぎだった。中沢が一緒だ。
「深谷さんの車で?」
中沢は苦笑した。
「僕の車は君が乗っていったからね」
「申し訳ありません」
「後から施設長が来るが、警察にも行かなければならないし、深谷さん一人じゃ荷が重い」
中沢は、ベッドの中の由希の顔を覗き込みながら言った。
「別に私は……」
言いかけて、深谷は口をつぐんだ。ベッドの脇にひざまずき、由希の脂っぽくほつれた髪を撫でる。疲労の色を濃く滲ませた深谷の横顔に、不安の色がある。
「点滴をしたんで、少し血の気が戻ってきました」
東野は説明した。
「警察の説明では、犯人は転落死したそうね」
遮るように深谷は言った。
「内臓破裂の即死だったそうです」
「あなた、現場にいたそうだけど」
東野はそのときの情景を見たまま話した。深谷の眉がぴくりと動いた。
「由希は、何もしていませんよ」
東野は念を押すように言った。
「彼は悲鳴を上げて、ガラスを破って落ちてきた。その前も後も、由希はずっとチェロを弾き続けていた。チェロを弾きながら、大人の男を投げ飛ばして落とすことはできませんよ。彼は勝手に落ちてきた。発作的に飛び降り自殺をはかったという以外、考えられませんよ」
深谷は答えない。中沢は黙ってうなずいているだけだ。
「早く泉の里に連れて帰らないとね」
深谷はぽつりと言った。
「衰弱しているし、検査の必要もあるから、二、三日の入院をさせたほうがいいと、さきほど先生が言ってましたが」
「いえ、明日中には戻さないと」
「深谷さん、一応、医師の言うことは聞かないと……」
たしなめるように中沢が言った。
「由希は、ここでは休めません。食事どころか、水も飲まないはずよ。状態が良ければ多少環境が変わっても生活するけど、今はあの部屋に連れて帰らなければ、弱っていくだけ」と深谷は唇を噛んだ。
翌朝、東野が病院にやってきたのは、午前九時過ぎだった。この病院は完全看護のため、家族は付き添うことができず、深谷だけが許可をもらって病院に泊めてもらい、東野はいったん甲府に帰ったのだった。
昼前から警察の事情聴取があるので、その前に立ち寄ったのだが、まだ面会時間外で、由希には会うことはできない。深谷だけが一階の受付に下りてきた。
「どうですか、様子は?」と尋ねると、深谷は首を振った。
「薬が切れたらしくて、昨夜は途中で目を覚まして、ずっと目を開いてた」
「何か反応はありましたか」
「なし。目を開いたまま」
「なんとかしないと……」
「いつもの部屋で、彼女のベッドと彼女のシーツがないと、だめなのよ」
東野はため息をついて、頭を抱えた。
「いくら説明してもだめ、医者は。由希のデータを昨夜、泉の里から取り寄せて見せたけど、退院は許さないって……。根拠なんかないのよ、ただのプライドだけ」
言いかけて、深谷は時計を見た。
「何か予定でもあるんですか」
「検査の時間」
「ああ、付き添い……」
深谷は、深刻な顔で東野を見つめた。
「検査って、いろいろ嫌なことをされるのよ。それが自分にとって必要だとわかっているから私たちは耐えるけど、由希はね」
はっとした。
裸にされ、冷たいベッドに寝かされる。血を採られる。皮膚のあちらこちらにべたべたしたゼリーを塗られて電極をつながれる。つまり由希にしてみれば、理由もなく不快なことをされるわけだ。由希が何をしでかすか、どんな抵抗をするか、想像もつかない。深谷が恐れているのはそれだ。
由希に危害を加えようとした男が殺されたのはしかたないとして、レントゲン技師や看護婦を犠牲にするわけにはいかない。
「どうしたらいいんだろう」
深谷はバッグの中から、紙袋に入ったものを出した。
小型のカセットテープレコーダーだ。
何の用途かすぐにわかった。由希の怒りの発作を鎮められるのは、今のところそれしかない。
「まさか……ルー・メイ・ネルソン」
「由希の暴発を食い止められるのは、これだけなの。これは荒れ狂う力、彼女自身も制御できない力の防波堤のようなものかもしれない」
「なんだって、ルー・メイ・ネルソンなんだ」と東野はつぶやいた。
「演奏のレベルとか好き嫌いは関係ないの。タイミングの問題なのだから。たまたま彼女の制御のシステムに、はまり込んでしまったのね。ただしこの先、彼女の情緒が成長すれば、こんなものから自然に離れていくかもしれない」
「かもしれない、か……。僕は、昨日、あなたと同じことを由希にした。だれにも話してませんが、実は由希は保護される直前、その力を発揮した。部屋の中でカーテンが燃え上がり、風もないのに雑誌がめくれ、電球が割れた」
深谷の顔色が白く変わっていく。
「刑事さんは何も話してくれなかったわ……」
「彼らがそれを事実として認められますか? 調書に記載できますか? 現場を目撃した巡査の精神状態のほうが疑われますよ。とにかく、そのとき僕は、転がっていたビデオカメラからとっさにテープを取り出してかけた。以前に深谷先生が言ってたでしょう。由希が発作を起こしたとき、音楽を聴かせて静めたって」
「警察で聞いたわ。犯人の青年は、由希の演奏をビデオに記録していたそうね」
「由希は自分の演奏を聴いて、静かになっていきました。ルー・メイ・ネルソンの猿真似だが、とにかく由希の演奏です」
「固定が完璧になった、ということかもしれないわね」と深谷は言って、立ち上がった。
「どういう意味ですか」
深谷は早口で答えた。
「たとえばうぐいすを人が育てて、仲間の鳴声の代わりに別の種類の鳥の鳴声を聞かせるとするでしょう。そうするとその鳴声を不完全ながら真似するんだけれど、その後、その鳥の声を聞かせるのをやめても、しばらく経つと複雑で、それなりのリズムと音程を持った固有の鳴き方ができてくるのよ。けれど耳をつぶしてしまうと、鳴き方は、不完全のままに終わる」
「何を言いたいんですか?」
「要するに、始めは別の鳥の鳴声を外部情報として取り込むにしても、自分でそれを真似して鳴くうちに、自分の声そのものが情報となり、それを頼りに完全なものに仕上げていくようになるということ。つまり由希にとっては、すでにルー・メイ・ネルソンはモデルとしての他者ではなく、彼女の一部になりつつあるのよ」
「人と鳥を一緒にするんですか」
「検査の時間だわ」
深谷はそう言うと、東野のほうを振り返ることもなく、慌ただしく階段を昇っていった。
東野は、「ルー・メイ・ネルソンの音楽は、由希の力の暴発を防ぐための堤防」という言葉の意味を考えていた。確かにそれは今、堤防としての機能を果たしているし、ますます頑強になってきているように思える。それは増水を繰り返し小さな決壊が起きるたびに補強され、厚く高くなっていく様と似ている。
深谷と別れて、東野は警察に行った。最初の夜に捜索願いを提出した同じ部屋で、東野はあらためて、由希の救出が行なわれた日の自分の行動と見たものについて話した。
もちろん由希の見せた力については、一切触れなかった。ごく形式的な事情聴取はすぐに終わった。書類に東野の話した内容を記載していた警察官がいったん出て、入れ替わりに杉浦が入ってきた。
「無事に救出できて、何よりでした」と東野の顔を見て頬を緩めた。
「お世話になりました」と東野も頭を下げる。犯人の男がなぜ落ちてきたのかということなど、考えてみれば疑問は残るのだが、それには一切触れず、杉浦は由希が誘拐された過程について簡潔に語った。
東野が想像した通り、由希は弛緩剤を注射され、渋谷の街を徒歩で抜けて、神泉駅近くの暗がりに止めてあった彼の車に乗せられ、連れ去られたのだった。
男は一年前、自動車事故を起こしていて運送会社のトラックに正面衝突し、一命はとりとめたものの、以来絶えず気分の悪さを訴え続けていたという。勤めていた会社も辞めた。医者に自分は事故のために不能になったと言ったが、医者は、その他の不快症状と同様、単なる心因性のもので、機能的な障害はないと診断している。しかし本人はそれを信じず、運送会社を相手どって損害賠償を請求し、係争中だった。
由希を閉じ込めている間も、自分は不能であるという男の信念は変わらなかったらしく、その点に関しては由希に危害を加えられた形跡はない。
失業保険が切れた二か月前、男は市内の病院に夜間窓口専門の事務員として再就職した。二晩おき、夜の七時から深夜十一時まで、というパートタイムである。男の使用した注射器は、ここで手に入れたものだ。後遺症の苦しさを紛らわせるのに、鎮痛剤を持ち出しては自分で射っていたらしい。
医者は「何もかも気分的なもので、怪我はとうに治っている」と言うが、この苦しさは本人にしかわからない、彼はことあるごとに同僚の事務員や看護婦たちにそう語っていたという。そしてその苦しさを紛らわせるのは、鎮痛剤ともう一つは音楽である、というのも、何度となく訴えたことだという。
東野が音楽事務所を抜け出して、高速道路をタクシーで飛ばしていた頃、一枚のセロファンの切れ端から数千人の病院関係者の身元が洗われていた。そしてリストの中には、八王子市内のある病院の夜間窓口専門のパートタイマーの名前もあった。捜査員が、東野の記憶に基づいて作られた犯人の似顔絵を持ってまわり、ある病院の看護婦に見せたとき、すぐに反応があった。そこのパートタイムの事務員とそっくりで、彼はここ四日間休暇を取っているというのだ。事故後の体調が悪いので休む、という理由だった。
しかし男は自宅にはいなかった。多摩ニュータウンにある彼のアパートのドアポケットには、新聞がたまり、何日も戻った形跡がなかった。彼の立ち寄りそうな場所を探したが、行きつけのスナックや彼の兄の家にさえ、一年前の事故以来、ほとんど姿を見せていないということだった。東野から連絡が入ったのは、重要参考人として指名手配の手続きをした直後だった。
後に判明したところによると、男は一か月前に、楽器の練習をしたいのでスタジオ代わりに使いたい、と言って、知り合いから工場の上にある今は使われていない事務所を借りていた。そしてそこに由希を連れてきて監禁したのだった。
彼の愛するルー・メイ・ネルソンの部屋に、ルー・メイのレプリカを連れてきてチェロを弾かせるのが、彼の目的だったのだろう。
ルー・メイの熱狂的ファンらしく、彼は少し前、町の楽器店でチェロを購入していた。素人の悲しさで、十万円で売りつけられたその楽器は初心者でさえ手を出さないような玩具に等しいベニヤ板製の大量生産品だった。
その部屋で何が行なわれたのかは想像するしかないが、男は由希のためにミネラルウォーターや食物を用意していたという。
そして彼女に強要したのだろう。さほど犯罪性の高くない行為を。自ら不能と信じた男は、由希の身体には指一本触れなかった。男は由希に弾くことだけを命じたのだろう。下品な音を出すベニヤの楽器を与えて。
どうやって弓をとらせたのか、東野には知る由もない。暴力を使わず性的な屈辱を加えることもなく、一晩中由希に、ただ弾くことだけを迫ったのかもしれない。ルー・メイ・ネルソンの幻影に囲まれた部屋で、自分だけのために。
どれほど由希の精神に負荷がかかったのか、考えるだけで恐ろしい。あの短い夢の中で東野自身が体験した胸苦しさは、そのときの由希の感覚そのままだったのかもしれない。男はそうして由希がこの部屋の空気で窒息するか乾いて死ぬまで、弾かせる気だったのだろうか。
「まったくの単独犯行ですし、背後関係もありません。まあ、浅羽さんが無事でなによりでした」と杉浦は言った。
確かに無事だった。衰弱したというだけで、今のところ肉体的には何も問題はない。
警察署を出た後、東野はしばらく喫茶店で時間をつぶし、面会時間を待って再び病院に行った。
病室に入ると深谷が慌ただしく、ベッドの回りを片付けているところだった。
「退院よ」と急《せ》いた口調で深谷が言った。
「あの……検査は無事に済んだのですか?」
着替えは終わっているが、まだベッドに横たわったままの由希を一瞥して、東野は尋ねた。
「ぐったりしてされるままになってた。何も食べないし、飲まないし……」
深谷は、ボストンバッグにタオルや湯呑みを詰め込みながら答える。
東野はサイドテーブルにヨーグルトが置いてあるのを見つけ、由希の体を起こし背中に枕を入れて、座らせた。
スプーンでヨーグルトをすくい、由希の口元にもっていったが反応はない。
「食べてごらん。おなかすいただろう」
スプーンを唇に触れさせると、歯を食いしばったままわずかにかぶりを振った。
東野は言葉もなく、手にしたスプーンを自分の口に入れた。
多少の環境の変化に耐えられるようになったはずの由希が、少し前深谷と都内のホテルに泊まり、東野と外食し、一人で舞台衣装を身につけることのできた由希が、食物を自分で飲み下すことさえしなくなっている。
「ちょっと出て」と深谷が言った。
「え」
「悪いけど外に出てちょうだい」
深谷が手にしていたのは、紙おむつだった。
逃げるように二、三歩離れると、深谷は由希のベッドの回りに素早くカーテンを引いた。
不意に肩を叩かれた。中沢が立っている。
「退院できるんですって?」
「ああ。僕が医者にカドが立たないように話をした」
「カドが立って悪かったわね」とカーテンの中で深谷が答えた。
中沢に促され、東野は廊下に出た。
「何も食べないし、鼻から管をいれて、流動食を入れられそうになってね。いくらなんでもかわいそうだということになった。ここの医者には、由希が慣れた環境に戻れば状態が改善される、ということをなかなかわかってもらえなかった」
「で、どうやって説得したんですか」
中沢は苦笑した。
「この白髪頭を下げられて、断る人はいないよ。歳をとるのもいいものだ」
東野はうなずいた。中沢も深谷も、由希の衰弱を心配した。しかし深谷が一日も早く、泉の里に連れ帰りたいと願った理由はもう一つある。流動食なり、点滴なりで、由希が体力を回復したときに起きることを懸念したのだろう。しかし中沢はそれに気づいていない。気づかれていないことは、幸運だ。しかし泉の里の他の職員や理事たちが由希の負の力に気づいたとき、彼らがどう対応するのかあまり考えたくはなかった。
由希と深谷が、後部座席をベッドに改造した福祉タクシーに乗り込んだのを確認し、東野は甲府の自宅に戻った。
泉の里に電話をかけたのは、翌日の夕方だった。
深谷は面接中で電話に出られず、由希の様子を知りたいと東野が言うと、寮母が電話に出て、話してくれた。それによれば、由希は昨夜はよく眠り、少量ながら食事もしたという。
「ジュースをたくさん飲みましたよ。よほど喉が渇いていたんでしょう。林檎のジュースをコップに二杯」
「お大事に」と言って、電話を切る。
泉の里に戻った由希は、何も事を起こしていないらしい。狭く、小さく、暖かい彼女の世界にいるかぎり、由希は、精神的にも肉体的にも安定している。
自分のしたこと、そして深谷の目論《もくろ》んだことは、結局のところ、研究者として音楽家としての、自分たちの野望の実現が目的で、由希という一人の女の幸福を真に願ってのことではなかったのかもしれない、と東野は思った。
やがて中年を過ぎ、髪に白いものが混じり、体から脂気も水分も抜け切る歳になっても、由希は少女のままだろう。老いてなお少女のまま、死の直前まで、チェロを弾いている様を東野は思い浮かべる。哀れでもあり、薄寒くもあり、同時に何か諦念を越えた幸福感も漂う光景だった。
四日後、東野は泉の里に向かった。深谷から電話で、尋ねたいことがあるので、時間のあるときに富士見のほうに来てくれるように、と言われたのである。
「いずれにしても、由希のレッスンがあるから」と東野が答えると、深谷はその件も含めて話したいと言う。
その内容がどのようなものか予想がつき、東野はいささか重い気分でエントランスに続くスロープを登っていく。
深谷は玄関で待っていた。
「由希は少し疲れているんで、悪いけど今日は会わせられないわ」
東野の顔を見ると、開口一番に言った。
「疲れたって?」
「ええ、午前中、東京の病院に連れていったから」
「やはりあれから、回復しないんですか」
「いえ、検査」
「検査って、あの病院にまた連れていったんですか」
検査で由希が何か騒ぎを起こすのでは、と深谷が心配していたことを東野は思い出した。
「いえ、あそこではなく聖ヨハネ」
「聖ヨハネと言ったら……」
由希の手術を行なったところ、さらに言えば、由希がこうなる原因をつくった実験を行なったところでもある。
「先生は、まだヨハネ病院とつながっていたんですか?」
「他の病院で対応できないから。由希のデータが残っているのはあそこだけなの。向こうの医者は嫌がってたけど」
開き直ったように、深谷は言った。
「そこで何の検査を?」
「とりあえず写真と脳波をとっただけよ」
深谷は東野を促して、廊下を真っすぐに歩いていくと、少し奥まったところにあるAV機器の操作室に入り、分厚い扉を閉めた。
「密談には最適だ」
皮肉でもなく東野は言った。
「そう。ここ、お茶をいれられないから」と、深谷は缶入りのミルクティーを東野に差し出し、操作板の前の回転椅子をすすめた。
「次の仕事まで三十分あるから、簡単に説明させて」と手にした封筒から、数枚の紙を取り出した。写真と、記号で埋めつくされた書類の類だ。
「誘拐直後の由希の検査結果報告書」
抑揚の無い声で深谷は言った。
「知的能力は全般的に下降してるわ。生活能力はもっと著しく。実際、何もできなかった。食事から排泄まで介護が必要になって。でも不思議なことに楽器を弾くことだけはできたのよ。あなたが前に、由希の心臓を止めた直後と同じ状態」
「やはり誘拐と監禁のショックで……」
「もちろんそうだけど、由希は発作の後は、身体機能の低下を起こすのよ」
発作というのが、あの一般的には認知しがたい力に基づく暴力の行使のことだというのは理解できた。
深谷は封筒からさらに数枚のカラー写真を取り出した。赤や黄、青が滲むように楕円を彩っている。
「大脳の写真ですか」
「いえ、PET画像。陽電子を使って、脳の活動状態を調べたもの」
全体に、赤い部分の多いものを三枚見せた。
「これが約半年前の由希の状態。それぞれ、図形を見せたもの、言葉を聞かせたもの、そして音楽を聴かせたもの。赤く見えるのが、血液が多いところ。すなわち、脳が活動している部位」
図形を見せたものでは、脳の後ろの部分が、赤くなっている。
「これは普通の人と同じ。ようするに画像の単純な処理については、彼女は問題がないということ。つぎが言葉を聞かせたときのもの」
全体に黄色っぽい。特定の部位が、活動しているようには見えない。
「つまり由希は言葉を理解できない、ってことですか? 僕の言語的指示はちゃんと彼女には伝わっていますよ」
昔、松本で迷子になった由希を呼び出したこと、それにその後にも、いくつかあった由希との言葉を使った意志疎通を思い出し、東野は反論した。
「由希は言葉という媒体を使わずに、何かの手段であなたの意図を直接理解したのかもしれないわ」
「ええ」と東野は、半信半疑のままうなずく。
「それでこちらが肝心なもので音楽」と深谷は残りの一枚を見せる。
赤変部分は右側と、左の一部分だ。
「健常者に言葉を聞かせたときの活動部位とほとんど同じ。違うのはここ」と、深谷は左の部分を指差した。
東野は、あっ、と声を上げた。左に赤く張りだした部分、それは、いつか見せられた歪んだ脳の写真のあの欠落部分だった。数年後に別の大脳領域が欠損部分を補うように包んだ、というあの部分だった。
「由希は、音楽を言葉を聞くのと同じ領域で情報処理しているのよ。その方法はわからないけど。言葉というのは、単にコミュニケーションの手段じゃなくて物事を抽象化する機能を持っているわけ。つまり思考の大本なの。その部分が由希のケースでは音に置き換わっている。由希はもしかすると世界の事象を私たちの知らない部分で理解しているのかもしれない。私たちとは違う知覚感覚世界に生きているのかもしれないわ。そうとすればアウトプットの手段もまったく違うものになる。私たちは言葉を話したり、身振り手振り表情といったもので、表現するけれど、彼女は私たちとは違う手段を持っているのかもしれない。それが芸術とか愛情の表現ならいいけれど、怒りとか不快感を表わすときには、私たちにとっては深刻な問題になるわ」
「奇妙なエネルギーですよ」
東野は独り言のように言った。
「人の心に働きかけてくる奇妙なエネルギー。それが受け手と状況によってはとてつもない攻撃力と感じられる。別に負の力なんかじゃない。発作なんかじゃない。あれは音楽と同じで紛れもない彼女の表現なんだ。彼女に攻撃の意志はないのかもしれない。あれはコミュニケーションの手段。言語という媒体を持たない由希は、人の心に生の映像と彼女の意志を直接ぶつけて何か伝えるのかもしれない」
深谷は答えずに、封筒から別の写真を出した。こちらは赤みがない。黄色から薄緑にぼんやりと霞んでいる。
「これは今日の午前中に撮影した分。どう、全体に活動領域がずっと減ったでしょう」
東野は息を飲んでうなずいた。
「どういうことか、わかるわね」
あまり考えたくはない。
「回復の見込みはあるんですか」
「ある、と考えたいわ。で、なにを見たの、本当は」
深谷は尋ねた。
「何の話ですか、いったい」
「由希の救出劇を一部始終、あなたは見守っていたわ。最初に由希のいる部屋に入ったのもあなただった。犯人はどうやって落ちてきたの? それよりあなたはどうして由希の監禁されていた場所がわかったの?」
「ああ、そのこと……」
東野は、警察で説明したのと同じことを話した。つまり予知夢を見た、と。そのとき調書を書いていた警察官は、「ほお」と感心したように言っただけだ。
「不思議なことがあるものだ」という、ごく好意的な表情がそこにはあった。もちろん被疑者か何かなら「そんなばかなことがあるか」と机の一つも叩かれるのだろうが、東野は由希の保護者のような存在でもあり、事件自体が、犯人の「自殺」を多くの警察官が目撃するという明瞭な形で解決済みということもあり、それ以上詳しく尋ねられることはなかった。
「それで犯人が落ちてきたときの様子は?」
事務的な口調で、深谷は尋ねる。
「だから、窓を破って落ちてきたんですよ」
「その間、由希の弾くチェロの音がずっとしていた、というわけ?」
東野はうなずいた。
「あなたが犯人の部屋に入ったとき、部屋の中でカーテンが燃えたり、電球が割れたそうね」
「その通りです」
「犯人の男はどうやって転落したのかしら」
「さあ……」
「由希は、コンサート会場で共鳴板を落としたわ。ずっと楽器を弾き続けながらね」
東野は沈黙した。
「あなたは、まだ答えてないわね。山岡将雄がどうなったのか」
あれ以来何も尋ねないので、とうに忘れたのだと思っていた。
「知りません。あれ以来会ってないので」
「そう」
納得したような、小さなため息をついて、深谷は続けた。
「私は会ったわ」
「なんだって」
東野は腰を浮かせ深谷の顔を正面から見つめた。ばれた、というよりは、部外者には理解しがたい音楽家同士の関係に深谷が無遠慮に踏み込んできたことが、ひどく不愉快だった。
「病院に行ったんだけど、話を聞くことはできなかった」
「そのときの状況を、病気の山岡先生に話させようとしたんですか」
「ええ」と表情も変えず、深谷は答える。
「でも、話ができなかったのよ。私の言ってることはわかるみたいなんだけど。ベッドに横たわって軟式テニスのボールを握る練習をしながら、ときどきうなずいたりしてらした。看護婦さんの話によると、経過は順調みたい。少し前からリハビリテーションを始めたんですって。チェロを弾くのは、もう無理らしいけど」
東野は唇を噛みしめた。
「私は、とんでもないことをしたみたいね。由希に対しても、由希に関係した人々に対しても。私は由希の活躍の場を広げてやりたかった。ぎりぎりのところで、社会との接点を探ってきたつもりだった。けれど由希は周りの人々を傷つけ、そのたびに自分も大きなダメージを負っていたのね」
抑揚の無い口調で、深谷は言った。
「深谷さんも、一度、経験してますよね。あのときですよ、赤ん坊の喉にティッシュペーパーを詰め込んだとき」
深谷はうなずいた。
「いったいどんな感じだったんですか? 何を見たんですか? 言いたくなければいいんですが。由希を押さえつけていた深谷さん、すごく苦しそうな顔をしていましたよ」
深谷は何も答えない。
そのとき東野はふと、操作板の脇に置いてある一本のビデオテープに気づいた。黒いケースに入った何の変哲もないテープでタイトルはない。
「ああ、これ」
深谷はそれを手に取りデッキに押し込んだ。モニター画面に、いきなり由希の姿が映し出された。そしてベニヤの楽器の音も。あのときのテープだ。男の部屋に踏み込んだとき、足元に転がっていたビデオカメラの中に入っていたあのテープ。
「どうしたんですか、これ?」
「ヨハネ病院に行った帰りに、警察に寄って借りてきたものよ」
「証拠物件じゃないですか、なぜ貸してくれたんですか」
「もちろん、普通なら絶対貸してくれないわよ。だから聖ヨハネ病院で一筆もらってきて、由希の治療のために、あのとき何が行なわれたのかをどうしても知る必要があると説明したの」
画面の中には、無表情な由希の顔のアップがある。内面の緊張や恐怖をその瞳がはっきり映し出しているのが東野にはわかる。どれほど怖かっただろうと、胸苦しい思いにとらえられる。
聞こえてくるのは、由希自身の弾くルー・メイ・ネルソンだ。こんな状態でも由希は弾いている。いったい何をされたのか、どんな暴行を加えられて弾かされているのか……。不意に由希の姿がチェロを抱いたまま、ぐらりと横にゆれてその場に崩れた。カメラは駆け寄る男を映し出していた。男の尖った頬骨とずり落ちた眼鏡が大写しになる。
憎しみと嫌悪感が込み上げてきて、東野は無意識のうちに目の前の甘い缶入り紅茶を呷《あお》った。殺してやりたい、と思った。すでに死んでしまったこの男を何度でも殺してやりたいと思った。
画面がぶれて映像が乱れる。
次に由希の膝が大写しになった。東野はとまどい、深谷の横顔を覗き込む。深谷の表情は変わらない。楽器の向こうに見え隠れする白い腿が見える。ビデオは男の視線そのものだった。自分を不能と信じた男の粘りつくような視線は、哀しくも滑稽で、同時に不気味だった。
白い腿の映像とともに、ルー・メイ・ネルソンの音が聞こえる。はっとした。由希は脅されて弾いているのではない。男は由希に対しては、脅迫も暴行もはたらいていないだろう。彼なりに由希についての情報を集め、由希が楽器を弾けるような環境を整えた。由希が拉致された直後に、山岡に対して行なった攻撃を男に加えなかったのは、そうした理由かもしれない。
しかしそれでも、見知らぬ部屋やベニヤの楽器は由希の不快感をつのらせていっただろう。ぎりぎりまで高められた緊張感、不快感、怒りの嵐を由希はルー・メイ・ネルソンの音、あの決まりきったタイトな表現を繰り返すことによって放出していった。画面に由希の顔はない。しかし東野は次第に臨界点に近づいていく由希の感情的内圧を感じて、胴震いした。
不意にルー・メイ・ネルソンの音が二つになった。
「あっ」と東野はスピーカーのほうを見たが、深谷は気づかないらしい。
画面の中で由希の丸い膝頭が、激しく震え始めた。東野は異様な予感にとらえられた。
突然、画面は反転し、さまざまなものが映った。同時にチェロの音に混じって、バリバリという雑音、何かがショートするような音が聞こえた。
スピーカー、テレビの画面、本棚、カーテン、そうしたものが回転しながら画面に現われる。何かが火を噴いたようにも見えた。一瞬のできごとで、東野の目にはそれらの像の一つ一つを正確にとらえることはできなかった。
金属音とともに、画面にはリノリウムの床だけがぼやけて大写しになった。
カメラが振り回され、男の手から落ちたのだ。
男のうめき声が、フォルテシモで演奏される低音に混じる。いつの間にか、チェロの音は一本になっている。
不意にその一本の音質が変わった。ルー・メイの音ではなくなっていた。代わりにごく自然で伸びやかな和音が響く。
捜査員たちが踏み込もうとした瞬間、聞こえてきた音だ。そしてあのルー・メイに囲まれた部屋で、由希が弾き続けていたのはこの音だった。
透明なはりつめた美しさと、力強さを併せもつ由希の音楽だった。由希は、なんらかの手段で内なるシェーマを壊したのだ。極端な緊張か恐怖か、とにかくそうしたもので。
カメラは、由希のアップをとらえた。男のうめき声は断続的に入っている。最後の力を振り絞るように、男は由希を撮り続けている。すでに由希の顔からは、強い緊張は消えている。肌や唇に現われた生理的な疲労をのぞけば、苦痛を感じさせるものはない。
次の瞬間うめき声は絶叫に変わり、一瞬チェロの音をかき消した。もう一度画面から由希の姿は消え、ガラスの割れる音がした。残ったのは切れ目なく演奏されるチェロの音だけだった。
東野はテープを止めて、深谷のほうを振り返った。
「これを見たかぎり、彼は投げ飛ばされたわけではありませんね」
深谷はうなずいた。
死の間際に男を襲ったのが強烈な頭痛だったのか、あるいは不気味な幻視だったのか? フロントガラス一杯に迫ってくるトラックの鼻面、彼にとってもっとも恐怖に満ちた一瞬の映像か何かが、彼をガラス窓に向かって追い詰めたのではなかろうか。しかしそんなことは、捜査員のだれにもわからない。彼らが見たのは、落ちてきた男と、楽器を弾き続ける由希だけだった。
東野はテープを巻き戻す。由希の膝頭が映ったところまで戻して、スローモーションにする。深谷が身を乗り出すようにして画面に目を凝らす。
震える膝、そして画面が反転する。カーテン、本棚、スピーカー、そしてワイドテレビの画面。東野はテープを止める。そこに映っていたのは、ルー・メイ・ネルソンの姿だ。おそらくLDだろうが、男は弾き続ける由希の姿に重ね合わせるように、ルー・メイ・ネルソンの映像をテレビに映し出したらしい。そして次のコマでは、そのテレビの画面が乱れ、ルー・メイ・ネルソンの姿は消え、さらに数コマ後で、テレビは火を噴いていた。
それからカメラは床に落ち、由希の音は変わる。由希は目の前に映し出されたルー・メイ・ネルソンを瞬時に抹殺し、その後自分の音を出し、安らかな顔のまま男を窓の下に向かって飛ばせた。
このとき東野の心にあったのは、由希の負の力に対する危惧ではなかった。由希の独自の表現を引き出すための切札をそこに発見した驚きだった。深谷は不安を抱き、彼はそこに希望を見た。
何らかの形で、ルー・メイ・ネルソンと対峙させ、それを否定させること。この偏執的な男は東野のできなかったことを奇しくもやってのけた。それも命がけで。そしてそのマニュアルを自分に残してくれた。
「東野さん」
深谷が肩を揺すった。
「どうしたの? ショックだった?」
東野は我に返り、今しがた自分をとらえた考えに戦慄した。
「で、どうするんですか、これから?」
東野は甘ったるい紅茶を飲み干した。
「前の生活に戻るのよ」
憂鬱そうな顔で深谷は答えた。
「というと?」
「いい夢を見させてもらったわ、あなたのおかげで。小さい頃から英才教育を受けた人さえなかなか立てない舞台に立たせてもらって、多くの人々の前で弾かせてもらった。由希もうれしかったと思う」
「終わりにしますか?」
東野は深谷の目を見つめた。
「由希から楽器を取り上げることはできないでしょう。今となっては、彼女の精神の安定のために必要だから」
「暴発を防ぐための制御棒としてルー・メイ・ネルソンを由希の精神に突っ込む?」
「心を静めるための音楽と言ってちょうだい」
東野は首を振った。制御棒という言葉さえ遠慮した言い回しだ。由希にとって、それは、暴走するエネルギーの抑圧装置かもしれない。
「あなたを由希に会わせないとは言わない。ただ楽器のレッスンはさせられないのよ。緊張を高めて、ものごとに集中させるというのは、あらゆる面で危険なの。音楽の練習が結果的に、音楽的能力を伸ばしただけでなく、由希の潜在的力を引き出してしまったみたい。力自体を私は否定しないけれど、由希の場合、その力の暴発は、人や物やときには自分自身を傷つけるのよ」
「由希の感情を、人格を、何もかも封じ込めて、ここに死ぬまで置いておくんですか」
深谷の眉間にぴくりと縦皺が寄った。
「今回のようなことが頻繁に起こり始めたら、どんな対応をしたらいいの。もちろん今の日本では、由希の引き起こすことはオカルトの範疇ととらえられるし、刑事罰の対象ではないけれど。でも医療は法よりも残酷な形で、由希を拘束して力を抑止することができるのよ。由希が私たちの手に負えなくなったら会議が開かれるでしょうね。指導員たちの民主的な決定で、由希はここを追い出されるわ。病院に送られるのよ。そこで薬漬けにされて、あの不思議な力も、音楽的才能も、生活能力一般もすべて失って、小さなベッドの上で一生を終える。いえ、そうでなくても、このままいったら彼女の体はもたないはず。彼女のほうが先に壊れてしまうわ」
東野は震えが足先から上ってくるのを感じた。怖れなのか、怒りなのかわからない。
「由希に傷害行為を起こさせなければいいんでしょう。由希に性的な屈辱を味わわせたり、誘拐して生命を脅かしたり、そんなことをするやつが悪いんだし、そんな目に会わせないように、僕たちが守ってやればいいんでしょう」
「怒らせなければいいのよ」
深谷は遮るように言った。
「でも、どうやって怒らせないで済む? 由希が病気になったとき、触診をする必要があったとして、由希がそれを嫌がったときどうやって私たちは医者を守る? できるのは、なるべく刺激を与えず、集中を要することはさせず、平穏な気持ちで過ごしてもらって、自然に能力が退消していくのを待つだけ」
腕時計に視線を走らせ、深谷は立ち上がると、操作室の灯りを消して外に出た。
「結局、彼女はここから離れられないってわけですか」
深谷の後をついて玄関に向かいながら、東野は言った。
一枚ガラスの向こうに中庭のダケカンバの林が見える。芽吹いたばかりの柔らかな葉に、林全体が蒼みを帯びた緑に煙っている。そのみずみずしく美しい光景に、東野は重い吐息をついた。
「ここでは、時がゆっくり経っていくわ」
深谷も足を止めて、その景色に見入った。
「パンダの檻……社会復帰を助ける施設のはずが」
「月々の収容費が七十万、保証金はいくらか知っている?」
「いえ」
「今は五千万円」
東野は驚いて顔を上げた。深谷は続ける。
「由希の頃で二千八百万よ。超豪華な棄民施設。二泊三日でヒーリングと称してここのビジターセンターに来るエリートサラリーマンが最近増えてきているけど、彼らはここの実態を知らない。障害を持つ子供たちは、普通十五年くらいを学校で過ごす。理解ある教師と仲間たちに囲まれ、彼らなりに充実した日々を送るけれど、卒業した後どうなるか知っている? 就職できるのは彼らのごく一部、その中でも選ばれた子なの。日本の社会はね、彼らを受け入れようとはしない。たまたま由希の家庭は経済的に恵まれていたから、由希をここにあずけた。由希たちは仕事も配偶者も持たず、生きてる限り、ここから一歩も出られない。確かにパンダの檻。でも他にどこで生きられるのかしら。本音のところでは、だれも社会復帰なんか望んでないのよ」
「つまり由希は本来の彼女の居場所に戻ったということですか」
深谷は答えない。
「それじゃ」と軽く会釈して、東野が駐車場に向かうスロープに踏み出したそのときだった。
「あのとき見たのは……」
独り言のように深谷が後ろでつぶやいた。東野は足を止めて振り返る。
「あのときね、由希を取り押さえたとき、私が見たものは、夢よ」
東野は体を硬くした。
「白昼の夢。幼い息子の顔を見た。玄関先まで追ってきて、私を見上げた息子の顔。悪夢には慣れてるわ。別に由希に見せられなくたって、始終うなされてるから。彼女の頭を開けている夢を今でも見るのよ。私は電極探針を持っていて、そして突然、電圧が変化するの。予想外のことだったから、まだ若かった私は動転して、それを抜き取ろうとして……反対に深く刺してしまうの。その場にいた医者も心理学者も、みんな電圧が変化した機械のほうに気をとられていて気がつかなかった」
東野は息を飲んだ。深谷の表情はほとんど動かない。わずかな眉の動きだけが、胸の内を語っているように見えた。
[#改ページ]
5
東野はエントランスに続くスロープを登っていた。木々の若葉が萌えいでたばかりなので、少し離れたところにあるビジターセンターがすっかり見渡せる。白亜のギリシャ風の建物が青空に映えている。少し前は自己啓発セミナー、そしてバブルが弾けて以降、音楽や絵画鑑賞を組み合わせたヒーリングと称するいくつかの療法を受けるために人々がやってくる。このところ泉の里の経営陣は、本来の生活寮部門よりは、収益率の高いこちらの事業に重点を置き、いくつかの企業の厚生事業部などと契約を結んで積極的に客を集めているという。
それにしても一流会社のエリート社員やOLが、なぜ高い金を払ってこんな所にまで「療法」とか「カウンセリング」を受けにくるのか、東野には理解できない。健常者で、とりあえずは自由に出歩け、社会活動もできる人々が「生きづらい」という言葉を口にし、幼時体験やら親子関係を持ち出してことさら自分の過去を悲劇で粉飾し、悦にいっている様を醜いとも思う。
由希の状態が一応安定した、と深谷から連絡があったのは、一週間前の深夜のことだった。
レッスンの再開を告げるにしては、電話してきた時間帯がおかしい。
「今日、柏木さんが来たの」と深谷は言った。
「見舞いに?」という問いに「いえ」と答えた声が不機嫌だ。
「次のリサイタルは、セキュリティは完全なものにするってわざわざ言いにきたのよ。つまり由希のコンディションは始めから関係なしに、出演することを前提にして話をしにきたの」
そう言えば、五月に二度目のリサイタルが行なわれる予定だった。
「断ったわよ、もちろん。あれ以来、とても弾ける状態じゃない、と。けれどその段階ですでにうちの施設長に確認を取っていたのよ」
「施設長?」
「すでに回復しているから、と彼は承諾したらしいわ。講演をするとき以外は、東京の事務所から出たことがない人よ。入所者も指導員さえほとんど顔を知らないわ。つまりここのことを何も知らない施設長の首を縦に振らせたのよ。施設長が何と言おうと、由希が回復しない限りコンサートなどには出させない、と私は答えたわ。今回ばかりは中沢さんも出てきて、ここの実質的な責任者は私で、私には入所者の健康を守る義務があるとかなんとか言って追い返したってわけ。それでもしかすると、柏木さんからあなたに何か打診があるかもしれないけれど、不用意なことは口にしないでね」
結局それを言いたかったのか、と失望ともつかない気持ちで電話を切った。
ところが昨夜になって、深谷は東野に泉の里に来てくれるようにと言ってきたのだ。
柏木が、由希のリサイタルをキャンセルすると言うなら、賠償金の請求をすると言ってきたという。
「理事長の自宅に行って、そちらの回答次第では出るところに出る、と凄んだそうよ。ほとんどヤクザね」と深谷は言った。
「ヤクザじゃありませんよ」
東野は、会場のキャンセル料やチケットの払い戻しなど、二か月を切った段階で中止にした場合、その損害は莫大なものになることを説明した。
深谷の話によれば、由希に契約能力がなくても、それを知っていて契約を交わさせた泉の里としては、損害賠償にはおそらく応じなければならなくなるだろうということだ。
「泉の里と言うと、つまり直接的には深谷先生が訴えられるってことですか」と東野は尋ねた。
「いえ、施設長よ」
深谷は電話の向こうで吐き捨てるように言った。
「お金がからんだとき、彼は入所者の側には立たないわ。もう治ったのならリサイタルでもなんでもできるだろうって、電話をかけてきた。病院の診断書では確かに治ったことになってるからめんどうなのよ。そうなると私や中沢さんは医者じゃないから何も言えない。日本におけるセラピストの地位なんて、所詮この程度のものなのよ」
東野の中で、柏木や施設長を非難する感情は不思議と生まれなかった。むしろ再びチャンスがめぐってきた、という期待が生まれた。深谷は一言一言、吟味するように言った。
「もしもこのまま話が進んでステージに立たなければならないときは、柏木さんのほうにも頼んで、極力由希に余計なストレスを与えないように手を打ってもらうわ。そして無事に由希が弾けるようにあなたにも協力してほしいわけ」
「それならレッスンを再開しなければならないでしょう」
「レッスンなんていうものはいらないのよ。由希は一人で弾けるから。プログラムはこの前と同じだし」
「曲を完成させるのではなく、由希がステージで弾き始めるためのきっかけを作るために、それなりの訓練は必要です。今、由希は勝手に弾いているでしょうが、実際にステージに上がって、その曲を順番に弾くことはできませんよ。何度も、同じところを繰り返してみたり、そこの環境によっては絶対弾き出さないかもしれない」
口から出まかせだった。精神と身体の両方のコンディションさえ整っていれば、由希は弾き始めるはずであるし、何の支障もなくコンサートを終えるだろう。しかしあえて嘘をついた。由希のレッスンがなくても東野の身辺は十分に忙しかったが、いくら他の生徒を教え、自分の演奏活動を行なっても、ある種の喪失感を拭い去ることはできなかった。
「だからそのステージで弾くという行動を起こさせるために来て。もう弾けるんだから音楽そのものについての指導はいらないから」
本人は自覚がないのかもしれないが、器楽の教師に対してはずいぶん失礼な言い方をしている。
念を押すように深谷は続けた。
「くれぐれも無理はさせないで。いえ、一般的な意味での努力もさせないで。緊張や集中は、由希の力を暴走させるきっかけになるのよ」
「わかりました」と東野は心とは裏腹の神妙な口調で言った。
玄関を入り事務員に挨拶をしてからプレイルームに行くと、由希は以前とまったく変わらない位置、まったく変わらない姿勢で東野を待っていた。
彼女は、今度も回復した。長い夢から次第に醒めていくように、身辺で起きていることを正確にとらえ始め、事件から二十日がたったこの日、すでに介護の手は必要なくなっていた。部屋の物を自分の流儀で整え、食事も一人でできるようになっていた。彼女の心は再び秩序を取り戻したらしく、知能検査の結果も元の水準を示しているということだった。
由希は、東野の顔を見ると、ゆっくりと立ち上がった。いくらか痩せて髪にも艶が無い。不安定な感じに見開かれた目は、東野を正面からとらえている。東野は急に切なさとも、胸苦しさともつかない感じに襲われた。少女のような面差しは、しばらく見ない間に成熟した女のそれに変わっていた。
混乱する思いを振り切るように、弓を手渡す。弓とともに由希の右手を握り締めた。ミルク色の手首に蒼く静脈が走っている。現実の由希の肉体がそこにある。無事に保護され、見事に回復してくれたことだけでありがたかった。いったい自分は何を求めていたのだろうか、と思った。
東野は由希の親指に触れた。爪の脇はざらついて硬かった。弓に当たる部分だ。しばらく弾かないと柔らかくなるものなのだが、そこはプラスティックのように硬いままだった。ヘルパーに食事を流し込まれ、失禁を繰り返す状態でもチェロだけは離さなかったのだろう。
彼女にとっての音楽が何なのか、東野には理解できる。深谷が考えている以上のものだ。音楽的能力は彼女の人格の一部ではない。その中に彼女の存在があり人格がある。
由希は弾き始めた。気負いもなければ、感情を込めることもなく、呼吸をするように、淡々と弾く。その音楽は、肉体の回復とともに元に戻っていた。ルー・メイが再び彼女の中に戻り、居座っていた。予想していたことではあった。それでもあまりに鮮やかな回復ぶりを見せつけられ、東野はなす術もなく、聞いていた。
ふと、何か背中の辺りがざわつくような感じを覚え、視線を左右に動く弓から由希の顔に移した。白い顔に喜びは感じられなかった。表情の無い顔をうっすらと覆う苦悩の影が感じられる。息苦しさが襲ってきた。柔らかな粘液に頭ごと突っ込んだような不快感に鳥肌が立った。
東野の心は何かを探していた。論理を越えた論理、澄み切った音の流れを聴こうと耳をそばだてる。しかしルー・メイの音に阻まれている。自分の手がルーティーンワークのように、それを再生していく。自分の手、と感じた。今、東野は弾いてはいない。にもかかわらず彼の手は、確かに弓を握り、弦を押さえている。感受性を最大限にまで高め、何かを聴こうとしている。
これは由希の感覚だ。自分が得ているのは、由希の知覚が受け取った情報らしいというのがわかった。
由希の意識が、魂が、自分の内に流れ込んできている。
東野は大きく目を見開いた。視覚は紛れもなく自分のものだった。
弓を動かす由希の手首は、東野の網膜の中心で像を結んでいた。しかしその像もどこかおぼろげだ。その背後に、救《たす》けを求めるように差し出された由希の幻の手を東野は見たような気がした。由希は何かから逃れようとしている。ルー・メイの音を再現しながら、由希はそれから逃れようとしている。
東野は、はじかれたように窓辺から離れた。その拍子に傍らのラックから一枚のCDが落ちた。ジャケット写真の熱病患者のような濡れた瞳と、真っ赤な大きな唇が目に入った。深谷の買ってきたルー・メイ・ネルソンのものだ。拾い上げると由希の弓が止まった。東野の手の中にあるものを凝視している。東野は何気なく差し出した。由希は顔を背けた。鋭角的な動きだった。恐怖をたたえた目が、大きく見開かれている。
「思い出したのか、あの部屋を」
東野は小さな声で言いながら、それをひっこめた。
由希は弾こうとしない。
「そう、それでいい。ルー・メイだ。わかるだろう」
東野は、中からきらきら光る円盤を取り出してプレイヤーにセットした。
バッハの無伴奏組曲一番の冒頭の分散和音が聞こえてきた。すぐにスキップさせて、第三番を出した。
東野はもう一度由希の前に、ルー・メイの写真を出した。由希はチェロの肩に顔を伏せた。
「ルー・メイ・ネルソンだよ、由希。君の弾いてるやつのオリジナルなんだ」
由希は激しくかぶりを振る。長い髪が弦に絡みついて、神経を逆撫でする摩擦音を立てた。
彼女の内で、ルー・メイその人の像とルー・メイの音楽が結びついているなどとは、東野は考えてもみなかった。スピーカーから流れる演奏が、ワイヤーのように光る黒髪と真っ赤な唇をした女によって演奏されているものだ、ということを由希に理解させたのは、彼女を監禁した男なのだ。
由希は歯を食いしばり、ジャケットのルー・メイ・ネルソンの顔を見ようとはしなかった。ルー・メイを拒否している。自分のアイデンティティーに関わる問題だからなのか、それとも単純に拉致されたときの不快な記憶によるものなのか、東野にはわからない。
東野はあの男が残したビデオの場面を思い出していた。由希の音と重なり合ったルー・メイ・ネルソンの音、そしてワイドテレビに映っていたルー・メイ・ネルソンの姿。
その直後に由希はあの発作を起こし、同時に自分の表現を取り戻した。
由希の中で、ルー・メイ・ネルソンの音が、自分とはまったく別の人格であるルー・メイの存在に結びつけば、彼女の中で形づくられ、刷りこまれたシェーマは壊れるのではないか。今まで、由希をルー・メイ・ネルソンから遠ざけようとしていたが、反対に正面から向きあわせてみるべきではなかったのかと東野は考えた。あの不能男は、無意識のうちにその段取りをしてくれた。
東野はCDを取り出し、ジャケットにしまった。顔を上げた由希は、再び弓を手にしようとはしなかった。東野は由希の身体から楽器を離すと、軽く拭いてケースに入れた。そして由希の隣に腰を下ろす。由希は遠くを見ていた。
由希の音楽的能力をして、取り込んだ情報の正確な再現と断定するのは、一面的な見方だ。由希はどういう方法でかわからないが、あの事件の直後、自分の精神にとって固有のものを見つけだした。それを表現するということは、彼女にとっては最大の幸福なのだろう。だから肉体的には衰弱の極に達したときも、弾き続けたのだ。おそらく表現するという意図さえないままに。
ニルヴァーナだ、と東野は思った。彼女なりのニルヴァーナを由希は見つけた。彼女だけではなく、聴くものを至福の刻に導くものを。
しかしそれを阻止するものがある。型という名の檻だ。彼女を取り囲んだ檻は、由希と東野が作り出してしまった型だ。ルー・メイ・ネルソンそっくりに出来上がったシェーマ。その檻を出ようと由希は苦しんでいる。
「僕に何ができる?」
東野は低い声で尋ねた。由希は何の反応も見せなかった。
「いったい僕に、何ができるんだ?」
東野は、あらぬ方向を見ている由希を見つめたまま自問自答していた。
泉の里を後にした東野は甲府インターで下りず、そのまま国立まで行った。そこのクラシック音楽のソフトの揃っている店で、ルー・メイ・ネルソンのビデオを買った。
リスクは覚悟の上だ。失敗すれば、今度こそ泉の里に出入りすることを禁止されるだろう。それ以上に、大きなリスクがある。自分の試みは由希自身の精神と身体の健康を損なうかもしれない。
それでもいい、と考えながら、買ったビデオをカバンに押し込んでいる自分に驚く。
知能低下、生活能力の喪失、それがどれほどのものだろうと、東野は思った。
柔らかそうな白い頬、溶けるような微笑。今となっては、失うにはあまりにも辛いものだ。自分を見つめる眼差し、その底にある無限の信頼……そうしたもののすべてを失うかもしれない。
このままで何が悪いのだろう? 由希が死ぬまでルー・メイ・ネルソンのコピーを演じたとして、何の問題があるだろう。行く先々で絶賛され、聴衆を感動させ、障害を持つ多くの人々とその家族や介護者に希望を与える。由希自身も多くの人々に出会い、祝福され、幅広い人生を歩んでいく。東野は優れた指導者として評価され、この先も由希の公演に付き添い彼女と人生をともにする。それがなぜ悪い? それが幸福ではないとなぜ言えるのか、それが充実した人生でない、と断定するのは自分を芸術家と錯覚している者の驕《おご》りではないのか。
しかし由希は彼女自身の音を求めている。一瞬ではあったが、由希の耳と由希の手が自分の知覚を支配し、そのことを訴えてきた。深谷なら、それこそ東野の感覚であり、都合のいい解釈と考えるだろうが。
これまで、肉体的な極限で彼女が紡ぎ出した音楽。それは言語的知性、さまざまな表情、そして繊細に感動する情緒、多くの精神活動の大半を失った由希が、その代償のように得たものだ。
それは同時に音楽を志す者がだれしも魅入られていく、底知れない魔力を秘めた理念上の音でもある。それを由希は感覚の内にすでにとらえた。そのすばらしさを知りながら、自ら作り出した殻に阻まれ、心の外に溢れさせることができずに苦しんでいる。
卵の殻を割ろうとして、中身を潰すことになるかもしれないと、東野は自分のしようとしていることを恐れた。しかし長く退屈な生を至福の瞬間と引き換えにできるなら、ためらう必要はどこにもないような気がする。
買ったビデオを抱えて帰宅したとき、暗い部屋の中で留守番電話のメッセージランプが点滅しているのが見えた。
東野ははっとして靴を脱ぐのももどかしく上がり、再生ボタンを押した。
流れてきた声を聞いて、東野は頭を抱えて座り込んだ。教えている音大受験生からのメッセージだ。
「留守のようですので、あと一時間ほどしたらまた来ます」という内容だ。そして二番目は、同じ受験生から「二時間待ちましたが、いらっしゃらないので帰ります」というものだった。
前回、外せない演奏会があったために、彼のレッスンをこの日に振り替えていた。それをすっかり忘れて、泉の里から真っすぐに帰らず、東京に出てしまったのだ。由希のことで頭がいっぱいで、この受験生のことをすっかり忘れていた。
慌てて電話をすると、母親が出た。名乗ったとたん、「どうしたんですか今日は?」と、非難するような調子で言われた。当然のことだった。受験生の家は、富士吉田にある。以前は甲府に住んでいたのだが、四年前に引っ越した。それでも小学校時代から東野がチェロを教えている縁で、その後も彼は片道二時間近くかけて通ってきているのだ。普通なら音大受験を控えれば、著名な教師についたりするが、そうしたこともせず七年近く、東野のレッスンを受けている。
「申し訳ありません、急用ができまして」と東野は謝った。
「連絡くらいしていただきたかったんですよね。うちの子、今がいちばん大事なときなんですから、一時間でも無駄にさせたくないんですよ。正直なところ」
「すみません」
「うちの子の携帯の番号、先生、ご存じよね」
「はあ……」
確かに知っていた。しかし彼のこと自体、少しも頭になかったのだから知っていてもかけられなかった。自己嫌悪にとらえられながら、東野は謝っていた。結局、応対したのは母親だけで、受験生のほうは、電話には出なかった。
翌週、泉の里に行った東野は小会議室を借りた。セラピストの打ち合わせや視察者への説明会などに使われているこの部屋は、正面にビデオ用のスクリーンがあり、映写室を併設している。
「演奏家のライブビデオを由希に見せたい」と言うと、深谷は「それはいい考えだわ。レッスンで弾かせるのと違って負担が少ないわね。リラックスさせてやって」と言いながら、快く鍵を貸してくれた。深谷の期待を裏切ることに心苦しさを感じながら、東野は鍵を受け取った。
部屋に入った由希は、正面のスクリーンをめずらしそうに眺め、東野がオペレーター室に入れてやると、操作板に興味を引かれた様子でモニターに触ったりボタンを押してみたりした。由希がこうして何かにあからさまな関心を示すのはめずらしい。東野の存在が、不安を取りのぞいているらしい。ふと、自分がこれからしようとしていることにためらいとともに罪の意識を覚えた。
部屋の机や椅子をたたんで隅に片付け、中央の床に由希を座らせる。部屋の灯りを消す。由希は闇を怖がらない。いきなり暗くしても動揺しないし、明るいところと同様に行動することさえある。
東野はオペレーター室に入って、ビデオのスイッチを入れる。手探りでオペレーター室から下りてきて由希の隣に腰を下ろす。
やがてスピーカーからいくらか擦《かす》れた女の声が流れた。スクリーンの中でルー・メイ・ネルソンが自分の演奏について語っている。もの静かで上品な語り、完璧なクイーンズイングリッシュだ。口の中で転がすような発声は、ヨーロッパ貴族文化のどこか脆弱《ぜいじやく》で退廃的な雰囲気さえ漂わせている。彼女を拾い、育て上げた男の信念がうかがわれる。それにしても、そのトーンはルー・メイの容貌ともその音楽ともあまりにも不釣り合いだ。このビデオ撮影の数か月後に、彼女が十二階の階段の手摺りから飛んだのは、自分の内にかかえたこのアンバランスな感覚に引き裂かれていったからだろう。
ルー・メイの顔は大写しになり、カメラはさらに近づいていく。やがてスクリーンは、赤いいくらかめくれ気味の唇だけになった。
東野は由希の顔を覗き込む。画面を見つめる横顔は、スクリーンの光に濃い陰影を刻んでいる。半ば開いた口元や握った両手に、すでに強い緊張が見えた。おそらく自分を拉致した男の部屋で見せられたものなのだろう。
語りは途絶えて、いきなりチェロの音がした。フォーレの小品だ。ルー・メイが弾いている。全身が嵐にあおられる柳の木のようにしなる。叩き下ろすように弓を使い、髪を猩々《しようじよう》のように振り乱して弾く。
由希の体がぴくりと震える。座ったまま後退さりした。東野は、由希の体を後ろから押さえた。
「見て。目を開いて。ちゃんと聴くんだ」
由希は、激しくかぶりを振る。
「いいか、あれはだれだ。だれが弾いている? この音はだれだ。だれが弾いているんだ」
うつむいた由希の頬を両手ではさみ、東野はスクリーンに向けた。
「見ろ。言ってみろ。あれはだれだ。君か。この音は? わかるか、こいつが、君の音楽をつぶしているんだ。君の上に覆いかぶさっている」
由希は激しく抵抗した。そして擦れた野獣じみたうなりを上げた。東野は由希を後ろから抱き締めたまま叫んだ。
「他人だ。こいつは君とは関係がない。君ではないんだ」
由希は満身の力をこめて、体をバネのように反らし絶叫した。金属的な声がルー・メイのチェロの音をかき消した。
とたんに目の奥で火花が散ったような感じがした。眼球を裏側から突かれたような激しい痛みを感じる。
どこかでかたかたと金属の触れ合う音がする。
東野は由希の身体から手を離し、その場に倒れそうになる身体を傍らにあったテーブルに手をついて支えた。しかし数秒後、悲鳴を上げながら手を離した。確かにテーブルだった。金属パイプの足のついた何の変哲もない会議用長テーブル、その面はしかし熱したフライパンのように熱く感じられた。感じただけではなかった。幻の熱感ではなく、テーブルの面は確かに熱くなっていたようだ。慌てて手を退かせたとき、その表面に焼けた皮膚がこびりついていた。
東野は震えながら由希に近づいていき、その身体を後ろから抱き締めた。
「怒れよ」
ささやくように言った。
「怒れよ、怒っていいから、そこにいる女をよく見ろよ」
とたんに動いていた画像がぴたりと止まった。次の瞬間、驚くほどの速さで画面が巻き戻され、次に早送りされ、やがて異様な音とともに画面は真っ暗になった。予想していたことではあった。
だしぬけに扉が開き、蛍光灯がついた。
深谷が立っていた。唇を真一文字に引き結び、歯を食いしばったせいで顎がいびつになっている。両手を腰に当てたまま、じっと東野を見据えている。
東野は由希を離すと、片手で身体を支えてゆっくり立ち上がった。
「何をしたの?」
「別に……」
東野は視線を深谷から外した。
「別に、で、この騒動」
深谷は部屋を見回した。ブラインドの紐が切れて片方がぶら下がり、会議用長テーブルの上には焦げた跡があり、正面のスクリーンは物凄い力で引き裂かれたようにねじ曲がり、鉤裂《かぎざ》きになっていた。
「何をしたの?」
東野は答えなかった。
次の瞬間、平手打ちが飛んできた。顔半分が痺れた。東野は足を踏ん張って、辛うじて持ちこたえた。
「由希には意志や感情があるし、それを伝える手段もある。それはあなたが言うようなテレパシーだか何だかみたいな胡散《うさん》臭いものじゃない。音楽だ。由希は、一時だけルー・メイから離れ、自分の音を出したんだ。それが彼女のすべてだ」
東野は言った。
「音楽がどうこうと呑気なこと言ってられる場合だと思っているの? 由希の健康と生命の問題じゃないの」
「あなたにとっての音楽は、楽しみですらない。無くても少しも不自由しない。しかし由希は音楽によって、情緒と知性をつなぎ合わせ、外の世界とつながっている。自分の心を心として保ち続ける唯一の手段なんだ」
「何度言わせるの」
深谷は首を振った。
「それはあなたの感傷よ。音楽教師の自己満足よ。弾き方が変わったというのは、由希の内部で何かが壊れたってことなのよ。あなたは一度、由希の心臓を止めたってことを忘れないで」
「わかっています」
東野は言った。
深谷の目が大きく見開かれた。視線が自分の手に注がれているのに、東野は気づいた。
手のひらの親指の付け根部分の皮がむけ、血が赤い玉になって滲み出ていた。
「由希は周りの人々に危害を加え、自分自身の命も縮めていってる。あなたがそうさせてるのよ」
「ええ」
東野は、正面を見た。深谷の大柄な体の向こうにいる由希を見つめていた。
「かまいやしませんよ。由希は今、僕達が、三百年弾き続けても到達できない高みに、たどり着こうとしているんだ……」
深谷は何か言おうとして口を開けたが、言葉が見つからなかったように黙って首を振った。しばらく間をおいて、静かに言葉をつなげた。
「正気になりなさい。由希は、恐ろしい幻覚を見せるけれど、人が人生にいだく夢を見せることもあるのよ。ところが実はその夢のほうが、遥かに苦しく長い悪夢なのよ」
由希と視線が合った。視線と呼べるほどに焦点の合ったものではない。それは漠然と東野の姿をとらえていた。怯えと不安、その奥に何かを求める痛切な色が見えた。東野は目を伏せた。
「出て」
深谷は短く言って、ドアの外を指差した。東野は廊下に出た。急に火傷した手のひらが痛み出した。由希は何事もなかったかのように、自分の部屋に戻っていく。小会議室の鍵をかけると深谷はくるりと東野の正面に体を向けた。
「好きなの? あの子を」
「そういう質問に答える必要はないと思います」
「由希には音楽的な能力があるわ。けれどあなたが彼女に求めているのは、それだけ。あなたは由希の能力を彼女の人格から切り離して愛しているのよ」
東野は無言でかぶりを振った。由希の人格から切り離された音楽的能力、それは東野にとって羨望の対象にすぎない。嫉《ねた》みと憎しみの感情を起こさせるだけのものだということが、深谷には理解できない。
「あなた自身の夢や人生を彼女にかけようとしているわね」
「由希を自分の野心の犠牲にしている、と言いたいんですか」
「あなた自身のために忠告しているのよ」
その言葉に鋭い響きがあった。
「彼女には、怖いほどの魅力があるわ。いつのまにか引き込まれている。ここに来た私の目的は、彼女に少しでも人間らしい心と人間らしい生活を取り戻させること、それだけだった。けれどいつのまにか捨てたはずの野心が頭をもたげてきた。純粋な学問的興味と、海外の学会誌に論文を発表し国際的に認められたいという思い……。私は由希に自分の夢をかけた。けれど実のところ、由希を自分のものにしたつもりで、反対に取り込まれて、彼女に操られていたのかもしれない」
「意味がわかりません」
冷ややかに言ってはみたが、深谷の言っていることが漠然と理解され、背筋が冷えるような思いを味わっていた。
「挙げ句の果てに、私は大切なものを失ったわ」
「何を失ったんですか」
眉間に縦皺を刻んで、深谷は目を伏せた。
「自分の間違いに気づくには、あまりにも大きな代償だった。今でも由希は私の人生の重荷であると同時に、私の夢よ。でももう野心の対象ではない。私は、あなたなら大丈夫だと思った。あなたは私と違って野心家ではないし、若くても自分というものをしっかりとらえていた。慎重で誠実で熱心で。きっと由希にとって理想的な教師になってくれると、信じていたのよ」
東野は唇を噛んだ。一流の演奏家を育てるのは、自身が演奏家になるよりもすばらしいという考え方は大きな欺瞞《ぎまん》を含んでいる。人の心はそういうものではない。自分より大きな才能に嫉妬し、否定し、さまざまな混乱した感情を押し殺し、表面的な冷静さを保ちながら、指導するのだ。そして相手がついに自分の手の届かないところに登りつめたと知ったとき、心の一部分が壊死《えし》する。整理されるのではなく、壊死して崩れ落ちる。そして灰のようになった心から、相手を祝福する思いが生まれる。
東野は無言のまま、玄関を出た。
「私がいいと言うまで、ここに来ないで」
深谷の声が、冷静な調子で追ってきた。
東野の手のひらの火傷はしばらくの間痛んだが、化膿することもなく一週間後には、薄皮が張り包帯も取れた。
深谷からの連絡はなかった。「来ないで」と深谷が言うのも無理もない。しかし電話をかけても深谷は出ない。明らかにそこにいると思える時間帯でも、電話に出た事務員が「出張中です」とか、「手が離せません」と答える。夜、自宅に電話をしても留守番電話になっている。
一週間経ち、二週間経ち、四月も終わった。リサイタルの日まで一週間を切っても深谷からは何の連絡もない。レッスン代だけが律儀に口座に振り込まれている。
柏木に電話をして、探りを入れてみたが、特に深谷からも理事長からも連絡はないという。余計なことを言うなと、深谷に口止めされているのかもしれない。
「リサイタルを中止にさせてくれという話なんかない?」と尋ねると、「ちょっと、冗談はやめてくださいよ。そんな話があるんですか? 私、責任取って首、くくるようですよ、いまさらそんなこと言われたら」と柏木は鼻にかかった声を上げた。
「電話して確認を取らないんですか」
「とんでもない。やぶへびになりますよ」
柏木の言葉をそのまま受け取っていいのかどうかわからない。深谷と口裏を合わせ、東野を外して、リサイタルを終わらせるつもりかもしれない。
その二日後、東野は約一か月ぶりに、泉の里に行った。ちょうど夜から、東野自身のコンサートの予定が入っていたが、夕方までは空いている。久しぶりのソロコンサートではあったが、午前中からずっと練習している必要はなかった。というのも、コンサートの中身は「ビールとワインを楽しみつつ音楽に親しむ会」だからだ。地元にあるディスカウント酒店の社長が、全国二十店舗達成を記念して、市内にガウディホールという奇妙な形のコンサートホールを建てた。そこのこけら落としに地元在住の演奏家という理由から東野に演奏を依頼してきたのだ。
「ベートーヴェンとかシューベルトとか、眠くなるような小難しい音楽じゃなくて、もっと親しみやすいのがあるだろう。白鳥とか、荒城の月とか、そうだ、酒にちなんで、何かないかな、悲しい酒とか、チェロで弾いたらいいと思うよ」
社長は言った。東野は引き受けた。演奏家にとってはもの足りないコンサートではあるが、とにかく多くの人に自分の演奏を聴いてもらうチャンスではあった。しかもギャラまでもらえるソロコンサートなどめったにない。午後五時に甲府に戻るとして、泉の里まで往復する時間は十分にあった。間近に迫った由希のリサイタルのことを考えると、手をこまねいて待っているわけにはいかなかった。
由希のレッスンの予定が組み込まれているはずの午後二時に、東野は泉の里に着いた。頑なに習慣を変えない由希の性癖からして、東野が来ても来なくても、プレイルームでチェロを弾いている可能性があった。
しかし期待は裏切られた。
人目を避けるように受付を素通りして入ったその部屋に、由希の姿はなかった。
東野は楽譜を片手に手芸室や作業室を覗いてまわったが、やはりいない。
中庭に出て、宿泊棟の真下まで来た。見上げると三階の開け放した窓に、かすかに動くものの気配があった。
とっさに宿泊棟の玄関から中に入った。とたんに「ちょっと、何してるの?」という声が追ってきた。
太った女が立っていた。寮母だ。
「東野です。浅羽由希のトレーナーの」
「由希ちゃんは、今、いないの。それに面会は本館の受付を通して、ロビーで待っててくださいね。ここは宿舎なのよ。外部の人は遠慮して」
「由希は、今どうしてるんですか」
寮母の答えは要領を得ない。口の中でもぞもぞと何か言っていたが、やがて事務室に入り電話をかけ始めた。そして再び玄関に出てくると、「ビジター館のティールームのほうに行ってください。そっちに深谷先生がいらっしゃるんで」と答えた。
ガラス張りのティールームは、セミナーに参加している中年のビジネスマンで混み合い、あちらこちらでグループ研修の続きの討論が行なわれていた。深谷はその片隅で、頬のこけていっそう尖った印象の際立つようになった顔で紅茶をすすっていた。
「来ないでいい、と言わなかった?」
カップを手にしたまま、低い声で深谷は言った。
「何かあったんですか」
深谷の憔悴ぶりにぴんときて東野は尋ねた。
「二日前、由希が寮母さんに怪我をさせたわ」
「なぜ?」
「怒ったから。何に腹を立てたのかは、わからない。たぶん取るに足りないことよ。彼女が他人に怪我をさせたのは、今回が初めてじゃないわ。けれど自分の手も使わずに、ここの人に怪我をさせたのは初めてなのよ」
「どうやって?」
「わかってるでしょう。いちいち説明させないで。彼女の力は、手がつけられないくらい大きくなってしまったのよ」
「今度は、ルー・メイの音楽は役に立たなかったんですか」
「由希が腹を立てたり、不愉快と感じたりしたときに、いつも私がそばについているわけじゃないわ。部屋にいたのは寮母と彼女だけ。指導員と警備員が駆けつけて、すぐにこの施設を担当している精神科の医者を呼んだわ。そこで由希の緊急入院が決定したわけ」
「聖ヨハネに?」
「地元の病院」
面会はできるだろうか、と思った。
「行っちゃだめよ」
深谷は短く言った。東野の考えをとっさに悟ったらしい。
「なぜ?」
「近いうちに、聖ヨハネに転院させるつもりなの」
「そこでどうするんですか」
深谷は少しの間沈黙した。
「再手術を……」
東野は息を飲んだ。
「もしや……」
「今の能力は消えるでしょうね。暴力も、音楽的能力も……」
「ロボトミー?」
「今時そんなことをやる医者はいない、と前に言わなかった?」
「忘れました」
「私たちの心というのは、脳の神経細胞の出すパルスの集合体だというのは知ってるわね。あの発作も特殊な情緒も、際立った音楽的能力も、脳の過剰放電が原因というところまでは突き止めたの。そのとき出されるエネルギーが、負の力の正体らしい。それが回りにも危害を加えていく力を生み出すと同時に、彼女自身を壊していく。それを何度も繰り返すと、しだいにニューロンの微細構造が変化していくわ。それであるところまでいけば、回復は不可能になって、脳の機能が完全に止まる。だからそうなる前に、過剰放電の起始部位を突き止めて切除するわけ」
「脳を切り取るんですか?」
東野は尋ねた。
「前側頭葉のほんの小さな部分。脳の右と左を繋いでいる神経を切断して放電を止める方法もあるそうだけど、問題の場所を確定して、正確にそこを切除したほうが、予後がいいし、再発の可能性もないそうよ」
「それはわかりました。しかし……」
理屈はともかく、ひどく危険なこと、非人間的な処置が行なわれるような気がしてならない。
「なぜ、そこまでやらなければならないんですか。他にいくらだって治療方法はあるでしょう」
「薬が効かないのよ」
落ち着き払った様子で、深谷は答えた。
「薬が効くようなら話は簡単。薬の血中濃度を測りながら、投与していればいいことだから。ところがいったん状態が悪くなると、由希には効かない。濃度を上げたら、今度はショックを起こした。残る手段は電気ショックだけと言われたわ」
「電気ショック?」
凄惨な光景が頭に浮かび、体中から血の気が引いていった。
「あなたが考えているようなものじゃないわ。ちゃんと麻酔をするから、筋肉の痙攣はないのよ」
「苦痛は?」
「さあ……」
「やめさせてください」
「だからいまの病院を退院させて、手術を受けさせるしかないのよ。人権擁護団体の人たちが何と言おうと、少なくともそのことによって、由希はここで以前と変わらない生活をおくることができるんだから。手術自体の危険性はほとんどなく、ただ突出した能力を失うだけで、閉鎖病棟の処置室に押し込められることもなく、ベッドに縛りつけられることもなく、少なくとも人間らしく生きていくことができるのよ。意欲の減退だとか、意志の喪失なんてことも起こらないし」
「本当なんですか? 医者、特に執刀する医者がそう言ったんでしょう。深谷さんはどう思っているんですか?」
深谷は答えない。
もし手術をしたら、自分のことを由希は忘れてしまうのだろうか、と東野はふと思った。
「他の人たちは、なんと言っているんですか」
「由希の家族に説明したら、手術の有無についての判断はこちらに一任すると。家族としてはできれば精神病院ではなく泉の里で面倒を見てほしい。手術の費用については支払える、と言ってるわ。施設長は、由希が凶暴性を発揮して、職員や他の入所者を傷つけたりしなければ置いておけると判断したわ」
「で、手術の予定はいつ頃?」
「二、三か月先でしょう。準備がいろいろあるから。頭蓋内脳波をとって過剰放電を起こす場所を最終的に確定しなくてはいけないのよ」
「頭蓋内脳波?」
「硬膜や脳内に電極を置いて、継続的に脳波をとるの」
その光景を思い浮かべると、背筋が冷えた。
リサイタルの予定は、四日後だ。
不意にそんなことが、頭に浮かんだ。
もし手術が予定通りに行なわれたら、今回が由希の最後の演奏となる。そしてルー・メイ・ネルソンの亡霊も永遠に消える。
「聖ヨハネに転院させるのはいつですか?」
東野は尋ねた。
「それを聞いてどうするつもり?」
「東京まで連れていくのは、大変だろうと思って」
「大丈夫、手配してあるから」と素っ気なく答え、深谷は席を立った。
東野は、のろのろとポケットから小銭を出し、テーブルに置く。深谷はそれを無言で押し戻しレジに行った。
セミナーが再開される時間らしい。周りにいた人々も腰を上げ、ティールームを出ていく。
深谷と別れて東野は駐車場に向かった。由希の入院先を聞いておけばよかったと後悔した。聞き出したところでできることなどないにしても。
そのとき向こうからやってくる人影が、東野に向かって手を上げるのが見えた。
中沢だ。
「知らないで来たのか、彼女が入院したことを」
息を弾ませて中沢は尋ねた。
「ええ……」
「無駄足を運ばせた深谷さんも深谷さんだな」
「いえ、来ないでいいと言われたのを僕が勝手に来ただけです」
中沢は東野の背中を叩くと、くるりと身体の向きを変えた。
「どこへ行かれるんですか」
「大したところじゃないよ。話でもしよう」
中沢について玄関のスロープを下り芝生とダケカンバの小道を抜けると、二階建ての小さなマンションのようなものが建っていた。職員住宅だ。中沢はここに住んでいる。コンクリートブロックを積んだような建物の造りは簡素だが、各部屋の前に小さな庭があって、遅い春を待ちかねたように、水仙やスノードロップが咲き乱れていた。
部屋に入った中沢は、庭に面した二重ガラスのドアを開けて東野を呼んだ。室内はすっきり片付いている。余計なものは何もない。おびただしい本が、作り付けの本棚に収められ、赤みがかった樫材の机の上に、一枚の写真が飾られていた。
「妻と子供たちだ」
中沢は、少し目を細めた。
「長女は、結婚してオーストラリアに行った。息子は家裁の判事をやってるので、全国放浪だ。妻は、八年前に他界した」
「今はお一人ですか」
中沢は、瞳の底に穏やかな笑みを浮かべた。
「まあ、そうだが、きずなは切れてないよ。各自の心のなかに。家族がバラバラになったと嘆くよりも、過去に彼らと人生を共有できたことを感謝すべきだろう」
写真の中の中沢は、幼い女の子を抱いている。ふさふさとした髪はまだ黒い。
「ところで、彼女のことは、深谷さんから聞いただろう」
「寮母さんに怪我をさせたとか」
「とにかく私にはまだ、自分の見たものが信じられない」
「見た?」
中沢はうなずいた。
「事務長に呼ばれてね、慌てて駆けつけた。空中を鉢植えが飛び、電灯にぶつかって寮母の頭上に落ちた。ここに来たばかりの人でね、気をきかせて由希のパジャマを洗濯場に持っていってやろうと手をかけた瞬間に、始まったらしい。だれも説明できない力だ。憎しみの感情が嵐となって吹き荒れたようだった。しかし何をそんなに怒らなければならなかったのだ? とにかく彼女は何かに苛立って、怒っていた。君の楽器のレッスンがその原因だとは、私は思わない。ただ、由希にとっては音楽の練習がストレスになり、異常な集中力を身につけることが同時に、黒い力を育てあげてしまったのかもしれない」
「黒い力でも、負の能力でもないと思います。あれは……」
話が噛み合わないのを感じて、東野はそれ以上、言うのをやめた。
「深谷さんは、毎日のように病院に通っている。東京の病院に転院させるまでの間、なんとかここの施設に戻して、普通の生活をさせようとしている。由希は今、何もかも破損させるので、電灯さえない鉄の檻のような保護室に入れられた」
「なぜ……」
東野はつぶやいた。
「なぜ、そこまでしなきゃならないんだ。鉢植えが空中を飛び、電球が破裂するなんてばかなことが起きただけじゃないか」
「寮母さんが、重傷を負った。頭蓋骨陥没だ」
東野は小さく呻いた。
「だからって、それが由希の仕業だなんて、どうやって証明するんですか。事実そうなら、傷害なり器物破損なりで逮捕して、裁判にかけたらどうなんだ」
「君の言う通り、合理的な説明がつかない。しかしこのままでは由希も回りの人々も明らかに危険だ。だから警察ではなく病院が彼女を引き取らざるを得なかった。僕は何もできなかった。深谷さんがあの場にいたら、どうしていただろう。僕は担当の医師に対して反論できなかったし、僕自身あの子が怖かった」
「怖い?」
「偉そうなことを言う気はない。僕は弱い人間だ。それに歳を取りすぎているのかもしれない。聖ヨハネ病院の手術に深谷さんが、関わっていたことは知っているかね」
「ええ」
「R大の心理学研究室は、僕のいた国立大学と関係が深い。R大のことを口の悪い者は、うちの植民地と呼んでいるくらいだ。そしてうちでやると問題になりそうな実験をR大にやらせていた。大脳機能部位の地図作成、というテーマはR大学の医学部のものだが、我々はそこから記憶や知覚のシステムに関するデータを取りたかった。僕はR大スタッフを指導してその実験に参加させた。医者でもない深谷さんに電極探針を握らせたのは僕だよ」
東野は唖然として、中沢の顔を見た。
「流行っていたんだ。あの時代、アメリカの大学ではさかんに行なわれていたが、日本では、いろいろ問題があってできなかった。由希の事故の後、僕は頬っかむりを決め込んだ。関わりになることを恐れて、R大の非常勤講師の仕事も辞めた。僕が大学からここに来たのは、教授ポストをめぐる争いに敗れたからだ。そして、深谷さんをここに呼んだ。研究室でなく、より実践的な施設で仕事をしたい、という彼女の希望を知ったからだ。若い女性研究者に、あのひどい実験をさせたことについては、責任を感じていた。ただ彼女が由希を連れてくるとは思わなかった。後ろめたさというのは、積み重なれば怯えに変わる。大学にいた頃のような野心も気力も失い、ここで入所者の人々一人一人と向き合うと、彼らの背負った生の重さへの、畏怖《いふ》に似た思いに打ちのめされてしまう。しかし深谷さんは、ずっと由希と積極的に関わりあってきたのだ。由希に特殊な力があることを見抜いたのは僕のほうが先だったかもしれない。怯えていたから、余計に鋭敏に感じ取った。それで僕は由希からますます遠ざかった。超能力などと一括りにする気はないが、とにかく不思議な力だ。僕が怖かったのは、それで僕が傷つけられることではない。自分の心の陰に向き合わされることほど恐ろしいことはない。あんな忌まわしい能力を伸ばすのは止めたかった。由希にしたって無いほうが幸せなのだ」
「そうでしょうか」
東野は口を挟んだ。
「過去のいくつかの研究では、言語の習得が障害者の持つ特殊な能力の消滅につながった例が報告されている。わずかでも言葉を身につけ、限られた語彙であってもここの人々と気持ちを通じ合わせて暮らしたほうが、本人のためには幸せだと僕は言った。深谷さんと対立するようになったのはそれからだ。深谷さんは由希の能力が際立つようになるにしたがって、由希にのめり込んでいった。R大学に頻繁に由希を連れて行くようになった。そのときから僕は、彼女に忠告し続けてきた。忠告はしたが僕自身が由希に近づく勇気はなかった。実際、だれ一人として由希を指導してやることはできなかった。始めは多少の素直さを見せていた由希は気難しくなって、ますます心を干涸びさせていった。何度、深谷さんに忠告しても無駄だった。彼女は由希の能力に固執し、やがてここに泊まり込んで片時も由希から離れようとしなくなった。ここの人々を包んでやれるのは、家庭人としての愛情だ、と僕は言い続けた。しかし彼女は自分の家庭を捨てた。
ある年の冬だった。彼女には小学生になる一人息子がいた。熱があるっていうのを家に置いてきたんだ。ちょうど由希に変化が現われた時期で、深谷さんはそのまま四日間、家に戻らなかったんだ。ご主人は、外科医でやはり夜勤が多かった。息子さんは、肺炎を起こしていたんだよ。自分で薬を飲んだらしく、高熱も出さずにいきなり呼吸困難を起こした。彼を看取ったのは父親でも母親でもなく、彼の顔色に気づいて慌てて病院に連れて行った、進学塾のアルバイト学生だった。それがもとで深谷さんは離婚したらしい」
東野は息を飲んだ。
「私は大きなものを失った」といつか深谷が忠告するともなく言ったのは、そのことだったのだ。
「君の仕事は終わった」
中沢は東野を正面から見つめ、宣告するように言った。
「君は基本的には深谷さんの方法に従ったが、たとえ一時にせよ深谷さんが予想もしなかった福音を由希にもたらした。愛情を持って接してきた、ということが大きかったのだろう。本来、僕がしなければならなかったことを君がやった。彼女の障害に対し、何の責任もない君が。こんな結果になってしまって虚《むな》しさを感じているかもしれないが、君は立派にやり遂げた。君を必要とする人々は他にも大勢いると思う。それを忘れないでほしい」
中沢の口元を見つめながら、東野は込み上げてくる否定の言葉と闘っていた。
自分にとっても、由希にとっても何も終わってはいない。自分は由希から手を引く気など毛頭なく、自分は由希に福音などもたらしてはいない。
東野は思い出していた。いつか深谷の言った言葉を。
「彼女は人に人生の夢も見せるのよ」
彼の夢は、今、人々に恐れられ、壊すものの何もない部屋に「保護」という形で監禁されている。
「ひとつ聞いていいですか? 由希が聖ヨハネに移されるのはいつですか」
「あさってだね」
躊躇することもなく中沢は答えた。
「あさっての夜、向こうの車が迎えに来る。ただし深谷さんは、今日中に由希を引き取ってくるらしい。確かにあの病院の処置室での扱いは非人間的すぎる。しかしせめてヨハネに二日早く収容してもらうことはできないのだろうか。ここでの二昼夜のうちに、何事もないという保証はないのだから」
中沢は眉を寄せた。
今日から三日後の夜まで、由希はここにいる。だからどうということはない。しかしそのことが東野の心を騒がせる。ある計画が思い浮かんだ。今を逃してはチャンスは二度とない、と何かが心に呼び掛ける。冷静に考えれば何かが呼び掛けるわけはない。自分の心がその計画にとらえられたのだ。
東野は泉の里を引き上げ、中央道に乗ると真っすぐ八王子に向かった。行き先は、誘拐された由希が閉じ込められていた鉄工所だ。
あちらこちらで青白い火花を散らせている作業場の奥に、ここの主人はいた。
東野は工場屋上にあるプレハブの建物のことを尋ねたが、騒音がひどく聞き取れないらしい。外に出て、東野はあらためて言った。
「上のプレハブ、空いてたら、貸してもらえませんか」
五十がらみの主人は、不審そうに東野を見上げた。
「何に使うんですか」
「楽器の練習です。家を直している間アパート住まいしているんですが、近所から苦情が出てるので」と東野は淀みなく答えた。
「事件があったことは、知ってるんでしょう」
「ええ……」
屋上のプレハブ住宅は、昔、事務所に使っていたものだと言う。手狭になったので引っ越し、少し前から空いていたのであの男に貸した、と主人は東野が尋ねもしないのに話した。
「あいつはね、息子の同僚だったんだ。それで陰気くさい男だとは思ったが、貸した。『下が鉄工所だからうるさいですよ、いいんですか?』と私が言ったら、おたくと同じことを答えたんだよ。『アパートなんで楽器が弾けないから、うるさいとこでちょうどいいんです』とね。女をさらって監禁してたとは夢にも思わなかったね」
東野はぎくりとしたが、強張った指で財布から、一枚のカードを取り出した。
ある大手の楽器メーカーの主宰する音楽教室が発行している会員証だ。東野がそこの器楽教師として認定されている旨が記されていた。
「怪しい者ではありません、なんならこちらに電話をして私のことを尋ねてください」
落ち着いた口調で、東野は言った。主人は急に態度を変えた。
「すいません、プロの先生だったんですか」
一週間部屋を借りるという話はすぐにまとまった。
「ところであの部屋はどうなってます?」
東野は尋ねた。
「実はあのまんまでね。こっちも暇がないもんで。仏さんの身内が一度来たんですが、何も持っていかず、片付けることもしなかったんですよ。おたくが使うなら、若いのに言って、すぐにきれいにさせましょうか」
「いえ」
あわてて東野は言った。
「そのままでいいです。今日からでもすぐに使いたいので。何しろ一日練習ができないと、一週間分腕が落ちると言われているのが楽器の演奏ですから」
「それにしたって、あれじゃ……」
「まったくかまいません。すぐに使わせてください」
主人は胡散臭そうに東野の顔を見た。東野は慌てて持っていた現金を出し、この場で家賃を前払いしたい、と言うと、相手は納得したようにうなずいた。
八王子から再び中央道に乗り、今度は有村音楽事務所に向かう。しかし柏木は外出しており、中年の女子事務員が一人いるだけだった。まもなく戻るということだったので、そのまま待たせてもらうことにした。
事務所の壁には、所狭しとポスターが貼られている。由希のポスターも混じっていた。明らかにルー・メイ・ネルソンと思われるシルエットをバックに、由希の美人画風の横顔が描かれている。
「浅羽由希 バッハ無伴奏組曲 連続演奏会」
という文字が入っている。そして、その横に、「堕天使ルー・メイが東洋の少女に降りてよみがえる」とある。
オカルト映画のポスターでもあるまいし、と東野は眉をひそめてその文字を見つめていた。日付は五月十七日。三日後だ。
一時間も待たされた頃、柏木が戻ってきた。
「この前はどうも」
東野は丁重に頭を下げた。
「いや、こちらこそどうもお待たせしまして」
柏木はさらに丁寧に言い、まず自分の机の前に行き、留守の間に受けた伝言やファクスに素早く目を通した。平静な表情で数枚の紙切れを読んで、一人でうなずき、その一枚を手にしたまま、東野のところに来た。
「前売券は……売り切れてますよ」
ソファにどさりと腰を下ろして、柏木は言う。Yシャツの袖口が黒く汚れて、小柄な身体全体に疲れが滲んでいた。柏木が何を言わんとしているのか、東野はぴんときた。
柏木は黙って、手にしたファクスの用紙を東野のほうに向けた。
「浅羽由希は急病のため、五月十七日の演奏会は中止とさせていただきたいと存じます」という深谷からのメッセージに、「頭部外傷後遺症により入院中であり、一か月の安静加療を必要とする」という地元の病院の診断書が添えられている。もちろん「頭部外傷後遺症」という診断内容は、便宜的に出されたもので、実際のところだれも正確な病名など書けないはずだ。
「確認のために、一昨日の夜、プログラムとリハーサルの予定などを記載したものをファクスで流して最終確認を送ったんですが、夕方になって来た返事はこれですよ」と柏木はその用紙をつまみ上げた。
東野は口の中が渇いてくるのを感じた。
「で、どうされるんですか?」
「あちらの代表は、別に深谷さんではありませんからね」
「交渉相手は施設長ですか」
「とんでもない、理事長です」と答え「ちょっと失礼」と柏木は席を立った。電話のところに行き、すぐに受話器を置いて戻ってきた。
「深谷さんは出張中、理事は会議中です。で、おたくは?」
「リサイタルの予定について変更がないか確認しに来たのですが、お訊きするまでもなかったようで」
「東野さんは、由希さんがどんな様子なのか、ご存じですか」
柏木は尋ねた。
「その診断書は、偽りです」
東野はできるかぎり落ち着き払って答えた。
「そんなことだろうと思っていました」と柏木は小さく微笑した。
「ちょっと精神的安定を欠いた状態になって、入院したのは事実です。しかし弾けないということはない。むしろ楽器を取り上げた場合のマイナスのほうが大きいと僕は思います。リサイタルは予定通り行なうことは可能です。なんとか中止しないで、このまま準備を続けてもらえませんか」
思いの外冷静な調子で自分が話していることに、東野は驚いていた。自分の計画が失敗したら、取り返しのつかないことになることはわかっていたが、止めることはできなかった。柏木はうなずいた。
「中止するとしたら、もう三日前ですからね。我々としてはすぐに泉の里へ正式謝罪を求め、弁護士を通じて損害賠償の請求をします。これだけ向こうが誠意のないやり方をしてくるとなれば、こちらもそれなりの手段を選びますよ」
「私がなんとかします」
東野は遮るように言った。
「おたくが、理事長と交渉するんですか」
「いえ、理事長は何も知りませんよ、たぶん。つまりコンサートの当日、由希がここに来て弾けばいいという、それだけの話なんでしょう」
「つまり黙って連れ出す、と」
何かを嗅ぎ取ったらしく、柏木の声が低くなった。
「柏木さんは、何も知らなかった。すべては僕が勝手にやることです」
柏木が無言のまま、東野の顔を見つめた。
「それとも深谷さんの申し出どおり、中止にしますか? 泉の里は賠償に応じるでしょう。しかしここのプロダクションの信用は、失われますよね。チケットを払い戻して済むものではないですから」
「もし失敗したら?」
柏木は尋ねた。
東野は答えに詰まった。
「成功させるしかないでしょうね」
柏木は小さく笑い、紙切れに数字を書いて東野に手渡した。
「私の携帯電話の番号です。何かあったらこちらに電話をください。事務所には絶対、かけないでくださいよ」
念を押すようにそう言って、東野の目を見た。
「約束します」とその紙切れを手帳にはさみ、東野は席を立った。外に出ると日はすっかり暮れていた。そのときになって重要なことを思い出し、東野は思わず叫び出しそうになった。
この前と同じ失敗をしていた。前回忘れたのは、音大受験生のレッスンだったが、この日は彼自身のコンサートが開かれるはずだった。
時計を見る。開演時間は三十分過ぎている。これから慌てて甲府に向かったとしても、とうてい間に合わない。めまいを覚えながら、東野は電話ボックスに走る。
コンサート会場に電話をし、係の人間を呼び出してくれるように頼んだ。しかしいきなり聞こえてきたのは、「どういうことだ?」という社長自身の激昂した声だった。
「車が渋滞しているなどというのは、理由にならんぞ、わかってるな」
「申し訳ありません」
「どういう理由だ」
「忘れていました」
もうどうにでもなれとばかりに、東野は本当のことを言った。相手は絶句した。
「これから行っても間に合いません、申し訳ありません。コンサートは中止にしてください」
「馬鹿もの」という声が返ってきた。
「いいか、今日はお得意先はもちろん、市長や元大臣まで招待しているんだ。わしの顔はどうなる。シティフィルの方にもこのことはよく言っておく。おまえの名前がプログラムに入っているかぎり、うちでは協賛金は出さん。広告も載せん。生徒を集めているらしいが、おまえのようないい加減な人間が、他人を教えられるのか、よく考えてみろ。わしが教育委員会にも顔がきくということを忘れるな。今後、甲府の町で生徒をとろうなどとは考えるなよ」
相手はまだ何か吠えていた。酒が入っているようでもある。もともとが「ビールとワインを楽しみながら」という集いなのだから、客も社長自身も、いつまでもやってこない演奏家を待ちながら、かなり飲んでいるのだろう。
東野は社長が叩きつけるように受話器を置くまで、自分を罵倒する言葉を無言のまま聞いていた。
生まれ育った町も、演奏家としての自分自身も、そして教え子たちも、すでに遠い存在になったような気がした。
中央道を西へ向かいながら、東野は明日の計画をもう一度頭に思い描いていた。心の中は由希のことしかなかった。思春期に味わった体と心をかき乱す恋の感情とも似ているが、明らかにそれとは異質な情熱だった。いっそこれが恋であればここまで堕ちはしない、と東野は西の空に低く輝いている上弦の月に向かってつぶやいた。
深夜自宅に戻った東野は、中沢の住まいに電話をかけた。相手はすぐに出た。
「由希は退院できましたか」
「ああ、連れてきた。向こうの病院も、二つ返事で退院させたらしい。医者はもちろん、何より看護婦が、近寄るのを嫌がったそうだ」
「暴力ですか」
「いや……暴力というよりは、何か常識では考えられない現象が起きるから、気味が悪いのだろう」
「退院してどうしています?」
「部屋にいる。深谷さんがそれとなく様子を見ているが、だいぶ落ち着いている」
「私は、会えないですか」
「気持ちはわかる。しかしもう少し落ち着いてから来たらどうだね」
「手術の話はご存じですか」
東野は尋ねた。
中沢は沈黙した。
「知っているんですね」
「今のところ、それ以外の方法はない」
「手術によって、何もかも忘れてしまうのでしょうか」
「そんなことはない。痴呆化するわけでもない。意欲の減退も起きない。ただ……」
「わかっています。その前に会っておきたいんです」
「深谷さんに頼んでみるかね……。彼女は明日、十二時から二時半くらいまでの間は、ソーシャルワーカーの研修会で甲府に呼ばれているのでいないから、その前に話をしてみよう」
「いえ」と東野はさえぎった。
「お気持ちはありがたいんですが、やはり自分で連絡します」
そんな気は毛頭ないまま、そう言って電話を切った。
明日の十二時から二時半まで深谷はいない。その時間帯に、東野を警戒する者は泉の里にはだれもいない。
その夜は不思議なくらいよく眠れた。これから行なおうとしていることへの不安はない。自分の意志以外のものが、自分を動かしているという実感があり、気持ちはむしろ楽だった。
早朝、東野は車を東に向けた。調布インターを下り、やや渋滞し始めた道を北に向かい、二十分ほどで山岡のいる病院に着いた。見舞うにしても何もこの日にしなければならないというわけではなかったが、なぜか今を逃すと、二度と会えないような気がした。
面会時間にはやや早かったが、幸いだれにも見咎められず、山岡の病室まで行くことができた。
ドアは開け放してあった。病室に入る前に、気持ちを落ち着かせる余裕はなかった。
朝陽の差し込む病室の中央のベッドで、見知らぬ老人がこちらを見ていた。
老人だった。特に微笑するでもなく、その老人は上機嫌な眼差しで、東野を見ていた。それが山岡であることを自分に納得させるまで、少し時間がかかった。
「どうも……」
それ以上の言葉は口をついて出なかった。
山岡は手招きした。
「元気か……」
くぐもった声で尋ねる。深谷が会ってから二か月くらいは経つ。言葉はある程度、回復したらしい。
「はい」とだけ東野は答えた。
「彼女は……」と山岡は言った。東野は息が詰まった。それから山岡は、長い間を置いて続けた。
「弾けるようになったか」
ひどくゆっくりした言い方だ。自分がなぜこんな状態になったのか、由希があのとき自分に何をしようとしたのか、すべて理解した上で、山岡は由希のことを気にかけていた。弾けるようになったか、と。山岡にとって、由希は未だに「弾けない」のだ。東野が考えているのと同様に。
「がんばってますよ、彼女も、僕も」とだけ、東野は答えた。
そうか、というように山岡はうなずいて、右手を出した。握っていたテニスボールをぽろりと落とし東野のほうに差し出してきた。
その手を東野は握った。弓に当たって醜く盛り上がっていたたこがなくなっていた。筋肉の落ちた指と手のひらは、すっかり白く薄くなって、握り締めると湿っていた。
その白さと無力さに、奇妙なくらい清潔な印象があった。
「じゃ……」と東野は低い声で言って、そっとその手を離し、転がっていたテニスボールを拾って、握らせた。
「行ってまいります」
頭を下げ、病室を出た。
泉の里に着いたのは、二時間近だった。
東野は車を泉の里の本館非常口脇に置いた。
急がないと深谷が帰ってくる。ここの住人たちもそれぞれ身の回りのことをしている。ペットを飼っている者はペットの世話をし、作業のできる者は作業に出ている。
各自の能力に応じて、泉の里ではやることがきめ細かに用意されている。目的があって何かをするのではなく、何かをすることそれ自体が目的である生活。修道院などというのもこうした所だろうか、と東野は思った。由希は、この平穏な生活と別れを告げるかもしれない。もし成功したら、おそらく二度とここへは戻れないだろう。
本館の裏手の庭を横切り、宿泊棟のほうへ向かおうとしたとき、チェロの音がかすかに聞こえてきた。東野は耳を澄ませた。ルー・メイの音ではあった。それでも何か熱いものが込み上げ、全身の皮膚が粟立った。
不意に後ろから肩を叩かれた。
「こんなとこでどうしたんだ?」
中沢が立っていた。
「自分で弾き始めたんですね」
東野は言って、音のする方向を指差した。
「ここにいる二日間は、原則として彼女の行動規範に従って、一切の強制はせずに過ごさせることにしたんだ。薬を飲んでいるせいか落ち着いているよ。毎日が彼女が予想している通り、何の変化もなく過ぎていくなら、これで済むだろう。しかし世の中は騒がしい。思いもよらないことが起きては、彼女の抱えた爆弾を爆発させてしまう」
ぎくりとして東野は中沢の顔を見つめた。自分はこれから意図的に彼女を爆発させようとしている。
中沢は裏口に行き、東野に建物の中に入るように手招きした。
「静かにな、できるだけ静かに、刺激しないように」とささやいた。
「いいんですか?」
「穏やかに接してくれるね」
そう言って中沢は廊下を歩いて行き、ドアを開けた。チェロの音が大きく耳を打った。
由希は弓を止めた。
さほど驚いた風もなく、東野を見た。
「いいよ、続けて」と東野は言った。
このままでいい、と東野は思った。このまま何事もなく時が過ぎていったら、どんなにいいだろう。何ひとつ、由希の内部の規律を乱すようなことが起こらず、何ひとつ由希を苛立たせず、平らなコンクリートの水路を流れる水のように時が過ぎ、年老い死んでいけたらどれほどいいだろう。
中沢と深谷の言葉が信用のできるものだとしたら、手術によって彼女が失うのは特殊な能力だけだ。傷が癒えてここに戻ってきた由希は、もうだれも傷つけず、突出した音感も、リズム感も、音楽的意欲も失い、平和に生きていくだろう。そうした彼女と自分は関わり続けることができるだろうか。
あなたは由希の人格をではなく、音楽的能力を愛しているにすぎない、という深谷の言葉を東野は否定することはできない。しかし音楽的能力と音楽的感性も含めて、由希は由希だ。それを失ったら彼女は、死んでしまう、と東野は不意に思った。ここに戻ってきたとき由希は別の人間になっているような気がした。
由希はバッハの三番の抜けるように明るい音階を弾いていた。一度覚えたら、由希はどれほどのブランクがあろうと、それを正確に再現することができる。一日弾かなければ、一週間分落ちるなどというのは、由希には当てはまらない。東野が教えるべきことは、もはや何もない。ただしその音楽は、まぎれもなくルー・メイのものだった。
「東野君、ちょっと申し訳ないが、ミーティングがあるんで」と中沢は時計を指差した。
「わかりました」と東野は部屋を出ようとした。
「いいよ」と中沢は短く言った。
「彼女は時間がくれば部屋に戻るだろう。今しばらくだ」
「いいんですか?」
「君を信用するよ」
そう言い残し、中沢は忙しなく廊下に消えた。
僕は、あなたを裏切るだろう。そう小さくつぶやき、東野はその後ろ姿に頭を垂れた。
そのとき、由希の音がふと、止まった。
冷ややかな横顔を見せて由希は、弓を握り締めていた。細い肩が、何かと闘うように激しい呼吸で上下していた。
再び弾き出す。しかしまた止まる。東野ははっとした。
何かが由希の中で育っている。
東野は駆け寄って、由希の両肩に手を置いた。
由希の瞳が東野を見つめる。茶色の大きな瞳の中に、陽炎が立ったように見えた。
由希は自分の弓と楽器を彼に押しつけてきた。
弾けということらしい。
第五番ハ短調の冒頭を東野は弾き始めた。明らかに劣った演奏であるにもかかわらず、由希に苛立った様子はない。
東野は学生時代、山岡将雄の指導のもとにこの曲を弾いたことがある。手に余る難曲だった。未だにそうだ。あのときプレリュードの中程で山岡は止めた。
「全体に緊張しすぎているな。数えるな、数えてはいけない、東野君。もっと自由に……。そう、自然のリズムだ。トリルの終わりのアクセントはいらない。音楽を作る必要などないんだ。いいか、心の目を開け、心の耳をそばだてろ。おのずから聞こえてくるはずだ。音程もリズムも、そうして内面から立ち現われてくるものを君の手で再現するんだ」
由希は東野のかたわらに、しゃがみこんでいる。片手をチェロの表板に当てたまま、目を閉じている。東野は緊張した。由希は何かをしようとしている。それが何なのか薄々感じとれて狂喜した。由希が自分の音を探している。
いきなり芯のある音が鳴った。東野の手によるものではない。それは楽器からではなく、東野の内面で鳴っていた。これが山岡の言ったことなのか、と思った。内面からやって来る音は漠然としたイメージだ。それは東野のものではない。由希が渇望している音だ。由希は今、東野の心に働きかけてきた。自分の内側から解放しようと苦しんでいる音、それが東野に伝えられた。しかしそれは由希の自我のうちから発したものではない。
真の音、ハルモニアだ、と東野は思った。風にも、水にも、そして惑星の運行にも、音律があるという。人の音楽はそれの再現だ。いつの時代からか人の五感は退化し、ハルモニアを聞くことができなくなった。しかし由希の耳はそれを聞く。由希の心はそれに向かっていく。限られた人生経験と限られた生活空間の中で、由希は広大無辺な宇宙の摂理と秩序を見つけ、取り込もうとしている。
東野は弾くのを止めた。そして由希に楽器を渡す。
「さあ、今度は君が弾くんだ」
弓を手渡す。由希は弾き始めた。不自然なアクセントで冒頭部分が鳴り響き、ルー・メイ・ネルソンの音楽が始まったとき、由希は弓を取り落とし、両耳に手を当て金属的な叫び声を発した。
「やめろ。頼むから静かに」
すでに獲得した強固なシェーマが、由希の音楽を殻のように覆っている。太陽のさまざまな色調とその美しさに感動しながら、真っ赤に塗ってしまわずにはいられない子供のように、いざ弓を手にしたとき、由希はルー・メイ・ネルソンの音楽をそのままなぞってしまうのだ。
「わかった、わかったよ……」
最後の決意が固まっていた。
弓を拾い上げ、東野は由希の頬を撫でた。自分は、果たせなかった夢を由希を借りて実現しようとしていたのではない。これは由希の意志だ。由希を自分のものにしたつもりが、自分が彼女に取り込まれている。それでいい、と思った。
東野は素早く、チェロと弓をケースにしまった。そしてそれを肩に担ぐと、由希のほうを振り返った。
「行くよ、いい?」
由希の返事はもちろんない。了解したというサインもない。東野はチェロを担いだのと反対のほうの手で由希の手首を掴んだ。
部屋を出て玄関へは向かわず、駐車場に近い非常口に回った。
指導員が向こうからやってくる。その中年女性は、一瞬、眉をひそめるようにして由希と東野を見た。東野は会釈してすれ違う。
廊下を曲がり、非常口まで着いたが、その扉は開かなかった。ノブの部分がぐらついて鍵が外れないのだ。何度か回し、押したり引いたりしているうちに、ようやく開けることができた。
火事にでもなったらいったいどうする気なのだ、と腹を立てながら、小走りに駐車場へ向かう。
由希は東野の意図を飲み込んでいるらしく、おとなしくついてくる。
駐車場に戻って、心臓がひとつ大きく打った。自分の車の鼻先に深谷の車があった。
帰ってきている。予定よりずっと早く。
玄関のほうを見ると、大股で、飛ぶように歩いていく深谷の後ろ姿があった。
東野は後部座席にチェロを入れ、助手席に由希を押し込んだ。そして自分も運転席に座ると、曲がっていたバックミラーを直す間もなく、アクセルをいっぱいに踏み込んだ。
東野のカローラは、深谷の車をかするようにして、泉の里の敷地を飛び出した。
しばらくしてから東野は由希の側の窓ガラスを開けた。新緑の香りが入ってきた。由希は後れ毛をなびかせて、ゆったりとシートにもたれかかっている。幸福そうに見えた。これから行なうことを考えると、胃の辺りが鉄の爪で掴まれるように痛む。緊張感で口の中がからからに渇いた。
失敗したら、もし、失敗したら……。
ハンドルが汗で湿った。リサイタルは三十時間後だ。今しかない。
中央自動車道に入る。勝沼インターを過ぎたあたりで、渋滞が始まった。事故だ。東野は唇を噛んだ。車はまったく動かない。
カーステレオのスイッチをいれる。
「好きなものを聴いていいよ」
東野はカセットボックスを渡す。特に選ぶでもなく、中の一本を由希はかけた。人からもらったハードロックだ。スピーカーがピリピリと震えたが、由希は平然としている。彼女の耳には、これがどのように聞こえているものか傍からはわからない。
談合坂のパーキングエリアから、深谷に電話をした。
「何のまね?」
押し殺したような声が聞こえてきた。東野はそれには答えず、用意しておいた言葉を言う。
「明日は、衣装を持って会場に来てください」
「すぐに戻りなさい」
電話の向こうの声が凄味を帯びる。東野はかまわず続ける。
「深谷先生、いいですか。聞いてください。会場に入る時間は、柏木さんの指定した通りです。由希は、かならず連れて行きます」
「自分のやっていることがわかっているの?」
「深谷先生が、由希に受けさせようとしているのは、不法な手術、ですよね。僕はまだこのことを柏木さんには話していません。音楽プロダクションというのは、マスコミに直結していることを忘れないでください」
「あなた……なんてことを」
「いいですね。それでは会場で」
それだけ言って、受話器を置いた。
八王子インターを下りたときは、夕方になっていた。ちょうど由希が救出されたあの時間だ。あの頃よりも日が延びているせいで、闇がくるまであと一時間くらいはありそうだった。
町工場には、まだ数人の作業員がいたが、東野たちには気づいていない。内部で溶接の火花が散っているのが見え、鉄の焦げる匂いが鼻をつく。
東野は、楽器を車内に置いたまま、外に出て由希の手を握り締めた。
由希は、天井の高いその建物を前にすると身を硬くした。
「大丈夫だ」
東野は、自分自身にいい聞かせるように、ささやく。
ポケットの内に鍵はあった。由希を引きずるようにして錆びた階段を上がり、ドアを開けた。とたんに正面のルー・メイ・ネルソンのポスターが目に飛び込んできた。巨大な真っ赤な唇が小さく歪んだように見えた。
由希が、しわがれたような、かすかな悲鳴を喉の奥で洩らす。
東野は勢いよくドアを閉める。バタンという音も、由希のざらついた叫びも、階下の金属を焼き切る音にかき消された。部屋中に饐《す》えたにおいが漂っているほかは、何ひとつあのときと変わっていなかった。どこもかしこも、ルー・メイ・ネルソンだらけだった。安物の楽器もそのまま、何日も強い西陽にさらされたらしく、かさかさに乾いた板の上にほこりが真っ白に積もっている。
由希は、大きく目を見開いて立っている。血の気を失った頬は、冷たい汗でぬめるように白く光っている。
室内をかすかな風が吹き抜ける。あの男が破って落ちていった窓は、まだガラスが入らないまま、ベニヤ板が立てかけられていた。そこから隙間風が入ってくる。
東野は、由希の頬に触れた。冷たかった。
「勇気を出すんだ」
言いながら静かに背中を抱いた。板のように固くなった背筋が、内面に吹き荒れている由希の感情を表わしている。
東野は、転がっているあの男の楽器を手にした。幸い弦は切れていない。音はめちゃくちゃだ。糸巻きは乾いてひび割れている。東野は注意深く調弦する。耳を覆いたくなるような安っぽい音がする。
由希は、うずくまった。
「弾くんだ」
東野は、由希の腕をとって立たせた。由希は首を振る。むりやり椅子に座らせる。身体がぐにゃりと曲がった。つっかえ棒のようにチェロを抱えさせる。両膝に手をかけて開き、楽器を挟ませる。
由希がいつ攻撃をかけてくるのか、身構えながら背後に回って、弓を握った由希の手首を掴んだ。力まかせにG線を弾かせる。ぎしぎしと歪んだ音が鳴る。
由希は、うめき声を上げて正面のルー・メイ・ネルソンのポスターを見た。
「弾け」
東野は鋭く言った。由希はかぶりを振って身体をくねらせる。
「覚えているだろ、ここで弾いたときのこと。弾いて、君の中のルー・メイを叩き壊せ」
由希は弓を放り出そうとしている。その手を押さえつけた東野の腕に、生温かいものが落ちた。
蒼白になった由希の唇から、よだれが一筋、きらきらと光りながら流れていた。引きつった頬の上の目は吊り上がり、由希はあえぐような息をしていた。
「弾け、弾き出せ。この場で何を見た、何を聞いた? 思い出せ」
東野は腰を落とし、万力のように、由希を締めつけたまま叫んだ。
不意に頭の中で何かが破裂した。
東野は由希を離した。耳の奥が焼けただれるような熱感と痛みが襲ってきた。東野は悲鳴を上げた。
さきほどから室内に吹いていた風が、突然暴風のように荒れ狂った。書架に横積みにしてあった音楽雑誌の表紙があおられ、ひきちぎられて舞う。窓に立てかけられたベニヤ板がバタバタと窓枠に叩きつけられる。東野は、その場に四つん這いになって目を開けた。
由希は蒼白の顔をしたまま、腰を落とし楽器に寄りかかっている。十秒と目を開けていられなかった。光が針のように脳髄まで突き刺さってくる。
これが高田保子や山岡将雄を襲ったもの、そしてあの男を殺したものだろう。
東野は片手で身体を支えて立とうとした。たちまちめまいがして、その場に吐いた。
肩で息をしながら、由希のほうをうかがう。片手で口元を拭って、由希の身体を後ろから抱いた。
「弾け、ルー・メイでも何でもいいから、弾け。由希、弾いてみろ。今なら壊せる。君の力でルー・メイを壊せる」
由希の身体から、竜巻のような風が巻き起こって、窓に打ちつけたベニヤを二、三度ばたつかせたかと思うと、一瞬のうちに天井に巻き上げた。東野は頭を両手で抱えてうずくまった。
目の前に男の顔がある。スキーゴーグルの跡だけを残して赤銅色に雪焼けした顔は、精悍だが少しばかり滑稽だ。目鼻立ちは、東野に似てなくはないが、彼より一回り大柄だ。引き締まった体は、美しい雄鹿を思わせた。
「いいんじゃないの、兄貴は体が丈夫なんだから、細く長く生きていけば」
だれに習ったわけでもないギターで、みごとにバッハのシャコンヌを弾いて聴かせたあと、弟はそう言った。東野は、今、その声をはっきり聞き、その姿を見ていた。心像ではなく、生々しい映像となって、弟の顔は現われた。湧き上がった憎しみの感情もまさに、十年も前に東野が抱いたのと同じ生々しさをもって、心の中に吹きすさんでいる。
次の瞬間、彼は弟の左胸を殴りつけていた。青ざめ痙攣する弟の体が、彼の膝のそばにあった。弟の雪焼けは消え「細く長く」という屈辱の言葉を吐いたその日から、一瞬のうちに、半年が経っていることは東野は知った。
東野は弟を救おうとしていた。心臓の痙攣を止めるために、心臓をなぐりつけていた。義務感の底に、弟の限られていながら輝かしい生への憎しみがあった。力まかせに殴ったこぶしに、小さな破壊感が伝わった。全身から血の気が引いた。俺は救ったんだ。東野は弁解するようにつぶやく。そうだろ。確かにおまえの肋骨にひびを入れたが、それでおまえはあのとき助かったのだから……。
東野は、逃れるようにむりやり目を開けた。ルー・メイ・ネルソンがいた。真っ赤な唇をぬらぬらと光らせてこちらを見ている。一メートルほど向こうにある、枠に囲まれた二次元像であるとは思えない生々しさだ。
「さあ、壊せ。君の作り上げた檻を壊せ」
東野は、呻きながら由希のほうに這っていった。そのとたん、東野の身体は激しい衝撃をうけて、部屋の隅までふっとんだ。
失われた機能を補完するために肥大してしまった脳のある部分。そこから放出される負の力は、ますます増大している。それは能力ではなく、純然たる凶器だった。
この期に及んで、なお音楽などというものに執着している自分が、ひどく愚かしく感じられた。深谷の言う通り、確かにそれどころではないのだ。
東野は片手で身体を支えて、上半身を起こした。不意に痛みが遠のいた。目のくらむような光が見える。神経的な幻の光だというのが、東野にはわかった。
ルー・メイ・ネルソンが、弟が、そして由希さえも、瞬時に意識から消えていった。
彼の視野からすべてのものが消えた。闇が広がったわけでも、白い霧に閉ざされたわけでもない。
代わりに、ある世界が見えた。見えない世界が。それは複雑な無数の記号の集積と、美しい法則から成っていた。見えないにもかかわらず、茫漠たる空間の尋《ひろ》さが感じられた。
像を持たない絶対抽象。見事に系統だった秩序。美しい法則。
その中で、何かが砕けている。ニューロンの一本一本にからみつき、流れを作り出していたものが、砕かれ、激しい風の中に、何かがうねっている。
東野の網膜には、何も映らない。心の中のスクリーンにも何もない。しかし壊れゆくものと生成していくものが、全身の皮膚と五感を通して感じられる。
彼は呻いて、耳を押さえた。聴覚が何かをとらえている。
ハルモニア……由希のとらえたハルモニアだ。由希の宇宙がある。由希の感覚が、いま完全な形で東野の内に流れ込んできた。
うねりと、金属の砕ける音に似たものがおさまり、東野は脳の奥深くで息づいているものを見る。
無限の彼方から差し込む白い光のようなもの。多次元上に美しいバランスを保って浮いているいくつもの多面体。それらは高度に抽象化されて、呼吸し、時間とともに姿を変えていく由希の内なる秩序であるらしかった。
俺は死ぬのだろうかと彼は思い、同時に由希の足元に崩れた。
下降する十六分音符が聞こえる。どこからか下りてきて、彼の身体の上に降り注いでいる。明るく抜けるような清冽な響き。わずかな濁りもない和音。伸びやかな高音。
アマティの音だ。ルー・メイ・ネルソンの手から解放されたアマティが、歌っている。
意識がはっきりしてくるにしたがって、東野は、それが彼自身のイメージの音であることを知った。同時に、まぎれもない由希の音だった。東野は、身体を起こした。部屋は何も変わっていなかった。荒れ狂う風に巻き上げられて外れたベニヤ板は、元の位置に収まっている。吹き飛ばされた雑誌も元のままだ。
弓を操る由希のかさついた頬は、萎《しな》びてわずかながら縦に筋が入っている。落ち窪んだ目だけが黒く異様な光を放っている。
東野は立ち上がろうとして、がくりと膝をついた。身体を支えようと床についた右手が、濡れた。
チェロをはさんだままリズミカルにゆれる白い膝頭の奥から、生温かい液体がほとばしり、椅子を濡らし床にしたたり落ちていた。
陽気なアルマンドが始まる。愛らしいスピッカート、心地良いリズム、艶やかな音。
「いいよ、由希、それでいい」
東野は、ふらふらと立ち上がって壁のポスターに手をつき長い息を吐いた。
ルー・メイの胸の辺りに濡れた手形がついた。
「いいんだよ。それで、いいんだ」
東野はもう一度言った。そして由希のほうを見つめたまま、身体をひねってポスターの画鋲を引き抜いた。ぱらりと落ちたネルソンの巨大な写真を拾い上げる。そして上のほうから、ゆっくり縦に引き裂いた。さらに重ねてふたつに裂き、指に力をこめて何度も何度も裂いた。
それからそっと由希から弓を取り上げ、抱くようにして立たせた。
すっかり暗くなった十六号バイパスを東野は横浜に向けて走り出す。由希は助手席で目を閉じている。顔色は蒼白だ。ときおり痙攣するように身を震わせる。
由希は確かにシェーマを壊した。しかし同時に自分自身の生存に関わる正常な機能まで壊したらしい。深谷の言った通りだ。わかっていてそれを強要したのだ、と東野は自分の行為に戦慄を覚えた。
明日、弾いてくれればいい。一瞬の輝きを見せてくれればいい。自分の由希に対する思いは、おそらく愛情の対極にあるものだろう、と東野は思う。
八時を少し過ぎた頃、車はようやく横浜市内に入った。明日の音楽会場は関内の県民ホールだ。駅近辺のシティホテルの前に、東野はいったん車を止め、結局降りずに通り過ぎた。
下半身を濡らし異臭を漂わせ、一人では歩けない由希を連れて、人目の多いロビーを歩き部屋に行き着く勇気はない。
会場近くにホテルを取るという計画は挫折しかけている。しかし甲府の自宅に連れ帰っていては、由希の体力がもたない。
東野は車を降り、公衆電話のところに走った。
柏木の携帯電話の番号を押した。呼び出し音が五、六回も鳴った頃、忙しない柏木の声が出た。
「由希を連れ出しました」
「で、今、どこ?」
「深谷さんか泉の里から、連絡はありませんか」
「何もないです。で、どこにいるんですか」
東野は明日の会場近くにいることを伝え、今夜、由希を泊めるところがない、と話した。
「悪いけれど、事務所に来てもらうわけにはいきませんよ」と即座に柏木は言った。
「わかってます」
少し間をおいて、柏木は言った。
「その少し先の石川町で、知り合いが旅館をやってます。三好家旅館というんで、そこの女将に私の名前を言ってください」
礼を言って東野は電話を切った。
しかし言われた場所に行ってもそれらしき旅館はない。二度、三度、行ったり来たりしたあと、ようやく看板を見つけた。
「ミヨシ」という小さなラブホテルだった。じめついた路地裏にある入り口から、駐車場に入る。
車に由希を残したまま、急いで受付に行った。
「女将さんいませんか。柏木さんの紹介です」と、東野は小さな窓に向かって言った。事務服姿の女が、無言のまま鍵を出しながら、傍らの受話器を取り「社長、お客さんです」と叫んだ。
しばらくして小窓から厚化粧の年配の女が顔をのぞかせた。
「あら、柏木さんの言ってた女性タレントさんは?」
「車の中です」
「他のお客さんと顔を合わせないように、駐車場の奥のエレベーター、使ってください」
柏木が何かうまく言い含めておいてくれたらしい。
「それで、女物の下着とスカートを至急、部屋に届けてくれませんか」
「サイズわかります?」
「いくらか小さめ、普通です」
「下着はすぐ女の子に部屋に持っていかせるけど、スカートは、明日でいいかしら?」
「はい」
東野は鍵を持って、逃げるように駐車場に戻り、由希を抱き下ろした。
部屋に入って由希をベッドに横たえ、再び車に戻り、楽器を取って部屋に運び入れる。
五分とたたないうちに、女性従業員が下着を届けてくれた。
部屋中の灯りを全部つけると、正面のハーフミラーの暗い面に東野の顔が映った。落ち窪んだ目の下に濃い隈ができて、唇が乾いている。
バスタブに湯を張って、寝ている由希を揺り起こす。
視線を左右にゆらゆらと揺らすばかりで、由希は身体を起こすこともできない。
明日までに回復するだろうか、と不安になった。
明日までに回復し、明日いっぱい保ってくれさえすればいい。そう考えている自分の非情さに呆れ、驚く。
「水を飲む?」
グラスを乾いた唇にあてがってやったが飲み込まず、水は歯の間からこぼれ白い喉に流れた。
東野は、少し自分の口に含むと、由希に口移しで与えた。歯の間にわずかに舌を差し入れると、かすかに口が開きごくりと喉の鳴ったのがわかった。
「よし。その調子」
もう一口含むと、今度はむさぼるように飲んだ。飲みおえた由希の唇に東野は少しの間触れていた。
身体を離して服を脱がせた。棒きれのように横たわった由希の濡れた下半身の下着をまとめて剥がすと、つんとアンモニアの臭いが鼻をついた。きゃしゃな腰の透けるように淡い茂みに、欲望を感じさせるものは何もない。
東野は、由希が自分にとって女ではないことを思い知らされた。恋の対象になりうる「他者」でさえない。由希は彼の夢そのもの、いや、彼の人生の主役に置き換わっていた。
由希を抱き上げ、バスタブに浮かべる。温かさに気分がほぐれたらしく由希は放尿した。腰のまわりの湯がレモン色に染まっていく。
東野はシャワーの温度を見た。由希の頬にかすかな笑みが浮かぶ。東野は、由希の顎に手をかけるとその濡れた額に、長い間頬を押し当てていた。
由希の身体をバスタブから上げバスローブに包む。冷蔵庫からスポーツ飲料を手渡すと、今度は由希は自分で飲んだ。それから再びベッドに横たわり、目を閉じて軽い寝息をたて始めた。
由希の寝息を聞きながら、暗闇の中に長い時間、東野は目を凝らしていた。
ソファに腰をおろし冷蔵庫のビールを一人で空けたが、いっこうに眠気はおとずれない。
開演は、明晩の七時だ。あと十九時間ある。それまで由希の中で、再びルー・メイのパターンが立ち上がってしまうのではないか。またステージで弾けるほど由希の体調が回復するだろうか。
休憩を入れて一時間、弾き続ける体力は残っているか。一時間保てばいいのだ。その間さえ保てば。その後のことは、考えたくない。
何があるかわからないので、やはり昼前には会場に入っておこうと考えた。
ステージの光景が瞼に浮かぶ。客席を埋めつくした人、人、人。弓を弦上に置いたとたんに、頂点に達する緊張感。大ホールの二千の人々が息を詰めて見守っている。手のひらがじっとりと汗ばんでくる。
胃が痛みだした。洗面所に飛び込んで少し吐いた。何も食べていないので、胃液だけが出る。喉が焼けつくようだ。東野は室内の灯りをつけた。由希は眠り続けている。寝返りひとつうたない。不自然なくらい静かな寝姿だ。
楽譜を取り出した。
レレレ・レレファ・レレラ・レレレ・シレソシドレ・ラレファラドレ……第六番のプレリュードを呪文のように小声で口ずさむ。少し落ち着いた。
突然、音の流れが彼の頭の中に湧き上がり押し寄せた。幻のアマティが鳴っていた。あまりに生々しく豊潤な音のイメージに、東野はたじろいだ。どういうことだと、いぶかる間もなく曲は進んでいく。イメージはさらに鮮明さを増した。それは大気のように東野を包んでいる。菫《すみれ》から藍に、そして一転して銀に流れ、逆巻きながら色を変える。どこか、太陽から遠く隔たった惑星の夜明けの大気。
身体が急に軽くなった。快い墜落感とともに由希の感覚が自分の脳裏に流れ込んできた。何も心配することはない、と由希が微笑しているような気がした。
本当に笑いながら、一糸まとわぬ姿で目の前にいた。そして屈み込み唇を重ねてきた。しかし東野は指一本動かすことができない。顔を離し、東野を見下ろしている由希の顔は、近づきがたいほどの威厳と穏やかさをたたえていた。見えない糸に縛り付けられたように、東野は相変わらず動けないまま、大きく目を開き、その視線を受けとめていた。
傍からどのように見えようと、結局、自分は彼女に去勢され、内側から支配されてきたのかもしれない、と東野は思った。
気がついたとき、東野はそのままの姿勢でソファに横たわっていた。ダブルベッドの上では、由希が軽い寝息をたてている。
不自然に折り曲げられた手足が痺れていた。東野は立ち上がって、そっとダブルベッドに近づいた。由希は目を閉じて彫像のように身じろぎもしない。
起き上がった気配も、バスローブを自分で脱いだ気配もない。夢だったのか、と思った。
「ちょっと、ごめん。少し寝かせて」
そっと掛け布団をめくり、身体を隣にもぐりこませる。由希の身体の暖かさと湿り気が身体を包み、切なく哀しげな気分になった。東野はそのまま浅い眠りにからめとられていった。
八時過ぎに再び目を覚ました。カーテンが室内に人工の夜を作っているが、隙間から朝日が一筋差し込んできて瞼を射た。
始めに感じたのは下半身の湿り気だった。半身を起こして由希を見ると、黒い目はぱっちりと開かれ、どこか遠くを眺めているようだった。手を伸ばして由希の腰の下にあてがう。濡れている。抱き起こして風呂に入れ、昨夜、従業員に届けてもらった新しい下着を身に着けさせる。
奮闘しているところに、昨夜の受付の女がスカートを持ってきた。ウエストにゴムの入った中年女がはくようなものだ。寝具を汚した詫びと衣服代の一万円を鏡の前に起き、十時過ぎにホテルを出た。
由希は何も食べていない。水分だけは辛うじてとらせたが、食物は受け付けなかった。終わるまで身体が保つかの不安だ。
県民ホールの駐車場に着くと、見覚えのある車が見えた。深谷が先に着いている。
由希は車から降り、おぼつかない足取りながら一人で歩いた。裏口から控え室に入ると、鏡の前に深谷がいた。椅子から立ち上がりもせずに正面から東野を見据えた。頬がこけ、目が落ち窪んでいる。その隣に柏木がいる。
「あ、どうも。ご苦労さまです」
柏木が立ち上がり、慇懃に腰を折って挨拶をする。
「さっそく、打ち合わせをしたいんですが」
言いかけた柏木を深谷が制した。
「ちょっとその前に、東野さんと話をしたいので」
「は?」
怪訝な顔で東野は深谷を見た。我ながら見事なとぼけ方だと半ば呆れた。
「少しの間、外してくださる?」
柏木はしぶしぶ出て行った。何か弁解しかけた東野を無視して、深谷は由希のそばにきて片膝をつくと、じっと彼女の顔を見上げた。
「病院に連れていくわ」
「待ってください」
東野は叫んだ。深谷はゆっくりと東野のほうに首を回した。
「リハーサルの時間もあるんです」
「ステージには間に合わせます」
深谷は遮るように、きっぱりと言った。
「準備に時間がかかりますから」
東野は食い下がる。由希の頬に手を当てて、深谷は眉間に皺を寄せた。
「顔色が悪いわね、目が濁って。歯茎が真っ白じゃないの」
それから由希の腕を上げて見せた。手首から先がだらりと垂れ下がる。
「ごらんなさい。脱力してるでしょう」
「ええ……」
「これでどうやって弾かせるの?」
「しかし……」
「間に合わせると言ったら、間に合わせるわよ」
深谷は由希を支えるようにして立たせた。再び由希の力が発揮されて騒動が起きるのではないかと、東野はひやりとしたが、由希は意味がわかったかのように、素直に深谷に従った。
入れ代わりに柏木が入ってきて、深谷の後ろ姿をちらりと窺い、東野にささやいた。
「病院へ連れて行くって、万一、ドクターストップなんかかかったら、どうする気なんでしょうか」
一見、落ち着いて見えたが、柏木の青ざめた額には汗の粒が浮いている。
「ステージに間に合わせると言った以上、必ず戻ってくるでしょう。そういう人ですから」
東野はぼそりと答えた。柏木はカバンからスケジュール表を出すと、事務的な声で、今日のステージ予定について話しはじめた。そして一通り説明を終えると、忙しそうに楽屋を走り出ていった。
鏡だらけの殺風景な部屋にとり残されて、東野はしばらくぼんやりしていた。それから奥のほうにころがしてあるアマティのチェロをケースから取り出した。
弦は、取り替えたばかりで傷んでいない。念入りに調弦する。それを終えると軽く弓を乗せて弾いてみた。イタリアの名器は、東野の手では美しいが平板な調子でしか歌わなかった。彼の脳裏にあるあの力強く輝きに満ちたイメージからは、あまりにかけ離れている。しかしそのイメージの中にある至高の音は、数時間後に現実のものとなって、このホールを満たすだろう。
「浅羽さんは、まだ入りませんか」
柏木が飛び込んできた。
「まだです」
時計をちらりと見て、東野は答える。
「リハーサルの時間なんですよ」
「仕方ないでしょう」
苛々した調子で、柏木は再び出ていった。確かにリハーサルタイムにすでに二十分以上食い込んでいる。東野も少し不安になってきた。本当にドクターストップがかかってしまったのかもしれない。
患者をステージに立たせることを許す、許さないの権限は深谷にはない。緊急入院の必要があると医者が判断すれば、深谷が無理に連れ出してくることはできない。
柏木が、戻ってきた。
「病院に電話を入れてみます。番号、ご存じですか?」
柏木は尋ねた。
「いえ」
二人は顔を見合わせた。どこの病院か聞かされていない。
「聖ヨハネかもしれませんが」
東野は答えた。柏木が電話をしたが、深谷を呼び出すことはできなかった。
ホールはすでに開場の準備が整って、案内嬢たちがパンフレットを片手に忙しそうに、最終確認をしている。
深谷が戻ってきたのは、開場のわずか一時間前だった。すでに衣装をつけ、入念な化粧のほどこされた由希は美しかった。東野は少し気おくれがした。
ぎごちない裾さばきで、おずおずと部屋に入ってきた由希はそっと楽器に手を伸ばした。東野はネックを掴んで由希に手渡す。
もう大丈夫だ。そう思って深谷の顔を見て、東野はぎょっとした。真っ青な額に汗の粒が光り、ウェーブした髪が一筋張りついている。落ち窪んだ目はぎらぎらと輝いて、書類らしき物を持った右手は、強く握り締められて真っ白になっている。怒りとも悲しみともつかないものが、全身から静かに噴き上げているのが感じられた。
「すみません」
とっさに東野は謝っていた。深谷は答えなかった。
「ブドウ糖とビタミンを、点滴で入れたわ。終演までは保つでしょう」
呻くように言う。
「ただし、緊張感が持続するとは思えないので……」
深谷は言いながら、カバンを開けて中からカプセルを取り出した。
「それは?」
「中枢神経興奮剤」
「由希は、過剰な緊張に耐えられないと、言ってませんでしたか?」
「黙ってて」
深谷は短く言うと、部屋の端についている洗面所でコップに水をくんできた。そして由希に近づき、楽器を取り上げると、由希にそのカプセルを飲ませた。五分もしないうちに由希のぐにゃりと曲がった背筋は伸びた。
東野は、由希に曲の順番を教え込む。楽屋の外が急に騒がしくなった。リハーサルなしに、まもなくコンサートが始まろうとしている。作業着を着た男が、東野を呼びにきた。出演者に舞台を確認させてくれ、ということだ。
由希を連れて、狭い通路を抜け舞台の袖に出た。ライトに照らされて、フローリングの床が白々と光っている。踏みしめるとコツコツと意外に大きな音がする。中央の椅子に楽器を持った由希を座らせる。チェロの下から伸びているエンドピンと呼ばれる金属の足が、つるりと滑った。東野は慌てて係の男に頼み、自分のカバンをもってこさせる。
由希は平然と腰掛けている。ここに座っただけで普通なら震えがくるものだ。練習のときはすばらしく歌うのに、本番になると棒弾きになってしまうチェリストがいる。コンクールになると、必ず大きな間違いをする者がいる。平常心というには、あまりに淡々とした由希の姿に、東野は畏《おそ》れに似たものを感じた。
東野は由希から楽器を受け取った。床にあぐらをかき、バッグからやすりを取り出し、エンドピンの先端を削り始める。エンドピンは、フローリングの床に突き刺し楽器を安定させるものだ。その先が丸くなっていると、演奏中に楽器が滑って弾けない。
ガリガリという音とともに、金属の粉がこぼれライトにきらめきながら落ちていく。両腕に力をこめてやすりを動かしていると、軽く触れただけで指の皮に食い込むくらい、その先端は鋭くとがった。
「よしっ」
自分を励ますように東野は、腰を上げた。
開演を告げるブザーが鳴った。舞台の袖から東野は由希の背中をそっと押し出した。拍手の音が嵐のようにホールを包む。
由希は挨拶をするでもなく、ぱたりと椅子に掛け、弾き始めた。
第三番のハ長調音階の下降が、冒頭のCの音の抜けるような明るい余韻を残したまま、始まった。
完璧だ。東野は自分の試みが成功したことを知った。それはもう、東野の音楽でも由希の音でもなかった。彼らの手から離れ、神の意志が弾くことを宿命づけられた者の手を借りて具現されたように思えた。中程で転調し、Dマイナーのアルペジオが、透明な哀しみをこめられて鳴ったとき、東野の全身は震えた。
曲の切れ目に振り返ったときだ。楽屋に続く廊下のコンクリートの壁に、深谷が寄りかかっているのが見えた。放心したような暗い眼差しを天井に向けている。東野はそっと近づいていった。
深谷は東野に視線を移した。そしていきなり両手で東野の手首を掴んだ。
「共犯になったのよ、私は」
深谷がささやいた。
「最初から共犯ですよ。あなたは僕に言葉をかけたときから、こうなることはわかっていたんでしょう」
深谷はかぶりを振った。
「ただし正犯は僕じゃない。彼女だ。彼女が僕たちを操作したんだ」
東野は聞こえてくるチェロの音に耳を澄ませた。
そのとき深谷は、東野の手首を掴み、楽屋のほうに引っ張っていった。
中に入りドアを閉めると、握り締めていた書類のようなものをテーブルの上に放り出した。
大脳のコンピュータ画像だった。
「さっき撮ったものよ。病院で」
一目見て東野は息を飲んだ。
どれもこれも、サファイアのような青い色をしている。血流も代謝も極端に少なくなっている。大脳のどこも活動状態に無いということだ。
「よく生きてますね」
「生きていることは生きてるわ」
「現に、今、こうして弾いている」
「奇跡よ。いえ、一時的に回復させただけ……」
深谷は顔を両手で覆った。皺深い手の甲に静脈が浮き出ている。
「いつまで保つかなんてわからない。こんなことを繰り返し、やがて由希は……」
「最後にします。本当にこれを最後にします。二度と由希の前には現われません」
遮るように東野は言い、テーブルに両手をついて頭を垂れた。
「もうたくさんよ、子供が死ぬのは。愛する者を亡くす悲しみは、あなたにはわからないでしょう」
深谷はつぶやくともなく言った。
「これまでだって、何度も回復したじゃないか」
東野は言った。
ため息がひとつ、返ってきた。
深谷の、黒い目がきらきらと光って、涙があふれだす。
返す言葉はなかった。
その瞬間、由希の引くチェロの音が、壁を通して楽屋の中まで聞こえてきた。一条の光の帯が差し込んだような気がした。深谷はびくりと身体を起こし、戸口のほうに顔を向ける。
「ほら、弾いてる。彼女の人格をつなぎ留めている糸は、もうじき切れるのよ。これ以上負荷をかければ、確実に由希の心はすべての機能を止める」
「死ぬんですか?」
半信半疑で東野は尋ねた。昨日、泉の里を連れ出すときから覚悟していたことではあった。
「さあ……」
止めなければならないのだろうか、と思った。第六番を弾き始める前に……。
そんな必要はない、とすぐに打ち消していた。
止めてはならない。彼女は、東野や山岡や、その他の人々が三百年弾き続けたって到達できない高みに、一気にかけ昇っていった。その先にある千尋《せんじん》の谷に思いを馳せる必要などない。
東野は立ち上がった。そして、深谷を一人残し、舞台の袖へ歩いていった。由希の音を永遠に耳に刻みつけておこう、と決めた。
三番が終わった。拍手とどよめきの上がる寸前の数秒間の沈黙。
しかしその静寂を自ら破って、いきなりチェロは鳴り出した。
由希が六番組曲を弾き始めた。
舞台裏がざわめいた。ここで十五分休憩が入るはずだったのだ。
ステージマネージャーが顔色を変え、タイムスケジュール表を持って走り回っている。
舞台では、すでに冒頭のアルペジオが中程まで進んでいる。
客席は、さほど混乱していない。東野も驚いてはいなかった。
由希は知っているのだ。自分がどのくらい保つのか本能的に悟り、十五分の時間を惜しんだのだった。
第六番のジーグに、即興の装飾音符を入れながら由希は弾ききった。最後の下降音階を弾き終えると由希はC線上からゆっくり弓を離し、残響音を惜しむようにそれを高く掲げた。
東野は、自分の頬が紅潮してくるのがわかった。足が震えた。駆け寄って抱き締めてやりたかった。しかし今、しばらくの間は由希は聴衆のものだ。
輝かしい組曲をしめくくるD音の響きがホールから消え、次にくる豪雨のような拍手の音を、潮のように押し寄せるアンコールの声を東野は待った。
しかし客席の空気がどこかおかしい。
どうした……。
東野はとまどいながら、客席の暗がりに目を凝らした。
ぱちぱち、というおざなりの拍手と、ざわめき。熱狂もアンコールの声もない。
客席がざわざわと動いて、照明もまだつかないうちに人々は続々と席を立っていく。
どうしたというのか。ざわめきは、小声の、膨大な量の不満だった。
東野は悟った。予想できたことだった。
彼らは、S席、二十万円のプレミアムのついたチケットさえ手にした彼らが、聴きたかったのは、バッハでも浅羽由希でもなく、ルー・メイ・ネルソンの音楽だったのだ。
CDでもレーザーディスクでも再現できない、ルー・メイ・ネルソンのライブ演奏、ついに来日かなわず、幻のリサイタルとなったルー・メイの演奏を聴きたかったのだ。コンクール入賞ひとつしたことのない、日本のチェリストの演奏などに何も期待してはいなかったのだ。
東野に、不思議と失望感はなかった。
これでいい、ともう一度思った。
由希はルー・メイを超えた。妖しくも美しく堂々として、ときに猛々しく気品にあふれた演奏だった。
君らにわかるものか……。
東野は、ドアを開けて流れていく人々のいくつもの背中に向かってつぶやいた。今宵の由希の音楽を理解したのは、一握りの人々だろう。自分がその一握りの内に入れることが、うれしかった。
彼は、視線を舞台に移した。由希はまだ、チェロを抱えて座っていた。拍手もまばらに、まだ照明もつかない客席から、人々が去っていく。放心したように舞台中央に座っている由希の姿が痛々しい。
もう、いい。いいんだ。帰ってこいよ。
東野は、小声で呼び掛ける。
由希は微動だにしない。彫像のように背筋を伸ばして、腰掛けている。東野は、はっとした。
様子がおかしい。ライトの逆光になって、表情はよくわからない。身体の中のすべての機能が止まったような、不自然に静かな気配。
不意に由希の身体が硬直し、椅子を蹴るように立ち上がった。支えを失ったアマティが、勢いをつけて前にはじき飛ばされた。三百年もちこたえた表板が、ボーンという弦の鈍い響きの入り混じったすさまじい破壊音をたてて砕けた。
棒立ちになった由希の身体が、がくりと膝をついて前のめりに倒れる。
客席から声が上がる。出口に向かって歩いていた客が、振り返る。固唾を飲んで見つめる二千を超える目、目、目。照明係が、慌てて舞台照明を消し、客席の照明をつける。「うおっ」という、男の悲鳴を東野は、背後で聞いた。柏木の小柄な身体が東野を突き飛ばして、舞台に飛び出していった。由希の身体を跨ぎ越すと、ネックが不自然にひん曲がったアマティに駆け寄り、震える手で、白い亀裂も生々しい板をなでながら呻き声を上げた。
救急車だ、とだれかが叫ぶ。数人のスタッフが舞台に駆け上がった。足音と怒号が入り乱れ、騒然とした空気が舞台を包む。
出口に向かう客の流れはぴたりと止まった。東野は身体をよじって倒れている由希を仰向けに寝かせて、心臓の上に耳を当てた。
とたんに東野の身体は、激しい痙攣に舞台の端まで飛ばされた。何がなんだかわからないまま、片膝をついて身を起こし、茫然として由希の様子をみつめた。
由希の全身は、材木のように硬直したかと思うとつぎには弓なりに反った。関節が奇怪なかっこうにねじれ、目が吊り上がった。くいしばった歯の間から、異様な音をたてて空気が漏れる。
東野は、おそるおそる這い寄り由希の手に触れた。爪が手のひらに食い込むほどきつく握り締められた手は、冷たく固かった。
「由希、死ぬな、由希」
冷たい手は、みるみる蝋のように白くなる。
「たのむ、死ぬな」
東野は声のかぎり叫んだ。涙があふれて、口の中に入った。
もう一度、奇跡が起こってくれ。彼は祈った。命と引き換えにでも弾かせてくれと願った自分の不遜さ傲慢さを忘れ、神に祈っていた。
「静かにしなさい」
りんとした声が舞台に響いたのは、そのときだった。
「通してください」
背筋を伸ばした深谷が、遠巻きにしている人々を押し分けて、大股に近づいてくる。
東野の肩に手をかけて、由希から引き離す。手早く由希の瞳孔を見て、振り返る。
「騒がないで。しばらくすれば、治まるんだから」
東野は後退りして震えていた。
「見ておきなさい」
深谷は、低い声で言って立ち上がる。
東野は目を背けた。
「見ておきなさいって言うのが、聞こえないの」
甲高い声で怒鳴って、深谷は東野の腕を掴み、引きずるようにして由希の正面に座らせた。
「こうして由希は壊れていくの。しっかり見ておきなさい。痙攣発作を起こす度に、由希はどんどん壊れていく。これからも何度か起きるはず。そしてこれがくるたびに、由希は少しずつ骸《むくろ》に変わっていくの。覚悟を決めなさい。私たちがやったことよ。たとえそれが由希の望みであったにしても」
由希の胸が二、三回ひくついて、まもなく笛のような音をたてて、長い息を吐き出した。痙攣していた手足がぐにゃりと投げ出された。
東野は、由希の首に震える手を当てた。汗ばんだ白い首に血の気が早くも戻っていた。ぽっかりと由希の目が見開かれ、覗き込む彼の顔をとらえた。
一瞬、かすかに微笑んだ。微笑んだように、東野には見えた。東野は由希の腰と肩に手を差し込むと、そっと抱き上げる。
取り囲んだ人々の視線から由希を守るように、舞台の袖の暗がりに入る。
「控え室の長椅子へ運んでください。まもなく救急車が来ます」
スタッフの男が、早口で言った。
東野は控え室に入り、内側から鍵をかけた。そして由希を長椅子に横たえる代わりに、彼女を抱いたまま、もう片方の、非常口に通じるドアを開けた。
廊下を抜ける間、だれにも会わなかった。
防火扉をそっと押し開けると、闇の中に霧雨が降っていた。いくらか風が出てきたらしい。ときおり雨粒の渦巻くのが、水銀灯に照らされて銀のリングのように見える。
救急車のサイレンが近づいてきて、正面玄関に回って止まった。駐車場の植え込みのむこうに、赤色灯が忙しない光をなげかけている。それを横目で見ながら、東野は自分の車に由希を乗せた。運転席に座ると、そのままアクセルを踏み込んだ。どこへ行くという当てもない。
[#ここから1字下げ]
「けさほど、由希は四回目の発作を起こしました。昨日から、音にさえ何の反応もしなくなりました。彼女の脳と同様、身体のほうも干涸びていますが、幸福そうです。ときおりかすかに目を動かして、微笑みかけてくれます。
いまの気持ちを愛情と呼べるのかどうか、正直なところ僕にもわかりません。ただし、僕の身体も確実に衰弱しています。彼女は、僕自身です。
彼女との関わりは僕自身の発見にほかなりません。僕は彼女を借りて僕の生の意味を持たせることができたのですから。
すべては、僕の意志であり、由希の意志であり、同時に僕を遣って由希に弾かせた神の意志であろうかと思います」
[#ここで字下げ終わり]
はがきの文章はそこで終わっている。
中沢は深い吐息とともに、それを裏返した。
消印は、陸中海岸の田老町《たろうちよう》となっていた。高原の施設に閉じ込められていた由希に東野は海を見せてやろうとしたのだろうか、とふと思った。
由希がコンサートホールから連れ去られてから、丸一週間が経っている。
遅すぎたか、とつぶやきながら、中沢は山梨県警の電話番号を押した。
もっと早く気づいていれば二人を救えただろうに、と考えるたびに、東野の心情をまったく見抜けなかった自分の愚かさが悔やまれる。
泉の里に、深谷の姿はもうない。辞表は昨日付で受理されていた。
*
砂に足を取られながら、東野はゆっくり車のほうに引き返した。背中の由希は、驚くほど軽くなっている。
雨があたりの岩を艶やかに濡らす。
東野は、頭上に海鳥の舞い飛ぶのを見た。眩しさに目を細める。逆光のせいで、海猫も海鵜も、一様に黒い。
その中にひときわ黒い鳥が、混じっている。夥《おびただ》しい数のからすが、さきほどから自分たちを遠巻きにしているのに東野は気づいた。
海鳥特有のけたたましい鳴き声が、波の音を消すほどに響く。
東野は背中から由希を下ろして、そっと抱き上げた。落ち窪んだ目を固く閉じていても、由希はまだゆっくりとした規則正しい呼吸をしている。しかしその身体からは、すでに生命の終わりを告げる匂いが漂っていた。
単行本 一九九八年一月 マガジンハウス刊
〈底 本〉文春文庫 平成十三年二月十日刊