お隣の魔法使い
〜不思議は二人の使い魔〜
著者 篠崎砂美/イラスト 尾谷おさむ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)狛犬《こまいぬ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|藤の花《ウィスタリア》
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(例)[#ここで字下げ終わり]
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目次
春は迷宮の解明
夏は紺碧《こんぺき》の水鏡《みずかがみ》
秋は憂鬱《ゆううつ》の禁止
冬は氷下《ひょうか》の清水《せいすい》
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春は迷宮の解明
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☆
春はうららか。
ぽかぽか、ぽかぽか。
のんびりとした陽射《ひざ》しは、今日も平々凡々で特別な事件なんか起こらないことを予感させてくれる。
でも、たぶんそうは問屋が卸《おろ》さない。
なにしろ、お隣に住んでいるのは魔法使いなんだから。
また今日も絶対何かしでかすに決まっている。うん、きっとそうだ。
「ひどいじゃないですか、ミス・メアリー。人聞きの悪い」
ティーカップに紅茶を注ぎながら、ツクツクさんが思いきり不服そうな顔を作った。
「だって、今までの行いが行いだもの」
テーブルの上に両手で頬杖《ほおづえ》をついて、あたしは少し目を細めてツクツクさんを見た。
「そんな。私はごく普通の一般市民なのに……」
でも、普通の人は庭にタヌキの焼き物なんか飾《かざ》らないと思う。
チラリと庭のタヌキに視線をむけると、それはあたしに同意するかのように、右手を挙《あ》げたポーズで、咲き始めた花の中からひょうきんな顔をのぞかせていた。
「楽しい趣味だと思うんですが。面白いでしょう?」
あたしに同意を求めないでほしい。
「だいたい、どこからこういう物を買ってくるのかしら。くるたびに、毎回ふえているような気がするんだけど。あ、今ダイエット中」
あたしは、ツクツクさんが入れてくれようとした薔薇《ばら》型の角砂糖を丁重に御遠慮した。
このところイチゴが美味《おい》しくて、ツクツクさんが毎回出してくれるケーキをちょっと食べすぎているのだ。
それにしても、ツクツクさんはなぜ太らない。すっごく不公平だと思う。
「それは、春ですから」
相変わらず、ツクツクさんの言葉は理由にならない。それに、この台詞《せりふ》はあたしの質問のどちらに対してのものなのだろう。ガラクタのことなのか、体重のことなのか。
「ツクツクさん、お砂糖入れすぎ」
三つ目の薔薇砂糖をカップに落とそうとしているツクツクさんを見て、あたしはあわてて引き止めた。いくらなんでも、それは甘すぎる。
「ああ、ありがとう。危ないところでした」
「砂糖の数を数え間違えるなんて、何をぼんやりしてたの」
「春ですから」
いや、ボケるのにはまだ若すぎると思うんですけれど。それとも、相変わらずの天然ボケなのかしら。
それにしても、今日のツクツクさんは、ちょっといつもと違っていたかもしれない。なんだかそわそわしていて、心ここにあらずといった感じ。
「誰か、お客さんでもくるのかしら。お邪魔なら、そろそろ帰るけれど」
せっかくの美味しいお茶を一気飲みするのはもったいないけれど、無理にツクツクさんの私生活を邪魔するつもりはない。
「いえ、それにはおよびませんよ」
「まさか、またカレンさんあたりが押しかけてくるんじゃないでしょうね」
それだったら話は別だわ。断固《だんこ》迎撃《げいげき》あるのみ。
「ああ。彼女でしたら、年度末の論文で首も回らないはずですから。こちらにくる余裕なんかないでしょう」
あたしよりもずっとほっとしたように、ツクツクさんが言った。
それじゃあ、なんでそんなにそわそわしているのかしら。
「そんなに落ち着きがないですか。うーん、ちょっと気分転換でもしてきますか。ケーキでも買ってきますので、少し待っていてください」
それは、あまりにもあまりな誘惑だわ。
ツクツクさんのことだから、きっとまた美味しいケーキ屋さんでも開拓《かいたく》したに決まっている。そんなケーキを食べる機会を逃がすのは許せない。でも、お肉になる糖分も許せない。あたしにどうしろと言うのよ。
「うぅーーーー」
唸《うな》るあたしにちょっと苦笑しながら、ツクツクさんは買い物にいってしまった。
散歩がてらあたしもついていけばよかったのかもしれないけれど、それは我慢してお留守番の道を選ぶことにした。ウォーキングの消費カロリーと、お店で待ちかまえているだろう数々のケーキたちの誘惑とを天秤《てんびん》にかけての結論だ。目の前にそんな物を出されたら、あれもこれも選びたくなってしまうに違いない。うら若き乙女が誘惑に勝てるはずがないじゃない。うん、そうに決まってる。
「お休みの日に、ジョギングでも始めようかしら」
さすがに暖かくなってきたので、早朝に走っても凍えることはないわね。もちろん、ツクツクさんには責任をとってつきあってもらうわ。たいてい家の中に引っ込んでいるんだから、ツクツクさんにもいい運動になると思うし。
のんびりとお茶をすすりながら、あたしは増減する数字と頭の中で戦っていたのだけれど、ツクツクさんはなかなか帰ってこなかった。いったい、どこまでケーキを買いにいったことやら。
「遅い!」
待ちくたびれたあたしは、軽くテーブルを叩《たた》いて叫んだ。
「いや、すまないねえ。今、準備ができるからね」
突然背後から声がして、あたしはびっくりしてふり返った。
見知らぬ男の人が、ツクツクさんの家の庭にいる。いや、それどころか、草を編《あ》んで作ったシートみたいな物を広げて、その上に座り込んでくつろいでいるじゃない。あまつさえ、横においた大きな袋から何やら怪《あや》しげな物を取り出して、シートの上にならべ始めていた。
これは、露店《ろてん》を開こうとしているのかしら。
たとえそうだとしても、なんで人様の家の庭で商売を始めようとしているのよ。
「ちょっと、あなた、人の家の庭で何をしてるの」
あたしは、急いでその露天商のおじさんにつめよった。
「いらっしゃい、お嬢《じょう》ちゃん。今回は、いい品物が揃《そろ》ってますよー」
ポンと一つ景気よく手を叩いてから、露天商のおじさんがあたしに言った。あたしは客じゃないぞ。
「これなんかどうだね」
ニコニコした営業スマイルで、露天商のおじさんがあたしに木彫《きぼり》でできた熊を勧めた。鮭にかじりついたまま、のっそりと歩いてる熊の置物だ。
「そんなのいらないわよ」
うん、絶対に。
「そうかい、それじゃあ、別の物がいいかな。ええと、お嬢ちゃんに合いそうなのは……」
あたしが即行で断ったので、露天商のおじさんが別の品物を物色し始めた。
ええい、そうじゃない。
「なんで、人の家の庭でお店を開いているのよ」
「うん、ここは商売をするにはいい場所だからねえ」
両手を腰にあてて問いただしたあたしに、露天商のおじさんがさも当然という感じで答えた。
ううむ、確信犯だわ。
よりによって、ツクツクさんのいないときにこんな闖入者《ちんにゅうしゃ》が現れるだなんて、留守番の身としてはいったいどうしたらいいのよ。
「ここはよく売れるんでね。ほら、さっそくお客さんがやってきた」
そう言うと、露天商のおじさんが突然手招きを始めた。
その先を目で追ってみる。
道を通りかかった会社員風の男の人が、私のことですかと聞き返すように自分を指さしていた。なんだかきょとんとした様子だけど、突然見知らぬ露天商のおじさんに手招きされたら誰だってそうなるわよね。
「フリーマーケットでもやっているのかい。おや、あんた、前にもどこかで見たことがあるような……」
ちょっと興味を引かれたのか、その人は垣根越しにあたしたちの方、いえ、露天商のおじさんが広げた品物の方をじっと見つめた。
「ん、それは!」
やにわに、会社員さんが垣根を跳《と》び越えて走ってきた。
なんという身のこなし。体育会系の人だったのか!?
いや、そういう問題じゃなくて、なんでこの人まで他人の庭に飛び込んでくるのよ。
「ちょっとあなた……」
「このボールは……」
完全にあたしを無視して、会社員さんは露天商のおじさんが売っていた品物の中から、古びた野球のボールを取りあげた。
「おや、お目が高いねえ。そりゃ、二十年物の逸品《いっぴん》だ」
ほくほくと、露天商のおじさんが商品の説明をする。
二十年物って、何かの大会のウイニングボールかホームランボールなのかしら。それにしてはサインも何もなくて、ただ古くさい薄汚《うすよご》れた軟球みたいだけど。こんなガラクタに、いったいどんな価値が……。
「懐かしいなあ。これ、ください」
買った!? しかも、結構高い。
「ずっと、探してたんだ、これ」
会社員さんは、ほくほくしながら走り去っていった。気分が若返っている。まるで『永遠の少年』と書いた紙を背中に貼りつけられたみたいだわ。
あのボール、それほどのビンテージ物だったのかしら。
いや、そういう問題じゃなくて……。
「ここでは、商売禁止!」
きっぱりと露天商のおじさんに言い渡す。
「どうして?」
そんな同情を引くような目であたしを見つめたって無駄よ。常識で考えたって、私有地で勝手に露店を開いていいわけがない。
「でも、またお客がきてるんですよ」
今度は誰?
道路の方を見てみると、垣根の隙間《すきま》から小さい女の子が顔をのぞかせていた。まだ生え始めの芝に両手をついて、埋もれるようにして植え込みの葉っぱにまみれている。せっかく綺麗《きれい》な服を着ているのに、お母さんの嘆《なげ》きがここまで聞こえてきそうだわ。
「何がほしいんだい」
露天商のおじさんが声をかけると、女の子は垣根の葉っぱをまき散らしながらこちらへ駆けてきた。なんだか強いデジャヴュを感じるのは気のせいだと思うことにしよう。
「うーんと、お嬢ちゃんがほしいのはこれかな」
露天商のおじさんが指さしたのは、鍵《かぎ》のついた一冊の日記帳だった。白い表紙に、金箔《きんぱく》で飾《かざ》り罫《けい》が描かれている。革のベルトにはちょっと仰々《ぎょうぎょう》しい錠前《じょうまえ》がつけられていた。
でも、よく文房具屋さんで売られている鍵つき日記には、肝心の鍵が紐《ひも》などで結びつけてあるものだけれど、この日記帳にはそういった鍵がついてないように見える。これじゃ、欠陥《けっかん》商品じゃないのかしら。
「うん、それ」
嬉しそうに、女の子が首がもげそうな勢いで何度もうなずいた。
「じゃ、お代をもらわないとな」
当然とはいえ、こんな小さい子からもお金を取るというの。いや、それ以前に、鍵がなければ使えないじゃない。
「んっと、はい」
女の子がスカートのポケットをごそごそしてから、つかみ取った物を露天商のおじさんの手の上にぱらぱらと落とした。
キラキラと光る、色とりどりのビーズだ。
「ほい。お買いあげありがとうござい」
露天商のおじさんが、あっさりと日記帳を女の子に手渡した。
ちょっと待った、さっきとはすごく違うじゃないの。いつからビーズが通貨になったの。それでいいの。
「なんでそんな変な顔をしているんだね」
今度はちゃんと垣根を迂回《うかい》して出ていく女の子を見送ってから、露天商のおじさんがあたしに言った。しまった、混乱してて、女の子を呼び止めそこねた。
「あの日記って、鍵がついてなかったように見えたんだけど」
「あたりまえじゃないか。女の子が持つ日記を開ける鍵なんて、最初からないに決まっているさ」
あたしの疑問に、露天商のおじさんが自信たっぷりに答えた。
「それじゃ、欠陥品じゃない」
「人聞きが悪い。乙女の日記ときたら、鍵を持った人はそのうち現れると決まっているんだよ。常識さね」
うーん、胡散臭《うさんくさ》さ爆発だ。
それにしても、なんだかここにいない人と通じるような怪しさをひしひしと感じる。
「おじさん、もしかしてツ……」
確かめようとしたとき、突然ばさばさという羽ばたきの音とともに、黒い影が空から落ちてきた。
「カァ!」
カラスだ。いや、鳴かないでも分かるから。
あたしは反射的に後ろに飛び退《の》いて、その大きなカラスから離れた。
「おや、目ざといねえ。この輝きが空からでも分かったかい」
あたしと違って、露天商のおじさんはぜんぜん動じていない。
「カァァ!」
一声鳴くと、カラスが足につかんでいたガラス瓶《びん》を投げ出した。
すかさず露天商のおじさんが瓶を拾い上げて、ためすすがめつして鑑定する。
「これはなかなかレア物だな。マニアが喜ぶ。よし、持ってっていいぞ」
レア物って何、マニアって……。いったい、どこに空き瓶なんか集めてる人がいるって言うのよ。
「カァ」
露天商のおじさんの許可がでたのを承知してか、カラスが売り物の中から銀色のネクタイピンを銜《くわ》えて飛び去っていった。
「動物まで、お客さんなの!?」
「分け隔《へだ》てはいけないさね」
立て続けにお客さんがきて気をよくしたのか、露天商のおじさんはそれも売り物の一つらしい水パイプで一服しながらにんまりとした。
「さて、お嬢ちゃんは何をお買いなさるかな」
「あたしは、何も買わないわよ」
だいたい、あたしはお客さんではなくて、勝手にツクツクさんの庭に入り込んできた闖入者を追い払おうとしているんだから。それにしても、この露天商のおじさんは、いったいどこからやってきたのかしら。
「それは、ここでないすべての場所からさあ」
楽しそうに露天商のおじさんが答えた。うーん、ちょっとあたしをからかってでもいるのかしら。
「なあに、毎回違う場所からここへやってくるということさね。だから、どこからやってきたと聞かれても困るってわけだ」
そう言うと、おじさんは大仰《おおぎょう》に手を広げてポーズをつけながら、芝居《しばい》がかった口調で語り始めた。
「あるときは北の大地を覆《おお》う氷を削《けず》り取ったアイスボックスをかかえ、あるときは南に棲《す》む極彩色《ごくさいしき》の鳥の羽で作った冠をたずさえ、あるときは西の岩塩でできたシュガーポットを箱に詰め、あるときは東の錦《にしき》の織物で作られたクッションをポンポンと叩きながらやってくる。わしはなんでも売ってる行商人。まあ、世界のすべてを踏破《とうは》しなけりゃ、最高の行商人は名乗れないというわけさね」
うーん、それは珍しそうだから少し見てみたい気がするけれど、とてもそんな宝物が今ここにならべられているとは思えないわ。
ざっと見回してみても、ここに広げられているのは、丸まった蔓草《つるくさ》のような文字が描かれた謎《なぞ》なCDに、いい香りのする扇子《せんす》、青い切り子の小瓶、タータンチェックのマフラー、煙水晶《けむりずいしょう》の欠片《かけら》、石でできた犬の置物、どう見ても太陽暦でないカレンダー、紙縒《こより》のような形の花火の束、裏にあたりのマークのある瓶の王冠、模様の描かれたなんでもない小石、その他なんだか分からない物がたくさん。まさに玉石混淆《ぎょくせきこんこう》のガラクタ市だわ。
でも、確かに、いろいろな場所からかき集めた物のような気はする。もしかして、本当にこの露天商のおじさんは世界中を旅しているのかしら。
「本当だとも。そこにある壺《つぼ》なんか、密林の奥地にある遺跡からわしが命がけで取ってきた物だよ。数々の罠《わな》をかいくぐり、まさに身体をはって手に入れた物だ。いやいや、小指を突き指しただけですんだのは、運がいいというか、わしの超人的な能力のおかげだな。かと思えば、すばらしい物は何も秘境にだけあるとは限らない。ほら、その麻袋に入っているのは、とても貴重な花の原種の種さね。ある田舎町の道ばたにひっそりと咲いていたのを、ちゃんと種ができるのを待ってから集めた物だよ。大事なのは、審美《しんび》を見極めるこの両の眼《まなこ》と、どこへでも歩いていける二本の足だね」
すばらしく胡散臭い冒険談だわ。ちょっぴり面白そうなのが、なんとなく気にくわないけれど。
「まあ、のんびり見ていっておくれ。まだ店じまいには早いからねえ」
ちょっと待った。このままここに居座る気なの。それに、毎回違う場所からやってきたって、そんなに何回もツクツクさんの庭でお店を開いていたっていうことなのかしら。すくなくとも、あたしは見たことがなかったわよ。
「そうだねえ。確かに、お嬢ちゃんは初めてのお客さんだね。きっと今まで時間が合わなかったんだろうさ」
それは、あたしはツクツクさんのように一日中|暇《ひま》にしているわけじゃないから、ちゃんと学校にもいってるわよ。すると、今まではあたしの留守を狙ってきていたってわけね。ある意味賢明な判断だわ。
「とにかく、庭で勝手に商売をされては迷惑です。さっさとどこかにいってください」
「迷惑って、そんなことは言われたことないがなあ」
ちょっと困惑したように露天商のおじさんが言った。
うーん、そう言われたら確かめようがない。
でも、あたしは、とりあえず非常識だと思う。とはいえ、それを露天商のおじさんに納得させるのは至難の業《わざ》かもしれない。
ああ、早くツクツクさんが帰ってこないかしら。
いいえ、だめだわ。ツクツクさんがこんないかがわしい露店を見たりしたら……きっと目を輝かせるに決まっている。絶対にそうだ。
「ただいま。ずいぶんと、お待たせしてしまいました」
あちゃー。さすがはツクツクさんだわ。なぜこういうタイミングできっちりと帰ってくるのかしら。
「もうしわけありません。お店が思ったより混んでまして……。ああ、もうきちゃってるじゃないですか」
案の定、広げられたお店を見たとたん、ツクツクさんは一目散に駆けよってきた。ああ、箱の中のケーキが崩《くず》れる。落ち着いて、箱を振り回すな!
結局、ツクツクさんは知ってたわけね、このおじさんがくることを。しかも待っていたと。
「よお」
露天商のおじさんも、慣れた様子で片手を挙げて軽く挨拶《あいさつ》を交わした。
やっぱり、ツクツクさんとは知り合いの仲だったわけだ。
そうすると、ツクツクさんの家にある数々の怪しい物は、この露天商のおじさんが供給源と見て間違いはないわね。
きっと、ツクツクさんはいいお得意さん、いいえ、いいカモなのに違いないわ。
まったく。
困ったものだと嘆《なげ》くあたしをよそに、ツクツクさんはキラキラと目を輝かせて商品を物色し始めていた。まるで少年のようと言えば聞こえはいいけれど、どう見てもお目が高いとおだてられて贋作《がんさく》を買ってしまうコレクターのようだわ。
「いいですねえ、これ」
ツクツクさんが、石でできた対の犬の置物をなでながらうっとりと言った。
「いやあ、お目が高い。それはコーマイーヌといって、東方の教会のゲートを守るガーディアンという話だ。滅多に手に入らない逸品だよ」
その説明は、限りなく胡散臭い気がする。ツクツクさんったら、毎回こんな説明に乗せられてガラクタを買い集めていたのかしら。本当にカモだわ。
「本当ですか」
だから、ツクツクさんったら、目をキラキラさせない。
「じゃ、これをいただ……えっ」
財布を取り出そうとするツクツクさんの腕を、あたしはぐいとつかんだ。
「またガラクタ買う気でしょ。どうせ何日かしたら、部屋の中に放置するに決まってるわ。いったい誰が、後でかたづけると思っているの」
「でも、ちゃんとおかたづけ賃は……」
それとこれとはまた別の話だわ。定期的にキッチンへいたる道を造らなきゃならないこっちの身にもなってほしい。
「だめ!」
あたしに強く言われて、ツクツクさんがシュンとなった。
「手強《てごわ》いねえ」
「ええ」
ツクツクさんと露天商のおじさんが、互いに目を見|交《か》わす。やっぱり、この二人は連《つる》んでるんだわ。
「じゃあ、これなんかどうかな」
チェーンがついた銀色のペンシルキャップみたいな物を、露天商のおじさんが指さした。
「ほう、これも逸品ですねえ」
すかさずツクツクさんが興味を示す。ああ、もう悪循環だわ。
この露店、いったいいつまで開いているつもりなのかしら。
「まだ、売れてないからねえ」
あたしは……、ツクツクさんが買ってきたケーキが早く食べたいのよ。
『先に食べていていいですよ』
ツクツクさんと露天商のおじさんが、ユニゾンで答えた。
ああ、もう分かったわ。ツクツクさんが何か買えばいいのね。それにはあたしという監視がいない方がいいのね。
「じゃあ、お茶を淹《い》れてくるわね」
あたしは、ツクツクさんのキッチンにいってお茶の支度《したく》を始めた。とりあえず、三人前というところかしら。ちょうどいいわ、ツクツクさんのとっておきといかないまでも、普段淹れてくれない高いお茶を使ってしまおう。
「お茶が入ったわよ」
あたしが戻ると、庭にはツクツクさんしかいなかった。
「露天商のおじさんは?」
「ああ、もう帰りましたよ。もう次の町にいくそうです」
売るだけ売りつけて、もう撤収《てっしゅう》したのか。素早い。
で、ツクツクさんが買ったのは……やっぱり狛犬《こまいぬ》だったのね。ああ、にこやかな笑顔が恨めしい。
「たくさん売れたからと、ほくほく顔でした。ミス・メアリーにも、よろしくと。お買いあげありがとうございましただそうです」
「あら、あたしは何も買わなかったはずだけど」
それは間違いないと思う。
「あれ、ちゃんと買っていたじゃないですか。彼のお土産《みやげ》話と、楽しい思い出を。お代もちゃんともらったと言ってましたよ。楽しかったと」
不本意ながら楽しかったのは事実だけど、楽しかった時間の物々交換って、それって売買にあたるのかしら。
「そのうちまたふいにやってきますよ。あの人は、ちょっとしたサプライズですから。それに、不必要に見える物ほど、人生には必要なんです」
まるであたしが再会を期待しているかのように言ってから、ツクツクさんは掌《てのひら》サイズの狛犬を玄関の左右におきにいった。不本意ながら、あたしも後をついていく。きっちり見定めておかないと、なんとなく不安だ。
かわいいけど、やっぱり場違いだと思うわ。
「これで、家の護《まも》りはバッチリです」
そうツクツクさんは言うけれど、このちっちゃな置物が、泥棒に噛《か》みついて撃退してくれることはありえないと思う。どちらかというと、逆に変な人たちを引きよせてしまいそうに見えるもの。
「そうそう、ミス・メアリー。これは、さっきあなたのために買っておいたんです」
たっぷりと狛犬を配置した玄関を堪能《たんのう》した後、ツクツクさんがあのとき見定めていたペンダントをあたしにくれた。
それは、小さな万華鏡《カレイドスコープ》だった。
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☆
「やあ」
玄関先の狛犬《こまいぬ》に軽く挨拶《あいさつ》をすると、あたしはツクツクさんのリビングに入っていった。
今日は、何かのおすそ分けをくれるらしい。その代わり、ちょっとお手伝いしなければいけないみたいだけれど。
「やあ、ミス・メアリー。きましたね」
あたしを出迎えたツクツクさんは、ちょうど荷物の梱包《こんぽう》を解《と》いているところだった。
「これから開けるところです。手伝っていただけますか」
うん、その予定できたわけだし。
「では、キッチンから缶切りを持ってきてください」
「缶切り?」
「ええ、缶切りです」
聞き返すあたしに、ツクツクさんが繰り返した。
おすそ分けって、缶詰なのかしら。だとしたら、今開けちゃってもいいんだろうか。
あたしはキッチンへいくと、缶切りと、いちおう、お皿とフォークも用意してリビングへと戻った。
「ああ、お皿まで持ってきてくださいましたか。助かります。でも、なんでフォークまで?」
箱の中から取り出した缶詰をテーブルの上にならべながら、ツクツクさんが不思議そうに訊《たず》ねた。
いや、手づかみというわけにはいかないでしょう、やっぱり。
「食べる気満々ですね」
ちょっと苦笑しながら、ツクツクさんが言った。
そんなこと言ったって、おすそ分けをくれると言ったのはツクツクさんだし、缶切りで開けようと言ったのもツクツクさんじゃないの。開けた物を食べないでどうするのよ。
「これを食べるのですか。まあ、食べられないこともない……かもしれませんが」
なんだか不穏《ふおん》なことを、ツクツクさんが言ったような気がする。
「では、これからいきましょう」
テーブルの上に積み上げられた大きさも形もまちまちな缶詰たちの中から、ツクツクさんが適当な一つをひょいと取りあげた。大きな缶詰なのに、なんだか動作がすごく軽い。まさか、中身がスカスカというわけではないと思うけど。
「さて、では開けてみます」
あたしが手渡した缶切りを、ツクツクさんが缶に突き立てた。
ぷしゅっー。
中から空気がもれる。シロップ漬けではないみたいだ。
というか、今気づいたけれど、この缶詰はなんの缶詰なのかしら。普通、缶詰という物はラベルに中身の絵があるはずだけど、ここにある缶詰はラベルこそ貼られているものの、中身がなんだかまったく分からない。
貼られているラベルには中身のイラストは描かれてはなく、包装紙《ほうそうし》のような模様か単色のシンプルな物だった。
小首をかしげるあたしにおかまいなく、ツクツクさんが慣れた手つきでキコキコと缶を開けていった。その缶のラベルは、薄いホワイトブルー一色の物だ。たんなる色紙《いろがみ》のようにも見えるけれど、色の塗り方が雑なのか、筆の跡らしいかすかなすじが残っている。
キコキコキコ……。
小気味いい音をたてながら缶切りを動かして、ツクツクさんが缶のフタを切り終えた。
「さて、開きました。いったいなんでしょうね」
ツクツクさんも中身を知らないのかあ。まあ、このラベルじゃ、あらかじめ送り主から中身を教えてもらってなければ分かるはずもないけれど。
ツクツクさんが、フタをクイと上に引き上げる。
「何これ、空っぽじゃない」
がっかりして、あたしは言った。
せっかく開けたのに、缶の中には何も入っていなかったからだ。
「空気でも入ってたのかしら」
「すごい、ミス・メアリー、正解です」
あたしの言葉に、ツクツクさんが缶の内側を見せてくれた。
そこに一枚の紙が貼ってあった。
『アルプスの空気』
うわ、無茶苦茶、胡散臭《うさんくさ》い。
「とりあえずアルプスですね」
缶の中の空気を軽く吸い込んで、ツクツクさんが言った。
「ほんとにアルプスなの?」
「ええ、アルプスです」
疑わしそうに訊ねるあたしに、ツクツクさんが答えた。
いや、どこがどうアルプスなんだか。
「まさか、これ全部アルプスなんじゃないでしょうね」
そんな物のおすそ分けなんて不毛だわ。
「いえ、中身は全部違うと思いますが」
だったら確かめてみないと。
あたしは、とりあえず目についた水玉模様のラベルがついた缶詰をつかみ取ってみた。
意外と重い。それに、なんだか、中で何かが動いていて音がする。
「ツクツクさん、はい」
「トゥックトゥイックです」
すっと手をさし出したあたしに、ツクツクさんが缶切りを手渡した。
キコキコキコ……。
一センチほど残してフタを切り終えると、あたしは缶切りのお尻を使ってフタを引き開けた。
「ガラス玉?」
中に入っていたのは、ガラスでできたボールだ。
とにかく広げてみようと、持ってきていたお皿の上に中身をぶちまける。
キンコンカンと鉄琴を叩《たた》くような音が響き渡って、お皿の上で色とりどりのガラス玉が踊った。
「ビー玉ですね。これは綺麗《きれい》だ」
キンコンカンコン。
いつまでも跳《は》ね続けるガラス玉を、ツクツクさんが両手で押さえて静かにさせた。一つだけまだ跳ねようとしたので、ツクツクさんが人差し指を立てて、メッと叱《しか》った。やっとビー玉がすべて静かになる。
このビー玉って、生きているの?
あたしはつんつんと指先でビー玉をつついてみたけれど、もうビー玉は動かなかった。
ツクツクさんの言うとおり、ビー玉はカラフルな色をしていてとても綺麗だった。ガラス玉自体に色がついている物は少なくて、多くのビー玉は透明なガラス玉の中で色が踊っている。そのため、見る角度でまったく違う模様に見えた。まるで、前にツクツクさんにもらった万華鏡のようだ。
子供の遊び道具ということだけど、こうして入れ物に入れてながめていた方が素敵だと思うのはあたしだけだろうか。
キコキコキコ。
「うわっ」
次にツクツクさんが開けた缶詰からは、突然モクモクと雲がわきあがった。ラベルはそのものずばりの雲の絵だ。
もしかして、本当に雲の缶詰だったの?
「綿みたいですが、これは……」
後から後から出てくる綿は、留《とど》まることを知らない。いったい、どうやってこんなにたくさんの綿を缶の中に詰め込んだのかしら。結局、掛け布団一つ分ぐらいの綿が出てきて、ツクツクさんがあわてて他の部屋に一時保管する騒《さわ》ぎになった。
キコキコキコ。
次は、三日月が浮かぶ夜空のラベルの缶詰を開けてみる。
「これは、ハンカチかしら」
缶の中には、薄い布が入っていた。レース飾りを切り口のギザギザに引っかけないように注意しながら、あたしは缶の中から赤いハンカチを……。
「どうかしましたか」
あわてて出てきた物をポケットの中にしまい込んだあたしを見て、ツクツクさんが不思議そうに聞いた。
「これは封印」
こんな物、ツクツクさんに見せられますか。もう、玉石混淆《ぎょくせきこんこう》と言うよりも闇鍋《やみなべ》だわね、これは。
「ねえ、これを送ってきた人って、どういう人なの」
「どういう人と言われましても……」
あたしにキッと睨《にら》みつけられて、ツクツクさんが困ったように考え込んだ。
「昔なじみなのですが……。一言で言ってしまえば、趣味人ですね」
それは言われなくても分かるような気がする。というか、それがすべての人なのか。まるでツクツクさんみたいじゃない。
「いや、私の方が趣味はいいはずです」
きっぱりとツクツクさんが言いはった。
うーん、その言葉は支持していいものなのかしら。
あたしは、ツクツクさんのリビングをぐるりと見回して溜《た》め息をついた。
ほとんど、どっこいどっこいのようだけれど。
キコキコキコ。
「これは、キャンドルの缶詰ですね」
また一つ缶詰を開けたツクツクさんが、中身をあたしに見せた。ラベルはオレンジ色だ。
青リンゴの香りをさせながら、缶の中にロウがつまっている。フルーツキャンドルなのかしら。
ちゃぷちゃぷ。
あたしが手に取った缶詰は、振ると水の音がした。
白いラベルということは、ミルクでも入っているのかしら。
こぼすといけないので、慎重に開けてみる。
キコキコキコ。
水だ。
ただの水だわ。
芸がないわね。いや、すでにこの缶詰群は芸なの?
「缶の底に、また何か書いてありますね」
あたしの缶をのぞき込んで、ツクツクさんが言った。
「雪って書いてありますね……」
「解けてたら意味ないじゃない」
これでは、すでに雪解け水だと思う。
キコキコキコ。
「これは面白いですよ」
ツクツクさんが、次に開けた缶をあたしにさし出した。ラベルは銀色だ。
これも空っぽのようだけれど、のぞいてみるとあたしが入っていた。
いや、缶の底に鏡が貼りつけてあった。
のぞき込んだ人の顔が中に入っているという趣向《しゅこう》らしい。
だんだん、中身があるんだかないんだか分からない缶詰がふえてきていると思うのは、絶対気のせいじゃないわよね。
次につかんだ缶詰も、異様に軽かった。
「また空っぽかしら」
缶切りを突き立ててみると、何やらいい香りが。
キコキコキコ。
開けてみると、突然中から赤い薔薇《ばら》の花びらが、つむじ風とともに部屋中に広がった。部屋中が、真っ赤な花びらと、薔薇のいい香りで満たされる。
「ラベルの色からすると、薔薇の花吹雪の缶詰のようですね」
まさに薔薇色をしたラベルを見て、ツクツクさんが言った。
花吹雪はいいんだけれど、どうやったらつむじ風まで缶詰に入れることができるというのかしら。香りはいいとしても、花びらは後で掃除するのがたいへんだわ。
「おや、ラベルに何か小さく書いて……」
ツクツクさんが、薔薇色のラベルに顔を近づけていった。
「庭の、広い所でお開けください……。注意書きですか」
「遅いわよ」
注意書きは、もっと目立つように書いておいてほしい。
さて、さすがに缶詰の残りも少なくなってきた。
星が転がっているラベルの缶詰をツクツクさんが選ぶ。
キコキコキコ。
「うーん、この缶詰はちょっと固いですね」
うん、音もちょっと違う気がする。
キコキコキコ。
とんとんとん。
キコキコキコ……。
カリカリカリ……。
「何かしら。何か叩く音が聞こえない?」
ツクツクさんが缶詰のフタを切る音に合わせるようにして、何かを叩くかすかな音がする。
「おや、御近所さんが、音につられてのぞきにきたようですね」
ツクツクさんが手を止めて、庭へ続くサッシや窓の方を指し示した。
ガラスの所に、いくつもの丸い顔が見える。
たくさんの猫たちだ。
それぞれが違った模様の毛並みで、大半が首に鈴やリボンをつけていた。きっと、御近所の飼い猫たちだろう。
ここを開けてくれとでも言いたげにときおりニャーニャーと鳴きながら、猫たちがカリカリと窓をひっかいたり肉球で叩いたりしている。
「猫缶を開ける音と間違えたのかしら」
「そうみたいですね」
さすがに、ツクツクさんも苦笑する。
チラリと横目で見ると、猫たちは期待に目をキラキラとさせてこちらを見ていた。
かわいいけれど、残念ながら御期待には応えられそうもない。さすがに、この中に猫缶は混じってないと思う。
「後で何かあげましょうかねえ……うわっ!」
缶開けを再開したツクツクさんが、突然叫び声をあげた。いや、あたしも一緒に叫んだ。
缶詰の中から、突然何かが鳴き声をあげて飛び出してきたからだ。
「びっくり箱!?」
飛び出してきた物の正体を見て、あたしは叫んだ。
スプリングを布でつつんだ、猫の尻尾のようなオモチャだ。典型的なびっくり箱の中身じゃない。
「やられましたね」
さすがに、ツクツクさんも悔しそうだった。
この騒ぎに驚《おどろ》いて、窓際に集まっていた猫たちは、あっという間に姿を消してしまった。
ああ、せっかく御近所さんたちが集まってきてくれたというのに。もふもふする暇《ひま》もなかったわ。
残る缶詰は二つ。
あたしは、同心円の描かれたラベルの缶詰を選んだ。
そこそこの重さがある。いちおう、中には何かつまっているみたいね。
キコキコキコ。
「何よ、これは」
缶詰の中から出てきた物を見て、あたしはちょっと怒りながらツクツクさんにそれを突きつけて見せた。
缶詰の中から出てきたのは、一回り小さな缶詰だったのだ。
「ええと、缶詰ですね」
それは、見れば分かる。
問題は、なんで缶詰の中にまた缶詰を入れなきゃならないかだわ。
「彼の趣味でしょう」
苦笑しながらツクツクさんが答えた。
「ほんと、いい趣味だわね」
まったく、どんなお友達なんだか。
中に入っていた缶を取り出して持ってみると、ちゃんとした重さがある。まだ中に入っているみたいだ。
キコキコキコ。
開けてみた。
「なんなのよ、これはー」
「いや、私に怒りをむけられても困ります」
そんなこと言っても、今ここで矛先《ほこさき》をむけられるのはツクツクさんしかいないじゃない。
あたしが怒っても、それは当然だと思う。
缶詰の中から出てきたのは、また一回り小さな缶詰だったからだ。
マトリョーシカか、この缶詰は。
あたしは、ロシア土産《みやげ》の人形を思い出した。確か、ツクツクさんのリビングにも一つあるはずだわ。
「すると、まだまだこの中に缶詰が入っているんでしょうか」
「だったら、開けて確かめるまでよ」
意地になって、あたしはその缶詰を開けていった。
しつこいほどに、中には一回り小さな缶詰が入っていた。しかも、小さくなりすぎて缶切りが役にたたなくなると、ちゃんと小型の缶切りが一緒に入っているという周到《しゅうとう》さだ。うーん、負けるものですか。
もう、最後の方になると、五ミリぐらいの缶詰にまで小さくなってる。
ええい、いっそ叩き潰《つぶ》してくれようか。
「ストーップ、ミス・メアリー!」
怒りに燃えるあたしを、ツクツクさんがすんでで引き止めた。
「止めないでよ」
「いや、その缶詰はすごく珍しい物ですから壊さないでください」
どこかに飛ばしてなくさないようにと、ツクツクさんが慎重にその超小型缶詰をつまみ取った。
「どこが珍しいのよ」
「たぶん、世界最小の缶詰かと」
聞き返すあたしに、ツクツクさんが真顔で答えた。
「根拠《こんきょ》は?」
「たぶん」
それは根拠じゃなーい。
「あたしは、その世界最小の缶詰の中身の方が興味あるわ」
「それは、また今度ということで。さあ、次の缶詰を開けましょう」
ツクツクさんが、ハンカチで超小型缶詰をつつむと、そそくさとポケットにしまい込んであたしから保護した。
キコキコキコ。
「最後の一つは、フルーツドロップですね」
綺麗な包装紙の中には、色とりどりのドロップがぎっしりとつまっている。
やっと食べられる物が出てきた。
「そうですね。では一粒」
「じゃあ、あたしも一粒」
あたしは、ピンクのドロップを口の中に放り込んだ。上品な濃い甘みとともにいい香りが広がる。
「スイカ味だ……」
珍しい。
「私のはリコリスでした……」
黒いドロップを食べたツクツクさんが、がっくりとテーブルに額《ひたい》をつけてうなだれた。かなりの外れだったらしい。リコリスというと、薬っぽい根っこの味ね。
「さて、どうしてあげましょうか」
がばっと起き上がったツクツクさんが、腕を組んでちょっと大げさに考え込んでみせた。何かするつもりなのかしら。
「おや」
ツクツクさんの視線が、送られてきた箱に注がれる。箱の底の梱包材にくぼみがあって、そこにもう一つ缶が残っていた。
「これが、本当に最後の一つというわけですか」
ツクツクさんがその缶詰を取り出した。魚の缶詰によくある、平べったい長方体に近い缶詰だ。
キコキコキコ。
中から一枚のカードが出てきた。
『楽しんでいただけましたか?』
カードには、そう書いてあった。
流麗《りゅうれい》な筆記体で、友達へ(TO MY FRIEND)、友達より(FROM YOUR FRIEND)とそえられている。
「やはり、これは反撃をしないといけませんね」
そう言うと、ツクツクさんがキッチンに駆《か》け込んでいった。
いったい何をするのかと思っていると、なんだかハンドルのついた大きな機械と段ボール箱をかかえて戻ってくる。
「それはなんなの?」
「もちろん、缶詰製造器ですよ」
テーブルの上にどんとおいた機械をさして、ツクツクさんがさも当然のように言った。
なんでそんな珍しい物があるのよ。
まあ、説明されなくても、これから何が始まるのかはだいたい予想がつくわ。
案の定、ツクツクさんが、一緒に持ってきた箱から缶詰のパーツをガラガラとテーブルの上にぶちまけた。
「この中に好きな物を入れて、フタをして機械で端を丸めてあげると、あっという間に立派な缶詰ができあがるという仕組みなんですよ」
テーブルに缶詰製造器を固定しながら、ツクツクさんが言った。
「つまり、こうやってトンデモ缶詰を作っては、お互いに相手に送りつけて楽しんでいたわけなのね」
「いや、まあ、そういう……わけなんですが。楽しいでしょう?」
「もちろん。やりかえさずにいられましょうかっていうのよ」
ああ、こうやってツクツクさんたちは変な遊びを定着していったのね。今限定で言えば、その気持ちはよく分かる。やられっぱなしじゃつまらない。
「さて、それでは何を入れちゃったりなんかしましょうか」
いたずら小僧のようにツクツクさんが言った。なんだか、実に楽しそうだ。
「まずは、材料を集めることにしましょう」
「うん、分かったわ」
そういうわけで、あたしはいったん自分の家《うち》に戻った。その間に、ツクツクさんもガラクタの中から面白そうな物を物色していることだろう。ツクツクさんの所から変な物が減るのなら、それはそれでいいことだわ。
とりあえず、私の部屋からあげちゃってもいい物、けっしてゴミでない物を選び出して袋に詰めると、あたしはツクツクさんの所に戻った。
ちょうど、ツクツクさんも物色した品物を詰めた箱を持ってリビングに戻ってきたところだった。
「さて、最初はこんな物でどうでしょうか」
ツクツクさんが、いい香りのする濃い黄色のつぶつぶを缶の中に詰め始めた。この香りは、金木犀《きんもくせい》だわ。よく見ると、黄色いつぶつぶだと思ったのは、乾燥させた金木犀の花だった。
「金木犀のポプリですよ」
八分目まで詰めると、ツクツクさんがその缶を缶詰製造器の台の上においた。その缶の大きさにあったフタの円盤を上に載せて、しっかりと位置を調整する。
「後は、こうしてハンドルを回すだけです」
なんだかかき氷を作っている感じで、ツクツクさんが缶詰製造器の上についているハンドルを回した。
クルクルクル……。
ゆっくりと缶が一回転して、缶詰ができあがる。
「簡単でしょう?」
用意した折り紙から黄色を選んで、ツクツクさんが缶に貼りつけた。金木犀の花だから、黄色いラベルというわけね。
単色の他にも、いろいろな模様の紙が用意してある。なんでも、千代紙《ちょがみ》とかいうカラフルな折り紙らしい。
「次は春の陽射《ひざ》しなんかどうでしょうか」
窓際に近づくと、ツクツクさんがさし込んでくる陽射しの中に空っぽの缶をかざした。
「それって、空っぽじゃ」
アルプスと大差ないじゃない。
「では、四月の風なら」
今度は窓を開ける。
それも、アルプスだ。
空気ならまだしも、光や風は缶の中にしまうにはあまりにつかみどころがない。こういうものは、切り取るものではなくて、こちらから会いにいくものだと思う。
「では、こういった春ならいいかもしれませんね」
ツクツクさんが、手に持っていた缶にウッドチップを詰め始めた。ほぼいっぱいになると、その中にクロッカスの球根を埋める。
まあ、これは悪くはないかもね。
「カードも、そえておきましょう」
ツクツクさんが、小さなカードをウッドチップの上に載《の》せた。
『春は何色?』
何色の花が咲くかは、植えてみなければあたしたちにも分からない。
クルクルクル。
また一つ逆襲の缶詰ができあがった。ラベルは、そう小花模様がいいかしら。
「次は、あたしが持ってきたビーズを入れて」
おはじきやビー玉ほどではないけれど、これもまた綺麗の一つだと思うわ。
子供のころに集めてた物だけど、ずっとしまい込んであった物だ。ついこの間思い出して発掘しておいたのが、さっそく役にたった。
「そうですね。色とりどりのビーズは、綺羅《きら》、星のごとくですから」
クルクルクル。
これにはモザイク模様のラベルね。
「そうだ、星の砂なんかもいいですね」
ツクツクさんが、白い砂らしき物がつまった大きい瓶と小さい瓶を選び出して言った。
大きい瓶に入っているのは珊瑚《さんご》の砂、小さい瓶に入っているのは星の砂らしい。
「どちらも、本当に海岸でとれた物らしいですよ」
目を近づけてみると、小瓶の中の砂粒は小さなとんがりのついた星の形をしていた。砂粒に見えるけれど、本当は化石らしい。
ツクツクさんが、ラベルに『きらきら星(TWINKLE,TWINKLE,LITTLE STAR)』と書いた星砂の小瓶を、珊瑚の砂を詰めた缶の中に埋めた。ラベルはやっぱり星印ね。
クルクルクル。
そうだ、空っぽの缶なら、こんなのはどうだろう。
「それは面白いかもしれませんね」
ツクツクさんがアクリル絵の具を筆につけると、缶の内側に絵を描き始めた。その間に、あたしはフタの方に色を塗る。缶を開けて初めて見られる絵の缶詰というわけ。
クルクルクル。
「あたしからは、あとはこれくらい」
そう言って、あたしはツクツクさんにお手製のマスコットを渡した。鞄《かばん》などにつける大きさの物だ。ちょっと大きいのを無視すれば、キーホルダーやストラップやお財布にもつけられるかもしれない。
「どこかで見たような白うさぎさんですね」
クルクルクルとハンドルを回しながら、ツクツクさんが微笑《ほほえ》んだ。
モデルが壁に貼ってあった写真だったんだから、誰かに似ていてもしかたないじゃない。むしろ予定通りだわ。缶の受取人が本当にツクツクさんのお友達なのなら、このマスコットにはニヤリとするでしょう。ラベルは、そう、木の実の色で。
その他にも、フタに鈴の紐《ひも》をつけた「鈴の音の缶詰」とか、いろいろな形のパスタとか、野球選手のサインボールだとか、超小型水槽セットとプランクトンの卵の詰め合わせだとか、千代紙を折って作った紙風船をたくさん入れた物だとかの缶詰を作っていった。
「それにしても、いつもこんな贈り物合戦をやっているの?」
一段落つくと、あたしは最大の疑問をツクツクさんにぶつけてみた。
「いえいえ。ごくたまにですよ。そうですね、だいたい季節の変わり目あたりにですかねえ。ちょっとした挨拶《あいさつ》代わりです」
季節の挨拶なら、手紙でも充分じゃない。
「でも、この方が楽しいでしょう。缶詰の中から何が出てくるか、開けてみるまで分かりませんし。それに、この缶詰に込められない物なんてないんですから」
確かにそうかもしれない。どんな物であれ、どんな形であれ、何かを人に送り届けることは不可能じゃないもの。
「それに、彼の周りには、今回送られてきたような物が、たくさんあふれているのかもしれないのですから。これは、彼をとりまく世界のおすそ分けなんです」
「うーん。それだと、あたしが持ってきた物って、ツクツクさんのおすそ分けにはならないかも」
「そうでしょうか」
ツクツクさんは、楽しそうに微笑むだけだった。
「さて、最後の缶詰には、こちらも手紙をそえましょうか。何を書きましょうかねえ」
「そうねえ。こんなのはどうかしら。『楽しみは分かち合うものだ』とか」
これだけ手間をかけて缶詰を作ったんだから、ツクツクさんのお友達にもわくわくして缶を開けて頭をひねってもらわなきゃ。それにしても、名前も顔も知らないのに、なんだか古い悪友と遊んでいるみたいだったわ。
「では、それにしましょう」
ツクツクさんが、カードにメッセージを書くと、宛名をそえた。
『TO MY FRIEND
FROM YOUR FRIENDS』
クルクルクル……。
「ふう。これで全部終わったわね」
「ええ。そうそう、これは、ミス・メアリーに」
ツクツクさんが、ラベルのない缶詰を一つ、あたしにさし出した。
「これをあたしに? いったい、何が入っているの」
あたしは、ツクツクさんに訊ねた。
「それは、開けてみないと分かりませんから。今、開けてみますか?」
ツクツクさんが、缶切りをさし出す。
あたしは、そっとそれを押し戻した。
「ううん、これは楽しみにとっておくわ」
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☆
「お庭にいきましょう」
「いや、ここが庭ですけど?」
また何を言いだすのかと、あたしはツクツクさんのお庭をくるくると見回した。
オープンデッキのテラスは、庭の一部と言えなくもないと思うのだけれど。それとも、ティーカップを持ったまま庭にいくと、何かが起こるとでも言うのかしら。
「いえ、ここの庭ではなくて、もっとたくさんの庭です」
どこの話なんだろう。
「ガーデンショーです」
「いく!」
即答。
そういうわけで、今日は久々におでかけということになった。
ガーデンショーは、この季節の一大イベントだ。広大な会場に、様々にデザインされた庭が造られる。これは見にいかなければならない。
ちょっと小粋《こいき》にオシャレして決めると、|つば広の帽子《プリマー》を被《かぶ》り、履《は》き慣れた靴であたしは出発した。ツクツクさんはといえば、いつもの格好でのんびりと隣を歩いている。
五月の季節は、御近所のお庭でも緑があふれていた。
大きな木は広げた枝を人々の頭上にかざし、蔓草《つるくさ》はあちこちを探検して葉っぱをゆらし、花々はとりどりに色と香りを広げている。
こんもり、さわさわ、くっきり、それはもう様々だ。
はじける光にも花の色が、過ぎる風にさえ緑の香りがある。
身近なお庭の風景をプレ・ガーデンショーとして楽しんだ後、あたしたちは駅から汽車に乗り込んだ。
のんびりコトコトと進む汽車は、じらしながらあたしの期待をじょじょに高めてくれているようだ。それにしても、もうちょっと急げないものなのかしら。
「まあ、庭は逃げませんから。少しは景色も楽しみましょう」
水筒のフタのカップにアイスティーを注ぐと、ツクツクさんがあたしに手渡した。
アールグレイの香りを楽しみながら、あたしは外の風景に目をむけた。
町中を過ぎると、線路はカラフルな家並みの中から、緑あふれる自然の中へと走り出した。庭の展覧会《てんらんかい》なのだから、広い土地のある田舎の会場へむかうというわけ。のどかな風景ばかりで、なんだかタイムマシンで少しだけ過去に戻ったように、時間の流れもちょっとだけのんびりしたように感じる。
「いいですねえ、のんびりとして。時が止まってしまいそうです」
だからといって、汽車までスピードを落とすことはないわよね。それじゃ永遠に到着しないことになってしまうじゃない。
走れー、早く会場に連れていけー。
あたしは汽車を応援した。
「よいしょっと」
ツクツクさんが立ちあがって、窓を開けた。
風が勢いよく流れ込んできてあたしの帽子をさらっていこうとする。そうはさせないと、あたしは素早く帽子を手で押さえた。それでもだめそうなので、帽子を脱いで胸元でかかえ持った。
吹き込んでくる風が、あたしの髪をいたずらしてくるくると踊らせる。せっかくセットした髪がちょっとたいへんなことになってるけれど、この風は気持ちいい。ふりそそぐ光さえ巻き込んで車内へと吹き込んでくるよう。
「この速さなら、もうじきですね」
「うん」
実感できるようになった汽車の速さに、あたしは素直にツクツクさんの言葉にうなずいた。
その言葉通り、しばらくして汽車が目的の駅に到着した。
ガーデンショーめあてのたくさんの人たちとともに、あたしたちは駅のホームに降り立った。
田舎の小さな駅だけれど、ホームや駅舎からしてすでに一面の花に被《おお》われていた。この場所からすでにお祭りは始まっているんだ。
駅から会場への道は、普段からの花壇《かだん》に加えて多くのプランターや植木鉢《うえきばち》がおかれていた。あちこちに、植木の苗《なえ》や花の種を売っている露店《ろてん》もある。
「帰りには、何か買っていきましょうよ」
「ええ、もちろんです」
ツクツクさんが、期待通りの言葉を返してくれる。
これなら、ちょっと大きめの苗でも、ツクツクさんがいれば大丈夫そうね。こういうときの男の人は十二分に活用しなくちゃ。
思わず足を止めたくなるのを我慢して、あたしたちは並木道を進んでいった。甘い花の香りと緑葉の爽《さわ》やかさがそよぐ風で流れてくる。なんとも素敵な並木道だ。
「ここが入り口のようですね」
品のいい薔薇《ばら》のアーチを指さしてツクツクさんが言った。まさに、ガーデンのゲートといった感じだ。
係の人に、ツクツクさんが入場チケットを見せて中へと入った。なんだ、前売り券を手に入れてたから、急にガーデンショーにいこうなんて言いだしたのね。
入り口で、配られているパンフレットをもらう。そこに書いてある地図には、いくつものミニガーデンや花壇の名前が書いてあった。
「これは大きな花時計ですね」
最初の広場の中央にあった花時計を見て、ツクツクさんが感心したように言った。
色とりどりの花を使って時計の文字盤が描かれているのだけれど、その手前に二四時間表示のバーをなぞらえた花壇がくっついている。そこに咲いているのは開花時間が異なる花らしい。朝には朝の花が、昼には昼の花が、夜には夜の花がと、時間ごとに色の違う花が開いて一日を表しているのだそうだ。
「面白いわね」
「ええ。花のことをよく知り抜いた人が作ったのでしょうね。今年のショーは、変わり種の花が多いみたいですよ」
ツクツクさんの口から変わり種と呼ばれる花だとすると、いったいどんな花なんだろう。期待半分、不安半分というところだわ。
とりあえず、出展されているデザイナーズガーデンを見て回ろうかしら。
それぞれのデザイナーの区画には、自由な発想の庭が造られている。それを巡るのが、ガーデンショーの醍醐味《だいごみ》の一つだ。
「風の谷の踊る波ですって。どんな庭なのかしら」
パンフレット片手に、あたしたちは最初の庭に入っていった。
かすみ草のように小さな花をたくさんつけた丈の高い草が、ほとんど一面を被《おお》っている庭だった。人が動ける場所は、色とりどりの煉瓦《れんが》道《みち》しかない。庭のあちこちには、様々な形の風車小屋のミニチュアが飾られていた。その風車の起こす風で、花がずっとゆらゆらとゆれている。
「本当に踊っていますね」
草花の茎が細いので、わずかな風の変化にも、その踊りのテンポを変える。まるで、花のタクトが風の拍子をとっているみたいだわ。
静止することなく変化し続ける庭は、長い時間見ていても飽きがくることはなさそうだった。
でも、残念なことに、時間は有限だわ。
もっとのんびりしたい心を抑えて、次の庭へとあたしたちはむかった。
「これって庭? ほとんど池みたいだけど」
次の庭は、そのほとんどが池だった。でも、大きい池でもただの水たまりでもない。これは、確かに庭だわ。
「ウォーター・ガーデンですね」
この庭のメインは水草の花。ぷかぷかと池に浮いている大鬼蓮《ジャイアント・ウォーター・リリー》の巨大な葉の周りにかわいい花たちが咲いている。
人が乗れる葉っぱの上には、水草でない花の植木鉢がいくつか載《の》せられていた。
池には流れがあって、完全に水に浮く布袋葵《ウォーター・ヒアシンス》などは、メインの池から細い水路を巡って、また元の池に戻ってくるようになっている。水路の周りは地衣類《ちいるい》に被われていて、綺麗《きれい》な緑色だ。今は五月だから花は咲いていないが、夏になれば、薄紫の花をつけたウォーター・ヒアシンスが、ゆっくりと庭を旅して回るのだろう。
「風の次は、水というわけですね。手入れはたいへんでしょうが、こういったショーで見るにはいいですねえ」
さすがに、こういったデザイナーガーデンは、やっぱりちょっと奇抜《きばつ》で、普通の家の庭にするには少し難しいかもしれない。でも、それだからこそ、ここにある庭は、ちょっとした小宇宙。それぞれが別世界だと思う。
「それを楽しむのが、一つの醍醐味ですね」
「そのとおり」
さて、次はどんな庭かしら。
「これはまた、大胆な」
がらりと様相を変えた隣の庭に、さすがのツクツクさんもちょっと驚く。
そこは、まるでテキサスの砂漠だった。
「うーん、日本庭園の趣《おもむき》もどこかにあるような……」
要するにごった煮だわね。
庭の敷地《しきち》全体には、砂が敷き詰められていた。それも、赤茶けた荒野の砂と、綺麗な白砂が、奇妙な縄張り争いをしながら敷き詰められている。その表面には日本庭園のような波模様が描かれ、人の移動できる場所には石が飛び飛びにおいてあった。
こんな庭だから、植えてある物もサボテンなどの多肉植物たちだ。砂の海に浮かぶ浮き島のように、コロニーを作って花を咲かせている。
ちょっと変わっていたのは、一番大きなサボテンだった。あたしの背丈ほどもありそうなそのサボテンには、あろうことか蛇口がついていた。
「この蛇口を回すと、シャボテン水が出てくるのかしら」
「たぶん、そうでしょうね」
さらりとツクツクさんがのたまう。
さすがに、水道管と蛇口を本物のサボテンに埋め込んだ物だとは思うけれど、このなんというか、一種ツクツクさん的な奇天烈《きてれつ》さの庭では、本当にサボテンから水を搾《しぼ》っているのかもしれないと思わされてしまう。
「この庭でしたら、家《うち》の庭にある置物とかをおいても似合いそうですねえ」
しみじみとツクツクさんが言った。
いや、砂漠にタヌキの置物《オーナメント》をおいても、違和感ありありだと思う。もっとも、違和感だけでまとめあげるのであれば、それはそれで合っているとは思うけれど。
ツクツクさんがこれ以上変な妄想《もうそう》をいだかないうちにと、あたしはさっさと次の庭にむかった。
奥の会場へは、|藤の花《ウィスタリア》のトンネルをくぐっていくようになっていた。
長くたれ下がった紫の房《ふさ》は、また別の世界への通路のようだ。
「綺麗よねえ」
「ええ」
こういうとき、言葉を交わせる人がそばにいるのは素直に嬉しい。いろいろな思いを分かち合えるもの。
トンネルを進んでいくと、ふいに中庭《パティオ》のような場所に出た。もしかすると、ここもデザインガーデンの一つなのかしら。
森の中にぽっかりとできた広場のような場所に咲いていたのは、色とりどりの風船だった。
いや、もう、風船としか言いようがないじゃない。
白や、紫や、赤や、黄色。色とりどりのまあるい花だか蕾《つぼみ》だか分からない物が、草のてっぺんに咲いて中庭を埋め尽くしている。
見ているとなんだかふわふわしてきそうで、なんとも不思議な庭だった。
「品種改良された新種みたいですね。風船草でしょうか」
紫の風船を指でつんつんとつつきながら、ツクツクさんが言った。元は桔梗《ききょう》の花らしい。
「おもしろーい」
まねしてゆらゆらゆれる風船をつついてみたら、パンと音をたてて割れてしまった。
まずい。連鎖《れんさ》して全部割れてしまうという、悪夢のような光景が頭をよぎる。
「さあ、どんどんいきましょ」
まだ風船草をつついているツクツクさんの背を押すと、あたしは中庭の出口となっている藤の花のトンネルに進んだ。
こちらは、先ほどとは違って白い藤の花が下がっている。
トンネルを抜けると、再び様々な庭が広がっていた。
本当に、ガーデンショーの会場は広い。
庭というよりはモニュメント広場のような物があたしたちの前に現れた。
中央に、円錐形《えんすいけい》の温室がある。何か展示されているみたいだ。
「世界一大きな花だそうですよ」
「なになにそれ。見たい」
あたしは温室に駆《か》けよっていった。中にラフレシアでも咲いているのかしら。
「すごい……」
そこに咲いていたのは、ブンガ・バンカイという花だった。あたしが両手を広げたほどの大きさの漏斗状《じょうごじょう》の真っ赤な花弁だか萼《がく》だかから、あたしの背丈の倍はある黄色い花序《かじょ》がそそり立っている。でかい、でかすぎる。
「それにしても、温室に入っているということは、南の方の花なのかしら」
「そうらしいですね。でも、それ以前に、猛烈《もうれつ》に臭いって説明のプレートに書いてありますよ」
それは、隔離《かくり》してもらわないと困る。
「七年に二日しか咲かない花らしいですから、私たちはすごく運がいいのかもしれませんね」
それはすごい。
でも、わざわざショーの会場に持ってきたのだから、咲いている物を運び込んだか、樹脂か何かで咲いたままの状態で固めてあるんじゃないのかしら。たとえそうだとしても、珍しい物を見られたわ。
どうやら、こちら側の会場は珍しい植物が集められているみたい。
「でも、枯れ草の展示はひどいんじゃない」
柵《さく》で囲まれた中にある枯れ草の大きな玉をさしてあたしは言った。よく西部劇などで風に吹き飛ばされていくあの枯れ草だ。
「ああタンブルウィードですね。これは、人間が刈り取って丸めたんじゃなくて、こういう形の草だそうですよ」
説明書きを読むと、根元からぽっきりととれて、転がって移動しながら種をばらまくってなっている。うーん、面白いけど、わざわざ展示するほどの物なのかしら。
「えい」
あたしは、草玉を軽くけっとばした。
コロコロと転がっていった草玉が、風に押し返されて戻ってくる。あたしは、あわててツクツクさんの陰《かげ》に隠れた。
「えっ?」
瞬間何が起きたか分からなかったツクツクさんに、草玉が直撃した。たまさか前に出していた手が、ズボリと草玉にめり込んだ。
「盾《たて》にするなんで、ひどいじゃないですか。やれやれ、少し休憩しましょう」
なんとか腕を引き抜いたツクツクさんが、隣のスペースをさして言った。
テーブルとイスがあり、休憩所のような形になっている。でも、何か唐突《とうとつ》な場所にある休憩所だわ。
「これもまた、変な展示じゃなければいいけれど」
切り株のイスに腰を下ろして、あたしは言った。
テーブルの方は、足の部分が木の板根のような形や、たんに根が地上に出てしまったような形をしている。なんだか足のようで、今にも動きだしそうだ。でも、いちおうはちゃんと安定している……はずだった。
カサカサカサ……。
「今、むこうのテーブル、動かなかった?」
「えっ、どのテーブルですか」
水筒のお茶を用意しようとしていたツクツクさんが、なにごとかとあたしに聞き返した。
見間違いじゃないと思う。ちょっと離れた所のテーブルが、こそこそと動いたのをあたしは見た。
「見間違いでは……うわっ」
あたしの言葉を疑《うたが》ったツクツクさんに罰《ばち》があたった。
ツクツクさんが座っていた切り株のイスが、突然後ろにむかって歩きだしたのだ。根っこが多数の足のように動いて地上を這《は》い進んでいく。そんな速い動きではないし、実際すぐに止まったのだけれど、さすがのツクツクさんもびっくりしたようだ。
「ほうら。やっぱり動いて……きゃっ」
今度はあたしのイスだ。
それを合図にしたように、その場にあったイスとテーブルが一斉に動きだして、すぐにぴたっと止まった。イスとテーブルの配置が、最初とは別の所に変わっている。
「展示物だったみたいですね」
ツクツクさんは立ちあがると、テーブルの上から水筒を奪《うば》い返した。
「なんでこんな物を作るのよ」
これじゃ、ちっとも休めないわ。
あたしはツクツクさんの腕を引っぱると、さっさとそこを離れた。
入れ違いに子供たちがやってきて、動くイスとテーブルに驚きながらも、すぐにきゃっきゃっと遊び始める。さすが、お子様は順応が早い。
「もっとゆっくり休みたいわね」
「そうですねえ。ああ、この先に休憩所《ガゼボ》があるようですよ」
地図を見て、ツクツクさんが言った。
さすがに、ちゃんとしたガゼボなら歩いて逃げていったりはしないだろうと思いたい。
「いってみましょう」
ツクツクさんの先導で、あたしはガゼボめざして歩きだした。
ところが……。
「これは、何かの嫌がらせ?」
きっとそうに違いない。
あたしは、目の前に広がる迷路を睨《にら》みつけて言った。
「ガゼボは、この先のようですね」
つまり、迷路を抜けないと辿《たど》り着けないというわけね。なんと意地悪な。
これは、あたしに対する挑戦ね。受けてたってやろうじゃない。
「さ、いきましょ、ツクツクさん」
「トゥックトゥイックですったら、ミス・メアリー」
ツクツクさんが溜《た》め息をついた。
「そんなことを言ってると、おいていくわよ」
「ああ、待ってください」
迷路入り口のアーチをくぐってずんずん進むあたしを、ツクツクさんが小走りに追いかけてきた。
それにしても、なんでこんな立派な迷路を造るのかしら。
迷路の壁は、植え込みを綺麗に刈り込んだ物でできていた。高さは、私の背丈よりちょっと高いぐらい。ツクツクさんだったら、ちょっと背伸びするか飛び上がれば、上から迷路を見下ろすこともできるわね。ちょっとずるい。
「大丈夫。私なら、この迷路は突破できます。なにしろ、ちゃんとした地図がありますから」
ツクツクさんが、あまりあてにならない保証をする。
「ええと、ここを右に曲がって、少し進んだ所を、今度は左に曲がって……」
パンフレットに書いてあった迷路の簡略図《かんりゃくず》を見ながら、ツクツクさんがナビゲーションしてくれる。あたしのパンフレットは……あれ? どこかにいってしまった。草玉の所で落としたのかしら。
しかたない、ここはツクツクさんを信じるしかないようね。でも、チラリとのぞき込んだパンフレットの地図は、ほんとにただのイラストの簡略図だった。はたして、これで出口に辿り着けるのかしら。
思ったよりも広く感じる迷路を、とにかく進んでいく。
さすがに、完全に迷わないようにするためなのか、ところどころに目印として植木鉢の花が飾ってあった。そういうところは、実にガーデンショーらしい。
「ちょっと待ってくださいね。また位置を確認しますから」
たびたび立ち止まって、ツクツクさんが道を確認する。
ああ、ちゃんとした地図とコンパスがあれば、オリエンテーリングよろしく正確な位置を割り出せるのに。
「さっきは、ここを右って言ってたわよね」
立派な蘭《ラン》の植木鉢の前で、あたしはツクツクさんに訊《たず》ねた。
「――ええ、そうですよー」
あれ? ツクツクさんの声がなぜか遠くに聞こえる。
あたしは、あわてて後ろをふり返った。
いない……。
やってくれたわ。それとも、あたしがやってしまったのかしら。
「ツクツクさん、どこー?」
「ここですー」
垣根のむこうから声が聞こえる。
「どこよー」
「だから、こっちですー」
ええい、指示代名詞だけじゃ、いったいどこにいるのか皆目見当がつかないじゃないの。
「とにかく、少し戻るから、そこで合流しましょうよ」
「ええ、そうしましょう」
クルリと回れ右をすると、あたしは元きた道を戻り始めた。同時に進んだ分同時に戻れば、離ればなれになった場所で出会う計算になるはずだった。
ええと、ここを右で、次はまっすぐで……。
「ミス・メアリー、記憶は確かですか」
その言葉、そっくりそのままツクツクさんに返してあげよう。
「まさか、迷っているっていうことはないでしょうね」
「いいえ、あなたの方こそ、地図がないのに大丈夫ですか」
あんな地図じゃ、あってもなくても大差ないと思うんだけれど。
とにかく進む。
分かれ道の所で、蘭の植木鉢と再会した。
あれ?
「どうかしましたか」
なぜか、垣根一つ隔《へだ》てたすぐそばでツクツクさんの声がした。
いいえ、そのう……。
「まさか、迷いましたか」
ツクツクさんが核心をついてくる。
いいかげんツクツクさんとごっつんこしてもいいはずなのに、なぜかUターンを始めた最初の場所に戻ってきてしまったようだ。
「ええい、こうなったら、この垣根を乗り越えて……」
「いや、それは器物《きぶつ》破損《はそん》になりますし、女性としてどうかと……」
垣根の枝に手と足をかけたあたしに、ツクツクさんの声が聞こえてきた。
まあ、ちょっとオシャレな格好をした美少女が、スカートなんかおかまいなしに垣根をよじ登る図というのは……、それは、それなりにちょっと壮絶かも。それに、確かに人がよじ登ったのでは、せっかくの垣根がぼろぼろになってしまうわね。たぶん、絶対に怒られる。
「そこで、待っていてください。今、救出にいきますから」
ちょっと、あたしは遭難者《そうなんしゃ》ですか。
待つのは嫌だ。
「あはははは。ツクツクさん、出口まで競争よ」
そう叫ぶなり、あたしは走り出した。こうなったら、何が何でもツクツクさんより先に迷路を脱出してみせるわ。
「ああ、勝手に動くとまた迷子の罠《わな》に……」
困り果てたツクツクさんの声が遠ざかる。
罠って、こんな迷路にそんな物があるわけないじゃないの。
それにしても、迷路の中ではあまり人とすれ違わない。たまに子供が走っていくだけで、大人の姿はほとんど見なかった。もしかすると、迂回路《うかいろ》がちゃんとあったんじゃないのかしら。馬鹿正直に迷路を通り抜けようとしたのはあたしたちだけだったりして。
「まあ、ツクツクさんのナビだったんだから、そうなっても当然だったわね……」
最初に気づくべきだったわ。
とにかく、出口と思った方向へむかって進んでいく。進んでいく。進んで……。
また蘭の植木鉢に戻ってきてしまった……。
「なぜなんだあ!」
雄叫《おたけ》びの一つもあげたくなるわ。
『ひらけー、ごま』
なんだか離れたところから、かすかにツクツクさんの声が聞こえた気がする。
むこうも、相当困ってるようね。そんな呪文《じゅもん》で先に進めたら苦労はないわ。
とはいえ、こちらも困っていることには違いはない。
しかたがない。こうなったら右手法しかないわ。時間はかかるけれど、そのうち出口か入り口に辿り着くことでしょう。ツクツクさんに負けるかもしれないのはちょっと悔しいけれど、今はここを脱出する方が緊急課題だわ。
右手を垣根に沿わせつつ、てくてくと進む。
てくてく……。
てくてく、てくてく……。
またまた、蘭の植木鉢に戻ってきてしまった。
「なぜなのよー!」
右手法で元の場所に戻ってくるなんて、ありえないじゃない。いや、迷路の途中から始めたから、絶対にありえないことじゃないけど。それって、かなり複雑な迷路よね。こういう場合は、左手法にすれば……。
てくてく……。
てくてく、てくてく……。
てくてく、てくてく、てくてく……。
またまたまた、蘭の植木鉢だ……。
「どうしてよー!」
まさか、本当に罠がしかけられているのかしら。いいえ、この迷路自体が巨大な罠だったのよ。
「ツクツクさーん」
さすがに困って、あたしはツクツクさんを呼んでみた。
返事がない。
「ツクツクさん?」
やだ、どこにいっちゃったのよ。
あたしは急に心細くなってしまった。今、あたしは一人なのだということを実感する。
このまま、この迷路から出られなくなったらどうしよう。
「ツクツクさーん」
やっぱり返事がない。
ツクツクさんが隣にいないってことが、こんなに心細いとは。
とぼとぼと歩いていくと、ざわざわと葉擦《はず》れの音がした。誰かが、垣根を乗り越えようとでもしているのかしら。
「ツクツクさん?」
曲がり角からひょいとのぞいてみると……。
垣根が動いていた。
「何よ、これは!」
出られないはずだわ。時間で、迷路の形が変わっていたというわけね。見事な罠だわ。
よくよく見ると、垣根は一本一本が横に広く枝を広げていて、幹の部分が回転すると結構な幅の壁が回転して迷路の形が変わる仕掛けになっている。
ありえない。
無駄だ。あまりに無駄な大仕掛けだわ。
まったく、ツクツクさんみたいにとらえどころのない迷路よ、これは。
「いったい、誰よ、こんな変な迷路設計したのは」
やっぱり地図は役にたっていなかったんじゃない。
はたして、ツクツクさんは運良く外に出られたのだろうか。それとも、まだ迷っているんだろうか。
でも、これって、本当に遭難しちゃうんじゃ。さっき見かけたおこちゃまたちはどうなるんだろう。いや、人よりも、まず自分をなんとかしないと。
ギブアップ宣言したら、係の人とかに出してもらえるのかしら。
とにかく、なんとか脱出しなくっちゃ。少なくとも、ツクツクさんよりは先に外に出てなくっちゃ。負けてなんていられないわ。
ちょっとはしたないけれど、あたしは蘭の植えられている大きな植木鉢に足をかけると、身を乗り出してなんとか垣根の上に頭を出した。
「見えた」
一瞬、ガゼボの姿が見えた。なぜかツクツクさんの姿も。
いつの間にか脱出してたのね。
進む方向さえ分かれば、なんとかなる。いざとなったら、垣根を乗り越えてでも進んでやるんだから。あたしをなめるなあ。
あたしは、ガゼボの方にむかって、まっすぐ進んでいった。
当然、垣根の壁にぶつかる。しばらく待ったけれど、なかなか垣根は回転しなかった。今ひとつ、しかけがよく分からない。
ええい、やっぱり乗り越えた方が早いかも。
足場を探してみるけれど、適当な物がない。うーん、このままじゃ、やっぱり器物破損しか道はないのかしら。
「えーい、ひらけー、ごま!」
半ばやけになって、あたしはツクツクさんのように叫んだ。追いつめられると、人間何を言いだすのか自分でも分からなくなる。
ガサガサガサ……。
いくつかの垣根がクルリと回転した。どうも、いくつかの垣根は連動しているらしい。
こういうしかけだったのか。時間で動いていたわけではなかったのね。あまりに単純で予想外だったので、考えもしなかった。
きっと、ツクツクさんはパンフレットの説明を自分だけ読んでいたに違いない。
「ひらけー、ごま」
クルリ。
垣根があたしに道をあける。
「よろしい」
それからはあっけなく進んでいったのだけれど、最後の最後でつまずいてしまった。
出口がない。
目の前にあるのは外壁にあたる垣根だと思うのだけれど、その周囲に入り口のときのようなアーチはなかった。それに、いくら呪文を言っても、もう垣根は回転しなかった。
いったい、どうやって外に出ればいいのかしら。
「ツクツクさーん」
困り果てたあたしは、思わずツクツクさんの名前を呼んでしまった。
「はーい」
垣根のむこうから、ツクツクさんの声がかすかに聞こえた。
このむこうにツクツクさんがいる。
あたしは、ツクツクさんの方へ近づこうと、思わず垣根の壁を手で押した。
クルリ。
垣根が回転する。
どんでん返し、というか、回転ドア!?
最後のドアは、自分の手で押さなければならなかったのね。
「出られた?」
あたしは、急に開けた風景をぽかんと見つめた。
ちょっと離れた所に、三角屋根のついた品のいいガゼボがある。周囲には、こぢんまりとした薔薇の植え込みがいくつもあり、それぞれ別の色の花を咲きこぼれさせていた。
そこに、ツクツクさんがいた。
「お疲れ様、ミス・メアリー」
イスに座ったツクツクさんが、テーブルの上に用意してあったお茶を前にして、あたしに微笑《ほほえ》んだ。
[#挿絵(img/bunny_079.jpg)入る]
[#改丁]
夏は紺碧の水鏡
[#挿絵(img/bunny_081.jpg)入る]
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☆
「ボンジュール、ムッシュ・エ・マドモワゼル」
その人は、突然庭に姿を現すなり、実に優雅《ゆうが》な姿でお辞儀《じぎ》をした。
顔をあげると、胸元にもってきていたシルクハットを、くるくるっと回転させてみごとに頭に載《の》せなおす。流れるような動作で、腕にかけていたステッキを手に取ると、ひょいと持ち上げたその先をシルクハットのつばにあてて、視界をさえぎらないように位置を調整してみせた。
「どちら様で?」
予想もしなかった闖入者《ちんにゅうしゃ》に、あたしはティーカップを持ったまま一瞬固まった。
「これは先生、お久しぶりです」
ツクツクさんの方は、あわてず騒《さわ》がず挨拶《あいさつ》をする。
「先生?」
まだきょとんとしたまま、あたしはその人を見た。
シルクハットにステッキ、きちっとしたモーニングは実に小粋《こいき》で爽《さわ》やかだ。男装《だんそう》の麗人《れいじん》と呼ぶには、ちょっと年が若い。あたしから見ても、ちょっと年上のお姉さんというところだと思う。すらりとしたスリムな体型なので、ツクツクさんのような対象物がなければ結構長身に見える。
女の人? いえいえ。娘? いやいや。あえて呼ぶならば少女というのがふさわしい気がする。あたしよりも年上に思えるから、あたしが少女と呼ぶのはちょっとはばかられるかもしれないけれど。でも、いい意味で、爽やかな明るい少女だ。
でも、なんで先生?
「私のファッションアドバイザーの先生ですよ」
ファッションアドバイザー!?
ツクツクさんの格好を考えると、奇抜《きばつ》なセンスのお人では……。
「まあ、そんなこともやってはいるけどね。でも、見てもらえば分かるように、この人は他人の意見をまったく聞きやしない」
納得。
ツクツクさんは、不肖《ふしょう》の弟子というわけね。そういえば、不詳の師匠でもあったような。
「それにしても、今日はなんの用ですか、マスター・イルージャ」
ツクツクさんが、シルクハットのレディに訊《たず》ねた。
「お仕事さ」
ひょいと、ツクツクさんを指先で弾《はじ》くしぐさをしてレディが言った。なんだか、しぐさの一つ一つがピシッと決まる。無駄がないというか、すきがないというか、それでいて、小粋で嫌みがない。ガールではなくてレディと呼びたくなる女性だ。
「明日、隣町を通過する予定なんだ。もう隣の隣町にまでやってきている」
「そうですか」
あっさりとツクツクさんが納得する。いったい、何がやってくるっていうのかしら。
「さて。そういうわけで、あずけてある荷物をいくつか返してほしいわけなんだが……」
言いながら、レディがつかつかとあたしに近づいてきた。
「それにしても……」
あたしに顔を近づけたレディが、パチンと指を鳴らしてからスッと自分の右目のあたりをなでた。どこから取り出したのか、いつの間にか彼女の右目に片眼鏡《モノクル》がはめられている。
「ふーん、なるほど、なるほど」
後ろ手に組んだ両手にステッキを持って、レディがひょいと身体ごと小首をかしげた。
ポロリと落ちたシルクハットが、生き物のように腕の上を転がってステッキの先に綺麗《きれい》に引っかかって止まった。
なんだか、品定めされるように全身を見られた。いったい何……。
「いい素材だわ。貸してくれる? トゥックトゥイック」
クルリとふり返ったレディが、ツクツクさんをふり返って訊ねた。再びスッと右目のあたりをなでて、またどこかへモノクルをしまってしまう。
「ミス・メアリーがよろしいのでしたら」
あっさりと、ツクツクさんが言った。
「なら、よろしいわね」
ステッキの先から振り落としたシルクハットをポヨンと足で蹴《け》って宙にあげると、レディは手を使わずにそれを被《かぶ》りなおした。
いつもだったら思わず拍手しているところなのだけれど、今回はその暇《ひま》を与えてはもらえなかった。
いや、それ以前に、あたしはまだ何も言ってないし、承諾もしていない。
「さあ、いこう、新しい自分の世界へ」
両手を広げてそう言ったレディが、あたしの隣をなめるようにして通り過ぎる。直後に、あたしの腕がぐいと引っぱられた。いつの間にか、あたしの腕にステッキが引っかかっている。
「ちょ、ちょっと」
あわてて立ち止まると、なんとか抵抗を試みた。わけが分からないままに流されるのは、ツクツクさん一人だけで充分だわ。
「おっと」
ちょっと上体をわざとのけぞらせると、レディがクルリとふり返った。
「どうかしたかな、マドモワゼル・メアリー」
余裕《よゆう》綽々《しゃくしゃく》の態度で、レディがあたしに訊ねた。
「どうしたも何も、あたし、まだ何も分かっていないんですけど」
「それは当然だ、マドモワゼル」
本当に当然のことのようにレディが答えた。
ちょっと芝居《しばい》の台詞《せりふ》がかって聞こえるのは、レディの発声が実に綺麗でしっかりしすぎているからだろう。ちょっと反論する方がいけないんじゃないかと錯覚《さっかく》してしまう。
「だって、これから分かるのだから」
そう言って、レディはあたしにウインクをしてみせた。
「トゥックトゥイック、私の衣装はちゃんとしまってあるのかな」
「はい、それはもう」
「よろしい。では、案内してくれないか」
パチンと指を鳴らして、レディがツクツクさんに命じた。
「はいはい。どうぞ、こちらです」
レディに急《せ》かされて、ツクツクさんがあわててあたしたちの前に立って家の中に入っていった。
「ええと、物は地下室に……」
なんと、ツクツクさんの家の地下室に入れるのね。
「あるのですが……」
ツクツクさんが、ちょっと困ったようにあたしを見た。
この場におよんで何を困る!
「ではいこう」
立ち止まらずに、レディがツクツクさんを急かした。実に堂々とした態度だわ。
パチパチパチ。
心の中で拍手する。
「しかたありませんねえ」
ツクツクさんが小走りに前に出て、あたしたちを廊下《ろうか》へと案内した。
でも、以前見かけた階段がない。
二階へとあがる階段はあるのだけれど、地下へいく階段が綺麗さっぱりなくなっている。確か、二階へいく階段の真下にあったと思ったのだけれど。あたしは幻を見ていたのかしら。それとも、今見ている物の方が幻なのかしら。
あたしは、思わずレディの方を見た。
バタン。
大きな音がして、あたしはふり返った。
階段があるじゃない。
「ではいきましょう。右側の一番最初の部屋です」
何やら壁から下がっている謎《なぞ》の紐《ひも》を引っぱったツクツクさんが言った。
なんでそういう無駄なしかけを作るのかしら。ツクツクさんらしいといえば、そうなんだけど。
それでもなんでも、ツクツクさんの秘密の地下室にいよいよ入れるのだから、すべてよしとするわ。以前メイドさんを追いかけてたときは、ただ走り回るだけで何も調べられなかったんだから。きっと、あそこには、怪《あや》しい物とか、怪しい物とか、怪しい物とか、怪しい物が、いろいろあるに違いないわ。絶対に見てやる。だって、見てみたいじゃない。
「ミス・メアリー。いっちゃいますよ」
「あ、待って、今いく」
決意を新たにしていたら、ちょっと遅れてしまった。
「ここですよ」
部屋のドアを大きく開いたツクツクさんが、階段の下であたしを呼んだ。
うーん、なんだか完全にブロックされてて、目的の部屋以外何も見えないじゃない。
「ちょっと、ミス・メアリー。さあ、早く中に入って」
ツクツクさんの後ろをのぞき込もうとしたあたしは、そのまま部屋の中に押し込まれてしまった。バタンと、背後でドアが閉まる。
ケチ。
「何をやっているんだか」
ちょっとあきれたようにレディが言う。
「まあ、いろいろとかき回されたくないというのも分かるけれどもね」
そう言ったレディの周りには、たくさんの、たっくさんの服がハンガーにならべられていた。
「衣装部屋なの?」
「ええ。とりあえず、大半はマスター・イルージャの物ですが」
ちょっと驚《おどろ》いて訊ねるあたしに、ツクツクさんがしかたなさそうに答えた。
それにしても、壮観《そうかん》だった。ツクツクさんのリビングの数倍はあろうというスペースに、ところせましと衣装がしまってある。いったい、何着の衣装がここにあるんだろう。
ぱっと見たところ、男物やら女物やら、はては着ぐるみのような物まで、ありとあらゆる衣装が揃《そろ》っているように見えた。
「さて、これとこれと……」
レディが、衣装の山から選び取った物を、移動式のハンガーラックに次々にかけていく。
単純に、あずけていた物を回収にきたのかしら。それにしては、さっき仕事とかなんとか言ってたみたいだけれど。
「さて、マドモワゼル、君には、これなどどうかな」
いくつかのドレスを腕に引っかけたレディが、あたしを手招きした。
何かしら。
衣装と一緒に、あたしまでレディに運ばれていく。戸惑《とまど》うあたしを、レディが部屋の奥へと引っぱっていった。
そこには、カーテンで仕切られた、鏡のついた小部屋があった。試着室のようなものなのかしら。
「トゥックトゥイックはそこで待っているように。のぞいたら、お仕置きでカバの着ぐるみの刑だ」
「それは嫌です」
ツクツクさんが、着替え室からなるべく遠ざかって答えた。
「よろしい」
サーッと音をたててレディがカーテンを引く。
小宇宙が生まれた。
試着室は結構広くて、人二人が自由に動ける。そこからも衣装が選べるようにと、コンベア式のハンガーラックも横から入り込んでいた。
持っていた服を備えつけのハンガーラックにかけると、レディがその中から一つを選び取った。
「あのう、まさかそれを……」
「もちろん、着るのさ」
その瞬間、有無を言わさず脱がされた。
女同士だからまだいいとはいえ、容赦《ようしゃ》ないというか、実に素早いというか、ほとんど一瞬で下着姿にされた。悲鳴をあげる暇《ひま》さえない。
「さあ、夏を着よう」
そのまま抵抗する間もなく、あっという間にあたしは着替えさせられた。いや、その早いこと早いこと。レディの本業は、仕立屋さんか何かなのかしら。
青のツートンカラーのワンピースは、シンプルだけど品のいい感じの物だった。ふくらんだパフ・スリーブと、ポイントになるコバルトのリボンがいい感じだ。初夏らしく、涼しい感じがする。
「仕上げはこれかな」
パチンと指を鳴らすと、レディが人差し指をクルクル回した。その指先に白いベレー帽が現れる。レディが、それをポンとあたしの頭に被せた。
「さて、どうかな」
サーッと音をたてながら、レディがカーテンを開いた。
「夏は、元気少女の季節」
「ああ、さすがマスターです。悪くはないですね」
ツクツクさんがあたしの姿を見て、納得したようにうなずく。
うん、これはこれでちょっといい気分だ。
ふり返ると、いつの間にかレディが黒から青い衣装になっている。マイクロのタンクトップに、白のホットパンツ、その上から青いシルクのフロントオープンのロングコート。頭には、左右を織《お》り上げて形をつけた白いテンガロンハット。さっきとは対照的な、活動的な女の子といった格好だ。
それにしても、いったい、いつの間に着替えたというのかしら。自分の方でいっぱいいっぱいで、まったく気づかなかった。
「じゃあ、次にいこう」
青いコートをマントのように颯爽《さっそう》とひるがえして、レディが言った。
「まさか、ファッションショー?」
「当然。これだけ衣装があるんだ。試さない方が罰《ばち》があたるさ」
レディが、あっさりと言う。
サーッとカーテンが閉じられて、あたしはまた衣装替えとなった。
パチンとレディが指を鳴らすと、さっき着たワンピースがすとんと脱げた。
こ、この技《わざ》は何……。
男性諸氏には伝授《でんじゅ》したくない技だわ。まあ、ツクツクさんはとても習得しているようには思えないけれど。
唖然《あぜん》としていると、すでにレディも下着姿になっている。
サーッと、レディがハンガーのレールを回した。まるでルーレットのようだわ。よく、おめあての衣装がちょうど現れるものだと思う。それとも、本当に適当なランダムで選んでいるのかしら。
「ときには、少女という妖《あや》しさをまとうのもいいかもね」
またもや早業《はやわざ》で新しい衣装を着せ替えられていく。これはもう、なすがまましかないのね。
「はい、むこうをむいて」
クルリと回転させられると、後ろでレディがヒユンとサッシュを縛《しば》りあげた。
はあ。
ちょっと溜《た》め息をつく。
なんでこんなことになったのかしら。これじゃ、オモチャの着せ替え人形だわ。でも、まあ、綺麗な服を着られるのは、そんなに悪いことじゃないかも。
「ほーう」
再び出てきたあたしたちを見て、ツクツクさんがちょっと感嘆《かんたん》する。
あたしが着ていたのは、光沢のある鮮《あざ》やかなコバルトブルーのワンピース。腰のところをエメラルドのサッシュでキュッと絞《しば》り、後ろには大きなリボン結び。スカートはペティコートで綺麗に広がっている。ちょっとシルエットがかわいらしすぎるかもしれない。それでも、宝石的な色合いのシルクは、女性であることを強く主張していると思う。
さっきの控えめな品のよさとはうって変わって、実に目に鮮やかで派手だ。
普段なら絶対着ないような衣装を着るというのも、女の子としては少し面白い。
「もう少し、ましな感想はないのかしら」
腰に手をあてて、レディがツクツクさんに言った。
いつの間にか、レディも着替えている。またもや、なんて早業。
あたしとは対照的な、イタリアンレッドのドレスだ。スカートの部分がレースのカスケードになっていて、大胆に左足がのぞいている。袖がない代わりに、黒いレースの長手袋が腕を引き締めていた。
さっきまでとは違った感じて、ちょっと妖艶《ようえん》な感じだ。
「いえ、ちょっと圧倒されてしまいまして」
それは、ツクツクさんも正直なところなのだろう。でも、もうちょっとましな感想は言えないのかしら。せっかくあたしがいろいろとオシャレに変身しているというのに。
「せっかくのかわいい素材がいるのよ。ちゃんと見てくれなくちゃ困るわ」
蠱惑《こわく》の笑みを浮かべて、レディがちょっとツクツクさんをからかうように言う。
カーテンが引かれる。
また着替えなの。さすがに、ちょっとあわただしい。
目が回る間に、なんだか次の衣装を着せられていく。せめてどうやって着たかぐらい覚えていたいのに、レディはその暇さえ与えてくれない。
「さて、私は風をまとおう」
くるくると回転させられる合間に、ちらちらとレディの姿が見える。それが、見るたびに衣装のパーツがふえて、あたしが着替え終わるころには、レディもすっかり着替え終わっているのだった。もう、神業《かみわざ》としか言いようがない。
カーテンが開いた。
今度の服はツーピースで、和服の一種らしい。紫のスカートは袴《はかま》、上着は矢絣《やがすり》模様の小袖《こそで》と言うそうだ。自慢の髪の毛もキュッと縛られてポニーテールにさせられている。長く下にのびた袖が、ひらひらとしてちょっと面白い。
レディといえば、スカートの裾《すそ》から草花がのびあがって咲いているワンピースの上に、極薄のシャーコートを羽織《はお》っていた。立ち止まっていると、なんとも淡い清楚《せいそ》なイメージで、動けばシースルーのコートからワンピースがのぞいて花々がゆれる。なんだか、お嬢様《じょうさま》という感じだ。
不思議なことに、レディの動きとともに、スカートの花模様が成長していくように見えた。生き生きとしたレディのたちふるまいが、まるで衣装にまで影響を与えているかのようだ。
「かわいいでしょう?」
小首をかしげながら、レディがあたしに訊ねた。
かわいい。
衣装もだけれど、レディそのものが。
それにしても、どうしてこんなにも印象が変わるのだろう。
「今度はどうでしょうか」
「だから、私に感想を求めないでください」
ツクツクさんが泣き言を言いだした。まあ、たいてい着たきり雀《すずめ》のツクツクさんには、この展開はちょっと酷《こく》なのかもしれない。
カーテンが引かれる。
「またなの」
あたしの悲鳴はスルーされた。
今度は、裾が長いノースリーブのブラウスと、その上にふんわりとボリュームをもった若草色の極薄|生地《きじ》のブルゾン。ちょうど、ブラウスの裾の大きなレース飾りが、オーバースカートのように鮮やかな紺色の巻きスカートの上に重なる。キュッと腰を絞った緑色の紐は、腰の左側で結んであり、ちょっとしたアクセントとなっていた。膝丈《ひざたけ》のスカートの裾はちょっと斜めになっていて、丈がちょっと短い方からのぞいたニーソックスは、外側についたかわいいリボンがちょうど見えるようになっている。
レディは、これまたがらりとコケティッシュに変身していた。ピンクのタンクトップに真っ赤なスカート。おへそはむき出しだ。カチューシャで髪はオールバックにして、右の太腿《ふともも》にはレースのついたガーターがはめてあった。オシャレを始めたてのこじゃれた小娘という感じになっている。その立ち姿が、実に自信にあふれていて素敵だ。
「もうこれでかんべん」
コスプレ大会から普通の服装に戻ったのをチャンスとばかりに、あたしはレディのそばを逃げ出してツクツクさんの後ろに隠《かく》れた。
「うーん、これからが楽しいのに」
レディは、実に不満そうだ。
「じゃ、トゥックトゥイック、こちらにきなさいな」
「いや、それは……」
手招きされて、ツクツクさんがうろたえる。
「早く」
「いってらっしゃい、ツクツクさん」
あたしはツクツクさんの背中を押すと、生《い》け贄《にえ》にさし出した。
「ちょっと、ミス・メアリー。恨《うら》みますよー」
レディに捕《つか》まったツクツクさんの姿が、カーテンの中へと消える。
「マスター、ちょっと、何を……。うわあ、やめてください。それだけはかんべん……」
カーテンの中からツクツクさんの悲鳴が聞こえる。
あの中でツクツクさんが脱がされていると思うと、ちょっと複雑な気分になるけれど。
カーテンが開いた。
「ぶっ」
思わず、ふきだしてしまう。
半ズボンにTシャツ。野球帽を逆むきに被り、御丁寧《こていねい》に鼻の頭に絆創膏《ばんそうこう》を貼っている。見るからに、悪ガキという感じだけど、ちょっとしょぼくれているので迫力がない。
逆に、レディの方は、半袖《はんそで》Tシャツにジーンズ地のサロペットという、ある意味お揃いの格好でツクツクさんが逃げられないように腕をつかんでいる。どちらかというと、レディの方がガキ大将だ。
「そんなに、しょげかえることはないだろう。少しは活発に外に出なくちゃなあ」
指で鼻をこする仕草《しぐさ》をしながら、レディがツクツクさんに言った。
ツクツクさんと一緒に着替えていたかと思うとあれだけれど、まあ、まずレディの着替えている姿を見ている暇なんてないでしょうから、平気だということにしておこう。ツクツクさんに、それだけの動体視力があるとは思えないもの。
「さてさて」
楽しそうに、レディがカーテンを引く。
うーん、見ている分には面白いかもしれない。
「だから、何を……。やめて……」
カーテンが開いた。
「あっ」
ちょっと唖然とする。
ずるい。
現れたツクツクさんは、真っ白なタキシード姿だった。悪のり気味のレディは、ピンクのウェディングドレスを着ている。
「人をオモチャにしないでください。だから嫌だったんです。ミス・メアリー、助けてくださいよ」
レディにがっしりと腕をかかえ込まれたツクツクさんが、手をのばしてあたしに助けを求める。
助けてあげたいのは山々なのだけれど……。
ツクツクさんにむけて思わずのばした手もむなしく、カーテンが閉められた。しかたないので、そのままのばした手を振ってさよならをする。
その後しばらく、ツクツクさんはレディのオモチャとなって、いろいろな衣装を着せ替えさせられていった。
ツクツクさんはそれなりとしても、レディの変身は鮮やかでバリエーションに数限りがない。そしてその早変わりのすばらしさだ。まるで、手品師といったようでもあり、ツクツクさんの師匠の魔術師といってもいいくらい。それに、舞台俳優が役を演じるように、様々な衣装でまったく印象が変わってしまう。
「それは、服は一つの絵画であり、服は一つの言葉であるからよ」
あたしの疑問に、かわいいハンカチーフスカートを翻《ひるがえ》しながらレディが答えた。インバネス姿のツクツクさんは、名探偵というよりは怪盗っぽい。
「こうして服を着替えるたびに、人は様々な自分に変わることができるのさ。人は一つのキャンバスであり、人は一つのメッセージでもあるのだから」
ボーイッシュなセーラー服に身を固めたレディが、敬礼する。横縞のシャツを着たツクツクさんは、頭にタオルを被って海賊といったところだ。
うーん、確かに、レディは衣装が替わるたびに、物腰や口調まで変わって、印象ががらりと変わっている。まるで何人ものレディが入れ替わっているみたいだ。でも、多重人格と言うことではなくて、それらすべてがレディであるとちゃんと言える。
でも、いろいろな格好をさせられたけれども、あたしはあたしで変わることはできないわ。
「そのとおりですわ。あなたはあなた。私は私。君は君。僕は僕。一人の人間であることは、変わりのない事実です。でも、衣装を変えたときに感じる自分も、また自分自身でもあります。そう、人は誰でも、様々な姿の自分を内に持っているものなのですわ。時と場面に合わせて、衣装を着替えるように、様々な自分を引き出すことができる。そう、私の内にもあなたの内にも、すべてがつまっているのですから」
エブロンドレスにカチューシャをつけたレディが、メイドさんよろしく極上の笑みを浮かべた。
「もうかんべんしてください」
さすがに我慢の限界になったらしく、ツクツクさんが逃げ出してきた。
ツクツクさんもちゃんと逃げ出すタイミングは計っていたようで、今はカジュアルな服装をしている。アイビーシャツにスラックス、薄手のジャケットをケープのように羽織った格好だ。ちょっと見は、大学院生でもとおりそうだわね。
「そうね、そろそろ時間ですね」
メイド姿のレディは、サーッとカーテンを引くと、またすぐにそれを開いた。ほとんど一瞬でまた元の男装に着替えている。いいや、よく見るとモーニングではなくてイブニングになっていた。
「ああ、楽しかった。これで、気分は準備|万端《ばんたん》だ。さて、必要な服は持っていくよ」
レディがパチンと指を鳴らすと、突然けたたましい足音が近づいてきた。
屈強なお兄さんたちの群れが、有無をも言わせず地下室になだれ込んでくる。
あたしとツクツクさんは、あっけにとられたまま呆然《ぼうぜん》と立ちすくむしかなかった。
レディがステッキでいくつかの衣装をさすと、お兄さんたちは素早くそれを回収して運び出していった。
「これで最後だな」
満足そうにお兄さんたちの仕事を見守っていたレディが、一番最後にあたしたちをステッキで指し示した。
「なんでー」
問いただす暇もなく、悲鳴とともにあたしとツクツクさんはお兄さんたちにかつがれて元の庭へと運ばれてしまった。
地面に下ろされても、あたしたちは荒い息のまましばらく動けなかった。
「今日一日は長いからね。じゃあ、また会おう」
あたしとツクツクさんのそばをスルリとすり抜けて、レディが言った。お兄さんたちが用意してあったクラシックカーに乗り込むと、風のように去っていってしまう。別れの挨拶《あいさつ》を返す暇もありはしない。
「まったく、ツクツクさん、あなたっていう人は……」
「ちょっと待ってください。すべて私のせいなんですか」
理不尽ですと、ツクツクさんが反論した。
「決まっているじゃない」
それは決定事項だ。ツクツクさんの周りで起きる変な出来事は、すべてツクツクさんのせいだと決まっている。
「私だって、今回は被害者です。とにかく、戻って元の服を探さないと」
それもそうだわ。
リビングに戻ると、テーブルの上には、綺麗に折りたたまれたあたしたちの服がちゃんとおいてあった。
「さすがはマスター。抜かりはないですね。ん?」
着替えようとして、ツクツクさんが何かに気づいたらしくポケットを探った。ポケットの中から、何かの紙切れが出てくる。ツクツクさんが、目に近づけてそれを読んだ。
「招待状でしょうか」
「どれどれ、見せて」
あたしは、ツクツクさんの手元をのぞき込んだ。
ちょっとシワのよったカードには、カーニバルの案内が書いてあった。開催地《かいさいち》は隣町のようだ。ちょうど、夕方からパレードがあると書いてある。
これは、いかずばなるまい。
「いきましょうよ」
「いきますか。どうも、マスターの御招待のようですから、逃げたら後が怖いですし。でも、まずは着替えないと……」
そう言うツクツクさんの腕を引っぱって、あたしは引き止めた。
「今日は、このままでもいいんじゃない?」
お祭りを見にいくのなら、ちょっとオシャレしたままでもいいんじゃないのかしら。
「しかたないですね」
やれやれと、ツクツクさんが小さく溜《た》め息をついた。どうも、全部がレディに仕組まれたと思っているらしい。
でも、それで何がいけないのだろう。ちょっと素敵な企《たくら》みならば、充分に乗る価値はあるわ。
「まるで、あなたの中にマスターが宿ったみたいですね」
「まさかあ。こういうのは、たんなる共通項と言うのよ。さあ、早くいきましょ」
あたしはツクツクさんを引っぱった。
隣町に着いたのは、もう夕方が近づいたころだった。
大通りは、それなりに飾りつけられている。
まだ日の光は充分にあるけれど、電飾やスポットのライティングが完全に日の光に消されることもない。一日のうちで、もっとも曖昧《あいまい》な、そして不思議な時間帯だった。
「結構人が出ていますね」
なんとか人混みの最前列に陣取ると、あたしたちはパレードを待った。
なんのお祭りかはよく分からないけれど、楽しければそれでいい。
「ああ、そうか」
しばらく考え込んでいたツクツクさんが、ポンと手を叩いた。何か思い出したらしい。
「今日は、夏至《げし》ですよ。ミッドサマーナイトカーニバルじゃありませんか」
ああ、そうなんだ。夏至祭に合わせて、この町でもお祭りをしているというわけね。
しばらくして、陽気な音楽が近づいてきた。
何かが道をやってくる。
それは、華やかに着飾った人々の群れだった。民族衣装ふうの人々もいれば、妖精ふうに着飾った人たちもいる。モチーフは、『真夏の夜の夢』かしら。
「ほら、ミス・メアリー、山車《ページェント》ですよ」
ツクツクさんが指さす方から、楽団とともに派手にデコレーションされた山車《だし》がやってきた。四角い舞台ふうの山車の中央では、篝火《かがりび》を模した物がゆらゆらとゆれている。その前で、人影が踊っていた。レディだ。
豪華だけれど風にそよぐほど薄くふわりとしたドレスを身にまとったレディは、気品にあふれて山車の上を軽やかに動いている。妖精の女王ティターニアという役どころなのかしら。
ひとしきり観客に愛想を振りまいたレディは、篝火の中にさっと姿を消した。かと思ったら、すぐにまた出てきた。今度はパックらしき道化《どうけ》の衣装だ。篝火の中が、着替え室になっているらしい。それにしても、やっぱり見事としか言いようのない早変わりの技だわ。
その後も、レディは次々に衣装を変えていった。まるで、山車の上には何人もの人がいて、代わる代わるに出てきて踊りを披露《ひろう》しているかのようだった。レディを知らない人は、本当にそう思っているかもしれない。
とりたててストーリーがあるようではないけれど、いろいろな人々が夜祭りを楽しんでいるということは確実に伝わってくる。人も妖精も動物も、世界のあちらこちらの人々も、すべてがこのお祭りに参加して楽しんでいる。
山車の上の篝火の周りは、本当にフェアリーサークルになっているのかもしれない。
「まさに、真夏の夜の夢ですね」
ツクツクさんがうなずいた。
「うん」
あたしは、素直に同意した。ほんとに、レディの早変わりは夢のようだ。
ゆっくりと進む山車が、やっとあたしたちの前にやってきた。
タキシードにシルクハットにモノクル、そして、大きなマントといういでたちのレディが、山車の上からあたしたちの方を見た。気がついたみたいだ。
それまで格好良く風にマントを靡《なび》かせていたレディが、あたしたちの方をチラリと見て微笑《ほほえ》む。
マントの端を持って全身をつつむように隠すと、レディがちょっと身をかがめた。
一呼吸後に、勢いよくマントを翻して投げる。そこに現れたのは、みごとなバニーさんの姿だ。ストリートに集まった男性陣から、野太い歓声があがる。
山車の四隅につけられていたスポットライトが、薄闇《うすやみ》の中にレディの姿をくっきりと浮かびあがらせた。真っ赤なバニースーツに黒の網タイツ、うさみみと尻尾《しっぽ》まで完璧に装備されている。さすが、レディだ。
音楽が、明るいジャズに変わり、レディが華麗《かれい》なステップを踏み始めた。
あたしたちにむかって投げキッスをすると、レディが大きく手を振った。そのキスを回避するかのようにあたしの後ろに逃げ込んだツクツクさんに、レディがころころと笑う。
パレードは止まらない。レディは、再び衣装を変え続けながら、あたしたちの前を通り過ぎていった。
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☆
「ホタル狩りにいきましょう」
ツクツクさんのお誘いは、相変わらず唐突《とうとつ》で、ちょっぴり意味不明だった。
ホタルというと、お尻が光るという虫だったかしら。
見たことはないので、ちょっと知識があやふやだわ。
珍しい虫だとは思うけれど、この年になって今さら女の子が虫《むし》捕《と》りをするというのもねえ。
でも、そこはツクツクさんがわざわざ誘ってくるのだから、何かしら面白いことがあるんだと思う。そう予感する。
「そうねえ……」
あたしは、ちょっと考えるそぶりをしてみた。あまり露骨《ろこつ》にいきたいオーラを出すのもみっともないかなっと思ったからだ。
「夜ですから、さすがにいけませんか」
残念そうにツクツクさんが言った。
あきらめが早すぎるわよ。たまには、じらす楽しみぐらいくれたっていいのに。
「もちろんいくわよ。じゃあ、また後でね」
二つ返事で了解すると、あたしはすっとんで家《うち》に戻った。なんだか、簡単に掌《てのひら》を返してしまったようで、ちょっとばつが悪かった。やっぱり、変に思わせぶりなことはするもんじゃない。素直が一番だわ。
さて、準備をしなくっちゃ。
せっかくのホタル狩りなのだから、手抜かりがあってはいけない。しっかりと準備して、ツクツクさんに変なツッコミをさせないようにしなくちゃ。幸い、あたしはホタル程度の虫にひるむような、やわな女の子ではない。
「それで、その格好なんですか」
約束した夜になってやってきたあたしの格好を見て、なぜかツクツクさんが笑いをこらえながら言った。
あたしの格好はと言えば、ちょっとしたサファリルックに似た動きやすい服だった。虫刺されや動きやすさの対策もバッチリしてある。装備として、右手には虫を捕《つか》まえるための目の細かい捕虫網《ほちゅうあみ》を持ち、左手にはプラスチック製の虫を入れるクリアボックスもぶら下げている。
完璧だった。
だったはずなのに……。
なぜツクツクさんに笑われる。
「だって、ホタルっていう虫を捕獲しにいくんでしょ?」
「いや、トンボやカブトムシを捕りにいくのとはちょっと違うんですが」
「どうして、だって狩りなんでしょ」
さすがに、ライフルか何かで撃ち落とすほど、凶悪なハンティングの相手ではないでしょうに。捕虫網で充分だと思ったのだけれど、何がいけないって言うのよ。
「いえ、ホタル狩りと言っても、本当にホタルを捕まえるというわけではありませんので」
「じゃ、なんで、ホタル狩りって言うのよ」
矛盾《むじゅん》してるわ。
「なんででしょうね。まあ、外国の古い言葉みたいですから」
また、そのパターンなのね。毎度毎度、どこからそんな怪《あや》しい知識を仕入れてくるのやら。できたら、もっと事前に説明してほしいものだわ。
「すみません」
ツクツクさんが、素早く謝った。
「正確に言うと、ホタル鑑賞会《かんしょうかい》のようなものですね。なかなか素敵な催《もよお》し物らしいですよ」
「催し物って言うと、主催者みたいな人がいるの?」
「いえ、そういうわけでは……」
なんだか怪しいわね。きっと黒幕がいるに違いないわ。
「とりあえず、これに着替えましょう。その格好では、ホタル狩りに似合いませんから」
ツクツクさんが、セット物らしい箱をあたしにさし出した。フタの開けられた箱の一番上には、きちんとたたまれた服らしき物がある。
半分無理矢理にそれを受け取らされたあたしは、ちょっとその服をつまんで持ち上げてみた。なんだか服と言うよりはシーツみたいな感じだ。
「浴衣《ゆかた》という着物ですよ。ここに着方のマニュアルがありますので。では、私もちょっと着替えてきます」
ツクツクさんは、さっさと奥の部屋に姿を消してしまった。
反論は無視されてリビングに取り残されたはいいけれど、着るのにマニュアルが必要なほど複雑な服を、あたし一人でどうしろと……。
ああ、ここにレディがいてくれればすごく助かるのに。
いっそ、このまま逃げてしまおうかしら。
でも、それでは、ホタル狩りとやらの正体が判明しないわ。
「とにかく、着替えないと連れていってもらえないみたいだからしかたないわね」
あたしは、ツクツクさんがテーブルの上においていったらしいマニュアルを手に取ってみた。
表紙に『祭』と大きく筆文字で書いているグラビアマガジンだ。
似たような雑誌はしょっちゅうツクツクさんのリビングに転がっているから、あたしだって断片的にはいろいろとツクツクさんの趣味を知ってはいるつもりだ。
不本意だけど。
でも、写真でなくいきなり現物を渡されても困ってしまう。
とにかく、読んでみる。
……。
…………。
………………。
「無理!」
たかが前あきのワンピース一枚なのに、なんて手順が多いんだろう。しかも、大小三本もベルトを締めないといけないなんて、すっごい矛盾しているような気がする。一本でいいじゃない。
以前、レディが着せてくれた物の中に似たような衣装があったけれど、あれはどうやって着たんだっけ。情けないことに、まったく思い出せない。ああ、あの後、あたしもレディに弟子入りしておけばよかったのかしら。
これは、ツクツクさんのあたしに対する挑戦ね。きっとそうだわ。
とりあえず、今の格好の上に重ね着したらとんでもなくごわごわになりそうだし、それ以前に絶対暑苦しい。さっきのサファリルックもどきだって、実際には少し暑かったし。
まずは今着ている服を脱ぐと、下着姿になったあたしは浴衣とやらを広げてみた。
持ち上げてみると、見た目よりもすごく軽くて優しい手触《てざわ》りだ。
袖《そで》を通して、ジャケットのように羽織《はお》ってみる。自慢の髪の毛を引き出すのがちょっとたいへんだったけれど、なんとか背中に落ち着いた。ちょっと、後でブラシをかけたくはあるけれどもね。
姿映しの前に立ってみると、なんだか白いガウンかマントを羽織っているみたいだった。あらためて見てみると、この浴衣は赤い金魚の柄《がら》だったのね。なんだかちょっと子供っぽい気もするけれど、意外と金髪に似合ってるかもしれない。
にしても、着物が長い。これじゃ、ずるずると裾《すそ》を引きずって歩くようだわ。
マニュアルを読んでみると、裾を持ち上げて、まず紐《ひも》で縛《しば》れとなっている。とにかく、手順に従おう。
「支度《したく》はできましたか?」
突然ツクツクさんの声がした。もう、準備ができたらしい。
「ダメ!」
即座に叫ぶ。
こんな格好を見られたら、恥ずかしいなんてもんじゃない。
「入ってきたら、殴《なぐ》るからね」
「はい。待ってますから、着替え終わったら呼んでくださいね」
あわてず騒がず、ツクツクさんがリビングの外から言った。きっと、階段の端にでも座って待っていてくれると思う。
なんとか、紐で裾の調整に成功する。でも、今度は胸のあたりがだぶだぶだわ。
姿見を見ながら、苦労して形を整えていくのだけれど。後ろとかはなかなかうまくいかない。
四苦八苦していると、鏡の中にチラリとメイドさんの姿が見えた。
さすがに、今は猫の手も借りたいわ。
「いるんなら、手伝ってよ」
あたしが叫ぶと、メイドさんは困ったように顔の前で手を振ると、さっと姿を消してしまった。
「手伝っていいんですか?」
「ツクツクさんのことじゃない!」
勘違《かんちが》いしたツクツクさんが、部屋に入ってこようとする。
「トゥックトゥイックですってば……」
ツクツクさんの声だけが、しょんぼりと響いてきた。
とにかく急がないと、危険が危ないわ。
なんとか胸元を整えると、あたしは二本目の紐を縛った。なるほど、これで固定できるわけね。後は、この帯とかいうぶっといベルトを巻くだけだわ。ここまでくれば、後は簡単。もうマニュアルなんか見なくても平気ね。
さあ、後は巻くだけ。
巻くだけ……。
どうなってるのよ、これ。一人じゃできないじゃないの。
「ミス・メアリー、もういいですかあー」
待ちくたびれたツクツクさんが、かくれんぼよろしく声をかけてきた。
「うー、とりあえずいいわよ」
観念して、あたしはツクツクさんを呼んだ。
「どれどれ、ちゃんと着て……うっ」
リビングに入ってきたツクツクさんが、思わず言葉を呑んだ。
あたしの美しさにだったらすばらしいのだけれど、実際は固結びにされてだらんとたれ下がった帯を見てしまったからだ。このままでは、引きずって歩くしかない。
それにしても、着替えたツクツクさんは、紺色の浴衣を小粋《こいき》に着こなしている。ちょっと自慢げに見えるのは気のせいかしら。
「その惨状《さんじょう》は……」
「惨状だと思うなら、手伝ってよ。お願い」
ついにあきらめて、あたしはツクツクさんに頼み込んだ。さすがに二本の紐で縛ってあるから今さら着崩《きくず》れるということはないだろうし、帯を縛るのにあちこちべたべたさわられるということもないだろう。
「帯は、何回か身体を回してから縛るんですよ」
ちょっと苦労しながら結び目を解《ほど》いたツクツクさんが、シワをのばした帯をなぜか二つに折ると、それをあたしの肩に引っかけた。
「ここを持っていてくださいね」
ツクツクさんが、元の幅に戻した帯のところを私につまませた。
「なんで、こんな変なことをするの」
「ミス・メアリー、ちゃんと本を読みました?」
疑問がいっぱいという顔のあたしを、ツクツクさんが疑わしそうに見つめた。
「見たわよ、だから浴衣はちゃんと着れてるでしょ」
「帯のところはすっとばしたというわけですね」
勝手に納得されても……。まあ、そのとおりなわけだけれど。
つまんだところをお腹のあたりにあてさせると、両肘《りょうひじ》を上にあげたあたしの周りをツクツクさんがぐるりと回りだした。いや、それって本当に正しい着方なの?
「ちょっと、じっとしていてくださいね」
二度目にあたしの後ろに回ったツクツクさんが、また帯を二つに折って戻ってくる。そこで、やっとお腹のあたりでぎゅっと結んだ。
「うっ」
結構きつく縛られて苦しい。
でも、これじゃ、両端がだらんと下がって、さっきのあたしの結び方と大差ないわ。
そう思っていると、ツクツクさんが一方の端を折りたたみ始めた。もうわけが分からなくなっていると、折りたたんだ真ん中をつまんで、もう一方の端でそれをクルリと巻いた。さらにその端を帯の下に通して下から出して、さらに、ちょうどちょっぴり残った端っこを帯の中に入れて隠す。
「なんだか変な格好」
自分のお腹のところにチョウチョのようにできた結び目を見て、あたしは素直な感想をもらした。これって、動きにくいと思う。
「いいえ、最後はこうするんですよ」
そう言うなり、ツクツクさんが帯をつかんでぐるりと回した。
「うぐぅ」
ふいをついてお腹をねじられ、あたしは思わず乙女らしからぬ声をあげてしまった。おにょれ、ツクツクさんめ。これは、いったいなんの攻撃?
「ふう、これで完成です」
額《ひたい》の汗をぬぐうふりだけして、ツクツクさんがほっと一息ついた。
帯だけぐるりと回して、結び目は背中の方にいったみたいだ。
姿見を見てみると、前の方はすっきりしていて、後ろはちょっとかわいい。子供っぽいと思った服の柄も、着こなしてみると、これはこれでいいのではないかと思えてくるから不思議だわ。
「まんざらでもなさそうですね」
「うん、まんざらでもないわよ」
袖口《そでぐち》を手で持つと、あたしは両腕を広げてちょっと動かしてみた。長い袖がひらひらして、ちょっと楽しい。
「後は、団扇《うちわ》と下駄《げた》ですね」
ツクツクさんが、花の絵が描かれた扇《おうぎ》と、木のサンダルを持ってくる。
ちょっと歩きにくいサンダルはいいとして、この団扇という物はなんだろう。自分をあおぐならまともだけれど、まさかこれでホタルを叩《たた》き落として捕まえようと言うんじゃないでしょうね。
「そんなことはしません」
きっぱりとツクツクさんが否定した。
「さあ、ホタル狩りに出発しましょう」
ツクツクさんにうながされて、あたしたちはリビングから庭へと出た。
そのまま、のんびりとした足取りで、町の中を散歩するように歩いていく。
静かな夜の町には、石畳の道を歩く二人の奇妙な足音だけが驚くほど響いた。なんだか、カスタネットで拍子をとりながら歩いているみたいだわ。
晴れ渡った夜の空には月が明るく、通りを照らす街灯の明かりはなぜか涼《すず》しげだった。
夜遊びなんかほとんどしないせいもあるが、こんな時間に歩く夜の町はいつもとは違って見えてちょっと新鮮だ。
いくつもの家並みも、お庭に生えている木々の梢《こずえ》も、綺麗《きれい》なシルエットとなって、その輪郭だけが影絵のように夜に浮かびあがっている。まるで別世界のような風景は面白い。
でも、肝心のホタルがまったくいないのだけれど。
「ホタルは、水辺にいるんですよ。それも、とびきり綺麗な水でないと死んでしまうんです」
ツクツクさんが説明してくれた。
確かに、そのままミネラルウォーターとして売り出せるような綺麗な水は町中にはないものね。この近くで比較的綺麗な水辺といったら、川かしら。
「正解です。あまり遅くならないように、でも、あわてずのんびりといきましょう」
歩みを速めることもなく、団扇をそよそよとあおぎながらツクツクさんが言った。
うん、こんな散歩を走って台無しにするのはもったいないわよね。のんびりとした時間は、充分に堪能《たんのう》しなくっちゃ。
「それにしても、ツクツクさんは、よくもまあ毎回こういうことを見つけてくるわよねえ」
「すごいでしょう」
「いや、感心してるわけじゃないから」
ちょっと自慢げなツクツクさんに、あたしはすかさず突っ込んだ。感心しているというよりも、あきれているという言葉の方が絶対に似合うと思う。
「でも、退屈はしないでしょう」
「もちろん」
あたしは即答した。それは、否定のしようがない。
「一年は三六五日、毎日は同じようでも、本当は毎日が何か特別な日なのですから。この町だって、名前のある特別な日が何日もありますし、世界中ならもっとたくさんあります。だから、毎日はまったく違う顔で、いくつもの名前を持っているんですよ。ときには、その日にだけしか起きない出来事もあるだろうし、一年のうち何日かだけ起きる素敵なこともある。そういうのを見逃したらもったいないじゃないですか」
「それはそうよね。でも、ツクツクさんが見つけてくる面白い出来事は、ちょっと面白すぎると思う」
いや、変わっていると言った方が正確だわね。
だからこそ、ツクツクさんが魔法使いにしか思えないことがあるのだけれど。
本当のところ、あたしにとってツクツクさんとは何者なんだろう。
そよそよと団扇で風を作りながら、あたしたちはのんびりと進んでいった。
やがて、土手と桜並木のシルエットが見えてくる。
「もう少しですよ」
はたして、土手を乗り越えると世界が変わるのかしら。そこにホタルがいるのかな。
履《は》き慣れない下駄でちょっと苦労しながら、あたしは土手の階段を上がりきった。
土手沿いの明かりをちらちらと映した川面が見える。水の音はするけれど、遠巻きに見る夜の川は波打つコーヒーゼリーのようだ。
「ホタルなんかいないじゃない」
ちょっぴり期待が外れて、あたしは口をとがらせた。
「ちょっとここからは見えないみたいですね。もっと水辺に近づいてみましょうか。なにしろホタル狩りなんですから、探さないといけません」
ツクツクさんが、土手を下りて川辺の草むらの方へとむかった。
町の明かりから離れると、周囲は結構真っ暗だ。足下に注意しながら、ツクツクさんの後を追っていく。
あまり川に近づくと危ないと思っていると、突然ツクツクさんが立ち止まった。周りばかり気にしていたあたしは、止まりきれずにツクツクさんの背中に衝突《しょうとつ》してしまった。
「ちょっと、急に止まらないで……」
「しー。ミス・メアリー、あそこですよ、ほら、あそこ」
あたしの文句をあわててさえぎると、ツクツクさんが草むらを指さした。
「何かいたの?」
目を凝《こ》らしてみると、何かほのかに草が光っている。
緑がかった熱さのない静かな明かり。
それは、次の瞬間、ふわりと草の上に舞い上がった。ゆらゆらと、空中を漂うようにして飛んでいく。
「ホタルですよ」
ツクツクさんが、ささやいた。
それは、夏の夜にふさわしい明かりかもしれない。炎ではなく、命あるものが発する光。それは、荒々しくもなく、気負いもなく、ただただ涼やかだった。
「綺麗ね。でも、一匹だけかあ。残念だったね」
「そうとは限りませんよ、ほら」
そう言うと、ツクツクさんが団扇をそよそよとあおいで、草むらへ風を送った。優しい風が、そっと草むらをなでる。
光が瞬《またた》いた。
一つ、また一つ……。
草むらに、淡いエメラルド色の光がともっていく。
「わあ」
あたしは、思わず声をあげた。
その声に驚いたのか、ホタルの明かりが一斉にさざめく。
ツクツクさんはといえば、相変わらず団扇でそよそよと風を送っていた。すると、その風が鳥の綿毛を空に舞いあげるような感じで、ホタルたちの明かりがゆらゆらと草むらから飛びたち始めた。
まるで、手品師がカラフルなボールを宙に浮かせていくみたい……、ううん、魔法使いが魔法の杖《つえ》ならぬ魔法の団扇でホタルを操っているみたいだわ。
次々に飛びたったホタルたちの明かりが、草むらの上で不思議なダンスを踊っている。
優しい風に、ホタルたちがふわふわと近よってくる。
「あたしも!」
団扇を構えると、あたしもそよそよと風を送ってみたのだけれど……。
「あっ」
ちょっと力が入りすぎてしまったのか、舞い上がったホタルたちが離れていってしまった。
どうしよう。
「追いかけましょう。ホタル狩りですから」
ツクツクさんが、あたしの袖を引っぱった。
移動するホタルたちを追いかけていく。
ホタルたちは河原の水際の方へ飛んでいくと、流れる水の上でふわふわと踊り始めた。
水面《みなも》に光が映って、倍にふえた光が綺麗に乱舞《らんぶ》する。
あまり熱心に見つめていたら、残像で光の軌跡《きせき》がすーっとのびた。
本当に綺麗だ。
何よりも、これが豆電球とかのイルミネーションなんかではなくて、生き物が輝いているっていうのがすごいと思う。
「ええ、そうですね」
そう言うと、ツクツクさんが空を指さした。
何をしているのかと思うと、一匹のホタルがそのツクツクさんの人差し指の先にとまった。きっと、木の枝の先か何かと勘違いしたのかしら。それとも……。
ツクツクさん指の先で、ホタルが元気に点滅した。
すると、川の上を飛んでいたホタルの群れが、あたしたちの方に集まってきた。
ツクツクさんとあたしを中心にして、ホタルたちがぐるぐると周りを飛び回った。
「すごい、すごい」
あたしは、周囲をくるくると見回して叫んだ。どちらをむいても、ホタルの明かりが周りを飛び交っている。
「元の言葉で言ったら、ホタル狩りは、ホタルを借りる、ホタル借りと言うのかもしれませんね」
ツクツクさんが、あげていた指をちょっとだけ動かした。そこにとまっていたホタルが飛びたって、仲間たちの中に紛《まぎ》れて区別がつかなくなる。
そういえば、ハントには探しだすという意味もあったかなと思う。
それにしても、この川にホタルがいたなんて、今までぜんぜん気づかなかった。
「今まで、見つけようともしなかったからなのかしら」
それとも、誰かがここへ連れてきたのかしら。
「そうですね。探さなかったから見つけられなかったのかもしれないし、いなかったから探せなかったのかもしれません。でも、今年は、こんなにホタルが狩れたじゃありませんか。また来年も狩れるといいですね」
「絶対、来年も見るわよ」
宣言するあたしへ、ツクツクさんがそよそよと団扇で風を送った。
[#改ページ]
☆
庭で泡《あわ》だらけになりながら、ツクツクさんが何かを洗っている。
とにかく、ものすごい泡のもこもこで、いったい何を洗っているのかまるで分からない。
「いったい何をしているの」
さすがに、あたしはツクツクさんに訊《たず》ねてみた。
「ああ、ミス・メアリー、こんにちは。今、ちょっとお洗濯をですね……」
言いつつ、ツクツクさんが泡の中に手を突っ込んで何かした。
ブルン。
泡の一部が、ブンブンと周囲に飛び散る。
な、何。何か生き物でも洗っているの?
でも、はたして生き物がこの泡の中で生きていけるのかしら。
「ちょっと、そこのホースを取っていただけませんか」
ツクツクさんに言われて、あたしは地面に転がっていたホースを持っていった。
「ありがとうございます」
お礼を言って受け取ると、ツクツクさんがホースの先についているグリップをにぎった。
勢いよく水が出てくる。
ツクツクさんったら、結構便利な物持ってるのね。
勢いよく水をかけられて、一気に泡が消えていった。
はたして、その下から現れたのは……。
自転車だ。
それも、ちょっと、いや、結構ぼろい。
さっきはツクツクさんが車輪を回したから泡が飛び散っただけで、自転車が生きているわけじゃなかった。
「どうしたの、この自転車」
「私の愛車ですよ。長い旅から戻ってきたので綺麗《きれい》にしてあげているんです」
いったいどこから引っ張り出してきたのだろう。見たところ、ずっと野ざらしで放置してあったように見えるけど。
「じゃあ、この自転車がツクツク号……」
「いいえ、トゥックトゥイック号……。そうじゃない。違いますから。ただの名もない自転車さんです」
いやいや。名もない自転車にさんはつけないから。生き物じゃないんだから。
「でも、またなんで自転車なんか」
「たまにはいいでしょう。最近少し運動不足でしたから」
まあ、以前、年下の女の子であるレディに、いいようにあしらわれていたものね。少しは鍛《きた》えた方がいいかもしれない。
「ミス・メアリーもツーリングにつきあいますか?」
唐突《とうとつ》にツクツクさんが切り出した。
「よろしければ、もう一台、自転車を探してきますが」
「もう一台……」
あたしは、ツクツクさんの前にある自転車を、じーっと見つめた。
「遠慮するわ」
どう考えても、これと同じおんぼろ自転車なら、自分の自転車の方がいい。
「おや、自転車を持っているんですか」
「そのくらい持ってるわよ」
見くびってもらっては困るわ。
「なら、この自転車が綺麗になったら、サイクリングにいけますね」
それはとても面白そうな提案だけれど、本当にこの自転車が綺麗になるのかしら。
「少し手間はかかるかもしれませんが。丁寧になおしてやれば、きっと元気になりますよ」
うーん、生き物じゃないんだから、元気にはならないと思うのだけれど。
とりあえず汚れを洗い落としたツクツクさんが、錆《さび》取り剤とぞうきんで自転車をみがき始めた。さすがに見かねて、あたしも少しお手伝いする。
いやあ、取れる取れる。
それだけ、あちこち錆だらけだったというわけだけれど。他にも、何やらいろいろなシールを貼ったような跡《あと》がそこら中についていた。
「くっついていた物は、完全にはがしてしまいましたから。綺麗に跡を取ってしまいましょう」
ツクツクさんがゴシゴシとこすりながら言った。もしかして、登録のプレートとか、メーカーのシールとかもはがしてしまったのかしら。あまり何もかも取ってしまって、後で困らなければいいけれど。
フレームやスポークが曲がってたりしているわけではなかったので、汚れと錆が取れたら、それなりの見栄えになった。これでいちおう格好はついたというところかしら。
でも、さすがに錆取りは重労働だったのでくたくた。
「お手伝い御苦労様。お茶でも淹《い》れましょう」
「それは素敵《すてき》」
あたしは手を洗ってくると、ツクツクさんの淹れてくれた紅茶をいただいた。
庭でたくさん水を撒《ま》いたので、涼《すず》しい風が通り抜けていく。
「そうですね。少しいった所にある自然公園にサイクリングコースができたそうですから、明日、そこへいってみましょうか」
グラビアマガジンをテーブルの上に広げて、ツクツクさんが楽しそうに言った。雑誌に載《の》っている写真では、豊かな自然の中を自転車が気持ちよく走っている。
また新しい趣味の雑誌を定期購入し始めたようね。以前のお祭りマガジンはどうなったのかしら。まあ、たぶんまだ定期購読しているとは思うけれど。
なんだか新しくできた自然公園とかには、いろいろなエリアがあって自転車でぐるりと一周できるようになっているらしい。
「じゃあ、あたしも自転車を用意しておくわね」
約束をすると、あたしは翌日を楽しみに自分の自転車の準備をした。
そういえば、この自転車もずいぶんとほったらかしにしていたものだわ。
買い物用の自転車はママのがすでにあったので、ちょっとわがままを言って買ってもらったスポーツタイプの赤い自転車だ。シンプルなフレームで、いちおう変速ギアなんかもついてはいる。
わがままはわがままでしかなく、買ってもらえたことに満足してほとんど乗っていなかったのだけれど、こんなところで役にたつとは意外だったわ。
ツクツクさんにならって、愛車は綺麗にみがいて油を差しておいた。ツクツクさんの自転車とは違って、長いこと使ってなくても傷《いた》んでいるところはまったくない。ちゃんとしまっていてくれていたママに感謝だわ。
翌日、ホットパンツにTシャツ姿で、あたしは自転車を押してツクツクさんの家の前にいった。
「やあ」
狛犬《こまいぬ》に手を挙《あ》げて挨拶《あいさつ》する。
「おはようございます、ミス・メアリー。ちょっと待ってくださいね」
何やら荷物をかかえていたツクツクさんが、庭からぐるりと回って自転車を出してきた。何か昨日とシルエットが違っているような気もするけれど、まあ、いろいろと手なおしをした結果なんでしょう。それでも、前輪にカゴのついた買い物用のシティサイクルであることには変わりがないけれど。
「はい、これはあなたの分です」
そう言って、ツクツクさんがヘルメットと水筒をあたしに手渡した。ヘルメットといっても、工事用の黄色い奴ではなくて、スイカを真っ二つにしたような自転車用の物だ。水筒も、固定用ベルトとストローのついたスポーツ用の物だった。
「なにごとも……」
「ええ、とりあえずは形からです」
臆面《おくめん》もなく、ツクツクさんがあたしの言葉に続けた。
そういうわけで、とりあえずヘルメットを被《かぶ》って、水筒を自転車に縛《しば》りつける。
青いフレームのツクツクさんの自転車には、荷台の左右に大きなバッグがついていた。いったい何が入っているんだろう。
あたしの方はといえば、お弁当のサンドイッチを入れたバスケットが荷台に縛りつけてあるだけだ。
「では、出発しましょうか。ついてきてください」
号令一発、ツクツクさんが先導で出発をする。
キューコー、キューコー……。
な、何、この音は?
「あまり気にしないでください」
いや、気になる。実に気になる。
キューコー、キューコー。
ツクツクさんの自転車が鳴いている。
「なんかおかしくない?」
「まだ油がなじんでいないのでしょう。そのうち静かになりますよ」
本当にそうなの。
キューコー、キューコー。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
心配するあたしに、ツクツクさんが実に明るく答えた。
「それって、とっても疲れそうなんだけど」
限りない不安を感じつつも、あたしはペダルを漕《こ》いだ。
何年ぶりかで乗ったにしては、あたしの方の走りは実に無難だった。シャーッという音も小気味よく、このまま風と一緒にびゅんびゅん飛ばしていけそう。
順調に町の通りを走り過ぎ、道は田舎の一本道に入っていく。地図によると、自然公園は、この道のずっと先らしい。ほぼ一本道なのはいいけれど、さすがにそこそこの距離はありそうだわ。
それでも、少し走ったくらいでばてるほど、あたしはやわではない。
少なくとも、あたしは……。
キューコー、キューコー。
「ぜいぜい。ミス・メアリー、もう少しゆっくりいきましょうよ。せっかくのいい景色なのですから」
早くも息を切らし始めたツクツクさんが、先行するあたしを引き止めた。
いつの間にか順番が入れ違っている。
まあ、当然と言えば当然よね。あれだけ派手な音をたてていたのだから、摩擦《まさつ》でペダルはかなり重かったに違いないもの。
だから、あれほど大丈夫かと聞いたのに。変に見栄《みえ》をはるから罰《ばち》があたるのよ。
「油か何かないの?」
道の端で停車して、あたしはツクツクさんに訊ねた。
「ハアハア……。あるにはありますが。しかたない、ちょっと奥の手を出しますか」
なんとか追いついたツクツクさんが、また怪《あや》しいことを言いだした。
とりあえずあたしのそばに停車して、ツクツクさんがほっと息を整える。
鞄《かばん》をごそごそするツクツクさんのそばにいくと、案の定、油差しがそこから出てきた。やっぱり、こうなることは予想していたんじゃない。だったら、もっと前日に試し乗りしてちゃんと調整しておけばよかったのに。
「ちょっと待っててくださいね」
さっそく、ツクツクさんが自転車のあちこちに油を差し始めた。
ツクツクさんが、手でペダルを勢いよく回してみる。油が効いたのか、摩擦音がほとんど聞こえなくなった。
「なんとかなりそうですね」
手早く油を鞄にしまうと、ツクツクさんが愛車にまたがった。その手には、なぜか角砂糖がにぎられている。
何をするのかと思う間もなく、ツクツクさんがハンドルの基部《きぶ》についていたフタをパカッと開けて、その中にポケットから取り出した角砂糖を一つ放り込んだ。
いや、待って、なんでそんな所にフタがあるのよ。それ以前に、象や犬じゃないんだから、なんで角砂糖が出てくるのよ。
「さあ、出発しましょう」
頭をかかえるあたしをよそに、ツクツクさんが走り出した。
「ああ、ちょっと待ってよ」
あたしは、あわててその後を追った。
油が効いているのか、はたまた角砂糖が効いているのか、ツクツクさんの自転車は順調だ。スピードを落とすことなく、すいすいと進んでいる。
ちょっとペースが速いので、あたしはギアをトップに入れて追いかけた。さすがに、ちょっと漕ぐのがたいへんだ。
しっかりと運動になっているあたしを尻目に、ツクツクさんはすいすい進んでいく。なんだか、変に調子がよすぎる気がするのだけれど。
ああ、ツクツクさんはさっきからほとんどペダルを踏んでいない。
それなのに、ツクツクさんの自転車は、すいすいと進んでいく。
もしかして、アシストつきの自転車なの?
モーターの力を借りるなんてずるいわ。
「この自転車は、私の味方ですから。それに、ちゃんとお礼はしていますし」
「ずるい!」
自分で漕がなくちゃ、サイクリングにならないじゃない。いや、それ以前に、なんで自転車が角砂糖で走るのだろう。角砂糖がエネルギー源って……。ツクツクさんの自転車は生きているのかしら。まさかねえ……。
あたしの懸念をよそに、ツクツクさんが角砂糖のおかわりを自転車に与えた。
不条理《ふじょうり》だわ。
いえ、ツクツクさんの自転車が角砂糖で動いているらしいということじゃなくて、ツクツクさんが自分で自転車を漕いでないということが。
「少しスピードを落としましょうか」
さすがに息があがってきたあたしをふり返って、ツクツクさんが言った。
「結構!」
ぐいとペダルを踏《ふ》み込むと、あたしはツクツクさんの前に出た。
「そんなにむきにならなくても……」
対抗意識丸出しのあたしに対して、ツクツクさんがスピードを落とした。
あっという間にあたしが先行してしまう。
一人で先にいっても、それはまずい。あたしはスピードを落とすと、ツクツクさんの前で、スピードを合わせて走ることにした。
ツクツクさんが調整してくれたスピードは、速くもなく遅くもなく、気持ちよく進むにはちょうどいい速さだった。
風が気持ちよく感じられると、そこそこ周囲の風景を楽しむ余裕もでてくる。
しばらく何もない野原を進んだ後、あたしたちは川沿いの道に出た。
土手の上を進んでいくと、河原で遊んでいる子供たちの姿なんかが目に入ってくる。
近くでは白い水鳥が優雅《ゆうが》に低空飛行していたりもする。釣りをする人たちと、今日はどちらが多くの魚を捕《つか》まえられたのかしら。
川面《かわも》を進むボートと少し競争したりしながら、あたしたちは進んでいった。
道が川から離れる。
緑がふえ始めて、ちょっと山の裾野《すその》に入ったような感じがした。空気が、一段階高くなったような、そんなすがすがしさだ。
木立のトンネルを進んでいくと、リスなどの小動物がときおり姿を見せた。近くの人なのか、大きな犬を連れた人ともすれ違う。
様々な命たちとすれ違いながら、自転車は進んでいった。
「そろそろ、公園に着きそうですね」
ツクツクさんの言葉通り、木立のトンネルのむこうに、ちょっと古風な柵《さく》とアーチが見えてきた。
受付らしい小屋があったので、ツクツクさんが入園料などを払いにいく。
「ぐるりと、園内を一周するサイクリングロードがあるそうです。時計回りだそうですから、いってみましょう」
戻ってきたツクツクさんが、あたしをうながした。
結構幅の広い舗装《ほそう》道路が、自転車専用として森の中を通っている。一方通行なのですれ違う人もなく、あたしたちは気分よくすいすいと進んでいった。
相変わらずツクツクさんは、自転車そのものの助けを借りている。ときおり角砂糖を自転車に補充しているみたいだけれど、まったくどういう構造なのかしら。
やっぱりずるいわ。
「だから、私のもう一台の自転車をお貸ししますと言ったのに」
今さらそんなこと言われたって、ねえ。
ちょっぴり不公平さをかみしめながら、あたしはゆったりと自転車を漕いだ。
今はのんびりとしたスピードなので、アシストつきだろうがなんだろうが大差はない。
サイクリングロードは、両側の並木がのばした枝が屋根となって、夏の陽射《ひざ》しからあたしたちを守ってくれていた。自転車が切る風もあいまって、かなり気持ちがいい。
なんだか、このままどこまでもいけそうだ。
「そうですね。いろいろな場所にいけば、いろいろなものに出会えるかもしれま……」
ふり返りつつそんな言葉を言ったとたん、ツクツクさんが急ブレーキをかけた。なんだか、すごく素早い反応だったけれど。まるで、自動停止装置でもついているかのようだったわ。
後ろを走っていたあたしも、あわてて急ブレーキをかける。
ツクツクさんの自転車の後輪のタイヤと、あたしの自転車の前輪のタイヤが、わずかにぶつかった。
危ないところだった。
なんとか、道に飛び出してきた者たちとの衝突《しょうとつ》はまぬがれた。ぶつかっていたら、こちらがひどい目に遭《あ》っていたと思う。
「ちょっと、なんでこんなものがサイクリングロードに現れるのよ」
あたしは、道を横切る羊の大群を指さしてツクツクさんに怒鳴った。
「私に言われても……。羊が道を横切るときは、羊が優先と決められていますし……」
それは、どこの法律よ。
ええい、羊飼いはどこにいるの。
「まあ、少し待ちましょう。そんなに何千頭もいるわけではないでしょうから」
そんなにいたら困るわよ。
『めえー』
のどかだわ。
あたしは、自転車のハンドルに腕を乗せて、しかたなく羊たちが通り過ぎるのを待った。
のどかだけど、不条理だわ。
やがて、ツクツクさんの言葉通り、数分で羊たちは道を渡りきった。
いったい、どこへいくんだろう。自然公園の中に牧場でもあるのかしら。
「さあ、いきましょう」
なにごともなかったかのように、ツクツクさんが走り出した。
少しして、並木が途切れた。
サイクリングロードの左右に、町並みが広がっている。でも、ちょっと縮尺がおかしいんじゃない。
「ミニチュアで、いろいろな国の町並みが再現してあるみたいですね」
ちょっとスピードを落として、ツクツクさんが言った。
何分の一のサイズなんだろう。綺麗なミニチュアの町を見ていると、なんだか自分たちが巨大になった気がする。世界って、こんなにも狭くて身近なものだったかしら。
「ああ、ミス・メアリー、ストーップ!」
少しミニチュアに見とれていたあたしにむかって、ツクツクさんが大あわてで叫んだ。
反射的に急ブレーキをかける。
つんのめりそうになったあたしの目の前に、ペンギンがいた。
「今度はペンギン」
むこうも驚《おどろ》いたらしく、目を白黒させて立ちすくんでいる。
「危ないところでしたね」
まったく、ペンギンと交通事故なんて、誰も信じてくれないわ。
がさがさと、近くの茂《しげ》みで音がした。見ると、何匹ものペンギンが、心配そうにこちらを見つめている。きっと、このペンギンの仲間なんだろう。
「交通法規を守るように」
とりあえず、ちゃんとペンギンに注意する。
そうは言ってみるものの、ペンギンが横断中の旗を持って歩けるはずもないか。
驚きからさめたペンギンは、あわてて仲間の方へと走っていった。
「そんなにあわてると転ぶわよ」
あたしの言葉もむなしく、ペンギンが転んだ。
急いで立ちあがると、そのまま姿を消す。
「動物園か水族館もここにはあるのかしら」
「いろいろあるみたいですよ」
簡単にいろいろと言われても、ねえ。ここは、全部放し飼いなのかしら。
とりあえず、気をとりなおして自転車を漕ぐ。
ヒュン。
目の前を何かが飛んでいった。虫かしら。
ちょっと驚いてスピードを落とす。カナブンなんかだと、正面衝突したら結構痛いもの。
その何かが飛んでいった方を目で追うと、木の幹をリスのようなものがのぼっていく。
「モモンガですか」
目を凝《こ》らしたツクツクさんが、小動物の正体を見極めた。
「もう、なんでもありね。カルガモが横断してももう驚かないわよ」
「カルガモなら、そこで待っているみたいですが」
ツクツクさんに言われて、あたしは道の少し先を見た。
いた。
カルガモの親子が、道の端に立ち止まっている。
「私たちが通り過ぎるのを待っているようですね」
どうやらツクツクさんの言葉通りらしい。サイクリングロードに入ろうとする小ガモを、お母さんがつついて道ばたへと戻している。さすが、お母さんは正しいわ。
「さっさと通り過ぎてあげましょうよ」
「ええ、そうしましょう」
あたしの提案にツクツクさんがうなずく。
ぐいとペダルを踏み込むと、あたしたちはカルガモたちの前を通り過ぎた。さあもういいわよと、お母さんカモが子供たちをサイクリングロードに追い出す。
「ほんとに、いろいろなものがいるのね」
「それはそうです。世界にいるのは人間だけではないのですから」
でも、さすがに町中にはそうそういないわよ。もしかして、あたしは、自分の町という小宇宙に慣れすぎていたのかしら。
「それはどうでしょうね。それを言ったら、私たちの家もまた一つの世界ですし、家の中の部屋も一つ一つ別の世界ですから」
そうかもしれないわね。全部が全部同じだったら、味気ないどころか、その方が混乱すると思うもの。もしかすると、お隣にいくことでさえ、小さな世界を股《また》にかける小旅行なのかしら。
「でしたら、自転車での遠乗りは大旅行ですね。何倍もの出会いがあります」
でも、予期せぬ出会いよりは、まともな出会いを所望したいわ。
さて、もう少し進んだ所で、ちょうどサイクリングロードの中間地点に辿《たど》り着いた。
「ここでお昼にしましょうよ」
疲れてはいないけれど、結構な運動量をこなしたはずよね。おかげで、ちょうどいい具合にお腹が空いてるわ。
ちょうどいい具合に、サイクリングロードの周りには芝生の空き地が広がっている。
ピクニックシートを広げてバスケットをおくと、目ざとい小鳥たちが続々と集まってきた。
「美味《おい》しそうなサンドイッチですね」
バスケットの中のサンドイッチを見て、ツクツクさんが嬉しそうに微笑《ほほえ》む。
「でも、ツクツクさんはあまり運動していないから、半分は小鳥にあげようかしら」
「それは……」
運動せざる者食うべからずだわ。
さすがにツクツクさんが泣きを入れてきたので、ツクツクさんの分のサンドイッチを一つだけ小鳥たちにあげることで手を打った。
「たまには、こんな小旅行もいいですね」
食後にごろりと寝っ転がって、空を見上げながらツクツクさんが言った。
「これも、自転車のおかげです」
「そうね。でも、ここまで漕いできたこの足のおかげでもあるわ」
あたしは、健康的な太腿《ふともも》をパチンと叩《たた》いてみせた。ここまで楽をしてきたツクツクさんとは違う。
「もちろん。旅に出るのは私たち自身ですから。でも、自転車は、旅に出たがりますからね。お互いの気持ちが一致したときはいい相棒です」
まるで、あの自転車が世界中を旅してきたようじゃない。
だから、機械を擬人化《ぎじんか》するのは悪い癖《くせ》だと思う。
「さて、では残り半分の帰り道、がんばりますか」
元気よく起き上がると、ツクツクさんが言った。
ポケットからまた角砂糖を取り出して、自転車に与える。そんなことを続けて、自転車が壊れなきゃいいけれど。すくなくとも、自転車がべとべとになってアリが出てきそうだわ。
帰り道も、様々な動物に驚かされながらあたしたちは順調に進んでいった。
ぐるりと一周して、元の門に戻ってくる。
小世界巡りは、ひとまず終わり。いったいいくつの世界があったのか、はたまた、全部をひっくるめてが一つの世界なのか。また今度確かめにきましょう。
「ツクツクさんも、少しは自分の足で苦労しないと、せっかくいろいろな所を回った意味がないと思うわよ」
「いえいえ。私と自転車は一心同体ですから。あれ……?」
答えつつ、ポケットに手を入れたツクツクさんが怪訝《けげん》な顔をした。
どうやら、角砂糖が切れてしまったらしい。
キューコー、キューコー。
しばらくして、ツクツクさんの自転車がまた鳴きだした。油を差しなおしても、完全には音が消えない。
キューコー、キューコー。
「ミス・メアリー、少し待ってくれませんか」
息を切らして、ツクツクさんがあたしを追いかけてくる。
これは、完全に自業自得だと思う。
それにしても、餌《えさ》がなくなったとたん見捨てられるとはねえ。
「だめよ、急がないと日が暮れちゃうわ」
あたしはペダルを漕ぐ足にさらに力を込めた。
「ああ、待ってください」
キューコー、キューコー。
ツクツクさんの自転車が、ちょっと楽しそうに笑い声のような音をたてた。
[#挿絵(img/bunny_149.jpg)入る]
[#改丁]
秋は憂鬱の禁止
[#挿絵(img/bunny_151.jpg)入る]
[#改丁]
☆
「これは、なんの怪《あや》しい実験?」
リビングに所せましとならべられた試験管とビーカーを見て、あたしは絶句した。
怪しい。見るからに、今までになく、とっても、すごく、怪しい……。
「何も、そこまで言わなくても……」
じーっと見つめるあたしの視線に耐えきれなくなって、さすがにツクツクさんが手を止めた。
「じゃあ、いったい何をしているの?」
ストレートにあたしは訊《たず》ねてみた。
「音を作っているんです」
「怪しい!」
即座に、あたしは叫んだ。
音を作るのに、なぜこんな実験器具の山がいるんだろう。
もしかして、ビーカーやフラスコをガラス棒で叩《たた》いたり、ピペットや試験管を吹き鳴らして前衛《ぜんえい》音楽でも始めるつもりなのかしら。無理無理。絶対割れると思う。
「打楽器ではないと思いますが……」
やっぱり、そうよねえ。
でも、それじゃ、どうやって音を出すって言うのかしら。
「あわてない、あわてない。さて、音を作るために、まず色を作りましょうか」
そう言うと、ツクツクさんはまた実験器具の群れにむきなおった。
「まずは青ですが、基本は露草《つゆくさ》の青として、後は空の青を混ぜましょうか、それとも海の青でしょうか」
しょっぱなから、なんですか、それは。
ツクツクさんは、魔法使いではなくって、怪しい錬金術師《れんきんじゅつし》だったの?
「いや、いくら色を混ぜても黄金《きん》にはなりませんから」
それは分かっていますって。
ツクツクさんは、そんなあたしを半ば無視して青い花びらのような物を乳鉢《にゅうばち》と乳棒《にゅうぼう》で砕《くだ》き始めた。乾燥していたらしく、露草の花びらだという物は、みるみる青い粉末になっていった。ツクツクさんは水の入ったビーカーでそれを溶かすと、ロートと濾紙《ろし》を使って粉を漉《こ》し取った。綺麗《きれい》な青い色水ができあがる。
そこに混ぜたのは透明な液体だけれど、どうやら塩水らしい。海水、つまり海の青ということなのかしら。なんだか、いつものようにこじつけっぽいわ。
「まずは、一つできあがりです」
いや、色水ができあがっただけなんですけれど。作るのは音じゃなかったんですか。
「あわてない、あわてない。次は赤を作りましょうか」
ツクツクさんが、今度は薔薇《ばら》の花をすり始めた。綺麗なローズピンクの色水ができあがる。
うーん、いい香りだわ。
「薔薇には、六月の風が似合いますね」
ビーカーの中の薔薇水にツクツクさんが大きなスポイトみたいな器具で空気を吹き込む。いや、それのどこが六月の風なんだか。だいたい、今は九月だし。
「まあ、雰囲気《ふんいき》ですから」
やっぱり、そんなことだろうと思ったわよ。それだったら、よけいなことをしない方が楽なのに。
「いえいえ、こういうことが大事なんです。いろいろな物が含まれていないと、美しい音は生まれませんから」
これは、いくら突っ込んでも無駄なんでしょうね。
「赤と言うには色が薄すぎない?」
「そうですねえ。じゃ、ちょっと反則ですけれど、赤ワインでも使いましょうか」
それは反則なの?
いい香りだけれど、お酒だからちょっと味見というわけにはいかないのが残念だわね。
「赤には何を加えるの」
「そうですね。とりあえず味見してみましょう。どれどれ」
ああ、ツクツクさんが味見を。ずるいわ。
「では、ちょっと大人の一夜の淡い夢を」
ツクツクさんが、残った赤ワインにあろうことか卵白《らんばく》を入れて軽くかき回した。
「また無茶苦茶なことを……」
そう思ったのも束の間、卵白がビーカーの下に沈むと、ワインの赤色がすーっと透き通った。
不思議不思議、いったい何が起こったのかしら。これも化学実験の一つなのかしら。
「ちょっとしたコラージュですよ」
切り貼り? たんなる混ぜ物みたいだけれど。それとも、別の意味でもあるのかしら。
ツクツクさんが上澄みだけを別のビーカーに移して、赤が完成した。
「じゃあ、今度はオレンジジュースで黄色を作りましょうよ」
あたしはキッチンに駆《か》け込むと、冷蔵庫から天然果汁百パーセントのオレンジジュースを強奪《ごうだつ》してきた。
「これは、ちょっと濃いですね」
濃いの?
「半分でいいでしょう。薄めます」
あたしが持ってきたジュースを半分だけ使うと、ツクツクさんが残りを私に手渡した。これは、当然飲んでいいということよね。もちろん、もともと飲むつもりではいたんだけれど。
「いただきまーす」
ありがたくあたしがジュースを飲んでいると、ツクツクさんが残ったジュースを軽く濾過《ろか》してレモンを加えていた。
「青春は甘酸《あまず》っぱいものですから」
オレンジジュースのどこが青春?
いや、真面目に意味を考えても無駄だったわね。
「では、緑にはワサビを」
そう言うと、ツクツクさんは竹でできたブラシのような物を取り出した。乳鉢に緑の粉末を入れると、お湯を足してなぜか泡《あわ》だて始める。これって、ワサビとかいうマスタードの親戚《しんせき》みたいな物の粉末なのかしら。それにしては、ちっとも辛くなさそうだけれど。
「あれ、ワサビ……。ああ、ワビサビでしたっけ。あれ……。まあ、とにかく趣《おもむき》のある心の平安を入れるということで」
ツクツクさんが泡だった緑の液体を漉して泡を取り除くと、緑の色水ができあがった。でも、泡《あわ》を取っちゃうくらいなら、なんで泡だてたりするんだろう。
「そのへんが、お茶の心らしいですよ。残ったお茶を飲んでみますか」
お茶だったのね、この粉。インスタントか何かだったのかしら。
でも、お茶とあっては味見してみないわけにはいかないわね。
「いただきま……うっ!」
苦い。
「お砂糖、お砂糖」
「だめですよ、ミス・メアリー。これは、苦いのをいただくのがお作法らしいですから」
「そんな……」
オレンジジュースで口なおしをしながら、あたしは顔をしかめた。これがお茶だなんて、ちょっと異議を唱《とな》えたい。
「でも、世界には塩辛いコーヒーもあるくらいですから。まあ、このお茶は、甘いお菓子と一緒にいただく物のようですけれど」
「だったら、ケーキを要求するわ!」
最初からセットで出してよ。
「白は、やっぱり牛乳しかないでしょうかねえ」
そう言ってツクツクさんは、何本もの試験管を用意していた。
「なんで、こんなにたくさんあるの」
それに、なんだかちょっとずつ色が違う気がする。
「ええと、これが牛乳で、これが山羊《やぎ》の乳で、これが……」
要するに、いろいろな乳を混ぜるつもりなのね。
「この、絶妙のブレンドに、母の愛が……」
いつツクツクさんが母になったのよ。
「最後は、とっておきの紅茶の琥珀色《こはくいろ》にしましょうか。ミス・メアリー、お湯を沸《わ》かしてもらえますか」
「いいわよ」
ツクツクさんに言われて、あたしはキッチンにお湯を作りにいこうとした。
「いえ、ここにも器具はありますので」
まさか、その怪しい実験器具でお茶を淹《い》れようと言うの。
「はい」
ツクツクさんが、にっこりと微笑《ほほえ》む。
あたしがアルコールランプに火をつけると、ツクツクさんが水を入れたフラスコをセットした。お湯が沸いたところでお茶の葉を投入。ほどよく抽出《ちゅうしゅつ》されたら、氷につつまれた螺旋状《らせんじょう》のガラス管を通して、あっという間にアイスティーに。
うーん、それこそちょっと趣はないけれど、このままアイスティーとしていただきたいところね。
「それで、これには何を加えるの」
「もう加えてありますよ。私たち二人の時間です。さあ、ではいよいよ音を作りましょうか」
必要な色水が揃《そろ》ったらしく、ツクツクさんがテーブルの上をかたづけ始めた。
あれれ、この実験器具で引き続き音を作る実験に移るんじゃなかったのかしら。
「いえいえ、音は別の道具で作ります。とりあえず、かたづけを手伝っていただけますでしょうか」
そういうことならと、あたしはツクツクさんと一緒にテーブルの上を綺麗にした。残ったのは、七色の色水と、なぜかスポイトだけだ。
一列にならべられた色水は、結構綺麗だわ。
「では、持ってきますね」
ツクツクさんが何かを取りにいった。すぐに、何やら大きな箱を持って戻ってくる。
箱の中には、同じ形のワイングラスがいくつも入っていた。
「準備はできていますから。後は、水を注ぐだけです」
ツクツクさんが、グラスに色水を注いでいく。なんだかグラスにはマジックで印がつけてあって、ツクツクさんがちょうどその印ぴったりになるように水の量を調整していった。それって、とても微妙な調整らしく、そのためにスポイトが必要だったらしい。
「ふう、こんな感じですかね」
ときどきグラスを弾《はじ》いて音を確かめながら、ツクツクさんが微調整を完了させた。少しずつ色水の量の違うグラスが、綺麗なグラデーションを作ってならんだ。
音を作るって、これのことだったのかしら。
「でも、グラスを叩いた音なんてたいしたことないじゃない」
確かに、このグラスはいい響《ひび》きをさせそうだけど、この程度の音を作るためにあれだけ苦労したというのかしら。またツクツクさんの失敗かしら。
「まだまだ、これからが本番ですよ」
ツクツクさんが、意味ありげにあたしにウインクをしてみせた。いったい何をしようと言うのかしら。
微妙な位置を考えつつ、ツクツクさんがテーブルの上にグラスをならべ始めた。
かすかにぶつかったグラス同士が、それぞれ違った音を響かせる。
「これはグラスハープなんですよ」
ツクツクさんが、慎重にグラスをならべ終えた。
「さて、では、演奏会を始めましょう」
ツクツクさんが、あたしに一礼した。
パチパチパチ。
ここは、お手並み拝見といきましょう。
指先を水で濡《ぬ》らすと、ツクツクさんがグラスの縁をそっとこすった。
音が響く。
いいえ、音が生まれた。
すごく繊細な、透き通った音。
本当に、クリスタルガラスで作られたハープにふさわしい音だわ。これがただのワイングラスの出す音だなんて、実際に目の前で見て聞いていなければ嘘《うそ》だと思うかもしれない。
ツクツクさんが、手で呪文《じゅもん》を唱えるかのようにグラスの上をなでていく。その一つ一つの動作から、それぞれ違う音が生まれた。
ああ、ドの音は、ツクツクさんが風を混ぜた音だ。ミの音には、海のさざなみが混じる。ソからは、二人の時間が伝わってきた。
目を閉じると、様々な色彩とともにいろいろな風景が浮かんでくる。
あれは、舞い散る桜の花吹雪《はなふぶき》かしら、それとも、水面《みなも》に映る青白いホタルの光。飛行船の飛ぶ青い空は、真っ白い綿毛のヘイゼルナッツさんが見上げる風景なのかしら。緑葉の迷宮からは、いったいどんな姿のあたしが飛び出してくるんだろう。
演奏が終わった。
「本当、いろいろな音が生まれてくるわ」
「ええ。世界は、いろいろな物の少しずつでできていますから」
ツクツクさんが、優しく微笑む。
「では、次の曲を……」
ツクツクさんが、グラスの上で世界を響かせた。
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☆
いったい、何が起こったのかしら。
気がついてみると、庭が濃い霧《きり》につつまれていた。
これじゃ何も見えないわよ。
まあ、犯人はおおよそ見当がつくけれど。
あたしは、庭に下りてゆっくりとお隣の方へと進んでいった。足下《あしもと》が見えないので、そろりそろりと進むしかないのが面倒だわ。
それにしても、この霧は少し変だわ。
生暖かい。
霧という物は、もっと爽《さわ》やかな物じゃなかったのかしら。あまつさえ、この霧は、そのお、ちょっと変な臭いがする。
足先で地面を探りつつ、なんとか、お隣との境界線まで辿《たど》り着いた。
ぼこぼこぼこ……。
なんだろう、変な音まで聞こえてきた。
これは水の音?
いいえ、何かが泡《あわ》だつ音?
でも、あたしの庭にも、ツクツクさんの庭にも池はないはずだったけれど。
いやいやいや、ツクツクさんのことだ、突然池を作ったとしても不思議じゃない。
それにしても、なんだか生暖かいと言うよりも蒸《む》し暑くなってきたような気がするんだけど。これってもはや霧ではなくて湯気《ゆげ》じゃないのかしら。
「ああ、ミス・メアリー、気をつけてください。落ちますよ」
突然、霧の中から現れたツクツクさんがあたしに声をかけた。
なんで、ツクツクさんがこんなところにいるのよ。
それに、なんだかおかしい。
なぜか、ツクツクさんの頭があたしの膝《ひざ》のあたりにあるじゃないの。
と言うか、なんでツクツクさん裸《はだか》!
「ちょ、ちょっと、ツクツクさんったら、なんで裸で庭に寝っ転がってるのよ」
「えっ、おかしいでしょうか?」
ちょっとうろたえてしまったあたしは、マッハで後ろをふりむくと、背後のツクツクさんにむかって叫んだ。
「それに、私の名前はトゥックトゥイックですと何度言ったら……」
「今はそういう問題じゃなーい!」
無駄に落ち着き払ったツクツクさんが気に入らなくて、あたしはあらん限りの声で叫んだ。
「だから、いつから露出狂《ろしゅつきょう》になったの」
そんなツクツクさんは認めないわよ。
「そう言われましても、お風呂にはいるときは裸ですし……」
「お風呂?」
なんで、庭でお風呂に入っているのよ。それ以前に、なんで庭にお風呂があるの。
「御安心を、ちゃんと水着は穿《は》いていますから。露天《ろてん》風呂《ぶろ》では、これが作法《さほう》のようですので」
「水着?」
あたしは、クルリとふり返った。
サーッと風が吹いて、少しだけ湯気が晴れた。
いつの間に造ったのか、ツクツクさんの庭に大きな池ができている。庭の半分を占めているかしら。庭にある池としては広い部類だと思う。
ツクツクさんはその端っこで胸までお湯につかっていた。頭にはタオルを載《の》せて、ちょっと御機嫌のようだ。
これが露天風呂という物なの?
水は魚が住めるような透明な物ではなくて、ちょっと白く濁《にご》った不透明な物だった。湯気はその露天風呂という物の水面《みなも》からどんどんわきたち、ときどき水の中から泡なんかも上ってきたりしている。石でできたお風呂の縁《ふち》には、白い結晶のような物がこびりついていた。変な臭いの正体は、この結晶みたい。
それにしても、いつの間にこんな物を……。
「いいでしょう」
ちょっと上気した顔で、ツクツクさんが言った。なんか、実に満足そうだ。一人だけいい気分なんて、ちょっと気にくわない。
「温泉がちょっと懐《なつ》かしかったので。ちょうど庭がてごろだったものですから」
ちょっと待って、これは温泉なの?
庭にユニット式の池を埋め込んで、ただお湯をはった物じゃないって言うのね。でも、温泉というのは、火山で温められた地下水が、熱湯になって地上に噴《ふ》き出してくる物じゃなかったかしら。ほら、なんとかという自然公園の、熱湯が石油のように地面から地上数メートルの高さまで噴き上げている写真を見たことがあるけれど。
「いや、それはかなり間違った知識のような……」
ツクツクさんに間違った知識だって言われると、なんだか無性に納得したくない気がするわ。
「湧《わ》いているお湯は、熱湯じゃなくてちょうどいい熱さですよ。身体の芯からポカポカします。だいたい、熱湯だったら、今ごろ私はゆだっちゃってますし」
それはそうなんだけれど。でも、なんであたしたちの家の地下に温泉があるのよ。ここって、火山帯だったっけ?
「大丈夫ですよ。温泉と一緒に、いきなり溶岩《ようがん》が噴《ふ》き出してくるなんてことはありませんから」
そんな根拠《こんきょ》のない保証をしてもらっても……。
もし、本当に溶岩が噴き出したら噴火だし、立派なディザスタームービーの一場面だわ。さすがに、そんなことになりそうなら、周囲でもっとパニックが起きていてもいいと思うんだけど。
まあ、だいたいにして、温泉が湧いてること自体が不条理《ふじょうり》なのよ。
確か、温泉ってずいぶん地下深く掘らないといけないはずだったと思うし。それに、たとえ自然に湧き出したとしても、確かツクツクさんの家には地下室があったはずじゃない。その地下室を貫通して湧いたとでもいうのかしら。
どちらにしても、この庭の下に温泉の水脈があるとはとうてい思えないわ。
「でも、実際に湧き出しているのですから、いいじゃないですか。いい気持ちですよ。ミス・メアリー、あなたもどうですか」
「そ、それは、あたしに一緒にお風呂に入れということなの」
耳たぶまで真っ赤にしたあたしにむかって、ツクツクさんが平然とした態度でにっこりとうなずいた。
「そうですね、感覚としては、リゾートホテルにある温水プールといった感じですか。温水と言うには、ちょっと熱いですけれど」
そう言うと、ツクツクさんが、そばにおいてあったグラスを手に取った。中に入っていた冷たいアイスティーを、ストローで美味しそうにすする。
ちょっと優雅《ゆうが》だ。
なんか、ずるい。
「水着は、もうしまってしまわれましたか?」
ああ、そうか。あたしも水着になればいいのね。なら、本当に温水プールだ。お風呂だと言うから、身構えすぎていたみたい。
だいたいにして、あたしはいつもシャワーなので、バスタブにお湯をためてじっくりつかるなんてことしたことないし。
「ちょっと待っててよ、すぐ戻ってくるから」
もうもうとたちこめる湯気をかき分けるようにして、あたしは自分の家に戻りかけた。
「あたしが戻るまでに、栓を抜いたらだめだからね」
一度だけくるっとふり返ると、ビシッとツクツクさんを指さして釘を刺しておく。そんなことはないだろうけれど、突然現れた温泉は、突然逃げてしまいそうな気がしたから。
「大丈夫。お待ちしていますよ」
ツクツクさんが、湯気のむこうでにっこりと笑った。
さて、夏の水着なんてどこにしまったかしら。さすがに十月にもなって水着を使うとは思わなかったから、発掘するのがたいへんだわ。
タンスの引き出しを根こそぎ引き出して、あたしはやっと水着を見つけだした。
オレンジ色したセパレートで、スカートっぽいフリルのついた物だ。ちょっと子供っぽいかなと思うけれど、他を探している時間がもったいなかった。ツクツクさんがのぼせてしまったら、きっとお庭温泉は店じまいに違いないもの。
あたしはさっさと水着に着替えると、髪の毛をシャンプーキャップの中に押し込めた。御自慢の髪も、水につかるときはちょっと扱いが不便だわ。
バスタオルをショールのように肩に羽織《はお》ると、あたしは外へ飛び出した。
「寒い!」
そりゃそうだ。もうじき冬だというのに、こんな姿で外に出たら寒いに決まっている。
ちょっと小走りで、でも転ばないように気をつけながら、あたしは露天風呂の方にむかった。湯気の中に入ると、ちょっぴり暖かい。
「お待たせー。ああ、寒い寒い」
湯船とツクツクさんの姿が見えると、あたしは勢いよくお湯に飛び込んだ。
盛大に水飛沫《みずしぶき》があがる。
「ちょっと、ミス・メアリー……」
もろにお湯を被《かぶ》ったツクツクさんがあわてた。でも、それ以上にあわてたのは、他ならぬあたしだった。
「熱ーい!!」
思わず飛び上がると、あたしはあわててお湯の中から逃げ出した。
「ほら、罰《ばち》があたった。身体が冷えているでしょうから、いきなり入ったらそういうことになります。まずかけ湯をして、適度に身体を温めないと」
「そういうことは早めに言って……」
あたしは、不思議な踊りを踊って身体を冷やしながらツクツクさんに言った。さすがに、恥ずかしがってる余裕もない。
温水プールみたいな物だと言うから、てっきりそのつもりでいたけれど、これは充分に熱湯じゃないの。ツクツクさんったら、よくこんな熱いお湯に入っていられるものだわ。
「最初は、足だけつかるのがいいですよ。それだけでも、身体が温まってきます」
ツクツクさんに言われて、あたしは露天風呂の縁の石に腰かけると、足の指先だけお湯にツンツンとつけてみた。いや、足だけだって、結構、いいえ、とっても熱い。とはいえ、このままだと身体は寒いままだわ。うかうかしていると風邪をひいてしまいそう。
とはいえ、ツクツクさんがしっかりと見ている手前、さっきみたいな失態はもうおかせないわ。また物笑いの種になるのはたくさんだもの。
気合いを入れてなんとか足をお湯につけると、あたしは熱さにじっと耐えた。
いつの間にか、そばでツクツクさんも同じように足だけお湯につけている。
「暖まってきたら、これをどうぞ」
ツクツクさんが、あたしにグラスを手渡す。
グラスには、薄い琥珀色《こはくいろ》の紅茶と氷が入っていた。赤と白の縞模様《しまもよう》のストローが一本ついている。
まったく、こういうことの準備には、ツクツクさんは抜かりがない。
「ありがとう」
グラスを受け取って、ちょっと一口すすってみる。
ちょっと薔薇《ばら》の香りがするすっきりとした紅茶だ。少しだけフレーバーが足してあるみたい。
そうこうしていると、本当に身体がポカポカしてきた。足しかお湯につけていないのに、不思議なものだわ。これなら、そろそろお湯に入ってもいいかもしれない。足だって、もうすっかり熱過ぎるとは感じなくなっているし。
「じゃ、ゆっくりとつかりましょうか」
ツクツクさんと一緒に、あたしはゆるゆると湯船に入っていった。
ゆっくりと身体をかがめていくと、やっぱりそれなりに熱い。でも、さっきみたいに、驚《おどろ》いて飛び出していくような熱さではなくなっている。
なんとか、全身がお湯の中に沈んだ。うーん、これはこれでちょっと新鮮な体験だわ。
「ああ、疲れがとれます」
お湯の中で手足をのばして、ツクツクさんがくつろぐ。
あたしも、ちょっとまねして身体をのばしてみた。
うん、これは本当に気持ちがいい。プールにぷかぷかと浮いているときのようだわ。
「湯気が世界をつつみ込んで、何もかもが渾然《こんぜん》一体となったようですね」
空を見上げながらツクツクさんが言った。
上を見上げても、湯気でぼんやりと青空が見えるだけなんだけれど。あの遠くに見える白いもやもやは湯気なのかしら、それとも雲なのかしら。
変わったお風呂だけれど、これはこれで、ちょっと気持ちがいいかも。今度、うちのお風呂でも、お湯をためて入ってみようかしら。
「この温泉って、家の中には引き込めないのかしら」
ポンプでくみあげるとか、そうでなければ、最悪は井戸水のようにバケツリレーという方法もあるけれど。
「クアハウスでも造るつもりですか?」
ああ、それはいいアイディアかも。
いいえ、ここで温泉が湧いたのなら、御近所でも湧き出すかもしれない。そうしたら、本当にクアハウスができるかも。
「うーん、あまりエステのようなクアハウスは……」
ツクツクさんは、あまり乗り気ではないような顔だ。
「どうせクアハウスができるのであれば、ジャングル風呂とか、流れるお風呂とか、紅茶風呂とか。たくさんの種類のお風呂が楽しめる方がいいですねえ」
ジャングル風呂?
それってどういうお風呂なの。まさか、トラとかライオンの檻《おり》のそばで入るお風呂とか。だいたい、薔薇の花を浮かべたお風呂なら映画なんかで観たことはあるけれど、お風呂の種類ってそんなにいくつもあるものだったの。
「ありますよ。世界には、ここみたいに岩で造った物とか、大理石や檜《ひのき》という木製のお風呂とか。洞窟《どうくつ》の中のお風呂というのもありますし、泡が噴き出す物や、電気でぴりぴりする物まであるそうです」
いや、それって、もはやお風呂と言えるのかしら。電気が流れるなんてすでに拷問《ごうもん》だと思うし。まったくもって謎《なぞ》だわ。
「でも、楽しそうじゃないですか」
それは、ツクツクさんにとっては楽しいでしょうね。うーん、まあ、あたしも、ちょっとは楽しいかもしれないけれど。
「なかには、人が何十人もいっぺんに入れる、プールのようなお風呂もあるそうですよ」
ギリシャの公衆浴場とかはそんなだったらしいけれど、現代じゃ、他人と一緒にお風呂に入るなんて、ちょっと考えにくいわ。
「でも、たまには裸のつきあいというのもいいものです」
ツクツクさん、あたし女の子なんですけれど。
基本的に、それは御遠慮したい。まあ、今現在、一緒に露天風呂に入っていて言えることではないのかもしれないけれど。
だいたい、外にお風呂があるというのも、ちょっと前時代的だわね。関係ない人にのぞかれたらどうするのかしら。
「大きなお風呂がある場所では、昔からそこは社交場だったそうですから。変に自分を着飾ってごまかしたりせず、みんな素直にのんびりと巷話《ちまたはなし》をしていたのでしょうね。老いも若きも、それこそ人や人以外の者たちとも。きっと、自分と自分以外の者との垣根を、お湯が溶かしてしまうのかもしれません」
まあ、裸で格好つけても、様《さま》にはならないから本音トークになったんでしょうけれど。人間、裸になれば皆同じというのも、ちょっと短絡的《たんらくてき》だとは思うなあ。
「でも、風にあたりながら、空をながめてのお風呂はいいものですよ。夜だったら、きっと星を見ながらのお風呂になるんでしょうね」
それは、少しいいかも。
「ああ、なんだか、このまま寝てしまいそうです」
ゆったりとくつろぎながら、ツクツクさんが言った。
まあ、どちらにしても、今はこの広い湯船をあたしとツクツクさんだけで独占しているのだから、ちょっと開放的で気持ちがいい。シャワーのように立ちっぱなしじゃ、長時間お風呂にいるってことはできないもの。お風呂でのんびりするというのは、結構|斬新《ざんしん》だわ。
これなら、ツクツクさんとも本音で話ができそう。でも、何が本音なんだろう。ちょっと考え込んだあたしは、お湯の熱さにゆだってきたような気がした。
そうだ、このさいだから、ツクツクさんの昔話を聞かせてもらおう。今なら、なんとなくいろいろなことが話せるわよね。
そうよねツクツクさんと、同意を求めようとしたあたしは、もうもうとたちこめてきた湯気の中にツクツクさんの姿を見失った。
「ツクツクさん?」
ちょっと手で風を起こして、湯気を払ってみたけれど、いつの間にかツクツクさんが隣からいなくなっている。
まさか、のぼせて沈没《ちんぼつ》してしまったんじゃないでしょうねえ。
「ツクツクさーん」
湯気をかき分けるようにして進みながら、あたしは足で湯船の中を探っていった。
ちょっとお湯が熱くなってきたせいか、湯気がすごい。まるで濃霧《のうむ》のようだわ。そのせいかもしれないけれど、距離感覚がつかめなくて、この露天風呂が異様に広く思える。
ちょっと進んだ所で、黒い人影のような物が湯気の中に見えた。
「ツクツクさん?」
こんな所にいたのかと、あたしはその影に近づいていった。
距離が縮まって、ちょっとだけ霧の中の視界がはっきりする。
「熊?」
思わずあたしは、湯船に大きな波を起こしながら後ろに逃げた。
ツクツクさんだと思った人影は、黒くてまん丸で毛むくじゃらで……。
なんで、熊がこの露天風呂に入っているのよ。いや、それよりも、なんでこの町に熊がいるの。
に、逃げなきゃ。
悲鳴をかみ殺しながら、あたしはあわてて引き返した。
その目の前を、何かがすーっと通り過ぎる。
カチカチカチ……。
何かをぶつけて音を出している。背泳ぎのその生き物って……。
「ラッコ?」
他にも、なんだか人に見えないシルエットが、湯船の中にいくつか見えた気がする。
ちょっと待って、ここはいつからジャングル風呂になったのよ。いったい湯気のむこうはどこへつながっているの。
もうパニックになりかけて、あたしはバシャバシャと湯船の中を走り回った。
やっとのことで、お風呂の縁まで逃げてくる。石に手をかけてあがろうとすると、何かぐにゅりとした物に手をついた。
「ニギャッ!」
石の上でぬくぬくとしていた猫が、あたしに押し潰《つぶ》されそうになってあわてて逃げていった。
さすがに、猫は水の中には入らなかったみたいね。
いや、そういうことじゃなくて……。
「どうしたのですか、ミス・メアリー」
混乱する頭をかかえるあたしの目の前に、のほほんと湯船の外でしゃがみ込んでいたツクツクさんがいた。
「熊、ラッコ、猫!」
あたしは、ツクツクさんの両脇《りょうわき》を手でつかんで叫んだ。
「ちょ、ちょっと、ミス・メアリー、落ち着いて。せっかくのアイスクリームが……」
あたしにゆすぶられてバランスを崩《くず》したツクツクさんが、お湯の中に転落した。
それでも、なんとか危機一髪、両手に持ったアイスクリームの小鉢だけは、ひっくり返さずお湯にも落とさずにキープしている。
カチカチ。
取ってくださいと、ツクツクさんがアイスの小鉢同士を軽くぶつけ合った。
とにかく湯船の中をジャブジャブと進むと、ツクツクさんの要望に従って、アイスクリームの身柄だけは確保した。
今の騒ぎでシャンプーキャップが脱げてしまい、せっかく濡《ぬ》らさずにいた髪の毛がばらけて、水草のようにお湯の中に広がってしまった。温泉だとちょっと痛みそうだけれど、今はしかたがない。
「ふう、死ぬかと思いました」
やっと両手が使えるようになって、命からがらお湯の中から立ちあがったツクツクさんが言った。
「いったいどうしたって言うんですか」
「熊よ熊。ああ、あそこにタヌキもいる!」
湯気の中に浮かびあがったタヌキの姿を見て、あたしは思いっきりそちらを指さした。
「ああ、それは置物ですよ」
ツクツクさんに言われてよく見てみると、それは以前からずっと庭に鎮座《ちんざ》していたタヌキの置物だった。
「きっと、湯気で見間違えたのでしょう。それとも、少し湯ノ花が強すぎてあたったのかもしれませんね」
あたしから片方のアイスクリームを受け取りながら、ツクツクさんが落ち着き払って言った。
見間違いだったのかしら。まあ、確かに、本物がこのへんにいるとは思えないけれど。
湯船の縁で足をばたばたさせていると、イルカの形をしたビニールの風船人形がぷかぷかと流れていった。あれがラッコの正体だったのかしら。
うーん、あたしも湯あたりしたのかなあ。
髪の毛を絞《しぼ》って一つにまとめると、あたしは露天風呂の縁に座ってアイスクリームを食べ始めた。冷たさで、ちょっとぼーっとしていた頭がすっきりする。
やっぱり、ちょっとのぼせていたのかもしれない。
「それとも、湯煙《ゆけむり》の中にはときどき不思議な物が隠れていることがあるそうですから、俗世間のしがらみを忘れていろいろ語れる分、普段気づかない物に気づくのかもしれません」
いや、だからといって、熊とかを発見するのは、脈絡《みゃくらく》がなさすぎるわ。
それとも、あたしはそういう物を見たかったのかしら。それって、ツクツクさんに毒されていった結果としか言いようがないじゃない。
一緒のお湯につかると、なんだか似たもの同士になっていくのかもしれないわね。
ふと、横を見ると、黄色い桶《おけ》がおいてあった。
調べてみると、スポンジのような物と、タオルと、石鹸《せっけん》、シャンプーとリンス、それからお風呂では定番のアヒルのオモチャが入っている。桶の底には、見慣れない赤い文字で何か書いてあった。
「ああ、それはお風呂セットですよ」
それはちょうどいいかもしれない。髪の毛が濡れてしまったから、洗ってしまいたいと思っていたところだもの。だって、ここはお風呂なのだし。
水着を着たままだからちゃんと身体を洗うことはできそうにないけれども、できれば石鹸ですみずみまで洗いたいものだわ。
「ちょっと、貸してね」
あたしはツクツクさんに言うと、どう見ても何かの植物|繊維《せんい》の塊《かたまり》にしか見えないスポンジを温泉のお湯につけて、石鹸でこすり始めた。ブクブクブクと、スポンジに泡がたっていく。
「ミス・メアリー、石鹸には気をつけてくださいね。温泉では、湯船の中で石鹸は使いませんから。身体を洗うのであれば、お湯の外でしてください。でないと、石鹸がお湯に混じってたいへんなことに……」
「いくらあたしでも、そんな非常識なことはしないわよ」
シャワーがない所で、お湯を全部石鹸だらけにしてしまったら、いったいその後どうやって石鹸の泡を洗い流せばいいのよ。いくらあたしでも、それくらいは分かるわ。
「そうですか。お願いしますよ」
ツクツクさんが念を押す。
「もう、あたしを信用して……」
しゃがんで泡を作っていたあたしは、ちょっと怒って立ちあがった。
あれ、あれ……?
急に立ちあがったせいだろうか、思わず立ちくらみが。
「危ない!」
ぐらりとバランスを崩して湯船に倒れかけたあたしを、ツクツクさんがあわてて引っぱり戻した。
お湯の中への落下をまぬがれたあたしは、今度はツクツクさんの腕の中に倒れ込んでいった。
ちょっと、この状況は……。
「ミス・メアリー、石鹸はどうしました」
この状況で、心配するのは石鹸の行方《ゆくえ》ですか。
「石鹸は……」
「知らないわよ。たぶんお湯の中におっこっちゃったんじゃないの」
あたしは石鹸の泡だらけの手でツクツクさんの胸を押すと、しっかりと自分の足で立った。
ボコッ。
あれ、今、何か不吉な音が。
ボコ、ボコッ。
「いけない。離れましょう、ミス・メアリー」
ツクツクさんが、あたしを引っぱった。
「ちょっと、いったい何を……」
ツクツクさんに引っぱられて、オープンデッキの所まで下がる。
ボコボコボコ!
露天風呂が、急に激しく泡だち始めた。
いったい何が起こるのかと思ったとたん、すさまじい勢いでお湯が噴きあがった。まるで、水道管が破裂したみたいだ。
「だから言ったのに。間欠泉《かんけつせん》が噴きあがってしまいましたね」
なんで間欠泉。それも、なんで石鹸がその呼び水になるのよ。
「うーん、お庭で露天風呂計画は失敗ですか」
噴きあがる温泉を見つめて、ツクツクさんが言った。
「大丈夫。じきに止まりますよ」
ツクツクさんの言葉通り、すぐに間欠泉は止まった。
でも、おかげで温泉のお湯はみんなあたりに飛び散ってしまって、庭に残ったのは空っぽの大穴だけだった。底の方に、ちょっぴりだけお湯が残っている。
当然、湯気もあっさりと消えてしまっていた。一緒に、温泉の暖かさもなくなっている。
ちょっと寒い。
「くしゅん」
あたしは、小さなくしゃみをした。
「ミス・メアリー、シャワー浴びていきますか?」
本末転倒だと知りつつ、ツクツクさんがあたしに訊《たず》ねた。
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☆
『さて、今日から始まりましたアンクル・トムの気まぐれラジオ。最初の曲は、デミス・ルソスで、ア・フラワー・オール・ユー・ニード』
ちょっと渋めなパーソナリティーの声に続いて、男の人の朗々《ろうろう》とした歌声が響《ひび》いてくる。テノールかしら。渋い歌声だわ。
ツクツクさんはといえば、オープンデッキのイスに座って、優雅《ゆうが》にティーカップをかたむけていた。
ツクツクさんの目の前におかれているのは、なんともレトロなラジオだった。骨董品《アンティーク》と言っていいほどの、古めかしい逸品《いっぴん》だ。大きさはだいたいひとかかえ、ちょうど二階建てのドールハウスぐらいというところかしら。
「どうしたの、それ」
興味津々《きょうみしんしん》で、あたしはツクツクさんに訊《たず》ねた。
「ツクツクさん?」
「――トゥックトゥイックですよ、ミス・メアリー」
一呼吸遅れてから、ツクツクさんが答えた。
ちょっと、歌に聴き入っていたらしい。
「ドールハウス?」
「いえ、元はそんな物だったようですが、今はちゃんとしたラジオに改造されているんですよ。さっき、倉庫から引っ張り出してきたんです。たまには、ここでラジオを聞きながらのお茶もいいかもしれないと思いまして」
それは、たまにはそういうのもいいかもしれないけれど、また珍しい物を引っ張り出してきたものだわね。まさにアンティーク。よく、無事に音が鳴ったものだと思うわ。だって、見るからに真空管でも使っていそうなラジオなんだもの。
そういえば、電源ケーブルがないけれど、電池式か何かなのかしら。意外に、古めかしいのは外見だけで、中身は最新式のラジオが埋め込んであるだけだったりして。
たぶんきっと、またあの行商のおじさんから買った物に違いないわね。
「ミス・メアリー」
「なあに?」
いろいろ想像していたあたしに、ツクツクさんが声をかけた。
「御相伴《おしょうばん》にあずかりますか?」
「もちろん」
即答するあたしに、ツクツクさんがイスを勧めてくれた。
トレーに載《の》ったティーセットから、ツクツクさんが新しいカップを用意してくれる。こういうところが用意周到《よういしゅうとう》なのがツクツクさんらしい。
歌声を聞きながら、あたしは紅茶をいただいた。BGMがあるお茶の時間というのも、意外といいかもしれない。
『さて、気持ちのいい午後のひととき、優雅にお茶などを楽しんでいるかな』
「ええ」
グッドタイミングなパーソナリティーの言葉に、あたしはちょっとティーカップをかかげて答えてみせた。隣で、ツクツクさんもまねして微笑《ほほえ》む。
『うん、それは結構』
絶妙の間合いで、ラジオからパーソナリティーの言葉が返ってくる。
リスナーと対話しているような感覚でしゃべれるなんて、結構手慣れた人なんだわ。アナウンサーか何かかしら。いったい、なんていう名前なのかな。それよりも、なんていう番組なのかしら。
「さあ。私もラジオをつけたら流れてきたものですから。確か、トムおじさんの気まぐれラジオとか言っていましたよね」
そういえば、あたしがきたときにそう言っていたような気もする。でも、トムおじさんとはまた変な芸名ね。
「ふーん。なんだか……な番組ね」
ツクツクさんが聞いている番組なら、きっとまともな番組であるはずがない。
そう思いながら、あたしはお茶を一口飲みかけた。
『別にこの番組は変な番組ではありません』
ん!? 思わずお茶を吹きそうになる。だって、今のは完全に返事じゃなかった?
「今、返事……」
『この番組は、快適な旅をお届けする空色風船社他の提供でお送りします』
あ、わざとらしくスルーされた気が……。
『さてさて、秋の訪《おとず》れとともに、落ち葉の絨毯《じゅうたん》の配達も順調のようだね。俺のところじゃ、今年は黄色を頼もうか赤を頼もうか、いっつも迷っちゃうんだよね。なにしろ茶色じゃありきたりなんで、アリがきたりなんかしちゃったりして。ははははは……』
寒い……。
何か、今、木枯《こが》らしが通り過ぎた気がする。
「ははは……」
いや、ツクツクさん、ここ笑うところだけれど、笑えるところじゃないから。
とりあえず、温かいお茶を飲むことにしよう。
『月も休暇をとって温泉旅行にいきたそうだけれど、みんなはバカンスの予定はあるのかな。俺も昔はいろいろな所に旅したものなんだな。アルプスに登ったときは、知り合いにもらった缶詰が空っぽで焦ったりもしたものさ。ついこの間も、ジャングルかと思える大森林の奥地で滝《たき》に打たれて修行をしたというわけ。なんの修行だって? それは内緒だったりなんかして』
「内緒だなんて、ケチねえ」
「まあまあ、ミス・メアリー」
頬杖《ほおづえ》をついたままちょっと口をとがらせたあたしを、ツクツクさんがすかさずなだめた。
『あ、でも、秘密はよくないよねえ。うん、そうだ、そうだよ。で、本当のところ、俺は大会に参加するんだ。なんの大会だって? もちろん、トライアスロンさ』
「あらまあ。それはハードなこと。この人、結構体育会系なのかしら。ん、ちょっと待って、今何か急にあわてて説明しなかった?」
「さあ」
ツクツクさんが肩をすくめてみせた。
どうもなんだかしっくりこない。あまりにも都合よくこっちの聞きたいことをしゃべってくれている気がするのだけれど。
『もう準備はバッチリだったりして。自転車にはアシストモーターをつけたし、マラソン用のスペシャルドリンクのブレンドもバッチリ。滝に打たれて、水への対策も完璧だもんね。これなら優勝も狙《ねら》えるかもかも』
それは、完璧とはほど遠いというか、本質が間違ってないかしら。肝心の基礎能力の鍛錬《たんれん》はぜんぜんできていないと思う。だいたい、競技に補助動力つきの自転車なんて使っていいものなの。ドリンクはまあ、あながち的外れではないかもしれないけれど、滝の修行でどうしたら水泳が上達するのかしら。
「まずは形からですから、いいのではないでしょうか」
いや、それはツクツクさんの場合でしょうに。それを一般論にしてもらっても困るわ。だいたい、形にすらなっていないと思わないのかしら。
『では、ここで最近の御近所ニュースのコーナー。今年のハロウィーンは落下事故もなく、無事に終わった模様。みんな、いたずらはうまく回避できたかな』
うっ、なんか嫌なことを思い出しかけた気がする。
『さて、次のニュースは先日の停電に関するものだよ。あちこちでブレーカーが落ちまくったらしくて、たいへんだったらしい。さる所では、その間ずっとメイドさんが眠っていたので、一人で起きていた御主人がすべての仕事をやらなくてはならなかったそうだ。まあ、いつも人まかせにしていた罰《ばち》があたったんだな。みんなも気をつけろよ』
そういえば、そんなこともあったわね。
『そうそう、少し前にどこかで温泉が湧《わ》いたらしいが、すぐに吹っ飛んだそうだ。怖いねえ』
「よけいなお世話……」
声を揃《そろ》えてしまって、あたしとツクツクさんはお互いに苦笑いした。
しかし、あれはニュースになるほどの事件だったのかしら。というか、これはどこの地方のニュースなんだろう。ものすごくローカルじゃない。本当に御当地ニュースだわ。
もしかすると、この番組はこのあたり限定のローカルミニFM局のものなのかしら。
『では、ここでCMです』
ちょうどいいわ、周波数を確かめてみよう。
『――旅行にいくなら、空色風船社へどうぞ。世界中のどこへでも、飛行船で快適な旅をお約束いたします。お問い合わせは……』
CMの途中で、あたしはラジオに手をのばすと、チューニングダイヤルを回してみた。
「ああ、ミス・メアリー、何をするんですか」
音声が途絶《とだ》えて、ツクツクさんがあわてる。
でも、肝心の周波数のメーターに数字が書いていないため、どこの周波数なのかはっきりしない。あ、でも、周波数が分かっても、あたしはどこのラジオ局がどの周波数なのかを把握してなかった。これじゃ意味ないわよね。
「だめですよ、ミス・メアリー」
勝手にラジオをいじくり回すあたしから、ツクツクさんがラジオを奪《うば》い取った。慣れた手つきで、即座に選局をしなおす。
『ふう、やっと戻ってこれたぜ。さて、お便りのコーナーでも始めるかな』
うーん、あたしがいじってる間にCMが終わって、番組の中でも何かがあったらしい。トムおじさんも少し席を外していたのかしら。
『最初のお便りは、ええと、名前がないなあ。とりあえず、匿名希望さん』
トムおじさんがすうーっと大きく息を吸い込む音が聞こえた。
『ししょー! 帰ってきてくださーい! ボクの研究が進みませーん! 後生《ごしょう》ですから、大学に顔出してくださーい!』
突然ラジオから聞こえてきた叫び声に、思わずツクツクさんがのけぞった。ふいをつかれたあたしも、あわやイスから転げ落ちそうになる。
「誰なんでしょうね、この匿名さん」
「さあ」
ひきつり笑いを隠せないツクツクさんに、あたしは短く答えた。
『次のお便りは、住所不定の白うさぎさん。あれ? 何も書いてないなあ。でも、素敵《すてき》な絵葉書だねえ。これは、森の中の古城といったところかな。バルコニーにぬいぐるみをだいた美人がいるけれど、この人が白うさぎさんかな』
その絵葉書の差出人って……。
まあ、普通は、誰だってそう思うわよね。というか、なぜ傍《かたわ》らに美人。
『では、次の曲は白うさぎさんのリクエストで、アルマ・コーガンのフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』
スタンダードジャズのメロディとともに、女性の透明な歌声が聞こえてくる。
いい趣味だわ。そのうち、本当に月までいってしまうかもしれないわね。
「お茶のおかわりはいかがですか」
「うん、いただくわ」
ツクツクさんがお茶を作りにいっている間、あたしはのんびりと音楽を楽しんだ。
「放送局が分かれば、あたしもリクエスト葉書出すのになあ」
「おかわりできましたよ」
新しい紅茶と、ビスケットを持ってツクツクさんが戻ってくる。
『ここでCMです。植物のことなら、桜印植物病院へ。青い小さなベロニカから、桜の木、なんでしたらメタセコイアまで、なんでも治療いたします』
CMの間に、新しくツクツクさんが入れてくれた紅茶に、あたしは薔薇《ばら》の形の角砂糖を一つ落とした。
『では、次の曲にいきましょう。リクエストは、トゥックトゥ……いてててて。ええと……』
トムおじさんが舌を噛《か》んだ。って、今呼ばれたのは……。
「ツクツクさん?」
「私ですか?」
ちょっと驚いたように、ツクツクさんが自分を指さす。
『そうそう。そのツクツクさんのリクエストで、ピーター・ポール・アンド・マリーのパフ』
はずむようなリズムのドラゴンの歌がラジオから流れて……。
「問題はそこじゃないわ」
「いや、何が問題なんですか。まさかリクエストが読まれたということが……」
確かにそれも大問題だわね。いったい、いつの間にリクエスト葉書を出したのかしら。レトロなラジオの外観に惑わされていたけれど、さっきキッチンに引っ込んだ間にメールでラジオ局にリクエストを送ったってことはないでしょうねえ。番組のことはよく知らないと言っていたくせに、まだうまくごまかされたのかしら。
「それは後で追求するとして……」
「追求するのですか」
「もちろん」
あたしは思いっきりうなずいた。
「それよりも、今、思いっきりあたしたちの会話に反応しなかったかしら、このラジオ番組」
『そ、そんなことないと思ったりなんかするわけだったりして』
なんですとー。
あたしは、勢いよく立ちあがるとテーブルの下にもぐり込んだ。
「いったいどうしたのですか、ミス・メアリー」
驚いたツクツクさんが、身をかがめてテーブルの下をのぞき込んだ。
「いや、どこかに盗聴器《とうちょうき》がないかと……」
「盗聴器ですか!?」
きょとんとしたツクツクさんの目と、上目遣いに見上げたあたしの視線がぶつかる。
「だっておかしいじゃない。このラジオ、あたしたちの言葉にいちいち返事してるのよ」
『気のせいですよ』
「ほら!」
絶対、どこかに盗聴器がしかけられているに決まっているわ。あたしは、きょろきょろと周囲を見回した。
「いくらなんでも、そんなスパイ映画みたいなことはないと思いますよ」
『うんうん』
ツクツクさんの言葉に、ラジオの中の声が思いっきりうなずく。
「絶対、間違いない」
ええい、これはいたずらカメラか何かなの。どこかに小型カメラとかあるんじゃないでしょうね。
「それはないと思います。でも……」
「でも、何?」
あるの? 本当に盗聴器とカメラがあるの?
「でも、たぶん、そういう番組なんですよ。こちらの様子を予想して、それに合わせた放送をするという……」
そんなわけないでしょうに!
「さあ、どこに隠してるか言いなさい」
あたしは、ラジオにビシッと指を突きつけて言った。
『では、ここでCMです。缶詰を作るなら御家庭で簡単に……』
「あー、はぐらかした!」
くえない相手だわ。
いったい、このラジオはどうなってるのよ。あたしは、両手でがっしりとラジオをつかんだ。
「ええい、仕掛けはどこにあるのよ。白状《はくじょう》なさい!」
そのままラジオをブンブンとシェイクする。
『ひゃああああぁぁ……』
「あああ、そんなことをしたら壊《こわ》れてしまいます」
なんとも言えない悲鳴が聞こえてくるラジオを、あわててツクツクさんがあたしから奪い取った。
『ひ、ひろいびゃないはあ、おひょうたん!』
ろれつの回らない口調で、ラジオの中からトムおじさんが文句を言った。あたしは瓢箪《ひょうたん》じゃないぞ。
まったく、これじゃラジオそのものがしゃべっているみたいじゃない。
「それとも、なあに、このラジオは生きてるとでも言うの」
「物神《ぶっしん》ですか?」
「何それ」
「いえ、長い間非常に物に愛着をもって接すると、いつの間にか意志をもつという言い伝えで」
そういえば、前にもそんな話をツクツクさんから聞いたことがあったような。とにかく、ツクツクさんの家にある物は怪《あや》しい物が多すぎるわ。
『そうか、俺は神だったのか』
トムおじさんが、すごいことに気づいたと言わんばかりにつぶやいた。
でも、それは違うわね。絶対。
「まあ、双方向ラジオだと思えば、あまり気にすることもないと思いますよ」
「そういう問題じゃないと思う」
トムおじさんの言葉は華麗《かれい》に無視して、あたしはツクツクさんに言った。
「誰かにどこかから監視されてるって、気持ち悪いと思わない」
「うーん、本当にそうだったらこのラジオのスイッチを切ってしまえばいいことですから。それに、もし、変な機械が私の家につけられていたとしたら、絶対に見つけていますから大丈夫ですよ」
あいかわらずツクツクさんの保証はあてにならないわ。
「それに、今はいいじゃないですか。私たちの声に答えてくれるのが、ラジオ番組というものなんですから」
『そうそう。リスナーあっての俺だからねえ』
トムおじさんが相づちを打つ。
「でも、答えすぎじゃない」
『そんなことはないさ』
うーん。トムおじさんの正体の尻尾がつかめない限り、ツクツクさんのように番組を楽しんだ者が勝ちということなのかしら。確かに、ラジオというのは、ときとして一番身近な話し相手なのかもしれないけれど。
「じゃ、あたしのリクエストにも応えてよ。そうね。オーバー・ザ・レインボーとかどうかしら」
『オッケー。リクエスト受けつけたぜ。お嬢《じょう》ちゃん』
「メアリー・フィールズ」
『オッケー』
あたしが名乗ると、すかさずトムおじさんが了解した。
『さて、次のリクエストは親愛なるメアリー嬢から、ジュディー・ガーランドのオーバー・ザ・レインボー』
おなじみの曲がラジオのスピーカーから流れてくる。
「なんだか、ペテン師のラジオを聞かされているみたいだわ。まるで、オズの大王がパーソナリティーやってるみたい」
この番組って、本当に電波に乗っているのかしら。もしちゃんと発信してるとすれば、このやりとりのトムおじさんの台詞《せりふ》だけが他のラジオでも受信されているというわけよね。それって番組として意味不明じゃない。
「もしかして、ラジオ番組っていうのも嘘《うそ》じゃないの」
『ギクッ』
いや、ラジオだからといって、心情を台詞で言わなくても。分かりやすすぎる。
あからさまに、信用度が落ちたわね。
「まあまあ。オズの大王も、最後にはちゃんとした魔法使いになったことですし」
疑いのまなざしをラジオにむけるあたしを、ツクツクさんがなだめた。いったいどういうフォローなのかしら。
『さ、さて。そろそろ時間がなくなってきました。楽しい時間はあっという間にすぎるもの。お別れの曲は、アート・ガーファンクルでブライト・アイズ』
「ちょっと、勝手に終わるな!」
叫んだけれど無駄だった。音楽がフェードアウトしていく。
「ああ。何も聞こえなくなっちゃった」
あたしは再びラジオを手に取ると、上下左右表裏に振ってみた。
「だめですよ、壊れるって言ったじゃないですか」
ツクツクさんの声もむなしく、ラジオの裏ぶたのような物がバカリと外れた。
元がドールハウスだったそうだから、取り外し可能の壁の部分だったのだろう。
「これって……」
ラジオの中身は、小さなミニチュアの放送スタジオだった。小人でもいるのかと隅まではじくるように探したけれどトムおじさんの姿はなかった。
いや、単純にスタジオのミニチュアなだけで、パーソナリティーまでミニチュアでいるとは限らないじゃない。ああ、もう混乱してきた。
それに、あたしが乱暴に振り回したせいか、スタジオの中の小道具はぐちゃぐちゃになっていた。
「さて、放送も終わったことですし。ラジオはかたづけましょう」
裏ぶたをはめなおすと、ツクツクさんがラジオをかかえた。
「ちょっと、ツクツクさん……」
呼び止めるあたしを振り切るようにしてツクツクさんがラジオを持っていく。
「いいわよ。その代わり、来週もまたそのラジオ聞かせてよ」
『残念。今日が最終回』
ツクツクさんの運ぶラジオから、トムおじさんの声が聞こえた。
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冬は氷下の清水
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☆
町にジングルベルが流れ出すころ、あたしの家はカオスと化していた。
それはもう、電気のケーブルがリビングの床の上をはいずり回り、足の踏《ふ》み場《ば》もないくらいだ。
これというのも、あたしたちの町の最近の流行がすべていけない。
クリスマスデコレーションといえば、ツリーをいろいろと飾るものだけれど、最近の流行は家そのものを飾りたてるものになっている。誰がはやらせたのかは知らないけれど、今回ばかりはツクツクさんが発祥でないのが唯一《ゆいいつ》の救いかもしれない。
本来は、自分たちの好きなように、自分たちの好きな程度飾ればそれでいいと思う。
でも、そのへんは御近所との釣《つ》り合《あ》いという物があるらしい。
一軒だけ下派手でもちょっとおかしいし、一軒だけまったく飾りがないというのも統一性を欠く。
そういうわけで、あたしの家もそれなりの飾りをしなければならなくなったというわけ。
まったく、なんでこんなことしなくちゃいけないんだろう。
幸いというか不幸というか、うちのママはノリノリで電飾やら置物やらを買い込んできた。きっと、町のファンシーショップは、今月は大儲《おおもう》けしているんじゃないかしら。
ただでさえ、この時期にはクリスマスツリーなんかの家の中の飾りつけだけでも大仕事だというのに。
それにしても、豆電球のついたケーブルを部屋の中でぶちまけたのは、ママの大失態だと思う。ちゃんと箱の中に巻いてしまってあったのだから、それを端から引っ張り出していけば楽だったのに。いくらその端っこが見つからないからって、逆さにして箱から全部出してしまうのは、絶対に無謀だったと思う。
「メアリー、それお願いね」
早々と屋外のイルミネーションをあたしに押しつけると、ママが室内担当宣言をした。
卑怯《ひきょう》な。
とはいえ、室内飾りの惨状《さんじょう》も、たいして変わらない気もする。それに、クリスマスケーキや七面鳥も焼かないといけないし。ちょっと寒いけれど、外の方が開放されている分気分的に楽なんじゃないかしら。
とにかく、なんとかしてこのとんでもない量のケーブルを運ばなきゃならない。とはいえ、これをまた箱にしまえというのは一種の拷問《ごうもん》だ。無理。
引きずっていくと豆電球が割れる可能性があるわね。かといって、かかえて持っていくには無理そうだし。
いっそ、お隣にいって救援を頼もうかしら。
いやいやいや。ツクツクさんのことだわ、今ごろはこんな物じゃない膨大《ぼうだい》の怪《あや》しい飾りとともに、自分の家の周りをかけずり回っているに違いないわね。とても見るのが怖い。
へたに助けを求めたら、あたしの家もツクツクさんの家のようなトンデモになってしまうかもしれないじゃない。それは怖すぎる。
しばらく悩んだ結果、あたしは一計を案じて身体にケーブルを巻き始めた。これなら、なんとか運べるかな。あまり頭のいい方法ではないかもしれないけれど、さっさと運ぶにはこれしかない。うん、そういうことにしておこう。
巻きつける途中で、探していたコンセントの部分も無事発見した。これでなんとかなるでしょう。
どでかい古タイヤの浮き輪をかかえ持ったような格好で、あたしはよたよたと家の外へと出ていった。重いし動きにくいけれど、なんとかするしかない。
やっとのことで玄関の外へと出ると、あたしは道路に面した壁を電飾で飾るべく、作業を開始して……、開始して……、あれ、あれ?
「ミス・メアリー、何を踊っているのですか?」
見失ったコンセントを探してケーブルの束《たば》を持ち上げたり下げたりしているあたしを見て、運悪く通りかかったツクツクさんが思いっきり不審《ふしん》そうに訊《たず》ねた。
なんで、こんな時間にあたしの家の前を歩いているのよ!
「いえ、飾りつけのためにちょっと買い物を……。それにしても、奇抜《きばつ》な仮装ですね」
「ちがーう!」
思いっきりツクツクさんを睨《にら》みつけて、あたしは叫んだ。ハロウィーンじゃあるまいし、なんでクリスマスに仮装なんかしなくちゃいけないのよ。それも、クリスマスセールのコンパニオンのようなミニスカートのサンタ娘ならいざ知らず、電飾にぐるぐる巻きにされた一般人なんて、シュールすぎてわけが分からないでしょうに。
「つまり、電飾のケーブルを運んでいたら、絡《から》まってしまって、身動きがとれなくなってしまったと……」
「それも、違うったらあ」
誤解もはなはだしい。
「とにかく、助けてよ」
このままではにっちもさっちもいかないので、不本意ながらツクツクさんに助けを求めた。
「屋外に飾るのでしたら、ライトがむき出しの物よりも、チューブライトかカーテンライトの方がよかったのですけれど」
「だって、家にはこれしかなかったんだもの」
ない物は出せない。
「ああ、ありましたありました」
なんとか、ツクツクさんがコンセントを発見してくれた。
「こっちへ移動してもらえますか」
屋外電源タップの場所へと、ツクツクさんがあたしを連れていく。
ツクツクさんがコンセントをさし込むと、あたしがキラキラと輝きだした。これじゃ、人間クリスマスツリーだわ。
「ちょっと、ツクツクさん、早くなんとかしてよ」
「トゥックトゥイックですったら。このまま壁にとりつけていきますから、あなたは少しずつ回ってケーブルを解《ほど》いてくださいね」
言いながら、ツクツクさんが、壁にとりつけられている金具にケーブルを引っかけ始めた。そのへんの下準備は先にやっておいてよかった。
ツクツクさんがケーブルを壁にかけていくのに合わせて、あたしはくるくると回ってケーブルを解いていく。踊っているというよりは、なんだかコマになったような気分だわ。
「ミス・メアリー、もうちょっと元気よく回ってください」
ケーブルをつんつんと引っぱりながら、ツクツクさんが言った。
手際《てぎわ》がいいのは認めるけれど、これは結構目が回るのよ。
身体中にとりついた明かりをぐるぐるとブン回しながら、あたしはケーブルを解いていった。
ツクツクさんの作業が進むにつれて、あたしにまとわりつく明かりが減っていく。ほどなく、あたしは解放された。
「うーん、こんなものでしょうか」
あたしの家の壁に描かれた「メリー・クリスマス」の文字を見つめて、ツクツクさんが言った。キラキラと明滅《めいめつ》を繰り返して輝く文字は、シンプルだけどそれなりにアイデンティティーをもっていると思う。ただ電飾を壁に這《は》わせただけじゃ芸がないものね。
「ありがとう。助かったわ」
あたしは、ちゃんとツクツクさんにお礼を言った。
「どういたしまして。それで、もしよろしければ、私の家の飾りもちょっと手伝ってはいただけないでしょうか」
ちょっと言いにくそうにツクツクさんが言った。
あたしの家の屋外の飾りは、後は玄関のリースにスポットライトをあてるだけだから、お手伝い自体に問題はないけれど。でも、ツクツクさんの飾りの手伝いと言われると、ちょっと不安がよぎる。
あたしは、ツクツクさんの家の方へ、おそるおそる視線をむけてみた。今まで余裕がなかったので、お隣を見ていなかった。
「わあ!」
思わず驚《おどろ》きの声をあげてしまう。
ツクツクさんの家は、家全体がキラキラと輝いていた。
「派手ねえ。でも、これじゃ手伝う必要なんてないんじゃないの」
これ以上いったい何をするのかと、あたしはツクツクさんに訊ねた。
庭には、電飾で作られたトナカイやタヌキの姿もあるし、目を凝《こ》らせば玄関の狛犬《こまいぬ》が赤いサンタ帽を被《かぶ》っているのも分かる。
いったい、これはなんのお祭りだと言うのかしら。
まさか、これ以上のカオスを広げるつもりじゃないでしょうね。
それにしても、ツクツクさんったら、どうやってこれだけのイルミネーションを外壁にとりつけたのかしら。一階から二階、はては屋根の上まで、ぴかぴかに光り輝いている。
「いいえ、このキラキラが問題でして……」
ツクツクさんが玄関のドアを開けた。
「うわお」
思わず声をあげてしまう。
ツクツクさんの家の中もキラキラだ。
ちょっと、目が痛い。
「とりあえず入ってください」
ツクツクさんの後について、あたしはキラキラの家の中に入っていった。
間近で見てみると、なんだかこのキラキラはちょっとおかしい。
壁に埋め込んであるのか、はたまた、細いテグスでぶら下げているのか、ケーブルがどこにも見あたらないじゃない。それどころか、このライトたち、ゆっくりと動いてないかしら?
光に目が慣れてくると、光の正体が見えてきた。ライトというよりは、虹色の光るフィルムで作った小さなボンボンみたいだ。多少大きさにばらつきがあるけれど、大きい物でもピンポン球ぐらい。
ちいちゃくて軽いから、ふわふわ浮かんでいるように見えるのかしら。いったい、どんな飾りなんだろう。
あたしは、そろりと指をのばしてみた。
「ああ、光にさわらないでくださいね。たまに痺《しび》れたりするかもしれませんから」
ツクツクさんに言われて、あたしはのばしかけた手をあわてて引っ込めようとしたけれど、ちょっと遅かった。
パチン。
指先が触れたとたん、ビリッとした刺激が走って、光の塊《かたまり》が弾《はじ》けて飛んだ。
「いったーい」
ちょっとひりひりする指先をさすりながら、あたしは弾け飛んだ光の破片を探してみた。けれども、破片はどこにもない。完全に消えてしまったのか、小さな塊に分裂してしまったのかしら。もし分裂してしまったのだとしたら、これは結構たいへんなことになるわ。
「私も、さっき思いっきり全身でビリビリを体験してしまいましたから」
「ちょっと、そういうことは早く言ってよ」
全身って、この光るボンボンの上でゴロゴロと転がりでもしたのかしら。
「いちおう、飛びかかってきたりはしないと思いますから。たぶん」
さらに不穏当《ふおんとう》な言葉を、ツクツクさんが口にした。
「飛びかかるって、たぶんって……。ちょっと、いったいこれはなんなのよ」
あたしは、壁と言わず天井といわずはびこるキラキラを遠巻きに見ながらツクツクさんに訊ねた。唯一の幸いは、床にはびこっていないことだけみたい。
おそるおそるリビングに進むと、そこも光の洪水だった。
よく見ると、その小さな光の塊はたまにふわふわと壁を離れて飛んでいたりする。
新種の巨大ホタル?
「いや、この時期にホタルはいないと思うんですが」
それ以前に、生き物には見えないし、こんなピンポイントな場所に大量発生する方がおかしいわよねえ。
「ええと、ちょっと知り合いの所によって戻ってから、家のイルミネーションを飾り始めたんですが。なんだかキラキラがだんだんふえていってしまいまして……」
「その友達とかいう人の所から、何か連れてきたとかじゃないでしょうねえ」
「うーん、余ってる電飾をお土産《みやげ》にもらってきただけなんですが。生きのいい電球だとは聞かされてましたが、この光は生きがよすぎますよねえ」
光に生きがいい物があるかどうかはすごく疑問だわ。それは、今にも消えかかっている電球は生きが悪いと言えるかもしれないけれど。だからといって、逆の意味の生きがいい電球はこんなふうに増殖したりはしないと思う。
結局、またツクツクさんの怪しいお友達が原因と見て間違いはなさそうね。
「たぶん、生きのいい明かりに誘われて、空のお星様が下りてきたんじゃないでしょうか」
その意見は、あまりに突拍子《とっぴょうし》がなさすぎるので却下。
「それで、この惨状をいったいどうするのよ」
これ以上ふえる前に、早くなんとかしないと。遠くから見る分にはすごく綺麗《きれい》だけど、この状況下で普通の生活を営《いとな》むのは無理だと思うわ。
あ、でも、普通の生活でなければ……。
「そこで、なぜ私を見ますか」
なんとなく。いや、必然的に。
「これの正体が分からないと、どうしていいのか分からないわよ」
さわらないように気をつけつつ、光をつんつんしながらあたしはツクツクさんに言った。
「やはり、お星様でしょうかねえ」
そういった意見は横に横におくとして。
「ああ、ひどい……」
それにしても、いったいどうしたらいいのかしら。
「まあ、クリスマス当日までは、このままでも目立って素敵《すてき》ですが」
「それは……。でも、ずっとこのままじゃ困るじゃない」
ツクツクさんがよくっても、お隣がこんなキンキラキンでは、夜中にまぶしくて寝られなくなるわよ。
第一、クリスマス過ぎたら元通りになるという保証なんてないんだから。
これは、なんとしても状況を打破《だは》しないと、あたしが困るわ。
まったく、なんでこういう無意味なクリスマス飾りがはやってしまったのかしら。そのおかげで、またこういうことになっちゃうんだから。あたしとしては、迷惑この上ないわ。
「そうですか? 面白いと思いますが」
「そりゃ、お祭り好きのツクツクさんにとっては面白いでしょうけれど。こういう飾りになんの意味があるのよ」
「これは、一つのクリスマスプレゼントだと思うのですよ」
それって、誰が誰に対してあげたプレゼントなのかしら。
「とりあえず、なんとかしましょうよ」
あたしは、脱線している話を元に戻した。
「しかたない。ミス・メアリー、あれを」
ツクツクさんが、ソファーに載《の》せてあった物を指さした。
目の細かい捕虫網《ほちゅうあみ》だ。
「これって、やっぱりホタルみたいな虫だったというわけ?」
「いいえ、星を取って集めるのには、これが一番いいと思いまして。さしずめ、星取網といったところでしょうか。さあ、集めるとしますか」
そう言うと、ツクツクさんは捕虫網で光る塊を捕《つか》まえ始めた。
網がヒュンと空気をかき回して風を起こすと、壁に張りついていた星がふわりと舞い上がった。あんまり勢いよすぎるとまずいわね。
「集めた星は、この袋に詰めてください」
ツクツクさんが、星と言いはる物を網から大きなゴミ袋の中へと落とした。
人が直接さわらなければ、弾けることはないらしい。
「やれやれだわ」
しかたなく、あたしはツクツクさんにならって星のような物を集め始めた。手伝うと言ってしまった手前、ここで投げ出すわけにもいかない。
相手が流れ星のような猛スピードで逃げるわけじゃないから、意外と簡単に捕まえていける。ふわふわと動く星のような物をどんどん袋に入れていくと、ときどきツクツクさんがいっぱいになった袋を押し縮めてまた入れられるようにしていった。
見た目より小さいのかしら。それとも、押し固められるということはタンポポの綿毛のような物なのかしら。どちらにしろ、押し固めていけば、ゴミ袋一つに入りきる物体らしい。
ばたばたと屋内を走り回り、なんとか星のような物たちを一掃《いっそう》する。
キンキラキンがおさまってしまうと、ちょっと室内がもの足りない。後で、ツクツクさんの飾りつけのやりなおしを手伝おうかしら。
「ふう。中はだいたいなんとかなりましたね。後は外ですか。私は屋根の星をなんとかしますので、あなたは下から壁にいる星を捕まえていただけますでしょうか」
「了解」
とりあえず、あんまり時間がかかると真夜中になってしまうわ。それはさけたい。
外へと出てみると、星のような物たちは、壁の上を跳《は》ねるようにして元気に動き回っている。
その星のような物の光が明るすぎるのか、見上げた夜空は真っ暗だった。たぶん曇《くも》っているのだろうけれど、星がまったく見えない。
でも、お月様は見えているような……。
まさか、本当に星がここに集まったとはねえ。さすがに、それは考えたくもない発想だわ。非科学的にもほどがある。
あたしは、壁に張りついた星のような物をどんどん捕まえて袋にねじ込んでいった。
ツクツクさんは、屋根の上に星取網をのばして星のような物を捕獲している。柄《え》がしなっているとは思うのだけれど、なんだか網がぐにゃりと曲がって星のような物たちをナイスキャッチしているのは気のせいかしら。
あたしはといえば、なんとか背伸びして高い所にいる星のような物をがんばって捕まえていた。
これって、ツクツクさんの方が屋根なんで手間のように思えるけれど、家の四方の壁だなんて、あたしの方が圧倒的に面積が広いじゃないの。
うまくはめられてしまったのかしら。
案の定、あたしがまだ半分も捕まえないうちに、ツクツクさんがこちらへと合流してきた。
「もう少しですね」
ツクツクさんが、背の高さをいかして、あたしが取り損ねていた星のような物をひょいひょいとすくい取っていく。
やっと星のような物たちが一掃されると、後にはツクツクさんが飾りつけたのだろうイルミネーションカーテンが壁の上で綺麗に明滅していた。蛍光色《けいこうしょく》に近いランプの色はちょっと特徴的で、涼しくも暖かい不思議な色合いだった。
ほんのちょっぴりだけ、この光に誘われる者がいても不思議ではないと思ってしまう。ただ、星のような物が近くを跳ね回ったせいか、結構な数のランプが割れていたのがもったいなかった。
「やれやれ、これでやっと落ち着けそうですね」
ツクツクさんが、最後の星のような物をゴミ袋の中へと入れた。袋の中は星のような物でパンパンだ。これじゃ口が縛《しば》れそうもない。
「まったく、手間がかかった……」
「ああ、ミス・メアリー、そんなふうに押したら……!」
袋の口を手で押さえながら、あたしはツクツクさんがやったように中身を圧縮しようとした。それを見たツクツクさんがあわてて止めようとしたけれど、時すでに遅かった。
パンパンパン!
連鎖反応的に星のような物たちの爆発が起きた。
あたしの手から、ゴミ袋が勢いよく跳ね上がる。その勢いで倒れかけたあたしの身体を、ツクツクさんが間一髪でだきとめた。
パンパンパパン!
激しい爆発音を轟《とどろ》かせながら、星のような物を満杯したゴミ袋が飛び上がった。そのまま、スパークのような光を放ちながら空高く上っていく。
唖然《あぜん》としてその行方《ゆくえ》を目で追っていくと、空高く上ったゴミ袋がついに爆発した。
まぶしい光に、あたしは目を閉じた。
再び目を開けると、すでに星のような物たちのつまったゴミ袋はどこにも見あたらず、かといってその残骸《ざんがい》も落ちてはこなかった。
ただ、真っ暗だった空が、一瞬で雲を取り払われたように満天の星空に生まれ変わっていた。花火のような爆発で、雲が吹き飛ばされでもしたのかしら。まさか、今のでお星様が空に戻ったとは考えたくないけれど。
さすがになにごとが起きたのかと御近所で一斉に窓を開ける音が聞こえたけれど、爆発の一瞬を見たわけではないのでみんな首をかしげるばかりのようだ。聞かれても返答に困るので、あたしはツクツクさんを引っぱってそそくさと家の中へ避難した。
「まあ、綺麗になったことですし、これでよしということにしましょう」
リビングでお茶を飲みながらツクツクさんが言った。今回の労働の報酬《ほうしゅう》としては、ツクツクさんが淹《い》れてくれた一杯のお茶ではちょっと安い気もする。せめて、ブッシュ・ド・ノエルのケーキがほしいわ。
「うー。結局あれはなんだったのよ」
納得がいかなくてあたしは唸《うな》った。さすがに、本物のお星様だとは言いたくない。
「では、お星様からのプレゼントということでどうでしょうか」
「プレゼントって、誰《だれ》宛《あて》なのよ」
あたしはツクツクさんを問い詰めた。
「そうですねえ。でも、プレゼントという物は、必ず誰から誰宛でなければいけないというものなのでしょうか。流行のクリスマスイルミネーションも、特定の誰か宛ではありませんし。しいて言えば、自分以外の誰か宛の物でしょうから」
「それって、プレゼントになるのかしら」
「ええ。クリスマスだって、元の意味はいろいろあるでしょうけれど、今では神様から神様以外のみんなへの、立派なプレゼントなのですから」
まあ、本来は神様に対するお祝いのお祭りなのに、実質的には家族や友達で楽しむお祭りになっているのは事実だけれど。クリスマス自体が、壮大なプレゼントなのかしら。
とりとめがなくなって、あたしは庭に目をむけた。
三日月の形をしたガーデンライトだけが、煌々《こうこう》と光を放っている。
星のような物たちの明かりがなくなって、ちょっと夜の暗さが寂《さび》しげだ。けれども、その代わりなのかもしれないけれど、夜の空気はなぜか特別にすがすがしかった。まるで、星のような物たちが、大気を清めていったみたいに。
「まあ、壮大なプレゼントというものもいいですけれど、普通に人から人へのプレゼントもいいものですよ。すべての明かりが、空へ帰ってしまったわけではありませんから」
そう言うと、ツクツクさんが小さな箱をさし出した。クリスマスの包装紙《ほうそうし》につつまれた小箱には、緑と赤のリボンが結んである。
「ちょっと早いですが、メリー・クリスマス、ミス・メアリー」
つつみを開けると、中からは星形をしたイヤリングが出てきた。
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☆
「寒い」
ほうっと、あたしは両手に息を吹きかけて暖めた。
部屋の窓には、暖房で細かい水滴がついていて、まるで曇《くも》りガラスのようだわ。そのむこうは、白く光っている。
雪明かりだ。
いつの間に雪が降っていたのかしら。
「布団から出たくなーい」
あたしは、猫のように身を丸くして叫んだ。
昨日は早く寝たから、夜のうちに雪が降りだしたのなら、結構積もっているに違いないわね。
それならばソリ遊びというのも悪くはないけれど、ちょっとこの寒さは心の天秤《てんびん》をがっしりと押さえ込んだまま動かしてくれそうもないわ。
今は、ぬくぬくのウエイトが一番よ。
布団の中で自分の体温を反芻《はんすう》してむさぼっていると、なんだか変な音が聞こえてくる。
サク……、サク……、サク……。
耳をそばだてないと聞き逃《のが》してしまいそうなかすかな音だけれど、確かに聞こえる。
誰かが、雪を踏みしめて歩く音かしら。それにしては、音の間隔が長いわ。
サク……、サク……、サク……。
足よりも、もっと金属的な、何かが雪に刺さるような音。スキー、というわけではなさそう。ソリも違う。
サク……、サク……、サク……。
うーん、まさか誰かがかき氷を作ったり食べたりしているわけじゃないでしょうね。
サク……、サク……、サク……。
雪だるまでも作っているのかな。
そうか、雪かきだわ。きっと誰かが大きなスコップで雪を掘っている音なのよ。
で、そこまで考えを絞《しぼ》っていくと、そんなことをしている人間は一人しか思いつかなかった。
きっとツクツクさんだわ。
でも、そうだとすると、何をしているのかしら。
本当にただの雪かきかもしれないけれど、ツクツクさんのことだからただの雪かきだとはとても思えない。それとも、本当にあわてて雪かきをしなければいけないくらいの大雪なのかしら。
「ツクツクさーん」
布団の中から声を出してツクツクさんを呼んでみる。
サク……、サク……、サク……。
うーん、聞こえてはいないみたいだ。雪かきの音はいっこうに止まらない。
もう一度呼んでみよう。
「ツクツクさーん、何をしているのー。ツクツクさーん!」
さっきよりも大きい声をはりあげてみる。
あう。ちょっと動いたので、布団の隙間《すきま》からぬくぬくが逃げていった。もったいない、もったいない。
「ツクツクさん。聞こえないの。ツクツクさん!!」
あたしはあらん限りの大声で叫んだ。
いけない、これじゃママが驚《おどろ》いて飛んできそうだわ。
どうにも、布団から出て窓を開けないと、外にいるツクツクさんにあたしの声は届かないみたい。
うーん、気になる。
いったい、ツクツクさんは何をしているんだろう。
でも、このぬくぬくも貴重だわ。
いったん手放してしまったら、もう二度と戻ってはこないもの。
ああ、どうしたらいいのよ。
サク……、サク……、サク……。
ぬくぬくぬく。
サク……、サク……、サク……。
ぬくぬくぬく。
サク……、サク……、サク……。
あー、しかたない。確かめてあげるわよ。まったく、ツクツクさんったら、何もこんな日に何かを始めることはないじゃないの。
意を決すると、あたしは布団をはねのけた。
「あっ……」
一瞬にしてあたしは固まった。
ぬくぬくさん、さようなら……。
「さぶい……」
寒いのよー。
あわてて掛け布団ごと毛布をマントのようにひっ被《かぶ》る。
ぬくぬくよ、生き返れー。生き返れー、生き返れー。
呪文《じゅもん》のように繰り返すと、ほんのちょっぴりだけぬくぬくが戻ってきた。
ずるり。
あたしは、ベッドから這《は》うようにして床に落ちた。
なるべく寒気《かんき》があたしと布団の間に入らないようにと気をつけながら、ずるずると窓の方へと這いずっていく。
誰も見ていないんだから、こんな姿でもかまわないわ。そういうことにしておこう。
ずるずると進んでやっと窓に辿《たど》り着くと、あたしはゆっくりと立ちあがった。あ、またちょっと、ぬくぬくが抜けていく。もったいない、もったいない。
窓ガラスを通じて、外の寒さがひしひしと顔に伝わってくる。まるで窓から冷凍光線でも出ているようだわ。
あたしの息がかかったのか、窓ガラスを曇《くも》らせていた水滴が少し大きくなってつーっと滴《したた》り落ちた。
ううっ、この期《ご》におよんで、ちょっと窓を開けたくなくなる。きっと、外はブリザードが吹き荒れているんだわ。きっとそうよ。
まったく、ツクツクさんったら、何をやって……。あれ、いつの間にか音がしなくなっている。
あたしは、あわてて窓の曇りを手でふいた。
冷たーい。
ブルンと身をちぢこませると、目を閉じて手の寒さに耐える。
再び目を開けると、手でふいた曇りガラスの小窓いっぱいにツクツクさんの顔があった。
「きゃあ!」
驚いたあたしは、少しのけぞったひょうしに布団の端を踏んでバランスを崩《くず》してしまった。そのまま、ドスンと尻餅《しりもち》をつく。ああ、ぬくぬくがあ……。
『大丈夫ですか、ミス・メアリー』
窓ガラスのむこうから、ツクツクさんのあわてた声が聞こえてきた。間近だったからなんとか聞こえたものの、くぐもっていてちょっと聞きとりにくい。
「もちろん、大丈夫よ」
平静を装《よそお》って立ちあがると、あたしは勢いよく窓を開けてみせた。
寒い。
とっても寒い。
でも、ツクツクさんの手前、それに耐える。
「いったい、いつからそこにいたのよ」
「聞きたいですか?」
あたしの問いかけに、ツクツクさんがシンプルに聞き返した。
「いい……」
あたしは、プルプルと頭を横に振った。
たとえ布団お化けとなって床を這っているところを見られたのだとしても、そうだと言われなければまだ耐えられるわ。いえ、耐えてみせる。
「ミス・メアリー、なんで、にぎり拳《こぶし》なんか作っているんです」
ツクツクさんが、あたしの決意にチャチャを入れる。
「そんなことはいいのよ。それよりも、ツクツクさんは何をしていたの?」
被った布団の前を合わせて寒さを防ぎながら、あたしは核心の質問をツクツクさんに投げかけた。
「ちょっと、雪で、いい物を作ろうと思いまして」
いい物?
あたしは、目を輝かせた。
いい物と聞いては黙っていられないわ。
「ちょっと待ってて、あたしもそっちにいくから」
寒さとぬくぬくを秤《はかり》にかけている天秤を心の中で蹴《け》り倒すと、あたしは窓を閉めた。カーテンを引いて目隠しすると、急いで着替え始める。
気合いでパジャマを脱ぎ捨てると、下着の上にブラウスからニーソックスからスラックスからセーターからダウンジャケットからレッグウォーマーからマフラーから手袋までの重装備をほどこす。最後に毛糸の帽子を被れば完成だわ。
これで、寒さなんかに負けないぞ。
玄関に回って外に出ようとして、あたしはちょっと唖然《あぜん》とした。
すごく雪が積もっている。
ちょうど、深さはあたしの腰近くまである。これは、かつてない大雪だわ。
とりあえず、もう雪はほとんどやんでいて、たまにちらほらと落ちてくるぐらいというのだけが幸いだわね。これ以上降り続けられたら、ちょっとたいへんなことになってしまうかもしれないもの。
でも、とりあえずは、どうやって庭へと回り込むかだわ。それこそ、雪かきして道でも造らない限り、進むことはできそうにない。そうか、それでツクツクさんは雪かきをしていたんじゃないかしら。
ひとまず自分の部屋まで撤退すると、あたしは窓から庭へ降り立つことにした。
よいしょと窓によじ登り、そこからダイブする。
ズボッ!
うっ、着地のショックを和らげようと曲げた膝《ひざ》ごと、下半身が雪にめり込んだ。
動けない。
こんな所で遭難《そうなん》だなんて、冗談じゃないわ。
「何をしているんですか、ミス・メアリー」
じたばたしているあたしを見て、ツクツクさんがちょっとあきれたように言った。
「ツクツクさん、見てないで助けてよ」
「トゥックトゥイックです」
「それはいいからあ」
あたしがのばした手を、ツクツクさんが引っぱった。
ズボッと、あたしの身体が雪の中から抜け出る。
「まったく、なんでこんなに雪が降ったのよ」
ツクツクさんが踏み固めた道の上に立って、あたしは悪態をついた。
「まあ、冬ですから、雪だって降りたかったのに違いありません」
それですましてもらっては、あたしは納得いかないんだけれど。
「ところで、ツクツクさんは何をしていたの。雪かき?」
あたしは、やっと肝心な疑問をツクツクさんに訊《たず》ねることができた。
「いえ、雪かきじゃありませんよ。そうですね、ミス・メアリーも手伝ってはいただけませんか」
「うーん、面白いことだったら手伝うけど」
「では決定ですね。このスコップをお貸ししますから、こちらへきてください」
そう言うと、ツクツクさんは持っていたスコップをあたしに手渡した。
つまりは、面白いことらしい。
お隣へと続く道を進むツクツクさんの後を、あたしはスコップをずるずると引きずりながら追いかけた。
なんだか、ツクツクさんの庭が、あたしの庭よりも一段低くなってる気がする。見ると、雪が集められていて、庭の中央に雪の小山ができあがりつつあった。
「これは何?」
あたしは首をかしげた。
庭にある何かを掘り出そうとしていたのかしら。それとも、庭の雪の中に、何かを埋めようとしていたとか。
「ツクツクさん、何を隠そうとしているのよ」
「そんなことはしていません。ちょっと、ぬくぬくした物を作ろうとしているだけなんですから」
ぬくぬくって、雪でそんな物が作れるとは思わないんだけど。
「とりあえず、ここに雪を集めていただけませんか」
新しいスコップを持ってきたツクツクさんが、あたしに言った。
やっぱり、これって単純な雪かきなんじゃないのかしら。
「まあいいわ」
あたしは、ツクツクさんと一緒に、雪を集めて雪山を作っていった。ツクツクさんはずいぶんと大きい山を作りたいらしく、足りない分の雪はあたしの庭から運ぶことにした。
これは、意外と、結構な、労働だわ。
ちょっと息は切れたけれど、雪を運んでいるうちに次第に身体がポカポカしてきた。これはこれで、寒さ対策にはちょっとはきくかも。
雪山はどんどん積み上がっていき、そのうちあたしの背丈ほどにもなった。
ツクツクさんがしきりにスコップで叩《たた》いて、雪山を固めていく。
うーん、これって、雪だるまならぬ雪山を作っているだけなのかしら。
「そろそろいい固さでしょうか」
ツクツクさんが、ぐるりと雪山の周囲を回って、固さがしっかりしているのを確かめていった。
結構固くなっているから、そろそろ登れそうね。
この雪山のてっぺんに立って、御近所を見回すというのも面白いかもしれない。
あたしは雪山に手をかけると、大胆に足をあげて登り始めようとした。
「ああ、ミス・メアリー、何をしようとしているんです。危ないから少し下がっていてください」
言うなり、ツクツクさんが、水平に構えたスコップを雪山に突き立てた。
「ちょっと、何をするのよ。せっかく作ったのに」
思わず、あたしは非難の声をあげた。だって、あたしはまだ頂上を征服《せいふく》してはいない。なのに、そんなことをしたら崩れちゃうじゃない。
「いえ、これでいいんですよ」
ツクツクさんは、手を止めずに雪山を掘っていく。
じゃあ、雪像でも作るつもりだったのかしら。
それにしては、雪山の表面には一切傷をつけてはいないようだけれど。
「ああ、そういう遊び方もありましたね。でも、今回は違います」
うーん、外れたらしい。
ある程度掘り進むと、ツクツクさんは小さな手持ちのシャベルを取り出して、慎重に穴の中を広げ始めた。
これって、トンネル? それとも、横穴式住居?
「うーん、似たような物かもしれませんが」
ちょっと正解に近づいた?
いったい何を作るんだろうかと、あたしはツクツクさんの作業を見守った。だって、この状況では、むやみに手伝うことができないじゃない。
そうだ。とりあえず、ツクツクさんが掘り出した雪を、邪魔にならないようにどこかへ運ぶことにしよう。
「ああ、それは助かります」
慎重に穴を広げながら、ツクツクさんが言った。穴を広げながらも、中の雪を押し固めて強度を確かめている。
あたしは、掘り出された雪をスコップですくい取ると、庭の隅《すみ》の方へとせっせと運んだ。
けれども、これって、一度集めた雪を、また元の場所に戻しているだけなんでは。なんだか、納得がいかない。すごく無駄なことをしているような気分になった。
これだったら、最初から必要な分の雪だけを運べばよかったんじゃないのかしら。
「そう都合よくいけば少しは楽なのですが」
ツクツクさんも同じことを考えていたみたいだけれど、手順的には無理らしい。
どうやら、ツクツクさんは雪山の中に入れるように、中をそっくりくりぬいているらしかった。イヌイットのお家《うち》みたいな物かしら。
「かなりそれに近いとは思います」
だとしたら、氷のブロックを積み上げるように、雪の壁を下から作っていけばよかったんじゃないのかしら。ああ、でもそれじゃ、天井を作るのが至難の業《わざ》だわね。こんなに綺麗《きれい》なドームにはなりっこないわ。
「で、結局、これはなんなの」
あたしは、あらためてツクツクさんに訊ねた。
「かまくらという、お祭り用の雪の小屋だそうですよ」
またお祭りなのか。
「さあ、これで中に入れそうです」
ツクツクさんが言うので、あたしはかまくらの中に入ってみた。
中は狭いというか広いというか、ちょっと微妙な大きさだ。立ってしまうと、頭が天井にぶつかって、とても長居ができる所じゃない。でも、座ってしまえば、そこそこ落ち着いた、なんだか痒《かゆ》い所に手が届く的なちょうどいい広さにも思える。定員は、ツクツクさんとあたしのちょうど二名といったところかしら。
でも、雪の中なのでやっぱり寒い。
「いったい、どこにぬくぬくがあると言うのよ」
「ちょっと待っていてくださいね」
そう言うと、ツクツクさんが何やら取りにいった。
ぬくぬくになる物を取りにいったのかしら。でも、それじゃ、このかまくらというのがぬくぬくだということにはならないじゃない。
少しして、ツクツクさんがいろいろな物を運んできた。
「さあ、これで暖かくなると思います」
かまくらの中に耐水性のピクニックシートを敷《し》くと、ツクツクさんが陶器製《とうきせい》の火鉢《ひばち》をどんと中央においた。中には灰が詰められていて、その上に赤く火のついた炭がならべられている。なんとも変わったストーブだわ。
火鉢の上には金網《かなあみ》が載《の》せてあって、ツクツクさんがその上に何やら白い物と小さなケトルをおいた。
「何、これ?」
あたしは、白い物体をつんつんとつついてツクツクさんに訊ねた。
「お餅《もち》という、お米のペーストを乾燥させた物らしいですよ」
なんだろう、それは。ちょっと想像ができない。
それにしても、このいろいろな怪《あや》しい物たちは、またどうやって手に入れたのかしら。
「ちょっと、通販で……」
うーん、行商やら、懸賞《けんしょう》やら、贈り物以外にも、まだそんな闇《やみ》ルートをもっていたのね。
「闇ルートって、ミス・メアリー、それはちょっと……」
いいえ、こんな得体の知れない物は、闇ルートに決まっているわ。
じーっと、あたしがツクツクさんを見ていたとき、突然何かがふくらんだ。
お餅だわ。
「なんなの、これ……」
という言葉が終わらないうちに、お餅が爆発した。
「爆発した、爆発した、爆発した!」
なんてデンジャラスな食べ物なの。いいえ、これって食べ物なの。
「いえ、焼きすぎちゃったみたいですね」
ツクツクさんが、お餅をくるくるとひっくり返しながら言った。
あら、その火鉢の横においてある物は何。またグラビア雑誌みたいだけれど。のぞき込むと、お餅の焼き方が図解されていた。
「マニュアル見てる……」
「いや、間違っちゃいけませんから」
ずるい。
でも、そのおかげで、お餅は無事に焼けたらしい。
黄色いお豆の粉と砂糖を混ぜた物をお餅につけていただく。変わった味だけれど、結構いけるわ。
「これは熱いですから、気をつけてくださいね」
ツクツクさんが、ケトルから真っ白な飲み物をカップについでくれた。その中に、ちょっとジンジャーを搾《しぼ》って入れてくれる。
「甘酒という物らしいですよ」
名前からすると、お酒なのかしら。確かに甘いけれど。
これはまた、思いっきり変わったティータイムかもしれない。まあ、いつものティータイムとあまり変わらないと言えば変わらないのかもしれないけれど。
なんだかんだで、だんだんと暖かくなってきた。
雪の中だというのに、不思議だわ。
本当なら冷たいはずなのに、なんだか、妙にほかほかと暖かい。こんな重装備だと、ちょっと汗ばんでくるくらいだわ。
「そうですね。こんな重装備はいらないかもしれません」
ツクツクさんが、マフラーとコートを脱いで言った。
あたしも、マフラーとダウンジャケットを脱ぐ。ほんと、これでちょうどいいくらい。
これも、火鉢のおかげなのかしら。
でも、それだけではないみたい。
たとえ雪の中でも、人が二人いればぬくぬくがそこに生まれるのかも。一人のときと違って、そのぬくぬくは逃げていかないのね。
かまくらの中でぬくぬくとした時をすごしていると、何かが足下《あしもと》で動いた。
「にゃー」
おお、御近所の猫さんだ。
火鉢にくっつくようにして、御近所さんが丸くなる。目を細めて、実に満足そうだ。
「ちゃんと、暖かい所が分かるんですね」
ツクツクさんも目を細めて、満足そうだった。
御近所に飼い猫も含めた野良《のら》の猫さんは多いのだけれど、たいていは警戒されて近よってこない。たまに、特定の老猫が、我関せずで日なたでゴロゴロし続けてさわらせてくれるだけだったりする。
なので、この展開は結構嬉しい。
「にゃー」
別の猫がやってきた。今度は、あたしの膝《ひざ》によじ登ってくる。
「なんだか、猫だらけになってきましたね」
膝の上を別の猫に占領されたツクツクさんが、ちょっと困ったように言った。なんだか、御近所中の野良たちが集まってきたらしい。まあ、この寒さだから、しょうがないのかも。
他にも、なんだか小鳥たちが集まってきた。
最初に爆発してしまったお餅の破片をついばんでいる。
「大丈夫かしら」
猫と小鳥が一緒にいたら危ないかもと思ったけれど、猫たちは暖かさに満足しているのか、小鳥たちには無関心でゴロゴロしている。
「ここは、ぬくぬくの場所みたいですから。争ったりはしないのでしょう。それこそが、ぬくぬくなんですから」
御近所さんたちの頭をなでながら、ツクツクさんが言った。そんなツクツクさんの頭の上では、小鳥がさえずっている。
一人よりも二人、二人よりもたくさんっていうわけね。それがぬくぬくの法則かも。
そんなふうに考えたあたしの頭にも、小鳥が飛び乗った。
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☆
「なんだか、すっきりとしているわね」
ツクツクさんのリビングを見回して、あたしは言った。
いつも見かける怪《あや》しい物が、今日はちょっと少ないような気がする。まるで、留守の間に空き巣にでも入られたように、妙に室内がすっきりとしているんだもの。
いつもはすごくとっちらかっているのに、今日はなんだかちゃんとお掃除がしてあるという感じだ。
また、メイドさんが陰《かげ》でお掃除でもしてくれたのかしら。ツクツクさんがしたとは、ちょっと思えないものね。
それにしても、肝心の家主の姿が見えない。
あたしが勝手に入れたように、鍵は開けっ放しだし、まったく不用心きわまりないわね。まさか、本当に空き巣に入られたというようなことはないでしょうねえ。
うーん、この状況だと、ちょっといけない考えが頭に浮かんできてしまう。
そう、今なら、ツクツクさんの家が探検できるじゃない。
謎《なぞ》の地下室とか、そういえば、二階にもちゃんといったことはなかったわね。
どうも、ツクツクさんというのは、生活感があるんだかないんだか分からないような暮らしをしているんだもの。お隣としては、ちゃんと暮らしているのか、暮らしに必要な物がちゃんと揃《そろ》っているのか、しっかりと確認する必要があるわね。うん。
すっかり悪巧《わるだく》みに心を奪われて、あたしは足音を忍ばせてリビングの外へ踏み出そうとした。
ジリリリリリリリ……!
「きゃっ」
驚《おどろ》いた。
いきなり、リビングにある目覚まし時計が鳴りだすんだもの。
あたしはあわててリビングにとって返すと、時計の上のボタンをバンと叩《たた》いて、それを黙《だま》らせた。
それにしても、なんでこんな時間に目覚ましがセットしてあったのかしら。
ほっと一息ついてふり返ると、チラリと視界の端をスカートの裾《すそ》が翻《ひるがえ》った気がした。いつの間にか、キッチンの電気がついている。ちゃんとお留守番はいたわけね。
「ちょっと、ツクツクさんを捜《さが》そうとしただけよ」
うーん、少しいいわけがましいかしら。
リビングの方にむかおうとすると、ふっとキッチンの明かりが消えた。
むむ。
キッチンにいってみても、案の定誰もいない。電気を消したりしてまで、そんなに逃げ回らなくてもいいのに。
それじゃ、留守番の役にたたないと思うのだけれど。
「あれ、ミス・メアリー、いらしていたのですか」
「ツクツクさん!?」
ふいに声をかけられて、あたしは、ほんとにびっくりした。ちょっとやましい気持ちがあったから、必要以上に驚いたのかもしれない。
「トゥックトゥイックです。いいかげん、ちゃんとした名前で呼んでください」
いいえ、そちらこそ、いいかげんにこの呼び方に慣れてほしいものだわ。
「どこにいっていたのよ」
「ちょっと、いろいろありまして。まあ、もうすぐ春ですから、いろいろな事務手続きがあるのですよ」
大人だわ。あたしは、とてもそんなめんどくさいことはしたくない。もっとも、したくても、未成年にそういう機会は滅多《めった》にないんだけれど。
「なんだかいつもと部屋の雰囲気《ふんいき》が違うんで、何かあったのかと思っちゃったじゃない」
「ああ、ちょっとかたづけをしたものですから」
「ツクツクさんがかたづけものを!」
珍しい。
「私だって、お掃除ぐらいします」
ツクツクさんが、ちょっと心外そうに反論した。
「まあ、おかたづけ自体はいいことだわ。いっそ、まだ残っている怪しい物もかたづけちゃわない」
「うーん、そうですねえ。いや、ちょっと、その怪しい物という呼び名はなんとかならないのですか」
「だって、怪しい物は怪しい物じゃない」
出どころからして、たいていまともじゃないんだから、充分に怪しいわ。
「まあ、ちょうどいいですし、もう少しかたづけますか」
珍しく、ツクツクさんがあたしに同意してくれた。
これはチャンスだわ。
「やりましょう」
ツクツクさんを後押しすると、あたしはリビングのさらなる整理を始めた。
生活に直接必要でない物を、かたっぱしから段ボール箱に詰め込んでいく。まるで引っ越しの荷物整理みたいだけれど、それぐらいやらないとツクツクさんの家はかたづかないと思う。
それ、がんばれ。やれ、がんばれ。
「ああ、もうちょっと丁寧《ていねい》に……」
たまにあわてるツクツクさんを無視して、リビングはかなりすっきりした。
「ああ、いいことをしたわ」
「まあ、確かに助かりましたから。さあ、お茶にでもしましょうか」
いつものように、ゆったりした時間を楽しんでからあたしは自分の家に帰った。
さすがに、その日は疲れて早めにぐっすりと眠ってしまった。
それがいけなかったとは誰が思うだろう。だいたいにして、今日はいいことをしたと、いい気分で眠りについたのだし。
翌日、目を覚ますと、なんだか世界がちょっと違う気がした。
何かが足りないような、不思議なもの足りなさをひしひしと感じる。
かといって、部屋を見回してみても、べつだん何がなくなったといういうわけではなさそうだわ。相変わらずヘイゼルナッツさんの写真は壁のコルクボードに貼ってあるし、花瓶《かびん》に挿《さ》したドライフラワーもガラスケースの中で散ることなく咲いている。アクセサリー箱の中身も無事だし、内緒の缶詰もまだ開けてないまましまってあった。
もしかすると、ガーデンショーで買ってきた桜の木の苗《なえ》が枯れているとか。そういえば、思いっきり温泉を被《かぶ》っちゃったし。そんな予知夢みたいな予感はごめんこうむるわ。
あたしは、窓の所にいくと、勢いよくカーテンを開けた。
「なんですってー!」
思わず、あたしは叫んだ。
お隣が……ない。
ありえないことだけれど、お隣がない。
何度見てみても、お隣が消えている。
あたしは、あわてて外に飛び出していった。
花壇《かだん》のある庭がない。あの大騒《おおさわ》ぎした温泉の穴を埋めたはずの跡《あと》も。タヌキの置物もいない。二匹揃っていた狛犬《こまいぬ》も。あれだけお茶を飲んだウッドデッキも。笹《ささ》をくくりつけた柱も、星にたかられた家そのものも。
そうだ、地下室は?
ドンドンと地面を踏《ふ》み鳴らしてみる。
ただの地面だわ。
いったい、どうしたっていうのよ。
夢でも見ているのかしら。
それとも、ツクツクさんが夢だったとでもいうわけ。
ひゅるんと風が通り過ぎた。
「それだけはありえないわ。絶対に」
あたしは、声に出して言った。
でも、だったらどうして……。
まさか、家ごと引っ越したってわけじゃないでしょうね。
去年のように、黙っていっちゃおうとした……、いいえ、いっちゃったなんてことは。
飛行船で、家ごとつり下げて運んでしまったのかしら。それだったら、熟睡《じゅくすい》している間にやられても気がつかなかったかもしれない。
あたしは、とりとめもなく空を見回して、飛行船がいないか探した。
空にはちょうどいいぐらいの雲が浮かんでいるだけで、他には何もなく青く澄み渡っている。
でも、ちょっと風が冷たい。
「とにかく、ちょっと落ち着いて考えてみよう」
自分に言い聞かせると、あたしはいったん自分の部屋に戻った。
昨日のおかたづけは、今日の日の引っ越しのための伏線《ふくせん》だったのかしら。だとしたら、あたしは何も知らないでせっせとそれを手伝ってしまったというわけ?
なんで、あたしがツクツクさんの引っ越しを手助けしなければならないのよ。
ひどいわ。
「黙っていなくなっちゃうなんて、本当にひどい」
あたしは、ヘイゼルナッツさんと一緒に写っている、写真の中のツクツクさんを睨《にら》みつけた。
でも、そんなことをしても、何かのリアクションが返ってくるわけじゃない。まして、写真は返事なんかしてくれない。
もう、考えがまとまらなくて、やりきれなくなってあたしは机に突《つ》っ伏《ぷ》した。
お隣がなくなってしまったのだから、もうツクツクさんの居場所はそこにはない。いったいどこにいってしまったんだろう。
もしかして、すぐに戻ってくるということはないかしら。
根拠《こんきょ》のない期待を思いついて、あたしは机から顔をあげた。
窓から、あらためてお隣があった場所を見てみる。
何かがあった。
霞《かす》む目をごしごしとこすると、あたしはちょっと目を細めて人相を悪くしながら、お隣のあった場所を凝視した。
なぜか、何もなかった敷地《しきち》の中央に、白いテーブルとイスがある。そこに、人が座っていた。
あたしは、思わず窓から庭へと飛び出していった。
雪に埋まることも、草に迷うこともない。
あたしは一目散に、ツクツクさんの許《もと》に駆《か》けつけた。
「ツクツクさん!」
あたしは、のんびりとお茶を飲んでいるツクツクさんにむかって叫んだ。
「トゥックトゥイックですよ、ミス・メアリー」
そんなことは、今はどうだっていいわよ。
なんで、自分の家がなくなったっていうのに平然としていられるのよ。
「もう、心配したんだから」
「そんなに怒らなくても……。とりあえず、お茶を飲んで落ち着きませんか」
ツクツクさんが、空いているもう一脚のイスをあたしに勧めた。ちゃんとあたしの分のイスを用意してあるっていうのは、ちょっと用意周到《よういしゅうとう》すぎよ。
「もちろん、いただくわ」
あたしはぞんざいにイスに座ると、ツクツクさんの淹《い》れてくれたお茶を飲んでちょっと落ち着いた。
「ちょうど家のメンテナンスが必要だったものですから」
「メンテナンス?」
また予想もしないいいわけを……。
最近の住宅は、定期点検とかあるみたいだけれど、それでも家一軒持って帰るような業者がいるはずがないじゃない。
「いえ、持って帰ってもらっちゃったんですが……」
だから、それ、普通じゃないって。
そういえば、最初にツクツクさんが引っ越してきたときも、一日で家ができてたわよね。いきなり現れたり消えたりする家なんて、精神衛生上よくないわ。
「すみません。本当は、昨夜のうちに終わる予定だったんですが、ちょっと長引いてしまいまして。いつぞやの停電以来、ちょっと調子が悪かったものですから」
「こういうことは、事前にちゃんと話してほしいわ」
「驚かせてはいけないと思ったものですから」
充分に驚いたわよ。もう、これ以上ないってぐらい。
「本当に引っ越しちゃったと思ったんだから」
言ってしまってから、あたしは急な不安に襲われた。
ツクツクさんは、いつまでここにいてくれるんだろう。いつまで、あたしのお隣でいてくれるのかしら。
「それは、気のすむまでですね」
それは、ちょっと意地悪な回答だわ。
「大丈夫。本当に引っ越しするときは、ちゃんと事前にお伝えしますから。以前のようなことはしませんので」
その言葉を信じてもいいのやら。でも、信じよう。
「ここはいい町ですし、いい人がたくさんいますから」
あたしも、そのうちの一人なのかしら。
「とりあえず、今日はここで休むことにしますので」
「ここでって、家がないのに?」
「明日には家も戻ってくるでしょうし、何よりも、家がなくても私はあなたのお隣なのですから。それに……」
そう言うと、ツクツクさんが、イスから立ちあがった。
すぐそばの地面にしゃがみ込むと、いきなり地面を引きはがした。いや、地面にあった扉《とびら》を開いたんだわ。
「ほら、いちおう休める場所はありますし」
地下室は無事だったのね。なんでさっきは見つけられなかったのかしら。ちょっとあわてすぎていたのかも。そうか、このテーブルとイスも、そこから引っ張り出したというわけね。
「こんな所に隠れ家があったのね。ちょっと中を見せてよ」
「それはだめです」
ツクツクさんが、あたしの目の前でバタンと扉を閉めた。
「ケチ」
「ここは私の秘密の場所ですから」
ちょっとむくれてみせる。人をこれだけ心配させたんだから、それくらいいいじゃないの。
「本当は、昨日箱に詰めた物とか、その他|諸々《もろもろ》の物が、地下に乱雑に詰め込んであるんです」
「それは、あたしに見せられないような物とかも?」
「ええ、まあ」
「あたしが見たら、絶対捨てるような物とかも?」
「かんべんしてください」
ツクツクさんが、素直に頭を下げて謝った。
翌日。
ツクツクさんが言ったとおり、家は元通りに復活していた。
「まったく、新しく地面から生えてきたみたいだわ」
懐かしいウッドデッキでお茶をいただきながら、あたしはツクツクさんに言った。
「そんなことはないですよ」
ツクツクさんの背後には、キッチンにちらちらとメイドさんの姿が見える。きっと、全開でおかたづけの真っ最中なのだろう。
手伝ってあげたい気もするけれど、あたしがいったらまた姿を消しちゃうだろうし。ここはまかせるしかないみたい。
相変わらず、変な家だわ。秘密と不思議が一杯。それもこれも、みんなツクツクさんがいるせいね。
ツクツクさんがお隣である限り、退屈することはなさそうだわ。
「だから、引っ越したらだめよ。だって、お隣じゃなくなっちゃうもの」
そんなのは寂しすぎる。
「それはないですし、たとえ隣りに家が建っていなくても、私たちはお隣同士なのですから。それは、未来|永劫《えいごう》変わりません」
そうね。何も、家同士がならんで建っていることだけが、お隣の条件ではないもの。ツクツクさんは、今までも、これからもあたしのお隣に立っているはずだし。たとえ家がなくなったとしても、ツクツクさんは立派なお隣さんだわ。
「コホン。メアリー、もう一杯、いかがですか」
軽く咳払《せきばら》いして、ツクツクさんがおかわりを勧めた。
あたしの返事は決まっている。
「もちろん、いただくわ」
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後書き
二巻です。おおむね好評だったようで、めでたく続きが出せました。ありがとうございます。
とはいえ、話のストックがあった一巻とは違って、二巻を早く書くために相当苦労しました。結局大幅に遅れてしまって、各所に迷惑かけてしまいました、すみません。
で、結局この二巻で何か話が進んだかとか事件が起きたかというと……。
変わってませんね。
あいかわらず、まったりと日々が進んでいます。まあ、それこそが、このシリーズらしいんですが。
とはいえ、よく勘違いされているように、このお話は何も考えないで作られているんじゃなくて、結構綿密に伏線とか設定とかしてあったりしています。それは、ツクツクさんのメアリーに対する呼び方の、一文字だけの変化のようなものすごく微妙な形だったりするので見えにくくはあるのですが。
よくあるように、これは読者の想像にまかせます的なお話ではありますが、解釈は読者にゆだねはしても、それは作者が何も考えなくていいということではありません。実際、作者が設定を放棄して読者に丸投げするという作り方は大嫌いでして、私の作る物語は省略しても構わないもの以外はすべての設定が細かくしてあります。その上で、読者に提示していい情報だけを慎重に選んでいますので、そこから自由に楽しんでくださいという感じです。
だって、読者と同様に、作者だって、これはどういうことなんだろうと想像する楽しみの権利はあるわけですから。当然、いくつかの回答にたどり着くわけです。ノベライズなんか特にそうですね。俺にも解釈させてくれよと叫びたくなります。まあ、当然愛のない解釈は論外ではありますが。
ただ、一番大切なのは、その回答が絶対無二の物ではないというところですね。私にとっては正解でも、他の人にとっては不正解かもしれない。いくつもの答えから、どれを選択するのか、それこそが楽しみだと言えるでしょう。
お隣のシリーズは、メルヘンとしても、ファンタジーとしても、御伽噺としても、それこそSFとしてでも、歳時記的なエッセーとしてでも、自由に読んでもらって構わない『お話』なのだと思います。
正しい答えはあるかもしれないけれど、絶対にそれを導き出さなければいけないという必要はないわけです。それでは無粋になってしまいます。だからこそ、メアリーは、自分にとって充分な考察をした後は、出来事を単純に楽しもうとするわけです。結構、メアリーは粋な人なのですね。だからこそ、ツクツクさんも彼女を気に入っているわけですが。
さて、ツクツクさんとメアリーたんの三年目はどうなるのかなあ。
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底本:「お隣の魔法使い 〜不思議は二人の使い魔〜」GA文庫、ソフトバンク クリエイティブ出版社
2006(平成18)年11月30日初版第一刷発行
入力:iW
校正:iW
2007年12月7日作成