お隣の魔法使い
〜始まりは一つの呪文〜
著者 篠崎砂美/イラスト 尾谷おさむ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お隣《となり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|青い風《ブルー・ウインド》号
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(例)それ[#「それ」に傍点]
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目次
春は歓迎の華
夏は冒険の翼
秋は一服の風
冬は秘密の月
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春は歓迎の華
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☆
始まりは唐突《とうとつ》だった。すくなくとも、あたしメアリー・フィールズにとっては。
久々の家族旅行から帰ってみると、空き地だったはずの我が家のお隣《となり》に、真新しい家がひょっこりと建っていたのだ。
はたして、お隣に引っ越してきたのは魔法使いだった……。
その細身長身の若い青年は、夕方にはパスタを手に我が家へ挨拶《あいさつ》にやってきた。丈《たけ》の短いローブというか、東洋の作務衣《さむえ》にも似た変わったいでたちをしている。うさんくささはないものの、一目で変わり者だと分かる。うん。ちょっと早いかもしれないが、第一印象であたしはそう結論づけた。
「隣に引っ越してきました、トゥックトゥイックと申します。引っ越しの挨拶にあがりましたので、どうぞお召し上がりください」
落ち着いた暖かい声で、お隣さんはママにお土産《みやげ》を渡した。ちょっと素敵なバリトン。それにしても、なんか言いにくい名前だ。でも、なぜにパスタ?
「これは御丁寧《ごていねい》に。でも、なぜパスタですの?」
「外国では、引っ越したときにパスタを御近所に配って挨拶するそうです。いい風習だと思うので、ちょっとまねてみたのですが」
あたしと同じ疑問を口にしたママに、お隣さんはさらりと答えた。すごく自然にちょっと変なことを言われたような気がする。
でも、引っ越しパスタだなんて、本当にそんな風習なんかがあるのだろうか。なんとなくどこか取り違えているような気がひしひしとした。これは、あたしの勘《かん》というよりも、きっと事実に違いない。うん、そうだ。
とにかく、お隣さんの第一印象は、ママにとっては好印象だった。旅行帰りで夕飯の支度をどうごまかそうかと思っていたママとしては、手軽なパスタ料理は渡りに船だったらしい。そして、その日の夕食は、ごくごく普通に美味《おい》しかった。
それにしても、いくら技術が発達したからといって、一日で空き地に家が建つものかしら。トラックで運んできてお隣にぽんとおいたわけでもないだろうし、まさか地面の下からにょきにょきと生えてきたわけでもないでしょうに。いや、思わず映像を想像してしまって、あたしはベッドの中で一人笑ってしまった。にょきにょき。
謎ではあるけれど、今考えたって答えが出るわけでもない。
カーテンの隙間《すきま》越しに、庭をはさんだお隣の明かりがもれ入ってくる。きっと、お隣さんはまだ引っ越しのかたづけものをしているのだろう。ちょっと気にはなるが、今日はもう寝てしまおう。だって疲れたんだもの。
あたしは、そのままおとなしく眠りについた。
お休みっていいものだと思う。学校にいかないですむから、お昼まで我が家でゆっくりと寝ていられる。
のんびりと起きると、すでにママはさっそくお隣の偵察にいってきたようだった。
「お隣さんって、魔法使いみたいな人ね」
少し嬉しそうな不思議そうな、ちょっと好奇心の欠片《かけら》をかじったような顔でママが言った。
「何よ、それは。ただの変わり者ってだけじゃないの」
「そうね、ちょっと楽しい変わり者かもしれないわよ。ちょうどいいから、あなたも御挨拶しにいってらっしゃい」
そういうわけで、あたしはママお手製のサンドイッチのさし入れを手に持たされると、ボリュームのある自慢の髪をキリリと一つにまとめ、お掃除用の服装と装備《そうび》に身を固めてお隣へと派遣《はけん》されることになってしまった。引っ越しのかたづけの手伝いということらしい。
まあ、これからお隣として長いつきあいになるかもしれないのだから、仲良くしておいて損はないはずだわ。
でも、願わくばまともな人でありますように。
両家の境にある花壇《かだん》をひらりと飛び越えると、あたしはお隣の庭に入っていった。
「こんにちは」
挨拶の言葉とともに遠慮なく進んでいくと、お隣さんは庭に面したウッドデッキにテーブルとイスを運び出そうとしているところだった。
「お昼をお持ちしたんですけど、何かお手伝いすることあります?」
「ああ、それは御丁寧に、ありがとうございます。ちょうど今テーブルをおきますので、後で一緒にいただきませんか。美味しいお茶があるんですよ」
答えつつ、お隣さんは両手にテーブルを持ったまま軽くつんのめった。危なっかしい。見るからに、典型的にすっころんで照れ笑いをするタイプだ。
「手伝います」
あたしは、小走りにお隣さんに駆けよっていった。横切るお隣さんの庭は、芝生がふわふわと足の裏を優しく押し返してくれる。花壇には花も蕾《つぼみ》をふくらませていて、まるで昔からそうであったかのように土になじんでいた。数日前の枯《か》れ草だらけだった空き地の面影はまったくなくなっている。ちょっと不自然なくらいだ。
あたしの記憶では、ここはずっと小さな野原だった。ときに小さかったあたしの背丈《せたけ》ほどの草が生い茂り、ときに雪で白く覆《おお》われる。永遠の空き地だったのだ。でも、それも本当に昔の話になってしまったようだ。
「すみません」
テーブルの端を持ったあたしに、お隣さんはすまなそうなホッとしたような顔で言った。
よいしょっと木の肌も真新しい丸テーブルをウッドデッキの上におくと、折りたたみ式のイスを二脚そのそばによりそわせた。それから植木鉢やらガーデンフィギアを運び出すのを手伝ったのだけれど、陶器《とうき》製の人形はなぜか直立しているタヌキだったりして奇妙奇天烈《きみょうきてれつ》このうえなしだった。いったいぜんたい、なんでタヌキがお皿を被《かぶ》ったりボトルをぶら下げているのだろう。まさか、本当に魔法の儀式用なのかしら。
ウッドデッキと庭が落ち着くと、リビングのかたづけを手伝うことになった。もっとも、だいたいの家具や小物はすでにならべられていて、あたしは散らかった梱包材《こんぼうざい》なんかをゴミ袋に詰めるだけだったけど。
かなり洒落《しゃれ》た食器とかがあるわりには箱や梱包材が床に散乱したままだったのは、なんとも男の人らしい。というか、たまに変なお面とか人形とかがあるのはどうしたものかしら。センスのいい小物と悪趣味が同居していて、ちょっとしたカオスだ。それでも、全体としてはなんとなくバランスがとれているところがとんでもなく奇妙だった。
「いやあ、手伝ってもらって助かりました。だいたい落ち着いたのでお茶にでもしませんか」
満面に感謝を浮かべて、お隣さんはあたしにイスを勧《すす》めた。
まあ、そのくらいのお礼はあって当然だわ。
埃《ほこり》を落として手を洗うと、あたしはウッドデッキのイスに座って、心待ちにしていた遅い午後のランチタイムに期待した。
持ってきたサンドイッチを広げようとする間に、お隣さんが奥のキッチンへお湯を沸《わ》かしに引っ込んだ。そして、すぐにティーセットを持って出てきた。
「お待たせしました」
早い。
いや、ちょっと早すぎるんじゃないかしら。キッチンに引っ込んでから、何秒も経《た》ってない。瞬間湯沸かし器でも使ったのか、それともティーセットがいきなりどこかから現れたのか。キッチンにはあらかじめ用意してあったようには見えなかったのだけれど。本当に魔法のような早業《はやわざ》だ。
それはそれとして、お隣さんが淹《い》れてくれた紅茶は、ちょっと甘い香りのするスペシャルブレンドだった。美味しい。後で、ブランドを教えてもらおうかしら。
そんなことをつらつらと考えていたら、突然電話の呼び出し音が鳴った。ティーポットから。
なんでティーポット?
目を丸くするあたしを尻目に、お隣さんはさもあたりまえのようにティーポットの蓋《ふた》をつまんで耳元に持っていった。それが受話器なのか。
「はい。どうもお世話をかけます。はい、それでかまいませんので、それでお願いします」
ティーポットをのぞき込んだお隣さんは、その中にむかって受け答えを始めた。その後で、何事もなかったかのように蓋を元に戻した。
「今のは、何、何、何!」
あたしは、すさまじい勢いで蓋を取ってティーポットの中をのぞき込んだ。
はたして、ティーポットの中には小人さんの電話交換手がいる……わけなどなく、少しだけ残った紅茶の中で甘い香りとともに茶葉がゆれているだけだった。
「ああ、電力会社からの問い合わせでした。驚かせてすみません。引っ越し直後なので、まだちょっと混乱しているみたいで……」
「そんなことでティーポットに電話がかかってくるなんてことが起こるわけ」
「ええ。だから混乱しているみたいです」
たいしたことではないと言いたげに、お隣さんが答えた。
違う、何か、根本的に違う。
だいたい、引っ越し直後だからって、ティーポットに電話がかかってくるはずがない。それに、電話線はどこなの。そうか、無線の親子電話なら……そういう問題じゃない!
「心配しなくても、たぶんもうティーポットは電話にならないと思いますよ」
いや、あたしが心配しているのはニコニコしているお隣さんの方だ。単純にティーポットだけじゃない。
だめだ。
あたしは思わず庭の方に視線をおよがせた。
「庭はお好きですか」
お隣さんが話題を変えた。うん、ティーポットのことはもう考えないことにしよう。深く突っ込むと、何かとんでもない説明をされそうで怖い。
「ええ。家の庭の花壇はあたしが手入れしてるのよ」
あたしの言葉に、お隣さんはちょっと感心したようだった。
「この庭も、少しずつ手を入れていこうと思うんです。幸い、春が届いたのでなんとか形にはなっていますが」
いや、少しずつって、この前まで雑草だらけのミニ野原だったのが、いきなりちゃんとした庭になっているんですけど。一気に変身させちゃっているじゃない。それに、だいたい春は宅配便で届くような物ではなくて、季節が巡《めぐ》れば自然とやってくるものだし。
「何かおかしいですか」
怪訝《けげん》そうなあたしの顔色を読み取ったのか、お隣さんが訊ねてきた。
「ええと、ちょっと前まではここは草だらけだったんで。まだちょっと違和感が……」
「そんなに草だらけだったんですか」
「ええ、それはみごとに」
きっぱりと言い切る。
引っ越す前に見ていそうなものだけれど、お隣さんはまだ春の草が生える前の枯れ草の庭しか知らないらしい。
あたしが小さいころから、お隣は草たちの天下だった。そのころは、よくその中で遊んだものだ。まだ小さかったあたしは、のびきったハルジョオンやセイタカアワダチソウの中にすっぽりと埋もれてしまっていたような記憶がある。視界に広がる緑をかき分けて進んでは、何かを見つけては喜んでいたようだ。それは転がり込んでしまったボールだったかもしれないし、草迷宮の中を飛び回るバッタだったかもしれない。
あたしが隊長で、草むらの中に隠れる男の子を探して遊んだ記憶もある。近所に住むちょっと年上の男の子たちは軽く草むらから上に頭が出ていて、かくれんぼにはちょっとふむきだった。でも、草から飛び出たのっぽさんの姿は、草の海に浮かぶ灯台《とうだい》みたいで面白かった。それを目指して、草の海をずんずんかき分けてあたしは進んだのだ。
「それは素敵な草むらでしたね。なくしてしまったのは少し残念でしたか。そこに立っていれば、今の私でも子供たちの灯台になれていたかもしれないのに」
「あなたじゃ、腰すら隠れないと思うわ。ええと……」
背高《せいたか》なお隣さんを見てあたしは言った。
「トゥックトゥイックです」
声をかけかけて戸惑《とまど》ったあたしを見て、お隣さんはすかさずまた名乗ってくれた。勘が鋭くて助かる、というよりも本当になんて言いにくい名前。
「なら、昔に戻って草にうずもれるというのもいいですね。世界から姿を隠せば、そこは子供たちの世界でしょうから」
そうなれる方法を知ってでもいるかのようにお隣さんが言った。まさか、本当にそんなことはできないでしょうけど。一瞬期待してしまったおかしなあたしがいた。それに、いくら昔に戻れたとしても、お隣さんは絶対に草から頭が飛び出してしまう役だと思う。
だいたい、今さら子供の遊びに心ときめかすなんて、やっぱり変わった人だわ。
ちょっと面白そうにお隣さんを見つめたときに膝がテーブルにあたったのか、ティーポットがゆれて蓋がカタカタとふるえた気がした。一瞬また電話かと思ったが、さすがにお隣さんは再び蓋を持ち上げることはしなかった。
「あなたは、ええと……」
「メアリー・フィールズよ」
今度はあたしが即答した。
「では、ミズ・メアリー、あなたはどちらが好きですか。背の隠れる草むらの庭と、花壇がならんだ芝生の庭と」
いきなりの質問に、ちょっとだけあたしは考えた。
「どちらも素敵だけれど、あたしももう草に隠れることはできないから」
それが答えだ。
いただいたお茶を飲み干すと、あたしはお隣を後にした。後はお隣さん一人でできるということだったし、あたしとしても一通りの恩は売ったので充分だと思った。
予期せぬ労働で疲れたあたしは、その日はいつもより早い時間にベッドに入って熟睡《じゅくすい》した。でも、それがいけなかったとは誰が思っただろう。
翌朝、あたしの部屋から見渡した我が家の庭は、一面の草の海になっていた。いや、そんなに広くはないから草の池といったところかしら。黄色い中心と白い糸のような花びらを持ったハルジョオンの草むら。
いったい、あたしが寝ている間に何が起こったのだろう。ともあれ、今現在こんなことをする人間はたった一人しかいない。
お隣さんだ。
あたしはパジャマの上に素早くカーディガンを羽織《はお》ると、庭の草をかき分けてお隣へと乗り込んでいった。ほら、見てご覧なさいな。そこそこ背の高い草だけれど、今のあたしでは腰にまで届かないじゃない。
「ちょっとお隣さん。トゥック……、ええと、トックトイッ……、ええと……」
「トゥックトゥイックです」
怒鳴り込んでくるあたしの姿をすぐに見つけて、朝食の準備中だったらしいお隣さんがウッドデッキに出てきた。
「ツゥクトットット……、ええい、言いにくい。あなたなんてツクツクさんで充分だわ」
舌を噛《か》みそうになって、いや、本当は少し噛んであたしは叫んだ。べつだん難しい発音ではないはずなのに、なぜかあたしには言いづらい。こういうときは、言いやすいように略《りゃく》してしまうに限る。うん、それが正義だ。
「いえ、私の名前はトゥックトゥイックであって、そのツクツクさんというのは……」
「そんなことどうでもいいわ。これは何?」
あたしにまくしたてられて、ツクツクさんがあらためて我が家の庭に目を遣《や》った。
「みごとな庭ですね」
「みごとすぎるわ。あなたでしょ、こんなことをしたのは」
にっこりと微笑むツクツクさんに、あたしは思わず拳を握りしめた。
「私ですか?」
「そのとおり!」
そのきょとんとした反応が怪しすぎる。
「濡れ衣です」
昨日あたしと交わした会話をもう忘れたと言うのかしら。状況証拠は揃っているというのに。
「でも、懐かしいですね」
「懐かしくなんかない。こんなの、迷惑だわ」
本当に、ツクツクさんが魔法を使ったとしか思えない。たった一晩で庭が変貌してしまうなんて。とても信じたくはないのだけれど。
「いや、私がやったわけでは……。ああ」
何か気がついたのか、ツクツクさんがぽんと掌《てのひら》を打った。やはり心あたりがあるらしい。
「いいから元に戻して。あたしは、今のあたしが手入れした昨日までの庭がいいの」
探検用の草むらは、それがすでにあったものだからこそいいのだ。誰かが用意してくれたものではつまらない。それに、今のあたしには小さすぎる。それが思い出のレプリカであるなら、なんだか思い出自体が小さくされてしまったようで面白くない。だいたい、あたしが手入れしていた花壇の花たちをどうしてくれるのだろう。
「そうですね。私たちは、今の私たちなのですから」
ツクツクさんも分かってくれたのか、そう言ってうなずいてくれた。
「あたしはこれから学校いかなくちゃならないから、帰ってくるまでに元通りにしておいてよ。いいわね」
ツクツクさんがこんなにしてしまったのなら、ツクツクさんが元に戻せるはずだ。とにかく責任はとってほしい。
「そうですね。これは何かの間違いでしょうから」
いや、なんの間違い?
とりあえず学校にいかなくてはいけないあたしは、怒りを収めてその場は引き下がった。
後から思えば、これが始まりで、そして序の口だったのだ。
授業中やきもきしたあたしは、終業とともに一目散に帰ってきた。
はたして、我が家の庭はすっかり元通りになっていた。でも、あっという間に元通りというのもおかしな話だわ。これは本当に魔法だったのかしら。だとしたら、なんとも傍迷惑《はためいわく》なお隣さんなんだろう。
お隣の前には、何やら配送会社の物らしいトラックが止まっていた。荷台のコンテナに『スプリング・カーペット』と洒落たロゴで書かれている。そのコンテナに、若い男の人が丸めた絨毯《じゅうたん》のような物をしまってからツクツクさんと話していた。
「私の家の庭には、もう春はきていますので。これは何かの誤発注でしょう。きっともっと北で待っている人がいるはずです」
ツクツクさんに言われて、男の人はおかしいなあという顔で去っていった。それを見送ったツクツクさんが、元通りになった花壇の花を調べているあたしを見つけた。
「やあ、やはり間違いだったようです。よかったですね、元に戻って」
「そういう問題?」
何か、ものすごく他人事のように言われた気がする。犯人はツクツクさんじゃなかったの。それとも、あたしたちの会話を聞いていた誰かがやったとでも言うのかしら。
「まあ、たぶん私の引っ越しのせいだと思います」
それ以外ないと思うのだけれど。
「どうも御迷惑をかけてしまったようですから、お詫びに紅茶をいかがですか。美味しいストロベリージャムがあるので、ちょっと変わってますがジャム入り紅茶を淹れるつもりなのですが」
その言葉につられて、あたしはいつの間にかお隣のウッドデッキのイスに座っていた。運ばれてきた紅茶は、甘くてちょっぴり渋くていい香りがした。こんな物でごまかされないぞと思いつつも、まあいいかと言うあたしがそこにいた。
翌朝、部屋の窓からおそるおそる庭を見てみると、普段と変わらない我が家の庭がそこにあった。よかった。
ホッと安心していると、花壇のむこうにツクツクさんの姿があった。
窓から顔をのぞかせているあたしに気づくと、ツクツクさんが小さく手を振ってみせた。もう片方の手には水の入ったじょうろが握られている。
「朝の水やり、御一緒しませんか?」
そう言って、ツクツクさんがちょっとじょうろをかかげてみせた。
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☆
パイが焼けた。
いや、正確に言えばママがパイを焼いた。
そういうわけで、あたしは今お隣さんにお裾《すそ》分けを届けにきている。
真半分に切り分けられたアップルパイは、日焼けしたハーフムーンみたいだ。黄金色に焼けたパリパリの皮は、チェス盤のように格子状《こうしじょう》の模様がついていた。つやつやしたアプリコットソースの輝きは、中に入ったリンゴのしっとりとした感じを滲《にじ》ませている。ママ御自慢の逸品《いっぴん》だ。
「これは美味しそうなパイですね。アップルパイですか?」
ゆったりとした長衣《ローブ》のような室内着のツクツクさんが、嬉しそうにアップルパイをながめた。
「それは食べてみてのお楽しみ。さすがに黒ツグミが歌いだしたりはしないわよ」
見た目や断面でアップルパイだともろ分かりでも、味は食べてからのお楽しみにした方が面白いに違いない。もっとも、ツクツクさんが切り分けたら、本当に黒ツグミの雛《ひな》が出てきそうでちょっと怖いけれど。
「これを食べると、きっといいことがあるわよ」
「そうかもしれませんね。いいことがありそうです」
届いたばかりらしい小包の箱を開けかけていたツクツクさんが、その蓋を閉めなおしてリビングのテーブルの上においた。
「ではさっそくいただきましょうか。お茶を淹れてきますね」
その言葉に、あたしは思わず頬《ほお》をゆるませた。
ハーフサイズのパイは少し大きいからと、持ってきたあたしも御相伴《おしょうばん》にあずかることになったのだ。
きっちり予定通りだった。
これで美味しいお茶が飲めそうでちょっと嬉しい。ここのお茶は絶品だから、いろいろと理由をつけてどうしても飲みたくなってしまう。
「ツクツクさん、あたしも手伝うわ」
待ちきれなくなって、あたしもリビングを出てキッチンへとむかった。
「トゥックトゥイックです」
「そんなの、どちらでもいいじゃない」
ちゃんと言い直すツクツクさんをあっさりと否定する。ツクツクさんがちょっとがっかりしたように溜め息をついたのは見てみぬふりだ。ツクツクさんはツクツクさんで、もうあたしの中で決定ずみなのだから。
「今日はこれにしましょうか」
なんとか気をとりなおしたツクツクさんが、紅茶棚にむかった。
キッチンの紅茶棚には、ツクツクさん秘蔵の紅茶缶が綺麗《きれい》にならんでいた。デミタスカップほどの大きさの色とりどりの缶の中には、それぞれ違ったブレンドの紅茶が入っているらしい。これはこれで宝の山だ。
ツクツクさんはその中から一つを選び出すと、小気味いい音をたてて蓋を開けた。とたんに、そのブレンドしか持ち得ない香りがあたしの鼻を楽しげにくすぐった。ときに甘く、ときに爽《さわ》やかに、そして、ときに香ばしく、この瞬間は魔法が始まる瞬間のようだ。そういう魔法なら、あたしは喜んでツクツクさんの魔法にかかってあげてもいいと思う。
ティーポットにツクツクさんとあたしとサプライズのための三杯の茶葉とお湯が入り、ティーカップやケーキ皿とともにあたしたちはリビングへと戻った。
戻ってくると、いつの間にかアップルパイは誰かに食べ散らかされていた……などということもなく、まだ暖かいアップルパイはおとなしくあたしたちを待っていてくれた。
あたしはティーセットをテーブルの上に広げる手伝いをするため、蓋のずれている箱を閉めなおしてテーブルの角に追いやった。広くなったテーブルにティーセットとケーキ皿がおかれ、熱いお茶と美味しそうなパイがそえられた。
「ではいただきましょうか」
そう言うと、ツクツクさんはひょいとパイをつまみ上げて、パクリとかじりついた。意外にも大胆だ。男の人らしい食べ方だと言えば言えなくもないけれど。ときどきツクツクさんは妙に子供っぽくなったりする。もう少しあたしを見習えないものだろうか。
「美味しい物は、こうやってほおばって食べると美味しいんですよ」
ところが、もぐもぐしようとしたツクツクさんが、急に変な顔になった。
「甘いですね……」
いや、アップルパイが甘いのは普通だと思うんですけれど。
もしかして、ママが砂糖の量を間違えでもしたのだろうか。ちょっと考えられないことだけど。
あたしはパイの端っこをちょこっとだけ取って素早く食べてみた。美味しい。普通の甘さのママの味だ。
もしかして、ツクツクさんは辛党だったのかしら。
口元をちょっと隠して、ツクツクさんが口の中から何かを取り出してケーキ皿の上においた。
「これは、フェーブでしょうか」
親指大のそれは、琥珀《こはく》色のチェスの駒《こま》だった。馬の首の形をした騎士《ナイト》の駒だ。飴《あめ》色のそれは、文字通り飴でできているらしかった。あるいは、特大のブラウンシュガーというところかしら。
それにしても、なぜそんな物がアップルパイに入っていたのだろう。
「ツグミではなく、騎士が現れましたね。パイの格子模様をチェス盤に見たててのものでしょうか。季節外れのフェーブですが、本当にいいことがありそうです」
勝手に納得して喜んでいるツクツクさんだけど、それはすごくおかしい。
フェーブというのは、年の初めに焼くガレット・デ・ロアというパイの中に入れる陶器製の人形のことだ。切り分けたパイの中にフェーブが入っていた人は、その日のパーティーの王様になれる。古くからある風習の一つだ。
でも、今は四月だと思うのはあたしだけだろうか。なんでこんな季節外れの時期に、ママがガレットを焼かなくてはならないのだろう。ちょっとしたいたずらかもしれないが、それをあのママがするとは考えにくい。
「おかしいなあ。そんな物を入れたとは聞いてないんだけど」
戸惑《とまど》いながら、あたしはパイにフォークを突き立てた。
カチン。
パイの途中で、フォークが止まった。
何かある。
あたしは、おそるおそるパイの上側をめくってみた。中に入っていたのは、兵卒《ポーン》の駒だ。
まさか、ママは、料理の最中にパイの中にチェスの駒をぶちまけてしまったのだろうか。でも、これはアップルパイであって、けっしてチェス焼きパイではない……はずだ。
「おや、おかしいですね。一つのパイの中に二つもフェーブが入っていたなんて」
「問題はそこじゃないでしょう」
「まあ、そうですが、いちおうこれは事実ですし」
あたしに突っ込まれて、ツクツクさんがちょっと困ったような顔をした。いや、論点がずれていると言いたい。
それにしても、ツクツクさんは適応能力が高すぎるんじゃないかしら。少しはおかしいという気持ちをもってほしいと思う。それとも、これもまた何かの魔法のしわざだとでも言うのかしら。
まさか、何者かの見えない手が、あたしたちのそばでチェスを打っていた……なんてことはできれば考えたくもない。
「悩むよりは楽しんだ方がいいでしょう。チェスの駒のフェーブなんて、ちょっと洒落ているじゃないですか」
「それはそうだけど、なんであたしがポーンで、ツクツクさんがナイトなの」
そう。現実を受け入れるとしても、この駒の格差はなんだか悔しい。
「そうですね。私はナイトという柄《がら》ではないんですが。ミズ・メアリーは、赤の女王《クイーン》がよかったですか」
あたしの心の中を見透かしたように、ツクツクさんが言った。でも、それは鏡の国のアリスだ。
「首をちょん切っておしまい」
「それはかんべんしてください」
あたしがやりかえすと、ツクツクさんがあわてて謝った。アリスの赤の女王とくれば、斬首と相場は決まっている。とはいえ、あたしだってあんな暴君の役にはなりたくない。あたしなら、どちらかといえばアリスの役が似合うはずだわ。うん、そうに決まっている。
チェスを模《も》した鏡の国のアリスの中で、アリスはなんの駒だったっけ。そうだ、ポーンだわ。
「そうね、あたしはポーンでもいいわよ。だって、ポーンはいつかクイーンになれるんですもの。言ってしまえば、ポーンはプリンセスといったところね。だから、ポーンの方がナイトよりも偉いのよ」
「そうですね。いつかクイーンになるのですから、ポーンはプリンセスなのかもしれません」
ツクツクさんが、楽しそうに微笑んだ。ちょっとくすぐったい。
この微笑みでいつもごまかされてしまうのだけれど、今回は少しいいことを言ってくれたのでよしとしてあげよう。いつかクイーンになれるのであれば、それはプリンセスに他ならないのだから。
「ナイトもキングになれる方法があればいいんですが」
ちょっと残念そうにツクツクさんがつけ加えた。さすがに、チェスのルールにそういうものはない。いくつかの特殊な動き方はあるものの、ある駒が別の駒に変身できるというのはポーンだけの特権だ。
「それにしても、なんでこんな物がパイに入り込んだのかしら」
未《いま》だにそれが謎だった。
事故でなければ、誰かが入れたに違いない。でも、いったい誰が?
「さあ、不思議ですね。お茶をもう一杯飲みながら、ゆっくりとそれについて考えるとしましょうか」
のんきに提案しながら、ツクツクさんが空になったあたしのティーカップをさした。
「そうそう、さっき角砂糖のセットらしき物が届いていたはずなので……」
ツクツクさんが、テーブルの上にあった箱をごそごそと開ける。
「ああ!」
「おや」
中の紙をめくったとき、あたしとツクツクさんは思わず声をあげてしまった。
そこにあったのは、綺麗にならべられたチェスの駒だったのだ。正確には、チェスの駒の形をした変わり砂糖だった。後でツクツクさんが送り主に訊《たず》ねたら、これはアルフェニンという砂糖菓子の一種だったそうだ。でも、そんなことを知らないあたしたちは、単純に変わった角砂糖ということで納得することにした。
そういえば、さっきこの箱の蓋がずれているのを閉めなおしたような気がする。誰かがこの中からチェスの駒を取り出してパイに入れたのは間違いない。
だから、いったい誰が入れたの!
「なあるほど、これをあたしの持ってきたパイに入れたというわけね」
「いえ、私のしわざじゃありませんよ」
鋭い疑いのまなざしをむけられて、あわててツクツクさんが頭《かぶり》を振った。
「そんなことを言って、他に誰がいると言うの」
「いないと思います」
「やっぱり、犯人はツクツクさんじゃない」
あたしは決めつけた。
「ちょっと待ってください。私はずっとあなたと一緒にいたじゃないですか」
ツクツクさんが、必死に否定してみせた。
そう言われてみれば、そうだったような気もする。
「じゃ、誰が入れたと言うの。まるで手品じゃない」
「妖精さんのしわざでしょうか」
確かに、お手伝い小人さんがいるならば、これぐらいはやってしまいそうだわ。それに、そういう小人たちはいたずら者だと昔から決まっている。
「そうね。この家なら、小人さんの一個大隊ぐらい棲《す》んでいてもおかしくはないわ」
「いや、そんなにたくさんが隠れる場所はないと思うのですが」
そこ、部屋の中をきょろきょろしない。本当に小人さんが隠れているみたいじゃないの。
「じゃあ、かわいいシルキーのお嬢さんでも隠れているのかしら」
「ああ、それはいいかもしれません」
何かを想像するツクツクさんの幸せそうな顔を、あたしはちょっと睨《にら》みつけた。
シルキーは、家に住み着く妖精のお手伝いさんだ。ふりふりの絹の服を着たかわいいメイドさんの女の子を想像してにやつかれるのは、女の子としてはちょっとむかつく。
それに、家霊《ハウススピリット》という者は古いお屋敷に住み着くものじゃないのかしら。こんな新築の現代建築には似合いそうもない。それとも、ツクツクさんが前の家から連れてきたとでも言うのだろうか。
「うーん、じゃあ、太ったおばさんか、とびきりの美少年の方がいいですかねえ」
おばさんはちょっとねえ。
あっ、美少年はちょっといいかもしれな……いや、よくないわ。美少年に萌《も》える耽美《たんび》なツクツクさんは想像するに堪えないと思う。
「それなら、まだシルキーの方がましだわ」
あきらめともつかない溜め息とともに、あたしは言った。そうよ、かわいいお姉さんを見られるのなら、それは眼福《がんぷく》というものだもの。もっとも、本当にそんな者が隠れているとしたらの話だけれど。
ツクツクさん自身がいろいろ想像して楽しんでいるようでは、結局そんな者がいるとは思えない。だとすると、いったい誰がチェスの駒をパイに入れたのだろう。
「悩んでもしかたないですね。もう一杯お茶はいかがですか」
「ええ、もらうわ」
そうね、悩んでもしかたない。今はお茶を楽しむことにしよう。
まだ温かいお茶をそれぞれのカップに注ぐと、ツクツクさんはクイーンのシュガーをあたしのティーカップにそえた。
その後、自分の分のシュガーを選ぶツクツクさんの指先が、キングの上を通り過ぎ、束の間ポーンの上をさまよい、そしてナイトの上で止まった。
クイーンとナイトの入ったお茶は、ちょっぴり舌に甘すぎたかもしれない。
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☆
「で、ツクツクさん、これはいったい何なの?」
「トゥックトゥイックです」
それはツクツクさんの名前だ。あたしが今言っているのは、そういうことではない。
「この不思議物体は何?」
あたしは、もう一度ツクツクさんとあたしの間にいるぬいぐるみをビシッと指さして言った。
最初にこのぬいぐるみに気づいたのは、庭の花に水をやりにきたときだった。
いつものお隣さんのウッドデッキでは、ツクツクさんが一人でお茶を飲んでいた。普段見慣れた遅い朝の風景だ。けれども、テーブルの上にはカップが二つおいてあった。お客さんでもいたのだろうかと思ったときに、目に入ったのがこのぬいぐるみだ。
その白うさぎのぬいぐるみは、ウッドデッキに出された幼児用らしいイスにちょこんと座っていた。それにしても、どこからこんなものがでてきたのだろう。ちょっと野うさぎっぽく鼻先がとがっているわりには、もこもこの白い毛並みが見るからになでてみたいという欲求をかきたてる凶悪さだ。さらに、生意気にもかわいいサロペットなんかを着ている。でも、ちょっと毛先がすり切れていたり、白い色がところどころ日に焼けていたりして、お世辞にも新品とは言い難《がた》い。ちょっと年季の入ったぬいぐるみだった。
それだけならさほど不思議に思わなかったかもしれない。けれども、あろうことかツクツクさんは、そのぬいぐるみにむかってにこやかに話しかけていたのだ。
おかしい。これはどう見たっておかしい。
ツクツクさんに、こんなぬいぐるみ趣味があったなんて。もしかして、寝室にはベッドの周りや布団の中にぬいぐるみがたくさんおいてあったりして、毎晩だいて寝たりしてるのだろうか。それは、簡単に想像できるだけにあまり想像したくない。
「クランベリー・ヘイゼルナッツさんのことですか」
また、ややこしいというか、美味しそうというか、変な名前を……。
「ぬいぐるみでしょ」
あたしの鋭い気迫に、ぬいぐるみが『私のことですか』と言いたげに、自分自身をあるのかないのか分からないような指でさしてみせた。
えっ?
「なぜ動く!」
「それは、クランベリー・ヘイゼルナッツさんですから、動くでしょう」
さもあたりまえのように言わないでほしい。
「ぬいぐるみよ、これは」
あたしは、ひょいとそのヘイゼルナッツさんという名のうさぎさんをだきあげた。ふわふわのもこもこだー。実に手触りがいい。
確かに、ぬいぐるみとしてはちょっと重い。でも、本物の生きたうさぎのような暖かさはない。やはり、これは作り物じゃないの。
「ああ、乱暴はやめてください」
さすがに、ツクツクさんが顔色を変えてあたしからヘイゼルナッツさんを奪い返した。
「彼は、私の古い友人なんですから」
珍しくあわてるツクツクさんを、ヘイゼルナッツさんが『まあまあ落ち着いて』というふうに、小さな手でポンポンと叩いた。
いったいこれはなんなのよ。精巧なロボットなのかしら、それとも本当に生きたぬいぐるみなのかしら。
「彼は旅人なんですよ。せっかく久しぶりに訪ねてきてくれたのですから、仲良くしてはいただけませんか」
いや、別にあたしはこのヘイゼルナッツさんと喧嘩しにきたわけじゃない。
どうしてこんなふうになっちゃったんだろう。
あたしが知りたいのは、この不思議物体の正体だけだ。
「そうだ、いい物があるんですよ。ちょっと待っててくださいね」
ヘイゼルナッツさんを元のイスに戻すと、ツクツクさんは家の中へ戻っていこうとした。
「喧嘩しちゃだめですからね」
よけいな一言を言ってから、ツクツクさんがキッチンへと消えていく。
残されたのは、あたしとヘイゼルナッツさんの二人だけだ。いや、二人という数え方をしていいものかどうか。
あたしとヘイゼルナッツさんは、じっとお互いを見つめ合った。
それぞれが相手の正体を探るような目をしているはずだ。たとえ相手の目玉が、赤いルビーかガラス玉のようであっても。
よく見ないと分からないほど微《かす》かなヘイゼルナッツさんのヒゲが、ひゅくんと風にそよぐように動いた。それが合図であったかのようにツクツクさんが戻ってくる。
「さあさ、このゼリーは特別製なんですよ」
トレーに載せた淡いエメラルド色のゼリーをゆらしながら、ツクツクさんがにこやかに言った。
「五月のそよ風のゼリーです」
さし出されたゼリーは、爽《さわ》やかな香りをしていた。一口スプーンですくって食べてみると、ミントの味と香りが口いっぱいに広がる。なんのことはない、ただのミントゼリーなんだろうけれど、商品名としてツクツク印の『五月のそよ風のゼリー』は認めてあげてもいいかもしれない。あたしは好きな味だ。
ふと横が気になって目を遣ると、案の定ツクツクさんはヘイゼルナッツさんにもゼリーを用意していた。
はたして、ヘイゼルナッツさんはゼリーを食べるのだろうか。それによっては、彼だか彼女だかそれ[#「それ」に傍点]だかは分からないが、生《なま》ものの生き物なのかぬいぐるみなのか機械なのかが分かるかもしれない。
熱く注がれるあたしの視線に気づいているのかいないのか、ヘイゼルナッツさんは相変わらずの無口でポーカーフェイスだった。いや、むしろベラベラしゃべりだされた方があたしがパニックになりそうだけれど。
ヘイゼルナッツさんはおもむろにスプーンをつかむと、ポンポンとゼリーを叩いた。
そのとたん、プルルンとふるえたゼリーが、ぷしゅーうっとガスが抜けたようにしぼんで潰れた。
しぼんだ!?
「おやおやおや」
ツクツクさんが、なぜか自慢げに胸を張るヘイゼルナッツさんを見て言った。
何が起こったというの。
ヘイゼルナッツさんのゼリーは風船のように中が空洞《くうどう》だったのだろうか。それとも、ヘイゼルナッツさんがゼリーを風船にしてしまったのだろうか。
それにしても、こんな事件を目撃しても、相変わらずツクツクさんは平然としている。
驚いてヘイゼルナッツさんの方を見てみると、ぴきんと目が合った。無表情というか、何を考えているのか分からないひょうきんで簡略化された顔があたしの方を見ている。
しぼんでしまった自分のゼリーをちらりと見たヘイゼルナッツさんは、あたしのゼリーにじっと視線を注ぎ始めた。何か、ものすごく嫌な予感がする。
ヘイゼルナッツさんの持ったスプーンの先が、ついとあたしのゼリーにむけられた。
「これはだめ、あたしのよ!」
思わず大声をあげて、あたしは立ち上がった。電光石火で、ゼリーの載ったお皿をヘイゼルナッツさんのスプーンの届かない高さまで両手で持ち上げる。
上空のゼリーを見上げたヘイゼルナッツさんが、すごく残念そうにスプーンをふりふりと振り回した。
いや、あたしのゼリーはしっかりと中身がつまっている。別に、ヘイゼルナッツさんがスプーンで叩いたからといってしぼんでしまうことはありえない……と思う。とにかく、こんな美味しいあたしのゼリーを危険にさらすことなんてできない。
「あれあれ、すっかり仲良しさんですね」
「それは違う!」
のほほんとゼリーを楽しんでいるツクツクさんに、あたしは力説した。どこをどう見たらこれが仲良くしているように見えるのかしら。
「だってほら、写真を見せてくれるようですよ」
ツクツクさんに言われて、あたしは落ち着いてヘイゼルナッツさんの方を見た。いつの間にか、ヘイゼルナッツさんが数枚の写真をテーブルの上に広げている。
手にお皿を持ったままちゅるんとゼリーをたいらげると、あたしはヘイゼルナッツさんの後ろに回り込んでその写真をのぞき込んでみた。
写真に写っているのはヘイゼルナッツさんだ。でも、この背景は何。一枚はどう見ても凱旋門《がいせんもん》だし、別の一枚はトレビの泉だ。
「これが新しい訪問地ですか。綺麗に撮れてますね」
いつの間にか背後に回っていたツクツクさんが、あたしの肩越しに写真をのぞき込んだ。ううーん、ツクツクさんとヘイゼルナッツさんにはさまれて逃げ出せない。
「ヘイゼルナッツさんは、世界中を旅している旅人なんですよ」
あらためて、ツクツクさんが説明した。
確かに合成写真でなければ、ヘイゼルナッツさんは現地にいっていることになるけれど。それを旅人と呼ぶのはどうだろう。いかに、変なうさぎか、はたまた生きているぬいぐるみのヘイゼルナッツさんでも、一人で旅をするのは無理のような気がする。いや待って、今のは前提条件からしておかしいじゃないの。
「へえ、そうなんですか」
何やらヘイゼルナッツさんが、写真を指さして身振り手振りでツクツクさんに説明をしている。あたしにはさっぱりだが、なぜかツクツクさんには通じているらしい。なぜなのよ。
「そうですね……」
あたしが悩んでいる間にも、ツクツクさんとヘイゼルナッツさんの会話は続いていった。
「ミズ・メアリー、ヘイゼルナッツさんが一緒に写真を撮りましょうと言ってますよ」
どこから降って湧いたのか、いつの間にかヘイゼルナッツさんのそばに小さなカメラがおいてある。それをヘイゼルナッツさんがつんつんとつついていた。
「もう好きにして」
テーブルの上にカメラをおいて位置決めをすると、ヘイゼルナッツさんを中心にしてあたしとツクツクさんの三人がならんだ。
「写しますよ」
ツクツクさんがタイマーを動かすと、しばらくジーッという音がしてシャッターが下り、あたしたちの記念写真が撮られた。
これからどうなるのだろう。
その正体にものすごく納得のいかないまま、そのままヘイゼルナッツさんはツクツクさんの家のお客さんとしてしばらく滞在することになった。
それならそれで、ある意味好都合なのかもしれない。
ヘイゼルナッツさんがいる間に、ぜひともその正体を暴いてしまえばいいのだ。そうすれば、芋づる式にツクツクさんの正体も分かるかもしれない。なにしろ、名前以外はすべて謎な人なのだから。あたしのお隣に引っ越してきてからの数々のへんてこな出来事も、ただの偶然なのかはたまた魔法のいたずらなのか、きっとつきとめてあげるわ。
そんな決意とともに、あたしは足しげくお隣に通うことにした。今まではたいてい休日のお茶を飲むために、何かしら理由をこじつけて訪問していたのだけれど、ここにいたっては理由なんかいちいち作っていられない。そう、ヘイゼルナッツさんと遊ぶという大義名分だけで充分だわ。
たいていの場合、ヘイゼルナッツさんはツクツクさんと楽しくおしゃべりしている……ように見えた。なにしろヘイゼルナッツさんはしゃべらないので、その本意はまったくもって分からない。完全な意思疎通ができているのは、今のところツクツクさんだけだ。
おかげで何日か経《た》っても、ヘイゼルナッツさんの正体は謎のままだった。
それでもあきらめず、あたしはお隣にでかけていった。
「こんにちは、ヘイゼルナッツさん」
あたしが挨拶すると、ヘイゼルナッツさんはそのちっちゃな白い手をふりふりして挨拶を返してくれた。そのしぐさは結構かわいいのだけれど、床の上にいられるとかがみ込むようにしないと視線が合わないので結構きつい。これは、腰が曲がらないうちになんとかしなくちゃだわ。
その日、ツクツクさんは留守だったようで、なんとヘイゼルナッツさんが留守番をしているらしかった。でもそれって、ちょっと不用心じゃないだろうか。実際、あたしが忍び込んでいるぞ。
ポンポン。
ヘイゼルナッツさんがあたしの足を叩いた。何かしてほしいのだろうか。いや、その前に、人のスカートの下から上を見上げないでほしい。まあ、相手がヘイゼルナッツさんだからどうということはないけれど。
「なあに?」
あたしが聞くと、ヘイゼルナッツさんは少し移動してリビングのテーブルの上を指さした。見てみると、ツクツクさんが読んだままにしていたらしい新聞が広げてある。もしかして、これが読みたいのだろうか。
「これ?」
聞いてみると、ヘイゼルナッツさんが思いきりうなずいた。
ちょっと考えてから、あたしはヘイゼルナッツさんをひょいとかかえ上げてテーブルの上に運んだ。
ちょっと行儀が悪いかなとも思ったが、新聞を床に広げるよりは多少ましだと思う。なにしろ、相手はヘイゼルナッツさんだし。
ぺこりと軽く会釈《えしゃく》をすると、ヘイゼルナッツさんは新聞を読み始めた。うさぎが新聞を読むだなんて、ちょっと生意気な感じがする。本当に読んでいるのだろうか。
チャックとか縫《ぬ》い目とかないのかしらとふわふわの身体をしげしげとながめていると、ふいにヘイゼルナッツさんが振り返った。うっ、じろじろ見ていたので気を悪くしたのだろうか。いや、どうも新聞を読み終わったので、また何かをしてほしいらしい。とはいえ、しゃべったりはしないのであまり要領を得ない。
ちょっと困っていると、あきらめたのかヘイゼルナッツさんは天井の方を見上げた。何もいない空間を見上げて何かしゃべっているようにも見える。なんか、ときおり猫がやるしぐさのようだ。まさか、天井の隅に何か目に見えない者でもいるのだろうか。それはちょっと怖い気がする。
いったい、何がしてほしいんだろうと思っていると、突然リビングのテレビがついた。
ふいをつかれて驚いたあたしは、思わず一歩後退った。
誰かがリモコンを操作したのだろうかと周囲を見回してみたけれど、やっぱり誰もいない。リモコンは、テレビのそばのチェストの上にある。タイマーでも動作したのかしら。
ヘイゼルナッツさんは誰もいないはずのキッチンの方をむくと、ぺこりとお辞儀をした。誰もいないはずのキッチンで、ちらりと白と黒のスカートのような布が翻《ひるがえ》ったのが見えた気がした。
誰かいるのだろうか。
あたしはキッチンにいって、用心深く周囲の様子をうかがった。
誰もいない。
では、さっきちらりと見えた物はなんだったのだろう。見間違いではないと思うのだけれど。まさか、本当にシルキーでもいるのだろうか。
困惑気味にリビングに戻ろうとしたあたしは、ふいに現れた何かと衝突しそうになった。いや、実際は鼻をぶつけた。
「おや、ミズ・メアリー、きていらしたのですか」
あわてて鼻を押さえるあたしにむかって、ツクツクさんが言った。
いつの間にか帰ってきていたらしい。本屋さんにでもいっていたのか、ツクツクさんは袋に入った大きな本らしき物をかかえていた。
なあんだ、テレビもツクツクさんのしわざか。たぶんそうだわ。そう思いたい。
「ああ、驚いた」
「驚くのは私の方だと思うんですが。ここは私の家ですし」
とがめはしないものの、なんであたしがキッチンにいたのかとツクツクさんが小首をかしげる。
「ねえ、ツクツクさん」
「トゥックトゥイックです」
お約束のようにツクツクさんが言い直した。
「それはいいから」
あたしは、いつものようにそれを聞き流した。
「いいかげんに、ヘイゼルナッツさんの正体を教えて」
「それが目的だったんですね。もう少し早くきてくれていれば、ミズ・メアリーにお留守番が頼めたというわけですか」
すべて納得したという顔で、ツクツクさんがちょっと苦笑した。
「正体と言われましても……。ねえ」
困ったように、ツクツクさんはヘイゼルナッツさんと顔を見合わせた。いや、そんなに意気投合しなくてもいいから。
「正体なんかどうでもいいことじゃないですか。ヘイゼルナッツさんはヘイゼルナッツさんなのですから」
それは重要なことではないと、ツクツクさんは言いたげだ。
「いや、正体不明のツクツクさんがそう言っても、ぜんぜん説得力がないと思う」
ヘイゼルナッツさんの存在自体が、ちょっと日常を超越しているとは考えないのだろうか。まあ、いつの間にか同じように平気で対応している自分の方がちょっと驚きではあるのだけれど。
「正体ですか。そうですね、では、ミズ・メアリー、あなたの正体というのはなんでしょう」
思いがけず、ツクツクさんが切り返してきた。
あたしの正体……。
考えたこともなかった。メアリー・フィールズという名の女の子。高校生。ツクツクさんのお隣の住人……。うーん、たいして思いつかない。というか、ほとんどが肩書としてあまり意味がないような気がする。
「あたしは、あたし。メアリー・フィールズだわ」
「そうですよね。だから、ヘイゼルナッツさんはヘイゼルナッツさんです。他の何者だと言っても、あまり意味がないのではないでしょうか。あなたが私にとってミズ・メアリーであって、私があなたにとってツクツクであるように。すくなくとも、私たちにとっては、ヘイゼルナッツさんはヘイゼルナッツさんです」
苦し紛《まぎ》れに答えたあたしに、ツクツクさんが言った。そう言われてしまっては、返す言葉がない。
ヘイゼルナッツさんが生きたぬいぐるみだろうが、精巧な機械だろうが、まか不思議な魔法うさぎだろうが、それで世間が大騒ぎしようがあたしたちには関係ないことだと思う。だいたい、世間が大騒ぎになるということは、今あたしがツクツクさんにしているような質問攻めが今度はあたしにも降りかかってくるということになりかねない。『奇跡のうさぎの隣に住む平凡な少女』という新聞の見出しはちょっと嫌だ。
「ヘイゼルナッツさんはヘイゼルナッツさんでしかないのね」
ちょっと残念そうに言う。
「そういうことです。ヘイゼルナッツさんがヘイゼルナッツさん以外の者である必要があるでしょうか」
ツクツクさんが言うと、ヘイゼルナッツさんがテーブルの上をとことこ歩いてあたしに近づいてきた。小さな手をあたしにさしのべる。正解したということなのだろうか。
「握手かしら」
「ええ、もちろんそうですとも」
なんだか、ツクツクさんがヘイゼルナッツさんの言いたいことが分かるのは、すごくあたりまえのことだったのが分かったような気がした。そういうふうに考えれば、ヘイゼルナッツさんが何をしたいのかなんてすぐに分かる……気がすると思う、たぶん。
「あらためて、よろしくね」
あたしはヘイゼルナッツさんとお友達の握手をした。
でも、それがお別れの握手になるとは、そのときは思いもしなかった。
その日の夜、お隣さんの前に一台の車が止まった。
自分の部屋で勉強をしていたあたしは、車のライトに気づいてお隣の方を見た。ツクツクさんが、庭に出て手招きをしている。
何事だろうと外に出ていくと、見知らぬ女の人がヘイゼルナッツさんをだいて立っていた。夜色のすっきりした制服を着た、キリッとした感じの、黒髪の綺麗なお姉さんだ。
「ヘイゼルナッツさんはまた旅に出ると言ってるんです」
ツクツクさんに言われて、あたしはちょっと驚いた。でも、突然現れたのだから、突然いなくなってもおかしくはない。それに、旅人というのは、本来そういうものだ。
「また会いましょうね」
バイバイするヘイゼルナッツさんに、あたしは笑顔で言った。淋《さび》しくないと言えば嘘《うそ》だけれど、なんとなくこれっきりという感じはまったくしなかった。
「それでは、失礼いたします」
ヘイゼルナッツさんを助手席に座らせると、女の人は車を出した。
「ヘイゼルナッツさんは旅人なのよね」
車を見送ってから、あたしはツクツクさんに訊ねた。
「ええそうです」
「旅人は、また戻ってくるものよね」
「もちろんですとも」
ツクツクさんは力強く答えてくれた。
この日を最後に、お隣にいくたびにこの不思議生物はなんなんだという日々はいったん終わりを告げた。
旅人が過客であるならば、戻ってくることはないだろう。でも、ヘイゼルナッツさんはそうではないという自信があった。それを裏づけてくれるような手紙を、ツクツクさんは数日後にあたしに見せてくれた。
それはヘイゼルナッツさんからのエアメールだった。
今度は、赤い巨大な提灯の下げられた門の前にヘイゼルナッツさんは立っていた。他にも、神社らしき場所や雪を被った綺麗な山を背景にして立つヘイゼルナッツさんの元気な? 姿が写った写真が同封されていた。何やら、青い飛行船をバックにしているヘイゼルナッツさんの姿もある。旅は相変わらず続いているらしい。でも、今度はどこまでいっているのだろう。
ツクツクさんが、用意していたアルバムを開いた。補充された真新しい台紙に、今着いたばかりの写真を貼り込んでいく。
「私は、こうしてヘイゼルナッツさんの旅を見守っているんですよ」
アルバムの古い頁には、あの日ヘイゼルナッツさんが見せてくれた写真を含めた世界中の写真が貼ってある。そして、その新しい頁には、あたしたち三人で写した写真もちゃんと貼ってあった。写真の中のヘイゼルナッツさんは、ツクツクさんにつられて笑っているように見える。
「写真は二枚ずつ入ってますね。一枚は、ミズ・メアリー、あなた宛ですね」
そう言って、ツクツクさんは写真をあたしにくれた。これは、あたしのアルバムに貼ることにしよう。あの日焼き増ししてもらった、三人で写った写真とともに。
[#改丁]
夏は冒険の翼
[#挿絵(img/hazelnut_053.jpg)入る]
[#改丁]
☆
「おや、ミズ・メアリー、今日はいちだんとお綺麗《きれい》ですね」
やっと帰ってきたあたしは、我が家に入ろうとした所でツクツクさんに呼び止められた。いつになく、いい台詞じゃない。
「あら、ツクツクさん。ふふ、いいでしょう」
ちょっと上機嫌で、くるりとターンをしてみせる。レースのついたスカートが、形よくふわりと広がってあたしの美脚《びきゃく》をのぞかせた。
「トゥックトゥイックです。それで、そんなに着飾って、何かいいことでもあったのですか」
「従姉妹《いとこ》の結婚式から帰ってきたのよ」
そう答えると、あたしはまっすぐお隣さんの庭へむかった。慣れないハイヒールなので、芝生の上を歩くのがちょっと危なっかしい。
どのみち、我が家に入っても、今は誰もいない。結婚式後の、親戚《しんせき》による親戚のための二次会を抜け出して、あたし一人で帰ってきたのだから。
なら、着飾った服を脱ぐ前に、ちょっとツクツクさんに見せびらかしながらお茶を一杯というのもいいんじゃないかしら。
だいたい、当事者たちがいなくなった後は、親戚同士の口さがない内輪の世間話になるのは目に見えていた。いや、実際なり始めていた。
実は、結婚式であたしは花嫁のブーケをもらうという、あの人たちにとって絶好な最大のネタを提供してしまったのだ。
あの場に残っていては、彼氏はいるのか、結婚はいつかなどという話題で、ずっと質問攻めにされていただろう。それは、冗談じゃない。
ママの協力もあって、あたしはなんとかその場から逃げ出してきた。それは、大正解だったと思う。代わりに、今ごろはママが質問攻めになっているだろうけれど。それとも、ママが質問大王になって、親戚たちをもてあそんでいるかもしれない。
「それはそれはたいへんでしたね」
「そうなのよ、たいへんだったんだから」
あたしはブーケをテーブルの上におくと、お行儀悪く両手で頬杖をついてむくれてみせた。まったく、あたしの交友関係がどうであろうと、あのおじさんおばさん連中とは関係ないだろうに。
あたしの様子にちょっとくすりとしながら、ツクツクさんがお茶を出してくれた。爽やかな香りのするハーブティーだ。
「うーん、美味しい」
一口飲むと、かなり落ち着いた。やっぱり、ツクツクさんのお茶は、疲れたときには最高の清涼剤だわ。
「それにしても、またずいぶんとかわいい格好でいったのですね」
いつもと違うあたしの姿を、しげしげとながめてツクツクさんが言った。
髪をアップにして綺麗にまとめているだけでも、かなりいつもと雰囲気が違うのだろう。うっすらとお化粧もしているし。服だって、ノースリーブのドレスに半透明のケープを羽織《はお》っているし、手には白い長手袋だってはめている。普段のあたしからすれば別人と言ってもいいかもしれない。でも、たまにはこんなおしゃれをしてもいいんじゃないかしら。ねえ。
「花嫁さんのヴェールを持つ役をしたのよ。さすがに少しは見栄えをよくしなくちゃ、花嫁さんに悪いものね」
「似合ってますよ」
ふいにほめられて、あたしは頬《ほお》の温度を一度だけ上昇させた。
「でも、珍しいですね」
まあ、そう思われても当然だろう。普通は、もっと小さな子供がやるのが絵になる役だ。でも、親戚の中ではあたしが一番歳が若かったし、それに、花嫁との約束だったのだからしかたがない。
従姉妹の結婚式にはヴェールの端を持って入場すると約束したのは、いくつのときだっただろう。そのころだったら、ちょうどお似合いだったかもしれない。でも、それから従姉妹が結婚するまで、ずいぶんと長い時間がかかってしまった。おかげで、あたしはこんなに大きくなってしまったというわけだ。
まあ、ずっと一緒にいた二人だったので、だんだんと式を挙げなくてもいいんじゃないかという考えになっていったのだろう。つねづね、結婚式なんて、親戚に対する見せ物のようなものだと言っていたし。
ジュンブライドということでやっと結婚式を挙げたわけだけれど、それだって、いいかげん式を挙げなさいと親戚中から言われてのことだから、従姉妹たちもずいぶんとのんびりしている。
あたりまえの時間は、特別を特別でなくさせるのだろうか。もっとも、毎日がサプライズなのも、考えものではあるけれど。
「おかわり淹《い》れましょうね」
あたしの心のつぶやきを知ってか知らずか、ツクツクさんはほとんど空っぽのカップにお茶を注ぎ足した。まあ、現実はツクツクさんだけでサプライズの連続だ。
でも、やっぱり女の子としては、間近で花嫁さんを見られたことは素直に嬉しい。すごい目の保養になった。
とはいえ、あたしに花嫁のブーケが回ってきたのには参った。前にあげると約束したでしょと従姉妹は言ったが、あたしはまったく記憶にない。
「ブーケを取れたなんて、すごいじゃないですか。ミズ・メアリーならやれると信じていましたよ」
ツクツクさんが、感心したような納得したような顔で言った。ちょっと待って、いったい何を信じていたって言うの。
「あっ、誤解しているでしょう。あたしがライバルをねじ伏せて、このブーケを奪い取ったと思ってない?」
そんな、レスリングまがいのまねをしてまで、ブーケの奪い合いなんかするものですか。冗談じゃないわよ。
「違うんですか?」
「違う! あたりまえでしょ」
まったく、ツクツクさんったら、とんでもない誤解を。しかも、その残念そうな顔はなんなのよ。まさか、ツクツクさんの中では、普段のあたしはそういうイメージなの。
訂正を要求する!
「花嫁のブーケという物は、結婚式の参加者が戦って勝ち取る物だと聞いていましたが」
「どこで、そんな間違った知識を身につけたのよ」
「いや、この前ニュースで見たんですが」
それは、海外面白ニュースかなんかの話じゃないの。すくなくとも、ツクツクさんならいざ知らず、あたしが面白ニュースのネタになるようなことをするはずがない。
「前にくれるっていう約束していたから、花嫁から直接手渡しでもらったのよ。誰が戦って奪い取るものですか。あたしはまだ学生なのよ、結婚なんて遠い遠い先のことだわ」
「いや、そんなに遠いといき遅れまひゅ……ひゅたひでひゅ」
あたしは、そういうことを言うツクツクさんの口を軽く引っ張った。このさい、口は災いの元だときっちり覚えてもらおう。
「酷《ひど》いじゃないですか」
頬を押さえて、ツクツクさんが泣き言を言った。
自業自得だと思う。
だいたい、ツクツクさんだってまだ独り者じゃないの。どう見たって、恋人がいるようには見えない。この間ヘイゼルナッツさんを迎えにきたお姉さんだって、単純にどこかの旅行会社の人かアテンダントのようだったし。
周囲にいる女の人といえば、あたしぐらいのものだと思う。
「あたしは、まだまだいろいろなことをしたいし、いろいろな人とも出逢うんだから。落ち着くなんでずっと先のことだわ」
言ってしまってから、今日の従姉妹たちのことを思い出して、ちょっとまずいかなとも思う。意外と、時間というものは駆け足らしい。
ええい、うら若き乙女が今心配するようなことじゃないわ。
「だいたい、そういうツクツクさんだって、パーティーや結婚式なんかに呼ばれたりしないの。今月はジュンブライドで、やたら結婚式が多いでしょうに」
ちょっと反撃してみる。ツクツクさんだって、あたしと同じのはずだ。いや、年上のはずだし、いちおう社会人だし、本来ならもっといろいろな仕事上のおつきあいなんてものがあっていいはずなんじゃ……。
なんか、言っててちょっと空《むな》しくなってきた。どうひいきめに見ても、ツクツクさんが仕事をしている姿は見たことがない。ほとんど自宅にいるし。いったい仕事は何をしているのだろう。
「私は隠者《ハーミット》みたいなものですから。あまり世間と関わらず、あまり世間に流されず、のんびりと暮らしているということでしょうか。怖い人に見つかったら、またどこかに隠れなくてはなりませんからね」
ツクツクさん、いったい過去に何をやらかしたんだ。聞きたいけど、ちょっと聞くのが怖い気がする。
「私だって、昔は知り合いの結婚式とか、たくさんのパーティーに呼ばれたりもしたんですよ」
何かいろいろなことを思い出しているのか、ツクツクさんの顔の端が微妙に笑ったり怒ったり泣いたりしているような気がした。ちょっと微妙すぎて、よく分からない変化ではあったけれど。
いったい何を思い出しているというのだろう。きっと、過去によっぽどへんてこなパーティーに参加してきたに違いない。どのくらいへんてこかというと……どのくらいだろう。とにかくへんてこなパーティーに違いない。きっと、寝ている参加者をシュガーポットの中に押し込んだり、夫婦の猫が出てきたり、コーヒー仮面とかお紅茶仮面とか……。
あたしは、いったい何を妄想《もうそう》しているんだ。
「まあ、たまのパーティーは楽しいものですが、たくさんだととてもたいへんになりますからね。ちょっと気疲れしてしまいます。それに、会費とかお祝いとか、お金がかかってしょうがないじゃないですか」
まあ、それは言うとおりだろう。御祝儀とかはかなり馬鹿にならない。
「そういうわけで、ここしばらくはハーミットを気どって、パーティーとかはみんな辞退しているんですが」
「友達なくさない?」
「うーん」
あたしの言葉に、ツクツクさんはちょっと考え込んでしまった。悪いこと聞いちゃったのかしら。
だいたい、ツクツクさんの友達って、いったいどんな人たちなんだろう。
「まあ、そうでもありませんよ。それに、これからだって、いろいろな人と出会えたりするかもしれないじゃないですか」
ああ、やっぱり、何人か友達なくしてるんだ。まったくもう、しょうがない人だわ。
これからどんな人々と出会うのだろうかと想像してみると、なんだか途中でおかしくなってくる。だって、ツクツクさんがお隣に引っ越してきてから、ときたま変な訪問者が現れているじゃない。ヘイゼルナッツさんのように人間じゃない人もいれば、何やら未《いま》だに姿を現さない幽霊みたいなのもいるし。まだまだこれから奇妙な人が現れないと、いったい誰が言い切れるのかしら。
でも、そう考えてみると、ツクツクさんは変な友達とだけは未だつきあい続けているような気がする。あたしもその変な友達の一人にならないように注意しなくちゃだわ。
「では、ヘイゼルナッツさん用に、写真を撮っておきましょうか」
ふいにカメラを取り出して、ツクツクさんが言った。
「せっかくの、ミズ・メアリーのおめかしなんですから」
「ちょ、ちょっと……」
いきなり記念写真を撮られるようなおめかしじゃないと思う。でも、さすがに少しパニックを起こしつつも、あわてて服のシワをのばしたりしていつの間にか写る気になっているあたしがいた。なぜかもらったブーケを胸元でかかえつつ。
花嫁の写真じゃないんだけど、手持ちぶさただったのでとっさに手に取ってしまっていたのだ。
「写しますよ」
シャッターが切られ、突発の撮影会は、三分とかからず終了した。
「このブーケ、ツクツクさんにあげましょうか」
またももてあましたブーケをさし出して、あたしはツクツクさんに言った。なんとなく、このブーケをあげればツクツクさんも友達がふえるかもしれない。根拠はないけれど、そう感じられた。
「いや、それはちょっと違うような」
見当違いな同情をかけられて、ツクツクさんがちょっと困ってみせた。
まあ、男の人がブーケをもらっても花嫁になれるわけではないわよね。今さら変なことを言ってしまったものだと少し反省する。
それにしても、ブーケというのはちょっと扱いに困る物であることには間違いがない。花嫁が手に持つための物だから、パーティーなんかで贈呈《ぞうてい》される花束のように茎《くき》が長いわけではない。このままではちょっと花瓶《かびん》に生けにくいのだ。かといって、根がついているわけでもないから、庭に植えることもできない。
「このまま飾っておいても枯れちゃうわね」
「では、ミズ・メアリーが結婚するまで、これは予約証ということにしてとっておきましょうか」
ツクツクさんがブーケを手にとって、窓のそばに近づいていった。どこから取り出したのか紐《ひも》でブーケを縛って、窓際で逆さ吊りにする。
ドライフラワーだ。
「ええ。これなら、ブーケを捨ててしまうこともないでしょう」
「まあ、悪くないアイディアだわね」
そうよ、とりあえずは保留ということでいいんじゃないかしら。あたしは焦ることもないし、かといって忘れ果ててしまうようなお馬鹿さんでもいられない。
一通り騒いだので、あたしは着替えるために我が家へと戻った。もう、普段着に着替えてもいいだろう。
この日のブーケは、そのままツクツクさんの家の窓際で、思い出色に乾いていくだろう。それは、花嫁の手にあった一瞬の形を記憶にとどめた物になっていくのかしら。それとも、ツクツクさんがブーケをドライフラワーにすると決めた、あの一瞬の形なのかしら。
ともあれ、風にゆれるブーケは、ゆっくりとドライフラワーになっていった。しばらくは、それをながめながらツクツクさんのお茶をごちそうになる日が続いた。
ただ、不思議だったのは、普通のドライフラワーと違って、生花のときの色鮮やかさがほとんど褪《あ》せていかないことだった。生花のままドライフラワーになっていくとでもいうような、ちょっと不思議な感じがする。記憶は、いつまでも色鮮やかであるものなのだろうか。
「ちょっと、特別なおまじないをしているんですよ」
いや、そんなことを言われると、本当にツクツクさんが魔法使いに思えるからちょっとやめてほしい。
そんなある日。
「ミズ・メアリー、おとどけものですよ」
あたしの部屋の窓の所までやってきたツクツクさんは、できあがったドライフラワーをあたしに手渡した。
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☆
「いったい、今度は何を始める気なの!」
またもや怪しい挙動のツクツクさんを捕まえて、あたしは大声で叫んでしまった。
今の状況を説明すると、大きな笹《ささ》を庭に立てようとしたツクツクさんがバランスを崩して、我が家の庭に笹が倒れ込んできたところだ。
これは、あたしに対する何かの攻撃だろうか。
いや、とにかく迷惑この上ない。
「ああ、すみません、すみません。今すぐなんとかしますから」
あわてて謝ると、ツクツクさんは思いきり踏ん張って笹を立てなおそうとした。
ざわわんという盛大な葉擦れの音と、ツクツクさんの踏ん張る声とともに、我が家の庭を侵犯していた笹が左右に暴れながらお隣に引きあげていく。
そのたびに笹の葉が飛び散って、花吹雪のように舞い散った。
「で、結局こういうことになるわけね。まったく迷惑だわ」
「もうしわけない」
箒《ほうき》で庭を掃《は》くあたしに、チリトリを持って窮屈《きゅうくつ》そうに身をかがめたツクツクさんがひたすら謝った。
なんとかあたしが手伝って笹はツクツクさんのウッドデッキのそばに立てられたものの、両家の庭は右へ左へと振り回された笹から落ちた葉っぱで一杯だった。夏だというのに落ち葉掃きをしなくてはならなくなるとは、予想もしなかった事態だわ。いったい、ツクツクさんは何をするつもりだったのかしら。
「さあ、もう落ち着いたからきっちりと説明してくれるんでしょうね」
「それはもちろん」
両手を腰にあてて睨《にら》むあたしに、ツクツクさんからどんな釈明がなされるんだろうか。どことなく説明する気満々のように見えるツクツクさんがちょっと不安だけれど。
「つまり、これはですね……」
嬉しそうに、ツクツクさんが説明を始めた。
「つまり、お祭り騒ぎ?」
「いいえ、お祭りです」
ツクツクさんが訂正した。さっきまでの様子を見たら、どっちだって大差ない気がするんだけれど。
「いったいなんのお祭りなのよ」
もう一度聞き返すあたしに、ツクツクさんが揃えた両手を胸の前でだらりとさせてみせた。犬か何かの芸のまねだろうか。
「いや、いちおう幽霊《ゴースト》のつもりだったんですが」
ツクツクさんが、ものすごく残念そうに言った。あててもらえなくて淋《さび》しかったらしい。そんなこと言ったって、なんであんな格好がゴーストなんだろうか。相変わらず謎なことばかりしてくれる。
「とりあえず、このバンブーグラスの飾りつけをやってしまいましょう」
よいしょっとツクツクさんが取り出した箱には、何やらガラクタが一杯てんこ盛りで入っていた。おおかたはクリスマス飾りのようだけれど、いったいどこからこんな物をかき集めてきたのかしら。
「で、これを飾るですって」
サンタさんの人形の紐をつまんだまま、あたしはぶらんぶらんと振り回した。こんな物を飾ってなんの意味があるのかしら。季節外れもはなはだしい。
「ええ。これが目印となって、やってくるらしいですよ」
「やってくるって、何がよ」
「幽霊《ゴースト》とか|物の怪《モンスター》がですよ」
ちょっと待ってよ。もしかして、これって、ものすごく危ない呪術の儀式か何かなの。ゴースト召喚《しょうかん》って、そんなことの片棒なんて冗談じゃないわよ。
「帰らせてもらいます」
「ああ、待ってください。ちょっとしたおちゃめだったんです。幽霊の他にも、願い事が叶《かな》うお祭りでもあるらしいんですよ。本当ですったら」
とっとと帰ろうとするあたしを、ツクツクさんがあわてて引き止めた。どうやら、一人で飾りつけするのがたいへんすぎて、どうしても手伝ってもらいたいらしい。それならそうと、最初から頼めばいいものを。それなのに、願い事が叶うなんて嘘をつくなんてねえ。だいたい、嘘だということがばればれじゃないの。そんなにたいへんなら、初めからやらなければいいのに。
「しかたない、とっておきを出します」
「よろしい」
ツクツクさんの譲歩に、あたしは即座にお手伝いを了承した。とっておきとくれば、ツクツクさんの場合はあれと決まっている。紅茶棚の奥に隠されたビンテージ物だ。飾りつけぐらいでツクツクさん秘蔵の紅茶が飲めるのであれば、そんなに悪くはない話だ。
それにしても、クリスマスツリーもどきみたいなこの笹に、こんなに飾りをつけていいものなんだろうか。カラーボールとか人形とかを枝につけていくにしたがって、笹自体がだんだんと重たくなってしなってくる。もともと弾力性のある珍しい草なんだから、当然といえば当然なんだけど。そういえば、これって草よね。ツリーですらないじゃない。こんなに曲がってしまって、本当にこれでいいのかしら。
「これって、何かしら」
クリスマス飾りの中に混じっている長細い紙を見つけて、あたしはツクツクさんに訊ねた。色紙を切って作ったようで、カラフルな物がたくさんある。
「ああ、それに後で願いを書き込むんだそうです」
「ふーん」
現実味の薄い願い方だと思いながら、あたしはその紙切れも笹のあちこちに結びつけていった。後で、『友達百人できるかな』と書いておいてあげよう。そうすれば、少しは変な騒ぎにあたしが巻き込まれないですむようになるかもしれない。でも、ツクツクさんのような人が増殖して騒ぎが大きくなったらちょっと困るかも。とりあえず、友達十人ぐらいでやめておこうかしら。
「ふう、だいたいこんなものですかね」
やっとツクツクさんのオッケーがでて、あたしたちは飾りつけを終わることができた。もちろん、こっそりと『友達十人できるかな』とぶら下げてある紙に書き込んでおいた。その他にも、『キャンプにいけますように』とか、『綺麗な花が見られますように』とか、『チェスが強くなりますように』とか、『日々これ平穏』とか、結構たわいないツクツクさんの願い事が書かれた紙が結ばれている。
ゴテゴテとデコレーションをつり下げられた笹は、先っぽが地面に着きそうなぐらい弓なりに曲がっていた。遠くから見れば庭に設置された綺麗なアーチというところだけれど、近くで見れば限りなくカオスなオブジェだ。
まあ、ツクツクさんが気に入っているようだから、これはこれでいいのだろう。とりあえず、これが変な物を呼びよせさえしなければ。それだけが不安だ。
リビングに移動すると、ツクツクさんは約束通り秘蔵のビンテージを淹れにキッチンへと姿を消した。あとは、わくわくしながらできあがりを待っているだけだ。
久しぶりにリビングをしげしげと見回してみると、結構雰囲気が変わっていたりした。
ツクツクさんが、マメに模様替えしているからなのか、はたまた、怪しげな物をぽつぽつと持ち込んできて雰囲気が変化してきているからなのか。
ドライフラワーがつり下げられていた窓の所には、ガラスでできたボールがつり下げられていて、ときおり不思議な鈴のような澄んだ音をたてていた。カーテンは、夏むきの爽やかなブルーで、その音によく似合う。
壁には、真新しい猫の油絵がかけてあった。少し位置が低い気がするが、まあそれがツクツクさんの好みなのだろう。
他にも、無造作に積み上げられた本の山とか、アンティークな籐製の間仕切りとか、奇妙な形の笑える置物とかが増殖している。また近々バイト代をもらって掃除でもしないといけなくなるだろう。
「それにしても、どこからあんなお祭りを探しだしてきたのかしら」
誰にともなくつぶやいたとき、カーテンが風に翻《ひるがえ》るような衣擦れのような音がして、ばさりと何かが落ちる音がした。見回してみると、どこからか落ちたのか、一冊の本が床に落ちていた。そんなに強い風なんか吹き込んでこなかったはずなのにおかしなことだ。拾いにいこうとしたとき、視界の端に何か動く影が見えた。ささっと、キッチンの方に駆けていった気がする。あわてて後を追いかけてキッチンをのぞいてみたが、そこには鼻歌交じりに楽しそうにお茶を淹れているツクツクさんの後ろ姿が見えただけだった。
「今何かこっちにこなかった?」
「いいえ」
あたしの問いに、ツクツクさんが怪訝《けげん》そうな顔をする。
「もう少しですから、おとなしく待っていてくださいね」
しかたなく引き下がったあたしは、落ちていた本を拾い上げた。
何かのグラビアマガジンのようだけれど、よく見てみると、さっき二人で作った飾りにそっくりな物の写真が表紙になっている。
「これを見てまねをしたのね」
ぱらぱらとめくってみると、あたしたちの作った物と似てはいるけれど、ちゃんとバランスの整った笹飾りの写真が何枚もあった。それこそ、大通りの左右に並木のように、どこまでも無数の飾りが続いている物まである。さすがにここまで大規模な飾りつけなら、お祭りだというのも納得できる。
だいたい、ツクツクさんの家一軒だけで飾りつけをやっても、このお祭りの意味があるのかしら。
読み進めていくと、ちゃんと由来も書いてあった。タナバタとかいうお祭りらしい。あたしたちの町に似たようなお祭りはないけれど、無理に言い換えればハロウィーンみたいなものなのかしら。ちょっと違うかな。先祖を敬う時期に行うらしく、短冊に願い事を書いたりするらしい。でも、召喚の儀式に使われるような物ではないと思うのだけれど。
長い間にいくつもの行事がごちゃ混ぜになって今のお祭りの形になったらしいけど、それをまたツクツクさんがごちゃ混ぜの解釈をしているようなので、話がややこしくなってしまったみたいだ。
「まったく、元ネタはちゃんと確認してから……」
キッチンにいるツクツクさんに文句の一つでも言おうとしたとき、物陰からこちらをのぞいている姿を今度ははっきりと見つけた。顔の半分も見えなかったけれど、長い黒髪の女の子だったような気がした。
「待って!」
今度は逃がすものかと、脱兎《だっと》のごとくキッチンに駆け込もうとして、あたしはツクツクさんにぶつかった。
「わあ、なんということをするんですか!」
危機一髪、両手をあげて、なんとかあたしの突撃からティーセットを守りきったツクツクさんが叫んだ。もう少しで、とんでもない事故が起きるところだった。さすがに、ツクツクさんの胸に押しあてる形になったあたしの耳にも、早鐘のようなツクツクさんの心臓の音が聞こえてくる。
「今、誰かいたでしょう」
あわててツクツクさんの身体から離れたあたしは、キッチンに首を突っ込むようにして誰かいないか確認した。
「いませんよ。もうちょっとで、お茶が台無しになるところだったじゃないですか。本当の本当に、これは稀少なブレンドなのですから」
さすがにちょっと叱《しか》られる。
でも、確かに見た気がしたのだけれど。
「また見間違いでしょう」
ツクツクさんに一蹴《いっしゅう》されてしまった。
まあ、あたしたちにとっては、今このお茶が零《こぼ》れでもしたら泣くに泣けない。ティーカップとポットだって、一番いい物だ。
「まあ、待ちきれなかったのは分かりますが。あわてちゃいけません。落ち着いていただくとしましょう」
あたしががっついたせいだと決めつけると、ツクツクさんはテーブルにティーセットを運んだ。ここはこれ以上反論したらお茶が飲めなくなってしまうかもしれない。しかたない、今は我慢だわ。
「美味《おい》しい」
我慢のかいあって、この紅茶はすばらしかった。豊かな渋みとともに、香りが鼻に抜けて、一口飲んだだけで幸せな気分になってくる。
「それで、あの飾りはゴーストを呼び出す物じゃないじゃない」
あたしは、さっき拾った本を広げてツクツクさんに言った。
「おや、マガジンラックにしまったのに、よく探しだしてきましたね」
いや、別に部屋の中を物色したんじゃなくて、普通に床に落ちていたのだけれど。それとも、さっきの女の子が、この本を探しだしてわざとあたしの目のつく所に落としたのかしら。でも、だとしたらなぜ。それよりも、あの子は誰なんだろう。
「同じ時期にいろいろなお祭りをやるので、いくつもの意味が重なってると思ったのですが。たんに時期が重なっていただけでしたか。まあ、たいていのお祭りというのは、後づけでいろいろな要素がつけ加えられていますからね。サンタさんの赤い服だってそうなんですから。私たちがちょっとまねをするのなら、いっしょくたでもかまわないでしょう」
なんか、分かったような分からないようないいわけを聞かされたような気がする。まあ、海外のお祭りをまねするときは、たいてい間違って伝わるものだから。というか、ツクツクさんのような人が、伝説をぐちゃぐちゃにしていくんじゃないのかしら。それとも、こういった間違いが重なって、新しい伝説を作っていくとでもいうのかしら。
「先祖が戻ってくるというのは、そこがすばらしい場所だからなんでしょうね。誰でも、自分が住んでいた最高の場所を忘れることはないものですよ。だから、目印となるように飾りつけをするのでしょう」
「そういうものかしら」
本を読むと違うような気もするけれど。
あたしは生まれてからずっと同じ家に住んでいるから、そういう感覚はピンとこない。もっとも、今住んでいるこの場所この町が居心地がいいということは認めるけれど。
将来、どこかに引っ越すことがあったとして、機会があれば戻ってきたいと思うかもしれない。けれど、引っ越した先がもっとすばらしいという場合もあるじゃない。結局、そういうことは絶対ではない。
それに、先祖がやってくるといったって、おばあちゃんはまだ生きてるし、ひいおばあちゃんは見たこともないぐらいだから、まったく知らないそれ以前の先祖にやってこられても困ってしまう。それは、おもてなしはするだろうけれど。いや、あたしは何を考えているんだ。
過去はやはり過去であって、懐かしんでもいいとは思うけれど、わざわざ掘り返すものでもないと思う。
「そうそう、このお祭りには、別にちょっと素敵な伝説があるそうですよ」
そう言って、ツクツクさんはあたしに織り姫と彦星の伝説を話してくれた。もっとも、聞きかじりのようで、その正確さはかなり疑問だったけれど。
なんでも、空にある川で隔《へだ》てられた恋人の王子と王女が、一年に一度だけ逢う話らしい。なんで一年に一度なのだろうかとは思うけれど、神話とか伝説はたいていそういうものなのだから、設定に突っ込んでも無駄なのだろう。だいたい、ずっと一緒ではそこで物語が終わってしまう。
「それにしても、よく離ればなれでいられるわよね。逢えるのならば、別れないでずっと一緒にいればいいのに。その方が幸福だとあたしは思うわ」
「そのとおりでしょうね。もしかすると、気づかれないようにこっそりと戻ってきているのかもしれません。」
「それじゃ、伝説と違っちゃうわね」
「だから、あまりにこっそりと戻ってきているので、相手にも気づかれないんですよ」
いや、それじゃ小話のようなシチュエーションだ。
「隔てられた時間というものは、郷愁《きょうしゅう》を生むものなのですから。こっそりと帰ってきたくなっても、普通かもしれません」
まるで、伝説の二人をよく知っているような言い方だわ。
「それで、願いが叶うのはなぜなの?」
「それはですね、また別の伝説らしくて、別の国の……」
あたしの質問にツクツクさんが答えようとしたとき、突然来客を告げる呼び鈴の音が鳴り響いた。
『ピンポーン。お客様ですよー』
いや、呼び鈴とともに、女の子のちょっと高くて細い声が部屋に響き渡る。
「誰?」
あたしは、さっとツクツクさんを睨みつけた。
「誰と言われても……」
ツクツクさんがちょっとしどろもどろになる。今度こそごまかされるものですか。
「やっぱり、内緒でメイドさん雇《やと》ったんじゃ」
「とんでもない。誤解です。ええと、これはですね、最新式の呼び鈴にセットされている声でして……」
そのいいわけは、今作ったんじゃないのかしら。さらに追求しようとすると、またまた変な出来事が起こった。
『ドクター。ウィザード・ドクター。いらっしゃいますかあ』
壁に掛かっていた猫の油絵が、いつの間にかテレビの画面に変わっている。しかも音声つきだ。最初からテレビで、ずっと猫の画像を映していたならまだしも、確かに最初は凹凸もある油絵だったはずだ。いつの間にすり替わったというのかしら。
額縁の中に映っていたのは、玄関先でうろうろしている女の人だった。ハンチングを被《かぶ》りショートジャケットにスラックスという、小粋《こいき》でスポーティーな服装の、ちょっとボーイッシュな人だった。
「ツクツクさんの知り合い?」
ドアの隙間から中をのぞこうとしたり、一秒としてじっとしていない女の人を指さして、あたしはツクツクさんに訊ねた。絵の謎を聞くよりも、この女の人の正体を確かめる方が先に思えた。それにしても、いきなりウィザードとは。ドクターがよけいなのが謎だけれど。これは、魔法使い先生といったところなのかしら。
「い、いえ。ぜんぜん知りません」
ツクツクさんが、あわてて顔の前で手を左右に振った。ちょっと狼狽しているところがかなり怪しい。
「とりあえず知らない人ですから。きっと、どこかのセールスかもしれません。ここは留守ということにしましょう」
そう言うと、なぜかツクツクさんは身をちぢこまらせた。とたんに、玄関を映していた額縁が、元の油絵に戻った。いや、絵が違ってる。
「なんでうさぎの絵なの。ねえ、なんで」
これはヘイゼルナッツさんなのか? そうなのか?
だいたい、さっきまで平坦なテレビ画面だったのに、また凹凸のある油絵に戻っている。これはいったいどんな原理なのだろう。
「ねえ!」
あたしは、ツクツクさんにつかみかからんばかりにして迫った。
そのときだった。リビングの庭に面したガラス戸がコンコンと叩かれた。
「いるんじゃないですか!」
さっき玄関にいた女の人だ。勝手に庭に回って入ってきたらしい。
「戻ってきたんでしたら、なぜ連絡してくれなかったんですか」
やっぱりツクツクさんの知り合いらしい。だったら、居留守なんか使わなければいいのに。それとも、借金取りか何かなのかしら。
「いや、人違いでは……」
「ツクツクさんも、往生際が悪いわねえ」
あくまでも白《しら》を切ろうとするツクツクさんに、あたしは観念するように言った。この女の人がツクツクさんの知り合いなら、あたしは彼女に聞きたいことがたーくさんある。
「ツクツク? ウィザード・ドクターの御本名ですか」
瞬間、女の人がきょとんとした顔になった。ツクツクさんというのはあたしがつけた名前だから当然かもしれない。
「トゥックトゥイックです」
いつものように、ツクツクさんが言い直した。
「そうですか」
覚えましたとばかりに、女の人がにっこりと笑った。その笑顔に、ツクツクさんがしまったという顔になる。おや、知り合いかと思ったけれど、ツクツクさんの本名を知らなかっただなんて。いったい、どういう関係なのかしら。
「あなたが探しているウィザード・ドクターという人は、こんな顔じゃなかったでしょう」
いや、なぜそれをツクツクさんが知っている。今、思いっきり墓穴を掘ってしまったんじゃないのかしら。
「そうですね。当時のウィザード・ドクターは、髪を長くのばしていて、長い鬚《ひげ》を生やしていましたから。この呼び名も、その風体ゆえでしたし。でも、人の顔や雰囲気がそうそう変わるわけじゃないですよ。そんなに若作りしたって、ボクはごまかされませんから」
「いや、若作りって。私は、本当に若いんですが……」
自信をもって言う女の人に、ツクツクさんが弱々しく言い返した。うーん、若いと言っても、ツクツクさんは何歳なのだろう。いいかげん教えてくれてもいいとは思うのだけれど。いくらなんでもあたしの倍とか、そういう歳じゃないでしょうに。
しかも、長い髪に長い鬚って、それでいつものゆったりとした服で杖でも持ったら、まさに魔法使いだわ。でも、本当にツクツクさんがそんな格好をしていたのかしら。というより、いったい、いつごろどこでそんな格好をしていたのだろう。それに、この女の人はなんでそんなことを知っているのかしら。
「あの、あなたは誰なんですか」
二人のやりとりを面白く見ていたけれど、さすがに彼女が誰なのか知りたくてあたしは口をはさんだ。
「ああ、申し遅れました。ボクはカレン・アコースティック。ウィザード・ドクター……、いえ、トゥックトゥイック氏の弟子です」
「弟子!?」
そんなのがいたのか。まさか、魔法使いの弟子なのだろうか。ということは、ツクツクさんはお師匠様なのか。ちょっと、予期しない展開だわ、これは。
それにしても、ボクって……。この女の人、本当に元気いっぱいだ。雰囲気は、まさに少年の好奇心の塊でできているかのよう。でも、そのわりにはよく見ると整った女の人らしい顔つきをしている。
「失礼ですけど、あなたは」
「あたしは、メアリー・フィールズ。ツクツクさんのお隣に住んでます」
逆に名前を聞かれてしまった。そういえば、まだ名乗ってなかったわね。
「ああ、御近所の方でしたか」
その言い方はちょっと好きじゃない。あたしはお隣さんだ。御近所とお隣では、似ているようでかなり違うと思う。
とにかく、これはいい機会かもしれない。ぜひツクツクさんの謎を彼女から教えてもらわなければ。
「立ち話もなんですから、中で座ってお話ししましょう。お茶でも淹れますわ、ほほほほほほほ」
愛想笑いとともに、あたしはカレンさんをツクツクさんの家に招き入れた。
「ちょっと、ミズ・メアリー……」
あわててツクツクさんが止めようとするがもう遅い。だめだと言われる前にと、カレンさんは素早くリビングに飛び込んでいた。
「ありがとう。失礼します」
あたしがイスを勧めると、カレンさんがツクツクさんに一礼して帽子を脱いだ。とたんに、黒髪が肩先に零《こぼ》れ落ちて広がる。ストレートのセミロングヘアーが艶《つや》やかで、よく見るとかなり理知的な美人だ。
「戻ってきたのなら、なぜ連絡してくださらなかったのですか」
「やれやれ。まずはお茶でも飲んで落ち着きましょう」
イスに座ったカレンさんに、ツクツクさんがティーカップを持ってくる。一瞬考えてから、しかたなさそうにとっておきをカレンさんのカップにも注いだ。
ツクツクさんが淹れてくれたお茶で軽く唇を湿らすと、カレンさんが遠慮なくしゃべり始めた。いや、そのしゃべることしゃべること。おかげで、少しだけツクツクさんのことが分かった。
何年か前、ツクツクさんはこの町に住んでいたらしい。そのころは、カレンさんが言ったように仙人か魔法使いのような風貌《ふうぼう》で、カレンさんの在籍していた大学院の研究室に出入りしていたそうだ。ただ、学生だったのか、副手だったのか、教授だったのか、勝手に入り込んでいただけだったのかは謎だったらしい。本名も不明で、そのときの呼び名がウィザード・ドクターだったというわけだ。
で、いろいろな研究室に出入りしていたようで、専門も謎だったらしい。ただ、様々な教授と親しく話ができていたようだ。万能というよりは器用貧乏だったんじゃないかと思うのだけれど。それとも、お茶の話ばかりしてたんじゃないのかしら。
とにかく、当時その姿に感銘《かんめい》を受けたカレンさんは、勝手に弟子入り宣言したらしい。いったい、どこに感銘を受けたのかまったく分からないが、本人|曰《い》わく「全部」だそうだ。だが、ある日ツクツクさんは忽然《こつぜん》と姿を消してしまって、それ以来ずっと消息不明だったらしい。
なんか、今のツクツクさんからは想像もできないんだけど。鵜呑《うの》みにすれば、ツクツクさんは学者ということになるのだろうか。けれど、それなら大学の事務局で名前ぐらいは分かるだろう。それすら分からないということは、やっぱり勝手に出入りしていただけではないのだろうか。きっと、そこに知り合いがいたのかもしれない。それが正解だとすれば、大学とはなんの関係もないことになる。
まさか、大学の研究室を隠れ蓑《みの》にして、魔法の研究をしていたなんてことは……ないと思いたいけれど。でも、たまに、変な大学には秘密結社なんかがあって……。いけない、タブロイドに毒されすぎているわ。
だいたい、カレンさんの昔話を否定も肯定もしないツクツクさんがいけない。いや、暗に全否定したいのはみえみえなのだけれど。これでは、どこまでが本当のことなのかよく分からないじゃない。見たところ、カレンさんは思い込みで突っ走るタイプみたいだし、どのくらい誇大に脚色されているかはっきりとしていない。
「うーん、やっぱり人違いだと思いますが。もしかすると、私の生き別れの双子の兄とかがこの世に存在しているのかもしれませんね」
いや、そのいいわけも苦しすぎると思う。
まったく、あたしにぐらい、本当のことを話してくれてもいいのに。そんなに正体不明がいいのかしら。
「それにしても、どうしてツクツクさんがここにいると分かったの」
「情報源は秘密です。でも、このことを知っているのは十人ぐらいですから、安心してください」
ツクツクさんを安心させるようにカレンさんが言った。それじゃ、ツクツクさんがまるで逃亡者のようだ。誰かの密告で、ツクツクさんの居場所が分かったのだろうか。まあ、ツクツクさんの知り合いがまだこの町に残っていてもおかしくないし、共通のお友達がいればそこから簡単に情報は伝わるだろう。でも、友達十人って、ちょっと気になる人数だわ。
「ねえ、昔のツクツクさんって、どんな感じだったの?」
「それは……」
カレンさんがツクツクさんの方をちらりとうかがった。確認をとっているみたいだけれど、たぶん答えは決まっている。
「教えられません」
意地悪だ。
少しカレンさんの評価をマイナスしておこう。
「そのつもりがあれば、師匠が語ってくれるでしょう」
いや、それはカレンさんの言うとおりだけれど。当の本人がちっとも話してくれないのだから、あたしとしてはぜひとも教えてほしかったわけだ。
「ところで、いったい何をしていらっしゃったのですか」
外のタナバタ飾りをさして、カレンさんが聞いた。やっぱり気になっていたのだろう。それは視界に入れば気になるような物体だから、当然と言えば当然だ。
「何かの実験でしょうか」
「いや、そういうわけでは……」
儀式と言われなかっただけましかもしれない。まあ、でもお祭りは儀式の一種だったかもしれないけれど。とりあえず、いかがわしさの問題で、儀式とは別のものということにしておこう。
「今日は、離れていた男女が、一年に一度再会するという日でして……」
「まあ、まるで師匠とボクのことをお祝いしているみたいですね」
ツクツクさんが皆まで言わないうちに、カレンさんが叫んだ。
でも、その考えはポジティブすぎると思う。
「人と人の繋がりは、一度出逢った日からずっと続いていて、簡単に切れたりはしないとボクは思っています」
ちょっと夢見がちな瞳でカレンさんが言った。
人と人の繋がりはそんなもんだとあたしも思う。世の中には腐れ縁という言葉もあるくらいだから。でも、その起点はいったいどこから始まるのだろう。偶然の接近遭遇からなのか、本当の初対面からなのか、それともお互いを認識したころからなのか。
カレンさんとツクツクさんの出会いはいつのころになるのだろうか。それと、あたしとツクツクさんの出逢いは。
「とにかく、私はしばらくはここにいるはずですので。逃げも隠れもしませんから。たぶん」
安請け合いではないだろうけれど、ツクツクさんが逃げないぞ宣言をした。さすがに、相手の言葉にNOとばかり言っていては、どうにもならないと観念したらしい。
「それを聞いてちょっと安心しました。ボクだって、師匠を困らせるつもりはありませんから。でも、もう逃がしませんよ。とはいえ、ボクとしても研究室が忙しいので、これからもたまに遊びにこられるぐらいだと思いますけれど。そのときは、ちゃんとお相手をしていただけますでしょうか」
「そうですね。無理に押しかけてくるのでなければ、いつでもお相手はしますよ」
だいたい、ツクツクさんがカレンさんから逃げ回らなくてはならない理由なんて、もともとからほとんどないように思える。まして、新築の家を捨ててまで引っ越しするほどのことではないだろう。ひとまずは安心というところだけれど、あたしはいったい何に安心したのか自分でもよく分からなかった。
ツクツクさんが逃げも隠れもしないと言ったので、安心したカレンさんはお茶を飲み終えたら引きあげていった。でも、きっとまたくるだろう。
それにしても、カレンさんはツクツクさんに騙《だま》されたとは思わなかったのだろうか。逃げも隠れもしませんと言ったその日の夜に、さっさと姿をくらましてしまうことだって考えられるはずなのに。言質《げんち》以外の保証はまったくないと思うのだけれど。
ただ、だからといってツクツクさんがそうするかというと、まあとてもそんなことをするふうには思えない。言ってしまえば、ツクツクさん自身が保証そのものなのだろう。
「ふう」
嵐の通り過ぎた後という感じで、ツクツクさんが大きく息を吐いてテーブルに突っ伏した。かなり疲れたらしい。
「なんか、とんでもない人が現れたみたいね。あんな飾りを飾ったりするからじゃないの」
本当に物の怪を呼びよせたと言っても過言ではないような気がする。もっとも、あんな飾りつけを始めたのはツクツクさんなので、自業自得だとも言えるけれど。とりあえず、あたしの書いた友達|云々《うんぬん》の短冊が悪影響を及ぼしたという考えはなかったということにしよう。
「いや、悪い人ではないんですが、カレン君はなんというか、その、苦手でして」
まあ、ツクツクさんの言い分も、分からないではない気もする。おっとりのんびりしたツクツクさんと、ちょっと利己的な弾丸のごときカレンさんとでは、あまりに動いている時間の流れが違う気がする。だいたい、ツクツクさんのマイペースは、このあたしでさえたまにじれったく思ってしまうほどだ。それがカレンさんみたいな人と四六時中面とむかっていたら……。
「めまいがしてしまうんですよ」
こめかみを押さえながらツクツクさんが言った。
もともとのんびりした毎日を送りたいというのがあからさまなツクツクさんだから、本当にカレンさんのようなタイプは苦手なのだろう。いや、そうすると、あたしなんかも、結構苦手に思われているのだろうか。うーん。
それに、カレンさんがあたしの知らないツクツクさんを知っているということがちょっと悔しい。あたしだけ蚊帳《かや》の外のようだ。
「何はともあれ、劇的な再会よね。ちょうど、タナバタの伝説みたいじゃないの」
ちょっと意地悪に言ってしまった。
カレンさんの襲来も、一年に一度だけの出来事だったら、ツクツクさんはそれほど疲れることもないのだろうか。
「再会は常に劇的であればいいとは限りませんよ。タナバタの二人は、一年に一度だけなので劇的なだけですし。人と人との再会にしても、お互いに気づかない再会というものもあるでしょうから」
「カレンさんも、お鬚のツクツクさんだと分からないままツクツクさんと再会していた方がよかったと言うの」
「私はどこも変わっていないのですから、それでも同じだと思うんですが。ミズ・メアリーはどう思われますか」
確かに、意識した再会ならずっと感慨は深いだろうけれど、話題のほとんどは思い出話になりそうだ。実際、今日のカレンさんも昔話が主体だったし。それはそれで懐かしいことなんだろうけれど、あたしとしては昔より今がいい。
「そうね。別に、自然と幸せな毎日なら、昔をとやかく言う必要はないんじゃないのかしら。それが必要なら、もっとツクツクさんを質問攻めにしてるし」
「そうですよね」
昔話は重要なスパイスかもしれないけれど、今起こる生の出来事の方が楽しいと思う。昔は昔。あたしとしては、よく分からない昔のツクツクさんよりも、見知っている今のツクツクさんの方が安心できる。
でも、それはそれ。
カレンさんだけが知っているツクツクさんの秘密というのは、あたしにも充分知る権利があると思う。
「それで、ツクツクさんはカレンさんに何を教えていたの。だって、あの人の先生だったんでしょう」
「ミズ・メアリー、さっきと言ってることが矛盾するのですが」
それはないでしょうという顔で、ツクツクさんがあたしを見た。
だから、それはそれ、これはこれ。
矛盾してると言わば言え。割り切れないことも世の中にはある。
「あら、責めてなんかいないわよ。自主的に教えてくれればいいわけだし。それに、隠しごとはいけないと思うの」
あたしは、さりげなくツクツクさんにプレッシャーをかけた。
「カレンさんは、ここに引っ越してきてからの私を知らないはずですよ」
そうね。あたしにも有利なことはある。でも……。
「分かりました。別のとっておきを出しましょう。それで手を打ちませんか。でないと、夜逃げしちゃいますよ」
いや、それは嫌だ。せっかくの遊び相手と美味しいお茶供給所がなくなってしまう。今はそれで充分。
あたしは、喜んでお茶を選んだ。
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☆
突然のブレーキ音と何かがぶつかる音に、あたしは驚いてイスから立ち上がった。
「交通事故かしら」
「この町では、珍しいことですね」
ツクツクさんも、ちょっと驚いたようにリビングの外に視線をむけた。音の大きさ的には、べつだんすぐ近くということではなさそうだ。
耳をそばだてていると、ほとんど間をおかずにパトカーや救急車の音が遠くから聞こえてきた。ずいぶんと早い到着だが、これはこれでいいことだろう。
「大丈夫かしらねえ」
「野次馬はあまり感心できませんよ」
外へ飛び出していこうとするあたしを、ツクツクさんがやんわりと引き止めた。
確かに、救急車もすでに到着しているのなら、大災害ででもない限り野次馬は邪魔《じゃま》なだけだ。それに、喜んで事故現場を見にいくというのは、文字通り悪趣味だろう。
「いやだなあ。あたしがそんなことするわけないじゃない」
愛想笑いをしてごまかすと、あたしはおとなしくイスに座りなおした。
「でも、御近所の家に車が突っ込んでいたりしたら、相当困ってるんじゃないかしら」
「そういうこともあるかもしれませんが。やはり、たんなる好奇心だけで物事に首を突っ込むのは……」
感心しないとツクツクさんが言いかけたとき、突然ガラスが割れる大きな音が室内に響き渡った。
ツクツクさんの家にも車が突っ込んできたのかと、思わずあたしは頭をかかえてうずくまった。もし本当にそうだったとしたら、それぐらいじゃどうにもならなかったろうけど。でも、実際には、窓ガラスが一枚割れただけだった。
おそるおそる顔をあげると、もうツクツクさんが割れた窓のそばでしゃがんでいた。散らばった破片をかたづけているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。ツクツクさんの足下には、ガラスを破って飛び込んできたものが倒れていた。
初めに目に飛び込んできたのは、鮮《あざ》やかな赤だ。燃える炎のような、少しオレンジがかった熱さをともなうような赤。それが、少し大きめの鳥さんだと分かるのには、ちょっと時間がかかった。
「怪我をしていますね、救急箱を持ってきていただけませんか」
タオルを取ってくると、ツクツクさんはそれで鳥さんをそっとくるんでテーブルの上に運んだ。
高速で飛んでいるとき、鳥というものは透明なガラスを認識できない場合があるらしい。それによって、鳥が窓にぶつかるという事故は結構あるようだ。この鳥さんも、それと同じような理由で窓に激突したのだろうか。
それにしても、ガラスを割ってしまうほど強くぶつかったりして、この鳥さんは大丈夫だったのだろうか。
とりあえず死んではいないようで、ときおりピクピクと翼を動かしている。ほとんど気を失っている状態なのかもしれない。怪我もして血を流しているようだけれど、全身が真っ赤なのでちょっと分かりにくかった。でも、ツクツクさんが丁寧に調べて薬を塗っていたので、あまり心配はないと思う。
「とりあえず、手当てはしましたから」
やっと手を休めると、ツクツクさんがイスに座って一休みした。
「大丈夫かしら」
「骨折などはしていないようですから、大丈夫だとは思いますよ」
ガラスの破片で少し切った傷以外は、主だった外傷はないようだ。それは不幸中の幸いだったと言える。
ツクツクさんは、散らばったガラスの破片をかたづけ始めた。その間、様子を見守るのはあたしの役目だ。
あらためて見てみると、今まで見たこともないような不思議な鳥さんだった。全身がオレンジがかった真っ赤な羽根で被《おお》われていて、かなりの部分がふわふわの綿毛のようだ。ふわふわのもこもこで、思わず触ったりだきしめたりしたくなる。一つ一つの羽根はかなり長く、全体としてとても美しい鳥さんだと思う。
それにしても、なんでこの鳥さんが窓を破って飛び込んできたのだろう。誰かのペットが逃げ出してきたのだろうか。それとも、珍しい渡り鳥か何かなのだろうか。
「こちらは、とりあえずなんとかなったという感じですかね。窓は、明日にでも直しておきましょう」
窓にボール紙を貼りつけて応急処置をしたツクツクさんが、あたしの所に戻ってきた。
二人でしばらく見守っていると、やっと鳥さんが息を吹き返して動きだした。
首をもたげてあたしたちを見回したが、すぐにまたうなだれてしまった。まだ、あまり動き回れる状態ではないようだ。
「大事にはいたってないようですね。しばらく保護して様子を見ましょう」
どこからか大きな金属製のケージを取り出してくると、ツクツクさんはその中にタオルを敷き詰めて鳥さんを寝かせた。こういう物がすぐ出てくるツクツクさんの家って、いったいどこに何が隠してあるのだろう。いつか探検してみたいものだわ。
ひとまず落ち着いたようだったので、この日から鳥さんはツクツクさんの家のお客様としてお隣で暮らすこととなった。
翌日、様子を見にいってみると、壊れた窓はすっかり元通りになっていた。早い。いつの間に修理屋さんがきたのだろうか。それとも、ツクツクさんが自分で直したのかしら。相変わらず、予想もしない特技をもっているものだと思う。
「なかなか餌を食べてくれなくて」
小鳥用の餌と雛《ひな》用の餌を買ってきたらしいツクツクさんが、ちょっと困っていた。
「どれどれ、あたしに任せなさい」
こういうことは、女の子の方が得意に決まっている。
ファーストフード用の細いコーヒースプーンに雛用のペーストの餌をほんの少しだけ載せると、あたしは鳥さんの嘴《くちばし》の中に軽く押し込んだ。味で餌と分かったのか、鳥さんが嘴をぱくぱくさせて餌を呑み込んでいく。
「よしよし、上手だわ」
そっと頭をなでてやってから、ごく少量の餌を根気よく食べさせていく。やはり食べなくては体力もつかないだろう。
「うまいものですね。餌係はお任せしてしまいましょうか」
任命されてしまったのではしょうがない。あたしは、鳥さんの夕食係になった。朝は、学校へいくあたしに替わって、ツクツクさんが餌をやってくれている。
お隣であずかっているとはいえ、仮親はあたしで決定でしょう。
数日で、鳥さんはずいぶん回復した。
「餌は、もう自分で食べられるようになったのね」
餌箱で小鳥用の餌を食べる鳥さんをながめながら、あたしはちょっと感心した。
最初大怪我をしていると思った鳥さんだったけれど、実際にはたいしたことはなかったらしい。ぶつかったときのショックと打撲《だぼく》が原因で動けなかったようだ。まだ本調子ではないようだけど、餌もちゃんと食べるし少しぐらいなら室内を歩けるようにもなっている。もっとも、まだ外へ逃がしてあげるには心許《こころもと》ないけれど。
「それにしても、この鳥さんはなんの鳥なのかしら」
珍しい鳥さんだということは、一目見て分かった。それで図鑑などを調べてはみたのだけれど、鳥さんと同じ種類は見つけることができなかった。正体不明の鳥さんでは、何かツクツクさんと同じようでもある。強いて似ている鳥をあげれば、極楽鳥《バードオブパラダイス》が一番近い感じがした。そのくらい、派手で美しかった。極楽鳥の仲間はまだ新種が発見され続けているそうだから、この鳥さんもその一種の可能性は高いだろう。
「うーん、よく分からないですね。新種か何かでしょうか」
ツクツクさんも首をかしげるくらいだから、本当に新種なのかもしれない。
「とりあえず、サエーナという名前をつけてみたのですが」
「なあに、それ。なんだかさえない名前ねえ」
相変わらず、ツクツクさんは、変わったネーミングセンスだわ。
「いや、いちおう神話の火の鳥からとった名前なんですよ。ほら、綺麗な色をしているので、ちょうどいい名前かなと思いまして」
なんでも、ペルシャ神話か何かの不死鳥の名前らしい。説明してもらっても、なんだか難しくってよく分からなかったけれど。
サエーナは、最初はあたしたちを警戒していたものの、そのうちに慣れてきて、室内を自由に闊歩《かっぽ》するようになった。ほとんど飛ばないのは、まだ調子がよくないせいだろう。おかげで、我が物顔に歩き回るサエーナの方が家の主のようだ。餌の追加にフンの始末とツクツクさんがいいようにこき使われている気がする。もちろん、あたしもサエーナの様子を見にいったついでにちゃんとお手伝いはしているが。
最初に餌を食べさせたせいもあるのか、なぜかサエーナはツクツクさんよりもあたしの方になついてしまったようだ。お茶を飲んでいたりすると、とことこと近づいてきたり、ときには羽ばたいて背中に乗ろうとしたりする。
これは、はっきり言って人徳に違いない。
「主に世話しているのは私なんですが……」
さすがにツクツクさんは不満そうだが、こればっかりは動物相手なのでしょうがないと思う。それに、ツクツクさんには、ヘイゼルナッツさんがいるからいいし。
それにしても、サエーナが自由に動き回るようになって、当然室内の汚れも目立つようになっていった。フンや抜け落ちた羽根はしかたないとしても、ただでさえガラクタなんかが多いものだから、しょっちゅうひっくり返されて破片やら部品やらが落ちていることがある。ところどころカーテンや絨毯《じゅうたん》に焼けこげのような物も見られるけれど、動物がいるのに火か何か燃やしているのだったらツクツクさんもちょっと不注意だと思う。このへんは注意してもらわなくては。
とはいえ、サエーナがきてからというもの、ツクツクさんも結構たいへんだ。
「何かあったの」
ある日、一所懸命掃除機をかけているツクツクさんを見て、あたしは訊ねた。リビングの床が砂だらけだ。いや、砂以外にも灰とか、抜け落ちた羽根とか、なんかいろいろな物が落ちている。
「ちょっとサエーナが砂浴びをしたものですから……」
それで、部屋中が砂だらけになってしまったわけね。鳥は砂浴びか水浴びをするものだけれど、水浴びでなかったのは不幸中の幸いだったというところかしら。部屋中が、砂だらけになるのと水浸《みずびた》しになるのとでは、どちらがいいかというのは難しい選択だわ。
なんにしても、一つの命を見守るということはたいへんなことなのかもしれない。
そんなある日、我が家のポストに変な物が投げ込まれていた。行方不明のペット捜しのチラシのようだったけれども……。
「ちょっと、ツクツクさん、これ見て!」
あたしはそのチラシをつかむと、あわててツクツクさんのいるお隣へとむかった。
「ええ、私も見ましたよ。それどころか、訪ねてきました」
ツクツクさんも、同じチラシをつんとテーブルの上で弾いてみせた。いや、お隣だから同じチラシが投げ込まれるのはいいとして、訪ねてきたというのは何?
そもそも、そのチラシには、サエーナのことが書いてあった。珍しい種類の鳥らしく、懸賞金をかけて探しているので、見つけたら連絡してほしいと書いてあったのだ。
「あまり、感じのいい人たちではありませんでしたね」
つまり、チラシを書いた本人がツクツクさんの所へやってきたというわけなのね。
「それで、サエーナを渡しちゃったの」
「まさかあ」
そういうことには甘くないですよと、ツクツクさんはにんまりしている。さすがだ。ほめてあげよう。
「どうも、見るからに違法輸入業者みたいでしたね。まあ、あたらずとも遠からずでしょう。ああいう輩《やから》に、サエーナを渡すつもりはありません」
「そのとおりよ」
あたしは思いっきり同意した。
想像するに、その人たちはどこかの国でサエーナを捕まえて密輸してきたのではないだろうか。それが何かの拍子にサエーナが逃げ出してしまって、必死になって探しているというところだろう。きっと、捕まえたらすぐに売ってしまうに違いない。たぶん、怪我していようがいまいがおかまいなしだ。きっとそうだ。そんな奴らにサエーナを渡す必要なんてない。うん、絶対にない。
「あたしたちが出会ったのには、きっと意味があるはずなんだから。それが分かるまでは、サエーナをよそになんかやるものですか」
「でも、縛ってはいけませんよ。別れはいつかくるものですから」
それは、ツクツクさんの言うとおりだ。もしサエーナが法律で買うのが禁止されているような鳥であったなら、それを無理矢理飼うということは密輸業者やそこからペットを買う人たちと変わりないということになる。
とはいえ、これからどうしたらいいのだろう。
「ひとまず、この家にいれば安全ですよ」
「でも、探してる連中に家の中のぞかれたりでもしたらどうするの」
「大丈夫ですよ」
ツクツクさんは、片目をつぶってみせると軽く指を鳴らした。一瞬にして外の光が陰る。ブラインドが独りでに閉まったらしい。
「あの人たちが近くを通ったら、自動的にブラインドが下りますから」
誰も何もしていないのに、どういう仕組みなの。だいたい、どうやったら近くを通ることが分かるのかしら。
「企業秘密です」
またごまかした。
まるで魔法みたいな、いやいや、たんなる自動装置みたいな。ああ、また疑問をふやしてくれる。でも、ツクツクさんが言うのだから、きっとちゃんとなるのだろう。ここは信用するしかない。それに、あたしも一緒に注意していれば確実だわ。
とにかく、今はサエーナの方が大事だ。
「それで、サエーナは今どこにいるの」
あたしが訊ねると、ツクツクさんはキッチンの方を指さした。のぞきにいくと、システムキッチンの上で、サエーナが丸くなって寝ていた。
そんな所にいると、なんか料理されてしまいそうで怖いぞ。
あたしたちが近づくと、サエーナは目を覚ましてしまった。のびをするように翼を大きく広げる。素直に美しい。
ちょっと見とれていると、サエーナが軽く羽ばたいてあたしの方に飛んできた。
「きゃっ」
少し驚いたあたしの胸に飛び込んでくる。落としてしまわないように、あたしはあわててだきとめた。
「熱い」
火の近くにでもいたのだろうか。やたらサエーナの体温が高い。よく焼き鳥になっていなかったと思うぐらいだ。
「とりあえずケージに入ってくださいな。無理をしてはいけませんよ」
ツクツクさんが言うと、まるでその言葉の意味が分かったかのように、サエーナがあたしの手を離れてケージにむかった。かなり元気になったようだが、まだまだ全快とは言い切れないと思う。
「元気になったら、空へ帰してあげなければいけませんね」
やっぱり、そうなってしまうのか。せっかく仲良しになれたのに、ちょっとじゃなくてものすごく悲しい。
「サエーナがどこに住んでいたのか分かるの」
「うーん、それが微妙なんですが……」
「それじゃだめじゃない」
心のどこかにホッとしている自分がいて、少し複雑な気分だった。頭では、いつまでもツクツクさんの家で飼えないだろうということは分かっている。どう見ても南国地方の鳥に見えるし、今はいいとしても、冬を乗り切れるかどうかは疑問だ。
「今の時期だと空色風船社は使えないでしょうけれど、まあ、あてはなくはないのですよ。でも、今はとにかく完全に治ってもらうのが先ですね。それまでは、サエーナがここにいるのは秘密ですから」
「もちろんよ」
それだけは死守しなければ。
サエーナが元気になってくれるのを祈りつつ、怪しい奴らに見つからないようにと、あたしは日々心を砕《くだ》いた。
けれども、あたしとツクツクさんの思いとは裏腹に、かなり元気になったと思っていたサエーナが、だんだんと弱り始めてきたのだった。やっぱり、ここの環境が合わなかったのだろうか。
「今度は冷たいわ」
元気がないサエーナの身体をなでてあげて、あたしは思わずつぶやいた。どうにも、サエーナの体温は一定しないようだ。
「このままでは、少しまずいですね」
日のあたる場所を求めて移動するサエーナを見て、ツクツクさんも心配そうだった。
最近では、日のあたっている場所にいるか、日のさし込んでくる窓にむかって飛び上がったりする。少しでも暖をとろうとしているところを見ると、やはり暖かい場所でないといけないのかもしれない。
「元気になってもらってから空に放そうと思っていましたが、逆に、元気になってもらうために自然に帰さないといけないようですね」
「それはそうだけど、どこにどうやって帰してあげたら……」
「前に言ったことがあるでしょう。あてはありますから」
「あてねえ……。サエーナ、あなたも外に帰りたい?」
サエーナの目をのぞき込むと、黒い小さな瞳はそうだよと言いたげにこちらを見つめ返していた。やはり、野鳥であろうサエーナは、自然に帰してあげるのが一番なのだろう。淋しいけれど、それがいいと思う。
ツクツクさんの言うあてを信じて、あたしたちはサエーナを自然に帰す作戦を実行することにした。
その日の真夜中、あたしとツクツクさんは動きやすい服装で移動用の車がくるのを待った。どことなくハイキングにでもいくような格好なのが、あたしたちの決心とくらべてお気軽に見える。でも、ある意味、こんな普通の姿のツクツクさんを見るのは珍しかった。ヘイゼルナッツさん宛の写真に撮っておきたいぐらいだわ。
ツクツクさんの家の庭を照らす常備灯のそばで、あたしたちは迎えを待った。
「お待たせしました」
はたして、ツクツクさんが呼んだのはカレンさんだった。
丸みをおびた小型の車を運転して、あたしたちをサエーナとともに運ぶためにきてくれたのだ。
「ちょっと遠いんですよ。長旅になるけれど、我慢してくださいね」
それはいいんだけれど、カレンさんがドライバーだったとは……。
もっとも、あたしもツクツクさんも免許は持っていないし、列車で運ぶわけにもいかないのも分かる。そんな目立つ運び方をしたら、サエーナを探している奴らに見つかってしまうかもしれない。車で移動というのは、正解と言えば正解だ。
移動用のバスケットの中で、サエーナはおとなしくしていた。夜ということもあるが、もう暴れるだけの力もないのかもしれない。
いくと決めたのだから、迷っていることはない。ここはカレンさんに頼ろう。
「急ぎましょ」
あたしは、ツクツクさんたちをうながした。
ツクツクさんは助手席で、あたしはサエーナと後ろに乗った。車が小さいので、長身のツクツクさんはちょっと窮屈《きゅうくつ》そうだ。
「場所はナビゲーションシステムに入れましたから、その指示に従って走ってください」
「分かりました」
無駄に聞き返すことなく、カレンさんが車を発車させた。
普段おしゃべりなカレンさんも、運転しているときは無口のようだ。薄くブラウンの色がついた眼鏡をかけて、キリリと前をむいて運転している。
夜の道をどこまでも走っているうちに、あたしはだんだん眠くなってきた。本来なら今ごろはぐっすりと寝ている時間だからしかたない。
「ミズ・メアリー、まだまだかかりますから、寝られるときに寝ておいてくださいね」
ツクツクさんに言われるまでもなく、いつの間にかあたしは眠りに落ちていた。だから、その後の二人の会話は聞いてはいない。
「その鳥ですけれど、むやみに野に放してもいいのですか。自然種だとは限りませんし、地元で繁殖したり交雑種が誕生すると問題になると思うのですが」
「その心配はないんですよ」
「そうなのですか」
「ええ。その心配は……ないんです。できれば、サエーナの好きにしてあげましょう。私たちが、まだ何かできるうちに」
「そうですか。それよりも、いつまであの場所におられるつもりなんです」
「気がすむまでだと思いますが」
「相変わらず、我《わ》が儘《まま》だと思います」
「そうでしょうか。まあ、そうなのでしょうね。でも……、それを許してくれるから……あそこにいるのですよ……」
「誰が許してくれる……、ああ、ずるいですよ、都合が悪くなりそうになったから寝てしまうなんて」
そのまま眠りについたらしいツクツクさんは、あたしよりも先に起きていた。
「おはよう。カレンさん、もしかして、ずっと運転しっぱなしだったの」
「いいえ。ちゃんと定期的に休憩はとりましたし、それにボクはまだ若いですから」
いや、もっと若いあたしにそう言われても……。なんか、地味に対抗されているみたいだわ。きっと、カレンさんもツクツクさんの隣に住みたいぐらいのことを思っているのかもしれないけど、変に対抗意識を燃やされても困る。
それにしても、いったい今どこを走っているのだろう。周囲を見てもさっぱり分からない。ほとんど人気のない山の中のような所を走っているのだけは分かるけど。
なんだか、寝ている間に異次元にでも入り込んでしまったような気分だ。
やがて、ツクツクさんの指示でカレンさんが車を止めた。
「ここからは歩きですからがんばってください。サエーナは私が持ちましょう」
「いい。あたしが運ぶわ」
衝撃を与えないようにがんばってバスケットを運びながら、あたしたちは山奥へと入っていった。さすがに途中でツクツクさんと交代はしたが、一番がんばって運んだのはあたしだったと思う。
生い茂る緑の中、道なき道をかき分けて進んでいくと、やがて滝が目の前に現れた。かなりの落差を持った大きな滝だ。激しい音とともに、弾けた飛沫《しぶき》が霧状になって周囲に立ち込めている。
雄大な風景だけど、道もここで完全に途切れてしまったように見える。まさか、この滝の上まで登れと言うんじゃないでしょうね。
カレンさんも絶望的に上を見上げている。
「まさか。こちらですよ。足下に気をつけてくださいね」
あたしたちの心配をよそに、ツクツクさんは滝の裏側、つまり、滝の水と崖の間に入っていった。どうやら、滝の裏に洞窟があって道が続いているらしい。
「ちょっと、懐中電灯も持ってきてないのに、どうやって進むの」
「いや、明かりならありますから」
そう言って、ツクツクさんが光る短い杖をかかげた。いや、杖じゃなくて、コンサートなどで使う蛍光スティックじゃないだろうか。用意がいいというか、そんな変な物じゃなして、懐中電灯の方が使い勝手がよかったんじゃないだろうか。
洞窟は思ったよりも短くて、あっという間に抜けてしまった。
ここは、いったいどこなのだろう。
周囲はジャングルかと思えるほど緑が濃く、気温は汗ばむほど暑かった。
「このへんは、地下で火山に繋がる道があって地熱が高いんですよ。とはいえ、ごく限られた範囲だけなんですが」
「こんな場所があるなんて」
あたしたちが住んでいる近くにと言いかけて、あたしは考えなおした。ここが近くの場所という保証はない。むしろ、とんでもなく遠い所なのではないだろうか。
「ここなら、サエーナを放すことができるでしょう」
ツクツクさんの言葉通り、今まですっと身じろぎもしなかったサエーナが、バスケットの中でもぞもぞと動きだした。きっと、周囲の環境の変化を感じとったに違いない。
おそらく、バスケットを開いたら、そのまま飛び去ってしまうだろう。そう思うと、手が動かなかった。
「ボクがやりま……」
あたしが動かないのを見かねたカレンさんが言いかけるのを、ツクツクさんがそっとさえぎった。
「ミズ・メアリー」
「うん。そのためにきたんだものね」
ツクツクさんにうながされて、あたしは地面においたバスケットを開けた。
ゆっくりとサエーナが出てくる。けれども、サエーナはいきなり飛び立つようなことはなかった。優雅に翼を広げると、あたしたちの方をむきなおった。その姿は本当に綺麗だ。微《かす》かな風にゆれる綿毛は、本当に炎が燃えているように思える。この土地の暑さのせいか、陽炎につつまれているようにその姿はゆらいで見えた。けっして、涙のせいではないと思う。
暖かい風が頬を打つ。
サエーナが空に舞い上がった。高く、高く。空に浮かぶ雲の高さまで一気に昇っていく。
青い空と白い雲を背景に、深紅のサエーナの姿は本当に燃えているようだった。やがて、その姿は大きく燃え広がるようにして雲の中へ消えていってしまったように見えた。
まるで空にとけこんで一体化してしまったかのようだ。
それきりだった。
別れはあっけない。でも、出会いは一瞬から始まるけれど、別れはフェードアウトだ。たとえ一瞬で消えてしまったように見えても、目さえ逸《そ》らさなければ、それはゆっくりと時間をかけて消えていく。完全に消えてしまうまで、それは永遠に近い長い時間に違いない。
これで、サエーナは自由になれたのだろうか。
ずっと空を見上げていたあたしの所へ、空から赤いひとひらが舞い落ちてきた。サエーナの羽根だ。掌で受け止めると、それは朧《おぼろ》になって消えてしまった。
「サエーナは、不死鳥だったわよね」
「ええ。そうです」
あたしの言葉に、ツクツクさんは確かにうなずいた。
不思議な密林からの帰り、またしてもあたしは寝てしまった。迂闊《うかつ》だったのかもしれないけれど、これでサエーナの行方はツクツクさんしか知らない。カレンさんもカーナビに従って運転してきただけだし、特に山に入ってからの道は全部ツクツクさん任せでよく分からなかったそうだ。
すべてが終わってツクツクさんの家でお茶をごちそうになっていると、開いた掌の中から消えたはずの赤い羽根が一つ出てきた。
車かバスケットに残っていた物がくっついたのだろうか、それとも……。
目の前では、ツクツクさんがもう意味を失ったチラシを紙飛行機に折りあげて、くずかごへと飛ばしていた。
[#挿絵(img/hazelnut_117.jpg)入る]
[#改丁]
秋は一服の風
[#挿絵(img/hazelnut_119.jpg)入る]
[#改丁]
☆
傘《かさ》をたたむと、雨の雫《しずく》は容赦《ようしゃ》なくあたしの上に落ちてきた。
雨は大嫌いというわけではないけれど、雨に濡れるのはあまり好きじゃない。雨が降ると外で遊べなくなる。だから、雨はあまり好きじゃない。まして、ここがキャンプ場であるならばなおさらだ。
「おじゃましまーす」
あたしは一言断ると、返事を待たずにお隣のテントに入っていった。
中に顔を突っ込んだとたん、金木犀《きんもくせい》の香りがした。この雨では、花の香りも雨宿りしたくて忍び込んできたのかしら。
身をかがめて、四つんばいで結構広いテントの奥に入っていくと、奥には携帯用のランプの明かりで本を読んでいるツクツクさんがいた。
ママが応募したキャンプ大会に、ツクツクさんもなぜか巻き込まれてここにきている。それはいいのだけれど、テントまでお隣というのは、つくづく腐れ縁だと思う。
「おや、ミズ・メアリー、こんな時間にどうしたのですか」
熱心に読んでいた本から顔をあげて、ツクツクさんがあたしに訊《たず》ねた。昼間はこの間のようなハイキングの格好だったのに、今はいつも通りのゆったりとした服装に着替えている。寝間着代わりのつもりなのかしら。
「つまんないから遊びにきた」
「おやおや」
あたしの言葉に、ツクツクさんが少し苦笑した。
でも、つまらないのは確かだ。
本来、このキャンプ大会は『星を見ましょう大会』だったはずなのに、こんな雨模様ではせっかくの企画も台無しだった。
「でも、雨なんですからしかたないじゃないですか」
テントを叩く雨粒の音をさして、ツクツクさんが言った。ちっちゃな子供が太鼓を叩いているかのように、まばらに雨の演奏が続いている。
「ふーん、じゃ、なんでそんなの読んでいるの」
あたしはテントの中をのしのしと恐竜よろしく進むと、ツクツクさんが持っていた本をじっと見つめた。
「いや、これはですね。はははは……」
あわてて隠そうとするが、もう遅い。
ツクツクさんが読んでいたのは本などではなくて、このキャンプ場のパンフレットだった。ちょっと厚めのそれは、ここから見える星空がどんなにすばらしいか懇切丁寧《こんせつていねい》に解説されている。だいたい、ツクツクさんがママの誘いに乗ったのも、このパンフレットを見せられたからだ。
「何だかんだ言って、ツクツクさんだって楽しみにしていたんじゃない」
ちょっと未練がましいけれど。
「まあ、それは否定できませんね。それより、お母様はどうしたんですか」
苦笑した後、ツクツクさんが不思議そうに訊ねた。しょっちゅう遊びにきているからといって、こんな真夜中に一人でくるのはいただけないと言いたげだ。
まあ、そう言われても、ちょっとしかたがない。
サエーナの一件のとき、事情もあるしカレンさんもいたとはいえ、事後報告ですませようとしたのがまずかった。丸一日ドライブにでかけてしまったのだから、遊び人の烙印《らくいん》を押されてしまったとしてもしかたない。幸い、事前にツクツクさんがちゃんとママに説明してくれていたため、誘拐だ家出だと騒がれなかったわけだけれど。
でも、ちゃんと説明していなかったことを、後でママ本人よりもツクツクさんの方からより叱られたのは結構理不尽だと思う。逆に、ママの方はツクツクさんと一緒だと知っていたので、まったく心配していなかったようだ。なぜ、実の娘よりも赤の他人のお隣さんを信用するのか。やはり、納得いかない。
「さっさとロッジの方にいっちゃったわ。だいたい、テントは希望者だけだったし。どうも、ママは最初からロッジでのんびりするつもりだったみたい。あたしに、自然を体験させてあげるとか言ってたくせに。自分もちゃんとテントを体験してもらいたいものだわ」
まあ、インドア派のママが、キャンプと言いだしたときに気づくべきだったのだろう。ここは、ロッジ形式のホテルが所有しているキャンプ場で、主体はあくまでもロッジなのだから。ママの方は、あたしをテントに厄介払《やっかいばら》いして、今ごろは近所のおばさんたちと騒いでいるに違いない。
「まったく、何しにこんなとこまできたのやら」
あたしは、がっかりの溜め息をついた。
「そうですね。では、お月見にいきましょう」
「はっ!?」
いや、またツクツクさんが何か唐突《とうとつ》に変なことを言いだした気がする。
だいたい、今雨が降っているからこんなことになっているんだけど。それに、そのお月見って何?
「月を見ながらお酒を飲んだりお団子を食べる、東洋のお祭りのことですよ」
「またか。またなのか……」
あたしは、頭をかかえた。
またお祭り騒ぎだわ。それにしても、どうしてそういうことばかり知っているのかしら。もしかすると、お隣に引っ越してくる前に、そういった国を放浪でもしてきたんじゃないの。でも、だったら、もっとちゃんと知っていそうなものだけれど。ツクツクさんは、変なところでいいかげんなんだから。
「だいたい、雨が……」
「やんだみたいですね」
ツクツクさんの言葉に、あたしは耳をそばだててみた。
ほんとだ、いつの間にかテントを叩く音がしなくなっている。でも、だからといって雨が完全にやんだとは言い切れないと思う。
あたしはずるずると後退《あとずさ》りすると、テントの外に出てみた。後を追うようにして、ツクツクさんもゆっくりと外に出てくる。
手をかざしてみても、夜気が湿っぽいだけで、雨粒は感じられない。
確かに雨はやんでいた。
まさか、ツクツクさんが雨を止めたなんてことはないと思うけれど。それとも、天気予報か何かで、雨がやむことを知っていたのかしら。
「でも、空はどん曇りね」
あたしは、真っ暗な空を見上げて言った。
雨がほぼやんだとしても、雨雲が綺麗さっぱりなくなったわけではない。これでは、お月様どころか、星だって見えはしないじゃない。
「うーん。曇ってますねえ」
ランプを片手に、ツクツクさんがそばにやってきた。
あらためて言われるまでもなく、お月見なんて端《はな》から無理っぽいのだけれど。
「少し待ってみましょうか」
ツクツクさんの提案で、キャンプ場のバーベキュー用のイスに座ることにした。幸い、パラソルつきのテーブルだったのでお尻が水浸しになることはなかったけど、夜に冷やされたイスは結構冷たい。
少し風がでてきた気がする。空の雲も流れてはいるけれど、ぜんぜんお月様なんか出る気配はなかった。後どのくらいこうしていればいいんだろう。
ちょっとつまらなくなってきた。
「お月様は出てこないわね。まったく、どこに隠れているのかしら」
「そうですね、きっと隠れているんです」
あたしのつぶやきに、ツクツクさんがぽんと手を打ってから言った。また何か思いついたのかしら。
「探しにいきましょう」
いや、さっきから探しているんじゃなかったの。まさか、ここから移動して、どこかに探しにいこうと言っているのかしら。
「待ってるだけでは、相手は顔を出してくれないものですよ。さあ、一緒にお月様を探しにいきましょう」
あたしの返事を待たずに、ツクツクさんが歩きだした。
まあ、ここでぽーっと待ちぼうけをくらうよりは、あてがなくても何かしていた方がましだわね。
それに、ツクツクさんは、この夜の風景になんとなく似合うような気がする。どこがと聞かれても困るのだけれど。それもちょっと確かめたくて、あたしはツクツクさんの後について歩きだした。
突然の真夜中の散歩だけれど、まあツクツクさんが一緒なら大丈夫だろう。まさか、キャンプ場で森のクマさんと出会うこともないと思うし。出会ったら出会ったで、ツクツクさんがなんとかしてくれるだろうと思う。きっと。たぶん。
夜の森は、昼間とはまた違った匂いがした。雨のせいもあるのだろうけれど、どこか秘密めいていて少し重たい香りがする。
しばらぐ木々の間の道を歩いていく。明かりはツクツクさんの持つランプだけだ。
それにしても、そのランプの光は変に青白い。炎の燃える明かりというよりも、蛍光灯の色合いに近い気がする。今時のランプだから、電池式か何かなのだろうけれど。文字通り、蛍《ほたる》の放つ光に近い気もするし、なんとも不思議な感じの光だった。そう、きっととても静かな光なんだわ。
その光が、あたしたちの進む道を照らしだしていた。
見慣れない風景だからちょっと不思議な世界に見えるけれど、その正体はキャンプ場のただの遊歩道のはずだ。結局は、箱庭の散歩なわけ。
しばらく歩いていくと、湖に出た。星明かりもないから、湖は黒曜石の鏡か濃いブラックコーヒーのようにも見える。
「空に月がないのですから、きっと地上に隠れているのですよ」
「そうね。隠れてるなんて意気地なしのお月様だわ」
湖畔《こはん》を歩きながら、あたしはツクツクさんに会話を合わせた。言い合いをしても、掛け合い漫才になるだけだわ。
お月様はまだ出る気配がない。もっとも、お月様が出てしまえば、このあてのない散歩も終わりなのだろうけれど。
「月にだって、隠れてしまいたくなるようなときがあるのかもしれませんよ。空にいれば、今日みたいに黒い雲が周りに群がってくるような日もあるでしょうし」
「それでも、空にいなくちゃだめじゃない。なんたってお月様なんだから」
少しは、お月様にもプライドというものをもってほしいものだわ。
「それはそうですが……」
「堂々としてればいいのよ。なんたってお月様なんだから」
「まあ、そうかもしれませんね。なんだか、本当に月を探しだせそうな気分になってきましたよ」
やっぱり本気じゃなかったんだ。たんなる暇《ひま》つぶしだったのかしら。だったら、素直に散歩しようと言えばいいのに。
「いやですねえ、私はいつだって本気ですよ」
それが信用できないのだけれど。
「空にいないなら、きっと月は湖の中に隠れているのかもしれません」
いや、お月様は空の上にあるのは間違いのない事実なんだけど。雲に隠れているだけじゃないの。
「雲は、秘密を隠すにはちょっと頼りないですからね。未《いま》だに見つからないわけですから、そうですねえ、月を隠すなら水の中でしょうか」
うーん、だからその論理の飛躍がツクツクさんらしいと言うかなんと言うか。
「ちょっと待っててくださいね」
ちらりと空を見上げると、ツクツクさんがあたしをその場に残して何か探し始めた。
少し離れた場所にいったツクツクさんの姿は、ランプの淡い光の加減で、ときどき黒いシルエットに見える。その姿は、本当に夜を友とする魔法使いのようだ。
ああ、あたしはこれが確かめたかったのかもしれない。今のツクツクさんの姿は、あたしの想像する魔法使いのイメージに近いんだわ。
「ミズ・メアリー」
ランプを大きく振って、ツクツクさんがあたしを呼んだ。
いってみると、そこはボート乗り場だった。桟橋《さんばし》の所に、キャンプ場の利用者なら自由に使っていいスワンボートがいくつか泊めてある。
「探しにいきましょう」
ツクツクさんが、手近なスワンボートをさして言った。手に持っていたランプを、スワンの口の所に上手にぶら下げる。
こういうときは、拒否しても無駄だわね。それに、ボートで湖に漕《こ》ぎ出したらどうなるのかというのもちょっと興味がある。
あたしはツクツクさんと一緒に二人乗りのスワンボートに乗り込むと、たくましくペダルを漕ぎ始めた。自転車と同じで、乗り込んだ二人がそれぞれのペダルを踏んで回すことによってボートが前に進む仕組みだ。
白鳥がするすると湖面を滑り出したのはいいけれど、なんだか曲がりながら進んでいるような気がする……。
「ミズ・メアリー、はりきりすぎてます」
いや、それはツクツクさんがのんびりしているからじゃないかしら。普段からインドア派で鍛えていないから、こんなところで年下の女の子にも脚力で負けてしまうのだ。というよりも、このスワンボート、仕組みがちょっと変なような気がする。ハンドルとか舵《かじ》とかがなくて、左右の漕ぎ手の漕ぐ速さで曲がる仕組みになっているみたい。これじゃ、息をぴったりと合わせないと、まっすぐに進めないじゃないの。ある種、乗り手に対する罠だわ。
ぶつかるような物がなさそうだからいいものの、自転車とか車だったら今ごろ事故ってるわね。
「ツクツクさん、あたしに合わせてよ」
「トゥックトゥイックです」
いや、今は口よりも足を動かしてほしい。
それにしても、未だに頑固《がんこ》に名前を訂正し続けるとは、ツクツクさんも往生際が悪いわ。空《むな》しくなったりはないのかしら。
「がんばって漕ぐ!」
「がんばります」
少しずつ息を合わせていって、あたしたちはなんとか湖の中央へと進んでいった。
進み方はかなりぎこちなかったが、まあこんなものでしょう。うねうねと蛇行しながらというのがお約束と言えばお約束だわ。
いつの間にか空はうっすらと晴れてきた。雲がなくなったわけではなく、雲が薄くなったという感じだ。紺色の空の手前に、黒いシルクのスクリーンが張られているみたい。
おかげで、見えそうでいて星は見えない。お月様なら薄い雲を突き抜けて光が届きそうだけれど、気配すら感じられなかった。だいたい、月齢とかでお月様の形や位置も違ってくるはずだから、この時間にお月様が見えるという保証もないのだけれど。
まあ、ここまで楽しくなかったと言えば嘘だから、そろそろ充分かもしれない。ツクツクさんも、いいかげん満足したかあきらめたかしたでしょう。
「やっぱりだめみたいね」
「いいえ、そうでもありませんよ」
さすがにあきらめかけたあたしに、ツクツクさんがどこかを指さしてみせた。
「ほら、あそこ。月がありましたよ」
目を凝らしてみると、ボートのすぐそばに青白い明かりが見える。
黄色ではなく、青白い方の月色という感じかしら。でも、この光の感じはどこかで見たような気がする。角度から考えると、スワンボートの口にぶら下げたランプの明かりが湖面に映っているんじゃないのかしら。
「あれは違うというか、ただの反射じゃないの」
その証拠に、見上げてみても空にお月様なんて出ていない。
「いえいえ、そんなことはないですよ。信じれば、ペーパームーンも本当の月になるように、光の月も本物になるものなんです」
うーん、それは勝手な思い込みみたいな気がするけれど。
だいたい、こんなスワンボートじゃ、湖面の光だってあまりよく見えないし。ツクツクさんも、よくそれを見つけられたものだわ。
あたしは少し身を乗り出して、ツクツクさんが月だという光をもっとよく見ようとした。それは、ちょっと迂闊《うかつ》だったかもしれない。とたんにバランスが崩れて、スワンボートが大きくかたむいた。
「きゃっ!」
湖に落ちそうになったとき、間一髪であたしはツクツクさんに両肩をがっしりとつかまれた。一呼吸おいて、鼻の頭が水面につく直前に、ぐいと身体が引き戻される。そのまま、あたしたちは勢いあまってボートの中でひっくり返った。
「いたたたた……」
「あいたた……。ミズ・メアリー、重たいですよ」
あたしの下敷きになったツクツクさんが、緊張感のない悲鳴をもらした。レディとしては、いちおうひっぱたいておく。
二人が倒れ込んだ勢いでスワンボートは左右に大きくゆれ続けた。まるで白鳥がイヤイヤをしているようだ。
おかげで、あたしたちはボートのシートに倒れ込んだまま、しばらく動けずに窮屈《きゅうくつ》な思いをした。ちょっと恥ずかしいが、今立ち上がったらそれこそ水に落ちてしまう。
白鳥が銜《くわ》えている形だったランプも、この勢いであっけなく湖に落ちてしまった。ぽちゃんという音とともに、光も水の底へ沈んでいってしまっただろう。
ツクツクさんの言うお月様の光も、哀《あわ》れ海の藻屑《もくず》だ。いや、ここは湖だっけ。
ランプの光が消えて、周囲は真っ暗になってしまった。
これでは、ボート乗り場に戻るのもたいへんかもしれない。とりあえず、小さな湖なので、まっすぐ漕いでいれば岸に着くとは思うけれど。とはいえ、また二人の漕ぐ速さが違っちゃって、湖の真ん中でぐるぐる回るなんてことだけはさすがにかんべんしてほしい。
「明かりがなくなっちゃったから、帰りがたいへんだわ」
「そうでもないと思いますよ。ほら」
あたしの下敷きになっていたツクツクさんが、空をさした。
また何を言いだしたのだろうかと、ゆっくりと起き上がって空を見てみる。そこにはまん丸いお月様が、明るく輝いていた。その光で、なんとなく周囲の風景も見えるようになってきていた。
ほんとにお月様が出ちゃった。
これは、単純に晴れてきたから、お月様が見えるようになったと思えばいいのかしら。さすがに、さっきの反射が本物のお月様で、隠れていた湖の中から出てきたとはあまり思いたくない。
お月様の明かりを頼りに、あたしたちはなんとか元のボート乗り場へ戻ることができた。もちろん、あたしがツクツクさんに号令をかけて、必死でボートを漕いでもらったのは言うまでもない。
「これでお月見ができますね」
湖畔のベンチに座ると、ツクツクさんがどこからか缶コーヒーを二つ出してきた。いったい、今までどこに隠していたのだろう。夜気でちょっと冷えていた身体には、コーヒーはとても温かかった。
空は、もうすっかり晴れていた。明るい満月で少し霞んでいるけれど、星も満天に輝いている。そして、それは夜の湖にも綺麗に映り込んでいた。
湖の中央には、お月様の影も映っている。それは、本物のお月様の明かりなのか、水の中のランプの明かりなのか。それとも、空に浮かぶお月様の方が、湖面のお月様の照り返しなのかしら。
常識で考えれば、答えははっきりしているのだろうけれど。でも、どちらだか分からないというのも、ちょっと素敵かな。それに、そんなことは、ほんとはどちらでもいいことなのかもしれない。
綺麗だから、それでいいじゃない。
「お月見というのも、悪くはないものね」
あたしは、二つのお月様を見ながら言った。
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☆
「トリック・オア・トリート!」
とんがり帽子に、星のついた杖、黒いマントを背中につけて、あたしは大きく叫んでみた。
「よし、完璧だわ」
鏡に映った自分の姿に、あたしは満足した。これで、ハロウィーンの仮装は完璧だわ。後は、お隣に乗り込むだけよ。
そのころ、ツクツクさんは庭で何やら怪しげなことをしていたらしい。なんでも、地面に突然大きな穴が空いたらしいんだけれど、あたしはそのことをまったく知らなかった。
「うーん、困りましたねえ」
庭でぼーっと立っているツクツクさんは、あたしには絶好の獲物に見えた。
そーっと背後に忍びよっていく。
ふふふふ。
「トリック・オア・トリート!」
「あわわわわ……」
突然後ろからツクツクさんを驚かせたところまではよかった。けれども、驚いたツクツクさんが、振りむきざまにバランスを崩《くず》して穴に落ちそうになった。あたしは、そのとき初めて穴の存在に気がついたわけ。冗談じゃない、かなり大きくて深そうな穴だわ。このまま落っこちたら、ツクツクさんが怪我するかもしれない。
あたしは、とっさにツクツクさんの身体をつかんで引き戻そうとした。けれども、あたしとツクツクさんでは体格も力も違う。湖に落ちそうになったときの逆というわけにはいかなかった。
「きゃっ、ツクツクさん!」
「トゥックトゥイックで……」
なんか、変なやりとりになりかけたと思う間もなく、あたしたちは穴に落っこちた。
暗転。
そう、まさに暗転。目の前が真っ暗になって、あたしは一瞬意識を失った。気がつくと、ツクツクさんと二人で、なぜか野原に倒れていた。
穴に落ちたはずなのに、なんでこんな所にいるのだろう。ツクツクさんの庭のはずなのに、ツクツクさんの家も我が家もどこにもない。夢でも見ているのかしら。
「ここはどこかしら」
あたしたちは、のろのろと起き上がって周囲を見回した。
「さあ、私にも分かりません。穴に落ちたから、地下なのでしょうか」
「そんな馬鹿なあ。それじゃアリスじゃない」
原因はツクツクさんに決まってる。きっとそうに違いない。
「私だって被害者だと思うんですが」
それは却下《きゃっか》。
「はあ。しかたないですね。とにかく家に戻る道を探しましょう」
他にできることはないみたい。不条理に入っては不条理に従えだ。ひとまずは、周りに合わせていくことにしよう。ひとまずはね。
このときのあたしは、なぜかすんなり環境に順応していた。
「いきましょ」
あたしたちは、てくてくと歩きだした。
それにしても、周囲は見渡す限りの野原で、一本の道がずっと果てしなく続いているだけだった。でも、ところどころに大きな木も生えているし、たまに目印のような岩とか池とかもある。地形というか、物の配置は案外シンプルだった。言ってしまえば、ちょっとした箱庭みたいなものなのかしら。
進んでいくと分かれ道みたいな所もたくさん出てきた。だからといってどの道をいけばいいのか分かるはずもなく、あたしたちはただまっすぐ進むしかなかった。
穴に落ちた先だから単純に地下の国かなって思ったけれど、そのわりにはちゃんと空がある。青く澄んだ気持ちのいい空だった。風も気持ちいいし、状況が状況でなかったらとても気分のいい散歩になっていただろう。
「それにしても、ミズ・メアリー、いったいその格好はなんなのですか」
今さらながらに、ツクツクさんがあたしの格好を話題にする。
「トリック・オア・トリート!」
あたしは、マントを翻《ひるがえ》して杖を振りかざした。
「ああ、ハロウィーンですか。すっかり忘れていました」
お祭り好きのツクツクさんとしては、珍しいことだわ。
それにしても、どこまで歩いても変化がない。それ以上に、時間の感覚が希薄《きはく》になってきたような気がする。
「少し休みましょうか」
今までで一番大きな木を見つけて、ツクツクさんが言った。木の種類は分からないけれど、かなり年季の入った木だ。幹の中程には大きなうろ[#「うろ」に傍点]が空いているし、横に大きく広がった枝にはヤツデに似た大きな葉っぱが何枚もしげっている。
「そうね」
このまま歩き続けても、進展はないように思える。ちょっと休んで考えるのもいいかもしれない。
天気はいいし、穏やかで気持ちのいい場所だ。木の下でツクツクさんと肩をならべて休んでいると、ちょっと眠くなってきてしまう。
「あーあ、地図でもあればいいんだけどなあ」
あたしは、ない物ねだりでぼやいた。
「それに近い物はあるみたいですよ」
梢《こずえ》を見上げてツクツクさんが言った。
なんのことかと立ち上がってみると、休息場所にしていた木についている大きな葉っぱが目に入った。
「何よ、これ」
ツクツクさんが取ってくれた一枚の葉を手に取って、あたしは思わず叫んでしまった。
葉っぱが地図になっている。葉脈《ようみゃく》が道で、目印になりそうな木や岩や池が記号のように書き込まれていた。いや、自然と記号のような模様が浮かびあがっていると言った方が正確なのかもしれないけれど。
やった、これで地図が手に入ったと思ったのも束《つか》の間だった。いや、それ以前に、なんで葉っぱが地図なのかということに疑問を持つべきなのだけれど。とにかく、よくよく見れば、この木についている葉っぱのすべてが地図になっているじゃない。すべての葉っぱが同じ模様なら問題はないのだけれど、何故か千切《ちぎ》ってくらべてみると、葉っぱの地図は全部微妙に違っていた。
「これでは、どれが本物か分からないですねえ」
いや、それは、この葉っぱの地図が、この世界の地図と同じだという場合の話だから。たんに葉っぱが地図になっているというのと、この場所の地図が葉っぱに載ってるというのは別物だと思う。
「そりゃあ、地図はほしい人間にしか分からないねえ。ひひひひん」
突然聞き慣れない声がして、あたしは驚いて周囲を見回した。
「おや、こんな所に珍しい物が。キノコか何かでしょうか」
ツクツクさんが、何か見つけたらしい。でも、キノコ!?
「失敬な。ぶふん」
ツクツクさんにキノコ呼ばわりされた物がしゃべった。って、なんでしゃべるのよ。
あたしはツクツクさんをよじ登るようにしてうーんと背伸びすると、声の主の正体を確かめた。
はたして、木の枝の上に小さい馬の首が生えていた。いや、これってチェスの駒《こま》のナイトじゃないのかしら。でも、なんでそんな物が木に生えているんだろう。しかも、しゃべるだなんて。
「やっぱり、これってキノコ?」
「違うって言うておろうが。まったく、これだから素人は困る」
そう言いながら、ナイトは木の上をすべるように移動していった。そして、適当な葉っぱに目をつけると、それをむしゃむしゃ食べ始めた。
「ちょっと、あなた、何食べてるのよ」
「うるさいのう。わしが何を食べようとも、わしの勝手であろうが」
はむはむしながら、ナイトが言い返した。
それはそうだろうけれど、今食べているのがこの場所の地図でないとも限らない。
「ちょっと、食べないでくれる。それがここの地図かもしれないんだから」
「違うぞ」
一蹴《いっしゅう》された。
むむ。
あっ、あたしの踏み台になってるはずのツクツクさんの背中が小刻みにふるえている。笑っているわね。
「この葉は、ここの味がせん」
それで分かるのか。
「ここの出口が知りたいのですが」
あたしに思いきり肩をつかまれて、ツクツクさんがちょっと顔をしかめてからナイトと交渉を始めた。いつまでも、笑ってるだけですませるものですか。
「出口かい」
「ええ」
「それなら、葉っぱの地図に書いてある」
このナイト、引っこ抜いて踏んだろうかしら。
「だから、どの葉っぱなのよ」
「そんなことは、魔女のあんたなら分かるだろうが」
ちょっと怒って聞いたあたしに、ナイトが言い返した。そりゃ、今のあたしは魔女の格好をしてはいるけれど、本物の魔女じゃないんだから。
「分からないから聞いているんじゃない」
「あらら、魔女のくせに。ぶひん」
あっ、今鼻で笑われた。
「何よ、チェスの駒のくせに、しゃべるなんて生意気な」
「しゃべったっていいではないか。嫌だったら、しゃべれなくしてみるがいい。あんた魔女なんだろう」
なんか、だんだん許せなくなってきた。
「あたしは魔女じゃないわ」
「魔女じゃないとな。では、なぜそのような格好をしておるのだ」
「ふっ、今たっぷりと教えてあげるわ」
言い終わらないうちに、あたしはナイトにむかって手をのばした。けれども、敵も然《さ》る者、さっとあたしの手を避けて逃げた。木から生えてるわりには、素早く動く。
「ぶひひ、そう簡単に……。あれ!?」
「まあまあ、ちょっと教えてくれるだけでいいんですよ」
勝ち誇ろうとしたナイトだったけれど、あっさりとツクツクさんにつかまれてしまった。あたしにばっかりかまけていたから、自業自得だ。
「は、放さぬか!」
ツクツクさんの手の中で、ナイトがもがく。そんなことをしても無駄で、なんとも簡単に木の枝から引きはがされてしまった。
「逃がしちゃだめよ」
「偽魔女のくせに、偉そうに……」
「ミズ・メアリーは、本当の魔女ですよ」
ツクツクさんが真面目な顔をして、ナイトをつかむ手に力を込めた。
「きゅう」
ああ、握り潰しちゃったらまずいわよ。
「いい。本物の地図を教えないと、縦に潰《つぶ》してチェッカーの駒にしちゃうわよ。そのくらいの魔法なら、あたしだってできるんだから」
ナイトの鼻の頭を指で弾いて起こすと、あたしは思いっきりハッタリをかました。
「だから、言ってるであろう。地図は、それをほしい人間にしか分からないと。とにかく選んでみることだ」
ナイトが開き直った。
しかたない、とりあえず探してみるしかないみたい。とはいえ、どれが正解だか分からないわけだから、一枚ずつ見ても無駄だわね。ここは勘《かん》に頼るしかないのかしら。
「さあ、選べ」
ナイトが急《せ》かす。生意気だ。
「うーん。どれが正解なのよ。もう、正しい地図なら名乗り出なさいよ」
言ったとたんに、一枚だけ葉っぱが風もないのにくるくると踊った。
「ツクツクさん」
あたしがうながすと、ツクツクさんがちょっと手をのばしてその葉っぱを取った。
見れば、葉っぱの中央付近にある木に、現在地らしき赤い矢印がついている。
「あたりみたい」
「よかったのう。で、それ食べてもよいかな?」
喜ぶあたしに、ナイトがよだれをたらしながら聞いた。有無をも言わさず、あたしはツクツクさんからナイトを奪い取ると、木の中央付近に空いているうろの中に投げ込んだ。
ストライク!
「――食べてもよいかな?」
しぶとく、うろの奥の方からエコーのかかったナイトの声が聞こえてくる。
「だめですよ」
ツクツクさんがうろにむかってやんわりと答えると、それっきり声は聞こえなくなった。あっさりと納得したみたいだ。
「で、どこがゴールなのかしら」
もうナイトのことは無視することにして、あたしは広げた葉っぱの地図をツクツクさんに見せて訊ねた。
「これは、なんでしょうか」
ツクツクさんが、葉っぱに空いた穴をさして言った。
「何って、虫食い穴じゃ……。そうか、穴だわ」
この葉っぱが地図ならば、意味もなく穴が空いているはずがないと思う。きっとこの穴の所に、実際に穴があるんじゃないかしら。穴から落ちてきたのだから、きっとまた穴に落ちれば戻れるかもしれない。
「そうですね。とにかく、そこへむかってみましょう」
ツクツクさんの同意を得て、あたしたちは再び歩きだした。
「もうどのくらいまできたのかしら」
しばらく歩いて、あたしは地図を見直した。
位置関係が分かったのはいいけれど、現在地が分からないのはちょっと困る。
「そうですねえ。何か印があればいいのですが……。おや?」
あたしから渡された地図を見ていたツクツクさんが、何か気づいたようだ。地図を高くかかげると、日の光に透かして見ている。あたしも下からのぞいてみると、日に透けた葉っぱの地図に、何やら赤い点が見えた。
「場所的に、現在位置じゃないでしょうか」
試しに少し進んでみると、ちゃんと赤い点も移動していた。ツクツクさんの言うとおりらしい。これはこれで便利だ。
それにしても、思ったよりも穴のある場所は遠いらしい。いったい、何時間歩き続けたことかしら。さっき小休憩をとったとはいえ、さすがに歩き疲れてきた。
「なんで、こんなに歩かなくちゃならないのかしら。せめて自転車とか、何か乗り物がほしいわね」
「そうですねえ。誰かが助けてくれることを祈りましょうか」
「祈ってどうにかなるんだったら、いくらでも祈るわよ」
あたしは立ち止まると、星のついた杖を高々とかかげた。
「お助けキャラ出ておいでー」
もう、やけくそで叫ぶ。
「おでかけですか?」
ふいに声をかけられて、あたしは驚いてそちらを見た。
古めかしいメイド服を着た女の子が、庭掃き用の箒《ほうき》を持って道の脇を掃《は》いている。なんとなくこの世界の風景に似合っているというか、こんな街道の真ん中で掃除をしているなんてシュールだと思いつつ、あたしは思わず顔を赤く染めた。今の魔法使いよろしくのポーズを、このメイドさんにしっかりと目撃されたわけだ。
「あれれれ。違うのですか?」
あたしが口ごもっていると、何か早とちりしてメイドさんも顔を赤く染めた。
長い黒髪のかわいい女の子だけれど、どこかで見たような気もしないではない。
「あの、ここで何をしているのですか」
ツクツクさんが、ごく普通にメイドさんに訊ねた。
「お乗り物のレンタルをしております」
にっこりと笑顔を作ると、メイドさんが喜んで答えた。なんだか、聞かれるのを待っていたみたいだわ。それにしても、さっきまでまったく気づかなかったのだけれど、このメイドさんはいったいどこにいたのかしら。声をかけられるまで、ぜんぜん気がつかなかった。
「乗り物って……」
「はい、こちらです」
かわいい声で、メイドさんが両手に持った箒をこちらへさし出した。
箒か、箒なのか!?
「はい、もちろん。魔法使いの乗り物といったら、箒と決まっておりますので」
それはそうかもしれないが、あたしはコスプレしているだけなんだってば。でも、ほんとに乗れる箒であるなら無茶苦茶はしい。
「いただけますか」
「どうぞ、御主人様」
いや、いったい、いつからツクツクさんが御主人様になったのだろう。
「これで、少しは楽ができそうですね」
この不条理な世界なら、箒で空も飛べそうだ。これで、びゅーんと目的地の穴までいけるといいな。お願い。
「どれどれ」
あたしは、大胆に箒にまたがると、ムンと気合いを込めた。
何も起きない……。
「だめじゃない。ちょっとツクツクさんやってみてよ」
あたしに言われて、ツクツクさんも手渡された箒にまたがってみた。けれども、やっぱり何も起きなかった。魔法使いだというのに情けない。やっぱりただの人なのかしら。
「ぜんぜん飛ばないじゃない。不良品じゃないの」
あたしは、思いっきり不信の目をメイドさんにむけた。
「あの、あの、二人用なんですが、それ」
突然責められて、メイドさんがおどおどしながら答えた。
「早く言いなさいよ!」
「すいません、すいません。お手伝いいたしますので」
メイドさんが、あわてて箒を奪い返した。箒の柄《え》の端を両手で持つと、がんばって箒を水平に構えてその位置を死守する。
いや、その格好は、無茶苦茶力がいると思うのだけれど。その証拠に、うーんと身体中顔中に力を込めて、メイドさんが少しふるふるしている。でも、その格好をされていると、ちょっと箒にまたがるのは気が引ける。ロングとはいえいちおうスカートだし、その体勢じゃメイドさんと真っ正面から顔が合ってしまう。
しかたないので、とりあえずあたしは横座りでベンチに腰かけるように箒に乗ってみた。ツクツクさんも、同じようにしてあたしの横に座る。
「いいですか、いきますよ」
メイドさんが手を放すと、箒がふわりと浮き上がった。その飛行高度、地上から一メートルほど。それ以上は高く飛べないみたいだ。
「さようならー。お気をつけてー」
元気に手を振るメイドさんに見送られて、あたしたちは出発した。
「なんだか、歩くのとあまり変わらないわね」
のろのろと低速で飛んでいく箒に、あたしはちょっとがっかりして言った。
「でも、助かりましたね」
「まあ、歩くよりはましだけど」
あたしとしては、映画みたいにすごいスピードで飛んでいくものだと思っていたのに。
「でも、それじゃちょっと危ないですよ」
言われてみれば、そうだわね。実際、ここまでに何度か箒の柄からずり落ちそうになったりしたし。またがれば安定するのだろうけれど、急にスピードが出てスカートがめくれでもしたらたいへんなことになるので、とりあえずは却下《きゃっか》だわ。
ふわふわと休みなく飛んでいって、ちょっとお尻が痛くなったころ、やっと目的の穴の所に近づいた。
「このへんのはずなんですが」
ツクツクさんと一緒に周囲を見回してみたが、地図にあるような穴は見あたらなかった。周囲は少し丈のある草が生い茂っているので、簡単には見つからないのかもしれない。
「穴が見つからないってことは、最初から間違ってたというわけ?」
虫食い穴の推察が間違っていたら、とんだ無駄骨ということになってしまう。
「いや、そうとは限りませんよ。とりあえず探してみましょう」
ツクツクさんの提案で、あたしたちは草の中に入って穴を探し始めた。
少し進むと、地面を覆っている草が見知った物に変わっていった。ぽつぽつと白い花も見える。
「クローバーですね。少し一休みしますか」
「そうね」
へたりと腰を下ろすと、そのままあたしはクローバーの上に寝転がった。視界いっぱいに青空が広がり、ちょっと気持ちいい。
そういえば、子供のころはよく川のそばでクローバーを摘《つ》んで遊んだりしたものだったわ。指輪を作ったり、冠《かんむり》を作ったり。
「懐かしいですね。私も覚えがあります」
いや、さすがにツクツクさんが花冠を編んでいたとは思えないけれど。
「いやいや、今でも作れますよ」
「あたしだって作れるわよ」
ちょっと対抗意識を燃やして、あたしは起き上がってクローバーの花を摘み始めた。
何本か摘んだところで、何かがクローバーの草むらの中で動いているのに気づいた。
そっとのぞいてみると、小人がいた。
いや、もう驚く気力もない。ある意味スタンダードな存在だから、木に生えるチェスの駒よりはましかもしれない。
その小人は、何やら葉っぱをごそごそいじっていた。どうやら、三つ葉にハートの形の葉っぱみたいな物をつけて四つ葉を作っているみたいだ。
まだ気づかれないので興味深くその作業を見守っていると、ツクツクさんもあたしの後ろにやってきて一緒に小人を見ていた。
「うまいものですねえ」
四つ葉が完成したとたん、感心したツクツクさんが思わず言葉をもらしてしまった。
「誰じゃい、あんたたちは」
驚いた小人が、腰を抜かして座り込む。
「ああ、すみません。脅《おど》かすつもりはなかったのですが」
謝りつつ、ツクツクさんが穴のことについて小人に訊《たず》ねた。
「穴ねえ」
いちおう話を聞いてから、小人は腕を組んで考え始めた。
「わしは、ハートを集めて四つ葉を作る仕事をしておるんじゃが。このへんで穴を見たなんて記憶は……。いやいや、待て待て……。うーん」
「何か知ってるの?」
「今思い出しとるんじゃから、邪魔するんじゃない」
ちょっと聞いただけなのに、怒られてしまった。扱いづらい相手らしい。こういうのはしばらく放っておくに限るわ。
あたしは、一歩下がって小人が穴のことを思い出すのを待つことにした。
いちおうはちゃんと考えてくれているみたいだけれど、それにしても長い。そのうち、ちょっと待ちくたびれてしまった。
手持ちぶさたなので、さっき摘んだクローバーで花冠でも作ってみよう。
「どう、うまいものでしょう」
できあがった花冠を、ツクツクさんに見せびらかす。
「本当に作れたんですね」
信じていなかったのか。それは、ちょっと心外だわ。
あたしは、できあがった花冠を座っているツクツクさんの頭にむかって投げた。くるくると飛んでいった花冠は、みごとにツクツクさんの頭の上に載っかった。
「私は輪投げの棒ですか」
ツクツクさんが、ちょっと迷惑そうに言った。
「似合ってるわよ」
その顔がおかしくて、ちょっと笑ってしまう。
「まあ、私はこういうのは似合うんですよ。それに、ミズ・メアリーが作ってくれたものですしね」
「それはありがと」
ツクツクさんに近づくと、頭の上の花冠をちょっとずらして位置を調整する。そのとき、何かが零《こぼ》れ落ちた。
「おお、それは!」
目ざとくそれを見つけた小人が、脱兎のごとく駆けてきてそれを拾い上げた。
「これは、なかなかに面白い」
小人が拾ったのは、緑色のハートの欠片《かけら》が二つだった。それを持った小人は、嬉々として四つ葉を作り始めた。
「ちょっと……」
「ええい、黙って待ってろ」
最初からあまりあてにはしていなかったからいいけれど、これなら無視して穴を探していた方がよかったかもしれない。まあ、ちょっと休憩をとったと思えばいいかしら。うん、そういうことにしておこう。
「よし、これでいい」
小人が歓声をあげた。
「何か思い出したの?」
あたしの言葉を無視して、小人はツクツクさんとあたしに一つずつ四つ葉のクローバーを手渡した。
「これでいいことがあるぞ」
いや、そんなインチキ占いのようなお守りグッズよりも、穴がある場所のヒントの方がずっと嬉しいんだけど。
「何を言うか。こんないい四つ葉は、久しぶりじゃ。わしの会心のできなのじゃぞ。きっといいことがある。じゃあな」
一方的に言うと、小人はあたしが引き止めるのも聞かずに草の中に姿を消してしまった。
「うーん、困りましたねえ」
「まったく、時間の無駄だったわね。こんなのが、なんの役にたつと言うのかしら」
ツクツクさんから四つ葉を手渡されてあたしが溜め息をついていると、突然何者かが草をかき分けて走ってきた。何かの小動物かと思ってそちらを見た直後、それはピョンと大きくジャンプしてツクツクさんの持っていた四つ葉をぱくんと食べてしまった。
「うーん、ちょっと変わった味だけど美味」
うさぎだ。ヘイゼルナッツさんの親戚か!?
「ちょっと、何するのよ!」
あたしに怒鳴られて、そのうさぎはあわてて逃げ出した。
逃がすものかと、あたしが追いかける。ツクツクさんも、すぐにうさぎを追いかけていった。
それからは、追いかけっこだ。
さすがにすばしつこかったが、しょせんはうさぎの脳みそ、あたしたちに挟《はさ》み撃ちにされていたずらに走り回るだけだった。やがて、走り疲れたところを、ツクツクさんのダイブで捕獲《ほかく》された。
「さあ、どうしてくれましょうか」
あたしがすごむと、ツクツクさんに耳をつかまれたうさぎが泣いて謝りだした。
「ごめんよお、ごめんよお。美味しそうだったから、つい食べちゃっただけなんだよお。なんでもするから見逃してくれよお」
両手を合わせて命乞いするうさぎに、あたしは溜め息をつくしかなかった。
なにも、ここでローストにするつもりはない。
「だったら、この近くに穴があるのを知らない? なんなら、もう一つ四つ葉をあげてもいいわよ」
「穴? ああ、穴ならなんとかするから、またあれちょうだい」
まあ、四つ葉の方は持っていてもしょうがないからあげてもいいけど。
「わあい」
とりあえず、逃げないと言うのでツクツクさんが耳を放す。自由になったうさぎは、あたしがさし出した四つ葉をパクリと一口でたいらげた。
「珍味」
こら、ツクツクさんの四つ葉とのその差はなんなの。
「さて、穴なら掘ってあげるよ」
待て、あんたが掘った穴じゃ意味がない。
あたしが止めようとするのも聞かず、うさぎがぐるぐると小さな円を描いて走り出した。その姿が、残像のように分裂《ぶんれつ》していく。やがて、何匹ものうさぎが走り回る円形《サークル》の中に、突如穴が出現した。いや、そんな穴の掘り方は前代未聞だわ。
「ちゃんと掘ったからね。ごちそうさま」
立ち止まったとたん、うさぎたちは八方に跳んで逃げていった。
「これは、どう考えたらいいのかしら」
「いちおう、位置はここでいいみたいですね。他に穴はないようですから、入ってみますか?」
葉っぱの地図を見ながらツクツクさんが言った。
最初の場所からは結構移動しているはずなのに、現在位置はちょうど穴の所らしい。現在位置が移動していくように、穴も移動していて地図に反映されたのだろうか。
「他に試すこともありませんし、飛び込みますよ。いいですね、ミズ・メアリー」
「ちょ、ちょっと、待って……」
あたしが止める間もなく、ツクツクさんが穴に飛び込んだ。
ええい、しかたない。あたしも意を決してその後に続く。
視界はすぐに真っ暗になった。上を見上げても、入ってきた穴さえ見えない。もちろん、ツクツクさんの姿も見えなくなっていた。そのままずっと落下していく。
「ツクツクさん……、ツクツクさん!」
叫んだが、返事はなかった。
そんな、はぐれるような空間ではないはずだけれど。いや、ずっと落ち続けているはずなのに、未《いま》だに底に着かないということ自体おかしい。それに、落ちる速さがすごくゆっくりだし。これなら底に着いても墜落死で一巻の終わりということはなさそうだけれど、いつこの穴が果てるのかも分からない。
「ツクツクさーん」
やっぱり返事はなかった。ちょっと、いや、かなり心細くなってきた。今のあたしは独《ひと》りぼっちだ。
せっかくここまでやってきたのに。今までのあたしの努力はなんだったのよ。
そう思って、あたしは、はたと気がついた。その努力っていうのが、けっしていつも一人だけのものじゃなかったってことを。
結局、地図はナイトさんのおかげで手に入ったし、メイドさんのおかげで楽に進むこともできた。穴を見つけられたのも、小人さんが作ってくれたきっかけのおかげだし、うさぎさんが最終的にこの穴を作ってくれたんだ。あたし、その誰一人にとして、ありがとうってお礼を言ってない。すっかり忘れていた。
だから、ツクツクさんとも、はぐれてしまったのだろうか。
このままずっと落ち続けるだけだったらどうしよう。せめて、ツクツクさんにぐらいは、ちゃんとありがとうと言いたいわ。
だから、戻らなくちゃ。
あたしは、出口を求めて手をさしのばした。その動きが、淡い炎の軌跡《きせき》となる。
「何、これは……」
落ちながら、宙を泳ぐような飛ぶようなしぐさで手を動かしてみる。その動きが炎に彩《いろど》られた。もう、落ちているというよりも、漆黒の空間の中を飛んでいるという感じだった。
やがて、炎自体があたしの先を進むようになった。
『こっちだよ』
誰かの声がする。聞き覚えのあるような、今まで聞いたことのないはずの声。
そちらの方に進もうと思うと、だんだんと炎が大きく強くなっていった。その先に、光が見える。出口だろうか。
「ありがとう、導いてくれて」
やがて、視界が光につつまれてホワイトアウトした。
「ミズ・メアリー、お目覚めですか」
「ツクツクさん……!?」
光のまぶしさに、あたしは目を細めた。
「よかった。一時はどうなることかと思いましたよ」
「どういうこと?」
どうやら、あたしはツクツクさんと一緒に穴に落ちて気を失ったらしい。今いるのは、ツクツクさんの家のリビングだ。簡易ベッドが広げられていて、そこに寝かされている。相変わらず、こういう物を持っているツクツクさんが謎だ。
打ちどころがよかったのか悪かったのか。気絶するぐらいだから、ツクツクさんはかなりあわてたらしい。いや、あたしが気絶でツクツクさんが無傷というのも、ちょっと納得したくないのだけれど。
いちおう、お医者さんが診《み》にきてくれて、外傷もないし内部も大丈夫だったそうだ。まあ、そのへんの記憶は当然すっぱりとないのだけれど。でも、怪我《けが》がないんだったら、なぜ気絶していたんだろう。謎だ。
分からないといえば、気を失っていたときの出来事だ。これはやっぱり夢落ちということになるのだろうか。なんと安直な。
ふざけている夢だったけれど、妙になじむ夢でもあった。
「そうですか。今熱いお茶を淹《い》れますので、待っててくださいね」
あたしの言葉を話半分に聞き流して、ツクツクさんがキッチンに消えた。
もう少しかまってくれてもいいのにとキッチンの方に視線をむけていると、見覚えのあるメイドさんが洗面器とタオルを持って戸口を通り過ぎた。
「何、今のは……あう」
がばっとベッドの上で起き上がって、あたしは立ちくらみでふらついた。いいわ、今日のところは見逃してあげる。きっと、まだ幻覚を見ているのかもしれないし。
やがて、ツクツクさんがお茶を持って戻ってきたので、あたしは起き上がってテーブルに着いた。
「変な夢を見たのよ。穴に落ちた後、なぜか地下の世界にいってしまって。あたし、そこでいろんな人にお世話になったんだけど、一つもお礼を言ってなかったの。よくないことよね。あたし、ありがとうをいっぱい言い忘れてきちゃった……」
「まあ、そんなことは、あの人たちなら気にしたりはしないでしょう。みんな分かっていて手を貸してくれたのですから」
「そうよね。そうそう、ツクツクさんにもお礼を言っておかなくちゃ。ありがとう」
夢の中の出来事とはいえ、なんとなくけじめをつけないとすっきりしない。それに、ツクツクさんが気絶したあたしを看病してくれたのは事実なのだから、やはり、ちゃんとお礼を言っておくべきだわ。
「いえいえ。小人さんやうさぎさんを代表して、お受けしておきます」
ん、ちょっと待って。
「なんでツクツクさんが、あたしの夢の内容を知っているの!」
夢落ちじゃなかったの。ねえ、これ夢落ちよね。そうだと言って。
一緒の夢を見ていたわけでもないのに、なんでよ。
「ツクツクさん、なんで……いたたたた」
いけない、興奮したらまた頭痛が。
「落ち着いてください、ミズ・メアリー」
「だって」
「トリック・オア・トリート」
ツクツクさんは、静かな微笑みを浮かべてつぶやくように言った。
「もちろん……、お菓子だわ」
そう答えるあたしに、ツクツクさんは熱いお茶とケーキを勧めてくれた。
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☆
その日は、爽やかなインディアンサマーだった。
空には雲一つなく、まっさらな空はどこまでも青く澄んでいる。
「ミズ・メアリー、お掃除はお好きでしょうか」
珍しくお誘いにきたツクツクさんは、開口一番そうあたしに訊ねた。
「また、リビングが満杯になったの?」
いつものアルバイトかと思って、あたしは聞き返した。
ツクツクさんのリビングは、ちょっと気を抜くとどんどん床が見えなくなっていく。いつの間にやら、奇妙な物が増殖しているらしい。
なので、ほっておいたら、あたしの足の踏み場がなくなってしまう。この場合、ツクツクさんの足場はどうでもいい。あたしがリビングに入れなくなったら、お茶を飲むのもたいへんになってしまうじゃない。
それでは困ったことになるので、あたしは定期的にアルバイトと称《しょう》してツクツクさんの家のお掃除をすることにしている。それにお小遣いももらえるので、あたしとしてはいい収入源でもあった。
「そういうわけでは……。念のためにお聞きしますが、降《ふ》り積もった埃《ほこり》などというものはお嫌いですよね」
もちろん、そんな物が好きな人はほとんどいないと思う。
それにしても、なんでそんなことを聞くのだろうか。掃除する場所は、ツクツクさんのリビングではないのかしら。
「では、ちょっとお手伝いを頼めませんでしょうか」
「それは、お話しだいね」
ちょっとしたお小遣《こづか》い交渉の末、あたしは快くツクツクさんのお手伝いをすることにした。あくまでも、そういうことにしておく。
サロペットに着替えると、あたしはツクツクさんの家にむかった。
「では、いきましょう」
ところが、動きやすい格好《かっこう》をしてお掃除セットをかかえたツクツクさんは、そのまま家を出て歩き始めてしまった。
「ちょっと、お掃除するのはツクツクさんの家じゃないの?」
あたしはツクツクさんの腕をとって引っぱると、不審をあらわにして問いただした。どうも、嫌な予感があたってしまったらしい。
「いいえ。近くに古い友達の家があるんです。昔、もし必要になったら、掃除にいくと約束していたんですよ」
昔って、いったいいつごろの話なんだろう。それに、ツクツクさん以外にお手伝いが必要だなんて、そんなにたいへんな掃除なのかしら。これは、ちょっと早まってしまったかもしれない。
「大丈夫。ミズ・メアリーのように元気な方がいれば、かなり楽に終わると思いますよ」
なんかほめられたような気がしないのだけれど、まあ、頼りにされてはいるのよね。
ツクツクさんの腕につかまってしばらく歩いていくと、だんだんと大きなお屋敷がたちならぶ郊外の方にやってきた。
「ちょっと待っていてくださいね」
そう言い残すと、ツクツクさんは一軒のお屋敷に入っていった。
広い庭のある大きなお屋敷だけど、その庭は雑草がのび放題だった。なんだか、ぜんぜん手入れがされていないみたい。このまま後数ヶ月放っておけば、立派な幽霊屋敷になるかもしれない。いや、今でも充分にそうかも。
この様子では、建物の中もすごいことになっているんじゃないかしら。意外とハードなお仕事になりそうだわ。ちょっと先が思いやられてしまう。
ツクツクさんがノッカーをコツコツと叩くと、ドアがちょっと軋《きし》みながら開いた。中から、初老の女の人が現れる。ちょっと物憂《ものう》げで暗い感じのする人だ。
「お久しぶりです」
「あの、どちら様でしょうか」
ツクツクさんが挨拶をしたが、相手は戸惑《とまど》っているようだった。確か知り合いだと言っていたはずだけど、違うのかしら。
「私ですよ、ジェイス」
「ああ……」
「今は、トゥックトゥイックです」
名前を呼ばれて、女の人はやっとツクツクさんが誰だか分かったらしい。もしかして、忘れられてしまうほど久しぶりに会ったのかしら。
「どうぞ、お入りになって。あら、そちらのお嬢さんは?」
ツクツクさんを招き入れようとして、ジェイスさんはあたしに気づいて訊ねた。
「今日の私のパートナーで、ミズ・メアリーです」
紹介されて、あたしはぺこりとお辞儀《じぎ》した。
「どうぞどうぞ、あなたも中にお入りになって。でも、びっくりなさらないでね」
何か予防線をはられたみたいだけれど、家の中に何かあるのかしら。
ちょっと慎重に玄関のドアをくぐる。とたんに、あたしはジェイスさんの言っていた意味が分かった。
「埃《ほこり》だらけで、ごめんなさいね。テーブルの周りは少しましだから」
ジェイスさんが、少しすまなそうに言った。
お屋敷の中は、埃で一杯だったのだ。いや、これを埃と言ってもいいのかしら。綿埃と言うか、綿飴みたいな巨大な塊が、床を埋め尽くす形でうずたかく積もっていた。いや、積もっていたと言うよりも、まんべんなく敷き詰めたという感じだ。さすがに、この光景はとんでもない。
歩くのでさえ、その埃をかき分けて進むしかなかった。だいたい膝頭《ひざがしら》まで、綿埃は積もっている。足を動かすと、まとわりつくように綿埃が動いた。うっかりすると、綿埃の海に遭難してしまいそうだわ。
綿埃が湿気を吸ってしまっているのか、お屋敷の中はちょっと湿った陰気な臭いがした。ただ、そのせいで、人が動いてもあまり綿埃が舞い上がったりしないのだろう。この綿埃は、なぜかちょっと重たい気がした。
厚手のカーテンはきっちりと閉じられていて、天井にある電気の明かりは、お世辞にも明るいとは言えない。そのことが、よけいお屋敷を暗い雰囲気にしていた。
それに、綿埃が音を吸い取ってしまうのか、お屋敷の中は寂しいほど静かだった。
ツクツクさんと言葉少なげに会話するジェイスさんがときおり寂しげに微笑《ほほえ》む音さえ聞こえてきそうだ。
こんな所に住んでいては、暗く憂鬱《ゆううつ》になってしまうのも当然だと思う。
ちょっと、これはあたしとしては許せない気がした。一気に掃除してしまえたら、気分が晴れるだろうか。
それにしても、なんでこんな状態になってしまったのだろう。
「それで、今日はかわいいお連れさんと一緒に、何をしにいらしたの?」
あたしたちにイスを勧《すす》めてから自分自身もイスに座ると、ジェイスさんがツクツクさんに訊《たず》ねた。
「カシムとの約束で今日はきたのですよ」
ツクツクさんはイスには座らず、立ったままジェイスさんに答えた。
「約束? でも、あの人はもうとっくにおりませんのよ」
心あたりがないのか、ジェイスさんがちょっと不思議そうな顔をした。そのカシムさんって誰なのだろう。旦那さんか息子さんなのかしら。
「ええ。ですから彼との約束を果たしにきたんです。あなたが沈み込んでいるようなら、大掃除をしてあげると昔約束しましたので」
「まあ、いつの間にそんな約束を」
ジェイスさんはちょっと驚いているみたいだ。本人も、そういう話は聞いていなかったみたいだった。
「ええ、ずいぶん昔の約束です。ちょっとくるのが遅くなってはしまいましたが、ちゃんと約束は果たしたいと思いまして。彼には、いくらお礼を言っても足りないぐらいですからね。もちろん、あなたにも。さあ、ジェイスはそこで座っていて、私たちが掃除するのを見ていてください」
ツクツクさんの顔は、今まで見たこともないほど優しげで力強かった。
それにしても、そんな昔の約束を、なんで今ごろ思い出したのかしら。まあ、完全に忘れてしまうよりは、何倍もましで偉いと思うけれど。
「でも、この家にたまっているものは……」
ここを掃除するのは無理だと言いたげに、ちょっと目を丸くしてジェイスさんはツクツクさんを見た。
「大丈夫ですよ。今日は力強い味方を連れてきていますから。さて、ミズ・メアリー、始めましょうか!」
明るく大声をあげると、ツクツクさんはあたしの方を振りむいた。黙って二人のやりとりの邪魔をしないように見ていたのだけれど、いよいよあたしの出番らしい。
「さあ、ミズ・メアリー、出番ですよ」
予想通りの台詞《せりふ》が、元気よくツクツクさんの口から発せられた。まったく、いい意味でも悪い意味でも期待を裏切らない人だ。
あたしにゴム手袋とゴミ袋の束を手渡すと、ツクツクさんは一気にカーテンを引き開けた。淡い秋の日差しが、それでもしっかりとした光となって室内にさし込んでくる。瞬間、ジェイスさんがまぶしそうに片手を目の前にかざした。まるで、久しぶりに明るい光を見たかのようだ。
「床にたまっている埃を、全部袋に詰めてください。お願いしますね」
あたしにそう指示すると、ツクツクさんはテキパキと自分も埃を袋の中に詰め込み始めた。その楽しそうなこと楽しそうなこと。すごく明るく元気に働いている。そんな姿を見ていると、なんだかこっちもがんばらなくちゃと思えてくる。仮にもこのあたしが引き受けたのだから、ツクツクさんなんかに負けるなんていうのは、ささやかなプライドが許さない。
あたしは、ツクツクさんに負けじと手あたり次第に綿埃をつかんで袋に放り込んでいっだ。灰白色《かいはくしょく》の綿埃はふわふわしていて、詰め込めばいくらでも袋の中に入っていく。綿飴のような埃の塊はちょっととらえどころがなく、カビ臭いというよりは忘れかけられた『時』の臭いがした。
「がんばりますねえ。それでこそ、ミズ・メアリーです」
妙にハイなツクツクさんが、テンポよく身体を動かしながらあたしに言った。なんか、いつもとはうって変わったように活動的だ。そんな様子を見ると、なんだかあたしまでこのお掃除が楽しくなってくる。
「ツクツクさんなんかには、負けないもの」
いつ、勝負になったんだ。
でも、こんなお掃除もたまにはいいかも。
遊んでいるかのようにはしゃぎながら掃除をしていくあたしたちを見て、それまで黙っていたジェイスさんがくすりと笑った。
「相変わらずなのね、ええと、ツクツクさん?」
「トゥックトゥイックです」
あなたまでですかと言いたげに、ツクツクさんががっくりと肩を落とした。
「どちらでもいいじゃない」
そう言ってまた笑うジェイスさんの姿が、なんだか少し変わった気がする。最初に会ったときは、背を丸めた高齢の人に見えたのだけれど、今ではなんだかツクツクさんよりちょっと年上ぐらいという感じだ。沈みがちだった表情も、今では少し晴れて、よく分からなかった顔つきがはっきりとしてきている。
ツクツクさんのおかげで、ジェイスさんが変わったとでもいうのかしら。
まあ、悪いことじゃなさそうだから、いちいち気にしすぎることじゃないわね。
どんどん埃をかたづけていくと、本来の床が次々と姿を現してきた。同時に、床に転がって行方不明になっていたらしい物もごろごろと出てくる。なんだか、誰かさんのリビングと似たような光景になったきた。
燭台《しょくだい》、写真立て、飾り皿、タピストリー、裁縫《さいほう》セット、本、なんかいろいろな物が発掘された。
とりあえず、ツクツクさんの指示で綿埃を詰めた袋をリビングから見える中庭に集めた後、出てきた物を一つ一つ吟味《ぎんみ》してかたづけることにした。
「誰の写真かしら」
発掘した写真立てに、ちょっと厳《いか》つい男の人と若い女の人が写っていた。なんだかお約束のように、画面の端の方に、二人の隣にならぼうとして転《こ》けている人の姿が部分的に写ってる。なんだかツクツクさんっぽいけれど、うーん、らしくもあり、そうでもなくもあり、ちょっと謎だわねえ。
ジェイスさんに聞いてみようと思ったとき、彼女の方が先に写真に気がついた。
「あら、そんな所に……」
ジェイスさんが、それと見て分かるくらい顔を輝かせた。なんだかちょっと若返って、写真に似てきたような気がする。
やっぱり、写真を撮ったのは若いときのツクツクさんだそうだ。まあ、転けている姿がすべてを物語ってはいるけれど。それで、男の人はツクツクさんのお友達で、ジェイスさんの亡くなったご主人なんだそうだ。
惜しい、なんで転けたりするのかしら。ちゃんとこの写真が撮れてさえいれば、若いツクツクさんの姿が見られたというのに。カレンさんが言ってたように、本当に鬚《ひげ》だらけだったのかしら。
「二人で、何を話しているんですか」
モップで勢いよく床を拭《ふ》いていたツクツクさんが、あたしたちに聞こうとして……その場で転けた。
変わってないのね。それとも、ここは過去に繋がる空間なのかしら。
とにかく、埃がなんとかなったので、次は拭き掃除とおかたづけだ。ちょっと時間はかかったが、午後の紅茶の時間を少し過ぎたころにはなんとか形にはなった。そのころには、ジェイスさんも、簡単なお手伝いをしてくれるようになっていたし。
「では、ミズ・メアリーはお茶の用意をしていただけますか。私は、今集めたものをかたづけてきますから」
ツクツクさんが、まだ部屋に残っていたゴミ袋を持って中庭へと歩きだした。
「それを……」
あたしをキッチンに案内しかけたジェイスさんが、ツクツクさんを見て呼び止めようとした。
「それを、どうしてしまうのですか。捨ててしまうの?」
それはちょっとおかしいと思う。綿埃を捨てないでどうしようと言うのだろうか。リサイクルはできるはずもないし、残しておいてもしょうがないと思う。
「いいえ、捨てるのではありませんよ。ついてきてください」
静かに頭《かぶり》を振ると、ツクツクさんはジェイスさんをうながした。
あたしまで見にいってしまっては、お茶の支度《したく》をする人がいなくなってしまう。しかたないので、あたしはキッチンに残った。
気になりつつもお茶の準備を始めたあたしは、リビング越しにツクツクさんたちの様子をちょっとのぞいたみた。
「思い出は溜め込むものではありません。いつか空に還《かえ》してあげないと」
袋を開いたツクツクさんが、袋から綿埃を取り出して庭に撒《ま》いた。中庭には、雲一つない晴天から降りそそぐ、やわらかな秋の光が満ちあふれていた。不思議なことに、その光に触れた綿埃が、みるみるうちに溶けて消えてしまった。いや、日の光に解けていったと言うべきなのかしら。
ただの埃なら消えてしまうということはないはずだけれど、これは何かの魔法だというのかしら。まるで、口の中で溶ける綿菓子のように儚《はかな》く消えていく。でも、それは綿菓子と違って、少しほろ苦かったのかもしれない。
ツクツクさんが次々に袋の中の物を庭に広げると、それはお茶の湯気が広がるように消えてしまった。そして、それを見つめながら、ジェイスさんは涙を流して微笑んでいた。
「お待たせしました。さあ、お茶にしましょう」
すべての袋を空にすると、ツクツクさんたちはリビングに戻ってきた。二人についてくるように、リビングに光がさし込んでくる。明るい光に満ちたお屋敷の中は、見違えるようになっていた。
あたしがカップにお茶を注いでいると、キッチンで手を洗ったツクツクさんとジェイスさんが戻ってきた。
そのジェイスさんの顔を見て、あたしはちょっとびっくりした。ジェイスさんの表情は、ツクツクさんと再会してから刻一刻と変わってきたかのように思えてはいた。けれども、今のジェイスさんは、初めに見たときとはまるで別人のようだ。今の彼女は、写真に写っていた女の人が成長して、ツクツクさんよりちょっとだけ年上になったような綺麗な御婦人だった。物静かで、理知的な美しさをたたえていると思う。まるで、彼女にまとわりついていた年月が、一気にどこかへいってしまったかのようだった。
「あなたが、なぜこのお嬢さんを連れてきたか分かったような気がするわ。思い出すのなら、私自身を思い出さなくちゃね。これからは、もっとがんばるわよ。とりあえず、最初はお庭の草むしりね」
そう言って、ジェイスさんが力こぶを作ってみせた。その姿は、こう言ってはなんだけど、とてもかわいかった。
そのときのお茶会は実に楽しくて、そして、そのときの紅茶はとても不思議な香りがした。
「じゃ、ジェイス、私たちはこれで帰ります」
「ありがとう、あの人との約束を果たしにきてくれて。でも、もう帰ってしまうの。もっとゆっくりしていけばいいのに」
玄関であたしたちを見送りながら、ジェイスさんが名残《なごり》惜しそうに言った。
「いつでも会えますから。それに、隠れてばかりもいられません」
「そうね。よかったら、またそのお嬢さんと一緒にお茶を飲みにいらしてちょうだい。いいでしょう」
「それは素敵なお誘いですね。ええ、約束しますよ、ジェイス」
嬉しそうに、ツクツクさんが微笑んだ。それを写すかのように、ジェイスさんもにっこりと微笑んだ。
「約束よ」
「ええ、これはあなたとの約束です」
その約束には、ぜひ私も加えてもらわなければ。
「もちろんですよ」
姿が見えなくなるまで、ジェイスさんはあたしたちを見送ってくれた。
うん、決めた。ツクツクさんがいなくったって、あたし一人でも遊びにこよう。
「そうそう、お手伝い賃《ちん》がまだでしたね」
「ああ、それならいいわ。温かいお茶で、充分暖まったから」
思い出したようにポケットを探るツクツクさんに、あたしはそう言った。
[#挿絵(img/hazelnut_183.jpg)入る]
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冬は秘密の月
[#挿絵(img/hazelnut_185.jpg)入る]
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☆
「はあー」
あたしは、開け放した窓の枠に両肘《りょうひじ》をつくと、大きく一つ溜め息をついた。
外は、冬の雨が降り続いている。もうこれで何日目だろう。
両手の平でつつみこんだ頬《ほお》は微《かす》かに火照《ほて》ってはいるけれど、指や鼻の先は冷たさに千切《ちぎ》れそうだ。本当は窓を開けていると寒いのだけれど、寒さよりも悔しさの方が強くて閉める気になれない。
本当にいまいましい雨だこと。
もう、いつまで降り続けるのか、あてにならない天気予報さえ見る気力がなくなってしまった。
「はあー」
あたしは、何度目かの溜め息をまたついた。
「ミズ・メアリー、どうしました?」
いきなり声をかけられて、驚いたあたしはその場で少しだけ飛び上がった。危うく、窓に頭をぶつけるところだった。いや、ちょっとかすったかも。
「ツクツクさん!?」
窓の外には、雨合羽を着たツクツクさんが立っていた。なかなかに人のふいをついた、予想外のいい攻撃だわ。それにしても、我が家の庭先に入り込んで、いったい何をしているのだろう。
「いえ、落とし物を拾ったので。ミズ・メアリーのものかと思いまして」
ツクツクさんは、何か白い物をあたしに見せた。
指先でちょこんとつままれたそれは、ぼたぼたと雨の雫《しずく》をたらしている。でも、どう見ても白い脱脂綿《だっしめん》の塊にしか見えないのだけれど。
「なんなの、それ」
だいたい、あたしはそんな物を落とした覚えはない。それに、これは落としたというよりも、捨てられていたというのが正しいのではないのかしら。びちょびちょになった脱脂綿なんか、もう使えないと思う。
「これは、溜め息だと思うのですが」
またも、予期せぬ言葉が。
真顔で答えるツクツクさんを、あたしは思いっきり疑いのこもった目で睨《にら》んだ。いくらなんでも、脱脂綿を溜め息だと言いはるのは無理がありすぎると思う。
「誰のよ……」
「ミズ・メアリーのものではないのですか」
思いっきり人相の悪くなったあたしに、ツクツクさんが聞き返した。
「あたしは、脱脂綿なんか落としていませんことよ」
「脱脂綿じゃなくって、溜め息なんですが」
ちょっと困ったように、ツクツクさんが言った。困るくらいなら、こんな物を持ってきて人を困らせないでほしい。
確かに、あたしは溜め息はついていたけれど、脱脂綿を吐き出した覚えはない。
「相変わらず、非科学的なことを……。溜め息がつまめるはずがないじゃない」
「でも、現につまんでます」
ツクツクさんは、指先で白い脱脂綿をぶらぶらとゆらした。左右に雨の雫が飛び散る。ああ、こっちにまで飛ばさないで。
「脱脂綿!」
ひょうひょうと言いはるツクツクさんに、あたしは強い調子で言い返した。
脱脂綿と言ったら綿なんだから、ただでさえジェイスさんの家にあった綿埃《わたぼこり》を連想してしまうじゃない。絶対にそれは脱脂綿よ。そのはずだわ。そうだと思う。そうじゃないかしら。そうだといいなあ……。
いけない、だんだんと弱気になってる。
「ところで、なんで雨の日に外をほっつき歩いているの?」
ここは話題を変えないと勝てそうにない。
「いえ、今日の雨はいやに重たげだったものですから、ちょっと様子を見に出てきたのですが。ミズ・メアリーこそ、窓を開けて何をながめていたのですか」
「だって、雨でどこにもでかけられなくて、つまらないんですもの。友達とのショッピングも、クリスマスセールの街頭デコレーションも、とても見にいく気分になれないわ」
「ああ、それでだったのですね」
やっと分かったと言いたげに、ツクツクさんが両手をぽんと叩いた。
「分かってくれるの。雨のせいで家に閉じ込められた、うら若き少女の気持ちを」
「いえ、雨が重い理由がです」
期待したあたしが馬鹿だった。
「きっと、みんなのそんな思いを雨がはらんでしまったのですね。だから、重たい雨がやまないわけだ。でも、雨を恨んでも空は晴れたりしませんから」
「分かってるわよ、そのくらい」
雨乞いで雨が降らないのと同じぐらい、恨んで雨がやむはずもない。でも、今からでも、テルテルボウズぐらい作ってみようかしら。
「別に雨が憎いんじゃなくて、雨で外で遊べないことの方が憎たらしいだけよ」
「なら、雨もあなたの気持ちを分かってくれますよ。その言葉を伝えれば、気も軽くなるでしょうから。そうですね、雨にあなたの伝言とちょっとした衣装を届けてみましょう」
ツクツクさんは、脱脂綿をキュッと握りしめた。搾《しぼ》られた水が、小さな滝になって地面に落ちる。充分に水をよく切ると、ツクツクさんは下から上へ勢いよく手を振り上げた。投げ上げられた脱脂綿が、雨の中に見えなくなる。
「脱脂綿を捨てたの?」
「溜め息です」
ツクツクさんが言い直した。
「みんなの『思い』が『重い』にならないように、その理由を雨に知ってもらったんですよ。じきに、身重の雨がふっと軽くなる瞬間が見られますよ」
そう言い残すと、ツクツクさんはお隣に帰っていった。
いったい、どういう意味なんだろう。何か手品でもしたかったのかしら。
でも、その後でツクツクさんの言葉通りの物を見られたのは幸せだったかもしれない。
重たい雨が軽くなる瞬間。一粒がひとひらに変わるとき……。その白い衣装は、あたしの溜め息を纏《まと》った物なのかしら。
翌朝、ツクツクさんは白い大地に点々と足跡を残しつつ、ソリを引きながらあたしの部屋の窓をコツコツと叩いた。
「ミズ・メアリー、遊びましょう」
いや、お子様が友達を呼びにきたんじゃないんだから、その登場のしかたはちょっと。
「ちょっと待ってて」
急いでパジャマを脱ぎ捨てると、あたしはちょっとふるえながらも、もこもこの厚着に着替えた。一夜にして変わってしまった庭の風景は、真新しい雪で白く輝いている。雪遊びにはいい日だ。
「お待たせ」
「さあ、乗ってください」
赤いマフラーにコート姿のツクツクさんが、あたしを乗せたソリを引いて土手の方まで走り出した。
「ようし、走れー、ツクツクさん」
調子に乗ったあたしは、犬ぞりのレーサーよろしく、ツクツクさんを急《せ》きたてて走らせた。
こういうとき素早くソリを出してくるなんて、さすがはツクツクさんだ。
まだほとんど踏み荒らされていない雪の道を、あたしたちはソリの跡をつけつつ疾走《しっそう》していった。
昨日までの鬱屈《うっくつ》していた気分が、嘘のように吹っ飛んでいった。なにしろ、今年初めての雪で、しかも、こんなに積もっている。これを楽しまなくてどうしろと言うのかしら。
でも、ちょっとはしゃぎすぎたかもしれない。
川辺の土手に辿《たど》り着いたとき、ツクツクさんの電池が切れた。まあ、これだけの距離を走らせたのだからしかたないか。でも、まだあたしはものたりないぞ。お遊びはこれからだ。
あたしの乗るソリの前の方にへたり込んできたツクツクさんを後ろからがっしりと捕まえると、あたしは雪を蹴って土手の上をずるずると進み始めた。
「ちょ、ちょっと、ミズ・メアリー……ああ!」
「ひゃっほう!」
一気に土手をすべり下りる。
「川、川ー!」
ツクツクさんが悲鳴をあげるのもかまわず、あたしは重心を少しかたむけた。ソリが回転して、ブレーキがかかる。けれども、対応が遅れたツクツクさんのおかげで、止まる直前でソリがひっくり返った。まあ、それもまた楽しだわ。
「だめじゃない、ツクツクさん」
「そんなこと言ったって、このコースですべっていったら、川に落ちてしまいますよ」
そんなへまはしない。
「もう少し、むこうへいきましょう。河原に運動場があるので、そこなら安全です」
「だったら、すぐいきましょ」
あたしは、ツクツクさんの手をとると駆け出した。
土手の上の道には、立派な桜並木がある。その間を走り抜けて、あたしたちはソリ遊びにちょうどいい斜面を見つけた。
すべる。登る。すべる。転ぶ。笑う。登る。すべる……。
あたしに振り回されるツクツクさんの姿が、とっても面白い。
「ああ、面白い」
「なんだか、十年分の雪遊びをしてしまった気がします」
息も絶え絶えに、ツクツクさんが言った。そのわりには、ツクツクさんも楽しそうだ。うん、そういうことにする。
「ちょっと休憩しますか」
「そうね」
桜の木によりかかって、あたしは同意した。
顔が上気して、身体が熱い。心はほかほかだ。
「まるで春になったみたいね。まだ冬だけど。でも、もう春だわ。ねえ、そう思うでしょ」
首から外した赤いマフラーを桜の枝に引っかけて、あたしは誰にともなく言った。
「元気ですねえ」
「まだまだ。さあ、休憩終わり!」
「ちょ、ちょっと……」
座り込んでいたツクツクさんが、あたしに引っ張られまいとして転《こ》けて斜面をすべり落ちていった。
「せめて、ソリをくださーい」
この日の遊びで、あたしはその後数日間ツクツクさんのマッサージ係に任命されてしまった。さすがに無理しすぎたらしく、ツクツクさんは腰と足を痛めてしまったようだ。
「年寄りだわ」
「違います、ミズ・メアリーが元気すぎなんです。ううっ」
腰のあたりをあたしに踏まれながら、床にうつぶせになったツクツクさんが小さな呻《うめ》き声をあげた。
それにしても、あの日以来、妙にぽかぽかした日が続いている。まるで本当に春になってしまったかのようだ。
「ミズ・メアリーの元気に、陽気があてられてしまいましたかねえ……。うぐっ」
「そうね、きっとあたしのおかげかもしれないわね」
ぐりぐりとツクツクさんを足蹴《あしげ》にしながら、あたしはなぜか胸を張った。ちょっと自慢するところがずれている気もするけれど、まあいいわ。
そんなある日、ちょっとした事件が巷《ちまた》をにぎわした。
川沿いの桜並木が、一斉に花開いたのだ。
「珍しいことがあるのね。年末に桜が咲くだなんて」
ツクツクさんが淹《い》れてくれたとても珍しい桜湯という物を飲みながら、あたしは小首をかしげた。こんな時期に桜が咲くなんてことは、あたしは見たことがない。
「そうですね、珍しいことです」
ツクツクさんも同意してくれるけれど、なんとなく怪しい。またツクツクさんが裏で何かしたんじゃないのかしら。
「ツクツクさんが魔法でも使ったの」
「そんな、濡れ衣です。きっと、桜が春がきたと勘違いするような何かがあったんじゃないでしょうか」
なんだろう、その何かって。
「ここ数日、春みたいに暖かかったですからねえ。それで桜も勘違いしたんじゃないでしょうか」
うーん、それはちょっと耳が痛い。ここしばらくの暖かい日は自分がもたらしたと騒いでいたのはあたしだし。桜の木の前で春だと叫んでいたのもあたしだし。
いや、そんなことで冬に桜が咲くんだったら、ちょっととんでもないかもしれない。
「どちらにしろ、今咲ききってしまうと、肝心の春に桜が咲かなくなってしまいますねえ」
それはまずい。毎年楽しみにしている桜祭りがなくなってしまうかもしれないじゃない。
「それでは、ちょっとお医者さんに相談してみますか」
「お医者さん?」
いや、なんでここでお医者さんが必要になるのだろう。なんとなく、冬の寒い風があたしたちの間を通り過ぎた気がする。またツクツクさんの勘違いか何かだろうか。
その日の夕方近く、ツクツクさんの言っていたお医者さんという人がやってきた。
けれども、見た感じ、ぜんぜんお医者さんには見えない。どちらかと言えば、庭師と言った方が似合っている。いや、桜の木を診てもらうんであれば、そちらの方が正しいのだろうけれど。
「アーボリストの、グリカスさんです」
ツクツクさんが紹介してくれた。初老の、見るからに気のいいおじさんという感じの人だ。
アーボリストというのは、木のお医者さんのことらしい。
とにかく、あたしたちはグリカスさんと一緒に、桜並木を見にいった。
「ほう、確かにこれは珍しい」
グリカスさんも、かなり花が咲いてしまった桜たちを見てちょっと驚いたらしい。
「どれ、調べてみますかな」
そう言って、グリカスさんは聴診器を取り出して桜の幹にあてた。でも、なぜ、聴診器。桜は植物だから、心臓なんてないし、肺だってないし、血だって流れていないんじゃなかったかしら。
「いやいや、お嬢ちゃん。木もわしたちも、極端な違いなんぞないんじゃよ。ほら、聞いてみなさい」
グリカスさんに渡された聴診器を、あたしも木の幹にあててみた。
なんて言うのだろう。そこに川があった。いや、元気よく幹の中を遡《さかのぼ》っていく逆さまの滝のような……。そうか、木の中には水が流れているんだわ。でも、その音が、こんなふうに聞こえるなんて。
「かなり元気がいいようじゃの。これは、桜の木たちは、春がきたと勘違いしてしまったようじゃな。ここしばらくの間に、うんと寒い日と、うんと暖かい日が続けてなかったかな」
それは、思いっきり心あたりがある。
「ええ、そのとおりです」
ツクツクさんが、いつの間に用意しておいたのか、ここしばらくの気温の変化をまとめた表をグリカスさんに手渡した。天気予報か何かをまとめておいたのかしら。
「ふむ。そういうことか」
グリカスさんには、原因が分かったみたいだ。
「普通は、この程度の気温変化では、極端な早咲きなんか起こらんのだがな。どうにも、ここの桜は咲きたがりらしい。早く咲きたくて、焦《あせ》ってしまったんじゃな。ここの桜たちは、よっぽど人が好きなようだ。自分たちが咲けば、人々が喜んでくれることを知っておるんじゃな。早く花を咲かせれば、春になったと人々が喜んでくれるとでも思ったんじゃろ」
うーん、なんだか、桜の木の方が人間より人間らしいと言っているような気が……。
確かに、桜の木が咲けば人々はお祭り騒ぎになるかもしれないけれど、やっぱり順番というものがあると思う。明日はクリスマスイブだし、新年のカウントダウンだってその後に控えている。この町で桜祭りがあるのはそのずっと後だわ。
桜祭りをするならば、一つずつイベントをこなしていって、冬を楽しんでからじゃないと。そうでないと、春に爆発できないと思う。もっともっと、わくわくをためないと。その前に桜たちが力尽きてしまってたら、なんともピントのずれたことになってしまう。
そういうことなのよ、分かってと、あたしは桜の木を軽くポンポンと叩いた。
「まあ、そんなに心配しないでも大丈夫じゃて。さすがに今日のこの寒さでは、桜たちも自分たちの早とちりに気づくじゃろうからな。多少花は減ってしまったかもしれないが、春になるまでにはまた準備できるじゃろう。どれ、そのために、ちょっと栄養剤でも与えておくかな」
グリカスさんは、栄養剤と称する薬の入ったアンプルを取り出すと、桜の木に次々に突き刺していった。一種の注射みたいな物かしら。完全に他人事、しかも桜の木だというのに、ちょっと自分の腕がチクチクした。
「さて、これで大丈夫」
夕焼けに空が赤く染まるころ、グリカスさんは帰っていった。で、治療費って、やっぱりツクツクさんが払うのかしら。謎だわ。
「さて、風もでてきたし、寒くなるといけませんから私たちも帰りましょうか……」
ツクツクさんがあたしをうながしたとき、本当に風がやってきた。いや、突風と言った方がいいかもしれない。
「きゃっ」
飛ばされてしまわないようにと、思わずツクツクさんにしがみつく。
再び目を開けたあたしは、桜の花が風にさらわれるのを見てしまった。それも、すべての花が一斉に散り飛んで、薄紅色の風となって空に舞い上がっていく。
「桜が……」
高く舞い上げられて夕焼けの空に溶けるようにして消えていった花を見送って、あたしは呆然とするしかなかった。
「一瞬にして、また冬に戻ってしまいましたねえ。でも、それだけですよ。大丈夫、また会えますよ」
急に寂しくなってしまった土手の上の並木道を見つめるあたしを、ツクツクさんがうながした。そうね、あたしが気にしてもしょうがない。というか、めいっぱい周囲の影響を受けているのはあたしの方じゃないの。なんだ、結局そういうことじゃない。だったら……。
「がんばって、春になったらまた咲いてよ」
あたしは、バンと桜の木を叩いた。
その日の夜。また雪が降った。
冬だもの、雪ぐらい降る。
でも、その夜の雪は不思議な薄紅色をしていた。ほんのりと暖かい、春をはらんだ雪だ。
桜の花びらの混じった薄紅色の雪はしんしんと降り積もり、クリスマスを迎える町を暖かく染めていった。
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☆
「ふう、なかなかうまくいかないものねえ。酸素酸素」
ずっとおちょぼ口で息を吹き出していたあたしは、さすがに苦しくなって天井を仰《あお》いだ。
またツクツクさんが、変な遊びを発掘してきたというところ。今やっているのは、吹き絵という遊びだった。本来は絵を作る技法の一つなんだけど、あたしたちにとっては遊びの一つに過ぎなくなっている。
紙に絵の具をたらして、息で吹いて木とかの形にしていく。まるで、小さな生き物が走っていくように、絵の具の小さな塊がすーっとのびていった。
面白くはあるのだけれど、いつの間にか体力勝負になってしまっているのが、ちょっと納得しかねる問題だわ。
「では、墨流しの方をやってみましょうか」
「何々、それ」
やりかけの吹き絵をほったらかすと、あたしはツクツクさんと一緒にキッチンへいった。
水をはった洗面器に、絵の具と油を交互にたらしてマーブル模様を作る。息を吹きかけると、偶然の作る複雑な模様ができあがっていく。それを紙にすくい取るという遊びだ。いや、だから、あたしたちでは遊びにしかならないので、遊びでいいじゃない。とても芸術なんかできやしないわ。
「うーん、不思議な模様よね。こっちも、まるで生き物みたいだわ」
偶然が生み出す模様に見とれて、あたしはつぶやいた。先の吹き絵が植物的な成長なら、こちらは、微生物的な増殖かしら。
で、結局またふーふーと息を吹きかけることになっている気がする。
なんだか、こうして息を吹き込んでいると、なんでもない絵の具に命を吹き込んでいるみたいだわ。
「知っていますか。東洋では物に命が宿るそうですよ」
「それは……」
あまり嬉しくない状況のような。だいたい、突然何を言いだすのやら。
そういえば、ツクツクさんの家にある物って、たまに生きているんじゃないかと思うこともあるけれど。ちょっと目を離したすきに位置が変わっていたり、突然色や模様が変わっていたり、ほしい物がなぜか足下に転がっていたり……。いや、ちょっとホラーが入ってるような気がするかも。
「そういえば、これも……」
以前電話になったことがあったわよねと、あたしはティーポットを指先でつんつんとつついてみた。
「そうですね。勝手に紅茶が湧いてきたりしたら、すごく楽になるんですが」
いや、いつの間にか中身が変わっていないかと思っただけで、独りでに動きだしたりしたらなんてことは考えていない。もしそんなことが起こったら、それこそ怪奇現象だわ。
美女と野獣の映画じゃあるまいし、生きている食器ばかりだったら、とても紅茶を飲めるような状況じゃないと思う。だからといって、食器とダンスするのもちょっとねえ。
そんなあたしを見て、ツクツクさんがくすくすと笑い出した。いったい何がおかしいんだろう。
「ミズ・メアリー」
どこからかさっと手鏡を取り出すと、ツクツクさんはあたしにむけた。それにしても、毎回毎回、どこからいろいろな物を取り出しているのだろう。
つんつんと、ツクツクさんが自分の鼻の頭をつつく。
「あー!」
鏡の中のあたしは、鼻の頭を絵の具で染《そ》めていた。吹き絵か墨流しのときに、夢中になりすぎて鼻の頭を絵の具にくっつけてしまったらしい。
「嫌だわ」
ごしごしと手の甲でこすると、絵の具が広がって墓穴となった。これ以上ツクツクさんに笑われるのは嫌なので、急いで石鹸で顔を洗うことにした。
「リビングで待っていますね」
ざばざばと顔を洗っている後ろで、ツクツクさんらしき人の気配がうろうろしているのが感じられた。リビングに戻ったはずなのに、何をうろうろしているのだろう。
なんとか絵の具を落としてリビングに戻ると、あたしはそこにある姿写しの鏡で自分の顔を確認した。うん、ちゃんと絵の具は落ちている。
テーブルの上には、カップケーキとお茶が用意されていた。あたしが顔を洗っている後ろで、これの用意をしていたのだろうか。
それにしては、テーブルの上が綺麗にかたづけられている。さっきまで散らかしっぱなしだったのに。かたづけとお茶の用意を、ツクツクさん一人でこんなに素早くできるものなのかしら。
いぶかしく思って周囲をながめていると、さらにとんでもない物が。
くっつかないように床にならべられた吹き絵の一つが、みごとな幾何学模様《きかがくもよう》になっていた。ツクツクさんったら、いつの間にこんな物を描いていたのだろう。いや、さっきまで、ツクツクさんの描いてた物って、あたしとどっこいどっこいだったはずだ。ミミズがのたくった跡と言ってもいいくらいの作品だった。それに、かたづけとお茶の用意と新作を同時にできるはずがない。だとしたら、いったい誰がどれをやったのかしら。
あたしは、考え込むふりをして、ふいに振り返ってみた。
キッチンを、誰かが通り過ぎた。
今まで何度も見かけては取り逃がしているメイドさんだ。
素早くキッチンに飛び込むが、またもや姿形もなかった。
「どうかしましたか」
ツクツクさんが、怪訝《けげん》そうにあたしに言った。また、ごまかすつもりだわ。
「まったく。これじゃ、『怪奇メイドさんが棲《す》む屋敷』だわね」
あたしはテーブルに戻ってくると、煮えきれない心を抑えてイスに座った。
「いや、それだとぜんぜん怖くないホラー映画になりそうなんですが」
そういう問題じゃなかった。
「どうして、ここにはシルキーが住んでいるのよ」
「うーん。私が愛着をもって家に接しているんで、魂でも宿りましたかねえ」
まあ、たった数日で建ったり、妙な家ではあったけれど。でも、さすがにメイドさん憑《つ》きとは……。その理由が、ツクツクさんの愛というのも、ちょっと納得しかねるわ。
「きっと家自体が生きているんですよ」
それは……ないと思いたい。
「いや、そこを否定されても……」
「だいたい、ツクツクさんはこの状況がおかしいとは思わないの」
それが、一番の疑問だ。
「まあ、たまにお茶とかが淹れてあったりしましたが。便利だからいいじゃないですか」
いや、それでいいの?
「そんな不思議なこと、よく我慢していられるわねえ」
「不思議はお嫌いですか?」
うーん、正面切って聞かれると返事に困る。
「あたしが、七不思議くらい暴《あば》いてみせるわ」
「いや、七つもありませんから。それに、あまり暴かれても困ります」
そんな意見は却下《きゃっか》よ。ツクツクさんの正体は、いつかあたしが暴いてみせるわ。
「でも、誰かに陰からこそこそ見られているのは、あまりいい気分じゃないわ。まるで、監視されているみたいじゃない」
それが、誰だか分からないのであれば、なおさらだと思う。
「まあ、そのとおりですが、まったく誰かの視線のない世界というのもありえませんから。私も、ここにきてそう実感しましたし。奇異な目というのももちろんあれば、暖かい視線というものもあるじゃないですか。すべてを避けていてもしょうがないと思いますよ」
「まあ、それはそうだけど」
だからといって、メイドさんを放置しておいていいものかどうか。
「人は、知らず知らずのうちに誰かに見守られているかもしれないのですから。ミズ・メアリーだって、誰かを見つめていたりはしませんか」
そう言って、ツクツクさんがあたしを見つめた。
ニコニコしたその視線は、ちょっとくすぐったい。
ちょっと耐えきれなくて、あたしは視線を逸《そ》らしてしまった。
また、なんかうまくごまかされてしまったみたいだ。
「でも、興味をもつのはいいことだと思いますよ。あなたが興味をもつ物すべてが、あなたに興味をもってくれるでしょうから。もしかしたら、家もね」
それは嬉しいような、違うような……。
あたしをうまく言いくるめたと思ったのか、ツクツクさんはティーセットをかたづけにキッチンへと運んでいった。
残されたあたしは、やっぱりすっきりしない。
結局、メイドさんの正体はなんなの。なぜここにいるの。
テーブルに突っ伏して考え込んでいると、また視線を感じた。
そっとあたりをうかがってみると、いた。奥の部屋から、メイドさんがこちらをのぞき見ている。
あたしは、がばっと身を起こした。
逃げた!
あたしはツクツクさんに気づかれないように、メイドさんの後を追いかけた。
ツクツクさんの家の奥って、いったいどうなっているのだろう。メイドさんを追いかけて奥の部屋を過ぎると、短い廊下と階段が見えた。
メイドさんが、階段を下りて地下に逃げていく。地下室なんかあったのか。薄暗い廊下の左右には、いくつものドアがならんでいる。小部屋がたくさんあるみたいだ。きっと、いつも取り出してくる変な物がつまった倉庫か何かなのだろう。もしかして、この間の庭の穴って、地下室の天井が抜けたのかしら。
それにしても、予想以上にツクツクさんの家って広い。これでは、地下で何か怪しい儀式をしていても分からないと思う。
「どこに逃げたの。出てきなさい」
メイドさんに呼びかけてみるけれど、返事がない。それどころか、見回したら、また階段を駆け上っていくのが見えた。いつの間に、あたしを飛び越えて後ろに回ったの。
「待てー」
あたしは、急いで階段を駆け戻った。どこにいったのかと、周囲を見回してみる。
裏口の方を見る。
いた。
ドアが半開きになっている部屋を見る。
ドアの陰からのぞいてた。
また階段の下の地下室を見る。
駆け下りようとして、あっ、転んでる。で、素早く姿を消した。
リビングの方を振り返る。
やっぱりいた。
なんだか、どこにでもいるじゃない。これじゃどこにもいないのと同じだわ。絶対に追いつけないじゃない。
まさか、メイドさんの姿はしていても、本当にこの家そのもののなのかしら。だとしたら、追いかける必要なんてあるのかな。もしかしたら、ずっと目の前にいるのかもしれないし。
なら、認めればいいんじゃないかしら。
リビングに戻ると、あたしは大きく深呼吸して心を落ち着かせた。
「出ておいで」
「はい。何か御用ですか、ミズ・メアリー」
ちょうどキッチンから戻ってきたツクツクさんが、メイドさんの代わりに返事をした。
「ツクツクさんのことじゃないわよ」
疲れたあたしは、イスに座ってテーブルに突っ伏した。
「うーん。ミズ・メアリー、なんだか疲れていませんか」
前に座ったツクツクさんが、心配して訊ねてくる。でも、見れば分かると思う。ああ、あたしとメイドさんの追いかけっこには気づいてないのね。本当かしら……。
結局、よく分からないわ。あたしは、姿見の方に目を遣《や》った。
鏡の中に、ティーセットを持ったメイドさんが映っている。でも、鏡の中にしかいないようだ。
「もういいわよ。認めてあげるから好きにして」
あたしは降参した。無理に追いかけ回したって無意味だわ。無理に否定する方が無駄な努力だ。理由なんて分からなくても、ここにいるんだから。それで、まあいいじゃない。
鏡の中のメイドさんが、すみませんというふうに、ぺこりと深くお辞儀をした。いつの間にか、ティーセットがなくなっている。
きっと、認めてあげたから、はっきりと見えるようになったのかもしれない。これが、物が命をもつということなのかしら。
「まったくもって、ツクツクさんの家って不思議な家よね」
あたしがツクツクさんの方をむきなおると、いつの間にかテーブルの上にティーセットがおいてあった。もう一度鏡を見たけれど、すでにメイドさんの姿はなかった。
「もちろんですとも。そして、素敵な家です」
あたしのドタバタを知ってか知らずか、ツクツクさんはにっこりと笑った。
「ええ、そうね。あたしも、ツクツクさんの周りにある物はたぶん好きだわ」
あからさまに怪しい置物とかはのぞくけれど。
「ありがとう」
どこかにいるメイドさんにお礼を言うと、あたしは熱いお茶を遠慮なくいただいた。
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☆
「じゃあ、もう帰るわね」
夜も遅くなったので、あたしはツクツクさんにさよならを言った。
「ええ、お休みなさい。よい夢を、ミズ・メアリー」
簡単にあたしを見送ってから、ツクツクさんが戸締まりをしてリビングを後にした。あたしはと言えば、庭を横断して我が家へと入る。
いつもと変わらない一日の終わり。そのときはそう思っていた。
ドアを開けて家の中に入ろうとしたとき、一台の車がツクツクさんの家の前に止まった。
なんだか、ずいぶん昔に見た記憶がある車だ。
その車からは、一人の女の人が降りてきた。ああ、いつかヘイゼルナッツさんを連れていった女の人だわ。それにしても、なんでまたやってきたのかしら。もしかして、またヘイゼルナッツさんがやってきたとか。
あたしは、家に入るのをやめて、ツクツクさんの家の方にUターンして戻ろうとした。
けれども、あたしが駆けつけるよりも早く、ツクツクさんが家の中から出てきた。女の人が一礼すると、そのまま車に乗り込もうとする。こんな時間に、いったいどこにいこうとしているのかしら。
「待って、ツクツクさん」
あわてて呼び止めると、ツクツクさんがすごくびっくりした顔になった。
「ミズ・メアリー、いったい、どうしたのですか」
「うん、この人を見かけて、ヘイゼルナッツさんが帰ってきたのかと……」
「ああ、そういうわけでしたか」
あたしの言葉を聞いて、ツクツクさんは納得したようだった。でも、そのまま、何か考え込んでしまう。
「時間の予定がございます。お話があれば、車の中でもできますが」
女の人が、時計を見ながらツクツクさんをうながした。
どうも、決まった時間に、どこかへいかなければならないみたいだ。駅かどこかに、ヘイゼルナッツさんを迎えにでもいくのだろうか。だとしたら、ぜひあたしもいかなくちゃ。
「急いでるようだから、乗っちゃいましょ」
ツクツクさんを車に押し込めると、あたしはちゃっかりその横に座った。
「あっ、いや、その……うぐっ」
ツクツクさんが何か言いかけて、後ろへのけぞった。車が発進するときに中腰なんかでいるからだ。
「しかたないですね。まあいいでしょう」
そう言ったきり、ツクツクさんは黙って何かを考え込んでしまった。そうなってしまうと、邪魔するのは悪いだろう。あたしは、目的地に着くまで静かにしていることにした。
車は郊外まで走ると、川の近くの開けた土地で止まった。
なんで、こんな場所にきたのだろう。ここは、駅でも港でもないし、ましてバス停でもない。単純に、待ち合わせ場所なのだろうか。
「さあ、着きました。お降りください」
女の人にうながされて、あたしとツクツクさんは車を降りた。
夜の河原は人気がなくて、ちょっと肌寒い。
「ねえ、ツクツクさん……」
「きましたよ」
ちょっと不安になって、これからどうなるのか訊ねようとしたとき、ツクツクさんが空を指し示した。
いったい、空から何がくると言うのだろう。
見上げても、何も見えない。
いや、今日は晴れているはずなのに、星の一部が見えなくなっていた。まるで、小さな黒い雲が空に浮かんでいるようだ。
そう気づいたとき、その雲がだんだんと大きくなっているのが分かった。なんだか、こちらに近づいてきているみたいだ。
よく見れば、それは雲なんかじゃない。細長い流線型の何かだ。まさか、UFO?
「ツクツクさん、あれは何?」
「空色風船社の|青い風《ブルー・ウインド》号ですよ」
ツクツクさんが答えてくれたころ、あたしにもその正体が分かった。大きな飛行船だ。
「すごい」
音一つたてず、その飛行船はあたしたちの目の前に着陸した。夜空の色をした気球の部分に、ちょっとした船ぐらいのゴンドラがついている。
それにしても、近くで見てみると、思いの外《ほか》大きい。こんな飛行船が飛んできたら、結構話題になるだろうに。でも、着陸する直前までぜんぜん見えなかったし、ひっそりと町はずれに着陸したり、これは秘密の飛行船なんだろうか。
「お待たせしました。お乗りになりますか」
ゴンドラから下りてきたタラップがちゃんと地面に着いたのを確認すると、あたしたちをここに案内してくれたキャビンアテンダントの女の人がツクツクさんに訊ねた。
「そうですね、ミズ・メアリー……」
ツクツクさんが、確認をとるようにあたしを見た。
「中を見学しますか?」
「もちろん」
あたしは即答した。こんな機会なんか、もう二度とないかもしれない。でも、さっきから感じている、この言いようのない不安はなんなのだろう。それを確かめるためにも、この飛行船に乗ってみなければ。
「よろしいのですか」
アテンダントさんが、ちょっと怪訝《けげん》そうな顔をする。そのとき、彼女の持っている携帯が、オルゴールのような音をたてた。
「はい。はい……。分かりました」
電話をかけてきた相手と二言三言やりとりをすると、アテンダントさんはあたしに対する態度を一変させた。
「どうぞ。船長から、乗船許可がおりました。見学を許可するそうです。ただし、ここに長時間|停泊《ていはく》するわけにはいきませんので、いったん乗船なさった後に離陸いたします。見学が終わりましたら、またここに戻ってくる予定です」
説明されて、あたしたちは飛行船に乗り込んだ。
ちょっと懐古《かいこ》趣味的な船内に入ると、タラップが上がって飛行船が離陸した。
不思議なことに、エンジンの音とかがまったくしない。普通、こういう飛行船は、プロペラで動くものだと思っていたのだけれど。夜空にとけこむ船体といい、完全なステルスの飛行船だわ。
正式な乗客というわけではないので、客室があてがわれているわけでもない。その代わり、あたしたちは特別に飛行船の操縦室に入れることになった。
非常灯だけの灰暗《ほのぐら》い操縦室は、たくさんの計器がイルミネーションのように光っていて綺麗だった。まるで、外の星空との境がないみたいで、飛行船の中と言うよりは、あたしたちだけで夜空に浮かんでいるかのようだった。
「ようこそ、ブルー・ウインド号に」
キリッとした青い制服を着た船長さんが、陽気にあたしたちを迎えてくれた。
「さて、せっかくだから、夜の町を一回りしますかな。トゥックトゥイック氏のお友達も、自分の町を空から見るのは初めてでしょう」
遊覧《ゆうらん》飛行の始まりだ。
ツクツクさんと一緒に窓際に立って、遙《はる》か地上を見下ろす。
船長さんに言われたとおり、こんな場所から自分の町を見るのは生まれて初めてだった。家々の明かりが、意外にも多くて感動する。かといって、ゴテゴテと光が集まりすぎているわけでもなく、ちょうどいいぐらいに、暖かく寄り集まっているという感じだ。
夜の町の全景というのは、あたしが知らなかった自分の町のもう一つの顔だ。
「あそこ、ほら、家《うち》が見えるわ」
我が家を発見して、あたしは地上を指さした。
まだママが起きているはずなので、我が家は町の明かりの一つとしての役割をちゃんと果たしていた。こうして見ると、箱庭の玩具の家のようで、ちょっとかわいい。
それにくらべて、ツクツクさんの家はすっかり明かりが消えていて、シルエットとしてしか確認することができなかった。
いつもなら庭に常備灯の小さな明かりをつけているはずなのに、どうして今夜は全部消しているのだろう。まるで、誰もいない空き家のようだ。実際に留守ではあるのだけれど、なんだか違和感を感じる。
そこはかとない不安が、またあたしを襲った。
「家に帰ったら、お茶でも飲みましょうね。たぶん、帰り道は冷えると思うから」
約束するように、あたしはツクツクさんに話しかけた。でも、即答がない。
「それは、難しいかもしれませんな」
ツクツクさんの代わりに、船長さんが答えた。でも、それってどういうこと。
「お話ししてなかったのですか。てっきりお見送りにきたのかと思いましたが」
アテンダントさんが、ちょっとしまったという顔で言った。
「そろそろ、またどこかにいくかもしれないからと御連絡をいただいたので、少し航路を変更してお迎えにあがったのですが……」
「ちょっと、ツクツクさん、どこかにいくつもりだったの」
不安は確信となって、あたしはツクツクさんに聞いただした。
どうやら、ツクツクさんはこの町を離れて旅に出るか、あるいは引っ越してしまおうとしていたらしい。
それにしても、誰がここの旅行社に連絡したのだろう。ツクツクさんだろうか、それともこの飛行船で移動していたかもしれないヘイゼルナッツさんか、それとも、こういう雑用をしていそうなメイドさんか。
そもそも、なんでツクツクさんが引っ越そうとしているわけ。
ヘイゼルナッツさんに誘われたから?
カレンさんに見つかったから?
サエーナを逃がしたのがばれたから?
庭に穴を開けたから?
それとも、あたしが正体を暴いてやるとか言って家の中を探し回ったりしたから?
あたしが、ツクツクさんのツクツクさんでない部分を探しだそうとしたから?
あたしがいけなかったのかしら。
ああ、もうわけが分からない。
ツクツクさんが誰であろうと、ほんとはそんなことどうでもいいのに。ツクツクさんは、ツクツクさんだ。他の誰でもない。
「そうですね。もうずいぶんとこの町にいたような気がします。旅に出るのも悪くはないかもしれません」
ツクツクさんの言葉に、あたしは涙が出そうになった。
冗談じゃないわ、そんなことあたしは聞いてないわよ。
「あなたが、トゥックトゥイックでいられなくなったら、お迎えにあがる約束でしたね」
確認するように、船長さんが言った。
「ええ。でも、今の私はツクツクさんですから」
にんまりとした笑みを浮かべて、ツクツクさんが答えた。そうですよねと言いたげに、あたしの方をちらりと見る。
「今日は、遊覧飛行に最適な日ですね。それ以外は、ちょっと不似合いかもしれません」
「そのようですな」
満足気に、船長さんがうなずいた。
あれ、もしかして……。
「心配しなくても、もうしばらくは、ミズ・メアリーのお隣さんでいるつもりです」
「しばらくなの」
ちょっと意地悪に聞き返す。
「うーん、とりあえずしばらくということにしておいてください。もしかすると、ずっとずっとしばらくかもしれませんけれど」
そう言って、ツクツクさんはいたずらっぽくウインクをしてみせた。
もう、いったいどこまでが真面目な言葉なんだか。
「さあ、もう少し遊覧飛行を続けますかな」
船長さんが、勢いよく舵輪《だりん》を回した。飛行船がちょっとかたむいて、よろけたあたしの身体を、ツクツクさんがつかんでささえてくれた。
ちょっとアクロバティックに飛行船を操る船長さんはすごかった。水に沈んでしまうのではないかと思うぐらいに川面《かわも》に近づいたり、地平線がすべて山並みになるぐらい高く飛んだり、空を飛ぶ鳥の速さに合わせてならんで挨拶をしたり。自由自在に飛行船を操っている。また、そんな操船通りに動く飛行船もすごいと思う。
「これもまた、トゥックトゥイック氏のおかげ……なのかもしれませんなあ」
ちょっと驚いているあたしに、船長さんが言った。ツクツクさんは、さあどうでしょうという顔をしてとぼけている。
「では、そろそろ戻りましょうか」
ツクツクさんの言葉で、夜の遊覧飛行は終わりを告げた。
船長さんは、家の近くの桜並木に飛行船を降ろしてくれた。さすがに着陸はできないので、長めの梯子《はしご》を下ろしてもらって下船する。
「では、またいつかお会いしましょう」
あたしたちを見送ると、船長さんは飛行船を発進させた。
あっという間に上昇して、青い飛行船は夜空の一部になったかのように姿を消してしまった。きっと、目には見えないだけで、今日も世界中の空を旅しているに違いない。いつでも空を見上げれば、きっとそこに浮かんでいるはずだ。
「ツクツクさん」
「トゥックトゥイックです」
帰路を辿《たど》りながらあたしが話しかけると、ツクツクさんがいつものように自分の名前を訂正した。
「やっぱり、あなたはツクツクさんよ」
「しかたないですね。とりあえず、そういうことにしておきますか」
うん、それでいいと思う。
それにしても、不思議な空の旅だった。
「なんだか、まるで魔法にかけられていたみたい」
「魔法ですか」
「うん。ツクツクさんは、まるで魔法使いみたいだわ。いつも、そう思ってた」
「おやおや」
今さらのように、ツクツクさんが意外だという顔をする。
「魔法使いとはいったい何なのでしょうか」
ツクツクさんが、あたしに聞いた。
ちょっと考えてみる。
「きっと、それは人にできないことができる人のことよ」
「だったら、あなたも魔法使いですね」
それはないと思う。あたしは、ただの女の子だ。
「いいえ、私にできないことを何度もしてくれましたし、私の分からないことの答えを何度も出してくれました」
「そんな覚えはないけどなあ。うーん」
あたしは、組んだ両手を頭の後ろに回して、うーんとのびをしてみた。はっきりとした記憶では、そんなことをした覚えはないと思うんだけど。
「それは、それが自然にできたことだったからですよ。人は誰でも、他人にはできないことができるんです。そして、それは、けっして特別な力なんかではない。そんな力がなくても、他人を幸せにすることができる。それこそが、魔法なのではないでしょうか。だからこそ、人は誰でも魔法使いになれるのです」
だったら、ツクツクさんは充分に魔法使いだわ。
「ミス・メアリー、私はずっとあなたのことをこう呼んでいたんですよ、お隣の魔法使いと」
そう言って、ツクツクさんはあたしに微笑みかけた。
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後書き
なんだか、奇跡が起こっています。
自分の作品の中でも、一番本になりにくいと思っていたお話が本になるとは。
いや、もともとこのお話は、十年も前に自分のホームページ用に書き下ろされたものでした。よくイラストレーターの人たちがお正月に年賀の挨拶のイラストを描いていますが、さすがに自分はイラストは描けませんので、その代わりになるショートショートをと思って描き始めたのが発端です。
とはいえ、当初は毎年書くつもりが、実際には三年に一度ぐらいになっちゃってましたが。
なぜかというと、このお話は書くのがすごく大変なんですね。他のお話のように、勢いでどんどんと書けるようなものじゃないからです。けっして走ったりしないで、のんびり歩いているというところでしょうか。もともと大事件が起きるわけでもないし、世界存亡の危機も起こらない。単純にお茶を飲みながらお話をしているとちょっと不思議なことが起きるという。そういうお話ですから。
もともと、自分の原点はアリスにありまして、本来の作風は言葉主体のメルヘンに近いファンタジーなんですね。もちろん、その後に読み進んだナルニアや指輪も好きですし、ハイファンタジーはいくつか書いたり企画を温めたりもしていますが。
そういうわけで、このお話は、一番自分の作風に近いですね。ただ、めずらしく一人称のお話なので、文体は今までの作品とはちょっと違ってはいますが。
まあ、ここしばらくは和風テイストが気に入ってしまったり、相変わらずSFやロボット物も好きだったりするわけですが、久々のメルヘンなんで喜んで書いています。
ここ数年は、市場と作品の折り合いがつかなくて不本意な迷走を余儀なくされていたので、今年は原点に戻っていろいろ書いてみたいですね。とりあえず、他人の意見はすべて無視して、お話の原型を一切変えない方向で。いやあ、できれば嬉しいんですが、なるべくわがままに突っ走りましょう。
ツクツクさんのお話は、ある意味終わりのない話なので、単発で、あるいはまとまった形でまたお目見えできるかもしれません。ほのぼのと、お茶でも飲みつつ待っていてくださいませ。
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底本:「お隣の魔法使い 〜始まりは一つの呪文〜」GA文庫、ソフトバンク クリエイティブ
2006(平成18)年5月31日初版第1刷発行
入力:iW
校正:iW
2007年12月2日作成