ロック、七〇年代
――復刻CDに「時代」を聴く
秋野 平
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松平維秋をしのんで
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■渋谷グラフィティー
1 『パール/ジャニス・ジョプリン』
一九七一年の夏、東京は渋谷・道玄坂近辺に一軒の喫茶店が誕生した。とりあえず、その名をBとしておこうか。ジャズとロックを時間割で分けて流す、いまにして思えば不思議な店だった。そして、そこのロックタイムを連日独占し続けていたのが、ジャニス・ジョプリンのこの『パール』である。
いま、廉価盤で再々リリースされたこのアルバムを聴いていると、そのころの穴蔵のような店内の光景が、否応なく思い出されてくる。殺風景なフロアに響きわたる、ジャニスの荒れた声。聴いているのかいないのか、熱中しているのか醒めているのか、影のようになって音の波にひたる一群の若者たち。
最近になっていわゆる名盤紹介の類の本が数多く出ているから、このアルバムの概略についてはご存じの方が多いだろう。どの本にも共通するのは、次のような記述である。いわく、ジャニス・ジョプリンがはじめて南部的なフィーリングのバックバンドを得てつくった、感動の作品。ドラッグに死んだジャニスが死の直前にのこした、ロック草創期の傑作。
しかし、このアルバムに収められた歌と音楽がいまに伝えるものは、「感動」や「傑作」といったきれいごとで表現しきれるものではない。ジャニスの歌いっぷりは一聴豊かでダイナミックだけれど、痛々しいほどの悲しさや寂しさをそこに感じとらずにはいられないだろう。歌声の背後に絶えず暗流として流れるこの深く屈折した感情の動きこそ、時代全体に見事にフィットしていたのだ。
心をこめて歌えば歌うほど、どうしようもなく顔をのぞかせる心の空虚。このすさまじいまでの欠落感はまた、ざらついた音を流し続けていた当時のあの店の日常風景にぴったりと重なる。
行くべき場所がどこにもなかったのだろう、連日店に現れてはコーラ一杯で深夜までねばる少女がいた。閉店間際になって泣きわめいては、大人たちを困惑させる少女もいた。どうあがいても自分の感情を整理できない、やり場のなさ。彼女たちこそ、ジャニス・ジョプリンそのものだった。
心の内側に不満をくすぶらせていた彼女たちは、いま、どこで、どうしているのか。
2 『イン・ロック/ディープ・パープル』
青春という言葉には文部省推薦の殺菌ずみのにおいがあって好きになれないが、あえて言うなら、「悪徳」への絶えざるあこがれこそ青春を青春たらしめているものではなかろうか。
悪徳といっても、もちろん若者のすることだからたいしたことではない。例えばたばこ。ロックも、その一つだろう。その意味で、ハードロックが鳴りひびく店内を高校生が埋め尽くした一九七一年当時の喫茶Bは、彼らにお似合いの、小さなバビロンだった。
いつごろからだったろうか、このミニ・バビロンのテーマミュージックになるほどに頻繁にターンテーブルを回るようになったアルバムの一つに、ディープ・パープルの『イン・ロック』がある。ラジオやテレビなどのマスメディアがヒット曲を量産するように、都会の喫茶店というミニメディアにもまた個々固有のヒット盤があるものだが、リリースからすでに三年が経過したその年、このアルバムはようやくおのが本領を発揮する場を得たのだ。
当時のロックシーンを思い合わせてみると、音楽雑誌で語られる対象は、当然ながらローリング・ストーンズやザ・フーなどのもう少し複雑な音の構成をもった作品であって、ディープ・パープルはけっして主流ではなかった印象がある。にもかかわらず、ニキビ面の高校生たちがこのバンドにひたすらいれあげたのは、やはりその単純率直さのせいだろう。
朝、開店も間近になった時刻、入り口前には制服姿の高校生たちが早々と列をつくっている。ドアが開くと同時に耳につんざくイアン・ギランのボーカル――それが日常のことだった。
マスメディアの生むヒット曲とミニメディアの育てるヒット盤との最大の違いは、店によってまるで異なった作品がターゲットとなることにある。何がヒット盤かはその店のカラーをそのまま物語るが、それを育てるのは客層なのだ。
渋谷・道玄坂周辺にはすでにこの種の店がいくつも集まっており、それぞれの店の客たちが個性的なヒットの花を咲かせていた。それは、多様性を包み込みながらロックマーケットが次第に確実に成長しつつある、一つの兆候でもあった。
3 『血と汗と涙/ブラッド、スウェット&ティアーズ』
「ジャズと自由は手をたずさえて歩いて行く」という、名文句がかつてあったけれど、七〇年代初頭の若者たち、特に高校生にとって、ジャズは、決して聴いて自由な気分になれる種類の音楽ではなかったようだ。
そのことを端的に示す光景が記憶の中にある。例の喫茶Bが、ジャズとロックを時間割で流していたころのことだ。時間割である以上、決まった時刻が来れば、ピアノやサックスの流麗なフレーズが、突然、店内に流れ出す。その瞬間、客席は完全にもぬけの殻になった。
ブラッド、スウェット&ティアーズの『血と汗と涙』は、都会のあちこちでジャズとロックが決して交じり合うことのなかった時代が生んだ、記念碑的なアルバムである。ロックのビートを基本にしながらも、管楽器のサウンドをスパイスとして用いた彼らの音楽が、ジャズ派にもロック派にも共通して受け入れられた――なんてことではもちろんない。事実は逆で、どちらの側からも総スカンをくらったのが「ジャズとロックを融合した」と称されるこのアルバムなのだ。
その原因は、おそらく二つに絞ることができる。一つは、いくらサウンドがジャズっぽいムードを醸し出していたにしても、ジャズの本質である熱っぽいインプロビゼーションの魅力が、全く欠落していたことである。もう一つは、同じように8ビートのリズムをたたいてはいても、抑制の効いたこのアルバムのリズムの動きは、あまりにも刺激と興奮に乏しすぎたということである。
数あるポピュラー音楽の中でも、一見、近そうに見えてその実、最も遠い位置にあるのが、ジャズとロックだろう。その違いを、いささか物騒だが、白兵戦と爆撃戦にたとえた男がいる。個人の精神と肉体を究め尽くすジャズの演奏は、聴き手にストイックなまでの緊張感を要求する。それに対してロックは、爆弾が都市を焼き尽くすように、聴衆を一気に立ち上がらせる解放の音楽だ、というのである。
『血と汗と涙』の冒頭を飾るサティ作曲の「ジムノペディ」は、ジャズが若者音楽の王座をロックに明け渡した時代がのこした、挽歌のように聴こえてならない。
4 『ソロ・ライブ・アット騒第一集/阿部薫』
今ほどの人波は見られなかった二十年前の渋谷・道玄坂を、月に一週間くらいの割合で、アルトサックスのケースを提げて上ってくる、小柄な男がいた。喫茶Bの地下のライブハウスのジャズウィークの常連ミュージシャンだった彼の名を、阿部薫という。
アルトサックスで当時彼が実践していた音楽を正確に位置づけるためには、日本のジャズシーンのトータルな見取り図が必要だが、とりあえずあらゆる約束事を否定したフリージャズ派が少数派として孤立していた時代といっておこうか。そして、その代表の一人が彼だった。
それだけに、彼の目の前にいるべき客の数はおそろしく少なかった。実際、Bの地下では、多くて十人、普通は五人といったところだったか。
それでも、彼の演奏が緩むことはほとんどなかった。それは、彼のジャズが、ひたすら自身の内面へと下降し、極論すれば聴衆すら必要としなかった、一種の孤独なモノローグだったからだろう。
虚空といってもいい、がらんとした空間を引き裂くように、鋭くかつ激しく鳴るアルトの音。そのこだまは、それから五、六年後の彼のジャズの記録である『ソロ・ライブ・アット騒』シリーズにはっきり聴きとれる。デビュー当初のころの一演奏一時間に比べれば短くなってはいるが、心の内部に音を探りつつ、くぐもり爆発し、と思えば「風に吹かれて」など、耳なじみのメロディーが不意に引用される自在なスタイルは、やはり彼ならではのものだ。
音はしばしば出口を見失い、異様なほど長い空白が続く。それに出合うときの、いたたまれないようなつらさ。脈絡を失った演奏はいわば挿入句につぐ挿入句と化すだけで音楽という果実を結ばない、凄絶なまでの徒労感がある。
これらの演奏からほんの少しあとに彼は自らの手でこの世を去ってしまうのだが、ひょっとすると、そのとき、歌うべき歌はもう彼の内面には残っていなかったのかもしれない。そして、今CDに聴く彼の音楽は、燃え尽きるまで燃焼し続ける六〇年代型の生き方の、荒々しい残響とも思える。
■ウェストコーストの光と影
1 『セイル・アウェイ/ランディ・ニューマン』
一九八三年だと思う。このランディ・ニューマンがピアノの弾き語りという最少のセッティングで来日公演したとき、その会場には過去のロックコンサートで見られなかった光景があった。幼稚園児ほどの子供を連れた両親、あるいは母親が何組も見に来ていたのだ。
若い親たちは、子供に初めて見せるアーチストとして彼を選択したのだろう。そこには「自分たちの青春の“良質な”断片を見せる」という自己満足があるんだなと、僕は好意的に解釈したものだ。
本アルバムの発表は、そのコンサートより十一年前の七二年。当時この音楽を歓迎した人たちは、ロックにも古色に彩られた表現があり得、アイロニカルな渋いつぶやきも可能なことを知って喜んだのだ。
ランディ・ニューマンは、有名なライオネルとアルフレッドという二人の映画音楽作曲家を伯父にもち、その舞台裏をつぶさに見て育った点で生粋のハリウッド人間である。
本アルバムでも、タイトル曲の「セイル・アウェイ」は奴隷船の航海であり、大道芸人や孤独な老人をうたい、映画『ナインハーフ』に使われた「帽子は被ってな」は、恋人にストリップを演じさせる男の歌、といった具合だ。
自分のピアノを軸にレトロなストリングスを駆使し、“アメリカ”の諸相に屈折した視線を送る彼のセンスは、ウェストコースト音楽の“陽性の系譜”からは外れていた。当時のアメリカでも、彼の支持者は十代のロックファンではなく、大学生からリベラルな大人たちにかけての人々だった。
ランディ・ニューマンは七二年の百花咲き乱れるロックシーンにあって、“アメリカ音楽”のひとつの普遍の形を、LAという都会をスタンスに実現してみせた“個人”だ。
その後も彼の音楽の基調は変わらず、ファン層も彼とともに年をとってきている。アーチストとファンのこうした関係は、ロック音楽においてはまれな例だ。
「ロンリー・アット・ザ・トップ!」「バーノン!」
客席からリクエストした親を、子供たちはおぼえているだろうか。あのとき日本の“若い大人”たちは、自分のロック的な知性を再確認したかったのだと思う。
2 『紫の峡谷/ライ・クーダー』
およそロックという音楽が、それまでのブルースやゴスペル、フォークやカントリーといった伝統の上に成り立っていることは、どなたもご存じだろうと思う。
ある新しい音楽が、実はどんな背景と工夫から生まれたかの分析は、このライ・クーダーのようなミュージシャンが現れるまで、もっぱら評論家の特権に属していた。
だが彼は、まるで世界一楽しくて優秀な音楽の先生みたいに、歴史的な音楽のすみずみにまで精通し、それらを“現代語”に翻訳して演じてくれるのだ。
教養も一流なら演奏者としても超一流、七〇年代の僕たちにとって、ライ・クーダーの音楽はロックの生きた“血統書”のような効力があった。
さらに大事なことは、その一曲一曲が彼独自のユーモアやエスプリで解釈されて演奏される面白さだ。
それは、いわゆるリバイバルとは違う。SPレコードの溝に埋葬されていた曲が、ロックとの血のつながりを証明されるのと同時に、現代的な生命と魅力を与えられてよみがえる。
彼の音楽を語ることは、だからロックの重要なイミ[#「イミ」に傍点]を明らかにすることだとも思う。
この“紫の峡谷”は、彼の2枚目のアルバムとして七二年に発表された。まず、往年のハリウッド映画を賛美したようなジャケットがすごくウケた。ダブルの表、中、裏と、三九年製ビュイックに乗るクーダー夫妻の背景はすべてそれとわかる書き割り。ハッピーな映画を連想させつつ、取り上げる歌は不況時代の世相を反映したものが主だから、ここでハリウッドはおちょくられた[#「おちょくられた」に傍点]のだと思える。
こんな絵解きにひどく熱中したのも、七二年当時の日本の若者たちだった。
後の映画『パリ・テキサス』で広く知られるように、ライ・クーダーのボトルネック・ギターは言葉にも勝る表現力をもつ、人間の絶望までも音にする。だがここでの彼のボーカルは、暗い時代が生んだ歌を深刻には表現しない。失うものさえない人間の、笑うしかない楽天ぶりを演じる。
前回のランディ・ニューマンの個性がネガティブだったのに対して、このライ・クーダーの歌はヒネられているにせよ明るくポジティブだ。
以後、彼の音楽的興味はメキシコ、ハワイ、沖縄へと広がっていく。
3 『ホテル・カリフォルニア/イーグルス』
イーグルスがウェストコーストの代表的グループだったこと、この『ホテル・カリフォルニア』がロックファンの枠を超えて一般的ベストセラーになったことは、ポピュラー音楽史に隠れもない事実といえる。
七六年、この年はロックにとってターニングポイントになった年だと、いまも僕は思う。ロックが、従来のポップスと決別した事情を知る世代がオトナになり、市民生活に見合う音楽しか聴かなくなった。
古株のバンドやシンガー&ソングライターたちも、AOR(オトナ向けロック)に転向して生き残りを図り、ディスコ音楽やフュージョンが時代を映した。それらに不満な若者たちは、トンガッ[#「トンガッ」に傍点]てパンクに自己を投影した。
結局、そのすべてがレコード産業の成長拡大に寄与したのだ。ジャズでもそうだが、音楽自体が発展中の時期より、停滞か形骸化してからのほうが、商業的には好況を示すものらしい。
「ホテル・カリフォルニア」のボーイは、強い酒を注文した客に対してこうこたえる。「六九年以降、ここには“スピリット”はございません」
このスピリットが、蒸留酒と精神との掛け言葉であることはもちろんだ。この一節は日本でも評判になった。だが注目した人々は、おそらくこのレコードを、嬉々として買った人々とは別な少数派だったのだろう。
当時、日本では西海岸ブームのまっ最中だった。Tシャツ、ジーンズ、スニーカーが定番ファッションであり、パームツリーと青い空があこがれのイメージであり、このイーグルスのヒット曲名でもある“テイク・イット・イージー”(気楽にいこうぜ)が、若者たちの合言葉だったのだから。
“六九年以来、スピリットがない”という告発が、七二年に「気楽にいこう」で有名になったそのグループによってなされたムジュンは、ついに西海岸ボーイたちの問題になることはなかった。それどころか“ホテル・カリフォルニア”こそ、彼らのライフスタイルを代表する歌として、百パーセント肯定的に迎えられたのだ。
だが、この曲がそれまでのイーグルスよりも暗く、重苦しく演奏されていたことも事実だ。同時に、甘美で哀切なメロディーを備え、ヒット曲としてのオーソドキシーにかなってもいた。おかげで若者たちは、自分たちの信じる文化が告発されているなどとは、思いもよらなかった。それほど、このアルバムは完成度が高くできていた。
4 『シルク・ディグリーズ/ボズ・スキャッグス』
“シティーミュージック”というのが当初の呼び名であり、その耳当たりを“ソフト&メロウ”と形容され、のちにAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)と総称された一連の音楽が七〇年代の後半に流行した。
このボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』こそ、ロックのそうしたオトナ化、あるいは市民化を方向づけた代表作だろう。
ジャケットの写真の彼の髪は短く、サングラスをかけスーツを着て、海辺のベンチに座っている。全体の甘く物憂いトーンが、音楽の洗練と都会性を物語ってもいた。「だれに向けた音楽だろう?」と、僕は思った。
だが実際には、米国にもロック疲れした元若者はいたし、東京にもそれに同調して“シティーボーイ”を名乗りたい現若者がゴマンといたのだ。ただ不思議なのは、昨日までザ・バンドだのライ・クーダーをあがめていた人たちまで、今日からソフト&メロウに改宗していくことだった。
いま思えば、それが「トレンドを追う」という生態であり、つまりは都会派を認じる人が自己を確認できる唯一の方法だったのだ。
ボズ・スキャッグスは、スティーヴ・ミラー・バンドを経てソロとなり、七六年のこの作品までに五枚のアルバムを出していた。南部のR&Bを基本に、ラテンの要素を導入したりしながら、独自な泥臭さに魅力のあるアーチストだった。
その彼がこれ以降ギターをボーカルマイクに持ち替え、白いスーツでステージに立つLAジゴロ風に変身したのだ。ジャーナリズムはこうした事態を「ロックがついに市民権を得て、真に主流の音楽になった」と、拍手とともに評した。
たしかに、イブニングドレスとタキシードで聴きにいくロックなど、かつてなかった。だが、「基本的にトム・ジョーンズとどこが違うの?」という素朴な質問に、納得のいく回答を得ることもまたなかった。
『シルク・ディグリーズ』はロック史に、二つの大きな功績を残した。
ひとつはロックに“エンターテインメント”という在り方を確立したこと。もうひとつはあの時点で、トレンディーでいるために音楽を聴く、という人々を明瞭にしたことだと思う。
そして「ロックはライフスタイルだ」と広言する人々が、ほとんどこのタイプに属していた。
■ニュー東京ポップスの船出
1 『ライブ・はっぴいえんど』
その日は雨だったが、夕刻、会場近くに着いてまず目に入ってきたのは、えんえんと路上に続く人の波だった。一九七三年九月二十一日。コンサート「CITY―Last Time Around」が開かれた文京公会堂。肌寒い雨をものともせずに開場を待つ聴衆の思いは、やがて場内の熱い歓呼と拍手に結ばれた。
『ライブ・はっぴいえんど』は、この日最後のステージを迎えた日本のロック・グループ、はっぴいえんどを中心に当時ベルウッド・レーベルに所属していたアーチストの演奏を収録したものだが、同じ日の別のアーチストたちを記録したショーボートからのライブ盤と合わせて、客席にいた一人には、懐かしさとともにあのころのこの国の音楽シーンそのものを鮮明によみがえらせてくれる。
この国のあらゆる国内産洋楽がそうであるように、ロックもまた英米のそれのひきうつしからスタートした。はっぴいえんどにしてからが、バッファロー・スプリングフィールドぬきには語れない。そうして、雑多なグループ、雑多なシンガーがフェヴァリット・ミュージシャンの影響を受けつつそれぞれに音楽の完成度を高めてきたのが、この時期だったのだ。
それはまた、ロック特有の響きやリズムを好みながらも、できることなら自分たちの生きている社会と時代に奥深くかかわる歌や音楽が欲しいという、聴き手一般の願望が徐々に満たされてきた時期でもあった。だからこそこの日、満員の聴衆は都会の青年の孤独やうつろいを歌うステージ上の演奏に熱い支持を送ったのである。
実際、このアルバムに聴くはっぴいえんどの演奏は、ライブ特有の荒っぽさを伴いつつも躍動感に満ちている。そして、一曲ごとに寄せられる拍手のうねり。グループの解散を惜しむだけではなく、「これからわれらの時代の歌と音楽の本番が始まるのだ」という期待と願望をそこに聞き取ったとしてもけっして間違いではないはずだ。
しかし、結果から見れば、このコンサートは実質的にはむしろ日本のロックがその活動の主体をライブハウスからレコード製作へと移していく上での橋渡しの意味のほうが強かったようだ。事実、この日の出演者の顔ぶれの内には、「華麗なるニュー東京ポップス」こそが待機していたのである。
2 『摩天楼のヒロイン/南 佳孝』
日本のロック&ポップスの分水嶺となった一九七三年九月二十一日のコンサート「CITY」のステージにトップバッターとして登場したのが、南佳孝だった。ギターをジャズギタリストの高柳昌行に師事し、バンド生活のキャリアもある彼だったが、シンガーとしての実質的なデビューはまさにこの日。それはまた、彼自身の最初のアルバム『摩天楼のヒロイン』が世に出た日でもあった。
彼がそのころ追及していた音楽については、この種の音楽には珍しく数人のストリングスがバックについた、ステージの光景そのものが端的に物語っている。室内楽的、というよりはハリウッド的な甘い調べに乗ってあくまでもソフトに歌われるピアノ弾き語り。歌にも音にもノスタルジックな演出がほどこされ、大昔のショービジネスの世界が再現された。
しかし『摩天楼のヒロイン』は、日本のロック&ポップスの短い歴史に決して小さくはない足跡を残した、ユニークなアルバムでもあった。一つは、自称ギャングやら路上の女こじきやらを巧みに歌いこんだ詞のもつ、完璧なまでのフィクション性である。一つは、ロック特有の音楽的な様式、例えばエレクトリックギターの刺激的なフレーズやドラムスの激しいビートがなくても同世代の者の気分にフィットしうる、新しいポップスの可能性を示したことである。身の回りの出来事を題材に私小説的といっていい歌をつくり歌うシンガー・ソングライターの作品が主流の時代にあって、それはおよそ例外的なことだった。
南佳孝独特のデリカシーに満ちた歌の味わいもさることながら、そうした功績の大半は、作詞のほとんどを担当した松本隆にゆずるべきだろう。アルバムづくりの面から見ても、作詞と歌唱その他の役割分担をはっきり決めた上で、プロデューサー的立場にある人物が全体を統括していくという新しい方法の芽生えが、そこにはあった。
けれども、松本隆=南佳孝による実験は、このアルバム一つを残してあっけなく中絶する。松本はこののち歌謡曲の世界で作詞家として売り出し、一方南は自作の曲でスター的存在となっていくのだが、両者が新しい場で生み出した音楽はともに「華麗なる死体」とでも呼ぶしかない、うつろなニュー東京ポップスだった。
3 『扉の冬/吉田美奈子』
シングル盤中心にせわしなく自己回転していた日本のレコード産業が、ようやくオリジナルアルバム製作に本腰を入れ出したのが七〇年代前半だった。ただし、トータルなテーマ設定のもと、一曲一曲の内容や配列、さらにはバックの音づくりに工夫を凝らして歌い手の個性を引き出していくというノウハウはどの企業にも乏しく、相次いで誕生したロックレーベルも実際の製作は外部に頼った。企画から録音までの一切をプロダクションに依存する「原盤製作の外注化」である。
これは、企画は山ほどありながらレコーディングの場に恵まれなかった小プロダクションにとっては、やりたかったことを実現する恰好のチャンスとなった。その一つがはっぴいえんどのマネジメントから発展してできた製作集団「風都市」であり、南佳孝『摩天楼のヒロイン』とともに彼らが当時のトリオレコードと組んで世に問うファーストステップとなったのが、この『扉の冬』である。
今では中堅のシンガーとして安定した活動を続ける吉田美奈子のデビュー作という以上に、このアルバムはそうしたレコーディング事情の変化の記録として記憶に残る。何より印象的なのが、入念なスタジオワーク。スタジオ仕事専門のミュージシャンではなくバンド活動で鍛えられた連中のサポートであるだけに、一音一音にまできめ細かな配慮が行き届いており、それが歌を背後からがっちりと支えているのだ。
それと同時に、いささかぎこちなさが残るとはいえ、吉田美奈子の歌そのものも、美しくのびやかで、しかも微妙な陰影に富んでいる。そして、そこに浮かび上がる一人の少女の心象スケッチ。それは、歌い手の内部のミクロコスモスを思う存分詩的に展開する、個性的な「アルバムの時代」の到来を予感させるに十分だった。
しかし、いわゆるシンガー・ソングライターの音楽が隆盛になるとはいえ、その後のポップスシーンは、商業的成功を目指して、より万人向けの、より口あたりのいい音楽づくりへと動いた。まるで品のいいギフト商品のようなこぎれいにパッケージされた音楽を次々に再生産する、手慣れた芸だけが完成度を増す。
手慣れていくとは結局、何が欲しいのか、何を実現したいのかという、最初の意志をを見失わせることなのか。
4 『ひこうき雲/荒井由実』
吉田美奈子の『扉の冬』がほぼ完成したころ、同時期に他レーベルで制作されていた、女性シンガーのテープを聴く機会があった。当時用いられていたオープンリールのテープから流れ出てきたのは、イージーリスニング風のバックサウンズと、ぎこちない歌が溶けあうでもなく、分離するでもなく共存した音楽。それが荒井由実、そう、後の松任谷由実のデビュー作『ひこうき雲』だった。
歌謡ポップスみたいだなと感じた以外、記憶らしい記憶はなく、はっきり言って印象は薄かった。それなのに、居合わせた『扉の冬』のスタッフが「こっちの方が売れそうだね」とつぶやいたのだけは、今でも覚えている。
その後のレコードシーンの展開は彼が予言したとおりになっていくわけだが、この七三年はりりィ『ダルシマ』、中山ラビ『私ってこんな』など、女性シンガーの個性的なアルバムが輩出した年でもあった。では、なぜ荒井由実だけが「メジャー」になりえたのか。
今『ひこうき雲』を聴くと、そのあたりの事情がはっきりと見えてくる。彼女の歌は、はじめから「フィクション」への傾斜の強いものだった。他のシンガーがどちらかといえば直接、間接を問わず自己の内面の物語にこだわった歌づくりを通したのに対し、彼女の場合には「他人に聴いてもらうための音楽」という割り切りが、意識的にか無意識的にかは知らないが、明確にあった。
「他者」を前提条件に作品をつくるというのは、姿勢としてはもちろん正しいことだ。しかし同時に、彼女の歌は常に絶対に世の「多数派」のためのものでもあった。たとえていえば、ストーリー仕立ての広告コピーの感覚にそれは近い。そして、それがより華やかで、よりトレンディーなサウンドと結びついたとき、多数の聴き手がたちまちのうちにとびついた。
僕たちはしばしば、自分が何者であるかを知りたいがゆえに、同時代の音楽を聴く。自分はどんな時代に生きているのかを、時代とともに自分はどこへ行こうとしているのかを知るために。
荒井=松任谷由実は、そう思って振り返ると、記号を貪婪に消費する「軽チャー」の時代を見事に先取りしていた。その音楽は、尖端を気取る人たちのためにデザインされた、ビニール質のファッション商品だった。
5 『センチメンタル通り/はちみつぱい』
乱魔堂、GOD、人民公社……七〇年代初めのライブハウスは、耳慣れないバンドの洪水のようだった。毎日のように次々と新しいバンドが登場しては、同じく急速に消えていった。
そういうライブハウスの日常の中でひときわ異彩を放っていたのが、このはちみつぱいである。あがた森魚のバックバンドとしてデビューした彼らは、新しいアンプを得ては音量を増大させていく部類のバンドが大半だった中で、常時日本語の歌を歌うだけでも十分目立つ存在だった。
そんな彼らの記念すべきデビューアルバム『センチメンタル通り』(七三年)を聴いていると、当時のステージ風景がふんわりとよみがえってくる。他のバンドがエネルギーのありったけを注ぎ込んで直線的に突っ走るのに対し、彼らはいつだってゆったりのったり。傍目にはやる気があるともないとも判別しがたい演奏ぶりが、彼らの真骨頂だった。
いまにして思えば、それは彼らが「他人によりよく聴かれる」ことよりも「自分たち自身の気に入る音楽がどこまでつくれるか」に執着していた証拠だったのだろう。技術的には当時の水準からしても未熟だったが、音楽へのそうしたアプローチは、まさしくロック的な「遊びの精神」を体現していた。
それだけではない。東京の場末とおぼしき町でぼんやり空を見つめやる青年。一音一音に畳み込まれている、重たくどんより垂れ込めた町の空気。彼らの歌と演奏は大都会の中で「何もすることがない」日々を送る時代の精神と深い部分でつながっていた。だからこそ、数こそ限られても、支持するファンは絶えることがなかったのだ。
常に「時代の子」であることを意識しながらも「生きざま」などという安っぽい言葉とは無縁に、あくまでも軽々と、しかし幾分かの皮肉と批判を込めて都会を歌い演奏してきた彼らは、短命に終わった他のバンドよりはるかにしぶとかった。ポップスシーンがはっきり「個人(スター)の時代」へと進路を変えてからも、ユニークなポジションはそのままだった。
『センチメンタル通り』から二十年近く。一部メンバーが変わり、サウンド面で新しい趣向を取り入れながらも、洒脱に自由闊達にロックするこのバンドの本領は、ムーンライダースとしての最新作『最後の晩餐』にまでしっかり受け継がれている。
■黎明期の大いなる混沌
1 『スーパーセッション/ブルームフィールド、クーパー、スティルス』
「黎明」とは、まだ物の形も明らかでない夜明けのことだ。したがってロックシーンの黎明期にも、今日から見れば玉石混淆としか言いようのないほど名盤?が輩出し、結果はその多くがただの“石”であった。
六〇年代末といえば、世界的に若者たちの価値観の変革期である。そしてロック音楽が、各人のアイデンティティーのシンボルという役を担った時代だ。その分だけ多様な試みが容認され、ひとくくりに“ニューロック”と呼ばれて、とにもかくにも白熱していた。
この『スーパーセッション』は六八年の産。ブルース・プロジェクトやブラッド・スウェット&ティアーズを主宰して東海岸の黒幕的存在だったアル・クーパーが、同じく東側ではピカ一の白人ブルースギタリストだったマイケル・ブルームフィールド、そして西海岸のバッファロー・スプリングフィールドでスターになったスティーヴン・スティルスを糾合して打った“野心的”セッションである。
本アルバムが当時のロックシーンに与えた影響の大きさは、この“スーパーセッション”なる言葉が流行し、あっちでもこっちでも同趣旨の企てが起こったことで証明される。
演奏アイテムは主としてブルースだが、それがセッションという当意即妙の形式で行われたこと自体が、当時の素朴なファンにとっては新奇だった。意義といえば、それ一点である。
演奏の内容となると、ジャズに親しんだ者の耳にその当意(アドリブ)はとても即妙(イマジネイティヴ)とはいえず、どうにか即興形式をとった、という初歩的レベルにすぎなかった。
ここで再びその“時代”を問題にしたい。当時、ロックではやっと楽曲や歌手ばかりでなく、演奏におけるプレーヤーという存在に関心が向けられるようになったところだ。その風潮をとらえて、このアルバムは企画されたといえるだろう。
翌年に発表された『フィルモアの奇蹟』も含め、この種のロックの信仰者は、インプロヴィゼーションを音楽の至芸として尊んだ。
だが当人が自覚していたかどうかはともかく、その価値観の根差すところにジャズ・コンプレックスが潜んでいただろうと思う。
そして、ロック黎明期の混沌を解析するには、各音楽の志向の動機を、コンプレックスに求める視点が有効なのだ。
2 『クリムゾンキングの宮殿/キング・クリムゾン』
ロック黎明期の混沌は、その音楽の動機を、コンプレックスに求めることで解析できる、と前回に書いた。そして典型的な例が、とくに英国で興隆したプログレッシヴ(前衛的)ロックとその信者のケースだろう。
このジャンルにはピンクフロイド、イエス、ムーディーブルース、初期ジェネシスなど、英国のロック史のVIPたちが名を連ねる。
今回、キング・クリムゾンを採り上げた理由は、このデビューアルバム『クリムゾンキングの宮殿』が、六九年秋、あのビートルズの『アビーロード』に替わって全英チャートの王座に就いた事実が、ある象徴的な意味を持つと思えるからだ。
当時“ニューロック”にはあらゆる試みが許されていた。だが輩出するバンドのすべてが、まるで宝くじを当てたような自由を駆使するほど、独自な創造性を備えていたわけではない。
六九年のミュージシャンとファンの双方は、まだビートルズ体験の夢からさめずにいた。あの想像力拡大の方向に、次の音楽も発展していくものと信じていたのだ。
そこで登場したプログレッシヴ・ロックとは、ビートルズとはべつなアプローチによって、想像力拡大を模索した結果だった。で、その内容は、劇場か画廊のロビーで客たちが交わす会話の常套要素を、音楽として網羅するものとなった。
たとえば本アルバムにも、ジャズの即興演奏の実例、前衛風味の無調音の実例、鍵盤楽器による電子音の実例などが完備され、わけてもロマン派クラシックよりも甘く美しいメロディーが、他の諸要素をコーティングしてファンを魅了した。
プログレッシヴ・ロックがある既存の音楽を要素に加えるとき、それはその音楽への個人的執着や想いによるのではない。ジャズやクラシックや前衛音楽のひと通りを陳列し、記号に満ちて意味ありげなブティックを店開きするのである。まさにその事実によって、“度肝を抜かれた”ファンは確実に、しかも多くいた。
まず、ロックにアイデンティティーを求めながら、そのどれが“高尚か”に迷う若者にはうってつけの音楽だった。さらに、当時もう大人ではあったけれど、なお“ロックの時代”にコミットしようと努力する人の感性にも、とても図式的でなじみやすい音楽だった。
両者の選択に共通して横たわるのは、その意味ありげな音楽を好むことで、自分をも意味ありげに見せたい願いだった。
3 『ウッドストックI/サウンドトラック』
このIとIIの二集のアルバムに収められた催しは、六九年八月にニューヨーク州ウッドストックで開かれたロック史に伝説的なイベントである。いま四十歳前後の人が「ウッドストックの時代」と言えば、それはあのヒッピーとフラワームーブメント華やかなりしころ、という意味だ。
女性シンガー&ソングライターのジョニ・ミッチェルは、この催しの“愛と平和”の趣旨をうたった「ウッドストック」をヒットさせた。そして、そのカバーをヒットさせたイアン・マシューズが先ごろ来日し、この歌をうたう前置きに「五十年前に習った曲ですが」と言って笑わせた。
現在の世相も音楽シーンも、それほどこの時代から遠くなった。そのことは事実だが、酔うなどしてひたすら“ウッドストック的なるもの”を懐かしむ大人の口ぶりに、たとえばこのアルバムにはそんなに素晴らしい演奏が詰まっているのか、と思うのは早合点だ。
このアルバムを、青春のモニュメントにする人はいるかもしれない。だがその人にとっても、大切なのは自分の記憶であって、この音楽自体ではないはずだ。
『ウッドストック』の記録映画が上映されたころ、弁当を持って上映される映画館をすべて見て回った、という人を知っている。当然ヒッピースタイルで劇場の外の道に座り込んで開演時刻を待った。七〇年代も後半になると、彼の髪は短くカットされ、待つのはテニスコートの開園時刻になった。流行とは、そんなものだ。
ザ・フー、サンタナ、スライ&ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・セバスチャン、シャナナ等々、出演メンバーの多様さそのものが、当時のロックシーンの活況と混沌を同時に示していた。
イベントとしての意義は、その三日間に四十万人もの若者が集まった、という動員数に集約されていたと思う。そのことがなぜ大切なのかというと、ロックの本質は多数の聴衆に対して同時で同様なコミュニケーションをする点にある、と信じられていたからだ。当時の若者たちは、だから“集う”こと“手をつなぐ”ことを貴んだものだった。
だが、いったんこの催しに参加した出演者の中に、「自分たちはウッドストック・フェスの趣旨には向いていない。だからアルバムと映画から外してほしい」と申し出た者がいたことも付記しておく。ザ・バンドがそれである。
4 『クロスビー、スティルス&ナッシュ』
“ニューロック”という音楽の“ニュー”たる条件は、革新性と大音量にあると信じられていた最中に、コーラスハーモニーとアコースティックサウンドが特色の、このグループは登場した。過激さより繊細さを感じさせたその音に、少なからぬファンが「!?」と感じたはずだ。それでもCS&Nが大いに注目されたのは、彼らが当時流行の“スーパーグループ”の典型だったからだ、といえるだろう。
Cは元バーズのデビッド・クロスビー、Sは元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、Nは英国人で元ホリーズのグラハム・ナッシュ。そして二作目の『デジャヴ』以降、Sの同僚だったY、ニール・ヤングも加わって七〇年代の代表的バンドのひとつになっていく。
CS&Nの音楽を歓迎した人たちは、ロックの可能性を“ケレン”や“こわもて”の方向にではなく、伝統音楽に立脚した具体的表現に認めるテイストの持ち主だった。彼らの演奏にはフォークやカントリー、ポップソングなどの要素の新鮮な解釈を聴けたものだ。
いま一般に、七〇年代のロックファンは一枚岩のように風体も、嗜好も一律だったと思われがちだが、実際はまったくそうではない。このCS&Nの登場あたりを契機に、時の若者たちは音量主義のハード派と、自然主義のアコースティック派とに分化していったのだ。
格好で区別すれば、前者はロングヘアの段々カットかカーリーヘア、ベルボトムパンツにロンドンブーツをはき、体中にアクセサリーを着けた。現“ヘビメタ”の前身だったといえる。後者は長髪でもまずはストレート。ジーンズもストレートでスニーカーを好み、街中で振り返られるような目立ち方よりもナチュラルさを選んだ。だが、そのスタイルがより都会化されて、のちの“西海岸ボーイ”に引き継がれることになる。
CS&N、およびその系統のカントリー/フォーク・ロック派の功績は、ロックの早苗をコミュニケーションの“全体主義”から解放して、先祖伝来の音楽土壌に植え替えたことだ。それによってある人々は、やがて耳にするシンガー&ソングライターたちの個人の声に対して、反応する感受性を培うことができた。
そんなロックは「もうロックではない」という意見もあった。だが「それならばロックと呼ばれる必要はない」という意見も、同時に生まれていた。
■スタジオという密室
1 『レッド・ツェッペリンII』
六〇年代後半にイギリスから登場して、攻撃的なハードロックのスタイルを確立したのが、レッド・ツェッペリンだった。当時のロックにかぶせられていた「アート」や「ニュー」という冠の意味が「ただの娯楽音楽ではない」というあたりに要約できるとするなら、彼らもまたその一翼を担う存在だった。
実際、燃える飛行船をジャケットにあしらった彼らのデビュー作は、そのことをまざまざと実体験させてくれたアルバムだった。ブルースフィーリングをベースに、四人のメンバーが一体化して繰り出す、力強くしかも複雑な陰影をもった音。素材である英国の伝承歌をもダイナミックなロックに塗り替えてしまう、感情表現の深さ。その当時はまだ六〇年代のアメリカのロック――そう、サイケデリックロックと呼ばれたやつ――の洗礼を受けなかった僕などは、「ロックもとうとうここまで来たか」という感慨を覚えたものだ。
しかし、そうした評価は、アメリカでは八〇万枚の予約があったといわれる『II』(六九年発売)をもって二つに割れる。そこに聴く音楽は、ストレートな表現に徹したデビュー作とはうってかわって、「小細工を弄した饒舌さ」の印象が強かった。ギターの音が右チャンネルと左チャンネルを忙しく飛び回るといったたぐいの、サウンドエフェクトの多用。意図的な、あまりに意図的な、不自然なまでに過剰な音の強弱。僕自身についていえば、一曲目の「胸いっぱいの愛を」を聴き通さずして、早々と退散を余儀なくされた。
二つのアルバムの差異は多分、「レコーディングへの慣れ」という一語に集約できるだろう。わずか三十時間で制作されたという最初のアルバムは、ライブをそのままスタジオに持ち込んだ感じの、飾り気のなさが魅力だった。それに対して、二作目には、レコーディングの過程であれこれサウンドをいじくりまわした跡が歴然としている。
ここには、ロックバンドがスターダムに上って以後たどることになる、共通のパターンがある。一枚目の成功の結果として思う存分金と時間を与えられた二枚目は、「スタジオという密室の遊び」に足をすくわれることがしばしばなのだ。それはまた、六〇年代中葉にビートルズが用意した「アルバムの時代」のワナでもあった。
2 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド/ビートルズ』
もの作りの新しい発想が生まれてくる背景には、環境の大きな変化がある。七〇年代のロックシーンはしばしば「アルバムの時代」と呼ばれるが、それを成立させたのはマーケットの加速度的な拡大現象だった。
ご存じのとおり、六〇年代前半からその牽引者となってきたのが、ビートルズだった。ティーンエージャーを中心に爆発した、初期のブーム。そのブームが、のちの広範なアルバム購買層の下地をつくった。
一九六六年になってビートルズがステージからの撤退を宣言した裏には、そういう時代の変化がある。気苦労の多い旅公演をやめても音楽を作る場は失われなかったばかりか、自由度はかえって増した。
そうして翌六七年に生まれ出たのが、彼らの最高傑作という世評の高いこの『サージェント・ペパーズ』である。このアルバムはまた、シングルの寄せ集めを脱却したアルバムづくりを実践していたストーンズやディランの試みを一歩進めて、隅々まで計算されつくした構成をもつことで、「コンセプトアルバム」の先駆けともなった。
しかし、傑作であるのは疑えないにしても、『サージェント・ペパーズ』は、一面では聴き手にいくぶん窮屈な印象を与える作品だった。その原因は、ライブのような生き生きしたビート感を得にくいスタジオワークの本質とは別に、多量に詰め込みすぎたアイデアの消化不良にある。
ドラッグによる幻想や家出少女を通して語る家族の崩壊といったテーマを短編小説ふうにちりばめつつ、個々のテーマに合わせてめまぐるしく変化する曲想。電子音やオーケストラサウンド、はてはインド音楽まで動員して、際限のないほどに多彩にふくらむ音。一つひとつの曲の完成度は高いのだが、作り手の側の意識が過剰なために、仕掛けのおもしろさに終始したきらいがある。途方もない費用と時間、労力を費やした実験作というべきか。
彼らに二年先立ってコンサートからの撤退を敢行したクラシックのピアニスト、グレン・グールドが本当の意味での成熟と完成に達するのは、死の前年、八一年録音の『ゴールドベルク変奏曲』によってだった。しかし、七〇年代の訪れとともに解散し、コンセプチュアルなアルバム作りを引き継いだジョン・レノンも凶弾に倒れたビートルズには、成熟も完成もなかった。
3 『チューブラー・ベルズ/マイク・オールドフィールド』
短い曲のつなぎ方に腐心しては「コンセプトアルバム」を名乗るのが普通だった七〇年代前半に、マイク・オールドフィールドは、約四九分を一曲で構成したこの『チューブラー・ベルズ』をつくった。当時の感覚では、これは驚くべきことだった。ロックの中でも器楽性を最も前面に打ち出したプログレッシヴ・ロックでさえ、実態はクラシックの既成曲に寄りかかるか、音楽的素養の品評会を演じるだけだったのだから。
彼自身はフォーク畑で活動していた時代から「一つの主題が波のうねりのように繰り返される」この音楽を構想していたらしい。どのレコード会社でもすげなく断られたそのアイデアが、誕生近いヴァージンレーベルと出合って、第一回新譜となったのだ。
さらに、それにも増してこのアルバムの誕生に深く寄与したのが、マルチトラック・レコーダーの普及に代表される、録音現場の急激な技術革新だろう。制作に要した時間は、約九カ月。その大半は、オールドフィールドがほぼ独力で演奏し録音したテープの断片をつなぎ、重ね、合成することに費やされた。録音機材の発達なくして、これは不可能事である。
ただし、手法はどれほど斬新でも、そのときの彼の姿勢は、実はクラシックの作曲家たちに驚くほど近かった。目の前にあるのが白紙のスコアであろうと、未完成の録音テープであろうと、アイデアを現実のものにしようとして「孤独な個人が呻吟する」のが、ヨーロッパの伝統である。違っているのは、演奏されたものをじかに編集するという意味での、直接性が増した点だけだろう。
出来上がった音楽自体にも、そのことは深く投影している。音楽、というよりは音響そのものが絶え間なく繰り返される、見事に整合された世界。それは、「他者の介在」を許さない完璧に閉じられた世界だ。「熱い声」をもつ開かれた音楽は、対立や反目を含めた人と人とのつながりからこそ生まれる。
もっとも、通算一〇〇〇万枚以上売れたといわれるこのアルバムの聴き手の大半にとって、ここに聴く音楽は多分高尚なムードミュージックという以上のものではなかったろう。それが今、書店や画廊のBGMとして利用されのは、むしろ適所を得たというべきか。
4 『彩(エイジャ)/スティーリー・ダン』
七〇年代を通して進行した録音現場の技術革新は、そこから生み出される音楽そのものを決定的に変質させ得るほど強力なものだった。マルチトラック・レコーダーを活用すれば、例えば「たったの一人でバンドミュージックを創る」ことすら可能になる。このことは、ロックグループの活動スタイルやメンバーどうしの結びつきをも左右しないではいない。
スティーリー・ダンの場合が、まさにその好例だろう。一九七二年に四人のメンバーでスタートしたこのグループは、バンドにつきものの離合集散のために四年後には半数のメンバーを失い、残る二人だけの最小編成になっていた。これでは通常のステージ活動は到底維持できないし、過去のレパートリーを演奏することすらままならない二人組が、はたしてバンドの名に値するかも疑わしい。かつての時代なら、このグループは確実にロックシーンから消え去っていたはずだ。
ところが、彼らは消えなかった。ばかりか、それまでのグループカラーを一新するアルバムを創り出すことさえできた。それが『幻想の摩天楼』(七六年)であり、完成度をさらに高めた翌年のこの『彩(エイジャ)』である。
一分の隙もないほどに計算された、結構の整った作品。『彩』の印象は、まずはその一言に要約できるだろう。過剰な感情を抑制して、見事なまでに均衡のとれたヴォーカル。絶妙なタイミングで絡んでくるバックサウンズ。パースネルこそたった二人だが、いわゆるスタジオミュージシャンを巧みに使いこなしたそのサウンドは七〇年代の大きな成果といっていい。
それなのに、実をいえば、このアルバムは、繰り返し聴けば聴くほど確実に飽いてくるのである。レコードであろうと、CDであろうと、ディスクというのは繰り返し聴かれることにこそその本質があるはずだ。これは、どういうことなのか。
計算されつくした作品だからこそ計算不可能なものを取り込むのに失敗した、というのが一番手近な解答だろう。例えていえば、それはよくできた模型のようなものである。模型は現実の模写ではあるが、生きている人間の呼吸のリズムは伝わってこない。
精巧につくられたミニチュアの限界が、そこにある。
■もうひとつのウッドストック
1 『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク/ザ・バンド』
ウッドストック・フェスが開かれたニューヨーク郊外の村には、実はあのイベント前後から奇特な音楽家たちが住みつき、商業主義から離れた好みの音楽を追求していた。一例としてバイク事故で休養中のボブ・ディランが、ここに隠遁して想を練り、再出発を期したことが知られている。
さて本欄一六回目(『ウッドストックI/サウンドトラック』)で、フェスティバル参加後にそのことを後悔して、自分たちを「映画とレコードから外してくれ」と申し出た、ザ・バンドのことを書いた。彼らは当時ディランの伴奏者であり、ともにこの村で研鑽を積んできたのだ。そんな村の交流から生まれてきたのが、ザ・バンド自身のこのデビュー・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(六八年)という静かな傑作だ。
六八年といえば、まだサイケデリックのブームがさめやらず、カウンターカルチャーとしてのロックの姿勢も鮮明な時代だ。しかしザ・バンドは、アメリカに依拠すべき豊かな伝統音楽があること、畏敬をもってそれらに挑むロックがあり得ることを示した。R&Rを機軸に、ニューオーリンズR&B、ゴスペル、カントリー、ケイジャンなどの要素が、彼らの音を百年来の音のように響かせていた。同時にその音楽は、僕たちが初めて聴く種類のロックでもあった。
見れば彼らの髪は短く、古ジャケットを着て南部のプアホワイトみたいだ。ロックがカウンター文化の産物というなら、ザ・バンドのコンセプトはそのまたカウンターではないのか!?
だからといって、保守的な逆戻りではない。その渋い味わいはむしろ、時流に超然としたインテリジェンスさえ感じさせた。激流に孤立した岩のような、不動の存在感をザ・バンドは発散していたのだ。
あのニューロックの渦中にあって、ザ・バンドの音楽とはいったい何なのか? 当時の若者はわからないまま、あるいは考えもしないまま、さすがに音楽には感応し、感動していた。
彼ら五人のうち四人までが、カナダ人であることは重要だろう。彼らにとってのアメリカは、とりわけ南部は、挑むべき客体としての闇だった。アメリカ人の作ったどんなアルバムにおけるよりも、ザ・バンドの音楽の中に純化されたアメリカがあった。
このアルバムと二作目の『ザ・バンド』は、ロック文化最大の遺産だろう。
2 『ボビー・チャールス』
このアルバムが出た七二年、今日と同等な評価が明確に下されたのは、米国よりも日本においてだっただろう。時代を経過して輝きを増した作品の価値が発表時点にまず日本で定まる例はよくあった。ここに収められた「スモール・タウン・トーク」などは隠れた名曲として、ある人々の間では二十年来のスタンダードナンバーである。なぜなのか。
一七回のCS&Nの項で“もうひとつのロック”とその支持者の発生について書いた。つまり、ロックを一過性の青春の熱狂として消費するのではなく、同時代の表現者の表現として受け止め、ともに年を経ていくような関係性への志向が生まれた、ということだ。
ただその場合、演奏者と聴き手に現実の関係があるわけではない。むしろ音楽の生産地から遠い“辺境”の日本だからこそ、音楽を「たかが」とは考えないそんな人々がはぐくまれたのだ。
今月この欄で検証されるCDは、すべてそういう人々に愛聴された作品の再発と考えていただきたい。あのイベント後のウッドストック村には、六〇年代のフォーク、ブルース復興運動の流れを汲む人たち、商業路線に乗らないシンガー&ソングライターたちなどが集まり、音楽を「たかが」とは考えない日本のファンの注目もそこに集まった。
ボビー・チャールスは五〇年代から、ニューオーリンズを中心に活躍したソングライターである。歌手として以上に「シー・ユー・レイター・アリゲイター」などの作者として有名だった。そして当時のウッドストックでは、今日ネヴィル兄弟などニューオーリンズの音が注目される傾向の、先駆的現象が起きていたのだ。ザ・バンドがライブで大幅にニューオーリンズのホーン・アレンジを採用したのをはじめ、ブルースのポール・バターフィールドもプロデューサーのジョン・サイモンも、こぞって楽天的でグルーヴィーなその南部の港町の音にひかれていた。
彼らにとって、ボビー・チャールスを迎えて録音することは、年来のアイドルとの共演でひとつアルバムを作ることだった。十年ほど年長の土臭い賓客を中心に、価値観を共有する者たちが音楽するくつろぎが、ここには渋く満ちている。
数年後、このアルバムは、欧米の評論家たちからも高く評価された。そして僕たちは、米国の音楽土壌の豊かさと底深さを、またしても知らされたのだった。
3 『ギブ・イット・アップ/ボニー・レイット』
十九年前の七二年は、ロックにとって最も実り豊かな年だったと思う。スタイルの変遷を超えて、僕がいま聴いても素晴らしいと感じるアルバムには、七二年製のものがひときわ多い。女性ながらボトルネックギターを操るボニー・レイットが、この最高傑作を世に出したのも七二年だった。
この当時の米国ロックの良さは、それぞれが音楽的な地域性、その地方色を明らかにしてきた点にあったと思う。西海岸、東海岸、北部そして南部と、日本のファンの耳にも各特色は感知できた。本アルバムの理知的な簡素さも、優れて東海岸的土壌に根差している。
しかし彼女は東海岸の生まれではなく、六七年にロスからボストンに来た。父親はミュージカルのスター歌手だったが、十二歳でギターに狂った彼女が傾倒していったのは、白人女性には珍しくリアルなブルースだった。当時の彼女のアイドルといえば、フレッド・マクダウェル、ハウリン・ウルフ、シッピー・ウォーレスなどのブルースメン。この、一種学究的ともいえる姿勢に着目して彼女を迎えたのが、やはり六〇年代のフォーク/ブルース復興運動の気風を残すウッドストック一派だった。
その第二作目のこのアルバムでは、ブルースが現代の機知をまとうことで、逆にその普遍性を明瞭にしていた。プロデューサーは、のちにジャズのブルーノート・レーベルを復興させたマイケル・カスクーナ。彼はカバー曲目の選択にもセンスを示し、エリック・カズ、ジョエル・ゾス、クリス・スマイザーなど、東部でしか知られていない人の作品を彼女に歌わせた。それがシンガーとしての彼女の特質を際立たせ、同時にその曲自体をも有名にした。
もし、ボニー・レイットがずっとロスにいて、そこでデビューしたらどうだっただろう。その場合は明るく万人向きの、たぶんリンダ・ロンシュタットのような歌姫に仕立て上げられたと思う。実際、七〇年代中期以降、西で製作された彼女のアルバムはまさにそういう路線をとっている。
だがウッドストックのベアズビル・スタジオでは、その手の音楽は生産されたためしはない。そこでは常に、売りたい音楽よりやりたい音楽が作られたのだ。
しかし当時の日本のファンの多数派にとって、米国ロックといえばやはり西海岸のそれ。彼女が有名になったのも、西での作品によってだった。
4 『ジェシ・ウィンチェスター』
ウッドストック村にこもりっきりだったザ・バンドが『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』で世に出て以後、彼らの活動は音楽の世界で少しずつ広がりをもちはじめた。その一つはまだ世に知られずにいるミュージシャンを発掘したり、あるいはその音楽づくりを手助けすることだった。
そのようにしてデビューするチャンスを得た一人に、ジェシ・ウィンチェスターがいる。ご存じのとおり、ザ・バンドのメンバーは大半がカナダ出身だが、その一人、ロビー・ロバートスンが母国に帰った折、地元のクラブでたまたま出会ったのが、このウィンチェスターだった。
しかし、ウィンチェスターはカナダ人ではない。出生の地はアメリカのルイジアナ州。幼いころをメンフィスで過ごし、教会の聖歌隊で音楽にふれる機会を得たという彼は、プレスリーの末弟といってもいい生粋の南部人である。
その彼が、ではなぜ、カナダで活動しなくてはならなかったのか。六〇年代のアメリカのきわだった異常さが、ここには投影している。
異常さとは、要するにベトナム戦争である。長期化し、泥沼化する戦況の手当ては兵力の増強しかなく、六七年、ウィンチェスターのもとにも召集令状が届く。これを拒否して彼が逃亡した先がカナダだったのだ。
音楽シーンへのデビュー作となった本アルバムはその三年後、七〇年に制作されたものだが、そういう経緯あってのことだろうか、開拓時代のならず者ジェシー・ジェームズを模したとおぼしきジャケット写真の彼は、逃亡者にふさわしくやつれていて、暗い。一方、流れてくる音楽は、これまた徹底してアメリカ的、南部的である。ブルースやカントリーのエッセンスそのもののようなバックサウンズに乗って、穏やかな声が語りかけるように響く。この時点でまだ帰国がかなわずにいた彼にとって、これはいわば彼自身の「望郷篇」だったのだろう。
シンガー&ソングライターとしての彼の本領は、むしろこのあとのアルバムで聴けるアコースティカルな音づくりと飾り気のない歌にあるというのが僕の個人的な見解だが、それらが広く支持されることは結局なかった。その原因もやはり、七七年に特赦を得て帰国するまでの、アメリカでの活動の空白にあるとしかいいようがない。
5 『スウィート・ポテト/ジェフ&マリア』
六〇年代末からウッドストック村に集まった音楽家たちは、初めから明確な主義主張を掲げていたわけではなかった。彼らは自分たちの望む音楽を深く探求したいがために、この地に来たのだった。
それなのに、いま振り返ると、ウッドストックはまるで特別な芸術運動の根拠地でもあったかのような錯覚におそわれる。それは、都会を離れた静かな環境の中で彼らが創り出した音楽が、結果としては共通の志向に結ばれていたからだ。
ザ・バンドに代表されるそれらの音楽の主軸にあるものをあえて一言でくくれば、それは「アメリカ音楽の民俗的伝統の再発見」ということになるだろう。そして、そのことをまるでよくできたサンプルのように示しているのが、ジェフ&マリア・マルダー夫妻の本アルバムである。
カントリー&ウェスタン、ブルース、ニューオーリンズ・ジャズ、R&B――ここにはアメリカの民俗文化の精髄といってもいい音楽が、まさしく雑多にとけこんでいる。しかも、ウッドストックの仲間たちの応援を得て仕上げたそのサウンドは、ザ・バンドの緊張感とはまた別の、ゆとりとおおらかさで聴く者を心地よくつつみこむ。
このアルバムが発表された七二年は、イギリスではグラム・ロックが、アメリカでは新しい感覚の黒人音楽が注目を集めはじめた時期で、これらはいずれもマスコミが大きく関与して創り出されたブームだった。言い換えれば「センセーショナリズム」がますます支配的だった時代である。
センセーショナリズムどころか通常のPRさえ思うに任せなかったジェフ&マリアの音楽は、だから、到底広く関心を集めるはずもなかった。しかし、奇抜なアイデアやサウンドの斬新さだけがとりえだった当時主流の音楽が見事に色あせてしまったのに比べ、彼らの音楽はいまもなんと新鮮であることだろうか。
それは、繰り返すが、音楽の基盤にある民俗的伝統の力である。アメリカの豊かな音楽的土壌にスキとクワを入れれば美しい果実が得られることを、彼らは見事に証明してみせたのだ。
ただし、ジェフ&マリアのコンビネーションは、この直後に離婚のためにとぎれ、マリア・マルダーのみが華麗なソロデビューを飾る。その背景には「個性的な女性シンガー」がもてはやされる、新しい時代の風潮があった。
■「女の時代」と女性シンガーたち
1 『カーリー・サイモン/カーリー・サイモン』
多様な人種が共存し、階級的分裂が甚だしいアメリカの社会や文化の実体は「複眼」に徹しないとなかなか見えてこないことが多いが、一九七〇年代の十年間は一面で「ウーマンリブの時代」でもあった。特に七〇年八月二十六日、ニューヨークの目抜き通り五番街で一万人規模のデモが行われてからは、この運動は社会的にも広く認知されることとなった。
それから一年もたたない翌七一年春、二十五歳のカーリー・サイモンは、デビュー作中の一曲「幸福のノクターン」の中で早くもこんな意味のことを歌っていた。あなたは結婚しよう、結婚して幸福な家庭を築こうというけれど、私は結局は鳥かごに閉じ込められるだけじゃなくて。
この曲はほどなく全米トップテン入りを果たすのだが、その支持者はまちがいなく同世代のシングルウーマンだったろう。ポップソングはしばしばこのように社会の心理的変化をさりげなく映し出す。
アメリカの家庭、特に白人たちのそれはもともと海のこちら側で想像する以上に保守的であり、朝、夫と子供を家から送り出した後は、せっせとハウスキーピングに専念するというのが理想の主婦像で、かつての女の子たちもこれを人生の目標とした。それが音を立てて崩れたのが七〇年代初頭からであり、教育と職場の機会均等や政治への参加を訴える女たちの声は、急速に社会に浸透していった。少なくとも、多くの未婚女性にとって、この時代「幸福な結婚生活」は既に「懐疑の対象」にすり替わっていたのだ。
しかし、それから二〇年以上がたった今「幸福のノクターン」を聴くと、この歌はむしろかつてのウーマンリブ運動の残骸、といって悪ければまだ未完成のままの運動の引き潮のようにさびしく聞こえて仕方がない。例えば、中年になっても独身を守り、ばりばり仕事に生きる女性は多いけれども、それはごく限られた知的な階層だけのことである。その裏側で、蓄えはもちろん、安定した職さえ見つからない大多数には、孤独な老年がこれから大きく、しかし確実にのしかかってくることになる。
九〇年代の今、あなたは、かつてのあなた自身の歌にこめられた女性心理をなおもためらいなく肯定できるだろうか、カーリー・サイモン?
2 『コート・アンド・スパーク/ジョニ・ミッチェル』
七〇年代に火を噴いたアメリカのウーマンリブ運動は、結果的に何を残したのか。これは難しい問題だが、その一つとしてキャリアウーマン、というより「キャリア」そのものに対する若い女性たちの強いこだわりが挙げられる。歌われている歌の内容とは必ずしも関係なく、女性シンガーたちの華々しい活躍も、これを後押しする要素の一つだったろう。その代表格の一人が、このジョニ・ミッチェルだ。
ほんの一昔前まで、女性歌手は本質的に「男性ファンのための」存在であったし、きれいごとをきれいな声できれいに歌いあげる「歌姫」であるにすぎなかった。それが、フォーク&ロックシーンで大きく変わりはじめたのは、六〇年代からのことである。
ジュディ・コリンズやジョーン・バエズが、まずは先鞭をつけた。甘ったるいラブソングを歌うだけに満足しなかった彼女たちは古い民謡の発掘やプロテストソングの創造に積極的にコミットして、「男女の機会均等」の見事な先駆けとなった。
ジョニは、そういう六〇年代の空気を呼吸しつつデビューしてきた人である。「シリアスなポップミュージック」の活躍の場をアメリカに求めて、彼女はカナダをあとにしたのだった。
ただし、彼女の歌と音楽そのものは、六〇年代のフォークソングとはスタート時点からはっきり異質だった。彼女が得意としたのは当初から時事的な話題よりも「恋する女」の心情をきめ細やかに歌い込むことであったし、その姿勢は今日まで一貫している。
この『コート・アンド・スパーク』(七四年)は、そんな彼女の中期の傑作とでも呼ぶべき一枚だが、アコースティックサウンド主体のストイックなシンギングスタイルを捨て去ってリズムに乗り、のびのびと歌い上げられる都会の歌は、いまもフレッシュな感動を誘わずにはいない。
歌われている内容自体もまた、すこぶる刺激的である。スノッブだらけのパーティー、ホテルのバーで手ごろなかもに巧みに言い寄る女、精神分析医からも精神異常よばわりされる女……どの都会でも目にする、どこにでもありそうな人間模様を、彼女はまるでボブ・グリーンのコラムを思わせる冷静なタッチで描く。
「恋するキャリアウーマン」ジョニの真価が、そこにある。
3 『つづれおり/キャロル・キング』
音楽の世界では、女性もまた強力な生産の担い手である。レパートリー中の一曲がヒットする。それだけで、彼女は膨大な富の生産者となる。ことに、マーケット自体が巨大なアメリカでは、結果が天文学的な数字になることもないではない。
「アルバムの時代」が、この傾向になおさら拍車をかけた。その典型的な例が、この『つづれおり』(七一年)である。通算千数百万枚のセールスを記録したというこのアルバムは、いったいどれだけの利益をレコード産業にもたらしたのか。
アメリカの年間レコード総売上げが一〇億ドルを超えたのは一九六七年のことだが、その倍の二〇億ドルに達するのに要したのはわずか六年だった。その強力な牽引者の一人がキャロル・キングであり、このアルバムであったのだ。
ところで、ある曲やアルバムがヒットするとき、そこには必ず時代の要請が強くはたらいているものだ。このアルバムがこれほどまでのヒットを記録した背景は、たぶん「日常性」という一語に要約できるだろう。
アメリカがベトナム戦争から最終的に撤退するのは七三年のことだが、七〇年代への突入を境に、社会にはすでに厭戦気分が浸透しきっていた。それが「あたりまえの暮らしの見直し」に結びつくのは、ごく自然ななりゆきである。
戦争のくだらなさが明らかになるにつれ、大げさな政治論議よりは「個人の幸福」への関心がはるかに優勢になる。そんなとき、キャロル・キングは歌ったのだ。道のかなたに私がよく知る場所がある、幸福な人生が手に入る場所が、と。
思えば、ウーマンリブ=フェミニズムの運動が昂揚したのも「一人の人間としてどう生きるか」が最大の関心事になったからだろう。戦争は国家的利益を優先することによってその国に住む人々を狂った情熱へと駆り立てるが、自分が巨大なマシンの部品であることを知るとき、人々ははじめて自分自身にもどろうとする。
人生を多彩に変化するつづれおりに見立て、男と女の出会いや別れを、友達をもつことの素晴らしさを、どこにでもある日常の一シーンを歌ったキャロル・キングの歌は古風といえば古風だったけれど、それゆえに時代の気運と志向にみごとなまでに合致していたのだった。
4 『コンファメーション/シェイラ・ジョーダン』
アメリカは、結婚の約四割が離婚に終わる国である。そのため、いわゆるシングルマザーの増加が、年々深刻な社会問題化している。貧困家庭の七割は母子家庭だ、ともいわれる。
離婚によって母親たちはとりあえず「自由」を手にすることができる。が、離婚後の経済的援助が薄くなったこともあって「安定」へと飛び立つための翼は、もぎとられたままだ。
今年六十一歳になるシェイラ(シーラ)・ジョーダンも、かつてはそういうシングルマザーの一人だった。五六年、ジャズピアニストのデューク・ジョーダンと別れた彼女は、シンガーとしての自立を志す。しかし、ジャズの世界では子供一人を養育するだけの収入すら望めず、昼はタイピスト、夜はステージという二重生活が続いた。
六二年にはレコードデビューを果たしているが、これを機に生活が一変することはなかった。個性的な器楽的唱法がコマーシャリズムとなじまなかったという面もあるが、主な理由はロックソングを歌ってくれといった部類の、レコード産業からの要求をはねつけたことにあるという。
日本のスタッフが企画録音したこの『コンファメーション』(七四年)は、そんなシェイラの実に一二年ぶりの第二作として生まれた。それはまた「自分が歌いたいと思う歌だけを歌う」姿勢を崩さなかった彼女がようやく得た、第二のチャンスでもあった。その後、近年になってからは日の当たる場所を得、レコーディングの機会も増えた彼女だが、そうしたキャリアはまさに信念で勝ち取られたものなのだ。
しかしながら、シェイラ・ジョーダンという歌い手の本当の素晴らしさは、実はそういった恵まれない過去や生活上の苦労が歌そのものには全く影を落としていない点にある。練達の管楽器奏者を思わせる自在なフレージングによって美しくかつ奔放に歌われる歌に聴きとれるのは、ただただ歌うことへの純粋な熱意と喜びだけである。
全世界の子供たちにささげられた『コンファメーション』の前半五曲を聴いてみるといい。子供の世界へのあふれるほどの共感を込めつつ、ときには子供そのものになりきって歌う彼女の歌は、子供を育てつつも自分の行くべき道を見失わなかった本当の意味での「自立」に裏打ちされた、力強い美しさに満ちあふれている。
■耕す音楽、実りの歌
1 『テキサス・トーネイド/サー・ダグラス・バンド』
エスニックブームの一環なのか、最近「テックスメックス」や「ケイジャン」といった言葉が、若者の間から聞こえてきて「え!?」と思った。それが主に、料理の世界において使われているのを知ってまた驚いた。
そのテックスメックスとは、文字通りテキサスにおけるメキシコとの混交文化、ケイジャンとはルイジアナでのフランス系住民のエスニックをいう。それらの音楽が七〇年代の前半、ちょうど地域性と土着性を深めつつあった当時のロックと結び付き、大いにアメリカの音楽を豊かにした。料理と聞いて驚いたのも、そういう歴史があったからだ。
人種的マイノリティーに根差す米国エスノ音楽には、たいていその民族を代表する伝説的音楽家がいる。例えばこのアルバムにも参加しているアコーディオンのフラコ・ヒメネスがそう。一方、ダグ・サムは白人だが、チカノからも敬愛されて“テックスメックスの王様”と呼ばれてきた。
四一年にテキサスのサンアントンに生まれた彼は少年時代から地元では“リトルダグ”の異名をとる天才だった。音楽的ベースは父親譲りのカントリー&ウェスタンだったが、十七歳からメキシコ音楽とケイジャン音楽を吸収、自身の音楽を混交文化的なものにする。
この『テキサス・トーネイド』は七三年、彼のメジャーからの二作目として発表された。ときにテキサスにはジャズとカントリーがブレンドされたウェスタン・スウィングという音楽があるが、この前半はその伝統にホーンを加えてファンキーに仕立ててある。
後半はカントリーとメキシコ音楽が混交した彼本来のテックスメックス。ニューロックの徒からは過去の遺物としてさげすまれてきた“田舎の音楽”が、こうして各地で新しい生命を受けてよみがえり始めていた。
七三年当時のファンは、テキサスから生まれた地方色のあるロックとしてこれを聴いた。で、その結果、この音楽の背景の風土や文化にある興味やあこがれを抱き、以後、テキサスを選択的に聴くような人も生まれた。
だが、今回このCDを買った人の動機はどんなだろう。たぶんエスニックな薫りがする音楽一般への関心の一例として、テキサスをコレクションに加えたのではなかろうか、と思う。
だとすれば約二十年間を隔てて、音楽を求心的に聴くか遠心的に聴くかという極端な生態変化がここに示されている。
2 『プリーズ・トゥ・シー・ザ・キングス/スティーライ・スパン』
七一年、一部のロックファンはこのアルバムを聴き、未体験の衝撃に襲われた。
ギター、フィドル、ベースを主軸にしたサウンドは明らかにエレキを用いていてヘビーなのだが、ドラムがない。うたわれる歌はどこか遠い過去から聞こえてくるようでいて、耳慣れた米国の土臭さとはちがう。レーベルの作詞作曲者をクレジットするスペースには、全曲に“トラッド”と記してある。それはトラディショナルの略記で、つまり作者不詳の古謡、俗謡、そして舞踊曲の意味だ。
こうして日本のロックファンは、英国には伝承音楽をロックのフォームで演じる若いアーチストたちがいると知ったのだった。そしてこのアルバムは、いま聴いてもいわゆるエレクトリック・トラッドのお手本だと思う。このとき深い感銘を受けた人たちは、さらに古謡の世界の奥深くまで、より原型のアーチストを訪ねて長い旅に出ることになる。
だが、このトラッドを受け付けないロックファンのほうがずっと多かった。妙なものを食わされた、という顔をするのが多数派だった。では、ある決意をもってトラッドの森へ分け入った人たちは、いったいどんな感性をしていたのか。
トラッドに出合うまでの彼らは、ロックを聴きつつあの「愛と平和」も、「ロックが世界を変える」ことも信じていない。ロックにそういう幻想を抱くことが、流行に寄与して商業資本を太らせることだと知っていた。
彼らが求めていたのは、いわば二十年後においても価値の変わらない音楽、時流から独立した意義をもつ音楽だったのだ。そこへ英国から、トラッドがやってきた。現代にあってオリジナル曲ではなく民謡をうたうとは、それも演奏の玩具にするのではなく畏敬の心で演じるとは、なんと潔い態度だろうと彼らは感じたのだ。
だが音楽の好悪を決するのは、各人のテイストである。多数の人たちは、このスティーライ・スパンのよう演奏の一種の厳格さ、純粋ライ麦パンのような重い土臭さ、といったものになじめなかったのだと思う。
バンドの重鎮であるマーティン・カーシイは、五〇年代からトラッド界にいた人だ。彼がバンドに加わるとき、自分が電気楽器を演じる交換条件にドラムスを外させた。それが彼の、トラッド演奏における理念だったからだ。
3 『シュート・アウト・ザ・ライツ/リチャード&リンダ・トンプソン』
このアルバムが発表されたのは八二年。ちょうどそのころ、日本の若い人の間では「明るい」か「暗い」かで、物事すべてを判断するのが流行だった。当然明るいのが○で暗いのは×なのだが、その価値観の基本は現在も変わってはいない。
そこで、このリチャード・トンプソンの音楽だが、それは優れて暗いことをもって特徴となす。彼の音楽を聴き、「暗い」の一言で拒絶できる人は、明るさにのみ反応すべくつくられたロボットのようなものだ。暗がりに潜む真実を感知できる人なら、必ず彼の音楽の前に立ち止まり、耳をそばだて息をのむだろう。
彼はフェアポート・コンヴェンションというバンドのギタリスト/シンガー&ソングライターとしてまず知られた。フェアポートは、前回のスティーライとはまた別な角度から、トラッドにアプローチしたバンドで、リチャード・トンプソンの独自なギター奏法や作詞作曲法の成立には、深くトラッドが関与している。
フェアポート脱退後の彼は七四年からリンダ夫人とデュオを組み、リチャード&リンダ・トンプソン名義で六枚のアルバムを出した。この『シュート・アウト・ザ・ライツ』はその六枚目にあたり、夫妻はこれを最後に離婚するが、作品は米ローリングストーン誌選出の“八〇年代のベストアルバム100”で第9位にランクされている。
アメリカでも評価された点がミソで、これは八〇年代のアメリカには“旬(しゅん)”を超えた価値をもつアルバムが、いかに少なかったかの傍証でもあろう。ポジティヴな音楽を好む米国人も、十年間のアルバムを見渡したとき、さすがに日本人ほど夜盲症ではなかったわけだ。つまり、それほど八〇年代の日本で一般化した「明るい」と「暗い」の価値基準は、対音楽だけでなく感性の全般を歪めたと思う。
リチャード・トンプソンは、人間の不幸な状態に興味をもつ。幸福な状態よりも特殊でありながら、はるかに普遍性のある歌が、そこからは生まれ得るからだ。
ロボットでない感性を試したい人は、できればこの夫妻の一作目『アイ・ウォント・トゥ・シー・ザ・ブライト・ライツ・トゥナイト』の、暗がりに潜む真実を聴いてほしい。七四年のそのアルバムは、伝統と創造性の結合が生み出す緊張度において、ロックが到達した最高レベルの一枚だ。だがそれは、いまだCD化されていない。
4 『アビシニアン/ジューン・テイバー』
思えばジャズのビリー・ホリデイ、ファドのアマリア・ロドリゲス、シャンソンのバルバラといったように、その音楽ジャンルを超えて説得力をもつシンガーはたしかにいる。だが近代歌唱の常として、右の名手たちは歌の喜怒哀楽を自我と同化して表現する。つまり彼女らは、歌の感情を自前のものとする力量において抜きんでた歌手なのだ。
ところが英国のトラッド歌手の理想はちがう。とくにこのジューン・テイバーのように優れたシンガーの場合、古謡は“民族の声”を得て歌自体として蘇生する。歌手は、歌に献身するのだ。トラッド歌唱の評価はその姿勢の完璧さにかかるのであり、その成り立ちが非近代的、あるいは前近代的ともいえるだろう。
だが同時に、いま八三年のこの『アビシニアン』を本欄で紹介する意味も、その歌唱の超自我性にある。ポピュラー音楽の流れが商業主義のダムにふさがれた七〇年代後期以降、その下方から細く放出される“自己表現”とやらに群がらずに、心服できる音楽は自己を表現しないトラッドなのだ。
トラッドシンガーはだから“語り部”としての性格をもつが、彼らが同時代を生きる人間であることもまた事実だ。ときに七〇年代後期からのロックの病弊の第一は、サウンド空間を常にキーボードの電子音が埋めてきたことだと筆者は思う。その音はその音楽の意匠を類型化し、歌の存在感を希薄化する。そこでトラッド演奏家がもし単なる伝統主義者ならば死んでもそんな楽器を身に近づけることはないだろう。
ところがシンセサイザーが歌の存在感を際立たせる理想例は、このジューン・テイバーのアルバムに示されている。また彼女に限らず、トラッド演奏家たちがコンテンポラリーな状況を見る目はこまやかであり、知的だ。
彼らはときたま現代の歌を選んで彼らの歌唱法でうたうが、するとその歌は今日的意味を離れて普遍的な生命を帯びる。ここでテイバーが取り上げたラル&マイク・ウォーターソンの「スケアクロウ」、ジョニ・ミッチェルの「フィドルとドラム」がそうだ。
ではトラッド歌手は現代の英国で、まったく音楽界から遊離したカルト主義者たちなのだろうか? ちなみにあのエルビス・コステロはこう発言している。「ジューン・テイバーの歌の良さがわからないなら、もう音楽を聴くのはやめたほうがいい」
■時代の風に吹かれて
1 『フリーホィーリン・ボブ・ディラン』
アメリカの作家、ジェイムズ・サーバーの作品に『そして、一輪の花のほかは…』という美しい絵本がある。第十二次世界大戦(!)で文明を破壊したばかりか愚かにも第十三次世界大戦に突入していく人類の破滅的末路と、瓦礫の中から蘇生してくる希望を描いた作品だが、これを「プロテスト絵本」と呼ぶ人はまさかいないだろう。
ところが、これと同じことが音楽の世界で起こったのが、六〇年代のアメリカだった。どんな音楽家も実生活では一個の生活者である以上、音楽が社会の動きとかかわるのは本来ごく自然なことだが、その価値基準がプロテストソング、つまりは「体制への抗議」というテーマに一面化されたことが決定的な過ちだった。
そういう時代の乱気流の中でもみくちゃにされた代表的存在が、ボブ・ディランだった。「風に吹かれて」で華々しくフォークシーンに登場し、たちまち「フォークソングのプリンス」にまつりあげられたディランが、六〇年代の半ば以降、想像力の赴くままにフォークロックへと転換を遂げていったのはご存じのとおりである。
ところで、いま振り返れば、残念なのはむしろ、「裏切り」だの「変節」だのといった言葉を投げつけられたディランが、その後、自分に敵対する側への反作用のごとく歌そのものの果てしのない抽象化へと突き進んでいってしまったことのほうだろう。プロテストソングとの決別を宣言して以降のディランの作品からは「社会とのかかわり」はすっぱりと切り捨てられたままだった。
本当に大切なのは、自分の目で社会を見、想像力のありったけを駆使して真実を深くうがつ意志だったはずである。それなのに、そうするだけの冷静さやゆとりは、ディランにも時代にもなかった。
しかし、歌い手自身がどのように進路を変えようとも、作品はいつまでも作品のままに残る。つくり手自身さえも作品そのものを取り消すことはできない。
『フリーホィーリン・ボブ・ディラン』(六二年)中の一曲「第三次世界大戦を語るブルース」を聴いてみるといい。「半分の人間はいつも半ば正しい。何人かの人間はときどき完全に正しい。しかし、人すべてがいつも正しいなんてことはありえない」と歌われるアフォリズムのような詞句が、第三次世界大戦への恐れがなくもないいま、重く鋭く響く。
2 『ブックエンド/サイモン&ガーファンクル』
いま、世界で最も多額の収益をあげている産業は、旅行産業だそうである。それ以前、あらゆる産業のトップに立つのは常に軍需産業であったから、これは平穏な日常生活が世界の多くの国々で確保されている証明でもあるのだろう。
しかし、旅行が日常茶飯事化した時代はまた、本来の「旅」が困難になった時代でもある気がする。これはいわゆるパッケージツアーの中身がどうの、といったレベルの話ではない。旅することへの切実感が薄れることによって「何事かを発見しようとする心理」が社会全体を通じて退化していると感じられるのだ。
こういう時代にサイモン&ガーファンクルの「アメリカ」(『ブックエンド』六八年)を聴いていると、それが二十数年どころか、何世紀も前の歌であるかのように錯覚されてしまう。ここに描かれた、何かに追い立てられるような切迫した意識をもって旅に出る若者の姿は、はっきりと過去のものとなった。
キャシーという名の女の子を「恋人になろうよ、結婚しようよ」と誘った若者が、ふたりしてグレイハウンドバスの旅に出る。バスに揺られながら窓外の風景を見やってはあれこれ変転する思いをつづったこれは、一種の心象スケッチといっていいだろう。
しかし、現代にも共通する気軽な旅とも見えるこの旅には根源的な問いが一つつきまとっている。バスの車内を見ても、窓外を見ても、彼の意識はいつのまにか心の内部の一点へと引き絞られていってしまう。なぜなら彼は「アメリカを捜しに」やってきたからだ。
「アメリカを捜す」とは、いいかえれば、自分がどこにいるのか、自分が何者なのかを知ろうとすることにほかならないだろう。が、この小さな旅にその答えはない。やがて彼は、無数に行き過ぎる車を眺めながら一つの結論にたどり着く。「みんなアメリカを捜しにやってきた、アメリカを捜しにやってきたんだ」
アメリカだけでなく、日本でも、とにかく何かを見たくて、何かにふれたくて、そのくせそれが何なのかわからないままに若者たちが旅に出た時代がかつてあった。それは二十代特有の旅の形であり、二十代にしかできない旅だった。
もはや大半の人が忘れているだろうこの小さな歌「アメリカ」は、そのころの空気を最も率直に、純粋に伝える美しい記念碑である。
3 『雪の世界/ブルース・コバーン』
歳月を経てのちに過去を振り返ると、具体的な事実そのものよりも、むしろキーワード一語のほうが、よりリアルに時代の空気を思い出させてくれることがしばしばあるものだ。六〇年代初頭から後半にかけてのロック周辺の音楽についていえば、「放浪」がその一つだろう。
いまとなってみれば、本気で行動に移そうとした人間がごく少数だったのは明白だが、ロマンチックに歌い上げられるアメリカ製の放浪の歌に聴きほれては、どこか遠くまで逃亡したいという衝動を必死で抑えつけているというのが、当時の都会の若者の典型的なワンシーンではなかったろうか。
その種の衝動を繰り返し仕掛けてきたのが、一群のシンガー・ソングライターたちだった。例えば「犬が自由に走れるなら、なぜ僕たちにできない」と歌ったディランの言葉は、そのまま放浪への引き金となり得た。
しかし、いま自分がいるここという場所から、不意にどこかへ飛び立つという衝動は、それが幻想のレベルにとどめられているかぎりにおいては、きわめて魅力的なものだが、現実の放浪生活はそれほど甘いものではない。そのことの反映だろうか、時計の針がまわって数年がたつと、放浪の歌は徐々に影をひそめ、あるいは質的に大きく変化していった。その象徴ともいえる歌が、ブルース・コバーンの『雪の世界』(七一年)におさめられた一曲「ワン・デイ・アイ・ウォーク」である。
この歌が何よりユニークなのは、作者の分身とも見える「私」が放浪者である自己を「ほどこしを受けて生きてきた者」と規定しているところにある。時代の流れに乗ったまま、町から町をさすらい続けた、人生のむなしさと深い絶望。だからこそ、この歌は「いつか家へ帰ろう、きっと家へ帰ろう」と、残された希望でしめくくられるのだ。
コバーンはカナダ出身のシンガー・ソングライターだが、彼がこのように内省的な作品をものにし得たのは、ほかの多くの同国人シンガーとは異なって、あくまでもカナダにとどまって活動し、ついにアメリカの毒に染まらなかった結果かもしれない。アメリカでは当時既に衰退していた、アコースティックギター主体のシンプルなシンギングスタイルを、ニュアンス豊かな作品へと結実させたアルバム全体に、時代と深くかかわり、自分の生き方を真正面から見据えた誠実さがにじんでいる。
4 『ハーヴェスト/ニール・ヤング』
フォーク&ロックの世界で名を知られるカナダ人のミュージシャンは少なくないが、そのタイプは二つに分かれる。前回とりあげたブルース・コバーンが自国を活動の中心にするとともにカナダらしい響きを失わなかったシンガーの代表格とすれば、アメリカ人以上にこの国の音楽社会に溶け込んでしまった例も多い。
ニール・ヤングの場合が、まさにそうだ。いまでは歴史に名を残すだけになったグループ、バッファロー・スプリングフィールドのメンバーとしてアメリカでの活動を始めた彼は、以後アメリカにとどまったまま、西海岸のロックシーンの中心人物となった。
バッファロー・スプリングフィールドには、彼自身を含めて三人のカナダ人の物語が交錯している。ごく初期に在籍して、じきにアメリカに見切りをつけてカナダに帰国してしまったケン・コブランが最初の一人。入れ替わりにグループに呼ばれたのが、同じくカナダ出身のニールとブルース・パーマーなのだが、のちになってパーマーは麻薬不法所持のために母国に強制送還される。アメリカでの可能性を信じ、音楽に徹し続けたニール・ヤングだけが、成功への踏み台を得たのだ。
しかし、アメリカの競争社会の中でもまれ、巨大な音楽マーケットの関心をつかむことによって結果的には名声を獲得することになったニールだが、彼自身の心の底には常にデラシネの意識がつきまとっているようだ。実際、彼の作品では、いまある自分に満足できない、とてつもなく精神の不安定な人物像がしばしば描かれる。
そういう彼特有の感情表現に育まれて登場したのが、彼最大のヒットアルバム『ハーヴェスト』(七二年)中の一曲で、同じく彼最大のヒットソングとなった「孤独の旅路」である。「美しく寛大な心(ハート・オブ・ゴールド)」を求めて旅を続ける男の心模様をテーマにしたこの歌は、理想を追い求めながらもついに理想に到達できない、いたいたしいほどに繊細な精神を歌い上げる。これがいつまでたっても現実の自分に安住することができない、ニール・ヤング自身の心情告白であるのはわかりきったことだ。
この曲はまた、若い世代が否応なくつきあたる疑問を代弁し続け、しかし七〇年代半ばから急速に支持を失っていくフォークロック、カントリーロックが咲かせた、最後の華でもあった。
〔1991年中日新聞日曜版〕
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●付記
「秋野 平」とコラムについて
1991年、それまで中日(東京)新聞日曜版の音楽コラムを長く担当していた北中正和が長期の海外旅行に出ることになった。コラムを含むページは編集者仲間が請負で編集していて、しかも北中正和は古くからの友人でもあるので、結局、彼の不在の間は僕が穴を埋めることになった。それで、ほんの思いつきで提案した企画が「復刻CDに時代を聴く」だった。
ただし、冷静に考えてみると、僕はなにしろ偏見の強い人間である。音楽への関心や好みもかなり偏っているから、1年間誰が見ても納得するような連載をする自信がない。というわけで、畏友・松平維秋に参加してもらうことにした。彼もまた頑固一徹の男ではあるが、音楽については僕よりもずっと広く目配りできるので、ぴったりだろうと思った。
そこででっちあげたペンネームが「松平維秋+浜野」からつくった「秋野 平」である。原稿作成は最初は僕が担当し、1カ月交代で進める形にした。途中、体調を崩した松平の代わりに2度ほどピンチヒッターをつとめたが、それ以外は順調だった。中身については特に相談もしなかったが、「自分たちの音楽体験の総決算のつもりでやろう」と事前に話し合い、それぞれ、力をこめて書いた。
新聞社側の都合で連載は9カ月で中断することになり、結局は計38回が紙面に掲載された。実をいえば、原稿も掲載紙もとうに手元から紛失していて、すっかり忘れていたのだが、今回、ふとしたことから全回分を入手できた。いま読むと修正したい点がないではないが、「トレンドだけを追うようになった70年代後半以降の日本人」への批判的な立場から書かれたロックアルバム(一部ジャズも含むが)の紹介は他にないだろう。
昨年10月に急逝した松平と共同でした仕事はいくつかあるが、その中でも一番思い出深い仕事でもあるので、今回、このコラムを1本にまとめることにした。(2000年1月 浜野サトル)
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テキスト入力・校正:浜野 智
青空文庫公開:2000年1月
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