魔術士オーフェンはぐれ旅 我が呼び声に応えよ獣
秋田禎信
冨士見ファンタジア文庫
イラスト 草河遊也
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「てめえいいかげんフザケタことばっか言ってっと、ローラーでひき殺すぞ!」
俺は心地《ここち》よい眠りから、罵声《ばせい》でたたき起こされた。俺の名はオーフェン。本業は魔術士だが、副業でモグリの金貸しなんぞをやっている。
罵声の主はボルカンという地人《ちじん》のガキだ。俺から金を借りているくせに、ちっとも返そうとはしやがらない。
このガキがどうやら、金儲《かねもう》けの話を見つけてきたらしい。あまり、アテにはできないが、とりあえず奴に言われたとおり盛装して、とある余持ちの|屋敷《やしき》にやって来たのだが……そこで、俺はあいつに出会ったのだ――。
期待の新鋭が描く、コミカルでシリアスなハイブ・リッド・ファンタジー!
プロローグ
「見ないで!」
だが彼は見ていた――というより、|身体《からだ》がマヒしてしまったように身動きがとれない。部屋の入口に立《た》ち尽くして、彼はただぼうぜんと彼女を見下ろしていた――
部屋はこざっぱりとしていて、生活に必要なものを適当に部屋の四隅《よすみ》に押し付けただけ、といった感がある。古いベッドがあり、机があり、書棚《しょだな》があり、服を入れる棚があり、窓には厚ぼったい|生地《きじ》のカーテンが引っかけてあるだけ。床《ゆか》には擦《す》り切れた|絨毯《じゅうたん》が敷かれている。その床にひざまずくような格好《かっこう》で、彼女は自分の顔を両手で|覆《おお》いながら|叫《さけ》んだ。
「見ないで! お願い!」
しかしその絶叫《ぜっきょう》を聞いても、彼は表情を失ったようにぴくりとも勤かなかった。
十五歳ほどの、小柄な少年である。黒髪に黒い目は、幼《おさな》さを残しつつ、いずれ肪れる成熟《せいじゅく》の兆《きざ》しにやや陰《かげ》っている。全体的に、少年は|痩《や》せていた。とは言え幼いときからくりかえされてきた|戦闘訓練《せんとうくんれん》のおかげで決して弱々しくはなく、その細い身体は、なにか鋭《するど》い刃物のように真っすぐに突っ立っている。
彼には、目の前で起こっている事態《じたい》がなにひとつ理解できていないようだった。わかるのは、彼女が『見ないで』と叫び、そして床に座《すわ》り込んで泣いている、ということだ。
「アザリー、泣いてるの?」
それがとてつもなく不思議《ふしぎ》なことであるかのように、少年は聞いた。
だが、彼女は答えない。やはり両手で顔を覆い|隠《かく》したまま、見ないでと叫ぶだけだ。
彼女はゆったりした黒いローブのようなものを着ていた――これはこの大陸の黒魔術士《くろまじゅつし》の総本山<<牙《きば》の|塔《とう》>>における制服のようなもので、ある程度以上の位《くらい》の者だけが身につけることを許される。彼女のような若さ――まだ二十歳《はたち》ほどの若年《じゃくねん》でこのロープを身につけている者は、|絶無《ぜつむ》ではないが、めったにいるわけでもない。ウェーブがかった黒い髪は、|恐《おそ》らく戦闘訓練をこなすためだろう、かなり短くしている。顔は、ずっと隠しているために見えなかったが、指の|隙間《すきま》からわずかに茶色っぽい瞳《ひとみ》がのぞいている。背丈は同年齢の男と比べても|見劣《みおと》りせず、また|四肢《しし》も引き締まっていた。
「見ないで! お願い、出ていって――」
彼女はまた叫んだ。そしてその声が泣き声ではないということに、少年は気づいたらしい。彼女の声は、どちらかというと|怒《おこ》っているようだった。
少年は入口から一歩つま先を|踏《ふ》み入れて、不安そうな声をあげた。
「アザリー、なにが起こったんだ? 待ってて、先生を呼んでくる――」
「|駄目《だめ》!――いえ――」
彼女は激しく叫んでから、言い直した。顔を両手で隠したままなので、声がくぐもっていて聞きにくい。
「いえ――|無駄《むだ》よ。チャイルドマンも――|誰《だれ》も呼ばないで」
「でも――」
「いいから、出ていって! 早く!」
彼女は片手だけをこちらに振って、命令した――と、少年はその手を見て、ぎょっとした。戦闘訓練によって手の皮の厚くなった彼女の指は、お世辞《せじ》にも繊細で美しいとは言いがたいが、そのとき少年の目には、彼女の指になにか鈎爪《かぎづめ》のようなものが生えているのが見えたような気がしたのだ。
少年は我《わ》が目を|疑《うたがう》うようにしばたいて、叫んだ。
「アザリー? その手――」
「お願い、早く出ていって!」
彼女がまたくりかえす。その瞬間、ごわっと――彼女の頭のてっぺんあたりで黒髪が盛《も》り上がった。びちびちと、血管《けっかん》を引きちぎるような音が響き、なにか体液にまみれた触手《しょくしゅ》のようなものをはね散らかしながら、その髪の中から、明らかに人間の器官には|含《ふく》まれていないような肉の塊《かたまり》が飛び出す。ぶちん! と音が弾けて、彼女の足元になにかが落ちた。ちぎれたベルトである。見ると彼女の腰は不自然に歪《ゆが》み、膨張《ぼうちょう》して――
少年が悲鳴《ひめい》をあげた。
このときになって、彼も理解したようだった――彼女はなにか、人間以外のモノに変化している。彼女の膨張した腰が服の下であふれて、柔《やわ》らかい布地を切り|裂《さ》き、彼女の背中でそそり立った――巨大な、コウモリのような皮の|翼《つばさ》。同時に彼女は震《ふる》え出し、だらり、と口腔《こうこう》から体液のようなものを吐《は》き出した。顔を押さえた指の隙間《すきま》から、肉片の混じった血が床に|滴《したた》る。その口腔も、あごが外れるほど開き、赤トカゲの頭のような舌がのぞいている。
「見ないで!」
その叫びだけが、さきほどから変わらない。彼女のものだった。
「アザリー――」
少年が叫びかける。だが彼はそのあとの語が見つからなかったように口をつぐんだ。
その間にも、彼女の|変貌《へんぼう》は続く。ローブの生地《きじ》を引き裂き、剥《む》き出しになった彼女の肩は、あっと言う間に|鱗《うろこ》の浮き出た緑色に変じた――気が付くと腕が四本に増え、身体そのものも三メートルほどまで、|膨《ふく》れ上がっている。
彼女――いやさっきまでは彼女であった|異形《いぎょう》の物体は、自分の長い尾を追いかけるようにぐるりと一回転すると、一声また「見ないで……」とつぶやき、焼けただれたような瞼《まぶた》に隠れた目玉を燃え上がらせ――
巨体に見合わない素早《すばや》い動きで<<塔>>の窓から身体を乗り出すと、翼を空打《からう》ちし、|轟音《ごうおん》を立てながら――外へと飛び出していった。
少年はあわてて彼女の吐き出した血だまりを飛び越えて窓に駆《か》け寄った。だが、もうそこから見える場所には彼女の姿はない。
彼はある種の陶然《とうぜん》とした表情を浮かべて、震えながら部屋の中を振り返った。彼女の残した血だまりの真ん中に、さっきまでは気づきもしなかった鉄の物体が落ちている。血と錆《さび》に汚《よご》れて黒ずんでいる、一振りの古風な剣。
以後少年は長い間、彼女の姿を見ることはなかった――何年間も。何年間も。
第一章 商売の日に
何年間も――何年間も――歩きつづけて――
――どんどんどんっ!――
「起きろ、てめえ! とっとと起きねえと棒《ぼう》でつつき殺すぞ! おいコラ!」
激しくたたかれるノックの音に、オーフェンはいらいらと寝返りを打った。安宿の薄っぺらなベッドではあるが、寝ている当人にとってはそんなことは関係なく、居心地《いごこち》はいい。
「前々から言ってあったろうが? 今日は商売の日[#「商売の日」に傍点]だぞ! |俺《おれ》の計画を全部ぶち|壊《こわ》すつもりか? オイ、とにかく出てこなけりゃ殺すぞ!」
|靄《もや》がかかったようにぼんやりとしたオーフェンの意識に、だんだんとそれらの|怒声《どせい》が染《し》み入ってくる。彼は、|腫《は》れぼったいまぶたをゆっくりと開いた。油じみたシミのついた木の天井《てんじょう》を見つめ、そして、不快そうに窓の外へと視線を転じる。
窓から射《さ》し込む陽光の角度から見て、昼前、といったところか。
|扉《とびら》をたたく声は、ますます高まった。
「てめえ! |是《ぜ》が|非《ひ》でも出てこねえつもりか? お? 死にてえってんだな? ようし、とにかく出てこい! 今日という今日こそ、このボルカノ・ボルカン様が|引導《いんどう》をつき渡してくれる!」
(出てったら……殺される?)
オーフェンはやや寝ぼけぎみに、そんなことを考えていた。
(誰《だれ》に殺されるって? ボルカノ・ボルカン? あの|寸詰《すんづ》まりにか。くそったれが――)
彼は、自分の上に広がったシーツをはぎ落とすと、上半身だけを起き上がらせた。一言、
「うるせえっ?」
と扉に向かって|怒鳴《どな》り返し、裸の胸をぼりぼりと|掻《か》く。静まり返った扉に向かって|唾《つば》を|吐《は》いて、彼はベッドのわきの|椅子《いす》にひっかけてある自分のシャツを|乱暴《らんぼう》に着込んだ。ついでに、同じ椅子の背につるしてあるペンダントも取り上げる。細い銀の|鎖《くさり》の先に、やはり銀|細工《ざいく》の、剣にからまった一本|脚《あし》のドラゴンの|紋章《もんしょう》が、ちらちらと輝《かがや》いた。
それをいったん手のひらにのせ、銀のドラゴンに呼びかけるようにオーフェンはつぶやいた。
「俺を殺すんだってよ?」
苦笑してから、首にかける。
同時に、どん! とひときわ激しく扉がたたかれる音がした。
「なにがうるせえってんだ! 誰のためにこんな油|臭《くせ》えところまで迎えにきてやってると思ってんだ!」
オーフェンは無視してベッドから降り立ち、部屋の隅《すみ》っこにかかっている鏡《かがみ》をのぞき込んだ。二十歳そこそこの、やや拗《す》ねたような顔立ちの黒髪の若者の顔が、そこに映る。寝起きのためにやぶにらみになっているが、考えてみれば、彼が鏡をのぞいたときには、彼の黒い双眸《そうぼう》は、いつも皮肉《ひにく》げにつりあがっていたような気がする。
扉の外の声は、ますますヒステリックに高まっていった。
「てめえいいかげんフザケタことばっか言ってっと、ローラーでひき殺すぞ! いいからとっとと出てきやが――」
オーフェンはうるさそうに扉に顔を向け、右手を突き出すと口早《くちばや》に唱《とな》えた。
「我《われ》は放《はな》つ光の白刃《はくじん》!」
瞬間《しゅんかん》、かっ! と純白の閃光《せんこう》が部屋に満ち、オーフェンの手から光の帯《おび》のような光熱波《こうねつは》が放《はな》たれる。白光の奔流《ほんりゅう》は頑丈《がんじょう》な木の扉にぶち当たると、すさまじい轟音《ごうおん》を立てて爆裂《ばくれつ》した。扉が砕《くだ》け散り、爆砕《ばくさい》された粉塵《ふんじん》が砂煙《すなけむり》のようにあたりに立ち込める。
ぽっかりと、跡形《あとかた》もなく飛び散った扉の向こうで、毛皮のマントをまとった身長百三十センチほどの少年が、呆然《ぼうぜん》と目を見開いていた。旅塵《りょじん》にまみれた格好《かっこう》は薄汚《うすよご》れており、黒い髪もここ数日は洗った気配《けはい》がなく、ぼさぼさになっていた。目は真ん丸で、ブラウンというよりは薄い黒といった色の瞳孔《どうこう》が、大半を占めている。
オーフェンはその少年に向けて、半眼で聞き返した。
「出て、きやがれだ?」
「……出てきて、くださると――当方としても僥倖《ぎょうこう》かと存じます……」
粉塵の中で少年は、恐《おそ》る恐る小声で言い直した。
「よろしい。これからは年長者には敬意を払え。いいな?」
オーフェンはそう言うと、満足げにその少年を観察した――やや小太りの印象を受けるその地人《ちじん》の少年は、年齢は確か十八歳くらいだろう。身長百三十センチは、体格の小さい地人たちの基準《きじゅん》では、まあ普通の大きさだ。地人の伝統的な装束《しょうぞく》である毛皮のマントをすっぽりとまとい、その下には肉厚《にくあつ》の長剣の鞘《さや》がのぞいている。
少年――ボルカンは、まだ焦《こ》げてぱりぱりと音を立てている扉の破片を見下ろしながら、ゆっくりとこちらを見返してきた。
「ええと、それであの、オーフェン様、僣越《せんえつ》ながらお迎えに上がったわけでございますが」
「飯《めし》を食ってから行く。外で待ってろ」
「はいです」
ボルカンはそうつぶやくと、目を見開いたままの顔で、ばたばたと廊下《ろうか》を駆けていった。
彼が階段でつまずき、罵声《ばせい》をあげるのを聞きながら、オーフェンはおおきく伸びをした。
「商売の曰、か。だがその前に――」
粉砕《ふんさい》された扉にまたもや右手を突き出してから、
「我は癒《いや》す斜陽《しゃよう》の傷痕《しょうこん》」
彼が唱えると同時、扉の破片がぴくりと動いたかと思うと、時間が逆もどりしたようにいきなり空中で組み上がり、もとにもどった。オーフェンはぶらりと歩いて、もとどおりの木の扉に近寄り、指で触《ふ》れた。つぶやく。
「ま、上出来《じょうでき》かな」
扉の真ん中に少し焦げ目が残ってはいたが、彼は肩をすくめて無視すると、ドアのノブを軽く押しやった。
バグアップズ・インと呼ばれるその寂《さび》れた安宿に客が来たのを、オーフェンは見たことがなかった。そのくせ複雑《ふくざ》に入り組んだ商都の裏路地《うらろじ》にあるこの宿は、いつもきちんと手入れされており、えらく古い建物だということを別にすれば、悪い宿ではない。
オーフェンが二階の客室から下りてくると、酒場のカウンターで亭主のバグアップがにこにことグラスを磨《みが》き、息子のマジクが床《ゆか》をモップで拭《ふ》いている。実の親子のはずなのだがふたりはまったく似ておらず、海辺《うみべ》の街《まち》であったならまず間違いなく海賊《かいぞく》と間違われたであろうバグアップに対して、マジクはまさしく紅顔《こうがん》の美少年然としていた。素直《すなお》な目の、金髪のこざっぱりした若者である。と、マジクが顔を上げて挨拶《あいさつ》してきた。
「ああ、オーフェンさん、お目覚《めざ》めですか」
ここ二年ばかりこの宿を利用し、すっかり顔なじみになっていたオーフェンは、気安く手をあげて返事した。
「目覚めもなにも、あの馬鹿《ばか》にたたき起こされたよ」
「ものすごい音がしましたけど」
「扉をぶち抜いてやったのさ。直しておいたけどな」
言いながら、オーフェンはカウンターの席についた。髭《ひげ》の奥でにこにこしているバグアップに、軽い昼食を頼《たの》む。
「仕事がどうとか騒《さわ》いでいたね?」
オートミールの入った鍋《なべ》に火を入れるため最近|導入《どうにゅう》した彼|自慢《じまん》のガススイッチを入れながら、バグアップ。荒海と釣《つ》り針《ばり》の嵐でもまれ潰《つぶ》されたような容貌《ようぼう》でいながら、やけに声だけは優《やさ》しく、好々爺《こうこうや》といった感じだった。
オーフェンはカウンターに肘《ひじ》をつき、嘆息《たんそく》まじりに答えた。
「ああ。ボルカンの奴《やつ》が、なにか儲《もう》け話を見つけたらしい。詳《くわ》しいことはまだ聞いてないんだけどな」
バグアップが、にやりとする。
「その様子《ようす》じゃ、あまり期待はしてないようだな?」
「そりゃそうさ。あいつの持ってきた仕事がうまくいった試しなんぞ、一度もねえんだ」
「だったら、無視すればいいじゃないか」
おもしろがるように、バグアップ。オーフェンは皮肉《ひにく》に口元をゆがめて答えた。
「知ってるだろ? 奴に金を貸してるんだ。どうにかして儲けてもらって利子《りし》をつけて返してもらわにゃ、こちとら破産《はさん》だよ」
「だからモグリの金貸しなんぞ、やらなきやよかったんだ」
「そうなんだよな……どこの世の中に、金を貸した相手に儲けてもらうために手を貸すような借金取りがいるんだか」
「ここにいるじゃないか」
揚《あ》げ足をとってバグアップは、温《あたた》まったオートミールを皿に移してカウンターに差し出した。オーフェンはそれを受け取り、くるりとマジクのほうに振り返った。
「なあ、後で魔術《まじゅつ》を教えてやるから、月謝《げっしゃ》を払うつもりはねえか?」
「ほんと?」
ごつん、と椅子の脚《あし》にモップをつまずかせ、マジクが顔を輝《かがや》かせる。
「おいおい、人の息子を怪《あや》しげなことに勧誘《かんゆう》するなよ」
後ろからバグアップが注意するのに、オーフェンは胸のペンダントを掲《かか》げてみせた。彼の持ち物の中では、ほとんど唯一《ゆいいつ》価値あるものと言っていいそれを見せびらかしながら、
「<<牙《きば》の塔《とう》>>出身の、れっきとした黒魔術士オーフェンが指導《しどう》するんだぜ? 立身出世《りっしんしゅっせ》のチャンスってもんじゃねえか」
「マジクに魔術の才能があるとは思えんね」
バグアップは自分の口髭をしごきながら、さらに付け加えた。
「それに当の本人が破産|寸前《すんぜん》でぴーぴー言ってるときに、なにが立身出世だよ」
「一応これでも、宮廷《きゅうてい》魔術士にならないかって話もあったんだぜ?」
「それで選考会のときにカンニングがばれて失格になったんだろう? 聞き飽《あ》きたよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》だって。マジクには才能がある――俺みたいな天才にしか分からないなにか、こう……フィーリングみたいなモンがだな――」
「本当ですか?」
「おい、真《ま》に受けるなよ、マジク」
バグアップは髭をいじるのはやめて、流し台に置いてあったグラスを再び磨きなおしはじめた。
「こいつが宮廷魔術士――<<十三|使徒《しと》>>の候補《こうほ》になったわけがないだろう? そんな力のある魔術士が、いくら落ちぶれてもモグリの金貸しになんぞなるもんか。お前に才能があるなんてのも、でまかせだよ」
そう言って、酒場の隅《すみ》に息子を追っ払ってから、バグアッブはオーフェンに念を押すように言った。
「息子をからかうのもいいかげんにしてくれよ――思い込みの激しい奴でな。お前さんの言うことを、なかば信じかけてるんだ」
「ひでえな。俺はウソなんかなにもついてないってのに」
オーフェンはふてくされた声音《こわね》でそう言うと、潔癖《けっぺき》なまでに磨かれたスプーンでオートミールをかきまぜた。
「ホントにマジクには才能があるんだよ。十四歳だったっけか? こんな客の来ない宿で
モップがけなんかさせてねえで、ちゃんと学校に通《かよ》わせてだな――」
「学校には行かせてるよ。読み書き、算術、神学《しんがく》の初歩――」
「普通の学校じゃない。どっか有名な魔術士の教室にだよ」
「それで最終的に<<牙の塔>>を目指《めざ》せとでも言うのかい?」
「そうは言わないさ。あそこは……ちょっと特殊《とくしゅ》な教室だからな」
オーフェンは少し気まずそうに身を退き、もごもごとつぶやいた。スプーンから手を放し、またペンダントの紋章に触れる――この紋章は<<牙の塔>>出身の黒魔術士にのみ贈《おく》られる、一種の身分証明だった。
だがバグアップはモップで床を磨く不機嫌《ふきげん》顔の息子のほうを見ており、オーフェンの表情の変化には気づいていないようだった。彼は、なにげない口調《くちょう》で、ぽつりと聞いた。
「だいたいなんで、マジクに魔術士の才能があるなんて思うんだ」
オーフェンも、似たような口調で聞き返す。
「力ある魔術士の条件がなにか、知ってるか?」
「さあな。処女から生まれるってことか? なら言っとくが、あれの母親は――」
それはさえぎり、オーフェンは続けた。
「純粋《じゅんすい》で真摯《しんし》な情熱。それが力ある魔術士の条件だよ」
それを聞いた瞬間、バグアップは吹き出した。彼はグラスを取り落とさないように流し台に置いてから、言い切った。
「だったら、あんたが力ある魔術士なわけがないな」
オーフェンは、なんとでも言いやがれとばかりにフンと鼻息を吹くと、仏頂面《ぶっちょうづら》でオートミールを征服《せいふく》にかかった。
◆◇◆◇◆
「ふざけやがって、あの人間め!」
ボルカノ・ボルカンはバグアップズ・インの前の路地《ろじ》を行ったり来たりしながら、鼻息荒く毒《どく》づいた。
「力をひけらかし[#「ひけらかし」に傍点]やがって、まったくいやらしい野郎《やろう》だ!」
一方、酒場の人口のわきに置いてある空《から》の水樽《みずだる》に、もうひとり、似たような姿の地人が腰掛けて足をぶらぶらさせている。ただしこちらはボルカンよりもひとまわり体格が小さく、年齢も少し下のようだった。度の強そうな眼鏡《めがね》をかけ、樽の横に、彼のものであるらしい馬鹿《ばか》でかい皮のザックが転《ころ》がっている。ボルカンのように剣は持っていないものの、その皮袋の大きさからすれば、とても身軽《みがる》な旅装《りょそう》とは言えたものではない。下手《へた》をすれば自分自身が中に入れるような袋である。
そちらの眼鏡をかけたほうの地人に向き直り、唐突《とうとつ》にボルカンは同意を求めた。
「そうだろう? ドーチン」
「……え?」
ドーチンと呼ばれたその少年は明らかに聞いていなかったらしく、ぼんやりと聞き返した。ボルカンが、機嫌の悪い表情をさらにしかめて、くりかえす。
「あの人間の黒魔術士のことだ。態度がでかすぎると思わんのか?」
ドーチンはそれを聞いて、少し迷《まよ》うように虚空《こくう》を見上げた。
「でも、あの人にお金を借りてるのは兄さんでしょう?」
どうやらこのふたりは兄弟《きょうだい》らしい。
ボルカンは、かっと火でも吹くみたいに口を開いた。
「つまり、俺《おれ》はあいつのお客だろうが!」
(期限内に返済《へんさい》できなければ、顧客《こきゃく》とは言えないよ)
ドーチンは反射的にそう思ったが、あえて口に出しはしなかった。
それを同意と見て取ったのか、ボルカンは勢いづいて続ける。
「それを、奴《やつ》は自分が主人のようなつもりでいばり散らして、なにをするのかと思うと、俺が用意した商談をことごとく台なしにするだけだ! まったく、人間ってのはロクな奴がいないが、奴はその極《きわ》めつけだな」
(いつも商談を用意するのはぼく[#「ぼく」に傍点]じゃないか)
これも声にならない声。
とは言え、今日用意された商談に限ってはまぎれもなく、この兄が用意したものだった。もっとも、そのせいでドーチンは朝からなんとなく不安を感じているのだが――彼は、今日も儲《もう》け話というのをボルカンから何度も聞き出そうとしたのだが、兄は頑《がん》として話してはくれなかったのだ。
ドーチンの経験からすれば、これは良い兆候《ちょうこう》ではない。
ボルカンは、なおもぶつぶつと続けている。
「だいたい、なにが年長者だ。たかだか二、三年ばかり、俺より長く生きてたってだけのことだろうが。くだらん――その程度のことで、いちいち先輩面《せんぱいづら》されたんじゃ――」
(じゃあ、あんたがぼくに兄さん面するのは、なんなのさ)
ドーチンはまたもや胸中《きょうちゅう》でつぶやいて、路地に吹き込む春の風を感じながら、空を見上げた。トトカンタ市を見下ろす空はまばらに雲を散らばらせて、ぷかぷかと、いつでも頭の上に落っこちてきそうに見えた。
◆◇◆◇◆
かっち、こっち、かっち、こっち……
噴水《ふんすい》の中心に立つ女神を象《かたど》ったらしい時計が、子犬と母犬を模《も》したふたつの振り子を交互《こうご》に揺《ゆ》らして笑っている。優雅《ゆうが》にして豪壮《ごうそう》な調度に囲《かこ》まれた客室で、オーフェンはほとんど絶望的な思いに浸《ひた》っていた。
暖炉《だんろ》には火は入っていない――もう完全に初夏に近づいた陽気で、それには不都合《ふつごう》はなかった。純白のテーブルクロスには目が痛くなるような細かい刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》され、部屋の隅《すみ》で銀色の剣を交《まじ》えた空《から》っぽの二体の甲冑《かっちゅう》は、なんだかこちらをにらみつけているようにも見える。ともすればつまずいてもおかしくないようなぶ厚いカーペットは深く落ち着いた赤で、彼が腰掛けているのは、多分同じ大きさのものを宝石で作ったものよりも価値があるであろう繊細《せんさい》な彫《ほ》り込みの入ったカウアー樹の椅子《いす》。天井《てんじょう》のシャンデリアは、下手《へた》をすれば昔のオーフェンの下宿の部屋そのものよりも大きいかもしれない。そんな中で、オーフェンはひどく混乱していた。最初は、自分を取り巻く状況《じょうきょう》が分からないための困惑《こんわく》であり、今はこの状況から逃亡《とうぼう》するための焦燥《しょうそう》である。
実のところ、オーフェン自身も盛装《せいそう》させられている。息苦しいタキシードのようなものを着せられて、例の紋章《もんしょう》はポケットの中である。彼の横には、スケールこそ違うものの似たような格好《かっこう》のボルカンとドーチンが並び、ボルカンはさっきからにこにことひとりでしゃべっている。ドーチンは、こちらからその表情をうかがう気にはなれなかったが、真っ青に震《ふる》え上がっているのが気配《けはい》で分かった。
「実業家でいらっしゃるそうね、お若いのに」
年齢の分かりづらい、小柄な中年の女性――ボルカンの対面に位置する――が、口元に軽く手を当ててそう言ったとき、オーフェンの背筋に戦慄《せんりつ》が走った。どう答えたらいいものか言葉《ことば》を失したオーフェンの横から、ボルカンが口をはさむ。
「ええ。国では、ブルプルワーズ株式会社の名を知らない者はありませんよ」
「株式会社? 聞き馴《な》れないわね」
「え、ええ。つまり、その――一言で説明するのは難《むず》しいのですが――」
ボルカンは、いきなり□ごもった。
「要するに、株があるわけです。株があってこの――会社があるわけで、つまり株があれば一事が万事《ばんじ》、ってところですかな」
しどろもどろにつなげる。オーフェンは、軽く頭を抱《かか》えてめまいを抑《おさ》えた。
「ところで、ブルプルワーズさん――
オーフェンは、それが自分の名前であることに気づくのにしばらくの時間を要した。
「は、はい、マダム?」
ぱっと顔を上げて、なんとなく上流にふさわしそうな単語を口に出す。
婦人は、にっこりと続けた。
「あまりおしゃべりになられないのですね。まあお見合いをする男女というのは、普通はそういうものですけれど。うちの娘も、ふだんはこうじゃありませんのよ――」
言って彼女は、自分の横にちょこんと座《すわ》って押し黙《だま》っている若い女性を軽く示した。紹介《しょうかい》された名前は、確かマリアベルだったか。マリアベル・エバーラスティン。かたわらの母親が、ティシティニー・エバーラスティン。
オーフェンが改《あらた》めてマリアベルに視線をもどすと、彼女は、にこりとほほ笑みかえしてきた。さっきから一言も声を聞いていないのだが、見たところ清楚《せいそ》な印象《いんしょう》の、ブロンドのお嬢様《じょうさま》といった感じである。いや、感じではなく、実際にお嬢様なのであろうが……
年齢は、オーフェンよりは年上であろう。二十二、三といったところか。かなりの美女だが、その年でこの人見知りというのは、少々|間《ま》の抜けた感じにオーフェンには思えた。
(とは言え、本当の間抜けは俺だ)
彼は胸中で断定した。
(この馬鹿《ばか》の儲《もう》け話なんぞ真《ま》に受けてないで、素直《すなお》にマジクの家庭教師でもやってりゃ良かったんだ。この馬鹿が、この馬鹿が、この馬鹿が――
隣《となり》に座ってのんきに茶などすすっているボルカンを、表情には出さずに憎々《にくにく》しげににらみつける。
(要するにこいつ、結婚|詐欺《さぎ》を計画したってわけか!)
それで、このトトカンタ市でも有数、とまではいかなくともかなりの名家ではあるエバーラスティン家に見合いに参じているのである。ボルカンがどのようにしてこんな酔狂《すいきょう》な縁談《えんだん》をでっちあげたのかは知る由《よし》もないが、とにかくオーフェンは絶望に目の前が暗転するのを感じていた。
「ところで――」
ティシティニーが、事もなげに聞いてくる。しばらくは娘になにか話させようと、まるで飼《か》い犬に芸をさせようとでもするように促《うなが》していたのだが、とうとうあきらめて自分で口を開いたわけである。
「ところで、ブルプルワーズさんは、どのようなお仕事をなさっていらっしやるの?」
「え?」
追い詰められた子供のような声を上げたオーフェンの前を横切るような格好《かっこう》で、またもやボルカンが□をはさんだ。
「す、睡眠薬《すいみんやく》の栽培《さいばい》です!」
(この馬鹿――)
オーフェンがなにかフォローする間もなく、ティシティニーはただ話題を継続《けいぞく》するという義務感のため、次の質問を発していた。
「まあ、睡眠薬というと、どのようなものがあるのかしら」
「え? いえ、それは専門家でないと――」
言いかけたボルカンをさえぎり、オーフェンはすらりと答えた。
「市販されているものの多くは、特に高原などで栽培されたものを粉末《ふんまつ》状にして飲みやすくしたものですが、どちらかというと睡眠薬は|永眠《えいみん》薬といったもののほうが多いのですよ」
「永眠薬?」
「平たく言えば、毒薬《どくやく》ですね」
「まあ」
ティシティニーは開いた口に手を当てて絶句《ぜっく》した。慌《あわ》てて、ボルカンが声をあげる。
「もちろん、我《わ》が社で扱《あつか》っているものには、そのようなものは含《ふく》まれておりませんが」
言いながらこの盛装した地人はテーブルの下でオーフェンのももをつねり上げた。オーフェンも眉《まゆ》ひとつ動かさず、その手をつねりかえす。
(なんで睡眠薬なんだよ!)
小声で聞くと、さすがにボルカンは苦しそうに笞えた。
(上流階級のご婦人とくりゃ、睡眠薬は必需品《ひつじゅひん》だろうが!)
オーフェンはあえてそれ以上は追及せず、とにかくブルプルワーズ[#「ブルプルワーズ」に傍点]の顔を作った。薄く笑みを浮かべ、黙ってマリアベルを観察する。
女の笑みほど当てにならないものはないと承知しながら、それでもオーフェンには、彼女がこちらに多かれ少なかれ好意を持ってくれているのではないかと思えた――もっとも、黒魔術士の地位から脱落《だつらく》して金貸しをしている平民オーフェンにではなく、この街《まち》から遠く離れたアーバンラマの実業家ブルプルワーズに対する好意ではあるが。アーバンラマはひどく遠い上、この大陸に残された数少ない自治《じち》都市であるため、ティシティニーがいくらこの縁談に関して猜疑《さいぎ》的であったとしても、まだオーフェンの正体を突き止めてはいないだろう。そういう意味では、このボルカンのお膳立《ぜんだ》ては、そんなに的外《まとはず》れなものではなかったというわけだ――とは言え――
(普通、結婚詐欺ってのは、勝手を知らない一人暮らしのお嬢ちゃん相手にするもんなんじゃねえのか?)
エバーラスティン家は貴族ではないが、平民のオーフェンにしてみれば、貴族と同じと言っても差し支《つか》えない商家の末裔《まつえい》である――先代の当主に先立たれ、ティシティニーが切り盛《も》りをする現在では、商|取引《とりひき》からは手を引いて過去の財産を切り売りして生計を立てて
いるはずだが、もしそうでなかったとしたら、ボルカンのウソなどたちまち見抜かれてしまっただろう。あるいは、そのほうがよほど面倒《めんどう》がなかったかもしれないが。
オーフェンはそんなことを考えながら、ぼんやりとマリアベルの顔を見つめていた。彼女がにっこりと、ほほ笑みかけてくる。
ほほ笑みかえしながら、オーフェンは思った。できればあんた、ボルカンと結婚して奴《やつ》の借金を返済《へんさい》してくれないかね?
「この無能の魔術士、アドリブのひとつもきかないのか!」
ティシティニーとマリアベルが屋敷《やしき》のどこかへと退《しりぞ》き、客間に三人だけになると、ボルカンがいきなり怒鳴《どな》りつけてきた。ドーチンは緊張《きんちょう》のせいで椅子《いす》にもたれかかり、首切り台に押さえ付けられた囚人《しゅうじん》のようにぐったりしている。
「アドリブだと?」
オーフェンは憎々しげに聞き返した。
「突然こんな窮屈《きゅうくつ》な貸衣装《かしいしょう》を着せられて、なんの説明もなしにこんな馬鹿でかい屋敷に連れ込まれて、しかも名前はブルプルワーズだ? 睡眠薬の栽培をする株式会社だと? いったい俺になにを期待してんだよ」
「うむ」
と、真顔《まがお》でボルカン。
「その会社の社長になりきって相手に毛ほどの疑念も抱《いだ》かれずに結婚までこぎつけることだ」
「なるほど、よく分かったよ……って、はっきり言い切ってんじゃねえよ」
オーフェンは貸衣装がしわにならない範囲《はんい》でボルカンを締《し》め上げると、ドーチンをじろりとにらみやった。地人の弟は石でも投げ付けられたようにぱっと跳《は》ね起きると、
「ち、違うよ。ぼく――ぼくは、この話は知らなかったんだ。兄さんが全部お膳立てしたんだよ……」
「本当だろうな?」
オーフェンが念押しすると、かわりにボルカンが答えた。
「そのとおり! こんな大胆《だいたん》な計画を、ドーチンが立てられるわけがないだろうが?」
「だ・い・た・ん・すぎるんだよ!」
オーフェンはボルカンを――文字どおり――放り出し、きゃしゃな椅子から立ち上がると、この世の終わりのように両手をばたばたさせながら続けた。
「ったく、人をたたき起こして大騒《おおさわ》ぎして、なにをやらかすかと思えば結婚詐欺とはな!いいかげん呆《あき》れ果てたもんだ」
そのせりふを聞いて、ボルカンは驚《おどろ》いたように顔を上げた。
「結婚詐欺? 恐《おそ》ろしいことを言う奴だな」
オーフェンは凶悪《きょうあく》な形相《ぎょうそう》で振り返った。
「誰《だれ》がお膳立てしたことだったっけか?」
「馬鹿を言うな」
ボルカンは平然と、
「詐欺なんて、人の純真に付け込んだ忌《い》むべき犯罪《はんざい》じゃないか」
オーフェンはわけが分からずに、聞いた。
「じゃあ、これがどうして商売なんだ? 俺に借金を返済するための商売なんだろう?」
ドーチンも疑問の面持《おもも》ちで、兄のほうにそろそろと顔を近づけている。ボルカンは、ぽんと自分の胸をたたいた。
「そこが俺の機転というやつだな。つまりだ、俺の取り持ちで、お前を大金持ちの婿養子《むこようし》にしてやる。これだけの財産がお前のものになるわけだから、これはもはやあんなシケた借金なぞ帳消《ちょうけ》しにな――うわあっ!」
ボルカンが言い終わらないうちに、オーフェンは地人を椅子ごと蹴転《けころ》がした。
「てめえなあ!」
腕まくりした瞬間、ドアが開く。
オーフェンはとっさに身構えて振り返った。ボルカンもあわてて起き上がろうとし、ドーチンは意味もなく悲鳴《ひめい》をあげそうになっている。三人の視線の集中した戸口には、年の頃《ころ》十七、ハといった少女がぽかんと立ち尽《つ》くしている。
「君は――」
なんとか取り繕《つくろ》おうとオーフェンが口を開いたのを待たずに、少女はそれを制止した。
「あ、ごめーん」
扉《とびら》が、ばたんと閉じる。
一秒後、ドアがノックされた。
「ど、どうぞ――いや待って」
オーフェンは口ごもりながら、椅子といっしょに転倒したままのボルカンを助け起こした。兄弟ともどもテーブルのわきに体裁《ていさい》よく並べてから、扉に向かって言い直す。
「どうぞ」
扉が開き、さっきと同じ少女が顔を突き出した。彼女はくすりと笑って、お辞儀《じぎ》した。
「ノックを忘れてたわ。でも、わたしのこと礼儀《れいぎ》知らずだと思わないでね」
マリアベルによく似た感じの、だが彼女より少し活発《かっぱつ》そうな少女である。オーフェンは直感で、この少女がマリアベルの妹だと気づいた。白い、ドレスよりは生活向きかと思われるヒラヒラしたワンピースを着ていて、それがよく似合っていた。マリアベルよりは髪が短く、マリアベルよりさらに小柄で、しかしマリアベルより声は大きそうだ。
とにかく、今までの自分たちの会話は聞かれていなかったらしい――と踏《ふ》むと、オーフェンも辞儀を返した。
「礼儀知らずと言えば、お客に自己紹介《じこしょうかい》もしてもらえないのかな?」
「あ、ごめんね。わたし、クリーオウ」
彼女はそう名乗ると、年下の子供にでもするように、ちょこんと小さい手を差し出した。
オーフェンが握手《あくしゅ》すると、彼女は少し顔をしかめた。
「ずいぶんと堅《かた》い手ね」
「あ――つまり、社長ご自身も畑仕事に精出《せいだ》しているからでありまして――」
いきなりオーフェンとクリーオウの間に割り込むように出てきたボルカンを、少女からは死角《しかく》になるように後ろから黒魔術士は蹴飛ばした。
そして、言う。
「アーバンラマでは、男女ともども市民のすべてに一定年数だけ、兵役《へいえき》が課せられているんですよ。たった二年でも軍の基礎《きそ》|訓練《くんれん》を受ければ、手の皮だって厚くなります」
「へえ――そういえば、そんなことは聞いたことがあったんだわ」
クリーオウは明らかに間違った文法を使ってそう言うと、自分の手を引っ込めた。
(よし。さっきの会話は聞かれてなかったようだな)
だがオーフェンが確信した瞬間、クリーオウはにっこりと言った。
「ところであなたたち、結婚|詐欺師《さぎし》なんでしょう?」
ぶっ――とオーフェンは吹き出して、聞き違いかというように顔をしかめた。だが、クリーオウはにこにこと続ける。
「ねえ、お姉ちゃんをだますの? どのくらい[#「どのくらい」に傍点]だますの? ねえ」
「あ、あの……いったいどうして……」
引きつりまくった顔で、オーフェン。ちらりと見ると、ボルカンとドーチンは抱き合って震《ふる》え上がっていた。金持ちをだまそうとしてから後、幸福な一生を送った人間という話は、あまり聞かない。
クリーオウは、一瞬オーフェンの質問の意味が分からなかったような顔を見せたが、やがて、ああ、と手を打った。
「えっとね。聞き耳を立ててたの。ドアの外で」
「い、いつから」
「う〜ん……まあ、わりと最初っからかなあ」
(あのなあ)
オーフェンは胸中《きょうちゅう》で神――だかなんだか――に祈りつつ、この少女を人質《ひとじち》にとって街の外まで逃亡《とうぼう》する計画を検討《けんとう》した。考えるまでもなく、ボツ。明確な根拠《こんきょ》はなかったが、この娘はなんとなく、喉元《のどもと》に刃物を突き付けられても「あ、わたし、刺《さ》さってもいいの?」と聞き返してきそうだ。
オーフェンがうめいていると、クリーオウが気を引くようにその手を取った。さっきの質問をくりかえしながら。
「ねえ、お姉ちゃんをだまして、ひどい目に遭《あ》わせるんでしょう?」
「いや、その――」
オーフェンはなんとかこの窮地《きゅうち》を脱することができそうな画期《かっき》的な言い訳《わけ》を模索《もさく》しつつ、「これはね、その、そういったことではないんだ――」
と、その瞬間、後ろからボルカンが続ける。
「俺じゃない! 俺が計画したんじゃない!」
オーフェンは無視して、
「つまりね、俺――いや、我々《われわれ》魔術士|同盟《どうめい》のスタッフは、民間人の詐欺に対する警戒度《けいかいど》をチェックするために――」
「俺が計画したんじやない! こいつが俺を無理やり――車轢《くるまひ》きで責め殺すと俺を脅《おど》して――」
「ひどいよ、兄さん! ぼくがいつそんなことを――」
「この詐欺・詐称《さしょう》の蔓延《まんえん》する世の中に、我々は革新《かくしん》的なシステムでもって対応を――そのためには入念な情報収集が――」
「俺はなにも悪くない! 最初から反対していたんだ!」
「嘘《うそ》だ! 兄さんが全部お膳立てして、ぼくらを連れてきたんじゃないか!」
「我々は日々犯罪と戦《たたか》っているのです! みなさんにはどうぞご協力――」
「そうだ! この邪悪《じゃあく》な黒魔術上が、俺を洗脳《せんのう》したんだ! 毎晩毎晩、鳥の羽《はね》でくすぐり殺す|悪夢《あくむ》で俺を|脅迫《きょうはく》して――」
「ぼくはなにも知らなかったんだ――」
「や・か・ま・し・いいいっ!」
オーフェンはありったけの大声で叫《さけ》ぶと、光熱波《こうねつは》を地人の兄弟の足元にたたきつけた。
爆音《ばくおん》が轟《とどろ》き、この大きな屋敷が振動する。高価な絨毯《じゅうたん》に開いた大穴がぶすぶすと音を立て、もうもうとわきたつ粉塵《ふんじん》が空気に紛《まぎ》れて消えると、ボルカンとドーチンは爆風で吹っ飛んで部屋の隅《すみ》に転がっていた。まあ、頑丈《がんじょう》な地人たちのことだから、この程度ではケガもないだろうが。
「お前らなあ、人がせっかくナイスな言い訳を必死こいて熱演してるときに、いちいちそれをぶち壊《こわ》しにするんじゃねえ!」
そんなに出来のいい言い訳だったかなあというような顔をしながらも、なにも言わずにドーチンはむっくり起き上がった。兄のほうは、完全に気絶《きぜつ》しているらしい。
オーフェンはなおも凶暴《きょうぼう》な面持《おもも》ちで兄弟のほうへと足を踏《ふ》み出しかけたが、いきなり奇妙《きみょう》な音を聞いて、立ち止まった。ふりかえると――
クリーオウが笑っている。
ティシティニーとは違う、下町の少女のような仕草《しぐさ》でけらけらと笑いながら、クリーオウは言った。
「分かったわ。あなたたち、芸人なんでしょ。聞いたことがあるわ――いきなり人をだまして、あとで看板《かんばん》持って出てきて『ドッキリでした』ってやつ」
そんな気楽な商売があるならあやかりたい、と思いながらオーフェンが返答を考えていると、いつの間にか起き上がっていたボルカンが、クリーオウの手を取って言う。
「そのとおりです。お嬢さん」
「ちなみに詐欺罪は禁固《きんこ》十五年よ」
にっこりとつぶやくクリーオウに、ボルカンは豹変《ひょうへん》したように頭を抱《かか》えて泣きわめいた。
「俺はだまされただけなんだあーっ!」
「……なんか変だな、お嬢さん」
オーフェンはゆっくりと前に出て、ゴミでもどかすようにボルカンをわきに蹴転《けころ》がした。
「クリーオウでいいわよ」
「じゃあクリーオウ。なんだか君は、俺たちを咎《とが》め立てしてるわけでもないみたいだ」
「うん」
少女はあっさり、金髪の頭を上下に振った。
「それなら、俺たちをどうするつもりなんだ?」
「わたしは、どうもしないわよ。警察《けいさつ》に言うんなら、お母様《かあさま》たちがするだろうし」
「……俺ら……首犯はこいつだが――君の家族をだまそうとしたんだぜ?」
「でもさっきの話を聞いてると、そんなに悪いことしようとしてるみたいじゃなかったわ。あなたがお姉ちゃんと結婚するってだけのことでしょ?」
「そりゃそうだが――」
オーフェンは渋《しぶ》い顔で、なんでこんなことを説明しなければならないのかと自問した。
「いいかいクリーオウ。君の姉さんは、俺のことを金持ちの実業家だと思ってるんだ。でも実際はそうじゃない。これはいずれバレる――」
「結婚すると互《たが》いの欠点が見えてくるのは避《さ》けられないものだって言うわよ」
「なるほど」
「ちょっと、なに納得《なっとく》してるんですか、オーフェンさん」
後ろからつっついてきたドーチンを見下ろして、オーフェンは少年の首根っこをつかみ、その耳元までかがみこんだ。小声でささやく。
(うるせえな。気が変わったんだ。この娘を味方につければ、無事《ぶじ》に逃げられるかもしれんだろが)
(そ、そうかなあ)
ドーチンの声は不安げだった。オーフェンも同感だ。
だが、彼は少女のほうに向き直って、続けた。
「あのね――」
その瞬間、紛《まぎ》れもない爆音が屋敷を震《ふる》わせた。
どうんっ!
同時に、窓ガラスの割れる音。壁がみしみしと押し倒され、張り裂《さ》ける音。その他、なんだか分からないような細かい破壊《はかい》音――
爆発が屋敷全体を揺《ゆ》らし、その振動に足をとられて転びそうになったオーフェンが考えたのは、まず第一に身の安全――これは大丈夫《だいじょうぶ》だった。爆発は屋敷のどこかに違いないが、彼らのいる部屋からは遠いところだ。そして次に爆発の原因――これはさっぱり見当《けんとう》もつかない。しいて言えば、なにかの魔術の爆発というよりは、巨大な岩でも空から落ちてきてぶつかったような衝撃《しょうげき》音だったが。最後に、この機に乗じてさっさとここから脱出しようということだった。
「逃げるぞ!」
オーフェンはボルカンとドーチンに向かって鋭《するど》く叫んだ。が、返ってきたのは要領のいい「おう!」という返事ではなく、恐慌《きょうこう》状態に陥《おちい》って意味もなく悲鳴をあげているドーチンと、さらに意味もなく弟を追い回してぽかぽか殴《なぐ》りかかっているボルカンの姿だった。
「お前らなあっ!」
いいかげん呆《あき》れ果て、このふたりを置いて自分だけ逃げようかという考えが脳裏《のうり》に浮かんだが、すぐに却下《きゃっか》せざるを得なかった――このふたりが捕《つか》まれば、自分の身元もあっさり判明してしまうだろう。そうでなくても、この地人の兄弟が警察の尋問《じんもん》に耐えてまでオーフェンのことをかばってくれるとはとても思えない。
「ねえ、待ってよ! ブルプルワーズさんっ!」
叫んで彼の腕をつかんだのは、クリーオウだった。突然のことに、さすがにさっきまでの気楽な表情も引きつっている。
「俺はブルプルワーズじゃない! オーフェンだ!」
「孤児《オーフェン》?」
「ああそうだ」
と言いながらオーフェンは、本名《ほんみょう》を名乗ってしまった愚《ぐ》を自責《じせき》した。が、もう悔《く》やんでも遅《おそ》い。彼はボルカンとドーチンをそれぞれ片手でつかみあげると、まるで赤い草原みたいに深い絨毯《じゅうたん》を踏み分け、手近な窓から飛び出そうと――
した瞬間、足首をつかまれて転倒した。顔面からモロに落下して、オーフェンは鼻《はな》を押さえながら振り返った。すると、落ちる花瓶《かびん》でも受け止めようと滑《すべ》り込んだような格好で、クリーオウが彼の足をつかまえている。
「なんなんだよ!」
オーフェンが叫ぶと、クリーオウは子供を叱《しか》る母親みたいな口調で、
「偽名《ぎめい》を使ってたのね! 名前を偽《いつわ》るのはみんな悪人だって、先生も言ってた――」
「知るかっ!」
オーフェンは半泣きになってわめいて、足首をつかむクリーオウの細い指を振り払おうとした。だがその瞬間、クリーオウの声がいきなり懇願《こんがん》する口調に変わる。
「ねえ、このまま出ていったりしないでしょ? この家、男手がないんだから――きっと今の音、物置《ものおき》が到壊《とうかい》したに違いないわ!昨日から風が強かったもの――」
(そんなわけがない。今の音は、間違いなく屋敷の中の[#「屋敷の中の」に傍点]どこかで爆発が起こったんだ)
オーフェンは胸中で答えながら、今はとにかく逃げなければ駄目《だめ》だと自分に言い聞かせた。詐欺罪は禁固十五年だと? 俺は今まで二十年しか生きてない。十五年前の――五歳のときの記憶《きおく》なんてない。となると、その罪を犯したときの記憶もなくなるような年齢まで、俺は牢屋《ろうや》に入っていなければならないってのか。
「ねえ、お願いよ。お母様ったら、わたしに力仕事をさせようとするのよ! お姉ちゃんには絶対させないくせに。お願いよ――」
「冗談《じょうだん》を言ってる暇《ひま》は――」
かっとして、彼が手を振り上げたとき――
悲鳴が響《ひび》き渡った。女の悲鳴だ。
「お姉ちゃんの声だわ」
クリーオウが、ぱっと起き上がってつぶやく。
(くそったれが――)
俺は逃げなくちゃならんのだ、とオーフェンは自分に言い聞かせた。こんなところで十五年間も禁固刑に処せられている場合ではない。だが今の悲鳴、マリアベルは瓦礫《がれき》の下敷きになっているのかもしれない。街中《まちなか》だから救助が遅れて瓦礫の下で窒息死《ちっそくし》することまではないだろうが、それでもケガをする可能性は必ずあるし、それが重傷でない保証はどこにもない。下手《へた》をすれば、もう圧死《あっし》しているかもしれない。
「あの女の部屋はどこだ!」
オーフェンはボルカンとドーチンを放り投げ、クリーオウに詰問《きつもん》した。少女は、
「ついてきて!」
と叫ぶや否《いな》や、機敏《きびん》な動作で駆《か》け出した。オーフェンもそれを追って、廊下《ろうか》に飛び出す。
屋敷の中は、奇妙《きみょう》なほどに閑散《かんさん》としていた。豪壮《ごうそう》な調度はあちこちに見られたが、さっきの爆発|騒《さわ》ぎにもかかわらず、駆け回る使用人の姿もない。爆発は屋敷の別の棟で起こったようで、応接間を出たばかりの廊下では、床の上に花瓶が落ちて割れている程度の痕跡《こんせき》しか残っていない。
「おい、逃げるんじゃないのか、黒魔術士《くろまじゅつし》!」
どうやら正気《しょうき》になって追いかけてきたらしく、ボルカンが後ろから呼びかけてくるのが聞こえた。ボルカンがいるなら、ドーチンもいっしょだろう。
オーフェンは、振り返らずに、やけくそになって答えた。
「俺はまた[#「また」に傍点]人生を棒に振ったぞ!」
そのせりふの意味を理解できたのはオーフェンだけだったのだが、その場では、誰《だれ》も聞き返してはこなかった。オーフェンはクリーオウの後を追いながら、ただひたすら、動きづらい貸衣装《かしいしょう》を気にもせずに、長い廊下を駆けつづけた。
「ここよ」
クリーオウは、いつになく緊張《きんちょう》した面持ちで――というよりは、なにかモノスゴイことを期待してわくわくしているような表情で、ひとつの扉《とびら》を指さした。周《まわ》りの白い壁《かべ》によく似合ったオーク材の渋《しぶ》い扉で、あちこちに細々《こまごま》と繊細《せんさい》な彫刻《ちょうこく》が入っている。森をイメージした紋様《もんよう》らしい、とオーフェンは思った。
(森の中の眠れる美女ってトコか。瓦礫《がれき》の下じや、見栄《みば》えはしねえだろうがな)
クリーオウは扉を開けようと、ノブをつかんだ――が、ひっかかったようにノブは回らず、がちゃがちゃと音を立てるだけだ。鍵《かぎ》がかかっている。
「どうしよう」
クリーオウは、頼《たよ》るようにこちらを見上げてきた。
オーフェンはまかせろというようにうなずき、静かに目を閉じた。そのまま意識を集中させ、大きく呼吸する。
黒魔術士に限らず、このキエサルヒマ大陸の魔術士は、例外なく呪文《じゅもん》によって魔術をかける――つまり声を媒体《ばいたい》にして魔力を飛ばすのだ。だから呪文の声のとどかないところまでは魔術の効果も及《およ》ばないし、その効力は永遠には持続《じぞく》しない。声はいつしか風に紛《まぎ》れて消えてしまうものだからだ。
人間の魔術士には、ふたとおりあると言われている。オーフェンのような黒魔術士は熱や光といったエネルギーや、肉体そのものを扱う魔術に長《た》けている。もう一方のものは白魔術士と呼ばれており、こちらは時間と精神を操《あやつ》る。後者のほうが難易度《なんいど》が高く、その|資質《ししつ》を持つ人間もごくまれにしか生まれない。
オーフェンはイメージがわいたところで目を開き、手でノプに触《ふ》れ、つぶやいた。
「我招《われまね》かれる踏《ふ》まれざる門」
この呪文の内容には、実は意味はない。ただ声を出しさえすればいいのであって、ただの意味のない叫《さけ》び声であっても魔法はかかる。だが見栄《みば》えというものもあり、また戯言《ざれごと》を叫んで自分自身の集中を失ってしまうのは馬鹿馬鹿しいので、オーフェンはその魔術の効果を端的《たんてき》に叫ぶのを好んだ。
とにかく魔術は効果を為《な》し、手の中のノブはがちゃんと小さな音を立て、鍵が開いた。オーフェンは、ゆっくりと扉を押し開けた。
後ろでクリーオウが、それだけ? と残念そうにつぶやくのが聞こえる。恐《おそ》らく、彼がさっき見せたような光熱波で扉をぶち抜くつもりだとでも思ったのだろう。
それは無視して、オーフェンは部屋の中に入った――
そして、中の惨状《さんじょう》に唖然《あぜん》とした。
彼の後ろでごそごそと身じろぎし、ボルカンがつぶやく。
「……なんだ、あれ」
ドーチンが続く。
「か――怪物ってやつじゃないかな」
「……黙《だま》れ」
オーフェンは、震《ふる》え声で言った。彼は、身動きもできずに、その部屋にいるものを見つめていた。マヒしたように、身体《からだ》が動かない……
部屋は半壊《はんかい》していた。外から巨大な隕石《いんせき》でも飛来《ひらい》したように壁には大穴が開き、トトカンタの整然とした町並《まちな》みがよく見える。壁の穴と窓とがいっしょになって、窓だった部分にまだ張り付いている窓枠《まどわく》が、ぶらぶらと風に揺れている。クリーオウの言ったとおり、今日は風が強かった。ほとんどの家具は倒壊《とうかい》し、一番手前にある小ぶりの椅子《いす》も逆立《さかだ》ちするように転倒し、つぶれている。窓際《まどぎわ》に寄せられているベッドは二つに折れ、その上に居座《いすわ》っている未知の主人に戦《おのの》いているかのように見えた。
マリアベルは、部屋の一番手前にいた。あまりの事態《じたい》に呆然《ぼうぜん》として、立ち尽《つ》くしている
瓦礫の下では見栄えはしないと考えたのは早計だったと、オーフェンは悟《さと》った。この一言も口をきいていない美女はほとんど半裸《はんら》で、カーテンみたいに見えるドレスで身体の前を押さえ、細かく震えていた。どうやらいきなり席を外《はず》したのは、見合い中に色直しでもするつもりだったのだろう。となると、それほど彼の印象《いんしょう》は悪くなかったのかもしれない。
ティシティニーは、娘のすぐかたわらにいた。いざとなれば娘の盾《たて》にでもなるつもりか、覆《おお》いかぶさるように自分より背丈《せたけ》のある娘に腕を回している。彼女もまた、ただ立ち尽くしているだけだった。
ティシティニーが悲鳴をあげる――察するところ、どうやらさっきの悲鳴も、マリアベルのものではなく、母親のものだったのだろう。□をきいたことのない美女は、やはりまだ□をきいてはくれない。
オーフェンがそれだけのものをすべて見回したとき、ひょい、と部屋の中にクリーオウが頭を差し込んできた。少女は遠慮《えんりょ》のない大声で、言った。
「うっわー。すごい化け物」
びくり、とオーフェンは身じろぎした。
マリアベルのふたつに折れたベッドの上には、まさしくそのとおりのものが鎮座《ちんざ》していた。
「推測その@」
ドーチンが、ごくりと唾《つば》を呑《の》み込んでから、仮定を述《の》べるのが聞こえた。
「腐《くさ》りかけたドラゴンと灰色|熊《ぐま》と異種交配《いしゅこうはい》して断崖絶壁《だんがいぜっぺき》から落としたところに巨大なザリガニが群《むら》がり、十六色くらいの絵の具を混ぜ合わせた濁《にご》り水をぶっかけたら、ああいうふうにもなると思う」
「黙れと言っただろう!」
オーフェンは視線はその怪物に向けたまま、馬が後ろ脚《あし》でやるように、ドーチンの顔面を蹴飛《けと》ばした。と言うか、実際に蹴飛ばされたのはボルカンだったが、ドーチンを蹴飛ばすつもりではあった。
「なにしやがる!」
ボルカンの怒鳴《どな》り声は上《うわ》の空に、オーフェンは怪物を凝視《ぎょうし》した。似ている……
実のところ、ドーチンの描写《びょうしゃ》はそれほど的《まと》を外《はず》れてもいなかった。べたべたな粘液《ねんえき》に塗《ぬ》りたくられた表皮《ひょうひ》は鱗《うろこ》の上から剛毛《ごうもう》のようなものに覆われており、体長は三メートルほどはあるだろう。重さにしてみれば、一トン近いかもしれない。首と胴の区切りはつけづらく、楕円形《だえんけい》の物体に大ざっぱに頭部と無数の手脚をくっつけたようなシルエットである。いや脚は六本だと、オーフェンは数えた――ただ身体のあちこちからデタラメに生《は》えている触手《しょくしゅ》に細いものや太いものがあって、それが脚に見えることもある、というだけだ。手脚の先には鈍《にぶ》そうな鉤爪《かぎづめ》がついている。触手には、爪はついていない。背中に巨大な翼《つばさ》があり、その怪物の姿をますます大きく見せていた。
確かにドラゴンに似ている――街の外では野盗《やとう》に次いで危険な獣《けもの》であるドラゴンに。が、それはむしろ人間がイメージした『ドラゴン』というものの平均《へいきん》像に似ているのであって、実際にドラゴンを見たことがあるオーフェンは、その違いをいくつかあげることもできた。例《たと》えばドラゴンの目は緑色である。この怪物の瞼《まぶた》は焼けただれたように瞳《ひとみ》を覆い隠《かく》し、まるっきり前が見えないのではないかとオーフェンは思った。融《と》けた瞼は瞳だけでなくあごまで垂《た》れ下がって、血のようなものを滴《したた》らせていた。
また例えばドラゴンには知恵がある――決して人間の多数集まる街《まち》に近づいたりはしない。この怪物になにか理性のようなものがあるのか――いや、残っている[#「残っている」に傍点]のか、とオーフェンは訝《いぶか》った。だとしたら、呼びかけに応えるはずだ――
「アザリー!」
オーフェンは、叫んだ。
怪物は、ぴくりともしなかった。ゆっくりと――砂漠《さばく》に住むトカゲのようにゆっくりとした動作で、頭《こうべ》を巡《めぐ》らしている。なにかを探《さが》すように。やはりこの怪物は目が見えないのだと、オーフェンは悟った。彼は、もう一度叫んだ。
「アザリー! 俺《おれ》――いや、ぼくだ! ずっと探していた――」
オーフェンは両手を広げ、足を踏み出した。あわてて、後ろからボルカンが取り押さえようとする。
「お、おい、狂ったのか黒魔術師!」
「うるさいっ!」
オーフェンは気短《きみじか》にボルカンを振り払うと、また一歩、怪物のほうに近寄った。ボルカンが叫ぶのが聞こえる。
「おい! どういうつもりか知らんが、今ここであの化け物を仕留《しと》められるのは貴様《きさま》のくそったれな魔法だけなんだぞ! 分かってるのか?」
「あれは化け物じやない!」
「じゃあ、なんだってんだ。適当なコトぬかしてっと、耳かきでほじり殺すぞ!」
「あれは――」
オーフェンが言いかけた刹那《せつな》、怪物が頭をもたげ、天井《てんじょう》に向かい――吠《ほ》えた。
犬の遠吠えのような、なんのことはない、ただの遠吠えのように聞こえた。だがその声が響《ひび》き渡り、あたりを湿《しめ》らせるように満ち渡ったときには――部屋の中は炎《ほのお》であふれ返っていた。
「うわああああっ?」
オーフェンは悲鳴をあげつつも、考えるよりも早くその声で自分の魔術を発動させていた。炎の舌がその場にいる全員を包《つつ》むよりも早く、オーフェンたちと怪物との中間あたりに無数の光輪《こうりん》が現れ、鎖《くさり》で編んだ鎧《よろい》のように炎を遮《さえぎ》る――炎と光輪とに阻《はば》まれて、怪物の姿は見えなくなるが、オーフェンはなおも叫んだ。
「アザリーっ!」
「あの怪物、魔法まで使いやがった!」
ボルカンがわめく。炎が漆喰《しっくい》を焦《こ》がす臭《にお》いが立ち込めてきた。
「アザリー! 逃げないでくれ! ぽくだ!」
オーフェンは呼びかけ、両手をかざして呪文《じゅもん》を詠唱《えいしょう》した。
「我退《われしりぞ》ける、じゃじゃ馬の舞《まい》!」
ばしんっ! と空気そのものを棒《ぼう》でひっぱたいたような音がしたかと思うと、次の瞬間にはもう光輪も、炎も消え去っている――そして、怪物も。半壊《はんかい》し、炎にくすぶる部屋には無残な残骸《ざんがい》だけが転がり、馬鹿《ばか》にするようにだんまりを決め込んでいた。
オーフェンはかつてそうしたように、窓――と言うより壁の穴に駆《か》け寄った。虚空《こくう》を見上げ、巨大な怪物の姿を探す。だが、よく晴れた街の空のどこにも、もう化け物の姿は見当たらなかった。
第二章 追憶《ついおく》の呼び声
………
彼女はあの<<牙《きば》の塔《とう》>>で黒魔術《くろまじゅつ》を学ぶ若者たちの一種のアイドルのような立場にいた。そして文字どおり、偶像《ぐうぞう》のように崇拝《すうはい》する男もいた。実のところ彼もそのひとりだったと言ってもいい。
彼女は、天魔《てんま》の魔女と呼ばれていた。
多分自分のひいき目を差し引いても彼女は美人だったろうと思う。なんにしろ彼の自慢《じまん》の種《たね》のひとつは彼女だった。彼は、五歳年上の彼女とは同じ教室の生徒であるというだけでなく、昔から姉弟《きょうだい》のようにして育ってきたのだ。
髪を短くすることに、彼女はいつも不平をもらしていた――が、彼はむしろ彼女にはショートカットのほうが似合うと思っていた。もっとも彼女が頭髪に関する<<塔>>の規定について文句を言っているときには、彼はたいてい黙《だま》ってあいづちを打っていた。あるいはそんなことはどうでもいいと思っていたのかもしれない。
実際、どうでもよかったのだ。彼女の価値は、そんなことではなかった。
彼女の顔にはやや少女じみた面影《おもかげ》が残っていたが、まだ彼女くらいの年齢であれば、童顔《どうがん》というほどのことでもなかろう。快活で小利口《こりこう》そうに輝《かがや》く彼女の双眸《そうぼう》に自分の姿が映《うつ》っているのを見るのが、彼は好きだった。そうすれば自分も彼女のような強力な魔術士の一員になれるような気がしたのだ。
現実には、彼女とじっと見つめあうような機会がそうそうあったわけではない――戦闘訓練《せんとうくんれん》の際に対峙《たいじ》したときがほとんど唯一《ゆいいつ》のチャンスだったのだが、その次の瞬間《しゅんかん》には無造作《むぞうさ》に接近してきた彼女に腕をねじ上げられ、息ができなくなるほど強烈《きょうれつ》に背中から床《ゆか》にたたきつけられるのが常だった。
「あんたって、いっつも投げ飛ばされるのを待ってるみたいよね」
彼女はよくそう言った。彼は、実際そうなんだということは、あえて秘密にしていた。
それらはすべて遠い記憶《きおく》だったようだが、冷静に思えば、それほどの年月が経ったわけではなかった――だが、確かに彼自身にとってみれば、ひどく長い時間だった。ひかえめに言っても彼は、じれったかったに違いなかった。
夢の中でさえ、彼は焦《こ》がれていた……
天魔の魔女アザリーの葬儀《そうぎ》は、ぞの生前の業績や人気から考えれば、意外なほどそっけないものだった。少なくとも、少年はそう思った。だが、周《まわ》りにいる誰《だれ》も、そうは思わないらしかった――中には、明らかに嫌悪《けんお》の表情を浮かべている者もいる。そういった者たち――主《おも》に老人たち――が毒《どく》づくように漏《も》らすつぶやきは、少年の耳にはごく断片的にしか舞い込んでこようとはしなかったくせに、その後いつまでも消えようとはしなかった。
「……まさか彼女が――」
「しかし、目撃者が多数――」
「大変なことになった。もし――」
「王宮《おうきゅう》の方は、担当の者が抑《おさ》えを……」
「しかし、それは緊急《きんきゅう》の――」
「致命《ちめい》的な汚点《おてん》――」
「汚点――」
汚点。
波紋《はもん》のようにくりかえされるその単語を、少年は我《わ》が身に押される焼き印のように震《ふる》えながら聞いていた――だがたとえそれが実際の焼き印だったとしても、痛みは感じなかったかもしれない。少年は、ちらりと<<牙の塔>>の裏庭のほうを見やった。彼がいま参加しているこの葬列は、その裏口から出発したのである。こっそりと。
裏庭には、ぽつぽつと、まばらな見送りが立っていた。中には、明らかにアザリーと友人だった者もいる。その者たちの表情は、なぜか、葬列で毒づく老人たちの浮かべるそれと酷似《こくじ》しているようだった。少なくとも、少年はそう思った。
葬列はゆっくりと、共同|墓地《ぼち》へと続く丘を登っていく。少年も処分される家畜《かちく》のようにうなだれて、魔女の棺《ひつじ》のすぐ後ろを歩いていた。彼のほかに誰も、その位置を歩きたがる者がいなかったのだ。
「キリランシェロ」
名前を呼ばれて彼は、はっと顔を上げた。見ると、彼の横を彼と同じくらいの年齢の、赤毛の少年が並んで歩いている。
「ハーティアか」
キリランシェロと呼ばれた少年は、赤毛の少年に、うつろな瞳《ひとみ》で言った。
「君も葬列に参加していたなんて、気が付かなかった」
「チャイルドマン教室の人間では、ぼくらだけだよ」
ハーティアは、日差しにあたりさえすれば明るく映《は》える赤毛をかき上げながら、さびしげにつぶやいた。今日は日の光はない。いやらしいほど雰囲気《ふんいき》にぴったりな、大理石模様《だいりせきもよう》の暗い雲が渦巻《うずま》いている。
「先生は?」
キリランシェロが聞くと、ハーティアは呆《あき》れたように、
「君は、よほど参ってるみたいだな。先生なら、すぐそこにいるだろ?」
と、葬列の先頭のほうを示した。
キリランシェロは、ああそうかとつぶやき、そしてそんなことはどうでもいいのだと思った。本当にどうでもいいことだ――なにもかもどうでもいいような気がする。生きることも、死ぬこともどうでもいい。
「おい、しっかりしろよ。そりゃ君は特にアザリ――いやあの――彼女とは親《した》しかったんだから、分からないでもないけど。まるで自分の葬列に参加してるみたいに見えるぜ?」
「事実そのとおりかもしれない」
「おいおい」
ハーティアは呆れたような声をあげ、そして、友人のそばを離れると、列の先の教師のほうへと足を速めた。キリランシェロはその後ろ姿を見送りながら、その視線を、ハーティアから背の高い黒魔術士――彼らの教師であるチャイルドマンヘと転じた。
チャイルドマンは、まさしくこの大陸でも最高の黒魔術士のひとりである。実際その|風評《ふうひょう》に半信半疑だった者も、当人の姿を十メートル先から眺《なが》めれば、自《おの》ずと意見を変える。年齢は二十代の半《なか》ばと若く、頑強《がんきょう》な身体《からだ》に強烈《きょうれつ》な意志《いし》を持った双眸《そうぼう》は、いかにも彼を隙《すき》のない戦士に見せた。黒髪を背中まで伸ばし、うなじのあたりで紐《ひも》で束《たば》ねているが、これはどちらかというと、単に切らなかったから伸びただけ、といった感じだった。
葬列はいつまでも続くように思えた。そして『汚点』というつぶやきも。
丘の上の共同墓地は、手狭《てぜま》ではあったが、なぜかいつも空《あ》きの墓《はか》があった。葬儀官がその墓へと葬列を先導し、棺運びの人足《にんそく》は、妙《みょう》に軽い棺桶《かんおけ》に、足取りが軽い。若い女の死人だと軽くていいや、と彼らが控室《ひかえしつ》で雑談していたのを、葬儀に出席する気になれなかったキリランシェロは、こっそり盗《ぬす》み聞きしていた。
(違うんだ――それは違うんだ。その棺に入っているのは、女の死体じゃない)
無銘《むめい》の墓標《ぼひょう》の足元にあらかじめ掘られていた墓穴に、棺桶がかつぎ込まれる。スコップが土をひっかき、参列する人々の手を順繰《じゅんぐ》りに回って、棺に土を被《かぶ》せていった。キリランシェロは、呆然とそれを見ていた――チャイルドマンが強い腕で土を捨て、ハーティアが軽くスコップを動かすのを。さきほどまでなにか毒づいていた老人たちも、さすがに今は口を閉ざしている。
キリランシェロは陰鬱《いんうつ》に考えた。いいだろう。あんたらがなにを埋《う》めているつもりだとしても、あんたたちはそれで満足なんだろうから。
やがて、彼の番がきた。
目の前に突き出されたスコップの柄《え》を、キリランシェロはなにか不思議《ふしぎ》なものでも見るように眺めた。誰かが咳払《せきばら》いし、かなり長い時間が経《た》ってから、彼はスコップをつかんだ。
そして、墓穴に飛び降りて、スコップの先で木でできた棺の蓋《ふた》をぶち抜いた。スコップは地面に突き立てた杭《くい》のように、ずぼっと棺に突き刺さった。
くぐもったようなどよめきが起こったが、訓練された黒魔術士たちは、さして驚《おどろ》きを顔に出したりはしなかった。葬儀官も、老人たちも、チャイルドマンも、ハーティアも。棺運びの人足は、もう用済みとあってさっさと立ち去っている。
キリランシェロはそれほど深くない墓穴の底から上を見上げ、叫《さけ》び声をあげた。
「これは誰の葬式なんですか?」
「……チャイルドマン教室のアザリーの葬儀だよ、キリランシェロ」
答えたのがチャイルドマンひとりだけだったので、キリランシェロは自分の教師に向き直り、続けた。
「じゃあ、彼女の死体がこの棺に入っているというんですか」
「いいや――お前も承知のとおり、その棺は空《から》っぽだ」
チャイルドマンの声はいつもと変わらず、厳格《げんかく》で隙《すき》がない。岩と話しているようなものだ――道をふさぐ岩に向かって、邪魔《じゃま》だからどけと。
キリランシェロはしかしへこたれず、言った。
「だったらこれは、彼女の葬式じゃない」
「屁理屈《へりくつ》を言うな」
「屁理屈なものか! 彼女は生きてるんですよ!」
「それは、人によっては生きていると言う者もいるだろう」
チャイルドマンは墓穴のキリランシェロに向かって手を差し伸べながら、
「だがわたしは、彼女は死んだと思っている。そして、おおかたの者もだ」
キリランシェロはその手をはねのけた。
「おおかたの者、じゃない。おおかたの地位を持っている者が、だ。あんたたちは、この<<牙の塔>>の名声に傷がつくのを恐れて、彼女のことを黙殺《もくさつ》するつもりなんだ!」
「事実、彼女の失敗はこの魔術の最高峰《さいこうほう》<<牙の塔>>の評価にとって致命的な汚点になりかねなかった」
致命的な汚点――またこれを聞いて、キリランシェロは歯がみした。
「彼女は汚点なんかじゃない。この<<塔>>始まって以来の優《すぐ》れた魔術士だ。黒魔術だけでなく、白魔術にまで精通《せいつう》し――」
「そう。優れた魔術士だった」
「だったじゃない! まだ生きてるんだ!」
キリランシェロは冷徹《れいてつ》な教師とにらみあいながら、話が平行線になっているのを感じていた。自分の力がこの程度だということも。これ以上、この場にいる人間を説得《せっとく》することもできはしない。
チャイルドマンの横から、ハーティアの心配そうな顔。
「おい、キリランシェロ、よせよ――」
「なにをやめろと言うんだ! 彼女が生きていると考えるのをやめろってのか?」
「お前はエリートなんだ。この前も首席をとっただろう? このままいけば、いずれは王宮にもあがれる――」
「黙《だま》れよハーティア。そんなものはお前にやるさ。次席のお前にな」
キリランシェロは険悪《けんあく》な形相《ぎょうそう》でそう言うと、再びチャイルドマンに向き直った。
「あんたらは空っぽの棺を埋葬《まいそう》しようとしている。だからぼくは、その棺に必要な中身を提供してやるさ」
「わたしの首か?」
別に馬鹿《ばか》にした様子《ようす》もなく真顔《まがお》で、チャイルドマン。キリランシェロは一瞬《いっしゅん》不意をつかれて口ごもったが、すぐに思い直し、続けた。
「違う。このぼくをだ」
「正気か?」
これをつぶやいたのは、ハーティアだった。キリランシェロは無視して、くりかえした。
「このぼくをだ! このぼくの名前を、お前たちは埋葬するがいいさ! アザリーの記録といっしょにな! ぼくは彼女を探し出す。何年かかろうともだ。それまでは、ぽくは――孤児《オーフェン》だ。彼女のほかには誰もいない、孤児だ」
キリランシェロ――いやオーフェンは、棺からスコッブを引き抜き、空に向かって突き上げた。居並ぶうちの何人かは尻込《しりご》みして後退《あとずさ》りしたが、チャイルドマンは、眉《まゆ》をぴくりともさせなかった。大陸最強の黒魔術士は、穏《おだ》やかな口調《くちょう》でつぶやくように言った。
「彼女を――いや彼女が変貌《へんぼう》したあの化け物を見つけだして、どうするというんだ? お前のキスひとつで元の姿にもどしてやるつもりか?」
「ふざけてろよチャイルドマン。あんたがどこかに封印《ふういん》した、あの罰当《ばちあ》たりな<<剣>>とやらも見つけだしてやるさ。あの<<剣>>の魔力で彼女が変身したのなら、もう一度――」
「お前には不可能だ」
チャイルドマンは、ぽつりとそう言った。オーフェンは弾《はじ》かれたように、
「あんたにならできるって言うのか!」
「わたしか? わたしになら――」
静かな表情をたたえ、チャイルドマンはそこまでつぶやきかけて、□を閉じた。ちらりと、左右の老人たちに視線を投げて――そして嘆息《たんそく》を見せた。彼は自嘲《じちょう》するように言った。
「馬鹿げたことを言うな」
「馬鹿なもんか」
「とっとと起きろってんだ、この馬鹿」
「ぼくは正気だ」
「起きろっつってんだよ、魔術士! さもないと革《かわ》のグローブで殴り殺すぞ!」
殴り殺す!――殴り殺すだと?……
夢から覚《さ》めると、そこは墓穴の底ではなく、牢屋《ろうや》の中だった。もう少しつけくわえるならば、トトカンタ市の誇《ほこ》る優秀な警察《けいさつ》の拘置所《こうちしょ》である。殺風景《さっぷうけい》な骨っぽい壁《かべ》に囲《かこ》まれた、鉄格子《てつごうし》と小さな窓の地下室。牢屋の隅《すみ》には水差しとコップが置いてあるが、どうしてもそれを飲む気にはなれなかった。だから昨日《きのう》から喉《のど》は渇《かわ》いている。
頭痛がした。眠っている間に殴られたのかもしれない。ぼんやりと霞《かす》む視界には、撫然《ぶぜん》とした表情で腕組みするボルカンと、その後ろで不安そうにこちらを見ているドーチンが並んでいた。オーフェンはゆっくりと身を起こしてから、自分自身にはうめき声にしか聞こえないような嗄《しゃが》れ声を出した。
「なんで起こした?」
後ろのドーチンが見せた怯《おび》えた表情を見れば、自分が今どんな形相《ぎょうそう》でものを言ったのか知りたくもなかったが知ることができた。実際オーフェンは、いらだっていた。が、ボルカンは気にすることもなく答えてきた。
「事情を話してもらおうと思ったわけさ」
「話すことはなにもない――」
「ふざけんな!」
ボルカンは激昂《げっこう》し、こちらの胸倉《むなぐら》をつかんですごんで見せた。こちらが座《すわ》っているからできたわけで、オーフェンが立ち上がったなら、背伸びしなければとどきはしなかったろう。なんにしろ、ボルカンは続けた。
「いいかげん、のらりくらりと言い逃《のが》れをするのはやめろってんだ! こんなところに押し込められて、三日になるんだぞ! いいか、俺《おれ》たちは詐欺《さぎ》罪と騒乱《そうらん》罪、治安妨害《ちあんぼうがい》に器物破損《きぶつはそん》の嫌疑《けんぎ》がかけられてんだ!」
実のところ、嫌疑もくそも、どう考えても有罪そのものなのだが。
エバーラスティン家の騒動《そうどう》のすぐ後に、役人たちはやってきた。近所の誰かが通報したらしい――まあ、隣《となり》の家に得体《えたい》の知れない物体が飛び込んでいくのを見れば、誰だって軍隊のひとつやふたつは呼びたいところだろう。トトカンタの治安警察官ほど優秀な役人はいないが、あのときばかりは彼らも事態の収拾《しゅうしゅう》に困ったのか――とりあえず、手近にいた結婚詐欺師どもを捕《つか》まえた。あっと言う間の逮捕《たいほ》だったのでオーフェンらは逃げることもできず、貸衣装《かしいしょう》のまま牢屋《ろうや》にほうり込まれたのである。
オーフェンは皮肉《ひにく》な笑みを浮かべながら、
「そのうち詐欺罪はお前の担当だ」
「あのなあ! そんなことより、問題になってるのはあの化け物のことなんだよ! あの場にいた全員が、てめえがあの化け物に話しかけたところを見てんだ――」
オーフェンは即座《そくざ》に胸倉をつかまえているボルカンの手を引きはがし、逆にねじ上げた。そのまま投げ飛ばすように手を放すと、低い声で告げる。
「いいか。俺は何度もくりかえすのが嫌《きら》いだ――だからこれが最後だぞ。彼女を化け物と呼ぶな。分かったか」
「じ、じゃあ、なんだってんだよ」
痛む腕をさすりながら、ボルカン。
オーフェンは立ち上がり、背中を背後の壁に預《あず》けると、ふっ――と、遠くを見るように虚空《こくう》を眺《なが》めた。彼はしばらく、どう話しはじめればいいものか悩《なや》んでから、ぽつりとつぶやいた。
「たいてい子供ってのは、自分のことを可愛《かわい》がってくれる年上の女に――憧《あこが》れるものなんだよな」
「……お前、人間離れしてるとは思ってたが、あんな怪獣《かいじゅう》に育てられたのか?」
オーフェンがぎろりとにらみつけると、ボルカンはさっきねじあげてやった腕をさっと背後に隠《かく》し、口をつぐんだ。オーフェンはゆっくりと続けた。
「俺は<<牙の塔>>で育った」
その名を聞いて、ボルカンとドーチンが、さすがに神妙《しんみょう》に唾《つば》を呑《の》んだ――この大陸では誰も知らぬ者のない、魔術の最高峰《さいこうほう》である。強力な魔術士たちを擁《よう》し、時に一戦乱の大局面を左右するような巨大な魔術を行うこともある。緊張《きんちょう》に堪えられないような吐息《といき》をもらして、ボルカンが口を聞いた。
「なるほど――あそこだったら、あんな怪獣を量産しててもおかしくない」
「違うと言ってるだろうがっ!」
オーフェンが叫んで思いっきりボルカンを蹴飛《けと》ばすと、さすがに廊下《ろうか》のずっと向こうにいる看守《かんしゅ》が鋭《するど》い視線をこちらに投げた。
「おい。なにをやってる!」
オーフェンはあわてて、愛想のいい笑みを浮かべて手を振った。
「あ、いや、別になんでもないです」
「……なにがなんでもないってんだ、コラ」
オーフェンの固い貸靴《かしぐつ》の底で踏《ふ》み台みたいに踏まれた格好《かっこう》で、ボルカンがぼやくのが聞こえたが、それは無視した。オーフェンは今度は小声で、手早く話しはじめた。
「俺は<<牙の塔>>で育ったんだ。物心つくころからな。俺は孤児《こじ》だった――というか、あそこの魔術士たちは、みんなそうだ。まともな親がいるんだとしたら、あんなトコに入門させたりはしないだろう。あそこに入門した子供で、生きて卒業できるのは、一割に満たないんだからな。ここまでは文句ねえな?」
「はい」
とドーチン。
「踏まれたままでいる以外は」
とボルカン。こちらは無視して、オーフェンは続けた。
「だからあそこの連中は、互《たが》いが互いに孤独《こどく》で不安なのさ。競争は激しいから、気の置けない友人なんぞ、おいそれと作れない。ひとりかふたりがせいぜいだ。俺にとっては、アザリーがそうだった。<<牙の塔>>始まって以来と言われた、最優秀の魔女で、俺より五つ年上」
「あの格好じゃあ、年齢なんて分かりっこないだろ――痛えっ!」
貸靴の踵《かかと》で踏みにじりながら、オーフェンはさらに続けた。
「きれいな人だったよ。恋人も何人かいただろうと思う。なんにしろ、することが派手《はで》な人だった。だが彼女はなにかの魔術に失敗して――」
自然に、彼の声のトーンは落ちた。
「ああなったんだ」
「……どうなったって?」
と、意地の悪い声で、ボルカン。オーフェンは地人のたくらみに気づいて、絶対に『怪物』の単語は使わないように、答えた。
「しっぺ返しをくらったのさ。魔術の失敗のせいでな。俺は<<塔>>を出て、彼女の行方《ゆくえ》を探していた。ずっとだ――というか、お前らに借金を踏み倒されていなければな」
「だがそのおかげで、彼女に再会できたんだろうが」
ボルカンが足の下からつぶやく。オーフェンは鼻を鳴らした。
「感謝《かんしゃ》するつもりはないね。だからとっとと借金は返済してもらう」
「金の亡者《もうじゃ》が」
「そういう捨《す》てぜりふは、実際に金を足元にたたきつけながら言ってもらいたいね。無料で聞いてやる義理はない」
そう言ってオーフェンがボルカンの背中から足をどけると、恐る恐るというように、ドーチンが聞いてきた。
「じゃあ、あの怪――いえ、彼女は、もとは人間だったっていうんですか?」
「そうだ」
オーフェンはうなずいた。
「俺は実際に、彼女が変身するところを見た……」
「そ、それって、どんな魔法だったんですか?」
「知らんよ」
あっさりと、オーフェンは言った。
「知らない?」
「そうだ。変身したとき、彼女は正規《せいき》の魔術をやっていたわけじゃなかったんだ。自室で、無断で魔術を実行したのさ。その理由は、本人にでも聞かなきゃ分からんだろうな」
「…………」
ドーチンは少し考えてから、聞いてきた。
「じゃああなたは、あの――彼女をもとの姿にもどしてあげるために旅してたんですか?」
オーフェンは嘆息《たんそく》し、ほぼ絶望的な声音《こわね》で答えた。
「……できれば、そうしたいところだがな。彼女の使った魔術の正体《しょうたい》が分からないかぎりは、俺にはどうすることもできない」
「そういうモンだろな」
と、ボルカン。彼はくっきりとオーフェンの貸靴の跡《あと》がついた貸衣装の上着《うわぎ》をはたきながら、
「つまり、せめてあの怪物を自分の手で仕留《しと》めてやりたいってわけだろう?」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。ボケ」
オーフェンは目もくれずに毒づいた。
「じゃあ、いったいどうしたいってんだ」
不服顔でボルカンが問いただしてくるが、オーフェンは無視して床《ゆか》に座り直した。こきこきと、腕の関節を鳴らす。それを威嚇《いかく》だと思って防御《ぼうぎょ》の姿勢をとるボルカンにも気づかずに、オーフェンはひとりで物思いにふけった。
(彼女の失敗は、魔術の最高峰《さいこうほう》<<牙の塔>>にとっては致命《ちめい》的な汚点《おてん》になった。彼女の葬儀《そうぎ》を見れば、それは明らかだった。あの日、彼女の味方はひとりもいなくなったんだ)
彼は再び、目を閉じた。とにかく眠って、力を蓄《たくわ》えておきたかった。
(つまり俺以外には、いなくなってしまった。だから俺だけでもせめて、彼女のそばにいてやりたい……)
今度は夢を見なかった。
揺《ゆ》さぶられて起こされると、なにやら牢《ろう》の中の雰囲気《ふんいき》が変わっている。ボルカンでさえ騒《さわ》がずにじっとしていて、オーフェンを揺り動かしているのはドーチンだった。牢の前には看守と数人の衛兵《えいへい》が立っており、ちらりと見上げたところ、彼らは防風林《ぼうふうりん》のように半円形に並んでいる。円形の中心には、周《まわ》りの訓練された兵士たちとは根本的に違う、ほっそりとした小柄なものが、機嫌《きげん》よさそうに両手を後ろで組み合わせて立っている。
「クリーオウ?」
オーフェンは、いぶかしげに声をあげた。金髪の少女は、奇跡《きせき》的に宿題をやってきた学生のような表情で、にっこりとうなずいた。
「なんでここに?」
事態に対応できずに、だんまりしている地人たちに代わって、オーフェンは聞いた。少女がこんなところに顔を出す理由は、本来ないはずだ。
だがクリーオウは答えずに、まず周囲の衛兵たちを追い払った。看守は、じゃあ用が終わったら一言声をかけていってください、と丁寧《ていねい》な口調で言うと、牢の前からさっさと立ち去っていった。
「クリーオウ。どうしてこんなところにいるんだ?」
オーフェンは少女が口を開くより早く、そう聞いた。一応、立場としてはこの少女と彼とは対立関係にあるはずなのだが、オーフェンには、このなにを考えているのか分かりづらい少女を、敵とは考えにくかった。
クリーオウは鉄格子《てつごうし》ごしに、いきなり言い出した。
「あなたたちをここから出してあげるわ」
「おいおい」
オーフェンは、やれやれと思いながら答えた。
「脱獄《だつごく》したいなら、とっくにやってるさ。こんな鍵《かぎ》は二秒で開けられる。だが、まだ指名《しめい》手配《てはい》までされたくはないからね」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ。お母様《かあさま》が言ってたの。わたしたちに訴《うった》える意志がなければ、あなたたちは罪には問われないって」
「詐欺《さぎ》罪と器物破損《きぶつはそん》に関してはな。だがほかの罪状に関しては、罰金《ばっきん》を払う必要がある」
クリーオウは、うんとうなずいた。
「お母様もそう言ってたわ。でも、それも払ってあげる」
「ホ、ホントに?」
これはボルカンである。この地人の少年は窮地《きゅうち》に光明《こうみょう》を見たような姿をモロに見せて、崇拝《すうはい》者が女神に取りすがるように、鉄格子にすがりついている。
それを横目に、オーフェンは聞いた。
「どうして? 君たちにそんな義理はないだろう? まさか君の母親はまだ、俺のことをブルプルワーズだと思ってるんじゃないだろうな」
オーフェンは冗談のつもりで聞いたのだが、クリーオウは大まじめにかぶりを振った。
「違うわ。実はね、頼《たの》み事があるの」
「取引《とりひき》したい、ってわけか?」
オーフェンは聞きながら、腕組みして立ち上がった。
クリーオウはあっさりと、
「そうなの。あなたは魔法使いなんでしょ?」
「ああ。そうだ。だが――」
オーフェンは、にやりと笑みを浮かべて、
「黒魔術士ひとりを雇《やと》うのに、罰金の肩代わり程度じゃ安すぎるな」
「おいコラ、魔術士!」
ボルカンがあわてて声をあげるが、オーフェンは無視してクリーオウを見つめつづけた。少女は肩をすくめて、
「相場《そうば》はいくらくらいなの?」
「用件にもよるがな。まあ、そんなに高い買い物をさせようってわけじゃない。実は俺が着てるのは貸し服でね。延滞《えんたい》料金を払わなけりゃならないんだが、あいにく俺には手持ちの金がない」
「いいわよ。その程度なら。これで足りるかしら」
と言ってクリーオウは、自分の右手から小さな指輪をすっと外《はず》した。それを見てオーフェンは、思わずあっけにとられた。
「あのなあ……」
「なに?」
少女はなにも分からないようで、きょとんとしている。オーフェンはクリーオウの手から指輪をとりあげ、まじまじと眺《なが》めた。
「これがどれだけの価値を持っているのか、君は知ってるのか?」
「さ、さあ? でもデザインも古いし……」
クリーオウはオーフェンの言っていることが理解できないようで、不思議《ふしぎ》そうにこちらを見ている。指輪はごくシンブルな銀のリングに、少女の好みそうな、砂利《じゃり》のような透明の宝石がひとつだけ、ついている。細工《さいく》は細かく、よく見ると文字のようなものが彫《ほ》られているのが見て取れた。
オーフェンは嘆息して、
「そりゃ古いはずだ。千年は昔だろうよ。ドーチン、ここに彫られている文字が読めるか?」
興味《きょうみ》ありそうに寄ってきたドーチンに手渡した。ドーチンは眼鏡《めがね》の位置を動かしながら、細《こま》かい文字をしばらく見つめた。が、あきらめるようにそれを返し、
「分からないよ。でも言えるのは、いま現在、この文字を使っている種族はこの大陸にはいないってことかな」
「そこまで分かればたいしたもんだ。俺にだってこの文字は読めないが、昔この指輪と同じものを見たことがある――」
そこまで言いかけてオーフェンは、はっと気づいた。意外すぎて気づかなかったのだ。
「ちょっと待てよ、クリーオウ。俺はこの指輪を<<牙の塔>>で見たんだぞ? なんで君が持っているんだ?」
いきなりまくし立てられて、クリーオウ自身びっくりしたようだった。少女は困《こま》ったように口ごもり、つぶやくように答えた。
「よく覚えてないわ。でも子供のころから、わたしの宝石箱に入ってたの。小さいころにどこかで見つけて、しまい込んでたみたいなんだけど……」
「<<牙の塔>>から持ち出したってのか? 冗談じゃない。あそこからヘアピン一本|盗《ぬす》み出せる人間がいるもんか」
「わたし、盗んでなんかいないわ」
「そいつは分かるよ。だが、この指輪がこの世にふたつとあるわけがない。こいつは、強い魔力を持っているんだ――俺たちの魔術とはまったく異なった、古代の魔法だ」
「その文字、なんて書いてあるの?」
クリーオウの問いに、オーフェンは撫然《ぶぜん》として答えた。
「さあな。この文字の解読は、部分的にしか成功していないんだ。このテの代物《しろもの》を発動させるためには、この字を読み上げなければならないらしいんだがね」
「気味が悪いわ――あ、魔法が気持ち悪いって意味じゃないんだけど」
クリーオウはオーフェンに気を遣《つか》うようにそう言って、続けた。
「その指輪、強い力を持っているのに、誰《だれ》にも支配できないんでしょ?」
「まあ、そうなるな」
オーフェンはまじまじと指輪を眺めながら、言った。クリーオウが、小さく身震《みぶる》いする。
「それ、あげるわ。代金も、それでいいでしょ?」
「ああ。だが、こんなもので貸衣装《かしいしょう》の代金は払えないな。お釣《つ》りがくるどころか、それだけで貸衣装屋が一家で心中《しんじゅう》しかねない」
「うん。じゃあ、わたしが立て替えておいてあげる」
クリーオウがまだ気味悪がっているようで、わずかに後退《あとずさ》りするような姿勢でそう言った。オーフェンは自分の指に指輪をはめようとしたが、小指にすら入りそうになく、あきらめてポケットにほうり込んだ。
「じゃあ、商談成立だ」
「よかった。実はね、お母様、ものすごく困ってることがあるの」
「どんな悩《なや》み?」
オーフェンの問いに対して、クリーオウの返答はごく短く、そしてとことん軽かった。
「なんだかね、誰かがわたしたちを皆殺《みなごろ》しにしようとしているみたいなの」
『貴家の所有するバルトアンデルスの剣を当方に引き渡されよ。
貴家の意向は問わず、我々《われわれ》はこの要求を遂行《すいこう》する手段を有している。
もしこの剣が速《すみ》やかにこちらに引き渡されない場合、貴家にとって重大な危険が予測される。日時は――』
その日時は、今日《きょう》になっていた。今日のいつ、どこでとは記《しる》されていない。つまり、向こうからこの屋敷に取りにくるということであろう。
「バルトアンデルスの剣?」
上質の紙の便箋《びんせん》を持ち上げながら、オーフェンは聞いた。周《まわ》りには、ボルカンとドーチン、そしてクリーオウと、ティシティニーがいる。マリアベルは自室にいるらしい。オーフェンやボルカンらは、もう既《すで》に貸衣装は返却《へんきゃく》し、各々《おのおの》のもともとの格好《かっこう》にもどっている。黒魔術士《くろまじゅつし》流の暗い色を基調としたオーフェンや、ぼろぼろになった毛皮のマントに剣を携《たずさ》えたボルカン。土管《どかん》みたいにでかい荷物をひきずっているドーチンと、それぞれに、ところどころ怪《あや》しい。オーフェンは、特にボルカンには、その剣をなんとかしなければ、あんな奇麗《きれい》な屋敷《やしき》には入れてもらえないと言ったのだが、ティシティニーはなんら気にすることなく、全員を屋敷の一番|見事《みごと》な応接間に通してくれた。
それどころか、ティシティニーが結婚詐欺というものをどの程度の脅威《きょうい》だと思っているのか知らないが、とにかく屋敷にもどってきたとき、この婦人はまるっきり気分を害したようにも見えなかった。オーフェンなどは自分の地位がブルプルワーズと名乗っていたときからまったく失墜《しっつい》していないのではないかと思ったほどだ。実害がなかったから別にいいと思っているのか、それともいきなり娘の部屋の壁《かべ》をぶち破って得体《えたい》の知れない物体が飛び込んでくるような御時世《ごじせい》であるなら、悪魔とだって手を組もうと腹をくくったのか。
なんにしろ、ティシティニーは落ち着いた声で、オーフェンに答えた。
「その手紙がとどいたのは、二日前のことですわ」
(俺たちがアザリーと遭遇《そうぐう》した、次の日か)
そう思いながら、オーフェンは続けて聞いた。
「このことは、警察には?」
「いえ。わたしたちには、なんのことだかさっぱり見当もつかないことですし……」
「見当もつかない?」
脅迫状《きょうはくじょう》というものがなんのことだか知らないと言うのなら、結婚詐欺についても同様ということはあるかもしれない。だがティシティニーが言ってるのは、そういうことではないようだった。
「ええ。つまり、この――バトルアンデスの剣、ですか?」
「バルトアンデルス[#「バルトアンデルス」に傍点]の剣、です」
「ああ、そうですか。聞き馴《な》れないものですから――とにかく、このなんとやらの剣とかいうものがどういうものなのか、この屋敷のどこにあるのか、わたしたちはなにも知らないんですの」
「つまり、どういうことです?」
「主人は生前、道楽で骨董品《こっとうひん》やら、珍《めずら》しい品物を収集していましたので、その中にこのバルトアンデルスの剣とかいうものが入っていたとしても不思議はないんですが……でも、わたしにはどれがそうなのか……」
「ご主人のコレクションというのは、今はどこに?」
「地下の倉庫《そうこ》ですわ。あとで案内いたします」
やや青ざめたティシティニーの顔と、手の中の脅迫状とを見比べるようにしながら、オーフェンは大きく吐息《といき》した。実はクリーオウが話を持ってきたとき、彼は最初、もちろんアザリーのことについてなにかあるのだろうと思っていたのである。だが屋敷に着いてみると、一通の脅迫状を見せられた。まさかこの脅迫状をアザリーが書いたとは考えにくい。
と、オーフェンが考え事をしている間に、いかにも専門家を真似《まね》た口調《くちょう》でボルカンがティシティニーに聞いた。
「例の化け物については?」
じろりとオーフェンがにらみつけるが、ボルカンはちょうど背を向けていたので、気づかなかった。ボルカンと向かい合っているティシティニーだけがオーフェンの視線に気づき、また、あのときにオーフェンが怪物に向かって切実《せつじつ》な様子《ようす》で話しかけていたのを覚えていたのだろう。少し具合悪そうに答えた。
「あの――例のあれは、姿を現していませんわ。なにか関係があるとお思いなのですか?」
「もちろん、なにかしらの因果《いんが》関係があるものと思ったほうが自然でしょう」
ボルカンは、したり顔で、
「この脅迫状は、どのようにしてこの屋敷にとどいたのですか?」
聞いたのはボルカンだったのだが、ティシティニーはオーフェンに向かって答えた。
「朝、目が覚めたら、鏡台《きょうだい》に貼《は》りつけてあったんです」
「魔術ですね」
オーフェンが言うと、ティシティニーは、恐《おそ》らく、とうなずいた。
「どうしてです?」
ドーチンが聞いてきたので、オーフェンは肩をすくめた。
「郵使《ゆうびん》ですむところをわざわざそんな凝《こ》った真似するのは、魔術士くらいなものさ」
「……派手《はで》好《ごの》みなんですね」
「そうだな」
と答えながらオーフェンは、ふと、確かにアザリーなら、そういうことを思いつきそうだと思っていた。
「じゃあ、例の倉庫というのに案内してもらえますか?」
オーフェンが言うと、ティシティニーは、はいと言って、
「クリーオウに案内してもらってくださいな。わたしは、マリアベルの様子を見てきます。あの子ったら今回のことで、すっかり参ってしまって……」
「そりゃそうでしょう」
オーフェンが同意すると、後ろのほうで、クリーオウがくすくすと笑うのが聞こえた。その笑い声の意味はオーフェンには分からなかったが、ティシティニーには分かったらしい。彼女も同じように指先で口元を押さえて、わずかに笑ったようだった。
(なんで、こんなときに笑えるんだ?)
オーフェンはいぶかったが、そのことについて口にするよりも早く、クリーオウが彼の手を取った。
「こっちよ」
えらく気安い口調である。オーフェンは、気が付いたら自分がこの少女の兄にでもなっていそうな奇妙《きみょう》な感覚を覚えながら、小さな手に引かれるまま、屋敷の応接間を後にした。
ざっと屋敷の見取り図を頭の中に描いてみて、オーフェンはこの地下室への階段が屋敷のほぼ中央にあるのではないかと見当をつけた。クリーオウに聞くと、そうよ、という簡単な答えが返ってきた。
階段を降りていくと、ひんやりとした空気がほおに触《ふ》れた。むろん採光用の窓などあるわけもないが、クリーオウが入口あたりで壁のスイッチを探《さぐ》ると、ぼんやりとしたガス灯が通路を照《て》らす。
「こんな設備まで揃《そろ》っているのか?」
オーフェンが聞くと、クリーオウは得意そうに小さな胸をそらした。
「お父様は新し物好きだったの。台所には水道もあるのよ」
「参った」
オーフェンが両手をあげると、クリーオウはうれしそうに笑った。
階段は、ひとつの扉《とびら》の前で終わっていた。頑丈《がんじょう》そうな鉄の扉で、下のほうは薄く錆《さ》びている。古そうな扉だったが、その表面に貼《は》られた数センチほどのプレートは、それほど古くは見えない。
「『この扉をくぐる者、汝《なんじ》いっさいの望みを捨てよ』」
オーフェンは、呆《あき》れたような顔で読み上げた。かたわらで、クリーオウがつぶやく。やはり胸を張って。
「お父様は悪趣味《あくしゅみ》だったの」
台所には水道もあるしな、と胸中《きょうちゅう》でつぶやいて、オーフェンは扉のノブに手を触れた。鍵《かぎ》はかかっていないようで、きしみながらも鉄の扉はゆっくりと外側に開いた。
倉庫の中は雑多《ざった》に込み合っていた。一番手前にはぎっしりと書巻《しょかん》やら絵画《かいが》やらが詰め込まれた棚《たな》が置いてあり、一瞬《いっしゅん》オーフェンは、扉を開けていきなり壁にぶち当たったような錯覚《さっかく》を覚えた。床《ゆか》にはほこりが積もっており、厚さで言えば応接間の絨毯《じゅうたん》と同レベルだ。お世辞《せじ》にも保管状態は良好とは言えないが、それでも空調はしっかりしているようで、倉庫の中から漂《ただよ》い出てくる空気は外気の香りがした。
「実はね」
クリーオウは、いたずらを告白するような声音《こわね》で、
「あの指輪、ここからわたしが持ち出したものなの。お姉ちゃんはたくさん指輪持ってるのに、わたしはそれよりみっつも少なかったんだもの」
「ここから……?」
オーフェンはつぶやきながら、倉庫の中に足を踏《ふ》み入れた。
倉庫の中にはガス灯はなかったが、通路からの明かりが差し込んで、入口のあたりは多少明るい。
見回してみると、手前の壁に立て掛けられた長さニメートルほどの歩兵槍《ほへいやり》が目についた。薄汚《うすよご》れており、また暗がりの中でよく分からないのだが、その細工《さいく》がしっかりしていることと、表面にびっしりと細かい紋様《もんよう》が刻《きざ》まれているのが分かる。戦闘《せんとう》用のものではなく、儀礼《ぎれい》用のものだ。それもかなりの年代物だろう。
(この槍一本で、一財産にはなる)
オーフェンは感嘆《かんたん》の吐息をもらしながら、そう思った。さらに見回せば、それに匹敵《ひってき》するような美術品なら、ごろごろしているとまではいかなくとも、ぽつぽつとは置いてあるのが分かった。壁一面に吊《つ》るされたタペストリーの一枚は、端のほうがこすれて傷ついてはいたが、それさえ直せば立派《りっぱ》に大手の故買屋《こばいや》にも通用するだろう。そういった代物《しろもの》がごちゃごちゃに置かれている様《さま》は、なにか一種のすごみさえ感じられた。
「……剣は?」
とオーフェンが聞くと、クリーオウは無造作《むぞうさ》に手を振って、
「そのへん」
と言った。そちらのほうを見やると、確かに倉庫の一画に、牛小屋の飼《か》い葉《ば》みたいに無造作に、大小さまざまの剣が積み重なっている。ざっと数えて、数百本という量だろう。かなり広いはずの倉庫の大部分は、その剣によって埋《う》められている。
「これで、素直《すなお》にそのバルトアンデルスの剣とやらを差し出す案はボツだな。この中からたった一本の目当ての剣を探し出すのは不可能だ」
「その人たちが来たら、この倉庫に案内して自分たちで探してもらうっていうのはどうかしら」
近づいてきたクリーオウの頭を、オーフェンはぽんとたたいた。
「君らがそれでいいなら構わんがね。俺を雇《やと》ったのは、盗賊《とうぞく》を案内するためじゃなくて、取っ捕《つか》まえるためだろう?」
「うん……」
クリーオウは、頭上のオーフェンの手を気にするように上を見上げながら、同意した。
(それに――)
オーフェン自身は、勝手な算段も持っている。
(もしあの脅迫状を出した連中がアザリーと関係あるのなら、ここで奴《やつ》らを取り逃《に》がせば、手掛かりがなくなっちまう)
クリーオウが彼の手をどけようと頭を動かしているのにも気づかず、オーフェンは迅速《じんそく》に自分の計画を立てていった。
◆◇◆◇◆
(なんで、ぼくがこんなことをしなくちゃならないんだ)
ドーチンは夜の庭園《ていえん》を、兄の後ろについて歩きながら、胸中で文句を言っていた。
(借金をしているのは兄さんで、その借金を返してほしいのは人間の魔術士で、あの怪物を捕まえたいのも魔術士で、強盗を捕まえたいのはこの家の人たちだ。ぼくは、いったいなんなのさ?)
ずるずると、相変わらず巨大なザックを引きずっている。実はこの中身は、すべて本だった。ほとんどが地人語で書かれているが、古語や人間語のものも混ざっている。平民が持っているにしては膨大《ぼうだい》な量だが、実家に置いてきた彼の蔵書《ぞうしょ》に比べれば、これはほんの一部分に過ぎなかった。
(実家――)
ドーチンはため息とともに思い出した。もう何年も帰っていない。帰りたいのは山々だったが、それができれば苦労はなかった――親に勘当《かんどう》されて家を飛び出した兄に誘拐[#「誘拐」に傍点]され、それ以来この兄の手の内から逃《のが》れられたことは一度もない。ひょっとしたら、自分はこの世で最も不幸な地人なのではないかとも思う――川辺《かわべ》や街《まち》の偶《すみ》っこで寝泊まりするのにはもう慣《な》れたが、子供を脅《おど》して店先からパンを盗《と》ってこさせるのには未《いま》だに抵抗があった。
またもや嘆息。一応見回りということで、月明かりに照らされる庭園を見回してみる――庭師《にわし》に整備された庭は広く、一見、オークの並本道《なみきみち》がそのまま庭の中に取り込まれたような気配《けはい》もある。池はない――慢性《まんせい》的な水不足に悩《なや》むトトカンタの街で、池やプールを持てるのは貴族だけだ。
あたりを見ていると、いきなりボルカンが振り返った。
「おいドーチン、ちゃんと警戒《けいかい》してるのか?」
(見れば分かるだろ)
と思いながら、
「うん」
だがボルカンには納得《なっとく》いかないようで、
「ちゃんとやらねえと、麻縄《あさなわ》で絞《し》め殺すからな」
「うん」
ドーチンは言いながら、胸中で舌を出した。
風がある――心地《ここち》いい夜だった。さわさわと、風が木々の枝葉をなでる音に、ドーチンは耳を澄ました。と――
うわーははははははは……
あと、地響《じひび》きのような、疾走《しっそう》する獣《けもの》の蹄《ひづめ》の音。随分《ずいぶん》と遠くから聞こえてくる。が――だんだんと、こちらに近づいてきているのも明白だった。
「な、なんだ?」
ボルカンにも聞こえたようで、うろたえながら背中の剣を抜こうとしている。
「警報ーっ!」
ドーチンはとにかく、これは異常事態に違いないと、屋敷に向かってできるかぎりの大声で叫《さけ》び立てた。とりあえず兄の剣に頼《たよ》るよりは、どんなにいけ好《す》かなくとも人間の黒魔術士のほうがいくらかマシだ。
「警――」
さらに警報を叫ぼうとすると、後ろからボルカンが剣で殴《なぐ》りつけてきた。
「なにすんのさっ!」
起き上がりながらドーチンがわめくと、剣を両手に仁王《におう》立ちしたボルカンは、ふっふっと笑った。
「いいか、ドーチン。計略《けいりゃく》を思いついたぞ」
聞かないほうがいい、とドーチンはごく理性的にそう思ったが、ボルカンは殴り倒されたドーチンに顔を近づけ、密談じみた口調で続けた。
「ここで黒魔術士を呼んだらどうなる? あの野郎《やろう》、怪《あや》しげな術で強盗《ごうとう》を捕《と》らえて、手柄を独《ひと》り占《じ》めするに違いない。だが、俺たちだけの手で捕まえたとしたら、どうだ? 褒美《ほうび》は俺のものだ」
(ぼくたちの[#「たちの」に傍点]、じゃないのかよ)
だがボルカンは気づかなかったらしい。
「褒美がどれだけのものになるか、考えたことがあるか、ドーチン? その褒美で、殺し屋を雇《やと》ってあの黒魔術士を始末《しまつ》させることもできるんだぞ」
「……お金が入るんなら、素直《すなお》に借金を返してあげればいいじゃない」
「馬鹿《ばか》を言うな! 思い出せ、俺たちが受けた虐待《ぎゃくたい》の数々を! ここで奴《やつ》に金を払うことは、俺たちの敗北《はいぼく》を意味するんだぞ!」
「そ、そうかなあ」
「まさしく、そうだ! 俺たちは負けるわけにはいかん! 戦士ボルカノ・ボルカンの経歴《けいれき》には傷ひとつついてはならんのだ! まずは手初めにあの黒魔術士を地獄《じごく》に突き落として――」
言いかけた瞬間、ボルカンは蹴倒《けたお》された。
「なにしやがる!」
ボルカンは、起き上がるなりドーチンに食ってかかった。
「ぼくじゃないよ!」
ドーチンが叫ぶと、ボルカンはさらに大声でわめいた。
「そんなことは分かってるが、俺はこっちに怒鳴《どな》りたいんだっ!」
「ンな無茶な!」
ドーチンが見上げると、思ったとおり近くにオーフェンが立っていた。いつもいつもこの黒魔術士は足音もなく現れる。気味悪くてしかたないが、それを言ったら、そもそもこの男は魔法使いなのだ。ドーチンから見れば、数日前の怪獣《かいじゅう》と似たようなものである。
オーフェンはボルカンの襟首《えりくび》を捕まえて、軽々と持ち上げた。表情からすれば、一言で表すと――激怒《げきど》しているらしい。
「てめえ、なんの話をしてやがった?」
「い、いえ、手早く借金を返す方法を模索《もさく》しておりました」
「全部聞いてたんだよ」
「ああっ! 俺の計略がっ! ドーチン、お前のせいだぞ!」
「あのねえ……」
オーフェンがボルカンを捕まえているので多少気を強くしてドーチンがぼやくと、いきなり庭園に哄笑《こうしょう》が響き渡った。
「うわーっはっはっはっはっはっ!」
「な、なんだ?」
いぶかしげな声を発して、オーフェンが周囲《しゅうい》を見回している。ドーチンもそれにならって、庭園の暗がりを見やった。が、もともと夜目《よめ》の利《き》きにくい地人の視界には、それらしい侵入者の姿は見つからない。
「どこを見ている! わたしはここだ!」
「なにい?」
声は、明らかに屋敷の屋根の上から聞こえた。
見上げると、月輪《げつりん》を背に、巨大な人影がそびえ立っている。三メートル以上はありそうだったが、明らかにこの前の怪物とは違った。
「何者だ!」
ボルカンが、少しでも自分の優位を確立しておきたかったのだろう、叫んだ。
屋根の上の人影は、またひとしきり哄笑してから名乗った。
「わたしは闇《やみ》に生きる暗殺者! 夜と契約《けいやく》し、昼には顔を隠《かく》し生き延《の》びる、恐怖と悪夢の具現《ぐげん》! |夢魔の貴族《ナイトメア・ブラッド》、ブラッククイガー!」
「な、なんだって?」
ドーチンはうめいて、後退《あとずさ》りした。
「知っているのか?」
オーフェンが小声で聞く。ドーチンはうなずいてから口早に言った。
「うん。多分――ブラックタイガーって――」
だが彼がその先を口にするよりも早く、屋根の上の殺し屋が宙に舞《ま》った。
「とおっ!」
夜空の星を背景に、ドーチンらがいる庭先へと、華麗《かれい》に飛び降りる。
どずん! という重い音とともに地面へと降り立ったその人影は、怪物ではなく、人間だった――黒装束《くろしょうぞく》に、顔をすっぽりと包《つつ》む黒の覆面《ふくめん》。覆面には目の位置にだけ穴が開いており、そこからは爛々《らんらん》と燃える情熱的な瞳《ひとみ》が見て取れた。両手には馬鹿でかい、絵本に出てくる死神が持つような巨大な鎌《かま》を持ち、真っ黒な雄牛《おうし》にまたがっている。そのせいで、身長が三メートルもあるように見えたのだ。牛がいなければ、殺し屋はせいぜい中肉中背でしかない。雄牛は、ぶすぶすと炎の混じった吐息《といき》を吐《は》きながら、こちらを見据《みす》えている。殺し屋の深紅《しんく》のマントが夜風にひるがえり、不死鳥の羽ばたきのようにはためいている。
(変態《へんたい》だ)
ドーチンは拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》め、胸中で断言した。
(間違いなく変態だ)
仲間の顔を見回すと、ボルカンですらも同意見のようで、唖然《あぜん》と呆《あき》れ返っている。
ブラックタイガーとやらは、大声で続けた。
「はあーっはっはっ! わたしの名を知っている者がいたとはな!」
「ドーチン、奴は何者なんだ!」
オーフェンが詰め寄ってくる。ドーチンは、ぽつりとつぶやいた。
「多分……ブラックタイガーって、海老《えび》の名前じゃなかったかな」
会話が、ばったりと途絶《とだ》える。
ブラックタイガー本人ですらもこの答えは予期していなかったようで、飛び降りたままの姿勢で凍《こお》りついたように固まっている。オーフェンも、どうしたものかと思っているようだった。ボルカンはため息をついて、早々に剣を鞘《さや》に収めている。
風が心地よかった。その風に吹かれながら、殺し屋とドーチンらはいつまでも棒立《ぼうだ》ちになっていた。
◆◇◆◇◆
オーフェンにはいくつかの幻想《げんそう》があった。
例えば官憲《かんけん》は腐敗《ふはい》した暴力でもって容疑者を虐待《ぎゃくたい》し、拘置所《こうちしょ》で賄賂《わいろ》を要求するに違いないとか、殺し屋とは冷徹《れいてつ》な仮面に燃える狼《おおかみ》の心臓を秘めた孤高《ここう》の戦士であり、恐るべき強敵であるに違いないとか。そのふたつは、同じ曰に一気に打ち壊《こわ》された。
警察は賄賂などほのめかしもしなかったし、眼前の自称《じしょう》暗殺者とやらは、そんな必要も
ないのにわざわざ自分から名乗りをあげ、今は呆然《ぼうぜん》とにらめっこだ。この分では残りの幻想が壊れる日も遠くなさそうだと、ほぼ絶望的にオーフェンは考えた。マリアベルが淋病《りんびょう》を患《わずら》っていたとしても、もう驚《おどろ》かないことにしよう。
「ええと……」
ボルカンがぼそぼそとつぶやくようにして言うのが、聞こえる。
「おいコラ、海老男」
「誰《だれ》が海老男だっ!」
ブラックタイガーが怒鳴る。その殺し屋に指を突き付けて、ボルカンは続けた。
「お前に決まってるだろーがっ! お前が驚天動地《きょうてんどうち》の悪趣味《あくしゅみ》だろうが底抜けの間抜けだろうが、もーこの際どーでもいいっ! 邪悪《じゃあく》な殺し屋など生かしておくわけにはいかん! でっかい鍋《なべ》で煮殺《にころ》してくれる!」
「ほおう? たかが地人の分際《ぶんざい》で、この無敵の暗殺者ブラックタイガー様に刃向《はむ》かおうというのか?」
「やかましいわ、海老男!」
「だから誰が海老男だっ!」
叫ぶが早いか、殺し屋を乗せた雄牛が吠《ほ》え、駆《か》け出した。ずどん! と飛び降りたときと同じ轟音《ごうおん》を立て、砲弾《ほうだん》のように飛び込んでくる。ブラックタイガーの大鎌が閃《ひらめ》き、通りすがりざまに、ボルカンの首を薙《な》いだ。
ボルカンは断末魔《だんまつま》の声をあげる間もなく、ひっかけられたように宙を舞い、庭の向こう端まで吹き飛んでいった。
「兄さんっ!」
ドーチンが悲鳴《ひめい》をあげる。オーフェンもボルカンのほうに一歩|踏《ふ》み出しかけたが、そうするよりも早く、ボルカンはむっくりと起き上がった。何事もなかったように首をさすりながら、あっと言う間に庭の別の隅《すみ》まで走り抜けていった殺し屋に向かって怒鳴る。
「この野郎、痛えだろうがっ!」
ブラックタイガーも雄牛を方向転換させながら、悲鳴じみた声をあげる。
「痛いもくそも、普通は死んでるはずだろうが! お前の頭蓋骨《ずがいこつ》はなんで出来てるんだ!」
「骨で出来てるに決まってるだろーがっ! 今度はこっちの番――」
が、ボルカンが剣を抜くよりも早く、ブラックタイガーの凛《りん》とした声が夜間を突き破る。
「稲妻《いなずま》よ!」
瞬間、かかっ! と木の仮に石がぶつかるような小気味《こきみ》いい音が響くと、ボルカンの足元に電光が炸裂《さくれつ》した。爆発が起こり、地人は今度はオーフェンのすぐそばにまで吹き飛んできた。ボルカンが仰天《ぎょうてん》して座《すわ》り込んでいるのを、弟が駆け寄って起き上がらせてやる。
「ま、魔法だ」
ボルカンが、震《ふる》え声でつぶやく。
「かなりの使い手だぞ」
オーフェンは言って、崩《くず》れかけた幻想が一部分だけ復活するのを感じた。腕をまくり、いつでも魔術の集中に入れるように意識を整える。できるなら相手が自分を黒魔術士だと気づく前に片をつけたいのだが、殺してしまうわけにはいかない。アザリーのことを確かめるためにも、傷ひとつ負《お》わせないで捕らえたかった。
「はあーっはっはっ! このナイトメア・ブラッド・ブラックタイガーに敵はない! 死にたくなければ早々に立ち去るがよい、馬鹿者どもが!」
「な、なんだとこの――」
跳《と》び起き、言いかけたところでボルカンは口ごもった――ブラックタイガーの視線が、じろりとそちらを向いたのだ。
だが、恐怖よりもメンツのほうが勝ったらしい。ボルカンは半分ばかり逃げ腰《ごし》になりながらも、なんとか叫んだ。
「ええと――あ、あんまり調子に乗ってると、遠くから見つめ殺すぞ」
「そこはかとなく弱気になってるね」
と、ドーチン。
だが、明らかにもうこの地人たちは敵ではないと悟《さと》ったのか、ブラックタイガーはぐるりと覆面《ふくめん》に覆《おお》われた顔を、オーフェンのほうに向けた。
「身動きするな、黒魔術士」
(気づいている?)
オーフェンは、愕然《がくぜん》とした。彼はまだ魔術は使っていないし、その素振《そぶ》りも見せてはいなかった。
「そうだ。わたしはお前が魔術を使うことを知っている。このブラックタイガーには知らぬことなどないものと思え!」
「たいしたもんだ。調査済みってわけか。つまり――」
オーフェンは、にやりと笑い、殺し屋に向かって右手を突き出した。
「つまり?」
ブラックタイガーは、分からないというように聞き返してきた。オーフェンは続けた。
「もう知られているなら、遠盧《えんりょ》なんかする必要はないってわけだ」
「え?」
「我《われ》は放《はな》つ光の白刃《はくじん》!」
「ち、ちょっとおっ!」
ブラックタイガーは悲鳴をあげながらも、オーフェンの放った閃光《せんこう》を構えた大鎌ではじき返した。ひょっとしてとは思っていたが、やはりただの武器ではなかったようだ。
「続けて食らえっ!」
立て続けにオーフェンは強烈《きょうれつ》な光熱波《こうねつは》を放った。その力はあたりの大気をも震えさせ、ばちばちと帯電《たいでん》させる。が、それほどの魔術でさえも、ブラックタイガーは今度はなにかの呪文《じゅもん》を唱え、身の回りに張り巡《めぐ》らせた光の障壁《しょうへき》で防《ふせ》いだ。
ボルカンとドーチンは、このやり取りを見て心底《しんそこ》驚いているようだ――大陸広しといえども、これだけの威力《いりょく》ある術を連続して行使《こうし》できる人間はそこらにはいない。オーフェンは、さらに力を込めて魔力を放った。
「我は放つ光の白刃!」
広大な庭園そのものを照らし出すほどの閃光が、ブラックタイガーとその周囲の植木を吹き飛ばす。燃え上がったのはオークの木だけで、ブラックタイガーはなんとか魔術で防御《ぼうぎょ》したようだった。炎の中から、殺し屋が叫ぶ。
「炎よ!」
「我は放つ光の白刃!」
両者の魔術が中央で衝突《しょうとつ》し、轟音《ごうおん》をあげて爆裂《ばくれつ》する。熱せられた空気が庭園の中をめちゃくちゃにかきまぜ、粉塵《ふんじん》を舞い上がらせた。
(妙《みょう》だな)
と、オーフェンは思っていた。
(奴《やつ》はなんで逃《に》げないんだ――仕事の前に見張りを始末《しまつ》しておきたかったというなら、それは分からないでもない。だが、その敵の中に自分と互角《ごかく》の使い手がいるのを知ったのなら、こんなカ比べに固執《こしつ》してないで、さっさと逃げればいいんだ。これではまるで――)
はっと、オーフェンは気づいた。彼はくるりと屋敷のほうに向き直ると、足元のドーチンに、
「後は任《まか》せた!」
「え? ま、任せたって――」
返事は聞かずに走りだす。背後でドーチンが悲鳴をあげるのが聞こえた。
「ちょっと待ってよ! あんな奴、ぼくにどうしろって言うのさ!」
オーフェンは無視して屋敷に飛び込んだ。気づいてしかるべきだった――ブラックタイガーは、ただの変態《へんたい》ではなかった。囮《おとり》だったのだ。
まずは、あの三人の無事《ぶじ》を確かめるべきだろう――オーフェンはまず玄関ホールから一番近いクリーオウの部屋をのぞき込んだが、庭であれだけの騒《さわ》ぎがあったにもかかわらず、少女はベッドのシーツにくるまって、子犬のようにぐっすり眠っていた。次に近いのはティシティニーだったが、こちらは起きていた。ネグリジェの上に薄いマントのようなものを羽織《はお》って、誰かが様子《ようす》を見にきてくれるのを待っていたようだった。
この屋敷の間取りには詳《くわ》しくないので、ティシティニーを伴《ともな》って階段を登る――マリアベルの寝室はやけに遠いところにある。この前アザリーによって壁《かべ》を壊《こわ》されたので、部屋を替えたのだ。三階の、奥まったところだ。オーフェンはティシティニーの制止を無視して、扉《とびら》を蹴破った。
部屋の中は薄闇に包まれていた――開いた窓から差し込む月明かりだけが、ぼんやりとした青い光景を浮かび上がらせている。ごく平均《へいきん》的な家具が普通に並んでいるのだが、部屋が広いせいか、やけに閑散《かんさん》と感じた。
その部屋の真ん中に、ふたりの人影があった。ひとりはマリアベルで、もうひとりは、外でまだ暴《あば》れているらしいブラックタイガーと同じ格好《かっこう》をした、長身の男である。
覆面《ふくめん》の下からくぐもって聞こえる冷たい声は、男が手にしてマリアベルの喉元《のどもと》に突き付けている大型のナイフと同様、鋭利《えいり》に輝《かがや》いていた。男は扉をぶち破ったオーフェンを無視する形で、マリアベルに聞いた。そのうんざりしたような声音《こわね》から、もう何度も同じ問いをくりかえしているのは明らかだった。
「バルトアンデルスの剣はどこにある?」
マリアベルは答えない。凍《こお》りついたように真っ青な顔色で、声もなく立ちすくんでいる。
オーフェンは、男に向かって叫んだ。
「そこまでだ!」
男は、機械的な挙動《きょどう》でこちらを向いた。だが刃《やいば》はそのまま、マリアベルの細い首から離れてはいない。
(人質《ひとじち》をとられちまった。くそ――)
オーフェンは毒《どく》づいて、いつでも魔術を発動できる態勢をとった。
が――男は突き飛ばすようにマリアベルをほうり出すと、ナイフをオーフェンに向けて構えをとった。
(わざわざ人質を解放するのか?)
だがいぶかっている暇《ひま》はなかった。男は、すっ――とわずかに動いたかと思うと、次の瞬間にはオーフェンの眼前まで飛び込んできていた。あまりにもあっけなく懐《ふところ》に入られて、オーフェンは戦慄《せんりつ》した。と、鋼《はがね》のような感触《かんしょく》の男の手のひらが、オーフェンの胸元に突き付けられる。ナイフそのものを突き刺されるよりも、ぞっとする感覚が身体《からだ》を突き抜けた。
男は、ぼそっとつぶやいた。
「跳《と》べ」
どんっ! と、すさまじい衝撃《しょうげき》がオーフェンの身体を吹き飛ばし、彼は開けたままになっている入口から廊下《ろうか》まで転がっていった。
(魔術だ)
廊下に倒れたままオーフェンは、部屋の中からこちらを見つめている男の覆面を見つめながら、咳《せ》き込んだ。
(これだけの魔術を使える人間に、一晩でふたりも出会うとはな)
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
と、ずっと廊下にいたティシティニーが駆《か》け寄ってくる。オーフェンは抱き起こそうとする手をやんわりとどけると、自力《じりき》で立ち上がった。
「娘さんについていてあげてください」
オーフェンが言うと、ティシティニーは果敢《かかん》にうなずいた。が、入口に立っている恐ろしげな男の姿を見て、動けないでいる。
だがオーフェンにしてみても、同じようなものだった。
(あの男……強い。俺よりも確実に……!)
オーフェンは、すっと息を吸い、叫んだ。
「我掲《われかか》げるは降魔《こうま》の剣!」
ふんっ……と、自分の右手になにかをつかんでいる重みがかかる。彼は見えない刃を振りかざして、男に向かって突進した。オーフェンが『剣』を振り下ろすと同時、男はさっと後ろに跳んで、それをかわした。
それを追いかけて、オーフェンも部屋に飛び込んだ。もう『剣』の効果はなくなっている。彼は右手の人差し指を男に向け、叫んだ。
「我|導《みちび》くは死呼ぶ椋鳥《むくどり》!」
瞬間、彼が指さした方向に向かって、周囲の空気がやかましく振動し、押し寄せる。一種の超音波《ちょうおんぱ》で、標的となった男の背後にあるカーテンが、ぶわっと塵《ちり》のように崩《くず》れ落ち、ぼろぼろになった。もっとも、男はなんともない。瞬時に魔術で防御《ぼうぎょ》したらしい。
男が覆面の下で笑うのが見えたように、オーフェンには思えた。男がナイフをすっと上げ、こちらに向かって動き出す――
「我が指先に琥珀《こはく》の盾《たて》!」
オーフェンが呪文《じゅもん》を叫ぶと、彼の目の前の空気が圧縮《あっしゅく》され硬化していく。男のスピードは多少遅くなったが、それでも男の突進は止まろうとしない。またあっと言う間に距離を詰められ、今度は手ではなくて男のナイフが胸元に飛び込んでくる。
だが、オーフェンは笑みを浮かべた。
(かかった!)
「我は紡《つむ》ぐ光輪《こうりん》の鎧《よろい》!」
刹那《せつな》、懐に飛び込んできた男を包み込むように、数日前にアザリーの炎を防いだ光の網《あみ》が広がった。じゅわっと肉を焼く音が聞こえ、同時に広がった光の網は男の身体を部屋の向こうまで弾《はじ》き飛ばした。男は背中から壁にたたきつけられナイフを落とす。網が消えた。
「さあ。ここまでだ」
オーフェンはゆっくりと、男に向かって歩み寄った。男はうめき声をもらしながら、立ち上がろうとしている。オーフェンは慎重《しんちょう》に、男が落としたナイフを拾《ひろ》い上げ、それを突き付けようとした――
が、仰天《ぎょうてん》してナイフを取り落としかけた。
「あ、あんたは――」
起き上がった男の覆面は、光の網に焼かれてほとんど用を為《な》さなくなっていた。三十歳ほどの感情のない、頑強《がんきょう》で冷徹《れいてつ》な男の顔が、こちらを見返している。
「強くなったな、キリランシェロ」
「チャイルドマン!」
オーフェンは叫んだ瞬間には、既《すで》にチャイルドマンに突き飛ばされていた。カラン、と落ちたナイフが床をこする。オーフェンが起き上がるころには、もう部屋の中にチャイルドマンの姿はない。窓から飛び出していった後ろ姿だけが、ちらりと残像に残った。
「なにをしに来たんだ! チャイルドマン!」
オーフェンは叫びながら、自分も後を追おうとした。が、いきなり後ろから腕をつかまれる。
(まだ仲間がいたのか?)
オーフェンはあわてて振り向いたが、彼の腕に抱き着いているのは、寝間着姿のマリアベルだった。彼女は悲鳴もあげないまま目をきつく閉じて、怯《おび》えきった震える腕で抱きついてくる。振り払おうにも手荒なことはできず、すったもんだしているうちに、チャイルドマンは庭のブラックタイガーと合流して逃走《とうそう》してしまっていた。
(なんてこった……)
庭園の真ん中で、ほとんど黒焦《くろこ》げになった格好で責任|転嫁《てんか》の兄弟ゲンカをしている地人たちを見下ろしながら、オーフェンは嘆息《たんそく》した。
部屋の中にティシティニーが入ってくると、マリアベルはすぐにそちらに飛んでいった。だが、そんなことはもうどうでもいい。
「チャイルドマンだと? 大陸《キエサルヒマ》でも最強の黒魔術士だぞ? <<牙《きば》の塔《とう》>>にいるはずなのに、どうしてこんなところにいるんだ?」
オーフェンのつぶやきに答える者はいなかった。ただ娘を慰《なぐさ》めるティシティニーの静かな落ち着いた声音《こわね》と、中庭で弟を追い回すボルカンの罵声《ばせい》、そして心地《ここち》よい風の音だけが、それぞれのペースで動いている。
――『お前には不可能だ。だがわたしには――』――
過去の記憶《きおく》の中で聞いた静謐《せいひつ》で耳障《みみざわ》りなチャイルドマンの声が耳元に蘇る。その追憶《ついおく》の呼び声は、いつまでも頭の中でぐるぐると回りつづけた。
第三章 海老《えび》男の逆襲《ぎゃくしゅう》
「ねーねー。ホントに入っちやっても怒《おこ》られないの?」
うるさく腕をひっぱるクリーオウに、オーフェンは辛抱《しんぼう》強く繰《く》り返した。
「だから何度も言ってるように、知り合いがいるんだよ」
「うそぉ。だってここ、街《まち》のお偉《えら》いさんたちも、おいそれとは入場できないのよ?」
「そりゃあそうだろな」
「じゃあ、なんでオーフェンは入れるのよ」
「だから、知り合いがいるんだってば」
屋敷《やしき》が襲撃《しゅうげき》された翌日の昼前――オーフェンはティシティニーに話し、街に出ることにした。屋敷に立てこもっていたところで、再度あの連中――特にチャイルドマンが襲撃してきたならば、それを防ぐような自信は、オーフェンにはなかった。だとしたら心当たりを探し、こちらから討《う》って出たほうがいい。
そんなわけで、オーフェンはボルカン、ドーチン、そしてなぜかくっついてきたクリーオウらといっしょに、大陸魔術士同盟《ダムズルズ・オリザンズ》のトトカンタ支部に出向いてきたのである。
「知り合いって、魔術士《まじゅつし》のですか?」
ドーチンがいつもの皮袋を引きずりながら、そう聞いてきた。袋の上にボルカンが腰掛《こしか》けているのには気づいていないらしい。
オーフェンは、ああとうなずいた。
「ここには、魔術士しか入れない」
と、あごをしゃくって、広場に面してそびえるような、見事《みごと》な大門を示す。美麗《びれい》な格子《こうし》の扉《とびら》の上には鋼板のレリーフで、大陸魔術士同盟《ダムズルズ・オリザンズ》の名前の由来《ゆらい》にもなった、祈りを捧《ささ》げる乙女《おとめ》の横顔が浮き彫《ぼ》りになっている。その下の文字は『大陸魔術士同盟・トトカンタ支部』と綴《つづ》られていた。その奥にある建物も、こんな街中にあるのでなければ要塞《ようさい》かと見間違えるような重厚な代物《しろもの》で、灰色の壁《かべ》を空に突き上げている。
オーフェンがそれを見上げていると、クリーオウがいきなり思いついたように口を開いた。
「ねえ、でもさ、魔術士しか入れないんだとしたら、わたしたちはどうなるの?」
「君は魔術士か?」
「違うわ」
「じゃあ入れない。答えは簡単だ」
「えー」
あからさまに不服そうに、クリーオウは声をあげた。
「じゃあわたしたち、なんのためにここまで来たのよ」
「別に俺《おれ》が来てくれと頼《たの》んだわけじゃない。だいたい、屋敷を出る前に話したはずだぞ? 魔術士同盟には一般人《いっぱんじん》の立ち入る余地《よち》はないってな」
「言ったっけ?」
クリーオウはぶつぶつと、オーフェンの腕を放した。
オーフェンは自由になった腕を逆に曲げて伸ばしながら、ドーチンとボルカンに向き直った。地人たちはもとよりこんな未知の要塞に踏《ふ》み込むつもりはないらしく、気にしてもいないようだ。オーフェンはふたりに、クリーオウの世話を任せると言ってから続けた。
「すぐにもどる――できればな」
そして、日中はわずかに開いたままになっている格子の間をくぐりぬけ、正門へと向かう。広い石段を登りながら、オーフェンは覚悟《かくご》を決めるように深呼吸した。
魔術士同盟には一般人の立ち入る余地はない――だが、そうだからといって、必ずしも同|組織《そしき》がすべての魔術士に対して友好的であるという理屈《りくつ》にはならない。
待合室で待つこと一時間。いいかげん腹が減《へ》ったなと感じるころ、せまくるしく、なんの娯楽《ごらく》もないその小さな部屋から連れ出され、窓がなく暗く長い廊下《ろうか》を通り抜けた末、目的の部屋に着いたときに案内役の青年が言うには、
「ここでしばらくお待ちください」
オーフェンは不平ひとつもらさず、ああとつぶやいた。
案内された部屋は、どうやら客人用の控室《ひかえしつ》のようだった。そして恐《おそ》らくは、その類《たぐ》いの部屋の中で最下級のものに案内されたらしい。さもありなん――オーフェンは、嘆息《たんそく》まじりに考えた。突然現れた、紹介《しょうかい》も約束もない(自称《じしょう》)魔術士。その場で取調室《とりしらべしつ》に連行されなかっただけ、いくらかマシというところか。
と、彼は、胸元から銀のペンダントを取り出した。この紋章《もんしょう》が、いくらか役に立ってくれたわけである。
ふう、と吐息《といき》し、部屋の隅《すみ》にある堅《かた》い長椅子《ながいす》に腰《こし》を下ろす。天井《てんじょう》のガス灯が、ちらちらと頼《たよ》りない明かりを落としていた。建物の奥まったところにある部屋らしく、窓がないため、全体的に薄暗かった。床《ゆか》は塵《ちり》に汚《よご》れ、彼が歩いた跡《あと》が、くっきりとついている。足跡は一種類、彼のものだけ。つまるところこの部屋には、ここ数日間というもの、彼ひとりしか立ち入った者はいないらしい。
扉は二枚。入ってきた扉と、その反対側の壁についているもう一枚。どちらも同じ扉で、もう一方の扉を開けて、もときたのと同じような廊下が見えたところで、なんら疑問は感じなかっただろう。
三十分ほど待ったころ、扉が開いた。オーフェンが入ってきたほうの扉である。
「キリランシェロ!」
驚《おどろ》きに満ちた声が、部屋の中にこだました。オーフェンが顔を上げると、入口に赤毛の、陽気そうな顔立ちをした男が立っている。
「ハーティア」
オーフェンは、こちらはいくぶん感情のない声で呼んだ。
赤毛の男は、そんなことにはお構いなく、すたすたと部屋の中に入ってきた。
「来客の名簿《めいぼ》の中に、オーフェンなんて名前があったから、もしやと思ったんだ。馬鹿《ばか》だな、キリランシェロと名乗ってやればよかったんだ。ここの連中、君を怒らせて追い返そうとしていたんだぞ?」
「気づいていたよ」
オーフェンは長椅子から立ち上がり、差し出されたハーティアの右手を軽く握《にぎ》った。ハーティアがそれより強く握り返してくるのを感じながら、ゆっくりと相手の顔を観察する。
「あまり変わらないな――昔と」
オーフェンは、相手の魅力《みりょく》的な眉《まゆ》と、髭《ひげ》の生《は》えそうにない、のっぺりとした細いあごを見やりながら、そう言った。ハーティアは笑い――そして――その笑みを、ふっと消すと、
「君は随分《ずいぶん》と変わったよ」
と、つぶやくように言った。
が、もともとハーティアは昔から、深刻《しんこく》な表情が数秒ともたないようなところがあった。彼は握手《あくしゅ》を引っ込めて肩をすくめると、軽い調子で聞いてきた。
「それで、最近はどうしてるんだい?」
「落ちぶれてるよ。それが聞きたいのならな」
皮肉《ひにく》っぽくオーフェンが答える。ハーティアは、困《こま》ったように顔をしかめた。
「もし君が望むのなら、いくらでも仕官の道はあるだろう?――君みたいにカのある魔術士は、年々極端に数が減ってきているんだ」
「だがそれもお前の行《おこな》っている福祉《ふくし》制度の賜物《たまもの》だろう? 生死を賭《か》けてまで<<牙《きば》の塔《とう》>>のような機関に身を投じなくても、それなりに裕福《ゆうふく》に暮らせるようになった結果なんだから」
「ぼくが行っているわけじゃないよ――つまり、ぼくが主導的な立場にいるってわけじゃない。白状すると、ぼくはただの小間使いみたいなものなのさ」
ハーティアは自嘲《じちょう》的な笑みを浮かべ、そばかすの跡がうっすらと残るほおを掻《か》いた。
「君が<<塔>>を飛び出してから、なんだかぼくもやる気がなくなってしまってね――ぼくらは、ほら、ライバルみたいなものだったろう? ぼくはぼくで、自分の前に君の背中が見えないと、調子がとれなくなってしまっていたんだな。成績は下降の一途《いっと》。宮廷《きゅうてい》にあがるどころか、この街の支部に勤《つと》めることすら、かなり危《あぶ》なかったんだ」
「それでも、悪くない職だろう」
「まあね。定時に帰れるし。実を言うと<<塔>>よりいくらか楽してるよ」
「なるほどね。ま、元気でよかった――が、今日はそんなことのために顔を出したんじゃないんだ、ハーティア」
「……へえ?」
と不思議《ふしぎ》そうな声をあげるハーティアの澄《す》んだ目を見ながら、オーフェンは続けた。
「実は俺は今、人探しをやってるんだ」
「探す? 誰を」
「偉大なるチャイルドマン教師をさ」
「先生を?」
寝耳《ねみみ》に水、といった面持《おもも》ちで、おうむ返しに聞き返すハーティア。オーフェンはさらに、自分が今、エバーラスティン家の用心棒のようなことをしていることを説明し、昨夜《ゆうべ》、そこにチャイルドマンが襲撃《しゅうげき》してきたことを告げた。
「先生が? なにかの間違いだろう。そんな強盗《ごうとう》じみた真似《まね》――」
「そう、普通ならするわけがない。だが魔術士同盟の仕事としてやっているのであれば、話は別だ。俺は、この支部のどこかにチャイルドマンがいると思っている」
「もしそうだとしたら、ぼくが気づかないわけがないだろう。いくらでかい建物だからって、毎日来てるんだ」
「もしお前がグルでなければな」
「おい、キリランシェロ!」
ハーティアは、かっとしたように目の色を燃え上がらせた。
「いいかげんにしろよ。そりゃあ、アザリーのことは気の毒《どく》に思っているし、そのことで君がムキになっても、ある程度は我慢《がまん》するさ。だが――」
「ハーティア――」
オーフェンは、するりとつぶやいた――自分でも、師であるチャイルドマンに似ていると思うような、冷たい声で。
「ハーティア。俺は、まだ一言もアザリーのことなんて口にしてないぞ」
「……ぼくをひっかけたつもりかい? 君のことは、友達だと思っていたんだ」
「俺もそう思うよ」
オーフェンが言うと、ハーティアは、ハンと鼻を鳴らした。
「ぼくの言うことを信用もしないくせにか?」
「基本的には信用するさ。俺以外の誰《だれ》もが、お前の言うことを信じていないようなときでもな。だが、明らかに嘘《うそ》をついていると分かっているときまで信用してしまうのは、盲信《もうしん》というもんだ」
「悪いが、帰ってくれないか、キリランシェロ。ぼくにも仕事がある」
言いながらハーティアは、こちらに背を向けて退室しようとした。だがそれよりも早くその肩を後ろから、オーフェンはつかんだ。
「……なんのつもりだ? キリランシェロ」
ハーティアが、振り返らずに聞く。
オーフェンは静かに告げた。
「俺の名はオーフェンだ。キリランシェロだった俺は、もう死んだ」
「そんなふうにひとりで思い詰めるから、友人をなくすんだよ、キリランシェロ」
ハーティアはそう言うと、オーフェンの手を振り払い、部屋を出ていった。
オーフェンはしばらくその部屋の真ん中に立ち尽《つ》くしていた。ふと時の流れを感じ、見上げると、それまでは気づかなかったところに壁掛けの時計がぶら下がっている。時と同じ速度で動く針《はり》は、ちょうど一時を指《さ》し示していた。
◆◇◆◇◆
「ねえ、もう二時になるよー」
グラスの中に少しだけ残ったオレンジ色の果汁《かじゅう》をストローでつつき回しながら、クリーオウがぼやく。実際はまだ二時よりは十五分ほど前だったのだが、ドーチンはあえて正しはしなかった。
あの後、近くに喫果店《フレッシュパーラー》をクリーオウが見つけだし、そこに立てこもること二時間、ドーチンはすることもなく(クリーオウの金で注文した)果汁ジュースを前にして、古びた
本を広げていた。ボルカンはさっきから水ばかりをお代わりして、店員に嫌《いや》な顔をされている。が、いつものように自分ではそれに気づいていなかった。
クリーオウは店の窓から、斜《なな》め横に見える魔術士同盟の建物を眺《なが》め、またつぶやいた。
「オーフェン、なにやってんのかな」
「あの魔術士は時間にだらしがないのだ」
ボルカンが、頑丈《がんじょう》なあごで氷をかみ砕《くだ》きながら答える。
(別に待ち合わせの時間を決めてたわけじゃないんだけどな)
ドーチンは思いながら、本のページを繰《く》った。
クリーオウは本気であの黒魔術士のことを心配しているらしかった。
「ひょっとしてオーフェン、魔術士に捕《と》らえられちゃったんじゃないかしら」
うんうん、とボルカンがうなずく。
「あり得ないことではない。あの男は大陸|中《じゅう》の魔術士の品位をおとしめているからな」
「そうなの?」
とクリーオウ。ボルカンは、仰々《ぎょうぎょう》しい口調《くちょう》で続けた。
「うむ。この前も、万引きの咎《とが》で八百屋《やおや》の親父《おやじ》にしこたましぼられたばかりだ」
(あれは、兄さんが盗《ぬす》んできた大根《だいこん》をこっそり返しにいったんじゃないか)
だがドーチンにはボルカンの考えが分かっていたので、口出しはしなかった。ボルカンは彼が思っていたとおりのことを口にした。
「さらには、夜中に邪悪《じゃあく》な魍魎《もうりょう》の名前を唱《とな》えながら、鶏《にわとり》の首を切っていたところも見たことがある」
「ホント?」
それを聞いてクリーオウはなぜか目を輝《かがや》かせたようだが、ボルカンは気づかなかったらしい。
「つまりお嬢《じょう》さん。このわたくし、マスマテュリアの闘犬と呼ばれた自由戦士ボルカノ・ボルカンに言わせれば、あの男は猛悪《もうあく》なる魔術使いなのですよ」
久しぶりに故郷《こきょう》の名を聞いてドーチンはかすかならず望郷《ぼうきょう》の念を覚えたが、ボルカンにはそのテの感傷はない。さっさと続けた。
「悪いことは言わない。御尊家の名に取り返しのつかない傷がつく前に、あの男をクビにすることです。大丈夫《だいじょうぶ》、悪い奴《やつ》らなら、わたしが処理します」
言い切って、どんと胸をたたく。クリーオウは目をぱちくりとさせてから、聞き返した。
「クビにするって……オーフェンを?」
「そのとおり」
ボルカンはうなずいて、続けた。
「御|証拠《しょうこ》をお求めならば、昨夜あの男が使ったベッドの下をのぞいてご覧《らん》なさい。多量の鶏の羽毛《うもう》が隠《かく》してあるはずです」
(そういや、兄さん昨日《きのう》の真夜中にベッドの下でごそごそしてたっけ)
と、ドーチンは思い出した。それにしても、そんな小細工《こざいく》までしていたとは。
だが、どちらにせよクリーオウはたいして感銘《かんめい》を受けなかったようだ。
「へえ……」
とつぶやくと、トイレ、と言って席を立っていってしまった。少女が店の奥に姿を消してから、ドーチンは兄に聞いてみた。
「兄さん、鶏の羽毛なんて、どこで手に入れたのさ」
ボルカンは、誇《ほこ》らしげに胸を張って答えた。
「あの家の枕《まくら》をひとつくすねたんだ」
「……あの枕に入ってるのは、羽毛は羽毛だけど、鶏じゃないよ」
「な、なにい?」
と、ボルカンが声をあげた瞬間《しゅんかん》――
がしゃああああああんっ!
すぐ近くの大きな窓ガラスが砕《くだ》け散り、ドーチンらのテーブルの上に、人間の頭大の石がほうり込まれた。ボルカンがもう一度悲鳴をあげ、抱きついてくる。ドーチンはそれを引きはがそうとしながら、道路のほうを見やった。
「はぁーはっはっはっははははは!」
けたたましい哄笑《こうしょう》が、昼日中《ひるひなか》の街をぎょっとさせる。
ドーチンは反射的に、叫《さけ》んだ。
「え、海老《えび》男だ!」
「違ああああうっ!」
叫びとともに、ドーチンの目の前のテーブルが、なにもないのにひとりでに爆発した。グラスやテーブルの破片が飛び散り、飲みかけの果汁がドーチンの顔面にかかる。目にしみるオレンジの果汁を手でふきながら、ドーチンはあわてて窓の近くから離れた。
既《すで》に店の中はパニックになっていた。人通りの多い外の道路も、似たようなものだ。客や通行人が悲鳴をあげつつ逃《に》げ惑《まど》い、若い店員はトレイを持ったまま棒立《ぼうだ》ちになっている。
と――店の奥からクリーオウが飛び出してきた。
「ねえねえ、なんの騒《さわ》ぎ?」
手は洗ってないな、とドーチンは目ざとく気づいたが、それは言わなかった。ブロンドを黄金の鳥の翼《つばさ》のようにはためかせながら駆《か》け寄ってくる少女に、
「例の殺し屋だよ」
と告げる。少女は、きゃあ♪ と歓声《かんせい》をあげてから、胸元でぱんと手を打ち合わせた。
「どこどこ? わたし、昨日は見てないのよ」
言いながら、勝手にボルカンの剣を取り上げる。
「あ、ちょっと、お嬢さん!」
ボルカンの制止も無視してクリーオウは、中古の剣を鞘《さや》から引き抜いた。
「さあ来い!」
剣を取り返そうとするボルカンを押しのけつつ、クリーオウが叫んだ。さらに、近くで棒立ちになっている店員に気づき、その腕の中からトレイを引っこ抜く。少女は、それを盾《たて》のつもりか左手に抱《かか》えた。
と……小声でささやくような、ただしはっきりと聞こえる、声。
「……ならば、注文どおりに行ってやろうか」
ふわっと、誰《だれ》もいなかったはずのクリーオウの背後に、黒装束《くろしょうぞく》に黒い覆面《ふくめん》の男の姿が現れる。
「きゃあっ!」
突然の気配《けはい》にクリーオウは悲鳴をあげつつ身をよじり、剣をめちゃくちゃに振り下ろした。その刀身が覆面の下の首を薙《な》ぎ――そして、なんの抵抗もなく通り過ぎる。殺し屋の姿は、出てきたときと同じく、すっと消えうせた。
「幻影《げんえい》だ! 本体は――」
ドーチンは叫んで、ぐるりと店内を見回した。びしっと指を指して、
「本体は、こっそりとあそこの入口から歩いて入ってきてる!」
「気づくな、馬鹿野郎《ばかやろう》!」
昨日とは違って雄牛《おうし》には乗っていないものの、しっかりと大鎌《おおがま》を肩に担《かつ》いだブラックタイガーが、店に入りながら怒鳴《どな》った。ドーチンは殺し屋を見据《みす》えながら、武器がないのでとりあえず読みかけの本を構えた――ゴキブリをたたきつぶすときの要領で。
背後で、ボルカンがクリーオウに詰め寄るのが聞こえた。
「お嬢ちゃん! おいコラ! その剣は俺の――」
が、続いて聞こえたパカンという音からすると、どうやらボルカンはトレイではたかれたらしい。ぶつぶつ言いながら彼は、ドーチンの横に並んだ。
なんとか気を取り直し、びしいと自称《じしょう》・暗殺者を指さす。
「性懲《しょうこ》りもなく現れたか、海老男!」
「俺は海老男じゃないと言ってるだろうが! 夢魔の貴族ブラックタイ――あれ? おい、黒魔術士はどうした」
「いないわい」
「な、なんだと? どこにいるんだ!」
「知るかっ!」
ボルカンは叫んで、まくし立てた。
「生まれついての悪人などない! 貴様《きさま》にも生《お》い立ちの不幸はあろう! しかぁし! それを理由に世を拗《す》ね、人を殺《あや》めるを生業《なりわい》としてのうのうと勤労《きんろう》の義務をやり過ごそうなどと、そんなことは断固《だんこ》として見過ごすわけにはいかん! このボルカノ・ボルカンが制裁《せいさい》を加えてくれるから、そこに直れいっ!」
ブラックタイガーが、ぽつりと聞く。
「制裁って、今日は剣も持ってないじゃないか」
「だって返してくれないんだもん」
ボルカンは、ちらりと拗ねるようにクリーオウの顔色をうかがいながらつぶやいた。
ブラックタイガーは、どうやら呆《あき》れたらしい。
「ええい、馬鹿はどうでもいい! あの黒魔術士はどうしたんだ!」
「海老男に馬鹿呼ばわりをされる覚えはないっ! 黒魔術士はいないと言ってるだろーが!」
「いてくれないと困るんだよ! まさか、もう帰っちゃったんじゃないだろうな!」
「知らんと言っとろーがっ! 魔界に魂《たましい》を売り渡した不浄《ふじょう》の変質者めが、この俺が――」
ボルカンがポーズをつけて叫んだ瞬間、ブラックタイガーがなにかを小さくつぶやく。同時に、暗殺者のすぐとなりに黒っぽい火柱のようなものが立ち上がって、その中心からいかにも恐ろしげな嘶《いなな》きをあげながら、暗黒の毛並《けな》みを持つ雄牛《おうし》が現れた。雄牛が太い首を振りながら鼻息を吹き出すたび、煙《けむり》のような蒸気《じょうき》が空気を汚《よご》す。
雄牛ににらまれ、言いかけたまま口をぱくぱくとさせながら、ボルカンは素早《すばや》くドーチンの背後に身を隠《かく》した。
「さあ、兄のために、あの通り魔野郎に、ハチマキで絞《し》め殺してやると言ってやれ」
「兄さんって……」
ドーチンは、疲労を感じさせる声音《こわね》でつぶやいた。
と、クリーオウがドーチンらを押しのけ、ずずいっと前に出た。剣を両手で構え、腰《こし》を落としたオーソドックスな姿勢で、言う。
「能書《のうが》きはもう飽《あ》きたわよ。さあ、口だけじゃないんなら、どっからでもかかってきなさい!」
「ちょ、ちょっとクリーオウ!」
ドーチンは少女のスカートの裾《すそ》をつかんで引きずりもどそうとしたが、彼女はそれをぱっと振り払った。そのまま、じりじりと暗殺者のほうへと進んでいく。
ほう、とブラックタイガーが声をあげた。かたわらの雄牛にぽんと手をかけて、
「いい度胸《どきょう》だ。このブラックタイガーに挑戦《ちょうせん》するつもりか」
殺し屋もまた、大鎌を肩にかけたまま、こちらに向かって歩きだした。雄牛はもとの位置においたままである。
「あわわわわわ……」
口に手を突っ込んであわてるドーチンの不安をよそに、クリーオウの後ろ姿はしごく落ち着いた様子《ようす》だった。運動|力学《りきがく》的にごく自然な構えを崩《くず》さないようにゆっくりと、剣先は心持ち下がりぎみに、殺し屋と対峙《たいじ》している。ひょっとしてあの娘は剣の扱《あつか》い方の訓練《くんれん》を受けているんじゃないかしら、とドーチンは淡《あわ》い希望を覚えた。
ひゅっ――
いきなり聞こえたその音が、殺し屋と少女、どちらの肺からもれた吐息かは分からないが――
刹那《せつな》、ブラックタイガーの大鎌が弧《こ》を描いた。クリーオウから見て右上からの攻撃に、少女は素早く反応していた。鎌の刃元を受け止めたのでは威力《いりょく》を殺せないと見たのか、彼女はさっと前方へ踏《ふ》み込んで、鎌の柄《え》を持つ殺し屋の手元へと、剣をたたきつけた。がぎぃん、と鋭《するど》くもあり鈍《にぶ》くもある金属音が響《ひび》き、ブラックタイガーの身体《からだ》がわずかにバランスを崩した――ように見えた。
クリーオウもそう思ったらしい。畳《たた》み掛けるように、斬《き》り込んでいく。
が、明らかに殺し屋のほうが上手《うわて》だった。ブラックタイガーはふらり、と右に沈《しず》み込むように身体を投げ出すと、軽く爪先《つまさき》を滑《すべ》らせて、クリーオウの両足を払った。体重のないクリーオウはあっさりと転倒したが、敵の二撃目よりも素早く、身体を転がして後退した。両者ともすぐに起き上がり、再び対峙する。
ドーチンは、背後で小さくなっている兄に言った。
「す、すごいよ、あの子」
「う、うむ……まだ――まだツメが甘いがな」
(兄さんよりも巧《うま》いよ)
ドーチンは胸中《きょうちゅう》でつぶやいた。だが、どうにせよクリーオウが殺し屋に勝てるとは思えなかった――しょせん体力が違いすぎるし、実戦経験でもそうだろう。現にクリーオウはまだ一分も経《た》っていないというのに、顔面を蒼白《そうはく》にしている。刃物を持った敵と向かい合うというのは、よほど慣《な》れた人間でも、思ったよりは神経を擦《す》り減らすものだ。
見ると、クリーオウは肩で息をしながら調子をとっている。まさか自分より技量の上回《うわまわ》る相手に、自分から打ちかかったりはすまい。じりじりと近寄ってくるブラックタイガーを見据えて、少女はいつもより余計《よけい》に小柄に見えた――
が――
「我《われ》は放《はな》つ光の白刃《はくじん》!」
ふわっ――と、クリーオウとブラックタイガーの中間の足元を狙《ねら》って、純白の光の帯《おび》が突き刺さった。爆音と光熱波が、霹靂《へきれき》のように店内に響き渡る。
光の中で辛《かろ》うじて薄目で見たかぎりでは、ブラックタイガーは後ろに跳《と》び退《すさ》り、そのまま店の中から飛び出していった。クリーオウはその場で尻餅《しりもち》をついている。ボルカンに関しては、後ろからドーチンの首をしめにかかっていたので、見ないでも分かった。
「に、兄さん、放してよ!」
「死ぬときはいっしょだ、ドーチン――」
「やだよ、そんなの!」
騒《さわ》いでいるうちに、いつの間にかオーフェンが目の前に現れていた――どうやら、割れた窓から入ってきたらしい。黒魔術士はクリーオウを助け起こしてから、面倒臭《めんどうくさ》そうにこちらにやってきた。ボルカンを引きはがして、なにやらぶつぶつと文句を言っている。いきなりの魔術の爆発に耳鳴りがするせいで、ほとんど聞き取れなかったが。
「なにやってんだ、お前ら」
というのが、なんとか聞き取れた。ドーチンがなんと答えたらいいのか分からないでいると、ボルカンの足元に剣を放りながら、クリーオウが言った。
「あのヘンな人を追っ払ってたのよ」
「よく追い払ったな。剣が使えるのか? クリーオウ」
「クラブでやってるの。一応レギュラーなのよ」
クリーオウはとにかく一度|自慢《じまん》げに胸を反《そ》らしてから、続けた。
「オーフェンこそ、なにやってたのよ、こんな時間まで」
「俺か? 俺はお前らを探してたんだよ。こんな店に入ってるなんて、一言も言ってなかったろうが」
「そりゃそうだけど」
クリーオウは、待ち合わせに遅《おく》れた恋人に言うみたいに口をとがらせて、続けた。
「わたしたち、殺されるところだったのよ?」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。俺の予想が当たっていれば、あの自称殺し屋は誰《だれ》ひとり殺したりできない」
つぶやきながら黒魔術士は、床《ゆか》の上からなにかを拾《ひろ》い上げた。ブラックタイガーが落としていったものらしい。ドーチンがちらりとのぞき込むと、それはペンダントだった――銀製の、剣にからまった一本|脚《あし》のドラゴンの紋章《もんしょう》が細工《さいく》された。
第四章 バルトアンデルス
「ほう……」
オーフェンは、右手をあごに当てて、ぽつりとつぶやいた。かたわらにいるクリーオウに顔を向け、
「やられたな」
「まあね。でも、かえって片付いて助かったわよ。この倉庫《そうこ》、中身がぐちゃぐちゃだったんだもの」
実のところオーフェンも似たようなことを考えていたところだった。
倉庫が荒らされていることに最初に気づいたのは、クリーオウだった――どうやらこの娘は暇《ひま》なときにはこの倉庫に降りて、おもしろそうなものを物色《ぶっしょく》しているらしい。が、それにしても『荒らされていた』という言い方は適当ではなかったかもしれない。クリーオウの言うとおり、盗賊《とうぞく》は目的のものを見つけるために倉庫の一画をすっかり整理し、並べ換《か》えていったからだ。
「バイト料くらいは払ってやったほうがいいかもな」
オーフェンが言うと、クリーオウは肩をすくめた。
「それがね、賊はなにひとつ盗《ぬす》み出してないみたいなのよ」
「つまり、目的のものが見つけ出せなかったんだろうな。バルトアンデルスの剣がどういうものか知らないが、この倉庫には剣だけでも数百本はあるんだろう?」
「うん。わたしが昔、数えたときには、八百本以上あったわよ。でも、それってお父様がまだ生きていたころのことだから、その後にもっと買い足したかも」
「どのみち、それを全部確かめていたら、半日かかっちまう。チャイルドマンが最初に、こちらに剣を用意させようとしたのも、そのせいだろうな。にしても……どうして賊がなにも持ち出してないって分かるんだ? 在庫調査をしたわけじゃないんだろう?」
「うん。これが、倉庫の入口に落ちてたの。それと、まだこのことはお母様《かあさま》たちには言ってないわ。そのほうがいいでしょう?」
クリーオウが差し出しだのは、一枚の紙片だった。通路からのガス灯の明かりに照《て》らして読んでみると、それには『今夜までに件《くだん》の剣を用意すべし』といったようなことが書いてある。
「なるほど。だが、ティシティニーにはちゃんと報告しておいたほうがいい。奴《やつ》らがまた来る気なら、この屋敷《やしき》で一騒動《ひとそうどう》起こるわけだからな」
とオーフェンが言うと、クリーオウは不安そうにこちらを見上げて、聞いた。
「ねえ。その手紙って、今日のあの殺し屋が書いたものなの?」
「いや……どちらかってえと、もうひとりの――チャイルドマンが書いたんだろうな。つまり、あのブラックタイガーが俺《おれ》たちを足止めし、その隙《すき》にチャイルドマンがこの倉庫に忍び込んだ。そんなところだろう」
「とても強い魔術士《まじゅつし》なのよね。その人って……」
「ああ、俺の先生だからな。大陸で最強の黒魔術士と言っても過言《かごん》じゃない。専門の訓練《くんれん》も受けた、正真正銘《しょうしんしょうめい》、筋金《すじがね》入りの鉄の殺し屋にもなれる男だ」
「…………」
それを聞いてクリーオウは、多少うつむきかげんに親指の爪《つめ》を噛《か》んだ。言いたいことがあるのに、言えないらしい。オーフェンは彼女の金色の小さい頭に、ぽんと手を置いた。
「なんだ。心配なのか?」
「うん。わたしに手伝えること、ある?」
「ないよ……つまり、また剣を持って斬《き》り合いをするつもりなら遠慮《えんりょ》してくれ。<<牙《きば》の塔《とう》>>の魔術士というのはね、無駄《むだ》に人を殺したりはしないが、もし必要ということになれば一転、どんな残酷《ざんこく》な殺し方でもできる人種なんだ」
クリーオウは、たれた前髪の下から、こちらを見上げて聞いた。
「……オーフェン、あなたもそうなの?」
「俺か?」
オーフェンは、微苦笑《びくしょう》をもらした。
「俺は……それができなかったから、落ちこぼれたんだ」
アザリーのことを思い出しながら、彼はクリーオウの頭から手を放《はな》した。連れ立って、倉庫から出ようときびすを返す。
クリーオウはなぜか安心したふうに、ぱっと顔を上げて目を輝《かがや》かせた。いつもの明るい調子で聞いてくる。
「ねえオーフェン、あなた、恋人とかいるの?」
「いないよ。だが、尊敬する女《ひと》はいる」
君も知っている女性だ、と言いかけて、オーフェンはせりふを呑《の》み込んだ。あの異形《いぎょう》の代物《しろもの》を追いかけて出世コースを諦《あきら》めたなどと言ったら、正気を疑《うたが》われるかもしれない。
背を向けて倉庫の扉《とびら》を閉めながら、クリーオウは続けて聞いてきた。
「誰《だれ》? どんな人?」
「ティシティニーかな」
オーフェンがそう答えると、クリーオウはショックを受けたようだった。オーフェンは笑って、
「冗談《じょうだん》だよ。ただ彼女は、行方不明《ゆくえふめい》になってるんだ。俺はそれを、探している」
おおむね嘘《うそ》ではない。続いてのクリーオウの質問は、今までよりもさらに単純だった。
「見つけたら、その人と結婚するの?」
オーフェンは、少し考えてから答えた。
「……しないだろうな。彼女はね、なんて言うか、そういうタイブの人間じゃないんだよ。だからこそ尊敬していると言えるかもな。尊敬するのと、好きになるのとではだいぶ違うだろ?」
「そうかもね」
クリーオウは同意してから扉に鍵《かぎ》をかけ、くるりとこちらに向き直った。
「じゃあさ、好きになるのは、どんなタイプ?」
「さあね。実を言うと、考えたこともないな」
オーフェンは、その程度であえて深く言及《げんきゅう》するのは避けることにした。
「それよりクリーオウ、君は学校で剣の使い方を覚えたって言っていたけど、君が通《かよ》っているような学校でそんなクラブがあるのか? フェンシングは競技《スポーツ》だし、違うよな」
「わたし、下町の学校に通ってるのよ。お姉ちゃんと同じ学校には行きたくなかったから」
「へえ……でも、なんのクラブだ? 剣術クラブ?」
「違うわ。戦争クラブ」
「……辞《や》めなさい、ンなトコ」
オーフェンは呆《あき》れた声でつぶやいて、額《ひたい》を手でこすった。軽やかに階段を登る少女の後ろから、ポケットに両手を突っ込んでついていく。と、その指先が、クリーオウのくれた指輪に触《ふ》れた。
オーフェンは、この指輪に見覚えがあった。そして、その記憶《きおく》に絶対間違いがない自信があった……
「……この文字が読める? キリランシェロ」
そう言いながら彼女は、小ぶりの指輪を掲《かか》げてみせた。キリランシェロは目をすがめるようにして、その銀のリングを子細《しさい》に眺《なが》めていたが、やがて諦《あきら》めたようにそれを彼女のほうに押しもどした。
「なにそれ? ホントに文字なの?」
彼の答えは、それだけだった。彼女――天魔《てんま》の魔女とも呼ばれ<<塔>>で最も畏怖《いふ》される魔術士アザリーは、休憩室《きゅうけいしつ》の長椅子《ながいす》に腰掛けて、けらけらと笑った。
「もちろん文字よ。古代の魔術士――わたしたちとはまったく異なった魔術を扱《あつか》ったという連中が、これを造ったってわけ」
「そんなの、現在のぼくらには読めるわけがないじゃないか。その古代人はもう死滅《しめつ》したんだろ? なら、その言葉を話せる人間は地上にいないんだ」
「……そうともかぎらないじゃない。それにこの文字――魔術文字《ウイルドグラフ》の解読は着々と進んでいるのよ。わたしだってその研究には参加しているんだから、あんただって笑ってはいられないんじゃない?」
「……なんでぼくが?」
「だって順番からいって、わたしの助手になるのはあんたに決まったようなもんじゃない」
言って彼女は、魅惑《みわく》するようなブラウンの双眸《そうぼう》をウィンクさせた。
「ホントに?」
文字どおり跳《と》び上がってキリランシェロが聞くと、彼女は笑いながらうなずいた。
「まだ試験の結果を聞いてなかったわけ? 言っとくけど謙遜《けんそん》のつもりだったらヤラシいわよ――なにしろあんた、今回の試験官がもらしたせりふが『まあ妥当《だとう》だな』だもの」
と、銀の指輪を空中に放っては手で受け止めて、彼女は言った。どこか誇《ほこ》らしげに首を傾《かたむ》けて、双眸にはありありと賞賛《しょうさん》が浮かんでいる。
「まあ、なんにしろね、そういうことだから、あんたにもこの程度の文字は読めてもらわないと困《こま》るのよ。今回だけはわたしが答えを教えておいてあげるけど――次からは自分で調べんのよ? この指輪にはね――『武器よ落とせ』と記《しる》されてあんの。つまりは、持ち主を災厄《さいやく》から防御《ぼうぎょ》するわけね。多分、効果は一度っきりだろうけど」
「一度だけ?」
「そう。文字の精度が低いからね。きっと、そんなに強い魔術上が造《つく》ったものじゃないんでしょうよ。もっとも――」
と彼女は苦々《にがにが》しく、小さすぎる指輪と、自分の節《ふし》が膨《ふく》れた指とを見比べて、
「わたしの指には入らないわ。これじゃ持ち主にはなれないわね。あんたはどう?」
「アザリーに無理なら、ぼくにだって入るわけないでしょ。子供の指じゃないと無理なんじゃないかな。多分、ふらふらと出歩くような子供が馬車にはねられたりとかしないようにって造ったんじゃないかと思うけど」
「悪くない推理ね。だとしたらこの指輪は持ち主でさえあれば文字を読み上げなくても作用するかもしれないわ。今度、子猿《こざる》にでもはめさせて試《ため》してみましょうか。ところで――」
と、ふと彼女は真顔《まがお》になって、続けた。
「食事をとったら、あとでわたしの部屋まで来てくれる? 長老たちには内緒《ないしょ》で、この指輪と同じ古代の魔術の実験がしたいの。まるっきり未知のものだから、助手が要《い》るわ」
「ああ、いいよ」
キリランシェロは軽い気持ちで引き受けた。にっこりと、アザリーが満足げな笑みを浮かべる。
実を言えば、これが彼の最後に見た、天魔の魔女の笑顔となった。
◆◇◆◇◆
「あの黒魔術士め、本当にムカっ腹が立つ!」
トトカンタの中央街にある大図書館[#原文 大図書官]の中で、司書官の厳《きび》しい視線にも気づかず、ボルカンが大声でわめき立てた。
(あんたはいつもそれだ)
胸中でつぶやきつつ、ドーチンは手の中のページをめくる。本は古代のものの複製で一種の古語辞典のようなものである。ようするに彼らはオーフェンの言い付けで例の<<バルトアンデルス>>というのがなにを意味する単語なのか、調べに来ているのである。
と――
バタンと、ボルカンがドーチンの手元の本を閉じた。眼鏡《めがね》をかけ直しながらドーチンは顔を上げ、言った。いいかげん、堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れかけていた。
「なにするんだよ」
「お前には不正を怒る心というものがないのか? おい」
ボルカンは空手《からて》で(もちろん、帯剣《たいけん》したまま図書館には入館できなかったのだ)こちらの頭をぽかりとたたいた。
「いいか、ドーチン。あの黒魔術士は、めんどうな仕事を人に押し付けて、自分だけはのうのうと屋敷にもどってるんだぞ」
「魔術っていうのはひどく体力を消耗《しょうもう》するんだよ。あの人はここのところ、強い魔術を立て続けに使ってばかりいたじゃないか」
「……魔術士みたいな口を利《き》くじゃないか。ええ?」
ボルカンはチンピラそのものの口調で凄《すご》み、どんと机をたたいた。
「そうか。お前はあの魔術士の犬に成り下がるつもりだな?」
「そんなことは言ってないだろ。ぼくはただ――」
「いんや! お前の目を見れば分かるぞ。お前は昔から、目先の安寧《あんねい》のために誇《ほこ》りを忘れる奴《やつ》だった」
「兄さんは兄さんで昔から、ぼくのことしかなじった[#「なじった」に傍点]ことがないじゃないか。当人の目の前ではね」
「なんだと貴様《きさま》っ!」
ボルカンは怒鳴《どな》ると、ドーチンの目の前の机を一気にひっくりかえした。机の端がぶつかって、向こう側の書棚《しょだな》が倒れる。同時に、どこがどうぶつかったのやら、ドーチンの真後ろの棚までがこちらに向かって倒れかかってきた。雪崩《なだれ》のような本に押し潰《つぶ》され、ドーチンはばたばたともがいた。図書館の中にまばらにいた人たちの口から、悲鳴がもれる。
「なにをしてるんだ、お前たち!」
司書官が怒《いか》りの声をあげて、こちらに突進してくる。本の隙間《すきま》からそれを見上げて、ドーチンはとにかく助け出してもらえるものと安堵《あんど》の吐息《といき》をついた。そしてちらりと目の端に、開いたままの本のページが見えて――
瞬間《しゅんかん》ドーチンは、あっと声をあげた。
「あった! あったぞ!」
◆◇◆◇◆
「<<いつでも・ほかの・なにか>>?」
オーフェンは目の前で顔を上気《じょうき》させているドーチンの言った言葉を、そのまま繰《く》り返した。エバーラスティン邸《てい》の、オーフェンたちに割り当てられた一室である。入口ホールに近く、すぐに庭に飛び出せる位置にあった。
ドーチンは、熱心にうなずいてみせた。
「そう。えらい昔の言語で、バルトアンデルスは<<いつでもほかのなにか>>の意味だよ。月の紋章《もんしょう》で表されていたんだ。これは魔術の印章だったみたいだよ」
「ふむ……」
オーフェンはつと考え込んで、室内を見回しか。ドーチンはなにか返事を期待するようにこちらを見上げている。ボルカンはなにか怒っているように窓の外をにらみつけているが、そんなことはどうでもよかった。オーフェンはぱちんと指を鳴らして、ドーチンに向かって答えた。
「となると、その剣はなにかの変身の魔力を持っているのかもしれない。確か、アザリーが最後にやろうとして失敗した魔術も<<剣>>と呼ばれていたようだし……」
「つまり、バルトアンデルスの剣のせいで、その人は変身したっていうこと?」
「それが妥当《だとう》だな。ただ、俺《おれ》の聞いた話じゃ<<剣>>はチャイルドマンが手ずから何処《どこ》かに封印《ふういん》したはずなんだ。それがどうして、この屋敷にあるんだか……」
腑《ふ》に落ちない気分でオーフェンがつぶやいていると、扉《とびら》が三回ノックされた。たたき方に癖《くせ》があり、誰《だれ》が来たのかすぐに分かる。
「どうぞ、クリーオウ」
ぴょこんと扉から入ってきたクリーオウはワンピースはやめて、珍《めずら》しく乗馬用のズボンなどはいている。長いブロンドはまとめて、後ろに丸めてあった。なかなか似合ってはいたが、その格好《かっこう》を見ただけで、オーフェンはかぶりを振った。
「なにも言うなよ――答えは最初に言っておく。ノーだ。着替えて眠っちまいな」
「なんでぇー?」
クリーオウは、口をとがらせて不平の響《ひび》きをあげた。サイズがあわないらしい両手の白手袋を互《たが》いに直しながら、続ける。
「わたしだって手伝えるわよ。それにお母様の許可ももらったもの」
「……ティシティニーの?」
疑わしげに聞くが、クリーオウは気楽なものだった。
「そう。邪魔《じゃま》にならないようにねって。お姉ちゃんも、オーフェンを守ってあげなさいだって」
「…………」
オーフェンは、どう言えばこの屋敷の女どもを説得できるのだろうかと思いながら、
「あのな、クリーオウ。これが鴨撃《かもう》ちか猪狩《いのしいが》りかなにかに出掛けるんだったら、連れてってやってもいいだろうさ。今夜なにが起こるのか、君は分かってるのか?」
「知ってるわよ」
「いいや、知っていても分かってはいないだろ。俺は今夜中に死体になるかもしれんし、もっと悪ければ殺人者になるんだぞ?」
「あなたは強い魔術士だし、人は殺せないって言ってたでしょ。だったら、誰も死なないはずだわ」
「そいつは理屈《りくつ》だよ」
オーフェンは嘆息《たんそく》まじりに、そのまま棚《たな》の上かなにかに飾《かざ》っておきたくなるほどこぢんまりとした格好の少女をねめ付けた。
だがクリーオウは、一歩も退《ひ》かないつもりらしい。
「それに、あなたにはちゃんとしたサポートが必要なはずでしょ? 殺し屋ふたりを同時に相手にすることはできないんだから」
「もし相棒《あいぼう》が必要だと思ったら、どこかの裏路地《うらろじ》で腕の立ちそうな奴を見繕《みつくろ》って雇《やと》うこともできたんだよ」
「でもあなたはそれをしなかったわ。本当は、魔術士|同盟《どうめい》にいる知り合いっていうのにそれを頼もうとしてたんでしょ? でも駄目《だめ》だったんだから、わたしが代わりを務めてあげるわよ」
オーフェンは苦《にが》りきった顔で、決然とした面持《おもも》ちの少女を見返した。クリーオウは腕組みし、いつものヒラヒラしたような印象《いんしょう》もなく、こちらをにらみつけている。どうやら昼間、ブラックタイガーと剣を交《まじ》えたことで妙な自信を持ってしまったらしい――オーフェンはいらだたしげに吐息《といき》をついた。こうなると、ミルクを飲んで寝てろと言ったところで説得力はないだろう――なにしろ相手は、もうこちらの話を聞く気がないときている。オーフェンはもうどうにでもなれという気勢で、クリーオウに聞いた。
「得物《えもの》は?」
クリーオウは、こちらが同意してくれたものと、ぱっと顔を輝《かがや》かせた。もう少しでこちらに抱きついてきそうな気配《けはい》すらあったが、それはしなかった。彼女はくるりと身をひるがえすと、廊下《ろうか》に立て掛けてあったらしい一本の細身《ほそみ》の長剣を持って部屋にもどってきた。
「これよ」
クリーオウは言いながら、すらりとした刀身を鞘《さや》から抜き出し、天井《てんじょう》から落ちるガス灯の明かりに照らしてみせた。少女自身にぴったりの、銀色の飾り気《け》のない武器だ。片刃で、刀身はやや反《そ》り返っている。
「クラブで使ってるやつか?」
オーフェンが聞くと、クリーオウは嬉《うれ》しそうにうなずいた。
「いつもは刃にカバーを被《かぶ》せてるんだけどね。今日は外《はず》してあるの」
「人|殺しになりたくなければ、もう一度カバーはつけておくんだな。それと、その剣はやめて、もっと古いのにしておいたほうがいいかもしれんぞ。どうせ折られる運命だ」
「そんなことないもん」
クリーオウはふてくされてそう言うと抱きつくように、抱《かか》えている鞘に剣をもどした。
オーフェンは時計を見つめていた。午前一時を少し過ぎて、クリーオウはソファーに埋《うず》もれるようにして寝こけているし、ボルカンやドーチンもうつらうつらとしている。起こしてもよかったのだが、オーフェンはほうっておくことにした。どのみち、あのふたりの魔術士に決着をつけられるのは自分だけだと承知している。
(チャイルドマン……)
――あんたは、どうしてここに現れた?
弱々しく揺《ゆ》れるガス灯の明かりの下で、オーフェンは考えていた。
(まずアザリーが現れて、そしてあんたがそれを追うようにして現れた。この屋敷にあるのは――バルトアンデルスの剣。アザリーをあんな姿にした古代の魔術だ。あんたは、それを欲しがっている)
いや、違う――オーフェンはひとりでかぶりを振った。<<剣>>を手に入れたいのは、アザリーだ。彼女は多分、俺と同じことを考えたはずだ。バルトアンデルスの剣によってあの姿に変貌《へんぼう》したのなら、同じ魔術でもとにもどれるはずだ、と。
とすれば<<剣>>を求めてこの屋敷に現れたのはアザリーで、チャイルドマンは彼女を追ってここにやってきたということになる。だが、だとしたら、どうしてチャイルドマンはアザリーを追いかけている?
(もとにもどすためじゃない。彼は俺に、彼女の姿をもとにもどすのは不可能だと言った)
とすれば……
(抹殺《まっさつ》するためだ)
魔術に関する決定的な失敗は<<牙《きば》の塔《とう》>>の歴史を傷つける。<<塔>>の長老たちはまずアザリーの記録をすべて抹消《まっしょう》した。あと残っているのは、彼女自身だけだ。
(そんなことはさせない)
オーフェンは虚空《こくう》をにらみつけ、つぶやいた。声に出して、自分自身に確認するように。
「彼女を殺させはしない。もとの姿にもどせないのなら、俺が守る。もどせるのなら、もどしてやる。いざとなればチャイルドマン、あんたを――殺す」
オーフェンは、音を立てずに椅子《いす》から立ち上がった。高いびきのボルカンと、ドーチン、そしてえらく複雑《ふくざつ》な格好でソファーに絡《から》み付いているようなクリーオウを見て、またさらに視線を虚空へともどす。
薄い明かりの照らす部屋の中で、オーフェンは立ち尽《つ》くしていた。彼はふと――なんの理由もなく、気づいた。
(来る――)
誰が来るのかは、分からない。なにか切迫《せっぱく》した気配の向かい風が、彼の額《ひたい》を押している。
オーフェンはゆっくりと、廊下に通じる扉を押し開いた。廊下の闇《やみ》は深く、見上げてみると、一番近いガス灯のガスが切れている。
彼が廊下に出、そして後ろ手に扉を閉めたのと同時だった。屋敷に、またなにか激突《げきとつ》したような轟音《ごうおん》と振動が響《ひび》き渡った。
音をたてて襲撃《しゅうげき》するのは、チャイルドマンの流儀《りゅうぎ》ではない。とすればこれは――アザリーだ。
オーフェンはそう直感し、音の聞こえた中庭に飛び出した。外はあちこちにばらまかれた火の粉《こ》で赤く照らされて、屋内《おくない》よりも明るくなっている。炎の爆《は》ぜる音があちこちから拍手《はくしゅ》のように押し寄せてくる。透明な煙に霞《かす》む視界の中に、中庭の中央の地面に向かって繰《く》り返し炎の塊《かたまり》をたたきつける巨大な異形《いぎょう》の姿があった。
「アザリー!」
オーフェンは、叫《さけ》んだ。が、炎の爆音にかき消されてしまっているのか、アザリーには聞こえた気配はない。
彼女は倒立《とうりつ》して地面に向かって魔術の炎を撃ちつづけ、自分の姿を炎の中に巨大な三角形のシルエットとして浮かび上がらせている――オーフェンはそれに向かって駆《か》け寄ろうとしながら、中庭いっぱいに荒れ狂う炎の嵐に巻かれ、なかなか進めずにいた。
そうしているうちにもアザリーは雄叫《おたけ》びをあげ、強烈《きょうれつ》な威力《いりょく》で地面をえぐっている。
(あの地下には――ちょうど地下|倉庫《そうこ》の中心があるはずだ)
アザリーはこの屋敷の間取りを知っているのか?
だが、そんなことを訝《いぶか》っている暇《ひま》はなかった。オーフェンは低く呪文《じゅもん》を唱《とな》え、身の回り
に障壁《しょうへき》を張り巡《めぐ》らせながら、なんとかアザリーのほうへとじわじわ近づいていった。またアザリーが炎の塊を撃ち出し、吹き飛ばされた土の塊が四方へと飛ぶ。
「くっ――!」
わずかに燃え上がった石の塊をすんでのところでかわして、オーフェンは叫んだ。
「アザリー! 俺だ! 分からないのか?」
その瞬間《しゅんかん》――また別の轟音が響いた。ずうん、と地面を揺らすような鈍《にぶ》い音。途端にアザリーを載《の》せた地面は陥没《かんぼつ》し、彼女を地下に呑《の》み込んだ――地面が崩《くず》れ、倉庫まで沈下《ちんか》したのだ。
「くそっ――」
振動に足をとられ、転倒しながらオーフェンは毒《どく》づいた。中庭はほとんど崩壊《ほうかい》し、アザリーは地下倉庫にもぐりこんで姿もない。ただとぎれとぎれに響く彼女の咆哮《ほうこう》と、木々を焼く炎の音とが唱和《しょうわ》して、すっかりあたりを取り囲《かこ》んでいる。
「きゃあっ!」
背後でいきなりあがった悲鳴に振り返ると、炎に遮《さえぎ》られてクリーオウが立ち往生《おうじょう》していた。この騒《さわ》ぎで、さすがに目が覚《さ》めたらしい。よく見るとボルカンやドーチンもいっしょのようだった。
オーフェンは舌打ちし――両手を広げて、叫んだ。
「我《われ》抱きとめる、じゃじゃ馬の舞《ま》い!」
ふっ――と、荒れ狂っていた火が忽然《こつぜん》と消える。中庭に闇《やみ》が落ち、わずかな星明かりだけが白っぽい薄絹《うすぎぬ》のように地面に落ちていた。陥没した地面の下では、アザリーが動き回っているらしく、まだその振動は収まらない。オーフェンは一瞬《いっしゅん》自分もその穴へと飛び込みかけたが、それよりもクリーオウのところへと駆けもどった。
「ケガは?」
オーフェンが聞くと、クリーオウはかぶりを振った。
「ないわ。お母様たちは、裏口から逃《に》がしたわよ。わたし、役に立ったでしょう?」
「ああ」
オーフェンはうなずいてから、くるりと陥没した穴のほうへと向き直った――穴の隙間《すきま》から、アザリーの毒々しい色をした尻尾《しっぽ》の先が、ちらりとのぞく。致命傷《ちめいしょう》を負《お》った蛇《へび》のようにぐるぐると動き回るそれを見ながら、クリーオウがつぶやくのが聞こえた。
「あれは――いつかの怪物?」
「そうだ」
オーフェンは言って、穴に向かって身構えた。アザリーがあの巨体で暴《あば》れまわっている倉庫の中へと飛び込むのは自殺|行為《こうい》だろうが、出てきたところを見逃《みのが》せば、今度はいつ遭遇《そうぐう》できるか分からない。取り逃がすわけにはいかなかった。
ボルカンが、ちゃきっと剣を抜いている。弟の背後《はいご》に隠《かく》れて。クリーオウも同じく、こちらは多少優美に抜刀《ばっとう》していた。
オーフェンはそれを手で制しながら、
「駄目《だめ》だ。君らの手には負えない」
さすがにクリーオウも反論はしなかった。だが、彼女は身をよじるようにしてこちらに向かい、聞いてきた。
「どういうことなの? 今夜来るのは、あの殺し屋じやなかったの?」
「奴《やつ》らも来るさ。出前《でまえ》がかちあっちまったんだ」
「そんな――」
「しっ」
オーフェンは、少女を制止した。倉庫の中のアザリーの動きが、止まったのだ。
(…………)
不安げにこちらを見ているクリーオウは無視して、自分の身体《からだ》の中の魔力を増幅《ぞうふく》していく。あの巨大な身体を閉じ込める檻《おり》か、捕《と》らえる網《あみ》をイメージしながらオーフェンは、慎重《しんちょう》に地割れを見つめた――沈黙《ちんもく》した地面の穴を。
焦《こ》げ臭《くさ》い煙《けむり》を、さあっと夜風が吹き散らす。
――ふしゃああああああっ!
文字にしてみれば、そんな音のように聞こえた。アザリーの咆哮《ほうこう》が穴の中から突き上げるように、夜空へと舞《ま》い上がっていく。
(――――!)
同時に、中庭一帯に、竜巻《たつまき》のような上昇気流が生じた。尋常《じんじょう》な威力《いりょく》ではない。庭全体の地面が薄くはがれ、上空へと舞い上がっていくような強い風である。オーフェンが、はっと気づいたときには、体重のないクリーオウや地人の兄弟はあえなく数メートルほど上空に吹き飛ばされていた。
(アザリーの魔術か、くそ――)
自分も体勢を崩《くず》されないように地面に踏《ふ》ん張りながら、オーフェンは毒づいた。
(彼女と魔術で争ったところで、勝てるわけがない[#「勝てるわけがない」に傍点]!)
だが、やらないわけにはいかない。彼はそれまで増幅していた魔力を限界まで絞《しぼ》り出すと、両手を祈るように眼前で組み合わせ、絶叫《ぜっきょう》した。
「我《わ》が腕《かいな》に、入《い》れよ子ら!」
叫《さけ》んだ瞬間、がくっと身体の中から釣《つ》り針《ばり》で引きずり出されるように、なにかとっておきの『カ』を消費したのが分かった――全身全霊で彼は魔力を放射し、大気を微塵《みじん》に引き裂く竜巻の隙間をかいくぐって、クリーオウやボルカンらの身体を受け止めた。ほうっておけば地面に激突死していたかもしれない彼女らを、オーフェンは軽く地面に下ろした。
同時に、竜巻も霧散《むさん》する。
だが、想像以上に消耗《しょうもう》が激しかった。全身から汗が噴《ふ》き出し、指先に力が入らない。平衡《へいこう》が分からなくなったようにひざは震《ふる》えているし、内臓がきりきりと痛んだ。ほんの一瞬に、無理な運動をしてしまったかのようだ。
オーフェンはそのまま、地面にひざをついた。次の魔術のために力を練《ね》らなければならないのは分かっているのに、それができない。
(カが――まとまらない。時間が要《い》る……こんなに――消耗するなんて……?)
必死になって息をついていると、落ちた地点からクリーオウが駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
少女の心配そうな声音《こわね》に、無理やり笑顔を作って見上げながら、
「たいしたことはない。ただ、大きな魔術を使っちまった」
「息が切れてるの?」
「そういうことだ。すまない……手を貸してくれ」
クリーオウの手を借りて立ち上がると、彼は地人たちの姿を探そうとした――別にあのふたりに手助けを求めようとは思わないが、それでも無事《ぶじ》は確かめておきたい。左右を見回し、そして、つと正面に視線をもどして彼は動きを止めた――
「…………」
見ると、前方で、ボルカンとドーチンも呆然《ぼうぜん》と動きを止めている。ふたりともこちらに背を向けていた。
アザリーは、まだ穴から飛び出してはいなかった。だが、その身体の半分が地面から露出している。
「おい、でっかくなってねえか、あの化け物……?」
信じられないといった口調《くちょう》で、ボルカンがつぶやく。
確かに、アザリーは巨大化していた――身体の半分が地下なのではっきりとは分からないが、体長にすれば五、六メートルにはなっているのではないだろうか。オーフェンは、愕然《がくぜん》とうめいた。
「くそ――やっぱ、向こうが上手《うわて》か……」
「どうしたの?」
クリーオウが聞く。オーフェンは、吐《は》き捨てるように答えた。
「俺の魔力を無理やり引き出して、吸収しやがった。だからこんなに消耗したんだ」
「吸収って――」
クリーオウはそうつぶやいてから絶句《ぜっく》すると、恐ろしげな表情でアザリーのほうに視線を投げた。
「ど、どうするの?」
「あいにく、俺にはどうしようもない。力を吸い尽《つ》くされて死ななかっただけ幸運だってくらいだ」
オーフェンのつぶやきをかき消すように、巨大化したアザリーが翼を空打《からう》ちした。飛び立つつもりらしいが、地面に身体がはさまっているせいか、動けないらしい。が、二度、三度と空打ちを繰《く》り返すうちに、その巨体が少しずつ地面から迫《せ》り出していくのが分かる。ボルカンとドーチンは悲鳴をあげて、ぱたぱたとこちらに駆けもどってきた。ボルカンは剣を、ドーチンは眼鏡《めがね》をどこかに落としたらしく、持っていない。
「ど、どういうことなんだよ、ヘボ魔術士!」
ボルカンは近寄ってくるなり、半泣きに怒鳴《どな》った。
「てめえのミスで、とうとう化け物が巨大化までしちまったじゃねえか! なんとかしろよ! とっととなんとかしねえと、分度器《ぶんどき》で測《はか》り殺すぞ!」
錯乱《さくらん》しているのか、支離滅裂《しりめつれつ》になっている。
ふらふらしながらもオーフェンの身体を支えているクリーオウが、彼の代わりにボルカンに反論した。
「ちょっと! オーフェンは、わたしたちを助けるために魔法を使ったのよ! そんな言い方ってないでしょ!」
「なに言ってんだ! プロってもんは、結果で勝負するんだよ!」
「なにがプロよ、武器もどっかに落っことしてきたくせに!」
「いいんだよ! どうせあんな怪物相手に剣が役に立つわけがないんだから!」
「それがプロのせりふ?」
「――しっ――!」
オーフェンは鋭《するど》く、ふたりの口論《こうろん》を制した。身じろぎした瞬間、彼の額《ひたい》から汗が飛び散る。確かに彼の耳に、なにかが聞こえた――
「光よ!」
「呪文《じゅもん》だ!」
オーフェンは叫ぶと、クリーオウをひっぱりこむようにして、地面に伏《ふ》せた。と同時に、白い光があたりを照らし、アザリーが悲鳴をあげる――
オーフェンはぞっとしながら、身を起こした。クリーオウが彼の下敷きになって罵声《ばせい》をあげているが、この際仕方ない。どこからか矢のように伸びてきた光の帯《おび》は、V字になるように夜空に伸ばしていたアザリーの翼の片方を打ち抜いた。同時に翼は爆発して炎を巻き上げる――ごうん、と夜気が熱を帯びた風に吹き返された。
再び、あたりに呪文が響《ひび》く。
「光よ!」
(屋根の上――)
オーフェンは声の源《みなもと》を悟《さと》り、夜空に逆光になっている屋根の上を見上げた。光がまたアザリーを撃ち、彼女が悲鳴《ひめい》をあげる。
屋根の上には、ふたつの人影があった。片方は長身の男で、もう一方はそれよりは背が低いが、やはり男。オーフェンは叫んだ。
「チャイルドマン!」
だが人影は呼びかけを無視して、そのままの姿勢でアザリーに向けて左腕をかざした――そして、声。
「光よ!」
光の矢がまたもアザリーの身体を打ちすえ、肉の焦《こ》げる臭《にお》いと、あるいは肉片そのものを周囲にばらまいた。びちゃっ、と足元になにか液状のものが落ちてきたのを見てから、オーフェンは両手を上げた。
「やめろーっ!」
その叫びとともに膨大《ぼうだい》な光の奔流《ほんりゅう》が、屋根の上のふたりの足元あたりを直撃する。オーフェンの放《はな》った必殺の光熱波は、川が土砂《どしゃ》を押し流すようにそのまま、夜空へと突き抜けていった。光が通り過ぎたあと改《あらた》めて見やると、屋根の上からは人影はふたつとも消えうせていた。
(消し飛んだ――死んだのか……?)
オーフェンはぞっとして、自分の両手を見つめた。指先が震えている。
だがすぐ背後に、すたっとなにかが飛び降りた音が聞こえた。あわててオーフェンが振り返ると、そこには一瞬前まで屋根の上にいた男たちが立っている。
「だ、誰《だれ》――?」
うめきながら、クリーオウが起き上がってきた。一応剣に手をかけてはいるが、まだ抜いていない。
抜くなよ、とオーフェンは心の中で念じた。抜いたら、彼女は殺されるかもしれない。
気が付くとオーフェンは、傷ついたアザリーを背後にかばうような格好《かっこう》で、そのふたりの黒魔術士《くろまじゅつし》と対峙《たいじ》していた。
黒魔術士のうちのひとりは、チャイルドマンだった――数日前に覆面《ふくめん》の下に見えた冷徹《れいてつ》な顔は、幾度《いくど》か追憶《ついおく》の中で思い起こした顔と寸分も変わっていない。異様に鋭《するど》い眼光が、そのままボルカンの口癖《くちぐせ》を借りれば、にらみ殺されることもあり得るのではないかと思わせるほど厳《きび》しく夜の闇を貫《つらぬ》いている。ガラス玉でできているような冷たい眼差《まなざ》しは、それだけで十分な威嚇《いかく》だった。一文字に左右に引き伸ばされた、感情のない口元も、なにが起ころうとぴくりともしないほおの皮もだ。
もうひとりのほうは、それとは幾分|対照的《たいしょうてき》に、気まずそうにこちらの顔色をうかがっている。細い赤毛が夜風に揺《ゆ》らされて、本来ならば愛嬌《あいきょう》のある目元は、今は暗く陰《かげ》っていた。
「ハーティア」
オーフェンがつぶやくと、若い黒魔術士は半歩ばかり身体を退《ひ》いて、すまなそうに口を開いた。
「キリランシェロ。本当にすまない――だが、今日はああするしかなかったんだ。君が――」
ちらりと、かたわらの師のほうを見やって、
「君が、もう数日前に来ていてくれたら――」
「いいよ。お前が無理に怒《おこ》ったふりをしているのは、なんとなく分かった。なあ海老男《ブラックタイガー》?」
「……気づいていたのか」
ハーティアは、驚《おどろ》いたふうだった。オーフェンは薄笑いを浮かべて、
「よく考えてみたら、あんな馬鹿《ばか》な扮装《ふんそう》を考えるのは、大陸全土でもお前くらいなものさ」
クリーオウは、きょとんとしたようにこちらと、ハーティアとを見比べている。自分が刃《やいば》を交《まじ》えた通り魔と、目の前の美形の青年とでは、連想がつながらないらしい。
と――
オーフェンは、すっと表情をひきしめ、チャイルドマンの眼差しを正面から見返した。
最初に口を開いたのは、チャイルドマンだった。
「どけ、キリランシェロ」
「……断《ことわ》る」
「キリランシェロ!」
ハーティアが横から叫ぶ。
「キリランシェロ、いいか、これは<<牙《きば》の塔《とう》>>だけじゃない、大陸魔術士同盟《ダムズルズ・オリザンズ》そのものの決定なんだ――」
「アザリーを殺すことがか」
苦々《にがにが》しくオーフェンが□にすると、チャイルドマンはあっさりと答えた。
「……そうだ」
「どうしてもというなら――」
オーフェンはクリーオウを横にどかし、続けた。
「俺を殺してからにしろ。ただし、俺もただでは死なない」
「ほとんど力も残っていないというのにか?」
「まだできることはあるさ」
オーフェンはつぶやきつつ、少しだけ腰《こし》を落とした。チャイルドマンらには見えないようにこっそりと、地面に寝たままになっているボルカンに左手を差し伸べる。
ボルカンは、どうやら助け起こしてもらえるものと思ったらしい。手を握《にぎ》ってきた。
瞬間、オーフェンは魔力を放った。
「跳《と》んでいけえっ!」
ぶおんっ! と空気が振動し、風の翼《つばさ》に押し包《つつ》まれるように丸まったボルカンが、砲弾のような勢いでチャイルドマンとハーティアのほうに吹き飛んだ。ふたりともその攻撃は読んでいたらしく、難無《なんな》くそれをかわしたが、一瞬だけ体勢を崩《くず》し、隙《すき》を見せた。
オーフェンは続けて叫びかけた。
「我《われ》は放つ――」
が、その瞬間、彼は後ろから引きずり倒された。見ると、ドーチンとクリーオウがいっしょになって、腰のあたりにかじりついている。
「なにをするんだ――」
怒鳴《どな》りかけてオーフェンは、気づいた。背後《はいご》にいたアザリーが、こちらをじっと見ている。彼女がなにをしているのか、一瞬オーフェンには分かりかねた――が、いきなり、閃《ひらめ》くように頭の中にイメージが浮かび上がる。
彼女は、息を吸いつづけている。呪文を放つためにだ。
それに気づいて、クリーオウらは彼を押し倒したのだろう。あのままチャイルドマンと戦うことに夢中になっていたら、あっさりと彼女の呪文に巻き込まれてしまっていた。
「くそ――」
オーフェンは毒づくと、クリーオウとドーチンのふたりの肩に手を回し、残った力をすべて振り絞《しぼ》って、呪文を叫んだ。
「我は紡《つむ》ぐ光輪《こうりん》の鎧《よろい》――!」
と、同時に、アザリーがひときわ巨大な咆哮《ほうこう》をあげる――
あたりを、業火《ごうか》の一色が塗《ぬ》りつぶした――
目を覚《さ》ますと、夜は明けていた。
それどころか、もう昼前になっているらしかった。窓から入ってくる陽光は高くなっていて、彼の横たわっているベッドの周《まわ》りを、ティシティニーとクリーオウ(髪を解《と》いて、もとの格好《かっこう》にもどっている)、そしてボルカンとドーチンが囲《かこ》んでいた。ボルカンだけ、やけに煤《すす》っぽく焦《こ》げている――そういえば、防御《ぼうぎょ》の魔術の効果の中にボルカンは入っていなかった。
ボルカンが□を開けたときには、その次にどんなせりふがくるのかもう分かりきっていたので、聞かなかった。だが、ずいぶんと長い時間聞き流して、横からティシティニーが口をはさんだ部分だけは、はっきりと覚えていた。
「――の☆○野郎! いいかげんにしとかねえと、歯ブラシで磨《みが》き殺すぞ!」
「……まあ、オーフェンさんも疲れているんですから、そのくらいに……」
「でも――」
反諭しかけたのを黙《だま》らせたのは、クリーオウだった。彼女は後ろから地人のマントを引っ張ると、ほとんど首|吊《つ》りのように引きずって、部屋の外まで連れ出していってしまった。ドーチンも、その後についていく。
部屋の中にティシティニーとふたりだけになって、オーフェンは知りたかったことを簡潔《かんけつ》に質問した。
「……あれから、どうなりました?」
「魔術士同盟《まじゅつしどうめい》の人というのがたくさん見えて、今はなにか、地下の倉庫《そうこ》の中を探しているようですわ」
「……チャイルドマンは?」
「チャイルドマンという名前の人も、まだ倉庫にいると思います」
「そうですか……」
オーフェンは右手を両目に当てて、深々と嘆息《たんそく》した。
(結局、俺は偉《えら》そうなことを言ってるだけで、なにもできなかった……)
泣いていたわけではなかったが、ティシティニーはそう誤解《ごかい》したらしかった。彼女はその後は、ずっとなにも話しかけてはこなかった。
第五章 狩り≠フ夜
「あの屋敷《やしき》の倉庫《そうこ》の中には、もう|月の紋章《バルトアンデルス》の剣はなかった――昨夜、怪物が持ち去ったのだろうな」
チャイルドマンの説明は簡潔《かんけつ》であり、また淡泊《たんぱく》であった。
「五年前から、わたしは――わたしと、数名の部下は、あの怪物を追っていた。理由は分かるだろう。あれを狩るためだ」
「彼女をこの世から抹殺《まっさつ》するつもりか」
オーフェンがつぶやくと、彼は、そのままの表情で――こわばったように見える堅《かた》そうなほおをぴくりともさせずに、答えた。
「彼女は五年前に死んだ。わたしが狩るのは、あの怪物だ」
「だが、あの怪物が彼女なのさ」
オーフェンはこちこちになった革《かわ》の椅子《いす》を蹴飛《けと》ばすように立ち上がると、毒《どく》づいた。粗末《そまつ》な明かりがひんやりと、むしろ部屋を暗くしている感じだ。魔術士同盟《まじゅつしどうめい》支部にある奥まった一室である。オーフェンが腰掛《こしか》けていた椅子と、小さなテーブルと、その上のトレイに載《の》った水差しとコップ以外にはなにもない、小さな部屋である。椅子がひとつしかないのだから、会議室ですらない。オーフェンはその部屋の中で、ふたりそろって自分と対峙《たいじ》するようにして立つチャイルドマンとハーティアを順番ににらみつけた。
「本当にそう思っているのか、キリランシェロ?」
心配そうに顔色を暗くして、ハーティアが聞いてきた。両腕を広げて、続ける。
「あんな……姿をしたものが彼女だっていうのか? あれには、もう意識も残っていないんだぞ? ほんのかすかな記憶《きおく》と、本能が残っているだけで」
「かすかな記憶と本能?」
オーフェンが聞き返すと、答えたのはチャイルドマンだった。
「バルトアンデルスの剣に関する記憶と、そしてもとの姿にもどりたいという衝動《しょうどう》的な本能だ。だからこそあの怪物は、エバーラスティン家にある<<剣>>を求めて現れたんだ」
「……なぜ、あんたが封印《ふういん》したはずの<<剣>>が、あの屋敷にあったんだ」
「なぜなら、わたしがあの屋敷に封印したからだ」
オーフェンは意味が分からずに、いぶかしげに視線を返した。チャイルドマンは腕組みをし、渇《かわ》いた唇《くちびる》を開いた。
「わたしは昔、あの屋敷の先代の持ち主――つまりティシティニー・エバーラスティンの亡夫《ぼうふ》エキントラ・エバーラスティンに雇《やと》われていたことがある。私的な……暗殺者として」
チャイルドマンはあくまで表情を崩《くず》さず、淡々《たんたん》と告げた。
「そしてまた、彼とわたしとは友人でもあった。わたしは<<塔《とう》>>に置いたままにするには多少危険だと判断されたものを、しばしば彼に預《あず》けた。魔術を扱《あつか》う者の手の中になければ、いくら危険な品物でも無害なものだからな」
オーフェンは、クリーオウにもらった指輪のことを思い出しながら、皮肉《ひにく》げに聞いた。
「そしてアザリーの遺品《いひん》も、すべてあの倉庫に押し込んだわけだ。<<剣>>もなにもかも」
「<<剣>>は、もとは<<塔>>のものであったのを、アザリーが勝手に持ち出したものだ。だが彼女の失敗により、バルトアンデルスの剣は禁呪《きんじゅ》に指定された。バルトアンデルスという名前はともかくとして、あの<<剣>>に記《しる》されている呪文を読み解《と》くことに成功したのは彼女だけだったが、なんにしろあの<<剣>>の魔術が失敗だったことまで解明してくれたわけだ」
「……彼女は、あんたの生徒だったんだぞ。あんたが育てたんだ」
オーフェンは歯ぎしりするようにつぶやいたが、チャイルドマンは冷淡にこちらを見返しただけだった。彼は、オーフェンをひどくいらつかせる厳格《げんかく》な口調《くちょう》で告げた。
「わたしは組織《そしき》に忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》っているのだ。そして彼女は、組織に背《そむ》いて死んだ」
「まだ死んでいない」
「その点に関しては、我々《われわれ》の意見は平行線だな」
チャイルドマンの琥珀《こはく》色がかった眼差《まなざ》しは、暗がりでじっと動かないトカゲのようにぴったりとこちらを見据《みす》えていた。オーフェンはその眼差しに反抗しながらも身動きがとれず、まさしく砂の獣王《じゅうおう》の視線に凍《こお》らされ、その巨大な獣《けもの》に呑《の》み込まれるのを待つ死体のように、恐怖に襲《おそ》われながら震《ふる》えることもできない。
(彼の力の秘密はなんなんだ)
オーフェンは自問した。
(いつも冷静でいることか? 規律《きりつ》のためなら犠牲《ぎせい》を厭《いと》わない聖者じみた献身《けんしん》か? なんにせよ、俺には彼の力を真似《まね》ることすらできない……)
オーフェンは昔から、この教師にだけは勝ったことがなかった――いや、正確に言うならば、その足元にも及《およ》ばなかったと言ってもいい。アザリーが<<塔>>始まって以来の天才だとしたら、チャイルドマンは最初で最後の大天才だと言っていい。<<牙《きば》の塔《とう》>>のチャイルドマンはまさしく最高の使い手だった。三十を数えたばかりのこの若い男に対して、大陸中の組織の随員《ずいいん》が恐《おそ》れを抱《いだ》くのは伊達《だて》でも酔狂《すいきょう》でもない。ましてや、誇張《こちょう》でもなかった。
チャイルドマンは、ふい、と横を向くように身体《からだ》の向きを変えると、どこへともなく歩きだしながら言った。
「わたしは長い間、あの怪物を追っていた……が、敵は手ごわくてな。あれは未《いま》だに魔術が使える。しかも、卓越《たくえつ》した手腕《しゅわん》でだ。その上、強靭《きょうじん》な体躯《たいく》と疲労を知らない獣のスタミナも手に入れている。数名いたスタッフも、今はわたしひとりだ。すべて殺された」
「彼女の理性が少しでも残っていたら、そんなことをするわけがない。聞いたところじゃ、死体はどれも原形が残らないようなひどい殺され方だったらしい」
と、横からハーティア。だがオーフェンはそれを無視した。
「魔術の腕なら、あんたのほうが上だろう、チャイルドマン?」
ぴたり、とチャイルドマンの足が止まる。彼はこちらを向かずに答えた。
「黒魔術でならば、な。だが彼女には切り札《ふだ》がある」
「……白魔術か」
オーフェンは、ぽつりとつぶやいた。ハーティアが、畏怖《いふ》するようにうなずく。
まるで講義をするような□調《くちょう》で、チャイルドマンは続けた。
「白魔術士は時間と精神を操《あやつ》る力を持っている。それは一見《いっけん》|地味《じみ》だが、非常に強力だ。あるいは白魔術こそ、本当の魔術だと言う者もいる。あの高度に洗練《せんれん》された力に比べれば、我々のカなど――」
と、彼は軽く手を振って、
「ほんの子供だましだ。白魔術士のつぶやきを聞くだけで、我々は戦意を喪失《そうしつ》してしまうかもしれない。声高《こわだか》に唱《とな》えるのを聞くだけで、猛烈《もうれつ》な恐怖に怖《お》じ気《け》を覚えて逃げ出さざるを得なくなるかもしれない。叫《さけ》ぶのを聞くだけで、発狂するかもしれない」
チャイルドマンはこちらを向いて振った手をこめかみにやると、自分の髪の毛の縁をなでた。
「あるいは突然気絶するかもしれないし、眠り出すかもしれないし、笑い出すかもしれないし、あっさり死ぬかもしれない。ほかの人格になってしまうかもしれないし、あるいはもう二度と動き出すことも、なにも感じることもなくなってしまうかもしれない」
「……なにが言いたいんだ、チャイルドマン。遠回しなのはあんたらしくないぞ」
顔をしかめてオーフェンが聞くと、チャイルドマンは、なに、簡単なことだと前置いてから、続けた。
「ようするに、白魔術士と戦うには、ひとりでも多くの魔術士が必要だということだ。それも、戦闘《せんとう》能力を持った腕の立つ黒魔術士がな」
「……俺に、彼女を抹殺《まっさつ》する片棒を担《かつ》げと言うのか」
オーフェンはぎしりと歯を鳴らして、チャイルドマンに詰め寄った。だがこの冷徹な教師はまったく動じず、
「強要はしない。だが、手を貸してくれるのなら非常に助かるのだがな」
「断《ことわ》る」
「キリランシェロ! これは――」
必死の感情を込めたハーティアの口調に、オーフェンはそちらに向き直った。赤毛の友人は、唇《くちびる》を噛《か》みながら告げた。
「これは、つまり……君の贖罪《しょくざい》になるんだ。この仕事に協力してくれるなら、<<塔>>を飛び出した君の面目《めんもく》も立つだろう? つまり君は、アザリーを探していたわけだから――」
「彼女を探してはいた。だが、抹殺するためじゃない」
「キリランシェロ、ぼくもこの作戦に参加するんだ。彼女――いやあの怪物を見つけだして<<剣>>を取りもどせば、ぼくはもっと地位の高い部署《ぶしょ》に行けるかもしれない。あるいは<<牙の塔>>に教師助手としてもどれるかも」
オーフェンは吐《は》き気《け》を覚えながら、唾《つば》吐くようにつぶやいた。
「勝手にしろよ。お前がどんな手を使って出世しようと、俺の知ったことか――」
「違うんだよ! ぼくが言いたいのは、この事態を、<<牙の塔>>がどれだけ重く見ているかってことなんだ。かつて最高の腕を持っていた魔術士が、我《われ》を失って力を得、禁制の魔術の品を奪《うば》って逃走《とうそう》している。これが公《おおやけ》になれば<<塔>>の権威《けんい》は失墜《しっつい》するんだ――そこまではいかなくても、ひどいイメージダウンにはなる。今年<<塔>>は四人の魔術士を宮廷《きゅうてい》にあげた――でもこの事態が知られれば、これからはどうなるか分からない。いいか、君だって言っていただろう? あの<<塔>>は決死の覚悟《かくご》がなければ入門できるところじやないんだ。それだけの覚悟をして、あの<<塔>>の魔術士|候補《こうほ》たちは勉強している。でも<<塔>>の権威と威光《いこう》が失すれば、彼らの希望も無為に消えるんだ」
「あるいは<<塔>>の出身者であるお前の希望もな」
ハーティアは、ぐっと息を呑《の》み込んでから、
「ああそうだよ。ぼくの希望もな。こんなところで雑用係をして終わるつもりはない。でもそれは、君だって同じことだろう?」
「俺の希望は――」
オーフェンは言いかけたが、その会話の隙間《すきま》に、不意にじっと聞いているチャイルドマンの気配《けはい》のようなものが割って入った――言葉《ことば》を途切《とぎ》れさせ、ハーティアと同時にオーフェンはチャイルドマンのほうを振り向いたが、チャイルドマンは特になにをしているでもない。こちらを見ているだけだ。
教師は突然、口を開いた。
「ふたりとも、無意味なことを議論するんじゃない。キリランシェロ、これはごく単純な問題だ。我々は今夜、部隊を組んで怪物を討伐《とうばつ》に出る。部隊には多数の<<牙の塔>>の黒魔術士が参加する」
「……どうして彼女の居所《いどころ》が分かる」
「お前がこの支部に来たとき、わたしはエバーラスティン家の倉庫《そうこ》に忍び入って<<剣>>を見つけだしていた[#「いた」に傍点]のだ。そのときわたしは、バルトアンデルスの剣に一種の信号を擦《す》り付けた――離れた場所に移動しても、それをたどって追跡《ついせき》できるようにな」
「……あんたはいつも俺の一歩先を行く」
「そうしなければ仕事ができないときにはな。だが、そんなことはどうでもいい。今夜中には怪物は始末《しまつ》されるだろう。お前がもう一度怪物――彼女[#「彼女」に傍点]と会うには、この作戦に参加するしか方法がない。参加する以上は、わたしの命令に従ってもらうことになるがな。あとはお前の判断だ――ついてくるか、否《いな》か」
「…………」
オーフェンは、憎々《にくにく》しげと言ってもよさそうな形相《ぎょうそう》でチャイルドマンをにらみつけた――チャイルドマンはいつもそうであるように、今も冷淡な仮面を崩《くず》そうとはしない。
いや、とオーフェンは皮肉《ひにく》げに考えた。あれは仮面ではない。恐らくは素顔《すがお》なのだろう。
「……出発はいつだ」
オーフェンは聞いた。チャイルドマンは別に笑いながらうなずいたりはしなかったが、それでも多少は思いどおりにいって面白《おもしろ》そうに目の色をきらりとさせた。
彼は静かに答えた。
「部隊がそろい次第《しだい》、夕刻前には出る。それまでにお前も準備をしろ。武器に食糧《しょくりょう》くらいはこちらで用意するがな」
「今夜? じゃあ、急いで準備しないと!」
話を聞いた瞬間《しゅんかん》、クリーオウは飛び上がってそう叫《さけ》んだ。さらに、髪をまとめるのにひとりでは一時間かかるとか二日連続で徹夜になりそうなのは肌《はだ》に悪いとか言いながら部屋を飛び出そうとしたところで、オーフェンはため息まじりに言った。
「君はこの屋敷にいるんだよ」
それを聞いて振り返ったクリーオウの顔は、まるでオーフェンが史上最低の裏切り者だとでも言いたげにショックを受けていた。ちっちっと指を振りながら、少女に向かってボルカンが告げる。
「そういうことさ。こういったことは、我々のようなプロに任せてもらいたい――」
「お前もだ、ごくつぶし」
「え?」
指を立てたままの姿勢で凍《こお》りつくボルカンは無視して、オーフェンはボルカンのとなりに並んで立っているドーチンにも、
「お前もな。今夜の狩り≠ノ参加するのは俺だけだ」
「で、でも、危険よ、それって!」
クリーオウはぱたぱたと駆《か》けもどってきて、どんとオーフェンの胸を突いた。
「わたしが見た感じじゃ、今日屋敷に来た魔術士|同盟《どうめい》はオーフェンを目の敵《かたき》にしているみたいだったもの。その狩り≠フ途中で、後ろから刺されるかも」
「ンなことをやる連中じゃないさ、魔術士ってのは。特に、ひとりでも仲間が必要なときには。ただ、今までは俺が彼らの計画の実際的な障害になっていたから、対立していたに過ぎない」
オーフェンは陰鬱《いんうつ》につぶやいて、これで終わりだというように手を広げた。
「俺はアザリーを抹殺《まっさつ》しようとする奴《やつ》らの部隊に加わって行動する――チャイルドマンの指揮《しき》下でな。はっきり言って、部隊の規模《きぼ》から考えてもアザリーの勝てる見込みはない。彼女は今夜中に抹殺される。だが」
オーフェンは窓の外を見やった。ぼろぼろの焼け野原に変じた中庭が、午後の光を浴《あ》びてみじめにたたずんでいる。
「だが、俺は奴らを出し抜くつもりだ。なんとかして彼女を護《まも》る。できるなら、彼女を連れてチャイルドマンの手のとどかないところに逃亡《とうぼう》するつもりだ。まあ、そうなると、成功しても失敗しても、もうこの屋敷にはもどってこれないだろうな。申し訳《わけ》ないと思ってるよ――庭をちゃんと再生していこうとは思っていたんだが、その時間はなさそうだ」
チャイルドマン以下、数人の黒魔術士たちがその渓谷《けいこく》に入ったころには、もうすっかり日は暮れて夜になっていた。夜間は危険じゃないのか、とオーフェンが聞くと、チャイルドマンは冷淡に答えた。
「事態は急を要する」
「半日すら待てないとはね」
オーフェンは皮肉で言ったのだが、チャイルドマンはしごく当然といったふうだった。
「そのとおりだ」
オーフェンはもうなにを言うのもあきらめて、渓谷をやや急ぎ足で進む部隊を見やった――ここはトトカンタから数キロほど西に離れたアイーデン山脈の裾《すそ》であり、ちゃんとした馬車道もある、かなり拓《ひら》けたところである。地図を見れば小さな村落もちらちらと存在するようなのだが、極秘任務《ごくひにんむ》であるということでそのどれにも近づくことはできなかった。
部隊は、チャイルドマンが言ったとおり、大部隊になっていた。
まずはチャイルドマンを先頭に、オーフェンはそのすぐ後ろについている――これは単純に、チャイルドマンがオーフェンの能力を評価した結果だった。その後に、ハーティアを含《ふく》めた六人の黒魔術士が続いている。全員似たような格好《かっこう》で、秘密の宗教を開くスタッフが揃《そろ》いで着るような黒いマントを羽織《はお》っている。オーフェンも腰《こし》に剣を提《さ》げていたが、彼らはさらにニメートルほどの長さの歩兵槍《ほへいやり》も携《たずさ》えていた。彼らの中には、オーフェンの見知った顔もいくつかあったが、彼はその誰《だれ》にも話しかける気にはならなかった。多分、向こうも同じ気持ちだろう。ハーティアでさえ、こちらとは目を合わせないように努力している。
そして、その総勢八人の後ろには、ぽつんと孤立《こりつ》して六十歳ほどの老人がついてきていた。老人とはいっても身体は丈夫《じょうぶ》そうで、若い黒魔術士らにまったく遅《おく》れずに渓谷を歩いてきている。灰色の髪に、白い髪が混じっているような感じで、髭《ひげ》は生やしていない。ふだんは温厚なのであろう浅い皺《しわ》のあるほおを、今は堅《かた》くしている。その胸には、剣とドラゴンの紋章《もんしょう》ではなく、巨大なサイコロを載《の》せた帆船《はんせん》のペンダントがかかっていた――これは白魔術士の証《あか》しである。
これだけの魔術士が共同で作戦をとるためには国王の承認《しょうにん》が必要なはずだが、今回は非合法に違いあるまい。特に白魔術士は、王室と一部の高位魔術士しかその所在を知らない秘密の城塞《じょうさい》に、ほぼ監禁《かんきん》されるような形でいるのが普通だ。それを連れ出してきたというのなら、チャイルドマンの持つ実力というのは、魔術士最上位の<<十三|使徒《しと》>>にも匹敵《ひってき》するということになる。
オーフェンはチャイルドマンに、こっそりと聞いた。
「……あの白魔術士は、アザリーの魔術を封じられるのか?」
「可能性としてはな」
チャイルドマンの返事は――昔と同じように――ひどく残酷《ざんこく》だった。
「ひょっとしたら、という程度の期待で呼び寄せたに過ぎない。白魔術士だからといって、白魔術を封じられるとは限らないからな。向かってくるナイフを、同じナイフの刃先で受け止めようとするようなものだ」
「……つまりあんたは、最初から犠牲《ぎせい》を覚悟《かくご》してこれだけの人数を集めたわけだな? 最初のアザリーの攻撃《こうげき》で何人か死のうがかまわない。ひとりでも生き延《の》びて、彼女の脳《のう》みそを吹っ飛ばせればいいってわけだ」
「それは、みな承知している」
どうだかな、と思いながらオーフェンは聞いた。
「誰を先頭にアザリーに攻撃をしかけるつもりなんだ?」
「お前だよ。この部隊の中で最も若く強靭《きょうじん》で、実戦的な攻撃能力を持つのはお前だ。その分|粗削《あらけず》りではあるがな。それに――」
と、チャイルドマンは珍《めずら》しく冗談《じょうだん》じみたことを口にした。
「それにお前なら、たとえ死んでも始末《しまつ》書は書く必要がない」
◆◇◆◇◆
「――ったく、なんでこんなメにあわなけりゃならないんだ、くそったれが――えいくそ、錆《さ》びた刃物で研《と》ぎ殺すぞ!」
すねにひっかき傷を残すヒザノコギリ草に、ボルカンが毒《どく》づくのが聞こえた。ざくっ、ざくっと足元の雑草やら育ちすぎた木の根っこやらをナタで切り落としながら、先頭を歩く兄は際限なく不平をもらしている。
「兄さんが言い出しっぺじゃないか」
ドーチンは兄の後を歩きながら、小さくそうつぶやいた。彼が携帯《けいたい》用のガス灯を持つ係であり、白っぽい明かりを周囲に落としている。
「そうよ」
と、これはドーチンの後ろをついてくるクリーオウ。身軽な乗馬服姿で、剣を持っている。彼女はボルカンがナタで拓《ひら》いた小さな道をてくてくついてきながら続けた。
「オーフェンを手伝う方法があるって言うから、ついてきたのよ。ホントに魔術士たちはこっちのほうに来たの?」
「プロの情報に疑《うたが》いをはさみなさんな」
と、振り返らずにボルカン。
「トトカンタの裏の情報を牛耳《ぎゅうじ》る俺の友人が、魔術士同盟の動向を教えてくれたんだ」
「ガセネタじゃないの? だいたい、その友人って誰なのよ」
クリーオウが聞く。だがボルカンはふてくされたように、なにも答えない。
少女がムッとして剣を抜きかけているのを見て、あわててドーチンは叫んだ。
「ぼ、暴力はいけないよ!」
「暴力じゃないわ。騎士《きし》の剣は常に正義よ!」
凛然《りんぜん》とした声を張り上げて、クリーオウが抜刀《ばっとう》する。同時にボルカンが足を止め、振り返った。少女と自分の間とにドーチンがはさまっているせいか、逃げもせずにボルカンもまたナタをわきに捨て、抜刀した。
「騎士だと? いつからエバーラスティン家が貴族になったんだ? 適当なコト言ってっと、鉛筆削《えんぴつけず》りで削り殺すぞ!」
「殺してもらおうじゃない?」
クリーオウが鼻息荒く叫ぶ。
間にはさまれてドーチンは、おろおろとふたりを見比べた。どちらの味方をしたところで後々ロクなことにならないのは分かりきっている。兄の味方をすればこの場でふたりともクリーオウにたたきのめされる。クリーオウに味方すれば味方したで、この後数週間は兄のネチネチしたイビリに堪《た》えなければならない。
「と、とにかく――」
ドーチンはふたりの間で両腕を広げた。
「落ち着こうよ! ほら、刃物なんて引っ込めてさ――兄さんも――あ、なんだ。今日はやけに自信たっぷりだと思ったら、服の下に本なんて仕込んでるのか。あ、ぼくの本じゃないだろうね? え? エバーラスティン家の蔵書《ぞうしょ》? ならいいけど−クリーオウさんも、服の下になんか仕込んでるね。え? 違うの? だって胸のところに――あ、なんだ。ごめん。中途半端《ちゅうとはんぱ》に膨《ふく》らんでるもんだから――」
とりあえずこの仲裁《ちゅうさい》は役に立たなかったようで、ボルカンとクリーオウの表情はさらに険《けわ》しくなっていった。ドーチンはあわてて、
「に、兄さんも、ほら、そんな怖《こわ》い顔をしないで、みんなで仲良くしようよ。こんな気の滅入《めい》る山道を延々《えんえん》歩いているわけだし、この上ケンカなんてしながら歩くのはイヤだよ。ね? ただでさえ兄さんといっしょにいるとうんざりすることが多い――いやその、つまり、そうじゃなくって、ええと――気分が晴れるというにはほどとおい感じで――いや――兄さんって、つまりヤな奴《やつ》――」
だがドーチンの説得も空《むな》しく、ふたりはいっせいに武器を振り上げた――そして、同時にドーチンを狙《ねら》って振り下ろしてくる。剣を二本とも脳天《のうてん》にくらい、ぴゅー、と血を噴《ふ》き上げながらドーチンはぼやいた。
「なんでぼくが殴《なぐ》られるんだ」
「やかましいっ!」
ボルカンは怒鳴《どな》ると、また前方に向き直って、ざくざくと下草をナタでなぎ払った。クリーオウも、剣を鞘《さや》に収めて後に続く。
三人とも足をそろえて数歩進んでから、クリーオウがまだ怒り足りないというようにぼやいた。
「だいたい、ここはどの辺なのよ。わたし、足が痛くなっちゃった」
「地図によると――ほら、あの星の位置がここだから、ここはアイーデン山脈の中腹ってところかな。兄さんの持ってきたプロの情報とやらが正確なら、目的地はこの辺なんだけど――」
「あとどのくらいあるの?」
クリーオウがうんざりとした声で発した質問に、ドーチンは即答した。
「二時間ほどかな」
「げぇー」
「なにが『げぇー』だ。呼ばれもしないのに無理やりついてきたくせに」
そう言って振り向いたのは、ボルカンである。ナタを水平に振りながら、彼は続けた。
「いいか、あの怪物を魔術士たちより先に見つけだしてだ、うまいことやって連れ出して、どっかに監禁《かんきん》しちまえば、魔術士どもにこちらの言い値で取引《とりひき》することができるんだ! しかもあの金貸し魔術士の鼻もあかせるってオマケつきだ。こいつは遊びじゃないんだぞ! 失敗は許されないんだ!」
「……そのくせ、兄さんの計画はその『うまいことやって』の部分がイージーというかいいかげんというか……」
「なんか言ったか、ドーチン?」
「いや、別に」
ドーチンは嘆息《たんそく》を押し隠《かく》しながらそう答えた。
「どのみち、あと二時間もかー」
疲れたようにクリーオウがぼやく。
「オーフェンの手伝いをすれば、お姉ちゃんがお小遣《こづか》いくれるはずだったんだけどなー。帰っちゃおうかな。あ、でも、帰るのも歩かなくちゃならないんだっけ」
言いながら、彼女は足元の小石を蹴飛《けと》ばした。小石はゆるやかに宙に弧《こ》を描きながら、夜空を飛んでいく。
ドーチンは、妙《みょう》に思って聞いてみた。
「なんで黒魔術士の手伝いをすると小遣いがもらえるんですか?」
「んー? それはねー――」
待ってましたとばかりに、クリーオウが瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせて説明にかかろうとしたそのとき、あたりに異様な物音が響《ひび》いた。
ふぅぅおおおぉぉぅぅぅううぅぅ……しゅるううぅぅぅぅ――
「…………」
その音――恐《おそ》らくは、鼻息――には、三人とも聞き覚えがあった。冷や汗をたらしながら、クリーオウがボルカンに聞く。
「ちょっと、さっきの話だけど、情報ってドコから仕入れたの?」
「いや――だから――」
こちらも、顔面を蒼白《そうはく》にして、ボルカン。
「つまり――裏町にバグアップズ・インって宿屋があって、そこの亭主《ていしゅ》のバグアップってのが昔、ちょっとは知られた盗賊《とうぞく》で――暗黒街の女王なんて呼ばれた女と駆《か》け落ちして、もう足は洗ってんだけど――今でも趣味《しゅみ》で情報収集なんてやってるっていうから、なんか知ってるんじゃないかと思って――」
「ロートルが趣味で集めてる情報なんて信用するんじゃないわよ。なにがあと二時間ですって? こんな突然見つかる[#「こんな突然見つかる」に傍点]なんて!」
完全に怒《おこ》った声で、クリーオウがボルカンの頭をつかむ。
「ねえ……」
と、ドーチンはふたりにつぶやいた。
「そんなこと言ってる場合じゃないと思うんだけど――」
彼が言い終わる前に、夜空に雄叫《おたけ》びが響き渡る。
――きしゃあああああああああああっ!
驚《おどろ》くほどすぐ近く――五メートルも離れていない草むらから、巨大な怪物が身を起こした。その怪物が、すさまじい咆哮《ほうこう》をあげながら、こちらに飛びかかってくる――
混乱の中で、ドーチンはガス灯を地面に落とした。暗闇《くらやみ》があたりを覆《おお》い、星空のほのかな瞬《またた》きだけが、静謐《せいひつ》に夜の闇を照《て》らした。
◆◇◆◇◆
二時間後、隊が休憩《きゅうけい》に入ったとき、オーフェンはひとりでこっそりと隊列を離れた。
こっそりと、とは言ってもすぐに気づかれて当たり前ではあるが、急げばなんとかチャイルドマンたちを引き離せるかもしれない。
(だが、せいぜい数分だ)
すぐにチャイルドマンは彼の不在に気づくだろう。それまでにどこまで引き離せるか。
アザリーの正確な位置は、チャイルドマンしか知らない――が、オーフェンはチャイルドマンが渓谷《けいこく》に入ってからほぼ一直線に進んでいることに気づいていた。それに彼の急ぎようを考えると、チャイルドマンがアザリーに向かって完全に一直線に進んでいるのはほぼ間違いない。となれば、進行方向に歩を速めていけば、チャイルドマンより早くアザリーに接触《せっしょく》できるはずである。
オーフェンは渓谷の上、深い森の中をできるかぎり急ぎながら、あとどれくらいでアザリーのもとにたどり着けるのかを考えていた。進むにつれ、森は深くなっていく――これは当然のことで、アザリーは身を隠《かく》すとしたら森の奥まったところを選ぶだろう。
(できるか、俺に――チャイルドマンを出し抜くことが?)
オーフェンは自問しながら、ほとんど小走りになって森の中を進んだ。
(俺はあの男に一度も勝ったことがないんだぞ?)
早まったことをしたかもしれない――という思いが、ぞっと押し寄せる津波のように彼を呑《の》み込みかけた。が、頭ひとつ分だけなんとか浮かび上がると、彼はかぶりを振った。手にした剣で胸まである下生《したば》えを切り拓《ひら》きながら、
(俺がしっかりしないと、アザリーが死ぬんだ)
ざくっ……と、青々としたヒザノコギリ草を打ち払う。草は青臭い飛沫《しぶき》を大気に飛ばすと、卒倒するようにばっさりと倒れて落ちた。その上を踏《ふ》み越えて、オーフェンはまた剣を振るった。
そうして――一時間も進んだかと思うころ、彼はぴたりと足を止めた。すでに全身から汗を噴《ふ》き出し、夜風に寒気すら感じる心地《ここち》になっている。草の汁でびっしょりになった剣の刀身を布で拭《ぬぐ》うと、彼はそれを腰《こし》の鞘《さや》に落とし込んだ。
昨夜――ちょうど二十四時間ほど前に感じた、なんの根拠《こんきょ》もない予感を、彼は再び覚えていた。なにがあるのかは分からない。だが、ただ近くになにかがあることだけははっきりと分かる。オーフェンは目を閉じた。汗がしみる。彼は手のひらで額《ひたい》を拭うと、ばっと手を振って汗の滴《しずく》を払った。ぴたぴたっと、驟雨《しゅうう》のように滴が近くの葉に当たり、音を立てる。
オーフェンはため息をつき――気のせいかもしれないと、目を開いて顔を上げた。
今まで走ってきたところとなんら変哲《へんてつ》もない、ただの森の中にすぎない。さっきより緑が深まったようにも思えるが、それは単に夜闇の影響《えいきょう》かもしれなかった。訓練《くんれん》によりかなりの夜目《よめ》が効《き》く黒魔術士は、皮肉《ひにく》げに片寄った目尻《めじり》を広げるようにして漆黒《しっこく》の夜の森の中を見渡した。
なにもない。音もしない。
こんなところで大声をあげるのは、愚行《ぐこう》だと理性が告げた――なにしろ、チャイルドマンが追ってきているに違いないのだ。だがオーフェンはほとんどなりふり構わずに絶叫《ぜっきょう》していた。
(いつだって俺は自分の直感を信じてきた)
「アザリーっ!」
彼女の名前の語尾が、ゆっくりと繰《く》り返されて、消えていく。森に満ちる夜気が静寂《せいじゃく》に帰り、さわさわと風が森の天井《てんじょう》の枝葉をこする。
オーフェンはもう一度|叫《さけ》ぼうとした。
「アザ――」
ふわああぁぁぁぁぁぁっ!
刹那《せつな》、そうとしか聞き取れないような空気の膨張《ぼうちょう》が、あたりに響《ひび》き渡った。なにもないところから、膨大な空気の塊《かたまり》が吐《は》き出されては膨《ふく》れ上がるような、そんな音である。同時に文字どおり、空気の流れがオーフェンの真っ向から吹き寄せ、周囲の木々の葉を散らせた――木の葉と、下草に埋《う》もれている地面から砂塵《さじん》も舞《ま》い上がり、オーフェンは片腕で目を覆《おお》った。
そして、また、音。
――しゃああああああっ!
(アザリーの――鳴き声だ!)
オーフェンは瞬間《しゅんかん》、歓喜《かんき》して前に駆《か》け出そうとした――アザリーはひょっとしたら、自分の呼びかけに応えてくれたのかもしれない。だとしたら、彼女はまだ理性を失っていないことになる。
(いや――違うか)
駆け出しながらオーフェンは、自分の中の冷静な部分の声に耳を傾《かたむ》けた。
(あれは、人間の気配《けはい》に気づいて警戒《けいかい》しているだけだ。そんなことは獣《けもの》だってする。それに――このままでは、彼女は逃げ出してしまうかもしれない)
そうなると、もう彼女を追う術《すべ》はなくなってしまう――チャイルドマン以外には。
「負けるかっ!」
オーフェンは短く叫ぶと、木々を擦《す》り抜けるようにして、アザリーの咆哮《ほうこう》に向かって駆けた。足元に腕を突き出す木の根を飛び越え、奇跡《きせき》的ともいっていい速さで。
と――
三度《みたび》、アザリーの発する咆哮が夜を揺《ゆ》さぶった。瞬間、なにか大気に弾《はじ》け飛ぶような『力』が満ちあふれ、爆裂《ばくれつ》する。オーフェンはその刹那《せつな》、自分が炎《ほのお》に包《つつ》まれたのかと錯覚《さっかく》した――他人の魔術に巻き込まれると、いつもそんな感覚に捕《と》らわれる。だがアザリーの魔術はあたりすべてを焼き払うようなものではなく、もっと静かなものだった。彼女の雄叫《おたけ》びが夜闇に紛《まぎ》れて消えるまでは、なにも起こらなかったほどだ。だが、次の瞬間には――いきなり、大地が脈動するように蠢《うごめ》くと、なにか貪欲《どんよく》な食虫植物の器官にでもなったように、手近なもの――つまり木々や下草を呑《の》み込みはじめた。オーフェンも、革《かわ》のブーツの踵《かかと》をとられ、がくんとひざを地面につきそうになる。木の根や草は見る見るうちに大地に呑み込まれ、地下へと消えていった。
呆然《ぼうぜん》と見回すと、あたりはすっかり空《あ》き地になっていた。四方、数十メートルというところか。その中心に、巨大な影がある。
(アザリー……)
オーフェンは、十メートルほど先の地面に鎮座《ちんざ》している巨大な獣を見つめて、立ち尽《つ》くした。巨大な、とはいっても昨夜オーフェンから吸い取った魔力は使い尽くしたのか、もとの三メートルほどの体長にもどっている。
枝葉の天蓋《てんがい》をはぎとられて、空き地には星明かりがさんさんと照り降ろしていた。
巨大な、三角形のシルエットの獣は、こちらをじっと見つめている。砕《くだ》かれたものをまた空気を入れて膨らませたような頭部は、身じろぎもしない。獣の足元に細長い剣のようなものが横たわっている。それは伝説にあるような、獣に捧《ささ》げられた生け贄《にえ》のように無気力に横たえられていた。あれが、バルトアンデルスの剣なのだろう。
オーフェンは胸中《きょうちゅう》で確認して、アザリーに近寄ろうとした――獣はぴくりとも動かずに、こちらを見据《みす》えている。
(彼女はどうして森を空き地になんてしたんだ?)
オーフェンは慎重《しんちょう》に近寄りながら、そんなことを自問した。
(もちろん追跡者の姿を確認するためだろうが、逃《に》げ隠《かく》れするなら、自分の周《まわ》りにある森を干上《ひあ》がらせてしまうのは意味がない――となると――)
オーフェンが思いつくころ、アザリーも咆哮をあげるための予備動作に、ぐるりと首を下に落としてから、また振り上げようと弾《はず》みをつけていた。
(――彼女は、闘《たたか》うつもりで空き地を作ったんだ!)
――じゃあああああっ!
アザリーの叫びとともにオーフェンは、横飛びに逃げていた。一瞬前まで彼が立っていた地面を、無数の光弾がえぐる。爆発は輝《かがや》く爪痕《つめあと》のように燃え上がった。オーフェンは地面に転がりながら叫んだ。
「アザリー! 俺だ! 分からないのか?」
アザリーはその呼びかけに、再び光弾で答えた。光輪《こうりん》の障壁《しょうへき》でそれを防《ふせ》ぎながら、オーフェンはさらに叫んだ。
「本当に心を失っちまったのか? アザリー!」
獣はまったく意に介した様子《ようす》もなく、あぎとを開いて雄叫びをあげる。無数に閃《ひらめ》く真空の刃《やいば》が、耳をしびれさせるような森音《ごうおん》とともに飛びかかってきた。オーフェンは両腕を前方に突き出し、叫んだ。
「我《わ》が指先に、琥珀《こはく》の盾《たて》!」
圧縮《あっしゅく》された空気の壁《かべ》が、真空の刃を遮《さえぎ》る。だがいくつかはその壁をも打ち砕《くだ》いて通り抜け、オーフェンのほおをかすめて浅い傷を作った。
(彼女は俺を殺すつもりだ)
オーフェンは愕然《がくぜん》と、そびえるように立つ強大な獣を見上げた。彼女を連れてチャイルドマンの手のとどかないところに逃げるどころではない――このままでは、アザリー自身に殺されてしまう!
(しょせん絶対的な魔力の強度が違う――俺は勝てない)
オーフェンが逡巡《しゅんじゅん》している間に、アザリーはさらに雄叫びをあげた。彼女の頭上に、巨大な光球が膨《ふく》れ上がる。稲妻《いなずま》を捕《つか》まえてくしゃくしゃに丸めたようなそれは周囲の空気を一瞬に帯電《たいでん》させ、オーフェンは身体《からだ》のあちこちに小さな痛みを感じた――強烈《きょうれつ》な静電気が、髪の毛を逆立《さかだ》たせる。見ただけでもアザリーの造り出したその光球がどれだけの威力《いりょく》のものか知れた――あれを食らえば、どんな魔術で防御《ぼうぎょ》しようが関係ない。一発で吹き飛ばされる!
(やられる――)
絶望的に目を閉じたそのとき――
閉じたまぶたの隙間《すきま》から割れ入るような光を覚えて――
オーフェンは再び目を関いた。だが、その光はアザリーの放《はな》ったものではなく、彼の背後《はいご》から放たれたものだった。
かっ!――
背後から一直線に伸びた光熱波はアザリーの顔面を打ち、そして光球を爆裂《ばくれつ》させた――膨大《ぼうだい》な熱量の爆風がオーフェンの肌《はだ》を焼く。爆発の中心にいるアザリーは、炎の中でもう姿も見えなかった。
(アザリーが死んだ?)
なにがなんだか分からずに、オーフェンは振り返った。そこには、森の中からずらりと、チャイルドマンとハーティア、そしてあと五人の黒魔術士――さらに、老白魔術士が並んで立っていた。
「チャイルドマン? もう追いついてきたってのか――」
オーフェンが叫ぶと、その爆音の中でも聞き取ったらしく、チャイルドマンがにやりと口元を上げるのが見えた。
チャイルドマンは相変《あいか》わらず無表情でこちらに近づいてくる――大股《おおまた》で、しっかりした歩き方だ。ハーティアもそのとなりで、こちらを気遣《きづか》うようにやや表情に陰《かげ》を落としている。ほかの魔術士たちはそれぞれの表情を浮かべていた。仕事が終わるという達成感や、昔アザリーと顔見知りだった者は悲壮《ひそう》感を見せていなくもない。白魔術士の老人は、無表情にこちらを――いや、オーフェンを通り過ぎて、その背後で火柱に包まれる巨大な怪物の姿を見つめている。
オーフェンはチャイルドマンヘと視線をもどした。
「もう少しで、あんたを出し抜けたのにな」
オーフェンがつぶやくと、チャイルドマンは答えた。涼《すず》しげに。
「どうかな? わたしは最初に言ったはずだ」
肩をすくめて、
「先陣を切るのはお前だとな」
「このくそったれの――」
毒づきかけたとき――ふっ……と、あたりに闇《やみ》が落ちた。背後の火柱が消えたのだ。
しゃああああっ!
また、咆哮《ほうこう》。同時にチャイルドマンらの背後で、白魔術士のか細い身体が青白い炎に包まれた。
「…………!」
悲鳴をあげる間もない。白魔術士はそのまま地面に崩れ落ち、燃え残りの薪《まき》みたいに黒焦《くろこ》げに変じた。
「散開!」
チャイルドマンが、部下たちに素早《すばや》く命令を発する。黒魔術士たちは猟犬の群《む》れのように、ぱっと散った――めいめいの方向へと。中心に、チャイルドマンだけが立ち残っている。オーフェンは、身体は彼と対峙《たいじ》した姿勢のまま、首だけ肩越しに振り返った。さっきまで炎の中にいたアザリーが、今はさっきとまったく同じ姿勢でそびえ立っている。
「しぶといな」
ぽつりと、チャイルドマンがつぶやいたその瞬間、黒魔術士たちの攻撃が始まった。
「炎よ!」
各々《おのおの》が好き勝手な呪文《じゅもん》を叫ぶ中、凛《りん》としたハーティアの声だけが、オーフェンの耳の中に残った。炎、風、光――とにかく六種の力が、アザリーに向かって伸びる。だがまた夜空にアザリーの咆哮が響《ひび》くと、そのすべてが途中で消え去った。
次いで、またアザリーの雄叫《おたけ》び。稲妻《いなずま》がひとりの黒魔術士の身体を吹き飛ばす。防御《ぼうぎょ》の魔術が間に合わなかったのだ。
ぼろ布のようになって後ろに跳《は》ね飛ばされる若い黒魔術士の姿を見ながら、オーフェンは両手を握《にぎ》り締《し》め、どうしたらいいのか分からなくなっていた――アザリーはしばらくは善戦するだろうが、そう長くはもたないだろう。だから彼女を助けるためになにかをしなければならないのは分かっているのに、どうしたらいいのか分からない。
(いや――分かっている。だが――できるのか?)
オーフェンはちらりと、チャイルドマンを見やった。冷徹《れいてつ》な教師は、今は部下たちとアザリーとの闘《たたか》いに気をとられている。そろそろ自分も戦闘《せんとう》に参加するべきか迷《まよ》っているふうだ。
そして、ほかの魔術士たちは、それぞれの呪文に魔力を練《ね》っている。隙《すき》を突くなら、今しかない。
オーフェンは決心して飛び出した――アザリーの方向へ。
(俺があの<<剣>>を奪《うば》って逃げる――そうすれば、チャイルドマンは<<剣>>を頼《たよ》りに彼女を追撃《ついげき》できなくなる。今までのように、彼女が逃げてくれれば――)
その<<剣>>は、まだアザリーの足元に転がったままだった。オーフェンは口の中で呪文を唱《とな》え、身体の筋力を一気に増加すると、獣《けもの》のような速さでアザリーの足元まで滑《すべ》り込んだ。水鳥が魚を捕《と》らえるように<<剣>>を引っつかむと、今度はわき目もふらずに森の中へと駆《か》け込む。
背後で、
「ハーティア! キリランシェロが<<剣>>を奪った! 追え!」
というチャイルドマンの声が、なおも続く戦闘の物音の中、はっきりと聞き取れた。
どうん、どうん……
と、背後で爆発が起こっているのが聞こえる。少なくともこの音が聞こえるかぎりはアザリーは死んではいないのだと、オーフェンは自分を慰《なぐさ》めた。大ぶりなバルトアンデルスの剣を両手に抱《かか》えて、彼は走りつづけた。追ってきているはずのハーティアの気配《けはい》は、感じない。
(もう二、三人追ってきてくれるものと思っていたんだがな。ハーティアだけか。だが、これだけでもアザリーにはかなり有利になったはずだ)
足を搦《から》め捕《と》ろうとする下草を踏《ふ》み越えながら、オーフェンは走りつづけた。止まれば、ハーティアと闘わねばならない。それはどうも、ぞっとしなかった。
が――
「炎よ!」
ハーティアの叫《さけ》びと同時に、右手のしげみが、ぱっと燃え上がった――どうも、そうそう都合《つごう》よくはいかないらしい。
オーフェンは観念して立ち止まり、背後へと向き直った。このまま逃げても、背後を狙《ねら》い撃ちされればそれまでだ。
彼が立ち止まって待ちつづけると、数秒もせずに木々の重なりの向こうから、ハーティアが姿を見せた。歩兵槍《ほへいやり》は森に入るときに捨《す》ててきたようだが、抜き身の剣を手に提《さ》げている。
ハーティアは出し抜けに口を開いた。
「彼女は――いや、君が彼女だと言っているあの怪物は、コミクロンを殺したじゃないか。君も覚えているだろう? ぼくらと同じ教室だった、あのコミクロンだよ」
恐らく、さっきアザリーに稲妻で吹き飛ばされた黒魔術士のことだろうが、実のところオーフェンは気づいていなかった。
「……彼はコミクロンだったのか」
オーフェンがつぶやくと、ハーティアはそれを場違いな冗談《じょうだん》だととったらしい。目の端を引きつらせて、怒《おこ》ったように続けた。
「まあ、いいさ――この任務に死の危険があることは、彼も承知していた。だが、あれを見てもまだ君はぼくらを失望させるのか?」
「失望?」
「ぼくらを裏切るのかってことさ」
ハーティアは吐《は》き捨てるように言って、切っ先でこちらを示した。
「君はその気になれば、アザリーとも互角《ごかく》に闘える力を持っていたじゃないか? 君が手助けしてくれれば、彼女もできるかぎり速《すみ》やかに――苦しまずに死ねるんだ」
「俺がアザリーを殺すだって?」
オーフェンは皮肉《ひにく》げにくつくつと笑いながら、剣を抜いた。かたわらの地面に、どさっとバルトアンデルスの剣を落とす。
ハーティアは憎々《にくにく》しげな表情で、
「君は意外そうな顔をしているけど、ぼくらにしてみれば、今の君の行動のほうがよほどどうかしている。いいか? 彼女はもう心なんてないんだ。ただの獣《けもの》なんだよ」
「そんなことは誰《だれ》が証明できる? 彼女をもとにもどすまでは」
「彼女をもとにもどす方法なんてない。バルトアンデルスの剣の使い方を解明したのは、アザリーだけなんだ」
「なら、俺がやってやるさ」
「君が? 初歩の魔術文字《ウイルドグラフ》すら読めないくせに。冗談にもならないよ」
「ふん。お前らの言うことは、いちいちごもっともなようだがな、肝心《かんじん》なところが抜けてるんじゃないのか? 彼女がコミクロンを殺したのだって、お前らが攻撃したからじゃねえか。防衛《ぼうえい》行動ってやつだ」
「だが正当防衛とは言い兼《か》ねるね。それに、彼女は君にだって攻撃したのを忘れたわけじゃないだろう? 君は別に、彼女に攻撃をしかけたわけじゃないってのにだ」
「その点に関しては、我々《われわれ》の意見は平行線だな」
わざとチャイルドマンの口調《くちょう》を真似《まね》て、オーフェンは言った。ハーティアの眼差《まなざ》しが、きっと[#「きっと」に傍点]鋭《するど》くなる。
「それなら、ここで闘うことになる」
「いいじゃないか。この前も剣を交《まじ》えたばかりだ。なあブラックタイガー?」
オーフェンは、さっと剣を右手に持ちかえると、左手を突き出して口早に唱《とな》えた。
「我は放《はな》つ光の白刃《はくじん》!」
かっ! と光熱波が両者の地面の中間に作裂《さくれつ》し、爆風と土砂《どしゃ》を巻き上げる。その隙《すき》にオーフェンは後ろに跳《と》んで、距離をとった。
土砂の向こうから、ハーティアの呪文。
「闇《やみ》よ!」
瞬間《しゅんかん》、ふっと、あたりに漆黒《しっこく》の闇が落ちた――星明かりもなく、また夜目《よめ》も利《き》かないまるっきりの闇である。オーフェンは舌打ちすると、またさらに後方に跳んだ。そんなに広い範囲《はんい》に闇の魔術はかかっていないはずだと思ったのだが、一歩跳んでもまだ漆黒の闇は途切《とぎ》れないままだった。
こうなると、もう一歩跳んだところで同じことだろう。オーフェンはあきらめると、再び左手を前方に突き出し、叫んだ。
「我は放つ――」
が、その瞬間、突き出した左手をつかみ取られた。
(――――!)
ぐい、と引っ張られたまま抗《あらが》うこともできずに、オーフェンの身体《からだ》は宙を舞《ま》っていた――前方に向かって円を描くように投げ飛ばされ、背中から落ちて息が絞《しぼ》り取られる。闇の中で、オーフェンはしゃにむに剣を振り回した。だが、すでにハーティアは近くにはいないらしい。
(このままじや、相手の思う壷《つぼ》だ)
オーフェンは剣を捨てると、胸の辺《あた》りで両手のひらをぱんと打ち合わせ、叫んだ。
「我は消す、魔神《まじん》の足跡《あしあと》!」
魔術で造られた結界《けっかい》を壊《こわ》すために力を放射すると、ほどなくして窓ガラスが砕《くだ》け散るように、闇の結界は崩《くず》れ去った。
見ると、数メートルほど離れたところにハーティアは立っており、こちらを見据《みす》えて魔力を練《ね》り上げている。
オーフェンも同じように力をまとめ上げようとしたが、その集中は、いきなり破られた――ハーティアの背後に現れたものを見て、度肝《どぎも》を抜かれたのだ。
そのオーフェンの表情に、ハーティアも気を取られたのだろう。ぎょっとしたように、彼の動きも止まった。
「クリーオウ!」
「オーフェェェェェェェェンンっ!」
ハーティアの背後の草むらから唐突《とうとつ》に飛び出して赤毛の魔術士を背中から蹴《け》り倒し、そのまま踏み潰《つぶ》して現れた少女は、まぎれもないクリーオウだった――彼女は剣を片手に泣き叫ぶようにしてオーフェンの背後に回り込んできた。
と、続いて――
「たあすけてええええっ!」
ボルカンとドーチンが、ふたりならんで草むらから飛び出してくる。ふたりは倒れたままのハーティアをていねいに踏み潰してこちらに駆け寄り、同時に声をあげた。
「怪物だ! 追ってくる! お前の管轄《かんかつ》だぞ、黒魔術士!」
「『うまくすれば自分のモノ』みたいに言ってたくせにいいいっ!」
「な、なんなんだ、お前ら?」
オーフェンが、しがみついてきた少女を引きはがそうとしながら聞くと、ドーチンが引きつった声で、説明した。
「ぼ、ぼくたち、あの怪獣を探そうと思ってきたんだ。そしたら、クリーオウの蹴った小石が、ぐ、偶然《ぐうぜん》その怪物に命中したらしくて――」
「怒《いか》り狂った怪物に追いかけ回されてんだ! 助けろ黒魔術士!」
「アザリーに追いかけられているだって? ンなこと言ったって、彼女は向こうでチャイルドマンたちと闘っている――」
わけが分からずにオーフェンが、ボルカンらとアザリーがいる方向とを見比べていると、ぺたんと地面に貼《は》りついたような格好《かっこう》をしていたハーティアが上半身だけ起き上がった。珍《めずら》しく激怒《げきど》するように顔色をどす黒くして――
「貴様《きさま》らあああっ!」
と叫んだ瞬間、また背後の草むらから巨大な影が飛び出してきた。
「ぎゃああああああああああああっ!」
ハーティアの、断末魔《だんまつま》じみた悲鳴が響《ひび》き渡る。赤毛の魔術士を踏み潰してこちらに突進してくるその影に向かって、オーフェンは素早く身構えると、呪文を叫んだ。
「我は放つ光の白刃!」
閃光《せんこう》があたりを照《て》らす。
純白の光熱波が突き刺さると、正面から真っすぐに突進してくるその影はたまらずに爆発して吹き飛んだ――と、その余波がハーティアの身体も数メートルほど宙に舞わせる。その影と、ハーティアとがどさどさと立て続けに地面に落ちてから、オーフェンは恐慌《きょうこう》状態のクリーオウをなだめつつ、そちらに近寄っていった。ぴくぴくと痙攣《けいれん》しているハーティアをまたいで、身体の半分消し飛んだ怪物をのぞき込む。焼けただれた傷口からのぞく内臓をまだ蠢《うごめ》かせているその怪物は、冷静になって見ればアザリーよりふたまわり以上も小さく、また全然似てもいなかった。牛と熊《くま》を足して二で割ったような感じで、喉《のど》のあたりに大きな袋がついている。
「雄叫《おたけ》び獣だな」
「オタケビジュウ?」
と、まだこちらの腰にしがみついたままで、クリーオウ。オーフェンは彼女の金髪の頭に手を置くと、
「叫び声で獲物《えもの》を脅《おど》して、さんざ走り回らせたあげく、力つきたところを襲《おそ》いかかる獣《けもの》だよ。このあたりにもいるとは知らなかったな」
「はあーっはっはっはっ!」
と、いきなり響き渡うた笑い声に振り返ると、気絶しているハーティアの頭に足を載せて、ボルカンが勝ち誇《ほこ》っているところだった。かたわらにドーチンを(無理やり)従えて、抜き身の剣を掲《かか》げて誇らしげに叫ぶ。
「ほれみろ、この魔術士にとどめをさしたのはこの俺だ! しょせん邪道《じゃどう》の魔術使いなど、マスマテュリアの闘犬の刃にかかればこんなものよ! 体臭キツイ敵どもよ、次々来るなら来るがいい! カレンダーで日めくり殺してくれる!」
「……死なないよ、そんなの」
「なら、毛ェ抜き殺ぉす!」
「…………」
意味のないことをわめき散らしながらハーティアの頭をぐりぐりと踏みにじっている地人たちを眺め、オーフェンはぽつりとつぶやいた。
「……俺はなんのために真面目《まじめ》に闘ってたんだろな」
「いいじゃない。結果として助かったんだから」
口を尖《とが》らせつつ、ようやく腰から離れてくれたクリーオウに、オーフェンは、ああとうなずいた。と、倒れたまま失神しているハーティアを見ながら、
「お前らの言い分も、正しくないってわけじゃないんだろうよ。だが、俺は俺の言い分でやらせてもらう――あるいは、アザリーの言い分でな。なにかほかの理由でならともかく、<<塔>>の名誉《めいよ》だかなんだかの都合《つごう》なんぞで彼女を殺させたりはしない」
「…………」
ハーティアは答えない。ボルカンの靴《くつ》の下で、少し黒焦《くろこ》げになってぴくぴくと震《ふる》えている。
「なんのこと?」
聞いてきたクリーオウに、オーフェンは、
「なんでもない」
と答えると、バルトアンデルスの剣を地面から拾《ひろ》い上げ、クリーオウに手渡した。
「こいつを見張っててくれ――ハーティアもな。俺には、もう一仕事ある」
言って、まだ爆発の地鳴りが響いてくる方向へと足を向けかけたオーフェンの前に、くるりとクリーオウが回り込んだ。
「ちょっと待ってよ!」
懇願《こんがん》するように言いながら、バルトアンデルスの剣をボルカンのほうに放る。ボルカンは受け止め損《そこ》ねて、ドーチンといっしょに仰向《あおむ》けに転んだ。
「あの剣の見張りなら、地人たちにでも任《まか》せればいいでしょ? なんでわたしにそんな――置いてけぼりみたいなことばかりするのよ。随分《ずいぶん》と役に立ってるのに」
「まあ……そうだが……」
説明しかけて、オーフェンは急に面倒臭《めんどうくさ》くなった――それに、いくらここで言いくるめたところで、この少女は隙《すき》を見て後からついてくるに決まっている。
「いいよ。ついてこい」
オーフェンは言って、アザリーとチャイルドマンらが闘いを繰《く》り広げているはずの広場に向かって走りかけた。その後ろでクリーオウは歓声《かんせい》をあげ――そして――数歩もしないうちに声をかけてきた。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
「なんだよ!」
いらだたしげにオーフェンが振り返ると、少女は地面に座《すわ》り込んでいる。
「ここまで歩いてきたもんだから、足の裏の皮がむけちゃって、ずるずるの血まみれになっちゃってるみたいなの。おぶってってくれない?」
オーフェンは無視して走りだした。背後の歓声が、一転、罵声《ばせい》に変わった。
アザリーが魔術で拓《ひら》いた空《あ》き地にもどると、そこでの闘いはもはや決着に近づいていた――それも、明らかにオーフェンの予想とは外《はず》れた終わり方である。
広い空き地には、ぽつぽつと点在するように死体が倒れている。黒焦げになった白魔術士とコミクロンはもとより、ずたずたに切り裂《さ》かれたものがひとつ、首だけがなくなっているものがふたつ、そしてオーフェンの見ている前で、またひとり名前を知らない黒魔術士が、炎の塊《かたまり》の中で焼け死んでいった。すべて、黒魔術の一撃で死んでいるらしい。
(……なんで彼女は、白魔術を使わないんだ?)
オーフェンはふと疑問に思ったが、それを言えばそもそも彼女は最初にエバーラスティン家に現れたときから、白魔術を使っていない。となると、彼女は白魔術を使えなくなっているのかもしれない。どのみち、たいしたことではなかった。
どちらにせよアザリーの戦闘《せんとう》能力は並《なみ》のものではなかったのだ。たとえ昔、天魔《てんま》の魔女と呼ばれた最優秀の黒魔術士のものであったとしても、これは尋常《じんじょう》ではない。同時に六人の黒魔術士を敵に回し、そしてそのうち五人までも返り討ちにしてしまった。残るは、チャイルドマンだけになっている。
オーフェンが空き地にもどると、ちらりとチャイルドマンはこちらを見た――表情は変えない。ただ単に、もどったのがハーティアかオーフェンかを確かめただけらしい。チャイルドマンはすぐにアザリーヘと向き直ると、大声で叫んだ。
「光よ!」
凄《すさ》まじい光の奔流《ほんりゅう》が、チャイルドマンの目の前から放《はな》たれる。光熱波はアザリーの体躯《たいく》に突き刺さり、爆炎《ばくえん》をあげた。熱気があたりの地面を焦げさせるが、アザリー自体にはたいした傷を負《お》わせていない。魔術で防御《ぼうぎょ》しているのだ。
(なんて力だ――これじゃ、チャイルドマンでも勝てるわけがない)
オーフェンは悟《さと》って、チャイルドマンに駆《か》け寄った。
同時に、アザリーが咆哮《ほうこう》をあげる。巻き起こった炎に向けて、チャイルドマンが防御の魔術を放とうと身構えている。師と唱和《しょうわ》するようにオーフェンも、両手をかざして呪文を叫んだ。
「我《われ》は紡《つむ》ぐ光輪《こうりん》の鎧《よろい》!」
ぶわっ――と、チャイルドマンの造った結界《けっかい》に重なるようにしてオーフェンの光輪の壁《かべ》がそそり立つ。炎は防《ふせ》いだが、それでもちらちらと赤い舌のような火がこちら側までとどいてきた。防御が二重になっていなかったとしたら、危《あぶ》なかったかもしれない。
ふう、と危なげな吐息《といき》をつきながら、オーフェンは次なる彼女の攻撃を待ち構えた。その横で、チャイルドマンはおもしろそうに聞いてきた。
「わたしを助けてくれるわけか?」
『コミクロンは死んだじゃないか』
ハーテイアのせりふを思い出しながら、オーフェンは答えた。
「別に俺は彼女を助けたいってだけで、あんたに死んで欲しいと思っているわけじゃない」
そして顔をしかめて、
「それにしても強すぎる――どうしたってんだ、彼女は。まるで、あんたにも匹敵《ひってき》するくらいの力じゃないか、これは」
「そうだな」
チャイルドマンはそっけなく答えて、一言、呪文を叫んだ。
「光よ!」
「よせって!」
オーフェンも同時に叫んで、また同じ光輪の壁をチャイルドマンとアザリーの間に出現させる。チャイルドマンの光熱波は光の壁に阻《はば》まれ、金属音にも似た音をあげると、かき消えた。チャイルドマンは、ふふ、と呆《あき》れたような笑みを見せた。
「忙《いそが》しい奴《やつ》だな、お前も。そうやって朝まで、わたしとあの怪物との魔術を防ぎつづけるつもりか」
「俺は、あんたに分かって欲しいんだよ」
オーフェンは、ちらりとアザリーに警戒《けいかい》の視線を投げてから、チャイルドマンに詰め寄った。
「彼女を救う方法は、あるはずなんだ。絶対に不可能なわけがない――少なくとも、バルトアンデルスの剣の使い方が解明できれば、できるはずだ」
「…………」
チャイルドマンは、じっと不透明な眼差《まなざ》しでこちらを見つめた――ずっと、ずいぶんと長い時間のようにも思えたが、実際はそうでもあるまい。やがてチャイルドマンは、はは、と笑い声をあげると、妙《みょう》に感情深い表情でもって、言った。
「いい男《やつ》に育ったよ、お前は。いつか、わたしの後継者《こうけいしゃ》が現れるとしたら、それはお前だろうな」
「チャイルドマン、そんなことは今は関係な――」
オーフェンのせりふは、そこで中断させられた。いつの間にかチャイルドマンの手の中に現れていた短剣が、根元までずぶりと――オーフェンの下腹に突き刺さっている。胃から逆流してきた血の味が、口の中に広がった。激痛を感じるというよりは、圧倒《あっとう》的な睡魔《すいま》が襲《おそ》いかかってくる。
「チャイルド……マン……なんで――」
辛《かろ》うじて紡《つむ》ぎだした言葉《ことば》に、チャイルドマンは事もなげに答えた。
「すぐに癒《いや》してやる。仕事が終わった後でな」
「き――さ――ま――」
だが、呪岨《じゅそ》すらこもったオーフェンの伸ばした手は空を切り、チャイルドマンはするりと身をかわすとアザリーに向き直った。アザリーが咆哮《ほうこう》をあげようと、頭をもたげる――
だがそれよりも早く、チャイルドマンがこれまでにない強烈《きょうれつ》な気力を発しながら、呪文を叫んでいた。
「天魔《てんま》よ!」
どうんっ――と、悪魔の足音のように重々しく、固まった巨大な大気が大地へと押し付けられる。重圧に地面が数センチばかり沈下《ちんか》し、地下に張り巡《めぐ》らされている木々の根がめりめりと崩壊《ほうかい》する音が響《ひび》き渡った――同時に、アザリーの巨体の周《まわ》りで、負荷《ふか》のかかった大気がぱちぱちと弾《はじ》きをあげる――
アザリーの口蓋《こうがい》の奥から、うめき声のようなものがもれた。それは恐らく、彼女の放とうとしていた魔術だったのだろうが――それはあっさり霧散《むさん》した。大気の崩壊《ほうかい》が始まり、なにかどす黒い靄《もや》のようなものが、星明かりに照《て》らされる広場に広がる。刹那《せつな》、震《ふる》えるような鈍《にぶ》い輝《かがや》きがアザリーを押し包《つつ》んだ――
物質崩壊の魔術は瞬時に強烈な爆発を巻き起こし、アザリーをぼろぼろの雑巾《ぞうきん》のように絞《しぼ》り上げた。その後すぐに、オーフェンはチャイルドマンによって癒されたが、彼は特に謝辞《しゃじ》を言う気にもならず、アザリーの死体へと駆《か》け寄った。まだ焼けたてのビフテキのように湯気《ゆげ》をあげている怪物の身体《からだ》はえらく熱かったが、オーフェンは火傷《やけど》も無視して彼女の頭を抱《だ》き抱《かか》えた。
「アザリー!」
叫ぶが、返事はない。彼女の頭はぐったりと力なく、焼けただれている。が、かすかに息はしているようだった。膿《う》んだようにただれている瞼《まぶた》を無理に押し広げて、アザリーは、こちらを見上げてきた――ような気がした。
「アザリー――俺だ。オーフ――キリランシェロだよ。アザリー!」
「キ・リ・ラ・ン・シ・ェ・ロー!」
突然、ぴくりとアザリーの目玉が動いた――人間の拳《こぶし》大もあるような、赤く燃える目玉である。彼女は吐息《といき》を震わせながら、聞き取りづらい声をあげた――ただし、それはアザリーの声ではなかった。
男の声だった。
「キリランシェロ! お前を探して――いたんだ――あの女は――見境《みさかい》をなくしている。わたしは――助けてやりたかった……」
「…………?」
オーフェンは分からずに、腕の中の異形《いぎょう》の頭を見つめた。それは、さらに続けた。
「わたしはこんな……こんな目で、なにも見えなかった。聞こえるのは音だけで――あとは、なんだか分からない感覚で――周《まわ》りのものが分かっていた。だが! 見えなかった――」
「……どういうことなんだ?」
オーフェンは聞き返したが、怪物は満足な返答はできそうになかった。それは、死に逝《ゆ》く人間がよくするように、自分だけで勝手に話を続けた。
「わたしは……彼女を……助けて……やりたかっ――た」
「…………」
「だから……お前を……探したかっ……た……お・ま・え・な・ら……きっと――助けてやれる――」
怪物は、そのまま言葉《ことば》を止めると、しばらくぴくぴくと目玉だけを動かしていた。そしてそれもやがて動きを止めると、身体全体からみるみるうちに生気が退《ひ》いていった――潮《しお》が退くように。
オーフェンがふと顔を上げると、そこにはチャイルドマンが立っていた。無表情で――いや、目の中にかすかに燃える満足げななにかをもてあそぶように、怪物の死体を見下ろしている。
と――静かだった夜の森の中に、声が響《ひび》いた。
「畜生《ちくしょう》! てめえ、コラ! この粉袋《こなぶくろ》みてえに持ち上げるのをやめねえと、ブランコで揺《ゆ》らし殺すぞ!」
「あ、ちょっと、どこ触《さわ》ってんのよ! そこはいずれ成長して――」
「あ、あの、眼鏡《めがね》がずれてものすごく視界が気持ち悪いんですけど――」
見ると、ハーティアがひとりでボルカンとドーチン、そしてクリーオウを捕《つか》まえてこちらに歩いてきている。身体を痛めている様子《ようす》はない。彼は三人の人質《ひとじち》と同時に、バルトアンデルスの剣も携《たずさ》えていた――これだけの荷物をいっぺんに運んでくるからには、魔術で腕力を強化しているに違いない。
「オーフェン[#「オーフェン」に傍点]。この<<剣>>は<<牙《きば》の塔《とう》>>に返却《へんきゃく》させてもらうよ。もともとは<<塔>>のものだったんだからね」
と、ハーティアは呼びかけてきた。
「ぼくの演技力も、そんなに馬鹿《ばか》にしたもんじゃないだろう?」
言いながら、クリーオウやら雄叫《おたけ》び獣やらに踏《ふ》まれた背中のあたりをさすってみせる。
だがオーフェンは彼のせりふを聞いてもいなかったし、実のところ彼のことなど、どうでもよかった。バルトアンデルスの剣も、もうどうでもいい。
オーフェンにはようやく、このすべての馬鹿げた小細工《こざいく》が理解できはじめていた。
第六章 天魔《てんま》の魔女
オーフェンは待っていた。
トトカンタ市から北方に抜ける大きな街道《かいどう》はこのステアウェイ街道しかない。夏のこの街道は細長い宝石のようなものだ、とはよく言われるのだが、今はまだ初夏。旅好きの者たちに絶賛される緑豊かな景色《けしき》は、どこまでも色深い夏の緑ではなく、まだ幼《おさな》い青さだった。この季節、風は東から吹く。それも、ほとんど途切《とぎ》れることなく。今日もやはり風は吹いている。正午を少し回るかという時刻のこの風は心地《ここち》よく、オーフェンは街道のわきの土手のようなところに腰《こし》を下ろして、じっと道の一方――トトカンタ市へと続くほうを見つめていた。
オーフェンは長いこと待っていた。だが彼の顔には特に待ちくたびれた様子《ようす》はなく、どちらかと言えば、この時間がもっと長く続けばいいとすら思っているように見えた。肩に担《かつ》ぐように剣を立て掛け、粗末《そまつ》な鞘《さや》を指でトントンとたたいている。
やがて、街道の彼の見つめる方向から、小さな砂煙《すなけむり》があがった――馬車のあげる砂塵《さじん》である。そのちっぽけな砂塵が大きくなるにつれて、蹄鉄《ていてつ》と車輪の立てる音も近づいてくる。馬車は二頭立てで、そんなに大きなものではない。馬車の黒っぽい屋根が、見える距離になった。オーフェンはゆっくりと立ち上がると、道の真ん中へと立ち塞《ふさ》がり、両手を広げた。
「停まれえーっ!」
彼は大声で叫《さけ》んだ。もう数十メートルに近づいた馬車の御者《ぎょしゃ》台の上の人間が、毒《どく》づきながら手綱《たづな》を引くのも見える距離だ。
馬車が停まった。その側面には、金の縁取《ふちど》り文字で「大陸魔術士同盟《ダムズルズ・オリザンズ》」と記《しる》されている。
御者台の上の男は四十過ぎほどで、ぱっと台の上から飛び降りると、前方に立つオーフェンのほうへとつかつか歩み寄った。肩をいからせて、顔もどす黒く紅潮《こうちょう》している。だが、オーフェンが胸元からさっと取り出したドラゴンの紋章《もんしょう》を見ると、その態度は一変して下手《したて》になった。
「い、いったい、どうしたことで?」
オーフェンの返答はいかにも面倒臭《めんどうくさ》そうだった。
「……たいしたことじゃない。ここはトトカンタからどのくらい離れている?」
「は、はあ――三キロほどですか」
「じゃあ走って行って帰ってくるだけで、何十分かかかるな。それをしてこい」
「は?」
「黙《だま》って言うことを聞くんだ。ここから走って、トトカンタの正門に触《さわ》ってから、帰ってこい」
「……しかし……」
「いいから行けっ!」
オーフェンが怒鳴《どな》り声をあげると、御者はひいっと悲鳴をあげ、一目散《いちもくさん》にトトカンタに向かって走っていった。その後ろ姿が十分に遠ざかったというころまで、オーフェンはそのまま動かなかった。やがて、風が数十回も彼をなでた後に、彼は馬車のほうへ向き直った。剣を抱《かか》えながら、口を開く。
彼の声は、怒っているというよりは、むしろ悲しげに聞こえた。
「出てこいよ。俺《おれ》がここで待っていることくらいは予想していたんだろ?」
◆◇◆◇◆
オーフェンはある程度の覚悟《かくご》はしていた――だから後悔《こうかい》はしていなかった。不服もなかった。ただ残っているのは、疑問だった。かすかな期待もなかったわけではない。つまり、自分の考えがまるっきりの勘違《かんちが》いなのではないか、と。
馬車の側面の扉《とびら》が開き、長身の男が降りてくるのを見ながら、それらすべてが入り交《まじ》ったような感覚に、オーフェンは捕《と》らわれていた。
「どういうつもりだ、キリランシェロ?」
チャイルドマンは地面に足を触《ふ》れさせて、不思議《ふしぎ》そうにつぶやいた。手には、バルトアンデルスの古風な剣を携《たずさ》えている。オーフェンにはこれまでじっくりとその剣を観察するような機会はなかったはずだが、それでも彼はずっと昔からその剣を、自分の手足のようによく知っている気がしていた。五年前、アザリーの去っていった後に、彼女の血にまみれて残されていた剣。数日前にエバーラスティン家から持ち出された剣。そして今――チャイルドマンの携える、この剣。
「あんたには分かっているはずだ――俺がここにいる理由がな」
「……さあな。見当もつかない。この前のお前の行為《こうい》を裏切りだと思う者がいたのは確かだが、わたしはそうは思っていない――結果として、あの怪物を見つけだし、おびき出してくれたのはお前なのだから。だからお前への処分――というか誅殺《ちゅうさつ》に関しては、わたしが上層部に思い止まらせた――」
「いやに饒舌《じょうぜつ》じゃないか。似つかわしくないぜ、チャイルドマン[#「チャイルドマン」に傍点]にはな」
オーフェンが含《ふく》みのある調子でそう言うと、チャイルドマンのいつも冷静な表情が、ぴくりと動くのが分かった。
チャイルドマンは、しばらく沈黙《ちんもく》していた。だが、やがて嘆息《たんそく》し、再び口を開いたときには、その声はそれまでのものではなくなっていた。
「……いつから気づいていたの?」
「あんたがあの怪物[#「怪物」に傍点]にとどめを刺したときだよ。彼は、ダイイング・メッセージを残したのさ。俺にな」
オーフェンは、そのチャイルドマンの姿をしたものを見つめながら、続けた。
「なあアザリー。どうしてこんなことになったんだ? できれば話して欲しいんだけどな……そろそろ俺の呼びかけに応えてくれてもいいころだろう」
チャイルドマンは、決して美男子ではなかった――が、いつも崩《くず》さない冷静な面持《おもも》ちと、厳格《げんかく》な規律《きりつ》に捧《ささ》げる献身《けんしん》の精神とで、いつもなにかの教祖《きょうそ》じみた魅力《みりょく》を発散していた。その魅力がいつの間にか、別のものに取って代わられていたことに、オーフェンはそのときになってようやく気づいた。
それはまぎれもなく、五年前までアザリーが持っていた本能的な魅力だった。
「……聞いてどうするつもり?」
アザリーの声――五年前のアザリーの声で答える彼女は、まずそんなことを聞き返してきた。少し卑屈《ひくつ》とも思える笑みを浮かべて、手の中のバルトアンデルスの剣をもてあそんでいる。チャイルドマンの指で。
バルトアンデルスの剣は古風な鞘《さや》に収められて、満足げにしているようだった――月の紋章で表される、と言ったのは、確かドーチンだったっけか? どちらにせよ、剣の柄《つか》と刀身の間に、円盤《えんばん》状の月に載《の》った不気味《ぶきみ》な獣《けもの》の細工《さいく》が凝《こ》らしてある。それはあるいは、アザリーが昔変化したそれに似ていなくもなかった。
オーフェンは視線を剣から、その持ち主に移した。彼は決然と答えた。
「聞いてから決めるさ」
「……いい返事だわ。あのとき、再会したときにも思ったけど――強くなったのね、キリランシェロ」
「五年も経《た》ってる。それに、それほど賢《かしこ》くはなれなかった」
「そうかもしれないわね。でもわたしは、あなたのそういうところがたまらなく気に入ってたわ――ハーティアや、あるいはチャイルドマンよりも、あなたは優《すぐ》れた魔術士になれる素質《そしつ》があるとわたしは思っていた。そう――相棒《あいぼう》として選ぶなら、あなただってね」
アザリーは、肩をすくめてみせた。
「あなたの言うとおり、ここにあなたが待ち伏せしていることを、わたしは気づいていたかもしれない――もしあなたがここにいなかったら、かえってひどく昧気《あじけ》なかったでしょうね。わたしの正体を看破《かんぱ》できるのは、ハーティアや魔術士同盟の連中じゃなくて、あなたなのよ。本当にわたしのことを理解していた、あなただけ」
「……そろそろ話してもらえないかな。あの御者《ぎょしゃ》がもどってくるまで、何時間もあるわけじゃない。彼にもう一度|往復《おうふく》させるのは、ひどく残酷《ざんこく》だろう」
「そうね」
アザリーは軽くつぶやいて、チャイルドマンの顔面に殺伐《さつばつ》とした笑みを浮かべた――
「五年前、わたしがこの<<剣>>の魔術に失敗したことに関しては、話すこともないわね。結果として、わたしはあの怪獣《かいじゅう》じみた姿になって大陸を放浪《ほうろう》するはめになった。チャイルドマンや、凄腕《すごうで》の黒魔術士たちの追撃《ついげき》をかわしながらね。彼らは<<塔《とう》>>から失敗者を出したことを公《おおやけ》にしないため、わたしを抹殺《まっさつ》しようとしたわ。というより――証拠を隠滅《いんめつ》しようとした、というほうが近いでしょうね。彼らは、わたしにはもう意識がないものだと思っていた」
アザリーの目に、陰険《いんけん》な光が灯《とも》るのが見えた。彼女は鼻を鳴らして、続けた。
「冗談《じょうだん》じゃないわ。わたしには意識があった――五年間、わたしは意識を保ちながら、チャイルドマンの執拗《しつよう》な追撃から逃げ回っていたのよ。五年間よ? わたしの可愛《かわ》い弟が、一人前の男になるほどの時間」
言いながら彼女は、自分自身のせりふに感じ入ったというふうに、くすっと笑った。だがすぐにまた表情を鋭《するど》くすると、
「一か月ほど前のことかしら。わたしは、このままじゃいずれ発狂すると悟《さと》ったのよ。それでなくても、いつかは疲れからチャイルドマンに仕留《しと》められる。だから、この状況《じょうきょう》を打破《だは》する方法を摸索《もさく》したの」
「……あんたはもちろん、バルトアンデルスの剣があればもとの姿にもどれると思っていたはずだ」
オーフェンがつぶやくと、アザリーはうなずいた。
「ええ。でも<<剣>>は五年前にチャイルドマンがどこかに封印《ふういん》したせいで行方《ゆくえ》が知れない」
「だからあんたは、チャイルドマン本人に<<剣>>を探し出させればいいと思った」
「それに、とにかくチャイルドマンの追撃を封じなければならないっていう事情もあったわ。わたしが白魔術にも秀《ひい》でていたことは知っているでしょう? わたしはチャイルドマンの隙《すき》をついて、彼と精神を入れ替えた。そっくりそのままにね。これほど強力な魔術が成功するかどうかは、はっきり言って賭《かけ》だったわ。でもわたしはその賭に勝って――」
「……そして、チャイルドマンの部下を抹殺した」
オーフェンは陰鬱《いんうつ》に、暗い声音《こわね》で継《つ》いだ。
彼女は肩をすくめ、続けた。
「彼らは五年間もわたしを狙《ねら》いつづけてきたのよ。わたしにとっては、殺すか殺されるかだった」
彼女のせりふにオーフェンはいまいち釈然《しゃくぜん》とはしなかったが、なにも答えずに彼女を見返しただけでなにも言わなかった。彼女はそれを同意とみたようで、続けた。
「皮肉《ひにく》なものよ。チャイルドマンはずっと、わたしをもとにもどすことは不可能だと思っていた――でも、いざ自分が同じ立場になると、真っ先にバルトアンデルスの剣に向かって飛んでいったわ。わたしはその跡《あと》を追跡《ついせき》して、トトカンタにたどりついた。そしてチャイルドマンがこの屋敷《やしき》に飛び込んだとき、剣があるのはあそこだと確信したの。わたしはチャイルドマンとしてハーティアに協力を頼《たの》んで――その後のことは、あなたも知っているわね。<<剣>>を取りもどすために、結果としてチャイルドマンを殺さなければならなくなってしまった」
「状況のせいだけではないさ」
オーフェンは顔をしかめて、
「あんたは、どうしてもチャイルドマンをこの世から消し去る必要があったんだ。なにしろ<<牙《きば》の塔《とう》>>の精鋭《せいえい》を皆殺しにしてしまったんだからな。その罪を彼に被《かぶ》せて、自分はバルトアンデルスの剣を手に入れる。その後は、どこにでもトンズラしてまた変身の魔術を試《ため》せばいいのさ。どんな姿にも変われるんだからな」
「……そんなに甘くはないわよ」
アザリーは、苦笑ともとれる笑みを浮かべつつ、そう言った。
「わたしがどうして五年前に失敗したんだと思う? それに、ただ人の姿を変えるだけのものだったら、どうして<<剣>>の形を取らなければならないの? このバルトアンデルスの剣はね、文字どおり武器なのよ。兵器なの――つまり、斬《き》った相手を好きなものに変化させてしまうわけ。石にでも、動物にでもね。でもわたしは、それなら自分で自分を斬れば、自分を好きなように変えることができるのではと思ったの。ただ、傷の痛みのせいで精神集中が壊《こわ》れて、あんな化け物じみた姿になってしまったわけ」
「どのみち、それでもあんたは試すつもりなんだろう?」
「ええ。挑戦《ちょうせん》するつもりよ。それで、これを聞いて……あなたはどうするの?」
アザリーのせりふは、まるで挑発するように上目《うわめ》使いの調子だった。実際にはチャイルドマンの身体《からだ》を使っている彼女のほうがはるかに上背《うわぜい》があるのだが、オーフェンはそのとき確かに、数年前<<塔>>で椅子《いす》に座《すわ》った位置からからかうようにこちらを見上げていた魔女の姿を見ていた。
オーフェンはじっと彼女の瞳《ひとみ》を見つめた。姿はチャイルドマンのままだったが、その声と、そして双眸《そうぼう》だけは完全に彼女のものになったのではないかと思える。オーフェンは、握《にぎ》り締《し》めていた右手を開き、そして左手に持っていた鞘《さや》から剣を引き抜いた。
「剣なんて抜いて、どうするつもり?」
アザリーが聞いてくる。オーフェンはかぶりを振り、つぶやくように言った。
「仮にあんたが恋人だったとしたら――俺はあんたの言うことに納得《なっとく》もしただろうな。でも違う。あんたは、チャイルドマンを殺してしまったんだ」
「言ったでしょう? 殺すか殺されるかだったのよ」
「だが、あんたぐらいに頭の回る人間になら、殺人までは回避《かいひ》することができたはずだ。でもあんたは自分の保身から……それをやってしまった」
オーフェンは、自分の声が泣き声のように喉《のど》にひっかかるのを感じていた。
「わたしを人殺しだと言いたいの?」
詰問口調《きつもんくちょう》のアザリーに、オーフェンは、きっと[#「きっと」に傍点]見返して答えた。
「俺はあんたを尊敬していた。あんたはそれを裏切ったんだ」
「それは、あなたが勝手にわたしを買いかぶっていたんでしょう? わたしにどうしろと言うの? あの怪物の姿のまま、永遠に逃げ回っていればいいって言うの?」
「裏切ってはならない部分というのがあるんだよ、アザリー。殺してはならなかったんだ」
「彼はわたしを殺そうとして――」
「違うんだよ!」
オーフェンは叫《さけ》んで、癇癪《かんしゃく》を起こしたように真横に剣を振った。
「彼がどうして手ずから<<剣>>を封印したんだと思う?――<<塔>>の長老たちの手に渡さずに。どうして自《みずか》ら君を追ったんだ? 自分が怪物と入れ替わったとき<<剣>>を求めたのはなぜだ? 彼はあっさりと前言をひるがえす人間じゃない。彼が不可能だと言ったなら、本当に不可能なんだよ。でも彼は嘘《うそ》をついた――彼は<<剣>>でもとにもどれることを知っていたんだ。彼は、自分の手であんたを救いたかったんだ」
「……そんなのは、あなたの推測でしかないでしょう」
「君の葬儀《そうぎ》で、彼はぼくに、君をもとにもどすのは不可能だと言った――ぼくには[#「ぼくには」に傍点]不可能だ、と言ったんだ。彼は、自分にはできると思っていたんだよ」
オーフェンがつぶやくと、アザリー――彼女の精神が支配するチャイルドマンの表情が、ぴくりと動揺《どうよう》したのが見えた。オーフェンにはそれが奇妙《きみょう》な光景に思えた。彼の記憶《きおく》の中では動揺の色をかけらも見せたことのなかった冷徹《れいてつ》な男の顔が、感情豊かなアザリーの精神にのっとられたことで、初めてここで表情を見せている。彼は続けた。
「そうなんだよ。今にして思えば彼は、いつもそうしていたように、そのときも俺よりもはるかに現実的な手段をとったってだけなんだ。君を追撃すると周囲に偽《いつわ》って、魔術士同盟の組織《そしき》力を利用して、君の行方《ゆくえ》を探す――俺がこの五年間、ただうろうろと大陸中を当てもなく右往左往《うおうさおう》していたことを考えれぱ、チャイルドマンは確かに俺より数段|上手《うわて》だったってわけだ」
オーフェンは一気にしゃべって、なんだか疲れすら覚えていた。はあはあと肩で息して見やると、彼女は不思議そうな表情で、こちらを見ている――いやむしろ、どこも見ていないような眼差《まなざ》しでもあった。彼女は、嘆息した。
「嫌《いや》になるわね。わたしがどうして五年前に<<剣>>を使ったと思う?」
アザリーはそう言いながら、バルトアンデルスの剣を抜いた。
「あの堅物《かたぶつ》に認《みと》めて欲しかったのよ。わたしって女をね。わたしは彼に相応《ふさわ》しい女になりたかったの」
すらりと真っすぐに伸びたバルトアンデルスの剣は、アザリーの手から斜《なな》めに地面に触《ふ》れて、切っ先でわずかに土をえぐった。彼女が鞘を捨てるのを見ながら、オーフェンはその視線を頑強《がんきょう》なチャイルドマンの身体から、ほうり出された鞘へと移した。乾《かわ》いた革《かわ》の鞘は、ころんと街道の突き出た小石にぶつかり、跳《は》ねて転んだ。
オーフェンもまた彼女にあわせて剣を構えながら、聞いた。
「ならどうして、彼を殺すようなことをしたんだ」
「分からないわ……でも、もう目的を果たしたからかもしれないわね」
「目的?」
「彼はわたしを認めてくれたわけでしょう?」
彼女は自嘲《じちょう》するようにそう言うと、オーフェンの目の前で、バルトアンデルスの剣を構えてみせた。
「アザリー……」
喉《のど》の中でうなるようにオーフェンがつぶやくと、彼女はかぶりを振って、
「冗談よ。でもね、分かってちょうだい――別にわたしが望んでこうなったわけではないわ。結果としてこうなってしまったというだけ。わたしの度量では、これ以上の選択《せんたく》はできなかったのよ」
「…………」
オーフェンは黙《もく》して一歩彼女に近寄ろうとしたが、その前に一言だけ聞いた。
「ならつまり、俺たちがこうして剣を向けあっているのだって、選択の結果なんだろう。君はチャイルドマンの口を封じなければならなかったのと同じように、君が生きていることを知ってしまった俺も始末《しまつ》しなければならないわけだ」
「……それはどうかしら。ようするに信頼《しんらい》の問題よ。あなたは信頼できる。もとの姿にもどった後、あなたのものになってあげてもいいのよ?」
「お願いだから、これ以上俺を裏切らないでくれ――俺はあんたを尊敬していたんだ」
彼女は黙《だま》って、うなずいてみせた。
その仕草にオーフェンは少し驚《おどろ》いたが、アザリーはすぐに厳《きび》しい視線で剣を構え直した――チャイルドマンの目で。そしてチャイルドマンの顔で。初夏の陽光が、バルトアンデルスの刀身に照《て》り返る。その光が目にしみたような気がして、オーフェンは目を閉じてから、また開いた。
彼はふと、間の抜けたことを想像した――ハーティア、チャイルドマン、そしてアザリーと、今までは追憶《ついおく》の中にいた昔の仲間たちが、順番に自分の力を試している、といったような。
(アザリー――)
複雑な気分で、オーフェンは剣の柄《つか》を握《にぎ》り締《し》めた。自分のやらなければならないことは承知している。そのためにも、こんなところで彼女に殺されていたのでは意味がない。
アザリーが、剣を振り上げた。チャイルドマンの上背《うわぜい》はオーフェンよりかなり高いため、その切っ先の位置もオーフェンの視点からは、空に突き刺さるほど高く思えた。もっとも、チャイルドマンであれば剣を振り上げるようなことはしなかっただろうが――そもそもあの元暗殺者は、長剣よりもナイフや鋼線といった武器を好んでいた。アザリーは逆に、例《たと》えば華々《はなばな》しい騎馬《きば》試合などを心底《しんそこ》楽しんでいるようなところがあった。
あれはアザリーだ――と、オーフェンは自分に言い聞かせた。チャイルドマンではない。だが考えようによっては、あのふたりはこんな形でいっしょになれたんだ――
アザリーが、チャイルドマンの身体で早々に一歩|踏《ふ》み出す。
昔からの癖《くせ》だ――と、オーフェンは思い出した。彼女は余計《よけい》な間《ま》をとったりはしない。さっさと飛びかかってきて、無造作《むぞうさ》に勝負を決めてしまう。オーフェンは誘《さそ》うように切っ先を少し落とした。
アザリーは最初の一歩で意を決したようで、その後は呼吸する間もおかずに、走り込んできた――一歩――また一歩進んで――もう切っ先がとどく距離に――
ひゅっ――
瞬《またた》きする間もないうちに、その音は聞こえた。金属の刃が空気を切り裂《さ》く音。耳を澄《す》まさなければとても聞こえないような小さな音――
オーフェンは動かなかった。彼の肩口に、彼女の強烈《きょうれつ》な一撃が命中する。
だが、その瞬間《しゅんかん》彼の身体の中から、押さえようもない猛烈《もうれつ》なカが沸《わ》き上がった――身体の中につまった空気が、一気に破裂《はれつ》するような力が。その力は肩に食い込んだバルトアンデルスの剣を受け止めると、そのまま搦《から》め捕《と》り、一気に跳《は》ね返した。
剣が宙を舞《ま》い、そしてオーフェンの背後にどさっと落ちるまで、ふたりとも身動きもしなかった。見ると、アザリーはまるっきりきょとんとした顔で、空っぽになった自分の――いや、チャイルドマンの手の中を見下ろしている。
「急所を避《さ》けたね、アザリー」
オーフェンは剣を右手一本で持ち替えて、丸腰《まるごし》の彼女にすいっと近づいた。
「だが、どちらにせよ、君に勝ち目はなかったんだ。君は指輪を覚えているだろう? 危険から身を防《ふせ》ぐけど、たった一度しか使えないっていう、あれさ」
「……あなたの指にははまっていないようだけど?」
彼女は後退《あとずさ》りしながら、つぶやいた。
オーフェンは肩をすくめた。
「指にはめる必要はないのさ。あれの完全な持ち主になれればね。あんな小さな指輪なら、呑《の》み込むのは造作もなかったよ」
言いながら、彼は自分の腹を左手でぽんとたたいた。アザリーは引きつったような面持《おもも》ちで、いかさまを目《ま》の当たりにして唖然《あぜん》としている。オーフェンがもう一歩近寄ると、彼女は今度は後退りせずに、笑い出した。
「冗談《じょうだん》――冗談じゃないわ! 馬鹿《ばか》みたい! そんな手で――」
身をよじって大笑いするアザリーに、オーフェンは顔を近づけて、言った。
「これで決着をつけよう、アザリー」
ぱっと、アザリーが哄笑《こうしょう》を引っ込めて、猫《ねこ》のように素早く、わずかに腰を落としてこちらに飛びかかろうとする――
オーフェンが剣を打ち下ろすと、その刃は彼女の腹を横打ちに薙《な》いだ。剣の金属が肉に食い込む感触《かんしょく》が腕を伝わってくる。
そして衝撃《しょうげき》がそのままどこかへと突き抜けていくと、天魔《てんま》の魔女の身体は大きく悲鳴《ひめい》をあげながら、仰向《あおむ》けに倒れていった。
エピローグ
風に紛《まぎ》れた馬の嘶《いなな》きが、初夏のトトカンタの空気の匂《にお》いによく似合っている。いい陽気だった――六月のトトカンタは、さっぱりと乾燥《かんそう》し、そのくせ緑の匂いが濃《こ》い。東にある大スカイミラー湖から吹き寄せてくる風が、一時は焼け野原のようになったエバーラスティン家の庭園《ていえん》を、ふわっと通り抜けていく。オーフェンが三日がかりで修復《しゅうふく》したのだが、やはりそこここに損傷《そんしょう》の跡《あと》は残っていた。
二頭の馬がほとんど同時に、また落ち着かなげに嘶いた。二頭とも栗毛《くりげ》の牝馬《ひんば》で、馬車につながれている。この馬車はエバーラスティン家所有のものだったのだが、ティシティニーがオーフェンに譲《ゆず》ってくれたのだ。
「準備はよろしいんですの?」
「え? ええ、大丈夫《だいじょうぶ》です」
ぼうっとしていたところをいきなり声をかけられて、オーフェンはびくっと振り返った。玄関先にティシティニーとマリアベルが、連れ立って見送りに出てきている。なぜかクリーオウの姿はなかった。
オーフェンは二頭立ての馬車のほうを見やり、
「といっても、あの寸詰《すんづ》まりどもを追いかけるのに、たいした準備は要《い》りませんよ」
「あの地人さんたち、例の剣を持って逃げてしまったんですって?」
他愛《たわい》ない悪戯《いたずら》っ子の話でもしているようにティシティニーは、笑いながら眉《まゆ》を寄せた。美しい眉間《みけん》のしわが、行儀《ぎょうぎ》よく縦《たて》に並ぶ。
「ええ。多分、どこかであのバルトアンデルスの剣を金に換《か》えるつもりなんでしょう。俺《おれ》も迂闊《うかつ》だったんですよ。あいつらの前で、ああいった魔術《まじゅつ》の代物《しろもの》がどれだけ高く取引《とりひき》されるのか口走っちまったんですから」
オーフェンは嘆息《たんそく》まじりに頭をかいた。そして、
「ところで……クリーオウはどこです? 見送ってくれるもんだと思ってたんですが」
「あの子は――」
ティシティニーは、かたわらのマリアベルと、ちらと視線を合わせて、口元をほころばせた。そのまま口ごもり、小さく肩をすくめる。
その動作だけで、オーフェンはなんとなく、ピンときた。
苦笑しつつ、言う。
「……あなたは素晴《すば》らしい女性ですよ、ティシティニー。でも賢《かしこ》い母親とは言えませんね」
「そうかしら?」
ティシティニーは、まるっきり母親というものの典型を見せつけるような仕草で、両手を腰《こし》に当てた。
「いえ、失言でした。あなたは賢い母親ですよ、本当にね」
「あの子のこと、よろしくお願いします」
「彼女がいい子にしているかぎりはね。ま、どうしようもなく手に負《お》えなくなったら、返しにもどりますよ」
オーフェンはそう言って、ティシティニーからマリアベルヘと視線を移した。このクリーオウのやや変形した相似形《そうじけい》のような女性は、身体《からだ》の前で手を組み合わせて、じっとこちらを見つめていた。オーフェンはふと、本当は彼女は話ができないのではないかと訝ったが、そうではなかった。マリアベルは、すっと息を吸い、色の薄い唇《くちびる》をわずかだけ開いて、こう言った。
「わたし本当に、あなたと結婚できたらいいって思ってたんですよ」
ガラスの音のように透《す》き通った声音《こわね》だった。そのせりふに面《めん》食らって、オーフェンがたじろいでいると、彼女はすっと細い腕をこちらの首に回し、ほおに軽く口づけた――その一瞬《いっしゅん》の感触《かんしょく》の中でオーフェンは、唐突《とうとつ》に思い出していた。
「あの子ったら今回のことで[#「あの子ったら今回のことで」に傍点]、すっかり参ってしまって[#「すっかり参ってしまって」に傍点]……』
なんてこった――オーフェンは、目眩《めまい》を覚えた。この家の連中は、自分たちの屋敷《やしき》が殺し屋どもに狙《ねら》われているその時に、そんなゴシップに沸《わ》き立っていたのだ。
だが考えてみれば、ひとりで深刻《しんこく》になっていた自分のほうがどうかしていたのかもしれない。
(思い詰めすぎなんだ、俺は)
抱きついてきたときと同じ素早《すばや》さで身体を離したマリアベルに、ふっと微笑《びしょう》めいたものを返しながらオーフェンは、そんなことを思った。
馬車は散歩程度のスピードで街《まち》を抜け、街道《かいどう》に出た――ボルカンたちが<<剣>>を持ってどこにいこうとするかは、分かり切っていた。あの連中は魔術のこととなれば、単細胞《たんさいぼう》に<<牙《きば》の塔《とう》>>を目指《めざ》すだろう。となれば、北だ。
トトカンタから北方へ抜ける街道――数日前にアザリーの乗った馬車が使ったステアウェイ街道をそのまま辿《たど》りながらオーフェンは、考え事をしていた。革《かわ》の手綱《たづな》をもてあそびながら、風に吹かれてのんびりと。
馬車がちょうど、アザリーの馬車を止めた地点を通り過ぎた……
「こいつは、ボルカンの野郎《やろう》の剣でね」
倒れたまま息を荒げているアザリーを見据《みす》えて、オーフェンは手にしている剣を掲《かか》げてみせた。
「あの馬鹿《ばか》、剣の手入れも知らねえし、その上こいつで弟の頭ばっかぽかぽか殴《なぐ》りつけているもんだから――知ってたかい? 地人の頭ってのは、鉄より硬《かた》いんだ。まあなんにしろ、そのせいで剣の刃も潰《つぶ》れちまって、こいつはほとんどなまくらなのさ。とはいってもアザリー、肋骨《ろっこつ》くらいは折れただろうから無理に動くと内臓を傷つけることになるよ」
「わたしを……殺すの?」
彼女は――といってももちろん、チャイルドマンの姿だが、とにかく顔面に脂汗《あぶらあせ》をいっぱいにかいて、そう聞いてきた。オーフェンは、ボルカンの剣を後ろに放り投げ、かわりに彼女の落としたバルトアンデルスの剣を拾《ひろ》い上げた。
「君を殺す?……か。それができていたなら、五年前に<<塔>>を飛び出したりはしなかっただろうよ」
「昔のあなたと今のあなたとでは違うでしょう」
「おんなじさ。いや、違うかな――でも、大差はない」
「わたしをどうするの?」
「…………」
オーフェンはバルトアンデルスの剣を手の中で持ち替えながら、少し考え込んだ――というか、考え込んでいるふりをした。
実を言うと、既《すで》に心は決していた。
「君の選択《せんたく》に任《まか》せるよ」
オーフェンは言ってから、手にした<<剣>>をアザリーの眼前に突き付けた。
「この<<剣>>は、俺の思いどおりに君を<<変化>>させることができるんだろう? 俺は、五年前の君のことをはっきりと覚えている――もとにもどすことも多分、できるはずさ。あるいは君はその姿のまま、チャイルドマンとして生きることもできる。可能性としては低いが、あの……異形《いぎょう》の姿にもどりたいというんなら、そうしてやってもいい。結局のところ、君自身の問題なんだ。君がどういう生き方を選んでも、俺はその希望を叶《かな》えてやるよ。ただし――」
オーフェンは、トーンを落として続けた。
「ただし、君に少しでも罪悪《ざいあく》感があるのなら、どの姿になったとしても、もう二度と俺の前には姿を見せないでくれ。どんな事情があろうと、君はチャイルドマンを殺したんだよ」
アザリーはしばらく息を荒げたまま、沈黙《ちんもく》していた。彼女がそのまま痛みで気絶するのではないかとオーフェンが心配しだしたころ、彼女は自分の希望を告げた。
「そろそろ顔を出せよ。一人で御者《ぎょしゃ》をやってたところで、退屈《たいくつ》なだけだ」
オーフェンは、御者台から振り返らずに、馬車のほうへ声をかけた。馬車は円筒《えんとう》を半分に割って横たえたような形をしていて、前後の入口をカーテンで仕切っている。そんなに大きい造りではないが、二、三人は乗り込めるだろう。その前方のカーテンが、さっと開いた。
「いつから気づいてたの?」
カーテンの隙間《すきま》から顔を出したのは、クリーオウだった。まったく意表《いひょう》をつかれたように、双眸《そうぼう》をびっくりと見開いている。オーフェンは、呆《あき》れたように言った。
「ティシティニーがほのめかしてたんだよ。あの子をよろしく、だってさ」
「じゃあ、よろしくしてくれたわけ?」
「どうせ、馬車から引きずり下ろしても他のテを考えるんだろう?」
「うん」
クリーオウは悪びれた様子《ようす》もなくうなずいてみせた。
オーフェンはようやく振り返り、じろりと少女の顔を見やった――クリーオウは妙《みょう》に、にこにこと機嫌《きげん》よく笑みを浮かべている。まるで自分とは別次元《べつじげん》の生き物であるかのような彼女の笑顔を見つめながら、オーフェンはつぶやいた。
「まだなにか企《たくら》んでやがるな。なにを隠《かく》してるんだ?」
「別に隠してるわけじゃないわ」
クリーオウは、手品の種明《たねあ》かしをするみたいな優越《ゆうえつ》感の潜《ひそ》んだ視線を投げると、くるりと後ろを振り向いて、言った――
「もう出てきてもいいわよ」
「お、おい、まだ誰《だれ》かいるってのか?」
さすがにオーフェンがぎょっとしたように悲鳴をあげると、クリーオウの横からひょっこりと顔を出したのは、まだ子供子供した面影《おもかげ》を残す少年だった。
「マジク!」
「だって、魔術を教えてくれるって言ってたでしょう? なのに、宿屋のほうにも顔を出さないで街を出ていくなんて、ひどいじゃないですか」
「で、でも――なんでこの馬車に――」
「あれ? 言わなかったっけ?」
不思議《ふしぎ》そうに声をあげたのは、クリーオウだった。
「わたし、下町の学校に通ってるのよ。学年は違うけど、マジクとは同じ教室なの。オーフェンのこと話したら、知り合いだっていうんだもの。驚《おどろ》いちゃった」
「あのなあ……」
途方《とほう》に暮れてオーフェンがつぶやくと、マジクは少女のような面持《おもも》ちを心持ち紅潮《こうちょう》させて抗弁《こうべん》した。
「ちゃんと父さんとは話し合いましたよ――オーフェンさんが宿からいなくなってから、何日も。そしたら、どこか信用のできる魔術士に師事《しじ》するんなら、まあいいだろって言うんで、とりあえず信用できる魔術士っていったらオーフェンさんしか――」
「ああ、分かった。分かったよ。くそ、バグアップの野郎――」
オーフェンは仕方なく手元の手綱《たづな》に八つ当たりしながら、空を見上げた。初夏の空は高く、どこまでも透《す》き通っている。風は空の真上から吹きおろしてくるみたいだった。緑に取り囲《かこ》まれるような街道をどこまでも手綱を引きながら、オーフェンは、とりあえず一人旅でないことを感謝《かんしゃ》するべきなのかな、と思っていた。
街道を見下ろす空はまばらに雲を散らばせて、ぷかぷかと、いつでも頭の上に落っこちてきそうに見えた。
あとがき
「ハーイ! マリアベルでぇーすっ! 巻末の進行役をやらせていただきまーすっ!」
「……本編とはうって変わってテンション高いなー、お前」
「低くってどーすんのよ。ほら、ごあいさつぐらいはしなさいって」
「はいはい。読者の皆様方におきましては初めまして。初顔の秋田です」
「……まーた、そーゆうしゃれになんないこと言うんだから」
「いーじゃん」
「よくないって……まあ確かに、前作から二年近く経《た》っちゃってるけどさー」
「二年も経ってると、さすがにもー名前忘れちゃってる人も多いだろな」
「それ以前に、あの名前読めないって人のほうが多いんじゃない?」
「……ンなことはないと思うが」
「でもねー、あんたの名前、はっきり言って反則よ」
「反則って……別にルールがあるわけじゃないじゃん」
「だってねえ、読めるわけないわよあんな字。『禎信』だったっけ? 多分、今この本を持っている人全員、この宇読めないわよ」
「ちなみに『さだのぶ』は間違いです」
「なお、正解は奥付を参照ね」
「実は、ほかのペンネームを使おうか、なんて考えてた時期もあったんだよ」
「……そーなの? なんかヤな予感がするけど……どんなペンネーム?」
「日和見って書いて『ひなたかずみ』とか、丙午《ひのえうま》ヘソ五郎とか。あとはリングネーム風にしてファイター泥亀《どろがめ》、ランドセル万年課長、ハイヒールすね毛……フランダース猫ってのもあったな」
「……実家に帰らせていただきます」
「どこだ、それわ」
「まあいいわ……にしても、なんでこんなに時間が開いたのよ。二年もかけてこのお話書いてたわけじゃないんでしょ?」
「うん」
「なにやってたの?」
「ペンネーム考えてた。ポックリ寿《ことぶき》とか、ルンメニゲ体重計とか」
「そんなことで青春の二年間を無駄《むだ》にしてしまって後悔とかはないわけ?」
「ほかに、ちゃんとお話も書いてました」
「……どんな?」
「『もう鼻毛が止まらない!』とか『ジブラルタル海峡冬景色』とか」
「あんたねー……」
「まあなんにしろ、こーゆー奴《やつ》が無事に今回の仕事を終えられたのも、すべて応援してくれた方々の力|添《ぞ》えがあればこそです」
「あ、ちょっとは謙虚《けんきょ》な性根《しょうね》があるわけね」
「謙虚の虚の字は虚言の虚ー」
「ヤな奴ねー」
「むむむ。とにかく、この原稿を執筆中にかかわったすべての人に感謝っ!
えー、西荻窪の本屋でバイトしている北村君、今日も目黒で裸電球をなめ回してひとりで笑っている柳戸君、酔《よ》って暴《あば》れて公衆便所を跡形《あとかた》もなく破壊したずみぽん君――」
「……ロクな友達がいないのねー、あんたって」
「うるさいなあ。
えー、ゼミで世話になったS、O、K、それに山下、澤野両先生。飛弾さん愛してるよー(笑)。バイトさせていただいた厚木の石丸家具の方々。えーと……あとは、なんだかよく分からない訪問販売のおっちゃん! よく窓の外から俺の部屋をのぞいてる緑色の顔の人っ!」
「いきなりウソくさくなったわね」
「(無視)そしてもちろん、編集のMさんやイラストを引き受けてくださった草河さんっ! その他、とにかくこの本の出版に尽力《じんりょく》していただいたすべての方っ! で、最後に本書を手にしておられるあなたっー」
「どうも、ありがとうございましたん♪」
秋田禎信