エンジェル・ハウリング4
呪う約束 ―from the aspect of FURIU
秋田禎信
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)はっきりと五感《ごかん》に残る
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)留置|経験《けいけん》を持っていた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)偶然[#「偶然」に傍点]に追いかけて
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目次
プロローグ
第一章 スタンディング・ギィルティ
第二章 クライベイビー
第三章 タイト・スクィーズ
第四章 モンスター・ハンティング
第五章 コナンドラム
第六章 トラシィ・トラップ
第七章 ブレスレス・トーキング
第八章 ストロー・ガール
エピローグ
あとがき
[#改丁]
プロローグ
はっきりと五感《ごかん》に残るその夢は、深い眠《ねむ》りには似つかわしくない。だが男は夢の中で、さらに相応《ふさわ》しくないつぶやきを口の中で繰《く》り返した。眠る死体の語る言葉《ことば》。眠る海に沈《しず》む、眠る魚たちの言葉。
その廃城《はいじょう》の崩《くず》れた一角《いっかく》に、大男が横たえられていた。近くに転がっているのは粗末な道具ではあったが、その傷《きず》に当てられた布、包帯《ほうたい》の様子はしっかりとしていた。建物はかろうじて雨風はしのげるものの、人が住んでいる気配《けはい》などあるはずもない。せいぜいが、放浪者が仮宿にしている程度の荷物《にもつ》が、隅《すみ》に整《ととの》えられているだけだった。荷は少なく、いつでも立ち去れるようになっている。
大男は動かない。厳《いか》つい表情が多少は和《やわ》らいで見えるのは、眠っているせいだろう。呼吸には危なげなところはない。傷は、胸につけられたもののようだった。見かけからは重傷だが、手当てが施《ほどこ》されているせいか落ち着いている。
どの季節にでも草むらに隠れているような虫が、その男の横を跳《は》ねた。朝の光を受けて、建物の床からのぞいている草が湿《しめ》っている。
その男から離れた場所に、老人が腰を下ろしていた。小柄だが、うずくまる背には肉がついている。老人は肩を落としているようだった。うつむいて、なにもない床の一点を、なにかの重大事のごとく見つめている。短く刈り込んだ髪に、汗が浮かんでいた。しわだらけの口元には、掻《か》き傷のような皮肉な跡《あと》が見える。
老人が、口を開いた。
「ベスポルト。ベスポルト・シックルド。その名を汚《けが》した逐電者《ちくでんしゃ》」
「わたしに……罪があると?」
答えたのは、大男のほうだった。動いたわけではない。寝転がったまま顔の位置をずらしもせずに、ただ声だけを返した。呼吸も変わらない。
もっとも老人のほうも、わずかに口を開く以外のなにもしていない。ただなんらかの確信を持って、分かり切った問答を予定通りになぞるように、続けていく。
「戦わぬ戦士はその義務を捨てた。罪がある。罪があるぞ、ベスポルト」
「そのために、マリオを遣《つか》わせた? 分かっていますね。わたしは召喚《しょうかん》に応《こた》えた……そして、そのために」
「そのために?」
「…………」
「言わずとも良いさ。マリオは報告してくれたよ。お前が捨てようとした娘。水晶眼《すいしょうがん》に封《ふう》じられている魔神《まじん》。あれがお前の、八年間の答えなのか」
躊躇《ちゅうちょ》の滲《にじ》む、わずかな時間。
大男が口調を変えた。
「わたしの助けを得たいならば、フリウには手を出すな……」
「もう遅いさ。すべては整えられてしまった。マリオが村からもどってきた。その村に、その娘がいたそうだ。村がハンターを呼んで、マリオを狩ろうとしているらしい」
「…………」
「偶然[#「偶然」に傍点]に追いかけてくるのさ、ベスポルト。お前は賢《かしこ》く振《ふ》る舞《ま》おうとしたのだろうが、無駄《むだ》だった」
「…………」
「お前が意識を取りもどすまでには、もう少しかかるだろう。うわごとではなく話をしたかったがな。時間がないようだ。追ってきているのはお前の娘だけではない。黒衣《こくい》も、ほうってはおくまい。あの娘のことを」
「わたしを起こせ……わたしを」
「まるで生きた亡者だな、ベスポルト・シックルド。お前の身体《からだ》はマリオに運ばせる。抵抗はできまい。その娘を手に入れられるのは、わしだけということになる」
「わたしの娘は……復讐《ふくしゅう》などしない……頭の良い子だ……」
「賢き者が愚《おろ》かな真似《まね》をしないというのなら――」
言いかけて、老人は初めて頭《こうべ》を巡らせた。だが、男を見たわけではなかった。やはりなにもない、別の一点を見つめて、つぶやく。
「わしらが巡り会った、この境遇《きょうぐう》とはなんだというのだ。これこそ、賢者《けんじゃ》の発狂から始まったのではないか」
それは海底で蠢《うごめ》く、低温の生物たちの震《ふる》え声。
語られたからといって潮流を変えることもない。だが泡《あぶく》となり、波を揺《ゆ》らす言葉。
[#改ページ]
第一章 スタンディング・ギィルティ
(罪人たちの夜)
ペン先が折れ、紙にインクが飛び散るのを、彼は驚《おどろ》きもせずただ見つめていた。替《か》えのペンはない。つまりは、報告書《ほうこくしょ》は書けないということになる。
(ペンがなければ借《か》りればいい――)
どうでもいい心地《ここち》で、彼は独《ひと》りごちた。頭を抱《かか》えて、事務机《じむづくえ》に突《つ》っ伏《ぷ》す。紙とインクの香《かお》りが鼻についた。机は、古くなった書見台《しょけんだい》を――多分どこかの学校から――大量に引き取ったもので、事務所に几帳面《きちょうめん》に並《なら》べられている。無論《むろん》使いにくい。夜中にひとりで書類《しょるい》を書くには向いていない。もともと、達筆《たっぴつ》さを買われて警衛兵《けいえいへい》の職《しょく》に就《つ》いたようなものだが、だとしたら、才能《さいのう》に見合った環境《かんきょう》を整《ととの》えてくれても良さそうなものではないか? 皮肉《ひにく》な心地で笑《え》みを浮《う》かべる。そうだ。それならば報告書くらい書いてやれる。細大漏《さいだいも》らさず、なにもかも。
(いや……報告書というより、始末書《しまつしょ》か、これは)
思い直して、笑みを消す。
辺境《へんきょう》の事件《じけん》。中央は、これを報告書として提出《ていしゅつ》することを命令《めいれい》してくる。だからといって、帝都《ていと》がこの辺境に興味《きょうみ》を持っているということでもあるまいが。誰《だれ》のために書くものかは知らないが、どのような事件であっても、報告書は必要《ひつよう》となる。
一週間ほど前のことになるか。帝都の特殊部隊《とくしゅぶたい》、黒衣《こくい》を案内し、ヌアンタット高地の村へおもむいた。事由《じゆう》は不明だったが、その任務《にんむ》は村にいるとある男を逮捕《たいほ》することだった。黒衣が中央から五人も派遣《はけん》されてきたこと以外には、どうということもない任務に過《す》ぎなかったが。その結果はどうなったか。
村は壊滅《かいめつ》した。黒衣も全滅《ぜんめつ》。多数の村人が死傷《ししょう》し――その犠牲者《ぎせいしゃ》の数を確認《かくにん》することすらできないほどの惨事《さんじ》が発生した。その事故の参考人《さんこうにん》として、ひとりの少女を保護《ほご》することとなった。少女は、この事故で養父《ようふ》を失っており、保護はおおむね、的確《てきかく》な処置《しょち》だったと言えなくもない。
これを書けばいい。のだが。
(……書けないよ)
彼は机にうつ伏《ぶ》せたまま、額《ひたい》を左右に振《ふ》った。ごつごつした机の表面《ひょうめん》が、肌《はだ》に食《く》い込《こ》んだようにも思えるが、どうということでもない。しばらくそれを続け、そして、
(書けない。こんな途方《とほう》もない嘘《うそ》は書けない。無理《むり》だ)
独《ひと》りごちる。それが罪悪感《ざいあくかん》からではないことは、自分でも重々《じゅうじゅう》承知《しょうち》だった。
サリオン・ピニャータは顔を上げた。壁《かべ》にかけられた古い時計は、午前二時のあたりを示《しめ》している。あまりあてにはならない時計だが、数日前、誰かが時刻《じこく》を直していたのを見た記憶《きおく》があった。今のところは正確だろう。
彼は意《い》を決《けっ》すると――インクの染《し》みが広がった、なにも書かれていない報告書をあとに席を立った。
「つまりだな。人生ってのは、たとえるなら椅子《いす》のようなもんだ」
天井《てんじょう》近くを漂《ただよ》うその羽《はね》の生《は》えた青白い人精霊《じんせいれい》は、得意《とくい》げに腕組《うでぐ》みし、のんきな声をあげていた。
「椅子、普通《ふつう》は座《すわ》るだろ? だがそれを食卓《しょくたく》にして飯《めし》を食う奴《やつ》もいる。積み重ねてバランスを取って、曲芸《きょくげい》にする奴もいる。だが椅子は椅子だ。テーブルより高い位置に座る椅子なんざ、ありゃしない」
早口にまくし立てられるその人生訓《じんせいくん》は、どんな時でも煩《わずら》わしいことには違《ちが》いなかったが、今以上に腹立たしく感じる環境《かんきょう》もないだろう――少なくとも、フリウはそう確信《かくしん》していた。部屋《へや》の隅《すみ》で膝《ひざ》を抱《かか》えて顔を埋《う》めていても、声は締《し》め出すことができない。鍵《かぎ》のかけられた扉《とびら》からは逃《に》げ出すこともできず、やたらと天井に近い位置にある窓《まど》から、わずかな月光が差してくるだけで、ほかに明かりもない。途切《とぎ》れることのない人精霊の声に眠《ねむ》ることもできず、つまりは……考えたくもないことを考えることでしか、時間を過ごすことができない。
(……眠ったら、悪い夢を見るだけかな)
だが夢ならば、起きれば忘れることができる。
肌《はだ》をひっくり返すような悪寒《おかん》や、なにもしていないのに高まる動悸《どうき》の音、涙《なみだ》を出し過ぎた涙腺《るいせん》の痛《いた》み、壁《かべ》に寄《よ》りかかったまま血の通わなくなった腕、そして、考えまいとしても記憶に蘇《よみがえ》ってくるあの光景……それらから、たった数時間でも逃《のが》れることができるのならば。眠りはひどく魅力的《みりょくてき》に思えた。
あの光景……
きつく目を閉《と》じて、身体《からだ》を震《ふる》わせる。
眼帯《がんたい》で閉じられた左眼。その暗闇《くらやみ》を、強烈《きょうれつ》に意識《いしき》する。その眼《め》が開いた時に見えたものが、どうしても忘れられない。
呼吸《こきゅう》が荒《あ》れる。汗《あせ》が噴《ふ》き出る。何日も着替《きが》えていないことを思い出し――部屋の隅《すみ》から動けないのだから、どうしようもない――、その不快感《ふかいかん》にさらに寒気《さむけ》を覚える。
と、人精霊――スィリーは、ひどく驚《おどろ》いたような声で、きょとんと言ってきた。
「……なんだ。俺《おれ》の言葉《ことば》に感動したのは分かるが、どうも奇怪《きかい》な感激《かんげき》の表現だな、小娘《こむすめ》」
顔を上げずに、フリウは囁《ささや》いた。天井近くにいる精霊に、ぎりぎり聞こえる程度《ていど》の声音《こわね》で。
「悪いけど、黙《だま》ってて」
「うむ。静かにしていよう。ところで人生だが、人生ってのはたとえるならよく回るコンパスのようなもんだと思わねっか?」
声は締め出すことができない……
それでも耳をふさげば、声は遠ざかった。
部屋は居心地《いごこち》の良いものだった。正直、あの警衛兵に連行《れんこう》されてきた時には、牢屋《ろうや》か、まあそういった類《たぐい》のものを想像していたのだが。扉《とびら》には鍵がかかっている。開けようと試《ため》したこともなかったが。日に一度、そこを開けて制服《せいふく》の女が入ってくる。辺境《へんきょう》警衛兵の制服だが、なんとはなしにその女は、警衛兵ではないように感じられた。単に、こちらの気を落ち着かせるための係《かかり》といったところか。彼女は当たり障《さわ》りのない言葉をかけてはこちらの反応《はんのう》を待つが、数分ほども沈黙《ちんもく》が続くと、部屋を出ていく。あとは、たまに食事がとどけられる。それ以外には、特になにもない。机の上に、画用紙とクレヨンがあるのはどういうことなのだろうか――最初《さいしょ》は分からなかったが、何日か経《た》って、ようやく分かった。自白《じはく》を促《うなが》すための小道具だろう。ノートとペンでないのは、ペンで自殺《じさつ》を図《はか》る犯人がいるからに違《ちが》いない。
ふと、その画用紙に誘《さそ》い出されそうになり、馬鹿馬鹿《ばかばか》しくなって、やめる。なにを自白するというのだ? そもそも、あの警衛兵がすべてきちんと見ている。彼女が告白しなければならないことなどひとつもない。
村で起きた、大殺戮《だいさつりく》。それをしたのが彼女であると、彼が知っている。生き残った村人たちが知っている。八年前の事件が再発《さいはつ》したことを、誰もが知っている。
(……あたしがいたから、あんなことになったんだ)
吐《は》き気《け》がする。この部屋《へや》に入れられてからものを食べていないため、することといえば胃液《いえき》を吐くことだけだった。それでも――吐いても、泣いても、暴《あば》れても、なにをしても、自分のしたことは変わらず、自分がどういった人間であるかも変わらない。
力が抜けて、耳をふさいでいた手がゆるんだのだろう。耳障《みみざわ》りな声が聞こえてしまった。
「つまりだな、コンパスってのは一回転で十分なんだぁな。しかしそいつをぐるぐるといつまでも――」
ぐるぐるといつまでも。
涸《か》れた胃液を吐こうと前屈《まえかが》みになり、フリウ・ハリスコーは、自分が闇《やみ》の中で大回転している悪夢を――起きながら――見ていた。
「やあ」
夜番《やばん》のルキエに挨拶《あいさつ》し、サリオンは扉《とびら》を示《しめ》した。
「いいかい?」
「……隊長《たいちょう》にどやされるぞ」
「慣《な》れてるよ。それに、隊長はわめき立てたりしない。いびるだけさ」
「そうだな。ま、好きにしろよ」
ルキエはテーブルいっぱいに広げたカードで、相変わらずのひとりゲームから顔を上げもしない。本来なら夜番は、ふたり一組でしなければならないのだが――村の一件の事後処理《じごしょり》に、隊の半数を使わざるを得なかったため、極端《きょくたん》に人手《ひとで》が足りなくなっている。少女ひとりがいるに過ぎない留置《りゅうち》部屋ならば、ひとりでも構《かま》わないという、隊長の判断《はんだん》だった。もっとも、
(明日からは、そうではなくなるんだろうけどね……)
うんざりとうめいて、サリオンはルキエからキーを受け取った。フリウとふたりで会えるのは、恐《おそ》らく、今夜が最後になる。
鍵《かぎ》は簡単《かんたん》なものだった。とはいえ、こじ開けようとして開けられるものでもないが。フリウのような念術能力者《ねんじゅつのうりょくしゃ》ならば、簡単に出ることができただろう。逃亡《とうぼう》というものが、あまり現実味のない考えだとしても、可能《かのう》であったことには違いない。
(フリウがそういう力を持っていることを報告《ほうこく》しなかったことは……絞《しぼ》られるだろうな、きっと)
だが、そんなことはたいしたことではない。くだらない説教《せっきょう》の時間が一時間になるか、二時間になるかの差《さ》だ。
扉を開けると、部屋は無人《むじん》に見えた。ぎょっとするが、すぐに気づく。フリウは、部屋の隅《すみ》にうずくまっていた。あまりに小さく見えたため、分からなかったが。
「…………」
彼が入ってきたことが分からないわけではあるまい――が、彼女は顔を上げようともしてこなかった。壁《かべ》に頭を押《お》しつけて、奇怪《きかい》な声をあげている。気道になにかが詰《つ》まったような。
ふと思い浮《う》かぶのは、前に一度だけ、この部屋で自殺を試《こころ》みた被疑者《ひぎしゃ》がいたことだった。その男は数限《かずかぎ》りない留置|経験《けいけん》を持っていたのだが、なぜか十七回目のその留置で思い切った。彼はクレヨンを喉《のど》に詰まらせて死のうとして失敗し――
「フリウ!」
思わず、叫《さけ》んで、駆《か》け寄《よ》る。背後《はいご》で、ルキエが扉の鍵をかける音が聞こえた。思わず、舌打《したう》ちする。
(あの馬鹿《ばか》……鍵をかける前に中を見ないのか。すぐに医者を呼《よ》んでもらわないと)
が、彼自身も少女のもとに駆け寄ることを優先《ゆうせん》した。丸まったフリウの背中《せなか》に触《ふ》れて、陰《かげ》に隠《かく》れた彼女の顔をのぞき込もうとする。
「……え?」
不意《ふい》をつかれたような声をあげて、彼女はきょとんとこちらを見返してきた。
なにもなかったらしい――ただうめいていただけか。酸素欠乏《さんそけつぼう》の症状《しょうじょう》も、毒《どく》によるショック反応《はんのう》も、なにも見受けられない。ただ。
(ひどく……やつれてる? たったの一週間で……)
彼女と顔を合わせるのは、一週間ぶりになる。その変貌《へんぼう》は予想以上だった。
水分を失《うしな》った少女の顔色は、有《あ》り体《てい》に言って、ひどいものだった。ほとんど食事を摂《と》っていないとは聞いていたが――意識を失った時に何度か、無理に食べさせることはできたらしい――、食べた物の大半は吐《は》いてしまっているのかもしれない。髪《かみ》も服もひどく薄汚《うすよご》れていて、最初に見た時の溌剌《はつらつ》さはどこにもない。焦点《しょうてん》すら合っていない右眼を見つめて、そして左眼を隠《かく》す眼帯《がんたい》を見やる。隊《たい》の誰《だれ》も、この子の身体《からだ》を洗ってやろうと提案《ていあん》しなかったことは驚《おどろ》きだった。
(くそ、ミスマリーも……こんな時のために雇《やと》われてるんだろうに!)
パートで働いている女性職員を罵《ののし》ったあとに、自分でも驚くほどに口汚《くちぎたな》い言葉《ことば》をいくつか付け足して、フリウへと向き直る。
彼女の服も、記憶《きおく》が確かならば、一週間前と変わっていないように思えた。
「ひどいな……誰にも世話《せわ》されていないのか?」
「…………?」
彼女は首を傾《かし》げ、なにかを囁《ささや》いたらしかった。衰弱《すいじゃく》して声がかすれており、それが言葉だったのか、単《たん》なる音付きのため息だったのか聞き取れない。視線《しせん》はいまだ関係のない方向を漂《ただよ》っており、こちらを認識《にんしき》しているのかどうかすら不明だった。
「フリウ……」
「本人は起きてるつもりらしい。まあ人生をうまく喩《たと》えている。そんな気はする」
と……
音もなく漂い降《お》りてきたのは、人精霊《じんせいれい》だった――名前は忘れたが。彼は腕組《うでぐ》みしたまま、もっともらしく重い声で続ける。
「だが人生を語るというその一点を除《のぞ》けば、つまりはまあ、瀕死《ひんし》だぁな、これ」
「フリウ!」
「久しぶりだな、お前。どこに行ってたんだ?」
ぐったりしているフリウを抱《だ》きかかえ――答える意味《いみ》はないと分かっていたが、サリオンは気楽な様子の人精霊に告げてやった。
「あの村だよ。もどっていた。事後処理《じごしょり》のために……ぼくが行かないわけにはいかないだろう。村に数人を残して、隊はついさっき帰還《きかん》した。でも、くそ、無理を言ってでも残ってれば良かった」
「おう。さっき表でどやどや騒《さわ》がしかったのが、それか」
「そうだよ。大騒ぎだ。これからもっと大騒ぎになる」
そのことも頭が痛かったが――
こんな子供を、精神的に追いつめた状態で放置《ほうち》してしまった。悔恨《かいこん》が胸元《むなもと》を締《し》める。が、もうどうしようもない。
「どういうことだん?」
ふらりと前に回って、人精霊。サリオンはフリウの頬《ほお》を軽く叩《たた》いて、彼女の反応を待った。口をゆっくりと動かしているが、水を求めているのだろうか? 見回してみても、部|屋《や》には水差《みずさ》しも水筒《すいとう》もない。
それへのやつあたりも兼《か》ねて、サリオンは口走った。
「隊《たい》は事後処理《じごしょり》に、村に行った。そして……生き残った村人から、あの村でなにが起こったのか、すべて事情聴取《じじょうちょうしゅ》した。ぼくが隠《かく》していたことも、全部」
「ん? お前なんか隠《かく》してたのか? 嘘《うそ》はいかんと俺《おれ》は思う」
「仕方《しかた》ないだろう――本当になにがあったのか、ありのまま報告したら、この子は即刻《そっこく》」
と、叫《さけ》び出しそうになって口をつぐむ。
死刑《しけい》か? 公開|処刑《しょけい》か? 帝都《ていと》への移送《いそう》か? どれかは分からないが、大差はない。彼女は大事故の原因になっただけではなく、黒衣《こくい》に反逆《はんぎゃく》している。
かぶりを振《ふ》って、彼は続けた。
「ぼくには、彼女をかばう義務《ぎむ》がある。結局のところ、黒衣を村に案内したのはぼくだし、それに……」
扉《とびら》の鍵《かぎ》が、音を立てて開いた。
鍵は無論《むろん》、外からしか開くことはない。
ひとつしかない鍵を持っているのはルキエ。彼が開けているということになる。いや、わざわざこんな時間に彼に命令して鍵を開けさせようとする人物に、心当たりはひとりしかいなかった。
入ってきたのは、中年の男だった。当人は体重が増えたことを気にしているらしいが、年齢《ねんれい》からすれば相応《そうおう》なところではあるだろう。辺境警衛兵《へんきょうけいえいへい》の制服《せいふく》をピンひとつに至《いた》るまで定型《ていけい》にそろえていた。この真夜中であっても、公務《こうむ》であればそれを整える。そんな、男。
隊長と、その後ろで気まずそうに顔を伏《ふ》せているルキエが連れ立って入室してくるのを、サリオンは横目で見つめていた。ふと見回すと人精霊の姿《すがた》はなかったが、どこかで聞いているだろう――そんな気がして、続きをつぶやく。
「明日になったら、フリウはもっと厳重《げんじゅう》な牢《ろう》に移《うつ》されることになる。警備も増えるだろう。もう会えないかもしれないから、そのことを言っておこうと思って……来たんだ」
「いや、今からだよ、サリオン」
よく通る太い声で――当人は誇《ほこ》りにしているそのバリトンで、警衛兵長は告《つ》げてきた。その目は冷たく、夜の温度をさらに下げた。
「その凶悪犯罪者《きょうあくはんざいしゃ》を、牢に移す。遂行《すいこう》したまえ、サリオン・ピニャータ」
「あまりにひどいんじゃないか?」
言われて彼女は理解《りかい》できないというように――長いまつげをこすりあわせるように瞬《まばた》きしてみせた。警衛兵の制服を着て、ただ椅子に座っているだけなのだが、そんな時にも妙《みょう》に肉感的《にくかんてき》に胸元《むなもと》を締《し》めてそれを強調している。彼女はそれを自然にできた。いや、というより彼女がどれだけわざとらしかろうと、今さら気にする者もいないと言うべきか。
つまりは、ミスマリー・エレントは、そんな女だった。もう一度、今度は不意《ふい》を突《つ》かれたのではなくこちらにきちんと見えるように角度を変えて、目をぱちくりさせてから、「なにが?」
「フリウ・ハリスコーのことだ」
サリオンは苛立《いらだ》たしく言い直して、鼻で息を吹《ふ》いた。朝になって警衛兵|詰《つ》め所《しょ》では、同僚《どうりょう》たちがそれぞれのペースで仕事を始めていた――大声は出したくないが、感情がどこまで抑《おさ》えておけるか自分でも分からない。ただでさえ、ミスマリーに話しかければ詰め所内の数人か、あるいは全員が耳をそばだてるというのに。
長い髪に手を当てて、彼女はさらに聞き返してきた。
「ああ、留置部屋《りゅうちべや》の?」
「さっき、牢のほうに移された」
「あら、そうなの」
「どう見ても、ひどい状態《じょうたい》だったんじゃないか? 彼女の世話《せわ》は頼《たの》んでおいたはずだろう」
「しようとはしたわよ。あの子がさせてくれなかったのよ」
と、気楽に肩《かた》をすくめ、
「それに……まあそれでも無理《むり》にでも着替《きが》えさせなくちゃと思って眼帯《がんたい》を外したら」
そこまで言って彼女は、陽気な表情《ひょうじょう》を少し切り替えた。唇《くちびる》に指先を当て、厄払《やくばら》いのような仕草《しぐさ》をしてから、
「正直、気味《きみ》が悪くて」
「そういうことは聞きたくなかったな」
刺《さ》すように告げて、サリオンは彼女の机の上に手をついた。体重をかけると、みしりと音が軋《きし》み――なにかの警告《けいこく》のように感じられて、彼は心持ち身を退《ひ》いた。声をひそめ、続ける。
「君は味方だと思ったから……」
「味方よ。友達だものね?」
笑う彼女に、もう一段階退いてから、サリオンはうめいた。
「頼みたいことがあるんだ」
「なあに? わたしじゃ牢には行けないから、身の回りの世話はもう無理よ」
こちらが退いた分、彼女が顔を突《つ》きだす形となっている。サリオンは咳払《せきばら》いした。
「それはぼくがなんとかする。それよりも、隊長《たいちょう》がなにを考えてるのか知りたいんだ」
「自分のことよ。ほかになにかある?」
「そういうことじゃなくて、今回のフリウの件《けん》をどう処理《しょり》するつもりなのか、それが知りたいんだよ」
本来ならば、非常に簡単《かんたん》な案件《あんけん》ではある。それほどの選択肢《せんたくし》があるわけでもない。
事件に関して、大量の証人《しょうにん》がいるのだ――生き残った村人たち。その全員が、一致《いっち》してフリウの罪《つみ》を証明するだろう。手続きを取って、司法局《しほうきょく》に送るだけで事足りる。恐《おそ》らく、フリウは極刑《きょっけい》になる。
(でも……ぼくが当事者として、うまく正反対の証言ができれば、もしかしたら裁判の流れも変わるかもしれない。証拠《しょうこ》の集め方|次第《しだい》では、刑を軽減《けいげん》できる可能性《かのうせい》も)
「……サリオン?」
「えっ? ああ、すまない」
長く考え込んでしまったらしい。首を振《ふ》ってそれを振り払《はら》い、
「とにかく、頼むよ。あの子のことは、その、なんとかしてやりたいんだ……」
「ふうん?」
と、彼女は椅子《いす》に背《ぜ》をもどすと、急に右手の爪《つめ》の形が気になりだしたとでもいうように、眺《なが》め始めた――軽く、置《お》き土産《みやげ》のように目配《めくば》せを残して。
それが了解《りょうかい》の合図《あいず》なのだろう。と、半信半疑《はんしんはんぎ》ながらもそう思う以外に希望もなく、サリオンはその場を離《はな》れた。フリウを放《ほう》っておくわけにはいかない。医者も手配したほうがいいだろう。診《み》せられるかどうか分からないが、いざという時に声をかけられる診療所《しんりょうじょ》をいくつか見つけておかなければならない。できれば……非合法《ひごうほう》なものも含《ふく》めて。
(やらなけりゃならないことは、いくらでもある)
足早に詰め所を出、そして。
彼はそこで立ち止まった。
廊下《ろうか》は右側通行と決まっていた。が、自《みずか》ら決めたそのルールを完全に破《やぶ》って、堂々と中央に警衛兵長が立ちふさがっているのを見て、唾《つば》を飲む。
警衛兵長は、蛇《へび》のようにこちらを見やると――そしてまた蛇の吐息《といき》のように、奇怪《きかい》な音とも思える言葉《ことば》を発してきた。
「サリオン・ピニャータ。朝一番に出頭することを命じておいたと思ったのだがな」
そんな奇妙《きみょう》なイメージが湧《わ》いたのも、後ろ暗い思惑《おもわく》を抱《かか》えていたせいだろう。それは命取りになりかねない。歯がみして、自分の心の内が隠《かく》し通せることを祈《いの》りながら、サリオンは敬礼《けいれい》した。
「はい……隊長」
「来たまえ」
こちらの返事を聞く前に身体《からだ》の向きを変え、隊長室へと向かうその男の背に、険悪《けんあく》な視線《しせん》で呪《のろ》いをかけながら――本当にかかってくれればいいのにと毒《どく》づきながら、サリオンは後に続いた。
この街には、何度か来たことはあるはずだった。無論《むろん》、このような場所に入れられたことはないが。
硝化《しょうか》の森に入るための装備《そうび》の調達《ちょうたつ》。そして狩《か》ることのできた精霊《せいれい》を買い取ってくれる相手は、街に数軒《すうけん》、精霊|取扱業者《とりあつかいぎょうしゃ》としての免許《めんきょ》を持った商人《しょうにん》がいる。無免許の者もいるらしいが、わざわざ免状《めんじょう》を見せびらかして商売をする業者もいないので、誰が無免なのかはフリウには分かりかねた。あるいは、全員無免許だったのかもしれないが。
年に数度。父に連《つ》れられて降《お》りた街。村の者にとっては名前などなく、ただ街と呼ばれている。高地の村と、ふもとの街。世界はそれだけで、ほかにはない。ただ……遠くに、帝都《ていと》があるという。世界の中心たる、巨大《きょだい》な都。
(そこに……行きたかったんだっけ。あたし……)
黒々《くろぐろ》とした天井《てんじょう》を見上げて、フリウは独《ひと》りごちた。声は出せない。力も入らない。なにも見えすらしなかったのかもしれないが、とりあえず天井だけは見えている。
場所を移動《いどう》したらしい、ということは分かった。が、あまり変わらない。寝ている場所が、多少|粗末《そまつ》になった程度《ていど》か。やはり天井近くに小さな――さらに小さな窓《まど》があり、そこから明かりが入ってきている。
(なんで行きたかったんだっけ……覚えてないけど……なんか……とても良いことがそこにあるって思ってたんだ……)
いったいなにがあるというのだろう。
(あたしみたいな子に……そんなのあるわけない……)
世界のどこにも。
天井の暗がりが目の前に落ちてきそうな、今いるこの場所にしか、自分はいられない。
(ほかに行く場所がないんだから……身体《からだ》が動くはずがないよね……)
睡魔《すいま》が忍《しの》び寄《よ》ってくる。
つい先刻《せんこく》まで、眠《ねむ》ることができなかったというのに、今はその猛烈《もうれつ》な倦怠感《けんたいかん》に抗《あらが》うこともできなかった。その代わりに、もう吐き気は感じない。夢を見る時間が待っている。きっとまた、あの光景《こうけい》を見ることになる。
天井付近に、見覚えのある人精霊が輪《わ》を描《えが》いて飛びながら、なにやら途切《とぎ》れずしゃべり続けているようではあったが、それも聞こえてはこない。
もう自分に聞こえる声などありはしない。
彼女は目を閉《と》じて、そして心臓の鼓動《こどう》が緩《ゆる》やかに解《ほど》けるに……任《まか》せた。
詰め所にもどる頃には、昼を過ぎていた。
さらに、耳に残った警衛兵長《けいえいへいちょう》の声が消えるのも待たず、片づけなければならないことをこなしているうちに夕方が近くなる。本来の仕事は後回しになってしまったが、仕方《しかた》がない。歩き回り、疲弊《ひへい》した身体を引きずるようにして詰め所にもどってくると、待っていたのは甘《あま》い声だった。
「ハイ、サリオン」
「やあ」
手だけを上げて、ミスマリーに応《こた》える――彼女はもう勤務《きんむ》時間外のはずだが、待っていてくれたらしい。彼女は、いつものようにわずかに半歩分ほど余計《よけい》に近寄ってくる間合《まあ》いで微笑《ほほえ》んだ。
「随分《ずいぶん》と忙《いそが》しそうにしているわね?」
「この仕事はいつも忙しいよ」
「干《ほ》されてる人が、馬鹿《ばか》なこと言わないの。まあ、一所懸命《いっしょけんめい》だから、神様がご褒美《ほうび》をくれたのかもね。良い知らせを持ってきてあげたわよ」
いつものように半歩|退《ひ》こうとしているところに聞かされて、サリオンは動きを止めた。とどまったほうがいいのだろう。彼女に顔を向けると、ミスマリーは上機嫌《じょうきげん》に指を振った。
「隊長さんだけど。あの子の処遇《しょぐう》に関しては、だいぶ温厚《おんこう》なことを考えてるみたいよ。まあなにをやったのかは知らないけど、やっぱり子供だし、情状酌量《じょうじょうしゃくりょう》というか責任能力《せきにんのうりょく》のあるなしが――」
「温厚?」
およそあり得《え》ないことを耳にして、サリオンは聞き返した。が、彼女はしごく当然とばかりにうなずくと、
「なんか、呼ぶとか言ってたわよ。うん、呼ぶんだって。たいした刑罰《けいばつ》のようには聞こえなかったけど」
「うん?」
意味が分からない。呼ぶとは、なにをどこから呼ぶのだ? 視線《しせん》だけで問いかける。
だが、それを理解《りかい》できないのは、こちらが悪いらしい。少なくとも彼女はそう言いたいようだった。ミスマリーが歯痒《はがゆ》げに顔をしかめるのが見えた。
「だから、呼ぶんだって」
「呼《よ》ぶって、なにを」
彼女は結局《けっきょく》のところ、はっきりとは覚えていなかったのだろう。しかし、それでも、それを示《しめ》すような単語《たんご》のひとつふたつを記憶《きおく》していた。
それをひとつずつ聞かされるたびに、体温が下がるのをサリオンは自覚《じかく》した。冷《ひ》や汗《あせ》が、声を小さくする。
そして。
「……なんだって?」
理解した時には、口から出せるのは、かすれ声だけになっていた。
「やあ」
夜番のダンテスに声をかけ、夜食の入った包《つつ》みを掲《かか》げてみせると、彼は顔をほころばせた。牢《ろう》の扉《とびら》の前に警棒《けいぼう》を立てかけると、こちらに向かってなにか気の利《き》いたことでも言おうと――
したのだろう。恐《おそ》らく。だがそれより早く、サリオンは包みをいきなり床《ゆか》に落とすと、驚《おどろ》いたようにそれを視線で追ってかがみ込んだ夜番の後ろ頭に、警棒を叩《たた》きつけた。
声もなく失神《しつしん》した同僚《どうりょう》の身体をまたいで、扉の前に駆《か》け寄《よ》り、やはり今夜もカードから顔を上げないルキエの首筋《くびすじ》に、もう一撃、警棒を打ち据《す》える。テーブルからカードが散らばり、その上に雪崩《なだ》れ落ちるように、ルキエが倒れた。
(ふう……)
息をついて、汗をぬぐう。サリオンはすぐにルキエのポケットを探《さぐ》ると、大きな造《つく》りの鍵を見つけ出した。キーの番号と牢の扉にある番号とを見比《みくら》べて、急いでその鍵を使おうと、錆《さ》びた鉄製《てつせい》の扉へと向かう。
牢の鍵にガタがきていることは周知《しゅうち》だった――鍵を差し込み、角度を変えてねじってもうまく回らない。じれったく扉の表面を小突《こづ》いて、サリオンはもう一度|試《ため》してみた。今度は回りはするものの、留《と》め金《がね》が外れない。これは、わざとこういう仕掛けになっているのかもしれないと、みなで話したことがある。仲間が犯人を脱走《だっそう》させようと鍵を入手できても、開け慣《な》れた人間にしか開けることはできないのだ。
(脱走……?)
手元が狂《くる》い、バネが弾《はじ》けるような音とともに、鍵が開いた。
が、すぐに扉を開けようという気にはならず、混乱《こんらん》した頭の中で繰《く》り返す。
(ぼくは、なにをやろうとしてるんだ?)
もう用はなくなった鍵を床に捨ててから、改《あらた》めて自分のしたことを見回してみる。気を失《うしな》い、倒れている同僚ふたり。通路に散らばったカード。虚《むな》しく転がった夜食の包み。近くの食料品店の袋《ふくろ》に詰めてある――中身は机の上にあったペン立てと辞書だが。
「もはや正気《しょうき》ではないようだな、サリオン」
通路に響《ひび》いた声は、自分が発したものではないかとも思えた。が、違った。
「こんなことではないかと思っていた」
もったいつけた口調で、いかにも物々《ものもの》しく表れたのは警衛兵長だった。一階からの階段を、足音を立てて下りてくる。足音はひとりのものだけではなかった。姿《すがた》を見せた警衛兵長の後ろには、数人、警衛兵が――全員見知った同僚が――ついている。全員一様に驚きを隠せない様子《ようす》ではあったが、隊長だけは、あくまで予想の範囲《はんい》だという態度を崩《くず》さなかった。
「我々は、適切《てきせつ》な処置《しょち》を行わなければならない。そういった役職の者だ。個人的な感情で、それを覆《くつがえ》すことはできない、サリオン」
別段《べつだん》、珍《めずら》しいことだとは言えない。
サリオンは陰鬱《いんうつ》に独りごちた。今ここに、手の長いピンクの猿が歌いながら通りかかったところで、隊長は予定通りだと公言《こうげん》するだろう。それが信頼《しんらい》を集める術《すべ》だと信じている。
もうひとつ。裏切った部下をつるし上げるのもまた、その術のひとつだろう。
「適切な処置か」
警棒を拾い上げ、うめく。
「……また帝都から黒衣《こくい》を呼ぶことが、適切な処置だというのか?」
「もともとは、彼らが蒔《ま》いた種《たね》だ。彼らに引き渡す」
「フリウを、裁《さば》きのない処刑《しょけい》に送り込むつもりか。正式な手続きを無視《むし》して……ろくなケアもできないように隔離《かくり》して」
「ミスマリーは民間人《みんかんじん》だ。あまりにも危険な犯罪者の世話をさせるわけにはいかん」
「彼女があんたの愛人だからだ」
口走ってから、相手の顔をにらみ据《す》える。
警衛兵長はうろたえて部下たちの顔を見回したようだったが、誰もが知っていることである。誰もどうという顔を見せるわけでもない。それを、どういった解釈《かいしゃく》をしたのか――敬愛《けいあい》する隊長はそのような不倫《ふりん》など為《な》すわけがないという完璧な信頼とでも受け取ったのではなかろうかと、サリオンには思えた――、警衛兵長はすぐに落ち着きを取りもどした。
「口を慎《つつし》め、サリオン・ピニャータ――」
「慎んできたさ、ずっと。八年間も。あんたの下についてから、ずっとだ」
サリオンは、数人の同僚が立ちふさがる通路へと、一歩|踏《ふ》み出した。そのままの気勢《きせい》で続ける。
「ていの良いことを言って、要《よう》はフリウが怖《こわ》いんだろう――彼女がその気になれば、村で引き起こしたことをそのまま、この街でもできるんだからな。あんたはそれが怖いから、黒衣にすべて任せようと」
「良かろう。もう一度言わなければならないようだな。できれば、みんなには伏《ふ》せておきたかった。君の報告書《ほうこくしょ》に、嘘《うそ》があった点について――」
「だったらなんだ。あんたは嘘をついたことがないとでも言いたいのか」
叫んで、壁に向かって警棒を一閃《いっせん》する。軽鋼製《けいこうせい》の先端《せんたん》が、通路の壁に傷《きず》をつけた。不快《ふかい》な音が密閉《みっぺい》された中に響《ひび》き渡《わた》る。
「ああ、嘘をついたとも。当時六歳の子供が、その両親を含《ふく》めた十八名もの犠牲者《ぎせいしゃ》を出した事故の原因となった、なんて記録を残すつもりはなかった。だが、多分それがいけなかったんだろう……八年前に、適切な処置とやらが行われるべきだったのかもしれない。いったいなにが適切なのかぼくには分からなくて、ぼくは逃《に》げたんだ」
警棒の先を上司に向けて、サリオンは声を絞《しぼ》り出した。
「もういい。いつまでも同じところを巡回《じゅんかい》するだけの運命なんてのはもうまっぴらだ。いいか、適切な処置なんてものはくそくらえ[#「くそくらえ」に傍点]だ。ぼくは彼女を逃がすぞ」
こうまであけすけに言われるとは思わなかったのだろう。気圧《けお》された様子《ようす》で、だが自尊心《じそんしん》でその場に踏みとどまって、警衛兵長は声をあげた。
「凶悪犯罪者《きょうあくはんざいしゃ》の逃亡を幇助《ほうじょ》するというのか?」
「違う。ぼくが独断《どくだん》で彼女を逃がすんだ。どこまでも逃がす。同じところになんていやしないぞ――いいか、どこまでも、だ」
「そんなことをしたところで罪は消えん。いや、むしろ」
「償《つぐな》う方法があるのか! そんなものがあるのか。今回の死者は、前回を上回る二十七人だ――それを償う方法があるのか!」
力の限りわめき立てて。
そして、沈黙《ちんもく》が不意《ふい》に訪《おとず》れる。
(……これが、力の限界《げんかい》ってことか)
同僚たちの、同情の――いや憐憫《れんびん》の眼差《まなざ》しを見返して、サリオンは力なくうめいた。どのみち、説得《せつとく》できるような理屈《りくつ》だと思っていたわけではなかったが。
それでもそれは、思いだった。どうしようもない、想念《そうねん》。
「……君は疲《つか》れているようだな、サリオン」
さまざまな欠点はあるにせよ、警衛兵長という男の、場の空気を読む才《さい》は大したものだった。もはや犯罪者に思い入れて逃亡《とうぼう》を図《はか》る裏切り者ではなく、狂《くる》ったことをわめくだけの錯乱者《さくらんしゃ》となった自分に、憐《あわ》れみに満ちた声音《こわね》で言ってくる。
サリオンはかぶりを振った。険悪《けんあく》に告《つ》げる。
「当たり前だ」
「休んだほうがいい。なんなら、わたしのリゾートを使うかね? 恋人《こいびと》でも連《つ》れて――ああそうだ。この前|断《ことわ》った見合いがあっただろう。彼女は非常に残念がっていた」
「先方にはちゃんと、ぼくが中央府から一時|赴任《ふにん》してきているだけで、いずれ帝都にもどるはずだなんて大嘘《おおうそ》を訂正《ていせい》したんだろうな?」
言って、笑う。もうそんな話は笑うしかない。
「……サリオン」
警衛兵長は、いかにも忍耐《にんたい》強い態度《たいど》で言ってきた。その目尻《めじり》が引きつっているのは誰から見ても分かるとして、当人は気づかないのかもしれないが。
「君にはどうにもできんよ。わたしにもな。帝都に連絡をつけた。黒衣が来る。今件に関して、詳細《しょうさい》なレポートも欲《ほ》しがっている……君が」
「ぼくがそんなものを書くと思ってるのなら、どうしようもない愚《おろ》か者《もの》だな、あんたも」
その言葉は、途中《とちゅう》でかき消された。突如《とつじょ》起こった騒音《そうおん》によって。
ただごとではなかった。建物が揺《ゆ》れるほどの破砕音《はさいおん》である。石材《せきざい》が軋《きし》み、柱が砕《くだ》けるほどの。爆音《ばくおん》や轟音《ごうおん》といったものとは違《ちが》う。なにかを押《お》しつぶすような、文字通りの破砕音だった。音は、すぐ近くから響いている。
続けて吐《は》きかけていた罵声《ばせい》を呑《の》み込んで――サリオンは、ぞっとしながらその音の発生源《はっせいげん》を悟《さと》っていた。いや、誰にでも分かっただろう。牢《ろう》の中からだった。
慌てて、駆《か》け出す。鍵は既《すで》に開いている。重い扉をなんとか開ける頃にはもう音は鳴りやんでいたが、そのことがなおさら不安をかき立てた。中を見やると。
内部はひどい有様《ありさま》だった。壁が一枚、剥《は》がれている。半地下にあるこの牢の、唯一《ゆいいつ》の明かり取りの窓がある面を、根こそぎ引き裂《さ》いた様子だった。無論《むろん》、壁を砕《くだ》いたとて、その窓を広げたとて、天井近くにあるその出口から出られるわけでもないが――
床には剥がされた壁がねじれて積み重なっていた。身軽な子供なら、天井近くの出口まで登っていける程度《ていど》に。
なんにしろ、牢の中にフリウの姿《すがた》はなかった。
「よお」
と。牢の中をふらふらと飛んでいた人精霊が――今まさに、その大穴から外に出ようとしている人精霊が、こちらを振り向いて、気楽に言ってくる。
「目下《もっか》、話題沸騰中《わだいふっとうちゅう》の小娘だが……なんか逃げ出す気になったみたいだぞ」
そして、あっけに取られる人間たちを後目《しりめ》に、そのまま外へ出ていった。
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第二章 クライベイビー
(そこがはじまり)
真実などというものは足下《あしもと》にあったに違《ちが》いなく、嘘《うそ》もまたそこにあったに違いなく。だから歩くことに意味《いみ》がなかったとしても――夜の街はどこまでも人が逃《に》げるようにできている。
走っているつもりでも身体《からだ》はついてこなかったが、どこかに風は感じていた。風景《ふうけい》が後方へと通り過ぎ、それまでいた場所を背中の向こうへと葬《ほうむ》り去《さ》っていく。逃亡《とうぼう》とは、それを始めたならばもう立ち止まることはできない。本能《ほんのう》の告《つ》げるまま、彼女は腕《うで》を身体に巻《ま》き付けて歩き続けていた。
「思うに――」
頭の後ろから聞こえてくる声は、幻聴《げんちょう》ではなかった。くるくると、なんのためにか分からないが旋回《せんかい》を繰《く》り返す人精霊《じんせいれい》が気楽に言ってくる。
「人生を意味のあるものにしようなんて連中は、身体についた蚤《のみ》を飼《か》い慣《な》らして芸をさせようと言っているのとおんなじことだ。つまりはまあ、なにかを買いかぶってるってことだぁな」
動悸《どうき》の理由も分からずに、ただ脈拍《みゃくはく》と呼吸《こきゅう》だけは速くなっていく。視界《しかい》は歪《ゆが》み、鼻孔《びこう》の奥《おく》にある正体不明のわだかまりを吐《は》き出すこともできないまま、彼女は先を急こうと、ひたすらに前方へともがき歩いていた。
「どってことのないものを、後生《ごしょう》大事にしていくしか、幸福になる方法なんざありゃしないってわけだ。いいじゃねえか。皮を剥《は》げばずるべたの脂肪《しぼう》と血と腸《ちょう》の詰《つ》まったナマモノの分際《ぶんざい》で、夏に備《そな》えてダイエットするのさ。そいつを馬鹿《ばか》にする資格《しかく》が誰《だれ》にある?」
そもそも、どうしてこんなことになったのか。
そのことも分からない。自分は、あの村からは一歩も出られないはずではなかったのか? 目が覚《さ》めれば相変《あいか》わらず、父の建てた掘《ほ》っ建《た》て小屋《ごや》にいるのが正しい。今の自分はどこにいる?
夜の街。その空を見上げる。建物の屋根が連《つら》なる隙間《すきま》に星。視線《しせん》を下ろせば、人の列。それほど多くもないが、道を行く通行人たちがいる。知っているようでもある、まったく知らない光景《こうけい》。
「んで、なんの話だったっけか? そうそうつまりだな小娘《こむすめ》。人生に目的なぞ必要ないが、しかし一貫性《いっかんせい》はあるべきだ。牢屋《ろうや》から脱獄《だつごく》したのなら、もう使われていない地下通路だか、逃走《とうそう》用の気球《ききゅう》だか、そういったものがあって然《しか》るべき――あ、小娘、なんでいきなり速度が上がる?」
さらに肺《はい》をいじめるように駆《か》け出すと、あるはずのない、わけの分からない風景はまたもや後ろに消えた。また視界《しかい》に現れるのが、村ではない夜の街――同じくあり得《え》ない景色《けしき》だったとしても。
腫《は》れ上がったほおがひどく重く、顔面の血管《けっかん》がちぎれたのではないかと思えるほど激《はげ》しく脈打《みゃくう》っている。その小刻《こきざ》みな打撃《だげき》に苛《さいな》まれながら、サリオンは椅子《いす》の上で、動けない身体をなんとか動かそうともがいた。椅子の背に、両腕をくくりつけている手錠《てじょう》が虚《むな》しく音を立てる。もう八年も勤《つと》めた、慣《な》れた警衛兵詰《けいえいへいつ》め所《しょ》の拘置室《こうちしつ》。部屋《へや》の真ん中に置かれた椅子に固定され、彼は唇《くちびる》を噛《か》みしめて視線《しせん》だけを左右に這《は》わせた。ふたりの同僚《どうりょう》が、床にあぐらをかいて雑談《ざつだん》している。
「お前たち、ちゃんと見張《みは》ってろよ」
息を吐く。サリオンはゆっくりと、言葉《ことば》を吐き出した。
「……見つかったら、どんな罰《ばつ》を受けるか分からないぞ。隊長《たいちょう》は、ひどく虫の居所《いどころ》が悪いだろうからな」
「…………」
ふたりとも、すぐには答えてこなかった。
被疑者《ひぎしゃ》と無用《むよう》な会話をすることは禁《きん》じられている――が、その決まりのせいではあるまい。躊躇《ちゅうちょ》しながら、それでもなにか言うべきか迷っている同僚たちに、サリオンは苦笑《くしょう》した。
(はっきり態度《たいど》を決めたらいいじゃないか……? 手錠までかけて拘束《こうそく》して、ぼくを気遣《きづか》ってるふりなんてする必要はない)
声には出さなかったが、伝わらなかったことはないだろうと彼には思えた――同僚たちも、同じことを思い浮かべたに違いないのだから。
なんにしろ、そのひとりが言ってきたのは、ごく短い当たり前の一言だった。
「お前の立場ほどには悪くならないさ」
「……だろうね」
うめく。と、もうひとりが、さらに一歩|踏《ふ》み込んでこようとした。声には、心配する気配《けはい》が感じられないでもない。
「どうしてこんな馬鹿《ばか》げたことをしたんだ、サリオン」
ぐるりと前に回って、かがみ込んでくる。こちらの顔をのぞきながら、彼は続けた。
「……大量|殺戮《さつりく》の犯人《はんにん》になった子供に同情したからといって、それを逃《に》がそうなんて、正気《しょうき》の沙汰《さた》じゃない」
「しかも実際、あの娘、牢から逃げ出しちまった」
相棒《あいぼう》の調子に合わせて、もうひとりも不安げに声を震《ふる》わせる。
「あれは、お前の責任《せきにん》だとは言えないが……犯人を逃がした責任をなすりつけるために、あの隊長《たいちょう》、全部お前の仕業《しわざ》だってことにしかねないぞ」
「今なら、まだ間に合うかもしれない」
こちらがなにを言う隙《すき》もなく――
目の前に差し出されたのは、鍵《かぎ》だった。手錠の鍵。
その小さな金属片《きんぞくへん》を、よりはっきりとこちらに見えるよう近づけて、同僚は……いや、つい先刻まで同僚だった男は、あとを続けた。
「お前があの娘を捕《と》らえるんだ。それしかないだろう。あの娘も、お前には少し気を許すかもしれないし――」
「そう言えと、隊長に含《ふく》まれたのかPし
サリオンは押《お》し殺《ころ》した声で、それだけ聞き返した。目の前をちらついていた鍵が、手品のように――同僚の手の中に消える。
「わざわざ自分から孤立《こりつ》するようなことはするなよ、サリオン」
彼は、ため息をついたようだった。踏み込んできた分を退《ひ》いて、声も多少|冷《ひ》ややかになっている。
「俺《おれ》たちだって、仲間を拘束《こうそく》するようなことはしたくない……お前は、将来《しょうらい》を棒《ぼう》に振《ふ》ろうとしているんだぞ?」
「未来《みらい》を失《うしな》うよりはマシだ」
サリオンは即答《そくとう》した。同僚の顔が、怪訝《けげん》そうに歪《ゆが》むのを見返しながら――
「ぐるぐると……同じ場所を回るよりは……なんだっていい」
「サリオン」
「回りたい奴《やつ》は回っていればいい。ぼくは、もう、同じことは……嫌《いや》だ」
「サリオン――」
「聞いてくれ」
サリオンは、顔を上げた。鍵を手にしたまま、同僚が顔を近づけてくる。
その瞬間《しゅんかん》を待っていた。身体を椅子に固定されたまま、できる限《かぎ》り足を跳《は》ね上げる。うまく足首が相手の首に絡《から》んでくれるかどうかは、半分以上、賭《かけ》だった。ブーツのつま先が警衛兵のえりに引っかかった幸運に感謝して、しゃにむに力を入れ、なんとか引き寄《よ》せる。
もがきながらサリオンは、同僚の首を両足で挟《はさ》み込んだ。声をあげて暴《あば》れる相手を足だけで押さえつけ、頸動脈《けいどうみゃく》を締《し》め上げるために股《また》に渾身《こんしん》の力を込める。警衛兵の悲鳴《ひめい》が――うめき声に変わる頃《ころ》、もうひとりの同僚が驚愕《きょうがく》の声をあげた。
「サリオン、お払則いい加減《かげん》に――」
それ以降は叫《さけ》ばずに、警棒《けいぼう》を抜《ぬ》いて打ちかかってくる。それを、真正面に見つめながら――
サリオンは首を縮《ちぢ》め、歯を食いしばった。避《さ》けようがない。食《く》らうしかない。
警棒の一撃《いちげき》は、椅子ごと彼を床に転倒《てんとう》させた。警棒で打たれ、そして床に落下する二度の衝撃《しょうげき》の中で、サリオンが意識《いしき》したのはとにかく、同僚の首を絞《し》めている足を外してはならないということだけだった。失敗《しっぱい》は言《い》い訳《わけ》にならない。なにもできないことを言い訳にはできない。
……フリウ・ハリスコーを助けたいのならば。
倒《たお》れた彼をさらに打ち据《す》える警棒には、それほどの力は入っていなかった。躊躇《ためら》いがあるのと、倒れた分、低い位置にいる自分を打ちにくくなっているせいだろう。意識を失わないために頭をかばおうと、うつ伏《ぶ》せになりながら、サリオンはきつく目を閉《と》じた。声は出さない。が、意識の中に叫びが響《ひび》く。
(ぼくはどうしようもない……つまらない男だよ、フリウ・ハリスコー)
気道を絞められ、空気を求めてあえぐ警衛兵の爪《つめ》が、彼の身体のあちこちをかきむしるのを感じていた。服の上からでは人間の――特に男の爪などさほど通りはしないが。その懸命《けんめい》さが、肌《はだ》を粟立《あわだ》たせる。
(それでも……理由は分からない。君に関《かか》わってしまったんだ)
肩を、背中を打つ警棒の打突《だとつ》も、気がつけばそれほど感じなくなっていた。気を失いかけているのかもしれない。夢中《むちゅう》になりすぎたのかもしれない。サリオンは笑《え》みを浮かべた。意識の闇《やみ》にあふれ出す言葉《ことば》が多すぎて、身体の外部にある苦痛などなにも感じない。
(でも君だって特別な子供なんかじゃない。ただの……ただの泣く子供だ。ぼくと同じ。ただ泣くだけの……)
泣くしかない。
償《つぐな》うことのできないものを背負《せお》ってしまった。あとはなにもできない。泣くしかない。泣いて死ぬか、あるいは――
泣きながら、生きていくことしか。
サリオンは目を開けた。
足の間にいる同僚は、もう動かず、ぐったりと手足を伸《の》ばしている。口から大量のよだれを垂《た》らして、完全に意識《いしき》を失っていた。サリオンはゆっくりとした動作《どうさ》で、失神《しつしん》した男の身体を解放《かいほう》すると、床から……椅子から立ち上がった。
「お、お前……」
もうこちらに打ちかかることも忘れた警衛兵が、顔面を蒼白《そうはく》にして、後ずさりする。警棒で、こちらを指《さ》し示《しめ》しながら、
「て、手錠……が、どうして外れてるんだよ?」
「…………?」
自分でも分からないことを問われて、サリオンは右手をあげた。手錠は確かに外れていた。ずたずたに裂《さ》けた手首から流れる血が、関節が外れて奇妙《きみょう》な方向に曲がっている親指を伝って、空間に赤い糸を垂《た》らしている。
「うわあああっ!」
なにかに恐怖《きょうふ》を感じたのだろう――
同僚が、警棒を構《かま》えて突進《とっしん》してくる。サリオンは半歩外に踏み出して避《よ》けながら、飛び込んでくる同僚の腕《うで》に左腕を絡《から》めた。そのまま、関節を取って敵の身体を床に叩《たた》きつける。
警衛兵として、ごく普通に訓練《くんれん》内容に入っている取《と》り押《お》さえ術《じゅつ》に過《す》ぎないが、訓練以外でそれを使ったのはほとんど初めてだった。
(どうしようもなく泣きながら生きて……そして……たまに……)
身体《からだ》の下に押さえつけた同僚《どうりょう》があげる悲鳴《ひめい》を、ぼんやりと聞きながら、サリオンは少女に呼びかけていた。
(たまに、泣くことを忘れるんだ、フリウ・ハリスコー……)
「ぼくは君に……会いに行くよ、これから。だから――」
サリオンは独《ひと》りごちると、折れた腕を抱《かか》えショックで痙攣《けいれん》している同僚から、扉《とびら》を開ける鍵と警棒《けいぼう》を取り上げて――そして、ようやく復活《ふっかつ》してきた身体の痛《いた》みに顔をしかめた。
「思うにだな」
人精霊《じんせいれい》は、まったく理解《りかい》できないというように眉間《みけん》にしわを寄《よ》せ、
「お前さん、なにがしたいんだ?」
「なにって……」
本当に、どうしたいのだろう。
自問《じもん》して、フリウは頭を抱えた。もう立ち上がることもできないほど疲《つか》れ果《は》て、路地《ろじ》の陰《かげ》にうずくまって。なにができるというのか。とりあえずは――
彼女は顔を上げた。あたりを見回す。
(どのくらい歩いてきたのかしら……)
それすら、ろくに見当がついていなかった。ふと気がつけば、ごみに埋《う》もれた細い裏道《うらみち》の中に倒《たお》れ込《こ》んでいた。眠っていたのだろう――起き上がろうとしても身体が自由にならず、中身のないゴミ箱に取りすがって、なんとかその場に座《すわ》る姿勢《しせい》になった。息はしている。頭の中にはなにも浮かばない。どこも痛まず、思い出そうとすれば、幼《おさな》い頃《ころ》に覚えた歌を思い出すこともできる。
ごく、平静《へいせい》だった。
瞬《まばた》きをする。フリウは眼帯《がんたい》に覆《おお》われた左眼に指先で触《ふ》れると、右眼だけで人精霊を見上げた。青い虫のような――と言えばスィリーは怒《いか》り狂《くる》うだろうが――人影《ひとかげ》は、何事にも束縛《そくばく》されることなく、虚空《こくう》に浮いている。
それは腕組《うでぐ》みし、しかめっ面《つら》で、説教《せっきょう》のポーズを作っていた。よほどの子供、それこそ幼児にでも言って聞かせるようにゆっくりと、言ってくる。
「牢《ろう》に入れられた。で脱獄《だつごく》した。これはまあ、納得《なっとく》できるが――」
「できるんだ」
「だって当然のことだろう」
「そう……かなぁ」
「自分でしておいて疑問《ぎもん》を持つな。なんで俺《おれ》がお前のしたことを正当化してやらにゃならんのだ」
「正しいこと……なんてしてないよ、あたし」
フリウはうめいて、両腕を股《また》の間に挟《はさ》み込み、背中を丸めてうつむいた。散らばっているのは空《から》の容器《ようき》や瓶《びん》ばかりで、都合《つごう》の良い答えをもたらしてくれそうなものも見あたらない。ごみは道中に広がっていたが、もとは一角のごみ捨て場に集めてあったらしい。それが回収されず、あふれて、いつの間にかこうなったのだろう――こうなってもまだ、捨てにくる者がいるのだろうか? どうでもいい疑問ではあったが、フリウには気になって仕方《しかた》なかった。一目見て、ここにはもう捨てられないと気づくことはなかったのだろうか……気づいていてなお、あふれたごみの上にごみを重ねるというのなら、それは。
それは。
続く言葉を思いつかずに、彼女はかぶりを振った。
(スィリーなら、なにかうまいことを言うのかもね)
首を傾《かし》げて左右のバランスを崩《くず》し、ゆったりと時計回りに回転を始めている人精霊を見やって、苦笑《くしょう》する。人精霊はうまく言うだろう。そしてすべてを無意味なものにするだろう。彼の言うことはすべて無意味。言葉《ことば》にされた瞬間に、なにもかも無価値《むかち》になる。
「あたし……」
なにを言うつもりもなかったが――ため息は自然と言葉になった。彼女は気にせずに、あとを続けた。どうせ言葉は無価値なものでしかない。
「やっぱり、もどったほうがいいのかな。あの牢屋《ろうや》にもどってさ。それで」
「うむ。道徳的《どうとくてき》だな」
「もどったら……あたし、どうなるんだろ」
「そりゃ、牢獄だから死刑《しけい》だろう。経済的《けいざいてき》だからな」
「そうなんだ。でも、それでも、そのほうがいいの……かな」
「知らん。しかし手間《てま》は省《はぶ》ける」
「…………」
なにも答えようがないが。胸の中に疑問だけは浮かんでくる。
「死ぬなんてことさえ、手間を省くって程度《ていど》の意味《いみ》しかないのならさ……あたし、どうしたらいいのか分からないよ」
「うん?」
「あたしのしたことっていうのはさ。あんなに……たくさん……村の……」
嘔吐感《おうとかん》に声が詰まるが、吐き気そのものにも、ここ数日ですっかり慣《な》れていた。喉《のど》の奥《おく》がなま暖《あたた》かい空気で押《お》し広げられるそのままに、続ける。
「たくさんの人を、死なせちゃったんだよ、あたしのせいで」
「そだな」
あっさりと、人精霊。
あまりに素《そ》っ気《け》ない声に、さすがに吐き気も消えさる――頭に血が上るに任《まか》せて、フリウは声を荒《あら》らげた。
「なに、それ」
「どれ?」
きょとんとしているスィリーに向かって立ち上がろうとするが、衰弱《すいじゃく》と疲労《ひろう》とでどうしようもない。その場に座ったまま、フリウは視線《しせん》だけ人精霊に突《つ》き刺《さ》した。
「なんでそんな気楽なのよ。人が、こんな、どうしようもなくて――」
「そうは言っても、今さら誰が生き返るってもんでもなし、仕方《しかた》ないだろうと思うが」
「だからって!」
とうとう叫《さけ》びだしてから、その先が再び、ため息に紛《まぎ》れて消える。
「そうだね……あんたなんかに怒《おこ》ったって意味《いみ》ないし……人に怒れるような立場でもないよね」
どうにもならないことだ。
まさしく、どうしようもないことだった。改《あらた》めて自覚《じかく》して、嘔吐感を通り越《こ》した絶望《ぜつぼう》が目の前をくまなく塗《ぬ》りつぶしていく。それは我《われ》知らず顔面を覆《おお》っていた自分の手のひらに過《す》ぎなかったが、それをどかすことはできそうになかった。
(どうしよう……)
考えれば考えるほど、それは底のない淵《ふち》なのだと思い知らされる。
(あの時、何人死んじゃったんだろう……人数なんて関係ないのかもしれないけど。ひとりが許してくれないのなら、千人に恨《うら》まれたって同じだよね。きっとあたし、どうしようもなく間違《まちが》ったことをしたんだ。でもあの時は、どうしたらいいのか分からなかった)
殺されたところで償《つぐな》えない。誰《だれ》がどんな裁《さば》きを下したところで、もう許されることはないのだろう。
しかも、それすらを拒《こば》んで逃げ出してしまった。
「……なんで逃げたんだろ」
ふと、言葉が漏《も》れる。フリウは繰り返すように、独りごちた。
「怖《こわ》かったわけじゃ、ないよ。というより、なにがなんだか分からなかった。でもなんで逃げたんだろう。じっとしてれば良かったのに。そうすれば……そうだね、手間が省けたんだろうにね」
「まあ、誰も彼もが賢《かしこ》く振《ふ》る舞《ま》えるというわけでもねっからな」
余計なスィリーの一言は聞き流して――ついでに、耳に入ろうとしていた物音まで聞き流そうとしていたことに気づき、我《われ》に返る。
痛《いた》いほどに背筋《せすじ》が引きつるのを感じた。振り向く。ごみの路地《ろじ》の行き先は、行き止まりだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。積み上げられたごみ山の上から、こちらを見下ろす人影《ひとかげ》があった。
すぐに分かる。警衛兵《けいえいへい》の制服《せいふく》だった。手には警棒を構《かま》えている。無表情《むひょうじょう》に、目にも口にも、なにも表さず、そこにいた。月光が後ろから拒絶《きょぜつ》した平面を形作っている。人ではなく、ただの壁《かべ》のように。
それがなにを意味する表情なのか、とっさにフリウは判断《はんだん》しかねた。ただ反射的《はんしゃてき》に、身体《からだ》は立ち上がろうとしていた。足が地面を突き放そうとしていた。
本能が、逃げだそうとしている。
(なんで逃げるの……?)
分からないまま、彼女は立ち上がっていた。それは抗《あらが》いようのない衝動《しょうどう》だった。疲《つか》れ切って動けないはずの身体を跳《は》ねさせるほどの――
警衛兵が口にくわえているなにかを吹《ふ》いた。甲高《かんだか》い音が夜の道に響《ひび》き渡《わた》り、空気も静謐《せいひつ》であった路地裏《ろじうら》に、俄《にわか》に人の気配《けはい》が増える。駆け込もうとしていた路地の出口から、そして呼《よ》び子《こ》を鳴らした警衛兵の背後《はいご》から、次々と似たような格好の男たちが姿《すがた》を見せた。全員で何人いるのかは、正直分からなかった。だが、数人という程度《ていど》ではない。まだほかに隠れている者もいそうな気配ではあった。
あっという間に逃げ場を失《うしな》い、フリウは身体に腕を巻き付けて左右を見回した。前後に上下を加えても同じことだったろうが。完全に取り囲まれている。
「あー……」
つぶやいたのは、スィリーだった。
「つまり俺が言いたいのはだ、小娘《こむすめ》。脱獄するからには捕《つか》まらんほうがいいぞ、ってえことで……あまりに当たり前すぎて小娘が忘れてるのではないかと思えたんでな。まあいいか。忘れてくれ」
「……うん」
警衛兵たちは、なにやら隊形《たいけい》のようなものを組んで、その中のひとり――太った中年の男が、物々《ものもの》しく咳払《せきばら》いしてから声をあげてくる。その男が最年長というわけではなかったが、最も偉《えら》ぶっているのは疑《うたが》いなかった。
「無駄《むだ》な抵抗《ていこう》はやめるんだ、フリウ・ハリスコー」
「いやなんの抵抗もしてねっけど」
うめいたのは人精霊だったが、男はこちらに対して続ける。
「つまらん抗弁《こうべん》も聞きたくはないものだ。それは君の立場を悪くするだけで、なんの得もないと言わせてもらう」
「あたしは――」
「動くな!」
男の声は、唐突《とうとつ》に怒声《どせい》に切り替《か》わった。
「妙《みょう》な動きを見せれば、重大な公務執行妨害《こうむしっこうぼうがい》として、緊急的《きんきゅうてき》な措置《そち》を取る。君にかけられた罪状《ざいじょう》は、それほど重いものだ。その自覚がないわけではなかろうね?」
「…………」
出かけた息も押し込めて、フリウはそのまま立ち尽くした。整列した警官《けいかん》たちの手にある警棒が目につく。
「君のこの一週間の態度《たいど》は、従順《じゅうじゅん》に反省し、好ましいものだったと報告《ほうこく》を受けている……非常に残念だ。君は自《みずか》ら、自分の罪を上塗《うわぬ》りしてしまった。非常に残念だ」
彼は繰《く》り返した。
「君はわたしが知る限《かぎ》り、最も凶悪《きょうあく》な犯罪《はんざい》を犯《おか》した人間だ。なんの罪もない村人を理不尽《りふじん》に虐殺《ぎゃくさつ》し、村を破壊《はかい》し、そしてなにより……黒衣《こくい》を殺害《さつがい》した」
「…………」
息を吸《す》うだけ。気が遠くなるような、しかし短い時間を、フリウは肺に送り込んだ空気の量で計《はか》っていた。精一杯《せいいっぱい》ふくらんだ肺は、肋骨《ろっこつ》の中で静かに破裂《はれつ》しようとしている。内臓《ないぞう》が破れるより先に、彼女は息を吐き出した。それは沈黙《ちんもく》の時間だった。
すぐに、男があとを続ける。
「君が救《すく》われる方法はただひとつ。裁きを受けることだ――」
「処刑《しょけい》なんてものは、ただの処刑だ。救われる方法なんかなにもありはしないよ、フリウ」
と。
それを発したのは、警衛兵のひとりだった。ざわ、と怪訝《けげん》そうに、警衛兵たちが互《たが》いの顔を見回す。
その中で、身じろぎひとつせず、誰とも顔を見合わせなかった者がいる。自然と、その警衛兵だけが群《む》れの中から孤立《こりつ》した。
彼は――
「どうやってここに――」
うめき声をあげる男を無視《むし》して。
現れたのは、サリオンだった。
特になにをするわけでもない。人垣《ひとがき》の向こうから、そのまま間を通り抜《ぬ》けようとする。すれ違《ちが》う瞬間《しゅんかん》に、彼がうめくように発した声は、それまで得意《とくい》げに話していた男の顔色を変えさせた。
「詰《つ》め所《しょ》に見張《みは》りが三人以上残っていたら、逃げられなかったでしょうね。でも、お笑いだ……そんな女の子ひとりを、辺境警衛兵《へんきょうけいえいへい》が総出《そうで》で追い立てて。そんなに怖かったんですか」
男が、すぐさま言い返す。
「彼女は異常《いじょう》な能力《のうりょく》で大量虐殺を行った凶暴犯だ。総員《そういん》出動は妥当《だとう》だろう。やはり君は、冷静《れいせい》な判断力《はんだんりょく》を失っているようだな」
サリオンはただ、鼻の角度を変えただけだった。そう見えた。どうやら、鼻で笑ったらしい。かすれた声音《こわね》で、つぶやくのが聞こえてくる。
「ぼくはとても……クリアーですよ、隊長。とても、ね」
彼はその男、隊長を押しのけるように前に出ると、そのまま、こちらに近づいてきた。周《まわ》りの警衛兵たちは一歩も動けず、ことの成り行きを注視《ちゅうし》している。サリオンはやがて、こちらのほんの数歩手前で立ち止まって、眉《まゆ》を下ろした。
なにか考え込むように一度、上下の唇《くちびる》をこすりあわせてから、言ってくる。
「ぼくは君を死なせることなんてできない。君が死を選ぶのなら、それを見過ごすこともできない」
「そんな!……なんで――」
(なんで、あんたなんかが)
無関係《むかんけい》の警衛兵などが、そんなことを言うのか。
そこまで叫ぶよりも早く、彼はあとを続けてきた。
「聞かせたいことがある。いいかい、フリウ。なにを思ったっていいけど、この場では反論《はんろん》は要《い》らない。ただ聞いて欲《ほ》しい」
前に聞いた彼の声と変わらない、どこか弱々しいが――だが決定的に違う、断固《だんこ》とした口調《くちょう》で、
「フリウ。君の両親を死なせたのは、このぼくだ」
(え……?)
彼の言い出したことは、どう考えたところで、突拍子《とっぴょうし》もないものだった。意味《いみ》を捉《とら》えそこねて、めまいを覚える。
その揺《ゆ》れる意識《いしき》の中で、彼の声は続く。
「八年前、君が精霊を暴走《ぼうそう》させた時……立ち会っていた警衛兵のひとりがぼくだ。覚えてはいないかもしれないけれど。あの事故《じこ》が起きて、暴れる破壊《はかい》精霊を消すためには、君を殺《ころ》すしかないと、ぼくは判断《はんだん》した」
八年前の記憶《きおく》。そんなものは、曖昧《あいまい》な印象《いんしょう》でしかない。あの凄惨《せいさん》な結果を把握《はあく》して覚えておくには、自分は幼《おさな》すぎたのだろう。後になり、義父の話や、そして村人たちの遠巻《とおま》きな視線《しせん》から、それを推測《すいそく》するしかなかった。
「君の両親が、それに反対した。でも破壊精霊は村を蹂躙《じゅうりん》して、もう手がつけられない状態《じょうたい》だった。いったんは災害源《さいがいげん》――君だ――から離《はな》れるために村はずれまで逃《に》げたものの、急いでなんとかしなければならないと思った……ハリスコー夫妻《ふさい》と押《お》し問答《もんどう》になって、ぼくは彼らに言ったんだ。周りを見ろ、何人も死んでる、これをこのまま放置《ほうち》して、あなたたちは責任《せきにん》が取れるのか。ってね」
サリオンはそう言うと、ひどく皮肉《ひにく》に笑ってみせた。目だけが笑わない、笑えない苦笑《くしょう》。それは泣き顔にも似ている。
考えてみればそれは、あの日、サリオンと出会った――いや再会したということになるのか?――時に見た表情《ひょうじょう》と同じだった。彼はずっとその表情を見せていた……
今もまた、そのまま続ける。
「卑怯《ひきょう》なことを言ったものだと思うよ。彼らは承諾《しょうだく》した。ぼくは彼らを押しのけて、君のところに行った。君の頭蓋《ずがい》を警棒で一撃《いちげき》するためにね。でも、結局狙《けっきょくねら》いが外れて、君は死ななかった。気絶《きぜつ》したんだ。それで、精霊は消えた」
彼から目をそらして、フリウは空を見上げた。こんな時に、話題を壊《こわ》してくれそうな人精霊の姿《すがた》がどうしてか見あたらない。どこかに逃げたのか。もともと、あの人精霊は自分には無関係な傍観者《ぼうかんしゃ》に過《す》ぎないのだから、いつどこで消えたとしても不思議《ふしぎ》はないが。
視線をもどすと、サリオンはそこにいた。話は変わらず、続いている。
「不謹慎《ふきんしん》かもしれないけれど、うまくいったと思ったよ。君を殺さずに済《す》んだ。そしてハリスコー夫妻のもとにもどったら、彼らはいなくなっていた。崖《がけ》から身を投げてたんだ」
彼はもう笑っていなかった。笑《え》みでもない、怒《いか》りでもない、悲しみでもない、無表情でもない、すがるでもない、押しつけるでもない――
「どう言ったらいいんだろうね。ぼくは誰も殺さなかった。それは事実だ。でも、どう言ったらいいんだろうね……」
――すべてを失《うしな》った顔だった――
「その場に立ち会った警衛兵《けいえいへい》で、生き残ったのはぼくだけだった。ぼくは、それらしく報告書《ほうこくしょ》を作ったよ。そして、八年が経《た》った。あの日のことを何度も何度も悪夢《あくむ》に見ながら、八年間が」
――が、なぜそれを失ったのか、悟《さと》っている顔でもあった。それはどこに表れていたのか、眼《め》か、声か、仕草《しぐさ》か、フリウには分からなかったが。
あるいは確証《かくしょう》は、彼自身ではなく、その背後《はいご》にいる警衛兵たちにあったのかもしれない。サリオンはもう、そちらを見もしない。
「フリウ……また、大勢《おおぜい》の犠牲者《ぎせいしゃ》が出た。それは君の力がもたらしたことだ。この事実は変えられない。でも、君だけでやったわけじゃない。ぼくだって、一端《いったん》を担《かつ》いでいたには違《ちが》いないんだ。ぼくらは結局、同じ立場にいるんだよ。君と同じだ。ぼくももう、ここにはいられない」
そうつぶやいて、彼は、左右を視線で示《しめ》した。彼が指《さ》したのは、周囲を取り囲《かこ》んでいる警衛兵たちだろう――彼のいる場所、彼のいた場所。彼はそこから現れて、今はそこにいない。
さらに近づこうとしてくるサリオンは、彼を見つめる奇異《きい》の眼差《まなざ》し、仲間だった者たちの視線など存在《そんざい》もしていないかのように、ただこちらだけを見つめていた。彼が手を差《さ》し出してきている。なにがあったのかは知らないが、傷《きず》だらけの右手を。ずたずたに裂《さ》かれて、肉がえぐれ、血の固まったその指先は震《ふる》えていた。
顔を見る。なにを見たところで、心の内など分からない。分かるはずがない。彼の意図《いと》など分からない。彼を信頼《しんらい》できる材料などなにひとつない。確かなものなどなにもない。
彼の顔を見る。
(あるはずが……ないじゃんか)
たとえ八年間かけて築《きず》き上げたものであっても、たった数時間で崩《くず》れ去《さ》る。それを見たばかりではないか? それを――
「それを……そんな、これだけのことで作れっていうの? そんな、話だけでさ」
自分のつぶやきは、誰にも理解《りかい》できたはずはない。
少なくともフリウは、そう思いながら声をあげた。
「そんなの無理《むり》だよ……あんたは父さんじゃないもの。ここはあたしの村じゃないもの」
「そうだ。君はこれから、君の知らない場所に行くんだ」
サリオンの表情は変わらなかった。じっと、こちらを見据《みす》えたまま、そして傷だらけの手を差し出したまま、
「ぼくがいっしょに行く。なにが見つかるのかは分からないけど。でも……行く。ぼくらは多分、ふたりでひとつの輪《わ》の上にいるんだろう。そんな気がする」
指の先は、やはり震えている。
彼が怯《おび》えているのかと、そう思ったのは数秒のことだった。そうでないことは、すぐに分かった。
触《ふ》れられることを待っているから、震えているのだ。
そんなことには根拠《こんきょ》がない。理性《りせい》が拒《こば》んでくるのを感じる。が、それを読みとったようにサリオンはすぐにあとを続けてきた。
「ぼくだって、なにを信じていいのかなんて分からない。君を信じていいのかどうかも分からない。でもねフリウ、信じるに値《あたい》しないことを信じる、それだけが本当の意味《いみ》で、信じるっていうことなんだとぼくは思う」
「待て――」
と。
それまで、呆気《あっけ》にとられて声も出せずにいた例の男――どうやら隊長《たいちょう》らしい――が、隙《すき》を見つけて前に出てきた。なにかに取り残されまいとしてか、どこか必死《ひっし》の口調《くちょう》で、言ってくる。
「行くだと?――サリオン、黙《だま》れ。どこに行けるというのだ? いいか、お前たちがともにいたいというのならいいだろう。ただし、牢《ろう》の中でだ」
「貴様《きさま》が黙れ」
振《ふ》り返ることもなく、視線《しせん》すらそらさずに、サリオンが告《つ》げる。
「フリウを恐《おそ》れている限《かぎ》り、お前らにはなにもさせない。消えろ」
「サリオン、お前は――」
言《い》い争《あらそ》いを聞きながら、フリウは頭の後ろに手をやった。そこには眼帯《がんたい》の結《むす》び目《め》がある。
手間を省くならば……なにもかもやめてしまったほうがいい。
だが。
「退《さ》がって!」
フリウは叫《さけ》ぶと、手早く眼帯を外した。あらわになった水晶眼《すいしょうがん》を見て、警衛兵の何人かが小さな悲鳴をあげ、後退《こうたい》するのが見える。身体《からだ》のあちこちの傷がずしりと痛《いた》みを増すのを感じながら、フリウは左眼の瞳《ひとみ》に、指先を突《つ》きつけた。
そして、続ける。
「水晶眼は不滅《ふめつ》なんだって。あたしが死んでも残る。ずっと。でも、だからって指で突いても無事《ぶじ》だってわけじゃない。この眼ね……壊《こわ》すと、中にいる精霊《せいれい》が出てくるの」
その言葉《ことば》の意味を理解した者が、どれだけいたかは分からない。だが少なくとも気圧《けお》されて、あえてこちらの警告《けいこく》に挑戦《ちょうせん》してこようとする警衛兵もいないようだった。サリオンはそれを分かっているというように、特にあたりに警戒《けいかい》もせず、こちらの後ろに回って、そっと肩《かた》に手をかけてくる。
あえて突撃《とつげき》の命令を出そうとしているように見えたのは、隊長だけだった。その隊長に向かって、顔を突き出す。実際に殴《なぐ》られたように、男はわずかにのけぞった。釘《くぎ》を刺《さ》すつもりで、フリウはゆっくりと続けた。
「……封《ふう》じられていた精霊が、門を通らずに外へ出る時、ものすごいエネルギーを出すのは知ってる? 父さんが言ってた。あたしの目が潰《つぶ》れたりしたら、大爆発《だいばくはつ》が起きて山が一個なくなっちゃうって。だから転ぶなって……たまに転んでたけどさ」
もう誰も、動こうとしない。
「道を開けて」
彼女が告げると、あっさりと人の群《む》れが割《わ》れた。夜の道が開かれ、警衛兵の壁《かべ》の中から外へ、続く道ができる。
こんなにも、あっさりと。
サリオンの手で背中を押《お》され、その道を通っていこうとする。と、目の前にまた唐突《とうとつ》に、青い小さな人影《ひとかげ》が現れた。
「よお」
小さな手をあげて、人精霊が挨拶《あいさつ》してくる。
「……どこ行ってたの?」
聞くと、スィリーはごく気楽に上を指さした。
「あー。なにやら間抜《まぬ》けな役人どもが、上空を包囲《ほうい》することを忘れてるようなんでそっちに退避《たいひ》したんだが、それ以上に間抜けな小娘《こむすめ》がなぜかついてこんようなので、もどってきたところだが」
「あっそ」
「しかしもどってみると、役人どもはさらに上をいく間抜けだったようだぁな。なんでこいつら、堂々と逃《に》げる犯人《はんにん》を捕《つか》まえようともしねえんだ? 特赦《とくしゃ》か? 記念日か? どいつの赤《あか》ん坊《ぼう》が初めて『パパ』とかしゃべるようになったんだ?」
「…………」
振り返る。
警衛兵たちはずらりと並んで、こちらを見ている。たいした距離《きょり》ではない。全員が、こちらの視線を避《さ》けて身体を斜《なな》めにしたり、下を向いたり、あるいは完全に背を向けたりしていのが分かるほどだった。
彼らはこのまま家に帰るのだろう。なんとはなしに、フリウはそれを意識《いしき》した。彼らはこのまま帰る。そして、きわどかった今夜の捕《と》り物《もの》を思い出話にでもして、また明日から日常を過ごす。
隊長だけが、凄味《すごみ》を増した眼でこちらをにらみつけてきていた。だが、やはりその場から一歩も動いてはいない。その眼には怒《いか》りとともに、別のものが同居《どうきょ》しているのが見て取れる。恐怖と、そしてもうじきそれから解放《かいほう》される安堵《あんど》と。
もうじき――自分が去れば。
刹那《せつな》。
フリウは念糸《ねんし》を解《と》き放《はな》った。拳《こぶし》を固める隊長の手首へと、思念《しねん》の糸が絡《から》みつく。同時に奇怪《きかい》な向きへと曲がろうとするその腕を押さえて、彼の喉《のど》から悲鳴《ひめい》がほとばしった。金切《かなき》り声《ごえ》をあげて、そのまま地面に倒《たお》れる。
「フリウ!」
サリオンが、慌《あわ》てて叫んだ。抱きかかえるようにして、制止《せいし》しようとしてくる。
「やめるんだ、いきなりなにを」
「畜生《ちくしょう》!」
フリウはサリオンの腕には逆《さか》らわず、ただ念糸に力を入れた。
「なんで怖《こわ》がるのさ――そんなことするわけがないんじゃんか――なんで怖がるのさ――!」
「フリウ! そんなことをしてる場合じゃない、フリウ!」
サリオンに引きずられながら、罵《ののし》り続ける――警衛兵たちの並ぶ路地から離れ、夜の闇《やみ》に紛《まぎ》れ、街の中へと逃げていく。やがて念糸も途切《とぎ》れ、隊長の苦悶《くもん》の叫びも遠く聞こえなくなってくる。が。
警衛兵たちは最後まで呆然《ぼうぜん》とこちらを見ながら、誰ひとりとして追いかけてこようとはしなかった。
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第三章 タイト・スクィーズ
(旅の入り口)
「現実的なルートは、アスカラナンを目指すことだと思う……その国境《こっきょう》が一番近いからね」
サリオンの言葉《ことば》を聞きながら、フリウは目の前に広げられた地図帳《ちずちょう》をじっと見下ろしていた――地図帳の上に置かれた彼の指先は、恐《おそ》らく自分たちの現在位置を示しているのだろう。包帯《ほうたい》に覆《おお》われた右手ではなく、左手の人差し指である。
見たこともなかった自分のいる国の形を見て、フリウはなんとはなしに顔をしかめた。
その警衛兵《けいえいへい》は……いや、彼はもう警衛兵の格好はしていなかったが、それでもまだ職業的《しょくぎょうてき》な空気を捨て去ることができているわけではない。とまれ、サリオンはあとを続けた。
「国境|越《ご》えは楽なことではないけれど、結局《けっきょく》はそれしかないと思う。正規《せいき》の手続きなしに、隣国《りんごく》に入るんだ」
彼が声をひそめたのは、宿にいる、ほかの客を気にしてのことだろう。彼は律儀《りちぎ》に個室を二|部屋《へや》も取って、しかも彼がフリウの部屋に話しに来ることも、その逆も拒絶《きょぜつ》した。恐ろしく生真面目《きまじめ》なのか、ほかに理由があるのか知らないが、なんにしろ結局、そのせいで他人の耳を気にしながら、密出国《みつしゅっこく》の話をこんな食堂でしなければならない。
(……変な人だよね、考えてみたらさ)
声に出さず、つぶやく。
(考えなくても、変な人だけど)
あの夜、街を脱出する手際《てぎわ》は素早《すばや》かった。警衛兵から逃《のが》れると、あらかじめ街の外に隠《かく》してあったらしい金と荷物《にもつ》だけを持ち、数日歩きづめに歩いて街を離《はな》れた。つまりは、彼はそれなりに脱出の準備をしていたということになる。彼についていくまま、この街道《かいどう》の宿にたどり着き、そして一夜明けてようやく彼が地図帳を見せてくれた。道中、彼がずっと眺《なが》めながらしかめ面《つら》で思案し、見せてくれといくら言っても応じてくれなかった地図帳である。
そのサリオンの出した結論《けつろん》というのが――先ほどの言葉であるらしい。
フリウは、小さく息をついた。
「あのさ」
「ん?」
聞き返してくる彼に、聞く。
「アスカラナンて、なに?」
「知らないの?」
彼は驚《おどろ》いたようだった。よほど意外《いがい》なことだったのか、眉《まゆ》が片方だけ不均衡《ふきんこう》につり上がる。少なくとも、普通《ふつう》に驚いただけではこんな奇妙《きみょう》な顔は見せまい――フリウはそんなことを思いながら、彼の次の言葉を待った。
サリオンは地図帳の別のページを広げると、かなり大雑把《おおざっぱ》に描《えが》かれたものであるらしい、海に囲まれた、鷲《わし》のような形をした島を示《しめ》してみせた。
「これが、大陸全図だよ。帝国《ていこく》は、ここからここまで――」
と、その大陸とやらの下半分、かなりの面積を指でたどってから、その上にぽつんとへばりついた、小さな囲みのところで指先を止める。
「ここが、アスカラナン」
「随分《ずいぶん》、小さいんだね」
「そうだね。でもこの小さな国家が、経済力《けいざいりょく》で国外をも支配している」
また、次々と指の位置を変えて、サリオンは続けた。
「ディモンコースト、氷海リトホーフル、アルハラの旅一族が巡《めぐ》る土地、ほかにもいろいろ……全部を、商売上の契約《けいやく》でまとめてしまっているんだ。商人の連合でね。アスカラナンは、商人たちが支配しているんだよ。あとは寺院《じいん》がね」
「寺院?」
「古い寺院だよ。アルハラの聖地ジルオージラを発祥《はっしょう》とする。何十年か前まで、大陸支配者の任命権《にんめいけん》すら持っていたんだ。寺院の長《おさ》は神に祝福《しゅくふく》されているとかで不思議《ふしぎ》な力を持っていて……って別にそんなことはどうでもいいか。なんにしろ、帝国と対等の力を持っているのが、隣国アスカラナンってわけさ」
「ふうん」
フリウはうめくと、彼の指先をどけて、その小さな国の囲み――とはいっても、それが実際にどれくらいの広さなのかよくは分からなかったが――をのぞき込んだ。確かに、アスカラナンと書いてある。
そして、視線《しせん》をほんの少しずらすだけで、地図の別の場所に記《しる》されている、別の文字が瞳《ひとみ》に映《うつ》った。帝国の、東端《とうたん》。
イシィカルリシア・ハイエンド。
地図の上では、ただの丸い点でしかない帝都《ていと》。帝国の中枢《ちゅうすう》であり、帝国そのものでもある……名前しか知らないが。
と、サリオンの声で、フリウは我《われ》に返った。
「問題は、路銀《ろぎん》なんだ」
「え?」
聞き返す。彼は重々しく吐息《といき》すると、地図帳を閉《と》じて鞄《かばん》にしまい込んだ。
「途中《とちゅう》で立ち寄った村で、服とか移動《いどう》に必要なものとかを買ったろう? おかげですっからかんなんだ」
当たり前のように、彼が言うが――
フリウは、眼帯《がんたい》に覆われていない右眼を瞬《しばたた》いた。意味《いみ》がよく分からなかった。
「な、ならなんで、わざわざ個室を二部屋も取ったのよ?」
「いくらなんでも、君ひとり大部屋に泊《と》まらせるわけにはいかないじゃないか」
これもまた、サリオンは当たり前だとばかりに言ってきた。しばし考え込んで、もう一度聞き直す。
「……ふたりで部屋を取るっていうのは考えなかったの? そのほうが安かったと思うけど」
「…………」
彼の沈黙《ちんもく》は、感覚的《かんかくてき》には長引いた。それほどの時間ではなかったのだろうが。躊躇《ちゅうちょ》の印《しるし》だろう。ほおをかいて、わずかに視線をずらしながら言ってくる。
「こんなこと、話しにくいけど」
「う、うん」
「どう言ったらいいのかな。その、女の子のにおいがね、残ってる部屋で眠《ねむ》ろうとすると……」
彼は言葉を探してさまよった後《のち》に、こちらを見やってあとを続けた。
「うなされるんだ。ひどく」
「へ?」
「自分が寝る部屋でなくても、部屋にしばらくふたりきりにされたりしたあとでもね。部屋にもどって眠る時に、なんだか……具合《ぐあい》が悪くなる」
「なにそれ。病気?」
そうとしか聞けずに、そうと聞く。フリウはまじまじと、彼の顔を見やった。冗談《じょうだん》を言っているようには見えない。困惑《こんわく》して顔を伏《ふ》せ、聞き取りづらいうめき声を発してくる。
「うう……そうかもしれない」
「今までも、ずっとふたりだったじゃない」
「普段《ふだん》はそれほどでもないんだけど、とにかく閉鎖《へいさ》されたところにふたりきりにされたりするとね。悪くなるみたいなんだ」
語る彼の顔色は悪く、ひらたく言えば、仮病《けびょう》を使ってなにかを休もうとする子供にそっくりな様子《ようす》ではあった。もっともサリオンの言っていることが、嘘《うそ》だと思えたわけでもなかったのだが。
フリウはゆっくりと、聞いてみた。
「恋人《こいびと》とか、いなかったの?」
「いたこともあるけど、長続きしなかった。当たり前だけどね」
と肩《かた》を落として、ぐったりと言ってくるサリオンを見つめ、フリウはうめいた。胸中で、(……やっぱり、変な人だ)
断定《だんてい》する。
彼は軽くかぶりを振ると、話題を変えたかったのか、やや焦《あせ》ったような口調《くちょう》で言葉《ことば》を|被せてきた。
「とにかく、ぼくの考えとしてはだ。ここからちょっと離《はな》れたところなんだけど、ぼくの従妹《かぶいとこ》の嫁《とつ》ぎ先《さき》があるんだ。大きな家でね。金を借りられると思う。北へ行くのなら通り道になるし……」
「…………」
そのことに対して、フリウはなにかを言おうと口を開きかけた。自分でも、なにが言いたいのかは分からなかったが。結局《けっきょく》それは、分からないまま塞《ふさ》がざるを得なかった。頭上から目の前に、音もなく現れた小さな人精霊《じんせいれい》の登場によって。
「謹聴《きんちょう》」
自分の身体《からだ》よりも大きい、なにか真新しい紙切れを丸めて抱《かか》えながら、その人精霊は半眼《はんがん》で声をあげた。
「ふたりきりとかなんとか、ひたすら俺を人数に入れ忘《わす》れてるよーな不届《ふとど》きな連中に、俺がわざわざ耳寄《みみよ》りな情報《じょうほう》を持ってきて人生においてなにが大切なのか諭《さと》してやろうと思っている」
「人生はどうでもいいから、耳寄りな情報って?」
フリウが聞くと、スィリーはその紙をテーブルに落とした。
「若い連中はみんなそう言う。まあいいか。つまりだな。実に簡単《かんたん》なこった。短期で一発。ボロ儲《もう》け」
自然と広がったその紙の、一番大きく書かれた文字とまったく同じことを、人精霊は口にした。
「狩《か》りだ」
「でも、変な話じゃない?」
その紙切れ――狩りの参加者《さんかしゃ》を募《つの》る広告――を広げて掲《かか》げながら、フリウは首を傾《かし》げた。宿を出て、その広告に記《しる》されている村に向かって数時間、歩き続けながら同じような話題を繰《く》り返している。
「硝化《しょうか》の森からこんなに離《はな》れたところで、野良《のら》の精霊が出るなんて」
村に近づくにつれ、耕《たがや》された茶色の土が増えてくる。季節外《きせつがい》のため作物はないが、ひなびた蔦《つた》や雑草《ざっそう》がまばらに生《は》えて、冷たい風に身を縮《ちぢ》ませていた。
平地には馴染《なじ》みがなく、フリウはその平坦《へいたん》な道を靴《くつ》で踏《ふ》みしめ、空間の広さに視線《しせん》の落ち着く先を失っていた。見回すだけで、単調な風景がいくらでも広がっている。空は遠く、むやみに薄《うす》い。
「でも、村は実際に被害《ひがい》を受けているから、ハンターを募集《ぼしゅう》してるんだろう?」
と、サリオン。包帯を巻いた右手を抱《だ》くようにして、少し遅《おく》れてついてきている。
「む? なにやら俺の功績《こうせき》にケチをつける小娘の存在が看過《かんか》されようとしていないか?」
離れたところを飛んでいたスィリーが、音もなく近寄ってきて声をあげた。
「まあ良し。人生とはつまり、成功者への妬《ねた》みと失敗者への蔑《さげす》みに挟《はさ》まれた凡人《ぼんじん》どもの葛藤《かっとう》ゲームだ」
それは無視《むし》して、フリウは改めてその募集広告の文面を読み直した。小さく声に出して、「……急募《きゅうぼ》。村に危害《きがい》を及《およ》ぼす怪物《かいぶつ》を撃退《げきたい》した者に謝礼《しゃれい》を用意《ようい》。狩りへの参加者《さんかしゃ》は下記の日時までに村まで来られたし」
「精霊だとは限らないよ。大きな獣《けもの》とかかも」
あまり気乗りしないのか、暗い声音《こわね》でサリオンが言ってくる。
それは確かにあり得ることのように思えたため、フリウはうなずいた。が、
「どっちにしても、お金が入るのならいいじゃない」
「そうだけど。フリウ、君、本当に狩りなんてできるのか?」
「できるわよ。あたし、何年も狩りをしてたんだから……父さんとさ」
どうしても声がかすれるのは、自分でも分かっていた。広告を折《お》り畳《たた》んで、ポケットにねじ込む。
「それに、ハンターは何人も集めるみたいだし。どうせこんなところに迷い出てくる精霊なんて、たいしたやつじゃないでしょ」
「ん? 今なにやら俺のことを不当に誹謗《ひぼう》しなかったか?」
ふらふら近寄ってきてうめく人精霊を、やはり無視してフリウは続けた。
「ハンターが集まるとさ、結構面白《けっこうおもしろ》いんだよ。変な人ばっかりだから。セヘクの爺《じい》ちゃんって知ってる? 有名なハンターだったらしいんだけど、あたしが物心《ものごころ》ついた頃《ころ》には、もう引退してたの。変な爺ちゃんでさ。奥《おく》さんが何人もいたんだって。この世に男と女は同じ数いるっていうけど、きっとサリオンの恋人《こいびと》になる分は、爺ちゃんとこにいっちゃったんだろね」
「年齢《ねんれい》が全然|違《ちが》うじゃないか」
「……爺ちゃんの一番若い奥《おく》さん、サリオンより若いよ、きっと」
「げ」
どうやらそれはかなりの衝撃《しょうげき》であったらしく、相当に本気と思《おぼ》しいうめき声をあげてから、サリオンは言い直してきた。
「その爺さんは、今も元気なのかい?」
「ううん。死んじゃった」
「人生は、死ぬ前に、大切な儀式《ぎしき》がある――」
スィリーが物々しく腕組《うでぐ》みし、つぶやくのが聞こえてくる。
「葬式《そうしき》じゃないぞ。あきらめる、て儀式だ」
「爺ちゃんあきらめてなかったわよ。ひとりでも多く道連れにしてやるから斧《おの》買ってこいって騒《さわ》いでたんだから。ベッドから起きられなかったから誰《だれ》も相手にしてなかったけど、でも代《か》わりに棺桶《かんおけ》に斧入れてあげたっけ」
「……なるほど、変人だ」
妙《みょう》に納得《なっとく》した様子で、サリオンがうめく。誰も手入れすることがないため、すっかり苔《こけ》むした老人の墓のことを思い出しながら、フリウは嘆息《たんそく》した。
「絶対あれ、そのうち夜中に墓の下から斧持った爺さんが甦《よみがえ》るんだって、すごく怖がったような記憶《きおく》があるなぁ」
「分かるような気がするよ」
苦笑《くしょう》混じりの、サリオンの声。
と。
「愚者《ぐしゃ》だけが、死者《ししゃ》の復活《ふっかつ》を恐れる」
「…………」
意識《いしき》の隙間《すきま》にすっと差し込まれるように、耳に飛び込んできた人精霊《じんせいれい》の言葉《ことば》に、フリウは呼吸《こきゅう》を止めた。
一瞬《いっしゅん》だけ、足を止める。またすぐに歩き出したが。下りる場所を見失《みうしな》ってわずかにさまよった自分のつま先を見下ろして、彼女は独《ひと》りごちだ。
「そうだね。死んだ人が生き返るわけがないもんね」
「とにかく」
苦しげに、サリオンがつぶやくのも聞こえてくる。
「……その村にまだ手配書《てはいしょ》が回ってきていないことを祈《いの》るよ」
以後は、誰もなにも言わず――人精霊は別として――、その日の陽《ひ》が落ちる頃、その村は見えてきた。
村は静かで、なにか問題を抱《かか》えているようには見えなかった。まばらな民家《みんか》、納屋《なや》に厩《うまや》。すべて造《つく》りもしっかりしており、少なくとも生活に困っている気配《けはい》はない。暮《く》れかかった夕陽に溶《と》け込《こ》むように、その光と、光によって作られた影とはそれほどの差を持ってはいなかった。
なんにしろ――
その外れにぽつんと立ちつくして、フリウはつぶやいた。広告を手に、
「どこに行けばいいんだろ。やっぱり、村長とか、そういう人のところかな」
「その広告の主は?」
聞いてくるサリオンに、フリウは既《すで》に何度も目を通した文書を、丁寧《ていねい》に読み返した。
「……書いてないみたい」
「ずさんだなぁ」
「やっぱり村長だよ、村長。ねえ、あんたちょっとそこら飛んで、それっぽい家とか人とか探して――」
言いながら、ぐるりと見回して。
「……あれ?」
目当ての相手を見つけられず、フリウはきょとんと瞬《まばた》きした。人精霊の姿が、どこにもない。
唇《くちびる》を突《つ》き出すようにして、サリオンに告げる。
「いつもいらない時にはいるくせに。どこか行っちゃったみたい」
「え? ついさっきまでそこに――」
彼が、指をさした先には。
汚《よご》れた身なりの少年が、ひとり地べたに腰《こし》を下ろしているだけだった。長い髪《かみ》もくしゃくしゃに乱れて、ひどく絡《から》まり合っている。毛質《けしつ》が、というより、単にほったらかしにしてそうなったのではないかと見えたのは、とにかく、襟《えり》ぐりの極端《きょくたん》に伸《の》びた服のせいなのではないかとフリウには思えた。そんな格好のせいか、ひどく幼《おさな》く見える。が、恐《おそ》らく自分と同じ年くらいだろう。
子供がそんな場所にいたとしても、それほど不思議《ふしぎ》なことではない――
が、それでも驚《おどろ》いたのは、間違《まちが》いなく数秒前にそこを見た時には、その少年の姿などなかったからだった。
彼は、開口一番、言ってきた。
「金を払《はら》いな」
「え?」
「返して欲《ほ》しけりゃさ」
と、懐《ふところ》から、拳大《こぶしだい》の水晶玉《すいしょうだま》を取り出してみせる。緑色の靄《もや》を内部に封《ふう》じ込めているが、それ以外には陰《かげ》りの筋《すじ》もない、透明《とうめい》な真球《しんきゅう》。
「水晶檻《すいしょうおり》?」
言わずもがなのことを、フリウは聞き返した。緑色の靄は、内部に精霊《せいれい》を封じ込めている証《あかし》でもある。
くちゃくちゃと口を動かしながら――よく見れば、彼は鶏《にわとり》の足のようなものを持っていた。食事中らしい――、じっとこちらを見ているその少年と、しばらく目を見合わせて。
フリウは、唐突《とうとつ》に気づいた。
「スィリーを封じちゃったの?」
「大枚はたいて手に入れた、有形《ゆうけい》精霊用の水晶檻だ。試《ため》してみたんだが、思ったより悪くないらしい」
そんなことを淡々《たんたん》と告《つ》げて、少年は地面から腰《こし》を上げた。食べ終わった鶏を適当に捨てて、尻《しり》をはたきながらあとを続けてくる。
「いらねえんなら、俺のものだ。人精霊なんざ、売れるのかどうかしらねえけど」
「ちょ、ちょっと」
さらにようやく理解《りかい》して、フリウは声をあげた。近づこうとし、そして少年の向けてきた視線《しせん》に躊躇《ちゅうちょ》して足を止めて、
「ひょっとして、あなた、ハンターなの? 精霊の」
「だったら、なんだってんだ」
「いや、あの、ええと……その、その人精霊なんだけど」
しどろもどろに、言葉《ことば》を紡《つむ》ぐ。が、後ろから肩《かた》を引かれたと思うと、サリオンがゆっくりと前に進み出た。静かに、告《つ》げる。
「とりあえず、それを返してくれないか?」
「あんたらのものなのか?」
少年は、水晶檻を乗せた手のひらを少し上にあげた。
サリオンが、それを受け取ろうと手を伸《の》ばす――と、少年は素早《すばや》く、手を引っ込めた。さほど大事そうにでもなく、水晶檻を抱《かか》え込《こ》んで、
「封じてもいない精霊をどうしようと、こっちの勝手だろ。欲《ほ》しければ買い取れよ。それか、取り上げるんだな」
「うーん……」
心底困ったような声をあげて、サリオンは右手を差し出した。包帯《ほうたい》に包まれている右手を。
「手荒《てあら》なことは苦手だし、仮に得意だったとしても、この手じゃね」
「だろうな。だからー」
「だから、穏便《おんびん》に解決《かいけつ》しよう」
サリオンに勢いよく両足を払われて、ほとんど真《ま》っ逆《さか》さまに、少年が転倒《てんとう》する。勝ち誇《ほこ》った表情《ひょうじょう》そのままに地面に激突《げきとつ》して、悲鳴《ひめい》をあげる間もなくその手から水晶檻がこぼれ落ちる。
地面を転がってきて、つま先にぶつかって止まった水晶檻を、フリウは拾い上げた。倒《たお》れたまま目を見開いている少年の形相《ぎょうそう》は見物《みもの》ではあったが、恐《おそ》らく、自分も似たような顔をしているのではないかと思えた――平然としているサリオンを後ろから見上げて、ふと、自分が口を開けていたことに気づく。
短い罵《ののし》りを残して、少年はすぐに立ち上がると村の中へと走り去っていった。それを見送っていると、サリオンが振り向いてくる。
「ひょっとして……」
心持ち後ずさりして、フリウはうめいた。
「サリオンて、気が短い?」
「まあ、あまり上品《じょうひん》な育ちだとは言えないかな。下町じゃ、こんな程度《ていど》の喧嘩《けんか》は日常茶飯事《にちじょうさはんじ》だったしね」
苦笑《くしょう》しながら、もう見えない少年の後ろ姿を一瞥《いちべつ》する。が、彼はそんなことはどうでもいいというように肩をすくめ、包帯の手で口元を押《お》さえて聞いてきた。
「で、そろそろ出してあげたほうがいいんじゃないかな」
「うん。そうなんだけど」
フリウは水晶檻を目の高さまで上げて、内部をのぞき込んだ。無論《むろん》そこに人精霊の姿があるわけでもなく、ぼんやりとした緑色の影《かげ》がちらついているに過ぎない。
「これ、あまり良い品物じゃないみたい」
「うん?」
「確かに硬度《こうど》があって、有形《ゆうけい》の精霊でも封じられるみたいだけど、念糸使《ねんしづか》いじゃない人でも使えるように、使うまで門は開けっ放し、精霊を封じ込めたら自動的に門が閉《と》じて、あとは開けられないっていうタイプなんじゃないかな。開門式《かいもんしき》なしに使えるっていうのは結構便利なんだろうけど、檻そのものの質は悪くなっちゃうんだよね」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「…………」
答える代わりにフリウは、念《ねん》を凝《こ》らして水晶檻へと意識《いしき》を集中した。紡《つむ》がれた念糸が水晶檻へと収束《しゅうそく》し、接続《せつぞく》される。
水晶に変化はない。彼女は目を閉じると、口の中で開門のための手順を繰《く》り返した。封印《ふういん》を解《と》くための簡易儀式《かんいぎしき》、開門式を口ずさみ、まぶたを開くと同時、それと同調するように、水晶檻の表面に光の筋が現れる。光はすぐに大きく広がり、やがて球《たま》そのものが光の球となった。
そして――
「つまりだぁな」
声は頭の後ろから聞こえてきた。
「どの村にも、村長がいる。そこが町なら町長で、市なら市長、家なら家長、学校なら級長、山なら山長、沼なら沼長か? 人間のいるところに長がいないなんてこたぁないわけだ」
振り返る。調子よく演説していた人精霊は、こちらの視線を見て、怪訝《けげん》に思ったようだった。
「ん? なんだお前ら。とっくに終わった話題を今さら得意《とくい》げに語っている恥《は》ずかしい奴《やつ》を発見したかのような顔をしているが」
「あんたも前に引っかかったことあるんだから、学習しなさいよ。なんでこんな水晶檻なんかに引っかかるのよ」
フリウはそれだけ言ってから、輝《かがや》きを失《うしな》っていない水晶檻をサリオンに手渡《てわた》した。
「持ってて。そのタイプは中に精霊がいない時は門を閉じられないし、あたしが持ってると、またスィリーが引っかかりそうだから」
「ああ。彼に返すのがいいだろうね」
「そうだね」
うなずいて、フリウは向き直った――先ほどの少年が走り去っていった方向に。
「どこに行けばいいかも、分かったみたいだし」
酒宴《しゅえん》は、既《すで》に盛り上がっていた。昼から騒《さわ》いでいたのではないだろうか――いくつものテーブルに並べられた料理や酒瓶《さかびん》には、空《から》のまま積み重ねられたものも目立った。村の女が見つけては洗い場に持っていっているようではあったが、たった数人のハンターたちが、片《かた》っ端《ぱし》からその仕事を増やしている。
「あなたがたが、最後のようですな」
人の好《よ》さそうな中年の男が、フリウを招き入れながら、そう言った。
「狩りには、明朝《みょうちょう》出発するということになっているようです」
「……それまでは、馬鹿《ばか》騒ぎってわけか」
サリオンが、小声でつぶやいている。彼は性《しょう》に合わないのか、テーブルから遠ざかって、その広間の壁《かべ》に寄《よ》りかかるようにしていた。
男が――村長らしいが――、笑《え》みを消して言ってくる。
「相手は、危険《きけん》な精霊《せいれい》ですからな。せめてもの心づくしですよ」
「危険な精霊」
それを繰り返して、フリウは聞いてみた。
「間違《まちが》いなく精霊なの?」
「ええ……まあ、目撃《もくげき》した者の話によれば、とてもではないが獣《けもの》のようではなかった、と」
「被害《ひがい》は?」
警衛兵《けいえいへい》らしい――のだろう、多分――口調《くちょう》で、サリオンが聞く。村長はうなずいて、深刻《しんこく》な顔をしようとしてから、ふと我《われ》に返って不思議《ふしぎ》そうに眉間《みけん》を縮《ちぢ》めた。
「突然《とつぜん》、村の家に飛び込んできて、食料やら、細々《こまごま》としたものを盗《ぬす》んでいくようです。どういうことなのだか」
「精霊が?」
あまり、あり得ないことのように思えた。食べ物を必要とする精霊の話など聞いたことがない。
ひときわ大きい笑い声が響《ひび》き渡った。見やると、髭面《ひげづら》のいかつい大男が、酒瓶を手になにやら過去の自慢話《じまんばなし》をしているらしい。その横には、先ほどの少年が所在なく立っていた。
見回すと、集まったハンターは自分たちを含《ふく》めて、総員六名というところらしい。精霊を狩るには、心許《こころもと》ない人数ではある。もっと強力な水晶檻など、装備《そうび》があれば話は違うが――
と。
「そこでだ、この俺の、こいつの出番ってわけだ!」
大男が、ほかのふたりのハンターを前に、ふんぞり返って大笑《たいしょう》する。持ち出したのは、十字型をした、巨大《きょだい》な機械だった。複雑な部品の集まりであるということ以外では、ボウガンに似ている。ただし矢を仕掛《しか》ける場所はなく、先端《せんたん》と思《おぼ》しき部分に、筒状《つつじょう》のものが何十本もついていた。
「こいつはな、攻城戦《こうじょうせん》にも使われたって代物《しろもの》だ。どんな精霊だって粉《こな》みじんに打ち砕《くだ》く! 城より硬《かた》い精霊がいると思うか? ん?」
聞き手のハンターも含めて、つまらなそうな顔で立ちつくしていた少年が、ようやくこちらに気づいたようだった。視線《しせん》をこちらに向け、そして、すぐにそらす。
そのまま、ついと身体《からだ》の向きを変えると、彼は急ぎ足で広間から出ていった。
「…………」
「――じゃあ、その精霊は、何日かおきにこの村に飛んできて……」
「サリオン」
村長と話し続けていたらしい彼に、フリウは呼びかけた。会話を中断《ちゅうだん》して、サリオンがこちらを向く。
「なんだい?」
「えと、あたし、ちょっと出てくるね」
「え?……ああ」
きょとんとする彼を残して。
フリウは、広間から抜け出した。走らない程度《ていど》に急いで、玄関《げんかん》を目指す。豊かな農村の村長の屋敷《やしき》とはいっても、極端に豪奢《ごうしゃ》なものというわけではない。すぐに、玄関にたどり着いた。扉《とびら》を開ける。
外はもう、すっかり日が暮《く》れていた。夜更《よふ》けというほどの時刻でもないが、太陽の姿《すがた》は山の稜線《りょうせん》に消え、足音も遠くまで響《ひび》く冷たい夜気が空気の色を変えている。紫色《むらさきいろ》の空に、星が瞬《またた》いていた。いつもと同じ、規則正しく並んだ光の粒《つぶ》の中に、丸い板のような月が浮《う》かんでいる。目が、その明かりに慣《な》れるのを数秒待ってから、フリウは玄関を通り抜けた。見回す。夜の農村は静まりかえって、外を出歩く人気《ひとけ》もない。
「おい」
「ひゃっ」
突然《とつぜん》横から声をかけられ、フリウは飛び退《の》いた。見ると、玄関のすぐ横の植木にもたれかかって、少年が立っている。
なんか愛想笑《あいそわら》いを浮かべようとしながら――フリウは、喉《のど》から言葉《ことば》を押《お》し出した。
「ど、どういう仕掛けになってるの?」
「人間、見える範囲《はんい》よか死角《しかく》のほうが広いんだぜ」
ぶっきらぼうにそう言ってから、少年は鼻を鳴らした。
「そっちこそ、なんで俺をつけてくるんだ」
「えーと……」
「小僧《こぞう》、良いことを教えてやろう」
これも突然といえば突然、いつの間にかついてきていたらしいスィリーが、頭の上から声を発した。まったく表情《ひょうじょう》の変わらない少年に、いつも通りの尊大《そんだい》さで語る。
「人を追いかける奴《やつ》には、二種類しかない。なにかをくれる奴と、盗《ぬす》む奴だ」
「……どっちだ?」
人精霊にではなく、こちらに聞いてくる少年に、フリウはあっさりかぶりを振った。
「どっちでもないよ」
「どういうことだ?」
今度は人精霊に聞く少年に、スィリーもまた特に態度《たいど》を崩《くず》すわけではなかったが。
「むう。愚《おろ》か者《もの》は常に賢者《けんじゃ》を裏切《うらぎ》る。そして賢者が愚か者を裏切ることなぞはないのに、愚か者は常に賢者に裏切られているものと勘違《かんちが》いし続ける」
長々とつぶやきながら、蛾《が》のようにふらふら上空に去っていく。
少年は、短気な仕草《しぐさ》で吐息《といき》した。
「話の腰《こし》を折られたな。なんの用だ?」
(話しづらいなぁ)
胸中《きょうちゅう》でだけうめいてから、フリウは切り出した。
「あー。あのさ。さっき、怪我《けが》しなかった?」
「ここを擦《す》り剥《む》いた」
「あ、ごめんなさいね……その、水晶檻は、サリオン――さっきの人から返してもらってよ。あたしが持ってくれば良かったかな」
「返してもらえなくたって、取り返す。商売|道具《どうぐ》だからな」
「…………」|
鋭《するど》い眼差《まなざ》しでこちらを見ている少年を、彼の間合いよりはわずかに遠くから見返して、フリウはつぶやいた。
「ハンターなんだね」
「お前だってそうなんだろう」
「さっきの髭《ひげ》の人、仲間なの?」
「親父《おやじ》だ」
「……そう」
言葉が止まる。声は漏《も》れたが。
「あたしの父さんもね、あんな感じだった……かな。話し方は全然|違《ちが》うけど」
「そいつも狩りに参加《さんか》するのか?」
「え? いいえ……もう、死んじゃった……からさ」
「そうか」
特に感慨《かんがい》もなく相《あい》づちだけ打って、少年は植木から離《はな》れた。
「俺のほうのも、さっさと死んじまえばいいんだけどな」
それだけを言い残して、玄関に入っていく。
ひとり残され、フリウは言葉《ことば》もなくその場に立ちつくしていた。と。
「どうしたんだい?」
やや間隔《かんかく》を開けた入《い》れ違《ちが》いで、サリオンが姿を現す。フリウはなにも言わずに、うなずいた。
サリオンは、特に追及《ついきゅう》してはこなかったが、世間話のように言ってきた。
「そこで彼とすれ違ったよ。水晶檻は返しておいた。お礼は言ってもらえなかったけどね」
苦笑《くしょう》してみせる。フリウはうつむいたまま、何度もまぶたを閉《と》じて開けるのを繰《く》り返していた。肩《かた》に、手が置かれる。
「……ちょっと、そこいらを歩こうか」
「うん」
肩に置かれた手――包帯《ほうたい》を巻かれたほうの手だった――を軽く握《にぎ》って、フリウは涙《なみだ》を拭《ぬぐ》った。
「……気にはしてたんだ。君が、あんまり普通《ふつう》に振《ふ》る舞《ま》ってるものだから」
「無理《むり》してるわけじゃないよ」
屋敷《やしき》から少し離れて。ふたりで歩きながら、フリウは彼のほうを見上げた。サリオンの右手を指さし、
「手、痛《いた》い?」
「いや、もうそうでもないな。だいぶ良くなったし、早く医者に診《み》せられたのが良かったんだろうね。君を診せようと思って手配した医者だったんだけど」
「ほら。サリオンだって、無理してるわけじゃないでしょ?」
「……そうか」
サリオンは口の端《はし》を歪《ゆが》めて、微笑《ほほえ》んでみせてくれたようだった。今までもたびたび見た、苦笑ではなく。
「考えてみたら、街を出てから急ぐばっかりで、ゆっくり話をしたこともなかったかな」
「そうだね。あたし、サリオンのことあまり知らないや」
「ぼくも知らないかな。あの人精霊《じんせいれい》なら、こんな時に、自分のことをよく知ってる奴《やつ》なんていないとかなんとか、言うんだろうけどね」
……と、また笑ってから、その笑《え》みは平坦《へいたん》な顔の皮膚《ひふ》の中に消えていく。サリオンの咳払《せきばら》いを聞いて、フリウは彼がなにを言い出そうとしているのか予想できるような気がしていた。彼の口が開くのを、見つめる。
「フリウ。君は、アスカラナンに行くことには反対なんだね?」
「……帝都《ていと》に行きたいの。イシィカルリシア・ハイエンドに」
「復讐《ふくしゅう》を考えることだけはいけないと、言っただろう?」
「復讐?」
それは考慮《こうりょ》の中にあったわけではなく、想像もしていなかった。聞き返すと、今度はサリオンが意外《いがい》な言葉を聞いたというように、言葉を詰《つ》まらせる。
「話さなかったかい? あれから、ぼくはあの村にもどった。事後処理《じごしょり》のためにね。あの殺し屋の死体は残っていなかったんだ。それに、黒衣の死体も、四体しか……見つからなかった」
「……いなくなった人たちは、帝都にいるの?」
「少なくとも黒衣は帝都にもどる。絶対に」
そのことだけは断言《だんげん》してから、失言《しつげん》だったと思ったのだろう。彼は決まり悪そうに顔をしかめて言い直してきた。
「フリウ。君は復讐を考えちゃいけない[#「いけない」に傍点]んだ。分かってくれ。君は、復讐を確実《かくじつ》にやり遂《と》げるだけの力を持っているんだよ。だから、なおさら、それを使うことは考えちゃいけないんだ」
「…………」
それへの返答は――
できずにいるうちに、異変《いへん》が起こった。ぽとりと頭の上に、なにかが落ちてくる。つまみ上げて顔の前に持ってくると、スィリーがぐったりと手足を伸《の》ばしている。
「ニアミス! ニアミスだ!」
声だけは元気に、わめき立てる。
「なんか飛んできたぞ!」
「え――?」
つぶやいた瞬間《しゅんかん》。
轟音《ごうおん》が、地面を震《ふる》わせた。激しい鳴動と振動《しんどう》が、意識《いしき》をも揺《ゆ》さぶって遠くに連《つ》れて行こうとする。それに抗《あらが》って、なんとか顔を上げると――少し離れた村長の屋敷《やしき》が変形していた。屋根《やね》が吹《ふ》き飛び、壁《かべ》も半分|崩《くず》れかかっている。はみ出した柱が、次第《しだい》に傾《かたむ》きを増して、そのまま倒れるのが見えた。
「なに?」
「精霊だ!」
サリオンが、うめく。制服《せいふく》を捨ててもこれだけは大事に取っておいた、警棒《けいぼう》を抜《ぬ》きながら、
「襲撃《しゅうげき》に来たんだ!」
駆《か》けもどるのに時間はかからなかった。半壊《はんかい》した屋敷は玄関《げんかん》からわざわざ入るまでもなく、広間は外からむき出しになっていた。外もひどければ中もかなりの有様《ありさま》で、テーブルはひっくり返り、瓦礫《がれき》に埋《う》まっている者もいるらしい。命に別状《べつじょう》はないだろうが、その場にいて無事《ぶじ》なのは、村長だけのようだった。
「き、来た――来たぁ!」
わめきながら、彼が指したもの。
そして、フリウが目にして、呆然《ぼうぜん》としたもの。それは。
無事なテーブルに取り付いて、なにやら選《え》り好《ごの》みをしながら――どうやら干しぶどう入りを避《さ》けているらしいが――袋《ふくろ》にパンを詰めている、銀色の鎧《よろい》をまとった人影《ひとかげ》だった。
「……マリオ・インディーゴ!」
めまいを感じる額《ひたい》を押《お》さえて、フリウはうめき声をあげた。
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第四章 モンスター・ハンティング
(狩り)
顔を真っ赤にした大男が、わめき散らしている――朝だからといって爽快《そうかい》さが保証《ほしょう》されることなどあるはずもなく、それはつまるところ、一晩中《ひとばんじゅう》がれきの撤去《てっきょ》に駆《か》り出されることも含《ふく》めて、ひとことで言えば、とんだ災難《さいなん》ということだった。
それでも。
「くそったれが! 不意《ふい》を打ちやがって、あの化《ば》け物《もの》――!」
太い腕《うで》を振《ふ》り回し、そのハンターはどうしても怒《おこ》り足りないのか、倒《たお》れかけている柱をかなり強烈《きょうれつ》に蹴飛《けと》ばした。ただでさえ破壊《はかい》され、強度を失《うしな》っている家屋が不安定に軋《きし》む。周囲からの無言《むごん》の警告《けいこく》を知ってか知らずか、男はさらに怒声《どせい》を張《は》り上げた。
「こんなことがあるはずねえんだ。ふざけてる! 精霊《せいれい》が! わざわざ人里にまで飛んでくるだと!?」
「だから[#「だから」に傍点]――」
その大男の隣《となり》で、自分の持っているスコップにもたれかかるような格好でうんざりと、髪《かみ》の長い、若いハンターがうめくのが聞こえてきた。
「俺《おれ》たちが、雇《やと》われたんだろうがよ」
「そんなこたぁ分かってる!」
仮に揚《あ》げ足《あし》を取られたのだとしてもそんなことはおくびにも出さず、大男は声量をあげることですべてをごまかそうとしているようだった。
「俺が気に食わねぇのは――その――それはだな」
と、あたりを見回し、その視線《しせん》が、ぴたりと止まった。こちらを見たところで。
そして、叫《さけ》ぶ。
「なんでこんな、ガキなんぞが混じってやがるんだ! だから、田舎《いなか》の連中なんぞになめられるんだろうが!」
聞こえなかったふりをして、フリウは足下《あしもと》の壊《こわ》れたテーブルを押《お》し上げた――上に積もっていたがれき屑《くず》が、音を立てて滑《すべ》り落ちる。
単《たん》に、思いつきで言っただけらしい。大男はそれ以上、特に付け加えることもなかった。怒《いか》りのぶつけどころを見失って、男はたまたま目についたらしい割《わ》れた壷《つぼ》に靴《くつ》を叩《たた》きつけ、とどめを刺《さ》した。うんざりと、若いほうが口を開く。
「俺はむしろ、なんでガキがひとり足りねえ[#「足りねえ」に傍点]のかが知りたいね」
がれきの片づけを再開しながら、続ける。
「あんたの息子《むすこ》とかいう、あの可愛《かわい》げのない野郎《やろう》のことだぜ?」
「……そういや、どこに行きやがったんだ、あいつは?」
言われて初めて気づいたのか、大男がうめく。フリウもこっそりと、あたりを見回した――壊された村長の屋敷《やしき》で片づけをしているのは、自分を含《ふく》めて四人だったはずだが、いつの間にかあの少年の姿《すがた》がなくなっている。ついでにいえば、適当《てきとう》にそこいらをふらふらしていた人精霊もいなくなっていたが、それは特に気にするほどのことでもなかった。どこかにいるのだろう。どうせいたところで役に立たないのだから、どうでもいい。
(……でも、ないかな)
小さく嘆息《たんそく》して、フリウは認《みと》めた。この村に集められたハンターたちのうち、サリオンともうひとり、若いハンターの相棒《あいぼう》とが、狩《か》り用《よう》の装備や食料を受け取るため、村の蔵《くら》へと行っている。顔見知りがいないことで、ひどく気後《きおく》れしながらフリウは黙々《もくもく》と片づけを続けていた。
「それにしても、腹が立つ! あの精霊!」
憤怒《ふんぬ》の対象をようやく思い出したのか、大男が改《あらた》めて声をあげた。
「突然《とつぜん》飛び込んできやがって――」
「飛んで火にいる夏の虫、が、とんだ雀蜂《すずめばち》だったってことさ」
皮肉《ひにく》たっぷりに若いハンターが告げる。精霊を弁護《べんご》する義理があったわけでもないだろう。単に、怒鳴《どな》るたびに作業を留守《るす》にする大声に苛立《いらだ》ってのことだろうが――彼はさらに、「あれをその場で仕留《しと》めてりゃ、俺たちゃ英雄《えいゆう》で、今ごろこんなポロ屋敷で土木作業なんぞさせられちゃいなかったんだろうがな」
それはそうなのだろう。フリウは胸中《きょうちゅう》で独《ひと》りごちた。村を襲《おそ》う精霊を退治《たいじ》するために集められたハンターだというのに、当の精霊が屋敷に飛び込んできて逃《に》げていくまで、なにもできなかった。当然、村人たちの態度《たいど》は一変した。
ただ、違《ちが》うのは――
(……あれ、ただの精霊じゃないのよね)
複雑な思いで、フリウはつぶやいた。
「別に、責めるつもりはありませんよ」
そう言う村長の口調《くちょう》は冷ややかではあったが、仕方《しかた》のないところだろう。サリオンは苦笑《くしょう》を噛《か》み殺して、うなずいた。
「これが、地図です……みなの話をまとめると、精霊はいつも、こちらの方角に飛び去っていくようです」
老人は説明とともに、筋張《すじば》った指先で地図の表面を撫《な》でた。地図とはいっても、このあたりの地形をおおざっぱに記した簡単《かんたん》なもので、範囲《はんい》もせまい。それでも、この村にある唯一《ゆいいつ》の地図であるというのだから文句をつけても仕方がないのだが。
蔵の中は明るいとはいえない。見づらい地図を斜《なな》めから目で追いかけることをあきらめて、サリオンはゆっくり瞬《まばた》きして目を休めた。とりあえず、方角だけは知れた。それで我慢《がまん》するしかない。
「あとをつけていったりした人はいないんですか?」
聞く。と、村長はあっさりと首を横に振《ふ》った。
「飛んでいるものをどうやって?」
「つまりは、あの精霊《せいれい》がどこから飛んできているのか、正確なところは誰《だれ》にも分からないってことですね」
「そうです……それを突《つ》き止めてもらうことも、仕事のうちに含《ふく》んでいるつもりでしたが」
「聞いたことねえぜ。精霊が、硝化《しょうか》の森から出てきて、ましてや村を襲《おそ》うなんてのはよ」
と。
それまで黙《だま》っていたハンターが、口を開く。黒い髪を黄色に染《そ》めた、まだ若い男――自分より年下だろう――だが、身に着《つ》けている防具《ぼうぐ》のくたびれ具合からすれば、相当に場慣《ばな》れしているのは間違いないようだった。
もっとも……
(街中で見かけたなら、犯罪者《はんざいしゃ》として警戒《けいかい》しただろうな)
口には出さずに、サリオンはつぶやいた。警官をやっていると、あらゆる人間を二種類に分ける癖《くせ》がつく。危険な相手と、そうでない相手と。特にこのハンターが具体的な危険をはらんでいるというように見えたわけではなかったが、それでもまともな市民とはどこかずれた気配《けはい》を感じずにはいられなかった。特にこの若者がということではなく、恐《おそ》らくはハンターという立場にいる者|全般《ぜんぱん》に共通するものなのだろうが。
「これで、信じる気になられましたかな?」
村長が、告げる。ハンターは肩《かた》をすくめてみせた。
「信じるさ。あれだけ強大化した精霊は滅多《めった》にお目にかかれるもんじゃねえ。ただじゃすまねぇぞ、この狩《か》りは」
「一応|確認《かくにん》しておきたいのですが」
割り込むように、サリオンは村長に問いかけた。
「あの精霊、具体的にどうすればいいんですか?」
「と、申しますと?」
「つまり、捕《と》らえなければならないとか、遠くに追い払《はら》うだけでいいとか」
「二度とこの村に来ることがないと確認《かくにん》できれば、あとは構いません」
村長の答えに、ハンターが強い鼻息とともに声をあげる。
「捕らえるさ――当然だろう? 帝都《ていと》に持っていきゃあ、一財産になるぜ。なにしろ硝化の森に入らないで、あれほどの精霊を狩れることなんざ、そうそうあることじゃねえんだからな」
(ふうん?)
そういうものらしい。ハンターではない自分にはよく分からないが。
「食料は、用意《ようい》できたもの以上は出せません。すみませんが、村の備蓄《びちく》にも限界《げんかい》がありますのでね」
村長は、悲しげとも恨《うら》めしげともつかない微妙《びみょう》な無表情《むひょうじょう》で、告げてきた。
「これでも、三日ほどは保《も》つはずですので――」
つまりは、さっさと行けという意味のことを言って、その老人は締《し》めくくった。
「ひとこと言わせてもらうとだな」
突然現れて人精霊は、開口一番言ってきた。
「お前ら、仲《なか》が悪すぎねえか?」
「…………」
きょとんと見上げて――
足は止めないまま、フリウは首を傾《かし》げた。荷物《にもつ》が重いため、そんな小さな仕草《しぐさ》でも面倒《めんどう》ではあったが。
「どこ行ってたの?」
「いや、とりあえず遠くから、小娘《こむすめ》一行を観察《かんさつ》してみるのも面白《おもしろ》かろうかと」
「……面白かった?」
「いや特に。遠いものは見づらいということが分かった」
「良かったね」
フリウはうなずいて、歩くことに集中した。村を出て数時間。すぐに道らしい道はなくなり、傾斜《けいしゃ》こそないものの山の獣道《けものみち》と大差ないところをずっと進んでいる。
「それで終わらされても困る。いや、終わらせてなるものか」
「決意はよく分かったけど、なんの話だったっけ」
「人生はチームワークだと、小学校の教師だとか中学校の教師だとか高校の教師だとか、まあそういう連中がよく言っているのを知らねいか?」
「そんなに仲悪く見える?」
フリウは聞き返しながら、自分の前を歩いているサリオンの背中を見やった――スィリーに今さら声をひそめるような気遣《きづか》いなどあるはずもなく、会話はまるっきり聞こえているはずではあったが、とりあえずサリオンは、地図を確かめながら一定の方角を保つことに集中しているようだった。全体の先頭なのだから、当たり前といえば当たり前だが。
順番でいえば、フリウは二番手だった。残りの四人のハンターは、そのあとに続いている。
スィリーは、それを順々に見渡《みわた》してから、横目で疑《うたが》わしげに言ってきた。
「仲が良ければ、歌くらい歌うだろ。山道だし」
「あんた歌う?」
「断固《だんこ》として断《ことわ》る。馬鹿《ばか》くさいし」
「あんた単《たん》に退屈《たいくつ》なんでしょ。くだらないことばかりさっきから」
「うむ。いや、失敬《しっけい》だろそれ」
うめく人精霊に、割《わ》り込《こ》むように――
「一理《いちり》はあるか?」
退屈していたのは、スィリーだけではなかったらしい。口を挟《はさ》んできたのは、ハンターのひとりだった。肩越《かたご》しに見やる――見やっても、背負っている荷物が邪魔《じゃま》でよくは分からないため、フリウは身体《からだ》を半《なか》ば以上振り向かせなければならなかった。それでも足を止めるわけにはいかず、おぼつかない調子で後ろ向きに歩きながら、そのハンターを見やる。
若い二人組のうち、壊《こわ》れた村長の屋敷《やしき》を片づけていたほうである。長い髪《かみ》をひとまとめにした、細面《ほそおもて》の男。通常の荷物とは別に、短い鉄棒《てつぼう》の束《たば》を袋《ふくろ》に入れて背負っている。棒はどれも尖端《せんたん》がネジ式になっており、つなげて一本にできるらしい。折《お》り畳《たた》みの槍《やり》か棒なのだろうが、それが精霊に通じるかどうか疑問《ぎもん》ではあった。
男は――自分を見るこちらの視線《しせん》に応《こた》えてのことだろう――にやりと笑ってみせると、片眼を閉じた。
「歌わねえけどな。あんな騒《さわ》ぎがあったせいで、お互《たが》い名前も知らないうちに出発ってことになっちまった。俺《おれ》はアイゼン。ニイチのハンター基地にいた」
「ニイチ?」
聞いたことのない地名を口にして、フリウは記憶《きおく》を探《さぐ》ったが、結果は同じだった。が、その男――アイゼンは予想のうちだったのか、こともなげに、
「無免許《むめんきょ》の業者が集まってるところさ。レートが良い。ここいらの、腕《うで》の立つハンター連中はみんなそんなところにいるんだよ」
「下《した》っ端《ぱ》だけが、自分の所属《しょぞく》を自慢《じまん》するってぇ真理《しんり》を言ってみたくて仕方がないんだが、言ってもいいか?」
「へえ……」
スィリーの言葉は無視《むし》して、フリウが感嘆《かんたん》の声をあげる間もなく、アイゼンは自分の相棒に手を振ってみせた。髪を半分だけ染めた――のが故意《こい》であるのか、単に染めてから時間が経《た》ってほったらかしになっているのかは分からないが、そんな男である。アイゼンと、ほぼ同齢《どうれい》くらいだろう。ただこちらのほうが輪郭《りんかく》が尖《とが》っている分、剣呑《けんのん》に見えた。
「で、そいつがラズ。長いこと、いっしょに狩りをしている。剣の名手だ。氷海の剣士《けんし》にも引けは取らない……と言い張《は》ってる」
相棒が紹介《しょうかい》する間、そのラズとやらは眉《まゆ》ひとつ動かさなかったが、それでもそれとなく、腰《こし》につけた剣帯《けんたい》をかざしてくれたところなど見ると、無愛想《ぶあいそう》な男というわけではないのだろう。体格もしっかりしていて、素人目《しろうとめ》にも、そのプロフィールが嘘《うそ》ではない――少なくとも、大きな嘘ではないのだろうと知れた。
が……
どうしても気になって、フリウは眉根《まゆね》を寄《よ》せた。
「……それでどうやって、精霊を狩るの?」
鉄棒や剣で、精霊を捕らえられるわけはない――実体化した、しかも弱い精霊ならば、傷《きず》つけることもできるのかもしれないが。
アイゼンは、あっさりと肩をすくめてみせた。
「俺たちはアタッカーさ。精霊に近づいて、動きを止める。捕獲《ほかく》は他人任《たにんまか》せだ。分担《ぶんたん》だよ。君だって、ひとりで狩りをしてきたわけじゃあないだろう?」
「え?」
自分のことを聞かれるとは思っていなかったため、フリウは数秒間、言葉《ことば》を失《うしな》った――考えてみれば、当たり前のことではあったが。動悸《どうき》を速める心臓《しんぞう》を頑《かたく》なに無視して、言うべき言葉をなんとか探し当てる。
「え――あ、あたしは……ずっとふたりだけでやってきたんだけど」
「……はぁ?」
よほど、それが珍妙《ちんみょう》なことに聞こえたのだろう。今度はラズのほうが、声をあげてきた。
「本当なら、そいつは凄《すげ》ぇな。たったふたりで?」
と、スィリーが割り込んでくる。
「証人として俺が証言しよう。卑劣《ひれつ》な罠《わな》で俺が捕らえられた時、この小娘ひとりしかいなかったような気がする」
手をあげて告げる人精霊《じんせいれい》の言葉に、彼らの目はまだ信用しきれないものを残してはいたが、それはあえて呑《の》み込《こ》んだようだった。
「それで、あんたは?」
聞いてくる。
「え?」
やはり意味が分からずに聞き返すと、彼らはふたりして苦笑《くしょう》した。
「自己紹介しようって話だったと思うんだけどな」
「あ、ええと……名前。あたし」
しどろもどろになり、おまけに不安定な足下《あしもと》につまずきそうになって、言葉が途切《とぎ》れる。助け船を出してくれたのは、先程からずっと先頭を進んでいたサリオンだった。
「彼女はフリウ。ぼくはサリオン。その飛んでいるのが、スィリーだ」
「飛んでいる以外に存在価値《そんざいかち》がないかのような言いぐさには異議《いぎ》を唱える」
と、告げる人精霊に、サリオンは律儀《りちぎ》に困ったような顔をしてみせた。言い直す。
「うん……まあ。分かった。飛んだりしゃべったりしてるのがスィリー。これでいい?」
「良かろう。とりあえず異議さえ唱えておけば、転落《てんらく》せずに済《す》む。それが人生だ」
「……で」
と。
アイゼンは、多少もったいぶった面持《おもも》ちで、最後尾《さいこうび》にいる残りふたりへと視線《しせん》を回した。大げさな荷物を背負った大男と、それと同じ大きさのものを運んでいる小柄《こがら》な少年が、並んでついてきている。
話を聞いていなかったわけではないだろう。実際に、視線を待ち受けていたらしい。むやみに険悪に、じろりとこちらを見回してくると、大男のほうが口を開いた。
「なにか用か?」
「名前を聞いてるのさ」
はっきりと刺《とげ》のある口調《くちょう》で、アイゼン――
ラズが、こちらを向いたまま、つまりは最後尾のふたりからは見えないところで舌を出している。
見えないにしろ、気配《けはい》は感じたのだろう。大男が聞こえよがしに鼻で笑った。
「役立たずどもでつるんでいろよ。若造《わかぞう》どもにガキがひとり。貴様《きさま》らなんぞ、精霊相手になにができるってんだ?」
前触《まえぶ》れもなく、アイゼンとラズとが、足を止めた。数歩ほど行きすぎてから、フリウも立ち止まる。
自然、全体の動きも止まった。どさり――と、どうということもない音なのだが、冷えたスプーンで心臓《しんぞう》をすくいだすような気配が忍《しの》び寄ってくるのを感じて、フリウは肩《かた》を縮《ちぢ》めた。アイゼンが、荷物《にもつ》を地面に放《ほう》り投げる音だった。
袋《ふくろ》から、鉄棒《てつぼう》を三本ほど手の中に残している。それをすべて連結して一本の棒に繋《つな》げてから、一振りする。風切音《かざきりおん》は、鉄棒の尖端《せんたん》を地面に突《つ》き立てて止まった。手を伸《の》ばしたところから、地面までの長さ。袋の中にはまだ数本、鉄棒のパーツが残っていたが、長さにはこだわらないということだろう。
それがどれほど有効《ゆうこう》な武器《ぶき》なのか、フリウには見当がつかなかったが、ラズは相棒の心配をするつもりはないらしく、余裕《よゆう》たっぷりに腕組《うでぐ》みしたまま、アイゼンとの距離《きょり》を取った。暴《あば》れる彼の邪魔《じゃま》にならないように、ということか。
大男と少年のほうもまた、足を止めていた。同じく、荷物も下ろしている。ただし大男は素手《すで》のまま、アイゼンと対峙《たいじ》していた――少年は無関心に、荷物をふたつ引きずりながら場所を空ける。
「正直なところよぉ」
鉄棒を構《かま》えて、アイゼンがうめいた。
「こんなのは、くだらねえと思うんだがな。ま、そっちも最初からその気だったようだからな」
「青二才《あおにさい》が、ほざいてるんじゃねえよ。役にも立たねえ連中のせいで取り分を減《へ》らされるんじゃ、割《わり》に合わねえんだ。ぶちのめされる前に、とっとと失《う》せるんだな」
「てめ……」
半歩、若いハンターが前に出る。が、大男は退《ひ》かない。
フリウは慌《あわ》てて、うめいた。
「サリオン――」
「分かってる」
彼は地図を懐《ふところ》にしまいながら、それと入れ替《か》えるようにして、金属製《きんぞくせい》の警棒《けいぼう》を腰《こし》から抜《ぬ》いた。
「お前たち、そんなことをしている場合じゃないだろう」
叫《さけ》びかけるサリオンに。
フリウはかぶりを振《ふ》った。
「じゃなくて、こっちのほうがよく見えるよ」
「え?」
サリオンが、動きを止める。
彼に向かって、フリウは手を振った。自分のすぐ隣《となり》を示《しめ》して、
「ほら、ここ来なよ。どっちが勝つと思う? あたしはアイゼンのほうかな――ていうか名前知ってるのこっちだけだし」
「……フリウ?」
取り出した警棒を、手持ちぶさたにまたしまいながら、サリオンが近づいてくる。彼はもう一度、にらみ合っているアイゼンと大男とを見比《みくら》べてから聞いてきた。
「止めなくていいのかい、あれは」
「止める? なんで?」
「いや、なんでって」
「こんなの、ハンター基地じゃ日常茶飯事《にちじょうさはんじ》だったよ。いや、いつこうなるのかと思って、あたしドキドキしてたし」
「えーと……」
どうにも釈然《しゃくぜん》としない様子《ようす》のサリオンに、ラズが声を立てて笑った――
「いつものことさ。どのみち、誰《だれ》かが主導権を取らなけりゃならんだろう? で、それにゃあ手っ取り早い方法がある。ただそれだけのことだ」
「いやしかしこれは」
「ほっとけって。ここで止めたって、また同じことの繰《く》り返《かえ》しになるんだ」
手助けする気はないのか、あるいは相棒のことを信じているということか、彼は気楽な調子で予言した。
「すぐ終わるさ」
「なんだ? どっちかーが死ぬのか? 人生終わりか? 聞くぞ。遺言《ゆいごん》。言っとけ」
ぱたぱたと飛び回るスィリーを、うるさげに手で追い払《はら》って――
アイゼンが、その場に唾《つば》を吐《は》いた。
「言っとくが――」
「遺言か?」
「違《ちが》う」
無造作《むぞうさ》に鉄棒の先で人精霊《じんせいれい》を突《つ》き落として、
「俺《おれ》ぁ負けたことねぇぜ、おっさん」
「そうかい。そいつはすげぇな」
体格からしても大きな顔面に、歪《ゆが》んだ笑《わら》いを浮《う》かべて、大男がうめく。
「だが、はったりってのは、喧嘩《けんか》になる前に言っとくもんだぜ? なってから言ったところで、負けて恥《はじ》の上塗《うわぬ》りになるだけだ」
「てめ……!」
挑発《ちょうはつ》に乗って、アイゼンが飛び出しそうになる――が、対峙《たいじ》している相手の表情《ひょうじょう》に気圧《けお》される形で、それも踏《ふ》みとどまったようだった。鉄棒を握《にぎ》り直して、苦々《にがにが》しく間合いを取り直している。
「……本当に、大丈夫《だいじょうぶ》なのかい?」
声をひそめて、サリオンが耳打ちしてきた。フリウは、にらみ合っているハンターたちを見つめたまま、同じく周囲には聞こえないように声を落とした。
「平気よ。こんなのは、余興《よきょう》みたいなもんだって、セヘクの爺《じい》ちゃん言ってたもの。怪我《けが》するようなことになる前にやめる……んだと思うけど」
「あのね、フリウ。できれば急いだほうがいいんだ。その……あの精霊《せいれい》のことで、気になることがあって」
「え?」
いつになく――いや、相変わらずか――心労の絶えないサリオンの表情に、フリウは聞き返した。彼はさらに顔を近づけてくると、
「実は――」
「始まるぜ」
いつの問に剣帯《けんたい》から外したのか、鞘《さや》に収めた剣を手に、ラズ。結局《けっきょく》、いざという時には加勢《かせい》するつもりなのかもしれない。あるいは最初からそのつもりだったのか。
こんな決闘《けっとう》にはルールはない。つまるところ相手に負けを認《みと》めさせればそれで終わるし、認めさせられない限《かぎ》り、いつまで経《た》っても問題は解決しないとも言える。
視線《しせん》は外していなかったものの、注意はそれていた。改めて見やると、鉄棒を手にしたアイゼンは中腰《ちゅうごし》にそれを構《かま》えて飛びかかる体勢《たいせい》を作っている。距離からして、一跳《ひとと》びで足りるだろう。対する大男は無手《むて》で、なにを気負う様子もなく棒立ちになっている。
勝敗は、すぐに決まりそうに思えた。
若いハンターがそれを察《さっ》してか、暴力の欲求にぎらついた眼差《まなざ》しで、また距離《きょり》を詰《つ》めようとする――
「そのままでいいのか? おっさん」
「ああ」
大男は、悠然《ゆうぜん》とうなずいた。と、ふと思いついたというように、
「ところで、念《ねん》のために確認《かくにん》したいんだが、お前さんたちのほうは、てめぇの出番ってことでいいんだろうな?」
「あん?」
アイゼンが聞き返すが、つまりはもうひとりが加勢《かせい》するのを牽制《けんせい》しておこうということか。ラズが、小さく笑って剣を下ろすのが見えた。
それに気づいているのかいないのか、アイゼンはただ肩《かた》すかしを食ったように顔をしかめてみせた。
「当たり前だろ。なんだってんだ今さら」
「ああ、今さらだがな。分かっているだろうが[#「分かっているだろうが」に傍点]、こっちは、せがれが相手してやるよ」
「……え?」
そのつぶやきは、誰《だれ》がというより、全員が発したものだった。
嫌《いや》な予感を覚えて、フリウは慌てて、あたりを見回した。大男のそばから離《はな》れて、あの少年がどこに行ったのか、まったく注意《ちゅうい》を払《はら》ってはいなかった。
見つけたのは一瞬《いっしゅん》後のことだった。それほど離れてはいない。だが荷物を開いて、なにやら物々《ものもの》しい武器《ぶき》を構えて、それをこちらに向けている。
「…………!」
悲鳴は声にならなかった。
その武器は、滑車付《かっしゃつ》きの弓《ゆみ》にも似ていた――が、それを数倍|無駄《むだ》に装飾《そうしょく》したような格好でもあった。ただし、華美《かび》な装飾ではない。それらの部品がすべて実用のためのものだということは、見れば知れた。少年は小さな身体《からだ》で、三脚のようなものを使ってそれを構えている。なにかは知らないが、飛び道具なのは間違《まちが》いなかった。数本の筒《つつ》の尖端《せんたん》が、こちらを向いている。いや、それが狙《ねら》いをつけているのははっきりと、アイゼンの方向だった。鉄棒を構えたまま、若いハンターの顔が驚愕《きょうがく》に引きつっている。
発射の引き金となっているのは、その武器の下部から突《つ》き出したレバーであるらしい。少年の手が、それにかかっている。
「くそったれ――」
アイゼンが、虚《むな》しく毒《どく》づくのが聞こえてきた。間に合わないのは分かっていたが。
咄嗟《とっさ》にフリウは、念糸《ねんし》を解《と》き放《はな》った。銀色の細い糸が、巻き込まれるように少年の武器へと絡《から》みつく。同時――
少年がレバーを引いた。
金属的《きんぞくてき》な、打突《だとつ》の音。機械の部品のなにかが弾《はじ》けて、内部にあるなにかを打つ音。瞬間《しゅんかん》、光が瞬《またた》いた。音のない爆発《ばくはつ》とともに、筒の先から黒い風のようなものが噴《ふ》き出す。いや、実際に目に見えたわけではなく、ただの残像に過《す》ぎないのだろうが。
一瞬のことだった。飛び出した黒い気配《けはい》はアイゼンを貫通《かんつう》し、その向こうにある木の幹に収束した。空《から》の袋《ふくろ》を潰《つぶ》すような、景気の良い音が「度だけ。次に静寂《せいじゃく》。あとは……嫌《いや》な音を立てて、粉々《こなごな》に砕《くだ》けた大木が地面に倒れる。
「…………」
誰もが呆然《ぼうぜん》としていた。地面に倒れたアイゼンが、ゆっくりと――震えながら上体だけ起きあがらせても、喚声《かんせい》も悲鳴も、なにもない。
地面に倒れた武器を担《かつ》いで起こそうとしている少年の、小さな罵声《ばせい》以外には。
「――って――」
長い沈黙《ちんもく》をそのままにして、アイゼンが叫《さけ》びだした。
「ふざけんな! なんだ今のは――」
「最新の武器さ。精霊《せいれい》にも対抗《たいこう》できる」
砕けた木へと手を振って、大男が声を荒《あら》らげる――半分泣き声の混じったアイゼンの声よりも遥かに大きく。
「見ただろう! 木だろうが岩だろうが、一瞬で粉々だ! 水晶檻《すいしょうおり》の爆発を使って、無数の鉄針《てっしん》を射出《しゃしゅつ》する! アスカラナンにはな、こんな武器がゴロゴロしてるんだぜ! 俺《おれ》はこいつを、武器《ぶき》商人から巻き上げたんだ!」
「こんなのは無効《むこう》だ――」
「連発もできるんだぜ」
叫びかけたアイゼンに、ぴしゃりと、大男。もう立て直されたその武器の狙《ねら》いは、またもやハンターに定まっている。彼は鉄棒を投げ捨てて、立ち上がる気力もなくしたらしい。完全に腐《くさ》って、その場に倒れ込んだ。
「弾数《たまかず》は……まあ言わないでおくか」
完全になぶる口調《くちょう》で、大男は続けた。
「どうだ? まだやるつもりはあるのか? ん?」
アイゼンにだけではなく、こちらにも向けて言ったものらしい――今後は全員、自分に従えということだろう。
言われた通り、強力な武器であることは間違いなかった。破壊力《はかいりょく》だけならば、精霊にも対抗できるのかもしれない。
が……
フリウは順番に、全員の顔を見ていった。アイゼンはすっかりあきらめて、大の字に倒れている。ラズはまだ納得《なっとく》はしていないようではあったが、それでも武器の狙いの中に入っていくタイミングはつかめずに、剣を手にしたままじっとしていた。スィリーは打ち倒された木のあたりを、ぼんやりと飛び回って、観察《かんさつ》している。サリオンは、唖然《あぜん》と口を開いて身動きもしない。
大男は得意《とくい》げに、こちらの――誰の、というわけではなく全員の降参《こうさん》を待っている。そして、少年。武器を構《かま》えて、変わらない不敵《ふてき》な無表情に、うっすらと笑《え》みを浮《う》かべていた。勝利か、満足の笑みなのだろう。
たいしたことではない。彼らは勝ったのだから、当然のことだろう。だが。
フリウはつぶやいた。
「……どうするつもりだったのよ」
視界《しかい》がいつもより、暗いと思えたのは錯覚《さっかく》だったのかもしれない。あるいは我《われ》知らず、いつもより顔を伏《ふ》せていたのかもしれないし、もっと別の理由かもしれない。フリウには分からなかったが、光の足りないその視界の中心にあったのは、少年と、彼が抱《かか》えている物々しい武器だった。そこから視界が動かない。
「……なんだと?」
聞き返してきたのは、少年ではなく、その父親であるらしい大男のほうだった。だが、そちらと話しても意味《いみ》がない。フリウは無視《むし》して繰《く》り返した。
「どういうつもりだったのよ――今の、当てるつもりだったんでしょう、あの人に」
少年に、詰問《きつもん》する。アイゼンを指さして。
大男が大笑した。
「ガキが、なにを言ってやがる」
「うるさいわね!」
フリウは叫ぶと、少年のほうへと歩き出した。
「今の、あたしが狙《ねら》いを外さなければ、彼に当たっていたでしょって言ってるの!」
「てめぇがなにしたってんだよ?」
煩《わずら》わしげに――ただし視線《しせん》をそらして、少年が聞き返してくる。同時に、武器の砲口《ほうこう》をこちらに向けようと――
した瞬間《しゅんかん》、フリウは再び念糸《ねんし》を解《と》き放った。
「こうしたのよ!」
念糸は武器の胴体《どうたい》に絡《から》みつくと、そのまま力を伝えた。念糸の触《ふ》れたところから、軋《きし》む音を立てて武器がふたつに砕《くだ》け折れる。ねじ切れた武器はバランスを失《うしな》って、そのまま倒れた。武器を抱えるとともにそれにもたれかかっていた少年が、いっしょに転倒《てんとう》する。
「な――!」
絶句して、大男が叫《さけ》ぶのが聞こえてきた。
「なにしやがる! 二丁しかねえんだそそいつは――」
「念糸|能力《のうりょく》!? 念糸使いなのか?」
こちらの声は、ラズがあげたものらしい。
「どうしてくれるんだクソガキ!」
見やると、大男がこちらに突進《とっしん》してくるところだった。厳《いか》つい顔面を真っ赤に染めて、両手をあげて掴《つか》みかかろうとした瞬間、横からタックルしたサリオンとともに地面に転がる。勢いそのまま掴み合いとなるふたりを後目《しりめ》に、フリウは少年のもとへと進んだ。
完全に破損《はそん》した武器をかき集めようと無駄《むだ》な努力をしている彼を見下ろして、フリウはきつく閉《と》じて固まりかけていた唇《くちびる》をゆっくりと引き剥《は》がした。こちらの気配《けはい》に気づき、慌《あわ》てて後ずさりしようとする少年の髪《かみ》を掴んで、それを目の高さまで引っぱり上げる。
震《ふる》える肺《はい》を無理《むり》やりなだめて声を吐《は》く。
「……彼を死なせる気だったの?」
「死にたくなきゃ避《よ》けりゃいいんだよ――」
引っぱられる髪を両手で押《お》さえて、彼――フリウは思い切り、それを突《つ》き飛ばした。尻餅《しりもち》をついた少年に飛びかかる。
なにがどうというわけではなかった。ただがむしゃらに敵を掴み、そして引きずり倒し、倒されることを何度も繰《く》り返す。数秒か、数分か。どれほど続いたのかは分からなかったが、どちらかといえば数秒のほうが近かったのだろう。何度目かにようやく、彼の上に馬乗りになって喉元《のどもと》を押さえ込むと、フリウは絶叫《ぜっきょう》した。
「あんたなんか――どうせ誰も殺したことなんかないくせに――!」
「なんで分かるんだよそんなことが!」
「あんたみたいな奴《やつ》こそ、今のうちに死んじゃったほうがいいんだから!」
「大きなお世話《せわ》――」
苦痛から逃《のが》れようと、こちらの手首を掴んで喉から外そうとする彼の握力《あくりょく》の強さに悲鳴が漏《も》れかけるが、それでもフリウの指は外れなかった。自分でも分からなかったが、指の先に刺《とげ》でも生《は》えてそれが刺《さ》さったかのように、固まった指はびくともしない。
彼が、なにかを言おうと口を開いたが、それは言葉《ことば》にならなかった。あるいは、単《たん》に息を詰《つ》まらせただけだったのかもしれない。彼の顔が見る見るうちに紫色《むらさきいろ》に変化していくのを見下ろして、フリウはさらに力を込めた。手を外すことをあきらめた彼の拳《こぶし》が、何度も顔面を叩《たた》いてくる。痛《いた》みは感じたが、それほどのものでもなかった。明らかに、彼は力を失《うしな》っている。この少年のほうが、自分より体重も体力もあるのは疑《うたが》いないところだったが、酸欠状態《さんけつじょうたい》ではそんなものだろう。酸欠――
ぎょっとして、フリウは手を離《はな》した。首から上に昇《のぼ》っていた血液が一気に下がって、さらに視界を暗くする。それとともに悪寒《おかん》が走った。咳《せ》き込む少年を見下ろしながら。
と、背後《はいご》から声が聞こえてきた。振り向く。
「フリウ」
大男を地面に組み敷《し》いて――警棒《けいぼう》で首筋を完全に押さえつけた体勢《たいせい》で、サリオンが、ため息混じりに言ってきたところだった。
「……彼が、君をこの隊《たい》のリーダーにすることを認めてくれたようだよ」
「リーダー? あれか? 愚《おろ》かな部下を大勢抱《おおぜいかか》えて心労しこたま抱えつつ死ぬ時だけ先頭にいる。ところで小娘《こむすめ》、その無言《むごん》で向こうのほうを指さすのは、なんだかあっち行けと言われているようで気まずいぞ」
「あっち行ってて」
「小娘は気遣《きつか》いが足りん」
ぶつぶつとぼやきながらも、指さされた方向へと去っていくスィリーを見送って、フリウは息をついた――村を出てから第一夜。野営地から少し離れて、明かりだけはぎりぎりとどく林間地にいる。
「それで、サリオン……話って?」
「ああ」
サリオンは、背後のハンターたちを気にするように少し見てから、彼らが聞いていないと確認《かくにん》してあとを続けてきた。
「あの精霊《せいれい》のことだよ。本当は、話そうかどうか迷ってたんだ。変に希望を与《あた》えるようなことになってしまうのも、どうかとは思ったし……」
「どういうこと?」
聞く。彼はうなずいた。
「あれは、あの時、その……君のお父さんを連《つ》れ去った精霊なんだろう?」
「うん……」
フリウは、複雑にうめいた。
「厳密《げんみつ》には、精霊じゃないんだけど。でも精霊には違《ちが》いないかな。なんていうか、中に人が入ってるのよね」
「え?」
「いや、あんまり気にしないで」
「ああ……それで、村の人たちが言っていたんだよ。あの精霊、村を襲《おそ》ってなにを盗《ぬす》んでいったか」
「食べ物でしょ?」
目をぱちくりしてから、フリウは聞いた。サリオンが沈痛《ちんつう》に、かぶりを振《ふ》る。
「食べ物と、あと……布と、裁縫道具《さいほうどうぐ》」
「裁縫道具?」
「どういうことだと思う?」
「…………」
考える時間は、それほど必要なかった。なんとはなしに思い出すのは、あの精霊――マリオ・インディーゴが最初に現れた時に、彼女が服を着ていなかったことだが、それとは関係あるまい。突如《とつじょ》思いついて、思わず叫《さけ》ぶ。
「まさか?」
「うん。怪我人《けがにん》を治療《ちりょう》する……のに必要なものなんじゃないかって思う」
サリオンはさらに声の調子を落として、顔を近づけてきた。昼間、少年に殴《なぐ》られたせいもあって、あまり近くで見てもらいたくはなかったのだが。
なんにしろ彼は気にすることもなく、言ってきた。
「だとすると、いろいろつじつまが合うんだ。空を飛べる精霊が、こんなところで村を襲って食べ物を手に入れているのも、どこかで動かせない怪我人を介抱《かいほう》しているんだとすれば」
「それ……父さんのこと?」
「彼が生きている可能性《かのうせい》がある」
うなずいて地図を取り出し、サリオンは続けた。
「怪我人を匿《かくま》っているってことは、どこか風雨をしのげるところだ。それも、ある程度清潔《ていどせいけつ》さを保《たも》てるところ。村からそれほど離れてもいないはずだよ。少なくとも隣村《となりむら》よりも、あの村に近い場所なんだと思う……わざわざ遠い村を襲う意味《いみ》はないから。ただ」
と、顔をしかめ、
「もちろん……ただの希望的観測で、まったくの見当外れかもしれない」
「でも――」
フリウは身を乗り出すと、彼の手から地図をひったくった。広げて、見やる。
「絶対、絶対そうだよ。うん……きっと。どこが怪《あや》しいかな」
焦《あせ》る視線《しせん》があちこちを探すが、もとより地図にはたいした情報《じょうほう》は記《しる》されていなかった。大まかな地形と方位、そして――
「……廃城《はいじょう》?」
明らかにあとから、サリオンが印《しるし》をつけたものらしい書き込みを見つけて、フリウは読み上げた。
「精霊が飛び去った方位とは符号《ふごう》している。城といってもそれほど大きなものではないようだけど、隠《かく》れ家《が》にはうってつけだろうね」
彼の声は沈《しず》んでいた。こちらを落ち着かせようとしているのはすぐに分かる。が、冷静になどなれるはずもない。
「父さんが……生きてる……!」
「……かもしれない」
静かに付け加えるサリオンのことは無視《むし》して、フリウは、その地図を抱《だ》きしめるように両手で抱《かか》え込《こ》んだ。
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第五章 コナンドラム
(ひとつの難関)
精霊《せいれい》とは、なんなのか。
それは突発的《とっぱつてき》に生《しょう》じた。硝化《しょうか》の森とともに現れた。その発生を予言した者はなく、その発祥《はっしょう》を把握《はあく》した者すらいない。
それは無尽蔵《むじんぞう》に拡大した。硝化の森はゆっくりとではあるが確実に広がり、そしてその森には精霊が生まれ続けている。
それは人の理解《りかい》を拒《こば》んだ。精霊がなにか。それを答えられる者はいない。
「ひょっとしてさ」
思いつきで、フリウは問いかけた。
「あんたに聞けば分かるわけ?」
と、頭の上で気楽に浮《う》いている人《じん》精霊に聞く。スィリーは、問われて初めて思いついたというように目をぱちくりさせた。見上げたその人精霊のちょうど背後《はいご》に、月が見えた。傾《かたむ》いた精霊の羽の尖端《せんたん》がぴったりと、月の縁《ふち》をなぞっている。
やがて、スィリーは考え深げにうめき声をあげてきた。
「……さあ」
「まあ、期待してたわけじゃないけどさ」
軽く嘆息《たんそく》して、視線《しせん》を下ろす。
フリウは、円座《えんざ》で並《なら》んでいる男たちを――右隣《みぎどなり》にいるサリオンを除《のぞ》いて――順々《じゅんじゅん》に見やった。言うべきことは分かっているのだが、それを納得《なっとく》させられるかどうかは定かではない。
(……でもさ)
言《い》い訳《わけ》のつもりで、つぶやく。
(仕方《しかた》ないよね)
「だから、あたしたちが追ってるその精霊っていうのは、普通《ふつう》の精霊とはちょっと違《ちが》うの。つまり、その、殺したりしちゃ……駄目《だめ》なのよ」
「普通の精霊とは違う、ときたか」
優男然《やさおとこぜん》としたその顔を苦笑混《くしょうま》じりに歪《ゆが》ませて、アイゼンが声をあげた。隣の相棒《あいぼう》、剣《けん》を抱《かか》えて地面に座《すわ》っているラズと一瞬《いっしゅん》だけ視線を合わせてから、続ける。
「そもそも、普通の精霊ってやつを見てみたいもんだ。いいか、嬢《じょう》ちゃん――」
「俺《おれ》たちは何体もの精霊を捕《と》らえてきた」
合図もなしに、勝手に相棒《あいぼう》の言葉《ことば》を継《つ》いだのはラズだった。アイゼンも申し合わせたように、さらに続く。
「奴《やつ》らは化《ば》け物《もの》だ。そもそも生き物じゃない。なんなんだか分からない[#「なんなんだか分からない」に傍点]。しかもすこぶる強力だ。ちょっとでも気を抜《ぬ》けば、あっさりとこっちの首を持っていく」
「いや、それほどでも」
「お前じゃない」
余計《よけい》な謙遜《けんそん》を入れたスィリーに、律儀《りちぎ》に言い返してから、話の腰《こし》を折られた沈黙《ちんもく》を咳払《せきばら》いで濁《にご》し、
「……あの村に現れた精霊は、今まで俺たちが見た中でも最大の代物《しろもの》さ。手加減《てかげん》してどうこうなんて相手じゃあねぇぞ」
「ええと」
困り果ててフリウは、言葉を詰《つ》まらせた。どう説明したものか分からない。すべてを話してしまえば良いのかもしれないが、どういう形で話を進めても、話せないことに突《つ》き当たりそうではあった――ここ数週間に、自分の身に起きた出来事。考えてみれば、あの精霊は、いや精霊使いマリオ・インディーゴは、すべての発端《ほったん》だった。
(どうしよう)
我《われ》知らず、服の胸元《むなもと》を握《にぎ》りしめていた拳《こぶし》をゆっくりと開く。
と。
その手を軽く、叩《たた》いてくる指先があった。見やると、サリオンが少し身を乗り出して、口を開こうとしている。任《まか》せておけ、ということなのだろうが。
彼は、くぐもったような、低い声を発した。
「そう。あれは怪物《かいぶつ》だ――悪いが、君たちにどうこうできる相手じゃない」
「なんだと?」
気色《けしき》ばんだのは、アイゼンとラズではなく、もう一組のハンターだった。親子だという。実際に顔色を変えたのは父親だけで、少年のほうは特に関心もない様子《ようす》で、口を尖《とが》らせてあさっての方向を向いている。
だがその父親にしろ、サリオンが視線を向けると黙《だま》り込んだ。大男が言葉を呑《の》むのを確認《かくにん》するための時間だろう。その一拍《いっぱく》をしっかりと置いてから、彼は続けた。
「あなたご自慢《じまん》の武器《ぶき》は、さっき十分に見せてもらいましたよ。あれの射程《しゃてい》はそう長くない。そうでしょう? ちゃんとした威力《いりょく》を発揮《はっき》できるのは、十歩以内ってところじゃないですか? 忘れてはいないでしょうが、あの鋼《はがね》の精霊は空を飛びます」
大男が、図星《ずぼし》を突かれたのが傍目《はため》にも知れた。顔面を怒張《どちょう》させたまま、喉仏《のどぼとけ》だけを上下に一度|震《ふる》わせるのが見えた。
相手になにも言わせないまま、サリオンが嘆息し、両手を広げる――
「だが、ぼくらには、対抗策《たいこうさく》がある」
「念糸《ねんし》か? そんなもの、精霊相手にゃ一時《いちじ》しのぎにしか――」
サリオンは広げた手を、こちらに向けた。
「彼女は念糸使い。そして、精霊使いでも……ある」
「サリオン!?」
触《ふ》れられたような心地《ここち》で、フリウは眼《め》を見開いた――眼帯《がんたい》に覆《おお》われていない右眼《みぎめ》だけを。口をついて出た言葉にも、喘《あえ》ぎが混じった。
「な、なに言ってんのよ。あたしのは――」
彼の腕《うで》を掴《つか》んで抗弁《こうべん》するが、サリオンはまったく聞いた様子もなく、ただハンターたちを見据《みす》えているようだった。
そのハンターらは、きょとんとこちらを見返してきている。
「精霊使い……?」
ゆっくりと、アイゼンが指を上げた。その先が、こちらの頭上――くるくると回っているスィリーに向かったところで、止まる。
「……それか?」
サリオンは即答《そくとう》した。
「いや。そんなのは違《ちが》う」
「そうかぁ……ほっとした」
「貴様《きさま》ら、他人《ひと》を指さして、それだのそんなのだの、母親に聞かれて叱《しか》られないと思ってないだろな」
半眼《はんがん》でうめく人《じん》精霊のことは、とりあえず無視《むし》して。
フリウはさらに囁《ききや》きかけた。
「サリオン――」
が、彼はあくまで先を続けるつもりのようだった。こちらには答えないまま、足下《あしもと》に広げた地図を示《しめ》し、
「精霊が隠《かく》れ家《か》にしているのは、恐《おそ》らくこの廃城《はいじょう》だ――明日には着くだろう」
「根拠《こんきょ》は?」
「根拠?」
ハンターに問い返されて、サリオンが肩《かた》をすくめる。
「距離《きょり》と速度、かな」
「そうじゃない。なんで精霊が、その城に隠れていると分かる?」
剣《けん》を抱《かか》えて、目つきを鋭《するど》くしたラズに、サリオンはそれほど時間をかけず返事を返した。
「方角はそちらで間違《まちが》いない。で、それ以上遠くに行けば、別の村のほうが近い。あの精霊の目的がなんなのかは知らないが、わざわざ遠い村を襲《おそ》ったりはしないだろう」
「……筋《すじ》が通ってないとは言わねえけど、あんたら、なにか知ってることを隠してるように見えるぜ?」
「君だってなにか隠してることくらいあるだろう? 子供の頃《ころ》の恥《は》ずかしいあだ名とか」
「…………」
沈黙《ちんもく》は、ぎりぎりのところまで、険悪《けんあく》に傾《かたむ》きかけたように思えた。が、なんとかそこでとどまったらしい。ラズが、音を立てて鼻息を吐《は》きながら、
「別にいいんだけどな」
「そちらがそう言うのなら、あんたらに従うが」
と、こちらはアイゼン。腰を上げて、少し離れた場所にある自分たちの荷物《にもつ》のところへと向かいつつ、言ってくる。
「その話の流れだと、どうやら俺《おれ》たちに出番はなさそうなんだが」
「君が働かなかったとしても、君に給料を払《はら》うのはぼくじゃない」
サリオンが告《つ》げると、若いハンターも苦笑《くしょう》した。
「違《ちげ》ぇねぇや」
そのまま、ラズとふたりで離れていく。
親子は、なにを言うでもなく、もう立ち去っていた。やや遠い木陰《こかげ》でようやく落ち着いて、寝床《ねどこ》を作り始めている。子供のほうが、ひとりで。
黙《だま》ったままフリウは、その少年が手際《てぎわ》よく毛布を広げるのを眺《なが》めていた。標準よりやや痩《や》せたその少年は、名乗りもせず、また誰《だれ》も彼の名前を呼ばないため、いまだに名前も聞いていない。父親のほうは、名乗ったのかもしれない――が、よく覚えてはいなかった。さほど興味《きょうみ》もないが。
肩《かた》を叩《たた》かれ、我《われ》に返る。サリオンだった。
「さ、フリウ。寝床を作ろうか」
見上げて――見上げながらわずかに視線《しせん》を外して、フリウはうめいた。
「サリオン、あたし、あの精霊は、もう――」
彼は、笑ってみせた。
「分かってる。二度とあんなものは解放しちゃいけない。あの力に頼《たよ》ろうなんて思っちゃいけない」
聞きながら、その言葉はどこか空虚《くうきょ》に耳の奥《おく》へとこだました。彼の言葉《ことば》とはまったく別のことをふと思い浮《う》かべる。
(サリオンは、なんなんだろう……)
彼は、何者なのか。
ただの辺境警衛兵《へんきょうけいえいへい》。恐《おそ》らくは、もう警衛兵ではない。ほんの数週間前までは、顔も知らない他人に過《す》ぎなかった。その彼が、突然《とつぜん》現れて、彼女を知っているという。八年前の、彼女自身すらろくに覚えていないような事件《じけん》のことを持ち出して、彼がそれまで持っていたもの――平穏《へいおん》な生活や、仕事や、仲間《なかま》や、安全や、とにかくなにもかもを投げ出し、今、彼は自分といっしょにいる。
今もまだ、赤の他人であることには違いない。あの夜、彼はこちらに手を差し伸《の》べてきた。思い出せなかったが、自分は、あの手を握《にぎ》っただろうか?
(どうだったかな)
記憶《きおく》が曖昧《あいまい》というわけではない。ただ、思い出せることと思い出せないことの差が、あまりにも極端《きょくたん》だった。
なんにしろ、彼は変わらない表情《ひょうじょう》で、あとを続けてきていた。聞いていないつもりでいたのだが、彼の言葉を理解《りかい》できていたことが自分でも不思議《ふしぎ》ではあった。
「ただの方便《ほうべん》だよ。とりあえず明日までに、ぼくと君だけであの精霊をどうすればいいのか考えないと……」
「うん」
うなずきながらも。
(……そんな案、ないよ)
考えても無駄《むだ》だ。それは分かっていた。
結局《けっきょく》のところ、本当に精霊に対抗《たいこう》しようと思えば、こちらも精霊を使うしかない。精霊とはそういうものだ。
だとすれば――
(覚悟《かくご》を決めないと、いけない……)
マリオ・インディーゴが、父を連《つ》れ去ったのだ。取り返すためには、彼女と戦うよりほかないだろう。
そのための、武器《ぶき》。
(――に、なるの? これは)
眼帯の上から、閉《と》じた左眼に触《ふ》れる。その指先に、どこか冷たい感触《かんしょく》を覚えたような気がして、フリウは肩を震《ふる》わせた。
「ほほう」
いつものように、空中で器用《きよう》にあぐらを組んで、スィリーがつぶやくのが聞こえてきた。遠方を眺《なが》めつつ、
「あれが、その城か」
と、振《ふ》り向いて、
「この台詞《せりふ》、何度目だ?」
「八回」
フリウは即答《そくとう》した。
「くそっ。まただ」
大男が、舌打《したう》ちして毒《どく》づくのが聞こえてくる。左右を見回して、当たるものが見あたらなかったのか、地面を蹴《け》って唾《つば》を吐《は》き出した。
その唾を避《さ》けるようにして――というほどその大男が近くにいたわけでもなかったが、アイゼンが顔を背《そむ》ける。
「見えるのに、行けない[#「行けない」に傍点]とはな」
若いハンターはぐったりとそううめくと、天上《てんじょう》を――そろそろ南中《なんちゅう》しようとしている太陽を見上げた。
「夜明け前から歩いて、ろくに近づけもしないうちにこの時間だ。この分だと、着くのは日没《にちぼつ》以後になるぜ?」
「夜間に狩《か》りは無理《むり》だ」
言わずもがなのことを口にしたのは、ラズだった。これも半《なか》ばやつあたりなのだろうが、手に持っている短刀で、下草を切り払《はら》って道を広げながら、
「食料はなんとでもなるが、ぼやぼやしてる間にまたあの精霊が村を襲ったりすれば、あの村長、それこそ後金《あときん》は払えないとか言い出しかねんぞ」
「ンなことになったら、力ずくでも――」
と、わめき出す大男を遮《さえぎ》るように、サリオンが声を発した。
「そこまでだ。別のルートを探そう」
「なんでまたお前ら、いちいち遠回りすんのかね。こっから行くのが一番近いと思うんだが」
当然のような顔をして言ってくるスィリーに、フリウは嘆息《たんそく》した。彼が浮《う》いている下方を指さして、告げる。
「あたしたちは飛べないのよ」
彼女の指先には、大地に開いた大口のように崖《がけ》が広がっていた。その向こうに――遥《はる》か向こうに半分|崩《くず》れかかった砦《とりで》が姿《すがた》を見せている。
「だが、理屈《りくつ》に合わんぞ」
くるくると錐揉《きりも》み状《じょう》に回りながら近づいてきて、人精霊《じんせいれい》。
「誰も入れないような城なら、そもそも誰が建てたんだ? 地べたを這《は》いずるしかない哀《あわ》れな生き物でも通れるような道があるんだろ。どっかに」
「あったのよ。地図にはね」
うんざりと――何度も繰《く》り返した説明を、もう一度うめく。その地図を見下ろしながら、サリオンが続けた。
「最初に行った道がそうさ。ただ……橋が落とされていた。誰かがそうしたのか、もとから落ちていたのかは知らないけど」
「確かに、あの精霊には必要ないものだろうからな。なにしろ、飛べるんだ」
皮肉《ひにく》たっぷりに、大男が言ってくる。
「――で、どうするんだ? 昨日はさぞかし頭の良さそうなことをほざいておいでだったが。当然、崖を飛び越《こ》える名案もお持ちなんだろうな?」
「…………」
その沈黙《ちんもく》。サリオンは、恐《おそ》らく無視《むし》しようとしたのだろう――が、肩をすくめると彼は崖下《がけした》をのぞき込んだ。
「素人《しろうと》が下りられるような高さじゃない。できたとしても、ついでにまた登るとなると、それこそ何日もかかりそうだ」
「別ルートを探すしかないってわけだ。あるかないか分からんが」
「砦に入り口をふたつ作る馬鹿《ばか》はいないさ。で、その橋が落ちていた。見込《みこ》みは薄《うす》いな」
アイゼンとラズが、交互《こうご》にぼやき始める。最後にアイゼンが、聞いてきた。
「いっそ村にもどって、あの精霊がまた襲撃《しゅうげき》してくるのを待《ま》ち伏《ぶ》せするっていうのはどうだ? 村に多少の被害《ひがい》は出るだろうが」
「駄目《だめ》よ!」
反射的に叫《さけ》んでから、フリウは口をつぐんだ――が、きょとんとこちらを見つめるハンターたちに、躊躇《ためら》いながら告《つ》げる。
「……人のたくさんいるところで精霊を暴《あば》れさせたりしたら……駄目だよ」
「それはまあ、そうだが」
困り果てた面持《おもも》ちで、誰かがうめく。恐らくはラズなのだろうが、地面に目を伏《ふ》せていたため、よくは分からなかった。
「じゃあ、道を探すか」
ざわざわと――当て場所のない不平を口に、ハンターたちが道を引き返していく。フリウもきびすを返しながら、いまだ同じ場所で浮かんでいるスィリーに声をかけた。
「行くよ」
スィリーが言い返してくる。
「ひょっとしたらお前らも飛べるかもしれん、とか考えたけど無理か?」
「無理……いや、そうでもないかな?」
もしかして――と思ったわけでもないが、もう一度、崖下をのぞき込む。
風が渦巻《うずま》くだけの、広い空間が下方へと続いている。谷底は森になっていた。なにかの動物がいるのだろうか? この閉《と》ざされた世界には。
そんなことを考えていると、スィリーが小さくつぶやいてきた。
「とりあえず試《ため》してみると、人生観《じんせいかん》になにがしかをもたらすかもしれんな」
「その何秒後かには、人生終わっちゃうだろうけどね」
「フリウ?」
呼びかけられて振り向くと、サリオンだった。ほかのハンターはもう姿《すがた》がない。
「……どうしたんだ?」
聞いてくる彼は、奇妙《きみょう》なほどに不安げな表情を見せていた。しばらくぽかんと見上げてから、ふと気づく――自分がここから飛び降りるとでも思ったのだろうか? 彼は。
フリウは苦笑《くしょう》して、というより苦笑しようとして鼻をこすってから、口を開いた。
「なんでもないよ」
「はぐれないようにしないと」
と、彼がもと来た道を示《しめ》して、つぶやく。フリウはうなずいて歩きかけたが――また足を止めると、声をひそめた。
「これ……やっぱり、マリオがあたしたちを近づけまいとしている、ってこと?」
「かもしれないね」
彼もまた小声で答えてくる。
心臓がひとつ――それまでも絶《た》えず鼓動《こどう》を繰り返していたには違《ちが》いないというのに、明らかにそれまでと違うリズムでひとつ、大きく打つのを感じて、フリウは囁《ささや》いた。
「じゃあ、やっぱり父さんが生きていて、マリオが閉《と》じこめてるって――」
が、サリオンは平静だった。静かに、優《やさ》しい声で念《ねん》を押《お》してくる。
「そういうことかもしれないし、もっと別の理由があるのかもしれない。希望を持ってもいいけど、期待し過ぎるのはどうかな。あの時の、彼の傷《きず》……ぼくには致命傷《ちめいしょう》に見えたよ」
「……あたしだって刺《さ》されたよ」
「胸と肩《かた》とじゃ随分《ずいぶん》違うよ。それに、君の傷でさえまだちゃんとふさがっていないだろ? こんなところで、まともな治療《ちりょう》なんてできるとは思えないし」
「…………」
口をつぐむ。
サリオンの嘆息《たんそく》が、耳に入った。
「ごめん。でも、君をひどく落胆《らくたん》させることになりそうで、怖《こわ》いんだ」
「分かってる……ありがと、サリオン」
軽く頭を左右に振《ふ》りながら、なんとかつぶやく。肩と首にのしかかる、倦怠感《けんたいかん》にも似た空気の重さが、ひどく煩《わずら》わしいようでいて、それがなくなるのもまた怖くはあった。なにも分からない。なにも決められない。肩越《かたご》しに、遠く、谷をはさんだ廃城《はいじょう》を見やる。
(見えるのに、行けない)
そこに、答えがあるかもしれないのに。
と、物思いはサリオンの言葉《ことば》で途切《とぎ》れた。意識《いしき》をもどすと、彼はどこか口惜《くちお》しげにうめいていた。
「奇妙な気分だよ。生き返る死人がたくさんいるから、今回も、もしやと思ってしまう。良くないことだとは思うけど」
「え?」
聞き返す。彼は眉間《みけん》の幅《はば》を縮《ちぢ》めて、言い直してきた。
「ぼくが村にもどった時、黒衣《こくい》の死体は四人分しかなかった。あの殺し屋の死体もなかった。死体を隠すような物好きがいたとも考えにくい。じゃあ自分たちで歩いてどこかに消えたのか? でも、あの状況《じょうきょう》で奴らが生きていたなんて、到底《とうてい》信じられない」
「…………」
「あの黒衣が言ったこと、君は覚えてるかい?」
不吉《ふきつ》な口調《くちょう》で、彼がうめく――
「運命に許されない限《かぎ》り、決して死ぬことはない、とかなんとか……」
その内容にも、口調にも、神経のなにかが反発を覚えた。相手の言葉をふさぐつもりで、フリウは告げた。自然と、口が尖《とが》る。
「そんなの……なにかの呪《のろ》いみたい。気味悪《きみわる》いよ」
「そうだね。ぼくもそう思う」
サリオンのつぶやきは、どこか、あきらめにも似ていた。
道探しは難航《なんこう》した――というより、好転する材料がなにもないまま時間ばかりが過ぎた。ハンターたちの不平や、それに対するスィリーの無駄《むだ》な茶々《ちゃちゃ》|入《い》れなどを聞きながら、目的地への距離は一向に縮まらない。
「どうにもならんな」
うんざりと、大きな身体《からだ》を――特に、おかげで歩くのに余計《よけい》な苦労を背負《せお》い込んでいるに違いない太い肩《かた》を持てあまして、大男が漏《も》らす言葉は、ここ数時間ほとんど変わっていなかった。
「くそ、こんなもの、手間取るほどのことじゃねえんだ、本当はよ」
「なにか名案でも?」
意外《いがい》と根に持っているのか、サリオンがいつになく険悪《けんあく》な口調で言い返している。ハンターが即座《そくざ》にその喧嘩《けんか》を買って口を開きかけた、その時だった。
「痛《いた》っ!」
短い悲鳴が聞こえてくる。
「――ったっ、つっ……くそったれが!」
ひととおり毒《どく》づいて、アイゼンが声をあげた。
「ちょっと待ってくれ。穴に……つまずいた」
「穴?」
立ち止まりながら、聞き返す。見ると確かに、片足を膝《ひざ》まですっぽり、小さな穴にはめたアイゼンが、苦痛に顔を歪《ゆが》めている。
「なんでこんなところに穴が……」
不思議《ふしぎ》そうにうめくラズに、大男が鼻で笑って告げた。
「モグラの穴だろ。ぼんやりしてるからだ」
とりあえず、自分が一番近い――フリウはアイゼンに駆《か》け寄《よ》ると、肩を貸そうとした。が、彼はこちらに気づきもしなかったようで、穴にはまったまま動こうとしない。額《ひたい》に、次々と脂汗《あぶらあせ》が浮《う》かぶのが見えた。
「……どうしたの?」
聞く。アイゼンは無言《むごん》でかぶりを振ってみせた。
「おい――」
さすがに異常《いじょう》に気づいて、ラズとサリオンが近づいてきた。ふたりがかりで左右からアイゼンの身体《からだ》を支《ささ》えると、野菜でも抜《ぬ》くように、ハンターを穴から引っぱり上げる。
フリウは、小さく悲鳴をあげた、穴から出されたアイゼンの足には――足の裏から甲《こう》へ、木の根が突《つ》き刺《さ》さって貫通《かんつう》していた。その声につられたというわけではないだろうが、アイゼンがようやく苦悶《くもん》の声をあげる。
「あっ……く!」
「なんだこれは?」
サリオンが、アイゼンの足に刺さった根に触《ふ》れようとした。咄嗟《とっさ》に、告《つ》げる。
「サリオン、触《さわ》っちゃ駄目《だめ》!」
彼の手は止まったが、背後《はいご》から大男が、馬鹿《ばか》にするようにまた鼻を鳴らして、わめき立てた。
「安物の靴《くつ》を履《は》いてっからだ。運動靴か? 木の根っこが刺さるなんざ――」
「違うわ。これ……硝化《しょうか》の」
「え?」
疑問《ぎもん》の声をあげたのはサリオンだった。彼に向かってうなずいて、続ける。
「硝化した木よ……これ」
アイゼンの足に突き刺さっていたのは、硝化の森に見られる、結晶化《けっしょうか》した木の根だった――これは、並大抵《なみたいてい》の靴底《くつぞこ》など簡単《かんたん》に引き裂《さ》いてしまう代物《しろもの》ではある。
「ついてねぇ……な、くそ」
地面に横たえられたアイゼンが、自分の足を見下ろして、憎々《にくにく》しげにつぶやいた。
「それなりに北上したからな。硝化の森まで、何十キロかってところだろ。森が広がってるってのは聞いてたが、こんなところまで来てるのかよ」
「よくあることなのか?」
怖々《こわごわ》と、根に視線《しせん》を下ろしながら、サリオンが聞いてくる。フリウは、曖昧《あいまい》に首を振《ふ》った。縦《たて》でもなく、横でもなく。
「森が広がる時は、地下からだんだん硝化していく、っていうのは聞いたことあるけど……」
「故郷がやたらと広がってるってのは、なんだか複雑なもんだ」
なにやら重々しく、スィリーがうめいている――
「いったいどこで懐《なつ》かしがれって?」
「いくらなんでも遠すぎるだろう。それに、森も、時速何キロで広がってるってわけじゃないんだぜ」
荷物を下ろし、その口の中を探《さぐ》りながら、ラズ。彼が取り出したのは、手袋《てぶくろ》だった――硝化の森に入るために必要な、防護服《ぼうごふく》の手袋。それを両手にはめて、アイゼンの足を示《しめ》すと、
「押《お》さえてくれ」
「あ、ああ」
慌《あわ》ててサリオンが、アイゼンの右足を押さえつける。
「たいしたことだとは思わんな――なんにしろ、あんな精霊がここまで遠出してきた理由にはなるってもんだ。ここも硝化の森になるんだよ。商売できる土地が広がって、結構《けっこう》なことじゃねぇか」
遠巻《とおま》きに、腕組《うでぐ》みした姿勢でこちらを眺《なが》めながら、大男。少年はその隣《となり》でつまらなそうに、ぽっかりと地面に開いた穴を見つめている。
フリウがそちらを見、そしてアイゼンへと視線をもどした時には、もう作業は終わっていた――短刀ほども大きさがある硝化の木と、ついでにそれを掴《つか》んだせいでぼろぼろに破れた手袋とを適当《てきとう》に捨てながら、ラズが今度は袋から救急箱《きゅうきゅうばこ》を取り出している。
木の根と、そしてブーツに穿《うが》たれた隙間《すきま》からは、血の跡《あと》も見られなかった。というのにサリオンが慎重な手つきでそのブーツを脱《ぬ》がすと、アイゼンの足は血まみれになっている。唇《くちびる》を噛《か》んでしかめられていた彼の顔が、いっそうの苦痛《くつう》に変形した。
「もう歩けそうにはないな」
サリオンが言うまでもなく、それは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。うなずくアイゼンのあごから汗《あせ》が滴《したた》っている。
空を見上げて――森の木々の隙間からのぞく空はもう暮《く》れかかっていた――サリオンが提案《ていあん》する。
「ここを野営地《やえいち》にしよう。こうなったら焦《あせ》っても仕方《しかた》ないし、治療《ちりょう》もしないと」
「すまない」
アイゼンの声の震《ふる》えも、ラズに手際《てぎわ》よく手当てされるうちに多少は落ち着いたようだった。痛《いた》みが減《げん》じたわけではないだろうが、傷《きず》を受けたショックは収《おさ》まったのだろう。
フリウはようやく正気《しょうき》にもどった心地《ここち》で、アイゼンの頭のところにかがみ込んだ。
「……大丈夫《だいじょうぶ》?」
「鋭《するど》い傷はふさがるのも早い」
答えてくれたのは、ラズだった。余分《よぶん》な包帯《ほうたい》をはさみで切って整《ととの》えながら、
「まあそれでも、明日明後日《あすあさって》で歩けるようになるわけじゃないけどな」
「どうするの?」
「俺たちの狩《か》りはここで終わりだ。帰還《きかん》する」
あっさりと即答《そくとう》するラズに、アイゼンが抗議《こうぎ》しようと身を起こしかけたが、それを見越《みこ》したように剣士《けんし》は、包帯を巻いたばかりの仲間《なかま》の足を軽く叩《たた》いた――潰《つぶ》れるような悲鳴《ひめい》をあげて、アイゼンが再び倒《たお》れる。
ラズは相棒《あいぼう》に見えないように、こっそりこちらに向かって片眼《かため》を閉《と》じてみせた。変な色に染《そ》められた髪《かみ》が揺《ゆ》れている。
「帰還する。油断《ゆだん》してたこいつが悪い――ま、もともと今回の狩りにはツキがなかったようだしな」
「仕方ないか」
と、サリオン。ラズが笑いながら、
「ああ。俺らのためにここで野営する必要はない。あんたらは、狩りを続けてくれ」
「当たり前だ」
言ってきたのは大男だったが、特に誰も相手をすることなく、そのまま聞き流された。
サリオンが立ち上がり、もう一度聞く。
「本当に、ふたりで大丈夫なのか?」
「あんたみたいに、都会のアクセントでしゃべるような奴《やつ》にゃ分からんかもしれないが」
きっぱりと、ラズが告げる。
「ハンターを気遣《きつか》うなんざ、十年早い」
「分かったよ」
もう既《すで》に先行しようとしている親子の背中を目で追いながら、サリオン。
フリウは改《あらた》めてアイゼンの足を見やった。魔法《まほう》のように手際よく、きっちりと包帯が巻かれている。普段《ふだん》、硝化の森を歩き回っているようなハンターならばこの手の負傷《ふしょう》の手当ては日常茶飯事《にちじょうさはんじ》ではあるだろうが。
「あの……」
気後《きおく》れしながら、フリウはなんとか声をこぼした。アイゼンとラズが、そろってこちらを向く。彼らに頭を下げて、彼女は告げた。こっそりと、小声で、
「何回か、あたしのことかばってくれてたでしょ?……ありがとう」
はは、と笑ったのはアイゼンだった。地面に横たわったまま、手だけあげて軽く振《ふ》ってみせると、
「気にすんな。どうせなら、あの野郎《やろう》に一泡《ひとあわ》ふかせてやってくれよ」
と――巨大《きょだい》な武器《ぶき》の入った荷物《にもつ》を担《かつ》いで親子が歩いていく方向を指さす。
「分かった」
フリウはうなずくと、立ち上がった。こちらが遅《おく》れたことを怪訝《けげん》に思ったのかサリオンが立ち止まって、きょとんとした顔を見せている。
「どうしたんだ、フリウ?」
「なんでもないよ。お礼言ってたの」
それだけ答えると、サリオンのあとに早足でついていく――普通に歩いているとどうしても遅れてしまうため、自《おの》ずと急ぐことになる。
(父さんと歩いてる時も、そうだったっけ)
そんなことを思い出しながら――背後《はいご》から聞こえてくる会話が、耳に入った。
「……悪かったな」
「ああ、貸しとくが、返すためのいい手があるぞ。ほら、ミメントハンター基地の、アマンダ。彼女と一晩《ひとばん》、ふたりきりにしてくれりゃいい」
ふざけんな――という声と、あと数言の口汚《くちきたな》い罵《ののし》りとが聞こえてきたが、はっきりとは聞き取れなかった。
その後たっぷり数分も、アマンダに関する警告《けいこく》は続いた――近づくな、殺す、無理《むり》に用を作って話しかけるな、殺す、飲めもしないくせにボトルを入れるな、殺す。いくつかの容疑《ようぎ》をあげられながら、とりあえず分かったのは、自分の相棒《あいぼう》は存外《ぞんがい》に抜《ぬ》けているということだった。彼女にちょっかいをかけているのは自分だけではないのだが、それには気づいていないらしい。
適当《てきとう》に受け答えしながらラズは、話題を途切《とぎ》れさせないように気をつけることにした。アマンダの話題になれば相棒が発憤《はっぷん》するのは分かっていたし、それはこんな時――人里から離《はな》れた森の中で負傷した時には必要なことだった。アイゼンは歩けない。杖《つえ》を作って無理に歩かせたところで、気力が保《も》たないだろう。自分が運んでやるしかない。
(傷が深いからな……早く医者に診《み》せないと。急ぐ必要があるか)
どう急いだところで数日はかかるだろうが、思案《しあん》しても距離《きょり》を縮《ちぢ》める方法はない。ラズは、手当てのために出したものをバッグに詰《つ》め込《こ》むと、アイゼンに向き直った。相棒はいまだにアマンダについて、彼女と彼とが運命の夜に、いかに固く永遠《えいえん》の愛を誓《ちか》い合ったのかを――傍目《はため》には勘違《かんちが》いとしか思えない哀《あわ》れな思い出話を続けている。
「あー、分かった分かった」
とりあえずいったん話を遮《さえぎ》って、ラズは相棒に手を差し出した。
「なんにしろ、いつまでも寝《ね》っ転《ころ》がってんなよ。帝都《ていと》じゃあるまいし、歩かないでも向こうから医者がやってくるとでも思ってるんじゃないだろうな」
「分かってるよ。死ぬのなら、彼女の部屋《へや》でだ」
ぶつぶつとぼやきながら、アイゼンも起きあがろうと――
して、こちらを見上げ、そして硬直《こうちょく》するのが見えた。
勘《かん》としか言いようがない。相棒からの合図《あいず》があったわけでもなかった。が、アイゼンの察《さっ》した危険はそのまま自分にも伝わってくる。反射的《はんしゃてき》に身をかがめ、横に跳《と》ぼうとした時には、しかし、足首になにかが触《ふ》れるのを感じていた。
同時に、転倒《てんとう》する。
転がりながらも、なんとか受け身を取って跳《は》ね起きた。自分が置いた鞘《さや》が視界《しかい》の端《はし》に映《うつ》るよりも早く、手が拾い上げている。抜剣《ばっけん》するまで一呼吸《ひとこきゅう》もいらなかった。
怪我《けが》をしたまま立ち上がろうとしたアイゼンを、突如《とつじょ》現れた人影《ひとかげ》が手刀《しゅとう》で打ち倒すのが見えた。小柄《こがら》な体格には似合《にあ》わない大きな、地面に座《すわ》っていた相棒の身体《からだ》が一度|沈《しず》み込んで再び浮き上がるほどの一撃《いちげき》。背骨を仰《の》け反《ぞ》らせて昏倒《こんとう》するアイゼンを、軽く蹴飛《けと》ばして転がし――恐《おそ》らくこれは、邪魔《じゃま》だったので退《ど》かせただけなのだろうが――、こちらへと対峙《たいじ》してくる。
全身、黒装束《くろしょうぞく》に身を包《つつ》み、顔もまた黒布《こくふ》を巻《ま》いて隠《かく》している。隙間《すきま》から覗《のぞ》いている眼《め》だけが、異様《いよう》に鋭《するど》く意思《いし》を発《は》していた。第一印象は確かで、背丈《せたけ》はそれほどでもない。子供ではないだろう。体格はしっかりしている。
考えよりも、行動が早かった。抜いた剣を閃《ひらめ》かせて、斬《き》りかかる。
必殺の軌跡《きせき》を描《えが》き、白刃《しらは》が飛んだ。敵に逃《に》げ場《ば》を与《あた》えない、真横一文字《まよこいちもんじ》の一閃《いっせん》。が。
黒装束の男は、飛んできた虫でも避《よ》けるように軽く首をすくめると、あっさりと、剣の支配する領域の内側へと滑《すべ》り込んできた。腹の下方から突《つ》き込まれてくる拳《こぶし》が、いやらしいほどにゆっくりと見える。衝撃《しょうげき》はたった一度。骨のひとつひとつから丁寧《ていねい》に砕《くだ》かれるような痺《しび》れと、意識《いしき》の混濁《こんだく》。
息をすることもできず、だが自分の口から言葉《ことば》が漏《も》れるのを、ラズは他人事《ひとごと》のように聞いていた。
「黒衣《こくい》……!?」
「違《ちが》う」
その声は、夢の中で聞いたのか――
「……あんな青二才《あおにさい》どもといっしょにして欲《ほ》しくはないもんだ」
意識を失《うしな》ったラズには、よく分からなかったし、二度とそれを思い出すこともなかった。
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第六章 トラシィ・トラップ
(罠の道)
「……どう考えてもおかしくないか?」
サリオンがそうつぶやいたのは、四度目の異変《いへん》が起こった後だった。
なにが、といった異変とも言えない――が、なにかが起こっていることは間違《まちが》いない。
「いちいちうるせぇな、若造《わかぞう》が!」
ハンターが声を荒《あら》らげる。
「ビクついてるから、なんでもねぇことまで気になるんだ。てめぇがどうだろうが知ったこっちゃねぇが、耳障《みみざわ》りなんだよ!」
「…………」
サリオンは黙《だま》ったようだったが、表情《ひょうじょう》はまったく変わっていなかった。冷《ひ》ややかに警戒《けいかい》の視線《しせん》をゆっくり左右に振《ふ》っている。フリウは立ち止まると、彼が追いついてくるのを待った。もとよりそれほど離《はな》れていたわけではなかったが、手のとどくところまで近づくと、彼はそっと肩《かた》に触《ふ》れてきた。耳打ちするように、囁《ささや》くのが聞こえる。
「気のせいかもしれないけど……危険《きけん》だ」
「うん」
彼の手――包帯《ほうたい》の巻《ま》かれた右手を見ながら、うなずく。
「人生に危険はつきものだ」
例によって近くを飛んでいた人精霊《じんせいれい》が、つぶやきながら通り過ぎていく。
「が、危険な人生生きてる奴《やつ》なんざ見たことないな。何故《なぜ》だろか」
「人生はともかくとして」
フリウは首を傾《かし》げた。根拠《こんきょ》のない不安感が、肺《はい》を圧迫《あっぱく》して呼吸《こきゅう》を冷たくするのを感じながら。
「なんかすごく、嫌《いや》な感じがする」
「気のせいだと言ってんだろ!? 分かんねぇのか」
憤激《ふんげき》の顔色で――ハンターがさらに声を大きくする。顔面の髭《ひげ》に隠《かく》れていない部分は真っ赤に膨《ふく》れあがって、そのまま沸騰《ふっとう》しそうにも見えた。太さで言えばちょっとした木の幹《みき》ほどもありそうな腕《うで》を大きく振《ふ》り、その拳《こぶし》を見せつけるようにして、あとを続ける。
「お前らみたいなのが、ことあるごとに立ち止まって腑抜《ふぬ》けたことをしゃべくりあってる間にも、時間はどんどん過ぎてくんだ! じき、日も暮《く》れる。どうすんだ。ここまで来て、手ぶらで帰るつもりか?」
「帰るつもりなんてないわよ」
反射的《はんしゃてき》に、フリウは言い返していた。
「あたしだって、この狩《か》りは……やめるわけにいかないんだから」
「だったら黙ってついてくるんだな」
行く手に横たわる、巨大《きょだい》な古木を蹴飛《けと》ばしながら、大柄《おおがら》なハンターは言葉《ことば》を切った。
それは、数分前に、いきなり倒《たお》れ込《こ》んできたものだった――彼が先行して通りがかった瞬間《しゅんかん》に。こんな山奥《やまおく》を歩いていれば、木の枝や朽《く》ちかけた幹が割《わ》れて倒壊《とうかい》してくることなど、それほど珍《めずら》しいことでもない。
「――だろ?」
さほど面白《おもしろ》くもなさそうにそう説明《せつめい》して、ハンターは担《かつ》いでいる荷物《にもつ》を改《あらた》めて肩《かた》に乗せ直した。隣《となり》にいるその息子《むすこ》は、なんにしろまったく興味《きょうみ》ないのか、上《うわ》の空であたりを見回している。険《けわ》しい視線で。
「でも」
フリウはなんとか、食い下がろうと声をあげた。
「ちょうどあたしたちが通りかかったところで倒れてくるなんて……変じゃない?」
「人が歩けば地面が揺《ゆ》れる。揺れれば倒れかけていたものが倒れてくる。おかしいことはないだろが?」
「一度や二度じゃないのよ? 最初《さいしょ》のモグラの穴もそうだけど、さっきは木の根の下の地面が掘《ほ》ってあって、足引っかけて転《ころ》ぶようにしてあったし――」
「山犬が掘ったんだろ――」
「転んだ先に、わざわざ石が突き出していて、サリオンが膝《ひざ》を折っちゃうところだったんだから」
「あれだけでけぇ木が立ってんのなら、その根で地中の石が押《お》し出されてきて当然だろうが」
次第に大男の眼《め》が、険悪《けんあく》につり上がっていく。息を吸《す》って、そのまま――後ずさりしようにも、サリオンが背後《はいご》にいるせいでそれもできなかった――フリウは続けた。
「じゃあ、さっき休もうとした小川のところで、巣《す》が壊《こわ》されてて、出てきた蛇《へび》がうようよしてたのは?」
「毒蛇《どくじゃ》を食う獣《けもの》だっている」
そろそろ忍耐《にんたい》が尽《つ》きたのか、ハンターが完全《かんぜん》にこちらへと向き直る。今度は息ではなく唾《つば》を呑《の》んで、言葉を返すタイミングを失《うしな》っているうちに、背後から低い羽虫の飛ぶような音が聞こえてきた。一瞬《いっしゅん》スィリーかと思ったが、それはさらに低い人間のうめく音だった。
サリオンが、そのうめきを声へと変える。
「……どれかは偶然《ぐうぜん》で、どれかは故意《こい》のものなのかもしれない。すべてがそのどちらかかもしれない。なんにしろ、注意《ちゅうい》をすべきだと思うんですけどね」
「無警戒《むけいかい》に、ぼけっと歩いてるのはてめぇらだけだ」
苦々《にがにが》しい眼差《まなざ》しで、倒木《とうぼく》を見やり、
「だが、このまま進めそうにはねぇな。迂回《うかい》して――」
と、大男が巨体を回して、脇道《わきみち》に足を踏《ふ》み入れた。刹那《せつな》だった。
その身体《からだ》が消失《しょうしつ》した。突然《とつぜん》、跡形《あとかた》もなく。
悲鳴《ひめい》。というより罵声《ばせい》か。呆気《あっけ》にとられた観客《かんきゃく》を残して、ハンターの巨体は地下に吸い込まれると、派手《はで》な騒音《そうおん》を立ててどこかへ転がっていった。二、三度|瞬《まばた》きしてから、フリウは駆《か》けだした――素知《そし》らぬ顔をしている少年の横を通り過ぎて、大男が姿を消した脇道をのぞき込む。
とりあえず分かったのは、育った下草によって隠れてはいたが、その道の先が急な坂になっていたということだった――ほとんど崖《がけ》と言ってもいい。草を引きむしるように、ハンターの決して少なからぬ体重を支《ささ》えていた靴底《くつぞこ》が大きく滑《すべ》った跡が、はっきり残っていた。さらに首を伸《の》ばすと、数メートルほどの坂下で大男が倒れているのがうかがえた。気を失《うしな》っているのか、動かない。途中《とちゅう》で手放《てばな》したらしい荷物が点々と散らばっている。
「……脇道に注意。基本《きほん》すぎて誰《だれ》もが忘れている」
スィリーのつぶやきを聞きながら。フリウは、ため息をついた。
「こんなもんは、ただの偶然だ――それとも俺が、罠《わな》なんぞに引っかかる間抜《まぬ》けだとでも言いてぇのか」
大男の身体を引き上げるのには、ゆうに一時間を必要とした。手頃《てごろ》な木にロープをかけ、それを伝ってハンターの少年とサリオンとが大男の身体を支えて引き上げた。転落《てんらく》した男が、いつまでも失神《しつしん》していたわけではない。ただ、立ち上がれないほど手ひどく腰《こし》を痛《いた》めたらしい。
少し前に脱落《だつらく》したアイゼンとそっくりの姿勢《しせい》で――とはスィリーでさえ、あえて口に出さなかったが――地面に寝転《ねころ》がり拳《こぶし》を振り上げて怒声《どせい》をまくし立てるハンターに、サリオンの声は冷《ひ》ややかだった。
「あなたが滑《すべ》った地面の下には、穴を掘ったような跡がありました。踏み入れたら、そこでつまずくようにね」
「だからそんなもんは、モグラの仕業《しわざ》だっつってんだろうが!」
「もうどちらでもいいですよ。立てますか?」
「…………」
その沈黙《ちんもく》は、答えと同意《どうい》だった。振り上げていた拳が、ばたりとそのハンターの腹の上に落ちるのを見下ろしながら、サリオンが告《つ》げる。
「とりあえず、荷物もなんとか回収できました。でも正直に言いますよ。あなたと装備《そうび》、両方を担《かつ》いで運んでいくことはできそうにありません」
「シケたもんだ」
なんとか、威勢《いせい》を失いたくはなかったのだろう――激《はげ》しい吐息《といき》とともに漏《も》らしたハンターの声には、しかしそれほどの力も勢いも残ってはいないように聞こえた。
「こんなチャチな連中ばかりのチームで、精霊《せいれい》なんざ狩《か》れるわきゃあねえと分かっていたさ、くそっ。俺が若い時分、硝化《しょうか》の森に深入りした時にゃあ、本物のプロのハンターが大勢《おおぜい》集まって、どうしようもないトラブルだって楽しんでた。あの連中はどこへ行ったんだ?」
転落した際《さい》に切ったのか、唇《くちびる》に血がにじんでいる。その味を感じたのだろう。口を指でこすり、続ける。
「あれこそ本物の連中だったんだ! それが、くそ、こんな程度《ていど》のことで――」
「フリウ」
嘆息混《たんそくま》じりに、サリオンはこちらに向き直ってきた。視線《しせん》でちらりとだけ、寝たきりの大男のほうを指し示《しめ》してから、
「どう思う?」
「置いてっちゃったら駄目《だめ》かな。あたしたちだけで進んで――」
「そうじゃなくて」
答えかけたこちらを制《せい》して、サリオンがうめいた。
「やっぱり、罠《わな》なんじゃないかな、これは」
「う〜ん……」
腕組《うでぐ》みして、額《ひたい》を押《お》さえる。
「でも、なんだか変な感じがするんだけど」
「変な?」
「俺にも覚えがあるぞ」
口をはさんできたのは、スィリーだった。無意味《むいみ》にふんぞり返ったいつものポーズそのままで上方からゆっくり下りてくると、
「妙《みょう》にこう、胸が痛むというか、少し遅《おく》れた春の予感というかだな。ふと朝、目を覚《さ》ましたらむずむずそわそわと……まあ、こうしてカマキリに食われかけた経験《けいけん》を人に話すというのは一度きりにしておきたいところではあるが」
当然|無視《むし》して、フリウは続けた。訝《いぶか》しげに目をぱちくりしているサリオンの顔を見上げて、
「すごく無意味な気がして。だって、なんのための罠《わな》なの?」
「なんのためのって、そりゃあ、目的地にぼくらを近づけないための……」
「罠なんかなくたって近づけないじゃない」
「あ」
気づいたのか、サリオンが口を開けた。
自分の言葉《ことば》に説明された心地《ここち》で、フリウは何度かうなずいた。そのまま続ける。
「罠を仕掛《しか》ける意味なんかないじゃない? でもこんなにしつこく、仕掛けてある」
「それじゃ浅はかだ」
「うん……そうなのかもしれない」
あの精霊使《せいれいつか》い――マリオ・インディーゴの姿《すがた》を思い浮《う》かべながら、口の中でつぶやく。突然《とつぜん》、硝化の森に現れた彼女。父に抱《だ》きかかえられていた彼女。家に上がり込んできた彼女。黒衣《こくい》に叩《たた》きのめされていた彼女。負傷《ふしょう》した父をさらって、逃亡《とうぼう》していった彼女……
そして、数日前に、村長の屋敷《やしき》に飛び込んできた彼女。
そもそも、彼女は何者なのだ? ふと浮かんできた疑問《ぎもん》は、自分でも驚《おどろ》くほどに新鮮《しんせん》だった。
(そうだ。あの子は精霊じゃないんだ)
村に現れた精霊を狩って欲《ほ》しい――それが、村長の頼《たの》みだった。そのせいかもしれない。彼女は精霊ではなく、精霊使いなのだということをどこか理解《りかい》できずにいた。
精霊は、わけの分からない存在《そんざい》だ。人間の理解を拒《こば》む。しかし、精霊使いは同じ人間だ。行動するからには、たいてい目的がある。
(あの子が何者で、なんであんなことをしたのか……全然分からない。いろんな人が、父さんを探して村に来たけど、それも意味が分からない)
「まだ……なんにも分かってないんだ」
「フリウ?」
「あ、だから」
思索《しさく》を中断《ちゅうだん》して、言い直す。
「これが罠なら、なにか目的があるんだと思うの。だからよく考えて――」
と。
目の前をなにかが通過《つうか》した。頭上から、足下《あしもと》へ。瞬間《しゅんかん》、スィリーかと思ったが、それよりは遥《はる》かに大きい。虚《きょ》を突《つ》かれて失った言葉を思い出そうともう一度|記憶《きおく》を探《さぐ》り、それよりも先に、落ちてきたものがなんだったのか見なければならないと本能《ほんのう》が騒《さわ》ぐのを自覚《じかく》する。
それは、遥か上方の木の上から落ちてきたもののようだった。朽ち木が倒れた衝撃《しょうげき》で、遅れて安定を損《そこ》なったのだろう。
視線を下ろして、足下を見やる。
とりあえずフリウは、息を止めた。ほかにできることが思い浮かばない。
「……人生ってのは、いつだってそうだが」
スィリーが、ぽつりとつぶやくのが静かに響《ひび》く。
「じっくりいこうと思ってると、必ずなにかが急《せ》かすんだぁな」
地面に落ちて転がったのは、丸い塊《かたまり》だった。決して重量はないのだろうが、目に入った印象《いんしょう》はそれ以上に軽薄《けいはく》で、言ってしまえば益体《やくたい》もない代物《しろもの》に見えた。
じわりと鼓膜《こまく》に触《ふ》れるのは、低音の――そして高音に変じる――うなるような音。
それはどう見ても、蜂《はち》の巣《す》だった。
「逃《に》にげろー!」
誰《だれ》が叫《さけ》んだものか。
巣から無数《むすう》の黒い羽虫が飛び出すのを確認《かくにん》するより前に、フリウはその場から逃げ出した。
どれほど走ったものか。
それを測《はか》れるものは、破裂《はれつ》しそうなほどに伸縮《しんしゅく》を繰《く》り返す肺《はい》と、跳《は》ね回る心臓《しんぞう》と、混乱《こんらん》して切れ切れになった記憶《きおく》と――つまりは、そんなものしかなかった。怒《おこ》った蜂を振り切るほどに走ったのだから、それなりの距離《きょり》を逃げたことになるだろうが。
その問、罠にかからなかったのは運が良かったのか、あるいはかかっていたのに自覚するだけの余裕《よゆう》がなかったのか。それは自分でも分かりかねたが。ともあれ体力が尽《つ》きて、木の陰《かげ》にへたり込んだ時、五体が無事《ぶじ》だったのは間違いなかった。服の下に巻《ま》いている包帯《ほうたい》――だいぶ前に黒衣に刺された傷だが――も、大きくは解《ほど》けていない。
森の中が無音《むおん》になるなどということはあり得ない――硝化の森なら話は別だ――が、あたりはそれなりに静まりかえっていた。風の音。風による葉ずれの音。自分の呼吸。頭に上った血液《けつえき》が巡《めぐ》る脈動《みゃくどう》。いくら鳴っても騒がしくはならないそれら静寂《せいじゃく》の騒音《そうおん》の中で、フリウは地面に座《すわ》り込《こ》んだまま、あたりを見回した。
ひとつ分かったことは。
誰もいない。自分はひとりだということだった。
(どうしよう)
逃げてきた方向を、見やる。
空を埋《う》め尽《つ》くすほどに湧《わ》いて出た――ように思えた――蜂たちは、どこにも見えない。
(みんなちゃんと、逃げられたのかな)
慌《あわ》てて飛び出してしまったため、サリオンらがどうしたのか、どちらの方向に逃げたのかすら確認《かくにん》できなかった。倒れたままのハンターがどうなったのかも分からない。人精霊《じんせいれい》は……心配しても意味《いみ》のないことだとは分かっていたが。
と、雑音《ざつおん》に意味のある音が混じった。草を踏《ふ》み分ける音。
足音に、振《ふ》り返る――
が。
(…よりによって〉
フリウは頭を抱《かか》えそうになって、思いとどまった。険《けわ》しくなりかけた顔も眼帯《がんたい》に隠《かく》すようにややうつむき、声をかける。
「……あー……」
もっとも、実際に喉《のど》を震《ふる》わせてから、自分が相手の名前を知らないことを思い出し、そこで口を閉じるよりほかにない。
結局《けっきょく》は、そのせいなのだろう――相手の舌打《したう》ちを聞く羽目《はめ》になったのは。
「お前かよ」
吐《は》き捨てるような少年の声に、反射的《はんしゃてき》に飛び出しかけた言葉はなんとか呑《の》み込み、フリウは腰《こし》を上げた。相手は草むらから姿《すがた》を見せたまま、こちらを見下ろしている。
「ほかの人は?」
聞くと、彼は襟《えり》のよれたシャツをうるさそうに手で整《ととの》えながら――そんなことをするから伸《の》びてしまうのだろうが――、自分の服に向けるのと大差ない眼差《まなざ》しをこちらにも投げてきた。自分もだが、あの場に荷物を放《ほう》り出してきてしまった。彼も手ぶらになっている。
なんにしろ、答えは明快《めいかい》だった。
「知らねぇよ」
ついでに、わきを向いて唾《つば》を吐《は》く。
そのことは見なかったことにして、フリウはうめいた。
「でも、あなたのお父さん、動けなかったんでしょ? 蜂に襲《おそ》われたら――」
「なら、てめぇが担いで逃げりゃ良かっただろ。知ったことかよ」
「…………」
いちいち会話が続かないのは、なにが悪いのか。具体的には、恐《おそ》らくなにもないのだろうな、と胸中《きょうちゅう》でつぶやく。きっとなにもない。ただ、理由もなにもなく深い溝《みぞ》があるだけだ。
(……理由があるよりたちが悪いじゃない)
とも思うが。
「みんなと合流しなくちゃ」
「なんでそう思うんだ?」
少年はにべもない。さっさと身を翻《ひるがえ》すと、また茂《しげ》みの中にもどっていこうとする。
慌てて、フリウは追いかけた。
「ち、ちょっと! どこ行くの?」
「足手まといがないに越《こ》したこたぁねえだろ」
「足手まといって……」
思い浮かんだのは、どうしてかサリオンの顔だったが――スィリーは役にも立たない代わりに邪魔《じゃま》にもならず、あのハンターは他人であってどうでもいい――、すぐに彼の言っているのが、誰《だれ》がどうだというわけではなく自分も含《ふく》めて全員のことなのだと気づく。ほとんど反射的にではあったが、フリウは声をあげた。
「あんたひとりで、なにができるっていうのよ」
「あの精霊《せいれい》を狩《か》るのさ。決まってんだろ」
と言って彼が取り出したのは、例の水晶檻《すいしょうおり》だった――握《にぎ》り拳大《こぶしだい》の。門は開きっぱなしで、水晶玉は自《みずか》ら純白《じゅんぱく》の輝を発している。
「ずっと黙って、隙《すき》をうかがってきたんだ。この機《き》を逃《のが》すかよ」
「あんたひとりなら、あの城に行けるってわけじゃないでしょ」
「そう思うのはてめぇらだけだ。いつまでも、落ちた橋にこだわってろよ」
「え?」
聞き返しているうちに、少年はまた懐《ふところ》に水晶檻をしまい込んだ。半分下がったまぶたをほんのわずかだけ余計《よけい》に開いてこちらを見ると、ほとんど独《ひと》り言《ごと》のようにぼそりと、つぶやいてくる。
「浅はかだとか言ってたな」
「?」
言っていることが分からずに見つめ返していると、彼は表情《ひょうじょう》に不機嫌《ふきげん》な皮をもう一枚重ねた。
「自分で言ったことくらい覚えてろよ。罠《わな》だろ。誰が仕掛《しか》けたんだか知らねぇが、そんなに広範囲《こうはんい》を罠だらけにできるわきゃねぇんだ」
「う、うん……」
「じゃあどうするのかってぇと、近づいて欲《ほ》しくないあたりに重点的に仕掛けるのさ。かえって目印《めじるし》みたいなもんだ。確かに浅はかだよ。賭《か》けてもいいが、このあたりに隠《かく》された通路があるんだと思うぜ」
手品の種でも解説《かいせつ》するように、得意《とくい》げに鼻を上げる仕草《しぐさ》は、どこか人精霊によく似ていた。スィリーならばその口調《くちょう》で人生を語り、この少年はもっと実用的なことを口にする。
それでも、フリウはうめいた。
「でも、罠なのかどうかなんて分からないし……って、そりゃ確かにあたしが言ってたことなんだけどさ。でも、なんていうか人に言われてみるとすごくうさんくさいって」
「考える必要なんかあるかよ」
少年が即答《そくとう》してくる。
「こいつは罠だよ。それも素人《しろうと》まるだしの、へたくそな代物《しろもの》さ」
「……どうしてそう思うの?」
「あのなぁ。もの考えるのに、いちいち根拠《こんきょ》が要《い》るのかよ」
呆《あき》れ返ったのか、鼻を鳴らして、彼。
「一応は事故に見せかけていやがるが、あの城に近づいた途端《とたん》にノロマがひとり怪我《けが》して倒《たお》れた。今度は馬鹿親父《ばかおやじ》だ。奴ら底抜《そこぬ》けのうすのろだが、それでも硝化《しょうか》の森を歩き慣《な》れてるようなハンターだぜ? 不自然《ふしぜん》なんだよ。いいか? どんなことでも、不自然なことが立て続けに起これば罠なんだ。誰かが仕組んでるのさ」
「それ、おおざっぱ過ぎない?」
それは正直な感想だったのだが、少年は感情的《かんじょうてき》な反発と受け取ったらしい。さっさと打ち切ってきた。
「別にお前なんかが信じようとどうだろうと関係ねぇよ」
「……じゃあ、素人っていうのはなんで?」
「こんだけ罠にかかってるってのに、俺《おれ》たちは全滅《ぜんめつ》してねえ。間抜《まぬ》け以外のなんだってんだ?」
「それもおおざっぱだよ」
「だから関係ねぇって言ってんだろ」
(……どうすりゃいいんだろ)
少年の吐《は》き捨てた言葉に、軽く頭を抱《かか》える。彼くらいの年齢《ねんれい》――つまりは同年齢――は、どうにも苦手《にがて》だった。なにを話せば良いのか分からない。もっともそういった意味では、ここ数年、父以外の人間とはほとんど話したことがなかったのだから、特にこの少年だけが苦手というわけでもなかったが。
こちらが黙っていると、それはそれで間《ま》が悪いと感じたのか、少年は続けて言ってきた。歩きながら後ろを向いて、
「いいか、俺《おれ》は一人前のハンターだ。あのくそ親父、俺の取り分まで当然じみた顔して自分のものにしやがるが、俺だってコツコツくすねて、水晶檻《すいしょうおり》を手に入れたんだ。今度の狩《か》りで、こいつに本物の精霊《せいれい》を閉《と》じ込めれば、俺はあいつから独立《どくりつ》できる。あのガラクタみてぇな武器《ぶき》で貴重《きちょう》な精霊をぶっ飛ばそうとしている馬鹿親父とは違《ちが》うんだよ。いいか、足を引っぱるんじゃねぇぞ」
「引っぱらないけど」
嘆息《たんそく》混じりに、フリウは告げた。
「あの精霊は……そんなに簡単に捕《つか》まえられないよ」
「なんでそんなことが分かるんだ?」
興味《きょうみ》を引いた――わけではないだろう。少年の声には、嘲《あざけ》りが含《ふく》まれているのが知れた。やっかみから絡《から》んでくる無知《むち》な娘《むすめ》に対する口調《くちょう》と思うと、それはどうしようもなくしっくりくるように思えてならなかった。実際、彼がそう思っているのは疑いないところだろうが。
フリウはかぶりを振ってみせた。
「だってあれは――」
精霊使いが手懐《てなず》けている精霊なのだ。
そう言いそうになって、口をつぐむ。
説明《せつめい》したところで、この少年の返事は予想できた。考えるまでもない。つまり――関係ねぇ。知ったこっちゃねぇ。
(……この子にしてみれば、本当にどうでもいいことなんだろうね)
軽い落胆《らくたん》を味付けにしながら言葉《ことば》を呑《の》んで、フリウは独《ひと》りごちた。
(ハンターは、精霊の怖《こわ》さを知らない[#「知らない」に傍点]もの)
ハンターでない者は、精霊を恐《おそ》れる。それはあまりに理不尽《りふじん》で、無意味《むいみ》な存在であるから。
ハンターはその精霊を狩る。精霊を知っている。だから恐れない――精霊の脅威《きょうい》を知りながら、知っているがためにその恐怖《きょうふ》を麻痺《まひ》させている。
だからなのだ、ということは分かっていた。なんとはなしに、眼帯《がんたい》の上から左眼《ひだりめ》に触《ふ》れる。自分がハンターとしかつき合えないのは、彼らが精霊を恐れないからにほかならない。もっとも、
(あたしの眼の中に、どんな精霊がいるのか知ったら、ハンターたちだって同じなんだろうけどさ……)
と。
少年が立ち止まっていることに気づいて、踏《ふ》み出しかけた足を慌《あわ》てて止める――不必要に近づくことは、なんとはなしに抵抗《ていこう》を感じた。が、そもそも彼はこちらのことなど気にしてもいなかったようではある。視線《しせん》は行く手の方向を向いていた。
「……どうしたの?」
なにかを警戒《けいかい》しているらしい少年の背中《せなか》に、フリウは問いかけた。しっ、と声で制してから彼が答えてくる。
「なにかいる」
「なにって?」
「……俺は鼻が利《き》くんだ。人の気配《けはい》がする」
「サリオン?」
思わず安堵《あんど》して、フリウはその少年の向こうに、元|警衛兵《けいえいへい》の姿《すがた》を見つけようと身を乗り出した。が、目の前に手のひらが差し込まれるのを見て躊躇《ちゅうちょ》する。
少年の手に行く手を遮《さえぎ》られ、フリウは顔をしかめて声をあげた。
「なに?」
「違う。あんな間延《まの》びした野郎《やろう》が、足音消して歩けるもんか」
少年は言いながら手を引っ込めて――こちらが噛《か》み付くとでも思ったのだろうか――、さらに草むらに隠れるように体勢《たいせい》を低くしている。それに倣《なら》って身をかがめたのは、彼の声に含まれていた危機感《ききかん》に同意《どうい》できたというよりは、単《たん》に相手の話を聞くために視線の高さを合わせたに過《す》ぎなかった。聞く。
「じゃあ、誰。が――」
「決まってんだろ。罠を仕掛けた野郎さ」
言うが早いか。
彼は、草むらから飛び出していった。一瞬《いっしゅん》で姿を消すと、さほどの物音もなく数秒後たった一回だけ、激《はげ》しい衝突《しょうとつ》の音だけが聞こえてくる。
フリウも遅《おく》れて、そのあとに続いた――踏み分けた跡《あと》すら残っていない下草をかき分けて、恐《おそ》らく彼が駆《か》けていったと思しき方向へとついていく。一歩を進むごとに、驚愕《きょうがく》が胸の中に広がった。あの少年は、思った以上に長い距離《きょり》を駆けていったらしい。そのわりには足音も足跡もなく、いつまで経《た》っても彼の姿を見つけられない。
はぐれたかもしれない。と、覚悟《かくご》を決めかけた瞬間、見覚えのある背中が視界《しかい》に入った。少年が、戦う姿勢《しせい》のようなものを取ったまま立ち尽くしている。右の拳《こぶし》に引っかかるようにして、黒い布《ぬの》が垂《た》れ下がっていた。
(黒い布……?)
数秒前までは、少年はそんなものは持っていなかった。なにかと接触《せっしょく》したのならば、それから奪《うば》い取ったものだろう。黒い布を身に着けた相手から。連想するものは、ただひとつだった。
「黒衣……?」
声が漏《も》れるのを止められない。と、その声に反応《はんのう》して、少年が振《ふ》り向いてきた。
「なんだ?」
「あ……いえ、なんでもないの」
手を振って、取り消す。たった一瞬のことだったが、冷《ひ》や汗《あせ》がかえって体温を上げていた。訝《いぶか》りながら少年が、手に引っかかったその黒布《こくふ》を足下《あしもと》に捨てる。
拾い上げる気にはならなかった――それに毒《どく》が塗《ぬ》ってあるというわけでもないだろうが。だがよくよく見てみれば、それは数週間前に見た黒衣が着けていた装束《しょうぞく》とは、まったく異なるものではあった。
再びあたりを警戒しながら、少年が言ってくる。
「やっぱり、誰かいたぜ。すぐ逃げちまったけど、その布だけ剥《は》ぎ取ってやった。顔に巻いてやがったんだ」
「…………」
「ちらっとだけど顔が見えた。たいした奴じゃねえ。すぐにとっつかまえて、通路の在処《ありか》を吐《は》かせてやる」
「……あ、あのさ」
気になって、フリウは問いかけた。
「どうして、その……あなた、だんだん……座《すわ》ってくの?」
「座ってる? 誰がだ」
本気で気づいていないのか――
少年は、ゆっくりと地面にひざまずきながら、そんなことを聞き返してきた。顔面に、流れるほどの脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべている。見ているうちにも、膝《ひざ》が震《ふる》えて、身体《からだ》を支《ささ》えられなくなっているのか、だんだんと身体を沈《しず》めていく。やがて地面に手を突《つ》いて、ようやく彼も自覚《じかく》したようだった。
「な、なんだ……動け……ねぇ」
「あ、足!」
フリウは叫んだ。指さして、駆け寄る。が、彼女が触《ふ》れるより先に、彼が自分でその傷口《きずぐち》を両手で包み込む。再び少年が手を広げた時、手のひらには血がついていた。
彼のズボンに、黒い模様《もよう》が広がっていく。ぽっかりと、直径《ちょっけい》一センチほどの穴が腿《もも》に開いているのが見えた。
「嘘《うそ》……だろ? あの野郎、武器《ぶき》なんか持ってなかったのに……あの一瞬で?」
「どうしたの?」
「ほんのちょっと、触れられただけなんだ……のに、くそ、指を突き刺した? そんなことができるのか? くそ、くそ――」
舌打《したう》ちを繰《く》り返して毒《どく》づく少年に、フリウは手を差し出した。熱に浮《う》かされたように、彼は不信《ふしん》を訴《うった》えている。自分の身に起きたことに対する不信。が、かまってはいられない。
「掴《つか》まって。逃げないと。あ、傷の手当てが先かも……」
「そんな暇《ひま》あるか。敵がすぐ近くにいるんだぞ」
半《なか》ば以上やつあたりだろうが、凶暴《きょうぼう》な光を映《うつ》した少年の眼がこちらを向く。それを睨《にら》み返して、フリウはうめいた。
「どうしようっていうのよ」
「お前、念糸使《ねんしつか》いなんだろ? だったらなんか役に立ってみろよ」
「そんなのって――」
言い合っている暇がないことは分かっていた。彼が飛び出し、そして負傷《ふしょう》してから、まだ一分と経《た》っていない。
敵は近くにいる。しかも――
(マリオ……じゃないよね?)
あの精霊使《せいれいつか》いの少女に、こんな手際《てぎわ》の良い真似《まね》ができるとは思えない。そもそも、その必要もないだろう。精霊を使ったほうが手っ取り早い。
が。
(それって、わけが分からないじゃない)
父をさらっていったのはマリオ・インディーゴ。村に姿《すがた》を見せたのも彼女。それは間違《まちが》いない。
当然、このあたりに罠《わな》を仕掛《しか》けたのも彼女だと思っていた。なにかの妨害《ぼうがい》があるのならば、彼女に違いないはずだった。
「あの……」
混乱した頭をなんとか元にもどそうと、フリウは声をあげた。苦痛《くつう》にうめく少年に、
「あなたをそんな目にあわせた相手って……どんな人だったの?」
「どんなもこんなも、ちらりとしか見えなかったって言っただろ」
「女の子……だった?」
「ああ?」
その発想は、よほど意外だったのか、少年は声を裏返《うらがえ》らせた。
「んなわけがねぇだろ。でも、そうだな。それほどでかくはなかった。おかげで油断《ゆだん》しちまった……」
(誰よ)
まったく分からない。
(ひょっとして……あたし、まったく見当《けんとう》違いのものを追いかけてるの?)
なんとはなしに、地面に落ちた黒布《こくふ》に手を伸《の》ばす――一度|戸惑《とまど》いはしたものの、フリウはそれを拾い上げた。なんの変哲《へんてつ》もない、ただの黒布に過ぎない。黒衣の仮面ではなく、無論《むろん》のこと鋼《こう》精霊でもない。
音が響《ひび》いた。
ぞっとして、振《ふ》り向きそうになる。が、音を立てたのは少年の身体だった。痛みと出血で気絶《きぜつ》したのか、完全に倒れて呼吸だけを荒《あら》らげている。窒息《ちっそく》しないうちに、フリウはうつ伏《ぶ》せの彼の身体を仰向《あおむ》けに転《ころ》がした。これで当面問題はないだろうが、止血《しけつ》だけはしたほうがいいだろう。もっとも、そのための道具がないが。
(……せめて、はさみくらい持ち歩いてれば良かった)
そうすれば、傷口《きずぐち》の周りの布を裂《さ》くことができる。複雑《ふくざつ》な装備《そうび》ベルトを外して、彼のズボンを脱《ぬ》がせることは難《むずか》しいし、そもそも気が引けた――もっとも仮にどうできたところで、傷口をふさぐあて布も包帯《ほうたい》もないが。
「どうすれば……」
どうしようもなく、ただアイゼンが負傷した際《さい》に手際《てぎわ》よく手当てをしていたラズのことを思い出す。たいていのハンターならば、あの程度《ていど》のことはできるのだろうが。
とりあえず、手に持っていた黒布を傷口の上にきつく縛《しば》り付けることにした。うわごとか、ただのあえぎ声か、意味不明のつぶやきを発している少年に告《つ》げる――
「サリオンを捜《さが》してくるね。すぐにもどるから」
無理《むり》だ。
自分の声が、自分を諭《さと》すのがはっきりと聞こえた。
「あんたのお父さんでも、もしかしたらアイゼンでも、ラズでもいいや……スィリーじゃ駄目だけど。とにかく誰か見つけて、連《つ》れてくるから。あたし……あたしじゃ、なにもできないから」
なにもできない。
実際、ここ数日――いや、そもそも生まれてからこの方《かた》、なにもしていないような気もする。狩《か》りは父に頼《たよ》っていた。村にあの異変《いへん》が起ごった時、助けてくれたのはサリオンだった。その後、自分を助けてくれたのもサリオンだった。今回の行程《こうてい》も、人についてきただけで、なにもしていない。
(なにも……)
拳《こぶし》を固めて、立ち上がる。底冷《そこび》えのする気配《けはい》と、衝動《しょうどう》とが背骨《せぼね》を這《は》い上がってくるのを感じながら。
(あたし、なにもできない)
せめて――
せめて、得体《えたい》の知れない敵がいる場所から逃げ出して、誰かを見つけてもどってくる。その程度のことはしなければならない。
その程度のことができないのであれば、自分はいったい、なんなのか。
駆け出す方向は、勘《かん》で選んだ。どのみち方向|感覚《かんかく》は、とうに失《うしな》っていた――蜂《はち》から逃げ出した時、どちらから走ってきたのかまったく分からない。その敵とやらが、どこに隠れているのかも探《さぐ》りようがない。すべて出会《であ》い頭《がしら》にうまくいってくれることを祈《いの》るしかなかった。あるいは。
「誰かー!」
走りながら、渾身《こんしん》の力で叫《さけ》ぶ。
「誰か、来て! 怪我人《けがにん》がいるの!」
仲間が誰か、聞きつけてくれれば――
刹那《せつな》。
視界《しかい》をなにかが横切った。いや、目の前に数本の線が波打つように走るのが見えたというほうが正しいか。銀色に輝《かがや》く細い線が、複雑に脈打《みゃくう》って膨《ふく》れあがる。フリウは咄嗟《とっさ》に身をかわそうとしたが、無駄《むだ》であることは分かっていた。この線からは逃《のが》れられない。人間より遥《はる》かに速いスピードで自分の身体に巻《ま》き付くと、余計《よけい》なほどに揺《ゆ》れていたその線が、一直線に伸《の》びきって弛《ゆる》みをなくす。
(……念糸《ねんし》……!)
触《ふ》れることも振《ふ》り解《ほど》くこともできない思念《しねん》の通路が、背の高い下草の向こうから彼女の身体を捕《と》らえていた。
対抗《たいこう》は、自覚的《じかくてき》なものより速かった。可能《かのう》な限りの速さで、自分も念糸を解《と》き放《はな》つ。念糸によって相手を捕《つか》まえるのには、五感は必要ない。特に、敵が自分を念糸で捕らえているのならば、その念糸を逆行《ぎゃっこう》して自分もまた相手を捕らえることは容易《ようい》だった。
草むらの向こうに彼女の念糸が突き刺さるように伸び、そして何者かの身体を掴《つか》んだ感触《かんしょく》が――五感にではなく――伝わってくる。
(向こうのほうが先だった……ってことは、こっちがやられるほうが早い……?)
念糸に念を注ぎ込む。そしてなんらかの結果をもたらす。それには少なからぬ意志《いし》の力と、ほんのわずかな時間とを要する。
だが、それこそ迷っていられる時間などはなかった。相手の念糸が、自分の身体にどのように作用するのかは分からないが、万に一つ、それに耐《た》えられる可能性もないわけではない――頸骨《けいこつ》が砕《くだ》けても生きていられる可能性を信じるようなものだが。それでもそれを信じて、フリウは最大の力で念糸に命じた。
結果を見ることはできないかもしれない。きつく眼《め》を閉《と》じて、力を込め続ける。草むらの向こうで、念糸の先で、相手の身体が大きくねじり上げられ、変形していく感触、その不快感に、指先が震《ふる》える――
(……違《ちが》う!?)
唐突《とうとつ》に、フリウは悟《さと》った。まぶたを開けると、行き場を失った彼女の念糸が、あたりを漂っていた。夢でも見ていたように、彼女を捕まえていたはずの念糸も消え失《う》せている。
その代わりに、眼前《がんぜん》に男が立っていた。
老人だった。それほど身体は大きくない――少年の言っていたことを思い出す。傷のように鋭《するど》い眼差《まなざ》し、引き結ばれた口元。黒装束《くろしょうぞく》に身を包んだその老人は、厳《きび》しくこちらを見つめてきていた。
金髪《きんぱつ》と白髪《はくはつ》の中間ほどだろうか。短く刈《か》り上げられた髪は、風にも揺れない。森の中で、その老人だけが静止した絵画のように動きを止めていた。その拳は腰《こし》のあたりにあって、先端《せんたん》をこちらに向けている。
身を固めて、フリウにできたのは、たったみっつのことでしかなかった。ひとつは、敵が自分の身体のどこに風穴《かざあな》を開けるつもりなのかと心配すること――ひとつは、それに備《そな》えて覚悟《かくご》を決めること。
そして最後にひとつ、逃げだそうとすることだが、それはまったく間に合わなかった。老人の手の先が一瞬《いっしゅん》でかき消えて、
(……死んだっ!?……)
と思った瞬間には、右手首をひねり上げられ、身動きが取れなくなっていた。
「痛い痛い痛い!」
悲鳴《ひめい》をあげるが、老人はまったく頓着《とんちゃく》しない冷静《れいせい》な声音《こわね》で、
「わしに、お前の念糸は通じない。抵抗《ていこう》はするな、フリウ・ハリスコー」
「…………!?」
脈絡《みゃくらく》もなく名前で呼ばれ、聞き返す間もなく老人は続けてきた。
「お前には選択肢《せんたくし》がある。黙《だま》ってわしについてくるか、わしに無理やり連れて行かれるかだ。どちらの道も、あの救いがたいドアホウのもとへと続いている」
「ドア?」
「ベスポルト・シックルドのことだ。ほかに誰がいる?」
そう言って――
老人は、手を放してくれた。
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第七章 ブレスレス・トーキング
(誘い)
それで結局《けっきょく》、自分というのはこんなところで溺《おぼ》れ死《じ》にするわけだ。
サリオン・ピニャータの、それが人生の最期《さいご》に思いついた言葉《ことば》だった。
走馬灯《そうまとう》というのは嘘《うそ》だ――そう思う。なにも浮《う》かんでなどこない。ただあるのは、冷たい水の中でもがく圧迫感《あっぱくかん》と恐怖《きょうふ》、いや畏怖《いふ》か? なんにしろ手足は痺《しび》れ、もう自分が思っていたほどに動いていなかった。単《たん》に、水に流れているだけなのか。頭の上に光が見える。光とともに揺《ゆ》れる、水面《みなも》の裏側《うらがわ》。
嘘だ。そんな深さがあるわけがない……なんでこんなところで死ななけりゃならないんだ!
憤懣《ふんまん》が爆発《ばくはつ》する。もう動くまいと覚悟《かくご》していた腕《うで》が、新たに水を掻《か》きむしった。死ぬわけにはいかない。自分ひとりではないのだから、死ぬわけには。
なにかに引き上げられた。すさまじい轟音《ごうおん》――あとにして思えば、それは水を割《わ》る小さな音でしかなかったのだろうが――に押《お》し上げられ、首を伸《の》ばす。喉《のど》が膨《ふく》れて、酸素《さんそ》を求めて肺《はい》があえいだ。が、多少水を飲んだせいか、うまく空気が吸《す》えない。咳《せ》き込《こ》みながら、なんとか目を開いて意識《いしき》を保《たも》とうとする。
「……ったくよ」
聞こえてきたのは、呆《あき》れ果《は》てたような、そんな声だった。
「腰《こし》をやっちまった俺《おれ》が、どうして溺死《できし》する若造《わかぞう》を助けられると思う? まあそれが、ハンターだってことだ。分かったか若造」
「…………」
その頃《ころ》には、なんとかまともに話ができるようになっていた――これは異常《いじょう》な早さではないかと自分では思えたのだが、こちらの腕を引っぱり上げながら俯瞰《ふかん》している呆れ顔の大男の表情《ひょうじょう》からすると、それほどのことでもなかったのかもしれない。あるいは自分の知らないうちに、かなりの時間が経《た》ったのか。後者《こうしゃ》なのだろう。
サリオンは、まだ下半身は川にはまったままで、なんとか身体《からだ》の平衡《へいこう》を取ろうと足を突《つ》っぱった。深度はやはり、たいしたことはない。足が着きさえすれば、水面《すいめん》は腰までしかなかった。顔の滴《しずく》を拭《ぬぐ》って、うめく。
「……蜂《はち》は?」
ようやくなんとか、臨死体験前《りんしたいけんまえ》の記憶《きおく》が蘇《よみがえ》ってきていた。岸《きし》に寝《ね》そべるような姿勢《しせい》でこちらの腕を取っていたハンターは、鼻をこするような音を立てると、その手を放した。
「なんとかあきらめてくれたようだぜ。てめぇが水死体になる前で良かったな」
腰を痛めて、動けなかったはずだ――
腑《ふ》に落ちない心地《ここち》で、サリオンは独《ひと》りごちた。見るとハンターは自分と同じくずぶ濡《ぬ》れで、彼もまた川の中にいったん逃げ込んだのは間違《まちが》いない。だというのに、彼だけはさっさと岸に上がって自分のことまで助けてくれている。
(ハンター、か)
どういう身体の造《つく》りをしているのかは分からないが、確かに自分とは違うらしい。
腰が動かないのは今でも変わらないはずだ――当たり前だが。地面に寝転《ねころ》んだまま、大男は言ってきた。
「ほかとははぐれちまった。俺たちだけだ」
「フリウは?」
ぎょっとして、聞く。大男は肩《かた》をすくめてみせた。怪我人《けがにん》の限界《げんかい》と言うべきか、前のように大仰《おおぎょう》にとはいかなかったようだが。
「はぐれたと言っただろ」
「はぐれたって――どっちに逃げたんだ」
「分かるかよ。俺はてめぇに担《かつ》がれてきただけだ。むやみにぐるぐる逃げ回ってくれたおかげで、もときた方角もよく分からねぇ。地図もなくしたな?」
「……ああ」
懐《ふところ》を探すまでもなく認《みと》めて、サリオンはうなだれた。
なんとか川から這《は》い上がりながら、あたりを見回しても位置の手がかりひとつない変わらぬ森の中だった。手の打ちようもない。
「最悪《さいあく》だ」
水で湿《しめ》った土に爪《つめ》を立て、身体を引き上げ、毒《どく》づく。腕に入りかけた力はすぐに抜けた。浮力《ふりょく》を感じながらも、体重を持ち上げられない。水に濡れた服のせいではないと、それは分かっていた。
「最悪だ。はぐれるなんて。あの子は……病人なんだ」
それが適切な言い様であるかどうか、確信はなかったが、自分でも不思議《ふしぎ》なほど口調《くちょう》だけはしっかりと彼はうめいた。
「ひとりじゃ、まだ自分の面倒《めんどう》も見られない。誰かついてないと」
「それが、てめぇか?」
ハンターの気のない返事に、再び沈《しず》みかけた身体がぎりぎりで止まる。
奥歯《おくば》を摺《す》り合わせる不快感《ふかいかん》に耐《た》えてから、サリオンは言い返した。
「そうだ」
今度は、ぬめるような――だが冷たい――水から抜け出すことができた。川岸の草の上に身体《からだ》を倒して、なんとか息を整《ととの》える。疲労《ひろう》は激《はげ》しかったが、まだ身体が動かなくなるほどではない。
眼を開けると、大男と視線《しせん》が合った。
「別に、てめぇらなんぞに興味があるわけじゃないが」
と、冷淡《れいたん》な相手の声に歯がみする程度《ていど》の体力もなく、サリオンは黙《だま》って聞いた。ハンターが続けてくる。
「一応聞いとくぜ。なんなんだお前らは、ハンターじゃねぇってのは、見りゃ分かるが。しかも念糸使《ねんしつか》いのガキかよ。わけが分からんが、ただごとじゃねえな」
「つまり、ただごとじゃないのさ」
吐《は》き捨《す》てる。
サリオンは上半身をひねると、なんとか起き上がろうとした――相手が殴《なぐ》りかかってくることを警戒《けいかい》してのことだったが。
大男には、その気はないようだった。寝転がったまま、声だけ投げてくる。
「ただの狩《か》りのはずが、このざまだ」
野太《のぶと》い声音《こわね》は、気落ちした気配《けはい》よりも、うなるような険悪《けんあく》な響《ひび》きのほうが勝《まさ》って聞こえた。
が、いちいち口論《こうろん》している場合ではない。サリオンは濡れた髪《かみ》に引っかかった水草を引き剥《は》がしながら、うめく。
「ぼくはフリウを探す。もとの場所にもどるのに手を貸してほしい。あんたを村まで運んであげられないのは悪いけど……」
「俺がいつ、あのしみったれた村にもどりたいなんぞと言ったよ?」
ハンターはあくまで、どうとでも取れそうなぶっきらぼうな声音で言ってきた。
「それに、てめぇがあのガキを探すってんなら、俺は俺で、マデューを探してやらにゃならんからな」
「マデュー?」
「俺の息子《むすこ》だ。名前がないとでも思ってたのか?」
あんたに名前があるかどうかも知らなかったよ――
口に出しかけた言葉を呑《の》み込んで、サリオンは曖昧《あいまい》に苦笑《くしょう》した。
ひどく汚《よご》れたアルコールランプを、その老人がどこから取り出したのか。それは見なかった。恐《おそ》らくは、どこかの隠《かく》しポケットなのだろうが、そもそも気を失《うしな》った少年の身体を抱《かか》えていて両手に自由はなかったはずだ――が、老人はこともなげに、そのランプをこちらに放《ほう》ってきた。
それを受け取ると、続いてマッチ箱が飛んでくる。そちらは受け取り損《そこ》ねた。アルコールランプの取っ手を持って蓋《ふた》を外し、もう一方の手でマッチ箱を拾い上げて、そこで、マッチを擦《す》るには腕がもう一本足りないことに気がついた。
老人のほうを見やると、彼は少年の身体を肩《かた》に担《かつ》ぎ直して、
「……別に、無理《むり》して片手でマッチを擦る必要はないわな。ランプを下に置けばいい。考えれば分かるもんだろう」
「いや、そりゃまあ、そうなんだけど」
口ごもってフリウは、近くにあった岩の上にランプを置いた。地面から削《けず》り取られたような、険《けわ》しい岩の群《む》れ。その隙間《すきま》のひとつの前に、いる。
マッチ箱を開けると、乾《かわ》いた発火剤《はっかざい》と焦《こ》げ跡《あと》のある木片《もくへん》が一個入っていた。木片に慎重《しんちょう》に発火剤をのせて、その先端《せんたん》を岩に擦《こす》りつける。
火は一回で点《つ》いた。その火をランプに移してから、木片のほうの炎は吹《ふ》き消す。木片を箱にもどし改《あらた》めて見やると、老人の姿《すがた》は消えてなくなっていた。
「……あれ?」
「早く来い」
声は、岩の隙間の奥《おく》から聞こえてきた。
灯《あか》りを穴の暗がりに注ぎ込むような手つきでランプを掲げると、そこに黒装束《くろしょうぞく》の背中《せなか》があった。外からでは分かりにくくなっていたが、地下道になっているらしい。
「ここが……あのお城に続いてるの?」
フリウは疑問《ぎもん》を声に出して聞いてみた。
老人は振り向きもせずに、ただひたすらに感動のない答えを返してくるだけだった。
「だいぶ下ることになるぞ。わしは既《すで》に一往復しているからな。お前がちゃんと歩いてついてこられるのなら助かるのだがな」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ……多分」
とはいえ、その老人の言うだいぶ、というのがどれほどのものなのか、想像がつかなかった。
(地形を考えたら、お城に行くのに邪魔《じゃま》だった、あの谷の下をくぐるわけだから、崖《がけ》を全部下りるよりもっと潜《もぐ》るわけだよね。何メートルくらいなんだろ)
それはどう考えても、ぞっとしない話ではあったが――
老人はさらに、少年の身体《からだ》を担いでいくという。
改めて、その老人がきっちりと応急手当てしてくれた少年の足の傷《きず》を見上げて、フリウは嘆息《たんそく》した。
(なんなんだろ、この人……ちょっと普通《ふつう》じゃないよね、どう考えても)
考えているうちに、老人は進み始めていた。通路はすぐに下りに――かなり急な下り坂になっているらしい。すぐに老人の頭が自分の足下《あしもと》より下に消えていくのを、フリウは慌《あわ》てて追った。ランプの炎《ほのお》が揺《ゆ》れる。
当たり前ではあったが、通路は真《ま》っ暗闇《くらやみ》だった。アルコールランプの炎は簡単《かんたん》には消えないだろうが、もしなにかで灯りを失えば、手探《てさぐ》りで再び火を灯《とも》すことは不可能《ふかのう》だろう。ランプの取っ手を両手で握《にぎ》り直す。
と。
唐突《とうとつ》に、老人が言ってきた。
「名乗ろう」
「え?」
「わしは、リス・オニキス」
「あ、あたしは――」
自分も名乗りかけて、思い出す。この老人は自分の名前を知っていた。
質問《しつもん》に切り替《か》える。
「いったい、何者なの?」
「それは、わしが何者かということかね? それとも言葉《ことば》通り、自分が何者かと聞いているのかね?」
リスと名乗ったその老人は、なにやら面白《おもしろ》がって、肩《かた》を震《ふる》わせたように見えた。ランプの炎が踊《おど》って、そう錯覚《さっかく》しただけかもしれないが。
「どちらを答えれば良いものか分からんが、とりあえず、わしは……あるお方のために働いている者だ、とだけ答えておく」
「誰のため?」
「あるお方さ。聞いてどうする?」
答えてはくれないらしい。質問を切り替えることにして、フリウは続けた。
「父さんとは、どういう関係なの?」
「ふん。ベスポルトか……戦友さ。手ひどく裏切《うらぎ》られたとしても、それは変わらん」
「え?」
特別に足がかりがあるおけでもない下り坂を――しかも地下道を――下りていくためには、会話は上《うわ》の空にならざるを得なかった。足を踏《も》み外せば、一生分は転《ころ》がり落ちることになる。が、それでも聞くことをやめるわけにはいかない。
「父さんの、古い知り合い?」
「古い……か。たった八年だが」
リス老人の後ろ頭は、微動《びどう》だにしていなかった。歩いていても、人をひとり肩に担いでいても。
それはなんとはなしに、別の人物を連想《れんそう》させた――どう考えても、似ているとは言えないが。父の歩き方によく似ている。
今度は、リス老人のほうが聞いてきた。
「お前は、ベスポルト・シックルド打撃騎士《だげききし》のことをどの程度《ていど》知っている?」
「その呼び名……村に来た殺し屋が言ってたわ」
苦い唾《つば》が口腔《こうくう》に広がり、舌《した》を圧迫《あっぱく》した。
「父さんに聞いたけど、教えてくれなかった」
「ではつまり、なにも知らんということだな。奴《やつ》は、八年前まで帝都《ていと》で軍籍《ぐんせき》に身を置いていた。軍属|精霊使《せいれいつか》いの直護衛《ちょくごえい》として、な」
「精霊使い……」
「これは噂《うわさ》でもなんでもないが、イシィカルリシア・ハイエンドが近隣《きんりん》に発揮《はっき》する最大《さいだい》の脅威力《きょういりょく》は、精霊使いの存在《そんざい》だ。軍属精霊使いは、軍でも特別の待遇《たいぐう》を与《あた》えられる。士官《しかん》以外の地位だ。常時、数人の直護衛を持つことが許される」
老人の声は淡々《たんたん》と、解説《かいせつ》を続けた。景色《けしき》を変えない地下道を進みながら、
「八年前、とある出来事をきっかけに、ベスポルトは帝都から姿を消した。帝《てい》は奴の地位を解任《かいにん》し、黒衣《こくい》にも放置を命じた。これは異例《いれい》の措置《そち》だった。軍からの脱走者《だっそうしゃ》を咎《とが》めなしとしたわけだからな。だが最近《さいきん》になって、突然に帝はその処分を覆《くつがえ》した」
「じゃあ父さんは、その罪で追われてるの?」
「黒衣を使ってベスポルトを捕《と》らえる。そのための表向きの理由は……そうだな。そういうことだ」
淡泊《たんぱく》に語っていた老人の口調《くちょう》が、ほんのわずかにだけ変化していた。背後《はいご》からではその表情《ひょうじょう》はのぞけないが、その口振《くちぶ》りは、自嘲《じちょう》を含《ふく》んでいるようにも聞こえる。
「そして、わしが動く理由はだ」
それは、一度は答えることを拒絶《きょぜつ》した言葉であったはずだ――そのことに気づいてフリウは、背筋《せすじ》に冷《ひ》えた糸が通るのを感じていた。ほんの数秒でしかない。ほんのわずかのことでしかないのは分かっているが。
自分はそのほんのわずかを、深入りしたのだ。突然に、それを自覚《じかく》する。
扉《とびら》が開くように、リス老人の言葉は闇の中に広がった。静かに、染《し》み渡《わた》るように。
「その裏向《うらむ》きの理由を知る者のひとりとして……そうするよりほかなかったからさ」
その声は、自嘲だとは聞こえなかった。
地面に転がった蜂《はち》の巣《す》には、まだ蜂が群がっていたものの、大多数はどこかに出払《ではら》っているようだった。いずれはもどってくるのだろうか――それとも、散り散りになってしまうものなのか? 蜂の習性など、サリオンには見当もつかなかったが、肩を貸してやっているハンターに聞くのも躊躇《ためら》われた。わざわざ罵倒《ばとう》されるために口を開くのも馬鹿馬鹿《ばかばか》しいうえに、重い巨体《きょたい》をここまで支《ささ》えてきてやるのに疲労困憊《ひろうこんぱい》している。
「とりあえず、もどってこれたようだな」
言わずもがなのことを大男がつぶやく。
「ええ」
素直《すなお》に返事をしたのは――
つまるところ、ここにもどってくるのにこの大男の記憶力《きおくりょく》に頼《たよ》らなければどうしようもなかったのは間違いなく事実だったからだった。どれだけいい加減《かげん》に歩いているように見えても、やはりハンターであるということなのだろう。目印《めじるし》をひとつふたつ見つけると、たちまちに現在位置を割《わ》り出してしまった。途中《とちゅう》、罠《わな》に注意しながら、動けないこの男を運ぶのには手間取《てまど》ったが、位置を回復するのにほんの二、三時間しかかからなかったというのは舌を巻《ま》くしかない。
蜂の巣が落ちている近くには行けないが、荷物《にもつ》だけは拾い集めることができた。もっとも、このハンターを含《ふく》めて、それを全部自分ひとりで運搬《うんぱん》するのは不可能《ふかのう》だろうが。
「さて――」
蜂の羽音が聞こえないあたりにまで避難《ひなん》してから、その場に荷物を積み重ねて、サリオンは声をあげた。
「どうしたもんでしょうね。ひょっしたら、フリウたちももどってるかもと期待していたけれど」
「虫が良すぎるな」
木の根に腰《こし》を下ろした体勢《たいせい》で、例の巨大な射出《しゃしゅつ》兵器を準備しながら、大男がうめく。
「ガキどもの分別《ふんべつ》なんぞ期待するな。こっちで足跡《あしあと》を追跡《ついせき》していくほかはない」
「……できるのか?」
「少なくとも、てめぇのほうのガキのはな。まるで暴《あば》れ牛《うし》だ」
と、男が指さした土の跡も――
見下ろしたところで、特に靴《くつ》の跡がはっきりしているわけでもなく、わずかに草が折れているのがうかがえた程度《ていど》だったが。言っている以上は、その通りなのだろう。
サリオンは、顔をしかめながら聞いてみた。
「あなたの息子《むすこ》さん――マデュー? 彼のは?」
「見つからねぇな。痕跡《こんせき》を消しながら歩いてやがるのか? こんな時にまで。なんのつもりだかは知らねぇが」
「じゃあとりあえず、フリウなら追いかけられる?」
「恐《おそ》らくなし
「……どうして武器《ぶき》を準備するんだ?」
気になって、問いかける。
ハンターは、釘《くぎ》ほどもある金属製《きんぞくせい》の針を束《たば》ねたものを慎重《しんちょう》な手つきで装填《そうてん》しながら、目玉の向きだけをこちらに向けた。
「別に、罠だなんだとかいう話を真《ま》に受けたわけじゃねぇぞ」
負《ま》け惜《お》しみなのか、あるいは本気で強情《ごうじょう》なのか、判断《はんだん》つきかねる押《お》し殺した声音《こわね》で、言ってくる。
「勘《かん》だよ。こいつが必要になる。そう思ったなら、準備だけはしておくもんだ」
「でも、その武器とあなたとは、同時に運ぶのは無理《むり》――」
言いかけた言葉は。
すっくとその場に、なにごともなかったかのように立ち上がった大男の返事の前に途切《とぎ》れた。
「どうした?」
にやにやと笑《え》みを浮《う》かべるハンターに、サリオンはなんとか声を絞《しぼ》り出した。
「……いつから自分で動けたんだ?」
「さあな。お前さんが溺死《できし》しかけてるあたりかね」
と答えながら、武器と、そして自分とマデューの荷物とを担《かつ》ぎ上げ、大男がさらに笑みを大きくしてみせる。
「楽ができそうな時には無理をしない。そいつがハンターだ。覚えときな」
死ね。
声には出さず、ただサリオンは、それだけをつぶやいた。
地下通路はひどく長かったが、単調《たんちょう》さが感覚《かんかく》を麻痺《まひ》させたのだろう。気がつけば下りの道は水平になり、そして登りに転じていた。相当にきつい道だが、登りはそれほど長くはない。せいぜいが、下りの一割ほどか。
理由は、考えるほどのこともなかった。単に地形の問題だろう。廃城《はいじょう》は、切り立った岩山の上に位置している。地下道の下りのように、延々《えんえん》と掘《ほ》り下げられるわけがない。どれだけ急勾配《きゅうこうばい》にしても、途中《とちゅう》、崖《がけ》から飛び出してしまうことになる。
なんにしろ登りの道は、石垣《いしがき》で組まれた、井戸の底のような場所に突《つ》き当たって終わっていた。垂直《すいちょく》の縦穴《たてあな》である。はっきりと人工物と分かる、きっちり組まれた石の壁面《へきめん》に、鉄製《てつせい》の梯子《はしご》が固定されている。見上げると遠く頭上に丸い光の円が見えた。その上に空がある。
かなりの高さではあったが、リス老人は怪我人《けがにん》を担《かつ》いだまま、信じられないような速いペースで登っていった。なんとか置いていかれないようについていく。と、やがて、ランプの炎《ほのお》が小さくなっていることに気づいた。いや、頭上が明るくなったせいで光が小さくなったように感じられただけだったが。
出る前に、なんとなくフリウはランプの蓋を閉じて炎を消した。ランプの揺《ゆ》れる炎ではなく、太陽の真《ま》っ直《す》ぐな光が視界《しかい》を開けてくれている。
梯子を登り切ると、そこはやはり古井戸のようだった。そこから顔だけ出して、左右を見回す。少なくとも三方を高い石壁《いしかべ》で囲まれ、残った一方にも細い出口があるだけだった。壁は古く、材質《ざいしつ》が分からないほど苔《こけ》の色に染まっている。崩《くず》れた破片か、地面にも同じ色の石が転がっていた。
「……着いたの?」
聞く。老人は声を出さず、浅くうなずいただけだった。
「じゃあここが、あのお城なんだ」
井戸の縁《ふち》を越《こ》えながら、独《ひと》りごちる。そこは中庭のような位置になるのか。顔を上げて内側から見る限りでは、壁もあちこちが崩《くず》れて、遠くから眺《なが》めた際《さい》に思ったほど、原形をとどめているわけではなさそうだった。大きさも、それほどはない。
「こっちだ」
既《すで》に歩き出しているリス老人に促《うなが》され、ついていく。老人は無駄《むだ》のない足取りで、一番近い壁の裂《さ》け目《め》から城の中へと入っていった。
思いのほか中が明るかったのは、ところどころ天井《てんじょう》がないせいだった――あたりを見回しているうちに、老人はまたも、いつの間にか距離《きょり》を開けて先に進んでいる。彼はそのまま奥《おく》の部屋《へや》に姿《すがた》を消した。
早足になって、後を追う。自分でもなにを期待していたのか分からなかったが、目的地に着いてみて感じたのは軽い失望《しつぼう》だった。あまりにも静かで、なにもない。見た通りの、ただの廃城《はいじょう》である。だが、
(それでも……父さんが、ここにいるんだよね?)
胸中《きょうちゅう》でつぶやくと、フリウはその薄暗《うすぐら》い部屋をのぞき込んだ。この部屋には一応、屋根《やね》があるらしい。
が、内装《ないそう》らしい内装はなかった。砦《とりで》なのだから当たり前なのかもしれなかったが――見事になにもない。ただ石造りの壁と床《ゆか》と天井の、四角い密室《みっしつ》に過ぎない。扉《とびら》はなかった。見ると、蝶番《ちょうつがい》の痕跡《こんせき》だけが壁に残っている。床には数枚、毛布《もうふ》が敷《し》いてあって、それは恐《おそ》らくリス老人が持ち込んだものなのだろう。まっさらとは言えないまでも、この廃城とは明らかに年代を隔《へだ》てて新しいもののように見えた。そして老人が、その毛布の一枚の上に、ここまで運んできた少年の身体を置いている。
敷いてある毛布は、ひとつではなかった。そして、見覚えのある人間がふたり横たえられている。
「……え?」
思わずうめくと、老人はこちらを向いて、言ってきた。
「先に運んでおいた。若いくせに脆弱《ぜいじゃく》だな。まだ意識《いしき》を取りもどさんとは」
「アイゼン、ラズ?」
「もっとも意識がもどったところで、しばらくは身体《からだ》が動かんだろうが」
リス老人はそれだけ言うと、新たに横たえた少年の傷《きず》を診《み》るために、その場に座《すわ》り込《こ》んだ。既に一度|止血《しけつ》のための手当てはしてあるが、その包帯《ほうたい》を外して、また結び直す。運んでいるうちにゆるんだのだろう。
フリウは部屋に入ると、熟睡《じゅくすい》しているようにも見えるアイゼンとラズのもとへと近づいた。彼らの荷物《にもつ》もまとめて、脇《わき》に置いてある。このふたりともを、老人はここまで運び込んだらしい――
「あの……えっと」
言いかけてフリウは、言葉を止めた。改めて言い直す。
「爺《じい》ちゃんって呼んでいい?」
「ん?」
意味が分からなかったのか、リス老人は妙《みょう》に整《ととの》った眉《まゆ》を眉間《みけん》に寄《よ》せた。
「村に、セヘクの爺ちゃんっていうのがいて、あたし、その人のこと爺ちゃんって呼んでたの。ほかに、爺ちゃんみたいな人のことどう呼んだらいいのか分からないから」
「……まあ、構《かま》わんよ」
それほど気に召したわけではないだろうが、老人はこだわらずにうなずいてみせた。
「じゃあ、爺ちゃん。ひょっとして、ものすごい力持ち?」
「なにがだ?」
「だって、大人《おとな》ふたりをここまで運んだんでしょ? ひとりで」
「まあな」
彼はもう一度うなずくと、少年の近くから一歩|退《ひ》いて、そこで居場所を整えるように姿勢《しせい》を正した。足を組んで床に腰を下ろしたまま、あごに手をやるような姿勢で言ってくる。
「……そこには、数日前までベスポルトが寝ていた」
「えっ?」
不意《ふい》を打つように出てきた名前に、フリウはぎょっとしながらアイゼンとラズのふたりを見やった――無論《むろん》、ふたりが父に変わっていたりはしなかったが。
老人へと向き直り、聞き返す。
「じゃあ、父さんはどこに――」
リス・オニキスは、さほど感動もなく鼻を鳴らすだけだった。
「ふん。ここにおらん養父《ようふ》のほうが気になるか? まあ、そこの若造《わかぞう》なんぞお前にとっては行きずりのハンターに過《す》ぎんのだろうが」
「そういうわけじゃ……」
一言で勢いを消され、フリウは身を縮《ちぢ》めてうつむいた。そのまま、老人はあとを続ける。
「昨日から、お前たちを見張《みは》っていたよ。あの馬鹿《ばか》げた罠《わな》を外しておこうと思って歩き回っていたら見かけたのでな」
「それで、このふたりを襲《おそ》ったの? ふたりとも帰るところだったのに。なんで?」
「馬鹿を言え。このまま引き返して、ここに向かっている黒衣《こくい》どもと鉢合《はちあ》わせしたら可哀想《かわいそう》だと思って保護《ほご》してやったんだ」
またもや、それは不意打ちだった。聞くとは思っていなかった単語に、喉《のど》の奥《おく》が絞《し》まるような、不快な渇《かわ》きが突《つ》き刺《さ》さる。
その渇きそのものを言葉にして吐き出すように。フリウは繰《く》り返した。
「……黒衣?」
「奴《やつ》らはどこにでもいるし、どこにでも来る。当然、奴らはここに近づいてきている。日一日とな。奴らを倒《たお》すことはできん」
呪《のろ》いのようにつぶやくと、老人はあごから手を離《はな》した。その手を、どうするでもなく広げて、付け加える。
「奴らは怪物《かいぶつ》だ」
彼の口調《くちょう》には確信《かくしん》が込められていた。それはすぐに知れる。絶望的《ぜつぼうてき》な確信が。だが。
「爺ちゃんも敵《かな》わないの? あんなに……強いのに?」
どうしても理解《りかい》できずに、フリウは声をあげた。
「アイゼンやラズだって。普通《ふつう》の人なんかじゃないんだよ。その子――名前は聞いてないけど。その子のお父さんだって、すごい武器を持ってて」
「そんなことは関係がない」
あっさりと、彼はかぶりを振《ふ》ってみせた。
「人は、怪物には立ち向かえない。それがこの世の決まりなのさ」
「村に来た殺し屋が、黒衣を殺してた……何人も殺したって言ってた」
「…………」
石に化《ば》けたとでもいうように、老人が動きを止めた。もともと、あまり表情《ひょうじょう》に動く部分もなかったが、呼吸《こきゅう》すらも止めたらしい。瞳《ひとみ》の色が、鋭《するど》く温度を下げたことを除《のぞ》けば、数秒間|微動《びどう》だにしない。
「どうしたの?」
聞くと、彼の石化《せきか》はそこで解《と》けた。瞬《まばた》きを一度だけしてから、ゆっくりと答えてくる。
「怪物は怪物同士、殺し合う」
「どういうこと?」
「お前には関係がない」
彼は言葉《ことば》のリズムと同じく、ゆっくりと――ことさらにゆっくりと立ち上がった。それがなんのためなのかは、不意《ふい》には思い浮《う》かばなかったが。それでも真正面からその老人の姿を見ると、その黒装束《くろしょうぞく》の身体《からだ》が、鍛《きた》え上げられた兵士のものだと感じずにはいられない。フリウは先刻の、ほんの一瞬《いっしゅん》の接触《せっしょく》を思い出して、我《われ》知らず握《にぎ》っていた拳《こぶし》を解《と》いた。
(そうだ……そういえばこの爺ちゃん、あの時、念糸《ねんし》を使ってた……間違《まちが》いない)
相手の念糸を捕《と》らえられた時、同時に自分の念糸も相手を捕らえていたはずだった。が、気がつけば彼女の念糸は目標を失《うしな》って、彼に取り押《お》さえられていた。具体的に、どんなトリックだったのかは分からない。分からない限り、この老人は何度でも同じことができるのだろう。そんなことを意識《いしき》する。
「あの罠もだ」
彼の言動は、いちいち唐突《とうとつ》だった。分からずに視線《しせん》で問いかけると、老人は続けて書ってきた。
「マリオめ。黒衣への恐《おそ》れに負けて、調子に乗ってこのあたりを罠だらけにしちまいおった。こんなつまらない罠が通用する相手でもないというのに」
「…………?」
「あいつは、自分が敵対している相手が何物であるのか分かっていない。黒衣の接近を知って、調子に乗って飛び出していったよ。倒《たお》せはせんと言ったのだがな。生きてもどってこられるかどうか、半々というところか」
と、遠い目で横を向く。そうすれば、なにかが見えるとでもいうように。
「マリオにしろ、お前にしろ、精霊使《せいれいつか》いとしては未熟《みじゅく》すぎる。実戦《じっせん》など論外《ろんがい》だ」
「あたし……が、精霊使い?」
意外《いがい》といえば、それが最も意外な言葉ではあったかもしれない。聞き返すと、老人は首を縦に振ってみせた。
「学びさえすれば、な」
短いが噛《か》みしめるようなそのひとことと、続いた滑《なめ》らかな説明《せつめい》とは、ほとんど長さに違《ちが》いがないように感じられた。
「ランプに火を点《つ》けるのと同じだ。どんなことにも順序がある。戦うのなら、戦う術《すべ》を学べ。それだけのことに過ぎん。逃《に》げられはせんよ」
一拍《いっぱく》。長い一拍。息継《いきつ》ぎのためではない、思考《しこう》の沈黙《ちんもく》。
「人は、逃げられない。正体も知れぬ怪物への恐怖から。お前は、どうなのだ?」
「なんの話……?」
「養父から聞かされなんだか?」
と、老人は唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「黒衣は、人間ではない。訓練によって鍛《きた》えられた力、天性《てんせい》の能力《のうりょく》……そんなことを言っているのではないぞ。だがそれですら、究極的《きゅうきょくてき》に恐れるべき相手と比べたら、どうということはない。黒衣はしょせん人間より皮一枚分、あれに近いというだけでしかないのさ」
「そんなことは――」
どうでもいい。聞かされた話は、すべて――結局《けっきょく》のところ、どうでもいいことだ。聞きたいのは父のことだった。
が、彼は気にした様子《ようす》もなぐ続ける。
「生きていて、最初《さいしょ》に――そして最後に相対《あいたい》するものとはなにか。決して越《こ》えることのできない壁とはなにか。それを知らねば、奴《やつ》らのことは理解《りかい》できん」
「なにか……怖《こわ》い、怪獣《かいじゅう》みたいなのがいるっていうこと?」
「未知の精霊《せいれい》アマワ」
リス老人は、それだけをつぶやいた。いや、そこで言葉《ことば》を切り――なにかを言いかけてやめたことは間違《まちが》いない。だが、かぶりを振《ふ》って短い沈黙を挟《はさ》み、
「いつか分かる。それが……御遣《みつか》いの言葉だ」
小さく付け加えてきた。内緒話《ないしょばなし》のような、小さな声。ほかに誰も聞いている者などいない。それを分かっていないわけではないのだろうが。
「理解するということは、なによりも強力な武器となる」
彼の声は、かすれるほどに小さくなっていった。最後のつぶやきは、なんとか聞き取れるだけだった。だが、確かに聞こえた。
「分からなければ、お前は負けるだけだ」
その何秒かの言葉。老人の暗い瞳《ひとみ》に、震えのようなものがのぞいていた。だがそれも、その時限りのことだった。ふっと顔を上げると、彼の表情《ひょうじょう》にあったのは平坦《へいたん》な平静《へいせい》。それだけ。
「ベスポルトはマリオが運んでいった。お前らが、あの村に現れたという夜にな。移動《いどう》させたよ」
と、静かに、
「……どこへ運んだか、教えてやっても良い。が、条件《じょうけん》がある。交換《こうかん》条件だ」
冷たく、
「学べ」
厳然《げんぜん》と。
「精霊を御《ぎょ》す方法をだ」
彼の声に縫《ぬ》い止められるように、フリウはただ立ち尽《つ》くしていた。眼帯《がんたい》の下にある左眼《ひだりめ》が、はっきり疼《うず》いたと感じる。それが錯覚《さっかく》であると知りつつも、それは確かなことだった。
「さてもまあ、人生とは出会いと別れ。しかし、蜂《はち》に追われたくらいで離散《りさん》するこたないわけだが」
無抵抗《むていこう》飛行路から飛び出して、人《じん》精霊はつぶやいた。高空。というほどの高度でもないが、今までのろのろと彷徨《さまよ》っていた森は遥《はる》か眼下《がんか》、平坦《へいたん》な緑の縞《しま》にしか見えない。風に吹《ふ》かれ、腕組《うでぐ》みしながら、
「あいつらが木より目立たないってのは、今度会った時に断固《だんこ》として抗議《こうぎ》すべきかね。頭の直径《ちょっけい》を三メートル、色を蛍光《けいこう》オレンジあたりにしといてもらえば、この高度からでも楽に見つけられるんだ。か……と?」
気づいて、首を伸《の》ばす。遠くから、なにかが飛来してくる気配《けはい》。
水平方向に距離《きょり》を隔《へだ》てて、遠くから黒い点が――
気づいた時には、轟音《ごうおん》を立てて通り過ぎていった。と同時に、顔面に何かがぶつかる。衝撃《しょうげき》はそれほどのものでもなかったが、危《あや》うく落下しかけてなんとか持ち直した。首を百八十度回してみると、飛行物体は谷に囲まれた廃城《はいじょう》の方角へと飛んでいったらしい。
精霊であったことは、聞違いようがなかった――無抵抗飛行路を亜《あ》音速で飛べる物体が、精霊でないはずがない。視界《しかい》にわずかに残った姿《すがた》にも、見覚えがある。
人間を中に入れた、例の鋼《こう》精霊だった。それが全速力で、城に飛び込んでいった。すれ違《ちが》いざまに、なにか液体のようなものをこちらにぶつけて。
「……おんや?」
スィリーは、べったりと顔面に張《は》り付いた液体を手でぬぐった。
「妙《みょう》にべたべたして、生臭《なまぐさ》く、ぬるい。人生の凝縮《ぎょうしゅく》のごときものではあるな。しかし、ひらたく言うとだ」
それはすぐに乾《かわ》き、こすると粉のように崩《くず》れて、簡単に剥《は》がれた。
「血か? これ」
鋼精霊が飛び去っていった方角を、改《あらた》めて見やって――
スィリーは、首を傾《かし》げた。
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第八章 ストロー・ガール
(彼女の決断)
ようやく見えた。
暗くなる視界《しかい》に遥《はる》か遠く、見えたものは石造《いしづく》りの建築物《けんちくぶつ》だった。古くなり、崩《くず》れかけた砦《とりで》。いつの時代のものだろう――百年前か? 千年前か? 高度を不安定に変えながら、彼女は薄《うす》れゆく意識《いしき》に疑問《ぎもん》の泡《あぶく》をにじませた。寒い。精霊《せいれい》の鎧《よろい》に守られ、気温気圧の変化など感じるはずがないというのに、身体《からだ》の震《ふる》えが止まらない。完璧《かんぺき》な守護《しゅご》の内にあって、身体だけがゆっくりと、じっくりと滅《ほろ》びていく。その感触《かんしょく》に、彼女は喘《あえ》いだ。
飛行|経路《けいろ》は精霊|任《まか》せだったが、どこへ向かっているのかは理解《りかい》していた。視界の中、一向に大きくなろうとしない廃城《はいじょう》。いつまで飛べばたどり着くのか。安全な無抵抗《むていこう》飛行路にいるというのに、落ち着かない。帰らなければ……
(死ぬもんですか!)
胸中《きょうちゅう》に、叫《さけ》びを吐《は》く。
眼下《がんか》に広がるのは森だった。日は暮れかかり、夕陽《ゆうひ》と夜の影《かげ》とが混ざり合い、木々の濃《こ》い緑に複雑な陰影《いんえい》を落としている。空から地上を見下ろすことなど見慣れていたが、それでも改《あらた》めて美しい光景だった。浅い呼吸を繰《く》り返して、認める。美しい光景だった。
彼女は顔を上げた。
そして、知らぬ間に眼前に迫《せま》っていた石造りの壁《かべ》に激突《げきとつ》し、意識を失った。
崩れかけた建物を揺《ゆ》り動かすように鳴り響《ひび》いたその爆音《ばくおん》は、瞬間《しゅんかん》に巨大化《きょだいか》すると、すぐに消えた――すべてを壁に叩《たた》きつけて。暴《あば》れる地面を押《お》さえつけるような心持ちで、地面に手をつく。実際には地面が揺れたわけではなく、激突音は壁を砕《くだ》いたにとどまったらしいと、顔を上げて、フリウは悟《さと》った。目の前にいるリス・オニキスは、直立したままバランスを崩してもいない。
「な……なに?」
あたりを見回して、フリウは疑問の声をあげた。
暗い空間に陽の光が斜《なな》めに差し、その輝《かがや》きの中を雪のように埃《ほこり》が舞《ま》っている。リス老人が、小さくつぶやくのが聞こえてきた。
「……帰ってきたようだ」
くるりときびすを返し、さほど慌《あわ》てる様子《ようす》もなく部屋《へや》を出ていこうとする老人の背中《せなか》を追いかけて、フリウは立ち上がった。小走りになって問いかける。
「帰ってきたって、誰《だれ》が?」
「聞き分けのない猫《ねこ》がさ」
彼が足を向けたのは、アイゼンやラズたちが寝《ね》かされている部屋を出て、すぐ隣《となり》の広間だった――ここもほかと同じように崩壊《ほうかい》しているが、先ほど見た時よりひときわその破壊《はかい》の程度《ていど》を強めている。なにか砲弾《ほうだん》のようなものに撃《う》ち抜《ぬ》かれて、壁と天井《てんじょう》とを削《けず》り取られたらしい。中は瓦礫《がれき》と建材、もうもうたる埃で、ひどい有様《ありさま》になっていた。
「うわ」
フリウは、身構《みがま》えてうめいた――感じたことがそのまま声になって出る。
「ひどいねこれ。でもどっかで見たことあるような感じだけど」
既視感《きしかん》か。そう片づけかけて、思い出したのは数日前のことだった。村長の屋敷《やしき》を破壊して現れた精霊……
「マリオ・インディーゴ!」
その時に発した叫《さけ》びと同じものを叫んで、フリウは瓦礫の間からのぞく銀色の物体へ駆《か》け寄《よ》ろうとした――破壊された広間の中へ。が、横から肩《かた》を掴《つか》まれ、動きを止める。リス老人の低い声が、制止《せいし》してきた。
「精霊が興奮《こうふん》している。近寄るのはやめたほうがいい」
「え……?」
言われて、見やる。崩れた壁や折り重なった天井に埋《う》もれて、そこから突《つ》き出しているのは腕《うで》一本だけだった。銀色の鋼《こう》精霊に守られた鋼《はがね》の腕。そこから手放《てばな》されたものだろう。近くに、同じ金属の長槍《ながやり》が床に突き刺さっていた。沈黙《ちんもく》を守っていたそれらが、一斉《いっせい》に耳障《みみざわ》りな振動音《しんどうおん》を立て始める。
(……今度は、硝化《しょうか》の森とおんなじだ)
両手で耳をふさいで、フリウは独《ひと》りごちた。森に、マリオが現れたあの時。マリオ・インディーゴは意識を失っており、主《あるじ》の制御《せいぎょ》を失った鋼精霊は主人を守るために無差別に暴れ回った。
自由な右眼だけで周囲を見回す。逃《に》げるにも、ここはせますぎた。
「爺《じい》ちゃん、外に出ないと危な――」
「ふん」
が、リス老人は、つまらなそうに鼻を鳴らすと、
「未達《みたつ》な連中は、いちいち騒《さわ》ぎをでかくする。くだらんよ」
「でも……」
フリウが差し出した手は空《くう》を切った。もとより、なにに触《ふ》れようと思ったわけでもなかったが。なんにしろ、老人は既《すで》にひとりで部屋に踏《ふ》み込《こ》んで、もう手がとどかないところにいる。無造作《むぞうさ》な足取りで、広間の中心でうなりをあげる長槍へと近づいていき――
「爺ちゃん!」
警告《けいこく》を発するつもりで、フリウは叫んだ。硝化の森での経験《けいけん》でいえば、鋼精霊は一瞬《いっしゅん》で脈絡《みゃくらく》なく変化する。
長槍は、自らの発する振動音を除《のぞ》けばそれらしい音も合図《あいず》もなく、真《ま》っ直《す》ぐに空中に浮き上がった。瞬間、飴《あめ》のように形状を変えて――これが基本形なのだろう――見覚えのある三角形が現れる。
老人は気づいてもいないようだった。歩調を変化させることも、そちらを見やることもない。
精霊にも、躊躇《ちゅうちょ》などはない。
鋼精霊がその三角形の先端《せんたん》を老人へと向け、そして動き出した時には、フリウは確信を持って悲鳴《ひめい》をあげた。
(死んだ!)
実際、老人の小柄《こがら》な身体が両断《りょうだん》され、ばらばらに砕《くだ》けるのが見えたとすら思えた。
が。
瞬《まばた》きを一度だけ。その場に残っていたのは、悠然《ゆうぜん》と歩くリスの後《うし》ろ姿《すがた》と、その真横で動きを止めた鋼精霊だった。鋼精霊は空中で静止《せいし》し、振動音も止めている。目を凝《こ》らすと、老人の身体から伸《の》びた念糸《ねんし》が精霊に巻《ま》き付いているのが見えた。
「……え……?」
拍子抜《ひょうしぬ》けした心地《ここち》で、フリウはうめいた。意味《いみ》が分からなかった。老人は鋼精霊に殺されたはずなのだ。が、結果はそれを無視《むし》している。
精霊を念糸で止めることは、危険を伴《ともな》う――精霊もまた念の通路を逆行《ぎゃっこう》して術者《じゅつしゃ》を破壊することができるからだ。が、老人はなんの痛痒《つうよう》も感じることはないのか、ろくに足音も立てずに瓦礫の山へと取り付いた。そこから突き出しているマリオの腕を掴むと、そのまま野菜でも引っこ抜《ぬ》くように力を入れる。
鋼精霊の鎧に包まれた黒髪の少女が、姿を見せた。ぐったりと気を失っている。老人は、彼女の髪を無造作《むぞうさ》に掴むと、それを引っぱり上げてなにかを探《さぐ》った。マリオの耳に輝《かがや》いている、丸い水晶《すいしょう》のイヤリングに、指先を触れる。
そして、もう一方の手を、背後《はいご》で静止している鋼精霊へと向けた。念糸を解《と》き、改めてイヤリングへと念を伸ばす。
「封緘《ふうかん》」
そのたった一語《いちご》が、閉門式《へいもんしき》であるらしい。
イヤリングの水晶|檻《おり》が輝きを増し、そして光を消すまで一瞬もかからなかった。同時に鋼精霊の姿がかき消える。
放《ほう》り投げるようにマリオを床に手放《てばな》すと、リス老人は厳《きび》しい眼光《がんこう》をこちらへと向けた。
「精…霊は御《ぎょ》せる」
静かに言ってくる。
「わしを信じろ。わしの言葉《ことば》をな」
言葉もなく、それを聞く。
立ち尽《つ》くしてフリウは、老人の目を見返した。信じる……?
「……とはいえ」
すぐに老人はこちらから目を離《はな》し、床に倒れるマリオを見下ろした。続けてうめく。
「精霊が、理解《りかい》できんことをするのも事実だ。こいつはどうして封じられんのだ?」
彼が言っているのが、一対の鋼精霊のもう一方――マリオの鎧となっているほうの鋼精霊のことであるのは、すぐに見当がついた。リス老人はそちらも水晶檻に封じようとしたらしい。が、精霊の鎧は今でもマリオを覆《おお》って動こうとしていなかった。
フリウはなんとはなしに、足音を忍《しの》ばせて部屋《へや》に入った。どやされることを警戒《けいかい》しながら近寄《ちかよ》るが、リスはこちらを見もしない。
いや、こちらが近づくのを待っていたのかもしれない。すぐ近くまで寄ると、老人がぽつりとつぶやくのが聞こえてきた。
「なるほど」
「え?」
ひとりで納得《なっとく》の声をあげる彼に、聞き返す。リスはにこりともせず、自分の手のひらをこちらに掲《かか》げてみせた。
べっとりと、血で汚《よご》れている。
驚《おどろ》いて見下ろすと、マリオの鎧の隙間《すきま》から血がにじんでいるのが分かった。意識を取りもどさないのも当たり前かもしれない。
「どんな傷《きず》をつけられたのかは知らんが、深手だな。精霊が傷を押さえてくれなんだら、とっくに死んどるだろ」
と、マリオの上半身を抱《かか》え上げると、
「足を抱えてくれんかね? 引きずると、足がちぎれるかもしれんしな」
「あ……う、うん」
冗談《じょうだん》なのか本気なのかは分からないが、それがあながち嘘《うそ》とも思えなかったのも事実だった――慌《あわ》てて、マリオの鎧《よろい》に包まれた両足を抱《だ》き上げる。かなりの重量を予想していたのだが、反して、精霊使いの身体は奇妙《きみょう》なほどに軽かった。人ひとり分の重さすらないのではないかと思えるほどに。これも、鋼精霊の力なのかもしれない。
「精霊に触《さわ》るの……なんか変な感じ」
運び出しながら、フリウはつぶやいた。特に意味があって言ったわけでもなく、感じたままを告《つ》げたに過《す》ぎない。直接|触《ふ》れた鋼精霊は、冷たいわけでもなく、熱いわけでもなく、人肌《ひとはだ》のように温《あたた》かいわけですらなく、肌に伝えるべき触感《しょっかん》を持っていないようだった。金属なのは間違《まちが》いない。いや、金属に似ているが、それとは違う。似ているという程度にしか似ていない。重さもなく、実感もない。もっともそれは、スィリーも似たようなものか。
(精霊って、みんなこんな感じなのかな)
実態のない無形《むけい》精霊は、文字通り触れることもできないが。実体化し、強大化した精霊は、すべてこうなのかもしれない。存在《そんざい》しているようで、存在していない……
と。
「未知のものに触れる時」
リス老人が、唐突《とうとつ》につぶやいてくるのを、フリウは聞いた。
「最初《さいしょ》に感じることは誰《だれ》もが同じだ――これは本当に実在しているのかどうか」
答えずに――なにを答えればいいのか分からずに、フリウは無言《むごん》のままマリオの身体《からだ》を運んでいった。アイゼンらが寝《ね》ているもとの部屋《へや》にもどり、空いている場所に少女の身体を横たえる。
まじまじと見やると、蒼白《そうはく》になったマリオの顔はひどく危《あぶ》なげなものに思えた。が、
「そう案ずるほどのことでもないさ」
リス老人は焦《あせ》る様子《ようす》もなく、部屋の隅《すみ》から鞄《かばん》を持ち出してきた。開けっ放しの鞄から、布《ぬの》の切《き》れ端《はし》が見えている。鞄を床に投げ出すと、彼は指先で軽く、マリオの鎧を叩《たた》いてみせた。
「本当に致命傷《ちめいしょう》なら、こいつらもわざわざ主人の亡骸《なきがら》を運んだりはせん。見込みがあるからここに逃《に》げてきたんだろうさ」
「……こいつらって、精霊《せいれい》のこと?」
聞き返す。リスはうなずいた。
「とまれ、これじゃ手当てもできんな。エング、防御《ぼうぎょ》を解《と》け」
と、マリオに向かってつぶやく彼に、フリウは首を傾《かし》げた。
「爺ちゃん?」
老人は無視して続けた。鎧に包まれたマリオの胸の上に手を置いて、聞き取りにくい低い声音《こわね》でなにかを命じている。
「……解け。お前は十分に主を守った。あとは違《ちが》う者の役割《やくわり》だ」
「爺ちゃん、精霊に話しかけてるの?」
驚いて、フリウは声をあげた。
リスは怪訝《けげん》そうにこちらを見たが、またすぐに視線《しせん》をもどして、
「解け」
瞬間《しゅんかん》。
マリオの身体が、小さく跳《は》ねた。同時にあの長槍《ながやり》と同じように、精霊の鎧が溶《と》けて巨大《きょだい》な三角形へと変化する。せまい部屋の限られた空間にそれが現れたほんの一瞬で、リスのつぶやきがその存在を禁じるのを聞いた。
「封縅《ふうかん》」
鋼《こう》精霊が消える。マリオのイヤリングへと封印されて。
鎧を失った少女の身体は、確かに手ひどく傷つけられているようだった――服がどす黒く血で汚《よご》れている。その汚れは、今もまだ広がりつつあるようだった。
リス老人が、苦笑《くしょう》してみせる。
「己《おのれ》の精霊を過信《かしん》した精霊使いの運命が、これさ」
「……爺ちゃん?」
鞄からはさみを取り出す老人の顔には、無様《ぶざま》な精霊使いを蔑《さげす》むのとは別種の、自嘲《じちょう》じみたものが浮かんでいるように見えた。が、それも長続きはせずに消える。無表情《むひょうじょう》でマリオの服を切り開くリスに、フリウは問いかけた。
「爺ちゃんも、もしかして、精霊使い?」
「精霊の制御《せいぎょ》をお前に教えようとするわしが、精霊使いでなかったとしたら、なんなのだね?」
「いや、それは……そうだけど」
老人の手は休まずに、マリオの手当てを続けている。服を開いて、彼が探《さぐ》り当てた患部《かんぶ》は、少女の腹だった――脇腹《わきばら》に、なにかを突《つ》き刺《さ》したような大穴が開いている。傷に貼《は》り付いて止血《しけつ》の役を果たしていた服を剥《は》ぎ取られて、傷口《きずぐち》が再び血液を外に吐《は》き出すことを思い出したらしい。
それを見下ろしていると、突然《とつぜん》、リスに手を掴《つか》まれた。
「えっ?」
訊《たず》ねる間もなく、彼にその手を無理《むり》やりに引っぱられる。半《なか》ば引きずり倒《たお》されるように、リスはフリウの手のひらをマリオの傷口に当てさせた。冷えた血の感触《かんしょく》に、ぞっとしながら彼を見上げていると――
「押《お》さえていろ」
老人はそれだけを言って、鞄の中から薬瓶《くすりびん》を何本か取り出した。
「たいした手当てができるわけではない。消毒《しょうどく》して、傷口を縫《ぬ》う。こいつがどこかから盗《ぬす》んできた道具くらいしかないがな。まあ、ベスポルトの時はうまくいった。なんとかなるだろう」
聞きながらフリウは、手のひらににじむ傷口の感触に肌が粟立《あわだ》つのを感じていた。皮膚《ひふ》を剥《は》がされた肉に触《ふ》れる不快感《ふかいかん》が背筋《せすじ》を駆け上る。血の海に手が沈《しず》む。悪夢《あくむ》のような光景から目を背《そむ》けて、彼女はうめいた。
「爺ちゃんは……自信たっぷりなんだね」
「うん?」
それほど気にとめた様子もなく聞き返してくる彼に、フリウはあとを続けた。血の感触にではなく、忍《しの》び寄ってくる得体《えたい》の知れない悪寒《おかん》に、声が震える。
「ひとりで……なんでもできるしさ。迷わないし。爺ちゃんにいろいろなこと教われば、あたしも、同じようになれる……のかな」
「わしのように? 無理だな」
あっさりと彼は言ってきた。
「なってどうする? わしとて、後悔《こうかい》がないわけではないぞ」
「そう……かもしれないけどさ。でも」
「手をどけろ。消毒する」
瓶の蓋《ふた》を開けて、そう言ってくるリス・オニキスの声はひどく酷薄《こくはく》だった。
「あとは必要ない。治療《ちりょう》の邪魔《じゃま》だ。血を見て卒倒《そっとう》する前に、どこかに行っていろ」
結局《けっきょく》のところ、自分で決めるしかないのだ。|
殺到《さっとう》してくる言葉《ことば》に、なにかを返さなければならない。
(もう自分に関《かか》わってはならない)
――父の発した言葉――
(失《う》せろ、子供)
――真紅《しんく》のマントを翻《ひるがえ》して、赤い髪《かみ》の殺し屋の後ろ姿《すがた》が発した言葉――
そして。
(どこかに行っていろ)
――たった今、正体不明の老人に聞かされた言葉――だ。
なにかを返さなければならない。
乾《かわ》いた血にこわばった手を腹と膝《ひざ》に挟《はさ》んで、膝を抱《かか》えて座《すわ》り込み、フリウは独《ひと》りごちた。森の風が心地《ここち》よい。血の臭《にお》いにむせた鼻孔《びこう》に、鼻薬のように効《き》く。
見上げれば廃城《はいじょう》は、巨大《きょだい》な怪物《かいぶつ》のようにそびえている。動くはずもない、危険もなにもないはずのただの建物だが。暮《く》れかかった陽《ひ》の光に、威圧的《いあつてき》な影《かげ》の濃《こ》さを増している。
倒れた建材のひとつ――それが城のどの部品だったのかは分からないが――に腰《こし》を下ろして、彼女はぼんやりと崖《がけ》の向こうの森を眺《なが》めていた。昼まで、あの森の中を彷徨《さまよ》っていたのだ。
眼帯《がんたい》の上から、左眼に触れる。左肩の傷、ふさがりかけた刃物《はもの》の傷が、鈍《にぶ》くうずいた。すべて、ここ何週間かで変わってしまった。ほんの数週間前までの自分は、こんな廃城のことなど知らなかった。なにも決めなくて良かった。
なにかを返さなければならない。それを決めなければならない。
と。
「悩《なや》んでいるな小娘《こむすめ》。これをひとつ、小娘シンキングターイムと名付けて、俺《おれ》の人生指針力をいかんなく発揮《はっき》してみようと思うわけだが、どうだ」
「いらない」
即座《そくざ》に、フリウは告げた。いつの間にか人精霊《じんせいれい》が漂《ただよ》い出て、視界《しかい》の前に回り込んできている。特に驚きはしなかった――はぐれはしたものの、そのうちどうせまた出てくるだろうと思っていたのだ。精霊に道理《どうり》を求めるのは意味《いみ》がない。そうあるものは、そうあるものとして受け入れるしかない。
スィリーもまた再会の挨拶《あいさつ》もなく、当然のような口調《くちょう》で続けてきた。
「そうか? 人生の指針とかはあると便利だぞ。悩まんで済《す》むし、なにより、どーというほどもない瓦石《かわらいし》のごとき生き様を多少なりと見栄《みば》えのするもんにしてくれっのは高《たか》の知れた信念《しんねん》なわけで」
「だからいらないから」
ちょろちょろとうるさく漂う人精霊を、手を振って追い払《はら》う。と、その手についた血痕《けつこん》にスィリーが気づいて声をあげた。
「お? 血か。奇遇《きぐう》だな。そいえば俺も、なにやら血まみれのものがこっちに飛んでたよーなので来てみたわけだがし
「マリオなら、向こうにいるよ」
指さして、告げる。スィリーはそちらを向いたが、特にそれでどうということでもないのか、そのまま話題を変えてきた。
「まあ良し。ところで、日が暮《く》れるな」
腕組《うでぐ》みして、もっともらしい口調《くちょう》でわけの分からない切《き》り替《か》えをする人精霊を、フリウは見上げた――スィリーにとっては、そんなものなのだろう。自分がこうして森を眺《なが》めていることも、人生の指針も、大怪我《おおけが》をしたマリオ・インディーゴも、日が暮れるということも、どれも同程度《どうていど》の問題でしかない。
「日が暮れるね」
虚《むな》しい味を噛《か》みしめながら、フリウもつぶやいた。
もとより、自分で決めるしかない。
「どこへ行く?」
「あ」
多少なりと夜が更《ふ》けてから 足音を忍《しの》ばせて歩いていたというのに、それでも見つかってしまうものらしい。それは不条理《ふじょうり》なようでもあり、当たり前のことにも感じられた――なんにしろ、背後《はいご》からこともなげな口調で言ってくるリス老人を見ていると、疑っても詮無《せんな》いことだとは知れた。
足を止めて言葉《ことば》を探し、ようやくフリウは口を開いた。
「……マリオの手当てをしてるのかと思ったんだけど」
老人は、にこりともせずに答えてきた。
「とっくに済《す》んだ。死にはしないようだ」
「そ、そう」
口ごもる。
近くを飛んでいたスィリーが、言い置いて通り過ぎていった。
「弁護士《べんごし》どもは個人の権利とうるさいくせに、当人の許可もなく勝手に生命を延長させちまう暴挙《ぼうきょ》が取り締《し》まられないのはどういうことなんだろか」
リスは相手にしなかった――人精霊がいることを不思議《ふしぎ》にも思わなかったらしい。そのまま、スィリーの言葉をなかったものとして続けた。
「意識《いしき》はもどっとらんが、うわごとで言っとるよ。どうやら、ミズー・ビアンカ――お前さんの言う殺し屋=\―と黒衣《こくい》がここへ近づいているらしい」
「……え?」
ぎょっとして、聞き返す。
「な、なんで?」
が、人精霊の言葉と同じく、老人はそれを無視したようだった――意味のない質問だったからだろう。確かに意味はない。
改《あらた》めて、聞いてくる。
「どこへ行くつもりだった?」
フリウは、わずかにうつむいた。なにが後ろ暗いというわけでもなかったが。言葉に迷いながら、なんとか探《さぐ》り当てる。
「ちょっといろいろ考えようと思って」
言いながら、相手を見やる。
リス・オニキスの黒装束《くろしょうぞく》は暗くなった夜空を背後に、闇《やみ》のすべてと同化して巨大化《きょだいか》したようにも見えた。なにを語るでも、非難《ひなん》するでも、叱《しか》るわけでもない無表情《むひょうじょう》な眼光《がんこう》が、こちらを見据《みす》えている。
「例の通路を使う気だったのか? 灯《あか》りがないと通れんぞ」
物静かに言ってくる彼に、フリウはポケットからランプを取り出してみせた。
「勝手に借りちゃった。ごめんね」
「……次からは、断《ことわ》ってから持っていけ」
老人はそれだけ言うと、身体《からだ》を反転《はんてん》させた。廃城《はいじょう》の中へともどりながら、
「黒衣が来ている。早いうちにここを引き払《はら》わなければならん。もどる気があるなら、すぐにもどってくることだ」
「……? でも、こんなに怪我人《けがにん》ばっかりなのに」
「全員の回復を待つわけにもいかん。精霊を使って運ぶ」
足を止め、彼は夜空を見上げた――月を見たのだ、とフリウは気づいた。
リスはこちらを一瞥《いちべつ》し、告げてきた。
「真夜中にはここを発《た》つ。念《ねん》を押《お》しておくが、ともに来ることが、ベスポルトの居場所を教える交換条件《こうかんじょうけん》だ」
「……分かってるよ」
うなずく。去りゆく老人の後《うし》ろ姿《すがた》を見送って、フリウは自分も彼に背を向けた。
「どうして話題が人生のことばかりになるのかってーと、語ってもきりがない話題なんてもんが、ほかにそうそうあるもんじゃないからだぁな」
スィリーの声を聞き流しつつ、通路から抜《ぬ》け出す。ランプの灯りを消すと、小さな丸い光源に慣れていた視界が夜色に染まった。が、次第《しだい》にすぐ、枝葉の隙間《すきま》から降り注ぐ月の銀光が、新たにあたりを浮《う》かび上がらせる。
「前に一度、俺の親戚《しんせき》だが、語ることをやめちまった奴《やつ》がいてな。村中|大騷《おおさわ》ぎになった。おいおい、まさかお前、人生を語りきっちまったんじゃなかろうな? 騒然《そうぜん》騒然だ」
森は静かだった。リスの話では、このあたりはマリオの仕掛《しか》けた罠《わな》があちこちにあるはずで、油断《ゆだん》はできないが。昼間の経験《けいけん》からいけば、かなり危険な仕掛けも多かった。一応、気をつけて足下《あしもと》を見やる――もっとも、昼間からずっと罠を見抜けたことは一度としてなかったのだから、あてにはならないが。
フリウは嘆息《たんそく》をひとつ挟《はさ》んで、歩き出した。人精霊の声が追いかけてくる。
「だんまりを決め込むそいつに、誰も彼もが質問責めだ。だがなんにも答えやしない。騒動騒動だ。しまいには、これこそ神の降臨《こうりん》と担《かつ》ぎ出す奴まで出始めて、とうとうご神体《しんたい》にされちまった」
急ぐわけでもないが、足が浮《うわ》つく。どこへ向かうか見当もついてはいなかったが。適当《てきとう》に歩き回る以外にどうしようもないと決心をつけた。
「しかしそいつの今際《いまわ》の際《きわ》の一言ってーのが『いや、オチはないぞ』で、これはどうしたものかと――」
と。
スィリーの無駄話《むだばなし》が、そこで止まった。のみならずフリウも足を止める。草を踏《ふ》む音。大仰《おおぎょう》な足音が夜の静寂《せいじゃく》に響《ひび》き、気配《けはい》の接近を告げてくる。深い下草の向こうから、携帯《けいたい》ランタンの灯りが近づいてくるのが見えた。
暗い木々の陰《かげ》の隙間《すきま》から、姿を見せたのはふたりの男だった。
「フリウ? やっぱり!」
スィリーの声を聞きつけて近づいてきたのだろう。知った顔の男は、驚《おどろ》きと安堵《あんど》が混じった声で呼《よ》んできた。
夜気はそれほど冷たくはなかったが、喉《のど》の奥《おく》に溜《た》まっていたなま暖《あたた》かい塊《かたまり》に比べれば刺《さ》すように清涼《せいりょう》だった。その息を呑《の》み込み、喘《あえ》ぐ。
「サリオン? どうやってここに来たの?」
不器用《ぶきよう》に転びそうになりながら前に進み出て、その男――サリオンが答えてくる。
「君の足跡《あしあと》をつけてきた。いや、まあ、あの、彼がね」
と、彼が示《しめ》したのはもうひとりの男、髭面《ひげづら》の大男だった。例の武器《ぶき》を担《かつ》いで、相変わらず不機嫌《ふきげん》に目玉をぎょろつかせている。
その表情に、挨拶《あいさつ》を期待していたわけでもなかったが、実際、開口一番そのハンターが発してきたのは、詰問《きつもん》だった。
「お前だけか?」
「え?――あ、あの子? あの、あのお城にいるんだけど」
「どうやって行ったんだ?」
「そこに地下道が」
「精霊は?」
「ええと、いない……かな」
「じゃあ、あいつはあの城でなにやってんだ?」
「気絶してる。足に穴が開いて。あ、足に穴っていえば、アイゼンとラズもあそこにいるの」
「…………」
矢継《やつ》ぎ早《ばや》に一通り訊《たず》ねてきてから、ハンターは不思議《ふしぎ》そうに沈黙《ちんもく》した――その横で、サリオンも似たような顔をして聞いてくる。
「なにがあったんだ? フリウ」
「ええと、どう説明したらいいのか分からないんだけど」
困り果てて、口ごもる。と、
「ったく、ガキってのはどうしてこう、ものを説明できねぇんだよ」
ハンターが鼻を鳴らした。その鼻の尖端《せんたん》にしわを寄せて、馬鹿《ばか》にするように言ってくる。
「大事なことだけを言やぁいいんだ。危険はあるのか? ないのか? てめぇが愚《おろ》かでそれが分からんってのなら、誰に聞きゃ分かるんだ?」
「……危険なんかないよ。あの城に黒い服着た爺ちゃんがいるけど、脅《おど》して締《し》め上げればきっと全部|説明《せつめい》してくれると思う」
「分かった」
武器《ぶき》を担《かつ》ぎ直し、地下道のほうへと去っていくハンターの背中《せなか》に、フリウは舌を出した。
ランタンを持っていたのはハンターだったため、あたりは再び自然光だけの闇《やみ》に覆《おお》われた。月光は強かったが、森の中は木々の枝が天蓋《てんがい》のように組み合わさり、存外《ぞんがい》に暗い。
呼吸《こきゅう》の音。見るとサリオンが嘆息《たんそく》したらしい。彼は軽く、微笑《ほほえ》んでみせた。
「なんにしろ、無事《ぶじ》で良かったよ。いろいろあったみたいだね」
「いろいろなことを学びながら転落していく。それが人生なんだが、別に学ばんでも転落していくのなら大差ないと誰も気づかないのが不思議だと思わんか?」
「あんたちょっと黙《だま》っててよ」
割《わ》り込《こ》んで話し出したスィリーに、フリウは告げた。人精霊が素直《すなお》にうなずいてくる。
「分かった。いいと言うまで口をきかん」
「あのね、サリオン――」
「それは『いい』と同じ意味かどうか聞いてもいいか?」
間髪《かんぱつ》入れずに聞いてくる。
人精霊に、フリウは無言《むごん》のままポケットから取り出した輝《かがや》く球体を押《お》しつけた。ふっと光が消え、そしてスィリーの姿《すがた》も消える。
手にした球体の中で蠢《うごめ》く緑色の靄《もや》を確認《かくにん》してから、彼女は水晶檻《すいしょうおり》をポケットにもどした。これもあの少年の持ち物を無断《むだん》で借りてきたのだが、思った通り役に立った。
「これ、便利かも」
つぶやきながら、サリオンへと向き直る。元|警衛兵《けいえいへい》の青年は、じっと言葉《ことば》を待ってくれていたようだった。彼を見上げて、フリウは口を開いた。
「話したいことがあるの」
「じゃあ、君の父さんは……生きているわけだ」
一通りのことを話し終えて、サリオンのうめいた口調《くちょう》には、どこか複雑《ふくざつ》なものが混じっているように聞こえた――それがなんなのかは分からないが。こちらの視線《しせん》に気がついたのだろう、はっとしたようにこちらを向くと、
「おめでとう、でいいのかな。それで彼はどこにいるんだ?」
「教えてもらえなかったの。教えて欲《ほ》しければ、その爺ちゃんとかマリオと、いっしょに来なくちゃ駄目《だめ》だって」
「ふうむ」
彼は口元を押さえて、そのまま黙り込んだ。獣道《けものみち》の脇《わき》の、土手のようになった土の塊《かたまり》の上に、並《なら》んで腰を下ろしている。虫の声が、それほど遠くもなく聞こえた。背後《はいご》の茂《しげ》みの中に巣《す》でもあるのだろう。
もう話せることがなくなって、フリウは彼の言葉を待った。小さくかぶりを振って付け加える。
「……分かんないの。どうしたらいいか。自分で決めなくちゃいけないんだろうけど、でも」
「ぼくが反対だと言ったら、それを聞くのかい?」
囁《ささや》くように言ってきた彼の言葉に、フリウは出しかけた声を呑《の》んだ。彼はこちらを見ずに、あとを続けた。
「ぼくの意見《いけん》は変わらないよ。国境《こっきょう》を越《こ》えて逃《に》げるのが一番だと思う。ベスポルトの探索《たんさく》なら、向こうで人を雇《やと》って、それにさせればいい」
「サリオン……」
「ベスポルトが帝都《ていと》に運ばれたんでもない限り、それほど難しいことじゃないだろう。ぼくも一応|警衛兵《けいえいへい》だったから知ってるけど、辺境はアスカラナンのスパイだらけだよ。つまりは、潜入《せんにゅう》できるし、脱出《だっしゅつ》できるんだ」
呼びかけを無視《むし》して、彼はなにかの手本でもそらんじるようにそう言った。が、言い切ったところのわずかな隙《すき》に、フリウは彼の袖《そで》を掴《つか》んで引いた。声をあげる。
「父さんは、きっと――その帝都に行くつもりなのよ!」
サリオンの目が、こちらを向いた。完全に振《ふ》り向いたわけではなかったが。
後ろ暗い心地《ここち》で、フリウはつぶやいた。
「多分、そうなんだと思う。もう二度と会えないって、そう書いてあったの」
「彼の手紙に?」
問い返してくるサリオンに、フリウはうなずいた。
彼が、苦笑《くしょう》のようなものを浮《う》かべるのが、月の光とその影《かげ》の隙間にのぞく。彼は、こちらには見えないと思ったのだろうか。
「帝都……イシイ・ハイエンドには黒衣《こくい》がいる。こちらから出頭するというのは、合理的ではないよ。そうだろう?」
「分かんない」
フリウは、うつむいて両手の中に顔を埋《うず》めた。うめく。
「分かんないよ……どうしたらいいのか分かんない」
「悩《なや》んでいるうちは、分からないだろうね。分からないから決められないんじゃないよ。決めたあとに、分かるんだと思う」
サリオンの声は、いつになく冷淡《れいたん》だった――そう聞こえた。隣《となり》で動いた気配《けはい》。立ち上がったのだろう。顔を上げると、彼の背中《せなか》が見えた。
「サリオンは、もう決めたの?」
問いかけると、彼はそのまま答えてきた。
「そうだね。君がなんと言おうと、それに反対して国境|越《ご》えを勧《すす》める」
なにかに背中を押《お》されたように。フリウも立ち上がった。跳《は》ね上がったといったほうが近いかもしれない。その勢いのまま、声をあげる。
「なんでよ!」
喉《のど》になにかが詰《つ》まり、声がかすれた。が、詰め物は言葉を押しとどめる役には立たなかった。
「どうしてサリオンが、あたしのことを決めるのよ!」
彼は答えてこなかった。こちらを向きもしなかった。立ち上がっても、伸び上がっても、まだ彼の背の高さに足りない。
振り向かない彼を見上げて話すのは、天に向かって叫《さけ》ぶのにも似ていた。
「サリオンは……あたしが、どこへ行くって言っても、なにをするって言っても、いっしょにいてくれるの? そんなことは、できないでしょ。どんなに優《やさ》しくしてくれたって、サリオンは、あたしの父さんじゃないもの」
胸に手を当てる。激《はげ》しい鼓動《こどう》を期待していたのだが、心臓は思いのほか冷淡だった――のみならず、身体中《からだじゅう》悪寒《おかん》に震えている。
彼が振り向いた。目に見えて、どうという表情《ひょうじょう》を見せてくれたわけではない。だがその無表情さが、なによりも肌を粟立《あわだ》たせた。自分が、今まで開けずにいた箱を開けてしまったのだと気づかせた。
だが、だからといって途中《とちゅう》で止まるわけでもなかった。続ける。
「あたしは、逃げられないよ。どこまで逃げたって、逃げられないって分かるもの」
彼から目をそらしてしまったため、彼の表情は見えなくなった。うつむいて、フリウはさらに声を大きくした。
「サリオンだって、結局、昔あったことから逃げられなかったから、あたしの前に現れたんでしょう? 自分で、そう言ってたくせに。あたしには逃げろなんて、そんなこと押しつけるのはずるいよ!」
そろそろなにかを言って欲しい――
沈黙《ちんもく》を続けるサリオンにそう願いながら、その言葉《ことば》を自分が聞きたいのかどうか、それは自信が持てなかった。数秒。数十秒。数分。あるいは、数分ほどにも思えた数秒でしかなかったかもしれないが。
だが彼からはなにもなかった。耐《た》えきれなくなって、フリウは口を開いた。
「八年も前のことなんて、あたしよく覚えてもいないの。許してくれなんて言われたって、なにをどう許したらいいのかも全然分かんないよ……」
足から力が抜《ぬ》けたが、へたり込むことはなかった。が、膝《ひざ》が震えているのは見えた。
「いろいろ助けてくれて、感謝してる。でもサリオンがあたしになにをして欲しいのか、なにを言ってもらいたがってるのか、分かんない」
「ひとつ嘘《うそ》をついた」
唐突《とうとつ》に聞こえてきたサリオンの声は、予想もしていない言葉だった。不意《ふい》を突《つ》かれる形で、顔を上げる。彼は笑っていた――いや、苦笑《くしょう》になにかを隠《かく》している、そう見えた。
「え?」
聞き返すと、彼は嘆息《たんそく》してみせた。疲《つか》れたように、言ってくる。
「決めたつもりでいたって、本当は分からないことだらけだ。ぼくだって、これからどうしたらいいのかなんて分からないよ」
と、こちらを真《ま》っ直《す》ぐに見つめ直して、
「ぼくの贖罪《しょくざい》のために生きてくれなんて思ってない……そこまでぼくは図々《ずうずう》しくない」
それほどわたしは図々しくない。
父も手紙でそう言っていた。
だが逆に言えば、紛《まぎ》れもなく彼らは自分になにかを望んでいる。
サリオンの顔を見返しながら、フリウは胸中《きょうちゅう》でつぶやいた。
(リス爺《じい》ちゃんも、あたしになにかをさせようとしてる)
咳払《せきばら》いの声が聞こえてきた。振り向くと、まるでこちらの心を読んだようなタイミングで、茂《しげ》みから黒装束《くろしょうぞく》の老人が姿を見せる。
「爺ちゃん」
「盗《ぬす》み聞《ぎ》きをわびるつもりはないぞ。話の向き次第《しだい》では、飛び出して拉致《らち》せにゃならんかったからな」
実際、悪びれない調子でリスはそう言ってきた。服についた葉や汚《よご》れをはたき落としている。虫の巣《す》を突《つ》っ切ってきたのか、何匹《なんびき》かくっついているのが見えた。
「彼が……?」
サリオンが、聞いてくる。フリウはうなずいた。と、思い出して、訊《たず》ねる。
「爺ちゃん、さっき髭《ひげ》生《は》やしたでっかい人とすれ違わなかった?」
「知り合いか? 変に脅迫《きょうはく》めいたことを言ってきたんで大人しく[#「大人しく」に傍点]寝《ね》かしつけておいた。なにか妙《みょう》なことを吹《ふ》き込《こ》んだんじゃないだろうな」
「さあ?」
空《そら》とぼけて、あさってのほうを向く。
真夜中ではないが、もう真夜中がそれほど遠くない時間になっているのだろう。リス・オニキスが、飾《かざ》り気《け》もなく聞いてくる。
「それで、結論《けつろん》は出たか?」
「行く」
フリウは、ゆっくりと向き直って、告げた。
「あたしを精霊使いにして。爺ちゃん」
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エピローグ
マデュー・マークスは目を覚《さ》まして、そしていつものように跳《は》ね起きた。目覚めれば、寝床から飛び出すのに躊躇《ちゅうちょ》するのは時間の無駄《むだ》だ――その信念が変わることはない。だが飛び起きてから、腿《もも》に走った激痛に悲鳴《ひめい》をあげて転倒する。怪我《けが》をしたことを思い出したのは、たっぷり数秒ほどうめいてから後のことだった。
(そうか……くそ、あの黒ずくめにやられたんだっけか)
勝ったと思ったのだが、負けていた。こんなことは今さら初めてというわけでもないが。
痛みは慣れれば、歩けないこともなかった。傷口《きずぐち》に完璧《かんぺき》と思える手当てもしてある。あの眼帯《がんたい》の娘《むすめ》がやったのか――と思いかけて、彼は鼻で笑った。あり得ない。あれはなんにもできない素人《しろうと》だ。なにもできない素人は、誰《だれ》にでもできそうなことすらなにもできない。ハンターのことわざを信じれば、そういうことになる。もっとも。
(ま、悪人じゃなかったようだが)
あの少女の顔を思い出し、それだけは加点しておく。記憶にあったのは、意識が途切《とぎ》れる前――こちらをのぞき込む、混乱したあの娘の顔だった。あれは傑作《けっさく》だった。気を失わなければ、もう少し見ていたかったが。
(しかし、どうなったんだ?)
彼はなんとか身体《からだ》を起こすと、首を左右に振《ふ》った。夜。空を丸ごと暗くするトリックでもないのなら、疑いなく夜なのだろう。森の中だった。はっきりとした位置は頭に浮かばない。見覚えのある地形――星の形、遠くに見える丘陵《きゅうりょう》のシルエットからでもなにか手がかりを得られないか、見える風景を観察する。曖昧《あいまい》な結論ではあったが、ひとつの安心は得られた。さほど離れてもいないところから、覚えのある大いびきが聞こえてきている。父親のものだった。地形からはなにも分からなかったものの、近くにあのろくでなしがいるらしい。
(安心? なんでだ)
舌打ちして、つまらない感想を持ってしまったことを叱咤《しった》する。あの男を頼りにするなどとんでもない。自分は自立したハンターなのだから。
よくよく見回してみれば、ほどなくあのいけ好かない若いハンターふたりに、もっといけ好かない素人の男の姿もあった。毛布にくるまって眠《ねむ》っている。安眠しているのか、なにか打撲傷《だぼくしょう》でも負って気絶しているのか、半々くらいのようだった。空《から》の毛布がひとつある。そして、いけ好かないというほどでもない娘の姿はない。
マデューは、一番離れたところに転がっている父親のところへ近寄った。大の字になって眠っている彼の、脂《あぶら》ぎった鼻の先端をつまんでやって、いびきを止める。一瞬の静寂《せいじゃく》に、泣き声が聞こえてきていた。
(こんなこったろうと思ったぜ。ったく)
ホームシックだろう。
そうに決まっている。やはりいけ好かない部類に成り下がったその娘の姿を探そうと思ったのは、好奇心のようなものだった。マデューは父親らのいる場所から歩み出ると、かすかな泣き声を頼《たよ》りに進んでいった。山の中を、泣いた子供がそれほど歩けるはずがない。それほどの困難《こんなん》もなく、マデューは娘の後ろ姿を探り当てた。
泣いている。泣き声が聞こえているのだから、当たり前だが。地面にうずくまり、肩《かた》を震《ふる》わせて嗚咽《おえつ》している。
理由など知りようもないし、知る気もなかった。ただ、娘は泣いている。こちらに気づくこともなく泣いている。
と。
「よぉ」
いきなり呼びかけられる。
マデューは驚愕《きょうがく》して、後ずさりした。思っていた以上に、娘にばかり注意し過ぎていたのかもしれない。気づかなかったがすぐそばに、あの人精霊《じんせいれい》が飛んでいた。
捕まえるチャンスだった――が、懐《ふところ》に手を入れても、なぜか水晶檻《すいしょうおり》がない。わけが分からず身体《からだ》中のポケットを叩《たた》いているうちに、人精霊が続けて言ってくる。
「夜に泣く。誰もが泣く。人生は秘密ばかりだ。だが誰かに知ってもらわないことには秘密も価値はないものだわな。そう思わねっか?」
「……泣かねぇよ、ハンターは」
水晶檻は、どこかに落としてしまったらしい。あるいは倒された際に奪《うば》われたのだろう。人精霊の戯《ざ》れ言《ごと》よりも、そのことのほうが気がかりだった。何度も舌打ちして、地面を蹴《け》る。
人精霊は青い羽をゆったりと上下させつつ、風と同じ軽さで空気を泳いでいる。精霊らしい、どの動物にも、昆虫にも似ていない動き。人がまったく同じ形に人精霊の模型を作ったところで、浮きも飛びもしない。精霊とはそういったものだった。
「泣いたことのねぇ奴《やつ》は、人が泣くのを見た時に驚かないようにしないとな。いや、意外と泣いてるんだぞ、誰も」
「泣くのはガキだろ。俺は関係ねぇ」
吐《は》き捨《す》てて、マデューはきびすを返した。まったく関係ない。泣くのは弱者だ。自分は関係がない。
足音を立てて立ち去る。背後から、変わらない娘の泣き声と、人精霊のつぶやきと、ともになんの役にも立たないものが聞こえてくる……
「泣くのに理由がいるわけでもないだろが、だが泣いてるうちに理由は思いつくもんだ。あまりにたくさん思いついて、気がつくとなにがなんだか分からないってこともある。それで泣きやむんだ。そんなもんだな」
人精霊こそ、なんのためにつぶやいているのか。聞かせる相手もいないというのに。ただひたすらにしゃべり続けている。
「見てる奴が余分に考えてやったっていいんだぜ? 誰か、あの小娘が泣いている理由を考えてやってくれんかね? いや、俺よく分からねぇんだ」
(知るか)
マデューはそのまま、もといた場所にもどっていった。
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あとがき
@今日、あったこと。
床屋に行ったわけです。偉《えら》ぶるわけではありませんが、ぼくだって髪《かみ》くらい切ります。なんか理容師《りようし》の兄ちゃんたちがみんな革《かわ》パンツはいてるお店です。制服なんだかなんなんだか知りませんけど、妙《みょう》なプレッシャーあります。てまあ、そんなことはどうでもいいんですが。
床屋そのものに特に問題はありません。散髪《さんぱつ》が終わって外に出ると、お店の前で携帯《けいたい》電話で話をしている男の人がひとり。これもまあ、問題ありません。
気にせず通り過ぎようとしたその時です。
その人が携帯電話に向かって叫びました。
「教団はどうなるんだよ!?」
…………
まあ事情はよく分からないし追究する気にもならないですが。
とりあえず、なんか大変《たいへん》そうだなあと思ったのでした。
A今回の巻末《かんまつ》のこと
というわけで、決して行数|稼《かせ》ぎなどではありません。秋田です。
とうとう四冊目の巻末です。いきなり窮地《きゅうち》です。前の巻末であんなことを書いたせいなのか、いきなり今回あとがき用に十一ページも余ってしまったのでした。
なんていうか控《ひか》えめに言って悪夢《あくむ》です。
ないです普通《ふつう》。十一ページのあとがきなんて。かなり狼狽《うろた》えてます。なんかもうただ一行「広告|万歳《ばんざい》」とだけ書いて、残り全ページ広告入れてもらおうかと思ったほどでした。ていうか十六ページ余ったって言われたらそうするつもりでした。中途半端《ちゅうとはんぱ》です十一ページ。困ります。
いや、誰《だれ》のせいかって自分のせいなんですけど。
しかし、そう言ったところで十一ページが埋まるわけでもなく……って、かなり埋まってるよ、おい。そうか。あとがきで言い訳すればあとがきが埋まるわけですな。こりゃ一本取られました。ううむ。
こうなると調子に乗って、さらにポエムでも書いてごまかしたくなります。
健康魂《けんこうだましい》
生活|習慣《しゅうかん》病の本を読む男。その横顔は真剣。
健康第一。血液はサラサラ。
栄養の偏《かたよ》りもなく、鍛《きた》えた腹筋《ふっきん》は銃弾《じゅうだん》をも跳《は》ね返す。
無敵《むてき》。超人。恐《おそ》れるものなどなにもない。
知性あふれる眼差《まなざ》しは未来を見つめ、おはようからおやすみまで監視《かんし》の目は怠らぬ。
そのパワーは宇宙の王。最終段階のフリーザくらい。
「よくもクリリンをー!!!!!!」
ナメック星爆発まであと三分。
……数日前に駅で電車を待っていて退屈《たいくつ》だった時、目の前で真剣に健康の本を読んでる男を見つけたので作ったポエムです。その場で携帯電話から友人にメールで送ったのですが、反応《はんのう》は素敵《すてき》な苦笑いでした。
苦笑いといえば代々《よよ》|木《ぎ》のフリマで(検閲《けんえつ》)
Bちょっとヤバかったこと
マジまずいことを言いそうになってしまったようで、削除《さくじょ》されてしまいました。仕方《しかた》ないので別のトピックで埋めます。
いいですかみなさん。こういうのを内輪《うちわ》ネタといいます。
ごめんなさい許《ゆる》してください。
Cポエム機のこと
ポエム機って便利ですよね。いや、携帯電話のメール機能のこと独自にそう呼んでるんですけど。
こんな仕事してると、あまり使い道ないじゃないですか。iモード。ぼくも携帯電話買ってからほとんど使ったことありませんでした。
で、なんとか使ってやろうと思いまして。考えたわけです。いつでも使えて、片手で文章を入力できる。これは便利《べんり》なのだけど、かといって長文を打てるわけでもない。
ようやく思いついたのは、ポエムです。なんか思いついたものを無差別に友人に送りつける。反応はやっぱり苦笑いなんですけどね。
いいですかみなさん。こういうのをスパムメールといいます。
いいんです負けません挫《くじ》けません折れません。退《ひ》かないし媚《こ》びないし省《かえり》みないです。そんな生き方です。
苦笑いといえば渋谷《しぶや》の駅前で(検閲)
Dしかし十一ページというのは本当に長いなぁと思いつつあること
ようやっと五ページ目です。だいたいいつも書いているあとがきはこのへんで終わりです。
癖《くせ》で、もう身体《からだ》があとがき終わらせにかかってるところが我ながら驚きです。また次の巻末でお会いしましょうとか書こうとしてます。
思えばもうそろそろ年末です……本書が発売されてるのはもう一月の下旬《げじゅん》でしょうから、なにを今さらと思われるでしょうけれど、このあとがき書いている時点ではまだ十二月だったりします。
自分は今年なにをしたか。空気を入れ換《か》えるため開け放した窓から外を眺《なが》め、そんなことを考えます。
練習しようと思っていたハーモニカは見事に埃《ほこり》をかぶり、料理教室にでも通おうかと買ってみた習《なら》い事《ごと》情報雑誌は何処《どこ》へ埋《う》もれたのか。ていうか部屋の片づけをしようと考えたのは、いつのことだったか。買ったまま封《ふう》も開けずにほったらかしのゲームは数知れず。この頃はもうゲーム屋に足を運ぶこともなく。
デジカメも充電器つけたまま放置《ほうち》。DV編集に手を出すものの、己《おのれ》の無計画さに見事|玉砕《ぎょくさい》。本も、買ってきて読まないまま本棚《ほんだな》行きのものが増えました。通《かよ》おうかなーと目をつけていた近所のアスレチッククラブ、いざ行ってみたら潰《つぶ》れてたし。
そこそこ遊びに出かけたりもしていたと思うのだけど。考えてみたら今年、まるっきり映画館にも行っていない。最後に劇場で観《み》た映画が『○ヤーリーズ・エンジェル』だというのはどういうことですか。
いかん。遊びが足《た》りない。仕事をしないと心が枯《か》れるが、遊ばなければ身体《からだ》が腐《くさ》る。というわけで、緊急《きんきゅう》に遊び計画を立てることを己に命じる。
とりあえず思いつくのはこんなところなのです。
・ハーモニカ
いや、分《わ》かっている。みんなが言わなくても俺も分かっている。確かにハーモニカを買ったと言いふらしていた時期、友人一同が浮かべた苦笑いは忘れない。
「三日だね」
「全部の音階吹《おんかいふ》かずに終わるね」
「教本四ページくらいが限界じゃない?」
ちなみに半日だった。確かに第二オクターブまでしか吹いていない。教本は八ページまでが目次だったのでそれはクリアーした。分かっている。負けは認める。完敗《かんぱい》だ。好きなだけ俺を罵《ののし》るがいい。石を投げるがいい。ただし罪《つみ》なき者から。
だけど……だけど! うわーん!
・料理教室
いや、泣きながら走り去っている場合ではない。
というわけで第二案。これは結構現実的なのでは? と自画自賛《じがじさん》。今の仕事スケジュールだと週一とかで通うのは無理《むり》だろうから、月一くらいで。
もともと料理などまったく不得手《ふえて》のわたしである。高望《たかのぞ》みはしない。臆《おく》することなく揚《あ》げ物ができるようになるくらいで十分。こんな時、ハードルが低いというのは心強いものなのだ。
最近では、おっさんのための初心者用料理教室などというのもあるという。そういうとこなら、「あらなにこの男。こんな時間から料理教室? なに、無職《むしょく》? ヒモ? ナンパ目的? キショ。警備員さん、警備員さーん!」とか言われなくて済《す》む。どうせろくに包丁《ほうちょう》持ったこともないような男が集まるのだろうから、似《に》たようなレベルのぼくでも気後《きおく》れしないでいい。
しかも身につくものは実用的。
なんだ。良いことづくしではないか。にじゅうまるをつけたいところである。素晴《すば》らしい。びば料理教室。ていうかこれも去年の暮《く》れくらいから行きたいな〜とか言っておきながら実現してないネタなんだよなぁ。結局は、当人のやる気|次第《しだい》ということなのだよね。とほ。
・旅
そうだ。旅行。すっかり忘れてた。
いつぞや、
「三十歳になるまでに、日本の全県を制覇《せいは》するぞー」
とか言ってモバイルまで買って準備しておきながら、そのパソコン担《かつ》いで事務所から歩いて五分のファミレスにこもって仕事してるだけってどういうこと? 意志の弱さをいかんなく発揮《はっき》しております。
だいたい三十歳になるまでにって、あともう十五ヶ月弱しかないんだけど。行ってない県って、どれくらい残ってたか……うわ。目標達成用に未踏《みとう》の県を書き出したファイルももう見つからないし。
・動画を作ろう
いや、旅に絡《から》んでなのだけど。
そんなことも考えて、デジカメとかデジタルビデオカメラまで買っていたわけですね。んで、各地で気になるものをデータに収《おさ》めて、編集しようかなと。
結構《けっこう》はまりそうではあるのだけど、これも手間《てま》がかかりすぎてどうかなあという感じではあるのかな。
もうちょっと仕事に余裕《よゆう》ができてからだねえ。
……って、気がついたらネガティブになってますし……
いや、これじゃいけないわけですよ。時間なんて根性《こんじょう》で作って遊ぶくらいでないと。
ポジティブ・シンキング・ターイムなわけですよ。十秒以内に答えないと床《ゆか》が開いて水牢《すいろう》に落下《らっか》ですよ。いや、もうよく分かんないですけど。
Eそしてようやくエンジェル・ハウリングのこと
にやり。
だいぶページも進んで参《まい》りました。いや本当に一時は、いっそのこと急遽《きゅうきょ》あとがき短編『愛・そして生きるために 〜暗黒大帝《あんこくたいてい》ギガビームの逆襲《ぎゃくしゅう》〜』でも書かないといけないかと思いましたが。なんとかなりそうです。
というわけで、このシリーズもとうとう四巻目。偶数《ぐうすう》巻ということで、月刊ドラゴンマガジンに連載《れんさい》されたものの二期目にあたります。
雑誌では既《すで》に三期目が進行しています。今のペースだと、五巻の発売前に三期目(つまり六巻|収録《しゅうろく》分)が終わってしまいそう。このへんのタイムラグがちょっとややこしいです。まあ、読んで支障《ししょう》ないように書いてるつもりではいるんですけれど。
もう少しタイミング良く刊行していけるはずだったのですが、ちょっとぼくが体調を崩《くず》してしまったりしたせいで、待っていてくださる読者の方々にはご迷惑《めいわく》をおかけしてしまったものと思います。というわけでその反省もあって、今後の刊行スケジュールについてはあえてここでは述べません。これはさっきのような冗談《じょうだん》ではなく不甲斐《ふがい》ないところではありますが、申し訳ありません。
というところで。
また次回の巻末でお会いしましょうぞ。
ではではー。
二〇〇一年一二月――[#地から2字上げ]秋田禎信
底本:「エンジェル・ハウリング4 呪う約束 ―from the aspect of FURIU」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2002(平成14)年1月25日初版発行
初出:「月刊ドラゴンマガジン」富士見書房
2001(平成13)年1月号〜8月号
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2009年12月07日作成
Shareで流れていたスキャン画像をOCRでテキスト化して校正しました。
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ16行、1行は約40文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「」「=v……縦書き用の二重引用符の始めと終り
「@」〜「E」……丸1〜丸6
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本19頁15行 「どういうことだん?」
だん?
底本70頁16-17行 背を向けたりしていのが
していのが? しているのが、の誤記か?
底本184頁1行 「逃《に》にげろー!」
「に」が余計。
底本187頁11行 慌てて、〜
字下げされていない。このテキストでは修正しておきました。
底本219頁11行 ひょっしたら、
ひょっとしたら
底本261頁2行 間髪《かんぱつ》
かんはつ