エンジェル・ハウリング3
獣の時間 ―from the aspect of MIZU
秋田禎信
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)硬《かた》いなにかを
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一歩|踏《ふ》み込む。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)延長ではない[#「ない」に傍点]
-------------------------------------------------------
目次
プロローグ
第一章 リバーサル・サープリス
第二章 アームズ・トリガー
第三章 ビーストタイム
第四章 ヘブンズ・ドア
第五章 リップス・ブラッド
エピローグ
あとがき
[#改丁]
プロローグ
硬《かた》いなにかを水滴《すいてき》が穿《うが》つような、コツ、コツ、という単調な音。
それは実際には、机を突《つ》くペン先の立てる、さらに硬い音だったとはいえ、大差はなかった。そこにいる者たちが、水と石であったとしてもどうということはない。特に意味はなく、言ってしまえば自然石の囁《ささや》きのごとく彼らもまた囁いていたに過ぎない。
「――つまりあなたは、ずっとこの世界を見つめていたい?」
「そう。ぼくは、生来の傍観者《ぼうかんしゃ》なんでしょう」
囁きの部屋は、適度な暗闇《くらやみ》と、机、椅子《いす》、それに座《すわ》るふたりの何者か。それがあれば事足りる。望めば、ペンが与《あた》えられ、音を立てても良い。多くの大マグスが集《つど》う次元の狭間《はざま》には、さらに意味のない部屋がいくらでもある。囁きの部屋は、それに比べれば、まだしも有意義な施設《しせつ》とさえいえた――場合によっては。
「自分でなにかをしようとは思わない?」
「なにかができるのなら、ぼくにはもっと意味のある生が与えられたと思います。ええ、ガンザンワロウン――あなたになら分かるのではないですか?」
「わたしは、ガンザンワロウンではありませんよ。大賢者《だいけんじゃ》は問いを発したりはしません。すべてご存じなのですから」
「それは嘘《うそ》だ、師《し》よ。逆です。この図書館で問いを発する者はすべてあなたです。あなたのマギは、知識を得る機会を逃《のが》したりはしないのですから」
「…………」
「ぼくは観察者《かんさつしゃ》です。あなたのことも観察しました。そして――言ってしまえば、そう。あなたにも飽《あ》きてしまった」
彼はそう告《つ》げると、相手の反応を待った。怒《いか》りはないだろう。叱責《しっせき》も、あり得ないことに思えた。世のすべてを網羅《もうら》する大賢者ガンザンワロウンは、ある意味では長らくその言葉を待っていたのであろうから。
とはいえ、賞賛もないだろう。彼は苦笑《くしょう》した。ずば抜《ぬ》けて狭量《きょうりょう》な者だけが、他者《たしゃ》を圧倒《あっとう》するような智者《ちしゃ》になれる。
彼は続けた。
「世界から隔絶《かくぜつ》されたこの図書館から、ぼくは、様々なものを観察しました。中庭の窓は、まだ世界へとの連結を失ってはいませんから……」
「好奇心《こうきしん》は満たされましたか?」
不躾《ぶしつけ》な決めつけを放置したまま話題が変わったことを気にすることもなく、質問者は聞いてきた。質問者は、答えを吸収する記録者でもある。それはすべて、ガンザンワロウンへと伝えられる。たとえ仮《かり》に、この質問者自体が、ガンザンワロウンの不可思議《ふかしぎ》な五感の延長ではない[#「ない」に傍点]としても。
暗闇《くらやみ》の中で、彼は、かぶりを振《ふ》った。
「満たされることはありません」
「そうでしょうね」
「むしろ、飢《う》えたように思います」
「それが、生来の観察者である、と?」
「ほかに必要なものを思いつきません」
告げる。
続いた沈黙《ちんもく》は長かった。それは呑《の》み込むための時間だったのか、考えるための時間だったのか、あるいは出しかけた言葉を打ち消すための時間だったのか。どれか分からないということはない――考えればすぐに分かるだろうと、彼はこっそりと胸中で判断した。が、考えるよりも、相手の返事のほうが先だった。
「反対する理由はありません」
「師よ」
彼は背筋を伸《の》ばすと、改めて正面へと視線をやった。暗闇は、途方《とほう》もなく厚いものというわけではなく、おぼろげに見えるものもある。質問者の顔は見えることはない。が、それから受け取れる体温、声、息遣《いきづか》い……それらは見えないことはない。ごく普通《ふつう》の注意力を発揮していれば、この世には分からないことなど存在しない。
観察者の真理を噛《か》みしめながら、彼は告げた。
「ぼくは気づいてしまった。いつの間にかこの世界には、大きな力が生まれていました。それは、我らの大敵《たいてき》となるでしょう。不倶戴天《ふぐたいてん》の、最悪の敵に」
「真に最悪の敵であれば、それは防げないでしょう」
「言ったでしょう、師よ。ぼくはそんなことには興味はありません。なにかの意志で世界が消えるのであれば、それは構わない」
緩《ゆる》やかに微笑《ほほえ》んで、彼は続けた。
「ただ、彼らを見たいだけです。それがなんであるのか知りたい。それだけです」
「…………」
質問者は、なにかを言ったのかもしれなかった。だがそれは、彼の耳にはとどかなかった。独り言か。それとも? 彼は聞こえなかったはずの言葉を補完して、相手の呼吸を見定めた。
しばしして、質問者が発したのは普通の言葉だった。
「確かに、我らの武器は知識です。未知のものがあってはならない。この図書館には、既《すで》にあらゆる知識が収められています」
聞こえない雄弁《ゆうべん》ではない。言葉の形骸《けいがい》。
彼は机に肘《ひじ》をついて、声を返した。
「師よ。古い塔《とう》で、灯《あか》りを欲《ほっ》して柱を燃やしてしまった愚《おろ》か者《もの》の話を持ち出すまでもありませんが?」
「だがその愚か者は、無知の恐怖《きょうふ》からは逃《のが》れましたね。闇《やみ》への恐怖ではなく、目に見える炎《ほのお》の恐怖によって死んだ」
「意味がありますか?」
問い返す。
質問者は、それを予想していたようだった。さらに問いを返してくる。
「その愚か者が、むしろ自分のことであるとは思いませんか?」
「……そうかもしれませんね」
彼は認めると、席を立った。必要な言葉はすべてもらった――疑いもなく、すべて。世界への扉《とびら》は開かれた。とうに忘れたと思っていた興奮が、いや、本当に忘れていたはずはないのだが、肌《はだ》の奥《おく》の温度を上げる鼓動《こどう》が、背中を押《お》している。
世界は開かれている。自分がそこに降り立つことは、世界のすべてが、神秘《しんぴ》とされていたすべてが解き明かされることの約束だった。なにもかもを知ることになる。
部屋を去ろうと身体《からだ》の向きを変える。変える寸前に、質問者が声をかけてきた。
「お待ちなさい」
言われた通りに、足を止める。質問者はそのまま、続けてきた。
「大賢者《だいけんじゃ》が、あなたにたったひとつ助言をするそうです。彼の持つ無限の知識から、たったひとつだけ」
囁《ささや》きの部屋に、声が響《ひび》く。質問者が発する……質問者とは異質の声。
「真の知識を目指す多くの若者が挫折《ざせつ》しました。真の智《ち》、真の観察者となるのなら、観察者ではない者にはなれない。あなたは万物《ばんぶつ》に対し目を開き、万象《ばんしょう》に対し非干渉《ひかんしょう》を貫かねばならない。あなたは観察者。一時《いっとき》たりと忘れてはなりません。あなたが挑《いど》もうとしているものは、常にあなたの知識を凌駕《りょうが》する未知なのだから」
「師よ」
彼はやんわりと静かに、かぶりを振《ふ》った。
「それは、とうに知っていましたよ」
それが、師に対する、最後の言葉だった。
[#改ページ]
第一章 リバーサル・サープリス
(黒衣《こくい》)
「わたしはミズー・ビアンカ。これから、あなたたちを皆殺《みなごろ》しにするわ」
宣言《せんげん》は、ただの合図《あいず》に過ぎなかった。彼らにも、それは分かっていたことであろうから――
黒衣が集《つど》う、不気味《ぶきみ》な食卓《しょくたく》から、間抜《まぬ》け顔《がお》の警衛兵《けいえいへい》をひとりだけ残して、黒ずくめの男たちが一斉《いっせい》に立ち上がる。それを待たず、ミズーは抜刀《ばっとう》していた。距離《きょり》は最初から目測してあった。半歩の踏《ふ》み出しと、全力の抜き打ち。革製《かわせい》の鞘《さや》から刃《やいば》を引き抜いて、半円の軌跡《きせき》を描《えが》く、ほんの刹那《せつな》。瞬《まばた》きもできないその一瞬《いっしゅん》だけで、黒衣がひとり死ぬ。
はずだった。だが実際には、彼女が剣を一閃《いっせん》する瞬間に、そこにいたはずの黒衣の姿が消え去る。刃は虚《むな》しく空を斬《き》り、ただ金属の残像を残すにとどまった。
驚《おどろ》きはせずに、踏み出した半歩よりも大きな距離を飛び退《の》く。視界の中にいる黒衣は四人。どんな方法でか、ひとりは姿を消した。
否《いな》、方法は分かっている。黒衣が姿を消す一瞬前に、黒装束に包まれたその身体《からだ》から、銀色の念糸《ねんし》が解《と》き放《はな》たれるのが見えていた。念糸能力による、なんらか[#「なんらか」に傍点]の力だろう――驚くほどのこともない。帝国《ていこく》の誇《ほこ》る、最強ランクの念糸使いたちと対峙《たいじ》しているのならば、なにが起ころうといちいち驚いていては命が足りない。
宿《やど》の食堂は、戦闘《せんとう》に適するほどの広さを持っているとはいえず、立ち上がった黒衣らも、完全な連携《れんけい》は不可能だった。だからといってこちらがどれほど有利ということでもないが、それでもこの完全なる処刑者《しょけいしゃ》たちに勝つためにはほんの小さな優位性《ゆういせい》でも無駄《むだ》にはできない。
すべては、剣を抜き放ちマントが翻《ひるがえ》る、そんな短い瞬間のことに過ぎなかった。改めて敵《てき》と向き合って、振《ふ》り切った剣を右手で引きもどしながら、マントの下に隠《かく》した左手で、腰《こし》の後ろに回してあるベルトポーチを探《さぐ》る。目当てのものは、すぐに指先に触《ふ》れた。格闘用ナイフの柄《つか》を、指に引っかける。柄を握《にぎ》る必要のないそのナイフは、持ったままで長剣を扱《あつか》うことができた。素早《すばや》く長剣を両手に構え直すと、彼女は呼吸《こきゅう》を待たず、黒衣らと自分との距離を頭に入れた。その時には、自《みずか》らが踏み込むべき方位、距離、力、すべてが意識の中に描《えが》き出されている。本能よりも強力な、訓練の暗示《あんじ》――学習は肉体を支配し、そして、永遠に解放しない。
心の中に、自分の――だが、自分ではない――冷えたつぶやきが生まれる。
(……この撃《う》ち込みで、ひとりが死ぬ)
時間を超越《ちょうえつ》してそのことは既《すで》に確定し、彼女はつま先に体重を移しかけた。が。
今度、身体《からだ》を動かしたのは本能だった。背筋を走る悪寒《おかん》に従い、身体をねじりながら頭を伏《ふ》せる。気がつけば、背後に黒衣の姿があった。先ほど、姿を消したひとりだろう。かわした空間を、その黒衣の放った手刀が通り過ぎていく。金属繊維《きんぞくせんい》の光沢《こうたく》を持った黒い手袋《てぶくろ》は、そのまま武器に匹敵《ひってき》した。
避けながらの斬《き》り込みで、刃《やいば》を跳《は》ね上げるが、その黒衣はもう一方の手袋でそれを受け止めてみせた。音もなく、刀身が弾《はじ》き返される――黒衣に剣を掴《つか》み取られないように、彼女はその反動に逆らわず剣を引きもどした。わずかにかかとをひねって体勢を直し、腰溜《こしだ》めの姿勢を作ると、今度は渾身《こんしん》の力を込めて剣を突《つ》き出す。
黒衣は両掌《りょうてのひら》を重ね合わせると、その切っ先を受け止めた。そして。
「…………っ!?」
身体をびくりと震《ふる》わせると、そのまま飛び退《の》いた。再び念糸《ねんし》を紡《つむ》ぎだして、虚空《こくう》に消える。
タネが分かっていれば、同じタイミングで彼女も念糸によって相手を捕《と》らえ、一気に決着をつけることは可能ではあった――が、あえてそれはせずに、振り向いて残り四人の黒衣へと向き直る。案《あん》の定《じょう》、黒衣らはすぐにこちらへと攻撃《こうげき》をかける体勢を作っていた。せまい食堂の中で、不完全ながら包囲を取ろうとすらしている。
念糸は強力な武器ではあったが、どうしても意志を収束《しゅうそく》する一瞬《いっしゅん》の時間が必要となるため、同じ念糸能力者に対しては危険な賭《かけ》でもあった。特に、相手が複数であればなおさらに。
居並《いなら》ぶ四人の黒衣らを牽制《けんせい》するために突きつけた剣先《けんさき》には……わずかに血がこびりついているのが見えた。姿を消した黒衣の手袋を貫通《かんつう》したのだろう。赤い血。異能者《いのうしゃ》たる黒衣にも、かろうじて流れている人間の体液《たいえき》。
数度の撃ち込みを破られたことには違《ちが》いない――
優位にあるうちに、ひとりは殺しておかなければならなかった。が、それができなかった。状況《じょうきょう》は逆転して、こちらに不利になっている。
自分が包囲されつつあることには違いない。四人の黒衣が無言でこちらを見据《みす》え、そしてひとりは姿がない。不利な状況だった。なんとか敵に手傷を負わせたものの、深手ではあるまい。一瞬後、たちまち殺されることになったとしても不思議はない。ミズーは苦笑《くしょう》した。不利な状況のはずだった。はずだったが。
(……たいしたことじゃない)
黒衣を――そして、ようやく今さらテーブルから転がり落ち、あわてて腰の警棒《けいぼう》を抜《ぬ》こうとしている警衛兵を視線だけで見回して、彼女は独りごちた。
(たいしたことじゃない。そう……こいつらは殺せる相手でしかない)
たとえそれが、どれほど困難なことであろうと。戦うことのできる相手を、恐怖《きょうふ》する必要はない。
心の空白に眠《ねむ》る、卑《いや》しい獣《けもの》を起こす必要もない。
ミズー・ビアンカはつぶやいた。
(破壊《はかい》して、進む。それしか道がないのなら)
世界は破壊を拒《こば》む。破壊者の道は、常にふさがれている。
破壊者は、それを貫《つらぬ》いて進む。
たったそれだけのことでしかない。
彼女は念糸《ねんし》を解《と》き放《はな》った。
アイネスト・マッジオは何者にも触《ふ》れられない遥《はる》かな領域《りょういき》から、それを見つめていた。見つめる目。自分はそれでしかない。蓄《たくわ》えられる観察《かんさつ》。それ以上のものではない。
村を一望する丘《おか》の上で、寒風の吹《ふ》きすさぶ中、マグスはただ見つめ続けていた。なにも動かずにいるが、外部の冷気に体温を奪《うば》われながら、身体《からだ》の内にある熱気は尽きそうにない。
「始まったね、ミズー・ビアンカ」
彼は笑った。
「イムァシアの死霊《しりょう》たちが言ったように、君は大河《たいが》の空隙《くうげき》から現れたんだろう。かつて人間の少女に過ぎなかった君は、今は精霊《せいれい》よりも危険な武器として世界に君臨《くんりん》する。何者も君を跪《ひざまず》かせることはない」
高地の空に賞賛をまき散らしても、それは尽きることはなかった。広大な、群青色《ぐんじょういろ》の宇宙を満たすほどに、言葉はあふれている。
見つめる目。蓄《たくわ》えられる観察。
恍惚《こうこつ》とする言葉。それ以外のものではない。
静寂《せいじゃく》の朝を揺《ゆ》るがし、紅蓮《ぐれん》の炎《ほのお》が宿《やど》を爆発《ばくはつ》させるのを見つめて、アイネストはさらに笑《え》みを大きくした。
炎熱《えんねつ》は大気を渦《うず》へと変える。
激《はげ》しい竜巻《たつまき》に身をまかせ、ミズーはマントの下で手足を縮めた――実際には、その気流に人体を運ぶほどの力はなかったろうが。逆らわずに跳《と》べば、それを活《い》かすことはできる。それは意図したものであり、博打《ばくち》でも自棄《じき》でもない。
焼き焦《こ》がす赤い力。舐《な》め尽《つ》くす輝《かがや》きの炎《ほのお》。それらが古い宿の建材を、念入りで凶暴《きょうぼう》な子供の手にある玩具《おもちゃ》のように、ひとつひとつ抱《だ》き潰《つぶ》していく。熱にさらされ、壁《かべ》も床《ゆか》も天井《てんじょう》も、柱も自ら弾《はじ》けるがごとく微塵《みじん》に砕《くだ》けて炎の色と混ざる。爆音がそれを揺るがす中、ミズーはそのまま宿の外へと転げ出た。
抱《かか》えていた剣を確かめ――こんな拍子《ひょうし》に、自分で自分の身体《からだ》に武器を突《つ》き刺《さ》して死んだ愚《おろ》か者《もの》というのは大勢いる――、その刃《やいば》が自分に食い込んでいないことを認めると、ミズーは起きあがって身構えた。小さな宿は彼女が意志から導き出した炎に抱《いだ》かれ、炎上している。その中から、自分を追って黒衣が出てくるはずだった。死んでいなければ。
気配《けはい》というよりは予測によって、ミズーは振《ふ》り向きざまに長剣《ちょうけん》を叩《たた》きつけた。そこには、黒衣がひとりいた。金属製の手袋《てぶくろ》で、剣が弾《はじ》かれる。
(姿を消す念糸《ねんし》の力……いえ、相手の位置を追う念糸能力?)
念糸によって捕《と》らえた相手を追って、好きなタイミングで出現する能力。
そういうことになる。
跳《は》ね返された剣の反動を、柄《つか》を左手だけで保持して受け流す。空《あ》いた右手には、格闘《かくとう》用ナイフがあった。それを握《にぎ》りしめ、黒衣に向かって一歩|踏《ふ》み込む。
長剣すらを弾き返す相手に、こんな決定力のない刃物《はもの》で立ち向かうのは笑止《しょうし》だったろう――きっと黒衣もそう思ったには違《ちが》いなかった。隙《すき》のない動作で、手甲《てっこう》を突《つ》きだしてくる。それをかいくぐって、ナイフを敵の身体の急所までとどかせることは不可能だった。ミズーはそのまま、ナイフを黒衣の手袋に突き立てた。
刃先が、爪《つめ》一枚分ほどは装甲を貫《つらぬ》いたと思えた瞬間《しゅんかん》、ナイフを手放して後ろに跳《と》ぶ。
追撃《ついげき》をかけてこようとしていた黒衣の動きが、止まった。相手には見えないように、ナイフの刃へと結びつけておいた彼女の念糸の、銀色の輝きを見て。
意志を注ぐ準備はできていた。黒衣がこちらに向かって、同じく念糸を紡《つむ》いで対抗《たいこう》しようとしているが……間に合わない。
刃が赤熱し、炎をあげた。悲鳴はなかった。が、黒衣の黒装束《くろしょうぞく》も燃え上がり、仮面《かめん》の奥《おく》から、くぐもったうめき声が聞こえてくる。それでも黒衣の動きは迅速《じんそく》だった。炎に包まれ異臭《いしゅう》を放つ手袋を、突き刺さったナイフごと引き剥《は》がし、その場に捨てる。手甲の下から現れたむき身の手には、一見ではなにか変わったことがあったようには見えなかったが、実際には軽度の火傷《やけど》では済《す》まなかったはずだった。少なくとも、当分は使えない。
ミズーは念糸を解《と》くと、ちょうど足下《あしもと》に投げ捨てられた黒衣の手袋から、自分のナイフだけを拾い上げた――金属製《きんぞくせい》の刃《やいば》は朝の冷気と同じくひんやりと心地《ここち》よく、のぞき込む彼女の顔を刀身に映している。そのナイフを腰《こし》のポーチにもどし、改めて長剣を構える。
その間に黒衣も、引きつったまま固まった左|腕《うで》をマントの下に隠《かく》し、入れ替《か》わるように右手でなにかを取り出した。バトンにも似た金属製の筒《つつ》だが、一振《ひとふ》りするとそれが杖《つえ》のように伸《の》びた。尖端《せんたん》には、丸い水晶玉《すいしょうだま》がついている。水晶|檻《おり》だった。緑色の靄《もや》がかかった色味は、中に精霊《せいれい》が捕《と》らえられていることを示している。
同じような道具は、見たことがあった。無形《むけい》精霊を封《ふう》じた水晶檻を、爆発物《ばくはつぶつ》として利用する武器だろう。封印された精霊は、開門式を経ずにその封が破れた時、莫大《ばくだい》なエネルギーを発して脱出《だっしゅつ》する性質がある。柄の長さがあるとはいえ、その黒衣も、爆発に巻き込まれればただでは済まないだろうが、
(……そのための、金属製の衣《ころも》ってわけね)
黒衣の中で、その男だけが妙《みょう》な金属|繊維《せんい》の服を着ている理由がそれなのだろう。ミズーは男をじっと見定めた。特殊《とくしゅ》な武器に特殊な装備。あるいはこの黒衣が、五人の中で最大の手練《てだ》れかもしれない。
唇《くちびる》を舐《な》める。舌の先が乾《かわ》いていた。対峙《たいじ》しているうちに、崩《くず》れ落ちる宿《やど》の中から、亡霊《ぼうれい》のようにひとつ、またひとつと、黒い人影《ひとかげ》が現れる。
(違《ちが》う)
眼前の黒衣から、視線《しせん》をずらすことはできない。気配だけで新手を認めながら、ミズーは認めた。違う。そんなことは関係ない。
(誰《だれ》が手練れかなんて、無意味なこと。黒衣は黒衣。すべてが黒衣)
顔を覆《おお》う仮面。人であるということをなにひとつ漏《も》らさない、隙間《すきま》のない黒装束《くろしょうぞく》。
音もなく、黒衣らが間合いを詰《つ》めてきているのは肌《はだ》で感じた。
(それは人間そっくり……人間にしか見えない……)
自分で唱《とな》えたなぞなぞが、脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》る。
(でも人間ではない……それはなに?)
怪物《かいぶつ》。
単純な謎《なぞ》かけと、単純な解答に過ぎない。
青い空から降ってくるような風が、地面で跳《は》ねてそよいでいく。その風の流れを触覚《しょっかく》で追うのは、水中から滝壷《たきつぼ》を見上げるのにも似ていた。
切っ先を正面の黒衣へと向けて、ミズーはつぶやいた。
「あなたたち、わたしを捕らえに来たの?」
黒衣が答えることを期待していたわけではない――動かない仮面《かめん》をにらみ据《す》え、彼女は続けた。
「下の街でも、わたしを追ってくれたわよね。言ったはずよ? 次に会ったら、絶対に殺すって」
水晶檻《すいしょうおり》のロッドを片手に、黒衣が一歩|踏《ふ》み出してくる。
ミズーは同じ距離《きょり》を飛び退《の》いた。
「変な話よね? あなたたち黒衣は、帝都《ていと》の守護者《しゅごしゃ》。よほどのことがない限り、帝都の外に出ることなんてない。たかだか暗殺者《あんさつしゃ》をひとり葬《ほうむ》るために、辺境《へんきょう》にまでやってくるなんて……しかも、この大人数でね」
視線をやると、敵の動きは止まった。探《さぐ》るように、次の踏み込み位置をつま先で試《ため》しているが、気配で制してそれを防ぐ。
「あの娘《むすめ》……鋼精霊《こうせいれい》を使う娘は、わたしにベスポルトと会うなと言ったわ。街中《まちなか》で精霊まで使って、いったいなんだっていうの? ただの退役兵《たいえきへい》でしょう? そんなことに、いったいなんの意味があるの?」
「お前は契約者《けいやくしゃ》なのだろう?」
その声は。
真正面の黒衣から発されたものではなかった。
息を止め、横目で見やる――燃える宿を背にした四人の黒衣。そのうちの誰《だれ》が声を出したのかは分からなかった。同時、黒衣のひとりが、横から、飛び出してくる。
信じがたい速度で抜《ぬ》き打《う》ちに打ち込まれてくる黒衣の剣《けん》を弾《はじ》きながら、ミズーは後退した。二|撃《げき》、三撃と刃《やいば》を合わせ、その次撃が来る前に切っ先を翻《ひるがえ》し、黒衣の喉元《のどもと》に突《つ》きかかる。雑な反撃だったとはいえ、黒衣はそれを読んでいたように軽く身体《からだ》をそらしてかわすと、そのまま数歩退いていった。黒装束《くろしょうぞく》の裾《すそ》から、軽量の直刃《すぐは》の剣がのぞいている。
驚愕《きょうがく》したのは、黒衣の力にではなかった。激《はげ》しい動悸《どうき》の中、うめく。
(黒衣が……しゃべった?)
黒衣が黒衣たる所以《ゆえん》を打ち捨てて、声を発した?
自問するが、はっきりと耳にとどいた声を幻聴《げんちょう》と決めつけたくなるほどに、それは馬鹿《ばか》げたことに思えた。いや――
考え方を変えるとすれば。
(黒衣でない[#「ない」に傍点]者が、この五人に混じっている……?)
誰も動いていない。時間をかけずに、五人を見比《みくら》べる。仮面と黒装束に守られた無言の黒衣らには、見て分かる差違《さい》などない。
腿《もも》の傷《きず》が、まだふさがりきっていない肉の奥《おく》から鈍《にぶ》い痛みを伝えてきていた。まだ動けないことはないが、それほど長くは戦えない。痛みは無視《むし》できたとしても、いくら意志の力で押《お》さえ込んだところで疲労《ひろう》は蓄積《ちくせき》されていく。
まだ動いていない三人の黒衣が、一斉《いっせい》に腕《うで》を上げた。
そのそれぞれの手に、短剣《たんけん》の刃が見えた。腕を振《ふ》り上げる一挙動で、その刀身をこちらの身体のある位置まで投射してくる。地面に転がって、ミズーはそれをかわすと、再び迫《せま》ってきていた黒衣の剣を受け止めた。交わり、押しつけられるふたつの刀身が耳障《みみざわ》りな音を立てる。燃えさかる建物。その激しい悲鳴。剣のエッジが軋《きし》む感触《かんしょく》。呼吸《こきゅう》が止まり、不意に、音が失われる。
吠《ほ》えたのだろう。自分には聞こえない声で。ミズーは叫びながら、のしかかってくる黒衣の剣と体重を押し返した。ほとんど浮《う》き上がるようにして、黒衣が身体ごと後ろへと弾《はじ》かれる。
黒衣らはもう止まってはいなかった。五人の動きすべてを視界に収める。
入れ替《か》わる形で、短刀を手にした三人の黒衣らが飛び出してきていた。直線ではなく、緩《ゆる》やかに迂回《うかい》してこちらの退路を断《た》とうとしている。
ミズーは駆《か》けだした。
もう一度、自分には聞こえない声で咆吼《ほうこう》しながら。
刃《やいば》から膨《ふく》れあがった炎《ほのお》の赤が、網膜《もうまく》に焼き付いていた。
肌《はだ》に感じる炎熱《えんねつ》。真紅《しんく》の輝《かがや》きは純粋《じゅんすい》に強さを増《ま》し、すべてを呑《の》み込んで世界を埋《う》めていく。
鐘《かね》が鳴り響《ひび》いていた。かつてないほどに激しく。
彼女は空を見上げた――地上の炎が雲を照らす、赤黒い空。
炎の中にあって、彼女はどうしてか、無傷でそこに立っていた。肌が焦《こ》げることもない。呼吸もできる。血に染まった剣と、返り血を浴びて固まった服を帯び、そこにいる。
自分がまた夢《ゆめ》に彷徨《さまよ》い込んだこと。彼女は、淡泊《たんぱく》にそれを認識《にんしき》した。
炎に包まれ、崩《くず》れゆく街。そこに立つ自分、少女の自分。金切り声をあげる鐘の音。渦巻《うずま》く赤い空。
足下《あしもと》に転がる死体をまたぎながら、彼女は速度を変えずに歩いていた。つま先を捕《と》らえようとする死体の数には事欠かない――どの路上にも、焦げた死体が転がっていた。燃えて炭化し、異形《いぎょう》のごとく質量《しつりょう》を減《へ》らした男たちの死体。それらを踏《ふ》み越《こ》えて進むのに、十七|歳《さい》の少女の未発達な手足はそれなりに手間取った。
滅《ほろ》びの光景を踏み越えて、歩いていく。巨大《きょだい》な城塞《じょうさい》であった都市は一夜にして――いや、一刻を待たずして燃えさかる墓所と化した。彼女は、ふと自分の手の中にある金属製の装身具を見下ろした。炎《ほのお》の中にあって、なぜか、それは心地《ここち》よく冷たい。瞳《ひとみ》に球形《きゅうけい》の水晶《すいしょう》をはめ込まれた、獅子《しし》の顔のレリーフ。
彼女は視線を転じた。首だけを巡《めぐ》らせて、背後を見やる。
そこに獅子がいた。
炎のたてがみを躍《おど》らせる、巨大《きょだい》な獣《けもの》。自分を見下ろすように、そこにそびえている。
獅子は彼女に付き従うように、獣らしい無感情な瞳をこちらに向けている。炎が街を焼く轟音《ごうおん》は、そのまま、その獣の唸《うな》りなのかもしれなかった。すべての炎熱《えんねつ》はその獣から発せられ、そして獣を避《さ》けて城塞を焼き尽《つ》くしていく。その獣の懐《ふところ》に抱《だ》かれるように、彼女は獣の元にいた。
なんなのだろう。
彼女は、心静かに自問していた。
この獣が自分を殺さない理由は、なんなのだろう。
そんなことには意味などない――熱の中で乾《かわ》かされた心が、そうつぶやくようでもあり、間違《まちが》いを認めたくない衝動《しょうどう》もまた、どこかに感じている。
精霊《せいれい》は世界をも滅ぼす力となる。そう聞かされて育ってきた。
ならばこの精霊の獣は、自分のことも殺すべきなのだ。精霊にすら滅ぼされることのない、自分とはなんなのだ――?
鐘《かね》の音が、止まった。
火炎《かえん》の中にあってさえ詰《つ》まることのなかった息を止めて、彼女は空を振《ふ》り仰《あお》いだ。赤い渦《うず》が幾重《いくえ》にも模様《もよう》を作り、不気味《ぶきみ》な彩《いろど》りを見せている。鐘が止まった。鐘は空の上にあったのではなかった。鐘は、街のどこかにあったのだろう。それが炎によって殺され、止まった。
鐘の音が再び鳴り響《ひび》くのを、待つ。だがそれが再開されることはないのだとも、彼女は確信していた。街は死んだ。二度と鐘は鳴らない。自分を苛《さいな》む悪夢《あくむ》はここで終わる。終わる。本当にここで終わる……?
炎が勢いを増して、すべてを包み込む。その輝《かがや》きの強さに眼球は視力を失い、彼女はその場にうずくまった。手放した剣《けん》が落ちる音。それは鐘の音にも似ている。二度と聞こえてくることのない鐘。イムァシアの弔鐘《ちょうしょう》。
ふと気がつけば。
炎は彼女を焼いていた。激痛に、悲鳴をあげる。振り仰ぐとそこに炎の獅子《しし》はいない。手の中には、獣精霊《じゅうせいれい》のレリーフもない。
そこは、街ではなかった。もとは豪奢《ごうしゃ》な屋敷《やしき》だったのかもしれないが、火の手がまわり、すべてが燃えている。鮮《あざ》やかな色合いを誇《ほこ》っていたのであろう絵画も、瓶《びん》に生けられた花も、高い天井《てんじょう》も、人が寝《ね》ているソファーも、炎《ほのお》に包まれて焼け落ちていく。
そして自分も、それまでの自分ではなかった[#「なかった」に傍点]。先ほどよりもさらに短い、子供の手足。床にうずくまり、身動きできない。
記憶《きおく》にない光景だというのに、その記憶はなによりも鮮明《せんめい》だった。家具のひとつひとつ、炎の感触《かんしょく》すべてを、覚えていないが知っている。
そこがどこなのか。疑問に思ったのは、それではなかった。彼女は炎の中で絶叫《ぜっきょう》した。
「お前たちは、過《あやま》ちを犯《おか》した!」
紛《まぎ》れもなく自分の腹から発せられた声であるにもかかわらず、そこには自分の意志はなかった――彼女はわけも分からず、ただひたすらに叫《さけ》び続けた。
「御遣《みつか》いの言葉……御遣いの言葉を聞いた! すべてが始まってしまった!」
目を見開けば、炎の中に、数人の人影《ひとかげ》を見ることができた。屋敷の、恐《おそ》らくは最も広いこの部屋で、こちらを見つめている十数人の男たち。
そのうちの半分以上は、死体になっていた。床《ゆか》に倒《たお》れ、あるいは壁《かべ》にもたれて。腹に開いた穴《あな》を抱《かか》えるようにして、ソファーに倒れ込んでいる先ほどの男へと、彼女は一瞥《いちべつ》を投げた。白髪《はくはつ》の老人。激しいほどの笑《え》みの形に顔を強《こわ》ばらせたまま炎に焼かれ、もう動かない。最高級の部屋着《へやぎ》を血に染めて、絶命している。
生きているのは、五人の男だった。ほかは死んでいる。
若い男がふたり。そのうちひとりは少年だった。蛇のように笑い、こちらを見つめている。
もうひとりの青年は、別の意味で落ち着いていた。にこりともしていない。慌《あわ》ててもいない。炎が自分に触《ふ》れないことを確信しているように。いや、それはこの場にいる誰もが同じだったが……
ひとりは、中年というにはまだ早いが、そのふたりよりは年かさの男だった。これも笑っている。無精髭《ぶしょうひげ》を伸《の》ばし、誰よりも堂々としている。
さらにひとり。大男だった。帝国《ていこく》の軍服を着て、武装《ぶそう》もしている。厳《いか》めしい顔つきで、悲しみとも怒《いか》りともつかない視線を投げている。
最後のひとりは、炎の陰《かげ》に隠《かく》れていた。腕組《うでぐ》みし、微動《びどう》だにしていない。すべては彼女を見つめていた。
死体すらも全員、こちらを見つめていた。
彼らに向けて、彼女は告《つ》げた。
「御遣いの言葉が……始まってしまった」
炎が視界を埋《う》め尽《つ》くす。
鐘《かね》の音が消えて、すべてが終わった。
炎に焼かれ、すべてが始まってしまった。
どちらも……迷い込んだ夢の中のことに過ぎない。
彼女は目を開いた。
(……眠《ねむ》っていた?)
自分自身信じられず、彼女は首を振《ふ》った。一呼吸前まで眠り込んでいたとは思えないほど、不思議と眠気はなく、意識ははっきりしている。身体《からだ》を抱《だ》くように縮めていた手を、見下ろす。剣《けん》は鞘《さや》に納めていた。黒衣と斬《き》り結んだ際にできたのだろう、手の甲《こう》に数本の傷が血をにじませている。
肺を膨《ふく》らませる――清浄《せいじょう》な朝の気が、喉《のど》を潤《うるお》した。身体を動かせないことに気づき、恐慌《きょうこう》を起こしかけるが、それは自分がどこかの小屋と小屋の隙間《すきま》に入り込んでいるからだとすぐに知れた。冷《ひ》や汗《あせ》が、じっとりと服を湿《しめ》らせている。いや、朝露《あさつゆ》に濡《ぬ》れたせいかもしれない。
ミズーは、その建物の隙間から這《は》い出すように、身体を抜《ぬ》いた。追撃《ついげき》されながら身を潜《ひそ》めたのは奇襲《きしゅう》の機会が欲《ほ》しかったからで、休むためではない――なかったはずだった。慎重《しんちょう》にあたりを見回すが、黒衣の気配《けはい》はない。彼女は吸い込んだ空気を無音で吐《は》き出した。村はまだ静かで、人影《ひとかげ》もない。自分が今|隠《かく》れていたこの家にも、住人がいるはずだが、出てくる様子もなかった。
(ただの鈍感《どんかん》……? 無関心? どちらでもいいけど)
彼女は、そっと、左|肩《かた》のマント留《ど》め――獅子のレリーフが施《ほどこ》された板金《ばんきん》に手を触《ふ》れた。瞳《ひとみ》の位置にはめ込まれた水晶檻《すいしょうおり》が、緑色の靄《もや》を不定形に浮《う》かべていた。
いざとなれば、使わなければならない。
が。
あんな夢を見たのは、それを意識したせいだろう。ミズーは顔面が強《こわ》ばるのを意識した。精霊《せいれい》は強力な武器だ。それが蹂躙《じゅうりん》すれば、こんな村は一瞬《いっしゅん》で消えてなくなる。
(躊躇《ためら》わず、迷わずに、世界をも滅《ほろ》ぼす力……)
呪詛《じゅそ》のような鐘の音。鳴り響《ひび》く轟音《ごうおん》。
赤い空が渦巻《うずま》く。あの世界も滅んだ。偏頭痛《へんずつう》に顔をしかめて、ミズーは拳《こぶし》を固めた。痛みが通り過ぎるのを待つ。妙《みょう》な体勢で眠り込んだせいだろう。痛みと寒気《さむけ》があった。それは太古《たいこ》より身体に染《し》みついて、もう抜《ぬ》け落ちることのないふたつの朋友《ほうゆう》だった。生きる限り、永遠に感じ続けていくしかない。痛みと――
(…………!?)
感じたのは、寒気《さむけ》とはまた別の悪寒《おかん》だった。悪意ある気配。もう小屋の隙間《すきま》へはもどれない――舌打ちする心地《ここち》で、彼女は視線を這わせた。体勢を低くし、現れた敵意を探《さぐ》る。
放《はな》たれた感覚はほどなく目当てのものを発見した。目と鼻の先にある、小さな木の陰《かげ》に滑《すべ》り込みながら、ミズーは声を耳に入れた。会話が聞こえてきている。
それほど離《はな》れてはいなかったが、聞き取れなかった。道を、歩いてきているのは子供だった。それと、もうひとつ、見慣れないものが先行している。
形は人間に近かったが、人間ではなかった。青い羽根を羽《は》ばたかせて、手のひら大の大きさしかない人型《ひとがた》のものが空を飛んでいる。尖《とが》った鼻の先端《せんたん》がひっきりなしに動いて、先ほどから止《と》め処《ど》なく続いている会話が、主にその生物の発しているものだと知らせていた。人間ではなかった。人間ではない。
(精霊……人精霊《じんせいれい》?)
考えているうちにも、彼らは近づいてくる。
こんな人里《ひとざと》に精霊が存在するとしたら、理由はひとつだった。精霊使いによって使役《しえき》されているに違《ちが》いない。となれば、同行している子供が――少女のようだった――精霊使いということになる。
(精霊使い――黒衣が、人精霊を偵察《ていさつ》に使っている?)
単純な連想が、身体《からだ》を動かした。精霊に通用する武器はふたつしかない。ひとつは精霊だった。そして、もうひとつ。
ミズーは意識を束《たば》ね、その精霊へと伸《の》ばした。銀色の念糸《ねんし》が鞭《むち》のようにその人精霊へと結びつき、そしてたわみをなくす。
念に力を込《こ》めて熱を注ぎ込むのと、彼女が木の陰から飛び出すのとは同時だった。小さな火の手をあげて、精霊が消滅《しょうめつ》する。
走りながら、腰《こし》のポーチからナイフを取り出す。ようやく異変に気づいたらしい少女の背中へと駆《か》け寄って、ミズーはその子供の肩越《かたご》しに手を差し込み、喉《のど》の上から気道《きどう》を掴《つか》んだ。少女の動きが止まる。ミズーはそのまま、ナイフの切っ先を突《つ》き立てようと力を込めた。
瞬間《しゅんかん》、少女が悲鳴のような声をあげた。誰かを呼んだようにも聞こえる。喉を押《お》さえているため、ほとんど声にはなっていないが。
動きかけていた筋肉に、ミズーは急制動をかけた。ここまでは反射的に動いていたが、理性が否定《ひてい》する――この子供が、黒衣であるはずがない。
十四、五|歳《さい》というところか。背後からではよく分からないが、そんなものだろう。黒衣の年齢《ねんれい》を考えるのは馬鹿《ばか》げたことだった。感情も、思考も、年齢も、なにもかも、仮面《かめん》の下に封《ふう》じ込めている。それが黒衣だ。
だがこの少女は、ただの村人にしか見えない。
(悲鳴をあげた……? 黒衣じゃない)
困惑《こんわく》して、ミズーはうめいた。つい先刻は、黒衣の中に、黒衣でない者がいた。今度は、黒衣ではない精霊使《せいれいつか》いが手の中にいる。
その指の下で、少女がやみくもに暴れ出しそうな気配《けはい》を察して、ミズーは告《つ》げた。騒《さわ》がせるわけにはいかない。
(黒衣が……どこから来るのか分からないっていうのに!)
「騒ぐな」
気道だけではなく動脈《どうみゃく》までも絞《し》めれば、人は一瞬で意識を失うが、それはいつでもできる。とりあえず、告げた。
「声を出す必要はない。どっちみち出せないだろうけど。話すつもりで喉だけ震《ふる》わせれば、だいたい聞き取れる……さあ、ルールは理解できた?」
理解はできたらしい。少女は、うなずくような仕草を見せた。
ミズーは喉を押さえる手はそのまま、ナイフだけを納めた。続ける。
「精霊使い……お前も黒衣か?」
それは馬鹿《ばか》げた質問だった。が、それでも聞くしかない。
「お前たちは子供も使う。言え。ベスポルト打撃騎士《だげききし》を押さえにきたということ?」
『お前は契約者《けいやくしゃ》なのだろう?』
耳元に蘇《よみがえ》ったのは、無論のこと、この少女の声ではなかった。記憶《きおく》にあふれかえる、錯綜《さくそう》した痛みと寒気《さむけ》。それでしかない。
少女はどうやらどちらも否定の形で喉を震わせたようだった。動揺《どうよう》というより、混乱している。
少し、指を緩《ゆる》めた。かすれ声で、少女がつぶやく。
「……あなた……誰?」
答えずに、ミズーは顔をしかめた。腑《ふ》に落ちない。
(ただの通行人……この娘《むすめ》は。でも、こんな村に精霊使いがいるなんて)
首を伸《の》ばして、のぞき込む。はっきりと顔が見えたわけではなかったが、その娘が、眼帯《がんたい》で左|眼《め》を覆《おお》っているのに気づいた。
(眼帯……)
不意に、思い出す。見覚えがあった。ベスポルトの小屋にあった子供部屋。そこで見た眼帯だった。
ベスポルトは、子供を飼《か》っている――
(ベスポルトの娘? この娘は)
動揺で、指が震えた。それが痛かったのだろう。少女が身じろぎするのが伝わってくる。ミズーは静かに、うめいた。にわかに心臓の鼓動《こどう》が早まる。これも偶然《ぐうぜん》なのか。すべてを解放する鍵《かぎ》が、いきなり手の中に転がり込んできた。
唾《つば》を呑《の》んで、聞く。
「ベスポルトは……本当に、精霊《せいれい》アマワとの契約者なの?」
「……なに? それ……」
返ってきたのは疑問の声だった。こめかみを熱していた期待が、一気にしぼむ。
そして、同時。
殺気を感じて、ミズーは少女を突《つ》き飛ばした。そのまま反転しながら、後ろに退く。敵を視界《しかい》に捕《と》らえるより早く、彼女は叫《さけ》んだ。
「出《いで》よ!」
ほんの一言。
手のひらほどの大きさもない水晶檻《すいしょうおり》に封《ふう》じられていたものが、瞬時《しゅんじ》に巨大化《きょだいか》する。その爆発《ばくはつ》的な振動《しんどう》に、腰《こし》を落として耐《た》えながら、ミズーはようやく木の陰《かげ》の死角から突き出された黒衣の短剣《たんけん》を見定めた。音もなく忍《しの》び寄るのは、黒衣の流儀《りゅうぎ》だった――気づかないまま処刑《しょけい》を行うことが、その恐怖《きょうふ》をすべてに知らしめることになる。内臓を求めて突きかかってくるナイフの切っ先を、ミズーは腕《うで》にマントを絡《から》めて受け止めた。刃《やいば》がわずかに皮膚《ひふ》をえぐったようだが、致命《ちめい》的な部分にはとどいていない。
残った右腕で拳《こぶし》を握《にぎ》り、それを黒衣の仮面の中心へとたたき込む。十分な感触《かんしょく》だけを拳に残して、黒衣の身体《からだ》は後ろへ転倒《てんとう》した。離《はな》れながら、ミズーは命じた、自分の傍《かたわ》らで、実体を形成しつつある炎《ほのお》の塊《かたまり》に対して、
「こいつを消し去れ!」
炎をまとった獅子《しし》が、咆吼《ほうこう》をあげた。
自分が先刻身を潜《ひそ》めていた――そして今また黒衣が現れた古木を薙《な》ぎ倒《たお》して、獣精霊《じゅうせいれい》が前進する。倒《たお》れている黒衣に前足を振《ふ》り下ろし、獣《けもの》の王はさらに火炎《かえん》の勢いを増《ま》した。朝の空気を緋《ひ》へと染《そ》め変えて、鱗粉《りんぷん》のような火の粉をまき散らす。ミズーは後ろにさがりつつ、マントに絡め取った黒衣の短剣を地面に落とした。思っていたより深く肌《はだ》に食い込んでいた刃には、泥《どろ》のような血がこびりついている。
左腕の傷《きず》の痛みを無視《むし》して、彼女はあたりを見回した。
黒衣がいる。そんなことは見るまでもなく承知していた。精霊に地面へと押《お》さえつけられているひとりを別として、四人、また取り囲むように姿を見せている。
火勢を強めて、獣精霊が自分の代わりに彼らと対峙《たいじ》していた。精霊がいる以上、黒衣もそう迂闊《うかつ》には手が出せないはずだった――もっとも、彼らもまた精霊を持ってきている可能性は高かったが。
(ようやくひとりを……仕留《しと》めた?)
そう思いかけた、まさにその瞬間《しゅんかん》に。
獅子の前脚《まえあし》の下から、黒衣の姿が消えた。いや、溶《と》けるように地中へと沈《しず》み込んでいく。そのまま精霊の爪《つめ》から逃《のが》れて、数歩離れた場所からまた姿を現した。透過《とうか》する念糸《ねんし》能力。数日前に、街で見た能力だった。音もなく接近してきたのも、この力でか。
まさか無傷ではないだろうが、全身に火傷《やけど》を負っていたとしても、黒衣の外観に変化はなかった。仮面に隠《かく》れて、表情をうかがうこともできない。精霊まで使って、仕留め損《そこ》なった――忌々《いまいま》しく、ミズーは舌打ちした。歯車が噛《か》み合わない。自分だけが怪我《けが》を負い、体力を消耗《しょうもう》させている。
(勝てない……の? もしかして)
呼吸を落ち着かせるために、マントの下に隠した左手で肺を掴《つか》む。硬《かた》い皮胴衣《かわどうい》の下、汗《あせ》に汚《よご》れた服の下、乳房《ちぶさ》の脂肪《しぼう》の下、肋骨《ろっこつ》の隙間《すきま》の奥《おく》で、内臓が収縮を繰《く》り返している。布や肉からなる幾重《いくえ》もの防御《ぼうぎょ》の下で、自分自身がどこにいるのか、どこまでが換《か》えがたい自分自身と言えるのか、それは誰にも分からない。
右手で、剣《けん》の柄《つか》に触《ふ》れる。腿《もも》の傷が、無用の疼《うず》きをぶり返しつつあった。追われている中、気を失って夢を見るほどに疲《つか》れている。丸一日以上、まともに眠《ねむ》っていない。重い。身体《からだ》の重さに、筋肉がついていっていない。痛みに耐《た》えるほど、骨が強くない……
(違う)
柄に巻いた革が、手のひらに食い込んだ。剣のほうから、こちらの手を握《にぎ》り返してくるように。
(わたしは折れない……わたしは負けない)
剣を抜《ぬ》いて、ミズーは敵《てき》をにらみ据《す》えた。見かけはともかくとして、黒衣たちも消耗《しょうもう》していないはずがない。何人かには手傷も負わせている。彼らも自分と同じ、人間なのだから。
人間なのだから。
そうつぶやいた時、目に映っていたのは黒衣ではなかった。
順番に、敵の位置を探《さぐ》っていた――敵を殺す際、なにより重要なのは相手との距離《きょり》だ。黒衣でないものを見る必要はない。黒衣でないものは、今は認識《にんしき》する必要もない。だが。
視線が、隻眼《せきがん》の少女に触《ふ》れて、ミズーはしばしその娘《むすめ》と目を合わせた。ベスポルトの娘。ベスポルトの情報を綴《つづ》った報告書には、そんなものの存在は記《しる》されていなかった。この村に来て初めて聞かされた。意味があるのか……ないのか。
恐《おそ》らく、自分と同じことを感じながらこちらを見ているに違いない娘だ。突《つ》き飛ばした際に助けられたのだろう。警衛兵《けいえいへい》の制服を着た男に抱《だ》きかかえられている。
どうということのない子供に思えた。丸い、幼い瞳《ひとみ》がひとつ、成り行きについていけずに見開かれている。
聞き出すべきことがたくさんあった。聞かなければならないことがいくらでもあった。少女がなにも知らないとしても、ベスポルトを理解する鍵《かぎ》にはなるはずだった。だが、その前に。
(黒衣を……排除《はいじょ》しないと)
急ぐべきだった。娘が村にいるということは、ベスポルトは硝化《しょうか》の森《もり》から帰ってきているに違いない。ならば、こちらが残したメッセージも見つけただろう。会わなければならない。一瞬《いっしゅん》でも早く。
『お前はこれから、不思議《ふしぎ》な体験をすることになる』
脳裏《のうり》に、言葉が蘇《よみがえ》る。真っ暗な部屋で。
この世に在《あ》らざるもの。人でないもの[#「人でないもの」に傍点]に聞かされた言葉。
『とても……腑《ふ》に落ちない。お前にとっては理不尽《りふじん》な。だが、他人には理解のできない』(そんなことは)
剣《けん》を手に、ミズーは飛び出した。
(認めない!)
黒衣に向かって、ではない。
敵から遠ざかるようにミズーが駆《か》け出すと、獣精霊《じゅうせいれい》はなにも言わずともその後をついてきた。追ってくる黒衣と、彼女の間とに割り込むように。
こちらの動きに合わせて、黒衣が回り込もうとする。目の動きでそれを牽制《けんせい》しながら、ミズーは移動を続けた。村の中心にも近い場所だというのに、ベスポルトの娘のほかには村人の姿もない。邪魔者《じゃまもの》がいないことはありがたいが、その静けさは意味なく不気味だった。
逃《に》げているわけではなかった。だが、場所を変えたかった。村の中を突き進みながらミズーは、もうこれで何度目になるのか、鞘《さや》から長剣の刃《やいば》を引き出した。切っ先を下げ、刀身の大半をマントの下に隠《かく》し、早足で移動を続ける。走り出したい衝動《しょうどう》を抑《おさ》え、位置の変更《へんこう》を繰《く》り返す。
数百歩は歩いたはずだった。その地点に意味などはなかったが、そこで一瞬だけ足を止めた。黒衣が四人に減《へ》っている。
勘《かん》だけで、剣を振《ふ》り上げた。虚空《こくう》から現れた黒衣の表面を、刃が打つ。金属《きんぞく》の打ち合う音が響《ひび》き、虚《きょ》を突《つ》かれた相手の身体《からだ》を弾《はじ》き飛ばす。続けてとどめを刺《さ》そうと柄《つか》を握《にぎ》り直しているうちに、その黒衣は自分の背後へ――後方にある木造の家へと念糸《ねんし》を伸《の》ばした。姿が消える。
その家屋をにらみ据《す》え、ミズーは叫《さけ》んだ。
「ギーア!」
獣精霊が、咆吼《ほうこう》をあげる。
獅子《しし》は力を溜《た》める時間すら要さずに、一跳《ひとと》びでその小屋へと飛びかかった。爪《つめ》が火炎《かえん》の帯を引きながら、黒衣が念糸を紡《つむ》いだその場所へと打ち付けられる。爆発《ばくはつ》が、閃光《せんこう》となって膨《ふく》れあがった。
それと同じくして。別の黒衣が飛びかかってくることに関しては、覚悟《かくご》していた。
身体に引きつけた形で切っ先を巡《めぐ》らせ、新たに斬《き》りかかってきた黒衣へと打ちかかる。振り抜《ぬ》いた尖端《せんたん》は空気を裂《さ》いて甲高《かんだか》い音を立てた。黒衣は一歩退いてそれをやり過ごすと、短剣《たんけん》を投げつけてきた。体《たい》を開き、なんとかかわして、剣を左手に持ち替《か》えそのまま突き出す。刃はぎりぎり黒衣の胸元《むなもと》までとどいて、手応《てこた》えを残した。胸の肉を爪一枚ほど抉《えぐ》るが、そこにとどまった。
黒衣がわずかに動きを止める。
そこで限界と見たのだろう――そこから反撃《はんげき》するべく、転身しようとする黒衣に、ミズーはつぶやいた。
(甘《あま》い)
剣で突き、伸《の》びきった体を、さらにひねり込んで押《お》し込む。なかば倒《たお》れ込むほどに体重をかけると、切っ先はさらに前進した。動きを止めた黒衣に、深々と刀身がめり込む。
肉を貫《つらぬ》き、骨にこすれる感触《かんしょく》が、そのまま手のひらに返ってきた。黒衣が悲鳴などあげることはない。なんの反応もなかったが、それでもその感触だけは確かなものだった。さらに骨の隙間《すきま》に貫通力《かんつうりょく》を伝えるべく、ミズーはさらに力を込《こ》めた。刹那《せつな》――
抵抗《ていこう》が失われ、剣はあっさりとその黒衣の身体を貫通した。つまずいて、手首までもが黒装束《くろしょうぞく》の胸に音もなく滑《すべ》り込む。そして黒衣はなにごともなかったかのように、こちらの身体を通り抜《ぬ》けてすれ違《ちが》っていった。体重をかける相手を失い、地面に転倒《てんとう》しながら、ミズーは後目に敵の身体に念糸が結びつけられているのを確認《かくにん》した。その黒衣に、別の仲間が透過《とうか》の念糸を巻き付けている。
舌打ちしながら、それでもミズーは急いで起きあがった。
その時には、さらに次の黒衣が斬りかかってきていた。短剣ではない。手斧《ておの》のような肉厚の刃《やいば》が振《ふ》り下ろされてくるのを、ミズーは両目でしっかりと見据《みす》えていた。剣《けん》を掲《かか》げて、受け止める。刀身ごと両断されかねない力を鋼《はがね》で防ぎ、力負けしないうちにミズーは踏《ふ》み込んだ。つばぜり合いを受け流しつつ、肘《ひじ》で突《つ》く。
胴《どう》の急所を打たれることを避《さ》けるためだろう。黒衣は逆らわずに後退《こうたい》した。そして、
「…………!?」
その自分の肘に、念糸が結びつけられていることに気づいて、ミズーは身を固くした。念糸の主は、後退して遠ざかりつつある、その黒衣だった。仮面《かめん》の眼差《まなざ》しが、こちらをじっと見つめてきている。
(間に合わない――)
身体《からだ》が震《ふる》えるのを、感じた。が、恐怖《きょうふ》ではない。
なんであれ、自発的なものではなかった。念糸が結びつけられたその一点から、骨ごと粉々になるような振動《しんどう》が発生している。視界がぶれて、感覚までもあっさりと消失した。胃液が逆流してくる。振動は全身に広がって、彼女は地面に膝《ひざ》をついた。動くこともできない。
(爆発《ばくはつ》、する……!?)
視界を、赤い色が埋《う》め尽《つ》くした。これが血か、と思う。ならば自分は今、四散して、虚空《こくう》に散った体液を自分で見物しているのか。
いや――
その振動を、さらに激《はげ》しい轟音《ごうおん》が打ち消した。獅子《しし》の叫《さけ》びが、すべてを消し去る。赤く広がるのは血ではなく、獣精霊《じゅうせいれい》が撒《ま》き散らす炎《ほのお》だった。巨大《きょだい》な獣《けもの》が突進《とっしん》し、額で跳《は》ね上げるようにして、黒衣を吹《ふ》き飛ばす。念糸が途切《とぎ》れ、振動も止まった。だが震えの止まらない――これは自発的なものだ――身体をなんとか叱咤《しった》しながら、ミズーは膝を上げた。剣を構え直す。
その隙《すき》を隠《かく》すように、自分の傍《かたわ》らに陣取《じんど》ってうなり声をあげる獣精霊を、ゆっくりとミズーは見上げた。
負ったダメージは軽いものではなかった。黒衣は四人に減っていたが、剣を構えるための握力《あくりょく》を振り絞《しぼ》るのにも、気力を総動員しなければならない。頭蓋《ずがい》に脳が打ち付けられたせいだろう。全身から五感が遊離《ゆうり》していくような睡魔《すいま》と、倦怠感《けんたいかん》が押《お》し寄せてくる。舌を噛《か》んだせいで、口蓋《こうがい》ににじむ血の味が嘔吐《おうと》を誘《さそ》っていた。呼吸《こきゅう》する。そのたびに骨が軋《きし》む。それでも。
ミズーは、つぶやいた。
「ギーア。守りなさい」
巨大《きょだい》な獣の陰《かげ》に、足を引きずって後退する。
血の混じった唾《つば》を吐《は》く――いや、吐き捨てるほどの体力もなく、ただ口から垂れるに任せて、とにかく喉《のど》に流れ込もうとする鉄錆《てつさび》の味を締《し》め出した。
そして、背中になにかが触《ふ》れた。
首だけ、振り向く。
五人目の黒衣が、水晶檻《すいしょうおり》のロッドをこちらに押しつけて、そこに立っていた。
(……死んで……なかった)
かちり、と小さな音が響《ひび》いた。ロッドの機構が、尖端《せんたん》の水晶檻に傷《きず》を入れる音。
乾《かわ》いた破滅《はめつ》の音。
マントに押しつけられた、水晶球。それが白い輝《かがや》きを発して炸裂《さくれつ》する。その衝撃《しょうげき》の中でミズーは、懐《なつ》かしい鐘《かね》の音を聞いていた。
そして、もうひとつ……耳障《みみざわ》りな優男《やさおとこ》の囁《ささや》きとを。
「ミズー。ミズー・ビアンカ。何者も君を跪《ひざまず》かせることはないんだ」
アイネストは風の中に姿を溶《と》かしながら、告《つ》げた。砂の像のように、風に触《ふ》れられるたび、存在は薄《うす》れていく。
「始まったのなら、いつまでも見ている必要はない。ぼくは先に行くよ……君を待ってる。恐《おそ》れることなく、君は進めばいい」
彼の姿は完全に消え去り、そこには涼風《すずかぜ》だけが残った。
[#改ページ]
第二章 アームズ・トリガー
(滅《ほろ》びの引《ひ》き金《がね》)
あの一言さえなければ……
あの一言さえなければ、どうなったのだろう?
意識の闇《やみ》に鳴り響《ひび》く、鐘《かね》の音に訊《たず》ねる。だが答えは返ってこない。
それはあり得ない。それを伝えてくるために、鳴り響く。
夢《ゆめ》の中で、少女だった自分はその男を見上げ、あの一言を聞く。
それがなかったのならば、どうなったのだろう?
塔《とう》の中。出口のない部屋にいる。
扉《とびら》はある。だがそれが開く時には、必ずそれをふさぐように、男が立っている。
暗く、湿《しめ》った石のにおい。黴《かび》と水の混じった腐臭《ふしゅう》。彼女はそこにいる。
彼女はそこにいた。ずっといた。
そして。
「お前では駄目《だめ》だった」
男が告《つ》げる。彼女は、少女だった彼女は、獅子《しし》のレリーフを抱《だ》いている。
この世には、完全なものなどない。
だから、この一言がない世界も、この一言がある世界も、ない。
どちらでもない……
「次の子供を探《さが》す」
男が告げる。彼女は、少女だった彼女は、吠《ほ》えるべき声を持っている。
意味などあるはずもない。その一言は、ただの合図に過《す》ぎない。
滅びの引き金がなにかを打ち割る。冷たい音が鳴り響き、そして彼女は、解放され獣《けもの》となる。
目を見開くと、そこには黒衣《こくい》がいた。
それは死の理由としては十分だった。黒衣は、全権《ぜんけん》を任《まか》された処刑人《しょけいにん》で、裁判《さいばん》を必要とせずに処罰《しょばつ》を下す。黒衣が眼前にいたならば、自分は死んでいるのが当然だった――ミズーは息を止めた。
だが、黒衣らはなにをするでもなく、こちらを見下ろしているだけだった。両手足を縛《しば》られ、身動きのできない自分を。嘲《あざけ》るでもなく、陵辱《りょうじょく》するでもなく、ただ見つめている。仮面《かめん》には意志も感情もなく、解答らしい解答もない。
黒衣と問答《もんどう》することは無意味だった。彼らが言葉を発することはない。ミズーは動けないまま、その五人の黒衣らを一撃《いちげき》で倒《たお》す方法をイメージしようとした。動けない以上、使える武器は念糸《ねんし》だけだった。それ以前に、剣《けん》もポーチも取り上げられている。
はっとして、肩《かた》のマント留《ど》めを確かめようとする――が、見るまでもなかった。黒衣のひとり、最も近い場所にいる黒衣が、弄《もてあそ》ぶようにそれを掲《かか》げていた。見せつけようというのだろう。ひねり、裏返し、そして、背後に放《ほう》り投げる。そこには、彼女の剣と武器とが置いてあった。剣の刀身に当たって、金属製《きんぞくせい》のマント留めが音を立てる。
歯噛《はが》みしてそれを見つめ、不意にミズーは、思い出した。
自分は、黒衣に倒された。が……
(わたしは、精霊《せいれい》を封《ふう》じてない[#「ない」に傍点])
つまり、レリーフに埋《う》め込まれた水晶檻《すいしょうおり》は、空《から》のはずだった。
それを確かめられるほどには、近づけない。動けないままミズーは、先頭の黒衣に視線《しせん》を注《そそ》いだ。眼球《がんきゅう》に尖端《せんたん》があるのなら、それで貫《つらぬ》けるほどに。が、黒衣は夢想《むそう》で排除《はいじょ》できるような相手ではなかった。特にどうということもなく、そこにいる。今までなんとか与《あた》えた傷も、それすら夢《ゆめ》だといわんばかりに。
見回す。そこは村の外のようだった。ここまで引きずられてきたのだろう。手足をひどくすりむいている。水晶檻の爆発《ばくはつ》を間近《まぢか》に食《く》らって、身体中《からだじゅう》の関節《かんせつ》を念入りに外《はず》されたように、感覚が狂《くる》っている。それでも、五体に欠損《けっそん》した箇所《かしょ》はないようだった――とてつもない幸運と思いかけて、思考を止める。別の言葉が浮《う》かんだ。なにかの偶然《ぐうぜん》に守られたのか……
「言うほどではないな、ミズー・ビアンカ」
声をかけられても、それが夢の続きなのか、脳が理解を拒《こば》んだ。が、背筋に悪寒《おかん》を覚えて顔を上げる。声を発したのは、黒衣だった。
最も近い場所に立っている黒衣が、ゆっくりと、告《つ》げてくる。
「我々はもう少し、期待していた」
「どうして殺さない?」
ミズーは、声を絞《しぼ》り出した。地面に転がされた体勢で、呼吸におびえが混じらないように苦心しながら。
黒衣は即答《そくとう》してきた。
「聞かなければならないことがある」
「そう言われて答えるとでも思ってるの?」
「ふん」
鼻で笑ってくる。黒衣の仮面が揺《ゆ》れた。
「……お前は質問に答えることで、我々《われわれ》から情報を引き出せる。としたら、どうかな? 答えるしかないだろう」
「…………」
奥歯《おくば》を噛《か》みしめて、ミズーは沈黙《ちんもく》した。
聞くことを拒絶《きょぜつ》する意味はない、と自分に言い聞かせる。
さほどの間をはさまずに、黒衣は続けてきた。
「まずひとつ。アストラ・ビアンカを知っているか?」
視界《しかい》が闇《やみ》に閉《と》ざされた。耳も聞こえなくなる――いや、鼓膜《こまく》の表面で暴《あば》れる鐘《かね》の音のほかは。蹴《け》られたのか。そうも思ったが、違《ちが》った。自分が顔を伏《ふ》せただけだった。
乱れた呼吸に喘《あえ》ぎつつ、喉《のど》から出たのは罵倒《ばとう》でも悲鳴《ひめい》でもなく、意に反して吐息《といき》だけだった。こちらを見下ろし動かない黒衣に、叫《さけ》ぶ。
「貴様《きさま》ぁっ!」
「どうだ。答えたくて仕方がないようじゃないか?」
それは、仲間に同意を求めたというわけではないのだろうが、黒衣はともかくつぶやいた――冷笑《れいしょう》とともに降ってきた言葉に、ミズーは多少なりと血液《けつえき》の温度を下げると、ゆっくりと言い直した。
「アストラのことを知っているの? 話しなさい!」
「質問者はわたしだ。忘れるな」
黒衣はそれだけ告げると、かがみ込んで顔を近づけてきた。
「……では、もうひとつ。アマワ、または御遣《みつか》いと名乗るなにかと接触《せっしょく》したか?」
反射的に浮かんだ言葉はあったが、答えることは本能が拒《こば》んだ。
それでも黒衣は、数秒を待った。そして、嘆息《たんそく》のような音を漏《も》らしたあと、続ける。
「答えれば、お前を望み通り、ベスポルトと会わせてやろう。我々の監視《かんし》のもとでだが。疑うことはない。もとより、我々の目的はそれなのだからな」
「馬鹿《ばか》げてる」
ミズーは短く、罵《ののし》った。
黒衣は気楽に肩《かた》をすくめてみせた。
「お前はなにも知らないから、そう思うのだろう。我々を敵《てき》だと思っているうちは……理解できまい」
「黒衣が、なにを!」
「……ん?」
そう言われることが意外だというのか、黒衣が首を傾《かし》げる。
「こんな連中が、なんだというのか? 黒衣など関係ない。我々とは、つまり――いずれお前も含《ふく》むことになる」
「なに?」
「答えろ。お前がアマワと接触《せっしょく》して、得《え》た情報はあるのか?」
のぞき込んでくる仮面の向こうに、ぬるい光沢《こうたく》を持った眼差《まなざ》しが輝《かがや》いたように……そうも見える。それは錯覚《さっかく》としても、男の声には刺《とげ》に収《おさ》まらない剣呑《けんのん》な気配《けはい》があった。
(この男、やはり黒衣じゃない……)
それをわざわざ裏付けるように、黒衣の口調が変《へん》じる。冷たく、ただし紛《まぎ》れもなく感嘆《かんたん》の響《ひび》きを持って。
「お前は美しいな。アストラによく似ている」
彼が立ち上がったために、黒衣の顔は遠ざかった。まだ低きにある太陽よりも高い位置から、吹《ふ》き下ろしのようにあとを続けてくる。
「いや、それほどは似ていない……か? 双子《ふたご》の見分けがつかないというのは、嘘《うそ》だと思う。それは観察力を持たない他人の戯言《ざれごと》だとね」
「何者なの!」
「質問者はわたしだ」
黒衣は淡々《たんたん》と、それを繰《く》り返した。
「まあ、いい。あとにしよう。もうひとり、余分《よぶん》な介入者《かいにゅうしゃ》を排除《はいじょ》して、ベスポルトを確保する」
こちらを向いたまま、二歩、三歩と遠ざかっていく。ミズーは声を荒《あら》らげた。
「待ちなさい!」
「その様《ざま》で、よく言える」
言い捨てると、黒衣はきびすを返して去っていった。ずっと黙《もく》していたほかの四人の黒衣の中から、ひとりだけがその後をついていく。
残る三人は、見張りということだろう。身じろぎひとつなく、そこに立ち続けていた。
彼らは関係ない[#「関係ない」に傍点]――黒衣の言葉に倣《なら》ったわけではないが。ミズーは去りゆく黒衣の背中に向かって、叫《さけ》び続けた。
「お前は何者なの! アストラのなにを知っているの! なにもかも知っているようなことを言っておいて、なにも言わないつもり!?」
手足を縛《しば》られたまま身体《からだ》を伸《の》ばそうとして、顔を地面にこすりつける。彼女は口に入った土の味に顔をしかめた。
黒衣は答えない。振《ふ》り向きもせずに、去っていく。
(ベスポルトを確保する……?)
ミズーは胸中《きょうちゅう》で反芻《はんすう》した。
焦《じ》らされているのか? 自分は言葉で惑《まど》わされているのか?
屈辱《くつじょく》ではあったが、認めるしかなかった。振り回されている。あの忌々《いまいま》しいマグスの顔を思い浮《う》かべた。アイネスト・マッジオ。ふざけた男。そもそもが、あの男の言葉に唆《そそのか》されていたようにも思える。
(どうしようもない愚《おろ》か者《もの》)
平静を失い、自分から飛び出して、今は身動きも取れない。愚かと言えば、これ以上愚かなこともなかった。
「わたしは――わたしはっ……」
息が詰《つ》まって、言葉も止まる。
気がつけば、去っていく黒衣の姿は見えなくなっていた。
つまるところ、
(わたしは……負けた?)
どうしようもなく、負けた。死んでいてもおかしくない。
敵の都合《つごう》だけで生かされている。ただそれだけでしかない。
身体をくねらせ、這《は》いずっていく。唐突《とうとつ》に、目の前を黒いものが遮《さえぎ》った。
それ以上は進むなということなのか――黒衣の足だった。それまで動かなかった黒衣のひとりが、行く手を塞《ふさ》ぐように足を差し込んできている。
ミズーは無感情に、告《つ》げた。
「どきなさい」
声は震《ふる》えていたが、怯《おび》えていたわけではなかった。ただ、来るべきものを待って、苛立《いらだ》っていた。それは自分でも分かっていた。
黒衣からは、なんの反応もない。無論、こちらの命令を聞くことなどない。
ミズーは繰《く》り返した。
「殺すわよ」
両手を縛《しば》っているのは、細い登山用ロープのようだった。腕力《わんりょく》で引きちぎれるようなものではない。無理《むり》に引っぱることなく、ミズーは力を抜《ぬ》いた。痺《しび》れかかっていた指先に血液が押《お》し寄せ、ほんの一時だけ感覚をもどす。
黒衣は動かない。
剣《けん》や獅子《しし》のプレート。武器はすべて、眼前にあるその黒衣の足の向こうにあった。
「はったりだと思ってるの? やろうと思えばいつだってできるのよ」
黒衣は動かない。
「できるのよ……わたしの中に、獣《けもの》が来れば」
それは、警告《けいこく》ではなかった。
暗示《あんじ》だった。自分の言葉に応《こた》えて、己《おのれ》の心が空虚《くうきょ》になっていく。
(あの一言さえなければ……)
今でも、そう思うことがある。
心に穴《あな》を開けた、あの一言さえなければ。いや、言葉ではない。
無数に心に刻《きざ》まれた、あの鐘《かね》の音。工房《こうぼう》都市イムァシアの鐘の音。網膜《もうまく》に焼き付いた赤い空。それらがすべて、なかったとしたら。
『お前では駄目《だめ》だった』
(わたしは……)
それらがすべて、なかったとしたら。
閉じた塔《とう》の部屋。影《かげ》の中で、剣をいじる日々。学んだことはすべて、剣に活《い》かされた。活かすことを求められた。扉《とびら》が開く。そこには男が立っている。訓練が始まる。
猛烈《もうれつ》な頭痛が、記憶《きおく》を粉々に砕《くだ》いた。喉《のど》の奥《おく》に詰《つ》まる、うなり声。己《おのれ》のものとも思えない、獣化《じゅうか》のための叫《さけ》び。
使ってはならない力――己の身体《からだ》に封《ふう》じられた、絶対に見てはならない世界。呼べば、いつでも召喚《しょうかん》に応《こた》える力。すべてを滅《ほろ》ぼす力……
(わたしは負けることなんてない! 誰《だれ》にも……何物にも!)
ロープが、皮膚《ひふ》に食い込んだ。が、関係ない。人間がどれほどの腕力で抗《あらが》おうと、その戒《いまし》めを解《と》くことはできないかもしれない。ならば手首を引きちぎってしまえばいい。それで解放される。
割《わ》れる寸前の陶器《とうき》のように、骨が音を立てた。圧迫《あっぱく》され、抵抗《ていこう》され、軋《きし》んで砕《くだ》けようとする耳障《みみざわ》りな音。ミズーはただひたすらに、全身の肉を盛《も》り上げた。手首の骨にひびが入る、鈍《にぶ》い激痛《げきつう》に夢中《むちゅう》になる。そのまま、折れるまで力を入れ続ける。
異変《いへん》に気づいて、黒衣が動いたようだった。が、そんなものは気に留める必要もない。彼らは遅《おそ》すぎた。腕《うで》が、折れる――
その刹那《せつな》に。
咆吼《ほうこう》が轟《とどろ》いた。爆音《ばくおん》と衝撃《しょうげき》と。はっと、我《われ》に返る――と、虚空《こくう》から炎《ほのお》の渦《うず》が、獣《けもの》の尾《お》のように舞《ま》い、そして巨大化《きょだいか》した。
黒衣の身体《からだ》が、炎上《えんじょう》する。不意を突《つ》かれ、なにもできないでいるうちに、無抵抗《むていこう》飛行路から実体化した巨大《きょだい》な獣精霊《じゅうせいれい》の爪《つめ》に一撃《いちげき》で砕《くだ》かれる。炎《ほのお》をまとった獅子《しし》の前脚《まえあし》が薙《な》ぎ払《はら》ったのは、彼女の眼前にいる黒衣の、胸から上のすべてだった。大きく飛んでいく肩《かた》と首、そしてその場に倒《たお》れる下半身とを見つめて、ミズーは呆然《ぼうぜん》と、身体から力を抜いた。
獣精霊は、破壊《はかい》された黒衣の死体を踏《ふ》みつけて、さらに吼《ほ》えた――同時に獣《けもの》の身体から膨《ふく》れあがった炎が、ミズーを包んだ。そのことに恐怖《きょうふ》はなかった。熱を感じることもない。激《はげ》しい炎の中で髪《かみ》を焦《こ》がすことすらなく、ただ……手足を縛《しば》っていたロープだけが、炭となって焼け溶《と》けた。身体が自由になる。
岩の中から弾《はじ》き出されたような感覚で、ミズーは跳《は》ね起きた。怪我《けが》だらけの全身が痛んだ。折れかかった両手に、最も新しい痛みが残っている。
残ったふたりの黒衣が、俊敏《しゅんびん》に攻撃《こうげき》を開始しようとしている中では、それにも構《かま》ってはいられなかった。傷は無視《むし》して、黒衣の死体を乗り越《こ》える――落ちている剣《けん》を拾い上げて、ミズーは振《ふ》り返った。黒衣の一方を威嚇《いかく》するため、ギーアが飛びかかっていく。もうひとりの黒衣、手斧《ておの》を振《ふ》り上げた姿勢で走り込んでくる黒衣に、ミズーは視線《しせん》を集中した。
剣で迎撃《げいげき》するには、振り返ったタイミングが遅《おそ》すぎた。斧の一撃を避《さ》けるため、地面を蹴《け》る。動かそうとする身体の部品のひとつひとつが、痛みを訴《うった》えてくる。黒衣は攻撃をかわされても通り過ぎることもなく、機敏に手斧を横打ちで叩《たた》きつけてきた。それを剣で弾《はじ》けば、やはり手首に痛苦がにじむ。
反応が遅れた。三度打ち込まれた手斧の刃《やいば》が、胴衣《どうい》にめり込む。息を搾《しぼ》り取られて、ミズーは喘《あえ》いだ。緩《ゆる》んだ膝《ひざ》が、踏《ふ》ん張りを失って身体を後方に流す。
とどめを刺《さ》すためだろう。黒衣が今までより大きく、手斧を振りかぶった。
(この腕じゃ、受け止められない……)
剣を持ったまま、ミズーは身体を前に投げ出した。斧を振り下ろす寸前の黒衣に抱《だ》きつく形で、足を絡《から》ませ引きずり倒《たお》す。
斧を捨て、掴《つか》みかかってくる黒衣の手を、肘《ひじ》の関節《かんせつ》だけで絡《から》め取る。肘にはさんだ相手の指三本ほどに全体重と力とを押《お》し込むと、小枝を踏むような音を立てて折れる感触《かんしょく》が伝わってきた。転がって身体を離《はな》すと、ミズーは黒衣が捨てた手斧を拾い上げた。
折れた指を抱《かか》え遅《おく》れて起きあがろうとしている黒衣に向かって、その斧を投げつける。回転する肉厚の鋼《はがね》は、吸い込まれるように黒装束《くろしょうぞく》の仮面《かめん》の中心に突《つ》き立った。顔面をふたつに割られて、のけぞるように黒衣が倒れる。
向き直ると、最後の黒衣が獣精霊の牽制《けんせい》を振り切ろうと横に跳《と》んだところだった。息を止め、剣を振りかぶる。背筋に力を溜《た》め、力の限り突き出すと、一直線に飛んだ長剣は縫《ぬ》い止めるように、その黒衣の胸板《むないた》を貫《つらぬ》いた。射《い》られた鳥の翼《つばさ》のように両|腕《うで》をばたつかせ、回転しながら黒衣が倒れる。そしてそのまま、動かなくなった。
風が吹《ふ》いた。
それは静かなノイズだった。地面に座《すわ》り込みたかったが、それをすればしばらくは立ち上がれないと承知《しょうち》して、我慢《がまん》する。三体の、黒衣の死体。それぞれを注意深く見回して、ミズーはようやく嘆息《たんそく》した。完全に死んでいる。
安堵《あんど》が……
「うッ!?」
引き付けのように、横隔膜《おうかくまく》が痙攣《けいれん》した。止めどない嘔吐感《おうとかん》に身悶《みもだ》えする。座《すわ》り込まないことだけは頑《かたく》なに守りながら、ミズーは身を折って何度も嘔吐した。咳《せ》き込むたびに、疲労《ひろう》が募《つの》る。
(獣《けもの》を起こそうとした報《むく》い……)
自分で自分につぶやくと、唾液《だえき》まみれの口を袖《そで》で拭《ぬぐ》う。もとより、吐《は》くほどのものは胃に入っていなかった。全身の痙攣は止まらないが、震《ふる》えながら、身体を抱《だ》いてそれをなだめる。
(わたしの獣の瞬間《しゅんかん》……いつまで続く?)
涼《すず》やかな風に生暖《なまあたた》かいものを感じて顔を上げると、そこには獣精霊がいた。うなり声をあげながら、こちらの様子をうかがっている。控《ひか》えるように背中を丸め、後ろ脚《あし》を折り畳《たた》んだ炎《ほのお》の獅子《しし》は、まるで無害なものに見える。
彼女は、かぶりを振《ふ》った。
両手首を、さする。ロープの跡《あと》が、はっきりと残っていた。骨に亀裂《きれつ》が入っているのは間違《まちが》いないようだった。ミズーは開いている指を、何度か握《にぎ》りしめた。半端《はんぱ》にではあるが動かせないことはない。
背筋を伸《の》ばす。まだ歩ける。
足下《あしもと》に落ちているポーチと、マント――そしてマント留《ど》めを拾い上げる。それらを身体に留めてから、ミズーは獅子を見やった。そして、
「ギーア!」
呼びかける。念糸《ねんし》を、マント留めの獅子の瞳《ひとみ》に結びつけ、通路を開きながら、
「……もどれ」
命令はすぐに実行された。獣精霊の巨体《きょたい》が、瞬時に消え失《う》せる。
足を引きずる自分を叱咤《しった》しながらミズーは、一番|離《はな》れた黒衣の死体へと歩み寄った。黒装束《くろしょうぞく》を貫《つらぬ》く長剣《ちょうけん》を引き抜《ぬ》いて、刀身についた血をマントでこすり取る。黒衣の血。赤い血だった。
剣を鞘《さや》に納め、ミズーは独りごちた。
獣精霊《じゅうせいれい》が助けに現れたタイミング――
(今のは、わたしを守った……? それとも)
自問に答えないまま、彼女は村へと向き直った。
地面を引きずる靴《くつ》の裏が、嘆《なげ》くような音を立てている。自嘲《じちょう》して、ミズーはつぶやいた。
(迷う……とはね)
やはり混乱しているようだった。負傷《ふしょう》にふらつきながら村の中へ入り、黒衣を追っていたつもりだったのだが、相手の姿はどこにもない。向かっている先は、ベスポルトの小屋だった――黒衣もそこへ向かっているはずだ。意志だけは先行して走り出そうとするのだが、身体《からだ》がついていかない。
実際には、這《は》いずっているようなものだった。一呼吸に一歩も進めない。黒衣に絶《た》ち割《わ》られた胴衣《どうい》の隙間《すきま》に指を突《つ》っ込むと、思った通り血がこぼれていた。脂肪《しぼう》まではこぼれていない。深手ではないが、それでも出血は体温を下げていく。
と――
「なんなんだ、いったい!」
唐突《とうとつ》に声を聞いて、ミズーは足を止めた。手近《てぢか》にあった家の陰《かげ》に身を隠《かく》す。そこにも住人はいるはずだが、すぐ頭上にある窓に目をやると、分厚《ぶあつ》いカーテンが閉じてあった。
(つくづく、無関心な村ね)
むしろ好都合《こうつごう》ではあるのだが、不快感《ふかいかん》が胸をよぎる。
逆に聞こえてきた声は、不快ではなくとも迷惑《めいわく》ではあった。ただの村人だったとしても、怪我《けが》のことを問いただされたくはない。
陰《かげ》からのぞく。自然と口から、舌打ちが漏《も》れた。
そこにいたのは、男と子供だった。あれからどうしていたのかは知らないが、ずっと出歩いていたのだろう。さほど広くもない村で、また出くわすことは偶然《ぐうぜん》でもなんでもないのだろうが、こんな時には鬱陶《うっとう》しい。
男は、黒衣を連れてきた辺境警衛兵《へんきょうけいえいへい》だった。子供は、ベスポルトが育てているという少女――近くを、人精霊《じんせいれい》が飛んでいるのも見えた。
なにかを話し込んでいる。
このまま聞き耳を立てるか、それとも迂回《うかい》してやり過ごすか――歩行|距離《きょり》を延ばすことに悪態《あくたい》が溢《あふ》れるが、迷っているうちに、動きがあった。
少女が眼帯《がんたい》を外《はず》した。
その左目には、瞳《ひとみ》がなかった。
いや――
「これ、水晶眼《すいしょうがん》っていうの。滅多《めった》にない特異体質《とくいたいしつ》なんだって。硝化《しょうか》の森《もり》の近くに住む人たちの間で、ごくごくまれに……あることなんだけど」
少女が、警衛兵に説明するその言葉に、ミズーは身体を固くした。
(水晶眼……)
下の街で、精霊取扱業者《せいれいとりあつかいぎょうしゃ》が言っていた。この世に存在する、どんな水晶|檻《おり》よりも強力な封印力《ふういんりょく》を持つ、天然の奇跡《きせき》。
(魔神《まじん》をも封じられるって言っていたけど)
眼帯をつけ直す少女を凝視《ぎょうし》しながら、ミズーはうめいた。ベスポルトは子供を飼《か》っている。ベスポルトのことを訊《き》かれた村人が、悪意を持って答えてきたその言葉の意味が飲み込めた。その子供には、特別な意味があったのだろう。
文字通り、飼われていたのだ――なにかをさせるために。目の前に、光がちらつく。その光が連れてくるのは、暗い部屋の影《かげ》だった。閉ざされた塔《とう》の部屋の中、座《すわ》っている自分の姿。いや、それは自分ではなく、双子《ふたご》の姉の姿なのだろうが。
身体中《からだじゅう》の痛みも忘れて、嫌悪感《けんおかん》が腹に疼《うず》いた。開いた扉《とびら》に立つ男。男の顔はどうしても思い出せない。が、見たこともないベスポルト・シックルド打撃騎士《だげききし》の姿が、そこにあるように思えた。
(ベスポルト……)
奥歯《おくば》を噛《か》みしめる。
自分に不快感を与《あた》える男に対する、混じりけのない苛立《いらだ》ちがうなじを逆撫《さかな》でした。だが。
同じく、浮《う》かんでくる考えがあった。ベスポルトにとって、あの娘《むすめ》が特別な意味を持つのであれば。
(……確保すれば、交渉《こうしょう》を有利にできる。なんのことはないわね。わたしもベスポルトと変わらない)
と。
聞き覚えのある騒音《そうおん》が、彼女の気を引いた。また物陰《ものかげ》から顔を出してうかがうと、やはり見覚えのある物体が、遥《はる》か空から落下してくるところだった。
「あれは……!」
うめく。
銀色の鋼精霊《こうせいれい》を鎧《よろい》のようにまとった娘が、狙《ねら》ったように少女らの近くの地面に激突《げきとつ》した。見間違《みまちが》えようもない。下の街で襲《おそ》いかかってきた精霊使いだった。
白分とベスポルトを会わせないと言っていた……
精霊使いはすぐに起きあがると、体勢を立て直し、飛んできた方向へと引き返していった。精霊の起こす爆音《ばくおん》だけを残して。あっという間に消える。
警衛兵と少女らも、騒《さわ》いでいた――追いかけて、走り去っていく。
(つまり、ベスポルトのところへ……もどるんでしょうね)
ほかに行くべき場所もあるまい。
追いかければ、ベスポルトの小屋へとたどり着ける。
動くことに不平をあげる身体に鞭打《むちう》って、ミズーも歩き出した。ふと、窓を見上げる。
カーテンの隙間《すきま》から、目玉がひとつ、貼《は》り付いていた。男とも女とも、子供とも老人とも判別がつかないが、外をのぞく眼球と目が合って、ミズーは苦笑《にがわら》いを浮《う》かべた。
その目は怯《おび》えていた。これだけの騒ぎを起こして、村人たちが無関心である理由が知れる。
(かかわりたくないってわけね。まあ、そうでしょうね)
それならばそれでいい。なにもかかわることのないまま、こちらはこちらの都合ですべて片づけるだけだ。彼らには関係ない。
ミズーはさらに身体に無理《むり》を強《し》いて、駆《か》け出した。少女らの走る速度が、それほど速いというわけでもないのだが、ハンデのあるこちらの状態では、ついていくのも難《むずか》しい。苦痛に表情を歪《ゆが》めながら、走り続ける。
走るたびに身体が上下に揺《ゆ》さぶられ、拷問《ごうもん》じみた苦痛が脳を刺激《しげき》した。すぐに息があがるが、休むわけにもいかない。前を走る警衛兵も同じような苦労をしているようだったが、それよりさらに先頭を走る少女は、高地育ちらしい俊敏《しゅんびん》な足取りで危なげなく速度を上げている。
このままでは置いていかれる。
(仕方ないわね)
ミズーは民家の近くを通りかかったところで、立ち止まった。壁《かべ》にもたれ、集中すると、念糸《ねんし》を紡《つむ》ぐ。先頭を走る少女に、思念を繋《つな》ぐ。
怪我《けが》をさせるほどにではなく、意志を注ぐ。娘《むすめ》の服が燃え上がった。
悲鳴《ひめい》をあげて、少女が転倒《てんとう》する。警衛兵が駆け寄って砂をかけた。彼らが何度か地面を転がして火を消しているうちに、ミズーは剣《けん》を抜《ぬ》きながら歩き出した。なんとか追いつくと、声をあげる。
「さあ」
少女と警衛兵は、まったく理解できずにこちらを見上げている。構《かま》わずに、ミズーは続けた。
「話してもらおうかしら……これはいったいどういうことなの?」
「なにが……」
焦《こ》げた服をぼんやりと抱《かか》えて、少女が聞き返してくる。ミズーはさらに近づいた。
「精霊《せいれい》アマワ。聞いたことはある?」
「精霊……アマワ?」
「そうよ」
うなずく。剣をわずかに動かし、脅《おど》しをかけるために切っ先を娘へと向けた。
少女はその動きに、気づいたのだろう――怯《おび》えたように口の形を歪《ゆが》ませると、歪んだそのままの震《ふる》え声をあげてきた。
「なによそれ」
「こっちが聞きたいのよ」
ミズーは吐《は》き捨てた。少女は剣で、警衛兵は視線《しせん》で牽制《けんせい》して、動きを制する。
「ベスポルトはそれを知っている……はずよ。さっきの話を聞いたわ。あなたが、あの男の身内なら、わたしと取り引きしなさい」
「な、なにを?」
狼狽《ろうばい》える少女に、ミズーは続けた。
「わたしを追ってきた黒衣は三人。これは片づけた。残るふたりは、ベスポルトを押《お》さえているんじゃないかしら。わたしはそれを始末できる……いえ、わたしにしかできない。わたしが黒衣を片づけたら、ベスポルトに引き合わせなさい」
「ふざけるな、暗殺者《あんさつしゃ》が!」
警衛兵が、叫《さけ》び声をあげた。気の抜《ぬ》けた男に見えたが、任務に対する義務感だけはあったのだろう。警棒《けいぼう》を抜いて、威嚇《いかく》するように振《ふ》り上げて見せる。
「お前は、指名手配された危険分子だ……黒衣を始末しただって? 信じられるか。ようやく逃《に》げてきたってところだろう」
まったく気にせず、ミズーは笑《え》みを浮《う》かべた。
「首でも持ってくれば良かったかしら? 耳じゃあ、誰《だれ》のものだか判別できないしね」
「はったりだ」
言葉に反して怯《おび》えを含《ふく》んだ声で、警衛兵がつぶやく。ミズーは剣の向きを、少女からその男へと移し替《か》えた。|
場違《ばちが》いなほどに、どうということもないただの男だった。だが少女を保護《ほご》している。多少痛めつけなければ、引き下がらないかもしれない。
ミズーは低い声音《こわね》で、警告を発した。
「次から次へと邪魔《じゃま》ばかり入って、いい加減《かげん》我慢《がまん》の限界なのよ。わたしの忍耐《にんたい》をそれほど頼《たよ》りにして欲《ほ》しくはないんだけど」
「やめてよ!」
叫んだのは、少女だったか――
はっきりとは分からなかったが、ほかに叫ぶ者もいない。本能的にミズーは、マントの下に身を縮めてその場を飛び退《の》いた。また同じ爆音《ばくおん》が、空気を揺《ゆ》るがす。今度もまた銀色の鎧《よろい》をまとった娘《むすめ》が、空から落下してきた。
いや、先刻とは勢いが違っていた。墜落《ついらく》というより、あえて地面に激突《げきとつ》するように、空から叩《たた》きつけられ跳《は》ね上がる。そして、
(黒衣……!?)
その精霊使《せいれいつか》いのすぐそばに、黒衣が姿を現した。水晶檻《すいしょうおり》のロッドを構《かま》え、精霊使いと戦闘《せんとう》に入る。
ベスポルトの娘も警衛兵も混乱して、なにやらわめいていた。精霊使いもまた、自身にダメージはないのか、素速《すばや》く長槍《ながやり》を抱《かか》えて黒衣に応戦を始める。
交渉《こうしょう》どころではない。
(……潮時《しおどき》ね)
精霊使いはともかく、黒衣は面倒《めんどう》だった。いや、あるいは短時間でもここに黒衣が足止めされてくれるのならば、ベスポルトの家に向かった黒衣は、残りひとりだけということになる。
潮時ではない。好機だった。
剣《けん》を抱《だ》きかかえ、ミズーは駆《か》けだした。負傷も疲《つか》れも関係ない。精霊使いが二度までも飛んできた方向へと走れば、ベスポルトの小屋に近づくはずだった。近くまで行けば、また場所を見つけられるだろう。
ふと、眼球《がんきゅう》を思い出した。
窓からのぞく目。
役者が入れ替《か》わるこの舞台《ぶたい》を、じっとのぞいている無関係な村人たち。舞台からは、彼らの姿は見えない。彼らは様々《さまざま》な隙間《すきま》から、こちらをうかがっている。
のぞいているのは、彼らだけなのか。もっとほかの者ものぞいているのか。
それもまた、疑わしい――まるで念糸《ねんし》のように、視線が身体《からだ》に絡《から》みつく、それを感じながら、ミズーは速度を上げた。
ヌアンタット高地。硝化《しょうか》の森《もり》が広がるこの地域は、精霊《せいれい》の故郷《こきょう》とも呼ばれる。
高地の風は冷たく、大陸そのものを冷やしているという。いずれすべては凍《こお》った硝子の中に没《ぼつ》するのかもしれない。
高地は木々に溢《あふ》れているが、村の周辺は土も乾《かわ》いて死の気配《けはい》を漂《ただよ》わせていた。そんな村の外《はず》れに、ベスポルトの小屋がある。崩《くず》れかかった、粗末《そまつ》な小屋。
朝は終わりつつあった。風が、光が、白く輝《かがや》いている。空には雲が広がり、蒼空《そうくう》にある秘密《ひみつ》を覆《おお》い隠《かく》していた。
小屋が見えたところで、ミズーは走るのを止めた。持っていた剣《けん》を確かめる。ここまで使い込んでもまだ鋭《するど》さを失っていない、素直《すなお》な直刀。それでも刃《やいば》には脂《あぶら》が滲《にじ》んで、うねるような紋様《もんよう》を刻《きざ》んでいた。ちっぽけな牙《きば》。ミズーはそれを、右手に提《さ》げた。
前に見た時に比《くら》べ、小屋は大いに変形していた。屋根が吹き飛ばされている。大きな戦闘《せんとう》があったのだろう――ほぼ半壊《はんかい》しているといってよかった。
一歩一歩、近づいていく。そこにベスポルトがいる。うつろに独《ひと》りごちて、そのつぶやきにつま先が踏《ふ》みしめる土の軋《きし》みを混ぜた。
荒《あら》い呼吸《こきゅう》が、そこに重なった。
風によってすべて吹き流される、それらの重奏《じゅうそう》を、ミズーは聞いていた。
やがて声が、聞こえてくる。
「いつだって、その瞬間《しゅんかん》はこともなげに訪《おとず》れる。呼びかけに応《こた》えろ、ベスポルト」
黒衣《こくい》の――黒衣もどきの声だった。
「逆世《ぎゃくせ》の聖者《せいじゃ》たちが我々を待っている」
ベスポルトと話しているらしい。ミズーは構わずに進んだ。動悸《どうき》が速まる。鼓動《こどう》が高まる。
小屋の前に回る。扉《とびら》は開いていた。というより、それ以前に壁《かべ》の一部が完全に剥《は》ぎ倒《たお》されていた。そこに、ふたりの男の姿があった。
ひとりは、男とはいっても黒衣の装束《しょうぞく》に身をつつんでいた。仮面《かめん》に顔を隠《かく》し、面白《おもしろ》がるようにこちらを見ている。かなり早い段階から、こちらの接近には気づいていたのだろう。ベスポルトと談笑《だんしょう》しつつ、彼女が到着《とうちゃく》するのを待っていたような気配ですらあった。もうひとりは。
もうひとりの男を見つめて、ミズーは剣を握《にぎ》り直した。大柄《おおがら》な男だった――いかにも軍人らしい体格の良さに、黒衣の仮面と同じく、たくわえた髭《ひげ》の中に表情を押し隠している。厳《いか》めしい眼差《まなざ》しが、外にのぞいていた。黒衣と対峙《たいじ》し、追い詰《つ》められているようにも見える。が、それでもなにかを確信し、危険を感じていないようにも見える。
記憶《きおく》があった。
(…………?)
小突《こづ》かれたような頭痛に、眉根《まゆね》を寄せる。ミズーはゆっくりと、記憶を探《さぐ》った。その大男の姿には覚えがあった。
夢《ゆめ》の中で見た、炎《ほのお》の中でこちらを見つめてくる男。炎は自分に触《ふ》れないと、それを確信して動かない男。今と似ていた。だが……
(……あの燃える屋敷《やしき》は、なに? わたしの妄想《もうそう》じゃ……なかった?)
ただの既視感《きしかん》とも思えない奇妙《きみょう》な意識のつながりが、肌《はだ》を粟立《あわだ》たせた。
この男がベスポルト・シックルド。帝都《ていと》から逐電《ちくでん》した騎士《きし》。退役軍人《たいえきぐんじん》として扱われ、なぜか八年間も帝都から放置《ほうち》された脱走《だっそう》騎士。
男もまた、こちらを見つめてなにかを感じているようだった。動《どう》じそうもなかった厳しい眼《め》が、軽からぬ驚愕《きょうがく》に見開かれる。
はっきりと、男がうめき声を発するのが聞こえた。
「アストラ……? 違《ちが》う。アストラであるはずがない……あの娘《むすめ》は」
黒衣が、気楽に応じた。
「そう。アストラはとっくに死んだ。契約者《けいやくしゃ》としては唯一《ゆいいつ》、死を迎《むか》えた――」
ミズーは剣を振りかぶった。
躊躇《ためら》いはない。 一撃《いちげき》で決《き》める。心に念じて、狙《ねら》いを定める。
全力で投げつけた剣は、黒衣の顔の真正面に突《つ》き刺《さ》さった。そのまま貫通《かんつう》し、後ろの壁《かべ》に黒衣の顔を縫《ぬ》いつける。
黒衣の身体《からだ》が、床《ゆか》に落ちた――
と、その時には、自分の剣が貫《つらぬ》いたのが、黒衣の仮面だけだったと知れた。壁に突き立った刀身に、黒い仮面が垂《た》れ下《さ》がっている。
仮面を失った黒衣は、いや仮面を失ったその男は、無傷《むきず》で優雅《ゆうが》に、床《ゆか》から起きあがってみせた。
(外《はず》れた……)
男の、顕《あら》わになった顔を見つめて、ミズーは愕然《がくぜん》とうめいた。体毛のない、蛇《へび》のような顔立ち。その瞳《ひとみ》には、面白《おもしろ》がるような輝《かがや》きが満ちている。特にこちらに、というわけではないだろう。男は静かに、つぶやいた。
「この世の終末に生き残ることのできる、たった六人の仲間だ……もう少し、巡《めぐ》り合わせを大切にすべきではないかな」
男は大儀《たいぎ》そうに、壁の剣《けん》に触《ふ》れた。柄《つか》を掴《つか》むと、こともなげに引き抜《ぬ》く。バーベキューの串《くし》から肉を剥《は》がすような手つきで刀身から仮面を外すと、また侮蔑《ぶべつ》の笑《え》みをしっかりと見せつけて、剣をこちらに放《ほう》ってきた。
刃《やいば》を向けて投げつけてきたわけではない。単に、こちらの足下《あしもと》に、犬に餌《えさ》でも与《あた》えるように放り投げてきた。
どさりと、剣が地面に落ちる。
それを拾うか否《いな》か――迷ったのは確かだった。屈辱《くつじょく》に肩《かた》を震《ふる》わせて、かがみ込む。明らかにその男が嘲《あざけ》っているのを承知《しょうち》で、ミズーは剣を拾い上げた。
男は自分を恐《おそ》れていない……ベスポルトと同じく。炎《ほのお》に包まれても、自分が焼かれないことを信じている。
こちらが顔を上げるのを待たずに、男は続けた。恐《おそ》らくは、こちらを示して。
「その女は、アストラの契約《けいやく》を相続《そうぞく》した。我々の同胞《どうほう》、永遠の家族だ」
「あの契約が、そんなに都合《つごう》のいいものか!」
ベスポルトが、叫《さけ》ぶ――ミズーはようやくふたりを見やると、言葉を追った。
(契約……)
男は、我々、と言った。彼女もいずれ含《ふく》む、我々《われわれ》……
はっとして、気づく。
(この男も、契約者!)
唇《くちびる》を舐《な》めるために舌をのぞかせ、男がベスポルトに言い返す。
「代償《だいしょう》を支払《しはら》うのは、我々でなくていい」
なんのことかは分からなかったが、彼らは契約について話している。ミズーは身構えて、聞き入った。言葉のひとつ、呼吸《こきゅう》のひとつも聞き逃《のが》したくない。
男たちは続ける。観客《かんきゃく》を忘れた役者のように。ベスポルトが脅《おど》すように、低くうめいた。
「……契約を無効《むこう》にする方法はある」
「あるかな?」
「精霊《せいれい》アマワを破壊する。そのための力が、この世には存在している」
(魔神《まじん》……?)
ミズーは胸中《きょうちゅう》でつぶやいた。ベスポルトの娘《むすめ》。水晶眼《すいしょうがん》。下の街の精霊取扱業者《せいれいとりあつかいぎょうしゃ》は、ベスポルトが最古の精霊――魔神を求めているのではないかと言っていた。
精霊には、より強い精霊で対抗《たいこう》する。それは鉄則だった。硝化《しょうか》の森《もり》の深奥《しんおう》には、最も強大化した精霊が存在しているという。
未知《みち》の精霊アマワ。それがなんであれ、精霊であるのなら、ベスポルトの言っていることはあながち的外《まとはず》れとも思えなかった。
が、男はあくまで平静だった。あわてた様子もなく、淡泊《たんぱく》に落ち着いて、
「アマワは御遣《みつか》いだ。契約《けいやく》は、御遣いの言葉に過《す》ぎない。その本意はまた一段、遠いところにある」
ベスポルトもまた、乗り出しかけていた身体《からだ》を退《ひ》いた。告《つ》げる。
「それでもわたしは、アマワを破壊する。帝都《ていと》にある悪意のすべてをだ」
「八年もこんな辺境を逃げ回っておいて、なにを今さら」
「成果はあった。アマワは破壊できる」
「……うん?」
「わたしは帝都に行く。だが、お前に連《つ》れられてではない」
断言するベスポルトに、男が冷笑《れいしょう》を返す――
「お前は分かっていない。ベスポルト。恐《おそ》れを感じると言ったのは、お前だぞ? アマワは今でも、お前の運命に作用している……」
そして男は、黒衣の仮面を顔にもどした。言葉を残して。
「お前がアマワに敵対《てきたい》する限り、お前には未来はない」
(なんなの……? いったい)
彼らが語っていることの、半分も理解できない。なにか聞き落としたことがあるのか、見逃《みのが》したことがあるのか、必死に考えていると、雑音がそれを妨害《ぼうがい》した。黒衣たちから目をそらすまいと、振《ふ》り返りはしなかったが、なにが起こったのかは容易《ようい》に想像がついた。
「父さん!」
複数の足音。ベスポルトの娘《むすめ》の声だった。ようやく追いついてきたのだろう。ミズーより後ろから、ベスポルトに向かって呼びかけている。
飼《か》われている子供。
身体の痛みなど忘れるほど、生ぬるいものが心を満《み》たした。ベスポルトが口を開く前に、割《わ》り込むようにミズーは叫《さけ》んだ。
「失《う》せろ、子供」
視線《しせん》だけ少女――と、その後ろにいる警衛兵――に向けて、告げる。人精霊《じんせいれい》もちょろちょろとしていたが、事態には興味なさそうではあった。
ミズーは続けた。高地の涼《すず》やかな風に、体温の熱さを混ぜる。
「これから始まるのは、死闘《しとう》よ。死にたくなければ失せなさい」
少女がなにかを叫んだようだった。が、錯乱《さくらん》しているのか、意味が取れない。その代わりということか、警衛兵が声を張り上げる。
「なぜ、お前なんかにそんなことを言われなければならない?」
そして、小屋の中からこちらを眺《なが》めている黒衣に向かって、さらに声を大きくする。
「その女は中央府から手配されている暗殺者《あんさつしゃ》だぞ。そんなところでじっとしていないで、さっさとどうにかしたらどうなんだ?」
ミズーは無視《むし》して、黒衣らに向き直った。戦いになる。そのことは分かっていた。
(問題は……どうやって勝つ?)
傷《きず》ついた身体《からだ》で、黒衣と――いや、仮《かり》に黒衣ではないとしても、黒衣と同じく戦闘能力《せんとうのうりょく》を持つ男を相手にどこまで戦えるのか、それはさすがに断定ができなかった。剣《けん》を握《にぎ》っているだけでも、折れかかった手首が痺《しび》れてきている。
勝機《しょうき》があるとすれば。
ミズーは肩口《かたぐち》の、マント留《ど》めを意識した。精霊《せいれい》。黒衣に致命傷《ちめいしょう》を与《あた》えうるのは、これしかない。問題は体力と、集中力だった。敵の隙《すき》を誘《さそ》い出すためには牽制《けんせい》する必要がある。開門式《かいもんしき》を唱《とな》えるには念糸《ねんし》を使う必要がある。うまく立ち回ることさえできれば――
身体に力を溜《た》め、飛び出そうとする。と、ベスポルトが目に入った。
大男は娘《むすめ》を見て、明らかに動揺《どうよう》しているようだった。それでも外から見れば、わずかに表情の変化が見て取れる程度のものだったが。目に、震《ふる》えが見える。彼が声をあげた。
「フリウ!」
(魔神《まじん》を使わせるつもり?)
脳裏《のうり》に警戒《けいかい》が走る。ミズーは視線を投げて、ベスポルトとの距離《きょり》を頭に入れた。あるいは、少女との距離を――場合によってはどちらかを仕留《しと》めなければならない。
が、ベスポルトの吐《は》いた言葉は、逆を突《つ》いたものだった。
「行け。もうお前はいいんだ……わたしに関《かか》わってはならない」
短い空隙《くうげき》が、ミズーの手を止めさせた。わけが分からない。狼狽《ろうばい》えて、娘――フリウというのがその名前か――が声をあげる。
「……な、なに言って――?」
(娘の眼《め》には、魔神は入っていないの?)
ミズーは自問して、それもまた筋が通っているように思えた。ベスポルトは、魔神を求めているという――最高級の水晶檻《すいしょうおり》を求めた上で、今もまだ。娘の水晶眼に魔神が入っているのなら、そんなことをする必要はないということになる。
だが、逆に魔神が入っていないのならば、この娘になんの価値がある?
すっかり混乱して、ミズーは成り行きを見守った。黒衣はまったく動きを見せていない。ベスポルトと娘だけが、怒鳴《どな》り合うように会話を続けていた。
泣きじゃくる娘が、唐突《とうとつ》に言葉を止めた。なにかを感じたのだろう。娘の背後に、黒い影《かげ》が出現する。
もうそれは、慣れたことだった。先刻、精霊使《せいれいつか》いと戦っていた黒衣だろう。水晶檻の杖《つえ》を抱《かか》えた姿勢で、娘を捕《と》らえられる位置に姿を見せた。
反射的に、というより本能的に、ミズーは飛び出していた。少女に手を伸《の》ばそうとしている黒衣に向かって、剣を打ち付ける。だが、もとより黒衣も読んでいたのだろう――今度はこちらに念糸《ねんし》を放《はな》って、姿を消した。
呼吸《こきゅう》を殺し、黒衣が再び現れるのを待つ。気配《けはい》は感じていた。背後に質量として膨《ふく》れあがる、図々《ずうずう》しいまでの殺気。振《ふ》り返り、剣を突き出すタイミングまで測《はか》っていた。が――それをしようとする瞬間《しゅんかん》、腰《こし》から力が抜《ぬ》けた。
「…………!?」
身体《からだ》が動かない。限界が近づきつつある。なんとか肩越《かたこ》しに見やると、確かにそこに黒衣がいた。水晶檻のロッドを、こちらの背中に押《お》し当てている。既《すで》に実感した、その威力《いりょく》を思い起こし、ミズーは覚悟《かくご》を決めた。今度は耐《た》えられない。骨に異常があるこの身体では、全身|四散《しさん》する可能性もある。
が――
爆発《ばくはつ》は起こらなかった。突如《とつじょ》として、黒衣の構えた水晶檻の杖《つえ》が半ばからへし折れる。折れた箇所《かしょ》に念糸が巻き付いており、その念糸を目で追うと、ベスポルトの娘の身体から紡《つむ》がれたものだった。
(助かった……?)
ミズーはようやく身体を反転すると、剣を突きだした。折れたロッドをかすめ、尖《とが》った剣先が黒衣の身体へと吸《す》い込まれる。金属音を立てて、剣は黒衣の表面に激突した。
金属繊維《きんぞくせんい》の衣はもとより、黒衣が懐《ふところ》から取り出した短剣に阻《はば》まれて、剣は弾《はじ》き返された。黒衣はそのまま、後方に跳《と》んで距離《きょり》を開ける。ミズーは自分を罵《ののし》った。やはり限界が近い。あるいは越えてしまっているのかもしれないが。絶好の機会を、あっけなく逃《のが》してしまった。
なおも飛びだそうとしたが、やはり身体が重い。反応の鈍《にぶ》さに悲鳴をあげながらミズーが斬《き》りかかると、黒衣はまた姿を消した。
「…………」
ミズーは立ち止まり、気配を探《さぐ》った。さすがに今度は、黒衣の念糸を警戒《けいかい》していた――自分に念糸を放ったのであれば、その一瞬でこちらも念糸を使って敵を仕留めるつもりでいた。が、黒衣が念糸を放った先は、こちらではない。
一挙動で剣《けん》を振り上げ、ミズーは剣を投げはなった。娘《むすめ》のすぐ前に出現した黒衣の背中に、長剣が深々と突《つ》き刺《さ》さる。血を吐《は》くような音を喉《のど》から漏《も》らし、黒衣は地面に倒《たお》れ込んだ。絶命し、動かなくなる。
同時にこちらもまったく動かなくなった自分の右|腕《うで》を抱《だ》いて、ミズーは苦悶《くもん》のうめきとともに悪態《あくたい》をついた。手首が変色して腫《ふく》れ上がっている。無理《むり》をさせすぎたか。もう剣は使えない。
腕を下ろし、残った最後の黒衣へと向き直る。
左手だけでマントを外し、そのマント留めを手に取る。金属でできた獅子《しし》の顔を見つめてから、ミズーはそれを、ベスポルトの娘へと突きつけた。少女は黒衣との接触《せっしょく》で怪我《けが》をしたのか、左|肩《かた》にわずかに血を滲《にじ》ませている。警衛兵《けいえいへい》が連れ添《そ》って、傷を看《み》ようとしていた。
ミズーは黒衣を見据《みす》えて、告《つ》げた。
「わたしの開門式は、とても短い」
手が震《ふる》えそうになるのを、意志の力だけで押《お》しとどめる。
「わたしの精霊《せいれい》は一瞬《いっしゅん》であの子を殺せる。ベスポルト、協力しなさい」
娘がベスポルトにとってなんであれ、必要なものならば有効のはずだった。元軍人とはいえただの武官に過ぎなかったベスポルトが、黒衣に対してどの程度通用するのかは知れたものだろうが、それでも今の自分よりはまともに動けるだろう。
聞いているのかいないのか、無表情のままのベスポルトに、ミズーは続けた。
「さすがに手傷《てきず》を負《お》いすぎて、わたしひとりじゃその黒衣には勝てない。ベスポルト、わたしに協力しなさい」
「君が誰だかも知らぬのに……か?」
言い返してくる彼に、ミズーはうなずいた。
「わたしは、ミズー。ミズー・ビアンカ。わけも分からずに契約者《けいやくしゃ》にされたわ。アマワとやらを滅《ほろ》ぼす手段があるというのが本当なら、わたしはあなたを守ってあげる。黒衣からも……何者からもね」
名乗ることなどたいしたことではない。だというのに、自分でも不可解なほどの違和感《いわかん》があった。ベスポルトは見定めるように鋭《するど》く、眼差《まなざ》しに緊張《きんちょう》を高めている。
あわせて、ミズーもわずかにまぶたを下ろした。薄暗《うすぐら》くなった視界《しかい》に、黒衣の黒装束《くろしょうぞく》が薄れ、退役騎士《たいえききし》の眼光だけが輝《かがや》く。
それはこちらを値踏《ねぶ》みしているようにも見えた。護衛《ごえい》を申し出た自分の腕を探《さぐ》ろうとしているのか? 違《ちが》う――違うと思えた。もっと違うものを見ている。もっと別のものを見定めようとしている。ベスポルト・シックルドは。
結論は出たのか。出なかったのか。大男が、小さくつぶやくのが確かに聞こえた。
「これも偶然《ぐうぜん》、か?」
「いや運命だよ」
これは、黒衣だった。
それが、なにかの合図《あいず》だったのだろう。
大男が動いた。黒衣に飛びかかると、その腕《うで》を取ってひねり上げる。そのまま巨体《きょたい》を活《い》かして、ベスポルトは黒衣の身体《からだ》を壁《かべ》に叩《たた》きつけた。敵の動きを封《ふう》じると、こちらに向かって、言ってくる――
ミズーは加勢《かせい》のために飛び出しかけた足を止めた。ベスポルトの叫《さけ》びは、予想外なものだった。
「わたしを守る必要はない、ミズー。フリウを連れていってくれ」
(……なんですって?)
意味が分からなかった。いや。
頭のどこかで、理解できている。そんな直感があった。ベスポルトの言っていることは、理解できる。
彼はさらに声を大きくした。
「いいから行け! わたしは死なない。この男はわたしを殺せない――」
(あらゆる偶然が、契約者《けいやくしゃ》を守る)
契約者は死なない。
ベスポルト・シックルドも。それが取り押《お》さえている黒衣も。
自分も――四人もの黒衣を返り討《う》ちにして、死んでいない。
(違う!)
認めずに、ミズーは叫んだ。
(わたしが死ななかったのは……契約の力じゃない!)
意志か。感情のためか。足は動かなくなっていたが、ミズーは前進しようと身を乗り出した。
それに――
腑《ふ》に落ちない。おかしい。矛盾《むじゅん》がある。
(アストラは……契約者なのに死んだんでしょう!?)
姉が死んだから、その契約が自分に回ってきたのだ。少なくとも御遣《みつか》いは、精霊《せいれい》アマワはそう語った。
ならば契約者は不死《ふし》ではない。ベスポルトは間違《まちが》っている。
刹那《せつな》、ベスポルトの巨体《きょたい》が吹《ふ》き飛んだ。
爆発《ばくはつ》で弾《はじ》き飛ばされたように見えた。ベスポルトの左|腕《うで》――黒衣を取り押さえていた腕が、一瞬《いっしゅん》で粉々になっていた。袖《そで》がばらばらになり、粉塵《ふんじん》と化して散る。大男の腕は、枯《か》れ木の枝のようにねじ曲げられていた。
なにがあったのか。黒衣の身体《からだ》から、念糸《ねんし》が伸びている。それはすぐに主の身体へともどっていった。大男が後ずさり、自由になった黒衣が、ゆったりと、ひなたを探す蛇《へび》のように、壁《かべ》から身を起こす。
ベスポルトによってひねられていた腕は、折れているようにすら見えた。が、黒衣はそれをなにごともなかったようにもどすと、腕を一振《ひとふ》りした。その手に、短剣《たんけん》が現れている。まるで手品《てじな》のように。
仮面《かめん》が外《はず》れていた。どうでも良さそうに、首を振ってそれを床《ゆか》に落とす。
その時には既《すで》に、黒衣の短剣がベスポルトの胸に呑《の》み込まれていた。身をよじったベスポルトの足がもつれるのが見えた。もんどり打って、大男が倒《たお》れる。
「アマワに従《したが》うのは……楽なことだ」
黒衣は、笑いながらつぶやいた。こちらに――ミズーに、言っているのだろう。
「運命がまだ死を許さないのならば……どうしたところでお前は死なない。手加減《てかげん》する必要もない」
「貴様《きさま》……っ!」
ベスポルトの断末魔《だんまつま》の叫《さけ》びが、さほど大きくなく響《ひび》く。急所に突《つ》き刺《さ》さった短剣が、呼吸のたびに揺《ゆ》れていた。
死なないわけがない。
ミズーは足を引きずって、前に出た。どう戦えばいいのかは分からないが、ひとりでやるしかない。
黒衣は、ベスポルトの娘と、それを抱《だ》きかかえる警衛兵とを見つめていた。こちらは眼中にないということか――余裕《よゆう》たっぷりに、口を開く。
「さて。黒衣の顔を見た者は……分かるだろう? 皆殺《みなごろ》しだ」
本音《ほんね》ではないだろう。それはすぐに知れた。単に、建前《たてまえ》に過《す》ぎない。殺すための建前。その男は、黒衣ではないのだから。
爆音《ばくおん》が響いた。もう聞き慣れた、三度目の音。
今までと同じように彼方《かなた》から、鋼精霊《こうせいれい》をまとった少女が飛来《ひらい》してきた――真《ま》っ直《す》ぐに小屋へと着地して、ベスポルトの死体を抱《だ》きかかえる。黒衣を牽制《けんせい》するように長槍《ながやり》を振るが、もとより黒衣は相手にするつもりもないようだった。軽く身をかわすと、薄《うす》い笑《え》みを浮《う》かべて少女とベスポルトとを見つめている。
精霊使いも、長居はしなかった。ベスポルトを抱《かか》えたまま、振動音《しんどうおん》を高めて高空へと逃《に》げていく。高さを稼《かせ》いだところで、無抵抗《むていこう》飛行路に入ったのだろう。姿を消した。
そして――
向き直ると、ベスポルトの娘が金切《かねき》り声をあげていた。傷口《きずぐち》を押《お》さえながら、眼帯《がんたい》を引きむしる。少女は怒《いか》りに任せてそれを握《にぎ》りつぶしたようだった。瞳《ひとみ》のない水晶眼《すいしょうがん》。それを残して、右目を閉じる。
叫《さけ》びは続いていた。意味の取れない悲鳴《ひめい》。あるいは怒号《どごう》。ミズーは息を呑《の》んで、ただそれを見つめていた。警衛兵が、少女の傍《かたわ》らから後ずさりするのが見えた。なにかは分からない、ただ圧倒《あっとう》的な絶望をもたらすなにかを、無差別に発散して少女が叫んでいる。
それがただの叫びでないことは、すぐに悟《さと》った。
少女の水晶眼に、光が点《とも》る。精霊の通路となる門。水晶眼に封《ふう》じられた精霊を解放する、開門式だった。
(なにが……封じられていたの……?)
問題は、それだった。なんとか距離《きょり》を取りながら、疑問を投げる。
答える者はなく、あるいは最も明解な答えがもたらされようとしている。
ベスポルトが、飼《か》っていた娘。
(彼が八年間で……見つけた、力?)
少女の叫びが、止まった。
その左眼に、歪《いびつ》な影《かげ》が映っていた。その影は光に溶《と》け、そして――
そこに現れたのは、光輝《ひかりかがや》く巨人《きょじん》だった。
それは銀色の巨人だった。外殼《がいかく》は鎧《よろい》のようでもあり、もっと別の――たとえば偶然《ぐうぜん》に生じた氷河の亀裂《きれつ》のようでもある。鋭《するど》く、滑《なめ》らかな氷の棘《とげ》。
刃《やいば》よりも激《はげ》しく斬《き》り刻み、角《つの》よりも深くえぐり込み、すべてを嫌《きら》いすべてを破壊《はかい》する。それが具現《ぐげん》して、そこにある。
それはただ、首を下げてそこに立っていた。
なにもしていない。なにもする様子はない。
が。
それがある、というだけで――大きな塊《かたまり》がのしかかってくるような、暑苦《あつくる》しい重圧が生じていた。暑く、そして凍《こご》えるように冷たく。
本能だろうか? 反応したのは、ミズー・ビアンカだった。マント留《ど》めを掲《かか》げて、鋭《するど》く叫ぶ。
「出《いで》よ!」
命令に応じて出現した、巨大《きょだい》な炎《ほのお》の獅子《しし》は、咆吼《ほうこう》でその身の熱炎《ねつえん》をさらに爆《は》ぜて膨《ふく》れあがらせながら、巨人と対峙《たいじ》した。それほど長い時間でもない――訓練された精霊《せいれい》は、戦いに無駄《むだ》な時間などかけはしない。精霊は、強大な力を誇《ほこ》る。敵をねじ伏《ふ》せることなど、彼らにとってはどうということでもない。力を見せつけ、叩《たた》きつけるだけでいい。
獣精霊《じゅうせいれい》が大地を蹴《け》った。足下《あしもと》が融《と》けて溶岩《ようがん》と化す前に。棒立《ぼうだ》ちの巨人に向かって、飛びかかり、致命《ちめい》の力を注ぎ込む。
刹那《せつな》の間。
銀光が、獅子の脳天《のうてん》を打ち据《す》えた。
真上から振《ふ》り下ろされた、巨人の拳《こぶし》が、獅子の頭を貫《つらぬ》いて地面に突《つ》き刺《さ》さる。獣精霊は瞬時《しゅんじ》に炎へ分解して、空間に消えた。その熱エネルギーで、巨人の立っていた地面が飴《あめ》のように崩れ、破壊《はかい》精霊を傾《かたむ》かせる。空気も膨張《ぼうちょう》して、鼓膜《こまく》に残らない爆鳴《ばくめい》を響《ひび》かせた。が。
獅子が消えて、銀色の巨人はなにごともなかったかのように、溶岩の中に沈《しず》み込んだ足を、ずるりと引きずり出した。彼はぐるりと、周囲を見回し――
八年前に滅《ほろ》ぼしたことのある村の中で、泣き声ともつかない雄叫《おたけ》びをあげた。
[#改ページ]
第三章 ビーストタイム
(獣《けもの》の瞬間《しゅんかん》)
こんな時には、いつだって赤い空が自分を見下ろしていた。
こんな時には、いつだって鐘《かね》の音が心を掻《か》き乱していた。
イムァシアは消えない……
自分はいつまでもあの都市から出られない。
いや、あの閉《と》ざされた塔《とう》の部屋からすら出ていない。
あの隅《すみ》の陰《かげ》に、もうひとりの自分とふたりでいる。
なにも変わっていない。
こんな時には、なにも変わっていなかったと思い知る。
自分は扉《とびら》を通り抜《ぬ》けることもできない少女でしかないと。
なにが起こったのかは分からなかった。ただ、目の前に現れた輝《かがや》く巨人《きょじん》が、腕《うで》を振《ふ》り上げたところまでは見ていた。
獣精霊《じゅうせいれい》が砕《くだ》け散った、その炎《ほのお》の砕片《さいへん》が風に溶《と》け、火の粉となり、消えていく。巨人の腕は剣《けん》のように、鋭《するど》く天を指していた。なにも考えられず、ただミズーは認めた。自分はすべてを失った。剣も、精霊も、なにもかも。なにも持たず丸腰《まるこし》で、その巨人と相対《あいたい》している。
程《ほど》なく死が待っている。
腕が振り下ろされ、ミズーはなにも見えなくなった。宙を飛ぶような感覚――首から下がすべて吹《ふ》き飛ばされれば、脳が感じるのはこんな浮遊感《ふゆうかん》に違《ちが》いないと、心静かにミズーは認めた。もうじき訪《おとず》れるはずの死の恍惚《こうこつ》を待ちわびる。
だが身体《からだ》を襲《おそ》ったのは、猛烈《もうれつ》な痛みだった。
意識が回復すると、自分が凄《すさ》まじい勢いで地面を転がっていることが分かった。まだ間合いが離《はな》れていたはずの巨人がなにをしたのかは分からないが、衝撃波《しょうげきは》のようなもので弾《はじ》き飛ばされたのだろう。地面から突《つ》き出たなにかにぶつかって、身体が止まる。
跳《は》ね上がって、再び意識が途切《とぎ》れた。鼻孔《びこう》の奥《おく》が、体液《たいえき》で詰《つ》まる。呼吸ができなくなって、彼女はうめいた。
目は開いていた。転がされ、身体が動かなくなっても、その光景は見えていた。巨人に対して、黒衣《こくい》が戦いを挑《いど》む。念糸《ねんし》を伸《の》ばし、巨人の腕を捕《と》らえようとして――
そして、同じく爆発《ばくはつ》するように、黒衣の身体が弾《はじ》け飛んだ。血だらけになって、その場に倒《たお》れる。ベスポルトの娘《むすめ》が叫《さけ》んでいる。泣き叫んでいる。その怒声《どせい》が巨人《きょじん》を後押《あとお》しし、巨人はゆっくりと、前進を始める。
その巨人は少女の敵《てき》を、すべて滅《ほろ》ぼした――黒衣は死んだ。自分も死ぬだろう。だが巨人は歩《あゆ》みを止めずに、少女もまたその前進に引きずられるようにして、村の中心へと向かっていく。
だがもう、そんなものは自分には関係のないことだった。ミズーは笑った。ここで死ぬ。つまるところ、自分は負けたのだ。黒衣をも殺した自分が。ただ泣き叫ぶ少女に負けて、そして死ぬ。
死に対する迷信《めいしん》が、ひとつ嘘《うそ》だったことを知った。死は甘美《かんび》なものではなく、ただひたすらに苦痛だった。肺が呼吸《こきゅう》をやめる。心臓が収縮《しゅうしゅく》をやめる。酸素《さんそ》が失われ、脳が陶酔《とうすい》するかというと、全身から送られてくる激痛《げきつう》のほうが勝《まさ》った。なにも見えなくなる。美しい川も、暖《あたた》かい花の野も、あるいは腐臭《ふしゅう》の漂《ただよ》う奈落《ならく》への落下も、なにもない。自分をなにかにつなぎ止めていたものが、意に添《そ》わず斜離《まくり》していく。今までだって一度たりと思うとおりになったことのない運命が、今もまた決定的に自分を押《お》し流していく。
巨人の足音が遠ざかっていく。少女の叫びもまた。
(最強の精霊使《せいれいつか》い……フリウ……? 確か、ベスポルトはそう呼んだ……?)
あの精霊には、何者も敵《かな》うまい。ベスポルトがあの娘を飼《か》っていた理由が分かった。ベスポルトは、世界最強の力を手にしていたのだ。
(それが……答え? 精霊アマワにとって、最も致命《ちめい》的な……?)
落ちていく意識の縁《ふち》にしがみついて、ミズーはつぶやいた。
イムァシア工房《こうぼう》について。その名を知っていても、それが遥《はる》か辺境《へんきょう》の弱小都市であるということ以上を理解している者はいなかった。そのことは意外だった――自分がそれまで全世界だと思っていたその都市は、地図にも載《の》らないことのある人口一千にも満《み》たない田舎町《いなかまち》でしかなかったのだ。
三年前。
十七|歳《さい》になった時、彼女はイムァシアを後にした。
初めて扉《とびら》を通り抜《ぬ》けた。長く……長く、望みながら通れなかった扉を。
大河の空隙《くうげき》に在《あ》るという、絶対殺人武器《ぜったいさつじんぶき》。
それはイムァシアの男たちが太古《たいこ》から抱《かか》えてきた信仰《しんこう》だった。現世《げんせ》に具現化《ぐげんか》すべき、最高の刃《やいば》の形。
それを魅力《みりょく》と思ったことはなかった。ただ、天井《てんじょう》のない星空の下で眠《ねむ》りに落ちる一瞬前《いっしゅんまえ》、必ず聞こえてくる暗い呼びかけがあった。それは剣《けん》を欲《ほっ》していた。だから行き掛《が》かりの名もない村の工房にて、一振《ひとふ》りの剣を求めた。年老いたその鍛冶師《かじし》は軽薄《けいはく》で口数の多い男だったが、腕《うで》は確かだった。だがそれは単に幸運だったというだけで、さしたる意味も感じなかった。剣でありさえすれば同じだった。それほど斬《き》れる必要もなかった。飾《かざ》り剣でも良かったのだ。
閉《と》ざされた部屋から出てみれば、どこに行きたいという希望もなかった。ただ、人が大勢集まっているところを見るのは楽しかった。彼女は、引き寄せられるように、街に住み着いた。イムァシアの男たち――顔のない男たちとは違《ちが》う、様々《さまざま》な表情を浮《う》かべた人の群《む》れ。道の隅《すみ》から、それを眺《なが》めて何日も過ごした。
彼らの中のひとりに話しかけられた時、彼女は狼狽《ろうばい》した。彼らはただの風景でしかなかったというのに、突然《とつぜん》に意味を持って彼女に答えを求めてきた。今にして思えば、たいした内容でもなかった。道を聞かれたのだが、分からないので首を横に振って追い払《はら》った。その中年の女は毒づきながら去っていった。
数日が数十日になってくると、話しかけてくる相手に、辺境警衛兵《へんきょうけいえいへい》が混じり始めた。彼らは彼女に、この街では浮浪者《ふろうしゃ》が路上で生活する権利を認めていないと告《つ》げた。自分の着ている服がぼろぼろになっていることに気づいたのは、それを言われてからだった。
金が必要だった。
どうしたら良いのか分からない、と警衛兵に言うと、その男は仕事を紹介《しょうかい》してくれた。男は遠回しに、それが娼婦館《しょうふかん》だと説明した。その商売のことは知っていた――イムァシアにもそういった建物はあった――が、自分はそういったことはよく分からないと告げると、警衛兵は、その館《やかた》の主《あるじ》は比較《ひかく》的良心的な男だし、警衛兵組織の管理下にある。信頼《しんらい》して良いと言った。それに、今までのように路上で寝起《ねお》きしているようだと、いつかそのうち望まないまま同じ運命をたどることになると彼女を諭《さと》した。あるいは、さらにひどいことになると。
実のところ、そんなことはたいした問題ではなかった。気になっていたのは、館という響《ひび》きだった。また扉《とびら》の奥《おく》にもどることになる。そのことがなによりも嫌忌《けんき》を抱《いだ》かせた。
その警衛兵というのが、いわゆるその手の娼婦館に商品を斡旋《あっせん》して代金を受け取る類《たぐい》の男ではないようだったので、それほど怪我《けが》はさせずに詰《つ》め所《しょ》を脱出《だっしゅつ》した。服は、詰め所に連れて来られる前に、その警衛兵が新しいものを買ってくれていた。金は、警衛兵の財布《さいふ》を丸ごと持っていくことにした。
彼女はその警衛兵に感謝していた。だから彼の忠告に素直《すなお》に従って、路上で暮らすことはやめにした。路地の奥にある、古いアパートに部屋を求めた。そこで警衛兵の財布は空になった。空っぽの財布は、川に捨てた。
金が要《い》る。金が必要だった。
……気がつけば、彼女は自分にできる仕事を見つけていた。
真紅《しんく》のマントを獅子《しし》のマント留《ど》めに通して、それを羽織《はお》った。武器をそろえ、それを身につけた。しばらく鳴っていなかった、鐘《かね》の音が聞こえてくるようになった。
目を開いて、空を見上げる。
そこには白い空気が渦巻《うずま》く、凍《こご》えるような高地の空があった。
赤くない。
相変わらず身体《からだ》は痛みを忘れていなかった。その痛みを感じようと、あるいは忘れようと、まぶたを下ろす。心臓の音が聞こえた。
身体中の傷《きず》から、血が滲《にじ》み出す感触《かんしょく》はあった。が、あふれ出るほどではない。固まった血液《けつえき》が、傷をふさいでいた。
(生きている……)
ミズーは、身体を起こした。
動ける。一度は麻痺《まひ》した右手まで、まだかろうじて動かすことができた。指を震《ふる》わせるたびに、骨の髄《ずい》から広がって砕《くだ》けるような鈍痛《どんつう》が走るが。
(動ける……わたしは……)
また、目を見開いた。
それほど長く寝《ね》ていたわけでもなかったようだった。あの巨人《きょじん》の精霊《せいれい》は村を蹂躙《じゅうりん》していた。遠目からでも、銀色の腕《うで》としなやかな足が、この小さな村を跡形《あとかた》もなく破壊《はかい》していくのが見える。
気を入れさえすれば、立ち上がることもできた。肩《かた》の震えを腕で抱《だ》きしめて押《お》さえ、悲鳴《ひめい》とも溜《た》め息ともつかない吐息《といき》を漏《も》らす。肌《はだ》は冷え切っていた。どこも血まみれで、干《かん》ばつの水路のように、凝固《ぎょうこ》した血液がひび割《わ》れて乾《かわ》いている。その下で、鳥肌《とりはだ》が立っていた。
(わたしは……生きている)
そのことを認めるのに、時間がかかった。
どこかへと向き直るようにして、あたりを見回す。ベスポルトの小屋は完全に吹《ふ》き飛ばされていた。巨人が無差別に地面を叩《たた》いた跡が、それこそ足跡のようにずっと続いている。誰《だれ》もいなかった。死体だけだった。剣《けん》に貫《つらぬ》かれ、倒《たお》れた黒衣の死体が転がっている。だが、もうひとりあるはずの死体が、そこにはなかった。
自分が倒《たお》れていた場所を、見下ろす。自分が一歩進めば、ここからも、あるはずの死体が消えることになる。
迷わずに、歩き出す。かかとに力が入らず、つまずきかけた。黒衣の死体から自分の剣を引き抜《ぬ》くと、ミズーは、外していたマントを羽織《はお》った。
「終わってない。なにも、終わってない」
うめく。
自分は倒すべき敵《てき》を倒していない。
それを求めて、ミズーは足を引きずった。
破壊《はかい》される村を、横切っていく。
荒《あ》れ狂《くる》う暴神《ぼうしん》――白銀の巨人《きょじん》が吠《ほ》える声を聞きながら、そちらを見ることはしない。すべてはノイズに過《す》ぎなかった。巨人の一打ちごとに、歩く地面も揺《ゆ》さぶられる。これまでの沈黙《ちんもく》が嘘《うそ》のように、カーテンの奥《おく》から飛び出した村人たちが、粉々の部品となって宙を舞《ま》い、飛沫《しぶき》となった体液が通り雨のごとく降り注《そそ》いでいた。
だが、それを見ることもない。
気にせず、歩いていく。息をあげて、自分の身体《からだ》を引っ張り続けていく。
高地の村には傾斜《けいしゃ》が多く、巨人の作る破壊|跡《あと》がさらにそれを複雑な地形に変えていた。隠《かく》れるように地面の溝《みぞ》へ転がり込み、また起きあがって、本能の命ずるままに進む。自分がどこを目指しているのか、それもよくは分からなかった。ただ、巨人に蹂躙《じゅうりん》される村を横切って、行かなければならない場所があると知っていた。
思い出す光景があった。
炎《ほのお》に焼き尽《つ》くされる、イムァシアの姿。
なにもかもが死に絶《た》え、その中を自分だけが進む。自分と、炎熱《えんねつ》と、そのふたつを結ぶ獣精霊《じゅうせいれい》だけが、生きて進む。そのほかはすべて死体となる。
激《はげ》しくなにかに揺さぶられながら、あの時に言葉にできたのはほんのわずかなことでしかなかった。理解できたことはひとつしかなかった。自分は、死体を見ても動じないのだという、小さな事実。それを認めた。
飛んでくる子供の腕《うで》を、頭をずらしてかわす。記憶《きおく》の中だけではなく、現実でも破壊は続いていた。記憶と現実。その光景が重なり、自分がどちらにいるのか、それも急速に分からなくなっていく。不愉快《ふゆかい》な学者の声が、悪寒《おかん》を誘《さそ》った。この世には、はっきりとした両極など存在しない……
現実と非現実にも。境界線などありはしない。あの男は、そう言ったことになる。
ふと、悟《さと》った。今度もまた、小さな事実でしかなかったが。
自分が今、倒《たお》さなければならない敵《てき》とはなにか。
アイネスト・マッジオ。神秘調査会《しんぴちょうさかい》のマグス。あの男を見つけだして、殺す。あの男は彼女のことをどこか安全な場所から眺《なが》めているに違《ちが》いない。
この村を、安全に俯瞰《ふかん》できる場所――
自分の足がどこを目指していたのか、ようやく分かって、彼女は笑《え》みを浮《う》かべた。見上げると、村から離《はな》れた丘《おか》の上に、人影《ひとかげ》があった。遠すぎて判別はできないが、確信する。その人影は笑っている。彼女を見て笑っている。
(そこにいなさい……わたしが行くまで、そこにいなさい)
距離《きょり》を測って、ミズーは足を速めた。力の入らない膝下《ひざした》がもつれそうになるが、目的地に向かって、身体が浮き上がろうとしているようだった。転びはしない。
たどり着いて、一撃《いちげき》で殺す。
そのために、ミズーは歩き続けた。
血を吸《す》った黒装束《くろしょうぞく》は、重く感じられた。いや、ただ身体が弱っているだけか――彼は苦笑いを浮かべ、爪《つめ》の間に固まったかさぶたを噛《か》みちぎった。
深手だった。しばらく、まともには動けそうにない。あれほどまでに強大化した精霊《せいれい》に念糸《ねんし》で挑《いど》むなど、愚《おろ》かにもほどがあった。それを認めて、かぶりを振《ふ》る。だが、ほかにどうしようもなかった。いや、なにもできることなどなかった。
「あれは最古の精霊だ……つまり、あの子供が、この世の最強者というわけだ」
誰《だれ》に対する言い訳でもないが、独《ひと》りごちる。
村を襲《おそ》うその精霊を、村から離れた丘の上がら見下ろして、彼は笑った。笑うよりほかになかった。
だが、強い力を持っている者が勝つというわけではない。
勝利者とは、まったく別種のものだ。
黒衣《こくい》の仮面《かめん》を外して、契約者《けいやくしゃ》ウルペンは首を振った。いつの間にか、破壊《はかい》し尽《つ》くされた村から巨人《きょじん》の姿が消えている。
(ともあれ、開会のための儀式《ぎしき》は終わったというわけだ……)
すべては来《きた》るべき未来に向けての、通過点でしかない。なにが起ころうと、過ぎ去っていく些事《さじ》に過ぎない。
だが、たったひとつだけ。通過できない一点が時の彼方《かなた》にあり――いつかはそこに当たる。つまりは、それが終局だった。
その終局に勝利する者。それが勝利者。そのために、すべきことをする。
ひとつひとつ、不本意な要素を潰《つぶ》していく。
ウルペンはつぶやいた。まずは、あのベスポルトの娘《むすめ》だ。
「……傷《きず》つけずに眼球《がんきゅう》を手に入れる方法を考えねば、な」
そして――
「見つけたわよ。アイネスト……」
背後からかけられた声に振り向く。
真紅《しんく》のマントをまとった女|暗殺者《あんさつしゃ》が、そこにいた。
丘《おか》を登り始めたあたりから、視界《しかい》が霞《かす》んでいた。
それでもほとんど見えなくなっている目を細め、なんとか人の姿らしいものを正面に見据《みす》えると、ミズーは鞘《さや》から剣《けん》を引き抜《ぬ》いた。腕《うで》から全身に、麻痺《まひ》にも似た鈍痛《どんつう》が響《ひび》く。丘の、切り立った崖《がけ》になっているはずの突端《とったん》に、人影《ひとかげ》がある。彼女はその退路《たいろ》をふさぐ形で、丘にいた。
(少なくとも、ここに立っている限り、逃《に》がすことはない……)
自分に言い聞かせる。
(だからもう少し……眠《ねむ》ってはいけない。あと、ほんの少しだけ……)
生きたまま溺《おぼ》れ死んだように身体《からだ》は重かった。水を吸《す》って膨《ふく》れあがったとしか思えない、鈍《にぶ》い指先でかろうじて剣を握《にぎ》っている。震《ふる》えを隠《かく》すほどの余裕《よゆう》もなかった。だが、視線だけはなんとかそらさずに、ミズーは敵《てき》を睨《にら》み据《す》えた。
白くぼやけた中心にある人影は、なにも答えてはこない。自分が話しかけている相手が、単にそういった形をしている岩かなにかであったとしても不思議《ふしぎ》はなく、半《なか》ば以上それを信じかけた頃《ころ》に――ようやく、その人影のものと思《おぼ》しき声が返ってきた。
「そうだな。もうひとりいたな……この世の最強者が」
その言葉の意味は分からなかった。が、理解できたこともあった。
(アイネストじゃない)
ぞっとして、後ずさりしかける――その声は、あの馬鹿《ばか》げた学者もどきのものではなかった。
(黒衣……!)
驚愕《きょうがく》に、心臓が跳《は》ねる。へたをすれば活動を止める寸前だった心臓に、それは負担《ふたん》だった。ぞっとしながら、剣を手元に引き寄せる。
が――
思い直して、ミズーは息をついた。倒《たお》すべき敵。倒すべきであったのに、まだ倒していなかった敵。そういった意味では、この黒衣も同じだった。ならば、ここで殺さなければならない。
相手との間合いを測《はか》りながら、ミズーは口を開いた。
「……あなたは、黒衣なの?」
時間|稼《かせ》ぎの意味もあった。だが、聞かなければならないことだという気もしていた。
誰何《すいか》のつもりだったのだが――黒衣は、また違《ちが》う意味に受け取ったようだった。
「俺《おれ》か。そういえば、名乗っていなかったな。俺はウルペン。お前と同じ……契約者《けいやくしゃ》のウルペン。ああ、黒衣ではないな」
「ならどうして黒衣の格好《かっこう》を?」
地面にかかとを押《お》しつけながら、聞く。
黒衣――いや、ウルペンは、身じろぎのような仕草《しぐさ》をしてみせた。いまだ視力は回復していなかったが、本能で知れた。恐《おそ》らく、懐《ふところ》から武器を抜《ぬ》いたのだろう。短剣《たんけん》だろうと思えた。
そして、答えてくる。
「帝国《ていこく》では、黒衣として行動するのが最も自由度が高い」
「結局、これを仕組んだのはあなたってわけね。そうなんでしょう?」
「どうかな? 俺もまた、罠《わな》にはめられたように思っていたところだが」
「確かに間抜《まぬ》け面《づら》ね」
目が見えないことを悟《さと》られまいと言ったのだが。
やぶ蛇《へび》だった。風景ににじむ染《し》みのような人影《ひとかげ》が、素早く手を動かす。攻撃《こうげき》ではなかった。こちらを試《ため》すように、手の短剣を振《ふ》ってみせたらしい。反射的に、黒衣の短剣を――暗殺用に黒鋼《くろはがね》で鍛《きた》えられた暗い刀身を、目で追っていた。
舌打ちする。黒衣はすぐに気づいたはずだった。明らかに、眼球の動きが遅《おく》れていたこと、短剣の動きの大半を見失っていたこと。
案《あん》の定《じょう》、嘲《あざけ》るように、黒衣が声をあげた。
「……目が見えないようだな?」
それには答えず、ミズーは剣を持ち上げた。重い――今まで感じたこともなかったほどに重い剣を、構《かま》える。
柄を握る右手の上に、左手を重ねた。これでなんとか振れないこともない。相手に致命傷《ちめいしょう》を与《あた》える威力《いりょく》を出せるかどうか、それは試してみなければなんとも言えないところではあったが。
こちらを見ながら――だろう、恐《おそ》らく――、ウルペンは続けて言ってきた。
「正直に言おう。心地《ここち》よいな。お前は恐れている。殺意は十分に感じる……が」
なぶりつつ、ゆったりと、動き始めている。黒衣の身体《からだ》が、左方へと水平に移動した。両手で構えれば、剣《けん》でなぞることのできる範囲《はんい》は極端《きょくたん》に狭《せば》まることになる。それを見越《みこ》してのことだろうが。
あるいはただ単に、言葉で攻《せ》める時間を作るために遠回りしているのか。彼の口調からは、どちらとも断定しかねた。
「さて、ミズー・ビアンカ。我《わ》が家族。どうやって俺を殺せる? 満足に身体を動かすこともできず、目も見えない。つい今《いま》し方《がた》、精霊《せいれい》も滅《ほろ》ぼされた。念糸《ねんし》では……」
一瞬《いっしゅん》、ウルペンの動きが止まった。肩《かた》をすくめたのだろう。声は途切《とぎ》れないまま続いてくる。
「確かにお前が万全な状態なら、相打《あいう》ちくらいにはできるかもしれないがな。だが、その怪我《けが》で念糸が紡《つむ》げるか?」
彼の後を切っ先で追いながら、ミズーは聞いていた。普段《ふだん》ならば無視《むし》していたところだった――が、傷《きず》の痛みのせいか、集中できない。雑音に掻《か》き乱されて、鼓動《こどう》が収《おさ》まらない。眼球は瞬《まばた》きを欲《ほっ》していた。まぶたを下ろした瞬間、敵の刃《やいば》が降りかかってくるものと分かりながら、自制が利《き》かない。
渇《かわ》いた喉《のど》に、さらに乾燥《かんそう》した舌を押《お》し込むような心地で、唾《つば》を呑《の》む。
「身体が動かないのはあなたも同じでしょう」
呑んだ唾の代わりに吐《は》き出した言葉に、ウルペンは即答《そくとう》してきた。
「程度の差があり過ぎる。そうだろう?」
「そんなもの関係ない」
突《つ》っぱねて、うめく。
剣の向きを変えるだけでは追いつかなくなって、ミズーは足の位置をずらして敵を正面に据《す》えた。たいしたことではないのだが、ひどく億劫《おっくう》に思える。苦々しく、彼女は吐き捨てた。
「あなたに聞きたいことが、山ほどあるわ……そうね。ベスポルトを殺した分、得《え》られなかったものは埋《う》め合わせてもらうわよ」
「家族とは言ったが」
ウルペンは言い放《はな》って、腰《こし》を落とした。
「一家にはひとりくらい、余計者《よけいもの》がいるものだ!」
間合いは一瞬にして詰《つ》まった。
飛び込んできた敵に合わせて、剣を突き出す。が、やはり視力がついていかない――ウルペンの黒装束《くろしょうぞく》は蜃気楼《しんきろう》のように視界から消えた。勘《かん》だけで、左を向く。そこに男はいた。
接近すれば、なんとか表情の輪郭《りんかく》も見えないことはなかった。冷たい、体温のない動物のような丸い瞳《ひとみ》。風斬《かざき》り音が聞こえる前に、金属《きんぞく》の気配《けはい》を察した。上体を退《ひ》いて、ウルペンが横薙《よこな》ぎに放った黒い短剣をかわす。
下がった身体《からだ》を反動で弓のように打ち出し、小半径で剣を打ち付ける。足が動かない分、動きは上半身で作るしかなかった。突きかかってきた敵を巻き込む、必殺《ひっさつ》の策《さく》だったのだが、やはり甘《あま》い。痛覚が、身体に制動をかげていた。折れかかった腕《うで》が、敵にとどくところまで剣を伸《の》ばさせようとしない。
歯がみして、剣を片手に持ち替《か》える。剣は一層重く感じた。空《あ》いた左手でポーチを探《さぐ》り、手の中に入るだけ鉛鋲《なまりびょう》を取り出した。そのうちのひとつを、敵に向かってでたらめに投げつける。
こちらの剣をかわすために、ウルペンとの間合いはまた少し離《はな》れていた。投げつけた弾丸《だんがん》も、簡単に避《よ》けられる。だが構わずミズーは、ふたつ目、みっつ目の鉛鋲《なまりびょう》を投げ続けた。右に左に、さほど体さばきもしないウルペンに、命中する気配《けはい》もないが――
(距離《きょり》を……稼《かせ》がないと!)
鋲《びょう》を撃《う》ちながら、後退《こうたい》する。最後の鋲は、当たりそうに思えた――が、ウルペンの眼前で、金属音とともに弾《はじ》かれた。短剣《たんけん》で防がれたのだろう。よくは見えなかった。
再び見えなくなるほどに、間合いを空けていた。だが、距離は既《すで》に測っていた。距離が把握《はあく》できていれば……殺人は容易《たやす》い。
ミズーは両手で、剣を振《ふ》りかぶった。頭上に振り上げるのではなく、肩《かた》の上で、水平に。
(当たらない)
唐突に、確信めいたものが脳裏《のうり》に閃《ひらめ》いた。この剣は、投げても当たらない。
必殺のタイミングだった。それは間違《まちが》いない。距離にも誤《あやま》りはない。力、速度、なにもかも、当たらないはずがない。
(でも、当たらない)
無限に続く刹那《せつな》の中で、思い出したものがある。
御遣《みつか》いと名乗る男。それとの邂逅《かいこう》の時、味わったものとおなじ苦味が、口の中に広がった。
当たるはずなのにかわされてしまう剣。その運命を、直感的に悟《さと》る。
(この男も……御遣いと同じところにいる!)
だが、感じたのは恐怖《きょうふ》ではなかった。
彼女は咆吼《ほうこう》を発した。
体内で獣《けもの》が目覚める。今度は、邪魔《じゃま》するものはなにもいない……
ひとつだけ、鐘《かね》が鳴った。遥か、遠くから。
いや、それほど遠くもない――それとも自分が近づいたのか。イムァシアの鐘がついに、空から自分の上に落ちてきたのか。
大河《たいが》の空隙《くうげき》に在《あ》るという、絶対殺人武器《ぜったいさつじんぶき》。その刃《やいば》がいかなる形をしているのか、それは永劫《えいごう》に続くであろう、イムァシアの刀鍛冶《かたなかじ》たちの抱《かか》えた命題《めいだい》だった。重さは、長さは、そしてその使い手は何者か。決して実体化しないその伝説の武器を鋼《はがね》として現世《げんせ》に具体化《ぐたいか》するため、彼らは鎚《つち》を振るうのだという。すべての過去より伝えられた知識、すべての未来に予想される英知《えいち》。それらをすべてそそぎ込み、年々、彼らの鍛《きた》える物は強化されてきた。
それを魅力《みりょく》と思ったことはない。ただある種の慰《なぐさ》み――彼らのためでもあり、自分のためでもある――のため、小さな村の工房《こうぼう》にて、どうということもないような、つまらない一振《ひとふ》りの剣《けん》を求めた。
ミズーは剣を突《つ》きだした。手の中から一直線に、大きすぎる鋼の鏃《やじり》が放たれる。
その剣が自分の手から離《はな》れ、きらきらと無意味に美しい残光を残して飛んでいくのを視界の隅《すみ》において、彼女は息を吐《は》いた。肺から絞《しぼ》り出された、最後の息。絶望でもなく、希望を期待するでもない。胸をきつく締《し》め付ける、ただの空気としての吐息《といき》。
獣の瞬間《しゅんかん》には、その程度のことでしかない。
身体《からだ》の中に、獣がいた。それに気づかされたのは、十七|歳《さい》の時だった。その獣は目覚めた瞬間に、イムァシアを滅《ほろ》ぼした。
イムァシアの男たちは、その滅びを甘受《かんじゅ》した――恐《おそ》らくは、その獣こそが、彼らの待ち望んだ絶対殺人武器だったのだろうから。実際には、彼らにそれを聞く機会もなかった。末期《まつご》の吐息《といき》すら許さない迅速《じんそく》さで、その獣は都市の人間を皆殺《みなごろ》しにした。
獣が目覚めれば、なにも考えることはない。
予想通り、剣は男の横をかすめて、はるか後方へ遠ざかっていった。そんなことに動揺《どうよう》することもない。獣はなにも感じない。
男はすぐに駆《か》け寄ってきた。視力が回復していなくとも、獣にはすべてが見える。男は短剣を振《ふ》り上げざまに斬《き》りかかってきた。
その刃《やいば》を、左|肘《ひじ》の最も硬《かた》い部位で受け止める。男は躊躇《ちゅうちょ》せずに、今度は刃の腹をこちらに見せてから、死角へと翻《ひるがえ》して突いてきた。それもまた、同じように肘で受ける。
まだ身体に残っていたらしい血が、改めて空中に飛散した。その血風の中で、男が声をあげている。
「その程度のものか――?」
聞こえてくるその男の声も。ただの音でしかない。意識だけが未来へと飛び、身体が後を追随《ついずい》するこの時間の中では、あらゆるものが意味をなくす。視覚で、嗅覚《きゅうかく》で、聴覚《ちょうかく》で、触覚《しょっかく》で、味覚で、身体に染《し》み込んでくるすべてのものが、ただの物質となる。そこに生命はない。
それを奪《うば》うことも捨てることもできる。獣《けもの》の、瞬間。|
何度となく刃が閃《ひらめ》き、何度となくそれを同じ場所で受け止めた。その間にも、男の叫《さけ》びは続く。
「悪魔《あくま》と呼ばれた貴様《きさま》が、ただなぶられるだけか!?――俺《おれ》はここにいる。あと少し。貴様を殺しにすぐ追いつくぞ」
風が聞こえる。激《はげ》しい息づかいの中に。時間が終われば、あとでそれが言葉だったことに気づくのかもしれない。だが今はない。考えることも、悩《なや》むこともない。
とうとう、男の放った切っ先が骨を滑《すべ》り、弾《はじ》かれた。
同時に踏《ふ》み込む。
短剣《たんけん》を持った男の腕《うで》を掴《つか》まえる。短剣を奪《うば》おうとしたのだが、男は咄嗟《とっさ》にそれを手放して地面に落とした。それはあきらめて、掴まえた腕をひねり上げ、折る。男は逆《さか》らわなかった。男の腕があり得ない方向へと完全に変形する。が、関節《かんせつ》の折れる手応《てこた》えがない――のみならず、男は極《き》められた腕で、自分と対等の力を発して押《お》し返してくる。
「……関節が柔《やわ》らかいのが特技でね」
男はさらにあり得ない方向に腕をねじると拘束《こうそく》を解《と》き、逆にこちらに両手首を掴み返してきた。力比べの形になる。腕力《わんりょく》では拮抗《きっこう》した。ひびの入った骨が、軋《きし》みをあげる。
「貴様は呪《のろ》われた殺し屋だ。そして最強の戦士だ。誰もが貴様を知っている――誰もが貴様を忌《い》んでいる!」
「アァァァァァァァァァー!」
叫んだが、それは悲鳴ではなかった。まだ獣の時間は続いている。
吼《ほ》える。威嚇《いかく》ではなく、叫びでもなく。咆吼《ほうこう》の続く限り、時間は続く。
摘《つ》み取るように、刈《か》り取るように。時間は激しく消耗《しょうもう》されていくが、今はまだ続く。
骨格の内側で、内臓が蠢《うごめ》いている。全|細胞《さいぼう》が沸騰《ふっとう》し、その恍惚《こうこつ》に満たされ、彼女は自分の手から失われた鋼《はがね》のことを忘れた。己《おのれ》の肉体以外には標的しかいない。
どこから始まったのか――
そんなことを思い悩むこともない。
いつ終わるのか――
それを思いつくこともない。
流れない時の瞬間《しゅんかん》。
無の一点。
絶対殺人武器はここにある[#「ここにある」に傍点]。
標的《ひょうてき》を探《さが》して、彼女は目を見開いた。
眼前の敵《てき》の顔に、額《ひたい》を打ち付ける。
二度、三度、何度となく、杭《くい》を打つように打ち続ける。不意に、頭突《ずつ》きが空振《からぶ》りした。男は眼前から消え、背後に回っている。左手ははなしていたが、右手は掴《つか》まれたままだった。そのまま今度は自分の腕《うで》が、逆方向にねじられて自由を失う。
不意をつかれ、力んでいたこちらの力をも利用された。栓《せん》を抜《ぬ》くようにあっさりと、肩《かた》の関節が外《はず》れる。密封《みっぷう》された容器に空気が入り込むような、未練たらしい音が聞こえた。
だが無視《むし》する。
今度は、彼の力をこちらが利用する番だった。左腕を肩の上から背後へと回す。予測していた場所ぴったりに、的《まと》があった。親指を敵の眼球に突《つ》き刺《さ》し、そしてそれを手がかりに、頭蓋骨《ずがいこつ》を掴む。
爪《つめ》の間に粘着質《ねんちゃくしつ》のものが挟《はさ》まり込む。眼窩《がんか》の奥《おく》にある筋肉が動くのを、指で察しながら、あとは叫《さけ》ぶだけだった。
「アァァァァァァ!」
敵の身体《からだ》を背負い、前面へと落とす形で投げ飛ばす。男の身体は思いの外、派手《はで》に飛んだ――
一瞬だけ、視線《しせん》があった。男は笑っていた。片目を失って、血の糸を虚空《こくう》に引きながら、なにかを嘲《あざけ》って笑っていた。
悲鳴もなく。音もなく。男の身体は丘《おか》の向こう、崖下《がけした》へと転落していった。
そして……
風の中。
獣《けもの》の瞬間が終わり、人にもどった時。
ぼろぼろになった身体を引きずるようにして、彼女が最初にしたことは、落とした剣《けん》を探《さが》すことだった。
「まだよ……まだ」
流れ落ちる涙《なみだ》をぬぐうにも、脱臼《だっきゅう》し傷《きず》ついた肩には腕を支える力も残っていない。
涙《なみだ》が止まらなければ、嗚咽《おえつ》を繰《く》り返す喉《のど》も、唾《つば》を呑《の》み込む舌も、止めようがない。
「まだ……終わらない」
彼女は静かに独《ひと》りごちた――
憎々《にくにく》しく、ただ一言。名前を。
「精霊《せいれい》……アマワ! 追いつめる……までは……」
[#改ページ]
第四章 ヘブンズ・ドア
(開けて進む)
鐘《かね》の音よりも激《はげ》しく鳴り続ける雨の音で、目を覚ました。風はない――砂を流すような、美しい水の楽《がく》。硬《かた》い木の寝台《しんだい》の中で開きかけたまぶたを再び下ろして、彼女は雨音に聞き入った。
心地《ここち》よい。だが煩《わずら》わしい。眠《ねむ》りに誘《さそ》われて、それに抗《あらが》うことを数回、繰《く》り返す。自分で思っていたより長い時間かもしれなかったし、そうでないかもしれない。
夢《ゆめ》は見なかった。これは希有《けう》なことだったが、たいしたこととも思えなかった。自分の身体《からだ》の温《ぬく》もりを感じる。暖《あたた》かい。呼吸《こきゅう》が吐血《とけつ》で詰《つ》まることもなく、底冷えするような恐怖《きょうふ》も、痺《しび》れるような感覚の鈍《にぶ》さもない。
痛みはあった。身体《からだ》が動かない。どこがということもなく、指一本動かせそうにはなかった。
その安らぎは、死を連想《れんそう》させた――そのため、静寂《せいじゃく》を破ることには躊躇《ちゅうちょ》を覚えた。結局、眠りを遠ざけるには目を開いていることが一番良いと気づいて、抵抗《ていこう》するまぶたを押《お》し開く。震《ふる》える焦点《しょうてん》がかろうじて映し出したのは、見るからに薄《うす》っぺらい天井《てんじょう》だった。雨をそらしきれずに、大きな雨漏《あまも》りの染《し》みをいくつも作っている。一番大きな染みは、地図のようにも見えた。
(ここは……どこ?)
首の筋まで傷《いた》めたらしい。動かそうとすると身をすくませるような痛みが走ったが、なんとか部屋の中を見回そうとした。自問する。ここはどこだ? 自分はどこにいなければいけない? 眠る前、自分はなにをやっていた?
最後の問いにだけは、簡単に答が出た――皮肉に顔を歪《ゆが》ませる。眠る前。決まっている。身体《からだ》が動かせなくなるような大怪我《おおけが》を負うようなことをしていたのだ。
刹那《せつな》、記憶《きおく》がもどってきた。
咳《せ》き込む。嵐《あらし》が小舟《こぶね》を翻弄《ほんろう》するように、上下左右に脳が揺《ゆ》れた。なにをしていたか。殺人の感触《かんしょく》が手のひらにもどってくる。肉をえぐり血を吸《す》った、不快《ふかい》きわまりない感触。口の中にたまった唾液《だえき》を床《ゆか》にこぼして、不意に、その床が眼前に大きく広がるのを悟《さと》った。
(ちぃ――)
毒づく。
吐《は》くために、暴《あば》れすぎたらしい。寝台《しんだい》から転げ落ち、顔面から床に激突《げきとつ》する。小さからぬ衝撃《しょうげき》に、身体が悲鳴をあげた。それでもまだ胃袋《いぶくろ》が痙攣《けいれん》して嘔吐《おうと》を誘《さそ》っている。呼吸が止まらなかった。涙《なみだ》が鼻孔《びこう》の奥《おく》にしみる――
寝台の中で感じていた暖かさも、シーツからこぼれた床の上では、おぞましい震えに化《ば》けた。なにもかも止まらない。
(発作《ほっさ》が……)
終わらないと思えた痙攣も、呼吸《こきゅう》を繰《く》り返すごとに少しずつ――本当に少しずつ、収《おさ》まっていった。どれだけの時間のたうち回っていたのか。分からなかったが、ようやく落ち着いて意識を回復させた時には完全に寝台から落ちて、床で寝《ね》ている。死人のように凍《こご》えた身体は、雨漏りのせいで床にたまっている水たまりに浸《つか》って、さらに冷えた。
冷たさのせいで痛みは感じにくくなっていたが、身体中に傷を負っていることは間違《まちが》いないようだった。じっとりと、重い精神を持ち上げて、うめく。
「なにやってるの……? わたしは……」
両|腕《うで》を、見えるように顔の前まで上げる。簡単な添《そ》え木《ぎ》と、包帯に巻かれた腕。完全に折れているわけではないらしく、かろうじて指は動かせた。痛みもそれほどひどくはない――発作とともに訪《おとず》れた頭痛ほどには。
奥歯《おくば》を折ったような偏頭痛《へんずつう》が、鼓膜《こまく》と喉《のど》を圧迫《あっぱく》していた。
(……また何日か、これに耐《た》えるわけね)
嘆息《たんそく》し、あきらめて、ひとつひとつ負傷《ふしょう》を確認《かくにん》する。着ているのは、胴衣《どうい》の下に着ていた肌着《はだぎ》だが、患部《かんぶ》を見るためにあちこち切り裂《さ》かれている。あの日――何日前かは見当がつかないが――のまま、血と泥《どろ》に汚《よご》れていた。肋骨《ろっこつ》に沿うような脇腹《わきばら》の傷《きず》には布と包帯が当ててあった。それほどの深手でもなかったのか、あるいはこまめに布を替《か》えてもらっていたのか、それほど血を吸った様子もない。膝《ひざ》の傷も、改めて手当てされている。細かい切り傷や擦《す》り傷はほとんど無視《むし》してあった。肩関節《かたかんせつ》は、意識があるうちに自分で接骨したような記憶《きおく》もあったのだが、定《さだ》かではない。なんにしろ、今ははまっていた。完全に肩を上げられるようになるには、やはりしばらくかかるだろうが。腫《は》れ上がった肩口から、湿布薬《しっぷやく》の臭《にお》いがする。
頭痛が苛立《いらだ》ちを誘《さそ》ったが、それでも慎重《しんちょう》にならざるを得なかった。部屋の中を見る限り、ごく普通《ふつう》の民家のようだが、この村の基準では、大きめの屋敷《やしき》と言えるだろう。この村の……
(……どの村ですって?)
自分の思いつきに訝《いぶか》って、直感の出所を探《さぐ》る。ごく自然に、自分のいる場所について想像がついていた。両手を使わずになんとか起きあがって、窓の外を見る。窓がある部屋にいるということは、少なくとも自分は監禁《かんきん》されているというわけではないのだろう。窓といっても都会にある屋敷のようにガラスがはめ込んであるはずもなく、そこから雨が吹《ふ》き込んでなおさら床《ゆか》を水浸《みずびた》しにして、いた。その窓から見えたのは――
(なるほど)
考えてみれば、当たり前だった。
窓のすぐ外に、地面がえぐられた跡《あと》があった。大地にも吸収し切れないほどの膨大《ぼうだい》な力を叩《たた》きつけられ、丸く陥没《かんぼつ》した破壊《はかい》跡。あの銀色の巨人《きょじん》が拳《こぶし》を叩きつけた時、できた傷跡だろう。
まだ、村から出ていない。村外れで気を失った自分を、誰《だれ》かが発見してくれたのだろう。
「まずいわね」
口の中で、独《ひと》りごちる。あれだけの騒動《そうどう》だ――しかも黒衣《こくい》の死体を隠《かく》す時間も余裕《よゆう》もなかった。結局あの巨人とベスポルトの娘《むすめ》がどうなったのかは分からないが、事後処理にでも辺境警衛兵《へんきょうけいえいへい》が大挙《たいきょ》してやって来るに違《ちが》いない。あるいは自分がどれだけの時間、気を失っていたかにもよるが、もう既《すで》に来ているか。
彼女の手配書は帝国《ていこく》全土に配られているはずだった。警衛兵のひとりが気づけば、ただでは済《す》まない。
(この身体《からだ》で……逃《に》げ切れる?)
その疑問に意味がないことは分かっていた。逃げないわけにいかない。逃げるしかない。身体の好不調は関係ない。
窓に近づき過ぎていた――というより、前方に倒《たお》れかかっていた。かぶりを振《ふ》って、バランスを取る。雨が顔にかかった。顔を拭《ぬぐ》う手が、他人のもののように震《ふる》えている。
「……ん?」
と、ふと気づいた。寝《ね》ていた寝台《しんだい》の下に籠《かご》があり、記憶《きおく》に馴染《なじ》んだ赤い布が丸めて入っている。もしやと思って引っ張り出してみると、やはり彼女のマントだった。
マントだけではない。服も胴衣《どうい》も、マント留《ど》めも、ベルトポーチも入っている。剣《けん》と鞘《さや》も、邪魔《じゃま》にならないよう奥《おく》にしまい込んであった。
少なくとも、悪意のある隠《かく》し方ではなかった。続く頭痛の中で、考える。
(どういうこと……? こんな武器を見ても、わたしがどんな人間だか想像つかないの?)
罠にかけられているような理不尽《りふじん》に警戒心《けいかいしん》を刺激《しげき》されながら、とりあえずミズーは剣帯《けんたい》を身につけようと手を伸《の》ばしかけた。と――
ふと、指先は別のものへと向かっていた。マント留め。獅子《しし》のレリーフを取り上げると、埋《う》め込まれた水晶檻《すいしょうおり》をのぞき込む。白い光沢《こうたく》が、暗い部屋の中で光ともいえない光を反射していた。
精霊《せいれい》が封《ふう》じられている印《しるし》である、緑色がかった影《かげ》は映《うつ》っていない。もとより、精霊が自力で水晶檻にもどることなどできはしない。術者が檻を開かなければならない。自分が封じた記憶がなければ、精霊が水晶檻に入っているはずもない。
(ギーアは……滅《ほろ》んだの?)
窓の外へと駆《か》け寄る。雨は無視《むし》した。身を乗り出して外を見回すが、炎《ほのお》の欠片《かけら》、火の粉の一筋も見あたらなかった。なにもない。唇《くちびる》を噛《か》んで、部屋の中にもどる。
(名前をつけてから、わたしのそばを離《はな》れることなんてなかった。あの巨人《きょじん》の一撃《いちげき》で……滅んだの?)
情景を思い起こそうとして、頭を抱《かか》えた。巨人に飛びかかる獣精霊《じゅうせいれい》。一撃で、炎と化し砕《くだ》け散った。
あの獣精霊が打ち破られたことなど、知る限り一度もない。前例などなかった。推測《すいそく》するしかない。考えるしかない。考えて……そして。
ミズーはうめいた。滅んだとしか思えない。最強無比の精霊を、容易《たやす》く消し去ったのだ。あの巨人は。
無言で、装備《そうび》を身につける。服と、胴衣《どうい》と剣帯《けんたい》、ポーチと着けていって、最後に――躊躇《ちゅうちょ》はあったものの、マント留めにマントを通して羽織《はお》る。歯の間から唇の肉を解放してからなお、ぶつけどころのない憤懣《ふんまん》に奥歯がこすれた。
部屋から出ようと扉《とびら》に向かいかけて、思い直す。窓から出るほうが良い。
廊下《ろうか》から足音が聞こえてこなければ、すぐに飛び出していたところだった。
動きを止める――足音は、この部屋に近づいてきているように聞こえた。古い造《つく》りのこの家に、大げさに軋《きし》み音が響《ひび》いてきている。
すぐにも窓から出ようとも思ったが、この身体《からだ》では、そう機敏《きびん》に動ける自信もない。飛び出しかけて、背中を向けた状態で扉を開けられるというのも、ぞっとしなかった。観念して、扉のわきに移動する。ドアが開いても、陰《かげ》となってすぐには発見されない位置に身を潜《ひそ》めて、ミズーは響いてくる足音の数を数えた。
すぐに扉は開いた。思っていた通り、それほど広い家でもない。
声が聞こえてくる。
「お?」
死角になっているためこちらからも見えなかったが、声は老人のものだった。
が、誘《さそ》い出されるような格好《かっこう》で前に出た姿は、老人というほど年かさの男でもない。だがひとりなのは間違《まちが》いなかった。服装からすると、隠居《いんきょ》というわけでもないらしい。無論《むろん》、武装もしていない。
危険はない、とミズーは踏《ふ》んで、剣《けん》の柄《つか》から手をはなした。危険があったとして、剣に頼《たよ》ってどうにかできるほどの握力《あくりょく》が今の自分にあるという確信もなかったが。
男は左右に視線《しせん》を振《ふ》り――そしてようやく、こちらを発見した。完全装備で死角にいたこちらの意図もすぐに分かったのだろう。敵意がないことを示すように両手を広げて、言ってくる。
「おうおう……目が覚めたのか。良かった。本当に、見つけた時は死んでるかと思ったんだ。ひどい怪我《けが》だった」
と、悲壮《ひそう》に表情を曇《くも》らせて、
「大勢が死んだよ。まったくだ。生きていて、あんな事故を二度も見ることになるとはな。ついてない」
「二度?」
思わず、聞き返す。男の顔が、さらに陰気《いんき》を濃《こ》くした。
「前にもあったのさ。あんなことがな。精霊《せいれい》を宿《やど》した子供なんて……やっぱり、村には必要なかったんだ。災《わざわ》いになるだけだ」
最後のつぶやきは、悲嘆《ひたん》に暮れてほとんど聞き取れなかった。
男の年齢《ねんれい》は、四十と見積もった。そしてまた、敵意も見あたらない。手当てをしてくれたのはこの男だろう――それだけ見立てると、ミズーはまた問い返した。
「どれくらい死んだの?」
こちらの不作法に眉《まゆ》も動かさなかったところを見ると、男が打ちひしがれているのは本当のようだった。肩《かた》を落とし、なにかを数えだしたが、その不毛《ふもう》さに気づいたのだろう。途中《とちゅう》でやめてかぶりを振ってみせた。
「大勢さ。村人たちを集めて点呼《てんこ》を取ればはっきりするだろうが、そんな気丈《きじょう》にできんよ。だが、村長としては役目を果たすべきなのかもしれん」
この男は村長らしい――つまりここは、村長宅ということだろう。この男のほかに家族の気配《けはい》も感じられないが、あるいはあの巨人《きょじん》に殺されたか。
だとすれば、男は十分に気丈だったといえる。途方に暮れてはいるが役目までは忘れていない諦観《ていかん》の眼差《まなざ》しで、あとを続けた。
「とにかく、ひとりやふたりの犠牲《ぎせい》じゃない。黒衣が村に来ていたのを見たという村人もいる」
その単語を聞いて、ミズーは身体《からだ》を固くしたが、村長に他意《たい》はなかったらしい。探《さぐ》りを入れてくる気配もなく、嘆息混じりに言ってきた。
「いやあ、あんたも災難《さいなん》だったな」
(災難……?)
一瞬《いっしゅん》意味を掴《つか》み損《そこ》ねたが、すぐに分かった。どうやらここの村人たちは、ベスポルトの娘《むすめ》を加害者に、ミズーをそれに巻き込まれた被害者《ひがいしゃ》と解釈《かいしゃく》しているらしい。
(……わたしが黒衣に追われていたところを見ていた村人がいたはずなのに)
それを指摘《してき》する者がいれば、まさか彼女を被害者とば見ないはずだった。その場合、目を覚ますこともなく殺されていただろう。
(目撃者《もくげきしゃ》は、あの巨人に……都合《つごう》よく殺された、ってこと?)
いちいち偶然《ぐうぜん》がつきまとう。
彼女は顔をしかめた。つまるところ、守られているというよりは、愚弄《ぐろう》されている。そうとしか思えない。
村長が、こちらの表情に気づいたようだった。なんとか、単に悲惨《ひさん》な事故に出くわして悲痛にしているだけに見えてくれと念じながら、ミズーは声をあげた。
「でも事後処理に、警衛兵《けいえいへい》が来るでしょう? この騒《さわ》ぎの大きさなら……」
「ああ、のんびりと何日かしたら、来るだろうさ。その間、死んだ村民は雨ざらしというわけだ。気力のある者は、家族の遺体《いたい》だけでも弔《とむら》ったようだが」
「何日くらい――何日くらい経《た》ったの? あの……事故から」
ミズーが聞くと、男はさらに疲《つか》れを感じたのか、部屋の真ん中にある寝台《しんだい》に腰《こし》を下ろした。背中を丸めて肘《ひじ》をつくと、村長は最初に見た印象よりいくらか老《ふ》けて見えた。
またなにかを数えるように視線を宙に這《は》わせ――そして今度はきちんと数えたらしい。村長は頼《たよ》りなげに答えてきた。
「あんた、何日も眠《ねむ》ってたってわけじゃない。わしらだって、何日も愚痴《ぐち》だけ言ってたわけではないよ。精霊《せいれい》が現れたのは、一昨日のことさ。あんなことがあった後、一晩|震《ふる》えて、なんとか片づけようと思ったら、この雨だ。一日降り続いてる」
「今は朝? 夕方?……ごめんなさい。長く眠っていてから起きると、どうしても勘違《かんちが》いしてしまうでしょう?」
視線を気にして言い訳したのだが、彼にとってはどうでも良いことのようだった。なにかを投げる仕草をして、うめくのが聞こえてくる。
「朝だよ。実にうんざりする朝だ。昔《むかし》、ハリスコー夫妻の墓《はか》を掘《ほ》ったのもこんな朝だった。いい人たちだったんだ。村民があれほど怒《おこ》っていなければ、ちゃんと墓標《ぼひょう》のある寝所を建ててやれただろうに」
男のつぶやきは上の空に、ミズーは頭痛と戦うようにして計算していた。あの騒動《そうどう》が起こってから、四十八時間も経《た》っていない。遣《つか》いがどれほど急いでも、まだふもとの街まで着いているかいないかというところだろう。ならば、まだ警衛兵を警戒《けいかい》する必要はない。
改めて、村長を見やる。彼は怯《おび》えの混じった眼差《まなざ》しで、こちらを見ていた。
「一応、手当てはしたんだが――いや、あんたのことだよ。なにぶん村がこの有様《ありさま》で、医者もおらんしな。たいしたことはできなかった。すぐにもここを発《た》ちたいという様子だが、そのほうがいいかもな。街まで行けば、医者がいる」
「村に医者がいない?」
「ベスポルトという医者がいたんだが、行方《ゆくえ》不明だ……まあ、あの子供の一番近くにいたのはあいつだったろうからな。死んどるだろう。恐《おそ》らく」
(ベスポルト・シックルド打撃騎士《だげききし》……)
いや、元打撃騎士か。
その名前を思い出して、ミズーは口を開きかけた。が、こちらがなにを言うより先に、男のほうから言ってくる。
「あんた、ベスポルトのことを村人に聞いてまわっていたそうだね。まあ、外の人間がこんな村に興味を持つとしたら、ほかにないか……」
彼は、またなにか黙考《もっこう》を始めた。今度は数えるべきものなどなにもないはずなのに、それでも数えているように見える。
「あの男がなにかしら秘密を抱《かか》えていたことは、わしにだって分かっていたさ。おおかた、帝都《ていと》の軍人だろう。隠《かく》していたようにも見えなんだな……だが、聞きもせんかったから、確かな話ではないよ」
と、片目だけをこちらの腰《こし》に――腰の剣帯《けんたい》に投げて、あとを続ける。
「あんたも、そんな大層な武器を持ってきたところを見ると訳ありなんだろう。奴《やつ》に関《かか》わりがあるとすると、やはり軍人か?――いや、まあ、答えんでもいいさ。どうでもいいことだ。もう全部、終わったんだ」
「遺体《いたい》の片づけがあるんでしょう?」
ミズーは静かにつぶやいた。腕《うで》の添《そ》え木《ぎ》に触れて、包帯の位置を直しながら、
「わたしは怪我《けが》を治さないとならない。終わったことなんてひとつもない」
分かったこともなにひとつない。
男に言いながら、自分で虚《むな》しく認める――多くのものを失ったというのに、得《え》たものはほとんどない。
結局のところ、自分に向かって告《つ》げたことだったからだろう。男は聞いていなかった。ひとり、ぶつぶつと独りごちている。
「ツケなんだよ。昔のツケだ。代償《だいしょう》を払《はら》わにゃならんかった。わしらはなにもしなかった……ただ待っていた。いずれ帝都から助けが来て、ベスポルトとあの娘《むすめ》を跡形《あとかた》もなく消し去ってくれると期待して、何年も。馬鹿《ばか》馬鹿しい。実際に黒衣が来たら、この通りだ……ツケだったんだ……」
「ベスポルトは行方《ゆくえ》不明……として、あの娘はどうなったの? やっぱり行方知れず?」
「いや。生きのびた警衛兵が、ふもとの街に連れて行った。復讐《ふくしゅう》しようと言い張る者もいたんだが、止めたよ。村からいなくなってくれさえすれば、それでいい……どのみち、そんな気力の残ってる者なんていやしないんだ、本当は」
「そう」
興味のない返事をしながら、聞かなければならないことを探す。だがわざわざ考えるまでもなく、どうしても聞かなければならないことがあった。
「あの」
それでもこの問いを避《さ》けていたのは――認めざるを得ないが――、気が進まなかったからだった。ミズーは噛《か》み跡の残っている唇《くちびる》の内側に歯を当てて、血の味を吸ってあとを続けた。
血ではなく、嫌《いや》な味が口に広がるのを感じながら。
「わたしが倒《たお》れていた場所の……崖下《がけした》に、もうひとり、誰か倒れていなかった?」
「いや?」
返事は予想通りのものだった。
「とはいえ、ちゃんと調べたかと言われれば、どうか分からんな。心当たりでもあるのか? 見落としがあったかもしれん」
「いえ、いいの。いなかったんならそれで」
胸の中が、虫の巣のようにざわついていた。髪《かみ》を掻《か》きむしりたくなるのを、必死でこらえる。
顔を上げて、ミズーは告げた。
「もう行くわ」
と、立ち去ろうとして、思い出す。息をついてから、彼女は改めて村長を見やった。
「ありがとう。助けてくれて。いずれ借りは返す」
「気にすることはないさ。もう欲《ほ》しいものなんぞないよ。禍根《かこん》は絶《た》ったんだ。もう村に災《わざわ》いはない。犠牲《ぎせい》は大きかったが……」
彼にとってなにか欲しいものがあるとしたら、それを肯定《こうてい》してもらうことこそがそうだったのかもしれない。
分かっていたが、ミズーはあえて無視《むし》した。彼に背を向け、部屋から出ていく。
見送りはないまま、玄関《げんかん》までたどり着いた。扉《とびら》を開ける。雨が村の惨状《さんじょう》を、縦に塗《ぬ》りつぶしていた。それでも雨の色にごまかされることもなく、破壊《はかい》された家、地形を変えた道、むしろをかけられただけの無数の膨《ふく》らみが、あちこちに点在している。
だがそれは、それだけのものに過ぎなかった。村長は、もうこれで災いはすべて終わったと思っている。彼がそう思っている限り、その通りなのだろう。彼はもう悩《なや》まなくていい。悼《いた》むだけで生涯《しょうがい》を終えれば、それで誰も文句は言わない。
自分はそうではない。この村を哀《あわ》れんでいる暇《ひま》などない。
傷《きず》を雨にさらすのはまずいのだろうが、まさか傘《かさ》を差して山道を歩けない。マントで身体《からだ》を覆《おお》いながら、ミズーは陰鬱《いんうつ》に顔を伏《ふ》せた。頭痛はひどくなるばかりだった。頭を雨に濡《ぬ》らすのは、むしろ心地《ここち》よい。そんなことよりも。
考えなければならないことがいくつもある。彼女はそれを、ひとつひとつ思い浮《う》かべていった。
ベスポルトの娘《むすめ》は街へ連れられていった。あれだけの騒《さわ》ぎを起こして警衛兵に連れていかれたのなら極刑《きょっけい》は間違《まちが》いないだろうが、いつ処刑《しょけい》される?
あの黒衣……いや、契約者《けいやくしゃ》ウルペンなる男は、どこに消えた?
鋼精霊《こうせいれい》を駆《か》る精霊使いも、どこへ逃《に》げた? ベスポルトの遺体《いたい》を抱《かか》えて。
そして。
アイネスト・マッジオの顔を思い出し、力の入らないはずの拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる。
(雨で良かった……)
脱出《だっしゅつ》には、雨が良い。ミズーは冷たい水の中に飛び込んでいった。
「それはいくら?」
問うと、店主は並《なら》べられた荷物をざっと眺《なが》め――喉元《のどもと》にくっきりと残っている傷跡《きずあと》を撫《な》でながら答えてきた。
「金貨で半枚ってところだな」
「冗談《じょうだん》でしょう?」
即座《そくざ》に、うめく。
店主はにやりともしなかった。
「こいつは上等物だぜ? 精霊の視覚をごまかす呪《まじな》いを、どこぞのうんたらかんたらな魔法使《まほうつか》いだかなんだかが施《ほどこ》していて」
「そんないんちき祈祷師《きとうし》の内職はいらないから。わたしは、普通《ふつう》の服が欲《ほ》しいと言ったの」
「なら服屋に行けよ」
その喉《のど》の傷跡が、店主の誇《ほこ》りなのであろうことは容易に知れた。ほんのわずかに急所を外《はず》れているだけで、死んでいないのが不思議《ふしぎ》なほどの傷ではある。その傷跡をなぞっていた指を下ろし、腕組《うでぐ》みして、彼は不機嫌《ふきげん》に口を尖《とが》らせた。
「なんだ、せっかく客として来やがったかと思ったら、今度は売り物にケチつけるわけか?」
「いったいどこの馬鹿《ばか》がこんなものに金貨半枚も出すってのよ」
怒《おこ》るというより呆《あき》れて、ミズーはその、それこそどこぞのうんたらかんたらな草の汁《しる》で染《そ》めたというどす黒い服を見やった。服とはいっても作業着のようなもので、表面に白っぽい粉が浮《う》いている。店主はこれを儀式《ぎしき》に使ったチョークの粉だと言い張ったが、どう見ても黴《かび》だった。
着れば全身がかぶれそうな代物《しろもの》である。うんざりして、手振《てぶ》りでそれを引っ込めるように促《うなが》した。
「普通《ふつう》に着られるものはないの? 女物とは言わないから……服が要《い》るのよ。今着てるのは穴だらけで」
「だから、うちは服屋じゃねえんだ」
「じゃあ包帯と、消毒用のアルコールは? まさかないってことはないわよね」
「辺境医師組合《へんきょういしくみあい》からのお達《たっ》しで、そいつは医師状を持ってない客には――」
「ここはなにを売ってるの!」
癇癪《かんしゃく》をぶつけるも、店主は動じなかった。わがままな客には慣れているとばかりに鷹揚《おうよう》な手つきでこちらの意気を押《お》さえると、
「服を買いたい奴《やつ》は服屋に行く。医者が欲しけりゃ医者屋に行く。金が足りなけりゃ金屋に行くのさ。この世に売ってないもんなんざないんだ。で、あんたは俺《おれ》のとこにいる。服屋に行きゃいいものを、わざわざ俺のとこにいる」
「足下《あしもと》を見ようってわけ?」
つぶやきながら、わずかに身体《からだ》を引く。
この街に数人しかいない精霊取扱業者《せいれいとりあつかいぎょうしゃ》のひとりであるその男は、元ハンターとしての経歴を物語る傷跡《きずあと》だらけの顔をにやけさせた。店内には精霊|狩《が》りに用いる道具や装備《そうび》が並んでいるが、ほかの客の姿はない。
店主はテーブルの奥《おく》にある椅子《いす》に腰掛《こしか》けたまま、肩《かた》をすくめてみせた。
「その様子じゃな」
と、視線で示す。
つられてというわけではないが、ミズーは自分の身体を見下ろした。言われるまでもないことではあったが。一応マントで身体を覆《おお》っているものの、血と汗《あせ》と泥《どろ》にまみれた格好《かっこう》は、あの村のままだった。あちこち傷だらけで、見るからに不審《ふしん》ではあったろう。
黙《だま》って、店主の言葉を聞く。彼は、ほんの少し言葉を止めて、ゆっくりと考えるようにしてあとを続けた。
「この前ここに来た時とはえらい違《ちが》いだ。なにがあったんだか知らないが、ただごとじゃねえな。噂《うわさ》じゃ、高地の村で強大化した精霊が暴《あば》れて被害《ひがい》が出たとか……」
「ただの噂でしょ」
即座《そくざ》に告《つ》げる。が、店主は鼻で笑ってみせた。
「とも言えないね。俺の同業者には、無免《むめん》もちらほらいるからな――不思議《ふしぎ》なもんで、俺たちは共存してる。連中は情報に聡《さと》い。いわく、昨日あたりからどうも警衛兵どもが不自然に騒《さわ》いでるんだそうだ。ベスポルトが居着いてるハンター基地に、なにかの事故の事後処理に行くとか。大人数でな。ところであんた、この前、ベスポルトのことを聞き込んでいったよな?」
「……もどって来るんじゃなかったわね。別のところに行けば良かった」
うめく。
彼は声を立てて笑った。
「弱みにつけ込むつもりはねえよ。実際にどんなことがあったんだかまでは、まだ知らんからな。だから、マントの下で剣《けん》を握《にぎ》るのはやめてくれ」
「…………」
とりあえず言われた通りにする。精霊取扱業者に横のつながりがあるのならば、別の業者を当たったところで同じことだろう。ならば、聞くしかない。
神妙《しんみょう》に、相手の言葉を待つと、彼は満足げにうなずいた。いかにもハンター然《ぜん》と野卑《やひ》に笑《え》みを強めると、例の呪《まじな》い服を机の下にしまい込む。さすがにもう売る気はないのだろうが、儀式《ぎしき》の効果は疑っていないらしい。恭《うやうや》しい手つきで丁寧《ていねい》に畳《たた》んで箱に収めている。
顔を上げて、彼は言ってきた。
「俺が言いてぇのは、回りくどいことはすんなってことさ。需要《じゅよう》があれば商売できる。そいつが分からねぇ馬鹿《ばか》は一生|儲《もう》からん。せっぱ詰《つ》まった客は大歓迎《だいかんげい》さ。言えよ。なにが入り用なんだ?」
「まずは服」
即答《そくとう》する。店主は苦笑した。
「本気で服屋にまで警衛兵の目がのぞいてるとでも思ってんのか?」
「あまり出歩いて、人に顔を見られたくないの。この怪我じゃ、医者は論外だしね――通報されないわけがない。治療《ちりょう》する道具があれば、自分でやるわ」
手札《てふだ》を見せたくはなかったが、仕方がなかった。口早に説明すると、彼は一応|納得《なっとく》したのだろう。
「分かった。服はカミさんにでも頼《たの》んで買ってきてもらおう……変な顔すんなよ。俺に女物の服を買ってこいってのか? あと必要なものは? 言うほどひどい怪我なら、素人《しろうと》の治療でごまかすのはよせよ。口の堅《かた》い医者ならいるぜ。値は張るが」
「……全財産を使って買いたいものがあるから、手が回らないと思うわ」
「うん?」
怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》を寄せた店主に、ミズーは囁《ささや》いた。
「攻撃《こうげき》的な精霊《せいれい》を手に入れることはできる?」
彼の沈黙《ちんもく》は予想していた――余裕たっぷりだった態度が剥《は》げ落ちるのを眺《なが》めながら、彼の視線の先に、硬貨《こうか》を一枚見せつける。ずっとブーツの奥《おく》に隠《かく》しておいた秘蔵の一枚だが、取って置きというよりは、手に入れてからこんな時でもなければ使い道がなかったというほうが正しいかもしれない。
「ジルオージラの旧皇帝貨《きゅうこうていか》。もちろんイミテーションだけど、製造年代は嘘《うそ》じゃないわよ。材質も本物と同じ、最高品質の水黄金。決して汚《よご》れないし、傷つかないし、透明度《とうめいど》も損《そこ》なわれてない。足りない?」
「フェイクでないのなら、まあ足りないとは言わないが」
急に落ち着かない様子で首の周りの汗《あせ》を拭《ぬぐ》い始めた彼に、ミズーは続けた。硬貨を手の中に引っ込めて、
「なるたけ近いうちに欲《ほ》しいの」
「近いって、どれくらいだ」
「二、三日以内」
告げる。と、彼はうろたえて声を荒《あら》らげた。
「ふざけるな」
怒《おこ》ったというわけではないらしい――場合によっては話に乗ってくるつもりはあったのだろう。よほど狼狽《ろうばい》したのか、舌が回っていなかった。
ミズーは相手の言葉を避《さ》けるために、いったん自分の背後にある硝化《しょうか》の森《もり》用の防護服《ぼうごふく》を見やった。壁《かべ》に吊《つる》されて、力無く怪物《かいぶつ》がぐったりとしているようにも見える。間合いを外《はず》してから改めて、向き直った。
「必要なのよ。どうしても」
が、店主の態度がそれで変わるわけでもなかった。
「どうしたところで、ふざけるな。無理《むり》なもんは無理だ――攻撃《こうげき》に使うとなりゃ、少なくとも実体化してるような精霊《せいれい》だろ? そんなもんは、年に何|匹《びき》も出回りゃしない」
不可能を断言する己自身《おのれじしん》に、店主としてのプライドが傷《きず》ついたのか、彼はごまかすように言い直してきた。
「だいたい、あんた精霊使いなのか?」
「……そうよ」
躊躇《ためら》いはあったが、うなずく。
今度は彼が間合いを外そうとした――椅子《いす》に背を預《あず》け、天井《てんじょう》を見上げてから、うめくように言う。
「本当に? なら、実体化した精霊がどれだけ危険なものか知らないわけじゃないだろう。精霊そのものも危険だが、いいか、辺境《へんきょう》に興味を持たない帝都が、精霊業者に限って免許制《めんきょせい》にして管理しているのは、つまるところは捕《と》らえるに難しい有形《ゆうけい》精霊を、ひとつでも多く軍に確保したいからさ」
「でもそれに逆《さか》らう需要《じゅよう》があるから、地下の精霊取扱業者《せいれいとりあつかいぎょうしゃ》が存在するのよね?――それが分からない馬鹿《ばか》は云々《うんぬん》って大口を聞かされたばかりなんだけど」
揚《あ》げ足《あし》を取られてむきになって反論してくるかと思いきや、店主は思いのほか冷静だった。そらしていた目を半分だけこちらに向けて、低く囁《ささや》く。
「もしあんたが帝都の密偵《みってい》なら、俺が危険にさらされる」
「逃《に》げ口上《こうじょう》を探《さが》すのはやめて。わたしはこれと同じものをもう一枚用意できる」
もう一度|硬貨《こうか》を見せるが、店主は急速にそれに対する興味を失ったように、また横を向いた。はったりを見破ったという様子ではない。が、見込みはないと悟《さと》って、ミズーは嘆息《たんそく》した。
店主はそれを裏付けるように、のろのろと言葉を続ける。
「……服と装備《そうび》は用意しておく。医者も手配しておこう。明日、またここに来るんだ。隠れられる場所はあるのか?」
「それくらいはなんとかするわ」
「分かった。期待に添《そ》えなくて悪かったな」
「気にしないで」
一応の愛想《あいそう》だけは見せて、ミズーはきびすを返した。
街に変化があったわけではなかった。実際、数日前に訪《おとず》れた時から、違《ちが》いがあるはずもない。
近隣《きんりん》の村からの交差交易点《こうさこうえきてん》。それ以上の価値が、この街にあるわけではない――少なくとも、地図上においては。住民にとってはまた違った意味合いもあっただろう。住み難《にく》い街には見えなかった。大通りは通行人で埋《う》まっている。こんな辺境の都市にしては物資に不足している様子もない。
歩きながらミズーは、自然と道の端《はし》に寄った。無理せずに速度を落として進みながら、街並《まちな》みを眺《なが》める。
人混みの中は不思議《ふしぎ》と落ち着いた。汚《よご》れた彼女の格好に、奇異《きい》の目を注いでくる通行人もいないことはないが、すれ違えばそれっきりで二度と会うこともない。それは心地《ここち》よい関係だったが、気がかりが胸の中を支配していた。
(……あの業者、精霊を手配してくれるかしら)
見立てでは、見込みはないと思えた。だがそれでも、ほかにあてはない。都市の陰《かげ》に潜伏《せんぷく》する、本当に[#「本当に」に傍点]地下の取扱業者を探す時間はなかった。
(せめてちゃんと身体《からだ》が動けば、ね)
だが、怪我《けが》が癒《い》えるまで、それこそ時間がかかりすぎる。
ミズーは、ある地点で大通りから角《かど》を曲がった。途端《とたん》に人通りが少なくなり、そしてひとけのない路地を通り抜《ぬ》け、さらに乾《かわ》いた区画に出る。人の気配《けはい》が感じられないのは、極端《きょくたん》に住宅が少ないせいもあるだろう――その区画の入り口に、不格好な四角い建物があった。
赤い壁《かべ》。風雨に汚《よご》れて、赤茶けてくすんだそれを洗う者もいない。表に回れば窓もあるのだろうが、彼女が見上げている壁面《へきめん》、建物としては裏となるその側は、のっぺりと平たく壁に隙間《すきま》すらない。ただ地面のあたりに、格子入りの小さな隙間がいくつかあるだけだった。
あたりに人がいないことを確かめてから、順番にそれをのぞき込む。そこからは地下室の内部が見えた。隙間は明かり取りのためのものだろう。ほとんどなにもない、石組みの部屋である。三部屋あるが、そのどれにも、人はいない。
苛立《いらだ》たしく思いながら、腰《こし》を上げる。両手が使えないとなると、しゃがむだけでも重労働だった。建物を見上げ、そして、すぐにその場を離《はな》れる。もう少し探《さぐ》りたいが、長居はできなかった。
警衛兵|詰《つ》め所《しょ》。街にはいくつもこんな建物があるが、そのひとつだった。調べた限り、ベスポルトの娘《むすめ》が連行されたのは、ここの詰め所らしい。だが、地下の拘置所《こうちしょ》には、娘の姿はない。
(どういうこと? 逃げようとして殺された?)
あるいは逃げるまでもなく殺されたということもあり得る。だが、それならそれで噂《うわさ》になりそうなものだった――たとえ辺境《へんきょう》でもこの規模の都市では、裁判《さいばん》なしで子供を処刑《しょけい》するのは容易《ようい》なことではない。
詰め所から十分に離れて、ミズーは振《ふ》り向いた。路地に入り、詰め所の建物は見えない。が、壁を見通すようににらみ据《す》える。
時間がなかった。詰め所は今、あの村で起きた騒動《そうどう》の事後処理のために人員を出して、手薄《てうす》になっている。それでも警衛兵たちは数日のうちにもどってくるであろうし、そうなれば、自分のしようとしていることが難しくなる。それを認めて、彼女はうめいた。
戦えない自分の身体《からだ》のかわりに、精霊《せいれい》が要《い》る。詰め所に警衛兵が何人残っているのか分からないが……
と、思考を中断する。
頭痛がひどさを増《ま》していた。
(身体を休めないと)
自分に言い聞かせる。手配しておいた宿《やど》への道順を思い出しながら、ミズーは歩き出した。傷《きず》で重い一歩を、引きずるように踏《ふ》み出す。
(今のままじゃなにもできない……)
刹那《せつな》。
「なんでもできる身体が欲《ほ》しい?」
唐突《とうとつ》に呼び止められて、ミズーは振り向いた。通り過ぎたばかりの場所、数秒前までは絶対に誰もいなかったはずの場所に、それは立っていた。
気配《けはい》を絶《た》って近づいてくるというだけのことならば、それが不可能ということもない。が、隠《かく》れる場所もない長い路地の前後を見回して、ミズーは背筋に悪寒《おかん》が走るのを意識していた。だが、そんなことよりも――
(なんなの……?)
狼狽《ろうばい》を隠すことはできなかった。後ずさりして、背中が壁《かべ》に当たる。強く叩《たた》きつけられたような心地《ここち》で、ミズーは息を吐《は》いた。ほんの一瞬《いっしゅん》だが、傷の痛みも頭痛も忘れる。感じるのは、腸《はらわた》のねじれる冷たさだけだった。
視界《しかい》の真ん中に立つその声の主――女だった――を見つめ、ミズーは完全に言葉を失った。だが女は、気にすることもなく、自然に言ってくる。
「ここにあるわよ。わたしと替《か》わればいい」
「誰《だれ》――」
ミズーは、叫《さけ》んだ。だがその問いに、自分で答えていた。
そこにいるのは自分自身だった。いや、違《ちが》う――
違う。彼女は繰《く》り返しうめいた。真紅《しんく》のマント。赤い髪《かみ》。マントの裾《すそ》からのぞく剣《けん》の鞘《さや》。似ているが、自分ではない。自分はここにいる。
女は、まるでこちらを哀《あわ》れむように、優《やさ》しく笑って見せた。
「分かるでしょう? あなたと同じ顔を持っているのは……」
「違う! そんなわけがない!」
分からないまま、反射的にミズーは叫んでいた。マントを跳《は》ね上げて、剣の柄《つか》を掴《つか》もうとする。手首を固定する添《そ》え木《ぎ》と包帯とが、無理に曲がって突《つ》っ張った。そのせいで感覚が変わったのか、右手は剣を掴み損《そこ》ねた。
もう一度、手で探《さぐ》る。が、剣はなかった。わけが分からずに見やると、そもそも腰《こし》に剣がない。剣帯の留め具がちぎれたのか、足下《あしもと》に鞘ごと落ちている。
(こんなことに気づかなかったっていうの……?)
信じられずに、うめく。その時には、眉間《みけん》に尖《とが》ったものが突きつけられていた。
微動《びどう》だにできなくなったこちらに、まるで剣先が語ってくるかのように……女が告《つ》げてくる。
「わたしと替《か》わればいい」
「さっきからいったい、なにを言ってるの」
「疲《つか》れてるのなら休めばいい。わたしと替わればいい」
「わたしは休まない!」
叫ぶと同時、ミズーは身体《からだ》を投げ出すように、横に跳《と》んだ。
突き込まれてきた剣が、こめかみをかすめる。地面に転がって追撃《ついげき》を避《さ》けると、ついでに落ちていた剣を拾った。起きあがって抜剣《ばっけん》する。敵は真正面にやや離《はな》れて、抜《ぬ》き身の剣を片手に提《さ》げたまま、こちらを見ていた。
赤みがかったブラウンの瞳《ひとみ》が、柔《やわ》らかく穏和《おんわ》に色づいている。よく見れば、自分とその女とは、それほど似ているところもないように思えてきた――その女が持っているのは自分のものより細身の剣で、人の肉を斬《き》れる代物《しろもの》にも見えない。それ以外の武装《ぶそう》もないようだった。言うまでもなく、水晶檻《すいしょうおり》の埋《う》め込まれたマント留めもない。ただ髪《かみ》の色だけは、混ざれば分けられないほどに自分と同じ色だった。
対峙《たいじ》したまま、無言で呼吸《こきゅう》を重ねる。剣を抜いたものの、どうしたら良いのかは分からなかった。斬りかかったところで、剣を振《ふ》ることができるかどうかおぼつかない。
そうしているうちに、身体を動かしていたおかげで忘れかけていた頭痛が、またぶり返してくる。音を立てずに、舌打ちした――この頭痛があるうちは、念糸《ねんし》も紡《つむ》げない。
女が、笑った。
「そんなに弱ってたらなにもできないでしょう……」
嘲《あざけ》りではない。
それがことさらに癇《かん》に障《さわ》った。相変わらず剣は重いが、撃《う》ち放つべく踏《ふ》み出す。
が。
その瞬間《しゅんかん》、空が暗くなった。闇《やみ》へと閉じこめられる圧迫感《あっぱくかん》に、身体を止める。なんとはなしに連想したのは、猛禽《もうきん》にさらわれる獲物《えもの》の姿だった。突如《とつじょ》として太陽を遮《さえぎ》る翼《つばさ》が影《かげ》を落とし、その影の中に入れられる。その時には、運命は決している。
自分の上をなにかが飛び越《こ》えていく。直感的に、それを悟《さと》った。見上げると、路地の壁《かべ》を飛び越えて、真紅《しんく》のマントがはためいていた。
(さっきから、これはなんなの……?)
たちの悪い冗談《じょうだん》につきまとわれている。そう思えた。路地の壁を、自分の頭上を飛び越えて、彼女と敵《てき》との間に着地したのは、またひとり、自分にそっくりの女の姿だった。
どう出るべきか――
というより、どう出れば良いのか。成り行きを見ても大丈夫《だいじょうぶ》なのかすら定《さだ》かと思えず、動けない。
最初に現れた女以上に、次に出てきたほうは改めて観察すればそれほど自分とは似ていなかった。身体《からだ》を覆《おお》う真紅の布に、そこからのぞく抜《ぬ》き身の刃《やいば》。共通点らしい共通点といえばそれだけで、こちらは髪の色も違《ちが》う。正面の敵――なのか?――を注視しながら、ほんのわずか肩越《かたこ》しにこちらのほうにも視線を投げてきた。三十代の半《なか》ばというところか。紫《むらさき》の色味を含《ふく》んだ黒髪《くろかみ》と、同色の瞳《ひとみ》。平らに引き結ばれた小さな唇《くちびる》の端《はし》からは、気むずかしさが感じられた。
その唇が、わずかに開いた。
「……ミズー・ビアンカ?」
それは呼びかけではなく、問いかけだった。こちらを確認《かくにん》しているのか。ミズーは一歩下がると、剣を構《かま》えた。自分の名を確かめようとしてくる相手というのは経験上、敵だった。賞金を狙《ねら》う兵法者か、敵討《かたきう》ちかは分からないが。
が、違った。もとよりそれは、自分に対しての問いかけではなかったらしい。
「間違いないよ。決まってるだろう? こんな時、意気消沈《いきしょうちん》してるほうが本物だって」
自分ではない誰かが、答えた。
その声は――
「アイネスト!」
黒髪の女が飛び出してきた壁《かべ》の上から、顔の上半分だけを出して場を眺《なが》めているその男に、ミズーは叫《さけ》び声をあげた。
「やばっ」
あわてて、金髪《きんぱつ》の頭が壁に引っ込んでいく。
追いかけるつもりで、ミズーは身体をそちらに向けた。その眼前を、銀光が横切る。
刃《やいば》を渡《わた》して行く手を遮《さえぎ》ったのは、黒髪の女だった。もともと見せていた右手の剣《けん》は、もうひとりの女に突《つ》きつけて、いつの間にか左手で抜いていたもう一振《ひとふ》りの剣――正確には丈《たけ》の長い鉈《なた》か――をこちらに向けていた。
黒髪の女を睨《にら》み付ける。と、彼女はもうこちらを見ずに言ってきた。
「やめなさい。彼は殺せない。わたしたちが何度|試《ため》したと思う?」
(わたし……たち?)
聞き返すより早く。
黒髪の女が、飛び出していった。分厚《ぶあつ》い二本の剣を振るって、赤髪の女へと襲《おそ》いかかる。極度に狩《か》りの能力を発達させた昆虫《こんちゅう》のような動作で、無駄《むだ》なく、だがシンプルに刻《きざ》みつける。
だが幾条《いくじょう》もの太刀筋《たちすじ》を、剣のひとうねりだけでそらし、赤い髪《かみ》の女は後退《こうたい》どころか前進した――斬《き》り結んでいるその相手の横を、多少|煩《わずら》わしげな視線《しせん》を傾《かたむ》けるだけで通り抜《ぬ》け、こちらへと近づいてくる。
女はあくまでも、自分を見ている。見もせずに二本の鉈《なた》をしのいでいる――いや、気楽に避《よ》けている。ぞっとしながらミズーは、己《おのれ》の剣を握《にぎ》りしめた。痛みに顔をしかめ、武器を落としかける。
と、その赤髪の女と視線が合った。彼女は息も切らさずに言ってきた。
「ほら。なにもできない」
そして初めて、その女は攻撃《こうげき》してくる鉈のほうへと視線を向けた。
見ていて、避けなかった――剣を鞘《さや》に納めながら、赤髪の女はその剣撃を受けた。左の肩口《かたぐち》から首までも達するところまで、鋭《するど》い刃《やいば》が突《つ》き刺《さ》さる。彼女はその時だけ無表情に顔をしかめた。ただそれだけだった。鉈の威力《いりょく》に身体《からだ》を傾《かし》がせ、ひざを少し曲げたものの、倒《たお》れもしなかった。
そのまま、両者の動きが止まった。傷口から武器が抜けないのか、黒髪の女も剣を敵に埋め込んだままじっとしている。特に驚《おどろ》きはないようだった。致命傷《ちめいしょう》を受けた女が、それまでと変わらない声を発しようとも。
「できるのは、どちらかひとつだけ」
「ひとつ?」
額《ひたい》に浮《う》かんだ汗《あせ》を意識しながら、ミズーは聞き返した。顔だけではない。全身に冷や汗がにじんでいる。いきなり見せられたこの殺し合いは、なにひとつとしてまともなところがなかった――と、殺し合いと思いついて、はっとする。あたりを見回した。ここは警衛兵《けいえいへい》詰《つ》め所《しょ》に近い。
(騒《さわ》ぎはまずい……)
もっとも、なにがどうだというのだろう。ミズーは苦笑《くしょう》した。馬鹿《ばか》馬鹿しい。これが殺し合いか? 通りがかりに見て理解できる者などいるのだろうか?
だが女は動かないまま、それが自然の理《ことわり》だとばかりにあとを続けてきた。
「選びなさい。わたしか、この女か。この状態なら、今のあなたにも殺せるでしょう?」
動けない女ふたり。
見比べて、ミズーはひたすらに笑いたくなっていた。それでも剣は手放さなかった。切っ先を上げる。どちらかを選べというのも愚《おろ》かしいが、その答えを自分が持っていたわけでもない。
(それでも……!)
剣を構えて、力を入れる。不意に、声が聞こえてきた。
「ミズー! それの声に惑《まど》わされるな! ぼくを信じて!」
アイネストだった。また壁《かべ》の上から、あわてた顔を見せている。
ミズーは即座《そくざ》に目標を変えて、黒髪《くろかみ》の女に剣先を突《つ》き立てた。
少なくとも、そのつもりで突《つ》きを放《はな》った。が、黒髪の女は微苦笑《びくしょう》を漏《も》らすと、自分の鉈《なた》を手放し後ろに飛び退《の》いてそれをかわした。もう一本残った剣を右手に持ち替《か》え、構え直している。
「……ひどいよ」
傷《きず》ついたようなアイネストの声が聞こえたが、ミズーは無視した。重い物が地面に落ちる、鈍《にぶ》い音に向き直る。赤髪の女の肩《かた》に突き刺《さ》さっていた鉈が、まるで弾《はじ》き返されるように抜《ぬ》け落ちていた。刃《やいば》には血の跡《あと》もない。女の肩にも、それらしい傷は見あたらなかった。
(なんでも……できる身体《からだ》)
女の言ったことを思い出して、ミズーは腰《こし》を落とした。剣は通じないかもしれない。だがそれでも全力で突く以外、自分にはなにもない。
(なにも……できない身体)
それもまた、その女の言ったことだった。
女はこちらを見て、笑った。今度もまた嘲《あざけ》りではない。だが今度はまた優《やさ》しくもない。
挑《いど》むような、そして挑む時には既《すで》に勝ち誇《ほこ》っている強烈《きょうれつ》な眼差《まなざ》し。それは、はっきりと鏡に映《うつ》った自分の姿を思い起こさせた。
彼女は、最後に告げてきた。
「あなたはわたしを手に入れて、わたしはあなたを手に入れる。わたしとあなたに境界なんてない」
そして、消え失《う》せた。
なにひとつ、微塵《みじん》も残さずに姿を消した。残像すら網膜《もうまく》にない――瞬《まばた》きしても、それまでそこにいた姿を思い出せないほどに、それは跡形《あとかた》もなく消えた。傷つけることなく落ちた鉈だけが、そこに残る。
その鉈が、動いた。見ると、いつの間にか黒髪の女がそこに近寄って、自分の武器を拾っている。アイネストはまた隠《かく》れたのか、壁の上に姿がない。女が剣を自分の鞘《さや》に納めるのを待ってから、ミズーは声をあげた。
「いったい、なにが――」
瞬間《しゅんかん》、女に殴《なぐ》り倒《たお》された。
意識を失った身体《からだ》だけが壁まで吹《ふ》き飛び、叩《たた》きつけられて地面に落ちる。
何秒後にか。目を覚ますと、痛みがあった。倒れている自分の前に、女が立っている。起きあがって立ち向かわなければならないというのに、身体は動かない。視線に射すくめられ、地面に縫《ぬ》いつけられたように……動けない。
「ミズー・ビアンカ」
アイネストは壁をなんとか乗り越《こ》えようと、できもしない懸垂《けんすい》に苦心していた。それでも顔だけ壁の上に出して、言ってくる。
「別に悪気はないんだよ、本当に。でもなんていうか、こうするよりほかないんだ。話を聞いて欲《ほ》しいっていう、ただそれだけなんだけどね――うわっ」
手が滑《すべ》ったのだろう。にやけた学者の顔が、急に消えた。また派手《はで》な物音を立ててから、壁にかじりつき、顔をのぞかせる。
「だからね、つまりなにが言いたいのかっていうと、なにはともあれ今はぼくが君を[#「ぼくが君を」に傍点]助けてあげたわけだし、そのあの、そんなに睨《にら》まなくったって、君が怒《おこ》ってることは十分に承知《しょうち》してるつもりで、ええと」
「その壁乗り越えてみなさいよ。噛《か》みちぎってやる」
「またそういう怖《こわ》いこと言って。でも、話……聞いてくれるよね?」
「わたしの聞きたいことだけを話すのならね」
動けないまま、袋入《ふくろい》りの芋《いも》のように身体ごと黒髪《くろかみ》の女に抱《だ》きかかえられ――ミズーは、せめて感情だけで毒づいた。
[#改ページ]
第五章 リップス・ブラッド
(言葉が試《ため》すので、彼女は流血する)
目立たなかったはずはないのだが、不思議《ふしぎ》と誰《だれ》にも見とがめられることなく、運ばれた先はそもそもミズーが手配していた宿《やど》だった――彼らに捕《と》らえられた場所から、それほど離《はな》れてもいない。詰《つ》め所《しょ》でなにか動きがあればすぐに駆《か》けつけられる距離《きょり》をわざわざ選んだのだから、当たり前ではあるが。
宿には主人もいない。もとは酒場になっていたのだろう一階は、積み重ねられたテーブルと椅子《いす》に、さらに埃《ほこり》が積もっている。出入りを誰何《すいか》する者もいないうえ、客室の扉《とびら》の鍵《かぎ》もろくにかからない――何度も破られては直すのを繰《く》り返しているうちに、そもそも掛《か》け金《がね》が馬鹿《ばか》になったのだろう――そんな宿だった。特に金を払《はら》わなくとも勝手に潜《もぐ》り込んで寝《ね》ていたところで分からないのではないかという気もしたが、日に一度は見回りが来るらしい。宿代はそのバウンサーに払《はら》えと、この宿を斡旋《あっせん》してくれた客引きは言っていた。そんなことで商売が成り立つものなのか大いに疑問ではあったが。
客室まで案内もしなかったというのに、その黒髪《くろかみ》の女とアイネストは迷わずにミズーが使おうとしていた部屋まで進んでいった。女に持ち上げられて運ばれながら、途中《とちゅう》、何度となく抵抗《ていこう》する隙《すき》をうかがっていたのだが、自分の身体《からだ》を武器もいっしょに軽々と抱《だ》きかかえるような相手に、今の状態で太刀打《たちう》ちできる自信がなかったのも認めざるを得なかった。それでも、当面の脅威《きょうい》であるその女を観察《かんさつ》することは忘れなかった。女はそれに気づいていて無視《むし》しているのだろうが、素知《そし》らぬ顔でこちらの視線を受け流している。
細められた、冷たい瞳《ひとみ》。化粧気《けしょうけ》のない口元は、やはり冷淡《れいたん》に引きつっている。抱き上げられて分かったが、年齢差《ねんれいさ》の分、体格は少し自分より小さいくらいだろう。鍛錬《たんれん》を重ねたたたずまいは、歩き方にも現れている。
部屋に入り、ベッドの上に手荒《てあら》に放《ほう》り投げられて、ミズーは悲鳴をあげた。落ちた拍子《ひょうし》に身体の下敷《したじ》きにしてしまった手首を押《お》さえながら抗議《こうぎ》しようと顔を上げると、彼女より先にアイネストがうめいていた。
「彼女をもっと大事にして欲《ほ》しいんだ、ジュディア」
「この子がわたしたちの仲間であれば、苦痛に耐《た》える方法を知っているはず」
女――ジュディアと呼ばれた――はそれだけ言うと、部屋の入り口まで下がって壁《かべ》に背を預けた。腕組《うでぐ》みし、こちらを眺《なが》めながら続けてつぶやく。
「ましてや、最後の子供なら、そうでないとね」
「ミズーはなにも知らないんだ。可哀想《かわいそう》な子なんだよ」
「わたしに同情しろって?」
言うまでもなくさほど広い部屋ではないが、扉《とびら》の向こうを警戒《けいかい》するように顔をそむけた女の横顔は遠くに思えた。冷笑《れいしょう》とすらいえない淡泊《たんぱく》な笑《え》みを浮《う》かべ、それもすぐに消す。
なにかを言いかけたアイネストを、今度は自分が遮《さえぎ》って、ミズーは声をあげた。
「同情されるいわれなんてない!」
「君はそう言うだろうと分かってたし、どっちかというと君のほうが正しいんだろうって思う。無礼《ぶれい》は謝《あやま》るよ」
アイネストはそう言うと、肩《かた》をすくめた――神秘調査会《しんぴちょうさかい》の印が入った彼の長衣が動きに合わせて音を立てる。衣擦《きぬず》れの音を聞いて初めて、そんなものが聞こえるくらいに静かなのだとミズーは意識した。
その男の言葉は沈黙《ちんもく》の中で、唐突《とうとつ》にその水面を乱した。
「君はぼくに、イムァシアのことを話してくれたことがあるよね」
「…………」
ミズーはベッドの上でなんとか体勢を整《ととの》えながら、相手を見据《みす》えた。これはそれなりに困難なことだった――寝台《しんだい》はせまいうえに、天井《てんじょう》も低い。それでもマントで身体《からだ》を包み、その下で剣《けん》の柄《つか》に手をやる。
そして、視線《しせん》だけは外《はず》さずにかぶりを振《ふ》った。
「なにかの勘違《かんちが》いでしょ。聞いたことがない」
「隠《かく》さなくていいんだ。君がそれを誇《ほこ》りにしていないのはもっともだし」
「知ったふうなことをいちいち――」
荒《あら》らげて、叫《さけ》ぶ。だが吐《は》き出した息は荒くとも、あとが続かなかった。詰《つ》まったまま対峙《たいじ》していると、アイネストが前に出てくる。ほんの半歩。本当はもう少し近づこうとしたのかもしれないが、視線で牽制《けんせい》するとそこで足を止めた。
「……どうも、話を聞いてくれる雰囲気《ふんいき》じゃないみたいだ」
同情を引くつもりか、眉尻《まゆじり》を下げて言ってくる。
ミズーは冷たく囁《ささや》いた。
「あなたが現れてから、なにからなにまでおかしくなったわ」
「君のルール通りにいかなくなった? ああ、それはぼくのせいじゃない」
手のひらをこちらに向けて、彼がうめく。
が――
話をしながら、ミズーが気にしていたのは黒髪《くろかみ》の女だった。確かジュディアと呼ばれていた。会話に加わる様子もなく、だがしばしば、殺気にも似た気配《けはい》の横やりを入れてきている。赤のマントが気になっていた。武装《ぶそう》を隠すために、あるいは道中の暖《だん》を取るためにそれを身につけるのは別段|珍《めずら》しくもない。
ミズーは自分のマント、同じく真紅《しんく》のマントを内側から指で撫《な》でた。特に意味があってこの色だというわけではない。いや。
目を閉じて浮《う》かぶ色。暗雲を染《そ》める狂《くる》った緋《ひ》の色。色といって思い浮《う》かべるのは、常にその色だった。その女が身にまとっているのも、自分と同じあの赤い空の色。ぞっとしながら、独《ひと》りごちる。
(この女も……あの色を知っている?)
ただの偶然《ぐうぜん》。
片づけてしまえば簡単に片づけられるその一言を無視《むし》して、ミズーは自分の直感を反芻《はんすう》した。
と。
「……君と戦いたがっているものがなんなのか。君はまるっきり分かってない」意識が会話へともどったのは、愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべたアイネストの吐いた言葉が、耳に引っかかったからだった。
「分かっているわよ」
睨《にら》み付けて、答える。意識の闇《やみ》をよぎったのは、蛇《へび》の表情を浮かべた男の顔だった。黒衣《こくい》になりすました敵《てき》――
「いや、分かってない」
アイネストは断言してきた。
「ミズー、桎梏《しっこく》を脱《だっ》するためには鍵《かぎ》がいるんだ」
「なにが言いたいの。遠回しにされるのは気に入らないんだけど」
「単刀直入《たんとうちょくにゅう》に言ったところで気に入らないのは同じだと思うよ。ぼくのことが嫌《きら》いなんだろう?」
自分で言って自分で傷《きず》ついたように、彼は胸のあたりを手でさすった。そして、背後のジュディアに目配《めくば》せしてから、こちらへと向き直る。
「そろそろ日も暮れる。とりあえず、一晩休んだほうがいいよ。君は疲《つか》れているだろうし、ぼくも話すべきことを整理したい」
「話すべきことと、話さないことを整理するんでしょう?」
「ミズー」
いつになく強い口調で名前を呼ばれて、ミズーは眉間《みけん》に力を入れた――はっきりと、それは不快だった。
だがアイネストは退《ひ》かず、そのまま続ける。
「ぼくの話を聞けば、君は強い力を手に入れることになる」
「強い、力……?」
聞き返してから、それが物欲《ものほ》しげに見えたかと後悔《こうかい》した。それを埋《う》め合わせようと厳しい眼差《まなざ》しを作ったが、どのみちアイネストは飛びつきもせずに自分の言葉だけを続けた。
「それは本当に強大な力だ。帝国《ていこく》とも戦える。黒衣を恐《おそ》れなくていい力だ……君ひとりでは絶対に手に入れられない力。君はそれを自由に使う権利《けんり》を得るんだ」
まるで定型《ていけい》の挨拶《あいさつ》のように、諳《そら》んじている詩歌《しいか》の一部のように、彼はそれを唱《とな》えた。
「かつてアスカラナンが帝国と戦うために使った力……そして今も使っている力」
力……ちから……
それが魅惑《みわく》的に聞こえないかといえば、否《いな》だった。
ミズーは眼前にいる優男《やさおとこ》の芝居《しばい》がかった口調に騙《だま》されかけている自分を認めて苦笑《くしょう》すると、釘《くぎ》を刺《さ》すようにうめき声をあげた。
「なんのことを言っているの? いいから、分かりやすく話せと言ってるでしょう」
「組織という力のことを、話しているのさ」
アイネストがそれを言うのと、動揺《どうよう》するようにジュディアの肩《かた》がわずかに動くのがほとんど同時だった――彼女も彼がなにをしゃべるのか、予想していたということか。あるいは同じ内容の話を聞いたことがあるのか。
根拠《こんきょ》はなかったが、後者《こうしゃ》に思えた。
ミズーは視線をアイネストにもどした。彼はそれを待っていたらしい。息をつくと、あとを続けた。
「だからぼくは慎重《しんちょう》になるんだよ。君がそれを得《え》た時、なにを考えるのか予想がつかない。とても危険なことになるかもしれない」
「そんなものは必要ない!」
怒鳴《どな》る。この話はあまりにも馬鹿《ばか》馬鹿しい。意味のないことをいちいちもったいつける学者に苛立《いらだ》って、拳《こぶし》を固める。骨から指先へと走る麻痺《まひ》の痛みと、それに呼応する頭痛とにうめいた。
それを見下ろして――アイネストがわざとらしい安堵《あんど》の溜《た》め息をついてみせる。
「もし本当にそうなら、ぼくは慎重《しんちょう》になる必要なんてないわけだね」
そして、すぐに言い直してきた。
「でも、帝国の……そのほんの一部分でしかない黒衣と戦っただけで、君はどうなった? 思い知ったんじゃないかな」
別にこの男に苛《さいな》まれているわけではない――
そのことを自分自身に言い訳して、ミズーは奥歯《おくば》を噛《か》みしめた。敗北を感じる必要などない。負傷《ふしょう》にうめいているだけだ。
思い出した苦痛が通り過ぎるのを待ちながら、彼女はようやく声を出した。
「あなたが言っている組織っていうのは、神秘調査会《しんぴちょうさかい》のことじゃないでしょうね」
「だとしたら?」
致命《ちめい》的な弱点を突《つ》いたつもりでいたため、彼のその平静な態度は意外ではあった。だがそれでもミズーはそのまま、嘲《あざけ》りの声を大きくした。
「馬鹿《ばか》げてるわ! あんなもの、本棚《ほんだな》から本も下ろせないような学者の集まりでしかないでしょう」
「それは一面では正しい。ミズー・ビアンカ」
彼は素直《すなお》に認めると、一歩下がって両手を広げた。降参《こうさん》というよりは、ここで取りやめという仕草だろう――彼は時間を気にするように窓の外を見やると、いつもの軽薄《けいはく》な笑《え》みを浮《う》かべた。便利な仮面《かめん》のように。
「話しすぎたかな。あとは明日に取っておこう。分かっていると思うけど、ミズー、逃《に》げようとしても、彼女が君を監視《かんし》してる」
言いながら、背後のジュディアを示す。彼女はなんの反応も見せなかったが、聞いていないということもなさそうだった。
ミズーは脅迫《きょうはく》の声をあげた。
「あなたが呑気《のんき》に眠《ねむ》りこけてる間に敵《てき》をひとり始末するなんてのはわけないことよ」
女に向けて言ったつもりだったのだが、答えてきたのはアイネストだった。あまり真《ま》に受けた様子もなく片目を閉じて、
「別にここで武器を取り上げたりはしない。ジュディアは手練《てだ》れだよ、ミズー。あと、言葉のあやを真に受けるのは野暮《やぼ》かもしれないけど」
と、一拍《いっぱく》おいて付け加える。
「ぼくは眠れないんだ。一睡《いっすい》もできない。特に強いマギを持ったマグスには、ままあることなんだけどね……マギの修得をしていくうちに、必要ななにかを失ってしまうというのは」
それだけ言い置き、彼とジュディアは連れだって部屋から出ていった。
――あれは誰だったのだろう?
暗闇《くらやみ》の中、寝台《しんだい》に寝《ね》そべって、ミズーはひとり疑問を浮かべていた。
わたしと替《か》わればいい。あれはそう言った。
(あの声……どこかで聞いたことがある。つい最近……つい最近よ)
あれを思い起こすと、なぜか心は空虚《くうきょ》になった。敵対《てきたい》したというのに、怒《いか》りも侮蔑《ぶべつ》もなにも沸《わ》いてこない。なにかに打ち消されるように、ただ平らかな面がどこまでも続いていく。耳の奥《おく》に、果《は》てしない音が聞こえてきているようでもあり、だがそれがどんな音なのか聞き取ることができない。
見えない天井《てんじょう》を見つめる。部屋は闇に閉《と》ざされている。カーテンなどついていなかったので、適当に板を積み上げて窓を塞《ふさ》いでおいた。板のもとは壊《こわ》された家具だったようだが、別になんでもいい。ただ光を遠ざけておきたかった。なにも見たくはないし、なにも聞きたくはない。それでも闇の中で目を凝《こ》らしてしまうし、沈黙《ちんもく》の中で耳をすませてしまう。街中だというのに静かだった。野良犬《のらいぬ》の遠吠《とおぼ》えさえ聞こえてこない。
自分と似たような格好をして、自分とまったく同じ髪《かみ》を持っている女。ジュディアと仲間かなにかなのか――とも思ったが、昼のあの接触《せっしょく》を考えて、それは自分で否定《ひてい》した。なにかがまったく異なっていた。異なるなにかがあった。
それよりも、あれの声をどこで聞いたのか。そのほうが気になった。
「なんでもできる身体が欲《ほ》しい?」
「ここにあるわよ。わたしと替《か》わればいい」
「分かるでしょう? あなたと同じ顔を持っているのは……」
あれの言葉を――いや、あれの声を思い起こす。
意味の分からない言葉など、考えてもそれこそ意味のないことだった。だが、あれの声をどこで聞いたのか、それを思い出すことができれば。ミズーは目を閉じた。目の前とまぶたの裏、同じ闇の色。だが目を閉じればその暗がりに、赤い色が渦巻《うずま》いてくる。
赤い……空。赤く躍《おど》る色。なにもかもを吸い込むような、深い……深い炎《ほのお》の竜巻《たつまき》。火の色……イメージに手がかりを感じて、ミズーは夢想《むそう》の中に漂《ただよ》った。
火、燃えさかる火炎《かえん》。
焼き尽《つ》くされる破壊《はかい》の中、居並《いなら》ぶ五人の男たち。こちらを見つめている……
「……ちは……ちを……した!」
「過《あやま》ちを犯《おか》した――」
「御遣《みつか》いの言葉が……始まってしまった」
そうだ。あれは、自分の発した声だった。
夢《ゆめ》の中で吐《は》いた、言った覚えのない言葉。自分ではない自分の声。
それと同じだった。
(……どういうこと? あれは、わたしの夢の中から這《は》い出してきたとでもいうの?)
疑問に思いながら、ミズーは身を起こした。部屋の中を見回す。暗闇《くらやみ》の中、時間を測《はか》るなにかがあったわけではないが、それでも身体《からだ》は分かっていた。
真夜中。そろそろ時間だった。
夜の街に出ると、待っていたのは皓々《こうこう》と照る月、そして乾《かわ》いた夜気《やき》だった。
あたりを確かめながら、踏《ふ》み出す。宿《やど》から一歩。二歩|離《はな》れても、近づいてくる足音のひとつも聞こえてはこない。肌《はだ》に触《ふ》れてくる気配《けはい》も感じない。警戒《けいかい》は解《と》かないが口蓋《こうがい》の上に溜《た》まっていた息をついて、ミズーは早足に歩き出した。
あてがあったわけではないが、とりあえず足は昼に会っていた精霊取扱業者《せいれいとりあつかいぎょうしゃ》の店へと向いていた――頼《たの》んでおいたものを手に入れなければならない。夜のうちに押《お》し掛《か》けてそれがそろっているかどうかは分からないが、なければないでまた別口を当たればいい。
身を隠《かく》す場所が必要だった。今度こそ、マグスの目からも逃《のが》れられる完璧《かんぺき》な場所を探《さが》さなければならない。あてがないのは、つまり具体的にどういった場所に行けば良いのか、思いつかなかったからだが。
街を離れずにそれを探すのは、相当|厄介《やっかい》だと思えた――が、ベスポルトの娘《むすめ》を残して街を出ては意味がない。
あの娘が、ベスポルトの考える切《き》り札《ふだ》なのだとしたら、死なせるわけにはいかない。少なくとも、あの巨人《きょじん》を封《ふう》じている水晶眼《すいしょうがん》だけでも確保しなければならない。
夜の街。温《ぬく》もりを感じることのない冴《さ》えた月光の下を泳ぐように進む。見上げても水面のない水の底、それが夜だった。誰も魚ほど自由にはそこを泳げない。這いつくばる貝や蟹《かに》が――啄《ついば》まれることを恐れながら砂にもぐっていく。あるいは、啄まれる運命も想像できずに砂に呑《の》まれていく。
いつか、誰もが砂の下に消えたら……
そこは清浄《せいじょう》な世界に変わるのか。それは馬鹿《ばか》げた考えだと、ミズーはあっさりと否定した。夜はもとより静寂《せいじゃく》で、大空をも満《み》たして圧倒《あっとう》し、人のことなど一欠片《ひとかけら》たりとも考えてはいない。夜は人のことなど知らない。自《みずか》らと地面の間に挟《はさ》まっている小さな生き物のことなど考えたこともないに違《ちが》いない。人が虫を知らないように、夜もまた人を知らない。
「……それでも人は夜を崇拝《すうはい》してしまうんだよ、ミズー」
静寂を破る声に、ミズーは足を止めた。
驚《おどろ》きはなかった。宿を出るまで妨害《ぼうがい》がなかったことに拍子抜《ひょうしぬ》けしていたほどだった。剣《けん》の柄《つか》に手をかける。傷《きず》の痛みは気にしなかった。
(もういい加減《かげん》慣れないとね……ぐずっている暇《ひま》なんてない)
鞘《さや》から刀身を引き抜《ぬ》こうと力を入れたところで、声は続いた。
「夜という巨大《きょだい》なものを恐《おそ》れて、敬《うやま》い、恋《こ》いこがれてきたんだ。人は闇《やみ》を遠ざけるために、手に入れた財産のほとんどを食いつぶしてきた。油を買って灯《あか》りを作り、壁《かべ》と天井《てんじょう》で周りを囲い、犬を飼《か》った。家族を増《ふ》やして養い、家の近くに誰も近づけないよう柵《さく》を立てた。彼らの努力の向こう側から人を嘲笑《あざわら》う、得体《えたい》の知れないものと戦い続けてきた。人はそれを夜と呼んだり、闇《やみ》と呼んだりした。それの正しい呼び名は……未知《みち》だ」
長い台詞《せりふ》――それはまさしく芝居《しばい》の台詞《せりふ》じみて聞こえた――を聞きながら、ミズーは剣を抜いた。不思議《ふしぎ》と、聞き流すつもりにはなれなかった。
声ははっきりと聞こえてきているのに、その主がどこにいるのかは見当がつかなかった。それでもミズーは全方位に感覚を伸《の》ばして集中した。同時に思いついて、懐《ふところ》から刀身を拭《ぬぐ》うための布を取り出す。その布を、剣を握《にぎ》る右手の上に巻き付けた。きつく縛《しば》って、固定する。これならば、足りない握力《あくりょく》を補《おぎな》えるかもしれない。
「別の話をしてみようか。同じことなんだけどね。かつて、地図には空白があったんだ」
アイネストの声は続いた。夜の街に不釣《ふつ》り合いな、気さくな独白《どくはく》……それとも他愛《たわい》もない噂話《うわさばなし》であれば、それは夜に相応《ふさわ》しいだろうか?
ミズーは分からないまま、聞き続けた。
「人が到達《とうたつ》できない土地が……たくさんあった。人は地図の全域《ぜんいき》を埋《う》めることができなかった。高すぎる山岳《さんがく》、低すぎる渓谷《けいこく》。荒《あ》れる海岸。遥《はる》かな波濤《はとう》の果《は》て。それは地図の空白となり、人はそれを恐《おそ》れたんだ。恐れて、その空白に名前をつげた。赤い小さな警告の言葉として。それは、怪物領域《かいぶつりょういき》と呼ばれた」
怪物。
なんとはなしに、アイネストが以前語った言葉を思い出した。それは人間そっくり。だが人間ではない。それはなに?――それは怪物。人間そっくりの怪物。
つまらないなぞなぞ。問いかけたのは自分だったのだが、我《われ》ながらそう思えた。
彼もまた同じことを思い出しているに違《ちが》いない。そうも思えた。ミズーはまぶたを半分下ろすと、ゆっくりと視線《しせん》を這《は》わせた。夜の路地、見回しても広くはない。道の前後には人影《ひとかげ》がなかった。
だが声は聞こえてくる。さらにはっきりと近づいて。
「その領域には、怪物がいると信じられていたんだ。なぜなら、そこから生還《せいかん》した人が誰《だれ》もいないから。人の力が及《およ》ぶことのない悪魔《あくま》の獣《けもの》が、立ち入る者を確実に破滅《はめつ》させる。怪物がいると信じられていたんだ」
彼はそこで一呼吸以上の長さをおいた。
「だけどね。人はそれでもひとつひとつ、空白を埋《う》めていったんだ。山岳を征《せい》し、渓谷《けいこく》を探索《たんさく》した。そのどこにも、怪物はいなかった」
足音が聞こえた。
わざと音を立てたのだろう――振《ふ》り返ると、そこに彼はいた。塀《へい》の上に、鳥のように立っている。
月に近い位置でその光を背後にして、なにごともないように彼は続けた。
「さて。人々は、怪物を信じていたのに、怪物はいなかった。彼らが信じていたその恐怖《きょうふ》、畏怖《いふ》は、どこに行ってしまったんだろう? それは、煙《けむり》のように消え去ってしまったんだろうか。用済《ようず》みになった瞬間《しゅんかん》、どこかに消えてしまったんだろうか」
彼はいつもの内容のない笑《え》みで、締《し》めくくった。
「……そんなこと、むしろあり得《え》ないんじゃないかな」
「怪物なんていない」
ミズーは剣《けん》を構えないまま、囁《ささや》いた。こちらを見下ろすアイネストへと視線を突《つ》き刺《さ》し、断言する。
「恐《おそ》れるべきものなんてなにもない」
「それは君自身が――」
彼は言いかけて、そこでやめた。
こちらも聞いてはいられなかった。現れたものがあった。
視線を向ける。自分が歩いてきた路地をずっと、走って追いかけてくる人影があった。隠《かく》れもせずに全速力で、自分と同じ真紅《しんく》のマントをまとった剣士が近づいてくる。
片手に鉈《なた》のような剣を掲《かか》げていた。無表情に、じっとこちらを見据《みす》えたまま、それは数秒も経《た》たないうちに接触《せっしょく》してきた。ジュディアとかいったか――女剣士はすれ違《ちが》いざまに剣を一閃《いっせん》した。その女が走ってくる勢いと鉈の重量を、この腕《うで》の状態で受けられる自信はなく、ミズーは大きく跳《と》び退《の》いてそれをかわした。振り向く。女は既《すで》にもう一方の刃《やいば》も抜《ぬ》いて、斬《き》りかかってきていた。
反転は脳に頭痛の波紋《はもん》を広げさせた。そのめまいに抗《あらが》いながら、切っ先を繰《く》り出す。狙《ねら》いは敵の身体《からだ》で、最もこちらに近い位置にある部位――剣を振るう手首だった。斬りつけてくるその女の右手首を剣がかすめ、刃が肉に引っかかる感触《かんしょく》が返ってくる。
ほんのわずかな一撃《いちげき》に過ぎなかったが、効果は大きかった。闇《やみ》の色と変わらない血の塊《かたまり》が弾《はじ》ける。ジュディアの右手から剣が抜け落ちた。
彼女は対峙《たいじ》してはっきりと分かるほどに、狼狽《ろうばい》していたようだった。なにも表さなかった顔に、引きつるほどの怒《いか》りが浮《う》かんでいる。ジュディアは一歩|後退《こうたい》すると、左手に残っていた剣を口でくわえた――空《あ》いた手で懐《ふところ》からハンカチのようなものを引っ張り出すと、血を垂《た》れ流す右手首に巻き付ける。敵が一応の止血《しけつ》をする間、ミズーは余裕《よゆう》を見せつけるふりをしてそれを眺《なが》めた。実際には、反動に麻痺《まひ》して震《ふる》える右手首をマントの下に隠《かく》すのに必死だったが。
痺《しび》れが取れたことを確認《かくにん》してから、ミズーは聞こえよがしにつぶやいた。
「これで少しは、 ハンデが埋《う》まったかしらね?」
アイネストに対して言ったつもりだったのだが、見ると、塀《へい》の上からあの学者の姿は消えている。
訝《いぶか》る間もなく、殺気に向き直った。ジュディアが左手で剣を構えて、襲《おそ》いかかってくる。
剣で動脈を傷《きず》つけることは難《むずか》しい――それが可能な部位は限られている。手首はその中に含《ふく》まれてはいなかった。よほど深く切り裂《さ》くことができるのならば話は別だろうが、今のこの状態ではそれは望めない。ジュディアの負傷《ふしょう》も、そのため即《そく》致命傷《ちめいしょう》ではないだろうが、それでも彼女が戦える時間を相当限ったには違いない。動けば動くほどに血液《けつえき》は減《へ》り、血圧の低下はそのまま死に直結する。
決して大きく振《ふ》りかぶらず、細かい斬撃《ざんげき》を繰《く》り返すのが、このジュディアの戦い方らしい。使えるのが片|腕《うで》だけになってもそれを崩《くず》さなかったのは、冷静さの賜物《たまもの》だろう。上下に撃《う》ち分けられた剣をなんとか両方受け流して、ミズーは舌を巻いた。確かに手練《てだ》れだった。が、
(あの黒衣たちほどじゃ……ない!)
剣での撃ち合いを続けるのは不利だと判断して、ミズーは体勢を低くした。ほとんど屈《かが》み込むほどに沈《しず》んだ身体《からだ》の上を、敵の剣が通り過ぎる。ジュディアのような隙《すき》のない剣士ならば、ミズーが転倒《てんとう》したことは好機と見るだろう――それは分かっていた。とどめを刺《さ》そうと踏《ふ》み込んでくる彼女が踏み出す位置を、ミズーは勘《かん》だけで探《さぐ》り当てた。
負傷している左足を残して、右足を突《つ》き出す。足一本に自分の重さがすべてかかり、ふさがりかかった傷の奥《おく》に血がにじむのを感じた。だがそれと同時に右足のブーツの先端《せんたん》を、ジュディアの踏み込もうとした位置に滑《すべ》り込ませるのにも成功している。
ジュディアが自分の足を踏みつける形になった。右足の上にある敵の足を、そのまま思い切り蹴《け》り上げる。
大きくバランスを崩《くず》して、剣士《けんし》の身体が跳《は》ね上がった。彼女の身体が地面に叩《たた》きつけられるのを見ながら、起きあがる。受け身を取るためだろう。ジュディアは残ったもう一方の剣も手放していた。尻餅《しりもち》をつくような格好《かっこう》で地面に倒《たお》れている彼女に、剣を突きつけて勝利宣告をしようと――
剣が動かなくなった。ジュディアが左手で、剣先を握《にぎ》っている。
彼女がつぶやいた。
「余裕《よゆう》なんて見せるからこうなる」
月光を青白く反射させた冷たい瞳《ひとみ》に見つめられながら、ミズーは強引《ごういん》に剣を引き抜《ぬ》こうと力を入れた。が、相手の力の強さに、不完全な腕では対抗《たいこう》できない。剣を固定する布が引っかかるせいで、剣をはなして逃《に》げることもできなかった。
失敗を悟《さと》る時間もなかった。倒れた姿勢から放ってくるジュディアの蹴《け》りの衝撃《しょうげき》が、みぞおちに突き込まれる。左腕でその蹴り足を掴《つか》まえようと反応はしたものの、素早《すばや》く足を引いたジュディアに逆に蹴りつけられた。
(この女――!)
ミズーは言葉にならない罵《ののし》りをあげつつ、左腕をかばって身体《からだ》を丸めた。そのまま為《な》す術《すべ》もなく膝《ひざ》を、腹を、胸を打たれているうちに、いつの間にか立場は逆になっていた――動かせない剣に縛《しば》られた状態で、ミズーは地面に膝をついた。容赦《ようしゃ》なく内臓まで突き通る衝撃に喘《あえ》ぎつつ、うつむいて見上げるとジュディアは立ち上がっている。
十分だと見たのだろう。彼女が切っ先を手放した。その一瞬《いっしゅん》を見計《みはか》らって、剣を突き出す。
が、ジュディアは油断《ゆだん》して剣先を解放したわけではなかったらしい。瞬時に反応して、剣のとどかないところまで後退《こうたい》した。落としていた剣をも拾い取っている。
やや離《はな》れた場所に対峙《たいじ》して、左手で剣を構えるその剣士の表情は、月明かりの色合いを加味してもなお釣《つ》りがくるほどに青ざめていた――出血がそれほどひどいはずはない。少なくとも、今しばらくは。
気を張りつめさせ、こちらの隙《すき》をうかがっている。そう見えた。
彼女がなにを見ているのか。目の前にいるミズーの姿に違《ちが》いないのだが、負傷し、瀕死《ひんし》といってもいい自分になにをそこまで慎重《しんちょう》になっているのか、それは奇妙《きみょう》ではあった。相手の視線を浴《あ》びながら、ミズーはゆっくりと立ち上がった。剣を右手に固定する布を外し――相手の剣の高さに合わせて、こちらも剣を構える。
自然と、敵《てき》との距離《きょり》を測《はか》っていた。単に距離的な意味合いだけではない――辺《あた》りの明度《めいど》、光源の位置、角度、敵の大きさ、あらゆる状況《じょうきょう》を含《ふく》んで、その距離を今まで体験したことがあるか、今までに相対《あいたい》した敵と、その距離で対峙したことがあるのかを目算《もくさん》する。それは身体に染《し》みついた習性、いや獲得《かくとく》した本能だった。
もし、自分の身体がその距離を知っていれば。この敵《てき》もまた死ぬ。距離を知ることは、殺人を容易《たやす》くする……
その計算に時間がかかったわけではない。が、把握《はあく》する寸前、狙《ねら》ったようにジュディアが半歩|退《ひ》いた。そして、
「この距離を知ってる?」
敵が発してきた言葉に、息を詰《つ》めた。
同時に、ジュディアが剣を投げつけてきた。美しく回転する鉈《なた》が自分の眉間《みけん》めがけて飛んでくるのを見定めて――ミズーもまた、同じタイミングで剣を投げはなっていた。
自分の剣が当たらないことは分かっていた。この距離は知らない[#「知らない」に傍点]。必殺《ひっさつ》の呼吸《こきゅう》で撃《う》つことができなかった。なんとか身体をよじって、空を切り裂《さ》いて飛びかかってくる敵の剣をかわす。
かわした時に悟《さと》った。かわすことができた。つまり、ジュディアもまた一撃《いちげき》必殺のタイミングでは投げていない――これがかわされることは分かっていて投げたのだ。
(ならば!)
相手の次手は分かっていた。体勢を崩《くず》して地面に倒《たお》れる間に、ミズーは左手でポーチを探《さぐ》った。中から格闘《かくとう》用ナイフを引き抜《ぬ》く。目を見開いて、ようやく敵の姿を確認《かくにん》できた時には、ジュディアはまた勢いよくこちらへと突進《とっしん》してきているところだった。
敵の狙《ねら》いは、こちらのタイミングを奪《うば》ったうえで接近し、とどめを刺《さ》すこと。
ジュディアは体勢を低くして駆《か》け寄ってくる。落ちていたもう一方の剣を拾い上げ、それを一挙動で振《ふ》りかぶると、垂直に振り下ろした。
自分の肉体を分断するために落ちてくる刃《やいば》が、ひどく大きいものに見える。
ミズーは地面に転がったまま、後転するように足を跳《は》ね上げた。落ちてくる刃を、ブーツのかかとで受ける。靴底《くつぞこ》が保《も》ってくれるよう祈《いの》りつつ、左手のナイフを滑《すべ》らせた。短い刃が、ジュディアの腿《もも》を抉《えぐ》る。
傷が腱《けん》まで達したということはあるまい――だが、痛覚がそれを勘違《かんちが》いさせたのだろう。彼女は力の抜けた足に自らつまずくようにして倒《たお》れた。それを追いかけて、身体を回転させる。もう一度、さらに足を振り上げて、ミズーは全力でそれを打ち下ろした。
うつ伏《ぶ》せに、地面に顔をつけたジュディアの後頭部にブーツのかかとが突《つ》き刺さった形で、すべてが動きを止めた。
長い、長い息をつく。ミズーは腰《こし》を引きずって足をどけると、しばらく後ずさりしてから起きあがった。動かないジュディアを観察して、完全に昏倒《こんとう》していることを確かめる。
自分の剣を探そうと、投げつけたあたりを見やる。
そこに、彼女の剣を抱《かか》えたアイネスト・マッジオが立っていた。
構えと言えるような持ち方ではない――花束でも抱《かか》えているような手つきだった。うっすらと笑《え》みを浮《う》かべ、こちらを見ている。
「勝ったわよ」
ミズーは言いながら、視線《しせん》だけで武器を探した。ジュディアは剣を持ったまま倒れている。彼女が投げつけてきた剣は、多少|離《はな》れた位置にあった。左手の中には格闘《かくとう》ナイフがあるが、決定的な武器とはいえない。マグスと戦った経験はなかった。それがどういった連中なのか、彼らにどういったことができるのか、見当もつかない。
見て分かるような敵意を、アイネストが発していたというわけではない。むしろ、彼は落ち着いていた。剣を持ったまま、近寄ってくる。
「そうだね」
アイネストはうなずいてみせた。
「君は負けない。そんなことは分かっていたさ。君はこの世において無敵の存在なんだ。ミズー・ビアンカ」
「……あてこすっているつもり?」
毒づく。
傷ついた身体《からだ》を引っ張り上げるように、立ち上がる。自分の身体を引き上げる力がなんなのか、それは分からなかったが、体力やそういったものでないのは確かだった。息があがっている。激《はげ》しい頭痛の中動き回ったことと、傷を攻《せ》められたせいだろう。ほんの数十秒の立ち会いに過ぎなかったというのに消耗《しょうもう》し切っていた。
ごっそりとすり減《へ》った気力と、もとから復調していなかった体力も失い、ミズーは壁《かべ》に背中をもたれさせてなんとか身体を安定させた。アイネストは近づいてくる。彼があと数歩を踏《ふ》み出す間に、一撃《いちげき》を放《はな》つ力を蓄《たくわ》えなければならない。
アイネストは無頓着《むとんちゃく》に、気楽な声をあげた。
「疑うのかい? それはそうかもしれない。確かに君はまだ完璧《かんぺき》な存在とはいえない。いや、完璧には存在できていないというべきかな。実際、今も全力を使わないうちに敵を倒《たお》してしまった」
「なにが言いたいの!」
この男に向かって、何度この叫《さけ》びを繰《く》り返したか――
もはや数えるつもりもなかったが、誰かが教えてくれるのならば知りたかった。ミズーの発した声を受け流すようにほんのわずか足を止め、アイネストは言ってきた。
「獣《けもの》の瞬間《しゅんかん》」
それは自分以外、誰も知らないはずの言葉だった。
冷たい指で心臓をまさぐられるような、痛いほどの不快感が身体中《からだじゅう》を走る。実際のところ、このマグスは自分の心をどこまで探《さぐ》ったのだ――? 自問して、自答する。少なくとも今自分が思っているよりも遥《はる》か深くまで、この男の観察眼が侵入《しんにゅう》してきているのは間違《まちが》いない。
そして、彼がまた歩き出す。近寄ってくる。
ぞっとしながら彼を見つめていると、彼はすらすらとあとを続けてきた。
「獣の瞬間、と君は呼んでいるんだろう? 人を殺すことの罪悪感《ざいあくかん》も、傷つき傷つける躊躇《ちゅうちょ》も、不安定な心そのものもなくしてしまう恍惚《こうこつ》の瞬間。君は殺人の最中にそれを呼び覚まし、呼び覚ましたのならば手のつけられない存在となる」
「あんなものは……ただの妄想《もうそう》よ。わたしの」
うめく。が、彼は手の一振《ひとふ》りでそれを否定した。
「人に話すのが恥《は》ずかしいと思って隠《かく》していたのかい? 違《ちが》うだろう? 君は確信してるんだ……君の身体の中に、それが眠《ねむ》っていることを」
「一度呼び出せば歯止めが利《き》かないのよ!」
「そうだね。最初に出現した時には、都市ひとつを焼き払《はら》うまで消えなかった」
あっさりと、言ってくる。
目の前が白《しら》んでいくのを、呆然《ぼうぜん》とミズーは認めた。
この男は知っている――
本当に観察者《かんさつしゃ》だったのだ。なにもかもを知っているのだ。
「わたしをほうっておいて……わたしに構わないで」
かぶりを振りながら、ミズーは後ずさりした。背の後ろにある壁《かべ》を頼《たよ》りに後退《こうたい》する。
アイネストはそれより速く、近づいてくる。彼の言葉はさらに速く、こちらへととどいた。
「その力はね。あるいは組織の力よりも強いかもしれないんだ、ミズー。君はこの世に存在しないはずの絶対的ななにかになってしまいかねない」
それを言う間だけ、彼は笑っていない。
「さらに力を手に入れれば、片翼《かたよく》だけで天高くまで飛んでしまう怪物《かいぶつ》に、もう一方の翼《つばさ》をも与《あた》えることになる。ぼくが慎重《しんちょう》になる言い訳はね、それだよ。ぼくらは君を操《あやつ》ることができるわけじゃない」
あとほんの二歩ほどの距離《きょり》。彼はそこで立ち止まった。抱《かか》えていた剣《けん》を――柄《つか》をこちらに向けて、差し出してくる。
受け取れということだろう。ミズーはその柄をじっと見つめた。が、もう剣《けん》などどうでもよかった。剣よりも危険なものが突《つ》きつけられている。喉元《のどもと》の、さらに脆《もろ》い急所に。
唾《つば》を呑《の》んで、視線を上げた。アイネストはガラス玉のような瞳《ひとみ》を開いて、そこに彼女の姿を映している。それがはっきりと見えたわけではなかったが、怯《おび》えた自分の顔を見せられたような気がしていた。
頭痛も忘れていた。別のものが身体《からだ》を苛《さいな》もうとしている。剥《は》がされた秘密になにかを擦《す》り込もうとしている。
ミズーは後ろに下がろうとした。が、そこに壁がなかった。支えをなくし、尻餅《しりもち》をつく彼女に、アイネストはあっさりと簡単に、そして無情に距離を詰《つ》めてきた。剣の代わりに、手を差しだして、そしてなにかを言おうと口を開き……
それが限界だった。ミズーは叫《さけ》んでいた。
「来るなぁっ!」
光が膨《ふく》れあがった。
冷えた鉄格子《てつごうし》を思わせる縦縞《たてじま》の月光を押《お》しつぶし、閃光《せんこう》が夜を貫《つらぬ》いた。それは紅蓮《ぐれん》の尾《お》を引いて斜《なな》めに滑《すべ》り、か細い学者の身体を袈裟斬《けさぎ》りに両断した――ように見えた。炎《ほのお》を巻き上げ、ミズーの身体をも後ろへと弾《はじ》き飛ばした。熱と衝撃《しょうげき》に意識を揺《ゆ》さぶられ、目を見開くと、そこに炎に包まれた爪《つめ》があった。
アイネストは進んできた距離より遠く、突き放されていた。片膝《かたひざ》をついて、初めて見る険《けわ》しい表情を浮《う》かべている。神秘調査会の服がうっすらと焦《こ》げて、煙《けむり》すらあげていた。その学者と、ミズーの間に現れたのは、巨大《きょだい》な獅子《しし》の前脚《まえあし》だった。
前脚と、頭部の半分だけ。それが虚空《こくう》より現れ、炎を爆《は》ぜていた。
つぶやく。震《ふる》えながら、ミズーはその獣《けもの》に手を差し伸《の》べた。
「……ギーア!」
「無抵抗《むていこう》飛行路に隠《かく》れて……再生していたか。破壊精霊《はかいせいれい》に粉砕《ふんさい》されたっていうのに、あと数日で完全に復活するだろうね。精霊は……本当に理解しがたい」
火傷《やけど》でも負ったのか、アイネストが苦しげな声をあげた。彼の苦悶《くもん》に力を得たというわけではなかったが――ミズーは起きあがると、現れた獣精霊《じゅうせいれい》の傍《かたわ》らまで走り寄った。途中《とちゅう》、アイネストが落としたのだろう剣を拾い、鞘《さや》に納める。
まだ身体の半分もない獣精霊は、彼女が近寄るとうなり声をあげた。
この精霊の身体に触《ふ》れたことはなかった。だが、ギーアの炎が彼女を焼かないことは知っている。指先で撫《な》でると、その炎の塊《かたまり》は確かな感触《かんしょく》を持っていた。細かい砂のような、心地《ここち》よい手触《てざわ》り。
と――
アイネストの声が聞こえてきた。
「その獣精霊《じゅうせいれい》はむしろ、君を封《ふう》じているように見える。君を保護《ほご》して、君の本性《ほんしょう》が顕現《けんげん》することを封じているように見える……面白《おもしろ》いね。精霊使いは精霊を封じて使う。なのに君は精霊に封じられているんだ」
「負《ま》け惜《お》しみで、けちをつけるつもり?」
ミズーは彼を見やると、冷たく告《つ》げた。アイネストはようやく身を起こすと、服についた煤《すす》を払《はら》う手つきをした――実際に埃《ほこり》を気にしたわけではないだろうが。
彼はこちらの言ったことを無視して、言葉を続けた。
「ミズー・ビアンカ。君は、この地上でぼくらが望みうる最大の力を持った戦士だ。君に勝てる者は存在しない。人間には」
語りながら彼が指し示したのは、倒《たお》れたままのジュディアだった。ミズーも彼の視線をたどってから、無言で向き直った。
獣精霊の不意打ちに、仮になんらかの打撃《だげき》を受けていたとしてもそれを表に出さず、アイネストは平静を取りもどしているように見えた。声には力すら感じられる。
「それは人間そっくり。だが人間ではない……それはなに? 君が言ったなぞなぞだ。答えを言うよ。少なくともそのうちのひとりは、君だ」
彼はゆっくりと繰《く》り返した。説いて聞かせるがごとく。
「君は、怪物《かいぶつ》なんだ……黒衣《こくい》たちと同じようにね」
「あなたがわたしをどう思おうと知ったことじゃない」
ミズーは今度は壁《かべ》ではなく獣精霊の身体に依《よ》って立ちながら、きっぱりと言い放った。
「わたしが人間じゃないなんてほざきたいのなら、そうしてればいい。でもわたしにはかかわらせない。それがルールよ。わたしの決めた、わたしとあなたのルール――わたしの前から永久に消えなさい」
だが、彼もまた頑強《がんきょう》にそれを無視してきた。
「ぼくは、イムァシアという都市のことを話してあげようと思っていたんだよ、ミズー」
「そんなもの――」
「その工房《こうぼう》都市には、ひとつの信仰《しんこう》があったんだ。それは世界を余《あま》すところなく破壊《はかい》する剣《けん》を鍛《きた》え上げること」
アイネストはまた一歩進んだ。が、ミズーが退《ひ》かずにいると、そこで立ち止まった。
「彼らはそれが可能だと思っていた。あらゆる武器に勝《まさ》り、あらゆる策謀《さくぼう》に勝り、あらゆる戦争に勝る武器。彼らはそれを、絶対殺人武器《ぜったいさつじんぶき》と呼んでいたんだ」
重々しく語る彼に、ミズーはうめいた。唾棄《だき》する想《おも》いで。
「狂《くる》っていたのよ」
「否定《ひてい》はしない。彼らは狂気に忠実だった。イムァシアの刀匠《とうしょう》たちは、その武器を単純な刀剣だとは考えなかったんだ。彼らは多面的にアプローチしていた。どれだけの年月、彼らの信仰が続いていたのかは……確かじゃないけど、十年や二十年のことじゃない。帝国《ていこく》の歴史より古い信仰だ。あるいは、アスカラナンよりもね」
「その話は不愉快《ふゆかい》なのよ!」
もはや痛みも忘れて、拳《こぶし》を振《ふ》る。
だがアイネストはやめなかった。息を吸うと――それがなければ叫《さけ》べないというほどに大仰《おおぎょう》な仕草で息を溜《と》めてから声をあげる。
「彼らはその時代時代で、最も理想に近いと思われる武器を研究していた。ここ数十年で彼らが一番有効だと考えていた武器は……人間そのものだったんだ」
「それと、精霊よ!」
彼にやめさせることはあきらめて、ミズーは声を荒《あら》らげた。獣精霊《じゅうせいれい》にすがりつき、その表面に爪《つめ》を立てる。
「精霊を使う人間こそが理想に近い。あいつらはそう考えたのよ。子供を連れてきて塔《とう》の中で育てた。でもね、奴《やつ》らは愚《おろ》かだった。その子供が育った時、精霊を扱《あつか》えるようになったなら、手に入れた力を使ってなにをするか――なにより先に、どうするか。分かっていなかった。わたしが思い知らせてやったのよ」
「分かっていなかったわけじゃないだろうさ。単に、彼らは狂気に忠実だった。滅《ほろ》びを恐《おそ》れていなかったんだ」
「なら、自業自得《じごうじとく》よ!」
煮《に》えたぎる怒《いか》りに呼応するように、獣精霊がうなり声を大きくした。
いや、それは錯覚《さっかく》に過ぎなかった――精霊が警戒《けいかい》を促《うなが》したのは、背後にいるジュディアが寝返《ねがえ》りを打ったからだった。肩越《かたこ》しに、一瞥《いちべつ》する。そろそろ失神状態から回復するのだろう。剣《けん》を取り上げておかなかった自分の迂闊《うかつ》に舌打ちするが、仕方ない。それに、さほどの意味があるわけでもないだろう。自分の身体《からだ》が満足に動かなくとも、今は精霊が在《あ》る。自分以外は、この獣精霊の炎《ほのお》の熱気に近づくこともできない。
彼女がそれだけ考える間、アイネストはじっと待っていたようだった。向き直ると、他人事《ひとごと》のように言ってくる。
「……こんな寂《さび》れた界隈《かいわい》でも、さすがにその精霊の炎は目立ち過ぎるね。人が集まってくるかもしれない。急いで話そうか」
彼は胸の前で腕組《うでぐ》みして、わずかに顔を伏《ふ》せた。だが声だけは、はっきりと聞こえてくる。
「取り決めがあったんだよ。イムァシアの刀匠《とうしょう》たちと、神秘調査会《しんぴちょうさかい》の間にはね」
「……なんですって?」
予感があった。その嫌《いや》な予感に押《お》し上げられるようにして喉《のど》から漏《も》れた声で、ミズーは聞き返した。
アイネストは変わらず、続ける。
「イムァシアが必要とする念糸《ねんし》能力を持った子供を、神秘調査会が見つける。帝国《ていこく》よりも早くね。そして彼らはそれを育て上げ、必要がなくなれば」
その一言を聞いて、ミズーは腕が震《ふる》えるのを感じた――目に角《つの》を立ててアイネストを見つめるも、彼は気づかないらしい。そんなはずはないだろうが。
言葉だけは冷淡《れいたん》にあとを継《つ》いで聞こえてきた。
「その子供は、神秘調査会の管理下となる。でも君は、神秘調査会に引き渡《わた》される前に――」
「黙《だま》りなさい一
聞いているうちに、不思議《ふしぎ》と怒《いか》りは冷めていった。いや、凍《こご》えて凍《こお》り付いた。
冷眼《れいがん》を彼に注ぎ、ミズーはうめいた。
「じゃあ、今さらになって、取り逃《に》がした荷物を引き受けにあなたが現れたってわけ?」
「それは誤解《ごかい》だよ。それに、神秘調査会を甘《あま》く見ちゃいけない。君が行方《ゆくえ》不明になろうが、見つけようと思えばいつだって見つけだせたさ。ついさっきのようにね。神秘調査会があえて君を無視《むし》したのは、もっと違《ちが》う理由があったからだ」
「素敵《すてき》な話題ね」
告《つ》げる。
と、彼女が精霊《せいれい》に攻撃《こうげき》命令を出す前に、アイネストは両手をあげた。
「毛嫌《けぎら》いしないでくれ。神秘調査会には不文律《ふぶんりつ》があるんだ。掟《おきて》といってもいい。今から五十九年と二十三日前、午前四時五十八分。アスカラナンに組織が建てられた際、開祖《かいそ》たる大マグスの決めたことさ。観察者《かんさつしゃ》たるぼくたちは、この世界で起こる出来事に直接|関《かか》わってはならないんだ。冗談《じょうだん》で従ってるわけではないよ。君に言っても理解できないだろうけど、そうしなければぼくらの目的は達成できない」
「あなたたちの目的……」
答えを知ってながら、ミズーはつぶやいた。
神秘調査会は、名前は知られていても実態の分からない、典型的な大組織だった。アスカラナンに本部を置き、商会の支援《しえん》で活動しているという。それをただの学者の茶会だと言う者もいれば、世界の裏を牛耳《ぎゅうじ》る秘密結社《ひみつけっしゃ》だと断じる者もいた。
それが標榜《ひょうぼう》する題目《だいもく》も、広く世に知られたものではあった。アイネストが言ってきたのも、それと同じ――
「全知識の解放。すべてを精察《せいさつ》すること。ぼくらはそのために存在している。そしてそのためには、ぼくらは世界に対する純粋《じゅんすい》な観察者でいなければならない」
彼はあげていた手を下ろし、続けた。
「だけど、世界に属して、内側から世界を観察している限り、本当に完璧《かんぺき》な非干渉《ひかんしょう》を貫《つらぬ》くなんて絵空事《えそらごと》だよ。だからさ、ぼくらに代わって事象《じしょう》に干渉してくれる戦士を、ぼくらは必要としてきた」
「それがわたしたち……イムァシアの子供というわけよ」
背後から声が聞こえてきたが、振《ふ》り向かなかった。
それを言ってきたのはジュディアだった――意識を回復したのだろう。ミズーはただ、舌打ちした。躊躇《ちゅうちょ》がいけなかった。これでもう、精霊を身近から離《はな》すわけにはいかない。少なくとも、彼ら両方を同時に仕留《しと》められる方法を考えつくまでは。
先にジュディアを始末《しまつ》しても良かったが、その隙《すき》にアイネストが逃げる。それでは意味がない。
憤懣《ふんまん》をぶつける形で、ミズーは叫《さけ》んだ。
「だからなんなの。そんな都合でわたしが納得《なっとく》する理由なんてあるの? 要はあなたたちも、同じ穴《あな》の狢《むじな》だってだけのことでしょう!」
「否定《ひてい》はしない。ぼくらにもまた、忠実に従うべき理想があるということだ」
「殺してやる――」
「ジュディアも同じことを言った」
言われて、ミズーは背後を見やった。
そこには剣士《けんし》がいた。自分と同じ、あの空の色を知っている剣士。そして、あの塔《とう》の暗さを知っているに違《ちが》いない……
ミズーは激《はげ》しくかぶりを振った。哀《あわ》れむなんて馬鹿《ばか》げている。相手もまた、自分を哀れんでいるというのに。イムァシアの子供と、彼女は言った。
(イムァシアがわたしたちの親だとでもいうの? 家だとでも? そんなわけがない……そんなわけが)
奪《うば》われるべきものすら与《あた》えてくれなかった場所。すべてを業火《ごうか》で覆《おお》うまで、通ることすらできなかったあの扉《とびら》。最初の一歩を踏《ふ》み出すまで、そこが通り抜《ぬ》けられるということを思いもしなかった、あの扉。
「あの場所にいなかったなら……」
声が震《ふる》えるのにも構わずに、ミズーはジュディアに囁《ささや》いた。これが泣き声に聞こえたとしても、言わずにはいられなかった。
「あの場所にいなかったとしたら、わたしがどんなふうに生きていたはずだったのか。それを想像することもできないのよ! そこまでわたしは徹底《てってい》的に、今のわたし[#「今のわたし」に傍点]にさせられた――」
ジュディアはなにも言わなかった。ただ、小さくうなずいた。
涙《なみだ》はこぼれなかったが、引き絞《しぼ》られるような苦悶《くもん》の声だけを、ミズーは吐《は》き出した。彼女はなにも否定しなかった。
――お前では駄目《だめ》だった。別の子供を探《さが》す。
イムァシアの男の声を思い出す。彼女も同じことを言われたはずなのだ。そして恐《おそ》らくその直後に、自分が連れてこられたのだ。あの塔《とう》の部屋に。自分が……自分たちが連れてこられたのだ。アストラ……
空が見えた。月と星。炎《ほのお》の中にいてはよく見えない。背中へと垂《た》れた首の重みで自分が倒《たお》れかかっていることに、ようやく気づいてまた獣精霊《じゅうせいれい》にしがみつく。頭痛と疲労《ひろう》で、自覚している以上に身体《からだ》が弱っている。
アイネストの声が聞こえた。
「彼女が――ジュディア・ホーントが今まで、一度でもぼくらの言う通りに行動してくれたと思うのなら、それは勘違《かんちが》いだよ。ぼくらは君たちを奴隷《どれい》にしたいわけじゃない」
それはそうだろう。声に出さず、ミズーはつぶやいた。ジュディアも奴隷にはなるまい。感情があるのなら。
だが、この女剣士《おんなけんし》はそれでも、神秘調査会に従い続けるだろう。自分が彼女を哀《あわ》れむ理由はそれだ。馬鹿《ばか》げているとしても、哀れんでしまうのはそれだ……ジュディアを視界から締《し》め出して、ミズーはうめき続けた。
ジュディアは、あの扉を通っていないのだ。だから彼女の後に、自分がまたあの塔に入れられたのだ。ジュディアはイムァシアを焼けなかった。イムァシアにとって用無《ような》しとされて塔の外に出されたかもしれないが、自分で出たわけではない。
(だから彼女はまだイムァシアの子供……あの塔の中にいる)
そしてジュディアはジュディアで、あの扉を通ってしまったミズーのことを哀れんでいる。それもまた、馬鹿げてはいるが分かることでもあった。
(なにも正しいことなんてない。正しいことなんてどこにもない)
なにかを口走って、ミズーは精霊から身体を離《はな》した。戦おう。そのシンプルな意志だけが、身体の中に残っていた。獣《けもの》もいない。いや逆に、自分が意志を持って戦おうとしている限りは、獣は顕現《けんげん》できない。その確信があった。獣が巣としているのは、大河の空隙《くうげき》――身体の隙間《すきま》、意志の虚無《きょむ》。意味のあるものを無意味にするために現れる。
(あの高地の村でも、そのはずだった)
ミズーは静かに思い起こした。意志を持って扉《とびら》を通ったはずだった。だが結局は獣に負けて、すべてを無意味にしてしまった。
「ギーア」
精霊に、ミズーは語りかけた。
「もどれ。もどりなさい……わたしは大丈夫《だいじょうぶ》」
獣精霊《じゅうせいれい》は拒否《きょひ》の気配を送ってきた――が、ミズーはあくまでかぶりを振《ふ》った。つぶやいて、水晶檻《すいしょうおり》の門を開く。
「もどれ」
改めて命じると、獣精霊の姿は消え失《う》せた。閉門式《へいもんしき》を受けて、水晶檻の輝《かがや》きも消える。ミズーは肩《かた》のマント留めを、軽く撫《な》でた。獅子《しし》のレリーフの瞳《ひとみ》には、精霊の存在を示す靄《もや》が蠢《うごめ》いている。
改めて、ミズーはアイネストへと対峙《たいじ》した。頭痛は消えていた。負傷《ふしょう》まではごまかせるわけではなかったが、それでも負ける要素を思いつけなかった。背後のことも気にする必要はない。ジュディアは斬《き》り掛《か》かってくるだろうが、自分に触《ふ》れることはできない。
(それがルール)
ミズーは独《ひと》りごちた。ジュディアと自分の間には扉がある。あらゆる人間と自分の間には扉がある。扉を通れない者は、自分には触れられない。
それは当然のルールと思えた。扉を通れる者だけを、警戒《けいかい》していればいい。
軽薄《けいはく》な学者の顔を見据《みす》える。彼は笑ってはいなかったが、だからといって別のなにかを顔に現しているわけでもなかった。彼はすべてを睥睨《へいげい》している――ミズーは認めた。心静かなままに。
そのまま、思ったことを口にした。
「……あなたに、怪物《かいぶつ》なんて言われたくないわよ。怪物はあなたでしょう」
言って、笑いかける。自分でも恐《おそ》ろしく陳腐《ちんぷ》と思える言葉で、彼女は納得《なっとく》した。彼は邪悪《じゃあく》な男だ。悪意も善意も持っていない。ただ邪悪なだけだ。最大の警戒《けいかい》をもってあたらなければならない。
その意志は伝わっただろう。彼は口の端《はし》だけを引きつらせるようにして答えてきた。
「ならぼくも、君に言われる筋合いはないってことにならないかな。人間と非人間――怪物《かいぶつ》との境界線なんて、ありはしないよ。それは両極に過ぎない。完全な両極は、この世には実在しない」
彼の声は真摯《しんし》だった。真摯に聞こえた。
「それでぼくは、思うことがあるんだ。果たして、この世には本当に人間なんているんだろうかってね」
その声は歌うように高くなり――彼が自分に向かって話していないと、ミズーは気づいた。彼は上を向いている。まるで月に向かって語っているようにも見えた。
「ぼくは誰も理解できない。実はぼく以外の、今まで人間だと思ってきた連中っていうのは、みんな怪物なんじゃないだろうか。ぼくは思うことがあるんだ。ぼく以外はみんな怪物なんじゃないだろうか」
「やめて」
ミズーは告《つ》げたが、アイネストは止まらなかった。
「とても恐《おそ》ろしいことなんだよ……あらゆる者が怪物なんだ。でもそれは、誰も怪物じゃないってことでもある。この世界は曖昧《あいまい》だ。どこまでも曖昧なんだ。そこに現れたのさ」
彼は視線《しせん》を落とした。音もなく上げた指先が、こちらを指し示す。
「完全なる怪物になるかもしれない君と――」
そこで一拍《いっぱく》止めて、指先を曖昧に、空へと向ける。
「そして、精霊《せいれい》アマワはね」
こけおどしに乗るつもりはなかったが、それは見逃《みのが》せない言葉でもあった。ミズーは剣《けん》に手をかけながら、聞いた。
「それはなに」
これもまたこけおどしか――と認めながら、剣の柄《つか》を彼に向ける。
「あなたは知ってるの? 精霊アマワ。それはなんなの。それもあなたたちの差《さ》し金《がね》だっていうの?」
聞き直すと、彼は肩《かた》をすくめてみせた。
「いや違《ちが》う。そしてアマワのことはぼくらにも分からない。未知の精霊さ」
学者としては若すぎるその面持《おもも》ちに、一瞬《いっしゅん》だけ鋭《するど》いものが走るのをミズーは見た。彼は金髪《きんぱつ》の髪《かみ》を中途半端《ちゅうとはんぱ》に掻《か》き上げるように少し触《ふ》れて、
「人々が地図の空白を既知《きち》によって埋《う》め尽《つ》くしたと思いこんだ時に初めて出現する――初めて直面する未知……地図からはみ出した怪物だよ」
「そんなのは、あなたの言葉遊びでしょう?」
釘《くぎ》を刺《さ》したのは、アイネストがその言葉を楽しんでいるように見えたからだったが、彼は皮肉げに鼻で笑ってそれに応じた。その表情は意外だった。
(つまり……彼は本気で知らない?)
鼻持ちならない学者が、それを認めるのには苦心があったのだろう。今までの韜晦《とうかい》とは違う、激《はげ》しい調子で彼はまくし立てた。
「マギは実在する。剣も実在する」
彼自身を示し――そしてこちらを示すことを二度繰り返して、彼は続けた。
「ぼくは実在する。君も実在する。だが、精霊はどうだ? 実在してるのか? 彼らを見て、人間は錯覚《さっかく》しているだけかもしれない。ぼくはそれが許せない。ぼくは、精霊を見定めたい」
「精霊が実在していない?」
その考えは、奇妙《きみょう》なものだった。
だが彼は、自明の理だと言いたげに余裕《よゆう》を取りもどすと、
「馬鹿《ばか》げたことだと思うかい? だろうね。もし精霊が架空《かくう》のものだとしたら、君がその獣精霊《じゅうせいれい》で焼き尽くした街はなんだったのか。イムァシアが滅《ほろ》ぼされたのは虚構《きょこう》だったと言われるのは怖《こわ》いかい? いまだ彼らの愚行《ぐこう》に夢《ゆめ》で苛《さいな》まれるんだろう。ミズー・ビアンカ。君は怯《おび》えきっている」
(くだらない)
取り合わずに、ミズーは聞き流した。ジュディアを見ると、彼女も蒼白《そうはく》になって視線をそむけている。
(わたしが怯えている?)
そんなことは当たり前だ……
決然と、眼差《まなざ》しをアイネストに叩《たた》きつける。
「もっと実のある話をしてもらえないかしら?」
言うと、彼も同意のつもりか、うなずいてみせた。
「君が気にかける必要があるのは、御遣《みつか》いの言葉さ。御遣いとは果たして、誰の遣いなんだ? 誰が、そして、なんのためにそれを寄越《よこ》したんだ?」
「そんなことは分かるわけがないでしょ」
「見出《みいだ》さずに勝てるかい?」
揚《あ》げ足《あし》をとって、言ってくる。
「敵の正体を見定めずに勝てるのかい? 君は勝つためであれば、どんなことでも可能にするだろう」
「あなたが自分で見定めればいい。あなたの手品《てじな》を使って」
「そうそう都合《つごう》の良いものじゃない。マグスの技《わざ》、マギ、マギの使い手、マグス。それは無力なものに過ぎない。でも君は、違《ちが》う。誰よりも強い精霊使《せいれいつか》いだ。黒衣《こくい》でさえ、君を殺せない。どこかの誰かが、それを確かめたかったんじゃないかな? 君の言葉を借りるなら、君がヌアンタット高地へ行ったのは……本当に君の意志だった?」
その問いには、答えられなかった。
雨のような闇《やみ》が、月光の水煙《みずけむり》を貫《つらぬ》いて降り注いでいる。ミズーは煙《けむ》る闇の中、答えようもない問いを何度か反芻《はんすう》した。意志を持って進む。それは確固《かっこ》たるものではない。頼《たよ》れるものなど、なにひとつありはしない。
なにを信じようとしても、そこには疑念がつきまとう。疑念のない信念はない。その逆もない。明解な答えなどどこにもない。分かりやすい解説など誰《だれ》もしてくれない。得心《とくしん》などできない。一瞬《いっしゅん》一瞬違うことを考えながら、嘘《うそ》でもそれを決めなければならない。
(曖昧《あいまい》な世界に……現れた怪物《かいぶつ》。精霊アマワ)
それを、つぶやいた。
そして答えたのは、まったく違うことだった。ミズーはマグスに背を向けた。剣《けん》から手をはなす。なにも反応しない、あえてこちらを無視《むし》しているようにすら見えるジュディアの横を通り過ぎ、ようやく彼女は声を発した。
「あなたたちの助けはいらない。わたしもあなたたちを助けない」
「分かった」
アイネストの声が、背後から聞こえてくる――その声から早足で遠ざかっているというのに、それはいつまでも聞こえてきた。
「いや、聞く前から分かっていたかもね。ぼくとしても、君には触《ふ》れられないと分かっていたつもりだよ。組織としても、必要なのは手駒《てごま》にできる切《き》り札《ふだ》であって、それ以外のものじゃない。組織の力は、もっと扱《あつか》いやすい相手に託《たく》すことにする。幸いにして、絶対者はもうひとりいる……」
ミズーは答えずに、夜の扉《とびら》を進み続けた。
宿《やど》を出た時となにが変わったわけでもない。ただ、頭痛だけがなくなっている。
[#改ページ]
エピローグ
路上《ろじょう》は穏《おだ》やかな平穏《へいおん》に満《み》ちていたのかもしれないが、彼が通りかかればそれは自然と枯《か》れていった。その穏やかさが帝都《ていと》に普遍《ふへん》的にある秩序《ちつじょ》だとすれば、同じく彼もまた、普遍的にある秩序にほかならない――だが帝都の住人が、彼に慣《な》れることもない。それは分かり切ったことだった。慣れて欲《ほ》しいと思ったこともない。もしそう思うのならば、この仮面《かめん》を着けることはなかった。
ウルペンは黒衣《こくい》の仮面の裏から帝都の街並《まちな》みを眺《なが》めつつ、歩いていった。ごく普通《ふつう》にある、黒衣の定期探索《ていきたんさく》に見せかけて、ゆっくりとした足取りで。
実を言えば、こうして人前に姿を見せて歩いている黒衣が、なにかを探《さが》しているということはない――黒衣がなにかを求《もと》めたならば、それは何者にも姿を見せず、時間をかけず解決される。時折《ときおり》、黒衣が衆目《しゅうもく》に身をさらすのは示威行動《じいこうどう》だった。帝都に秩序があることを示すための。
だがウルペンが歩いていたのは、そうした役割《やくわり》からではなかった。黒衣が持つことはあり得《え》ない、ひとつの目的からだった。
(帰ってきた……)
ヌアンタット高地からの帰途《きと》には、十日間を要した。これは可能《かのう》な限りの強行軍《きょうこうぐん》ではあったのだが、ゆっくりしていられる事態《じたい》でもない。
本来なら、すぐにでも帝宮《ていきゅう》に参《さん》じなければならないところだろうが、それも後回しにして、急ぐ。
黒衣の黒装束《くろしょうぞく》を目にした時、帝都の人間たちは特別《とくべつ》な反応《はんのう》を示さない――ただ視線《しせん》をこちらに留《とど》めることもなく、なにも見なかったかのように振《ふ》る舞《ま》う。それは老若男女《ろうにゃくなんにょ》、誰《だれ》もが同じだった。親に習《なら》うというわけでもないのだろうが、自然とそうする。仮面の下から八年、それらの人々を眺《なが》めてきて、ウルペンはどうしてもひとつだけ、拭《ぬぐ》いきれない疑念《ぎねん》があった。
(もしここで仮面を取ったなら……彼らは消えてなくなってしまうのか?)
それは馬鹿《ばか》げた妄想《もうそう》だった。自分でも分かっていたが、消せない仮想《かそう》だった。
この帝都は、黒衣の面の下からしか見ることはできないのではないか。帝都の街中で仮面を外《はず》すことなどあり得ない。それは仮面を通して自分が彼らを見ているのか、それとも彼らが見ているのか。そんなことを決めることはできない。
音を立てずに、彼は苦笑《くしょう》を漏《も》らした。この空想《くうそう》の原因《げんいん》がなんなのか。思い出すまでもない。分かっていたことだった。
(八年前の……あの問いか)
独《ひと》りごちる。
(そして、あの答え)
御遣《みつか》いの言葉が始まった、あの時……
彼は視界《しかい》に入るものを見るともなしに眺めつつ、足を動かし続けた。
帝都は都市計画の理想だった。先帝《せんてい》が印《いん》の継承《けいしょう》を行ったのち興《おこ》した都《みやこ》で、その歴史は案外と浅い。目立った要害《ようがい》を持つわけでもないこの地が攻《せ》められたこともないのは、帝国がそれだけ恐《おそ》れられているということでもある。不滅《ふめつ》の都《みやこ》。整備《せいび》された区画《くかく》が必ずしも美景《びけい》となるわけではないが、それでも整理されたなりの機能美《きのうび》はあった。
白いものが多い。これも誰が決めたわけではないのだろうが、帝都の住人は装飾《そうしょく》に白を好んだ。白い屋根《やね》。白い壁《かべ》。白い柵《さく》。公園の敷石《しきいし》も、噴水《ふんすい》の造《つく》りも、潔癖《けっぺき》な白が目立つ。手入れに手間《てま》と費用《ひよう》のかかる木々が多いのもまた、帝都の財政《ざいせい》に極端《きょくたん》な余裕《よゆう》があってのことだった。道を行き交《か》う民衆《みんしゅう》に、猥雑《わいざつ》さはない――彼らは背景のように無害で、優《やさ》しく、無欲《むよく》に見えた。若い人間をよく見かけた。戦争は遠い昔《むかし》とはいえ、ちょうど彼らの祖父母《そふぼ》を奪《うば》ったままで、帝都住民の平均年齢《へいきんねんれい》を若くしている。だがそれも、修復《しゅうふく》されつつある頃合《ころあ》いだった。帝都にはもう二度と戦争の手は及《およ》ばない。
(永遠の都……)
不滅の都。
そこにいることが、永遠不滅の勝利をもたらす。
約束《やくそく》は確かなものだった。問題なく果たされている。
すべてにおいて、完璧《かんぺき》が約束《やくそく》されている。そうだ――
そこまでつぶやいた時、目の前に、白い球《たま》が見えた。
気づかなかった。そのボールが顔面にぶつかって、彼は足を止めた。痛いというより、戸惑《とまど》ったからだった。それは左側から飛んできたものだった。
無言のまま、立ち尽《つ》くす。ボールは足下《あしもと》に落ち、勢いを無くして転《ころ》がっている。悲鳴《ひめい》があがった。見やると、小さい子供とその母親とが、こちらを見て言葉を失っている。子供はおぼつかない手つきでラケットを抱《かか》えていた。子供の肩《かた》にかかっている母親の手が、この距離《きょり》で分かるほど怯《おび》えて慄《おのの》いている。
ウルペンは、嘆息《たんそく》した。悪いことをしてしまった――きちんと避《よ》けていれば、無用な恐怖《きょうふ》を抱《いだ》かせずに済《す》んだのだが。
ボールを拾って投げ返してやっても良かったのだが、それをすれば親子は逃《に》げ出したに違いない。ウルペンは無視して、歩《あゆ》みを再開した。ついていなかった。ボールが右側から飛んできたのであれば、当たる前に気づいたのだろうが。
(仕方あるまいな)
辺境《へんきょう》の医者《いしゃ》は、左眼の回復《かいふく》は絶望的だと断言した。
だが、
(運が良かったと考えるべきなのだろうな。この程度で済んで)
こんなことはこれからも続く。勝利を得るまで……終局《しゅうきょく》の時まで、続くだろう。
(ただし、この永遠の都の外で……だ)
帝都は安全なままでなければならない。
そして実際、安全なままであり続ける。
約束は果《は》たされるためにある。
さらに、速度を上げる。
彼が急いでいたのは、ひとつの目的からだった。
家へ帰る。
そのために、彼は黒衣としては不自然に見られることも構わず、早足《はやあし》で帝都を進んでいった。
雑然とした住宅が増える界隈《かいわい》に入って、彼はようやく進みを遅くした。
ある路地《ろじ》の行き止まりで、壁《かべ》と壁の間にあるわずかな隙間《すきま》へと入り込む。その先にある雑木林《ぞうきばやし》を、下草を踏《ふ》み分けていくと木々の陰《かげ》に、小さいが頑丈《がんじょう》な小屋があった。窓《まど》はすべて木戸《きど》にふさがれ、表には長らく手入れされていなかった汚《よご》れが壁を覆《おお》っているが、扉《とびら》には目立たないように錠《じょう》が下ろしてある。手の中に取り出してあった鍵《かぎ》を、そこに差し込む。数秒ほどの格闘《かくとう》の後、古い錠前が反応を示した。扉は完全には開かないようになっている。ウルペンは息を吸《す》うと、肋骨《ろっこつ》を沈《しず》め、身体《からだ》を横向きにして扉と柱の間に押し入った。
小屋の中は、見かけに比べれば広い――天井にガラス張りの明かり取りがあり、窓がなくとも内部は明るかった。二脚《にきゃく》の椅子《いす》、テーブル、食器棚には陶製《とうせい》の皿やマグも並べられている。奥の厨房《ちゅうぼう》をのぞいたのは、侵入者の存在を警戒《けいかい》したからだが、それが無意味なことだとも知っていた。帝都が安全である限り、この小屋もまた永遠に保証される。
台所からは勝手口《かつてぐち》があり、こちらはまともに扉が開くようにできているのだが、内部からしか鍵を開けられないようにできている。この出口は水や荷物を入れることにしか使われない。全体を見回して、彼は満足した。
内装《ないそう》には目立った装飾《そうしょく》もなかったが、小屋は決《けっ》して無味乾燥《むみかんそう》なものではなかった。というより、そうであって欲しいと思っていた。ウルペンは仮面を取ることも忘れて、小屋にあるもうひとつの部屋――寝室《しんしつ》への扉を開けた。寝室には天窓《てんまど》もないため暗いが、扉を開ければ光がそこに注《そそ》ぎ込む。たいしたものがあるわけではない。衣装棚《いしょうだな》と、ダブル用のベッドがあるだけだ。そして、そこに妻《つま》が寝《ね》ている。
帰ってきたことを、声には出さなかった。ただウルペンは寝室に入って、ベッドをのぞき込んだ。出かける時となにも変わらず、彼女はそこに眠《ねむ》っている。なにも変わらず、彼女は美しい。
いつものように彼女の髪《かみ》に――赤い髪に触《ふ》れようとして、彼は手を止めた。黒衣の服を着たままでは、それは不遜《ふそん》であると思える。彼は笑いながら、自分に言い聞かせた。まずは着替《きか》えるべきだ。それが帰ってきた夫《おっと》の義務だ。きっと彼女もそう思うに違いない。そういうものだろう。逸《はや》る気持ちを落ち着かせようと深呼吸《しんこきゅう》し、そして……
彼は目を見開いた。開かない左眼すらも、傷口を押し分けてなにかが沸騰《ふっとう》したかと思うほどに疼《うず》く。彼女の顔に、なにかがついていた。なにかで跳《は》ねた泥《どろ》のような、ほんの小さな汚《よご》れ。だが、泥のはずがない……彼女が外を出歩いたというのなら話は別だが。そんなはずはない。
ウルペンは慌《あわ》てて、彼女の身体を隠している毛布を引き剥《は》がした。最高級のアスカラナン綿《めん》――シルクの寝間着《ねまき》ほど愚《おろ》かなものはないと彼は信じていた――のネグリジェの下にある胸が、ゆったりと上下している。彼女は安らかな無表情で眠り続けていた。怪我《けが》もない。なんの変わりもない。
肩口《かたぐち》に傷跡《きずあと》もない。だがそこから出血したとしか思えない大量の血液《けつえき》が、そこに血だまりを作っていた。
血はどす黒く、闇《やみ》のように固まり、昨日や今日のものではないとすぐに知れた。少なくとも数日前のものだろう。彼女の顔についていた血の滴《しずく》――これも固まって、指で触れただけでぼろぼろに砕《くだ》けた。
八年前。彼が問うた言葉。そして、その答えが、まざまざと蘇《よみがえ》ってくる。
(俺《おれ》が手に入れられる確かなものがあるのか……奴《やつ》は、否《いな》と答えた)
「アマワめ……!」
仮面をむしって床《ゆか》に投げつけ、彼は罵声《ばせい》をあげた。
[#改ページ]
あとがき
@エンジェル・ハウリングのこと
えー。一巻で八月発売と言っておきながらなんで十月発売になっているのか。謎《なぞ》は深まるばかりですが、実は四巻も十二月発売じゃなかったりします。教訓《きょうくん》としては、できもしないことを宣言《せんげん》するなというところでしょうか。
あうー。ごめんなさいー。
今後は、月刊ドラゴンマガジンの新刊情報だけをあてにしてください……実はそのほかの情報って(ほら、本屋さんとかに貼《は》ってある新刊案内とかありますよね。ああいうの)、ぼくにしろ編集部にしろ、まるっきり関知《かんち》できなかったりするので。あと、ぼくのあとがきなんかただの妄言《もうげん》ですからもう無視しちゃってください。くすん。自虐《じぎゃく》モード。
Aとても恐《おそ》れていること
またこういうこと書いてあとで苦しくなるだけだって分かってはいるんですが。
密《ひそ》かに決めたお約束で、このシリーズでは巻末《かんまつ》に広告を入れないことにしようと思ってます。意味はありません。なんとなくです。一巻二巻で広告が入らなかったから、そうしてみようかなって程度《ていど》のノリなんですが。
んでまあ、それって、あとがきの枚数で調整することになるんですな。
どういうことかっていうと、普通《ふつう》、ぼくらが原稿を書く段階では、文庫にした際のページ数がどうなるのか正確には分かりません。原稿が完成した段階でもです。って書くと不思議《ふしぎ》に思われるかもしれませんが、組版《くみはん》の禁則処理《きんそくしょり》や、細かい体裁《ていさい》、あるいは校正での直しなどが入ると、行数やページ数が変わるというのは意外と頻繁《ひんぱん》に起こるものなのです。
つまり校正が終わらないと、最終的なページ数は把握《はあく》できないわけです。校正が終わった後で枚数調整に使えるのは、その後に書くこのあとがきしかないんですね。
このシリーズの一巻で例《たと》えると、一巻の総ページ数は二百四十ページ。本文《ほんもん》が終わるのが二百二十九ページです。十一ページ余るわけですが、最後に奥付《おくづけ》が入りますんで二ページ(一枚)それに使います。九ページ残るわけです。奥付の前のページは白紙でも問題ないので八ページでも良し。一巻のあとがきは八ページ書いてます。
で、ここであとがきを六ページしか書かなかったとしたら、残った二ページに広告を入れて埋めるわけなのですよ。
前回のあとがきにも書きましたが、ファンタジア文庫は一折《ひとおり》が十六ページになるので、あとがきも「から十六ページの間になります(え? 十六枚まるまる余るのは変だろうって? ファンタジア文庫は必ずあとがきをつけるという非情《ひじょう》な掟《おきて》があり、〇ページがあり得《え》ないのですよう)。今回は八ページ。まだ良いほうです。でもいつか担当さんに「今回は十六ページですよ」と言われる日が来るのだろうか……非常に怖《こわ》いです。十六ページも書くネタがあるわけないじゃんかあ。点呼《てんこ》か? 点呼するしかないか? それとも気絶して空白か?
まあ、そんな時が来たら、なに食わぬ顔で広告が入ることになると思いますが、秋田というのはそんな程度の奴だと思ってやってくださいませ。
B前回で味をしめたこと
↑こんなふうに無駄《むだ》に蘊蓄《うんちく》を書くと、思いのほかページが埋まるということを発見したのでした。
Cちょっと調子に乗ってみたりすること
いっそのこと、リクエストを募《つの》って蘊蓄コーナーにしてしまうというのはどうでしょう。
って誰に聞いているのだろうわたし。
DFAQなこと
というわけで編集さんに電話してみたところ、読者さんからの質問で多いのは、誤植《ごしょく》についての問い合わせなのだそうです。
元|写植《しゃしょく》オペレーターだったぼくなのですが、出版業界にはこんな格言があったりします。
『誤植は空気のように存在する』
いくらチェックしても、なくならないものなんですね。誤植って。我ながら、ホントにトホホなのですが。
入稿《にゅうこう》すると、印刷会社からゲラ(印刷したらこうなりますよーという見本のようなもの。この段階ではもちろん本の形にはなってませんが)を返してもらって、校正者、編集者、そして著者と、それぞれが校正を行います。文字量が多ければ多いほど誤植を見逃《みのが》す頻度《ひんど》は高くなりそうなものですが、意外と致命的な誤植というのは大きな見出しとか、短い文章に多かったりします。これは人間の脳が文字を意味で理解してしまうからで、ぱっと見で意味が通ると、細かいミスを見逃してしまうんですね。完壁、って書いてあると、完璧《かんぺき》という単語に見えてしまったりするわけです。
校正は一回だけで終わるものではなく、編集部と印刷所を何度か行ったり来たりします。初校《しょこう》、再校《さいこう》、三校《さんこう》というふうに数えていくんですが、ファンタジア文庫の場合、進行の都合や予算の関係上、再校くらいまでです。
文字量が違い過ぎるので比較として相応《ふさわ》しいかどうかは疑問ですが、たとえば辞書。これは性質上、どうしても誤植が許されないというのもあって、何年もかけて何百回も校正を繰り返します。それでもなお、製品には誤植が残ります。そんなわけで業界では、誤植はなくならないものだという神話があるわけですね。誤植に関する苦情というのはちょくちょく編集部にとどくようなのですが、実はどうにもならないものなんです。刊行ペースを今の半分にして、本の値段が上がっても良いというのなら、多少は誤植を減らすことができるかもしれないですが。
ていうか蘊蓄《うんちく》ってより、どうせこの本にも誤植はあるんだろうからって予防線張ってるだけじゃん……
Eふと気づいてしまったこと
蘊蓄なんか書いてあっても面白くもなんともないし……
というわけで、ほかになんかトピックないですかね?(聞いてどうする)
このところ、仕事に追われてこのへんのネタにできそうなことがなんにもないのです。
書くことがないのに八ページ埋めなければならぬ。面目《めんもく》ないです。
Fようやく思いついたこと
あ。そういえば外食に飽《あ》きて、このところ自炊《じすい》してます。
意外と続けば続くもんです。あまりたいしたものを作るわけじゃないんですけど。
でもなんだか、そろそろ自炊にも飽きてきて……
なに食べればいいんでしょ?
考えるのもめんどくさいし、なにも食べずに生きていけないものかなあと思う今日この頃だったりします。
ロボかな。ロボしかないかな。れっつロボ。
Gトラブルはいきなりやってくるのこと
とまあ、ここまで、終わり気分でのんびりあとがきなど書いていたわけですが、この期《ご》に及んでトラブル発生!
そうです。 nimda に……じゃなくて、まあ詳細《しょうさい》は書けないんですが、一種の連絡ミス。でも結構《けっこう》大事《おおごと》になるとこでした。
あう。ルーチンワークのように見えるかもしれないですけど、毎度ひやひやしながら仕事してるんですよ。これがまた。
Hそして、やっぱりエンジェル・ハウリングのこと
そろそろ最終ページです。よって駆《か》け足にて。
なんとかかんとか三巻。いろいろありましたが三巻。出てたらいいな三巻。出てなかったらどうしよう三巻。
次は四巻です四巻。三巻の次だから四巻。連載《れんさい》八話分を一冊にしてるもんだから妙にページ数が多いんだよね四巻。って、もう駆け足なんだかなんなんだか。
とにかく、次の巻末でお会いしましょうー。
二〇〇一年八月[#地から1字上げ]秋田禎信
底本:「エンジェル・ハウリング3 獣の時間 ―from the aspect of MIZU」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2001(平成13)年10月25日初版発行
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2009年05月14日作成
2009年12月07日校正
Shareで流れていたスキャン画像をOCRでテキスト化して校正しました。
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ16行、1行は約40文字です。
----------------------------------------
使用したWindows機種依存文字
----------------------------------------
「@」〜「H」……丸1〜丸9