エンジェル・ハウリング2
戦慄の門 ―from the aspect of FURIU
秋田禎信
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)人は、小賢《こざか》しくなく、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十二|歳《さい》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)定期的に狩り[#「狩り」に傍点]に来るたび、
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目次
プロローグ
第一章 フリウ・ハリスコー
第二章 スクウェア・ダンス
第三章 レッドライオン
第四章 サリオン・ピニャータ
第五章 ディスエンチャンテッド・メモリーズ
第六章 オーバートーン
第七章 スピットファイア
第八章 ジャンピングオフ・プレイス
エピローグ
あとがき
[#改丁]
プロローグ
フリウ・ハリスコー
人は、小賢《こざか》しくなく、達《たっ》することができるのだと思いたいんだ……
どうだろう? フリウ・ハリスコー。わたしの人生《じんせい》は過《あやま》ちに満《み》ちていた。こうして今、生きているその瞬間《しゅんかん》にも、ひどい間違《まちが》いを犯《おか》しつつある。すべてが八年前のことだと言うこともできる。だがそれは正確《せいかく》ではない。また誠実《せいじつ》でもない。わたしの知能《ちのう》に正確さは望《のぞ》めず、そして無論《むろん》、誠実な人間でもないのだろうが、わたしはまだ、希望《きぼう》を持っている。
あの日、あれを選択《せんたく》したのもまた、その希望のせいであったとするならば、それはなんと皮肉《ひにく》なことであるか……
悪意《あくい》に満ちたことであるか……
愚《おろ》かなことであるか……
卑劣《ひれつ》なことであるか……
だが。フリウ・ハリスコー。
人はそれと戦うものなのだ。小賢《こざか》しくなく、そこへと達するものなのだ。わたしはまだ、希望を持っている。
フリウ・ハリスコー。君は少なくとも、小賢しくはないだろう。
賢《かしこ》くもないのかもしれないが。君は若いのだから、気にすることはない。わたしの後悔《こうかい》は、君と出会ってしまったことだ。
君は容易《ようい》なる希望《きぼう》だった。わたしの過去《かこ》を打ち砕《くだ》く、最も安易《あんい》な武器《ぶき》になりかねないものだった。
わたしは許《ゆる》しを請《こ》おうとは思わない。それほどわたしは図々《ずうずう》しくはない。
フリウ・ハリスコー。わたしのこの思いを伝えるには、長い説明《せつめい》がいる。だがそれを費《つい》やすだけの時はなく――過去からの影《かげ》は迫《せま》り、わたしはもう行かなければならない――またそれだけの能力《のうりょく》が、わたしにあるだろうか? わたしが君に伝えられる言葉《ことば》とは、なにがあるだろう。
君はまだ大人《おとな》とはいえない。わたしが語らないことまで察《さっ》してくれることを望むことはできない。
黒衣《こくい》を知っているか?
それは過去《かこ》だ。わたしを追ってきた過去の、手足。
彼らが武装《ぶそう》していることに意味《いみ》はない。わたしは彼らの影《かげ》を感じるだけで怯《おび》えざるを得《え》ないのだから。彼らはわたしの望み得《う》るすべての悪意《あくい》だ。わたしは彼らを知っている。
フリウ・ハリスコー。八年前に、この辺境《へんきょう》へと、この村へと逃《に》げてきたわたしは君に出会った。
それはただの偶然《ぐうぜん》なのだろうが、わたしには意味のあることと思えた。
そしてそれが、悪意から為《な》る必然《ひつぜん》ではないことを祈《いの》った。
わたしは悪意を恐《おそ》れたのか? あまりにも深く、巨大《きょだい》なそれは、万人《ばんにん》を無視《むし》してひとりを圧殺《あっさつ》する。
善《ぜん》と悪《あく》という単純《たんじゅん》なものを、人は笑うのだが。その戦いは、宗教《しゅうきょう》とは別のところ、我々《われわれ》の手のひらの上にこそある。わたしはそれを知っているし、それが故《ゆえ》に祈らずにはいられない。
だが善悪《ぜんあく》は単純《たんじゅん》ではあっても、明快《めいかい》なものではなく、祈《いの》りはますますそれを曖昧《あいまい》にする。
思うに、我々《われわれ》が望《のぞ》むものというのは、突《つ》き詰《つ》めれば簡単《かんたん》なものであったはずが、望むほどに怪物《かいぶつ》のように変化《へんか》していく。善が正しくもなく、悪が正しくもなく。その両者《りょうしゃ》が均衡《きんこう》を保《たも》つことなど一瞬《いっしゅん》たりとてあり得《え》ず。
ああ、すべては正《せい》なのだ。すべては邪《じゃ》なのだ。
例《たと》えば殺戮《さつりく》。
あれは恍惚《こうこつ》と美しく、人の心を奪《うば》う。第三者《だいさんしゃ》までもが酔《よ》い、歓声《かんせい》をあげ狂喜《きょうき》する。それを取り上げられた平和状態《へいわじょうたい》では、人は鬱屈《うっくつ》するのだ。そこに正邪《せいじゃ》は、ひらたく存在《そんざい》する。だがそれが明確《めいかく》なものであると、誰《だれ》が言えよう?
これ以上、わたしとともにいれば、君は左目に、その光景《こうけい》を見るはずだ。わたしがそれを君に求めることになる。
それはどうなのだろう? 君の心はなにを見出《みいだ》すのだろう?
それをすべて飲み干《ほ》して、君はどんな言葉《ことば》を吐《は》くのだろう?
わたしには問いかけることしかできない。君は精霊《せいれい》ではなく、わたしは精霊使いではない。そして答えを聞くこともないだろう。わたしはもう君には会えない。
フリウ・ハリスコー。
これは別れの手紙なのだ。
[#改ページ]
第一章 フリウ・ハリスコー
(硝化《しょうか》の少女)
[#ここから8字下げ]
[#ここから教科書体]
人は、小賢《こざか》しくなく、達《たっ》することができるのだと思いたいんだ……
どうだろう? フリウ・ハリスコー。わたしの人生《じんせい》は過《あやま》ちに満《み》ちていた。こうして今、生きているその瞬間《しゅんかん》にも、ひどい間違《まちが》いを犯《おか》しつつある。すべてが八年前のことだと言うこともできる。だがそれは正確《せいかく》ではない。また誠実《せいじつ》でもない。わたしの知能《ちのう》に正確さは望《のぞ》めず、そして無論《むろん》、誠実な人間でもないのだろうが、わたしはまだ、希望《きぼう》を持っている。
あの日、あれを選択《せんたく》したのもまた、その希望のせいであったとするならば、それはなんと皮肉《ひにく》なことであるか……
悪意《あくい》に満ちたことであるか……
愚《おろ》かなことであるか……
卑劣《ひれつ》なことであるか……
だが。フリウ・ハリスコー。
人はそれと戦うものなのだ。小賢しくなく、そこへと達するものなのだ。わたしはまだ、希望を持っている。
[#ここで教科書体終わり]
[#ここで字下げ終わり]
凍《こお》るような大気に触《ふ》れる息は、そのまま結晶化《けっしょうか》して砕《くだ》けそうではあった。流れる視界に舞《ま》い、意識は巡《めぐ》り、肌《はだ》は震《ふる》える。
硝化《しょうか》の森は、ヌアンタットでしか見られない希有《けう》な自然のひとつであったが、それが高地の六割を軽く占《し》めるとなれば、貴重《きちょう》でもなんでもない。ヌアンタット高地の森林地帯が稀少《きしょう》だと言える理由はない。ただ需要《じゅよう》が大きすぎるため、それに対して森が与《あた》えてくれる恩恵《おんけい》が追いつかないということに過ぎない。
それが恩恵であるかどうかを疑問に思う者もいるらしいが――恩恵は恩恵だった。少なくとも、彼女にとって日々の糧《かて》ではある。
だが彼女には、そんなことはどうでも良かった。
この森を歩くことに苦労はない。歩くことを困難にする下草や蔓《つる》の類《たぐい》などは、仮に持ち込んだところで硝化の森では数分を待たずして朽《く》ち果てる。ここでは圧倒《あっとう》的な寒気《かんき》に耐《た》えられるような、通常の自然界においては無意味なほどの強さを持った少数の生命だけが生きることができた。言うまでもなく、人間という生き物はそれに含《ふく》まれていない。
あるいは、生きていないものだけがここに在《あ》ることを許される。砂、岩などの無機物《むきぶつ》。結局のところ、ここで生きられる一握《ひとにぎ》りの植物というのも、半無機化した結晶樹《けっしょうじゅ》だけだった。この森は、常に無機の方向に純化《じゅんか》している。透《す》き通るような砂。地面も凍っているせいで、ブーツの底が不愉快《ふゆかい》な引っ掻《か》き音を立て続けていた。
だが彼女には、そんなこともどうでも良いことに過ぎない。
彼女にとって問題があるとすれば、単にこのままでは、それほど長く待たずして生命活動が停止するだろうということだった――かじかんだ指を握っては開き、なんとか血液が循環《じゅんかん》することをさぼらせないよう努める。鼻の奥《おく》に激痛《げきつう》を感じずにはいられないこの寒気には、いつになっても慣《な》れることはない。
たっぷりした防寒服《ぼうかんふく》の中で身を縮《ちぢ》ませて、フリウ・ハリスコーは、凍《こご》えきった声音《こわね》でつぶやいた。
「寒い」
声は白く渦巻《うずま》き、かすれて消えた。
「お前は大げさだよ」
返ってきた声も似たようなものではあったが、いくぶん強く、野太い。
「寒いっ……死ぬ」
「大げさだ」
「人殺し!」
「大げさだ」
前を歩く男は、ただそれだけを繰《く》り返してきた。口を開くだけで、喉《のど》が痛くなるような気がするため言葉を止めて、フリウは音を立てて、防寒服の表面を叩《たた》いた――綿《わた》と空気を含《ふく》んだ服が、また多少は膨《ふく》れる。
凍えて涙《なみだ》も出てこないが、泣きたいような気分になってくる。と、男が振《ふ》り返らずにつぶやくのが聞こえた。いつもいつも、くぐもって聞き取りづらい、深い声音。口の中に針でも含んでしゃべっているような。
「これはただの寒さではない。生命を風化《ふうか》させ固定していく、巨大《きょだい》な空隙《くうげき》だ。人が踏《ふ》み入れて無事に済《す》む場所ではない……が、ここでしか捕《と》らえられないものがある。分かっているだろう?」
フリウは口を尖《とが》らせた。
「ケラニアん家みたいにさ、山羊《やぎ》の乳《ちち》でもしぼろうよ。絶対そっちのほうが割《わり》がいいってば」
「家蓄《かちく》を飼《か》うには土地と元手《もとで》が要《い》る」
「じゃあ上流から水でも運んできて売るとか」
「お前にその仕事ができるとは思えない。働かない者を食わせるような余裕《よゆう》はない」
「じゃあ、結婚《けっこん》でもするよ。知ってる? 村長《むらおさ》んとこのニィリがさ。相手探してるんだって。もうじき四十になるもんね」
「愛は、探すものではない。出くわすものだ」
男が肩越《かたご》しに振り向いたのは、苦笑《くしょう》を見せるためか……ともかくも、白い息が渦巻《うずま》いたのは、笑ったということだろう。実際は、口髭《くちひげ》に覆《おお》われた口元をうかがうことはできなかったが。ゴーグルと一体化したイヤーマッフルを直しながら、男はまた前を向いた。言葉を付け足してから。
「そして、愛のない結婚は悲劇《ひげき》だよ」
「……結婚したことあるの? 父さんは」
「いや。ただ、結婚する者たちをたくさん見てきた」
「それみんな出くわした人たちってわけ?」
「そうだな」
「ふうん」
うめきながら、フリウはその男の背中を見つめた。やはり同じような防寒服を着ているわけだが、そのサイズがまったく違《ちが》う。特に年齢《ねんれい》のことを考えれば、男はかなりの偉丈夫《いじょうふ》だといえた――百八十センチは越《こ》えるだろう。相応《そうおう》に横幅《よこはば》もあり、体重ならば自分の倍以上は軽くあるはずだが、男の足取りは機敏《きびん》だった。もとより硝化《しょうか》の森は生《お》い茂《しげ》るような下草もなく、憎《にく》たらしいほどに歩きやすい森だが、それを差し引いても、彼の足は速い。結晶化《けっしょうか》した地面に転べばたちまち肌《はだ》がずたずたに引き裂《さ》かれてしまうため、装備《そうび》は自《おの》ずと重くなる。実際フリウは、手足を二重に覆《おお》う防寒服にうんざりしていたが、彼はさらに、フリウならば中に入りこめるほどのバックパックを背負《せお》っている。それでも彼女より歩速が速く、数分に一回は声をかけて、待ってもらわなければならなかった。
彼女は、ため息をついた。息とともに体温が少し外に出ることすら、もったいないようにも思えたが。
十二|歳《さい》になった時、それがいったいなんの契機《けいき》なのかは分からなかったが、初めて父に、この森へと連《つ》れられてきた。以来二年間、定期的に狩り[#「狩り」に傍点]に来るたび、同じ不平をぶつけている気がする。今回、結婚というのは真新《まあたら》しい話題だった。もっとも、真に受けてもらうには、あと数年かかるかもしれない。
「どっちみち……」
フリウは、ぽつりとつぶやいた。我《われ》知らず、視界の閉じた左目に触《ふ》れようとして、はめているゴーグルに阻《はば》まれる。
「あんな村に一生いるつもりなんてないけど」
「なぜ?」
彼は、振り向いてこない。フリウは続けた。
「みんな怖《こわ》がってるし」
「それは仕方のないところだろうな」
「父さんは怖がらなかったじゃない」
「お前は六歳の時に、友達全員にひどい怪我《けが》を負わせたんだ。それは忘れてはならない事実だよ」
「……そうだけどさ」
しゃべりながらも、足を止めることはない。森はどれほど奥《おく》へ進もうとも景色《けしき》を変えることはないが、最奥《さいおう》部に近づくことには意味があった――奥へ行けば行くほど、大物を狩《か》ることができる。
彼は、特にどうということもない口調で、言ってきた。
「誰《だれ》もお前を怖がらないところに行きたいのか?」
「……え?」
聞き返す。彼の背中は、また遠ざかり始めていた。歩調《ほちょう》を速め、追いつく。なんとか、彼の次の言葉を聞くことができた。
「怖がらないから、好いてくれるというものでもないのだがな」
「でも、あたしと同じことができる人たちが、たくさんいる村があるって、父さん言ってたじゃない」
「村ではない。帝都《ていと》だ」
ゴーグルに制限《せいげん》された視界の中で、そのどうしても振り返らない男は、深く静かにその地名をつぶやいた――
「イシィ。イシィカルリシア・ハイエンド。遠い……遠いところだよ」
「…………」
その川を流れている透明《とうめい》の流れは、水ではなかった。細かく鋭《するど》い繊維《せんい》の集まり――手を入れれば骨までえぐられるような、危険な小川。こうしてのぞき込んでいる分には、どんな純水よりも澄《す》んで見えたが。
水面に映《うつ》る自分の顔を見つめながら、フリウは背後で、父がテントを組み立てる音を聞いていた。テントは完全|密封《みっぷう》された特別製で、骨組《ほねぐ》みとバネとで組み上がる、やけに複雑《ふくざつ》なものになっている。詳しくない人間がへたに手を出してうっかり骨の一本でも曲げれば、あとは枕《まくら》くらいにしかできない。こんなものでもなければ、地面に触《ふ》れることすら危険なこの森で夜を過ごすことはできなかった。
水面からこちらを見返してくる自分の顔。毎朝|鏡《かがみ》で確認《かくにん》する、というのは実は、一日に数回しか見ることがないとも言える。硝化《しょうか》の森に入ればすぐに傷《いた》んでしまうため、十二の時に、それまで長く伸《の》ばしていた髪《かみ》は切った。気に入っていたのだが、実際に切ってしまうまでは、それほど抵抗《ていこう》があるものだとは思っていなかった。
あまり特徴《とくちょう》のない眉《まゆ》。まだ少し子供のような丸みを残したほおの輪郭《りんかく》――自覚はしていた――、だがそれより自然と、注意は左目に向かった。瞳《ひとみ》のない左目に。
(怖《こわ》い……かな?)
自分の身体《からだ》に、そんなことを思うのは、我ながら不自然だとは感じていた。だが、感じるものは仕方がない。
白い眼球《がんきゅう》が、こちらを見返してきている。義眼《ぎがん》ではない。繊維の川面《かわも》には映らないが、その白いだけの眼球には血管《けっかん》もあり、乾《かわ》けば痛みを感じ、意識すれば上下する。人形の頭に空いた空洞《くうどう》のように恐《おそ》ろしげでもあったが、それはその目が自分の感覚を伝えることもなく、まるで他人の目のようだったからかもしれない。
……そしてそれは実際。彼女の身体《からだ》で唯一《ゆいいつ》、その眼球だけは、
「まあ、他人《ひと》のものなのかもしれないけど」
なんとはなしにつぶやいて、彼女はじっと目を凝《こ》らした。左目の中にはなにも映っていないが、その奥《おく》になにか影《かげ》のようなものが見えるように思えることがある。揺《ゆ》らめくなにかが……
「フリウ」
と、背後から呼びかけられた。
「……そこにつまずくだけで命はないぞ」
その警告《けいこく》が、小川そのものの危険性を言っているのか、それとも自分の顔を見ることを言っているのか、それは分からなかったが。
なんにしろフリウはそれに従《したが》って、川面から上半身を後退《こうたい》させた。父は既《すで》にテントを完成させ、荷物を中に入れている。入り口が大きく開かないようにできているため、難儀《なんぎ》しているようだった。
「手伝うよ」
今さらであることは分かっていたが、とりあえず声をかける。彼は案《あん》の定《じょう》、かぶりを振《ふ》ってみせた。
「もう終わる」
「じゃあ、終わるとこだけ」
「もう終わった」
「ちぇー」
口を尖《とが》らせ、うめく。息までもが白く尖って吐《は》き出されるのが見えた。
「なーんか信頼《しんらい》されてない感じ」
「人にはそれぞれ役割《やくわり》というものがある」
彼は言いながら、荷物の中から取りだした紐《ひも》付きのガラス玉を数個、こちらに差し出してきた。
正確にはガラス玉ではなく水晶《すいしょう》である。特殊《とくしゅ》な製法《せいほう》によるものらしい人造物で、宝石としての価値《かち》はないに等しいが。それを見て、フリウは顔をしかめた。
「こんなとこに、ろくな精霊《せいれい》いるわけないよ、そんなもん仕掛《しか》けてもさ」
「奥で狩《か》りの成果があるとは限らない。小さな精霊でも捕《と》らえられれば、小銭稼《こぜにかせ》ぎにはなるだろう」
「あたしのお小遣《こづか》いにしていい?」
「稼ぎたければ、次の小遣いでこれと同じものを買うべきだな。そして次に森に来た時に仕掛ければ、儲《もう》けになる」
「……それを何回|繰《く》り返せば儲けになんのよう。それでその儲けでまた水晶|檻《おり》を買うんじゃ、終わらないよ?」
「適当なところでやめればいい。無限《むげん》に続けるのは、確かに無意味だ」
「もー」
結局、彼の差し出した水晶檻――その紐付きの玉を受け取って、フリウは嘆息《たんそく》した。肌《はだ》を締《し》め付けるような森の寒さは今でも変わらない。テントの中で暖《だん》を取りたいという欲求《よっきゅう》を振《ふ》り払《はら》うにはそれなりの努力が必要だったが、時間はかからなかった。迷っているうちに彼の眉間《みけん》にしわが増えたようにも見えたが、それほどの時間ということもなかったはずだ。とりあえず、そう思っておく。
「理屈《りくつ》ばっかりでさぁ」
口の中でつぶやいて、テントから離《はな》れるように歩き出す。
足取り軽く――というわけにはいかないがなるたけ急いで、結晶化した木々の幹《みき》の間をすり抜《ぬ》けていく。空気までも鋭《するど》く凍《こご》えた中を足早に進んで、フリウは左右を見回した。森の中は静かで、生命と呼べるような騒々《そうぞう》しさはない。揺《ゆ》らぎも澱《よど》みもない。拡散《かくさん》しきった静寂《せいじゃく》があるだけだった。
とはいえ真実、本当にそれだけであったなら、
「……こんなとこに来る必要もないってことかな」
そんなことを独りごちて、手の中の水晶檻《すいしょうおり》を見下ろす。厚手の布が幾重《いくえ》にも重ねられた手袋《てぶくろ》の中で、それは鳥の巣で寄《よ》り添《そ》う卵のようにも見えた。
適当なところで、彼女は立ち止まった。水晶檻を全部左手に移してから、一個だけ右手で取り上げる。紐《ひも》の先を指でつまんで、二、三度ぶら下げて眺《なが》めてから、目を凝《こ》らす。
「通るならば、その道」
意識を絞《しぼ》り、意思《いし》が滑《すべ》り出すのを放置《ほうち》して、それをそのまま言葉にすると、それは選ばずとも選抜《せんばつ》された。
「開くならば、その扉《とびら》。吼《ほ》えるならばその口――」
念話《ねんわ》に応じて水晶檻の玉の中に、光の筋《すじ》が走るのが見えた。亀裂《きれつ》のように鋭かったそれが、次第《しだい》に大きく開いていく。
「開門式《かいもんしき》、詠唱《えいしょう》完了《かんりょう》♪」
玉すべてに光が灯《とも》ってからフリウは、満足して笑いかけた。紐をつまんだままくるりと回して、手近な結晶樹の枝に、それを結びつけようとし――
「……あれ?」
動きを止めた。突然《とつぜん》、ふっと光が消えたのだ。
「閉じちゃった?」
光は、そのまま扉だった。その扉が閉じるのは、今|唱《とな》えた開門式の逆、閉門式を唱えるか、あるいは檻の内部に獲物《えもの》がかかった時、それ以外にはあり得ない。
「ん……?」
右目を細めて、光の消えた水晶球をのぞき込む。白くぼやけた玉の中に、薄緑《うすみどり》の影《かげ》が揺《ゆ》らいだように見えた。
「…………」
しばし沈黙《ちんもく》をはさみ、フリウはきょとんとつぶやいた。
「こんなに早くかかるなんて、馬鹿《ばか》だねあんた」
と、水晶檻の中でふらふらと蠢《うごめ》く影に向かって、告げる。
「にしても、森のこんな浅いとこに精霊《せいれい》がいるなんて……迷い出てきたのかな」
まだ森に入って一日目に過ぎない。こんな場所で狩《か》りが成功したことなど、少なくともここ数年ではまずなかったことだった。
「ま、ラッキーってことかな。もーけた」
檻をポケットに入れようとした、刹那《せつな》。
ぴっ――
小さな音だった。この静寂《せいじゃく》の森の中でなかったならば聞こえなかったほどの。硬《かた》い物が弾《はじ》ける、心地《ここち》よい音。乾《かわ》いて美しい、だが、破壊《はかい》的な。
「……え?」
驚《おどろ》いて彼女は、再び水晶檻《すいしょうおり》を見下ろした。完全なる球形の表面に、ひびが入っている。
「嘘《うそ》っ!?」
とっさに、それを放《ほう》り出す。冷気を切り裂《さ》いて、小さな檻は宙を飛んだ。防寒服に包まれた両|腕《うで》で顔をかばい、目を閉じる。
そして。
閃光《せんこう》が瞬《またた》いた。
稲妻《いなずま》のようなものだった――ただし雷鳴《らいめい》のない。無音の輝《かがや》きが、冷たい空気を縦横《じゅうおう》に引き裂く。
光だけならば、無害なものだったろうが。
「ううっ――!?」
視界を灼《や》くような閃光が空間にとどまったのは、それに激震《げきしん》が伴《ともな》っていたせいでもあった。呼吸ができないほどの衝撃《しょうげき》。地面に張り付いているべきである自分の体重が、抗《こう》しきれずに浮《う》かび上がろうとするのを、彼女は絶望《ぜつぼう》的に自覚していた。
(冗談《じょうだん》っ……じゃあ――)
顔の前で組んでいた腕を解《ほど》く。閃光はまだそこに在ったが、高潮《こうちょう》の瞬間《しゅんかん》よりはいくらか弱まっていた。右目でそれを見据《みす》え、叫《さけ》ぶ。
(ないって!)
檻に閉じこめられた精霊《せいれい》が脱出《だっしゅつ》とともに放つ衝撃波は、分かってはいたが強烈《きょうれつ》なものだった。視界が傾《かたむ》いている。もう自分の身体《からだ》が宙を飛んで、一瞬後にはどこか――地面、結晶樹、まあどれでも大差はないが――に叩《たた》きつけられるのは間違《まちが》いない。着ている防寒服はある程度の防護《ぼうご》服をも兼《か》ねている。が、空中から勢いよく叩きつけられても、硝化《しょうか》の森の鋭利《えいり》な自然から人体を守ってくれるほどに万能《ばんのう》とは言えない。
空が見えた。
(仰向《あおむ》けに飛んでる……)
フリウはなんとなく、舌打ちした――そんな時間があるはずもなかったので、そのつもりになっただけではあるが。地面が見えないのでは、受け身も取れない。
だがそんなことより、問題があった。
(後頭部がなくなっちゃう!?)
頭蓋骨《ずがいこつ》が割れ、自分の脳《のう》の柔《やわ》らかい肉に鋭《するど》い砂が食い込む痛みを想像してしまい、後悔《こうかい》を覚える。たとえ想像だけでも、感じてはいけない痛みだ、そんなものは……
そう毒づいて、念糸《ねんし》を振《ふ》り解く。開門式を唱えるのと同じ要領《ようりょう》で、ただし今度は意識して強く心を開く。
意思の力。心の指先。念の糸。呼び方はなんでも構《かま》わなかったが。思うだけでなにかを動かす力。
念糸。それは、いつも意識の中にある、具体的なイメージだった――具体的であっても実体のない、意識の指先。彼女はその糸、実体のない思念《しねん》の糸を、自分の身体《からだ》に巻き付けた。
「行けッ!」
叫《さけ》ぶ。瞬間《しゅんかん》、彼女の身体が反転した。首筋に痛みが残るほどの勢いで。視界が入れ替《か》わって、冷たく無害な空ではなく、どんな刃物《はもの》よりも危険な硝化の森の地面が見えるようになる。
迷いは許されなかった。もう顔面がすれすれ、地面に触れようとしている。
手を突《つ》きだし、身体を丸める。あとは勢いに逆らわないよう、恐怖《きょうふ》を抑《おさ》えるために一瞬を我慢《がまん》する。自分の身体を襲《おそ》った衝撃《しょうげき》が、そのまま通り過ぎるまで。
止まったのは、あまりに唐突《とうとつ》だった。立て膝《ひざ》をつくような姿勢で、ぴったりと止まる。流転《るてん》する視野も、動きも、動揺《どうよう》も、なにもかも。
「…………」
数秒――いや数十秒かもしれない――を沈黙《ちんもく》し、フリウはただ、固定された視界を見据《みす》えていた。硝化の森の、どことも変わらない、荒涼《こうりょう》とした風景。それを見ている。
そして……
おそるおそる、ぱたぱたと身体の各所を触《ふ》れていく。痛みは感じなかったが、そのことは安堵《あんど》の材料とはならなかった。そもそも身体の一部がこそげ落ちた時、痛みを感じるのかどうかなど、経験にないことだった。
「セヘクの爺《じい》ちゃん」
彼女は、とりあえず現在、一番自分に近しいところにいるかもしれない人物に祈《いの》った。
「……爺ちゃんは、この森で転んで片|腕《うで》なくなったって言ってたっけ。村に帰るまで痛みは感じなかったって。偉大《いだい》な精霊狩《せいれいが》りだってみんな言ってたけど、そりゃ奥《おく》さんが四人もいたこと内緒《ないしょ》にしてたんじゃ早死にするよね、関係ないけど。うう」
だがいくら探しても、特に外傷《がいしょう》はないようだった――防寒服が、いくらか裂《さ》けている以外には。両腕。足。腰《こし》。背中。胸。順々に触れていって、特に想像を絶する[#「想像を絶する」に傍点]ような事態にはなっていないことが分かってくるにつれ、フリウは呼吸の速度をだんだんと落としていった。
最後、頭に触れようとする。これが最も大きな賭《か》けだった。決して見えない部位《ぶい》。それでいて、防寒服に覆《おお》われているわけではなく、最も無防備な。ひょっとしたら、地面で削《けず》れてばっくりと大穴が開いている可能性もある。震《ふる》える自分の指先が、ひょっとしたら直接脳に突《つ》き刺《さ》さるかもしれないと思いつき、彼女は動きを止めた。
「…………」
せっかく元にもどりかけた呼吸が、また忙《いそが》しくなる。恐《おそ》ろしく寒いのはまったく変わりないというのに、身体《からだ》が汗《あせ》をかいているのを自覚した。顔をしかめ、
「仕方ないじゃんか」
泣きたい気分で、彼女はうめいた。
「どうしようもないって、こういうことだよ。こんなところでずっと頭を水平にしていられるわけじゃないんだし……頭に穴が開いてたりしたら、傾《かたむ》けたらこぼれちゃうって、なんでそんなこと悩《なや》まなくちゃならないのよ」
かぶりを振《ふ》ろうとし、論外《ろんがい》だと気づいて中止する。
「まあ、セヘクの爺《じい》ちゃんの死に方よりはましかな……爺ちゃん、逆さ吊《づ》りだったもんね。どの奥さんがやったんだろうって、みんな首|傾《かし》げてたんだよ、爺ちゃん、あんたの葬式《そうしき》の時にさ」
「ほほう」
「仕方ないよ、だいたいなんでまた三十年もばれなかったんだか、そのほうが不思議だし――」
「……いやあ、でもそれって実は、分かる気がするかなぁ、うん、ホントに」
と。
耳元で聞こえた声に、フリウは息をのんだ。
振り向く。
「人間なんていうものはさ、つまり、騙《だま》されてるんだか騙されてないんだか、なんだかよく分からないんだな、これが。実際騙されていたって、本当にそれが騙されているのかどうか、曖昧《あいまい》ってぇわけだ」
それは、ほんの肩口《かたぐち》にいた。いつからそこにいたのかは分からないが、軽く腰掛《こしか》けるようにして。
フリウは反射的に、防寒服の裂《さ》け目から猛烈《もうれつ》な冷気が染《し》み込んでくるのを意識した――特に、それが平気で素足《すあし》をぶらぶらさせているのを見て。人形の衣装《いしょう》のような、精巧《せいこう》な編《あ》み上げのサンダル。青いマントはたっぷりとしていたが、暖気《だんき》よりは涼気《りょうき》を求めている格好《かっこう》なのは間違《まちが》いなかった。
手のひらに乗る程度の少年が、鼻をつんと上げて、なにやら訳知《わけし》り顔であとを続ける。
「それを知るのが英知《えいち》ってもんだが……まあ、ないものを期待しちゃいけねえってことだな。ありもので我慢《がまん》する。それを俺《おれ》は、鍋物《なべもの》の満足と呼ぶことにしてる」
「…………」
「ああそうそう。お前さん、頭に穴なんて開いてないよ。脳みそがこぼれることを極度《きょくど》に不安がってたみたいだが……それって持病《じびょう》かなにか? 伝染《でんせん》病だったら――うう――悪いけど、ちょっと用事があるもんでさ。おいとまさせてもらふぎゅっ!?」
続けられなくなったのは、フリウが――即座《そくざ》に、彼のことを捕《つか》まえたからだった。しっかりと両手で握《にぎ》り、それを顔の前に持ち上げる。
「……なにこれ?」
慎重《しんちょう》なつもりでおおざっぱな問いを、フリウは声にした。よく見ればそれは単なるミニサイズの人間ではなく、背中からは昆虫《こんちゅう》のような薄青《うすあお》い羽《はね》が生えている。マントの色は、この羽の色合いに合わせているのだろう。髪《かみ》も体毛もすべて、金属質の光沢《こうたく》を持った青色だった。ただし羽とは違って、どちらかといえば青黒い。顔の造作《ぞうさく》も、多少人間とは違ったところがあった。鼻が高い。先が尖《とが》って、虫のような印象を受ける。
だが。
ふと、なんとはなしに、フリウはつぶやいていた。
「……きれいな生き物だけど」
「あんがとよ」
特に考えがあって言ったわけでもなかったが、その生き物は、とりあえず満足したらしい。いきなり胴《どう》を握りしめられ、抗議《こうぎ》でも叫《さけ》んできそうだった表情を、さっと明るくした。照《て》れたように視線をずらしてから、
「俺かい? 俺はスィリー。名前は適当だよ。なんだったら、好きなようにつけてもらってもいいくらいだ」
「チャッピー」
「スィリーって名前、気に入ってるんだホントに。うん」
「スィリー?」
「ああ、まあそう呼びたいならそう呼べばいいさな。決して強要《きょうよう》はしねぇ。それが、俺たちのルールだ」
言い直すと、その生き物はすぐさま言ってきた――もったいつけて、手首を翻《ひるがえ》すような仕草で。
それを見て気づいた、というわけではなかったが……
はっと、フリウは目を見開いた。息が詰《つ》まるが、構《かま》わず叫ぶ。おかげで、声が裏返った。
「ひょっとして、人精霊《じんせいれい》!? なん、なんでこんな森の浅いとこにいるのよ!?」
「この森は、俺たちのもんじゃないか」
彼――スィリーは、あっさりしたものだった。
「どこにいようと、構わないってもんだと俺は思うね」
「まあ、そりゃそうだけどさ」
「誰もがどこをどう歩こうと、そりゃ構わんさってーのが、つまるところ生きるうえでの見切りってなもんだな。なるたけ他人には問わずに、他人から問われることを幸福《こうふく》と呼ぶわけだが――」
「ちょっちょっちょっ」
フリウは、あわてて口をはさんだ。
「なんであたし、精霊なんかに人生語られなくちゃなんないの」
「まあ気にすんな。ところでお前さん、いったいなにがなにやらどーなったんだか、俺にゃよく分からんのだが。なんだったんだ? さっきの」
「ううーん」
うめき声をあげて、先ほどの爆発《ばくはつ》が起こったあたりへと顔を向ける。結晶樹《けっしょうじゅ》が燃えることなどはないが、爆発の衝撃《しょうげき》は地面と木々とに、それなりの痕跡《こんせき》を残していた。自分がいるのは、そこから数メートルほど離《はな》れた場所で、ようするに、ここまで吹《ふ》き飛ばされてきたということになる。
「とりあえず、あたしもよく分かんないけど、推側《すいそく》ね」
「おう。頭を働かせるのは良いこった。奴《やつ》らすぐさぼりやがるからな」
「う、うん。あのね、これって水晶檻《すいしょうおり》っていうのよ」
フリウは言ってから、左手にいくつか持っていたはずの水晶檻を探そうと見回した――さっきの爆発で、適当に地面に転がっている。そのうちのひとつに向かってスィリーを差し出し、
「精霊《せいれい》を閉じこめる罠《わな》ね。精霊は念糸《ねんし》で紡《つむ》がれたサークルの中からは逃《に》げ出せないでしょ? これって加工された特殊《とくしゅ》な水晶で……人の念話――つまり念糸に反応するわけ」
「人間が念糸なんざ使えるわきゃないだろが」
「使えるのよあたしは」
話の腰《こし》を折られて、フリウは憮然《ぶぜん》と応じた。眉根《まゆね》を寄せて、付け加える。
「それに、どっかには、あたしと同じことができる人たちがたくさんいる村だか街だかがあるんだから」
「ほほう」
「で、それを儀式《ぎしき》化したものが開門式《かいもんしき》で……ええと、まあこのへんははしょるけど、とにかくそれを唱えると、この水晶の中に、精霊を閉じこめることができるの」
「うむうむ」
「あんたはそれに捕《つか》まったわけ」
「…………」
スィリーが、やや沈黙《ちんもく》した。なにやら考え深げに顔を伏《ふ》せてから、しばらくしてから、思い切り表情を険しくして、また顔を上げる。
小さな視線をこちらに向けて、彼は言ってきた。
「捕まった?」
「そうよ。罠にかかったんだもの」
「罠に」
「うん」
「かかった」
「そう」
「だもの!?」
「そこは別にどうでも」
「こいつぁ、重大問題ってやつじゃあねえのかい、お前さん? もしここに国境があれば国際《こくさい》問題だ。そーゆう問題だ」
ばたばたと手足を振《ふ》って――踊《おど》っているようにも見えたが、どちらかといえば、焼けた鉄板《てっぱん》の上での踊りといった様子だった――、わめき散らしてくる。
「ってーと、お前さんは、ハンターだな? 精霊《せいれい》を狩《か》って家畜《かちく》同然にこき使う、悪逆非道《あくぎゃくひどう》の奴隷《どれい》商人!?」
「そうなのかなぁ。いやまあ、よく分かんないんだけど」
「分からんじゃあ済《す》まされやしねぇ。いいか若造《わかぞう》。人道《じんどう》ってもんはあまりに細く、踏《ふ》み外したつもりがなくとも足がはみ出してるってな具合で厳《きび》しいもんだ」
頭を振り回して言ってくる精霊に、多少|気圧《けお》されながらも、フリウはなんとか言うべきことを探そうとした。思いついて、口に出す。
「あー……でもさ、あんたみたいな人精霊は売れないし。捕《つか》まえないよ」
「そうなのか? じゃあいいや」
「いいの?」
「いくら狩っても減《へ》るようなもんでないし。いいんじゃねぇか? あんな連中《れんちゅう》」
「うーん……」
とりあえず言葉に詰《つ》まって、フリウは話題をもどした。
「とにかく、あんな水晶檻《すいしょうおり》なんて、無形の精霊を捕まえるのがせいぜいだから。あんたみたいなのを閉じこめきれなくて、破裂《はれつ》しちゃったのね。精霊が脱出《だっしゅつ》に使うエネルギーって、すごいもんね」
と、気づいて、うめく。
「そもそもなんであんた、あんなのに引っかかるのよ。人精霊は頭が良いから、罠《わな》になんかかからないって父さん言ってたのに」
「それはあれだな。脇目《わきめ》もふらずに亜音速《あおんそく》で飛んでたからな」
「脇目もふらなかったら、前方には注意してるもんじゃない?」
「後方しか見てなかったからな」
「それは危ないわよ」
「俺たちが飛ぶのは無抵抗飛行路《むていこうひこうろ》だぜ。なんにもぶつかりゃしないの。って……」
スィリーはまた自慢《じまん》らしく鼻を上げ――
そして、言葉を止めた。
「ん?」
「なに?」
「んんー?」
「なになに」
目を凝《こ》らしてこちらの顔をのぞき込もうと、彼が首を伸《の》ばす。文字通り、三センチほどは伸びていた。空を飛ぶためには、このくらい伸びないと視界が確保《かくほ》できないのかもしれないが、ありていに言って気味《きみ》が悪い。
顔をそむけるのも無礼《ぶれい》かと思いできないが、とりあえずあごだけ引いていると、スィリーは、静かにこちらを指さしてきた。針のように細い人差《ひとさ》し指。
それが、自分の左目を指さしていることに、フリウは気づいた。
「瞳《ひとみ》がない。そいつぁ……水晶眼かい?」
「よく知ってるわね。念糸《ねんし》使いのことは知らなかったくせに」
多少|驚《おどろ》いて、フリウは目をぱちくりさせた。
スィリーは、はっと一声|吠《ほ》えてから、
「冗談《じょうだん》言うない。最上級の精霊《せいれい》だって閉じこめられるっていう、天然の奇跡《きせき》だろ? うちの長老たちも、暇《ひま》さえあればぐだぐだ言ってるぜ? 水晶眼に捕《つか》まりたくなければ、人間にゃ近づくなって。ああ、ところであれだ。ちょっと急用ができたようなんで、俺はもうそろそろ――」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。もう既《すで》に先客《せんきゃく》がいるから」
フリウは言いながら、それでもスィリーから手を離《はな》した。人精霊はバランスを崩《くず》すでもなく羽を広げると、羽ばたきもしないのにふわふわと宙に浮《う》かんでいる。
彼女は、ゴーグルの上から左目を隠《かく》すように手で覆《おお》って告げた。
「ひとつの檻《おり》に、精霊は一個しか入れないもの」
「おう。なんだ。まあアレか。つまらん檻に飛びこんじまった間抜《まぬ》けが、既《すで》にいるってーわけだな?」
「あんたも同類でしょ」
「おうおう。気を悪くすんなって。俺っちに急用があるってのは、ホントなんだわさ。俺はだな、部族の斥候《せっこう》ってやつで。こんな場所に飛んできたのも、ちと見てこないとならんものが近づきつつあると、我らが占《うらな》い機甲軍団《きこうぐんだん》様のお達《たっ》しで――」
「なんか調子良すぎ。すっごく失礼なこと言ったのよ」
「だから悪かった、この通り」
「だってひどすぎない? あたしが気にしてないわけないじゃん、こんな目のこと」
「ううう。いや俺はあれだぜ? お前さんみたいな小娘《こむすめ》に頭を下げなきゃならんいわれはないんだが、人を傷つけるのはいけないことだって教育係が泣くんだよこれが。ってよーく考えてみりゃ、罠《わな》を仕掛《しか》けて俺に迷惑《めいわく》かけたのはそもそも」
「あんた、こんな危ない森をよくそんな格好《かっこう》で飛べるよね」
「いや、さらっと話題変えるか、この小娘」
「だって、あたしの防寒服、破《やぶ》れちゃったし。こんなんじゃ森の奥《おく》になんていけないから今回の狩《か》りは失敗かな……父さんに怒《おこ》られちゃうよ」
「人生ってのは、挫折《ざせつ》と挫折と挫折と挫折。その隙間《すきま》に一個くらいは成功があるかもな。そんなもんだ」
腕組《うでぐ》みしてうんうんとうなずくスィリーは無視して、フリウはあちこちに散らばった水晶檻《すいしょうおり》を回収《かいしゅう》した。見るが、どれも目立った傷はない。もとより、そうそう傷つくものではないが。
「檻も一個|壊《こわ》れちゃったし……あんたが弁償《べんしょう》できるとも思えないけど」
「だからそもそもそれは」
「見に来なくちゃならなかったものって、なんのこと?」
「うわ。今度は核心《かくしん》に触《ふ》れる前に」
スィリーは不服そうではあったが、それでも答えてくれた。
「ええと、なんだったっけかな」
懐《ふところ》から紙切れを取りだして――それに書いてあるらしい。読み上げる。
「北東より来《きた》る。暴風《ぼうふう》の連《つ》れ子《こ》。湿《しめ》り気《け》の導《みちび》き手。破滅《はめつ》の時、蟹《かに》を踏《ふ》み砕《くだ》く……いや、退屈《たいくつ》なのは分かってんだ、ホントに。あの占《うらな》い馬鹿《ばか》どもに、もーちっと茶目《ちゃめ》っ気でもあればなぁ」
「なんか不吉《ふきつ》な占いね。破滅って」
「不吉じゃない占いなんて聞いたこともないけどな。先月、マリュア叔母《おば》さんの出産を予言しやがった時はだ、赤黒き――ああ、ええと、ごほげふん」
咳払《せきばら》いして、スィリーは紙をまた懐に収めた。
「まあとにかく、もう帰ったっていいんだが。なんもないみたいだしな。お前さんが暴風の連れ子だってんなら、話は別だが。どうやら多分、蟹も踏んでないみたいだし」
「連れ子というか、父さんの養子《ようし》だけど」
「なに? 親父《おやじ》さんは暴風か? 親父さんが来るとなると街中|大騒《おおさわ》ぎで、窓に板を打ち付けたりするか?」
「いや、そういうことはなかった……と思う。多分」
「ならいいんだが」
「なんかその程度のことでいいの? それ」
うめいた、その瞬間《しゅんかん》だった。
轟音《ごうおん》が響《ひび》いた。地面が揺《ゆ》れる。それほど大げさなことはなかったものの、静寂《せいじゃく》を保《たも》っていた森にはひどく大きく轟《とどろ》いたらしい。眠《ねむ》りを覚まされたように振動《しんどう》が、硝化《しょうか》の森をわずかに揺らしてみせた。
「…………」
「…………」
顔を見合わせる。
「なんかが……落っこちてきたような音だな?」
つぶやくスィリーに、
「父さんのテントのほうだ!」
フリウは叫《さけ》んで、駆《か》け出した。
再び静けさを取りもどした森の中を可能な限り急いで走り抜《ぬ》ける。走る速さで結晶樹《けっしょうじゅ》の枝に触《ふ》れればそれだけで致命傷《ちめいしょう》になりかねないが、一度通ってきた道でなんとか勘《かん》が働いた。すぐ横を、スィリーが飛んでついてきているのをちらりと見て、さらに急ぐ。
(破滅《はめつ》の時……)
なんとなく嫌《いや》なものを胸に感じて、フリウは顔をしかめた。
(父さん、蟹《かに》になんて似てないよね?)
ほどなくして、テントにたどり着く。
「父さん!?」
その大男は呼びかけられても、呆然《ぼうぜん》と、潰《つぶ》れたテントを見つめるだけだった。表情もなく、ただ突然《とつぜん》のことに驚《おどろ》いているらしい。テントは中央から完全に潰れて、この分では、中にある荷物も無事ではないだろう。こうなると完全に、村にもどるしかない。
だが、そんなことを思いついたのは、もう少し後のことだった。
「人……?」
テントを潰したのは、人間だったらしい。状況《じょうきょう》を見ると、その人間が空からテントに落下してきたということになる。あれだけの物音がした以上、数メートル程度ではきかない高度だったはずである。だが、テントを押《お》しつぶし、その残骸《ざんがい》からのぞく手足には、擦《す》り傷ひとつ見あたらない。
まったくの無事だったらしい……それは、少女だった。自分と同じ年頃《としごろ》に見える。長い髪《かみ》が細い手足にからみついている。およそ、少女が身にまとっていると言えるのは、下着以外にはそれだけだった。
長い沈黙《ちんもく》。そして。
「……潰れたテントって、蟹に似てねぇか?」
間の抜《ぬ》けたことをスィリーがつぶやくのが聞こえてきていた。
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第二章 スクウェア・ダンス
(森に踊《おど》る)
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フリウ・ハリスコー。君は少なくとも、小賢《こざか》しくはないだろう。
賢《かしこ》くもないのかもしれないが。君は若いのだから、気にすることはない。わたしの後悔《こうかい》は、君と出会ってしまったことだ。
君は容易《ようい》なる希望《きぼう》だった。わたしの過去《かこ》を打ち砕《くだ》く、最も安易《あんい》な武器《ぶき》になりかねないものだった。
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昼間の酒場《さかば》は静かなものだった――夜になっても大差はないが。このような小さな村では、多くを望んだところで無駄《むだ》だろう。何事もない一日が始まり、何事もない一日が過《す》ぎようとしている。そのことに不満を感じることはない。
店はもともとどうという売りがあるわけでもなく、店主自身も、この店が魅力《みりょく》に乏《とぼ》しいことは承知《しょうち》していた。この店で酒を買って、わざわざ自分の家で飲む村人も多い。そのことは、構《かま》わないと思っていた。むしろ、泊《と》まり客などが突然《とつぜん》ふらっと入ってくれば、そのほうが面食《めんく》らっただろう。
扉《とびら》が開いた。
「……あん?」
彼は顔を上げた。この時間に誰《だれ》かが入ってくることはないと思っていたが。
「サエリか? しゃあねぇな、どうした、またカミさんに追い出され――」
言葉が途切《とぎ》れる。入ってきたのは若い女だった。
緩《ゆる》いウェーブに縁取《ふちど》られた顔は、不自然なほど整《ととの》って見えた――人間の顔なら、普通《ふつう》はどこか崩《くず》れているものだ。細い顎《あご》、引き締《し》められた口元。眼差《まなざ》しにもさまようところがなく、ただ自然に前方を向いている。真紅《しんく》のマントに身を包んでいるため、格好《かっこう》は分からなかったが、履《は》いているブーツはかなり使い込まれているように見えた。肩口《かたぐち》に位置する、獅子《しし》の横顔を象《かたど》ったマント留《ど》めが、その女よりは表情豊かに牙《きば》をむいている。その瞳《ひとみ》が白く輝《かがや》いているようにも見えたが……
観察《かんさつ》しているうちに、女が口を開いた。
「人を捜《さが》しているのだけど」
それを聞いて――
店主はふと、自分が口を開けていることに気づいた。
なにもかもが八年前からだ。そんな気がしてサリオン・ピニャータは、大きく嘆息《たんそく》した。八年前のあの日から、なにもかもが駄目《だめ》になった。
世界は駄目になった。戦争も飢餓《きが》もない。大きな事件もなく、これから起こるという気配《けはい》もない。識者《しきしゃ》たちは、無用《むよう》の長物《ちょうぶつ》となった軍備《ぐんび》を中央府がいまだ解体《かいたい》しようとしないことをいつも糾弾《きゅうだん》している。その彼らの講義《こうぎ》を学生たちはバイトの片手間に聞き、あるいは睡眠《すいみん》時間とし、だからといって別に誰が困るわけでもない。優秀《ゆうしゅう》な人材を必要とする時代など、とっくに終わったのだから。文句の出る隙《すき》もないほど平和になって、文句が絶《た》えることはない。そして自分も駄目になった。
今度は苦笑《くしょう》する。
(まったくだ。なにもかもどうしようもない)
険《けわ》しい山道を、無言の連れ五人を先導《せんどう》して登っていく。まったく駄目だ。
(隊長も、よりによってぼくに押《お》しつけることないじゃないか……やっかい払《ばら》いしたい部下なんて、ほかにも大勢いるだろうに……)
声には出さずに毒づく。
辺境警衛兵《へんきょうけいえいへい》の制服は、お世辞《せじ》にも山登りに向いたものではない。カラーや装飾《そうしょく》の類《たぐい》をいくつか剥《は》ぎ取って楽にはしていたが。腰《こし》に吊《つ》った軽鋼製の警棒《けいぼう》の留め金がかちゃかちゃ音を立てるのも気に障《さわ》った。普段《ふだん》なら気づきもしないような物音に過ぎないが――ヌアンタット高地は人を過敏《かびん》にさせる。
(八年前からだ)
彼は決めつけた。いや、自分がこの土地で神経過敏になる理由は、明確《めいかく》に八年前が理由だったが。
なにもかもが八年前からだ。
『……つまり君が適任《てきにん》と思える理由はいくつかあるのだよ』
遠話機の呼び出し音が鳴り響《ひび》く隊長|執務《しつむ》室で、長年にわたって部下に同じことを繰《く》り返すことに慣れた男はそう言った。八年前にも聞いた覚えのある言葉を。
『まずは、君があの村を知っているということだ。君は非常に詳細《しょうさい》な報告書を提出《ていしゅつ》してくれた』
八年前の報告書。とても詳細。
だが、真相《しんそう》だけは書かなかった。隊長もそれは知っているはずだ。
『そして君は恐《おそ》らく、その時に件《くだん》の男の顔も見ている可能性が高い。男が現在、どのような名前を使っているのかそれは不明だが――君に同道《どうどう》する者たちが、それを見分ける術《すべ》を持っている』
同道する者たち。隊長はそう言った。
つい、苦笑《くしょう》したくなる。同道だって? 彼らはこちらを、雑用《ざつよう》係程度にしか思っていないだろうに。
最後に隊長は、微笑《ほほえ》んでみせた。
『なにより君は、中央府から来た人間だ。彼らに一番近い……我々の中では』
遠話機の音は、話が終わってもまだ鳴りやんでいなかった――そういえば、これが作られたのも八年前ではなかったか?
(愚痴《ぐち》に意味がないのは分かってるんだ)
八年前に中央府から来た。八年前。なにもかもが八年前。
これから向かう村に、最初で最後、足を踏《ふ》み入れたのも八年前。八年前のあの日。
『人殺し』
にやついた隊長ではなく、隻眼《せきがん》の少女がそう言ってくる姿を思い出し、彼は危《あや》うく立ち止まりかけた。肌《はだ》が粟立《あわだ》ち、喉《のど》の奥《おく》が急速に渇《かわ》く。
奇妙《きみょう》な少女だった。いや、左目に瞳《ひとみ》がなかったことではない――五|歳《さい》か、そこいらというところだったか? ろくに知能《ちのう》もなく、幻想《げんそう》と現実の区分けもはっきりしないその子供が、自分に対して言ったのだ。その状況《じょうきょう》を冷徹《れいてつ》に分析《ぶんせき》して。人殺しと。
(まだあの村にいるのか……あの子は)
それを思うと、ますます陰鬱《いんうつ》になってくる。あの頃《ころ》の若かった自分を、村人たちがまだ覚えているとは思えないが、なんとはなしに、あの少女だけは、自分のことを記憶《きおく》しているような気がしてならない。
(なにもかもが八年前からだ……運が全部なくなったんだ。それでも贖罪《しょくざい》としちゃ、甘《あま》すぎるのかもしれない)
すべてが八年前から。悪いことはすべて、八年前からだと思えてならない。
(もっとも――)
彼は、ちらりと背後を振《ふ》り向いた。自分のあとを無言でついてくる、黒装束《くろしょうぞく》に隙《すき》なく身体《からだ》を包まれた、五人の化け物たち。
(こいつらは、大昔からいたんだろうけどね……)
森はまたどうということもなく静寂《せいじゃく》へと返り、混沌《こんとん》の余韻《よいん》だけが低く響《ひび》いていた。結果としてあるのは潰《つぶ》れたテントと、ばらばらになってそこからのぞく荷物、折れた枝、そして――それらの残骸《ざんがい》に包まれるようにして眠《ねむ》っている、少女ひとり。
眠っている、というのは相応《そうおう》ではないだろう。フリウは眉根《まゆね》を寄せて、上空を見上げた。結晶化《けっしょうか》して、痩《や》せた木々の枝は視界を妨《さまた》げない。ゴーグルを通しても、くすんだ青色の空――まさしく凍《こお》り付いた色の――が大きく広がっているのが見える。この少女が、どこから[#「どこから」に傍点]落下してきたのか知らないが、空から落ちてきたならば、気楽に眠り込んでいるということでもあるまい。気絶《きぜつ》しているのか、死んでいるのかは分からないが。
ぽかんとしている父や、ふらふらと飛んでいる人精霊《じんせいれい》は無視して、フリウはとりあえずそれだけ確かめようと、潰れたテントの残骸へと一歩近寄った。ついでに、少女、というのも相応ではないと思いつく。その長い髪《かみ》の女は、自分と同い年くらいに見えた。十四、五というところだろう。
ぐちゃぐちゃに壊《こわ》された荷物の中で、それをまるで優雅《ゆうが》な寝台《しんだい》だとでも言いたげに、手足を伸《の》ばしてぴくりともしない。どこか大人びて見えたが、それは単に下着の趣味《しゅみ》の問題でしかなかったろう。下着……
フリウは、彼女の胸が規則正しく上下しているのを確認《かくにん》してから、顔を上げた。いまだ突《つ》っ立っているままの父に向かって、声をあげる。
「……なんでこんな格好《かっこう》なの? この人」
彼女が身につけているのは――両耳のイヤリングを別とすれば――下着だけだった。とりあえず、なんの確認というわけでもないが、自分が着ている防寒服を確かめてから、聞き直す。
「硝化《しょうか》の森にこんな格好で入ってこられるわけがないじゃん」
結晶化《けっしょうか》した砂や木、岩の凶器《きょうき》じみた鋭《するど》さは別としても、この極寒《ごっかん》に半裸《はんら》でそうそう耐《た》えられるはずがない。
「いやあ、こんなもんじゃないかね?」
ふらふらと、ゆったりした布の服をまとっただけのスィリーがつぶやくのが耳に入る。
「あんたみたいな精霊は、そりゃあ大丈夫《だいじょうぶ》だろうけどさ」
きょとんとしている人精霊に言ってから――気づいて、
「……この人も精霊だっていうの?」
「違《ちが》うんじゃねえか? だってどことなく人っぽいぜ。形とか」
「いいから黙《だま》っててよ」
ぴしゃりと告げて、父に向き直る。
髭《ひげ》の下からもぐもぐと――大男は体格に似合わない、小さな声音《こわね》で答えてきた。ひょっとすると、照《て》れているのかもしれないが。
「いや。落ちてきたときはこんな格好ではなかった」
「…………」
彼の返事を、しばし反芻《はんすう》してから、フリウはまた顔をしかめた。
「……父さんが剥《む》いたの? あのさ、一応あたしは身内だし、どっちかって言えば父さん派だけど、それはちょっといくらなんでも問題ありっていうか」
「違う」
即座《そくざ》に否定され、首を傾《かし》げる。
「じゃあ、誰が?」
「誰も」
「自分で? 犯罪《はんざい》?」
「誰も、と言っただろう」
顔色も変えず、ただ短い返事を返してくるだけというのは、今さら珍《めずら》しいことでもないが――フリウはなんとなく、彼の態度に苛立って問いかけた。
「だいたいさ、なに着てたっていうのよ」
周囲を見回しても、服らしいものはなにも落ちていない。大男はこちらを見ようともせず、じっと彼女を凝視《ぎょうし》している。
彼はそのまま、ぼそりと言ってきた。
「鎧《よろい》だ」
「…………へ?」
「鎧だ」
繰り返してくる。
言っている意味が分からず――だが言葉以外の意味など探しようもなく――、フリウは再び、落ちてきた少女のほうへと視線をもどした。好奇心《こうきしん》が強いのか、スィリーが彼女の上を旋回《せんかい》しながら観察している。
「鎧って、下着の上に着るもんだっけ?」
「普通《ふつう》の鎧ではなかった」
「どんなの?」
「一瞬《いっしゅん》で解《ほど》けて飛んでいった」
「はぁ?」
わけが分からずにいると、父が嘆息《たんそく》するのが見えた。どうしたものか、迷っていたようだったが。
「……なんにしろ、その格好で放置《ほうち》していると生命が危ない。靴《くつ》は予備《よび》があるが、防寒服はないな」
「毛布でくるもうか」
言ってはみたものの、潰《つぶ》された荷物の中からそれらを探し出すのは簡単ではなさそうだった。彼女がこの格好では、そこいらの地面に転がすわけにもいかない。
「どうするー?」
いまだ寝《ね》たまま動かない彼女に、手を伸《の》ばしかけて――
「……え?」
フリウは動きを止めた。
伸ばした手の先、触《ふ》れるか触れないかというところに。
巨大《きょだい》な三角形があった。
まばたきした一瞬に現れたとしか思えない。それほど唐突《とうとつ》に、それはあった。揺《ゆ》れるでもなく、流れるでもなく、空中に固定されて。銀と鈍色《にびいろ》の滑《なめ》らかな光沢《こうたく》が、模様《もよう》のように映《うつ》っている。
自分と彼女とを遮《さえぎ》る位置にあるそれをしばらく見つめてから、フリウは目をぱちくりさせた――もう一度まばたきをすれば消えるだろうと思ったわけではないが。どちらにせよ消えはしなかった。
「なにこれ――」
つぶやく間もない、ほんの刹那《せつな》。
その三角形の角度が、わずかにだけ変化した。ように思えた。
「フリウっ!」
叫《さけ》び声。そして、
「うっきゃああっ!?」
彼女自身も、声をあげた。横殴《よこなぐ》りの衝撃《しょうげき》が身体《からだ》を浮《う》かし、なにがなんだか分からないうちに視界が変化する。
まさしく、ほんの刹那。なにもできないうちに、その時間は終わった。自分の人生すら終わったのではないかと、ひやりとした思いを抱《かか》えつつ、いつの間にか閉じていたらしい目を開けると、彼女は誰かに抱きかかえられていた。見上げると、父が巨大な手で、小荷物のように自分を抱えている。
「父さん?」
「気を抜《ぬ》くな。ここは精霊《せいれい》の住処《すみか》だ」
そんなことをぼそりと言ってから、地面に下ろしてくれる。
例の少女を探すと、彼女はもとのままだった。その手前にいたはずの妙《みょう》な三角形はそこにいない。だが――
甲高《かんだか》い、かすれるような響《ひび》きが、耳の奥《おく》に残っている。
「なにが起きたの?」
やすりのような砂の上に慎重《しんちょう》に靴底《くつそこ》を踏《ふ》ん張らせながら、フリウはつぶやいた。一気に上昇《じょうしょう》した体温に、森の寒さも気にならなくなる。
父が、あたりを見回しながら答えてきた。
「飛んだ」
「なにが?」
「三角形だ」
「飛んだ……どこに」
「向こうにだ。そして消えた」
父が指さしたほうに視線を向けて。
「え?」
ぽかんと、フリウは口を開いた。どうして気づかなかったのか、それは分からないが。
硝化《しょうか》の森の結晶樹《けっしょうじゅ》――人が鍛《きた》える鋼《はがね》よりもさらに鋭利《えいり》な自然の凶器《きょうき》が、まるで雑草のようになぎ払《はら》われていた。三角形が「飛んで」いった結果そうなったのだとしたら、その飛行経路《ひこうけいろ》を一瞬《いっしゅん》たりと妨害《ぼうがい》し得なかったとでもいうのか、木々がまとめて数十本も、ざっくり切断《せつだん》されている。切り倒《たお》された幹《みき》が切断面からずれていたが、まだ地面には落ちていなかった。
見ているうちにゆっくりと、それらが滑《すべ》り落ち――砕《くだ》けたガラスを地面にばらまくのとまったく同じ耳障《みみざわ》りな音を立てた。
「どういうこと?」
切断面を見て三角形の飛び去った跡《あと》を推測《すいそく》すると――三角形は上昇して、そして視界から消えたらしい。どれほどの硬度《こうど》のものがどれほどの速度で衝突《しょうとつ》すれば、結晶化した樹木を切断できるのかは知らないが。
と。
「空に上がってから、あいつも無抵抗《むていこう》飛行路に入りやがったな……こうなると、俺《おれ》も安全じゃねえやな」
耳元で聞こえた声に、フリウは振《ふ》り向いた。スィリーがいつの間にか、そこにいる。腕組《うでぐ》みして、なにやら難《むずか》しげな顔で。
「精霊《せいれい》だぞ、あれ」
「分かってるわよ、そんなの」
しかめ面《つら》で言い返してから、フリウは聞き直した。
「あ、てことは、あんたの仲間よね。あれ、どういう精霊?」
「知らねってばよ。お前、この世に実在《じつざい》した精霊が何千種類いたと思ってんだ? あれ、何万種類だったっけか――別にどっちでもいんだけど」
「鋼精霊《こうせいれい》、というところか」
父が、うめくのが聞こえてきた。
「あれほど巨大《きょだい》な精霊が、こんな森の浅い場所にいるはずがない……誰かが持ち込む以外には」
そして、倒れたままの少女を見やる。
フリウは、聞き返した。
「彼女が?」
「精霊使いだ」
「…………」
静かに返されてきたその言葉に、フリウはゆっくりと唾《つば》を呑《の》み込んだ。喉《のど》が渇《かわ》いた。口の中が、ぱさぱさとする。
口の中でうめく。
「……彼女、も[#「も」に傍点]」
「うん?」
聞き返してきたのはスィリーだった。だが、そちらになにを答えるよりも早く、再び耳の奥《おく》に、なにか硬質《こうしつ》のものを削《けず》るような音が膨《ふく》れあがった。
正確には、精霊使い、などと誰が名乗《なの》ったとしても、そんなことには意味がない。精霊は水晶檻《すいしょうおり》に封《ふう》じることができる。そういった形で捕獲《ほかく》された無形精霊を動力《どうりょく》とした道具などいくらでもあるし、それを使えば誰でも精霊使いだといえる。通常、ハンターが狙《ねら》う精霊とはそうした、意思《いし》もなにもない無形の精霊であり、それより強大化した精霊など狩《か》ったところで使い道がない。
だが――本当にまったくないわけではない。
調教《ちょうきょう》なり訓練なりを施《ほどこ》された特殊《とくしゅ》な精霊を水晶に封じて持ち歩き、いざという時にそれを解放して使役《しえき》する者もいる。
結局のところ人間が精霊を制するためには念糸《ねんし》を使うよりほかにないため、それらの多くは念糸の能力を持つ者だった。念糸能力を有する者が中央府の管理を離《はな》れたところで生まれる可能性はほとんどないため、そういった者はたいてい中央の軍人かなにかだが。
こんな、辺境《へんきょう》の森に半裸《はんら》で落下してきた少女がそれだと言われても、納得《なっとく》しがたいものは大きかったが。
それでも。もはや地鳴《じな》りにも等しくなった轟音《ごうおん》を響《ひび》かせながら、虚空《こくう》より鋼鉄《こうてつ》の三角形が出現するところを見れば、疑いを持つことは無意味だった。
出現位置は、やはり、フリウらと、その少女との中間点――
「あの子を守ろうとしてる……?」
「誰からだよ」
と、スィリー。なお激《はげ》しくなっていく音に、フリウは耳当ての上からさらに両手で耳を押《お》さえていたが、彼は気楽に腕組《うでぐ》みしているだけだった。尖《とが》った鼻をつんと上げて、
「おっさんと小娘《こむすめ》と、人畜無害《じんちくむがい》な俺相手に、あっこまで尖《とが》りまくって吼《ほ》え猛《たけ》るこたぁねえと思うわけだが。人生ってのは、いくら尖ってみたところで人より余計に先へと進めるってもんじゃありゃせんよな」
「……お前だ」
「俺?」
「違《ちが》う」
結晶《けっしょう》の砂が舞《ま》い上がるほどに振動《しんどう》している轟音の中で、どうしてその低い声が聞こえてきたのかは分からないが――
確かに聞こえた。父だった。ゴーグルが曇《くも》って表情は見えないが、落ち着いた調子で繰《く》り返してくる。
「あの精霊《せいれい》が、なにかを恐《おそ》れているとしたら……フリウ」
「あたし?」
「お前の――」
はっとしてフリウは、ゴーグルの上から、左目のあたりを押さえた。耳から手を離《はな》したことで、鼓膜《こまく》を痺《しび》れさせるほどの大気の激震《げきしん》が響《ひび》いてくるが、そんなことは気にしていられない。
「やめて!」
とっさに叫《さけ》んでいた。考えもなく。後ずさりして、かぶりを振《ふ》る。
「……あたしのせいなの?」
「…………」
轟音《ごうおん》の中で、父が沈黙《ちんもく》したわけではない。口を動かすのが見えたが、声は聞こえてこなかった。
だが内容は推測《すいそく》できた。
「そうだ」
聞こえない声が、聞こえてくる。
「――――!」
フリウは地面を蹴《け》った。精霊に背を向けて、そのまま全速力で駆《か》け出す。ただでさえ走りにくい防寒服とブーツだが、まさか転ぶわけにはいかない。焦《あせ》りと自制とがせめぎ合い、背中がざわつくが。
どれほどの時間か。長時間だったはずはなかったが、とにかく息が続く間休むこともなく、鋭利《えいり》な森の中を振り返らずに駆け抜《ぬ》ける。激しい動悸《どうき》が肋骨《ろっこつ》を打つ。硝化《しょうか》した砂を蹴りつけるたびに響く音、顔を引き裂《さ》かんばかりの猛烈《もうれつ》な冷気。こわばる唇《くちびる》を手袋《てぶくろ》で押《お》さえて、ひたすらに身体《からだ》を前方へと押し出していく。突《つ》きだした木の根――刃物《はもの》と同じだが――が視界に入り、そこにすねを引っかける一瞬前《いっしゅんまえ》、彼女は足を止めた。踏《ふ》み越《こ》えてから、再び走り出そうとすると。
「おいおい」
気軽な声が、また耳元で囁《ささや》いてきた。初めからそこにいたとでもいうように、ちょこんと空中に居座って、
「若造《わかぞう》は分かっちゃいないね。傷ついて損《そん》することはいつだってある。だが泣いて走り去ったとこで、損した分は取りもどせやしないぜ?」
「なんの話よ」
走り出そうとした勢いをこちらに回して、叫《さけ》び返す。
「あたしが狙《ねら》われてるんなら、あたしが逃《に》げれば済むことでしょ。合理《ごうり》的な判断じゃない!」
冷気の中に唾《つば》を飛ばしてから、一度大きく息を整えた。それで吐《は》くべき言葉がなくなるが、かぶりを振《ふ》って付け加える。
「精霊《せいれい》があの子の物なら、彼女が目を覚ませば収まるだろうし」
彼女は立ち止まったついでというわけでもないが、あたりを見回した。背後には、もうテントも、それを潰《つぶ》した少女も、父も、精霊の姿も見えない。
精霊の放っていた鳴動《めいどう》も、かなり遠くなっているように思えた。もっとも、耳の奥《おく》にこだまする動悸《どうき》のほうが激しくて、聞こえないだけかもしれないが。
なんにしろ、スィリーの声は憎々《にくにく》しいほど冷静だった。
「あの嬢《じょう》ちゃんは、あと何時間か眠《ねむ》ってるかもしれんし」
と、肩《かた》をすくめ、
「多分あの大三角が追いついてくるまで十秒くらいだ」
澄《す》ました顔の人精霊に言い返す。
「真理《しんり》を知らないのね。逃げ続ける亀《かめ》に追いつける豹《ひょう》なんていないんだから」
「むう。正しい」
「というわけで、走るんだから邪魔《じゃま》しないでね」
「まあいいが……おんや?」
十秒かかったかどうかは知らないが――
唐突《とうとつ》に、鳴動が大きくなった。とっさに地面へ身を投げ出そうとし、思いとどまる。底のない谷底に飛び込むほうが、まだマシだった。少なくともそれならば、顔面のすべてをこそぎ取られて泣かずに済む。多分。
(……逃《に》げられないっ!)
フリウはそれだけ叫《さけ》ぶと、音の出所へと、漠然《ばくぜん》と向き直った。なにかが見えたわけではない。どことも変わらない森の風景。音が見えたならば、それが波紋《はもん》のように広がるのが理解できたかもしれない。もし見えたなら[#「もし見えたなら」に傍点]、その中心からなにが来るのかも分かったかもしれない。
見えたわけではなかった。だが、その一点を見据《みす》えて、フリウは念糸《ねんし》のすべてを解き放った。
音。は見えない。
視界に閃《ひらめ》いたのは、残像《ざんぞう》だけだった。いや、残像すら見えなかった。それはわずかに記憶《きおく》に残った痕跡《こんせき》でしかなく、おそらくそういったものが見えたのだろうという推測《すいそく》からきた妄想《もうそう》だったかもしれない。ただ視界が一瞬《いっしゅん》だけ銀色に覆《おお》われて、それが弾《はじ》けたように思えた。そして、耳の奥《おく》と脳幹《のうかん》に、激しい痛みを残す。
一閃《いっせん》の音。それだけを残して、速度を落とした鋼精霊《こうせいれい》が、旋回《せんかい》しながらあさっての方向へと飛んでいくのを見送って、フリウはとにかく、相手の勢いに負けないよう――ひらたく言えば驚《おどろ》いて転ばないよう――踏《ふ》みとどまった。相手が遠くに離《はな》れて、伸《の》びきった念糸が霧散《むさん》する。
「なんだぁ?」
「あいつの軌道《きどう》をそらしたの。念糸で」
スィリーの声に、フリウは答えた。側頭部《そくとうぶ》に手を当てて、少しでも痛みを振《ふ》り払《はら》おうとしながら、
「うまくいった。でもなんで追いついてきたのかしら。理論《りろん》的には追いついてくるはずないのに」
「うわ。馬鹿《ばか》だし」
「うっさい!」
叫《さけ》んでフリウは、結晶樹《けっしょうじゅ》の中を大きく旋回する鋼精霊を目で追った。意識さえ凝《こ》らせば、念糸《ねんし》でつかめないものはない。知覚できない速度であろうと、捕《と》らえることができる。不安はあったがうまくいった。
(も一度やれって言われても、できる。うん。死ぬことはないよね、これなら)
彼女は声に出さずうなずいた。
(……体力がもつ限りは)
ずきずきと疼《うず》く頭を押《お》さえて、付け加える。
破壊《はかい》的な音をお構《かま》いなしにばらまき、結晶樹を次々と打ち砕《くだ》いて、巨大《きょだい》な三角形は再びこちらへの攻撃《こうげき》コースにもどろうとしていた。
「どーするんだ?」
聞いてくるスィリーに、フリウは横目で視線を投げた。できればよそ見などしたくはなかったが。
「今のは念糸で触《さわ》っただけ」
「おう。なんか、ものすごくやたらと紙一重《かみひとえ》に見えたが」
「も一回触って、今度は捕《つか》まえる」
「できんのか?」
「できるわよ――」
言いかけて、フリウは言葉を止めた。なにかが変だった。気づいて、視線を――再びこちらへと先端《せんたん》を向けつつある鋼精霊《こうせいれい》のいる方向ではなく、別の一点へと向ける。
音が変わっていた。単に大きくなっているのかと思ったのだが、違《ちが》う。
まったく違う方向、いや三角形が構えているまったく逆方向から、同じ音が聞こえてきていた。そちらを見やると。
「……嘘《うそ》」
もう一体、同じ巨大な三角形が、先端をこちらに向けようとしていた。
それ以上の時間はなかった。呼吸も、決心も、祈《いの》りの言葉もなく。
その一瞬《いっしゅん》に理解できたことは――
フリウは、とにかく毒づいた。
(ああ……あたし、やけになってる……かな?)
そして、その場に尻餅《しりもち》をついた。
パウダーのような結晶《けっしょう》の砂。そこに強く腰《こし》と背中を押《お》し込んで、少しでも沈《しず》み込もうとする。防寒服が裂《さ》け、ぞっとする感触《かんしょく》が恐怖《きょうふ》となって神経を貫《つらぬ》いた。
同時――
見上げる視界の中で、同時に突進《とっしん》してきた鋼精霊が、正面から衝突《しょうとつ》するのが見えた。今度は残像ではなく、はっきりと。
そして、意図《いと》してのものかどうかは分からないが、仲間と激突した反動《はんどう》で、三角形の一方が、地面へと――つまりこちらへと落下してくる。
目は閉じなかった。身体《からだ》をひねって地面を転がる。轟音《ごうおん》。
再び立ち上がった時、見えたのは、ばらばらに千切れた防寒服の残骸《ざんがい》だった。そして、その向こうに、硝化《しょうか》の森の地面に突《つ》き刺《さ》さった鋼精霊《こうせいれい》。
全力で、それをにらみ据《す》える。
にらむことに意味があったわけではない――視覚は関係ない。どころか、五感も必要とはしない。念糸《ねんし》を扱《あつか》うには、強い意志があればそれでいい。
解き放った念糸を、動けない鋼精霊に巻き付ける。間をおかず、フリウは念じた。
(――壊《こわ》れろっ!――)
軋《きし》むような、破壊音《はかいおん》。鋼精霊の外見に変化はなかったが、それでも無理やり加えられた力に、三角形が斜《なな》めに傾《かし》いだ。歯を食いしばり、拳《こぶし》を握《にぎ》り、全身を震《ふる》わせて、渾身《こんしん》の力を込める。
が――
鋼精霊への加重《かじゅう》は、そこで終わった。いったんは歪《ゆが》みかけていたエッジのラインが、ゆっくりともどっていく。
自分の身体に返ってくる反動に激痛《げきつう》を覚えながら、フリウは悲鳴をあげた。
(……自分の意思で……硬度《こうど》を……増してるの!?)
突如《とつじょ》、口の中に鉄の味が広がる。歯を食いしばるうち、口腔《こうこう》内のどこかを噛《か》み切ってしまったらしい。手を当てると、顔の下半分が血だらけだった。鼻血がぼたぼたとこぼれている。
(抵抗《ていこう》が……強すぎる……反動が……)
念糸を解くしかない。だが解けば、相手を自由にしてしまうことになる。今度は地面に伏《ふ》せて身をかわすことはできない。
もっとも、今かろうじて動きを封《ふう》じているのも一体だけ。もう一体は視界のどこにもいない。今にも、背後で突撃《とつげき》態勢を整えているのかもしれない。
(どうすれば……?)
びりびりと、肌《はだ》の内側からなにかが弾《はじ》けようとする音が聞こえた。これ以上はもたない。あと数秒も経《た》たないうちに、全身が吹《ふ》き飛ぶ。
瞬間《しゅんかん》。
見えたものがあった。ずたぼろになった防寒服のポケットからこぼれたもの。
「――――!」
フリウは念糸《ねんし》を解いた。地面から、それを拾い上げる。
祈《いの》るような思いで、口早に唱《とな》える。振《ふ》り向くと、思った通り、もう一体の鋼精霊《こうせいれい》がいた。
それが突撃してくるのと同時に、手に持っているものを掲《かか》げる。輝《かがや》く小さな玉――光の扉《とびら》を開いた、水晶檻《すいしょうおり》。
すべては賭《かけ》だったが、賭けた以上は疑《うたが》うわけにいかなかった。決断《けつだん》が正しいと信じて、その一瞬を待つ。
突進してきた鋼精霊の姿が消失《しょうしつ》した。そして水晶檻の光も消える。
(封じた!)
だが、たかだか小規模な無形精霊を捕《と》らえるための水晶檻で、この鋼精霊を封じておけるはずもない。
すぐにも、ぴしっ――と音を立ててひび割れた水晶檻を、フリウは投げ捨てた。いまだ地面に突《つ》き刺《さ》さったままの、もう一体の鋼精霊に向かって。
混乱の中でブーツが脱《ぬ》げていなかったことを感謝しながら、身を屈《かが》め、逃《に》げ出す。
背後から、衝撃《しょうげき》の輝きが満ちて身体《からだ》を押《お》し包んだ。フリウは、ただ絶叫《ぜっきょう》した。内容は自分にも分からなかったが。
封《ふう》じられた精霊が、脱出《だっしゅつ》する際に発生するエネルギーは、想像を絶するものだった。そのことが、精霊を「狩《か》る」ことを商売として成立させる要因《よういん》となっている。人間には、これほどのエネルギーを無償《むしょう》で造り出すことなどできはしない。
大爆発《だいばくはつ》を背に、フリウはとうとう目を閉じた――抗《あらが》いようもない、光と力の渦《うず》の中で。転ぶだけで命がないこの森で、自分の身体を自分で操《あやつ》ることができなくなれば、それはそのまま死を意味した。
(ああ、駄目《だめ》だったよ、セヘクの爺《じい》ちゃん)
フリウはうめいた。遺言《ゆいごん》のつもりで。誰に聞かせることもできそうにはなかったが。
(もう一度目を開けるよ。そしたら、最後に見るのはきっと良い光景だよね? だって最後なんだから――)
思いのほか素直《すなお》に、まぶたは開いた。だが、そこに見えたのは、漠然《ばくぜん》とした良い′景ではなく、眼前に迫《せま》る結晶樹《けっしょうじゅ》の幹だった。
「ふんぬっ!」
次の瞬間《しゅんかん》。
奇跡《きせき》的に前に出ていた自分の足が、その幹を踏《ふ》みつけた。頑丈《がんじょう》なブーツの底が、鋭利《えいり》な凶器《きょうき》を受け止める。
「…………」
しばらくして。
右足を結晶樹の幹に、左足で地面を踏みしめた格好で止まっている自分の身体《からだ》を、フリウはゆっくりと見下ろした。
ほとんど原形をとどめていない防寒服。とにかく血まみれで、まだ鼻血も止まっていない。だが……
ぺたぺたとあちこちを触《さわ》って、彼女はつぶやいた。
「……無傷《むきず》?」
「ん? 悪運《あくうん》か?」
また相変わらず軽い調子で、スィリーが言ってくる。人精霊《じんせいれい》はやはり、いつの間にか視界の隅《すみ》を飛んでいた。
とりあえず、フリウはうなずいた。
「悪運でもなんでもいいわよ。なんとかなったし」
大きく足を上げた姿勢そのままで、背後を――大爆発《だいばくはつ》を起こした爆心のほうを、恐《おそ》る恐る振《ふ》り返る。
「なんとかなったよーだな」
だが、スィリーはなんということもない口調で付け加えてきた。悪気はないのだろうが。
「……で、残った奴《やつ》はどーやって退治《たいじ》するつもりなんだ? お前さん」
「え? ああうう。どしよ」
爆発を間近で食らった鋼精霊は、さすがに大きくひしゃげ、行動する力を失っているようだった――が。
もう一体。水晶檻《すいしょうおり》から脱出《だっしゅつ》して爆発を発生させたほうの鋼精霊は、まったく無傷でそこにいた。
しばらく、にらみ合い――フリウは、はっと思いついた。
「あ、そうだ! あんた入ってよ。今度は」
「ほほう。なかなか悪くないアイデアだ。時に一度、生命の価値と人権ってーものについて語り合うつもりはないか?」
「そーね。確かにあんたが脱出する時の爆発くらいじゃ効《き》きそうにないし……」
「気のせいか、およそ人権とは一切《いっさい》の関係がないあきらめ方《かた》に聞こえるが」
と――
はっきりした、涼《すず》しい声が響《ひび》いた。
「カリニス! エング!」
それまで激しく森を揺《ゆ》らしていた轟音《ごうおん》が、それを合図に消える。
それだけではなかった。鋼精霊《こうせいれい》二体。そのものも、瞬時《しゅんじ》に消え失《う》せる。
「…………え?」
目をぱちくりさせて、フリウはあたりを見回した。再び静寂《せいじゃく》へともどった硝化《しょうか》の森。結晶樹の間から、ぬっと、大きな人影《ひとかげ》が現れる。
「…………」
父の腕《うで》に抱《だ》きかかえられ、まるで姫君《ひめぎみ》のような仕草《しぐさ》で細い腕を伸《の》ばして
さっきまで眠《ねむ》っていたあの少女が、今は澄《す》んだ瞳《ひとみ》をふたつ輝《かがや》かせながら、こちらを見つめてきていた。
店主としては喜ぶべきことなのだろう。屋号《やごう》すらないこの宿に、いっぺんにこれだけの客が来ることなど滅多《めった》にないことだった。かつてはハンターでにぎわったこの酒場も、もうすっかりさびれてしまった。無遠慮《ぶえんりょ》で他愛《たあい》ない大声の会話も、大物を仕留《しと》めた祝いだと言っては赤ら顔で金貨を床《ゆか》にばらまく、明日を知らないあの連中も、今となってはこんな村に帰ってくることはない。
(あのセヘクの爺《じじ》いも死んじまって、妙《みょう》なことばかりが起きやがる)
現れたその若者の顔を見ながら、彼はぼんやり考え込んでいた。
(それで、とうとうこれかよ)
その若者が、というより、彼が引き連れてきた連中のほうだった。問題は……
「いやあ、ですから、ぼくを含めて六人。部屋を用意してもらえれば。ええ、中央の命令なので、払《はら》いは間違《まちが》いないですよ、いや本当に」
サリオンだかなんだか、そんなような名前を名乗ったその若者は、制服からすぐに、ふもとの辺境警衛兵《へんきょうけいえいへい》だと知れた。とにかくこちらがずっと黙《だま》っているというのに、しゃべりたくて仕方ないらしい。もっとも、あの連中とずっといっしょにいたのでは、無理もないことなのだろうが。
「余計な問題を起こすつもりではない……と思いますよ、彼らも。彼らの目的についてはぼくも詳《くわ》しくは知らされてませんが、とにかく人捜《ひとさが》しだとか。ええ。たいしたことではないでしょう?」
酒場に入ってきたのはこの若者ひとりだけだった。となると、やっかいな連中は、宿の前で待っているわけか――思いついて舌打ちする。こんな小さな村の中で評判《ひょうばん》を気にしても詮無《せんな》いことだが、また子供に嫌《きら》われることになる。
目下《もっか》の心配は、そのことだった。あの忌々《いまいま》しい事件のせいで娘《むすめ》を失ってからの数年間。その年月の半分を酒|浸《びた》りで過ごし、その生活から抜《ぬ》け出すのにもう半分を費《つい》やした。村の学校で子供たちに遊びを教えるようになって、ようやくなついてくれる子もできたというのに……
「ここに泊《と》めてもらえなければ……彼らを――よりによって彼らを――野宿《のじゅく》させなければならないんですよ? そんなのは、誰にとっても良いことではないと思うでしょう」
若者の言葉など、ほとんど聞いてはいなかった。
(まったく……なんでまた一度に、七人[#「七人」に傍点]も客が集まるんだ? 今日って日に、なにか特別なもんがあるわけでもないだろうによ)
既《すで》にひとりの客を泊めている二階を見上げて、店主は、この生意気な若造に、あと三分はしゃべり続けさせてやろうと決心していた。
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第三章 レッドライオン
(真紅《しんく》の獣《けもの》)
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わたしは許《ゆる》しを請《こ》おうとは思わない。それほどわたしは図々《ずうずう》しくはない。
フリウ・ハリスコー。わたしのこの思いを伝えるには、長い説明《せつめい》がいる。だがそれを費《つい》やすだけの時はなく――過去《かこ》からの影《かげ》は迫《せま》り、わたしはもう行かなければならない――またそれだけの能力《のうりょく》が、わたしにあるだろうか? わたしが君に伝えられる言葉《ことば》とは、なにがあるだろう。
君はまだ大人《おとな》とはいえない。わたしが語らないことまで察《さっ》してくれることを望むことはできない。
[#ここで教科書体終わり]
[#ここで字下げ終わり]
鏡《かがみ》に映《うつ》った自分は、紛《まぎ》れもなくいつもの自分だった。数え上げるように確認《かくにん》して――何度も確認して――、そして納得《なっとく》する。間違《まちが》いない。なにひとつ間違えていない。
「鏡といって思い出すのはひとつだけだぁな。こんな質問《しつもん》をしたとする。大人と子供の違いはなんだと思う?」
後ろから聞こえてくる声は聞き流して、フリウはじっとその鏡をのぞき込んだ。鏡面《きょうめん》には、自分によく似た少女の顔が映っている。寝起《ねお》きのため、まぶたが開ききってはいない。寝癖《ねぐせ》はなぜか、ついていたためしがなかったが。一度外に出て顔を洗ってきたというのにまだ眠気《ねむけ》は消えていなかった。
「おっと。卑猥《ひわい》なことを考えちゃあいけねぇな。ひょっとして答えは、鏡の世界を信じているかいないかだ、かもしれないもんな?」
手を広げれば、どの家具《かぐ》にも手がとどく――実際にはそうでもないだろうが、そんな気にはさせてくれる、せまい部屋。明かり取りの小さい窓しかないせいで、余計《よけい》に息苦しい。もともとひとりが住むように建てられた家に、無理やり付け加えられた部屋なのだから、こんなものかもしれないが。子供の頃《ころ》はともかくとして、身体《からだ》が大きくなってさすがに手狭《てぜま》になってきた。
(今度の狩《か》りがうまくいったら、部屋を広げてもらうつもりだったんだけどな)
ぼんやりと考えて、嘆息《たんそく》する。朝のため息は良いことではない――そう思うが、だからといって悩《なや》みの種が尽《つ》きるわけでもない。
(結局|成果《せいか》はなかったし。防寒服《ぼうかんふく》を壊《こわ》しちゃったし。あ、テントもか。儲《もう》けどころじゃなかったしね。それに……)
それだけでは済まなかった。今回の狩りは。
「むーう」
うめく。鏡の中にいる自分の口が上向きに尖《とが》るのを見て、指先でそれを直す。
(ま、たいしたことじゃないよね。お客が来たって思えばさ)
フリウは思い切るつもりで、カーテンがわりに窓枠《まどわく》の上にかけてあった服を取った。ついでに、肩越《かたこ》しに背後を見やり――こちらの返事を待つ体勢でじっとしている人精霊《じんせいれい》に、頭から毛布をかぶせる。その隙《すき》に着替《きが》えてから、脱《ぬ》いだ寝間着《ねまき》を丸めて抱《かか》えると、鏡の下に置いてあった眼帯《がんたい》を取り上げた。
また、鏡の中をのぞく。自分の顔。自分を見返してくる丸い瞳《ひとみ》と、対《つい》になる位置には銀色の眼《め》があるだけだった。なにも見えず、そしてなにも映さない白い眼球《がんきゅう》。眼帯を巻き付け、その左目を覆《おお》って、彼女はうなずいた。
「よしっ」
一声かけて、部屋から出ようときびすを返す。
人精霊に引っかかり、幽霊《ゆうれい》のような形で宙に浮《う》いていた毛布を引き剥《は》がすと、羽の生えた手のひら大の精霊は、目隠《めかく》しされる前とまったく変わらない様子でじっとしていたらしかった。
不思議《ふしぎ》そうに、なにやら言ってくる。
「……あんれ? さっきの話のどこが面白《おもしろ》いのか、いちいち説明せにゃならんのか? おい、待てって。ところで朝の挨拶《あいさつ》してないんじゃないか?」
彼の横を通り過ぎ、フリウは建て付けの悪い扉《とびら》を押《お》し開けて廊下《ろうか》に出ていった。
「人間関係で重要なのはだ。まずは挨拶、そして金だ」
そこは二階――正確にいうならば、屋根の上に建てられた小屋というところか。なんにしろ、そこはすべて彼女のものだった。というより安普請《やすぶしん》が祟《たた》ってか、床《ゆか》が父の体重を支《ささ》えきれそうにない。もとより、彼がここに登ろうとしたこともないので分からないが。
「挨拶は第一印象を決める。金はその関係を長続きさせる。そういうことだわな?」
そのため、廊下といっても通路としての意味はなく、単に、部屋を出てから階下に下りるための穴が開いているだけである。縄《なわ》ばしごを使ってそこから下りると、
「不思議なことに、金を惜《お》しまない奴《やつ》はただの阿呆《あほう》だが、挨拶を惜しむ奴は馬鹿《ばか》だと言われる。愛想《あいそ》が無料《ただ》だと信じてるわけだな」
「あのさー」
家の裏口に下りながら、フリウはうめいた。すぐ近くを、ふらふらと人精霊《じんせいれい》が飛んでいる。
「あんたってひょっとして、黙《だま》ってるってことができないの?」
「努力はしてるんだが」
それらしく難しい顔つきで腕組《うでぐ》みなどして、スィリーが答えてくる。が、すぐに我慢《がまん》しきれなくなったのか、ほとんど間合《まあ》いも取らずに付け足してきた。
「……まあこいつも、言うだけ無料だと信じられている慣用句《かんようく》ではある」
「だからさー」
軽く頭を抱《かか》えるが、無駄《むだ》だとは分かっていた。大きく息をつこうとして、やめておく――朝の嘆息《たんそく》は縁起《えんぎ》が悪い。それ以前にスィリーに、そいつも無料だよなと言われる自分が予想できたせいでもあったが。
「この三日間――森で会った時から。ずーっとひたすらしゃべり続けてなんか頭の上を飛んでるけど。そもそもあんたって、なんでここにいるの?」
「ん? 哲学《てつがく》的な議題《ぎだい》か? あれだな。そうなると答えはひとつだ。なんとなくだな」
気楽につぶやく彼に、フリウはかぶりを振《ふ》った。
「そうじゃなくて、部族の斥候《せっこう》だとかなんとか言ってたじゃない。帰らなくていいの?」
「斥候は俺《おれ》ひとりでないし。構わんだろう」
「まあ、あんたが構わないのなら、あたしがどうこう言うことでもないけど」
フリウは言ってから、首を傾《かし》げてうつむいた。眉間《みけん》に力を入れて、独りごちる。
「……でも、あたしが飼《か》った動物って、片《かた》っ端《ぱし》から死んじゃうのよね。大丈夫《だいじょうぶ》?」
「むう。それは……健康に注意しておこう。ところで、いま妙《みょう》な単語を聞いたような気がするが気のせいか? 飼う?」
「なんか最近寒いねー」
と、半眼《はんがん》で顔の前まで近寄ってきた人精霊《じんせいれい》から視線を外し、裏庭を見回す。
先ほど一度、顔を洗うため井戸《いど》を使おうと出ているため、特に今さら変わった部分を探そうと思ったわけでもない。庭といっても――たとえば村長の屋敷《やしき》のような――囲《かこ》いがあるわけでもなく、どこからどこまでが裏庭なのか区切りもない。それでもこのあたりが自分の家の裏庭だと分かるのは、その井戸があるおかげだった。村にふたつしかない井戸のひとつが、ここにある。八年前に、父がこの村に来た時にいきなり掘《ほ》り当てたものだ。水量が乏《とぼ》しいためあまり使えないが、ふたり暮《ぐ》らしになら十分に足りた。
その井戸の横に置いてある洗濯物《せんたくもの》入れの蓋《ふた》を開け、丸めた寝間着《ねまき》を放《ほう》り込んでから、つぶやく。
「水も冷たかったしさ。春なのに」
「硝化《しょうか》の森が広がりつつあると、占《うらな》い機甲軍団《きこうぐんだん》は言ってたけどなぁ」
「ふーん」
「だが不動産屋《ふどうさんや》は、無計画《むけいかく》な伐採《ばっさい》が森の面積を減少《げんしょう》させているがゆえ地価《ちか》は高騰《こうとう》するとか言ってたから、あまりたいした意味はないかもしれん」
「なんだかなぁ」
適当に受け答えしながら、家の前に回る。
建物は、それが建てられてから経《た》つ、たかだか八年という歳月《さいげつ》にすら、ろくに耐《た》えていなかった。――目に見えて、傾《かたむ》き始めている。そもそも柱の数が足りないのだとは、何度も父に言ってきたのだが、確かに後から直せるものでもない。素人《しろうと》の父がひとりで建てた、そのお粗末《そまつ》な家屋《かおく》に、さらに付け足されたフリウの部屋がとどめを刺《さ》したのも事実だった。
「毎朝思うんだけど」
スィリーに、小声で愚痴《ぐち》をこぼす。
「あと一週間|保《も》ちそうにないなって」
「来週もきっとそう思うんだ。人生ってものを集約《しゅうやく》すると、だいたいそうなるんだぁな」
その人精霊の返答は、およそ出会ってから初めて納得《なっとく》がいくものだった。
表には、表札《ひょうさつ》が出ている。もっともこんな小さな村の、外れの一軒家《いっけんや》で、迷う者もいないだろうが。
『診療所《しんりょうじょ》』
なんの診療所であるかすら、記していない。
結局この板きれは、村に来た父が、診療所をやろうとしていたという事実を証明《しょうめい》しているに過ぎない。実際には、患者《かんじゃ》が来たことがないので意味はなかった。おかげで、父と自分は、そのほかに自分たちにできる唯一《ゆいいつ》の商売――精霊|狩《が》りをして生計《せいけい》を立てている。
玄関《げんかん》の、この建物で最もガタのきている扉《とびら》を開ける。と、中はすぐに居間《いま》になっていた。この居間のほかは、父の寝室《しんしつ》しかない。
「おはよー」
習慣《しゅうかん》で、フリウは口にしていた。たいてい、この時刻《じこく》に父はいない――現金と食べ物を交換《こうかん》してくれるのは村長の家だけなので、遠いところを調達《ちょうたつ》に行っている。つまりは家が無人であることを確かめる、その程度のことだった。いつもならば。
が。
「あ……おはよう」
静かに挨拶《あいさつ》を返されて、フリウはなんとなく、言葉を呑《の》んだ。次いで出ようとしていた言葉があったわけでもないため、呑むようなものもないのだが。
居間の椅子《いす》に、少女が座《すわ》っていた。カップを両手で持って、それを口につけた格好で、こちらを見ている。挨拶を交《か》わしてから数秒ほど――湯気《ゆげ》のたつカップを下ろしてから、彼女が口を開いた。
「お茶……飲みなさいって、お父さんが」
と、テーブルの上のポットを示す。
「変わった味ね?」
「リョウミョウのお茶? 山の人じゃないと、飲み慣れないかもね」
匂《にお》いで判断して、フリウは答えた。茶など滅多《めった》に淹《い》れない父が、突然《とつぜん》そんなものを用意した理由は理解できないでもなかった――リョウミョウの葉は高山病《こうざんびょう》の予防のために効《き》くのだと言われている。実際の効能《こうのう》はどうなのだか知れたものではないとフリウは思っていたが、突然この家に転がり込んできたその少女のために父がわざわざ手に入れたのだろう。
硝化《しょうか》の森で出会った――というかなんというか――時には解《ほど》いてあった長い髪《かみ》を、ある程度まとめている。ろくな道具もないというのに、よくまとめたものだが。服は自分のものを貸してやった。会ってから三日目。彼女とろくに話もしたことがないということに唐突《とうとつ》に気づき、フリウは自分で驚《おどろ》いていた。
(……それはあたしの椅子《いす》だ、なんて言っちゃいけないわよね)
彼女が腰掛《こしか》けている椅子に未練《みれん》の眼差《まなざ》しを投げてから、フリウは居間に入っていった。入り口の床《ゆか》が軋《きし》んで音を立てるのはいつものことだったが、今朝はやけにそれが大きいようにも感じる。
「記憶《きおく》はもどったの? えーとー」
「マリオ」
澄《す》ました顔で名乗る彼女に、フリウは胸中《きょうちゅう》でつぶやき返した。
(名前覚えてて記憶|喪失《そうしつ》って、あるのかな)
そもそも、記憶喪失の人間など今まで見たこともないため、判断のしようがないが。
「ま、人の記憶ってのは都合《つごう》のいいものだってことさな」
唐突《とうとつ》に、スィリーがつぶやくのが聞こえてくる――
「…………」
フリウは、しばらく考えてから聞いてみた。
「あんた、人の心が読めるわけ?」
「友人にそんな便利な機能《きのう》を期待したところで失望《しつぼう》の下準備に過ぎないと思わないか?」
「……友人?」
「お。やるか? 死ぬまで戦うぞ、俺は」
ファイティングポーズから拳《こぶし》で風切り音を立てる人精霊《じんせいれい》は無視することにして、フリウはマリオに向き直った。
「で、記憶は?」
「ごめんなさい。なにも思い出せないの」
彼女は静かに、そう答えてきた。耳に着けている水晶《すいしょう》の――いや、水晶|檻《おり》のイヤリングが、交互《こうご》に揺《ゆ》れている。中に囚《とら》われている精霊までもが返事しようとしているというわけではないだろうが。
フリウは、うなずいた。
「いいよ。分かるようになるまでいれば」
「社交辞令《しゃこうじれい》だぞ。分かってるか?」
横からマリオを指さしてきっぱりと断言するスィリーを手のひらで弾《はじ》いて黙《だま》らせる。
「朝ご飯、まだ?」
取《と》り繕《つくろ》うつもりで、声をかける。どちらにせよ、マリオはあまり聞いてもいなかったのか、へこみの目立つブリキのカップを手で包んでその中をのぞき込んでいたが。
「ええ」
彼女はそのまま、首を縦《たて》に振《ふ》ってみせた。フリウもそのまま続ける。
「まあ、父さんが帰ってくるまで、なんにもないのよね」
「らしいわね」
「なにか食べたいものある?」
「特に」
「作るのは父さんだけど」
「そう」
「不味《まず》いんだけど。我慢《がまん》して食べてあげて」
「ええ」
「って、昨日もそうだったんだから知ってるよね」
「ええ」
「え〜と……」
言葉が尽《つ》きて。
フリウは、くるりときびすを返した。
「と、父さん遅《おそ》いみたいだから、迎《むか》えに行ってくるね」
「……いってらっしゃい」
感情のこもっていないマリオの声を聞きながら、フリウはまた、冷たい朝の空気の中へ出ていった。
「……なにが社交辞令よ」
家を出てすぐに、フリウはスィリーを見上げ、毒づいた。腰《こし》に手を当て、怒《いか》りのこもった眼差《まなざ》しで人精霊《じんせいれい》をにらみつける。あまり気にしてもいないように、彼は円を描《えが》いて飛んでいるだけだったが、すぐに指を立て、答えてきた。
「一見、親切と思える言葉を、すべて社交辞令だと割り切るところから、真の優《やさ》しさは始まる。そう思わんか?」
「思わないわよ。病人をほっぽりだすわけにはいかないでしょ」
「真実を伝えることってのは、どーしてこう障害《しょうがい》が多いんだろうな」
ぼやくスィリーはほうっておいて、フリウは井戸端《いどばた》にかがみ込んだ。
「洗濯《せんたく》でもしとこうかな」
と。
「なぁ」
スィリーがつぶやいてくるため、振《ふ》り返る。
「なに?」
「父親を迎えに行くとか言ってたよな?」
「うん」
うなずく。彼には合点《がてん》がいかなかったようで、しばし虚空《こくう》を見上げてから、聞き直してきた。
「行かないのか?」
「来たじゃない」
「……どこに?」
「ここまで迎《むか》えに」
適当に地面を指さして告げるが、やはり精霊は納得《なっとく》しなかった。音を立てずに顔の前まで飛んでくると、
「こういうのは、迎えに来たとは言わないんじゃないか?」
「だって父さんに、村の中にはあまり行かないようにしとけって言われてるし」
「しかしだな」
「あーもう、うるさいな。行きゃいいんでしょ、行くわよ」
目の前のスィリーを捕《つか》まえて、立ち上がる。
その時だった。
――ばたん。
音とともに、扉《とびら》が開く。今さっき自分たちが出てきた、家の玄関《げんかん》である。
「……なんで隠《かく》れるんだ?」
とっさにフリウが、縁《ふち》にぶら下がる形で井戸《いど》の中に飛び込んだことに不満があるのか、手の中でスィリーがうめいた。手の力だけでつり下がることになるが、井戸の内部にも足がかりがある。そのあたりを確かめながら、フリウは小声で答えた。
「いや……なんとなく」
ついでに、井戸の中からこっそりと顔の半分を出して観察《かんさつ》する。
半分開いた扉から顔を出したのは、当たり前だったが、例の少女――マリオだった。彼女はなにか探《さぐ》るように家の周りを見回してから、結局こちらには気づかず、また家の中に引っ込んで扉を閉めた。
「……変なの」
井戸から這《は》い出して、独りごちる。
「どっちもどっちだと思うぞ」
スィリーのつぶやきは、この際無視しておくことにした。
村はいつものように、静かだった。もともとそれほど人口があるわけでもない。精霊狩《せいれいが》りの装備《そうび》を買い出しするために、数週に一度か下りるふもとの街に比べれば、本当に、この村にはひとっこひとりいないのではないかと思えることもある。
高地の村は、やはり街などに比べれば形もいびつなのだろう――道を歩きながら見回しても、あちらこちらにぽつぽつと家屋が見えることもあるという程度で、自分の家のある村外れから、父が行っているはずの村長の屋敷《やしき》まで歩くだけでも結構《けっこう》な距離《きょり》がある。
誰《だれ》もいない道を歩きながら、フリウはなんとなくつぶやいた。
「記憶喪失《きおくそうしつ》って、どんな感じなのかしらね」
「聞きゃあいいじゃないかと俺は思うね。実際そうだって奴《やつ》がいるという幸福は活《い》かすべきだ」
「聞けるわけないから、あんたなんかに聞いてるんじゃない」
答えてくるスィリーに、口を尖《とが》らせ言ってから、フリウは嘆息《たんそく》した。
「なんだかね。考えてみれば、こんなことってなかなかないわよね。いきなり空から落っこちてきてさ。あんな精霊二体も従《したが》えて。あたしも、精霊使いなんて初めて見たし。何者なんだろあれって」
「まあ、聞くからに希有《けう》なことだろな」
うなずくスィリーから視線をずらし、肩越《かたこ》しに振《ふ》り返るが――もう自分の家は見えない。起伏《きふく》のある道の陰《かげ》に隠《かく》れている。
「考えてみたらあたし、殺されかかったっていうのに謝《あやま》ってもらってもないじゃない」
「ほう」
「着るものも貸してあげてるし、あのカップだってあたしのだし」
「ほほう」
「そりゃあ、感謝《かんしゃ》しなくちゃならないってほどのことでもないんだけどさ」
「分かった。手伝おう」
「? なにを?」
眼帯《がんたい》の外にある右目だけをぱちくりさせて、フリウは聞き返した。スィリーは腕組《うでぐ》みして、訳知《わけし》り顔でしきりにうなずいている。
「いや。追い出すんだろ?」
「なんでよ」
顔をしかめ、うめく。だがスィリーは驚《おどろ》いたようだった。その表現か、ぱっと羽が開く。
「ん? 陰険《いんけん》なことやら残虐《ざんぎゃく》なことやらするんじゃないのか?」
「だからなんでよ。そんなことするわけないでしょ。ひどいこと言わないでよ」
「……なんで俺が悪者になってんだ?」
なにやら不服《ふふく》そうにうめく人精霊《じんせいれい》は無視して、フリウは独りごちた。
「同じだからって、仲良くできるってもんじゃないって、この前父さんも言ってたけどさぁ……あれ? 少し違《ちが》うことだったかな?」
「同じ?」
聞き返されるが、やはり答えず、続ける。頭の後ろで手を組み、目を閉じ、かぶりを振《ふ》って。
「よく分かんないや」
「まあしかし、こういう場合にはだ。第三者に橋渡《はしわた》しなど頼《たの》んでみるのがいいんじゃなかろーか。などと建設《けんせつ》的なことを言って信頼《しんらい》を稼《かせ》ぐ俺」
フリウは横目で精霊を見やった。後半は聞かなかったことにして、
「橋渡し、父さんに頼むわけ?」
「なぜそこで父が出る。友達とか、友人とか、ご近所の爽《さわ》やかなお兄さんとか、いろいろ選択肢《せんたくし》があるだろに」
「あんた、してくれる?」
「だから、なぜそこで俺が出る」
「うーん」
フリウは、長いうめき声をあげてから、
「近所に爽やかな兄さんなんていないもん」
ほかの選択肢については、あえて言及《げんきゅう》を避《さ》ける。スィリーは気づかなかったようだった。
「まあ確かに、人生の先達《せんだつ》として、俺が一肌脱《ひとはだぬ》いでやってもよろしいが――」
と。
フリウはふと、涼気《りょうき》を感じて足を止めた。近くにたまたま木立があり、その露《つゆ》かとも思えたが。それとも違う。乾《かわ》いた冷たい風が、背後から吹《ふ》き抜《ぬ》けたように思えたのだが。
「おんや?」
スィリーのつぶやきが、聞こえてきた。人精霊《じんせいれい》はきょとんと、自分の身体《からだ》を見下ろしている。精霊の細い足首に、一本、糸のようなものがからまっているのが見えた。
(……え?)
眼帯の外にある右目だけをまばたきさせる。それが本当に糸などでないことは、すぐに分かった。絹糸ほどの太さもない、空間に描画《びょうが》された、ただ一筋の線。刹那《せつな》。
「ぎゃっ!?」
そんな小さな悲鳴とともに、スィリーが爆発《ばくはつ》した。いや正確には、人精霊と火球とが入れ替《か》わったというべきか。丸い炎《ほのお》が消えたあとには、そこにはなにも残っていなかった。一瞬《いっしゅん》だけ見えた糸も、なにもない。
その炎は小さかったが、熱は本物だった。近くにいて肌が焼けたのをはっきりと自覚する。ちくりとした痛みを感じる間もなく――
冷たい鋼鉄《こうてつ》の感触《かんしょく》が、火傷《やけど》の痛みを消した。
硬《かた》く、凍《こお》るような冷気。それはさきほどの風の冷たさとも、もちろん朝の空気とも、さらに違ったものだったのだが。
動けない自分の身体から、汗《あせ》がにじむのを感じつつ、フリウは息を止めた。いつの間にか背後から首筋《くびすじ》に、剣《けん》の刃《やいば》を突《つ》きつけられている。
「父さ――」
悲鳴だろう。自分でも判別《はんべつ》がつかなかったのは、その声が出せなかったからにほかならない。剣とは別に、さらに背後から回された手に、喉《のど》を押《お》さえつけられていた。すべてが一瞬で、わけが分からない。
誰であるにせよ、木の陰《かげ》にでも隠《かく》れていたのか。まったく気づかなかったが。
「騒《さわ》ぐな」
小さな声。女の声だった。剣を握《にぎ》っている手も、喉《のど》を押さえつけている手も。女の手であることを、ようやく自覚する。
「声を出す必要はない。どっちみち出せないだろうけど。話すつもりで喉だけ震《ふる》わせれば、だいたい聞き取れる……さあ、ルールは理解できた?」
うなずこうとして――動かないほうがいいのかもと思い直し、フリウはうめいた。
「……う、うん」
実際、声は出なかった。喉を押さえているその指先に、それほど力が入っているようには思えないのだが。へたをすると呼吸もろくにできない。
(ひょっとして……これって。やろうと思えば、簡単に喉とか潰《つぶ》せちゃうのかな)
嫌《いや》なことを思いついてしまい、頭の中を後悔《こうかい》が満たす。いつもそうだ――陰気《いんき》に嘆《なげ》く――思いつくべきではないことに限って、真っ先に思いつく。
視線だけでフリウは、可能な限りの視界を見回した。人影《ひとかげ》はない。あったとしても、あてにできるかどうかは別問題だが。
無性《むしょう》に喉が渇《かわ》く。膝《ひざ》が震《ふる》える。それが伝わったからだろうか――そうとしか思えなかったが――、背後の女は、喉に当てた指先は動かさずに、剣《けん》だけを引っ込めた。刃《やいば》を鞘《さや》に収める音が聞こえてくる。
そしてまた、耳元で囁《ささや》いてきた。
「精霊《せいれい》使い……お前も黒衣《こくい》か?」
「へっ?」
「お前たちは子供も使う。言え。ベスポルト打撃騎士《だげききし》を押《お》さえにきたということ?」
「…………? なんのこと……?」
反射的に聞き返すと、喉の圧迫感《あっぱくかん》が増した。潰れるまでどれくらい保《も》つものなのだろう。そんなことを漠然《ばくぜん》と考える。
女はそれ以上、問いかけてはこなかった。ただ、じっとその体勢で待っている。だが、相手がなにを待っているつもりにせよ、自分に言えることはそう多くなかった。
「……あなた……誰?」
「…………」
随分《ずいぶん》と、長い時間だったような気がする。
沈黙《ちんもく》をはさんでから、女が口にしてきたのは、それまでとは違《ちが》ってひどく慎重《しんちょう》な一言だった。ゆっくりと、噛《か》みしめるように、
「ベスポルトは……本当に、精霊《せいれい》アマワとの契約者《けいやくしゃ》なの?」
「……なに? それ……」
まったく分からない。どうしようもない。
火傷《やけど》の痛みが、またぶり返してきた。たいしたケガではないが。
(なによ、それ……)
痛み。苛立《いらだ》ち。焦《あせ》り。すべてが通り過ぎて表れてくるものは――衝動《しょうどう》的な感情だった。
(そんなわけの分からないもののせいで、なんであたし殺されそうになってるのよ!)
「そんな分かんないことで、スィリーを殺しちゃったの!?」
人精霊が消滅《しょうめつ》する前に、見えた糸のようなもの。それが念糸《ねんし》であったことは疑《うたが》いなかった。背後の女の仕業《しわざ》だとすれば、彼女も自分と同じ、念糸の使い手だということだ。念糸は実際には、糸とは違う――意識《いしき》が物体に触《ふ》れるための通路と言えるかもしれない。とは、フリウ自身にもよく意味は分からなかったが、ともあれ父がそう言っていた。
その、自分の念糸を解《と》き放《はな》つ。怒《いか》りか恐怖《きょうふ》か、どちらでも大差はないが、感情に後押《あとお》しされた思念《しねん》の糸は素早《すばや》く自分の喉元《のどもと》に当てられた女の手首に巻き付いたはずだった。
そのまま、念じる。
念糸は、自分の意志を直接物質に結びつける。結びつけば、自分の手足を動かすのと同様、その物体に影響《えいきょう》を及《およ》ぼすことができる。
ただ念じるだけでいい――
が。
もうそこに、手はなかった。
「え!?」
振り返る。見えたのは、赤いもの。
赤いマントを翻《ひるがえ》した、女。そのマントと同じ、赤い髪《かみ》の。簡単な革製《かわせい》の防具と、腰《こし》には剣《けん》の鞘《さや》。冷たい瞳《ひとみ》には、なにも表れてはいない――意志も、感情も、それ以外のものも。
肩口《かたぐち》に見える。獅子《しし》の横顔を象《かたど》ったマント留《ど》めにはめ込まれている水晶《すいしょう》が、朝の弱々しい日差しにすら輝《かがや》いて見えた。直感が告げてくる。水晶|檻《おり》。
(この人も精霊《せいれい》を連れてる……?)
引き結ばれていたその女の唇《くちびる》が、小さく開いた。そこから吐《は》き出されたのは、短い言葉。
「出よ!」
それが、開門式《かいもんしき》だったらしい。たった一言で、水晶檻の精霊を解き放つところなど、少なくともフリウは見たことがなかった。
刹那《せつな》の間に過ぎなかった。分かったのは、急に気温が上がったということ。そして、全身を戦慄《せんりつ》で貫《つらぬ》くような咆吼《ほうこう》。
すぐ近くにある、木が一瞬《いっしゅん》にして炎上《えんじょう》した。巨木《きょぼく》というほどのものでもないが、それでも人ひとりが完全に隠《かく》れられるほどの樹木である。その木が、爆発《ばくはつ》するように炭化《たんか》し、そしてへし折れる。
すべては炎《ほのお》の中で。フリウは悲鳴をあげた。
木を押《お》し倒《たお》したのは、炎をまとった巨大な獣《けもの》の精霊だった。緋《ひ》よりも赤い紅蓮《ぐれん》の獅子《しし》。そこにいるだけで、熱で砂が弾《はじ》けている。砂だけではない――自分もだ、とフリウは絶望《ぜつぼう》的に悟《さと》った。逃《に》げ出したいが、それも間に合わない。
(なんでよ――!?)
ただそれだけ、叫《さけ》ぶ。
炎の輝きを遮《さえぎ》るように、黒い影《かげ》が視界を覆《おお》っても、それが死の気配《けはい》であるとしか思えなかった。身体《からだ》を、火炎の熱気とは違《ちが》った温《ぬく》もりがさらっても、それは……
「…………?」
フリウは、いつの間にか閉じていた目を見開いた。間近にいた獅子は、数メートル向こうに遠のいている。
いや、違う。
自分の身体が、そこから遠ざかっていた。誰かが、自分を抱《だ》きかかえている。あの場所から、運んでくれたらしい。
「父さん……?」
とりあえず思いつく相手を、フリウは連想《れんそう》した。見上げる。が、父ではなかった。
まったく違った。ふもとの街で、ごくたまに見かけることのある。警衛兵《けいえいへい》の制服。若い――といって無論《むろん》、自分より年上だが――男の横顔が、炎に照《て》らされていた。
その男は、ちらりとこちらを見下ろして、笑いかけてきた。緊張《きんちょう》した、震《ふる》える笑《え》みではあったが。
「……大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
「…………」
ただ唖然《あぜん》として、言葉もない。とりあえず、その制服に指を食い込ませて、フリウは相手にしがみついた。これだけ暑いというのに、身体の震えが止まらない。
暑さ。
見直してみれば、獅子は別段、自分を狙《ねら》って出現したのではないようだった――木と一緒《いっしょ》に、なにか黒い人影をひとり、押し倒している。奇妙《きみょう》な格好だった。頭まですっぽりと、頭巾《ずきん》とも仮面《かめん》ともつかないもので覆《おお》っている。黒ずくめで性別も年代も知れない。それが獅子の前脚《まえあし》で押しつけられ、陰惨《いんさん》な音を立てて地面へと沈《しず》み込んでいく。
「あれは黒衣だ。大丈夫。君は安全だよ」
こちらを安心させようとしてか、警衛兵の男が囁《ささや》いてきた。黒衣というのがなんであるのか、説明してくれる余裕《よゆう》はないらしいが。
と、それに重なるようにして――
「黒衣って、やられかけてんじゃねーか」
聞き覚えのある声が、いきなり否定《ひてい》してくる。はっとして、フリウは顔を上げた。そこにいたのは、スィリーだった。少し焦《こ》げてはいるが無傷《むきず》で、ふらふらと飛んでいる。
「あんな程度で死にはしない。黒衣だぞ」
抗弁《こうべん》したのは、警衛兵だった。フリウを抱《かか》えたまま、少しずつ後ずさりしている。
だが、彼が正しいようだった。
「うん……潰《つぶ》されてない」
見ていると、その黒い男――黒衣とやらは完全に地面の中に消えた。そして次の瞬間《しゅんかん》、獅子《しし》から少し離《はな》れた場所に、地下から出現する。
スィリーが、なにやら感心したようにうなずいた。
「ほほう。曲芸《きょくげい》だな」
そこでようやく、こちらを気にしたらしい。
「よお」
気楽に手を挙《あ》げ挨拶《あいさつ》してみせる。
「…………」
しばし、考え、
「そっか。あんたがいたから、あたしが精霊《せいれい》使いだって思ったんだ、あの人」
フリウは納得《なっとく》して、うなずいた。と、スィリーがなにやら言ってくる。
「ん? なんか俺を非難《ひなん》しようとしているか? 丸焼きにされるすんでのところで無抵抗飛行路《むていこうひこうろ》に逃《に》げ込んで、助けを呼んできたのは俺だということを、どういった言い方をすれば一番印象的か考えている隙《すき》に」
「あ。ありがと」
おおむね事情を理解して、フリウは改めて現場を見やった。黒衣とやら――説明されなくとも、その黒ずくめの男のことであろうと想像ついたが――は、いつの間にかひとりではなく、五人に増えていた。どこから駆《か》けつけてきたものか知らないが。巨大《きょだい》な炎《ほのお》の獅子と対峙《たいじ》して、その包囲を少しずつ狭《せば》めていっている。赤いマントの女は、それを後方で眺《なが》めて、ゆっくりと剣《けん》を抜《ぬ》こうとしていた。獅子が咆吼《ほうこう》する。
なんとなく、フリウはつぶやいた。
「でも……なんか、どういう基準《きじゅん》で、あの人たちに助けを求めたわけ? えーと、ま、確かに着てる服が黒いとか、顔まで隠《かく》して首切り処刑人《しょけいにん》みたいだからって差別するのは良くないと思うけど」
スィリーが、うなずいてくる。
「だからって差別しないという理由にはならん、と人生は教えてくれるわけだ」
と、一拍《いっぱく》おいて、彼は続けた。
「それはそれとして、そのあたりが問題でな。俺が道ばたでばったり出くわしたのは、この地味《じみ》な兄ちゃんだけのはずだったんだが。さらに地味なおまけどもがついていたとはあなどれん」
「あなどれないかな、それ」
「あー……と」
その地味な警衛兵が、困ったように言葉を割って入れてきた。彼自身はこの騒動《そうどう》に加わるつもりは毛頭《もうとう》ないようで、やはり今でも少しずつ後退している。
「ぼくらはもともと、今朝から彼女を追ってたんだ。凶悪《きょうあく》な連続|殺人犯《さつじんはん》でね、あの女は」
「げ」
喉《のど》に触《ふ》れた指の感触《かんしょく》を思い出し、うめく。警衛兵は、苦笑《くしょう》してあとを続けてきた。
「同じ宿で鉢合《はちあ》わせるとは思いもよらなかったけど」
そんなことを話している間に。
五対一の劣勢《れっせい》を悟《さと》ってだろう。くるりときびすを返して、女が逃《に》げ出す。獅子《しし》が吼《ほ》えて、黒衣ら五人の追跡《ついせき》を牽制《けんせい》しながら、獣精霊《じゅうせいれい》の巨体《きょたい》からすればゆっくりと、あとをついていった。黒衣らも無理はせず、獅子を刺激《しげき》しない程度に追っていく。
やがて彼らの姿が、遠く離《はな》れて消えていった。
「あの人」
目に焼き付いた、赤いマントの色を思い浮《う》かべながら、フリウは独りごちた。
「父さんのこと、なにか言ってたみたい」
「ん?」
警衛兵に見下ろされて――
いまだに自分が、彼に抱《かか》えられていることを思い出す。ばたばたと手を振《ふ》るようにして相手を振り払《はら》い、地面に下ろしてもらってから、彼女は続けた。
「ベスポルトって、父さんの名前よ。確か」
「えっ……?」
きょとんと、警衛兵がうめくのが聞こえてくる。
と――
「フリウ!」
今度こそ、父の声だった。見ると道の向こうから、食料品と思《おぼ》しき包みを抱え、巨体《きょたい》を揺《ゆ》らして父が駆《か》け寄《よ》ってくる。彼は間もなく近づいてきた。警衛兵の姿に、ちらと視線を送ってから、
「なんの騒《さわ》ぎだ?」
聞いてくる父に、いまだに火の手をあげている木を示《しめ》して、フリウはかぶりを振った。この騒ぎに、あちこちの離れた家の窓から、遠巻きにこちらをのぞく視線や人影《ひとかげ》を感じられないでもない。玄関《げんかん》から飛び出してくるような者は誰ひとりとしていなかったが。
(……期待なんかしてないけどさ)
喉《のど》をさすりながら、答える。
「いや……なんというか。いきなり殺されかかって」
「…………」
父の厳《いか》つい顔面は、さしたる動揺《どうよう》も表さなかったが、それでもあたりの騒ぎの余韻《よいん》を探《さぐ》る眼差《まなざ》しには焦《あせ》りが見えた。
が、彼が次に吐《は》いた言葉は、フリウの予想を裏切るものではあった。
「……今、家にはあの娘《むすめ》ひとりだけか?」
「え? うん」
驚《おどろ》き混じりに、うなずく。父の意図《いと》は――いつものことだが――分かりにくい。
(死にかけたのは、あたしなんだけど)
そんなことを思わないでもない。
「……なんで?」
口の中でつぶやいて――
フリウは、開いた唇《くちびる》から、その言葉が外に漏《も》れるのを止めることができなかった。が、父の耳に入ったのは、それと同時に発された、別の人物の言葉だったかもしれない。
警衛兵が、父の腕《うで》をつかんでいた。
「あなたが、ベスポルト?」
「……そうだが」
父の返事を待たずに、警衛兵はあとを続けた――父の腕を強くつかんで押《お》さえている反対の手、空《あ》いているほうの手で、警棒《けいぼう》に触《ふ》れながら。
「我々は、中央の命《めい》により、あなたを逮捕《たいほ》しに来ました。抵抗《ていこう》は……しませんよね?」
それは、ひたすらにこちらの意志を無視してあらゆることが発生したその朝の、締《し》めくくりとしては相応《ふさわ》しい言葉だったのかもしれなかった。
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第四章 サリオン・ピニャータ
(出会いと再会)
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黒衣《こくい》を知っているか?
それは過去《かこ》だ。わたしを追ってきた過去の、手足。
彼らが武装《ぶそう》していることに意味《いみ》はない。わたしは彼らの影《かげ》を感じるだけで怯《おび》えざるを得《え》ないのだから。彼らはわたしの望み得《う》るすべての悪意《あくい》だ。わたしは彼らを知っている。
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(そーよね)
考えてみれば、シンプルな状況《じょうきょう》に過ぎないのだ。どうということもない。
フリウは頭の中で、絡《から》み合《あ》っていたものをすべて一束にまとめ上げた。
(うん。悩《なや》む必要なし。うん)
その証拠《しょうこ》に――と言えるのかどうかは分からないが――、見上げると父の表情《ひょうじょう》はなにひとつ変わっていない。いつも通りに厳《いか》めしく、自分の腕《うで》を掴《つか》まえる若い警衛兵《けいえいへい》を見やっている。その警衛兵はといえば、話すべきことをすべて言ってしまい、次の言葉を出せずにいるようだった。
「思うんだが――」
適当《てきとう》に虚空《こくう》に円《えん》を描《えが》きながら飛んでいたスィリーが、突然《とつぜん》停止して声をあげた。
「これはあれか? 逮捕劇《たいほげき》か?」
「いや、劇じゃないんだが」
「逮捕劇は演劇《えんげき》のことではないと俺《おれ》は思う」
「そうかもしれないが、絶対|誤解《ごかい》してる奴《やつ》いるだろう」
よく分からないことを、ふたりが言い争う最中――
ふと、父が口を開いた。
「君は、自分がなんのためにここに来たのか、分かっているのか?」
どうという口調でもなかった。ついでに言えば、それが自分を掴《つか》まえている警衛兵に対して発したものだということすら、気づかせないような。
フリウにしてみれば、それは慣《な》れっこではあったが――独《ひと》り言《ごと》のような父の言葉というのは――、警衛兵には、唐突《とうとつ》なことだっただろう。目をぱちくりさせて、
「……あなたを逮捕するため……です」
父は即座《そくざ》にあとを続けた。
「やめておいたほうがいい」
その視線《しせん》が、ちらりと、あさってのほうを向く――いや、家の方向へと。
なんとはなしに顔をしかめ、フリウは独りごちた。
(……こんな時に、あの娘《むすめ》のこと気にしてるの?)
父の声に変化はない。淡々《たんたん》と、
「……君は、わたしを拘束《こうそく》できない」
「抵抗《ていこう》するつもりですか? あなたは優秀《ゆうしゅう》な軍人だったと聞いています。無様《ぶざま》なことはしますまい?」
「抵抗ではない」
つぶやきとともに、透《す》き通《とお》った、しゅっという吐息《といき》が漏《も》れるのが聞こえた――これが彼なりのため息だと、初めて聞いて分かる者はそういない。父は息を無駄《むだ》になどしない。
それは言葉と同じ、貴重《きちょう》なものだからだと聞かされたことがある。正直、フリウにはさっぱり理解《りかい》できなかったが。
なんにしろ、父は静かにつぶやいた。
「君には理解できないものが……わたしを助けてしまう。君は死ぬかもしれない。だからやめるべきだ」
「わけの分からないことを――」
と、腰《こし》の警棒《けいぼう》を抜《ぬ》きかけた姿勢《しせい》で――彼の身体《からだ》が一度だけ縦《たて》に揺《ゆ》れ、そして動きを止めた。
声もなく。表情が青くなり、そして白くなる。こぼれるほどに見開いてむき出した眼球《がんきゅう》が、一度上に向かいかけて、そして下を向いた。そして、見つけたらしい。
フリウも、彼の視線にあわせて、ゆっくりと下を向いた。彼女のつま先が、突《つ》き刺《さ》さるほど深く、警衛兵の股間《こかん》を蹴《け》り上げている。
「こん……っ……!」
中途半端《ちゅうとはんぱ》な恨《うら》み言《ごと》を言い残して、警衛兵の身体がその場に崩《くず》れ落ちた。うずくまって悶絶《もんぜつ》している彼を見下ろし、
「うん。悩《なや》む必要なし」
フリウは、父を見上げてつぶやいた。
「要は、敵《てき》よね。敵が来たってこと。でしょ? 父さん」
「……そうだな」
あたりを見回し、気の抜けた声で父がうなずいてくる。あの獣《けもの》の精霊《せいれい》に炎上《えんじょう》させられた木はいまだに燃えているし、騒《さわ》ぎの余韻《よいん》は静かな村にさざ波のような雑音《ざつおん》を引き起こしつつあった。だが、そのノイズのひとつひとつに耳を貸す必要はない。
「なあこれ、親父《おやじ》さんの前ふりのわりには、ひどく分かりやすくないか?」
背中を丸めて震《ふる》えている警衛兵の上で、人精霊《じんせいれい》がぽつりとつぶやく、そんなノイズも同様ではあったが。
「帰ろう」
父が、つぶやく。日用品が詰《つ》まった袋《ふくろ》を抱《かか》え上げながら、
「……君の名前は?」
と、問いかける。一瞬《いっしゅん》、なんのことか分からなかったが、父の視線は、いまだ動けずにいる警衛兵へと向かっていた。なんとか聞いてはいたのだろう。男が、うめき声をあげる。
「サリオン……サリオン・ピニャータ……」
「悪いことは言わない。君も帰りたまえ。これは君の落ち度にはならんよ」
「くっ……!」
「黒衣《こくい》が来たのなら……黒衣がすべてを片づける。この国では、昔からそうなっていたのではないかな?」
「あなたは死にますよ!」
顔を上げて、その男――サリオンが叫《さけ》んだ。その形相《ぎょうそう》が、単なる苦悶《くもん》なのか、もっと別の痛苦《つうく》なのか、それは分からないが。唾《つば》を飛ばして、あえぎ続ける。
「ぼくに捕《つか》まっておいたほうがいい――黒衣は、罪人《ざいにん》を帝都《ていと》まで護送《ごそう》するような手間はかけない。知っているはずです、ベスポルト・シックルド打撃騎士《だげききし》――」
「知っているよ」
父はあっさりと、そう告げた。寒風《かんぷう》に吹《ふ》かれた時ほどにも、その眼差《まなざ》しに変化は見られない。
「だが、わたしは罪人ではない。彼らもそれは分かっている」
「そんなことは……」
「それ以上のことも、彼らは知っている。知っているはずだ」
それで打ちきりというように、父は改めて荷を担《かつ》ぎ直すと、こちらへと顔を向けた。その眉間《みけん》の隙間《すきま》へと、硬《かた》い皮膚《ひふ》がわずかに寄っている。いつもとどれほど違《ちが》うというわけではないのだが、その時は気になった。
「帰るぞ、フリウ」
「う……うん」
なんとなく気圧《けお》されて、うなずく。
もうその時には、父は歩き出していた。そのあとについて、小走りに近い速さでフリウも家路《いえじ》を進み出した。あまり顔は動かさないようにして、ちらりと背後の警衛兵を見やってから――
「あ、あのさ父さん」
「なんだ?」
「分かんないことだらけなんだけど」
「今まで生きてきて分かったことなどなにかあったか?」
「いや、そんな小難しいことじゃなくて」
うめいている。と、横から音もなく、スィリーが眼前《がんぜん》を横切った。
「ん? なんだお前ら。真打《しんう》ち抜《ぬ》きで、なにやら語ろうとしてないか?」
「えい」
「ぎゅっ!?」
とりあえず左手で頭を掴《つか》んで人精霊《じんせいれい》を黙《だま》らせると、フリウは、再び距離《きょり》を開けつつある父の背中を追いかけた。
「だからさ……ええと、ほら。まず、黒衣ってなに? 父さんの知り合い?」
「知り合いといえば知り合いか」
ぼそりと、答え――のようで答えになっていない一言が返ってくる。
フリウはようやく追いついて、口を開こうとした。手の中で暴《あば》れて逃《に》げだそうとしているスィリーを、ポケットの中にねじ込んでから、
「いきなり出てきて、いきなり消えちゃったんだけど。なんなの? あれ」
「帝都《ていと》イシィカルリシア・ハイエンドの治安《ちあん》を担《にな》う、最高刑執行者《さいこうけいしっこうしゃ》たちだ。すべてが選《え》りすぐられた念糸《ねんし》使いで構成《こうせい》されている」
「へっ?」
「卓抜《たくばつ》した能力を持つ兵士だ。彼らの司法権《しほうけん》に裁判《さいばん》はない。あのサリオンとかいう警衛兵が慌《あわ》てる理由も分からないではないな」
「…………」
一応は、聞いている――が、そんなことは半分も記憶《きおく》に残らなかった。動悸《どうき》に内臓《ないぞう》が弾《はじ》けそうになる。帝都? 念糸使い?
「なん、なんでそんなのが、この村に来るの?」
急激《きゅうげき》に渇《かわ》いた喉《のど》に唾《つば》を飲み、フリウは声をあげた。父の足は速いが、普段《ふだん》より速いわけでもない。信じがたいようなことを、淡々《たんたん》と語っている。
そのままの口調で、彼は続けた。
「わたしにも分からない。こんなことにまるで意味がないのは、彼らにも分かっているはずだ……」
ただ後半は、彼がわずかに目を伏《ふ》せたようにも見えた。下から見上げているので、よくは分からないが。
「意味がないって?」
聞き返す。だが返事はない。その代わり、
「おう小娘《こむすめ》! いくらなんでも、今回のこりゃやりすぎってもんだ! いいか分かってるかお前さんのことだぁぞ!」
「?」
目をぱちくりして――
ポケットから手を出してみる。
「あれ? いない」
なんとなく見上げると、すぐ前に、人精霊《じんせいれい》が飛んでいた。こちらを見下ろし、腕組《うでぐ》みして、怒《いか》り狂《くる》っているらしい。
だが少し余裕《よゆう》を残している部分もあるのか、スィリーはうんうんとうなずいてみせた。
「そう。捕《つか》まえられるようでいて捕まえられない。人生たぁそういうもんさ」
「それ関係ないんじゃない?」
「関係あるっ! いいか、俺たちの村では、人がしゃべろうとしているところを無理やり捕まえてポケットにねじ込むことは最大の禁忌《きんき》とされている。なぜなら――って、お前さんだって自分の身になりゃ分かるだろ」
「まあ、分かるっちゃ分かるかなぁ……」
複雑《ふくざつ》に、うめく。
父の様子《ようす》を見やるに、彼は聞いてもいない様子で、ただ歩いている。どうやら会話は終わったものとされてしまったらしい。父がこんな態度《たいど》を取るのは、特に珍《めずら》しいことでもなかった。硝化《しょうか》の森で寒さに不平を言っても、洗濯物《せんたくもの》を三日以上|貯《た》め込《こ》んだことに文句を言っても、あるいは天気の話をしたところで、父が、こちらから話しかけたより長い返事を返してきたことなどなかったようにも思う。
(それでもさぁ……)
なんとはなしに、唇《くちびる》に力が入る。
(いつもと違《ちが》うことが起きてんだから。こんな時にまで落ち着いてることないじゃん)
8の字にくるくると飛び回るスィリーのわめき声は無視《むし》して、フリウは改めて、父に向かって聞き直した。
「あ、あのさ。それと騎士《きし》ってなに? 考えてみたらさ、あたし、父さんのことあんまりよく知らないんだけど……」
返事はない。
しばらく待ってから、フリウは咳払《せきばら》いした。
「ええと、そうだね。うん。まあ、どうでもいいことだとは思うんだけどさ」
振《ふ》り向かない父を追いかけながら、自然と早口になるのは自覚《じかく》していた。言葉は止めようとしても止まらない。朝のさむけの中に這《は》い出していく。
「父さんも父さんなりに、あたしの知らないこといろいろあったろうし……八年前に会った時、父さんはもうその時には今の父さんだったけど、あたしはなんか今のあたしじゃなかったようななんていうか、ええと」
混乱《こんらん》して、自分でもよく分からなくなってきていたが、誰も問い返してはこなかった。スィリーが、ふらりと前に出て聞いてくる。
「なんだお前さんら。ホントの親子じゃなかったのか?」
機嫌《きげん》は直ったらしい。それと入れ替《か》わりというわけではないが、顔をしかめながらフリウはうなずいた。
「言わなかったっけ?」
「聞いたような気もする。しかしここで合《あ》いの手を入れて、世間話《せけんばなし》に参加しようと試《こころ》みる俺の世知《せち》。どうだろう」
「いや、知らないけど……」
いつの間にか世間話にされてしまったらしい。他人から聞けば、まあそうなのかもしれないが。
「まあ気にすんな。こんな格言《かくげん》もある。畑と蜜柑《みかん》に血縁関係《けつえんかんけい》はないが、どちらも欠かせないもんだってな」
「ふうん」
「ただし相続者《そうぞくしゃ》が蜜柑で被《ひ》相続者が畑だった場合、弁護士《べんごし》を忘れるな、と、ここまで続くんだが」
「蛇足《だそく》じゃないかしら」
「俺もそう思うんだが、著作権者《ちょさくけんしゃ》いわく、一部分だけの不完全な引用《いんよう》は、その芸術を冒涜《ぼうとく》する最悪の所行《しょぎょう》であるとかなんとかかんとかどれとかうんぬんかんぬん」
また人精霊《じんせいれい》との無駄《むだ》な会話に意識《いしき》を取られている間に――
父親との距離《きょり》は開いていた。気を抜《ぬ》くとすぐに、数歩は置いていかれている。
「父さん、待ってよ」
フリウは声をあげて、足を速めた。
「父さんは見てなかったかもしれないけど、このへん危ないんだよ。なんか殺し屋だかなんだかがいるらしくて、あたしも殺されそうに――」
その殺し屋。あの女も……
ふと、思い出す。
(念糸《ねんし》使いだった)
つまずく。転びはしなかったものの、フリウはそこで立ち止まった。背中から、うなじまで、一斉《いっせい》に肌《はだ》の表面が粟立《あわだ》ちながら逆立《さかだ》っていく。そんな悪寒《おかん》を感じて、彼女はつぶやいた。
「……なんか変だよ」
「まあ今朝《けさ》が日常だと言われても困るところではあるな」
反応してくれたのがスィリーだけだったため――フリウはそちらを見上げた。胸《むね》の間の骨を押《お》さえて、なんとか肺《はい》を落ち着かせると、独り言ではない声を出す。
「念糸使いよ? みーんな、イシなんとかいうとこにいて、その外になんて出るはずがない人たちなのにさ。なんでそんなのが、ぞろぞろと現れるのよ。こんななにもない村に」
「お前さんだってそうなんだろ?」
「そうよ! だから、あたしはこんな村――」
「同窓会《どうそうかい》みたいなもんなんじゃないのか? 調べてみるこったな。意外と全員、名字《みょうじ》が同じってこともあるかもしれん」
口から出かかった叫《さけ》びを遮《さえぎ》って――他意《たい》はなかったのだろうが――スィリーがぼやく。空中で気軽《きがる》に足を組み、素知《そし》らぬふうで。唇《くちびる》を噛《か》んで、フリウはその精霊《せいれい》をにらみつけた。当たり前のことではあったが、こんなことを今さら実感しなければならないとは。
駄目《だめ》だ。この精霊は話し相手にはならない。
(期待《きたい》したあたしが馬鹿《ばか》だったんだ)
かぶりを振《ふ》って、父の姿を探《さが》す。案《あん》の定《じょう》、彼は自分の歩幅《ほはば》を緩《ゆる》めることもなく、構わずに先を進んでいる。
「父さん!」
彼女は声を荒《あら》らげた。
「危ないんだってば。なにか危ないことが起こってるのよ、きっと! あたしから離《はな》れないで――」
言葉が途切《とぎ》れる。煙《けむり》が風に吹《ふ》き消されるように。フリウは、口を閉じてから、消された言葉を探そうとした。
それは見つからなかったが。
結局立ち止まろうとしない父親の背中に向かって、彼女はあとを続けた――多少、言いかけたものとは違《ちが》っていたかもしれないが。
「父さんが念糸使いなんかに襲《おそ》われたらさ、どうしようもないでしょ? あの殺し屋、あたしを殺そうとしたんだから、ホントに。それにさっきの人も、黒衣とかいうのが父さんを殺そうとしてるって!」
危ないことが起ころうとしているのだ――
自分で口にしたことが、自分の耳の中でだけ鳴《な》り響《ひび》いている。自分以外の、誰にも聞こえないのだろうか、この耳鳴りは? 苛立《いらだ》たしいが、実際、誰も聞こうとはしていない。
口の中に、血の味が広がった。気づかないうちに、どこかを噛《か》み切っていたらしい。その傷口を舌で探して、そして、そんなことはどうでもいいのだと不意《ふい》に気づく。
フリウは、完全に足を止めた。
振《ふ》り向きもせず、家へと急ぐ父の後ろ姿を見送って、フリウは小さく、だがきっぱりと独りごちた。
「あー、そう。父さんがそういう態度に出るのなら、もういいわよ」
くるりときびすを返し、今まで来た道をにらみやる――あとからついてきていたスィリーが、無意味に怯《おび》えて道を開けるのを見ながら、
「こうなったら、やんなくちゃなんないこととか。あたしが全部やっちゃうからね」
誰にともなく宣言《せんげん》すると、フリウは、そのまま道を後もどりし始めた。
突《つ》き抜《ぬ》けるような痛みが去ると、残るのは鈍痛《どんつう》だった。そしてこれは消えない。当分。へたをすれば、恐怖《きょうふ》という形で永遠に残るかもしれない。だがそれにしても、
(もう少し、見栄《みば》えのする対処《たいしょ》方法を考えてくれたって良さそうなもんじゃないか?)
ほかにどうしようもなく、どうできるわけでもなく、仕方なしに股間《こかん》をさすってみたりもし、サリオンは嘆息《たんそく》した。見栄えのする倒《たお》され方などというものがどういったものか、具体的に想定《そうてい》していたわけではないにしろ、これよりはマシだ――真《ま》っ直《す》ぐに起きようとしてもよろめき、引きつるような痛みに我知らず内股《うちまた》になっている。ここまで見事に痛撃《つうげき》されることなど滅多《めった》にないのだろうが、これが出会い頭《がしら》の偶然《ぐうぜん》によるものなのか、それともあの少女がよほど的確《てきかく》だったのか、一応気にはなる。
「はぁー……」
ため息というより、深呼吸《しんこきゅう》をして、彼はなんとか、起きあがった。どれくらい倒れていたのか、考えるのも嫌《いや》になるが。村はなにごとも起こらなかったかのように静かで、その場所、ずっと倒れてうずくまっていた場所から見回しても、分かる範囲《はんい》にある家の窓には、カーテンがすべて引かれている。
これは本当に、村人たちがとてつもない寝付《ねつ》きの良さを誇《ほこ》っており、あれだけの騒動《そうどう》に目を覚まさなかったと信じることも不可能《ふかのう》ではなかったが、彼は――苦笑《くしょう》しながら――自分で否定した。違《ちが》う。外界《がいかい》を閉ざす布の隙間《すきま》からこちらをのぞき見て、忍《しの》び笑いを漏《も》らしている悪意《あくい》のない目を、無数《むすう》に感じる。そう考えるほうが自然だった。
(八年前と変わりゃしない)
あながち、疑心暗鬼《ぎしんあんき》とも言えない。虚《むな》しい確信《かくしん》が、胸をよぎった。
(あの時は実際にそうだったんだから)
以前、この村に来た時に感じたものと、今こうして感じるもの。それが変わらない。だとしたら、この村は八年という歳月《さいげつ》を凍《こお》らせてきたのか――伝説の、硝化《しょうか》の森と同じように。
(イアフ・レニクル、リットー・サルティー、サマラ・アンク、イサベラ・リンジシー……)
今もまだ覚えている名前。いや、忘れかけていたのに――くそ、あの執念深《しゅうねんぶか》い警衛兵長に地獄《じごく》あれだ!――、この村に来れば、思い出さずにはいられない。彼らの顔など浮《う》かんではこない。むしろ、それならば、まだ救《すく》いがあったかもしれなかった。彼らには顔などない。報告書《ほうこくしょ》に名前だけを記《しる》して、彼らは葬《ほうむ》られた。驚《おどろ》くほど効率《こうりつ》的に。
(パック・ドジスン、イルティゴ・ロッシ、そして……ハリスコー夫妻《ふさい》)
身体《からだ》を起こしたものの、まだ立って歩く気にはなれず、サリオンは地面にそのままあぐらをかいた。ベルトに下げている警棒《けいぼう》が邪魔《じゃま》になったため、外《はず》す。
(みじめじゃないか、ええ? サリオン・ピニャータ)
途方《とほう》もない皮肉《ひにく》に、顔面が歪《ゆが》んだ。
(ぱっとしない人生だったよ。生まれてからずっと。飲んだくれの両親につき合って痣《あざ》だらけだった子供の頃《ころ》から、予想はしていたさ。ハイスクールを退学《たいがく》して、帝国《ていこく》の下級衛兵《かきゅうえいへい》募集《ぼしゅう》に飛びついて。初めての任務《にんむ》があれだっていうんだから。こんなものは、始まってしまったらどこまでも続くってそろそろ気づいても良かったんじゃないか? つまりこれを、二十四年間続けてきたんだから)
天を振《ふ》り仰《あお》ぎ、毒づき続ける。燃え折れた木は燻《くすぶ》ることもやめて、もう死体をさらすだけになっていたが、自分はこれをやめることができない。それは分かっていた。死ぬまで続けるしかない。人は、木のように黙《だま》ってはいられない。
(ついてない[#「ついてない」に傍点]ってことさ。八年|経《た》ってまたここに来て、過去が清算《せいさん》できるなんて甘《あま》い期待だよ、サリオン。待ち受けているのは股間《こかん》への一撃《いちげき》だけだ。黒衣が来てる。いや、ぼくが連れてきた。この村はもう終わりだ)
「……どういう意味?」
「え?」
聞き返されて。
知らない間に、声に出してしまっていたらしい――だけではない。涙《なみだ》がにじみかけていた目の下をあわててこすって、サリオンは振《ふ》り向いた。
待ち受けていたのは、少女だった。ついさっき去ったはずの、精霊《せいれい》を連れた少女。人生を苛《さいな》む一撃を加えて逃《に》げていった少女。眼帯《がんたい》に覆《おお》われた左目を、さらに手で隠《かく》すようにして、右目だけでこちらを見てきている。眼帯……
(眼帯?)
さきほどの騒《さわ》ぎの中では気づかなかった――大きめのバンダナかなにかだと思っていた――が、それは間違《まちが》いなく眼帯だった。左目を覆っている。つまりは、
(ついてないって……ことか?)
胸中《きょうちゅう》で、繰《く》り返す。サリオンは、口の中にたまった空気と唾《つば》をいっしょに呑《の》み込んでから、当然のごとく激痛《げきつう》に顔をしかめた。
(この娘《むすめ》は――)
「君は……フリウ・ハリスコー?」
「え? うん」
彼女はあっさりと、うなずいてみせた。
「えーっと」
と、あたりを見回し、そして、適当にふらふらと飛んでいる、小型の人間のような精霊を指さして、
「これ、スィリー。人精霊っていうんだけど。ハンターじゃなくちゃ分からないよね、そんなの」
「よぉ。朝から陰気《いんき》だな、兄ちゃん」
それが、その人精霊とやらの挨拶《あいさつ》だった。直角に曲げた腕《うで》を上げるだけの、小さな仕草《しぐさ》。だが、正直、そんな精霊などには関心はない。サリオンは少女を見据《みす》えて、息を止めた。考え事をするのに、呼吸音も疎《うと》ましく感じる。間違いない。この少女は、フリウ・ハリスコーだ。
(ハリスコー夫妻《ふさい》の娘だ……)
八年前の悪夢《あくむ》。その渦中《かちゅう》にいた娘。
彼女は――なんの邪気《じゃき》もない眼差《まなざ》しで、きょとんとこちらをのぞき込んでいる。ただ、多少は後ろ暗い気持ちがあるのか、かがんで顔を近づけてくると、
「あの……そのね。さっきはごめんなさい。でもあなたが、逮捕《たいほ》するなんて言うから」
「え? ああ……ああ」
馬鹿《ばか》みたいだ。とは思いつつも、連続して首を縦《たて》に振《ふ》る。
そうしながらも、彼女を観察《かんさつ》していた。少女は当たり前ながら、八年前の面影《おもかげ》を残しつつもがらりとその風貌《ふうぼう》を変えていた。眼帯のことがなければ、気づかなかったかもしれない――というより、思い出しすらしなかったかもしれない。あれだけのことがあって、まだなおこの村にいるとは、どこか信じがたいものがあった。報告書によって葬《ほうむ》られた大勢の入々といっしょに、この少女もまたどこか知らない淵《ふち》へと消滅《しょうめつ》したはずだったのだが。
(……いや)
それは恐《おそ》らく、単なる身勝手な妄想《もうそう》に過ぎなかったのだろう。それを認《みと》めて、サリオンは歯がみした。愚《おろ》かだった。その愚かさのつけを支払《しはら》わねばならなかった。自分は、この少女と会話をしなければならない。素知《そし》らぬ顔で!
(みじめじゃないか、ええ? サリオン)
同じつぶやき。だが今度のそれは、自分で自分に嘆《なげ》いたものではなく、もっと得体《えたい》の知れない、夜の領域《りょういき》から響《ひび》いてくる囁《ささや》きだった……
(どうあがいたところで、こうなるのさ――そうだろう? この娘《むすめ》の両親を死なせたのは、紛《まぎ》れもなくお前なんだからな!)
きょとんとした顔で謝《あやま》ろうとしている眼前の少女と、怪物《かいぶつ》領域から聞こえてくる囁《ささや》きとが合わさったその光景は。
救いがたく陰惨《いんさん》で、サリオンは一時《いっとき》、下腹《したはら》の鈍痛《どんつう》をも忘れ去っていた。
警衛兵の男は、いまだ立ち直っていないのか顔面を蒼白《そうはく》にしていた。汗《あせ》のにじんだ額《ひたい》の下で、くすんだ色をした瞳《ひとみ》が震《ふる》えている。地べたに座《すわ》ったまま、よく見れば膝《ひざ》をつかむ手もこわばっているようだった。
(……そんなに強く蹴ったっけ?)
なんとなく視線をそらしながら、フリウはつぶやいた。
「だから」
と、指を一本立てて告《つ》げる。
「さっきの話、もっと詳しく教えてよ。父さんに聞いても、なんからちがあかないっていうか」
「もっと詳しくと言われても……」
彼は、困ったように腕組《うでぐ》みした。片手で顔を拭《ぬぐ》い、その汗をごまかそうとしているようだが、あまり成功していない。この朝の気候《きこう》だというのに暑いのか、朝露《あさつゆ》以上に皮膚《ひふ》を湿《しめ》らせている。
「ぼくはしょせん、使い走りだからね。中央から、あの黒衣って連中がやってきて、道案内しろと命令されたのさ。だから、この村まで先導《せんどう》してきたんだ。彼らの任務《にんむ》が、ベスポルト――君の、ええと、父さん?」
「うん」
うなずく。なぜか、彼はたじろいだようだったが。
「その、彼の拘束《こうそく》だというのは間違《まちが》いない」
「さっきの殺し屋は?」
「さあ。考えてみれば、偶然《ぐうぜん》出くわしたというのは、あんまりだね。なにか関係があるのかもしれない。どっちみち、黒衣たちから聞き出せるわけではないから、答えの出ない疑問《ぎもん》だけど」
「あのさ」
気になってフリウは、手を差し出した。話の流れを狂《くる》わせるのはどうかとも思うが、ほうっておくこともできない。
「そんなとこにずっと座《すわ》ってたら、ズボン、染《し》みになるよ?」
「染み?」
それほど突拍子《とっぴょうし》もないことというわけではないと思うのだが、警衛兵にとってはそうでなかったらしい。こちらが差し出した手を、なにか怯《おび》えた眼差《まなざ》しで眺《なが》めてから、ぽかんと口を開けている。
彼がその口を閉じる前に、スィリーが割《わ》り込《こ》んできた。
「おおっと兄ちゃん。唐突《とうとつ》だが、俺が占《うらな》いをしてやろう。俺らの村の占い機甲軍団《きこうぐんだん》のよーな重装甲《じゅうそうこう》重装備《じゅうそうび》がなくっても、予言ってのは知恵《ちえ》と勇気《ゆうき》で事足《ことた》りるってなもんだ」
「……知恵はともかく、勇気?」
「根拠《こんきょ》のないことを言い切る勇気だな。まあ実は、こっちだけでも事足りる。さて、お前さんがこれから言おうとしていることを当ててみせるさな。ええと、あれだ。染みなんざ気にしないぜと大見得《おおみえ》を切る」
「いや、気にするよ」
あわてて言いながら、警衛兵が立ち上がる。こちらの手には触《ふ》れもしなかったが。予言が外れたことにも構わず、スィリーはくるりと回ってポーズを取ってみせた。
「なるほど。これも予想通りだ。実はノーパンだな? 湿気対策《しっけたいさく》だ」
「いや、はいてるって」
「こいつ可愛《かわい》くないぞ、おい」
なにやら言いつけてくるスィリーは無視して、フリウは改めて彼を見やった――立ち上がったことで、見下ろす立場から逆転《ぎゃくてん》したが、それほど威圧感《いあつかん》を感じる相手というわけでもない。どのみち、見上げながら会話することには慣れている。
その警衛兵の名前を、なんとか思い出そうとし、ようやく記憶《きおく》の中から探《さぐ》り当てて、彼女はうめいた。
「じゃあさ、サリオン」
「う、うん」
「あなたなにも知らないわけ? 今朝からやたらといろんなことが起こって、あたしややこしいことになってるんだけど」
「ぼくだってややこしい。八年前からやたらと――あ、いや、なんでもないんだけど」
「…………?」
急に言葉を濁《にご》したサリオンに、フリウは首を傾《かし》げかけたが、もっと別のことが差《さ》し迫《せま》っていた。彼の昔話など聞いている場合ではない。
「なんにも知らないで、逮捕《たいほ》なんて言ってたの?」
「いや、ぼくが逮捕命令の理由を知っている必要はないんだ。特に黒衣は、中央府|直属《ちょくぞく》の法の番人だから、彼らの命令は――」
「理由は知っているべきでしょ、みんな。関係のない人でもさ」
「ええと……」
サリオンの言《い》い訳《わけ》を待たずに、腰《こし》に手を当てて前に出る。
「さっき助けてもらったし、こんなこと言いたくないけど、いい加減《かげん》じゃない。プロポーズされて、その理由がよく分からないなんて言われたら、あなた承諾《しょうだく》できる?」
「いや、でもそれ多分、たいていの人はそう言うよ」
「逮捕と求婚《きゅうこん》を同列《どうれつ》に扱《あつか》うあたりは、小娘《こむすめ》も多少は気が利《き》いてきたな。と褒《ほ》めそやす俺」
「そんなことはどうでもいいの!」
サリオンとスィリー、それぞれに視線を投げてから、フリウは息をついた。よくは分からないが、要は、そんないい加減な仕事をしているということだろう、この男は。生きることそのものがいい加減な人精霊《じんせいれい》はもとよりとして。
(まったく――)
自分が憤慨《ふんがい》していると自覚することなどそうそうあり得ないが、今は確かにそうだった。
「こっちは、朝から何度も生活をめちゃくちゃにされかけたっていうのに、当事者《とうじしゃ》がなんにも知らないなんてさ。もうわけ分かんないじゃん」
こうなれば。
ふたり――というかひとりと一|匹《ぴき》とでも呼ぶべきか知らないが、右目だけでにらみつけ、彼女は言い切った。
「罪滅《つみほろ》ぼししてよ、サリオン」
「…………え?」
ぎょっとしたように、サリオン。フリウはうなずいて、あとを続けた。
「あたしを手伝ってよ。なにが起こったのか、とにかく調べるの。あなただって、知るべきなんだから。そうでしょう?」
それは素晴《すば》らしく筋《すじ》の通った理屈《りくつ》に思えたのだが。
サリオンは、聞いていなかったようだった。ただ、やはり青ざめた顔で、こう答えてきた。
「あ……ああ。罪滅ぼしか。するよ」
「…………? 泣かなくったっていいじゃない」
彼が実際に泣いていたというわけではなかったのだが。
泣きそうな顔をしていたので、フリウはそうつぶやいた。
マリオ・インディーゴは、空《から》になったカップを手のひらに抱《かか》えてはテーブルの上にもどすことを繰《く》り返して、時間を潰《つぶ》して過ごしていた。無駄《むだ》にできる時間はそれほど多くはない。だが、無駄にすることも必要になる。待つということが必要になる。
それは今さらといえば今さらの、特にどうということもない知恵《ちえ》に過ぎなかった。いや、知恵の砕片《はへん》とでもいったほうが近いかもしれない。知恵の全体など、望《のぞ》むだけ無謀《むぼう》なものでしかない。すべてを都合良《つごうよ》く運ぶことなどできはしない。
だから、待つ。
小屋の中は乱雑《らんざつ》なようだが、せまい中にぎっしりと整頓《せいとん》された状態だとも言える。ポットの中の茶は、とうに冷めていたが、舌にどろりとした感触《かんしょく》を残すこの奇妙《きみょう》な茶を、あえて温め直して飲みたいとも思わない。そもそも、高山病の予防《よぼう》とはどういうことなのだ? そもそもそのあたりから理解できなかったが――まるで、自分が相当《そうとう》長い期間、ここにいることを勝手に予定されているようではないか?
(ベスポルト……シックルド)
彼女は思い浮《う》かべ、カップをもてあそぶ手を止めた。
(どういったことに……なるの? これは)
分からない。考える。愚《おろ》かだと分かっていても考える――知恵の全体を求めて。
自分がいる、この居間《いま》は、彼の建てた小屋のものだ。彼に娘《むすめ》がいるとは知らなかったが、血縁《けつえん》ではないらしい。こんな辺境《へんきょう》にはいるはずのない念糸《ねんし》使いの少女。
(あの娘はいったいなに?)
制御不能《せいぎょふのう》になった彼女の鋼精霊《こうせいれい》の攻撃《こうげき》を、切り抜《ぬ》けてみせた。ただの念術《ねんじゅつ》能力者ではない。精霊の扱《あつか》い方を知っているということになる。
だが、兵士でもない者が――たとえ念糸使いだとしてもだ――、無形《むけい》精霊などではなく、有形《ゆうけい》の強大化した精霊を制する方法を知る必要が、どこにある? そんなものを学んだところで、危険なだけで見返りはない。
マリオはカップを抱《かか》えたまま、頭を下げていった。腕《うで》にはさまれ、顔がテーブルへと近づいていく。頭を抱える形で落ち着いて、彼女は目を閉じた。
「次は……どうすればいいの?」
と。
扉《とびら》が開いた。驚《おどろ》くには値《あたい》しない。玄関《げんかん》の外から、とうに足音が聞こえてきていた。大きさ、歩調《ほちょう》から、あの娘のものでないことはすぐ分かる。となれば、ベスポルト以外にはない。
顔を上げると、入り口いっぱいに、大男が姿を見せていた。荷物《にもつ》を先に小屋の中に押《お》し込んで、自分も入ってくる。挨拶《あいさつ》もなにもない。会釈《えしゃく》も。一瞥《いちべつ》すらもない。
だが、声があった。
彼のつぶやきは、小さかった。長さも高さも、どうしようもなく。ただ一言。
「……黒衣が来た」
「…………」
カップの底の縁《ふち》の部分が、テーブルにわずかにこすれた。それで音を立てるわけでもないが、カップに触《ふ》れている指には反動《はんどう》が応《こた》えてくる。
マリオは静かに聞き返した。
「黒衣……って、なんですか?」
「知らないのならば、いい」
ベスポルトは、抑揚《よくよう》のない――というよりひたすらに抑《おさ》えられた声音《こわね》でつぶやくと、彼女をひとり居間に残し、自分の部屋へと姿を消した。
「…………」
ひとり残され、沈黙《ちんもく》の中。マリオは、カップから手を離《はな》した。
(彼はどういうつもりなの?)
黒衣。彼はそう言った。自分が記憶喪失《きおくそうしつ》ということになっているのを忘れていたら、声をあげていたかもしれない。
もっとも、記憶喪失などという便利な病名《びょうめい》に頼《たよ》ったのがまずかったかもしれない。記憶喪失とは、どこまでの記憶を失《うしな》うものなのだろう? 喜《よろこ》びや恐怖《きょうふ》までも忘れてしまうものなのか? 黒衣というものが、恐怖そのものであったとして?
(黒衣。こんなに早く動くなんて……)
落ち着かない。指先を、手で包み込んで独りごちる。
と。マリオは顔を上げた。玄関《げんかん》――と言えるような大層《たいそう》な家屋《かおく》ではないが――から、小さく小刻《こきざ》みな、乾《かわ》いた音が聞こえてきていた。扉《とびら》がノックされている。
もう一度。唾《つば》を呑《の》む。足音は聞こえてこなかった。あの少女――フリウでないことは疑《うたが》いない。だとすれば、何者がこんな、村八分《むらはちぶ》の隠者《いんじゃ》小屋にやってくる?
(まさか……黒衣?)
音を立てず、彼女は椅子《いす》から腰《こし》を上げた。右手をそっと、イヤリングになっている水晶檻《すいしょうおり》へと触《ふ》れさせる。
「エ・イ・ク・エ・イ・ク・アラプラマ」
彼女は小声で囁《ささや》いた。幼い頃から、記憶に刻《きざ》み込《こ》まれた儀式言語《ぎしきげんご》。意味など分からないが、そのほうが集中しやすい。
念糸《ねんし》が水晶檻に触れた。檻の中に囚《とら》われている存在と、心が通じるのが分かる。開門式《かいもんしき》はそのまま、心を滑《すべ》り外へと流れていく。
「シィク・リィス・イプ・ラフラマァン……」
身体《からだ》を、扉のほうへと向け――右手を突《つ》きだす。
乾《かわ》いた筆で、紙をこするような音。それと同時、手の中に、細長い銀色の槍《やり》が現れた。変化《へんげ》した精霊《せいれい》が、やはり小さな音だけを残して、その刃《やいば》を扉に埋《う》め、抵抗《ていこう》もなく貫《つらぬ》く。
「…………」
なにも起こらない。悲鳴《ひめい》も、なにも。
扉に突《つ》き立った――この感触《かんしょく》ならば、外側に二メートルは突きだしたはずだが――槍は、命じるまでもなくそのまま消えた。このカリニス、そして左耳のイヤリングに入っているエングの一対《いっつい》は、最強の部類に入る精霊のひとつだが、彼女にとっては生まれた時からの付き合いだった。ある程度ならば言葉がなくとも操《あやつ》れる。
扉に駆《か》け寄《よ》る。扉には小さな穴がひとつ開いただけで、沈黙《ちんもく》はそのままだった。扉を開けて、外を見やる。が。
「……なにもいない……?」
静かな朝の空気が、薄暗《うすぐら》い小屋の中に流れ込んでくるのを感じながら、マリオは力なくつぶやいた。
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第五章 ディスエンチャンテッド・メモリーズ
(その昔、あったこと)
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フリウ・ハリスコー。八年前に、この辺境《へんきょう》へと、この村へと逃《に》げてきたわたしは君に出会った。
それはただの偶然《ぐうぜん》なのだろうが、わたしには意味のあることと思えた。
そしてそれが、悪意《あくい》から為《な》る必然《ひつぜん》ではないことを祈《いの》った。
わたしは悪意を恐《おそ》れたのか? あまりにも深く、巨大《きょだい》なそれは、万人《ばんにん》を無視《むし》してひとりを圧殺《あっさつ》する。
善《ぜん》と悪《あく》という単純《たんじゅん》なものを、人は笑うのだが。その戦いは、宗教《しゅうきょう》とは別のところ、我々《われわれ》の手のひらの上にこそある。わたしはそれを知っているし、それが故《ゆえ》に祈らずにはいられない。
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草は焼け、土は焦《こ》げ、空気にもその臭《にお》いが充満《じゅうまん》していた。大地に残された傷痕《きずあと》か、あるいはもっと単純に鋭《するど》い熱量《ねつりょう》を叩《たた》きつけられた痕跡《こんせき》が、そこにある。斜《なな》めに引《ひ》き裂《さ》くように、その地面が大きくえぐられた跡《あと》を眺《なが》めて、フリウは目を大きく見開いていた。
「これ……あのでっかい燃えライオンがやったのかな」
「燃えライオンて」
サリオンが、なんとなくつぶやいてくるのが聞こえてくる。
その爪痕《つめあと》は優《ゆう》に四、五メートルにも及《およ》び、砂が融解《ゆうかい》して飴状《あめじょう》に爛《ただ》れている。例の現場――自分が殺されかけた現場――から百メートルとは離《はな》れていない地点だが、ここであの黒衣《こくい》とかいう連中《れんちゅう》が、殺し屋になにかを仕掛《しか》けたのは間違《まちが》いないようだった。殺し屋の連れていた、炎《ほのお》をまとった獅子《しし》の精霊《せいれい》が、それに対して反撃《はんげき》を行い、
「……誰《だれ》も死んでないってことは、切り抜《ぬ》けたんだろうね」
サリオンが小さく解説してくる、その通りだったのだろう。戦いの痕跡はこれひとつではなく、似たような破壊跡《はかいあと》が点々と、村の外れまで続いている。
「ひとついいか、小娘《こむすめ》」
空中で腕組《うでぐ》みしたスィリーが、もっともらしくしかめ面《つら》で声をあげた。
「人生を学ぶためには、なんだってやらにゃいけんさな――が、地面を引き裂くよーな怪物《かいぶつ》と、剣《けん》を持ったその主人と、あとやたら黒ずくめの無愛想《ぶあいそう》連中をいっぺんに追いかけないでも、もっと楽して儲《もう》かる利殖術《りしょくじゅつ》がほかにいくらでもありそうなものだと提案《ていあん》する」
「うっさいなぁ」
フリウはそれだけ応じると、いまだ燻《くすぶ》っていそうな、融《と》けた傷痕の近くにかがみ込んだ。熱の洗礼《せんれい》を受けた砂は原形を破壊《はかい》されガラスのようになっている。実際にはもう既《すで》に、冷えて固まっていた。朝の冷気は変わることもなく、全身をどこかぞくりとさせる。
「彼の言うことにも一理《いちり》あるんだ」
サリオンが、背後から――背後の頭上から言ってくるのを聞いて、ふとフリウは、なんの話かと訝《いぶか》った。が、数秒かけて気づく。人精霊《じんせいれい》の提案のことだ。
振《ふ》り向いて見上げると、警衛兵《けいえいへい》は、はっきりと怯《おび》えた顔で続けてきた。
「危険なことなんだよ。あの女は、中央から指名手配されている殺し屋だし、黒衣は白分たちの行動に干渉《かんしょう》しようとする者に対して、ひどく狭量《きょうりょう》だしね……」
「人の生活にずかずか踏《ふ》み込んでくるような連中の言い分なんて、聞くことないでしょ」
フリウが口をとがらせて告げると、サリオンはさらに表情を曇《くも》らせた。どうやら困惑《こんわく》したらしい。
「黒衣はそれが仕事なんだ。彼らは帝都《ていと》の治安を守る最高刑執行者《さいこうけいしっこうしゃ》で――」
「ここは帝都じゃないし」
「ぼくには分からないけれど、彼らにとっては、これも帝都を守るための、なにか理由のある任務なんだろう。あの殺し屋は、黒衣に追われていった。もう死んでいる。間違《まちが》いない」
「別にそんなの気にしてないわよ。なんでこんなことになったんだか、知りたいだけ」
「黒衣はそんなことを説明したりはしない」
サリオンが、ひどくむきになっていることには気づいていた。大の大人がこうまで怯《おび》えるのなら、嘘《うそ》ではないのだろうが。
あえて無視して、フリウは融《と》けた地面に触《ふ》れてみた。気温と同じ、ひやりとした硬《かた》い感触《かんしょく》を指先に記憶《きおく》させるようにして、唇《くちびる》を開く。
「精霊《せいれい》」
「ん? 呼んだか?」
ふらふら顔を出してきたスィリーを適当に弾《はじ》いて横にどけ、彼女は静かに考え込んだ。
「ここ何日かで、精霊を二度も見たのよ」
「俺《おれ》が数に入っていないような気がするぞ」
くじけず自分の顔を指さして主張する人精霊を、今度は逆方向に弾いて、続ける。
「精霊使いを見たのも初めてだけど。あんな強力な精霊を使役《しえき》してるようなのが、立て続けに現れるなんて、やっぱり不自然よ」
「強力。強力」
どうやら強大さをアピールしているつもりか、なにやら空中でポーズを取っているスィリーを下に払《はら》いのけ、サリオンが声をあげた。
「二度?」
不思議そうに、聞いてくる。
「あの殺し屋のほかにも、精霊を手なずけてるような人間に会ったのかい?」
「あ」
問われて、思い出す。そういえば、あの記憶喪失《きおくそうしつ》の精霊使いのことは、サリオンは知るまい。
「えーと……んーと……あー。まあとにかく不自然なのよ。なんもかんも」
「うーむ」
「待たんかい、お前ら」
なぜかあちこちぼろぼろになって――まるで理不尽《りふじん》にあちこち弾かれたように――スィリーが、視界の真ん中ににゅっと顔を突《つ》き出してきた。
「どことなくお前ら、俺を邪魔者《じゃまもの》だか厄介者《やっかいもの》だかのよーに扱《あつか》う兆《きざ》しを見せつつないか?」
「自覚《じかく》がちょっと足りないみたいね」
「俺を怒《おこ》らせると後悔《こうかい》するぜ。なんかまあ、いろいろな手段とかで。計画《けいかく》は秘密《ひみつ》だ」
「とにかく、追いかけなくちゃ。あいつらから聞き出す以外、考えようもないもんね」
「でもね、フリウ――」
「念のため言っておくが、無視されるのが一番|嫌《きら》いだぞ」
地面の破壊跡《はかいあと》を迂回《うかい》して、次の痕跡《こんせき》を探す。例の殺し屋と、黒衣とかいう連中は、戦いながら移動しているのか、その足跡《そくせき》を残していた。同じような焼け跡。折れた木。壊《こわ》された垣《かき》。子供の泣き声も聞こえてくる。
「しかし……」
いったん高くまで上昇《じょうしょう》し、スィリーがつぶやくのが耳に入ってきた。しみじみと、あたりを見回しながら、
「こんだけの騒《さわ》ぎになっていながら、どーしてまあ、人っ子ひとり様子見に出てこないんだろな。まあ、どっかの小娘《こむすめ》のよーに、キケンと書かれた罠《わな》の真ん中に興味《きょうみ》を持つよりはよほど賢明《けんめい》ではあるが」
「……みんな、精霊《せいれい》が怖《こわ》いのよ」
フリウは小さく、それに答えた。返事が返ってくるとは思わなかったのだろう――人精霊は、目をぱちくりさせて、
「怖い?」
内容についても、意外だったらしい。聞き返してくる。
高い場所に浮遊《ふゆう》している相手に、フリウは首を傾《かたむ》けて続けた。
「大勢死んだの」
「誰が」
「この村の人が。決まってるでしょ」
口をとがらせて言う。が、スィリーは納得《なっとく》できないようだった。
「今この村にいる連中は、全員生きてるだろが」
と、言ってから、ふと顔をしかめ、
「……死んでるのか? いや、いーやー答えんでいい答えるな。ところで俺帰ってもいいか?」
「い・ま、生・き・て・る・人たちの子供とか、兄弟とか、友達がみんな死んだのよ。いちいち揚《あ》げ足《あし》取らないでよ」
噛《か》みしめるようにうめく。と。
「……親、とか」
突然《とつぜん》小声で、サリオンがつぶやくのを聞き、フリウはぎょっとして振《ふ》り向いた。背筋《せすじ》に冷たく重いものが貼《は》り付いてくるのを感じる。警衛兵は傍目《はため》にも分かるほど、顔面を蒼白《そうはく》にしていた。
「う……うん」
なんとなく、うなずく。
「にしても、まあ」
やはり気楽に宙に浮《う》いたまま、スィリーが声をあげた。空気に水を差す形で、のんきにあたりを観察している。
「派手にやらかしたもんだぁな、あの連中。あちこち壊《こわ》れてるぜ。あのへんも、植木やら家やら玄関《げんかん》やら、派手にぶっつぶれて燃えてる燃えてる」
「…………」
歩きながら聞いていたため、聞いたことの大半は耳から滑《すべ》り落ち、流れていく。が、
「へ?」
気づいて、フリウは足を止めた。
「家が燃えてるって?」
「ほれ。あそこ」
人精霊《じんせいれい》の、小さな指先が指し示したのは、少し離《はな》れた小さい家屋だった。見事に半壊《はんかい》し、炎《ほのお》と煙《けむり》をあげている。あたりが静かで気づかなかったが。
「大変だ」
サリオンが、出会ってから小一時間で既《すで》に何度も聞かされた、絶望的な声音《こわね》でうめいている。彼は両手を口に当てると、声高に叫《さけ》びだした。
「火事だぞー! 誰かー!」
静寂《せいじゃく》の中に、炎だけが揺《ゆ》れる村――
その声も、こだまだけして消えていく。
「……誰も出てこんよーだな」
スィリーが、ひどく端的《たんてき》なことを吐《は》いた。サリオンが、うろたえてうめく。
「そんな……?」
彼を見上げ、静かに呼吸《こきゅう》する。周りにある空気が清浄《せいじょう》だと、彼女は唐突《とうとつ》に意識した。冷たく澄《す》んだ風は、肌《はだ》にはむしろ痛い。硝化《しょうか》の森と同じように。
フリウは、つぶやいた。
「行こうよ」
「え?」
信じられないといった表情で、サリオンが固まる。彼はもう半歩、火事現場に向かいかけた体勢で、視線だけをこちらに向けてきた。
「なに言ってるんだ? 助けに行かないと――」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ……あれは一軒家《いっけんや》だし。延焼《えんしょう》したりは」
「だって、中に人がいるんじゃないのか? あれは」
「逃《に》げたに決まってるでしょ。馬鹿《ばか》じゃないんだから………」
「だったら、姿が見えてもおかしくないだろう?」
「そう……だけど」
口ごもる。が、言葉を探す時間を、サリオンは与《あた》えてくれなかった。そのまま、燃える家に向かって駆《か》け出していく。
「…………」
それを見送って。
また地面の破壊跡《はかいあと》へと視線を向ける。傷痕《きずあと》はずっと、村の外まで続いていくように思えた。これが続いた先で、あの殺し屋はまだ黒衣に追われているのだろうか?
フリウは、ため息をついた。また顔を上げると、そこにはスィリーが、なにを考えているのか分からず、なにも考えていないことならばすぐに分かるぼんやりした無表情で、待っていてくれたらしい。
特に言葉はなかった。フリウは意を決すると、駆け出した――既《すで》に十数歩先を行っているサリオンを追うようにして。
静かに燃える家。
と思ったのだが、近づいてみれば、炎《ほのお》があげる轟音《ごうおん》が風をかき混ぜていた。これだけの勢いで燃えていれば、家一軒とて焼《や》き尽《つ》くされるのに時間はかかるまい。既に玄関《げんかん》から建物の半分は崩《くず》れて廃材《はいざい》となりつつある。
フリウはあたりを見回した。誰の姿もない――つまりは、自分たちのほかには。近くの住人が、火事に気づいていないこともないのだろうが。
警衛兵が声をあげた。
「……なんてこった。入れない」
たどり着いたはいいものの、特にできることがあるわけでもなく、サリオンは慌《あわ》てているようだった。
と、姿を消していたスィリーが、音も立てずに虚空《こくう》へと姿を現す。少し焦《こ》げて、けほ、とせき込んだ息まで黒い。人精霊《じんせいれい》は、服についた煤《すす》を払《はら》いながら、気の抜《ぬ》けたつぶやきを発してきた。
「なか、人がいるぞ。家族全員固まって、まあ修羅場《しゅらば》というやつだな。仲間に入れば、もれなく窮地《きゅうち》から生じる急激《きゅうげき》な恋愛《れんあい》が――っても、いるのは中年|夫婦《ふうふ》とガキが二|匹《ひき》だけだから、あまり期待はしないほうがいいぞ兄ちゃん」
「不謹慎《ふきんしん》だろう」
苛立《いらだ》たしく、サリオンが毒づくが、もとよりスィリーが気にする気配もない。腕組《うでぐ》みし、「……まあ、それでもいいと言うのなら、その趣味《しゅみ》をどうこうしたいとは思わねぇけど」
もうそれには答えずに、サリオンはやはりまた、無益《むえき》になにかを探そうとしていた。炎をあげる家を前に、その熱で汗《あせ》を浮《う》かべて、
「水を……」
つぶやく彼に、フリウはため息をついた。
「火事をひとつ消火できるほどの水が、こんな高地にあるわけないじゃない」
「なにを落ち着いて――」
今度は非難《ひなん》の矛先《ほこさき》をこちらに向けて、警衛兵が顔をしかめる。
それを見ながら、
「慌《あわ》てたってどうにもならないじゃない」
「そりゃそうだが」
「どこかから出られないの? 窓とか勝手口とか」
「出られるものならとっくに出てると俺は推測《すいそく》する。確率八十%」
他人事《ひとごと》の顔で言ってくるスィリーを見上げ、フリウは、家のまだ火が回っていないほうへと回り込んだ。
よほど運が悪いのか――それとも、運命などというものはこんなものだと言われても納得《なっとく》はできたが、確かに人が出られそうな通路もない。指先で恐《おそ》る恐る壁《かべ》に触《ふ》れると、相当の熱を持っていた。中は蒸《む》し風呂《ぶろ》のようになっているに違《ちが》いない。あるいはもっと直接的に、火の海か。
唐突《とうとつ》に振動《しんどう》が、指先に伝わってきた。がつん、と大きな音を立てて、小屋が揺《ゆ》れる。
見ると、サリオンが警棒《けいぼう》を腰《こし》から外して、その先端《せんたん》を壁に突《つ》き立てようとしていた。顔をしかめ、警棒で何度も殴《なぐ》りつけるが、壁がよほど頑丈《がんじょう》なのかどうにもなっていない。表面に、粗雑《そざつ》な蜘蛛《くも》の巣のような、無数のひっかき傷ができただけだった。
思わず、あきれて――
「今から壁なんて壊《こわ》したって、間に合うわけないじゃない」
フリウはうめいたが、サリオンは手を止めようとしない。
「むう。これが、アバンチュールに燃える男の執念《しゅうねん》か?」
なにやら真顔で、真剣《しんけん》にそう言っているらしいスィリーは当然無視して、サリオンがうめく。
「確かに間に合わない……誰か呼んできてくれ。早く」
「そんなこと……」
(できるわけないじゃない)
言葉の後半は、唇《くちびる》を噛《か》みしめて喉《のど》の奥《おく》にとどめる。フリウは首を左右に振《ふ》って、言い直した。
「なんで、あたしがそんなことしなくちゃならないのよ」
サリオンは、驚《おどろ》いたようだった。一時手を止めて、こちらへと視線を向けてくる。眉間《みけん》にしわが寄っているのが見えた。
「なんでって………」
と、考え込むように、
「助けなくちゃ。そうだろう?」
「そうだけど……」
フリウが口ごもると、彼はまた作業を再開した。警棒で壁を突くこの音を、中の家族は、どう聞いているのだろう? と、そんな疑問《ぎもん》が浮《う》かんでくるのを感じて、フリウは左目を隠《かく》している眼帯《がんたい》に手を触《ふ》れた。希望のノック? 破滅《はめつ》の足音? どう聞こえるのだろう。
その、どう聞こえるのか分からない音を立てながら、サリオンがつぶやくのが聞こえた。規則的な打突音《だとつおん》の合間《あいま》に、息をつきながら、
「君は、ベスポルト――父親のために、黒衣にまで手出しをしようとしたんだろう? それと同じことじゃないか」
「…………」
フリウは黙《だま》って、意識を集中した。
喉《のど》の奧《おく》に、軽く力を入れる。感覚としてはそれに近い。そこになにかスイッチがあり、それを入れることでなにかが変わるような。意思が滑《すべ》り、意志の手となって、触れるものを求める。
身体《からだ》からなにかが浮き上がる……
意志の導《みちび》き、念糸《ねんし》は風になびく蜘蛛《くも》の糸のようにしなやかに、無骨《ぶこつ》に崩《くず》れていく建物へと伸《の》びていった。一番近い壁《かべ》――まだ火の手のあがっていない木の壁に触れると、突き刺《さ》さるようにそこにとどまる。
あとは、命じるだけだった。言葉ではなく、自分の意志に従《したが》えと、相手に命じる。
建物が大きな軋《きし》み音《おん》を立てた。歪《ゆが》み、たわみ、壁が一枚丸ごとひねられて、めきめきと剥《は》がれ出す。ものの数秒で、作業は終わった。壁は引き裂《さ》かれ隙間《すきま》を開けている。新たな空気を得て、家の中で炎《ほのお》が少し燃え広がったようではあったが、それだけだった。
「……すごい」
感嘆《かんたん》の声を漏《も》らしたのは、サリオンだった。すぐにその壁の隙間から中をのぞき込むと、
「早く! こっちに!」
呼びかけに答えて、中から人が――スィリーの言う通り、夫婦《ふうふ》とその子供ふたりが――飛び出してくる。中でも消耗《しょうもう》しているらしい下の子供を、サリオンが抱《だ》き留《と》めるのを見ながら、フリウはなんとなく一歩|退《しりぞ》いた。警衛兵は慣れた様子で、家族を火から遠ざけようと、なんとか誘導《ゆうどう》している。それが本職なのだから、当たり前といえば当たり前だが。
フリウは炎を強める建物を、もう一度見上げた。
刹那《せつな》。
知覚は一瞬《いっしゅん》だった。いや、もっと早くに感づいてもおかしくはなかっただろう。炎に当てられ、鈍《にぶ》くなっていたに違《ちが》いない。振《ふ》り向くと、そこに数人の気配があった。数人、いや十数人。男たち。どこかで顔を見たことはあっても――しょせんはせまい村だ――が、名前の出てこない、男たち。
「あ」
フリウは、白分の喉《のど》から漏《も》れる声を、他人事のように聞いていた。背後を指さし、それからようやく自分の声を出す。
「……これ、火事で……」
「なんだ? こいつら」
スィリーが、遠慮《えんりょ》なく聞いてきた。思わずぎょっとするが――男たちは特に動きを見せるでもない。ただちらちらと、燃える家と、こちらとを見比べているふうだった。
小声で、スィリーに告げる。
「……村の人だよ」
「なんだ。今さら出て来やがったのか?」
「ちょっと黙《だま》ってて」
「黙っているぞいつまでも。ところで、あいつらなんか言いたげだぞ」
スィリーが、村人たちを指さす。確かに、彼らはなにか言ったらしかった。小声だったため、よく聞き取れなかったのだが。
フリウが見やると、誰かがそれを言い直したらしい。それは聞こえた。
「……またお前か?」
「えっ?」
「またお前の仕業《しわざ》……なのか?」
「…………」
と――
「なにを言ってるんだ!? あんたたちは!」
サリオンだった。家族の避難《ひなん》は終わったのだろう。肩《かた》をいからせて、大股《おおまた》でもどってきている。警衛兵の制服を見て、村人の何人かが振《ふ》り上げかけた拳《こぶし》を下ろすのが見えた。
警衛兵は、そのまま近づいてくると――
「この子は関係ないだろう。それに、ここの家族を助けたのは彼女だぞ?」
語気|荒《あら》く言いながら、村人たちとこちらの間に割って入ってくる。
反論《はんろん》。怒声《どせい》。あるいはもっと単純な暴動《ぼうどう》。そういったものを、サリオンが警戒《けいかい》しているのは見ていてもすぐ知れた。が。
村人たちが見せたのは、そのどれでもなかった。言葉も行動もない。サリオンを無視して、こちらを睨《にら》んでいる――全員が。
フリウは、警衛兵の背中に半《なか》ば隠《かく》れるようにして、彼に声をかけた。
「……いいの」
「え?」
彼が、拍子抜《ひょうしぬ》けしたように聞き返してくる。彼の顔を見上げはせずに、フリウはかぶりを振った。
「いいんだよ。別に……ここの人が助かったんならさ。行こ」
「でも――」
サリオンの手を引いて。
フリウは足早に、その場を立ち去《さ》った。
「なんなんだ、いったい!」
よほど腹に据《す》えかねたのか――警衛兵はまだぶつけようのない怒《いか》りを、適当にばらまいていた。実際、もう火事現場から相当歩いたというのに、相手には聞こえない愚痴《ぐち》と、相手にはとどかない拳《こぶし》を振《ふ》り回している。
「自分たちは隠れてたくせに――どういうつもりなんだ、あの連中《れんちゅう》」
「あたし、やるべきじゃなかったのかも」
フリウがつぶやくと、彼はきょとんとこちらを向いた。そのまま、続ける。
「あたしが、ああいうことできるって見せられると、不安になるみたいだから。みんな」
「でも、あの場合は」
「みんな、すごく怯《おび》えるようになっちゃってさ。八年前から」
サリオンが、足を止める。フリウも自然と、立ち止まっていた。あたりを見回す。
一応は、例の破壊跡《はかいあと》をたどって歩いていたのだが、村外れにきて、その痕跡《こんせき》は急速に薄《うす》れつつあった。たどろうにも、もうそれらしい手がかりがない。
ため息をついて、フリウはその場に腰《こし》を下ろした。自分の隣《となり》の地面を、手のひらで叩《たた》いて、サリオンを促《うなが》す。
彼も特に気にすることなく、そこに座《すわ》り込んできた。スィリーにはなにも勧《すす》めなかったが、それも気にすることなく、回り込んで聞き耳の体勢を取っている。
フリウは手を後頭部《こうとうぶ》に回すと、慣れた位置にある結び目を探《さぐ》り当て、ゆっくりとそれを外しにかかった。頭を締《し》め付けていた眼帯《がんたい》が、するりとずり落ちる。左目を隠《かく》していたその帯が外れても、視界はなにも変わらなかったが、視界の中にいるサリオンの顔色がはっきりと変化するのは見て取れた。
息をつく。
自分の左目――なにも見えない左目を指さして、フリウはつぶやいた。
「これ、水晶眼《すいしょうがん》っていうの。滅多《めった》にない特異体質なんだって。硝化《しょうか》の森の近くに住む人たちの間で、ごくごくまれに……あることなんだけど」
警衛兵は唇《くちびる》を蒼《あお》くして、こちらを凝視《ぎょうし》している。なにか悪夢《あくむ》に震《ふる》えているようにも見えたが、彼がここまで明確《めいかく》な拒絶反応《きょぜつはんのう》を示したことに、ちくりと刺《さ》すような痛みを覚える。慣れたことだったが、慣れることはない。
ちらりとスィリーを見上げるが、人精霊《じんせいれい》は特になにを言うでもなく、ふらふらと飛んでいた。精霊にとっては、この話は愉快《ゆかい》なものではないだろう――そんな気もする。フリウは再び吐息《といき》すると、眼帯をつけなおした。
「精霊は、念糸《ねんし》でできたサークルからは抜《ぬ》け出せないっていう性質《せいしつ》があるの。これはどんな精霊でも同じ。だからハンターは、念糸を固定する水晶檻《すいしょうおり》だとかを使って精霊を捕獲《ほかく》するの。粗悪《そあく》な水晶檻だったら、念糸使いでなくても扱《あつか》えるしね。そのかわり、自由に外に出すこともできないけど……」
説明をしたあとで、もう一度神経質に息をつく。彼女はそのまま続けた。
「水晶|眼《がん》は、なによりも強く精霊を閉じこめる天然の奇跡《きせき》なんだって。水晶眼に捕《と》らえられた精霊は、たとえどれほどの力を持っていても、そこから脱出《だっしゅつ》することはできない」
「……聞いたことは、あるよ」
喉《のど》が渇《かわ》いたのか、かすれた声で、サリオン。フリウはうなずいて、
「水晶眼は、精霊を捕らえずにはいられない[#「いられない」に傍点]から、あたしの眼《め》の中にも、生まれた時からなにかの精霊が入ってたの。それがなんだかは分からないし、どうしようもないことだから、そのままだったんだけど」
「うん」
「あたしが念糸を使える理由も、よく分かんないんだ。普通《ふつう》、こんな村に生まれたりはしないのよね? 念糸使いって」
「ないことじゃあ、ない……と思う」
多少あやふやな口調ではあったが、サリオンはうなずいてきた。
「でもたいていは、そういう子供が産まれたっていう情報が入ったら、つまり、警衛兵……とかが、その子を、その」
「買っていくんでしょ。聞いたことある」
しどろもどろになったサリオンの言葉を継《つ》ぐ。フリウは膝《ひざ》を抱《かか》えて、腕《うで》に力を入れた。
「あたしはさ、すごい値段《ねだん》がついたんだって。笑っちゃうよね。あたしが寝《ね》てる部屋、すきま風がすごいんだよ」
「…………」
彼はなにも言ってこない。フリウは、やめることができずにそのまま続けた。
「水晶眼は、あまり関係なかったみたい。水晶眼の中になんの精霊《せいれい》が入っているのかなんて分からないし、たいていは無形精霊《むけいせいれい》とか、そんなのだもんね。スィリーみたいなのが入ってたら、ホントに役立てようがないし」
「ん? なにか俺の有用《ゆうよう》性について重大な誤解《ごかい》をしてないか? 俺はあれだぞ、小娘《こむすめ》。右手で丸を描《えが》きながら左手で四角が描けたりとか、なくてはならない感じだぞ」
「いーよ別に。こっちで勝手《かって》に閉じこめておいて、役立つとか立たないとか、そんなこと言うのもわがままだしね」
寄ってきたスィリーを追い払《はら》いながら、フリウは顔を上げたついでにサリオンの顔を見やった。
「でもひょっとして、すごい精霊が――ほら、あの殺し屋が使ってたみたいなのが――この眼に入っていたら、あたしの値段も跳《は》ね上がるって。村の誰かが言い出したんだ。六|歳《さい》の時だったと思う。八年前……かな」
八年前。
それを聞いた瞬間《しゅんかん》、サリオンがたじろいだようにも見えた。もっとも、単に相づちを打っただけなのかもしれない――とにかくこの警衛兵は、いちいち動作が大げさなようだった。理由はよく分からないが。
「すごい騒《さわ》ぎになったんだよ。あたしは小さかったから、よく覚えてないけど」
「ちょっと待て、小娘」
ふと、スィリーが割り込んできた。文字通り、顔の前をふさぐように現れて、聞いてくる。
「水晶眼《すいしょうがん》の中からは、どんな精霊も出られねんだろ。そんなもの、なにが入ってるのか、どうやって調べるんだ? あと調べたところで、なんの役に立つ?」
「眼を潰《つぶ》せば出てくるよ」
「う。その話は食事中にでもまた」
去《さ》りゆくポーズでそのまま去っていくスィリーを半眼《はんがん》で見送り、フリウはうめいた。
「なんでよ。まあ冗談《じょうだん》はともかく、開門式《かいもんしき》を使えばいいのよ」
「開門式?」
これは知らなかったのか、サリオンが聞き返してくる。フリウはしばし虚空《こくう》を見上げ、正しい説明を探した。
「水晶|檻《おり》を開くための、儀式《ぎしき》というか……操作手順《そうさてじゅん》というか」
「ああ。なるほど」
「正確な開門式は念糸使いにしか唱えられないけど……まあとにかくそれをすると、水晶檻を開くことができるわけ。檻の中に精霊を捕《と》らえる時にも、外に出す時にも使うの。水晶眼に使う時には、ちょっと意味が違《ちが》うけど」
「? どゆこった?」
今度は、スィリーが聞いてくる。フリウは肩《かた》をすくめてみせた。
「水晶眼は、封《ふう》じる力が強すぎるの。いくら頑張《がんば》って開門式を唱えても、精霊を水晶眼から解放《かいほう》することはできない――」
「じゃあ、やっぱり役に立たんだろ」
「――んだけど、精霊の力によっては、影《かげ》くらいなら外に出られるから」
「影。やはり、役に立たない気がするが」
「……あんた、自分の同族《どうぞく》が閉じこめられてこき使われてるって話をしてる時に、よくそういうこと言えるわね」
「そうは言うが。人生は労働《ろうどう》があってこそ」
「なんか違う気がするけど」
「なにを言う。中庭に三メートルの穴を掘《ほ》ると自由が訪《おとず》れるという、なんかまあ、門が鉄でできた窓の小さい建物によくある格言がだな」
「ますます違ってる気がするけど」
眉間《みけん》に力を入れてうめいてから、フリウは嘆息《たんそく》した。なにを話していたかを思い出し、
「それで、八年前、眼《め》の中になんの精霊《せいれい》が入ってるのか調べたら、その精霊が暴《あば》れ出して……大変なことになっちゃって。それで、それ以来、村の人は、精霊を怖《こわ》がるようになって。それまでは、この村にもハンターがたくさんいたんだけど、それも追い出されて。あたしも、追い出されるところだったし」
「そんなはずは――」
「?」
驚《おどろ》いたような声をあげたサリオンに、フリウはきょとんと視線を返した。目が合って、彼はいったん言葉を止めた。なにを言おうとしていたのかは知らないが、言い直してくる。彼が目をそらしたせいで、多少聞き取りにくい。
「……君は、なにも悪くないじゃないか。話を聞いている限りじゃ」
「でも、人が死んじゃったから」
彼女も顔を背《そむ》け、つぶやいた。地面を、なにを聞いても変化することのないそれを見つめ、
「父さんがいなかったら、あたしも死んでたかも」
「……ベスポルト? 彼が?」
「ちょうどその頃《ころ》に、父さんは村に来ていて。まあ、今と同じで、そんなに村の人と仲良くしてたわけじゃないんだけど……あたしを引き取ってくれたんだ。それで、正しい念糸《ねんし》の使い方と、精霊|狩《が》りを教えてくれたの」
膝《ひざ》を抱《だ》いていた腕《うで》を離《はな》して、地面に触《ふ》れる。湿《しめ》った土の感触《かんしょく》が、指先に染《し》みいってきた。手を押《お》しやって立ち上がり、空を見上げる。考えてみれば、話し込んでいる時間などはなかった。やらなければならないことがある。
「だから、父さんがいなくなっちゃったら、あたしは――」
話が終わるのを待っていてくれたのか。
だとしたら、何者がそうしてくれたのかは分からないが。
異変が続いた朝が終わり、そろそろ昼が近づこうかという頃合いに。
その日の、最後の異変が起こったのはその時だった。
聞こえてきたのは、激《はげ》しい振動音《しんどうおん》だった。次第《しだい》に高鳴《たかな》り――いや、それほどの時間的|余裕《よゆう》もなく、一気に高潮《こうちょう》に達した轟音《ごうおん》は、突然《とつぜん》形を取って具現化してきた。
砲弾《ほうだん》のようなものだった。実際、砲弾かとフリウは身を固めた――このような高地にわざわざ攻城兵器《こうじょうへいき》を運んでくる酔狂《すいきょう》がいるのかどうかは知らないが、実際にそれが飛んでくれば疑っていても詮無《せんな》いことだろう。爆発《ばくはつ》するように、貫《つらぬ》くように飛んできたその銀色の塊《かたまり》は、彼女らからさほど離れていない地面に激突《げきとつ》し、数度|跳《は》ねて転がった。銀と、黒のなにか。
「…………?」
絶句して、眺《なが》める。その物体は地面に半ば突《つ》き刺《さ》さり、動こうともしない。いや、そう思えたのも一瞬《いっしゅん》だけで、即座《そくざ》に立ち上がってみせた。
そう――それは、人型をしていた。
「え!?」
思わず、悲鳴じみた声をあげる。
「ほほう」
落ち着いた声音《こわね》でうめいたのは、スィリーだった。
「人間が飛べるとは、知らなんだ」
人型をしてはいたが、人間なのかどうかは自信が持てなかった。少なくとも、人間というのは勢いよく地面に激突すれば死ぬものだ。が、そこにいるそれは、傷ひとつなく立っている。
「鎧《よろい》……?」
フリウは、なんとなく口にした。それは鎧を着た人間だった。全身を、優美《ゆうび》な甲冑《かっちゅう》で覆《おお》っている。顔の一部だけが、隙間《すきま》からのぞいていた。その目には、見覚えがある。
「マリオ……?」
その鎧《よろい》を着た少女の名を、フリウはつぶやいた。鎧をまとったマリオ・インディーゴは、手にした長槍《ながやり》を握《にぎ》り直し、あたりを見回している。
「な、なにやってんの? あんた……」
フリウは呼びかけたが、彼女には聞こえない――あるいは聞くつもりなどないようだった。鎧がまた、鋭《するど》い振動音《しんどうおん》を発する。先ほど聞こえた音は、これだった。いや、もとより以前にも聞き覚えがある。記憶《きおく》を探《さぐ》って思い浮《う》かんだのは、硝化《しょうか》の森と、そこを走る自分……
(あの鋼精霊《こうせいれい》が出してた音?)
そう思った時には、マリオの身体《からだ》が、宙に浮いていた。翼《つばさ》もなく、その轟音《ごうおん》で身体を支えているとでもいうように。そして。
「――――っ!?」
一瞬《いっしゅん》の圧迫感《あっぱくかん》を残して、彼女の姿が消えた。いや正しくは、凄《すさ》まじい速度でまた飛んでいったのだろうが――
網膜《もうまく》には残像しか残らなかったが、飛んできた方向にもどっていったように思えた。
向き直る。とフリウは、ぽかんと口を開けているサリオンを見つけた。
「なんだありゃ……?」
わけが分からない様子で、うめいている。それはこちらも同じ気持ちではあった。なにが分かるはずもない。
(でも……)
不快な予感が、胸をよぎるのがはっきりと知れた。今のは、マリオだった。家で、父といっしょにいるはずの。
(それが、鎧着て吹《ふ》き飛んでくるっていうのは、どういうことなのよ)
ただ事ではないだろう。それだけは間違《まちが》いない。
「俺の推測《すいそく》を話してやろう」
スィリーが、細い――というより小さい――指を立て、鼻を上げて言ってきた。ふわふわと、風にでも押《お》されるように漂《ただよ》いながら、
「人生ってのは、学べば学ぶほど賢《かしこ》くなり、突発《とっぱつ》的な事態にも対応でき、ふさぎ込んで理想と現実の分別《ぶんべつ》がつかなくなる」
「……学ばないほうがいいんじゃない? それ」
「そんなはずはない。まあそれはそれとしてだ、俺が知る限り、鎧ってのはだ。戦うために着るもんだ」
「そうね」
それほど聞きたいと思ったわけではないのだが、フリウはスィリーに相づちを打った。マリオが飛び去った方角に顔を向ける。振動音《しんどうおん》だけは、まだ聞こえてきていた。
スィリーは、得意げにあとを続けている。
「つまり、あの小娘《こむすめ》も、なにかに襲《おそ》われるか襲いかかるかのどちらかでもない限り、あんな暑苦しいものを着たりはしなかろ」
「襲い……かかられる」
口の中で繰り返す。
はっとして、フリウはサリオンに向き直った。警衛兵も、同じことを思いついたのか、表情をこわばらせていた。
叫《さけ》んだのも同時。
「黒衣だ!」
そして。
「……人の推論《すいろん》を途中《とちゅう》で盗《ぬす》むのは、恥《は》ずべき行為《こうい》だと俺は締《し》めくくる」
どうでもいいスィリーのつぶやきが、耳に残った。
第六章 オーバートーン
(広い世界のせまい一点)
[#ここから8字下げ]
[#ここから教科書体]
だが善悪《ぜんあく》は単純《たんじゅん》ではあっても、明快《めいかい》なものではなく、祈《いの》りはますますそれを曖昧《あいまい》にする。
思うに、我々《われわれ》が望《のぞ》むものというのは、突《つ》き詰《つ》めれば簡単《かんたん》なものであったはずが、望むほどに怪物《かいぶつ》のように変化《へんか》していく。善が正しくもなく、悪が正しくもなく。その両者《りょうしゃ》が均衡《きんこう》を保《たも》つことなど一瞬《いっしゅん》たりとてあり得《え》ず。
ああ、すべては正《せい》なのだ。すべては邪《じゃ》なのだ。
[#ここで教科書体終わり]
[#ここで字下げ終わり]
「……それは、なんですか?」
マリオが口を開いたのは、それを聞きたかったからというわけではなく、単に、黙《だま》りこくったまま時間を潰《つぶ》すことに苛立《いらだ》ちを覚えたからだと、自分でも認《みと》めざるを得なかった。せまい小屋の中で、傾《かたむ》きかけたテーブルをはさみ、無口な大男と向き合っていれば、忍耐《にんたい》がすり減るのも早い。男は先ほどから黙々《もくもく》と、なにかを書き付けている。神経質《しんけいしつ》に、本を――地図帳のようだったが――衝立《ついたて》に、わざわざこちらに見えないようにして。
(見せたくないのなら、自分の部屋でやればいいのに)
思うが、ふと、気づく。この小屋には、テーブルがこれひとつしかないのかもしれない。そう考えても不思議はなかった。
その無口な男は――ベスポルトは、顔を上げもしなかった。が、はっきりとしないくぐもった声で、
「手紙を書いている」
「誰《だれ》にですか?」
この男は天涯孤独《てんがいこどく》だったはずだ。少なくとも、入手できた資料ではそうだ――違《ちが》うのならば、修正《しゅうせい》のための情報は得なければならない。尋《たず》ねてから、尋ねた理由が浮《う》かぶのは、珍《めずら》しいことではなかった。正しい行動というのは、正しい思慮《しりょ》を待っていては間に合わないことが多い。
が、ベスポルトは答えてはこなかった。黙して、ペンを持つ手だけを動かしている。それほど長い手紙ではなかったようだった。書くことも、もう決まっていたのだろう。ペンを止めることも数度しかない。
寡黙《かもく》と呼ぶこともできる。が、実際は、つまらない大人であるというだけのことだろうとも思う。
(まったく)
外には出さないようにしてため息をつく方法を教えてくれたのは誰だったろう――マリオはなんとなく、自問《じもん》した。便利《べんり》な技術ではあった。実際に今それをやりながら、ありがたみを感じる。恐《おそ》らく、訓練校《くんれんこう》だったのではないか。役に立つことは、すべてあの狂気《きょうき》じみた場所で教えてくれる。
(黒衣《こくい》が余計《よけい》な動きさえ見せなければ、こんな退屈《たいくつ》な役目にわたしが駆《か》り出《だ》されることもなかったでしょうにね)
顔をしかめても、視力《しりょく》が上がるわけではない。ましてや衝立を見通せるはずもない。
やがて彼はその便《びん》せんを几帳面《きちょうめん》に折《お》り畳《たた》み、封筒《ふうとう》に入れ、席を立った。大男の体重が移動したことで、小屋そのものが揺《ゆ》れたような気もする。テーブルの上に置かれた、ぞっとする茶の入ったポットが、小さな音を立てた。やはりテーブルは傾《かたむ》いている。小屋も傾いているだろう。座《すわ》り心地《ごこち》で分かるが、椅子《いす》も傾いている。すべてが均衡《きんこう》を持ってトータルで水平《すいへい》を保っているのなら、それも問題ないが、残念なことに、マリオは既《すで》に何度も、ずり落ちかけた尻《しり》を椅子の中心にもどすことに苦心していた。
(なんでこんな生活に耐《た》えられるのかしら)
しみじみと思う。横を通り過きて、寝室《しんしつ》に入っていくベスポルトを眺《なが》めながら、その男が生涯《しょうがい》で体験したであろう様々なことを想像《そうぞう》する。
もとより、彼自身からそれを聞き出そうとは思わなかった。それは、自分に与《あた》えられた役目からすれば僭越《せんえつ》なことであるし、そもそもこの無骨《ぶこつ》な大男は、ここ数日でまともに彼女と話そうともしていない。記憶喪失《きおくそうしつ》ということにしておけば、こちらの素性《すじょう》を探《さぐ》ろうと、なにか話しかけてくることもあるかと思ったのだが。浅知恵《あさちえ》だったのだろう。
この男は何者なのだ?
厳《いか》めしく固まった表情は、生来《せいらい》のものだろうか。いや、違《ちが》うのだろう。昔から言葉が少なかった? それはあり得る。様々な者が、この男を狙《ねら》っている――様々な思惑《おもわく》で。奇妙《きみょう》なことだ。黒衣までもが動いているのなら、この男はとっくの昔に確保《かくほ》されていて当然だった。
奇妙なことだ。これは、奇妙なことだ。
寝室に姿を消し、そしてすぐにもどってきた彼を――あまりじろじろと見ないようにしながら――観察《かんさつ》し、繰《く》り返す。
(どういうことなのかしら……)
もどってきた彼の手には、先ほどの封筒《ふうとう》はなかった。寝室に置いてきたのだろう。調べる必要があるだろうか? いやそもそも、黒衣がもう来ているのならば、調べる時間などないかもしれない。
マリオは再び、ため息をついた。さほど意味があったわけではない。待つということは、常に退屈《たいくつ》なことだった。それは承知《しょうち》している。が、
「退屈かね?」
ぎょっとするほど核心《かくしん》を突《つ》かれ、椅子《いす》からずり落ちそうになる――が、冷静に、ベスポルトがなにか二心あってそれを言ったのではないと思い直す。見ると、大男は無表情《むひょうじょう》に、こちらを見つめていた。そう。彼は単に、子供に話しかける不器用《ぶきよう》な大人として、そんなことを言ったに過ぎない。自分に言い聞かせて、うなずく。
「……い、いえ」
「無理はしなくていい。ここは退屈な村だ」
「そ、そうですか? でも――」
「君のような都会《とかい》の人は、こんな静かな場所にはなかなか慣《な》れないだろうと思う。わたしもそうだった」
「…………」
彼の言葉は、緩《ゆる》みかけた緊張《きんちょう》を取りもどすのに十分なものだった。
よく考える。考えながら、彼女は聞き返した。
「どうして、わたしが都会……から来たって思うんですか?」
なにかヘマをしただろうか? 自分の身元《みもと》を示すようなものは、なにひとつ身につけていなかったはずだが。
だが、男はどうということもない口調で、続けるだけだった。
「……アクセントかな。いや、勘《かん》といったほうが正直かもしれない。君は都会の子だよ。フリウと並んでいると、違《ちが》いがよく分かる」
「彼女は――」
なんなのだ?
こうまで真っ正直に聞くつもりはなかったものの、そこまで踏《ふ》み込んで良いものかどうか迷って、マリオは言葉を切った。あの少女は紛《まぎ》れもなく未確認《みかくにん》の要素《ようそ》だった。ベスポルトは、この辺境《へんきょう》に、ひとりで[#「ひとりで」に傍点]いるはずだったのだが。
いや、まだ聞くべきではない。マリオは咳払《せきばら》いするふりをして、言い直した。
「彼女は、わたしのことが嫌《きら》いみたいです」
「友達との付き合い方を知らないのだ。気にしないでやってくれ」
「…………」
意外《いがい》と月並《つきな》みなことを言う。まるで……月並みな父親のような。
と。その時だった。
扉《とびら》が二度、軽くノックされる。
(黒衣《こくい》……?)
マリオは腰《こし》を浮《う》かせかけて警戒《けいかい》した。先ほどと同じ調子のノック。ちらりとベスポルトのほうを見やると、特にどうということもなく、じっと座《すわ》っている。なにも聞こえなかったかのように、無視を決め込んでいた。
(それとも――)
なんとなく、頭に浮かぶ。ただ単に、自分の早とちりだったのかもしれない。この小屋の建て付けが悪いのは言うまでもない。風かなにかが吹くと、あのような音が起こる、ただそれだけのことかもしれない。だとすれば、先ほど扉を開けた時に誰もいなかったのは当然のことだ。ベスポルトは、単にそれに慣《な》れっこになっているだけのことだろう。
ならば、騒《さわ》ぐことではない。マリオも無視を決め込むことにして、傾《かたむ》いた椅子《いす》に腰を落ち着かせた。また、扉が叩《たた》かれる音。やはりベスポルトは動かず、マリオも――
「……えっ!?……」
再びベスポルトの姿を見て、彼女は自分の目を疑《うたが》った。
事態《じたい》は容易《たやす》く、理解《りかい》を超《こ》えていた。ベスポルトは、動かなかったわけではなかった。動けなかったのだ。
いつの時点からそうだったのか。ベスポルトの背後《はいご》に、黒装束《くろしょうぞく》に隙《すき》なく全身を包んだ長身《ちょうしん》の姿があった。手にした短剣《たんけん》を、大男の首筋《くびすじ》に押《お》しつけている。音もなく。気配《けはい》もなく。幻影《げんえい》のようにその姿があった。
「黒衣……?」
口にして、失言《しつげん》に気づく。過《あやま》ちもまた、思慮《しりょ》より早く発生する。ベスポルトは動揺《どうよう》なく、身じろぎもなくただ座《ざ》していた。背後にいる黒衣も動かない。
いつからいたのか、ということならば、疑いようもない。先ほど、自分が扉《とびら》を開けた時に入ってきたのだろう。どういった能力《のうりょく》を使ってか、こちらに気づかせずに。そして、ずっとそこにいたのだ。
もう一度。扉が叩かれた。
だが、これはノックではないと、直感《ちょっかん》が告《つ》げる。
合図《あいず》。
先ほどのは、こちらに扉を開けさせるため――そうしてなんらかの手段を使って姿を消した黒衣のひとりが中に入り込み、そして今度はその侵入《しんにゅう》した者への合図。それで行動を起こした。黒衣はまだベスポルトを殺していない。が、こちらが動きを見せれば即座《そくざ》に殺すだろう。こちらが、彼らの期待しない行動を取れば[#「彼らの期待しない行動を取れば」に傍点]。
彼らの望む行動とはなにか。黒衣は当然、なにも語ることはない。だが、それが彼女に、扉を開けることを要求《ようきゅう》しているのは感じられた。合図を送ったからには、誰かがいるはずだ。その誰かは――恐《おそ》らく――姿を消して入り込むような能力は持っていないのだろう。だから、ベスポルトを押さえてから、扉を開けさせる。
(……まるっきり、こいつらの予定通りってわけ……?)
認《みと》めたくはない。が、否定《ひてい》する要素《ようそ》もない。
椅子《いす》を蹴《け》り、あわてて扉に触《ふ》れると、手早く鍵《かぎ》を外し、押し開ける。
見えたのは、手だった。黒い手。影《かげ》そのものが伸《の》びてきたような、悪意《あくい》のある指《ゆび》。
それが、慣れた手つきで自分の首をつかむのに、彼女は抵抗《ていこう》できなかった。あっさりと気道《きどう》を潰《つぶ》す位置を押《お》さえ、行動を縛《しば》ってくる。彼女はとっさにその手をつかみ、外そうとしたが――逆に自分の両手すらふさがれた形で、ぞっとその相手を見上げた。自分がこの手を離《はな》せば、この敵は自分の首を簡単にねじ切るだろう。彼らが期待していないことはできない。
それもまた、黒衣だった。もうひとり、黒衣が開いた扉《とびら》から、自分の身体《からだ》を押しのけつつ、入ってくる。
自由にならない視界《しかい》をなんとかずらして、マリオはベスポルトの位置を探《さぐ》った。まったく移動していない。どころか眉一筋《まゆひとすじ》動かしていない。大男はテーブルに肘《ひじ》をつき、ただ一言、深い声でうめくだけだった。
「そうか……お前が来たか」
それは、戸口から入ってきた黒衣に対して発した言葉であるらしかった。仮面をつけ、顔もなにもないその黒衣という怪物《かいぶつ》が笑《え》みを浮《う》かべるのを、確かに感じられた気がしてならない。
黒衣に逆らってはならない。が、同時に。
黒衣の行動を待っていてはいけない。本能がそう告げてくる。黒衣は――間違《まちが》いなく――次の瞬間《しゅんかん》に誰かを殺すのだから。
「あなたたち……」
マリオは、潰れかけた気管から、無理やりに声をあげた。
「仲間を殺す気? わたしは弟帝《ていてい》の命を受けている」
「…………」
相手が動揺《どうよう》したのだとは、思わない――黒衣はそんな可愛《かわい》らしい存在ではない。単に、判断だろう。いったん手を離し、こちらの言い分を聞いてからでも好きな時に殺せるという。だが、首筋《くびすじ》を圧迫《あっぱく》していた指から逃《のが》れ、半歩ほど後ろに退いてから、間髪《かんはつ》を入れずにマリオは叫《さけ》んでいた。口早に、儀式言語《ぎしきげんご》による開門式《かいもんしき》を唱《とな》えてから、
「カリニス、エング!」
耳につけた水晶檻《すいしょうおり》から、最強の精霊《せいれい》を解放する。
現れた鋼精霊《こうせいれい》は、瞬時にその形態《けいたい》を変えた――彼女を守る、鎧《よろい》へと。そして同時にもう一体が、長槍《ながやり》へと。重量のない精霊の鎧が隙《すき》なく全身《ぜんしん》を覆《おお》い、激《はげ》しい鳴動《めいどう》を発する。建て付けの悪い小屋が、それだけが爆発《ばくはつ》するような振動音《しんどうおん》。自分には聞こえないが、あちこちで、テーブルが、椅子《いす》が、揺《ゆ》れるのが見えた。窓ガラスが砕《くだ》け、開いている扉が音を立てて暴《あば》れている。
眼前《がんぜん》の黒衣を無視して、彼女は身体の向きを入《い》れ替《か》えた。背後の、ベスポルトのほうへ。黒衣たちが、一瞬《いっしゅん》でも行動に迷いを持っている間に、こちらが動かなければならない――ベスポルトに突《つ》きつけられた剣《けん》が動く前に、大男の身柄《みがら》を奪取《だっしゅ》して逃《に》げる。鋼精霊の力で無抵抗飛行路《むていこうひこうろ》に入ってしまえば、精霊以外には追ってはこられないはずだった。
振り向いた時、見えたのは、ベスポルトだった。彼は周囲の事態に気づいてすらいないように、指ひとつ動かさずにそこにいる。そして、そこには彼しかいなかった。
「…………!?」
心臓《しんぞう》が跳《は》ねる。ベスポルトを押《お》さえていたはずの黒衣がいない。
(甘《あま》かった……?)
黒衣は、一瞬間すら、行動を迷わなかったのだ。彼らが選んだ行動は、ベスポルトの殺害ではなく――
(わたしの排除《はいじょ》……)
敵の姿がない。が、いなくなったというのはあり得ない。自分の視界《しかい》の外で、どこかにいるはずだ。愚《おろ》かだった。自分はわざわざ、視界の中にあった黒衣からすら、目をそらしてしまった。今、ふたりの黒衣が自分の死角《しかく》にいる。
ふたつの死が、自分に迫《せま》っている。
(なんてこと――)
悔《くや》しさに歯がみして、彼女はうめいた。一度、離脱《りだつ》するしかない。
「行きなさい」
それは――
現実的な声ではないと、分かっていた。こんな悠長《ゆうちょう》な言葉を聞くだけの時間があったはずではない。だが、幻聴《げんちょう》ではないという確信もあった。ゆっくりと告げてくる、ベスポルトの声。
「わたしは死なない。君はそのことを知っているのではないか?」
そんなことは知らない。
が。
マリオは、精霊《せいれい》に命じていた。いや、精霊が勝手に判断したのかもしれない。
彼女は全速力《ぜんそくりょく》で屋根を突《つ》き破り、大空《おおぞら》に逃《に》げ出していた。
走る。
急いで走る。
転がるような心地《ここち》で、フリウは走っていた。空気の中に、自分の呼気《こき》が喘《あえ》ぐ音を立てる。
鎧《よろい》が飛び去っていったのは――というより、帰っていったのは、間違《まちが》いなく、自分の家の方角《ほうがく》だった。
今は村の外れにいる。走り続けたとして、もどるのにどれくらいの時間がかかるのだろう? 酸素《さんそ》が足りなくなった脳《のう》の中で、彼女は漠然《ばくぜん》と計算した。数分のような気もするし、もっとかかるかもしれない。マリオの姿はもう見えないが、その鎧が放っていた振動音《しんどうおん》は、遠くから聞こえてくる。
身体《からだ》が熱《あつ》い。息ができない。苦痛《くつう》は激しいものだったが、フリウはそれを無理《むり》やり押《お》し込もうとした。どこへでもいい。意識《いしき》の蓋《ふた》を閉めることができれば。足が前に進みさえすればいい。
(父さんが危ない――)
なにが起こっているのかは分からないが、気が急《せ》いた。意志《いし》に反《はん》して、身体が鈍《にぶ》いことが苛立たしい。
(まるで走っていないみたいじゃない)
手足が動いていると感じられない。悪夢《あくむ》のような粘《ねば》りが、呼吸《こきゅう》も視界も圧迫《あっぱく》して……
(……違う……? 動いて、ない?)
ふと、彼女は気づいた。自分は動いていない。立ち止まっていた。
指一本、動かない。ひたすらに焦《こ》げ臭《くさ》く、全身を貫《つらぬ》くような激痛《げきつう》が走り回っている。
「フリウ!」
男の叫《さけ》び声。父ではない――もっと若い。振《ふ》り向くと、見えたのは、凄《すさ》まじい形相《ぎょうそう》で駆《か》け寄《よ》ってくる警衛兵《けいえいへい》の姿だった。誰だろう。自分を殺そうとしているのだろうか。彼は右手を振り上げて、こちらに突進《とっしん》してくる。
「…………」
フリウは、自分の身体を見下ろした。服が炎上《えんじょう》しているのを知ったのは、この時だった。
途端《とたん》、警衛兵に殴《なぐ》り倒《たお》される。
あとはよく分からなかった。蹂躙《じゅうりん》されるというのは、こういうことかもしれない――視界がぐるぐると回転《かいてん》し、小突《こづ》かれ、蹴《け》られ、あとは無感覚《むかんかく》になる。朦朧《もうろう》とした時間が数秒経過し、フリウはようやく、正気にもどった。
「……サリオン?」
呼びかけると、警衛兵は、ほっとしたように額《ひたい》の汗《あせ》をぬぐってみせた。地面に倒れている彼女を、抱《だ》き起こして、
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「う、うん」
どうやら、服が燃えかかっているのを見て、地面に転がして消火してくれたらしい。
「いったい、どうして……?」
軽《かる》い火傷《やけど》で済《す》んだようではあったが、脇腹《わきばら》あたりにはっきりと焦《こ》げ跡《あと》が残っていた。サリオンが、震《ふる》えの混《ま》じった声で、言ってくる。
「念糸《ねんし》……なんじゃないのか? 向こうから、線みたいなのが伸《の》びて――」
と、道の脇《わき》にある、納屋《なや》のほうを指さして、言葉を止めた。
彼の動きが止まった理由《りゆう》は、すぐに理解《りかい》できた。そちらを見やると、ちようど納屋の陰《かげ》から、ゆっくりとした足取《あしど》りで、人影《ひとかげ》が現れたところだった。
真紅《しんく》のマントに包《つつ》まれたその殺し屋が、冷たい瞳《ひとみ》で、凍《こお》ったつぶやきを発してくる。
「さあ」
だがそれに含《ふく》まれている感情《かんじょう》は、どうしようもないほど怒《いか》り狂《くる》った、純粋《じゅんすい》な熱の塊《かたまり》だった。それは簡単《かんたん》に見て取れる。
「話してもらおうかしら……これはいったいどういうことなの?」
それはまさしく、こちらがしたいと思っていた質問《しつもん》だったのだが――
火傷《やけど》をした身体《からだ》を自分自身で抱《かか》え込んで、相手に文句を言うだけの気力は、フリウにはなかった。
「……こんな偶然《ぐうぜん》を起こす力を、あれは持っているのか?」
笑い出したい気分ではあった。笑う気にすらならなかったため、そうしなかっただけのことだが。ベスポルトは顎髭《あごひげ》の中に指を入れて、ゆっくりとかき混《ま》ぜた――どうということもない。こうして落ち着くというわけでもない。ただ、そうした。
「あのマリオとかいう娘《むすめ》……三日前に現れた。あれが一日早ければ、彼女はわたしに――回りくどいことはせずに――率直《すなお》な質問をする決心《けっしん》がついたかもしれないし、そうなればわたしは答えただろう。結果、彼女はここを去っていたはずだ。が、そうはならなかった。そして恐《おそ》らく、お前たちから、わたしの身柄《みがら》を守ってくれるだろう」
と、考え込む。
「ついでに言えばだ。暗殺者が来たらしいな、こんな辺鄙《へんぴ》な村に。わたしを狙《ねら》ってなのだろうが。その暗殺者は、お前たちが防《ふせ》いでくれた。たまたま[#「たまたま」に傍点]その暗殺者と遭遇《そうぐう》したお前たちが、だ。あの契約《けいやく》はまだ、わたしを守っている。そうなのだろう?」
物言わぬ黒衣は、戸口に立ったまま、こちらを見ている――屋根と、ついでにフリウの部屋もなくなって、小屋は半壊状態《はんかいじょうたい》だったが、まだかろうじて形を残してはいた。もうひとりいたはずの黒衣は、まだ姿を見せていない。どこにいるのかと、探すのも馬鹿《ばか》馬鹿しいが……
ベスポルトは付け足した。顎から指をどけて、
「すべてが偶然《ぐうぜん》の産物に過ぎないとも思える。が、とてもそう信じる気にはなれん……なんなのだ、これは?」
「…………」
黒衣は無論、なにを語るでもない。仮面に口がついているわけでもなく、そこにいるのは人間ではない。ただ人型をした。黒衣≠ナしかない。だが。
ベスポルトは苦笑《くしょう》した。
「答えてくれんかね? お前は、わたし相手に黒衣を演じる必要はないはずだ……それとも、部下が近くにいるため、話せないのか?」
改めて、その黒衣を見据《みす》える。
人違《ひとちが》いをしているのではないという確信は、根拠《こんきょ》のあるものではなかった――が、実際、間違いないだろう。あの精霊《せいれい》使いの少女がいなくなったあとも、こちらに対して行動を起こしてこないというのは。すべては予定された都合《つごう》の中にある。八年前から、ずっと。
相変わらずの、黒装束《くろしょうぞく》。今は無防備《むぼうび》に立《た》ち尽《つ》くしているだけだが、異能者《いのうしゃ》である黒衣には、見せかけはまさしく見せかけでしかない。彼らは意思の力だけで人をねじ伏せる、訓練された念糸《ねんし》使いだった。そういった意味では、フリウとすらまったく異なった念術能力者《ねんじゅつのうりょくしゃ》といえる。
(フリウ……か)
彼女の名前を思い出して、ベスポルトは我知《われし》らず笑《え》みを浮《う》かべていた。あの子がここにいなくて幸いだった。まっさきに相手に突《つ》っかかり、そしてまっさきに殺されていたかもしれない。
が。嫌《いや》なものが脳裏《のうり》をかすめて、笑みを消す。それすらも結局、偶然[#「偶然」に傍点]と思うしかないのだ。八年間も続いてきた、偶然《ぐうぜん》。
と。
声が聞こえた。
「お前は契約者《けいやくしゃ》なのだ、ベスポルト」
見上げる。黒衣は動きを見せないまま、その声を――聞き覚えのあるその声を――淡々《たんたん》と聞かせてきた。
「恩恵《おんけい》を得るだけでなく……働く義務《ぎむ》がある」
「あの怪物《かいぶつ》に従《したが》って、か?」
ようやく口を開いた相手に向かって身を乗り出すように、ベスポルトは椅子《いす》から腰《こし》を上げた。
「お前たちはいつまで馬鹿《ばか》げたことを続けるつもりなんだ……あれがどういった性質《せいしつ》のものか、お前たちには分からないのか」
そのまま続ける。拳《こぶし》に力が入る。鼓動《こどう》がリズムを速め、声は沈《しず》んだ。
「いずれ、災厄《さいやく》が来るだろう。警告《けいこく》はもう八年前になされた。お前たちはこの八年の間に、少しでも賢《かしこ》くならなければならなかったというのに」
「それでもお前は契約したのだ、ベスポルト。端《はし》なくもただあの場に居合わせただけのお前が」
「そうだ。呪《のろ》われた契約者のひとりだ」
拳《こぶし》を上げて――
だがそれを叩《たた》きつけることはせず、彼は震《ふる》えるそれを、テーブルに押《お》しつけた。それぞれ丈《たけ》の違《ちが》うテーブルの脚《あし》が、かたかたと音を立てて小刻《こきざ》みに揺《ゆ》れる。八年前に自作《じさく》し、そしてしばらくして壊《こわ》れた。次に直した時には、傾《かたむ》きがひどくなっていた。この上で、何度となく食事した。フリウを引き取り、それからは彼女の分の食事まで作ることになった。
八年。八年間。短くはない。
ベスポルトは、ことさらに押さえた声音《こわね》で告げた。
「……あの精霊《せいれい》アマワとの」
「精霊……アマワ?」
フリウは、その名を聞き返した。今朝、やはりその殺し屋が言っていた名前ではあるが。
「そうよ」
殺し屋は、憎々《にくにく》しげにそうつぶやいてきた。よく見れば、彼女も満身創痍《まんしんそうい》だった――額《ひたい》が割れ、固まった血が顔を汚《よご》している。片足を引きずり、身体《からだ》のあちこちが痛むのか息が荒《あら》い。それでも表情に感情のひび割れが見えないのは、徹底《てってい》した自制《じせい》のせいだろう。
サリオンの腕《うで》の中から、ゆっくりと這《は》い出《だ》す。火傷《やけど》の痛みは、もう感じられない。怪我《けが》が消えたわけではないだろうが。フリウは口を開いた。
「なによそれ」
「こっちが聞きたいのよ」
その殺し屋はぎらぎらと瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせながら――怒《いか》りに満ちた目は、油膜《ゆまく》のような不快《ふかい》な光沢《こうたく》を見せる――、手にしている抜《ぬ》き身《み》の剣《けん》を振《ふ》ってみせた。
「ベスポルトはそれを知っている……はずよ。さっきの話を聞いたわ。あなたが、あの男の身内なら、わたしと取り引きしなさい」
「な、なにを?」
「そう気構《きがま》えるな小娘《こむすめ》。クーリング・オフという制度があってだな。あれ? クリーニング・オフだったっけか。まあいいや。たいして頼《たよ》りになるようなもんでもない。頼れるのは自分だけだ。注意しとけよ小娘なりに」
ちょろちょろと無駄口《むだぐち》をはさんでくるスィリーを無視して、殺し屋は言ってきた。
「わたしを追ってきた黒衣は三人。これは片づけた。残るふたりは、ベスポルトを押《お》さえているんじゃないかしら。わたしはそれを始末《しまつ》できる……いえ、わたしにしかできない」
「…………」
唾《つば》を呑《の》む。
(片づけた?)
こともなげに彼女の言った言葉には、簡単に逃《のが》してはならない棘《とげ》が含《ふく》まれていた。殺したということだろうか? あの黒衣たちを?
フリウが戸惑《とまど》っている間に、殺し屋は続ける。
「わたしが黒衣を片づけたら、ベスポルトに引き合わせなさい」
「ふざけるな、暗殺者が!」
叫《さけ》んだのは、サリオンだった――肩越《かたご》しに見やると、警棒《けいぼう》を抜いて、その先端《せんたん》を殺し屋に向けている。
ただ、それが多少|震《ふる》えているのが、すぐに知れた。声もまた、どこか怯《おび》えを含んで揺《ゆ》れいるのが分かる。
「お前は、指名手配された危険分子《きけんぶんし》だ……黒衣を始末しただって? 信じられるか。ようやく逃《に》げてきたってところだろう」
「首でも持ってくれば良かったかしら? 耳じゃあ、誰のものだか判別できないしね」
「はったりだ」
「次から次へと邪魔《じゃま》ばかり入って、いい加減《かげん》我慢《がまん》の限界《げんかい》なのよ。わたしの忍耐《にんたい》をそれほど頼《たよ》りにして欲《ほ》しくはないんだけど」
「やめてよ!」
フリウは、全力で叫んだ――自分を押《お》しのけて前に出ようとしていたサリオンが、びくりと動きを止める。殺し屋のほうは、特に動揺《どうよう》を見せはしなかったが、それでも噛《か》み跡《あと》のある唇《くちびる》を閉じたようだった。
「あんたなんかを、信用《しんよう》できるわけがないじゃない――」
その声をかき消すような、鮮烈《せんれつ》な衝撃《しょうげき》が身体《からだ》を揺さぶった。縦に、横に、平衡感覚《へいこうかんかく》が失われ、なにも分からなくなる。
鼓膜《こまく》を砕《くだ》いたのは、ずっと聞こえていた、マリオの精霊《せいれい》が放つ振動音《しんどうおん》だった。それが突然《とつぜん》巨大《きょだい》なものとなり、身体に覆《おお》い被《かぶ》さるほど激烈《げきれつ》な衝撃となって大気を波立《なみだ》たせている。見上げると、そこに甲冑《かっちゅう》が飛んでいた。きりもみするように、落下《らっか》してくる。
「きゃああっ!?」
悲鳴をあげる程度《ていど》の余裕《よゆう》はあった。そして、とっさに身体をひねって逃《に》げ出すこともできた。一瞬前《いっしゅんまえ》まで自分が立っていた地面をえぐって、精霊使いがその甲冑《かっちゅう》ごと地面に激突《げきとつ》する。
先刻と同じ。マリオはダメージもないのか、すぐさま起きあがった。手にしている槍《やり》を構えて、うわずった声をあげる――誰に向かってかは分からない。彼女自身、分かっていないのではないかとも思えたが。
「わたしをもどらせないつもり!? 言ったでしょう! わたしは弟帝《ていてい》の」
そこまでだった。これもまた唐突《とうとつ》に、彼女の眼前に、黒い人影《ひとかげ》が現れる。文字通り、虚空《こくう》から出現《しゅつげん》したそれは、手にしている金属製《きんぞくせい》の杖《つえ》のようなものを、軽くマリオへと押《お》し当てた。刹那《せつな》。
真白《まっしろ》い輝《かがや》きが、甲冑をまとった精霊使いを叩《たた》き伏《ふ》せた。爆音《ばくおん》はない。ただ光《ひかり》だけの衝撃。爆発と同時に砕《くだ》けた杖を捨て、現れた黒い人影――黒衣は、手早くまた別の杖を懐《ふところ》から出してみせた。衝撃で地面に這《は》い蹲《つくば》ったマリオの背中に、それをまた押しつける。
かちりっ……と、小さな音。
再び、爆発が起こった。今度は逃げ場もなく、マリオの姿が地中へと沈《しず》む。二度目の輝きが消えた時、地面に半《なか》ば埋《う》もれた精霊使いは、もう動こうとはしなかった。黒衣はそれを、ろくに見下ろしすらせず、そこにいる。
「…………」
あまりに手早く行われた破壊《はかい》に、フリウは言葉もなく立《た》ち尽《つ》くしていた。身体《からだ》が強張《こわば》る。動こうとしない。黒衣はゆっくりと――いや、速《すみ》やかにこちらへと向き直ってきた。手には、砕けた杖ではなく、また新しい杖がある。簡素《かんそ》な金属製の柄《え》の先端《せんたん》に、白っぽい球がひとつついただけの、簡単な代物《しろもの》だった。手元に、スイッチがあるのが分かる。
(水晶檻《すいしょうおり》を使った……武器?)
封《ふう》じられた精霊《せいれい》は、その封がなにかの拍子《ひょうし》に不完全《ふかんぜん》なものとなった時、膨大《ぼうだい》なエネルギーを発して脱出《だっしゅつ》するという性質がある――これは精霊そのものがその力を放出しているというより、単に封印《ふういん》との反作用《はんさよう》によるものかもしれないが。なんにしろその性質を使って、すぐ割れるように細工された水晶檻に無形《むけい》精霊を封じ、爆発物として使用することは珍《めずら》しいことでもなかった。無論、安価《あんか》なものとは言えないが。
だが、それよりも――
「い、今、どこから現れたんだ? あいつ……」
サリオンが、小さくうめくのが聞こえてきた。こちらに問いかけてきたのだろうか。フリウは答えようとして、あきらめた。分かるわけがない。
「ンなことよりも」
と、今度はスィリーが――気楽に、ではあるが、言ってくる。
「あの姉ちゃんがいなくなっているようなんだが」
「えっ?」
あわてて、見やる。と確かに、あの殺し屋の姿がなかった。騒《さわ》ぎに乗《じょう》じて逃《に》げたということか。いや、
(……多分、この隙《すき》に、父さんのところに向かってる)
「こ――」
フリウは、逃げ出そうとする自分の足をなんとか抑《おさ》え込んで声をあげた。家の方角《ほうがく》を指さして、
「殺し屋が、あっちに行ったはずよ。お、追いかけないの? ねえ!」
が。
黒衣は動じず、仮面に包まれた顔を、こちらに向けたままじっとたたずんでいる。
自分のやっていることが正しいのかどうか、そんな確信はなかったが、フリウはひたすらにまくし立てた。
「あ、あんたの仲間を三人も殺したって言ってたわよ! も、もうひとりいるんでしょ? その人も殺されちゃうかも。ひとりぼっちは嫌《いや》なんじゃない? 早く追いかけていったほうが……」
と。
背後から、いきなり抱《だ》きかかえられ、フリウは錯乱《さくらん》して暴れかけた――なんとか踏《ふ》みとどまったのは、理性ではない。単に、強く抱《かか》え込まれて身動きが取れなかっただけだった。反射《はんしゃ》的に念糸《ねんし》を使おうとし、そして、
「待ってくれ! この子の身柄《みがら》は、ぼくが確保しておく」
サリオンの声に、攻撃《こうげき》を止める。見てみると、自分を抱きしめているのは警衛兵《けいえいへい》の腕《うで》だった。
「この娘《むすめ》は、ベスポルトの縁《えん》の子だ……彼を拘束《こうそく》するのなら、無事に押《お》さえておく必要がある。そうだろう?」
その腕が、ひどく震《ふる》えている――サリオンの怯《おび》えを悟《さと》って、フリウは胃の中に冷たいものが広がるのを感じていた。それは恐《おそ》らく、警衛兵から伝染《でんせん》してきたものに違《ちが》いあるまい。
彼は本気だ。これは本気で危険な状況《じょうきょう》なのだ。そのことに、ことさらにぞっとする。
対峙《たいじ》している黒衣は、警衛兵の言葉を聞いているのか、あるいは聞いていたとして理解できているのか、少なくとも見ていて判断がつかなかった。
が。
その姿が、ふっと消える。
「…………」
沈黙《ちんもく》の数秒。
フリウは、ゆっくりと息をついた。
「……行った、のかな」
「多分」
それでもあたりを見回しながら、サリオンがうめく。フリウは首を伸《の》ばすと、地面にめり込んだままのマリオを見やった。死んではいないが、しばらく動きそうにもない。
「結局……なんにも分からないし」
嘆息《たんそく》して、とりあえず――サリオンの腕を押しやる。彼はさほど抵抗《ていこう》せずに、彼女を解放してくれた。
ただ、こちらに、叱責《しっせき》するような眼差《まなざ》しを投げてくる。警衛兵《けいえいへい》は、安堵《あんど》と困惑《こんわく》と怒《いか》りと、そう微妙《びみょう》なものが表せるはずのない目の中に、複雑《ふくざつ》な感情をのぞかせていた。
「言っただろう。黒衣は、ちょっかいを出すべき相手ではないんだ」
「でも――」
「なあ」
抗弁《こうべん》しかけた口をふさぐようにして、スィリーが割り込んでくる。彼は空中を、あぐらをかくような姿勢《しせい》で漂《ただよ》いながら、いつになく遠慮《えんりょ》がちに言ってきた。
「なあ。なにやら、ほっとしてるように見えるが………」
「なによ」
聞く。と、スィリーはもう一度考え込んでみせた。自分が正しいのかどうか、自信がなかったのかもしれない――ここ数日の彼の態度がなければ、そう信じたかもしれない。だが実際は、単にどういう切り出し方をするべきか悩《なや》んだだけだろう。
なんにしろ、そう長くはかからなかった。人精霊《じんせいれい》があとを続けてくる。
「いいのか? まあ一応俺も客観的《きゃっかんてき》に考えてみたんだが」
「うん」
「確かに、この場は収まった」
「でしょ」
「だが」
「早く言いなさいよ」
「ううむ……だが思うにだ。つまるところ今、あの殺し屋姉ちゃんと、可愛《かわい》げって点ではそれと同格程度の黒ずくめが、そろって親父《おやじ》さんのところへ向かっているってことになるんじゃねえのかな」
「…………」
彼の言ったことを、フリウは何度か反芻《はんすう》した。耳《みみ》と脳《のう》。脳と意識《いしき》。意識と判断。
反復し――そして、
「駄目《だめ》じゃん!」
彼女は叫《さけ》び、再び家へと駆《か》け出した。
ベスポルトは改めて、その黒衣を見やった。それはそこにいる。煙《けむり》のように害《がい》なく、そこにいる。煙と違《ちが》う点は、それが揺《ゆ》れることもなく、風の中に霧散《むさん》することもない。いや、しかし、必要とあらば、そのあり得ないこともする――それが黒衣だった。
「お前はわたしをどうしたいのだ?」
それの答えは予想できたことだったが、彼はあえて問いただした。
「分かっているはずだ」
黒衣が、仮面の下から答えてくる。予想した通りの返事を。
「帝都《ていと》……イシィカルリシア・ハイエンド。契約《けいやく》の故郷《こきょう》へ、すべての発端《ほったん》の地へと帰るんだよ。ベスポルト。我《わ》が同志」
「わたしは、お前らのような化け物とは違う」
「その化け物の同類と、八年も暮らしていたのだろう……?」
その声に、嘲《あざけ》りがなければ、どうということではなかった。が、ベスポルトは思わず叫び返していた。
「フリウも、お前たちとは違う」
「お前がなぜ、あんな娘《むすめ》を引き取って育てていたのか、気になるところでは、ある。ろくに訓練《くんれん》もされていない念糸《ねんし》使いひとりに、なんの意味が――」
「黙《だま》れ!」
「…………」
声を荒《あら》らげておきながら――
相手がその指示に従って言葉を止めたことに、ベスポルトは虚《きょ》を突《つ》かれて次の句を失った。が、すぐに、それも理由があってのことだと気づく。
その黒衣の背後、数メートルは離《はな》れていたが、そこに真紅《しんく》のマントを身体《からだ》に巻いた女が立っていた。身体中傷だらけの様子で、そこにいるだけですべての力を使い切っているようにも見える。だが、右手に提《さ》げた、抜《ぬ》き身の剣《けん》だけはぴくりと震《ふる》えてもいない。
「……部外者の前では、物言わぬ黒衣にもどるというわけだ」
黒衣に対して皮肉を言ってから、ベスポルトはその女の顔を見つめた。見覚えがある。うっすらとではあったが。
と。
「いや。彼女は部外者ではない」
黒衣が再び声を発したことに、ベスポルトはぎょっとして身体を退《ひ》いた。そして、彼女のことをどこで知ったのか、それに思い当たったのも同時だった。
「アストラ……か!?」
彼女はなにも答えてはこない。息を整《ととの》えながら、慎重《しんちょう》に、こちらへと近づいてこようとしている。
「この広い世界のせまい一点に」
呪詛《じゅそ》のような黒衣のつぶやきが――
「契約者《けいやくしゃ》が三人もそろった。素晴《すば》らしい日だよ、本日というのは」
素晴らしい日。
その言い回しにも聞き覚えがあった。八年前のあの日に聞いたのと、まったく同じ。素晴らしい日。今日は素晴らしい日。
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第七章 スピットファイア
(破壊《はかい》の精霊《せいれい》)
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[#ここから教科書体]
例《たと》えば殺戮《さつりく》。
あれは恍惚《こうこつ》と美しく、人の心を奪《うば》う。第三者《だいさんしゃ》までもが酔《よ》い、歓声《かんせい》をあげ狂喜《きょうき》する。それを取り上げられた平和状態《へいわじょうたい》では、人は鬱屈《うっくつ》するのだ。そこに正邪《せいじゃ》は、ひらたく存在《そんざい》する。だがそれが明確《めいかく》なものであると、誰《だれ》が言えよう?
[#ここで教科書体終わり]
[#ここで字下げ終わり]
単に走っているだけならば、それはそれだけのことだった。火事《かじ》のせいか、それとももっと別の理由か、まったくひとけのなかった村の中に、ちらほらと人影《ひとかげ》も見えるようになってくる。走るというのは単調《たんちょう》な作業《さぎょう》だった。足と心臓、肺と血管《けっかん》が破綻《はたん》する前に、目的地へとたどり着くための効率《こうりつ》を求める作業。
普段《ふだん》、通ることもない村の中の道を、ひたすらに走り続けている。自分というのは、ひどく奇妙《きみょう》に見えるだろう――フリウは自覚して、顔をしかめた。汗《あせ》のにじんだ肌《はだ》に、もう一層《いっそう》、じとりとした湿気《しっけ》が生まれる。
殺し屋と、黒衣《こくい》。どちらがどうという見分けがつくものでもないが。それらの特殊《とくしゅ》な連中が、どれほどの速さで移動するものなのか、それは分からない。だが恐《おそ》らく、自分の足より遅《おそ》いこともないだろう。
(急がないと……急がないと……)
ほぼ間違《まちが》いなく、彼女がたどり着くよりも先に、彼らは父のもとに到着《とうちゃく》する。
(父さん……!)
フリウは胸中で叫《さけ》ぶと、上がるはずのないペースをさらに速めた。少なくとも、そのつもりではいた。
「いつだって、その瞬間《しゅんかん》はこともなげに訪《おとず》れる。呼びかけに応《こた》えろ、ベスポルト――逆世《ぎゃくせ》の聖者《せいじゃ》たちが我々を待っている」
仮面《かめん》の奥《おく》から、黒衣が告げる。
ベスポルトはそれを聞きながら、もうひとりの聞き手――満身創痍《まんしんそうい》で立つ暗殺者へと視線《しせん》を転じた。抜《ぬ》き身《み》の剣《けん》を片手にさげた女暗殺者は、動ずるでもなく、ただ厳《きび》しい眼差《まなざ》しで、壊《こわ》れた小屋《こや》の中にいる男ふたりをにらみ据《す》えている。人形、彫像《ちょうぞう》、人を模《も》した無機物《むきぶつ》ならば持つであろう静かなる面持《おもも》ちで、ただ立ち尽《つ》くしている。体勢《たいせい》を整えているとも、荒《あ》れた呼吸を正しているのだとも見える。
かぶりを振《ふ》って、ベスポルトはうめいた。
「違う。アストラであるはずがない……あの娘《むすめ》は」
「そう。アストラはとっくに死んだ。契約者《けいやくしゃ》としては唯一《ゆいいつ》、死《し》を迎《むか》えた――」
瞬間《しゅんかん》。
壁《かべ》が音を立てた。なにかが激突《げきとつ》する音。
女の身体《からだ》が翻《ひるがえ》ったように思えたあとには、黒衣の身体が横に倒《たお》れた。重いものが壁にぶつかり、音を立てる。
その時には壁に、剣が突《つ》き立っていた。投剣《とうけん》ではない、普通《ふつう》の剣である。こんなものを投げるにはよほどの膂力《りょりょく》が必要だろう。その刀身《とうしん》に、黒いものが引っかかっていた。黒衣の仮面が外れて、刀身に貫《つらぬ》かれている。ゆっくりと時間をかけて、床《ゆか》に倒れかけていた黒衣が起きあがる。曝《さら》された素顔《すがお》に、笑《え》みを浮《う》かべて。
つるりとした、傷《きず》のない肌《はだ》。その隙間《すきま》でしかないような薄《うす》い唇《くちびる》を開いて、男は静かに声をあげた。
「この世の終末《しゅうまつ》に生き残ることのできる、たった六人の仲間だ……もう少し、巡《めぐ》り合《あ》わせを大切にすべきではないかな」
それは、暗殺者に向けられたものだった。壁の剣を抜き、その刀身から仮面を取って――そして剣だけを、玩具《おもちゃ》でも放《ほう》り投げるように、持ち主の足下《あしもと》へと投げ返す。
落ちた剣を拾う暗殺者を眺《なが》め回《まわ》すように視線を這《は》わせ、素顔の黒衣が。いや、黒衣ではなくなった男が……説明を加える。
「その女は、アストラの契約《けいやく》を相続《そうぞく》した。我々の同胞《どうほう》、永遠の家族《かぞく》だ」
その口調には、皮肉《ひにく》と言えるほどの調子が含《ふく》まれていたわけでもなかったが――なんであれ、それを遮《さえぎ》るようにベスポルトは声をあげた。
「あの契約が、そんなに都合のいいものか!」
男はただ、冷淡《れいたん》に答えるだけだった。
「代償《だいしょう》を支払《しはら》うのは、我々でなくていい」
まったく反射的な仕草《しぐさ》で、ベスポルトが男へ向き直り、告げる。
「……契約を無効《むこう》にする方法はある」
「あるかな?」
「精霊《せいれい》アマワを破壊《はかい》する。そのための力が、この世には存在している」
「アマワは御遣《みつか》いだ。契約は、御遣いの言葉に過ぎない。その本意はまた一段、遠いところにある」
ベスポルトは拳《こぶし》を固めたが――それを振《ふ》り上げることはしなかった。その代わりに、言葉を紡《つむ》ぐ。
「それでもわたしは、アマワを破壊する。帝都《ていと》にある悪意のすべてをだ」
が、その言葉を投げられた相手は鼻で笑ってみせた。
「八年もこんな辺境《へんきょう》を逃《に》げ回っておいて、なにを今さら」
「成果はあった。アマワは破壊できる」
「……うん?」
ようやく興味《きょうみ》を引かれたのか、男の顔に、初めて薄《うす》笑い以外の表情が浮《う》かぶ。全体として笑っているのは変わらないが、眼《め》の中にある鋭《するど》い光《ひかり》が、またひとつ温度を下げる。
その眼を見返して、ベスポルトは続けた。
「わたしは帝都に行く。だが、お前に連れられてではない」
男は――
「お前は分かっていない。ベスポルト。恐《おそ》れを感じると言ったのは、お前だぞ? アマワは今でも、お前の運命に作用《さよう》している……」
そう言って、手にしていた仮面を再び顔に当てた。
「お前がアマワに敵対する限り、お前には未来はない」
その言葉を最後に、男は黒衣へともどる。
そして。
足音が聞こえてきたのは、その時だった……
そこにあったのは、殺し屋の後ろ姿と、たたずむ黒衣と、そして唖然《あぜん》とした父の姿。あとは屋根《やね》が破られ――ついでに自分の部屋も消し飛んだ――半壊《はんかい》した家。斜《なな》めに引き裂《さ》かれるように崩《くず》れかかった家の中に、父と黒衣がいた。ともかくも無事であるのは間違《まちが》いないが、それが危《あや》ういところだったのも分かる。殺し屋は剣《けん》を手に、なにかのタイミングを見計らっているようにも見えた。父の顔はいつにも増して強張《こわば》り、ようやくたどり着いたこちらに緊張《きんちょう》した眼差《まなざ》しを投げてきている。村にはもう静寂《せいじゃく》と呼べるほど崇高《すうこう》な沈黙《ちんもく》はなく、風《かぜ》も陽《ひ》も、その無関心さはただ肌寒《はだざむ》いだけだった。
すべての結果がここにある。フリウはなんとなく、理解《りかい》した。立て続けに起こったすべてのことの結果は、今ここにあるのだ。黒衣も、殺し屋も、警衛兵《けいえいへい》も、そしてもしかしたら、マリオだって――誰《だれ》も彼もが、父に用があって現れた。なんの用事であるのかは知りようもないが。
(でも……)
こちらを見ようともしない殺し屋を見つめて、うめく。
(あまり、いい用事じゃないよね……? どう考えても。多分)
フリウは弾《はず》む息をなんとか押《お》さえ込もうと胸に手を当てて、なんとか声を喘《あえ》がせた。
「父さ――」
「失《う》せろ、子供」
唐突《とうとつ》に、割り込んできたのは、冷たい女の声だった。
唾《つば》を呑《の》むようにして、思わず後ずさりする。顔の半分だけをこちらに向けた殺し屋が、乾《かわ》きかけの血がかかったまぶたを大儀《たいぎ》そうに見開いて、言ってくる。
「これから始まるのは、死闘《しとう》よ。死にたくなければ失せなさい」
「な……」
血とともに赤い髪《かみ》のかかる、殺し屋の鼻のあたりの皮膚《ひふ》が、波打つように痙攣《けいれん》するのが目についた。その殺し屋が激怒《げきど》しているのは、聞かずとも知れる。それともただ単に、やる気を見せているだけか――よくは分からないが。
次の句を告げられずにいると、ふと視界の隅《すみ》から、ふらふらと青い余計《よけい》なものが浮《う》かび上がってきた。
「なんでそんなこと言われなくちゃならねんだ、と言いたいのだと思うね」
通訳《つうやく》を始めたスィリーを、後ろからはたいて黙《だま》らせ、フリウは改めて言い直そうと息を吸った。
「なんで――」
「なぜ、お前なんかにそんなことを言われなければならない?」
今度|邪魔《じゃま》してきたのは、背後《はいご》からの男の声だった。見るとサリオンが、汗《あせ》を拭《ぬぐ》いながら警棒《けいぼう》を抜《ぬ》いている。殺し屋を見据《みす》え――そして次いで、黒衣の姿を視線で示し、
「その女は中央府から手配されている暗殺者だぞ。そんなところでじっとしていないで、さっさとどうにかしたらどうなんだ!?」
黙《もく》して語らぬ仮面の黒ずくめに対して、声を荒《あら》らげる。
「…………」
なんとなく唇《くちびる》を噛《か》みながら、フリウは二、三歩ほど後もどりしてサリオンの腹を蹴飛《けと》ばした。いきなりの衝撃《しょうげき》にうずくまる警衛兵《けいえいへい》は無視《むし》して、殺し屋へと向き直る。
「なんであんたなんかにそんなこと言われなくちゃならないのよ! そこの黒い人も、どこかに行って、なにか別の、人に迷惑《めいわく》かかんないような趣味《しゅみ》でも見つけて――」
と。
「フリウ!」
いつもは口数の少ない父だが、声をあげればその声量は大きい――その父が、叫《さけ》んできた。
「行け」
「いけ?」
聞き返そうとするが、動悸《どうき》に邪魔されて言葉が出ない。父の顔が、さらに険《けわ》しく引きつるのが見えた。
「もうお前はいいんだ……わたしに関《かか》わってはならない」
「……な、なに言って――?」
「お前はすべてをめちゃくちゃにしてしまいかねないんだ、フリウ。お前は自分を」
「そんなのっ!」
激しい運動のあとにくるどうしようもない苦痛と、また別にもうひとつ爆発物《ばくはつぶつ》を抱《かか》え込んだような激痛に、彼女は肺に当てていた手をそのまま握《にぎ》り込んだ。
「そんなの今さら! あたしがそういう子だ[#「そういう子だ」に傍点]っていうのは、父さんも――」
声が震《ふる》えた。なにを叫んでいるのか、自分でも分からない。が、だからといって止まることはなかった。叫ぶ。
「知ってたはずじゃない!」
「違《ちが》う。フリウ、わたしの話を――」
刹那《せつな》。
身体《からだ》が重くなったように思えた。ほんの、一瞬《いっしゅん》のことだが。
黒い気配《けはい》が立ち上る。眼前に出現したのは、黒衣だった。父のそばにいるのとは別の、もうひとりの黒衣。
虚空《こくう》から姿を現したその細い背中を見送りながら――フリウは、その黒衣が現れる一瞬に、自分の身体から振《ふ》り解《ほど》かれる念糸《ねんし》があったことに気づいた。無論、自分のものではない。細い思念《しねん》の糸はそのまま、黒衣の身体へと引き込まれて消えていった。
悟《さと》る。
突然《とつぜん》、空間《くうかん》を越《こ》えるようにして移動する、この黒衣が持っている能力は――
(相手の位置を追跡《ついせき》する念糸……!?)
そんなものは聞いたことがない――というより、自分以外の念糸使いなど見たこともないのだから当たり前だが。フリウは驚《おどろ》きながらも、自分の念糸を放っていた。が、思念が黒衣の黒装束《くろしょうぞく》に絡《から》まろうかという一瞬に、その姿が再び消える。
そのあとを追って、黒衣がいた位置を、銀色の帯《おび》が貫《つらぬ》いた。女暗殺者の振り抜《ぬ》いた剣《けん》の刀身が、風切り音だけを立てる。
すべては唐突《とうとつ》であり、一瞬のことだった。フリウはなにも見えなくなったことにぎょっとして、自分が瞬《まばた》きをしたことをようやく理解した。その瞬間の闇《やみ》ですら、事態を捉《とら》えられなくする。
次に見えたものは、殺し屋の背後に現れた黒衣だった。今度は、殺し屋をトレースしたのだろう。手には例の、水晶檻《すいしょうおり》を仕込んだ杖《つえ》がある。
殺し屋が振り向くよりも、鈍《にぶ》く輝《かがや》くその水晶が、殺し屋のまとっている派手な真紅《しんく》のマントに押《お》し当てられるほうが早かった。あの爆発力《ばくはつりょく》を間近《まぢか》で食らえば、人体など跡形《あとかた》も残らない。
(この――!)
反射的にフリウは、伸《の》ばしかけた念糸の向きを大きく変えた。心が標的《ひょうてき》に触《ふ》れたと感じると同時に、その力を解き放つ。
(砕《くだ》けちゃえっ!)
ぎしぃ――
音が伝わるほどの暇《ひま》もなかっただろうが。一気にねじ切れて宙《ちゅう》を飛んだのは、黒衣の掲《かか》げる杖だった。半《なか》ばからひねり折られて、ふたつになっている。
その間に身体《からだ》の向きを変えた殺し屋の剣が、黒衣の身体へと襲《おそ》いかかり――
甲高《かんだか》い金属音《きんぞくおん》を立てて跳《は》ね返った。黒衣の手の中に、短剣が現れている。もう杖はないのか、短剣とはいっても大振《おおぶ》りなナイフを手に構え、敵の剣がとどかないところまで跳《と》んで後退していく。
と。
「うわあ!」
サリオンの悲鳴に顔を向けると、警衛兵は驚愕《きょうがく》の面持《おもも》ちで、
「黒衣が現れたぞ!」
「……そだね」
それだけ言って、ため息をつく。
殺し合いは終わっていなかった。見ると、殺し屋は飛び出して一気に間合いを詰《つ》め、黒衣に斬《き》りかかっていく。
だが。
「…………?」
フリウはのけぞるような悪寒《おかん》とともに、黒衣の視線が――仮面に隠《かく》された視線が――こちらに向いていることを直感した。
黒衣の念糸《ねんし》が自分の右手首《みぎてくび》に絡《から》みつき、そして黒装束《くろしょうぞく》に包《つつ》まれた敵の身体が消える。
(来る……!)
どこに現れるのかは分からない。だが、自分に思うさま刃物《はもの》を突《つ》き立てられる距離《きょり》であることは間違《まちが》いない。肉料理を作る際《さい》、冷えた塊《かたまり》である生肉《なまにく》に包丁を切り入れる感触《かんしょく》を思い出し、フリウは顔をしかめた。温かい生肉であった場合、それはどう変わるのだろう。人間の身体にはそれほど肉が多くない。骨に当たった場合、刃は滑《すべ》って余計《よけい》な苦痛《くつう》を与《あた》えてくるのではなかろうか。そんなことが、意識《いしき》の中に弾《はじ》けて消える。
その雑音の中で――
背後に気配が現れた。
顔だけでも向けようと、身体をひねる。
そこには、青い衣《ころも》を着た、羽のある手のひらサイズの人間が、きょとんと空中であぐらをかいていた。
「よお」
人精霊《じんせいれい》が、のどかな声音《こわね》で挨拶《あいさつ》してくる。
「なにやら大変そーなので、後ろに隠《かく》れさせてもらおうかと」
「……………………!?」
どう声をあげるべきか――
どんな顔をすればいいのか――
それすらも分からない。肩口《かたぐち》に、ナイフが突《つ》き刺《さ》さった。
半身《はんしん》が瞬時《しゅんじ》に麻痺《まひ》し、刃物の重さで身体が傾《かたむ》く。左肩だった。悲鳴はどこにあるのか。そんな疑問《ぎもん》が脳裏《のうり》をかすめる。まだ悲鳴は、喉《のど》の奥《おく》にあった。思い切り吐《は》き出したいが、あまりにも大きくて口の中を通過《つうか》しない。もしかしたら、スィリーに感謝《かんしゃ》しなければならないかもしれない――身体の向きを変えていなかったなら、刃《やいば》は喉に突き刺さっていただろう。そうなれば、悲鳴はその傷口から飛び出したのだろうか。少なくとも、それが喉につかえて苦しいということはなかっただろうが、その安楽《あんらく》は、取り返しのつかない喜びになっていたに違《ちが》いない。
短剣《たんけん》が引き抜《ぬ》かれた。表情のない魔物《まもの》、黒衣の手で。肩からあふれる自分の血と、翻《ひるがえ》った刃から飛沫《しぶき》となって降り注いでくる、かつて自分の血であった体液《たいえき》とに溺《おぼ》れるような心地《ここち》で、フリウは崩《くず》れ落ちた。地面に手をつき、動けなくなる。
「うわあああっ!」
サリオンが横を通り過ぎ、黒衣へと殴《なぐ》りかかるのが見えた。無駄《むだ》なことだ。こんな相手に敵《かな》うはずがない。
念糸《ねんし》使いであること。武器を持っていること。戦い慣れていること。こんなことは、関係がない。
関係ない。敵は、手にしているナイフを、気軽に標的《ひょうてき》に突き立てるような相手なのだ。人間ではない。魔物なのだ――他人事《ひとごと》のように、それを、思う。
(魔物じゃなければ――なんなのさ?)
フリウは奥歯を噛《か》みしめると、念糸を使うのに必要な精神力をかき集めるため、身体《からだ》に力を入れた。本来、そんなことは必要がないはずだった。少なくとも、父の授業では、そう教えられた。思念は無限に続く。病床《びょうしょう》の老人であろうと、筋肉の結晶《けっしょう》のような剣闘士《けんとうし》とまったく同様に、世界の端《はし》までその思いをつなげることができる。
念糸使いでもない父が、そうまで自信たっぷりに断言《だんげん》するのはどうしてなのか、それも気にはなったが、特に聞き返さなかった。頭の中に、八年間、父から聞かされたことがすべてあふれ出してくる。そして……
(父さんは……どこ?)
サリオンの姿は見えた。死ぬかもしれないこの瞬間《しゅんかん》に、父の姿も声もないのはどうしてなのだろうかと――そんなことが思い浮《う》かんでくる。どうでもいいことなのかもしれない。自分は今|倒《たお》れているのだから、父の姿が見えないのは当然だ。どうでもいいことなのか。魔物《まもの》と相対《あいたい》している時に、考えるべきことではない。どうでもいいことなのだろう。どうせあと数秒後には、なにも分からなくなっているに違《ちが》いない。
たった数秒を我慢《がまん》できないことがあるのか?
(父さん……)
八年分の父の言葉。その最後が、耳にこだました。
もう自分に関《かか》わってはならない。
それが――
(それが、最後に言うことなわけ!?)
フリウは、咆吼《ほうこう》とともに顔を上げた。サリオンが叩《たた》き伏《ふ》せられ、転倒《てんとう》するのが見える。
血が少なくなったせいか、視界が暗い。麻痺《まひ》が身体の大半を押《お》し包む中、振《ふ》り絞《しぼ》った念糸《ねんし》が黒衣の首へと巻き付いた。それをねじ切るために、すべての念を込める――
…………
「……そんな」
悲鳴のかわりにこぼれた声は、フリウのものだった。黒衣は動かず、そこにいる。念糸は消えていた。いや、そもそも解き放ったこと自体が幻《まぼろし》だったのかもしれない。身体《からだ》は動かず、もう逃《に》げることもできない。力|尽《つ》きている。猛烈《もうれつ》な睡魔《すいま》に包まれて、彼女は血の味にむせた。
黒衣が笑うのが分かった。仮面の奥《おく》で、身体を震《ふる》わせて哄笑《こうしょう》している。いや、
(嘘《うそ》だ……)
フリウは苦笑《くしょう》した。魔物が笑うはずがない。だが、ならばなぜ、この黒衣は身体を震わせているのだ……?
「…………?」
わずかに残った理性《りせい》で、フリウは自分を殺そうとしている相手を観察《かんさつ》した。黒衣は短剣《たんけん》を振り上げたまま、動こうとしていない。肩《かた》を小刻《こきざ》みに震わせて、痙攣《けいれん》を始め、そして。
「……がぶッ……ほっ!」
喉《のど》に痰《たん》を詰《つ》まらせたような、そんな音を吐《は》いて、黒衣が倒《たお》れた。その背中に、剣が突《つ》き立っている。
例の、殺し屋の剣だった。すべてが熱に浮《う》かされたように現実味を喪失《そうしつ》していく中で、金属でできたその殺人器具《さつじんきぐ》だけが厳然《げんぜん》と魔物を屠《ほふ》っている。
その持ち主の姿を――血と炎《ほのお》を混ぜたような緋色《ひいろ》の殺し屋の姿を探すが、そこにはいなかった。死体から剣を取るつもりもないのか、もう既《すで》にこちらには背を向けて、歩き出している。
村に現れた五体の魔物。その残った最後の黒衣と……そして、父のもとへ。
この騒《さわ》ぎの中で、黒衣と父だけは静かだった。最初に見た時から、指ひとつ動かしていないのではないかとすら思える――仲間が殺されようと、黒衣はただそこにたたずんでいるだけだった。そして、父は。
(父……さん)
身体《からだ》から血が抜《ぬ》けていくのを止める気にもならず、フリウは毒づいた。いろいろなことが次々と押《お》し寄せてきて、わけが分からない。
「父さん……あたし……死んじゃう……」
麻痺《まひ》と入れ替《か》わって、痛覚《つうかく》がぶり返してきた。つまらない痛みだった。幻想《げんそう》的でも、魅惑《みわく》的でもない、単につねられているのと変わらない、ただの痛みだった。
「死んじゃう……」
泣いている、と自分でも分かった。どうしようもない。倒れた視界からは、同じく倒れている黒衣の死体と、殺し屋の背中しか見えなかった。それに隠《かく》れた父の姿はない。声も聞こえてはこない。もうそこにいないのかもしれない。自分が倒れてから、もう何時間も経《た》っているのかもしれない。
身体が引きずり起こされた。見上げる。誰かに抱《だ》きかかえられているのだろうが、なにか遠慮《えんりょ》でもしているのか、腕《うで》だけ引っ張られてひどく痛む。抗議《こうぎ》しようとして、その力もなく、フリウは相手を見定めた。
警衛兵が、じっとこちらを見下ろしてきている。青ざめた額《ひたい》に青黒い陰《かげ》――先ほどの乱闘《らんとう》でつけられたものか、早くも腫《は》れかかっていた。
フリウは、震《ふる》えた。
「放して!」
不思議と、身体はまだ限界ではなかったらしい――あがこうと身体をひねると、警衛兵が慌《あわ》てるほどに力が入った。
「フリウ! 落ち着いて! 君は錯乱《さくらん》してる――」
サリオンが、さらにこちらを押さえ込もうとしながら、叫《さけ》んでくる。
「落ち着くんだ! 君が死ぬぞ……止血《しけつ》をしないと!」
「嫌《いや》だ……嫌だ! 嫌だ!」
わめく。なにかは分からないが、傷と出血からにじみ出してくる不吉《ふきつ》とは、また別種の悪寒《おかん》が感じられてならない。フリウは警衛兵の腕を指と歯でなんとか押しのけながら、声を張り上げた。
「父さんがいなくなっちゃうじゃないか!」
「フリウ――」
「あんたなんか、ふもとの街に帰っちゃうじゃないか! あたしは父さんがいないと――あたしはどこにいればいいのよ、この村で!」
「小娘《こむすめ》ッ!」
一喝《いっかつ》が。
時を止めた。
しん、と静まりかえる。自分の息の音だけだ――傷が熱を持ち、酸素《さんそ》が足りなくなってきている。フリウはめまいと戦いながら、声の主を、人精霊《じんせいれい》を探した。
ようやく見つけたスィリーは、倒《たお》れた黒衣の死体の下から、頭だけを出していた。
「助けてくれ」
「父さん――」
無視して、起きあがろうとする。サリオンも根負けしたのか、もう止めようとはせず、腕《うで》を貸してくれた。
父はやはり、もといた場所にいた。壊《こわ》れた家の中。すぐ近くに黒衣がいる。彼らとこちらとの間を隔《へだ》てるようにして、殺し屋が――
「…………?」
フリウは、眉間《みけん》に力を入れた。殺し屋はマントを外し、その肩《かた》の飾《かざ》りを手に持って、こちらに向けている。
顔は、黒衣のほうをにらみ据《す》えたままだった。
静かに、告げる。
「わたしの開門式《かいもんしき》は、とても短い」
鋭《するど》い言葉が、それこそもう手にしていない剣《けん》にも劣《おと》らずに、敵を串刺《くしざ》しにしようとしているのは見て取れた。黒衣がどう聞いているのかは、仮面|越《ご》しにうかがうしかないが。
殺し屋はそのまま続けた。
「わたしの精霊は一瞬《いっしゅん》であの子を殺せる。ベスポルト、協力しなさい」
「…………」
動けない。その殺し屋が使役《しえき》する精霊がどんなものかは、忘れもしなかった。そのマント留《ど》めにある、獅子《しし》の眼《め》に模《も》した水晶檻《すいしょうおり》が、冷たく凶暴《きょうぼう》にこちらを向いている。
父はなにも答えない。うつむいた顔に、破れた屋根の影《かげ》がいびつにかかって表情も見えなかった。
女は淡々《たんたん》と繰《く》り返す。
「さすがに手傷を負いすぎて、わたしひとりじゃその黒衣には勝てない。ベスポルト、わたしに協力しなさい」
「君が誰だかも知らぬのに……か?」
ようやく発した父の声は、そんな程度《ていど》のものだった。
「わたしは、ミズー。ミズー・ビアンカ」
そう名乗った時にだけ、殺し屋の手がわずかに震《ふる》えたようだった。
「わけも分からずに契約者《けいやくしゃ》にされたわ。アマワとやらを滅《ほろ》ぼす手段《しゅだん》があるというのが本当なら、わたしはあなたを守ってあげる。黒衣からも……何者からもね」
「…………」
父は、なにかを考え込んだらしかった。しばし黙《もく》して、
「……これも偶然《ぐうぜん》、か?」
髭《ひげ》の中の口が笑ったようにも見えた。影から半分だけ出た口の端《はし》が、引き結ばれ、吊《つ》り上がっていた。
そして。
「いや運命《うんめい》だよ」
たった一言答えたのは、黒衣だった。同時に――
父の巨体《きょたい》が飛び出した。逃《に》げたのではない。黒衣の腕《うで》を取ると、そのままねじり上げ、壁《かべ》に叩《たた》きつけて動きを封《ふう》じる。流れるような、だが釘《くぎ》を打《う》つようなはっきりとした手際《てぎわ》だった。黒衣を締《し》め上げて、体重をかけて壁に押《お》しつけながら、父は声をあげた。
「わたしを守る必要はない、ミズー。フリウを連れていってくれ」
「…………?」
殺し屋――ミズーとかいう――も、その申《もう》し出《で》には面食《めんく》らったようだった。実際、意味が分からない。
(みんな、父さんを取り合って集まってるっていうのに……?)
フリウは混乱しながら、次の動きを待った。父は頑固《がんこ》に、叫《さけ》んでくる。
「いいから行け! わたしは死なない。この男はわたしを殺せない――」
ばんっ!
小麦粉《こむぎこ》を入れた袋《ふくろ》を床《ゆか》に落としたような。
そんな音だった。
分かったのは、なにか粉が弾《はじ》けたこと――小麦粉を連想《れんそう》したのもそのせいだろうと、フリウは理解した――そして、父の身体《からだ》が一回り小さくなったように見えたことだった。
弾け飛んだのは、父の服の一部だとすぐに知れた。なにが起こったのか、左の袖《そで》が丸ごと、消し飛んでいる。
黒衣は壁に押しつけられたまま、動いてすらいなかった。腕をあり得ない方向にねじ曲げられ、動こうにも動けたはずはない。あり得ない方向に……
(…………え?)
フリウは、開いている右目だけをぱちくりさせた。黒衣の腕《うで》は、完全に不可能《ふかのう》な向きに曲がっている。折《お》れているとしか思えないのだが、苦痛《くつう》の気配すら見せていない。
父の左腕に、その黒衣の念糸《ねんし》が触《ふ》れていた。その腕が――骨と皮だけになった父の左腕が、だらんと落ちる。
「アマワに従《したが》うのは……楽なことだ」
黒衣の声。もう仮面越《かめんご》しではない。
壁《かべ》に叩《たた》きつけられた際に取れかけていたのだろう、黒衣の仮面が外れていた。蛇《へび》のようなその男の顔が半分以上のぞいている。父の横を回り込むように、やすやすと脱出《だっしゅつ》すると、曲がっていた腕を気楽《きらく》に元にもどしてみせた。
あくまでも得意げに。そしてその腕をもう一|振《ふ》りした時には、どこから取り出したのか、小振りのナイフが現れていた。
気づいた時には遅《おそ》かった。殺し屋すらも、動けずにいた――黒衣のナイフが、父の胸に突《つ》き込まれる。
苦悶《くもん》とも、単なる驚《おどろ》きともつかない父のうめき声が響《ひび》いた。
黒衣は屈託《くったく》なく、笑うだけ。
「運命《うんめい》がまだ死を許《ゆる》さないのならば……どうしたところでお前は死なない。手加減《てかげん》する必要もない」
「貴様……っ!」
父が、床《ゆか》に落ちる。黒衣はまた別のナイフを取り出して、こちらへと向き直ってきた。
「さて。黒衣の顔を見た者は……分かるだろう? 皆殺《みなごろ》しだ」
音が聞こえた。
だが、その黒衣の声ではない。そんなものは聞いていなかった。
それは長い音だった。変わらない、ただひたすらに長い音。
爆音《ばくおん》が弾《はじ》けた。小屋が消し飛ぶ。破壊音《はかいおん》をまき散らして、そこに現れたのは白い鎧《よろい》に身を包んだマリオ・インディーゴだった。ようやく目を覚ましたのか、倒《たお》れている父のすぐ横に現れるなり、その巨体《きょたい》を軽く持ち上げる。
黒衣は驚いているようではあったが――なにもしなかった。マリオが父を抱《かか》え上げ、再び高空へと飛び去っていくのを、なにやら面白《おもしろ》げに見送っている。
だが、フリウが聞いていたのはその音でもない。
「ああああああああ――」
自分の声だと気づいた時、彼女は自分が、サリオンを押《お》しのけてひとりで立っていることを知った。サリオンがこちらを見ている。殺し屋がこちらを見ている。黒衣もようやくこちらへと視線を転じた。スィリーも、多分見ているのだろう。
「ああああああああっ!」
渾身《こんしん》の力で声を張り上げてから――
息をつく。
フリウは後頭部《こうとうぶ》に手を回すと、左目を隠《かく》している眼帯《がんたい》の結《むす》び目《め》を手で探《さぐ》った。無事な右手だけでそれを外し、ぎゅっと握《にぎ》りつぶす。自由になった顔の半分が、風を感じた。
だがそんなことはどうでもいい。
彼女は右目を閉じた。
なにも見えなくなる。自分が左目で見ることのできる世界は、この上なく強力に封印《ふういん》されている。そのことは知っていた。
その封印を解いてはならない。そのことは知っていた。
彼女は唇《くちびる》を開いた。震《ふる》えて上下《じょうげ》が小刻《こきざ》みに触《ふ》れる程度《ていど》に、軽く。言葉は喉《のど》から漏《も》れ出た。自《おの》ずと選《えら》ばれ、考えることもなく。
開封《かいふう》の言葉――開門《かいもん》の言葉。
「通るならば……その道」
一本の線が。
光の筋が、暗闇《くらやみ》に閉《と》ざされていた視界に亀裂《きれつ》を生じさせる。
「開くならばその扉《とびら》。吼《ほ》えるならばその口。作法《さほう》に記《しる》され、望むならば王よ。俄《にわか》にある伝説《でんせつ》の一端《いったん》にその指を、慨然《がいぜん》なくその意志《いし》を。もう鍵《かぎ》は無し」
「駄目《だめ》だ! フリウ――」
サリオンが、叫《さけ》ぶのが聞こえてきた。近くにいたはずだが、随分《ずいぶん》と遠い声のようにも思う。
「それを解放《かいほう》しちゃ駄目だ――八年前と同じになる――」
なんで彼が、そんなことを知っているのだろう……
そのことは疑問《ぎもん》には感じても、さほどの大事《だいじ》だとは思わなかった。無視《むし》して続ける。続ける。
見るという機能《きのう》を失っていた水晶眼《すいしょうがん》が、瞳《ひとみ》を開いていく。彼女の念糸《ねんし》と、開門式に応じて。開いた筋の中に、風景《ふうけい》が映った。視界は徐々《じょじょ》に広がり、こちらを呆然《ぼうぜん》と見つめる連中の姿が判別《はんべつ》できるようになる。
それぞれが誰であるかは、もうどうでもいいことだった。
見えてしまったからには、彼らにはもう名前など必要なくなる。
彼らは、世界に入ってしまったのだ……水晶眼に見つめられる世界に。
その瞳で。
その視界で見ることができるのは、この世界だけだった。
今この瞬間《しゅんかん》は、右目で見ていたものとなにも変わってはいない。しかし。
そこにあるものは、これからすべて破壊される[#「これからすべて破壊される」に傍点]。
自分の左目で見たものは、完膚《かんぷ》なきまでに壊《こわ》される。
光に満ちた視界の中に、その光の中心となる巨大な人影《ひとかげ》が立つのを見つめながら――
フリウは、最後の言葉を噛《か》みしめた。
「開門よ、成《な》れ」
水晶眼に封じられている精霊《せいれい》の影。
破壊《はかい》精霊ウルトプライドは、草を踏《ふ》むわずかな音すらなく、そこに現れた。
それは銀色《ぎんいろ》の巨人《きょじん》だった。外殻《がいかく》は鎧《よろい》のようでもあり、もっと別の――たとえば偶然《ぐうぜん》に生じた氷河《ひょうが》の亀裂《きれつ》のようでもある。鋭《するど》く、滑《なめ》らかな氷の棘《とげ》。
刃《やいば》よりも激しく斬《き》り刻み、角よりも深くえぐり込み、すべてを嫌《きら》いすべてを破壊する。それが具現《ぐげん》して、そこにある。
それはただ、首を下げてそこに立っていた。
なにもしていない。なにもする様子はない。
が。
それがある、というだけで――大きな塊《かたまり》がのしかかってくるような、暑苦《あつくる》しい重圧が生じていた。暑く、そして凍《こご》えるように冷たく。
本能だろうか? 反応したのは、ミズー・ビアンカだった。マント留《ど》めを掲《かか》げて、鋭《するど》く叫《さけ》ぶ。
「出《いで》よ!」
命令に応じて出現した、巨大な炎《ほのお》の獅子《しし》は、咆吼《ほうこう》でその身の熱炎《ねつえん》をさらに爆《は》ぜて膨《ふく》れあがらせながら、巨人と対峙《たいじ》した。それほど長い時間でもない――訓練された精霊は、戦いに無駄《むだ》な時間などかけはしない。精霊は、強大な力を誇《ほこ》る。敵をねじ伏《ふ》せることなど、彼らにとってはどうということでもない。力を見せつけ、叩《たた》きつけるだけでいい。
獣精霊《じゅうせいれい》が大地を蹴《け》った。足下《あしもと》が融《と》けて溶岩《ようがん》と化す前に。棒立ちの巨人に向かって、飛びかかり、致命《ちめい》の力を注ぎ込む。
一瞬《いっしゅん》の間。
銀光が、獅子の脳天《のうてん》を打《う》ち据《す》えた。
真上《まうえ》から振《ふ》り下ろされた、巨人の拳《こぶし》が、獅子の頭を貫《つらぬ》いて地面に突《つ》き刺《さ》さる。獣精霊は瞬時に炎へ分解して、空間に消えた。その熱エネルギーで、巨人の立っていた地面が飴《あめ》のように崩《くず》れ、破壊精霊《はかいせいれい》を傾《かたむ》かせる。空気も膨脹《ぼうちょう》して、鼓膜《こまく》に残らない爆鳴《ばくめい》を響《ひび》かせた。が。
獅子が消えて、銀色の巨人はなにごともなかったかのように、溶岩の中に沈《しず》み込んだ足を、ずるりと引きずり出した。彼はぐるりと、周囲を見回し――
八年前に滅《ほろ》ぼしたことのある村の中で、泣き声ともつかない雄叫《おたけ》びをあげた。
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第八章 ジャンピングオフ・プレイス
(最果ての出発点)
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これ以上、わたしとともにいれば、君は左目に、その光景《こうけい》を見るはずだ。わたしがそれを君に求めることになる。
それはどうなのだろう? 君の心はなにを見出《みいだ》すのだろう?
それをすべて飲み干《ほ》して、君はどんな言葉《ことば》を吐《は》くのだろう?
わたしには問いかけることしかできない。君は精霊《せいれい》ではなく、わたしは精霊使いではない。そして答えを聞くこともないだろう。わたしはもう君には会えない。
フリウ・ハリスコー。
これは別れの手紙なのだ。
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力に押《お》し込められたその世界には、
「ああああああ――!」
破壊《はかい》によって封《ふう》じられたその世界には、
「ああああああ――!」
見覚《みおぼ》えがあった。
時の流れさえ狂《くる》うのか、凍《こお》り付《つ》く光景《こうけい》。光が歪《ゆが》み、大気《たいき》が沈《しず》み、夜と昼とが交錯《こうさく》する。それが錯覚《さっかく》であることは分かっていた。そこにあるのは、特別な異世界などではない――
フリウは覚えていた。
特別なものではない。なにも変わらない。先ほどまでとなにも変わらない、自分がいた世界。自分と、自分の周りにいた人々が、今もいる世界。
右目で見るか、左目で見るか、ただその違《ちが》いだけの。変わらない世界。
叫《さけ》んでいたのは自分ひとり。左目の水晶眼《すいしょうがん》を開いて、彼女は絶叫《ぜっきょう》した。
銀色の巨人《きょじん》が一撃《いちげき》で打《う》ち砕《くだ》いた炎《ほのお》の獅子《しし》は、無数の火の粉と飴《あめ》のような炎と化し、虚空《こくう》に溶《と》けて消え去った。その熱波《ねっぱ》が今でも風を起こし、土を溶かして巨人を沈み込ませる。膝《ひざ》まで土中《どちゅう》に潜《もぐ》ったところで、巨人は鋭《するど》く跳《は》ねた――炎をあげる土の中から苦《く》もなく脱出《だっしゅつ》すると、まだ硬《かた》い地面《じめん》の上へと着地する。
巨人が吠《ほ》えた。大きく、高く。
咆吼《ほうこう》が、その世界に在る人間たちを、その場に縫《ぬ》い止める。
畏怖《いふ》か――
恐怖《きょうふ》か――
なにであっても構わない。
その銀色の巨人が、視界《しかい》に現出した時、フリウは頭の中に響《ひび》く巨大な声に身体《からだ》をすくませた。
『我は破壊《はかい》の主《あるじ》――』
そう。それは破壊の主。
『我は物質の敵《てき》――』
八年前に聞いたものと、なにも変わらない。それは精霊《せいれい》の声だった。彼女の左目に封《ふう》じられている、破壊|精霊《せいれい》。
『我《わ》が言葉は――』
それが言葉の代《か》わりだという意味なのか。
巨人は拳《こぶし》を高々と振《ふ》り上げた。数メートルもの高みから、鈍《にぶ》い銀色に輝《かがや》くその拳を、地面へと叩《たた》きつける。
爆発《ばくはつ》が起こった。
地面とその上にある空気とが、巨人の一撃《いちげき》で破裂《はれつ》する。振動《しんどう》と衝撃《しょうげき》に足を取られ、フリウはそのまま後方《こうほう》に転倒《てんとう》した――尻餅《しりもち》をついて、声にならない悲鳴《ひめい》をあげる。痛《いた》みに目を閉じかけたが、それはできなかった。身体すべてが麻痺《まひ》したように動かない。瞬《まばた》きすらできない。水晶眼《すいしょうがん》の世界は、自分の手に負《お》えるものではない……
(制御《せいぎょ》……できないよ、父さん!)
分かっていたことではあったが。
巨人《きょじん》の出現によって凍《こお》り付いていた時が、その自覚《じかく》と同時に動き出したようだった。制することができないがゆえに、それは転《ころ》がっていく。
炎《ほのお》の獅子《しし》を、精霊を失った殺《ころ》し屋《や》が、横に――巨人から一歩|退《ひ》く形で、駆《か》け出すのが見えた。その反対方向に、黒衣《こくい》が。それまで取り澄《す》ましていた黒衣ですら、無表情《むひょうじょう》の顔色に蒼白《そうはく》な陰《かげ》をわずかににじませている。
(後悔《こうかい》すればいいんだ……)
動けないまま、フリウは叫《さけ》びだした。
(人の世界を壊《こわ》しに来たんだから……後悔すればいい!)
巨人が腕《うで》を一振りした。
突風《とっぷう》が、半壊《はんかい》していた小屋《こや》を完全に破壊する――巨人の指の導《みちび》きに従うように、小屋の骨組みはあっさりと吹《ふ》き散らされた。その残骸《ざんがい》と気流《きりゅう》の渦《うず》に、捕《と》らえられたのは殺し屋のほうだった。彼女の身体《からだ》が浮《う》かび、そのまま為《な》す術《すべ》もなく地面に転がる。柱や壁《かべ》の木片《もくへん》、無数の家具《かぐ》、砂や小石、そして突風《とっぷう》。かき混ぜられ、押《お》し流されるように、真紅《しんく》のマントをまとった殺し屋の身体が地表に叩《たた》きつけられ、そして二転三転した。粗末《そまつ》にされる人形のごとく、冗談《じょうだん》じみた姿勢《しせい》で、そのまま動きを止める。
そして、剣《けん》を返すように、その反対側へも拳《こぶし》を叩きつけようと巨人が顔を向けると同時。その手首に、念糸《ねんし》が巻き付くのが見えた。念の通路《つうろ》をたどると、黒衣が両手をつきだしてその念糸を紡《つむ》ぎだしている。
巨人が、一瞬《いっしゅん》だけ動きを止めた。精霊《せいれい》は、念糸で形成《けいせい》されたサークルからは逃《のが》れることができない。が。
それは一瞬のことに過《す》ぎなかった。ひょっとすれば気づくことすらできなかったかもしれない。念糸が揺《ゆ》れる。黒衣の身体が弾《はじ》けて、その場にくずおれた。全身から血《ち》を――真っ赤な血を、口といわず目といわず肌《はだ》といわず噴《ふ》き出して倒《たお》れる。
思念の通り道、念糸によって精霊と自分とを繋《つな》ぐことにはリスクが伴《ともな》う。精霊もまた、その念糸を逆行《ぎゃっこう》して術者を破壊することができるからだ。精霊の力が強ければ強いほど、それは抗《あらが》いきれない。黒衣が瞬時《しゅんじ》に爆死《ばくし》して果てるのを、フリウはひどく冷《さ》めた心地《ここち》で見下ろしていた。当たり前のことだった。水晶眼《すいしょうがん》でのぞく世界においては、それは当たり前のことだった。
瞬《またた》く間に、ふたりを殺した。
それまで、無敵《むてき》を誇《ほこ》っていた殺し屋であろうと、黒衣であろうと。
すべて破壊《はかい》され、なにも残らない。
それが、彼女の水晶眼の世界だった。
精霊の声は高らかに、その世界に響《ひび》く。
『我はウルトプライド――』
破壊精霊は空を見上げ、世界に雄叫《おたけ》びを轟《とどろ》かせる。
『全《すべ》てを溶《と》かす者!』
その声の大きさに。
フリウは耳をふさぎ、そして涙腺《るいせん》の痛みに顔を歪《ゆが》めたが――
左目は、閉じることができなかった。
彼にしても、その世界は見たことがあった。
サリオンはその時と――八年前と同じように両手で警棒《けいぼう》を握《にぎ》りしめて、そのあまりに無力な金属《きんぞく》の塊《かたまり》にすがりながら、ただその少女を見つめていた。
「駄目《だめ》だ……フリウ・ハリスコー……それは……いけないことだ」
意図《いと》せず、漏《も》れるつぶやき――誰《だれ》も聞く者もいないが、砕《くだ》け散《ち》る自己《じこ》をつなぎ止めようと、ひとりでまくし立てる。
「それは、やってはならないことだよ……フリウ。それは外に出してはいけない力だ。それは禁忌《きんき》だから封印《ふういん》されたんじゃないか。その精霊は――」
否《いな》。
「いや、あれは魔神《まじん》だな」
不意に横から、つぶやいてくる者がいた。
見ると、いつの間にか気楽《きらく》な様子《ようす》で宙《ちゅう》に座《すわ》り込んで、他人事《ひとごと》のように人精霊《じんせいれい》がぼやいている。
「魔神って知ってんか? いやまあ、いや、あのノリを理解《りかい》するにはコツがいる。しかし要《よう》はだな、とにかく、手に負えんということで、まあ手に負えんわけだからどうしたものかと――」
「知ってる!」
サリオンは叫《さけ》ぶと、スィリーから巨人《きょじん》へと視線《しせん》をもどした。
「あの精霊については調べたんだ……前に、報告書《ほうこくしょ》を作るために。結局たいしたことは分からなかったけど。あれは、破壊《はかい》精霊だ」
「ほほう。そういう名前をつけるか」
「名前なんかどうだっていい」
「口論するつもりはないが、言い出しっぺはお前なんではないか?」
「ぼくじゃない。昔の学者だかなんだかがつけたんだ」
どうでもいいと分かりながら、言葉にせざるを得ない。目の前にあるその存在について、説明をしてしまわなければ感情《かんじょう》に押《お》しつぶされるような。そんな恐怖《きょうふ》があった。
(そうだ……)
サリオンは、腹の下で引きつる筋肉《きんにく》の激痛《げきつう》に耐《た》えながら、出かかった罵声《ばせい》を押し込めた。
(精霊なんだ……人の理性《りせい》を簡単《かんたん》に飛び越《こ》えて存在している。あんなものを、自由《じゆう》に使えちゃいけない……いけない……)
それは人の理性を超《こ》えた結果をもたらす。
人には抱《かか》えきれない結末をもたらす。
少女を見る。彼女は眼帯《がんたい》に隠《かく》していた左目を見開いて、銀色の巨人を見上げている。動けないのか――もう動く気もないのか。たった数秒の間にそれまで住んできた家と、侵入者《しんにゅうしゃ》ふたりを破壊したそれを見つめて、倒《たお》れたまま涙《なみだ》を流している。開いた口は酸素《さんそ》を求めてあえいでいたが、どれほど吸い込んでも足りないというように、彼女の小さな肺《はい》が伸縮《しんしゅく》を繰《く》り返すのが見て取れた。
間近の地面は溶岩《ようがん》と化して、そしてまた熱を発散《はっさん》して固まろうとするサイクルを短時間でまとめようとしている。清浄《せいじょう》だった朝の大気は既《すで》に熱だけで破壊され、風景を歪《ゆが》ませるほどに汚《よご》れていた。
同じ光景だった。
見たことがあった。
八年前と同じ。それは、
「フリウ!」
サリオンは、叫《さけ》び声をあげた――
「閉じるんだ……もうやめるんだ! またすべてを失うことになる!」
それは、かつて大勢《おおぜい》の人間が多くのものを失った、あの日と同じ。
再び、巨人《きょじん》が動き出した。
巨体を――頭の高さは、人の二倍はあるか?――ゆっくりと、だが隙《すき》も無駄《むだ》もない動作で進ませる。巨人はこちらのことなど気づいてもいないように、漠然《ばくぜん》と前方へと歩き出していた。潰《つぶ》れた小屋を踏《ふ》み越《こ》え、残っていた柱を小枝《こえだ》のように押《お》しのけながら、進みゆく。なにか意志を感じるとしたならば、ただ、まだ壊《こわ》れていないものを求めている、それだけのものに見えた。
唐突《とうとつ》に拳《こぶし》を振《ふ》り上げ、地面へと叩《たた》きつける。
衝撃《しょうげき》は、巨人の身体《からだ》そのものを吹《ふ》き飛ばすほどに地表をえぐり、そして反響《はんきょう》を轟《とどろ》かせた。巨人は再び咆吼《ほうこう》したのか。爆発音《ばくはつおん》に、甲高《かんだか》い余韻《よいん》が残る。破壊精霊《はかいせいれい》はそのまま、前方へと足を進めた。
それを追うように……少女が、弱々しく立ち上がるのが見えた。夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のごとき足取《あしど》りで、精霊の後へと続こうとしている。
「フリウ――」
たまらずに、サリオンは駆《か》けだした。もとより、彼女までそれほど距離《きょり》が開いていたわけでもない。行く手を遮《さえぎ》るために、前方に回り込もうと――
刹那《せつな》、フリウの肩《かた》が、びくりと震《ふる》えた。
「駄目《だめ》!」
こちらを向かずに、叫んでくる。
サリオンは反射《はんしゃ》的に足を止めると、唾《つば》をのんで彼女を見つめた。
(八年前の悪夢だ……)
まざまざと思い浮《う》かぶ。
何度となく繰《く》り返された――それこそかけ算の暗唱《あんしょう》のように、記憶《きおく》に刻《きざ》み込《こ》まれんがために繰り返されたあの夢が、今はそっくりそのまま、目の前にあった。あの当時より、少女は大きくなり、そして自分も多少は大人になった……はずだったが。少なくとも、そう思っていたが。
(意味がない……意味がない!)
サリオンは激しく毒づいた。鼻の皮が剥《は》ぎ取れるほどの苦痛に顔を歪《ゆが》ませて。
そんなものには意味がない。人がいくら老練になろうと、この怪物《かいぶつ》には意味がない。
「かつて――」
破《やぶ》れかぶれで、彼はうめいた。
「フリウ、あれは破壊精霊《はかいせいれい》と名付《なづ》けられた魔神《まじん》だ。大昔、大陸史における永遠《えいえん》の名付け親《おや》――だかなんだか、そんな異名《いみょう》で呼《よ》ばれる魔法使いが、精霊の王として格付《かくづ》けした最悪《さいあく》の精霊だ」
聞いているのかいないのか、フリウの横顔にはなにも表れなかった。銀色に輝《かがや》く左目を、水晶眼《すいしょうがん》を見開いて、よろめく足取りで精霊を追おうとしている。破壊精霊は一歩一歩を踏《ふ》みしめながら、手当《てあ》たり次第《しだい》に大地に拳《こぶし》を叩《たた》きつけていた。そのたびに村そのものが揺《ゆ》すぶられる。
地面ならば大したことではない――それを埋《う》めるためにどれだけの土を持ってくれば良いのか見当もつかないが。だが。
サリオンは絶望《ぜつぼう》的に、巨人《きょじん》の行く手を見やった。いずれ、村の建物《たてもの》に行き当たる。
(八年前のように、人が集まっていなかっただけマシか……)
せめてもの慰《なぐさ》めに、彼は独《ひと》りごちた。
「その大マグスは言ったんだ。この魔神を以《もっ》て、精霊の正体《しょうたい》とせよ、って。精霊は飼《か》い慣《な》らせるようなものではない。その魔神が村に現れたのならば村を滅《ほろ》ぼし、国に現れたのならば国を滅ぼすだろうって。精霊の本質は、その精霊自身が決める。くそ、さっぱり分かりゃしないけど、つまりは……どうしようもないんだ。フリウ、宿主《やどぬし》である君にしか、どうにもできない」
言いながら、彼女の顔をのぞき込もうとする。
少女は再び、怯《おび》えたように身体《からだ》をすくませた。悲鳴《ひめい》じみた声音《こわね》で叫《さけ》んでくる。
「駄目《だめ》! あたしの前に出ちゃ駄目!」
彼女は顔を背《そむ》けようとして――そして失敗したらしかった。首が動かないのか、身体そのものも自由が利《き》かないのか。巨人が破壊《はかい》した地面を、破壊された自分の家の跡《あと》を、力なく通り過ぎようとしている。
サリオンもその後を追いかけながら、どうしようもない皮肉《ひにく》に――それを思いついた自分に――嫌気《いやけ》を覚えていた。親を失って、養父《ようふ》もまた失って、この少女は今……破壊|精霊《せいれい》を親として、その後についているようにも見える。
「フリウ――」
「本当よ。どうしようもないの……本当に。どうにもできないの」
フリウは首を振《ふ》ることもできずに、泣《な》き声《ごえ》をあげていた。
「でも、サリオン……あの精霊はまだ、本当はあたしの眼《め》の中に[#「中に」に傍点]いるの。あそこにいるのは影《かげ》。だから、あたしの眼から見える場所にしかいられない[#「いられない」に傍点]のよ。だから……あたしの前に出ないで」
「…………」
彼女の言った意味を噛《か》みしめてから、いや少なくともそのつもりになってから、サリオンは口を開いた。
「それじゃあ、八年前と同じだ」
村との付き合いが薄《うす》いことが幸《さいわ》いした――と言えるのかどうかは分からないが。ベスポルトの小屋から村までは、まだそれなりの距離《きょり》がある。巨人《きょじん》が駆《か》けだしでもすればあっという間だろうが、今はまだ、破壊精霊は大地を踏《ふ》みしめ、高空《こうくう》に雄叫《おたけ》びをあげ、あたり構わず拳《こぶし》を打ち付けることで進行も速《はや》くはない。
村は、こんな時でも人の姿を見せなかった。家が燃えてもそこにとどまっていたように、今もまた、住処《すみか》の内で震《ふる》えているのか。すぐそこに、魔神《まじん》が迫《せま》っていたとしても。
(どうしようもなく怯《おび》えている……?)
かつて、村を滅《ほろ》ぼしたことのある強大な精霊の姿に。村人たちは怯えている。恐怖《きょうふ》で、身体《からだ》を動かすこともできないほどに。
(それとも……こんな時でも、カーテンの陰《かげ》からのぞいているだけでなんとかなるとでも思っているのか!?)
毒づいて、サリオンはあたりを眺《なが》めまわした。出てくる村人の姿はない。精霊を止めようとする者も、仲間を逃《に》がそうとする者もいない。
それは無人の村のように、静まりかえっていた。その静寂《せいじゃく》の中、巨人が啼《な》く――
(ならこれが、真実なんだ)
為《な》す術《すべ》もなく滅びていく。
抗《あらが》うこともなく泣《な》き崩《くず》れていく。
ひとりの少女の瞳《ひとみ》の中で暴れる巨人から、逃げることもできずに。
フリウが、つまずいたのか、前のめりに頭を低くした。それを抱《だ》き留めようと手を伸《の》ばすが――指先が彼女の視界に入り込む寸前に、背筋《せすじ》に痛《いた》みにも似《に》た悪寒《おかん》が走った。手は、彼女の身体《からだ》に触《ふ》れることなく止まり、少女は転ぶことなく、自分で踏《ふ》みとどまる。
彼女は気づきもしなかっただろうが……
(これが真実なんだ)
自分もまた、その真実の中にいる。
八年前に証明《しょうめい》された真実の中に。
(あの事件から、抜《ぬ》け出せない……当たり前のことだったんだ。そうだろう? なにも終わっちゃいなかったんだから。ぼくだって未《いま》だに、あの中にいる。ぼくだってここから逃げ出すこともできずにいる)
と――
「思うにだな」
「うわっ!?」
唐突《とうとつ》に割り込まれて、サリオンは悲鳴《ひめい》をあげた。見ると、すぐ横に、いつの間にいたのか人精霊《じんせいれい》が浮《う》いていた。
青い羽を緩慢《かんまん》に振《ふ》りながら、精霊はいつも変わらない半眼《はんがん》で、
「そこまで驚《おどろ》くこたぁないわけなんだが、ひょっとしてお前さん、俺《おれ》の存在を忘れたりしてなかったか?」
「い、いや、そんなことは」
咄嗟《とっさ》に嘘《うそ》をつく。が、どうでもいいのか、人精霊はそのまま腕組《うでぐ》みし、得意げに鼻を上げると、
「ふふ。しかしだな。あまり出しゃばるのも俺ぢょぎんの流儀《りゅうぎ》じゃあねえわけだが」
「ぢょぎん?」
「気にするな。独自的表現《どくじてきひょうげん》というやつだ。まあそれでだ、あえてここで有意義《ゆういぎ》な忠告《ちゅうこく》などしてみたり」
「忠告?」
「目、閉じりゃいいじゃねえか」
あっさりと、フリウに向けて言っているのか彼女の耳元に近づいて告げる。が、これもまたあっさりと、フリウが言い返した。
「できりゃやってるよ」
「むう。正論《せいろん》」
さらにあっさりと納得《なっとく》する人精霊を、視線は向けず、見えないまま適当《てきとう》に手で追い払《はら》う仕草をしてから――フリウが、捨《す》て鉢《ばち》な声をあげる。
「いいから、ほっといてよ! もうどうにもならないんだから……」
と、その一言で解放《かいほう》されたかのように、フリウが立ち止まる。
見やると、巨人《きょじん》もまた、足を止めていた。
一番近い――真正面にある一軒家《いっけんや》までは、まだ数十メートルほどはありそうだった。なだらかにうねった道がいったん丘《おか》の下に消え、そしてその家まで続いている。
「なんだ?」
きょとんと、スィリーが声をあげた。
「小休止か? まあそりゃそうだろうな。でかい奴《やつ》ほどスタミナがない。運動生理学《うんどうせいりがく》がそう言っている。運動生理学は偉《えら》いぞ。まあ、言うことがやたらちょくちょく変わるのが難点《なんてん》で――」
が。
飛んできた石に一撃《いちげき》されて、人精霊《じんせいれい》の言葉はそこで切れた。吹《ふ》き飛んできたのは石ひとつではなく、巨人が蹴《け》った砂や砂利《じゃり》が、津波《つなみ》のように降りかかってくる。
一度視界を、腕《うで》で覆《おお》わざるを得なかった――反射的にだが。そして、次に見た時には、巨人の姿はそこになかった。
破壊《はかい》精霊はなにも意図《いと》して、こちらに砂を蹴ったわけではないだろう。ただ一気に駆《か》けだして、こちらに背を向け突進《とっしん》していったに過《す》ぎない。巨体からは想像《そうぞう》もつかない速度で大地を蹴ると、大きく跳躍《ちょうやく》し、正面の家屋《かおく》の上空に達するまで数秒もかからない。
空中で、破壊精霊の銀色の両|腕《うで》が掲《かか》げられ、そして着地と同時、振《ふ》り下ろされた。
衝撃《しょうげき》によるものか。なにによるものか。
一|軒《けん》の家が丸ごと、絨毯《じゅうたん》のように叩《たた》きつぶされるのを、サリオンは実際に目で見ても理解できなかった。
残骸《ざんがい》のひとつも宙《ちゅう》に跳《は》ねない。絵《え》に封《ふう》じたとばかりに、完膚無《かんぷな》きまで押《お》しつぶされたのだ。
巨人が、また別の家に向かって走り出す。
最初《さいしょ》にあがった悲鳴《ひめい》は、小さかった。
家に隠《かく》れていても無駄《むだ》だと理解した、最初の村人だろう――扉《とびら》から飛び出した若い女が、自分に向かって突進《とっしん》してくるその怪物《かいぶつ》と鉢合《はちあ》わせしてあげた金切《かなき》り声。
断末魔《だんまつま》すら与《あた》えられず、打ち下ろされた拳《こぶし》で上半身《じょうはんしん》が砕《くだ》け飛《と》ぶ。関節《かんせつ》のもげかけた昆虫《こんちゅう》のように、皮と骨と肉を分離《ぶんり》させた肉体が、数歩歩いたように見えた。女を追いかけて、男が外に飛び出そうとしている。巨人《きょじん》の放った拳が、それを押しもどすように玄関《げんかん》ごと、家そのものを薙《な》ぎ払《はら》った。美しくすらある爆発《ばくはつ》が、その家を、もしかしたらほかに家族もいたかもしれないその家屋を単なる歪《いびつ》な木《き》ぎれの群《む》れと化《か》す。
綿毛《わたげ》のように霧散《むさん》して。
サリオンは、長いこと息をしていなかったことを自覚《じかく》し――唐突《とうとつ》に咳《せ》き込んだ。思いついたのは、たんぽぽの綿毛だった。それを吹《ふ》いて飛ばすように、家が一軒、消し飛んでしまった。
それは、そのくらい容易《ようい》な光景だった。
村は瞬時《しゅんじ》に騒然《そうぜん》とし始めた。次々と、家から男が、女が、子供《こども》が、老人が飛び出してくる。破壊精霊《はかいせいれい》は、人であろうと建築物《けんちくぶつ》であろうと、見つけたものから手当《てあ》たり次第《しだい》にその拳を打ち込んでいく。
悲鳴が重なり、破壊音がそれをかき消すのを、ただ遠くから見つめている。
不意《ふい》に、近くから、叫《さけ》び声が聞こえた。フリウが大きく口を開き、まるでその声にあわせて描《えが》かれた肖像画《しょうぞうが》のように叫んでいる。
誰の悲鳴よりも――
彼女の悲鳴こそ、痛切《つうせつ》に鼓膜《こまく》を引き裂《さ》こうとしていた。サリオンは額《ひたい》を押《お》さえると、猛烈《もうれつ》な嘔吐感《おうとかん》と割れるような頭痛《ずつう》に身をよじった。見ていられない。正気《しょうき》が崩《くず》れていく。なによりも……
(フリウは!)
この少女は、絶対にその光景から目をそらせないのだ。
その視界《しかい》には常に巨人がいる。破壊精霊が、なにかを壊していく。それがなんであれ。この世に物質として存在しているものならば例外なく。なにもかも!
八年前も。
(ぼくが報告書に書いた……あの死者の死に様すべて。それを、六|歳《さい》の子供が全部見ていたんだ)
『人殺し』
隻眼《せきがん》の子供が、つぶやいた記憶《きおく》。
その左目の水晶眼《すいしょうがん》だけが、過去の六歳の子供と、現在の十四歳の少女とをつなげていた。サリオンは顔を上げた。
「フリウ! ぼくは――」
唐突《とうとつ》に振《ふ》り下ろされてきた鍬《くわ》は、首の後ろを直撃《ちょくげき》した。
死んでいてもおかしくはなかったろう――が、一応は致命点《ちめいてん》を避《よ》けるだけの判断力は残っていたらしい。なんとはなしに恨《うら》めしい気持ちで、サリオンは自覚した。地面に倒《たお》れ伏《ふ》しながら、なんとか顔だけ上げて襲撃者《しゅうげきしゃ》を見ようとする。
顔面につま先を突《つ》き込まれなければ、相手の顔を見ることもできただろう。どちらにせよ、今度は後ろに蹴《け》り転《ころ》がされ、なにも視界に捕《と》らえることができない。
星空《ほしぞら》にも似たノイズが瞬《またた》く目を見開いて、なんとか身体《からだ》も動かせるようになった時には、彼らは完全に包囲されていた。
武装《ぶそう》した村人たちに。
自分を殴《なぐ》った鍬《くわ》はどれだろうかと、サリオンは無意味なことを考える自分に苦笑《くしょう》していた。村人たちは各々《おのおの》、手になにかしらの得物《えもの》を持って、こちらを――というよりフリウを責《せ》めるために輪《わ》をせばめようとしている。水晶眼のメカニズムを知っているのだろう。動けない彼女の正面に立つ者は誰もいなかった。フリウは、視界外にいる村人たちの気配《けはい》に蒼白《そうはく》となってはいたものの、立ちつくすしかない。誰かが投げつけた石を、避《よ》けることもできないが、それは外《はず》れた。
「お前だ! お前が疫病神《やくびょうがみ》なんだ!」
「待ってくれ!」
近くの男があげた声に、サリオンは叫《さけ》び返した。
「これは事故《じこ》……事故なんだ」
それは嘘《うそ》だ。
自分でも分かっていた――フリウは開門式《かいもんしき》を唱《とな》えた。自ら望《のぞ》んで、精霊《せいれい》を解放《かいほう》した。それは分かっていた。
どのみち、誰の耳にもとどかなかったらしい。また別の村人がわめき立てる。
「あの時と同じだ。あの時と」
半身を失った死体を抱《かか》えたまた別の男が、顔面を怒張《どちょう》させ詰《つ》め寄《よ》ってくる。
「何人死んだと思っている……あの時、お前を殺しておくべきだったんだ。警衛兵《けいえいへい》が言った通りに!」
「だが同じ村の子供だったから、生かしておいてやったんじゃないか。それをお前は、また同じものを呼《よ》び出《だ》したな!」
「血《ち》の海《うみ》だ……まるで戦場《せんじょう》だ。お前は災厄《さいやく》だ。救いがたい鬼子《おにご》だ」
口々に怒声《どせい》があがる――その中で。
自《みずか》らそうしたのか、あるいはまだ身体に自由《じゆう》がないということも考えられるが。なんにしろ、その中で。
フリウが首をひねって、その村人たちを視界に入れた。
全員の息が止まる。
絞《しぼ》られたような吐息《といき》が漏《も》れる。
瞬間移動《しゅんかんいどう》とでもいうのか。フリウが視線《しせん》を転《てん》じると同時、村人たちの真《ま》っ只中《ただなか》に忽然《こつぜん》と、巨人《きょじん》が現れた。白銀の巨躯《きょく》には血も肉も、汚《よご》れひとつついてはいない。
影《かげ》に過ぎない巨人が、雄叫《おたけ》びをあげた。村人たちが、いっせいに逃《に》げ出すが――
間に合うはずもない。精霊《せいれい》が両の腕《うで》を高々と掲《かか》げる。
「駄目《だめ》だー!」
サリオンは飛び出すと、フリウの身体を地面《じめん》に押《お》し倒《たお》した。弾《はじ》き返されるか――とも危惧《きぐ》したが、存外《ぞんがい》にあっさりと、少女の身体は地面に転がった。そのまま視線の向きを変えて、別の場所に精霊が移動する。精霊はその場で、なんの問題もないとばかりに、破壊《はかい》を再開した。標的《ひょうてき》がなんであっても関係はなく、ただひたすらに叩《たた》き回る。
村人たちは罵声《ばせい》を発しながら、逃げまどい、少なくとももどってくる気配《けはい》はないようだった。安堵《あんど》し――それが的外《まとはず》れだと分かってはいても、サリオンはフリウを見やった。
彼女はあさってのほうを向きながら、肩《かた》を痙攣《けいれん》させ、立ち上がる。いや、
「どうしたら良かったの……」
痙攣ではない。似たようなものだが。彼女は涙《なみだ》を流さずにしゃくり上げていた。
「どうしたら良かったの……殺されるところだったじゃない。自分を守ろうと思ったら、こうするしかなかったじゃない。あたしが死ねば良かったの?」
この娘《むすめ》は正しいかもしれない。
サリオンは、沈鬱《ちんうつ》にそれを認《みと》めた。正しいかもしれない。認めてやることは容易《たやす》い。だが、言わないわけにもいかない。
「本当に、身を守るためだったのか?」
声が震《ふる》える。
「君は気まぐれに復讐《ふくしゅう》するためでも……こんな力を振《ふ》りかざせるんだ。それは使えてはならない能力なんだよ、フリウ」
「…………」
彼女は、すぐには反駁《はんばく》してこなかった。泣きながら、半分|正気《しょうき》を失いながらも、理解《りかい》したということだろう。
凄《すさ》まじく頭のいい子供だ――そのことに気づいて、サリオンは舌《した》をまいて彼女の言葉を待った。
「でも――」
「彼らは、君に冷たかったかもしれないけれど」
フリウを遮《さえぎ》って、彼は続けた。
「それを許《ゆる》せないとしても、理解はしてあげるべきだ。彼らは恐《おそ》れていたんだ。それだけの理由があったんだ」
「でも」
泣《な》く子供《こども》。彼女はそれだ。
(だが……)
泣く大人《おとな》。それが自分だ。無論《むろん》、涙《なみだ》は出ないとしても。サリオンは胃《い》の下《した》にねじれる感情を押《お》し殺して、彼女の肩《かた》を掴《つか》んだ。揺《ゆ》さぶることはしないが、少女の耳に声を注《そそ》ぎ込む。
ともあれ、問答《もんどう》をしている場合ではない。
「もういい……もういい! 封《ふう》じるんだ。このままだと、村中|滅《ほろ》ぼされる」
「そうしたい……けどっ……」
フリウは声をあげ、なにかに抗《あらが》うように身体《からだ》を震《ふる》わせたが――それだけだった。なにも変わらない。彼女の横顔を見据《みす》えて、サリオンはうめいた。
「まったく制御《せいぎょ》できないのか!? あれは」
答えは聞くまでもなかった。少女はただ泣いている。
「あたしが……使える……閉門式《へいもんしき》なんかじゃ、通用しないし……」
ほかにも方法は、ある。
サリオンは、混乱する中にあって、妙《みょう》に冷《さ》めた一角《いっかく》――心の片隅《かたすみ》で、静かに認めた。かつて、あの精霊《せいれい》はこの村に出現し、そして去った。その時の方法は覚えている。
ほかに手がなければ、それをまたやらなければならない。
凍《こご》えるほどに冷たいと思っていたその心の一角が、煮《に》えたぎるほどに荒《あ》れるのが知れた。馬鹿《ばか》げた妄想《もうそう》がよぎる。そしてまた……八年後に……同じことが起こるのだろうか? それが呪《のろ》いのスイッチなのか?
と。こちらの心を読んだというはずもないが。
「八年前は……どうやったんだっけ……」
フリウがまさしく核心《かくしん》を突《つ》いてきても、サリオンは驚《おどろ》く気にはならなかった。あり得ることではあった。これが運命《うんめい》の、なにか呪いの引き金であるならば、きっとふたりとも、ここから抜《ぬ》け出すことはできない。永遠に回り続ける。
「……君を……」
彼は、ゆっくりと告げた。運命《うんめい》の輪《わ》を閉じる鍵《かぎ》を、鍵穴に入れるように。
「……殺そうとして……殺しそこなって……精霊は消えてくれた……」
「…………」
フリウはもう、泣いてはいないように見えた。顔は涙《なみだ》で汚《よご》れていても、しゃくり上げてはいない。
(理解できたんだろうか……?)
他人事《ひとごと》のように、彼はつぶやいた。彼女は理解できただろうか? なぜ彼が、八年前のことを問われて答えることができたのか、理解できただろうか?
頭のいい娘《むすめ》だ。理解したかもしれない。だがなんにしろ、フリウが発したのは、あきらめにも似た、小さなつぶやきだけだった。
「……じゃあ、簡単だね」
「フリウ!?」
「このままあたしが寝ちゃえば……いいんだね」
操《あやつ》り糸《いと》でも切られたがごとく。
正気《しょうき》の限界《げんかい》に達《たっ》して、彼女はそのまま膝《ひざ》を落とした。ゆっくりと、前方へ、身体《からだ》を傾《かたむ》けていく。
気を失い、倒《たお》れ込《こ》んできた少女を、サリオンは両|腕《うで》で受け止めた。軽い――というほどでもなく、重いというほどでもなく。ただそれは、想像《そうぞう》していたものとは明らかに違《ちが》う重さのものだった。彼は無言で、導《みちび》かれるように、少女の髪《かみ》を軽くかき上げた。左の耳の後ろ。もう消えかけた傷痕《きずあと》がすぐに見つかる。
身体《からだ》が震《ふる》える。歯《は》の根《ね》が合わないほどに、音を立ててあごが震える。そのまま、彼女の身体を放《ほう》り投げて逃《に》げ出したいという衝動《しょうどう》が、身体の隅《すみ》から隅までも、その決断《けつだん》を促《うなが》そうと駆《か》け回っているのを感じていた。
(八年前に……ぼくが打《う》った傷だ)
警棒を振り上げた彼を見て、その少女がつぶやいた、人殺しという一言。
その時きっと、自分の背後にはあの巨人《きょじん》がいたのだろう。水晶眼《すいしょうがん》に見つめられた彼を破壊《はかい》するために。決断《けつだん》が一瞬《いっしゅん》遅《おそ》ければ、死んだのは自分だったに違いない。
「正しい決断なんて……」
彼は、あたりを見回した。村は既《すで》に破壊され、なにも残ってはいない。
「正しい決断なんて、この世のどこにもありはしない」
そして破壊|精霊《せいれい》の姿も――もう、どこにもなかった。
すべては運命の御手《みて》の中にある――
ゆえに死《し》の恐怖《きょうふ》は感じない。
契約者《けいやくしゃ》として、死などというものは、とうに克服《こくふく》した。
村から離《はな》れた丘《おか》の上から。
彼は、惨状《さんじょう》を見下ろしていた。
身体の各所に傷口《きずぐち》が開き、黒衣《こくい》の装束《しょうぞく》の下で、血が乾《かわ》いた膜《まく》を作っていた。受けた傷は深い。しばらくは行動できないほどに。
契約者ウルペンは仮面《かめん》を外して、高地《こうち》の風に素顔《すがお》をさらした。息をつく。永遠の勝利、その側《そば》にいる者として、ひとつの呼吸《こきゅう》、ひとつの鼓動《こどう》などに喜びを見いだすというのは無意味《むいみ》なことだった。永遠の勝利とは、永遠にその呼吸を繰《く》り返すということだ。
(勝利者は……気怠《けだる》い心地《ここち》でいなければならない)
村はあらかた、破壊《はかい》し尽《つ》くされたようだった。唐突《とうとつ》に精霊の姿が消えたが、あの娘《むすめ》は精霊を制御《せいぎょ》できていなかった。自発《じはつ》的に消すことができたわけではあるまい。
あれだけの力が、暴走《ぼうそう》を許《ゆる》されて存在している。
彼は身震《みぶる》いして、腕《うで》をさすった。血液《けつえき》を失ったせいか、寒気《さむけ》がひどい。
死ぬことがないとは分かっていても、それは太古《たいこ》から動物に備《そな》わった、危険《きけん》を回避《かいひ》するための警鐘《けいしょう》だった。
感じないはずの恐怖《きょうふ》。感じる意味を失った感情《かんじょう》。
いや?
あの巨人《きょじん》と対峙《たいじ》した時も、恐怖していなかったと言えるのか……?
彼は苦笑《くしょう》した。
「究極の破壊者……魔神《まじん》ウルトプライド……最古《さいこ》の精霊のひとつ、か。たいした度胸《どきょう》だ、ベスポルト。こんなものを見つけだしていたのか」
しばし考え込み、付《つ》け足《た》す。
「それとも、これも偶然《ぐうぜん》……か? アマワめ。人間と知恵比《ちえくら》べをして、勝《か》てるとでも思っているのか」
まぶたの裏に、目やにのように固まった血の塊《かたまり》を指で拭《ぬぐ》いつつ――彼は独りごちた。
「……傷つけずに眼球《がんきゅう》を手に入れる方法を考えねば、な」
崩《くず》れた小屋から、出発のための着替《きが》えや、必要なものを引っ張り出すのには、思っていたほどの手間はかからなかった。もともと、小屋にはそれほどの建材《けんざい》が使われていなかったうえ、壁《かべ》も薄《うす》く、ろくな代物《しろもの》ではなかった。八年間暮らしてきた家は、あまりにも簡単に吹《ふ》き散らされ、痕跡《こんせき》しか残っていない。
フリウはそれを見つめてから、ゆっくりと、村のほうへと視線を移した――
右目で。左目を、それを覆《おお》う眼帯《がんたい》の上から手で押《お》さえつけて。
村そのものも、もう残っているものといえば残骸《ざんがい》と、燻《くすぶ》った炎《ほのお》――これは火事によるものか。片づけようにもその人手がない無数の死体。あとは、憎《にく》しみのこもった眼差《まなざ》し。村人の姿はどこにもないが、その気配《けはい》だけは伝わってくる。
もうここには養父もなく、なにもない。家もなくなった。
「……もう、いいか?」
少し離《はな》れたところに立っているサリオンが、多少、おずおずと――聞いてくる。
フリウは無言でうなずいた。彼もまた、首を縦に振《ふ》ると、
「君は、この事故に巻き込まれた最重要《さいじゅうよう》の参考人[#「参考人」に傍点]として、ぼくが責任を持って街まで連れて行く」
聞こえよがしな大声で。これは、そこかしこからこちらをうかがっているはずの、村人たちに対してということだろう――彼の意向《いこう》を無視して彼女に私刑《しけい》を加えようとすれば、警衛兵《けいえいへい》の公務|執行妨害《しっこうぼうがい》となる。
「さすがに、これだけの事態《じたい》をぼくひとりでは収拾《しゅうしゅう》できないから……応援《おうえん》を呼ぶ。だから君は、ぼくといっしょに、警衛兵|詰《つ》め所《しょ》に来てもらう」
「……うん」
口の中で答えて、そして歩き出そうとする。その時だった。
「よう。こんなもんが瓦礫《がれき》の下にあったぜ」
不意《ふい》に現れたスィリーが、なにやら封筒《ふうとう》を抱《かか》えて浮《う》いている。瞬《まばた》きを何度かして――フリウは、その封筒をのぞき込んだ。自分|宛《あて》になっている。
「父さんの字……?」
「それは知らんが。お前さんのだろ。手紙は受理《じゅり》すべきだ。請求書《せいきゅうしょ》かもしれねからな」
「……ありがと」
人精霊が、自分の手に押し込んでくるその封筒を、意味が分からないまま受け取る。
(なんで手紙なの……口で言えばいいのに)
今となっては、それは無理だが。
のしかかってくる痛みを無視して、フリウは改めて、警衛兵の後ろに駆《か》け寄った。彼女の家は、村外《むらはず》れに位置していた。村を出るためには、村を横切らなければならない。
それはつまり、すべて破壊《はかい》された跡《あと》を見ていかなければならないということでもあった。
「サリオン」
呼びかける。肩越《かたご》しに振《ふ》り向いてきた彼に、フリウは続けた。
「あたし、ずっと、この村を出たいって思ってた」
「……うん」
「でもずっとここに住んでるんだろうなって思ってた」
無用《むよう》に起伏《きふく》を増《ま》した道を、注意しながら歩く。壊《こわ》れた柱や砕《くだ》けた家具《かぐ》、もっと陰惨《いんさん》な怨嗟《えんさ》のうめきなどが残る破壊跡が続いている。
(これは……あたしが、やったこと?)
意識が揺《ゆ》らいだ。
足が浮《う》いて、したたかに地面に顔をぶつける。平衡感覚《へいこうかんかく》を失って、転んだらしい。
手を貸してくれるサリオンに、フリウはうめいた。
「変かな? 意味、分からないよね……」
「いや、変じゃないよ。それに、誰だって、それは分かる。分かるはずだよ」
彼は、どこか空虚《くうきょ》に微笑《ほほえ》んでいた。続ける。
「別れを知らない人はいないから……ね」
この村のすべてと別れる。もう、ここにいることは絶対にできない。
「……あ」
涙《なみだ》がこぼれた――と思った。
ほおに手をやる。が、肌《はだ》は乾《かわ》いたままだった。
[#改ページ]
エピローグ
箱《はこ》の中に収《おさ》められた古い人形《にんぎょう》は、なにかを思うことがあるか。
自分がしまい込まれて、もう二度と取り出してもらえないかもしれないことを、想像《そうぞう》することはあるのだろうか。次に箱から出された時は、見慣《みな》れた持《も》ち主《ぬし》の手の中ではなく、その娘《むすめ》の手に渡《わた》されるかもしれない。あるいはもっと単純《たんじゅん》に、古具《ふるぐ》を燃《も》やす炎《ほのお》の中に、無造作《むぞうさ》に放《ほう》り込まれるのかもしれない。
分《わ》からないし、人形に同情《どうじょう》している場合ではない――それは分かっていた。
山道《さんどう》で。村から山を下りる山道で。サリオンが、その道を急ぎたがっていたのは明白《めいはく》だった。様々《さまざま》なことを彼は考えていただろう。村人の復讐《ふくしゅう》もそのひとつとして。
だがフリウには、それはどうでもいいことであったし、どちらにせよ、永遠《えいえん》に歩き続けることができるわけではなかった。日が暮《く》れて、そして夜が更《ふ》けて。その頃《ころ》になってようやく、彼女らは足を止めて休むことにした。道からそれて林間《りんかん》に入り、身体《からだ》に毛布《もうふ》を巻き付けてうずくまっていると、ほんの数分でサリオンは眠《ねむ》りについたらしい。
それでも、彼は起きようとしていたらしかったのだ。なんとはなしに、フリウは吐息《といき》した――少なくとも、彼女が眠るまでは、起きているつもりでいたらしい。彼女が目を閉《と》じて数呼吸《すうこきゅう》、寝《ね》たふりをしてから目を開《あ》けると、彼は眠りについていた。少し離《はな》れた場所で、毛布とともに両|腕《うで》をきつく身体に巻き付けて。震《ふる》えているようにも見える。高地《こうち》は冷《ひ》えるのだから仕方《しかた》がない。
人精霊《じんせいれい》の姿はなかった。どこか適当《てきとう》なところで寝ているか、飛んでいるか、騒《さわ》いでいるか、どれかだろう。よくは分からないし、興味《きょうみ》もない。フリウは毛布の中で、月明《つきあ》かりを頼《たよ》りに紙片《しへん》に目を落としていた。壊《こわ》れた小屋の中から出てきた、父の手紙。
(フリウ・ハリスコー……)
生真面目《きまじめ》な父の字で、自分の名前が記《しる》されている。読み上げるのに時間はかからなかった。それほど長い手紙ではない。
それでも明かりが十分ではないせいもあって、何度《なんど》となく、文を読み返さなければならなかった。頭の中は混乱《こんらん》し、内容を把握《はあく》するのにも時間がかかる。
それでも時は進み、文も途切《とぎ》れる。すべてを読み終えて――
フリウは、手の中にある封筒《ふうとう》を、便箋《びんせん》ごと握《にぎ》りしめた。汗《あせ》を吸《す》った紙が、音を立てずに斜《なな》めに潰《つぶ》れる。
「父さん……」
息をつく。吐《は》く息のようには、注《そそ》ぐ月光《げっこう》は震えない。
「父さんはさ……いつだって黙《だま》ってて……なにかを言う時にはさ、もう、遅《おそ》いんだよ……」
フリウは唇《くちびる》を噛《か》みしめて、頭を抱《かか》え込んだ。呑《の》み込んだ涙《なみだ》の味が、鼻孔《びこう》を刺激《しげき》して、そして痙攣《けいれん》を誘《さそ》う。
彼女は繰《く》り返した。便箋《びんせん》を握りつぶし、繰り返した。
「もう、遅いんだよ……あたし、もう……駄目《だめ》なんだよ……」
[#ここから8字下げ]
[#ここから教科書体]
フリウ・ハリスコー。
これは別れの手紙なのだ。
叶《かな》うならば、わたしが見るものを君には見せたくはない。
わたしが立ち向かうものに、君がかかわることがないことを祈《いの》る。それが、今さらのことであったとしても。
君はそのまま生きていくのがいい。八年が経《た》った。村の人間が君を受け入れるまで、まだ時間がかかるかもしれない。だが待っていればいずれ和解《わかい》できるだろう。心配《しんぱい》することはない。ただ我慢《がまん》していればいい。君には忍耐《にんたい》があるはずだ。その力は、封《ふう》じておく限り封じておくことができるものなのだから、君は踏《ふ》み外《はず》してはならない。
わたしは行かねばならない。運命《うんめい》から召還《しょうかん》されている。
不安《ふあん》は感じる。わたしはもう君のそばにいなくとも大丈夫《だいじょうぶ》だろうか? あらゆる意味で、君はまだ未熟《みじゅく》だ。だが、このまま君が大人になるのを見とどけられるほどの時間がない。行かなければならない。
フリウ・ハリスコー。わたしの旅路《たびじ》は暗いが、君の人生は、そうであってはならない。だから君を置いていく。もしかすれば、わたしの心の弱い部分が、また君の力を求めてやってくるかもしれない。その時、君が、わたしの誘《さそ》いなどに乗ることのない、盤石《ばんじゃく》の幸福《こうふく》を手に入れていることを願う。
[#ここで教科書体終わり]
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
あとがき
@ 今回のあとがきのこと
本というのは紙でできています。紙はどうやって用意《ようい》すれば良いのでしょうか。紙を売ってる業者《ぎょうしゃ》さんから買えば良いのですな。これは印刷所《いんさつじょ》さんも同じこと。出版社《しゅっぱんしゃ》から依頼《いらい》を受けた印刷所さんは、紙を業者さんから買って、そんで本を作ってくれるわけです。
どんなものでも、たくさん買えば買うほど、お金がかかります。当然《とうぜん》です。これはどういうことかというと、本を作るのに、紙をたくさん使えば使うほど、材料費《ざいりょうひ》が余計《よけい》にかかるってことです。だから分厚《ぶあつ》い本ほど、製造《せいぞう》コストがかかります。イコール、定価《ていか》が高くなってしまうわけですな。実際《じっさい》には、作った本の部数《ぶすう》とか、そんなのも影響《えいきょう》してくるわけですが、まあそれでもページ数が増えて定価が安くなることはありません。
で、ここからは専門的《せんもんてき》な話になるわけですが。大抵《たいてい》の場合、本の印刷《いんさつ》というのは一ページずつ刷《す》るわけではありません。でっかい紙にたくさんのページを印刷して、それを一ページの大きさに断裁《だんさい》して数ページ分にします。そのほうが効率的《こうりつてき》だからです。ほかにも理由《りゆう》はありますけど割愛《かつあい》。
ここで考えてみてください。Xページを一度に印刷するということはですよ。総ページ数は必ずXの倍数《ばいすう》になるってことですね。興味《きょうみ》があれば調べてみてください。ファンタジア文庫《ぶんこ》のどの本も、総ページ数は十六の倍数です。これは、ファンタジア文庫が十六ページを一度に印刷しているからですね。この数字を「折《おり》」と呼びます。専門用語です。この折のおかげで、たとえば二五六ページを一行でもオーバーすると、二七二ページの本になってしまうわけですね。とても無駄です。定価も大幅《おおはば》に変わってしまいます。
なんでこんなこと書いてるのかというと、今回はこの折の関係で、あとがきを短くしないと本の定価が上がってしまうと担当さんに言われているため、あまり無駄《むだ》な話とかできないってことが言いたかったわけです。
……なんつーか思いっきり無駄話ですな。
A かつて印刷会社に勤めていたということ
専門用語なんて書いてたら、ふと思い出してしまいました。印刷会社で写植《しゃしょく》オペレーターしてました。退社《たいしゃ》から数年。みんな元気かなぁ。しんみり。
B それはさておくこと
それはさておき。
C 前巻に引き続き、エンジェル・ハウリングのこと
ああああ。ページ数|制限《せいげん》受けてるってのに、また無駄な行を使っちまって。
で、この本のことです。このシリーズの仕掛《しか》けについては一巻の巻末《かんまつ》でも申し上げましたが、こっちでも。
この二巻は、月刊ドラゴンマガジンで連載《れんさい》されているものの一〜八話までを収録《しゅうろく》してあります。主人公は一巻とは異《こと》なり、フリウ・ハリスコー。奇数《きすう》巻はミズー、偶数《ぐうすう》巻はフリウ。そんな感じで進んでいきます。今のところ、どちらも予想以上《よそういじょう》の好評《こうひょう》をいただいているようで多謝《たしゃ》! なのです。
月刊連載八話で一巻分、ということで説明は必要ないかもしれませんが、これからはこのシリーズ、原則《げんそく》的に四ヶ月で一冊ずつの刊行《かんこう》となります。まあ、ほかの仕事との兼《か》ね合い等で、多少《たしょう》の変則《へんそく》はあるかもしれませんが……
さあ。ちゃんと予定通り刊行されるのか。今後に注目だ!(そこかい)
そんなわけでして。
そろそろ枚数も厳《きび》しいようで。簡単《かんたん》ではありましたが。では、次回の巻末でお会いしましょう〜。
二〇〇一年三月[#地から2字上げ]秋田禎信
底本:「エンジェル・ハウリング2 戦慄の門 ―from the aspect of FURIU」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2001(平成13)年4月25日初版発行
初出:「月刊ドラゴンマガジン」富士見書房
2000(平成12)年6月号〜12月号
※底本の一部の文章には、教科書体と呼ばれるフォントが使用されています。このファイル中では[#ここから教科書体]〜[#ここで教科書体終わり]という形で注記しています。
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年09月24日作成
2009年05月14日校正
Shareで流れていたスキャン画像をOCRでテキスト化して校正。その後、Share上で流れていたルビ無しテキストと比較校正して仕上げました。
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ16行、1行は約40文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「」「=v……縦書き用の二重引用符の始めと終り
「@」〜「C」……丸1〜丸4
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本34頁6行 推側《すいそく》ね
推測
底本149頁9行 白分
自分
底本164頁1行 白分
自分
底本194頁2行 ちようど
ちょうど
底本200頁13行 揺れいる
揺れている