DRAGONBUSTER
秋山瑞人
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《》:ルビ
(例)生国《しょうごく》は卯《ウー》
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(例)円将|王朗《オーロ》
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(例)※[#かねへん+票]
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絵筆と木剣
気の強そうな呼び鐘の鳴らし方を聞いただけでわかった。
月華《ベルカ》だ。
珠会《シュア》は寝床に埋《うず》めていた顔をのっそりと上げた。
夏も盛りになると、廓《くるわ》の女ばかりが住む長屋は運河の支流から運ばれてくる生臭い熱気に塗り潰《つぶ》される。休みの日にはいつも昼過ぎまで寝ている珠会であるが、こう蒸し暑くてはとても眠れたものではなかった。先刻からさかんに寝返りを打って、途切れ途切れの夢と汗で湿った寝床の感触との間を何度となく往復していたところだ。
再び呼び鐘が鳴らされる。
むああ、と生返事。
腹の空《す》き具合からして時刻は昼前といったところか。ちょうどいい、もう起きちゃおう、頭ではそう思っても身体《からだ》がついてこない。どうにか寝床から這《は》いずり出て床にぺったりと座り込み、まだ半分以上は寝惚《ねぼ》けているような顔で周囲を見回すと、普段は気づかないこの部屋本来のみすぼらしさが突如として顕《あらわ》になった。天井には生々しい雨漏りの黴《かび》跡《あと》、最後まで舐《な》めるように使い尽くした香水の小袋が方々に散らかり、鏡板の歪んだ化粧台はいつの時代のがらくたとも知れず、壁に掛けられた色とりどりの招福画などは見るからに無駄な抵抗という感じだ。
呼び鐘が三度《みたび》、今度はかなり乱暴に鳴らされる。
「もー、そんなに引っぱったら壊れちゃうでしょ」
珠会は個室を与えられるほどの身分ではまさかない。部屋の向かい側にはもうひとつ別の寝床が据え付けられているが、その寝床の主《あるじ》は二日ほど前に客と駆け落ちしてしまった。紙を切り抜いた人形が針で枕元《まくらもと》にに縫い止められているのは専属の拝み婆《ばあ》が施した女郎戻しの呪《まじな》いである。あんなものに一体どれほどの効力があるのか知らないが、どの道、里久《リク》姉さんは二度とこの部屋に戻ってくることはないのだろうと珠会は思う。後釜《あとがま》が送り込まれてくるのもそう先の話ではあるまい。
呼び鐘がが鳴らされっ放しになった。
「わかったから、いま行くってば」
それにしても、月華が訪ねてくるのは随分と久しぶりだった。もうひと月以上は顔を見ていなかった気がする。さぞかし積もる話があるのだろう、がらんがらんと近所迷惑な鐘の音に珠会は思わず苦笑を漏らした。今日は生憎《あいにく》と用事が控えているが、その前に茶館にでも立ち寄って話を聞いてやるくらいなら構うまい。口が裂けるようなあくびをひとつ、鏡を覗《のぞ》き込んで髪を整えようとして諦《あきら》める。馴染《なじ》みの客には到底見せられない御面相だ。
衝立《ついたて》を押しのけて部屋を横切り、入り口の引き戸を開けて、
「――ちょっと、その呼び鐘こないだやっと直してもらったんだからね」
「隙《すき》ありっ!」
勢いよく振り下ろされた木の棒が、がつん、と珠会の脳天を捉《とら》えた。
星が飛んだ。頭を抱えてその場に蹲《うずくま》り、そのうちにむらむらと怒りが湧いて、
「何すんのよ馬鹿! 悪ふざけもいい加減に――」
大声で怒鳴りながら立ち上がったところで、珠会は続く言葉を思わず呑み込んでしまった。
そこにいるのは、確かに月華だ。
驚いたのは、月華の奇妙な風体である。仕事柄、男の装束は見慣れている珠会も、月華の着ているそれが武術の稽古着《けいこぎ》であるとすぐには気づかなかった。形は確かに稽古着なのだが、それにしてはあまりに贅沢《ぜいたく》な布地がふんだんに使われているし、裾《すそ》に施されている蟒《うわばみ》の刺繍《ししゅう》には見覚えがある。まさか、いつも着ていたあの高価そうな略装衣を惜しげもなく仕立て直してしまったのか。
おまけに、今も珠会の頭に載っかっている黒々とした木の棒は箒《ほうき》の柄でもなければ引き戸の心張り棒でもなかった。さすがの珠会も武具の良し悪しまではわからなかったが、月華が手にしている木剣は本物も本物、蚊母の古木が風化して残った芯材《しんざい》から削り出された一級品である。
「久しいな珠会。妾《わらわ》がおらんで寂しかったか?」
月華は不敵な表情を浮かべて小生意気な口をきく。珠会は殴られた痛みも怒りも忘れ、月華の風体をもう一度頭からつま先まで睨《ね》め回して、
「――なにそれ?」
よくぞ聞いてくれた、と月華は胸を張り、予《あらかじ》め用意していたに違いない台詞《せりふ》を口にした。
「これこそ剣だっ!」
まるで、お気に入りの玩具《おもちゃ》を褒《ほ》められた子供の笑顔だ。
*
元都の夏空は青すぎてむしろ黒く見える。西風がもたらす砂漠の熱気が去るのはあと三月も先のことで、通りには思わず足を止めて見とれるほどの逃げ水が立ち、運河の流れは岸壁に明らかな苔《こけ》の跡を残して身投げもままならぬほど浅くなる。この時期の水運には「夏姿《かし》」という小型の平底舟が使われるが、それでも座礁は方々で発生し、船着場の人足たちはそのたびに橋の上や河沿いの道から綱をかけて舳先《へさき》を船筋に曳《ひ》き戻さなければならない。彼らが大声で歌う卑猥《ひわい》な内容の労働歌は、元都の夏の風物詩のようなものだった。
目当ての茶館には普段の半分も客がおらず、主が暑気あたりで倒れたらしいと聞いた珠会はすぐさま踵《きびす》を返して店を出た。生意気に思われるのが嫌で姉貴分たちには隠しているが、珠会は茶には相当うるさい。論戸《ロド》が淹《い》れた果鈴《かりん》茶《ちゃ》が出てこない三福館など下駄番の男衆しかいない廓と同じである。とはいえ近くには他に心当たりの店もなく、仕方がない、端真道の蓮家まで足を延ばすかと歩き出したところで月華が西瓜《すいか》の屋台売りを指差した。大玉ばかりを山積みにした荷車と並木の木陰と適当に並べた長椅子《ながいす》、という単純明快な真夏の商売だ。銅滴を二粒も渡せば屋台の親父は西瓜を砕くような手つきで包丁を振るい、両手でなければ持てぬほど大きな切片を無造作に渡して寄越す。見たところ客は男ばかりだったが、珠会はそういうことはあまり気にしない質《たち》であるし、月華はそもそも気にするということをあまりしない質である。
「あんたねえ、食べるか喋《しゃべ》るかどっちかにしなさいよ」
西瓜と格闘する月華の不器用さといったらなかった。目を輝かせてかぶりつくたびに滴《しずく》がびたびたと稽古着の膝《ひざ》にこぼれ、口いっぱいに頬張《ほおば》ったまま喋るものだから言っていることの半分もわからない。それでも月華は夢中になって、身振り手振りも交えて喋り続ける――右の袋を一緒に見物して歩いたあの日、珠会と別れた後に道に迷ってしまったこと。散々歩き回った挙句に貧民街の奥地にある川縁《かわべり》の焼き場に至ったこと。呆《あき》れるほど巨大だった月と死人の魂のようだった翅禍虫《ハカム》の光と、そして、双剣を手にした青い目の男。
「――つまり、」
珠会は聞いた内容をもう一度頭の中で整理して、
「その誰《だれ》かさんが剣術の型をやってるのを見て、それが格好よかったんで、あんたも剣術を習い始めた。――そういうこと?」
もしゃもしゃと西瓜を咀嚼《そしゃく》している口元を嬉《うれ》しそうに歪《ゆが》めて、月華は力いっぱい頷《うなず》く。
目を丸くしてその様子を見つめていた珠会は、ぷはっと噴き出した。長椅子から転げ落ちそうになるほど身を捩《よじ》り、周囲の客が訝《いぶか》しむほどの大声で笑いこける。月華は慌てて口の中身を呑み込むと憮然《ぶぜん》として立ち上がった。
「なっ、何がおかしいかっ!」
「――いや、ごめん、別にいいんだけどさ」
ようやく笑い止《や》んだ珠会は長椅子に座り直し、上目遣いに月華を見上げて、
「そっか、まあ、あんたらしいと言えばあんたらしいのか」
そう言って追い打つようにむふふふふと笑う。月華は苛立《いらだ》たしげにぐるんと一回転し、
「珠会は、珠会はあの男の技をその目で見ておらんからそんなふうに笑っておれるのだ!」
「あー、じゃあたしは見なくてよかったわ」
その投げやりな台詞がまた癇《かん》に触ったのか、月華はやおら手を伸ばして長椅子に立てかけられている木剣を掴《つか》む。珠会はまた殴られてはかなわんと思わず身構えるが、月華はきょろきょろと周囲を見回して、屋台の親父から箒を借り受けて戻ってきた。客が食べ散らかした西瓜の皮を片付けるための、子供の足ほどの長さの小さな箒である。
珠会のみならず周囲の客や屋台の親父までが見守る中で、月華は右手に木剣、左手に箒を握り締め、珠会の目の前に立っておもむろに背筋を伸ばした。
「よいか、妾がやってみせてやる。まず最初はこうだ!」
月華は逆手に握りなおした左の箒を背後に、右の木剣を目の高さに構える。
「次はこう!」
そして月華は珍妙な踊りを始めた。屁《へ》っぴり腰の太刀筋《たちすじ》には幾許《いくばく》の力も無く、足運びは素人目《しろうとめ》にもばたばたもたもたとおぼつかない。箒はともかく、そもそも両手で扱うべき長さの木剣は月華が片手で振るうには少々重すぎて、右への一刀を繰り出そうとするたびに体勢が大きく崩れてしまう。それでも月華の表情はまさに真剣そのもので、見ていた客の間からも次第に声援が上がり始める。
「はあっ!」
「いいぞねーちゃん!」
「とおっ!」
「ほれ、がんばれ!」
最後の跳躍はまことに微笑ましく、客は温かい拍手と惜しみない歓声でそれに応《こた》えた。月華は満面に玉の汗を浮かべ、肩で息をしつつも得意げに珠会を見つめて「どうだ、見る者が見ればちゃんとわかるのだ」という顔をする。
だめだこれは、と珠会は思った。
これは、かなりの重症だ。
「――で、それからひと月丸々家に籠《こ》もって剣術の稽古をしてたわけ?」
月華は再び珠会の隣に腰を下ろし、食べかけの西瓜にがっぷりと新たな歯形をつけて、
「ひはんほらんりんほまへいたのらが」
「だから、」
じゅるるごっくん、
「師範を何人も招いたのだが、どうにも反りが合わんでな。今のところは参渦《シャンガ》という年寄りに落ち着いておる。六身《りくしん》仙合剣の達人だぞ。知っておるか?」
知っているわけがない。横目で窺《うかが》うと、月華はあさっての方向に顔をそらして口元をもにょもにょさせている。口の中で種だけをより分けてぺっと吐き出すということがどうしてもできないらしい。よくよく見れば、月華の腕は稽古着の短い袖《そで》から外がまるで色分けしたように真っ赤に日に焼けており、形のいい鼻の頭はうっすらと皮が剥《む》けていた。
なるほど、ずっと稽古をしていたというのは本当なのだろう。
珠会は苦笑する。貴族や大商人の家ならば、女子にも武術を習わせるというのはそれほど常識に外れた話ではない。月華が言いたい放題の我儘《わがまま》を言って、金に飽かせて連れてきた達人たちをとっかえひっかえしている様が目に見えるようだった。目下居ついているというその何とかいうじじいは法外な謝金だけが目当ての、月華が何をやっても「お見事でございます!」と手を叩《たた》くことしかしない太鼓持ちのような奴《やつ》なのだろう。何とか剣の達人というのも果たしてどこまで本当なのやら。
「じゃあ、今日は久しぶりの骨休め?」
まさか、と月華は首を振った。再び木剣を手に取り、びゅんとひと振りして鼻息も荒く、
「妾の剣術も様になってきたし、あの青い目とひとつ手合わせをして進ぜようと思うてな」
「はあ!?」
「何をそんなに驚く?」
「え、あれ? だって、そいつ強いんでしょ?」
「妾も強いぞ」
珠会は呆れて物も言えなかった。剣術に限らず、芸事がひと月やそこらでものになるなら誰も苦労はすまい。先刻の箒踊りを見てもそれは明らかだと思うのだが、月華のこの闇雲《やみくも》な自信は一体どこからくるのだろう。
それと、決して看過できない問題がもうひとつ、
「――ねえ、聞いてもいい?」
「何じゃ改まって」
「そいつの目が青いってのが、どういうことかわかってる?」
月華は頷いて、
「犬でもときどきああいうのがいるな」
「――。そういうことじゃなくて、」
「ごんぐ、というのであろう?」
そのくらい知っている、と不満げな月華であるが、「本当はつい最近誰かに聞いて初めて知りました」と顔に書いてある。珠会はさらに、
「いや、だからね、言愚《ゴング》っていうのがどういうことなのか、本当にわかってるの?」
「白陽の山の民だ」
そう答えつつも少々不安になってきたらしい、月華は「そう聞いたぞ、違うのか?」という上目遣いで珠会の様子を窺ってくる。
案の定だ、と珠会は思わず天を仰いだ。
月華は、意中の相手がどういう素性の者であるかをまったく理解していない。
しかし、身分違いを言うなら珠会も廓の女である。名だたる大籬《おおまがき》の金看板ともなれば話は別かもしれないが、まだまだ序列の下から数えた方が早い珠会は通りすがりに唾を吐かれたり、釣り銭を足元に放り投げられたりしたことが何度もある。珠会と月華がこうして並んで西瓜を齧《かじ》っているという状況もまた、世間一般の常識から言えば到底あり得ない組み合わせには違いなかった。
月華の世間知らずは、育ちの良さの裏返しなのだろう。
そんな月華に言愚の何たるかを問われ、「白陽の山の民です」と字義的な意味を説明するだけに止《とど》めて、そこから先は月華自身に判断させようとした誰かさんはなかなかの人物だ。圧倒的な経験不足のせいでしばしば突拍子もないことをするけれど、月華は根は頭のいい子だ、と珠会も思う。
「ところで、困りごとがひとつある」
「何よ」
「手合わせをするのはいいとして、あの青い目が一体どこの誰なのかがわからんのだ。珠会なら知っていると思って聞きに来た」
一瞬、言われている意味がわからなかった。
「――え?」
「さあ、早う案内せよ」
「いや、その、なんであたしがそいつの居所を知ってると思うわけ?」
月華もまた、呆《ほう》けたように口が半開きになって、
「――知らんのか?」
「だから、なんであたしが知ってると思うのよ!?」
月華は必死の形相で珠会の袖にしがみつき、
「で、では、あの青い目は一体どこの誰だったのだ!? 妾は一体どこに行けばまたあの者に会えるのだ!?」
どうやら月華は、街のことなら珠会に聞けば何でもわかると思い込んでいたらしい。
「珠会は、妾が街に出たときにはいつも方々を案内してくれたではないか! 妾はどうしてもあの青い目に会わねばならんのだ!」
「やめてよ袖引っぱるの! 知らないものをどうやって案内しろって言うのよ!?」
――あ、
そのとき、ひとつの考えが珠会の脳裏をかすめた。
「そう、そうよ。いいこと思いついた。ねえ、名前は何ていうんだっけ。ほら、あんたが天下一だってよく自慢してた御付《おつ》きのじいやか誰かでさ、ものすごく強いっていう――」
そこまで聞いて、月華はなぜか急にむっつりと不機嫌そうな顔になった。
「――群狗《グング》か?」
「そうそうその人。あたしなんかじゃなくて、その人に聞けばいいと思うよ。そんなに強いんだったら当然そっちの世界にも顔が広いだろうし、調べるつてだってあるんじゃない?」
月華は、ぷい、と横を向いて、
「ふん。あんな嘘《うそ》つきのことはもう知らん」
「――なにそれ。喧嘩《けんか》でもしたの?」
「どうもこうもあるか! 妾は、最初は群狗に頼んだのだ!」
「何を?」
「剣を教えてくれと」
なるほど、すでに身近に天下一がいるのならそれが一番話は早かろう。
「ところが群狗は、一度は承知しておきながら後になって急に掌《てのひら》を返して、妾がいくら言っても首を縦に振らんのだ。珠会もひどいと思うであろう?」
「それは、まあ――、」
どうだろう。月華の側だけど言い分だ。
「だから、妾は群狗とはもう口をきいてやらんのだ」
月華は再び横を向いて、ぶうっ、とむくれてしまった。珠会はため息をつく。こうなると月華は強情だ。
しかし、他にこれという方法は思いつかない。やはり、おかしな意地を張るのはやめてその天下一に頭を下げてみるしかないと思う。それが嫌だと言うのならもはや処置なしだ。
「――じゃあ、どうしようもないわね」
珠会は顔を上げ、斑《まだら》の影を落とす並木の緑を透かして日差しの角度を確かめる。少々長居をしすぎたかもしれない。
「さてと、じゃあたしそろそろ行くわ」
長椅子から立ち上がって、うん、と背伸びをすると、月華は背筋に氷を当てられたように振り返った。
「ま、待て、どこへ行くのだ?」
「どこって――」
あれ、まだ言ってなかったっけ、
「あたしこれから用事があるのよ。悪いけど今日はこれで――」
月華は珠会の着物の裾をがっしと掴み、
「またか!? 珠会は肝心なときにはいつもどこかに行ってしまうではないか!」
「そ、そんなこと言ったって。しょうがないでしょ、番所の役人に呼ばれてるんだから。あんたも早く家に帰ってじいやに相談してみれば?」
「嫌じゃ!」
月華はぶんぶんと首を振り、
「頼む、あの青い目を探すのを手伝ってくれ!」
またこれだ――と珠会は思った。
こうして月華の頼みに何度つき合わされたか知れない。とはいえ、今日の用事はどうしても外すわけにはいかないのだ。来砂の番所に午後一、と楼主《ろうしゅ》からも厳命されている。
――とはいえ、
強情さと不安の入り混じった月華の顔を見つめて思う、このまま放って行ったら月華はまず間違いなく一人で青い目を探しに行くだろう。誰彼構わず言愚の居所などを尋ね回って気味悪がられるくらいならまだいいが、最悪、思い余った月華は出会いの場所である川縁の焼き場にもう一度行ってみようとさえ考えるかもしれない。月華は強がり半分で何でもないことのように話していたが、金持ち丸出しの格好をした若い娘が貧民街の奥地にまで踏み込んでよく無事でいられたものだ。
「――わかった、ならこうしよ」
はあっ、と大きなため息をついて、
「六路門の参道。あんたと最初に会って、饅頭《まんじゅう》の取り合いで喧嘩した所。憶《おぼ》えてる?」
月華は目を見開いて、うんうん、と何度も頷いた。
「そこで待ってて。用事はそんなに長くはかからないと思うから。ただし約束、あたしが行くまで参道から一歩も外に出ないこと。屋台をのぞいていれば退屈はしないだろうし、根連堂の八つ鐘《かね》が鳴るころには行けると思う。それでいい?」
見る見るうちに月華の表情が明るむ。苦しゅうないぞ、と言いかけて、慌てて口をつぐみ、
「――ま、饅頭を奢《おご》るぞ! 何がいい!?」
えー、と珠会は苦笑しつつも考えて、
「じゃあ、寒州豚の肉饅」
「心得た! 早く来んと妾がみんな食うてしまうからな!」
珠会は笑いながら手を振って月華に背を向けた。自分が手を貸したからといってどうなるものでもあるまいが、月華があまり無茶をしないよう目を光らせておくことはできるだろう。
――寒州豚の肉饅か。
並木の木陰から真っ白な陽光の下へと歩み出て、あたしも人がいいなあ、と珠会はつくづく思う。
腕輪をじゃらじゃらさせた女郎丸出しの女が立ち去ると、派手な稽古着を来たその小娘も西瓜の残りを見る間に平らげて木剣を手に席を立った。そのまま立ち去るのかと思いきや、屋台の親父を掴まえて何やら物を尋ねている。羅寸《ラズン》の座っている長椅子の端からでは会話の内容までは聞き取れないが、親父の指差す方角を見てわかった――女郎に六路門の参道を憶えているかと聞かれてあれほどはっきりと頷いていたくせに、肝心の道を知らないのだ。
酔狂で剣を取った金持ちの馬鹿娘。
結局は、そういうことなのか。
「禄長も気になりますか。あの子」
胡久梨《コクリ》の問いかけに、羅寸は辛《かろ》うじて否定と受け取れる鼻息を漏らす。
禄長、とはかつての羅寸の階級名だ。三十の半ば、ほとんど白髪ばかりの頭髪は短く刈り込まれ、砂漠で長い時間を過ごした双眸《そうぼう》は瞳《ひとみ》が濁り、長く逞《たくま》しい手足を窮屈そうに組んで座っているその姿は厳《いかめ》しい神像か何かのように見える。一方の胡久梨はまるで気のいい書生といった風だ。いつもへらへらと笑っているその面立ちは極端に若く見えるが、実際には羅寸と十も違わない。
「――五来剣の第二路でしたね、あの箒踊り」
「違うな」
「またまた」
「五来で二刀は持たん」
「いや、それはそうですけど、最初のは崩把横劈攅の五行連環でしょ」
羅寸はわずかに目を細め、先ほどの小娘の動きを瞼《まぶた》の裏で転がす。
――いや、
やはり違う、と羅寸は思う。五来剣は羅寸の手足であり、あの箒踊りもそれであるという胡久梨の言葉には、見知らぬ他人が似せて書いた文字をお前のものだと言われているような違和感を覚える。
小娘の箒踊りの「形」が五姿五行であることは否定しない。
しかし、その内部で連環しているのはまったく異質な術理だ。五来剣の第二路は、その術理に錬功法としての一応の形式を与えているに過ぎない。
あれは五来剣ではない。
あの箒踊りの背後に隠れているのは、五来剣とは似ても似つかない「何か」だ。
「ねえ、ちょっと声かけてみましょうか?」
羅寸は言下に、
「やめておけ」
「やだなあ、おれがあの子に何かすると思ってます?」
羅寸は視線を転じる。小娘と女郎が座っていたのは羅寸から見て前列の右手、長椅子にして二つ分ほど離れた辺りだ。若い女の甲高い声はこの距離からでも終始耳に障《さわ》っていたし、西瓜を口いっぱいに頬張ったまま喋る小娘の話を聞き取ることもさして難しくはなかった。
貧民街の焼き場で、青い目の男が套路《とうろ》を打っていた――
確か、あの小娘はそう言っていたように思う。
その男は一体、何者なのか。
闇に燻《くすぶ》る熾火《おきび》のような感情が羅寸の胸奥深くに点《とも》った。根無し草の掃除屋に身を落として以来、こんな気分は久しぶりだった。
「やっぱり気になるくせに」
羅寸の横顔をじっと窺っていた胡久梨が女のような忍び笑いを漏らした。
「――まあ、そりゃそうか。千尋衆が解体されてもう六年ですもんね」
「七年だ」
「あれ、そうでしたっけ。――まあいいや、禄長はご存知ないかもしれないけど、ちょっと柄の悪い飲み屋なんか行くと結構いるんですよ。酔っ払った挙句に調子こいて、『知り合いに千尋衆の生き残りがいる』とか『五来剣を習ったことがある』とか、そういうこと言い出す連中が」
胡久梨は膝の上で頬杖《ほおづえ》を突いて背中を丸め、目の前の往来をぼんやりと眺めて、
「でも、さっきの箒踊りはちょっと驚いたな。ねえ、あの子が言ってた青い目の男って何者だと思います? 言愚の焼き場乞食が五来第二路なんて一体どこで拾ったんですかね?」
やはりそこか――と羅寸は思う。羅寸自身は焼き場の男の術理を「五来第二路に形を借りた別の何か」であると見ているが、確かに胡久梨の言う通り、五来剣はたとえその形式だけでもそこらに転がっていていい剣法ではない。
五来剣は、古くは馬厨地方の土着剣法だった。
創始者については諸説が入り乱れているが、卯《ウー》の前身である素仏国の來王の時代に姿蘭《シエラ》という達人を輩出して勇名を馳《は》せるようになった。卯家が政治の実権を握って以降、姿蘭は武臣倫院の情報武官として転戦し、各軍の高手を集めて破壊工作や情報収集を行う特務集団を創設する。これが後の千尋衆の母体となり、姿蘭の五来剣も千尋衆の主力剣法としての地位を不動のものとする。
馬厨地方を中心として民間で伝承された五来剣を「馬厨五来」、千尋衆の内部で秘密裏に伝承された五来剣を「千尋五来」と呼ぶ。戦乱の時代、林立する様々な新興武術に埋もれて次第に廃《すた》れていった馬厨五来に対し、千尋五来は豊富な実戦の機会と新しい技術の流入に磨かれて独自の風格を発展させていく。胡久梨の指摘した崩把横劈攅の五行連環も千尋五来に固有の把式のひとつだ。
卯室は千尋衆なる特務機関が存在していたことを現在も公式には認めていないが、彼らの剣舞は卯の全時代を通じての公然の秘密だった。最盛期の人員は二千を数え、入営と同時に延覇《エルハ》山の奥殿で本名をひと足先に彼岸へと送り、「どこの誰でもない者」としてその手に剣を取った千尋衆は、血塗られた卯の歴史を闇から支え続けてきたのだった。
だが、それも遠い昔のこと。
白陽天動乱の平定以降、周辺部に大きな戦への火種が無くなった卯は建国以来初の軍縮へと方向を転換する。とりわけ、闇の歴史の生き証人である千尋衆はその存在自体が危険視されるようになり、長期的な解体計画が立案されて次第に爪《つめ》と牙《きば》と頭脳を失っていった。この時期に卯国内で多発した要人暗殺と千尋衆との関係は、現在も城内では大きな声で語ることのできない話題のひとつである。真相は闇の中だが、もうじき歴史から抹消される死神の集団に最後の汚れ仕事をしてもらおうと考えた人間は一人や二人ではなかったのだろう。
卯の大衆は、千尋衆という何やら恐ろしげな秘密集団が今も存在すると思っている。
その名は人攫《ひとさら》いの別名となって、言うことを聞かない子供を脅す母親の常套句《じょうとうく》として今でも命脈を保っている。
だが、本当はそんなものはもう存在しないのだということを羅寸は知っている。七年前、武臣倫院に残っていた卓ひとつ椅子ひとつの部屋が開かずの間として封鎖され、最後の三十七人が再開を約すことなく野《や》に散っていったあの日、羅寸には四人の部下がいた。その四人も一人は死に、二人は去って、いまや残っているのは胡久梨ただ一人だ。
「あーあ、まだやってらあ。ねえ禄長、ほんとに声かけなくていいんですか?」
憶えの悪い小娘が、屋台の親父を散々に手こずらせている。
「構うな」
あの小娘が、焼き場の男の素性や居所を知っているのなら話は別だ。
しかし、会話を漏れ聞いた限りでは名前さえも知らないようだったし、女二人が力を合わせて探し歩いたところで、おそらくは貧民街の住人なのであろう男を見つけ出せるとは思えなかった。ならば探りを入れておく意味も――
――よいか、妾がやってみせてやる。まず最初はこうだ!
不意に、羅寸の表情が静止した。
箒と木剣を手にした小娘の強気な表情がありありと蘇《よみがえ》ってくる。道に迷った挙句に貧民街の焼き場に迷い込み、そこで青い目の男が剣を振っている姿を目撃し、その後しばらくは稽古に明け暮れていた――あの小娘は、確かそう言ってはいなかったか。
やってみせてやる、だと?
以前、たった一度目にしただけの套路をか?
小娘のその動きをひと目見て、胡久梨は「五来剣の第二路だ」と言った。羅寸自身はその背後に五来剣とはまったく別の術理の存在を見て取った。それは取りも直さず、あの小娘が焼き場の男の動きを拙いながらも本質を押さえて[#「拙いながらも本質を押さえて」に傍点]再現していたということになりはしないか。
「――どうしたんです?」
羅寸は弾《はじ》かれたように屋台の方向を振り返ったが、つい先ほどまでそこにいたはずの小娘の姿は消えていた。ようやく道順を説明し果《おお》せた屋台の親父が傍《かたわ》らの丸椅子に肘《ひじ》を突いてへたりこんでいるばかりだ。
――いや、
買いかぶりすぎか、
憶えがいいだけの奴などいくらでもいる。
猿真似《さるまね》がうまいだけの奴もいくらでもいる。
人を斬《き》ってこその剣術であろう。重要なのは憶えたことを実際に使えるか否《いな》かであって、才の有無それ自体が問題なのではない。やはりあの箒踊りの「本質」は焼き場の男であって、小娘はその不完全な「影」であり霞《かすみ》のかかった「鏡」に過ぎないのか。
――しかし、
「あれ、あの子もう行っちゃったのか。探してきましょうか? たぶんまだその辺に――」
胡久梨はそこで鋭い舌打ちをして、
「――間の悪い野郎だ、やっと来やがった」
そのひと言で、羅寸には余計なことを考えている暇《いとま》はなくなった。
胡久梨の視線の先、楽山門の方角から貧相な男が歩いてくる。頭に載せている真っ赤な雅帽はいかにも不釣り合いで、察しのいい者なら事情など知らなくともそれが何かの目印であることを見抜くかもしれない。
「猛足《もうそ》の連中も人が悪いなあ。あの帽子はどう考えても嫌がらせでしょ」
胡久梨は声を潜めて笑い、
「しかし、あの貧相なおっさんが寧馬の元幹部なんですか? まさか赤帽違いってことないでしょうね?」
「間違いない。あれだ」
「ほんとに? おれ嫌ですよ前みたいなこと」
「大丈夫だ。上で話もついてる」
赤帽の男は屋台の前を一旦素通りし、すぐに戻ってきて親父から西瓜を買った。指示通りに最後列の長椅子に座り、せっかくの西瓜にも口をつけずに目だけを動かしてしきりと周囲の様子を窺っている。
「じゃあおれ、東回りの道で先に戻ってます」
胡久梨は長椅子から尻《しり》を下ろして身を屈《かが》め、人の頭ほどの酒甕《さけがめ》を抱えて立ち上がった。胡久梨が踵を返すと同時に羅寸も腰を上げ、滑るような足取りで赤帽の男の背後に立つ。
「振り返るな。猛足の使いの者だ」
赤帽はびくりと身を震わせて、
「――た、助かった、頼む、昨日から男が後をつけてくるんだ、あれはきっと、」
「黙れ」
そのとき、通りを渡ろうとしていた胡久梨が人足風の男とぶつかって酒甕を落とした。
陶器が派手に砕ける音。
胡久梨の悲鳴と人足の驚きの声。
まるで時間を止めたかのように、一切の視線がそこに集中した。
人足は見るからに強面《こわもて》の大男だ。長椅子の客も屋台の親父も道行く人々も、全員が息を殺してその後の成り行きを見守った。――おおっと、すまねえな兄ちゃん、怪我《けが》はなかったかい。大丈夫です、ぼくの方こそちゃんと周りを見てなくて。とにかく立ちな、ああ、せっかくのきちがい水を申し訳ねえことしちまった。いや、いいんです、うちの親父はどうしようもない飲んだくれでね、大概にしろって言うんだけど聞かなくて、こうして落としちまったのもご先祖様の思《おぼ》し召しかもしれない。
足を止めていた人々は再び歩き始め、屋台の親父はまな板に突き立てておいた包丁に向き直り、長椅子の客たちも食いかけだった西瓜に意識を戻す。胡久梨と人足は互いに手を振って別れ、周囲のすべてが昼下がりの日常に回帰していく中にあってただ一人、赤帽の男の時間だけがもう二度と動き出すことはない。酒甕が砕ける前と寸分|違《たが》わぬ様子で長椅子に座り、その背後にはすでに誰の姿もなく、延髄《えんずい》を貫いた凶器は子供の箸《はし》ほどの長さの針だった。真っ赤な雅帽が滑り落ちる寸前まで頭を俯《うつむ》かせ、目は大きく見開いたまま、緩んだ口の端から涎《よだれ》が長々と糸を引き、膝の上の西瓜に最初の蝿《はえ》が止まる。
*
月華は剣に惚《ほ》れたのではない。
男に惚れたのだ。
要するにひと目惚れだ。
珠会は、月華の話をそのように理解している。聞いてまずは大笑いした理由も、試合をすると言い張る月華を真剣に引き止めようとしなかった理由も、懇願に折れて青い目を探す手伝いをすると承知してしまった理由も結局はそこだ。
要するに、好きな人が好きな物が好き、なのだ。
子供っぽいところの多分にある月華には、そのあたりの感情の区別がつかないのだろう。
珠会は、そのように考えている。
――しかし、
番所への道すがら、見るだに暑苦しい往来の人ごみに珠会はうんざりと顔を顰《しか》めた。
いくら自分が手を貸したところで、この広い元都からたった一人の男を探し出せるものではないと改めて思う。目が青い、というのは確かに大きな手がかりであるが、それは同時に男を探す上での大きな枷《かせ》ともなろう。男の年齢や背格好についての月華の話は漠然としていたし、二刀の腕利《うでき》き、というのは見ただけではわからない。
手を触ればわかるんだけどなあ――と珠会は思う。
男の素性は手に現れるものだということを、珠会は全身の肌で知っている。廓の客に嘘や見栄《みえ》はつき物だが、肉体労働に明け暮れる人足が学者や役人を騙《かた》ろうと、日頃筆と箸しか持たぬうらなりが偽《いつわ》りの武勇を騙ろうと、珠会はその手を触ればすべて見破ることができる。
これは自分だけではなくて、廓の女であれば誰でもできることだと珠会は思う。皆、客の嘘を見抜いたからといってそれをいちいち指摘したりはしない、というだけだ。ましてや武人筋の客も多い金灯楼、自分が剣士の手を間違えることなどあり得ないという絶対の自信が珠会にはあった。元都に青い目の男が一体どれだけいるのかは知らないが、青い目と剣士の手を併せ持った男、となるとそう何人もおるまい。
やはり、まずは青い目探しだ。
そして、やはり問題はそこだった。特徴だけがわかっていても、探すための有効な手立てがなくてはまったく意味がない。
空《むな》しい努力だとは知りつつも、ふと気がつけば知らず知らずのうちに周囲の目の色を確かめながら歩いている自分が珠会はおかしくてならなかった。ふん、どうせあたしはお人好しですよ、一度開き直ってしまうと今度は街中に一人残してきた月華のことが心配になってくる。自分が行くまで六路門の参道でおとなしく待っているだろうか。
来砂の番所は馬厨の武家屋敷を若干広くしたような造りで、周囲には背の高い石塀《いしべい》と狭いながらも一応の堀《ほり》がめぐらされている。元都が戦場になった際には五十名までの部隊であればひと月は篭城《ろうじょう》して戦える――という建前ではあるが、そこはそれ、常時備蓄しておくべき食料その他の物資が役人どもの横流しに次ぐ横流しで補充される端からどこかに消えていることを、周辺の住人たちは皆薄々は知っていた。堀沿いの道端《みちばた》には傷痍《しょうい》軍人たちが欠けた手足をこれ見よがしに晒《さら》して蹲り、機嫌の悪そうな門番はひと目で遊女と知れる珠会をじろりと睨《にら》みつけてくる。珠会とても、こんな所に来たくて来たわけではない。
珠会の用事とは、人相書きの作成である。
実を言うと、珠会は長屋で同室の里久が近々「飛ぶ」つもりだということを以前から何となく察してはいたのだった。駆け落ちの相手は金灯楼とも取り引きのある店の番頭で、何度かは珠会の客になったこともある。この番頭が多額の金を着服して逃げたのを店の主が届け出たことで、女郎と番頭の逃避行は役人が介入すべき正当な「事件」となってしまった。追っ手がけつ持ちのやくざ連中だけならあるいは逃げ切る目もあったかもしれないが、それなりにまとまった金もなしでは逃げ切った先での生活が成り立たない――。色街ならどこにでも転がっている安い話だ、と珠会は思う。
馬鹿な里久姉さん。
かわいそうな里久姉さん。
番所の役人たちは手配書を回すことに決めて、逃げた女郎の人相を証言できる者を寄越せと金灯楼に言ってきた。長屋番が白羽の矢を立てたのは、里久と同室だった珠会だ。
門番に用件を告げ、現れた役人に案内されたのは、母屋《おもや》の端にある物置のように狭苦しい一室だった。
人相書きの作成に協力するのは初めてのことだが、呼びつけておいてこの扱いはいくらなんでもひどいと思う。女郎だと思ってなめているのか。文句のひとつも言ってやろうと振り返ったが、役人はさっさと廊下に引っ込んで簾《すだれ》戸《ど》を下ろしてしまった。蒸し暑さは耐え難《がた》く、風を入れようにも向かいの壁のとても手の届かない高さに小窓ひとつあるきりだ。人の姿といえばすでに来ていた絵描《えか》きが一人いるだけで、部屋の真ん中に置かれた卓の上には筆やら硯《すずり》やらが広げられている。
「――すいません。絵描きがぼくじゃなかったらもっとましな部屋を用意してもらえたと思うんですけど」
仕方がない、こうなったらさっさと始めてさっさと終わらせよう。椅子を引いてわざと伝法な感じにどっかりと腰を下ろし、
「で? どうしたらいいの?」
そして顔を上げ、珠会は初めて真正面から絵描きの顔を見た。
人間、驚きも過ぎると、咄嗟《とっさ》に声を上げたり跳び上がったりは意外とできないものである。
たとえば今の珠会がそうだ。
絵描きは、青い目をしていた。
初対面の相手からじっと凝視されることには慣れている。凝視の理由はもちろん青い目が珍しいからで、その行動自体に悪意はないし、変に目をそらされるよりは気が楽だ。
――しかし、
さっきの女は明らかに普通ではなかった、と涼孤《ジャンゴ》は思う。
すっかり暑気にやられた役人は、涼孤にも描き上がった人相書きにも目もくれようとさえしない。そのくせ、涼孤が投げ出された給金を懐《ふところ》にしまい込み、道具箱を担《かつ》いで踵を返そうとするところを狙《ねら》いすましていたかのように、
「おい。ところでさっきの股《また》っ開きはなんだ、おめえのれこ[#「れこ」に傍点]か」
「――え、あ、いや。別にそんな、」
役人は涼孤の狼狽を見て、ひゃは、と笑う。
「んなわけねえわな。しかしよ、俺《おれ》が覗いたときにゃ姉ちゃん、まるで生き別れの兄弟にでも出くわしたみてえだったじゃねえか。え?」
涼孤は返す言葉を持たない。あの女が一体どういうつもりだったのかはこっちが聞きたいくらいだ。役人の嫌味たらしい笑みに背を向けて、涼孤は番所の裏口から裏庭へと歩み出た。まさしく物置だったに違いない小部屋から持ち越してきた汗が、日陰を渡る風に撫《な》でられてぼんやりと冷えていく。
よほどの大家は別として、絵描きというのは天下の軍国たる卯においてはあまり威張れた仕事ではない。
さらに、同じ絵を描くにしても貴賎《きせん》や吉凶があって、とりわけ手配書の人相書きは大抵の絵描きが忌避する縁起の悪い仕事なのだった。涼孤は詳しくは知らないのだが、なんでも人相書きの仕事などしていると、縄にかかった罪人たちの怨念《おんねん》で筆が鈍って絵が描けなくなり、最後には自分の首にも縄をかけて庭木の枝からくびれ下がる羽目になる――そんな言い伝えがあるらしい。
だから、やると決めればいい金になる。
常に人手不足なので、涼孤のような者でも使ってもらえる場合が多い。
問題は、人相書きが必要になるほどの事件がそうそうしょっちゅう起きているわけでもないという点だ。一日足を棒にして歩き回った挙句に空振りということも決して珍しくはなかったし、春や秋、とりわけ祭りなどで人出の多い時期には素直に右の袋の外れで似顔絵描きに徹したほうがずっと手堅い。しかし、路上に茣蓙《ござ》一枚の商売が成立しにくくなる真夏や真冬は、陽炎《かげろう》の中を全身汗にまみれながら、あるいは寒風に身をすくめながらひたすら番所を巡り歩くことが涼孤の主な収入源である。
とりわけ、道場の下男としての給金が貰《もら》えなくなってしまった今はなおさらだ。
つまり、今日の涼孤は大変ついていたと言える。
朝一番に道場に立ち寄って掃除と洗濯を済ませ、すぐさま番所巡りを始めて二番目に立ち寄った来砂の番所でいきなり仕事が取れたのだ。どこぞの大店《おおだな》の番頭が大金を持って廓の女と逃げたらしい。通常の手順としてはまずこの段階では登録だけを済ませ、「それでは人相を証言できる者を手配するので後日また出直せ」となるはずだったが、この件に先に唾《つば》をつけていた絵描きが土壇場になって怖気《おじけ》づいたのだという。今すぐ仕事にかかれるかと問われ、無論涼孤に否やはなかった。こういうことがたまにあるからいつも道具箱を持ち歩いているのだ。しかも人相書きは番頭と女郎の二枚、稼ぎも倍である。自らお出ましになった大店の主は貧相な部屋よりも涼孤の目の色に大分嫌な顔をしていたが、まさに背に腹は代えられぬといった心境だったのか、番頭の人相書きは昼前には無事完成を見た。
お次は廓の女だ。
近しい同僚か誰かが来るのだろうと予想していたし、その女もまた、部屋に入ってきたときにはおかしな様子はまったくなかったように思う。心ここにあらずというか、何か別のことを考えている風ではあったが、ほとんどの者にとって人相書きの作成に協力するなど初めての経験であろうし、理由が何であれ番所に呼び出されたら多少は緊張して当たり前である。――ただ、女の風体が少しだけ気になった。特に両の手首に腕輪を幾つも嵌《は》めているのはいかにもその筋の女といった感じで、これでは表を歩くのにも色々と不都合があるのではないか。ある種の意地の表明なのかもしれないが、涼孤にはそういう気持ちはいまひとつよくわからない。外せるものなら外せばいいのに。
――で? どうしたらいいの?
そして顔を上げ、女は初めて真正面から涼孤の顔を見た。
長い長い一瞬だったような気がする。涼孤もさすがにこれはおかしいと思う。女の驚きようはいくら何でも尋常ではない。
やがて、女がぽつりと呟《つぶや》く。
――いた。
しかし、涼孤は意味がわからず、
――は?
突然、女は卓の上に身を乗り出して涼孤の手を掴んだ。
驚きよりも恥ずかしさが先に立った。それでなくても汚い涼孤の手は、最初の仕事をこなした際の墨で黒々と汚れていたからだ。涼孤は己《おの》が耳にすら情けなく聞こえる悲鳴を上げて女を振り解《ほど》こうとするが、女は涼孤の手を胸元に抱え込むようにして離さない。さらに、事態はそれだけでは終わらなかった。女は唐突に顔を上げ、涼孤の度肝を抜くようなことを口走ったのだ。
――あんたさ、ひと月くらい前、夜中に川縁の焼き場で剣振り回してなかった!?
その問いに自分が何と答えたのか、涼孤はよく憶えていない。
まさか正直に答えたはずがない。
そもそも、涼孤はあの焼き場ではしょっちゅう剣を振っているので、女の言う「ひと月くらい前」が具体的にいつのことを指していたのかは今考えてもよくわからない。
涼孤が人相書きの仕事をするときには大抵、手の空いている下っ端《ぱ》か誰かが部屋の外に椅子を出して見張りに付いている。青い目の野蛮人が人相書きの協力者に失礼を働いたり、こっそり番所の中をうろつき回って物を盗んだりすることがないようにという配慮であろう。物置部屋の騒ぎに気づいた見張りが簾戸を開けて中を覗き込んできたとき、涼孤と女は半ば椅子からずり落ちるような格好で手を握り合っていた。その様子は確かに「まるで行き別れの兄弟にでも出くわしたみてえ」だったかもしれず、あるいは女日照りの言愚が目の前に現れた女郎に襲いかかっているとの誤解を受ける可能性さえなきにしもあらず、先に我に返ったのは涼孤ではなく女の方だった。すぐさま立ち上がり、あははは、と白々しい笑い声を作ってちんまりと椅子に座り直して以降、この場で騒ぎを起こすのはまずいと悟ったらしい女は最後までおとなしくしていたが、涼孤にしてみれば腐りかけの紐《ひも》に繋《つな》がれた猛犬を前にしている気分だ。この薄気味の悪い女と早く縁を切りたい一心で筆を振るったものの、最終的に描き上がった人相書きはさぞかし出来が悪かっただろう。
――まあ、いいか。
元都の夏空は夕暮れが早い。
他の季節ならまだまだ昼の日中という時間に西の空が色づき始め、全天が茜《あかね》に染まった夕刻が長い長い間続く。微《かす》かに色調を変えつつある西方の薄雲を見上げ、懐に収まっている給金のことを考えているうちに気分も落ち着いてきた。ひとつの番所で人相書き二枚、しめて銅四十滴。最近では稀《まれ》に見る稼ぎである。今日はちょっとくらい贅沢をしてもいいかもしれない。この番所の近くに、自分にも何か食い物を売ってくれる店はあっただろうか。
裏門の前で待ち伏せていた女は、そんな涼孤の心の隙を狙った。
涼孤の袖をがっしと掴み、小走りに近い足取りで堀沿いの裏道を物も言わずにぐいぐいと歩いていく。女郎と言愚が連れ立って歩いていく光景はさぞかし奇異に見えたのか、道行く人々は目を丸くしてその様子を見送った。
「――ちょ、ちょっと! 放してくださいよ! 何なんですかさっきから!」
涼孤が強引に立ち止まって袖を掴んでる手を振り解く。女はすぐさま振り返り、真剣な表情でぐいと顔を近づけ、涼孤が気圧《けお》されて一歩下がるたびに一歩間合いを詰めてくる。
「あんた名前は?」
咄嗟に嘘が出てくるほど頭が回らない、
「――涼孤」
「家はどこ? 剣術は講武所で憶えたの? それの講武所の番手は?」
涼孤は言葉を失った。混乱していたのはもちろんだが、貧民街の奥地にある家の場所も剣術を憶えるに至った経緯も到底ひと口には説明できない。第一、どうしてそんなことを答えなくてはならないのか。
「――ねえ聞いて、お願いだから聞いて」
青い目の中に自分に対する警戒を見て取った女はさらに焦《あせ》りの色を濃くした。裏道とはいえ番所の周囲にはそれなりに人通りも多く、往来の只中《ただなか》で面を突き合わせて話し込む言愚と女郎の姿は次第に人目を引きつつある。女は気忙《きぜわ》しげに周囲を見回しながら、
「変な奴だと思ってるでしょうけどでも大事なことなの、あんたに会いたいって言っている子が六路門の参道で待ってるのよ。――ああもう、急がないとあの子また一人でどっか行っちゃうかもしれないから今すぐあたしと一緒に、」
女は再び涼孤の袖を掴み、涼孤もそれを再び振り解いて、
「だからもう、一体何の話ですかそれ? だいたい六路門の参道なんて、あそこは、」
ああそうか、女は皆まで聞かずに真っ黒な理解の色を浮かべる。言愚は寺院の近くに足を踏み入れることができないのだ。さらに言えば、元都には寺院の周辺以外にも「※[#「火/(火+火)」、UNICODE7131]病《えんびょう》持ちと言愚は歩いてはいけない道」が数多くある。参道の手前まで行くにしても、涼孤と一緒ではかなり遠回りをしなくてはならない。
「――じゃあ、ここで待ってて。あたしが六路門まで行ってその子を連れてくるから! それまでここを動かないでよ!? わかった!?」
言うだけ言って女は走り出す。一度だけ振り返り、
「絶対待っててよ! 大急ぎで連れてくるから!」
女の後ろ姿が見えなくなった後も、涼孤はその場に呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
――何なんだ、あの女。
通行の邪魔にならないように道端に退くと、言愚一人が突っ立っているだけでは大して面白い見物でもなくなったのか、周囲の訝しげな視線はじきに霧散した。涼孤は安堵《あんど》のため息をつくが、未《いま》だ混乱した頭の中には一向に血が通わぬままだ。
一体、どういうことなのだろう。
女の言うことは最後まで話が見えなかったし、自分に会いたがっているという誰かについての心当たりもない。といって、まったく根も葉もない女郎の戯言《たわごと》というわけでもなさそうだった。自分が焼き場で剣を振る習慣があることをあの女はなぜ知っていたのだろう。若い女の身空で夜中に三途《さんず》のどぶ川の畔《ほとり》を通りかかることなど間違ってもあるまいに。
ふと、涼孤の鼻の奥に香水の匂いが蘇る。
番所の物置小屋でいきなり手を握られたときに、目と鼻の先から漂ってきた匂いだ。
その匂いに、涼孤は右の袋の外れで似顔絵描きをしているときのことを思い出す。
涼孤の客は女が多い。自分の似姿を欲しがる者が男よりも女に多いのは道理であるが、涼孤の場合はその比率が他の似顔絵描きよりもさらに高いのみならず、役人や大商人の奥方といった身分の高い者がしばしば混じるのだ。その手の客は例外なく紛々たる香水の匂いを漂わせ、供の者たちが止めるのも聞かずに涼孤の目の前に座って鷹揚《おうよう》な笑みを浮かべ、描き上がった似顔絵と引き換えに過分の手間賃を茣蓙に投げるのだった。
今でこそ、涼孤はその手の客にも愛想《あいそ》よく接することができるし、ほとんど創作に近いほど色をつけた似顔絵を平然と差し出して、その対価として茣蓙に散った銅滴を拾い集めることができる。
しかし、香水の匂いだけには今も慣れることができない。
要は、からかわれているのだ。
女に飢《う》えている歳《とし》若い下賤の者の目と鼻の先に、身分の高い美しい自分が身を晒しているという状況を面白がっているのだろう。
――いつものことだ。
あの女が金持ちの年増《としま》どもの同類であるとは思わない。しかし、胸の奥に嫌な色の霧が流れて余計な理屈を圧倒してしまった。
道場に戻ろう。
ここで待てと言った女の真剣な表情を思い出して微かに後ろ髪を引かれたが、それよりも話の通じる食い物屋の路地裏でこっそり食わせてもらうぶっかけ飯だ。胸に残るもやもやした気持ちも、道場に戻って弟子連中に二、三発小突いてもらえばきっと治るだろう。
来砂の番所から三十六番手講武所までは、卯人であれば伍天門、旗裂門と抜けて三の道へと折れるのが早い。
健脚の持ち主ならさしたる苦労もなく走り通せる程度の距離だが、同じその距離を涼孤は裏路地を駆使して稼がなくてはならず、途中でのんびり腹ごしらえなどしていたためにさらに遅れた。道場の看板を前にしたのは気の早い夏空が夕日の色にすっかり染まって後のことだ。
「よお涼孤!」
右。
「――だから、やめてくださいってば」
蓮空《デクー》は相変わらずだ。戯《たわむ》れに突いた木剣を肩に載せて満足げに何度も頷くと、いきなり鬼の顔で背後を振り返って、
「おらぁそこ! ちんたらやってんじゃねえぞ!」
師範が死んで以降の三十六番手講武所は、蓮空が実質の師範代である。練武場ではざっと三十人ほどの弟子たちが気だるげに木剣を振っていた。これでも夏の盛りとしては集まりがいい方なのだが、しかし蓮空に言わせれば、
「――けっ、どいつもこいつも。好き好んで命金払って入門したんだろうに、暑いだの寒いだの腹が痛いだの用事があるだの。道場の番手のこと腐されたら青筋立てて怒るくせによ、何のこたあねえ、世間の評判通りの駄目っぷりじゃねえか」
死んだ師範の揺り椅子は、今も柳《やなぎ》の木陰で蝉《せみ》の声を浴びている。
さしあたって今は涼孤のすべき仕事はない。以前なら、特に師範も蓮空も来ていない日にはあれやこれやと使い走りを命じられたものだったが、蓮空が道場を仕切るようになってからはそういうこともなくなった。稽古が終わったら、練武場の掃除をして武具の後片付けをして道場の戸締りをして、貧民街の我が家に帰って明日に備えて早く寝る。それで涼孤の一日は終わりだ。
道具箱を肩から下ろして練武場の隅の長椅子に座り、壁に寄りかかってぼんやりと稽古の様子を眺める。
こうしているときが涼孤の一番好きな時間だった。その好ましさの正体が大昔にちゃんばら遊びに混ぜてもらえなかった記憶の残滓《ざんし》であり、何もかも諦め果てた結果のぬるま湯の心地よさであることには気づいている。まったくいい歳をして、その業の深さたるやいかばかりかと自分でも思うが、自嘲《じちょう》で腹は膨れぬと悟ってからはそんなことを考えるのもとっくにやめてしまった。
きっと、この先もずっと、自分はこうなのだろう。
なに、そう悪いことばかりではない。今日は年に何度もない程の稼ぎがあったし――おかげで妙な女に絡《から》まれたりもしたけれど――捨てたものではない一日だったと思う。重々しい疲れが総身に染《し》み渡り、ふと見上げた満天の夕暮れに意識が吸い上げられて、ことん、と眠りの中に落ちた。
半分は眠って半分は目覚めているような状態のまま、夢を見た。
あまり夢を見ない質の涼孤にしては珍しいことである。
夢だと自覚できる夢、涼孤の記憶に残る最も古い光景の夢、何処《いずこ》とも知れぬ夕刻の路地裏で一人ぼっちで棒切れを振っている自分の夢だった。目覚めているときに思い出すよりも遥《はる》かに鮮明だ。周囲に立て込む荒《あば》ら屋は当時の背丈からすれば城壁のように聳《そび》え立って見え、敷石に時おり文字が刻まれているのは素仏の時代の墓石を砕いたものが大分混じっているからで、それらの文字を追っているうちに夢の舞台がどこなのか見当がついた。麓木の胡同の下った先、現在は運河の水に没してしまった馬屠辻のあたりに間違いない。まだ名前も書けなかったくせに、あの日の自分は一体何を考えてあんな遠くまで遊びに行ったのだろう。
それなりに楽しく遊んではいたのだ。でこぼこした石畳の上を駆け回り、棒切れを振り回して悪漢どもをばったばったとなぎ倒す。何かに蹴《け》つまずいて転んでも、夢の中の痛みは不思議と曖昧《あいまい》だった。擦《す》りむいた膝から流れ出る血を見つめる。お前の目は青い、と皆が言うのはなぜなんだろう――血は赤いのに。ふと空腹を覚え、もたもたと立ち上がって、ひと気のない裏路地を振り返った。
誰もいない。
あの頃の自分に迷いはなかった。
寂しいと思うのは息をするのと同じことだと思っていた。
「たのも―――――――――――――う!!」
道場破りの如《ごと》きその大音声《だいおんじょう》は、練武場の正門の方角から聞こえた。
涼孤は夢から現《うつつ》へと投げ落とされ、その場にいた弟子たちも一斉に顔を上げた。一体何事かと集中する視線の先に敢然と立ち尽くす一人の少女がいる。奇怪な稽古着に身を包み、分不相応とひと目で知れる木剣を右手に下げ、意気に盛る眼差《まなざ》しで練武場を睨め回している。
「――な、何だありゃ?」
近くにいた弟子の呟きが耳に届いた瞬間、涼孤は咄嗟に長椅子から立ち上がって少女に気づかれぬようこっそり身を隠そうとした。
まさかあの少女が本当に道場破りを目論《もくろ》んでいるはずがないと思ったし、その服装は随分と金のかかった、この界隈《かいわい》では決してお目にかかれぬ種類のものであることは遠目にも明らかだ。つまり、あの少女は「身分の高い客」であり、そのような客が来た際には自分のような者はどこか目につかない所に引っ込んでいるべきなのであって、裏庭の洗濯|桶《おけ》はしばらく洗っていなかったから黴だらけになる前に一度きちんと汚れを落として陰干ししておいた方がいい。――それは、まだ半分は寝惚けている涼孤の頭が反射的に導き出した「言愚の習性」とでも言うべき判断だった。
「当講武所を預かりおります蓮空と発します。して、御用の向きは?」
蓮空もまた、その身なりを見て少女を高位の人物と判断したらしい。奇矯《ききょう》な小娘とはいえ金持ちを邪険にする手はないという貧乏道場ならではの打算もあったろう。――もっとも、少女を見下ろすその眼差しには事態を面白がっているような気配が大分にあった。少女の方をそれを見て取ったらしく、むうっ、と表情を一層|尖《とが》らせて、
「じゃんごはおるか?」
涼孤?――と蓮空は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せる。
な、なんでぼくなんだ?――と涼孤は背中で思う。
蓮空としても隠し立てするつもりなど毛頭なかったに違いない。しかし、邪魔な図体《ずうたい》の横から練武場を見回していた少女の瞳がある一点で釘《くぎ》づけになり、その表情にまるで握り拳《こぶし》のような力が込められた。
「そこの者っ!」
涼孤はその場に凍りつく。
蓮空が止める間もあらばこそ、少女はその脇《わき》をすり抜けて練武場へと足を踏み入れた。衆目の注視も知らぬげにずんずん歩き、涼孤のすぐ背後でぴたりと足を止める。
「――あ、あの、」
「無礼であろう。こっちを向け」
言われた以上は従わざるを得ない。
涼孤はおずおずと振り返り、初めて間近でその少女と対面した。
まったく知らない顔だった。
涼孤の青い目に、その少女は幾つか年下と映った。間近に見る稽古着は何かの冗談のように贅を尽くした代物で、右手の木剣は蚊母の芯木に違いない。そんな大それた一品は、死んだ師範が武術指南に出かける際のはったりとして携えていたのを遠目に一度見たことがあるきりだ。
「日の下で見ると、また色合いが違うな」
少女が背伸びをして涼孤の目を覗き込んでくる。初対面の相手から注視されることには慣れているはずの涼孤だが、ここまで無邪気に見つめられると何とも落ち着かない。
「――あの、君、誰?」
少女は呆気《あっけ》に取られたように涼孤を見つめ、
「――妾を憶えておらんのか?」
「え? あ、つまりその、――そうか、ひょっとして、似顔絵のお客さん?」
少女は両足で飛び跳ねるように地団駄を踏んで、
「戯言を申すな! ひと月ほど前に、川縁の焼き場で会《お》うたではないか!」
瞬間、番所で絡んできた女の言葉が脳裏に蘇ってくる。
――あんたさ、ひと月くらい前、夜中に川縁の焼き場で剣振り回してなかった?
ああ、そうか、
つまり、あの女の言う「あんたに会いたいって言っている子」とは、おそらくこの少女のことなのだろう。待っていろと言われたのをすっぽかして道場に戻ってきてしまったのによくここがわかったものだと思うが、番所の役人に端から聞いて回るくらいの知恵は当然働くだろうし、誰かが要らぬ節介を焼いたのかもしれない――ああ、あのくそ言愚ならうちで何回か仕事してるぜ、家は知らねえが、今ごろは三十六番手の講武所で痰壺《たんつぼ》でも磨いてるだろうよ。
しかし、目の前にいるこの少女に見覚えがないことに変わりはなかった。
一体、ひと月前の焼き場で何があったというのだろう。あの場所で夜中に剣を振る習慣があるのは事実だが、妙な噂《うわさ》が立っても困るので人がいないときを見計らうようにしているし、その一回一回をいちいち憶えているわけでもない。何よりも、見るからに「金持ちの御令嬢」といったこの少女が夜の夜中に三途のどぶ川の畔にいたということ自体が到底信じ難い話であって、どうしてもそこから先へは考えが進まなかった。
「――思い出したか?」
いや、それがさっぱり。
口に出さぬまでも顔に出てしまったのだろう、少女の目つきが見る見るうちに険しくなっていく。涼孤の顔を睨みつけたまま、
「誰か! この者に剣を持て!」
そして、その頃にはもう、練武場にいる弟子たちは薄ら笑いを浮かべて成り行きを見守っていた。誰かが涼孤の足元に木剣を放り投げ、別の誰かが大声で、
「頑張れよ、うちの道場の名誉がかかってんだからな」
どっと笑い声が上がる。慌てた涼孤はすがるような目で禿《は》げ頭を探したが、蓮空までが苦笑しつつも静観の構えだ。どこで引っかけたのか知らんが責任は取らねえとな――笑い皺の刻まれた顔にはそう書いてある。
「剣を取れ」
「――待ってよ、女の子相手にそんな、」
「愚弄《ぐろう》するか! 早うその剣を取れ!」
「駄目だって、ちょっと落ち着こうよ、もし怪我でもしたら、」
少女が木剣を構える。その姿を見て、へえ、と意外そうな顔をしたのは蓮空を含めたほんの数名だけだった。切っ先は地につく寸前、柄尻《つかじり》に左の掌を当てたその形は六身仙合剣陣突≠フ構えだ。
「丸腰なら打たれんなどと思うな!! あくまで妾を知らんと言い張るのなら、その頭《つむり》をひっ叩《ぱた》いて思い出させてやるまでじゃ!! ゆくぞ!!」
「わああっ!?」
下段から跳ね上がってきた突きを、涼孤は体を背後に反らせてどうにか避けた。体勢が崩れて尻もちをつき、すぐさま地べたを転がって身を躱《かわ》したそこに力任せの二の太刀が振り下ろされる。
「うわ、危ないってば! やめろ馬鹿!」
「待てぇっ! 尋常に勝負いたせ!」
涼孤は走り回り、転げ回り、這い回って少女の木剣から必死で逃げ回った。一方の少女も一応もっともらしかったのは最初の構えからの突き上げと斬り下ろしだけだ。盲滅法に振り回される木剣がびゅんびゅんと唸《うな》り、追う側の叫びと追われる側の悲鳴と弟子たちの喝采《かっさい》が蝉の音を圧倒していく。斜め後ろから来た横ざまの一撃を涼孤は身を沈めて間一髪でやり過ごし、逃げ足が鈍ったと見た少女は渾身《こんしん》の踏み込みと共に返す刀を振り下ろそうとして、
「覚悟ぉっ!」
そこで少女が足を滑らせた。
硬い地面に吹き寄せられた砂に前足を取られたのだ。少女の身体が前傾し、倒れ込みつつ振り下ろされた木剣の切っ先が、ある瞬間から不思議な伸び方をして涼孤に迫った。
躱せない、と涼孤は思う。
その一刀は偶然の産物だったのかもしれない。放った当人も予期せぬ太刀筋、つまりはある種の不意打ちであろう。しかし、蓮空の数知れぬ不意打ちを躱してきたはずの涼孤が、その太刀筋を外す術《すべ》を見出《みいだ》すことができない。
だから、涼孤は一転して踏み込んだ。
半ば背を向けた体勢から体を返し、腰を深く沈めて少女の懐に入った。できればそのまま少女を抱き止める、それが無理でも肩と腕全体で柔らかく当たって押しのける――そんなつもりでいたはずなのに、自分でも知らぬうちに少女の下腹めがけて左肘を立ててしまう。徒手拳法《としゅけんぽう》で言うところの「翻身盤肘」の形に近い。
少女の身体が弾け飛んだ。
尻もちをついてなお勢いは止まらず、後方にごろんと一回転してようやく止まる。
「――あ、」
どえらいことをしてしまった、と気づいたときには後の祭りだった。
少女は両足を投げ出してぺったりと座り込んでいる。打たれた腹を両手で押さえ、目を見開いて涼孤を見つめるそれはまさに、大人からいきなり拳骨《げんこつ》をもらった子供の顔だ。
弟子たちの目には、「涼孤がいきなり踏み止まったところに少女が勝手にぶつかってきて撥《は》ね飛ばされた」としか映っていない。逃げ回るのに飽きた涼孤がちょっとした意地悪[#「ちょっとした意地悪」に傍点]をして、それが予想以上にうまくきまってしまった――そんなふうにしか思わない。ただ一人、蓮空だけが実に微妙な顔をして涼孤を見つめていた。笑うでも怒るでも驚くでもない、頬筋ひとつ動かさず、さりとてまったく無表情ともどこか違う、まさに微妙と呼ぶ他はない顔つきだった。
「あ、あの、」
ごめんね、大丈夫?――と言いたかったのに言えなかった。最初に木剣を振り回してきたのはそっちだという気持ちも多少はあったし、その気持ちを押して優しい言葉をかけられるほど涼孤は口のうまい方でもないし、言ったら言ったで火に油だったかもしれない。少女は目を見開いて涼孤を見つめたまま、唐突にその呼吸が震え、たちまちのうちに目に涙が溢《あふ》れて、そこから大爆発まではいくらの時間もなかった。
子供の喧嘩は腕力や頭脳では決まらない。
とにかく相手より先に泣いて、発狂して理性を無くした方の勝ちだ。
「あ[#濁点付き平仮名あ]〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
少女は泣いた、と言うよりもむしろ吠《ほ》えた。
傍らに投げ出されていた木剣を掴み、不死身の妖怪《ようかい》の如くに立ち上がり、少女は胸いっぱいに吸い込んだ空気を一片残らず絶叫に変えて涼孤に襲いかかっていく。今度こそ涼孤も本物の恐怖に駆られ、退魔の呪文《じゅもん》を大声で繰り返しながらも後ろも振り返らずに逃げ惑う。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
「あ[#濁点付き平仮名あ]〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
「あ[#濁点付き平仮名あ]〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
涼孤はやがて壁際《かべぎわ》に追い詰められ、進退|窮《きわ》まった果てに師範の揺り椅子を踏み台にして柳の木に飛びついた。必死に幹をよじ登り、体重を支えられそう枝に手をかけて身体を引き上げる。と、斜め下から風を切って飛んできた少女の木剣が顔のすぐ脇をすり抜け、幹にぶち当たって回転しながら落ちていく。幸いなことに、少女は木登りが苦手らしかった。不屈の闘志で幹にしがみつくのだが、いくらも登らないうちにずるずるとずり落ちてしまう。
「卑怯者《ひきょうもの》め! 降りて来い!」
幹の根元をどかどか蹴りつけ、投げつけるのに手ごろな物でも落ちてないかと忙しげに周囲を見回すが、涼孤が日に二回も掃除をしている練武場には豆粒程度の小石さえも見当たらない。少女は泣き声で叫ぶ、
「長槍《ながやり》じゃ! 誰か、誰か長槍を持て!」
珠会は走るのが苦手だ。
番所で青い目の居所を聞き出すなり、月華は表に飛び出して伍天門の方角へと矢のように走り去ってしまった。懸命に後を追ったが、夕刻の暑気に加えて寝不足の祟《たた》りで途中で気分が悪くなって何度も休まねばならず、やっとの思いで三十六番手講武所の看板を前にした珠会はもう虫の息である。
そして、正門からそっと練武場の様子を窺った珠会がまず見たものは、呆気に取られた顔で何事かを見守っている弟子たちの姿だった。その視線の先、大きな柳の木の枝には番所で会った青い目の男が命からがらといった様子でしがみついており、その根元では月華が地団駄を踏みながらぎゅんぎゅん回っている。
ああ、と珠会は嘆息した。
しかし物は考えようである。珠会が最も心配していたのは、月華が講武所の只中で要らぬ暴言を吐いて弟子どもに袋叩きにされるのではないか、ということだったのだ。最悪の事態はどうやら避けられたようだし、青い目も月華を正面から相手にせずに逃げてくれたと見える。後はこの騒ぎの始末をつけるのが自分の仕事だ。お人好しもここまでくれば立派だと自分でも思う。
「もしや、珠会様ではありませんか」
咄嗟に背後を振り返ろうとして膝が笑ってしまった。危うく倒れそうになるところを血管のありありと浮いた腕に支えられる。顔を上げると、腕の主はその容貌《ようぼう》からすれば奇妙なほどに背筋の伸びた老人だった。
「群狗と申します。月華様がいつもお世話になっております」
つい、
「――あ。じゃあ、あなたが天下一、」
初対面であんまりな言い草だと言ってしまってから思ったが、老人も顔の皺を深めて苦笑を漏らす。
「白状をすれば、そうありたいと願っていた時期もあったように思います」
珠会をまっすぐに立たせ、練武場の騒動を眺め渡して、
「貴方《あなた》ももうお帰りになられた方がよろしい。つい先ほども、どこぞで人殺しがあったと役人たちが騒いでおりましたよ。元都もすっかり物騒になりました」
老人はすっと前に出て練武場に足を踏み入れた。後に続こうと思えばできたはずなのに、何となく気勢を削《そ》がれて珠会はその場から動けない。
――さて、荒療治といくか。
群狗はゆっくりと足を進め、その姿に気づいた弟子たちに目礼を返しながら柳の木の根元に立った。
「月華様、もうそのくらいにしておいては如何《いかが》ですか」
回っていた月華がぴたりと動きを止め、群狗に背を向けたまま、
「――何の用だ」
「お迎えに上がりました」
ふん、月華は鼻息も荒く振り返り、
「その細っこい眼《まなこ》は千里眼か? なぜここがわかった?」
「千里どころか、近頃は目の前の文字を読むのにも難儀しておりますよ。しかしこの群狗、月華様のお考えになりそうなことくらいはすべてお見通しです」
「帰らんと言ったらどうする?」
それでなくても細い目をさらに細め、群狗はゆっくりと身を屈めて傍らに落ちていた月華の木剣を拾い上げた。背筋を伸ばし、月華をまっすぐに見つめて、
「言うだけならば、どうぞご存分に」
うっ。
群狗の視線に月華はひとたまりもなく狼狽した。う、ううう、喉《のど》の奥の唸り声が次第に大きくなり、だんだん、と地団駄を踏みながら二回ほど回転して木の上の涼孤をきっと睨み上げ、
「げんの悪い奴が来たから今日はこれくらいで勘弁してやる! 次こそ憶えておれよ、妾はきっとまた来るからな!!」
木の上の涼孤ばかりか弟子たちまでもが「え〜、また来るの?」という顔をする。
返せ、と群狗の手から木剣を奪い取って、月華は憤懣《ふんまん》やる方なしといった足取りでその場を後にする。群狗もまた木の上の涼孤を見上げ、
「――貴方とはいずれ、ゆっくりとお話がしたく思います」
そしてまず涼孤に、次いで周囲の弟子たちに一礼して月華の後に続いた。事態のあまりに呆気ない収束に、三十六番手講武所の一同はただただ無言でその後ろ姿を見守るばかりだ。
木の上の涼孤が、ぽつりと、
「――また来るって。どうします?」
近くにいた弟子のひとりが、ぽつりと、
「――知るかよ、おめえが大人げねえ真似するからだ」
少女の打ち込みを潜《くぐ》って肘を入れてしまった瞬間が脳裏に蘇って、ふと、涼孤は妙なことを考えた。
あの子は、香水の匂いがしない。
*
泣くほど悔しかった。
あの青い目は、なぜ自分のことを知らないなどと言ったのだろう。
ひと月前の夜、貧民街の焼き場で自分は確かに青い目と出会ったのだ。その姿に心を奪われて剣を取る決意をした。あの夜の出来事は、この世に生れ落ちて以来最大の衝撃だった。
自分にとってはそうだったのだから、相手にとっても当然そうであるはずだ。
月華は、単純にそう思い込んでいる。
月華の観点から離れて公平に見れば、あの焼き場の一件は套路を打つ涼孤を月華が物陰から盗み見ていた、というだけの話である。月華の目には涼孤の顔も姿も焼きついているが、涼孤の方は月華の存在など最初から最後までほとんど意識しておらず、実際に月華の姿を目にした瞬間は剣を抜き打ちにした際にほんの一瞬あったかどうか、というところだ。
――背後に何者かがいて、反射的に抜き打ちにした一刀を別の何者かが受け止め、ふと気がついたらその両者ともに姿を消しており、足元にはひと振りの剣が残されていた――。
それが涼孤の側の記憶である。
そしてその記憶さえも、あるいは言愚として生きる日々の雑忙に、あるいは後に再び焼き場で剣を振った記憶に次々と上書きされて涼孤の頭の奥底に埋もれてしまっている。涼孤にとっては今日の月華との再開こそが実質的な初対面だったのだ。目の前に現れたきらびやかな装《よそお》いの少女と、貧民街の焼き場に一瞬だけ現れた幻のような存在とを結びつけて考えられなかったとしても驚くには値すまい。
しかし、月華はそのようには考えない。
あの焼き場の一件に自分ばかりが人生を覆《くつがえ》されるほどの衝撃を受けて、一方の当事者である青い目が超然としているのはずるいと思う。そんなことはあってほしくないと思うし、そんなことがあるはずがないと月華は思うのだった。そりゃあ片想《かたおも》いより両想いの方がいいに決まってるよね、と珠会なら言うだろう。
――それとも、人違いなのだろうか。
月華は一瞬だけ不安になる。焼き場で剣を振っていた男と、自分の木剣から逃げ惑うばかりだった男とがうまく重ならないのは確かだ。ひょっとすると珠会は「青い目違い」をしたのではないか。あの道場にいた男は良く似たどこかの馬の骨で、自分のことをちゃんと憶えている青い目がどこかにいるのではないか。
――いや、
そんなはずはない。
あの日の夜、月光に炯々《けいけい》と輝いていたあの双眸の青を絶対に見間違えるはずはない。
やはりあいつだ。
自分のことを知らぬなどと言って、最後まで勝負から逃げ回って。
馬鹿にしているのだ。
そう思えば悔しさも募る。結局一本も取ることができなかった自分にも腹が立つ。
腹の立つことがもうひとつある。
群狗だ。
群狗はやはり、青い目の居所を知っていたに違いない。
あの焼き場の夜以降、群狗としてもあの青い目のことは大分気にしている風だったし、人を動かして何やらごそごそやっていることにも気づいていた。群狗の過去についてはよく知らないが、庭の揺り椅子でひなたぼっこをするのが唯一の楽しみとなった今でも、かつての部下と思しき怪しげな人物がしばしば訪ねてくるし、離寄虫《リイム》をいじっているところも一度だけ見たことがある――蜻蛉《とんぼ》とよく似た姿の、乱波者が連絡手段として使う虫だ。
群狗はそれらの手管《てくだ》を駆使して、青い目が三十六番手講武所にいることをとっくに突き止めていたのだろう。そこに自分が現れた場合に備えて、あの道場の周りには見張りの者が配置されていたはずだ。でなければ、あれほど都合よく群狗が現れるわけがない。
知っていたのに黙っていたのだ。
尋ねもしなかったくせに、月華はぷんすか腹を立てている。
もっとも、尋ねたところで群狗が教えてくれたかどうかは微妙なところだ。しかし、お目付け役として同行を許可すると言えば、ひょっとすると群狗も折れて月華を案内することに同意したかもしれないし、居所がわかったらその後改めて木剣を手に屋敷を抜け出す、という手もあったろう。
しかし、月華はそのようには考えない。
剣を教えるという約束を反故《ほご》にしたことがまずもって腹立たしい。その上隠し事をするとは何事か。近頃では群狗と口をきいてやらんので、きっとその仕返しのつもりなのだろう。
実に腹立たしい。
かくなる上は、より一層の修行を重ねるしかないと月華は思った。自分の剣技が群狗のそれを上回るのもそう遠い日のことではあるまい。錬功成って青い目を片づけた暁《あかつき》には、あの死に損ないの老いぼれにもこの手で引導を渡してくれる。
「参渦! 参渦はおるか!」
離れの扉を力任せに開け放って遠慮|会釈《えしゃく》もなく室内に入り込むと、参渦は文机《ふづくえ》から顔を上げて振り返った。禿頭《とくとう》の丸顔、そろそろ六十という齢《よわい》に似合わぬ餅肌《もちはだ》を照らす卓上の明かりとくれば、衝立の向こうに満月がかかっているようにしか見えない。
「おお、これは珀礼門。いつになくご機嫌斜めとお見受けしますが」
「月華でよい。何度も言わせるな」
「ああ、これは重ね重ね失敬を」
科那国の生まれである参渦は言葉こそ達者だが、一般的な卯人の目からすれば話すときの身振り手振りがひどく大げさに見える。月華に向かってしきりに両手を動かしながら、
「――それでは月華様、御尊顔にいくつも生傷などこしらえて、一体今日は何処《いずこ》の罰《ばち》当たりを成敗したので?」
「成敗はしておらん。相手が逃げ回ってばかりで勝負にならんかった。そんなことより参渦よ、早う仕度《したく》をいたせ」
「は? 仕度と申されますと?」
「稽古の仕度に決まっておる! そのぞろぞろしたなりで木剣を振るつもりか!?」
「――これからですか? いや、そう申されましても、じきに暗くなりましょうし、万が一お怪我などあっては、」
「今日はまだ稽古をしておらん! ほれほれ、早う仕度せい!」
観念した参渦は衝立を動かして稽古着に着替え、片手に木剣、もう片手を月華に引きずられるようにして屋敷の裏庭へ出た。長々と続いた夏の夕刻もようやく西の空へと動き始め、小山のような庭木の木陰には夕蝉の最後のひと鳴きが流れている。
参渦の稽古着は、月華のそれに劣らず華美なものだった。木剣の切っ先を地に突いて腰の脇で柄に肘を載せて寄りかかっているところを見ると、同じ場所にじっと立ち続けでいるのが辛《つら》いのかもしれない。
「それでは、今までのおさらいから参りましょう。まずは最初の技」
蝉の音が降りしきる中、月華は陣突の構えを取った。
「たあっ! とおっ!」
道場に殴り込んだときには若干の緊張もあったのか、今度の突き上げと斬り下ろしは「涼孤に対して仕掛けたそれよりは若干まし」といったところだ。参渦は満足げに手を叩き、
「素晴らしい。大変お上手です」
「――しかし、今日もこの技を使《つこ》うてみたが、仕損じてしまったぞ?」
「月華様、何事も修行が肝心ですよ。ひたすら修行あるのみです。では次、仙先扇」
「うりゃあ!」
後退しつつ胴払い。力みすぎて上体が大きく泳いでしまう。
「よろしい。では、六王突」
「てやあっ!」
踏み込んで突きの連続。足運びにもたついて危うく転びそうになる。
「お見事です。欄観突」
「はあっ!」
「次は難しいですよ、泰猿奪桃」
「とりゃあ!」
月華の何とも愛らしい気合が裏庭のしじまに響き渡る。復習が終わると、参渦は大げさな手振りで月華を褒め称《たた》えた。
「まったく素晴らしい。実にお見事です。この参渦、感服|仕《つかまつ》りました」
月華も満更ではない顔で鼻息を荒げた。泣いて許しを乞《こ》う涼孤の姿がありありと脳裏に浮かんで大いに気分がいい。しかしその表情がふと曇り、ぶん、と木剣を振り回して、
「参渦よ。妾は基本はもう飽いたぞ。何か次の一手を教えてくれ」
ふむ、参渦は丸顔に皺を寄せて考え込み、
「――それでは、うむ、いや。しかし、」
「何じゃ、勿体《もったい》をつけるな」
「いえ、実を申しますと、月華様の目覚ましい成長ぶりを拝見するに、心当たりの技があるにはあるのですが――なにぶん、あの一手は我が六身仙合剣が奥義のひとつにございまして」
奥義と聞いて、月華は猫が鼠《ねずみ》を見つけたように目を輝かせた。
「苦しゅうない、苦しゅうないぞ! 礼金ならはずむぞ! 妾から侍従に言うておく!」
「して、それは如何《いか》ほど?」
「銀十流でどうじゃ!?」
参渦は満月がさらに明るむような笑みを浮かべた。それまで杖とすがっていた木剣をおもむろに構え、
「この一招《いっしょう》、名を『通天大嶺千仙皆合』と申します」
おお、聞くだに頼もしいその名前に月華は瞠目《どうもく》した。
「前段となる技はいくつかございますが、月華様もご存知の陣突の斬り下ろしから入る一手をご覧に入れましょう。まずは陣突、突き上げて斬り下ろしますが、斬り下ろすと同時に相手の懐に踏み込みます。続いて、こう――」
そして参渦は、低い位置からいかにも年寄りじみた動作で背筋を起こし、おぼつかない足取りで身体ごと回転しつつ木剣を振り抜いた。
「――いや、寄る年波にはかないませんな、二度しか胴を抜けませなんだ。古《いにしえ》の高手はひと息に九|閃転《せんてん》したと聞きます」
要するに、独楽《こま》のように回転しながら横方向に何度も斬りつける、という技らしい。
すごい。
まさに自分のためにあるような一手だと月華は思う。ぐるぐる回るのは得意だ。
「まず陣突だな?」
構え、突き上げ、
「そこで踏み込みます」
「こうか?」
「そこで腰を沈めて、」
「こうだな?」
「さて、ここからが肝心ですぞ! 大きく伸び上がって、一気に――」
月華は思い切り回転した。木剣の重みに振り回されて最後は大きくたたらを踏んでしまったが、参渦はまるで天下に二人といない達人の技を目《ま》の当たりにしたような賛辞を送る。
「素晴らしい、初手からいきなり二閃転とは! いやはや、この参渦、早くも月華様に肩を並べられてしまいました」
月華は大いに気をよくした。調子に乗って再び陣突の構えを作り、
「こうか!?」
「何たること、今度は三閃転しましたぞ!」
「こうか!?」
「おおおお、六閃転とは!」
「あはははは!」
くるくる回るのが楽しくなってきてしまった。
もはや稽古でもなんでもない。木剣を握ったまま両腕を広げ、月華は大声で笑いながら踊るように回転し続けている。東の空から夕闇が迫り、一体何の騒ぎかと様子を見に来た女中の伊仁《イニ》が、まさに「珀礼門の独楽姫」の面目躍如たるその姿を目にしてその場に立ちすくむ。
「庭の揺り椅子でひなたぼっこをするのが唯一の楽しみ」も「死に損ないの老いぼれ」も別に間違いではないのだろうが、同時に群狗はこの屋敷を警護する者たちの責任者という立場にもある。建前上のこととはいえ仕事もそれなりにあって、夜も更《ふ》けたこの時刻に文机に向かうこともさして珍しいことではなかった。
「遅くまで精が出ますこと」
ひと言の断りもなく部屋に踏み入ってきた参渦の声に、しかし群狗の後ろ姿は少しも驚いた風には見えない。振り返りもせず、その口調は普段と一転して硬く、
「――近頃では寝つきも悪くてな。何用だ、せっかくありついた儲《もう》け話がふいになっても知らんぞ」
「はて、仰《おっしゃ》る意味がわかりかねますが」
「私は今、月華様に嫌われてる身だ。こんなところを見られでもして、要らぬ火の粉をかぶることになっても責任は持てん」
ああ、と参渦は納得の笑みを浮かべ、
「実はその件で、折り入ってご相談がございます」
「給金は上がらんぞ」
「いえ、そうではなく。今日を限りにお暇を頂きたいと思います」
群狗の後ろ姿が、微かに強張った。
「――わかった、銀二十流を上乗せする」
「お断りします」
「業突《ごうつ》くを申すな。たとえ肺病病みでも、子供の遊びにつき合う分には不足あるまい」
「肺病病みだからこそ申しております。この参渦、鴉眼《あがん》様の仰《おっしゃ》りとあってはよもや無下にもできず、今日まで辛抱《しんぼう》に辛抱を重ねて参りました。しかし、もはや満足に剣も振れぬわたしのような者にとって、あの姫君は目の毒です」
群狗は、振り向かなかった。
やがて、参渦の耳に細いため息が聞こえた。心なしか、群狗の後ろ姿はそのため息の分だけ縮んだように見える。
「――参渦よ、」
「はい」
「今までに、主《ぬし》と同じことを言ってきた者が二人いる」
「前任の師範方のお名前は存じ上げておりますよ。まさしく錚々《そうそう》たる顔ぶれでしたから。当ててみせましょうか? まずお一人目は蘭家剣の劉徒《リュウド》。お二人目は通念意心門の我州幡《ガスハン》。こちらは世間では剣法よりも槍術《そうじゅつ》で有名な方ですが」
それが図星であることを、群狗の無言の背中が物語っていた。
「鴉眼様は、このお屋敷の警備を統率なさるお立場だ。つまるところ、珀礼門の師範の人選もそのお仕事の範疇《はんちゅう》ということになる。貴方ほどのお方ともなれば、心当たりの剣士の中には名の通った凄腕も掃いて捨てるほどいるでしょう。そこに、お屋敷に招き入れて珀礼門と二人きりにさせても間違いのない者、という縛《しば》りなどかけたらまさしく『本物』しか残りますまい。よもや、その方々にも皆、わたしと同じ様に頼んだのですか? 真っ当な指南は無用、遊びにつき合え――と?」
「――珀礼門、ではない。月華様とお呼びしろ」
「いや、それはさすがに、面と向かってこその気安さというもので、」
「構わん。ご自身たってのご希望だ」
そこでふと、群狗の後ろ姿が微かな笑いに緩んだ。
「――あのときの、我州幡の顔を主にも見せてやりたかった。初日だ。一刻もせぬうちに血相を変えて飛んできおってな、後はもう何を言っても聞かん。あれは嘘も紛れもなく、本物の第十八皇女だと何度も説明したのだが、とうとう信用せぬままに帰ってしまった。あれも頑固な御仁だな」
参渦も笑った。我州幡が野に下ったのは軍内部での政治的暗闘に巻き込まれた結果と聞いている。あの姫君は、我州幡の目には新たな陰謀の端緒か何かと映ったのかもしれない。
「――それで、主も、辞める決意は固いか」
群狗のその声は、参渦の耳にどこか寂しげな響きをもって聞こえた。
「頼む。もう他に心当たりはないのだ」
「では、これまでの三倍の給金を頂きとうございます」
唐突に投げ出されたそのひと言に、初めて群狗は振り返った。
参渦はにんまりとした笑みを浮かべて、
「こう見えても孫が七人おりましてな。一人が近々嫁に行くのです。きれいな衣装のひとつも仕立ててやりたいと思いまして」
呆気にとられていた群狗もやがて苦笑を漏らし、
「この業突くめ」
そう呟いて再び文机に向かう。
「主のせいでこの屋敷の家計も傾いてしまうな。もう下がれ、仕事の邪魔だ」
「いまひとつ」
「何だ」
「鴉眼様は、なぜご自身であの姫君に剣を教えようとなさいませんのか?」
背を向けたまま、群狗は黙して答えない。参渦も、長くは待たなかった。
「では、今までどおり月華様の遊びにおつき合いする、ということでよろしいのですね?」
「そうだ」
「本当によろしいのですね?」
「くどいな、何が言いたい」
本当はわかってるくせに、と参渦は思う。
「わたしが遊びにつき合っているだけでも、わたしが実のあることを何ひとつ教えなくとも、あの姫君は一人で棒を振っているだけでそれなり[#「それなり」に傍点]のところまで行ってしまいますよ? 月華様をいつまでも籠《かご》の中に留《とど》めておきたいのなら無理無体にでも木剣を取り上げるしかない。わたしの如きに三倍もの給金を払ってまで半端をさせておくくらいなら、いっそのこと、そのようになさっては如何です?」
答えが返ってくるとは思っていなかった。
参渦はすぐに踵を返し、部屋を出る間際に背後から、ぽつりと、
「孫の嫁ぎ先を置いていけ。何か送る」
参渦は笑って、
「ご冗談を。『群狗』の名前でですか? 縁起の悪いこと甚《はなは》だしい」
机上《きじょう》の明かりが消えかかっていた。振り返った参渦の目に部屋の闇は刻一刻と深くなり、群狗の後ろ姿はほとんど輪郭の判別も難しい。あの闇の中で、群狗は机上に一体何を見ているのだろう。
「――一指力剛の話を思い出しますね」
「去《い》ね」
参渦は部屋を後にする。