ミナミノミナミノ (あ-8-12 \530 電撃文庫 Media Works)
作/秋山《あきやま》瑞人《みずひと》
1971年生まれ、山梨出身。東京都某所在住。主食はSFとミステリー。『E.G.コンバット』(原案・イラスト/☆よしみる)でデビュー。その独自の文体とキャラ描写で人気を博す。一年ほど前、車を購入したものの、最近あまり出番がないのは、たぶん忙しいから。
イラスト/駒都《こまつ》えーじ
1973年生まれ、神奈川出身のベイスターズファン。趣味は落書き、プラモ作り、制服鑑賞、寝ること等々。
カバーデザイン/あかつきBP
デザイン/Yoshihiko kamabe
「ものすごく環境のいいところだから勉強をするにはもってこいだ」
そんな誘い文句に騙されて夏休みをとある小さな島で過ごすことになった武田正時。
ところが来て早々、どうもこの島はとてつもなく “奇妙 ”なところがある、と気づかされることになり、一方、「友達になってくれないか」と頼まれた相手は不思議な感じの、だがとてもかわいい子で――。
超人気シリーズ『イリヤの空、UFOの夏』の秋山瑞人&駒都えーじのコンビが贈るボーイ・ミーツ・ガールストーリー。今度の夏もただでは終わらない……。
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ミナミノミナミノ CONTENTS
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A
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あとがき
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※[#挿絵画像 01_011]|挿絵《P.11》
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フェリーは午前九時きっかりに港を出る。
もう絶対に間に合わないと思っていたがどうにか間に合った。タラップを踏み越え階段を駆《か》け上がって、フェリーの後部デッキに出たところで武田正時《たけだまさとき》はようやく安堵《あんど》の息を吐《つ》いた。ボストンバッグを床に投げ出して懸命《けんめい》に呼吸を整える。あごの先を伝う汗《あせ》がデッキの床に落ちて見る間に蒸発していく。腕時計を見る、
八時五十五分。
ぎりぎりセーフだ。
が、正時の背後から腕時計をのぞき込んできたリカ姉《ねえ》は、
「なぁんだ、あと五分もあるじゃない」
走って損したと言わんばかりの口調だ。駐車場から同じ距離を走ってきたはずなのに、大して汗もかいていなかった。妙《みょう》に男っぽい動作でベンチに腰を下ろし、つい三日前にきっぱりやめたと宣言したはずの煙草《たばこ》に何の迷いもなく火を点《つ》ける。
「ねー? 電車で来るよりずっと面白かったでしょ?」
何も言うまい、と正時は思う。
こともあろうにリカ姉と一緒に南の島へ行くのだ。この程度のぎりぎりセーフのひとつやふたつは家を出た瞬間から当然のことと覚悟《かくご》していたが、それにしても破壊力抜群の十五時間だったと思う。当たり前のように道には迷う、タイヤは二度もパンクする、夜明かしをしたサービスエリアでトラックの運ちゃんとケンカもしたし、食料を買いに立ち寄ったスーパーではガチャポンにハマって何とかというアニメキャラのシリーズを全部出すまでテコでも動いてくれなかった。ここまで無事にたどり着けたというだけでも奇跡に近い。
「うわ重《おも》。あんた何そんないっぱい持ってくの?」
背後から伸びてきた長い足が正時のボストンバッグを小突いた。
「だって、着替えとか、教科書とか参考書とか」
その足を払いのけて正時は初めて気づく。リカ姉はまったくの手ぶらだ。
「リカ姉、荷物は?」
「ないわよそんなの。あたし海外行く時だってほとんど手ぶらだもん。必要なものは一番安いのでいいから行った先でばんばん買ってばんばん捨てていけばいいのよ」
それはそれで極端な例には違いない。周囲を見回してみれば、デッキにいる他《ほか》の乗客たちは荷物も服装も夏休み丸出しの家族連れがほとんどだった。何となしに聞こえてくる会話の中に「もりとじま」という言葉が何度も出てくるのに気づいて、正時はポケットにねじ込んだフェ
リーの乗船券を取り出してみる。
中浦港《なかうらこう》→守人島《もりとじま》、とある。
「――岬島《みさきじま》じゃなかったっけ?」
リカ姉《ねえ》が顔を上げ、
「なにが?」
「だから、ぼくらはこれから岬島に行くんでしょ?」
「そう」
「え、だって、でもこれ、」
間違えて別のフェリーに乗ってしまったのかと思った。慌《あわ》てて乗船券をリカ姉に見せると、
「本土から岬島に直行する船はないの。生活物資やなんかを積んだ貨物船が何日かおきに往復してるって言ってたけど、船員手帳も持っていないような奴《やつ》は乗せてくれないんだって。だからまず、このフェリーで守人島まで行くの」
そういうことは事前に説明しておいてほしいなあ、と正時《まさとき》は思う。
名前の雰囲気からすれば「岬島」より「守人島」の方が何となく意味ありげで目的地っぽい気がするのだが、でもやっぱり違うらしい。自分たちの目的地はあくまでも岬島で、このフェリーで中間点の守人島まで行って、
「――そこから先は?」
「大丈夫。連絡しておいたから。岬島から迎えが来てくれるはず」
正時は不安になってきた。リカ姉の「大丈夫」くらい大丈夫でないものはない。
本当に大丈夫なのだろうか。
周囲の観光客どもが妬《ねた》ましくなってきた。フェリーが潜水艦《せんすいかん》と衝突《しょうとつ》したり海底から巨大なタコが襲いかかってきたりしない限り、こいつらは無事に守人島に着いて海水浴をして温泉に入って美味《おい》しいものを食べるのだろう。しかし、自分はそこからさらなる未知の世界へと踏み込んでいかねばならないのだ。頭の中に映画の一場面が思い浮かぶ――インディジョーンズの乗った飛行機の映像に地図がオーバーラップして、赤い線が目的地めがけてゆっくりと伸びていく。もっとも、インディは失われたアークの謎《なぞ》を解く旅に出かけるのであって、わけのわからない南の島に勉強に行くのではない。
そう、
自分はこれから、遥《はる》か南の岬島まで勉強をしに行くのだ。
南の島で勉強。
意味がわからない。
今の今まで納得していた自分が不思議だ。この手の奇抜《きばつ》な話を持ち出してくるのは昔からリカ姉と決まっていて、もちろん今回もそうだった。最終的に正時の両親を口説《くど》き落としたのもリカ姉だった。
ものすごく環境のいいところだから勉強をするにはもってこいだ、とリカ姉《ねえ》は言った。
高校に上がってからではこんな旅行をする機会だってないかもしれない、とも言ったし、毎日毎日クソ暑い中を満員電車で予備校に通ってブロイラーの鶏《にわとり》みたいな夏期講習を受けるよりよっぽど身になる、とも言った。
それでも、正時《まさとき》がひと言「行かない」と言えば済む話だったのである。
だいたい、ずっと昔からリカ姉には何度も何度も痛い目に遭《あ》わされてきたのだ。あれは忘れもしない小学二年の頃、正時はリカ姉に連れていってもらったサファリパークのど真ん中に置き去りにされて、サファリの森の番人(あそこでは監視《かんし》員のことをそう呼んでいた)に救助されたことがある。「ターザン子供助ける」というよくわからない見出しでちょっとだけ新聞に載《の》った。リカ姉とプロレスごっこをして遊んでいて思いっきりバックドロップをかけられて失神したのはたしか小学三年の頃だったろうか。自由研究で何をやるか悩んでいた小学五年の夏休み、リカ姉が提案してきたのは「スタンガンの人体実験」。通信販売で買ったばかりでどうしても使ってみたくて仕方がなかったらしい。やられ損ではバカみたいなのでちゃんと実験結果をまとめてクラスで発表したら翌日|担任《たんにん》が家に来た。
つくづく思う。
これだけ痛い目に遭ってきたはずなのに、なぜ自分はいつもいつもリカ姉の口車に乗せられてしまうのだろう。
「なに辛気《しんき》臭《くさ》い面《つら》してんのよ」
リカ姉が煙草《たばこ》のパッケージを丸めて正時の胸元に投げつけてきた。
「守人島《もりとじま》なんてね、ゴミだらけの海水浴場と大腸菌うじゃうじゃの温泉だけが取り柄のチンケな観光地よ。このリカお姉さんがそんなつまらんところにあんたを誘うわけないでしょう?」
よく言うよ、と正時は苦笑する。
ぼくが一緒じゃなかったらここまでたどり着けもしなかったくせに。
それでも、少しだけ気分が軽くなった。とにかくここまで来てしまったのだ――でっかいボストンバッグに教科書と参考書を詰め込んで、悩みに悩んだ末に海パンとビーチボールを忍ばせて。
楽しいことを考えよう。不安に駆《か》られて考えが悪い方へと傾きすぎている。リカ姉の口車にも幾許《いくばく》かの理はあるのかもしれないし、岬島《みさきじま》は自分が考えているよりもずっといいところかもしれない。少なくとも、クソ暑い中を満員電車に揺られて予備校に通うよりはずっと楽しいに違いない。そうだ、これは単純な二者択一の問題なのだ。予備校のクーラーと木陰の涼しさ、自販機の缶《かん》コーヒーとトロピカルドリンク、小汚いゲームセンターと真っ白な砂浜、「今日遅くなるから晩ご飯いらない」の電話と「お土産《みやげ》は何がいいですか」の絵葉書。
リカ姉が両腕を反らして大きなあくびをした。
ベンチから立ち上がって、肘《ひじ》掛についている灰皿で煙草をもみ消して、
「喉《のど》がかわいた」
実にナチュラルな動作で差し出された右手に、正時《まさとき》は反射的に五百円玉を載《の》せていた。タイミングのコツでもあるのか、正時は昔から同様の手口でアイスやらジュースやらをたかられ続けている。
「階段を下《くだ》ったところに自販機があったよ」
リカ姉は礼も言わずに踵《きびす》を返そうとして立ち止まり、
「――危ない危ない、忘れるところだった」
「なに」
「これ」
物をすぐに放り投げるのはリカ姉の悪い癖《くせ》である。いきなり目の前に飛んできたそれを正時は危うく取り落としそうになった。
――子供が工作の時間に作ったような、見るからに手作りっぽい首飾り。
少なくとも、正時にはそう見えた。
「なにこれ?」
リカ姉はそれに答えず、意地悪な笑みを浮かべて目元のあたりで指をくるくる回した。
「いい加減、眼鏡《めがね》外せば?」
「――あ、」
武田《たけだ》正時は、勉強をするときや本を読むときだけ眼鏡をかける。
すっかり忘れていた。車の中ではずっとロードマップとにらめっこをしていたし、サービスエリアで夜明かしをしたときからも外した記憶がないから、ひょっとすると昨日の朝からかけっぱなしだったのかもしれない。
「せっかく南の島に行くんだから、守人島《もりとじま》に着いたら度つきのサングラスでも買いなさいよ」
正時はあたふたと眼鏡を外した。眼鏡ケースは――ボストンバッグの中だ。スーパーで買い込んだお菓子《かし》が上からぎゅう詰に押し込まれていて、探すのがひと苦労で、
「あ――、」
顔を上げると、リカ姉は五百円玉を指で弾《はじ》きながらデッキの階段を降りていくところだった。こっちも大事なことを忘れていたのだ。
せっかく五百円玉を渡したんだから、ぼくの分も買ってきてくれって言えばよかった。
肘《ひじ》掛に残された吸殻《すいがら》がまだ薄く煙を上げている。正時はベンチに腰を下ろしてボストンバッグを足で引き寄せ、リカ姉が投げてよこした首飾りをじっと見つめる。
――なんだろう、これ。
首にかける紐《ひも》の部分は細い鎖《くさり》ではなくタコ糸か何かだし、その先にぶら下がっているのはダイヤモンドでもなければエメラルドでもない、小さな円筒形の物体だった。大きさは単三の電池を半分に切ったくらい、表面は暗い青緑色で、唐草《からくさ》模様に似た細かい文様《もんよう》がびっしりとついている。材質は判然としない、石よりは軽い気もするし木にしては固いと思う。タコ糸との接続部分は円筒の頭に埋《う》め込まれた小さなジョイントだ。このジョイントが自由に回転するおかげで、円筒形の物体は横方向にくるくる回すことができる仕組みになっていた。
円筒の部分がカプセルになっている、わけでもない。紐《ひも》を持って振り回せば笛《ふえ》のように音が鳴る、とも思えない。円筒形の物体を指で弾《はじ》いてみる。――が、別に面白いことは何も起こらなかった。
まあいいか。
リカ姉《ねえ》が戻ってきたら聞いてみればいい。
正時《まさとき》は首飾りを首にかけてみた。が、改めて見下ろしてみるとやっぱりかっこ悪いので、Tシャツの中にたくし込んでおく。ちょこっとゴロゴロして気になるが仕方がない。
デッキのスピーカーから、間もなく出航時間である旨《むね》の素《そ》っ気《け》ないアナウンスが流れた。
強烈な日差しも大して不快ではなくなってきた。背もたれにふんぞり返って目を閉じてみると、ベンチの足から伝わってくるエンジンの振動がまるでマッサージチェアのようだった。まぶた越しでも太陽の位置がはっきりとわかる。刻々と迫る出港に空気が沸き返り、興奮した子供が動物のような叫び声を上げてデッキを走り回っている。
唐突《とうとつ》な汽笛《きてき》の音に驚いて目を開けた。
「しゅっぱーつ!!」
小学校低学年くらいの女の子が、船尾の手すりにつかまって飛び跳《は》ねていた。
腕時計を見た。
九時二分。
もっと揺れるものと思って身構えていたのに、フェリーの発進は車のそれよりも遥《はる》かに滑《なめ》らかだった。岸壁にくくりつけられている古タイヤがゆっくりと離れていく。フェリーではなく港の方が動いて遠ざかっていくような錯覚《さっかく》を覚える。船尾の手すりに歩み寄って女の子の隣から身を乗り出してみると、スクリューの回転に茶色く濁《にご》った水面がごぼごぼと逆巻《さかま》いている。こんな汚い海水が、本当に南の島までつながっているのだろうか。
「おばあちゃーん、お土産《みやげ》買ってくるからねー!」
隣の女の子が大声で叫んだ。観光客を運ぶフェリーを見送る者など大しているはずもなく、遠ざかりつつある岸壁には人の姿は数えるほどしか見当たらない。びっくりするくらい腰の曲がった老婆が女の子の叫び声に応《こた》えて大儀《たいぎ》そうに手を振っており、その隣で、リカ姉にそっくりな女の人が腰に手を当てて缶《かん》コーヒーを飲んでいた。
本当によく似ていた。
脳が事実を否定していた。
「――わああっ!?」
思わず声が出た。手すりから転げ落ちそうになるまで身を乗り出す。その拍子《ひょうし》にTシャツの中にたくし込んでいた首飾りがこぼれ出た。届くわけもないのに手を伸ばし、目を見開いて岸壁を凝視《ぎょうし》する。まぎれもないリカ姉《ねえ》の姿。思わず大声で、
「り、リカ姉っ! 何してんのそんなところでっ! 早く――」
早く――一体どうすればいいのか。すでにフェリーは岸を離れている。リカ姉が飛び乗るのも自分が飛び降りるのも無理な話だ。今すぐブリッジに駆《か》け込んで訳を話せば船を止めてくれるかも、などと無茶なことを考えてデッキの上をバタバタおろおろと行きつ戻りつする。傍《はた》から見ればその様はまったくの笑い事であったが、当の正時《まさとき》にとってはまさに冗談《じょうだん》では済まない一大事だ。
「おーい! まさときーっ!」
リカ姉の声。再び手すりにしがみつくと、確実に遠ざかりつつある岸壁の上でリカ姉が大きくてを振っている。
「連絡してあるからーっ! 心配いらないからーっ! ――さんが迎えにきてくれるはずだからーっ! 気合入れて行ってこ――――――――――――――――――――――いっ!!」
正時はただただ呆然《ぼうぜん》と岸壁を見つめた。周囲の乗客たちが何事かという目つきでこちらの様子をうかがっているが正時はまったく気づいておらず、混乱した頭の中には現在の状況が一滴ずつ滴《したた》り落ちて、ようやくひとつの結論が形成されつつあった。
最初からこうするつもりだったに違いない。
リカ姉のことだ。昔からそうだった。今まで何度も何度も痛い目に遭《あ》ってきたのだ。サファリパークに置き去り、バックドロップで失神、自由研究でスタンガンの実験台。そして今度はこれだ。
ひとりぼっちで島流しだ。
「リカ、」
岸壁は遠ざかり、正時は叫ぶ。
「リカ姉のばぁかああぁぁぁ―――――――――――――――――――ぁあ!!」
絶妙のタイミングで汽笛《きてき》が被《かぶ》った。
フェリーは海を行く。岸壁に立つ人の姿はすでにどれが誰とも見分けがつかない。隣で目を丸くしてみていた女の子が、呆《ほう》けたような顔で固まっている正時の肩をつついてこう言った。
「ばかって言ったら自分がばかなんだよ」
父の仕事の都合で、正時は今までに八回の転校を経験した。
正時の父は某《ぼう》自動車メーカーの製造管理部に勤めるサラリーマンである。基本的には酒も煙草《たばこ》もやらない堅物《かたぶつ》だが、一年に一回くらいは酔《よ》っ払《ぱら》って帰ってきて、正時《まさとき》の部屋に上がり込んで「お前にも苦労をかけてすまん」みたいな話をする。
十五|歳《さい》にもなれば親の「底」もちらほらと見えてくる。きっと会社では何かと要領の悪い人なのだろう、とは正時も思う。しかし、少なくとも転校や引っ越しを理由に父を恨《うら》んだことはないし、自分が他人より余計に苦労しているとも思ったことはない。転校八回と聞けば誰でも例外なく驚くが、正時からすれば入学から卒業まで同じ学校に通い続けることの方がよほど不思議なのだった。環境や人間関係が三年も六年もリセットされなかったら息が詰まると思う。卒業式で泣く奴《やつ》がいてもおかしくないと知識では知っていても、本音の部分では、学校を去ることの一体何がそんなに悲しいのかが正時にはまったくわからない。
そんな正時が八回目の転校をしたのはつい一ヶ月ほど前、中学三年の夏休みも目前に迫った六月の終わり頃のことだった。
八回目となると特別な感慨《かんがい》もへったくれもなかったし、花束も寄せ書きの色紙もお別れ会もなしだった。といって、別にクラスの嫌われ者だったわけでもない。正時の経験からすればむしろ逆で、いまいちクラスに溶け込めなかったと思っているときほど担任《たんにん》か学級委員あたりがそうしたお別れイベントをやろうと言い出すのである。イレギュラーな出来事といえば最後の日、下校しようとしたら担任がやってきて、何の力にもなってやれなくてごめんなさいと泣かれたことくらいだ。この人はぼくをダシにして自分のために泣いているんだよな――とは思ったが、もちろん口には出さずに担任とはそこで円満に別れ、帰宅後に武田《たけだ》一家は引越し屋が目を剥《む※》[#「_※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]くほどの手際と段取りのよさを発揮して、わずか三日後には正時は500キロほど離れた新たな学校の新たな教室の新たな黒板に自分の名前を書いていた。
まず、転校した先が最悪だった。
タイミングはもっと最悪だった。
片瀬《かたせ》区立第四中学校は近隣でも有数の進学校で、転入の二日後に行われた模擬試験で正時はぐっちゃぐちゃのミンチにされてしまったのだ。さらにその二日後には正時の母が学校に呼び出され、担任は書類にびっちりと書き込まれた数字を沈鬱《ちんうつ》な表情で見つめて、このままでは武田君はどこの高校にも行けません、と言い切った。
もちろん嘘《うそ》である。――というか、担任の言い方にはかなりの語弊《ごへい》がある。現在の正時の学力でも行ける高校などいくらでもあるのだ。ただ、そんな程度の高校は片瀬第四の教師の眼中にはなかった、というだけの話である。
さらに言えば、正時がそれまで通っていた学校には「高校受験」などという世知辛《せちがら》い言葉は存在すらしなかった。どこへ行くにも軒並み定員割れ、ほとんど「進学」ではなく「進級」のノリで高校へと進み、入試というものを完全にナメきったまま大学受験に突入して、ごく一部の成績優秀者を除いて枕を並べて討ち死にする――地方都市にありがちなそんな土地柄に、正時は一年と八ヶ月間にわたって首までどっぷり浸《つ》かっていたのだ。
とはいえ、当の正時《まさとき》はこの手の事態にはもう慣れきっている。
生まれつき楽天的な性格なのかもしれないし、八回も繰り返された環境の激変が楽天的な性格を作り上げたのかもしれない。場違いな学校に来てしまったと後悔してもいないし、試験に失敗したことも大して気にしていない。新しい学校の勉強についていけなくてバカにされるのは、前に住んでいた地方の方言をからかわれるのと同じようなことだと思っている。それに、片瀬《かたせ》第四に通い続けるのもそう長い間のことではない。どんなに遅くとも、あと八ヶ月もすれば自分は中学卒業でこの学校を去っているはずだし、あるいは卒業よりも先にまた転校、ということになる可能性だってなくはない。そのときまで大過《たいか》なく過ごせれば満足だし、高校など行けるところに行けばいい――と、正時はお気楽に構えているのだった。
ところが、正時の両親にとって、今回の一件はかなりショックだったらしい。
無理もない。息子《むすこ》の成績が悪すぎて学校に呼び出されるなど初めてのことだったし、これまでずっと転校に次ぐ転校で無理をさせ続けてきたツケが一挙に戻ってきたように思えたのかもしれない。あの日から母は晩飯のおかずを一品増やし、父は正時と一緒に風呂《ふろ》に入りたがって夜な夜なパンツ一丁《いっちょう》で居間をうろつくようになった。
心配をしてくれているのだろう、とは思う。
しかし、いまさら妙《みょう》な気の使い方をされても困る。高校など行けるところに行けばいい、という点においてはおそらく正時と両親との間に意見の相違はないのだ。ないのだが、親としてはそれだけでは収まりのつかない何かがあるのだろう。片瀬第四で最初に友達になった坊主《ぼうず》アタマは近所のお寺の長男で、中学を卒業したらお坊さんの高校に進むつもりだという。クラスには自分以外にも変り種がいるのだということを言いたくて、冗談交じりにその話をして「僕も坊主アタマにしたら似合うかな」と言ったら、両親の部屋からぼそぼそと話し合う声が夜中の三時ごろまで聞こえていた。あれは失敗だったと正時も思っている。
担任もあれから態度を変えた。まずい言い方をしてしまったと反省したのか、妙にあれこれと世話を焼いてくれるのだが、正直、それもありがた迷惑だったりする。そんな一ヶ月が慌《あわただ》しく過ぎ去った一学期の最終日、正時はコンビニ前の停留所でバスを降りたところだ。通学|鞄《かばん》にはまだコピー機の余熱も冷め切らぬプリントがどっちゃり、新たな我が家となった五階建てのマンションはバス通りを隔《へだ》てた高台の上にあって、母がしまい忘れたらしい洗濯物が停留所からでも見える。家に帰る一歩ごとに夏休みが近づいてくる。
「ただいまー」
誰かが来ている。
居間の話し声が玄関まで聞こえている。普段は誰も飲まないコーヒーの香りがするし、脱ぎ散らかされているボロっちいナイキにも見覚えがある。廊下に上がって、自分の部屋としてあてがわれた六|畳間《じょうま》に鞄を放り投げて居間の引き戸を開けると、座れば絨毯《じゅうたん》まで届くポニーテールが母と差し向かいで茶を飲んでいた。
「――母さん、洗濯物出しっぱなしだよ」
母は「あらやだ」と腰を上げ、ポニーテールはくるりと振り返って満面の笑みを浮かべた。
「正時《まさとき》、ひっさいぶりー」
リカ姉《ねえ》だった。
正時は普段から「リカ姉」と呼んでいるが、正確には父の妹で、つまりは正時の叔母《おば》にあたる人物である。二十五|歳《さい》さそり座B型。今年の二月頃に一度就職が決まりかけたのだが一体何をやらかしたのか、現在もだらだら大学院に居残ってマウスを切り刻んだりフィールドワークに出たりしているらしい。
事情を知らない人は百発百中で正時の姉だと誤解するし、実際、正時も小学校に上がる前くらいまではリカ姉のことを自分の実の姉だと思い込んでいた。すでにその頃から色々とひどい目に遭《あ》わされてきたのだが、どんなに遠くの町に引っ越したときにでも必ず遊びに来るこの不思議な叔母のことを、正時はどうしても嫌いになれずにいるのである。
「ほい、おみやげ」
リカ姉はポケットから石ころのようなものを取り出して放り投げた。正時はそれを危なっかしく受け止めてまじまじと見つめる。どこからどう見てもただの石ころである。
「――なにこれ」
「恐竜《きょうりゅう》のうんこ」
洗濯物を取り込んだ母が居間に戻ってきて、
「リカちゃんね、さっき新婚《しんこん》旅行から戻ってきたばかりなんだって。わざわざお土産《みやげ》持ってきてくれたのよ」
そうだった。
世の中わからないもので、リカ姉は、ひと月ほど前に結婚《けっこん》したのだ。
ジューンブライドだとリカ姉は大いばりだったが、式の日取りがちょうど模擬試験の二日目とぶつかってしまったおかげで、正時はまだ結婚相手の顔も見たことがないのだった。漏《も》れ聞いた話によれば、なんでも業界ではそれなりに名の知られているジャーナリストで、事あるごとに世界中の紛争地域や災害現場を飛び回っている無茶苦茶《むちゃくちゃ》な冒険野郎《ぼうけんやろう》らしい。
「――あの、ごめんね。結婚式出れなくて」
正時は先手を打った。リカ姉が根に持っていたらまずい。
「仕方ないわ。そっちこそ大変だったらしいじゃない」
リカ姉は肩をすくめて笑い、引きずりおろすようにして正時を座らせるとこのケーキもわたしのみやげだから食え食えと勧めた。母も洗濯物を畳《たた》み終え、その場の話題はリカ姉の新婚旅行の話から旅行一般の話へと転がって、ケーキにかまけていた正時はいつの間にかズラかるタイミングを逸《いつ》していた。リカ姉だけならともかく、そこに母が加わると正時としては何だか居心地が悪いのだ。いま食べているケーキが片付いたらさっさと消えよう、と思っていると、
「ねえ正時《まさとき》、」
リカ姉《ねえ》にいきなり話をふられてどきりとした。
「あんたさあ、夏休みの予定ってもう決まってる?」
「――あ、うん。その、」
「暇《ひま》なんでしょ?」
「違うよ、ぼくだって色々と――」
予備校に通うのだ。
模擬試験に失敗したときから、多分そういうことになるのだろうと漠然《ばくぜん》と思っていた。別に努力して成績を上げようと思っているわけではないのだが、あれだけのドジを踏んだツケはどこかで払っておかなければ何かの釣《つ》り合いが取れないような気がするのだ。夏期講習のパンフレットを何枚か集めて、今日こそ申し込みをしようと毎日思って、宿題を先延ばしにするようにずるずると今日まできてしまった。今からでも申し込みを受け付けてくれるところはあるのだろうか――
「もし暇だったらさ、南の島に行かない?」
いきなり何を言い出すのか。
正時は目を丸くした。半開きになった口の中にはケーキの最後の一片がまだ残っている。リカ姉はお尻《しり》の位置をずらし、テーブルに肘《ひじ》をついて正時を正面から見つめた。
「あたしの旦那《だんな》の左吏部《さりべ》俊郎《としろう》は、南の島の出身なの。岬島《みさきじま》っていうんだけど」
「いや、だから。ぼくは暇じゃないってば」
「なに。予備校にでも通うの?」
「――うん。あと宿題とか、」
「ほーら、やっぱりあんた暇なのよ。予備校行ったり宿題したりするのは暇で暇で他《ほか》にやることがないからよ。試験で散々《さんざん》な目に遭《あ》った話は聞いたけどさ、兄貴や悦子《えつこ》さんが本当に心配しているのはあんたの成績じゃないんだってことわかってる?」
リカ姉は意地悪そうな笑みを浮かべてもっともらしいことを言う。この人は本当に口だけは達者だよなあ、と正時は感心しつつも痛いところを突かれて返す言葉に詰まった。リカ姉はすかさず、
「もう、すっっっごくいいところだから、勉強をするにも環境は抜群よ。本土から船で何時間もかかるけど、海はきれいだし食べ物は美味《おい》しいし、観光地じゃないから思う存分のんびりできるしね。泊まるところはうちの旦那《だんな》の実家があるし」
横から母が、
「――。でも、ご迷惑じゃないかしら」
母のそのひと言に正時《さまとき》は少なからず驚いた。何だかんだ言いつつも、母はやはり反対するのではないかという気がしていたのだ。
「大丈夫です。実は、旦那《だんな》の実家にはもう電話で話してOKを取ってあるんです。あとは正時の返事ひとつ」
リカ姉《ねえ》はぐいと身を乗り出す。
早くも追いつめられた正時は横目で母の様子をうかがう。
母もまた、あんたはどうしたいのよ、という目で正時の様子をうかがっている。
父の帰宅後、晩飯の席でもリカ姉は岬島《みさきじま》行きの話を持ち出して熱弁を振るった。
父の反応も母と似たり寄ったりのものだった。すなわち、「正時のしたいようにさせてやろう」という消極的な賛成である。風呂《ふろ》に入ってスイカを食べ終わるとリカ姉が花火をしようと誘いにきて、ゴム草履《ぞうり》をぺたぺた鳴らしながらコンビニまでの道のりを並んで歩いていた。
「どう? 行く気になった?」
「うん」
結局、親に気を使われているのが嫌《いや》だったのだと思う。
南の島に行こうと思った理由も、決断が遅れた理由もたぶんそれだ。
コンビニで、リカ姉は一番でかい花火セットとチャッカマンをカゴに入れた。いつものライターはどうしたのかと尋ねると、煙草《たばこ》はもう止《や》めたのだとリカ姉は胸を張る。「なにそれ、アメリカかぶれ?」と言ってやったら白くて長い人差し指で額《ひたい》を思いっきり小突かれた。レジを打つバイト店員の顔に「美人の姉ちゃんがいて羨《うらや》ましい」と書いてあるのが正時には得意だった。リカ姉が自分をひとりぼっちで岬島に送り込むつもりでいることなど、このときの正時はまだ夢にも知らない。
八回の転校と、散々《さんざん》な結果に終わった模擬試験と、リカ姉の結婚《けっこん》。
正時は後々、実に慌《あわただ》しかったこの一ヶ月間の出来事を何度となく思い返すことになる。
分岐《ぶんき》点はいくつもあった。八回目の転校がなければ模擬試験で切り刻まれることもなかったし、試験の失敗がなければ自分を取り巻く外堀が埋《う》まることもなかっただろう。そして、リカ姉の結婚が南の海の彼方《かなた》へと続く最終的な道筋を拓《ひら》いたのだ。心の奥底にわだかまっていた罪悪感とリカ姉に対する意地は、自分はあくまでも勉強をしに行くのだ、という歪《いびつ》な妥協案をひねり出した。マンションの駐車場で、正時は実にほのぼのとした表情を浮かべて線香花火の火花を見つめている。その背後では、リカ姉が正時の尻《しり》の下に置いた爆竹の導火線にチャッカマンで火と点《つ》けようとしている。近くの植え込みの陰に隠れた虎縞《とらしま》模様の野良猫《のらねこ》がその様子をじっとりとうかがっており、マンションの五階では父と母が、リカ姉の旦那の実家に今すぐ挨拶《あいさつ》の電話をかけるべきか、それとも今夜はもう遅いので明日の朝にすべきが議論をしている。
そして、岬島《みさき》は、遥《はる》か太平洋の彼方《かなた》で武田《たけだ》正時《まさとき》をじっと待ち受けていた。
鬼《おに》ババが見下ろしていた。
酔《よ》い止めの薬が効きすぎていたのか、驚くにはまだ眠《ねむ》すぎた。
本当はババアなのかもしれないがどう見ても鬼だ。しわくちゃの顔もぶっとい腕も真っ黒に日焼けしており、頭に巻いたタオルは角《つの》を隠すためかも知れず、ビア樽《だる》のような巨体にイルカの絵がついたエプロンを着けている。両手にはゴム手袋をはめて、正時のわき腹にあたりを箒《ほうき》の柄《え》でぐりぐりやっている。
「もうとっくに着いたよ」
鬼ババが口をきいた。
「邪魔。掃除の」
今度こそ驚いた。床に敷き詰められている絨毯《じゅうたん》は台所用のスポンジのようにざらざらで、身じろぎをした拍子《ひょうし》に肘《ひじ》がこすれてものすごく痛かった。足を空回りさせながら立ち上がって部屋を飛び出す。通路の手すりにもたれて安堵《あんど》の息を吐《つ》いているといきなり鬼ババがドアから顔をのぞかせ、忘れもん、とボストンバッグを正時の胸元に放り込む。舌がこわばって礼も言えないうちにドアがばたんと閉まり、その勢いで「仮眠室」と書かれた札が斜めに傾いた。
そして正時は、自分が今どこにいるのかをやっと理解した。
守人島《もりとじま》行きのフェリーの舷側《げんそく》通路だ。
船内のどこにいても聞こえていたエンジン音は、ぱったりと止《や》んでいた。
腕時計を見る。
三時四十六分。
赤|錆《さび》だらけのタラップを降りて、ほぼ七時間ぶりのコンクリートを踏みしめた。場末の遊園地を思わせるアーチ型の看板《かんばん》をくぐる――『南国の 園・守人 にようこそ』。「楽」と「島」は日焼けの跡でどうにか判別できる。行く手には貧相な構えのみやげ物屋が数件、無線タクシーとレンタカー屋の電話番号、ホテルや旅館までの道筋を示す矢印、観光客の落とす金は小銭の一枚も取りこぼすまいと待ち構える自動販売機の隊列。にぼしのように痩《や》せこけた老人がパンツ一丁《いっちょう》で自転車に乗って、正時の視界をぎっこぎっこと横切っていく。
守人島だった。
フェリーが満載していた観光客たちは、もうとっくにそれぞれの目当ての宿へと散っていったのだろう。しかし、自分にとってこの守人島は、岬島への中間地点に過ぎない。――少なくとも、当初の予定ではそうだった。
さて、これからどうするか。
当初の予定では、岬島《みさきじま》から迎えが来ているということになっていたはずだ。しかし、周囲にそれらしい人の姿は見当たらない。ときおり行き交うのは明らかに現地の住人と思しき年寄りばかりである。
騙《だま》されてフェリーに乗せられた正時《まさとき》としては、リカ姉《ねえ》の言葉を信用する気などカケラもなくしていたが、岬島から迎えがくるよう連絡しておいた――というのは、まあ、相手もいる話ではある。迎えが来るというのも本当なのだろうという気はする。ただ、たとえ本人にそのつもりがなかったとしても、リカ姉が絡《から》んだ以上は連絡の行き違いなどいくらでも起こり得る。迎えに来る人の名前もリカ姉は岸壁から何やら叫んでいたようだがうまく聞き取れなかったし、待ち合わせの場所がどこなのかについてはそもそも聞かされた憶《おぼえ》えがない。このフェリー乗り場で待っていればいいのだろうか。
まあいいか、と正時は思った。
リカ姉に騙されたこと自体は腹立たしくもあるが、それは同時に、今後はリカ姉に振り回されずに自由にやれるということでもある。そう考えると晴れ晴れした気分だ。
よし。
とりあえず、来るかどうかわからない迎えを超テキトーに待ってみよう。
そこらにいる誰かを捕まえて、こちらから岬島に渡れる手段があるかどうかを尋ねてみてもいい。それでも駄目《だめ》なようだったら仕方がない、それ以上の努力をしてまで岬島まで行かなければならない義理もないと思う。幸い母は出がけにそれなりの額の金を持たせてくれたし、この守人島《もりとじま》で二、三泊して遊んでいくという手もある。あ、いいなそれ。
だが、腐《くさ》っても守人島は観光地であり、今は夏休みの真《ま》っ只中《ただなか》である。果たして飛び込みで宿が取れるかどうかは微妙なところであろう。やはり、岬島に渡れるなら渡れるのがベストなのか。
炎天下《えんてんか》に突っ立っているのにも疲れた。正時はもう一度周囲を見回してみたが、やはり自分を迎えに来たらしい人の姿は見当たらなかった。一番近くのみやげ物屋に足を向けてみる。店先に「おみやげ」と書かれたのぼりが出ているのでみやげ物屋とわかるが、ぱっと見はどちらかといえば駄菓子《だがし》屋のような感じだ。
店先からそっと中をのぞいて声をかけてみる。
「すいませーん」
「なんじゃい」
いきなり真後ろから返事が聞こえて跳《と》び上がった。背後にいたのはごま塩頭の老人で、やけに鋭い眼光で正時をじっとりとにらみつけている。正時が客かもしれないという可能性などこれっぽっちも信じていない目つきをしていた。
「あ、あの、」
老人は正時を頭のてっぺんからつま先までじろじろと見回して、いきなり、
「家出か」
「ち、違いますっ」
老人は小馬鹿《こばか》にするように鼻を鳴らして、
「店を出て右向け右、ちょいと歩くが道なりに行った先に役場がある。入ってすぐのところに公衆電話があるからまず家に電話しろ。観光旅行協会は一回の廊下のどん詰まりだ。正直にわけを話して適当な民宿にでも放り込んでもらえ、飯を食って風呂《ふろ》に入って早寝しろ。フェリーは明朝十時に出る。両親はお前のことを嫌ってはおらん。行きたくないなら学校など行かんでいい。お前のことを好きになってくれる女がこの世のどこかにきっといる。以上だ」
一気に喋《しゃべ》って、老人は正時《まさとき》のわきをすり抜けてすたすたと店の奥へと、
「あの、違うんです、そうじゃなくて」
「金なら貸さん。その場合は左向け左、100メートルほど行った左手に交番がある。しかし覚悟《かくご》しておけ、あそこのお巡りはわしほど優しくはない。こんな島にもたまに来るんだお前のような輩《やから》が。かっ、まったく薄気味の悪い話だ。一体なにを期待しておるのやら、島じゅうのヤシの木を揺すってみたところで『本当の自分』など落ちてきやせんぞ!」
言うだけ言って、老人は奥の部屋に上がり込んで引き戸をぴしゃりと閉めた。
正時は慌《あわ》ててポケットから小銭入れを取り出した。ガラスケース方の冷蔵庫からコーラを一本つかみ出して大声で、
「これくださいっ!」
すぐさま引き戸が開いて老人の横顔がのぞいた。相変わらずの仏頂面《ぶっちょうづら》で、腹立たしげな舌打ちをひとつ、
「――二百円」
正時は呼吸を止めて、敵の罠《わな》に踏み込んでいくような気持ちで店の奥へと進んだ。小銭入れから百円玉を二枚数え、無愛想《ぶあいそう》に突き出されて染《し》みだらけの手の中に落とす寸前で、
「あの、実はぼく、岬島《みさきじま》に行きたいんです」
岬島――と聞いた老人の目が細くなる。
「迎えが来ているはずだったんだけど、どうも連絡に行き違いが遭ったみたいで。どうにかしてこっちから行く手がないかと思って、もし岬島まで乗せてくれる船とかあれば、」
「ない」
それまでとはひと味違う冷たい拒絶。正時は思わず口をつぐみ、老人はじっとりした目つきで正時をにらみつけ、
「お前、あの島の生まれか」
「違います。えっと――」
正時は恐ろしくなった。老人は先程とは一転、正時が下手《へた》なことを口走ろうものなら喉《のど》元めがけて飛びかかってきそうな雰囲気だ。
「――親戚《しんせき》がいるんです。つまりその、父の妹が、あの島の人と結婚して、」
老人がいきなり大声で怒鳴《どな》った。
「この島の者は蟹食島《かにくいじま》の連中とは付き合わん! とっとと出て失《う》せろ!」
正時《まさとき》はひとたまりもなく逃げ出した。背後で物を投げつけられる激しい物音。見知らぬ土地で見知らぬ大人《おとな》に突然浴びせかけられた敵意は足が震えるほど恐ろしかった。アーチ型の看板《かんばん》の近くまで逃げ戻ってもまだ足を止めることができず、老人が追いかけてくるような気がして走りながら背後を振り返ったせいで、逆方向から歩いてきた若い男と正面|衝突《しょうとつ》してしまった。
正時は体重差に跳《は》ね飛ばされ、男はその場に尻《しり》もちをついた。
しかし男はすぐさま起き上がった。ひっくり返っている正時を見て「どえらいことをしてしまった」という顔で、
「ああっ!」
と叫び、正時の手から落ちたコーラの缶が転がっていくのを見て「こいつはどえらいことだ」という顔で、
「ああっ!?」
と叫び、獲物に跳《と》びかかる猫《ねこ》のような動作でコーラの缶を捕まえようとしていたのだが惜しいところで間に合わず、コーラの缶は岸壁の縁から転げ落ちて、どぷん、という水音が聞こえた。
「ああ……」
男はがっくりと肩を落とす。見ていてかわいそうになるほどの意気消沈ぶりである。正時は呆気《あっけ》に取られていた。転んだ痛さよりも驚きのほうが勝《まさ》っている。
なんだこの人。
「――あの、」
男がくるりと振り返り、
「ああっすまん! 大丈夫だったか、怪我《けが》はないか?」
やけにきびきびした動作で助け起こされる。大丈夫です平気です、といっているのにいつまでも身体《からだ》をまさぐっている男をちょっと気味悪く思う。まさかとは思うが財布《さいふ》を掏《す》られないようにポケットを押さえ、ボストンバッグを拾い上げて、
「ほんとうに大丈夫です。あの、ぼくの方こそすいませんでした」
「本当に申し訳ない、こっちも注意が足りなかった、待ち合わせに遅れて急いでいたんだ」
――待ち合わせ?
正時は驚いて男を見つめ、男も正時の心の声を聞いたかのように動きを止めた。
ふたり同時に、
「あの、待ち合わせってひょっとして、」
「もしや君、武田《たけだ》正時くんか?」
一瞬の間。
正時《まさとき》の表情に肯定の色を読み取って、男は身体《からだ》がしぼむような安堵《あんど》の息を吐《つ》いた。すぐさま背筋を伸ばして、メリハリの利いた動作で指いっぱいに開いた右手を勢いよく突き出してくる。カンフー映画のパンチやキックを繰り出すときの効果音が聞こえてきそうだ。ちょきを出せばこっちの勝ちなのかと思ったが、どうも握手を求めているらしい。見たところ二十歳《はたち》くらい、袖《そで》をぶっちぎったサイケな柄《がら》のTシャツに作業ズボン、頭には海賊縛《かいぞくしば》りした青いバンダナ。痩《や》せているのに筋肉質な、どこかブルース・リーを思い出させる身体つき。
「可久楽部《かくらべ》航一郎《こういちろう》という。君を迎えにきたんだ」
へんな人だ。
握手に応じようとしたそのとき、正時はコーラの代金の二百円を握り締めたまま逃げてきてしまったことにやっと気がついた。
道々、男といろいろ話をした。
二十八|歳《さい》と聞いてまず驚いた。二十歳くらいに見えると言うと、そうかなあいやあ照れるなあと頭を掻《か》いた次の瞬間に「どえらいことを思い出した」という顔で、
「ああっ!?」
と叫んだのでまた驚いた。さっき海に落としてしまったコーラを弁償《べんしょう》するという。どうしても飲みたかったわけではないし、結果的には万引きのような形になってしまったこともあって気が引けるので、いいですよべつに、と遠慮したのだが男は聞く耳を持たず、ようやく見つけた自販機を前に「こいつはどえらいことだ」という顔で、
「ああっ!」
と叫ぶのだった。コーラが売り切れていたらしい。
フェリー乗り場から海沿いに十分ほど歩いた先に、防波堤に囲まれた船着場があった。
さあ乗った乗った、と促《うなが》されたのはFRP製の汎用《はんよう》漁船だった。全長は10メートルほどだろうか、船体中央よりも少し後方にずんぐりした形の操舵《そうだ》室があって、屋根の上にはライトやスピーカーやアンテナが突き出ている。舳先《へさき》の先端が少しだけ丸みを帯びているのがちょっとかわいいと正時は思う。それなりに傷や汚れも目立っていたが、白い船体の描く緩《ゆる》やかな曲線は、大きくてきれいな動物を思わせる頼もしさが感じられた。
舳先の側面には「あるかでぃあ号」とある。
岸壁は結構な高さがあって、コーラの代わりに買ってもらったスポーツドリンクを慌《あわ》てて飲み干して縄《なわ》ばしごで船まで降りた。正時は船に乗った経験があまりない。さっきまで乗っていたフェリーを含めても片手で数えられるほどの回数であるし、もちろん漁船に乗るなど生まれて初めてだ。なんだかわくわくしてきた。フェリーよりもはるかに小さい船体が、なんだか小型の宇宙船という感じがする。
みやげ物屋の老人の話をすると、男は大声で笑った。
「そいつは災難《さいなん》だったが、しかし何と言うか、君もよくよく運がないらしいなあ」
大昔ならともかく、今の守人島《もりとじま》は外から来た人間に対しては寛容《かんよう》なはずだと男は言う。例外的に遥《はる》かな昔から人が住んでいた岬島《みさきじま》に対して、守人島に炭鉱が発見されて労働者の入植が始まったのは昭和の初め頃のことらしい。石炭を掘り尽くして以降の生きる道を観光に求めた守人島は、早くから「よそ者慣れ」して近隣の島々の中心的存在となった。本土に最も近いせいもあって、人口も増え、立派な学校や病院が建設された現在では、他島の人間だからという理由で差別されるようなことはまったくないという。
「おれも高校は守人でアパートを借りて通ったし、その頃の知り合いでいまだに付き合いのある奴《やつ》も何人かいるしな。もっとも、お爺《じい》お婆《ばあ》の世代になると今でも多少は|ある《、、》らしいけど。ここの年寄り連中はもともと島の観光地化にも反対だったらしいから。――それにしたって、物を投げつけて追い返すなんて頑固者《がんこもの》は聞いたことないよ。ひょっとして君は、ババ抜きで初手《しょて》からババを引き当ててそのまま負けるタイプか?」
酔《よ》い止めの薬はフェリーの仮眠室で一度飲んでいる。もう一度飲んでおくべきか、それとも飲みすぎは身体《からだ》に悪いだろうかと迷っているうちに、男はさっさと舫《もや》いを解いて船に飛び乗ってきた。船も車と同じで鍵を回してエンジンをかけるのが正時《まさとき》にはちょっと意外で、あるかでぃあ号はたちまち速度を上げて防波堤の囲いから飛び出していく。揺れる揺れる、フェリーとは大違いで、船べりでぼやぼやしていると頭から水しぶきをかぶったりする。様々な機器が満載された操舵《そうだ》室はまさに宇宙船のコクピットのようだった。速度計、羅針盤《らしんばん》、無線、レーダー機能が追加された魚群探知機、GPSはわかるがロランCというのは初耳で、衛星系のGPSに対して地上系の電波を使用して現在位置を特定するシステムらしい。舵輪《だりん》は車のハンドルほどの大きさで、二本のレバーは出力調整のスロットルと「前進《ゴーエイ》」「後進《ゴスタン》」の切り替えクラッチ。ゴーエイとゴスタンは"go-ahead"と"go-astern"が訛《なま》ったものだという。
そこを開けてみろと男が言うので床の大きな扉をかけてみると、中は造りつけの巨大なクーラーボックスのようになっていて、敷き詰められた大量の氷の上に70センチは下るまいと思われる真鯛《まだい》が横たわっていた。
「そいつが遅刻の理由だ。自己記録更新だよ」
それはそうだろう。これだけでかいとはっきり言って怖い。塩焼きになって結婚式の引き出物に入っているあれと同じ種類の魚とは思えなかった。
「君の歓迎会に何か手土産《てみやげ》を持っていこうと思ってな。早目に着いておきたかったから二時半までやってダメなら諦《あきら》めようと思ったんだが、これがまたえらくてこずらせやがってさあ」
プロの漁師なのか尋ねたら違うという返事が返ってきた。岬島の主要な産業は農業と畜産で、漁業のみで生計を立てているものは皆無《かいむ》に近いらしい。金も土地もないので大規模な冷凍施設や水深の深い港が造れないし、消費地から遠すぎて輸送コストがかさむので商売として成立しないのだという。岬島のような小さな島にはよくあることらしかった。
それにしても、歓迎会などしてもらっていいのだろうか。
勉強しに来たのに。
――あれ?
何か忘れているような気がする。先ほどから頭の底を漂《ただよ》っている微《かす》かな違和感。
ええと、なんだっけ――
男に何かを尋ねようと思っていたのだ。
岬島《みさきじま》には漁業のみで生計を立てているものは皆無《かいむ》に近いという話を聞いて、ふと疑問に思うことがあって、質問しようと思って口を挟《はさ》むタイミングを待っているうちに何の話をするつもりだったのか忘れてしまったのだ。大事なことだったのか別に大したことではないのか、それさえも思い出せない。なんだっけなんだっけ、ああいらいらする。
「――おい、どうした」
黙り込んでしまった正時《まさとき》に男が声をかけてきた。正時は俯《うつむ》いたまま返事をしない。男がもう一度声をかけようとしたとき、正時は真《ま》っ青《さお》になった顔を上げて、船べりから上体を突き出して胃液を吐《は》き出した。
それからは、地獄の航海だった。
これほど強烈な乗り物酔《よ》いを正時はかつて経験したことがなかった。やはり酔い止めを飲んでおくべきだったと後悔したが、飲んだところで結果は同じだったかもしれない。血の気が引いたところにゲロのショックで震えがきて、真夏の炎天下《えんてんか》だというのに寒くてたまらず、男に借りた毛布《もうふ》をかぶって頭痛と吐き気を噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]みしめた。これさえ飲めば大丈夫、と男が自身たっぷりに言うのでどんなすごい薬をくれるのかと思ったら、手渡されたのはファイト一発のスタミナドリンクだった。
「ぼくはどんな病気もこれ一本で治す」
こういう人は確かによくいる。正露丸《せいろがん》や青汁なんかを神より授《さず》かった万能薬《ばんのうやく》のように信奉して、相手が風邪《かぜ》だろうが花粉症だろうがお構いなしに飲め飲めとすすめるのだ。それにしてもこの男は常にスタミナドリンクを持ち歩いているのかと不思議に思ったが、どうやら船に常備されている非常食のストックから出してきたものらしい。もうヘロヘロでキャップも満足に開けられない正時を尻目《しりめ》に、男は茶色のボトルをぐびぐびやりながら「これがあれば大昔の船乗りも壊血病《かいけつびょう》にならなかったのになあ」としみじみつぶやいている。
あるかでぃあ号は波しぶく大海原を行き、舳先《へさき》が波を蹴《け》るたびに、死ぬのではないかと思うほどの吐き気と頭痛に苛《さいな》まれた。
ときおり身体《からだ》が浮き上がりそうになるほどの揺れに翻弄《ほんろう》されながら、こんなところに来るんじゃなかったと心から心から思った。満員電車で予備校に通う方がどれだけマシだったかもしれない。汗《あせ》かきオヤジの腋臭《わきが》と腹の底から搾《しぼ》り出される胃液の味、四方八方から密着してくる湿っぽい体温と身の凍《こお》るようなあぶら汗、つま先を踏みつけてくるハイヒールと眼孔の奥から染《し》み入ってくるような激痛。これは単純な二者択一の問題だったのだ。家に帰りたい、今すぐテレポートして帰りたい。こんな潮《しお》くさい毛布《もうふ》ではなく、自分の部屋の自分の布団《ふとん》に包まって三十六時間くらい眠《ねむ》りたい。やがて体力も尽き果て、永遠に続くかと思えた地獄も疲労と眠気《ねむけ》で薄められていく。
「おーい、」
男が呼びかけてくる。
ほっといてくれと思う。これだけ揺られて酔《よ》わない奴《やつ》の方がどうかしているのだ。こんな海のど真ん中で平気で生きていけるなんて、あんたら絶対海生|哺乳類《ほにゅうるい》か何かだろう。もう付き合いきれない。
「この時間の眺めが一番好きなんだ。一見の価値はあると思うぞ」
うるさいなあもう。
毛布の隙間《すきま》から差し込む夕日に時計をかざした。六時十二分。もう二時間も乗っているのかと少し驚いて、再びこみ上げてくる胃液を飲み下しながら上体を起こして、武田《たけだ》正時《まさとき》は船酔いを忘れた。
想像していたよりずっと大きな島だった。
これほど大きな空も三百六十度の水平線も生まれて初めて見た。宗教画のような夕日に照らされて、巨大な雲塊《うんかい》を背後に従えて碧《みどり》の海に佇《たたず》む島の姿は本当に圧倒的だった。こんな光景はテレビでも見たことがない、無理にカメラを向けてシャッターを切ったらフィルムが火を噴《ふ》くかもしれない。変化に富んだ海岸線、素人《しろうと》目にも本土のそれとは異なる植生、夕日の中で一斉《いっせい》に方向を変える海鳥の群れ。
岬島《みさきじま》だ。
――海賊《かいぞく》のアジトだ。
声に出ていたらしい。男は感心したような笑みを浮かべて振り返り、
「武田《たけだ》一族は詩人の血筋だな。理香子《りかこ》さんは緑色の毒キノコだって言ってたけど」
男は島の中央部を覆《おおい》い尽くしている森を指差した。
「ソラノキの群生林だよ。この辺の島の固有主なんだけど、あの森の木は全部が親戚《しんせき》みたいな関係で、地面の下で根っこが網の目みたいに繋《つな》がっているんだ。ほら、森のてっぺんに生《は》えているでっかい木。見えるか?」
見える。扁平《へんぺい》な感じが確かにキノコの傘《かさ》のようにも思える森の中央部分が周囲よりもひときわ大きく盛り上がっている。一本の木じゃなくて、複数の木がより合わさってそのままでかくなったものらしいんだけどな」
巨木の遥《はる》か直上に、気の早い星が瞬《またた》いていた。
想像が先走った。正時は巨木の根元にいて、分厚く折り重なった梢《こずえ》をすかして天を見上げていた。日が落ちると森は闇《やみ》に閉ざされ、星はいつか見た天体写真のように渦《うず》を巻いて、聳《そび》え立つ巨木はその中心を指し示すだろう。耳を澄ませば、梢《こずえ》の先が天の高みを目指して伸びていく音が聞こえるかもしれない。
船べりから身を乗り出して、島を見つめて正時《まさとき》は思った。
この島は、岬《みさき》だ。
「さて、あと少しの辛抱《しんぼう》だ。みんながご馳走《ちそう》の用意をしてるからな。もう二、三回くらいは吐《は》いて腹減らしといた方がいいぞ」
男は笑いながらエンジンの回転を上げ、いっぺんに現実へと引き戻された正時は、船べりにすがりついてこの日最後のゲロを吐くのだった。
[#改ページ]
※[#挿絵画像 01_051]|挿絵《P.51》
A
岬島《みさきじま》の港はかなり変わった造りになっていた。近くで見るとますます海賊《かいぞく》のアジトだ。方々に土塁《どるい》が張り巡らされ、トーチカにも似た石造りの構造物があちこちにあって、港というよりは要塞《ようさい》のような印象を受ける。大昔に造られた遺跡《いせき》のような施設をそのまま利用しているらしく、全体としての攻撃的な感じは確かに異様ではあるが、同時に外国の古い町並みを見ているような趣もあった。
「本土《やまと》からも遠く離れたちっぽけな島だからな。大昔からずっと、自分たちの身は自分たちで守るしかなかったのさ」
男は、あるかでぃあ号を慎重《しんちょう》に操船して岸壁へと寄せていく。
「海賊なんて聞くと大昔の話と思うかもしれんがな、ここらの海には戦後くらいまで物騒な連中がごろごろいて、貨物船を襲ったり島から女をさらったりしていたんだ。マレーシアとかインドネシアの方まで行くと今でもいるらしいぞ。高出力のエンジン積んだ小型|艇《てい》で、鉄砲《てっぽう》やら棍棒《こんぼう》やら持って乗り込んで来るんだってさ。外国の船なんかは、本当にヤバい海峡を通り抜けるときには用心棒を連れていくらしいんだけど、こないだ守人《もりと》の飲み屋でちょっと知り合ったヤクザくずれなんか、用心棒として乗り込んだ船が海賊に襲われて銃撃《じゅうげき》戦になったって言っていたぞ」
男が投げた舫綱《もやいづな》を堤防で受け止めたのは、すらりと背の高い白衣《はくい》の女だった。ところが白衣の下は黒いTシャツにジャングル迷彩のパンツという何とも食い合わせの悪いスタイルで、何かよほど面白くないことでもあったのか、笑えばさぞかし美人であろうにと思わせる顔の口元をむっつりとへの字に結んでいる。白衣を腕まくりした細腕に似合わぬ手際のよさで舫綱を結びつけ、息も絶え絶えに縄《なわ》ばしごをよじ登ってきた正時を見下ろして、
「うっわぁ〜、顔|真《ま》っ青《さお》じゃない。――ねえカンフー、私、あんたが出かけるときにスコポラミンのパッチ渡したよね?」
カンフー?
正時は思わず背後を振り返ってしまう。男はまだ船上にて、クーラー室から鯛《たい》を引っぱり出そうとしていたが、白衣の女の指摘に「どえらいことを忘れていた」という顔で、
「ああっ!」
と叫んだ。白衣の女は深いため息をつき、くるりと正時に向き直って、ポケットから取り出したペットボトル入りの水を握手代わりに差し出した。
「始めまして、可梨津部《かりつべ》姉子《あねこ》です。長旅お疲れさま」
口は相変わらずへの字だが、そこから発せられる言葉は女性らしい優しさに満ちていた。どうも機嫌が悪いわけではなくて、もともとこういう顔の人らしい。正時《まさとき》はフラつく足でどうにか立ち上がり、ペットボトルを受け取って、
「――初めまして、武田《たけだ》、」
そこでまた胃袋がよじれた。とっさに堤防から身を乗り出して吐《は》こうとしたら、その真下で縄《なわ》ばしごをよじ登っていた男が「こいつはどえらいことだ」という顔で、
「わああっ!? やめろばか!!」
幸運なことに、正時の胃袋は苦しげな空《から》えずきを繰り返すばかりだった。男は転がるように堤防に上がり、白衣《はくい》の女は正時の背中をさすりながら、
「うわーこりゃダメだ。ねえ正時くん、私と一緒に診療所に行こ」
正時はペットボトルの水で口をすすぎ、白衣の女に促《うなが》されて堤防をよろぼい歩く。男は正時のボストンバッグと鯛《たい》の尻尾《しっぽ》にロープをかけて堤防の上まで引っぱり上げ、両方を両手に提《さ》げて二人の後をばたばたと追いかける。
港の入り口には、紅白のだんだら模様に塗られた原チャリとスクラップ寸前の軽トラックが止められていた。
男は荷台に置かれた発砲《はっぽう》スチロールの箱に鯛を放り込み、正時のボストンバッグを持って運転席に座るとすぐさまエンジンをかけた。相変わらずのきびきびした動作だ。
「それじゃ姉子《あねこ》、正時のこと頼むぞ。おれは先に写真館に行ってるから」
「わかった。それじゃまた後で」
正時は走り去る軽トラックを呆然《ぼうぜん》と見送った。あんなオンボロがまともに走るだけでも驚きだ。ナンバープレートすら付いていないように見えたのは気のせいだろうか。
「さ、早く乗って」
白衣の女はすでに原チャリにまたがっている。ずんぐりした形のスクーターで、こちらはきちんとナンバープレートもついている。よくよく見れば、カウルに塗りたくられている紅白のだんだら模様はどうやら、救急車っぽいカラーリングに少しでも近づけようと苦労|惨憺《さんたん》した結果であるらしい。
吐き気の隙間《すきま》から、くすっ、と笑いがもれた。
白衣の女は、むすっ、とした顔で振り返って、
「え、なに?」
「あ、いや――」
これ自分で塗ったんでしょ、とは言えず、
「カンフーって、いいあだ名だなあと思って」
「まあ、この島の人はだいたいみんなあだ名で呼び合うからね」
「じゃあ、先生のことはなんて呼べばいいんですか?」
「とりあえず『先生』と敬語はやめて。姉子《あねこ》でいいわ。早く乗って乗って、フルスピードで飛ばせば三分もかかんないから」
正時《まさとき》は胃液の味がするげっぷを飲み下《くだ》して荷台にまたがった。ヘルメットは、と尋ねるよりも早く姉子はアクセルをめいっぱい開ける。救急原チャリは港を飛び出して、レンガ造りの倉庫街を走り抜けたところでわき道に逸《そ》れぐんぐん速度を上げていく。シートのふちを掴《つか》んで必死に加速に耐えていたが、腰に手を回してしがみつけと言われて正時はおずおずと従った。
「背中にゲロはやめてね、これでも一張羅《いっちょうら》なんだから!」
調子よく走り続けていた救急原チャリは、最後の急な坂道にさしかかるとあっという間に失速した。二人ともシートから降りて、原チャリを押しながら最後の10メートルをどうにかこうにか登りきった先に、木造平屋建ての岬島《みさきじま》診療所があった。
「ここ、先生の自宅ですか?」
「やりなおーし」
「――ここ、姉子さんの自宅?」
「やりなおーし」
「――――。ここに住んでるの?」
「自宅は別。急な患者《かんじゃ》さんが出たときなんかは泊まり込むこともあるけど」
八回の転校を経験した正時である。いまさら人見知りをするようなタマでもないのだが、知り合ったばかりの年上の女性にいきなりタメ口というのはかえって疲れる。診療所の入り口には当然のように鍵はかかっておらず、入ってすぐいきなり診察室だった。田舎《いなか》の学校の保健室に似た雰囲気。
「辛《つら》かったらベッドに横になってて」
「風にあたったせいかな、さっきよりはちょっと楽です。――あ、」
姉子はじろりと正時をにらみつけ、まあいいか、と苦笑する。正時は二つあるベッドの片方に腰を下ろして、
「あの、さっき港で言ってた薬――えっと、何だっけ、」
なにそれ、と姉子は振り返って、
「――ああ、スコポラミンパッチ? 副交感神経|遮断《しゃだん》剤の貼《は》り薬よ。昔の宇宙飛行士が宇宙|酔《よ》いを防ぐために使ってたのと同じやつ。普通にそのへんで売ってる抗ヒスタミンの酔い止めなんかよりずっと強力だからね、せっかくカンフーに持たせたのに、あのバカ、渡すの忘れたんでしょ?」
副交感神経遮断。なにやら癌《がん》でも治ってしまいそうな響きであるが、そう聞くと確かに痛恨事《つうこんじ》ではあった。カンフーがその恐ろしげな薬をちゃんと渡してくれてさえいれば、こんな苦しい思いをしなくてすんだのかもしれない。まったく何がファイト一発か、あんなので船酔いが治まるものか。
「まあ、あれ使ってもダメなときはダメなんだけどね。場合によってはものすごく眠《ねむ》くなっちゃうこともあるから、旅行で使うのにはちょっと向いていない気もするし。あ、でもあんまり人に言わないでね。あれまだ日本《にほん》じゃ使っちゃいけないことになってるから。外国の船に乗ってる知り合いからときどき分けてもらってるんだけど」
姉子《あねこ》は丸|椅子《いす》をガタガタ引き寄せて正時《まさとき》の目の前に座った。白衣《はくい》の胸ポケットからペンライトを取り出して、正時のまぶたを親指で押し下げて目の中をのぞき込む。右目、左眼、
「はい、あーんして」
あーん、
「あらら、ゲロの吐《は》き過ぎだ。喉《のど》の粘膜《ねんまく》が胃酸でやられてるわ」
うりゃ、という感じで喉に薬を塗られた。気遣いの感じられない乱暴な手つきに正時は涙目になっていると、
「はい胸出して。っていうかもう上脱いじゃって。ついでに下も」
船|酔《よ》いの診療でなぜ下まで、とは思ったのだが、医者の言うことなので正時は仕方なくパンツ一丁《いっちょう》になった。ところが、自分が脱げといったはずの姉子が正時の胸元あたりを見つめて硬直している。正時は姉子の視線の先を辿《たど》って、
「――あ、」
リカ姉《ねえ》がくれた謎《なぞ》の首飾りだった。
ずっと首にかけていたのをすっかり忘れていた。
「これ、ぼくも何なのかよく知らないんですけど、ここに来る途中でリカ姉がくれたんです。あ、リカ姉っていうのはぼくの親父《おやじ》の妹で、」
「理香子《りかこ》さんがっ!?」
正時が思わず身をのけぞらせてしまうほどの大声だった。
しかし姉子はすぐに我に返って、その場を取り繕《つくろ》うかのようにぶんぶんと両手を振って、
「あ、ちがうちがうごめんなさい。いきなりその、ちょっとびっくりしたから」
びっくりしたのは正時である。首飾りを指でそっとつまみ上げ、
「これ、何なんですか?」
え、と姉子はまだ別の方向に驚いたような顔をして、
「――知らないの?」
だから最初からそう言っているのに、と正時は思ったが、姉子はなぜかほんの少しだけ安心したような表情を見せた。正時にはその反応がさらに不可解で、
「リカ姉は何も説明してくれなかったし――っていうか、ちょっと色々あって聞く暇《ひま》がなかったんです。教えてくださいよ、これって一体、」
姉子は、むすっ、と口をへの字に結び直して、
「そ、それはね、首飾りです」
まるっきり見たままではないか。というよりも、これは明らかに後から首飾りに加工されたものであって、正時《まさとき》が本当に問題にしたいのはタコ糸の先についている円筒形の物体なのだ。姉子《あねこ》は丸|椅子《いす》の上でぴしりと姿勢を正している。が、その視線は正時を見ているようで見ていない。
「つまりね、それは、幸運のお守りなの。この島の工芸品で、身につけていると成績が上がったりパチンコに勝てたりすてきな彼女ができたりするの。そういうことなの。わかった?」
最初は言葉を手探りしていた姉子の口調も、最後にはびしりと断定するようなものに変わっていた。この話はこれでおしまいっ、という厳しい目つきをしている。
うーん、
わかったようなわからないような。
ただの工芸品ならあんなに驚かなくてもいいだろうと思う。胸に聴診器《ちょうしんき》を当てる邪魔《じゃま》になりそうだったので外そうとしたら、それは大事なものだしうっかり外して失《な》くすと大変だからはずすなと言われた。よっぽどもう一度問いただしてやろうかと思ったのだが、さらにあれこれと診察を受けているうちに「医者と患者《かんじゃ》」という図式が再び息を吹き返して、一時の動揺から立ち直った姉子に再びペースを握り返されてしまった。
「はい後ろ向いて」
背後に聴診器が当てられた。その次は触診《しょくしん》で柔《や》らかい手で身体《からだ》中をまさぐられてちょっと気持ちいい。気持ちいいのだが、
「――あの、」
「ん?」
「さっきからずっと、これ、船|酔《よ》いと何かの関係が」
「ないわよ全然」
きっぱりと言い切る姉子の手には、ガラス製の古めかしい注射器が鈍く輝いている。
「ちょっと血を採るね」
「ち、血を採るって」
「この島に入る人は、みんな健康診断を受けなきゃいけないって規則なの。こういう閉鎖《へいさ》された環境では外から持ち込まれる病気が一番の脅威《きょうい》なの」
それはわかるが、わかるが、
「ぼ、ぼくは別にどこも悪くなんか、」
「それは私がこれから判断します。――とか言っちゃって、本当は注射が怖いんでしょ?」
幼稚な挑発に正時はむっつりと腕を差し出し、姉子は手早くゴムバンドを巻きつけると静脈から赤黒い血液を抜き取った。
「はい次はこれ。トイレはそこのドア出て右手にあるから」
今度は検尿《けんにょう》だ。出て右手にあるドアを開けると確かにそこがトイレだったが、洋式の便器が、ひとつあるだけなので、どういう姿勢で紙コップにおしっこを取ったらいいのかちょっと悩んでしまう。便座に座ったのではどうにも具合が悪いので、便器の前に立ってちょっと腰を突き出す感じで済ませることにしたのだが、でもこれでは便器が遠すぎてこぼれるときはこぼれてしまうと思う。部屋の隅っこでしてるのとあまり変わらない。
ふと思う。
リカ姉《ねえ》も、この診療所で同じ検査を受けたのだろうか。
島外からの来訪者には健康診断が義務づけられているということは、自分は船酔《よ》いをしているしていないに関係なく最初からこの診療所に連れてこられる手はずになっていたということだ。姉子《あねこ》はあらかじめ港にいてあるかでぃあ号の到着を待っていたし、この診療所が町からちょっと外れた場所にあるのもきっとそのせいだろう。島外から来た人間をいったん隔離《かくり》しておく意味があるのだ。
この島は、外部の人間をまったく信用していないような気がする。
考えすぎだろうか。
「はい、これ」
自分の尿《にょう》を女の人に見られるというだけでちょっと恥ずかしい。なのに姉子は紙コップの中身をまじまじとのぞき込んで、
「うわー」
「な、なんですか」
「いや、疲れているなあと思って。それじゃ検査するから適当に待ってて。そこの戸棚にお菓子《かし》入ってるから。麦茶は冷蔵庫の中ね」
そう言って置いて、姉子は正時《まさとき》の血液と尿のサンプルをもって診察室の奥にあるドアから出ていったきり、ずいぶん長いこと戻ってこなかった。
正時もしばらくの間は大人《おとな》しくベッドに座っていたが、次第に退屈してきて診察室の中を歩き回り始めた。吐《は》き気も頭痛もだいぶ治まってきていたが、こうして歩いてみるとまだ雲の上を行くような頼りない感じがする。もう服を着てもいいものかと少し迷ったが、この後もまだ何か検査があるかもしれないし、パンツ一丁《いっちょう》でも特に寒くはない。窓から差し込む南国の夕日は刻々と衰えていき、板張りの床にはうっすらと土ぼこりが積もっている。壁の時計は秒針の音がしないタイプだ。
このまま何時間も待たされるのだろうか。
お菓子には食指が動かなかったが麦茶はちょっと欲しかった。ところがグラスが見当たらない。見つかったのは検尿《けんにょう》用の紙コップで、未使用ならまさか汚いこともないだろうが、これに麦茶を入れて飲む気にはちょっとなれない。
あちこち探してみたのだがグラスは見つからず、そのときふと目に止まったのは窓に面して置かれている事務机だった。普段ならそんなところの引き出しにグラスを入れたりはしないだろうが、机の上には湯沸しポットとインスタントコーヒーの瓶《びん》が置かれている。ひょとするとマグカップのひとつくらいは入っているかもしれない、あるとしたら一番深さのある一番下の引き出しかな、そう思って、正時《まさとき》はステンレス製の取っ手を掴《つか》んで引いた。
モデルガンだと思った。
とっさに診察室の奥のドアを振り返る。姉子《あねこ》が戻ってくる気配はない。
オートマチックのピストルだった。引き出し一杯に詰め込まれたフォルダーの上に、まるで文鎮《ぶんちん》か何かのように無造作に載《の》せられていた。
もう一度背後を振り返って、意外な趣味を持っているなあ、と思う。そういえば軍パンなんかも穿《は》いているし。
正時もこの手のものは嫌いではない。かつてのクラスメイトの中にもそういうマニアは何人かいたし、そいつの家に遊びに行って実際に触《さわ》らせてもらったこともある。正時は少しためらってから、引き出しの中に手を入れてグリップを掴《つか》んだ。両手に載せて重さを確かめる。全体に細かい傷や汚れがついており、おもちゃにしては相当に古いもののような感じがする。グリップの中ほどにあるボタンを押すと、マガジンのロックが外れて手の中に滑《すべ》り出てきた。銃《じゅう》本体は傷だらけなのに弾《たま》はやけに真新しい。先端に凹《くぼ》みのついた飴《あめ》色の弾頭《だんとう》と傷ひとつない銀色の薬莢《やっきょう》が、窓から差し込む夕日を浴びて鈍く輝いている。
マガジンをグリップに戻して、ずっと昔に友達に教えられた通りにスライドを引いてみた。
重ったるい手ごたえ。金属の擦《す》れ合う音。
初弾が装填《そうてん》された。
引き金に触れている指が強烈に意識された。
――これ、
恐ろしくなった。ひょっとして、
背後に足音。
胃袋が裏返った。ピストルを引き出しに放り込んでベッドに這《は》い戻る。どんな顔をしていればいいのかわからなくて、とりあえずベッドの上に脱ぎ散らかしておいたTシャツを頭からかぶる。
「やー、お待たせお待たせ」
姉子が戻ってきた。クリップボードを片手に丸|椅子《いす》にどすんと腰を下ろして、
「うん。だいたいOKだけど、最後にもうひとつだけ」
正時は、Tシャツから半分顔をのぞかせた体勢のまま動きを止めた。
「――まだあるんですか?」
「うん、これで最後」
「まだ服着ちゃだめですか?」
「上は着てもいいよ。でもパンツは脱いで」
冗談《じょうだん》だと思った。Tシャツの裾《すそ》を下ろしてズボンを手に取り、
「そんなこと言うとほんとうに脱ぎますよ」
「うん。ほんとうに脱いで」
正時《まさとき》は姉子《あねこ》をまじまじと見つめた。いつもへの字に曲がっている口元にうっすらと笑みが浮かんでいる。その笑みが逆に、姉子が冗談《じょうだん》を言っているわけではないのだということを雄弁に物語っていた。
恐ろしくなった。
「――冗談ですよね?」
「あんたは女の子に冗談でパンツ脱げなんて言うの?」
白い手が伸びて、いきなり正時のパンツを掴《つか》んだ。
正時は悲鳴を上げた。ベッドの上を転がって逃《のが》れようとしたが、白い手は執拗《しつよう》にパンツを引きずり下ろそうとする。姉子はベッドの上にまでよじ登ってきて、ついに正時の腹の上に逆さに馬乗りになってそれ以上の抵抗を封じた。正時からは白衣《はくい》の背中しか見えず、身体《からだ》を起こすことも姉子を押しのけることもできない。すでに半ば以上ずり落ちているパンツには右の手も左の手も届かない。
「わああっ!?」
パンツを引きずり下ろされた。
「はぁ〜い、初めまして下の正時くん。それじゃ検査しますからねー」
ペニスを握られた。思いっきり握られた。生まれて初めてだった。児童福祉法、という言葉が唐突《とうとつ》に脳裏《のうり》に去来する。姉子は白衣《はくい》の背中を丸めて正時の性器を様々な角度からじっくりとのぞき込んでいたが、白衣のポケットを何やらごそごそやったと思った数瞬後、尿道《にょうどう》に焼きつくような激痛が走った。驚きと恐怖がおかしな回路に接続され、正時の悲鳴はいつしか笑い声に似たものへと変わっていく。
「はいおしまい。ご苦労様、もう服着ていいわよ。あ、そうだ、船|酔《よ》いはもう大丈夫? まだ気分悪いようだったら薬あげるから少し寝ていくといいわ」
姉子は手早く後片付けを済ませて再び奥の部屋へと姿を消した。ほの暗い診察室にひとり取り残された正時は、脱ぎ散らかされた服を身につけ、ベッドにぽつねんと腰を下ろして、辱《はずかし》めを受けた少女のようにしくしくと泣いた。
結局、検査の結果はすべてシロだった――らしい。
正時は診察室のベッドに横になったまま、ぼんやりと天井を見つめている。夜が始まりつつあって、診察室の中はすでに文字を読むのも難しい。明かりのスイッチがどこにあるのかわからなかったし、わざわざ起き上がってスイッチを探す気にもならなかったのは姉子がくれた薬のせいかもしれない。
まったく、ものすごい島へきてしまったと思う。
その姉子《あねこ》はもういない。水に浮くキーホルダーから診療所の鍵を外して机に置き、出て行くときは郵便受けに入れておいてくれ、と言い残して帰っていったばかりだ。と思ったらすぐに戻ってきて、写真館には私から話しておくからそのうち誰かが迎えにくると思う、と言い残して今度こそ帰っていった。
写真館って何のことだろう。
カンフーも同じようなことを言っていた気がする。
こうして横になっていると、いまだに身体《からだ》が波に揺られているような気がする。知らないうちにずいぶん日に焼けていたらしく、ぴりぴりと火照《ほて》っている両腕に冷えたシーツが心地よかった。父と母は今ごろ何をしているだろう。夕飯が済んで父は新聞、母は後片付けか、それとも「たまにはいいか」なんて外食にでも出かけてしまったか。
やはり薬のせいなのだろう。頭の中がトロトロしている。
あの2LDKの部屋からこの島までの距離にまったく現実感がない。
自分がこうして見上げている天井が、遥《はる》か遠い南の島の診療所のそれであるなどとは到底信じられない。
まったく、ものすごい島へ来てしまった。
いやというほどゲロを吐《は》いて、やっと目的地にたどり着いたと思ったらいきなりパンツを脱がされた。凄《すさ》まじいパンチ力だ。しかも、それ以前の凄まじい紆余曲折《うよきょくせつ》をも含めた今日という一日がまだ終わっていないのである。とんでもない密度の濃さだ。
これから自分は一体どうなるのだろう。
この先、どんな人たちが自分を待ち受けているのだろう。
ぼんやりと物思いにふけっていると、いつも正時《まさとき》の頭の中に思い浮かぶ数字がある。
――17、20、16、9、21、15、12、13。
八回の転校で八回変わった、正時の出席番号である。
よくよく考えてみれば、この八回以外にもクラス替えなどを経て出席番号が変わったことは何度かあったはずなのだ。なのに、まったく自分でも不思議なのだが、転校をして新たに与えられた番号だけがなぜが順番通りに記憶に残っていて、ふとしたはずみに頭の中によみがえってくるのである。
憶《おぼ》えているのは、出席番号だけ。
昔のクラスメイトや担任《たんにん》など名前も思い出せない。
そして、正時はそれが薄情《はくじょう》なことであるとは思わない。むこうだって、自分のことなど憶えていないに決まっている。
――17、20、16、9、21、15、12、13。
風が強くなってきたらしい。木立《こだち》のざわめく音が海の方から駆《か》け上がってくる。月が出てきたのか、窓の外が次第に明るみ、正時《まさとき》が見つめる天上はその分だけ闇《やみ》を濃くしていく。
眠《ねむ》ることにした。
すぐに目が覚めた。
原因は、まるで虫でも這《は》っているような首筋の違和感だった。それほど深く眠っていたわけではなかったのか、いきなりスイッチが切り替わるように目が開いた。
女の子の妖怪《ようかい》がいて、頭上から逆《さか》さまに正時の顔を覗き込んでいた。
妖怪ではなく女の子なのかもしれない。神秘的なほどに白くてきれいな顔が正時の目の前にある。垂れ下がっている髪の毛の先に頬《ほお》を撫《な》でられるほどの距離だ。これほどの異常な状況下にあって正時が最初に抱《いだ》いた印象は、鼻の穴が小さいなあ、という実に間の抜けたものだった。よくこれで息ができるものだと思う。
が、女の子かもしれないが絶対に妖怪だった。白い顔全体を覆《おお》い尽くしている虎《とら》のような隈取《くまどり》の模様は夜目《よめ》にもはっきり見えたし、見たこともない形の刃物を手にしていたし、何よりも微妙に重力を無視していた。正時の頭上には、ベッドから張り出した手すりのような枠《わく》がある。妖怪は、その細いパイプの上に背中を丸めてしゃがみこんでおり、普通なら絶対にあり得ないバランスを保ちながら大きな身を乗り出して、息がかかるような至近《しきん》距離から正時の顔をのぞき込んでいるのだ。
――いや、違う。
あまりの距離が近すぎてすぐにはわからなかった。妖怪は正時の顔をのぞき込んでいるのではなくて、正時の首にかかっているタコ糸を摘《つま》み上げて、その先にぶら下がっている円筒形の物体をじっと見つめているのだった。わずかに目を見張って、口を薄く開いたままで、それは、ひと回りしてむしろ無表情に近いものとなった驚愕《きょうがく》の表情、だったのかもしれない。
ここで初めて、正時の顔が恐怖に歪《ゆが》んだ。
そして妖怪もまた、正時が目を覚ましていたことに驚いて息を呑《の》んだ。
正時も妖怪も身動きもままならず、目が覚めてから一秒が過ぎた。
正時が悲鳴を上げようとした、その呼吸に反応して妖怪も動いた。手にしていた刃物を振り上げて正時の喉笛《のどぶえ》に振り下ろしたのだ。刺されて死ぬってあんまり痛くないんだ、と正時は思ったが、ベッドの底板まで突き通った刃が切断したのは正時の頚《けい》動脈ではなく、その首にかかっていたタコ糸だった。妖怪は首飾りを奪い去ると同時に刃物を引き抜き、正時を載《の》せたベッドがずれ動くほどの勢いでパイプを蹴《け》った。
「わあああっ!?」
正時はようやく情けない悲鳴を上げた。
ベッドから転げ落ちた瞬間、空中で逆《さか》さまになっている妖怪とはっきり目があった。
妖怪は片手と両足で壁を突いてさらに方向を変え、診察室の反対側まで跳《と》んでまったく音を立てずに着地する。絶対にあり得ない。サーカスの軽業《かるわざ》とかオリンピック選手の演技とか、そんなレベルの話とは次元が違う。素早いのにぬるぬるした感じの動き――手がかりも足がかりもないはずの空中で速度が変わる瞬間があるのだ。妖怪はまだそこにいる。診察室の隅にうずくまっている。虎《とら》のような隈取《くまどり》が夜の黒と同化して、白い顔が暗闇《くらやみ》に切り刻まれてそこに浮かんでいるように見える。右手に構えている武器の名前も正時《まさとき》にはわからない、握りの両側から太い鉤爪《かぎづめ》のような刃がそれぞれ逆向きに突き出ている。左手には奪い取った首飾りを握り締め、妖怪は闇夜の猫《ねこ》のような目つきで正時をじっと睨《にら》みつけている。
目が覚めてから五秒が過ぎた。
ひとたまりもなかった。
これ以上の緊張に耐え切れない。こんな恐ろしい睨み合いを続けるくらいなら無謀《むぼう》な突撃のほうが百倍もましだった。足元に転がっていた丸|椅子《いす》の足を掴《つか》み上げ、正時は自暴自棄《じぼうじき》の叫びを上げて突進する。
闇に刻まれた白い顔が、ぐるり、と動いて横倒しのS字を中に描いた。
驚きのあまり三歩も行かぬうちに腰が砕《くだ》けた。正時はまるでスケートで転んだような尻《しり》もちをつき、妖怪は床を踏み抜きそうな音を立てて跳躍《ちょうやく》、ものすごい速度で空中をぬらぬらと動いて、開け放たれていた窓から夜の闇の中へと飛び出していった。
しばらくの間、尻もちをついたまま呆《ほう》けていた。
正時はやがて、ゆっくりと診察室の中を見渡して、のっそりと身を起こした。丸椅子の足を自分でもびっくりするくらいの力で握り締めていることに気づく。机の引き出しの中のたぶん本物のピストルのことを思い出したが、たとえ枕の下に入れて寝ていたとしても何もできなかったと思う。外は月夜だった。開け放たれた窓からくっきりとした月光が差し込み、海から這《は》い登ってくる風がカーテンを大きく揺らした。
さっきのあれは、絶対に妖怪だった。
女の子みたいな妖怪だった。
絶対に夢ではない。その証拠に閉まっていたはずの窓が開いているし、日に焼けた首筋には首飾りを抜き取られたときにタコ糸が強く擦《こす》れた痛みがまだ残っている。
南国の妖怪に、首飾りを盗《と》られた。
風に揺れるカーテンを見ていると、いきなり恐怖がよみがえってきた。
正時はベッドに逃げ戻って頭からタオルケットをかぶった。窓が開けっ放しになっているのは恐ろしかったが、ベッドから出て窓を閉めに行くのはもっと恐ろしい。窓を閉めようとした瞬間にいきなりあの妖怪が顔をのぞかせたらショック死すると思う。身悶《みもだ》えするほど夜明けが待ち遠しい。タオルケットの中で身体《からだ》を縮こませて、腕時計のバックライトを点《つ》けてみて愕然《がくぜん》とした。
午後九時十五分。
せいぜい二時間ほどしか眠《ねむ》っていなかったのだ。夜明けが遠いどころか、まだ一日が終わっていないのである。
まったく、
まったく、なんという一日か。
そのとき、診療所のドアのほうから物音が聞こえた。
心臓が跳《は》ねた。何者かがノブを回している。油の足りない音を立ててドアが開き、診察室にゆっくりと踏み込んでくる何者かの足音が聞こえる。
恐怖もあまり度が過ぎると、もはや恐怖とは感じられなくなるらしい。こめかみがどくどくと脈打ち、手足が熱に浮かされたような感覚に包まれている。足音の主は一言も発することなく、部屋の明かりを点《つ》けようともせずにゆっくりとベッドに近づいてくる。その一歩ごとに板張りの床が軋《きし》む。姉子《あねこ》ではあるまい、夜中に診察を受けにきた患者《かんじゃ》とも思えない。
もうすぐそこまで来ている。
立ち止まった。
手を伸ばせば届くほどの距離だ。
あの恐ろしい刃物をタオルケット越しに突き立てられるくらいなら、こちらからいきなり襲いかかってやろうと決めた。震える息を吸い込み。クソ度胸をかき集め、いちにのさんで跳《と》びかかることにして、いち、
にの、
震える声が、
「――あ、あの、あのね、武田《たけだ》正時《まさとき》くん? わたし、あの、おじいに言われて、診療所で寝てるから、呼んでこいって、ねえ、起きてる? そ、そこにいるの、正時くんだよね? そうでしょ? ちがう? ちがうの? あの、返事してよ、ほ、ほんとうにそこに誰かいるの?」
襲いかからなくて本当によかったと思う。
左吏部《さりべ》真琴《まこと》は、正時の父の妹の結婚相手の弟の娘《むすめ》、だった。そういう間柄を一体何と呼ぶのか正時も真琴も知らなかったが、ともかくさっきの妖怪《ようかい》とは別人であるというだけで正時としては大歓迎、たとえ真琴が髭面《ひげづら》のおっさんであったとしても力いっぱい抱《だ》きしめてキスのひとつもしてやりたい気分だ。
話を聞いてみると、真琴の言う「おじい」なる人物こそ、正時がこの島にいる間世話になる予定の「左吏部《さりべ》俊郎《としろう》の実家」の主《あるじ》なのだった。真琴はそのおじいに、診療所で寝ている正時を起こして連れてきてくれと頼まれたらしい。ところが、夜中に買い物を頼まれたような調子で安|請《う》け合いしたはいいものの、懐中《かいちゅう》電灯一本を頼りに町外れの夜道を歩いているとだんだん怖くなってきた。明かりの消えた診療所は本当に薄気味悪くて、よっぽど引き返そうかと思ったのだが、まだ日のあるうちから寝ているのだから明かりは消えていて当然かもしれないと考え直し、勇気を振り絞ってノブに手をかけてのだという。
「でも中は真っ暗だし、明かりのスイッチがどこにあるのかわかんないし、懐中《かいちゅう》電灯で照らしてみたら窓が開けっ放しでカーテンがふわふわしてるしベッドの上には毛布《もうふ》がこんもりしてて誰かが隠れているみたいで」
ものすごく怖かった、と真琴《まこと》は言った。
診察室が暗すぎて真琴の顔立ちをはっきりと見て取ることはできない。まさか顔を近づけてじろじろ見るわけにもいかないが、実は結構かわいいのではないかという気がする。話すときの身振り手振りがわりと大げさな子で、懐中電灯の光が振り回されるたびに真琴の瞳が濡《ぬ》れたように光った。安堵《あんど》のあまり涙ぐんでいるらしい。
怖がらせるようなことをしてすまなかったとも思うのだが、でもさっきぼくは君の百倍くらい怖い思いをしたんだよ、とはやはり言えなかった。会ったばかりの相手に「この島には妖怪《ようかい》がいるの?」などと尋ねたら完全にバカだと思われるに違いない。妖怪、という言い方がバカっぽく聞こえる原因なのかもしれないが、さっき見た「あれ」を表現する言葉を、正時《まさとき》はそれ以外にどうしても思いつかない。
診療所の入り口を施錠《せじょう》して、姉子《あねこ》に言われた通りに鍵を郵便受けの中に入れた。
5メートルほど歩いたところで肩越しに振り返ってみると、なるほど、闇《やみ》に佇《たたず》む診療所の姿は相当に無気味だった。あんなところに懐中電灯一本で踏み込んでいった真琴を少し尊敬してしまったが、よくよく考えてみればあんなところにひとりで寝ていた自分も自分である。妖怪の一匹や二匹は出ても不思議もないような光景だった。
「武田《たけだ》正時、って、何だか戦国武将みたいな名前だね」
微妙に発音しにくい名前だ、と言われることもある。
「正時くんていくつ?」
「十五、だけど」
「わたしのひとつ上だ。乗り物|酔《よ》いはする方?」
どちらかと言えばしない方だと自分では思っていたのだが、あるかでぃあ号にこてんぱんの目に遭《あ》わされた今となっては「する方」だと認めざるを得ない。それとも、あんな小さな漁船に何時間も揺られたら初めての人間は誰でもああなるものなのか。
「わたしも船酔いするの。あのね、夕方ごろに姉子先生が来て、正時くん検査もう終わったけど船酔いで寝ているから、適当な時間に誰か迎えに行ってくれって」
道々、真琴はよく喋《しゃべ》った。
物腰や話し方からすると普段はもう少し大人《おとな》しい子なのではないかと思ったが、往路《おうろ》で散々《さんざん》怖い思いをした反動でハイになっていたのかもしれない。月の夜道は懐中《かいちゅう》電灯を点《つ》けなくてもどうにか歩ける程度には明るくて、四方八方から迫ってくるような虫の鳴き声がほんとうに凄《すさ》まじい。左手には港の明かりと真っ暗な海、右手にはのしかかるような森の陰と柵《さく》がめぐらされた牧草地が交互に続く。右側がどうにも気になる――鬱蒼《うっそう》と茂る木々の間を、あるいは牧草地の闇《やみ》の彼方《かなた》をあの白い顔が転がるように追いかけてきたらどうしよう。しかし、怖がっていることを悟《さと》られるのは嫌《いや》なので、正時《まさとき》は意地になって真琴《まこと》の右側を歩き通した。
「でね、うちの母さんとおばあが歓迎会の用意して待ってたら、ご馳走《ちそう》の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけた近所の人たちが集まっちゃってね、最初はおじいがコーヒーを淹《い》れてみんなの相手をしてたんだけど、グリシャンのお父さんが一升瓶《いっしょうびん》持ってきて酒盛りを始めちゃって、もうこうなるとおじいひとりじゃ食い止められないし、この調子じゃ料理もみんな食べられちゃうかもしれないからね、大急ぎで呼んでこいって」
グリシャン、というのははやり誰かのあだ名なのだろうか。
それにしても、何だか申し訳ないような気がする。歓迎会を開いてくれるというだけでもちょっと恐縮してしまうのに、何やら大事《おおごと》になっているらしい。これを言うと真琴は笑って、
「いいのいいの、みんなお酒飲む口実が欲しいだけなんだから。本土人《やまと》のお客さんがこの島に来ることなんてめったにないし、きっといろんなこと根掘り葉掘り聞いてくると思うけどね、みんな悪気はない。だから気を悪くしないでね」
それは大丈夫だと答えた。なにせ八回の転校を経験した正時は、その種の状況にかけてはプロである。たぶん十代の全国ランキングで五位くらいだと思う。
夜道はやがて、コンクリートで舗装《ほそう》された路地へと変わった。周囲の人家の多くは平屋造りのどっしりとした建物だ。おそらく時期になれば、この島には生きるか死ぬかというくらいの台風が来るのだろう。路地は急な坂道に突き当たり、ここを下《くだ》っていくと商店街に出るよと説明して、真琴は坂道を上っていく。
坂道を上りきった先に、白い洋風の建物があった。
「はい到着、ここがおじいの家です」
ずいぶん古い建物だった。坂道の上から不意に現れた白いペンキのくすんだ壁は、思わずその場に立ち止まってしまうほど印象的だった。入り口の上には建物と同じくらい古ぼけた看板《かんばん》が掲げられている。右から左に読むのだということにはすぐに気づかなかった。
『左吏部寫眞館』
寫眞、というのは「写真」の旧字体だろう。
「――これだだったのか」
正時のつぶやきを真琴が聞きつけ、
「え、なに?」
「いや、みんなが写真館写真館って言うから、一体何のことだろうって思ってたんだ」
ふと、真琴が「ここがわたしの家です」とは言わなかったことが気になって、
「君もここに住んでるの?」
「ほんとは違う。お父さんはおじいの家を出てお母さんと結婚したからね、わたしの家は別にあるの。でも近所だし、わたしおじいもおばあも好きだから、小さい頃からしょっちゅう入りびたってるの。ご飯もこっちで食べること多いしね。だからわたしのお箸《はし》もお茶碗《ちゃわん》も歯ブラシもあるし、勉強部屋だったこっちのが広いんだよ。――早く行こ、おじいもおばあも首長くして待ってるから」
真琴に手を引かれ、看板《かんばん》にじっと見下ろされているような気分を味わいながら入り口のドアをくぐった。からんころん、というベルの音がして、しかし店の中は真っ暗で何も見えない。真琴はすでに正時《まさとき》の手を離して勝手知ったる闇《やみ》の中をずんずん進んでいき、
「待ってて、すぐ電気点《つ》けるから」
待つほどもなく、三口ソケットにはめ込まれた三つの裸《はだか》電球が橙《だいだい》色の明かりを灯《とも》した。
息を呑《の》んだ。
店内の壁が大量の写真で埋《う》め尽くされていたのである。
一枚残らずモノクロ写真だった。形も大きさも様々な額《がく》が所狭しと折り重なっていて、ものの例えではなく本当に壁が見えない。人物ならバストショットの肖像から数十名の集団写真まで、風景なら建物や船、牧場や森や海の光景、最近撮影されたと思しきものから歴史的な価値のありそうな古いものまで、本当に多種多様な写真がびっしりと並んで壁を埋めていた。カウンターの周囲には、壁に収まりきらない分のファイルやアルバムなどが整理の悪い古本屋の店先のように積み上げられている。その隣には巻き上げ式の背景幕と気取った感じの椅子《いす》、それに三脚に載《の》った古いカメラが据《す》えられていて、普通の写真館らしく見えるのはそのわずかな一角だけだった。
「おじいはね、カラー写真がきらいなの」
真琴は、得意げな顔で正時を見つめている。
「左吏部《さりべ》の家は、ひょっとすると日本《にほん》で一番古いかもしれない写真館なんだって。何代も前からずっとこの島の写真を撮《と》ってきたんだよ」
そして、ほの暗い電球の明かりの下で見る左吏部真琴は、くりくり動く目と長くてまっすぐな髪をした小さくてかわいい女の子だった。身体《からだ》全体から明るい電波を発散しているような雰囲気がある。タンクトップの背中が描く曲線と、日に焼けて皮のむけた細い肩がものすごく気になった。
そのとき、
「――真琴、真琴か?」
白髪《しらが》頭の老人が店の奥からひっこりと顔をのぞかせた。
老人は真琴の、次いで正時の姿を認めてたちまち相好《そうごう》を崩《くず》し、歳《とし》相応に痩《や》せ衰えた足にゴム草履《ぞうり》をつっかけてもたもたと店に降りてきた。正時の両手を掴《つか》み、
「おぉ、おぉおぉおぉおぉ。よお来たよお来た。なるほど、理香子《りかこ》さんによく似ておる」
「おじい危ないよ煙草《たばこ》」
真琴に言われて、老人は指に挟《はさ》んでいた煙草を慌《あわ》ててカウンターの灰皿にねじ込んだ。
「――あ。ええと、初めまして、武田《たけだ》正時です」
老人は目を細めて頷《うなず》く。後ろに撫《な》でつけた髪も口ひげも真っ白で、何十年も笑い続けてきたような皺《しわ》が顔中に刻まれている。
「初めてお目にかかります、左吏部《さりべ》周五郎《しゅうごろう》です。――さあ上がって上がって、早くしないと連中に料理を洗いざらい食われてしまうよ」
周五郎に手を引かれ、真琴に背中を押されて正時は奥の廊下へと上がり込む。
「おぉい喜久子《きくこ》、正時くんが来たぞ。挨拶《あいさつ》をせい、喜久子っ」
台所から割烹着《かっぽうぎ》姿の老女が現れた。かわいいお婆《ばあ》ちゃんだ、と見た途端《とたん》に思った。
「遠いところをようこそいらっしゃいました。周五郎の家内の喜久子です」
「武田正時です、お世話になります」
ものすごく丁寧《ていねい》に頭を下げられて正時も思わず最敬礼を返した。この島の年寄りはみんなこんなに丁寧なのだろうか。
建物を正面から見ただけではわからなかったが、この家は元からあった洋風の写真館に日本《にほん》風の住まいを増築したような造りになっているらしい。喜久子に案内されたのは庭に面した二間続きの座敷《ざしき》だった。仕切りの襖《ふすま》は取り払われ、L字型にめぐらされてた縁側の障子《しょうじ》もすべて開け放たれて、軒先に吊《つ》るされてた虫除けの大きな香炉が仄《ほの》かな煙をたなびかせている。つなげて置かれているテーブルには色とりどりの料理が並べられ、もうだいぶガソリンの回った感じの十余名がどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。喜久子が手を叩《たた》いて、
「はーい、主賓《しゅひん》のご到着ですよっ」
十余名の酔眼《すいがん》が正時に集中し、万雷《ばんらい》の拍手と怒涛《どとう》のような歓声が弾《はじ》けた。
野郎《やろう》ばかりのかなり荒っぽい宴会《えんかい》だった。喜久子に手を引かれて床《とこ》の間《ま》の前の上座《かみざ》に案内される。これほど熱烈な歓迎を受けたことはかつて一度もない。嬉《うれ》しいし照れるし困るし緊張する。喜久子ともうひとり、中年の女性が台所と座敷を往復して料理の上げ下げをしている。真琴の母親かもしれない。周五郎が遅れて座敷に入ってきたが、他《ほか》に知った顔はカンフーしかいない。突然、正時の隣に顔を酒で真《ま》っ赤《か》にした男が割り込んでくる。来る途中で真琴が話していた、一升瓶《いっしょうびん》を持ち込んで酒盛りを始めたグリシャンのお父さん、とは多分この人のことではないだろうか。皆がテーブルに身を乗り出していっぺんに話しかけてくる――さあこれを食え、これを飲め、足を崩《くず》して楽にしろ、どこから来た、そうか、それは遠いところからよく来たな、何にもない島だがゆっくりしていけ、船酔《よ》いはしなかったか、それは大変だったな、しかしここの女医さんはなかなか別嬪《べっぴん》だろう――
赤ら顔の男が正時《まさとき》の肩にぐいっと腕を回して、
「なあ、姉子《あねこ》先生にちんぽ握られたか!?」
ここだ。
正時は、にへっ、と笑ってこう言った。
「時間延長してくれって頼んだら断られました」
どわっ!、と座が一気に沸いた。赤ら顔の男に背中をばんばん叩《たた》かれる。
ちょっと荒っぽいけど、みんないい人たちだと思った。
よし。あとは流れのままに突き進んでフリチンにでも何にでもなればいい。「お客さん」でいるうちはだめなのだ、最後の最後で打ち解けさせてはくれないのだ。テーブルの向こうから遅い援軍が現れる。鯛《たい》の刺身《さしみ》の大皿を抱《かか》えたカンフーが、方々から伸びてくる箸《はし》を蹴散《けち》らしながらこちらにやって来る。テーブルに並んだ数々の料理は、どうやら皆がそれぞれに持ち寄った材料で作られているらしかった。この鍋《なべ》の野菜はうちの畑で採れたんだぞ、この鶏《にわとり》はおれが持ってきたやつだから抜群にうまいぞ。赤ら顔の男の自慢《じまん》は巨大な皿に載《の》った子豚の丸焼きだった。今日のために一日がかりで仕込んだという。子豚と目があった瞬間、正時の腹の虫が鳴った。そういえば、フェリーの中でチョコバーを一本かじったきり何も食べていない。腕時計を盗み見れば、時刻は九時四十七分。
まったく、大変な一日だ。
座敷《ざしき》の床《とこ》の間《ま》には、宝船に乗った七福神《しちふくじん》の置物が飾られている。その真上、天井から張り出した木目《もくめ》の壁には見たこともない武器が掛けられていた。一見すると槍《やり》のようだが、長大な竿《さお》の両側に非対称の形の刃がついている。人間の身体《からだ》を突いて倒すには不合理な形状の刃に思えるし、ひょっとすると古くから伝わる魔除《まよ》けの一種かもしれない。
どんちゃん騒ぎもだいぶ落ち着いてきた。三つあったテーブルは二つになり、女房《にょうぼう》と思しき女性が迎えに来て何人かは帰っていき、何人かが新たにやって来て座に加わった。周五郎《しゅうごろう》は誰かが来るたびに出迎えに席を立ち、自分の旦那《だんな》がなかなか腰を上げようとしない女房連中は縁側で物憂いげに団扇《うちわ》を動かし、庭に入り込んできた放し飼《が》いの犬を子供が追いかけ回している。
正時も、ずいぶん食わされたし飲まされた。
ふと尿意《にょうい》を覚え、タイミングを見計らって席を立った。台所をのぞいて、洗面器で大量生産されたババロアを小皿に取り分けている喜久子《きくこ》にトイレの場所を尋ねる。薄暗い廊下の先の引き戸を開けるとすごく広いトイレなのでちょっと驚いた。小便器が二つに個室が三つもある。ずっと昔、田んぼと畑ばかりの田舎《いなか》町に引っ越したときにも、お盆に親戚《しんせき》が集まってくるような古い家にはこういう大きなトイレがよくあった。
右側の小便器で用を足していると、背後の引き戸が開いて浴衣《ゆかた》姿の男が入ってきた。
左側の便器の前に立つとずいぶん背が高い。やけに堂々とした態度で浴衣《ゆかた》の前をはだけ、正時《まさとき》が会釈《えしゃく》をすると男はにっこりと笑い、突如として大層な勢いの放尿《ほうにょう》を開始する。
「――実はさっきから、感心しながら見ていたんだがね」
男が話しかけてきた。
「いやあ、その若さで、君もなかなか大した渡世人《とせいにん》だねえ」
「はあ。どうも」
誉《ほ》められているのだろうか。
それにしても男の小便は力強い。便器に当たって「ずだだだだだずどどどどどどど」というすごい音がする。この音ひとつ取っても大人物《だいじんぶつ》という感じがする。正時はなんとなく敗北感を味わいながら正面に視線を戻した。小さな窓があって、夜の彼方《かなた》に小さな海が見えた。
「ところで、姉子《あねこ》くんから聞いたんだが。首飾りになったカイテンサマを持っているそうだね」
思わず小便が止まりそうになった。
カイテンサマ。
回転様。
説明されなくてもわかる。あの、タコ糸の先についていた小さな円筒形のくるくる回る物体のことだ。
あれは訳もかからずにリカ姉《ねえ》に持たされた物なのだ、そう説明しようとすると男は右手を上げて正時を制し、
「わかっている。別に、君や理香子《りかこ》さんを責めているわけではないよ」
「――あの、あれって一体何なんですか?」
「姉子くんは何と言っていた?」
姉子の説明をそのまま繰り返すと、男は窓ガラスを震わすような大声で笑った。
「まったく姉子くんも根《ね》が正直者だな。その説明はまんざら嘘《うそ》でもないよ。まあ成績やパチンコはともかく、場合によっては確かにすてきな彼女はできるかもしれん」
正時の小便はそろそろ終わりに向かっていたが、男のそれはいよいよこれから本番という感じだ。この人ひょっとすると糖尿病《とうにょうびょう》ではないか。
「例えばだ、本土人《やまと》が首から位牌《いはい》を下げて歩いていたら近所の人は誰だって驚くだろう。もちろんあれは位牌とはまったく違うものだが、岬《みさき》の島人《しもうど》にとってはそのくらい大切な物なんだよ。まだ詳《くわ》しくは説明できないが、本土人である君があれを持ってこの島に来たということが知れたら、ちょっとした騒ぎが起こる可能性もある。無用の混乱を避けるためにも、君があれを持っていることは、当分の間は秘密にしておいてもらいたい。約束してくれるかね?」
頷《うなず》くより他《ほか》なかった。小便もとっくに終わっていた。まだまだ絶好調で放尿を続ける男を残して、逃げるようにトイレを出ようとしたとき、
「誰にも言わない。誰にも見せない。いいね?」
「――はい」
トイレを出て、後ろ手に引き戸を閉めた。
座敷《ざしき》へと戻る途中でふと立ち止まる。
――ぼくはもうあれを持っていません。なぜなら、診療所で寝ていたときに妖怪《ようかい》に襲われて奪い取られたからです。
さすがに言えなかった。
正直なところ、あれは本当に現実の出来事だったのか、という点についても自信がぐらつき始めている。旅行先で泊まったホテルや旅館に幽霊《ゆうれい》が出た、なんていうのもよく聞く話だ。そこに最も単純かつ合理的な説明をつけるとすれば、旅の疲れと環境の変化のせいでおかしな夢を見た、というひとことに尽きよう。自分の身にもそれと似たようなことが起こっただけではないのか。明日になったらもう一度診療所にいってみようか。閉まっていたはずの窓が開いていると思ったのもただの記憶違いかもしれないし、妖怪に盗《と》られたと思っているあの首飾りだって、本当はどこかの時点で失《な》くしてしまっただけなのかもしれない。
回転様というのか。
あれは、一体何なのだろう。
リカ姉《ねえ》は何も言ってくれなかったし、姉子《あねこ》はしどろもどろになりながらも幸運のお守りだと説明して、さっきの小便《しょうべん》男に言わせればそれはまんざら嘘《うそ》でもないという。この島にはよそ者には秘密の信仰みたいなものがあって、あの円筒形の物体はその重要なアイテムなのか。それにしても、すてきな彼女ができるかもしれない、というのはどういう意味なのだろう。ひっとして、あれを突きつけて迫れば島の女性の誰とでも結婚できるとか。まさか。
「おう正時《まさとき》くん、来なさい来なさい。君も入りなさい」
座敷に戻ってみると、すでにいい感じに酔《よ》っぱらった五、六人の男たちが車座になって酒を酌《く》み交わしていた。その中のひとりが正時に気づいて手招きをする。いい加減に食い過ぎたし飲み過ぎたし、背後からは眠気《ねむけ》が再び忍び寄ってきていたが、ここで断るわけにもいかないと思って誘われるがままに車座に加わった。
それが間違いだった。
座ってしまってから気づいたのだが、車座の中にはコップがひとつしかなかった。
それに焼酎《しょうちゅう》の一升瓶《いっしょうびん》が一本。
車座の中のひとりが、焼酎がなみなみと注がれたコップを手に挨拶《あいさつ》をした。
「えー、今夜は遠く本土《やまと》から来た武田《たけだ》正時くんの歓迎会ということで、みんなで楽しく飲みたいと思います。乾杯《かんぱい》」
そして一気に飲み干す。隣の人にコップを渡して焼酎を注ぎ、渡されたほうはやはり一気に飲み干してまた隣に渡す。当然のことながら正時にもコップが回り、一升瓶からどぼどぼと焼酎が注がれる。宴会《えんかい》が始まったばかりの頃は正時《まさとき》に酒を飲ませるにしても多少の遠慮があったものだが、今度はまったく手加減がなかった。
仕方がない、皆に倣《なら》って一気に飲み干す。
拍手と歓声。
隣の人にコップを渡す。
飲んでみて初めてわかったが、それまで飲まされていた焼酎《しょうちゅう》よりだいぶ薄かった。一升瓶《いっしょうびん》の中身が水で薄めてあるのかもしれない。コップが車座を一周すると、最初に挨拶《あいさつ》をした者がもう一度一気飲みをして次の「親」を指名する。指名を受けたものが挨拶の口上を述べ、再びコップが回る。
それが繰り返される。
延々と延々と繰り返される。
車座に加わったときはてっきり、何かゲームみたいなことをして負けた奴《やつ》が酒を飲むのかと思っていたのだ。とんでもなかった。車座に座っている以上はコップは必ず回ってくるし、回ってきたら否《いや》が応《おう》でも飲まねばならない。三回目のコップが回ってくる頃には、さすがの正時も事の重大さに気づきつつあった。
どうやら、他《ほか》の連中が全員|潰《つぶ》れて最後のひとりになるまで続けるらしい。
いや、もっと恐ろしい可能性がある。先に潰れた奴《やつ》が、コップが回っている間に復活して再び車座に加わるのだとしたら本当に終わりがない。
しかし、いまさら抜けるとはやっぱり言い出しにくかった。
腹を決めた。
毒を食らわば皿までだ。こうなったらとことんまで行ってやる。最初に潰れるひとりには絶対になるまいと心に誓った。
「武田《たけだ》正時です。十五|歳《さい》です。中学三年生です。O型で乙女《おとめ》座で、ええと、好きなAV女優は新藤《しんどう》ももこです。こんなに盛大な歓迎会を開いていただいて感謝の気持ちで一杯です。若輩者《じゃくはいもの》ではありますが、今後ともよろしくお願いします。乾杯《かんぱい》」
「武田正時です。こんなにお酒を飲んだのは生まれて初めてです。さっきからカンフーの姿が見当たらないなあと思ったんですがさては逃げやがったなあんちくしょうめ。でも大丈夫です、まだ全然いけます。毒を食わばそれまでです。よろしく」
「武田でぇっす。武田正時でぇす。この島の人は苗字《みょうじ》がみんな変わっているのでちっとも憶《おぼ》えられないです。頭悪いです。こないだも試験で大失敗しましたっ。でもいいのですっ。高校なんか行けなくたっていいのですっ! 南の島最高っ!」
正時は健闘《けんとう》した。
車座に加わる前から相当飲んでいたのだろう。正時の真正面とその隣の二人がすでに潰れている。事態に気づいた周五郎《しゅうごろう》やその他《ほか》の理性ある大人《おとな》がきりのいいところで止《や》めさせようとしてくれたのだが、もはや正時《まさとき》自身に止める気がなくなっていた。Tシャツの腕をまくりベルトを緩《ゆる》め、鬱陶《うっとう》しく思えたので腕時計も外してポケットにしまった。
それは、正時に何度目の親が回ってきたときだったのか。
「――武田《たけだ》、まさときです」
アルコールの回った脳みそから、ころん、と転がり出てきたものがある。
正時はそれを拾い上げてじっと見つめ、その正体を悟《さと》って胸のつかえが降りたような気分を味わった。
そうだった。
ずっと忘れていた。
あるかでぃあ号で、カンフーに尋ねようとして忘れてしまった質問。
ずっとずっと心に引っかかっていたつまらないこと。
「あの、質問があるんですけど。ほんとうにつまらないことなんですけど、いいですか」
いいぞお、何でも答えてやるぞお、と車座に生き残っている連中が答えた。心配顔をしていた周囲の連中も好奇心《こうきしん》を煽《あお》られて耳をそばだてる。
そして、呂律《ろれつ》の回らぬ正時の口から出てきたのは、本当につまらない質問だった。
「――あの、この島は、カニが名物なんですか?」
座敷《ざしき》じゅうが息を呑《の》んだ。
正時は酒臭《くさ》いげっぷをして、のっそりと顔を上げてみた。座敷にいる全員が凍《こお》りついたように動きを止めている。車座になった連中はもちろん、その周りにいる周五郎《しゅうごろう》を始めとする大人《おとな》たちも、空《あ》いたビール瓶《びん》やグラスを片付けていた喜久子《きくこ》も真琴《まこと》の母親も、縁側で涼んでいた女房《にょうぼう》連中も、その傍《かたわ》らで眠《ねむ》りこけていた子供や庭の犬までが、まったく無表情になって正時を見つめているのだ。
「――あの」
どうしたんだろう、みんな。
しかし、アルコールに脳みそを侵された正時は、自分が目にしていることの異常さに半分も気づいていない。長い長い時間が過ぎて、最初に言葉を発したのは周五郎だった。
「正時くん」
名前を呼ばれて、正時はどんよりした目つきで周五郎を見上げる。
「はあ」
「この島はカニが名物――と、一体誰に聞いたのかね?」
「――はあ。あの。聞いた、っていうか」
まだげっぷが出た、
「なんとなく、そうかなって、思っただけで」
「なぜそう思ったのかな?」
どうしてそんな難しいことを聞くのだろう。正時《まさとき》は働かない脳みそを懸命《けんめい》に働かせて、
「――守人島《もりとじま》です」
「守人島」
周五郎《しゅうごろう》がおうむ返しに繰り返して先を促《うなが》す。
「――フェリーで、守人島に着いて、カンフーさんを待っていたときに、みやげ物屋に入ったんです。へんなジジイのやっているみやげ物屋です」
「それで」
「ぼくが、この島に親戚《しんせき》がいるって言ったら、そのジジイは、守人の人間は蟹食島《かにくいじま》の連中とは付き合わん、とか、そんなことを口走ったわけです。うん。そう。たしかそう」
「なるほど」
「蟹食島っていうのが、岬島《みさきじま》のことだっていうのは、わかったし、ひょっとしたら、この島を岬島って呼んでいるのは、この島の人だけなのかなあって。じゃあ、どうして他《ほか》の島の人たちは、この島のことを、蟹食島って呼ぶのかなあって。ひょっとしたら、カニが名物だから、蟹食島なのかあって。そうなのかなって」
「いや。少なくともこの島には、カニ鍋《なべ》を売り物にしている民宿もなければ、茹《ゆ》でたカニを発泡スチロールの箱に詰めて宅配便で送ってくれるみやげ物屋もないよ」
周五郎は、そう言った。
その頃には、座敷《ざしき》じゅうが安堵《あんど》の空気に包まれていた。車座になった連中もいっぺんに酔《よ》い醒《さ》めたような顔をしている。
「蟹食島というのは古い呼び名なんだ。もっとも、我々|島人《しもうど》は大昔からこの島を岬島と呼んできたし、今ではその呼び方が島の外にも定着しているが、守人やその他《ほか》の島に住んでいる年寄りの中には、いまだにその呼び名を使っている連中がいるのさ。しかし驚いたよ、君のような若い人がいきなりそんな名前を、――正時くん?」
そして、正時は潰《つぶ》れた。
どんよりした目で周五郎を見つめたまま、正時の身体《からだ》がゆっくりと左に倒れていった。周五郎が慌《あわ》てて抱《だ》きかかえようとしたが、正時は畳《たたみ》の上にひっくり返って小さないびきをかき始める。その瞬間を待ち受けていたかのように座敷の振り子時計が十二時を打って、武田《たけだ》正時の長い長い一日はようやく終わりを告げたのである。
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※[#挿絵画像 01_097]|挿絵《P.97》
B
可梨津部《かりつべ》姉子《あねこ》の朝は一杯の牛乳茶漬けから始まる。
牛乳茶漬けというのはまさに字の如《ごと》しで、どんぶりに盛った冷《ひ》や飯《めし》に牛乳をぶっかけて一気にかき込むのだった。まあ全然「茶漬け」ではないとも言えるが、ときに姉子はここに納豆をぶち込む場合があって、本人はものすごく美味《おい》しいと主張するのだが周囲の理解を得られたためしは一度としてなく、過去においては男と喧嘩《けんか》別れをする直接の原因ともなってきた。しかし姉子は挫《くじ》けない。この味がわかる人としか結婚しないもん――への字の口に込められた決意は固い。
シャワーを浴びていつもの白衣《はくい》に着替え、紅白だんだら模様の救急原チャリにまたがる頃にはたいてい八時を回っている。おんぼろエンジン音を響かせて海沿いの道を走り抜け、最後の坂道でいつもエンストする原チャリを押して町外れの診療所に到着。今朝がいつもと少しだけ違うのは、診療所の鍵が白衣のポケットではなく郵便受けに入っていることだ。
診察室の窓を開けて風を入れ、簡単な掃除やカルテその他《ほか》の整理といったルーチンワークを済ませると、姉子は診察|鞄《かばん》代わりのリュックサックを背負って「得意先周り」に出かける。診療所のお得意といったら年寄り連中と相場は決まっていて、姉子は救急原チャリに乗って年寄りのいる家を訪ねて回り、草むしりを手伝ったり電球を替えたりお茶をご馳走《ごちそう》になったり賭《か》け将棋《しょうぎ》で小遣いをせしめたりする。巡回ルートはその日の気分次第。リュックサックの中身はそこらの救急箱と大差はない。
またエンジンが止まった。
姉子は悪態をつき、原チャリを押して坂道の最後の数メートルをよじ登った。いい加減ガタのきたスタンドを慎重《しんちょう》に立てて、ゆっくりとハンドルから手を離して原チャリが倒れないことを確認する。よしと頷《うなず》いて踵《きびす》を返し、左吏部《さりべ》写真館の入り口をくぐる直前に「だるまさんが転んだ」よろしくいきなり背後を振り返って、本当の本当に原チャリが倒れていないかどうかもう一度確かめるのだった。
からんころん、
「おはようございまーす」
モノクロ一色の店内に入って声をかけると、カウンターの下から喜久子《きくこ》が顔を出した。
「あら姉子ちゃん。おはようございます」
「あれ? ひょっとしておじい、もう出かけちゃいましたか?」
この島において、年寄りを「御爺《おじい》」「御婆《おばあ》」と呼ぶのは至って普通のことだ。敬意のニュアンスがすでに含まれているので「さま」なんかをつけるとやりすぎで気味悪がれるし、「おじいちゃん」「おばあちゃん」だと、何だか小馬鹿《こばか》にされている気がすると怒り出す手合《てあい》いも多い。
「もうとっくに。畑仕事なんて近頃はさぼり気味だったのにね。あの人、正時《まさとき》くんが来たんで張り切っちゃってるのよ」
そう言って喜久子《きくこ》は笑い、ふと物問いたげな目をして姉子《あねこ》を見た。姉子は慌《あわ》てて首を振り、
「――あ、いえ。違うんです全然。こないだおじいが診療所にひょっこり顔を出して、最近肩こりがひどいって言うから湿布《しっぷ》を出したんですけど、近くまで来たからどんな様子か見ていこうと思って。今日は飲み薬も持ってきてるし」
「あらやだ、知らなかった。だけど、あの人の肩こりなんて昔からよ?」
ふーん、と姉子は宙を見つめて口をへの字に曲げていたが、
「まあいいです。とりあえず飲み薬置いていきます。あと、正時くんのことなんですけど、」
そうそうそれそれ、と喜久子も表情を曇らせる。
「さっき高李部《こうりべ》んとこのおじいから聞きましたよ、昨夜の歓迎会でお通り酒につき合わされてひっくり返ったって」
「そうなの。かわいそうにあの子ひどい二日酔《よ》いで、――あ」
そこで喜久子は、手品のタネに気づいたような顔をした。
「いやだ、それで周五郎《しゅうごろう》さん急いで畑に行っちゃったのかしら。姉子ちゃんに叱《しか》られるから」
姉子は鼻からため息を吐《つ》いて、
「だめですよーあんなことさせちゃ。死んじゃいますよ。お通りなんて馬鹿《ばか》コンパの一気飲みといっこも違わないんですから。下手《へた》に伝統なんかある分余計タチ悪いですよ。首謀《しゅぼう》者は誰ですか首謀者は。正時くんを車座に誘ったのはどこん家《ち》に生《は》えている馬鹿ですか」
叱られてしょげ返った喜久子は、ずいぶんためらった末に口を割った。
「ラジオ屋と、ブンタやんと、それに飛車角《ひしゃかく》兄弟と――、」
年齢《ねんれい》差に関係なくあだ名で呼び合うのも、この島においては普通のことである。
「――他《ほか》にも何人かいて、正時くんを誘ったのは、たぶん、飛車角のお兄ちゃんの方だったと思うんだけど」
姉子はいまいましげな舌打ちをして、
「――修一《しゅういち》か。後でとっちめてやる。正時くん二階ですか? さっき診療所に戻って二日酔いの特効薬持ってきたんです」
姉子は廊下に上がり込み、台所の手前の階段をどすどす上がっていった。客間の障子《しょうじ》をずばんと空け放って、
「おはよう武田《たけだ》正時くん!」
六|畳間《じょうま》。真中には布団《ふとん》が敷かれ、こんもりとした毛布《もうふ》のふくらみが姉子の大声に反応して死にかけた虫のようにもそもそと動いていた。枕元にはお粥《かゆ》の土鍋《どなべ》と糠漬《ぬかづ》けの小皿が載《の》ったトレイが置かれている。
「…………………………………………………………………おっきな声出さないでよ…………」
毛布《もうふ》のふくらみが蚊《か》の鳴くような声でつぶやいた。
「ほらほら起きた起きた。いいもの持ってきてあげたから」
毛布を無理矢理|剥《は※》[#「_※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]ぎ取られて、正時は顔を顰《しか》めて縮こまった。朝日が目に沁《し》みてまぶたを開けていられない。墓を暴かれた吸血鬼《きゅうけうき》の気分である。布団《ふとん》から強引に引きずり起こされる瞬間にふと昨日の悪夢がよみがえってきたが、割れ鐘のような頭痛にどっかりとのしかかられて抵抗する元気もなかった。
「一応|点滴《てんてき》の用意もしてきたんだけど、注射とどっちがいい?」
点滴はなんだか怖そうなので注射と答えた。姉子《あねこ》の手元をのぞき込んで、
「何ですかそれ」
「ブドウ糖とビタミン剤。はい腕出して。ところでさあ、」
姉子はそこで口をつぐみ。注射器のピストンを慎重《しんちょう》に押し下げていく。喋《しゃべ》りながら手を動かすことが苦手《にがて》な性質らしい。注射針の傷《いた》みよりも「ところでさあ、」の続きがものすごく気になった。
「はい終わり。あんたいい静脈してるね、私の通ってた医大なんか行けば超モテモテよ。みんな注射器振り回して追っかけてくるわ。ところでさあ、」
障子《しょうじ》が開いて真琴《まこと》が顔を出した。
「あれ、姉子先生だ」
部屋に入りかけ、正時と姉子と注射器、と順に視線を動かして、
「あの、入ってもいいですか?」
「うん。もう終わったとこ」
そこで真琴は一度廊下に引っ込み、
「これ、正時くんのでしょ? きのうカンフーさんが持ってきてくれたんだけど」
真琴が障子の陰から重そうに引っぱり出してきたのは、昨日の夕方に港で生き別れになったまま正時もすっかり忘れていたボストンバッグだった。
「――あ、ありがとう。そこに置いといてくれればいいよ、」
真琴の腕にはそのバッグはかなり重いらしいのだが、真琴はさも平気そうな顔をして正時の枕元まで持ってきてくれた。白地に紺の"adidas"の文字が何だかひどく懐《なつ》かしく思える。右も左もわからぬインドの山奥で知り合いと出会ったような気分だ。部屋を出て行こうとした真琴に姉子が、
「――あ、そうか、もう夏休みなのか。マコちゃんっていくつだっけ?」
「正時くんのいっこ下です」
そう答えて、真琴は姉子にぺこりと頭を下げて障子をぱしりと閉めた。靴下|履《ば》きの足音が軽やかに階段を駆《か》け下《くだ》っていく。
やがて姉子《あねこ》がぽつりと、
「――正時《まさとき》くんのいっこ下です、だって」
いきなり肘鉄《ひじてつ》をくらった。
「やばいぜよ正兄ぃ! 左吏部《さりべ》の鉄砲玉《てっぽうだま》はもうそこまできちょるぜよ!」
「だ、誰の物|真似《まね》ですかそれ」
「あんたいくつ?」
「十五、ですけど」
昨日の健康診断のときにも言った気がする。それより、
「あの、さっき何か言いかけてませんでした?」
「? ――何を?」
「知りませんよそんな。ぼくが知るわけないでしょ」
何だっけ――姉子は腕組みをして考え込み、ずいぶんかかってようやく、
「あ。思い出した」
「なんですか」
「きのう、私の引き出しに入っているピストル触ったのあんたでしょ?」
――!!
完全に顔に出てしまったと思う。必死になって取り繕《つくろ》うとすると、
「あ、違う違う。別に怒ってるわけじゃないの。一番悪いのは、引出しの鍵かけ忘れた私なんだから。あんたならまだしもさ、近所の小さい子がこっそりいたずらしてたんだとしたら危ないなあと思って」
正時は慎重《しんちょう》に姉子の表情をうかがう。どうやら本当に怒っているわけではないようだ。正時は恐る恐る、
「――あれ、やっぱり本物なんですか」
「そう」
「あ、あんな物いったいどこで手に入れたんですか?」
「うちのおじいの形見よ」
言われてみれば、ずいぶん年季《ねんき》の入ったピストルだったような気がする。
「警察官?」
「ばか。いくらお巡りさんでも形見にピストルなんかくれるわけないでしょ。うちのおじいが昔この島でお医者さんをしてたとき、仲良くなったアメリカの水兵さんにもらったんだって」
「――アメリカの水兵さん?」
「戦争が終わったばっかりの頃は、このへんの島はみんなアメリカの領土だったから、もっとも、岬島《みさきじま》なんてその中でも外れの外れだし、大きな港や飛行場が造れるわけじゃなし、今日からこの島はアメリカの領土です、はいそうですか、てなもんだったと思うけど。それでも、アメリカの兵隊が多少はいた時期があったみたいね」
「――でも、だけど、ありなんですかそういうの。銃刀法《じゅうとうほう》違反とか、」
「ほんとうはダメよ。当たり前じゃない。だからあんまり人には言わないでね。建前《たてまえ》では、島が日本に返還されたときに本土《やまと》から役人が来て全部回収したことになってるんだけど。でもうちのおじいは隠して持ってたし、今でも結構いるわよ本物の鉄砲《てっぽう》持ってる人。見たことあるもん。コーンなおっきなライフルとか」
まるで要塞《ようさい》のようだった港の光景がふと思い出される。そういえばカンフーも似たような話をしていたと思う――この近辺の海には戦後まで物騒《ぶっそう》な連中がいて、自分たちの身は自分たちで守るしかなかった、と。
だとすれば、本土から誰が来ようが、せっかくの武器をおいそれと手放す気にはなれなかったとしても無理はない。海賊《かいぞく》たちも同じように武装していたはずだし、現在の長閑《のどか》な風景からは想像もつかないような世界が展開していたのかもしれない。
「――あ、でも、弾《たま》は?」
ピストル本体は確かに年代物のように見えたが、マガジンの中にはぴかぴかの弾丸が入っていた。まさかあれも祖父《そふ》の形見だというわけではなるまい。
「これもあんまり人に言わないでね。ほら、本土からこれだけ遠く離れているとお上《かみ》の目も行き届かない部分だってあるわけでさ、このへんの島には、そういうご禁制の品に関してはそれなりにルートがあったりするのよ。私の場合は、知り合いの船乗りに分けてもらってる。使いたいのに日本《にほん》じゃ使えない医薬品なんかと一緒にね。他《ほか》の人たちがどうしているかは知らない。でも、ほとんどの人は骨董品《こっとうひん》みたいなノリでたまーに出してきて眺めてるだけで、実際に撃ったりはしないんじゃないかな」
「じゃあ、姉子《あねこ》さんは撃つんですか」
「時々ね。暇《ひま》なときなんかに森へ行ってヘビ採りするの」
「ヘビ採り」
「そう。すごいヘビがいるの。このへんじゃマダラクビって呼んでるけど、正式な名前はなんていうのかなあ。毒はもっていないけど、でっかいやつになると平気で私の太ももくらいはあるからね、そんなのもう手じゃ捕まえられないから鉄砲で頭|狙《ねら》って撃つのよ。ばーん、って」
姉子は指で鉄砲を作って両手で構えてみせた。
「守人《もりと》に持っていくと買い取ってくれるおじさんがいて、結構いいお金になるのよ。そうだ、これからいっしょにヘビ採りしない?」
正時《まさとき》は慌《あわ》てて首を振る。その途端《とたん》に目のくらむような頭痛が戻ってきて、足の指まで丸めて必死で痛みを噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]み殺さなければならなかった。姉子はからからと笑って、リュックサックの中身を片づけて腰を上げる。
「今は無理か。ヘビ採りはまた今度にしよ」
姉子《あねこ》は正時《まさとき》の身体《からだ》をまたぎ越えして部屋を出て行った。慎《つつし》みに欠ける足音を聞きながら、正時は二日|酔《よ》いの水底《みなぞこ》から枕元のボストンバッグを見透かして深いため息を吐《つ》く。
――勉強しに来たのになあ。
結局、そのまま昼過ぎまで寝ていた。
電話は階段の真下にあった。家庭用というよりはオフィスなどによくありそうな多機能かつ色気のない機種で、短縮ダイヤルのボタンには年寄りらしい崩《くず》し字で「カンフー」「原始人」「ラジオ屋」「大仏」「ベトコン」といった暗号のような言葉が書き込まれている。
憶《おぼ》えのある名前もいくつかあるし、昨夜の歓迎会に来ていた人たちの様子からしても、どうやらこの島の住人はお互いの年齢《ねんれい》や立場に関係なくあだ名で呼び合うことが多いらしいと今は正時も理解している。しかし、そうした事情を知らない人がこれを見たら一体何と思うだろう。何気なしにめくってみた薄っぺらい電話帳には見たこともない市外局番と奇怪《きかい》な苗字《みょうじ》が並んでおり、メモ帳代わりに置かれていたのは明らかに真琴《まこと》の使い残しと思しきジャポニカ学習帳だった。
母はすぐ出た。
『――正時? 心配してたのよ、着いたんならすぐに電話くらいよこしなさいよ』
電話の声は、まだ頭の芯《しん》に溶《と》け残っている痛みにきんきんと響いた。
探り探り話を進めてみると、どうやらリカ姉《ねえ》は正時を乗せたフェリーが出港した直後に家に電話を入れていたらしい。――自分は急用ができて岬島《みさきじま》には行けなくなった。正時がひとりでも行けるし大丈夫だからと胸を張るのでフェリーに乗せた、島の人はみんな親切だし迎えも来てくれる手はずになっているので心配はいらない――。
ひとまずは無事につけたし、これから勉強もちゃんとするつもりだから心配はいらない、と告げた。リカ姉に騙《だま》されてひとりぼっちでフェリーに乗せられて妙《みょう》なジジイに怒鳴《どな》りつけられて船酔いで死ぬほどゲロを吐《は》いて健康診断でちんぽを握られて南国の妖怪《ようかい》に襲われて歓迎会で焼酎《しょうちゅう》の一気飲みをしてぶっ倒れたことは黙っていた。住民たちは暗号の如《ごと》きあだ名で呼び合い米軍譲りの銃器《じゅうき》を所有しどうやら回転様と呼ばれる謎の御神体《ごしんたい》を崇《あが》め奉《たてまつ》っているらしくておまけにカニが怖い。そのことも黙っていた。――最後のは、夢だったような気がするし。
『ところであんた、いつまでそっちに居るつもり?』
思わぬ質問だった。考えてみれば、自分はリカ姉と一緒に島に行くつもりでいたし、リカ姉が帰るときに自分も一緒に帰るつもりでいたのだ。
「――せっかく来たんだし、とりあえず二週間くらいかなあと思ってるけど」
壁掛け式のカレンダーを横目で見ながら、特に根拠もなくそう答えていた。そんなに、と母は驚き、だったらお家の人に改めてご挨拶《あいさつ》しなきゃと言う。
「でも、ぼくもさっき起きたばかりなんだけど、今みんな出かけてるみたいだよ」
『それじゃあ、そっちの電話番号は? いつ頃かけるのが一番いいかしら?』
「さあ、電話番号はぼくもわかんないけど――」
『どこか電話の近くに書いてない? お父さんの手帳見ればわかるんだけどいま会社だし』
正時《まさとき》は投げやりな感じで周囲を見回してみたが、この家の電話番号が書いてありそうなものは見当たらない。電話帳で「左吏部《さりべ》写真館」を探せばいいのかもしれないがそれもなんだか面倒で、手近にある学習帳をぱらぱらとめくってみた。
その手が不意に止まった。
――なんだ、これ。
『正時? もしもし? 番号わかった?』
正時は我に返って、
「ああ、ごめん。番号わかんない。でも、夜にかけるのが一番いいと思うよ。それなら父さんも帰ってるし」
それからしばらく愚痴《ぐち》っぽい話を聞かされた。担任《たんにん》からいきなり電話があって正時くんはどこの夏季講習を受けているのかと聞かれて困ったとか、近所の奥さん連中とも仲良くなれたのはいいが予備校の話をよく振られるのでそれが悩みだとか。そんなこと言われてもなあ、と正時は思ったが、遥《はる》か南の島へと旅に出たひとり息子《むすこ》からの突然の電話とあって、さすがの母も少しガードが下がっていたのかもしれない。この電話が長距離であることをやんわりと告げ、次からコレクトコールにしなさいと母は言って、正時は受話器を置いた。
受話器を置いてすぐに、学習帳を手に取った。
表紙には「こくご」とある。イソギンチャクとクマノミの写真。その下の名前の欄《らん》には「三年1組」「左吏部|真琴《まこと》」と子供らしい下手《へた》くそな字で書いてある。さすがに年寄りの家は物持ちがいい、広告の裏の白いやつとか破り取ったカレンダーとか使いかけのノートなどをメモ用紙として大事にため込んでいるのだろう。表紙から順にめくっていくと、真琴が色の濃い鉛筆でページいっぱいに漢字の練習をしている。真琴はこの学習帳を使うのをすぐにやめてしまったらしく、漢字の練習はほんの数ページで電話のメモ書きに変わり、その先はまったくの白紙がしばらく続く。
そして、ページも残り少なくなったころに、その謎《なぞ》の文字がいきなり現れる。
まったく見たことがない文字だ。少なくとも正時が知っている外国語の文字のどれとも似ていない。漢字の練習とまったく同じ調子で、同じ濃い色の鉛筆で書かれている。これを書いたのはやはり小学三年生の真琴なのか。でたらめないたずら書きとは明らかに違うし、小学三年生の遊びや空想の産物にしては出来過ぎていると思う。アルファベットよりもずっと画数は多いようだが、大昔のナントカ文明の象形《しょうけい》文字のような、実用性よりありがた味重視の無駄な複雑さはない。書き方こそ拙《つたな》いが、長い年月をかけて洗練されてきたバックボーンのようなものの存在が不気味なほどに感じ取れる。
最後の数ページになったところで、正時《まさとき》の手は動きを止めた。
教師が赤を入れている。
どうやら、この文字には「書き順」があるらしい。
正時も小学生の頃にはこれと同じような学習帳を使っていた。それぞれ科目ごとに分かれていて、算数には「さんすう」の、理科には「りか」の学習帳があった。そして、同じ授業の中で少し毛色の変わったことをするときなどに、同じノートを後ろから使えと教師に指示された経験が正時にもある。
この学習帳も明らかにそういう使い方をされている。真琴《まこと》はこの学習帳を使って、表紙の側からは漢字を、後ろからは謎《なぞ》の文字を練習していたのだ。
学習帳を閉じてみる。
表紙に書かれている文字を凝視《ぎょうし》する。
――こくご。
「ただいまぁ」
いきなり玄関ガラス戸が開いて周五郎《しゅうごろう》が帰ってきた。正時は背筋をこわばらせ、学習帳を投げ出すように電話の横に戻して懸命《けんめい》に何気ないふうを装った。
「――ああ、正時くん。もう大丈夫かね」
「え、はい。あ、もう大丈夫、です」
周五郎は首にかけていたタオルで顔の汗《あせ》を拭《ぬぐ》い、真面目《まじめ》な顔で正時を見つめて、
「いやあ、ゆうべは面目《めんもく》次第もなかった。わしが連中にもっときつく言って止《や》めさせるべきだった。いや、まっこと、申し訳がない」
周五郎に頭を下げられて正時は慌《あわ》てる。
「あ、別にそんな。ぼくが勝手にやったことだし。それにもう全然大丈夫ですから」
周五郎は廊下に上がって、店の方へと続く引き戸に手をかけたところで立ち止まり、正時が電話の傍《かたわ》らに立っているのを見て、
「ああそうか、君はまだ家に電話をしておらんかったのだな」
「う、あの。すいません、勝手に電話使いました」
「いやいやいやいやいや、いいんだいいんだ、親戚《しんせき》なんだから、電話ぐらいじゃんじゃん使いなさい。なんなら毎晩ご両親に電話してもかまわんよ。――ああ、ひとつ言うておくが。その電話機は、コレクトコールなんぞという水|臭《くさ》いものを使ったら、電話機から毒ガスが噴射される仕組みになっておるからな」
顔では笑ったが、心の底ではなんだか笑えなかった。本当だったらどうしよう。
そのとき、店の入り口のドアベルが、からんころん、と鳴った。
周五郎は「はい、いま行きますよ」と声をかけて店に降りていく。どうにも隙《すき》だらけな店だと正時は思う。さっき布団《ふとん》から起きだしてきたときには家の中には誰もいなかったし、周五郎はたったいま帰ってきたばかりである。なのにもう店に客が入ってきたということは、入り口のドアに鍵もかかっていなければ「閉店」の札も出ていなかったということだ。かつて自分が住んでいたどんな田舎《いなか》も、これよりはもう少しちゃんとしていたと思う。
電話が鳴った。
跳《と》び上がりそうに鳴るほど驚いた。やはり年寄りの家だからなのか、電話のベルの音量は正時《まさとき》の家のそれよりも倍くらいは大きかった。よその家の電話が鳴ると正時はいつも対処に困る。自分が出ても仕方がないと思うのだが、周五郎《しゅうごろう》は接客中だし、家には他《ほか》に誰もいない。
「――はい、」ええと「さりべです」違ったっけ。
『あ、正時か?』
カンフーだった。
ほっとした、知っている人でよかった。電話越しの話し声まできびきびした感じに聞こえるのは、さすがに先入観というやつなのか。
『なあ、おじいいるか? ちょっと急ぎの用事があるんだけど』
「いるけど、いまお客さん来てるみたい」
『こんな時間にか? ああくそ、どうしようかな、そっち行こうかな』
カンフーはなにやらひどく苛立《いらだ》っているふうである。地団駄《じだんだ》を踏む音が受話器から聞こえてきそうだ。
「なに、どうしたの?」
『なあ正時、お前も見たろ、おれが昨日|釣《つ》った鯛《たい》は絶対に70センチオーバーだったよな』
どうやら、こういうことらしい。
今朝早くから海に出ていたカンフーは、「便所カレー」という完全に常軌《じょうき》を逸《いつ》したあだ名の男と口論になった。昨日の鯛は絶対に70センチ以上あったと主張するカンフーに対し、またホラを吹きやがってと頭から信用しない便所カレー。ちゃんとメジャーを置いて写真も撮《と》ったし歓迎会の手土産《てみやげ》に持っていったから証人も大勢いる、とカンフーは言うのだが、決着はつかぬままに船は港に着いて口論はもの別れに終わった。しかしカンフーは収まりがつかない。問題の鯛を撮影したフィルムは、正時のボストンバッグと一緒に周五郎のおじいに預けたという。もし写真がすでに出来ているのなら今すぐ取りに行くし、まだ出来ていないのなら大急ぎで現像を頼みたい。今すぐ証拠の写真をつきつけて、土下座《どげざ》して謝る便所カレーの背中に座ってカルピスが飲みたい。
子供かあんたら。
「――でも、いまお客さんが来てるんだってば」
周五郎が客の相手をしているところに、こんなバカっぽい理由で割り込むのはどうにも気が引ける。
『大丈夫だよ。その客、たぶん写真の宿題を持ち込んできた中坊《ちゅうぼう》だろ?」
「? なに写真の宿題って」
『なあ頼むわ、今すぐおじいに聞いてみてくれないか?』
まったくもう。
どれが保留のボタンかわからなかったので、受話器をジャポニカ学習帳の上にそのまま置いた。店に続いている引き戸に歩み寄って耳を澄ませてみる。周五郎《しゅうごろう》の話し声が微《かす》かに聞こえてくるが、会話の内容までは聞き取れない。意を決して、そっと引き戸を開けた。
「――あの、」
周五郎はカウンターの中にいた。客が差し出したフィルムを受け取ろうとして、おや、という顔をして正時《まさとき》を見つめる。壁じゅうを埋《う》め尽くしているモノクロ写真は店の正面の窓もほとんど塞《ふさ》いでしまっているが、その隙間《すきま》から真っ白に燃え立つような日差しが店内の薄闇《うすやみ》に差し込んでいる。客はその逆光の中にいて、カウンター越しにフィルムを渡そうとしたところで正時に気づいた。その姿は背後の光に負けて半ばシルエットのようになっていたが、正時と同じくらいの年頃の女の子だということはすぐにわかった。ずいぶん白いTシャツに黒か紺《こん》のジャージ姿、背丈《せたけ》は正時より若干低いくらいなのにすごくて手足が長くて、引き締まった腰がうらやましくなるほど高い位置にある。髪は肩まで、どうにか顔の判別もついた。
妖怪《ようかい》だった。
そして妖怪《ようかい》もまた、はっきりと正時を認めて、微かな驚きの表情を浮かべた。
もう間違いはなかった。
あの妖怪はこの子だ。
この子はあの妖怪だ。
あれは夢だったのではないか――ようやくそう納得しかけていたところだったのに。
ばくん、と心臓が喉《のど》の奥で跳《は》ねた。足から力が抜けそうだった。今はその白い顔に虎《とら》のような隈取《くまどり》はない。しかし絶対に見紛《みまご》うはずもない、診療所の闇の中に逆《さか》さまに浮かんでいたあの顔は死んでも忘れない。白くてきれいな、そのくせ猛獣《もうじゅう》の子供のような強い表情を隠し持っていた顔。
恐怖と驚愕《きょうがく》の数瞬がゆっくりと過ぎ去って、正時は唐突《とうとつ》に思った。
本当にきれいな子だ。
「――正時くん? どうしたのかね?」
周五郎は正時と女の子を見比べてぼんやりとした笑みを浮かべ、
「なんだ、正時くんは、ハルちゃんを知っているのかい?」
「――じゃあこれ、お願いします」
ハル、と呼ばれた女の子は周五郎の手にフィルムを押しつけ、ふらりと踵《きびす》を返して足早に店を出ていく。後ろ姿が日差しに溶《と》けて黒々とした影になる。
周五郎《しゅうごろう》が、
「あ、ちょっと。おおい、ハルちゃん、これ一枚ずつでいいのかい!?」
正時が、
「――ちょ、ちょっと待ってよ!」
ドアベルが鳴った。
ノブから手が離れ、ドアが自然に閉じてハルの姿を隠した。カウンターから身を乗り出していた周五郎の肘《ひじ》が当たってアルバムの山が土砂崩《どしゃくず》れを起こす。あああ、と周五郎は声を上げて床に落ちたアルバムを拾い集める。
ハルを追って、正時は裸足《はだし》のまま店を横切って入り口のドアから表へ飛び出した。
強烈な逆光に目がくらみ、海から吹き寄せる熱気がどっと身体《からだ》を押し包んで、周囲の物音から反響が一瞬にして奪い去られた。尖《とが》った砂利《じゃり》を思いっきり踏んづけてしまった痛みに顔をしかめ、脳みそまで射抜くような日差しに耐えて周囲を見回す。のんびりとしたカーブを描いて這《は》い登ってくるコンクリート舗装《ほそう》の坂道、そこから左手へと枝分かれしている昼下がりの田舎《いなか》道、庭木や植え込みと呼ぶにはあまりにも凶暴《きょうぼう》な緑が頭上にまで覆《おお》いかぶさり、写真館の白い建物は日差しを跳《は》ね返してそれ自体が発光しているかのように見える。
ハルの姿は、どこにもなかった。
「――正時くん、一体どうしたんだね?」
ドアベルを静かに鳴らして、周五郎がそっと顔をのぞかせる。
しかし、正時はまだ動けない。
「――ああ、さっきの子は、シンマイベのハルちゃんだよ」
カンフーの電話を受けた周五郎はすぐに写真の現像に取りかかった。正時は暗室の中まで食い下がってあれこれ聞き出そうとしたのだが、周五郎はまったく年老いた象《ぞう》のようにマイペースで、
「ああ、確か真琴《まこと》のひとつ上じゃなかったかな。てことは正時くんと同じ中学三年か」という自分の言葉にショックを受けて「うわぁ、あの春留《はる》ちゃんがもうそんなか。そりゃあ歳《とし》取るわけだ。――あ、そこの戸棚《とだな》を開けてくれ」
結局、そのまま暗室作業を手伝わされることになった。
周五郎は赤色灯の光の中でさかんに指を動かすのだが何が何やらまったくわからず、印画紙の空《あ》き袋にサインペンで書かれた文字は「秦納舞部《しんのうまいべ》」。周五郎の発音は「シンマイベ」と聞こえたが、やはり文字通りの「しんのうまいべ」が正確な読み方らしい。
名前は「春留」とかいて「はる」。
この島には学校がひとつしかない。子供の数も少ないので、学年が違う生徒が同じひとつのクラスとして編成されることもよくあるらしい。一年違う春留《はる》と真琴《まこと》もクラスメイトで、昔からずっと同じ教室で勉強をしてきたという。
「そう、ゆっくりやさしく液に浸《ひた》して。そうそううまいうまい。――ああそうだ。ほれ、天誅《てんちゅう》さん。春留ちゃんのお父さんもゆうべの歓迎会に顔出してくれたろうが。こう、背が高くて、ちょっと男前の」
唐突に思い当たった。ひょっとして浴衣《ゆかた》姿の人?――と言えばよったのに。
「ひょっとして、すごい勢いでおしっこする人?」
周五郎は目を丸くして、うわっはっはっはっはっはと笑った。
「それそれ。あの人が春留ちゃんのお父さんだよ」
間違いなくあだ名だろうと思ったのだが、信じ難いことに「天誅」が本名であるという。普段《ふだん》は畑を耕したり牛や豚《ぶた》の面倒を見たりしているが、意外にインテリっぽい一面もあって、ついこの間までは婦人会から頼まれてお茶の先生のようなことをしていたらしい。
「しかしなんだ、春留ちゃんは、ちょっと変わっておるからなあ」
暗室の中は禁煙らしい。廊下でひと休みしながら、周五郎は手に持ったアルミの灰皿に火先から灰を落として、
「話してみればいい子なんだが、なんというのか、ちょっと頑固《がんこ》なところがあってなあ。昔から他《ほか》の子と遊んでいるところもあまり見たことがないしなあ」
周五郎は超特急で仕上げた写真を正時に持たせた。この時間ならカンフーはまだ港にいるはずだから届けて欲しいという。ドアベルの音に送られて坂道の上に立ってみると、港までの光景が一望のもとに見渡せた。なるほど、これならどうやっても道には迷わない。
左吏部《さりべ》寫眞《しゃしん》館、と書かれた袋を見つめる。
少しだけ迷ってから、袋に手を入れて中の封筒を取り出してみた。
さっき焼き上がったばかりの写真は、乾燥機の余熱でまだほんのりと温かかった。一枚ずつめくっていく。現像を手伝っていたときにもちょっと思ったのだが、こうして改めて見てみるとピントも甘《あま》いし手ぶれもひどい。カンフーの雑な性格がよく出ている。どこかのスナックでのバカ騒ぎ、海の風景、軽トラックにもたれてかっこつけている漁師風の男、たぶんであるかでぃあ号の操舵《そうだ》室、海の風景その二、名前のよくわからない南国の魚、海の風景その三、
これだ。
鯛《たい》の写真。続く五枚ともそうだった。あるかでぃあ号の床《ゆか》の一部なのだろう、滑《すべ》り止めの刻みがついた緑色のマットのようなものを背景に、赤銀色の大きな魚体が画面いっぱいに横たわっている。確かにメジャーが並べて置かれているが、残念ながら目盛りの数字まではとても読み取れない。残り五枚も似たようなもので、背景のマットをネジ止めしているボルトの頭が写り込んでいる写真が一枚だけあるが、これだけでは大きさの正確な比較対照はできないだろう。六枚のどれを見てもかなり大きい魚だということはわかるが、便所カレーが「いーや70センチはないね、せいぜい65センチかそこらだね」とか言い出したら反証を挙げるのは難しい。どうやらこの写真は、また新たな論争の火種《ひだね》となりそうだった。
写真を封筒に戻して袋にしまう。
坂道を下《くだ》っていくと商店の立ち並んでいる通りに出た。田舎《いなか》のよくある眠《ねむ》そうな商店街である。まだ夕食の支度をする時間には早いのか客の姿は多くないが、それでもたまにすれ違う人はみな正時《まさとき》に目を止めて、ああの子が、という顔をする。八百屋《やおや》のおじいがマンゴーを投げてくれた。昨夜の歓迎会では見た記憶のない顔だ。ナイフも包丁《ほうちょう》もないのにいきなりこんなのもらっても、と思ってみたが、おじいが手振りで示す通りやってみると本当に手で皮が剥《む※》[#「_※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]けた。かぶりついてみるとびっくりするくらい甘《あま》い。
そうか、と正時は思う。
最初の一口で果汁がぽたぽたとあふれてくる。腕で口元を拭《ぬぐ》って商店街を振り返る。
本土から客が来ることなどめったにないから、自分の存在はもう島じゅうに知れ渡っているのだろう。目下、自分はちょっとした有名人なのだ。つまり、写真を出しに来たあの春留《はる》という女の子が自分を認めたような表情を見せたと思ったのも実はこっちの勘《かん》違いで、商店街の人たちと同じように、ああこいつが噂《うわさ》の、と思っただけなのかもしれない。だとすると、やはり春留と自分はあのときが初対面なのであって、春留と妖怪《ようかい》はやはり別人――ということになるのだろうか。
しかし、顔は同じだった。
同一人物としか思えなかった。
それにしても――とマンゴーをもう一口、
本当にきれいな子だったなあ。
あの子は春留という名前でちょっと変わったところはあるけれどもいい子だ、と周五郎《しゅうごろう》も言っていた。そりゃそうだ、あんなきれいな子が妖怪であるわけがないよなあ、と思う一方で、まさにその白くてきれいな顔が診療所に現れた「あれ」とそっくり同じなのである。
「あれ」は、絶対に普通ではなかった。
物理的にありえない動きをしていた。本物の忍者《にんじゃ》にだってあんな真似《まね》はできっこない。まさに妖怪と呼ぶ他《ほか》はない何者かであったと思う。この島には他にも色々と奇妙《きみょう》なところがあるけれども、あの妖怪にさえ合理的な説明がつくのなら、他の細かいことにはすべて目をつぶってもいい。
果汁の匂《にお》いのため息を吐《つ》く。
まるで、凄《すさ》まじく手の込んだいたずらでも仕掛けられているような気分だ。
正時は、基本的には幽霊《ゆうれい》やUFOといったものは信じない口である。――というよりも、そんなものが本当にいたら怖いので信じたくない、と思っているタイプだ。確かに診療所では死ぬほど驚いたし、実際に「モノ」が目の前に飛び出してきたらそんなみみっちい信念など簡単に消し飛んでしまうのだと思い知らされた。が、こうして冷静になってみれば、いきなり妖怪《ようかい》の存在を信じるよりも先にまず自分を疑ってみるべきだと思う。よく考えてみろ、何か筋の通った説明がつくはずだ。考えろ考えろ、何か説明が――
手の込んだいたずら。
「あ――、」
港についていきなり町外れの診療所、ひとりで寝ているところに妖怪の出現、その直後に迎えがきて歓迎会、という出来すぎたタイミング。
正時《まさとき》はマンゴーから顔を上げた。呆《ほう》けたような口元が果汁でべしょべしょになっている。
あれは、本当に、手の込んだいたずらだったのではないか。
いや、単純ないたずらとは少し違う――恐らく、この島には外からきた人間をあんなふうに脅《おど》かす風習があるのだ。この島の守り神は女の子の姿をしているという伝説か何かがあって、つまりあの「女の子の妖怪」はこの島における獅子舞《ししまい》やナマハゲみたいなもので、外から来た人間が背負ってきた「悪いもの」を脅して追い払う意味があるのではないか。
すごい、それは何だか本当にありそうだ。
模擬試験のときもこのくらい頭が回ればよかったのに。
勢いづいてどんどん考える。たぶん、段取りは大昔から決まっているのだと思う――町外れの小屋にいったん隔離《かくり》して、妖怪の扮装《ふんそう》をした者が脅かしに行って悪いものを追い払い、しかる後に歓迎の宴《うたげ》。脅かし役は島の女の子からくじ引きか何かで選ばれ、選ばれた子は「えぇ〜またわたしなの〜!?」などと文句をタレつつ顔に隈取《くまどり》の化粧《けしょう》を施されるのだ。
外から持ち込まれる「悪いもの」の正体が黴菌《ばいきん》やウイルスだと判明している現在、かつての町外れの隔離小屋は町外れの診療所になって、町への来訪者に対しては医者の手で健康診断が行われるようになった。
しかし、来訪者を脅かす風習はいまだに生き残っているのではないか。
すごいすごい、きっとそうだ。
もちろんすべては推測にすぎない。しかし、あんな妖怪が現実に存在するなどと考えるよりはずっとましだ。しかも、島全体に漂《ただよ》う「何事かを隠しているような雰囲気」にも一応の説明がつけられる。どんぴしゃで真相を捉《とら》えていないにせよ、大筋の部分では外れていないような気がする。
さらに考えてみる。そもそも、妖怪の扮装をした春留を本物の妖怪と思い込んでしまった一番の理由は、春留が物理的にあり得ない動きをしたように見えた《、、、、、、》からだ。しかし、それこそ気の迷いというものではないのか。もしくは姉子《あねこ》が自分に飲ませた薬のせいとか。姉子がそれを狙《ねら》ってやったのだとしたら医者としていくらなんでもやり過ぎだろうという気はする。が、姉子にそんなつもりはなかったにせよ、あのとき飲まされた薬が自分にはたまたま妙《みょう》な作用を及ぼしたというのはあり得ることではないのか。
最後の謎《なぞ》。春留《はる》はなぜあの首飾りを奪っていったのか。
わからない。わからないが、それ以前に回転様についてはわからないことだらけだし、まだ自分の考えが及ばない島の事情があるのかもしれないし、そもそも首飾りが奪われたなどという事実はなかった、という可能性さえある。春留はあのとき、手にしていた奇妙《きみょう》な形の刃物でタコ糸を切断して首飾りを抜き取った――自分はそう記憶しているが、たかだが相手を脅《おど》かすための扮装《ふんそう》をするのに本物の刃のついた小道具など持ち出してくるだろうか。本物でなければ魔よけとして役に立たない、といった考え方もあり得るが、実際には春留はそれっぽく見える動きをしただけであり、首飾りを盗《と》られたと思ったのは薬でラリっていた自分の思い違いであって、本当はどこかの時点で単に失《な》くしてしまっただけ――なのかもしれない。
ほら。
気がついてみれば、不思議なことなど何ひとつなくなっていた。
めちゃくちゃに元気が出てきた。
正時《まさとき》はがつがつとマンゴーを平らげてはははと笑う。道行く人が気味悪そうに正時を見ているがまったく気にならない。なにひとりで笑ってるん、と魚屋のおばあに呼び止められて今度はスルメをもらった。まるでロードワークに出たロッキー・バルポア状態だと正時はひとり悦《えつ》に入《い》ったが、むき出しのスルメをかじりながら歩く正時の姿は傍目《はため》には何だかアホな子のように見える。
――なあんだ。
ゆうべ診療所に現れたのはやっぱり春留だったのだ。
むしろ、あんなきれいな子が脅かし役で来てくれてよかったと思う。――それにしても、あのときの自分はちょっとかっこ悪かったなあ。きっとおしっこチビりそうな顔してたよな。そうと知っていればもうちょっとよそ行きの顔で驚いたんだけどなあ。
「あ、正時くんだ」
真琴《まこと》がいた。
「散歩? 二日酔《よ》いはもう平気?」
真琴はどぶ板をばこばこ踏み鳴らしながらうれしそうに駆《か》け寄ってきた。正時が手にしているスルメに目を止める。
「あ、これさっきもらったんだ」
「じゃあそっちは?」
真琴は正時の背中からのぞいている写真の袋を目ざとく見つけた。マンゴーを食べるときに邪魔《じゃま》だったのでズボンの腰周りのところに突っ込んでおいたのだ。
「ああ、これは、――えっと、周五郎《しゅうごろう》さんにおつかい頼まれて」
周五郎さん、という言い方がよほどおかしかったのか、真琴は目を丸くして笑い出した。
「へんなの。今ちょっと迷ったでしょ。おじいって呼べばいいのに」
正時《まさとき》はちょっと照れつつも、
「――おじいに頼まれて。カンフーに渡してくれって」
「え? カンフーさんならさっき倉庫の駐車場で見たよ。何だか知らないけれど急いでいたみたいだった。すごい勢いで軽トラックに乗ってどこかに走っていっちゃったけど」
遅かったか、と正時は思う。カンフーは痺《しび》れを切らして自分で写真を取りに行ったに違いない。写真館に戻ろうかどうしようかと迷っているといきなりフラッシュを浴びせられて正時は顔を顰《しか》めた。何事かと思って薄目を開けてみると、真琴《まこと》がカメラのファインダーから顔を上げて、にへへへ、と笑う。そうやって笑うと真琴は意外なほどタレ目になる。
「これ、学校の宿題なの。二人か三人で一組になって島を回って、きれいな風景とか面白い物とか道で会った人とか、何でもいいからみんなで写真に撮《と》ってね、取った写真をノートに貼《は》りつけてアルバムにするの」
なんだか小学生の宿題みたいだなあ、と正時は思った。しかし、見たところ真琴はひとりである。連れの姿は見当たらない。
「グリシャンは三日前くらい前からお|腹壊《なかこわ》して寝込んでるし、ブタマンは今日は家族と守人《もりと》にお出かけ。だから今日はわたしひとり。ほんとはね、ひとりじゃつまらないから正時くん誘おうかなって思ったんだけどね、二日酔《よ》いでそれどころじゃないみたいだったから」
真琴はカメラを裏返して、フィルムの巻き取りボタンを押した。
「でも、今日はもうおしまい。フィルムもさっき正時くんを撮ったやつで最後」
そして真琴は右手を差し出して
「スルメ半分ちょうだい」
半分に破いたスルメにがっぷりとかじりついて、真琴は先に立ってすたすたと歩き出した。
正時もなんとなくその後を追って、ふたりで並んで海沿いの道をぶらぶら歩くことになった。
「正時くんの通ってる学校ってどんなところ?」
「正時くんの住んでる町ってどんなところ?」
「正時くんはどんな高校に行くつもり?」
道々、矢継《やつ》ぎ早に色々聞かれた。
そして、そのことごとくが正時には答えにくい質問だった。それらの質問を答えるには、まず前提として自分が転校を八回も繰り返してきたことを説明しなければならない。
転校八回、と聞いた真琴の驚きようといったらなかった。最初は「うそだあ」とまるっきり信用しようとせず、父親の仕事の都合で今までずっと引っ越しの連続だったことを説明すると「ほんとうなの!? ほんとうに八回も転校したの!?」と大声を上げて、最後には憧れ丸出しの目つきで正時を見つめて、
「――かっこいいなあ」
かっこいいかな、と正時《まさとき》は思って、
「でも、やっぱりそれなりに嫌《いや》なことだってあるよ。転校転校でつぎはぎだらけの授業しか受けてこなかったからすごい頭悪いしさ、八回目に転校したのはひと月くらい前なんだけれど、うっかり進学校に転入しちゃっていきなり試験でフクロにされたし」
ふうん、と真琴《まこと》は納得したようなしていないような声を出す。やがて歩道が急に狭くなる場所にさしかかると、真琴は歩道の脇《わき》にある背丈《せたけ》ほどの高さの防壁によじ登った。防壁の向こう側はもう海であり、5メートルほど下に打ち寄せる波がテトラポットの隙間《すきま》から吹き上がって轟々《ごうごう》たる唸《うな》りを上げている。どうしても正時と並んで歩きたいらしい。
「でも、やっぱりうらやましいなあ」
真琴はそう言って、白くて硬そうな歯でスルメの耳をばりっと噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]み千切る。
「らってわらひね、この島《ひま》から出《れ》たことって三回くらいしかないんらもん。ひっかいは修学旅行《ひゅーがくりょこう》れしょ、もうひっかいはお母はんが雑誌の懸賞《へんひょー》で温泉旅行《おんへんりょこう》当てたときれしょ、あとひっかい小さいころに病気をして本土《ひゃまと》のおっきな病院に入院したとき。それらけ」
「――ほんとに?」
もぐもぐごっくん、
「そりゃあ、守人島《もりとじま》くらいまでなら何回も行ってるけど。でもやっぱり本土《やまと》とは違うもん。船を出してもらわなきゃいけないから、友達だけで遊びに行くってわけにもいかないし。カンフーさんなら都合がつけば連れて行ってくれるけど、わたしすぐに船酔《よ》いするから、あるかでぃあみたいな小さな船なんか乗ったら五分でげろげろになっちゃうよ」
海沿いの道から港の倉庫街へと迷い込むと、そこらじゅうに猫《ねこ》がいた。日なたでとぐろを巻いて寝ていたり鬼《おに》ごっこをしてレンガ造りの壁をよじ登ったり、長老たちが路地の奥でいつか見た絵本そのままの集会を開いていたりする。どいつもこいつも見た目は野良《のら》猫ど真ん中のくせに実に図太《ずぶと》い。人間をまったく恐れない。正時が軽トラックの下に手を突っ込んで背中を撫《な》でても平気であくびをしている。スルメの残りをあげようとしたら真琴に止められた。猫にスルメを与えるとお腹《なか》を壊《こわ》すのだという。
「港の人が結構かわいがったりしているからね。守人の港にある倉庫街にもいっぱいいるよ」
真琴は正時の隣にしゃがみこんで軽トラックの下をのぞき込みながら、
「倉庫の穀物《こくもつ》にネズミが集まるから、それで猫も集まってくるんだって。漁師の人から魚のおこぼれをもらえたりするしね」
要塞《ようさい》のような港を抜けて、とうとう堤防の突端にたどり着いた。
行く手にはもう海しかない。
生ぬるい風が海から吹き寄せてくる。
真琴は顔を上げて海をまっすぐに見つめた。運動会の入場行進のように大股《おおまた》で歩いて堤防の先端ぎりぎりのところで立ち止まる。スニーカーのつま先が堤防の縁から出ている。
「な、なにしてんの、危ないよ」
正時《まさとき》に背を向けたまま、楽しかった旅行の思い出を話すような口調で、
「わたしのお父さんね。わたしが小学校三年生のときに死んじゃったの」
あまりにも突然の告白に、正時は頭が空っぽになってしまった。
こういうときには一体何を言えばいいのだろう。
「それまで病気なんかしたことなかったんだけどね、わたしが学校から帰ってきたら家の近所の人がいっぱい集まってて、お父さんが倒れたって。守人《もりと》の病院に運ばなきゃいけないんだけど、そのとき台風が来てて船は出せないって」
真琴《まこと》はその場で踊《おど》るように振り返って笑顔を見せた。今度はスニーカーの踵《かかと》が堤防の縁から出ている。話の内容も内容だが、正時は今にも真琴が海に転げ落ちるのではないかと気が気ではない。
「お葬式《そうしき》の後でおじいが家に来て、わたしを写真館に連れていってくれてね、この店の中にお父さんの写真があるから探してごらんって言ったの。この写真館は島の出来事をぜんぶ記録している資料館みたいなものだからって。わたしね、お店にあるアルバムやファイルをみんなひっくり返して、三日くらいかかってとうとうお父さんの写真を見つけたの。おめかししてて笑ってた。お母さんと結婚する前の晩におじいが撮《と》ったんだって。いまはその写真、額《がく》に入れてお店の壁に飾ってあるよ。それからはわたし、何かあるとすぐおじいの家に行ってその写真をながめてたんだ。わたしがおじいの家に入《い》り浸《びた》るようになったのは、それが理由」
そこで真琴は、むっ、と眉根《まゆね》を寄せて、
「でもね、いつまでもおじいの家に入り浸っているようじゃダメだと思うの」
くるりと身体《からだ》の向きを変え、真琴は海の彼方《かたな》をびしりと指差すのだった。
「わたし、中学卒業したら、守人じゃなくて本土《やまと》の高校に行きたいんだ」
最初の驚きも過ぎ去れば、こいつ、ちょっと自分に酔《よ》ってるなあ――と、正直、思わなくもない。
しかし、何に対しても少し斜《はす》に構えた物の見方をするのは自分の悪い癖《くせ》だ。島からほとんど出たことがないという真琴の目には、遠い本土で八回も転校を繰り返してきた自分が眩《まぶ》しく映っているのかもしれない。
真琴の後姿を見ていると、がんばってほしいなあ、という温かい気持ちが素直に湧《わ》いている。しかし、その気持ちを口に出していえるほど正時は器用ではない。それでも何か言おうと思って、懸命《けんめい》に脳みそをしぼって、
「――ダンボール箱」
思わぬひと言に、真琴が怪訝《けげん》な表情で振り返る。
「え?」
「引っ越し屋のダンボール箱は、捨てないで取っておいた方がいいよ」
言ってしまってから我に返って、めちゃくちゃに恥ずかしかった。
真琴《まこと》は目を丸くして正時《まさとき》を見つめていたが、そのうちにぷっと噴《ふ》き出して、なんだかものすごく嬉《うれ》しそうに大笑いし始めた。正時も笑われてちょっとだけ安心した。そのとき、
「――わ。わわ、」
真琴が大笑いした拍子《ひょうし》にバランスを崩《くず》した。上体が後ろに泳いで両手を振り回している。正時は慌《あわ》ててその手を掴《つか》んで強引に堤防の上へと引っ張り戻した。危ないところを助けられた真琴が、にへへ、と照れ笑いを浮かべる。
「正時ぃ――っ!!」
いきなり背後の彼方《かなた》から名前を呼ばれた。振り返ってみると、堤防の根元まで乗り入れた軽トラックの窓からカンフーが身を乗り出している。例の写真は正時に持たせたと周五郎《しゅうごろう》に聞いて大急ぎで戻ってきたのだろう。まったく忙しいことである。
「あ、カンフーさんだ」
真琴はカンフーの姿と正時が手にしている写真の袋を交互に見つめ、
「それって、そんなに大事な――」
写真なのかな、と続くはずの言葉を飲み込んだ。
目を見開いたまま堤防の一点を凝視《ぎょうし》している。
何かと思って真琴の視線の先を辿《たど》ってみると、正時と真琴のちょうど中間のあたり、堤防のひび割れの中から何か小さな生き物がこそこそと這《は》い出てくる。何か気味の悪い虫かと思った正時も腰が引けそうになったが、しかし、ほんの少し目を凝《こ》らしただけですぐにその正体は知れた。
親指の爪くらいの大きさの、黒っぽい色をしたカニだった。
なあんだ。
と思った瞬間、いきなり真琴がスニーカーの靴底でカニを踏み潰《つぶ》した。
真琴はさらに、踏み潰しただけではまだ足りないとでもいうように、靴底に体重を乗せてぐりぐりぐりとカニを踏みにじった。たとえゴキブリでもそこまではされまいと思うほどの、怨念《おんねん》のこもった踏み殺し方である。
正時は呆気《あっけ》に取られてその様子を見つめていた。
ところが、真琴は自分の行動が異常なものであるとはこれっぽちも思っていないらしかった。安堵《あんど》のため息を吐《つ》いて、少し恥ずかしそうな笑みを浮かべて、
「ああ、びっくりした。――さ、行こ。カンフーさん待ってるよ」
ぐい、と腕を引かれた。
その衝撃《しょうげき》で脳みそが揺れて、それまで朧《おぼろ》げだった記憶が夕日の下に転がり出てきた。
歓迎会での最後の記憶。
自分がカニを話を持ち出したとき、凍《こお》りついたように動きを止めて、まったくの無表情で自分を見つめていた顔、顔、顔。
あれは夢ではなかったのだ。
真琴《まこと》に腕を引かれて、正時《まさとき》はつんのめるように堤防を走る。自分の手首を掴《つか》んでいる真琴の右手、あの学習帳に謎《なぞ》の文字を書き連ねていた右手だ。行く手にはおんぼろな軽トラックに乗ったカンフーが待ち構えており、その背後には要塞《ようさい》の如《ごと》き港、そのさらに背後には島の斜面にへばりついているような町並みが見渡せる。
つんのめるように堤防を走りながら、正時は思った。
この島は、やっぱり、絶対におかしい。
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※[#挿絵画像 01_137]|挿絵《P.137》
C
朝ごはんが待ち遠しい。洗面所が満員だったので、正時《まさとき》は周五郎《しゅうごろう》のものと思しき草履《ぞうり》をつっかけて勝手口から外に出た。出てすぐ左に水道があるらしい。周囲の植え込みや手入れの足りない芝生《しばふ》が雨水に濡《ぬ》れそぼっていて、強烈な朝日がぎらぎらと跳《は》ね返って目を開けていられないほど眩《まぶ》しかった。夜中過ぎに雨がぱらつき始めたことには気づいていたが、夜明け前あたりにはだいぶ激しく降っていたようだ。足元も相当にぬかるんでいて、草履を履《は》いた素足が五歩も行かぬうちにびしょびしょになってしまった。
水道発見。
壁から突き出た真鍮《しんちゅう》色の蛇口《じゃぐち》の下に、プラスチック製の流しが置かれている。
歯ブラシに、むにゅっ、と歯|磨《みが》き粉をつける。
がしがしと歯を磨く。
この瞬間が旅行の醍醐味《だいごみ》だと思うのは自分だけだろうか。家で使っているのとは違う歯磨き粉の味に「ああ、自分は旅行に来てたんだなあ」という実感を覚えるのだ。昨夜は布団《ふとん》の中で遅くまで考え事をしていたので若干《じゃっかん》寝不足気味だが、久しぶりの爽快《そうかい》な目覚めである。昨日の朝は二日酔《よ》いでへろへろだったし、一昨日の朝は車の助手席でうつらうつらしていたところをリカ姉《ねえ》に腕拉《うでひし》ぎ逆十字で起こされた。
がらがらがら、ぺっ。
顔を洗い、首にかけたタオルでぐいぐい顔を拭《ぬぐ》って気合を入れる。
いいだろう。
この島の人はみんなカニが嫌い。もしくは怖い。
アメリカ人だってイカやタコが嫌いだ。
「いただきます」
左吏部《さりべ》の家では朝ご飯はみんなで食べる。
朝はウミタナゴの塩焼きと味噌汁《みそしる》と、晩ごはんの残りの肉じゃが。
これから真琴《まこと》と一緒に宿題の写真を撮《と》りにいく約束をしている。歯を磨く前、三つあるトイレの個室の一番奥でしゃがんでいたら隣に誰かは入ってきて、何となく息を殺していたらいきなり真琴の声が仕切りの壁ごしに、
「今日こそ一緒に行こうね、今日はきっとグリシャンもブタマンも来るから」
と平気で話しかけてきたのだ。この島での滞在もすでに三日目、だんだんわかってきたこともいくつかあって、この島の人はプライバシーということをあまり気にしない。正時の部屋に入ってくるときでも誰もノックなどしないし、障子《しょうじ》にノックは不自然だというのならせめて声のひとつもかけてほしいところだが、いきなり部屋に入って来られることの方が多かった。これも田舎《いなか》の特徴なのだろうか。
朝ごはんを済ませ、靴ひもを結ぶのが下手《へた》くそな真琴《まこと》を玄関《げんかん》口で待っていると、すぐ背後の引き戸がいきなり開いて真っ黒に日焼けした坊主《ぼうず》頭がのぞいた。真琴が靴ひもから顔を上げ、
「あ、グリシャンだ。お腹《なか》はもう復活した?」
正時《まさとき》は驚いて坊主頭を見つめた。坊主頭も正時を認めて、なんだか不機嫌そうな口調で、
「お前が正時?」
「う、うん」
ようやく靴ひも結び終えた真琴がぴょこんと立ち上がった。
「ねえ、今日はブタマンも来るんでしょ?」
「と思うぞ、ゆうべアイス食いながら歩いてるの見たし」
「それじゃおじい、行ってきまーす!」
真琴は家にいる周五郎《しゅうごろう》に声をかけ、小さなリュックサックを掴《つか》んでいきなり玄関《げんかん》から飛び出していく。おっと、と身を避《よ》けて真琴を通したグリシャンが再び坊主頭をのぞかせ、
「お前も行くんだろ?」
正時はなんとなく圧倒される感じで、グリシャンと並んで真琴の後に続いた。
「ねえ、今日はどこに行こっか?」
先を行く真琴が振り返って、後ろ歩きをしながら尋ねてくる。正時には答えようもなく、隣を歩いていたグリシャンが、
「スクラップ置き場とか」
「えー、秘密基地の写真なんてもういっぱい撮《と》ったじゃん」
「――じゃあ、学校は?」
「それもいっぱい撮った」
「校舎裏の砂浜なんかの写真はまだだろ。あそこなら景色もいいしさ」
グリシャンはこちらを一瞥《いちべつ》さえしなかったが、正時のことはどうやらはっきりと意識しているらしい。正時に島を案内してやろうと考えて、自分や真琴にとっては大して珍しくもない場所をあえて挙げているのだということが正時にはなんとなくわかった。
「ねえ、なんで『グリシャン』って呼ばれてるの?」
初対面の相手にあだ名の由来を尋ねるのはちょっと冒険《ぼうけん》である。それが話題のとっかかりになって話がはずむこともあれば、古傷に塩を塗りこむことになって相手を怒らせてしまう場合もある。
グリシャンは、横目でちらりと正時を見て、
「家が旅館だから」
「え?」
旅館でどうしてグリシャンなのか。それ以上深く突っ込むべきか悩んでいると、グリシャンはいきなり左前方にある二階建ての家を指差した。
「あれが俺ん家《ち》」
ごく普通の一般家屋に見える。本当に旅館なんだろうかと思って歩きながらみていると、玄関《げんかん》口に出ている看板《かんばん》が目に入った。
『旅荘 シャングリラ』
だいたい旅館が「シャングリラ」というだけで正気を疑いたくなるネーミングだが、あまつさえグリシャンの家はどこからどう見てもごく普通の民家なのだった。看板が出ていなかったら誰も旅館とは思うまい。実際、グリシャンの両親も普段はこんな看板などほったらかしで農作業に精を出しているらしい。ごくたまに訪れる客は守人島《もりとじま》から来る電話会社の職員や灯台の保守管理員といった「いつものメンバー」で、最後の飛び込みの客といえば数年前、岬島《みさきじま》のスタンプを目当てに迷い込んできた切手マニアのおっさんを泊めたことが一度あるきりだろいう。ちなみに、グリシャンと五つ離れた弟は「シャングリ」と呼ばれているらしかった。
「お前は普段なんて呼ばれてんだ?」
グリシャンが逆に聞いてきた。先を嬉《うれ》しそうに歩いていた真琴《まこと》も足を止めて、それは興味ある、という顔で見つめてくる。正時《まさとき》がそれに答えようとしたとき、真琴の目が正時の肩ごしに何かを認めて、
「あ、バス屋が来た」
バス屋?
正時が振り返ると、コンクリート舗装《ほそう》の道の向こうから一台のバスがやって来る。迷彩《めいさい》模様のバスなのかと一瞬思ったが、よく見ると単に車体の塗装がはげて錆《さび》が浮いているだけなのだった。銃声《じゅうせい》のようなノッキングの音を響かせて走ってくる様は、まるで無法者の一団でも乗せているかのように思われる。
「学校行くならあれ乗っちゃおうよ。途中でブタマンの家の前通るし」
真琴はリュックサックから小さなプラカードのようなものを取り出した。30センチほどのパイプの先に「バス停」と書かれた丸いプレートが取り付けてある。真琴は道端《みちばた》から身を乗り出すようにして、バスに向かってその「バス停」を大きく振り動かした。グリシャンは使い捨てカメラをバスに向けてシャッターを切り、それまで道のど真ん中を走っていたバスは左に進路を寄せてスピードを落とす。
が止まらない。
「正時、走れ!」
グリシャンに言われて、慌《あわ》ててバスを追いかけて走った。真琴はすでに先を走っていて、開けっ放しのドアの手すりを掴《つか》んでバスに飛び乗った。正時もそれに倣《なら》い、最後にグリシャンが乗り込んでくる。驚いた。
こんなバスは初めてだ。
「この島には休みの間ずっといるんだろ? だったら一応説明しとくけど、」
車内には他《ほか》の乗客はいない。グリシャンは網棚《あみだな》のパイプを伝って最後部のシートへと移動しながら、
「バス停の札は役場の入り口んとこのダンボール箱にまだ、二、三個は残ってると思う。路線図はたぶんもうない。バスを見かけたらさっきみたいに道端《みちばた》でバス停を振って、スピードが落ちたところを飛び乗るんだ。止まってくれるのはおじいおばあの時だけ。料金はタダ。降りるときは運転手のおじいにそう言えばスピードを落としてくれるからタイミングを見計らって飛び降りろ。おじいの名前は可久楽部《かくらべ》健一《けんいち》、通称『バス屋』、何日か前に麻雀《マージャン》でボロ負けして無言の行《ぎょう》に入ってるから誰とも口をきかない」
口調はぶっきらぼうだが正時にはありがたい説明である。真琴《まこと》はこういう気の使い方はしてくれなかった。バス停の札さえ手に入《い》れれば、ひとりでも比較的自由に島を動き回れるようになるだろう。バス屋は紺《こん》の制服と白手袋がばっちり決まった初老の男で、数年前に本土からこのバスと一緒に戻ってきて以来、誰に頼まれたわけでもないのに毎日毎日島を走り回るようになったのだという。バス屋に言わせれば、これは「おれの趣味であって道端を歩いている奴《やつ》が飛び乗ってこようがこまいが関係のないこと」であり、グリシャンの説明した通り運賃は頑《がん》として受け取らないが、島の人はときどき野菜や魚などをバス屋の家に持っていくらしかった。
バス屋は結構飛ばす。正時はすぐに気づかなかったが、この島にはどうやら信号機がひとつもないらしい。当然普通のバス停もないので実際以上のスピードでぶっ飛ばしているという印象を受ける。窓の外を眺めていた真琴がいきなり、
「あ、ブタマンだ! おーい! こっちこっち!」
おそらく写真館にむかう途中だったのだろう、道端をのんびりと歩いていた百貫デブが真琴の叫び声に気づいて慌《あわ》てて回れ右をする。どたばたとバスを追いかけながらリュックサックからバス停の札を取り出してぶんぶん振り回し、バス屋はその様子をミラーで確認するまでスピードを少しも落とそうとしなかった。
グリシャンは後部ドアから身を乗り出して、
「もっと速く走れ! 早く飛び乗れ!」
ブタマンは早くも呼吸を喘《あえ》がせ、後部ドアの手すりを掴《つか》もうとして懸命《けんめい》に右手を伸ばす。ぶ厚い脂肪の詰まった首筋がたぷたぷ波打っている。やっと手すりに手が届き、シャツの襟元《えりもと》をグリシャンに引っ張り上げてもらって、ようやくブタマンはバスに乗り込むことに成功した。
「おはよーブタマン」
真琴がにこやかに挨拶《あいさつ》した。ブタマンは通路にしゃがみこんで呼吸を整え、真琴、グリシャン、そして正時に視線を止めて、
「――君が、武田《たけだ》、くん?」
ブタマン、というあだ名はまさに見たままだと思ったのだが、いざ話してみると「発音が違う」と本人から何度も注意を受けた。豚饅頭《ぶたまんじゅう》のブタマンだと正時《まさとき》は思っていたのだが、豚ロデオ(祭りのイベントでそういうのがあったらしい)の少年の部で優勝したから「豚の男」でブタマンであるらしい。だから正しくは「ブタマン」の「タ」を強く発音する。本人は偏食《へんしょく》が激しく、肉が食べられないので豚饅頭などはもっての他《ほか》であり、嫌いなものの名前で呼ばれるのはどうにも我慢《がまん》がならないとブタマンは主張するのだった。しかし、肉も食わずに一体何を食ってこんなに太ったのだろう。
コンクリート舗装《ほそう》の道路は、海沿いに続く森に分け入《い》ったところでデコボコの砂利道《じゃりみち》へと変わった。森じゅうの雨粒が海から来る朝の日差しを跳《は》ね返して、走り続けるバスの車内を薄緑に染めている。
「そろそろ降りるぞ」
グリシャンがいきなり席を立ち、バス屋に向かって「降りますー!」と声をかける。まだ額《ひたい》の汗《あせ》も引いていないブタマン「もう降りるのー!?」と文句を言うが、真琴《まこと》はさっさと席を立って後部ドアの手すりに取り付いた。
タイミングを見計らって、真琴、グリシャン、正時《まさとき》、ブタマンの順で飛び降りる。走り去るバスを背景に入れて、立合いをいなされた相撲《すもう》取りのような格好で地べたに転がるブタマンをグリシャンが見事に写真に収めた。
「この階段を上っていくと学校のグランドに出るよ」
真琴が指差したのは、森の傾斜をぬって続いている段々のついた坂道である。
「なあ、さっきの続きだけどさ、」
水|溜《たま》りと木漏《こも》れ日を踏みながら坂道を上っていくと、昼間なのに夜の虫が鳴いていた。グリシャンが振り返って、
「何ていうあだ名で呼ばれてんだ?」
正人気は少し考え、
「あんまりあだ名で呼ばれることってないんだけど、」
「つまんねえ奴《やつ》だなあ」とグリシャン、
「ないんだけど?」と真琴、
ブタマンはもう息も絶え絶え、
「メガネ、って呼ばれることはたまにある」
グリシャンは意外そうな顔で振り返る。
「メガネって――かけてないじゃんそんなもん」
「いや、かけるんだよたまに。本読むときとか。授業中も、席替えで後ろの席になったときなんかはたいていかけてるし」
グリシャンは正時《まさとき》の顔をまじまじと見つめた。これから正時のことをメガネと呼ぶべきかどうか決めかねているらしい。
「――メガネ、って感じじゃねえよなあ」
坂道は、グランドを取り囲んでいると思しきフェンスに突き当たって終わっていた。
フェンスには人ひとりが通れるくらいの扉が切り取られているが、どうやら内側から掛け金《がね》がかかっているらしい。
「あたしが開ける」
先頭を歩いていた真琴《まこと》が、フェンスをよじ登ろうと網目《あみめ》に足をかけて、
「――あ」
グリシャンもまた、フェンスの彼方《かなた》にいる人影に目を止めて、
「――あいつ、」
ようやく二人に追いついた正時の目にも、フェンス越しの光景が入ってきた。背景に白くて古い木造の建物。おそらくあれが校舎《こうしゃ》なのだろうが、もともとは別の目的で建てられたものを校舎として利用しているようにも見える。大して広くもないグランドは水はけも最悪で、昨夜の雨がそこらじゅうに沼のような水|溜《たま》りを作っている。
正時は呼吸を止めた。
水溜りの中に、春留《はる》が立ち尽くしていた。
昨日と同じ白のTシャツに黒いジャージ姿。ただし、今日は馬鹿《ばか》でかいゴム長靴を履《は》いている。きれいな身体《からだ》つきにはおよそ似合わぬ代物《しろもの》だったが、似合わないなあと思って見ているとだんだん似合っているように見えてくるから不思議だった。胸元のあたりに両手で持っているのはどうやらスポーツタイプのコンパクトカメラらしい。春留は水溜りの中にじっと立ち尽くして、周囲の光景をゆっくりと眺め渡して、どの部分を写真に収めるかじっと考えているようだった。
死にそうな顔で追いついてきたブタマンが、倒れ込むようにフェンスにしがみついてかなり大きな音を立てた。ばか、とグリシャンが頭をはり飛ばしたが、フェンスが波打つように鳴る音がグランド中に響き渡った。
春留が稲妻《いなずま》に打たれたように振り返った。
そのまま動かない。
水溜りのど真ん中に立ち尽くしたまま、じっとこちらを見つめている。
「どうしよう」
フェンスの網目に足をかけたまま、真琴がぽつりと言った。
それはまるで、家に帰りたいのにでっかい野良《のら》犬が一本道の真中でがんばっているので通れない、といった感じのつぶやきに聞こえた。正時は思わず、
「どうしようって、何が?」
真琴《まこと》は答えない。いきなりグリシャンが動いた。足音も荒くフェンスをよじ登り、グランド側に飛び降りて扉の掛け金《がね》を外す。
「ほっとけばいいんだ。こっちが遠慮してやることなんかないよ」
真琴は恐る恐る扉をくぐってグランドに足を踏み入れる。ブタマンが這《は》うようにしてそれに続き、
「正時《まさとき》も来いよ。校舎の裏を降りればそこが砂浜だから」
グリシャンの物言いに正時は戸惑《とまど》う。この空気は一体何なのか。まるで、いじめっ子に出くわしたのに回れ右するタイミングを失ったかのようだ。
「ねえ、あの子って確か、」
「ほっとけってば。あいつみんなに嫌われてんだ」
グリシャンの口調は、好きな子をあえて悪く言うときのそれとは明らかに違った。
――春留《はる》ちゃんは、ちょっと変わっておるからなあ。
唐突《とうとつ》に、周五郎《しゅうごろう》の言葉が脳裏《のうり》によみがえってくる。
――昔から他《ほか》の子と遊んでいるところもあまり見たことがないしなあ。
「嫌われてるって、どうして」
「どうしてもだよ。ほら行くぞ」
「――あの子も宿題の写真|撮《と》りに来たんじゃないの?」
「らしいな」
正時はちらりと真琴を見て、
「でも、宿題のアルバムは何人かで一組になって作るんだろ? だったら、」
「あいつと組みたがる奴《やつ》なんてこの島にいるかよ。ほらぁ、早くしろよブタマン」
ブタマンは汗《あせ》だくの顔を上げてようやく事態に気づいた。
「うわ春留だ。ど、どうしよう」
「どうしようもクソもあるかよ。おら行くぞ、これじゃこっちがビビってるみたいじゃねえか」
グリシャンはそう言って鼻息を荒げる。よほど春留のことが嫌いなのか。グリシャンの極端な態度が正時には正直以外だった。愛想《あいそ》は悪いがもっと理屈で行動するタイプかと思っていたのだ。ブタマンは明らかに春留のことを恐れている。真琴は困ったような顔をして成り行きを見守っているが、基本的にはやはりグリシャンやブタマンと同じ側に立っているらしく、間違っても春留の肩を持ったりしないだろうということはひと目見ればわかった。
――へんな意地悪やめろよ、かわいそうじゃないか。
新参者《しんざんもの》という立場もあるし、第一、とてもそんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。グリシャンに半ば無理|矢理《やり》背中を押される形で、真琴もブタマンも、そして正時も、グランドをまっすぐに横切り始めた。
春留はその様子を見つめている。
グランドの中央で両者が再接近したとき、彼我《ひが》の距離は3メートルほどだった。水|溜《たま》りの中に春留《はる》は立ち尽くしている。鏡のような水面には青い空が映り込んで、馬鹿《ばか》でかいゴム長靴を挟《はさ》んで逆《さか》さまになった春留がもうひとりいるように見える。二人の春留の二組の目が、傍《かたわ》らを通り過ぎていく四人の動きをじっと追いかけている。
ふと、水面の下に逆《さか》さまに立っている春留を見るのが恐ろしいと正時《まさとき》は思った。
もし、その顔にあの隈取《くまどり》が施されていたら。
正時はため息を吐《つ》く――くだらない妄想《もうそう》だ、その話にはとっくに決着がついたはずではないか。春留に対する罪悪感を自分の中で正当化しようとしているだけではないのか。
17、20、16、9、21、15、12、13。
お前は冷酷無比《れいこくむひ》な流れ者ではなかったのか。こんなのはまだかわいいほうだろう、もっと凄惨《せいさん》な無視《シカト》や仲間ハズレをいくらでも見てきたはずだろう、いつだって眉毛《まゆげ》ひとつ指一本動かさずに素通りしてきたんだろう。それが今さらなんだ、この腰抜けの偽善者野郎《ぎぜんしゃやろう》。
春留の視線が痛かった。
両者の距離がゆっくりと広がっていく。
春留を背後に残して、四人はついにグランドを横断した。校舎《こうしゃ》の裏手へと回り込むには体育倉庫のある側から行くのが近道である。正時が最後に振り返ったとき、春留はまだグランド中央の水溜りの中にいて、手の中にあるカメラをゆっくりと持ち上げ、ファインダーごしにこちらを見つめてシャッターを切った。
ばーか。
シャッターの音の代わりに、そんな声を聞いた気がした。
校舎の裏手に回ると、岩だらけの急斜面がいきなり海へと落ち込んでいた。
岩の間には鎖《くさり》と鉄柱で道筋がつけられていて、見かけよりはずっと簡単に砂浜へと降りていける。端《はし》から端までが50メートルもないくらいの小さな砂浜だが、両端から突き出た橋のような形の岩に守られていて、突然の大波や突風の影響も受けにくい。何よりも、砂浜から見渡す海の光景がものすごかった。海の色といい岩の形の奇妙さといい、正時が今までテレビでしか見たことのないような光景が現実のものとして目の前にあった。うらやましいことに、体育の時間にはこの砂浜で水泳の授業をするという。
「今朝テレビの天気予報見てたらもうすぐ台風が来るって言ってた。今日はちょっと波が高いのもそのせいかなあ、この砂浜は普段はもっと波が穏《おだ》やかなんだけれどね」
話を聞くならブタマンだ、と正時は思った。
真琴《まこと》やグリシャンよりも組みしやすいと見た。
「――ねえ、あのさ、さっきの春留って子の話だけど、」
砂浜に降りてから真面目《まじめ》に写真を撮《と》っていたのは最初の十分ほどで、すぐに四人で膝《ひざ》まで海に入って大騒ぎして遊んだ。そのうち疲れ果てたブタマンが砂浜に上がって木陰でゴロ寝を始めたので、チャンスと見た正時《まさとき》はグリシャンと真琴《まこと》をうまく挑発し、両手と両足を掴《つか》まれて深みに放り込まれて、服を乾かすと言い訳をしてブタマンの隣に陣取《じんど》ったのだ。
「なんで?」
打てば響くようにブタマンが聞き返してくる。
「いや――え? なんでって、何が?」
「だからなんで? なんであいつの話なの?」
「だってさ、さっきの見たら誰だって気になるよ。ブタマンがぼくの立場だったらやっぱり気になるだろ?」
「あいつ嫌われてんだよ」
それはもう知ってる。
「何て言うかさあ、あいつあんまり喋《しゃべ》んないしさあ、そのくせちょっと凶暴《きょうぼう》だしさあ、なんかお高くとまっててさあ、なんかぼくらのこと見|下《くだ》してるんだよな」
お高くとまってる、というのは何となくわかる気がする。つーんとしていて、こちらには鼻もひっかけないような雰囲気の女の子というのはたまにいる。そういう子はたいていちょっときれいだったりする場合が多くて、それが「お高くとまって」見える原因は、見ている側の劣等感の裏返しだったりする場合が多いことも正時はよく知っている。
しかし、
「――凶暴?」
「あいつケンカ強いんだよ。めちゃくちゃ。ああ見えても。天誅《てんちゅう》さんに何か習ってるらしくってさあ、ぼくらじゃたぶん相手にならないよ」
それはものすごく意外だ。
そしてブタマンはやはりものすごくガードが低い。この島にきて間もない自分を相手にいきなり「天誅さん」と何の注釈もつけずに言うあたり、あまり考えずにばんばん喋るタイプだ。
「――そんなにしょっちゅうケンカしてるの?」
「最近は全然。ケンカって言っても昔の話だよ。でもさ、君の場合なんかはちょっと気をつけた方がいいかもしれない。あいつ、本土人《やまと》がめちゃくちゃ嫌いだから」
地味にショックだった。自分はまともに話もしないうちから嫌われているのか。
「理由は? 春留《はる》はどうして本土の人をそんなに嫌ってるの?」
「さあ。聞いてみたこともない。でも、教室でぼくらが本土《やまと》の話してるだけであいつむちゃくちゃ機嫌悪くなるしさあ。何も言ってこないけどね。この島のことは大好きみたいだし、何かヘンな先入観でも持ってるんじゃないの?」
ふうん、と正時はつぶやく。理屈としてはわからなくもないが、いまひとつ腑《ふ》に落ちない話だ。
「――天誅《てんちゅう》さんに何か習ってる、っていうのは? 空手《からて》とか?」
「それもよくは知らない。でも空手かなあ。何て言うかさ、そういう普通の武道とかじゃない気がするんだよな。だってあいつ昔から、手が届くところに凶器《きょうき》があったら迷わず使うタイプだったからなあ」
「――怖いねそれ」
「怖いよ。グリシャンなんかずっと昔にビール瓶《びん》で殴《なぐ》られたことあるもん。――まあ、あのときはグリシャンも悪かったんだけど。天誅さんが春留《はる》連れて頭下げに行ってたよ」
ビール瓶、と聞いて思わず黙り込んでしまった正時に、
「まあほら、さすがに今やったらシャレんなんないけどさ。こーんなガキの頃の話だから」
そう言ってブタマンは笑った。ふと、遠くを見るような目をして、
「――けどまあ、ぼくは、ちょっとわかる気がするんだけどね」
「何が?」
「だから、あいつがひねくれるのもさ。あいつん家《ち》、秦納舞部《しんのうまいべ》っていうすごく古い家なんだ。この島には同じ名前の家っていっぱいあるけど、秦納舞部を名乗ってる家はあいつんとこだけなんだ」
家が古いとなぜひねくれるのだろう。
「――何か、特別なことでもあるの?」
ブタマンははぐらかすように肩をすくめた。しばらく間を置いて、
「あいつのお袋って、たしか、あいつを生んですぐに死んじゃったんだよ。おばあはまだ生きてるけど、ときどき家の近くを時速1メートルくらいで歩いてるって話聞いたことあるし。天誅さんも天誅さんだよな、なんでこの期《ご》に及んで子供なんか作ったんだろ。あいつだって、もっと大昔に生まれてきたかったんだと思うよ。これなら秦納舞部を名乗る家もいっぱいあったろうしさ、あいつだって今なんかよりずっとみんなに尊敬されてたと思うしさ」
一挙にわからない話になった。
かつては栄えていた秦納舞部の一族がいまは没落《ぼつらく》寸前である、という話なのか。
この期に及んで、とは一体どういう意味なのだろう。
春留も大昔に生まれてきたかったはずだ、とは。
何から尋ねたらいいのかわからなくなって、正時は思わず口ごもってしまう。そんな正時を横目で盗《ぬす》み見ていたブタマンがいきなり、
「あっ。あー!!」
と二段階式で驚いた。何事かと顔を上げた正時に、
「ああそうか、君は――、うわー、そうなんだ! やめときゃいいのに!」
「な、なにっ?」
そしてブタマンは、驚天動地《きょうてんどうち》のひと言を口走った。
「君ひょっとして、春留《はる》と結婚するつもり!?」
頭の中が真っ白になるとは、まさしくこういうことを言うのだろうと正時《まさとき》は思う。
いきなり何を言い出すのか。
お前はリカ姉《ねえ》か、と思った。
「――――――――――えっ、はあ!? け、結婚って! ぼくは、な、なんでそんな、」
「だって、春留のことめちゃくちゃ気にしてるみたいだしさあ。島に来たばっかりであいつのことよく知らないんならそう思うのも無理がないなあと思って。ほら、あいつ結構美人だし」
「だ、だ、だってぼくはまだ十五だし春留だってたしか、」
「そんなの関係ないよ。さすがに最近じゃあんまり聞かないけど、十四や十五で結婚するなんてこの島じゃそんなに珍しくない話だもん。本土《やまと》の法律とか色々あるけど、そのへんは町の役場もグルだからね。うまいこと処理してくれるみたいだよ」
なんだそれは。
開《あ》いた口がふさがらない。ここは本当に日本《にほん》なのか。
「――いや、だからそういう問題じゃなくてさ、第一、春留が何て言うか」
いや待てそういう問題でもないだろう、と目を白黒させている正時を面白そうに見つめて、ブタマンが二個目の爆弾を放り出した。
「だから、それも関係ないって。だってさあ、君は回転様を持って本土から来たんだろ?」
すっ、と頭の中が冷たくなった。
驚くよりもむしろ、冷静さが戻ってきた。
――こいつ、
「なんで、君がそんなこと知ってるの?」
「知ってるさ。ぼくも姉子《あねこ》先生のびっくり仰天《ぎょうてん》した顔見たかったよ。たぶん島人《しもうど》の半分くらいはもう知ってんじゃないかなあ」
「だって、あれ持ってるってことは誰にも話すなって――」
「誰がそんなこと言ったの? ――ああそうか、天誅《てんちゅう》さん歓迎会に顔出したのか。へえ、あの人そんなこと言ってたんだ。オトナの考えることってやっぱりどっか抜けてるよなあ。隣近所の晩飯のオカズまで筒抜けなのにさあ、そんな秘密守り通せるわけないよ」
ブタマンが相当の食わせ物だということに、正時もようやく気づいていた。
探るつもりが探られていたのだ。しかも最後には強烈な爆弾を放り投げて揺さぶりをかけてきた。――いや、ひょっとするとブタマンにはそんな意図さえも希薄《きはく》で、「話さない方がいいこと」と「本当に話してはいけないこと」の間で綱渡りをして面白がっていただけなのかもしれない。
まあいいか、と正時《まさとき》は思う。
ブタマン組しやすし、と見た自分の眼鏡《めがね》は力の限り雲っていた。それは認めよう。自分らしからぬミスだった。
しかし結果としては、話し相手にブタマンを選んだことは正解だったのかもしれない。最後に転がってきた爆弾だけでも大きな収穫だし、ブタマンは興《きょう》さえ乗ればどんなタブーについてでも喋《しゃべ》る可能性が――いや、やっぱりそれはないか。
「おーい、まさときーっ」
背後から呼びかけられた。両手に一匹ずつ、ふたりで計四匹の魚をぶら下げた真琴《まこと》とグリシャンがこちらにやって来る。
あーあ、お話はもう終わりか、ブタマンは正時を見つめてそんな顔をした。正時も思わず苦笑する。なんだか憎《にく》めない奴《やつ》だと思う。こいつなら、たとえ八十回の転校でも鼻歌交じりで生き延びるだろう。振り返って、グリシャンと真琴が手にぶら下げている魚を見つめた。四匹とも20センチくらいの大きさで、赤いような青いような色をしたきれいな魚だった。
「それ、捕ったの?」
正時が尋ねると、まさか、とグリシャンは首を振って、
「でもすごいぞ、ずっと向こうの波打ち際に群れごとうちあげられてるんだよ。たぶんイルカに狩られて浜に追い込まれたんだ」
その横で真琴が、
「ねえ、これ、用務員さんのところに持っていったら料理してくれないかなあ」
「どうかな。さっきは留守《るす》っぽかったし」
「何か入れ物ある? 家までもって帰ったら悪くなっちゃうかな」
「おれのリュック釣《つ》り用だから簡易クーラーになるぞ。でも氷ないけど」
グリシャンは荷物をまとめておいた場所に足を向けて、自分のリュックサックの中身をどさどさと砂の上に空けた。
「あ。なあマコ、これ忘れないうちに渡しとくわ」
グリシャンは使い捨てカメラを放り投げる。真琴はへっぴり腰でそれを受け止め、
「えー、もうぜんぶ撮《と》っちゃったの? こんなにバシバシ撮ってたら後で整理するが大変なのに」
「それこの間の使いかけだもん。明日取りに行けばいいか?」
うん、とつぶやいて真琴は使い捨てカメラを自分のリュックサックにしまう。家に帰ったらおじいに渡して現像してもらうのだろう。
――宿題の写真は、おじいが現像する。
「あ――」
空から落ちてきたひとつのアイデアが正時の脳天に突き刺さった。
――そうだ。宿題の写真はおじいが現像するんだ。
正時《まさとき》は躊躇《ためら》う、そのアイデアを実行に移すべきか。
たしかに口実にはなる。
考えている時間はない。ぐずぐずしているとせっかくのアイデアも実行不能となる。もうとっくに、カンフーの写真を持ってお使いに出されたときに気づいているべきだったのに。
正時は、呼吸を止めた。
行動してから考えようと思った。
何もせずに後悔するよりは出たとこ勝負で突撃だ。
「ごめん、ぼく、ちょっと急用思い出した。家に電話しなきゃいけないんだ」
正時はでまかせの言い訳をして、その場で踵《きびす》を返して走り出した。
突然のことに、真琴《まこと》とグリシャンは走り去る正時を呆然《ぼうぜん》と見送った。その姿が急斜面の道を駆《か》け上がっていく途中でグリシャンがふと我に返って、
「おーい! 大丈夫か、ひとりで返れるか!?」
正時の姿が大きくてを振って答え、斜面を登りきって校舎《こうしゃ》の陰に消えた。
グリシャンがぽつりと、
「――なんだあいつ」
そこでやっとブタマンが口を開いた。正時の姿が消えたあたりを見つめながら、
「もん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜のすごく大事な用事があるんだと思うよ、きっと」
なんだそりゃ、とグリシャンはブタマンを見つめる。横から真琴が、
「ねえ、ふたりしてずっと何の話してたの?」
ブタマンは笑った。
「いやあ、もうすぐ台風がくるらしいよ、って」
今すぐ写真館に戻らなくてはならない。
春留《はる》が、預けた写真を取りに来る前に。
「春留ちゃんの写真? ああ、もう出来とるよ。カウンターの下の引き出しに入っとる」
周五郎《しゅうごろう》は今日も肩こりがひどいらしい。姉子《あねこ》が持ってきてくれた飲み薬を試そうとしていたところへ正時がいきなり戻ってきたので、店に降りてきたときには水の入ったグラスと粉薬の包みを持っていた。
あった、
「これ、ぼくが春留の家へ届けてもいい?」
勢い込んでそう言うと、周五郎は粉薬を口に流し込もうとしていた手を止めて、
「――いや、それは構わんが。いいのか?」
「大丈夫、今度は家に直接届けるから。カンフーのときみたいに行き違いになっちゃう心配もないし」
ふむ、と周五郎《しゅうごろう》は考えて、
「それじゃあ、お願いしようかな、うん。値段は袋に書いてあるから。もしお釣《つり》りが要《い》るようだったらお金は後でいいわ」
周五郎は春留《はる》の家までの地図を描いてくれた。歩いて十分ほどだという。正時《まさとき》は写真の袋を持って店を飛び出した。地図を見ながらぶ厚い生垣《いけがき》の続く路地を小走りに下《くだ》ったいく。生後半年くらいの白い子|猫《ねこ》が面白がってどこまでも後をついてくる。
本当に出たとこ勝負だ。
春留の家に押しかけて一体どうするつもりなのか。自分でもよくわからなかった。昨日の自分なら、あのきれいな女の子の家に行ける口実ができたことを単純に喜んで、本人が直接対応してくれたらいいな、とか、ちょっとくらいなら話もできるかな、とか思いながらこの道をスキップして駆《か》けていったことだろう。だが。
回転様さえ持っていれば春留の意向など関係なく結婚できる、とブタマンは言った。
天誅《てんちゅう》も似たようなことを言った。あれは持っていれば素敵な彼女ができるかもしれん、と。
――ばか。なに考えてんだ。
コンクリート舗装《ほそう》の途切れた先、田舎《いなか》らしいでこぼこの道を少し上《のぼ》ったところに春留の家はあった。生垣に囲まれた、古くて立派な農家の屋敷に見える。正面の小さな門をくぐるとずいぶん広い庭だ。放し飼《が》いの鶏《にわとり》でもいるのか、砂利《じゃり》の中に混じっていた鶏の餌《えさ》が水|溜《たまり》りに浮き上がっている。玄関《げんかん》の引き戸に鍵はかかっていない。
「――ごめんくださーい」
玄関口には何足かの履物《はきもの》がつま先を外に向けてきれいに並んでいる。スニーカーと下駄《げた》、畑の土がこびりついた作業靴、それに色気のない草履《ぞうり》がいくつか。春留が履《は》いていた黒いゴム長靴は見当たらない。傘《かさ》立て代わりの背の高いくずかごにはビニール傘が数本と、グリップと肘《ひじ》当てのついたステンレス製の杖《つえ》。
「ごめんくださーい、左吏部《さりべ》写真館の、」
もう一度声を張り上げたとき、廊下の奥から梅干のような老婆がひょっこりと顔を出した。
「あ、すいません、左吏部写真館に厄介《やっかい》になっている武田《たけだ》正時といいます」
正時は頭を下げた。
「春留さんの写真が出来上がったんで持ってきたんですけど、あの、春留さんは――」
老婆は皺《しわ》だらけの顔にやさしげな笑みを浮かべながら、廊下を一歩一歩ゆっくりと歩いてこちらへやって来る。ものすごく動きが遅い。ブタマンの言っていた「時速1メートルのおばあ」とはこの人のことだろう。老婆はティラノサウルスのような手をゆっくりと差し出して正時の手を取り、優しげにひとつうなずいて、まるでダンスにでも誘うような調子で正時を廊下に上げる。
「え、あの――」
老婆はひと言も口をきかず、正時の手を引いて遅々とした足取りで廊下の奥にある一室へと案内した。十|畳《じょう》ほどの広さがある板張りの部屋で、正面が庭に面した縁側になっている。左手には七福神《しちふくじん》の像が置かれた神棚《かみだな》のようなものが据《す》えられていた。写真館の座敷の床の間にも同じような置物があったことを正時は思い出す。
「あ、すいません」
老婆は丸い畳《たたみ》のようなものを持ってきてくれた。この上に座れということらしい。春留《はる》がいるのかいないのかをもう一度尋ねようとしたが、老婆は正時をその場に残して超スロー再生で部屋を出て行ってしまった。
誰か呼んでくるからここで待て、ということだろうか。
それにしても、まるでお寺か道場のような部屋だと正時は思う。気を抜いているといきなり棒《ぼう》で肩を叩《たた》かれそうな雰囲気がある。しばらく待っていると、庭の方から大急ぎで走ってきた天誅《てんちゅう》が縁側にどかりと腰を下ろして、
「いやあすまんすまん、畑に出ていてな、春留が頼んだ写真を持ってきてくれたんだって?」
冷蔵庫から出してきたばかりの烏龍茶《ウーロンちゃ》の缶《かん》を差し出して、こんなもんですまんなあ、春留がいれば茶のひとつでも入《い》れさせるんだが、と天誅はしきりに言い訳をした。
ふたりで並んで縁側に腰を下ろす。
烏龍茶をほとんど一気に飲み干すと、天誅は空を見上げてぽつりとつぶやいた。
「嵐がくるなあ」
「――え、わかるんですかそんなの」
「いや、天気予報でそう言ってたから。台風十一号が来るそうだよ」
正時は拍子抜けする。やっぱりこの人もちょっとヘンだと思う。
「春留はもうじき帰ってくると思うんだがな。昼には戻ると言っていたから。ああそうだ。君もお昼を食べていきなさい。大したもんはないけど」
そう言われて急に空腹を覚えた。腕時計を見るとすでに正午を回っている。
「あの、」
出たとこ勝負だ。
「ん?」
「回転様のことなんですけど」
天誅は烏龍茶の缶を傍《かたわ》らに置いて、横目で正時の様子をじっとうかがう。
「今朝、真琴《まこと》に誘われて、真琴の友達ふたりと一緒に宿題の写真を撮《と》りに行くのにつき合ったんです。学校の裏手にある砂浜に行こうって話になって」
「うん」
正時《まさとき》は、午前中の出来事を洗いざらいぶちまけた。
学校のグランドで春留《はる》の姿を見かけたこと。春留が真琴《まこと》とその友達に避けられている様子だったこと。そしてブタマンとの会話。ブタマンの名前を出すことに躊躇《ためら》いはなかったし、会話の内容も思い出せる限り正確に喋《しゃべ》った。
「――そうか」
天誅《てんちゅう》は空を見上げて、むっふー、と鼻から息を吐《は》いた。
「まず、回転様について答えよう。君が持っていた回転様は、元はと言えば左吏部《さりべ》俊郎《としろう》の持ち物だった。」
誰のことか一瞬わからなかったが、
「リカ姉《ねえ》の――叔母《おば》さんの結婚相手ですよね」
天誅は頷《うなず》いて、
「前にも説明したと思うが、あれは島人《しもうど》にとってはある種のお守りのようなものだ。もっとも、あんなものをいつも身に着けている殊勝《しゅしょう》な者は最近では少なくなったが。そして、島人はこれと決めた異性にあれを渡して結婚したいという意思を表明する習慣があるんだ。これまた今日びの若い者の間ではプラチナのリングに取って代わられつつあるがね。写真館を飛び出したきり便りのひとつも寄越《よこ》さんと聞いていたんだがな、どうやら俊郎君はかなり古風なタイプだったと見える。――まあ、そこまではいいんだ。回転様は結婚相手である理香子《りかこ》さんの手に渡った。それはいい。ところが、その理香子さんがあれを君に持たせてこの島に送り込んだというのは、我々にとって非常に特別な意味を持つ」
「――特別な意味って?」
もう想像はついているんだろう?――天誅はそんな目で正時をちらりと見る。
「我々はずっとずっと昔から、このちっぽけな島で生きてきた。そりゃあ並大抵の苦労ではなかったさ。嵐に飢饉《ききん》に伝染病、不逞《ふてい》の輩《やから》が押しかけてくれば奇麗事《きれいごと》ばかりでもすまなかったろうしな。団結こそが最も重要な徳目《とくもく》であった時代が長く長く続いたんだ。しかしながら、本土《やまと》との付き合いがまったくなかったわけではないし、付き合いがあれば人も動く。ホレたハレたという話も時には出てくる」
天誅は頭をぼりぼりと掻《か》いて、本当にここまで話していいのか、という躊躇いをわずかに見せた後に、
「もちろん今はそんなことはない。しかし、かつては、島を捨てて本土人《やまと》と結婚することは島人の最大のタブーだったのさ。ところがだな、掟《おきて》を破ったことを許されはしないまでも、事実上黙認してもらえる抜け道がひとつだけある」
わかってきた。
正時は、深い深いため息を吐《つ》いて、
「――自分たちの身代わりとして、本土の人間に回転様を持たせて、島に送り込む」
天誅《てんちゅう》もまた、深い深いため息を吐《つ》いた。
「我々は、人間を三種に分けて呼ぶ。島人《しもうど》、本土人《やまと》と、客人《まろうど》だ」
客人――正時はその言葉を口の中で転がす。
「自分より歳《とし》の若い者であること、条件はそれだけだ。誰でもいいから本土人を説得してあるいは騙《だま》して島に送り込めばいい。回転様を持たせるのは、掟《おきて》破りの当人にとっては『自分は島人であることを捨てる』という意思の表明でもあるし、『この者が自分に成り代わって島人となる』という象徴でもあるわけさ。自分より若ければいいというんで、赤ん坊をさらって島に送り込むような真似《まね》をした者もだいぶあったと聞く。相手が赤ん坊であれば説得する手間も騙《だま》す手間もいらないからな。
赤ん坊には何も知らせずにそのまま島人として育てたのだろが、問題は、もっと歳のいった者が送り込まれてきた場合だ。騙されたものは自分が一杯食わされたことなどすぐに悟《さと》るし、説得を受けて納得ずくで島に来た者とて、いつ里心《さとごころ》がつくかわからん。だから、というだけでもないのだろうが、彼ら彼女らは、この島ではさまざまな特権を認められて厚遇《こうぐう》された。家や畑や家畜をただでもらえたり、租税《そぜい》や労役が免除されたり」
唐突《とうとつ》に思い出す――商店街を歩いていたときのリッキー・アルボア状態。マンゴーやスルメをくれたのはいずれも島のしきたりにはうるさそうなおじいやおばあだったし、自分が回転様を持っていることはすでに島民の半数の知るところだとブタマンは言った。
「その通り。ブタマンくん――と言ったか、君が望めば春留《はる》の意思など関係ない、という彼の言葉に嘘《うそ》はない。古いしきたりに照らすならば、島を捨てた左吏部《さりべ》俊郎《としろう》の回転様を身に帯びてこの島の土を踏んだその瞬間から、君はまぎれもないこの島の『客人』となった。君は家や畑や家畜を無償《むしょう》で与えられ、租税や労役が免除され、さらに望むならば、この島の未婚の女性となら誰とでも結婚できる権利を有する」
気が遠くなった。
言葉にめまいを覚えたのは初めての経験だった――と思うのだが、実は軽い日射病だったのかもしれない。頭の芯《しん》から血の気が引いて、視界が黒く塗りつぶされたように閉ざされて、気がついたときには道場の真ん中に寝かされていた。額《ひたい》には濡《ぬ》れタオルが載《の》せられ、高い天井を背景に天誅の慌《あわ》てふためいた顔がアップで迫っており、
「だ、大丈夫かね正時くん! ああ驚いた、いや、まさか本当に倒れるとは――」
「――あの。だとすると、ぼくはこの島から帰してもらえないんじゃ」
ふと思う――ひょっとして、自分がもう回転様を持っていないことを打ち明ければ、
いや、駄目《だめ》だろう。そんなことくらいで客人をやめられるのなら、かつて騙されてこの島に送り込まれた先達《せんだつ》たちは、すぐさま回転様を海に投げ込んで、大手を振って島を去ることができたはずだ。
「ああ、それはもう絶対に大丈夫。帰れない、などということはあり得ない。君はいつでも望むときに島を去ることができる」
天誅《てんちゅう》は慌《あわ》てて言う。
「第一に、君を無理|無体《むたい》に島に留《とど》め置いたら最後には警察が乗り込んでくるよ。大昔とは何もかも違う。君に聞かせたのも、君と同じ年頃の島人《しもうど》なら普通は知らんような古い話なのだ。だが、我々としても君の来訪には驚かされた。理香子《りかこ》くんから連絡を受けた当初、我々は君を単なる一旅行者として遇するつもりでいた。君が回転様を持っているのを見たという姉子《あねこ》くんの話はまったくの不意打ちだったのだ。このことが知れたら無用の混乱を招くと思って君に口止めをしたんだが、――そうか、そうだな。『隣近所の晩飯のオカズまで筒抜け』か」
そこで天誅はぐるりと首を回す。ばりぼりぼり、と正時《まさとき》が目を剥《む※》[#「_※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]くほどのすごい音がした。
「――それにしても、まったく、理香子くんも一体どういうつもりなんだか」
「100パーセント断言しますけど、面白半分だと思います」
やっぱりそうか、という顔を天誅はする。リカ姉《ねえ》の人となりについてはある程度承知しているらしい。
しばらく横になっているとめまいもだいぶ落ち着いてきた。濡《ぬ》れタオルを額《ひたい》から除《の》けて上体を起こすと、
「それともうひとつ、皆に避けられていたという春留《はる》のことだが」
――あ。
あまりにも強烈なパンチを食らって忘れていた。そう言えばそんな話もした。
「あれにも困った者ものでなあ――」
そう言って、天誅は正時に向き直って笑みを浮かべ、
「実はな、おばあが畑に呼び来てここに走ってくる途中、春留をよこせと言われるんじゃないかと内心どきどきしておったよ。なにせ君は客人《まろうど》だ、こちらとしては断るわけにもいかん」
「そんな! ぼくは別に、その、」
「わかっている。春留のことを心配してくれたんだね。どうもありがとう」
天誅は正時が思わず恐縮するほど深々と頭を下げた。と、いきなりがばっと顔を上げ、
「ひとつ、折り入《い》ってお願いがあるのだが――」
天誅はいきなり正時の手を取って、
「うちの春留と、友達になってやってはくれんだろうか?」
「え――、ええっ!?」
正時は口を半開きにして天誅を見つめていた。何やら妙《みょう》な方向に話が転がりつつある。
たしかに出たとこ勝負だと思っていたし、案の定、出るものが出た。それだけでもお腹《なか》一杯なのに、さらに、予想外の展開である。
「あれは――その、性格がきついというか、ちょっと極端なところもあるし、口の利き方というものをわきまえておらんし、本当は寂しいくせに妙《みょう》に意地を張るところもあるし、あー、しかし根はいい子なんだ。あと――おうそうだ、料理の腕はちょっとしたもんだぞ。な、こんなことは島の子にはなかなか頼《たの》めんのだ。どうだろう、まずは手始めに、あれの写真の宿題に付き合ってやってはくれんか」
自分の娘《むすめ》にむちゃくちゃ言う親父《おやじ》だなあと思う。しかし、天誅《てんちゅう》は今までずっと、春留《はる》の置かれている状況を知っていながらどうすることもできずにいたのだろう。そこに現れた自分という存在は、まさに千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスに思えるのかもしれない。
天誅の真剣な眼差《まなざ》しがものすごく重い。
しかし、あえて断るだけの理由を正時《まさとき》はついに思いつかない。
――わかりました。
正時がその一言を口にしようとした瞬間、玄関《げんかん》の方から、
「――ただいま」
正時は弾《はじ》かれたように背後を振り返った。聞こえるか聞こえないかの足音が廊下を歩いてくる。どんどん近づいてくる。心の準備をする暇《いとま》もなく、正時は部屋の戸口から顔をのぞかせた春留と目が合ってしまった。
春留は、無表情に正時を見つめた。
内心では動揺していたとしても、それをまったく表情に表さなかった。
一方の天誅はまさに喜色満面《きしょくまんめん》で、縁側から身を乗り出して正時と春留を交互に見ながら、
「おう、お前が頼んだ写真が出来上がったそうだぞ。正時くんがわざわざ届にきてくれたんだ。――正時くんのことは知っておるよな?」
正時は春留の顔を見つめて笑顔を作った。どうにかうまく笑えたと思う。
春留は、笑わなかった。
春留は黙って台所をくるくる動き回って、瞬《またた》く間に三人分のお昼の支度《したく》をした。
それは、正時が初めて目にする春留の「生活」だった。
茶の間にちゃぶ台が広げられた。いやあ、こんなものしかなくてすまんなあ、と天誅はさかんに言い訳をしたが、レンジでチンした残り物のロールキャベツはなかなか美味《おい》しそうに見える。先ほどの超スロー再生の老婆はやはり春留の祖母にあたる人物で、固いものや脂っこいものは食べられないのでいつもお昼は別に用意するらしい。
正時と春留と天誅の三人で、実に不思議な空気の中でお昼を食べた。
「春留よ、食べ終わったら、また写真と撮《と》りに行くんだろう? さっきもその話をしていたんだがね、正時くんが付き合ってくれるそうだから、ぜひ一緒に行ってもらいなさい」
天誅がずばりと申し渡しても、春留は一切口をきかずに黙って黙々と箸《はし》を動かしていた。自分と一緒にいるのがよほど居心地が悪いのかと正時は思ったのだが、春留はなぜかご飯を三杯もおかわりした。
再びくるくる動いて後片付けを済ませると、春留《はる》は食後のお茶をすすっている天誅《てんちゅう》に、
「正時《まさとき》くんと出かけます」
ときっぱり宣言し、ぐいっと正時の腕を掴《つか》み、そのままずんずん歩いて正時を家の門の外まで連れ出した。
そして、春留は初めて正時とまともに口をきいた。
「お父さんと何を話していたんですか!?」
まさか敬語でくるとは思っていなかった。正時は目を丸くして春留を見つめる。
「ねえ、わたしがいない間、お父さんと何の話をしていたんですか!?」
「え、つまりその、もうすぐ台風が来るらしいですね、とか」
「うそです!」
――あ、
思い当たった。ひょっとして春留は、自分が天誅に結婚の申し入れをしに来たと思っているのではないか。
「ちっ、違うよそれは! 誤解だよ! ぼくはその、つまり、」
「何が誤解なんですか!?」
「だから、その、君が思っているようなことじゃなくて、」
「わたしが、どんなことを思ってるっていうんですか!」
春留があまりにも必死なので、正時はだんだんおかしくなってきて、
「――君さあ、いつもそんな喋《しゃべ》り方すんの?」
春留はいきなり顔を赤くして、
「わ、わたしが、どんな喋り方をするとか、しないとか、今はそういうことは問題ではないです!」
正時はついに噴《ふ》き出してしまった。春留は真《ま》っ赤《か》になって怒る。
「なにを笑っているんですか! 相手が話しているときに、笑うなんて、失礼だとは思わないんですか!」
正時は必死で笑いを噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]み殺して、
「――ごめん、だってさ、君があんまり一生|懸命《けんめい》喋るからさ、」
「一生懸命に喋ってなんかいませんっ!」
だめだ。と正時は思った。今すぐ話題を変えないと、口では我慢《がまん》できてもケツの穴が大声で笑い出すかもしれない。目を見開いて怒っている春留を盗《ぬす》み見る。――こんな面白い子を、自分はどうして南国の妖怪《ようかい》だなどと一瞬でも信じたのだろう。
正時は大きく深呼吸して、
「――あのあ、おじいに頼まれてさ、写真を持ってきたんだよ」
「写真なんて、どこにあるんですか」
言われて気づく。来たときは持っていたはずの写真の袋が今はない。
「あ、たぶん、天誅《てんちゅう》さんと話をした部屋に置きっぱなしだ」
春留《はる》は、むっ、鼻の穴を膨《ふく》らませて、
「取ってきます。ついでにお財布《さいふ》も取ってきます。だから、ここで待っていてください」
そう言い置いて、春留は身を翻《ひるがえ》して玄関《げんかん》へと走っていく。その後ろ姿がものすごくきれいだと正時《まさとき》は思う。その余韻《よいん》に浸《ひた》っているうちに、春留は写真の袋と財布を持ってあっという間に戻ってきて、
「ありました。現像の値段は、袋のここに書いてある金額ですよね」
春留が千円札を差し出してくる。正時は自分の財布を出してお釣《つ》りを立て替えようとしたが小銭が足りず、
「ごめん、いまお釣り出ないや。お金は後でもいいっておじいが言ってたから、」
なんといういい加減な奴《やつ》なのか、という顔を春留はした。まるで文字でそう書いて見せられているかのようである。すぐに春留は家に取って返し、料金ぴったりの小銭を握り締めてすぐに戻ってきた。
「――はい、確かに」
正時は料金を受け取ってポケットにしまう。春留はすぐさま、
「それで、お父さんとは、何の話をしていたんですか」
正時はちょっと意地悪をしたい気分になって、逆に、
「なんでそんなに気になるの?」
「だって、気になるものは、気になるんです。わたしの知らないところで、わたしの話をしていたのかもしれないなあって」
「どうして君の話をしてたと思うの?」
「それは、つまり、そんな気がしたんです。もし、そうなら嫌《いや》だなあって」
なるほど、と思う。
最後の謎《なぞ》が今になって解けた。
脅《おど》かし役として診療所に忍び込んで来た春留は、自分の首に回転様の首飾りがかかっているのを見つけて仰天《ぎょうてん》し、こんな奴に結婚を迫られてはたまらないと考えて、客人《まろうど》の証《あかし》である回転様を奪い取って逃げたのだ。実際には、健康診断を受けた時点で姉子《あねこ》という目撃者がすでにいたわけで、咄嗟《とっさ》のことでそこまで考えなかったのだろう。
「――大変だね、君も」
「もういいです。その話は、もうおしまいです」
まあいいか、と正時も思う。正時としてもあの首飾りそのものが惜《お》しいわけではない。まさか客人《まろうど》としての権利を振り回して結婚を迫るつもりも毛頭《もうとう》ないが、このきれいな子に対してほんのちょっぴりでも精神的に優位に立てる材料になるのならば、それだけでなんだかうれしいのだった。
ふと、春留《はる》の視線が正時《まさとき》の左後方に泳いでいることに気づく。
正時も背後を振り返ってみると、でこぼこ道を隔《へだ》てた向かいの家の入り口から、その家の主婦と思しき中年の女性がこちらに訝《いぶか》しげな目を向けている。春留と正時が気づいたことに気づいて、中年の女性はすぐに顔を引っ込めて引き戸を閉めてしまった。
「――ちょっと、ここで待っていてください」
春留は固い声でそう言って三度家に戻り、リュックサックを背負い、カメラを手にして戻ってきた。学校のグランドで見かけたときに持っていたのと同じ、スポーツタイプのコンパクトカメラだ。
わざと正時から視線を外して、
「これから、また、宿題の写真を撮《と》りにいきます」
一方的にそう言って、でこぼこの坂道を大股《おおまた》で歩き始めた。最初に正時の腕を引いて家から出たときはスニーカーを履《は》いていたのに、今度は例の黒いゴム長靴を履いて、行く手を阻《はば》む水|溜《たま》りをざぶざぶ踏み越えながらずんずん歩いていく。
立ち止まる。
振り返りもせずに突っ立っている。正時がその後に続くと、まるで背中に目があるように再び歩き出す。
「――ねえ、」
「なんですか」
「さっき、道の向こうからおばさんがへんな目でこっち見てたよね。あれ、」
「きっと、わたしが家の前で大声で喋《しゃべ》っていたから、びっくりしたんです」
「そうなの?」
「そうです。わたしが人と話しているのを見て、何事だろう、って思ったんです」
「――あんまり人と話とかしないんだ」
「しますよ。今だってしてるじゃないですか」
どうやらブタマンの言っていたことは本当らしい。春留は確かに人とあまり口を利かないようだ。
「――ねえ、」
「なんですか」
「もうちょっとゆっくり歩いてよ」
「もうちょっと早く歩けばいいじゃないですか」
「だって、君はそんなの履いてるけどさ、」
「どうしてそんな靴を履《は》いてるんですか。ゆうべ雨が降ったんだから、道がぬかるんでいることはわかりきっているじゃないですか。それとも、本土人《やまと》には長靴を履いたらいけない、っていう決まりでもあるんですか」
やはり最後のひと言は引っかかる。なるほど、ブタマンの言葉の正しさが次々と証明されていく。
「本土人とか島人《しもうど》とか、そういうのは関係ないと思うけど」
「そうですか?」
「だってさ、何だかかっこ悪いじゃんそんなゴム長。真琴《まこと》やグリシャンやブタマンだってそんなの履いてなかったよ」
「あんな人たちは、もう半分は本土人みたいなものなんです。それに、格好なんかを気にして、足をびしょびしょに濡《ぬ》らして歩いていたら、そっちの方がよっぽど格好悪いと思います」
そこでいきなり春留《はる》は足を止めた。道の右手に広がっている牧草地の斜面を振り返る。春留の視線の先、道端《みちばた》から10メートルほど入ったところにロープで囲まれた工事現場のような一角があって、小型のパワーシャベルが地面を掘り返した盛り土にアームの先を突き立てたまま動きを止めている。
「――なに、あれ?」
息せき切って追いついた正時《まさとき》が尋ねると、春留は少し考えるふうをして、
「遺跡《いせき》の発掘、みたいなものです」
「遺跡、って?」
「この島は歴史が古いから、畑の用水路とかゴミ焼き穴を掘ったりすると、昔の遺物《いぶつ》みたいな物がよく出てくるんです。出てきたものは、泥を落としてきれいにして、役場の資料館に納めるんです」
言われてみれば、普通の工事現場とは確かに少し様子が違う。奥の方に張られたロープにゴミが引っかかっているのかと思ったら、どうやら注連縄《しめなわ》らしい。近くには焼酎《しょうちゅう》の一升瓶《しっしょうびん》が供《そな》えてあったりする。
春留は発掘現場にカメラを向けてシャッターを切り、再び足早に歩き始めた。正時は慌《あわ》ててその後に続き、行く手にコンクリート舗装《ほそう》された枝道が現れたとことで、
「ねえ、これからどこ行くつもり?」
春留はぴたりと立ち止まって、くるりと振り返って、
「まだ、特には決めていません」
「だったらこっちに行かない? ゴム長でも、でこぼこ道よりはこっちの方が歩きやすいよ」
春留は正時をじっと見つめて、
「いいですよ」
正時は安堵《あんど》した。春留の早足を追いかけてぬかるんだ道をこれ以上歩かされるのはたまったものではない。春留《はる》の先に立って枝道に入ると、スニーカーの靴底が平らで確かなコンクリートの感触を喜んでいるような気がした。そんな正時《まさとき》を見つめる春留の顔には、なんという体力のない奴《やつ》なのか、とはっきり書いてあり、
「油断は禁物だと思います」
「大丈夫だよ、舗装《ほそう》されている道なら水|溜《たま》りもそれほどないよ」
「いま踏んづけているの、タイヤの落とした泥《どろ》じゃなくて牛の糞《ふん》ですよ」
それから、春留は島のあちこちを歩き回って色々なものを写真に収めた。
春留が興味を示すものは、大昔の建物や道端《みちばた》の奇妙《きみょう》な形の石像、何らかの由来を示す石碑《せきひ》などといった「古いもの」が主だった。周囲の人物やきれいな風景などにはあまり興味はないらしい。正時は春留の後にくっついて歩きながら、へとへとに疲れて弱音を吐《は》いたりジュースを奢《おご》ろうとして小銭を押しつけられたり道のど真ん中を走ってくる軽トラックや原チャリに何度も跳ねられそうになったりした。
「――ねえ、どこまで行くの?」
コンクリートの舗装は再び失われていた。周囲は鬱蒼《うっそう》とした森で、それでなくても細い夕日は濃密に折り重なっている梢《こずえ》に遮《さえぎ》られて、ほとんど夜と言ってもいいほどの暗さに一歩一歩が覚束《おぼつか》なかった。海に近づいているらしいことは音と匂《にお》いでわかる。しかし、
「ねえってば、この先に何があるのかくらい教えてよ」
春留はひと言。
「岬《みさき》です」
やがて、森が切れた。
視界が海にあふれて底なしに広がった。
春留と正時は、島から突き出た巨大な岬の先端《せんたん》部に立っていた。
「――すごい」
息を呑《の》ますにはいられない光景だった。赤く捻《ね》じくれた雲の巨大さは嘘《うそ》のようで、その彼方《かなた》にUFOや空中都市が隠れていることくらいはいくらでも信じられる。夕暮れの海は風もないくせにうねりが激しかった。嵐が近づいているのだ。
春留は、岬の先端にぽつんと立っている石像を写真に収めた。
「真面目《まじめ》だよね」
正時のつぶやきに、春留がくるりと振り返って、
「なにがですか?」
「――いや、だってさ。それ、学校の宿題でしょ?」
だから?――春留はそういう顔をする。
「その石像の写真一枚|撮《と》るのにこんなに遠くまで来てさ。あんまり自信はないんだけど、この岬って島の裏側?」
春留《はる》は少し考えて、
「島のどっちが裏表《うらおもて》って、ないと思うんですけど、ちょうど港や町とは、島を挟《はさ》んでちょうど正反対の位置にありますね」
「だよね。結構歩いたもんな。ほんとに熱心だと思うよ。真琴《まこと》たちなんかすぐに写真|撮《と》るの飽《あき》きちゃって遊んでたし。それにさっきもフィルム新しいのに入れ替えてたでしょ。そんな調子でいっぱい撮ってたら、最後に作るアルバムがとんでもない厚さになるよ?」
「本土人《やまと》は不真面目《ふまじめ》なんですね」
またか、と正時《まさとき》は思った。
ここに来るまでに何度も何度も同じような当てこすりを言われた。
しかし不思議と腹が立たないのは、春留の姿形《すがたかたち》がきれいだからというだけではないと思う。
正時の目から見ると、春留のやり口はあまりに幼すぎるのだ。
怒るよりもまず、あーあーまったくしょうがねえなあ、という気分になってしまう。何か思うところがあるにしても、自分ならもっと別のやり方で責めるか、そもそも相手を攻撃しないで済む方法を選ぶと思う。人付き合いというのはものすごくリアルな西部劇みたいなもので、申し込まれる決闘を片《かた》っ端《ぱし》から受けて立っていたら、八回も繰り返された転校を自分は到底生き残れはしなかったろう。
そして、かく言う自分だって最初からそこまで老獪《ろうかい》だったはずはない。もう記憶のひとかけらさえ残ってはいないが、最初の一回目の転校をしたときの自分も、ひょっとすると、今の春留のようではなかったかと思うのだ。
「――あのさあ、別に皮肉を言ったわけじゃないんだ。そんなふうに聞こえたんなら謝るけどさ、だけど君も、もうそういうのやめた方がいいよ」
「そういうの、って、どういうのですか?」
春留は強い目で正時を見つめる。
ほら、それだよ――と正時はその目を見つめて思う。
「なんでそんなにつんけんしてんの。まるでハリネズミみたいじゃん。そんなんじゃ友達なんかできっこないだろ。本土の人に昔ひどいことされたわけ?」
春留はむっつりと黙り込む。
「本土に渡ったことあるの?」
ずいぶんな間を置いて、春留は首を振った。
「一回も?」
春留は頷《うなず》く。正時は内心の驚きを押し隠す。――もっとも、真琴だって三回しか本土に渡ったことがないと言っていた。この島のこの年頃の者には珍しくないことなのかもしれない。
「じゃあさ、本土のことなんか好きも嫌いもないはずだろ」
「――でも、本土《やまと》が好きな島人《しもうど》は嫌いです」
「なにそれ」
「嫌いなんです。そんな人は、自分勝手だからです」
よくわからない。さらに質問を重ねようとしたとき、
「あれだってそうです」
春留《はる》は先程カメラを向けていた石像を指差した。知性化して二足《にそく》歩行を始めたカエルのような、大して大きくもない石像だ。
「あれは、海で死んだ人の魂《たましい》が、陸に這《は》い上がってきて人に祟《たた》らないようにするために、死んだ人の魂に重石《おもし》をつけて、海の底に沈める神様なんです。どうしてそんなものがこの岬《みさき》にあるかというと、大昔、島人がここで本土人《やまと》をいっぱい殺したからです」
まだよくわからなかった。正直、それがどうした、と思う。
しかし、
「――それって、この島の人は、昔から海賊《かいぞく》と戦ってきたっていう話?」
「そんなの、誰に聞いたんですか?」
誰って、
「――嘘《うそ》なの、あの話?」
「本当ですよ。最近は、みんな言うんです。自分たちは、海賊と戦った勇敢《ゆうかん》な先祖の子孫だって、そんな自慢《じまん》をする人がいっぱいいるんです。――ほんとうは、もっと大昔は、自分たちの方がよっぽど海賊みたいだったくせに」
春留の口調は次第に荒々しさを増していく。
「この岬だってそうなんです。この岬の周りの海は、水深が浅くて、岩礁《がんしょう》がいっぱい隠れていて、大昔からたくさんの船を座礁《ざしょう》させてきた難所なんです。嵐の夜になると、大昔の島人は、みんなでこの岬に集まってきて、竹竿《たけざお》の先に吊《つ》るした籠《かご》の中で篝火《かがりび》を焚《た》いて、みんなでそれを持って海岸に沿って歩くんです。何が起こるかっていうと、沖を航行している船は、岬の近くの海が難所だってことは知ってるんだけど、島人の持っている篝火を、もっと島寄りを航行している別の船の光だと見間違うんです。自分たちと岬の位置関係がわからなくなって、あそこに船がいるくらいだから自分たちはまだ大丈夫、って思うわけです。それでどんどん岬に引き寄せられて、最後には座礁しちゃうんです。朝になって、嵐がおさまったら、島人は小船に乗って、座礁して身動きが取れなくなった船に近づいていくんです。小船の底には刀や槍を隠して、助けに行くような振りをして」
春留は興奮して、我を忘れて、喋《しゃべ》りなれない口を懸命《けんめい》に操って続けていた。自分でも明らかに意識しているらしいその言葉の拙《つたな》さが、春留をなおさらに後に引けなくしているように見えた。
「大昔の島人は、不作の年が来ると、嵐と船をお恵みください、ってお祈りしたんです。そんなとこまでして、この島は必死で生きてきたんです。この岬《みさき》だけじゃない、この島には同じような話がいくらでもあるんです。いっぱい血を流して、いっぱい手も汚してきたんです。なのに、いまさら島の外にあこがれて、島を捨てて出て行ったり、本土人《やまと》と結婚したり、いまさらそんなことするくらいなら、最初からそうしていればよかったじゃないですか。最初の一日目に何もかも諦《あきら》めて、島なんか捨てて、本土人に溶け込んで無くなちゃえばよかったじゃないですか」
そして、春留《はる》は憑《つ》き物が落ちたように喋《しゃべ》るのを止《や》めた。
我に返って、よそ者を相手に喋りすぎた自分に腹を立てたのだろう。その八つ当たりが飛んできた。
「でも、やっぱり本土人は嫌いです。だって不真面目《ふまじめ》だから」
圧倒されはした。
しかし、やはり最後までわからなかった。
春留の言っていることはわかる。しかし、春留が何を言いたいのかはわからない。
普通に聞いて普通に理解するならば、春留はこの島の人々の団結を何よりも大切だと考えていて、それを忘れつつある島民の現状に怒りを覚えている、という話になる。それ自体におかしなところは何もない。――春留はやっぱり変な奴《やつ》だ、とは思うけれど。春留の本土嫌いも他《ほか》の島民との衝突《しょうとつ》も、この話からある程度は読み解ける。ブタマンや天誅《てんちゅう》の話を裏書きする内容でもある。
しかし、春留がそこまで島の団結にこだわる根拠は、やはり普通に聞いて普通に理解するならば、自分たち島民はすでに多大な犠牲を払ってきたし払わされてもきた、という「歴史的事実」なのだ。ずっとこの島で暮らしてきたとはいえ、中学三年生の女の子にとって、そんなものが本当に根拠たり得るのか。その目で見たわけでもない遠い過去の流血|沙汰《ざた》を、なぜ春留はつい昨日のことのように語るのだろう。
古い古い秦納舞部《しんのうまいべ》の家。
鍵穴はたくさんあるのに、最も重要な鍵がまだ手に入らない。
主語がすべて空欄になっている長い長い文章を読んでいるような訳のわからなさ。
すでに日は落ちて星もない。牧草地に緩《ゆる》やかな弧《こ》を描いて続くコンクリートの道は夜の闇《やみ》の只中《ただなか》にある。
春留は先に立って歩き続けている。
「じゃあ、明日は、何時にどこで待ち合わせをしますか?」
春留がいきなり聞いてきた。正時《まさとき》は何のことかわからず、
「――え?」
「だから、明日です。明日もわたしは写真の宿題をします。明日もつき合ってくれるって、約束したじゃないですか」
もちろん、そんな約束はした覚えがない。
「――そんな約束、」
「しました」
いきなり春留《はる》が足を止めて振り返った。
闇《やみ》の中の濡《ぬ》れたような目の輝きに、正時《まさとき》は生返事をして何となく頷《うなず》いてしまった。
春留は、怒ったのか安心したのかよくわからないため息を吐《つ》いて、
「この道を歩いていけば、そのうち町に着きます」
リュックサックからバス停の札を取り出して、踵《きびす》を返して再び歩き出す。
「でも、この時間に、この道を歩いていけば、どこかの時点でバス屋が追いついてくるはずです。そうしたら、バスに乗っていけばいいです」
バス屋が腹痛でも起こしたのかもしれない。バスはついに来なかった。
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※[#挿絵画像 01_193]|挿絵《P.193》
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朝からおかしな天気だ。激しい雨音で目が覚めて、トイレの引き戸をあけたときには窓から濃い日の光が差し込んでおり、洗面所を出て通りかかった廊下の窓には再び雨がぱらついていた。島の天気はこんなにも変わりやすいのかと尋ねると、
「台風が来とるからだよ」
周五郎《しゅうごろう》は味噌汁《みそしる》の湯気《ゆげ》の中から顔を上げて、
「幸い、ここらの島を直撃せんそうだ。今ラジオ点《つ》けたらそう言っとった」
実を言うと、正時《まさとき》は昔から台風が大好きである。家の中で大雨と大風の音を聞いているとなんだかわくわくする。あの感じはきっと、子供の頃に秘密基地の中で息を潜《ひそ》めていたときの感覚と同じようなものだと思う。停電なんかするとなおいい。
「――真琴《まこと》は?」
ご飯の最初のひと口目を食べてしまってから気づいた。
左吏部《さりべ》の家では朝ご飯はみんなで食べるはずなのに、ちゃぶ台の真琴の定位置には茶碗《ちゃわん》が伏せられて置かれているだけだ。喜久子《きくこ》がため息を吐《つ》いて、
「あの子、欲しくないって」
「――台風が来とるからだよ」
味噌汁をひと口すすって周五郎が言った。台風と朝ごはんと何の関係があるのだろう、と正時は首をひねったが、
「あ、ひょっとして、お父さんの」
周五郎と喜久子が、おや、と顔を上げた。
「なんだ正時くん、知っておったのか」
困ったもんだ、と周五郎は味噌汁のお椀をちゃぶ台において、
「いつもいつもではないんだ。むしろ、けろっとしていることの方が多いかもしれん。しかしな、自分で意識しておるかどうかは知らんが、台風が来ると、たまあにふさぎ込んだり、機嫌が悪くなったり、仮病を使って学校をずる休みしたりしおるなあ」
台風にわくわくしていた自分をちょっと反省してしまった。
やはり、この島の人々にとって台風というのは生き死にに直接関わってくる重大事なのだろう。内心でほっとする――台風ってなんかわくわくしますよね、なんて迂闊《うかつ》に口走らなくて本当によかったと思う。
しかし、周五郎に言わせれば、
「まったく困ったもんだ、そりゃあ、父親の死んだ日を思い出してつい悲しくなるのもわからんじゃないさいさ。しかしなあ、普通親は子供よりも先に死ぬもんだし、そのたんびにあんなふうになってたんじゃあ進歩というものがないではないか。ありゃあ半分は怠《なま》け癖《くせ》だな、うん」
結構手厳しいんだなあ、と正時《まさとき》は思ったが、ひょっとすると周五郎《しゅうごろう》はせっかくの朝ごはんの場がしんみりするのを嫌ったのかもしれない。ごちそうさまを言って正時は席を立ち、こっそり店に降りて父親の写真を探してみたが、真琴《まこと》に面影《おもかげ》の似た男の人、というだけではどうにも探しようがなかった。
カウンターの上の置時計が目にとまる。
八時五十二分。
窓の外に目をやると、やはり相変わらずの雨だ。
九時に待ち合わせ、と春留《はる》に約束させられた。
しかし、この調子では一日じゅう雨が降ったり止《や》んだりかもしれないし、台風がもっと近づいてきたら大雨になるかもしれない。さすがの春留も、今日ばかりは写真を撮《と》りに行く気にはならないだろう。
「――正時くん? お店にいるの?」
台所のほうから喜久子《きくこ》の声。はぁい、と返事をすると、
「アイスクリームがあるんだけど、食べる?」
食べます食べます、と返事をしていそいそと廊下に上がり、台所の手前まで来たところで立ち止まって、5秒間だけ考えた。
「すいません、やっぱりアイスやめます」
喜久子は冷凍庫を開けたところで、あら、と振り返る。
「――あの、ロクロー屋の角《かど》っこの郵便ポスト、って、どこかわかります?」
古びた看板《かんばん》には『六九六商会』とある。百年も昔からここにあるような雑貨店だ。角っこには確かに郵便ポストがあって、その傍《かたわ》らに真っ黄色のてるてる坊主《ぼうず》が空模様をじっと見上げて立ち尽くしていた。
「四分遅刻です」
春留の細い手首にごっつい腕時計。昨日はしていなかったと思う。足元は今日も今日とて黒のゴム長、しかもレインコートは黄色というよりは小学生色と言った方がふさわしい。
「まだ心を入れ替えていないんですか」
「――え」
「今日は雨降りなのに、一日あっちこっち歩き回るのに、どうしてビニール傘《がさ》にスニーカーなんですか。パンツまでびっちょ濡《ぬ》れになりますよ」
写真館を出たときには、春留が待ち合わせの場所にきている可能性は五分五分以下だろうと思っていた。ああやっぱり来ていなかった、と安心してから食べるアイスの方が美味《おい》しいに決まっている。一日島を歩き回るつもりなどなかったからビニール傘《がさ》にスニーカーなのだ、などと言えばやはり春留《はる》は怒り出すだろう。
「まあいいです。たぶん今日は、雨が降ったり止《や》んだりです。雨と風が本格的になるのは、たぶん、夕方くらいからだし、泥道《どろみち》をあんまり歩いたりしなければ、その格好でもなんとかなるかもしれません。ところで、」
「――なに」
「お弁当は持ってきましたか?」
「はあ!?」
「なんですか、はぁ、って。一日あっちこっち歩き回るのに、お昼を食べなかったらお腹《なか》が空《す》くじゃないですか」
幸いなことに財布《さいふ》は持って出ていた。何か買って食べると告げると、春留はむうっと眉根《まゆね》を寄せて、
「仕方がないです。わたしは今日、たまたま、多めにお弁当を作ってきたので、わけてあげることにします」
春留はレインコートの上から背負ったリュックサックを揺すって見せた。
――デート?
唐突《とうとつ》に浮かんできたそんな言葉は、ため息ひとつで吹き飛んでしまう。格好悪いので春留にも誰にも黙っていたが、きのう半日歩き回ったせいで、正時《まさとき》の両足は今も激しい筋肉痛に苛《さいな》まれていた。そして今日もまた、いつかニュースの特集で見たレンジャー部隊の行軍演習のような一日が始まるのだ。
「じゃあ行きましょう。今日は、昨日とは逆回りに島を回るつもりです」
物事の明るい面に目を向けよう。まず、春留はきれいな子だ。かわいいというよりはきれいという表現がぴったりくる。そんな子と一緒に一日を過ごせるというそれ自体はうれしいことである。そんな子が、自分のためにお弁当を作ってきてくれたというのもまたうれしいことではないか。おまけに今日は台風が来ている。突然の暴風雨で森の中の洞窟《どうくつ》とかに逃げ込んで、Tシャツが濡《ぬ》れて透けたりしていやーんあっちむいてて、とかそういうことになったらそれはかなりうれしいなあ。
先に立ってさっさと歩き出していた黄色い後姿がいきなり立ち止まって、そのまま振り返りもせずに正時を待っている。
真琴《まこと》がようやく起き出してきたのは、その日の夕刻のことだった。
カーテンの隙間《すきま》の天気は一日じゅう目まぐるしく移り変わっていた。傘《かさ》など何の役にも立つまいと思うほどの豪雨《ごうう》が窓ガラスを叩《たた》いていたかと思えば、その数分後には太い日差しが部屋に漂《ただ》うほこりを浮き上がらせていたりもした。
台風が近づいてくると、この島の天気はいつもこんなふうになる。
そして、こんな天気の日には、真琴《まこと》はときどき頭が重くなったりお腹《なか》が痛くなったりする。雨と雨の合間に、へんに青い空をコマ落としのような速度で雲が流れているところを思い浮かべると、悪い夢でも見ているような気がして目が回ってくる。
枕元の目覚まし時計は五時を回ったところだ。ベッドの中でごろごろしているのもなんだか退屈してきた。多少は気分が上向いてきた証拠なのかもしれない。
牛乳を飲もうと思った。
グラスに注いだ牛乳をちびちび飲みながら階段を上がって、客間の障子《しょうじ》を開けてみる。
正時《まさとき》はいない。
「――正時くん?」
家の中をあちこち探してみたが、正時ばかりか周五郎《しゅうごろう》の姿も見当たらなかった。
昼過ぎ頃に喜久子《きくこ》が部屋をのぞいて、婦人会の集まりに行ってくる、と声をかけてきたのはなんとなく憶《おぼ》えている。では、正時と周五郎は一体どこへ行ってしまったのか。一緒にどこかに出かけてしまったのだろうか。
こんな天気の日に?
「――つまんないの」
流しにグラスを放り込んだ。
テレビでも見ようと思ったとき、店のドアベルが鳴る音を聞いた。
「よお真琴、おじいいるかな?」
カンフーだった。表に停めた車から店に駆《か》け込むだけでそれだけ髪が濡《ぬ》れるということは、いよいよ本格的な降りになってきたらしかった。
「いないみたいだよ。どっか出かけちゃったのかも」
濡れた髪をかきむしっていたカンフーの手が止まり、
「そんなことないだろ。おれ電話でちゃんと言ったぞ、用事済ませて夕方ごろ行くからって」
案の定というべきか。カンフーが撮影した鯛《たい》の証拠写真は便所カレーとの論争の炎《ほのお》に油を注ぐ結果に終わった。それでも諦《あきら》めのつかないカンフーは、写真を大きく引き伸ばせばメジャーの目盛りが読み取れるようになるのではないかと考えて、ネガと一縷《いちる》の希望を携《たずさ》えて軽トラックを飛ばして来たのだという。
「電話したって、いつごろ?」
「二時間くらい前かな」
ふうん、と真琴はつぶやく。電話が鳴ったのなんてぜんぜん気づかなかった。
「なあ、ほんとうにいないのか? また便所で雑誌でも読んでいるんじゃないのか?」
周五郎《しゅうごろう》は便器に座って写真関係の雑誌を読みふける癖《くせ》がある。カタログ系の雑誌を持ってトイレに入ると数時間も出てこない場合があって、何年か前には勘《かん》違いをした喜久子《きくこ》が大騒ぎしたせいで、消防団や青年団が出動して島中を探し回る騒ぎになったこともある。
「――でも、さっきトイレ見てみたもん」
「なあ、もういっぺん家の中探してみてくれるか? おれは近所をひと回りしてみるからさ」
真琴《まこと》はカンフーのしつこさにため息を吐《つ》いた。釣《つ》った魚が何センチだろうが、大きかった、のひと言で満足できないのだろうか。
真琴は廊下に上がって、大声で呼んでみる。
「おじい、カンフーさんが来たよ」
家の中は静まり返って、屋根を打つ雨の音だけが静かに聞こえている。
また、ちょっとだけお腹《なか》が痛くなってきたような気がする。
念のためにもう一度トイレをのぞいて、まさかとは思うが風呂場《ふろば》ものぞいて、そこではたと思い当たった。
暗室にこもっているのではないか。
周五郎は暗室作業に熱中してくると、外から声をかけても気づかないことがよくあるのだ。かなりのヘビースモーカーなので、ときどき廊下に出て煙草《たばこ》を吸いながらひと休みする他《ほか》は、何時間も続けて作業をすることも珍しくない。しかも、夏休みに入ってからは学校の生徒が毎日のように宿題の写真を持ち込んでくるのでずっと忙しそうにしていた。
そうだ。きっと暗室だ。
どうして最初に気がつかなかったんだろう。
真琴はぱたぱたと廊下を走り、暗室の外扉を開けた。
「おじい、いるんでしょ?」
中に光が入らないように、暗室の入り口は二重構造になっている。真琴は狭い物置のようなスペースに踏み込んで外扉をしっかりと閉めた。指差し確認をする、過去に何度も暗室に乱入して、周五郎の作業を台無しにしてしまったことがあるからだ。
「おじい? いるの?」
真琴は、内扉を開けて、暗室の中をのぞいた。
八時間で、春留《はる》は二十キロ以上を歩き、四本のフィルムを消費して、二回笑った。
写真を撮《と》り続ける春留の後ろ姿を見つめながらずっと考えていた。どうして春留はこんなにも真剣なのだろう。それが学校の宿題であり春留が真面目《まじめ》だから、というだけでは充分な答えではない。春留の後ろ姿はまるで、何かに急《せ》きたてられるようにして、必死になって島の記録を残そうとしているかのように見えた。
「どうしました?」
春留《はる》が振り返った。遅れがちな正時《まさとき》をじっと立ち止まって待つ、というのはこれまでにも幾度となくあったが、振り返って声をかけてきたのは初めてだった。坂道の真中にへたり込んで、正時は透明なビニール傘《がさ》ごしに春留の姿を見上げる。島というのはようするに山であって、正時は先ほどから三十分以上も坂道を上り続けてへろへろになっていた。
昼ごろには、汗《あせ》がにじむほどの日差しと速い速度で流れる雲の下を、レインコートを脱いだ春留と歩いたことも何度かあったのだ。しかし、夕刻が近づくにつれて休みなく降りしきるようになった雨は、いまも正時のビニール傘を執拗《しつよう》に叩《たた》き続けている。妙《みょう》に密度がまばらでやけに粒の大きな、いかにも台風らしい雨になりつつあった。
「ねえ、どこまで登るの? まだ写真撮《と》るの?」
「もう写真はおしまいです」
「――は?」
「よろこんでください。今日一日、つき合ってくれたお礼をします。わたしの秘密の場所に連れていってあげます」
秘密の場所?
春留は踵《きびす》を返してずんずん歩いて行ってしまう。正時は必死で立ち上がって、訳もわからぬままその後を追う。
「ここです」
コンクリート舗装《ほそう》の道を外れて少し行った森の中に、小さな建物がぽつんと立っていた。手前には狭いながらも砂利《じゃり》の敷かれた駐車スペースがあって、入り口の扉の脇《わき》には弱そうな空手《からて》道場を思わせる看板《かんばん》がかけられている。
岬島《みさきじま》温泉、と読めた。
「――ここ?」
春留は自身たっぷりに頷《うなず》いた。
「ここです。さっき思いついたんです。なぜって、服が濡《ぬ》れて寒そうにしていたから。わたしだって、いろいろと考えているわけです」
いや、しかし、なんでこれが秘密の場所なのか。どう見ても公共の場所ではないか。
まあ確かに、あんまり流行《はや》っているようには見えないけれど。
春留は先に立って入り口の扉を開け、玄関《げんかん》の片隅に置かれていた粉ミルクの缶《かん》に百円玉を二枚入れた。壁に貼《は》られている手書きの料金表によれば、大人《おとな》で200円、中学生は100円、小学生以下は無料とある。
「――あ、ありがとう」
「お礼ですから」
春留はそう言って、実に微妙な表情をした。それも一回とカウントするなら今日は三度目の笑顔だ。
「ねえ、コインランドリーとか、ないかな」
「ありますよ。脱衣所《だついじょ》の手前です。でも、近くの牧場の人が、牛の糞《ふん》を踏んづけた靴なんかをばんばん入れるから、あんまり使わない方がいいかもしれません」
「――ああ、そう」
「じゃあ、わたしはこっちで、男の人はあっちです。お風呂《ふろ》でまた会いましょう」
春留《はる》は最後に聞き捨てならないことをさらりと言って、女性用の脱衣場へと姿を消した。
お風呂でまた会いましょう。
――混浴か。
正時《まさとき》は思う、混浴なのかひょっとして。春留のお礼というのは風呂代だけではないということなのか。
どうしよう。
脱衣場に入って、濡《ぬ》れた服を脱いでいる間もずっとどきどきしていた。全裸になってはたと気がつく、タオルがない、股間《こかん》を隠せない。慌《あわ》てて周囲を見回すが、石鹸《せっけん》やタオルを売る自動販売機のような気のきいたものはない。
散々《さんざん》悩んだ挙句《あげく》、ここは度胸一発行くしかないと覚悟《かくご》を決めた。
風呂場へ続いていると思しき、擦《す》りガラスの引き戸をそっと開けてみる。
森の中の露天風呂だった。
森の岩場の石組みをそのまま利用しているらしい。ちょっとした池ほどの大きさの風呂がもうもうと湯気を上げていた。お寺のお堂に似た六角の屋根があって、雨の日でも入浴できるようになっている。
そして、混浴ではなかった。
脱衣場から続く竹の仕切りが、風呂を真っ二つに分けているのである。
がっかりするよりも、ほっとする気持ちのほうが遥《はる》かに大きかった。
身体《からだ》を流そうかと思ったのに、周囲には洗い場のようなものもない。仕方がないのでそのまま入る。底の石敷きがはっきりと見えるほどに透明な湯には、ほんの少しだけ肌を刺すような刺激がある。周囲の森には微《かす》かに霧がかかっていた。
仕切りの向こう側からいきなり、
「ひとつ聞いていいですか?」
思わず情けない声が出た。もう入っていたのか。
「――な、なに?」
「あの、つまりですね、なんと呼べばいいですか?」
「なにを?」
「あなたのこと」
そう言えば、これまで春留《はる》がまともに自分の名前を呼んだことはなかったような気がする。
「――普通でいいよ。武田《たけだ》でも、正時《まさとき》でも」
少し考えている気配があって、
「じゃあ、正時と呼ぶことに決めました」
でも敬語なんだ。
「正時は、あだ名で呼ばれることはないんですか?」
「――あんまりないけど。でも、この島の人ってあだ名で呼ばれることが多いよね」
再び考える気配、
「たぶん、苗字《みょうじ》が長ったらしいからだと思います」
確かにこの島の苗字は変わっている。必ず最後に「部」がつくし、もともとは日本語ではない言葉に音を当てて強引に漢字表記したような雰囲気がある。小学生の頃、当時の担任《たんにん》だった年配の女の先生に何かの理由で叱《しか》られて、罰《ばつ》として自分の名前を百回書けと言われたことがあった。恐らく名前がらみの、クラスの女の子を本人が嫌《いや》がっているあだ名で呼び続けて泣かしてしまったとか、たぶんそんなことだったのだろう。力のない小学生の手に名前百回は結構きつかった記憶があるが、春留なんかがそんな罰を言い渡されたら大変だ。
「――あの、あのですね、」
物思いから覚《さ》めて、
「何か言った?」
「言いましたよ。つまりですね、ずっと考えていたんです」
「何を?」
「きのう、正時が言ったこと。正時はきのう、わたしのことを、つんけんしていて、まるでハリネズミみたいで、そんなんでは友達なんかできっこない、って言いました」
聞こえないように舌打ちをする。
憶《おぼ》えがある。最後に春留に連れていかれた岬《みさき》で、確かに自分はそんなことを言った。
春留が気にするのも無理はない。確かにちょっと言い過ぎたと思う。
「わたしは、そんなにつんけんしていますか? ハリネズミみたいですか? どうすれば友達ができるんですか?」
「――今は、そんなんでもないけどさ。でも、なんか、思っていることを結構きつい言い方ですぐ口に出すから、それは、」
「思っていることを、言ったら、いけないんですか?」
「――だからさ、それは仲良くなってからにすれば?」
「その、仲良くなり方が、わからないんです。それまで口をきいたことのない人に、なんて声をかけたらいいのかわからなくって、めんちの切り合いみたいになるわけです」
ぼくとはもう結構仲良くなってるじゃん――と言いかけて、気づいた。
春留《はる》は、ひょっとすると、これをある種のテストケースと見ているのではないか。本来は嫌いだという本土人《やまと》とたまたま縁ができたので、逆にこいつが相手ならいくら恥をかいてもいいと考えて、普段ならできないようなことを色々と試してみようと思っているのか。
天誅《てんちゅう》が自分と春留を強引にくっつけたのも、こうなることを予測していたからなのかもしれない。
そして、それならそれで構わない、と正時《まさとき》も思う。
確かに自分はよそ者である。本土にいたときから常にそうだった。自分は通りすがりのプロなのだ。春留がどこでつまずいているのかはよくわかるし、めんちの切り合いを避ける方法などいくらでも教えてあげようと思う。
「――要はさあ、」
いきなり言葉に詰まる。これまで自分が身体《からだ》で憶《おぼ》えてきたことを、言葉で説明するのはたいそう難しかった。仕切りに寄りかかって、
「春留は、相手にバカだと思われるのが嫌《いや》なんじゃないの?」
それを聞いた春留は、明らかに正時のことをバカだと思ったらしい。
「そんなのは、当たり前です。バカだと思われるのなんか、誰だって嫌だと思います」
「でもさ、例えば、この島の人たちのあだ名だってそうだろ。呼ぶようも呼ばれるほうも当たり前みたいな顔してるけど、よくよく聞いてみたら相手を完全にバカにしているような呼び方ばっかりだろ」
春留はじっと押し黙って、
「でも、それはおかしいです」
「何が」
「正時はさっき、自分はあんまりあだ名で呼ばれることは、ないって言いました。つまりそれは、正時が、自分で講釈《こうしゃく》している方法を、自分では実践していないってことじゃないですか」
「ああ、いや、ぼくだって転校したての頃はだいたい『メガネ』って呼ばれてるよ」
春留は戸惑《とまど》い、
「――正時は、眼鏡《めがね》なんかしてないじゃないですか。それに、転校したての頃は、って一体どういうことですか」
「勉強するときとかは眼鏡かけるんだよ。それに、ぼくは今まで八回転校してるし」
ばん!
仕切りの反対側からものすごい音がして、正時は思わず飛び上がった。春留が驚いた拍子に仕切りに頭でもぶつけたのかもしれない。
「だ、大丈夫?」
「八回転校したって、八回も学校を変わったってことですか!? ひょっとして、住むところも八回変わったんですか!?」
春留《はる》の驚きは仕切りの板越しでもはっきりと伝わってきた。家の事情で転校と引越しを繰り返してきたことを説明してやると春留は石のように沈黙し、やがて、
「想像できません」
それはお互い様だと正時《まさとき》は思う。自分だって、この島から一歩も出ずに十五年間も暮らすというものがどんなものかはまったく想像がつかない。
「正時は、筋金入りのよそ者なんですね」
思わず笑ってしまった。「通りすがりのプロ」よりそっちの方がかっこいいと思う。
「そんなに転校して、そのたびに友達を作ったんですか」
「うん、まあ」
「――どうやって?」
さあ――
正時は仕切りに頭をもたせかけた。
自分は一体、どうやってきたのだろう。
「――例えばさあ、ぼくがときどき眼鏡《めがね》をかけるようになったのは、ある女の子がきっかけなんだけど」
考えをうまく整理できないまま、正時は思いつく順に喋《しゃべ》る。
「まだ小学生の頃だよ。あれっていくつ目の学校だったのかな。他《ほか》のことはもう全部忘れちゃったけど、あの子のことだけは今でもよく憶《おぼ》えてる。クラスで一番勉強ができてさ、すごくおとなしい感じでさ。その子、鉛筆の持ち方がものすごく変で、しかも授業中だけ眼鏡をかけるんだよ」
周囲の森に漂《ただよ》う霧をぼんやりと見つめて、その子の具体的な顔を思い出そうとする。
しかし、だめだった。
思い浮かぶのは、すごくかわいくて賢そうだった、という漠然《ばくぜん》としたイメージだけだ。おそらく、当時のままの姿の本人と道ですれ違ったとしても自分は気づかないだろう。時間が薄情なのか、自分が薄情なのか。
「その眼鏡にめちゃくちゃあこがれたんだ。授業中だけ、ってのがまたかっこよくてさあ。鉛筆の持ち方も一生|懸命真似《けんめいまね》した。でも鉛筆はともかく、眼鏡なんて持ってないからね、近眼になれば親に買ってもらえると思って、夜中に部屋を真っ暗にして本を読んだりしてさ、完全にアホだよな。でも、すぐにまた転校することになって、その子ともそれっきり。初めて視力検査で引っかかったのは、それからまた何度か転校した後のことだったと思う」
一瞬、自分が一体何を言おうとしていたのかがわからなくなった。なんで自分はこんな恥ずかしい話をしているのだろう。
――ああ、そうだ。
思い出した、あの子の話じゃなくて眼鏡の話だった。
「目が悪くなったのが色々と変な努力したおかげかどうかはわからない。でもね、眼鏡《めがね》をかけるようになったことは、後々、ぼくの強力な武器になったんだ。今のぼくは、眼鏡を全部で三個持ってるけど、その中のひとつは “転校初日専用 ”なんだ。でっかくてぶっとい黒ぶちで、もうめちゃくちゃかっこ悪いやつ。それをかけて初めての教室に入っていくだけで、みんながくすくすざわざわ騒ぎ出すくらいのやつだよ。で、黒板に名前を書いて、後ろの席に座るころにはもう百発百中で『メガネ』ってあだ名がついてる。そこをとっかかりにするだけで最初の壁は突破できるよ」
喋《しゃべ》っているうちに考えの整理がついてきた。正時《まさとき》は背後の仕切りを振り返って、
「あだ名だけじゃなくってさ、何でもいいんだ、相手につけ入《い》る隙《すき》を与えてあげなきゃだめなんだよ。ハリネズミみたいに防御《ぼうぎょ》を張り巡らせていたら相手が近づかないだろ? 自分のかっこ悪い思い出とか恥ずかしい話とかさ、これだけは絶対に知られたくないっていう秘密を、ひとつだけでいいから喋っちゃえばいいんだ。そうすれば、相手のガードだって下がる」
「でも、秘密を話して、嫌われたら、」
「嫌われない。いざ話してみれば、相手にとってはなんでもないことだったりするんだ。嫌われるかもしれないなんて思っているのは自分だけだよ」
「それで、本当に友達が、できますか?」
「たぶんね」
「いま、試してみていいですか?」
――え?
仕切りの向こう側で、春留がお湯から立ち上がる音がした。
「リュックサックから、取ってこなくっちゃいけないものがあります。ちょっと、そこで待っていてください」
仕切りの向こう側で、春留の気配が風呂《ふろ》から上がって脱衣所《だついじょ》の奥へと消えていった。と思ったらまたすぐに戻ってきて、
「――春留?」
ぷっつりと気配が消えた。
「ねえ春留ってば、そこで一体――」
突然、正時の目の前の水面を割って春留が現れた。
「うわぁああっ!」
驚きすぎて死ぬかと思った。殴《なぐ》りつけるような衝撃《しょうげき》が心臓を捕らえ、身体《からだ》が泳いだ拍子に鼻の上まで頭が沈んで溺《おぼ》れかけた。春留はもちろん全裸《ぜんら》で、犬のように頭を振って髪についた滴《しずく》を飛ばし、これっぽっちも身体を隠そうとはせずに、膝《ひざ》立ちのまま足を進めてざぶざぶと正時に迫る。仕切りに追い詰められた正時の傍《かたわ》らを指差して、
「そこに、お湯の仕切りの格子《こうし》が外れて、穴が開いているところがあるんです。それが、このお風呂《ふろ》の秘密」
言葉は耳に入らない。ただただ混乱し、どうしても春留《はる》の顔から視線をはずせない。それでも目に入ってしまう、正時《まさとき》には大きいとも小さいとも判断がつかない春留の胸、それでよく内臓が収まっていると思う細い腰周り。それまで正時にとっては平面の存在でしかなかった女性の裸体《らたい》が、手を伸ばすまでもないところに、春留という実体としてそこにあった。自分とはまったく別種の動物がそこにいるように思えた。
春留が右手を突き出してくる。
その右手には回転様の首飾りが握られている。まぎれもない、診療所で春留に奪い取られたあの首飾りだ。
「普通、お守りにするような回転様は、もう死んでいる回転様なんです」
春留は首飾りの紐《ひも》を右手でつまんで持ち、左手で回転様を弾《はじ》くようにして回転させる。
「でも、これはまだ、ちょっとだけ生きている。珍しいです」
回転様は異様な回り方をしている。たいした自重《じじゅう》もないはずなのに一向に勢いが衰えない。春留は猫《ねこ》のような目つきで回転様を凝視《ぎょうし》する。じっと意識を集中させているように見える。
「今の島人《しもうど》には無理。みんな血が薄れちゃったから。だけど――」
そのとき、正時は流れを身体《からだ》で感じた。
右から左へ、風呂の中の液体すべてがゆっくりと渦《うず》を巻くように動き始めている。
「わたしの、」
春留が回転様から目を離した。正時をまっすぐに見つめる。
「血は、」
春留が、開いている方の左手をゆっくりと差し伸べてくる。
「まだ」
正時は、つり込まれるようにその手を握った。
途端に、エレベーターがいきなり降下し始めたときのような感覚が襲ってきた。
「うわ、」
風呂のそこが抜けた、頭ではなく身体がそう思う。手足が勝手に動いてお湯の中を探り、指先や踵《かかと》が風呂の底の感触を探り当てる。
しかし、
これ、さっきより深くなっていないか。
「重さが外れました。もう、飛べますよ」
――ほら。
春留が左手をゆっくりと差し上げていくにつれて、風呂の底がどんどん遠くなっていく。周囲の水面が盛り上がっていき、力の均衡《きんこう》がある一点で大きな水音を立てて崩れた。風呂の底にはもはや爪先すら届かない。
※[#挿絵画像 01_218_219]|挿絵《P.218-219》
声を上げることもできなかった。
正時《まさとき》は、全裸《ぜんら》のまま宙に浮いていた。
春留《はる》の左手はすでに正時の手を握ってはおらず、人差し指と中指が軽く差し伸べられているだけだ。しかし正時は必死になってその二本にすがりつく。支えるもののない身体《からだ》が大きく前方に傾《かし》いで、両足が勝手に平泳ぎの出来損ないのような動きをする。それがものすごくかっこ悪いのですぐにやめたいと頭の隅でちらりと思うのだが、自分ではどうにもならない。普段は決して意識に上がることのない脳みその一部が、自分はこんな状態を想定して設計されてはいないと悲鳴を上げていた。身体といっしょに浮き上がった相当量のお湯がいくつかに分裂し、大きさも様々な丸い塊《かたまり》となってあるものは宙を漂《だだよ》い、あるものは正時の身体のあちこちにぶよぶよとまとわりつく。自分が全裸であることも、しかも股間《こかん》が丸出しであることも意識の中から消し飛んでいた。
もうやめて。お願いだから下ろして。
そう懇願しようとして、春の顔を見下ろした。
「これが、私の秘密です」
そして正時は、春留の笑顔に浮かび上がっている虎《とら》の如《ごと》き隈取《くまどり》を見た。
顔だけではない。虎の文様《もんよう》は、正時の見ている目の前で春留の身体のあちこちに浮かび上がりつつあった。文様が身体のあちこちにバランスを欠いて局所的に集中しており、まるで神様が印刷ミスをして毛皮の模様が半分ズレてしまった猫《ねこ》のようだ。
「なんでもありませんでしたか?」
わずかに傾けた顔を近づけ、濡《ぬ》れた瞳にすがるような期待を込めて、妖怪《ようかい》が言った。
「わたしは、正時の友達に、なれましたか?」
そのとき――
理解不能なものでしかなかった恐怖が、意味を得たことで本物の恐怖になってしまった。
悲鳴を上げたかどうかは記憶にない。
たぶん上げたのだろうと思う。
すがりついていた二本の指を振り払って、それでも身体は深呼吸ひとつできるほどの間は空中にあった。両手両足を振り回しながら水面に落下して、一緒に浮いていた水の塊が頭の上に落ちてきた衝撃《しょうげき》に呼吸が詰まった。
そのとき春留が何を言った、大丈夫か、といった意味のことを。
そのひと言にすがっていれば正時は逃げ出さずに済んだかもしれない。恐怖など大して長続きはしなかったし、身体が落下したときにぶつけた右|肘《ひじ》がそこまで痛かったわけでもない。
今さらおかしな話だが、春留の言葉にすがろうとした正時を阻《はば》んだのは、突如として湧《わ》き上がってきた猛烈《もうれつ》な羞恥心《しゅうちしん》だった。
すっぱだかのおんなのことすっぱだかでむきあっているのがしぬほどはずかしかった。
転がるように風呂《ふろ》から上がって、転がるように逃げた。
最後に見たのは、呆然《ぼうぜん》と立ちすくむ春留《はる》の姿。
隈取《くまどり》のある白い顔が泣きそうに歪《ゆが》んでいたこと。
もうもうと立ち込める湯気《ゆげ》と、森を流れていた真っ白な霧。
カンフーは近所をひと回りしてみたが、周五郎《しゅうごろう》の姿を見つけることはできなかった。
雨足も激しく、長いことダッシュボードに入れっぱなしだった折り畳《たた》み傘《がさ》は、地を這《は》うように踊《おど》りこんできた気まぐれな突風にたやすくへし折られてしまった。近所の人間は誰ひとりとして周五郎を見ておらず、五軒目の玄関を出たところでカンフーは諦《あきら》め、雨に打たれながら写真館へと引き返す途中で、その奇妙な声に気づいた。
猫が鳴いているのかと思った。
坂の上に写真館の白い建物が見えたあたりで、何かがおかしい、と思い始めた。カンフーは次第に足を速め、正面のドアから店の中へと踏み込んだときには、それが女の子の泣き声であると確信していた。
「どうした真琴《まこと》!?」
店から土足のまま廊下に上がり、もう一度声を張り上げようとしたとき、暗室の扉から突き出ている周五郎の上半身と、傍《かたわ》らにしゃがみ込んで狂ったように泣き叫んでいる真琴の姿に気づいた。
「おじい! どうしたんだ真琴、何があった!?」
真琴はまともに返事ができる状態にはない。重くて運べないよう、いっしょうけんめい引っぱったけど重くて運べないよう――ただそう繰り返すばかりだ。周五郎には痛みに反応する程度の意識はあって、ときおり身体《からだ》を丸めて胸をかきむしるような仕草《しぐさ》をする。
心臓か。
真琴のパニックが感染してくるのを感じる。カンフーは真琴の方を両手で引き寄せ、鼻同士が触れ合いそうになる距離から大声で怒鳴《どな》る。
「真琴、聞け真琴!! なあ、おじいはどこにいた、おじいはどこに倒れていたんだ? そのときどんな様子だった? 頭は打っていたか? ゲロを吐《は》いていなかったか?」
「だって、運べなかったんだもん、暗室が暗くって、最初は、わかんなくって、」
「おじいは前から心臓が悪いのか? いつも飲んでいる薬はないのか!? 答えろ真琴!!」
「わかんないよ! 心臓なんて知らないよ! 暗室が暗かったんだもん!」
カンフーは周五郎の顔をのぞき込む。土気色《つちけいろ》の顔が苦痛に歪《ゆが》んでいる。真琴の父親が死んだ日の記憶が脳裏によみがえる。まったく、左吏部《さりべ》の家は台風に呪《のろ》われているのか。
とにかく――
今すぐ姉子《あねこ》を呼ばなくてはならない。
今すぐ。
太股《ふともも》までずり上げたズボンに足を取られながら雨の中に飛び出したことは憶《おぼ》えている。
あの状況でよく服のことにまで気が回ったものだと自分でも思う。
雨の中、町へと下《くだ》る坂道を歩いていると、背後から近づいてくる車のエンジン音を聞いた。クラクションを鳴らされて振り返ると、軽トラックの窓からしわくちゃのおばあが顔を突き出して、
「――まったく、傘《かさ》もささずに。あんた、左吏部《さりべ》んとこの本土人《やまと》だろ?」
ずぶ濡《ぬ》れのまま乗り込んで座席に身体《からだ》をうずめた。おばあはアクセルを踏み込んで軽トラックを発進させ、唐突《とうとつ》に、
「言っとくけどね、ワイパーは嫌いだよ。運転に集中できないからね」
正時《まさとき》はぼんやりと反応する。
「――ぼくは好きだけど」
「まったく、あんなもんのどこがいいのかね」
「雨粒の拭《ふ》き残しが、切ったスイカみたいな形になるから」
はん、とおばあはバカにしきったように鼻を鳴らして、
「それだけずぶ濡れなら何をどう着てようがもう関係ないかもしれないけどね、Tシャツが後ろ前だよ」
その言葉が頭に沁《し》み込むまでにしばらくかかった。正時はのろのろと身体を動かしてTシャツを脱ぐ。何かおかしいと思ってよく見たら、後ろ前ではなくて裏返しなのだった。もういっぺん裏返して頭を突っ込むと、濡れそぼった布地が頭にぎゅうぎゅうと貼《は》りつく。その冷たさに意識が少しだけ覚醒《かくせい》する。ヘッドレストに後頭部をあずけて、
「――おばあ、答え合わせしていいかな」
「お断りだね。そういうのは教室でやんな」
正時の口元にぼやけた笑みが浮かんだ。なかなか穿《うが》ったとこを言うおばあだと思う。
「もう百点は取れないのはわかってるんだ。でも、テストで肝心なのはやる前よりもやった後だろ。頭悪いんだよ。こないだも模擬試験でこてんぱんにされたしね」
「知らないよんなこた。やだねえ、あんたもガキの時分から栄養ドリンク飲みながら塾をハシゴしてた口かい?」
「この島には、外からきた人間を妖怪《ようかい》の格好をして脅《おど》かす風習があるよね」
おばあの横目には少しだけ驚いたような色が浮かんでいた。
「おかしなこと知ってるね。妖怪じゃなくて神様だけど。誰に聞いたんだいそんな話」
「段取りは、小屋に監禁《かんきん》して、神様の扮装《ふんそう》で脅かして、最後に宴会《えんかい》。脅かす理由は病気を運ぶ悪霊《あくりょう》みたいなものを追い払うため。その監禁小屋が今は診療所になってる。あんな町外れの不便なところにあるのはそのせいだろ」
「ふん、察しがいいじゃないか。本土人《やまと》の小僧と侮《あなど》れないね」
「神様は女の子。だから、脅かし役も女の子がくじ引きで務める」
「はぁ? 誰だいそんなデタラメ吹き込んだのは。脅かし役は男衆だよ。昔は相当荒っぽくやったって話だからね、そんなの女の子なんかにゃさせられないだろう。第一、あんな風習はもう何十年も前に廃《すた》れてなくなっちまったよ」
ため息も出ない。
まあ、五十点、というところか。それとも一番肝心なところが外れているから0点か。
あの夜、春留《はる》はなぜ診療所に忍び込んできたのか。
本当のところは春留にしかわからない。しかし、その目的がなんだったにせよ。診療所に押し入《い》るという物騒な行動にあえて出た背景には、何十年も昔に滅んだというあの風習があったに違いない。春留はあの風習のことを知っていて、意識的にか無意識的にか、それをなぞって行動していたのだろう。それを見た自分は、風習の実態についてはほぼ完璧《かんぺき》に推測してのけたくせに、現れたのが「本物」だった、という最も重要な答えだけを間違えたのだ。
たった今この目で見てきた。
妖怪と呼ぶのが正解かどうかは知らない。しかし春留は「本物」だった。
何もかも証明されてしまった。診療所の闇《やみ》をぬるぬると動き回っていたのも現実だ。顔の隈取《くまどり》だってまさか全身に及んでいるとは思わなかった。この上にまだ何かを疑うのならもう自分の正気しか残っていない。
――これが、わたしの秘密です。
その春留が、最後には呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。
隈取のある白い顔が泣きそうに歪《ゆが》んでいた。
自分のみっともなさに吐《は》き気を覚える。流れ者は流れ者らしく、今回も最後まで傍観《ぼうかん》していればよかったのだ。たしかに最初は巻き込まれたかもしれない。しかし途中で手を引く機会はいくらでもあったと思う。好き好んで写真など届に行かなければよかったのだ。六九六屋での待ち合わせなどすっぽかせばそれですんだ。
春留に空《むな》しい期待を抱《いだ》かせ、最後には受け止めきれなくなって逃げ出した。
最低だ。
――わたしは、正時《まさとき》の友達に、なれましたか?
正時は座席の上で膝《ひざ》を抱《かか》え、ドアに寄りかかるようにしてうずくまった。
今は、春留《はる》のことは考えたくは、ない。
そのとき、
「あれま、サイレンが鳴ってるよ」
軽トラックは町に差しかかりつつあった。風がフロントガラスに雨粒を叩《たた》きつけてくる音に混じって、犬の遠吠えに似た細い響きが確かに聞こえる。
正時も、膝から半分ほど顔を上げて、
「――なんですか、あれ」
じっと押し黙ってサイレンに耳を澄ませていたおばあは、正時の問いに答えるかのようにアクセルを床《ゆか》まで踏み込んだ。おんぼろエンジンが苦しげな唸《うな》りを上げ、軽トラックはコンクリート舗装《ほそう》の曲がりくねった道をまあまあの速度で走り抜けていく。
写真館の間近まで着たとき、近所の住人が傘《かさ》にすがって通りを右往左往しているのを見ても、正時はそれが自分に関係のあることだとは思わなかった。写真館に大勢の人が忙しく出入りしているところを見てさえ、またみんなで酒を飲む算段《さんだん》でもしているのだろうか、などと考えていたのだ。
礼を言って軽トラックを降りたが、おばあもその場から立ち去ろうとせずに周囲の様子をうかがっている。
何かあったらしい、と気づいたのは、玄関口《げんかんぐち》にたむろしていた近所の住人たちが正時の姿を認めて駆《か》け寄ってきたときである。
「正時! お前どこ行ってたんだ!」
カンフーに腕を掴《つか》まれて問答無用で廊下に引きずり上げられ、人をかき分けて奥へと進み、床にうずくまる姉子《あねこ》の白衣《はくい》を目にした瞬間に正時の意識は硬直した。
廊下に周五郎《しゅうごろう》が寝かされている。
まるで死人のようなその顔色を一目見て、麻痺《まひ》していた正時の頭が一挙に現実へと引き戻された。正時の姿に気づいた真琴《まこと》が必死の形相《ぎょうそう》で駆け寄ってくる。一瞬、正時は殴《なぐ》られるのかと思った。おじいが大変なことになっているのも知らず、自分は春留と島じゅうをほっつき歩き、春留と温泉に浸かり、春留と――
しかし真琴は、正時の胸元に身体《からだ》をぶつけてすがりつくと、堰《せき》を切ったように大声で泣き始めた。暗室が暗かった、と真琴は何度も繰り返すのだが正時には何のことだかわからない。
「暗室で倒れてたんだ。真琴が見つけた」
カンフーが沈鬱《ちんうつ》な表情でつぶやく。
「おばあはさっき戻ってきたところだ。姉子が薬を飲ませて今は座敷《ざしき》で横になってる」
「正時くん、ちょっと来て」
姉子《あねこ》に呼ばれて、正時《まさとき》は周五郎《しゅうごろう》の枕元に膝《ひざ》をついた。いつでも運び出せるように、周五郎はプラスチック製の担架《たんか》に寝かされている。顔には酸素マスク、腕には点滴《てんてき》、あばらの浮いた胸元には心拍モニターの電極パッチ、傍《かたわ》らには携帯用の除細動器、周囲には姉子が診療所から総ざらいしてた医療器具がぶちまかれている。
「おじいは、急性|心筋梗塞《しんきんこうそく》の発作を起こしたの。たぶん、マコちゃんが発見する直前じゃないかと思う。三十分ぐらい前に不整脈が」
「――ちょ、あの、」
正時は口ごもる。
「そ、あの、そんなことぼくに言われても、誰か他《ほか》の――」
いきなり胸倉《むなぐら》を掴《つか》まれた。
「いないわ。いま、左吏部《さりべ》の家にいる男はあなただけ。だからあなたに説明します」
姉子に至近《しきん》距離からのぞき込まれて、正時はわずかだが視線を逸《そ》らしてしまう。もう勘弁《かんべん》してほしい、自分はたったいまパンクしてきたばかりなのだ。
「とにかく、不整脈は除細動して乗り切ったわ。今は薬でどうにか安定、でも早く守人《もりと》に運ばないと危ない。たった今、守人の病院に連絡をとって救急|艇《てい》を回してもらえるかどうか問い合わせたところ。折り返しの連絡待ち」
横からカンフーが、
「なあ姉子、さっきも言ったけどな、やっぱりこっちから行った方がいいって。救急艇がいくら早いっていたって片道フルスピードよりは、」
「危険すぎるわ。ひとつにはこの台風、もうひとつには船の医療設備の違い。今はおとなしく救急艇を待つべき。これは主治医としての判断」
カンフーが苛立《いらだ》たしげな唸《うな》り声を上げたとき、階段下に置かれている電話が鳴った。かぶりつきで待機《たいき》していたグリシャン父が受話器を引ったくる。つぶやくような口調で会話を交わし、終わり際に一度だけ声を荒げて受話器を置いた。
「――南|梶木島《かじき》、」
グリシャン父が電話機を見つめたまま、
「車四台の絡んだ交通事故だ。台風が来てんのはは岬《みさき》だけじゃねえとよ」
そのとき、カンフーがため息を吐《つ》いた。その呼気がわずかに震えていたことに気づいたのは、すぐ隣にいた正時だけだったかもしれない。
やっぱり、カンフーも恐ろしいのだろうか。
「――よし、決まったな」
カンフーは敢然《かんぜん》と顔を上げた。
「おじいをあるかでぃあ号で守人に運ぶぞ。いいな姉子?」
正時は真琴《まこと》にしがみつかれたまま、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
もはや焦点すら定まらぬ真琴《まこと》の顔は正視に耐えなかった。真琴の脳裏《のうり》には今、父親の死の記憶が再現されているに違いない。あの日と同じ嵐が今度は周五郎《しゅうごろう》を連れ去ろうとしている。百万言を尽くして周五郎の生還《せいかん》を約したところで、今の真琴にそれを信じろと言う方が無理な話なのかもしれない。
――わたしは、正時《まさとき》の友達に、なれましたか?
あのとき、自分は逃げた。
――でもね、いつまでもおじいの家に入り浸っているようじゃダメだと思うの。
今度もまた逃げるのか。
17、20、16、9、21、15、12、13。
八回だ。苦労の分だけ楽もしてきた。意気地のないことを正当化できた。どうせまた転校でご破算《はさん》になってしまうのなら、何かとがっぷり四つに組み合って本気で笑ったり本気で泣いたりするのは馬鹿《ばか》らしいことだと冷笑している方がずっと楽だったのだ。
だから、また逃げるのか――
もう一度、真琴の顔を見下ろした。
「――いいわ。ただし、私も一緒に行くという条件つきよ」
姉子《あねこ》が廊下にぶちまけられた医療器具の中から必要最小限の物だけを手際よくまとめていく。カンフーはいつもきびきびした動作で足早に玄関《げんかん》へ向かう。
「みんな手を貸してくれ、まずは港までおじいを運ばなきゃならん。誰かこの近所で、軽トラじゃなくてちゃんとした屋根がある車を持っている奴《やつ》は――」
「待ってよ」
正時のひと言に、その場にいた全員が動きを止めた。
「いま、左吏部《さりべ》の家にいる男はぼくだけなんだろ。だったら、おじいを運び出すならぼくの許可を取ってからにしてよ」
このバカは一体何を言っているのか――数人がそういう顔をして声を荒げようとした。それを姉子が制して、
「その通りね、ごめんなさい。――正時くん、おじいを守人島《もりとじま》の病院まで搬送《はんそう》します。船は救急|艇《てい》ではなく汎用《はんよう》漁船、おまけに台風で海は大荒れ、搬送途中での容態の急変もあり得ます。許可願えますか?」
「条件つきで」
姉子の、カンフーの、真琴の、それ以外の全員の視線が正時に集中する。
「カンフーは操船、姉子さんはおじいの世話。もう一組くらいは手が必要だと思う」
総員注視の中での決断は思いのほか容易だった。正時は腹の中でひそかに苦笑する――いい格好をしたくて死ぬやつというのは、意外と多いのかもしれない。
「ぼくも一緒に行く」
周五郎《しゅうごろう》をあるかでぃあ号に乗せるだけでも一苦労だった。
台風情報を聞いた時点で、カンフーはあるかでぃあ号を港の最深部へと退避させていた。その近辺は波も比較的平静だったが、すでにほとんど意識のない状態の周五郎を万が一にでも海に落とすわけにはいかない。夜の闇《やみ》と次第に激しさを増していく雨の中では、作業はどうしても慎重《しんちょう》にならざるを得なかった。まずカンフーが周五郎を背負い、ずり落ちないようにしっかりとロープで固定し、念のための命綱《いのちづな》を身に着けて、まるで宇宙飛行士のようにゆっくりと船に乗り移る。ナイフでロープを切断して周五郎をひとまず船の床《ゆか》に寝かせ、少しでも体温の低下を防ぐためにビニールシートで身体《からだ》を覆《おお》った。続いて姉子《あねこ》が、続いて担架《たんか》と医療器具、最後に舫《やもい》を解いた正時《まさとき》が飛び乗る。
「姉子《あねこ》、早くおじいを中に入れろ! 正時も手伝え!」
あるかでぃあ号には、操舵《そうだ》室の後ろに仮眠用の小さな船室がある。船室といっても大人《おとな》ひとりがやっと横になれる程度の棺桶《かんおけ》のようなスペースだが、ハッチを閉めれば雨風をしのぐことはできるし、他《ほか》に周五郎を寝かせておけるような場所はない。狭い入り口から周五郎の身体をやっとの思いで押し込むと、姉子は自らも船室に滑《すべ》り込んで周五郎にぴったりと寄り添い、正時が入り口から投げ入れてきたリュックサックをかき回して聴診器を取り出した。
「正時、救命|胴衣《どうい》とヘルメットを着けろ! 姉子もだ! おじいにも着せろ!」
船室から姉子が、
「無理よ! 二人してこんな狭い場所でぶくぶくしたもの着たら何にもできないわ!」
カンフーは背後を振り返って、
「――じゃあ、せめてヘルメットだけは着けろ! 出すぞ!」
カンフーはエンジンを始動させ、あるかでぃあ号はゆっくりと岸壁を離れて真っ黒な海を進み始めた。闇《やみ》と雨に閉ざされて視界が悪い。すべてのライトを点灯し、カンフーは慎重すぎるほど慎重に進路を定め、港の庇護《ひご》の下からゆっくりと抜け出していく。
最後の防波堤が背後に去り、あるかでぃあ号は守人島《もりとじま》へと進路を取って目覚しい加速を開始した。手すりに両手でしがみついて身体を支えながら、正時は少しだけ拍子抜けしていた。
この程度なんだろうか。
たしかに周囲は暗闇に閉ざされている。爆風じみた突風がいきなり雨を横|殴《なぐ》りに吹き寄せてくる。しかし、船の航行そのものは実に安定しているように思う。もちろん舳先《へさき》が波を切るたびに船体は大きく揺れるが、初めて岬島《みさきじま》に来たときにもこの程度の揺れはあったと思う。
「ねえカンフー、」
ずぶ濡《ぬ》れの顔を操舵室に突っ込んで、
「大丈夫? 予定通りの時間に着けそう?」
のん気なことに、カンフーは片手で舵輪《だりん》を操作し、片手で風船ガムの包み紙をむいて口に入れていた。その視線は窓の外に据《す》えられているが、正時《まさとき》の目には真っ黒な闇《やみ》と雨粒を拭《ぬぐ》い続けている丸いワイパーの動きしか見えない。
「――この調子でぶっ飛ばしていければ、二時間も要《い》らんかもしれん」
正時の顔に希望の光が差した。船室のハッチから姉子《あねこ》が、
「ねえカンフー、台風の海って、ほんとうにこんなもんなの? 私はもっと、何ていうか、」
「おじいの容態は?」
カンフーが逆に尋ね、姉子はしばらく沈黙して、
「今のところは安定してる。助かると思うわ――ほんとうに二時間で守人《もりと》に着くならね」
「――おかしなもんでな、」
カンフーはガムをくちゃくちゃと噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]みながら、
「陸《おか》から見るとものすごい大|時化《しけ》で、沖の方なんか白波がばんばん立ってて、もう見ただけであんなところへは行きたくないと思うようなときでもな、いざ沖に出てみると意外になんでもなかったりすることって結構あるんだ」
横から正時が、
「――じゃあ、今日がそれなの?」
カンフーは肩をすくめるようにして曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。顔を引っ込めようとした正時に、
「その棚《たな》にタオルが入ってるから頭|拭《ふ》け」
「――いいよ、どうせまた濡《ぬ》れるし」
「いいから拭けって。拭き終ったらひと働きしてもらう」
正時はタオルからゆっくりと顔を上げた。
「なに」
「タオルの棚にヘッドランプが入っているだろう。そいつをヘルメットに取り付けて、救命|胴衣《どうい》を脱いで、この下にもぐってくれ」
カンフーはそう言って、左足で操舵《そうだ》室の足元をどんどんと蹴《け》った。床《ゆか》のラバーがその部分だけ四角く切り取られており、引き出し式のグリップがついている。どうやらハッチになっているらしい。
「このハッチから船体の中にもぐり込める。かなり狭くてやかましいと思うが、舳先《へさき》の方に這《は》っていくと、砂の入ったでっかい袋がどっさり詰め込んであるはずだ。そいつをひとつずつ引っ張り出してレッコしてくれ」
「れっこ?」
「海に捨ててくれ」
自分はとんでもなく恐ろしい仕事を頼まれているのではないか、と正時は思った。
「――砂の入った袋、って?」
「バラストだ。重いぞ、たぶん袋ひとつで10キロくらいある。トップヘビーにした方が船の座りがいいから漁はしやすいんだよ。全部でいくつ積み込んだかは忘れたが、今は舳先《へさき》を軽くして波に突っ込んだときの水切れを良くしたい。それに、少しでも荷を捨てればその分だけ船足も早くなる」
正時《まさとき》はずずっと洟《はなみず》をすすって、足元のハッチをじっと見つめた。
怖かった。
「――わかった。全部捨てるの?」
カンフーは窓の外を見つめながら口の端《はし》だけで笑った。
「全部は無理だ。その前に守人《もりと》に着いちまうよ。急がなくてもいいし無理もしなくていい。安全第一ってことで、ひとつよろしく頼む」
正時はもう一度だけ洟をすすった。
金属製のバックルをはずして救命|胴衣《どうい》を脱ぎ捨て、ヘッドランプを取り付けたヘルメットをかぶり直し、床《ゆか》のグリップを掴《つか》んでハッチを引き開ける。
四角い闇《やみ》がぽっかりと口を開け、轟々《ごうごう》たる唸《うな》りが噴《ふ》き上がってきた。
その唸りが船のエンジン音なのか船底を打つ水の響きなのか、正時にはまったく判断がつかない。やっぱりやめる――という言葉を必死で噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]み殺し、正時はヘッドランプの光だけを頼りに身の毛もよだつ閉所恐怖の中へともぐり込んでいく。
正時のヘルメットがハッチの中に消えていった、その瞬間、船の真下から突き上げるような大波が来た。
姉子《あねこ》が悲鳴を上げた。
カンフーは咄嗟《とっさ》に手すりにしがみついて、
「正時! 大丈夫か!?」
ひと呼吸置いて、ハッチからくぐもった叫び声が、
「――うわぁ痛ってえ、大丈夫ですー!」
カンフーは安堵《あんど》のため息を吐《つ》いた。ハッチが何かの拍子に閉まってしまうことがないようにフックを掛けておく。背後から姉子が、
「――ねえカンフー、点滴《てんてき》したいんだけど、なんか天井から吊るすような物ってないかな」
「こっちに工具箱があるから中身|漁《あさ》って適当に工夫しろ。天井に穴開けてもいいから」
カンフーはポケットからしわくちゃになった紙きれを取り出した。皺《しわ》を伸ばしてみると、安物のプリンターから吐《は》き出されたと思しき最新の天気図である。あるかでぃあ号に乗り込む直前に、港の事務所にカチ込んで破り取ってきたものだ。カンフーは口の中からガムをつまみ出して天気図を窓に貼《は》りつけ、棚《たな》に手を突っ込んで海図《かいず》の束を取り出した。一般の海図はサイズが大きすぎてカンフーには使いにくいので、必要な部分だけを切り抜いてビニールでパックしてリングでまとめてある。片手で海図を捲《めく》りながら様々な計器に視線を走らせる。時計、速度計、羅針盤《らしんばん》、GPS、
姉子《あねこ》が何か言った。
カンフーは海図《かいず》を見つめながら、
「何か言ったか?」
「――だから、島の方からは何か言ってきた?」
カンフーは肩越しに背後を振り返った。姉子は船室の天井にねじ込んだ木ねじに輸液《ゆえき》バッグを吊《つ》るしながら、頭上のカンフーを見上げて、
「私、今日はなんか調子悪いのよ」
「――たいしたことは何も、守人《もりと》の病院から連絡があっていつでも受け入れられるって、七老人はもう公民館に集まってる」
姉子はカンフーを見つめ、やがてその視線を周囲の闇《やみ》に向けた。先ほどから不気味な突風が何度となく打ち寄せてくる。
「――間に合うよね?」
「この調子で行けば」
カンフーはそう言って窓の外の闇に視線を戻した。
姉子に聞こえないように、鼻からそっと息を吐《は》く。
嘘《うそ》はついていない。
気休めを言ったつもりもない。
陸《おか》から見たときには大|時化《しけ》でもいざ沖に出てみれば何事もない、そういうことは実際によくあるのだ。海は見かけどおりではない、という話をカンフーはしただけである。窓の外の闇を見つめながら、カンフーは口の中で小さくつぶやいた。
「――まあ、その逆もよくあるんだけどな」
二十四個目のバラストを、真っ黒な海に捨てた。
まるで宇宙空間に放り捨てているようだった。あれほどずっしりと重いものが、船べりから押し出した瞬間に黒い海に飲まれて消滅してしまう。水音も聞こえず水柱も見えない。宇宙に投げ捨てるあの錘《おもり》をひとつごとに、あるかでぃあ号の船足は早まり、嵐は一歩ずつ遠ざかっていき、おじいの心臓は今しばらく拍動を続けてくれるのだと思う。
正時《まさとき》は船べりにすがって、真っ黒な空を見上げた。
いつからか雨脚《あまあし》は急に弱まり始めて、今は嵐の中に霧雨《きりさめ》が微《かす》かに混じる程度だ。岬島《みさきじま》を離れてからすでに一時間半が経《た》とうとしている。海のうねりは相変わらず巨大な砂丘が蠢《うごめ》いているようだが、こうして真っ黒な空を見上げていると、ぼんやりとした光の気配のようなものが感じられる瞬間がある。
月かもしれない。
雲が薄れてきたのか。
あと三十分。
あとたった三十分で、あるかでぃあ号は守人島《もりとじま》に着く。
正時《まさとき》は操舵《そうだ》室に這《は》い戻った。操舵室に出入りするたびに命綱をつけたり外したりするのが面倒でならない。手すりにすがって立ち上がる。揺れを感じる感覚が麻痺《まひ》してきたのか、よほど大波にあおられなければ身体《からだ》が傾いているとは感じなくなっていた。船底に潜《もぐ》り込んでいる間にあちこちにぶつけたせいで腕も足も痣《あざ》だらけだ。
「おい、ちょっと休めってば」
見かねたカンフーが声をかけてくる。正時も頭ではもうやめようと思うのだが、
「――じゃあ、あと一個だけ」
勝手にしろ、とカンフーは思った。
正時がのそのそと床のハッチの中にもぐり込んでいく。呆《ほう》けたようなその表情は、正時がある種のショック状態にあることをはっきりと物語っている。背後を振り返ってみれば、姉子《あねこ》の様子も似たようなものだった。点滴《てんてき》がうまく落ちないと文句を言う元気があったのはもう一時間ほども前のことで、今は、周五郎《しゅうごろう》の身体《からだ》を抱《だ》きしめて波の衝撃《しょうげき》から守りながらじっと顔をうつむかせている。
急がなければ。
あともう少しだ。突風に吹かれたり波に揉《も》まれたりするたびに散々《さんざん》な恐怖を味わってきたが、時間も船足《ふなあし》もほとんど計算通りでここまでくることができた。あと三十分、波と風があと三十分だけこの船に目をつぶってくれさえ入れば――
――眩暈《めまい》?
いや、違う。
先ほどから操舵室の床をあっちへこっちへと転がっていた小さなボルトが、磁石《じしゃく》にでも引き寄せられているかのようにまっすぐ転がって、背後の壁に突き当たって動かなくなった。操舵室の中の固定されていない物すべてが、次々とボルトに倣《なら》ってカンフーの背後へと滑《すべ》り落ちていく。
船が傾いている。舳先《へさき》がゆっくりと持ち上がっていく。
操舵室の窓の外、行く手の海から巨大な山が身の毛もよだつ速度でせり上がってくる。その頂点はすでに重力に屈して崩壊を始めており、逆巻《さかま》く水の白が闇《やみ》の中にあってもはっきりと見えた。
こいつは、どえらいことだった。
「正時、早く上がれ! 早くあがって来い!!」
カンフーは声を限りに叫んだ。あるかでぃあ号は瞬《またた》く間に水の傾斜へと吸い上げられていき、舳先《へさき》がほとんど天を指し示すほどに持ち上げられた次の瞬間、信じがたいほどの突風と豪雨と、船体を打ち砕《くだ》くような衝撃が来た。
カンフーの身体《からだ》が宙に浮き上がって床《ゆか》に叩《たた》きつけられた。
あるかでぃあ号が今度は舳先《へさき》を海の底に向け、自由落下しているような勢いで水の斜面を滑《すべ》り落ちていく。操舵《そうだ》室の床は一発で水|溜《たま》りのようになり、身をもがいて懸命《けんめい》に立ち上がろうとしたカンフーは、床の水が盛大に流れ込み続けているハッチの中から白い手が伸びていることに気づいた。
その手を掴《つか》む。
全身の力を振り絞《しぼ》って正時《まさとき》をハッチの外へと引っ張り出した。正時は水|浸《びた》しの床に倒れこんで背中を丸めて噎《む》せ返っている。生きている証拠だとカンフーは思った。床のハッチを蹴《け》って閉め、正時に救命|胴衣《どうい》を投げつけて背後を振り返る。顔面|蒼白《そうはく》の姉子《あねこ》が周五郎《しゅうごろう》の身体にしがみついたまま凍《こお》りついている。部屋のハッチを閉めろと大声で叫んだが、1メートル半かそこらの距離しかないのに、波と風の轟音《ごうおん》に阻《はば》まれて姉子の耳に届かない。もう一度、
「部屋のハッチを閉めろ!!」
ようやく姉子が従った。舵輪《だりん》を掴《つか》んで立ち上がろうとした瞬間に再び波の衝撃《しょうげき》、床に転がって背中を丸めていた正時の身体が投げ出され、ヘルメットが壁に激突してものすごい音を立てる。
「正時、大丈夫か!? 早く救命胴衣と命綱《いのちづな》を着けろ! 床に座って手すりにしがみつけ!」
カンフーは歯を食いしばる。床に叩きつけられたときに出来たものか、右の上腕部の切り傷から血が滴《したた》り落ちている。波を食らうたびに脳みそが転がり落ちるかと思う。正面から突き上げるような、船底から引き込むような、横から逆巻《さかま》くような――同じ種類の衝撃は一度としてなかった。操舵室まで吹き込んでくる飛沫《しぶき》が雨水なのか海水なのかの区別もつかない。またも大波、船が天を目指して浮き上がり、直後に落下、操舵室の窓が一瞬だけ海水に閉ざされ、ガラスをぶち破って飛び込んできたのは人間の太股《ふともも》ほどの流木だ。それでもカンフーは絶望的な操船《そうせん》を続ける。波に打たれるたびに、あるかでぃあ号の船体は今にもばらばらになりそうな軋《きし》みを上げる。
――ここまで来たのに。
あと少しなのに。
そのとき、カンフーは光を見た。
何かの見間違いかと思う。
また見えた。
荒れ狂う波間《なみま》の彼方《かなた》に、狭い範囲に密集して瞬《またた》く光の群れがある。闇《やみ》と波の彼方《かなた》で、あるかでぃあ号をじっと待ち受けている。
守人島《もりとじま》の港の光だ。
その光を三度目にして、カンフーはようやくそれが絶望した心の見せる幻覚ではないと信じることができた。守人島は確かにそこにある。潮流の速度が予想していたよりもずっと早くて、自分の計算以上の速度であるかでぃあ号の船足《ふなあし》を後押ししてくれていたのかもしれない。
――この距離なら、
この距離なら一気に「行ける」かもしれない。
双眼鏡《そうがんきょう》がみつからない。ガラスのなくなった窓から身を乗り出すようにして目を凝《こ》らすが、闇《やみ》の中の光を目測するのは難しい。
不意に、遥《はる》か前方の海面が盛り上がって港の光を隠した。
無数の衝撃《しょうげき》に翻弄《ほんろう》され続けているうちに、カンフーは波のリズムのようなものをある程度予測できるようになっていた。行く手に巨大な力が収束しつつある。膨大《ぼうだい》な量の海水が重力に逆《さか》らってせい上がり、巨大な壁となってあるかでぃあ号の行く手に立ちはだかる。
最初のやつよりも遥かにでかい。
カンフーに選択の余地はなくなった。
船底を這《は》いずり回っているとき、正時《まさとき》はカンフーの叫び声を聞いた。
何を叫んでいるのかはまったく聞き取れなかったし、次の瞬間にはもう何が何だかわからなくなって、気がついたときには操舵《そうだ》室の床《ゆか》に転がって水を吐《は》いていた。
「正時、大丈夫か!? 早く救命|胴衣《どうい》と命綱《いのちづな》を着けろ! 床《ゆか》に座って手すりにしがみつけ!」
その言葉に従ったという記憶はない。天地がひっくり返るような衝撃に弄《もてあそ》ばれ、大量の海水が操舵室になだれ込んでくると冗談《じょうだん》抜きで船の上で溺《おぼ》れそうになる。両手を振り回して手すりを掴《つか》んだとき、自分はいつのまにか救命胴衣と命綱を身につけて操舵室の隅っこに縮こまっていた。衝撃に次ぐ衝撃、波をまたひとつ乗り切って海の底へ滑《すべ》り落ちていくとき、船体が完全に空中に浮き上がっている瞬間がある。喋《しゃべ》ると舌を噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]みそうだったし、立ち上がると頭を打って死にそうだった。
もうだめだ、と正時は思う。
やはり無謀《むぼう》だったのだ。こんな台風の真《ま》っ只中《ただなか》を、こんな小さな漁船で守人島《もりとじま》までたどり着けるはずはなかったのだ。これほどの揺れの中でも舵輪《だりん》を操っているカンフーが信じられない。ガラスの砕《くだ》けた窓から身を乗り出して闇に目を凝《こ》らしている。唐突《とうとつ》に船体が大きく左に傾《かし》ぎ、必死で手すりにすがりつくと、操舵室の横から上体を突き出すような格好になった。
空に大穴が開いていた。
雨脚《あまあし》は気まぐれだった。雲の上で誰かが巨大なシャワーを振り回しているかのように、呼吸もできないほどだった豪雨が今は嘘《うそ》のようにぱったりと止《や》んでいる。大変な速さで雲が流れて天に収まりきらないほどの渦《うず》を巻き、核爆弾でも使って開けたような大穴から巨大な月がのぞいていた。
海面を渡る風の音だけが意識に上ってくる。
遮蔽物《しゃへいぶつ》の多い地上とは違う、いつまでも途切れることなく尾を引く高い高い笛《ふえ》のような音。
そこに、誰かの声が混じった。
振り返ってみると、カンフーが舵輪を操りながら何事かをつぶやいている。
「――カンフー?」
気味が悪かった。カンフーはまるで誰かと話しでもしているようにぶつぶつとつぶやき続けている。波や風の音が邪魔《じゃま》で集中できないのか、最初は微《かす》かなつぶやきでしかなかった声は次第に大きさを増して、ついには目の前の誰かと言い争っているかのような大声になった。
「――ラジオ屋はどこいったラジオ屋は! いいからさっさとしろ、海保の巡視艇《じゅんしてい》が今どこにいるかわかるか!? ――ちがうってば、そうじゃない! 守人《もりと》の湾内に逃げ込んでいるやつがいるかって聞いてんだよ! ――割り込んでくんな! うるせえ、こっちはジジイどもの許可なんぞ求めちゃいねえよ!」
一瞬、カンフーの頭のねじが恐怖で焼き切れてしまったのかと思った。
「――ねえカンフー、誰と喋《しゃべ》ってんの?」
カンフーは答えない。安っぽいキーホルダーのついた鍵をポケットから取り出して、船のエンジンキーの隣にある鍵穴に突っ込んでスイッチをONする。カンフーは自分の家のトイレのドアにも「トイレ」と札を貼《は》りたいタイプなのか、操舵《そうだ》室の天井に切り取られているパネルには「開放厳禁」と書いたシールが張られている。ところが取っ手を引いても開かず、拳《こぶし》で何度か殴《なぐ》りつけると蝶番《ちょうつがい》ごとパネルが外れて、中からぶらりと垂《た》れ下がってきたのはどこかのバスから失敬してきたと思しきつり革《かわ》だった。ベルトの部分にどこかの泌尿《ひにょう》器科の広告がついている。
カンフーは、右手でつり革を握り締めた。
「正時《まさとき》、命綱《いのちづな》はちゃんと着けてるか」
「――なにそのつり革、ねえ、さっき誰と喋ってたんだよ」
「しっかり手すりにしがみついていろ、あの波を踏み台にするぞ」
踏み台?
問い返す暇《ひま》はなかった。あるかでぃあ号は行く手に立ちふさがる水の壁に向かって全速力で突撃する。舳先《へさき》がゆっくりと持ち上がり、操舵室が天を仰《あお》ぎ見るように背後へと傾いていく。絶対に無理だと正時は思った。こんな大きな波を乗り越えられるわけがない。今度こそ木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にされる。凄《すさ》まじい水の唸《うな》りに身も心も押し潰《つぶ》されて自分の悲鳴すら聞こえない。あるかでぃあ号はほとんど垂直に近い角度で波を駆《か》け上っていく。
間に合わない。
乗り切るよりも先に波頭《なみがしら》が崩《くず》れる。船体を弾《はじ》き飛ばすような衝撃《しょうげき》が襲い、カンフーは力の限りつり革を引く。その瞬間、正時は、つり革を引いたカンフーの腕に、虎《とら》の文様《もんよう》が黒々と浮き上がっているのを確かに見た。船体後部のカバーが小さな爆音と共に弾け飛び、月光の元に晒《さら》された小型エンジンが高速で回転させ始めたのは、小型のドラム缶《かん》ほどもある巨大な回転様だった。
カンフーの絶叫。
「あるかでぃあ号、離水《りすい》っ!!」
あるかでぃあ号は、怒涛《どとう》を蹴《け》って垂直に宙を舞った。
偶然のいたずらが旗竿《はたざお》を揺らし、留《と》め金が外れてまっ逆《さか》さまに海へと落ちていく。殴《なぐ》りつけるような風がひと息に広げて見せたのは、旭日《あさひ》に鯛《たい》、宝船に「祝大漁」の三文字、天まで駆《か》け上がる勢いだった舳先《へさき》は次第に角度を落として、あるかでぃあ号は髑髏《どくろ》の旗印代わりの大漁旗を雄々しくはためかせ、天にかかる巨大な月をゆっくりと横切っていく。
ようやく正時《まさとき》が目を開いたとき、あるかでぃあ号は水平に近い角度で飛行を続けていた。
眼下に逆巻《さかま》く海、巨大な月の光、長く尾を引く笛のような風の唸《うな》り。
――飛んでいる。
呆然《ぼうぜん》と周囲を見回していた正時は、あるかでぃあ号のアンテナやマストの先端部分に出現した青白い発光体を目にして息を呑《の》む。
「コロナ放電だよ。昔の船乗りが『セントエルモの火』って呼んでたやつだ」
カンフーは正時をちらりと見て、
「ちゃんと座っとけよ、湾の手前で力尽きて落っこちるかもしれんからな。落ちた先の波の状態だってわからんし、うまく着水できるかどうかは博打《ばくち》だぞ」
そんな言葉も、果たして正時の耳に届いたかどうか。
操舵《そうだ》室の後方のハッチがぱかんと開いて、周五郎《しゅうごろう》の白髪《しらが》と姉子《あねこ》の顔がのぞいた。姉子はぼんやりと周囲を見回して、細く深いため息を吐《つ》いて巨大な月を見上げる。
正時の口から、やっと、
「――飛んでる」
カンフーが振り返り、何かを言おうとして口を開きかけ、しかし結局は何も言わずに再び窓の外へと視線を戻した。真正面から吹き込んでくる風に目を細める。大漁旗はまっすぐにはためき、回転様は雨水を跳《は》ね飛ばしながら高速で回り続ける。
あるかでぃあ号は、港の光を目指してゆっくりと高度を下げていく。
雨脚《あまあし》はずいぶん弱まってきたが、開け放たれたままの急患《きゅうかん》用の入り口からはびたびたと滴《したた》り落ちる雨音が聞こえている。
廊下は薄暗い。三十分ほど前に停電があって、自家発電に切り替わっていますからご心配なく、と看護婦が説明に来たが、廊下の照明は非常口の表示灯を残してすべて消えたままだ。待合室の自販機は死に絶え、給水機のペダルを踏んでも水は出ない。壁を背に座り込んでいる正時《まさとき》から見て右手奥、ナースステーションがある一角から仄《ほの》かな明かりが漏《も》れていて、向かいの壁に背中を預けてうつむくカンフーの顔を死人のように見せている。
「ひどい顔してるよ」
カンフーは顔を上げ、何か言おうとして口を開きかけ、しかし結局は何も言わずに再びうつむいた。右腕の切り傷には包帯が分厚く巻かれている。
正時は腕時計を見る。
午後十一時三十八分。
正時もカンフーも患者《かんじゃ》用のガウンを着ている。おじいが手術室に運ばれたのは一時間ほど前のことで、そのときの二人は海から這《は》い上がってきたばかりのように全身ずぶ濡《ぬ》れで、正時などは平衡《へいこう》感覚が完全にバカになっていてまっすぐ歩けない状態だった。着替えのガウンを持ってきてくれた看護婦は職員用のシャワー室を使っていいとも言ってくれたが、それは二人とも断った。正時はシャワーなど浴びたらそのままぶっ倒れて眠《ねむ》ってしまうかもしれないと思ったし、今の気力に少しでも穴が開くようなことはしたくなかったのだ。たぶん、カンフーも同じ気持ちだったのだろう。
「――左吏部《さりべ》さんのお連れの方、」
医者がドアから顔をのぞかせた。
二人は弾《はじ》かれたように顔を上げ、白衣《はくい》に掴《つか》みかからんばかりの勢いで医者に駆《か》け寄った。
医者は、問いかけの言葉がもつれて口もきけない二人を順に見つめて、
「まったくタフなおじいちゃんだ。ただし、これからは禁煙してもらいますけどね」
正時は思わずその場にへたり込みそうになった。カンフーは天井を見上げて大きなため息を吐《つ》く。
「しばらく入院してもらうことになりますが、手続きは向こうの――あ、ひょっとしてオンラインも止まっちゃてるのか。どうしようかな」
カンフーは医者の肩越しにドアの奥をのぞき込んで、
「――あの、先生、姉子《あねこ》は? 一緒に来た、うちの島の女医なんですが」
「まだおじいちゃんに付き添ってますよ。でもあの人すごいですね、ずいぶん若いみたいですけど、血管外科が専門なんですか? 主治医《しゅじい》だって言い張ってオペ室までついてきちゃって、うちの部長たじたじになってましたもん」
自らも相当に若い医者は、そう言っておかしそうに肩を震わせた。薄暗い廊下で見る医者の笑顔は、正時《まさとき》の目には不思議なくらい頼もしく映った。医者はカンフーを待合室の奥にある受付へと案内しようとして、ふと足を止め、
「――あの、つかぬことを伺いますけど、本当に岬島《みさきじま》からいらしたんですか?」
カンフーは曖昧《あいまい》に肩をすくめる。
「おじいちゃんを連れて? この台風の中を?」
「宇宙の海はオレの海ですから」
医者は返答に窮して「はああ、なるほど」と口の中でつぶやき、カンフーを連れて受付の奥へと姿を消した。正時は再び壁を背に座り込む。患者《かんじゃ》用のガウンは布地がひどく薄っぺらで、こうして座っていると股間《こかん》のあたりがすーすーして落ち着かない。自分の服は今ごろ、停電で止まってしまった乾燥機のドラムの中で生乾きのまま放置されているのだろう。看護婦さんはポケットから財布《さいふ》を出してくれただろうか。
ほどなくして戻ってきたカンフーが、正時の向かいの壁に背中を預けた。
正時は何から切り出せばいいのかわからなかったし、カンフーは正時の言葉をじっと待ち受けていた。
やがて正時が、ぽつりと、
「島のみんなに連絡しなきゃ」
「もう知らせた」
正時はゆっくりと顔を上げてカンフーを見つめる。その視線をゆっくりと右に転じる。病院の正面入り口のすぐ外に常夜灯《じょうやとう》が煌々《こうこう》と点《と》っており、待合室に置かれた緑色の公衆電話のシルエットを浮かび上がらせている――電話は使えるときに点灯しているはずの赤いランプは、今も消えたままだ。
正時はもう一度カンフーを見つめ、カンフーはその視線を受けて、
「ナースステーションの電話を借りたんだよ。でなきゃ怪《あや》しまれるからな。岬島から病人かついで来た奴《やつ》が、助かったと聞いて島に電話の一本も入れようとしなかったら変だろう」
カンフーはそう言って正時から視線を逸《そ》らす。正時もうつむいて、目の前の床《ゆか》に黒々とこびりついているガムの滓《かす》を見つめる。一体誰がこんなところでガムを吐《は》き捨てるのだろう。
「――ぼくが何を聞きたいか、わかってるよね」
「ああ」
海から吹き寄せてきた突風が病院じゅうの窓を揺らした。しかしそれも一瞬のことで、真夜中の病院は再び静寂に閉ざされる。
「正時《まさとき》」
「なに」
「お稲荷《いなり》さんが見えてる」
正時はうつむいたまま、もぞもぞとガウンのすそを伸ばして両|膝《ひざ》を合わせた。しばらく沈黙が続いて、再びカンフーが、
「正時、」
「なに」
「おれたちは、友達だよな」
意表を突かれた。カンフーは真剣な表情で正時を見つめている。
「――うん」
カンフーの緊張が手に触れるように感じ取れる。正時は呼吸を止めて続く言葉を待つ。
「おれたちは、宇宙人だ」
友達の次は宇宙人ときた。何の手がかりもない絶壁のような話だった。正時は呆《ほう》けたような顔をして、行く手を阻《はば》まれた思考はあらぬ方向へと転がって、
「――宇宙船地球号?」
「ばか。そんな話じゃない」
ナースステーションにも今は人の気配はない。先ほどの突風に煽《あお》られた急患《きゅうかん》入り口のドアが微かに揺れ動いており、薄暗い廊下にはびたびたと滴《したた》り落ちる雨音だけが響いている。
正時は壁を背に座り込んで、なす術《すべ》のなくカンフーを見上げている。
カンフーは向かいの壁に背中を預け、正時をじっと見下ろしている。
「俺たちはエイリアンなんだ。六百年前に地球に不時着して、それ以来ずっとあの島で漂流《ひょうりゅう》生活を送りながら助けがくるのを待ってるんだ。岬島《みさきじま》の住人はみんな、そのエイリアンの末裔《まつえい》なんだよ」
〔二巻に続く〕
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あとがき
秋山《あきやま》です。最近パソゲーのDOOM3にハマっております。実は私、ああいう視点がぐりぐり動くタイプのFPSをやるとすぐに3D酔《よ》いして気持ち悪くなっちゃう性質なので、ちょっとプレイしては休み、またちょっとプレイしては休みを繰り返しています。ホントにひどいときは冗談《じょうだん》抜きで顔が真っ青になったりして。いつぞやのあとがきでも親知らずを抜いた話やぎっくり腰をやった話を書きましたが、こういう「乗り物酔い」的なものも、現代医学はまだ解決できないものなんでしょうか。
そうそう、あとがきと言えば。
ご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、私はイリア四巻のあとがきで「次は犬がいっぱい出てくる話か便所の話のどっちか」という予告(というほどのもんでもないのですが)をしておりました。
そのときは本当にそのつもりだったんです。ところが予定はあくまで予定にすぎないのでありまして、その後すぐに「殺人|幼稚《ようち》園児の話」というのを思いつきまして、やっぱり次はそれでいこう、と思った矢先に今度は「ウソ中国が舞台の青春剣劇ラブストーリー」なんかを思いついてもー次はこれしかない、と思っていたそんなある日のこと。編集さんの峯《みね》さんが驚天動地《きょうてんどうち》の電話をかけてきまして、
「イリヤがアニメになります」
と。
もうね、狂喜乱舞《きょうきらんぶ》ですよ。
コンビニに煙草《たばこ》を買いに行くときにもスキップですよ。
んで、アニメ化というのはもちろん大チャンスでありますから、どうせなら次のタマもイリアっぽい話にしてアニメのタイミングにぶつけましょう、みたいな話になってきて、喜び勇《いさ》んでネタを詰めなおす私。だったのですが、頭を切り替えるのが結構大変で、思っていた以上に時間がかかってしまいました。でもまあ原稿もどうにか上がったし結果オーライ。
そんなわけで、今回のお話にも白衣《はくい》の女医さんが登場してその机の引出しにはピストルが入っているのであります。や、でもね、皆さんも一度確かめてみるのがよろしい。ホントに入っているからピストル。女医さんの机の引出しには。いやマジでマジで。
今回もまたすんげーところで引いているので、次の巻はできるだけ早めにお届けしたいなあと思っております。
次はDOOM3みたいな大アクション。殺《や》らなきゃ殺られるのです。
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◎秋山瑞人著作リスト
「E.G.コンバット」(電撃文庫)
「E.G.コンバット 2nd」(同)
「E.G.コンバット 3rd」(同)
「鉄(くろがね)コミュニケイション@ ハルカとイーヴァ」(同)
「鉄(くろがね)コミュニケイションA チェイスゲーム」(同)
「猫の地球儀 焔の章」(同)
「猫の地球儀 その2 繭の章」(同)
「イリヤの空、UFOの夏 その1」(同)
「イリヤの空、UFOの夏 その2」(同)
「イリヤの空、UFOの夏 その3」(同)
「イリヤの空、UFOの夏 その4」(同)
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本書に対するご意見、ご感想をお寄せください。
あて先
〒101−8305 東京都千代田区神田駿河台1−8 東京YMCA会館
メディアワークス電撃文庫編集部
「秋山瑞人先生」係
「駒都えーじ先生」係
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電撃文庫
ミナミノミナミノ 秋山《あきやま》瑞人《みずひと》
発行    2005年1月25日 初版発行
発行者   佐藤辰男
発行所   株式会社メディアワークス
〒一〇一−八三〇五 東京都千代田区神田駿河台一−八
東京YMCA会館
電話〇三−五二八一−五二〇七(編集)
発売元   株式会社角川書店
〒一〇二−八一七七 東京都千代田区富士見二−十三−三
電話〇三−三二三八−八六〇五(営業)
装丁者   荻窪裕司(META+MANIERA)
印刷・製本 あかつきBP株式会社
乱丁・落丁はお取り替えいたします。
定価はカバーに表示してあります。
〔R〕本書の全部または一部を無断で複写(コピー)することは、著作権法上での例外を除き、禁じられています。
本書からの複写を希望される場合は、日本複写権センター(рO3−3401−2382)にご連絡ください。
(c) 2005 MIZUHITO AKIYAMA
Printed in japan
ISBN4-8402-2914-7 C0193
Ver.2.00
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電撃文庫創刊に際して
文庫は、我が国にとどまらず、世界の書籍の流れのなかで “小さな巨人 ”としての地位を築いてきた。古今東西の名著を、廉価で手に入れやすい形で提供してきたからこそ、人は文庫を自分の師として、また青春の思い出として、語りついてきたのである。
その源を、文化的にはドイツのレクラム文庫に求めるにせよ、規模の上でイギリスのペンギンブックスに求めるにせよ、いま文庫は知識人の層の多様化に従って、ますますその意義を大きくしていると言ってよい。
文庫出版の意味するものは、激動の現代のみならず将来にわたって、大きくなることはあっても、小さくなることはないだろう。
「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠を越える新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読者人に与えるかもしれない。
しかし、 < Changing Time, Changing Publishing > 時代は変わって,出版も変わる。時を重ねるなかで,精神の糧として,心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。
1993年6月10日
角川歴彦