『イリヤの空、UFOの夏』プロローグ グラウンド・ゼロ
秋山瑞人
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まだ対校されていないので、誤植があるかもしれません。
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学校へ行くのがいや。だったら、学校なんか行かなければいい。
でもプールで泳ぎたい。だったら、こっそり忍び込んで泳げばいい。
八月三十一日の午後六時三十七分。ブルズアイ[#bull’s-eye: the centre of a target]方位040、距離20|NM《ノーチカマイル》の地点でイリヤは緊急事態の発生を告げた。――機体後方で爆音、両エンジンの|燃料流量《フュールフロー》が異常増加、火災警告、オーバーヒート警告、FLCSにエラー発生、姿勢制御用の|油圧《ハイドロ》の三系統がフェイル。オートバイロットを|切断《ディスエンゲージ》、スティックを一杯に引いても水平飛行を維持できない。現在|空力飛行《FBA》中。
何もかもがウソだった。
「あーあー。そりゃあ大変だ」
イリヤのすぐ背後でエリカがけらけらと笑う。
「どうせならエンジン取れちゃったとか翼が折れちゃったとか言えばいいのに。ジェイミーやエンリコだったらともかくさ、あんたが言うと信じるよきっと」
またバカなこと言ってる、とイリヤは思う。直後に|園原《そのはら》基地の発令所から入電――ミッションを|中止《アボート》して即座に|帰還《RTB》しろ。不可《アネイブル》、とイリヤは答える。旋回できない、振動がひどい、スティックの入力と無関係に進路が右方向に|逸《そ》れていく、重力飛行《FBG》の許可を求む。
――重力飛行は許可できない。エアブレーキ[#air brake]を|手動《マニュアル》で非対称に操作して進路を変えられるか?
やってみる。
――了解。現在、美影《みかげ》と|市原《いちはら》の全滑走路が使用可能、緊急車両が展開中。進路《ヘディング》050を可能な限り維持しろ。
了解。
イリヤはゆっくりと速度を絞って機体を緩やかな降下機動に入れた。RWRによれば、マンタは現在も三箇所のレーダーサイトに監視されている。急降下してそれらのレーダーから逃げ切るまでは、回復不可能な非常事態を演じ続けなくてはならない。背面に近くなるまで左ロールをかけて、自分の言ったトラブルが本当に起きていたらかくあろうという姿勢に機体をもっていく。不気味な方向からのGにエリカがはしゃいだ声を上げた。放り投げられた石のように高度が落ちていく。
イリヤの光学視界いっぱいに、夕暮れの空が広がった。
巨大な乱雲が散りばめられた、赤くて青くて白くて黒い夏の空。
音もなく高度が落ちていく。
今は演技だけれど、自分がいつか撃墜されて死ぬときにもきっとこんなふうに落ちていくのだろう。
そして、同じ死ぬのであればこんな空がいいと思う。
今日みたいな、夏の夕暮れの空がいい。
「ねえ、やっぱりプールはやめにしてさ、」
エリカが言う、
「このまま本当に死んじゃうってのはどう?」
それもいいかもしれない、とイリヤは思う。
「――でも、死ぬとどうなるの?」
「決まってるじゃない。天国に行くのよ」
「天国ってどこ?遠いの?」
「近い近い。すぐそこ。ブルズアイ方位270距離40NM高度30。TACANチャンネルは110.55」
そんなに近いのか――とイリヤは思った。重力飛行すればあっと言う間だ。
何を|躊躇《ためら》うのかが自分でも不思議だった。
「――やっぱり、プールで泳いでからにする」
「なあんだ、つまんないの」
そう言うエリカの声にも若干の笑みが混じっていた。
「だったらそろそろ頭を起こさなきゃ。それとGPS座標の確認。第一候補の地点までもうすぐだよ」
機首を起こす。強烈なG、主翼にすさまじい|水蒸気《ヴェイパー》が絡みつく。突然の|急降下《ダイブ》と|反応消失《レーダーアウト》に慌てた発令所が何やら叫んでいたが、イリヤはもう答えない。本当はエラーなどひとつも吐いていないFLCSが、このままだと現在ロードされているフライトプランから外れると文句を言ってくる。
いいのこれで、とイリヤは実際に口に出してつぶやく。
自分は今、誰の指図も受けずに空を飛んでいるのだ。
そもそもプールに忍び込むことを提案したのもエリカなら、この脱走計画を立案したのもエリカだった。遡《さかのぼ》ること一時間ほど前、イリヤは自室でエリカと額を突き合わせてああでもないこうでもないと相談をしていた。
どうやって警備を出し抜くか。
どうやって基地を抜け出すか。
しかし、これというアイデアはついに何ひとつ思い浮かばなかった。エリカが提案してくるのは「武器と車を奪ってゲートを強行突破して追いかけてくる奴は皆殺し」といった突拍子もないものばかりである。ネバダにいた頃は基地を抜け出したことも何度かあったが、過去に使った手が再び通用するとは思えなかったし、あの頃と今とでは基地内の状況も周辺部の状況もまったく違う。そして――
なによりも、あの頃のイリヤには仲間がいたのだ。
たったひとりで基地から抜け出すなんて、絶対に無理だ。
一時でも夢を見てしまうと、それが覆ったときの落胆も|生半《なまなか》なものではなかった。
「誰か適当な奴に色掛けで頼み込むってのはどうかな?よその基地に運ばれる死体袋の中に隠れるってのは?」
エリカは実現性ゼロのプランを延々と提案し続けている。どちらかと言えば物静かで落ち着いた性格だったエリカは、死んだのを境に超人的なお喋りになった。下品な冗談や乱暴なセリフも平気で口にするようになったし、ある種のパターンにハマると何時間もぶっ通しで喋り続けたりする。こうなると会話も成立しなくなってしまう。しばらく放っておくしかないと思って、ベッドの上で丸くなって毛布から腕だけ出して手探りで受話器を取り上げると、顔も思い浮かばぬ発令所のオペレーターが、新しく実装したセンサーシステムのデータを取るので今すぐ飛ぶ準備をしろと言う。
こんな時、イリヤはまず最初に諦める。
命令の内容にかかわらず「了解」と答え、余計な質問はしない。
例えば、ここで「なぜ事前に予告もなくテストフライトなどするのか」と受話器に問いかけたところでまともな答えは返ってこない。第四エプロン付近の山中に陣取っていたアホ中学生約二名がようやく帰り支度を始めたことも、そのおかげで|榎本《えのもと》がでっち上げていた機密保持警戒態勢の幾つかが根拠を失って解除されたことも、そのおかげで|性懲《しょうこ》りもなく続いていたスカンクからの矢の催促がついに政治力学的なダム決壊を引き起こしたことも、そのおかげでひと夏かけて溜まりに溜まっていたイリヤの宿題のほとんど全部に対して一斉にグリーンライトが出たことも、イリヤ自身に知らされることは永久にない。
ともかくイリヤは諦め、「了解」と答え、余計な質問をしなかった。
いつものことだった。
慣れ切っていた。
毛布から腕だけだして受話器を戻した瞬間、
「それよ」
イリヤが思わず毛布から顔をのぞかせたのは、「どれ?」と聞き返すためではなかった。お喋りモードに陥ったエリカがまともな状態に戻るのは大変に珍しいことなのだ。
「絶好のチャンスよ。渡りに船じゃない」
「――どういうこと?」
エリカは不敵な笑みを浮かべる。
「上がっちゃえばこっちのもんだってこと。空はあたしたちの世界でしょ?」
この脱走計画における一番の問題点は、園原基地の発令所が常時100チャンネル以上の回線を使ってブラックマンタの状況をモニターしていることだった。
つまり、口頭で異常事態の発生を告げてヨタって飛んでみせたところで、実際にはそれがイリヤの操作した通りの機動にすぎないことがすぐにバレてしまう。そっちにはどんなふうに見えていようが操縦できないものはできないんだと言い張る手もなくはないが、発令所には外部コマンドでマンタのオートパイロットを強制的に|起動《エンゲージ》するという|荒業《あらわざ》が残されているから、最終的にはやっぱり基地に連れ戻されてしまうことに変わりはない。
しかし逆に言えば、外部コマンドを含めたすべての信号をカットして、発令所のモニターにダミーの情報を流し込むことさえできればイリヤのウソはバレない。外部からオートパイロットをいじくられて基地に連れ戻されてしまうこともない。そのためのウイルスをエリカはそれこそあっと言う間に書いてくれた。エリカはさらに、正規の応答信号に固有の暗号数列の代わりに「先生お腹いたい」という|文字列《アスキー》を付け加えて送信するようプログラムを変更することも忘れなかった。
――やめようよそんなの、ぜったいバレちゃうよ、
――だーいじょうぶだってバレっこないって、
ウイルスが演出する非常事態は極めて複雑かつ深刻なものである。が、その内容をすべて把握しておいて口頭で繰り返す必要もない。パイロットが報告する状況と発令所がモニターしている状況は多少食い違っているくらいの方が逆にリアルだとエリカは言うのだ。ともかく、発令所を完全に|騙《だま》し切ることができればこの計画の半分は成功する。そこから先はスピード勝負。急降下《ダイブ》でレーダーを振り切って、人目につかないように山間部を超低空で消音飛行して、予《あらかじ》め目星をつけておいた候補地点のどれかに到達したら、度胸一発、
――やっぱりやめる、また今度にする。
――今度っていつよ?プールで泳ぎたいんじゃなかったの?
泳ぎたかった。
運もイリヤの味方をした。タオルや着替えを詰め込んだバッグをコクピットに持ち込んだときにも誰にも何も言われなかった。顔に出ていたはずの不安と緊張をいつもの無表情と区別するのは誰にとっても不可能なことだったし、システム起動と同時に感染させたウイルスはプリフライトチェックでも発見されなかった。イリヤがフライトスーツの下にまだ名札のついていないスクール水着を着ていることは神様とエリカしか知らない。
「第一候補地点まで直線等速であと三分」
MFDに表示されているGPS情報をエリカが読み上げる。イリヤは光学視界に全神経を集中して地面を|這《は》い回るような低空飛行を続ける。眼下の光景は平べったい山と耕作地の連続で、農道を行く車の車種が無倍率でもはっきりと判別できる。延々と繰り返される高度警告の合成音声はまるで喋る目覚まし時計のようだった。エンジンを消音駆動させ続けているために失速寸前まで速度が落ちていたが、ここまで高度が低いと速度感も半端なものではない。まるで巡航ミサイルにでもなった気分だ。
「もうすぐ見えるはず」
見えた。
二本の用水路にV字型に挟まれた広大な牧草地。
光学画像と地形情報を照合し、さらにGPS座標を重ねる。
間違いない。第一候補地点だ。
「最後に確認するよ。まず、ウイルスはそのまま残していくこと。77のカットもオートパイロットの起動もウイルスがやってくれるから。マンタが発令所の信号に誘導されてる間はずっとダミー情報を流し続けて、着陸して対気速度が50ノット以下になったらフライトレーダーの|記録《ログ》を根こそぎ削除して自己消滅する仕組み」
うん、とイリヤはつぶやく。
「つまり、マンタが無人で飛んでることは最後までバレないから、その間あんたは追っ手を気にせずに動き回れるわけ。マンタが園原基地に着陸して、コクピットの中が空っぽになってることがバレた時点ではじめてあんたの脱走は発覚する。そこから先はあんたのがんばり次第」
うん、とイリヤはつぶやく。
「それとね、もう少し上昇して高度をとった方がいいと思うよ。対気速度は250ノットくらいがベストかな。顎《あご》を引いて背筋を伸ばして頭をしっかり固定して」
三度目の返事はできなかった。口の中がからからに渇いている。ヘルメットの中に反響する自分の呼吸音が微かに震えている。
エリカはそんなイリヤの不安を笑い飛ばすように、
「なーんて、そのくらいのことは言われなくてもわかってるか。ほら、結局はあたしも|脱出《ベイルアウト》なんて未経験だったしさ。でもまあいいじゃん失敗しても。天国の座標はさっき言った通りだから。んじゃあたし先に帰ってるね」
イリヤは声にならない声を上げた。エリカはイリヤが知らない所には行けない。最初からエリカはここで帰る|手筈《てはず》になっていたし、イリヤもそのことは承知した以上でこの脱走計画に乗ったはずである。しかし、いざその場になってみると、ひとりぼっちで取り残されるのはやっぱり我慢できないくらいに恐ろしい。
エリカはイリヤを見つめて、少しだけ寂しそうに笑った。
「――しょうがないよ。あたしの世界は空だけだからね」
そして、エリカの気配がコクピットから消えた。
ひとりぼっちになった。
あと一瞬でも躊躇っていたら、二度と勇気を奮い起こせなくなる。
消音駆動を解除、アフターバーナー点火。燃料をがぶ飲みしたエンジンが巨大な推力を発生させ、マンタはロケットのように急上昇していく。顎を引く、頭を固定して背筋を伸ばす、射出時の衝撃は20Gだったか、それとも30Gか、大丈夫、無事に候補地点に着地できるだろうか、ぜったいに大丈夫、風に流されたらどうしよう、顎を引く、頭を固定する、背筋を伸ばす、ぜったいにぜったいに大丈夫、手探りする、黄色と黒のレバー、両足の間にあるレバー、顎を引く、頭を固定する、背筋を、250ノット、ぜったいにぜったいにぜったいに、レバーを、力いっぱい、
引いた瞬間に意識が途切れた。
射出座席による脱出というのは、一般に考えられているほど安全なものではない。
園原基地の統計によれば、作戦中に行われた脱出において、生きて地上にたどり着いた例が全体の約70パーセント。そのうち、再びパイロットとして復帰できる者は50パーセントを下回る。
ブラックマンタの脱出システムは共和国系の技術をベースとして、ありとあらゆるコストを度外視して開発された極めて先進的なものである。しかし、その先進的なシステムをもってしても、高速で飛行する機体から生身の人間を放り出してパラシュートで生還させるのが至難の業であることに変わりはない。
レバーが引かれた瞬間にブラックマンタ三号機はコクピットシートを射出、イリヤは夏の空に28Gで放り出された。
イリヤの射出直後にエリカのウイルスがオートパイロットを起動、マンタは右にブレイクして射出されたシートを万が一にも巻き込まぬよう距離を取った。さらに旋回しつつ上昇、発令所からの指示信号に従って園原基地への帰途につく。
これがもし高々度での脱出であったなら、イリヤは球状のコクピット内殻ごと射出されていたはずである。この内殻は低温や酸欠や急減圧といった過酷な環境からパイロットを守る役目を果たす。バリュートを展開して速度を制御しつつ落下していき、やがて低高度脱出用のシークエンスに制御が引き渡される。
しかし、イリヤの場合は最初から低高度での脱出だった。
衝撃で失神したイリヤを乗せたまま、コクピットシートは空気抵抗で減速するためにしばらく自由飛行を続けた。
三号機のシートはイリヤの体型に合わせて設計されている。高度が低すぎること以外は|概《おおむ》ね理想条件に近い脱出だったし、すべてが設計通りに運べばシートは比較的安定して飛行するはずだったが、現実はそう甘くはなかった。シートは縦方向に激しく回転しながら、緑の大地に吸い込まれるように落下していく。
この時点で、シートに搭載されているプロセッサーが自分の仕事を始めた。イリヤに非常用の酸素を供給、ハーネスの状態を確認、高度と速度の計測。まずはシートの回転を抑制しなくてはならない。プロセッサーは|誘導傘《ドローグ》を放出するタイミングを狙ってマイクロセカンド単位の秒読みを開始する。3、2、1、マーク。
失敗した。
回転を抑制するより先に、誘導傘がシートに巻き込まれて絡みつきそうになった。即座にケーブルを切り離す。予備はあと二本。3、2、1、マーク。
今度はうまくいった。
シートの回転が止まった。誘導傘の空気抵抗で落下速度がさらに低下、落下軌道もほぼ垂直になる。非常用酸素の消費量に若干の変化が生じた。シートの回転を止めたときの衝撃で失神していたイリヤが目を覚ましたのだ。プロセッサーは最後の秒読みを開始する。誘導傘を切断、メインパラシュートの放出、全コードにかかる力を個別に計画して|傘開《さんかい》状況を監視――許容範囲内。
マーク。
全ハーネスのロックが解除された。
シートが完全に切り離される。
そして、イリヤは空の只中にあった。
意識が次第にはっきりしてくる。自転車で坂を駆け下っている程度の風切音が聞こえる。HMDのバイザーを押し上げて両目を大気にさらすと、夕暮れの日の光が頭の底まで染み込んでくる。巨大な雲の連なりに柔らかく反射する日の光に透けて、パラシュートはまるで放射状の骨格を持った巨大なクラゲのように見えた。
八月三十一日の空。
巨大な乱雲が散りばめられた、赤くて青くて白くて黒い夏の空。
心を呑まれそうな空だった。
――やった。
生まれて初めての脱出を生き延びた。
イリヤは高度計の数値を確認する。候補地点の牧草地からだいぶ西にズレてしまったが、どうにかなると思う。最も危険な山場はすでに乗り切ったのだ。パラシュート降下だけなら訓練で何度もやったことがある。眼下に視線をさ迷わせ、着地に適した平地を探し求める。
イリヤが、夏の空から下界へと降りていく。
後の調査によれば、イリヤが脱出した地点はブルズアイ方位115の距離33NMの高度3――敷島《しきしま》町|大川《おおかわ》地区の上空3000フィート付近と推定されている。コクピットシートの残骸も付近の山林にて回収されているが、メインパラシュートとそれに付随する装備の大部分については最後まで発見されずじまいだった。どこかの物好きが持ち去ったのかもしれないし、不法投棄されたゴミとして誰かが処分してしまったのかもしれない。
甲野光弘《こうのみつひろ》は大川近辺では知らぬのないカミナリ親父であり、糖尿病の悪化を理由に鉄道会社の次長職を引退して現在は農業を営む五十二歳である。八月三十一日の午後七時ごろ、作業を終えて車で帰宅する途中だった甲野は、キャベツ畑の真っ只中を斜めに横断して歩いている少女の姿を目撃した。年の頃は十三か十四、髪が長く、無地のTシャツに細いパンツという服装で、園原基地の兵隊が持つような大きなバッグを手に下げていたらしい。不審に思った甲野は車を止め、窓から身を乗り出して「畑に入るな」と大声で注意したところ、少女は大慌てで逃げていったという。
渡辺誠《わたなべまこと》は大川街道沿いにあるスーパーマーケット「マッハいちのせ」の店長であり、空手の通信講座で初段の腕を持つ三十三歳である。午後七時十分ごろ、トイレに隠れて煙草を吸っていた渡辺は駐輪場の方角から聞こえてくるブザーのような音がイモビライザーの警報音であることに気づいた。110番入電を受けて駆けつけた|警邏《けいら》巡査が調べたところ、犯人はまず駐輪場に停められていた原付スクーターを盗もうとして失敗、警報が鳴り出したことに慌てて、近くにあった自転車に乗って逃走したものらしい。盗まれた自転車は二日後、街道を3キロほど南下したところにあるバスの停留所で発見されている。
吾妻祥子《あづましょうこ》は園原交通バス株式会社の唯一の女性運転手であり、メロンと生ハムの組み合わせが断じて許せない二十七歳である。八月三十一日の夜、吾妻の運転するバスが終点である「園原駅前バスターミナル」に着いたのは定刻どおりの午後七時四十五分。いつもの顔ぶれが次々と降りていき、最後のひとりが大きなバッグを手に下げた見慣れぬ少女だった。中学生くらいで腰まである長い髪、服装についても前述の甲野証言とほぼ一致する――が、吾妻に言わせれば、地味ながらもそれなりのブランドもので、しかし微妙にサイズが大きくて、まるで誰かが用意した服を何も考えずに着ているかのような印象を受けたという。少女は一万円札の両替を求め、それに応じた吾妻は、少女が手首にリストバンドのようなものを着けているのをはっきりと見ている。
見澤俊次《みさわしゅんじ》は主にドカチン系のバイトを生業とするフリーターであり、男のひとり暮らしに必要なライフラインは「電気水道ガスAV」だと固く信じる二十四歳である。見澤のアパートから最も近いレンタルビデオ屋は川向こうの商業地区にある「メディアドリーム」で、|釜藤大橋《かまふじおおばし》を渡ってすぐ右手にあるパチンコ店の駐車場を横切っていくのが一番近い。新作の女教師物を二本借りての帰宅途中、見澤は当初、自分の10メートルほど前方を自分と同じ方向に歩いている少女のことをまったく気に留めていなかった。ところが、見澤と少女が釜藤大橋の中ほどにさしかかったとき、前方からやってきたミニパトの姿を目にした少女は――見澤の言葉をそのまま引用するならば――「驚いて立ち止まり」、「周囲を見回したが橋の上には隠れる場所もなく」、「車道に背を向けて顔を隠し」、「ミニパトをやり過ごすとすぐにその場から走り去った」という。長い髪と大きなバッグ以外の少女の詳しい特徴を見澤は記憶していない。
米田尚美《よねだなおみ》は盲腸を|患《わずら》って療養休暇中の|女性自衛官《WAC》であり、石川病院の食事中の|不味《まず》さと空腹に耐えかねて夜な夜な|脱柵《だっさく》行為に走る二十二歳である。午後八時ごろ、近くのコンビニエンスストアで買い食いを済ませた米田は、園原中学校の敷地沿いに走る路地を通りかかった際、グランド西側の通用門の前に立ち尽くす正体不明の人影を見ている。人影は恐らく女性で、髪が長くて、敷地と路地を隔てているフェンス越しに園原中学校の木造校舎をじっと見上げていたらしい。路地には街灯もなく、この世ならぬ雰囲気に恐れをなした米田は回れ右して来た道を引き返そうとしたが、そのとき背後からセミの声が聞こえ、驚いた米田が振り返ってみると人影は|忽然《こつぜん》と姿を消していたという。なお、このときの米田は眼鏡をかけておらず、時計の類も身に着けていなかった。だから、人影の詳しい服装についてもバッグの有無についても米田は証言できないし、午後八時という目撃時刻についても、病院に戻ってから見たテレビ番組の内容を根拠とする大雑把な推定でしかない。
浅羽直之《あさばなおゆき》は園原中学校二年四組の出席番号一番であり、八月の三十一日おいてなお宿題に手もつけていない十四歳である。
浅羽は学校未公認の新聞部に所属しており、新聞部の夏のテーマはUFOだった。浅羽は新聞部の部長と共にUFOの基地であると噂される園原基地の裏山にこもり、双眼鏡を|覗《のざ》いたり航空無線に耳を澄ましたりタヌキの|餌付《えづ》けをしたり盛っているアベックの車に爆竹を投げたりすることに中学二年の夏休みを一日残らず費やしてしまった。撤収作業を終えて裏山から引き揚げたのが午後五時ごろ、部長と別れ、ひとり自転車に乗って帰途に着いた浅羽は、目前に立ち塞がる二学期と背後に追いすがってくる宿題から逃避するためのひとつの冒険を思いつく。
夜の学校のプールに忍び込んで泳いでやろう。
それは浅羽にとって、園原基地の裏山に丸ごと呑み込まれて消えた夏休みを取り戻そうとする行為だったのだ。
北側の通用門を乗り越える。部室長屋の裏手を通り抜け、焼却炉の陰に隠れたのが午後八時十四分。闇に沈む木造校舎、いつにも増して騒々しいパトカーのサイレン、夜空に|聳《そび》え立つ仏壇屋の広告塔。プールに併設されている更衣室の入り口に駆け込んで、そこで浅羽は自分は海パンなど持ってきていないことにようやく気づく。
思えば、それが最後のチャンスだったのかもしれない。
ここに至るまでに他の道はいくらでもあったのだ。裏山にこもってUFO探しなど断ってしまえばそれで済んだ。断り切れなかったとしても、宿題をせめて半分でもやっていればその後の展開も違ったものになっていただろう。
海パンなしでプールで泳ぐわけにもいかないと諦めてさえいれば、その瞬間にこの夏の息の根は止まり、浅羽直之はその後も日常の側に踏み止まっていられたはずである。
しかし、浅羽は学校指定の体育の短パンで泳ぐことを決断した。
着替えを済ませ、脱いだものをバッグに蹴り込んで更衣室の闇に足を踏み入れる。シャワーも消毒槽も素通りする。かつてそこでコケて|血塗《ちまみ》れになった知り合いがいて、浅羽はひとり思い出し笑いをする。いい気なものだ――笑っている場合ではないのに。
スイングドアを押し開けて、夜のプールサイドに出た。
命からがらたどり着いた夜のプールは、思っていたよりもずいぶん狭くて、生々しい塩素の匂いがして、夜の星と闇を映し込んで底が知れなかった。
イリヤはなぜか|楕円形《だえん》のプールを想像していたが、いま目前にある黒い水面は非現実的なまでに正確な長方形である。ペンキの|擦《かす》れたメートル表示によれば縦方向に25メートル。横方向は15メートルくらいか。プールサイドのコンクリートがザラついて足の裏が痛い。背後にはずんぐりとした更衣室の建物と、そこに併設される形で二基六系統の給水設備がある。周囲を取り囲んでいる合成|樹脂《じゅし》の壁には、「準備運動はしっかりと」「泳いだ後は目を洗おう」「プールサイドは走らない」と日本語で書かれたパネルが掲げられていた。全体としては、遊び場というよりもある種の訓練施設のような感じだ。
プールサイドに服を脱ぎ散らかして水着姿になった。
髪をまとめ、バッグから水泳帽を取り出してしっかりとかぶる。少し躊躇ってから、リストガードも外して放り投げた。見知らぬ場所に水着一枚で立っていることのあまりの無防備さに背筋が震える。静かに深呼吸、もう一度深呼吸、ゆっくりとプールの縁に歩み寄って、真っ黒な水面を見下ろして、
怖い。
いっぺんに勇気が挫ける。
膝が笑う。立っていられなくなって、傍らの手すりにすがりつく。
間近で見る真っ黒な水面は何やら異次元の産物のようだった。深さも100メートルくらいあるような気がする。無意識に助けを求めて周囲を見回してみるが、暗闇に閉ざされたプールにイリヤはひとりだった。準備運動はしっかりと、泳いだ後は目を洗おう、プールサイドは走らない――だが、具体的な泳ぎ方はどこにも書かれてはいない。
――泳ぎたい。
――泳げるようになりたい。
再び勇気を振り絞る。
目を開ける。満々と満ちた黒い水を覗き込むが、途端に身がすくむ。
基地を抜け出してプールに忍び込めば、後はどうにかなると何の根拠もなく思っていた。
見知らぬ夜のプールが、闇の中の大量の水がこんなにも恐ろしいとは思ってもみなかった。
――せめて、
せめてエリカがいてくれたら、と思う。砂漠育ちのバンディット[#bandit]-1の中で、唯一泳げたのはエリカだ。もしもここに生きていた頃のエリカが一緒にいてくれたら、臆病な自分を励まして泳ぎ方を一から教えてくれたと思う。
しかし、今のエリカは違う。
今のエリカはそもそもこの場所に来ることができないし、もしも今の自分の姿を見たら、指を指して大笑いした挙句にきっとこんなことを言うだろう――
――思い切って飛び込んで死んじゃえば?
「あ――、」
そのとき、イリヤの脳裏をひとつの理解が|掠《かす》めた。
今のエリカは、しばしばイリヤに「死ぬこと」を薦める。
そのエリカが、泳ぎたいのなら夜のプールに忍び込めと自分を|唆《そそのか》した。なぜか。
ジェイミーは砂漠に|墜《お》ちて公園になった。ディーンは最初の「戦死者」だった。それからエンリコが9ミリ弾で自分の頭を吹き飛ばして、最後に残ったエリカは――ずっと一緒にいてくれると約束したはずのエリカは、出撃したまま帰ってこなかった。
なぜか。
ひょっとすると、ディーンにはジェイミーの幽霊が見えていたのかもしれない。
そして、エンリコにはディーンの幽霊が、エリカにはエンリコの幽霊が見えいてたのかもしれない。隔離されていたはずのエンリコがどこから拳銃を手に入れたのかは最後まで謎だったし、エリカの最後の出撃は「未帰還」という形で終わった。
エンリコに拳銃を渡したのはディーンの幽霊だったのではないか。
エリカは、エンリコの幽霊に「天国の座標」を教えられたのではないか。
――だとすれば、
イリヤは改めて、縦25メートル横15メートルの真っ黒な水面を見つめる。
これが、自分の「死」なのだ。
イリヤは納得した。
もう怖くない。今の自分ならきっと泳げるとさえイリヤは思う。想像してみる――夏休み最後の夜、人類最後の砦である|園原基地《エリア・ソノハラ》のほとり。とある|中学校《ジュニア・ハイ》のプールで、バンディット‐1の最後の生き残りが、スクール水着を着て水泳帽をかぶってゆっくりと水中の中へ入っていく。水は温かくも冷たくもない、まるで闇が一滴ずつ結露して数万年がかりで溜まったかのように細やかで、最後の生き残りはゆっくりとゆっくりと泳ぎ続け、プールの真ん中に達した瞬間に呼吸と鼓動が止まる。
ちゃぷん。
水泳帽が黒い水面に沈む。
それでおしまい。
黒服たちがどんなに探しても、亡骸《なきがら》は永久に見つからないのだ。
悪くないとイリヤは思った。エリカに感謝したい気持ちだ。生きることも死ぬこともとっくに諦めていたが、ならばこそ、基地を抜け出してプールに忍び込んで泳ぐくらいはやってもいいと思っていた。死刑囚だって最後に煙草くらいは吸わせてもらえるのだから。
そして、その煙草に毒が仕込んであるなんて、ちょっと気が利いていると思う。
イリヤはプールの縁にしゃがんだまま、手を伸ばして水面に触れてみる。
指先で、水をそっとかき回す――
――ほら、大丈夫。
もう何も怖くない。
もう何の覚悟も要らない。そしてイリヤが立ち上がろうとしたとき、その瞬間は唐突にやって来た。
後ろに誰かいる。
「あの、」
伊里野は、飛び上がって驚いた。
その驚きが何もかもを覆した。
怖い。だから振り返りたくない。だが怖すぎて身体が勝手に背後を振り返ろうとする。振り回された両腕の勢いに負けて上体が背後に泳ぎ、それでもどうにか体重を支えていた左足の|踵《かかと》が滑る。悲鳴を上げることもできない。両足が完全に宙に浮いて、右手がありもしない地面を空しく手探りする。ただの一秒が極小の破片に砕けて時間が果てしもなく間延びする。
そして、背後にいる少年と目が合った。
誰だろう、と一瞬だけ思う。
その瞬間、双方の時計はまだ合っていない。少年はいまだにごく当たり前の時間の流れの中にいて、伊里野の身に起きた事態をうまく認識できていない。口元は声をかけたときの形のまま、右手は中途半端に差し出されたまま、しかし視線だけが伊里野を追いかけている。果てしもなく間延びした時間の中で、伊里野の左手がゆっくりと少年の方に差し出されていく。
助けてほしい、と伊里野は思った。
今の今まで死を覚悟していたくせに。
識別信号《IFFコマンド》に応答しないオブジェクトはすべて敵だと教えられていたのに。
だが、とても間に合いそうにない。少年の時計はまだ伊里野のそれに追いついていない。あと数瞬で伊里野のお尻が水面に落ちる。鏡のような平面が掻き乱され、夏の夜に派手な飛沫が上がって、冷たい水の中に身体が沈んでいくだろう。
それなのに、少年はいまだに、何だか間抜けな感じの表情を浮かべて伊里野を見つめているばかりだ。
おわり