イリヤの空、UFOの夏 その4
秋山瑞人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)伊里野《いりや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)通学|鞄《かばん》
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(例)[#改ページ]
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夏休みふたたび・前編
[#改ページ]
伊里野《いりや》が、声を上げて笑った。
ほんの一瞬《いっしゅん》のことだったが、浅羽《あさば》はそれを確かに聞いた。伊里野は無人駅のトイレから走り出て、夕暮れの日差しの中でくるくる回って、すぐに足をもつれさせて尻餅《しりもち》をついた。慌てて駆け寄った浅羽を見上げ、
「あたま軽い!」
浅羽もつられて笑った。伊里野はさらに身を乗り出して、
「せなか暑い!」
ああそうか、と浅羽は思う。夏服を貫いて背中に当たる西日の熱が、伊里野にとっては途方もなく新鮮《しんせん》なのだろう。
伊里野の髪を切ったのだ。
ばっさりやった。腰まであった髪を肩よりも短くした。
「気に入った?」
伊里野を助け起こして、その耳元で風に揺れている白い髪を見つめてそう尋ねる。伊里野は何度も何度も肯《うなず》き、これからすごいことをするからよく見ていろという顔をして、いやいやをするように頭を左右にぶんぶん振ってくすぐったそうに笑う。今までとまったく違う髪の感触が面白《おもしろ》くて仕方がないのだ。浅羽は心底からの安堵《あんど》を覚える。真っ白になってしまったとはいえ、あれほど長かった髪を切ろうと持ちかけるのは、浅羽にしても大層勇気のいることだったから。
ふと、伊里野に上着の裾《すそ》を引かれた。
「なに」
「お腹《なか》すいた」
伊里野は遊園地の子供のようにはしゃいでいる。
これでよかったのだ、と浅羽は思う。
園原《そのはら》基地から解き放たれて二日、伊里野は、本当に明るくなった。
「――じゃあ、行こうか」
首筋のガーゼが汗を吸ってむず痒《がゆ》い。右肩に食い込むダッフルバッグのストラップを左肩にかけ直して、浅羽は先に立って歩き出す。それとなく周囲に視線を走らせてみるが、観光地でもない田舎《いなか》の無人駅は見事なくらいに閑散としていた。日に焼けたベンチがひとつきりのバス停、電話ボックスから臍《へそ》の緒のように伸びる電線、無線タクシーの看板と半ばゴミ捨て場と化した駐輪《ちゅうりん》場。ジュースの自販機の前を通り過ぎたとき、浅羽《あさば》の左手が無意識のうちに釣り銭の取り出し口を探った。それを後ろから見ていた伊里野《いりや》が嬉《うれ》しそうに真似《まね》をする。
名もない道を行く。
自分は正しいことをしている、と浅羽は思う。
大した理由もなしに、南へ行こうと決めた。
夜明け前にバイクを乗り捨て、錆《さび》色に染まった砂利を踏みしめながら線路を歩き、名も知らぬ駅のホームによじ登って始発を待った。移動に金を使うことにはためらいもあったが、できるだけ早いうちにできるだけ遠くまで逃げておきたかった。まずは金よりも距離――その判断は間違っていなかったと浅羽は今でも思ってる。
電車やバスを乗り継いで、ただひたすら南を目指した。
行く先々に治安部隊の姿があった。軍道にはそもそも民間人の立ち入りが許されず、主要な幹線道路ではいくつもの検問がスパイや過激派や脱柵《だつさく》者を待ち受けていた。携帯用のラジオをずっと聴いていたが、どの局も日がな一日音楽を流しているか、電波の不正使用は有事対策基準に違反するので云々《うんぬん》という決まりきった例のアナウンスを繰《く》り返しているか、それとも放送を休止しているかだった。北方情勢の緊張《きんちょう》も情報統制も、相変わらず続いている。
二人がいまだに制服姿のままでいることについては少々複雑な事情がある。浅羽としても早く私服を手に入れなければならないと思ってはいるのだが、金の問題もあるし、着替えを買えるような店は閉まっている可能性が高かったし、どこにあるかもわからない店を探して街中をうろついたるすること自体がそもそも危険だった。学校に泊り込むことが多かった浅羽は部室から予備の制服や代えの下着を持ち出してきていたが、ずっと着たきりすずめの伊里野をさしおいて自分だけ清潔《せいけつ》な服に着替える気にはなれずにいる。
そして、最大の問題は伊里野の髪だった。
真っ白になってしまった伊里野の髪は、どうしようもないくらいに人目を引いた。
今日も移動中はずっと、できるだけ隅っこの目立たない席で小さくなっていたのだ。が、検札に来た車掌は切符を取り落とし、弁当売りは眉をひそめて足を早[#「早」はママ]め、野菜の行商をしているおばさんには「親からもらった綺麗《きれい》な髪を染めたりするのはいけないことだ」と懇々《こんこん》と諭《さと》された。浅羽は一日悩みに悩み抜いた果てに、電車を下[#「下」はママ]りた無人駅のホームで、
夕暮れの西日の中で、
――ねえ伊里野、髪の毛短くしない?
伊里野は二秒考えて、
――浅羽は短いの好き?
もちろん、根本的な解決には程遠い。伊里野の髪が人目を引く理由は「長さ」ではなく「白さ」なのだから。しかし、ここまで短ければごまかしようもある。この上にフリッツヘルメットでもかぶっていれば今までよりずっとましになるはずだ――浮かれきった足取りに柔らかく揺られている伊里野《いりや》の髪を見つめながら、浅羽《あさば》はそんなことを考える。
ノラ猫と生垣と果樹《かじゅ》園ばかりの坂道をまっすぐに下って、国道沿いにあるファミリーレストランの看板を見上げて伊里野は足を止めた。
レジ横のおもちゃの棚を熱心に見つめている伊里野の手を引いて、一番隅っこの目立たないテーブルに陣取る。伊里野は色とりどりのメニューに目を輝《かがや》かせ、散々迷った挙句に「四種類から選べるナン&カレーセット」を指差した。
浅羽も同じものにする。
ウエイトレスがメニューを下げた後も、¥1280、という文字がいつまでも目に焼きついていた。ふたり分だと二千五百六十円。しかし、死ぬほど腹が減っているのは浅羽も同じだったし、ここまで嬉《うれ》しそうな伊里野を前にして自分はコーヒーだけ、というわけにもいかない気がする。
カレーセットが来て、途中でルーを交換しながら夢中になって食べた。
伊里野がデザートのヨーグルトを一気飲みしているスキを見計らって、テーブルの下で財布の中身を確認していると、
「――おかね、大丈夫?」
悟られた。
テーブルの向こう側で伊里野が心配そうに首を傾けている。
「え? ああ、うん。 しばらくは大丈夫だと思うよ」
現在の財布の中身は、十二万と七千円と小銭が少しである。
なにしろ伊里野の十万円が大きかった。初日に所持金を確認したとき、伊里野は通学|鞄《かばん》をナイフでバラバラに切り開いて、皮の縫《ぬ》い目の隙間《すきま》から手の切れそうな一万円札十枚を取り出して見せたのだ。普段《ふだん》持ち歩いている財布の中身でも浅羽は伊里野に完全に負けていた。浅羽はすっかり気後れしてしまって、床屋仕事で稼《かせ》いだ虎《とら》の子の金を出しそびれてしまった。百円玉が二百枚ほど入ったコーヒー豆の缶は、今もダッフルバッグの奥底に突っ込まれたままになっている。
「――浅羽、」
浅羽が顔を上げると、伊里野はヨーグルトまみれの顔を伏せて何やら一心不乱に考え込んでいる。浅羽がナプキンを差し出そうとしたとき、ぽつりと、
「おかね、下ろせるかもしれない」
「え?」
伊里野はポケットを探り、裏も表もグレー一色のテレホンカードを取り出した。
伊里野がいつも電話をかけるのに使っていた、あのカードだった。
「これで、銀行の機械でおかね引き出せるかもしれない」
「――それって、伊里野《いりや》の貯金?」
伊里野は勢いよく首を振り、
「ちがう。軍の分散プール金」
意味がよくわからない、が、
「――いくら下ろせるの?」
「いくらでも」
「い、いくらでもって、百万円でも!?」
まったく器の知れるひと言である。が、とにかく金は金だと思う浅羽《あさば》である。同じ虎《とら》の子でも百円じゃらじゃらのコーヒー缶とはえらい違いだ。
伊里野はしかし、さらに考えた末に、
「――でも、あぶないかもしれない」
どうやら、伊里野の言う「プール金」というのは、米軍の諜報《ちょうほう》活動のための裏金のようなものらしかった。そして、伊里野の手の中にあるカードを使えば、その金の一部を銀行のトンネル口座を通じて引き出せる――。
「居場所がばれて、つかまっちゃうかもしれない」
しかし、それには危険が伴う。伊里野がいつもいつも決まった公衆電話で電話をかけていたように、伊里野のカードが通用するATMは園原《そのはら》市の近辺にしかないらしい。園原市に戻るというだけで十分すぎるほど危険だが、実際にカードを使えばその瞬間《しゅんかん》から追跡を受けるのは必至だ。園原基地にはエシュロンのインターセプトベースがあるし、美影《みかげ》には自衛軍の情報戦四課がいる。海外にある複数の偽装口座を通して金を洗うという手もあるが、時間もかかるし、伊里野はその種の正式な訓練を受けたわけではない。うまくやれるかどうか自信がない――そんな意味のことを言って、伊里野は気の毒なほどしおれた。
「あ、いいよ、最後の手段ってことにしようよそれは。いざとなったらぼくが、」
あー、戦車だーっ。
遠くのテーブルで、小学校低学年くらいの男の子が窓の外を指差した。浅羽は反射的にその指の先を目で追う。
戦車、ではなかった。
国道を移動中の陸上部隊だ。自衛軍の兵員輸送車両の列が店の窓いっぱいに連なって信号待ちをしていた。あちこちのテーブルから消極的な驚《おどろ》きの声が上がって、それはすぐに投げやりな議論へと変化する。北方情勢の今後について、巷《ちまた》で見かけた軍の横暴について、大規模な疎開とよそ者の流入と治安の悪化について、帝都から着の身着のままで逃げてきた親戚《しんせき》一家との軋轢《あつれき》について、情報統制と退屈とレンタルビデオの関係について、全国的な学校|閉鎖《へいさ》と子供の学力低下と文房具屋のオヤジの嘆きについて。戦争と平和について。
ふと我に返り、
「伊里野《いりや》、」
言われるまでもなく、伊里野はテーブルの下に隠れていた。信号が青になって、兵員輸送車の列が夕暮れの薄闇《うすやみ》の中をゆっくりと動き始める。浅羽《あさば》の目には、それが霊柩車《れいきゅうしゃ》の行列よりも不吉なものに見える。もういいよ――浅羽がそうつぶやくと、伊里野はテーブルの下でフリッツヘルメットをかぶり、そっと身を乗り出して窓の外の様子をうかがう。
もうすぐ日が暮れる。
――今日から伊里野は基地には帰らない。伊里野が自分から帰りたいと思うまで帰らない。
指先が首筋のガーゼを探った。
あれから二日だ、と浅羽は思う。
世の中金だとつくづく思う。そのくせ、財布の中の十二万という金にリアリティを感じることがどうしてもできない。だからこそ、伊里野の「お腹《なか》すいた」のひと言でファミレスで食事などという中途半端な散財に走ってしまう。この二日間は距離を稼《かせ》ぐことを第一の目的として行動してきたが、そろそろ金の節約に重点を置くべき時だろう。
しかし――
金のかからない移動手段といえば徒歩とバイクくらいしか思いつかない。が、行く先々でバイクを盗み続けるのはやはり危険が大きすぎるし、伊里野の体調のことを思えば二人乗りで旅を続けるのには無理がある。ヒッチハイクという手も考えたが、果たして乗せてくれた相手をどこまで信用していいものか。ただの家出中学生だと思われて警察《けいさつ》に直行されてはたまらないし、何よりも軍の検問に引っかかったら言い訳がきかない。
これから、どうする――
「浅羽、今日はどこで寝る? また無人駅?」
そう、それもある。ここ二日間は無人駅をねぐらにしてきたが、この先もずっとそうするというわけにもいかないだろう。何かもっとうまい手を考えなくてはならない。金がかからなくて、雨露《あめつゆ》をしのぐことくらいはできて、電気はともかく水道くらいはあって、駅のベンチよりはましな寝床もあって、それでいて人目につかな安全なところ――
――そんな都合のいい場所が、
だめだ。考えるのをやめるな。
死ぬ気で知恵を絞れ。伊里野は十万円出した。お前は一体何をした。考えるのはお前の役目ではなかったのか。これでは伊里野が伊里野の金で逃げているだけではないか。大した役にも立たないくせに一丁前に伊里野と同じメシを食いやがって、やはりお前など、コーヒーに砂糖でもどっちゃり入れてすすっているのが似合いだったのだ。今すぐ思いつけ、無人駅よりもましなねぐらはどこか。それが、お前の食った「四種類から選べるナン&カレーセット」の代金だと思え。伊里野を守れ。それができないのならば、しかしそれでも伊里野のことを思うのならば血でも売れ。角膜を売れ腎臓《じんぞう》を売れ肝臓を売れ心臓を売れ。最後の一腑《いっぷ》一滴まで金に替えて、伊里野《いりや》が自由でいられる時間をせめて一秒でも多く贖《あがな》え。
のっそりと席を立つ、
「浅羽《あさば》?」
首を振ってトイレの方向を指差して、慌てて腰を浮かせようとする伊里野を制した。シルクハットのマークがついたドアを開け、押しつけがましい芳香剤の匂《にお》いに顔を顰《しか》め、馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいほど凝《こ》ったデザインの便器に向かってうつむくと、無理な徹夜《てつや》を続けたときのようなまっ黄色の小便が出た。洗面台で何度も顔を洗い、鏡《かがみ》の中の濡《ぬ》れそぼった自分の顔を見つめて、小学生の意地悪のような空想をする。
このまま、伊里野を置き去りにして逃げ出してしまったら。
伊里野はどうするだろう。
どんな顔をするのだろう。
ため息をつく。自分に一発びんたをくれて、ペーパータオルで適当に顔を拭《ふ》いてもう一度鏡をのぞき込んだとき、背後の壁《かべ》に貼《は》られているポスターの存在に気づいた。『希望の未来〜親子で語る平和の夕べ』。主催が地元の教育委員会とPTAで、会場はどこぞの小学校で、開催日時は昨日の日付だった。
とっとと剥《は》がせこんなもの、と浅羽は思う。
今のご時世、かくも悠長なイベントは100パーセント中止の憂《う》き目を見たはずである。そもそも学校自体が休校になっていたはずだ。ざまあみろ――声には出さず、口だけをそう動かして、ペーパータオルをクズ籠《かご》にぶち込んでトイレを出た。
――学校。
出ようとした。
回れ右。再びポスターに向き直る。会場の住所と地図が記載されている部分を破りとってポケットに突っ込む。伊里野の待つテーブルへと駆け戻る。ダッフルバッグを椅子《いす》から引きずり下ろして肩にかけ、伝票をつかみ、状況がまるで飲み込めずに目を白黒させる伊里野の手を引いて足早にレジへとむかう。
「出よう、いいこと思いついたんだ」
金がかからなくて、雨露《あめつゆ》をしのぐことができて、電気も水道も駅のベンチよりましな寝床もあって、それでいて人目につかない安全な場所。
夜が迫っていた。
その校舎は鉄筋コンクリートの三階建てで、紅葉《もみじ》色の屋根の体育館が併設されている。町を見下ろす丘の上という立地のせいか、グランドはあまり広くない。固く閉ざされている正門には「紀国町立《きのくにちょうりつ》成増《なります》小学校」という厳《いかめ》しい書体の文字が並んでおり、雨避《あめよ》けのビニールに包まれた張り紙の文字はこう読める。
『――保護者各位―― 新法の定める未成年保護勧告に従い、本校は有事休校となっております。授業の再開時期等につきましては、町役場に設置されております自衛軍窓口までお問い合わせください』
正門をすり抜けグランドを横切って、中に入れそうな場所を探して校舎の周囲をぐるりと一周してみる。園原《そのはら》中学校のオンボロ木造三階建てを見慣れている浅羽《あさば》の目には、白くて四角いその校舎の佇《たたず》まいはまるで何かの役所か病院のように見える。窓ガラスを割るような野暮《やぼ》をするつもりは最初からなかった。木造と鉄筋コンクリートの違いはあっても学校は学校だ。田舎《いなか》の学校だ。浅羽が一番よく見知っている世界だ。鍵《かぎ》をかけ忘れた窓のひとつやふたつは必ずあるはずだった。
「――学校?」
ここまでずっと無言だった伊里野《いりや》がようやく口を開いた。浅羽は得意げに頷《うなず》き、
「そう。今日はここに泊まろう」
「ここに?」
「そう。ここなら誰《だれ》にも見つからないよ。ほら、さっき校門のところに張り紙が、」
見つけた。
浅羽は闇《やみ》に目を凝《こ》らす。二階の廊下の窓のひとつが細く開いたままになっている。
ダッフルバッグのストラップから素早く抜け出して、校舎の壁《かべ》を縦《たて》に走っている雨樋《あまどい》に駆け寄った。力をこめて揺すってみるが、白いペンキが雑に塗られた金属製のパイプはびくともしない。これなら大丈夫だ。
スニーカーと靴下を脱ぎ捨てて雨樋に飛びついた。
「浅羽、」
「そこで待ってて。すぐに下の鍵開けるから」
よじ登る。
心のどこかで伊里野の目を意識して、必要以上に急ぎ、必要以上に手足に力をこめた。二階の廊下の床が見えるところまで登り、窓のすぐ上にある壁の出っぱりに手を伸ばす。そのまま両手でぶら下がって2メートルほど右に移動する。
「浅羽、」
足の指で窓を開けた。
夕刻の闇に冷やされた風が渡り、夏服の襟元《えりもと》から背中へと吹き抜けていった。高さと暗さが意識の表層に這《は》い登って、股間《こかん》にぞくりと寒気が走った。大丈夫、この程度の高さから落ちたところでどうということはない――自分にそう言い聞かせ、窓枠に右手と右足を突っ張って体重を支えて、枝から枝へ飛び移るサルのような格好で二階の廊下へと一気に滑り込んだ。
すぐさま起き上がる。
廊下は闇に慣れた目にもなお暗く、火災報知器の赤い光が点々と続いている。素足をぺたぺた鳴らしながら走り、真っ暗な階段をひと息に駆け下りる。リノリウムの床は埃《ほこり》だらけで、足の裏がたちまち汚れていく感触がなぜか心地よかった。足を空回りさせながら一階の廊下に飛び出して、廊下の窓を開けた。
大声を上げて叫びたいほどの達成感があった。
「伊里野《いりや》」
声をひそめて暗闇《くらやみ》に呼びかけると、伊里野はすぐに駆け寄ってきた。浅羽《あさば》は素早く周囲を見回して、
「渡り廊下の扉の鍵《かぎ》開けるからさ、そっちから――」
駆け寄ってきた伊里野はなぜか、怒っているような顔をしていた。
そして、浅羽の言うことなど頭から無視して、窓枠に両手をかけてよじ登ってきた。
「え? あ、わ、」
浅羽は情けない声を上げ、咄嗟《とっさ》に両手を差し伸べて伊里野の肘《ひじ》のあたりをつかんだ。二の腕と二の腕がぺったりと密着する。伊里野は不器用に身体《からだ》を引き上げ、もたもたした動作で窓枠に足をかける。スカートがものすごいところまでめくれ上がり、浅羽は慌てて顔を背け、そこで伊里野がいきなり体重をあずけてきた。どうにか踏みとどまって、両脇《りょうわき》に腕を回して伊里野を廊下に抱き下ろす。
反射的に半歩距離をおいて、安堵《あんど》の息をついた。
伊里野は固い表情のまま、むっつりとその場に立ち尽くしている。
「伊里野、」
なに怒ってんの?
そう尋ねようとしたが、言葉は、なぜか喉《のど》の奥に粘ついて出てこなかった。
窓の外に置きっぱなしだったダッフルバッグを回収し、靴下は適当に丸めてポケットにねじ込み、スニーカーの靴紐《くつひも》を適当に結んで首にかけた。バッグのサイドポケットを手探りしてサインペンほどの大きさのマグライトを取り出す。
「もっと早く気がつけばよかった。いま学校ってどこも休みなんだよ」
浅羽はバッグを担ぎなおして、伊里野の手を引いて歩き出す。
「さっき校門のところに張り紙が出てたよね、この学校はずっと休校です、って。ここならお金もかからないし、無人駅なんかよりずっと過ごしやすい。固いベンチなんかじゃなくて保健室のベットで眠れるし、電気もガスも水道もトイレもテレビもある。おまけに、ぼくら以外には誰《だれ》もいない。何でも好きなようにできるよ」
改めて言葉にしてみると、それは素晴《すば》らしいアイデアに思われた。自分は天才ではないだろうかと浅羽は思う。うつむいていた伊里野が顔を上げ、廊下の闇を慎重に見回して、やっと聞き取れるくらいのささやき声で、
「――ほんとに誰もいない?」
浅羽《あさば》は小さく肩をすくめ、
「たぶんね」
宿直の教師や用務員が居残っている可能性もゼロではなかったし、それをこれから確かめるつもりだったが、有事休校という事の性質からしても宿直はいないだろうと浅羽は踏んでいた。敷地《しきち》の周囲に人家がないこともすでに確認済みだ。それでも用心に越したことはない。浅羽はマグライト一本の光を頼りに校内の探索を開始する。まずは渡り廊下へ続く扉を開けて逃走経路を確保し、足音を忍ばせ、明かりのスイッチには手を触れず、ライトの光を必要以上に振り回さないよう細心の注意を払う。
暗闇《くらやみ》の中をあちこち見て回っているうちに伊里野《いりや》の機嫌も直ってきたらしい。昇降口で履《は》き替えた来客用のスリッパをぱたぱた鳴らして走り回り、マグライトの光が照らす先を浅羽の肩越しにのぞき込み、そのたびにいちいち浅羽に「理科室?」「うん」「音楽室?」「そう」「視聴覚室?」「たぶん」「物置?」「そうだね」
三十分ほどかけて、校舎の中を一周した。
そして、探索が終わるころにはすでに、浅羽はしばらくの間この学校に住み着くことを考え始めていた。電気やガスや水道やトイレやテレビに加えて、家庭科室には冷蔵庫や洗濯《せんたく》機が備え付けられていたし、宿直室らしき部屋には小さいながらも風呂《ふろ》まであった。北方情勢に好転の兆しでも見られない限り休校は続くだろうし、授業の再開時期等につきましては云々《うんぬん》、という張り紙の文面から考えても登校日などは特に設けられていないと見ていい。園原《そのはら》中学校には三日に一度の登校日があったが、あれは園原市自体がいわば「有事慣れ」しているが故の、むしろ例外的なケースだ。
何のあてもなく移動を続けて所持金をすり減らすより、この学校を仮の生活拠点とする方がずっと利口だ。
自分たちだけの秘密基地だ。
「ひみつ基地?」
浅羽が自分の考えを告げると伊里野は有頂天になった。基地ならば守りを固めなくてはいけない、侵入者を探知するための罠《わな》を仕掛けよう――伊里野はそう主張して、ダッフルバッグの中身をごそごそやり始める。
「これ、壊《こわ》していい?」
伊里野が取り出して見せたのは、水前寺《すいぜんじ》が部室に残していった海賊携帯電話だった。浅羽にとってはまったくなじみのない道具だが、何かの役に立つかもしれないと考えて適当に何台か持ってきてのだ。
「あ、全部でなければ別にいいけど、でも、」
「来て」
伊里野は浅羽の手を引いて走り出す。
技術科室の窓は山側に面しており、部屋の明かりを点《つ》けても誰《だれ》かに気づかれる心配はあるまいと思われた。それでも浅羽《あさば》は念のためにカーテンを引いて回る。伊里野《いりや》はスチール棚の間をくるくると歩き回り、必要な工具や部品をフリッツヘルメットの中にぽんぽん入れていく。
三十分とかからなかった。
「できた」
「――これ、どうやって使うの?」
浅羽の手の中には、何の改造も施されていない携帯電話がある。
一方、伊里野は改造した携帯電話を手にしている。増設した部品がビニールテープで巻きつけられており、その隙間《すきま》から輪になったコードが長々とはみ出している。
伊里野は得意げな顔をして、輪になったコードをニッパーで切断した。
その途端《とたん》に、伊里野の改造携帯電話が「ぴぷぺぽぱぴぺぽ」と音を立て、ひと呼吸おいて浅羽の携帯電話がぷるぷると振動し始めた。
「わ!」
「切断作動。回路が切られると自動的にダイヤルするしくみ」
浅羽は目を瞠《みは》った。手の中の携帯電話はランプを点滅させてぶるぶると震《ふる》え続けている。
「コードを切った両端に電極をつけて、扉のすきまに仕掛ける。敵が扉を開けると電極が離れて、回路が切断されて、浅羽の電話にダイヤルして知らせる。同じのをいくつも作ってあっちこっちの扉に仕掛けておけば、着信信号の違いでどこから敵が入ってきたのかもわかる」
――すごい。
胸が躍《おど》った。本当に秘密基地みたいだと浅羽は思った。
「すごい! ほんとにすごいよ伊里野!!」
浅羽にほめられたのがよほど嬉《うれ》しかったのだろう。伊里野は特殊火炎ビンを使った攻撃《こうげき》型の罠《わな》も作ると言い出して、これはさすがに浅羽が「また今度にしよう」と止めた。今日のところは正門と通用口に罠を設置することに決めて、コンビニの袋で防水した改造携帯電話をひとつずつ持って、すでに夜の帳《とばり》の下りたグランドに走り出た。
自分たちは無敵だと浅羽は思った。
大声を上げてトラックを走り回りたくなるような万能感。
夕食はコンビニのおにぎりとカップ麺《めん》である。宿直室のガスコンロで湯を沸かし、カップの中で粉末のスープが溶けていく匂《にお》いに空《す》きっ腹がときめく。キャンプ用ランタンの鋭《するど》い光が畳敷《たたみじ》きの六畳間を照らし、背後の壁《かべ》に大げさな影を投げかけている。
「え? 口に詰めた布に火を点けるんじゃなかったっけ?」
「なぜって、それだと投げるときに自分も危ないから。ガソリンに硫酸と砂糖を混ぜて、ビンに詰めたら布じゃなくってちゃんとネジになったフタをぎゅって締《し》めて、塩素酸カリをつけた両面テープをビンの周りにぐるぐる貼《は》る」
「あ、カップ麺《めん》もういいよ」
「そっちの方がずっと強力。硫酸をかぶるだけでもダメージ。ビンが割れて化学反応で着火するまでにはちょっとだけ時間差があるから、一度にいっぱい投げつけると敵はよけいに混乱してもっとダメージ」
「ねえ、そっちの袋に割り箸《ばし》入ってない?」
「ほんとはね、一番難しいのはビンの選び方。投げて使うときは特にそう。ネバダの基地のPXで売ってたオレンジジュースのビンがいちばんよかった。丈夫だけどすぐ割れるビン。持ち歩くときは安全で投げつければちゃんと割れて火が点《つ》くビン」
宿直室の風呂《ふろ》場には洗面台もなければ脱衣所もなく、非人道的な狭さの洗い場に給湯器と一体型の浴槽《よくそう》がどっかりと鎮座《ちんざ》している。ただ、普段《ふだん》からあまり使われていなかった様子で、それほど汚れていないのが救いだった。給湯器の使い方を理解するまでにずいぶんかかった。
風呂場の扉越しに伊里野《いりや》の声がする、
「浅羽《あさば》、そこにいる?」
いるよ、と浅羽は答える。
畳に大の字に寝転がって、洗い場に湯が跳ね散る音をぼんやりと聞いている。
じゃんけんに負けたのだ。伊里野が先に風呂に入ることに決まり、そして宿直室の風呂には脱衣所がない。じゃあぼくは保健室にいるから上がったら声かけてよ、浅羽はそう申し出たのだが、伊里野はここにいてくれと言う。
「浅羽、そこにいる?」
いるよ、と浅羽は答える。
伊里野はついにその理由をはっきりと口にしなかったが、おそらく、広くて暗い校舎の一室にひとりぼっちで取り残されるのが怖いのだろう。そんなわけで、浅羽は伊里野が服を脱ぐ間は廊下に出ていて、伊里野が風呂場に入ったら宿直室に戻ってそこでじっと待つ、という複雑なことをしなければならなくなった。ところが伊里野はそれでも不安なのか、ときおり扉越しに声をかけて浅羽がそこにいるかを確認するのだ。
「浅羽、そこにいる?」
いるよ、と浅羽は答える。
湯船につかってぶつぶつ数を数える声が聞こえてきた。浅羽は右手を上げてランタンの光で天井に狐《きつね》の影絵を作る。ふと、窓に掛かっている薄《うす》緑色のカーテンが目に入った。技術科室もそうだったが、この学校のカーテンはごく普通の防火性の布だ。園原《そのはら》中学校では、ケブラー繊維《せんい》やワイヤーを織り込んだ特殊なカーテンが使われていた。市の条例か何かでそう決まっているのだ。爆風《ばくふう》で窓ガラスが吹き飛ばされても部屋の中にいる人が怪我《けが》をしないように。戦争が始まっても生き延びられるように。
「浅羽《あさば》、でる」
「――え? わ。ああ、うん」
浅羽は飛び起きて真っ暗な廊下に這《は》い出た。そのまま床にしゃがみ込んでため息をつき、扉に寄りかかって伊里野《いりや》が服を着るまで待つ。もういいよ、という声を背中で聞いて、伊里野と入れ違いに宿直室に入った。
すれ違う一瞬《いっしゅん》、視界の隅を白い洗い髪がかすめた。
湿っぽい体温と石鹸《せっけん》の匂《にお》いを感じた。
じろじろ見てはいけないと思った。
風呂《ふろ》場に入り、廊下で待っている伊里野にもういいよと声をかけ、湯船につかるとまるで身体《からだ》が溶けていくような気がして、自分がどれだけ疲れ切っているのかを思い知る。ぼんやりとした眠気が即座に襲《おそ》いかかってきた。
風呂から上がったら、保健室のベッドで思いっきり眠ろう。
そして明日は洗濯《せんたく》をしよう。
伊里野が着替えを持っていないことがずっと気になっていたのだ。
大丈夫だ。心配しなければならないようなことは何もないのだ。逃亡の日々はしばらくの間忘れて、ここに腰を落ち着けて羽を休めよう。伊里野のためにもそうするべきだ。時々鼻血を出すのは相変わらずだが、血を吐いて意識を失《な》くすようなことはあれ以来一度も起こっていないし、視覚の障害も鳴りをひそめているように見える。
自分は正しいことをしているのだ。
伊里野とふたりだけの秘密基地だ。
明日は洗濯だ。
「浅羽、」
そのとき、扉越しに伊里野の声を聞いた。うつらうつらしていた浅羽は湯船から顔を上げて慌てて返事をする。
「なに?」
伊里野は言う。
「ここにいるからね」
◎
保健室のどこかで、ブザーが鳴っていた。
夢うつつの状態で、浅羽はその小さな音を聞くともなしに聞いていた。
何の音なのかはわからない。
それはブザーというよりもむしろ、何かの機械が作動する音のようにも聞こえる。まだ半分寝ている浅羽《あさば》はなぜか、電気仕掛けのクマのぬいぐるみが保健室の床をもたもたと歩いているところを連想した。それは一歩間違えると相当に不気味な想像であるはずだが、二日ぶりの風呂《ふろ》上がりの身体《からだ》と二日ぶりのまともな寝床の心地よさは果てしなく、浅羽はそれにどうしても抵抗できず、夢と現《うつつ》の境目をいつまでも未練がましく漂い続けた。どれくらいの間そうしていたのか、一分か、二分か、それとも十分か。
クマはいつまでも歩き続ける。
ぶー、ぶー、ぶー。ぶー、ぶー、ぶー。
携帯電話の振動音。
浅羽は跳ね起きた。パニックに駆られて周囲を見回すと、胸のポケットに入れておいたはずの携帯電話が着信ランプを点滅させながらベッドの上でぶーぶー唸《うな》っていた。飛びつくように拾い上げる。着信番号を確認する。
正門だ。
「伊里野《いりや》!」
意図していたよりもずっと大きな声が出てしまう。外まで聞こえたかもしれない。伊里野はすぐに目を覚まして、白い髪がふわりと起き上がって浅羽の目にくっきりと残像を残した。すでに夜はうっすらと白みかけ、窓の外には濃密《のうみつ》な靄《もや》が流れている。保健室の中は文字が読めない程度には暗く、枕《まくら》元の闇《やみ》に転がっている旅行用の目覚まし時計がトリチウムの光で小さなくの字を形作っていた。五時十分過ぎ。
――どうしよう、
そのとき、保健室の窓に懐中《かいちゅう》電灯の光が閃《ひらめ》いた。
決まっている。今すぐ走るべきだった。バッグをつかみ、伊里野の手を引いて廊下に飛び出して、渡り廊下へ抜ける戸口から脱出すべきだったのだ。しかし、寝ボケ頭とパニックが掛け算になって、浅羽は何ひとつ決断できないまま、気がついたときには伊里野と一緒にベッドの間で息を潜《ひそ》めていることを選んでいた。伊里野が腕にしがみついてくる。
窓に再び、懐中電灯の光が右から左へと走る。
ゆっくりと歩きながら何かを探しているような動き。用務員か誰《だれ》かが様子を見に来たのかもしれない。校舎の中までは調べないかもしれないし、このままじっと息を殺していればうまくやりすごせるかもしれない――。
懐中電灯の光が、逃走用のつもりで鍵《かぎ》を開けておいた窓を照らしてぴたりと動きを止めた。
足音が聞こえた。
どさり。大きな鞄《かばん》か何かを下ろすような音。
本当に、本当に近くだった。
窓のすぐ外だった。
白みかけた夜の霧《きり》を背景にして、何者かの影が動いていた。
プロレスラーの如《ごと》き大男。
そいつが無造作に窓を開け、窓枠に足をかけてのっそりと保健室の中に入ってくる。
自分のせいだ、と浅羽《あさば》は思った。
伊里野《いりや》がせっかく罠を作ってくれたのに。その罠は目論見《もくろみ》どおりに作動して危険を知らせてくれていたのに。なのに自分はそれに気づくのが遅れた。携帯電話を胸ポケットなどといういい加減なところに入れて寝ていたせいで、寝返りを打った拍子にいつの間にかポケットから転がり出てしまった。いつ胸ポケットに入れたのかも思い出せないし、正直なところ、携帯電話のことなどすっかり忘れていたのだ。
伊里野を無事に逃がさなければならない。
どんなことをしてでも。
雄々しき決断などでは決してない。何もしないでいることの恐怖に負けた、と言った方が正確だ。純粋なパニックが雪ダルマ式に増大して全身が自暴自棄な戦意に満たされる。その気配《けはい》に気づいた伊里野が反射的に浅羽の腕をきつく抱きしめたが、浅羽はそれを強引に振りほどいて床を蹴《け》り、保健室の床に降り立った影めがけて跳びかかった。相手を威嚇《いかく》するために、そして自らの恐怖をねじ伏せるために、あらん限りの声を振り絞った。
「うわあああああああああああああああ―――――――――――――――――――――っ!!」
たまったものではない。
「ひゃあああああああああああああああ―――――――――――――――――――――っ!?」
男は、夜道で変質者にコートの中身を見せられた女性のような悲鳴を上げた。
その首に浅羽は夢中でしがみつく。男は悲鳴を上げ続け、その悲鳴にパニックを増幅された浅羽の雄叫《おたけ》びも悲鳴に近いものになっていき、男はそのことに新たな恐怖を感じてさらに声を張り上げる。伊里野も悲鳴を上げてはいたが、この凄《すさ》まじい絶叫の応酬の中にあってはさざ波のようなものでしかない。
そして、
最初に幾分かの冷静さを取り戻したのは、やはり伊里野だった。
伊里野が明かりを点《つ》けた。蛍光灯の光がすべてを身もふたもなく照らし出した。
男がいて浅羽がいた。
絶叫は相変わらず続いている。浅羽は男の背中に組みついており、男は浅羽を振り解《ほど》こうとしてその場でぐるぐる回っている。と、ついに浅羽の腕が外れ、浅羽は男の背中から滑り落ちて尻餅《しりもち》をつき、男は勢いあまってスチール製の棚に背中から激突した。男にしてみれば投げ飛ばされたように感じたのかもしれない。棚から書類のフォルダーがどかどかと降り注ぎ、男は突然その場で土下座、床に額《ひたい》をこすりつけ、
「すんませんすんませえんすんませえん! 堪忍してくださあい!」
伊里野《いりや》は、そして浅羽《あさば》も、呆気《あっけ》にとられて男を見つめていた。
今まで知識として頭の中に存在するだけだった土下座という行為は、いざ実際に目にしてみると思わず目を背けたくなるほど異様だった。謝罪《しゃざい》を受けているという気はまったくしない。むしろ「怖いからやめてくれ」と言いたくなる。闇《やみ》の中ではあれほど大きかったはずの男の身体《からだ》が、蛍光灯の光の下では何の迫力もない貧相なオヤジの身体《からだ》にしかすぎなかった。髪の毛は伸び放題で、腕も首もひどく日に焼けている。何ともいえない微妙な色合いのTシャツを着ているが、元からそういう色なのか、それとも極限まで黄ばんだ結果なのだろうか。安っぽいデジタルの腕時計、ぶかぶかの作業ズボン、ポケットからはみ出た小汚いタオル、一昔前に流行《はや》ったメーカーの運動靴。
とにかく、相手は謝《あや》っているのだから。
浅羽はそう考えた。混線した思考はどうやっても整理がつかず、口にすべき最初のひと言がどうしても見つからないまま、
「――あ、あの」
男は、それでも頭を上げない。
男は、名を吉野《よしの》といった。
ずははははははは、と吉野は笑う。外に置きっぱなしになっていた巨大なリュックサックをどさりと床に置き、自らもその隣《となり》にどかりと腰を下ろして右手で膝《ひざ》を打ち、
「いやあ、やっぱり同じようなこと考える奴《やつ》っているもんだなあ」
お近づきのしるしにと、吉野は携帯用のガスコンロで紅茶を沸かして浅羽と伊里野にすすめた。浅羽はカップを受け取って、伊里野がためらっているのに気づいて先にひと口すすってみせる。カップは洗面所で使うのが相応《ふさわ》しいような金属製の安物で、すぐに取っ手まで熱くなって手で持っているのがつらくなった。
「あ、そうだ。蜂蜜《はちみつ》入れるかい?」
浅羽はうなずく。伊里野は首を振る。吉野は身を乗り出し、蜂蜜をひとすくい乗せたスプーンを浅羽のカップに投げ入れて、伊里野の白い髪にもの問いたげな視線を向ける。が、結局は何も言わない。浅羽に視線を戻し、再びおかしそうに肩を震《ふる》わせて、
「――しっかし本当にたまげた。暗いところからいきなりってのはすごいもんだな、大男が襲《おそ》いかかってきたのかと思ったよ。本当に殺されると思った」
浅羽はカップに顔を近づける。頭がまともに働かない。眠気の足跡と混乱の尻尾《しっぽ》を拭《ぬぐ》い去ることができず、舌に感じる蜂蜜の甘さまでが作り事のように感じられる。浅羽は紅茶の湯気ごしに吉野を観察する。最初は四十代くらいかと思っていたが、こうして差し向かいで話をしていると驚《おどろ》くほど若く見える瞬間《しゅんかん》がある。浅羽が知っているこの年代の大人《おとな》は、もっと慎重だったりもっと疲れていたりもっと厳《きび》しかったりもっと融通《ゆうずう》がきかなかったりするはずなのに。
――いや、違う、
若いのではない。大人《おとな》っぽくないのだ。
貧乏旅行をしている、と吉野《よしの》は言った。
「二年くらい帝都にいたんだ。けどほら、例の北方情勢がどうしたとかでずいぶん住みづらくなっちゃってな。あれじゃまるで戒厳令《かいげんれい》さ、知り合いが何人も逮捕されたりしてね。右や左のダンナ様は毎日機動隊と石の投げっこしてるしさ、ヤケクソになった連中が暴動起こして道端の車に火を点《つ》けるわデパートに殴り込むわ、まったくよく飽きないもんだと思うよ」
いわば疎開だな、と吉野は言う。
「学校ならいく先々の町に必ずあるし、電気も水道も使えるし、出ていくときにきちんと掃除をしていけば誰《だれ》にも気づかれない。だけど、同じことしてる奴《やつ》に出くわしたのはさすがに初めてだよ。君が考えついたのかい?」
浅羽《あさば》が慌ててうなずくと、いや若いのに大したもんだ、目のつけどころがいい、と手放しでほめられた。
けっこういい人かもしれない、と浅羽は思う。
「あの、」
思い切って尋ねた。
「――おじさんホームレス?」
突然の直球に吉野の眉《まゆ》が上がった。さすがに直球すぎたかな――浅羽は上目遣いに様子をうかがうが、
「ん〜」
吉野は別段腹を立てることもなく、自らの過去を反芻《はんすう》している風で、
「――まあ、そうかなあ。そういうことになるのか。いや自分の家あるんだけどね、人任せにしちゃってもう長いこと帰ってないからな。もう五年くらいになるかなあ」
結局はそんな煮え切らない返事をする。
傍目《はため》にも微妙だと浅羽は思う。伸び放題の髪は確かにホームレスとも見えるが、本人の趣味《しゅみ》であると思えばそんなふうにも見える。大荷物を抱えている点もそれらしくはあるが、旅行者という説明で回収可能なことでもある。身なりも中途半端に清潔《せいけつ》で、歩くボロ着とでも言うべき浮浪者のイメージにはまったくそぐわない。
「普段《ふだん》は都会の方が暮らしやすいんだけどね、今度みたいに軍隊が治安出動してきたときなんかはおじさんみたいなの逮捕されちゃうからさ、田舎《いなか》に『旅行』することにしてるんだ。方々の学校を泊まり歩いたりしてね。いいかい、」
重要なのはきちんと下調べをすることだ、と吉野は言った。
吉野はいつも、最低でも半日はかけて学校の品定めと情報収集をするという。どの学校がいつまで休校になっているか、宿直の教師や用務員は常駐《じょうちゅう》しているか、登校日の有無、学校の付近の状況、最寄りの交番までの距離。それが済むと、どこか適当な場所を見つけて十分に仮眠を取ってから闇夜《やみよ》にまぎれて目的の学校に侵入する。学校に侵入するときが最も危険な瞬間《しゅんかん》であり、ここさえうまく乗り切ってしまえば後はそうそう気づかれる心配はない――。
浅羽《あさば》はあっけなく感心した。
自分たちが手探りでやろうとしていたことを、この人はずっと昔から軽やかにこなしてきたのだ。
「――もっとも、今回はちょっと失敗した」
吉野《よしの》は恥ずかしそうに頭をかいて、
「今までの経験から言って、夜中の十二時ごろなんかはまだ人が出歩いてたりするんだよ。忍び込むなら午前三時くらいが一番いいんだ。そのころなら町も完全に寝静まっているし、人通りもまずないから。それまでには起きようと思ってたんだが、ちょっと寝過ごした。ほら、もうこんな時間だ」
そう言って吉野は窓の外を見る。浅羽も伊里野《いりや》もそれにならった。
窓の外には、清浄な朝があった。
そこには夜も闇もすでになく、つい先ほどまで靄《もや》の立ち込めていたはずのグランドには空の青さと日の光が急速に蘇生《そせい》しつつあった。壁《かべ》の時計はもうすぐ六時を指そうとしている。
「さて、」
両手で両膝《りょうひざ》をぱしんと叩《たた》いて吉野は立ち上がる。
「君ら、朝メシでもどうかね?」
てっきり賞味期限の切れたコンビニ弁当でも食わされるのかと思っていたのに、吉野は家庭科室のテーブルに何とも真っ当なメニューを並べて見せた。
ご飯とインスタントの味噌《みそ》汁と焼き魚とキャベツの浅漬《あさづ》け。
米やインスタント味噌汁はまだわかる。リュックサックに入れて持ち歩いても保存がきく。が、魚とキャベツの出所を浅羽が尋ねると、吉野はまるで事もなげに、
「寝過ごしついでにちょっと寄り道してきたんだ。ほれ、遠慮《えんりょ》せずにどんどん食え食え」
さらに尋ねると、
「まずキャベツはだな、そのへんの畑から形の悪そうなやつを見つくろってアレした。その虹鱒《にじます》はほら、この学校に登ってくる途中の道端に何とかレジャーランドって田舎《いなか》くさい看板があったろう、そこの生け簀《す》からちょいとな。いいかい、バレないようにアレするには決して欲をかかないのがコツだ。たとえ目当てのブツが山積みになっていたとしても、その中から必要な分だけをアレする節度を忘れてはいかん。ところで君らは虹鱒《にじます》が外来種であることを知っているかい? それにしてもこの学校は至れり尽くせりだよな、そこの冷蔵庫に残りが入ってるから昼メシに食おう。あ、それとも同じおかずが続いちゃ飽きるから夜にすっか」ずははは。
浅羽《あさば》は呆《あき》れた。
しかし、素直に「すごい」とも思っていた。吉野《よしの》の闇雲《やみくも》な逞《たくま》しさが眩《まぶ》しかった。十二万という中途半端な大金のもたらす中途半端な安心感にまどろんでいた自分が情けなく思える。まるで夏休みの宿題を先延ばしにする小学生のように、まだしばらくは何とかなるさ、と漠然と考えていた。
考えが甘いのだ。
浅羽は深く静かに反省する。もっとがむしゃらであるべきなのだ。吉野がそうであるようにだ。伊里野《いりや》を守りたいのならばなおさらだ。四種類から選べるナン&カレーセットだと? 気でも狂ったか。一体自分は何を考えていたのか。十二万を使い果たしたら園原《そのはら》基地に帰るつもりか。
「――あの、」
もう五年家に帰っていない、と吉野は言った。
この人から学んだり盗んだりできることはたくさんあるはずだと思う。
「ん?」
吉野が顔を上げ、
「おかわりか? 遠慮《えんりょ》せんでいいぞ?」
吉野は半ば強引に浅羽の茶碗《ちゃわん》を奪い取り、これからの未来は君たち若者が作り上げていくのだからしっかり食べなくてはだめだ、といった意味のことをつぶやきながら、アルミのナベに残った飯をしゃもじでぐりぐりとさらう。どこかピントのずれた吉野の言い草に安堵《あんど》のようなものを感じて、浅羽の顔にぼんやりとした笑みが浮かぶ。その隣《となり》でロボットのように黙々と食い続けていた伊里野がふと箸《はし》を止め、米の中にぽつんと混じっているコクゾウムシの幼虫をまじまじと見つめる。
町へ下りて、コンビニで伊里野の下着と洗剤と十本入りの棒アイスを買った。
天気がよかった。
家庭科室は校舎一階の一番端にあって、部屋の突き当たりにある引き戸を開けると裏庭に出られる。トタンの屋根に守られた五台の洗濯《せんたく》機は今どき珍しい二層式《にそうしき》で、フタを開けると中に落ち葉が5センチも積もっていた。物干し台が見当たらなかったので、そのへんにあった竹竿《たけざお》を桜の枝とトタン屋根の支柱に渡して代用する。洗濯バサミは家庭科室の戸棚の中。
伊里野は着替えを一枚も持っていなかったので、浅羽がTシャツを、吉野が作業ズボンを貸した。Tシャツはまだしも作業ズボンはどうにもならないくらいにぶかぶかで、裾《すそ》を三回も折り上げ、ベルトにも新しい穴を開けてどうにか格好をつけた。まるで共和国の難民みたいだ、吉野はそう言って笑う。
三人で並んで、それぞれ洗濯機を一台ずつ使って洗濯をした。
本当に天気がよかった。久々に仕事を与えられた洗濯《せんたく》機はやる気満々で、機嫌のよさそうな音をたててぶんぶんごんごん回る。その振動を背中に感じながら、浅羽《あさば》が地べたに座ってソーダ味のアイスを舐めてい[#「る」の脱字]と、
「しっかし、なんでまたこんなところに毛が生えるかねえ」
トランクス一丁というスタイルの吉野《よしの》が、自分の乳首の周りにひょろひょろ生えている毛を指先でいじくっている。
「人間になぜ陰毛が生えるのかはずいぶん昔からの謎《なぞ》らしいな。第二次性徴期に発毛をみるというタイミングも何やら意味ありげだが、そもそも目立たせたいのか隠したいのかよくわからん。他《ほか》の哺乳《ほにゅう》類なんか局部の周りはむしろ毛が薄《うす》いもんだが」
浅羽は返答に窮《きゅう》し、居心地悪げにあさっての方向へと視線を逃がし、
「あ」
それに気づいた。
浅羽の視線をたどった吉野も、ほほう、と目を丸くした。
二人の斜め右方向には、タイヤもドアも窓ガラスもナンバープレートもなくなった軽トラックの残骸《ざんがい》が眠そうに鎮座《ちんざ》している。全体に白いペンキがべとべとに塗られていて、どうやら遊具の一種としてそこに置かれているらしい。運転席の屋根の上には伊里野《いりや》が座っていて、イチゴ味のアイスを舐めながらぶかぶかのズボンの両足をぶらぶらさせている。
その伊里野の背中に、セミがとまっているのだ。
そして浅羽はセミの声にも気づいた。学校を取り囲んでいる緑の中に、雨音のようなセミの声が静かに降り注いでいる。ずっと聞こえていたはずなのに、今の今まで気づかなかった。
――このへんにはまだセミがいるんだ。
伊里野の背中を見つめる。白いTシャツの背中、今までずっと長い髪に隠れていた背中。そこにセミがとまっていることにも気づかずに、伊里野は足をぶらぶらさせながら、どこか遠くを見つめている。
雨音のようなセミの声には、しかし、夏の生気はすでになかった。
一度でも瞬《まばた》きをしたら、伊里野の姿は日差しに溶けて消えてしまうのかもしれなかった。
「――よ。吉野さん」
「吉野さぁん?」
吉野は大げさに顔をしかめて浅羽を見つめ、ずはは、
「気持ち悪いなあ、いきなりどうしたのよ改まって。いいよ『おじさん』で。『おっさん』でも別にいいけど。『よっしー』でもいいや」
浅羽は赤面し、
「――じゃあ、おじさん」
「はい。何でしょう」
「おじさんは、もう五年も家に帰ってないって言ったよね、さっき」
「うん。もっとかもしれないけど、まあ大体そんなもんだよ」
「ぼくにもできるかな」
吉野《よしの》は意味をつかみかねて、
「できるかな、って。何が?」
浅羽《あさば》はうつむき、よじれた考えを一本の糸にまとめて、
「だから、ぼくにもおじさんと同じことができないかな。覚悟を決めて、なりふり構わずに頑張れば、誰《だれ》にも頼らずに、どこにも帰らずに、自分だけの力で、五年間生きていけるかな」
吉野は、まじまじと浅羽を見つめた。
「――ところで、」
そして、不意打ちのように、
「君たちは家出?」
浅羽は咄嗟《とっさ》に言葉を返せない。警官《けいかん》の職務質問、お節介な駅員、なれなれしい長距離トラックの運転手。様々な状況を想定して予《あらかじ》め用意していた何通りもの言い訳は、どれひとつとして役に立たなかった。
しかし、吉野はすぐに、ずは、と笑い、
「あーいやいや。別にいいんだ。君たちを警察に突き出そうなんて思っちゃおらんし。第一そんなことできる立場じゃないしな。君たちなりに色々とあったんだろうしさ、話したくないなら無理にとは言わんよ」
「あの、」
なぜ話そうと思ったのか、浅羽は自分でもわからない。
傷口からあふれる血を止められないように、自分の言葉を止められなかった。
「例えば、」
「うん?」
ずっと誰かに話したかったのかもしれない。この二日間、伊里野《いりや》に対しても自分に対しても懸命《けんめい》に「大丈夫」を演じてきた。しかし本当は不安で不安で、誰かに話したいと思っていたのかもしれない。
なぜ、自分たちが「大丈夫」ではなくなったのかを。
たとえ、相手が得体《えたい》の知れないホームレスのオヤジであっても。
「例えば、軍が開発したものすごい秘密兵器があったとして、」
「はあ?」
吉野が素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げる。浅羽は構わずに続ける、
「ある女の子がその秘密兵器のパイロットだったとして、その女の子はずっと昔からそのための訓練を受けてきて、だから友達もいなくって、口答えするとぐーで殴られたりして、いつもわけのわかんない薬を飲まされてて、たぶんそのせいで身体《からだ》の具合もどんどん悪くなって、生きててよかったって思うことなんかひとつもなくって、このまま放っておいたら死んじゃうかもしれない」
誰《だれ》かに話してどうにかなることではない。危険でもある。話せば気が済むというのなら電信柱か郵便ポストに向かって話せ――そんなことはよくわかっている。それでも口が勝手に言葉を紡ぎ、どうしてもそれを止められなかった。
一気に喋《しゃべ》って、最後にこう付け加えた。
「そういう女の子がもし目の前にいたとしたら、おじさんならどうする?」
吉野《よしの》は目を丸くしていた。
そのまま、何度か瞬《まばた》きをした。
そして、浅羽《あさば》がそれ以上の沈黙に耐え切れなくなる瞬間《しゅんかん》を見透かしていたかのように、吉野は唐突に立ち上がった。踵《きびす》を返し、トランクスに手を突っ込んでぼりぼりと尻《しり》をかきながらガニ股《また》でぶらぶらと歩き、引き戸をガラリと開けて、そのまま家庭科室の中へと姿を消した。
バカだと思われた。
話すんじゃなかった。
浅羽はもう身動きもできない。羞恥《しゅうち》と後悔に腸《はらわた》がねじれる。今すぐここを離れよう、伊里野《いりや》の手を引いてあの無人駅に駆け込んで、最初に来た列車に飛び乗ってどこか遠く離れた町の別の学校を探そう――まさにそう決意した瞬間《しゅんかん》、再びそれを見透かしていたかのように、煙草《タバコ》と百円ライターを手に吉野が戻ってきた。
えっこらしょと。
浅羽と肩が触れ合いそうな距離に腰を下ろし、煙草のパッケージを指で叩《たた》きながら、
「例えば、の話だったよな」
吉野はそう確認する。浅羽はすがるような眼差《まなざ》しでうなずく。吉野の煙草《タバコ》は、浅羽の父と同じラッキーストライクだった。
「まあ、何もしないだろうな」
いきなり、吉野は投げ出すようにそう言った。
一本くわえ、石を何度も何度も弾《はじ》いてようやく火を点《つ》け、
「何もできない、って言うかさ、結果として、その子が死ぬまで黙《だま》って見てると思うわ」
深々と吸い込み、長々と煙を吐き出し、
「いや違うな、たぶん見てもいないんだろうな。だってそんなの、見届けるだけでもすごい勇気がいるしさ、途中で何気なく目をそらして耳も塞《ふさ》いで、最後にはどうせその子のことなんかきれいさっぱり忘れて最初から何もなかったことにしちゃうんだろうな絶対。――ほら、特におじさんなんかこんなだしさ、ホームレスなんてやってる奴《やつ》にはみんなそれなりの理由があるわけよ。人一倍根性がないとか人一倍だらしがないとか人一倍努力がキライとか、まあひと言で言えば頭が悪いってことなんだけど」
吉野《よしの》はそこで言葉を切って、視線を宙に据えたまま、真下に自分の素足があるのもお構いなしに親指でフィルターを弾《はじ》いて灰を落とした。浅羽《あさば》をちらりと横目で見て、
「ホームレスに妙な幻想もってる人ってよくいるけどさ、ほら、『悪辣《あくらつ》な社会の餌食《えじき》にされたかわいそうな人』とか『その正しさ故に身を落とした聖なる貧者』とか、そんなイメージ。あんなのウソもいいとこだからね。この際だからほんとのこと言っちゃうけど、そりゃあ薄《うす》汚いもんだよ。女っ気がないからケツ貸したり借りたりさ、スキあらばどんな悪いことだって平気でするしさ。軽蔑《けいべつ》に値するよ。本人が言うんだから間違いないよ。おじさんだってこの道長いけどね、映画やドラマに出てくるようなかっこいいホームレスなんて見たことないよ」
浅羽は奥歯を噛《か》みしめる。羞恥《しゅうち》と後悔がじわりと蘇《よみがえ》って、今度はそこに落胆が加わった。
吉野はつまり、自分だってそうした下らない連中の一匹にすぎないのだから妙な期待をされても困る、と言っているのだろう。
無慈悲で誠実で、当然のことだ。
誰《だれ》に話したところで結果は同じだろう。羞恥と後悔はともかく落胆など愚かだと思う。誰かに話してどうにかなることではない――最初からわかっていたはずではないか。
突然、
「けどな、おじさんには無理だけどな、」
吉野が視線に力を込める。歪《ゆが》めた口の端から煙を吹き出して、一挙に話を頭に戻す。
「例えばだ。その女の子にはひとりだけ友達がいたとするわな。その友達は、おじさんみたいなのと違って勇気も根性もある立派な奴《やつ》で、女の子の窮状《きゅうじょう》を見るに見かねてその子を連れて逃げたとするわ。軍隊を向こうに回しての大|逃避行《とうひこう》だ。例えばの話だが、もし仮に、そんな奴が本当にいたとしたら、」
吉野は言い切る。
「尊敬のひと言に尽きるね。世界遺産に指定したいね。おじさんなんかがまともに見たらまぶしくて目が潰《つぶ》れるね。そして及ばずながらも手助けができはしないかと思うね。おじさんみたいな奴にもいいかっこしたいって気持ちがほんのちょっぴりぐらいは残ってるしさ、オレはそんなにも立派な奴の殿《しんがり》を守ったんだぞって後で仲間に自慢できるしさ。この先どこかの橋の下で野垂《のた》れ死にするときにも、そのときのことを思い出せば心安らかに死ねるかもしれない」
そして吉野は苦笑とともに煙を吐き出し、最後にこう付け加える。
「例えば、の話だけどな」
――この人は、
浅羽は思う、のんびりと煙草《タバコ》をふかしている吉野の横顔を食い入るように見つめる。この人は、一体何者なのだろう。なぜこんな人がホームレスにまで身を落としているのだろう。
「――おじさんは、」
「あ?」
「おじさんって、何してた人?」
「何って、仕事か?」
浅羽《あさば》がうなずくと、吉野はぼりぼりと頭をかいて晴天の空を見上げ、
「あー、んー。そうだな。一番やったのは日雇いのドカチンかな。ビルの建設現場とか。あとタンカーにも乗ったけどあれはキツかった。スラッジ清掃って言うんだけどね」
「その前は?」
「んー、それより前は、ゴミ箱あさって雑誌拾ったりとかだな。けど実はあれなあ、縄張《なわば》りとかノルマとかすごく厳しいんだ。まあスジモンの仕切りだからしかたないんだけど。ドカチンやスラッジだってそれは一緒だけど」
「その前は?」
つかの間、吉野は空の青を見上げて言葉を探した。
「――その前、か」
吉野はそれきり押し黙《だま》ってしまった。煙草《タバコ》をくゆらせ、あらぬ方向に視線を向けてぼんやりと物思いにふけっているように見える。浅羽はそれ以上は何となく追及できず、さりとて他《ほか》に話題を移すこともできずにいると、
「洗濯《せんたく》機とまった」
すぐそこに伊里野《いりや》がいた。
日差しの温度と雨音のようなセミの声が、浅羽の意識の表層に戻ってきた。
伊里野のアイスの棒が指し示す先に目をやると、ぶんぶんごんごん回っていたはずの洗濯機は三台とも仕事を終えてぴたりと沈黙《ちんもく》していた。浅羽が慌てて立ち上がろうとしたとき、
「――なあ、」
吉野が口を開いた。
「君らふたりとも、洗濯が終わったらさ、もしよかったらでいいんだが、」
そこで吉野はどこか気弱な笑みを浮かべ、浅羽と伊里野の顔を順に見回し、
「もしヒマだったら、」
しばらくためらった挙句に、こう切り出した。
「ちょっくら、おじさんのお遊びにつき合ってくれんかな」
三階の教室にしようと吉野は希望した。見晴らしがよければ気分もよくなるから、というのがその理由だった。吉野の言葉通り、その教室の窓からは空の青とロールシャッハテストのような雲と、丘のふもとの町全体が見渡せる。室内には三十に少し足りない机が乱雑に並び、正面の黒板はまるでカードテーブルのような緑色だ。背後には掃除用具を収めたロッカーと木箱を積み上げたような物置用の棚、廊下側の壁《かべ》は一面が掲示板になっていて、『愛国』と書かれた書道の半紙が机の数だけ並んでいた。
吉野《よしの》は教壇《きょうだん》に立ち、壁《かべ》の時計にちらりと目をやって、
「さて、授業を始めるぞ」
そう言った。
微《かす》かな緊張《きんちょう》がにじむその声を、浅羽《あさば》は何かの冗談のように聞いた。小学校高学年用の机や椅子《いす》は小さくて窮屈《きゅうくつ》で、教室全体までがどこかミニチュアのように感じられる。隣《となり》の席に座っている伊里野《いりや》もまた困惑を隠せず、時おり横目で浅羽の様子をうかがっている。
「まず出席を取らなきゃな。あー、」
そこで吉野は微かに狼狽《ろうばい》し、取り繕《つくろ》うような笑みを浮かべ、
「そうか、そういえばまだ名前を聞いてなかったっけ。君ら、名前は?」
「――浅羽です。浅羽|直之《なおゆき》」
「伊里野、加奈《かな》です」
「よし。浅羽君に伊里野君だな。先生の名前は吉野|敏明《としあき》、君たちの日本史を担当する」
浅羽はつい、
「でも、教科書とか持ってないし、」
吉野は断言する、
「大丈夫。そんなものは要らない」
本気なのだろうか。
浅羽はそう思わずにはいられない。自分たちふたりを相手に、いま、ここで、本気で日本史の授業をやるつもりなのだろうか。
「君らはどこまで進んでいる?」
「――鎌倉《かまくら》時代。守護《しゅご》地頭《じとう》とか」
わかった、吉野はうなずいてチョークを振るう。新恩給与《しんおんきゅうよ》、本領安堵《ほんりょうあんど》、黒板にそう殴り書きする手は微かに震《ふる》えている。
世にも痛々しい講義《こうぎ》が始まった。
吉野はただただ必死だった。まるで子供が自転車に乗る練習をしているかのようだった。聞かされる方は針の筵《むしろ》で、浅羽はうつむいたまま黒板に顔を向けることさえできない。吉野は何度も口ごもり、解説すべき用語を思い出せず、幾本ものチョークを折った。
しかし、そうした小さな失敗をひとつ経るごとに、吉野をがんじがらめに縛《しば》りつけている緊張は少しずつ解けていった。
突如として自転車の乗り方を思い出したかのように、吉野はかつての自分を急速に取り戻していった。説明の中から専門的な用語が欠落していき、チョークは手の中でもてあそんでいるだけになり、そして吉野は、教科書に書いてあるような言葉ではなく、自分自身の言葉で鎌倉時代を語り始めていた。
浅羽は、ゆっくりと顔を上げた。
吉野《よしの》の授業は、面白《おもしろ》かった。
伊里野《いりや》が夢中になるほどだった。吉野の魔法《まほう》は浅羽の心をもあっけなく絡めとって数百年前の世界へと連れ去っていく。その間際に浅羽は不思議な感覚を覚えた。幽体《ゆうたい》離脱したもうひとりの自分が、この場の光景を俯瞰《ふかん》しているような感覚。
奇妙な光景だった。
もうすぐ戦争が始まるのだ。下界には治安部隊があふれ、学校はすべて有事休校となって校舎の中には誰《だれ》の姿もない。誰もいないはずのその校舎の一室で日本史の授業が行われている。その教室はほの暗く、窓からの見晴らしがよく、ふたりの生徒とひとりの教師がいる。
ホームレスのおっさんが、見るからにケンカの弱そうな少年と真っ白な髪の少女を相手に、何百年も昔の世界についての話をしている。
昼飯は吉野のおごりのコンビニ弁当だった。こんなつまらないもので申し訳ない――吉野はそう言ってしきりに頭を下げ、夕食はとびきり豪勢にするからと約束して材料を「アレ」しにどこかへ出かけたまま、ひぐらしの鳴く時間になってもまだ戻らない。洗濯《せんたく》物はとっくに乾いていたが、伊里野はいまだにTシャツと作業ズボンという格好で、ボウリングで浅羽をこてんぱんにぶちのめしている。
浅羽はついに、その場に大の字にひっくり返って泣きを入れた。
「もうだめ、もう降参」
が、伊里野は満面の笑みを浮かべてぶんぶん首を振り、渡り廊下に飛び散った十本の牛乳ビンを三角形に並べ始めるのだった。チョーク片手にうんこ座りをして新たなスコア表をぐりぐりと床に書きつけ、突如として浅羽がぎょっとするほどの奇声を上げて、お前の番だ早くしろとばかりに浅羽めがけてバスケットボールを投げつける。
まるで子供だった。
「ったく危ないなもう」
浅羽は思わず立ち上がると、伊里野は不敵な笑みを浮かべて驚《おどろ》くべき言葉を口にした。
「浅羽のへたくそ。よわむし意気地なし」
浅羽の顔に、あられもない驚《おどろ》きの表情が浮かんだ。
途端《とたん》に伊里野が照れた。唇を噛《か》んで曖昧《あいまい》に視線をそらし、素足に履《は》いたゴムぞうりのつま先でアスファルトの白線をなぞる。
浅羽は驚《おどろ》きの表情はすぐに呆《あき》れたような笑みに取って代わり、呆れたような笑みはたちまちのうちに不敵な薄《うす》笑いへと変化していく。
「ぼくの番からだよね」
伊里野は真面目《まじめ》な顔で何度もうなずく。浅羽は植え込みの中に突き刺さっているバスケットボールを拾い上げ、人差し指の上でくるくる回しながら投球位置につく。自分のつま先に視線を落とし、ゆっくりと顔を上げて、渡り廊下の先に待ち受けている障害物をひとつひとつ確認していく。まずは3メートルほど先にコーンが二つ、そのまた3メートルほど先にはバケツが四つ。力まかせにボールを転がして障害物を弾《はじ》き飛ばしてもいいというルールだが、四つのバケツのうちの二つには水がいっぱいに入っているし、牛乳ビンの手前に並んでいる跳び箱の踏み台が曲者《くせもの》で、あまり強く投げるとボールがジャンプしてビンを飛び越えてしまう。しかもその踏み台の上には猫がいて、
猫?
「猫」
伊里野《いりや》がつぶやいた。
猫だった。牛乳ビンの手前の、跳び箱の踏み台の上に猫がいた。背中でもかゆいのか、踏み台の表面に身体《からだ》をぐりぐりこすりつけるような真似《まね》をしている。と、ふいに首をもたげてこちらをじっと見つめた。
「猫、」
伊里野が近づこうとして一歩足を踏み出すと猫はぎゅっと全身に力を込め、二歩踏み出すと素早く身を翻《ひるがえ》して、体育館の扉の隙間《すきま》に飛び込んで姿を消した。
伊里野が追いかける。
浅羽《あさば》がその後に続く。
猫は、完全に逃げ切ってしまうつもりはないらしかった。伊里野が近づこうとすると走り出して距離を取るが、すぐに足を止めてじっとこちらの様子をうかがっている。体育館には床運動の器具が出しっぱなしになっていて、猫はそれらの陰に隠れながら縦横《じゅうおう》に逃げ回る。まるで障害物競走のような追いかけっこが続くうちに、猫が逃げ出す距離は次第に短くなっていく。
猫はやがて、手が届く距離まで近づいても逃げなくなった。
白と黒のぶちで汚くて痩《や》せっぽちで、まだほんの子猫だった。浅羽と伊里野にじっと見つめられて嬉《うれ》しいのか恥ずかしいのか、子猫は床に身を投げ出してぐりんぐりん転がり始めた。浅羽は思わず笑みを浮かべて、
「面白《おもしろ》いなあこいつ」
伊里野がそっと手を差し伸べて抱き上げると、子猫は伊里野をじっと見つめて、何か重大な秘密でも打ち明けるようにひと声だけ鳴いた。そして、浅羽はそのときになってようやく気づいたのだ――子猫の鼻のあたりにちょび髭《ひげ》のような形の黒い斑点《はんてん》があることと、伊里野の横顔に漂う笑い事では済まない切実さに。
まずい、と思ったときにはもう遅かった。
「この子、飼ってもいい?」
案の定だった。
「ちゃんと、ちゃんと面倒《めんどう》見るから」
だめに決まっていた。理由など百通りでも思いつく。
「――あのさ、」
食い入るような伊里野《いりや》の眼差《まなざ》しに浅羽《あさば》はそれ以上の言葉を失う。だめだと言え、今ならまだ間に合う――頭の隅でちらりとそう考えて、伊里野と目を合わせることができず、伊里野の胸に抱かれている子猫と目が合った。
後ろめたかった。
伊里野の腕に抱かれているそれは、猫の形をした、まぎれもない「現実」の姿だった。
「――いいよ」
浅羽は、ふっと表情を弛《ゆる》めた。
「この学校広いしさ、子猫一匹くらい平気だよ。ごはんは、ぼくらの分を分けてあげればいいしさ。――そうだ、あとで寝床とトイレ作ろう。あと名前もつけなくちゃね」
伊里野は素晴《すば》らしい笑顔を浮かべた。子猫がその笑顔に反応して、伊里野の腕の中から身を乗り出すようにしてにょろにょろした鳴き声を上げる。
浅羽は、体育館の天井を見上げた。
これでよかったのだ。
自分は正しいことをしている。
天井を見上げたまま踵《きびす》を返し、伊里野と子猫に背を向けて大股《おおまた》に十歩あるいた。
そこで足を止め、浅羽は西日の差し込むがらんどうの虚空に向かって声を限りに吠《ほ》えた。
伊里野が突然のことに驚《おどろ》いて目を見開き、子猫は伊里野の腕の中から飛び出してあたりを走り回った。虚空に響《ひび》き渡る叫び声はすぐに笑い声へと変化して、浅羽はその場で身をよじって笑い続けた。やがて息が切れ、笑い声の木霊《こだま》も西日の中に溶けて消え、しかし浅羽の顔には獰猛《どうもう》な笑顔が溶け残る。
体育館の天井を見上げる。
ずっと昔から、一度でいいからやってみたかった。
浅羽は走り出す。体育館を横切って、梯子《はしご》のような階段を登り、三方の壁《かべ》に張りめぐらされているバルコニーへと駆け上げる。古びた木製のベンチを次々とまたぎ越し、窓全体をおおっている鉄製の格子を登っていく。
ずっと昔から、一度でいいからやってみたかったのだ。
全校集会で校長のクソ面白《おもしろ》くもない話を聞いているとき、風邪《かぜ》を引いて体育を見学しているとき、頭上を見上げていつもいつも思っていた。ゆるい弧を描く体育館の天井と、それを内側から支えているトラス構造の巨大な骨組。
何とかして、あそこによじ登れないだろうか。
実際に試みたことはまだ一度もない。しかし、いつもそのことを夢想していた。生徒会の会計報告を聞きながら、バスケットコートの隅でドリブルの振動を感じながら、いつもいつも天井を見上げて頭の中で登攀《とうはん》ルートを練っていた。ついにその夢を実現させる時が来たのだ。
伊里野《いりや》が何かを叫んだ。
天井の支柱に手をかけて身体《からだ》を引き上げたとき、浅羽《あさば》はそれを背中で遠く聞いた。三角形に組み合わされた骨組は予想以上にほこりまみれで、一歩足を運ぶごとにスニーカーのソールがグリップを失ってバランスが崩れそうになる。支柱から吊《つ》り下げられた照明器具は、下から見上げたときにはとんでもなく巨大なものかと思っていたのに、実際に目の前にしてみると両腕で抱えられるくらいの大きさしかない。ちらりと下を見る。高さがリアルに感じられない。窓から差し込む西日の他《ほか》には何もない。落ちたら怪我《けが》だけでは済まないかもしれない、そう思うと背中にぞくりと震《ふる》えが走る。浅羽は忍者のように身をかがめ、骨組の一本一本に身体中でしがみつきながら、アーチ型の天井の中心を目指して猛然と進んでいく。
「わあっ!! なっ、なあっ!? 何をやっとるんだこらあっ!?」
吉野《よしの》の声。見れば、体育館の入り口のあたりに吉野がいて、腰を抜かしそうな顔をしてこちらを見上げている。ここまで来て後には引けない。浅羽は吉野に小さく手を振って笑いかけ、支柱の上に立ち上がって身体《からだ》を伸ばし、三角形の骨組から手を離して両腕を左右に広げた。
最後の2メートルを、ゆっくりと、綱渡りをするように歩いた。
天井の中心にたどり着いた。
放送用のスピーカーを支えているワイヤーをつかみ、支柱の上に腰を下ろした。体育館の床が平坦で変化に乏しいせいか、やはり高さがピンと来ない。思い出す――空《す》きっ腹を抱えながら聞いた校長の陳腐極まりない喩《たとえ》話、会計報告を棒読みする三年生女子の髪をかき上げるときの仕草《しぐさ》、体育を見学しながらフリースローのたびに外せ外せと呪《のろ》いをかけたこと。あのときは見上げているばかりだった場所に、今、自分はこうして座っている。
いい気分か。
そんな気もするが、自分でもよくわからない。
夢が叶《かな》って嬉《うれ》しいか。
そんな気もするが、やはり自分でもよくわからなかった。
「浅羽くんっ! 危ないからっ! 危ないから早く降りなさいっ!」
浅羽は笑う、
――いいとも。
そのとき、伊里野は為《な》す術《すべ》もなく立ち尽くして天井を見上げていた。吉野はセンターサークルのあたりをおろおろと歩き回っており、その足に蹴《け》られて転々と転がっていくバレーボールを子猫が夢中になって追いかけていた。
浅羽は薄《うす》く目を閉じて仰向《あおむ》けに身体《からだ》を倒し、背後の虚空《こくう》にその身を委《ゆだ》ねた。
ほこりにまみれた支柱の感触が尻《しり》から足、踵《かかと》へと滑り落ちるように移動していき、浅羽の体重を支えているものは、ついに何もなくなった。
落下した。
そして、最初から狙《ねら》いすましていた通り、浅羽の身体《からだ》は床運動用の安全マットのど真ん中に埋まった。ぶよぶよしたスポンジの感触の中で、浅羽は手足を振り回して再び大声で叫ぶ。それは歓喜の叫びのようでもあったし、罠《わな》に捕らえられた獣《けもの》の叫びのようでもあった。
大丈夫だ。
自衛軍も米軍も上等だ。
心配しなければならないようなことは何もないのだ。
ふと、視界の中に吉野《よしの》の顔があることに気づいた。体育館の天井を背景に、呆気《あっけ》にとられたような間抜け面《づら》が斜め上からこちらをのぞきこんでいる。浅羽は振り上げていた拳《こぶし》を下ろし、ぼんやりとした笑みを浮かべて、
「今日の晩ご飯、なに?」
間抜け面がはっと我に返って、
「にっ。にわとり」
◎
用務員も警察《けいさつ》も自衛軍も米軍も現れないまま、幸福な五日間が過ぎた。
今日も本当に天気がいい。午前中の授業も昼飯も済ませて、浅羽は渡り廊下に椅子《いす》を持ち出して吉野の散髪をしている。ばっさりやってくれ、今日はちょっと町に出かけなくちゃならないから――吉野はそう言った。浅羽は鋏《はさみ》を動かしながら理由を尋ねるが、吉野は言葉を曖昧《あいまい》に濁《にご》らせる。その周囲をうろうろと歩き回っていた伊里野《いりや》が、吉野が済んだら自分の散髪もしてくれと言い出す。伊里野にはついこの間してあげたばっかりじゃん、浅羽がそう指摘すると伊里野はむくれて、刈り布を滑り落ちていく吉野の髪をつかんで浅羽に投げつける。
今日も、本当に天気がいい。
紀国町《きのくにちょう》の町役場は、学校がある丘から歩いて二十分ほどの距離にある。見るからにお役所という感じの色気のない建物で、駐車《ちゅうしゃ》場の入り口近くには自衛軍の装甲車両が一台だけ止まっており、近所の小学生が飽きもせずに毎日見物にやってくる。
「こらあーっ! 戦車の上に登っちゃいかーん!」
「――すいません、職員の方ですか?」
竹箒《たけぼうき》を手に小学生どもを追い散らしている初老の男に、吉野《よしの》はそう尋ねた。男は吉野をじろりと胡散臭《うさんくさ》げに見つめるが、すぐに「ああ」と納得して、
「そうか。見かけない顔だなあと思ったんだが、あんたも疎開してきた口かい?」
吉野は笑顔を浮かべてうなずく。伸び放題だった髪は綺麗《きれい》に切り揃えられており、作業ズボンには下ろしたてのようにぴっちりと折り目がついている。その姿は、誰《だれ》の目にもまさかホームレスとは映らなかい。
吉野は、すっきりと刈り上げられた後ろ頭をしきりに気にしながら、
「あの、ここに図書館があるって聞いてきたんですが……」
「あるよ。そこの、」
男は背後の建物を指差して、
「入り口は入って右だよ。あ、でも急がないと閉まっちまうな。土曜日は三時までだから」
吉野は慌てて腕時計を見た。三時まであと二十分ほどだった。ありがとうございます、そう言って頭を下げるのもそこそこに吉野は走り出す。
「ああそれと、町外の人間でも身分証明書になるもの見せれば貸してくれるはずだから!」
背後からそう叫んでよこす男に手を上げて答え、吉野は役場の入り口に駆け込んでガラス張りの通路を右に折れた。うっかりしていた――吉野は走りながら小さく舌打ちをする。もう長いこと平日も週末も関係のない生活をしてきたが、そうだ、今日は土曜日なのだ。
これからは、せめて曜日を意識する人間になろう。
この五日間ずっと、午前中の九時から十時までの一時間を、吉野は歴史の講義《こうぎ》をして過ごしてきた。浅羽《あさば》も伊里野《いりや》も熱心に耳を傾けていたが、吉野は自分の知識が錆《さび》ついていることを痛感していた。学校の図書室をあさってもみたが、そもそも蔵書量が決定的に乏しく、内容的にも小学生向けの物がほとんどで、吉野の期待に沿うようなものは見つけられなかった。
「もう閉館ですよ」
図書室の司書は見るからにボランティアと思《おぼ》しきおばさん二人組で、店じまいの準備を始めたところに息せき切って駆け込んできた吉野を不審《ふしん》げに見つめる。吉野は呼吸を整え、あと十分だけでいいから待ってほしいと頼み込む。
かつての自分を取り戻したかった。
おばさん二人組に何度も頭を下げて、吉野は棚と棚の間を忙しく歩き回った。目ぼしい本を次々に抜き出し、目次にざっと目を通して内容を把握する。とりあえず明日の授業を乗り切れればそれでいい、月曜日になったらまたここに来て――
「――小学校って、成増《なります》小?」
そのとき、おばさんの片割れの話し声が聞こえた。
次の本を抜き出そうとしていた吉野の手が、動きを止めた。
「そう。うちの旦那《だんな》がね、昨日の夜中に車で通りかかったら下の方の部屋に明かりが点《つ》いてたんだって。学校荒らしじゃないかって。そしたら下の息子が自分も見たって言い出して」
「何を?」
「幽霊《ゆうれい》」
「えぇえ〜?」
「ほんとよ。髪の毛の白い女が屋上から見下ろしてたって言うのよ。あたし近所だしさあ、もう気持ち悪くって」
「――それ、幽霊はともかくさ、警察《けいさつ》に言った方がいいんじゃないの?」
「いやよぉ。だってほら、いま警察ってすごくアレでしょう? 桐谷《きりたに》さんのこと聞いた? 養鶏《ようけい》場の鶏《にわとり》が盗まれたって言いに行ったら何だかんだで夜中まで取り調べよ? いま警察とごたごたするのなんてあたし絶対いやよぉ」
「あの、これお願いします」
おばさん二人組は話をやめて、カウンター越しにのっそりと本を差し出している吉野《よしの》をじっと見つめた。
写真を雑に貼《は》り替えただけの幼稚極まりない偽造免許証が、おばさん二人組にはあっさりと通用した。吉野は借り出した三冊の本を抱え、ガラス張りの通路を夢遊病者のような足取りで歩き、役場の正面入り口から日差しの下に出た。周囲を見回してみたが、親切だった竹箒《たけぼうき》のオヤジの姿はもう見当たらなかった。
入り口に備え付けられているゴミ箱に、借り出したばかりの本を捨てた。
ポケットを探って煙草《タバコ》とライターを取り出す。
空に向かって長々と煙を吐き出し、吉野は晴れがましい笑顔を浮かべた。
いい夢を見たのだ。
吉野はそう思う。
吉野はこれまでの放浪生活において、ひとつの学校に三日以上|留《とど》まったことがない。どんなに長くとも三日――それが、長年の経験から導《みちび》き出された動かし難い潮時《しおどき》だった。なのに、自分はもう五日もあの学校にいる。あまつさえ、子供二人を相手に教師の真似《まね》事までしていた。
あれほどはっきりした噂《うわさ》が立っているのだ。誰《だれ》かに通報されるのは時間の問題である。
何かを失うわけではない。取り戻すもクソもありはしない。
本当に、いい夢を見た。
吉野はゆっくりと歩き出す。駐車《ちゅうしゃ》場の入り口近くの装甲車両にはさっきの小学生たちが性懲《しょうこ》りもなく群がっていて、そのうちのひとりが車体をよじ登ろうとしてバランスを崩し、背後によろけた拍子に吉野にぶつかって足を踏んづけた。すでに車体の上に登っている連中が囃《はや》し立てるような笑い声を上げ、ぶつかってきた小学生は吉野に謝《あやま》るでもなく、友人たちに大声で何事かを言い返してもう一度挑戦しようとした。
その襟首《えりくび》を吉野《よしの》はつかみ、強引に振り向かせ、日焼けした横っ面を張り飛ばした。
装甲車両の上で大騒《おおさわ》ぎしていた連中が凍りついた。張り飛ばされた小学生は、鼻血にまみれてアスファルトに転がったまま動かない。吉野はその場にいる全員を順番にゆっくりと指差して、ささやくような声で言う。
「さっき言われたろ。戦車に登るな」
同刻。町役場からさほど離れていないコンビニのレジで、浅羽《あさば》は受け取ったばかりのレシートをじっと見つめている。背後に並んでいたヤンキー風のあんちゃんに手荒く背中を小突かれて慌ててレジから離れ、肩でドアを押して逃げるように店を出た。そこで立ち止まり、もう一度レシートを確認する。
使い捨てのカミソリが、本当に千円もするのだろうか。
ビニール袋に手を入れてブツを取り出してみる。レシートに記載されている商品名と照らし合わせてみるが、やはり間違いはない。プラスチック製の使い捨てカミソリが三個で千円。
ただし、パッケージに値段のシールが二重に貼《は》られている。
便乗値上げだ、と浅羽は思った。
北方情勢の悪化以来、都市部ではほとんどの店がシャッターを固く閉ざしている。この町はそれでもずいぶんましな方だが、確実に営業している店と言ったらやはりコンビニくらいしかない。となれば、ちょっとした「有事手当て」をもらおうと考える奴《やつ》が出てきたとしても不思議はない。
背後のガラス越しに店内を振り返って、小さくため息をつく。
仕方がない。この御時世にまともに物が買えるというだけでも感謝《かんしゃ》すべきなのかもしれないのだ。まさしくコンビニエンスの名に恥じない。競争相手のいなくなった今こそチャンス、という理屈はわかるが、見渡す限りに死に絶えた商店街の外れで今日もしぶとく二十四時間営業を続けるその執念は何やら薄《うす》気味悪くもある。
レシートとカミソリのパッケージを袋の中に叩《たた》き込んで、浅羽はゆっくりと歩き出す。
ポケットの中の釣銭が一歩ごとにじゃらじゃらと音を立てた。学校に住み着いて以来、浅羽は十二万の入った財布はダッフルバッグのサイドポケットにしまっておいて、買い物に出かけるときにはそこから必要な分だけ出すようにしている。こうすれば落としたり盗《と》られたりすることもないし、つい誘惑に負けて過剰な額の無駄遣いをすることもなくなる。
しかし浅羽は思う――使い捨てカミソリが三個で千円というのは、やはり無駄遣いの部類に入るのではないか。
――お、なんだ。浅羽君も髭《ひげ》が伸びてるなあ。
そう指摘されたのは、吉野の頭を刈り終わったときだった。
かなり恥ずかしかった。
いつもの散髪道具には折りたたみ式のカミソリも入っているが、浅羽はそれを使って同級生の髭は剃ったことはあっても自分の髭《ひげ》を剃《そ》ったことはまだ一度もない。普段《ふだん》は、家の洗面所に置いてある父の電気カミソリをこっそり借りている。しかも、できるだけ家族がいないときを見計らって素早く済ませる。
髭など生えても、少しも嬉《うれ》しくない。
折りたたみ式のカミソリを使わないのは、それがあまりに正式かつ本格的な道具であり、そんなものを使ったら髭の存在そのものや髭剃りという行為を自分に対して肯定してしまうような気がするからだった。なんでまたこんなところに毛が生えるかねえ――吉野《よしの》は、自分の乳首に生えている毛をつまんでそう言った。その疑問はまったく正しいと浅羽も思う。が、大人《おとな》によくあるあの手の開き直ったような態度は嫌いだ。
学校のトイレに隠れて髭剃りをしようと思っていたが、学校に戻ったところを伊里野《いりや》に見つかって「なに買ってきたの?」と尋ねられたら返事に困る。そのへんの公衆便所かどこかでさっさと済ませて何食わぬ顔で戻った方がいいかもしれない――そんなことを考えながら、舗装《ほそう》もされてない川沿いの道を歩いていたときだった。
浅羽《あさば》はふと、壁《かべ》に突き当たったかのように立ち止まった。
十時の方角、距離約5メートル。
草むらの中に、遠目にもどぎつい色彩の雑誌が落ちている。
浅羽が足を止めていたのはほんの一瞬《いっしゅん》のことだった。十時の方角から意識的に目をそらし、指先でコンビニの袋をくるくる回しながら歩き出す。そのまま50メートルほど歩いたところで浅羽は再び立ち止まり、ぽつりと独りごとを言った。
「そうだ。猫缶買うの忘れた」
忘れたも何もたった今思いついたくせに、浅羽は何食わぬ顔で回れ右をして、土手の上の道を逆戻りし始めた。今度は足を止めず、例の草むらに一瞬だけ目を走らせ、そこにある雑誌の正体をもう一度確認する。
そのまま通り過ぎる。
そして浅羽は、誰《だれ》も見ちゃいないのに、信じ難いことに、本当にコンビニまで戻って本当に猫缶を買った。
浅羽が再び土手の上の道に姿を現すまでに大した時間はかからなかった。今度は足取りを緩《ゆる》め、道に迷っているかのような素振りで周囲に人影がないことを確認している。例の草むらを視界の隅に捉《とら》えた。十時の方角、距離約5メートル。
土手を駆け下った。
足取りがおぼつかない。何度も転びそうになりながら草むらに走り込み、そこに落ちている雑誌をつかんでコンビニの袋にねじ込む。
捨てられてまだ間もないと思《おぼ》しきエロ本だった。
同刻。学校へと続く坂道を吉野《よしの》が駆け上がっていく。通報されるのは時間の問題――とはいうものの、足を踏んだ小学生を成敗して町役場を後にしたときの吉野は、まだそれほど急いではいなかった。今この瞬間《しゅんかん》にどうこうというわけではないし、ゆっくり学校に戻って荷物を回収して、足手まといの家出中学生二人組には書き置きでも残してトンズラすればいい。そんなふうに思っていた。どうせこの町を出てしまうのだからもう遠慮《えんりょ》はいらない――そんなことも考えて、道端の自動販売機を壊《こわ》してビールを盗む余裕すらあった。
ところが、西の空ににじむ夕暮れの気配《けはい》に気づいたとき、何の根拠もない焦りの気持ちが唐突に沸き起こった。
重さに苛立《いらだ》ってせっかく盗んだビール缶もすぐに投げ捨てた。走ることで焦りはさらに増幅され、吉野は走り、すぐに息が切れて歩き、また走った。町を抜け、丘の坂道を必死の形相《ぎょうそう》で駆け上がり、両腕を振り回しながらグランドを横切って、渡り廊下の戸口から校舎の中へと土足で駆け込んだ。
全身汗みずくだった。
ひんやりとした薄闇《うすやみ》が心地よかった。廊下の中ほどにある水道で嫌というほど水を飲み、疲れ切った足を引きずって二階へ上がったところで伊里野《いりや》と出くわした。
双方が無言のまま、一瞬が過ぎた。
吉野は唐突に笑みを浮かべ、
「――あれ、浅羽《あさば》君と出かけたんじゃなかったんだ」
ひと呼吸おいて伊里野はこくりと肯《うなず》いた。
今日は制服を着ている。
掃除用具の入ったロッカーの扉に手をかけたまま、吉野をじっと見つめている。
何してるの?――吉野は視線で問いかけると、
「校長が廊下でうんちした」
事情を知らない者が聞いたら目を剥《む》くようなセリフだが、この場合の「校長」とは伊里野が面倒《めんどう》を見ている子猫の名前である。渡り廊下でボウリングをやっていたときに見つけたあの子猫だ。いつまでも思い悩んでいる伊里野に代わって浅羽が「校長」と命名した。見つけた場所が学校であることと、鼻のあたりにちょび髭《ひげ》のような黒い斑点《はんてん》があることに由来する。
「――どこに?」
吉野は周囲を見回してみたが、猫の糞《ふん》のようなものは見当たらない。
「一階の廊下。渡り廊下のところ」
そう聞いて、まさか踏みつけてしまったのではないかと慌てて靴の裏を確認して、そこで吉野は自分が土足のまま校舎に上がりこんでいたことにようやく気づいた。
当然、伊里野もそのことに気づいた。
「お、あらら。ちょっと慌ててたもんだから」
吉野《よしの》は大急ぎで靴を脱ぐ。笑ってごまかそうとしたが、どうしても笑みが引き攣《つ》ってしまうような気がして、吉野はそのまま伊里野《いりや》に背を向けて歩き出す。宿直室の扉を開けて、横目でちらりと伊里野の様子をうかがう。伊里野はその場を一歩も動かずに、表情の読めない目つきで吉野をじっと見つめていた。
もちろん吉野とて、今日という日が来ることをまったく予期していなかったわけではない。いつでも逃げ出せるように荷物の管理には普段《ふだん》から気を配っていたし、町を出るまでの逃走経路の下見も済ませてある。身の回りの物をリュックサックに詰め込むだけで出発の準備は完了し、吉野はそこではたと思案する。書き置きはどうしよう。目につきやすいように、あの二人が寝起きしている保健室のどこかに一筆書き残していくか。吉野は鼻で笑ってすぐにその考えをかき消した。書き置きなんてやめだ。下らん感傷だ、お遊びはもう終わったのだ。
そのとき、吉野の腹の底でぐるりと蠢《うごめ》くものがあった。
背負いかけていたリュックサックが、どさりと畳の上に落ちた。
吉野はゆっくりと背後を振り返る。
宿直室の扉がそこにある。吉野は、その扉を開けて廊下に出ることを想像する。
左手の方向に歩き、階段を下って一階に下りることを想像する。そこには渡り廊下へ続く扉と防火|壁《へき》と火災報知器があって、猫の糞《ふん》はたぶんもうない。一階の廊下をさらに進む自分を想像すると、左手にトイレの入り口が見えてくる。手前が男子用で奥が女子用だ。果たしてどちらか。もちろん女子トイレだろう。女子トイレに入るとまず右手に洗面台が二つ、その奥には個室が四つ並んでいて、一番奥の扉が開いている。箒《ほうき》は壁《かべ》に立てかけられているかもしれない。吉野は想像する。伊里野は個室の中にいて、ちりとりに乗せた猫の糞を便器の中に捨てている。想像する。無防備にもほどがある。こちらに背を向けて、便座に片膝《かたひざ》を乗せてスカートに包まれた尻《しり》を突き出し、コックに手を伸ばして水を流そうとしている。吉野はその先を想像する。
同刻。土手の道を丘の方向へと遡《さかのぼ》っていくと川幅は急速に狭くなり、流れはその分だけ速さを増して、その行く手に小さな橋が現れる。周囲は田んぼや畑ばかりで、頭上に覆《おお》いかぶさってくるような丘の緑にひぐらしの鳴く声が降りそそいでいる。橋の真下にはコンクリートで固められた大きな窪《くぼ》みのような場所があって、橋の上から大きく身を乗り出して下をのぞき込みでもしない限り、その窪みに身を潜《ひそ》めている浅羽《あさば》の姿を見つけることはできない。
――ここなら大丈夫だ。
浅羽はその場に腰を下ろし、背後のコンクリートに背中をあずけた。
一度だけ深呼吸をした。
コンビニの袋から、そっとエロ本を取り出した。
まず表紙をたっぷり三分間は眺めていた。ショートヘアの女の子が足を崩して座り、ビキニの片紐《かたひも》に細い指先を差し込んでいる。
一枚ずつめくっていく。
表紙裏のサラ金の広告、表紙の女の子へのインタビュー、大きな活字と小さな写真がごちゃ混ぜになった見開きの目次。「見逃すな! これが女のコのH≠nKサインだ!!」と題する知恵遅れのフロイトみたいな記事がしばらく続き、グラビアのページへと突入した瞬間《しゅんかん》に浅羽《あさば》の思考は硬直する。
本当に、なんでこんなところに毛が生えるのか。
浅羽はページをめくる手を少しだけ早めた。あまりじっと見るとインパクトが薄《うす》れてしまうので、意識の焦点をわざとぼやけさせて、気に入ったページをチェックしていく。ひと通り目を通し終わると、今度は後ろのページからもう一度。
ベッドに仰向《あおむ》けになって、両腕で胸を挟むようにしている女の人。
水着を膝《ひざ》まで下ろして、砂だらけの身体《からだ》に口を尖《とが》らせている女の人。
シャワーのホースを足に巻きつけ、背中を反り返らせている女の人。
浅羽は想像する。ベッドに仰向けになっている女の人が起き上がって、四つん這《ば》いでこちらににじり寄ってくる。砂にまみれた大きな胸が背中に押しつけられる感触がする、ずぶ濡《ぬ》れの身体と身体が密着してシャワーのホースでぐるぐる巻きにされる。三人の唇が耳元に迫るところを想像する、吐息が耳たぶをくすぐり、
――浅羽のすきにして。
なぜか伊里野《いりや》の声で。
だめだ、
浅羽は想像を強引に軌道修正する。
こういう想像に伊里野を持ち出してはいけないのだ。
もうずっと前からそう決めているのだ。
浅羽はグラビアに集中する、ズボンのファスナーを下ろし、もぞもぞと腰を動かして尻《しり》の位置をずらす。日差しの角度が悪くて、橋の上から斜めに差し込んでくる夕日が当たってページが光ってしまう。雑誌を下に置いて自分の影で隠すようにすると、今度はページが風にひらひらとあおられて落ち着かない。そのへんにあるコンクリートの破片を乗せて、気に入った写真のあるページには栞《しおり》代わりに小石を挟む。
想像する。
三人の女が即座に絡みついてくる。
同刻。吉野《よしの》の想像はかなり早い段階から外れていた。伊里野はなぜか、体育館の脇《わき》にある焼却炉の中に校長の糞《ふん》を捨てていた。
「トイレに流せばいいのに」
突然の吉野《よしの》の言葉に伊里野《いりや》は飛び上がって驚《おどろ》いた。その拍子にちりとりを焼却炉の中に落としてしまう。身体《からだ》ごと背後を振り返り、すぐ目の前にいる吉野を呆然《ぼうぜん》と見つめる。吉野は乾き切った唇を舐《な》め、震《ふる》える息を吐き出して、
「前から、」
興奮《こうふん》と緊張《きんちょう》で声が裏返ってしまう。
「前から聞きたかったんだが、その髪の毛のこと。それ、最初は染めているのかと思ってたけど違うよな。どうしたの一体?」
伊里野は聞いていない。吉野がなぜリュックサックを背負っているのかわからない。ずいぶんな間をおいてから、やっと、
「どこかに、出かける?」
吉野は薄《うす》気味が悪いほどの早口で、
「どこかに出かける。どこかに出かけてもう戻らない。小学校に誰《だれ》かが住んでるって町で噂《うわさ》になってる。今ごろもう誰かが通報したかもしれんし、一時間後に通報されるかもしれんし、五時間後かもしれんし明日かもしれんし三日後かもしれん。だからおれはズラかる。お前らも早いとこ逃げた方がいい」
そう言って、踵《きびす》を返して歩き出した。
その腕に伊里野が必死で取りすがる。水も漏らさぬはずの無表情に混乱がありありとにじみ出ていた。吉野の話など何ひとつ聞こえてはいない。聞こえていたとしても理解はできない。理解はできたとしても納得はできない。なぜ吉野は自分たちを残して行ってしまうのか、そこから一歩も前に進めない。
いやなことは、基地の外には何もないはずだった。
「あさ、浅羽《あさば》、浅羽が、」
せめて浅羽が戻ってくるまで待ってくれ、と言いたかったのだろう。
その瞬間《しゅんかん》、吉野の横顔に凶暴な力がこもった。
吉野は、容赦のない力で伊里野を突き飛ばした。
顔から倒れこんだ伊里野を見ようともしなかった。
吉野がそのまま歩き去ろうとしたとき、突然、物の怪《け》のように起き上がってきた伊里野がリュックサックに体当たりしてきた。吉野は中身の重さに負けて、車に轢《ひ》かれたカエルのような格好で地べたに這《は》いつくばった。
「通報する」
伊里野はリュックサックを見下ろしてつぶやく。秘密基地の掟《おきて》を裏切った者に対する怒りがその目に燻《くすぶ》っている。伊里野はその怒りにとり憑《つ》かれたように喋《しゃべ》る。
「吉野のこと通報する、警察《けいさつ》じゃなくて治安部隊に通報する。スパイがいるって通報する。ぜったい逃げ切れない。逮捕されて取調室に連れていかれて拷問。どんな言い訳したってだめ。ほんとのこと言ったって許してもらえない。なぜって、吉野の言うことなんか、もうぜったい誰《だれ》も信じないから」
吉野《よしの》は、ゆっくり起き上がった。
その背中から、リュックサックがどさりと落ちた。
ゆっくりと振り返り、そして、ついに吉野は真正面から伊里野《いりや》を見た。
右はフェンス、左は体育館の壁《かべ》、背後は行き止まりだ。伊里野は吉野の脇《わき》をすり抜けて逃げ出そうとした。吉野はまるで自分が襲《おそ》われているかのような悲鳴を上げて、伊里野の腕をつかもうとして失敗する。伊里野が体勢を立て直して走る、それを追う吉野が再び奇声を発する。獲物《えもの》を追うことの焦燥《しょうそう》に頬《ほお》を引き攣《つ》らせ、視野|狭窄《きょうさく》を起こした視界の中を懸命《けんめい》に逃げていく伊里野の後ろ姿に、それだけで射精しそうな興奮《こうふん》を覚える。伊里野は渡り廊下の植え込みを跳び越し、体育館の入り口に駆け込んで扉を閉めようとした。扉が重い、早く扉を閉めて中から鍵《かぎ》をかける、もうそれしか考えられなかった。
突然、扉の隙間《すきま》に吉野の顔がへばりついた。
目が血走っていた。
口元からあふれる涎《よだれ》が扉の隙間を抜けて伊里野の顔に散った。
あまりの恐怖に扉から手が離れてしまった。伊里野は背後にひっくり返り、夢中で起き上がって体育館の奥へと逃げる。吉野が叩《たた》きつけるように扉を開け放ち、完全に雄の表情を浮かべて伊里野を追う。
同刻。浅羽《あさば》も、吉野とそう違わない表情をしている。小さな橋の下に隠れて、夕暮れと水音とひぐらしの声の中でエロ本に覆《おお》いかぶさっている。しかし、浅羽はもうそこにはいない。水音もひぐらしの声も聞こえてはいない。ときおり苛立《いらだ》たしげにページをめくっているのは確かに浅羽の左手だが、ペニスを擦り立てているのは浅羽の右手ではない。それは三人の女の右手であり、三人の女は浅羽にまとわりついて痴態《ちたい》の限りを尽くしている。終局はもう近い、三人の女は命じられるがままに足を大きく開いてくれるのに、その中心がどうなっているのかがはっきりと見えない。どんなに目を凝《こ》らしても見えない。浅羽はそれがちょっとだけ悲しい。
同刻。体育館のど真ん中で吉野が伊里野を背後から押し倒す。伊里野は必死で身体《からだ》を仰向《あおむ》けにして、顔を引き攣らせて、真っ黒に日焼けした二本の腕から逃れようと全身で暴れる。しかし、吉野はむしろその抵抗を楽しんでいて、伊里野の下半身から上半身へと這《は》い登るようにしてその動きを押さえ込んでいく。伊里野の首筋に顔をべったりと押しつけてうわ言のように繰《く》り返す。
「破けるから、服が破けるからっ」
恐怖に喉《のど》が詰まり、伊里野は叫ぶこともできない。やめろ、というひと言が出てこない。混乱と嫌悪に押し潰《つぶ》されて、伊里野は日本語を喋《しゃべ》れなくなっていた。わずかな隙を捉《とら》えて吉野の太ももが両足の間に割り込んでくる。殴る、蹴《け》る、身を捩《よじ》る。どれもうまくいかない。暴れても暴れても、べったりと密着している吉野《よしの》を振りほどくことができない。吉野がスカートの中に手を突っ込んできたとき、密着していた身体《からだ》と身体に少しだけ隙間《すきま》が生じた。伊里野《いりや》はその隙間に左腕をねじ込み、全力で吉野の身体《からだ》を押しのけようとする。
吉野が怒声を上げた。
伊里野の左腕を跳ね除《の》けようとしてその手首をつかみ、そして、吉野は息を呑《の》んだ。
違和感。
伊里野の手首をつかんだ、その指先に感じる硬いもの。
リストバンド越しに感じる、伊里野の手首に埋まっているとしか思えない丸くて硬いもの。
吉野に決定的な隙が生じたのは、まさにその瞬間《しゅんかん》だった。
その身体の下で、伊里野が上体をねじって床と背中の間に隙間を作る。
同刻。限界まで引き絞っていたものが一挙にあふれた。
橋の下で、夕暮れと水音とひぐらしの声の中で、浅羽《あさば》はうめき声を上げた。
同刻。伊里野がナイフを抜いた。背中から。制服の下に手を突っ込んで。
見るも恐ろしいその切っ先が、吉野の左の腎臓《じんぞう》を狙《ねら》った。
夏休みふたたび・後編
[#改ページ]
捨てていくか、それとも隠して持ち帰るか。
考えるまでもなかった。持ち帰るなど問題外である。想像するだに恐ろしい、もし万が一にでも伊里野《いりや》にバレたら。残された道はその場で舌を噛《か》んで死ぬか、チベットの山奥にでも引きこもって羊を相手に余生を過ごすかだ。
かと言って、この場に野ざらしで置き去りにしていくのも忍びない。
浅羽《あさば》は最後にもう一度だけ表紙をじっと見つめて、護岸《ごがん》のコンクリートブロックの裂け目にエロ本を隠した。そのへんに落ちていた板切れで裂け目をふさぎ、風で飛ばされないように石を載せる。これならいかにも「ここに何かが隠してあります」という感じに見えるし、いつの日か、次の誰《だれ》かに見つけてもらえるだろう。
橋の下から這《は》い出た。
コンビニの袋を口にくわえて護岸をよじ登り、土手の上の道に立ち尽くして、浅羽は夕暮れの空をぼんやりと見上げた。
腰が軽くなれば頭も軽くなる。目に映る光景に現実感がない。稲穂《いなほ》の水面に風の通り道が幾重にも刻みつけられる。害鳥よけのミラーテープが夕日に弾《はじ》ける。風に踊るビニール製の目玉やフクロウは行く手に立ち塞《ふさ》がるピエロの化け物のように見える。緋《ひ》色の空を横切る送電線は世界の果てから果てまで続いているに違いなく、雲の上にまで続いているようなトンボの大群が頭上に渦を巻いている。
そして、目の前に小さな女の子がいた。
「うわ」
浅羽は飛び上がって驚《おどろ》いた。しかし、女の子はまったく動じない。不機嫌そうにずずっ洟《ぱな》をすすり、値踏みでもするような目つきでむっつりと浅羽を見つめている。真っ黒に日焼けした手足は擦《す》り傷にまみれ、鼻水をこすりつけたタンクトップにぶかぶかのキュロットという格好で、泥の中に叩《たた》きつけてわざと汚したとしか思えないようなポシェットを肩から斜めに下[#「下」はママ]げていた。
浅羽が知る由もないことではあるが、「伊藤《いとう》さんちのヒカリちゃん」と言えば、この界隈《かいわい》ではその名を知らぬ者のない暴力少女である。
彼女は本名を伊藤|日香梨《ひかり》といって、成増《なります》小学校の二年生で、どのクラスにも大抵ひとりはいるはぐれ者で、いじめっ子でありかついじめられっ子だった。無口で不潔《ふけつ》で凶暴で必殺技は噛みつきで、小学生のケンカにおいてはとにかく相手より先にキレて大車輪パンチを繰《く》り出してしまえば勝ちだということをクラスの誰《だれ》よりもしっかりとわきまえている。校内で日々発生する暴力|沙汰《ざた》の半数以上に何らかの形で関係し、そのたびに周囲から様々な通り名を賜《たまわ》ってきたというハードボイルドな問題児である。ちなみに、そんな彼女の最新の通り名は『恐怖の金魚踏み潰《つぶ》し女』だ。
「――あ。あの、」
が、何はともあれ、今の浅羽《あさば》にとっての伊藤《いとう》日香梨《ひかり》は、橋の下から這《は》い出て最初に出くわした「他人の目」だった。
見失っていた現実感が落雷のように蘇《よみがえ》ってきた。
「きみさ、このへんに住んでる子?」
その反動で、浅羽は黙《だま》ってこの場を立ち去ることができなくなった。見知らぬ女の子が不審感丸出しの目つきでこちらを見つめている。自分が橋の下で一体何をしていたのかを見透かされているような気がする。何を考えるよりも先に口が動いてしまう。
「いや、別にぼくは、怪しい者じゃなくて、その、」
よけい怪しい。伊藤日香梨の表情が険悪さを増し、浅羽の顔をまっすぐに見上げていた視線が下方向へと降りていく。浅羽が身動きもできずに立ち尽くしていると、ゆっくりと移動し続けていた視線が股間《こかん》のあたりまで来てぴたりと動きを止めた。
浅羽もまた、恐る恐る自らの股間を見下ろした。
ズボンのチャックが開けっぱなしになっていた。
待ってくれ。違うんだ。
浅羽の叫びは言葉にならない。だいたい、何がどう違うのか自分でもよくわからない。
そして伊藤日香梨は、浅羽を第一級の不審《ふしん》人物と判断した。
「あ―――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
突然の奇声に度肝を抜かれ、サンダル履《ば》きの跳び蹴《げ》りを鳩尾《みぞおち》にぶち込まれて浅羽は地べたにひっくり返った。立ち上がろうとした瞬間《しゅんかん》に尻《しり》を蹴とばされ、背後からしがみついてくる妖怪《ようかい》じみた両腕を振りほどいて全力で走り出す。
「がぁ―――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
伊藤日香梨は怒りの叫び声を上げて浅羽を追いかける。が、さすがに中学生の足に追いつくことは叶《かな》わないと見るや、小汚いポシェットからかちんかちんに固めた泥だんごを次々と取り出して、転がるように逃げていく浅羽めがけてぶんぶん投げつける。距離が遠すぎて命中こそしなかったものの、何発かは走り続ける浅羽のすぐ足元で弾《はじ》け、そのたびに浅羽は地雷でも踏んずけたかのように飛び跳ねる。そして、ついにその背中がみえなくなると、伊藤日香梨はその場で不器用にくるりと一回転し、夕暮れの空にむかって勝利の雄叫《おたけ》びを上げるのだった。
「きゃお――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
浅羽は逃げた。
後ろも振り返らずに走り続けて、丘の上へと続く坂道の途中でついに息が切れた。両膝《りょうひざ》に手をついて呼吸を整える。恐る恐る背後を振り返り、誰《だれ》も追いかけてきていないことを確認して大きく安堵《あんど》の息をつく。
そして浅羽《あさば》は、ズボンのチャックを上げた。
自分は一体何をやっているのか。
記憶《きおく》を消したくなるほどのかっこ悪さだ。
ぐるる、と腹の虫が鳴った。浅羽が再び歩き始めると、コンビニ袋の中の使い捨てカミソリと猫缶がかさこそと音を立てた。そもそも自分は昼過ぎに髭剃《ひげそ》りを買いに出たのだということがとてつもなく遠い記憶に思える。
ともかく頭は冷えた。
さっさと学校に戻ろう。
何食わぬ顔で「ただいま」を言おう。後ろ暗いところは何もないのだから。自分は髭剃りを買いに出ただけなのだから。その帰りに校長におみやげを買って帰ることを思いついて、コンビニに引き返して猫缶を買った。だから遅くなった。それだけのことだ。
誰《だれ》かに聞かれたら、そう答えればいい。
誰にも何も聞かれなかったら、何も言わなければいい。
空腹感に背中を押されて足取りが早まる。坂道の勾配《こうばい》が緩《ゆる》やかになり、行く手に体育館の紅葉《もみじ》色の屋根が見えてきた。帰ったらまず風呂《ふろ》に入って、髭剃りをちゃっちゃっとすませて、校長に猫缶をあげて、それからみんなで晩ごはんだ――
そこで、浅羽の足が止まった。
「あ、」
吉野《よしの》がいた。
吉野がグランドを歩いていた。
ひとりだ。伊里野《いりや》の姿は見当たらない。吉野は大きなリュックサックを背負って、正門をまっすぐに目指して歩き続けている。その歩き方が奇妙だった。わずかに身を屈《かが》め、右腕だけを大きく振り動かして、左手で左足の付け根のあたりを押さえているように見える。
浅羽は坂道の真ん中に立ち尽くして、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「――おじさんだ」
どこへ行くんだろう。
リュックサックなんか背負って。
吉野が正門にたどり着き、右腕だけを使ってゲートを引き開けた。それを見た浅羽は侵入者探知用の罠《わな》のことを思い出したが、ポケットの中の携帯電話はぴくりとも動かない。近ごろでは学校での生活にも慣れてきて、誰《だれ》かがどこかに出かけるたびにポケットがぶるぶる震《ふる》えるのが煩《わずら》わしくて、浅羽《あさば》は数日前から携帯電話の電源をOFFにしていた。
吉野《よしの》が正門の外にでた。
そこで背後を振り返り、追いかけてくる者がいないことを確かめているかのようにフェンスごしにグランドをのぞき込む。肩こりをほぐすように首を大きく回して、坂道を下る最初の一歩を踏み出す。
そして、100メートル近い距離を隔てて、浅羽と吉野の目が合った。
浅羽は、ぼんやりとした笑みを浮かべた。
「おじさん!」
浅羽は小さく右手を上げて、大声で呼びかけた。
吉野は、さしたる反応を見せなかった。
少なくとも、浅羽の目にはそう見えた。
距離が遠すぎて、表情の変化をはっきりと見て取ることもできなかった。
そして吉野は唐突に回れ右をした。浅羽に背を向け、片足をギプスで固められているような足取りで懸命《けんめい》に坂道を駆け上っていく。大きなリュックサックが一歩ごとに左に傾《かし》ぎ、紐《ひも》で結びつけられているフライパンや飯盒《はんごう》がぶつかり合う騒々《そうぞう》しい音が浅羽の耳にまで届いた。
どこへ行くんだろう、再び浅羽はそう思った。
この坂道をさらに登っていくと丘の頂上にある小さな空き地に出る。そこで坂道は下り坂に変わり、反対側の斜面をジグザグに下って、野菜畑を東西に貫く四車線の道路に突き当たって終わる。その道路を東に歩けばふもとの町に出られるが、丘を大きく迂回《うかい》するような形になるから倍以上の遠回りになってしまうはずだ。
「――どこへ行くんだろう」
声に出してみた。
突然、ひぐらしの鳴き声が意識の表層に這《は》い登ってきた。夜の闇《やみ》はもう遠くないところまで来ている。西日はすでに、丘を針山のようにおおい尽くしている森の中には届かない。耳を聾《ろう》するほどのセミの声を浴びて、浅羽は走り去る吉野の姿をなす術《すべ》もなく見つめていた。
後ろ姿が見えなくなるまでそうしていた。
この期に及んでも、状況をうまく呑《の》み込めていなかった。
丘を渡る風に背中を押されるようにして、浅羽は力なく歩き出す。坂道を一歩登るごとに校舎が角度を変えていく。壁《かべ》の塗装が剥《は》がれている、雨樋《あまどい》のパイプが外れている、屋上のアンテナがねじ曲がっている。今の浅羽にはなぜかそんなところばかりが目につく。正門の前で立ち止まり、剥がれかかった張り紙の文字を見つめた。
『――保護者各位―― 新法の定める未成年保護勧告に従い、本校は有事休校となっております。授業の再開時期等につきましては、町役場に設置されております自衛軍窓口までお問い合わせください』
初めて、漠然とした不安を感じた。
無人の荒野のようなグランドを横切って、昇降口から校舎の中へと足を踏み入れた。保健室をのぞいてみたが伊里野《いりや》の姿はない。コンビニ袋をベットの上に投げ出してため息をつき、今度は家庭科室をのぞいてみる。やはり伊里野の姿はない。静寂が耳につく。自分の立てる物音のひとつひとつに神経がささくれ立つ。カゼを引いて寝汗にまみれて目を覚ました瞬間《しゅんかん》、自分の部屋がまるで見知らぬ場所に思える、あのときとよく似た感覚。
なあっ
振り返ると、廊下の薄闇《うすやみ》の中に校長がいた。尻尾《しっぽ》をくねくねと動かして、物問いたげな目つきで浅羽をじっと見つめている。
「――ただいま」
浅羽はため息まじりのささやき声でそう言った。そう言う相手がようやく見つかったことに安堵《あんど》していた。おみやげ買ってきたぞ――そう言いかけて両手が空であることに気づき、コンビニ袋をどこにやったのか思い出せずにいると、校長はついっと歩き出して渡り廊下の戸口から外に出ていった。
「あ、」
追いかける。渡り廊下に走り出て周囲に目を走らせ、体育館の扉の隙間《すきま》にちょろりと入っていく白黒ぶちの尻尾を危うく見逃すところだった。浅羽は校長の後に続いて、入り口の引き戸を開けて体育館に足を踏み入れた。
何を期待していたわけでもなく、職員室へ叱《しか》られに行く程度の覚悟もなかった。
結局のところ、浅羽は最後までどこか素面《しらふ》ではなかったのだろう。土手沿いの草むらでエロ本を発見したときからずっと、伊藤《いとう》日香梨《ひかり》に泥だんごを投げつけられてもなお。
体育館の真ん中に、伊里野が座り込んでいた。
最後の西日が体育館の真ん中に陽だまりを作っている。西日は宙に漂う埃《ほこり》や床の傷を輝《かがや》かせ、伊里野の姿を琥珀《こはく》の中の昆虫のように閉じ込めている。伊里野は身動きもせず、目の前の床に深々と突き立てたナイフをただひたすらに見つめ、左の鼻の穴からはひと筋の鼻血が音もなく滴り落ちている。
そして浅羽は、伊里野が靴を片方しか履《は》いていないことに気づく。
もう片方はなぜか、西日と薄闇の境目のあたりに、まるで明日は雨だと言わんばかりに底を上にむけて転がっている。
世にも恐ろしい間違い探しが始まる。伊里野の襟元《えりもと》のリボンがひん曲がっている。左手首のリストバンドが肘《ひじ》までずり上がっている。ブラウスのボタンがいくつか無くなっており、袖《そで》の裂け目から細く肩がのぞいている。そして最後のひとつを浅羽は見逃した。伊里野が座り込んでいるのでわかりにくかったが、スカートが九十度近く横向きになっていた。
理解した。
そう難しい話ではなかったのだ。
吉野《よしの》は一体、どこへ行こうとしていたのか。
なぜリュックサックを背負っていたのか。
なぜ足をひきずっていたのか。なぜ回れ右をして逃げ出したのか。
自分がエロ本片手にチンポをしごいている間に、自分のあずかり知らぬところで、一体何が起きていたのか。
足を引きずりながら逃げていく吉野の後ろ姿。
そのこと以外には何も考えられない。まずは伊里野を助け起こして無事を確認しよう――などとは一瞬《いっしゅん》たりとも考えず、そのことを一瞬たりとも考えない自分をどうかしているとも思わない。武器が欲しい、
何と引き換えにしてでも武器が欲しい。
回れ右。体育館から飛び出してグランドを斜めに走り抜け、体育用具倉庫の扉に両手をかける。開かない、鍵《かぎ》がかかっている、鍵の在処《ありか》など知るわけもない。激情に駆られて力まかせに体当たりすると扉がレールから外れ、一瞬後には倉庫の闇《やみ》の中で受身も取れずに這《は》いつくばっていた。何でもやってみるものだ。即座に起き上がる、周囲に視線を走らせる、目当ての物が見つからない苛立《いらだ》ちが叫び声となってあふれ出る。ハードルを蹴《け》散らしスチール棚を引きずり倒し、そのとき目ではなく耳がそれを見つける。棚の上から転がり落ちた金属バット、古い古い傷だらけの金属バット、乞食《こじき》の脳天を砕くにはおあつらえむけの金属バット。ラバーの剥《は》がれかけたグリップを掴《つか》んで横薙《よこな》ぎに振るうと、グローブの詰まったダンボール箱が壁《かべ》まで弾《はじ》け飛ぶ。
ぶっ殺してやる。
体育用具倉庫から走り出て、グランドのフェンスを一気に飛び越えた。
ひぐらしの鳴く坂道を駆け下りていく。
確かだ。あいつは足を引きずっていた。そんなに遠くまでは逃げていないはずだ。あの足で歩いて町を出るとは思えないし、バスにせよ電車にせよ本数もそう多くはない。まだ間に合うかもしれない、急げば先回りできるかもしれない。姿を見つけたら背後からこっそりと忍び寄る。申し開きなどに興味《きょうみ》はない、命乞《いのちご》いなど聞く耳を持たない。射程距離に捉《とら》えたらフルスイングだ。脳みそぶちまけて死ね。万が一にでも死に損なったらお気の毒さまだ、学校まで引きずって帰って、ぐるぐる巻きに縛《しば》り上げて体育館に監禁《かんきん》して一週間かけて殺してやる。死体は生皮ひん剥《む》いて理科室の人形の隣《となり》に飾ってやる。苦しみ抜いて死んで地獄《じごく》で後悔しろ。善人|面《づら》した変態野郎め、貴様など死んだ方が世のため人のためだ。これは天誅《てんちゅう》だ。伊里野にあんな真似《まね》をした奴《やつ》は絶対に、絶対に、
もう、
もう走れない。
恐怖の金魚踏み潰《つぶ》し女≠アと伊藤《いとう》日香梨《ひかり》は、田んぼの真ん中にしゃがみ込んで、捕まえたトンボの羽をむしって遊んでいた。
トンボの羽むしりは伊藤日香梨のお気に入りの遊びのひとつだった。爆竹《ばくちく》でカエルを爆殺するのと同じくらい楽しい。伊藤日香梨はかつて、将来結婚する予定だった菅原《すがわら》慶介《けいすけ》という同級生にこの遊びをすすめてみたことがある。ところが、まったくもって意気地のないことに、菅原慶介は手本を示す伊藤日香梨を気味悪そうに見ているばかりで、次の日からは廊下で顔を合わせただけで逃げ出すようになった。もちろん結婚の予定も白紙に戻った。ああいう男はセイカツノウリョクがないのよ。あのときのことを思い返すたびに伊藤日香梨はそう思う。
その奇妙な叫び声を聞いたのは、八匹目のトンボを始末しようとしていたときだった。養豚場の豚の鳴き声のようにも聞こえたし、夜中に時々両親の部屋から聞こえてくる声にも似ていた。犬か猫だったら蹴《け》飛ばしにいこうと思って、稲穂《いなほ》の水面からひょこりと顔をのぞかせた伊藤日香梨は、金属バットを振り回しながら田んぼのあぜ道に倒れ込む中学生の姿を見た。
見覚えがあった。
チャック開けっ放しの変態野郎だ。
変態野郎が金属バットを持って仕返しに来た。伊藤日香梨は素早く身を伏せて、敵の背後を取れる位置へと匍匐《ほふく》前進で移動し始めた。金属バットの存在はむしろ好都合だった。あれこそ臆病《おくびょう》者の印だからだ。あんな物をすぐに持ち出す奴《やつ》に限って、本当にそれを使う度胸など持ち合わせていないということを伊藤日香梨はよく知っていた。伊藤日香梨は小さな身体《からだ》に闘志《とうし》を漲《みなぎ》らせ、しかし少しも焦ることなく、中学生が倒れ込んだ場所を目指してじりじりと接近していく。あと5メートルという所まで接近して、伊藤日香梨は再び奇妙な声を聞いた。警戒《けいかい》しつつあと2メートルまで接近してその声の正体を悟った。
泣き声だった。
中学生が泣いていた。
中学生は地べたに両手をついて、まるで階段から突き落としてやったときの菅原慶介のように、大声を上げて泣いていた。
伊藤日香梨は、怒り狂う中学生ばど少しも恐ろしくはなかった。しかし、泣いている中学生にはどのように対処したらいいのかわからない。伊藤日香梨はあぜ道のすぐ脇《わき》にうずくまったまま、次に取るべき行動を決めかねていた。仕返しに来たにしてはどうも様子がおかしいと思う。まさか泥だんごをぶつけられたのが泣くほど悔しいわけではないだろうし、そもそも、泣いている中学生など見るのは生まれて初めてのことだ。
何があったのか知りたい、と伊藤日香梨は思った。
しばらくその場でじっとしていた。中学生の泣き声が落ち着くのを見計らって、最後の2メートルを慎重に進んであぜ道に出た。目の前に落ちていた金属バットを拾い上げ、グリップの底の部分に「成増《なります》小」の文字が書かれていることに気づいて眉《まゆ》をひそめたが、そのこと[#「に」の脱字]ついての詮索《せんさく》は後回しにしようと決めた。いま考えるべきことは他《ほか》にいくらでもある。
伊藤《いとう》日香梨《ひかり》は背筋を伸ばし、金属バットで地面を叩《たた》いた。
こん。
あぜ道に座り込んでいた中学生が、こちらを振り返った。
血塗られた日々の賜物《たまもの》か、伊藤日香梨は相手の目に敵意がないことを一瞬《いっしゅん》で見て取った。やはり仕返しに来たのではないのだ。
「なんで泣いてるの?」
中学生は答えない。泣き腫《は》らした目の底から、不思議な動物でも見るような視線がじっとこちらを見つめている。伊藤日香梨は中学生の頭のてっぺんからつま先までをじっくりと観察する。見慣れない制服、ズボンのチャックはきちんと閉まっている。左の肘《ひじ》に大きな擦《す》り傷、
「痛いの?」
指差されて初めて、中学生は肘の擦り傷に気がついたらしい。左腕をひねって擦り傷を見つめる中学生の口元に、一瞬だけ、諦《あきら》めきったような笑みが浮かぶのを伊藤日香梨は見た。
伊藤日香梨は、ちょっとだけ、その笑みをかっこいいと思った。
互いの手が届く距離まで近づいても、中学生はこれという反応を見せない。ひどく落ち込んでいるようでもあるし、何もかもがどうでもいいと思っているようでもある。伊藤日香梨は中学生の反対側に回り込んで、ずうずうしいと思われないように少しだけ距離を取って隣《となり》に座った。わざわざ反対側に回り込んだのは、こうすれば中学生からは自分の左の横顔が見えるからである。アタシは左の横顔の方が写りがいいのよね、というのは母がカメラを前にするときの口癖《くちぐせ》で、写りがいいとはどういう意味かと尋ねると、美人に見えるってことよ、という返事が返ってきた。母親がそうなのだから自分もきっとそうだと伊藤日香梨は思う。
金属バットを傍らに置き、ポシェットにそっと手を入れて、一匹のトンボを取り出す。
今日捕まえたうちでは一番の大物だ。ポシェットの中に無理矢理ねじ込まれてかなり弱ってはいたが、まだかろうじて生きていた。伊藤日香梨はトンボの羽をそっとつまんで中学生に差し出す。
「おもしろいよ」
中学生は呆《ほう》けたようにトンボを見つめている。どうやって遊ぶのかがわからないのかもしれない。伊藤日香梨は手本を見せてやることにした。片方の羽だけむしって、もう片方は中学生にやらせてあげればいい。そう考えて伊藤日香梨はトンボの羽をつかんでいる指先に力を込めようとした。
その瞬間《しゅんかん》に、中学生は何が行われようとしているのかを悟った。
「やめろよ!」
一瞬《いっしゅん》の出来事だった。
中学生の手が伊藤《いとう》日香梨《ひかり》の手からトンボを払い飛ばした。
そして、その手は勢いあまって伊藤日香梨の鼻っ面《つら》を直撃《ちょくげき》した。
完全に不意を突かれた伊藤日香梨は背後にひっくり返った。あまりにも唐突な拒絶が信じられない。鼻の穴がむず痒《がゆ》くなり、泥だらけの右手で拭《ぬぐ》ったそれが鼻水ではなく鼻血であることに気づいた伊藤日香梨は怒りの塊と化す。中学生は自分が横っ面を張り飛ばされたような顔をして、あわてて助け起こそうと手を差し伸べてくるが、それを蹴《け》りのけて伊藤日香梨は立ち上がる。
憎悪をむき出しにして中学生をにらみつける。
中学生は、立ち上がろうとして立ち上がれずにいる。目を見開いて、信じられないものに出くわしたかのように凍りついている。その視線の動きから、伊藤日香梨は相手が何をそんなに恐れているのかを正確に嗅《か》ぎつける。
鼻血だ。
だらしない奴《やつ》め。鼻血がそんなに恐ろしいか。どうせお前も菅原《すがわら》慶介《けいすけ》と同じ臆病者なのだろう。ちょっと小突いてやればぴぃぴぃ泣き喚《わめ》いて、相手のいないところでは「ぶっ殺す」とか「地獄《じごく》に送る」とか大口を叩《たた》くくせに、いざその時が来たらなんのかんのと理屈をこねて逃げ出すのだ。
トンボの羽もむしれない奴《やつ》が、金属バットなど持ち出して一体何をするつもりだったのか。
伊藤日香梨の中で憎悪がひとつの言葉を形作る。実を言うと、その正確な意味を伊藤日香梨は知らない。それは母の口癖《くちぐせ》。スーパーかねまるの駐車《ちゅうしゃ》場で密やかに交わされる陰口。男という種族に対する最上級の呪《のろ》いの言葉。
唇を伝い落ちる鼻血を拭いもせずに、伊藤日香梨は言い放った。
「あんたには、セイカツノウリョクがないのよ」
刺さった。
伊藤日香梨は、自分の言葉が予想していたよりも遥《はる》かに深いダメージを与えたことを冷酷に見て取った。中学生がゆっくりと立ち上がる。その気配《けはい》が次第に鋭《するど》さを増していく。本気で怒っている。伊藤日香梨は足元に転がっていた金属バットを素早く拾い上げ、攻撃《こうげき》する隙《すき》を与えないようにじりじりと退却を開始する。それを見た中学生が突然、ことさらに相手を小馬鹿《こばか》にするような笑みを浮かべた。子供あつかい攻撃。見え透いた作戦だ。誰《だれ》の目にも明らかな強がりだった。
「お母さんが心配するぞ。早く家に帰れよ」
そのまま跳ね返してやった。
「あんたもね」
十分な距離を取ったと判断して、伊藤《いとう》日香梨《ひかり》は踵《きびす》を返して走り出す。金属バットの頭が地面に引きずられてカラカラとなった。
そして浅羽《あさば》はひとり、夜の入り口に取り残される。
◎
――伊里野《いりや》、
あぜ道に立ち尽くしていた浅羽がようやく我に返り、学校へと戻る長くて暗い道のりの緒についたころ、東成増《ひがしなります》警察《けいさつ》署に匿名《とくめい》の電話が入った。有事休校中の成増小学校に男女二人の家出中学生が無断で住み着いている、注意しようとしたらいきなりナイフで刺された、早く逮捕してほしい。電話の主は声から推察するに中年の男で、対応した署員の質問には一切答えることなく、
『女の方は髪の毛が白い。名前は伊里野だ。オレを刺したのはそいつだ』
そう言って電話を切った。
自衛軍情報戦四課の記録によれば、この電話の通話時間は十八時三十四分〇八秒から同時同分三十六秒までの二十八秒間で、発信源は成増町|三国《みくに》のバスターミナルに設置されている電話ボックスだったことがわかっている。音声分析から割り出された通報者の特徴は、日本語を母国語とする男性で年齢《ねんれい》は四十から四十五歳、身長160から170センチの痩《や》せ型で利き腕は右、軽度の反対|咬合《こうごう》で、上顎《じょうがく》歯列右側の側切歯、犬歯《けんし》、第一|小臼歯《しょうきゅうし》のいずれか、もしくは複数が欠損しており、出生地は中国《ちゅうごく》・山陰《さんいん》地方だが成人後に全国各地を転々としてきた可能性が高く、最終学歴は大学以上。
情報戦四課のインターセプトシステムは以前から指示されていた通りに、この情報を最優先で米空へと送った。匿名電話の受話器が置かれてからわずか七分後の、十八時四十一分のことだった。
一方の東成増署では、この一件は何の対応もされないまま一時間以上も宙に浮いていた。バカと貧乏が仲良しであるように、社会情勢の悪化と流言蜚語《りゅうげんひご》の増加は常にその足並みを揃《そろ》えてやって来る。東成増署もここ最近の昼夜を問わぬイタズラや誤報には手を焼いており、匿名の電話に対しては誰《だれ》もが不感症になっていたのだ。おまけに、東成増署は経験豊富な署員の大半を都市部の警備任務へと派遣してしまったために、日常業務に支障を来《きた》すほどの人員不足にも喘《あえ》いでいた。仮に、東成増署が件《くだん》の通報を真に受けて即応を試みていたとしても、その後の展開はそう違ったものにはならなかっただろう。
伏見《ふしみ》恭輔《きょうすけ》巡査は自転車を趣味《しゅみ》とする朴訥《ぼくとつ》たる好漢であり、経験不足を理由に警備派遣組からは取り残され、経験|稼《かせ》ぎを理由に留守番組にはこき使われて寝る暇もない悲運の二十一歳独身である。十八時五十八分、給湯室で泥水を煮詰めたようなコーヒーをすすっていた伏見《ふしみ》巡査は樋口《ひぐち》班長のおしゃべりにふと表情を曇《くも》らせた。
「――それ、本当にただのイタズラ電話だったんですか」
予想外の反応に樋口班長は戸惑いの笑みを浮かべ、
「おう、おうおうおう。ちょっと待ってくれよ、」
「白い髪の幽霊《ゆうれい》じゃなくて? 家出中学生だって言ったんですか?」
「なんだ幽霊って。なあ伏見、お前まさか心当たりがあるなんて言うんじゃないだろうな」
心当たり、とは少し違うと思う。話すべきか否か、伏見巡査は少しだけ迷った。こんな話をしたら笑われるかもしれない。学生気分の抜け切らない若造と馬鹿《ばか》にされるかもしれない。
「――樋口さんは聞いたことありませんか、成増《なります》小の幽霊話」
樋口班長は首を振る。そうだろうな、と伏見巡査は思う。ありとあらゆる雑用を言いつけられて一日じゅう町を飛び回っていなければ耳に入ってくるような話ではない。
「そういう噂《うわさ》があるんです、成増小に幽霊が出るって。夕方になると、白い髪の女が校舎の屋上からこっちをじっと見下ろしてるんだそうです」
樋口班長は、笑わなかった。
伏見巡査の言わんとするところは理解できた。「成増小」と「白い髪の女」――匿名《とくめい》電話と噂の奇妙な符合は確かに不気味だ。しかも電話の主は、白い髪の女の正体が単なる家出中学生だと言い切っている。まるで、実際に確かめてきたかのような言い草にも思える。
「――いや。いやいや違う違う、やっぱイタズラだよ」
しかし、樋口班長はそう結論づけた。
「そりゃあな、有事休校中の学校に中学生が住み着いてるって聞いたときは内心なるほどねえと思ったさ。学校なら電気も水道も使えるしな、家出小僧にとっちゃあ勝手知ったるねぐらだろうよ。けど、ナイフで刺されたってのはいくらなんでもフカシすぎだ」
「どうしてですか」
「だってそうだろ。もしそれが本当ならなぜ110番や119番に電話しない? わざわざ電話帳で番号を調べてうちの署に直接かけてきた理由はなんだ? 自分の居場所を逆探知されたくないのさ。事をあまり大きくしたくないんだよ。なぜか? ただのイタズラだからさ」
そうかもしれない、と伏見巡査は思った。
十九時二十三分、伏見巡査はパトロールに出かけるついでに岸谷《きしたに》課長を町役場の有事対策指揮所まで送り届ける用事を言いつかった。町役場の駐車《ちゅうしゃ》場に降り立った岸谷課長は「ご苦労さん」のひと言もなく乱暴にドアを閉め、伏見巡査がパトカーをUターンさせるや否や、助手席で仏頂面《ぶっちょうづら》をしていた権藤《ごんどう》巡査の口から課長の悪口があふれ出た。人使いが荒い、自分に甘く他人に厳《きび》しい、腋臭《わきが》がクサい、カラオケのマイクを持つときに小指を立てる、慰安《いあん》旅行の宴会で仲居の乳を揉《も》んで引っ叩《ぱた》かれた。パトカーが成増《なります》小学校のある丘のふもとにさしかかるころになっても権藤《ごんどう》巡査の悪口はとどまる所を知らず、相槌《あいづち》を打つのにも疲れた伏見《ふしみ》巡査は話題を変えようとして、
「――なあ権藤、お前知ってるか? 白い髪の女の話」
「はあ?」
権藤巡査が生返事をする。伏見巡査は、匿名《とくめい》電話の一件と成増小の幽霊《ゆうれい》話を面白《おもしろ》おかしく語って聞かせた。
「――樋口《ひぐち》班長はイタズラだろうって言うんだけどさ。それにしたって、いい年こいて警察《けいさつ》にそんな電話かけてくるなんてどういう奴《やつ》なんだろうな」
目論見《もくろみ》が功を奏したのか、権藤巡査は先ほどからずっと押し黙《だま》っていた。やがて、
「――そうだよ」
「は?」
「すっかり忘れてた。成増小は有事休校中なんだよな」
「ああ」
「それでなくても、この時間に誰《だれ》もいるはずないよな」
「そうだな」
「じゃあ、さっき俺《おれ》が見た明かりは一体何だ?」
伏見巡査はブレーキを床まで踏み込んだ。
アスファルトにタイヤの跡を刻みつけ、パトカーは春日部《かすかべ》農道の外れでつんのめるように止まった。伏見巡査は車の外に出て目を凝《こ》らす。成増小学校のある丘のシルエットが闇夜《やみよ》になお黒々と聳《そび》え立っている。そのどこにも明かりなど見当たらない。
「どこだ!?」
助手席で権藤巡査は口ごもり、
「――いや、俺が見たのは、その、お前の話を聞くよりも前だし、」
「確かに見たんだな!?」
「そう、言われると――すまん、車のヘッドライト、だったのかも」
伏見巡査は身を屈《かが》めて助手席をのぞき込む。権藤巡査の顔には「何も見なかったことにして帰ろうぜ」と書いてある。匿名電話の件を幽霊の噂《うわさ》まで絡めて詳しく話してしまったことが裏目に出ていた。権藤巡査はあの手の幽霊話が苦手だ。
「なあ、ちょっと寄り道していこうぜ」
伏見巡査はそう言って、相手の臆病《おくびょう》風を封じ込めるために強気の笑みを浮かべた。
権藤巡査は視線をそらし、ため息をついて、一度は無線機のマイクに伸ばしかけた手を途中で止めた。わざわざ連絡を入れるまでもあるまい。うまい説明を思いつかなかったし、そう長くはかからないはずだ。校舎を外からぐるっと見回れば伏見も納得するだろう。余計な事を言ったと今さらながらに後悔する。自分が本当に丘の上に明かりを見たのか、権藤《ごんどう》巡査は早くも確信が持てなくなりつつあった。たぶん気のせいだったに違いない。でなければ車のヘッドライトだ。そうに決まっている。
「――何だかんだ言ってよお、」
権藤巡査はうんざりした声でつぶやく。
「お前、ほんっと仕事好きだよな」
なにもされていない。抱きつかれて押し倒されただけ。ナイフで刺したら逃げた。
伊里野《いりや》はそう言った。
そう言ったきり、伊里野は体育館の真ん中で膝《ひざ》を抱えていつまでも動こうとしなかった。伊里野の姿を閉じ込めている光は西日から星明かりへと移り変わり、周囲の闇《やみ》の中を校長の目の輝《かがや》きがちょろちょろと動き回っている。せめて体育館の照明を点《つ》けようと思ったが、浅羽はスイッチの在処《ありか》を見つけられなかった。
その代わりに、保健室の明かりを点けた。
買い置きのカップ焼きそばをベットから引っぱり出して、電気ポットに水を入れた。
「――お腹《なか》すいただろ」
体育館の入り口から、伊里野がいるはずの闇にむかって呼びかけた。
そのまま闇の入り口に背を向けて、渡り廊下の床に腰を下ろして、湯を注いだふたつのカップを並べて置いた。
コオロギの鳴く夜だった。伊里野と障害物ボウリングをした渡り廊下には、牛乳瓶やバスケットボールや跳び箱の踏み段が散らばっている。吉野《よしの》の散髪をしたときの椅子《いす》もそのままになっている。フタの切り欠きから湯気を立てている焼きそばのカップはまるで何かの供物のように見えた。
お湯を注いで三分間。
あと三分間で、世界が滅亡してしまえばいいと思う。
核の炎でもアダムスキー型のUFOでも何でもいい。自分だけ生き残ろうなどと虫のいいことは言わない。どうせ何かの間違いで生まれた世界なのだ。信じられないほどくだらない理由で滅んで消えてしまえばいいのだ。
足音は聞こえなかった。
「なにもされてない」
心臓が跳ねた。
背後を振り返った浅羽は、闇の入り口でナイフを片手にうつむく白い髪の幽霊《ゆうれい》を見た。
殺される。
その瞬間《しゅんかん》、浅羽は本気でそう思った。逃げ出そうとして足がもつれ、床に置いたカップ焼きそばの上に尻餅《しりもち》をつきそうになる。幽霊《ゆうれい》が来た、橋の下に隠れて「いけないこと」をしていた自分を罰するために、白い髪の幽霊がナイフを持って殺しに来た――。
闇《やみ》に浮かぶ伊里野《いりや》の白い髪は、そのくらい現実離れして見えた。
「ほんとう、抱きつかれて押し倒されただけ」
伊里野はひどく傷ついた顔をして、すがるような眼差《まなざ》しで言い募る。腰を抜かしていた浅羽《あさば》は慌てて立ち上がり、ごまかしの笑みを浮かべてむやみに明るい声を作る。
「――ああびっくりした。そんなの早くしまってよ」
伊里野は背中のホルスターにナイフを戻す。やはり幽霊ばどいない。目の前にいるのは、乾いた鼻血を口元にこびりつかせた、袖《そで》の破れかかった上着を着た、浅羽と目を合わせようとしない伊里野だ。
浅羽はポケットを探り、保健室から持ってきた安全ピンを取り出して袖の裂け目を留めてやる。水道でハンカチを湿らせ、口元にこびりついた鼻血を拭《ぬぐ》えるだけ拭ってやる。すると新たに鼻血が垂れ落ちてきたので、ポケットティッシュを千切って鼻に詰めてやる。何かしていれば言葉を探さずにすんだ。
焼きそばのカップを差し出す。
カップを受け取った伊里野が困惑の表情を浮かべる。浅羽は自分のカップを取り上げて、近くの植え込みの中にお湯をじょぼぼぼと捨ててみせる。それを見た伊里野が恐る恐る真似《まね》をする。浅羽の右隣《みぎどなり》で、なんとも曰《いわ》く言い難い微妙な距離をおいて、植え込みに向けてゆっくりとカップを傾けていく。間の抜けたふたつの水音が闇夜に響《ひび》き渡り、まるで連れションでもしているみたいだと浅羽が思った瞬間《しゅんかん》、
ひうっ
悲痛な声に振り返ったときには、すべてが終わっていた。
伊里野のカップから麺《めん》がこぼれ落ちて、植え込みの枝に引っかかって湯気を立てていた。
「――あ。あの、」
何やってんだこのバカ、とでも言えばよかったのだ。
「ぼ、ぼくのを半分こしようよ」
そんな愚かしいひと言が引き金を引いた。時間が動き出し、伊里野の顔が見る見るうちに歪《ゆが》んでいった。カップを握り締《し》めている両手にぎゅっと力がこもり、への字に曲がった口から長く引き伸ばされた泣き声が漏れる。浅羽はおろおろと周囲を歩き回って火にさらなる油を注ぐようなことを言う。ごめん、ぼくが悪いんだ、フタをちゃんと押さえてろって言えばよかったんだ、保健室にまだ買い置きがあるからさ――
伊里野が何か言った。
が、泣き声に邪魔《じゃま》をされて意味のある言葉にならない。伊里野は何度も何度も苦しげに息を吸い込み、やがて、再び繰《く》り返される同じひと言がようやく泣き声と泣き声の隙間《すきま》を捉《とら》えた。
今度は、はっきりと聞こえた。
「殺すつもりで刺したのに」
結局のところ、自分には何の覚悟もなかったのだと思う。
体育倉庫の扉をぶち破ったこと、ラバーの剥《は》がれかけた金属バットの重さ、夕暮れの坂道をどこまでも追いかけてきたひぐらしの鳴き声。申し開きにも命乞《いのちご》いにも聞く耳を持たない、射程距離に捉《とら》えてフルスイング、学校まで引きずって帰ってぐるぐる巻きに縛《しば》り上げて体育館に監禁《かんきん》して一週間かけて、
できもしないくせに、
「髭《ひげ》が伸びてるって言われたんだ。あいつに」
考えるよりも先に口が動いていた。
それが自分の声であることにさえ、浅羽《あさば》はすぐには気づかなかった。
「だから、髭|剃《そ》りを買いに行こうと思ったんだ。コンビニに行けば売ってる。お金がもったいないから一番安い使い捨てのやつにした。泡なんか石鹸《せっけん》でいいし、切れなくなるまで何度も何度も使えばいい。三個入ってるパックをレジに持っていったら千円もした」
何だこれは、
自分は一体何を喋《しゃべ》っているのか、
「そのあと、学校に帰る途中で思いついたんだ――せっかく町まで降りたんだから校長におみやげ買って帰ろうって。だからそこで回れ右して、コンビニまで戻って猫缶を買った。何とかフレークの何とかプレミアムってやつ。だから――」
だから。
その先を口にするくらいならば死にたいと浅羽は思う。自分の顔にうすらボケた笑みまで浮かんでいることがはっきりとわかる。この場に伊里野《いりや》などいなくていいのだと気づいた。すべては自分のために、浅羽は自分自身に対して喋っていた。
「だから、」
「浅羽、」
伊里野が顔を上げて、背後の闇《やみ》を振り返っている。
その視線の先、体育館の背後に迫る木立が点滅する赤い光に照らされている。
それがパトライトの閃光《せんこう》であることはすぐにわかったし、車のエンジン音とドアを開閉する音も聞こえた。人家ひとつない高台の夜は、校舎とグランドを隔てた距離から忍び寄る者の気配《けはい》を容易に伝えていた。
警察《けいさつ》だ。
警察が来た。
呪縛《じゅばく》は一秒で砕けた。浅羽《あさば》はカップ焼きそばを投げ出して渡り廊下を走った。パニックにまみれた頭で必死になって考える。今すぐ伊里野《いりや》の手を引いて逃げ出したいのは山々だが、荷物をすべて捨てて行くわけにはいかない。
十二万円の入ったダッフルバッグ。
せめてあれだけでも持って逃げなくては、結局はここで捕まるのと大して違わない結果に終わることは目に見えている。
真っ暗な廊下に駆け込んで、自分が保健室の明かりを消し忘れていたことに気づいて死にたくなった。今さら悔やんでも遅い、保健室に飛び込んでベッドの下からダッフルバッグを引っぱり出す、悲しくなるくらいに軽い、仕方がない、荷造りなどしている暇はない。サイドポケットの中の十二万さえあればそれでいい。細々した物はすべて諦《あきら》めるより他《ほか》はない。窓に飛びついてカーテンの隙間《すきま》から表をのぞく。高台の闇《やみ》を照らすパトライトの光を見たときは学校全体がすでに包囲されているのかと思ったが、実際には正門前にパトカーが一台|停《と》まっているだけだった。その周囲に警官《けいかん》らしき人影が動いていたが、正確な人数はよくわからない。踵《きびす》を返す、保健室の明かりを消すのは止《や》めた。今さらそんなことをしても逆に警官たちの注意を引くだけだろう。
「伊里野!」
渡り廊下に戻ってみると、伊里野はその場を一歩も動かずに呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
「パトカーが一台だけだ、早く逃げよう、今ならまだ」
手を引いて走り出そうとすると、伊里野はなぜか強硬にその場に踏み留《とど》まった。泣きべそに塗り潰《つぶ》された顔で周囲の闇を見回して、
「――校長は?」
こいつ正気かと思う、
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!? 早く逃げないと、」
「やだあっ!」
事実、伊里野は正気ではなかった可能性もある。消耗し尽くした精神が事態の急変に追いつけなくなって、とてもまともに物が考えられる状態ではなかったのだろう。
「校長も連れてく! 校長も一緒に行く!」
浅羽は気が狂いそうになった。二、三発ひっ叩《ぱた》いてやろうかと思う。それで伊里野が動くのならば本当にそうしていたかもしれない。しかし、伊里野の瞳《ひとみ》に宿る強情な光が平手の二、三発で折れるとも思えなかったし、こうして無駄にしている一瞬《いっしゅん》一瞬が惜しい。
「――わかった。校長はぼくが連れていくから」
伊里野の肩を両手でつかみ、5センチもない距離から言い聞かせる。
「先に逃げろ。体育館の裏手に回り込んで、フェンス伝いに走って通用門から出るんだ。そのまま森の中のでこぼこ道を登って、高台の反対側から坂道を下って町に戻れ。無人駅の場所を憶《おぼ》えてる? あそこで落ち合おう。ぼくも後から行くから、必ず校長を連れていくから!」
ぐりんと回れ右をさせて背中を突き飛ばす。伊里野《いりや》はつんのめるように走り始めたが、ひとりで逃げることが急に不安になったのか、いくらも行かないところで立ち止まって浅羽《あさば》を振り返った。浅羽は叫ぶ、
「早く行け!! 走れ!!」
伊里野の姿は体育館の裏手に消えた。
パトライトの光が闇《やみ》を照らし続けている。校舎の反対側から警官《けいかん》たちの声が切れ切れに聞こえてくる。最後に校長の姿を見たのは体育館の中だ。浅羽は闇の入り口に躍《おど》り込んで、重い引き戸をできるだけ静かに閉めた。
――必ず校長を連れていくから。
もちろん嘘《うそ》だ。
少なくとも、自分が本当に捕まる危険を冒してまで校長を探すつもりなど毛頭なかった。ああでも言わなければ伊里野は納得しなかっただろうし、自分ひとりだけならどうにかして逃げ切る手もある。残るは、伊里野と合流したときにどういう言い訳をするかという問題だけだ。
そもそも、この暗闇の中から猫一匹を見つけ出せると思う方がどうかしている。
――三十秒だ、
浅羽はしかし、せめて形だけでも探してみようと決めた。三十秒間きっかり、それでも危険すぎるくらいだ。三十秒間探して見つからなかったら諦《あきら》めよう――そう思った瞬間《しゅんかん》、浅羽の右足を生ぬるいものがにゅるりと掠《かす》めた。
「うわっ!」
なあっ
校長だった。ふたつの光る目がこちらを見つめている。浅羽は夢中で手を伸ばしたが、校長はその切羽《せっぱ》詰《つ》まった動きに驚《おどろ》いて素早く身を翻《ひるがえ》した。
「ほら校長、こっちおいで」
焦りと苛立《いらだ》ちに声が震《ふる》える。闇に慣れてきた目に、5メートルほど離れたところで自分の尻尾《しっぽ》を齧《かじ》っている校長のシルエットがぼんやりと浮かんで見える。慎重に近づき、素早く捕まえようとしてまた失敗した。校長は体育館を足音もなく横切って舞台の上に飛び乗り、光る目でじっとこちらの様子をうかがっている。鬼ごっこでもしているつもりなのかもしれない。
警官の声が聞こえた。
そう遠くはなかった。
三十秒などとっくに過ぎた、もう諦めろ、早く逃げろと理性は叫ぶ。校長はもともとこのあたりのノラ猫だ。この場に残していったところで、どうせ三日もすれば自分たちのことなど忘れてしまうに決まっている――
浅羽は、暗闇の真ん中にどっかりと座り込んだ。
ダッフルバッグを身体《からだ》から外してファスナーを開けた。
自分は恐ろしい間違いを犯している。なぜこんなつまらない意地を張るのか。自分が捕まれば、遠からず伊里野《いりや》も同じ運命をたどることになる。猫一匹など捨て置いて今すぐこの場から逃げ出せ――そんな思考を頭から締《し》め出した。目を閉じて大きく深呼吸をする。殺気立っている腹の内を校長に悟られてはならない。
浅羽《あさば》は、ダッフルバッグの中身をあさるフリを始めた。
校長は腹を空《す》かしているはずだった。こうしてバッグをごそごそやっていれば、何か食べる物をもらえると思って近づいてくるかもしれない。本物の食べ物があればと思う。今日買ってきた猫缶が今ここにあれば、匂《にお》いで校長をおびき寄せることなど造作もないのに。あの猫缶の入ったコンビニ袋を、自分は一体どこへやってしまったのだろう。
警官《けいかん》の声が聞こえた。
すぐ近くだった。フシミ。ゴンドー。大声で互いを呼び合う名前までが聞き取れた。
そのとき、視界の隅で何かが動いた。校長が近づいてくる。心臓が別の生き物のように暴れ狂っている、すべてを投げ出して逃げ出したいという気持ちを全身|全霊《ぜんれい》で抑《おさ》え込む。校長がゆっくりと近づいてくる。
そのとき、バッグの中身をかき回していた指先に触れたのは、くしゃくしゃに丸めた小汚い靴下だった。
靴下を指先でつまみ、バッグから取り出して、そっと床に置いた。
校長が匂《にお》いを嗅《か》ぎに来た。浅羽が手を伸ばしても校長は逃げない。靴下の匂いを確かめている校長のあごの下をそっと撫《な》でてやる。
そのまま首根っこを鷲掴《わしづか》みにした。
ぎにゃああっ
二の腕を盛大に引っ掻《か》かれた。お構いなしに、校長を無理矢理ダッフルバッグの中に叩《たた》き込んでファスナーを閉めた。ストラップを肩にかけ、両足を空回りさせながら立ち上がろうとしたした[#「した」はママ]瞬間《しゅんかん》に、体育館の入り口の扉が引き開けられる音を背中で聞いた。
「うわいたっ、待て! 権藤《ごんどう》こっちだ、権藤っ!」
走った。
固い靴底の足音とフラッシュライトの光が背後に迫る。追いかけられる恐怖に涙が滲《にじ》む。舞台の袖《そで》にある狭い通路に飛び込んだ。右手に安っぽいドアが並んでいる、最初はだめ、次もだめ、三つ目でノブがようやく回った。転がり込む、後ろ手にボタンを押して鍵《かぎ》をかける。汗臭《あせくさ》い闇《やみ》、柔道着や剣道の防具が詰め込まれた棚、突き当たりに跳ね上げ式の小さなガラス窓。
床に転がっていた木刀を拾い上げ、渾身《こんしん》の力を込めてガラス窓に叩《たた》きつけた。
「こらあっ! 開けろ、ここを開けなさい! 権藤、外に回れ!」
警官がドアに体当たりを繰《く》り返している。本気でぶち破るつもりだとしたらそう長くはもたない。木刀では邪魔《じゃま》な窓枠を破壊《はかい》し尽くせなかったので、そのへんにあったパイプ椅子《いす》を取り上げて力任せに突っ込んだ。
ついに窓枠が外れて、パイプ椅子ごと外に転がり落ちた。
窓のなくなった穴からダッフルバッグを投げ出し、次いで自分の身体《からだ》をねじ込む。肩がどうにか通り抜けたと思ったら今度は腰が引っかかる。このまま身動きが取れなくなるのではないかと恐ろしくなり、滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に手足を動かしているといきなり重力が消失して、気がついたときには体育館の裏手に這《は》いつくばっていた。バッグを拾い上げて走る、グランドに飛び出そうとした途端、体育館の裏手に回りこもうとしていた警官と正面衝突しそうになった。
[#底本は行頭空欄無し]浅羽は絶叫した。
吉野と初めて遭遇したときとまったく同じことが起こった。それが驚《おどろ》きによる悲鳴だったのか、あるいは威嚇《いかく》のための叫びであったのか、浅羽は自分でもよくわからない。しかし警官は怯《ひる》んだ。暗闇から突然飛び出してきた正体不明の何者かに大声を浴びせかけられて、相手が屈強かつ凶暴な異常者であるかのような錯覚《さっかく》を抱いた。
結局は、その一瞬《いっしゅん》の隙《すき》が勝敗を分けた。
浅羽は追いすがる警官を大きく引き離してグランドを横切り、フェンスを一気に乗り越えて坂道に降り立った。坂を上って逃げるよりは下って逃げる方がましだと考え、右手の方向を振り返ったとき、正門前に停《と》められていたパトカーのヘッドライトに目を射抜かれた。
パトカーのライトがハイビームに切り替わった。
が、それもまた恐怖心が生んだ錯覚だった。実際にはパトカーは無人だったし、点《つ》けっぱなしにされていたヘッドライトがハイビームに切り替わったように見えたのも気のせいにすぎなかった。しかし浅羽はそこに三人目の警官がいて、パトカーを急発進させて自分を追いかけてくるものと思い込んだ。
道のないところを逃げるしかないと思った。
坂道を三歩で横切って、ガードレールを蹴《け》って、真っ暗な森の中に身を躍《おど》らせた。
濃密《のうみつ》な藪《やぶ》に全身を叩《たた》かれ、途方もない衝撃《しょうげき》と緑の匂《にお》いに呼吸が詰まる。森の斜面を転がり落ちていく。洗濯《せんたく》機の中に放り込まれたような気がした。バッグを胸に抱え込んで校長を庇《かば》うのが精一杯だった。
気づいたときには、深い森の底から夜空の星を見上げていた。
斜面を斜めに走っているコンクリート製の溝にはまり込んでいた。幅も深さも1メートルほどで、底には落ち葉が分厚く積もっている。森の闇はどこまでも深く、豪雨のような虫の声が頭の中にまで沁《し》み込んでくる。身体を手探りして怪我《けが》の有無を確かめる。一番痛いのは左のこめかみの少し上のあたりで、触ってみると笑えるくらい大きなコブが出来ていた。しばらく失神していたような気もするのだが、記憶《きおく》がいまひとつはっきりしない。
胸に抱え込んでいるバッグがばたばた暴れていた。
ファスナーを少し開けてやると、校長がにゅっと頭をのぞかせた。呆気《あっけ》に取られたように周囲を見回して、この馬鹿《ばか》騒《さわ》ぎは一体何事だ、とでも言いたげな顔で浅羽《あさば》をじっと見つめる。
浅羽は力なく笑った。
ともあれバッグは無事だ。嘘《うそ》から出たまことで校長も助けた。警察《けいさつ》の囲みからも逃げ果《おお》せた。結果オーライだ――深い森の底から夜空を見上げて、浅羽は奇妙な安らぎの中にいた。ふと気を緩《ゆる》めるとこのまま眠り込んでしまいそうになる。その眠気に抗《あらが》って強引に身を起こす。
最初に感じたのは、マイナスの違和感、とでも言うべきものだった。
あるべきものがない、という感覚。
浅羽はかつて、学校の駐輪《ちゅうりん》場から自転車を盗まれたことがある。あのときのことは今でもよく憶《おぼ》えている――停《と》めておいたはずの場所に自転車がない、駐輪場を端から端まで隈《くま》なく見渡してみてもない、何度探しても見当たらない。いい加減盗まれたと気づきそうなものだが、脳が事実を認めることを拒否するのだ。回れ右をして部屋に戻り、晶穂《あきほ》に自分の自転車を知らないかと尋ね、「自転車盗まれたの!? あんた今朝も遅刻ぎりぎりだったじゃないの鍵《かぎ》かけ忘れたんじゃないの馬っ鹿じゃないの!?」と怒られるまで、ありのままの事態を受け入れる気にはどうしてもなれなかった。
ダッフルバッグを手探りして、サイドポケットのファスナーを開けて中に手を入れた。
腹の底が冷たくなった。
あるべきものがなかった。
十二万の入った財布がない。
ファスナーはきちんと閉まっていた。どこかに落としたという可能性はあり得ない。伊里野《いりや》が財布を持ち出して戻し忘れたという可能性も考えにくい。伊里野は所持金の管理をずっと浅羽に任せきりだったし、自分ひとりでは買い物もしたがらない。財布はバッグのポケットにしまっておいてお金が必要なときには必要な分だけ出す、というのは伊里野との了解事項だったはずで、現に自分が髭剃《ひげそ》りを買いに行くときには、財布は確かにポケットの中にあったのだ。
校長が浅羽を見つめて、なあっ、と言った。
状況を呑《の》み込めなかった。
脳が事実を拒否していた。
十二万の入った財布を、吉野《よしの》に盗まれた。
そして、浅羽は身動きもできなくなった。深い森の底に横たわったまま、夜空の星を見上げている。
「間違いないよ。ここで暮らしていたんだ」
伏見《ふしみ》巡査が正門前に戻ってきた。渡り廊下で拾った焼きそばのカップを目の前でひらひらさせて、
「さぞかし居心地よかったんだろうな。家庭科室でメシ食って、宿直室の風呂《ふろ》に入って保健室のベッドで寝てたんだよ。一日や二日じゃないし、さっきの奴《やつ》の他《ほか》にも何人かいたはずだ。たぶんその中に髪の毛を白っぽく染めた女の子が――おい、何してんだお前?」
答えはない。
伏見《ふしみ》巡査はパトカーの反対側に回り込んでみる。運転席のドアが大きく開け放たれており、権藤《ごんどう》巡査は右足を外にはみ出させて座席に座っている。無線機のマイクに手をかけたままピクリとも動かない。
まるで、目を開けたまま眠ってしまったかのように見えた。
何をふざけているのか、と伏見巡査は思った。
「おい権藤、」
肩を乱暴に小突いてやると、権藤巡査の上体が前方にぐらりと傾《かし》いだ。ステアリングに額がぶつかり、クラクションが底知れぬ闇夜に長々と響《ひび》き渡る。しまりのない口元から涎《よだれ》が糸を引いて滴り落ちた。
「権藤!? おい、どうしたんだよ!?」
慌てて権藤巡査の身体《からだ》を座席に押し戻す。肩を揺すっても頬《ほお》を叩《たた》いても反応はなく、まさかとは思いつつ脈を確認しようとして、
「大丈夫ですよ、眠っているだけですから。きっと疲れていたんでしょう」
背後に男がいた。
知らない顔だった。
闇夜に溶け込むような黒服を着ていた。
「自衛軍情報戦の野上《のがみ》と申します」
自衛軍と聞いて伏見巡査の脊髄《せきずい》が雑な敬礼をする。しかし、
「あ、あんた権藤に何かしたのか? 一体、」
一体、何がどうなっているのか。
突然、野上と名乗る男の背後で車のヘッドライトが点《とも》った。伏見巡査は眩《まぶ》しさに顔をしかめる。野上の背後に白いバンが停《と》まっている。天から降ったか地から湧《わ》いたか、周囲の闇の中に似たような黒服たちが幾人もいることに伏見巡査は気づく。
「白い髪の女の子をみませんでしたか?」
唐突な質問に伏見巡査は呆気《あっけ》に取られ、
「いや、自分が見たのは、その、」
「現場到着時刻は何時何分ごろでした?」
質問に追いつけない。咄嗟《とっさ》に答えが出てこない。
「――たぶん八時ごろだと、しかし、」
「そのときの白鳥座の位置は?」
伏見《ふしみ》巡査は光の中のシルエットを見つめた。
この男は一体何者だ。
「放送終了後のテレビのホワイトノイズが何事かを語りかけてくると感じたことはありませんか? あなたがお住まいの独身|寮《りょう》で過去に自殺者が出たことは? 1から30までの間に素数はいくつありますか? MKウルトラ計画には全部で何種類のエイリアンが関与していたと思います?」
伏見巡査は何ひとつ答えられない。男もまた答えを待たなかった。
「大きな街が丸ごと停電する夢を見た経験は? 信号機の四つめの色は何色ですか? 『アルミホイルで包まれた心臓は六角電波の影響《えいきょう》を受けない』というフレーズに聞き覚えがある気はしませんか? 課長の嫁さんってどこの星の生まれだと思う? おれも今までいろんなブス見てきたけどな、ありゃ米軍に見つかったら絶対連れていかれちまうぞ。アンドロメダ星雲じゃあれが美人なのかもしれんが、こないだ弁当届けに来たときも――おい伏見。よお、聞いてんのかコラ、伏見!」
ヘッドライトの光がまぶしい。
乱暴に肩を小突かれる。対向車と際どい距離ですれ違って、フロントガラスに春日部《かすがべ》農道の暗闇《くらやみ》が戻ってきた。権藤巡査の運転するパトカーの助手席に座っている。いつの間にかうたた寝をしてしまったらしい。
「あ、――ああ。すまん」
「大丈夫かお前? ここんところくに寝てないんだろ?」
伏見巡査は両のこめかみを揉《も》んで呻《うめ》き声を上げた。さっきまでは自分がハンドルを握っていたような気がするのだが、夢でも見ていたのだろうか。混乱した記憶《きおく》の断片が自分でも意味不明の質問となって口からこぼれ出た。
「――無線で連絡はしたのか?」
権藤巡査は怪訝《けげん》な顔をして、
「連絡って何の?」
「――いや、いい」
「おいおい、しっかりしてくれよ。仕事好きも大概にしとかねえとしまいにゃ身体《からだ》壊《こわ》すぞ」
疲れているのだろう、と伏見巡査は思った。
「署に戻ったら少し寝るよ。道場にまだ布団|敷《し》いてあったよな?」
「あーそうしろそうしろ。もし課長が戻ってきたらおれがうまいこと言っとくから。ったくよお、課長もいっぺん道場の布団で寝てみろっつーんだよな。ふた言目には『開戦近し有事に備えよ』ってさ、てめーは毎晩家帰って寝てるくせしやがってさあ、」
また課長の悪口が始まった。伏見巡査はいい加減に相槌《あいづち》を打ちながらサイドウィンドウに視線を逃がす。成増《なります》小学校のある高台が闇夜の彼方《かなた》に沈んでいる。明かりひとつない黒々としたシルエットがパトカーの移動に合わせてゆっくりと角度を変えていく。そのとき、
「――そうだ」
思い出した。
記憶《きおく》が隅々まで晴れ渡った。度忘れしていた映画俳優の名前がようやく出てきたときのような気分だった。思わず引き攣《つ》るような笑いが漏れる。運転席の権藤《ごんどう》巡査が気味悪そうにこちらを見ている。伏見《ふいみ》巡査は勢い込んで話し始める。
「なあ権藤、お前知ってるか? 白い髪の女の話」
無人駅の名前が『柿沼《かきぬま》駅』だということを、浅羽《あさば》は今はじめて知った。
駅の入り口のすぐ上に掲げられた看板に、色気のないゴシック体でデカデカとそう書いてある。『緑と清流の町〜成増《なります》町にようこそ』と書かれた垂れ幕も下がっている。初めてこの駅に降り立ったときは、どちらもまったく目に入らなかった。
あのときは、駅の名前も町の名前もどうでもよかったのだ。
入り口の側《そば》にある電話ボックスの蛍光灯がじりじりぱきぱきと音を立てて瞬《またた》いている。伊里野《いりや》はそのすぐ傍らで膝《ひざ》を抱えており、白い髪に蛍光灯の光がまとわりついて、点滅する光と光の合間の闇《やみ》にくっきりとした残像が残る。
腹が立った。
何を好き好んであんな目立つところにいるのか。駅の建物の中でもトイレの中でもいい、そこらに駐車《ちゅうしゃ》してある車の陰でもいい。なぜ身を隠そうと思わないのか。ああしろこうしろと逐一教えてやらなければ何もできないのか。
浅羽は、駅の入り口に向かってまっすぐに歩いていく。
足音を聞きつけた真っ白なつむじがぱっと顔を上げた。まるで恥ずかしいところでも見られたような慌てぶりで伊里野が立ち上がる。浅羽は物も言わず足も止めない。
伊里野の方を見もせずに、校長の入ったコンビニ袋を放り投げた。
校長がびっくりして袋の中で暴れ、伊里野は何度かお手玉をしながらもどうにか袋を受け止めて呆然《ぼうぜん》と立ちすくむ。しかし浅羽はそれを見ていない。駅の入り口をくぐり、二台しかない切符の販売機の前を素通りする。改札を抜ければそこはもう下りの線路で、ミニチュアのような遮断機のある小さな踏み切りを渡れば、羽虫混じりの光に照明されたちっぽけなホームに出られる。
が、浅羽はそこで右に折れて、下りの線路を歩き始めた。
伊里野が慌ててその後に続く。いつもの無表情が不安と混乱に大きく歪《ゆが》んで、まるで泣きベソをかく二秒前のような顔をしていた。浅羽は一体何を怒っているのか、どうして口をきいてくれないのか、なぜ自分を置いてどんどん歩いていってしまうのか。あさば――、自分からそう呼びかけようとして何度も口を開きかけ、そのたびに勇気が挫《くじ》けてうつむき、伊里野は敷石《しきいし》に足を取られてよろめきながらも懸命《けんめい》に浅羽《あさば》の背中を追いかける。
線路は、夜の果てまで続いているように見えた。
それでも浅羽は振り返らない。錆《さび》色に染まった敷石《しきいし》や枕木《まくらぎ》を踏みしめるたびに、孤島のようなホームの明かりが行く手の闇《やみ》に負けて背後へと引いていく。どこまで歩いても後をついてくる伊里野《いりや》の足音が、今の浅羽にとってはただの重荷でしかない。
金もなければ行く当てもない。
しかし、この場に座り込んで膝《ひざ》を抱えるくらいなら、やり場のない怒りにまかせて死ぬまで歩き続ける方がいい。一刻も早くこの町から出たい。精液くさい記憶《きおく》からたとえ一歩でも遠ざかりたい。夜風が巻いて、右の首筋に引き攣《つ》れるような感覚を残していく。触ってみると、虫を穿《ほじく》り出した傷口のガーゼが剥《は》がれかけていた。保健室で最後にガーゼを交換したのは幾日前のことだったろう。
浅羽は、ガーゼを引きむしって捨てた。
後に続いていた伊里野が、夜風に運び去られようとしているガーゼを枕木に押さえつけて捕まえた。線路の真ん中で立ち上がり、袋の口から顔を出している校長を胸にしっかりと抱きしめて悲鳴にも等しい目をする。立ち止まってくれない浅羽の背中を見つめ、もう足を踏み出す勇気もなく、なぜ浅羽にこうも冷たくされるのかが理解できない。思い当たることといえば、
「なにもされてないっ!」
浅羽がつんのめるようにして足を止めた。
伊里野はガーゼを握り締《し》めて叫ぶ。浅羽に嫌われたくない、その一心だった。
「ほんとうっ! なんにも、なんにも、なんにもされてないっ!」
浅羽は固く目を閉じる。
破裂する。鼻血が噴《ふ》き出し目玉が飛び出し奥歯が砕けるかと思う。吉野《よしの》のことなど思い出したくない。脳ミソを手術して記憶を消したい。何もかも自分が悪いと言うのか。ひとりでは鼻血も拭《ふ》けない奴《やつ》に、なぜいつまでも傷口を穿られ続けねばならないのか。
自分は正しいことをしている。
これまでずっと、自分にそう言い聞かせてきた。伊里野に頼られていることが誇らしかったし、相も変わらず不甲斐《ふがい》ない自分を責め続ける心の奥底で、ひとりの女の子のために血を流し命を賭《か》ける自分のことを他《ほか》の誰《だれ》よりも上等だとすら思っていた。
我ながら反吐《へど》が出る。
正しければそれでいい、という度し難い視野|狭窄《きょうさく》。それで一歩でも足が前に出るのなら思い上がりでも何でもよかったのだ。カッターナイフで首筋を穿るが如《ごと》きみみっちい雄々しさで何事がを成せるなら、この世に不幸など何ひとつ存在しないに決まっていた。
「生活能力なくて悪かったな!!」
意気地が尽き果てた。
浅羽《あさば》は背後を振り返り、闇《やみ》の中にあってなお白い髪めがけて反吐《へど》をぶちまけた。
「どうせぼくは馬鹿《ばか》でスケベで口先だけの臆病《おくびょう》者だよ!! 文句があるんならもっと頼りがいある奴《やつ》の後くっついて歩けばいいだろ!! ああしろこうしろって言われなきゃなんにもできないくせに、うまくいかなかったときのツケばっかりおっかぶせられたら迷惑なんだよ!! うんざりだ! もうついてくるな二度とそのツラ見せるな!!」
ついに言ってやった、と浅羽は思う。
震《ふる》えが来るほど気持ちよかった。もう守るべきものも無く、もう守りたいとも思わない。体重が消失したかのような解放感を覚える一方で、今となってはどうしようもなく愚かしい希望に結局は自らの手で幕を引くはめになったことが、拾ったエロ本を橋の下に捨てていく程度には悲しい。
そして、伊里野《いりや》は破壊《はかい》された。
ひとたまりもなかった。
胸に抱えていたコンビニ袋が線路の敷石《しきいし》にばさりと落ちた。
伊里野の顔にはねじくれた笑みが浮かんでいた。やがて、血の気の引いた唇から泣き声ともため息ともつかない声が漏れ、その声はすぐに人間離れした金切り声となり、伊里野は両手で白い髪をかきむしる。細い指先に神経症的な力がこもり、白い髪がずるずると抜け落ちて絡みついていく。
浅羽は息を呑《の》んだ。
手も足もでない。初めて目にする伊里野の自傷行為が途方もなく恐ろしい。押さえつけてでも止《や》めさせなければと思う一方で、この時点ではまだ強がりの気持ちが勝っていた。あれほどの啖呵《たんか》を切った手前、自分から下手に出るような真似《まね》はしたくないというのが本音だ。
そして、金切り声はふっつりと途絶《とだ》えた。
伊里野がその場にふわりとへたり込む。
コンビニ袋の口から校長が顔をのぞかせて、物問いたげな目つきで事の成り行きを見守っている。ようやく浅羽の足が前に出た。いい加減にしてくれ、もう面倒《めんどう》見きれない――そんな表情を作って、ゆっくりと伊里野に歩み寄って右手を差し伸べた。
その瞬間《しゅんかん》、何かが視界の中を斜めに横切った。
その瞬間に起きた一連の出来事を追いかけることが、浅羽にはまったくできなかった。身体《からだ》のあちこちに衝撃《しょうげき》を感じたようにも思うし、右手の甲に鋭《するど》い熱のようなものを感じたような気もする。すべては一瞬のうちに始まって一瞬のうちにケリがつき、気がついたときにはナイフを手にして線路の真ん中に立ち尽くす伊里野と、その足元に無様この上ない格好でひっくり返っている自分がいた。
最初に意識されたのは、口の中に広がっていく血の味だ。
次いで、立ち上がろうとしてレールに右手をついたときのぬるぬるした感触。見れば、右手の甲が、親指の付け根から小指の付け根まで一直線に切り裂かれていた。傷口からあふれ出た血が指の股《また》からレールへ、レールから枕木《まくらぎ》へと滴り落ちていく。その光景を見つめたまま、浅羽《あさば》は奇妙な無感動の中にいた。精神的な仮死状態。目前にある危機に対してではない、自らの現実認識に対する死んだふり。こんなことが、本当に、自分の身に起こるはずがない。
伊里野《いりや》は少しだけ首を傾《かし》げて、不思議そうに浅羽を見つめている。
その視線がナイフへと移り、再び浅羽へと戻される。それが何度も何度も繰《く》り返され、血の気の引いた伊里野の唇がやっと探り当てたのは、浅羽の耳にも覚えのあるひと言だった。
「――ころすつもりでさしたのに」
そして伊里野は叫ぶ。
追い詰められた動物のような、「人間」が感じられない叫び声。
ひとたまりもなかった。
浅羽は逃げた。叫び声そのものよりも、叫び声を上げている伊里野の表情の方が百倍も千倍も恐ろしい。敷石《しきいし》を跳ね飛ばしながら起き上がって闇《やみ》に閉ざされた線路を走った。逃げても逃げても伊里野がナイフを振りかざして追いかけてくるような気がして、息づかいの中に混じる情けない悲鳴を自分ではどうすることもできなかった。
突然、枕木に蹴《け》つまずいて身体《からだ》が宙を泳いだ。
受け身もへったくれもなかったし、小汚い着替えの詰まったダッフルバッグがクッションの役割を果たしてくれたのはまったくの偶然に過ぎない。すぐさま身を起こし、一瞬《いっしゅん》後にはナイフを突き立てられることを半ば確信しつつ背後を振り返る。が、そこには闇と線路があるばかりで、伊里野の姿はどこにもない。倒れ込んだ拍子にぶつけた右膝《みぎひざ》の痛みよりも伊里野から逃れることができたという事実の方が重要で、浅羽は気が遠くなるほどの安堵《あんど》を覚える。
その安堵《あんど》はすぐに、いてもたってもいられないほどの怒りへと変わる。
線路に座り込んだまま、伊里野がいるはずの闇の彼方《かなた》にむかって浅羽は叫ぶ。
「ばーか!! ひとりで基地に帰れっ!! 今日から鼻血くらい自分で拭《ふ》けっ!!」
その叫びは伊里野の耳に届いたかもしれないし、届かなかったかもしれない。
線路の敷石をつかんで投げようとしたとき、右手を熱湯の中に突っ込んだような痛みが背筋を這《は》い登った。ナイフで切られた傷口から夥《おびただ》しい量の血が滴っている。一挙に気が弱って、浅羽はその場に立ち上がることもできなくなった。左手だけを使ってダッフルバッグの中身をあさり、薄《うす》汚れたタオルを引っぱり出して右手にそっと巻きつける。無数のコオロギが鳴いていた。夜の線路に一人だった。
わかっていたはずだ。
八月三十一日のあの夜を最後に、夏休みは終わっていたのだ。
ひと夏を丸ごと費やしてUFOを探したあの裏山から、自分はついに降りてこなかったのだと思う。この夏は終わらないと信じていた。誰《だれ》の言葉にも耳を貸さず、虫を抉《えぐ》り原チャリを盗み、伊里野《いりや》とふたりだけで生きていけると思っていた。
背中を丸めて右手を握り込む。タオルに生ぬるい赤が染み込んでいく。
唐突に涙があふれる。
なあっ
校長がいた。ぴんと立てた尻尾《しっぽ》を揺り動かして浅羽《あさば》をまっすぐに見つめている。浅羽は慌てて涙を拭《ぬぐ》い、
「なんだよ」
なあっ
「あっち行けよ」
なあっ
石を投げつけるふりをしてみたが、校長はその場を一歩も動かない。浅羽は立ち上がり、血でべとべとする人差し指を突きつけて言い聞かせる。
「絶対ついてくるなよ。ついてきたら蹴《け》っ飛ばすからな」
案の定だった。校長は一定の距離をおいてどこまでも浅羽の背中を追いかけてきた。足を踏み鳴らして脅してやるとぱっと線路から飛びのいて闇《やみ》の中に身を隠すのだが、浅羽が背を向けて歩き始めると再び線路の上に戻ってきてぴったりと後をつけてくる。浅羽は徹底《てってい》的に無視してやろうと決めた。歩いて歩いて歩いて歩いて、いくらなんでもあきらめただろうと思って背後を振り返ろうとした瞬間《しゅんかん》、
なあっ
浅羽はついに足を止めた。夜空を仰ぐ。もうため息も出ない。
金もなく、行く当てもない。
伊里野は、柿沼《かきぬま》駅のホームで膝《ひざ》を抱えてうずくまっていた。
「ほら、」
校長はダッフルバッグの中で眠りこけている。その首根っこをつまんで差し出すと、伊里野はうつむいたままのろのろと両手を伸ばして校長を胸に抱き込む。
「ごめん。ちょっと言い過ぎた」
伊里野はうつむいたまま、微《かす》かに首を振る。
「早く行こうよ。お腹《なか》空《す》いてるだろ、次の町に着いたら何か食べよう」
伊里野はうつむいたまま、微かに首を振る。
「伊里野、」
腕を引いて立たせようとしたが、伊里野は予想外の力でその手を振り解《ほど》いた。
「大丈夫? 身体《からだ》の具合でも悪いの?」
伊里野《いりや》はうつむいたまま、微《かす》かに首を振る。
あの手この手で懐柔《かいじゅう》を試みたが、伊里野は頑としてその場を動こうとしなかった。真っ白なつむじを見つめて途方に暮れていると、ある不吉な想像が脳裏を掠《かす》めた。
「――ひょっとして、誰《だれ》かを待ってるの?」
伊里野はうつむいたまま、微かに肯《うなず》いた。
浅羽の心臓が跳ねた。伊里野はすでに基地に帰る決心を固めてしまったのではないか。何らかの手段で榎本《えのもと》に連絡をつけて、迎えが来るのを待っているのではないか。恐る恐る、
「誰《だれ》を待ってるの?」
うつむいたまま、伊里野は躊躇《ちゅうちょ》なく答えた。
「浅羽」
浅羽は大きくため息をついて、
「ねえ、言い過ぎたのはぼくが悪かったからさ、」
伊里野は無言、
「もう電車終わっちゃってるし、いつまでもこんなところにいたら怪しまれるよ。通報でもされたらまた警察《けいさつ》来ちゃうよ。ほら、」
「いかない。浅羽を待ってる」
伊里野は、冗談を言っているわけでも意地を張ってるわけでもない。
三十分以上もかかって、浅羽はようやくそのことに気づいた。
◎
新しい知り合いができると大抵聞かれるのだが、世良《せら》奈津飛己《なつひこ》には、よりにもよって「なつひこ」という大して珍しくもない名前に「奈津飛己」などという漢字を当てた親を恨む気持ちは特にない。
が、紙に書くとなると漢字四文字はやはり面倒《めんどう》くさいので、それがよほどの重要書類でない限りは「世良ナツヒコ」で通している。予備校のテストでもそう書くし、コンビニのバイトに応募したときの履歴《りれき》書にもそう書いた。だから、いつも制服の胸に付けている名札も「世良ナツヒコ」だ。
予備校が有事|閉鎖《へいさ》されてからというもの、ナツヒコは持てる時間のすべてをバイトに注ぎ込んで店長に有り難がられていた。予備校の知り合いもバイトの同僚も、その多くはすでに親元へ逃げ帰ってしまったが、どいつもこいつもバカばっかりだとナツヒコは思う。本当に戦争になるなんて誰も本気で信じちゃいないくせに。勉強もバイトも肝心なのは要領だ。バイトもせずに毎日毎日ただ愚直に授業を受けている奴《やつ》らも相当のバカだとは思うが、普段《ふだん》は授業をサボってバイトをしているくせに、こんなチャンスにがっぽり稼《かせ》ごうとしない奴らはそれ以上のバカだ――。それがナツヒコの意見である。
「世良《せら》くんさあ、この御辞世に毎日出てくれるのはほんっとありがたいんだけどさあ、」
店長がカウンター越しに声をかけてきた。時刻は午前十時を回ったばかりで、そのとき店内には五人の客がいて、その五人全員がこんな早い時間から雑誌の立ち読みに来ている札つきのヒマ人どもだった。有事が叫ばれるたびにゴキブリの如《ごと》く発生するこの手合いを、店長は「非国民」と呼んでいる。
「大丈夫なのほんとに? 世良くんの実家、帝都だったよね。テレビもラジオもずっとあの調子だからあんまり騒《さわ》ぎが伝わってこないけど、あっちの方はずいぶんひどいことになってるって聞いたよ」
「らしいすね」
ナツヒコはカウンターの中にしゃがみ込んで棚を引っかき回している。キャメルのカートンが見つからない。あるのは空箱ばかりだ。この店に限らず、近ごろ洋モクがやけに品薄《しなうす》になってきたとナツヒコは思う。
「ああでも一昨日《おととい》の夜だったかな、ダメもとでかけてみたら通じたんす電話。都心の方が燃えてる光がひと晩中見えてたって。駅前なんか行くともうすごいらしいすよ、『山田《やまだ》家は避難しました』とか『太郎《たろう》、至急連絡|請《こ》う』とか、そんな張り紙がもうぶわーっと」
お人よしの店長はたちまち青くなった。近ごろ頓《とみ》に目立ってきた下っ腹をカウンターの上に乗り出して、
「世良くん、うちのことはもういいよ! 帰りなよ、帰ってあげなよ!」
「だぁいじょうぶっすよ。うちの実家なんて帝都は帝都でも住所のケツに『村』が――」
突然、有線放送の音楽を流しているスピーカーから、大量の砂利をぶちまけているような凄《すさ》まじいノイズがあふれ出た。
ナツヒコも店長も跳び上がって驚《おどろ》いた。五人の非国民どもが立ち読み中の雑誌から顔を上げて、一体何事かという視線をカウンターに向けてくる。砂利の音はたちまちのうちにその大きさを増していき、愛があればどんな障害も乗り越えられると主張する女性ボーカルきんきん声を完全に圧倒し、ついには「ばち」という音を残してスピーカーそのものが沈黙した。
「――故障、かな」
驚《おどろ》きの冷めやらぬ顔で店長がつぶやく。ナツヒコは有線放送のチューナーを適当にいじってみるのだが、スピーカーはむっつりと沈黙を守り続けている。五人の非国民どもは再び雑誌に視線を戻し、ナツヒコはついに諦《あきら》めて、
「ダメっす。有線の会社が爆撃《ばくげき》でやられちまったんすよきっと」
「世良くんやめてよ、冗談でもそんなこと言うもんじゃないよ」
そのとき、自動ドアが開いて新たな客が入ってきた。ナツヒコと店長は反射的に接客用の表情を取り繕《つくろ》って、しかし、喉《のど》まで出かかった「いらっしゃいませ」のひと言を口にすることがついにできなかった。
その客は、中学生くらいと思《おぼ》しき少年少女の二人組だった。
ナツヒコはカウンターの前を通り過ぎていう二人組をじっと観察した。二人とも見慣れない制服を着ている(5ポイント)。どちらの制服もひどく汚れており、あちこちが破けている(5ポイント)。少年は右手に血の滲《にじ》んだ包帯を巻いている(5ポイント)。少女は小声で何事かをぶつぶつと呟《つぶや》いており(10ポイント)、なぜか兵隊のようなヘルメットを目深にかぶっており(10ポイント)、とどめに髪の毛が真っ白だった(50ポイント)。
コンビニの店員が奇矯《ききょう》な客にいちいち驚《おどろ》いていたら商売にならないが、ナツヒコは観察結果の合計ポイントが20を上回った客に対しては常に注意を怠《おこた》らないようにしている。その二人組の合計ポイントは85であり、つまりは超|弩級《どきゅう》の不審《ふしん》人物であり、店を出ていくまで絶対に目を離してはいけないタイプの客であった。
店長がひそひそ声で、
「――世良《せら》くん、あの髪、染めてるのとは違うよね?」
「――病気、とかじゃないすか」
店長は露骨《ろこつ》に顔をしかめた。非国民どもは立ち読みに忙しく、異様な二人組が店に入ってきたことにはまだ気づいていない、ナツヒコは、店内をゆっくりと移動していく二人組の一挙手一投足を追いかける。
二人はどうやら、食料を買い込みに来たらしかった。
少年の方が案外まともな奴《やつ》であることはすぐにわかった。小汚い制服や右手の包帯は確かに奇異ではあるが、そのことを自分でも気にしているような素振りも見せる。少なくとも、店内で暴れたりするようなタイプには見えない。少女の先に立って歩き、おにぎりやサンドイッチを買い物カゴにぽんぽん放り込んでいる。
一方の少女は明らかに普通ではなかった。まるで、人間の抜け殻がひどく単純なプログラムに従って動いているだけのように見える。おぼつかない足取りで少年の後に続き、ふと立ち止まっては棚に並んでいる商品を手に取ってぼんやりと見つめ、すぐに興味《きょうみ》をなくしてそのまま床に落としてしまう。
「ねえ店長、注意してきてくださいよあれ」
「やだよ! ナイフでも持ってたらどうすんの」
「それはないっすよいくらなんだって、あーだめだめそれはヤバいヤバい、ああっ」
ぐしゃ。少女が牛乳のパックを落とした。白い水溜《みずたま》りが床にじんわりと広がっていく。
「大丈夫だと思うんなら世良くん行ってきてよ! 私には妻も子供もいるんだからさ」
「うわなにそれ、あんた店長でしょ! たまには店長らしいところ見せてくださいよ!」
ナツヒコと店長がひそひそ声で責任を押しつけ合っているうちに、少年は食料品の棚を端から端までひと回りして、栄養剤のサプリメントが並んでいるコーナーでふと足を止めた。少女は棚の反対側でカカシのように突っ立って、そこに珍しい星座でも見えるかのように天井を見上げている。やがて興味《きょうみ》を失い、踵《きびす》を返そうとしたはずみに右手が棚の商品に触れて、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていたカップ焼きそばが土砂崩れを起こして床に散らばった。
突然、少女が口をきいた。
「ビンゴ、フュール!」
一体何が引き金となったのか、少女は床に散らばったカップ焼きそばを無表情に見つめて、
「ビンゴ! バンディット1−3、ビンゴ!」
ヘッドホンで音楽を聴きながら喋《しゃべ》っているような大声だった。五人の非国民どもが一斉に背後を振り返って、棚と棚の間に見え隠れするヘルメットを訝《いぶか》しげに見つめている。まずいことになったとナツヒコは思う――クソ役立たずの店長はカウンターの陰に隠れているし、非国民どもが騒《さわ》ぎ始めたらあの女の子は何をするか予測がつかない。面倒《めんどう》が起こる前に、
目の前に買い物カゴが置かれた。
気がついたときには、カウンターを挟んで少年と向かい合っていた。
少年は、十年も昔にありとあらゆる覚悟を決めたかのような目つきをしていた。右手の包帯はでたらめに巻きつけてあるだけで、小汚いシャツのすそには何種類もの植物の種がくっついている。その背後では少女が意味不明の呪文《じゅもん》を繰《く》り返しており、ヘルメットからのぞいている真っ白な髪が非国民どもの無遠慮《ぶえんりょ》な視線に晒《さら》されている。少女が千切って丸めたティッシュを鼻に詰めていることにナツヒコはようやく気づいた。おもちゃを買ってもらえなかった子供のような涙の跡が薄《うす》汚れた顔に残っていることにも。
思いもかけないひと言がナツヒコの口をついて出た。
「――精神病院から逃げてきたのか?」
少年は笑う、
「親戚《しんせき》のおばあちゃん家《ち》へ遊びに行くんだ。学校が休みになったから」
ナツヒコは、買い物カゴを引き寄せた。
おにぎり四つにサンドイッチ四つ、麦茶が二本に高カロリーキャンディーひとつ。なぜかキャットフードの缶詰がふたつ。
「2560円になります」
ナツヒコがコンビニ袋に詰めた商品をカウンターの上に押し出すと、少年は肩にかけていたダッフルバッグに手を突っ込む。財布を探しているのかと思いきや、バッグの底から出てきたのはコーヒー豆の缶だ。少年が缶のフタを開けて逆さにすると、薄汚い百円玉がカウンターの上にどっとあふれ出た。
「伊里野《いりや》、行くよ」
少年が声をかけると、少女は夢から覚めたような顔をして振り返った。不思議そうに周囲を見回して、
「――浅羽《あさば》は?」
少年はそれに答えず、少女の手を引いて出口にむかう。が、自動ドアのマットに片足が乗ったところで少女は強硬に踏み止《とど》まった。少年の手を振り解いて、
「浅羽がいない。浅羽が来るまで待ってる」
そうした少女の行動は予測のうちであったに違いない。少年は疲れ切ったような笑みを浮かべて、予《あらかじ》め用意していたと思《おぼ》しきセリフを口にした。
「浅羽なら、さっきの公園で待ってるって言ってたよ」
少女の手を引く。
「ほら、早く行こう」
「グリーンライト」
ようやく少女は納得したように頷《うなず》いた。
非国民どもが押し合いへし合いしながら身を乗り出して、店を出ていく二人組の姿を好奇の視線で見送った。ナツヒコは大きくため息をついて、カウンターの陰にしゃがみ込んでいる店長のケツをつま先で小突く。
「給料上げてくださいね」
店長は世にも情けない顔をして肯定とも否定ともつかない生返事をする。天井のスピーカーから「ぶち」という音が漏れ、有線放送の音楽が何事もなかったかのように息を吹き返した。遥《はる》か昔に賞味期限の切れたひと山幾らのアイドルユニットが、信じていればどんな夢でも叶《かな》うのだから決して希望を捨ててはいけないと主張する。
――あの曲がり角を曲がったところに浅羽がいるよ。
あの日のあの夜を境に変わってしまったことが三つある。まず一つ目は、買い物の代金や乗り物の運賃などを虎《とら》の子の百円玉で支払わなければならなくなったこと。二つ目は、伊里野《いりや》の鼻血と視力の低下が止まらなくなったこと。
そして三つ目は、伊里野が浅羽を浅羽と認識できなくなったこと。
少なくとも、伊里野にとっての「浅羽」はどこかへ行ってしまったらしい。
だから、伊里野は何かあるとすぐに足を止めてその場に座り込み、浅羽が迎えに来るまでここで待つと言い張るのだった。当初は途方に暮れていた浅羽だが、御し方を憶《おぼ》えて以降はそれ自体は大した問題ではなくなった。どんなに疲れていても、どんなに眠くてもどんなに空腹でも、伊里野はただのひと言で腰を上げて歩き始めた。例えばこうだ。
――次の町で浅羽が待ってるよ。
しかし、それではここにいる自分は一体|誰《だれ》なのか。
ぼくは誰《だれ》、と聞けば伊里野《いりや》は素直に答えてくれた。浅羽《あさば》に割り振られる役どころは時と場合によって様々で、浅羽は椎名《しいな》真由美《まゆみ》であったり須藤《すどう》晶穂《あきほ》であったり、島村《しまむら》清美《きよみ》であったり西久保《にしくぼ》正則《まさのり》であったり花村《はなむら》裕二《ゆうじ》であったり水前寺《すいぜんじ》邦博《くにひろ》であったりした。浅羽のまったく知らない誰かであることも多かったし、時には外国人の名前がでてくることもあった。
一度だけ、伊里野を問い詰めたことがある。
あのとき、浅羽はまず自分は誰《だれ》がと尋ね、伊里野は「あきほ」と答えた。晶穂は女の子だよね、と聞けば伊里野は頷《うなず》く。だけどぼくは女の子じゃないよね、と聞けば伊里野は少し躊躇《ためら》ってからやはり頷く。浅羽はそこから始めて、認識と現実との矛盾点を指摘して伊里野を追い詰め、自分こそが「浅羽」であることを認めさせようとしたのだ。最後には浅羽も意地になっていたのだが、伊里野がものすごいことになったので恐ろしくなってやめた。それ以来、浅羽は自分が自分以外の誰かであることに異を唱えたことは一度もない。
――このバスの終点で浅羽が待ってるよ。
バスの終点にはもちろん浅羽がいて、そのとなりには伊里野がいて、他《ほか》には誰《だれ》もいない。赤錆《あかさび》だらけの車庫と歪《ゆが》んだフェンスと、夏草の茂みがどこまでも続いているだけの操車場。ふたりをここまで乗せてきたバスが土煙を蹴立《けた》ててUターンしていく。
浅羽はダッフルバッグの中から校長を出してやった。ティッシュを千切って丸め、伊里野が鼻に詰めているものと交換してやる。やはり鼻血は止まっていない。大量に出血することはないのだが、いるまでもじくじくと流れ出してくる。
「目は大丈夫?」
「タンゴ・ユニフォーム」
ダメらしい。ここ数日間で、伊里野がときおり口にする暗号めいた言葉の意味がおぼろげながらつかめてきた浅羽である。さっそく足元にじゃれついてきた校長を、伊里野はそっと胸に抱き上げた。
「行こう」
ここからは歩きだ。
雑草だらけの坂道を登っていくと、見たこともないほど大きな川沿いの道に出た。行く手の彼方《かなた》に、もし本当に戦争になったら真っ先に攻撃《こうげき》目標にされそうな巨大な橋がかかっている。伊里野がわずかに歩調を緩《ゆる》めて、周囲の光景を見回すようにゆっくりと頭を廻《めぐ》らせた。まったく何も見えない状態というわけではないのかもしれない――と浅羽が思ったそのとき、広大な川面《かわも》を渡ってきた風が伊里野のヘルメットに躍《おど》り込んで白い髪を撫《な》でた。
伊里野が、唐突に足を止めた。
「――伊里野?」
伊里野は何か重要なことを思い出したように、
「アベレージってなに?」
「え?」
浅羽《あさば》は面食らう。伊里野《いりや》は一体何の話をしているのか、
「――ねえ伊里野、ぼくは誰《だれ》?」
「西久保《にしくぼ》」
何をわかりきったことを、という顔で伊里野は躊躇《ちゅうちょ》なくそう答え、「アベレージ。西久保は180くらいって言った。花村《はなむら》も同じくらい。浅羽はへたっぴーだから100いかない」そこで不思議そうに周囲を見回して「――浅羽は?」
やっとわかった。
ボウリングだ。
思い出す、謎《なぞ》の爆発《ばくはつ》事件のあった翌日だ。学校が半日で終わりになったので、みんなでボウリングをしに行った。なるほど、ここには大きな川もあれば橋もある。この道は、あの日にみんなで歩いた「川向こう」への道とよく似ている。
「アベレージってのはさ、」
伊里野もあの日のことを思い出しているのだろう――浅羽は、単純にそう考えた。
「その人のスコアの平均だよ。ボウリングは個人で得点を競うゲームだからさ、大体のスコアの平均を憶《おぼ》えておけば、自分が他《ほか》の人と比べて上手か下手《へた》かわかるだろ?」
そう言って、浅羽は再び伊里野の手を引いて歩き出そうとした。
が、伊里野はまるで予防注射を怖がる犬のように踏み止《とど》まった。表情までが固く強張《こわば》っていることに気づいて浅羽は少しだけ驚《おどろ》く。伊里野のこんな顔を見るのは久しぶりのような気がする。
「やめる、」
伊里野がつぶやく、
「浅羽が行かないんなら、ボウリングに行くのやめる」
まったく何も感じなかったわけではない。
どこかに奇妙な齟齬《そご》があるような気はしたのだ。しかし、この時の浅羽はそれ以上深く考えることをしなかった。また伊里野が駄々《だだ》をこねている――くらいにしか思わなかったし、今までと同じようなつもりで話を合わせていた。
「浅羽なら先に行ったよ。ボウリング場で待ってるってさ」
伊里野は「西久保」のその言葉を慎重に検討し、むっつりと黙《だま》り込んだまま歩き始める。浅羽は胸の中でため息をついて、再び伊里野の先に立つ。
いつかやられるだろうと思ってはいたが、ついにやられた。
電車から降りて、校長をダッフルバッグから出してやったときには気づかなかった。線路沿いの道をまっすぐに歩き、行く手に現れた貨物集積場の跡地を今夜のねぐらと決めて、浅羽《あさば》は食料がどれくらい残っているかを確認しようとしてバッグの中をのぞいてみたのだ。
校長が、バッグの中にウンコをしていた。
奇妙な「音」を聞いたのは、駅の水道でバッグを洗って集積場に戻ってきたときだった。浅羽は足を止めて耳を澄《す》ます。倉庫の入り口が巨大な鯨《くじら》のように口を開けている。周囲はすでに薄暗《うすぐら》く、敷地全体を縦横《じゅうおう》に這《は》い回っている引き込み線は作りかけのまま放棄されたミステリーサークルのように見える。そのとき、
きゅるぅきゅあぅるああっ
浅羽の耳にはそんなふうに聞こえた。
薄気味悪い。それは「音」ではなくて「声」なのかもしれない。しかし、だとすれば相当に人間離れしていると言う他《ほか》はない。普通に録音した声を高速で逆再生しているような感じだ。
るぃあういぅきゅるいいっ
また聞こえた。
どこか上の方からだ――そう思って頭上を仰ぎ見た浅羽は、倉庫の屋根の上に伊里野《いりや》がいることに気づいて腰を抜かしそうになった。
「伊!、」
そこで思い留まる。地面から倉庫の屋根までは10メートルはあろうかという高さで、伊里野はその縁《ふち》ぎりぎりのところに座っている。下手《へた》に声をかけたりすれば伊里野を驚《おどろ》かせてしまうかもしれないし、下を見た拍子にバランスを崩すかもしれない。そんな浅羽の心配も知らぬげに、伊里野は西日の残照をぼんやりと見つめて謎《なぞ》の「言語」を囁《ささや》いている。
ゅあぅいにゅううぃいきいっ
浅羽は倉庫の中に駆け込んだ。周囲の闇《やみ》を狂おしく見回して、内壁をぐるりと一周しているキャットウォークへと続く階段を駆け上がる。クレーンの操作室のそばにあったドアを開けると小さなベランダのような場所に出た。壁《かべ》に取り付けられている梯子《はしご》が屋根の上まで伸びている。
「――伊里野、」
そっと声をかけてみたが伊里野は気づかない。屋根は合成|樹脂《じゅし》のプレートを敷《し》き詰めたような作りで、プレートが欠落して穴が開いている場所があちこちにあった。浅羽は四つん這《ば》いになって、伊里野の背中だけを見つめて慎重に慎重に近づいていく。プレートがぎしぎし音を立てるたびに腹の底が冷たくなった。下手に体重をかけると踏み抜いてしまうかもしれない。伊里野を助けにきたつもりが、もはや自分の面倒《めんどう》を見るだけで手一杯だった。とてもではないが伊里野を連れて下まで無事に戻れる気がしない。伊里野の背中にあと少しで手が届く。
「ねえ伊里野、」
まるで自分が助けを求めるかのような呼びかけに、夏服の背中がぴくりと震《ふる》え、白い髪に縁取られたフリッツヘルメットがくるりと背後を振り返った。
「バディスパイク」
「伊里野《いりや》、ほら、危ないから早く降りようよ」
浅羽《あさば》が手を差し伸べると、伊里野は突如としてその場に立ち上がってくるりと身体《からだ》の向きを変えた。伊里野の踵《かかと》はそのとき、屋根の縁《ふち》からわずか数センチのところにあった。屋根のてっぺんにまたがるようにしてぺたんとしゃがみ込み、声も上げられずにいる浅羽の顔を指一本の至近距離からのぞき込む。
「先坂《さきさか》は、マイムマイムできる?」
伊里野はそう言った。満面の笑みを浮かべて。それは、浅羽がその存在を想像したこともないような、大らかで伸びやかな笑顔だった。
そのはずだ。
今、伊里野の目の前にいるのは「浅羽」ではないのだから。
今、浅羽の目の前にいるのは「浅羽がいないときの伊里野」なのだから。
「踊り方は椎名《しいな》に習った。練習もいっぱいした。ファイアーストームで浅羽とマイムマイムする練習。先坂はファイアーストームってしってる?」
伊里野が一体何の話をしているのかは、浅羽にもすぐにわかった。
そして、それがパズルの最後の一片となった。
伊里野の中で、一体何が起こっているのか。
それでも浅羽は一縷《いちる》の望みにしがみつく。まだ何もきまったわけではない。そう考えれば今までの伊里野の言動に筋が通る、というだけだ。他《ほか》の解釈だってあり得るかもしれないし、まったくの勘違いかもしれない。
「伊里野、」
浅羽は尋ねる、
「みんなでボウリングに行ったときのこと憶《おぼ》えてる? ほら、学校が半日で休みになってさ、晶穂《あきほ》や西久保《にしくぼ》や、花村《はなむら》や島村《しまむら》なんかと一緒にボウリングをやっただろ?」
指一本分の距離を隔てた距離で、伊里野は唐突な質問に驚《おどろ》き、深刻そうに眉根《まゆね》を寄せた。そのまま三十秒が過ぎ、一分が過ぎて、浅羽は伊里野の肩をつかんで揺さぶってやりたい衝動《しょうどう》に駆られる。早く白黒をつけてしまいたいと思う自分がいる一方で、いつまでも結論を先延ばしにしたいと思っている自分がいる。
そして、ついに浅羽は質問を変えた。
「――今日は、何月何日?」
伊里野はさらに考え込む。
「わからないの?」
「わかるよ」
伊里野《いりや》は不服そうに口を尖《とが》らせ、そのくせさらに考え込んで、ついに答えを口にする。
「今日は九月二十六日。明日は学園祭の日。明後日《あさって》はファイアーストームの日」
気がついたときには、満天に星が瞬《またた》いていた。
指一本分の距離にいる伊里野を見つめる。質問に答えた伊里野は得意げな笑みを浮かべ、浅羽《あさば》がしがみついていた一縷《いちる》の希望を完膚《かんぷ》なきまでに踏みにじる。
「榎本《えのもと》がその日は出撃なしにしてくれるって言った。ねえ、先坂《さきさか》はマイムマイムできる?」
間違いない。
あの時からだ。
――うんざりだ! もうついてくるな二度とそのツラ見せるな!!
あの時、伊里野は心の時計の針を逆戻りさせたのだろう。駅前の電話ボックスの傍らで膝《ひざ》を抱えていた時点まで。だから伊里野は事あるごとに言い続けたのだ――浅羽が迎えに来るまでどこにも行かない、と。
そして、その退行に歯止めが利かなくなった。
――浅羽が行かないんなら、ボウリング行くのやめる。
――先坂は、マイムマイムできる?
明日は学園祭の日だ、と伊里野は言った。伊里野の「世界」にはすでに、須藤《すどう》晶穂《あきほ》も西久保《にしくぼ》正則《まさのり》も花村《はなむら》裕二《ゆうじ》も島村《しまむら》清美《きよみ》もいないはずだ。伊里野の記憶《きおく》は今も退行し続けている。じくじくと鼻血を垂れ流しながら、一寸刻みで光を失いながら、楽しかった時の思い出を踏み石のようにひとつひとつたどりながら。
満天の星が輝《かがや》き、蛍の舞う闇《やみ》から湧《わ》き上がった虫の音が屋根の上にまで上ってくる。まるで月の裏側のように、これまで浅羽が決して見ることのできなかった笑顔を浮かべて伊里野が笑っている。
「ウ・シャヴテム、マイム、ヴェ・サソン、ミ・マイネイ、ハ・イェシュア。そしてあなたたちは救いの井戸から水をくみ上げる。ヘブライの歌詞。旧約聖書のイザヤ書十二章三節。マイムマイムは砂漠の踊り。ネバダみたいな砂漠の踊り」
浅羽はうつむく。伊里野がその顔をのぞき込む。
「――先坂、なんで泣いてるの?」
記憶の退行が行き着いた先には、一体何があるのだろう。
自分は一体、何を失おうとしているのだろう。
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最後の道
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死ぬことばかり考えていた。
それ以外に憶《おぼ》えているのは、真夜中すぎに激しい雨が降り始めたことと、伊里野《いりや》が謎の言語を囁《ささや》き続けていたことだ。眠ろうとして眠れずにいた浅羽《あさば》はずっとその様子を見ていた。貨物集積場の屋根を雨粒が叩《たた》き始めてしばらくたったころ、伊里野はシュラフからむくりと身を起こして、キャンプ用ランタンの光も届かない真っ暗な闇《やみ》に向かってきゅるきゅる言い始めた。まるで、浅羽の目には見えない何者かが闇の中にいて、浅羽の耳には聞こえない言葉で伊里野と会話をしているかのようだった。伊里野は一体|誰《だれ》と話しているのか、自分たちはこの先どうなるのか――そんなことをぼんやりと考えているうちに意識が闇に飲まれて途切《とぎ》れ、気がついたら雨は止《や》んでおり、朝になっており、目が覚めていた。
清浄な朝だった。
穴だらけの天井から青い光の柱が幾本も射《さ》し込み、錆《さび》だらけの梁《はり》を伝って滴り落ちてくる水滴と交差するたびに銀色の筋が輝《かがや》いている。ランタンを点《つ》けっぱなしで眠り込んでしまったことに気づいて、浅羽は汗臭いシュラフから這《は》い出てため息混じりの欠伸《あくび》を、
一発で目が覚めた。
伊里野がいない。
欠伸も途中で引っ込んでしまった。横倒しになったフォークリフトの陰には空っぽのシュラフがあるだけで、伊里野の姿はどこにもない。弾《はじ》かれたように立ち上がって周囲を見回してみるが、体育館のようにだだっ広い貨物集積場は完全に無人だった。
「――伊里野っ!」
なあっ
伊里野に代わって校長が返事をする。白黒ぶちの毛玉が足元に擦《す》り寄ってくる。しかし浅羽はそれどころではない。真っ先に思いつく可能性といえば、
まさか、
あいつらか。
あいつらが来たのか。
あの黒服どもが来たのか。自分は「眠った」のではなく「眠らされた」のか。あの黒服どもが闇夜にまぎれて伊里野を連れ去ったのか。
突然、古傷にも似た恐怖が喉元《のどもと》までせり上がってきた。浅羽は狂ったように自分の身体《からだ》を探る。新たな虫を埋め込まれたかもしれない。もう自分の記憶《きおく》などまったく信用できない。頭のてっぺんからつま先まで両手を這《は》わせ、足の裏やパンツの中までのぞいて見覚えのない傷跡でもないかと探しながら、ふと、恐怖に引き攣《つ》る浅羽《あさば》の顔に泣き笑いのような表情が混じる。かつて読み漁《あさ》ったどの本にも今の自分と同じような奴《やつ》が出てきた。知り合いがUFOに連れ去られたとか、身体《からだ》に謎《なぞ》の金属片を埋め込まれたとか、果てはUFOの中に連れ込まれて宇宙人の女とセックスさせられたなんて主張する奴《やつ》までいた。
ついに自分も、そういう世界の住人になってしまったのだと思う。
なあっ
校長が胸の上に飛び乗ってきた。朝メシをねだっているのか、それとも浅羽がごろごろ転げ回って身体《からだ》を探っているのを何かの遊びとでも思ったのか。ちょび髭《ひげ》そっくりな斑点《はんてん》のある鼻面《はなづら》と至近距離で向きあったそのとき、まるで天啓のように、その可能性は遥《はる》か彼方《かなた》の高みから頭のど真ん中に落ちてきた。
「――わかった、」
浅羽のつぶやきに、校長が不思議そうな顔をする。
浅羽は校長を跳ね飛ばして立ち上がる。荷物を手当たり次第にバッグに詰め込み、じたばた暴れる校長の首根っこをつかんで貨物集積場を飛び出すまでに一分もかからなかった。早朝の光の下に走り出て、我が身の小汚さを心の隅でちらりと意識する。ボロボロの夏服に泥まみれのスニーカー、もう何日も風呂《ふろ》に入っていないし、髪の毛は寝癖《ねぐせ》でひん曲がっているかもしれない。きっと自分は一生こうなのだろうと浅羽は思う。普段《ふだん》は他人の目を人一倍気にするくせに、ここ一番という時にはいつもみじめな格好で待ち合わせ場所に走っていく運命なのだ。あの日のあの朝もそんな調子だったのだから。すっかり薄《うす》くなったTシャツと一年も履《は》いているジーンズ、駅前のバスターミナルに朝十時、決して揺るがせにできない三つの注意事項。
鼻毛は出てないか。
ズボンのチャックは開いていないか。
パンツは新しいのをはいているか。
その駅は、名を「獅子《しし》ヶ|森《もり》」というらしい。看板にそう書いてある。
今はじめて知った。
田舎《いなか》としてはそれなりの規模の駅ではある。昨日ここに降り立ったときには気づかなかったが、駅の正面の広場にはいくつかの停留所が連なったバスターミナルらしきものもある。単純に朝もまだ早いせいか、それともお決まりの「開戦近し有事に備えよ」というわけか、バスを待つ人の姿はほとんどない。棒を飲んだように立ち尽くしている伊里野《いりや》を除けば、「わしら戦争なんかいくつも見てきたもんね今さら怖いものなんかないもんね」という顔をしたジジイどもが三人並んでベンチに座っているだけだった。
「伊里野、」
「あっちいけ」
「――あのさ、」
「うるさい」
「――、」
息が切れてそれ以上|喋《しゃべ》れない。浅羽《あさば》は懸命《けんめい》に呼吸を整える。手も顔も血の気が引いて、少しでも気を抜こうものなら吐きそうだった。貨物集積場からここまでの1キロかそこらを、途中で何度も休みながら走っただけでこの有様だ。もう日付を数えるのもとっくにやめてしまっていたが、体力も底を尽きかけている自分を感じる。
「――ねえ伊里野《いりや》、」
何事もまずは最初の一歩から、
「ぼくは誰《だれ》?」
「椎名《しいな》」
そして伊里野は怒りに燃える動物のような目つきで浅羽をにらみつけ、
「どうせ誰《だれ》かが見張りに来てると思ってた。何の用?」
言われて初めて気づく。あのデートを見張っていたのは部長だけではなかった――という可能性は、今にして思えば確かに否定できない。
「――えっと、用って言うか、待ち合わせは十時でしょ?」
停留所の時計を指差して、
「ほら、まだ七時だよ」
「だから?」
浅羽は二の句が継げなくなって、
「だから、その――、まだ時間あるしさ、どこかそのへんで朝ごはんでも食べない?」
「食べない」
伊里野の声を聞きつけた校長がダッフルバッグの中でにゃーにゃーばたばた暴れ始める。ベンチに座っているジジイ三人組は「こいつは見物だ」とばかりに伊里野と浅羽の様子をうかがっている。
浅羽は途方に暮れた。
一体どう説明すればいいのだろう。その頑《かたく》なな表情を見れば、今の伊里野に中途半端な嘘《うそ》やごまかしが通用しそうにないのは明らかだ。しかし、伊里野にはデートをあきらめてもらわなければならない。
伊里野にとっての「浅羽」は、決して現れないからだ。
「――いくら待っても浅羽は来ないよ」
「来る」
「来ない、だからぼくと一緒に行こう」
「来る! だって約束した! あっち行ってろばか!」
ついに伊里野《いりや》が沸点を超えた。ゴミ箱の中の空き缶をぶんぶん投げつけられて、浅羽《あさば》はほうほうの態《てい》でその場から逃げ出した。ジジイ三人組は大喜びで、小汚い入れ歯をむき出してサーカスで芸を仕込まれたチンパンジーのような拍手をする。
どうすればいいのかわからなかった。
他《ほか》に為《な》す術《すべ》もなく、ジュースの自販機の陰にしゃがみ込んで伊里野を見守っている。
停留所の時計が九時を回った。
忘れもしない、約束は駅前のバスターミナルに十時だったはずだ。しかし伊里野は七時前にはすでに待ち合わせの場所にいて、身動きひとつせずに、もう二時間以上も「浅羽」を待ち続けている。
あの日の行動を、伊里野は正確に繰《く》り返しているはずだ。
あの朝、伊里野は、本当に、遅くとも七時前にはすでに待ち合わせの場所にいたのだ。
ああやって身動きひとつせずに、何時間も待ち続けていたのだ。
自分は、そんなことも知らなかった。
もともと部長に焚《た》きつけられて持ちかけたデートだ。嫌われないように、ドジを踏まないように――そんなことしか頭になかった。自分のことしか考えていなかった。二度目も三度目も当然あると思っていた。
停留所の時計が十時を回った。
魔法《まほう》の瞬間《しゅんかん》があるとすれば今をおいて他にない。一縷《いちる》の望みに賭《か》けて、覚悟を決めて、自販機の陰から立ち上がって、バスターミナルを目指してまっすぐに歩いていく。
「ごめん、待った?」
伊里野が顔を上げる。小うるさい邪魔者に向けられる氷の目つき。一縷の望みがあっけなく絶たれたことは火を見るよりも明らかだったが、せめてこれだけは聞いておきたい。
「――ぼくは誰《だれ》?」
「かっきー」
誰だよ「かっきー」って。
後頭部に空き缶を二発食らった。塹壕《ざんごう》に飛び込む兵士のように自販機の陰に転がり込む。
停留所の時計が十一時を回った。
伊里野はすでに、少なくとも四時間以上ぶっ続けでバスターミナルに立ち尽くしている。ときおり手の甲で鼻血をぬぐうような仕草《しぐさ》をするが、浅羽がいる自販機の陰からは角度が悪くてはっきりとは確認できない。
それでなくても伊里野《いりや》の身体《からだ》は危機的な状態にある。ダッフルバッグの中に残っていた高カロリーキャンディーを持っていってやろうとしたが、空き缶どころかゴミ箱を丸ごと投げつけられて追い払われたのがつい五分ほど前のことだ。校長ときたらのん気なもので、開けてやった猫缶をぺろりと平らげると自分からダッフルバッグの中にもぐり込んで、ファスナーの隙間《すきま》から頭と右前足だけ突き出した格好で昼寝を始めた。猫になりたい。
停留所の時計が正午を回った。
伊里野がその場に座り込んだのもちょうどその頃《ころ》だった。その瞬間《しゅんかん》は見逃した。
「――伊里野、」
気がついたときには自販機の陰から立ち上がっていた。もつれる足と戦いながら駆け寄った瞬間、膝《ひざ》を抱えている腕の隙間からにらみつけてくる瞳《ひとみ》に射すくめられた。
「さわるな」
それは、人間ではない何者かの瞳に見えた。
足がすくんでしまった。
「へいき。あっち行ってろ」
真昼の町は、眠ったように静まり返っている。
駅前に人の気配《けはい》はまるでない。ベンチに座っていたジジイ三人組もいつの間にか姿を消していた。もはやセミの声など幻聴にせよ聞こえない。空の青はすでに秋の青だ。
それでも伊里野は「浅羽《あさば》」を待ち続ける。
◎
「ねえ。そこの若人《わこうど》」
日差しに炙《あぶ》られ続けた脳ミソは芯《しん》まで煮え立っていた。ワコードって車の名前だっけ、と思った浅羽はそれが「若人」であることに気づいてひとりで赤面する。ジュースの自販機に背中をあずけ、校長を胸に抱いてうずくまったまま、浅羽はゆっくりと顔を上げていく。
死ぬかと思った。
目の前に椎名《しいな》真由美《まゆみ》がいた。
腰が抜けた。脳ミソがすべて蒸発してしまったような気がした。椎名真由美が不審《ふしん》げな目つきでこちらを見つめている。いつもの白衣姿ではない、暗褐色《あんかっしょく》の制服を着ている。自衛軍の制服ではない。アメリカ軍の制服とも違う。それが鉄道会社の制服であると悟ったとき、空っぽになってしまった浅羽の頭の洞《ほら》に脳ミソが少しずつ戻ってきた。椎名真由美であればその倍は厚みがあるはずの胸元にプラスチック製の小さな名札がついている。そこに書かれている文字が、浅羽の口から音となってこぼれ出た。
「――く、草壁《くさかべ》?」
駅員は、胸元の名札をちらりと見下ろして、
「――。なによ。なんなのよ、女の駅員がそんなに珍しい?」
珍しい。思わず胸の内でそう答えてから浅羽《あさば》は慌てて視線をそらす。「よく似た他人」という結論に、動転しきっていた感情がようやく納得しつつあった。
「あ、あの、何か御用ですか?」
「御用ぉ?」
駅員は吐き捨てるようにそう繰《く》り返し、突如として血圧を上げた。
「あーそうよ! 今朝からずっとよ! 他人が口出しするようなことじゃないと思って黙《だま》って見てたけどんもぉ限界よ。気になって気になってゲームも手につかないわ。一体何がどうなってんのよ、あの子はあんたを待ってんじゃないの!?」
そう言って駅員が肩越しに親指で示す先には、ついにバスさえも姿を見せなかったバスターミナルがある。時計はすでに五時を回っており、信じられないほどの夕焼けは幽《かす》かな夜の闇《やみ》を孕《はら》んでいる。
そして、伊里野《いりや》は今もそこで膝《ひざ》を抱えてうつむいている。
「――ちがうよ」
浅羽の口元に空《うつ》ろな笑みが浮かんだ。日に焼けた頬が引き攣れ、乾いてひび割れた唇に痛みが走る。
「あの子はぼくを待ってるんじゃない。『浅羽』を待ってるんだ」
駅員は浅羽をじっと見つめ、やがて肩越しにバスターミナルを振り返り、
「――たく、どこのどいつよその浅羽って。そいついまに地獄《じごく》に落ちるわね」
「僕もそう思う」
「んで、あんたの役どころは? ヒロインに横恋慕《よこれんぼ》する三枚目のクラスメイト?」
浅羽は曖昧《あいまい》に肩をすくめる。
「――まあいいや、とにかく早いとこあのハチ公どうにかしなさいよ。あんなところに銅像が立ったらバスに乗る人の大迷惑よ」
「うん」
「うんじゃなくてさあ。今なら事務室にはあたししかいないしソファもあるし、連れてく気があるんなら手を貸すって言ってんの」
浅羽は力なく首を振った。今日一日かけてどうしてもできなかったことを今すぐやれと言われても困る。あのバスターミナルから強引に引き離すような真似《まね》をして、もし伊里野が死力を振り絞って抵抗したらどうするのか。あの細い身体《からだ》は、ときに便所のドアを素手でぶち抜くほどの怪力を秘めている。あの夏服の下には長大なナイフが今も隠されている。
黙り込む浅羽に駅員はため息をついて、
「――じゃあさ、あの子はあたしが見ててやるから、その浅羽《あさば》って奴《やつ》を今すぐここにしょっぴいてきなさいよ」
浅羽は再び首を振る。
「なんで」
「――すごく、遠いところにいるから」
駅員は舌打ちをしてガリガリと頭を掻《か》きむしり、
「あーもー! それじゃ電話よ電話! 事務所の使っていいからその浅羽って奴《やつ》に電話しなさいよ! 直接話をさせればあの子も納得するでしょ!?」
浅羽は三たび首を振ろうとして、
――電話。
突然、すべてを諦《あきら》めかけていたその目に光が戻った。
伊里野《いりや》をデートの呪縛《じゅばく》から解き放つための、ひとつの可能性。
理屈ではないのだ。伊里野がそれをどう認識するか。伊里野がそれに納得するか否か。それがすべてなのだ。浅羽は校長を放り出して、ダッフルバッグに飛びついて中身を引っかき回し始めた。事務所の電話では駄目だ。伊里野はたとえ一時《いっとき》でもバスターミナルを離れることに同意しないかもしれない。
「――な、なによ。いきなりどうしたのよ」
「伊里野に電話する」
「誰《だれ》よその伊里野って」
「ハチ公」
「――ちょっと待って、あんたが電話してどうすんの」
「話をする。説得する」
「だーかーら! あの子は『浅羽』って奴を待ってるんでしょ!?」
「浅羽はぼくだよ」
「はあ!?」
あった。
浅羽はダッフルバッグの奥底からコンビニの袋を引っぱり出した。逆さにする、何台もの携帯電話が転がり出る。そのうち二台をつかみ取って立ち上がり、呆気《あっけ》にとられている駅員に向き直ったとき、相手が大人《おとな》である、という認識が今さらのように這《は》い登ってきた。
「――あ、あの、」
ぎこちない一瞬《いっしゅん》、
「お願いが、あるんですけど」
自販機の陰から見守る浅羽の視線を背に受けて、駅員はバスターミナルに向かってまっすぐに歩いていく。本人はさりげなく歩いているつもりなのかもしれないが、その足取りからは極度の緊張《きんちょう》がありありと見て取れた。目標まであと3メートル、2メートル、1メートル、深呼吸、膝《ひざ》を抱えてうずくまっている伊里野《いりや》の肩を叩《たた》く。
伊里野が顔を上げる。
その制服姿が功を奏してか、伊里野はさして不審《ふしん》げな表情を見せなかった。駅員はポケットから携帯電話を取り出して、
「これ、浅羽《あさば》くんから。あなたに渡してくれって頼まれたの」
素早く伊里野に手渡す。
考える時間も質問する隙《すき》も与えずにすぐさま踵《きびす》を返す。
伊里野は携帯電話を手に立ち上がり、バスターミナルを後にする駅員の後ろ姿を不思議そうに見つめている。駅員は自販機の陰に向かって「うまく渡せた」と微《かす》かにうなずいてみせ、駅の正面入り口をくぐったところで扉に背中をあずけ、肩の荷がおりた――というため息。
準備は整った。
浅羽は携帯電話を両手で捧《ささ》げ持ち、固く目を閉じて覚悟を決めた。番号をプッシュして、伊里野の携帯電話が鳴り出すまでには思いがけないほどの時間差があった。
伊里野は飛び上がって驚《おどろ》いた。
自販機の陰からその様子をうかがいながら、電話に出ろ、と浅羽は身体《からだ》中で念じる。空気そのものが着色されたような夕焼けの中に、無機的な電子音が鳴り響《ひび》いている。浅羽は無意識のうちに数えていた。十七回目の呼び出し音の後、伊里野はようやく通話ボタンを押した。
回線がつながった。
伊里野の手がゆっくりと持ち上げられ、白い髪に縁《ふち》取られた耳に携帯電話が当てられる。
浅羽は震《ふる》える息を吸い込む。ひび割れた唇が、最初の言葉を紡ぎ出す。
「もしもし、」
『――浅羽?』
時間と空間がつながった。
「ねえ伊里野、ぼくは誰《だれ》?」
『浅羽。声でわかる』
携帯電話は、タイムマシンになった。
浅羽がいま話しているのは、夏休みが終わって最初の日曜日の、園原《そのはら》駅前のバスターミナルにいる伊里野だった。
「その、遅くなってごめん、もっと早く電話できればよかったんだけど」
『へいき。わたしもいま来たところ』
浅羽は固く目を閉じた。
あの日あの朝も伊里野は同じことを言ったし、自分はその言葉を信じていた。
『浅羽《あさば》、いまどこにいる?』
「ちょっと、遠いところにいるんだ。あれから――」
言わねばならない。
あの日の約束が「浅羽」の言葉で撤回《てっかい》されない限り、伊里野《いりや》はあのバスターミナルから一歩も動くことができない。
「――あれから色々なことがあって、本当に、本当に色々なことがあって、まだそっちには戻れそうにないんだ。だから、今日は、伊里野と一緒に映画を見に行けない」
ひと呼吸おいて、伊里野の声が聞こえた。
迷いのない声だった。
『わかった』
浅羽は呼吸を止めた。心臓も止めたかった。
「――本当にごめん、ずっと待っててくれたのに」
『いい』
よくない。
自分が本当に謝《あやま》りたいのは、何をおいてもまず謝るべきは、伊里野を十時間以上も待たせたことではない。
あの夜のことだ。
警察《けいさつ》に追い立てられて高台の学校から逃げ出して、真っ暗な線路を歩いたあの夜のことだ。
『浅羽は、あしたは学校に来る?』
「――あ。うん」
『じゃあ、わたしも行く』
唐突に、何もかもすべてをぶちまけてやりたい衝動《しょうどう》に駆られる。――どうして君はそんなにスキだらけなんだ、誰《だれ》も見ていないと思って電話一本でなぜそんなに嬉《うれ》しそうな顔をするんだ、ぼくは近い将来に君を裏切るんだぞ、真っ暗な線路に君を置き去りにして逃げ出してしまうような奴《やつ》なんだぞ――そう言ってやりたい。
あの夜の伊里野に電話をしたい。
真っ暗な線路に立ち尽くしている伊里野と話をしたい。
「――それじゃあ、また明日、学校で」
『ありがとう』
「――え、」
『電話してくれた。日曜日なのに浅羽と話できた。待っててよかった』
浅羽は、電話を切った。
しばらくは身動きをする気力もなく、スニーカーの靴紐《くつひも》にじゃれついてくる校長をぼんやりとながめていた。深呼吸をして、背筋を伸ばして、自販機の横っ腹に後頭部で何発も頭突きをくれて、浅羽《あさば》はゆっくりとバスターミナルを振り返る。
伊里野《いりや》は携帯電話を手に下げたまま、その場を一歩も動かずに立ち尽くしていた。
夕暮れの空を見上げていた。
広大な空だった。
空に帰れなくなった天使のようだった。
何かがおかしい、浅羽がそう思ったときにはすでに意識はなかったのかもしれない。身体《からだ》をまっすぐに硬直させたまま、伊里野は風に押される案山子《かかし》のようにゆっくりと背後に倒れ込んでいく。浅羽が自販機の陰から、駅員が正面入り口の扉の陰から飛び出して、伊里野の横たわるバスターミナルへと駆け寄っていく。
椎名《しいな》真由美《まゆみ》によく似た駅員は、落ち着いて近くでよく見ればそう似てもいなかった。おまけにものすごく雑な性格で、ヤカンに葉っぱを直《じか》にぶち込んで茶をぐらぐら沸かし、如雨露《じょうろ》で鉢植えに水でもやるような手つきでじょぼじょぼ湯飲みに注ぎ、ガラステーブルの上をびしょ濡《ぬ》れにしてしまってもまったく平然としている。浅羽は湯飲みに手を伸ばしたが熱くて触れなかった。
「あんたらどこから来たの?」
浅羽はぎくりとする。湯飲みをあきらめて柿の種に伸ばそうとしていた手を曖昧《あいまい》に引っ込める。駅員の無遠慮《ぶえんりょ》な視線に負けてうつむき、
「――北のほう」
「は?」
誤解を招く表現だったと言ってしまってから思う。事実には違いなかったが、聞く方は自分たちの風体《ふうてい》と今のご時世を掛け算してとんでもない想像をするかもしれない。もっと口当たりのいいごまかしを並べることもできたが、「この人に嘘《うそ》をつきたくない」と思っている自分がいた。「お人よしもここまでくると病気だ」と呆《あき》れ返っている自分もいた。
駅員は、まあいいや、とでも言いたげなため息をついて、
「で、どこへ行くの?」
この問いには嘘、と言って悪ければ出まかせでしか答えようがない。いつもの脊髄《せきずい》反射で、
「親戚《しんせき》のおばあちゃん家《ち》」
駅員は微妙な間をおいて「ふうん」と鼻を鳴らした。
獅子《しし》ヶ|森《もり》駅の事務室は壁《かべ》も床も天井も板張りで、それなりに近代的な建物の外観とはまったくそぐわない。色気のないデスクが乱雑に並ぶ部屋の片隅には垢抜《あかぬ》けない応接セットが設《しつら》えてあり、そこで浅羽と駅員はガラステーブルを挟んで向き合っている。大型テレビに接続されているゲーム機はどう考えても駅員が持ち込んだ私物であろう。
応接セットの一番大きなソファは伊里野と校長が占領していた。駅員はバスターミナルに横たわっている伊里野《いりや》を見るなり「日射病ね」という雑な診断を下したが、少なくとも意識を失《な》くして倒れたことに限っていえばその通りだったのかもしれない。事実、事務室に担ぎ込まれた伊里野はすぐに意識を取り戻し、駅員が買い置きしていた食料をものすごい行儀《ぎょうぎ》の悪さで平らげて、今は校長と一緒に布団に包まって仲良く寝息を立てている。壁《かべ》の時計は八時を回ったところだ。
「で、親戚《しんせき》のおばあちゃん家《ち》ってどこよ?」
「え?」
「だから、そのおばあちゃん家ってどこにあるのよ? この近く?」
まさか追求してくるとは思わなかったので、気がついたときには正直に答えていた。
「――えっと、苑木沢《そのきざわ》っていうところ。近くに海水浴場とかある」
「苑木沢ぁ!?」
駅員がいきなり大声を出した。
「それって終点のまだ先でしょ!? ど、どどどーすんのよそれ、そんな遠くまでどうやって行くつもり!?」
駅員がこうも過剰反応する理由が浅羽《あさば》にはわからない。どうやって行くもなにも、
「――夜が明けたら、最初の電車に乗って、」
「あんたその目は節穴? 今日一日駅前でがんばってて気づかなかったの? 電車なんで一両も来なかったでしょ?」
そう言われても、まだピンとこなかった。
「うちの線路はね、自衛軍から物資運搬路線の指定を受けてんの。三日くらい前にお達しが来て通常の旅客運行は昨日でおしまい。――まあ、近頃《ちかごろ》は客なんてほとんどいなかったしね、空っぽの電車いくら動かしたって赤が出るばっかりなんだから、菊の御紋《ごもん》が一日なんぼで路線を丸ごと召上げてくれるんなら会社としてはその方がありがたいくらいなんだけど」
「――それじゃ、」
「バスは今日でおしまい。理由はやっぱり客がいないってことと、軍が燃料の規制を始めたこと。電車やめちゃうんだったらどうせならって感じね」
「――だったら、」
「だったら? 言っとくけどね、うちみたいな小さいところにまで通達が来たってことは、たぶんもう全国どこ行っても状況は似たり寄ったりよ。大手の路線なんてとっくに軍が押さえちゃってるはずだしね。バス会社だって同じ。客がいなくて燃料もなくて使える道路も制限されてそこいらじゅう検問だらけ。これじゃ営業続ける方がどうかしてるわ」
――だったら、
行く先々でバイクを盗み続けるのはあまりにも危険が大きすぎる。燃料の規制が始まっている状況ではヒッチハイクも不可能だろう。徒歩で移動できる距離など知れているし、果たして伊里野《いりや》の身体《からだ》がどこまでもつか。そもそもの最初から、危険度や移動効率や体力的な問題を秤《はかり》にかけて、移動の手段はほとんどバスと鉄道に頼ってきたのだ。
次第に、事の重大さがのしかかってきた。
「お先真っ暗って顔してるわよ」
額《ひたい》を突《つつ》かれて浅羽《あさば》は我に返る。思わずすがるような目つきで駅員を見つめると、
「ちょっとなによ、やめてよそういうの。これ以上何をしろっての? こう見えてもあたしだって仕事でここにいるんだからね。うちの駅長バカだからさ、軍が路線を押さえたら宿直要員はひとつの駅に最低三人は置かなきゃいけない決まりなのにさ。とんだ貧乏クジよ」
浅羽はひと言もなくうつむく。駅員は苛立《いらだ》たしげに鼻を鳴らし、壁《かべ》の時計にちらりと視線を走らせて勢いよく立ち上がる。
「さーて、お風呂《ふろ》入ってこよっと。ここで寝るなりヤルなり好きにしていいけどさ、あたしのシフト明日の朝六時で交代だから。それまでには出ていきなさいよ」
身動きもできない浅羽を残して、駅員は足早に事務室を出て行く。後ろ手にドアを閉める音が、浅羽の耳には自分たちの行く手を閉ざす音のように聞こえた。
最初からどこに行くあてもなかった。
それでも、切符を買って座席に座れば「どこか」に運んでもらえた。アスファルトに引かれた白線や錆《さび》色の枕木《まくらぎ》を毎日毎日見つめていたのは、そうしている間は自分が何か意味のあることをしているつもりでいられたからだ。
しかし、それも昨日までだ。
ここから先には道がない。
もう、どこにも行けない。
鉄道の接収と燃料の規制。軍が動いている。本気で動いている。今度こそ本物だ。今度こそ本当に戦争になる。
世界は、自分たちのことなどお構いなしに動いていく。
ひとり残らず死ぬことは、ひとり残らず助かることと大して違わない。本当の悲劇《ひげき》とは、誰《だれ》かひとりを残して他《ほか》の全員が死ぬことであり、他の全員が助かったのに誰かひとりだけが死ぬことだ。
今日までずっと、胸のうちに巣食うひとつの恐怖がある。
それは、「誰かに追いかけられる恐怖」だったはずである。
しかし浅羽は今、はっきりと自覚した。
今も胸の内に巣食う恐怖はいつしか、「周囲のすべてから取り残される恐怖」へと置き換わっていた。
◎
誰《だれ》かが脳天を蹴《け》飛ばしている。
「おら。起きろ若人」
浅羽《あさば》はシュラフに中途半端に包まって床で寝ていた。その脳天を駅員がつま先で小突いている。浅羽はすぐに目を覚まして周囲を見回す。事務室の明かりがいつの間にか消されている。窓の外はまだ暗い。伊里野《いりや》はソファで眠り続けている。
「――いま何時?」
「もうすぐ夜中の十二時。ほら、目覚まし」
差し出された缶コーヒーを受け取ってシュラフから這《は》い出るが、いまだに状況が見えないままだった。駅員が風呂《ふろ》に入ると宣言して事務室を出て行った後、堂々巡りする思考の中を這いずり回っていたことは憶《おぼ》えている。そのうちに強烈な疲労が襲《おそ》いかかってきたこともうっすらと記憶《きおく》にある。そのままソファで眠り込んでしまったのかもしれない。が、途中で目を覚ましてバッグからシュラフを引っぱり出してその中にもぐり込んで改めて寝なおした、という記憶《きおく》はまったくなかった。疲労の深さを改めて思い知る。
事務室の闇《やみ》のどこかで何かが倒れる音がした。
恐らく校長だろう。何か物を壊《こわ》す前に捕まえておこうと思って、
「電気のスイッチは?」
「暗くてもコーヒーくらい飲めるでしょ。いいからそこに座って」
いやな予感がする。
しかし、一応は言われた通りにした。駅員は向かいのソファに腰を下ろすが、暗すぎてその表情は読み取れない。
「――考えたんだけどさ、」
身構える、
「朝になったら、あんたらを警察《けいさつ》に突き出そうと思うの。やっぱりそれが一番いいと思う」
想像の範疇《はんちゅう》だった。
浅羽は深く息を吸い込む。
「園原《そのはら》中学校二年四組出席番号一番の浅羽|直之《なおゆき》くん。バッグにマジックで名前を書いてるうちはまだ子供よ。お父さんもお母さんも、」
「あの、」
完全に心が折れてしまう前に、決意を口に出さねばならなかった。
「夜が明けたらすぐにここを出て行きます。迷惑はかけません。――ていうか、もう充分迷惑かけちゃったと思うけど、これ以上はかけません。何なら今すぐ出て行きます。だから、警察《けいさつ》には連絡しないでください」
駅員は、一分近く無言でいた。
「出て行くってどうするのよ。行くとこなんかないんでしょ?」
「何とかします」
「どうしてそこまでするわけ? ねえ、園原《そのはら》中学校の園原って、ひょっとしてあの爆発《ばくはつ》事件のあった園原市? あの子の髪の毛どうして真っ白なの? あんたたち一体何者?」
「――言えません」
「どうして」
「言うと、迷惑がかかるかもしれないからです」
なあっ
事務室の闇《やみ》の中で校長が鳴いた。
駅員はため息をついて、制服のポケットからぺしゃんこに潰《つぶ》れた煙草《タバコ》のパッケージを取り出した。テーブルに備え付けの馬鹿《ばか》でかいライターで火を点《とも》し、胸いっぱいに煙を吸い込んで、柿の種がまだ入っている器に容赦なく灰を落とす。
「勝手にすれば」
闇に漂う煙とともに、駅員はそう言った。
「とにかくね、あたしはこれ以上あんたたちに関《かか》わりたくないの。夜のうちにどうするか決めなさい。夜が明けてもまだあんたたちがここにいたら、そのときこそあたしは警察《けいさつ》に電話をする。それでいい?」
浅羽《あさば》は肯《うなず》いた。
突如としてぶり返してきた強烈な不安に胃の痛みを覚える。気力がまだ残っているうちに、今すぐに伊里野《いりや》を起こしてここから出て行こうと思った。震《ふる》える息を吐いてソファから立ち上がろうとしたとき、
「コーヒーくらい飲んでけば?」
首を振ると、
「いいから飲んでいきなさいよ、人がせっかく買ってきたのに」
浅羽はため息をついて再びソファに腰を下ろす。
「ひとつだけ正直に答えて。苑木沢《そのきざわ》に親戚《しんせき》のおばあちゃん家《ち》があるって言ってたわね。あれは本当の話?」
浅羽は投げやりに肯いた。今さらなぜそんなことを聞かれるのかわからないし、もうどうでもいいことだと思う。コーヒー缶を手に取って、プルトップを引き開けて中身を一気飲みしようとした。
「――そう言えば、菊の御紋《ごもん》からさっき電話があってさ」
思わず喉《のど》が詰まった。
口の端からコーヒーが吹きこぼれてズボンに滴り落ちる。駅員はからかうような口調で、
「なぁに、どうしたのよ。自衛軍から電話があっちゃマズいわけ? ――大丈夫、仕事の話よ仕事の」
浅羽《あさば》は手の甲で口を拭《ぬぐ》い、
「――仕事?」
「そ。うちの線路を軍が押さえたって話はしたでしょ? 通常業務は昨日で店じまい。バカ駅長のバカ指示で今この駅にいる職員はあたしだけ。憶《おぼ》えてる?」
憶えている。しかし今はコーヒーが滴り落ちたズボンの方が気になる。
「今夜、いよいよ軍用列車の第一号が走るらしいわ。四十両編成の貨物列車。中原田《なかはらだ》で荷を積み込んで終点までノンストップ。真夜中の幽霊《ゆうれい》列車ってとこね。さっきの電車はその連絡。こういうのって機密保持のためにギリギリになるまで知らせてこないのよ。今から――」
駅員はダイバーズウォッチのバックライトを点《とも》して時間を確認し、
「――一時間と三十七分後。午前一時三十二分に獅子《しし》ヶ|森《もり》を通過予定」
ズボンの染みをごしごしこすっていた浅羽の手が、動きを止めた。
駅員は、まだいくらも吸っていない煙草《タバコ》を柿の種にねじ込んでもみ消した。その瞳《ひとみ》が事務室の闇《やみ》の中で不敵に輝《かがや》いている、足を組み替え、細いあごを組み合わせた両手の上に乗せる。
「軍用列車なんて聞くと迷彩模様の筋肉ダルマがすし詰めになってんのかと思うでしょ。ところが無人なんだわこれが。――少なくとも運行中はね。動力車は辺見駐屯地の中央指揮所が人工衛星使って自動制御してる。あとの貨物車は全部うちの会社が貸し出してるんだけどさ、何かあったときに責任おっつけられちゃたまんないから『人間乗せて運ぶべからず』っていう条件つき。――まあ、積荷によっては警備《けいび》兵を内緒《ないしょ》で乗り込ませてる可能性もなくはないけど、そんなに大事な物運ぶんなら最初から鉄道なんて使わなきゃいいんだし。なんてったって四十両編成の貨物列車よ? 途中で誰《だれ》かがこっそり飛び乗ったってよっぽど運が悪くなけりゃ見つかりっこないわ」
「――でも、」
「でも?」
何から尋ねたらいいのかわからない。混乱した頭の中を引っかき回して、最初に手に触れた疑問を口にする。
「でも、でも――終点までノンストップなら、この駅にも、」
「そう、この駅にも止まらない」
「だったら、」
「踏切があるの。駅のホームから100メートルくらい下ったところ。その踏切にある標識を駅から手動で操作して停止信号を出せば、動力車はそれを感知した時点で減速を始める。ただし完全に列車を止めると動力車が警報を発して辺見に気づかれちゃうから、適当なところで停止信号は解除する。――とにかく、四十両編成ともなると減速にも加速にも相当の時間がかかるから、信号を出すのも解除するのもかなり早い段階での操作になるわ。タイミングと勘が命の一発勝負だけど、うまくいけば、ホームを走って飛び乗れるくらいには列車の速度を落とせるかもね」
「――じゃあ、降りるときは、」
「知るかそんなの。そこまで面倒《めんどう》見きれないわ。――けどまあ、さっきも言ったけど、四十両編成の列車なんてそう簡単には止まれないから。終点のずっと手前で減速が始まって、駅に着く直前にはものすごいノロノロ運転になってるはずよ。適当なとこで飛び降りればどうにかなるんじゃないの」
「――どうして、」
何をおいても、これだけは聞いておきたかった。
「え?」
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
「べつに」
駅員はぷいっとそっぽを向く。その視線の先には、毛布に包《くる》まって眠り続けている伊里野《いりや》の姿がある。
「――今日一日ずっとあんたたちのこと見てて、何かよっぽどの事情があるんだろうって思っただけよ。もしそれがヤバい事情なら早いとこ厄介払いしないとこっちまで危ないし」
そこで駅員は浅羽《あさば》に向き直り、
「言っとくけどね、あたしはなにもしないわよ。寝不足のタタリでついうっかりおかしな信号出しちゃって、すぐにそのことに気づいて慌てて解除するだけ。そのときホームで何があったかなんて知ったこっちゃないわ。後で誰《だれ》かに聞かれてもあんたたちのことなんか知らないって言うからね」
ぜひともそうしてほしいと浅羽は思った。この人は、自分たちに最後の道を教えてくれたのだと思う。たとえその道の先に何があっても、この人に累《るい》が及ぶようなことがあってはならない。
「ぼくも知らないって言います。拷問されても喋《しゃべ》りませんから」
「なぁーにを偉そうに。拷問なんかされたら人間なんでも喋《しゃべ》るっつの。だいたいね、あんたみたいなガキなんか拷問するまでもないわよ」
調子に乗って威勢のいいセリフを口走ったことが急に恥ずかしくなって、浅羽はことさらに不愉快そうな顔をした。それを見た駅員は鼻息で笑って、ガラステーブルの上に身を乗り出して、
「何か言いたそうじゃん。よし、それじゃテストしてやる」
「テスト?」
「そう。テスト。あんたがどれくらいヒミツを守れる男か。用意はいい?」
浅羽《あさば》は腹に力を入れて何が来るかと身構える。
「――いいよ」
「あの子のこと好きなんでしょ?」
「!!っ」
その瞬間《しゅんかん》の浅羽の顔を見て、駅員は五分以上笑い続けた。
獅子《しし》ヶ|森《もり》のホームには動物の形に刈り込まれた植え込みがあって、まるで幼稚園みたいだと浅羽は思った。走って飛び乗ることを考えて、ホームの一番端にうずくまってる四足《よつあし》の植え込みの陰に身を隠して列車を待ち受けている。浅羽はそれを馬だと思っていたが、ひょっとすると牛だったのかもしれない。あるいはカバだった可能性もある。
「タリー」
目もろくに見えていないくせに、伊里野《いりや》は浅羽よりもずっと早く列車の接近に気づいた。闇《やみ》の彼方《かなた》に四つの光る目玉が現れる。ゆっくりと近づいてくる。
「手を出して」
あさっての方向に差し出された伊里野の左手を右手でつかみ、手と手が離れないように、事務室から黙《だま》って借りてきたガムテープでぐるぐる巻きに縛《しば》りつけた。立ち上がり、下手《へた》くそなダンスのように、手と手をつないだまま苦労して身体《からだ》の向きを変えた。
「まずぼくが先に飛び乗って、それから伊里野を引っぱり上げる。わかった?」
「グリーン」
轟音《ごうおん》が近づいてくる。
なにしろ衛星経由の自動制御だ。未来都市の透明なチューブの中を走っているようなやつを想像していたが、古くさいロードムービーから抜け出してきたようなディーゼル駆動の化け物だった。動力車に続いて数知れぬ貨物車がホームを通過していく。偽装網《バラクーダ》をかけた戦車が何台も目の前を通り過ぎていく。乗り込む貨物車を選り好みしている余裕はなかった。停止信号はとっくに解除されている。こうしている間にも列車は一秒ごとに速度を増していく。
植え込みの陰から飛び出して、伊里野の手を引いてホームを走り出す。
浅羽ひとりが手ぶらで飛び乗るなら造作もなかったはずだ。しかし、荷物と校長が詰まったダッフルバッグは重くて邪魔《じゃま》で、目の見えていない伊里野は全力で走るのを怖がって、浅羽は狙《ねら》った貨車に飛び移るタイミングをどうしてもつかめない。身軽になるために、ダッフルバッグを肩から外して適当な貨物車に放り込む。
「いくぞ!」
その瞬間、ホームと列車の隙間《すきま》が底知れぬ谷のように思えた。
貨物車の側面に張り出した手すりをつかみ、連結部のデッキに飛び乗った。
必死だった。すぐさま手すりにしがみついて身体《からだ》を支え、上半身を乗り出して叫ぶ。
「もっと速く!」
伊里野《いりや》は浅羽《あさば》の手に引きずられるようにして懸命《けんめい》に走っている。何かに足をとられて転びそうになるたびに泣きそうな顔をする。そのとき、ごごん、という衝撃が綱引きのように貨物車を走り抜け、列車全体がさらに速度を増した。その衝撃《しょうげき》に手を引かれて伊里野がつんのめる。もう先がない、伊里野の行く手にホームはあと20メートルも残っていない。
「目を閉じて走れ! いちにのさんでぼくの声がする方にジャンプしろ! いち!」
伊里野が目を閉じる、あと10メートル、
「にい!」
ガムテープの中で手と手が互いを固く握り締《し》める、
「さん!!」
伊里野が飛んだ。
浅羽は渾身《こんしん》の力を込めて伊里野をデッキに引っぱり込んだ。
狭いデッキにもつれ合うようにして転がった。床に頭をぶつけ、ガムテープで縛《しば》りつけた手がおかしな方向にねじれ、伊里野の身体の下敷《したじ》きになってしばらく起き上がれなかった。
白い指先が浅羽の頬《ほお》に触れた。
浅羽が驚《おどろ》いて身を固くすると、伊里野は熱いものに触れたかのように手を引っ込めたが、息がかかるような距離から浅羽を探るように見つめている。
まるで、大切なことを懸命に思い出そうとしているかのようだった。
「――伊里野、ぼくが見える?」
伊里野は、こっくりと肯《うなず》く。
つかの間、列車の轟音《ごうおん》が意識の彼方《かなた》に消えた。
浅羽は、伊里野を見つめ、
「――ぼくは誰《だれ》?」
あるいは、伊里野の記憶《きおく》を再び閉ざしてしまったのは、浅羽のそのひと言だったのかもしれない。伊里野は弾《はじ》かれたように身を起こし、うつむき、ぽつりと、
「シバタ」
列車の轟音が戻ってきた。
浅羽は見知らぬ「シバタ」に思いを馳《は》せる。男か女か。軍人なのか、それとも民間人か。「柴田《しばた》」か「芝田《しばた》」か、あるいは「イワノフ・チェルネンコ・シバタビッチ」か。
どうでもいいことだった。
いくつか前の貨物車に投げ込んだダッフルバッグのことを思い出して、浅羽がのっそりと立ち上がったときだった。デッキの手すりから身を乗り出して流れる夜を眺めていた伊里野が、列車の後方を指差してこう言った。
「フレンドリー」
浅羽《あさば》もまた、伊里野《いりや》の指先につり込まれるように後方を振り返る。闇《やみ》と、微《かす》かなカーブを描いて延々と続く貨物車の列と、次第に遠ざかっていく獅子《しし》ヶ|森《もり》駅のホームの明かりと、
「――あ、」
人影。
ホームに誰《だれ》かがいる。ゆっくりと歩いている。
人影はホームの端で立ち止まり、遠ざかる列車をじっと見つめて、少しおどけた仕草《しぐさ》で一度だけ手を振った。
列車は加速していく。浅羽は手すりに飛びついて闇の彼方《かなた》を食い入るように見つめたが、人影もホームの明かりもすでに見えなくなっていた。獅子ヶ森駅が遠ざかっていく。思いは何ひとつ言葉にはならなかった。ただ、伊里野が口にしたそのひと言だけが、浅羽の脳裏にいつまでも溶け残っていた。
友軍機《フレンドリー》。
◎
タイコンデロガの食堂の一番奥には、特別なテーブルがあるの。
そのテーブルには、食堂で一番上等なお皿と、ぴかぴかに磨《みが》いたナイフやフォークがいつでも並んでて、すぐに食事が始められるようになっている。だけど、どんなに食堂が混雑しているときでも、誰《だれ》もそのテーブルには座らない。所属も階級も関係ない。タイコンデロガの艦長《かんちょう》だって、そのテーブルにだけは座れない。
なぜって、そのテーブルのすぐ近くの壁《かべ》に、真鍮《しんちゅう》製のプレートが掛かっているから。
そこには、こう書いてあるから。
"MIA ―― You are not forgotten."
そこは、MIAのためのテーブル。
任務中に行方不明になった人のためのテーブル。
だから、そのテーブルには誰《だれ》も座っちゃいけない。行方不明になった人が、いつ戻ってきてもいいように。その人が戻ってきたら、いつでもすぐにあったかいご飯が食べられるように。
空っぽの貨物車にもぐり込んで、キャンプ用ランタンのスイッチを入れた。
映画などでは、貨物列車にもぐり込んで旅をするシーンがよく出てくる。しかし、実際にもぐり込んでみた浅羽はものの十秒であんな映画はみんな嘘《うそ》だと思った。当然のことながら、貨物列車とは貨物を運ぶための列車であって、人間を運ぶようにはできていない。客車のようにお上品なサスペンションもついていない。貨物車の中の振動と騒音《そうおん》はすさまじいものがあって、列車がカーブにさしかかると床に置いたキャンプ用ランタンがガタガタ震《ふる》えながら移動していくほどだった。これでは眠ることも話すこともできない。
ところが人間なんにでも慣れてしまうもので、貨物車の壁《かべ》から壁へ移動し続けるランタンを一時間も見つめているうちに、浅羽は振動も騒音も大して気にならなくなっている自分を発見して驚《おどろ》いた。
だから、伊里野《いりや》のつぶやきもはっきりと聞こえた。
「――猫すき?」
聞き覚えのあるひと言だった。
二学期が始まって二日目の、防空訓練の日だ。あの日、中村《なかむら》のバカが無|警告《けいこく》の第一次警報を鳴らして、動転した伊里野に手を引かれてシェルターの中に引っぱり込まれた。
そこで自分は、同じひと言を聞いたのだ。
――猫すき?
浅羽は目を閉じる。
ぼくは誰《だれ》、と聞くのはやめた。
聞いたところで、伊里野が自分の名前を答えてくれることはないだろう。
ならば、たとえ伊里野がどういうつもりであろうとも、せめて自分では「浅羽」のつもりで話そう。
せっかく伊里野と二人きりなのだから。
あの日、あのシェルターの中でそうだったように。
「――うん。好きだよ」
浅羽は、あのときと同じ答えを口にした。
伊里野は、眠りこけている校長をしっかりと胸に抱いて床に座り込んでいた。浅羽の答えを聞いて、伊里野の顔に微《かす》かな笑みが浮かぶ。それはまぎれもなく、笑顔をまだ知らなかったころの伊里野の笑みだった。
「それ、伊里野の猫?」
伊里野は肯《うなず》く。
「名前はつけた?」
「校長」
校長のことは忘れていないのか、と浅羽は思う。
「鼻に、ちょび髭《ひげ》みたいな黒い点があるから?」
伊里野は不思議そうな顔で浅羽を見た。どうして知っているのか、とでも言いたげだ。浅羽が得意げな笑みを浮かべたとき、キャンプ用ランタンが再びガタガタ震えながら床を移動し始めた。
「――ポルターガイストみたいだね」
「それなに?」
「え? あー、その、いろいろ説があるんだけど、一般的に言えば幽霊《ゆうれい》の一種かな。ねえ伊里野《いりや》、幽霊ってわかる?」
伊里野はこっくりと肯《うなず》いて、
「死んだ人が出てくる」
その幽霊が、奇妙な音を立てたり物を移動させたりする現象を「ポルターガイスト」と呼ぶのだ――浅羽《あさば》はそう説明した。そして、水前寺《すいぜんじ》テーマが「心霊現象」であった今年の春に駅の女子トイレを潜入《せんにゅう》取材したときの出来事を、「知り合いから聞いた話」ということにして面白《おもしろ》おかしく語って聞かせた。伊里野は終始表情を変えなかったが、じっと話に聞き入っていた。
「――で、そいつが怒ってフィルムを捨てちゃったんだけど、ちょっと残念だよね。ひょっとしたら何かが写ってたかもしれないのにさ」
そこで弾が切れ、
「伊里野は幽霊って見たことある?」
まさか、伊里野が肯くとは思ってもいなかった。
「――あの、ねえ伊里野、幽霊だよ? 幽霊ってのは、」
「死んだ人が出てくる」
「――。それ、いつのこと?」
「最初に見たのは、去年の夏」
「さ、最初に?」
「それから何度も見た」
「場所は?」
「タイコンデロガの食堂」
ニュースで聞いたことがある。アメリカ軍の空母の名前だ。
「その話、詳しく聞かせてくれないかな」
しかし、伊里野はガタガタ震《ふる》え続けているランプの光を見つめて、いつまでも押し黙《だま》っている。ついに浅羽もあきらめて、話したくないなら話さなくていいよ――そう言おうとした瞬間《しゅんかん》、
「タイコンデロガの食堂の一番奥には、特別なテーブルがあるの」
去年の夏に、最後の仲間が太平洋で死んだ。
名前は、エリカ・プラウドフット。あと二日生き延びれば十六歳になれた。
エリカが死ぬところは見てない。あの日のBARCAPはずっと前から決まってたソーティで、ほんとならわたしも出撃《しゅつげき》するはずだった。だけど椎名《しいな》がみんなとケンカして、わたしだけ出撃が取りやめになった。あのころのわたしはレイセオンの新しい薬を使ってて、その副作用でときどき足が動かなくなったりしてたから。それで椎名《しいな》が怒って、偉い人を何人も殴って営倉に入れられた。偉い人は医務室に入れられた。わたしは部屋から出ちゃいけないって言われた。エリカは出撃《しゅつげき》した。
椎名も偉い人も帰ってきたけど、エリカは帰ってこなかった。
わたしが聞いたのは、脱出は確認されたなかった、ってことだけ。
詳しい状況は、やっぱり教えてもらえなかった。
ほんとはね、心の底ではわかってたと思う。高々度のBARCAPで脱出なんかしたって助かるわけないって。でも、あのときのわたしは、エリカはきっと無事だって思ってた。うまく海に降りて、ボートで漂流しながらレスキューパッケージが助けに来るのを待ってるんだ、絶対そうだ、って思ってた。
そう思って、車|椅子《いす》でデッキに上がって、一日じゅう双眼鏡《そうがんきょう》で海を見てた。
エリカの誕生《たんじょう》日も、わたしは双眼鏡で海を見てた。夜になってもまだ見てたらシューターの人に怒られて、部屋に連れ戻されて、それでもあきらめがつかなくて、もういっぺんデッキに上がろうと思って部屋を出た。
たぶん、夜の十一時ごろ。
食堂の前を通りかかったとき、へんだなって思った。
なぜって、明かりが消えてて、すごく静かだったから。
空母の中って昼も夜もないし、食堂なんていつでも誰《だれ》かがいるはずなのに。でも、そのときの食堂は誰もいないみたいに静かだった。わたしは車椅子をそおっと動かして、食堂の中をのぞいてみた。
誰もいない食堂に、エリカがいた。
誰もいない食堂の、MIAのテーブルに、エリカが座ってた。
やっぱりエリカが無事だったんだ、戻ってきたんだ――。わたしはそう思った。名前を呼ぶと、エリカがわたしを見て、さびしそうに笑って、
「――消えた?」
伊里野《いりや》は真面目《まじめ》な顔で肯《うなず》いた。
「それからエリカはときどき出てくる。たいていは、暗い部屋とかにひとりでいるとき。はじめのうちは話しかけるとすぐに消えちゃったけど、いろいろ試して、圧縮《あっしゅく》して喋《しゃべ》れば話ができるってわかった」
「圧縮って?」
伊里野は浅羽《あさば》の顔をじっと見つめて、ぅいるぃあるきゅあいきゅう、と言った。
「――何て言ったの?」
「さっきの話をもう一回」
「さっきの話――って、さっきの!? 食堂で幽霊《ゆうれい》を見たっていう話!? 最初から終わりまで全部!?」
伊里野《いりや》は肯《うなず》く。
「それって、ものすごい早口で喋《しゃべ》ってるの?」
「ちがう。ふつうの人の耳にはそんなふうに聞こえるだけ。ひとつの場所に意味をいっぱい乗せて圧縮《あっしゅく》する。漢字と似てる」
浅羽《あさば》は思い出す――西日の照りつける貨物集積場の屋根の上で、あるいは真夜中の闇《やみ》と雨音の中で、奇妙な方法で何者かと会話していた伊里野の姿を。
あれは、自分ひとりを残して死んでしまった仲間との会話だったのだ。
これまでずっと、伊里野のことなら何でも知っているつもりでいた。
理屈ではなく、感情でそう思っていた。
「いつもどんなこと話すの? その――エリカと」
どうしても知りたかったのだ。しかし、口に出してしまった直後に、あまりにもずうずうしい質問だったと気づいた。伊里野は気を悪くするかもしれない――思わず目をそらし、奥歯を噛《か》み締《し》めて、上目遣いに恐る恐る様子をうかがう。
すると、予想に反して、伊里野の口元には嬉《うれ》しさと恥ずかしさがないまぜになったような笑みが浮かんでいた。
「ないしょ」
まるで、言いたいけど言わない、とでも思っているかのような。
◎
エリカが死んで、わたしだけが残った。
それから秋になって、冬が来て、春になって、また夏が来た。
九月になったら学校に行けって榎本《えのもと》に言われたのは、まだ夏の初めのころだったと思う。
わたしは嫌だって言った。
「学校」っていう言葉は知ってた。何をするところかも知ってた。でも、わたしは学校なんていっぺんも行ったことなかったし、絶対いじめられると思ったし、仲間はずれにされるに決まってるって思った。
わたしには、仲間は四人しかいない。
その四人はみんな死んだ。
いまさら、知らない人が何百人もいるところに行くなんて絶対に嫌だった。
だけど、そんなのお構いなしで、みんながこっそり準備をしてることも知ってた。榎本は毎日毎日わたしのところに来ていろんなこと言うの。学校は楽しいぞ、先生はやさしくて勉強は楽しくて、いっしょに悪いことする友達がいっぱいできるぞ。
わたしは、それが嫌だった。
どうしても嫌だった。
学校なんかなくなっちゃえばいいと思った。
どうしてそんなところに行かされるのか、全然わからなかった。
八月三十一日の夕方に、わたしは榎本《えのもと》に自分から会いに行った。なんでかは知らない、そのとき榎本は敷地《しきち》の端っこにある警備《けいび》用の櫓《やぐら》の上にいて、第四エプロンの先にある山の方を双眼鏡《そうがんきょう》でのぞきながらお湯をかければできる冷やし中華を食べてた。
学校へなんか行かない。
この話はこれでおしまい。
わたしがそう言うと榎本はね、そうか、って。
そこまで言うなら仕方がないけど、でも残念だな、学校にはプールがあるのにな、って。
今だからわかるんだけど、榎本は、最初からぜんぶ計算してたと思う。
最後の最後まで、切り札を残していたんだと思う。
五人の中で、泳げたのはエリカだけ。ジェイミーも自分では泳げるって言ってたけど、ぜったい、ぜったいぜったいうそ。ディーンとエンリコとわたしは泳げなかったし、それまで泳いだことがなかった。ネバダにいたころは泳げない人なんか周りにいっぱいいたし、自分が泳げないんだって意識したこともなかった。
だけど、エリカは泳げた。エリカは、わたしや他《ほか》のみんなと違って、十三歳になって初めてネバダに来たから。
そういうことを、榎本はぜんぶ知ってた。
それでもわたしは意地をはって、なんにも言わずに自分の部屋に戻った。部屋に戻ってからは、自分はどうしたいのかが自分でもわからなくなっちゃった。プールで泳いでみたいけど、学校に行くのは嫌だった。泳げるようになりたいけど、訓練もしないで最初から泳げっこないってこともわかってた。すごく迷って、気がついたらもう暗くなってて、部屋のすみっこにはエリカがいた。
エリカは、迷ってるわたしにこう言ったの。
学校に行くのがいや。だったら、学校なんか行かなければいい。
でもプールで泳ぎたい。だったら、こっそり忍び込んで泳げばいい。
◎
ランタンを消して、貨物車の扉を開け放つと、真正面に夜明けの光が見えた。
列車は、ドブ色の水を満々と湛《たた》えた大河の鉄橋を渡っていた。斜めに傾《かし》いだ巨大な鉄骨が目の前をいくつも通り過ぎていく。後方の岸には野球のグランド、前方の岸には体育館サイズの倉庫が無数に立ち並んでおり、貨物車の真下をのぞき込むと、ほとんど流れのないゴミだらけの水面に夜明けの光がギラギラと輝《かがや》いていた。
列車の減速がもう三十分も前から始まっている。遥《はる》か前方の動力車がブレーキをかけるたびに、無数の連結部を伝わってくる衝撃《しょうげき》が列車全体を玉突き衝突のように走り抜けていく。速度はすでに、もう飛び降りても平気だろうかと迷うくらいには落ちていた。現在時刻は午前五時二十二分。獅子《しし》ヶ|森《もり》の駅員は、終点への到着予定時刻は五時五十七分だと言っていたが、多少の誤差はあるかもしれない。要は「いつ」飛び降りるかではなく「どこで」飛び降りるかだ。終点では自衛軍が列車を待ち受けている。ならば、より早い段階で飛び降りればその分だけ安全かと言えば必ずしもそうとは限らない。飛び降りた場所のすぐ近くに自衛軍の検問があったりしたら目も当てられない。誰《だれ》にも目撃されないのは不可能かもしれないが、少なくともそれを目指して努力はすべきだ。すでに荷物はまとめた。忘れ物がないことも二度確かめた。残るは、暗くて狭くて騒々《そうぞう》しいこの揺り籠《かご》から、危険に満ち満ちた下界へと踏み出す覚悟を決めるだけだった。
やはり校長はバッグから出して、扉からそっと投げ出してやった方が安全だろうか。
「準備はいい?」
伊里野《いりや》が肯《うなず》く。まだ眠そうだった。
「目は大丈夫?」
伊里野は首を傾《かし》げる。
「安全そうな場所を見つけたら合図をするから伊里野が先に飛び降りて。ぼくは後からだ」
伊里野は少しだけ怯《おび》えた目をする。なぜ自分がそんな怖いことを先にやらなければならないのか、とでも言いたげだ。だからだよ、と浅羽《あさば》は胸の内で答える。自分が先に降りてしまったら、伊里野は結局飛び降りることができずに終点まで行ってしまいかねない。いざとなったら突き落とすつもりでいた。浅羽は風の中に頭を突き出して周囲の様子をうかがう。
そして、貨物列車は終点である立松林間《たてまつりんかん》駅に無事到着した。予定より六分遅れの、午前六時三分のことだった。
ほぼ同時刻、線路の警備《けいび》に駆り出されていた消防団員の小山内《おさない》孝明《たかあき》は、線路と道路を隔てたフェンスを乗り越えようとしている二人の子供の姿を見ている。敵国工作員による鉄道に対する破壊《はかい》活動の可能性は以前から噂《うわさ》されており、小山内もまた、そうした「目に見えぬ脅威」に抗する地元有志の一員だった。小山内が二人の子供を目撃したのは立松林間駅から1キロほど離れた線路沿いの道路で、大声で制止すると二人は転がるように逃げていったらしい。二人のうちの片方は女の子で、髪を真っ白に染めていた、と小山内は語る。
小山内が目撃した二人はおよそ一時間後、線路沿いの道路から2キロほど離れたコンビニエンスストアで買い物をしている。サンドイッチと烏龍茶《ウーロンちゃ》をふたつ、キャットフードの缶詰を三つにロードマップを一冊。勘定は男の子の方がすべて百円玉で支払い、女の子の方は外国語を喋《しゃべ》っていた――という複数の証言がある。以降、町の各所で二人を見たという証言が相次ぐ。どうやら二人は大胆にも市街地のど真ん中を突っ切って移動したらしい。目撃《もくげき》と前後して原因不明の電波障害が発生したという報告も数件。時節柄、この種の異状に神経を尖《とが》らせていた自衛軍は調査のために人員を派遣しているが、彼らの口からは電波障害の原因を特定できたという話も、奇妙な二人の子供を見たという話も出てこない。
町を出た後の二人は、地元の抵抗で建設が中断したままの軍道556号線をまっすぐに南へと下っている。田園の中をまっすぐに続く広大なでこぼこ道だ。午前中の気温はひと月ぶりに三十度を超えた。それらしい目撃証言もあるにはあるが、このときの二人を間近で見たとする証言者は中島《なかじま》菊代《きくよ》をおいて他《ほか》にはいない。中島はいわゆる「徘徊《はいかい》老人」で、二日前に家族から捜索願が出されていた。この日の午後九時[#「に」の脱字]なって保護《ほご》された際に、中島は警察《けいさつ》官に対して「軍道で宇宙人を見た」という話をしている。中島が軍道を通りかかったとき、「宇宙人」は道の真ん中に座り込んでベソをかいており、一緒にいた人間の男の子がしきりになぐさめていたらしい。「宇宙人」は人間の女の子によく似ていたが髪の毛が真っ白で、中島に対して「もうすぐ世界は滅亡して人類もみな死に絶えるのだ」といった意味の予言をしたという。
この「中島証言」を最後に、二人の足取りは軍道の陽炎《かげろう》に飲まれて消える。バイパス沿いのファミリーレストランに再び姿を現すまでの約七時間、二人がどこで何をしていたのかははっきりしていない。この期に及んでも営業を続けているファミリーレストランがバイパス沿いには三軒あって、うち二軒で、二人は服装が衛生的でないことを理由に入店を断られている。三軒目でようやくテーブルへと案内された二人はメニューも見ずに「四種類から選べるナン・カレーセット」を注文し、やはり勘定はすべて百円玉で支払われた。客は少なく、店内は静かで、髪の白い少女の姿はとりわけ目立っていたはずだが、テーブルの二人が一体どんな話をしていたのかを証言できる店員はひとりもいない。
店を出た二人はバイパスを100メートルほど逆戻りして、まるで迷路のような古い古い町並みに分け入って、坂道ばかりの狭い路地をゆっくりと下っていく。時刻はすでに日没を迎えていたはずだ。二人がたどった正確な道筋はもはや重要ではあるまい。町並みを抜けた先には小さなトンネルがあって、その入り口には小さな縦長《たてなが》の看板が針金でくくりつけられている。
一体何の冗談か、看板にはこう書かれていた。
『世界人類が平和でありますように』
トンネルを抜ければ視界が開ける。
その先にはもう何もない。
最後の道は、そこで途切《とぎ》れている。
砂浜に下りて、波打ち際へとむかって歩いて、最後の力が尽きた。
浅羽《あさば》はその場にへたり込んだ。
伊里野《いりや》もまた、浅羽の隣《となり》に座り込む。匂《にお》いをかぐように頭をめぐらせ、ただひと言、
「うみ」
せめて明るいうちにたどり着きたいと思っていたのに、結局それすらも叶《かな》わなかった。しかし、今の伊里野にとっては大した問題ではないかもしれない。一時間ほど前から、伊里野の目はほとんど光を感知できなくなっていた。
夜の海水浴場は、波の音しか聞こえない。
通り沿いに並ぶ海の家はまるで幽霊《ゆうれい》屋敷《やしき》の行列に見えた。砂浜へと降りる階段には、すでに放置されて久しいと思《おぼ》しき「遊泳禁止」の看板が錆《さび》にまみれていた。明かりひとつない砂浜は足元もおぼつかないほどに暗く、逆巻く波の白だけが闇《やみ》の中に浮き上がっている。突然の広い場所に興奮《こうふん》したのか、校長が先ほどから周囲を弾丸のように飛びまわっていた。
自分はなぜ、こんなところにいるのだろう。
自分は一体、何がしたかったのだろう。
「これなに?」
「――え?」
振り返ると、伊里野はまだ新しい花火の化石を手にしていた。砂の中から手探りで掘り出したのだろうか。
「――ロケット花火。その、先っぽの小さな筒に火薬が入ってて、ビンか何かに挿《さ》して導火《どうか》線に火をつけると飛ぶんだ。――ねえ伊里野、花火ってわかる?」
伊里野は少し考えてから何度も肯《うなず》く。名前だけは何となく知っている、たぶんそんなところなのだろう。そう言えば、伊里野とは花火もやったことがなかった――浅羽は今さらながらにそんなことを思う。
伊里野は、波の音がする方向にロケット花火を放り投げた。
再び足元の砂の中をもぞもぞと手探りして、今度は別の化石を見つけ出す。
「それは――えっと、手に持つ花火。ほんとはちゃんとした名前はあるんだろうけど。さっきの飛んでくやつとは違って、ずっと手に持ってるんだ。火を点《つ》けると先っぽからきれいな火花が出る」
波の音めがけて放り投げる。また砂の中をもぞもぞ手探り、
「――ごめん、それも名前はわかんない。糸がついてるだろ、それを棒切れか何かに結んで吊《つ》るすんだよ。火を点けると火花を吹き出しながらくるくる回るんだと思う」
ぽい。もぞもぞ。
伊里野の顔にうっすらとした笑みが浮かび始めている。だんだん楽しくなってきたらしい。
「それは、さっきの手に持ってやるのと似てる。だけどずっと大きな火花が出るから、地面に置いて火を点《つ》けるんだ」
「あー、懐《なつ》かしいなあそれ。地面に置いて火を点けるとくるくる回りながら空中に飛び上がるんだよ」
「それもさっきのやつと――あ、違う、それ落下傘だ。どっちかって言うと昼間にやる花火かな。火花が出るんじゃなくて、小さなパラシュートを打ち上げるんだ」
伊里野《いりや》は夢中になっていた。砂浜を四つんばいで手探りしては花火の化石を探し回る。本当にそこに美しい火花がみえているような顔で浅羽《あさば》の説明に聞き入り、最後には思い切りよく海に投げ捨てる。
それらはみな、夏の化石だった。
夏は死につつある。
世界は、自分たちだけを残してどこか知らない場所へと動いていく。
浅羽は見つめる――夏の化石を砂から掘り出して、海へと投げ捨てている伊里野の姿を。伊里野はそうやって、夏の化石をひとつひとつを水葬しているのかもしれなかった。
セミのいない空の下では、伊里野は生きられないのかもしれなかった。
もう一度だけ、と浅羽は思う、
もう一度だけ立ち上がってみようか。もう一度だけ立ち上がって、伊里野の手を引いて歩き出そうか。どこまで行けるかやってみようか。最後の道は、この海の向こうにまで続いているのかもしれない。もう一度だけ立ち上がって、伊里野の手を引いて歩き出して、どこか近くの港を探して外国の船に密航して、この海の遥《はる》か彼方《かなた》にある本当の終点を目指すのだ。
本当の終点は、きっと、地球を半周もしたところにある南の島だ。
CIAの衛星写真にも載っていないような、小さな常夏《とこなつ》の島だ。
いくつもの港を経て、何度も何度も密航を繰《く》り返して、自分たちはようやくその島にたどり着く。島には小さな港と小さな砂浜と小さな町があって、そのとある街角で自分たちは疲労と空腹に座り込む。
そして、その街角には小さな床屋がある。
床屋のオヤジは真っ黒に日焼けした大男で、十年前に妻に先立たれてからひとりで店を切り盛りしている。子供はいない。店先にへたり込んでいた自分たちを見つけて、食事を出してくれて、しばらく泊めてやってもいいと言う。それから一週間が過ぎて、店を訪れる客の顔と髪型を憶《おぼ》えたころに、伊里野に通訳をしてもらいながらオヤジにこう告げる。
床屋仕事ならできます、ここで働かせてくれませんか。
自分は言葉ができない。伊里野は床屋ができない。だから最初は二人で一人前だ。自分は伊里野に床屋仕事を教え、伊里野は自分に言葉を教えながら一生懸命《いっしょうけんめい》働く。心配していた伊里野の体調も、南の島の空気と風と日差しに癒《いや》されて、白かった髪の毛にも少しずつ色が戻り始める。そして、小さな床屋はかつてないほどに繁盛《はんじょう》するようになる。自分が遠い海の向こうから持ち込んだ髪型が島で流行し、若者たちは伊里野《いりや》に髪を切ってもらいたくて三日とおかずに店を訪れるからだ。そんなある日、床屋の椅子《いす》に座った客がこんなことをつぶやく。
よお浅羽《あさば》、久しぶりだな。
自分は黙《だま》って榎本《えのもと》の髪を切る。榎本はいつものスーツ姿ではない。ド派手《はで》なアロハシャツに白い短パンにサングラスというスタイルだ。もう戦争は終わった、と榎本は言う。伊里野はもう戦わなくてもいい、もう何も心配することはない、国に帰りたいのならそのための手配をしてやるぞ、と榎本は言う。自分がその申し出を断ると、榎本は最後にただひと言だけを言い残して去っていく。伊里野のことよろしくな。榎本の姿を見たのはそれが最後だ。
時が流れる。店が休みの日に、自分はオヤジと二人でボートに乗って釣りに出かける。オヤジの髪はもう白髪《しらが》だらけになっており、自分ではルアーを釣り糸に結ぶこともできない。そろそろ引退したら、そんなザマじゃお客の耳を切り落としちまうよ――自分が冗談めかしてそう言うと、オヤジは海の彼方《かなた》を見つめて答える。
お前らが結婚したら引退する。
島の友人たちは誰《だれ》もが暖かく祝福してくれたが、誰もが「何をいまさら」という顔だ。島の教会は木造で、彼方の地から派遣されて島に居ついてしまった牧師は伊里野を孫のように思っていて、指輪交換の間じゅう涙と鼻水をこらえていてみんなに笑われていた。
時が流れていく。
それから色々なことがあって、浅羽は今、店の裏庭にある木の下に椅子を出して、八歳になる孫娘の髪を切っているところだ。巨大な太陽が海に没する時間。自分がたどってきた道を振り返りたくなる時間。孫娘は伊里野に生き写しで、近ごろでは隙《すき》あらば周囲の大人《おとな》を誰彼かまわず質問攻めにする。
おじいちゃんとおばあちゃんはこの島の生まれじゃないってほんと?
そうだよ。最後の道をだどってきたら、この島にたどり着いたんだ。
最後の道って?
おじいちゃんとあばあちゃんが、ずっと手をつないで歩いてきた道だよ。
その道のおしまいがこの島?
そうだよ。
じゃあ、始まりは? その道はどこから始まってたの?
浅羽はふと手を休め、そもそもの道の始まりに思いを馳《は》せる。言葉を探しあぐねた末に、ため息とともに浅羽は語り出す。
めちゃくちゃ気持ちいいぞ、って誰《だれ》かが言ってたんだ。
だから、自分もやろうって決めたんだ。
山ごもりから帰り道に、学校のプールに忍び込んで泳いでやろうと思ったんだ。
「――あ、」
それは、いくつ目の花火を掘り出そうとしていたときだったのか。
伊里野《いりや》が小さく声を上げて身を強《こわ》ばらせた。
今度はどんな大物を見つけたのかと思って、浅羽《あさば》は身を乗り出して伊里野の手元をのぞき込む。やがて、固く強ばっていた伊里野の手が動き出す。砂が少しずつ取り除《の》けられていく。
やがて、ひとつの夏の断片が姿を現した。
何ということはない、ただの板切れだった。
しかし、伊里野はその板切れを胸にかき抱いてその場にぺったりと座り込む。
何かが起きている。
「――どうしたの」
答えはない。浅羽がその傍らに歩み寄り、その表情をのぞき込もうとした瞬間《しゅんかん》、伊里野はとんでもないことを言った。
「明日、学校へ行く」
浅羽は言葉を失《な》くした。学校と言えば園原《そのはら》中学校のことだと思ったし、ということは、伊里野はもう基地に帰りたいと言っているのかと思ったのだ。
しかし、
「もう決めた。わたし、明日から学校へ行く」
――明日から学校へ行く。
その言葉が糸口になった。伊里野の表情をのぞき込んですべてが氷解した。
今、自分の目の前にいるのは、一体|誰《だれ》なのか。
伊里野だ。
あの日の伊里野だ。
八月三十一日の、夏休み最後の夜のプールにいた、名札のないスクール水着を着ていた、クソまじめに水泳帽をかぶっていた伊里野だ。プールに落ちて鼻血を出した、ビート板にしがみついて懸命《けんめい》にバタ足の練習をした、まだ一片の笑顔も知らなかったころの伊里野だ。
ついに、自分と初めて出会ったあの夜にまで、伊里野は退行してしまった。
ついに、行き着くところまで行き着いてしまった。
「――伊里野、」
自分でも止められない。口が勝手に動いている。斜め後方から自分を見下ろしているような感覚。すべてが、現実の出来事とは思えない。
「ぼくは誰?」
伊里野は躊躇《ちゅうちょ》なく答える、
「榎本《えのもと》」
――よりにもよって。
浅羽《あさば》は目を閉じる。これまで様々な配役を割り当てられてきたが、あの男にされたのはこれが初めてだった。
伊里野《いりや》は板切れのビート板を胸にしっかりと抱きしめている。
真っ黒な海の一点をじっと見つめている。
「ずっと嫌だって言ってたけど、でもやっぱり行く。行くなって言っても行く。わたし、明日から学校へ行く」
口が動く。
あの夜、自分がプールからつまみ出され後、榎本《えのもと》が口にしたに違いないひと言。
「どうして」
伊里野がうつむく。
死に物狂いで言葉を探す。
そして、顔を上げ、榎本の問いに答えた。
入部届けに書いたあのひと言が、あのときの伊里野には言えなかったはずだ。なぜなら、あのときの伊里野はまだ「浅羽」という名前を知らなかったから。死に物狂いで言葉を探しても他《ほか》の言い方は見つからなかったのだ。だから伊里野は、
こう言った。
「好きな人が、できたから」
自分は一体、何を失おうとしているのだろう。
立ち上がる。砂を蹴《け》って走り出す。三歩もいかないうちに足がもつれてひっくり返る。すぐさま起き上がり、両腕を振り回し、気でも違ったような勢いで浅羽は走る。すべての夏の残骸《ざんがい》を、ビールの空き缶を、スチロール製の焼きそばのトレイを、サンオイルのボトルを、穴の開いたビーチボールを、腐りかけたスイカの残骸を、ボロ布のような海水パンツを、まだソースがこびりついている割り箸《ばし》を、ぺしゃんこに踏み潰《つぶ》されたLサイズの紙コップを、誰《だれ》かが落として誰かが拾って中身を抜いてまた捨てた財布を、ひねり潰されたタバコのパッケージを、温水シャワー有りますの看板を、半分に分かれるハート型のペンダントを、砂に埋もれたそれらすべての夏の残骸を蹴散らしながら浅羽は走る。涙があふれる、また転ぶ、跳ね起きる、片方のスニーカーが脱げてしまったことにも気づかない、砂をつかんで夜の海にむかって投げつける、涙も鼻水もたれ流したまま浅羽は走る。
「あぁぁああああああぁああああぁぁああああああああああああああああああ!!」
波打ち際に走りこんで、急に重くなった砂に足をとられて波の中に倒れ込んで、死ぬほど水を飲みながら起き上がって、打ち寄せる水と全身で戦いながら真っ黒な沖を目指して、波はたちまちその高さを増して、足などもう届かなくなって、強い力が身体《からだ》にぶつかってきて、目の前が真っ暗になって、上も下もわからなくなって、真っ黒な海水が焼けた鉄のように胸に流れ込んできて、
死ぬのが怖くなって、
気づいたら、腰までの深さもないところに打ち寄せられてもがいていた。
のっそりと起き上がる。
うつむきながら、波に半身を洗われながら、髪の先から伝い落ちる滴を感じながら、浅羽《あさば》は泣いた。一緒にいたいなどとは言わない、二度と会えなくていい、
伊里野《いりや》に、一秒でも永《なが》く生きていてほしかった。
◎
父の両親の家をなぜ「親戚《しんせき》のおばあちゃん家《ち》」と称するのか、浅羽家の人間はこれまで誰《だれ》ひとりとして真剣に考えたことはなかったし、たぶんこれからもないだろう。
別に「親戚のおじいちゃん家」と呼んだっていいのである。祖父が飲んだくれのダメ人間であるとか祖母にくらべて存在感が薄《うす》いとか、そういったこともない。「お前らわしを蔑《ないがし》ろにするのか! ここはミサエだけの家じゃなくてわしの家でもあるんだぞ!」などと怒ったりもしない。
つまり、関係者全員が「どっちでもいいや」と思っているのだった。
右利きの人間が「どうしてオレって左利きじゃないんだろう」と悩むことはあまりないだろうし、悩んだところで何か得をするわけでもない。それと同じ種類の事柄なのかもしれない。
「ぅおおぉ〜〜〜〜〜い、直《なお》ちゃあ〜〜〜〜〜〜〜ん!」
電話を受けて海水浴場まで迎えに来てくれたのは、飲んだくれでもなければ存在感が薄くもない祖父だった。遭難者を探しているわけでもあるまいに、海の家の駐車《ちゅうしゃ》場から懐中《かいちゅう》電灯を振り回して、暗い浜と海にむかって大声で呼びかけている。
よほど心配だったのだろう。
「おぉ、なんだどうしたんだ直ちゃん、ずぶ濡《ぬ》れじゃあないか!」
祖父はいつも、絵本を真剣に読み聞かせているような口調で喋《しゃべ》る。浅羽は伊里野の腕を自分の肩に回して、
「おじいちゃん、この子を、」
「おぉ、おぉおぉおぉ」
浅羽がもといた場所へと戻ってきたとき、伊里野は砂に身を横たえて気を失っていた。校長はずぶ濡《ぬ》れで戻った浅羽を責めるような顔で見つめていた。ともかく伊里野をもう少しマシな場所へ運ぼうと何度か試みたのだが、自分でも歩くのが精一杯の身体《からだ》ではどうにもならなかったのだ。が、つい去年までタフな郵便局員であった祖父は伊里野《いりや》を軽々と背負い、一歩砂を踏みしめるごとに「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ」とつぶやきながら、それでも浅羽《あさば》よりまだ早いくらいの足取りで駐車《ちゅうしゃ》場に停《と》めてある軽のワゴン車へとむかう。
海水浴場から「親戚《しんせき》のおばあちゃん家《ち》」までは、車ならほんの三分ほどの距離だった。
祖父に手を貸して伊里野を後部座席に寝かせ、助手席に座り込むと、もう二度と立ち上げれないと思うほどの疲労がのしかかってきた。そのことを察してか、道中、祖父が口にした質問はふたつだけだった。
「もう家には電話したのか?」
「まだ」
「――ガァルフレンドか?」
「うん」
車の振動とエンジン音を、こんなにも心地よく感じたのは初めてだった。
もう何も考えられない。車載の無線機で、祖父が家にいる祖母に連絡をしている声をぼんやりと聞いていた。アマチュア無線は祖父の唯一の道楽だった。
「親戚のおばあちゃん家」は、坂の上にある。
肩をそっと揺すられて浅羽が目を覚ますと、ワゴンは明かりの点《とも》された玄関に横づけされており、祖母が助手席のウインドウを叩《たた》いていた。
「どうしたの直《なお》ちゃん、ずぶ濡《ぬ》れじゃないの」
「だから、そう言っただろうが。風呂《ふろ》は沸かしているか?」
「ほら直ちゃん、すぐにお風呂《ふろ》沸くから、先に家に入ってその服脱ぎなさい」
「おぉ、早くしないと風邪を引くぞ。こっちのお嬢《じょう》さんは、わしが座敷《ざしき》に運んでおくから」
言われるがままだった。
浅羽にとっての「親戚のおばあちゃん家」とは、匂《にお》いである。
その匂いが、玄関の扉をくぐった途端《とたん》に浅羽の意識の表層に上った。古い家の匂いだ。飴《あめ》色の廊下と黒い柱の匂い。小さいころの思考――「お小遣いがもらえる」と「もう飽きたから帰りたい」――が、その匂いに呼び覚まされてしばらく脳裏から離れない。
まだ風呂が沸いていなかったので、脱衣所にダッフルバッグを投げ出して、濡れていないだけで同じくらいに汚いTシャツとパンツに着替えた。校長がバッグからするりと抜け出して、さっそく家の中を探検に出かけた。広い家には、祖父と祖母の足音と大声が響《ひび》き渡っている。
「ミサエ、氷嚢《ひょうのう》をどこへやった。この子は少し熱があるぞ」
「知りませんよ、救急箱と一緒にありませんか?」
「なんだ、もっといい布団はないのか。ミサエっ」
「直ちゃん、もうお風呂沸いた?」
まだだよ、と浅羽がつぶやくように答えると、
「なら着替えてこっち来てなさい、お茶出してあるから」
うん。
風呂《ふろ》よりもお茶よりもまず眠りたい。浅羽《あさば》は力ない足取りで廊下を歩き、茶の間のふすまを開けた。八畳間の真ん中にどっしりとした猫足のちゃぶ台があって、急須《きゅうす》と湯飲みと湯沸しポットと、巻き寿司《ずし》とキュウリのぬか漬《づ》けが盛られた皿が出されている。
二人とも正座をしていた。
榎本《えのもと》とゴリラのような黒服が、並んで茶を飲んでいた。
「よお。遅かったなあ」
榎本は、そう言って笑う。
南の島
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やっと終わったのだ。
もう逃げなくてもいいのだ。
張りつめていたものが一気に途切《とぎ》れて、両膝《りょうひざ》から力が抜けて、貧血を起こしたときのように頭の中が冷たくなっていく。世界が回転し、自分の頭が廊下にぶち当たる音を自分で聞いたが痛みはまったく感じない。
◎
天井の薄闇《うすやみ》に吊《つ》られている照明器具が、まるで自分を迎えに来たUFOのように見えた。
ひどく明るい夜だった。柱時計の音がする。古い家の匂《にお》いもする。ほの暗い八畳間に敷《し》かれた布団の上で、行儀《ぎょうぎ》のいいミイラのように姿勢正しく横たわって、まっさらなシーツを感じながら天井を見上げている。
なぜそんなことをしているのかは、よくわからない。
思考が空回りしている。ゆっくりと身を起こして、ぼんやりと周囲を見回して、目に映る物を順にひとつずつたどっていく。障子の骨組みが薄闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。大昔のラジオに似た形の柱時計、古めかしい箪笥《たんす》の上にじっとうずくまっている招き猫、額縁《がくぶち》入りで掲げられている先祖代々の白黒写真。浅羽《あさば》の真正面にある床の間から金属製の虎《とら》の置物が姿を消したのは三年前の夏休みのことで、この部屋で変身ヒーローごっこをして遊んでいた浅羽|夕子《ゆうこ》がコケた拍子に置物に頭をぶつけて流血するという事件があって、祖父は八つ当たりでもするかのようにその置物を捨ててしまったのだ。あのときの傷跡が今も夕子の額《ひたい》の生え際にうっすらと残っていることを浅羽は知っているし、あの虎には罪はなかったと浅羽は今でも思っている。
つまり――
ここは、親戚《しんせき》のおばあちゃん家《ち》だ。
遊びに来たときにいつも寝る部屋だ。
ここで寝ていたということは、つまり、自分は親戚《しんせき》のおばあちゃん家に遊びに来ているのだろうか。
尿意を覚えた。
浅羽はのっそりと立ち上がって、引き戸を静かに開けて暗い廊下に出た。
廊下の明かりは消されていたが、玄関の明かりは点《つ》けっぱなしになっている。トイレは玄関の左手だ。まさかとは思ったが念のためにトイレのドアをノックして、冷たくてよそよそしいスリッパを引っかけて、タンクにシールで貼《は》りつけられている「水洗トイレの使い方」をぼんやりと見つめながら用を足す。水を飲もうと思って台所へ行く途中でふと思いついて、ふらつく足取りで玄関に引き返して、そこに並んでいる靴をじっと見下ろした。
父の靴も母の靴も妹の靴も見当たらなかった。
下駄《げた》箱の中にしまってあるのかもしれないが、だとすれば、なぜ自分のスニーカーだけが出しっぱなしなのだろう。祖父や祖母の履物《はきもの》に混じって、持ち主のわからない真新しい革靴が一足だけあった。父のものではない。父の靴を一足残らず知っている自信はなかったが、父の足はこんなに大きくない。
誰《だれ》かが来ているのかもしれない。
台所を手探りして流しの明かりを点ける。浄水器のコックを捻《ひね》ると細かい気泡で真っ白に濁《にご》った水がグラスの中で渦を巻く。冷蔵庫の隣《となり》に貼られている信用金庫のカレンダーは下半分に一年分の日付が並んだポスターのようなやつで、今が何月なのかを思い出す手がかりにさえならない。大してうまくもない水をゆっくりと飲み干して小さく息を吐く。
そのとき、煙草《タバコ》の匂《にお》いに気づいた。
そして浅羽は、そのときにはもうすべてを思い出しかけていた。最後に一枚だけ残った壁《かべ》が破れない。とんでもない量の宿題をすっかり忘れているときのように、脳ミソの一部がすべてを思い出すことに頑強に抵抗していた。
父が煙草を吸っているのかもしれない。
背後の襖《ふすま》が細く開いている。その襖のむこうは茶の間で、左手が庭に面した縁側《えんがわ》になっていて、そこに腰掛けて煙草をふかしている父の背中が目に見えるような気がした。
浅羽は、煙草の匂《にお》いに誘い込まれるように、そっと襖を開けた。
茶の間は綺麗《きれい》に片付いて、明かりも消されていた。
嘘《うそ》のような月が出ていた。縁側に胡坐《あぐら》をかいて煙草をふかしていた人影が振り返った。
「おう。起きたか」
榎本《えのもと》だった。
――よお。遅かったなあ。
思い出した。
自分がなぜここにいるのか。
榎本がなぜここにいるのか。
まだ幾分かの柔らかさが残っていた記憶《きおく》は完全に硬化して、どんな変更もきかない固い固い塊のようなものになった。浅羽はその塊の重さを感じた。
胃にくる重さだった。
「なあ、頭大丈夫か?」
「――え、」
「ほら、ぶっ倒れたとき頭打ったろ。すごい音したぞ」
浅羽《あさば》は無意識のうちに後頭部に手をやる。とくに痛みは感じない。榎本はじっと浅羽を見つめ、納得したように小さく肩をすくめて、
「――まあ、無理もないさ。よっぽど疲れていたんだろうしな」
信じられない、
「うそだ」
「あ?」
すでに血が滲《にじ》むほどに思い知っている。この男を向こうに回した以上は、自分の記憶《きおく》などには毛ほどの信頼も置いてはならないのだ。また自分は何かされたのかもしれない。眠らされて嘘《うそ》の記憶を植えつけられたのかもしれない。
意識を失う瞬間《しゅんかん》に感じた言い尽くせぬ安堵《あんど》が、作られた記憶なのだと思いたかった。
「――おい、」
榎本は、浅羽が何を考えているのかをすぐに理解したらしい。茶の間の方に大きく身を乗り出して、
「あのな、誓って言うが、」
そこまで言いかけて、榎本はすぐに諦《あきら》めてしまった。ほとんどフィルターだけになっていた煙草《タバコ》を最後にひと息だけ大きく吸い込み、傍らの灰皿にぐりぐりとねじ込み、中天にかかる巨大な月を見上げ、さらに十秒もたってやっと鼻から盛大に煙を吐き出す。
「さっきな、天井裏に鳥がいたぞ」
月の光に溶けていく煙の中で、榎本は唐突にそう言った。
浅羽はただ鸚鵡《おうむ》返《がえ》しに、
「――鳥?」
榎本が振り返る。秘密基地の場所を親友に打ち明けるときのような笑みを浮かべ、茶の間の天井を小さく指差して、
「ずっと足音みたいなのが聞こえてたんだ。最初はネズミかと思ってたんだが、一回だけ小さな鳴き声が聞こえた。たぶん鳥の声だったと思う。天井裏をねぐらにしてるのかな」
話が唐突すぎて、浅羽は落とし穴にはまったように話の中へと引き込まれた。
ぽつりと、
「でも、夜だし」
「けど、ネズミってあんな声で鳴くか?」
榎本の言う「あんな声」というのが一体どんな声なのか、浅羽には想像がついた。浅羽自身もそれを何度か聞いたことがあるし、祖父はその正体を説明してくれた。
浅羽《あさば》は、祖父の説明をそのまま口にした。
「――それ、たぶん、ネズミがヘビに食われるときの悲鳴だと思うよ」
榎本《えのもと》は目を瞠《みは》った。天井から浅羽、浅羽から天井へと視線を何度も往復させ、
「ヘビがいるのか? 天井裏に?」
浅羽は肯《うなず》いて、
「ネズミを目当てにどこからかもぐり込んで来て、そのまま居着いちゃうんだと思う。この家の守り神みたいなもんだっておじいちゃんは言ってる。いつだったか、天井裏に供えておいたお酒の瓶にでっかいヘビの抜け殻が巻きついてたことがあって、おじいちゃんは今でもその抜け殻をお守りみたいに大事に持ってる」
榎本は口を半開きにして浅羽の話に聞き入っていた。再び茶の間の天井を見上げて、
「すげえ――」
今すぐ天井裏を探検しに行こう、とでも言い出すのではないかと浅羽は思った。榎本もさすがにそれは思い止《とど》まったのか、しみじみと、
「おれさ、ガキのころから憧《あこが》れてたんだよ――親戚《しんせき》の古い大きな家とか。おれん家《ち》はそういう付き合いが全っ然なくて、夏休みなんかに友達が親の実家に遊びに行ったりしてるのがものすごくうらやましかった」
「別に、そんなの、いいことばっかりでもないから」
親戚の中にはどうしても好きになれない手合いだっている。酒癖《さけぐせ》が悪いとか何かにつけて口うるさいとか、顔を合わせるたびに大昔の恥ずかしい出来事の話を持ち出してくるとか。良くも悪くも、親戚がいる、というのはそういうことだ。それが浅羽の実感だった。
「そういうもんか――」
そこで、榎本はバツが悪そうな笑みを浮かべて、
「――そうか、そうかもな。白状しちまうとさ、さっきお茶と一緒に出てきた巻き寿司《ずし》には正直参った。これ何かの間違いじゃねえのかってくらい甘くってさ、もう必死でさ、せっかく出してくれたもの残しちゃマズいと思ってさあ」
浅羽もつられて笑った。確かに、あれを喜んで食べるのは父くらいだ。
二人でひとしきり笑って、やがて、その笑いは尻《しり》すぼまりになって消えた。大して広くもない庭の闇《やみ》に蛍が漂っている。夜空になお白い雲が上空の風にゆっくりと流されていく。南米あたりの遺跡からかっぱらってきたような鬼瓦《おにがわら》が、それらすべての夜を屋根の上から静かに見つめている。
「伊里野《いりや》を迎えに来たんですか」
「そうだ」
嘘《うそ》のような月が出ていた。
「伊里野は今どこに、」
「すぐそこさ。家の裏手に停《と》めてあるバンの中でくたばってるよ」
「身体《からだ》の具合は、」
「あいつ今日までよく生きてたな。ま、ある程度予想はしてたが」
「だったら! だったらどうして、」
そこで浅羽《あさば》はうつむく。固く目を閉じて両の拳《こぶし》を握り締《し》める。榎本《えのもと》の視線を感じるが、浅羽はその先をどうしても口にすることができなかった。
――どうして、もっと早く迎えに来てくれなかったんですか。
「――本当のところを教えてやろうか」
榎本は、煙草《タバコ》のパッケージの中にねじ込んである百円ライターをつまみ出す。一本|咥《くわ》えて10センチもある炎で火を点《つ》け、まるで、本当にどうでもいい雑誌を駅のゴミ箱に読み捨てていくかのような口調で、
「おれな、お前らのこと真面目《まじめ》に探すつもりなんかなかったんだ」
一瞬《いっしゅん》、榎本が何を言っているのかわからなかった。
「――どういう意味ですか、それ」
「言葉通りの意味さ。ほら、お前が自分で虫を穿《ほじく》り出したときに捨ててったパンツ。あれを見てな、伊里野《いりや》が残された時間をお前と二人きりで過ごせて、その挙句に人類が滅亡するんならそれもいいかと思ったんだよ。――まったくな、おれもまだまだ苦労が足りねえよな。妙な期待かけちまって悪かったと思っているさ」
この男は、一体何を言っているのか。
だとすれば、自分たちの今日までの苦労は一体何だったのだろう。伊里野に無理を強いて移動に移動を続けてきたのは、そうでもしなければたちまちのうちに捕まってしまうと思ったからだ。
自分はずっと、自分の影に怯《おび》えていたというのだろうか。
「もちろん、追っ手がまったくいなかったわけじゃない。おれだって形だけでも探すフリくらいはしなきゃならなかったしな、途中からは木村《きむら》が業を煮やして自分の手駒《てごま》を動かしてた。だけどほれ、木村の子分なんて、おれたちとは違ってこんな仕事が専門じゃない。外部の組織はどこもかしこも北とのゴタゴタで上を下への大騒《おおさわ》ぎだ。軍は、長いことお前らの行方《ゆくえ》を完全に見失っていたんだ。あの丘の上の小学校でようやく足取りがつかめたんだが、リアルタイムな居場所の特定は最後までできなかった。
そこへ、お前が、じいちゃんに電話をかけてきた」
榎本は肩越しに振り返って浅羽を見つめ、やけに透き通った笑顔を作る。
「こりゃもう降参ってことだろうと思ってさ。だから、迎えに来たんだ」
「ちがう!!」
自分でもどうにもならなかった。
突然、浅羽《あさば》の口から堪《こら》え切れない嘔吐《おうと》のような叫びが迸《ほとばし》り出た。
「誰《だれ》が降参なんかするか!! ちょっとだけ休んで、お金を借りて、それから――」
それから。
それから、一体、自分はどうするつもりだったのか。
「――なんだ。違うのか」
榎本《えのもと》は、心底から意外なものに出くわしたかのように目を丸くして浅羽を見つめた。
「なんだよお前、だったら何のんびりしてんだ。そういうことはもっと早く言えよな」
榎本はまだ長い煙草《タバコ》をせわしなく灰皿にねじ込んで、上着のポケットから小さな無線機を取り出した。何事かをぶつぶつとつぶやきながらチャンネルをいじくり、レシーバーに口をくっつけるようにして一気に喋《しゃべ》る。
「榎本だ。よく聞け、これからパピーがそっちへ行くぞ。目的はアリスの奪還《だっかん》、車両や武器の強奪もあり得る。いいか、全員その場で待機。絶対にパピーに手を出すな。永江《ながえ》はスカンクどもをバンから退去させろ。アリスに対する処置はすべて中止だ」
無線機が何やら猛然と反論しかけたが、榎本は容赦なく電源を切って浅羽に向き直った。
「ほら、早く行け。三十分やる。三十分たったら、今度は本気でお前を追う」
最初から――
最初から、自分は、心の底では諦《あきら》めていたのかもしれないと思う。
丘の上の小学校から逃げ出して以降、どこにも行くあてのないことが心底恐ろしいと感じられるようになってからずっと、自分は、誰かに尋ねられるたびに「親戚《しんせき》のおばあちゃん家《ち》へ行く」と答えるようになっていた。
意味のない言い訳のはずだった。
自分ではそのつもりでいたのだ。
――ちょっとだけ休んで、お金を借りて、それから――
正気か。仮にも軍に追われている人間が、よりにもよって身内の家などにのこのこと顔を出して無事にすむと思ったのか。本当にただの言い訳にすぎないのなら、口ではそう答えつつ正反対の方向へ逃げたってよかったはずだ。そもそもの最初から、北でもない、西でも東でもない、親戚のおばあちゃん家のある[#「親戚のおばあちゃん家のある」に傍点]南へ行こうと決めたのはなぜだ。
腰が抜けた。
全身の血が沸騰《ふっとう》しているような気がした。あっけなく畳に落ちた両膝《りょうひざ》が自分のものだという感覚さえ失われていく。榎本は浅羽をじっと見つめている。その目に揶揄《やゆ》するような光はまったくない。
ただ、再び無線機を静かに取り上げて、
「榎本だ。さっきの指示を撤回《てっかい》する」
無線機が何やら猛然と罵倒《ばとう》しかけたが、榎本はやはり容赦なく電源を切った。浅羽に背を向けたまま、憮然《ぶぜん》とした調子で、
「冗談だよ」
視界が涙で歪《ゆが》んだ。
悲しいのではない。
悔しいのとも違う。
今さら自分の無力を嘆いても始まらない。
そして、榎本《えのもと》もまた、自分と同じように無力だったのだ。
ただ、本当に他《ほか》に道はなかったのだろうかと思う。伊里野《いりや》ひとりがすべてを背負わなければならない理不尽が、どこからどのようにもたらされたのかを知りたかった。
「――さて、」
榎本は腕時計を見て、浅羽《あさば》に背を向けたまま腰を上げた。
「そろそろ行くわ。じいちゃんとばあちゃんによろしく言っといてくれ」
泣き声を噛《か》み殺す、
「知りたいです。本当のことを」
榎本は振り返りもせず、
「やめとけ」
「どうしても知りたいです」
「知ってどうなるもんでもないだろ」
「それでも知りたいです」
「なあ、どうしてお前らはいつもそうなんだ?」
榎本の言う意味がつかめない、
「――そう、って、」
「例えばだ、」
榎本が肩越しに振り返る。その表情にはなぜか、明確な怒りの色がある。
「地球はUFOの侵略を受けていて、伊里野はそれに唯一対抗できる戦闘《せんとう》機の唯一のパイロットで、もう目と鼻の先に迫っている最後の戦いに敗北したら人類は滅亡する。――おれがそう言ったら、お前はそれを信じるのか?」
榎本はゆっくりと浅羽に歩み寄る。ひと言ごとに浅羽の胸元を指で突きながら、意外なほどの剣幕《けんまく》で、
「それともこんなのはどうだ。ここだけの話だがな、伊里野が戦っているのはごく当たり前の人間同士の戦争なんだ。そもそもの火種はひょんなことから発明された重力制御機関さ。そいつを駆動するにはある種のESPが必要で、神経系に特別な処理を施した子供にしか制御できないんだ。UFO云々《うんぬん》の戯言《ざれごと》はガキどもを納得させるための方便なんだよ。自分たちは人間を殺してるわけじゃない、自分たちの敵は地球を侵略しに来たエイリアンだ、言ってみればゲームみたいなもんだ、撃墜《げきつい》されたら本当に死ぬゲームだ。――伊里野《いりや》はそう信じて、自分と同じような敵のパイロットをもう何十人も撃墜して、敵国の民間人を何十万人も殺してる。おれがそう言ったら、お前はそれを信じるのか?」
浅羽《あさば》は茶の間と台所を仕切る襖《ふすま》にまで追いつめられた。そして、浅羽を追いつめた榎本《えのもと》の右手はついに夏服の胸倉《むなぐら》をつかむ。
「どうしてお前らそんなに自信満々なんだよ。戦争やらUFOやら、そんな絵に描《か》いた餅《もち》なしで自分らの不幸に落とし前をつけられたことが今まで一度でもあったのかよ。いいか、おれたちはずっと、お前ら『普通の連中』にUFO特番で笑いのめされながら血を流してきたんだ。観測気球のケツでも舐《な》めてろ。今さら本当のことが知りたいなんて調子のいいことぬかすな」
――ああ。やっぱりそうなんだ。
そのとき、ひとつの静かな理解が浅羽の胃の腑《ふ》に落ちてきた。
理屈ではなく了解した。榎本の唐突な怒りの意味は、それ以外にあり得ない。
遠からず、人類は滅亡するのだろう。
「ぼくは笑わない。」
浅羽は、ねじり上げられた襟元《えりもと》の隙間《すきま》からそう告げた。
榎本の瞳《ひとみ》の中に、どこか臆病《おくびょう》な光が滲《にじ》む。
「なぜそう言い切れる」
その説明は難しかった。浅羽は言葉を探して、
「ぼくは、あなたのことが嫌いじゃないから」
榎本は、額《ひたい》がくっつくような距離から浅羽をにらみつけていた。
やがて、
「――条件がある」
「なに」
そのとき、狙《ねら》いすましていたかのようなタイミングで榎本の腹の虫が鳴った。
「ハシゴとカップ麺《めん》だ」
ハシゴは物置に五つも六つもあったが、台所の戸棚にカップ麺の買い置きはなかった。
その代わりに、
「うわ、なんだそれ!?」
「グリーンラーメンだよ」
グリーンラーメンである。
袋にもちゃんとそう書いてある。ごく普通のインスタントラーメンで、醤油《しょうゆ》と塩と味噌《みそ》と3タイプある。それでは一体何が「グリーン」なのかというと、袋を開けて中身を出してみればその謎《なぞ》はたちどころに氷解する。
麺《めん》が、絵の具で染めたような緑色をしているのだ。
御年《おんとし》六十を数える浅羽《あさば》の祖母は乳酸菌飲料の販売員を現在も続けている。グリーンラーメンはその販売促進用の景品として作られたもので、浅羽家の人間にとっては昔からなじみの深い存在なのだった。
「な、なんでそんな色してんだ?」
「クロレラ入りだから」
「――。この世界は驚異《きょうい》に満ちてるな」
「あとね、これ食べると次の日うんこが緑色になる」
「もういいっ。さっさと作れ」
真夜中の台所に二人で肩を並べて、浅羽は麺を茹《ゆ》で、榎本《えのもと》はネギを刻んだ。完成したラーメンを屋根の上までこぼさずに運ぶにはかなりの困難が予想されたが、麺とスープを別々の耐熱タッパーに詰めて屋根の上に運び、しかる後に両者をどんぶりの中で合体させるというバイナリー方式で解決を見た。
「うまいか」
「普通にうまいよ」
醤油《しょうゆ》味のスープの中で緑色の麺がとぐろを巻いている。まことに薄《うす》気味悪い。榎本はどんぶりの中にじっと視線を落とし、下手《へた》くそに割った箸で麺を二、三本だけつまみ上げて慎重にすすり込む。
まったく表情を変えない。
「普通にうまいな」
「うん」
榎本が麺をすするピッチを上げる。それにつられて浅羽も忙しく箸を動かした。海から吹き上がってきた生ぬるい風がテレビのアンテナを静かに軋《きし》らせている。屋根の上から見上げる月は、今にも落ちてきそうなほど巨大に見えた。
「前者だよ」
あまりにも唐突だったので、何が、と言いそうになった。
「だが、後者のようなことが何度かあったのも事実だ。――つまり、ブラックマンタが人間同士の戦いに投入されたことがある、という意味だが。おれが知ってるだけでも四回、伊里野《いりや》はそういう戦いに出撃《しゅつげき》している」
話がうまく呑《の》み込めなかった。
「――あの、」
「ん」
「前者なんですよね」
「そうだ」
「つまり、地球はUFOの侵略を受けていて、伊里野《いりや》はブラックマンタのパイロットで、最後の戦いに負けたら人類は滅亡する、ってことですよね」
榎本《えのもと》は麺《めん》をぞるるるるとすすり込む口の隙間《すきま》からひと言、
「ほうら」
「なのに、人間同士でも戦争してるんですか?」
ごっくん、
「そうだよ」
「でも、だって、だってUFOに負けたら人類は滅亡するんでしょ? だったらそんなことしてる場合じゃないでしょ?」
「まったくな。おれもそう思う」
肩透かしを食らった気がした。浅羽《あさば》はむきになる。
「だったら、だったらどうしてそうしないんですか? 伊里野ひとりが戦えばそれでいいんですか!? 内輪もめしているうちに滅亡したらバカみたいじゃないですか!」
「バカなんだよきっと。お前の意見はまったく正しい」
「真面目《まじめ》に答えてくださいよ!」
「だから、真面目に答えてるさ」
どんぶりから顔を上げて、榎本は笑う。
「滅亡の危機に瀕《ひん》してさえ、人類は一致団結できなかったんだ」
榎本が笑っている。
納得がいかない。
理屈に合わない。負ければ滅亡、なのだ。その一点だけでも、何もかも棚上げにして共闘《きょうとう》する以外にないはずだ。この上なにが足りないというのか。
「――おれもな、昔は、『ファーストコンタクト』ってのは宇宙人相手の話だと思ってたよ」
浅羽の心を読み取ったかのように、榎本はそう言ってため息をついた。
「実際には何があったかというとだな、一致団結どころか、それでなくてもひどかった内輪もめに拍車がかかった。侵略の事実を端《はな》っから信じない奴《やつ》らもいたし、誰《だれ》が主導《しゅどう》権を取るかでいつまでもゴネ続ける奴らもいたし、戦力や資金や情報の一極集中にはとにかく反対っていう奴らもいたし、これ幸いと武器を売りまくる奴らとかこのスキに乗じて憎き仇敵《きゅうてき》をぶちのめそうとする奴らとか、ぶちのめされそうになって百倍くらいの仕返しをする奴らとか、とにかくもうメチャクチャだ」
その中に何かの答えが見えるかのように、榎本は両手の中のどんぶりに視線を落とす。
「侵略の事実を世界中に知らせる方法《チャンネル》なんてなかったしな、一切の損得勘定抜きで他所《よそ》の誰かに何かを教えるなんてこと自体が国家間のレベルではそもそもあり得ない。だから、情報はある種の境界を越えては広がっていかない。ところが、そうこうしているうちに独自の手段で事態に気づき始める連中があっちにもこっちにも現れて、しかもそれぞれ言ってることがみんな微妙に食い違うわけだ。交渉《コンタクト》か交戦《エンゲージ》か、っていう最初の意思統一さえ不可能だった。金持ちは既得権益と心中する覚悟を決めて侵略者への徹底《てってい》抗戦を叫ぶ。貧乏人はパラダイムシフトを夢見て今日も狙《ねら》うぜ一発逆転。秘密の勢力図は毎日のように書き換わる。しなくてもよかったはずのケンカがそこらじゅうで始まる」
そのとき、榎本の上着をポケットから小さな電子音が漏れた。
榎本は背筋を伸ばし、腕時計で時間を確認し、ちらりと浅羽《あさば》に横目を使う。
「――というのが、1950年代の終わりごろまでの物語だ」
再び視線を彼方《かなた》にさ迷わせて、
「その頃《ころ》までに基本的な構図はだいたい固まった。危なっかしい秘密協定で結ばれた仲良しグループが世界中にぼこぼこ誕生《たんじょう》して、水面下で足の引っぱり合いをしながらてんでばらばらに戦い始めたわけだ。その後も多少の離合集散はあったが、基本的な構図は今でもあまり変わっていない。現在、世界には地球防衛軍を名乗る組織が主だったものだけでも三つある。アラブ・アフリカ系と、共和国系と、おれたちだ。机ひとつ電話一本の『UFO係』まで含めたらそれこそ数知れずだ。そのうち、実戦投入が可能なディーン機関《ドライブ》を持っているのはおれたちだけだ。ディーン機関は限られたパイロットにしか制御できない。限られたパイロットはもう伊里野《いりや》しか生き残っていない。伊里野が負けたら、おれたちは滅ぶ」
そして、榎本は浅羽の手の中にあるどんぶりを箸《はし》で指し示した。
「早く食わないと冷めちまうぞ」
食欲などなくなってしまった。
両手に感じていたどんぶりの頼もしい温《ぬく》もりも、いつの間にか失われていた。現実感など欠片《かけら》もない。正直なところ、榎本の語った物語の中に等身大の実感を伴って理解できるような箇所は、最後のひと言を除けばただのひとつもなかった。
「他《ほか》に道は、なかったんですか」
そう尋ねるのが精一杯だった。
「あったのかもしれん。だが、それを模索している時間はなかったな」
榎本はそう答えて、一気にラーメンを平らげにかかった。ぶよぶよに延びてしまった麺《めん》を盛大にすすり込み、すっかり冷めてしまったスープをごくごくと喉《のど》に流し込む。まるで、これがラーメンの食い納めだとでも思っているかのような、実に見事な食いっぷりだった。空っぽになったどんぶりを屋根|瓦《がわら》の上に置いて「ごっそさん」と両手を合わせ、榎本は晴れやかな表情を浮かべて浅羽に向き直る。
「おれが思うにだな、人類にとってのUFOは、テレビショッピングの健康器具みたいなもんだったんだよ」
「――え、」
「ああいうものを買って身体《からだ》をシェイプアップできる奴《やつ》もそりゃあ中にはいるだろう。だけどな、そんな奴は最初から、健康器具なんか買わなくたって腕立て伏せやランニングでシェイプアップができる奴だったってことなんだ。それと一緒だよ。UFOが攻めてきて一致団結できるくらいなら、人類は、そんなもん攻めてこなくたってとっくの昔にダンケツしてたはずなんだよ」
よっこらしょ、と気合を入れて榎本《えのもと》は立ち上がる。
「今度こそ行かなくちゃならん。他《ほか》に聞いておきたいことはあるか?」
頭の中は混乱を極めていた。疑問の態《てい》すら成していない思考が出口を求めて一斉に暴れ出す。榎本は長くは待たなかった。肩をすくめ、がちゃがちゃ揺れる瓦《かわら》にたじろぎながら足を踏み出して、
「――あ、あの!」
そして、浅羽《あさば》は選別する努力を放棄した。
最初に出口にたどり着いた疑問が、そのまま口からあふれ出た。
「最後の戦いって、いつなんですか」
榎本は即答した。
「三日後だ」
――三日。
正直なところ、大して驚《おどろ》かなかった。
そう遠いことではないはずだという気はしていた。
「大丈夫だよ。この先どうなるにせよ、お前は何も心配することはない」
頭に大きな手を感じた。
浅羽は頭を上げようとするが、榎本はお構いなしに浅羽の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
榎本は浅羽を見下ろして、最後に、こう言った。
「地獄《じごく》にはおれが行く」
別れの夜だった。
いつかのように、魔法《まほう》のように姿をかき消して退場するのかと思っていたのに。今夜の榎本はグラグラするハシゴをおっかなびっくり降りていく。それがちょっとだけ笑える。浅羽はどんぶりをそっと傍らに置いて、屋根の縁《ふち》まで這《は》って行って下をのぞき込む。榎本がハシゴにしがみついている。浅羽に気づいて、ものすごく嫌そうに顔を顰《しか》めて、やがて、居直ったような笑みを浮かべて浅羽を見つめ返した。
二人の姿を照らす、嘘《うそ》のような月。
◎
ただいま、と言う間もなく母にどつき回された。父は「な、な、あれだ、な、まあほら、男なんだから、な、たまにはな、こういうこともな、ほら、な、な、」と必死になって止めに入り、夕子《ゆうこ》は逃げ惑う校長を抱いてとにかく安全距離に避難《ひなん》する。
「ねーお父さん、今日って何日だっけ」
茶の間にあるカレンダーを見つめて夕子は尋ねる。父は答えない。
「ねー。お父さんってば、」
父は上の空で、
「話しかけるでない」
言い草が時代がかっているのはテレビの口調が移ってしまったからだ。父はビデオ屋から借りてきた時代|劇《げき》シリーズの劇場版にじっと見入っている。父はつい三十分ほど前にビデオ屋の袋を手に帰宅したばかりだが、あと一時間半もすればテープをデッキから取り出してすぐさま店に返しに行くだろう。「一週間レンタル」などという生ぬるい商売がまかり通っていた日々はすでに過去のものとなったのだ。父が会員証を持っている店もまた、全商品を日帰りレンタルのみに限定し、法外な延滞料金を吹っかけて更なる回転率のアップを図っている。
「ねーお母さん、」
夕子は戸口から身を乗り出して、廊下を挟んだ向かいの台所で夕食の支度をしている母に尋ねる。
「お母さん、今日って何日?」
母は缶切りを動かす手を止めて、あごに指先を当てて考え込む。母が手にしている大きな缶詰は自衛軍の戦闘《せんとう》糧食《りょうしょく》で、何の色気もないダークグリーンの地に黒い文字で「白飯」と書かれている。「沸騰《ふっとう》湯中で約25分間以上加熱すれば通常3日間は喫食《きっしょく》できるが、食前にあたためればさらによい」という注意書きが実にいかめしい。園原《そのはら》基地は一週間ほど前から、このような缶詰やレトルトパックの食料を近隣《きんりん》の家庭に無料で配り始めていた。
「んーっと、十月の――、二十二、あら? 二十三日?」
母が首をひねっていると、じっとテレビに見入っている父が、
「二十五日でござる」
夕子はむっとして父の背中をにらむ。知っているのならさっさと教えてくれればいいのに。
「そうでしたっけ? ずっとお店閉めてるとすぐにわかんなくなっちゃいますねえ」
母はそう言って、再び缶切りを動かそうとしてふと考え込み、
「――やだ。これひょっとして、あっためる前に開けちゃいけないのかしら」
夕子《ゆうこ》はカレンダーに視線を戻す。今度はどちらに尋ねるべきか決めかねて、両方に聞こえるように、
「ねえ、それじゃ明日って何の日?」
父も母も答えなかった。夕子はもう少し大きな声で、
「ねえってばあ。明日、何かあるの?」
ようやく母が、
「明日って、二十六日?」
「そう」
母は考える――十月の二十六日はとくに休日でもないし、家族の誰《だれ》かの誕生《たんじょう》日でもない。戸口から身を乗り出している夕子が振り返って、
「何かあるの?」
「もー、こっちが聞いてるの。――ねえお父さん。お父さん!」
ついに夕子は父の背中に蹴《け》りを見舞った。父は珍しく怒った顔を見せて、
「ったく何なんだもうさっきから!」
しかし夕子は怯《ひる》まずに、カレンダーの一点を指差してこう言った。
「ずっと話しかけてるのに答えないのが悪いんだよ。ねえ、この二十六日のとこに丸つけたのお父さん?」
むう、と父はうなる。顔をくしゃくしゃにして夕子の指差す一点を見つめる。
確かに、二十六日にマジックで丸がつけてある。
「知らんぞ。母さんじゃないのか? おい母さん、明日何があるんだ?」
「知りませんよ。――ああそうだ、明日は登校日じゃないの? 宿題ちゃんとやった?」
夕子はむっつりとうつむく。これからやろうと思っていたのに。そのとき廊下の奥から校長がにょろりと姿を現して、夕子は逃げるが勝ちだとばかりに校長をさっと抱き上げて二階へと続く階段を駆け上がっていく。この足音を聞きながら母はため息をついて、
「――ねえお父さん、」
ぬう、という生返事、
「大丈夫かしら直之《なおゆき》、あれからほとんど部屋にこもりっきりじゃないですか。ねえお父さん、直之と話してくれました?」
じっとテレビを見入っている父はただひと言、
「成敗」
その日の夜。電気も点《つ》けていない部屋で布団の上に胡坐《あぐら》をかいて、浅羽《あさば》は目覚まし時計の針の動きをじっと見つめている。
目はすっかり闇《やみ》に慣れて、夜光塗料の塗られていない秒針の動きもはっきりと追うことができる。時刻は十一時五十八分を十秒ほど回ったところだ。なおも一秒ずつ時を刻み続けている秒針の音が、なぜか世界中を震《ふる》わせる轟音《ごうおん》と感じられる瞬間《しゅんかん》があった。
伊里野《いりや》は今、何をしているのだろう。
想像もつかない。もうコクピットの中にいるのだろうか。それとも、すでに出撃《しゅつげき》して戦場へと向かっているのか。案外出撃にはまだずいぶん間があって、ベットの中で眠っているかもしれない。榎本《えのもと》は「三日後」とは言ったが、三日後の「いつ」なのかは言わなかった。
伊里野はどんなふうに出撃していくのだろう。仮にも人類の命運を賭《か》けての戦いだ。格納庫の内部は赤白のリボンやティッシュで作った花で飾られ、ブラックマンタのコクピットの真上で巨大な薬玉《くすだま》が割られて、バンドが「宇宙|戦艦《せんかん》ヤマト」のオープニングテーマを演奏したりするのだろうか。軍や政府の偉い人たちなんかが入れ替わり立ち替わりで励ましの言葉を述べて、いよいよマンタが格納庫の外に出ていくと、近所の幼稚園の子供たちが滑走路の両脇《りょうわき》に並んで「いりやおねえちゃんがんばって」と書かれた横断幕を手にしており、茣蓙《ござ》に正座のお爺《じい》お婆《ばあ》が干物のような手をこすり合わせて拝んでいるのだ。
麻痺《まひ》しているのだと思う。
少なくとも恐怖は感じない。
あと五秒だった。四、三、二、
一。
長針と短針と秒針が、すべて「12」を指した。
二十六日になった。
地球最後の日がやってきた。
浅羽《あさば》は、無意識のうちに身構えていた。理屈ぬきで、今にも天から炎が降ってくるような気がした。手の中の目覚まし時計が十秒を数え、二十秒を数え、ついに一分を数えるころになってようやく、浅羽はじっと詰めていた息を密《ひそ》かに吐き出す。
夜は、静まり返っている。
階下で、誰《だれ》かが廊下を歩いている軋《きし》みが微《かす》かに聞こえる。
立ち上がって窓を開け放つ。身を乗り出して夜を眺め渡す。夜の街は深い闇《やみ》に閉ざされていた。普段《ふだん》よりもずっと暗い気がするのは、すでに多くの住人が「基地の町」を捨てて逃げ出してしまったからだろう。灯はほんの数えるほどしかない。遠く、園原《そのはら》基地のある方角の闇がぼんやりと滲《にじ》んでいるだけだった。
これが、自分が目にする最後の夜になるかもしれない。
この二十四時間で、すべてが決する。
やはり、伊里野はいつも通りに、誰にも見送られずに出撃していくのだろうと思う。それ以外にない。一体、どこの誰がどの面《つら》を下げて伊里野を見送れるというのだろう。
ただ――
ただ、ひとつだけ心残りなのは、あの夜のことだ。
丘の上の小学校から逃げ出して、真っ暗な線路を歩いたあの夜のことだ。
伊里野《いりや》に悪態をついて、伊里野を真っ暗な線路に置き去りにしてしまったあの夜のことだ。
あのときのことを、謝《あやま》りたかった。
謝って消せるような傷ではないのかもしれないし、その機会はすでに永久に失われてしまったのかもしれない。
しかし、そのことがどうしても心残りでならなかった。
そのとき、襖《ふすま》がそっとノックされた。
「直之《なおゆき》、起きてるか」
父だった。
大体の察しはつく。「父と息子の会話」をご希望なのだ。父自身の希望というよりも、母にそうせっつかれているのだということにも何となく気づいていた。
心配してくれているのだ、とは思う。
なにもこんな遅い時間でなくてもいいのに、とも思う。
そのとき、目覚まし時計は〇時三分十二秒を指していた。
「なに」
そろりと襖が開いて、父がそっと顔をのぞかせる。
「や、その。別に大した話じゃないんだが、一応な、」
「だからなに」
父は言った。
「戦争が終わったぞ」
テレビを点《つ》けて最初の三十分、画面の中で繰《く》り広げられた大騒《おおさわ》ぎは、もはや「番組」の態を成していなかった。
もうすぐ自衛軍の記者会見が始まるはずです――と繰り返すばかりの女性はよくよく見れば夜のニュースのメインキャスターで、今ごろ日本中が「メイクしてないとこんな顔なんだ」と思っているに違いない。カメラの前をスタッフが横切る、唐突にCM、今度はどこの馬の骨ともテロップの付かない男が自分はこの事態を予測していたと自慢する。目まぐるしく挿入されるいくつもの映像、隠し撮りされた暗視映像、海外のニュース映像、泥とノイズにまみれたライブ映像。歓喜にうねる群集、黒煙を噴《ふ》き上げる軍港、共和国の声明発表、アフリカ連合の声明発表、砂漠色の戦闘《せんとう》車両、破壊《はかい》されつくした異国の町、録音テープの音声、走る兵士、死んだ兵士、肩を叩《たた》き合う兵士、抵抗を続ける兵士、レンズを押さえる大きな手。
浅羽《あさば》の隣《となり》で母が言う。
「呪《のろ》いのビデオみたいですねえ」
父の隣《となり》で夕子《ゆうこ》が言う。
「つまんなーい。明日から普通授業になっちゃうのかなあ」
しかし、それらの映像は総体として、世界規模の何か途方もない難事がついに成し遂げられたのだという空気を雄弁に物語っていた。
唐突に記者会見が始まる。自衛軍の制服に身を包んだ老人が、フラッシュの猛攻を浴びながら原稿を読み上げる。いくつかの言葉が浅羽《あさば》の脳裏に切れ切れな爪跡《つめあと》を残していく。世界的な停戦協定、一部反動勢力の独断、拠点の制圧に成功、最小限の犠牲《ぎせい》、
最小限の犠牲、
最小限の犠牲、
最小限の犠牲、
電話が鳴った。誰《だれ》も腰を上げないので母が仕方なしに立ち上がって受話器を取る。「電話おばさん」だった。浅羽家ではそう呼ばれている。母の友人で、常|日頃《ひごろ》から超人的なおせっかい焼きで、大変なことが起きたからテレビを点けろとまくし立てている。ええ見てますよ、母は相手の勢いを見事に受け流し、明日はスーパーが店を開けるだろうかという方向へ巧みに話をそらしていく。
「もう寝ーよおっと」
記者会見は延々と続き、まず最初に夕子が飽きた。
続いて、アマレスの試合のような電話を終えた母が父にひとこと言って退場した。
それでも、浅羽はテレビの前から動けない。
その隣で、父は浅羽の横顔を盗み見ている。ふと背後を振り返り、二十六日に丸のついたカレンダーを見つめる。そのまま視線を左に移動させ、柱時計の針がすでに午前一時を回っていることを確認する。
そして、父はもう一度、浅羽の横顔に視線を戻す。
「直之《なおゆき》、」
浅羽は答えない。
父も、二度呼びかけなかった。
記者会見は続く。浅羽は動けない。テレビにつかみかかって揺さぶってやりたい衝動《しょうどう》に駆られたが、そんなことをしても画面の中の老人は「わかったわかったやめなさい、ほんとのことを言うと、我々はUFOとの決戦に勝ったのですよ」とは言うまい。情報は無限に近い希釈がなされているに違いないし、あるいは希釈どころか一片の真実も含まれていないのかもしれない。しかし、
三日後だ、と榎本《えのもと》は言った。
そして、その予告通りに、三日後のわずか数分で状況は激変した。百八十度変わった。
何かが終わったのだ。
最小限の犠牲《ぎせい》。
記者会見はいつまでも続き、浅羽《あさば》はいつまでも動けない。意中のアイドルの一挙手一投足を注視するエロトマニアのように、あるいは政府の排泄《はいせつ》物の中に人類滅亡計画の伏線やMIBの見えざる手を見るUFO信者のように、浅羽は老人が読み上げる原稿の言葉の中に伊里野《いりや》の足跡を探し求める。父はそんな浅羽と並んでテレビの画面をぼんやりと見つめながら、灰皿をちゃぶ台ごと引き寄せて煙草《タバコ》を吸い始める。
◎
朝がきて、父はそのままテレビの前で眠りこけている。毛布をかけたのは浅羽だ。母は空いた皿を片付けながら、父の分の朝飯をタッパーに取り分けている。
「行ってきます!」
浅羽は玄関に飛び込んでスニーカーの靴紐《くつひも》と格闘《かくとう》する。母の声が追いかけてくる、
「帰りにペット屋さんがお店を開けているかどうか見てきて! 忘れちゃだめよ!」
校長は、どうやらそこが自分のトイレだと定めたらしい一階廊下のどん詰まりで日々|狼藉《ろうぜき》の限りを尽くしていた。床に新聞紙を敷《し》き詰め、適当なダンボールに砂を入れて与えてみたりしたのだが、まだ校長を改心させるには至っていない。ペット屋さんで売っているようなちゃんとした砂箱ならうまくいくのではないか――というのが目下唯一の希望である。
あと十分。
夕子《ゆうこ》はもう三十分も前に家を出た。
浅羽は自転車に飛び乗る。ペダルの重さが懐《なつ》かしい。いきなり通りへと飛び出して、米軍のトラックにクラクションを鳴らされる。前だけを見つめてぐんぐんスピードを上げながら、背後のトラックに中指を突き立ててやる。普段《ふだん》の自分はこんなことは絶対にしないよな、と心の隅で思う。
あと五分。
なにしろ昨日の今日である。住民の半分以上は疎開先で昨夜の放送を見たはずであり、町はまだまだ生き返ってはいなかった。かつてないほどに軍用車両が行き交っているのはむしろいい傾向だろう。撤収《てっしゅう》が始まっているのだ。一体どういう勘違いか、玄関先に日の丸を掲げている家もある。ゴミ集積場に詰まれた半透明の袋の中にガスマスクの恨めしそうな顔が透けて見えていた。
校舎の姿を目にしたとき、思わずペダルを踏む力が緩《ゆる》んだ。
確かにこんな色と形をしていた。ずっと昔に卒業した学校に舞い戻ったような気分だ。恐らく駐輪《ちゅうりん》場はガラガラだろうと予想していたし、事実その通りだった。しかしそれも長いことはあるまい。一週間もすればみんな戻ってくるだろう。
昇降口に駆け込んで忙しくスニーカーを脱ぎ捨て、下駄《げた》箱を、
下駄箱を、
開けた。
いいだろう。最初の賭《か》けは負けだ。
しかしここには押さえのチップを張っただけだ。本命は別だ。上履《うわば》きを引き出しスニーカーをぶち込みフタを閉める。身体《からだ》で覚えた流れるような動作である。階段を駆け上がっていく途中でドボン、鐘《かね》が鳴った。廊下を全力疾走する。教室の扉を前に立ち止まる。
呼吸を止める。
念じる。
扉に手をかける。
目を閉じる。扉を開ける。目を開ける。
伊里野《いりや》の姿は、なかった。
おまけに河口《かわぐち》がもう来ていた。机は三分の一も埋まっていなかったが、それら三分の一にも満たない面子《メンツ》の中に西久保《にしくぼ》がいたことが唯一の救いだった。
浅羽《あさば》と、教室の中にいる全員の目が合った。
「――よって、本日より通常授業となるわけだが。しかし、生徒の出席数はいまだご覧《らん》の通りの有様で、先生方の中にも疎開先からまだ戻られない方々も多い。であるからして、」
河口は浅羽を、目に見えない幽霊《ゆうれい》であるかのように無視した。
浅羽は深呼吸する。希望は捨てない。捨てる理由などひとつもない。
伊里野はきっと戻ってくる。
「いきなり時間割通りの授業をするわけにもいかんのだなこれが。以上をもって、本日もやむなく四時限までの半日」
「先生っ」
浅羽はその場で直立不動、腹の底から声を出した。
「不肖、浅羽|直之《なおゆき》っ、恥ずかしながら戻ってまいりましたっ! ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでしたっ!」
頭を下げた。
あまりにも浅羽らしくない行動に全員が息を呑《の》む中、河口だけが無表情に浅羽を見つめていた。やがて河口は、浅羽から目をそらす。小さくため息をついて、
「浅羽、」
頭を下げた。
「はい」
浅羽に視線を戻し、河口|泰蔵《たいぞう》三十五歳独身は言った。
「あんまり親に心配かけんな」
「はい」
「座れ」
鞄《かばん》を机に置いて着席しようとしたとき、河口《かわぐち》がふと、
「ところで浅羽《あさば》、」
「はい」
「なんでお前だけ夏服なんだ?」
戦争映画でよくあるシーンだ。戦友に指摘されて初めて、自分の片腕が吹き飛ばされて無くなっていることに気づく男。
浅羽は、もう一度、教室の中をゆっくりと見回した。
西久保《にしくぼ》を含めた全員が、冬服を着ていた。
伊里野《いりや》は、もう二度と戻ってこないのかもしれなかった。
飯塚《いいづか》は全員にプリントを配り、教卓の椅子《いす》に座って三十分ほどで舟を漕《こ》ぎ始めた。こうなったらちょっとやそっとでは目を覚まさない。一限目の教室はすぐに自習と大して違わない状態になる。居眠りを始める者にマンガを読み始める者、大胆にも教室を抜け出してよそのクラスに遊びに行く猛者《もさ》もいたし、教室の後ろでは数名の男子生徒が輪になって戦後の処理について議論をしている。我々人民はついに開放の日を迎えたのであり、我々人民は今こそ一致団結して立ち上がり、我々人民の生き血を啜《すす》り続けてきたビデオ屋を襲撃《しゅうげき》して焼き討ちにするべきである。一人がそう提案して全員が同意する。
「おい浅羽、浅羽!」
窓の外の空に心を吸い取られていた。
西久保に肩を小突かれて浅羽はようやく我に返った。夏服のシャツの上に羽織《はお》っている白いジャージは河口が貸してくれたものだ。
「なあ浅羽、お前、家出してたってほんとか?」
西久保の顔が、西久保の声が譬《たと》えようもなく懐《なつ》かしい。浅羽は表情を取り繕《つくろ》って、
「家出じゃないって。学校ヒマになったし、無銭旅行みたいなことしてたんだ。うちの親が大げさに騒《さわ》いじゃって」
西久保は浅羽の表情を探るように見つめる。教室の後ろでは男子生徒たちが輪になって議論を続けている。郵便局も許せない、部の後輩から送られてきたラブレターが検閲《けんえつ》されたと一人が発言し、オレにはそんなお前が許せないと周囲の全員が同意する。血の粛清《しゅくせい》が始まる。剥《は》ぎ取られたパンツが窓から投げ捨てられる。
「――まあいいや。そういやお前、須藤《すどう》に電話したか?」
「え、」
「まだなら忘れないうちにしとけよ。あいつなー、俺《おれ》ん家《ち》に毎日電話してくんだぞ?」
「――うん」
西久保《にしくぼ》はさらに念押しをしようとしたが、結局は諦《あきら》めた。ノートのすみに晶穂《あきほ》の疎開先の電話番号を書き殴り、破いて丸めて浅羽《あさば》のジャージのポケットに突っ込む。浅羽は口の中でもぐもぐと礼を言ったが、再び窓の外に視線を逃してしまう。空はあくまでも青く、どこか遠くでヘリのローター音が聞こえていた。
「なあ浅羽、」
「なに」
「おれはお前の味方だ」
意表を衝《つ》かれたが、それでもどうにかうまく笑えたと浅羽は思う。西久保はそんな浅羽を真剣な表情でじっと見つめて、
「あのな、バレバレなんだよお前。何があったのか、おれにはちゃんとわかってるぞ」
「な、なにそれ、」
西久保は深呼吸をして、浅羽の夏をただのひと言で総括した。
「――お前さ、伊里野《いりや》にフラれたんだろ?」
この夏は、永久に続くと思っていた。
いつまでも音楽に合わせて踊っていればよかったのだ。楽しいことはいつまでも終わらないと信じていた。音楽がいつの間にか止まっていることに気づかなかった。
そして、気がついたときにはもう、自分の座る椅子《いす》がどこにもなかったのだ。
「お、おい、何だよマジかよ!? おま、お前、泣くなよお」
大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ちる。何の手もついていない数学のプリントに次々と丸い皺《しわ》ができる。どうしても堪《こら》え切れない泣き声に周囲の生徒が気づき始める。
「なあ、おれが悪かったからもう泣くなってば、あぁもう」
浅羽は顔を上げられない。西久保の言葉が悲しくてならない。飯塚《いいづか》が居眠りをしている。教室の後ろでは男子生徒たちが「百万円やるからうんこを食えと言われたらどうするか」という大激論を戦わせている。それらすべてが嬉《うれ》しくて懐《なつ》かしくて腹立たしくし[#「し」はママ]て寂しい。初めて出会ったプールの夜のことを思う。防空訓練の日のことを思う。二人で見た映画のことを思う。参加しなかったファイアーストームのことを思う。ボウリングの玉と白い髪のことを思う。カッターナイフで首筋を抉《えぐ》った。ものすごく痛かった。白い手を引いて夏の道を歩いた。南を目指したのは、死に逝《ゆ》く夏を追いかけようとしていたからだ。
裏山からひと夏をかけて見張り続けた夏の空を思う。
伊里野を置き去りにしてきた真夜中の線路を思う。
ヘリのローター音が聞こえていた。
「なあ浅羽《あさば》よお、頼むよ、帰りにラーメンおごるからさ、元気出せよお」「ばーかばーか一億積まれてもぜってーありえねーっつの! お前ぜってー親が育て方間違えたよ!」「お前十万円ナメてんだろ。じゃあお前しろよしてみろようんこ今すぐここで。食ってやるよそしたらお前ぜってーよこせよ十万円今すぐここで!」
そして、ヘリのローター音がついにそれらの声に打ち勝った。
普段《ふだん》の三分の一にも満たない数の生徒のさらに半分ほどが、やけに低空を飛ぶヘリの音を不審《ふしん》に感じて窓の外に視線を向ける。方角が悪いのか姿は見えない、しかしローター音は着実に接近してくる。校内放送用のスピーカーから「ばっつん」というノイズが漏れた。
『あー、二年四組の浅羽|直之《なおゆき》君。二年四組の浅羽直之君。――その、なんだ。電話がだな、』
田代《たしろ》のハゲだった。
『つまりだ、いま電話が入っとるわけだ、自衛軍のヘリコプターから。お前一体何をやらかしたんだ? とにかく今すぐ職員室に、――お、うわ、何だあんたら、何なんだ一体!』
そして、誰《だれ》かが田代をマイクの前から排除した。すぐさま別の声が、
『陸上自衛軍情報戦四課の萩山《はぎやま》だ。二年四組出席番号一番の浅羽直之君、緊急《きんきゅう》事態につき、君の協力がぜひとも必要になった。職員室に来る必要はない、約三十秒後にブラックホークがグランドに強行着陸する。校舎の外に出て待機してくれ。いま迎えがそちらに行く』
西久保《にしくぼ》が、目も口も全開にして浅羽を見つめていた。これだけの騒《さわ》ぎにもついに目を覚まさなかった飯塚《いいづか》を唯一の例外として、誰《だれ》もがエイリアンを見る目つきで浅羽を見つめていた。
浅羽は、ゆっくりと立ち上がった。
浅羽はジャージを脱いで、くるりと丸めて西久保に差し出して、
「――これ、先生に、ありがとうって返しといて」
西久保は茫然《ぼうぜん》自失の態《てい》でジャージを受け取る。そのとき、教室の後ろの扉が素早く引き開けられて、自動小銃で武装した自衛軍兵士二名が入ってきた。ラミネートコーティングされた写真を手にしている。二人はすぐに浅羽に目と止めて、写真と見比べて、浅羽に向かって小さく頷《うなず》く。
「――じゃあ、行ってくるね」
二人の兵士に前後から挟まれて浅羽は歩く。廊下に足を踏み出そうとしたとき、西久保が、
「浅羽あっ!」
浅羽は足を止めて振り返る。西久保は、椅子《いす》から身を乗り出して叫ぶ。
「絶対、絶対帰ってこいよ!」
浅羽は笑みを浮かべて、一度だけ頷いた。
教室を後にする。
廊下を歩く。ローターの音と風圧が左手の窓ガラスをびりびりと震《ふる》わせ、右手には授業クソ食らえで扉や天窓からのぞき込んでくる生徒の雁首《がんくび》が鈴なりになっていた。昇降口からグランドに出た途端《とたん》に土煙が襲《おそ》ってくる。
真っ黒なヘリが、アイドリングしながら浅羽《あさば》を待っている。
あれはUFOだ――浅羽はそう思った。
世界には境界があるのだ。そのことを、浅羽ははっきりと感じた。浅羽の足元で「学校」は終わっていた。授業が終わるときの鐘《かね》も、下校途中に買い食いするアイスの味も、トイレのタンクにねじ込まれた吸殻も、下駄《げた》箱に刻み込まれた相合傘も、友達とのケンカと仲直りも、音楽室のベートーベンと美術室のブルータスも、朝礼と貧血も、宿題とゲンコツも、誰《だれ》もいないグランドから見上げる夕日も、すべて浅羽の足元で終わっていた。
この場から一歩でも足を踏み出せば、自分は境界を踏み越えることになる。
今まではどうにかなったが、この先は別だ。強がって西久保《にしくぼ》には頷《うなず》いて見せたが、この境界を踏み越えて先に進んだら、自分はもう戻れなくなるかもしれない。
しかし、この境界のむこうに伊里野《いりや》がいるのだ。
それ以上、考えることはなかった。
浅羽は走った。二人の兵士がその後に続いた。ローターが吹き飛ばしてよこす土煙は凄《すさ》まじく、両腕で顔を守らないことには目も開けていられない。やっとの思いでヘリまでたどり着いた浅羽を、ひどく年若い女性の声が出迎えた。
「早く乗って! 時間がないの!」
いくつもの手に腕を引っぱられてヘリに乗り込む。その途端にローター音が爆発《ばくはつ》的に高まって、浅羽が座席に着くよりも早くヘリは空中にあった。世界が大きく傾きながらすうっと遠のいて、周囲がたちまちのうちに空だけになっていく。ひどく年若い声の主は自衛軍の女性兵士だった。若いにもほどがあって、浅羽の目にはせいぜい高校生くらいにしか見えなかった。
「先坂《さきさか》絵里《えり》です! はじめまして、かなあ? 学園祭のとき怪我《けが》とか病気とかしたー!?」
ローターの爆音に負けてほとんど聞き取れない、
「はあ!?」
ヘッドセットが投げ渡されて、着けるよう身振りで指示された。
「空飛ぶの初めて?」
「あ、そうです」
「じゃあこれ。あとこれも。こっちがゲロ袋でこっちがおしっこ用。うるさくてだめかもしれないけど、できれば無理してでも眠っちゃった方がぜったい楽だよ。あ、睡眠薬あるから。はいこれ」
ゲロ袋はまだわかる。が、小便袋まで渡されるということは、しかも薬を飲んででも眠ってしまえというのは、つまり、
「――そんなに遠くまで行くんですか?」
「海外旅行は初めて?」
「え?」
「聞いて、これから園原《そのはら》基地のすぐそばを突っ切るから、私がいいって言うまではずっと正面だけを向いてて。右や左の窓を見ちゃだめ。目的地はまだ内緒《ないしょ》。到着予定時刻は最低でも六時間後になるわ」
最低でも六時間――それがどれほどの距離を意味するのか、浅羽《あさば》にはまるでわからない。
「その目的地に、」
「え?」
「――目的地に、伊里野《いりや》がいるんですか」
答えは、すぐには返ってこなかった。答える気がないのかと浅羽が思い始めたころ、女性兵士はただひと言、
「たぶん」
◎
――すいません、あの、まだ正面向いてなきゃだめですか。
――あ。
しかしヘリはそのときすでに洋上にあって、右の窓にも左の窓にも大した見物はなかった。水平線に包囲されたことで速度感も失われた。
ひたすらに飛び続けた。
最初の空中給油の後、女性兵士の薦《すす》めで浅羽は睡眠薬を服用した。女性兵士は効き目は抜群だと請《う》け合ったのだが、体質が合わなかったのか、平静とは言い難い精神状態が故か、薬は浅羽に切れ切れに続く浅い眠りといくつかのぼやけた夢しかもたらさなかった。意識が浮上して目が覚めるたびに空は夕暮れの色を深めていった。あれは何度目の空中給油だったのか、燃料ホースの先端にあるドローグが、オレンジ色に染まったキャノピーのすぐ外側でぐらぐら揺れ動いていた光景も記憶《きおく》にある。
目が覚めている間は、伊里野のことを考えてすごした。
「もうすぐよ。あと三十分くらい」
パイロットの一人と忙《せわ》しく会話していた女性兵士が、振り返ってそう告げた。そして、三十分が過ぎてもヘリはまだ夕暮れの洋上にあった。女性兵士はパイロットたちと何やら深刻な議論を続けている。ひょっとして、パイロットたちが目的地を見失ってしまったのではないか、いつか燃料が尽きて墜落《ついらく》して自分たちはみんな死んでしまうのではないか――そんな不安が浅羽の胸に兆し始めたころ、パイロットの一人が大声で何かを叫んだ。
「見えた、あそこ!」
女性兵士が指差す洋上の一点に、浅羽は懸命《けんめい》に目を凝《こ》らす。
そして、浅羽《あさば》にもそれが見えた。
南の島だった。
それは、微《かす》かに地球の丸みが感じられる南の海に浮かぶ、巨大な島だった。
南の島には町がある。町にはレストランも洋服屋も教会もあるし、小さいながらも設備のちゃんとした病院もある。
もちろん床屋だってある。
南の島の人口は一千人に満たない。これは、他《ほか》の同じような島と比べると極端に少ない数字だ。南の島の自慢はなんと言っても立派な飛行場があることで、島はこの飛行場を中心にして回っている。南の島には蒸気タービン八基四軸の原子力発電所があり、四基の電磁カタパルトがあり、一夜にして小国を攻め滅ぼし得る戦力で武装している。
南の島は、名を、タイコンデロガといった。
そして、ヘリのハッチから一歩出たそこには、赤道の夏があった。
海の匂《にお》いのする圧倒的な熱気が浅羽を押し潰《つぶ》した。
気が狂いそうになるほどの夕暮れと、巨大で獰猛《どうもう》で高濃度な夏がそこにはあった。
本物の、永久に終わらない夏だった。
実際に自分の足で降り立ってみると、デッキの広さがまるでわからなくなってしまった。浅羽はうつむいて、足元に引かれた白線をスニーカーの靴底でこすってみる。歴史的接触だ。つい数時間前までは自分の家の玄関に転がっていた小汚いスニーカーが、赤道を航行中の航空|母艦《ぼかん》のデッキに引かれた白線をこすっているのだ――そう考えるとちょっとだけ愉快だった。デッキクルーたちが遠巻きにこちらを見つめている。誰《だれ》もがこちらを見つめて「あいつがそうなのか」という目をしている。たちまち噴《ふ》き出してきた汗で夏服のシャツがへばりつく。
浅羽は、静かに覚悟を決める。
「すまんな、遠いところをわざわざ」
榎本《えのもと》はそう言って夕暮れの熱気にネクタイを緩《ゆる》めた。腕まくりをしたYシャツは汚れ放題に汚れ、ズボンの皺《しわ》は苦しげな仮眠の名残だろう。無精《ぶしょう》ひげの浮いた顔に両の目だけが爛々《らんらん》と輝《かがや》いて見えた。
「――大変だったみたいだね」
「なあに。これからの大変に比べたら今までの大変なんざ軽いもんよ。ついて来い」
榎本は踵《きびす》を返す。浅羽はその後に続いてデッキを歩き、巨大な空母の腹の中へと分け入っていく。
行く手に現れる通路はどれも、空母そのものの巨体からすれば意外なほどに狭かった。浅羽でさえ身をかがめなければくぐり抜けられないハッチもがいくつもあったし、壁《かべ》に酸素マスクと防火服がずらりと並んで、身体《からだ》を横向きにしなければ通れないようなところもあった。
行く先々で、無数のクルーたちの視線を感じた。
自衛軍兵士もいればアメリカ兵もいた。
誰《だれ》もが、祈るような目つきで浅羽《あさば》を見つめていた。
そうした祈るような目つきのひとつひとつが浅羽の胸に暗雲をもたらしていく。この先には何かがあると思った。何かが待ち構えている。ハッチとパイプと配電|盤《ばん》とリノリウムの迷宮の奥深くで、決して手放しでは喜べぬ何かが自分をじっと待ち受けている。
「――あの、」
「伊里野《いりや》が出撃《しゅつげき》を拒否した」
足早に歩きながら、榎本《えのもと》がいきなり言った。
「この土壇場《どたんば》になって、もう戦うのは嫌だと言い出した。おれたちじゃもう手がつけられん。最悪、自殺の可能性もある」
目の前が暗くなった。
その場に立ち尽くして、その場にへたり込んでしまいそうになって、浅羽は必死になって榎本の背中に追いすがる。
「だって、どうして!? もう戦争は終わったんでしょ!?」
榎本は足を止めない、振り返りもしない、
「誰に聞いたそんな話」
だって、テレビで――そう口にしかけて、浅羽はその愚かさにようやく気づく。
「――伊里野は? 伊里野は今どこにいるんですか!?」
「だからいま案内してる。もうじきだ」
そう言って、榎本は階段の手すりに尻《しり》を乗せて滑り降りた。浅羽はあわててその後を追う。階段を駆け下った先には、車が通れそうなくらいには広い通路がまっすぐに走っていた。
そして浅羽は、その通路の先に異様なものを見た。
畳を横にしたような黒い板状の物体が、通路の先に十重《とえ》二十重《はたえ》に立ち並んでいる。
板には座って目の高さの位置に横長ののぞき穴がついている。それが防弾素材でできたバリケードであることに、浅羽はすぐには気づかなかった。それらバリケードの陰に武装した兵士が身を寄せている。一瞬《いっしゅん》、浅羽は自分の目がどうかしたのではないかと思った――兵士たちは実に奇妙な服を着ていた。ひとりひとりを注視している分には、壁や床やバリケードとよく似た色の服を着た兵士がそこにいるのだ。が、ふと注意を逸《そ》らすと、その兵士の姿が背景に溶けたかのように意識できなくなってしまう。まるでだまし絵を見ているようだ。それら兵士に混じって医療《いりょう》スタッフと思《おぼ》しき者たちの姿も見える。大量の医療器具を載せたストレッチャーの存在が不吉だった。
榎本《えのもと》の後に続いて、浅羽《あさば》はその薄《うす》気味悪い光景の中に踏み込んでいった。
最前列のバリケードの背後で立ち止まって、榎本はようやく浅羽を振り返る。
「この先だ」
浅羽は通路の先を呆然《ぼうぜん》と見つめる。
微《かす》かな風の動きを顔に感じた。通路の先は、そう遠くないところで広い空間に行き当たって終わっているように見える。それまで煌々《こうこう》と点《とも》っていた天井の照明はなぜか、いま浅羽がいる場所から先はすべて消えていた。所々に横たわっている影は、――あれは、本当に、人間が倒れているのだろうか。
「――この先に、伊里野《いりや》がいるんですか」
榎本はそれに答えず、すぐそばの壁《かべ》に溶けていた兵士から無線機を受け取って、レシーバーに向かって、
「伊里野、浅羽が来たぞ」
その瞬間《しゅんかん》、通路に点々と設置されている館内放送用のスピーカーから大音量のノイズが一斉にあふれ出た。その場にいた全員が思わず両手で耳を塞いで首をすくめ、浅羽は自分のすぐ両脇に兵士が二人も溶けて隠れていたことにようやく気づいて思わず飛びのく。
「なあ、つまらんことはやめて、おれとお前と浅羽の三人だけで話をしないか」
一瞬の静寂、きん、という高音。榎本の手の中にある無線機が煙を上げ始める。榎本は舌打ちをして無線機を兵士に投げ渡し、ゆっくりと浅羽に向き直ってため息をつく。
「――正直、」
そこで榎本は躊躇《ためら》い、
「身の安全は保証できん。おれたちとしてもベストは尽くすが、完全にむこうへ行っちまったら、もし万が一のことがあっても守ってやれんと思う」
そう言って、榎本は浅羽の決断を待った。
浅羽は、通路の行く先に向き直る。
この先に、伊里野がいるのだ。
バリケードの陰からゆっくりと足を踏み出して、前だけを見つめてゆっくりと歩き出す。
通路の終わりが一歩ずつ近づいてくる。
行く手には巨大なハッチが二枚あって、一枚目は何かの巨大な力でぐにゃぐにゃにねじ曲げられており、もう一枚はフレームからもぎ取られて床に転がっている。そう言えば、天井を這《は》っているパイプも不自然にたわんでいるし、床も微かに歪《ゆが》んでいるような気もする。一体何が起こったのか。あちこちに倒れていたのはやはり奇妙な服を来[#「来」はママ]た兵士たちだった。死んでいるようには見えない――ときおり眼球が動いたり指先が痙攣《けいれん》したりする。が、それはよくよく見て初めてわかることで、兵士たちは身体《からだ》全体を奇妙な格好で硬直させたまま、時間を止められてしまったかのように動かない。ある者はくの字に折り曲げた身体を額《ひたい》とつま先で支えるような格好で固まっている。壁《かべ》のくぼみに身を寄せて銃を構えている者がいて、浅羽《あさば》が肩に手をかけると、まったくその姿勢のままで床にばったりと倒れ込んでしまった。
浅羽は歩く。
通路の終わりが一歩ずつ近づいてくる。顔に感じる風が強まっていく。空気が明らかに洋上のそれだ。
そして、黄色と黒の縞《しま》模様を踏み越えたところで、通路は唐突に終わった。
浅羽は大きな竪穴《たてあな》の底にいた。航空機を空母のデッキに上げるためのエレベータだ。床そのものが上下する仕組みだった。頭上を仰げば、穴の出口に四角く切り取られた毒々しい夕暮れが流れている。めまいがする――動いているのは雲の方なのか、それとも空母の方なのか。作動中に緊急《きんきゅう》停止したのか、エレベーターの床は今まで歩いてきた通路の床よりも30センチほど低い位置にあった。
そして、眼前にブラックマンタがいた。
見紛《みまが》うはずもない。大砲山《たいほうやま》の頂上でマイム・マイムを踊った相手だった。
真っ黒な巨体が、キャノピーの中で玉虫色の光を反射しているHUDが、すべてのセンサーが浅羽を物も言わずに見下ろしていた。まだセイフティピンがついたままの巨大なミサイルにはペンキの滴る紅《あか》い文字で「天誅」と大書きされている。右の垂直|尾翼《びよく》を埋め尽くしているキルマークを目にして浅羽の呼吸が止まった。キルマークの図案が途中から変更されている。それまではアダムスキー型UFOのシルエットにバツ印だったものが、途中から平仮名の「よ」を丸で囲んだマークに変わっているのだ。
よかったマークだった。
部室の壁にかけられている「よかった探し表」の、よかったシールのよかったマークだった。
「――伊里野《いりや》っ!」
竪穴《たてあな》に流れ込む夏がビル風のような音を立てる。見たところコクピットは無人だ。浅羽は伊里野の姿を探して視線をさ迷わせる。
ふと、風が巻く音の中に、泣き声を聞いたような気がした。
泣き声の源を探してゆっくりと足を進める。ブラックマンタの翼《つばさ》のむこう、エレベータの右奥に発動機付きの牽引《けんいん》車両が腹を見せて横倒し[#「に」の脱字]なっており、その陰に縮《ちぢ》こまるようにして誰《だれ》かが泣いている。浅羽の鼓動が早まる。ゆっくりと歩み寄って、牽引車両の陰をそっとのぞき込んだそこに、耳なし芳一《ほういち》のような奴《やつ》がいた。
伊里野の耳がもぎ取られていたわけではない。
それ以外の怪我《けが》をしている様子もない。髪は最後に見たときよりも色を取り戻しているし、鼻血が出ているわけでもないし、血を吐いて苦しんでいるわけでもないし、挙動からして目から光が失われているようにも思えない。横倒しになった牽引車両の陰で、奇妙な形のサブマシンガンを胸に抱え込むようにして、身を縮こまらせて伊里野は泣いている。
浅羽《あさば》を恐怖させたのは、伊里野《いりや》の着ている白い飛行服だった。
水着のように身体《からだ》に密着する素材で出来ていて、裸体そのままのシルエットを浮かび上がらせている。
その飛行服の全面に、まるで呪文《じゅもん》のような何事かがびっちりと書き込まれているのだ。
浅羽はその光景のおぞましさに凍えついた。全身に、完膚《かんぷ》なきまでに書き込まれた呪《のろ》いの言葉が伊里野を絞め殺そうとしているように見えた。呪いに締《し》めつけられる身体の痛みに伊里野は泣いているのだと信じた。
「伊里野!」
伊里野を救おうと思った。
伊里野は、榎本《えのもと》の無線での言葉を信じていなかったのだろう。浅羽の接近にもまったく気づいていなかったのは明らかで、伊里野は唐突に伸びてきた腕を反射的に振り払って、涙に濡《ぬ》れた顔を上げて、最も信じ難いものを見たかのように全身を強ばらせた。
そして、伊里野の表情が壊《こわ》れた。
「うわぁああぅ!」
言葉にならない叫びが上がった。伊里野はサブマシンガンを取り落として、四つん這《ば》いで浅羽から逃れようとする。浅羽はとにかく伊里野を落ち着かせようとしたが、伊里野は大声で悲鳴を上げながら両手両足を振り回して抵抗する。浅羽は伊里野の身体《からだ》を抱きすくめ、力任せに引き上げて牽引《けんいん》車両に伊里野の背中を押しつける。
そのとき、伊里野の心臓のあたりに書き込まれた大きな文字が目に入った。
『天佑神助 園原基地自衛軍司令 南雲以蔵』
浅羽の心臓が止まった。
伊里野の身体に書き込まれている文字の正体に気づいたのだ。浅羽はさらに伊里野の身体に視線を走らせていく。『必中保証 自衛軍AFF−FCS開発チーム』『大丈夫 第一医療分隊ニューロハザード対策班』『ガンバレ 第一医療分隊血液管理室』『大勝利 中島飛行場スタッフ一同』『君の翼は我らが誇り 自衛軍ブラックマンタ整備チーム』
浅羽は、それ以上文字の意味を追い続ける勇気を失った。
寄せ書きだった。
ロズウェル計画に関《かか》わったスタッフが記した寄せ書きが伊里野の全身をびっしりと覆《おお》い尽くしているのだ。日本語の文字はむしろ少数派で、そのほとんどは英語かそれ以外の言語で書かれていた。血判の押された署名があり、『結婚してくれぇー!』という殴り書きがあり、タコのようなエイリアンがスカンクにガスを吹きかけられて目を回しているイラストがあり、同じエイリアンが恐ろしげな幽霊《ゆうれい》に追いかけられて逃げ惑っているイラストがあった。円陣を組むように書き込まれた署名が、まるで伊里野の全身に所構わず出現したミステリーサークルのように見えた。
「ねえ伊里野《いりや》、わかる!? ぼくは誰《だれ》!?」
伊里野を力一杯に抱きしめたまま、本当に鼻と鼻が触れそうな至近距離から浅羽《あさば》は問う。永遠とも思える時間が過ぎて、伊里野は呆《ほう》けたような表情のまま、かろうじて聞き取れるくらいの声で、
「――浅羽」
伊里野が、自分を認めた。
伊里野は、いま目の前にいるこの自分を「浅羽|直之《なおゆき》」であると認識している。
伊里野は記憶《きおく》の退行から回復している。伊里野はかつての伊里野に戻っている。
伊里野の身体《からだ》に回していた両腕からゆっくりと力が抜けていく。浅羽の顔が泣き笑いに歪《ゆが》んだ。伊里野に泣き顔を見られるのは嫌だった。浅羽が深くうつむくと、伊里野の胸に頭をあずける格好になった。しかし、泣き顔は見られなくても、震《ふる》える息は直《じか》に伊里野に伝わっているだろう。そして浅羽もまた、伊里野のしゃくり上げるような息遣いを全身で感じていた。
「――浅羽は、どうして、」
そのとき、伊里野が懸命《けんめい》に言葉を紡ぎ始めた。
「どうして、どうして、戻ってきて、くれなかったの?」
浅羽は顔を上げる。
意味がわからなかった。
「どうして、わたしを、置いて、行っちゃったの? わた、わたしの、ことなんか、もう、きらいに、なったの?」
――わたしを、置いて、行った?
そのとき、浅羽の脳裏にひとつの恐ろしい仮定が浮かび上がった。
「――ねえ伊里野、ぼくと一緒に夜の海を見たことを憶《おぼ》えてる?」
伊里野はしゃくり上げるばかりで何も言わなかったが、浅羽は戸惑うように見つめ返してくる伊里野の目の中にその答えを見た。伊里野は憶えていないのだ。逃避行《とうひこう》の果てに行き着いたあの砂浜を、二人で見つめたあの夜の海を伊里野は憶えていないのだ。
そして、恐ろしい仮定は身の凍るような確信へと変わった。
考えてみれば、当然のことだった。
記憶の退行中に起こった出来事を、伊里野が憶えているはずがないのだ。
なぜなら、伊里野の退行中の記憶とはつまるところ、伊里野が実際に経験した過去の記憶そのものなのだから。あのときの伊里野は逆行する過去の記憶の中にいたのであって、自分と一緒にいたわけではないのだ。いわば、伊里野はずっと眠り続けていたようなものだろう。眠りながら、楽しかった過去の日々の夢を見ながら、夢遊病のように自分に付き従っていた。
忘れた、のではない。
そんな記憶は最初から存在し得ないのだ。
やはり、すべてはあの夜へと戻っていく。伊里野《いりや》を真夜中の線路に置き去りにして逃げ出してしまったあの夜。伊里野の記憶《きおく》の退行はあのときに始まり、最終的には夜の砂浜で意識を失った。その後、記憶の退行から回復したのは、恐らく園原《そのはら》基地のベットの上かどこかだろう。
あとは、単純な引き算をすればいい。
実際の事の成り行きから、伊里野の記憶が退行していた期間の出来事を差し引けばいい。その答えがそのまま「今の伊里野の記憶」になる。――真夜中の線路で浅羽《あさば》とケンカをして、死にたくなるようなひどいことを言われて、その場にひとりぼっちで置き去りにされて[#「その場にひとりぼっちで置き去りにされて」に傍点]、そのまま意識を失って[#「そのまま意識を失って」に傍点]、気がついたときには榎本たちに保護されて園原基地のベットで寝ていた[#「気がついたときには榎本たちに保護されて園原基地のベットで寝ていた」に傍点]。
今の伊里野は、そう思っているのだ。
「ねえ、どうして、戻って、きて、くれな、かったの?」
「ちがう!! あのときぼくは――」
戻ったのだ。
そして、自分が戻ったときにはもう、伊里野はそこにはいなかったのだ[#「そこにはいなかったのだ」に傍点]。
「真っ暗で、ほんとに、真っ暗で、怖かった、怖かったのに、戻ってきて、くれると、思ったのに、ずっと、ずっと、待ってたのに、暗くて、怖くて、浅羽は、もう、わたしの、こと、きらいに、なっちゃったと、思って、怖くて、暗くて、どんどん、真っ暗に、なって、真っ暗」
そこから先は言葉にならなかった。伊里野の胸が大きく震《ふる》えた。
あー。
あー。
あー。
伊里野は幼児のように泣いた。泣きながら繰《く》り返した――もう戦うのは嫌だ、もう痛いのも苦しいのも嫌だ、死ぬのが怖い、もう戦うのは嫌だ――何度も何度もそう繰り返した。
直感は、間違っていなかったと思う。
伊里野の身体《からだ》を埋め尽くしている文字を見下ろす。これは、やはり呪《のろ》いの言葉なのだ。書いた本人にそんなつもりは毛頭あるまい。それどころか、すべての書き込みが伊里野の勝利を心底から願ってのものだろう。それは疑わない。
真心からの言葉であるからこそ、それらはすべて伊里野にとって呪詛《じゅそ》となるのだ。
お前は死ぬまで戦え――全人類に真心からそう呪われ続けて、何もかもすべてを背負わされて、伊里野は今日までずっと戦い続けてきたのだ。
そして、それら連名の呪詛のなかに自分もその名を連ねている。
白い飛行服を黒く染めている無数の署名のどこにも自分の名前はない。自分の名前は伊里野の胸の奥深くに刻まれているのだから。丘の上の小学校から逃げ出して真っ暗な線路を歩いたあの夜、自分は伊里野の胸の奥深くに『お前なんかきらいだ 浅羽|直之《なおゆき》』と刻みつけて、そのまま真夜中の線路に置き去りにしてきてしまったのだ。
あの夜に戻らなければならない。
命に代えてでも、伊里野《いりや》の胸に刻みつけてしまった文字を消しに行かねばならない。
「――ねえ、伊里野、」
悲しくなるほど細い肩に両手を置いて、涙に濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》をまっすぐに見つめる。
「ひどいこと言ってごめん。本気じゃなかったんだ。伊里野になんにもしてやれないことが悔しくって、自分に腹が立ってどうしようもなくなってあんなこと言っちゃったんだ。あの後すぐに戻ったんだけど、そのときにはもう伊里野はいなかったんだよ」
血も流す。命も賭《か》ける。
そんな自分に対する誓いを、これまで何度となく破り続けてきた。しかし、今度こそは最後までやろうと思う。今度こそは口先だけの空威張りではなく、自分の言葉と決意に最後まで殉《じゅん》じよう。
覚悟を、決めた。
世界を滅ぼそう。
「ぼくは、伊里野のことが好きだ」
伊里野が、止まった。
まるで糸が切れたように、伊里野は涙も泣き声も震《ふる》える胸もすべて止めてしまった。
「ずっと伊里野のことが好きだった。毎日毎日、伊里野のことばっかり考えてた。伊里野が学校に来ない日は伊里野のいない机ばっかり見てた。伊里野が学校に来た日はそれだけで幸せだった。初めて夜のプールで会ったときからずっと、今日までずっと、ぼくは伊里野のことが好きだった。これからもずっと好きだ」
言葉には魔力《まりょく》があった。言葉の中から湧《わ》き上がる力を浅羽《あさば》は感じた。繰《く》り返される言葉に力は回転を与えられ、たちまちのうちに自分でも抑えきれないほどの激情へと膨《ふく》れ上がった。
浅羽は叫んだ。
ほの暗いエレベータの底から、四角く切り取られた毒々しい夕暮れめがけて叫んだ。空母のデッキを越えて、夕暮れに染まる南の海を渡って、世界中にむかって叫びたかった。
「浅羽|直之《なおゆき》はぁ、伊里野|加奈《かな》のことがぁ、大好きだあ―――――――――――――――っ!!」
自分たちがなぜ滅ぶのか、世界人類に知らしめてやりたかった。
神様と悪魔は最初からグルなのだ。正義の味方の存在を信じなくなったのがいつのことかは忘れた。しかし、悪者はどこかにいると思っていた。悪いことが起こるのは、「あいつのせいだ」と指差すに足る悪い奴《やつ》がどこかにいるからだと信じていた。
悪者の不在は、正義の味方の不在より千倍も万倍も悲しかった。
伊里野か人類か。
どちらも取ることはできないのだ。
ならば、自分が悪者になろう。
伊里野《いりや》のことが好きだった。だから伊里野は生きるべきなのだ。伊里野が生きるために滅びねばならない人類など少しも惜しくはない。いくらでも何度でも滅びればいい。滅びゆく人類は悔しいとは思っても悲しいとは思うまい。あいつのせいだ、あいつが悪いのだ――そう自分を指差して死んでいけるのだから。
そのとき、視線の隅で何かが動いた。
浅羽《あさば》は床に転がっているサブマシンガンに飛びついた。あまりにも奇妙な形状に、どこをどう掴《つか》めばいいのか一瞬《いっしゅん》だけ迷う。商品に値段のシールを張る機械の新しいやつだと言われた方がまだ信じられる。告白の叫びを聞いて事態が好転したとでも思ったのか、兵士たちがゆっくりと包囲を狭めてきていた。浅羽は全力で目を凝《こ》らし、バリケードを押しながら通路を前進してくるカメレオンどもの一人に狙《ねら》いを定め、
一気にトリガーを引いた。
数十発の銃声はひとつに連なって聞こえた。
面白《おもしろ》いくらいに当たらなかった。
それでも兵士たちは慌ててバリケードの陰に引っ込む。サブマシンガンは薬莢《やっきょう》が真下に排出される仕組みで、牽引《けんいん》車両の陰から飛び出そうとした浅羽は足元に散らばっていた薬莢を踏んづけて見事に尻餅《しりもち》をつく。すぐさま起き上がり、大声で叫びながら通路の真正面に走り出て、バリケードの隙間《すきま》に見え隠れする「動く壁《かべ》」めがけて発砲する。やはり一発も当たらなかったが、だんだんコツがわかってきた。銃の反動を最初から計算に入れて、直立している相手ならその下半身を狙うくらいの気持ちでいればいい。次はたぶん当たる。
「かかってこい!!」
浅羽は絶叫する。
「ぼくが説得すると思ってたんならお生憎《あいにく》さまだ!! 伊里野は出撃《しゅつげき》させないからな!! 絶対に死なせないからな!! 伊里野が生きるためなら人類でも何でも滅べばいいんだ!!」
そのとき、最前列のバリケードに背中をあずけて座り込んでいた榎本《えのもと》は、浅羽の叫びを聞きながらまさに悪魔《あくま》のような笑みを浮かべている。
そして浅羽は背後を振り返った。自分が手にしている銃もあといくらもしないうちに弾が尽きるだろう。他《ほか》に武器はないのか、伊里野にそう尋ねようとしたのだ。
振り返ったそこに、伊里野がいた。
伊里野は、静かに泣きながら柔らかく笑っていた。
「いい」
伊里野《いりや》は立ちすくむ浅羽《あさば》を見つめながら、左手をほんの少しだけ振り動かすような仕草《しぐさ》をする。その手首に露出《ろしゅつ》している銀色の球体に赤道の夕暮れの赤が踊る。
まったくの突然に、浅羽の足元の床が上昇し始める。
「やっとわかった、浅羽のこと。だからもういい。だいじょうぶ。へいき」
「――伊里野?」
ブラックマンタの翼端《よくたん》に灯が点《とも》る。マスターフュールON、エンジンフュールフィールドNORM、エアソースNORM、JFSをSTART1からSTART2へ。エンジンが呼吸を再開する。
「わたしも他《ほか》の人なんか知らない。みんな死んじゃっても知らない。わたしも浅羽だけ守る。わたしも、浅羽のためだけに戦って、浅羽のためだけに死ぬ」
そして伊里野は、浅羽の胸に身体《からだ》をあずけてきた。
浅羽は、伊里野の体温と匂《にお》いと体重を感じ、汗ばんだ夏服の胸元に吹き込まれるような最後のささやきを感じた。
わたしも、浅羽だけでいい。
伊里野の体重にそっと押されて、背後に一歩だけよろめいたそこには、床がなかった。
浅羽は、上昇を続けるエレベータから通路に落とされた。
何も考えられなかった。
しばらくの間は、エレベータの底に日の光を塞《ふさ》がれた真っ黒な虚無を呆然《ぼうぜん》と見上げているだけだったし、そばにいた兵士のひとりに助け起こされなかったらいつまでもそうしていたかもしれない。伊里野を乗せたエレベータは上へ昇っていったのだから、とにかく自分も伊里野を追いかけて上へ上がろう――そんな昆虫なみの思考がようやく湧《わ》き上がってきて、浅羽は兵士の手を振り解《ほど》いて走り出す。最初の階段を四つん這《ば》いで駆け上がって、しかしそこから先はもう来た道を憶《おぼ》えていなかった。榎本《えのもと》は明らかに近道ばかりを通って浅羽を案内していたし、何度も角を曲がったしハッチをいくつもくぐった。という印象しか残っていない。
伊里野が行ってしまう。
浅羽は走った。とにかく階段を見かけたら駆け上がった。自衛軍兵士もアメリカ兵も容赦なく突き飛ばして走った。開かないハッチや下りの階段に何度も行き当たり、そのたびに苛立《いらだ》ちと絶望で気が狂いそうになって、突然の夏と海の匂いを感じて、
視界がひらけた。
デッキの上に出た。
そして、浅羽は電磁カタパルトのレールの末端にうずくまっている巨大な黒い翼《つばさ》を見た。
凄《すさ》まじい排気音が唐突に意識された。
「伊里野あっ!!」
通路上に身を投げ出してでも止めようと思ったが、もう何もかも間に合わないということを直感してもいた。そのとき、ブラックマンタの周囲にいたシューターやオーディナンスクルーが、何事かの叫び声を上げて転がるように機体から離れようとした。明らかに通常とは異なる何かが起こって、持ち場もシグナルボードも何もかも放り出して退避《たいひ》しようとしているように見えた。
衝撃《しょうげき》波が浅羽《あさば》の聴覚と触覚を塗り潰《つぶ》す。
三つの光の盾がブラックマンタを取り囲む。
船橋《アイランド》の高みに設置されているすべてのレーダードームが花火のように弾《はじ》ける。カタパルトのレールにねじくれたアーク放電が走る。デッキからせり上がっていた|J B D《ジェット・ブラスト・ディフレクター》が排気圧に砕かれ、内部を循環していた冷却用の海水が高温にさらされて巨大な水蒸気の塊を噴《ふ》き上げる。
翼《つばさ》が、疾《はし》った。
デッキを離れた瞬間《しゅんかん》にはもう、伊里野《いりや》は機首を垂直にまで引き起こしていた。右にロールしながら赤道の夕暮れの中を駆け上がっていく。ループに入り、空母の上空を緩《ゆる》やかに旋回し始める。
突然、エンジンの排気音がふっつりと途絶《とだ》える。
信じ難いほどの静寂がデッキに戻ってくる。
浅羽の耳には、旋回を続ける伊里野の翼の風切音だけが届いている。
「最後の背中のひと押しご苦労!」
浅羽は表情を失《な》くす。
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、振り返る。
十歩ほど離れたところに、榎本《えのもと》がいる。
「いやぁー、おれもこんなにうまくいくとは思ってなかったわ。お前、世界中から勲章《くんしょう》もらえるぞ。アカデミー賞ももらえるかもな。もしもらえなかったらおれが榎本賞をやるよ」
そのとき浅羽は、自分の右手がまだサブマシンガンを握り締《し》めていたことに気づく。
そして、榎本は右手に大型の拳銃《けんじゅう》を握り締めていることにも。
「まあ途中は色々アレだったけどな、お前は最後の最後に素晴《すば》らしい仕事をしたよ。ありがとう、そしてさようなら浅羽|直之《なおゆき》くん」
榎本はおどけるように両腕を広げながら拳銃のハンマーを起こした。
浅羽は思う。
こいつを殺そう。
理由など何もいらない。もしくは何でもいい。こいつがいるとその分だけ地球の空気が減るから、といったことでも構わない。最も深い地獄《じごく》に落ちることになってもいい。その同じ地獄にこいつを落としたい。
榎本《えのもと》が、足を踏み出した。
そのとき、自分が何と叫んだのかは記憶《きおく》にない。
記憶にない叫びを上げながら、浅羽はトリガーを絞った。
そのとき、榎本は目を薄《うす》く閉じていた。
夕暮れと同じ色の銃火が弾《はじ》け、銃口が跳ね上がって瞬《またた》く間に弾が尽きた。射線は榎本の右半身を舐《な》めた。徹夜《てつや》の汚れが染み着いたシャツが着弾の衝撃《しょうげき》に引き攣《つ》れ、腹部から右肩にかけていくつかの血色の花が弾けた。
それでも、榎本は足を止めなかった。
表情ひとつ変えない。両腕を軽く開いたまま、目を薄く閉じたまま、ゆっくりと歩いてきた榎本はついに浅羽の目前に立つ。目を開けて、無造作に右手を上げて、立ち尽くす浅羽の額《ひたい》の真ん中に銃口を押しつける。
そして、浅羽は世界が終わる音を聞いた。
ハンマーが落ちて、空っぽの薬莢が叩《たた》かれる音だった。
榎本はそのまま右手を開き、浅羽の足元に拳銃を落とす。疲れ切ったような笑みを浮かべ、
「――ったくよお。最後までしまらねえ野郎だなてめえは!!」
次の瞬間《しゅんかん》、浅羽の首がものすごい勢いで左に傾《かし》いだ。
「世界を滅ぼすんじゃなかったのかよ!! そこまでの大口を叩く野郎がおれの一人や二人ぶち殺せなくてどうすんだよ!! おれは、おれは最後にお前に殺されるんならそれでよかったんだよ!!」
二発、三発、と浅羽を殴り、倒れたところにのしかかってさらに拳《こぶし》を落とす。浅羽も必死の反撃《はんげき》をする。頭の中は真っ白になっていたが、生存本能が身体《からだ》の制御を奪い取って抵抗を続けている。浅羽は五発も殴られないうちに足腰が立たなくなり、榎本の身体の動きも急速に鈍《にぶ》くなって、二人はすぐに折り重なるようにしてデッキに横たわった。
上になっていた榎本がうめき声を上げて身体を転がす。出血はすでにシャツの前面を染めつくしていた。土気色になった顔に脂汗をびっしりと浮かべている。その隣《となり》には、顔中を腫《は》らした浅羽が放心したように横たわる。
伊里野《いりや》の翼《つばさ》が風を切る音が聞こえる。
二人はそのまま、夕暮れの空を旋回し続けている伊里野を見上げる。
銃声に気づいて駆け寄ろうとしていたクルーたちも、ひとり、またひとりと足を止めて、伊里野の舞う空を見上げてその場に立ち尽くす。
◎
いま、伊里野は自由なのだと浅羽《あさば》は思う。
地球上の光景とは到底思えない夕暮れの中を、伊里野《いりや》はゆっくりと飛び続けている。
籠《かご》から解き放たれた鳥のようだった。一目散に逃げ去るような卑屈さもなく、闇雲《やみくも》に風と戯《たわむ》れるような幼稚さもなく、ただ、己が翼《つばさ》で自由を確かめるかのように円を描き続けている。
ずっと奪い尽くされていた自由を、伊里野はようやく取り戻したのだ。
初めて飛ぶ自由な空だ。
伊里野は今、初めて大空を飛んだときのことを思い出しているかもしれない。
そして、それ以外のことはもう何も憶《おぼ》えていないかもしれない。地上の一切から解き放たれた伊里野には、もはや地上の言葉さえも通じないだろう。
伊里野は、もう二度と地上を振り返りもすまい。
空母のデッキから見上げている者たちの存在など、すでに伊里野の眼中にはあるまい。伊里野はもう行く手の空しか見てはいない。
赤道の夕暮れを、よじくれた巨大な雲が折り重なる赤い赤い夏の空を、伊里野はいつまでも飛び続ける。翼の風切音だけを残して、ゆっくりと旋回しながら高度を上げていく。彼方《かなた》の巨大な雲の間に青い空が残っている。伊里野はその雲間に進路を向けて、大空に翼を広げて、まっすぐに、まっすぐに飛び続ける。
伊里野が空に帰っていく。
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エピローグ
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浅羽直之さま
ずっと前に約束していたシルバースターを同封します。ずいぶん安っぽいなあと思うかもしれませんが本物です。私も初めて見たときにはずいぶん安っぽいなあと思いました。もっと早く渡せたらよかったのですが、上の人たちが今ごろになってようやく例外を認めてくれたのです。遅くなってしまってごめんなさい。友達に見せてもたぶん大きな問題は起こらないと思います。こんなものいらないと思うのなら捨ててください。
恥ずかしい話ですが、私は手紙というものを書いた経験がほとんどありません。この手紙もずいぶんなれなれしい書き方をしてしまっていると思いますが、それは私がいい年をしてちゃんとした手紙の書き方を知らないからで、決してあなたのことを軽んじているわけではないのです。年賀状や暑中見舞いを出していたのなんて小学生くらいまでだし、ラブレターを書いたことだって一度もありません。国語の成績もあんまりよくなかったし、中学生のときに担任の先生におまえの字は男みたいだってからかわれたことは今でも私のコンプレックスで、書かずにすむ手紙はぜんぶ書かずにすませてきました。
だけど、この手紙だけは、どうしても書かなくてはいけないと思ったのです。
本当のことを書いておかなければいけないと思ったのです。
だから、封筒にも署名はしません。
なぜなら、私の名前は「椎名真由美」ではないからです。
この手紙の最後に、私の本当の名前のイニシャルを書いておきます。私は中野学校の特務課程を修了して以降、陸上自衛軍のブラックオペレーターとして北方系の作戦に従事してきました。ロズウェル計画への参加を命じられたのは去年の始めのことです。その時点ですでに、当初は五人いたはずのブラックマンタのパイロットは伊里野加奈とエリカ・プラウドフッドの二人しか生き残っておらず、その二人の戦闘意欲の低下が深刻な問題となっていました。
この問題は、ロズウェル計画の立案当時から予想されていたことだったようです。ブラックマンタのパイロットには戦う理由がないのです。乱暴な言い方になりますが、一般の兵士なら例えば家族や国家や思想といったものを戦う理由として持ち得ます。それでなくても、戦場での差し迫った瞬間には「死にたくない」という最低限の理由だけで戦うことはできます。
ブラックマンタのパイロットには、そうした理由がなにもないのです。
幼いころから訓練に明け暮れてきたブラックマンタのパイロットたちには、守るべきものなど何ひとつありません。これは、彼らには人生がなかった、ということとまったく同義です。死にたくない、という最低限の理由さえも希薄です。彼らの日常はそれほどの苦痛に満ちたものでした。いっそのこと敵に撃墜されて死んでしまえば、基地に帰って薬の副作用に苦しまなくてもすむ――そんなことを考えたとしても、何の不思議もありません。
結局のところ、彼らをぎりぎりのところで戦いにつなぎとめていた唯一の理由は、仲間を守るため、という一点だけだったようです。しかし、当初は五人いた仲間がひとり、またひとりと失われていくにつれて、残された者たちはその限界が間近に迫っていることを肌で感じていたはずです。また、彼らは次第に仲間を守るため「だけ」に戦うようになり、それ以外の戦闘行動に対して極端に消極的になっていきます。こうした現象は、私がロスウェル計画に参加する以前から、キル・レシオの慢性的な低下という形ではっきりと現れていました。
その唯一の理由がついに失われてしまったのは、去年の八月のことです。
ごくありふれた哨戒ミッションでした。伊里野とエリカは、いつものように密集編隊を組んで境界空域の警戒にあたっていました。このとき、空域のぎりぎり外側に三機のアンノウンがいたらしいのですが、詳しいことは私にもよくわかりません。最終的にはアンノウンとの戦闘は行われず、伊里野とエリカはそのまま帰還せよとの指示を受けたようです。
帰還途中、エリカのブラックマンタが突如として空母からの指示信号に応答しなくなり、不可解な加速を始めました。
スカンクとファントムはあのときの責任を現在もなすりつけ合っていますが、最初にエリカの「処分」を提案したのはスカンクの誰かです。このまま放置すれば、最終的には暴走状態のディーンドライブが地球を半分消滅させてしまうくらいのエネルギーを放出する。少なくともその可能性がある――そんな理由だったと記憶しています。もちろんそれも嘘ではなかったはずですが、エリカの処分が決断された本当の理由は、ブラックマンタとそのパイロットが敵対勢力の手に落ちる可能性をゼロにしたかったからではないのか。私は今でも、そんな疑いを拭い去ることができません。
そして、加速し続けるエリカのブラックマンタを撃墜できるのは、そのとき一緒に出撃していた伊里野しかいなかったのです。
もちろん、伊里野もすぐに命令に従ったわけではありませんでした。どんどん加速していくエリカを追いかけて地球を四周もしていました。その間の交信記録は残っていないし、もし残っていたとしても、私にはそれを聞く勇気はありません。
あの哨戒任務の後、伊里野は一種の自閉状態に陥りました。
話しかけても何の反応もなく、食事も自分でとることはできず、普段はベッドの上で身体を丸めていますが、ちょっと目を離すと車椅子に乗って空母のデッキに上がって、そのまま放っておけば一日中でも海を見ているのです。一週間ほどで一応の回復を見たのですが、大きな後遺症がふたつ残りました。まずひとつは記憶の欠落で、人と普通に会話ができるくらいに回復したとき、伊里野の頭の中には「自分はあの哨戒任務には出撃していなかった」というストーリーがすでに出来上がっていました。もうひとつは、伊里野が「エリカの幽霊」を目撃するようになったことです。この現象についても様々な仮説が唱えられましたが、私はこれを、明確な幻視幻聴を伴う多重人格症の発現と見ています。
その後、伊里野はどうにか戦線への復帰を果たしたのですが、それはまったく形だけのようなものでした。ひとりぼっちになってしまった伊里野は、戦う理由と同時に生きる理由も失っていました。
そして、伊里野のモチベーションの回復が、私たちの最優先の課題となったのです。
伊里野に守るべきものを与えること。
それが、私たちの仕事でした。
それが、伊里野が学校へ通うことになった理由です。
私たちは入学先を選定し、環境を整備し、今年の夏の始めごろには安全確保のための継続的な監視活動に入っていました。伊里野は学校へ通うことを最後まで嫌がっていましたが、それはむしろ当然の反応であって、私はあまり心配していませんでした。伊里野は命令を受けることに慣れているはずです。あれこれ文句を言いつつも、最後には言うことを聞いてくれるだろうと思っていました。
それがとんでもない誤算であったことを私が思い知ったのは、九月一日の朝になってからのことです。
八月三十一日の夜、伊里野加奈は園原基地から脱走しました。
そして、園原中学校のプールで、あなたと遭遇しました。
実は、私は今でもわからないのです。あの夜、伊里野はなぜ脱走したのか。夜中のプールに忍び込んで一体何をするつもりだったのか。そもそも、あのころの伊里野が自分ひとりだけで基地の外に出るという行動それ自体が、私には亀が空を飛ぶよりも信じられないのです。伊里野本人に尋ねてみたこともあるのですが、教えてはくれませんでした。
ひょっとすると、あなたはその理由を知っているのでしょうか。
それからの出来事については、私よりもあなたの方が詳しいかもしれません。
言うまでもないことですが、私たちは、自分たちのやっていることの残酷さに気づいていました。
私たちは、奪うために与えていたのです。
私たちの活動には正式な作戦名は最後まで与えられませんでした。しかし、事情を知っている他のスタッフは、私たちの活動を「子犬作戦」と呼んでいました。
子犬とはもちろん、あなたのことです。
あなたを含めた、この世界全体のことでもあります。
伊里野に子犬を与えて、今日からお前がこいつの面倒を見ろと命令して、情が移ってかわいくて仕方がなくなってきたころにその子犬を取り上げて、こいつの命が惜しかったら死ぬまで戦えと命令する。――私たちのやっていることはそれと同じだ、というわけです。
私は、この比喩は正確ではないと思う。
なぜなら、私たちには子犬をさらう必要も脅迫する必要もないのです。
それは、エイリアンがやってくれるのですから。
私たちは、最初から最後までまったくの善意を装って、伊里野に世界のスバラシサを見せてあげればそれでよかったのです。私たちがずっと伊里野から奪い取っていたものを、ひとつひとつ返してあげればそれでよかったのです。最後の決戦が絶対に避けられないものであることを知っていながら、私たちは、死の恐怖や薬の副作用にのたうち回る以外の日常があるのだということを伊里野に教えたのです。
そして、何よりも決定的だったのは、あなたの存在でした。
あなたは、伊里野にとって、目に見える神様のようなものでした。
これは少しも大げさな表現ではありません。あなたは、伊里野にとっての「生きる理由」そのものだったのです。あなたは伊里野に言葉を与え、笑顔を与え、ついにはエリカの亡霊すらも追い払いました。ひどいときには毎晩のように出没していたエリカが、伊里野とあなたが出会って以降は次第に姿を見せなくなっていったのです。
かつての伊里野は、生きることにも死ぬことにも興味を持っていませんでした。
そんな伊里野が、あなたと知り合ってからは「浅羽がいるから死にたくない」と思うようになった。そして、私たちの最終的な目標は、「浅羽がいるから死にたくない」を、「浅羽のためなら死んでもいい」にまで持っていくことでした。
私を恨みますか。
榎本を恨んでいますか。
タイコンデロガで起きた出来事について、私も大体のところは知っています。あなたと伊里野の逃避行についても、手に入るすべての資料に目を通しました。
榎本にはあなたと伊里野を捕まえる気がなかったと知っても、今の私は大して驚きません。
今にして思えば、私たちの笑顔はどうしようもなく引き攣っていました。自分たちがしていることの残酷さにただ怯えて、必死になって善意の笑みを取り繕っていました。そんな私たちの中にあって、ただひとり榎本だけが、伊里野に子犬を与えることの正しさを最後まで信じていたのではないかと思うのです。
命を賭して守るだけの価値がこの世界にはあるのだと心底から信じて、故にそれを伊里野に知らせることを恐れず、その罪をすべて我が身に引き受けて地獄に落ちる覚悟を決めていたのは、榎本だけだったように思うのです。
今さら手遅れですが、今なら私にも榎本の気持ちがわかります。
伊里野が好きなあなたが好きな世界の価値が、今になってようやく信じられます。
もちろん、すべては伊里野を最後の決戦に出撃させるためでした。それを否定するつもりは毛頭ありません。しかし、だからといって、ブラックマンタのパイロットとして生きてきた伊里野加奈が最後の最後になってその目で見、その耳で聞き、その肌で感じたものが、それを与えた側の動機の罪深さによってニセモノになるとはどうしても思えないのです。
あなたは、確かに、そこにいたのです。
浅羽がいるから。
加奈ちゃんにとっては、それで充分だったのだと信じています。
自分の罪深さと同じくらいに、今の私は、そのことを信じています。
最後まで読んでくれてありがとう。
T.S.
◎
水前寺《すいぜんじ》が帰ってきた。
第一発見者の梶尾《かじお》哲也《てつや》(四十三歳・農業)は当初、若い自衛軍兵士が大酒を食らってべろべろに酔っ払っているのだと思ったらしい。確かに水前寺は自衛軍の野戦服を着ていたし、拳《こぶし》ひとつ分はある身長差と無精髭《ぶしょうひげ》が水前寺を実際以上に逞《たくま》しく見せていたことは否めない。が、水前寺が突っ立っていたのは園原《そのはら》市|久川《ひさかわ》の広大な田んぼのど真ん中で、まるで天から降り立ったかのように、周囲には足跡がひとつも見当たらなかったという。梶尾の通報を受けて駆けつけた二人の警官《けいかん》の片方が水前寺の顔を憶《おぼ》えていた。彼は、今年の春に市川大門《いちかわだいもん》駅の女子トイレで水前寺を補導《ほどう》した四人の警官のうちのひとりだったのだ。
「浅羽《あさば》特派員っ!! 思い出せん、何も思い出せんのだっ!!」
水前寺は、殿山《とのやま》の爆発《ばくはつ》事件以降の一切の記憶《きおく》を失っていた。
そしてある日、水前寺は催眠術の本を山のように抱えて部室に現れた。今すぐにこれらの本を読んで自分に催眠術をかけて、意識下に眠っているはずの記憶を引き出してくれ――と水前寺は言うのだ。
浅羽は止めた。
晶穂《あきほ》は面白《おもしろ》がった。
「もーさっきからうるさいわね。いいじゃないの本人がやってくれって言ってんだから。ほーらまぶたが重くなる。じゃんじゃんばりばり重くなる」
そんなでたらめな睡眠術が水前寺《すいぜんじ》にはあっさりと効いてしまった。一番|驚《おどろ》いたのは内心では冗談半分のつもりだった晶穂である。椅子《いす》に座って顔を伏せたままぴくりともしない水前寺を疑り深い目つきでじっと見つめ、
「――ほんとに効いてんのかな。ねえ、あなたの初恋の人の名前は?」
水前寺は、寝言のような口調で答えた。
「芹沢《せりざわ》美由紀《みゆき》」
誰《だれ》?――と晶穂は眉《まゆ》をひそめたが、浅羽は恐ろしくなってきた。晶穂は憶《おぼ》えていないようだが、芹沢美由紀といえば去年この学校に来ていた教育実習生の名前ではないか。
いよいよ面白くなってしまった晶穂は、殿山《とのやま》の爆発《ばくはつ》事件以降の記憶《きおく》などそっちのけで水前寺をどんどん過去に退行させていった。水前寺は椅子から転げ落ちて「ままー、ままー、もうしないよお、出してよお」と部室のドアにすがり、なくなってしまった三輪車を探して部屋中を歩き回り、ついには生まれたての乳児のように床に転がって指をしゃぶり始めた。
「――すごいすごい、あたしってすごいかも、将来は催眠術師になろうかな。ねえ浅羽、赤ちゃんの状態からもっと退行させたらどうなると思う? ひょっとして前世の記憶とか出てくるのかな?」
「もうやめようよ、こういうのやばいよ、絶対やばいよ」
晶穂は、水前寺をさらに退行させた。
水前寺はもそもそと床を這《は》いずって、テーブルの下で膝《ひざ》を抱えてじっと動かなくなった。
晶穂は恐る恐る、
「――あなたは、誰?」
水前寺はひそやかな笑みを浮かべ、恋人の耳に囁《ささや》きかけるような口調でこう言った。
「しいたけ」
◎
日常は、そんなふうにして戻った。
園原《そのはら》基地のことについて言えば、米軍の全面|撤退《てったい》と敷地《しきち》の大幅な縮小《しゅくしょう》が決まった。
騒音《そうおん》公害からの解放を喜ぶ声よりも、陽気なアメリカ兵たちとの別れを惜しむ声の方がはるかに大きかったことはあえて特筆しておく。撤退は三年計画で、来年には町を上げての盛大な送別式典が行われることになっている。
園原《そのはら》中学校のことについて言えば、まず、二年四組の出席|簿《ぼ》の「伊里野加奈」の名前に横線が引かれ、保健室の火元責任者の札が「椎名真由美」の代わりに「黒部喜美代」にかけ替えられた。後者を嘆く者は数多くいたが、それもさして長く続いたわけではない。さらに小さな変化としては、校舎一階の正面入り口に設置されていた三台の公衆電話が、三台とも新しいタイプのものと交換された。今度の電話機にはダイヤルした番号や音量の設定を表示する液晶パネルがついている。テレホンカードや十円玉を飲み込んでしまうようなこともない。
花村《はなむら》祐二《ゆうじ》のことについて言えば、一体何を思ったのか、プロレス研究会に入部して厳《きび》しい修業の日々を送っている。お世辞にも身体《からだ》に恵まれているとはいえない花村だが、転校につぐ転校を繰《く》り返して培《つちか》った愛嬌《あいきょう》はプロレス研においても遺憾《いかん》なく発揮され、とりわけサージェント木内《きうち》にはずいぶん可愛《かわい》がられているらしい。『怪傑《かいけつ》・花電車』というリングネームも決まり、毎日毎日ちゃんこをバカ食いしプロテインを牛飲し、休み時間のたびにプロレス技をかけようとして西久保《にしくぼ》や浅羽《あさば》にとても嫌がられている。
「駅弁っ!!」
西久保|正則《まさのり》のことについて言えば、相も変わらずマイペースな日々だ。変わったことといえば、学校帰りに武蔵湯《むさしゆ》ではなくボウリング場へ行くようになったことくらいである。最初のうちはいつもの面子《メンツ》と一緒だったのだが、すぐに浅羽が抜け、すると晶穂《あきほ》も抜け、やがてプロレス研の練習で忙しくなった花村が抜けて、ついには西久保と島村《しまむら》清美《きよみ》の二人だけが残されることになった。西久保と清美は何だかんだでずいぶんと仲良くなって、近ごろでは「あの二人は付き合っている」と噂《うわさ》されるようになったが、当の西久保と清美にはそういう意識は特にないのだった。いつものようにいつもの面子とバカ話をして笑いながら、仲良しグループの終焉《しゅうえん》を何となく予感する西久保である。
須藤《すどう》晶穂のことについて言えば、浅羽との間にちょっとした衝突《しょうとつ》があった。原因はやはり伊里野《いりや》のことだ。伊里野が誰《だれ》にも何も言わずにいきなり転校してしまった理由について浅羽が何か知っている、知っているのに隠している――晶穂はそう思っていたらしい。口論はつかみ合いにまで発展したが、「今すぐには無理だけど、話せるときがきたら必ず話す」という浅羽の言葉に一応は納得して引き下がった。そんな晶穂の鞄《かばん》の中には一枚の写真が入っている。鉄人屋の如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》に頭を下げてもらってきた、鉄人定食完食記念のポラロイド写真である。写真の中で、伊里野は晶穂と肩を組んで、不器用なピースサインを出して笑っている。
そして、浅羽|直之《なおゆき》のことについて言えば、これからミステリーサークルの取材に出かけるところだ。
ミステリーサークルの取材というのは、タネを明かせば自作自演のジョーク企画である。殿山《とのやま》の中腹に巨大なミステリーサークルを作って、「さよなら米軍さよなら幽霊戦闘機《フーファイター》!? 園原《そのはら》基地を見下ろすミステリーサークルの謎!」と銘打った記事にするのだ。今日は土曜日で、まずは家に帰って昼飯を食って、それから殿山のスポーツ公園に二時に集合という手はずになっていた。
力の限りに自転車を飛ばしてスポーツ公園にたどり着くと、晶穂《あきほ》はもう来ていた。
「遅ぉーい。もう二時半」
ごめん、と言う間もなく昼飯が逆流しそうになって、浅羽《あさば》は大慌てで水飲み場の水道に飛びついて大きく息をつく。
「ちょ、ちょっと。大丈夫?」
「あ、やめてやめて背中さするのやめて」
餃子《ギョウザ》の匂《にお》いのするげっぷが胃の底から湧《わ》き上がってくる。それでも浅羽はどうにか吐き気をこらえて、コンクリート製のベンチにへたり込んで血の気の引いた顔を風にさらした。
「ねえ浅羽、」
「え?」
「あのね、」
と言ったきり、晶穂はうつむいて黙《だま》り込んでいる。浅羽はどうにも居心地が悪くなって、
「――なに」
「この間はごめん」
晶穂はうつむいたまま、そう言った。
「言い過ぎたと思う。いろんなこと言ったと思うけど本気じゃないからね。せっかく伊里野《いりや》と仲良くなれたのに、いきなりいなくなっちゃって、こんなことならもっと早く友達になれてたらって、そんなことばっかり考えちゃって。後悔するのは自分が悪いからなのに、どうしても自分に腹が立って、それで浅羽に八つ当たりしちゃった」
浅羽は、晶穂の横顔を見つめる。
つい最近、ここから遠く離れた場所で、自分も似たような台詞《せりふ》を口にしたような気がする。
胸につかえていたものが、溶けて消えていった。
もう、すべてを話してもいいのではないかと浅羽は思う――八月三十一日の夜から十月二十六日の夕方にかけて、自分の身に起こった様々な出来事について。伊里野|加奈《かな》、という女の子について。どこもかしこも穴だらけの、結局は何が本当で何が嘘《うそ》だったのかもよくわからない物語について。
「――あのさ、」
そのとき、懐《なつ》かしいポンコツエンジンの排気音が坂道を這《は》い登ってきた。
水前寺《すいぜんじ》が乗り回している軽トラックの音だ。
「おそいーっ! どこに根を生やしてたのよこのマタンゴ!」
晶穂《あきほ》が弾《はじ》かれたように立ち上がって、公園の敷地《しきち》にのんびりと入ってきた軽トラックのドアに蹴《け》りを入れた。運転席の水前寺は目を剥《む》いて、
「あ、こらっ、乱暴はやめたまえ須藤《すどう》特派員、この間洗車したばかりなんだぞ」
「ばっかじゃないの、こんなオンボロ洗車なんかしたってしなくたって一緒でしょ」
ぐりぐりぐり。
浅羽《あさば》はため息をついた。ベンチから腰を上げ、軽トラックに駆け寄って、
「ねえ部長、ぼく考えたんですけど、ミステリーサークルの図案は――」
そして、軽トラックの荷台が空っぽであることに気づいた。
「部長、」
「何かね浅羽特派員」
「――道具は? 部長が持ってきてくれるんじゃなかったんですか?」
水前寺は眉《まゆ》をひそめて、
「道具――とは、一体何の道具のことかね浅羽特派員」
「だから、ミステリーサークルを作る道具ですよ。ロープとか杭《くい》とか、」
「ミステリーサークルを作る、とは一体何の話かね浅羽特派員」
今度は晶穂が、
「脳ミソにしいたけ生えちゃったんですか? ジョーク企画やるんでしょ? 『さよなら米軍さよなら幽霊戦闘機《フーファイター》!? 園原《そのはら》基地を見下ろすミステリーサークルの謎!』って。部長が言い出しっぺじゃないですか」
水前寺は、呆気《あっけ》に取られたような顔をして、
「――ミステリーサークル? 幽霊戦闘機?」
誰《だれ》かに聞かれたら外聞が悪いとでもいうように、水前寺はやっと聞き取れるほどの囁《ささや》き声でそう言った。そして水前寺は突然クラクションを鳴らし、園原基地第四エプロンを覆《おお》いつくす空に向かって絶叫した。
「おっくれてるぅ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
ああ――。
終わったのだ、と浅羽は思う。
心からそう思う。
水前寺《すいぜんじ》テーマは季節とともに移ろい行く。
季節は変わり、時は過ぎ行き、何事も不変ではいられない。
「――信じらんない」
晶穂《あきほ》がつぶやく。
「そんなのすっかり忘れてた。もうずっと変わんないのかと思ってた」
水前寺は軽トラックのエンジンをかけて、
「さあ、乗りたまえ両特派員。手伝ってもらわねばならんことがある。忙しくなるぞ」
晶穂は観念しきったようなため息をついて、軽トラックの助手席に乗り込もうとした。
そのとき、
「ぼくはやりますよ、ひとりでも」
浅羽《あさば》は、水前寺をまっすぐに見つめて、そう言った。
晶穂は、目を丸くして浅羽を見つめていた。
水前寺は、右手をステアリングの上に乗せたまま、フロントガラスにこびりついた虫の死骸《しがい》を見つめていた。不意に浅羽へと視線を投げて、
「やる――とは、ミステリーサークルを作るという意味かね」
「はい」
「ひとりでも、かね」
「はい」
「どうしても、かね」
「はい」
そして、水前寺は笑った。毎年毎年、少なからぬ新入生女子がこの笑顔に騙《だま》され、貴重な紙資源をラブレターに変えて水前寺の下駄《げた》箱に突っ込むという最悪の愚行に走るのだ。
「好きにしたまえ」
浅羽も笑みを浮かべた。
口を半開きにして二人のやり取りを見守っていた晶穂がふと我に返って、慌てて軽トラックから降りようとした。
「あ、あたしも手伝――」
が、いきなり水前寺の手が伸びて、有無を言わせずドアをロックしてしまった。水前寺は晶穂の目と目の間に指を突きつけ、
「野暮《やぼ》な真似《まね》はやめたまえ須藤《すどう》特派員。君にはこちらの仕事を手伝ってもらう」
「や、野暮って何ですか野暮って。ちょっと、ちょっと待ってくださいよ部長!?」
水前寺は軽トラックを急発進させる。後輪を滑らせて百八十度方向を変え、クラクションを鳴らしっぱなしで殿山《とのやま》を駆け下っていく。
浅羽《あさば》は、クラクションが聞こえなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
「――さて、」
さて。
ひとりでやるなどと大見得を切ったが、なんだか心配になってきた。
ひと気のない公園から空を見上げ、気合を入れる。
これが最後だ。
終わる、のではだめなのだ。
終わらせるのだ。
この夏を終わらせよう。自分の手で幕を引こう。何日かけてもいいから、この空のどこからでも見えるようなでっかいミステリーサークルを作り上げて、それからこの山を降りよう。
図案はもう心に決めている。
園原《そのはら》基地の裏山に刻まれた、でっかいでっかい「よかったマーク」だ。
◎
最後にもうひとつだけ、猫の校長のことについて言えば――
校長は、あれから浅羽家でのんびりと暮らしていたが、浅羽が三年生になった年の夏休みの最初の夜にふいっと姿を消して、そのまま二度と戻らなかった。
伊里野《いりや》を探しに行ったのかもしれない、と浅羽は思っている。
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あとがき
というわけで、『イリヤの空、UFOの夏』なのでした。
本書は、メディアワークス発行の小説誌『電撃《でんげき》hp』の20号から24号に連載された4話分にちみっと修正をかましてまとめたものです。
いやー、長かったなあ。
ほんと長かった。
で、今度はぎっくり腰ですわ。
特に心当たりはないのです。ただ、何日か前から「なんだか腰がヘンだなあ」という感じがあって、それでもあんまり気にせずにこの本の著者校正なんかをしていたのです。で、一発くしゃみをした途端《とたん》、思わずニュータイプになってしまいそうな激痛が。
もーダメですね、腰やられると。
生活が成り立たないです。ちょっとしたことで「ぐわあーっ!!」と叫んでしまうくらいの痛みが襲《おそ》ってくるのです。何をするにも太極拳《たいきょくけん》みたいなスローモーション。途中で身動きできなくなったらどうしよう――なんて考えると、すぐ近くのコンビニへ行くのも大冒険です。痛みに身もだえしながらあとがきを書く私です。
そういえば、二巻のあとがきでも「親知らずが痛くて歯医者に行ってぶっこ抜いてもらってもー大変」みたいな話を書いたような。
二巻の終わりといえば「18時47分32秒」の後編。
お話全体の大きな節目であります。
ひょっとすると私、そのとき書いている話が一段落すると身体《からだ》のどこかがおかしくなるんではなかろうか。
何かこう、精神的なものがあるのかもなー。
腰の痛みに「夏の終わり」をしみじみと実感する私です。
というわけで、『イリヤの空、UFOの夏』なのでした。
次は犬がいっぱい出てくる話。それか便所の話。どっちにしようかな。
底本:「イリヤの空、UFOの夏 その4」電撃文庫、メディアワークス
2003年8月25日初版発行
2004年9月25日公開