イリヤの空、UFOの夏 その3
秋山瑞人
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無銭飲食列伝
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放課後の昇降口で待ち伏せしで、声をかけようとして息を吸い込んだその瞬間《しゅんかん》、伊里野《いりや》とまともに口をきくのはこれが初めてであることに唐突に思い至った。恐くて足が震《ふる》えた。
「伊里野」
その一撃《いちげき》で伊里野は石になる。危なっかしく身を屈《かが》めて、下から二段目の下駄《げた》箱からスニーカーを引き出そうとしたまま動かない。やがて首だけが斜めに振り返る、白い顔の鼻から下が肩から流れ落ちる髪に隠れ、瞬《まばた》きもせずに見つめ返してくるふたつの目は、火災報知器の赤いランプよりも表情に乏しかった。
怯《ひる》んではならない、と晶穂《あきほ》は思う。
晶穂は密《ひそ》かに呼吸を整える。伊里野の正面に回り込んで行く手を塞《ふさ》ぐ。身を屈めたままの伊里野めがけてあくまで強気な視線を投げ下ろす。猫《ねこ》のケンカだって高い所にいる方が有利だ。
「これから部活出るの?」
伊里野は答えない。
しかし、その視線は片時も晶穂から外れない。伊里野は下駄箱の中からスニーカーを引き出して床に置き、ゆっくりと身を起こした。晶穂の目と同じ高さで無言の視線が絡みつく。
晶穂がため息をつく、
「――あのさ、人から話しかけられたときはもうちょっと」
伊里野がカウンターする、
「何か用?」
今さら後には引けない。
絶対に怯んではならない。
一歩たりとも譲《ゆず》ってはならない。
そして晶穂は唐突に、にっこりと笑みを浮かべた。
見事な笑みだった。
初《うぶ》な一年生が見たら、それだけで恋に落ちてしまいそうな笑みだった。
「これから取材に出るんだけどさ、一緒に行かない?」
伊里野の表情には、微塵《みじん》の変化も見られなかった。
痩《や》せ我慢にも限度があった。伊里野の無表情にこれ以上|曝《さら》されたら、自分は目茶苦茶《めちゃくちゃ》に怒鳴り散らすかこの場から逃げ出すかしてしまうと思う。晶穂は、予《あらかじ》め用意していたセリフを一気に吐き出した。
「あたしうちの新聞の連載でおいしいお店紹介の記事書いてるの、ラーメン屋さんとかケーキ屋さんとかお弁当屋さんとか立ち食いソバとかジャンルは何でもアリの。実際にそのお店に行って出てきたもの食べてみておいしいと思ったらそれ記事に書いて紹介するわけ。これからその取材に行くから伊里野《いりや》も一緒にどうかなと思って」
弾切れ、
「だって伊里野って取材するとか記事書くとかまだ一度もやったことないでしょ? あたしも最初は緊張《きんちょう》したけどこんなの要は慣れだしさ、あたしと一緒なら平気でしょ? 伊里野だって新聞部員なんだし早く一人前になってもらわないと因るし」
最後のセリフはまるで部長の言い草だと自分でも思ったが、伊里野の無表情が恐くて晶穂《あきほ》はひたすら喋《しゃべ》り続けた。再び言葉は尽きて、あとは野となれ山となれだと腹を決め、晶穂は自分の下駄《げた》箱のフタを開けた。上履《うわば》きをスニーカーに履き替えながら、冷たく汗ばむ背中で伊里野の返答を待ちうけた。
言うだけは言ったのだ。
下駄箱のフタを閉め、つま先で床を叩《たた》いてスニーカーに踵《かかと》を蹴《け》り込み、鞄《かばん》を軽やかに拾い上げて伊里野に背を向ける。
「一緒に来るの? 来ないの?」
返答は、ついになかった。
不戦勝。部分的勝利。
そんな言葉が晶穂の脳裏に浮かんだ。
こうなるような気はしていた。
晶穂は背後を振り返らずに昇降口を出た。
ここまで来れば大丈夫、そう思えるようになるまでわき目も振らずに足早に歩いて、力なく立ち止まって、一度だけ震《ふる》える息を吐いて空を仰いだ。輸送機が飛んでいた。緊張で血の気の引いた顔を炙《あぶ》る日差しが心地よかった。
見れば、広いだけが取り柄のグランドには祭の残骸《ざんがい》が今もゴロゴロしている。
学園祭で使用された看板やハリボテの群れである。
こうしたガラクタは、二日目十八時四十五分のファイアーストームですべて焼き尽くされて美しい思い出となる――というのはあくまでも公式パンフレット用のタテマエで、実際には全ガラクタの三分の一も燃やせればいい方で、残りの三分の二は学校じゅうの至る所にこうしていつまでも屍《しかばね》を晒《さら》し続けることになる。思えば当然の話で、学園祭で使用される看板やらハリボテやらその他もろもろの総量といったら膨大《ぼうだい》なものだし、それらすべてを一箇所に集めるだけでも大変な手間だし、そこに本当に火を点《つ》けたりしたら炎が大きくなりすぎて危ない。どうしてもすべてを一度に灰にしたいのなら校舎に火でも放つ以外にないし、でなければ、数十人の人手と2tトラックを動員して数日がかりで片づけるより他《ほか》にない。
祭も過ぎ去れば、そこには日常があるばかりだった。
やる気のないランニングや投げやりなノックの邪魔《じゃま》にならないように、大小さまざま色とりどりのガラクタはグランドの隅の方に押し込められてはいるが、でたらめに積み上げられでいる分だけより一層無残な雰囲気が漂っている。逃げ水のはるか彼方《かなた》では、見るからに暑苦しい作業服と防塵《ぼうじん》マスクに身を固めた旭日《きょくじつ》会員たちがファイアーストームの残骸《ざんがい》を相手に今日も戦いを挑んでいる。ときおり思い出したように「根性ぉーっ!!」と気合いを入れる奴《やつ》もいるのだが、どこかヤケクソなその叫びは瞬《またた》く間に空に飲まれた。
グランドのほとりに立ち尽くして、晶穂《あきほ》はひとり、その光景を遠く眺めていた。
輸送機の音が遠ざかる。
つぶやく。
「――不戦勝なのよ」
肩の力はため息に溶け、晶穂は踵《きびす》を返してその場を離れる。正門を出てすぐのバス停には大声でじゃれ合いながらバス待ちをしている一年坊主どもがいて、その騒々《そうぞう》しさに何となく距離を取って、頭の中の時刻表と左手首の腕時計を突き合わせる。
小さく背伸びをする。
始まったばかりの西日に目を細めた。
背中に回した右手で汗で背筋に貼《は》りついたブラウスをつまむ。
今年の夏は一向に終わりが見えない。学園祭だって終わったのに、もう十月の頭だというのに、連日連夜の天気予報は「観測史上最高」の大安売りだ。日中の熱気はひと頃《ころ》の鋭《するど》さを失っていくのと引き換えに、そのぶ厚さを増していくような気さえする。
それもこれも部長のせいだと思う。
ふと半ば真剣に思う。水前寺《すいぜんじ》テーマは季節と共に移ろいゆく、などというのは実は真っ赤なウソで、本当は季節の方が水前寺テーマに支配されているのではないか。常人のそれを倍する密度で日々を生きるあの男なら、あの男がかくあれかしと望むなら、時の歩みを遅くすることすら叶《かな》うのではないか。この夏は忘れもしない、六月二十四日にあの男が始めた夏。長い長い夏休みが、山のような宿題が昼なお暗い裏山がついに飲み尽くせなかった、嬉《うれ》し恥ずかしファイアーストームが焼き尽くせなかった夏だ。
UFOの夏だ。
セミが鳴いた。
「電話してきた」
その一撃《いちげき》で晶穂は石になる。右の頬《ほお》に差す西日の熱さも首筋を伝う汗の冷たさも彼方に遠のいて、無表情な気配とその視線だけを背中に感じた。胃の腑《ふ》を締《し》めつけられるような緊張《きんちょう》が瞬く間に戻ってきた。
意地だけで背後を振り返る。
伊里野《いりや》はそこにいて、上目遣いに晶穂《あきほ》をじっと見つめ返している。
晶穂は動揺を押し隠す。頬《ほお》に浮かぶは強がりの笑み。
「今日行くのはケーキ屋さん。バスで十分くらいのところ。料金は割り勘」
それまでは何ひとつ意思表示をすることのなかった伊里野が、こくりと肯《うなず》いた。
ただならぬ空気を察したのか、バス待ちの一年坊主どもが先ほどから横目でふたりの様子をうかがっている。通りの彼方《かなた》にある交差点からバスが姿を現してゆっくりとこちらに向かってくる。
敗者復活戦が始まる。
今さら後には引けず、絶対に怯《ひる》んではならず、一歩たりとも譲《ゆず》ってはならない。
◎
知らぬが仏というやつで、そのとき浅羽《あさば》直之《なおゆき》はクラスの男子生徒と共に水を抜いたプールの掃除をしていた。
実のところ、これはまったくの貧乏クジだった。そりゃあプールの掃除だって誰《だれ》かがやらなければならないことではあるが、それが二年四組の男子でなければならない理由などなにもない。六限目が体育であったことが運の尽きだと言うしかなかった。炎天下でマラソンなどさせられてダレきっていたところに、体育教師の深沢《ふかさわ》は「キサマら最近たるんでおるからな」と言いがかりのような理由をこじつけ、哀れ二年四組男子はプールの掃除を命じられてしまったのである。深沢は全員にジュースをおごる約束をしてはいたが、西日に炙《あぶ》られながら放課後まで居残ってプール掃除をしたご褒美《ほうび》がジュース一本では割が合うはずもない。おかげで二年四組男子はやる気ゼロの集団と化しており、ホースで水をぶっかけ合っていたりデッキブラシでチャンバラをしていたりで、掃除は最初から少しもはかどってはいない。
「だいたいさあ、十月だからって水抜いちまうことないんだよ。現に毎日毎日こんなにくそ暑いんだからさ、十二月だろうが一月だろうが暑けりゃプール入ればいいんだ」
プールサイドであぐらをかき、デッキブラシを肩にかけ、花村《はなむら》は学校の杓子定規《しゃくしじょうぎ》なお役所的体質を声高に非難する。その隣《となり》であぐらをかき、デッキブラシを肩にかけ、西久保《にしくぼ》はどうでもいいことのように同意する。
「まあな。くそ暑い中でマラソンさせられるよりゃマシだわな」
「それにさあ、こういうプール掃除とかやらされんのは決まって男子なんだよな。相手が女子だったら深沢もプール掃除しろなんて言い出せなかったぜきっと。不公平だよな」
花村が今度は男女同権の現実について言及する。
「まあな。女子にも力ありそうな奴《やつ》いっぱいいるしな」
そのふたりの隣であぐらをかき、デッキブラシを肩にかけ、浅羽は水の抜かれたプールをぼんやりとながめている。
こうして日の光の下で見るプールの光景は、どこまでも身も蓋《ふた》もなかった。
どこもかしこも苔《こけ》じみているし、プールサイドの隅には雑草が顔をのぞかせているし、水を奪われてあらわになったプールの底は所々のペンキが剥《は》がれている。半袖《はんそで》短パンで気だるげにデッキブラシを動かしているクラスメイトの姿はまったくの日常であり、幻想が入り込む余地はどこにもなかった。
名札のついていなかったスクール水着。
くそ真面目《まじめ》にかぶっていた水泳帽。
夏休み最後の夜、自分はここで伊里野《いりや》と出会ったのだ。
そのはずだった。
しかし、伊里野のいたあのプールと自分の目の前にあるこのプールとが、同じ場所であるとはどうしても思えない。あれは、日常にまみれたこのプールとは似て非なるどこか、夏休み最後の夜にだけその道を通じる異次元のような場所であったような気がする。そして、同じ場所であるとは思えないからこそ、そこでクラスメイトたちが水をかけ合っていてもチャンバラをしていても、もう十月なんだな、としか思わなかった。くそ暑いプールサイドにあぐらをかいて、デッキブラシを肩にかけて、浅羽《あさば》はセミの鳴く空を見上げている。触れればはっきりとした手触りがありそうな、固そうな雲の山が西日に染まっている。
左腕の時計は、今も十八時四十七分三十二秒で止まっている。
「そうだ、水泳部の連中にやらせればいいんだよ。あいつら授業の他《ほか》に部活もあるしさ、一番プール使ってんだから」
花村《はなむら》が相変わらず文句を並べている。その隣《となり》で西久保《にしくぼ》が突然、
「あー!」
「な? それがスジってもんだろ?」
「やっベー! おい、いま何時だ!?」
いきなりあわて始めた西久保に花村は眉《まゆ》をひそめ、
「なんだよ、どうしたんだよ」
「ビデオのタイマー録画忘れてきた! NHKの『択捉動乱』って今日だよな!?」
「知らねーよそんな番組」
「確か今日なんだよ!」
西久保は時間時間とわめきながらおろおろと周囲を見回して、浅羽の腕時計に目をつけた。浅羽は思わず左腕を背中に回して隠す。西久保はすがるようにその腕をつかみ、
「おいなんだよ見せてくれよ!」
浅羽はあわてて弁解する、
「こ、壊《こわ》れてんだよこの時計!」
とにかく時計を見せてやって確かに壊《こわ》れていることを示せば西久保《にしくぼ》も納得してあきらめるのだろうが、浅羽《あさば》はひと目たりともこの時計を他人の視線に晒《さら》したくなかった。そんなことをしたら、あの日のあの夕方の、大砲山《たいほうやま》の山頂で起こったあの出来事をのぞき見されてしまうような気がしていた。
「四時すぎくらいじゃねーの? さっき鐘《かね》鳴ったし」
花村《はなむら》のお気楽なそのひと言で、浅羽ともみあっていた西久保はがっくりと肩を落とした。浅羽はなんだか気の毒になって、
「その番組って何時から?」
西久保がぼそりと答える。
「四時……」
「――じゃあさ、家に電話したら」
「そうだよ。チャンカーに頼んでビデオ回してもらえ」
「うちのおふくろビデオの操作なんてできねぇよ。あーもーちっくしょー失敗したなー!」
西久保はがりがりと頭をかきむしる。その隣《となり》で花村はのんびりと周囲を見回し、プールサイドの継ぎ目から何かをつまみ上げて、
「ほれ。これやるから元気出せ」
髪の毛だった。
長さが40センチ以上ある。
つまり、明らかに女子生徒の髪の毛である。
西久保は片手でその髪の毛をつまみ、目の前にもってきてしげしげと眺め、深い深いため息をついた。それを隣で見ていた浅羽は微《かす》かに胸がざわつくのを感じた。まずあり得ないことである。可能性は万にひとつもない。だが、しかし、もしかしたら、ひょっとしたら――
「あ、こんなのもあるぞ」
花村はまた別の毛を指先でつまみ上げ、ほれ、という感じで差し出した。西久保と浅羽はつり込まれるようにその指先を注視した。
陰毛であった。
「うわあっ!」
「きっ、きったねーなバカ野郎!」
花村はへらへら笑っている。逃げ腰のふたりに陰毛突きつけ、ずいと身を乗り出して、
「なんだよ。すっげーかわいい子のやつかもしんねーぞ?」
西久保も浅羽もぶんぶんと首を振る。縮れ具合も凶々《まがまが》しいその陰毛は長さが10センチ近くもあって、まさに「剛毛」と呼ぶにふさわしい貫禄《かんろく》をその先端にまで漲《みなぎ》らせていた。こんなものが女の子に生えるはずはない、西久保も浅羽も固く固く固くそう思った。知らぬが仏というやつである。
「うらー!! 食らえー!!」
「うわー!! やめろばかー!!」
「早く捨てろそんなもん!! こっち来んなー!!」
「ほらほら陰毛だ陰毛!! いんも――――っ!!」
◎
件《くだん》の連載記事は名を『行き当たりばったり』といって、晶穂《あきほ》が新聞部に入部して最初に書いた記事であり、晶穂の新聞部改革の第一歩でもあった。内容は至ってシンプルで、園原《そのはら》市内のあちこちの様々な飲食店を取材して、何がうまいとかこれが安いとか店が洒落《しゃれ》ているとかオヤジが面白《おもしろ》いとか、そういったことを紹介するというものだ。
学校新聞のこの種の記事は大抵が女子生徒の手になるもので、取材する店もいわゆる「かわいくておしゃれなお店」ばかりになりがちだが、『行き当たりばったり』が紹介する店はラーメン屋ありケーキ屋あり弁当屋あり立ち食いソバありとまったくのノンジャンルである。これは晶穂の企画立案時からの揺るぎなきコンセプトであり、リーマンぞろぞろの立ち食いソバであろうが自衛官うじゃうじゃの定食屋であろうがまったくお構いなしに体当たり取材を敢行した成果だった。
あえて意地の悪い見方をすれば、こうした取材方針は水前寺《すいぜんじ》と晶穂の対立構造の産物であるとも言える。すなわち、常日頃《つねひごろ》から水前寺の「超常現象マニアしか読まないような記事」を叩《たた》いている以上、晶穂としても「女子生徒しか読まないような記事」は書けないというわけだ。が、世の中ままならないもので、それでは本当に晶穂が誰《だれ》にでも喜ばれる記事を書けているのかというと若干あやしい部分もあって、なにしろ晶穂は水前寺に負けず劣らずの大メシ食らいであるし、店を取材するときにも「質」を軽視するわけではないが、どちらかといえば「量」の方をより評価しているようなフシがある。そんなわけで、連載記事『行き当たりばったり』の読者層は女子生徒よりも男子生徒が多く、とりわけ運動部の腹ぺこ部員どもの間での評判が高いのだった。
西久保《にしくぼ》と浅羽《あさば》が恐るべき陰毛に追い回されているちょうどその頃《ころ》、晶穂と伊里野《いりや》は「招福寺《しょうふくじ》入口」でバスを降りていた。晶穏が先を行く。その後ろを伊里野が叱《しか》られた子供のような距離をおいてくっついていく。巨大な並木が目陰を落とす、右曲がりの古い坂道を下っていく。
『ストロベリー・フィールズ』は坂道を下りきった先の、国道との交差点の角にある。晶穂の言った「ケーキ屋さん」という表現も間違いではないが、店内にはケーキの他《ほか》にもフランスパンが山と刺さったバスケットや鏡餅《かがみもち》のような大きさの丸パンがゴロゴロしているし、奥にはカウンター席が十席にボックス席が五つのスペースがあって、全体としてはケーキ屋+パン屋+喫茶店という感じだ。
この店のいちごパフェがおいしい、と言っていたのは島村《しまむら》清美《きよみ》だった。
晶穂《あきほ》は取材メモをぱたんと閉じる。
「ここ」
それ以上何を言ってもどうせ答えなど返ってこないことはわかっていた。小さく肩をすくめて店に入る。重いガラス戸に西日が跳ね返って伊里野《いりや》の無表情が映り込んだ。先に立って店内を歩き、ボックス常に陣取って、取材メモとボールペンをテーブルに並べて置く。すぐそばで立ち尽くしている伊里野を横目で見上げ、
「座れば?」
伊里野が向かいの席に腰を下ろす。相も変わらぬ無表情で、まるで不測の事態に備えて身構えているかのように細い肩にきつく力がこもっている。
晶穂は細くため息をついた。
伊里野の無表情から視線を逃がす。テーブルの上のメニューを手にとって、手書きの文字に苛立《いらだ》たしげな目を走らせる。いちごパフェ――¥700。
高。
懸命《けんめい》に平静を装ってはいたが、頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。ぐちゃぐちゃに混乱したおかげで奥底に深く沈んでいたものがほじくり返されて意識の表層に出てきた。自分でもはっきりと意識していなかった自分の本音。
――これから取材に出るんだけどさ、一緒に行かない?
まさか伊里野が本当についてくるとは思っていなかった。
――伊里野だって新聞部員なんだし早く一人前になってもらわないと困るし。
伊里野がそんなものになれっこないし、なってほしいとも思っていなかった。
最初から勝ち逃げするつもりだったのだ。できるはずのない要求を突きつけて意気地のなさを冷たく嘲笑《あざわら》って、新聞部にとってもまったくの役立たずであるという事実を部長にねじ込めばうまくいけばもしかしたら、
なのに、
「ご注文は?」
声が出るほど驚い《おどろ》た。いつの間にかウエイトレスがそこにいて、営業スマイルもにこやかに晶穂を見下ろしている。
「あ、えっと、オレンジペコといちごパフェ」
ウエイトレスの視線が伊里野に移った、その瞬間《しゅんかん》だった。まったく見ていて気の毒になるほどの緊張《きんちょう》が伊里野の両肩に渦を巻き、まるで、この瞬間に備えて考えに考え抜いていたかのような口調で、
「晶穂とおなじのっ」
晶穂《あきほ》は思わず腰が引け、異様な雰囲気に気圧《けお》されたウエイトレスは逃げるようにその場を立ち去った。伊里野《いりや》はソファの中でぎゅっと身を固くして晶穂をじっと見つめてくる。
どうだ――と言わんばかりの、挑戦的な目つきに見えた。
それは、晶穂が初めて目にする、伊里野の表情らしい表情だった。
「――な、なによ、」
伊里野がうつむき、表情らしい表情はたちまちかき消えた。
そのことが、なぜが唐突に、無性に癪《しゃく》に障った。
言いたいことがあるなら言えばいいのだ。
あんたのポーカーフェイスはただの甘えであり、相手に対する卑劣な脅しであり、身勝手な居直りであり、要するにあんたはガキなのであって、そんなものがいつまでも誰《だれ》にでも通用すると思ったら大間違いだ――そう怒鳴り散らしてやりたかった。
震《ふる》える息を、かろうじて言葉にして吐き出した。
「――トイレ」
乱暴に席を立ってぐいぐいと歩き、ノックもせずに扉を開けて狭苦しいトイレに立てこもった。後ろ手にロックした扉に背中をあずけ、黒い徴《かび》が点々と散る天井めがけて大きく息をついて、腹の中に充満した怒りを少しでも吐き出そうとした。
自嘲《じちょう》する。
――トイレに逃げるなんて、まるで浅羽《あさば》だ。
カラ元気をかき集める。
なにしろ、一緒に取材に行こうと持ちかけたのは自分の方なのだ。こうなってしまった以上は仕方がない、何とかして乗り切る他《ほか》にない。
トイレを出た。
ぐいぐいと歩き、ソファにどすんと腰を下ろした。
深呼吸。
「あのね、」
伊里野の視線をどうにか受け止め、
「この取材って大抵はアポなしでやるの。最初のころはそうじゃなくて、ちゃんと電話して土日の早い時間とかに行ってたんだけど。それなら空いてるし店長さんとかお店の中とか写真撮らせてもらえるし」
うまく笑えたと思う、
「でもさ、やっぱり大切なのって『平日の放課後なんかに普通にお客として行ったときにどうなのか』ってことでしょ? 放課後くらいにはめちゃくちゃ混むのかもしれないし、取材だって言うとお店の方も多少は構えちゃうし。自分で言うのも何だけどしょせんは学校新聞じゃない、そんなに意識しなくてもって思うんだけどでもあるのよたまに。気持ち悪いくらい愛想がよかったりモンブランに粟《くり》が五つも乗ってたり」
そこでウエイトレスがやって来た。注文の品が並ぶと、大して広くもないテーブルは一杯になってしまった。
「さて」
ティーサーバーのハンドルを押し下げる。と、それを見た伊里野《いりや》が真似《まね》をした。カップに紅茶を注ぐと伊里野もそうした。スプーンを手にとってふと見れば、伊里野は同じようにスプーンを持ったまま、晶穂《あきほ》が次はどうするのかとじっと見つめている。
「――た、食べれば?」
それでも伊里野は動かない。
仕方がない。
晶穂としても、じっと見守られていてはどうにも食べにくかったが、半分に切ったいちごとクリームをひと匙《さじ》すくっで口に入れて見せた。
――うん。
悪くないと思った。いちごは新鮮《しんせん》な感じがするし、チョコレートソースと生クリームの口どけも滑らかだ。ときおりスプーンを口に運びつつ、思ったことを取材メモに書きつけていく。紅茶のカップに手を伸ばそうとしたとき、何かの機械が決まったペースで動き続けているようなその音に気づいた。
視線を上げた。
伊里野が、まさに機械のようにパフェを食っていた。
思わず口を半開きにして見守った。伊里野は山盛りのパフェをざくざくと切り崩し、呆《あき》れるほどのペースで食って食って食い続けている。「うまい」でも「まずい」でもないまったくの無表情で、スプーンの先が容器に当たる「かち」「かち」「かち」という音は気味が悪いくらいに規則的だった。お上品な細いスプーンが使いにくいのか、口のまわりもスプーンを操る手もべたべたになっていたが、そんなことはまるで気にしていないように見える。いちごも生クリームもすでに無く、伊里野のスプーンはコーンフレークの層を瞬《またた》く間に突破して、いちごの果肉入りアイスクリームにぐりぐりと突き刺さっていく。
今さら後には引けず、
絶対に怯《ひる》んではならず、
一歩たりとも譲《ゆず》ってはならず、
わけのわからない対抗心に翻弄《ほんろう》されて、晶穂もまたパフェを平らげにかかった。焦りに駆られてめちゃくちゃにスプーンを動かした。が、スタートの遅れは如何《いかん》ともし難く、晶穂の追い上げに気づいた伊里野はさらにペースを上げ、アイスクリームが残り5センチを切ったところで猛然とラストスパートをかけた。容器をつかみ上げ、まるで水でも飲むように、あるいは茶漬けをかき込むように、残り全部を一気に口の中に流し込む。
こっ。
周囲の客までが呆気《あっけ》に取られて見守る中、伊里野《いりや》は空っぽになったパフェの容器をテーブルに置いた。まっすぐに晶穂《あきほ》を見つめる。顔じゅうべたべたのクリームだらけで、口の両端から鼻の上あたりにかけて、容器のふちと同じ大きさのチョコレート色の輪っかがついていた。
なんだか、負けた気がすごくした。
さっきトイレに捨ててきたはずのどす黒い感情が、再びじわじわと理性を侵食し始める。
だめだ。落ち着け。
誘ったのはあたしなんだから。これは取材なんだから。
晶穂は口元を紙ナプキンで拭《ぬぐ》い、引き攣《つ》れた、しかし一応は「笑み」のようにも見える表情を浮かべた。わずかに震《ふる》える声で尋ねる。
「――あ、味の方はどう?」
伊里野が答える、
「あまい」
◎
ラグビーの発祥はその昔、サッカーの選手がボールを抱えて敵ゴールに飛び込んだことに由来するという。
発端は、プールサイドを逃げ回っていた浅羽《あさば》がホースに足を引っかけたことだった。ホースが外れた蛇口から水が噴《ふ》き出して、すぐ近くでチャンバラをやっていた連中がパンツまでびしょ濡《ぬ》れになった。誰《だれ》だこんなふざけたマネしやがったのは、チャンバラ軍団が怒りの視線を上げた瞬間《しゅんかん》、そこに飛び込んできた花村《はなむら》が、
「いんも―――――――――っ!!」
それから、いくつものドミノが短時間のうちに連続して倒れた。その経緯《けいい》を逐一正確に説明するのは極めて難しい。とにかく、騒《さわ》ぎはその場にいた全員を次々と飲み込んで雪ダルマ式に拡大し、ついには東西に分かれた二年四組男子生徒二十六名が額《ひたい》をぶつけてにらみ合う一大抗争へと発展した。最低限の仁義としてのルールがあっという間に自然発生し、勝った方が負けた方のジュースを総取りするという協定が暗黙《あんもく》のうちに交わされた。
「死ねやあ――――――――っ!!」
振り下ろされたデッキブラシの一撃《いちげき》を、浅羽は左腕にくくりつけたビート板二枚重ねのシールドでばっこし受け止めた。滑りやすいプールの床を利用して敵の懐《ふところ》に飛び込み、敵の足首に踵《かかと》を蹴《け》り込んで転倒させる。浅羽のすぐ後に続いていた味方が転倒した敵に奇声を上げて襲《おそ》いかかり、浅羽が立ち上がる時間を稼いでくれた。浅羽は敵陣めがけて走る、左腕はシールドを低く構え、右腕は水球のボールをしっかりと抱えていた。このボールを敵に奪われてはならない。ちらりとプールサイドに横目を使う。「9−8」と数字の並ぶスコアボードの両脇《りょうわき》で、応急処置練習用《CPR》の人形がシナを作ったポーズで立ち尽くしている。次の鐘《かね》が鳴るまでもういくらも時間がない、これが最後のチャンスかもしれない。そう思った瞬間《しゅんかん》、シールドに突然の衝撃《しょうげき》を感じ、その一撃に気を取られていたわずかな隙《すき》を見事に突かれた。デッキブラシで足元をすくわれて視界が縦に回転した。
「浅羽《あさば》っ!!」
西久保《にしくほ》の声。逆さまになった視界の中で西久保はジャンプ一番、浅羽がでたらめに放ったパスを見事に受け止めた。味方がすぐさま西久保の周囲を囲める。ビート板とデッキブラシの密集陣形を組み、西久保の持っているボールを敵の目から隠してじりじりと前進する。
「上等だコラあ――――――っ!!」
敵が雲霞《うんか》のように襲いかかる。
「かかってこいやあ――――っ!!」
花村《はなむら》が雄叫《おたけ》びを上げ、群がる敵の真っ只中《だだなか》に飛び込んで戦力の集中を阻もうとする。花村が振り回しているのは双節根《そうせつこん》である。トイレ掃除用の吸盤《きゅうばん》二本をヒモで結びつけた実にダーティな得物である。うわあーきたねえーやめろばかーと敵が逃げ惑う。西久保の密集陣形はすでに敵陣深く斬り込みつつあった。飛び込み台の上に置かれているポリバケツにボールを叩《たた》き込めばゴールだ。しかし密集陣形は機動性に乏しい。敵は戦法を得物による近接|戦闘《せんとう》からバケツの水による遠隔|攻撃《こうげき》へと切り替えており、とりわけプールサイドからのホースによる集中放水は熾烈《しれつ》を極めていた。西久保たちはビート板のシールドで懸命《けんめい》に対抗していたが、陣形が突き崩されるのはもはや時間の問題である。
あれを潰《つぶ》さなくてはならない。
浅羽はプールサイドに身を乗り出して、そのへんに転がっているバケツをつかんだ。
縦25メートルのプールは真ん中が一番深くなっており、そこには脛《すね》のあたりまでの水が溜まっている。走りながらバケツを引きずって水を汲んだ。敵は密集陣形に気を取られており、浅羽はさしたる妨害を受けることなく敵陣の最深部まで一気に接近した。近くにいた敵が浅羽の意図に気づいて大声で警告《けいこく》を発する。
もう遅い。
浅羽は渾身《こんしん》の力を込めてバケツを振るった。プールサイドからホースで水を浴びせていた敵が、あごに水の塊をぶち当てられてひっくり返った。
「突っ込め西久保っ!!」
西久保が獰猛《どうもう》な笑みを浮かべ、自ら陣形を崩して嵐のようにゴールへと迫った。その半数以上が敵との交戦に巻き込まれ、そのまた半数がゴール前にばら撒《ま》かれていたビート板ぬるぬる地雷にやられて転倒したが、西久保はその屍《しかばね》を乗り越えて突撃し、跳躍《ちょうやく》し、ついに
「くぉらあ――――――――っ!! キサマら何をやっとるかあ――――――――っ!!」
体育教師の深沢《ふかさわ》だった。箱買いしてきた缶コーヒーをその場に投げ出し、拳《こぶし》を振り回しながら駆け寄ってくる。
うるせぇハゲ、もうジュースなんかどうでもいいから邪魔《じゃま》すんなや――そんな空気の中、誰《だれ》もが仕方なしに掃除に戻った。どいつもこいつも声は嗄《か》れ果て、全身ずぶ濡《ぬ》れの生傷だらけだったが、ど田舎《いなか》の遊びなんて何をやるにしでも大体こんなものである。
「だからキサマらたるんどるんだ。いいか、いつまでも学園祭のオマツリ気分でいると後で後悔することになるぞ。さっさと気持ちを切り替えてだなあ、人が遊んでおるときに勉強にスポーツに精を出すことが将来のだなあ、」
缶コーヒーの箱にどっかと腰を下ろして腕を組み、深沢はいつまでもいつまでら説教をたれている。浅羽《あさば》がデッキブラシにもたれかかって肘《ひじ》にできた擦《す》り傷を指先でつついていると
「あ――そうだ、」
隣《となり》で花村《はなむら》がふと何かを思い出したような顔をして、
「なあ浅羽、」
「なに」
「ずっと聞くの忘れてたんだけど、お前さ、学園祭の二日目に校内放送で職員室に呼び出されてなかった?」
デッキブラシが滑り、浅羽はひっくり返って尻もちをついた。
西久保《にしくぼ》が「なんだそれ」と口を挟む。
「いや、おれもちゃんと聞いてなかったんだけど、放送で浅羽の名前が呼ばれたような呼ばれなかったような」
西久保は「いつ?」と眉《まゆ》をひそめる。
「あー、ファイアーストームのちょっと前くらい。屋台の生ゴミ捨てに行ってたときだから。お前気がつかなかった?」
西久保は「気がつかなかった」と首を振る。
「それにあの後、ファイアーストームんときにも浅羽いなかったろ」
西久保は「いなかったっけ?」と首を傾《かし》げる。
「いなかったんだよ。須藤《すどう》が探してたし。なあ浅羽、あのときお前どこ行ってたんだよ。ヤニ食ってるとこ見つかって説教でもされてたのか?」
「あ、うん。だからその、ちょっと家庭の事情で」
浅羽は一秒も考えない出まかせを並べた。
「親戚《しんせき》のばーちゃんが急病でさ。家から学校に電話が来て、あの後すぐ家に帰った」
西久保も花村も、なんだつまらん、という顔をする。浅羽は密《ひそ》かに胸をなで下ろした。今の今まで考えてもみなかったが、ファイアーストーム直前のあの混沌《こんとん》の中では誰《だれ》も校内放送になど大した注意を払わなかった、ということなのかもしれない。
ふと気になる、
「あの、」
花村《はなむら》が振り返り、
「あ?」
「――晶穂《あきほ》がぼくを探してたの?」
「ああ」
「――なんで?」
「知るかそんなの。つーかおれも『浅羽《あさば》知らない?』って聞かれただけだし。お前、何か約束でもしてたんじゃねーの?」
約束?
頭をひねるが、何も思い当たるようなことはない。第一あのとき晶穂は酔っ払っていたし、自分は晶穂を部室に寝かせて――
あ。
その前だ。強引に連れ込まれたありあり喫茶で、晶穂はこんなことを言っていなかったか。
――彼女のいない哀れな青少年のためにひと肌ぬぐわ。ゆうべのおわびにファイアーストームに付き合ったげる。
でも、と浅羽は思う。
すでに記憶《きおく》はあいまいだが、晶穂のその申し出は半ば冗談のような口調であったような気がするし、確か自分はそれを断ったのだ。
断ったような気がする。
少なくとも「ぜひよろしく」などと言ったはずはないと思う。晶穂と口論になったような怯《おぼ》えもないから、その件については晶穂の方も了解していたということだろう。
浅羽は自分で納得した。
大丈夫。後ろ暗いところは何もない。晶穂が自分を探していたというのもきっと「さっきは酔っ払っちゃってごめんね」とか、そういうことを言うためだったのだ。大体、もし自分が晶穂との約束をすっぽかしていたのなら、たっぷりと油を絞られた挙げ句にラーメンの一杯も奢《おご》る約束をさせられているはずではないか。
ぽつりと、我が身に言い聞かせるようにつぶやいた。
「――大丈夫、だよな」
それでもなお、得体の知れない胸騒《むなきわ》ぎは消えなかった。
何か、途轍《とてつ》もなく恐ろしいことが起こりそうな気がする。
いやむしろ、それはすでに自分のあずかり知らぬどこかで始まっているような気さえする。
浅羽はひとりプールの底から空を見上げる。ほとんど形を変えていない雲の山が、まるで不吉な地震《じしん》雲か何かのように見える。ひぐらしの声が雨音のように降りしきる。西日の角度が落ちて、プールの底は少しだけ肌寒い。
◎
手のつけられない沈黙《ちんもく》を埋めるためだけに、でたらめに注文を追加した。
「げんこつシュークリームと水出しコーヒー。あとスパゲッティ・マヨネーズしょうゆ」
「晶穂《あきほ》と同じの」
理性が軋《きし》む。
やることなすことにいちいち勝負を挑まれているような気がする。
そして、注文した三品は晶穂が思っていた以上に量があった。シュークリームは少なくとも晶穂の拳骨《げんこつ》よりは遥《はる》かに大きく、コーヒーは取っ手のない変わった形のカップに入っており、スパゲッティは二人前がお盆のような大皿に乗っている。
そして、伊里野《いりや》は再びロボットのように食い始めた。シュークリームを両手でむしむしとちぎって口に運ぶ。晶穂も負けじとシュークリームに手をつける。両者の皿はあっという間に空になり、
「ちょ、ちょっと! 取り皿に取って食べなさいよ!」
伊里野が上目遣いに晶穂をにらむ。その口からは、大皿から直接取ってねじ込んだ大量のスバゲッティが滝のように垂れ下がっている。そのスパゲッティが、ずず、ずず、と口の中にすすり込まれていく。ろくに噛《か》まずに丸呑《まるの》みしているとしか思えない。晶穂が怯《ひる》んだ隙《すき》に、伊里野は両手のフォークを大皿のスパゲッティに突っ込み、明らかに半分以上をひと息に持ち上げて自分の取り皿の上に確保してしまった。「ずるい」などと言う間もあればこそ、伊里野の取り皿の上の山は見る見るうちに低くなっていく。晶穂はあわてて大皿に残っていたすべてを取り皿にかき集めた。量では明らかに負けているのだ、こうなったら伊里野より早く食べ終わるしかない。もう取材も味もクソもなかった。フォークにスパゲッティを巻きつけて口の中に突っ込む、それだけをただひたすらに繰り返し、あとひと口を残すばかりとなったそのとき、
かちゃん。
伊里野が、空になった取り皿にフォークを置いた。
晶穂を真っ直《す》ぐ見つめる。
――わたしの、勝ち。
伊里野の目が、そう言っていた。少なくとも晶穂にはそう見えた。
理性の血管が破れる音がした。
「――あのさ、」
頭の中の混乱は頂点に達して、一番の奥底の、すべての根っこになっているものがようやく表に飛び出してきた。口がひとりでに動いた。自分でも止められない。
「伊里野《いりや》って学園祭来てなかったよね。どうして? カゼでも引いたの?」
晶穂《あきほ》の言葉が初めて鉄壁《てっぺき》の無表情を突き破った。伊里野は、いきなりバケツの水を浴びせられたような顔をした。
「伊里野も来ればよかったのに、学園祭。もうすっっっっっっっっっっごく楽しかったのに」
伊里野がうつむく。全身を握り拳《こぶし》のように固くする。自分の言葉が伊里野の最も深い傷をえぐっていることに、晶穂はもちろん気づいていない。
「あたし? あたしはね、新聞部の企画で号外を出すことになってて、その取材で浅羽《あさば》と一緒にあっちこっち飛び回ってた。号外ってわかる?、わかんないよね、とにかくさ、浅羽と一緒に焼きそばを食べたり浅羽と一緒に焼きいもを食べたり浅羽と一緒に映画を見たり浅羽と一緒にお化け屋敷《やしき》に入ったり浅羽と一緒にファイアースートームで踊」
「うそ」
握り拳が口をきいた。
「さいごのは、うそ」
晶穂は、震《ふる》える息を吐いた。
――どうせあんただろうと思ってたけどね、やっぱりあんたか。
それだけで、十分だった。
追及はすまいと思った。もし自分が逆の立場だったら、それ以上はどんな質問も許さないだろうから。浅羽とどこへ行って何をしていたのかと問い詰められたら、なんであんたにそんなことを言わなければならないのだと逆に食ってかかるだろうから。
そして、晶穂は唐突に、にっこりと笑みを浮かべた。
見事な笑みだった。
浅羽が見たら、それだけで恐怖のあまり小便をもらすような笑みだった。
軽やかに立ち上がり、テーブルの上に置かれていた伝票を手に取った。
「さ、取材取材。もう一件行ってみよー。あ、いーのいーの気にしないでここの分はあたしが馨《おご》るから。まだ平気でしょ? ぜーんぜん食べれるでしょ?」
伊里野が顔を上げて晶穂をにらみつけ、ゆっくりと立ち上がって、こくりと肯《うなず》いた。
踵《きびす》を返した。背後を振り返らずにレジへと向かう。支払いをすませ、荷物をまとめて店を出た。
ストロベリー・フィールズから夕暮れの国道を西へ300メートルほど歩くと、「園原《そのはら》銀座《ぎんざ》商店街」という名前からして垢抜《あかぬ》けない看板が姿を現す。アーケイドの中には夕方の買い物客が数多く行き交い、天井からは時代遅れなアニメキャラのバルーンがいくつもぶら下がっている。そのさらに100メートルほど奥の右手、花屋と薬屋の間にその店はある。
油じみた中華料理店、である。
人の出入りが絶えないところを見ると、それなりに流行《はや》ってはいるらしい。店の前には「喧嘩上等」と書かれた白い軽トラが止まっており、その隣《となり》では見るからに族上がりと思《おぼ》しき従業員が、ひと抱えもあるようなピータンの甕《かめ》をホースの水で洗っている。
木目も鮮やかな、実に大仰な感じのする看板にはこんな文字が並んでいた。
『鉄人屋《てつじんや》』
ここまで、晶穂《あきほ》は背後を一度も振り返らずに歩いてきた。
看板を見上げでつぶやく。
「ここ」
扉を肩で押して店に入る。伊里野《いりや》がその後に続く。
「っしゃい――――――――――――――――――――――――――――!!」
従業員たちが一斉に、ほとんど喧嘩腰のような声を張り上げる。半分ほど埋まっている客席のあちこちに自衛官やアメリカ兵の姿が目につく。晶穂は店内を奥へと進み、四人がけの丸いテーブルに陣取った。伊里野がその向かいに腰を下ろす。
二人がにらみ合う間もなく、従業員のひとりが注文を取りに来た。
「っしゃいませご注文はぁ」
晶穂は、メニューなど見なかった。
伊里野もまた、晶穂から視線をそらさなかった。
「鉄人定食ひとつ」
「晶穂と同じの」
従業員の表情が凍りついた。
晶億と伊里野をまじまじと見つめ、いきなり素の口調になって、
「――いや、あのねお客さん。一応説明しとくとさ、うちの鉄定は」
「鉄人定食ひとつ!」
「晶穂と同じの!」
従業員は、晶穂と伊里野の間に漂うただならぬ気配《けはい》にようやく気づいた。ぎろぎろした喉仏《のどぼとけ》をごくりと鳴らす。頬《ほお》を汗が伝い落ちた。
晶穂と伊里野の声は、店内にいた他《ほか》の客の大部分の耳にも届いていた。それまでのざわめきが潮《うしお》のように引いていき、全員の視線が晶穂と伊里野に集中する。やがて、失笑と嘲笑《ちょうしょう》の入り交じったざわめきが壁《かべ》から壁へと跳ね返る。
従業員は「どうなっても知らねえぞ」という最後の一瞥《いちべつ》を残し、ヤケクソのように声を張り上げた。
「鉄定二丁ぉ入りましたぁ―――――――――――――――――っ!!」
◎
激闘《げきとう》三十分の未に、中華料理屋『鉄人屋《てつじんや》』店長の如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》は低すぎる戸口に首をすくめてトイレを出た。
扉を閉め、首の関節をごきりと鳴らす。猛獣《もうじゅう》のような唸《うな》りとともに背筋もりもりの背すじを伸ばすと、ただでさえ狭苦しい通路の天井に両手がついてしまう。巨体を屈《かが》めて念入りに手を洗えば、当たり前の大きさの洗面台が何かの冗談のように小さく見える。
三十九歳。
身長は一の位を四捨五入すれば2メートル。体重は五年ほど前までは140キロほどだったが、体重計を二台使わなければならないのが面倒《めんどう》で最近は量っていない。去年の園原《そのはら》銀座《ぎんざ》商店街納涼祭りで、酔っ払ったアメリカ兵十名を相手に大喧嘩《おおけんか》をやらかした際、近くにあった125ccのバイクを頭の上まで持ち上げで投げつけたことがある。
黒の皮ジャンを着せてハーレーに乗せれば誰《だれ》がどう見ても立派なハードゲイであるが、生憎《あいにく》とそうした趣味《しゅみ》はなく、如月十郎は骨の髄《ずい》まで中華の男だった。あちこちの名門店からの誘いを蹴《け》り続けているとの噂《うわき》もあるが、そのあたりについての詳細は従業員たちも知らない。営業時間は十一時から二十四時まで、鉄人屋は「うまくて早くて安くて量が多い」を至上の目標とする、あくまでもどこまでも大衆的な中華料理店である。
清潔なタオルで両手を拭《ぬぐ》い、スイングドアを肩で押して、如月十郎は怒鳴り声のオーダーが飛び交う厨房《ちゅうぼう》に戻った。近くにいた雑工《ざっこう》が顔を上げ、キャベツの詰まったダンボール箱をどかりと置いてにへらと笑った。
「どうでした親方、元気なおこさん生まれました?」
如月十郎は雑工をぎらりとにらむ、
「んバカやろうぅ!!」
最初の「ん」は鼻に抜ける発音である。
突然のカミナリに、厨房にいた全員が飛び上がった。如月十郎は雑工の頭を一発はり飛ばして、
「でかい声できたねえ冗談飛ばすんじゃねえっ! 客に聞こえちまうだろうがっ!」
親方の声の方が十倍でかいよ、とつっこめる者はこの厨房にはいない。雑工はほうほうの態《てい》で倉庫へと逃げ戻る。いくつもの鍋《なべ》が立てる騒音《そうおん》の中で如月十郎は腕を組み、そろそろ本格的に混む時間になるな、と考えた。壁《かべ》の時計を見上げる。
そのとき、時計の針は五時三十六分を指していた。
そのとき、客席から波紋を広げて厨房に伝わってきたざわめきは、まるで大|地震《じしん》のP波のように穏《おだ》やかで、かつ、混沌《こんとん》の予感を孕《はら》んだものだった。
如月十郎は客席の変化に敏感に反応する。わずかに眉《まゆ》を上げ、客席へと続いているスイングドアの方向へと横目の視線を投げた直後に、その叫びを耳にした。
「欽定二丁ぉ入りましたぁ――――――――――――――――っ!!」
つかの間、厨房《ちゅうぼう》の動きが止まった。
その場にいる誰《だれ》もが互いに目を見合わせた。如月十郎が怒鳴る、
「――おたおたすんじゃねえ! 鉄定二丁だ!」
全員が「おうっす!」と声をそろえて狼狽《ろうばい》気味に動き始める。如月十郎は突如として慌ただしさを増した厨房を足早に横切って、注文を取った新見《にいみ》をつかまえた。
「鉄定の客はどれだ」
「あ、親方。それがちょっとマズいんすよ、その――」
「なんだ」
新見は息を詰め、すぐに観念したように息を吐き、
「七番テーブルす」
如月十郎は巨体を屈《かが》め、スイングドアを細く開けて客席をのぞいた。
しばらくそうしていた。
「マズいっしょあれ。――安井《やすい》医院《さん》に電話しといた方がいいすかね」
新見が恐る恐るささやくと、
「要らねえよ」
如月十郎がのっそりと振り返った。
やってられんとでも言いたげに鼻で笑った。首の関節をごきりと鳴らす。
つぶやいた。
「うちもナメられたもんだな」
『鉄人屋』の入り口から入って正面の壁《かべ》、つまり伊里野《いりや》がいま背を向けている壁であるが、そこには黒々と油煙にまみれた大きな貼《は》り紙が出ている。曰《いわ》く、
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ―― 無銭飲食列伝 ―― ┃
┃ 鉄人定食 …… ¥4、000 ┃
┃ (鉄人ラーメン+鉄人餃子+鉄人中華丼) ┃
┃ 完食されたらお代は頂きません。時間は六十分。 ┃
┃ 途中で席を立った場合、周囲を見苦しく汚した場合は ┃
┃ 失格となります。 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
以下、「鉄人定食完食者御名前」と続き、鉄の胃袋の持ち主たちの氏名|年齢《ねんれい》職業がポラロイド写真つきで貼《は》り出されている。その数三十と八名。うち十八名は横文字の名前、つまり野獣《やじゅう》の如《ごと》きアメリカ兵である。残りの二十名もその半数以上が荒くれ自衛官で、カタギの完食者など数えるほどしかいない。実際、鉄人定食はこの界隈《かいわい》よりもむしろ園原《そのはら》基地においてその名を轟《とどろ》かせており、米軍関係者の間ではTRIATHLON SET≠ニ呼ばれて恐れられているし、鉄人定食に挑戦したさる大食い自慢の陸曹が息も絶え絶えに基地に戻ってきて、
「が、ガリバー旅行記……」
とつぶやいてぶっ倒れ、そのまま医務室送りになったというのは自衛軍兵士の間では有名な話である。ちなみに、現時点での最年長完食者は「澤口健吾・自衛官」の三十七歳であり、最年少は「水前寺邦博・学生」の十五歳であった。
待つこと十分。
にらみ合う晶穂《あきほ》と伊里野《いりや》の前に、最初のメニューである鉄人ラーメンが運ばれてきた。縮れ麺《めん》、具はナルトとメンマと炒めたモヤシ、チャーシューは薄《うす》く数が多い。至極オーソドックスな醤油《しようゆ》ラーメンである。
量、という一点を除けばの話だが。
まず巨大なドンブリからして暑苦しい。バカバカしい容積いっばいに麺とスープが満ち満ちており、ほぼ同じ量の具がその上に山と盛られていて、横から見ると半球状のはずのドンブリが丸く見える。はっきり言ってこんなシロモノが人間の腹の中に収まり得るとは思えないのだが、この店の壁《かべ》を飾る完食者の名前の数々はまさかウソではあるまい。
「鉄人定食のご注文を承りました新見《にいみ》と申します。当卓の仕切りを勤めさせて頂きます」
新見は小さく一札し、普段《ふだん》は厨房《ちゅうぼう》の神棚に置かれているデジタル式のストップウォッチを首にかけた。
「六十分以内に完食できなかった場合、途中で席を立った場合、卓を見苦しく汚した場合にはそこで終了とし金四千円を申し受けます。ようござんすね?」
晶穂も伊里野も動かない。アメリカ兵のひとりが鋭《するど》く口笛を吹いてはやし立て、カウンター席のオヤジが「いいかぁ、半分くらいは食べるんだぞお」と野次《やじ》を飛ばす。
「水お茶その他の御用がありましたら私、新見にご遠慮《えんりょ》なく御申しつけ下さい。それでは卓から手を離して――」
新見は汗ばんだ右手でストップウォッチを握りなおし、
静かに戦いの始まりを告げた。
「どうぞ」
晶穂が動いた。素早く割り箸《ばし》を手にとって巨大なドンブリに猛然と挑みかかった。山盛りのモヤシをざくざくと切り崩して口の中に突っ込んでいく。具の量があまりにも多すぎて、まずは具だけを食い続けて穴を開けないことには麺《めん》もスープも見えてこないのだ。まるで牛か馬にでもなった気分だろうが、晶穂《あきほ》は「美味《おい》しく食べる」などという悠長な考えは最初から捨てていた。ついに麺をほじくり出し、目を瞠《みは》るほどの量を一気にすすり込む。と、山盛りの具が地盤《じばん》沈下による土砂崩れを起こしてせっかく開けた穴が埋まってしまう。再び具だけをがつがつと食い進む。それが延々と繰り返される。しかし晶穂は怯《ひる》まない。女の子とは思えないそのあっぱれな食いっぷりに野次馬《やじうま》どもは手を叩《たた》いて大喜びだ。
一方の伊里野《いりや》は落ち着いているし相も変わらぬ「ロボット食い」である。割り箸《ばし》を不器用に操ってモヤシをがばっと口に運び、ほっぺたをばんばんに膨《ふく》らませてもりもりと咀嚼《そしゃく》し、ごっくりと飲み下してはまた筈を動かす。具ばかりを食い続けることが苦にならないのか、その消費はあくまでも「上から順に」であり、晶穂のように麺を掘り出すということをまったくしない。具の山はたちまちのうちに姿を消し、箸先が今度は麺を探り当てる。急ぐ様子もなければ休む様子もない。口いっぱいに含んだ麺が次々とすすり込まれていくその様は、まるで走行中の車からセンターラインを見ているかのようだった。
そして、下卑《げび》た歓声を上げていた野次馬どもが事の重大さに気づき始めたのは、新見《にいみ》の手の中にあるストップウォッチで十五分が経過した頃《ころ》のことである。
「お、おい、ぜんぶ食っちまうぜ……」
誰《だれ》かがそうつぶやいた。
まずは晶穂が、ドンブリに手をかけてスープを飲み干しにかかった。十秒ほど遅れて伊里野がそれに続く。ふたつの巨大なドンブリがゆっくりと傾いていき、野次馬どもの目と口が真ん丸になっていく。
鉄人定食を注文する客には三つのタイプがある。完食する客と、途中で力尽きる客と、興味《きょうみ》本位の客だ。
完食できるのならばそれが一番いい、と如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》は思う。また、途中でギブアップするにしても、それなりの覚悟をもって挑戦した結果ならばそれもまたよしである。ただ、冗談や酔狂で注文してきゃーきゃー大騒《おおさわ》ぎしながら適当に食い散らかして、最初から払うつもりだった四千円を当然のように置いて帰っていく客というのもまれにいて、如月十郎はそういう連中にはどうにも我慢がならないのだった。もちろん面と向かって文句など言わない。注文された以上は店としても真剣に作るし、そうして出した料理が半分も食べずに残されたりしたら悲しい。それは、鉄人定食でもそれ以外の料理でもまったく変わらなかった。
――一服つけるか。
厨房《ちゅうぼう》全体の作業ににらみを効かせていた如月十郎は、腕組みを解《ほど》いて白衣のポケットを探った。出した料理が虫食いリンゴのようなザマで厨房に戻ってくるのは見るに忍びない。指先がショートホープのパッケージとチャッカマンに触れたそのとき、傍らのスイングドアが吹っ飛ぶように開いて、客席の様子をうかがっていた雑工《ざっこう》のひとりが転げまろびつ厨房に飛び込んできた。
「お、親方あっ!! すげえ、すげーっすよあいつら!!」
「んバカやろうぅ!!」
飛び込んできた雑工《ざっこう》の顔面に如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》はカウンターを見舞った。
「てめえ、お客を捕まえて『あいつら』たぁどういう言い草だ!!」
雑工はカエルのようにひっくり返り、鼻を押さえつつも懸命《けんめい》に、
「早く、早く餃子《ギョウザ》出してください! もうじきラーメン完食っす!」
「なにい?」
そして、客席で津波のような歓声が巻き起こった。
如月十郎の表情が静止する。
厨房で鍋《なべ》や包丁を振るっていた八本の腕もまた、その歓声にふっつりと動きを止めた。八つの目が互いに視線を交わし、ほぼ同時に壁《かべ》の時計を見上げ、四つの口が一斉に「おいおいマジかよ……」という意味のつぶやきをもらした。鉄人ラーメンが厨房を出てからまだ十五分かそこらである。過去の記録に照らしても最速の部類に属するペースである。どうやら七番テーブルに二匹の怪物がいるらしい、四つの脳ミソはそう考えた。鍋釜《なべかま》を預かる彼ら四人は最初からずっと厨房での作業に忙殺されており、客席をのぞいてその正体を確かめるようなヒマはなかったのである。ねえ親方、七番卓の客って誰《だれ》なんすか、ひょっとしてプロレスラーすか、それとも関取すか、そうだオレ色紙買ってきます、後で店に飾る用のサインもらいましょうよ、
「うるぁ! ぼやぼやすんな! 誰か早くドンブリ下げて来い! 鶴巻《つるまき》ぃ!」
如月十郎が一喝した。餃子の鍋を担当していた鶴巻が飛び上がり、
「は、はいっ! できてます、鉄人餃子二丁上がります!」
如月十郎はスイングドアを肩で押し、再び客席をのぞく。
七番テーブルのふたりの客。
ふん、と鼻を鳴らす。
鉄人定食の客など久しぶりだったので、どうやらこちらの目も多少|曇《くも》っていたらしい。
なるほど。こうしてよく見れば、どちらもなかなかの面構えをしているではないか。
背後で怒鳴り声が上がる、
「親方、餃子出します!」
如月十郎は腕組みをして客席を見つめたまま、ぼそりつぶやいて答える。
「器が戻ってきてからだ」
そう。
次の料理を出すのは、前の器が厨房に戻ってきてから。
鉄人定食における鉄の掟《おきて》である。
このことは挑戦者にとっては決して些事《さじ》ではない。料理と器の上げ下げにかかる時間などせいぜい三十秒、長くても一分はかからないし、その間にはストップウォッチは止められる。しかし、たとえわずかであっても「途中で嫌でも休まなければならない」というのは、大食い早食いにおいては重大な悪|影響《えいきょう》を及ぼす。休んでいる間にも血糖値は上がり続けて満腹中枢が悲鳴を上げ始めるし、なによりも集中力が途切《とぎ》れるのが痛い。実際、過去に鉄人定食に挑んで破れていった者たちの多くは、食っている最中ではなく、この「休み時間」の終わり際にギブアップしている。ひとつの料理を食い終わって気力に穴が開き、なす術《すべ》もなく満腹感に苛《さいな》まれているところへ「さあ今度はこれだ」と次の山を目前に突きつけられて、一挙に気持ちが挫《くじ》けてしまうのだ。
晶穂《あきほ》は椅子《いす》に深くその身をあずけ、テーブルの一点を見つめて静かに深呼吸を繰り返していた。テーブルの上にドンブリはすでになく、こぼれ落ちたもやしと跳ね飛んだスープが点々と散っているばかりである。
野次馬《やじうま》どもは大騒《おおさわ》ぎだった。全員が席を立ち、七番テーブルの周囲には分厚い人垣ができていた。新たな客が次々に来店するが、彼らはまずその人垣に驚き《おどろ》、手近にいる誰《だれ》かに事情を説明されで目を剥《む》き、そのまま注文もしないで人垣に合流してしまう。賭《か》けが始まっており、壁《かべ》に掲げられた黒板の「本日のオススメ」が勝手に消されて殴りつけるようにオッズが書き込まれる。わずかに晶穂有利だ。レジのすぐ横にあるピンク電話にかじりついている野戦服姿のアメリカ兵がいる。ウソじゃない、SEALの連中でも食わねえようなファッキンどでかいラーメンをスクールガールが食っちまった、いいから今すぐ見に来い――受話器に向かってそんなことをわめき散らしている。
晶穂は薄《うす》く目を閉じる。
必死で平静を装ってはいたが、正直、キツかった。
なにしろ、この店に来る前にストロベリー・フィールズでパフェと紅茶とシュークリームとコーヒーとスパゲッティをやっつけているのだ。
――大丈夫、まだいける。
自らを鼓舞する。
目的は、鉄人定食を完食することではない。
目的は、伊里野《いりや》に勝つことだ。
目的は、伊里野がゲロを吐いてもう勘弁してくれと頭を下げるそのときまで食うのを止《や》めないことだ。食い終わることではなく、食い続けることだった。
気持ちの悪い汗が全身を濡《ぬ》らしている。テーブルの向かいで伊里野はどうせ、いつも通りのすずしい顔でこちらをじっとにらみつけていることだろう。
弱みを見せてはならない。
今さら後には引けず、絶対に怯《ひる》んではならず、一歩たりとも譲《ゆず》ってはならない。
左手のどこかでスイングドアが大きく軋《きし》む音がして、周囲の野次馬《やじうま》どもが悲鳴にも似た驚《おどろ》きの声をもらした。ついに鉄人|餃子《ギョーザ》がその姿を現したらしい。
晶穂《あきほ》は目を開けない。
テーブルの上に、いくつもの巨大な皿が置かれる音がする。
それでも晶穂は目を開けない。
新見《にいみ》の声が聞こえる。
「鉄人餃子、お待ちどうさまでした。それでは卓から手を離して――」
周囲のざわめきが沈黙《ちんもく》に飲み込まれていく。
「どうぞっ」
晶借は目を開けた。
ゾンビのように身を起こし、ピラニアのように襲《おそ》いかかる。
この手の大食いメニューにおいて、種目が餃子であればその数は五十や百が相場だが、鉄人餃子の数はわずか五つである。果たしてこのことは何を意味するか。
でかすぎて箸《はし》で持てない。
一口で食べ切れる大きさではあり得ない。二口でもまず絶対に無理だ。三口で食べ切れる人はきっと口の中にげんこつを入れる隠し芸を得意としているはずである。五十個百個の山盛りではない「皿の上の五つの餃子」というのは視覚的な錯覚《さっかく》を引き起こしやすいが、隣《となり》にタバコの箱なんかを置いてみると三日間くらいは笑える。
こうなると「箸でつまんで小皿のタレにつけて」などという小癖《こしゃく》なやり方は到底通用しないわけであって、過去の挑戦者たちのほとんどは「醤油《しょうゆ》さしに入ったタレを餃子に直接ぶっかけてスプーンでオムレツのように食う」という戦法を取っている。
ところが、晶穂と伊里野は第三の道を選択した。
新見が戦いの再開を告げた瞬間、晶穂も伊里野《いりや》もすぐさま箸を捨てた。
油ぎらぎらの巨大な餃子を両手でつかみ、大口を開けてかぶりついた。
まさかの出来事に野次馬どもは悲鳴を上げて身をのけぞらせ、瞬《またた》く間に消えてなくなっていく巨大な餃子を呆然《ぼうぜん》と見つめた。晶穂が最初の餃子を平らげてふたつ目に手を伸ばす。三十秒とかかっていない。ラーメンのときとまったく同じ展開が、「晶穂が強烈なスタートダッシュを見せ、伊里野が着実に追い上げていく」という図式が再び繰り返されている。
そして、晶穂がふたつ目の餃子にかぶりついた瞬間《しゅんかん》に思わぬ悲劇《ひげき》が起こった。餃子の分厚い皮に封じ込められていた肉汁がぶちゅ――――っと噴《ふ》き出して、近くにいた徳田《とくだ》平八郎《へいはちろう》(五十四歳・自営業)の顔面を直撃《ちょくげき》したのである。
「あっぢ――! あぢあぢあぢぢぢぢぢ!!」
徳田平八郎はそのあまりの熱さに床を転がり、自衛官とアメリカ兵は見事な危機管理能力を発揮した。徳田《とくだ》を救出すると同時に「待避《たいひ》っ! 待避ぃ――っ!」と叫び、体を張って一般市民を背後に押しやる。人垣の中にぼっかりと穴が開き、ニンニクの臭気漂う七番テーブルに驚異《きょうい》の眼差《まなざ》しが注がれる。
――あ、あいつら、熱くねえのか?
熱いに決まっていた。
右手の中に残っていた餃子《ギョーザ》の切れっぱしを口の中に押し込んで、晶穂《あきほ》は三つ目の餃子に左手を伸ばす。掌《てのひら》がぢんぢんする。口の中はもう半ば以上は感覚がない。それでも食い続ける、ぬるぬるした餃子の皮に歯を突き立てて食い破る。まだろくに冷めていない肉汁の熱さに気が遠くなる。動き続けている自分の手が自分のものとは思えず、誰《だれ》かが自分の口の中に餃子を無理矢理押し込んでいるような気がする。三つ目の餃子をすべて口の中いっばいにねじ込み、四つ目に手をかけたそのとき、
腹の中で何かが「ぐるり」と痙攣《けいれん》し、喉《のど》が「いやいや」をした。
何もかもが逆流した。身体《からだ》がくの字に折れ曲がった。反射的に唇を固く窄《すぼ》めたが、まだ口の中にたっぷりと残っていたものが一瞬で《いっしゅん》胃液にまみれ、逃げ場を失った呼気がニラや挽《ひ》き肉の飛沫《ひまつ》と一緒に鼻から飛び出した。
野次馬《やじうま》どもが絶叫した。
全身から冷や汗が噴《ふ》き出す。顔から血の気が引いていく。涙があふれる。横隔膜の痙攣が治まらない。歪《ゆが》み、滲《にじ》み、霞《かす》んだ視界の中、テーブルの向かいで伊里野《いりや》の手が動き続けているのが見える。負けたくない、
絶対に負けたくない。
鼻から息を吸い込む。意地のすべてを集中して喉の動きを制御する。拳《こぶし》を握り締《し》めてテーブルを殴りつける。殴りつける勢いで、口の中に充満しているどろどろしたものを少しずつ飲み下していく。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、
顔を上げ、晶穂は吠《ほ》えるように息を吐いた。
口の中にはもう、何も残っていなかった。
固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた野次馬どもから大歓声が上がった。晶穂は肩で息をする。真っ向から伊里野をにらみつける。伊里野が束《つか》の間、手と口の動きを止めた。リスのように頬《ほお》を膨《ふく》らませたまま、晶穂の凝視《ぎょうし》を無表情に受け止める。
歪み、滲み、霞んだ晶穂の目には、伊里野がいつも通りの無表情であると映ったのかもしれない。
しかし、スイングドアの隙間《すきま》からのぞいている如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》の目には、同じ伊里野の無表情の別の側面がはっきりと見えていた。「ロボット食い」は相変わらずだが、口の動きにはキレがなくなってきているように思えるし、ペースも明らかに落ちている。顔だって真っ赤だ。
晶穂《あきほ》の動作がいちいち派手《はで》な分、一見すると「晶穂が不利で伊里野《いりや》が有利」と思える。しかし、如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》はこれがまったく予断を許さない接戦であり、壮絶な意地と意地のぶつかり合いであることを見抜いていた。
――おもしれえ。
如月十郎はスイングドアの隙間《すさま》から頭を引っ込めて厨房《ちゅうぼう》に戻った。鍋釜《なべかま》包丁をあずかる四人のもの問いたげな視線が集中する。
「真壁《まかべ》、代われ」
如月十郎は、無造作に宣言した。
「最後の鍋はオレが振る」
四人は驚《おどろ》き、あわててその巨体に道を開ける。如月十郎は厨房の真ん中に立ち尽くし、用意されている材料をぐるりと見渡す。その視鹿が動きを止め、容赦なく鉄拳《てっけん》が飛ぶ。
「んバカやろうぅ!! なんだあこの卵の茹《ゆ》で加減は!! 鉄人定食をそこらの雑な大食いメニューと一緒にすんじゃねえっ!!」
◎
餃子《ギョーザ》の皿が厨房に戻された。
野次馬《やじうま》は増殖し続けている。客席にはすでに立錐《りっすい》の余地もなく、大きく開け放たれた店の入り口から通りにまで見物人があふれている。誰《だれ》もが怒鳴り声で意見を戦わせており、店から漏れ出す喧騒《けんそう》に通りを行き交う通行人たちが次々と足を止めて野次馬の群れに加わっていく。
ここに至って、野次馬の群れは晶穂を応援する一派と伊里野を応援する一派とにはっきりと分かれつつあった。おかしなことに、自衛官たちの多くは晶穂につき、アメリカ兵たちの多くは伊里野についた。
――おい、いい勝負だな。
――ああ、まったくナイスファイトだ。
――だが見てな、最後にはこっちの髪の短い子が勝つぜ。顔つきからして根性ありそうだしな、あっちのロン毛の子はどうも辛気臭くていけねえ。
――HA。あの子がさっきゲロ吐きそうになったのを見てなかったのかい? それに比べてロングヘアの子はきっちりペースを守ってる。実にクレバーだ。
――お前こそよく見ろ、そっちのロン毛だって冷や汗だらだらじやねーか。もうどっちもいっぱいいっぱいだ。となりゃあ根性の違いでこっちの勝ちさ。
――ヘイユー、オレたちのプリンセスにイチャモンつけようってのか? オレ様のパンチでそのダーティなマウスにでっかいバンドエイドを貼《は》ってほしいのか?
――んだとこの野郎、それ以上ハリキルとアラバマのばーちゃんとこに悲しいお手紙が届くぞコラぁ。命が惜しけりゃ神国日本でデカいツラすんじやねえこの耶蘇《ヤソ》バテレンが。
あちこちで殴り合いの喧嘩《けんか》が発生し、まわりの者が命がけで止めている。七番テーブルの周囲には日米両陣営が選び抜いた六名の屈強な男たちが人間の珊《さく》を作って野次馬《やじうま》どもを背後にがっちりと押しとどめており、そのヘキサゴンの中心で展開されている光景はまさに凄惨《せいさん》と言う他《ほか》はない。伊里野《いりや》はぐったりと顔をうつむかせて身動きもしない。民間人のセコンド二名がついており、ひとりが背後から肩をもみ、もうひとりは下からのぞき込むようにしてしきりに声をかけているが、垂れ下がる長い髪に隠れて伊里野の表情をうかがい知ることはできない。一方の晶穂《あきほ》は死体のように手足を投げ出して、椅子《いす》の背に身体《からだ》をあずけて天井を仰いでいる。こちらにも民間人のセコンド二名がいて、ひとりが晶穂の目の上に冷たいおしぼりを乗せ、もうひとりがメニューで扇いで風を送っていた。
それは、恐怖の叫びだった。
「きたあっ! 中華丼が来たあっ! うわあ――っ!!」
最後の料理がやって来る。
信じ難いものが近づいてくる。
それを目にした誰《だれ》もが恐怖と驚愕《きょうがく》に顔を歪《ゆが》め、逃げ惑うようにして道を開けた。二人と二人の雑工《ざっこう》が地獄のような湯気を上げるふたつの巨大な器を運んでくる。その背後に厨房《ちゅうぼう》の料理人たちが続く。光量を抑えられている照明が、無言で七番テーブルを目指して進む悪魔《あくま》の行列を不気味に照らし出す。もうだめだ――と誰もが思った。なす術《すべ》もなく行列を見送った信心深い軍医は、ふたつの巨大な器とふたりの女子中学生の姿を見比べて思わず十字を切った。
ふたつの器が、どかり、とテーブルに置かれた。
鉄人中華丼である。
異常である。
おかしい。間違っている。普通、中華丼に入っているとすればそれはウズラの卵であって、断じてニワトリの卵がゴロゴロ入っていてはならないはずである。器はまさに洗面器の如《ごと》しであり、その上にどっかりと鎮座《ちんざ》するメシの山は食い物というよりもむしろ活火山のジオラマを思わせ、マグマの如き灼熱《しゃくねつ》の餡《あん》の中で具が身をよじっているその様からは得体の知れぬ悪意すら感じる。なぜ人は戦うのか、なぜ人は憎しみ合うのか、といったことを考えたくなる光景であった。
行列の殿《しんがり》にいた白衣の巨漢が新見《にいみ》からストップウォッチを受け取り、七番テーブルを前に仁義を切った。
「仕切り代わります、当店の頭《かしら》を勤めます姓は如月《きさらぎ》名は十郎《じゅうろう》と発します。笑っても泣いてもこれにて最後の一皿、どちらさんも思い残し無きように。それでは卓からお手を離して――」
如月十郎は、目の前にかざしたストップウォッチの表示を確認する。
残り時間は、二十八分と十七秒。
晶穂《あきほ》は顔におしぼりを乗せたまま動かない。
伊里野《いりや》はあごを胸に深くうずめて動かない。
「どうぞっ!!」
如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》が吠《ほ》え、歓声が爆発《ばくはつ》し、長い髪が翻《ひるがえ》り、おしぼりが跳ね飛んだ。
そして、ラーメンでも餃子《ギョーザ》でも動かなかった戦いの図式がここにきて初めて崩れた。
伊里野が先行したのである。
伊里野は巨大なレンゲを子供のように逆手でつかみ、中華丼にざっくりと突き立ててごっそりとすくい取り、頭の方を動かしてばっくりと食らいつく。再びあの爆食が始まる、さっきまでぐったりとうつむいていたのが嘘《うそ》のような、あの「ロボット食い」が完全に復活している。
一方の晶席は、レンゲを手にしたまま動けなかった。
晶穂は目の前の中華丼を、そしてロボットのように食い続ける伊里野を絶望的な表情で見つめた。アメリカ兵の大歓声と自衛官の悲痛な声援が店内の空気を塗り潰《つぶ》す。晶穂はすぐに伊里野の後を追うが、その動きは見るからに重い。
そして、晶穂の追撃《ついげき》が始まったことに気づいた伊里野は、さらにペースを上げた。
食い続ける。晶穂から片時も視線を外さない。頭を動かすたびに長い髪が器の中にまで垂れ下がり、べとべとになった髪の毛がレンゲに運ばれて口の中にまで入ってしまう。伊里野は空いている方の手で、口の中から束になった髪の毛をずるるるるるるるるると引きずり出す。気が遠くなるようなその光景に野次馬《やじうま》どもが黄色い悲鳴を上げる。
負けたくない。
こんな宇宙人みたいなやつに負けたくない。
晶穂は懸命《けんめい》に追いすがる。もう泣きそうだった。もう何を食っているのかよくわからない。口の中は火傷《やけど》にまみれていたし、唇は顔からはみ出すくらいに膨《ふく》れ上がっているような気がする。それでも食う、レンゲの中身を口の中に押し込み、咀嚼《そしゃく》して飲み下す。脳はすでに、口の中にある物が食物であるという認識をしない。それはただのぐちゃぐちゃした固形物にすぎなくて、腹の中に地獄が詰まっているような満腹感ではなく、ましてや味や匂《にお》いでもない、口の中に感じる重さと歯ごたえに救いようのない吐き気を覚える。白菜の繊維《せんい》がぶちぶちと断ち切られていく感触が、踏みにじられるように潰れていく米粒の感触が、豚《ぶた》の死骸《しがい》の断片が微塵《みじん》にすり潰されて唾液《だえき》にまみれる感触がただただひたすらに気持ち悪い。自分が単なる消化器にすぎないことを自覚する。ただの糞袋《くそぶくろ》だ。こうして食い物を詰め込んでいるこの口が、そのまま肛門につながっていることを思う。思う間にも食う。もう何時間も何時間も食い続けているような気がする。なのに、この中華丼はまだ半分もなくなっていない。生前に食い物を粗末にした者が落ちる地獄があるとすれば、それはいま自分がいるこのテーブルだと思う。上目遣いに伊里野の様子をうかがう、
伊里野は、ロボットのように食い続けている。
勝てなかったら、どうしよう。
負けたくない。負けたくはないが、もし敗北がさけられないものだったとしたら、どうすればいいのだろう。負けるにしても色々なケースがあり得る。もし今、自分が全身の隅々にまで強いている緊張《きんちょう》を少しでも緩《ゆる》めたら、口から消防車のように反吐《へど》を撒《ま》き散らして床を転げ回ることになる。それは負けのひとつの形だ。あるいは、もう食べるのを止《や》めて、制限時間が過ぎ去るのをじっとうつむいて待っているだけでもいい。それもひとつの負けの形だ。もしくは、ただひと言「ギブアップします」と告げるだけでもいいし、今すぐ席を立ってトイレに駆け込んでもいい。すべて、負けのひとつの形だ。上目遣いに伊里野の様子をうかがう、
伊里野は、ロボットのように食い続けている。
負けたくない。
負けたくはないが、もし負けるとすれば、一番かっこ悪くないのはどんな負け方だろうか。どうしてこんな大騒《おおさわ》ぎになってしまったのだろう。見物人なんかいなければよかったのに。誰も見ていなければどんな負け方をしたっていいのに。だから「応援団」って嫌いなのだ。運動部の取材をしているといつも見かける。うちの学校にもいる。学ラン姿でチンドン屋みたいな大騒ぎをしてがんばれがんばれと押しつけがましいことを叫ぶ連中。あれは要するに脅しだと思う。負ける方の身にもなってみろと言いたい。おまけに、連中は最後には自己満足でオチをつけるからどう転んでも痛い目をみないのだ。勝てば一緒に何かを成し遂げたつもりになって大喜び、負ければナルシスティツクな自己《じこ》憐憫《れんびん》にひたる。今ここで大騒ぎしている連中も一緒だ。どうせ負けるなら、こいつらに思いっきり反吐を吐きかけてやるのも悪くない。今の自分なら、ここにいる全員を頭のてっぺんからつま先まで反吐まみれにしてやれると思う。そもそも、どうしてこんなバカみたいなことを始めてしまったんだろう。うまく思い出せない。もういいや、負けるが勝ちだ。最後にあとひと口だけ反吐の材料をかき込んだら、もう我慢するのをやめよう。
最後に、もう一度だけ、上目遣いに伊里野の様子をうかがった。
伊里野は、ロボットのように食い続けていた。
そして、ロボットのように限界が釆た。
伊里野の顔の真ん中で、鮮血《せんけつ》が炸裂《さくれつ》した。
その瞬間《しゅんかん》を、ストップウォッチをにらんでいた如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》は「残り時間十三分の時点だった」と後に語っている。また、実戦経験をもつある自衛官は、「店にテロリストが乱入して、あのロングヘアーの女の子の後頭部を銃撃《じゅうげき》したのだと思った」と回想する。概して、銃弾が侵入した方の傷というのは小さな穴が開くだけで出血も少なく、弾丸が飛び出した方の傷に大きな破壊《はかい》が巻き起こるものである。つまり、伊里野《いりや》の後頭部から侵入した弾丸が大量の血液と共に顔面から飛び出した、と彼は考えたのだ。事実、彼はあの直後に床に身を投げて「伏せろ! みんな伏せろ!」と叫んでいる。園原《そのはら》基地の住人ならではの反応と言えよう。似たような行動をとった兵士は他《ほか》にもいた。
それほどまでに壮絶な、鼻血であった。
鉄人中華丼が血に染まった。伊里野は、確かに後頭部を一撃《いちげき》されたかのように首をのけぞらせ、その反動でテーブルに頭を打ちつけた。野次馬《やじうま》どもが「うわあ――っ!!」「オーマイガアッ!!」と口々に叫んで身をのけぞらせ、唐突に沈黙《ちんもく》が降り立った。
伊里野《いりや》がゆっくりと身を起こす。
全身がぶるぶる震《ふる》えている。テーブルに鼻血がぼたぼたとこぼれ落ちている。
最初に卓を仕切っていた新見《にいみ》がまず動いた。次いで、従業員全員が七番テーブルに駆け寄ろうとした。
「んバカやろうぅ!! 手ぇ出すんじゃねえ!!」
如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》が一喝し、両腕を広げて従業員たちを背後に制した。
「だ、だって親方! ドクターストップでしょあれ!?」
新見が抗議する。こうなってはもはや、「周囲を見苦しく汚した場合は失格となります」という規則を適用してすべてを終わらせるより他にないと新見は思う。しかし、
「ごちゃごちゃぬかすな!!」
伊里野の手が動く。逆手に握っているレンゲを中華丼の底まで突き立てる。陶器と陶器がこすれ合う音が響《ひび》く。顔を上げる、
「……まけない」
ゆっくりと顔を上げていく、その顔が米粒まじりの鼻血にまみれている。震えの止まらない肩を上下させて大きく息を吸い込み、鼻の穴に詰まっている血と米粒と鼻水の混合物をじゅるるるるるっとすすり込んでごっくりと飲み干す。野次馬どもにはもう言葉も顔色もない。
そして伊里野は晶穂《あきほ》をにらみつけて、こうつぶやく。
「あきほには、ぜったいまけない」
晶穂は椅子《いす》から半ば腰を浮かせ、呆然《ぼうぜん》と伊里野を見つめていた。「席を立ったら失格」とい う規則のことなど、頭の片隅にもなかった。
ただ、鼻血にまみれた伊里野の顔を見つめていた。
ロボットのようだと思ったし、宇宙人のようだとも思った。どこまでも無表情なのだろうと思っていたその顔に浮かぶ表情を、魅入《みい》られたかのように見つめていた。
――あんたもそんな顔することあるんだ。
無理に無理に無理を重ねていたのだろう。
元来、大食いなどではなかったはずだ。
そして今、晶穂はようやく、分厚い鎧《よろい》に守られていた伊里野《いりや》の「顔」を見たのだ。
伊里野《いりや》が叫ぶ。
「ぜったいまけない!」
晶穂《あきほ》がカウンターする。
「上等ぉっ!!」
如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》が頬《ほお》の裂けるような笑みを浮かべる。
再び戦いが始まった。ふたりは中華丼に顔を突っ込むようにして食う。野次馬《やじうま》どもがヤケクソの大歓声を上げる。晶穂も伊里野も互いに目をそらさず、中華丼が親の仇《かたき》であるかのように食い続ける。晶穂は左手をテーブルに備えつけの自家製ラー油の壷《つぼ》に伸ばす。中身をすべて中華丼にぶちまける。「味に変化をつける」といった生ぬるいレベルの話ではない。まさに気つけ薬である。伊里野も食う、鼻血のせいで麻婆丼《マーボーどん》になってしまった器の中身をレンゲでぐちゃぐちゃにかき混ぜ、ひたすら口に運び続ける。
食い続ける。
今さら後には、絶対に、一歩たりとも――
それから、晶穂の意識は何度も途切《とぎ》れた。
――オラあけっぱれ! だらしねえぞ、それっぱかしが食えねえのか!
――ウェイクアーップ! 起きナサーイ! あとスコシでーす!
そのたびに、そんな周囲の声援に意識を呼び覚まされた。
食い続けた。
それから後のことは、晶標はあまり憶《おぼ》えていない。ただ、長い戦いの最後の瞬間《しゅんかん》だけが、なぜか音のない記憶《きおく》として頭の中にはっきりと残っている。その記憶の中で、晶穂は伊里野よりも先に食い終わった。そのとき伊里野の器はオニギリ程度の飯が残っているばかりだったが、伊里野はしばらく前からぐったりとうつむいたまま動かなくなっていた。晶穂は席を蹴《け》って立ち上がり、伊里野の椅子《いす》の足を蹴りつけて、テーブルをばんばん叩《たた》いて何かを懸命《けんめい》に叫んだ。野次馬がうねり、伊里野の身体《からだ》がぐらりと傾いてテーブルに倒れ込んだ。ちょうど顔を器の真ん中に押しつけるような格好で、髪の毛が器全体を隠してしまっていた。如月十郎がストップウォッチを大きく振りかぶり、ボタンを押して六十分を切り取ったそのとき、伊里野の身体が床に滑り落ちた。
仰向《あおむ》けになった白い喉《のど》が、ごくりと動いた。
そして、伊里野の長い髪の毛が遅れて滑り落ちて、その下から空っぼの器が現れた。
ものすごい大騒《おおさわ》ぎになった。晶穂も何かを叫んだはずだが、その内容は記憶にない。
憶えているのは、すぐそばで泣きながら飛び跳ねていたおじさんのおでこにナルトがひっついていたこと。黒人の兵隊さんがテーブルの上に飛び乗ったひょうしに天井の照明器具に顔を突っ込んでしまったこと。二人のコックさんが腕を交差させてお互いの口の中に紹興酒《しょうこうしゅ》の瓶を突っ込んでいたこと
音のない記憶《きおく》は、そこで途切れている。
◎
同じパターンの木目が繰り返されている天井と、タバコのヤニで黄ばんだ照明器具が見えた。
布団に横になっている。
自分がまだ鉄人屋《てつじんや》にいることは、音と匂《にお》いでわかった。
微《かす》かに吐き気が込み上げて晶穂《あきほ》は顔をしかめる。タオルケットの中で肘《ひじ》を突いて、少しだけ首をもたげて周囲を見回してみる。
すぐ隣《となり》の布団で伊里野《いりや》が寝ている。
六畳間だった。古びた色のタンスと開けっ放しの襖《ふすま》と、口径15センチの天体|望遠鏡《ぼうえんきょう》と日めくりのカレンダーと誰《だれ》かのサイン入りボール。枕元には水の入ったグラスと何かの薬包みが乗ったトレイがある。その隣にはふたつ重ねた洗面器。豚《ぶた》の形をした瀬戸物が蚊取り線香の煙を上げ、網戸の外には夜があって、秋の虫が鳴いていた。
「おう、起きたか」
どすどすと廊下を通り過ぎようとした如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》が立ち止まり、襖の開け放たれた戸口から顔だけをのぞかせた。その突然の出現よりも、その顔がとんでもなく高い位置にあることが晶穂を驚か《おどろ》せた。
「は、はいっ」
「そこに胃薬あるから飲んどけ。ちっとばかり苦いけどな、オレが飲み会なんかで食いすぎたときにいつも飲んでるやつだ。お前歳は?」
「あ、え、十四です」
「んじゃ半分だ。粉薬だからそっちの奴《やつ》と半分こしろ。ゲロ吐くなら洗面器な」
言うだけ言って顔が引っ込むかと思ったらまた戻ってきて、
「ああそれと、」
「は、はいっ!?」
「お前、十四歳か?」
晶穂は肯《うなず》く。布団に横になったままで、足元の方にいる相手に対して喋ったり肯いたりするのはどうにも変な感じだ。
「そっちの奴もか?」
「そうです」
如月十郎は、にたりと笑った。
「ってこたあ、記録更新だ」
何の記録?――と問いかける間もなく、如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》の顔はにたりと笑ったまま今度こそ引っ込んだ。足音がどすどすと廊下を遠ざかっていく。
首が疲れた。
晶穂《あきほ》は布団に頭をあずける。ヤニで黄ばんだ照明器具の丸い光を見つめる。
腹がぱんぱんである。触ってみなくてもわかるくらいに膨《ふく》れている。息をすると苦しい。頭もまだ少しぼんやりしている。薬を飲まなきゃ――とは思うのだが、起き上がるのはちょっとつらい。トレイは枕元のすぐ近くにあったが、腹ばいになることなど考えたくもなかった。
しかし、苦しさと背中合わせの不思議な安らぎがあった。
網戸から夜風が入ってくる。厨房《ちゅうぼう》で鍋《なべ》がガンガン鳴る音が聞こえてくる。
「――伊里野《いりや》、起きてる?」
蛍光燈《けいこうとう》の光を見つめたまま、なんとなく、そう聞いてみた。
「おきてる」
!!
まさか本当に起きているとは思っていなかったのだ。晶穂が続く言葉を探しあぐねていると、
「――あのね、」
晶穂は身体《からだ》を固くする。伊里野の方を振り返ることもできずに蛍光灯を見つめる。
「わたし、晶穂が、こわかった」
思いがけない言葉だった。
それはこっちのセリフだ、そう言いたかった。一緒に取材に行こうともちかけるのに一体どれほどの勇気が必要だったか、無表情な視線で見つめられるたびにどれほど逃げ出したいと思ったか、そのことを言ってやりたかった。
「一緒に取材に行こうっていわれたとき、足ふるえるくらいこわかった。ぜったい、どこか人のこないところにつれてかれて殴られるんだと思った。取材なんてうそだと思ってた。バスに乗ってからもそう思ってた。最初のお店に入って、取材ってうそじやないのかもって思ったけど、どうしていいのかわかんなくて、」
横目を使った。
すぐそこに伊里野がいて、じっと目を見開いて天井を見つめていた。
「でも逃げ出したりしたらわたしの負けだと思って、負けるもんかと思った。晶穂がこわかったけど、負けるもんかって、ずっとずっとそう思ってた。わたし、最初に部室で会ったときから、ついさっきまでずっと、晶穂がこわかった」
――じゃあ、今は。
その間いは、結局は、あるかなきかのため息になって消えた。
「ねえ、」
晶穂は無理をして両足を振り上げ、その勢いでどうにか身体を起こした。手を突いて身体を支え、腹をさすって、
「ほらほら、お腹《なか》ぽんぽこ。あんたもそうでしょ」
伊里野《いりや》はタオルケットの中にのろのろと顔を隠し、恥ずかしそうに身体《からだ》を丸める。晶穂《あきほ》が手を伸ばしてつついてやると、伊里野は布団の上をもぞもぞ動いて逃げながら、
「くるしい」
なんだかおかしくなって、あはは、と笑った。
蚊取り線香が香った。
網戸の外には夜があって、秋の虫が鳴いていた。
◎
何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが起こる何か恐ろしいことが、
「きりーつ」
六限日終了の鐘《かね》が鳴り、中込《なかごみ》の号令で浅羽《あさば》を除く全員が立ち上がった。
「礼っ」
浅羽を除く全員が礼をして、浅羽を除く全員に放課後がやって来た。ひとり思考の泥沼を這《は》いずる浅羽の背中を西久保《にしくぼ》がシャーペンでつつき、
「おい、」
浅羽はようやく我に返る。西久保は椅子《いす》にふんぞり返って足を組み、
「ほら何だよ、聞いてやるからお兄さんに話してごらんよ。お前いつもおかしいけどさ、今日はいつもに輪をかけておかしいぞ。何かあったのか?」
浅羽は言葉に詰まり、
「――いや、あのさ、おかしいのはぼくじゃなくでさ、きのうからずっと何か恐ろ」
そのとき、教室の後ろの方で晶穂の声がした。
「伊里野ー、」
そのひと声が、教室じゅうのざわめきを駆逐した。
シェルター事件でマウントポジションの浅羽はまあ別として、クラスののけ者である伊里野に誰《だれ》かがかくも公然と声をかけるなどということは、この教室においては第一次|空襲《くうしゅう》警報《けいほう》にも匹敵する異常事態である。とりわけ女子生徒の間では「あっちいけ」発言の尻尾《しっぽ》のようなものがいまだに根強く残っている。もともと独立独歩なところのある晶穂だが、このような横紙破りは初めてのことだった。
黒く塗った紙なら火が点《つ》きそうな注視の中で、しかし、晶穂《あきほ》には気負った様子は少しもなかった。伊里野《いりや》が席を立ち、鞄《かばん》を手に下げて晶穂の机の前に立つ。晶穂は帰り支度を済ませ、伊里野を見上げて、まったく普段《ふだん》通りの調子で、
「じゃあ行こっか」
伊里野が肯《うなず》く。
教室の中にぎわめきが跳ね返ってくる。西久保《にしくぼ》と花村《はなむら》が浅羽《あさば》に向かってまったく同時に「おいなんだよあれ、ヤキ入れか? ついにヤキ入れすんのか?」「あーあどうすんだお前。おれ前にテレビで見たことあるぞ、あのな、校舎の裏とかトイレとかに呼び出してカミソリで」
これだ、と浅羽は思った。
恐ろしい予感が的中した。まさかカミソリでもあるまいとは思ったが、浅羽はひそひそ話の飛び交う教室を飛び出してふたりの後を追った。一階の廊下でようやく追いつき、どちらの後ろ姿に声をかけるべきか一瞬《いっしゃん》だけ迷い、
「あ、晶穂!」
並んで歩いていた晶穂と伊里野が、同時に足を止めて浅羽を振り返る。
「なによ」
「――ふ、ふたりでどこ行くの?」
晶穂はせっぱ詰まった浅羽の顔をじろりと見つめて、
「浅羽、何か勘違いしてない? あのね、」
そこで思いとどまり
「――まあいいや。部長に言っといて。今日はあたしと伊里野部活休むって」
さらに浅羽の機先を制して、
「いーのあんたはついてこなくて! また話がややこしくなるから」
晶穂は「ね?」と伊里野を一瞥《いちべつ》し、踵《きびす》を返してさっさと歩き始める。
そして、ものすごいことが起こった。
伊里野が、浅羽に「あかんベー」をしたのである。
それは、思い切りのまるで足りない、恥ずかしさが勝ちすぎの、てんでなっちゃいない「あかんベー」だった。浅羽以外の者の目には、舌をちょっと出して顔を少し歪《ゆが》めただけに見えたかもしれない。
いずれにせよ、それは一瞬の出来事だった。
伊里野は顔を真っ赤にして、逃げるように晶穂の後を追った。
「ちょっとー! ねえ待ってよ晶穂ー!」
遅れて教室から飛び出してきた島村《しまむら》清美《きよみ》が、浅羽のわきをすり抜けて廊下を駆けていく。
ひとり廊下に残された浅羽は、疑問が渦巻く頭を持て余して呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす。その背中を廊下掃除の一年生が邪魔《じゃま》くさそうに見つめ、浅羽の上履《うわば》きの踵《かかと》にモップの先をわざとぶつけて通り過ぎていく。
あかんベー?
「ねえ、どういう風の吹き回し? 何がどうなってんの?」
清美《きよみ》が昇降口を出たところで晶穂《あきほ》を[#「を」はママ]左腕をつかんだ。伊里野《いりや》がこわごわと晶穂の右側に逃げる。晶穂は相変わらずの日差しに顔をしかめ、
「これから写真撮ってもらいに行くの。ほら、きのうはずいぶんひどい有り様だったし」
清美はわけがわからずに、
「写真って何の?」
「中華料理屋さんの『鉄人屋《てつじんや》』って知ってる?」
「それってあの、鉄人定食の? それと写真と何の関係が、」
あるに決まっている、鉄人屋に写真とくれば結論はひとつである。
「あ、あんたバカじゃないの!? 一体そのお腹《なか》ん中ってどうなってんのよ!? よく今日学校来られたわね!?」
「だってさ。どーする伊里野?」
晶穂の横目に伊里野はうつむく。清美は目を剥《む》いて、
「――ちょっと、ちょっと待って。まさか、」
晶穂だけならまだしも、まさか、
「そう、伊里野も」
清美は思わず立ち止まってしまった。歩き続けるふたりの背中を見つめて言葉もない。
そして、その驚《おどろ》きが薄《うす》れていくにつれ、清美の顔にぼんやりとした苦笑が形作られていく。
事情はまるでわからない。
しかし、それは後でねちねちと聞き出せばいいことである。
ふたりが並んで歩いているその右側、伊里野の背中に、かつて十兵衛《じゅうべえ》の死に打ちひしがれていた自分の姿が重なる。あのとき、孤独の中から自分を救い出してくれたのも晶穂だった。
「待ってー! あたしも一緒に行くー!」
清美は走る。ふたりを追い抜いて振り返り、後ろ向きに歩きながら伊里野の顔をのぞき込む。
「ねえねえ、なんで晶穂の舎弟《しゃてい》になったの?」
「伊里野、こんな下品な言葉づかいの人と口をきいちゃいけません」
伊里野は困ったように視線をそらす。その様子を清美は面白《おもしろ》そうに見つめ、
「あのさ、急には無理かもしれないけどさ、あたしや晶穂の友達とか、そのへんから少しずつ始めていけばいいと思う。ほんとは伊里野と話してみたいって思ってる子、いっばいいると思うよ」
伊里野は答えない。しかし清美はめげない。こういうときに清美は強い。
「あ!、そうだいいこと考えた! 伊里野《いりや》にあだ名をつけよう!」
これには晶穂《あきほ》も思わず足を止めた。伊里野は晶穂にもの問いたげな視線を向けている。どうやら事態がうまく飲み込めていないらしい。清美《きよみ》はさらにたたみかける、
「あだ名よあだ名。ねえ、あだ名ってわかる?」
伊里野は答えない。
「ねえ、伊里野って確かお兄さんとの二人暮らしよね? お兄さんは伊里野のこと何て呼んでるの?」
伊里野は、蚊の鳴くような声で答える。
「――いりや」
兄弟なのに名字でなぜ呼ぶのか、という疑問が晶穂と清美の頭を同時にかすめた。そこには深い家庭の事情があるのではないか、という解釈が自動的に生成され、清美は微妙に方向を修正して、
「じゃあさ、基地の人とかは? 兵隊さんとかいっぱいいるんでしょ? 伊里野が出かけるときには『気をつけてね』とか、帰ってきたときには『おかえり』とか、そういうこと言ってくれる人くらいはいるでしょ?」
それならいる、と伊里野は小さく肯《うなず》いて、
「ATCの人とか。あとLSOの人も」
「その人たちは伊里野のこと何て呼んでるの?」
「バンディット|1−3《ワン・スリー》」
「はあ?」
何か話が食い違っている気がする。清美は気を取り直して、
「ま、まあいいわ、あたしが考えたげるから。ええっと、伊里野|加奈《かな》でしょ、いりや、いりやだから、恐れ入りやの、じやなくて、かな、かな――」
そして清美はいつまでも考え込んでいる。晶穂が、
「いいよそんなの、無理してひねり出すようなもんじゃないでしょ?」
「かなぶん!」
「か、かなぶんって虫の? なんで虫なのよ」
清美もいまいちだと思っていたらしく、かなかな言いながら再び考え込む。晶穂が「ほっといていこいこ」と伊里野をうながそうとした、そのときだった。
「加奈ぶー!! 『ぶー』は『鼻血ぶー』のぶー!!」
清美は自分の思いつきに勝ち誇った。伊里野の顔をのぞき込み、
「どおどお? 結構イケてるでしょ? よし、今日からあんたは『加奈ぶー』よ!」
伊里野は、びんたを食らったときのような顔をしていた。
それは、「あだ名」というのが一体何であるのかをようやく理解したことによる衝撃《しょうげき》の表情であったのだろう。
と、すぐにその顔が恥ずかしさで真っ赤になって、
たらっ。
「わあっ!」
「あーもー、清美《きよみ》がへんなこと言うから!」
晶穂《あきほ》は大あわてでポケットティッシュを取り出して伊里野《いりや》の鼻血を拭《ぬぐ》った。伊里野は幼児のように目を閉じてされるがままになっている。鼻血は大した量ではなかったが、晶穂は念のために、ティッシュをちぎって丸めて伊里野の鼻の穴に詰めた。
これでよし。
晶穂は己が仕事の出来ばえをながめ、あは、と笑う。清美が「やっぱり加奈《かな》ぶーだ! 加奈ぶー加奈ぶー!」と連呼して大喜びしている。伊里野は恥ずかしそうにうつむいていたが、やがて、恐る恐る視線を上げて、
右の鼻の穴にぼっちを詰めた顔で、笑った。
水前寺応答せよ・前編
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晩メシの席でウシガエルの如《ごと》きげっぷをし、爪楊枝《つまようじ》で汚らしく歯をせせり、ついには尻が浮くような屁《へ》をたれるという父の暴挙に怒って、夕子《ゆうこ》はものも言わずに立ち上がると足音も荒々しく茶の間を出ていってしまった。入れ違いに入ってきた母が急須《きゅうす》にポットのお湯を注ぎながら「また何か気に障るようなことしたんでしょう」という目を向けると、玄米茶の湯飲みを受け取った父は言い訳がましくつぶやくのだ。
「だって、出ちゃうものは仕方ないよな」
「出ちゃうって、何が?」
「おなら」
と横から答えたのは浅羽《あさば》だ。母は「またですか」という顔をして、
「前にもそう言ったじゃないですか、食事中は夕子が怒るからって。直之《なおゆき》もお茶飲む?」
「うん。父さんのおならすごいよね。夜中なんて二階にいても聞こえることあるよ」
「何だ何だ、ここん家はのんびり屁もできんのか。それに食事中じゃないぞ、ちゃんと我慢して食い終わってからしたんだぞ一応」
母と浅羽の連合政権はしかし、父の申し開きを一蹴《いっしゅう》する。「食べ終わったばっかりじや同じですよ。どうしても我慢できないならおトイレ行ってすればいいじゃないですか。夕子は女の子だしそういうの気になるんですよ」「あとね、父さんご飯食べた後いつもお茶で口ゆすいでしかもそれ飲んじゃうでしょ。それもすごく嫌だって。友達に聞いてもそんな汚いことするの父さんだけだって」点《つ》けっぱなしだったテレビのCMまでが父を責めた。『英語ができないお父さんなんて大っ嫌い!!』
父は憮然《ぶせん》として「英語はできるっ!!」とCMにだけは反論し、ぷんすか怒りながらリモコンを手に取ってチャンネルをでたらめに変え始めた。振り子時計の針は八時十七分を指し、もうじき寿命の蛍光灯《けいこうとう》がじいじいと音を立て、網戸の手前で扇風機が眠そうに首を振っている。浅羽はちゃぶ台にだらしなく肘《ひじ》をついて畳に広げた夕刊を読み始め、母は急須にお湯を注ぎ足そうとしてふと、
「ねえ直之、」
浅羽は夕刊から顔も上げず、
「ん」
「夕子があんたにそう言ったの?」
やはり顔も上げず、
「何を?」
「だから、お父さんがお茶で口ゆすいで飲んじゃうのがいやだって、夕子《ゆうこ》が直接あんたにそう言ったの?」
「うん」
「いつ?」
「きのう」
母は意外そうな顔をした。母の知る限り、夕子が兄と口をきくというのは絶えて久しいことだったはずである。が、当の兄はそのことを何とも思っていないのか、母の視線も知らぬげに夕刊の紙面にかぶりつき、雉誌の広告に掲載されているグラビアアイドルの水着姿を顕微鏡《けんびきょう》のような目つきで注視している。
放置されている父がリモコンでテレビを指し、
「お、見ろ見ろ、世界記録更新だってよ」
『さて、テレビをご覧《らん》の皆さんなら、チェリーパイを一時間でいくつ平らげることができるでしょうか。アメリカ陸軍の威信を賭けた、早食い世界記録への挑戦が行われました』
浅羽《あさば》はようやく視線を水着姿から四コママンガへと移し、問わずにおこうと母は思った。
何があったのかはわからないが、いずれにせよ妹に何らかの心境の変化が訪れ、しかしちょっとぼんやりしたところのある兄はそのことに気づいておらず、おかげで余計な波風も立っていないというところなのだろう。事の経緯《けいい》を聞き出したいのは山々だが、そんな真似《まね》をすると妹の変化をぼんやり兄貴に意識させてしまうことになって、せっかく実現しかけている和解に水を差す結果になりかねない。
「観測者問題、っていうのよね。こういうの」
母の口から出た意外なひと言に浅羽が顔を上げ、
「は?」
「テレビでやってたの。でもお母さんは毒ガスの出る箱に猫《ねこ》を入れるのは反対。だってかわいそうだから」
母さんらしくない冗談言うなあと浅羽は思ったがそれはまったくの誤解だ。母は単によくわかっていないだけである。放置されている父がテレビに向かって「むむう」とうなり、
「大したもんだ。雲突く巨漢とはまさにこれだな。牛一匹丸ごと食っちまいそうだ」
ニュース番組のローカルトピックスだった。画面にはどこぞのお祭り騒《さわ》ぎの光景が映し出されている。ニュースキャスターの解説によれば、とある基地で地域住民との交流を目的としたイベントが開催され、その呼び物のひとつとして土地の名産品であるサクランボを使ったチェリーパイを一時間で何個食べられるかというチャレンジが行われて、そこで大食い自慢のアメリカ兵がなんと世界新記録をうち立てた、という話題らしい。
『ご覧くださいこの食べっぷり。世界新記録の偉業を達成したのはアメリカ陸軍広報部所属のアンソニー・コールドバーグさんです。同僚の方の話ではチェリーパイはアンソニーさんの大好物で本人も自信満々、アメリカ陸軍の威信を賭《か》けて頑張ってほしい、と基地司令より直々の激励を受けての挑戦だったそうです』
母は自分の湯飲みに玄米茶をのんびりと注ぎ、
「そう言えば直之《なおゆき》、ほら、新聞部の女の子で、何ていったっけあの女の子、」
再び夕刊に視線を落としていた浅羽《あさば》の背筋がびくりと反応した。母は名前を思い出そうとして眉根《まゆね》を寄せる。
「ええっと――あき、あきこ? あきよ?」
背筋が緩《ゆる》む。なんだ晶穂《あきほ》のことか、浅羽はひそかに安堵《あんど》し、
「あきほだよ、須藤《すどう》晶穂」
「ああそうそう」
そこで浅羽はふと疑問に思い、
「――母さんなんで晶穂のこと知ってるの?」
「だって学園祭で会ったことあるもの」
「え、母さん学園祭来てたの!?」
実はそうなのだ参ったか、と母はうなずき、
「で、どうなの? 晶穂ちゃんとは仲良くしてる?」
「な、なんだよそれ」
母はときどき不意打ちのようにこういう質問をするのだ。「彼女はできた?」とか「クラスで一番かわいいのは誰《だれ》?」とか。母なりにボンクラな息子を心配してのことなのかもしれないし、思春期の少年に共通する急所をつついでからかっているだけなのかもしれない。放置されている父が、
「大したもんだ。あんなでっかいパイ、普通なら一個食べきれるかどうかも怪しいな」
『アンソニーさんは序盤《じょばん》から快調なピッチで飛ばし、世界記録である三十二個を軽々と平らげてさらに食べ続けます。イベント主催者側はアンソニーさんのあまりの食べっぷりに、用意していたパイが足りなくなってしまうのでは、とヒヤヒヤしていたとか。制限時間の終了とともに、盛大な柏手と歓声が大記録の誕生《たんじょう》を称《たた》えました」
ふむふむそれでそれで?、と父はさらに身を乗り出すと、
『それでは、CMを挟みまして天気予報をお送りします』
「っておい!!」
画面は車のCMに切り替わってしまった。父はテレビにつかみかかってガタガタ揺する。
「待てこらっ! 新記録は何個なんだっ!? あのデカブツはパイを何個食ったんだっ!?」
そのとき、振り子時計の針は、八時二十二分を指していた。
「お父さん大きな声出さないでくださいっ!」
「父さんやめろよテレビ壊《こわ》れちゃうだろ!」
振動が来た。
地震《じしん》?――母と浅羽《あさば》は、咄嗟《とっさ》にそう思った。
が、興奮《こうふん》してテレビをガタガタ揺すっていた父はまったく気づかなかった。だってあそこまで話を聞いたら気になるだろう普通あのGIが一体何個パイを食ったのか、父がさらに大きな声でそう言いかけたそのとき、茶の間の蛍光灯《けいこうとう》が一瞬《いっしゅん》だけ点滅し、父は口をつぐみ、茶の間の三人はそろって頭上を見上げ、どちらかといえば洋間に似合いの照明器具が微《かす》かに、ほんの微かに揺れて、
そして、爆発《ばくはつ》音が追いついてきた。
茫然自失《ぼうぜんじしつ》の一瞬が過ぎて、最初に行動を起こしたのは浅羽《あさば》だった。這《は》うようにして茶の間を横切ると網戸を開け放った。表に出て様子を見てみようと思ったのだ。ガス爆発か、それとも居眠り運転の大型車がどこか近所の家に突っ込んだのか。砂だらけのサンダルに素足を突っ込み、庭と呼ぶのも憚《はばか》られるほど狭い庭を駆け抜けて家の前に出た。通りにはすでに周辺の住人が幾人も出てきており、彼ら彼女らはみな一様に同じ方向を見つめていて、それに倣《なら》った浅羽は、夏の夜の空を赤く染める非日常を見た。
距離など、見当もつかない。
浅羽が見たものは、大規模な炎の照り返しの中に立ち上る巨大な爆煙の姿だった。爆煙は今もゆっくりとその高度を増しつつあり、風にあおられて刻々とその形を崩しつつあったが、浅羽が見たときには縦に間延びしたキノコの形をまだどうにか保っていた。
なんだ、あれ。
「――まずいぞこいつは」
すぐそばで聞こえたそんなつぶやきに、脳みその三分の一くらいが我に返った。見れば、鶴《つる》のように痩《や》せたジャージ姿のオヤジが腕組みをして彼方《かなた》に視線を向けている。近所の日用雑貨店のおじさん、小学生の頃《ころ》に釣りに連れて行ってくれた、名前が思い出せない、
「だってあれ、園原《そのはら》基地の方角だろ」
そのひと言に、伊里野《いりや》の面影が脳裏をよぎった。
せっかく三分の一くらい我に返っていた脳みそが再び暴走した。
ここから見えるのは立ち上る煙だけ。ただでさえ夜であり、周囲の家が邪魔《じゃま》であり、一体何が爆発して何が燃えているのか、そういう肝心なことは何もわからない。浅羽は踵《きびす》を返し、ようやく表に出てきた父母と入れ違いに家に駆け込んだ。土足のまま茶の間の昼に上がってしまったことに気づいてサンダルを庭めがけて蹴《け》り飛ばすように脱ぎ捨て、二階へ続く急な階段を四つん這いで駆け上がる。騒々《そうぞう》しい足音に気づいた夕子《ゆうこ》がすぐに部屋から飛び出してきて、自分の部屋の奥を指差して叫ぶ。
「ねえほ兄ちゃん! なんなの、あの煙なんなの!?」
浅羽《あさば》は無言で夕子《ゆうこ》の部屋に飛び込み、入り口の向かい側にある窓に取り付いて限界まで身を乗り出した。兄貴を自分の部屋に入れるなど、かつての夕子ならばたとえどんな理由があろうとも絶対に許さなかっただろうが、今はその兄貴の背中にぴったりくっついて肩越しに窓の外をのぞいている。
通りから見るよりも、多少はましだった。
たかが二階の窓では周囲の建物は相変わらず邪魔《じゃま》だったが、巨大な煙の源が園原《そのはら》基地からほど近い山の中腹であることが辛うじて確認できた。爆心《ばくしん》地そのものはギリギリで見えないが、どうやらその周辺一帯にかなりの規模の山林火災が発生しているらしい。背中に押しつけられている夕子の身体《からだ》が微《かす》かに震《ふる》えていた。
「窓の外が光ったの、何だろうって思ったらどかあんって音がして、前に学校で見た映画みたいなキノコみたいな形の雲がもくもく上がってたの、ねえお兄ちゃんあれって原爆? 今度こそ戦争が始まるの?」
原爆なわけあるかと思った、馬鹿《ばか》かお前と喉《のど》まで出かかった。原子雲の巨大さといったらあんなものではないはずだし、たったこれっぽっちの距離で核弾頭が爆発したら自分たちが今こうして無事でいられるはずがない。しかし、さっきまでの当たり前は今のこの瞬間《しゅんかん》も当たり前であるという確信はすでに崩れ去り、今の浅羽は、どんなつまらないことに対しても何ひとつ断言することができないような、骨の髄《ずい》から脳みそに染み渡るような無力感に捕らわれていた。それが不安で不安で、何かはっきりしたことが知りたくて、
「――そうだ、」
夕子をはね飛ばして部屋を飛び出す。
「ちょ、ちょっとお兄ちゃんどこ行くの待ってよねえ!!」
夕子が夢中で後を追いかけようとしたら、浅羽は自分の部屋の押入れから双眼鏡《そうがんきょう》を引っぱり出してそれこそあっと言う間に戻ってきた。
再び窓から身を乗り出して双眼鏡を夜の彼方《かなた》に向ける。
倍率と引き換えに視界を狭められてみると、夜空に立ち上る煙の柱の巨大さが改めて身にしみる。一体何が爆発したのだろう。周辺の空域を何かが飛んでいる、点滅するライトの閃光《せんこう》が見える。園原基地の偵察ヘリかもしれない。見覚えのある稜線の形からして、爆心地が一体どこの山なのかは見当がついた。
「ねえ何か見える? やっぱりあれ原爆?」
夏休みに部長と山ごもりをした、殿山《とのやま》の中腹だ。
自分たちがキャンプを張っていた辺りよりもずっと山頂寄りだ。あの辺りには人家だってひとつもないはずだが、舗装《ほそう》された林道が何本が走っているはずだし、もし、
そのとき、
「あ!」
夕子《ゆうこ》が声を上げた。浅羽《あさば》もそれを見た。
何かが二次|爆発《ばくはつ》した。
さほど大きな爆発ではないようだったが、新たに噴《ふ》き上がる炎と煙がはっきりと見えた。ずしん、という爆音が今さらのように耳に届く。通りに出ている近所の住民がざわめいている。夕子が浅羽の肩を揺すり、
「お兄ちゃんあたしにも見せてよう、ねえお兄ちゃんってば」
肩を揺すられて、双眼鏡《そうがんきょう》越しの視線が煙の柱から大きく外れた。浅羽は邪魔《じゃま》くさそうに夕子の手を振り解《ほど》き、二次爆発のあった辺りに再び双眼鏡を向けようとして、まったくの偶然にその決定的な瞬間《しゅんかん》を見た。
「!!」
何かの見間違いかと思った、その瞬間にもう一度見えた。
意外なほどゆっくりとした速度で地表めがけて放たれる、一列に連なった光の点。
「ヘリが撃ってる!」
曳光弾《えいこうだん》の光。
武装したヘリが、爆心地付近にいる何かをバルカン砲で攻撃《こうげき》している。
「ほ兄ちゃんばっかずるいようあたしにも見せてよ見せてよう!!」
「どう? 何か見える?」
母の声だった。思わず双眼鏡から目を離して振り返ると、母が部屋の入り口から顔をのぞかせていた。
「――父さんは?」
スキあり、とばかりに夕子が浅羽の手から双眼鏡を奪い取る。
「下で電話してるけど」
そうだ、基地に電話をすれば、
そう思った一秒後に、自分が伊里野《いりや》の電話番号など知らないことを思い出す。伊里野の電話番号は連絡網の表にも載っていない。それに、今ごろ緊急《きんきゅう》事態に振り回されているであろう園原《そのはら》基地が自分の用件などを取り合ってくれるとは思えなかったし、そもそも軍用回線でもない一般の電話がこの状況でまともに基地に繋《つな》がるかどうかも怪しい。
こんなとき、部長ならどうするのだろう、
部長に電話してみようか、
いや、今ごろ部長はもうとっくに具体的な行動に移っているだろう。どうせ家にかけてもいないだろうし、防諜《ぼうちょう》については人の百倍くらいうるさい部長がこれほど重大な場面で電話などという雑なツールを使いたがるはずがない。もし家にいたとしても「浅羽特派員、歌はいいよねえ」とか何とか適当なことを言われて切られてしまうのがオチだ。
浅羽の懊悩《おうのう》も知らぬげに、母は部屋に入ってくると夕子の隣《となり》にぐいぐいと身を割り込ませて窓の外をのぞいた。田舎《いなか》の町の夜空に何種類もの緊急《きんきゅう》車両のサイレンが鳴り響《ひび》き、それに町中の犬が遠吠《とおぼ》えで呼応している。通りでは近所の住人が大声で意見を戦わせており、北のミサイル攻撃《こうけき》だスパイの爆弾《ばくだん》テロだいや飛行機の墜落《ついらく》だ、といった言葉が切れ切れに聞こえてくる。
そこに、場違いなバイオリンの調べが割り込んだ。
『こちらは、西上草《にしかみくさ》、町内会です』
町内放送だった。初老の男の声が、木霊《こだま》にかき消されないように一語一語間を取って極端にゆっくりと喋《しゃべ》っている。「あらあの声|山平《やまひら》さんだわ、大変ねえこんな夜遅くに」と母がとんちんかんなことを言った。
『ただ今の、爆発につきましては、基地の方に、問い合わせを、しております、詳細が判明し次第、追ってお知らせ、いたしますので、住民の方々に、おかれましでは、外出を控え、冷静に、行動してください、繰り返します、こちらは、西上草、町内会です、』
放送は長々と続き、興奮《こうふん》した犬たちが一斉に遠吠えのボルテージを上げる。浅羽《あさば》は改めて夜空の彼方《かなた》に視線を向ける。煙の柱は風に吹き流されつつあり、殿山《とのやま》はその中腹から上を不吉な形の染みに覆《おお》い隠されているかのように見えた。
「――何があったんだろう」
何かしらねえ、と母がつぶやく。
双眼鏡《そうがんきょう》をのぞいていた夕子《ゆうこ》が振り返り、「そうだお兄ちゃん、ひょっとして明日学校休みになるかもよ」と明るい声で言う。どうやら、当初のショック状態からはだいぶ回復しつつあるようだ。ふと、棚の上のテレビが目に入り、
「ニュースで何かやってるかも」
リモコンを探すのももどかしく、浅羽はテレビに歩み寄って直接電源を入れようとした。そのとき戸口に父が現れて、
「おーい、わかったぞ」
父に視線が集中した。浅羽は、夕子は、そして母は父の続く言葉を待った。
父はしばし間を置き、オヤジの威厳《いげん》を顔中に漲《みなぎ》らせてこう言った。
「パイ大食いの世界新記録は、四十三個だったそうだ」
ひとり話の通じない夕子が、母と浅羽の顔を順に見上げて「――なに、パイ大食いって」と尋ねる。母も浅羽もそれに答えず、父は念のためにこう付け加える。
「テレビ局に電話して聞いたんだ」
◎
『番組の途中ですが、ニュースをお伝えいたします。つい先ほど、午後八時半ごろですが、自衛軍・米軍双方が拠点としております基地としては国内最大級の園原《そのはら》基地で、大規模な爆発が発生し、現在も延焼中であるという情報が入ってきました。えー、園原《そのはら》基地で大規模な爆発《ばくはつ》が発生し、現在も延焼中とのことです。――えっ? は、はい、
失礼いたしました、園原基地で発生した爆発は、北軍勢力のミサイル攻撃《こうげき》によるものであるとの未確認情報が入ってきました。繰り返します、園原基地で発生した爆発は北軍勢力のミサイル攻撃によるものであるとの情報が入りましたが、まだ確認は取れておりません。現在こちらでも情報が大変混乱しておりまして、』
『大宮《おおみや》です、現在わたくしの時計で午前一時四十五分であります、ご覧《らん》いただけますでしょうか、夜空が炎で赤く染まっております、今わたくしのいる場所からは、そうですね、5キロ以上はあるでしょうか、立ち上る煙と火災の赤い光がはっきりと見えます、爆発の発生した場所ですが、どうやら園原基地の敷地内ではないようです、現地の方の話によりますと、爆発が発生したのは園原基地の敷地内ではなく、基地付近の山林であるとの情報をこちらでは得ています、町には自衛軍の車両が多数出動しておりまして、スピーカーなどを通じて住民の方々に冷静に行動するようにとの呼びかけを行っており、』
『園原基地付近の山林で発生した爆発とそれに伴う火災は、午前三時一七分現在、ようやく鎮火《ちんか》の方向に向かいつつありますが、原因や死傷者が出ているのかなどの詳しい情報はまだ入ってきておりません。自衛軍側の記者会見は午前四時に予定されておりますが、米軍側からは未《いま》だに何の情報も降りてきていない状況です。ワシントン支局の水木《みずき》特派員によりますと、園原基地に関する情報はアメリカでも伝えられでおり、ほとんどのテレビ局は番組を中断してこのニュースを、――なに? ワシントン? は?
あー、ただ今新たな情報が入りました、自衛軍の記者会見が始まる模様です、先ほど午前四時予定とお伝えいたしましたが、予定を繰り上げて自衛軍の記者会見が始まる模様です、中継がつながっておりますので、』
『お早うございます。現在、午前七時を三分過ぎたところです。昨夜は遅くまでテレビを見ていて寝不足だという方も多いのではないでしょうか。この時間は予定を変更いたしまして、引き続き報道特別番組をお送りしております。
昨日の午後八時二十分ごろ、園原基地付近の山林で発生した謎《なぞ》の爆発に関しましては、一夜が明けた現在もなお国土防衛新法による第二級情報管制が解除されておらず、その詳細は判明しておりません。午前三時すぎに行われました記者会見で自衛軍は「米空軍輸送機の墜落《ついらく》事故であるという情報を得ている」との声明を発表しましたが、肝心の米軍サイドはいまだ完全な沈黙《ちんもく》を続けています。
本当に輸送機の墜落事故なのか、だとすれば、それは機械的・人為的な事故なのか、それとも何者かによる工作があったのか。あるいは輸送機の墜落《ついらく》事故ではないとすると、その真相は一体いかなるものなのか。この事件に「北」は何らかの形で関与しているのか、九月末の北軍勢力による三十八度海域の封鎖《ふうさ》行動と今回の一件とは関係があるのか。こうした疑問に対する回答はいまだに得られず、マスコミ各局各紙では爆弾《ばくだん》テロ説やミサイル攻撃《こうげき》説など、様々な推測が取り沙汰《ざた》されています。また、園原《そのはら》基地とその付近一帯は以前よりUFOの目撃《もくげき》事件が多発することでも知られており、今朝発売のスポーツ紙各紙はトップに「UFO墜落か!?」との見出しを掲げておりまして、混迷の度合いはさらにその深さを増しています。
それでは、これまでの経緯をVTRにまとめましたので、まずはそちらをご覧《らん》ください』
翌日、学校は休みにはならなかった。
浅羽《あさば》の家から学校までは5キロほどの距離がある。田舎《いなか》の住人にとっての5キロというのは大した距離ではなくて、とりわけ毎朝その距離をペダルを漕《こ》いで通学している浅羽にとっては「たったの5キロ」だ。
その「たったの5キロ」の道のりで、浅羽は何十台もの基地ナンバーの軍用車両と数知れぬ自衛官たちの姿を見た。あちこちで道路が封鎖され、交通整理をしている自衛官に別の道を行くよう何度も指示され、ようやくたどり着いた校門前では血に飢えたテレビ局のクルーとむくつけき体育教師たちが取材をするさせないの押し問答をしており、下駄《げた》箱には自分の上履《うわば》き以外には何も入っておらず、しかし教室には普段《ふだん》とどこも違わない伊里野《いりや》の姿があった。
伊里野の姿を見た瞬間《しゅんかん》に、唐突に、腰が抜けそうになるほどの安堵《あんど》を覚えた。
そこまでの安堵を覚えている自分が、自分でも意外だった。
さらに意外なことに、伊里野の席はクラスメートに取り囲まれていた。晶穂《あきほ》や清美《きよみ》、西久保《にしくぼ》に花村《はなむら》といった「浅羽つながり」の面々ではあったが、それ以外にも、普段は伊里野など眼中にないような顔をしていた連中も若干混じっている。
「えー? でもさ、なんにも教えてくれないってことないでしょ?」
伊里野はうつむいたまま小さく首を振り、蚊の鳴くような声で何か言った。
「うるせーよ花村聞こえねーだろ! で? なになに?」
伊里野はさっきよりもほんの少しだけ大きな声で「わたし、あのとき、避難《ひなん》してて」とつぶやくように言う。
「どこに?」
伊里野は「シェルター」とだけ答える。
「じゃひょっとして、爆発は全然見てないんだ?」
伊里野は誰とも目を合わせずにうなずく。なあんだ、という空気が流れる中で西久保が、
「ん? でもそれって、輸送機が落ちる前にはもう避難しろって言われてたってこと?」
伊里野は誰とも目を合わせずにうなずき、
「たまに、そういうことある。基地の飛行機が、故障とかで、うまく着陸できないかもしれないときとか」
「じゃ、基地の方ではその輸送機がもうヤバいって前々からわかってたわけだ」
伊里野《いりや》が今度は「うん」と声を出しでうなずく。
「じゃあれだ。ニュースでどっかのおっさんが言ってたみたいな、北の工作員が携行ミサイルで撃墜《げきつい》したとか、そういうんじゃないわけだ。もしそれだったらあっと言う間に墜落しちまって基地に知らせる余裕なんかないもんな。やっぱりエンジンの故障とかそういう理由で、ヤバいっすオレもうダメっすあきらめるながんばれがんばれみたいなやりとりがあって、だけど力尽きて墜落しちまったとか、多分そういうことだよな」
伊里野が「たぶんそう」とつぶやく。清美《きよみ》が「なあんだつまんないの。やっぱUFOじゃないんだ」とぼやくが西久保《にしくぼ》がすかさず、
「つまんないとか言うなバカ。人が死んでんだぞ」
「え、でもニュースでは、」
「ニュースが言ってんのは墜落の現場にいて爆発《ばくはつ》に巻き込まれた奴《やつ》はいないって話だろ。輸送機が落ちたんだぞ。輸送機にはパイロットやクルーが乗ってたに決まってんだろうが」
清美はどちらかと言えばお調子者のタイプではあるが、こういうときにヘソを曲げてしまったりしないのがエラい。伊里野に向き直って恐る恐る、
「――あ、その、ごめんね、そのパイロットの人たちってまさか、」
伊里野は初めて清美と目を合わせ、慌でて首を振り、
「知らない人」
晶穂《あきほ》がしみじみと、
「ふーん、やっぱり輸送機の墜落なんだ。でもよかったね、不幸中の幸いよね、避難《ひなん》しろって言われたってことはさ、ひょっとしたら伊里野の部屋の真上に落ちたかもしれなかったわけでしょその輸送機」
そうだそうだよかったよかった、という空気が流れる。そこで花村《はなむら》が、
「でもさあ、だったらそう発表すればいいじゃん。輸送機の墜落でした、って。けどニュースとかでは自衛軍も米軍もなんだか秘密めかしてんじゃん」
伊里野が「積荷のせいかも」とつぶやく。
「え?」
西久保がフォロー、
「秘密兵器でも運んでたんじゃねーの?」
「秘密兵器ってまさか、またダッチワイフじゃねーだろーな」
笑いが起こる。
以前、級長の中込《なかごみ》たちとの一件ではトイレに逃げてしまった浅羽《あさば》である。伊里野がまた似たような状況に陥っているのであれば、今度こそ飛び出していって身を挺《てい》して守ってやらねばならぬならぬならぬ。そう腹を決めて、離れたところから様子をうかがっていた。
が、どうやら、心配するほどのことはないらしい。
伊里野《いりや》の表情は終始固い。しかしそれはいつものことであるとも言えるし、戸惑いや気恥ずかしさだってあるだろう。それに、少なくとも周囲の連中は伊里野を受け入れているように見える。
浅羽《あさば》はひとり苦笑する。さて、今度は自分の心配をする番だ。伊里野を中心とするあの輪の中にさりげなく入っていくにはそれなりのスキルを必要とする。あれこれと考えて、その挙げ句に考えは一周して、やっぱり普通が一番だと浅羽は腹を決めた。おはようおはようと口の中で何度も練習し、浅羽は足を踏み出すタイミングを慎重に見計らう。3、2、1、
浅羽は、昔からよく物を失《な》くす質《たち》である。
ついこの間も鞄《かばん》につけていたキーホルダーを失くしたし、昨日は消しゴムをどこかに落としてしまったらしい。そして今日はシャーペンを失くした。昼休み終了の鐘《かね》が鳴り、トイレから戻ってきた浅羽が五限目の支度をしていると、普段《ふだん》からメインで使っているシャーペンがなくなっていることに気づいた。昼休みの間もずっとペンケースと一緒に机の上に出しっぱなしにしていたはずだから、どこかそのへんに落ちているかもしれないと思って見回していると、近くにいた女子生徒にスカートの中をのぞいていると誤解されて怒られてしまった。
まあいいか、と思えなくもない。
最近失くしたのはどれも身の回りの細々した、あきらめてしまえばそれで済むような物ばかりである。昨日失くした消しゴムなんて十円玉くらいの大きさしかなかったし、今日のシャーペンだって小学生のころから使っているようなボロいやつだ。とはいえ、真新しい消しゴムや別のシャーペンはどこかよそよそしくて、どうにも手の中で落ち着かない気はする。
五限目は松崎《まつぎき》の世界史のはずなのに、授業開始の鐘が鳴って三十分も過ぎてから教室に現れたのは河口《かわぐち》泰蔵《たいぞう》三十五歳独身だった。何事かと全員の視線が集中する中、河口は「言いたくはないが仕方がない」という顔をして、こう言った。
「今日はこれで終わりだ」
誰《だれ》もが意味をつかみかねている。
「掃除もしなくていい。今すぐ全員下校するように」
一瞬《いっしゆん》の後、教室に歓声が爆発《ばくはつ》した。
河口は「やっぱり喜びやがったこいつら」という顔をして、
「こらあーっ! 喜ぶなっ! 貴様ら今どういう状況にあるかわかっとるのか!?」
誰も聞いてはいない。河口は教卓をばんばん叩《たた》き、
「静かにせんかあっ! いいか、これは貴様らの安全を考慮しての措置だ! すなわち現在この園原《そのはら》市が、ひいてはこの国全体がそのくらいの危機的状況にあるということだ! よって、下校途中の寄り道なんぞは言語道断! まっすぐ帰宅した後は外出も可能な限り控え、別命あるまでおとなしく自宅で待機しているように! わかったな!?」
はあーい!
誠意のカケラも感じられない返事に河口《かわぐち》はこめかみの青筋をひくつかせ、毒を吐くような口調で職員会議での決定事項を伝えた。
河口はまず、今後しばらくは三日に一度の登校になることをしぶしぶ認めた(さらなる歓声が爆発《ばくはつ》し、河口は再び教卓をばんばん叩《たた》いた)。その登校日も授業は半日で終了し、部活動も休止となる。
「ああそれと、三日に一度の登下校の際にはヘルメット通学してもらう」
ブーイングが巻き起こった。ヘルメット通学――通称「ヘル通」――とは、今回のような非常事態が起きたときなどに、学校指定の黄色いヘルメットをかぶって通学することを指す。重くて暑くて恥ずかしいので生徒たちからは毛嫌いされているが、このヘルメットが実は金満園原市ならではの高級品であることはあまり知られていない。ガキ丸出しのまっ黄色は単に布製のカバーの色であって、中身は米軍が使用しているPASGTフリッツヘルメットとまったく同等の製品なのだ。アメリカ兵たちは自分たちのフリッツヘルメットを「Kポッド」もしくは「ケブラーポッド」と呼ぶが、生徒たちの黄色いそれは「イエローポッド」と呼んで区別しており、ヘル通の学生たちを見かけると「ヘイそこのガイズ、これからテルアビブでペーパーテストかい?」などとバカにするのだ。せめてカバーが黄色じゃなかったら、と生徒の誰《だれ》もが思っている。中身で勝負も結構だが、遠目にはまるで幼稚園児の通学帽にしか見えないというのはいかにもつらい。
「今日のところはこのまま見逃してやるが、登校日には馬に食わせるくらい宿題が出るはずだから今のうちから覚悟しておけ。いい気になって遊び歩いていると後悔する羽目になるぞ。おし、今日はこれにて終わり! 級長、号令!」
河口はヘル通と宿題で小さな勝利を拾ってどうにか溜飲《りゅういん》を下げ、喜び半分がっかり半分の雰囲気が充満する教室から出て行った。
とはいえ、休日が降ってわいたことに変わりはない。
ヘル通も宿題も二日後の、すなわち遠い未来の話である。とりあえずは今日を誰とどこでどう過ごすか、そんな相談をする声が教室の中を縦横に飛び交っている。
「よお浅羽《あさば》、西久保《にしくぼ》もさ、帰りにどっか寄ってこーぜ!」
さっそく来た。西久保は花村《はなむら》の提案に「おうよ」とうなずく。浅羽としても異存はない、ないのだが、
「あ、でも部活あるし」
「ねーよ! さっき河口が部活もしばらくは休止って言ってたろ!?」
学校側の休止宣言など新聞部には関係のない話である。水前寺《すいぜんじ》が正式な部への昇格を頑《かたく》なに拒み続けているのは、予算のつかないゲリラ部でいる限りは学校側のこの種の指図に従う理由もないからなのだ。
しかし、
「部活ならないわよ。浅羽《あさば》がひとりでやるって言うなら別だけど」
背後から晶穂《あきほ》の声。振り返ると、晶穂の背後には清美《きよみ》が、さらにその背後には伊里野《いりや》の姿がある。浅羽は晶穂に、
「部活がないって、部長がそう言ってたの?」
「部長が今日学校に来てるわけないでしょ? 今ごろきっとUFO墜落事件の取材に走り回ってるわ」
「――でもさ、だったらさ、」
「いーの。あたしや浅羽に声かけなかったってことは、ひとりの方が動きやすいって判断したってことじゃない」
晶穂が水前寺に対して何かと厳《きび》しいのはいつものことだが、それにしても、指示も仰がずに知らん顔というのはちょっと冷たいのではないかと浅羽は思う。それが顔に出ていたのか、晶穂は慌てて付け加える。
「あ、あたしだって別に、部長なんかほっとけばいいって思ってるわけじゃないからね。念のために昼休みに部長のクラスにも行ってみたけどやっぱりいなかったし、部室には書き置きが一枚残ってるだけだったし」
「書き置き?」
「あたしこれ読めないもん」
晶穂はポケットから四つに折りたたんだ紙を取り出した。浅羽はそれを受け取って机の上に広げてみる。西久保《にしくぼ》が興味津々《きょうみしんしん》でのぞき込み、
「――数字ばっかじゃん。なんだよこれ?」
「部長の暗号文」
西久保は呆《あき》れ、
「お、お前ら暗号で連絡事項のやり取りしてんの!?」
「うん」
西久保は大笑いして、
「馬鹿《ばか》じゃねえのお前ら!?」
否定はしたいが根拠がない。晶穂に向き直り、
「これの読み方、部長に教わらなかった?」
晶穂は口を尖《とが》らせる。
「だって、聞き流してたもん」
浅羽《あさば》はシャーペンを手に取り、暗号を平文に戻し始めた。花村《はなむら》はすげえすげえと感心し、西久保《にしくぼ》は馬鹿《ばか》だ馬鹿だとやかましい。浅羽は四|桁《けた》飛ばしの簡易解読で大雑把《おおざっぱ》に内容を把握して、
「――やっぱりそうみたい」
晶穂《あきは》が、
「そうって?」
「爆発《ばくはつ》事件の取材に行くって」
「それだけ?」
「あとは、ひとりで動くけど心配するなとか、各々で情報収集はしておくようにとか」
「なーんだ、やっぱりあたしの言う通りじゃない。つまり今日は部活は休みってことよ。ね、さっき清美《きよみ》と話してたんだけど、みんなでボウリング行かない?」
花村は一も二もなく賛成した。西久保は浅羽の反応を横目でうかがい、浅羽はそれでもまだ踏ん切りがつかない。部長ひとりで大丈夫だろうか、駅のトイレで幽霊《ゆうれい》の取材したときみたいにやり過ぎなきゃいいけど――
「――でも、やっぱり、」
と言いかけた瞬間《しゅんかん》に晶穂に背中を小突かれ、西久保に椅子《いす》の下で足を蹴《け》られた。なにすんだよ、と言う間もなく二人は浅羽の耳元に顔を寄せでひそひそ声で、
「馬鹿、お前が来るって言えば伊里野《いりや》も来るんだよ」
「そうよ、ぐずぐず言ってると鼻に割り箸《ばし》突っ込むわよ」
西久保が晶穂をまじまじと見て、
「お、おっかねえ脅し方する奴《やつ》だなお前」
「いつものことよ。浅羽にはこのくらい言わないとダメなの」
西久保がニタリと笑った。
「でも、お前としてはホントにこれでいいのかよ?」
晶穂は赤面した。むうっと頬《ほお》を膨《ふく》らませ、
「だ、だって、かわいそうじゃない! 伊里野って転校してきてからみんなと遊びに行ったことなんてないだろうし、今日なんかどうせみんなあっちこっち遊びに行くのにさ、ここで放っておいたらまた伊里野だけのけ者みたいになっちゃうじゃない!」
まさに頭越しの議論である。その頭が下から二人を見上げてこうぬかした。
「――あの、どうするか決まった?」
晶穂と西久保が同時に叫ぶ。
「それはこっちのセリフだ!」
晶穂に首根っこを引きずり上げられ、西久保に尻を椅子から蹴り出され、浅羽はたたらを踏みながら伊里野の目の前に立った。そのとき伊里野は清美からボウリングというものの説明を受けている最中で、いきなり浅羽が目の前に現れたことに驚《おどろ》き、
「――あ、あのさ、」
たちまちうつむき、
「これからみんなとボウリングやるんだけど、伊里野《いりや》も一緒に行かない?」
うつむいたまま、伊里野はずいぶん長い間|躊躇《ためら》っていた。
「――あ、えと、」
背中に針山のような視線を感じる。伊里野の背後では清美《きよみ》がさかんに口をぱくぱくさせているのだが、何を言いたいのかまったくわからない。
もちろん浅羽《あさば》だって、伊里野と一緒に遊びに行きたいのだ。
「絶対楽しいからさ、行こうよ」
ついに、言った。
「伊里野と一緒じゃなきゃつまんないよ」
うつむいたままの伊里野の顔が、みっともないくらいに赤くなった。ようやく、
「いく」
まるで幼児のような、ただひと言の返事。
ちなみに、浅羽はボウリングのスコアが100を超えたことがただの一度もない。うっかりすると60を切ったりする。
園原《そのはら》中学校からバス通りを東に1キロほど歩くと、釜藤川《かまふじがわ》という名前のしみったれた一級河川に突き当たる。河原の幅だけはやたらと広く、園原市にはありがちな無駄に立派な橋が架かっており、その橋を渡ると田んぼや畑に取り囲まれた新興《しんこう》商業地区が姿を見せる。中規模のデパートにショッピングモールにファミリーレストランにパチンコ屋にカラオケボックスにドライブスルーのファーストフード店。
国道やそのバイパスといった大きな道路から養分を吸い取って生きている街の典型のような場所で、とにかくどこを見ても駐車場と看板がデカい。田舎《いなか》にしては小洒落《こじゃれ》たこの一角を園原中学校の生徒たちは「川向こう」と呼んでおり、「試験期間終了などのハレの日の学校帰りにちょっと寄っていく場所」と認識している。とはいえ、財政上の問題からその立ち回り先はだいたい決まっていて、例えばボウリングならデパートの中にある「サンライズレーン」ではなく国道沿いの「釜藤ボウル」、といった具合だ。
道々、清美が晶穂《あきほ》に尋ねた。
「ねえ、晶穂は結局さあ、オトコよりも友情を取るわけ?」
釜藤川に架かる橋の上だった。浅羽と伊里野、それに西久保《にしくぼ》と花村《はなむら》はずいぶん先を歩いている。日差しが強く、今日も暑いが、それでも一時期よりはだいぶましだ。
「な、何よオトコって、あたしは別にね、」
すぐさま清美が苛立《いらだ》たしげに遮った。
「いーじゃんもう隠さなくったってさあ!」
晶穂《あきほ》は言葉を失《な》くす。
「あたしは浅羽《あさば》のどこがいいのか全っ然わかんないけど、でも晶穂が好きだっていうんなら加奈《かな》ぶーとの武力|闘争《とうそう》だってアリだと思うよ。けど、わけもわからずにその板ばさみにされるのはあたしイヤ。だから、そのへんの事情について情報の開示を求めます」
間が開いた。
口調こそ冗談めかしているが、晶穂は、清美《きよみ》が誠実であることを理解した。
スカートを押さえもせず、晶穂は空を見上げ、うん、と気合いを入れた。肩越しにちらりと振り返る。浅羽と伊里野《いりや》と西久保《にしくほ》と花村《はなむら》の姿が橋の山形《やまなり》の向こうに消えていく。これだけ離れていれば聞かれる気遣いはない。
今は、今だけは隠さなくてもいいと思えた。
橋の上は風が強くて、口にする言葉は端《はし》から風に吹き飛ばされて消えていくだろう。
「――今にして思えばさ。伊里野って、人間じゃなかったのよ」
晶穂は、そう言い切った。
「あたしにとっては、だけどね。学校に来ても誰《だれ》とも喋《しゃべ》らない、自分から友達を作ろうともしない、何ひとつ妥協するつもりもないし、自分からは絶対に手を汚さない――とかね、そんなふうに見えちゃってさ。クラスでのけ者にされるのも当然だって思ってた。あたし、そのあたりのことについては伊里野が悪いって今でも思う」
晶穂は足を止め、歩道の手すりに寄りかかった。
「人間扱いするにも値しない奴《やつ》だって、そう思ってた。けど浅羽はなんでか伊里野のこと庇《かば》うのよね。あたしもーあったま来てさあ、学園祭の準備してた頃《ころ》に、そのことでいっぺんだけケンカみたいになったこともあるよ」
ははあ、と清美はうなずいて、
「つまりあれ? 彼氏が車に夢中であたしのことはほったらかしとか、そういうのの仲間?」
いきなり卑近な例えを出されて晶穂は脱力するが、あのときのどうしようもなさは確かに、清美の例えに近い状況ではあったと思う。
そう、相手が「車」ではケンカにもならないのだ。
かつての自分の滑稽《こっけい》さに自分でも笑ってしまう。晶穂は続ける、
「伊里野を人間扱いしないってことは、伊里野とはライバルですらないってことだし、それだとそもそも勝ちとか負けとか成り立たないじゃない。決着をつけるためにこっちから歩み寄るのも癪《しゃく》だしさ」
ただひたすら「彼氏」が「車」に飽きるのを待つ以外になかった。だから浅羽とはケンカをしたのだ。――早く目を覚ませ、伊里野のどこがいい、あんな奴、かわいいとかかわいくないとかいう以前に、人間扱いするにも値しないではないか、そのことに気づいていないのはクラスの中でもお前だけだ。
しかし浅羽《あさば》は態度を変えず、急速に追いつめられていった晶穂《あきほ》は、ついに伊里野《いりや》を新聞部から放逐することを企《たくら》んだ。無理を承知で伊里野を取材に連れ出し、部にとってはまったくの役立たずであることを証明して、その事実を部長にねじ込むつもりだったのだ。
ところが、どこで何をどう間違ったのか。
鉄人屋《てつじんや》での死闘を経て、晶穂は、伊里野が人間であることに気づいてしまったのである。
「まあねー、晶穂って姉御肌なところあるしね」
「なにそれ」
「加奈《かな》ぶーってほら、何かにつけて危なっかしいじゃない。晶穂ならさ、いったん歯車が噛《か》み合っちゃえばもうほっとけなくなると思うよ。うん」
確かに、ほだされてしまった部分はあるだろう。
ともあれ、今の晶穂にとって、伊里野は友達にも恋敵にもなり得る存在となった。
今度こそ、決定的な敗北も完全な勝利もあり得るのだ。
「ってことは、じゃあ、」
「うん。あきらめてないよ」
晶穂は笑みを浮かべる。
「あきらめてなんかいないよ。口もきいてくれなかった相手とようやくまともにケンカできるようになったんだから。負けないよ。いつか校舎の裏に呼び出してぼこぼこにしてやる。そのときには伊里野も、今度こそ本気で殴り返してくると思う」
そのとき、はるか遠くから、
「おーい何やってんだ!! 早くしないと置いてくぞ!!」
橋の山形《やまなり》の向こうで、西久保《にしくぼ》が飛び跳ねている。
「行こ」
晶穂は清美《きよみ》の先に立って走り出す。清美は両目をぐるりと回して苦笑し、待って待ってと叫びながら晶穂の後に続く。
ちなみに、浅羽は体育の成績だってまずくはない。いつも水前寺《すいぜんじ》の隣《となり》にいるので目立たないが、運動神経は決して悪い方ではないし、球技をやらせたら「ものすごく地味に活躍《かつやく》するタイプ」である。なのに、嫌いではないのに、ボウリングだけはなぜか苦手なのだ。バスケもあまり得意ではないから、デカくて重い球がダメなのかもしれない。
だから、どうせならジュースを賭《か》けて勝負しよう、という話に浅羽は真っ先に反対した。
「だって、そんなのぼくが負けるに決まってるじゃん」
ボールを投げやりに選びながら、浅羽はまだぶちぶちと文句を言っている。左隣でボールを選んでいる西久保が、
「んっだよ情けねー奴《やつ》だな、根性出せ根性。伊里野《いりや》にいいとこ見せるチャンスじゃねーか」
「お、女の子に見られてるだけで勝てるんなら誰《だれ》も苦労しないよ」
右隣《みぎどなり》でボールを選んでいる花村《はなむら》が、
「いーじゃんかよジュースくらいケチケチすんな。おれ前から思ってたんだけどさ、お前ん家って実は結構金持ちだろ?」
「――どこからそういう発想が出てくるわけ?」
西久保《にしくぼ》が「言われてみれば」という顔をして、
「――そうか、そうだよな。だってお前、ノートパソコンも持ってればデジカメも持ってるし、他《ほか》にも無線機やら一眼レフやら何やら、」
「そんなのみんな部長からの借り物だよ」
花村が「なんだつまらん」という顔をして、ふと、
「ってことは、金持ちなのは部長ん家か?」
「うん」
浅羽《あさば》はきっぱりとうなずいた。花村がさらに、
「部長ドノの実家って何やってんの? 会社いくつも持ってるとか?」
「桃とぶどう」
「は?」
「農業。果樹園。部長の家って村上天神《むらかみてんじん》のずっと上の方にあるんだけど、あのへんの桃畑とかぶどう畑とか全部そうだよ。あと山とか。すごく古い家で、昔からあのへんの地主だったみたい。北海道戦争のときに畑半分くらい国に取られちゃったらしいけど」
花村がなぜかものすごくイヤそうに、
「っかー、んだよ土地持ちのぼんぼんかよ」
西久保も苦い事実を知らされたような顔つきで、
「――そういやあ、『水前寺《すいぜんじ》』って苗字《みょうじ》も何だか偉そうだしな」
「ぼくも部長ん家に行ったことって三回くらいしかないけどさ、すごかったよ家とか。なんだか古くて立派で。修学旅行って感じ」
西久保も花村も無言だ。
「あとね、お姉さんがすごい美人」
突然、
「浅羽君、退部しなさい! 新聞部を即刻退部しなさい!」
「そうです! そんな部長の下で働くのはやめておしまいなさい!」
ふたりとも顔に「うらやましい」と書いてある。
「でもね、お金持ちはお金持ちで色々あるみたいだよ」
こんなことまで喋《しゃべ》ってしまっでいいんだろうか――という気がしないでもなかった。
しかし、降ってわいた休日の開放感は、浅羽《あさば》の口を一層軽くしていた。
「部長、家のことなんてあんまり話したがらないけど、何だかお父さんとうまくいってないみたいだし、さっさと卒業してさっさと家出たいなんて言ってたこともあるし。それと部長ってたまに、普通なら『俺《おれ》ん家《ち》はさ』って言えばいいところを、『村上《むらかみ》の実家はさ』って言い方することあるんだ。――そんなスキ滅多《めった》に見せないけどね」
西久保《にしくぼ》が「なんか、昔の推理小説みたいな家だな」とコメントする。花村《はなむら》は「貧乏人には貧乏人の苦労があるんだからそれでチャラだっ! だったらおれは美人のねーちゃん付きの方を取るっ!」と力強く主張する。
「親に頼る部長、ってあんまり想像できないんだよね。あの性格からしてもさ。だから、部活で使ってる機材やなんかも、親におねだりして買ってもらったんじゃないような気がするんだけど――」
「――怪しいバイトでもしてんじゃねーの」と西久保。
「わかった。園原《そのはら》基地の死体洗いだ」と花村。
「ちょっとあんたたち、いつまでボール選んでるのよ」と晶穂《あきほ》。
ビリがみんなにジュースをおごる、のでは浅羽に対するリンチも同然なので、ぐーぱーでふたつのチームに分かれて得点を競い、負けた方のチームが勝った方のチームにジュースをおごるという線で話が決まった。となれば伊里野《いりや》にまずぐーぱーの説明をしなければならず、「結果はこっちで判断してやるからお前は何も考えずにぐーかぱーの好きな方を出せ」という西久保のひと言で済んだはずの説明が、「ぐーは石でぱーは紙だから本当はぱーの勝ちなんだけどなぜかと言うとでも今はそれは関係なくて」などと浅羽が余計なことを言ったせいで伊里野が混乱し、全員が一斉に喋《しゃべ》り始めて状況はさらに悪化し、しまいにはちょきの解釈をめぐつてハサミ派とピストル派の論争まで起こり、やっとのことで説明を聞き終えた伊里野はひと言、
「――浅羽はどっち出すの?」
西久保がこめかみを押さえつつ、
「――よしわかった、こうしよう。男女対抗戦だ。おれと花村と浅羽、島村《しまむら》と須藤《すどう》と伊里野。いいな?」
男子チームの投球順はじゃんけんで浅羽、西久保、花村と決まった。女子チームは晶穂、清美《きよみ》、伊里野の順らしい。
浅羽は一投目から期待通りのへなちょこぶりを発揮して見事なガーター二連発を決めた。西久保はいきなりのスプリットに泣いて六本のピンを倒すにとどまり、花村は手堅くスペアを拾う。再び浅羽がボールを手にして立ち上がろうとしたとき、
「おい、伊里野が投げるぞ」
花村に肩をつつかれた。隣《となり》のレーンを見れば、伊里野が水色のボールを抱えて棒を飲んだように立ち尽くしている。その背中に漂う緊張《きんちょう》感といったらただ事ではなく、すぐ横で清美が手取り足取りアドバイスしているのだが果たしてどこまで耳に入っているのやら、
「――やべ、見てるこっちまで緊張《きんちょう》してきた」
花村《はなむら》がぽつりとつぶやく。西久保《にしくぼ》が隣《となり》のレーンのベンチに身を乗り出してささやき声で、
「おい須藤《すどう》、いま気づいたんだけど、伊里野《いりや》ってこういうの得意なのか?」
晶穂《あきほ》もささやき声で、
「あれ見りゃわかるでしょ。ボールに触ったこともないんじゃないの」
「いやほらボウリングは初めてでもさ、球技のうまい下手とか運動神経のいい悪いとか」
「知らないわよそんなの」
「知らないってお前、体育の授業なんかではどうなんだよ?」
「だから知らないってば、伊里野って体育ずっと見学なんだもん」
伊里野の緊張が感染《うつ》ってすっかり弱気になってしまった花村が、
「なあ、そもそもボウリングって選択肢がババだったんじゃねえの?」
「言い出しっぺはあたしじゃないもん清美《きよみ》だもん! それに今さらそんなこと言ったってしょうがないでしょ!? カラオケとかよりは絶対マシよ! ――あーもう、見てらんないわ」
晶穂はやおら立ち上がると伊里野の世話を焼きに行った。清美と晶穂に挟まれてあれこれと指導を受けている伊里野が、ちらりと、背後にいる浅羽に緊張感の塊のような視線を投げた。
しかし、唯一浅羽だけが比較的落ち着いていた。
「だいじょうぶだいじょうぶ、へいきへいき」
そう言って笑いかける。
忘れもしない夏休みの最後の夜、初めて出会ったあのプールで、まったくのカナヅチだった伊里野は浅羽が少し教えただけですぐに泳げるようになった。伊里野の運動神経が決して悪くないことを浅羽は知っているのだ。
伊里野ならきっと大丈夫。
そんな浅羽の思いが、伊里野にうまく伝わったかどうかはわからない。
唐突に、伊里野がレーンに向き直った。いかにも重そうにボールを構える。晶穂と清美の励ましの声に背中を押され、滑りやすい床に戸惑いながら助走に入る。
晶穂と清美は思わず手に手を取り合って祈った。
そうだトイレだトイレはどこだ――緊張感に挫《くじ》けた花村は逃げる算段をしていた。
もうなるようになれだ――西久保はそんなことを思いながら伊里野の尻を見ていた。
伊里野が、投げた。
その瞬間《しゅんかん》、浅羽は小さく声を上げた。
「――あ、」
思い出した。
昨夜の謎《なぞ》の爆発《ばくはつ》と立ち上る煙を家の前の通りから見ていたとき、あれは園原《そのはら》基地の方角だとつぶやいたジャージ姿のオヤジ。あのときは、名前が思い出せなかった。
中野《なかの》だ。
中野のおじさん。下の名前は宗助《そうすけ》。
近所の水門に釣りに連れて行ってくれたのは、確か小学校四年生のころだったと思う。ところがあの日は一日粘って一匹も釣れなかった。中野のおじさんは気を遣ってアイスやジュースを買ってきてくれたりして、浅羽《あさば》としては、魚は釣れなくても全体としては楽しい一日だったのだ。ところが中野のおじさんは、自信を持ってオススメしたはずの水門のポイントで直之《なおゆき》ちゃんにただの一匹も魚を釣らせてやることができなかった不甲斐《ふがい》ない自分に腹を立てていたらしい。帰り際、中野のおじさんはやおら釣り道具を投げ捨て、足元からスイカほどもある大きな石を抱え上げて、これでもくらえとばかりに川に放り込んだのである。呆気《あっけ》に取られて見ていた浅羽は、子供心にも「大人気《おとなげ》ないことをするなあ」と思ったものだ。
浅羽がなぜ急にそんなことを思い出したのかというと、背後から見た伊里野《いりや》の投球フォームがまさに、ポウズの腹いせに川に石を投げ込む中野のおじさんの後ろ姿にそっくりだったからである。
これでもくらえ、という感じだった。
はっきり言えばファールだ。足取りを計り損ねた伊里野はレーン手前のラインを二歩も三歩も踏み越えていた。リリースのタイミングも遅すぎて、伊里野の手から放たれたボールは弧を描いて飛んでいき、どすんとレーンに落ちて何度かバウンドし、それでもどうにかこうにか転がっていったのだがその速度は見る間に落ちていき、ついにはピンを目前にして力尽きて止まってしまうかに思われた。
しかし、ボールは止まらなかった。
そして、ピンがうそのようにバタバタと倒れた。
上級者が投げたときの弾《はじ》け飛ぶようなそれではない、「隣《となり》のやつが倒れてくるからオレも倒れよう」という感じの、実に無気力な倒れ方である。だが、まぐれであろうが何であろうが、水色のボールがピットに落ちて姿を消したとき、ピンデッキに立っていたのは六番と十番のわずか二本だけだった。
「よっしゃあ――――――っ!!」
西久保《にしくぼ》が両|膝《ひざ》を叩《たた》いて叫んだ。こっそりトイレに逃げようとしていた花村《はなむら》がその叫び声に振り返り、自動的に再度セットアップされる六番ピンと十番ピンを目にしてあんぐりと口を開けていた。晶穂《あきほ》と清美《きよみ》が歓声を上げて伊里野に駆け寄る。自分の投球フォームがものすごく変だったことを自覚している伊里野はその場で真っ赤になってうつむいている。晶穂と清美に口々に誉めそやされてさらにうつむき、しかしその顔にようやく、恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。もじもじと振り返り、こわごわと浅羽の様子をうかがう。
――まずいぞこいつは。
しかし浅羽《あさば》はそのとき、爆煙《ばくえん》のフラッシュバックの中にいた。
――だってあれ、園原《そのはら》基地の方角だろ。
まさしく戦争に他《ほか》ならなかった。あれが戦争でなくて何だというのか。殿山《とのやま》の中腹に揺らめく炎の赤と、その照り返しを受けて夜空に立ち現れるキノコ雲。家の階段を四つん這《ば》いで駆け上がった、夕子《ゆうこ》の身体《からだ》が震《ふる》えていた、二次爆発の振動に窓枠が震えた、
ヘリが、爆心地にいる何かをバルカン砲で攻撃していた。
曳光弾《えいこうだん》の輝《かがや》きを、自分は確かに見たのだ。
見たと思う。
見たような気がする。
それともあれは、何かの見間違いだったのか。テレビでもそれらしいことなど何も報じられていなかったし、今朝、教室で伊里野《いりや》はあれが単純な輸送機の墜落《ついらく》事故であるような話をしていた。輸送機の墜落事故とバルカン砲はまったく噛《か》み合わない。もし、
このバカはこの大事なときに、とばかりに西久保《にしくぼ》が浅羽の足を踏んづけた。
浅羽は飛び上がり、西久保に抗議しかけてようやく周囲の状況を悟った。伊里野が自分を見つめており、それに倣《なら》う周囲の視線もまた自分に集中している。あらためて隣《となり》のレーンのピンデッキに目をやれば、残っているピンはわずかに二本。
うれしかった。もちろん。
しかしそれ以上に、伊里野の実力を伊里野以上に理解していた自分が誇らしかった。
満面の笑顔をもって、まずは伊里野に言う。
「だから言ったじゃん。伊里野なら大丈夫だって」
伊里野が再び赤面する。次いで浅羽は余裕たっぷりに周囲の視線を受け止め、大げさなんだよお前ら見る目なさすぎ伊里野はやるときゃやる奴《やつ》なんだよオレは最初からわかってたね、という顔をして、もう一度同じことを言ってやる。
「――お、おい。なんだかものすげえぞ」
西久保がそう言うのも無理はない。伊里野は二投目で六番と十番を外し、以降もガーターを五回鼻血を一回出しはしたが、4フレーム目あたりからストライクやスペアを連発し始めた。フォームはまだ多少おかしいが、ボールのコースは実に安定している。この面子の中で一番ボウリングのうまい清美《きよみ》はもはや完全にコーチの顔で伊里野の傍らに張りつき、
「ほら、さっきみたいに一番を正面から直撃《ちょくげき》するとまたスプリットになっちゃうよ。ボールをフックさせてスポットを狙《ねら》うの。一番と三番の間からボールを斜めに通過させる感じ」
「加奈《かな》ぶーってボール投げるときにピンを見てるでしょ。そうじゃなくてスパットを見るの。だってピンって遠いじやない、けどスパットは近いじゃない」
花村《はなむら》が呆《あき》れる、
「今日がボウリング初体験の奴《やつ》にするアドバイスじゃねえよなあれ」
8フレーム目、女子チームはすでに合計ポイントで男子チームを大きくリードしており、男子チームは懸命《けんめい》に挽回《ばんかい》を狙《ねら》うも絶望的なアキレス腱《けん》の存在は如何《いかん》ともし難く、このあたりから浅羽《あさば》は「鼻くそ地蔵」と呼ばれ始める。浅羽がガーターを出すたびに鼻くそをつけると家内安全無病息災などのご利益があるのだ。ポイント差が開きに開いた10フレーム目、伊里野《いりや》は最後の投球をストライクで締《し》め、クラスの誰《だれ》もがかつて見たことのない笑顔を満面に浮かべて、清美《きよみ》と、そして晶穂《あきほ》と両手を打ち合わせた。
終わってみれば、女子チームの圧勝だった。
というわけで浅羽と西久保《にしくぼ》と花村は、レンタルシューズのカウンターの隣《となり》に三台並んでいる自販機で、三人そろってジュースを二本ずつ購入している。まさしく三バカ大将の趣《おもむき》。
「でもさ、しようがないよ。島村《しまむら》のお父さんって元プロでしょ?」
「しょうがないのはお前だあっ!!」
左右からいっぺんに怒られた。浅羽が首をすくめていると、西久保は早くも自分の分のセブンアップに口をつけて、苦笑を漏らし、
「――でもまあ結果オーライだな。一時はどうなるかと思ったけど」
花村《はなむら》は浅羽の肩に腕を回してニタリと笑い、
「心配すんな、最後はちゃんとお前らだけ残してフェードアウトしてやっからよ」
猛然と口を開きかけた浅羽の背中を西久保と花村が「まあまあまあわかってるからみなまで言うな」とばかりにぐいぐい押す。三人はベンチへと戻り、三本のジュースをテーブルの上にどかりと並べた。西久保が偉そうに腕を組む。
「おら、約束のブツだ」
よろしい、と清美がうなずく。その隣で晶穂が、
「じゃあ、この後どうする?」
いい質問だった。この調子で次はカラオケ、という線はやはり冒険が過ぎよう。さりとて喫茶店でダベるというのも芸がなかろう。財政的な問題もあるし、さらに伊里野も問題なく参加できるものとなると難しい。誰もが「んー」と考え込んでいると、
「――あの、」
伊里野だった。
意外な出来事に全員の視線が集中した。伊里野は怯《ひる》み、
うつむき、
上目遣いに視線を上げ、こう言った。
「もう一回したい」
沈黙《ちんもく》が降り立った。
伊里野は再びうつむいてしまう。
沈黙《ちんもく》の理由は、伊里野《いりや》の提案が不服だったからではない。伊里野が自ら意見を主張した、そのことに驚《おどろ》いていたからである。
突然、西久保《にしくぼ》が不敵な笑みを浮かべて伊里野の挑戦を真っ向受けた。花村《はなむら》もそれに続いた。
「おーし上等だあ! てめえな、ちっとばかしまぐれが続いたからっていい気になるなよ!」
「今度こそこてんぱんにしてやるからな! でも今度はぐーぱーでチームを決めようね!」
どちらの言葉にも容赦がなかった。
友達に、そんな遠慮《えんりょ》は不要だからだ。
晶穂《あきほ》と清美《きよみ》も伊里野の肩を乱暴に突いてきつい冗談を飛ばす。西久保と花村の、晶穂と清美の、そして伊里野の笑顔を見つめながら、浅羽《あさば》は一抹の寂しさを覚える。
伊里野のナイトを気取っていられた日々は、もう終わったのかもしれない。
血迷うな、貴様の一体どこがナイトかと言われたら浅羽にはひと言もない。かっこいいことなど何ひとつできはしなかった。それでも、あれこれと心配し続けることくらいはできたし、伊里野は自分を頼ってくれていたと思う。
伊里野を独占したくない、と言えばそれは嘘《うそ》になる。
しかし、これまでずっとそうであったように、自分以外の誰《だれ》とも喋《しゃべ》らず、友達もおらず、クラスののけ者にされている伊里野であり続けてほしいとは、それが正しいことであるとは、どうしても思えない。
「じゃあ、次はアイス賭《か》けよう!」
浅羽は自ら提案した。望むところだ、とばかりに次々と同意の声が上がる。西久保が浅羽を横目でちらりと見て不敵に笑い、
「なんだやけに強気だな鼻くそ地蔵。よし! ぐーぱーいくぞぐーぱー! じゃーんけん、」
西久保がかけ声とともにぐーを出した。その隣《となり》の浅羽がぱーを出し、その隣の花村もぱーを出し、その隣の清美もぱーを出し、その隣の晶穂はぐーを出し、その隣の伊里野がぱーを出し、その隣でちょきを出している奴《やつ》がいた。
榎本《えのもと》だった。
今度の沈黙は、長く続いた。
「誰。このおっさんさん」
その沈黙を破ったのは、西久保の独り言のようなつぶやきだった。花村は露骨《ろこつ》に顔をしかめて招かれざる闖入者《ちんにゅうしゃ》をにらみつけており、晶穂も清美も困惑を隠せない。
そして、浅羽は驚きのあまり口もきけない。目の前に忽然《こつぜん》と出現した榎本をただ呆然《ぼうぜん》と見つめている。
記憶《きおく》にある榎本の姿とは、あまりにもかけ離れていた。
間違いない、確かに榎本だ。夏休み最後の夜のプールに現れた、部室棟の屋根の上で一緒にカップ麺《めん》を食ったあの榎本である。しかし雰囲気があまりにも違った。一日や二日の労苦で人がここまで落ちぶれるとは到底思えない。一体いつから風呂《ふろ》に入っていないのか、髪は乱れ顔は煤《すす》け、Yシャツだって汚れ放題のくせにネクタイだけがきちんとしているのが異様だった。落ちくぼんだ頬《ほお》は無精髭《ぶしょうひべ》にまみれ、アヒルのように突き出した唇によじくれたタバコをくわえている。ちょきを出したままの自分の右手を、赤の他人の死体の手相でも見るような目つきで凝視している。
それは、ある種の狂気を孕《はら》んだ目つきだった。
まるで、鏖戦《おうせん》を死に損ねた敗残兵の目つきだった。
体重を感じさせない音がした。
伊里野《いりや》がその場にへたり込んでいた。たったいま白昼夢から覚めたような顔をして、榎本《えのもと》の横顔を見上げている。傍目《はため》にもわかるほどに身を震《ふる》わせている。
榎本は右手から視線を上げ、浅羽《あさば》をまっすぐに見つめ、しかし伊里野に尋ねる。
「なぜ電話をしなかった」
伊里野は答えない。榎本はもう一度尋ねる、
「午後の電話をなぜしなかった」
伊里野は答えない。答えられない。榎本はようやく浅羽から視線を外し、ゆっくりと首《こうべ》を回《めぐ》らして伊里野を見下ろした。伊里野は尻だけで後ずさりしようとする。痙攣《けいれん》する喉《のど》から声にならない声をもらし、不器用な言葉遣いで何かを言おうとした。
「遊び呆《ほう》けて忘れていたのか?」
ごめんなさい、と言おうとしたのだろう。
その瞬間《しゅんかん》に榎本の右手が動き、伊里野の胸ぐらをつかんで力任せに引きずり上げた。
「ま、待ってくださいっ! あたしが無理矢理誘ったんですっ!」
この種の場合においては女の方が怖いものを知らない。晶穂《あきほ》が猛然とふたりの間に割って入ろうとする。が、榎本の右手はびくともしない。さらに力を込めて伊里野の胸ぐらを引き寄せる。双方の身長差がありすぎて、伊里野の身体《からだ》は半ば宙に浮いていた。レンタルシューズのつま先がかろうじて床をこすっていた。
「帰るぞ」
榎本が伊里野を強引に引きずっていこうとする。
「ちょっと待ちなさいよ乱暴やめてよ!! だいたいあんた一体|誰《だれ》なのよ!?」
晶穂はそれでもあきらめず、榎本の行く手に立ち塞《ふさ》がろうとする。榎本はわずかに歩調を緩め、開いている方の左手で晶穂を音もなく押しのける。晶穂はバランスを崩して痛そうな尻餅をつき、それを見た伊里野が表情らしい表情を取り戻す。胸ぐらをつかんでいる榎本の右手から逃れようとしで身をよじり、場内に響《ひび》き渡るような大声で叫ぶ。
「いや!!」
直後、榎本の上体が翻《ひるがえ》った。
伊里野《いりや》の身体《からだ》が弾《はじ》け飛び、色とりどりのボールが並ぶスチールラックに背中から激突した。
榎本《えのもと》の動きは小さく、一瞬《いっしゅん》だった。
表情も終始変わらなかった。
テレビドラマのそれのように、胸のすくようないい音も聞こえなかった。
だから、その場で見ていたはずの五人は、伊里野が榎本に拳《こぶし》で殴られたのだということをすぐには理解できなかった。伊里野がぐったりと床に崩折れる。胸元に血が滴り落ちる。いつもの鼻血ではない、殴られて出た鼻血だ。手足を力なく動かしてはいるが、半ば以上は失神しているような状態に見えた。榎本が足早に歩み寄り、伊里野のブラウスと髪をいっしょくたにつかみ、糸の切れた人形のような身体を引き起こす。伊里野はもう抵抗しなかった。榎本は背後を振り返ることもなく、伊里野を引きずるようにして出口へと向かう。
何もできなかった。
西久保《にしくぼ》も花村《はなむら》も、晶穂《あきほ》も清美《きよみ》も、そしてもちろん浅羽《あさば》も、自動ドアの向こうに消える榎本と伊里野の後ろ姿をなす術《すべ》もなく見送った。
次は自分が殴られるかもしれないと思うと、怖くて手も足も出せなかった。
かっこいいことなど、何ひとつできはしなかった。
静寂が耳についた。
西久保と花村と晶穂と清美と浅羽はようやく、釜藤《かまふじ》ボウルの場内がいつの間にか自分たち五人を残して無人になっていることに気がついた。
◎
『――さて、次も園原《そのはら》市関連のニュースです。謎《なぞ》の爆発《ばくはつ》事故から一日|経《た》った今日、園原市では自衛軍による厳重《げんじゅう》な警戒《けいかい》が続いていますが、北の工作員と見られる二人組の男が検問の突破を図って拳銃《けんじゅう》を発砲、自衛軍部隊がこれに応戦して二人を射殺するという事件がありました。
銃撃《じゅうげき》戦の舞台となったのは爆発事故が発生した殿山《とのやま》からほど近い、園原市|菊谷《きくや》地区の軍道228号線臨時検問所です。この検問所では昨日から自衛軍治安部隊による警戒活動が行われていましたが、今日の午後四時ごろ、車に乗った二人組の男が検問を通過しようとして係官の制止を受けました。係官の質問に対し二人は当初、アマチュアの天体観測家であると自称していましたが、不審を感じた係官がさらに追及しようとしたところ、助手席に乗っていた男が突然拳銃を発砲し、係官ひとりが軽傷を負いました。
二人はさらに発砲を続けながら車を急発進させて逃走を図りましたが、治安部隊が自動小銃でこれに応戦、車は検問所から北西に50メートルほど離れた路上で大破、炎上しました。すぐに火は消し止められましたが、二人はすでに死亡していたということです。
死亡した二人についての詳しい情報は発表されでいませんが、大破した車の中からは拳銃の実弾数十発と手投げ弾二個が発見されており、自衛軍は二人が北の工作員である可能性が強いと見て、さらに詳しい調査を行うとしています。――さて、次も園原《そのはら》市関連の』
『そんなことだから! そんなことだから! 一体何度言わせれば気が済むんだっ! あなたたちは何を見ても何を聞いても十年一日の解釈を繰《く》り返すばかりだ! あなたたちには過去に学ぼうという姿勢がまったくない! いいですか、今回の事件はかつて世界中で発生した数多くのUFO墜落《ついらく》事件と非常によく似ています! 反重力機関の破壊《はかい》による大|爆発《ばくはつ》、異常なまでに迅速な軍の介入、政府機関も含めた当局の秘密主義と二重二転する報道内容! とりわけ、あのロズウェル事件を経験した米軍が現在に至るもひたすら沈黙《ちんもく》を守っているのは、今回の事件の裏で非常に深刻な事態が進行しているからに違いないんです! 私のさる知り合いに、定期的に宇宙人たちとコンタクトを取っている超能力者がいます! 彼の名前はここでは申し上げられませんが、彼は何ヶ月も前から今回の事件を』
『お早うございます、園原市より中継でお伝えします、爆発事故発生以降、市内の小中学校では臨時休校が続いていますが、今日は園原市立園原中学校の三日に一度の登校日に当たりまして、通りには黄色いヘルメットをかぶって学校に向かう生徒たちの姿が見られます、このヘルメットは、通学中の生徒の安全を確保する目的で、園原市が小中学生を対象に無料で貸与しているものですが、小さな身体《からだ》に不釣合いなヘルメットをかぶって信号待ちをする生徒たちの姿を見ていますと、今回の事態の深刻さをひしひしと感じずにはいられません、
先日|菊谷《きくや》地区で、自衛軍治安部隊との銃撃《じゅうげき》戦の末に射殺された二人の男の正体はいまだ判明しておりませんが、園原市では以前から実際に北の工作員によるスパイ活動が何度も摘発された過去があり、住民の方々は一層の不安を募らせています、このような住民の不安につけ込む形で、ガスマスクや防弾チョッキといった商品を法外な値段で売りつける業者が暗躍《あんやく》しており、治安部隊ではそうした業者への取締《とりしま》りを強化すると共に、住民の方々に冷静な行勤を求める呼びかけを続けています、しかし、他の地域に住む親族などを頼っての疎開がすでに一部で始まっており、今後の北軍情勢の推移次第では、その数はさらに増加していくことが予想されます、爆発事故発生より三日目の園原市、菊谷地区より大宮《おおみや》がお伝えしました』
通学途中、街は、自衛軍に占領されているかのように見えた。
一般の車の姿などめったに見られず、普段《ふだん》のこの時間ならすでに営業を始めているはずの店がシャッターを下ろしている。川沿いの道を自転車で走っていると、でたらめな編隊を組んだツインローターの輸送ヘリに頭上を追い抜かれた。傍らの土手の上を見上げれば、自衛軍の無線中継車両が一台だけぽつんと止まっている。そのすぐそばを腰の曲がった老婆が杖《つえ》代わりのカートを押しながら通り過ぎていくが、車両の立ち番を勤める自衛官は朝曇《あさぐも》りの空を背景に徴動だにしない。
あの黄色いヘルメットのことについて言えば、何だかんだと文句を言いつつも、指示通りにきちんとかぶって登校している生徒が割合としては一番多かった。しかし、その次に多かったのはヘルメットのあごヒモを鞄《かばん》に結びつけてぶら下げておくというパターンで、連中は学校に着く直前になると何食わぬ顔でヘルメットを頭にかぶせ、校門で目を光らせている教師たちのチェックから逃れるのだった。校舎の中に入ればもうヘルメットは脱いでもかまわない。靴と一緒に下駄箱の中に押し込んでおいてもいいし、教室まで持っていって自分の机のわきにぶら下げておいてもいい。
「え――っ!? あれ伊里野《いりや》のお兄さんなの!?」
晶穂《あきほ》の大声が寝不足気味の頭を痺《しび》れさせる。浅羽《あさば》はヘルメットを机のわきにぶら下げ、暗い顔でうなずいて、壁《かべ》の時計にちらりと視線を走らせる。一限目開始五分前だった。
「――詳しい事情はぼくも知らないんだけど、でも、前に伊里野の口からもそう聞いたし」
今朝の話題はもちろんそれ以外にはあり得ない。――ボウリング場に突如現れて、こともあろうに伊里野をぶん殴って連れ去ったあのウンコ野郎は一体何者なのか。西久保《にしくぼ》が浅羽の言葉に顔をしかめて「ほんとかよそれ、あんま似てなかったじゃん」とつぶやき、花村《はなむら》は「あんなの普通だろ、もっと似てない兄弟ゴロゴロいるよ」と指摘し、そのとき清美《きよみ》が何かを思い出したような顔をして、
「あ、そう言えばあたしも聞いたことある。あいつ加奈《かな》ぶーのこと『伊里野』って名字《みょうじ》で呼ぶらしいよ、兄妹なのに」
浅羽は鞄を机の上に投げ出して席につく。花村が、
「わかった。腹違いだ」
その可能性はある、と浅羽は思う。浅羽としても、あの男と伊里野がごく普通の兄と妹の関係であると信じているわけではない。むしろ、実はまったくの赤の他人なのではないか、という気さえする。
「あのふたり、名字が違うらしいんだ」
浅羽は実に歯切れの悪い口調で、
「自分では『榎本《えのもと》』って名乗ってた。下の名前は知らない。兄妹なのにどうして名字が違うのかって伊里野に聞いてみたこともあるんだけど、教えてくれなかった」
そこで西久保が今さらのように、
「待てよ。お前、あいつと何度か会ったことあるのか?」
浅羽がうなずく。こいつあたしの知らないところでまた、と晶穂が表情を曇らせるが、浅羽はそのことに気づかない。半ば物思いに沈みながら、
「いつもはもっとパリっとした格好しててさ、実際に話してみてもいい人っぽい感じだったんだ。伊里野のこといつも気にかけてて、どう間違ってもゲンコツで殴ったりなんかしないと思ってたんだけど、どうしてあんな――」
殴るフリをしたのかと思った。
以前に何度も顔を合わせていただけに、浅羽《あさば》はあのとき、榎本《えのもと》が伊里野《いりや》を本当に殴ったのだということを誰《だれ》よりも理解できないでいた。伊里野が連れ去られた後、誰もいないボウリング場に取り残されていることに気づいた五人は、その不可解さと薄《うす》気味悪さに恐れをなして、ろくに言葉を交わしもせずに散り散りに逃げ出してしまったのだ。
「どうだかな。人は見かけじゃ判断できねえぞ」
似合わないセリフだなあ、という周囲の視線を受けた花村《はなむら》はさらに勢い込んで、
「いやほんと。ギャクタイってそんなもんなんだよ。昔おれが帝都に住んでたころさ、近所に美人で有名なおばさんがいたんだ。いつも高そうな和服なんか着ちゃってさ、虫も殺さねえような面《つら》してさ。それがある日いきなり自宅にガサ入れ。後で聞いた噂《うわさ》じゃあ、そのときまだ小学生だった娘がおねしょするたびに木刀で」
清美《きよみ》が花村の背中をバシバシ叩いた。
「やだもーこんなときにへんな話やめてよ!」
「んだよ痛えな、しょうがねえだろホントにあったことなんだから。――あ、そうだ! いいこと思いついた。あのさ、おれらみんなで金出しあってアパート借りるんだ。で伊里野がそこに住むの。であの暴力兄貴には住所とか電話番号とか教えないの」
花村がまた突飛なことを言う。晶穂《あきほ》と清美が「あんたってほんっとバカね」と口をそろえ、花村がそれに口答えをして言い争いになる。しかし浅羽と西久保《にしくぼ》は、花村の心情を何となく察して黙《だま》っていた。花村には、転校に次ぐ転校を繰り返して苦労を重ねてきた過去がある。曲がりなりにも伊里野と友達になった今、花村は、やはり転校生である伊里野にかつての自分の姿を重ね合わせているに違いない。そして、悪気はなかったにせよ、自分はそんな伊里野をこれまでずっと放置してきたのだという罪悪感も手伝って、伊里野がいま苦境にあるのならばどうにかして救ってやりたいと思っているのだろう。
浅羽はため息をつく。
何かの呪《のろ》いでもかけられでいるのではないか。せっかく、ようやく伊里野に友達ができたと思ったら今度はこれだ。伊里野が学校に来てくれたら、せめて今ここにいてくれたら――背後を振り返って、空っぽの伊里野の席を見つめてそう思わずにはいられない。これまでの経験からして、伊里野はそもそも学校に来ないか、あるいはとんでもなく早い時間から来ているか、のどちらかである。もうすぐ一限目が始まる。この時間になっても姿が見えないのなら、今日は絶望ということだ。浅羽は教室の扉を未練がましく見つめ、伊里野がその扉を開けて教室に入ってくるところを夢想した。
伊里野がその扉を開けて、教室に入ってきた。
「伊里野っ!!」
自分でもびっくりするほどの大声が出ていた。
西久保《にしくぼ》と花村《はなむら》と晶穂《あきほ》と清美《きよみ》が、それこそ背筋に電流でも流されたような反応を見せた。その他大勢も浅羽《あさば》の大声に何事かと顔を上げ、教室中の視線が伊里野に集中した。
そして、変わり果てたその姿に、しばらくは誰《だれ》ひとり、声ひとつ上げなかった。
伊里野《いりや》の髪が、真っ白になっていた。
一限目開始の鐘《かね》が鳴った。
伊里野が自分の席へと歩いていく。無表情は今に始まったことではないにしても、足取りがおかしい。まるでひどい風邪《かぜ》でも引いているかのような極端に慎重な足運びで、机の足に蹴《け》つまづいてよろめき、
浅羽が席を、西久保と花村と晶穂と清美が床を蹴って、邪魔《じゃま》な机を飛び越え椅子《いす》を跳ね飛ばして伊里野に駆け寄った。
幾本もの腕に助け起こされ、そのときになって伊里野はようやく、自分の周りにいるのが誰《だれ》と誰と誰と誰と誰なのかを理解したらしい。普段《ふだん》の半分も生気の感じられない白い顔に、ぎこちない笑みが浮かぶ。
一体何から尋ねたらいいのか、誰もわからなかった。
清美が突然、この期に及んでも事態を無理矢理いい方向に解釈しようとして、錯乱《さくらん》気味に、
「か、加奈《かな》ぶー髪染めたんだ! ぷ、プラチナブロンドってやつよね!」
虎を称して猫《ねこ》だと言い張るようなものだった。ちなみに髪を染めるのは校則違反である。
伊里野が鞄《かばん》とヘルメットを机の上に置いて席につく。浅羽はあらためて伊里野の髪を見つめる。出会い頭《がしら》の衝撃《しょうげき》も冷めてみれば、真っ白というのは正確な表現ではない。髪全体の色素の三分の二くらいがごっそり抜け落ちてしまった感じだ。見る角度や光の当たる方向によってもだいぶ印象が違う。しかし、それにしても――
「何やっとるか貴様ら! さっさと席につけ!」
西久保が舌打ちをした。
浅羽は奥歯を噛《か》みしめた。
河口《かわぐち》泰蔵《たいぞう》三十五歳独身が戸口から身を乗り出して怒鳴っている。その怒鳴り声を背に受けながら、浅羽は忙しく頭を働かせる。まずい時にまずい奴《やつ》が、よりにもよってなぜ河口が、一限目は岸本の英語のはずなのに――
河口はのしのしと教壇《きょうだん》に上がる。誰かが、
「せんせー、一限目は英語です。岸本先生の」
「一限目は自習だ」
河口は教卓に両手をついて、そう言った。
「岸本先生は家庭の事情で、ご家族と一緒に一時帰郷することになった。というわけで一限目は自習だ」
つかの間、教室の中に何とも言えない様な空気が流れた。
ズラかりやがった――誰《だれ》かのそんなつぶやきが聞こえた。
家庭の事情とはよく言ったものだ。それが「疎開」の娩曲《えんきょく》表現であることに、教室にいる生徒の全員が気づいていた。それに、岸本が疎開をするならするで、もう少し早めに何かの連絡がありそうなものである。一限目の鐘《かね》もすでに鳴った今になってようやく河口《かわぐち》が知らせに来たということは、学校側が岸本の不在の理由を把握したのもつい先ほどのことに違いなく、岸本が夜逃げも同然の疎開をやらかしたことは明白だった。
河口は乱暴に教卓を叩《たた》き、
「おらあっ、何度も言わせるな! さっさと席に、」
気づいた。
河口は、最初から気になってはいたのだ。いつまでも席につこうとしない生徒たちと、教室に漂うどこか物言いたげな空気。自分が話をしているときも生徒たちの関心は自分の方に集中せず、その何割かが、教室の中のどこかにある小さな穴から漏れ出していた。
河口はようやく、その穴の在処《ありか》に気づいたのだ。
教室の一番後ろの、廊下側から二番目の席。
その席の周りに、浅羽《あさば》と西久保《にしくぼ》と花村《はなむら》と須藤《すどう》と島村《しまむら》がいる。まるで何かを、あるいは誰かを背後に隠しているかのように身を寄せ合って立っている。オールスターの顔ぶれだな、と河口は思った。本人たちはさりげなくやっているつもりかもしれないが、教壇《きょうだん》とはこういう生徒の小細工を見破るためにあるのだ。河口は鼻を鳴らし、教壇を降りて、問題の席にゆっくりと近づいていく。
もうだめだ、と浅羽は思った。
河口が近づいてくる。口元に捕食者の笑みを浮かべて。こうなったらもう何を言っても聞きやしないだろう。それでなくても、自分たちだって事の経緯《けいい》を知らないのだから満足な説明などできないし、伊里野《いりや》はそもそも説明をしようともしないだろう。西久保のわきを肘《ひじ》で突く、おい西久保、どうしよう、どうすればいい、お前頭いいんだから何か考えろよ、こんなとき部長なら一体、
河口が目の前に立ち止まって、言った。
ひと言だった。
「どけ」
万策が尽きた。
「先生違うんです! だからこれはその、先生も見たらびっくりすると思うんですけど、これはそういうんじゃないんです! つまり、」
晶穂《あさほ》だった。浅羽《あさば》は心の底から尊敬した。
しかし河口《かわぐち》は強引に晶穂を押しのけ、浅羽を押しのけ西久保《にしくぼ》を押しのけて、伊里野《いりや》の白い髪を目にして息を呑《の》んだ。
「な、」
伊里野はじっと席についたまま、瞬《まばた》きもせずに机を見つめている。
河口はあっと言う間にメートルを上げた。
「なんだそれは! おい伊里野、何とか言わんか! この御時世に髪なんぞ染めおって!」
案の定だ。河口はやはりそういう解釈の仕方をした。しかし、浅羽の頭の中で理性を担当しているもう一人の自分が、河口がそう思うのも無理もないとささやいていた。何もしないで、しかもわずか三日やそこらで人間の髪の毛からここまで色が失われてしまうなど、普通ならまずあり得ない現象だ。
「転校生だから校則を知らなかったなどとは言わさんぞ! なあ、貴様すこしたるんでるのと違うか? 学校が三日に一度になってうかれとるんだろう? いま世の中がどういう状況にあるのかわかっとるのか? んなこた自分にゃ関係ないってか? こういう時だからこそ規律が大切だということがなぜわからんか! ああ!?」
理性担当の自分が、伊里野を救いたくば冷静であれとささやき続けている。まずい、河口はいったん怒り出すと自分の言葉に自分で興奮《こうふん》してどんどん我を忘れていくタイプだ。そして、こっちの陣営にも似たような性格の武闘派《ぶとうは》が約一名いる。今さら河口に何かを理解してほしいなどとはこれっぽっちも思わないが、何としてでも迅速に事態を収拾しないと本当の戦争になってしまう。
「――あ、あの先生!」
勇気を振り絞って、浅羽は口を挟んだ。
にらみつけてくる河口が、単純に恐ろしかった。
「違うんです、本当に違うんです。――えっと、ぼくらも詳しくはわからないんですけど、でも本当に、」まずい、河口が自分の言葉の回りくどさに苛立《いらだ》っている、「あの、本当に違うんです、これは別に染めたんじゃなくて、つまりその、あ、そうだ、ほら、伊里野っていつも薬たくさん飲んでるし、ひょっとしてその副作用とかで、伊里野だって何も好きでこんな」
よりにもよって、浅羽が言うべきではなかったのだ。
以前にも似たようなことがあったというのに。
河口はあっけなく激昂《げっこう》し、伊里野の白い髪を右手でつかみ、そして、本当にこう言った。
「だったら黒く染めてこんかあっ!!」
すぐそばにいた晶穂の頭の中から「ぶちっ!!」というものすごい音が聞こえた。
「おら立てっ! 職員室で油を絞ってやる!」
河口の右手が白い髪をぐいと引いて伊里野を立たせようとした。言葉だけではない、伊里野に対する具体的な暴力を目にした浅羽《あさば》の理性担当が突然態度を変えた。一切の職務を放棄して親指を下に向けたのだ。
最悪だった。
この状態の河口《かわぐち》に何を期待しても無意味だし、浅羽と晶穂《あきほ》はすでに止まらない列車に乗っていたし、西久保《にしくぼ》や花村《はなむら》や清美《きよみ》にしたところで果たして止める側に回ったかどうかは怪しい。このままいけば、最終的な事態の行き着く先は職員室ではすまなかった可能性すらある。
しかし、そのとき河口が突然身を強《こわ》ばらせて自分の右手を見つめた。
そして、まずは浅羽と晶穂が、次いで西久保と花村と清美がそのことに気づいた。
河口の右手は、伊里野《いりや》の白い髪ひと房を鷲《わし》づかみにしていた。河口は伊里野を立たせようとして、そのまま右手をぐいと引いたのだ。
たったそれだけのことで、河口がつかんでいたひと房の白い髪は、その半数以上が根元からずるりと抜け落ちて垂れ下がっていた。
誰《だれ》もが凍りついていた。
誰もが凍りついている中で、伊里野だけが動いた。
ゆっくりと顔を上げ、予知したかのように校内放送用のスピーカーを見上げた。
ノイズ。
校歌のイントロ。
『伊里野|加奈《かな》さん、田中《たなか》さんから電話ですので職員室まで。伊里野加奈さん至急職員室』
あっさりしたものである。田代《たしろ》の放送も近頃《ちかごろ》ではすっかり簡略化が進んだ。この調子でいけば、最後には『田中』『鈴木《すずき》』『佐藤《さとう》』のひと言だけになるかもしれない。
伊里野が立ち上がる。
右手に鞄《かばん》を、左手にヘルメットを提げて、伊里野は踵《きびす》を返して一歩を踏み出し、つん、と後ろ髪を引かれたように立ち止まった。
いや、本当に後ろ髪を引かれたのだ。
凍りついたままの河口の右手が、抜け残った髪をまだつかんでいたのである。
伊里野は斜めに振り返り、無表情に河口を見つめ、言った。
ひと言だった。
「はなせ」
命令を受けたロボットのように、河口の右手がパカッと開いた。
抜け落ちた髪が宙に舞い、抜け落ちなかった髪が主《あるじ》の歩みに引かれて逃げていく。
伊里野が、教室を後にする。
いけない。
伊里野を行かせてはいけない。
かつて伊里野《いりや》は何度となくあの放送に呼び出され、どこかに行ってしまって、そして帰ってきた。しかし今度は、今度だけはだめだ。伊里野を止めなくてはならない。
このまま伊里野を行かせたら、今度こそ帰ってこない。
そんな予感に突き動かされて、浅羽《あさば》は教室を飛び出した。廊下は相も変わらず散らかり放題で、三日分の砂埃《すなぼこり》がうっすらと積もった木目の床はひどく滑りやすくて、浅羽は何度も何度も転びそうになりながらも走り続けて、ようやく、
「伊里野あっ!!」
一階へと下る階段の踊り場に伊里野がいた。
足を止め、大きな窓からの光を背に受けてこちらを仰ぎ見る伊里野の髪は、本当に真っ白に見えた。
「行くなよ!」
二階の廊下に立ち尽くし、それきり浅羽は何を叫べばいいのかわからなくなって、
「まだ一限目だぞ! これじゃ学校来た意味ないじゃないか!」
浅羽をまっすぐに見上げて、伊里野は躊躇《ちゅうちょ》なく答える。
「あるもん」
思いがけず伊里野の姿が滲《にじ》み、浅羽は慌てて目をこする。そのとき、浅羽を見上げていた伊里野の視線が不安げに揺れ動き、
「――浅羽は、」
そのまま伊里野は目を伏せて、つぶやくように尋ねる。
「浅羽は、疎開する?」
踊り場で目を伏せている伊里野の表情は、二階の廊下からではまるで見えなかった。ただ髪の白さだけが目に焼きつくのみだった。
再び、つぶやくような問いが聞こえた。
「浅羽は、どこか行っちゃったりする?」
「しないよ」
それ以外の答えはあり得なかった。
「しないからさ。ぼくは逃げないから、どこにも行かないからさ、待ってるからさ」
どうしても震《ふる》えてしまう声が恥ずかしくて、それ以上は喋《しゃべ》れなかった。
伊里野が、鞄《かばん》を足元に置いた。
両手でヘルメットをつかみ、くるりと逆さにして、まっ黄色のカバーを手際よく外して床に投げ捨て、カーキ色の本体をむき出しにしたフリッツヘルメットを、すぽん、と頭に乗せた。
あごヒモをぶらぶらさせながら二階の廊下を見上げ、伊里野はこう言って浅羽に笑いかける。
「だいじょうぶだいじょうぶ、へいきへいき」
そして伊里野は一階へと降りていき、浅羽の視界から姿を消した。
消えずに残ったのは、真っ白な髪に縁《ふち》どられた、精一杯の強がりの笑みだけだった。
水前寺応答せよ・後編
[#改ページ]
『――が現実のものとなりました。自衛軍からの公式の情報です。繰《く》り返します、北軍|潜水艦《せんすいかん》部隊の一次|警戒《けいかい》水域への進入が、海上自衛軍偵察機によって確認されました。北軍側はつい先ほど、共和国の報道機関を通じて声明を発表しておりまして、今回の動きを「通常の演習行動である」と説明していますが、自衛軍は「このタイミングでの領海侵犯は事実上の宣戦布告に等しい」と激しく非難し、当該水域からの即時退去が行われない場合には撃沈《げきちん》もやむなしとの姿勢を明らかにしています。それでは自衛軍記者会見の模様をVTRで――』
例えば、コンビニエンスストアが宅配便の荷物の受け付けを拒否し始めた。レジ横に出ている張り紙によれば、業務の性質上、不特定多数より委託される荷物の『安全性』についての確認が困難であるため、諸状況が改善されるまでサービスの提供を見合わせる、とある。コンビニの外の駐車スペースには自衛軍の装甲車両が止まっており、困惑顔の自衛官がへっぴり腰で使い捨てカメラを構え、喜色満面でピースサインを出す女子高生二人組にレンズを向けてシャッターを切っている。
『――デモ隊は当初、拡声器を通じて今回の自衛軍の決定に抗議する街宣活動を行っていました。しかし、群集の一部が警備拠点に対して投石を繰り返すなどしたために治安部隊が催涙ガス弾などを使用して鎮圧《ちんあつ》行動を開始、現在までに少なくとも二十名以上の負傷者が出でいる模様てす。自衛軍による鎮圧行動が行われたのは国土防衛新法の成立以来初めてのことですが、現場に残されたデモ隊の街宣車からは自動発火式の特殊火炎ビンも発見されており――』
天気予報が放送されなくなった。ニュース番組は有事の際の心得を説くコーナーを新設して尺を合わせ、新聞は毒にも薬にもならない政府広報で紙面の穴を埋めている。電話でしかるべき番号をダイヤルしても、受話器から聞こえてくるのは自動応答のこんなアナウンスだ。――現在、国土防衛新法による情報管理が行われており、天候に関する情報は軍事機密の指定を受けでいます。お住まいの地域の週間予報をご希望の方は、最寄りの自衛軍広報課にて申し込みの手続きを行ってください。
『――草壁《くさかべ》です、帝都高速水城サービスエリアから中継でお伝えします、ご覧《らん》いただけますでしょうか、大変な渋滞です、地方へ疎開する車の大渋滞が発生しています、現在時刻は私の時計で午後五時四十五分ですが、中継のためにこちらに到着した午後四時ごろから、車の列はまったく動いておりません、車を捨てて徒歩で脱出を図る人々が後を絶たず、自衛軍治安部隊は放置された車の撤去《てっきょ》に追われています、つい先ほども、急病人を搬送しようとした治安部隊の車両を人々が取り囲み、渋滞の解消を求めて激しく詰め寄る光景が見られ――』
最近、全国の医療《いりょう》器具メーカーや製薬会社に「自衛軍野戦四課」を名乗る問い合わせの電話がしばしばかかってくる。電話の主はみな実に愛想のいい話しぶりで、応対した社員に例外なく「自衛軍もようやく民間企業を見習うようになったか」と思わせた。問い合わせの内容は、医療器具や医薬品の在庫量の確認である。園原《そのはら》市内に居を構える某大手製薬会社は、『シプロフロクサチン』と『ドクシサイクリン』の備蓄が現在どれだけあるか、という問い合わせを受けた。応対した担当者は受話器を置いて、たったいま交わしたばかりの会話の内容を反芻《はんすう》している。シプロフロクサチン、ドクシサイクリン。いずれも、炭疽菌《たんそきん》の感染に対して使用される抗生物質である。
『――より続いておりました情報管理体制が、本日午後六時をもって第二級より第一級へと移行します。この移行により、国内のすべての報道機関は国土防衛新法の定める活動制限を受けることになります。さらに、新法の規定する六分野、すなわち情報通信系、電力系、陸海空運輸系、衛星管制系のうち、有事対策基準により指定を受けている民間の主要企業各社は自衛軍の監督《かんとく》管理下に置かれ――』
どれもこれも誰《だれ》にとっても、今に始まった話ではない。
驚《おどろ》くに値するようなことは何もない。
何かあるとすぐ「事実は小説より奇なり」などとしたり顔をするくせに、現実なるものが存外に磐石《ばんじゃく》であることを実は疑ってなどいない。街が数知れぬ検問に細切れにされようが郵便物に検閲済みのスタンプが押されようが物の数ではない。この程度の危機的状況《クライシス》などかつて幾たびあったか知れないのだ。どうせ来月の今ごろには、ありきたりすぎて冗談のネタにもならない些事《さじ》として忘れ去られているに違いない。
この期に及んでも、来月の今ごろという日が「ある」と、誰もが信じて疑わない。
『――第二十六チャンネル、東帝都放送てす。現在、国土防衛新法による情報管理が行われています。電波の不正使用は有事対策基準に対する重大な違反行為です。自衛軍治安部隊は海賊放送局の取り締《し》まりを強化しています。有事の際には流言輩語《りゅうげんひご》に惑わされることなく、正確な情報に従って慎重に行動することが大切です。第二十六チャンネル、東帝都放送です――』
園原《そのはら》中学校の二度目の登校日、浅羽《あさば》の下駄《げた》箱の中には小汚い上履《うわば》きと、干乾びたミミズの死骸《しがい》が入っている。
◎
タイトルは忘れたが、たぶんずっと昔の外国の映画だと思う。テレビで途中から見た。話の舞台は戦争中のどこかの街で、敵機が毎日毎日やってきては爆弾《ばくだん》をどかすか落としていく。主人公はアル中のダメ男なのだが実は戦争が始まる前は小学校の教師で、空襲《くうしゅう》で閉鎖《へいさ》されている学校の教室を勝手に使って戦災孤児を相手に勉強を教え始める。ところが、その学校が夜中の空襲にやられて木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になってしまうのだ。翌朝、校舎の焼け跡に立ち尽くす主人公と戦災孤児たち。しかし主人公は挫《くじ》けない、彼はもはや、消毒用アルコールのビンを後生大事に抱えた飲んだくれのクズではない。彼は、焼け跡から掘り出した大きな板きれを黒板の代わりに掲げ、チョークの代わりに焼け焦げた炭のかけらを手に取って、孤児たちに向き直ってこう言うのだ。
さて、授業を始めるぞ。
森村《もりむら》の同じセリフで一限目の日本史が始まり、問題集をコピーしただけと思《おぼ》しきプリントと面《つら》をつき合わせる時間がのろのろと過ぎて、浅羽は物思いの中からぽかりと浮上する。夜の海を照らす灯台のように視線をぐるりと一周させてみる。
空席だらけだった。
二度目の登校日にして、二年四組四十二名のうち、須藤《すどう》晶穂《あきほ》と花村《はなむら》裕二《ゆうじ》を含む二十八名が疎開欠席していた。
まさに惨憺《さんたん》たる有様だ。他《ほか》のクラスも状況は似たり寄ったりなのだろうし、これでよく休校にならなかったものだと浅羽は逆に感心する。まったくのうろ覚えだが、たしか軍隊では、人員の四割以上が失われた部隊は「全滅」と判断されるのではなかったか。
窓から斜めに差し込む朝の日差しが教室を二分している。うかつに廊下側の暗がりを見つめたせいで、机の上のプリントがまったくの白紙に見える。いつもならすぐ目の前にあるはずの花村の背中がない、たったそれだけのことで広所恐怖に似たものを感じる。グランドの真ん中に机をひとつだけ置いてそこに座っているかのような居心地の悪さを覚える。小学生のころ、分数の計算ができなくて居残り勉強をさせられたときのことを思い出して顔が赤くなる。あのとき、浅羽は世界中から自分だけが取り残されでしまったような恐怖に駆られ、担任の教師も手がつけられないほどの勢いでびゃあびゃあ泣き喚《わめ》いて、ついには母親が迎えに来るという騒《さわ》ぎを起こした。まだ西久保にも花村にも話したことのない浅羽の秘密だ。
肩で小さく背伸びをする。
プリントに再び意識を集中させようとするが、一向に身が入らない。
問題文の字面《じづら》さえ頭に入ってこない。やる気の引っかかりどころがどこにも見つからない。そもそも、こんなおざなり極まりないプリントでお茶を濁《にご》そうとしている森村《もりむら》からしてやる気がないのは明らかなのだ。これだけ欠席が多くては授業を進めてしまうわけにもいかん――などと森村は言いわけをしていたが、果たして、取り残されたのはどちらなのだろう。浅羽《あさば》は再び物思いの海に沈んでいく。
校舎の焼け跡で、炭のかけらを手に取って授業の再開を宣する主人公。
感動のラストシーン。
だと思っていたが、本当にそうなのか。
あのラストシーンは、「ダメ男の現実|逃避《とうひ》が行き着くところまで行き着いて、とうとうあっちの世界に行ってしまいました」という、実にブラックなオチだったのではないか。少なくとも、園原《そのはら》中学校の焼け跡で森村が『授業を始めるぞ』などとぬかしたら、自分ならまず間違いなく森村の正気を疑う。なのに、いま自分は一体何をしているのか。普段《ふだん》より倍も風通しのいい教室で、日本史のプリントに改めて目を落とす。荘園《しょうえん》・公領《こうりょう》ごとの田地《でんち》の面積や荘園領主・地頭《じとう》の氏名を調査した大田文《おおたぶみ》は、本来は国衙の土地台帳として作られたものであった。幕府が国衙の在庁宮人に命じ諸国の大田文を作らせていることは、国衙に対する幕府の支配力を示している。
はっきりと思う。ため息もつけないくらいに馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しい。
あの映画のあのラストシーンが見る者を感動させるつもりで作られたのだとしたら、それは安全距離にいる奴《やつ》の発想だ。学問などというのは衣食の足りている奴、最低でも命の心配をしなくてもいい奴が片手間にやることではないのか。自分が今この教室でやっていることは、やはり映画などでよくあるシーンに例えて言うならば、『敵軍がすぐそこまで迫っているのに美女を侍《はべ》らせて舟遊びなんかしているバカ貴族』とか、むしろそんな類《たぐい》の、
「――お。どぅしたこらぁ伊里野《いりや》、まるっきりお手上げか?」
森村のそのひと言で、浅羽は現実に引き戻された。
ななめ後ろを振り返れば、教室の中を看守よろしくうろついていた森村が足を止めて伊里野の手元をのぞき込んでいる。伊里野は顔も上げず物も言わず、ただ机の上のプリントをじっと見つめている。
そもそも、筆記用具を手にしていない。
「しょうがない奴だなこらあ。どれ、先生が見てやっから」
森村は伊里野の机の前にしゃがみ込んで、鎌倉《かまくら》時代の租税制度についてあれこれと説明し始めた。
伊里野が転校してきてからというもの、浅羽の中で男を上げた教師といえば森村をおいて他《ほか》にない。何かといえば伊里野のケツばかり見ていた浅羽はよく知っているのだが、森村は伊里野のことを何かと気にかけていた。帰国子女が日本史の授業に途中からついていくのは辛《つら》かろうという判断からか、伊里野《いりや》のために特別にプリントを作って渡したりしていたのだ。浅羽《あきば》は森村《もりむら》のそんな姿を見るにつけ、いつまでたっても抜けない東北弁の物真似《ものまね》をして笑ったりしたことを深く深く反省したものである。
さすがにその森村も、真っ白になってしまった伊里野の髪についてはひと言も触れようとはしないのだが。
「な、ほれエンピツ持てエンピツ。――おらそこ、喋《しゃべ》ってないでプリントやれプリント」
この御時世におべんきょーなど空《むな》しいばかりではあるが、別に森村が悪いわけではない。
鎌倉《かまくら》時代上等。
浅羽はため息とともにやる気を持ち直し、プリントに向かおうとしたそのとき、伊里野がエンピツを床に落とした。
「――何やってんだほれ、あ」
森村が床に落ちたエンピツを拾って伊里野に手渡そうとした、まさにその瞬間《しゅんかん》を見計らっていたかのようなタイミングで一限目終了の鐘《かね》が鳴った。
「んじゃあそのプリントは宿題にしとくから、級長――も欠席か。起立!」
森村は自分で号令をかけて生徒に礼をさせ、結局は使いもしなかったチョークと教科書を抱えて尻《しり》を掻《か》き掻き教室から出ていった。
森村は、気づかなかったらしい。
しかし浅羽は気づいた。
何かといえば伊里野のケツばかり見ている浅羽がそれを見逃すはずはなかった。エンピツを落としたときの伊里野の奇妙な仕草《しぐさ》、
あれは、まるで、
誰《だれ》かの投げた紙飛行機が、視界の中を右から左へと横切った。
休み時間になっても教室には普段《ふだん》の活気は見られない。伊里野が森村に手渡されたエンピツの先を指でなぞっている。白くなってしまった髪を別にすれば、まったく普段通りの、今までとどこも違わない伊里野に見える。
確かめればすぐにわかることだ。
どうせ自分の勘違いに決まっている、たまたまそう[#「そう」に傍点]見えたというだけだ、不吉な想像がまったくの杞憂《きゆう》だったということをはっきりさせて安心しよう。そう思って椅子《いす》から腰を浮かせた瞬間、
「うが――っ! やってらんねえなぁおい!!」
西久保《にしくぼ》に思いきり背中を叩《たた》かれた。浅羽は顔をしかめて、
「ってえなもう、何すんだよバカ!」
半ば本気で怒っていたのだが、西久保はまったく悪びれる様子もなく、
「いやー、こうなってみるとアレだな。ガッコーのベンキョーなんて所詮《しょせん》は有閑《ゆうかん》マダムのカルチャースクール通いとどっこいのシロモノだってことがよっくわかるな」
まだちょっと怒っていた浅羽《あさば》は、だよな、と素直に言えず、
「だったらお前も疎開すりゃいいだろ」
「やだよめんどくせぇ。そりゃ学校休むのはいいけどさ、家にいたってすることねえしさ、親は勉強しろしろってうるせぇしさ。外出歩いてもコンビニくらいしか行くとこねえし治安部隊は鬱陶《うっとう》しいし」
やはり西久保《にしくぼ》もどこか普通ではなかった。やけに饒舌《じようぜっ》でやけに悪びれた物言い。
「しっかしど田舎《いなか》のくせしてこのザマはすげえよな。さすが園原《そのはら》市だよな。北の連中にしてみりゃ園原基地の米空なんて恨み骨髄《こつずい》だもんな。おれが連中だったら真っ先に核ミサイルぶち込むな。そりゃみんな逃げるわな」
そう言ってわははと笑う西久保。まるで他人事のような言い草だ。しかし浅羽は思う、自分だって心の底では他人事《ひとごと》だと思っているのだ。現に今こうして逃げずにいるのが何よりの証拠ではないか。
「――でも、まさかクラスの半分が疎開してるなんて思わなかったな」
「っていうか、べつに今日欠席してる奴《やつ》らがみんな疎開したってんじゃないだろ」
西久保の指摘に浅羽は意外そうな顔をして、
「違うの?」
「違うだろ。色々ヤバそうだし今日はとりあえず学校休んどけって親に言われたってパターンがほとんどだろ。ほんとに疎開した連中なんてそんなにはいないよ。ああそうだ浅羽、ゆうべ須藤《すどう》からそのことで電話あったぞ。最初はお前ん家に電話してみたけどお前|風呂《ふろ》入ってたからって」
「――あ、」
浅羽は思い出す。そう、確かにゆうべ晶穂《あきほ》から電話があって、そのとき自分は風呂に入っていたのだ。今日は晶穂は欠席しているし、さては疎開することを知らせる電話だったのかと思っていたのだが――
「で? 何だって?」
「いやだから、さっき言ったパターンだよ。親に言われて学校休むけど伊里野《いりや》のことよろしく頼むって。ったく、幼稚園の保母さんみてーだよな」
不意に出てきた伊里野の名前を耳にして、なごみかけていた浅羽の意識が再び鋭《するど》さを取り戻した。身体《からだ》が自動的に伊里野の席の方向を振り返る。
いない。
伊里野がいない。
目を離していたのはせいぜい一分かそこらだ。なのに、そこにあるのは空っぽの椅子《いす》と何も乗っていない机だけ。鞄《かばん》とヘルメットまでなくなっている。
浅羽《あさば》は突然、さっきのお返しだ、とばかりに西久保《にしくぼ》の背中を思いきり引っ叩《ぱた》いた。
「ほら見ろバカ! お前のせいだ!」
力任せに言い捨てて席を蹴《け》る。何が何やらまったくわからない西久保をその場に残し、浅羽は尻に火が点《つ》いたような勢いで教室から飛び出す。
トイレかもしれない、という当たり前すぎる可能性は、当たり前すぎるが故に思いつきもしなかった。
階段を飛び降り廊下を駆け抜け、昇降口に飛び込んで、伊里野《いりや》の下駄《げた》箱の中にまだスニーカーが入っていることを確認した。
上履《うわば》きのままどこかに行ってしまったりはすまい。
ということは、伊里野はまだ校舎のどこかにいる。
二限目など知ったことではなかった。心当たりなどいくらもなかったが、誰《だれ》かがいるような場所に伊里野はいない、そう見当をつけて校舎の中を駆けずり回った。授業の始まりを告げる鐘《かね》が鳴って、思いつく限りの場所を巡りに巡って、三階の資料室に鍵《かぎ》がかかっていて入れなかったあたりで気力が尽きかけた。窓の閉め切られた廊下は蒸し暑く、汗で背中にべったりとはりついたシャツをつまみ、浅羽は何もかも投げ出してしまおうかという誘惑に駆られる。今日も暦《こよみ》を知らない日差しが照りつけているが、授業中に窓から吹き込む風は思いがけないほど涼しかった。いつかのように、時計塔の窓から屋根の上に出て、焼けた瓦《かわら》の上に寝っ転がって風に吹かれれば五秒で眠れるかもしれない。
時計塔、
「――ここにいたのか」
また走ったのでまた息が切れた。切れたその息の隙間《すきま》から浅羽はつぶやくように声をかけるが、伊里野の後ろ姿は返事もしなければ身動きもしない。時計塔の機関室はいつものように暑くて狭くてホコリっぽくて、油にまみれた歯車や巨大な調速器がゴロゴロと動いている。伊里野は屋根の上へと通じる窓のすぐそばにいて、浅羽に背を向けて、床に置いた鞄《かばん》の上にべったりと座り込んでひざを抱えている。傍らには黄色いカバーの剥《は》ぎ取られたフリッツヘルメットが転がっていた。
それ以上は声もかけられず、日差しを孕《はら》む髪の白さに浅羽は途方に暮れる。
伊里野が何もせずにただ座り込んでいるわけではなくて、どうやらゲームをやっているらしいことはすぐにわかった。伊里野の鞄の中に入っていた、シェルターの中で一緒にやったあの携帯用のゲーム機だ。窓からの日差しが雲に遮られて機関室が薄暗《うすぐら》くなると、レーザーで空中表示されている画面のいくつかが伊里野の肩越しに浮かび上がって見える。白い髪の中に、ヘッドホンケーブルの赤がひと筋だけ混じっている。
呼吸を整える。
最初の一歩を踏み出すと、みしり、と床が軋《きし》んだ。そんなつもりは特にないのだが、無意識のうちに忍び寄るような足取りになってしまう。手を伸ばせば細い肩に手が届くところまで近づいて、どうにかこうにか勇気を奮《ふる》い起こしてもう一度声をかけようとしたそのとき、腹の底が冷たくなるようなことに気づいた。
伊里野《いりや》は、ゲームをしていない。
確かに伊里野は電源の入ったゲーム機を手にしているし、空中表示されている画面にじっと視線を向けているし、親指はゲーム機のボタンを押したり押さなかったりしている。
しかし、それだけだ。
よく見れば、親指はひたすら一定のペースで機械的にボタンを押しているにすぎない。画面に向けられた視線は背後からでもそれとわかるくらいにまったく動いていない。まるで、とっくにゲームオーバーになってしまった画面にただ呆然《ぼうせん》と視線を向けているかのような――知らず知らずのうちに、右手が伊里野の肩をつかんでいた。
「うあっ!!」
伊里野が声にならない悲鳴を上げた。跳び上がって驚《おどろ》き、浅羽の手をはねのけて立ち上がろうとしたが腰が砕けてそのまま尻餅《しりもち》をついた。見当違いの方向に視線をさ迷わせて懸命《けんめい》に後ずさりしようとする。投げ出されたゲーム機が床に落ちて転がる、伊里野の左手がゲーム機の落ちたあたりをせわしなく手探りする。
浅羽の胃の腑《ふ》に、真っ黒な確信が満ち満ちた。
やはり、見間違いではなかった。
授業中にエンピツを持てと森村《もりむら》に何度も促されたときも、伊里野は机の上を手探りして、結局エンピツをつかみそこねて床に落としてしまったのだ。浅羽はそれを見ていたのだ。
怯《おび》える伊里野の腕を両手でつかみ、大声を出した。
「伊里野っ! ぼくだよ、わかる!?」
途端《とたん》に、伊里野の顔を塗り潰《つぶ》していた怯えの色が理解と絶望の色へと取って代わる。伊里野は浅羽の腕にしがみついて、大声で何度も何度も何度も、
「見えるよっ! ちゃんと見える、見えるもんっ」
「わかった、わかったから!」
浅羽はそう言ってとにかく伊里野を落ち着かせようとしたが、伊里野は浅羽の口調からその意図を嗅《か》ぎ取ってしまう。盲目丸出しの手つきで浅羽の腕をまさぐり、意地でも自分の嘘《うそ》を浅羽に信じさせようとして叫ぶのをやめない。その叫びは次第に涙声になって、それでも伊里野は浅羽のシャツを握り締《し》めて「ちゃんと見える」を繰《く》り返す。嘘もひたすら繰り返せばいつか本当になるとでも思っているのかもしれない。浅羽が信じないのなら永久に叫び続けてやるとでも思っているのかもしれない。
傍《はた》から見れば、もみ合いの喧嘩《けんか》でもしているように見えたかもしれない。
ついにどちらも叫び疲れ、時計塔の機関室に歯車が回る音が戻ってきた。
ふと気がつけば、浅羽《あさば》の胸の中には伊里野《いりや》の頭があった。
ふたりは床に座り込んだまま、実に中途半端《ちゅうとはんぱ》なくっつき方で抱き合っていた。伊里野の乱れた息を身体《からだ》中で感じながら、浅羽は気が遠くなるような無力感を覚える。
世界が壊《こわ》れていく。
「――伊里野、」
「見えるもん」
無力感が裏返って虚《うつ》ろな笑みになる。浅羽は続ける、
「――話せないのなら、話してくれなくてもいい。話してくれなくてもいいからさ」
浅羽の腕の中で伊里野の身体が強《こわ》ばる。
「伊里野が我慢することないんだ。誰《だれ》に何て言われてるのか知らないけどさ、今すぐ終わりにするんだ。全部終わりにしなきゃだめだ」
浅羽の腕の中で、ぐじゅっ、と鼻水をすするような音がする。声にして出した言葉の力はそれと自覚できるほど安っぽかったが、気が遠くなるような無力感をひとまず押し流すくらいのことはできた。浅羽の口調が次第に勢いを得ていく。
「こんなになってまでやらなきゃいけないことなんてあるはずないじゃないか。もし文句言う奴《やつ》がいたらそいつがやればいいんだ。このままじゃ伊里野は」
伊里野がまた泣き出した。
泣き出したのかと思った。
何かがおかしい。そう思った瞬間《しゅんかん》に、浅羽の腕の中で伊里野が「ぐう」と喉《のど》を鳴らし、細い肩がぐったりと脱力した。浅羽の胸元、伊里野の顔が押しつけられているあたりに生ぬるい液体の感触がじわりと広がる。
「――伊里野?」
自分の胸元を見下ろして、浅羽は「うあ」と情けない声を漏らした。
シャツが血に染まっている。
また伊里野が鼻血を出した。そう思って、右手でズボンのポケットから薄汚《うすよご》れたハンカチを引っぱり出し、左手で伊里野の身体を抱え直した。伊里野の上体が仰向《あおむ》けになり、白い髪がひざの上に流れ落ちて、浅羽は伊里野の顔を逆さまにのぞき込むことになった。
確かに、鼻からは大量の血が流れ出でいた。
しかし、さらに大量の血が口からあふれ出ていた。
そして、浅羽が何をする間もなく二度目の吐血が起こった。伊里野の背筋が弓なりに反り返り、噴《ふ》き上がった鮮血《せんけつ》を顔面に浴びて浅羽はひとたまりもなくひっくり返った。夢中で顔を拭《ぬぐ》う、顔を拭ったその手が血にまみれる、その血の嘘《うそ》のような赤に気が遠くなる。吐血と痙攣《けいれん》は情け容赦もなく続き、伊里野は自らが吐き散らした血溜《ちだま》りの中を転げ回っている。白い夏服が、白い髪がたちまちのうちに血に染まっていく。
怖かった。
浅羽《あさば》が機関室から転がり出たのは、助けを呼ぼうとしてのことではない。恐ろしさのあまりその場から逃げ出したというのが本当のところだ。鮮血《せんけつ》の赤が、何かがとり憑《つ》いたかのような痙攣《けいれん》が、奇麗事《きれいごと》も建前も消し飛ばしてしまうほどに恐ろしかった。階段で足を滑らせ、一気に三階の廊下まで転がり落ちて、ようやく「何かしなくては」と思う。しかし、頭の中は顔面に浴びた血の色に染め尽くされていて、まともに物を考えるということがまったくできない。誰《だれ》に助けを求めたらいいのかも考えつかないままに、浅羽は闇雲《やみくも》に走り出す。
誰か助けて、
誰か。
椎名《しいな》真由美《まゆみ》は、子供のころから髭剃《ひげそ》りに憧《あこが》れていた。
毎朝毎朝、父親が洗面所で鏡《かがみ》の前に立ち、ぶんぶんうなる電気カミソリでじょりじょり髭を剃る。子供心に、それがすごく気持ちよさそうで楽しそうに思えたのだ。電気カミソリをこっそり持ち出して、洗面所の踏み台に乗って鏡に向かってみたことも一度や二度ではない。しかし、いくらぶんぶんやってもちっともじょりじょりしなかった。自分には一体いつ髭が生えるのか。思いあまって母親にそう尋ねたのが運の尽きで、盆暮れ正月に実家に帰ると今でもそのことをネタにからかわれたりする。
不公平だ。
客のいない保健室で、散らかり放題に散らかっている事務机に突っ伏して、すぐ目の前にある鏡を見つめて椎名真由美はそう思う。
鏡にうつる自分の顔はまさに過労を絵に描いたような有様で、目の下には黒々とした隈《くま》が浮き、髪はささくれ唇はひび割れ、肌は月面の如《ごと》くに荒れすさんでいる。そのこと自体はべつにいい。あの夜以来、基地には似たような御面相のゾンビどもがあふれているし、ロズウェル計画のスタッフなら特にそうだ。しかし、そのスタッフの八割は男である。同じ苦労をして、連中には目の下の隈とともに「無精《ぶしょう》髭を剃る」という楽しみが与えられるのに、自分にはそれがないのだ。これが不公平でなくて何であろう。
目を閉じる。
いっそこのまま眠ってしまいたいのに、身体《からだ》を絞り器にかければ泥水が滴るのではないかと思うほど疲れ切っているのに、きんきんに張りつめた神経がどうしても眠らせてくれない。机に突っ伏したまま、右手を伸ばして一番下の引き出しを開ける。奥深くに突っ込んで隠しておいたコンビニの袋を探り当て、中に手を突っ込んでかきまわす。指先に触れるのはどれもこれも空き瓶ばかりだが、椎名真由美はいつまでもダラダラとあきらめない。まだ封を切っていないワンカップが幾本かあったはずなのだ。別の引き出しにはブドウ糖も入っているのだが、注射器になどもう一生触りたくなかった。
「い」
指先の鋭《するど》い痛みに背筋が強《こわ》ばる。
のっそりと引っ込めた手を目前にかざしてみると、中指の先に爪《つめ》を圧《お》しつけたあとのような形の切り傷ができていた。ワンカップのフタで切ってしまったらしい。傷口にゆっくりと盛り上がってくる血の雫《しずく》を見つめる。土曜日の午後のような保健室に吹き込む風が、ヒモ綴《と》じの生徒|名簿《めいぼ》を1ページずつめくっていく。透明な日差しがマグカップの底に柔らかな影を作っている。校舎も街も空も、どこまでも静かだった。
もうじき嵐が来るのだ。
そのことを知っている自分が、例えようもなく寂しかった。
全身血まみれの浅羽《あさば》が扉をぶち抜くような勢いで保健室に殴り込んできたとき、言葉はただのひと言も必要ではなかった。椎名《しいな》真由美《まゆみ》は一秒ですべてを了解し、パイプ椅子《いす》を跳ね飛ばし、机の下に蹴《け》り込んでおいたケブラー繊維《せんい》のバッグをつかんで保健室を飛び出す。先に立って道案内をする浅羽の背中を蹴倒さんばかりの勢いで廊下を走る。が、三階へと続く階段の途中で浅羽がへたばりかけ、椎名真由美は浅羽の襟首《えりくび》をつかみ、
「場所は!?」
「とけ、とけいと、」
飛ぶように階段を駆け上がっていくスリッパの底を見つめ、浅羽は懸命《けんめい》に呼吸を整えた。保健室に駆け込んでいつもと何も変わらない白衣を目にした途端《とたん》に、焦燥《しょうそう》とパニックが融合して無尽蔵に生み出されていたエネルギーがいっぺんに底をついてしまった。動かない足を強引に動かして時計塔の階段を上り、その階段の先に機関室の入り口を仰ぎ見た瞬間《しゅんかん》、顔面に浴びた血の赤が脳裏に蘇《よみがえ》って思わず足が止まる。残りわずかな階段を上りきるためには、途方もない気力を必要とした。
まるで殺人現場だった。
鮮血《せんけつ》はすでに固まりかけ、抜け落ちた白い髪の毛をそこかしこに閉じ込めて、機関室の毛羽立った床板に深々と染み込んでいた。伊里野《いりや》はもう動かない。椎名真由美は瞬《まばた》きもせずに処置を進める。心音を聞く、血圧を測る、次々と注射を打ち込む、輸液の準備を整える、ブドウ糖溶液、乳酸化リンゲル、ビタミンK、
伊里野が跳ね上がった。
「押さえてっ!!」
また痙攣《けいれん》が始まった。半ば虚脱状態にあった浅羽は腰を抜かしそうになり、何かに操られているかのように跳ね回る伊里野の身体《からだ》を無我夢中で押さえ込む。力加減を遠慮《えんりょ》していたのは最初の二秒だけだった。全力を振り絞って押さえつけていないと逆に跳ね飛ばされそうになる。椎名真由美はケブラーのバッグを引っかき回して何かを探していたが、いきなり悪態をついて身を翻《ひるがえ》し、床に放り出されていた伊里野《いりや》の鞄《かばん》をつかんで中身をぶちまけた。
わずかな教科書やノートと一緒に、目を瞠《みは》るほど大量の薬や注射器が床に散らばった。
椎名《しいな》真由美《まゆみ》が飛びつくようにして拾い上げたのは、細長い何かが幾本も封入されたビニールシートだった。力任せにビニールを引き裂いて中身を取り出す。薬液のアンプルの先端に注射針を取り付けたもののように見える。
「どいて!」
言うが早いか椎名真由美は浅羽《あさば》を突き飛ばし、痙攣《けいれん》を続ける伊里野の身体《からだ》にのしかかってギロチンチョークのような体勢で押さえ込んだ。
伊里野の胸に、血で汚れた制服越しにアンプルを突き立てる。
途端《とたん》に伊里野の痙攣が激しさを増した。それが偶然なのか、それともアンプルの中身の作用なのか、浅羽には判断がつかない。椎名真由美はさらに四本のアンプルを左手の指に挟んでおり、注射針のカバーを次々と外しては伊里野の身体に打ち込んでいく。あらかじめ決まった場所に針を刺しているのかもしれないが、少なくとも浅羽の目にはまったくのでたらめにやっているようにしか見えなかった。ふと恐ろしくなる、この女は伊里野を殺そうとしているのではないか。もう打つ手を失《な》くしてヤケクソになって、ただ無茶《むちゃ》なことをやっているだけなのではないか。そんな想像に耐えられなくなったとき、まさに憑《つ》き物が落ちたような唐突さで、伊里野の身体が痙攣することを止《や》めた。
しばらくの間、時間が凍りついていた。
油にまみれた歯車と巨大な調速器が、ゴロゴロと動いていた。
「――だから言わんこっちゃないのよ」
浅羽の耳に、椎名真由美のそんなつぶやきが届いた。
椎名真由美はむくりと上体を起こし、伊里野の身体の上から降りた。ひざ立ちのままバッグをあさり、中からマジックを取り出して口でキャップを外し、腕時計にちらりと視線を走らせて、伊里野の右手の甲に書き込みをする――AM10:42DAMAshot×5MS。伊里野の身体はくったりと脱力したまま動かない。その胸に突き刺さったままになっているアンプルが浅羽としてはどうしようもないくらいに気になるのだが、まさか抜くのを忘れているわけでもあるまいと思う。しばらくそのままにしておかなくてはいけないものなのだろう。鍼灸《しんきゅう》 治療《ちりょう》の針のように、特定の場所に打ち込んで神経の機能を制御するような役割も果たしているのかもしれない。
タバコのパッケージを握り潰《つぶ》す音がして、
「ヤニ持ってない?」
「えっ。あ、その、ないです」
椎名真由美はそれきり何も言わず、いきなり四つん這《ば》いになって床に散らばっている吸殻を物色し始めた。ようやく納得のいく長さの吸殻を見つけると、その場にべったりとしゃがみ込んで、白衣の両肩をすくめるようにして両方のポケットを手探りする。
その横顔に浮かぶ死相の如《ごと》き疲労の影に、浅羽《あさば》は初めて気づいた。
急に身の置き場がなくなってしまったような気がして、浅羽は落ち着きなく視線を泳がせ、
「――あ、」
それに目が止まったのは、まったくの偶然からだった。
血で汚れた床に、オレンジ色の小さな布袋が落ちている。
おそらく伊里野《いりや》の持ち物だ。椎名《しいな》真由美《まゆみ》が伊里野の鞄《かばん》の中身を床にぶちまけたときに、教科書やノートと一緒に出できたものだろう。
その袋の口から、ついこの間失くしたはずのシャーペンの先っぽがのぞいていた。
「――これ、あの、」
つぶやくような呼びかけに、シケモクに火を点《つ》けようとしていた椎名真由美が面倒《めんどう》くさそうに視線を上げて、突然、
「ああっ!? だめだめそれだめ!!」
椎名真由美は両手を振り回して立ち上がり、浅羽に飛びかかって布袋を奪い取ろうとした。浅羽はわけがわからず、しかし反射的に袋をかばって、肩がぶつかり合った拍子に袋が床に落ちて中身がこぼれ出た。ちびた消しゴム、ジュースのおまけのキーホルダー、二等辺の三角定規、どれもこれも見覚えがあった。
すべて、浅羽が失《な》くしたと思っていた物ばかりだった。
「――浅羽袋よ」
あさばぶくろ?
浅羽が疑問に満ちた視線を向けると、観念した椎名真由美はシケモクに火を点け直し、フィルターを噛《か》みしめて鳥の巣のような頭をばりばりと掻《か》いた。浅羽は布袋を拾い上げ、中身をすべて床の上にあけてみる。ボールペンが二本、文庫本のしおり、ほとんど芯《しん》だけになったセロテープ、期限切れの購買部の割引券など教室のゴミ箱に捨てた憶《おぼ》えがあるし、使いかけの白の絵の具に至っては十二色の中で一番減りが早いので他《ほか》にいくつも持っていたから、失くなったことに気づいてすらいなかった。
「お守り、のつもりだったんだと思うわ。どこへ行くにも何をするにも肌身離さず持ち歩いてたから。――あのね、もちろん加奈《かな》ちゃんが悪いんだけどでも怒らないでほしいの、これはそんじょそこらの第二ボタンなんかとは切実さが違うの、加奈ちゃんにとってのお守りっていうのは本当に生きるか死ぬかの、」
そこで椎名真由美はうつむき、長々と煙を吐いた。
「――って、あたしが言い訳してもしょうがないんだけどさ」
椎名真由美の言うことなど、半分も聞いてはいなかった。
浅羽は、ただオレンジ色の布袋を、ちびた消しゴムをジュースのおまけのキーホルダーを二等辺の三角定規を、二本のボールペンを文庫本のしおりをほとんど芯《しん》だけになったセロテープを期限切れの購買部の割引券を使いかけの白の絵の具を、じっと見つめていた。
腹の底に、小さな熱の点が生じた。
「――それで、今度は目ですか」
浅羽《あさば》のつぶやきに、ぼんやりと床を見つめていた椎名《しいな》真由美《まゆみ》の目に力がこもる。
「ぶん殴られて連れていかれて、戻ってきたと思ったら髪の毛が真っ白になってて、今度は目なんですか」
答えはない。ホコリの浮いた空気は動きに乏しく、シケモクの煙は水に溶けない卵の白身のように、いつまでも形を崩さずに漂っている。椎名真由美は伊里野《いりや》の身体《からだ》を平然とまたいで機関室を横切り、屋根の上へと通じる窓を開ける。
「見えたり見えなくなったりするのよ」
窓枠に両|肘《ひじ》をついて、投げ出すようにそう言った。
「調子のいいときには普通に見えてるんだけど、だめなときは完全な失明に近い状態。せいぜい部屋が明るいか暗いかがぼんやりとわかる程度。一時的な視覚異常くらいなら今に始まった話じゃないんだけどさ、ここまで派手《はで》なのは今回が初めて」
腹の底で、熱の点が次第に大きさを増していく。
「そんなんで、こんな状態でどうして学校になんか、」
白衣の肩が揺れた。苦笑したのかもしれない、
「止めたに決まってるでしょ、今朝なんか全員が一丸となって止めたわよ。だけど結局こっちが疲れ負けしちゃってさ。悪いのは榎本《えのもと》です、全部あいつのせいです。何だかんだ言って肝心なとこで甘いんだから」
浅羽は横目で伊里野の身体を見つめる。血にてみれた長い髪の中に横たわるその姿が、胸に五本のピンを打ち込まれて展翅《てんし》台に止められた蛾《が》の化身のように見える。
一体、伊里野|加奈《かな》とは何者なのか。
出会ったばかりの頃《ころ》は、そのことを考えぬ日はなかった。奇態な想像の泥沼にはまり込んでは悶々《もんもん》としていた。あれから色々なことがあって、今では、自分でも不思議なくらいに考えることをやめてしまっていた。
伊里野がそこにいてくれればそれでよかった。
伊里野の正体など、知りたくはなかったのだ。
あまりにも色々なことがありすぎた。真相はいつしか、想像の手をほんの少し伸ばせば容易に届いてしまうところに、薄皮《うすかわ》一枚を残して無造作に転がっているばかりとなった。その土壇場《どたんば》になって自分は、無意識のうちに目も耳も塞《ふさ》いですべてに背を向けたのだと思う。
教室では誰《だれ》もが伊里野をのけ者にして、安全距離に身を置いて無責任な噂《うわさ》で小突き回しているばかりだった。
人間として最低限の社会性すら持ち得ない奴《やつ》が教室に足を踏み入れたのがそもそもの間違いだ、と須藤《すどう》晶穂《あきほ》は言った。
土壇場《どたんば》で二の足を踏むくらいなら、最初から何もしなければよかったのかもしれない。
自分が半端に肩入れするような真似《まね》をしなければ、伊里野《いりや》はここまで苦しまずにすんだのかもしれないのだ。
真相は、すでに頭の中にある。
それは未《いま》だに何の言語化もされぬまま、無意識の暗闇《くらやみ》に転がっている。自分はそのことを知りながら、これまでただの一度もその暗闇の中をのぞき込もうとしなかった。そんなことをしなくても伊里野はそこにいてくれたから。この夏は永久に続くと思っていた。
七日前のあの夜を境に、すべてが変わってしまうまでは。
「伊里野は、ブラックマンタのパイロットなんですか」
言葉にしてしまえば、ただそれだけのことだった。
椎名《しいな》真由美《まゆみ》は、答えなかった。
白衣の背中は微動だにしない。窓枠に切り取られた空を背景にして、シケモクの煙が柔らかい風に渦を巻いていた。
「手首に金属の玉が埋め込まれてるのも、いつも薬を山ほど持ち歩いてるのも、すぐに鼻血を出すのも、いきなり髪の毛が真っ白になったのも血を吐いてぶっ倒れたのもぜんぶ、伊里野がブラックマンタのパイロットだからなんですか。誰《だれ》も知らないところで、伊里野が敵と戦っているからなんですか」
椎名真由美はやはり答えない。その沈黙《ちんもく》こそが答えであると悟ったとき、浅羽《あさば》の腹の底でくすぶり続けていた熱の点は、自分でもどうにもならない怒りへと変わった。
ぜんぶお前らのせいなのか。
怒りに目が眩《くら》んだ。その怒りの半分は、根本の部分では伊里野をのけ者にしていたクラスの連中よりも遥《はる》かに悪質だった自分に対する憤《いきどお》りであったように思う。足元に転がっていた錠剤《じょうざい》のプラボトルをつかみ、白衣の背中めがけて力任せに投げつけた。
叫ぶ。
「そんなの大人がやれよ!!」
プラボトルはあっけなく狙《ねら》いを外れて、窓枠近くの壁《かべ》に跳ね返った。飛び散らかる大量の錠剤を浴びて、白衣の背中はそれでも根の生えたように動かない。
「中学生の女の子にぜんぶおっかぶせてよく平気でいられるな! あんたらが勝手に始めた戦争だろ! 伊里野が何か悪いことしたのかよ! なんでそんなもんに伊里野が駆り出されなくちゃならないんだよ!」
ひたすらに動かず、何を言われようと否定も肯定もしない白い背中が憎かった。
「クラスの連中の半分はいま教室で居眠りしてる。疎開欠席の届け出して休んでるもう半分だってどうせ家でゲームしてるかビデオ見てるかのどっちかだ! なのに、なんで伊里野《いりや》だけがこんな、胸に五本も注射突っ立てて血まみれで転がってなくちゃならないんだよ!!」
細い指が、シケモクを屋根|瓦《かわら》にこすりつけた。
「――そうね」
浅羽《あさは》の耳に、そんな力のないつぶやきが届いた。
唐突に白衣の背筋がぐいと伸びて、椎名《しいな》真由美《まゆみ》は身体《からだ》ごと背後を振り返る。力のある目つきで浅羽を見つめる。
「浅羽くん、あのね、」
そこで言葉は途切れ、椎名真由美はスリッパ履《ば》きの足を投げやりに踏み出してゆっくりと近づいてくる。浅羽の両肩に手を乗せて、浅羽の鼻面のあたりを凝視する。
怒りは、あっけなく当惑に置き換わった。
浅羽は視線をそらすことができなくなった。今さらながらに身長差を意識する。疲労の影が色|濃《こ》いその面影に、すぐ目の前にある乾き切った唇に逆説的な色気のようなものを感じて思わずたじろぐ。両肩に乗せられた手に柔らかな力が込められ、ふわりと身体が引き寄せられて、
岩を落とすような頭突きが来た。
一発で腰が砕けた。目の前が真っ暗になって、口の奥にマスタードでも詰め込まれたような刺激が弾《はじ》けて息が詰まった。
「ぶっ殺すぞこのクソガキがあっ! てめぇ、あたしが黙《だま》って聞いてると思うなよ!」
女の細腕とは思えない力で胸ぐらを掴《つか》まれ、頭ではなく身体が二発目に怯《おび》えて両腕で顔面をかばう。鳩尾《みぞおち》に衝撃《しょうげき》、痛みは不思議なくらいに感じない。直後に天地がひっくり返り、身体ごと振り回されて背中から壁《かべ》に叩《たた》きつけられた、と思ったらそれは壁ではなくて床で、気がついたときには椎名真由美が身体の上に馬乗りになっていた。振り絞るような怒声と両の拳《こぶし》が隕石《いんせき》のように次々と降ってくる。
「なんにも知らないくせしてよくも好き放題ぬかしてくれたわね! 代われるもんならとっくに代わってるわよ! なによ自分だけが加奈《かな》ちゃんの理解者みたいな顔して、あの子にぜんぶおっかぶせて誰《だれ》よりも平気な顔してるのはあんたの方じゃない!」
好き放題に殴られた。
椎名真由美は本気だった。並んで立てば大したものではないはずの体格の差をずるいくらいに利用して、必死の抵抗を続ける浅羽をいいように殴り続けた。拳がひとつ命中するたびに唇が切れ鼻血が飛び、後頭部が床にぶつかってガツガツと音を立てる。
朦朧《もうろう》とする頭の中で、浅羽は数を数え始めていた。
途中からになってしまうのは仕方がない。しかし、後で仕返しをするときのために、自分が何回殴られたのかを岩に刻みつけておく必要がある。女だからとか保健室の先生だからとか、そんなことはもう関係ない。絶対、ぜったい倍にして返してやる。六、七、
八、
九で、拳《こぶし》と一緒に涙が落ちてきた。
両手で胸ぐらをつかまれ、上体を引きずり起こされて床から頭が浮いた。椎名《しいな》真由美《まゆみ》の顔が隠れた目蓋《まぶた》の隙間《すきま》からこちらをのぞき込んでくる、震《ふる》える声で何か言っている。朦朧《もうろう》とする頭の一部が、頬《ほお》に落ちてくる涙をぼんやりと感じていた。
「脳グソかっぽじってよく聞きなさいよ、この世にタダの物なんて何ひとつないの。この戦争はね、あんたがエロ本片手にチンポしごいたりUFO特番見てゲラゲラ笑ったりする時間を稼ぎ続けるための戦争なのよ! ――だいたいさ、あんたが加奈《かな》ちゃんの何を知ってるっていうのよ? あの子がほんとはあんたよりひとつ年上だってことも知らないんでしょ? 遺伝子改造した虫の幼虫に培養させる薬の話は聞いた? 自分で自分を食い殺す夢の話は? フラットウッド作戦は!? 黒い郵便受けは!? 真夜中にスクールバスで砂漠を走った話は!? あの子が毎朝どんな思いで学校に来てたのか、あんた本当にわかってんの!?」
十、
「なんにも知らない奴《やつ》の善意なんてただの無責任よ!! ノラ猫《ねこ》に餌《えさ》をやる程度の覚悟しかないくせに!! 下半身で同情なんかされたら加奈ちゃんがかわいそうよ!!」
実のところ、殴られすぎて霞《かすみ》のかかった頭に言葉は半分も届いていなかった。浅羽《あさば》はその霞の中で、言葉の色だけを感じ取って、その色にひたすら反発していた。
納得などするものか。
隠された事情など知ったことではない。伊里野《いりや》ひとりを犠牲《ぎせい》にして足れりとする正当な理由がそこにひとつでもあるというのなら、その前提となるすべてが救い難いほどに間違っているのだ。食らえ。
浅羽は、胸ぐらをつかんでいる椎名真由美の手に全力で噛《か》みついた。
十一。十二で隙《すき》ができた。馬乗りの体勢が崩れ、密着する身体《からだ》と身体の間に折り助けた左足を挟むことに成功した。一気に蹴《け》りのける。床に転がった白衣の背中に飛びついて、両腕に守られた横っ面めがけて容赦なく拳を落とす。血の味のする口からは獣《けもの》の声が出た。
「ひとおつ!、ふたあつ!!、」
みっつ目は落とせなかった。わき腹に膝《ひざ》がねじ込まれて、そこから先は滅茶苦茶《めちゃくちゃ》になった。
浅羽は、ここまで本気になって喧嘩《けんか》をしたのは生まれて初めてだった。
ある一線を越えて以降は、殴っても殴られても奇妙なほど無感覚でいられた。どうせ大して痛くないのだと思えば殴るときに手加減などする理由はなかったし、相手のパンチも真剣にかわすより素直にもらってしまった方がずっと楽だった。相手がひとりの人間であるという認識すらも曖昧《あいまい》になっていく。
そのとき、弱々しい泣き声を聞いた。
そのとき、浅羽《あさば》は椎名《しいな》真由美《まゆみ》の下になって殴られる番だった。しかし、落ちてくるはずのパンチがいつまでたっても落ちてこない。腫《は》れた目蓋《まぶた》を見開いて様子をうかがう。上になっている椎名真由美が拳《こぶし》を振り上げたまま、あらぬ方向に視線を向けて動きを止めている。浅羽は苦労してあごを上げ、目玉だけを動かして椎名真由美の視線をたどった。
伊里野《いりや》が、椎名真由美の足首をつかんでいた。
長い髪に覆《おお》われた背中が何度も震《ふる》えて、横を向いていた伊里野の身体《からだ》がごろりとうつ伏せになった。胸が潰《つぶ》れ、突き刺さったままのアンプルがいやな角度で床に押しっけられて針がねじ曲がる。周囲の状況を把握できるような状態にはとても見えなかったが、それでも伊里野ほ椎名真由美の足首をつかんで離さない。うめき声を上げる。
まるで、敵を威嚇《いかく》する動物のような声。
振り上げられていた拳が、ゆっくりと下ろされた。
椎名真由美は震える息をひとつだけ吐いて、浅羽の身体の上から滑り降りた。伊里野の身体を仰向《あおむ》けにして、耳元に口を近づけて何事かを囁《ささや》きかける。アンプルを次々に抜き取っていく椎名真由美の右手、親指の付け根のあたりに、血が滴り落ちるほどの大きな傷があった。浅羽はのろのろと身体を起こし、忙しく動き続ける椎名真由美の右手をぼんやりと見つめる。自分はあんなに強く噛《か》みついたのだろうか。
椎名真由美は伊里野の容態が落ち着いていることを確認し、さらに二本の注射をすませて立ち上がり、機関室の惨状《さんじょう》をぐるりと見回した。腕時計に視線を走らせて、
「加奈《かな》ちゃんを保健室まで運ぶわよ。授業が終わらないうちに」
喋《しゃべ》ろうとすると、鼻の奥に粘っこい血が絡みついた。
「――納得なんかしないからな」
椎名真由美は白もとの青タンをほんの微《かす》かに歪《ゆが》め、それ以外の表情の変化をまったく見せなかった。複数の感情が複数の綱引きをした結果の複雑な無表情だった。浅羽は先に視線をそらし、いきなり投げ渡されたケブラーのバッグは予想外に重く、立ち上がろうとした拍子に伊里野の髪を踏みつけてしまったことに気づいて狼狽《ろうばい》する。
こんなときでも腹の減る自分が、死にたくなるほど情けない。
ふと気がつけば、椎名真由美が伊里野を背負うのに手を貸している自分がいるのだ。肩から回された伊里野の腕を胸元で交差させているのがいかにも場慣れして見えた、たったそれだけのことで、自分が背負うと言い出せなくなってしまった。先に立って扉を開け、何の躊躇《ためら》いもなく先を行く緑色のスリッパに付き従って階段を下り、誰《だれ》かに見つかりはしないかとびくびくしながら廊下を歩いた。保健室にたどり着いて、伊里野が横たわるベッドのカーテンが目前で閉ざされたときにも、他《ほか》にどうしようもあるか、と自分に言い訳をしていた。椎名真由美が右手の噛み傷の応急処置を始める。傷口を消毒しガーゼを貼《は》りつけ破傷風血清を打つ、その顔は怒っているようにすら見えない。迷子になった幼児のような気分で立ち尽くしていると、しまいにはこう言われた。
「――ほら、手当てしてやるからそこに座りなさい」
負けるというのはこういうことだと思った。
そのまま踵《きびす》を返して、保健室を出た。
隠れる場所はそこしか思いつかなかった。昇降口を飛び出して、無人のグランドを横切って部室に駆け込んだ。走って血の巡りがよくなったせいか、腫れ上がった顔ばかりか身体《からだ》の節々までもがズキズキと痛む。自分で手当てをしようと思うのだが、救急箱がどうしても見つからない。二限目終了の鐘《かね》が鳴り、手のつけようもないほどに散らかった部室の真ん中に座り込んで、浅羽《あさば》直之《なおゆき》は泣いた。
自分には、何の力もないのだ。
部長は一体、どこに行ってしまったのだろう。
部長は、なぜ助けに来てくれないのだろう。
◎
その地図は、村上天神《むらかみてんじん》の水前寺《すいぜんじ》本家の蔵の中で、七十年近くにわたって忘れ去られていた。
今を去ること九ヶ月前の、冬休みの終わりごろのことだった。かねてより極左ゲリラとの関係を噂《うわさ》されていた国会議員の事務所に脱税容疑で家宅捜索が入り、ワイドショーで壮絶な罵《ののし》り合いを続けていた映画監督と女流作家がホテルの一室で刺し違えたあの日、浅羽直之は超能力開発グッズを借りに水前寺の家を訪れていた。
二度目の来訪だった。前日まで降り続いた湿っぽい雪が日差しに溶かされて、まるで千年も続いた寺のような敷地《しきち》全体が滴り落ちる水音に包まれていた。巨大な母屋には時代の断層のような箇所がいくつかあって、中でも玄関はまさに取ってつけたように真新しくて、そのことが逆に田舎《いなか》じみた印象を強めている。警備《けいび》会社のステッカーが貼《は》られたドアベルを鳴らし、重い引き戸を両手で開けて中をのぞき込んでいると、ほどなくして水前寺の姉が姿を見せた。
「あ、直《なお》ちゃんだ。おひさしぶり」
直ちゃんはないよな、と思わなくもないのだ。
初めて会ったときからこの調子だった。しかし、このなれなれしさも似つかわしく思えるような雰囲気が水前寺姉にはあった。浅羽は人の年齢《ねんれい》を推し量るのが苦手だが、たぶん大学生くらいではないかと思う。そう言えば名前もまだ知らない。雪の照り返しの中を歩いてきた浅羽の目には、玄関の寒々しい薄闇《うすやみ》の中、ぴったりした白いセーターがぼんやりと燐光《りんこう》を放っているように見えた。
「――えっと、部屋の方に行ってみたら、鍵《かぎ》かかってて」
「あれ? そっか、邦《くに》ちゃんまだ帰ってきてないんだ?」
馬鹿《ばか》でかいゴム長に躊躇《ためら》いなく足を突っ込むと、水前寺《すいぜんじ》姉はごめんねごめんねとつぶやきながら玄関口から出てきた。先に立って庭を歩き始める。浅羽《あさば》は引き戸を閉めようとして、もう一度だけ中をのぞき込んだ。いまにも座敷童子《ぎしきわらし》が横切りそうな黒くて暗い廊下に、柱時計の音だけが静かに反響《はんきょう》している。おもしろいくらいに白い自分の息を除いて、人の気配などまるで感じられなかった。秋口に初めてこの家を訪れたときにも応対に現れたのは水前寺姉だけだったし、部長の口から家族についての具体的な話など聞いたことがない。部長とその姉以外の人間が、この家には本当にいるのだろうか。この廊下の奥深くにある座敷牢には、とうの昔に息絶えてミイラのようになった死体が転がってはいまいか。浅羽はふと、そんな突飛《とっぴ》な想像をしてみる。
「直《なお》ちゃーん。おーい、」
水前寺姉に追いついて、雪解けの水音の中を三歩下がって後に続いた。踏みしだかれた雪は空気が澄《す》んでいる分だけ薄汚《うすぎたな》かったが、水前寺姉は馬鹿でかいゴム長をいいことに、砂利や泥がべしゃべしゃに入り混じった雪の中をうれしそうに歩いていく。一歩足を踏み出すたびに、嘘《うそ》のように長い髪が風を受けて柔らかく広がった。床屋の息子に生まれついて十三年、ときに奇特な髪型を目にすることはあっても所詮《しょせん》は男と子供が相手の商売である。ここまで並外れて髪の長い女性を、浅羽は塗り絵に出てくる女の子くらいしか知らない。
「あー、ほんとだ。カブがないや。どこ行っちゃったのかな。約束はしてあるんでしょ?」
「あ。その、時間ははっきりとは決めてなかったんです。朝メシ食ったらすぐ来いって言われて。それにぼくの方も今日バスで来たんですけど、思ってたより時間かかっちゃって」
「おかしいなあ。どこかそのへんで雪に嵌《はま》ってるのかなあ」
おかしいとは浅羽も思う。部長がこの種の約束を違《たが》えることはまずない。
「まあいいや。上がって待ってて」
水前寺柿は、白いセーターの襟元からビニールひもで首にかけた鍵《かぎ》を取り出した。その鍵が挿し込まれる先は、まさに歴戦の兵《つわもの》といった感じの古びた南京錠《なんきんじょう》である。そして、その南京錠が固く閉ざしているのは、敷地の外れにある大きな土蔵の入り口だ。
部長はなぜ、一体|如何《いか》なる理由があって、こともあろうに蔵の中で寝起きしているのか。
水前寺にそのことを尋ねるタイミングを、浅羽は今もって見出せないままでいる。「複雑な家庭の事情」というレッテルを貼《は》ってしまうのは簡単だが、それで疑問が少しでも解消されるわけではなかった。あれだけ大きな母屋なら好きに使える部屋などいくらもあるだろうに、離れの数も大小を合わせれば五指に余るというのに。
もっとも、あの水前寺|邦博《くにひろ》のことである。「秘密基地みたいでかっこいい」とかそんな理由で、家族の誰《だれ》が止めるのも聞かずに蔵の中に巣を張ってしまった、という可能性は決して小さくはない。母屋への出入りが許されないというわけでもないようだったし、自分の住処《すみか》としてのこの蔵を、当の水前寺《すいぜんじ》はひどく気に入っているらしかった。
「おーい、邦《くに》ちゃーん。――って、いるわけないか。鍵《かぎ》かかってたもんね」
水前寺姉に続いて、浅羽《あさば》は時間の匂《にお》いの中に足を踏み入れた。
一階は足の踏み場もない物置である。そこはまさに文字通りの農家の物置で、探せばお宝のひとつも出てきそうな旧家の蔵といった雰囲気はあまりない。水前寺姉が古めかしいスイッチを入れると、所狭しと詰め込まれた農作業具の群れが裸電球の光の中に浮かび上がった。蚕棚《かいこだな》の谷間を抜け、三十年も昔のカレンダーが貼《は》られた壁《かべ》の突き当たりを右に折れると、数知れぬ足に磨かれた階段が現れる。靴はここで脱ぐ決まりだ。
「あ、この階段滑るから気をつけてね」
そして二階が、足の踏み場もない水前寺の部屋だった。広い。階下の惨状の中を通り過ぎてきた目にはなおのことそう感じる。部室とよく似た散らかり方をしていたが、はっきりとした生活の匂いがここにはあった。コタツに和机にテレビに冷蔵庫。教科書や参考書、ゲーム機やラジカセといった中学生の部屋にありそうな物もひと通りは揃《そろ》っているが、それ以外の物はふた通りくらい揃っている。山のようなキャンプ用品と山のような機材。書籍のあふれ出ている本棚の奥には工房のような場所があって、バラした機材やら電子部品やら工具やらが、主《あるじ》にしかわからない秩序をもってばら撒《ま》かれている。インテリアのつもりなのか、それとも昔からそこにあったものか、窓がある方の壁には四枚のホーロー看板が並んでいた。四枚とも同じく色褪《いろあ》せており、四枚とも同じく大村《おおむら》崑《こん》のオロナミンCだった。
「トランプでもして待ってよっか? それかエロ本でも探す?」
この人は間違いなく部長のお姉さんだと思う。
「あ、あの、お構いなく、ここで待たせてもらえれば、部長すぐ帰ってくると思うし」
この部屋にはざっと見ただけで七台のコンピュータがある。サーバーは別として、コタツの上にあるラップトップの波晶画面にはスクリーンセーバーが動いていた。シャットダウンして行かなかったということは、そう長く部屋を空けているつもりはないということだろう。
「ねえ、直《なお》ちゃんって兄弟いる?」
いきなりの質問に浅羽は少々面食らう。
「います、妹がひとり」
浅羽はそう答えた。この何気ないひと言は、後に姉の口から水前寺の耳に入り、浅羽夕子を襲《おそ》ったあの昼休みの惨劇《さんげき》を招くことになる。
「あー、いいなあ妹。うちの邦ちゃんととりかえっこしない?」
それは困る、ものすごく困る、大体その場合はどちらが兄でどちらが弟になるのだろう。
ふと真剣に悩んでしまった浅羽を見て、水前寺姉は綺麗《きれい》な笑い声を上げた。
「――でもね、あの子が『部長』なんて呼ばれる日が来るとは思わなかったな。ほら、邦《くに》ちゃんってちょっと気の弱いところがあるから」
うそお!?
思わず顔に出た。水前寺《すいぜんじ》姉はそれを正確に読み取り、
「ほんとだよ」
そして、ひどく真面目《まじめ》な眼差《まなざ》しで浅羽《あさば》を見つめ、水前寺姉はこう言った。
「だって、あの子が自分の部屋に誰《だれ》かを呼んだりするのって、直《なお》ちゃんが初めてなんだよ」
驚《おどろ》く反面、そうだろうな、という気がなぜかした。
それが手がかりとなった。
水前寺姉の言う「気の弱いところ」という言葉の意味がわかってきた。
部長には、人の善意や好意を簡単に信用しないところがある。
それは、頭がよすぎることのマイナス面のようなものかもしれない。他人からのやさしい言葉や親切を無意識のうちに理屈で解体してしまって、そこに損得の筋が通るカラクリを見てしまうのだ。巷間《こうかん》オカルトマニアと一緒にされているが、確かにそれも一面の真実ではあるのだが、部長ほど徹底《てってい》して理屈で物事を考える人はいないと思う。恋愛とか親の愛情とか、そんなものまで部長は解体してしまうのだろうか。そうした解体が行き着くところまで行き着いた先にあるのは、すべての虚飾が剥《は》ぎ取られてすべてがむき出しになった、冷たい物理と数学だけが支配する弱肉強食の世界なのではないだろうか。
それは、ものすごく怖いことなのではないだろうか。
「いつだったかね、ぽろっと言ったことあるよ。オレには知り合いはたくさんいるけど友達は浅羽特派員だけだって。あの子ね、直ちゃんが隣《となり》にいてくれるとすごく居心地がいいんだと思うの」
ふと思う。ちょっと待ってほしい、今までの流れでいくとなにか、部長が自分に対して気を許しているのはつまり、「浅羽特派員はいい感じにボケで理屈が通らない奴《やつ》なのでそばで見ていると心が和むのだわははは」とか、そういう理由なのだろうか。
そして、この人は実は「水前寺姉」ではなく「水前寺母」なのではないか、と思った。この人だけの特性なのか、それとも歳《とし》の離れた姉というのは皆だいたいこうなのか。
「前に来てくれたときには言いそびれちゃったんだけどさ、これからも邦ちゃんのことよろしくお願いします。色々迷惑かけちゃうこともあると思うけど、あ、でもねでもね。あいつバカのくせに頭いいからさ、隣に一匹飼っとくとちょっと便利だよ。ね?」
そう言って、水前寺姉は顔の部品をすべて線にして笑った。
ぼへぼへぼへぼへぼへ、という排気音が近づいてきた。水前寺がいつも乗り回しているスーパーカブの音である。水っぽい雪をかき混ぜるタイヤの音までが聞こえて、そこでふっつりとエンジンが止まった。階下でガテクタを蹴散《けち》らす音に続いて、でかい足が階段をどすどす上がってくる。
「おう、」
水前寺《すいぜんじ》は、ぱんぱんに膨《ふく》れたコンビニの袋を両手に提げていた。
「おうじゃないでしょ。直《なお》ちゃんずっと待ってたんだからね」
姉の顔を見て、水前寺は喉《のど》に何か詰まらせたような顔をする。浅羽《あさば》に向かって、
「申し訳ない。すぐ戻ってくるつもりだったんだが」
「それじゃ直ちゃん、ゆっくりしてってね」
水前寺姉は、そう言い残して階段を下りていった。
コンビニの袋をコタツの上に置き、水前寺は鼻からため息をついて肩の力を落とした。水前寺が姉のことを苦手としているらしいことは、前に来たときになんとなく気づいてはいた。しかし今日は、その理由がわかったような気がする浅羽である。思わず笑みを漏らしかけ、慌てて表情を引き締《し》めて、
「コンビニってあそこの、えっと、郵便局の向かいですよね」
「ああ」
村上天神《むらかみてんじん》の簡易郵便局は、カブで往復するならあっと言う間の距離にある。雪で路面の状態が悪かったとしても、普通ならここまでの時間はかかるまい。
「戻る途中で8号に出くわしてな。報告を受けていたらすっかり遅くなってしまった」
「8号?」
「実験体第8号だ」
ああ、と浅羽は思う。思い出した。部長がいま最も有望視している実験体だ。確か本名は辰宮《たつみや》鈴子《りんこ》。こばと幼稚園もも組、好きな食べ物はパンの耳。
水前寺は昔からものすごく子供にモテる。見た目がかっこいいし面白《おもしろ》そうなものをたくさん持っているし、何よりも、絶対に相手を子供扱いしないからである。そして目下の水前寺テーマは「超能力」であり、超能力とくれば子供なのだった。水前寺は、近所の幼稚園児どもをそそのかして能力開発訓練を行っているのである。手のひらに実験体番号をマジックで書いてくれるのが連中の間では大好評らしい。
変質者扱いされて警察《けいさつ》に通報されたりしなければよいのだが、という危倶はもちろんある。しかし、それでも浅羽が実験の中止を強く進言しないのは、ことによると本当に芽を出す奴《やつ》がいるかもしれない、という考えを捨て切れないでいるからだ。確かに覚えがある、あのころの自分に不可能はなかったと思う。空だって飛べた。どんな怪獣《かいじゅう》も敵ではなかった。そんな時分に、大人のようで大人ではない謎《なぞ》めいたお兄ちゃんが現れて、手のひらにマジックで番号など書き込んでいったらどうなるか。それが自分だけではなかったら、友達の手にも同じような数字が刻まれているのを目にしたら。それまでと違う歯車が噛《か》み合ったとき、一体何が起こるのか。それを見てみたい、という思いは確かにあるのだった。
「そう、それについて吉報があるぞ。8号が予知夢を見たらしい。犬に噛《か》みつかれる夢を見た翌日に、友人宅で本当に座敷《ぎしき》犬に噛みつかれたそうだ。膝《ひざ》の傷を見せてくれた」
その程度で浅羽《あさば》は驚《おどろ》かない。コクツに足を入れてつま先でスイッチを探りながら、
「――それは、ほら。その犬を普段《ふだん》から怖いと思っていれば、そんな夢を見ることもあるんじゃないですか。翌日ほんとに噛みつかれたのはただの偶然ってことも、」
「そう。まさしくポイントはそこだな。その友人宅には普段は犬などいないんだ」
沈黙《ちんもく》せざるを得ない、
「時間がなくて詳しい話は聞けなかったんだが、その日、友人宅には『しんせきのおばさんみたいなひと』が来ていて、8号に噛みついたのはそのおばさんが連れていた犬らしいんだ」
「――つまりあれですか、その子は、友達の家に犬がいることを知らなかったと」
「8号はそう言っている。――しかし、そこもポイントだ」
そう言って水前寺《すいぜんじ》は苦笑する。
「なにせ友達の家だしな。件《くだん》のおばさんや犬の存在を8号が本当に知らなかったのか、という点については疑問の余地がある。何かの折に聞いたことくらいはあったのかもしれない。それが8号の心のどこかに残っていたのだとすれば、君が最初に言った解釈もそのまま当てはまることになる。それと、8号の夢と現実に起きたこととの間には相違点もいくつかあるんだ。まず一点目、8号の夢に出てきたのは黒い大型犬だったそうだが、おばさんが連れていたのは座敷犬だ。小さくて茶色くてもこもこしていたというからたぶんポメラニアンか何かだと思うんだが。二点目、8号は夢の中で右腕を噛みつかれている。しかし、実際に噛みつかれたのは右の膝だった」
「あの、さっきからなに探してるんです?」
水前寺は浅羽に尻を向けて、壁際《かべぎわ》に積み上げられたガラクタの山に上体を突っ込んで何やらごそごそやっている。
「いや、いつだったか、この手の夢についての論文を何かの本で読んだことがあるんだ。夢に関する屁《へ》理屈とくれば心理学畑と相場は決まってるんだが――」
浅羽は意外な顔をする。
「へえ、部長もそんなの読むんですか」
水前寺の尻が不満げに蠢《うごめ》き、
「なんだそれは」
「だって部長、前に言ってたでしょ。心理学なんて科学じゃないって」
「無論だ。あんなもんが科学であってたまるか。しかし、それと好き嫌いとはまた別の問題だろう。正しいか正しくないかとも別の問題だ」
「――なんだ。じゃあ部長は好きなんですね、心理学」
「大好きだね。あんなにオマタのゆるい学問はないぞ。おれに言わせればだな、あれこそは尻に『学』の字をくっつけることで現代に生き残った、正当なる魔術《まじゅつ》の末裔《まつえい》だよ」
ほめているのかけなしているのか全然わからない。一体どっちなんですかと浅羽《あさば》が尋ねようとしたそのとき、ただでさえ危ういバランスで積み上げられていたガラクタがついに壮絶な土砂崩れを起こした。
「うわあっ!? ――だ、大丈夫ですか部長!?」
累は浅羽にまで及んだ。遥《はる》かな高みから滑り落ちできた大きな行李《こうり》が背中にぶち当たり、浅羽は息もできずに床に這《は》いつくばった。水前寺《すいぜんじ》は完全に理まっている。小山のような書籍の隙《すき》間から、あさばとくはいーん、あさばとくはいーん、という叫び声が微《かす》かに聞こえてくる。
「うあ、ああすまん、あーびっくりした。少しは整理しないといかんな」
浅羽に掘り出された水前寺は土砂崩れの惨状を見回してそんなことを言うのだが、その言葉が決して実行されないであろうことは部室の有様がすでに証明していると浅羽は思う。
「――部長、」
「あ?」
その地図は、文字ばかりが書かれた古めかしい書類の山の中にあってひときわ目についた。
「なんですかこれ」
浅羽はそれを手にとってながめた。やはり地図である。大きさは映画のポスターほどで、相当に古いもののように見えた。さっき背中にぶつかってきた行李の中に、他《ほか》の書類と一緒に入っていたものだろう。
水前寺が横からのぞき込んでくる。ふん、と鼻を鳴らし、
「どこから出てきた?」
「あ、たぶんそこの箱の中です。――あの、ひょっとしてこれ、」
宝の地図ですか、そう言おうとしたのだ。
「大昔の測量地図だな」
浅羽がガックリした隙《すき》に、水前寺はその地図をするりと奪い取った。
「村上《むらかみ》坂内って、なんだこれ。実家の山だ」
「実家の山?」
浅羽の日には落書きのようにしか見えない文字を、水前寺の目は何の苦もなく読み下していく。息を吹きかけてほこりを払い、
「元、だけどな。――へえ、あんなところに地下|壕《ごう》なんて掘ったのか。えーと引き算ができない、245ひく169はいくつだ?」
そんなことをぶつぶつとつぶやいていた水前寺だが、浅羽に散々にせがまれてようやく顔を上げ、説明を始める。
「これな、たぶん、」
今から七十年ほど昔、水前寺家は所有していた山のひとつに地下壕を掘りはじめた。
その意図までは地図には書かれていないが、統合戦争が始まる直前のことでもあるし、恐らく防空|壕《ごう》か物資|隠匿《いんとく》のためのトンネルとして利用する目的だったのだろう。この地図は、そのときに作成された測量図のうちの一枚である。物資の隠匿が実際に行われたのかは定かではないが、その意味では浅羽《あさば》の「すわ宝の地図か」という想像もあながち的外れなものではない。
「けどな、」
この地図に書かれている山は、すでに水前寺《すいぜんじ》家の所有にかかるものではないという。
その後の北方動乱の時代、有事国債を買って国に貢献しようという機運が爆発《ばくはつ》的に高まったことがある。とりわけ、金持ちどもの間では常軌を逸した額の献金をすることがある種のステイタスとなった。このとき、水前寺家は所有していた土地の半分近くを手放して近隣《きんりん》の資産家たちを瞠目《どうもく》させたという。そうして手放された土地の中に、この地図に書かれている村上輪堂《むらかみりんどう》を含む山林一帯も含まれていたらしい。
「献金っていうか、まあ当然ヒモつきの金だったんだろうけどな。おかげで、その後のヤバい時代には軍部に色々と便宜を図ってもらったはずだ」
浅羽は地図のあちこちにのたくっている文字に顔をしかめ、
「――で結局、この山って一体どこなんですか?」
「そこまでは知らん。今の地図とつき合わせてみんことにはよくわからん」
いきなり、
「ねえねえ、何それ?」
水前寺姉だった。ホットカルピスの乗ったトレイを手に、頭を並べて地図をのぞき込んでいる。うわびっくりした、と浅羽は口をついて出でしまったが、水前寺はこうした姉の唐突な出現には慣れているのか、
「なあ姉貴、天童《てんどう》のおじいが昔、山ん中に防空壕か何かを掘ったって話聞いたことないか?」
「防空壕、ってなに? ――ああ、それってもしかして『あんちゃ〜ん逃げんのかあ〜ずるいぞお〜っ!』とかってやつ?」
「なんだそれ」
もういいやあっち行け、という顔を水前寺がした瞬間《しゅんかん》、
「あ」
「なんだよ」
「おじいちゃんが昔掘ったって、それ、殿山《とのやま》のトンネルのこと?」
水前寺と浅羽は思わず顔を見合わせた。殿山といえば、チャリを飛ばせば行ける距離ではないか。水前寺は地図を穴の開くほど見つめ、
「――これ、殿山なのか?」
「いや、その地図は知らないけど。でもおじいちゃんがむかあ〜しにトンネルを掘ったって話は聞いたことある気がする。たしか今で言う殿山のはずだけど」
「何の目的で?」
「なんでかは知らない。けど、それが途中でダメになったか何かで、しょうがないんで椎茸《しいたけ》の栽培をやってみたけどちっとも儲《もう》からないしつまんないからすぐに塞《ふさ》いじゃった、とか。そんな話だったと思うよ」
「椎茸、」
「そう。椎茸」
わずかな間があった。
水前寺《すいぜんじ》は唐突に立ち上がる。つかつかと部屋を横切って、かなり高い位置に切られた窓をガラリと開け放ち、蜂《はち》の巣のような模様の金網に顔をくっつけるようにして、水前寺は冬休みの終わりも近い空に向かって叫ぶのだ。
「つまんね―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
椎茸はあまり好きではない浅羽《あさば》も少しだけブルーな気分になっていた。そしで水前寺姉はすぐに退散し、話は8号の予知夢に戻ったのである。
この後、七十年の時を超えてようやく日の目を見た殿山《とのやま》地下|壕《ごう》の地図は、水前寺の部屋の片隅に放り出されたまま、さらに九ヶ月間ほど忘れ去られることになる。
浅羽は今でも、この地図のことを完全に忘れている。
あの日のあの夜に殿山で謎《なぞ》の爆発《ばくはつ》が発生しなかったら、水前寺もまた、この地図のことなどきれいさっぱり忘れ去っていたかもしれない。
「――ねえ、一体いつになったらこの騒《さわ》ぎが収まるの? 一歩表に出れば検問検問って、もういいかげんうんざりなんだけど」
小学生時代からブルドッグと呼ばれていじめられていたに違いない四十がらみの主婦が、車の窓から首を突き出してぼやいている。治安部隊の兵士はまったくの無言で免許証の写真と実物とを見比べ、決して消えない心のペンを取り上げて、空欄《くうらん》のままになっている免許の条件等の欄に「ただしブルドッグ」と書き込んだ。西の空は夕日の色に染まり始めている。
「早く免許返してよ。もう行っていいかしら?」
「トランクを開けてください」
もはや全国どこであってもこの調子だといえばまあそうなのだが、とりわけ、爆発事件のあった殿山とその周辺部の警備《けいび》体制は熾烈《しれつ》を極めている。道路は数知れぬ検問所に寸断されてとうにその機能を失っているし、住民はすでに一時退去を命じられて軍の運営する避難《ひなん》所での生活を余儀《よぎ》なくされている。昼夜を問わず徘徊《はいかい》するパトロール部隊は、民間人と見るや誰彼《だれかれ》構わず拘束して装甲車両に押し込める。犬までが武装していた。犬歯の中に装填《そうてん》されているカプセル式の無力化剤は五秒で馬をも倒すという代物で、自衛軍兵士の間では、もし過ってこれに噛《か》まれたら向こう三年間は子供を作ってはいけないとまで言われていた。
「行っていいの? もう行っていいの?」
「降りてください。車の中を調べますから」
つまるところ、ここは戦場なのである。あの夜以来、この近辺で拘束された民間人の数は百七十名以上にのぼるが、そのうちの百三十五名は未《いま》だに解放されていない。殿山《とのやま》は軍部の闇《やみ》が統《す》べる魔境《まきょう》となりつつあるのだ。園原《そのはら》市の住人であれば絶対に近づかないであろうそんな場所に、よその人間が迷い込んできてしまうのは百歩|譲《ゆず》ってしかたのないことだとしよう。しかし、車の中を調べている兵士に向かって自分の権利がどうしたとか、こんなことをさせるために税金を払ったのではないとか、そんな御託《ごたく》を並べているブルドッグもおめでたい。人食い鮫《ざめ》に向かって貴様に自分を食う権利があるのかと文句を言っているようなものだった。彼女の払った税金も彼女の権利も、もはや何の問題にもなりはしない。
「行っていいのね? もう行っていいんでしょ?」
「こちらに来ていただけますか。二、三質問がありますので」
背後から襲《おそ》いかかってきた何者かは、説明をする余裕も与えてはくれなかった。
ブルドッグのメルセデスが治安部隊の制止を受けたのは、軍道228号線と西山《にしやま》街道の交差点から南へ200メートルほどの地点である。そこからさらに南へ5キロほど下ると、夏には水が干上がってしまう細い川と赤錆《あかさび》だらけの橋が現れる。手すりの代わりに雑草が生えているその橋を渡れば、そこから先はもう殿山の麓《ふもと》と呼んでも差し支えのない地域だ。人家はあまりない。田んぼと野菜畑と小汚い小川とゴミの不法投棄が絶えない防風林と、棒っきれのような電柱とたるんだ電線とみみっちいゴルフ場と横柄《おうへい》な教官ぞろいで悪名の高い自動車教習所。それらをすべて背後に残してさらに進むと、道は唐突に上り坂となる。
そこで道を外れ、山林に分け入って500メートルほど斜面を登ったあたりで、桑田《くわた》慎介《しんすけ》は治安部隊の襲撃《しゅうげき》を受けた。
初対面の女性を紹介されたとき、桑田はフリーのジャーナリストを名乗ることが多い。それも別に嘘《うそ》ではないが、「何でも屋」という表現の方がはるかに的を射てはいる。外注でどこからともなく回ってくる編集や校閲の仕事をやることの方が多いし、カメラに生ケツをさらして自販機レベルのエロ本のモデルと絡んだりもする。吹けば飛ぶような町工場に殴り込んで気の弱そうな社長にインタビューを無理強いした挙句、製本した自伝と高額な請求書を送りつけるという悪事の片棒を担いだことも一度だけ。気の弱い社長が蛮勇を奮《ふる》ってこの請求書を無視し続けたりすると、今度は桑田の代わりにおっかないおじさんの団体がやって来て、横一列に並んで工場のシャッターに立ちションをするという仕組みだ。
マスコミのヒエラルキーの最底辺に生息する彼が、園原くんだりの山の中でなぜ薮《やぶ》をこいでいたのかといえば、その理由はひとえに「食えなくなったから」という一点に尽きる。輸送機の墜落《ついらく》であろうが爆破《ばくは》テロであろうが何でもよかった、この時点ですでにジャーナリストを名乗るには無理があるが、とにかく、一枚の写真でも十秒のVTRでもいい。爆心地の姿を記録に収めて、近ごろ頓《とみ》に回らない首を回るようにしようと画策したのである。
業界人としての育ちが悪い分、桑田《くわた》の計画はそれなりに手が込んでいた。でなければ、彼と二人の仲間は殿山《とのやま》の麓《ふもと》の川を越えることすらできなかったはずである。教習所の車庫に忍び込んで一夜を明かし、一日がかりの慎重さで防風林を抜けて、坂道の最初の曲がり角で山の中へと踏み込んだ。ここに至る道のりにおいても、武装兵士や戦闘《せんとう》車両の姿を何度も目にしてはいた。しかし、彼らが桑田たち三人に気づいた様子はなかったし、川より南の警備《けいび》はむしろ手薄《てうす》だという印象すらあった。
園原《そのはら》入りした三日前の時点ですでに治安部隊に捕捉《ほそく》され、以降ずっと泳がされ続けてきたのだということに、桑田はついに気づかなかったのだ。
殿山を守る治安部隊は、大きく二つに分けることができる。まずひとつ目は、これ見よがしの警備を担当する部隊で、その主な役割は周囲への威圧である。相手がアマチュアのレベルであればこの段階で十分に対処可能であるし、厳重《げんじゅう》な警備を大げさに見せつけることで侵入を事前に思い止まらせる効果も期待できる。
そしてふたつ目が、桑田とその仲間を襲《おそ》った部隊である。
最初に、カメラマンの石川《いしかわ》が消えた。
文字通りに消えた。山中の湿度の高さに額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》い、桑田は石川からスポーツドリンクのプラボトルを奪い取って、ひと口飲んで、返そうとして差し出したそこに、プラボトルを受け取るべき石川がいなかったのだ。
足でも踏み外して斜面を滑り落ちたのか、桑田はそう思った。周囲は緑に閉ざされ、見通しは極めて悪い。桑田は、早くも不安げな顔をしている小松《こまつ》を小声で叱《しか》りつけ、石川を探せと命じた。
「――そうだ、なあ俺《おれ》ら携帯持ってんじゃん、ここまだ電波も届くしさ、」
小松が不法所持している携帯電話をすがるような手つきで取り出す。が、桑田がすぐさま殴りつける。
「バカかお前、そんなもん使ったら一発で傍受されるぞ」
お前はそっちを探せ。小松の背中を叩《たた》いて、桑田は石川の姿を探した。しかし、石川を呑《の》み込んだ夏の緑はどこまでも深く、そして小松の悲鳴を聞いた。確信はない。しかし小松の悲鳴のように聞こえた。少なくとも、恐怖による悲鳴であったことは間違いない。
猫《ねこ》に見つかったネズミの悲鳴であったことに、絶対に間違いはない。
耳を聾《ろう》するひぐらしの声に、途方もない恐怖を感じた。
「石川ぁ。小松ぅ」
大声を出そうと思ったのだ。しかし恐怖に負けた。干乾びた喉《のど》からは、自宅のボロアパートの壁《かべ》も抜けないような声しか出てこなかった。
何もかも放り出して闇雲《やみくも》に斜面を下った。恐ろしくて涙が出た。すでに周囲は薄暗《うすぐら》く、緑の地獄はいつまで走っても途切《とぎ》れることがなく、何かに蹴《け》つまづいて10メートル近くも転がり落ちた。道に迷ってしまったと悟る、胸のポケットから転がり出た携帯電話が足元に落ちている。今の自分に残された、仲間とつながることができる唯一の道具だ。夢中でつかみとる、大丈夫、壊《こわ》れてはいない、電波も届く。もしあの二人が近くにいれば、むこうの携帯のベルを鳴らせばその音で位置がわかる。
突然、桑田《くわた》の手の中にある携帯電話のベルが鳴り始めた。
携帯を鳴らせば[#「携帯を鳴らせば」に傍点]、音で位置がわかる[#「音で位置がわかる」に傍点]。
背後から、何者かが人間離れした速度で近づいてきた。
あの夜以来、桑田とその仲間が到達した地点よりもさらに上にまで登っていった連中が、十四人いる。それぞれの目的を胸に抱いて、様々な装備を身につけて、あの手この手のルートを立案して。
その十四人の中に、爆心《ばくしん》地にまでたどりついた者はいない。
殿山《とのやま》に、「遠き山に日は落ちて」のメロディが響《ひび》き渡る。
おそらく、中腹にあるスポーツ公園のスピーカーによる放送だろう。録音された女の子の声が喋《しゃべ》り始める。もう五時になったから車に気をつけて家に帰れ、帰ったら宿題をして家の手伝いをして風呂《ふろ》に入って歯をみがいて明日のために早く渡ろ。
大きなお世話だ。
地下|壕《ごう》の暗闇《くらやみ》の中で、水前寺《すいぜんじ》はそう思った。
遥《はる》か遠くから聞こえてくる女の子の声は、壕の壁に反響《はんきょう》するたびに変質を繰り返し、まるで怪物のつぶやきのように歪《ゆが》んで耳に届いていた。
最後の仮眠を取るつもりだったのに、結局眠れなかった。あくびにも等しいまどろみが幾度か訪れただけだった。闇の中で身じろぎをする、ウレタンのマットが身体《からだ》の形にへこんでいる感触がある、身体の周囲でシュラフがしわくちゃになっている。顔の正面の闇に浮かんでいる赤いデジタル数字をじっと見つめている。
P 05:00。
闇が探すぎて距離感がまったく感じられない。赤い数字がかき消えてはじめて、目前にかざした自分の手の存在を納得することができる。地下壕の闇はそれほどの闇だった。手首に巻きつけられた電極つきのマジックテープを引き剥《は》がす。闇に浮かぶデジタル数字は目覚まし時計の時刻表示で、セットしでおいた時間になると音の代わりに電極からの刺激で否が応にも目が覚める仕組みに改造してあった。バッグに詰め込んたときは半ば自分に対する冗談のつもりだったのだが、持ってきてよかったと今になって思う。壕《ごう》の中がここまで音が響《ひび》くとは思っていなかった。ここで目覚まし時計など鳴らしたら外にまで漏れ聞こえていたかもしれない。
放送が終わった。
木霊《こだま》がいつまでも無限に小さくなっていき、しかし決して消滅はせずにいつまでも聞こえている、そんな錯覚《さっかく》が耳に残った。強引に意識を切り替えて、再び耳を澄《す》ませてみる。地鳴りのように幾重にも反響《はんきょう》する風の流れの他《ほか》は、何も聞こえない。
水前寺《すいぜんじ》はようやく身を起こし、枕元のあたりを慎重に手探りして電池式の蛍光灯《けいこうとう》ランタンを灯《とも》した。テントの中が青白い光に照らし出される。闇《やみ》の中ではあれほどの存在感を誇っていた目覚まし時計の本体は、こうしてみると安物の刑事ドラマに出てくる時限|爆弾《ばくだん》のようだった。もっと安物の刑事ドラマなら、時間と分を区切るコロンが点滅するたびにピコピコ音がしているところだ。腕時計で日付を確認する、蛍光灯ランタンはいまひとつ光量に乏しく、バックライトを灯さないと液晶表示が読み取れない。
水前寺がこの地下壕の闇に身を潜めて、すでに三日目になる。
隣《となり》の鷹座山《たかざやま》尾根から地下壕の中を歩いてきた。全行程の八割以上は地面の下だ。すなわち、危険なのは最初と最後である。まずは、いかにして地下壕の入り口にまでたどり着くかが問題だった。殿山《とのやま》を中心とする偏執的な警戒《けいかい》網は鷹座山尾根にも及んでいるはずだったし、どうにかして連中の目をかわす手を考えなくてはならない。ルート立案において、水前寺が最も時間をかけたのもこの点である。
勝算は、やはりあの古い地図だった。
あの地図には、知られざる地下壕の構造だけが書いてあるわけではい。七十年前の殿山とその周辺部の稜線《りょうせん》や谷や川や通が、あの地図には詳細に書き込まれている。
その一方で、水前寺の手には色|鮮《あざ》やかな最新の地図もある。しかし、こちらの地図には防諜《ぼうちょう》戦略上の理由による知れきった嘘《うそ》が混じっているはずだ。防空陣地の構築予定ポイントや物資搬送用の林道はそもそも記載されてもいないだろうし、その周辺の地形は意図的に改竄《かいざん》されているはずである。
そして、さしもの治安部隊も無尽蔵に人員を擁《よう》しているはずはない。さらに言えば、彼らの目的は「殿山を中心とする山林一帯に侵入者を立ち入らせないこと」であって、「山林に点在する重要拠点のピンポイントな警備」ではないのだ。そこに限られた人員を投入するのであれば、当然の優先順位が発生する。
すなわち、治安部隊にしてみれば、公式には存在しないことになっている稜線や谷や川や道に、人員を裂いて警備を敷《し》く理由などないのだ。水前寺はそこを突いた。「嘘の混じった最新の情報」と「すべて正しく古い情報」をうまく突き合わせることで、予想される警備の盲点の在処《ありか》を読み切ったのである。平林《ひらばやし》の旧材木輸送路から鷹座山尾根に入り、瀬戸川《せとがわ》源流の渓谷を踏破し、輪堂《りんどう》の砂防ダムへと抜け、地下壕の入り口に至るという複雑怪奇なルートはまさに、水前寺《すいぜんじ》にしか見えない道筋だったのだ。
人の声が聞こえた。
しかし、水前寺はさしたる反応を見せなかった。男の声のようだったが、この地下|壕《ごう》の中に他《ほか》に人がいるはずはなかった。治安部隊の兵士の声ではあり得ない。もしこの地下壕が発見されたのであれば、それこそ連中の声など聞こえまい。テントの中でひとり、水前寺は平然と荷物をまとめにかかる。
地下壕の偵察には二日を費やした。広大な壕の内部は概《おおむ》ね地図の通りだったが、落盤《らくぽん》や浸水に見舞われている箇所があちこちにあって、大幅なルートの変更を余儀《よぎ》なくされた。中でもハ号支道の出口が落盤で埋まっていたのは痛かった。イ号支道の出口を使うしかないが、爆心《ばくしん》地までの道のりが遠回りになる。
そして、三日目はほとんど寝て過ごした。体力の回復と最終的な準備に最低でも一日はかけようと決めていた。
また聞こえた。
今度は、女の泣き声のような気がした。
時間《くらやみ》の中の三日間で、水前寺はこうした声を数限りなく聞いた。声は、何かをし終わってふと意識の焦点がぼやける一瞬《いっしゅん》などに聞こえてくることがほとんどだった。暗闇の中の孤独という状態が作り出す幻聴なのだと思う。おそらく、心の奥底には他者との接触を求める気持ちがあるのだ。周囲の物音の中から人の声と似たものが自動的に拾い出されて、記憶《きおく》のゴミと結合して意味のある言葉に再構成されてしまうのだろう。この三日間で聞こえたのは泣き声やうめき声のようなものがほとんどだったが、誰《だれ》の声が何を言っているのか明確にわかる場合もあって、初日の十四時ごろにはカレーパンを食え食えとしきりに勧める浅羽《あさば》の声が耳元ではっきりと聞こえたし、二日目の夜中など、「あたしの乳母車を返して」とつぶやく若い女がテントの周囲を二時間近く歩き回っていた。あれは一体、誰だったのだろう。
バックパックのファスナーを勢いよく閉めて、水前寺は不敵な笑みを浮かべる。
すでに元は取ったと思う。この声ひとつをとっても面白《おもしろ》い経験だった。この地下壕の闇の中に足を踏み入れるということは、自分の意識の中に足を踏み入れることと同義だったのかもしれない。この世界は、自分という観測者がいる限りにおいて存在する。観測とはすなわち脳中の機能であり、感覚器の情報を脳が処理した結果としてそこに世界は立ち現れる。つまり、この世界の外には自分の脳があるのだ。自分の脳はこの宇宙よりも大きいのだ。愉快だ。
「――いくか」
水前寺は、テントを出た。
必要と思われる物はすべて背中のバックパックに詰まっている。テントやその他の装備はこのまま残していく。ここから先は可能な限り身軽になる必要がある。帰りも同じルートを使うつもりだったが、場合によっては再びこの壕に身を潜めて脱出の機会をうかがうことになるかもしれない。いずれにせよ、すべてが片付いてほとぼりが冷めたころに、回収できるようなら回収しに来ればいいだけの話だ。
水前寺《すいぜんじ》は歩き始める。ルートを確認したときに残しておいたサイリュームライトの光が連なりに点々と続いている。すでに光は弱々しい。あと数時間もすれば完全に消えてしまうかもしれない。水前寺は、新たなサイリュームライトをペきべき折って適当な間隔をおいて放り投げつつ、イ号支道の出口を目指して歩き続ける。
それにしても、巨大な壕《ごう》だった。
幹道ともなると大型車が楽にすれ違えるほどの広さがあって、実際に大昔のトラックの残骸《ざんがい》がマグライトの光の中に浮かび上がったりもする。単純な防空壕としてはあまりにも過剰な規模だ。まさに秘密基地でも作ろうとしていたかのような勢いである。本当にそうだった可能性もなくはないと思う。当時の軍部と水前寺家はかなりのクサい仲だったのかもしれない。
笑えるのは、イ号支道の中に大量の丸太が残されていることだった。
最初は、この丸太が何なのかがわからなかった。が、その正体に気づいた瞬間《しゅんかん》には思わず大笑いしてしまったし、今こうして再び目にしてもやっぱり笑える。間違いない、これはキノコを栽培するためのホダ木である。天童《てんどう》のおじいがこの壕でキノコ栽培を試みたという話は本当だったのだ。せっかくこんなにでかいトンネルを掘ったのだから、という気持ちもわからなくはないが、そのがめつさは呆《あき》れるのを通り越してむしろ微笑《ほほえ》ましい。最後に墓参りをしたのはいつのことだったか。線香代わりにサイリュームライトをちょっと多めに投げてやる。
そして、行く手の闇《やみ》に光を見た。
光は、夕刻の物陰と同じ色をしていた。しかし、マグライトなしでは一歩も立ち行かない闇の中にあって、それはまぎれもない陽光に見えた。
出口は茂みに覆《おお》い隠されている。おそらくは天童のおじいの手で一度は固く閉ざされ、しかし時間と雨と風と地盤《じばん》の圧力がコンクリートを蝕《むしば》んで、這《は》って通り抜けられるくらいの大きな亀裂《きれつ》が生じている。水前寺は油断をしない。這いつくばって耳を澄《す》ませる。巨大な繭《まゆ》のような密度で張られたクモの巣に、誰《だれ》かがそこを通り抜けたかのような裂け目ができていないことを確認する。瓦礫《がれき》を這い登り、ねばつくクモの糸に躊躇《ためら》いなく頭を突っ込んで、そっと鏡《かがみ》を突き出して周囲の状況を探る。何も問題はない。
水前寺は、まるで下界へと産まれ出る赤子のように、殿山《とのやま》の山中へと転がり出た。
空と風と空気の味を堪能している余裕はなかった。茂みを泳ぎ、獣道《けものみち》を抜け、頭の中で現在位置を修正しながら動き続ける。
自衛軍兵士の野戦服を着ている。
背嚢《はいのう》と靴は純正品が手元になかったので、似たような色のバックパックと米軍放出品のジャングルブーツで代用している。遠目にちらりと目撃《もくけき》される程度であればこの格好でごまかせるかもしれないと期待してのことだったが、殿山の山中を守備|範囲《はんい》としている部隊はそこまで長閑《のどか》な連中ではなかったし、当の水前寺《すいぜんじ》も気休めとしか思っていない。それが証拠に、水前寺の腕には「園原《そのはら》電波新聞」の腕章が輝《かがや》いていた。斜面を動き続ける、周囲の森はたちまちのうちに様相を変えていく、夕刻の薄闇《うすやみ》の中に山火事の爪痕《つめあと》が次第に明らかとなっていく。炎の残り香は今もなおはっきりと感じられ、焼け落ちた樹木《じゅもく》が縦横《じゅうおう》に行く手を塞《ふさ》いでいる。
セミの声すらも聞こえなかった。
妙な物をいくつも目にした。長さが1メートルほど、太さは10センチほどの円筒形の物体である。表面の塗装が焼け落ちていて、元の色やそこに書かれた文字を判別することはできなかった。空中投下式のセンサーポッドか。どれも機能しているようには見えなかったが、ひょっとするとセンサーは今も生きていで、曲者《くせもの》ありとの信号をどこかに送信しているという可能性もゼロではない。が、だとしても今さらどうにもならないし、山火事が鎮火《ちんか》していないうちから投下されていたということは、侵入者を探知するための物ではないのだろうと思う。
そう思うことにする。
這《は》い回る。
焼け焦げた斜面を、ひたすらに動き続ける。
そして、唐突に視界が開けた。
夕暮れの闇の中、岩が焼け、すべてが爆風《ばくふう》に消し飛ばされていた。家ほどもある岩があまりにも不自然なバランスで折り重なっており、その中心には斜面全体が歪《ゆが》むほどの巨大な陥没がある。まるで、どこか遠い外国の前人未到の地にあるような、不可思議な侵食作用が作り上げた奇観のようにも思われた。
それまで以上に低く伏せた。
まさに一寸刻みの慎重さで陥没のふちへとにじり寄っていく。焼け焦げた匂《にお》いの中に形容し難い刺激臭が混じっている。陥没の周田には観測機器らしきものが無数に設置されていたが、ここまで来たらもう後には引けない。泥にまみれ、岩の隙間《すきま》を這いずり、陥没の闇をのぞき込める位置にまでついに身体《からだ》を押し上げる。
そして、水前寺はそれを見た。
◎
殴られすぎて熱が出た。
実際に体温計で計ってみたわけではないが、自分でもはっきりとわかるくらいに身体が熱を持っていた。部室でひとりシュラフに包まって身体を丸めていた。背中を伝う汗は冷たく、悪寒は一向に治まらず、自分はこのまま死ぬのではないかと本気で思い始めたころに、悪寒と地続きの眠りに落ちた。わけのわからない夢を数え切れないほど見た気がする。眠りが途切《とぎ》れたとき、光に満ちていたはずの窓はすでに夜の色に染まっていたが、別に驚《おどろ》きもしなかった。壁《かべ》の時計によれば、現在時刻は九時三十六分。窓に視線を戻す。
死体袋からはみ出た死体のような格好で、浅羽は窓の闇《やみ》を見つめ続けた。
部長は今日も帰ってこないのか、と思う。
暗闇の中にこうして転がっていると、六月二十四日にこの部室で起こった出来事が思い出される。六月二十四日は全世界的にUFOの日だ。UFOの夏が始まった日、部長があの窓を開けて「おっくれてるーっ!」と叫んだ日だ。
あれから、本当に色々なことがあった。
色々なことがありすぎたのだ。
もうだめだ。
何が「もう」だ、と思う。最初からだめだったのだ。
最初から、自分の手に負えるような話ではなかったのだ。
良くも悪くも怒りは薄《うす》れた。熱も引いた気がするし、気分も今は悪くない。しかし、ノラ猫《ねこ》に餌をやる程度の覚悟、という椎名《しいな》真由美《まゆみ》の言葉はいつまでも腹の中に溶け残っていた。
もうため息しか出てこない。
自分はそんなに頭が悪いのだろうか。そこまで力がないのだろうか。
ヤケクソになるだけの度胸すらないのだろうか。
ないのだろう、と思う。
殴られてよかったとすら思う。そんなおぞましい考えが自分の中にあることに驚くが、どうしようもない本音の部分ではそう思っている。殴られ、力で無理矢理押さえつけてもらえれば自分に言い訳ができる。殴られたのだから仕方がないと、言う通りにしなければもっとひどい目に遭わされたかもしれないと。納得などしない、そんな棄て台詞《ぜりふ》を吐けたのも殴って負かしてもらえたからこそだ。あのとき椎名真由美が折れていたら、頭が悪くて力も度胸もない自分は立ち尽くす以外になかったはずである。もしあのとき、椎名真由美が頭突きの代わりにやさしい笑みを浮かべていたら――よくわかりました、あなたの言う通りです、全部あなたに任せますからどうぞ好きなようにやってごらんなさい――本心からそんなことを言われたら、頭が悪くて力も度胸もない自分は最後の逃げ道すらも失ってしまったはずである。
だめなのだ。
自分にはもう、伊里野《いりや》のために何かをしてやれる力はないのだ。
何が「もう」だ、と思う。そんなもの最初からなかったのだ。
電気くらいは点《つ》けようと思った。
シュラフから転がり出て、むっくりと身を起こして、ドアのすぐわきにあるスイッチを入れた。閃光《せんこう》が弾《はじ》け、浅羽《あさば》はまぶしさに頭痛を感じて顔を顰《しか》めた。目が慣れてくるに従って、真っ黒な気分もほんの少しマシになってきた。
今日一日、ほとんど何も食べていないことを思い出す。
空腹はまったく感じない。ただ、身体《からだ》全体が重い。動きたくない。無理にでも何か食べなくてはと思って部室の中を見回してみる。テーブルの上のガラクタに混じって、クラッカーの赤い箱が置かれている。
動け。
動く。テーブルに近づいて箱を取り上げる。中身はまだ半分ほど残っている。口の中は砂で洗ったかのように干乾びていて、いまクラッカーなんか食べたら死ぬかもしれないと思う。買ってきてそのまま忘れているジュースの一本くらいはどこかそのへんに転がっているかもしれないが、それを探すとなるとやはり途中で力尽きて死ぬような気が、
テーブルのふちに、三本の画鋲《がびょう》が並んで刺さっていた。
それに気づいた瞬間《しゅんかん》、全身に爆発《ばくはつ》的な緊張《きんちょう》が巻き起こった。夢中で部屋中を見回す。画鋲の次に目に入ったのは、スチール棚に置かれている小さな犬のぬいぐるみだった。顔を下にして倒れている。
水前寺《すいぜんじ》の暗号だった。
新聞部で使用される暗号には二通りの方式がある。水前寺式暗号『もじもじ君』は、その名の通り文字による暗号で、文面はすべて数字で構成され、末尾に書き添えられている七|桁《けた》の数字と書かれた日の日付をキーとして解読する。書き置きなどに使用されるのはこの方式だ。
そして、もうひとつの方式が、テーブルのふちに刺さった三本の画鋲であり、うつ伏せに倒れているぬいぐるみであり、ポータブルテレビのアンテナの角度であり、上下が逆さまで本棚に入っている漢和辞典だった。
水前寺式暗号『ちらかし君』だった。
そして、浅羽《あさば》の期待はすぐに裏切られた。自分が眠っている間に水前寺が帰ってたのかと思ったのだ。しかし、壁《かべ》の時計とビデオデッキの時刻表示を見比べて、この暗号が四日も前に残されたものであることを知った。その落胆たるや生半《なまなか》なものではなかったが、浅羽はどうにか気力を奮《ふる》い立たせ、部室のあちこちに残されている意味の断片を拾っていく。ゴミ箱がドアの正面、マウスがキーボードの上、エンピツ削りにエンピツが挿さったまま、削り滓《かす》はきれいに捨ててある。
水前寺式暗号『ちらかし君』は、暗号の存在そのものを秘匿《ひとく》したい場合に使用される方式である。つまり、暗号としての高い強度が保障されている反面、込み入った内容を伝えることが難しいという短所を宿命的に併せ持つ。
浅羽が読み取ったメッセージも、やはり単純なものだった。
「取材終了」、「帰還」、それと時刻を示す数字。
今日の午後九時までに、すべてを片付けて戻る。
部室全体が、水前寺の声でそう言っていた。
壁《かべ》の時計などさっき見たばかりである。しかし浅羽《あさば》はもう一度確認せずにはいられない。
現在時刻は、午後九時四十二分。
おかしいと思う。部長がこの種の約束を違《たが》えることはまずないのだ。
――部長が今日学校に来てるわけないでしょ?
晶穂《あきほ》の声が脳裏に蘇《よみがえ》った。いつ、どこで聞いたセリフなのかは思い出せない。しかし、浅羽の頭の中で、晶聴はこう続けた。
――今ごろきっとUFO墜落《ついらく》事件の取材に走り回ってるわ。
不吉な想像を振り払った。
大丈夫だ。部長はもうすぐ帰ってくる。予定の時間を四十分かそこら遅れているだけではないか。途中でちょっと道草を食っていれば四十分なんてすぐだ。おかしなことを考えるな。
部長が帰ってきたら、何もかもうまくいく。
自分には無理だったけれど、部長ならできる。きっと伊里野《いりや》を助けてくれる。
ノックの音がした。
一秒でドアを開けた。
「ぶちょ!、」
ドアの風圧を鼻先に受けて伊里野は目を見開いた。驚《おどろ》きの表情はすぐに固く強《こわ》ばり、鞄《かばん》の取っ手を握り締《し》める両手が白くなる。そのまま一歩も動かない。浅羽が入れと言ってくれたら部室に入る、帰れと言われたら梃子《てこ》でも動かない。そんな雰囲気が全身に漂っていた。
「――伊里野、なんで? あの、だってもう九時だよ、もうすぐ十時になるよ?」
もうとっくに帰ってしまったものと思っていた。
「起きたら、八時すぎてたから」
「と、とにかく入って。――あ、でもなんで、ぼくがここにいるってわかったの?」
「明かりが、点《つ》いてたから」
蛍光灯《けいこうとう》の光の下で、浅羽は伊里野の制服に一点の血の汚れもないことに気づいた。まっさらの新品だ。椎名《しいな》真由美《まゆみ》がどこからか調達してきて着替えさせたのだろうが、しかし、白い髪はそうはいかなかったらしい。一応洗った様子はあるのだが、瘡蓋《かさぶた》のような血の塊がこびりついて、束になって固まってしまっている部分があちこちにある。うっかりすると抜けてしまうので、きちんと洗えなかったのかもしれない。
頬《ほお》のあたりにも血の染みはうっすらと残っていた。その頬を強ばらせて、伊里野は上目遣いに浅羽をじっと見つめている。浅羽が目を合わせるとひとたまりもなく視線をそらすのだが、すぐにまた上目遣いになって、まるで何かの隙《すき》をうかがうように浅羽の一挙手一投足を追い続ける。
「あ、あのさ。なに?」
小さな子供が自分のしでかした失敗を親に白状しようとしているかのような、そんな強烈な逡巡《しゅんじゅん》の果てに、伊里野《いりや》はついに、
「ごめんなさい」
「え?」
逡巡再び、
「ごめんなさい」
その唐突さに浅羽《あさば》は当惑して、
「あの、なにが?」
伊里野は、鞄《かばん》の陰になるようにして浅羽の目から隠していたそれを、恐る恐る差し出した。
オレンジ色の布袋だった。
浅羽の口から、気の抜けたような声が漏れた。
伊里野の顔が見る間に歪《ゆが》み、いまだ血の跡が残る頬《ほお》を涙が伝い落ちた。その伊里野らしからぬ唐突さに浅羽は慌て、
「あ、いいんだ、別に泣くほどのことじゃ、その、ぼくは怒ってなんか、」
伊里野は泣き止《や》まない。これほどあからさまに泣く伊里野を浅羽は見たことがない。声を押し殺そうとするたびに背中が波うち、しゃくり上げるたびにあごの先から涙が滴り落ちる。
「いまっ、いまっ、までっ、なかっ」
伊里野が懸命《けんめい》に何か言おうとしている。慰めの言葉もそれ以外の言葉も見つからず、浅羽は呆《ほう》けたように伊里野の言葉を待つ。
「いまっ、までっ、いちどっ、おまっ、なかっ」
――今まで一度もなかった。
人の物を盗るなどということは今まで一度もしたことがなかった、そう言おうとしているの かと思った。
違った。
「いまっ、おまもりっ、なんてっ、いちどもっ、ほしっ、おもっ、なかっ」
――今まで、お守りなんて一度も欲しいと思ったことがなかった。
伊里野は、そう言っていた。
その言葉の重大な意味に気づいたとき、浅羽は心底から凍えついた。
伊里野は、ブラックマンタのパイロットである。
その伊里野が、お守りを欲しがらないとはどういうことか。最も過酷な前線で戦う兵士が幸運を望まないなどということがあり得るのか。あり得るのだとすればそれは、一体何を意味するか。
かつての自分は、生きて帰りたいなどとは思っていなかった。
しかし、今は違う。
伊里野は、そう言っているのだ。
「――ねえ伊里野《いりや》、」
そこで浅羽《あさば》は言葉に詰まる。自分ではだめだ。とても無理だ。なぜなら、頭が悪くて力も度胸もないからだ。自分如きが身を挺《てい》して立ち塞《ふさ》がっても一瞬《いっしゅん》で踏み潰《つぶ》されるのがオチだ。自分には伊里野を守ることなどできはしない。
つぶやく、
「……もうすぐ、もうすぐ部長が帰ってくるんだ」
そして、浅羽は両手でいきなり伊里野の肩をつかむ。伊里野の指からヒモが外れてオレンジ色の袋が床に落ちた。息を呑《の》む伊里野の顔を至近距離から凝視する。
「部長なら、部長ならきっと何とかしてくれるよ! 部長は何でもできるんだ! きっと伊里野のことも助けてくれるよ! もうすぐ帰ってくるからさ、何もかも話せばきっと力を貸してくれるからさ! ぼくが頼んでみるよ、ぼくが頼めばきっと、」
伊里野に言い聞かせているのか、伊里野の瞳《ひとみ》にうつる自分に言い聞かせているのか、自分でもわからなかった。
そのとき、壁《かべ》の時計は九時四十六分を指していた。
電話が鳴った。
伊里野は、涙の溜まった目を見開いたまま凍りついていた。
浅羽もまた、伊里野の肩を両手でつかんだまま思考を麻痺《まひ》させていた。
電話は鳴り続けている。
電話の着信ベルの音のように聞こえる。
しかし、部室には電話などないはずなのだ。
目覚まし時計の音――浅羽はそんな可能性を思いつき、ゆっくりと伊里野の肩から両手を離し、のろくさした動作で音の源を探し始めた。テーブルの下に這《は》い込み、屑《くず》カゴ代わりのダンボール箱を押しのけ、その奥に隠すように置かれているコンビニのビニール袋を見つめる。音は、そのビニール袋の中から聞こえてくる。取っ手をつかんで引き寄せてみると、それなりに重さがあった。
袋を逆さにした。
ざらざらした床の上に、十七台の携帯電話が転がり出た。
十七台の携帯電話には一から十七までの番号がマジックで殴り書きされている。着信ベルを鳴らしているのは一番で、操作方法がまったくわからず、ボタンをでたらめに押していると回線がつながる気配《けはい》があった。
「――もしもし」
『やはりそこにいたか』
懐《なつ》かしい声が、そう言った。
水前寺《すいぜんじ》だった。
「――部長? 部長なんですか!?いまどこにいるんです!?」
電話の向こうで、水前寺《すいぜんじ》が荒い息を懸命《けんめい》に整えようとしている。ぽつりとひと言だけ、
『電話ボックス』
「ってどこの!? 部長がいない間こっちは大変だったんですよ!? もしもし!?」
『ああ。こっちも大変だよ。ついに見たんだ』
「見たって何を!?」
それからしばらくの間、浅羽《あさば》が何を言っても水前寺は答えなかった。荒い息遣いが受話器に吹き込まれる音だけが続き、ときおり、その息遣いさえも聞こえなくなるようなノイズが混じる。やがて、
『ついにやったんだ、見たぞ浅羽特派員』
その声には隠しようもない疲労と、必死に隠そうとしている苦痛の気配《けはい》が滲《にじ》んでいた。
「――ねえ部長、どうしたんです!? 大丈夫ですか!?」
『あれは生物だ』
水前寺は、そう言った。
『バカみたいにでかくて、しかも生きていた。浅羽特派員、あれは生き物なんだ』
「もしもし!? ねえ、ほんとに大丈夫なんですか部長!? 返事してくださいよ!! 今どこにいるんですか!? もしかして怪我《けが》とか、」
電話の向こうで何かが起こった。
周囲の強化ガラスが一挙に砕ける音。
受話器が投げ出される気配。
布に包まれた肉と肉がぶつかり合う振動。
スーパーマンみたいな人だと思っていたのに。
そして、水前寺の最後の叫びを聞いた。
「園原《そのはら》電波新聞はあっ! 園原電波新聞は弾圧に屈しないっ! 報道の自由はあっ我々の」
受話器が戻されたのではないと思う。
回路の電源が落ちるような感じで、浅羽と水前寺を結ぶ回線は断ち切られた。
要するに、大沢《おおさわ》和樹《かずき》は殿山《とのやま》で消息を絶った何でも屋の桑田《くわた》憤介《しんすけ》と似たような手合いである。
一番の違いといえば、桑田のような無謀《むぼう》とも言える度胸が大沢にはないという点であろう。
その分、大沢を叩《たた》いで出るホコリも桑田のそれよりは多少なりとも少ない。目くそ鼻くそと言ってしまえばそれまでだが、こともあろうに自らを「フリーのジャーナリスト」と称するほどの図太い居直りも大沢は持ち合わせていなかったから、女はともかく男にはそれなりに信用されていたりする。
というわけで、愚連隊《ぐれんたい》のような仲間を募って単独で動くしかなかった桑田と違い、大沢は某大手出版社の人間として園原《そのはら》市に来ていた。どこでも多かれ少なかれやっていることだが、大沢のケツを持っている出版社は情報管制下にあっても取材活動を水面下で続けているのだ。どうせ戦争など始まらないのだから、情報管制が解除される日に備えて今から少しでも貯金をしておこうという腹である。その尖兵《せんぺい》として、大沢《おおさわ》のような人間が大量に便利に使われている。治安部隊に身柄を拘束された場合、身分や身元を保証してくれる会社なり団体なりがあるかないかというのはすなわち生きるか死ぬかの違いであって、本当にヤバくなったらトカゲの尻尾《しっぽ》として切り捨てられることがわかってはいても、変に律儀なところのある大沢は定時の電話連絡を決して欠かさない。
ようやく電話ボックスを見つけた。
その電話ボックスは、鶴川《つるかわ》街道沿いの自販機コーナーのわきにぽつんと立っていた。
大沢はオフロードバイクのシートから降りて、カードケースに五十枚も入れているテレホンカードを探りながら電話ボックスに近づいた。辺りに人家は少なく、あったとしても明かりは灯《とも》されておらず、大沢のブーツが砂利を噛《か》む音は周囲の桃畑の闇《やみ》に吸い込まれて消えていく。ふたのような雲が星をひとつ残らず隠していた。
一見しておかしいとは思った。
電話ボックスの四面のガラスが、すべて砕け落ちていた。
受話器が、ケーブルをいっぱいに伸ばして垂れ下がっていた。
まあ、この御時世だしな、と大沢は思った。
大沢は、二日前までは帝都で暴動の取材をしていた。血まみれになってそのへんに転がっている大学生からヘルメットとマスクを剥《は》ぎ取り、デモ隊に混じって警備《けいび》車両に投石しながらシャッターを切った。あれに比べたらこんなもの。暴走族がここらで治安部隊の網に引っかかりでもして、その乱闘《らんとう》のあおりを食らって叩き割られるか何かしたのだろう。大沢はドアも開けずにボックスに踏み込み、受話器を拾い上げようとして、床に点々と散っている血痕《けっこん》に気づいた。
だから、甘いっての。もっと気合入れて血い流せ。
テレホンカードを押し込んで編集部の番号をダイヤルすると、留守番電話のメッセージが流れた。大沢は舌打ちをする。育ちのいい奴《やつ》らはこれだから、こういうときこそねじり鉢巻で徹夜《てつや》をしなくてどうするのか――もちろん、そんな思いは声には出さない。
「もしもぉし、大沢ちゃんでぇす。菊谷《きくや》のスパイ射殺事件、避難《ひなん》所に行ってひととおり話は聞いてきましたぁ。あー、なんかですねぇ、直接見たって人がいるんですけどぉ、」
突然、ぶち、と回路が切り替わる音がした。男の声が、
『おう。水前寺《すいぜんじ》押さえたか?』
「は? えー、あの、水前寺って誰《だれ》でしたっけ?」
相手は一瞬《いっしゅん》沈黙《ちんもく》して、
『おまえ誰《だれ》』
「は、いつもお世話んなっております大沢《おおさわ》と申します。えーと、西咲《にしざき》さんは」
『何やってんの』
「え? 何って――あのですね、定時連絡をしよっかなーって。ちょうど電話ボックスがあったもんですから西咲さんに」
『じゃなくて。仕事』
「はあ、えーとですね、今のところは菊谷《きくや》のスパイ射殺事件すね。あそこらの住人ってみんな避難《ひなん》所に移されてるもんだから、そっちで聞き取り取材とか」
『――ああ。取材ね』
相手は納得したようだった。声に聞き覚えがあるような気もするのだが、どうしても思い出せない。
「あの失礼ですが、お名前を伺《うかが》ってもよろし――」
「あ俺《おれ》? やだな大沢ちゃん、ほら俺だよオレ。榎本《えのもと》」
正直、顔が浮かんでこなかった。たしか第二編集部にそんな名前の双《やつ》がいたような――
「ああ、なんだ! 電話機がおかしいのかな、なんか普段《ふだん》と違う声っすよ」
『あー。最近俺もちょっとお疲れ気味だしな。一日中怒鳴ってばっかだし』
「お疲れさまっす。あのー、西咲さんってもう帰っちゃいました?」
『西咲――は、いないなあ。木村《きむら》ならいるけど。でも今あいつすげー機嫌悪いから電話代わんない方がいいと思う』
「え。木村さんいるんすか。珍しいこともあるもんすねこんな時間に」
『まったくな。水前寺《すいぜんじ》のおかげで今こっち大騒《おおさわ》ぎだから』
水前寺って誰なんだろう。
『あのさ、ひとつ頼まれてくんない?』
電話の相手にはどうせ見えない。大沢は本当に嫌そうに顔をしかめた。ただでさえ忙しいのにこの上また妙なネタをおっつけられたらことだ。声だけは陽気を装って、
「かぁんべんしてくださいよぉ〜こっちだって今大っ変なんすから〜」
『あ、大丈夫大丈夫、すぐ済む。十秒で済む。あのさ、大沢ちゃん今ひとりだよね?』
「はあ」
『ちょっと電話ボックスの周り見てくんない? 誰かいる?』
「――っと。誰も、いないと、思い、ますけど」
『物が壊《こわ》れてたりしてない? 電話とかそこらへんの自販機とか。それと、どっかそこいらへんの道端に白いバン止まってる?』
何やら話が見えなくなってきたが、根は律儀な大沢は一応丁寧に答えた。
「壊れた物はですね、ボックスのガラスが全部なくなっちゃってますね。白いバンは、あー、目に見える範囲《はんい》ではいないです」
『おっけーりょうかあーい。壊《こわ》れてんのガラスだけね? 四つともね?』
「そっす。あとですね、ボックスの床にぽつぽつっと血痕《けっこん》みたいなのがあるんですけど」
『ぽつぽつなら別にいいや。もう片付いたってことだから。感謝《かんしゃ》感謝、助かっちゃった。お礼にさ、菊谷《きくや》のスパイ射殺事件のすっごいヒミツ教えてあげる』
「なぁんすかそれ」
大沢《おおさわ》は笑みを浮かべた。どんな冗談が来るかと身構える。
『あれウソ。間違い』
「はあ?」
『いやだから、治安部隊の中にバカがいて、たまたまそこにいた奴《やつ》を弾《はじ》いちゃったの。あのときまだ一級統制かかってなかったしさ、言えないじゃないそんなこと。大変だったらしいよ偽装すんの、わざわざ車まで燃やしちゃってさ。まあ撃たれた奴が本当に無実の一般市民だったかどうかはまだよくわかってないらしいんだけどね。どっちかって言うと撃った奴の方が実はスパイで、情報提供者がヤバいところでドジ踏みそうになったんで仕方なくその場でぶっ殺したんじゃねーかって疑いまで出てきてさ、撃った奴いま園原《そのはら》基地の尋問室でラリルレロ』
冗談は、はっきり冗談だと判断できないことには安心して笑えない。
だから大沢は、相手の意図がどちらであったとしても通用する口調で言った。
「まぁじっすかそれぇ〜。んじゃあさ、例の爆発《ばくはつ》事件の真相も教えてくださいよ」
『あれはUFOの墜落《ついらく》。マジで』
やっと安心して笑えた。
「やっぱUFOっすか、やっぱその線で取材しなくちゃっすか」
『んーでもあんまりオススメできないな取材は。ほんとに命|賭《か》かっちゃうからね』
冗談は今ひとつだが、話していて面白《おもしろ》い奴だと大沢は思った。テレホンカードの残り度数の表示にふと目が行き、
「あの、すんません、もうすぐテレカ切れそうなんで」
『あ。ごめんね長話しちゃって』
「いえいえ全然こちらこそ。楽しかったす。今度一緒に飲みましょうよ。再来週くらいになればおれ身体《からだ》空くと思うんで。もち木村《きむら》さん抜きで」
『ああ。いいなあそれ、すげえいいなあ。再来週、か』
そこで、わずかな間があった。
『――まあ、お互い生きてれば、って感じだな』
まったくだ、と大沢は笑った。
「徹夜《てつや》減らさないとだめっすよ、おれタバコ減らしますから。んじゃまあそういうことで、水前寺《すいぜんじ》さんによろしく」
『うん。伝えとく』
大沢《おおさわ》は受話器をフックに戻した。
テレホンカードを抜き取り、ドアも開けずに外に出て、大沢はポケットからラッキーストライクを取り出してさっそく一服つける。足元の雑草を見つめ、歩いて登れるくらいに傾いた街灯を見つめ、自販機コーナーのトタン屋根の赤錆《あかさび》を見つめた。車はただの一台も通りかからない。自販機と街灯に照らされたこの場所だけが、桃畑の闇《やみ》の中で無人島のようだった。大沢は自販機の一台に歩み寄ってエロ本をひやかす。桃畑に虫の声が降り、ガラスのなくなった電話ボックスに吹き込む風が電話帳のページをめくる。
タバコを足元に投げ捨てようとした大沢の手が、止まった。
桃畑の闇の中で、虫がふっつりと鳴くのを止《や》めた。
そして、星ひとつない空にサイレンが鳴り響《ひび》いた。
第二次|空襲《くうしゅう》警報《けいほう》だった。
携帯電話を、いつまでもにぎりしめていた。
虚《うつ》ろな笑みが浮かんだ。実際に笑い声さえ漏れた。
部長がいなくなってしまった。
部長がいなくなってしまった。
伊里野《いりや》の視線を感じる。すぐ背後でいまだにべソをかいている。しかし、浅羽《あさば》はもう動けない。部長がきっと何とかしてくれると思っていたのに。部長ならきっと伊里野を助けてくれると思っていたのに。
スーパーマンみたいな人だと、ずっとそう思っていたのに。
ふと、気味が悪いほどに平静な自分の声を、耳元ではっきりと聞いた。
深刻に考えすぎてはいまいか。
今すぐ自分が何かしなければ伊里野が死ぬとでも決まったのか。伊里野のことを何もかも知り抜いているであろう榎本《えのもと》や椎名《しいな》真由美《まゆみ》に、伊里野をゆだねることのどこが悪い。自分は血を吐く伊里野を前にしたら何もできない。しかし、血を吐く伊里野を救うことができる実力があの二人には確実にある。
知らないこと、力がないこと。そしてそれを恐れること。
仕方のないことだ。自分が悪いわけではない。
結論を急ぐな。一日ごとに伊里野が壊《こわ》れていくなどと誰《だれ》に聞いたのだ。ノラ猫《ねこ》に一度たりとも餌もやったことのない奴《やつ》に、ノラ猫にせめて餌をやろうという気持ちを非難されるいわれがどこにある。これ以上踏み込むと本物の血が流れるぞ。本当に命が賭《か》かるぞ。
立派だ。
もうやるべきことは、すべてやったのだ。
「――、伊里野《いりや》、」
言えなかった。
再び気力を奮《ふる》い起こそうとしたとき、第二次|空襲《くうしゅう》警報《けいほう》を聞いた。
まるで背中に目があるようだった。伊里野がこちらを見ている。涙に汚れた顔を上げて、呆《ほう》けたように立ち尽くしている。その足元にはオレンジ色の小さな布袋が落ちている。伊里野が肌身離さず持ち歩いていた袋だ。伊里野のお守りの袋だ。
――今まで、お守りなんて一度も欲しいと思ったことがなかった。
伊里野はそう言った。
なぜなら、かつての伊里野は、生きて帰りたいなどとは思っていなかったからだ。
なぜなら、かつての伊里野には、生きていてよかったと思うことなどひとつもなかったからだ。楽しいことも嬉《うれ》しいことも何もなかったからだ。死ぬ理由こそあれ、生きようと思うだけの正当な理由など、何ひとつなかったからだ。
しかし、今は違うのだ。
なぜなら。
「伊里野、あのさ、」
言える。
「こんなこともう二度と聞かないからさ、」
背後を振り返って立ち上がれ。
「今すぐ基地に帰りたい?」
勇気を振り絞れ。
「それとも、ぼくに助けてほしい?」
いつまでも鳴り響《ひび》く空襲警報の中で、浅羽《あさば》は、伊里野にそう尋ねた。
伊里野は肯《うなず》いて、肯いたまま、子供のように大声を上げて泣いた。
決まった。
空襲警報は、気づいたときには耳に深く沁みる残響《ざんきょう》でしかなくなっていた。第二次だった。すなわち、今すぐどうこうという話ではない。ないが、民間人は所定のシェルターへと避難《ひなん》しなければならないし、伊里野にとっては田代《たしろ》の校内放送どころの話ではあるまい。本来ならば即刻基地へと戻らなくてはならないところであろう。つまり、いつまでもぐずぐずしているとあの白いバンが現れる。
時間が惜しい。
浅羽は部室の中を蹴散《けち》らして荷物をまとめる。三歩歩くのにも伊里野はくっついてくる。今すぐゼロから考えなくてはならない。ガラクタの山の地層から一番大きなダッフルバッグを引っぱり出したとき、あれほど探しても見つからなかった救急箱が転がり出てきた。そのままバッグに放り込む。シュラフに足を滑らせて転びそうになった。バッグに放り込む。床屋の道具が目に入る。バッグに放り込む。
「――浅羽《あさば》、」
「逃げてやる」
浅羽はいきなり言った。
「今日から伊里野《いりや》は基地には帰らない。伊里野が自分から帰りたいと思うまで帰らない」
勝算などなかった。
しかし、もう後に引くつもりはない。伊里野が流したような本物の血を流してやる。伊里野がそうしてきたように本当に命を賭《か》けてやる。
「だめ」
「何が」
「捕まっちゃう、すぐ」
「大丈夫だよ。ぼくがついてるから」
「だめ」
「どうして」
「浅羽に虫がいるから」
意味がわからなかった。
背後を振り返り、伊里野の顔を正面から見つめた。伊里野はうつむく。まるで自分が悪いと思っているかのように、つらそうに言葉を紡ぐ。
「電池虫と電波虫。トランスポンダーチップのバイオインプラント」
それで?、という顔を浅羽はしている。
伊里野がいきなり右手を伸ばしてきた。狼狽《ろうばい》する浅羽の首筋に指を走らせる。
そこに、何かがあった。
右の耳の下の、わずかに後頭部寄りだった。そこに何かが埋まっている。爪《つめ》の色が変わるくらいの力を指先に込めて触ってみると、1センチに満たない大きさの金属のように固い何かであることがわかる。どのくらいの深さに埋まっているのかは見当をつけるのが難しかった。
「それが電波虫。電池虫はもっと深いところにいて、触っただけじゃわからない」
要するに、自分の身体《からだ》には発信機が埋まっているのだ。
伊里野のさらなる説明を聞いて、浅羽はそのことをようやく理解した。その名の通り、電波虫が発信回路で電池虫が電源部として機能している。電池虫が血中の養分をエネルギーに変換し、電波虫がそのエネルギーを利用して様々な信号を飛ばしているらしかった。
伊里野の身体には虫はいない。ブラックマンタに装備されているいくつかのシステムに対するノイズ源となる可能性がゼロではないからだ。つまり、伊里野はともかくとして、浅羽は追手の視界から完全に逃げ去ることは絶対にできない。常に探知され続けていれば、追いつかれるのは時間の問題に過ぎない。
「だから捕まる」
伊里野《いりや》は説明を終えて、もの問いたげな顔をして浅羽《あさば》をじっと見つめた。その日に不安の色は微塵《みじん》もない。浅羽の決断を待っている。それが何であれ、浅羽の決断を信じている。
伊里野の凝視《ぎょうし》を受け、浅羽はしばらく沈黙《ちんもく》を守っていた。
やがて、まるで伊里野以外の誰《だれ》かに告げているような口調で、浅羽はこう言った。
「トイレ」
◎
もちろん、本当にトイレに行った。
ついてこようとする伊里野には、部屋で待っていてくれと言い置いた。ちょっとトイレに行くだけだから、すぐに戻ってくるから。
グランドには、まったく同じ作りのトイレがふたつある。部室長屋から遠い方のトイレに入り、浅羽は照明のスイッチを手探りした。黄ばんだ蛍光灯《けいこうとう》の光に照らし出されたタイル張りの壁《かべ》が、まさしく公衆便所といった臭《にお》いを四角く閉じ込めている。どこかの物陰でコオロギが鳴いていた。
一番奥の個室に入って、後ろ手に扉を閉め、鍵《かぎ》を閉めた。
じめついた床にダッフルバッグを置いて、ふたを下ろしたままの便座に座る。
バッグのファスナーを開けて中身を引っかきまわす。
まず、救急箱を引っぱり出して、必要なものをすぐに取り出せるようにフタを開けて床に置いた。次いで、適当に折ったタオルを口にくわえた。大きく口を開け、奥歯に届くまで深く噛《か》みしめる。
最後に、工作用のカッターナイフと使い捨てライターを手に取った。
5センチほど刃を出して、ゆっくりとライターの炎で炙《あぶ》っていく。
ライターを消した。
他《ほか》に何か準備することはないかと辺りを見回した。何かあるはずだ。何か忘れている。準備不足のまま始めるわけにはいかない。絶対に何か忘れている。
何かないのか。
何もなかった。
本当にやるのか。そんな思いが初めてわき起こった。
タオルを通して大きく深呼吸する。もう一度。さらにもう一度。あと一度だけ。あと一回。
本当にやるのか。
左手の指先で、電波虫の位置を確かめる。部室長屋からこのトイレに来るまでの間に奇跡が起こって、電波虫が溶けてなくなっていればいいと思う。しかし虫はやはりそこにいて、浅羽《あさば》の位置をデジタル信号で発信し続けている。虫は二匹。バッテリーとアンテナ。どちらか一方を潰《つぶ》せばいいのだ。穿《ほじく》り出すのが簡単な方をやればいいのだ。
右手を動かす。
刃を上に向けて、電波虫のいる位置に切っ先を当てる。刃先に乗り移っているライターの炎の余熱を感じた。
目の前が暗くなる。
身体《からだ》中から冷や汗が噴《ふ》き出してくる。本当に、本当にここまでしなければならないのか。右手が動かない、というのはまぎれもない自分に対する嘘《うそ》で、本当は右手を動かす気になれないのだ。早くしろ、もう時間がないぞ、伊里野《いりや》が部室で待ってるんだぞ。そんな言葉が脳裏を次々と過《よ》ぎっていくが、それがただのお題目であり、ただの空疎な言葉の羅列《られつ》にすぎないということは自分でもよくわかっていた。本心は、そんなものでは頑として動かない。痛いのはいやだ、彼の主張はひたすらその一点のみ。
早くしなければ。
焦る。早くしないと白いバンが来て、伊里野を連れ去っていってしまう。焦りのあまり涙がにじむ。焦りのあまり股間《こかん》がむずむずする。なぜかペニスが勃起し始める。こんなときに。自分はどうかしているのではないかと思う。口の中のタオルはすでに濡《ぬ》れそぼっていて、唾液《だえき》が糸を引いてひざに滴り落ちるが、そんなことに構っている心の余裕がどこにもない。己が首筋にカッターナイフを突きつけて、すでにどのくらいの時間がたったのか。最初にやるぞと決心したのは何分前のことだったのか。そのときに勇気を出して始めていたら、今ごろはもうすべてが終わっているような気がする。ずるい。うらやましい。代わってほしい。仮定の話の中の自分をうらやんでどうするのか。そいつと同じ勇気を今ここで出せ。今すぐ始めろ。血も流す命も賭《か》けるなどとほざいたのはどこのどいつだ。その舌の根も乾かないうちにこのザマか。泣くな。早くやれ。白いバンが来る。伊里野が連れ去られてしまう。カッターが汗で滑る。嘘《うそ》をつくな、やめろ、カッターから手を離すんじゃない、手を離したらもう二度と触る勇気を奪《ふる》い起こせなくなるぞ。腹が痛い。ならそっちの痛みを感じでいる隙《すき》にやってしまえ、どうした、まさか腹痛が治まるまで待つつもりか。冗談じゃないぞ、その前に夜が明けるぞ、伊里野が連れ去られるぞ。よく聞け。大げさに考えすぎている。大したことじゃない。首の皮をちょこっと切って、鼻くその親玉みたいなやつを取り出すだけだ。ただそれだけの話だ。もっと大きな怪我《けが》だって何度もしたことがあるだろう。そんなのよりずっとマシだ。勇気を出せ。10数えるうちにやれ。9、8、7、6、5、4、3、2、1、
浅羽は、餌《えさ》をねだる子犬のような声を上げた。
だめだ。刃を引っ込めるな。まだ一ミリも切っていないぞ。まだ血も出ていないぞ。違う、それは汗だ。さあいけ、刃をもう少し刺し込んで上に動かせ。
膝《ひざ》ががくがく震《ふる》え始めた。少しでも油断したら、カッターを持っている右手も震え出しそうだった。もう刃先は肉の中に入っている。痛みと痔《かゆ》みの中間のような感触がある。この状態で手が震え始めたらどうなるのか。それが恐ろしくて、右手から力を抜くことができない。右手から力を抜くことができないと刃を進めることができない。歯を進めることができないと傷口を広げられない。傷口を広げることができないと電波虫を取り出せない。電波虫を取り出せないと伊里野《いりや》を助けることができない。
刃を進めた。
恐怖の悲鳴を上げた。
悲鳴はタオルに吹き込まれる呼気となり、滴り落ちる唾液《だえき》となって膝を濡《ぬ》らした。
等身大で先の想像がつく、まさに最悪の恐怖だった。その恐怖に比べたら、傷がもたらす苦痛など物の数ではなかった。自分はこれからどうなってしまうのか。今度のこれは汗ではない、シャツの肩口に染み渡っていく生温《なまぬる》い感触。どんどんあふれてくる。肩にホースで血を浴びせられているような気さえする。恐怖が苦痛で苦痛に恐怖する。もう何も見えない。目を開けていられない。最初は言い訳のつもりだった腹痛が本物になってきた。肉の中で刃先をねじると痛みに目が眩《くら》む。しかし、そうしないと電波虫の場所を探ることができない。もっと深いのか。もっと深く切らなくてはいけないのか。
なぜこんなことをしているのか。なんで自分はこんな目に遭わなくてはならないのか。
怒りは手触りがよかった。それにすがれば気力を奮い起こせそうな気がした。しかし、意味のある量の怒りをかき集めることが難しい。ちっぽけな怒りなど、圧倒的な恐怖や苦痛にひとたまりもなく押し流されてしまう。刃先を進める。手の動きが次第に、首の肉をスプーンですくうようなものに変わっていく。それでも電波虫は見つからない。恐怖と苦痛にすすり泣く。絶対に目を開けてはならない。血の色を見てしまったら身動きもできなくなると思う。見えていない分だけ恐怖に負けて、自分は傷の大きさや深さを過大評価しているはずだ、絶対に。傍《はた》から見たら、便座の上でバカ丸出しの格好でのたうちながら、自分の首に自分でみみっちい傷をほじくって虫が見つからないとわめいているだけだ。
えぐった。
音が聞こえた。
それまでとは違う、真っ白な苦痛が来た。
気がついたときにはタオルを口から吐き出して、便座と個室の壁《かべ》の隙間《すきま》に挟まって泣き喚《わめ》いていた。うわあ、うわあ、うわあ、うわあ、うわあ、うわあ。まるっきり幼稚園児のような、自分でも信じられないような泣き声が自分の口から迸《ほとばし》り出ていた。目を開けてしまっていることに気づいたときにはもう何もかもが手遅れで、血みどろの右手と血みどろのカッターがはっきりと網膜に焼き付いてしまった。
おまけに刃が折れていた。
折れた刃先を抜き取ろうとして傷口に触れてみた。ない。どこかに抜け落ちてしまったのか と思ったそのとき、傷口からほんの数ミリだけ飛び出している金属の突起に気づいた。
折れた刃は、首の傷口の中にほぼ完全に埋まっていた。
泣くしかなかった。
もういやだった。もうやめたかった。野外の便所の床に転がっていることなど、もはや何の問題でもなかった。唐突に癇癪《かんしゃく》を抑えきれなくなって、手足をでたらめに振り回して個室の壁《かべ》を打った。その癇癪を叩《たた》き潰《つぶ》したのはやはり首の傷口で、果てしなく続く苦痛が何もかも溶かしてしまう。傷口に刺さったままの刃先を抜き取る、という絶望的な未来は目と鼻の先に転がっていて、気の遠くなるようなその山を越えることは、今度こそできそうにない。
傷口に触れてみる。
指先で傷口を恐る恐る押し開いてみる。苦痛が強まる。苦痛がどんどん強まっていく。涙と鼻水と涎《よだれ》でべとべとになった顔が、自分の意思とは無関係に歪《ゆが》んでいく。刃先を指でつまむことがどうしてもできない。右手をズボンの太ももで拭《ぬぐ》ってもう一度挑戦する。今度は、意識して傷口の中に指先を入れようと試みる。
信じられない感触。
やはり敵は苦痛よりも恐怖だった。たとえごくわずかであれ、指が首の中に入っているという事実が恐ろしかった。便所の床に横たわっている足が、自分の意思とはまったく無関係にがくがく震《ふる》えている。スニーカーの底が規則正しく扉を叩いている。早く終わらせたい。もう何がどうなってもいいから、とにかく傷口から刃先を抜き取りたい。
つまんだ。
引き抜いた。
そのまま指先から力が抜けて、抜き取った刃先はどこかへいってしまった。
顔から血の気が失せている。それが自分でもはっきりとわかる。
なぜ。
どうして、首筋にカッターの刃先が刺さっていたんだっけ。
右手が、身体《からだ》の周囲の床をまさぐり始めた。
カッターがどこかに落ちているはずだ。
時間がないのだ。
早くカッターを探し出して、今度はもう少し短めに刃先を出して、その刃先をもう一度ライターで炙《あぶ》って、そして、もう一度この傷口と戦わなくてはならない。電波虫を穿《ほじく》り出すために。追手に居場所をさとられないようにするために。伊里野《いりや》を助けるために。
右手が、ようやくカッターの在処《ありか》を見つけた。
便所の床から起き上がる。山によじ登るような思いで便座に這《は》い上がる。ライターは、ライターどこだ。ポケットの中だった。刃先は少し短めに。今度は折れたりしないように。炎で炙《あぶ》ると、うっすらとした煙が刃先に巻きついた。刃にこびりついた血が焼けているのか。よし、もういい、今度は一気にやる。それがコツだ。ぐずぐずしているとかえって痛くて怖い。
大丈夫だ。やれる。
深呼吸。
えぐる。
苦痛も恐怖も、すべて叫び声にして口から外に出してしまえばいいと思う。いくらでも叫べばいいのだ。刃先が肉の中にある小さくて固いものを探り当てる。コオロギの声を聞いたように思う。
個室の外に誰《だれ》かがいる。
誰かが、個室のドアを叩《たた》いている。
ノックなどではない。それは拳《こぶし》ですらなくて、両手でなければ扱えないくらいのハンマーを振るって叩きつけているような、ドアを丸ごと打ち抜こうとするかのような打撃《だげき》である。便所のドア如《ごと》きが途方もないその衝撃《しょうげき》にいつまでも耐えられるはずはなく、掛け金が弾《はじ》け跳び、ドアは蝶番《ちょうつがい》ごと外れて斜めに傾《かし》いで床に落ちる。
そのドアを引き戸のように押しのけて、伊里野《いりや》が個室に飛び込んできた。
飛び込もうとして、壁《かべ》に突き当たったかのように足を止めた。
血痕《けっこん》にまみれた個室の中で、浅羽《あさば》は伊里野に半ば背を向けて立ち、ゆるく握った右の拳をボディブローでも打つような格好で突き出していた。その首筋には葉書ほどもあるガーゼが貼《は》り付けられており、傷口からの血を吸い上げて真っ赤に染まっている。シャツの右半身も血に浸したような有様だ。
突き出した右の拳の真下には、緑色の汚物入れが口を開けていた。
浅羽は、拳を解《ほど》いた。
拳の中から、小さな何かが汚物入れの中に落ちて消えた。
本当にちっぽけな、白金色をした何かだった。
浅羽が振り返る。首筋のガーゼに血を搾るような皺《しわ》ができる。
「行こう」
言葉もなく立ち尽くす伊里野の姿を見て、血の気の失せた頬《ほお》がようやく和んだ。
「それは、柿崎《かきざき》の貞操の危機という意味か?」
「いえ、違います」
榎本《えのもと》が、深夜のグランドをまっすぐに横切っていく。
その歩調にはまったく遠慮《えんりょ》がないので、永江《ながえ》は時々駆け足をして榎本との距離を縮めなくてはならない。永江《ながえ》は一見して年齢《ねんれい》不詳の小男で、つい三十分ほど前には電力会社の作業服を着て別の任務に就いていたのだが、今はジャージにサンダル履《ば》きという格好で榎本《えのもと》のお供をしている。再び駆け足、
「連絡入れたときにはもうそーとー飲んじゃっててぐでんぐでんだったらしいんですわ真由美《まゆみ》ちゃん。でほら、かっきーって悪く言やクソ真面目《まじめ》なとこあるでしょう? また何かよけいなこと言ったんですよきっと。気に障るようなこと」
「で、マウントポジションか」
「もボッコボコ。人としてそこまでやっていいのかってくらいに」
「やられっぱなしか。せめて乳のひとつも揉《も》んでやったりは」
「乳までは知りませんよ。見てたわけじゃないですから。私が行ったときゃ目の周りに痣《あざ》がありましたけど、ありゃかっきーがつけたんじゃないから」
榎本が思わず足を止めた。
「――浅羽《あさば》か?」
永江は眉《まゆ》を上げる。
「なんだそれ? あいつの顔に青タンこさえるなんてグリーンベレーの芸当だぞ」
「ココロのスキ、ってやつじゃないですか」
榎本は再び歩き出す。永江が続く。
「しかし、どうなんですか真由美ちゃん。もう完全にだめですか」
「仕方ないさ。あいつはどっかで潰《つぶ》れるだろうなって思ってた。むしろよくもった方だよ。そういう意味じゃ先坂《さきさか》の方がタフだな」
「タフって。――それ、本人前にして言わない方がいいですよ」
「なんで」
「傷つくから」
ふたりは、グランドのすみのトイレにたどり着いた。まず永江が、続いて榎本が中に入る。
「一番奥です」
無用のひと言だった。一番奥の個室のドアだけが蝶番《ちょうつがい》から外れて壁《かべ》に立て掛けられていれば誰《だれ》だってひと目でわかる。不衛生を絵に描いたような床に、榎本は思わず爪先《つまさき》立《だ》ちのような足取りになる。靴を下ろしたばかりなのだ。
「おーおー」
個室の中をのぞき込んだ榎本の感想は、それだった。
血の海、という表現には到底至らない血痕《けっこん》の量が、逆に凄惨《せいさん》な感じがした。
「虫は?」
「そこの、汚物入れの中でした。あ、」
永江《ながえ》はイヤホンに耳を澄《す》ませ、
「掃除屋が着きました。ちょっくら迎えに行きます」
「ん」
永江の足音が遠ざかって、トイレは静寂に包まれた。
どこかの物陰で、コオロギが鳴き始めた。
榎本《えのもと》はドアのなくなった個室に踏み込んだ。
榎本はしばらくの間、壁《かべ》の落書きを眺めたり無意味に水を流したりトイレットペーパーの先を三角に折ったりと、じつに下らないことをしていた。何度か個室から出たりもしたのだが、結局はまた戻ってくる。どうも何かが気になって仕方がない、といった様子である。勘だけを頼りに何かを探しているのだが、何を探しているのかは自分でもわからない――そんなふうにも見える。
やがて、榎本は汚物入れのフタを開け、中に入っている物を二本の指でひとつひとつ摘《つま》み出しては床に並べるという変態じみたことをしはじめた。実に不毛な作業を実に熱心な表情で続けた榎本は、ついに、最後のひとつを摘み出した。
コンビニのビニール袋である。
それはくしゃくしゃに丸められて、汚物入れの一番深くにまで押し込まれていた。榎本はそれを床に置き、両手の人差し指で突き回すようにして広げていく。中に何かが入っている。取り出してみると、それはカーキ色のトランクスだった。
榎本は、そのトランクスを両手に持って蛍光灯《けいこうとう》の光の下にかざしてみる。
股間《こかん》のあたりに、コップに半分くらいの水をこぼしたような染みがあった。
「――ガキが。ハリキリやがってこのぉ」
トランクスの染みを見つめる榎本の感想は、それだった。榎本の顔には不敵な笑みが浮かんでいる。その笑みには少しだけ、うらやましそうな色も混じっている。
伊里野《いりや》は、最終的にはドアをぶち抜いて入ってきた。
便所のドアをぶち抜いたくらいで今さら驚《おどろ》きはしない。そんなまともな感覚はもうとっくに麻痺《まひ》している。そんなことよりも、自分は運がよかったのだと心底から思っている。
一番かっこ悪いところを見られなくて、本当によかった。
浅羽《あさば》は今、美影線《みかげせん》金平《かなひら》駅の駐輪場で貧乏ゆすりをしている。その浅羽の目の前で、伊里野は一台のスクーターの鼻っ面《つら》にナイフをどかりと突き立てた。ばりばりとカウルを切り開き、ラップトップ型のコンピュータをつないでイモビライザーをカットする。以前よりも格段に腕が上がっていた。作業開始からエンジンかけるまで、下手をすると一分を切っていたのではないか。
「ねえ、やっぱり書き置きしていこうよ。ちゃんと返しに来ますって。石かなんかを重しに乗せとけば、」
「乗って」
伊里野《いりや》はさっさとシートにまたがり、黄色いカバーを剥《は》ぎ取った通学用のフリッツヘルメットをすぽっと頭に乗せた。浅羽《あさば》はため息をつく。自分の手の中にあるのは、まだカバーがかかったままの、ガキ丸出しのまっ黄色のヘルメットだった。
剥ぎ取った。
黄色いカバーを夜風の中に放り投げて、浅羽はスクーターに歩み寄る。ヘルメットを頭に乗せて、
「ぼくが運転するよ」
「でも、」
「大丈夫だって。あんなの献血と一緒だよ」
浅羽は、半ば強引にシートに身を割り込ませた。伊里野の方にはまだ何か言いたいことがあるようだったが、ハンドルを譲《ゆず》るつもりは浅羽にはなかった。
伊里野の目のことがあるからだ。
腰に回される伊里野の腕を、闇《やみ》の中にあって白いその手を浅羽は見つめた。この先、この白い手を引いて夏の道を行かなくてはならないときがくるかもしれない。
どこまででも逃げてやる、と浅羽は思う。
この白い手を引いて、どこまででも逃げてやる。
アクセルを開ける。
逃避行《とうひこう》が始まる。
ノーパンにバイクの夜風が、少しだけ涼しい。
[#改ページ]
番外編・ESPの冬
[#改ページ]
雑誌の記事でもテレビの特番でもそうだが、UFO否定論者の話というのは大抵決まったパターンで始まる。
のっけにまず、UFOは疑問の余地なく存在する、と断言する。
そして、UFOとは未確認飛行物体のことであり、その正体を確認できない飛行物体はそれが鳥であろうが飛行機であろうがこれみなUFOなのであるから、その意味でUFOの存在に疑問の余地はないのデス、と続くのだ。
「もう耳タコですよね。ハートの6」
浅羽《あさば》はいつになく愚痴《ぐち》っぽい調子でつぶやく。水前寺《すいぜんじ》は口の端を歪《ゆが》めて笑い、手にしていた一枚のトランプを弾《はじ》くように裏返す。スペードの2だ。スコアにまたひとつバツ印が書き込まれる。
「まあな」
「ネタとして古いんですよね。『あーはいはい、あんたは純粋に未確認飛行物体という意味でUFOと言っているわけですね』って頭の中でいちいち先回りして突っ込まなきゃいけないでしょ。会うたびに同じギャグを飛ばすおっさんを相手にしてるみたいで聞いてて疲れるんですよね」
水前寺がカードをシャッフルし、新たな一枚を抜き出して浅羽の目の前に掲げる。
「まあそう言うな。説明したがりはマニアの性《さが》だ。ハッカーって言うと『それを言うならクラッカーだ!』って青筋立てなきゃ気がすまない奴《やつ》がいるだろう。あれと一緒だよ」
「あ、そうそう部長聞きました?、また園原《そのはら》基地にUFOが出たって話。うちの近所でも見たって人がいて」
「浅羽特派員、くだらん話はやめて集中したまえ集中」
「――UFOの話はくだらないんですか」
水前寺は躊躇《ちゅうちょ》なく答える、
「ああ」
「じゃあ、超能力はくだらなくないんですか」
再び躊躇のない答え、
「ああ」
浅羽は頭の中で小さくため息をつく。
寒いとコタツから離れ難い。コタツから離れ難いと物を然《しか》るべき場所に片付けるということをせずに、どこかそのへんに放り出しておくようになる。というわけで冬は部屋の散らかる季節であり、目下の水前寺《すいぜんじ》テーマは超能力である。それでなくても散らかっている新聞部の部室はまさに足の踏み場もない状態で、泊り込みのための防寒具が大量に持ち込まれ、買い置きの食料やゴミの詰め込まれたビニール袋が床を埋め尽くしていた。須藤《すどう》晶穂《あきほ》の入部によってこの状況は若干の改善を見ることになるのだが、それはもう少し後の物語だ。
部室の真ん中には畳が二枚|敷《し》かれており、そこに小さな電気コタツがちんまりと置かれていて、水前寺と浅羽《あさば》はそのコタツをはさんでテレパシー実験を繰《く》り返している。水前寺がトランプの山から任意の一枚を選んで数字とマークをテレパシーで浅羽に伝え、浅羽が頭に思い浮かべた数字とマークを答えてその的中率を調べるというものだ。
水前寺はもちろんやる気満々である。
が、浅羽にとってはびっくりするくらいに退屈だった。
とにかく当たらない。数字もマークもクソも何も思い浮かばない。一向に面白《おもしろ》くない。あまりにも退屈なのでさっきから水前寺を雑談に引っぱり込もうとしているのだが、その口調はどうしても愚痴《ぐち》っぽくなってしまう。おまけに、水前寺はなかなか話に乗ってきてくれない。
「――スペードのジャック」
カードが翻《ひるがえ》る、
「残念。ハートのジャック」
退屈に耐えかねて、浅羽はつい、
「部長は、超能力って本当にあると思います?」
水前寺の眉《まゆ》がぴくりと動く。
「――浅羽特派員、」
そして、水前寺は再びカードをシャッフルし始める。
「他《ほか》の誰《だれ》にも真似《まね》のできない驚《おどろ》くべき能力を発揮する人々は現実に存在する。暗算の天オはどうだ? 武道の達人は? 彼らがなし得る業は、我々凡人からすれば超能力スレスレではないか。人間にはまだまだ未知の能力が隠されているのだよ。その未知の能力の極北に、手を触れることなく物を動かす力や言語を介すことなく思考を伝える力があったとしても何の不思議もなかろう」
新たな一枚を抜き出し、浅羽の目の前にずいとかざし、水前寺はニタリと笑ってこう言った。
「――とまあ、こんな言い草も耳タコだろう、浅羽特派員?」
浅羽はわずかに気圧《けお》されつつも、
「まあ、若干は」
「ではこう言い直そう――と言ってもまあ、結局は似たようなもんだけどな――いいかね浅羽特派員、人間とは、ひとつの入出力系だ」
「は?」
「例えば君の目の前にリンゴがあるとする。君はそれを見てうまそうだと思って食べる」
「はあ」
「ほら、ここには入力と出力があるだろう。すなわちリンゴを見るのが入力で、リンゴを食べるのが出力だ」
それで? ――と浅羽《あさば》は思う。
「『目の前にリンゴがある』という情報が目、つまり視覚を通して脳に入力される。脳は『うまそうだからそのリンゴを食べよう』といぅ情報処理をして、行動として出力する」
ああ、そういう意味か――と浅羽は思う。
「誰《だれ》かに名前を呼ばれて返事をする、前に食べたラーメンがうまかったのでまた同じものを注文する、ガス漏れの臭《にお》いに気づいて逃げ出す、真っ暗な部屋の中で手探りで電気のスイッチを探す。人間の行動はすべて、ひとつ残らず、入力と出力の図式で割り切れる」
浅羽はうんうんと肯《うなず》く。
「さて問題。人間には、何系統の入力系と出力系があると思う?」
考える。目の前にリンゴがある、誰かに名前を呼ばれた、前に食べたラーメンがうまかった、ガスの臭い、手探りの感触――
「――つまり、入力系ってのは要するに五感でしょ。五感だから、五系統」
「その通り。では、出力は?」
目の前にあるリンゴは、食べる。名前を呼ばれて返事をするのは、声だ。前と同じラーメンを注文するのは――
「ぶぶー。時間切れ」
「――正解は?」
「一系統」
「え?」
「一系統だ。人間には、出力系がひとつだけしかない。筋肉だよ」
「だって、じゃあ、声は?」
「声だって筋肉が横隔膜や声帯を動かした結果だろう。手足はもちろん、目玉や舌を動かすのも筋肉だし、毛が逆立つのだって筋肉の働きだ。細胞レベルで見れば話は別だが、少なくとも自分の意思で制御できる範囲《はんい》に限って言えは、人間は随意筋を使ってしか行動できない」
納得するまでにしばらくかかった。
なるほど、人間には蛍《ほたる》や電気ウナギのような真似《まね》はできない。人間が何かをするとき、そこには必ず筋肉の働きがある。
そして、納得すると同時に、何とも言えない、何かに束縛《そくばく》されているかのような思いに捉《とら》われた。五系統の入力と一系統の出力――別に今までと何かが変わったわけではないのに、「ひとつしかない」と思っただけで、人体というのはそれほど不自由なものなのか、という気がする。
水前寺《すいぜんじ》はそんな浅羽《あさば》の思いを見透かしたかのような笑みを浮かべて、
「人間には入力に視覚・聴覚・嗅《きゃう》覚・味覚・触覚の五系統があり、出力は筋肉の一系統のみ。これは人間だけの話ではなくて、動物全体を見渡しても例外はあまりない。しかしだ、」
水前寺は、浅羽の目の前にかざしたカードを閃《ひらめ》かせた。
「もし、仮にだ。現在知られている五つの入力系では絶対に捉《とら》えられないはずの情報を、例えばこのカードの数字とマークを知ることができるとしたら、どうだ? もしくは今ここで手を離しても、このカードを空中に固定しておけるとしたら? そんな入出力がもし可能だとしたら、それは五つと一つある系のうちの何番目になるんだろうな?」
話が最初につながる。
浅羽の顔に、理解の色が急速に広がっていく。
「理解できたようだな浅羽特派員。その通り、超能力の研究というのはすなわち、第六番目の入力系が、あるいは第二番目の出力系がひょっとしたら存在するのではないか、という稀有《けう》壮大な探求《クエスト》に他《ほか》ならないのだよ。――どうだ。結局言っていることは同じでも、『人間には未知の能力が』云々《うんぬん》のよくある御託《ごたく》よりはこの説明のほうがドキドキするだろう」
するする。
浅羽は他愛もなく関心してうんうんと肯《うなず》いた。浅羽はこの手のハッタリに実に弱い。傍《はた》で見ていると、こいつは将来何かのペテンに引っかかって大損をするのではないかと思わず心配になってしまうタイプである。しかし、話す方にしてみればこれほど楽しい相手もいない。水前寺は実に満足げに鼻の穴を膨《ふく》らませ、
「――とまあ、風呂敷《ふろしき》が大きいのは結構なんだがな」
そこで、笑みに苦いものが混じる。
「君も知っての通り、それらしい報告はかつて無数にあったし、超能力者を自称する奴《やつ》も掃いて捨てるほどいたわけだ。しかし、間違いなく第六第二の入出力だと認めるに足る例は、少なくとも一般に知られている限りでは皆無だな」
水前寺がまたカードを抜き出す。
否定的な言い草で一挙に盛り下がってしまった浅羽の目の前に閃かせる。
「……クローバーのエース」
ダイヤの9だった。
「おまけに、境界線上の事例がさらに話をややこしくしている。超能力の否定論者に取り囲まれてじろじろ見られているとうまくいかないスプーン曲げなんてのはまあ論外だが、客観性や再現性はあっても第六第二の入出力ではなかった、というケースもかなりある」
「――それってつまり、インチキじゃないけど超能力でもない、ってことですよね」
「ああ」
「例えば?」
「盲人の中には、行く手にある障害物を『感知』できる人が少なからずいる」
「――見えないのに?」
「見えないのに。まったくの全盲の被験者に直線のコースを歩かせる。もちろん盲導犬《もうどうけん》も白杖《はくじょう》もなしでだ。コースの先には壁《かべ》があるんだが、被験者はそのことを教えられていない。そのまま歩いていけば壁にぶつかってしまうはずなんだが、被験者は壁の直前でなぜか立ち止まるんだ。どうして行く手に壁があることがわかったのかと尋ねると、被験者は『圧迫感のようなものを感じた』って言うんだな」
浅羽《あさば》は目を丸くする。まるで座頭市《ざとういち》ではないかと思う。盲人は耳が鋭《するど》いというのはよく聞く話だが、この場合の相手は物言わぬ壁である。
「ところがな、やっぱり音なんだ」
水前寺《すいぜんじ》はあっさりと浅羽の思考の先回りをした。
「歩けば自分の足音がするだろう。目の前に壁がある場合とない場合とでは、その足音の反響《はんきょう》のしかたが変わってくる。健常者なら自分の足音なんぞ気にもしないところだが、盲人である被験者はその微妙な違いを聞き分けているのさ。その証拠に、被験者に耳栓《みみせん》をつけさせて同じ実験をすると、今度はまったく壁を感知できなくなるんだ」
「でも――それじゃ、圧迫感っていうのは?」
「被験者の実感としてはそんなふうに感じられる、ということなんだろう。自分が壁の存在を音から感じ取っているということに被験者は自分でも気づいていないんだよ。耳からの入力が無意識のうちに脳で処理される。被験者はそれを『圧迫感』として感じて、その方向にそれ以上歩くのやめるという出力をする。経験上、その圧迫感を無視して歩き続けるといつも壁にぶつかるからだ。わ」
水前寺がボックスシャッフルを失敗した。そこらじゅうに飛び散ったカードを拾い集めていると、女の子ならその臭《にお》いだけで妊娠してしまいそうなコタツ布団の下から、中身がまだ半分ほど残っているポテトチップスの袋が発掘された。
「いいかね浅羽特派員。インチキは論外として、現象だけを見るとびっくりするようなことでも、フタを開けてみれば実はごく当たり前の入出力が行われた結果にすぎない場合がほとんどなんだ。超能力か否かの検証の難しさはここにある。いつどこに地震《じしん》が来るかを百発百中で予言できる奴《やつ》がもしいたとしても、彼は壁を感じる盲人と同じで、気象の微妙な変化を五感で感じ取って、その情報を無意識のうちに総合的に処理して、『本人にしてみればなんとなく』地震の到来を言い当てているだけなのかもしれない」
「でも、それで百発百中だったらもう、超能力者って言ってもいいと思うんですけど」
「もちろん。ただその場合、利き酒の天才や調律の達人も超能力者だということになるな」
ぐにゃんぐにゃんに湿気《しけ》ているポテトチップスを、水前寺と浅羽は何の躊躇《ちゅうちょ》もなくもりもりと食う。食いながらも水前寺《すいぜんじ》はカードを示し、浅羽《あさば》は当てずっぽうで数字とマークを答える。が、水前寺の方もいい加減|面倒《めんどう》になってきたのか、それまでよりもずいぶんぞんざいな手つきになっている。
「怪獣《かいじゅう》図鑑《ずかん》ってあるだろう、子供向けの」
「クローバーの8。怪獣の足跡とか解剖図とかが載ってるあれですか?」
ハートの4、
「そうそう。怪獣の腹ん中に火炎袋とか放射能袋とかがあって、『おこるとろくせんまんどのかえんをはくぞ』なんて解説がついてるやつ。あれだって結構痛いとこ突いてるよな」
「スペードの5。痛いとこって?」
ダイヤの10、
「だからさ、怪獣には火炎袋があるから六千万度の火炎を吐けるんだ。実に正しい。解剖学的にはそれがスジさ。人間だってそのへんは同じで、目があるから物が見えるし耳があるから音が聞こえるし、筋肉があるから手足を動かせる。泥臭《どろくさ》い話だと思うかもしれんが、もし本当に第六第二の入出力系が存在するのなら、その機能を司る器官が人間の身体《からだ》の中にあって然《しか》るべきなんだよ」
浅羽は、カードの裏を見つめて鼻からため息をつく。このトランプは浅羽の私物である。確か雑誌のオマケか何かだったはずだ。もう再放送さえしなくなって久しい大昔のマンガのキャラクターが、擦り切れた紙の中から愚かな超能力の探求者をあざ笑っている。
つまり、このカードの数字とマークを言い当てる能力を人間が種として持っているのなら、額《ひたい》にアンテナの一本も突っ立っていなければおかしい、と水前寺は言っているのだ。
蛍《ほたる》や電気ウナギにはそれがある。どちらも発光や発電のための器官を持っている。しかし、人間の額にはアンテナなど生えていないし、腹の中のどこをどう切り開いてもテレパシー袋や念力袋は出てこない。未《いま》だその機能が解明されていない臓器など、人間の身体の中にはもうひとつも――
「――脳は?」
「それが最後の砦《とりで》だろうな」
そう言って、水前寺は負け戦を戦う将軍のような笑みを浮かべた。
「確かに、脳の機能はすべて解明されているわけではない。人体に残された最後の前人未到の臓器だ。もしこれでダメだったら解剖学的にはもうバンザイだな。それでもなお超能力はあると強弁してその出所をどこかに求めるのなら、魂とか霊体《れいたい》とか、そういうゲテモノを初手から持ち出してくるしかないだろう」
浅羽は深いため息をつく。
ただでさえ退屈でたまらなかったカード当てが、一挙に馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しくなってしまった。
「要するに、見通しは暗いってわけですね」
「なあに。科学者どもの多くは今のところ超能力の存在に否定的、というだけだ」
浅羽《あさば》は眉《まゆ》をひそめる。
さっき魂や霊体《れいたい》をゲテモノと言い切ったその口で、今度は科学など大したものではないと思っているかのようなことを言う。知り合ってそろそろ丸一年になるが、水前寺《すいぜんじ》はときどきこういう物言いをするのだ。
「――前から思ってたんですけど、部長って、なんだか、よくわかんない人ですよね」
「はあ?」
「いや、何て言うか、オカルト大好き男なのかなと居ってると、実は結構そういうの否定的に見てるし、でもやってることは科学クソ食らえだったりもするし、」
水前寺は目を丸くして浅羽を見つめている。浅羽はなんとなく視線をそらした。何かまずいことを言ってしまったのだろうか――
「ふむ」
水前寺は腕を組んで部室の天井を仰ぐ。
「そうか、そう見えるか」
「あの、じやあ、あのですね、部長は科学とオカルトのどっちをより信じてます?」
「その時々で面白《おもしろ》い方、だな」
「それは、信じてるのとは違うと思うんですけど」
水前寺はうつむき、しばらくの間考え込み、
「――いいかね浅羽特派員、」
顔を上げ、いきなりこう言った。
「科学というのは、自然観察における民主主義だ」
いきなり何を言い出すのか、と浅羽は驚《おどろ》く。
「――そうなんですか?」
「どうだ、民主主義と聞くだけで何となく胡散臭《うさんくさ》い感じがするだろう」
何ひとつ飲み込めませんという顔をしていると、
「浅羽特派員、君はよもや、民主主義というのは多数決のことだと思ってはおるまいな?」
思っていたので、「違うんですか?」とは言いにくかった。
「民主主義というのはだな、無条件で何かの権威を認めたり、すべてに優先する前提を設けたりすることなしに、みんなで物事を決めていきましょうというやり方のことだ。つまり、『王様の命令だから』とか『聖書にそう書いてあるから』とか、そういうのはNGなわけだ」
「はあ」
「ただ、『みんなで決めていきましょう』なんて言えば聞こえはいいが、もちろんここにはペテンがあるよな。胡散臭い感じのする原因もここさ。みんなで決めるなんて現実には実行不可能だ。本気で全員の意見を尊重していたら物事は何ひとつ決められない。だから『多数決』という必要悪を常に導入《どうにゅう》しなければならなくなる。民主主義イコール多数決、というよくある誤解はここから生まれるんだが、現実的には両者が切っても切れない関係にあることも確かだが、概念としてはまったくの別物だな」
遅まきながら話が見えてきた。つまり――
「この民主主義を自然観察に当てはめれば科学になる。権威や前提を認めずにみんなで実験して決める。『王様がそう言ったから』とか『聖書にそう書いてあるから』はNG。別の言い方をすれば『客観性と再現性こそが科学にとっての錦《にしき》の御旗《みはた》』ってわけさ。ところが、ここでもやっぱりさっきと同じペテンが引き継がれている。政治の場で全員の意見を尊重していたら何ひとつ決められないようにだな、客観性と再現性を本気で追求しようとしたら科学は何ひとつ証明できない」
「――できないですか?」
「できないさ。水素と酸素が反応して水ができる、しかし本当にそう断言していいのか? 明日も同じ結果が出るという保障がどこにある? 明後日はどうだ? 一億年後は? あるいは十億年前は? 追試験をやった奴《やつ》全員が虚言症《きょげんしょう》だったら? 再現性と簡単に言うが、完全に同じ条件を再現して実験をするなんて厳密《げんみつ》には不可能だろう? 『あのときの水素』と『今ここにある水素』がまったく同じものであることをどうやって証明したらいい? 水素と酸素の反応にもし空間上の座標軸が関係していたら? 同じ実験をやって地球とM78星雲ではまったく違う結果が出たらどうする?」
一気にまくしたて、水前寺《すいぜんじ》はポテトチップスの袋をつかみ、残っていた最後の五枚をひと呑《の》みにして噛《か》み砕いた。
「というわけでだ、『ある程度の』客観性と再現性があれば、それは科学的には認められることになってる。つまり多数決だな。しかしそれは、そういうことにしておかないと何事も進まないから仕方なく、というナアナアの決め事にすぎない。これが宗教なら、実験だの何だのという七《しち》面倒《めんどう》くさい手続きを全部省略して一足飛びに真理に到達できるのかもしれん――そうやって到達した真理がなんぼのもんかは別としてな。ところが科学はそういうやり口とは袂《たもと》を分かってしまったせいで、近似値としての正確さを手に入れるのと引き換えに、真理との距離を無限大にしちまったわけだ。なにしろ例外の可能性は無限に存在するからな。科学がアキレスなら真理が亀《かめ》さ」
そこで水前寺はにやりと笑う。
「――極論だと思うかね?」
「――多少は」
「しかしな、そのアキレスと亀の隙間《すきま》にオカルトは潜むんだ」
そう言って、水前寺は「榛も仕掛けもありません」とばかりに右手を広げてみせる。
「心霊《しんれい》写真のインチキを一枚一枚暴いていったところで心霊現象そのものの否定にはたどり着けないし、スプーン曲げや念写のトリックをいくら見破っても本物の超能力者がどこかにいるかもしれない可能性をゼロにはできない。科学は科学であるが故にオカルトを絶対に論破できないんだ。ちょきがぐーに勝てないようにだ。科学は自分でアキレスになることを選んだはずだし、それが科学の短所であると同時に長所でもあるはずなんだ。いつまでたっても亀《かめ》に追いつけないのが苛立《いらだ》たしいのなら、とっとと科学なんぞやめて宗教でもやればいいんだよ」
そして水前寺《すいぜんじ》は右手を浅羽《あさば》の鼻先に伸ばし、練度としてはまあまあのパームトリックを使って、その手の中に一枚のカードを出現させた。
ジョーカーだった。
「科学の進歩発展もオカルトの跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》も大いに結構。しかし所詮それらは各論だ。そして所詮我等は神ならぬ身だ。亀など追いかけてみたところでロクなことにはならん。ビデオデッキや|W W W《ワールド・ワイド・ウェブ》をここまで普及させたのは女のケツではないか。その意味では確かに学問の総論は哲学さ。ヘラヘラ笑って日々を生き、ヘラヘラ笑って死んでいきたまえ浅羽特派員」
そのとき、コタツのそばに転がっていた目覚まし時計のベルが鳴り始めた。
いきなり冷水を浴びせられたようなものだった。水前寺は口をつぐみ、浅羽はびくりと背中を強張《こわば》らせて目覚まし時計のデジタル表示に視線を走らせた。
AM11:45だった。
四限目終了十五分前であり、昼休み開始十五分前であり、作戦開始十五分前だった。
「浅羽特沢員」
「はい」
「どこまで話したんだったかな」
「――ええと、確か、亀がケツに追いつけないとかなんとか」
水前寺は違い目つきをして、口の中で「亀……ケツ……?」とつぶやき、
「浅羽特派員」
「はい」
「なんで我々は猥談《わいだん》などしておったのかね」
浅羽は心から首をひねって「なんででしょうね」とつぶやいた。
「――まあいいか。よし、いざ出陣だ!」
水前寺がコタツを跳ね飛ばしかねない勢いで立ち上がる。
「え!? あ、だってまだ実験が、」
浅羽はコタツの上に投げ出されているトランプの山を指差す。このテレパシー実験は五十二回をワンセットとして、水前寺が受信役の浅羽が送信役でまず一回、次に送受信を交代してもう一回行うことになっていて、今は二回目の途中だったのだ。
が、水前寺はスコア表を引っ掴《つか》み、一回目と二回目の正答率のパーセンテージを暗算して、
「むう、やはりおれが送信役の時の方が成績がいいようだな。浅羽特派員、やはり当初の計画通りポジションでいこうと思うのだが何か異議はあるかね?」
ない、あるはずがない、冗談ではない。もし本番で「送信役」をやらされることになったらどうしようと内心思っていたのだ。
「ではいくぞ!」
水前寺《すいぜんじ》は爆発《ばくはつ》的に血圧を上げ、予《あらかじ》め用意しておいたボストンバッグを手に提げて、戦場へと向かう戦士の足取りで部室を後にする。浅羽《あさば》は慌てて立ち上がろうとして床に散らばるコンビニの買い物袋に足を取られ、転げまろびつその後に続いた。部室のドアを施錠《せじょう》し、水前寺は左腕をぐいと突き出して、
「時計を出したまえ浅羽特派員。時間を合わせよう」
この後の行動が秒単位で決まっているわけでもなければ二手に分かれる予定もない。つまり時計の時間を合わせる意味などまるっきりないのだが、水前寺は大|真面目《まじめ》だった。
「3、2、1、ゼロ!」
その瞬間《しゅんかん》、浅羽の腹の底をねじ切るような緊張《きんちょう》感が襲《おそ》った。
――ほんとにやるんですか?
そのひと言が、ついに言えなかった。
水前寺は背後の彼方《かなた》を振り返る。日差しがある分だけ部室の中より寒さはましだった。今朝方まで降り続いていた雪が泥と混じり合うグランドの彼方に、いつもの木造三階建ての校舎がある。その二階東寄りの辺りをじっと見つめ、水前寺が白々と吐き出す鼻息はまさに戦を待ちわびる豪傑《ごうけつ》の吐息に見えた。
「雪がやんでしまったのが悔やまれるな」
今日は、二月二十六日である。
◎
西久保《にしくぼ》正則《まさのり》と花村《はなむら》裕二《ゆうじ》は一年生のころから同じクラスで、一学期の初日に体育倉庫で他《ほか》の男子生徒数名とともにエロ本を回し読みしで以来の仲である。エロ本を持ってきたのは花村で、しかもそのエロ本は園原《そのはら》基地から流出したと思《おぼ》しき無修正の洋物だった。花村はその後、自分はクラス替えなどが行われたときにはいつもエロ本を持っていくことにしている、と西久保に告白している。おれガキのころから家の事情でしょっちゅう転校してたしさ、手っ取り早く友達を作るにはこれが一番だよ――花村はそう言って、何だか達観したような笑みを浮かべるのだった。
二月二十六日、一年五組の教室はいつもと同じ昼休みの喧騒《けんそう》に包まれており、西久保と花村は互いの机をくっつけて弁当を広げていた。おかずを掠《かす》め取ろうとする花村の箸《はし》を弁当箱のフタで払いのけ、西久保は自分が目撃《もくげき》した飛行物体の動きを掌《てのひら》で表現する。
「こーんな感じでさ、ゆっくり大砲山《たいほうやま》の方に下りていくんだ。距離も遠かったし、夕日が当たってぎらぎら光ってたから形はよくわかんなかったけど」
「――すげえ。それでそれで?」
「それだけ。すぐ山の陰に入って見えなくなっちまったから」
「写真とか撮らなかったのか?」
「カメラなんか持ち歩いてるわけねえだろ」
「下校途中だったんだろ? そのへんにコンビニとかなかったのかよ?」
西久保《にしくぼ》は肩をすくめた。
昨日の夕刻、園原《そのはら》市の上空に現れた謎《なぞ》の飛行物体は多数の住民に目撃《もくげき》されており、このクラスにも目撃者は少なからずいて、西久保もそのひとりだった。下校途中、通行く人々が次々に足を止めて空を指差し、それに釣り込まれるように空を見上げた西久保は、仄《ほの》かな夕暮れの中をゆっくりと降下していく銀色の発光体を見たのだ。
「――けどな、気象観測用のバルーンか何かだと思うぞ。何かのひょうしに係留索が切れて漂流してたんだろ、きっと」
「あのなー、どうしてそう」
夢のないこと言うわけ?、花村《はなむら》がそう抗議しようしたそのとき、校内放送用のスピーカーが「ばっつん」というノイズをもらした。
誰《だれ》ひとりとして、そのことに注意を払う者はいなかった。
放送委員による「お昼のひととき」が始まる時間だったからである。
これは去年の夏ごろから始まった企画で、発案者は放送委員の指導を担当している教頭の田代《たしろ》だった。文化の薫《かお》り高いものをと田代の鼻息は荒かったが、実際には眠くなるようなクラシック音楽をただ垂れ流すだけという面白《おもしろ》くもおかしくもない内容で、生徒たちの受けはすこぶる悪い。生徒からのリクエストを募っていた時期もあったが、田代が首を縦《たて》に振らない曲は放送できないので結局は同じことだった。近ごろでは生徒たちの脳が背景雑音として選別消去してしまうようになったのか、放送の内容はおろか、今日の昼休みに放送があったのかなかったのかさえも思い出せないという奇妙な事態を招いていた。
「夢のないこと言うわけ? 目撃者のくせしてさ、お前こういう話には」
ほんっと乗ってこないよな、そう抗議しようした花村が、そこでふと口をつぐんだ。
西久保の箸《はし》の動きも止まった。
スピーカーから、こんな声が聞こえてきたからである。
『あれ? これじゃないのかな』
西久保と花村は顔を見合わせ、ふたりそろってスピーカーを見上げた。
「――なんだいまの?」
「さあ」
普段《ふだん》通りの「お昼のひととき」ならこんなふうに進行する。まず、エロゲーのBGMみたいなピーヒャラしたイントロが流れ、じゃんけんに負けた放送委員が「こんにちは、お昼のひとときの時間です」と挨拶《あいさつ》する。それからクラシックが延々と続き、じゃんけんに負けた放送委員が「午後もしっかり勉強しましょう」みたいなことを言って、「ばっつん」というノイズとともに終了。放送時間は長くても三十分ほどだ。
ところが、スピーカーから次に聞こえてきたのは、リラクゼーション系のぽわんぽわんした音楽だった。
『えーと、もしもし?』
さっきと同じ声。
『聞こえてますか? 太陽系電波放送局です。あはは』
この時点で教室の中の全員が顔を上げ、何事が起きたのかとスピーカーを見上げた。
『あのですね、これから太陽系電波新聞部企画によるテレパシー実験をするので、皆さん、何か書くものを用意してください。鉛筆でもボールペンでも何でもいいです。あ、それともうひとつ、教室の前の方にいる人、テレビつけてもらえます?』
西久保《にしくぼ》がつぶやく、
「――すげえ」
「どこがだよ。ったくどこのどいつだあのヘタポンタンのべシャリは。あんなもんよく田代《たしろ》が許可したな、ナレーションなんか放送委員にやらせりゃいいのに」
「馬鹿《ばか》かお前、田代のハゲがあんな放送許可するわけないだろ! あいつら放送室を占拠してるんだよ! おい、テレビつけろテレビ!」
男子生徒のひとりが教室の隅のテレビに駆け寄って電源ボタンを押した。入力が自動的に校内放送のチャンネルに切り替わり、そして、画面に映し出されたものを至近距離で目にした男子生徒は腰を抜かしそうになった。
水前寺《すいぜんじ》のどアップだった。
男子生徒の爆笑《ばくしょう》と女子生徒の「いやあ――――っ!!」という悲鳴が学校中に響《ひび》き渡った。
画面が引き、水前寺の全身が映し出される。水前寺は金属製のパイプで作られたピラミッドの中で座禅を組んでおり、怪しげな超能力グッズと思《おぼ》しきアクセサリーをじゃらじゃらと身につけている。
『太陽系電波新聞部編集長水前寺|邦博《くにひろ》であります。これより、テレビ受像機を介したテレパシー送受信実験を行います。筆記用具のご用意はよろしいでしょうか?』
水前寺は、床に置かれていた黒いプラスチック板のようなものを手に取った。一辺が30センチほどの正方形で、縁《ふち》にガムテープがべったりと貼《は》られて割り印が押されている。
『私は昨日、滝沢《たきざわ》文具店にてサイン用の色紙を購入し、帰宅した後にひとりトイレにこもってその色紙に黒のマジックで落書きをしました。それは文字かもしれないし、あるいは絵かもしれないし、あるいは幾何学的な図形かもしれません。その色紙が今ここにあります。ご覧《らん》のように、二枚のプラスチック板で挟み、ガムテープで厳重《げんじゅう》な封印をほどこして割り印を押してあります。つまり、この中にある色紙に何が書かれているのかを知っているのは、書いた当人である私だけ、というわけです』
黒いプラスチック板を画面に向けて掲げ、
『実験の手順は簡単。これから、私がこの色紙に書いたものをイメージして、テレビを通してテレパシーで送信します。テレビをご覧の皆さんは、お手元にご用意いただいた筆記用具で頭に思い浮かんだものを書いて、もしよろしければ氏名ならびにクラスを記入して、部室棟208号室前の回収ボックスに入れてください。氏名とクラスを記入して実験にご協力いただいた方には、太陽系電波新聞特製「よかったシール」をもれなくプレゼントいたします。実験結果は次号の太陽系電波新聞紙上にて発表いたしますが、プライバシー尊重の観点から正答率のみの発表になることをご承知おきください。――浅羽《あさば》特派員、照明を半分に落としてくれたまえ。まぶしすぎて精神集中が乱れる』
西久保《にしくぼ》と花村《はなむら》は、呆気《あっけ》に取られてテレビを見つめていた。
大騒《おおさわ》ぎだった。ふざけ半分で筆記用具を用意して肩をつつきあう女子生徒たちがいた。水前寺のあまりにも怪しい格好を指差して大笑いしている男子生徒たちがいた。放送室めがけて廊下を走るいくつもの足音が聞こえていた。
カメラが再び水前寺の顔をアップで捉える。
『それでは、実験を開始します』
水前寺は薄《うす》く目を閉じて、いまにもよだれを垂らしそうな、白痴《はくち》の如《ごと》き表情を浮かべた。笑いを取ろうとしているようにしか見えないが本人は大|真面目《まじめ》だ。
テレパシーの送信が始まる。
第六第二入出力《エキストラ・イン・アウト》への壮大な探求が始まる。
河口《かわぐち》泰蔵《たいぞう》三十四歳独身と教頭の田代が駆けつけたとき、放送室の前にはすでに野次馬《やじうま》が集まり始めていた。困りきった表情で身を寄せ合っていた放送委員の女子生徒二名が、田代の姿を目にして飛び跳ねるように手招きをする。
「先生っ! せんせえ――――っ!」
河口は放送室のドアに取り付いた。開くとは思っていなかったがやはり開かなかった。放送委員をにらみつけ、
「鍵《かぎ》は!? 鍵は誰《だれ》が持っているんだ!?」
放送委員のひとりが半ベソをかきながら答える。
「わた、わたしたちが来たときにはもう中に入れなかったんです、鍵《かぎ》はわたしが持ってるんですけど、中からつっかえ棒でもしてあるみたいで――」
「こらあ――――っ! 水前寺《すいぜんじ》っ! 浅羽《あさば》もいるのかっ!? ここを開けろっ!」
河口《かわぐち》はドアの隙間《すきま》に口を寄せて声を限りに怒鳴る。
「貴様らどれだけ手を焼かせれば気がすむんだっ!? 早くここを開けろ――っ!」
その隣《となり》で田代《たしろ》がいらいらと足踏みをする。まるで尿意をこらえているかのようだ。
「困るんだよね〜こういうの困るんだよねえ〜、父兄に知れたらまた何言われるかわかんないからねえ〜、水前寺君と、何だっけ、何君だっけもうひとりの生徒、まったく困るんだよねえ〜ちゃんと監督しててくれないと」
そんなことはあいつらの担任に言ってくれ、と河口は思う。自分はただ、常日頃《つねひごろ》から水前寺の目に余る行動を注意していたら、その結果としていつの間にか「水前寺専門の説教係」を押しつけられたような格好になってしまっているだけだ。
「ほらほら君たち、教室に戻りなさい! 見世物《みせもの》じゃないんだから!」
田代が野次馬《やじうま》どもを追い払おうとしているが、河口の半分ほどの迫力もなかった。おまけに、授業中ならともかく今は昼休み中であり、野次馬どもは教室に戻れなどと言われるのは心外だという顔をして一向に言うことを聞かない。廊下に設置されている校内放送用のスピーカーからは、例のぽわんぽわんしたリラクゼーション音楽が聞こえていたが、
突然、
『どりゃあああああああ―――――――――――――――――――――――――っ!!』
スピーカーもひび割れよとばかりの、水前寺の雄叫《おたけ》びだった。
放送室の中で一体何が起こっているのか――その場にいた全員が、怪物が封印されている開かずの間でも見るような視線を放送室のドアに向ける。そんな中にあって唯一の例外である河口が、ドアに拳《こぶし》をがんがん叩《たた》きつけ、負けるものかとばかりに雄叫びを上げる。
「いい加減にしろ――――っ! すいぜんじ――――っ! 出てこ――――いっ!」
コの字型のドアノブに差し込んだモップがガタガタ揺れている。
もう長くはもつまい。河口の怒鳴り声は安物の防音設備をたやすくぶち抜いて、放送室の中まではっきりと聞こえている。あの勢いでは、いずれ何らかの強行手段で踏み込んでくるだろう。実験開始から十分あまりが過ぎていた。
潮時《しおどき》だ、浅羽はそう判断した。
「でいやああああ――――――っ!! ずぉりゃ―――――――――っ!!」
浅羽はケーブルに蹴《け》つまずきながら放送室奥のスタジオに駆け込んだ。実験開始直後は静かに精神を集中していた水前寺だが、今は耳から血が出そうな顔で雄叫びを上げている。一回ごとに気合いの込め方を変えているつもりらしく、ひと声叫ぶたびにカメラに向かって百面相をする。繰《く》り返すが本人は至って真剣なのである。もう二度とはないこのチャンスに、考えつくありとあらゆる可能性を試そうとしているのだ。が、水前寺《すいぜんじ》の表情の変化に合わせて学校中に爆笑《ばくしょう》がどっかんどっかん沸き起こっている。それがこのスタジオにまではっきりと伝わってくる。
浅羽《あさば》はカメラの背後に走り込んで「撤収《てっしゅう》」のサインを出した。
サインに気づいた水前寺は唇を噛《か》みしめ、鼻から大きく息を吸い込んで天を仰いだ。
再びカメラに向かって宣言する。
「――実験を終了します」
水前寺は、悲壮感漂う表情を作ってカメラに語りかける。
「残念です。ただ今、放送室のドアの外に、太陽系電波新聞部の超能力研究を妨害せんとする勢力がその手を伸ばしています」浅羽に視線で命じる、「彼らの野蛮極まる声をお聞きください、理性の片鱗《へんりん》も感じられないこの罵声《ばせい》を!」
浅羽は火の入ったマイクを持って走る。スタジオから放送室に取って返し、ドアごしに河口《かわぐち》の怒鳴り声を拾う。
「すいぜんじ――っ! 覚悟しておけ!、今日という今日はもう容赦せんからな――っ!」
河口は興奮《こうふん》のあまり、自分の声が廊下のスピーカーから放送されていることに気づかず、PTAのうるさ方が眉《まゆ》をひそめるような言い草を連発している。頭の中で十数え、浅羽はマイクのスイッチを切ってスタジオに駆け戻る。
水前寺は続ける、
「我々が無事にここを出られるかどうかはわかりません。しかしっ! 我々太陽系電波新聞部は、理不尽な抑圧には絶対に屈しません! 暴力にはペンの力をもってこれと戦い、いつの日かああいつの日か、超能力の存在を立証できるそのときが来ると我々は信じています! それでは最後に、この度の実験へのご協力に心からの感謝《かんしゃ》を捧げて太陽系電波放送局放送終了の言葉とします。ありがとうございましたっ!!」
水前寺はカメラを見つめて天に拳《こぶし》を突き上げ、校舎を揺るがす喝采《かっさい》の響《ひび》きを浅羽は足の裏で感じた。水前寺が立ち上がる。色紙の入った黒いプラスチック板を脇《わき》に抱え、ピラミッドをその場に残してカメラの視野の外に出る。
「浅羽特派員」
「はい」
「作戦は終了だ」
「はい」
「では、いくか」
水前寺はスタジオを出た。放送室のパネルを操作してマイクに火を入れ、ドアの外にいる河口に向かって叫ぶ。
「水前寺《すいぜんじ》だ! 今から出ていく!」
そして、ポケットからカセットテープを取り出して放送用のデッキに放り込み、再生ボタンを押した。
校舎の中にあるすべてのスピーカーから、中島《なかじま》みゆきの『世情』が流れ始めた。
水前寺は不敵な笑みを浮かべて浅羽《あさば》を一瞥《いらべつ》し、ドアノブからモップを引っこ抜いて、放送室のドアを力任せに開け放った。
大歓声が水前寺を迎えた。
大変な数に膨《ふく》れ上がった野次馬《やじうま》が廊下の右に左にみっちりと詰まっていた。その中央、放送室のドアの付近にだけぽっかりと野次馬のいない空間があって、ただ呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしている放送委員の女子生徒二名と、尿意をこらえているかのような地団駄《じだんだ》を踏む田代《たしろ》のハゲと、体育教師二名と、いきなり開いたドアのあおりを食らって床にひっくり返っている河口《かわぐち》泰蔵《たいぞう》三十四歳独身がいた。
水前寺を見上げて、河口が何かを叫んだ。
河口を見下ろして、水前寺が叫び返した。
両者の叫びは野次馬の歓声にかき消されて、浅羽の耳にはついに届かなかった。
そして次の瞬間《しゅんかん》、浅羽はすぐ近くにいた体育教師に取り押さえられた。
河口は跳ね起きて水前寺につかみかかる。水前寺がそれを振りほどいて逃げようとする。野次馬が慌てて道を開けた。両手を大きく振り回しながら、つんのめるような格好で水前寺は走る。河口と、もうひとりの体育教師が追いかける。
そんな、まるでスローモーションのような光景の中で、浅羽はひっそりと苦笑していた。
水前寺が全力で走ったら河口が追いつけるはずは絶対にないのだ。なのに河口は水前寺に追いつき、廊下に押し倒して押さえ込んだ。さらに体育教師が加勢し、水前寺は大げさに両手を振り回し、報道の自由について叫びつつ、形ばかりの抵抗をする。二人がかりで上体を引きずり起こされたとき、水前寺と目が合った。
水前寺の、楽しそうな、それはそれは楽しそうな笑顔。
◎
黒いプラスチックに封印された色紙のことについて言えば、あの後すぐに没収されて、結局返してもらえずじまいとなった。
しかし、水前寺は最初から、ああした幕切れを自ら望んでいたわけである。あのプラスチック板に封印されていた色紙が実はニセモノであり、そこには黒のマジックで「明後日はお誕生日ですね 三十五歳おめでとう」と殴り書きされており、本物は安全な場所に保管されていたことを浅羽が知ったのは、あの一件の翌日になってのことである。
テレパシー実験の結果について言えば、太陽系電波新聞三月号の記事によると、回収サンプル数は129、正答率は0パーセントだった。
本物の色紙について言えば、そこには文字でも絵でも図形でもなく、こんな文句が書かれていたらしい。
――死して屍《しかばね》拾う者なし――
[#改ページ]
あとがき
というわけで、『イリヤの空、UFOの夏』なのです。
本書は、メディアワークス発行の小説誌「電撃《でんげき》hp」の15号から18号に連載された4話分にちみっと修正をかましてまとめたものです。02年6月現在、hpの方での連載はまだ続いておりますので興味《きょうみ》のある方はそちらもぜひぜひぜひ。
三度目の引っ越しをして、新しいテレビを買いました。
私の実家は電器屋さん、つまり電気製品の小売店であります。
2002年6月現在、個人経営の電器屋さんというのはトキと同じくらいの絶滅|危惧《きぐ》種でありまして、なぜかというと、今日びの量販店の小売値ときたら、下手すりゃうちの実家の仕入れ値よりも安かったりするからであります。かないっこない。だいたい電器屋の息子である私からして、今や乾電池や蛍光灯はコンビニで買うし、大物を買うときにはポイントカード片手に量販店に行きますわ。うちの実家の場合、一日店を開けていても客がゼロなどという日はザラだそうで、これはもう「個人経営ならではのきめ細かなサービスを」などというお題目は「竹槍《たけやり》でB−29を落とせ」と言っているに等しい。ところが、年金を払うのではなくもらうようになって久しい私の親父《おやじ》は超然としたもので、「オレたち(個人経営の電器店)はすでにその歴史的役割を終えたのだ」などと嘯《うそぶ》き、剣道六段取得を目指して道場でヤットウに励む日々を送っております。なんか野生の王国って感じですな。
ともかく、電器屋さんの息子として生まれついた秋山《あきやま》少年は、昔から電気製品――とりわけAV機器――に関して非常に恵まれた環境にあったわけです。そして、この恵まれた環境は秋山少年にひとつの勘違いをもたらします。すなわち、
『テレビというのは画面の大きさが新聞紙を広げたくらいあって、その両脇《りょうわき》にはドラム缶くらいのスピーカーがあって、F1マシンみたいなアンプと各種デッキが一緒になってはじめてテレビなのである』
いや、もちろん当時もわかってましたよ。それがいかに過《あやま》てる認識であるか。理屈では。しかし、私はハイエンドのAV機器が身の回りにあることに慣れ切っていたのです。少なくとも映画を見るときなんかは、わざわざ画面の小さなテレビで見る気にはなれなかった。
そんな秋山少年にも毛が生えます。
大学への入学。初めての引っ越しと初めてのひとり暮らし。
そして、八王子《はちおうじ》市は高尾《たかお》山の麓《ふもと》にある六昼一間のアパートで、たった15インチのテレビに私は打ちのめされたのです。と言うと大げさか。でも、それなりにしみじみとショックではありました。なにせ15インチです。それすら、自分の金で買ったものではないのです。
思いましたね。
おれのオトコの器は15インチだったのか、と
あれから、就職と二度目の引っ越しとリーマン生活と物書き生活を経て、あの15インチのテレビはついこの間まで私と共にありました。
三度目の引っ越しをして、新しいテレビを買いました。
2002年6月現在、秋山《あきやま》瑞人《みずひと》のオトコの器は25インチです(ハイビジョン非対応)。
というわけで、『イリヤの空、UFOの夏』なのでした。
次は、えーと、まだタイトルが未定です。逃避行《とうひこう》の顛末《てんまつ》です。夏の終わりが近づいてきます。
底本:「イリヤの空、UFOの夏 その3」電撃文庫、メディアワークス
2002年9月25日第1刷発行
2002年11月25日第3刷発行
2004年9月25日公開