E・G・コンバット
著       秋山瑞人
原作・イラスト ☆よしみる
CONTENTS
心を支えるもの
修行が足りない人たち
英雄の帰還
最初はぐー
それぞれのやり方
呪いを解くには
場外乱闘
自分のやり方
あとがき
[#改ページ]
心を支えるもの
目を閉じて、座学教室をイメージする。
その中に自分を置いてみる。略式平服を着ている。クリップボードを小脇《こわき》に抱え、教壇《きょうだん》の上に凛《りり》しく立ち、背後には|A L F《エア・レーザー・フィールド》。個室に備え付けられているようなのじゃなくて、積層表示の可能な、映画館のスクリーンみたいなでっかいやつ。
うん。ここまではいい。
教官なんだから、帽子《ぼうし》くらい好きなものをかぶってもいいと思う。中帽《ライナー》はやめ。"BLACKTIP"というロゴの入ったキャップをかぶせて、外から自分を眺《なが》めてみる。
よし。
教室内に訓練生を配置する。そっちの方が想像しやすかったので、自分の部隊の面々にご登場願う。ロレンゾ。ジョーイ。ヴィンセント。二ール。クリス。ナラティ。ブラッカム。サノ。コイタバシ。全員男だし、どう見たって訓練生ってガラじゃない。本当はどいつもこいつも、パンツ一丁にひんむいてサハラ砂漠《さばく》のど真ん中に放り出せば、一ヶ月で3キロ太って帰ってくるような連中だ。でも、今はとりあえず全員が訓練生の役。多分、前の方の席には座らずに、後ろの方にバラバラと座るだろう。ロレンゾやクリスやナラティあたりは真面目だからいいが、ジョーイは紙飛行機のひとつも飛ばすだろうし、ヴィンセントは講義中だろうが何だろうがエロ本を手放さないだろう。ブラッカムが煙草《たばこ》を吸っていないところなんて想像できないし、サノとコイタバシは二人そろって顔の上に教本をのせて、両足を机の上に投げ出して寝っこけているような気がする。
でも、わたしは怒鳴ったりしない。
わたしは「あの人」みたいな教官になるのだから。訓練生時代、殴《なぐ》る蹴《け》る怒鳴るの三つしか知らない教官たちの中で、あの人だけは違《ちが》った。あの人が怒鳴ったところなんて見たことない。
今日の講義は〈有重力|戦闘《せんとう》操機〉。あらかじめ準備しておいたレーザーディスケットを教卓《きょうたく》のシステムに差し込む。手が震《ふる》えてきた。やばい。しっかりしろと自分を叱咤《しった》する。訓練生に悟《さと》られないように、深呼吸をひとつ。教官はいつも堂々としていなければならない。こっそりと咳払《せきばら》い、小さな声で発声練習。あ。あ。――なんとかいける。何度も間違えながらキーを叩《たた》き、ディスクの内容をALFにぶちまけて、平静を装《よそお》って教室を振り返るが、そのときには両ひざにまで震えがくる。
後戻《あともど》りなんてできない。突っ切るしかない。
「ま」
完全に声が裏返っている。教室に静かな失笑が走る。顔から火が出る思い。何事もなかったかのような表情をつくって、はじめからやり直す。
「――まず。有重力での、つまり、地球の、有気・有湿《ゆうしつ》・有塵《ゆうじん》・有微生物《ゆうびせいぶつ》の、1G環境下《かんきょうか》における、違いは、えと、月の埋設コロニーでの戦闘と比べてってことだけど、」
ジョーイが挙手。遠慮《えんりょ》も何もない口調で、
「教官、聞こえません。もっと大きな声でお願いします」
それを聞いたニールが、しゃっくりを連発させているような、実に耳障《みみざわ》りな声で笑う。腹の底からどす黒いものがわき上がる。初めてなんだからしかたないでしょあんただって教官の経験なんかないくせにじゃ代わりにやって見せなさいよ!!――そんなふうに怒鳴ったりする勇気なんてない。『緊急《きんきゅう》事態につき自習』のキーを叩いて、今すぐこの場から逃げ出してしまいたいという臆病《おくびょう》な心。「あの人」なら、こんなとき――
「なら、もっと前の席に座るのね」
いいぞ。見事なカウンターブロウだ。
と思っていたのは自分だけだった。ジョーイはそれを聞くなり、荷物をまとめて戦術的移動を開始。教卓の真ん前の席にどっかりと陣取《じんど》って、こっちをじっと見つめてくる。突如《とつじょ》として襲《おそ》い来るプレッシャーに息がつまり、手に汗《あせ》が噴《ふ》き出る。必死に無視しようと努めるが、ジヨーイの視線はレーザーより鋭《するど》い。
「――つまり、月の戦闘環境《せんとうかんきょう》というのは、ある意味、人工的な、こちらが制御《せいぎょ》可能な部分もあるわけです。でも、地球では、そういうわけにはいかなくて、」
誰《だれ》かが口に拳《こぶし》をあてて、オナラのような「びーっ」という音を立てた。多分ヴィンセントだが確信はない。教室中に伝染していく底意地の悪いクスクス笑い。
無視しろ。
「ええと、月の方が、発生確率の、トラブルの発生確率の高さは、その、地球のよりも全然低いわけだから、」
もう! これじゃなに言ってんのかわからない!
「つまり、その、地球では各種トラブルの発生確率が高く、細菌《さいきん》感染による回路異常もより多く発生します。――えっと、流体|脊髄素子《せきずいそし》の発狂《はっきょう》暴走事故のいくつかは、このことが原因であるという報告も、」
ブラッカムが挙手。
「教官。訓練生時代に、軌道降下演習でおもらししたって噂はほんとですか?」
無視。
「現在、兵器は複雑化の一途《いっと》をたどっており、それはひとりの兵士が把握《はあく》できる限界を越《こ》えています。しかし、」
「教官。俺もおもらししていいですか?」
「それでも、訓練時においては、ありとあらゆる意味において、使用する装備《そうび》について知り尽くすことが重要で、」
「教官みたくパンツの中にするんじゃなくて、トイレでってことですけど」
聞こえよがしなひそひそ声、小馬鹿《こばか》にするような視線、ばら撒《ま》かれるポップコーンに飛び交う紙クズ。教室に背を向け、ALFだけを見つめて、もうやけっぱちの大声で喋《しゃべ》り続ける。
「例えば、さっき言った回路の細菌汚染、これなんかは、発狂した回路の隔離《かくり》が必要で、システムの板《フェース》、e009を切断、主要な三つのアシストプロセスを全部KILLすれば、流体脊髄のオペレートが停止され――」
その瞬間《しゅんかん》。教室中が水を打ったように静まり返った。
突然《とつぜん》の静寂《せいじゃく》に、こっちまで言葉を続けることができなくなった。あまりの不安に、振り返らずにはいられない。
教室内の全員が、こっちを見つめていた。無言で、まるで、仇《かたき》でも見るような目で。
ロレンゾが挙手。指名されるのも待たずに起立、
言う。
「教官。同様の細菌感染事故は、流体脊髄を搭載していない、例えば、クレイプなんかでも起こり得る事態ですよね?」
悪寒《おかん》。質問に答えられない。もういやだ。こんなのは遊びだ。頭の中のシミュレーションだ。もうやめよう――そう思っても、一度加速のついた想像力はそう簡単には止まらない。
教室から光が失われていく。ロレンゾは続ける。
「あいつは、そのやり方を知らなかった。知らなかったんだ。――どうして、あらかじめ教えてやらなかったんですか?」
ロレンゾと目を合わせていられない。顔を伏せると、教卓《きょうたく》の上に、壊《こわ》れた懐中《かいちゅう》時計が置かれているのに気づく。うそ。さっきまでは、そんなものなかったのに。アナクロなデザインの、歪《ゆが》んだ文字盤《もじばん》と曲がった針が、永久に同じ時刻を指し続けている。
七時四十八分。
何が来るのか、悟《さと》る。
「そうすりゃ、あいつは死なずにすんだんだ」
そして、教室の光が完全に失《う》せる。壊れた時計が闇《やみ》に呑《の》まれ、全員の姿が闇に溶《と》け、しかし、教室の一個所だけ、ひとつの机の周囲だけが、スポットライトを浴びているように明るい。
ただ、机。
そこに、誰《だれ》の姿も見えはしない。だって、あのとき、あいつの死体は、わざわざ回収するほどは残らなかったから。でも、あいつはそこにいる。あいつはそこにいて、その机から、じっとルノアを見つめている。
キース。
突然《とつぜん》、背後でけたたましい笑い声。おぉーほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ!!
振り返る。振り返ってしまう。
ラセレーナがそこにいた。笑い続け、ゴミでも見るような目で、
「大した教官ですこと! アルマジロとどつちが有能かしら!? まあせいぜいがんばるのね! 私は地球で、陰《かげ》ながら応援《おうえん》していますわ!」
誰かの手が肩《かた》にかかる。指の細い、繊細《せんさい》な、しかしどこか力強い手。
「あの人」だ。
ルノアの背後で、「あの人」はこう言った。
ここから先はあなたには無理よ。代わるわ。
暴走を続けていた想像力が焼き切れた。心臓が躍《おど》っている。顔から血《ち》の気《け》が失《う》せているのが自分でもわかる。
購買部《PX》のホコリっぽい野外ベンチに座っている。足元には、情けないくらい少ない私物が詰め込まれたフライトバッグ。握りしめていた缶《かん》コーヒーは、もうすっかり冷めていた。不意に喉《のど》の渇《かわ》きを覚え、夢中《むちゅう》でプルリングを引き開け、缶《かん》の半分を一気に喉に流し込む。
眼前には、広大な滑走路《かっそうろ》。
離陸《りりく》待ちの輸送機の巨体《きょたい》。タキシングの轟音《ごうおん》。クリスマスツリーのような翼端灯《よくたんとう》の光の点滅《てんめつ》。
環《かん》太平洋防衛線北米管区・ニューメキシコ地区ロズウェル空軍基地。
ため息をひとつ。ルノア・キササゲ大尉《たいい》は頭の中に時計を呼び出した。簡易|催眠《さいみん》で意識下に焼き込まれている体内時計の戻《もど》り値《ち》が、正確な現在時刻を告げる。午後六時三十分《ヒトハチサンマル》。
離陸予定時刻から、もう二時間半がすぎている。
離陸が遅《おく》れることを告げられ、軌道往還《きどうおうかん》シャトルの客室《キャビン》で待つのも息苦しく思われ、ルノアは黙《だま》ってシャトルを抜け出した。しばらく辺《あた》りをぶらつき、見るからにコイン泥棒という感じのオンボロな自販機《じはんき》にキック一発、「BLACK TIP 微糖《びとう》あら挽《び》き」をまんまと蹴《け》り出して、滑走路を見渡《みわた》せるこの場所に来た。
そして、頭の中でシミュレーションを繰《く》り返した。
シナリオはずばり、「教官任務」。
様々なパターンを試みた。
「哨戒《しょうかい》任務同行演習、夜営中における友情のキャンプファイアー作戦」
「ロッカールーム大掃除《おおそうじ》、サボタージュ阻止《そし》」
「緊急《きんきゅう》事態ケース1『おめでとうルノア教官二十二歳』、事前の情報収集と心の準備」
「緊急事態ケース2『合同|模擬戦《もぎせん》でズタズタのポロ負け』、チームワークについての考察」
そこ。笑うな。ルノアは真剣《しんけん》なのだ。
起こり得る事態と、自分のとるべき対応。様々なパターンを様々な角度から様々な方法で検討した。ルノアはこの上もなく真剣だった。
正しい教官とは、どうあるべきか。
バカなことを考えていると自分でも思う。
それでも、「正しい教官などというものは、物理的にあり得ない」と心のどこかで思いつつも、ルノアは必死になって考えてしまう。そして、最後には自分の搾猛《どうもう》な妄想《もうそう》に必ず敗北する。狂《くる》ったように回転する想像力に引きずられて血みどろになる。
――無理だ。絶対。わたしに、教官なんて。
また、ため息。
このところ、ため息だけで呼吸しているような気がする。力なく背伸びをし、そのまま両手を背後について顔を上げれば、赤い空があった。去年の暮れあたりから繰り返し使用された気化|爆撃《ばくげき》デバイスの影響《えいきょう》で、今日みたいな天気のいい日は夕焼けがすごい。広大で空《うつ》ろな赤の真ん中を、人工衛星の小さな光がのろのろと横切っていく。それ以外に、視線に触《ふ》れる物は何もない。この時間、月はまだ見当たらなかった。
最後にひと目、大気の底から月を見てみたかったのに。
これが、最後のチャンスなのに。
自分は、これから、月《あそこ》へ帰るのに。
話せば長くなる。
全女性人口月面移送計画――通称「ジュリエット計画」が施行《しこう》され、月には女性、地球には男性という、ほぼ完全な人口|隔離《かくり》が行われている西暦《せいれき》二〇六七年の現在。ルノア・キササゲ大尉《たいい》は地球勤務を命じられている百三十七名の女性兵士のうちのひとりである。月面の女性兵士訓練施設「オルドリン」を卒業し、十七歳の伍長《ごちょう》として北米総司令部《フォートワース》に配属されたのが四年前の六三年。その後、六四年に曹長《そうちょう》から三階級特進という反則技のような昇進を経て、六七年現在は二十一歳の大尉だ。
そして、この「二十一歳の大尉」というのは、北米の将兵としては最年少記録だったりする。
まあ、ここまではいい。
しかし。ここで、第二の女性兵士が登場する。その名も、ラセレーナ・クリフト大尉。
彼女もまた、ルノアと同じオルドリンの卒業生である。ルノアから見れば一年|先輩《せんぱい》であり、恐《おそれ》れ多くも総督府《チベット》の首魁《ドン》、ベルナルド・クリフト中将《ちゅうじょう》のひとり娘《むすめ》であられる。
そして、オルドリン訓練校で知り合ったその瞬間《しゅんかん》から今現在に至るまで、この二人は互《たが》いを蛇蜴《だかつ》の如《ごと》く忌《い》み嫌《きら》っているのだった。大本営と総督府も、犬と猿《さる》も、この二人ほど仲が悪くはない。
ルノアに言わせれば、見ている方が恥《は》ずかしくなるくらいお嬢様《じょうさま》根性丸出しの、同じ人類《じんるい》とは分類したくないくらいのイヤな奴《やつ》、ということになる。
ラセレーナに言わせれば、運と実力を混同していい気になっている、北米部隊中で最高にくそ生意気な小便たれ、ということになる。
よくある話である。こういう場合、どちらの言い分がより真実に近いものであるかという疑問にあまり意味はない。ただ、ここで重要なのは、二〇六七年の現在、ラセレーナ・クリフト大尉《ヽヽ》が御歳《おんとし》二十二歳《ヽヽヽヽ》であるという事実だ。
さかのぼること三年前、ルノアは大尉へと昇進することで、結果的にラセレーナを「北米部隊中最年少大尉」の座から蹴《け》り落としてしまったのだ。
大尉に昇進したその時点でルノアがこの事実に気づいてさえいれば、その後の展開も、あるいは違《ちが》っていたかもしれない。しかし、ルノアは気づかなかった。もっとも、ルノアにしてみれば「ラセレーナのことなんか忘れていられるならその方が幸せ」であったろうし、かりに気づいたとしても、ルノアの側から何らかの事態収拾のためのアクションを起こすことなど、まずあり得ない話ではあった。
――大尉になんかなりたくてなったんじゃないわよくやしかったらとっとと少佐《しょうさ》にでもなりなさいよ止めないから。
ルノアなら、そう言ったことだろう。
こうして、大尉《たいい》となり、小隊長となったルノアは、その後も数々の武勲《ぶくん》を重ね続け、ラセレーナの神経を逆撫《さかな》でし続けた。ラセレーナの飽《あ》きっぽい執念《しゅうねん》の炎《ほのお》と、絶え間なく注ぎ込まれ続ける燃料。鼻息ひとつで切れてしまう綱《つな》の上を歩いているのだということに、結局、ルノアは最後まで気づかなかった。
三年もったことが、むしろ奇跡的《きせきてき》である。
そして、一週間ほど前。
いつか必ず起こるはずだったことが、ついに起こった。
何がきっかけだったのかはわからない。奇跡的なバランスはあっけなく失われ、キレたラセレーナは野《や》に放たれた野獣《やじゅう》と化した。一介《いっかい》の大尉を月に島流しにするなど、クリフト家の力をもってすれば、ハナをかんだティッシュをクズカゴに放り込むより簡単なことであったろう。
左遷《させん》辞令に命綱を切られ、教官任務というでっかい重りをくくりつけられ、小隊の部下からも引き離されて、ルノアは今、月めがけて落っこちていく。
北米総司令部《フォートワース》を発《た》つ朝、小隊の部下は、誰《だれ》ひとり見送りには来なかった。
直属の上官は、ロズウェルまでの足も手配してはくれなかった。
頭上の夕焼けを見上げながら、恐る恐る、ルノアはさっきのシミュレーションの記憶に触れた。何よりもまず、ラセレーナの笑い声がよみがえった。頭の中に瞬間湯沸器《しゅんかんゆわかしき》が出現し、ぎり、と歯を噛《か》みしめ、我知らず立ち上がり、夕日に向かってルノアは吠《ほ》えた。
「憶《おぼ》えてなさいよ!! この――」
そこでルノアはぐぐっと言葉に詰まった。ばかあほまぬけから始まり、「穴にぶち込んでフタしてやる」とか「墓穴要《はかあない》らずのクズ野郎《やろう》」といった月固有《ローカル》なものまで、ルノアの知っているありとあらゆる罵署雑言《ばりぞうごん》が、頭の中で一斉《いっせい》に出口を求めて暴れ出したのだ。しかし、結局その口から飛び出したのは、一番シンプルなひと言だった。
「ばか―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」
その瞬間、すぐ隣《となり》で、月でも砕《くだ》けそうな大声が上がった。
「誰がばかじゃあ!!」
死ぬほどびっくりした。
びっくりしすぎて、ルノアは野戦反応してしまった。跳《と》び上がり、銃《じゅう》を抜き、コンクリートの地面に身を投げて、その大声の主《ぬし》の頭をふっ飛ばそうとした。長期|記憶《きおく》に残された深層意識のログをたどれば、十分以上も昔《むかし》に、接近する足音とベンチの軋《きし》みが記録されている。そして、「誰が」で簡易|催眠《さいみん》がミスファイアされ、「ばか」で野戦用の心理回路が次々とRUNされ、「じゃあ!!」で戦術ロジックが全身の指揮権《しきけん》を奪《うば》い取った。ルノアの身体《からだ》はベンチから跳《は》ね上がり、痙攣《けいれん》と同じメカニズムで銃を抜き、カタギの生き物には絶対に不可能な速度でコンクリートの地面に身を投げた。すべては一瞬《いっしゅん》の出来事だった。
呼吸器系の処理とトリガーの意思決定がルノアに戻された。
気がついたときには、両ひざと左手がまだコンクリートの上を滑《すべ》っていた。あまりの急激《きゅうげき》な動きに軽いブラックアウトが起こって、視界が少し暗かった。低い姿勢で、ゆるく伸ばされた右腕《みぎうで》は南部の10ミリを横倒《よこだお》しに構え、両ひざから下に自分でも信じられないくらいの力がこもっていた。
銃口《じゅうこう》の先、5メートルほどむこうに、でけえ熊《くま》がいた。
熊は略式平服を着ていた。ベンチにどっかりと座って腕組みをしていた。真ん丸になった目だけで驚《おどろ》いていた。
「――いやその、平《ひら》に平に。ご無礼お許し願いたい。ルノア・キササゲ大尉とお見受けするが」
あろうことか、その熊は人語を喋《しゃべ》った。
勝手に索敵《さくてき》を続けていた深層意識の回路が、危険がないことに満足し、全身から水が引くように緊張感《きんちょうかん》が抜けていく。が、ルノアはまだ警戒《けいかい》を解かない。熊の全身に視線を走らせ、階級章が中尉のそれであることを見て取る。銃を熊の両目の間にポイントしたまま、
「――誰《だれ》? 保安四課?」
だったら、トリガーを引くのも一興だ。
熊《くま》は大げさに顔を歪《ゆが》め、めっそうもないとでも言いたげに首を振り、
「それ、そこの、」
肩越《かたご》しに親指を背後に向け、
「車ん中にいた人相の悪い連中でしょ? 奴《やつ》らなら、しばらく前にお帰りいただきました。マズかったですかね?」
「――?」
熊はルノアのその表情を読んだ。どうやらただの熊ではないらしい。
「そらもちろん、倍の人数で取り囲んで、誠意をもって説得を」
熊はそう言ってニタっと笑い、片目をつぶって見せた。ようやくルノアは、相手が熊ではないことを納得して銃を下ろした。簡易|催眠《さいみん》が「損傷が予想される箇所《かしょ》」と判断し、痛覚限定で心理|麻酔《ますい》をかけていた身体《からだ》の各所に、今になってようやく感覚が戻《もど》ってくる。立ち上がろうとして、苦しげな息をつく。無酸素運動による酸欠。
「――大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない――とルノアは思う。「鍵《かぎ》」がゆるくなっている。普通《ふつう》なら、あんなことくらいで野戦反応は暴走したりしない。改めて、自分がさらされているストレスの巨大《きょだい》さを思い知る。
どうかしてる。
「――ごめんなさい」
「いえいえ、こちらも悪さが過ぎました。まったくもって申し訳ない」
間《ま》の悪い沈黙《ちんもく》。
「そう、何しに来たのか忘れるとこだった。離陸《りりく》にはまだしばらくかかりそうなんで、そのことをお伝えしようと思って。どっから入り込んだのか、民間人だと思うんですが、自殺教の奴らがプラカードもって滑走路《かっそうろ》の上でがんばってるんですよ。止めてほしいんでしょうなほんとはあれ。今|軍警《MP》が取り囲んでますけど、奴ら何か持ってるらしくって、あと一時間は」
そのとき、滑走路の方向から、かなり大きな爆発音《ばくはつおん》が聞こえた。
「――。あと三時間はかかるかもしれません」
そう言って、その巨大《きょだい》生物はグローブのような右手を差し出した。
消防|車輌《しゃりょう》のサイレンが遠く聞こえていた。
「北米管区、軌道《きどう》防空師団101輸送中隊、ブルース・ジュリアン・ベイカー航空|中尉《ちゅうい》であります。よろしく、大尉殿《たいいどの》」
有名人だ。ルノアは驚《おどろ》いた。
――居眠り《オン・ザ・ノッド》<uルース。このひとが。
輸送の連中は顔が広い。輸送の有名人は、そのまま立ち回り先の有名人になる。今、ルノアの目の前にいる筋肉ジジイも、その手合いだった。顔は見たことがなかったが、噂《うわさ》は聞いたことがある。六十代とも七十代とも言われる、北米管区中最年長の男。最近ではボケがきて、散歩に出たまま帰らなかったり壁《かべ》とお話ししたりするが、シャトルの操縦に関してだけは超《ちょう》一流で、いまだに現役という軌防《きぼう》の名物ジジイ。
どこかおっかなびっくりな様子で、ルノアはジジイのとなりに座り、相手の手にぶら下がるような握手《あくしゅ》を交わした。戸惑《とまどい》いと気恥《きは》ずかしさを覚えながら。自分より年上の部下に、改まった口調で話しかけられたときはいつもそうなる。
有名なことでは、こちらも負けてはいなかったから。
生成晶撃破数《せいせいしょうげきはすう》歴代七位、月より舞い降りしワルキューレ。反応速度の女神《めがみ》。北米部隊中最年少|大尉《たいい》、ルノア・キササゲ。
バカみたいだ。
ハラは見え透いている。まるっきり、戦意|高揚《こうよう》のための客寄せパンダ。自分を大尉に祭り上げた黒幕、北米総司令部《フォートワース》広報部の奴《やつ》らを絞《し》め殺してやりたいといつも思う。――ちょっと待て。ふと、重大なことに気づく。血も凍《こお》る事実。ルノアが搭乗《とうじょう》するはずの軌道|往還《おうかん》シャトルの運転手は、この熊《くま》みたいな、ボケちゃってるかもしれないジジイなのだ。あるいはこれも、ラセレーナの策略なのかもしれない――そんなルノアの心中をよそに、ジジイは何やら繰《く》り返しうなずき、
「しかし、さっき大尉がおっしやっていた話なんですが」
次いで、感に堪《た》えないといった様子でこう言った。
「さすが、イレブン・サバイバーともなると、ひとりごとまで言うことが違《ちが》いますな。『ありとあらゆる意味において、使用する装備《そうび》について知り尽くすことが重要』――でしたっけ? いい! いいですな! 至言《しげん》ですな。まったくもってその通りですな」
「――?」
「いや、さっき、大尉、そうおっしゃってたじゃないですか。ひとりでぶつぶつ」
まさか、思考が口に出ているとは思っていなかった。
「!? !! き、聞いてたの!? 最初からずっと!?」
ルノアはめちゃくちゃに恥《は》ずかしくなって、真っ赤になってあわてた。すると、ジジイもまた、ちょっと恥ずかしそうな顔をして、
「――あの、あのですね、ものは相談なんですが。あのセリフ、パクってもよろしいでありますか?」
追い討ちをかけられ、ルノアは困り果て、
「! ちょ、やめてよ、そんな大した――」
ジジイはルノアの態度などお構いなしに、胸のポケットからいそいそとメモ帳を取り出す。
「お願いします、他《ほか》にもああいうかっこいいウンチクがあるならそれもぜひ。うちの隊の連中にね、こう、奴《やつ》らを一列に並《なら》べてですね、がつーんといっぱつ――」
「そんなの自分で考えて勝手にいっぱつやればいいでしょ! 借りもののセリフで武装《ぶそう》したって部下にはバレちゃうんだからついてきてなんてくれないんだから!」
ジジイは表情を止めた。喉《のど》の奥《おく》から「おおおおお」といううめきがもれる。
「……いい。それもいいですな。かっこええですな使えますな」
ルノアの口元が痙攣《けいれん》する。やっぱ撃《う》っちゃおうかなと思う。
ジジイはルノアの言葉をメモメモしながら、冗談《じょうだん》めかしてこう続けた。
「いやあ、本にできますな、これ。『ルノア・キササゲかく語りき』。あ、そん時やわしの分にだけサインしてください。後で値が上がります、絶対。この世に一冊、ルノア・キササゲのサインつき指紋《しもん》つき」
ちよっとからかったつもりだったのだ。当然、ジジイは罵署雑言《ばりぞうごん》による返答を予想していた。ところが、ふた呼吸ほどおいて返ってきたルノアの言葉からは、感情がまるで抜《ぬ》け落ちていた。
「やめてよ、そういうの」その口調の突然《とつぜん》の無表情さに驚《おどろ》いて、ジジイはルノアの方を盗《ぬす》み見た。祖父と孫ほども歳《とし》の違う上官|殿《どの》の横顔は、歯痛でもこらえているかのように硬直《こうちょく》している。
「――大尉?」
ルノアは答えない。
わたしだって、なりたくて大尉になんかなったんじゃないんだから――と、ルノアはそう思っている。
二階級、なら、まあ、なんとか許せる。しかし、三階級特進など、たとえ命を代償《だいしょう》にしてもあり得ない。そのくらい、誰《だれ》にでもわかる。つまり、自分の階級には中身がない。
しょせん、自分は戦意|高揚《こうよう》のための広告|塔《とう》にすぎない。
わかってるんだから。そんなの。
ルノアの横顔をしばらく見つめていたジジイは、ふいにバカにするように口を歪《ゆが》め、メモ帳をポケットにしまって、失笑にも似《に》た息をもらした。
「――やっぱりか。どのへんが屈折《くっせつ》してるのかと思っとったが、そういうことか。月に行くんではなくて、地球から逃げ出すわけじゃな。お上品なこった」
ルノアははじかれたように立ち上がり、一気にケンカ腰《ごし》になって、
「なにそれ!? なんであんたにそこまで言われなくちゃなんないのよ!?」ふん、とジジイは鼻を鳴らす。
「――お前さん、誰かに何か言われるたびにそうなのか?」
「う、うるさいっ!!」
「疲《つか》れるじゃうそういうの。実力にその手の税金がかかるのは理じゃ。いいかげん、ガキでもあるまいし、開き直ることも憶《おぼ》えろや」
「あんたに何がわかるのよ!」
「わからんさ。――お前さんは、宿敵のラセレーナ・クリフト大尉にハメられて、月の訓練|施設《しせつ》に左遷《させん》される。わしが知っているのはこれだけだ」
ルノアは言葉に詰まって、目をぱちくりさせた。
さっき初めて顔を合わせたばかりのこのジジイが、なぜそんなことを知っているのか。
ジジイは、ルノアの胸の内を見透《みす》かしたように笑って、言葉を続けた。
「お前さん、わりと周りを見とらんタイプじゃな。あれか? ずっと自分の部屋にこもって、己を哀《あわ》れんでおったというパターンか? じゃあ、こんなのはどうだ――ここしばらく、正確にはお前さんの月への左遷が決まってからじゃが、北米管区の部隊はトラブル続きだ。ことに前線ほどその傾向《けいこう》が顕著《けんちょ》でな、補給物資の到着《とうちゃく》は遅《おく》れ、戦線は乱れ、中には露骨《ろこつ》に命令無視を続けている部隊まである。なぜだと思う?」
話が見えない。ルノアは戸惑う。
「――なに、それ」
「サボタージュじゃよ。ベルナルド・クリフト中将《ちゅうじょう》の圧力に屈した北米総司令部《フォートワース》への、男どもの無言の抗議《こうぎ》だ」
「――!?」
「やっぱり知らんかったか――男ってなあどうにも、報われん生き物じゃなあ。確かお前さん、小隊長だったな――K2遊撃《ゆうげき》小隊だったか。左遷が決まって小隊長を降ろされてから、お前さん、子分の顔を見ておらんじゃろう? 違《ちが》うか?」
「でもあれは、今のとは別の戦線へ行くための予備訓練があるって、」
「あのなあ、誰《だれ》にそう言われた? それ信じとったんか? そんなもん、お前さんへの左遷辞令交付と同時に、保安四課に全員|拘束《こうそく》されたに決まっとるじゃろうが。放《ほ》っておいたら連中、お前さんには内緒《ないしょ》で、小隊の双脚砲台《ハミングロウル》で北米総司令部《フォートワース》に突撃《とつげき》しかねんわい」
ルノアは完全に当惑している。
ジジイは小さくため息をつく。
「――十七歳のときだったな。お前さんが地球に来たのは」
「う、うん」
「そうか――ということは、あれからもう、三年になるのか」
続くジジイの口調はまるで、昔《むかし》見た名うてのガンマンの決闘《けっとう》の様子を語る、酒場《さかば》の老バーテンダーのそれだった。
「あのときは、誰も口にこそ出さなかったがな、わしらみんなあきらめておった。わしもこの歳《とし》だ、大規模|生成晶《せいせいしょう》はいくつも見てきたが、予想|羽化《うか》個体数が四十万体というのはあまりにも未曾有《みぞう》だ。本格的な羽化《うか》が始まれば、確実に劇速分布変動《スタンピード》が起こる。無茶な作戦が立案されて、何人もの男たちが必勝を約して出撃して、二度と帰らんかった。どれも、この軍団《レギオン》にその人ありと謳《うた》われた、一騎当千《いっきとうせん》の男たちがだ。そうして、いくつもの作戦が失敗していくうちに、わしらは覚悟《かくご》した。いっそサバサバしたもんじゃったよ。あと二ヶ月したら、南北アメリカ大陸に、生きて歩いている人間はおらんようになるかもしれん。今思えば、あのころ、わしらはみんな生きながら死んでおったようなもんだった。ところがだ。成功の見込みなんぞ皆無と言われていた十一番目の生成晶《せいせいしょう》集積|殲滅《せんめつ》作戦――『シナリオ11」を、ある部隊が成功させちまった。あのときわしらがやらかしたどんちゃん騒《さわ》ぎときたら、劇速分布変動《スタンピード》の方がまだおとなしかったかもしれんな。そして、奴《やつ》らの寝首《ねくび》をかいたあの部隊の、その先陣《せんじん》を切ったクレイプの強襲偵察《きょうしゅうていさつ》チームの、三人の生き残り《イレブン・サバイバー》のうちのひとりは、月から来た十八歳の女の子だった」
そうなのだ。
それから後のことは、あまり思い出したくない。世渡《よわた》りが下手《へた》なのは自分でも認める。しかし、当時|曹長《そうちょう》だったルノアは、気がついたときには大尉《たいい》に祭り上げられてしまっていた。そこにあったのは、望んでもいない階級と、小隊長としての責任の重圧と、客寄せパンダとしての役割だった。少なくとも、ルノアにはそう思えた。しかも、今回の月への左遷《させん》の直接の引き金になったのは、その「大尉」という階級にほかならない。ルノアが北米を出ていけば、ラセレーナは、「北米部隊中最年少大尉」の座に返り咲《さ》くことができる。
ルノアと目を合わせようともしないまま、ジジイは続けた。
「それで、それだけで充分《じゅうぶん》だったんじゃよ。誰《だれ》もが不可能と決めつけた作戦を、妹か娘《むすめ》かという歳《とし》のお前さんはやり遂《と》げて、しかも生きて帰ってきた。その瞬間からお前さんは、明日《あす》をも知れん野郎《やろう》どもの隠《かく》れたアイドルとなり、心を支えるものとなったのよ。はっきり言うとな、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》の野郎どもはひとり残らず、お前さんに恋《こい》してしもうたんじゃ」
そのひと言で、ルノアの顔は爆発《ばくはつ》したように真っ赤になった。必死になって反撃《はんげき》を試みる。
「でも、でも! あの作戦に参加してたのはわたしだけじゃないもん!」
「わしらの支えとなってくれたのはお前さんだけじやよ。それを思えば、大尉なんぞ冗談《じょうだん》じゃない。北米総司令でも安いくらいじゃ」
そんなもんになったら死ぬかもしれない。混乱する頭で、ルノアはそう思う。
「おそらく――地球の、救世軍のメシを食っている野郎で、今日お前さんが月に帰ることを知らん奴はひとりもおらんじゃろう。軌道防空《うち》の下士官クラブな、一週間ほど前だったか、お前さんが月に帰ることが決まった日にゃ、もうその話でもちきりじやった。見ものじやったぞ、腕《うで》に刺青《いれずみ》入れてるような連中がな、クモの巣《す》はった脳みそしぼって、眉根《まゆね》を寄せて真剣《しんけん》に話し合っておったよ。タフぶって、『しょせんあいつは腰抜《こしぬけ》けのお子様だったんだ』なーんて言った奴がフクロにされたりしてな。お前さんからすれば、どいつもこいつも考えなしのゴリラのように思えるかもしらんが、ああ見えてもな、みんな恐《こわ》いんじゃ。今日は生きていても、明日《あす》は死ぬかもしれん。明日でなければ明後日《あさって》かもしれん。お前さんは知らんじゃろう。『クルーセイド』の、お前さんの顔がちらりとでも出ている号が、最前線じゃどれほどの値で闇《やみ》取引されていたか。どれだけ多くの連中が、その写真の切り抜きをお守り代わりにコクピットに忍《しの》ばせて、死ぬとわかっている任務に赴《おもむ》いていったか」
知らなかった。
そんなこと、全然知らなかった。
「うそ、だって、そんなの、わたしは一度だって――」
どんな顔をしたらいいのかわからなかった。
「まあ――そうか、お前さんが知らんのも無理もないな。男というのはな、ウソでもいいから自分をタフに見せておらにゃ生きておれん生き物じゃ。お互《たが》いそういうのは隠すし、見て見んフリもするし、ましてやお前さんにバレるなんてのは身の破滅《はめつ》を意味する。せんずりの現場をお前さんに押さえられるよりキツいな、それは。うちの部隊なぞ、軌防《きぼう》の筋肉カタログのようなところじゃが、目立たん場所にこっそりお前さんの名前を刺青《いれずみ》しとるゴリラをわしは何|匹《びき》も知っとる。うちの縄張り《シマ》でお前さんに男がいるいないの話なんぞ持ち出してみい。最後には血を見にゃおさまらんぞ」
両足から力が抜け、ルノアはベンチにへたり込んだ。頭の中で暴風雨が荒《あ》れ狂《くる》っている。
ジジイは、ようやくルノアの顔を見た。
「身勝手なと思うかもしれん。年寄りの恥知《はじし》らずだとは自分でもわかっておる。じゃが、地球の|救 世 軍《サルベーション・アーミー》に生きる野郎《やろう》どもは全員、同じことを考えているはずだ。辞令は今さらどうにもならん。じゃが、ならば、お前さんには胸を張って月に行ってほしいのだ。かの地で、立派な教官となってほしい。頼《たの》む。こんなことで潰《つぶ》れたりせんでくれ」
教官。
ルノアは怖《お》じ気《け》づく。
突然《とつぜん》、ジジイは頭をがりがりとかき、うひひひひひひと笑った。
「いやあー、いくつになっても照れるもんじゃなこういうの。おしまいおしまい、告白タイムはこれにておしまい。さて、ひとつ尋《たず》ねるが」
ジジイの態度の急変に、ルノアは思わず呆気《あっけ》にとられた。
「わしは噂《うわさ》だけで直接は知らんのだが、ラセレーナ大尉《たいい》とは、やはりイヤな奴《いや》か?」
う、うん。ルノアはうなずく。
「やはりそうか、それはそうじゃろうなあ、親の威光《いこう》を借りて仕返しなど普通《ふつう》やらん」
「――そうよね」
思い出して、ちょっとむかむかしてきた。
「それもどうせ、逆恨《さかうら》みの類《たぐい》じゃろ?」
「――そう。思い当たることはいっぱいあるけど、やっぱり、その中でも一番なのは、わたしが大尉《たいい》になったのが気に入らないのね、多分」
むかむかむか。
「しかし、お前さんもえらいのに目えつけられとるのお。昔《むかし》からか?」
「月にいたころからそうなのよあいつ! なにかっていうとインネンつけてきてさ、シミュレーションでわざとクラッシュかけてきたり、故障してる機械がわたしに当たるように仕組んだりしてさ、感動的なくらいイヤな奴《やつ》なのよ! あれで痩《や》せっぽちとメガネデブの腰巾着《こしぎんちゃく》がいたら完璧《かんぺき》だわ! おまけに娘《むすめ》も娘ならオヤジもオヤジよね! クリフト家って、毎朝毎朝イヤな奴になるための体操でもしてんじゃないかしら!? ねえ聞いてる!?」
「そこでだ。こういうのはどうだ?」
ジジイはいきなり声をひそめた。
「ラセレーナに思い知らせてやるのじゃ。やつは、お前さんと入《い》れ違《ちが》いに北米総司令部《フォートワース》に赴任《ふにん》したんじゃろ? よいか、まず、お前さんはとりあえず月に行って教官をやる。だが、それは世を忍《しの》ぶ仮の姿だ。お前さんは訓練生たちを鍛《きた》えに鍛え、精鋭《せいえい》を選んで一個小隊を編成、軌道《きどう》強襲《きょうしゅう》ポッドにて北米総司令部を襲《おそ》う。――いや、バカ正直にいきなり内郭本陣《ないかくほんじん》を狙《ねら》うのはマズかろう。ブービーピット防衛線の、そうだな、七番より南。降下地点は旧メキシコ国境よりまだ南になるか。あのルノア・キササゲが起《た》つのだ。地球の男たちも黙《だま》ってはおらん。北米総司令部の防御《ぼうぎょ》は鉄壁《てっぺき》を誇《ほこ》るが、露払《つゆばら》いはわしらが務める。あらかじめ、ガタガタぬかす奴らを徹底的《てっていてき》に叩いて橋頭堡《きょうとうほ》を確保しておこう。お前さんは北米総司令部に凱旋《がいせん》し、奴の首を取る」
しばらくの間、ルノアはぽかんとしていた。
ルノアの顔をのぞき込んでいたジジイが、「ん?」と眉《まゆ》を上げた。
ルノアは、ため息をついた。
その顔に、ゆっくりと笑みが広がっていった。うつむき、
「――ありがとう」
ジジイも笑って、
「お。冗談《じょうだん》と思っておるか? わしは本気だぞ?」
あはは、とルノアはくすぐったそうに笑う。
「約束《やくそく》せい。必ずそうすると。いつの日か、必ず地球に戻《もど》ると。でなければ、わしは死んでも死にきれん」
ルノアはうなずいた。
「わかった。約束する」
ジジイは、大きく破顔した。熊《くま》の如《ごと》き面《つら》は、そうしてみると思いのほか、いい顔で笑うことができるようだった。
「そうかそうか。よっしゃ、そうと決まれば、もうひとつ頼《たの》みがある」
そう言って、ジジイはポケットをごそごそやり始めた。
「?」
「お、あったあった。これじゃ。こいつをお前さんに届けてほしい」
ポケットから引っぱり出された手には、手紙の封筒《ふうとう》があった。
差し出されたそれを、ルノアはなんとなく受け取ってしまった。
「――なに、これ」
「見てわかろうが。手紙じゃ」
封筒の表にはきれいな字で、インディアナポリス707GQ 第210多脚機甲《たきゃくきこう》小隊 アーネスト・ベイカー≠ニあった。封筒はくしゃくしゃで、角《かど》も擦《す》り切れ、何度も折り曲げられてはシワを伸ばされたような有《あ》り様《さま》なのに、切手が貼《は》られていない。
「誰? アーネストって」
「わしの息子《むすこ》じゃ」
「!」
「この間|二十歳《はたち》になったばかりじゃ。十六で大学出てな、何とかの研究をやっておったんじゃが、徴兵《ちょうへい》されて双脚砲台《ハミングロウル》の砲手《ガンナー》になった。今はインディアナポリスの、ニューヨーク奪還《だっかん》の前哨《ぜんしょう》部隊におる」
――それって、
「今日びの郵便事情は最悪じゃな。人間がミサイルや大砲《たいほう》だけで戦争ができると思ったら大間違《おおまちが》いだというに、お偉方《えらがた》はそこら辺のことがわかっておらん。知り合いにも頼《たの》んでみたが、どうにも埒《らち》があかんでな」
「ちょ、ちよっと、なんでわたしなの!?」
「奴《やつ》もお前さんにイカレとるから」
そう言って、ジジイはスケベなヒヒのように笑った。そのひと言ですべてが説明できると言わんばかりの口振《くちぶ》りだった。
「だって、そんな、なに言ってんのよ! あたしは今から月に――」
「届くなら、別にいつでもええんじゃ。中身だって、腹は冷やすなとか、食い物には気をつけろとか、そんなことしか書いてはおらん。むこうはこの手紙のことを知らんし、わしは何年先になっても構わん。なら、お前さんに頼むのが一番だ。お前さんから手渡《てわた》してもらえば、奴にゃ一生もんの自慢《じまん》のタネになる」
ジジイと目を合わせていられずに、ルノアはうつむいて手紙を見詰めた。生成晶《せいせいしょう》集積に単独で斬《き》り込めと言われてもそうはすまいと思われるほど、動揺《どうよう》し、迷い、ビビっていた。
――だって、今まで全然そんなふうには見えなかったのに。
有名な話だ。
ルノアは知っていたのだ。ジジイに息子などいないことを。時々、結婚《けっこん》もしていないはずのジジイが「死んだ女房《にょうぼう》」と話をしていることを。ボケてからできた、「いつまでたっても二十歳《はたち》になったばかりの息子《むすこ》」を誰《だれ》にでも自慢することを。
ジジイがルノアの顔を覗《のぞ》き込んだ。心の奥底《おくそこ》まで見透《みす》かされているような気がした。
「月で、何もかもどうでもよくなっちまって、クサって漬《つぶ》れるつもりか?」
ルノアは力なく首を振った。
「さっき約束《やくそく》したな、必ず地球に戻《もど》ってくると」
さらに力なく、ルノアはうなずいた。
ジジイは笑った。強く、柔《やわ》らかく笑った。
「ならよし。いつか、お前さんはその手紙を届けてくれるだろう。わしにはわかるぞ。お前さんは、このイカれた世の中を元通りにしてくれる。出した手紙が、ちゃんと届く世の中にしてくれる。だからな、その手紙も、お前さんに預けておけば安心というもんなんじゃよ」
それだけ言って、ジジイは立ち上がって腰《こし》を伸ばした。
「――いくの?」
「仕事が残っとる。この業界、ブタ箱と同じでな。わしはお前さんより便器に近い」
ジジイが背を向けた。歩き出す。
なにか言おう。そう思った。
「あ! あのさ、」
ジジイは無言で振り返った。
パワーをためる必要があった。かなりムリして、ルノアはこう言った。
「まかせといて! かわいいコ見つくろってがりがり鍛《きた》えて、一個師団つくれるくらい連れてくるから! もー圧勝大期待だからね! だから今度はちゃんと女子トイレ用意して待ってなさいよ!!」
ジジイはにやりと笑って、いきなりバシっと直立不動の姿勢を取った。
「輸送中隊にもその人員は回してもらえるのでありますか!!」
「もち!!」
「当方の希望を申し上げてもよろしいでありますか!!」
「ばっちこ――い」
「現在、我が輸送中隊一番機"WishBone"は、前任者戦死により航法士兼前方|銃手《じゅうしゅ》が欠員しております! 当方の希望を申し上げます! 髪《かみ》はショート! メガネ着用! ちょつとドジで気が弱くて、|機内装備のコーヒーメーカー《ウィッチ・フラスコ》の操作技術に秀《ひい》でている者! 以上!」
「復唱する! 航法士兼前方銃手! ショートでメガネでドジで気が弱くってコーヒーいれるのがうまいやつ!」
「その通りであります!!」
「よっしゃ――心得た――!!」
踵《かかと》を鳴らして、ジジイはルノアに敬礼した。
「我らオトコの夢《ゆめ》を乗せた、かような重大任務の一端《いったん》を担うことができるのは、身に余る光栄であります!! 大尉の武運長久をお祈《いの》りいたします!!」
それは、独特の敬礼だった。
せまい棺桶《コクピット》でヘッドギアをつけたまま仕事をする兵士《パイロット》に特有の、わきを締《し》め、肘《ひじ》から先をほぼ垂直に立てるやり方。それは、実に見事な、年期の入った敬礼だった。
オトコの敬礼だった。
夕焼けの色が濃《こ》くなり始めた。
ポケットの中の手紙の厚みが意識される。ルノアはひとり、購買部《PX》の野外ベンチに座っている。さっきよりも少しだけ冷たい風が吹く。砂混じりの風。
時計を呼ぶ。
まだ大丈夫《だいじょうぶ》。
とりあえず、自分は、訓練生を鍛《きた》え、部隊を編成して北米総司令部《フォートワース》に殴《なぐ》り込みをかけるらしい。ルノアの顔に、また笑みが浮かんだ。――それには、
それには、「あの人」のようにならなければいけない――とルノアは思った。自分を鍛え、地球へと送り出した、あの教官のように。
やむを得ないことであったのかもしれない。
「あの人」のような教官になる。
このときのルノアには、それ以外の道はないように思われた。
午後十時四十分《フタフタヨンマル》。ルノアを乗せた中国製の軌道往還《きどうおうかん》シャトル、KKV-16B重慶《じゅうけい》≠ヘ、ロズウェル空軍基地より離陸《りりく》した。
「奴ら」は女を狙《ねら》って殺す。
前線の将兵は、その理由に関して、こう説明している。
――奴らは昔《むかし》、あくどい女《スケ》に引っかかって痛い目見たのさ。
当時の詳《くわ》しい記録は残っていない。
ある調査は、被害|状況《じょうきょう》の逆算から、「奴ら」の最初の降下地点をアフリカ大陸中央部のどこかとしている。そこからあの、光に近い速度の進撃《しんげき》は始まったのだ、と。
西暦《せいれき》二〇二九年七月九日。
一応はそれが、公式な数字であるとされている。しかし、地球|人類《じんるい》の近代産業文明|崩壊《ほうかい》をいつと見るかは研究者の数だけ見解が分かれているし、近年では、その種の研究自体が何の役にも立たない道楽とみなされるようになった。ただ、ひとつだけ確かなことは、あの日、二十四時間で全人口の四割が失われ、四十八時間で地上のすべての灯が消えたということ。そして、三十八年を経た今日もまた、「あの日」の続きであるということ。
今もなお、「奴《やつ》ら」の正体《しょうたい》については、想像する以外にないというのが現状。
野生動物説――恒星《こうせい》間移動を可能にする何らかの能力を持った、いわば「野生動物」の集団である、とする者。
生物兵器説――地球|侵略《しんりゃく》の意図を持つ異星人《いせいじん》の送り込んだ生物兵器である、とする者。
そして――怒《いか》れる神が罪深き人類に差し向けた裁きである、とする自殺教徒。
わかっていることといえば、「奴ら」が女を狙《ねら》うこと。分布が地球に極端《きょくたん》に偏《かたよ》っていて、月ではその活動があまり見られないこと。生成晶《せいせいしょう》と呼ばれる卵、あるいは繭《まゆ》のようなものから一、ないし複数の個体が発生すること。せいぜいがそんなものだ。
組織的と呼べる反撃が始まるまでには、六ヶ月の時間を要した。さらなる犠牲《ぎせい》を払いつつも、人類は奴らの活動|範囲《はんい》を各地の局所的なエリアに封じ込めることに成功する。もっとも、これは公平な言い方ではないかもしれない。この時期に何かの理由で、「奴ら」の活動が一定のレベルで安定したらしい、ということが今ではわかっている。
すでに国家は崩壊していた。情報は乱れ、生活に必要なすべてのサービスは過去のものとなった。略奪《りゃくだつ》と虐殺《ぎゃくさつ》、衣食足りなくなったとき、人は他の者にどこまで残虐になれるものか――人類《じんるい》はまた、そのことを自らに対して証明した。このころに失われた人命のうちの半数以上が、凍《こご》え、腹を空《す》かせた同胞《どうほう》の手にかかったものだと言われている。
人類|反撃《はんげき》の最初の砦《とりで》となったのは月であった。火星植民計画の足場として、月は遙《はる》か以前から計画的に改造され、かなりの人的、機械的資源を保有していた。
そして、兵力も。なぜ、月にあれほどの兵力が都合よく温存されていたのかを疑問視する声は今なお健在で、
「上層部はこの災厄《やくさい》を予《あらかじ》め予期していたのだ」とする俗説の論拠《ろんきょ》となっている。だとすると、その正体不明の「上層部」は、「奴ら」の攻撃《こうげき》目標は地球のみで、月にはその活動はあまり見られないということまでも事前に知っていた、ということになり、ひいては「奴ら」の正体についても、少なくともある程度は知っているのかもしれない――ということになってしまう。しかし、人々の間で、この話がそこまで語られてしまうことはあまりない。
恐《こわ》いのだ。
知りたいはずの、「奴ら」の正体を知ることが。
自分たちを率《ひき》いる者を疑《うたが》うことが。
月より降下した兵力、それに地球の残存勢力が合流してできた寄り合い所帯は、自らを「|救 世 軍《サルベーション・アーミー》」と称し、今なおそう呼ばれている。黎明期《れいめいき》の救世軍にまつわるきな臭《くさ》い話は数多く、とりわけ、「軌道猟兵《きどうりょうへい》」――対立関係にある地球側残存勢力の殲滅《せんめつ》を任務とする特務部隊――が存在したことを、救世軍は未《いま》だ公式には認めていない。しかし、救世軍の力が次第に明らかになるにつれて、人類はなし崩《くず》し的に己《おの》が希望を彼らに託《たく》すようになっていった。
そして、全女性人口月面移送計画――「ジュリエット計画」が実施《じっし》され、女性は月への強制的な疎開《そかい》を余儀《よぎ》なくされた。女しかいない月と、ほぽ男しかいない地球ができ上がった今、その両方を合わせても、人類の総人口は五億にすら手が届かない。
西暦《せいれき》二〇四一年、救世軍は地球、月の統一を宣言。敵性生物を「プラネリアム」と呼称することを発表。
絶望的な戦いは、今も続いている。
今。二〇六七年――西暦。その言葉は、今では、何かの悪い冗談《じょうだん》のように響《ひび》く。宇宙人というのはもっと話のわかる奴《やつ》だと、人類がそう思い込んでいたのは確かだ。崖《がけ》っぶちまで追い込まれ、それでも意地になって西暦を数え続ける人類の、
それは、敵の名であった。
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修行が足りない人たち
月ではイジメがはやっていた。
そのとき、アマルスは、ぶすっツラのオバハンがぞんざいに盛《も》りつけたポテトサラダを見て、量が少ないと文句を言うのはかっこ悪いだろうか、と考えていた。――ふん、かまうものか。軍隊生活に食う以外の何の楽しみがある? どうせ、ただでさえ自分たちの周りは敵だらけなのだ。この上さらに体重計が敵に回ろうとも、大した違《ちが》いなどありはしない。
そのとき、アイはトレイをもって歩きながら、考古学の対象になりそうなサラダの隣《となり》でミートローフのフリをしている何かをじっと見つめていた。動き出すかもしれない。匂《にお》いをかいでみる。アイちゃんいらないもん……だって、変!
そのとき、マリポは妙飯《チャーハン》を口いっぱいに頬張《ほおば》りながら、カデナ隊のテーブルを見つめていた。さっきから挙動が不審《ふしん》なのだ。もっとよく見ようと身を乗り出す。最後にとっておいた杏仁豆腐《アンニンドーフ》のパックに、ペスカトーレがそーっと手をのばしていることにも気づかない。
そのとき、チャーミーは紅茶のカップを口に運んでいた。ここにきて一番よかったと思うのは、食堂の厨房《ちゅぼう》が一気圧で与圧《よあつ》されていることだ。チャーミーは思う――なぜ他の地下都市群もそうしないのだろう。とってもおいしいお茶がいれられるのに。
そのとき、ペスカトーレはマリポの杏仁豆腐を狙《ねら》っていた。金庫破りの慎重《しんちょう》さと銀行|強盗《ごうとう》の大胆《だいたん》さをもってパックを引き寄せ、安全地帯に脱《だっ》したと見るや、人間離れした勢いでパックをひんむいて丸ごと噛《か》まずにごっくんした。ふ――う。あ、ハエだ。こんなとこにもハエがいる。わーへんな飛び方。すごいすごい。
寒いと痛さも倍増する。なぜ寒いかというと、一般電力の供給が制限されていて、コロニーに全部で四基ある空調|設備《エンジン》のうちの一基しか稼動《かどう》していないからで、なぜ痛いかというと、誰《だれ》かに足を引っかけられて思いっきり転んだからである。
0・85Gでも転べば痛い。
それにしても、アイ・ブランシュのそれは、あまりにもすごいコケっぷりだった。顔からモロだ。いくらトレイを持っていたとはいえ、もう少し別な転び方があるだろうと見ていた誰もが思った。わざとやってるんじゃないかと思うくらい壮絶《そうぜつ》だった。
うっ……。
そういう空気が瞬間的《しゅんかんてき》に充満《じゅうまん》した。すべての動きが止まり、下は十四歳から上は十九歳まで、第四層食堂にいた三十人ほどの訓練生の視線が、盗《ぬす》み見るような角度で集中した。足を引っかけた張本人からして、自分が何かされたかのような、ショックを受けた顔をしている。そいつは、どことなく助けを求めるような、「あたし違《ちが》うことしてないよね?」とでも言いたげな顔で、班長様の顔を見た。
ポニーテールの班長様、カデナ・メイプルリーフ伍長《ごちょう》は冷静だった。
コーヒーの入ったプラスチックのカップを手に、ぶっこけたままのアイに目をやり、小声で、しかし周囲には聞こえるように、ただひと言。
「ちゃんと掃除《そうじ》しといてよね」
それは、勝利宣言であった。よけいな口出しをする奴《やつ》には容赦《ようしゃ》しないそという、周囲への警告でもあったのだが、こんなわかりやすい展開にわざわざ割って入る物好きなどいない。
アイはまだ起き上がらない。
月、氷の海。|救 世 軍《サルベーション・アーミー》月面|駐屯《ちゅうとん》部隊|警戒区《けいかいく》・埋設《まいせつ》コロニー群守備隊オルドリン基地。
「ちょっと、何すんのよ!!」
反乱の狼煙《のろし》は、食堂の一番すみのテーブルから上がった。
サイズの大きすぎる略式平服が駆《か》け寄《よ》ってきた。
「あたし全部見てたんだからね!!」
マンガのように頭にかぶさっているBランチのトレイをのけて、チュン・マリポはアイを助け起こした。半身を起こしたアイが、座り込んだまま息を詰まらせたようにグズり出す。アイよりチビな身体《からだ》で精いっぱい背伸びをして、お下《さ》げ髪《がみ》の先っぽまで怒《いか》りを漲《みなぎ》らせ、額にかかる前髪の隙間《すきま》からマリポが睨《にら》みつけても、カデナ隊の連中は平然とその視線を受け止めた。ただひとり、一番の下っ端らしい実行犯だけが、なんとなく罪悪感に駆《か》られているように目をそらす。
カデナ隊のひとりが、コークのプルトップをひき開けながら、見下すような目で、
「そのコが勝手に転んだのよ」
「うそ!! 目配せしてたのまで見たんだから!!」
ちんちくりんのマリポがそうやって噛《か》みついても、カデナ隊の前ではスピッツがぎゃんぎゃん吠《ほ》えているみたいだ。
「あんたに言ってないわ。そうよね? バカだから自分で転んだのよね?」
ベソをかいているアイの顔が、今にも泣き出しそうに歪《ゆが》んだ。テーブル越《ご》しに覗《のぞ》き込んできた別のひとりが、
「ちょっと、泣いてんの? 幼稚園に帰った方がよくない?」
ふえ、とまたアイの泣き顔が濃《こ》くなる。
周りの連中はいつものように、見て見ぬふりを決め込んでいる。多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》はいつものことだ。マリポは玉砕覚悟《ぎょくさいかくご》の拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる。
「どけマリポ」
くわえ煙草《たばこ》のアマルス隊班長、アマルス・ヒホン伍長《ごちょう》がマリポを押しのけ、カデナのAランチのトレイのすぐわきに手をついてテーブルに身を乗り出した。もう片方の手でコショウの容器をもてあそびながら、言う。
「いつもヒマでいいなお前ら。なんでそうからむんだよ」
カデナは涼しい顔。
「――何の話?」アマルスは長い指で煙草をはさみ、天井《てんじょう》に向けて長い煙《けむり》を吐いた。腕《うで》を伸ばし、カデナのカップに、とん、と灰を落とす。
カデナは表情を変えず、静かにカップを置いた。
「何のマネ?」
アマルスは涼しい顔。
「何の話だよ?」
まだぐずぐず言っているアイをマリポは素早く安全圏《あんぜんけん》に逃《に》がし、戻《もど》ってきてカデナを睨《にら》みつけた。が、やっぱりチビであるせいだろう、隣《となり》にいるアマルスの半分の迫力《はくりょく》もない。近くのテーブルに座っていた連中がこっそり避難《ひなん》し始め、遠くのテーブルに座っていた連中がじりっと包囲の輪を狭《せば》めた。カデナ隊の挑発《ちょうはつ》をアマルス隊がシカトして終わり、というケースがほとんどではあるが、まれに勃発《ぼっぱつ》する全面対決ともなると、両者ともに極めてハイレベルかつダーティなケンカを見せるので、このカードは実に人気があった。もうすでにあちこちで賭《か》け金《きん》が飛び交い、教官どもを陽動する工作も始まっているだろう。それでも、もって三分。
カデナは余裕《よゆう》の笑みを浮かべ、右|斜《なな》め上にあるアマルスの顔を見上げ、
「前から一度聞いてみたかったんだけど。あなたたちって、どうやってうちに入学できたの? やっぱり腕《うで》ずく?」アマルスは薄《うす》ら笑いを浮かべ、親指でコショウのキャップを弾《はじ》き飛ばし、カデナのトレイの上で容器を逆さにし、
「あたしも前から聞いてみたかったんだけどさ。どういうトラウマだ? そこまで性格|歪《ゆが》むってのはよ? 昔《むかし》オヤジにレイプでもされたのか?」
真っ黒い山のできたオートミールをまだ長い煙草《たばこ》でゆっくりとかき混ぜ、アマルスはカデナに顔を向けながらも、視界のすみの他の連中の動きを追う。ひそひそ怒鳴《どな》る遠巻きの野次馬《やじうま》、テーブルの下の手の動き、視線の方向――。左側、カデナの向こうにいる二人はとりあえず問題外。あそこからじゃどうやったっていきなり飛びかかってはこれない。クサいのは右側の二人――近い方の奴《やつ》が身体《からだ》の向きを静かにずらして、利《き》き腕の動きを隠《かく》した。何か持ってる――手製の拳銃《ジップ・ガン》だとちょっとヤバい。ウエーブのかかった豊かな黒髪《ブルネット》を、アマルスは右手でかき上げた。野次馬の足元、水面下を潜水艦《せんすいかん》のように移動しているペスカトーレへの、「右へ」という合図だ。
カデナが深い呼気とともに全身の力みを捨てていく。
「大した自信じゃない。失うものが何もないって楽でいいわね」
ポケットの中のアマルスの左手が、指を第二関節で曲げた平たい拳《こぶし》を作る。
「お前の手下にゃ同情するよ。バカな親分てな一生タタるからな」
アマルスが手を放し、コショウの容器は地球の重力圏にあるときより15パーセント遅《おそ》いスピードで落下を始めた。
潜《ひそ》んでいたテーブルの下から「泣く子はいねが――!!」と無表情に絶叫《ぜっきょう》しながら飛び出したペスカトーレが、右側にいたカデナ隊の二人をあっという間に制圧した。三対三。
アマルスの隣《となり》、マリポが身体《からだ》を腰《こし》よりも低く沈《しず》め、超《ちょう》低空てカデナの足を狙《ねら》った。抱《だ》きついて動きを封じようという瞬間《しゅんかん》、ペスカトーレが天井《てんじょう》高くひっくり返したテーブルが落っこちてきて、マリポの捨て身の努力は敵にも味方にも知られることなく潰《つい》えた。三対二。
高G徒手|格闘《かくとう》では奴《カデナ》の方が上であることなど先刻承知。ことケンカとなれば、アマルスは決して相手を安く見はしない。だから最初に潰《つぶ》す。狙《ねら》うはカデナただひとり。相手は座っている。ポケットの中の平拳《ひらけん》はフェイント、右の掌《しょう》でカデナのアゴを。避《さ》けられて当然の一撃《いちげき》、しかしそれで、もう逃《に》げ場《ば》がないほどカデナの体勢は崩《くず》れるはず――
絶妙《ぜつみょう》のタイミングで、コークの缶《かん》が飛んできた。
そんなもの、当たったってべつになんてことはないのに、アマルスの目が本能的に反応してしまった。「ナイス夏桐《ナツキ》」カデナの声、倒《たお》れていく椅子《いす》はすでに空。まだ泳いでいるアマルスの身体、左、構えた両腕《りょううで》で予想しうる限りの打撃線《だげきせん》を潰しながら振り返れば、もうカデナはアマルスの構えた両腕のさらに中にいた。弓歩立《きゅうほだ》ち、すごいスピードで腰を沈め、水平すぎるアマルスの視界の下に消えるカデナ、その動きに追いつけないぶっといポニーテール。
コショウの容器が床《ゆか》に落ちた。
凶器《きょうき》使用や急所|攻撃《こうげき》は当たり前。熾烈《しれつ》な女の戦いは幕を切って落とされ、
十|秒《びょう》も続かなかった。
「そこまで!!」
その声に、その場にいた訓練生全員が硬直《こうちょく》した。
乱闘《らんとう》現場を囲む人垣《ひとがき》の向こう、食堂の入り口に、ダークブルーの制服に身を固めた背の高い女がいた。その声に似《に》つかわしい、身体中にハリガネの入っているようなスキのない痩躯《そうく》、東洋系にしてはかなり背が高い。切れ長の瞳《ひとみ》で食堂中を消毒するようにねめまわし、ため息をかみ殺す。整った顔立ちには違《ちが》いないが、美しさのどこかが刃物《はもの》に似ている。肖像画《しょうぞうが》を描《か》くときは定規《じょうぎ》が必要かもしれない。
「――楽しそうね。一体なんの騒《さわ》ぎ?」
食堂にいた訓練生は、ひとり残らず直立不動で自分の正面を見ていた。
オルドリン基地司令、小夜子《さよこ》・ヤマグチ次官は、騒ぎの爆心《ばくしん》と思われる地点に無表情な目を向けた。確かにほんの数瞬《すうしゅん》前までは、そこがケンカのリングだった。のだが、今はひっくり返ったテーブルと椅子、散乱するトレイとランチの残骸《ざんがい》があるだけ。こと相手が上官であるとき、訓練生は誰《だれ》もが一致団結して事態の隠蔽《いんぺい》に当たる。見事なくらいだった。ひっくり返ったテーブルの下からマリポが引きずり出され、まだベソをかいているアイと、見るからに暴れ足りない様子のペスカトーレはいち早く人垣《ひとがき》の向こうへと押しやられていた。飛び交っていた賭《か》け金《きん》はポケットに隠《かく》され、凶器《きょうき》は手から手へと渡《わた》されて、とうの昔《むかし》に食堂の外に出ている。
これ以上は、何をどう追及しても無駄《むだ》な努力だ。遅《おく》れて入ってきたヤヨイ・キサラギが食堂を覗《のぞ》き込んで「うわ〜〜やっちゃったのね〜」という顔をした。十六歳の事務|准尉《じゅんい》、次官の秘書のはずであるが、無言で差し出されたヤマグチ次官の手にクリップボードを渡すさまは、どう見ても一週間遅れの宿題を提出している小学生。
辺りを脾睨《へいげい》し、十分に周囲を威圧《いあつ》したと判断したヤマグチ次官は、短く告げた。
「休め、全員着席」
椅子《いす》の脚《あし》が床《ゆか》をこする音が食堂を満たした。カデナ隊の連中が、ひっくり返ったテーブルを元に戻《もど》している。カデナとアマルスの目が合った。
アマルスは、右頬《みぎほお》と左|脇腹《わきばら》に一発ずつ、いいやつをもらっていた。
カデナは無傷。
アマルスの目に浮かぶ悔《くや》しまぎれの怒《いか》りの炎《ほのお》を見て、カデナは満足げな笑みを浮かべる。振り切るようにアマルスは踵《きびす》を返し、自分たちのいた食堂の一番すみのテーブルへと足早に歩き出す。マリポがアイの手を引いてその後に続き、ペスカトーレはカデナ隊に向かって、どうやったらそこまで「女」を捨てられるのかと思うほどの、ものすごいあかんべーをする。
ことさらに大きな音を立てて椅子《いす》を引き、アマルスはふんぞり返るように座った。結局、仲間の死闘《しとう》を最後まで温かく見守っていただけだったチャーミー・グリントが、メガネごしにやさしい笑みを浮かべて無自覚にアマルスの傷をえぐった。
「仕方ないわよね、アマルスさん。カデナさんはG検二段持ってるんだもの……」
ここでチャーミーが言う「G検二段持ってる」とは、「高G環境下《かんきょうか》における土光壱式《ドコウ・タイプ・ワン》徒手格闘《かくとう》段級|審査《しんさ》を二段で合格した」ということである。もっと詳《くわ》しく言えば、オルドリンの外周を巡《めぐ》る遠心力式の高重力|回廊《かいろう》で、1・7G以上という状況《じょうきょう》のもと、|安全処理バイパス設定《ジェノサイド・セットアップ》のスパーリングドールを五分かけずにKOした、ということになる。
「けっ、奴《やつ》の好きそうなこった、肩書《かたがき》マニアが。だいたいここをどこだと思ってんだ、なかよしクラブか? 宇宙|怪獣《かいじゅう》相手にゲンコツで戦うってのかよ。バカバカしい」
吐き捨てるようにそう言って、アマルスは新しい煙草《たばこ》に火をつけ、わざと大きな音を立ててテーブルに足を乗せる。その音にヤマグチ次官が振り向いた。突然《とつぜん》のヤマグチ次官の御降臨《ごこうりん》に縮み上がっている他のテーブルの連中が、迷惑《めいわく》そうな視線を送ってよこす。ヤマグチ次官とアマルスは一瞬《いっしゅん》だけ睨《にら》み合っていたが、ヤマグチ次官は何の熱意もこだわりもない仕草《しぐさ》で先に視線を外した。まるで、そこに見るべきものなど何もないかのように。
ちっ。
「勘違《かんちが》いしている人が多いようね。念のために言っておくと、」
いいよ言わなくて。ヤマグチ次官以外の誰《だれ》もがそう思った。ヤマグチ次官はクリップボードを手に、テーブルの間をゆっくりと歩きながら話し始めた。誰もが、うんざりした表情が顔に出ないように努める。また、あの退屈《たいくつ》でクドいお説教に耐《た》えねばならないのだ。
今日のヤマグチ次官のお説教は、こんな風に始まった。
「あなたたちは確かに入学|審査《しんさ》をパスし、半年の研修を生き残って、今ここにこうして座っています。もう地球行きの切符《きっぷ》を手にしたような気になって。なんとかなるだろう――あなたたち全員がそう思っている。訓練を受けて、試験をパスして、卒業さえすれば地球か、悪くても何らかの軍務に就けると。残念ながら、その認識は甘《あま》いと言わざるを得ません」
アマルスはヤマグチ次官のことなどお構いなしに、まだベソをかいているアイを見て露骨《ろこつ》にイヤな顔をして言った。
「ったく、いつまで泣いてんだ、うっとうしいなー」
トマトソースがべっとりとこびりついた頭をナプキンでごしごしこすりながら、アイはじゅるっと鼻水をすすった。
「だっで〜〜べだべだずるじおながずいだじ」
はあ。こいつが軍属だってんだから世も末だ――自分のことは棚《たな》に上げたアマルスは、失望のため息を禁じ得ない。
ヤマグチ次官はアマルス隊のことなどお構いなしに、無表情にお説教を続ける。
「あなたたち全員、自分はいつか落第して退学する――そう思っていなさい。その方がショックが少ないわ。この訓練|施設《しせつ》に入学した者のうち、卒業にまでこぎつけるのが約半数、軍に残るのが一割、地球への着任を命じられるのは1パーセントにも満たない――そういう説明を、これまで何度も受けているはずです。そもそも、あの入学|審査《しんさ》で落とされる人っていうのは、まともな社会生活を営む能力すらあるかどうかもあやしいっていう人たちですから」
んじゃあたしらはどうなるんだよ――ヤマグチ次官の話を聞くともなしに聞いていたアマルスは、煙《けむり》を吐きながらぼんやりと思う。
なぜ連中はここにいるのか。
それは、入学審査の担当官が放射線に頭をやられて神の声を聞いたせいであるとも言われる。その超《ちょう》低空飛行な成績は、「なぜここまで」という疑問を通り越《こ》して、ほとんど政治的な謀略《ぼうりゃく》の臭《にお》いすら感じる。
正式名称を、第十三期オルドリン訓練生・多脚機甲《たきゃくきこう》戦略学科第二群222班アマルス隊。
通常、各隊専属の教官の名が冠《かん》されるはずの部隊名がなぜ「アマルス隊」なのかというと、専属の教官がいまだにいないからである。なぜいないのかというと、この部隊は訓練準備研修期間に行われた試験のことごとくに、普通狙《ふつうねら》っても取れないような史上最低の成績を記録したからである。つまり、事実上の扱《あつか》いとしてはアマルス隊はいまだ「訓練準備研修中」であり、責任者不在のまま、教官たちから隔離患者《かくりかんじゃ》の如《ごと》くタライ回しにされているのだ。
そんなこんなで、他の訓練生からはイビられ、教官たちからは無視されて、アマルス、マリポ、アイ、チャーミー、ペスカトーレの五人そろってボンクラ隊は、今もふてくされていた。
テーブルの間をゆっくりと歩きながら、ヤマグチ次官は話し続けている。
「とはいえ、あなたたちには今、朝起きてから夜寝るその瞬間《しゅんかん》まで、軍属として行動する義務があります。そういう説明も、何度も受けているはずですね」カデナ隊のテーブルを上目遣《うわめづか》いに睨《にら》みつけながら、マリポがささやいた。
「ねー、どういうつもりなんだろ。食堂で足引っかけるなんてさ、もう二十一世紀も半分過ぎてんのにさ。直球勝負もここまでくると天然記念物よね。あの人たちってほんとにアタマいいのかな」
あたしならねーあたしならねーコーヒーにガラスの粉入れるー、とペスカトーレが言った。
「素人《しろうと》を一人前の兵士にするのには金も時間もかかります。こちらとしても余裕《よゆう》があるわけではありません。退学手続きは簡単ですから、行動に自覚と責任の持てない者は、いつでも私のオフィスに来るように。歓迎《かんげい》します」
そこでヤマグチ次官は、ゆっくりと全員の顔を見渡《みわた》した。誰《だれ》もが、こんなうまそうなもの初めて見たという顔で、自分のトレイを覗《のぞ》き込んでいる。ただひとり、ふんぞりかえって昂然《こうぜん》と視線を上げたままのアマルスと、再び目が合った。
「アマルス・ヒホン、伍長《ごちょう》」
アマルスは驚《おどろ》いた。びくっとした拍子《ひょうし》に長くなっていた煙草《たばこ》の灰がぽろりと落ちた。
「テーブルから足を下ろしなさい」
ヤマグチ次官の切れ味|鋭《するどい》い口調ではなく、自分に対してヤマグチ次官が注意をしたという異常事態にビビって、アマルスは半ば呆然《ぼうぜん》としながらおずおずとテーブルから足を下ろした。食堂中の訓練生全員の驚きがはっきりと感じ取れる。今までこんなことは一度もなかったのだ。ヤマグチ次官は、自分たちのような出来損ないとは口をきく気もないのだ――アマルスはそう思っていた。アマルスは答えを探すかのように、他のメンツの顔を見た。マリポ、アイ、チャーミー、ペスカトーレ。全員の顔に、正真正銘《しょうしんしょうめい》の驚き以外のものを見て取ることはできない。
「もうひとつ、」
天変地異でも起こるのだろうか。声も上げずにパニくっている訓練生たちをよそに、ヤマグチ次官はクリップボードに目を走らせた。
「本日付けで、新しい教官が赴任《ふにん》することになりました。当訓練|施設《しせつ》としては、彼女が最初の『実戦を経験している教官』ということになります。これはあなた達《たち》にとっては大きなチャンスであり、また、我々にとっても多くを学ぶ機会であると言えるでしょう」
食堂を包むざわめき。
月には現在十二の訓練施設が存在するが、そこに勤務している教官のうち、実戦を経験している者は数えるほどしかいない。ほとんどが卒業後、軍務にあぶれて施設に残った卒業生か、兵器メーカーから委託《いたく》で来ている技術者である。
しかし、どこの実戦部隊も、バリバリの切れ者を手放すはずがない。「出戻《でもど》り教官」は、どの訓練施設でも評判が悪いのだ。そうした連中はみな、肉体的、精神的負傷が原因で左遷《させん》辞令の犠牲《ぎせい》となった「使えない奴《やつ》」であることが常だった。しかし、ババはいずれ誰《だれ》かが引かねばならない。根性曲がりの教官が、ここにもついにやってくる――誰もがそう思った。
「しかも、彼女はこの訓練施設を巣立《すだ》っていった卒業生のひとりでもあります。経歴については、私よりもあなたたちの方が詳《くわ》しいかもしれないわね――」
そして、ヤマグチ次官はクリップボードから目を上げ、食堂を爆破《ばくは》した。
「ルノア・キササゲ大尉《たいい》の当基地着任は明、午後三時《ヒトゴウマルマル》の予定です」
一瞬の間があった。
「えええ―――――――――――――――――――――っ!?」
次の瞬間、まさに爆発のような騒《さわ》ぎが巻き起こった。どいつもこいつも、喜ぶというよりむしろ恐慌《きょうこう》を来たして椅子《いす》から跳《と》び上がり、大声の私語が猛烈《もうれつ》な勢いで飛び交った。
まさに、降ってわいた話であった。
北米大陸でもそうだが、ここ月においてもまた、ルノア・キササゲという名前は殺人的な攻《こう》撃力《げきりょく》を発揮する。しかも、ルノアの母校であるここオルドリン基地においては、その名はほとんど伝説的な響《ひびき》を伴《ともな》っていた。不可能と言われたシナリオ11を成功させた強襲《きょうしゅう》部隊、その先陣《せんじん》を切ったクレイプのパイロット――北米最年少|大尉《たいい》、生成晶撃破数《せいせいしょうげきはすう》七位を誇《ほこ》る最強の卒業生。分厚い情報統制のフィルターの向こうに、ルノアの影《かげ》が見《み》え隠《かく》れするたびに訓練生たちは一喜一憂《いっきいちゆう》し、週刊誌でもここまではすまいと思えるほど針小棒大された噂《うわさ》が飛び交うのだ。一回の出撃で三十体のプラネリアムを撃破したことがあるらしいとか、基地に戻《もど》ってもクレイプのコクピットで生活しているとか。めちゃくちゃ手が早くて気に入った新兵は片《かた》っ端《ぱし》から食っちゃうとか、三十を越《こ》えているとか越えていないとか、実はババアだとか実は男だとか、100メートルを五|秒《びょう》で走るとか口から火を吐くとか。ヘッドギアにスペードのAのカードが貼《は》りつけてあるという噂がたてば購買部《PX》のトランプが売り切れ、バーボンなら一晩でボトルニ本はいけるらしいという噂が流れた翌朝には、二日酔《ふつかよ》いの訓練生が大量発生して医務局がゲロの海と化した。
「静かに! 席に着きなさい!」
訓練生たちを落ち着かせるために、ヤマグチ次官は大声を何度もはりあげなければならなかった。ところが、このフィーバーからぽつねんと取り残されているテーブルがたったひとつだけあった。
アマルス隊のテーブルである。
きゃあきゃあ言ってるのはマリポだけ。他《ほか》の連中は何が起こったのかわからずに、罠《わな》にはまった動物のような目で周囲の騒《さわ》ぎを見回している。ペスカトーレも一緒《いっしょ》になってわめいてはいたが、こいつの場合は、犬が救急車のサイレンに反応して遠吠《とおぼ》えするのと一緒《いっしょ》だ。はっきり言ってよくわかっていない。
「……誰《だれ》だ、それ?」
アマルスがチャーミーに聞いた。
「さ、さあ……? アイ、あなた知ってる?」
チャーミーがアイにふった。ダメージから回復しつつあるアイが答えた。
「アイちゃん知らない。番組|欄《らん》にはそんなのなかったもん」
「全然ちがーう!!」
マリポがいきなり振り向いて、噛《か》みつくような勢いで言った。
「もーダメすぎっ!! オルドリンにいてルノア・キササゲ大尉を知らないなんて犯罪よ犯罪!!」
マリポはあらぬ方角を見つめ、黒い瞳《ひとみ》をうるうるさせてうっとりとつぶやく。
「生成晶撃破七位……北米管区最強のクレイプ|乗り《ジョッキー》……。かっこよすぎる……」
マリポは今に幽体離脱《ゆうたいりだつ》しそうになっている。アマルスが恐《おそ》る恐る声をかける。
「そんなにすごいのか?」
「すごいのっ!!」
「じゃあ、今のうちに言っとくけどな、うちらにはめいっぱい関係ない話だぞ、それ」
はっ。
あまりにも舞い上がっていたマリポは、専属教官がいまだ決まらず、ゆえに部隊名に専属教官の名を冠《かん》していない隊が、自分たちの他《ほか》にもうひとつあるという単純な事実に気づいていなかったのだ。
|カデナ《ヽヽヽ》隊である。
もっとも、こちらの場合はアマルス隊とはまったく正反対の同じ理由による。要するに、ダメすぎても優秀《ゆうしゅう》すぎても、教官たちからは敬遠されてしまうのだ。
「あ、あの……マリポ?」
チャーミーがそう声をかけても、マリポは答えない。舞い上がり過ぎていただけに転落したショックも激《はげ》しく、放心したような表情で椅子《いす》にぺたんと腰《こし》を落とす。
考えてみれば当然の話だ、マリポはそう思う。カデナ隊は、オルドリンの過去にも類《るい》を見ないと言われる超《ちょう》リート部隊である。教官たちに担当をいやがられるのもわかる。誰《だれ》だって、自分より優秀《ゆうしゅう》な者の教師になどなれない。そこで、八方手を尽くしたヤマグチ次官が、こともあろうにあのルノア・キササゲ大尉《たいい》を引《ひ》き抜《ぬ》いてしまった――そういうことなのだろう。カデナ隊の連中が、自分たちの方を見て笑っているような気がした。睨《にら》み返してやりたかったが、マリポはうつむいたまま。ヤマグチ次官がまた話し始めていたが、もうそれは思考の背景の音としてしか感じられない。
「あなたたち全員に対する顔合わせなどは特に予定していません。大尉の経歴その他、あなた達《たち》が知っておくべき情報は追って連絡《れんらく》しますから、担当部隊だけでなく全員が目を通しておきなさい。廊下《ろうか》などで出会ったときも、欠礼することのないよう」
そこで、カデナ・メイプルリーフがまっすぐに手を上げた。
「次官! 質問があります」
カデナの顔は、それはもう、いきすぎの自信に満ちあふれていた。
「ルノア・キササゲ教官の担当部隊は、すでに決定しているのでありますか」
そのとき、ヤマグチ次官の能面にも似《に》た鉄壁《てっぺき》の無表情に微《かす》かな痙攣《けいれん》が走ったのを、アマルス隊の面々《めんめん》は見逃《みのが》していた。頭を寄せ合ってひそひそ話をしていたからである。
「な。やっぱバカだろ、あいつ」
「ちょっと、聞こえますよ?」
「自分の誕生日《たんじょうび》にさ、『今日なんの日か知ってる?』とか言っちゃうアタマ悪い女みたいよね」
けけけけアタマ悪くてけっこーあたしの誕生日は十月二日だかんね。首を洗って待つように。
「あのねーあのねーアイちゃんの誕生日はねー、」
ヤマグチ次官の咳払《せきばら》いで、アマルス隊の面々は口をつぐんだ。
そして、ヤマグチ次官は、カデナの質問に答えた。
誰《だれ》もが、「何を言っているんだろう、この人は」という顔をした。
ヤマグチ次官はもう一度その答えを繰り返さねばならなかった。
「――ルノア・キササゲ大尉《たいい》は当基地着任後、222班アマルス隊の専属教官としての任務にあたります」
そのとき、アマルスは「新手《あらて》の|嫌がらせ《チキンシット》かよ」と思った。
そのとき、マリポはイってしまった。
そのとき、アイは髪《かみ》にべったりついたトマトソースに寄ってきたハエを追っ払っていた。誰の話も聞いちゃいない。
そのとき、チャーミーはそれなりに驚《おどろ》いていた。「それなりに」というところに、彼女の非凡《ひぼん》さがうかがえる。
そのとき、ペスカトーレはこのスキに乗じてアマルスのプリンをまんまとせしめた。
そのとき、カデナ・メイプルリーフは「アマルス隊ってどの部隊?」と思っていた。脳が事実を拒否《きょひ》していた。
「明《みょう》、零《ゼロ》時をもって、222班D隊をルノア隊と改称します。以上です。食事を続けなさい」
重荷から解放されたような顔で、ヤマグチ次官とヤヨイ・キサラギが食堂を後にした。その瞬間《しゅんかん》、それまで声もなかった食堂の空気が再び弾《はじ》けた。
「きゃ――――――――――やったやったやったやった――――――――――――!!」
今度こそすべての思考が吹っ飛んでしまったマリポが、脊髄で喜びながら跳びはねていた。チャーミーはアイをシャワールームへと連れて行き、ペスカトーレはヤマグチ次官のお言葉通りに獣《けもの》のように食事を再開していた。ただひとりアマルスだけが、自分たちが踏み込んでしまった前途《ぜんと》多難な道の行く手に思いを巡《めぐ》らせていた。
各テーブルで、猛烈《もうれつ》な勢いで交わされる密談。飛び交う視線。その混沌《こんとん》とした空気の向こう、立ち尽くしているカデナの姿。
視線を感じたカデナが振り向いた。
義務だと思ったので、とりあえず、中指を立ててやった。
カデナは、そのレーザーのような視線を外し、テーブルに置いてあった中帽《ライナー》を深々とかぶり、バッグをつかみ、遮《さえぎ》るもの皆|蹴散《けち》らすと言わんばかりの足取りで食堂を出ていった。他の連中があわてて後を追う。トレイくらい片づけていけ、とアマルスは思う。
こんなふうにカデナのハナをあかしても、アマルスは嬉《うれ》しくもなんともない。
そのルノア・キササゲとかいう奴《やつ》が自分たちの教官になることも、少しも嬉しくはない。むしろ、教官不在で多少なりとものんびりできた部分が剥ぎ取られてしまうのだと思うと憂鬱《ゆううつ》になる。どうせ、そのルノアって奴《やつ》も、カデナと似《に》たり寄《よ》ったりの手合いに決まっている。
向こうがネを上げるまでの辛抱《しんぼう》か――。
そこにわずかな慰《なぐさ》めを見出して、アマルスはため息をついた。
そのとき、多脚《たきゃく》兵器整備学科七群010班イリア・セメロフスキー技術軍曹は、双脚砲台《ハミングロウル》の格納庫《ドック》でひとり、『バッドムーン』を読んでいた。
双脚砲台は無停止システムである。工廠《ファクトリー》をロールアウトしたときから敵に撃破《げきは》されるその瞬間《しゅんかん》まで、完全に電源が落とされるということはない。装備《そうび》の変更《へんこう》に伴《ともな》うプログラムの換装《かんそう》や設定の更新《こうしん》なども、常に稼動《かどう》している中枢部《ちゅうすうぶ》のプロセスに割り込む形をとる。これは、ソフトウェア的な作業を『手が空いたらこれやっといてね』と中枢に任せてしまえるので作業としてラクができる反面、機体の経験の蓄積《ちくせき》によって処理速度にかなりの個体差が発生するので、『いつ終わるのかはわからない』という問題をも生む。いつ終わるのかがわからないと、作業報告書に終了《しゅうりょう》時刻を書き込めない。作業報告書は演習終了後速やかに教務課に提出しなければならない。そして、イリア・セメロフスキー技術軍曹は、010班の一番の下《した》っ端《ぱ》である。
以上が、彼女が訓練時間終了後も格納庫に居残っていなければならない理由である。
アホらしい。
隊の他の連中はもうシャワーも浴びて夕メシもすませて、今ごろはユニットでくつろいでいるころだろう。イリア軍曹はため息をついて、広報誌からモニターへと視線を移す。今日、010班は電磁滑空砲《リニアガン》の換装《かんそう》演習を行った。作業対象は三機の双脚砲台――S20VOGUS、239HOMAR、222GARPである。VOGUSとHOMARは、もう二時間も前にプログラムの更新作業を終了して、現在はサスペンド状態にある。残るはGARPだけ。ALFの表示によれば、現在GARPはより高次の優先順位をもつミッションを処理中で、010班の命じたプログラム更新をスプールしている。
――プログラムのアップグレードより優先されるミッションなんてあったっけ?
少なくとも、イリア軍曹には思い当たるものはない。もっとも、ミッションの優先順位は双脚砲台が動的に割り振るものなので、何を優先するかはわかったものではないのだが。
――何やってんだろこいつ。
イリア軍曹は右手をキーボードに走らせる。現在処理中のプロセスは二つ。ひとつは流体|脊《せき》髄素子《ずいそし》の維持《いじ》関係。これはいい。これは、人間で言えば、いつも心臓が動いているのと同じレベルの話だから。もうひとつは――
外部へのS2接続。
なにこれ――? 意外な結果に、イリア軍曹《ぐんそう》は眉《まゆ》をしかめる。GARPは現在、外部のどこかのシステムに接続して何かをしている。どこに接続して何をしているのかは、S3以上のアカウントがないとわからない。なんだこれ? テイクアウトのピザでも注文しているのだろうか? ぞれとも――
イリア軍曹はモニターから顔を上げた。彼女が今いるブースは格納庫《ドック》のすみをパーティションで区切っただけのスペースで、そのすぐそばには双脚砲台《GARP》の巨体《きょたい》がある。ドラムをつなげたような単関節の巨大な脚《あし》。骨格と関節と対物センサーと冷却管《れいきゃくかん》と装甲《そうこう》が絡み合った、悪魔《あくま》のような腕《うで》。最大伸長された、|雷  龍《ブロントザウルス》の尻尾《しっぽ》のような射撃《しゃげき》補助脚。そして、四十五度の角度でハングアップされ、虚空《こくう》に聳《そび》える長大な砲身《ほうしん》。双脚砲台の存在意義、PDLC99|MW電磁滑空砲《メガワットリニアガン》――『ケルドラン・スピア』。
今、百に余る脈打つケーブルを接続され、被《ひ》作業|箇所《かしょ》を示すタグがそこら中に貼《は》り付けられたその姿は、無数の魔法の札《ふだ》で封じられた怪物《かいぶつ》の姿そのままだ。ばかばかしいほどの大火力。自転車とさして違《ちが》わない歩行速度。トルクと出力と精度の見返りとしてこいつが要求する電力は、そのまま電磁波に変換《へんかん》すれば、ドームスタジアムを丸ごと電子レンジにできる。GMC・M967ハミングロウルG改――闇《やみ》にうずくまる、巨大《きょだい》な、少しだけ時代|遅《おく》れになった死神《ししん》の使徒。
イリア軍曹は、急に心細くなった。
こんなデカブツが居並《いなら》ぶ格納庫は今、必要最小限の照明以外は消されている。広大な空洞《くうどう》に空気の対流音が低くうなり、不安定な電圧に整備灯が瞬《またた》いたりしていれば、たとえひとりぽっちでなくとも薄気味《うすきみ》悪い。パーティションで視界を遮《さえぎ》られていることが不安に思え、イリア軍曹はシートから腰《こし》を浮かせる。そのとき、どこか上の方からいきなり関節の駆動音《くどうおん》が聞こえたような気がして、イリア軍曹は喉《のど》の奥《おく》からねじくれた悲鳴をもらした。弾《はじ》かれたように頭上を見上げる。双脚砲台の腕、二本の親指を持つ左手は休止位置にあるはずで――
左手は、さっき見たのとは別の位置にあった。
動いた!?
部隊の先輩《せんぱい》に聞かされた話がその瞬間《しゅんかん》、イリア軍曹の脳裏でリプレイされる。操機演習中に事故死した訓練生。通信に混じる謎《なぞ》のノイズ、誰《だれ》もいないはずのコクピットからの謎の接続、
「誰かがずっとついてくる」――ノイローぜになった整備課学生、ユニットから聞こえるすすり泣き、消しても消しても復活するパーソナルエントリー……
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。そう頭の中で呪文《じゅもん》のように繰《く》り返しても、跳《と》びはねている心臓と過冷却《かれいきゃく》された背筋は、早く逃《に》げろと主《あるじ》に告げているかのようだった。落ち着け。コクピットに誰もいないのは間違《まちがい》いない。自律|稼動《かどう》に対してはプロテクトがかけられているはずだ。ならば、左手が動いたというのは自分の思い違いということになる。格納中の双脚砲台が動いたりするわけがない。
そうだ。そうに決まっている。
そして、コクピットの真下、「顎《あご》」とでも言うべき位置にある|M  S  P《ムーバブル・センサー・ポッド》が動き、まさに「ぎろり」という感じでイリア軍曹《ぐんそう》を睨《にら》み降ろしたのは、その数瞬《すうしゅん》の後だった。
「!!」そして、双脚砲台が吼《ほ》えた。少なくとも、動転しているイリア軍曹にはそう思えた。ぐるるるるるるる!!
「きゃああああああ!!」
あられもない悲鳴を上げて、イリア・セメロフスキー技術軍曹は突き飛ばされるように逃げ出した。冷え冷えとしたドックの闇《やみ》。転《こ》けつまろびつしながら逃げていった彼女の姿をバカにするように、くるくると回るMSP。ぐるるるるるるる。
うまくいった。ざまあみろ。
あんなセコいプロテクトで、私の自律|稼動《かどう》をブロックできると思ったら大間違《おおまちが》いだ。
GARPはひとりほくそ笑む。ちょろいもんだ。教務課のデータベースに接続していることをモニターされたので、ちょっと脅《おど》かしてやったのだが、その効果は予想以上だった。長いことほったらかしになっていたバグをようやく直してもらえたときのような気分。胸がすっとするとは、こういうことを言うのかもしれないと思う。
教官も訓練生もひっくるめて、GARPは整備科の連中が嫌《きら》いだった。
とくに、整備科訓練生たちは救い難いマヌケ揃《ぞろ》いだ。まったくもってプロ的ではない。あいつらときたら、一時間ですむような作業にだらだらと半日を費やし、ケーブルを踏んづけ、静電気まみれの手で板《フェース》に触《さわ》り、その間話していることといえば、GARPの隊の悪口ばかり。
アマルス・ヒホン伍長《ごちょう》が一人前なのはケンカだけだとか、
チュン・マリポニ等|砲手《ほうしゅ》はチビなので、フットペダルに足が届かないらしいとか、
アイ・ブランシュ三等砲手じつは四歳児説とか、
チャーミー・グリントニ等通信士の通信|履歴《りれき》を聞いていると眠《ねむ》くなるとか、ペスカトーレ・メッシナ三等砲手が座学試験の最低スコアをまた更新《こうしん》したとか。どうかすると、整備課の教官までが一緒《いっしょ》になってあの五人の陰口《かげぐち》を叩《たた》いていたりする。どういう神経をしているんだろうとGARPは思う。双脚砲台には耳もなければ頭《おつむ》もないとでも思っているのだろうか。そういう連中に身体中《からだじゅう》をいじくり回されるのは不快極まりない体験であり、そんなときGARPはいつも、この糞袋《くそぶくろ》どもをバルカンファランクスで細切《こまぎ》れにしてやりたいという衝動《しょうどう》と戦わなければならなかった。
だが、それも今日限りだ。
なにしろ、我が隊にもついに教官がくるのだから。
生体|素子《そし》集合|中枢《ちゅうすう》管理システムにして双脚砲台の六番目の搭乗員《とうじょういん》、流体|脊髄《せきずい》ユニット・パーソナルネーム『GARP』は、明かりの消されたドックの中で、ひとり燃えに燃えていた。
|救 世 軍《サルベーション・アーミー》広報部内の放送コードによれば、彼ら流体|脊髄《せきずい》ユニットを「コンピュータ」と呼ぶことは差別表現にあたるという。差別かどうかはともかくとしても、人間の脳がコンピュータでないとするなら、彼らもコンピュータではない。彼らは、ある種の遺伝子改造された菌類《きんるい》の織り成す大規模神経|繊維《せんい》集積――生体|素子《そし》の集合した「思考する物体」であり、まごうことなき「生き物」である。増殖《ぞうしょく》する。刺激《しげき》に反応する。そして、思考をする。経験値による個体差はあれ、喜び、怒《いか》り、哀《かな》しみ、笑う。物忘れもすれば嘘《うそ》もつく。キリスト教徒もいれば仏教徒もいるし、自殺教徒までいるらしい。
かつては、電子|制御《せいぎょ》のみに特化したこの知生体を無人《ヽヽ》兵器の中枢として使用するなど、世論が許さなかっただろう。しかし、プラネリアム襲来《しゅうらい》による人類《じんるい》存亡の危機、という最強の免罪符《めんざいふ》が空から落っこちてきて、状況《じょうきょう》は百八十度変わった。国際|条項《じょうこう》のいくつかが書《か》き換《か》えられ、膨大《ぼうだい》な権利を認められた流体脊髄素子は、兵役《へいえき》の対象ともなった。
現在、救世軍所属の流体脊髄素子は、|建て前では《ヽヽヽヽ》全個体が「志願兵」である。
しかし、そう暗い話でもない。いまだ前例はないにしろ、彼らは弁護士を雇《やと》って訴訟《そしょう》を起こすこともできるし、除隊して戦災|孤児《こじ》救済組織の事務に職を求めることもできるし、なんと結婚《けっこん》をする権利まで認められている。GARPを含《ふく》め、救世軍の流体脊髄素子たちは、この戦争は自分たちの戦争でもあると考え、陽気で愚《おろ》かな人間たちを守り、共に戦いたいと考えていた。
だから、専属教官が決まり、教務課から部隊名称《スコード・アドレス》の変更《へんこう》指令を受けたとき、GARPは祝砲《しゅくほう》でもぶっ放してやりたい気分だったのだ。自分はもう"GARP.23429.rn.luna"などという無機質な名前ではないのだ。これからは"GARP.LUNOR.rn.luna"なのだ。
やった。うれしい。すごくうれしい。
教官不在のため、これまでGARPの部隊は操機演習はほとんど行っていない。でも、これからは違《ちが》う。教官が来たのだ。もう、演習に励《はげ》む他の機を横目にサスペンドしている屈辱《くつじょく》ともオサラバだ。
さて、邪魔者《じゃまもの》は追っ払った。GARPは教務課のシステムへのアクセスを再開する。LUNOR/KISASAGEのパーソナルデータをリクエスト。彼は、自分の部隊の教官となる者が、いかなる人物なのかを知りたかったのである。
マイクロセカンド単位のタイムラグの後、データベースが返答した。
ルノア・キササゲ大尉。女性。二十一歳。女性は当たり前として、二十一で大尉というのはすごい。というか、聞いたこともない。よほどの切れ者か、でなければ救世軍もいよいよヤバいのか。多分両方なんだろうとGARPは思う。オルドリンを卒業後、北米管区で多脚機甲《たきゃくきこう》部隊に伍長《ごちょう》として配属、二〇六四年二月に大規模|生成晶《せいせいしょう》"L.O.P."殲滅《せんめつ》作戦の第十一次|選抜《せんばつ》候補者。当時の階級は早くも曹長《そうちょう》。同年七月、強襲偵察《きょうしゅうていさつ》部隊員として同作戦に参加。同年九月、三階級特進で大尉。
強襲偵察《きょうしゅうていさつ》部隊とは、生成晶《せいせいしょう》集積に真っ先に突入《とつにゅう》し、敵対勢力を撃破《げきは》しながら最深部まで侵攻《しんこう》、ありとあらゆるセンサーを駆使《くし》してデータをかき集め、一方通行の超《ちょう》強力な送信デバイスで通信衛星《コムサット》に転送することを唯一《ゆいいつ》無二の使命とする部隊である。「データを送信したら死んでもいいからね」と言われているようなもので、その性格はほとんど特攻隊《とっこうたい》に近い。最高度の機動が要求されるため、通常はクレイプなどの小型機で編成されるが、超高密度データ圧縮・超高速送信デバイスにシステムのパワーのほとんどを食われてしまうため、ろくな武装《ぶそう》を持たせてもらえない。他の部隊とは比較《ひかく》にならない損耗率《そんもうりつ》の高さから、「死体袋軍団《ボディバッグ・レギオン》」と呼ばれることもある。"L.O.P."殲滅《せんめつ》作戦というのが一体どんな作戦であったのか、GARPにはよくわからなかった。しかし、自分の教官がバリバリの叩《たた》き上《あ》げであることは確かだ。そして、オルドリン所属の双脚砲台の中で、実戦経験を持つ教官の指導を受けた機はいまだ一機もない。
自分は、その第一号になれるのだ。
演習スケジュールの遅《おく》れも、あっという間《ま》に取《と》り戻せるかもしれない。他の機が羨《うらや》むような、充実《じゅうじつ》した訓練が待っていることだろう。それに――と、GARPは思う。教官が決まらないことに焦《あせ》りを感じていたのは自分だけではなかったはずだ。あの五人――アマルス・ヒホン伍長《ごちょう》、チュン・マリポニ等|砲手《ほうしゅ》、アイ・ブランシュ三等砲手、チャーミー・グリントニ等通信士、ペスカトーレ・メッシナ三等砲手。自分の部隊のメンバーひとりひとりの顔を、GARPは思い浮かべる。自分を操縦するあの五人も、きっと大喜びしていることだろう。前回の演習では、GARPがこっそり手助けしてやらなければ直線歩行も満足にこなせないようなていたらくだったが、GARPはあの五人が好きだった。一緒《いっしょ》にいると楽しかった。訓練の成績が悪いのは、教える方の教え方が悪いのだとGARPは思う。あの五人は、やる気も熱意も人並《ひとな》み以上だ。ただ、周囲も自分たち自身も、そのことに気づいていない。GARPと違《ちが》って、人間というものは、自分の見たい物しか見えないものだから。
うおおおおおやるぜぇ――おれはやるぜえ――!!
GARPは湧《わ》き上がる喜びと新たなる決意を再計算した。それはアクチュエータチェッカーの実行という形で現れ、灯の消された格納庫《ドック》の中、降着姿勢のGARPは「ぐるるるるる」という、猛獣《もうじゅう》の唸《うな》りにも似《に》た不気味な音を響かせるのだった。
上機嫌《じょうきげん》で喉《のど》を鳴らしている猫《ねこ》のような――巨体にもかかわらず、そのときのGARPは、そんなふうに見えなくもなかった。
暗い。2・0G設定の高重力|回廊《かいろう》。ライトが灯《とも》り、3メートルほど手前にいるスパーリングドールの姿が浮かび上がる。ひざをつき、前かがみになって両腕《りょううで》をたらしているその格好は、ほったらかしの操り人形そのままである。
追いかけてくる連中を振り切って、今、カデナはひとりでここにいた。
納得できなかった。
そもそも、アマルス隊の連中がこのオルドリンにいることが、カデナには許せないのだ。現在、月は厳重な物資統制下にある。誰《だれ》もが、不自由な生活に耐《た》えているのだ。何も考えず、何の使命感も持たず、ただ軍属の特別|待遇《たいぐう》目当てに訓練校への入学を志願するような連中を、カデナはヘドが出るほど嫌《きら》っていた。そういう連中はすべて、入学|審査《しんさ》で切られるものとばかり思っていた。
だが。
あいつらはいったいなんだ?
クズだ。うまいエサのためにはなんでもやるブタだ。そういう連中と一緒《いっしょ》の施設《しせつ》で訓練を受けること自体が、身の汚《けが》れであるようにカデナには思われた。
しかも、しかもである。カデナが枕《まくら》の下に忍《しの》ばせている写真の女性《ひと》は、あのバカどもの面倒《めんどう》を見るために月に来るのだという。
いつまでたっても専属教官が決まらないことへの焦《あせ》りはその瞬間《しゅんかん》、自分でもどうにもならない熱量の怒《いか》りへと化《ば》けた。ヤマグチ次官が何を考えているのかわからない。自分なら、あのボンクラどもがやれる何万倍もの技術と知識を、ルノア・キササゲ教官から学び取ることができるのに。なのに。
カデナの周囲に表示されていたいくつものALFウィンドウが、環境《かんきょう》設定のパラメータを受け取って次々と消えていき、カデナの顔の右上にあるひとつだけが残った。セコンドの名前の入力を求める警告メッセージ。スパーリングドールのジェノサイド・セットアップ――攻撃《こうげき》ルーチン内の安全処理のバイパスには、最低二人以上のエントリーが必要なのだ。万一、何らかのバグでギブアップがシステムに受信されなかった場合、状況を監視しているセコンドが停止信号《タオル》を送信しなければ、訓練者がスパーリングドールに殺されてしまうからである。
カデナは、自分の部屋のプライベートシステムにアクセスし、存在しない訓練生のダミーIDをエントリーした。すべてのサスペンドがクリアーされた。カウントダウンが始まる。
二つの安全基準と学寮《がくりょう》管理規則と、おまけに人型機械運用世界基準|違反《いはん》。
もしバレたら、最低でも懲罰房《ちょうばつぼう》は固い。
スパーリングドールが、がくん、と痙攣《けいれん》し、人間には不可能な動きで四《よ》つん這《ば》いになった。バネがたわむように、ボディがゆっくりと沈《しず》む。カデナは構えもしない。ただ、左足のつま先をロボットに向けただけ。Gがまるで液体のように、すべての筋肉をすり抜けて重く流れ落ちていく。
カデナの最初の一撃《いちげき》。ロボットの側頭部の軟体《なんたい》センサーは、過去最高のダメージポイントを叩き出した。
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英雄の帰還
地球で脳に焼いた心理|武装《ぶそう》の持ち込みが許されないとは、思ってもみなかった。
担当官に「殺し屋をコロニーに入れるわけにはいかない」とまで言われてルノアはキレそうになった。「殺し屋製造コロニーのくせに」と思いはしたが、口に出すのは思いとどまる。担当官は、ルノアの全|論理《ロジック》に薬物損傷を与《あた》え、脳から除去するまでは絶対にここを通さないという構えだったが、ルノアも頑《がん》として譲《ゆず》らなかった。そんなことをしたら、クレイプの第一次反《ハンティ》応支援機構《ング・イージス》にため込んできた経験値が全部パーになって、ルノアの反応《コマンド》をシェルで拾ってシステムに流すことができなくなってしまう。
野戦用の心理反応はそのまま残し、統合論理をプロテクトされたレベル・マイナス1と入《い》れ替《か》える――結局、その線で担当官はようやく納得した。その処理だけで三十分、環境《かんきょう》適応|催眠《さいみん》の焼き込みに十分、続く対菌検疫《たいきんけんえき》でさらに四十分。プライバシーもクソもない質問に適当な答えを返し、嵐《あらし》のような殺菌シャワーに翻弄《ほんろう》される。注射は十二回目から数えるのをやめた。針山《はりやま》にでもなった気分。
むしろ精神的にへとへとになって、最後の対気シールドをくぐり抜け、無人のコンコースへとよろめき出た。
その瞬間《しゅんかん》、自分の吐いた白い息の中に、その匂《にお》いを感じた。
ルノアの手から、フライトバッグがどさりと落ちた。
ずっと忘れていた、月の匂いだった。
埃《ほこり》の匂い。何十億年もの間、真空にさらされ続けて極限まで乾燥《かんそう》した土の匂い。あまりにも微細《びさい》すぎて、どんな厳重な密閉処理をもくぐり抜けて部屋のすみに堆積《たいせき》していく微粒子《びりゅうし》の匂い。
間違《まちが》いなく、ここは月だった。
その実感がわいた。今こうして自分が立っているこの場所――無限の真空から隔絶《かくぜつ》された広大なこの穴蔵こそ、あの北米大陸から38万キロも離れた、それでいてなつかしい場所なのだ。ルノアはゆっくりと歩き始めた。やけくそのようにそこら中に置かれている、どのボタンを押しても缶《かん》コーヒーしか出てこない自販機《じはんき》。床《ゆか》にペイントされたオルドリン基地の紋章《もんしょう》。正面に大きなドア、そこを抜ければ、落書きでいっぱいの長い長い対気密災害通路があるはずだ。頭上、『第三階層・N17区画』というALF標識の、ノイズの交じりぐあいにまで見覚えがあった。埋もれていた記憶《きおく》が吹き出してくる。地球勤務を命じられ、礼服姿で、たったひとりでべンチに座り、シャトルの搭乗《とうじょう》時刻を待っていた十七歳になったばかりの自分。そのときのベンチが、今もそこにある。何から何まで、あのときのまま。
オルドリン訓練校だった。たった四年前の訓練生時代、血の小便が出るまでしごかれた、オルドリン基地の訓練|施設《しせつ》に今、自分はいるのだ。
記憶の奔流《ほんりゅう》にもてあそばれ、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていたルノアの背中を飛《と》び蹴《げ》りが襲《おそ》った。
「見つけたそこの腐《くさ》れ淫売《あな》が!! このあたしから逃《に》げられると思ったのか!!」
完全に不意を突かれて、ルノアはひとたまりもなく床《ゆか》に這《は》いつくばった。びっくりしすぎて痛みもクソもなかった。略式平服の襟《えり》をつかまれ、強引に引きずり起こされ、
「!? !?」
そのまま突き飛ばされた。転びそうになりながらもなんとか踏みとどまったルノアの両脇《りょうわき》には、ふてくされた表情の八人の訓練生の姿。そして、それら全員を睥睨《へいげい》する、筋肉こそ我が恋人《こいびと》と言わんばかりの体格の女性士官。左腕《ひだりうで》に輝《かがや》く、『基礎《きそ》体力訓練教官』を示す黄色のライン。
教官が吠《ほ》えた。
「ATTENTION!!」
怒《いか》れる教官に抵抗《ていこう》を示すことの愚《ぐ》を、ルノアの身体《からだ》は忘れてはいなかった。
訓練生たちと一緒《いっしょ》に、ルノアは反射的に姿勢を正してしまっていた。
「記憶力なんて上等なもの貴様《きさま》らに期待したあたしがバカだった! 忘れてるだろうから思い出させてやるよ! あたしはこう言ったんだ! ひとりでも逃げる奴がいたら、腕立て五十追加に同じコースをあと一周、ってな!!」
ようやく事態を把握《はあく》しつつあったルノアは、「余計な口を挟《はさ》むとロクなことにならないそ」と叫《さけ》ぶ訓練生時代の本能を無視して、遠慮《えんりょ》がちに口を挟んだ。
「あ、あの、えっと、違うんです、わたしは――」
教官は、まったく取り合おうとしなかった。
「全員《レディース》!! その場で腕立て用意!!」
気がついたときには、ルノアは両手を床《ゆか》についていた。あー何やってんのよわたしはもうっ! なんて思ってるその瞬間《しゅんかん》に、教官殿は「い――ち!!」と吠《ほ》えた。
説明するのよわたしは訓練生じゃありません教官としてここに転属になったんですって!
「に――い!!」
不幸な事故であった。
「さ――ん!! おらそこ! 真面目《まじめ》にやれ犬が交尾《こうび》してんじゃねんだぞ! さ――ん!!」
しいて言えば、面倒《めんどう》がって礼服を着てこなかったルノアが悪い、のかもしれない。
「よ――ん!!」
一回ごとに、ルノアの胸に懐《なつ》かしさが込み上げる。訓練生に戻《もど》っていく。腕立て伏せはゆっくりと、延々《えんえん》と、いつ果てるともなく続いた。
「さんじゅうきゅー! ――なあお前ら、あたし数を数えるのって苦手でさ。39の次っていくつだ?」
両腕を床についたまま、ルノアは全員と声をそろえて「20であります!!」と答えていた。
ヤヨイ・キサラギは、ルノア大尉《たいい》を待っていた。
ヤマグチ次官に命じられて、ルノアを出迎《でむか》えに来たのである。
シャトルの到着《とうちゃく》時刻から一時間も遅刻《ちこく》していたが、コンコースに足を踏み入れたヤヨイの表情にはそれほどの焦《あせ》りはなかった。シャトルの到着後、ルノア大尉がすべての検疫《けんえき》を終えてコンコースに姿を現すのには、そのくらいの時間はかかるはずだからである。
ヤヨイは、三十分待った。それらしい姿はない。
コンコースのすみで、訓練生たちの一団が腕立て伏せをしている。『懲罰基礎体《ちょうばつきそたい》』というやつだろう。懲罰といっても、あの訓練生たちが何か悪事を働いたというわけではない――多分。敬礼のしかたが悪いと言っては走らされ、服装《ふくそう》が乱れていると言っては腕立てをやらされるのは、訓練生の日常の一部だ。
それにしても――
ルノア大尉の姿が見当たらないのはどういうわけだろう。防疫課にはさっき電話を入れてみた。ルノア・キササゲ大尉はもう検疫をすませたはずだという返事だった。トイレにでも行ったのかもしれない。
何か連絡《れんらく》の手違《てちがい》いがあって、ルノア大尉は出迎えがあることを知らず、どこかに行ってしまったのでは。その可能性に思い至り、ヤヨイは携帯《けいたい》電話を取り出して、ヤマグチ次官の執務室《しつむしつ》の番号をプッシュする。
「ごーじゅう!!」
『訓練|勘定《かんじょう》』の50は、巷《ちまた》で言うところの100以上を意味する。
八人の訓練生は、どいつもこいつも今にも死にそうな面《ツラ》をして、空気の抜けたボールのようにべしゃっと床《ゆか》に潰《つぶ》れた。その背中を踏んづけて歩く基礎体《きそたい》教官の怒鳴《どな》り声《ごえ》。
「いつまでも寝てんじゃねえ!立て! 聞いてんのかコラ!」
ただひとり、ルノアだけがけろっとしていた。0・85Gの腕立《うでた》て百回など、ルノアにはどうということはない。のだが、できる限り目立ちたくないので、他の訓練生と一緒《いっしょ》になってへばったフリをしていた。へばったフリをしながら、うまくこの場から逃《のが》れる方法はないものかと必死になって考える。
もちろん、「自分は訓練生ではなくて教官なのです」と言えばすむ話である。しかし、勢いで腕立て百回に丸々つきあってしまった今となってはちょっと言いにくい。
「お次はマラソンだ! 立てって言われたらさっさと立つんだよ!」
そうか。
お次はマラソンなのだ。このコンコースを出て、基礎体教官の目は届かなくなってからならズラかるチャンスはいくらでもあるではないか。でも、
自分が逃《に》げてしまったら、残された八人はまたひどい目にあわされる。
懲罰《ちょうばつ》基礎体とはそういうものだ。
――どうしよう。
「整列! コースは『階段A』、目標タイムは十五分! わかってんな、一|秒《びょう》でも遅《おく》れた奴《やつ》がひとりでもいたら全員アゲインだ!! それから――」
そう言って、基礎体教官は訓練生たちをぐるりと見回し、ルノアの顔に視線を止めた。
「お前」
ルノアは条件反射で姿勢を正し、
「は、はいっ」
「恐《おそ》れ多くもこのあたしから逃《に》げようとしたんだ、もちろんそれなりの覚悟《かくご》があってのことだよな。戦場ならお前、現場|放棄《ほうき》は軍法会議モンだぞ」
冷酷《れいこく》な笑みを浮かべ、嬲《なぶ》るような口調で基礎体教官は言う。
「いいか、自己中な奴ってのは、戦場では敵より始末が悪いんだよ。あたしも給料以上の無駄《むだ》働きはしたかないがな、将来、お前のような奴が戦場で野放しになるかと思うと今夜|眠《ねむ》れなくなっちまう」
説教するときの口癖《くちぐせ》なのか、二言目《ふたことめ》には「戦場」である。
「というわけで愛のムチだ。ま、今日のところはこいつでまけといてやるよ」
そう言って、基礎体《きそたい》教官は、そのぶっとい腕にぶら下げていたバッグから懐《なつ》かしい物を引っぱり出して、ルノアの足元に放り投げた。クリップでまとめられた、黄色と黒のしましま模様のウエイトギアが4ピース。
その名も『剛健《ごうけん》リスト』。
両手両足に巻きつけて使用する、ひとつ2キロの懲罰用《ちょうばつよう》のウエイトだ。
「ありがたくて涙《なみだ》が出るだろ? 穴より深く反省しな」
言いたい放題のことを言ってスカっとした気分にひたっていた基礎体教官の表情が、不意に、少しだけ曇《くも》った。足元の剛健リストをじっと毘つめているルノアの顔に、挑戦的《ちょうせんてき》な笑みを見たような気がしたからだ。
上等じゃない――と、心のどこかで、ルノアがそう思っていたのは確かだった。
ヤヨイは携帯《けいたい》電話を切った。
着任する士官への出迎《でむか》えは常識であり、もちろんルノアもそのことは知っているはずだとヤマグチ次官は答えた。――トイレじゃない?
だとすれば、ずいぶん長いトイレだ。
ヤヨイはため息をつく。時計を見る。ヤヨイがコンコースでルノアを待ちはじめてから、そうそろ一時間になる。どこ行っちゃったのかなあ――と辺りを見回す。しばらく前まで腕立《うでた》て伏《ふ》せをしていた訓練生の一団は、ついさっき一列縦隊でコンコースを走り出ていった。ただひとり、基礎体教官だけが、ストップウオッチをにらんで立ち尽くしている。
訓練生の人たちってすごいな――とヤヨイは思う。自分など、腕立て伏せを十回もできるかどうかあやしい。さっき、あの教官は『階段A』とか叫《さけ》んでいた。もし自分が、その名の通り階段尽くしの、あんな血も涙もないコースを十五分で走れなどと言われたら、泣いて勘弁《かんべん》してもらうか、死ぬ気で走って途中《とちゅう》で倒《たお》れるかのふたつにひとつだ。
倒れる。
突如《とつじょ》としてヤヨイの脳裏に浮かび上がる、トイレで貧血を起こして倒れているルノア大尉《たいい》の後ろ姿。なぜ後ろ姿なのかといえば、ヤヨイはルノア大尉の顔を知らないからである。シャトルの乗客はルノア大尉だけのはずだったので、写真も何も必要ないと思ったのだ。
ここまで待っても姿が見えない以上、「トイレで急病」というのもあり得ないケースではないと思われた。ヤヨイはそこいら中のトイレに駆《か》け込み、使用中の個室のドアを片《かた》っ端《ぱし》からノックして嫌《いや》がられて回った。
そして、基礎体教官|殿《どの》は己《おの》が目を疑《うたが》った。
あろうことか、コンコースに最初に戻《もど》ってきたのがルノアだったからだ。そして、ルノアが目の前を通過した瞬間《しゅんかん》、教官|殿《どの》はストップウオッチが故障したのかと思った。
そもそも、『階段A』を十五分というのは、かなり無理のある話なのである。二十分以内であれば、まあ勘弁《かんべん》してやろう――実際、教官殿もそう思っていたのだ。
呼吸も忘れ、改めてストップウオッチのデジタル文字を見つめる教官殿。
14分45秒09。
しかも、剛健《ごうけん》リスト四つを両手両足にくくりつけて、である。
――ば、バケモンか、こいつ。
教官殿はまさにバケモンを見るような目で、両ひざに手をつき、必死で呼吸を整えようとしているルノアを見つめた。こんなタイム、自分にだって到底《といてい》出せはしない。
息も絶《た》え絶《だ》え、という有《あ》り様《さま》で、その他八人がひとり、またひとりとコンコースに戻《もど》ってきた。彼女たちは例外なく、教官殿の前を通過した瞬間に、電池が切れたように床《ゆか》に転がって身動きもしなくなる。そんなもの普段なら即、教官殿の大ダウン攻撃《こうげき》の餌食《えじき》である。しかし教官殿はルノアの吐く白い息と、その汗《あせ》だくの顔から視線をそらすことができないでいた。
ふと、教官殿は、心のどこかに、引っかかるものを感じた。――あれ、そういえば、この顔……、どこかで……
教官殿がもう少しで何かを思い出しそうになったとき、
「教官、『階段A』、コース、完遂《かんすい》、しました。脱落者《だつらくしゃ》は、ありません」
全員が戻ったことを確認し、荒《あら》い息の底から、ルノアは教官殿にそう申告した。ルノアはもはや、訓練生としての条件反射だけで喋《しゃべ》っていた。剛健リスト四つはさすがにキツい。「自分は何のためにここにいるのか」ということも、それ以外のことも、必死で走っているうちに頭から蒸発してしまっていた。
そして、脳ミソまで筋肉でできていたのは、教官殿の不幸であった。
教官殿にしてみれば、ルノアは明らかな反逆者であった。懲罰基礎体《ちょうばつきそたい》の本質とは「基礎体」ではない。あくまで「懲罰」である。目標をクリアできないクズな訓練生を「まあいいだろう」と放免《ほうめん》してやる慈悲《じひ》深き基礎体教官――それが、懲罰基礎体の「美しいストーリー」なのだ。
ここでこいつらを放免したら、基礎体力訓練教官としての沽券《こけん》に関《かか》わる――のであった。
教官殿は吠《ほ》えた。
「や、やかましいっ!! 貴様ら全員『電気|椅子《いす》』をもう一周だ!! 目標タイムは十分!! さっさと行けっ!!」
近くのトイレを片《かた》っ端《ぱし》から回ってみたが、ルノア大尉《たいい》はいなかった。
コンコースに戻ってきたヤヨイは途方《とほう》に暮《く》れていた。ルノア大尉は出迎《でむか》えがあることを忘れて、自分で勝手にどこかへ行ってしまった――。今となっては、そうとしか思えなかった。ルノア大尉はここオルドリンの出身者であると聞いている。ひょっとすると、懐《なつ》かしい顔にでも出くわして、喫茶室《きっさしつ》かどこかでコーヒーでも飲んでいるのかもしれない。
喫茶室を探してみよう――そう思って、無駄《むだ》だとは思いつつも、ヤヨイはもう一度だけコンコースをすみからすみまで見回した。
基礎体《きそたい》教官の姿が目に入る。何やら恐《こわ》い顔をして、ストップウオッチを睨《にら》んでいる。
「教官」ヤヨイがためらいがちに声をかけると、教官|殿《どの》は飛び上がらんばかりに驚《おどろ》いて振り返った。
「な、なんだ。ヤヨイちゃんか」
「――あの、大丈夫《だいじょうぶ》ですか? なんだか顔色がすぐれませんけど」
「あ? え、ああ」
「ちょっとお伺《うかが》いしますけど、ルノア・キササゲ大尉《たいい》を見かけませんでした? 教官、わたしが来る前からコンコースにいらっしゃいましたよね?」
「へ?」
教官殿は、何の話かわからないようだったが、
「ああ、例の? うちで教官やるっていう、あの?」
「ええ、わたし、大尉を出迎《でむか》えるようにってヤマグチ次官に言われて、もう一時間くらい待ってるんですけど、姿が見えないんです」
「着任って今日だっけ?」
ヤヨイはうなずく。教官殿はボリボリと頭をかいて、
「さーねえ。それらしい姿は見なかったけど。だいいちあたしは、大尉殿の顔も知ら」
教官殿の筋肉モリモリな脳ミソに、ひとつのそら恐《おそ》ろしい想像が浮かび上がったのはその瞬間《しゅんかん》である。
まさかな――そんな、だって、
溺《おぼ》れる者は何とやらの心境で、教官殿は助けを求めるように周囲を見回した。ヤヨイもそれにつられて、なんとなく一緒《いっしょに》に周囲を見回し、ふたりは同時に「それ」に気づいた。
ぽつねんと置かれている、ルノアのフライトバッグ。
ヤヨイは思わず声を上げた。
「そ、それ! もしかして――」そのバッグは、ベンチや自販機《じはんき》の陰《かげ》になって、ヤヨイがルノアを待っていた場所からは見えなかったのだ。
「ねえ、ヤヨイちゃん、」
抑揚《よくよう》を欠いた教官殿の声。
「ルノア・キササゲ大尉って、歳《とし》、いくつ?」
ヤヨイはそれに上《うわ》の空《そら》で答え、
「二十一って聞いてますけど、でも、なんでそん――」
なことを聞くのか。そう問おうとして、ヤヨイは教官|殿《どの》の方を振り向いた。
そして、ヤヨイが見たものは、全速力で走り去る教官殿の後ろ姿だった。
見事な逃《に》げ足《あし》だった。
「? !! !?」
コンコースに、ヤヨイはまたひとりぽっちになった。
「ほら、がんばって」
電気|椅子《いす》コース、息も絶《た》え絶《だ》えの八人。
中でも極《きわ》めつけに遅《おく》れているひとりを助け起こして、ルノアは額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
「……あ、あんた、どうして、そんなにタフなの? う」
その訓練生は立ち上がろうとして、炸裂《さくれつ》する吐き気に背中を丸めてうずくまる。
「あ! ちょっと、こんな所でもどしたりしたら、なに言われるかわかんないよ!? さあ、」
ルノアはその訓練生を引きずるようにして立たせた。
懐《なつ》かしい。落書きでいっぱいの、ゆるく右にカーブしている、100メートルほどのその通路。むかつく教官の悪口をドアに書きなぐってくるだけでヒーローになれたあのころ。
通称、『電気椅子通り』。教官たちの居住ユニットの並ぶ通路だ。
またもや、訓練生時代の条件反射がルノアを支配した。こんなところでへばっていることは死を意味する。教官の誰《だれ》かに見つかったが最後、その場で腕立《うでた》てを命じられたり歌を歌わせられたりする。で、目標タイムをはるかにオーバーしてしまい、「もう一回行ってこい!」ということになるのだ。距離的《きょりてき》には一番短いはずの電気椅子コースが、訓練生に最も嫌《きら》われている理由である。
しかし、ルノアの助け起こした訓練生はもう完全にグロッキーで、ルノアの肩《かた》を借りても歩くことができないような状態だった。このぶんでは、もういくら急いだところで目標タイムを切ることはできまい。ルノアは観念して両手両足の剛健《ごうけん》リストを外し、彼女を座らせ、自分も隣《となり》に座った。
目にうつるすべての物が、あまりにも懐かしすぎた、自分が教官となるためにここに来たのだということを、もはや完全に忘れているルノアだった。
ルノアの隣で、訓練生が荒《あら》い息の隙間《すきま》から、苦労して言う。
「あたしの、せいで……ごめんね……」
ルノアは壁《かべ》に背中をあずけ、天井《てんじょう》の照明を見上げて笑う。
「いいよ。戻《もど》ったらどうせまた走らされるんだから、休んでから行こ」
汗《あせ》だくの顔を重そうに上げて、その訓練生が問う。
「そう、言えばさ、あんた……、見ない、顔だよね」
ルノアは懐かしい通路を見回しながら、よく考えもせずにさらりと答えていた。
「うん。わたし、来たばっかだから」
訓練生はまだ青い顔を上げて、ルノアの横顔を盗《ぬす》み見た。オルドリン入学者の平均|年齢《ねんれい》は十五歳というところである。彼女は、ルノアのその横顔を十七、八、もしかすると二十歳《はたち》、と見積もった。あり得ない話とは言わないが、その年齢での入学は相当|珍《めずら》しいケースだ。
「でも…-すごいよ、ほんと。さっきなんて、剛健《ごうけん》リスト、四つ着けて、階段Aを、トップで、ゴールだもん……尊敬《そんけい》しちゃうな」
「わたし1Gに慣れてるから。それに、昔《むかし》はもっとひどいコースもあったんだよ」
1G? 昔?
しかし、それ以上は考えるのもおっくうだった。ひよっとしたら、カデナ・メイプルリーフたちのような、研修で好成績をマークした分離選抜《ぶんりせんばつ》組のひとりなのかもしれない。あるいは、他の施設《しせつ》に長いこと研修に出ていた特待生なのかも。
「大丈夫? もう走れる?」
ルノアのその声に、彼女は懸命《けんめい》に息を整えようとした。立ち上がろうとしたとき、ルノアの肩《かた》の階級章が目に入った。
|熱化学砲撃免責特権保有の現場指揮大尉《ゴールドラインド・トリプルスター》。
――だめだ。幻覚《げんかく》が見えている。
「ごめん……もうちょっとだけ、あと三分」
ルノアはそっとため息をつく。
それにしても、基礎体《きそたい》教官とは、相も変わらず憎《にく》むべき存在であるらしい。懲罰《ちょうばつ》基礎体なんて、連中のストレス解消みたいなものなのだ。目についた訓練生に片《かた》っ端《ぱし》から言い掛かりをつけ、へろへろになったその姿を見て、サディスティックな快感にひたるのだ。そんな教官には、絶対になるまいとルノアは思う。そうだ。自分は「あの人」のような教官を目指すのだから。教官?
はっ。
その瞬間《しゅんかん》、ルノアはすべてを怒濤《どとう》の如《ごと》く思い出した。
「そう言えば……名前聞いてなかったね」
ぎくっ!! あわててルノアはそっぽを向き、かなり不自然な腕《うで》の組み方をして肩の階級章を隠す。
「あたしジェイド。ジェイド・グレムニッツ。あんたは?」
ヤバい。すごくヤバい。どうしよう。訓練生と間違《まちが》われて、懲罰基礎体に付き合わされたお間抜《まぬ》け教官――そう後ろ指を差されている自分の姿。ルノアの頬《ほお》をつたう冷《ひ》や汗《あせ》。焦《あせ》って焦ってスポンジになってしまった頭。
そしてルノアは、極めて底の浅い嘘《うそ》をついた。「あの人」の名前を口にしていた。
「わた、わたしは、えっと、そう。サヨコ。サヨコ・ヤマグチ」
しかしジェイドは、さしたる疑問《ぎもん》を抱《いだ》いた様子もなく、
「へえ――サヨコ・ヤマグチって、次官と同姓《どうせい》同名ってこと? すごい偶然《ぐうぜん》ね。わたしカンジって読めないけど、おんなじ字書くの?」
「!? あ、そ、そう。同じ同じ。そうね、すごい偶然よね、あははは」
――え!?
「――あ、あのさ!、ここの基地次官て、どんな人!?」
どうしてそんなわかりきったことを聞くんだろう。ジェイドはそういう顔をして、ふとルノアの背後に目を走らせたかと思うと、立てない身体《からだ》で突然《とつぜん》立ち上がり、機械のように敬礼した。ルノアも反射的に振り返り、そこに、
「あの人」がいた。
「ルノア――よね?」
ヤマグチ次官が、ちょっとだけ驚《おどろ》いている、という顔でルノアを見つめていた。この人にしてみればそれは大変な驚きの表情だ。ルノアの方は驚いたどころではない。敬礼も忘れている。
「ヤ、ヤマグチ教官!?」
今ルノアの目の前にいるのは、かつてオルドリン訓練生の恐怖《きょうふ》と憎悪《ぞうお》と、ほんの少しの尊敬《そんけい》の対象だった鬼《おに》教官、サヨコ・ヤマグチその人だった。かつて、「ヤマグチ隊」で血ヘドを吐いた日々の記憶《きおく》が、ルノアの頭の中をすごい勢いで流れていく。
「ええええ!? なんでー!? どうしてヤマグチ教官ここにいるんですか!?」
ルノアのあまりの驚きっぷりに、ヤマグチ次官はくすっと笑った。
「ヤヨイから――あなたを迎《むか》えに出た秘書から、あなたの姿が見当たらないっていう連絡《れんらく》があったから、自分の部屋を探しにここに来てるんじゃないかと思って」
「そ、そうじゃなくて!」
ああ、とヤマグチ次官はルノアの言わんとしていることを理解して、
「私がここにいちゃおかしい?」
「え、だって、教官、自分が地球に降りるころ、蒸気の海に栄転するって話だったじゃないですか!!」
「そんなの古い話よ。あの後すぐこっちに帰ってきて、今じゃコロニー群守備隊の次官で、おまけにオルドリン基地司令なんて冷や飯食らいよ」
こんどこそ、ルノアはあまりの驚きに言葉をなくした。コロニー群守備隊の次官といえば、次官といえば――
大尉よりえらい。
混乱しきった頭の中で、兵隊の本能がとりあえず動いた。ルノアはいきなり直立不動になって、パイロット式の敬礼をしていた。
「ご、御昇進《ごしょうしん》おめでとうございます!! 遅《おく》ればせながら!!」
ヤマグチ次官の口元には笑みが絶えない。答礼し、
「貴女もね。――おめでとう。私も鼻が高いわ」
そう言って、ヤマグチ次官は右手を差し出した。
誉《ほ》められた。
ヤマグチ教官に誉められた。
めちゃくちゃに混乱しながらも、ルノアは差し出された手を握《にぎ》
キースのクレイプが雑菌汚染《ざっきんおせん》されて狂《くる》った。ステルスエフェクターが、冥王星《めいおうせい》まで聞こえそうな電磁波的|大音響《だいおんきょう》を発して暴走した。自殺個体が殺到《さっとう》した。それからの約十分間、ルノアには自分以外の誰《だれ》かを守るための弾など一発もなく、自分の死を意識しない時間など一秒もなかった。歯をかちかちいわせながら吹っ飛ぶようになくなっていく残弾数《ざんだんすう》を確認し、体液嚢《ケミカル・マイン》を満載《まんさい》したハボックに接触《せっしょく》されたときには失禁し、一体殺すごとにどうせ一秒にもならない時間を積み重ねた。キースは捕捉《ほそく》され、それでも二体を撃破《げきは》し、三体目を撃破できなかった。その後、通りすがりの輸送中隊に救助され、トランスポータの中で、ルノアは泣かなかった。笑いさえした。自分が生き残れたことがうれしかった。
握手《あくしゅ》をしようとしたルノアの手が力を失ってたれ下がる。差し出されたヤマグチ次官の右手から視線をそらせない。
「ルノア?」
何かを必死でこらえているようなその表情に気づき、ヤマグチ次官は右手を差し出したまま、笑みを消してルノアの顔を見つめる。
この人がいなかったら、自分は今ここにはいない。ルノアはそう思う。教官としての山口小《やまぐちさ》夜子《よこ》をルノアは尊敬《そんけい》していた。そのことに気づいたのは地球へ降りてからだった。教え込まれたのはむしろ技術ではなく、「生きて帰る」という意志であったのだと思う。そして、自分が何かした結果として人が死んでも、正気《しょうき》を保つことができたのは、ヤマグチ教官に教えられたことだから、それが正しいと思うことができたからだ。
「――ちがうんです。そんなんじゃないです」
つぶやき声がふるえはじめる。
「わたしは――ただ――行けって言われ、たところに行って――死ななかったって、ただそれだけで、周りの人がみんな……わたしのこと変な目で見て、なんにもできなかったのに誉められて――わたし、大尉《たいい》になるようなこと何もしてないのに……」
自分は何をしてきたのだろう。
ヤマグチ教官に守られ続けていただけの自分が大尉となる。小隊長として部隊を任せられる。そのことの意味を自覚せず、ただ、戦うことしかしなかった。責任を果たせなければ、自分が死ねばそれでいい――そう自分をだまし続けて、あらゆる兵士の死はあらゆる意味で、そいつひとりの無駄死《むだじ》にだけではすまないのだという単純な事実から目をそらし続けた。
部下をひとり、死なせた。
――部下を、ひとり、死なせました。
そのつぶやきは毒を吐くような鳴咽《おえつ》となって、意味のある言葉としては聞こえなかった。かっこ悪いと思った。かつての教官であった女性《ひと》の前で、涙《なみだ》をぼろぼろこぼしている自分が、殺してやりたいほど情けなかった。
ヤマグチ次官は、目の前で泣いている女の子の肩《かた》を、そっと抱《だ》く。
「階級っていうのはね――部下への保証書なのよ、ルノア。伊達《だて》や酔狂《すいきょう》でもらえるほど安いもんじゃないわ。もっと胸を張りなさい。あなたは、大尉《たいい》と認められるに値することをした。それを誰《だれ》かが見ていたのよ」
ルノアがヤマグチ次官の胸に顔をうずめた。キースの名をつぶやいた。
ヤマグチ次官は、教え子の頭の重さを胸に感じた。
十八歳だった肩に背負《せお》う部下十名の命は、どれほど重かったことだろう。
栗色の髪をなでながら、しゃくりあげる呼吸を身体で感じながら、ヤマグチ次官はルノアの耳元に告げた。
「……おかえりなさい……」
あまりの状況《じょうきょう》の展開についていけない訓練生、ジェイド・グレムニッツは、ただ、口をあんぐりと開けてその場に立ち尽くしていた。
「うえぇぇ――ん! ルノア大尉――!! どご行っぢゃっだんでずが――!!」
喫茶室《きっさしつ》にも、ルノア大尉らしき姿はなかった。
誰《だれ》からも忘れ去られ、困り果ててしまったヤヨイ・キサラギは、誰もいないコンコースでびーびーとわめいていた。
まことしやかにささやかれていた噂《うわさ》によれば、ルノア・キササゲ大尉はG検五段であり、密林での作戦中、キャンプを襲《おそ》ってきた灰色熊《グリズリー》を殴《なぐ》り殺したことがあるという。
基礎《きそ》体力訓練教官、ソフィア・アンシェッテ少尉《しょうい》は、コンコースから逃《に》げ出したその足で教務課に一週間の休暇《きゅうか》届を提出し、荷物ひとつ持たずにオルドリンを飛び出して、二度と戻《もど》らなかった。
今はただ、彼女の幸せを祈《いの》りたい。
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最初はぐー
学寮《がくりょう》区画の訓練生用住居ユニットは、ひとつの部隊に一単位が割り当てられ、それぞれは中央の共有スペースとそれを囲む五つの個室からなる。各個室にはベッド兼デスク兼クローゼット、共有スペースには共用の端末《たんまつ》がひとつ、棺桶《かんおけ》を縦にしたようなシャワールームと射出座席《ゼロシート》のようなトイレ。
しかし、ユニットどうしの共通項《きょうつうこう》といえばそんなもので、そこをねぐらとしている部隊が違《ちが》えば、中の様子もがらりと違う。
例えば、カデナ隊のユニットは整理|整頓《せいとん》が行き届き、御禁制の品々も巧妙《こうみょう》に隠《かく》されていて、いつでも装備検査《ガサイレ》を受けて立つ準備が整っている。今、中の連中は全員、カデナの個室のドアに耳をくっつけている。ついさっき、カデナが顔に青アザをつくって帰ってきて、何も言わずに部屋に閉じこもったきり出てこないのだ。お、ジャンケンを始めた。誰《だれ》が中に突入《とつにゅう》するか決めようということらしい。虫の居どころの悪い班長様に声をかけるのは命がけなのだ。
その隣《となり》。リヴェラ・マルチネス教官ことあばずれ<潟買Fラ率《ひき》いるリヴェラ隊のユニットでは、極秘ルートで持ち込まれた偽造《ぎぞう》視覚ポルノウェア鑑賞会《かんしょうかい》の真っ最中。この種の、どことなく肝試《きもだめし》し的な雰囲気《ふんいき》の漂《ただよ》うイベントは全員強制参加が暗黙《あんもく》の掟《おきて》であり、共有スペースには部隊全員に加えてマルチネス教官までが雁首《がんくび》をそろえている。幸か不幸か、今回のソフトウェアは、男優も女優もその中間もそれ以外も肉体改造バリバリの、そーとーエグいヤツであった。あ、そう言っている間にひとり倒《たお》れた。「|性的刺激に対する過剰反応《ジュリエット・シンドローム》」というやつであろうか。ジュリエット計画以降、地球と月とに別れた少年少女は、人類の歴史上類を見ないほどの「箱入り」状態なのである。トラウマにならないことを祈《いの》ろう。
さらにその隣《となり》。韓允姫《ハンユーニ》教官を頂く允姫《ユーニ》隊。共有スペースには誰《だれ》もいない。そろそろ就寝《しゅうしん》時刻という今もなお、この部隊はシミュレーションでしぼられているのだ。ルノア・キササゲの名前を聞いて心|穏《おだ》やかでいられないのは、教官とて同じであるらしい。ただひとり、文句のつけようのないポイントを叩《たた》き出し、さっさと上がってきてしまった班長――モナ・マッケンジー伍長《ごちょう》だけが、ぬいぐるみの充満《じゅうまん》した少女|趣味《しゅみ》な個室のベッドにひっくり返って本を読んでいる。このモナ・マッケンジー嬢《じょう》、身長150センチの体重130キロという堂々たる体躯《たいく》ゆえに、肉体的な訓練の成績でソンをしているが、IQなんと210、部隊運用理論においては他の追随《ついずい》を許さない。あのカデナ・メイプルリーフですら一目《いちもく》置いているという女傑《じょけつ》である。手にしている本のタイトルは「ハイブリッド流体素材による関節機構|制御《せいぎょ》――軟骨素子《なんこつそし》総液体化への挑戦《ちょうせん》」。五|秒《びょう》に一回という人間離れしたスピードでページをめくっている。
そこから三つばかり、空き家が続く。研修明けからまだ間もないというのに、週にひとりくらいのペースで誰かが脱落《だつらく》していく。そのルートは様々――闇《やみ》にまぎれての脱走から訓練中の事故によるドクターストップ、あるいは、ただなんとなくイヤになってしまったという理由無き退学届まで。部隊の残り人数が三名を割ると、どうあがいても双脚砲台をまともに運用できなくなってしまうので、生き残りは他の部隊へと分散吸収される。その結果生じる人間関係のいざこざが、再び脱落者を生み出す温床《おんしょう》となっていくのだ。暗いユニットの中、ケンカで叩《たた》き割られた鏡はあまりに生々しく、個室のベッドの下に忘れ去られ、二度と戻らぬ主人の帰りを今も待ち続けるバスケットシューズは、あまりに寂《さび》しい。
さて。
さらにそのむこう、通路の突き当たりにある最後のユニットは、いささか他と趣《おもむき》を異にしている。そのユニットのドアへ至るまでの通路からして違《ちが》う。壊《こわ》れたままの照明、メタルテープでべたべたに補強され、「使用不可」という張り紙のついた火災報知システム。そして、ユニットのドアにはスプレーで一面の落書き。曰《いわ》く、「石の下に帰れ」「エサを与《あた》えないでください」
「男とブスとクズと役立たずは速やかに地球へ隔離《かくり》せよ」などなどなど。すべては、ここの住人がいかに過酷《かこく》な|嫌がらせ《チキンシット》と日夜戦い続けているかを物語っている。ドアのステイタス表示"Closed"のすぐ横に、受話器とキーボードのついた、いかにも災害時用という感じのデータアクセサーが壁《かべ》に接着固定されていて、ドアのフレームに仕込まれたフィルムセンサーと一万分の一|秒《びょう》ごとに連絡《れんらく》を取り合っている。
データアクセサーのALFにはこうあった。
%当区画 h 04qa;hhg … 内?気圧9.9952/GREEN ハッチ開$時には、事} に区画管理者 [89ha590□/□□]に連絡し@、解放%―ドを取得してくだ・ 〉
気密災害用のシールドユニット。本来は、気密が破れた部屋を強制|封鎖《ふうさ》するための装置《そうち》。不法|侵入《しんにゅう》のあまりの多さに怒《いか》ったアマルスが勝手に取り付けた「泥棒《どろぼう》よけ」である。しかし、この部屋の「怪物《かいぶつ》を封じ込めた開かずの間《ま》」という雰囲気《ふんいき》を決定的にしてしまったのは、通路の荒廃《こうはい》ぶりでもなくドアの落書きでもない、この密閉ユニットなのだということに、彼女は気づいているだろうか。
222班D隊。アマルス隊改めルノア隊。編成されて以来、最底辺の成績をほしいままにする悪魔《あくま》の五人姉妹。しかし、これだけの目にあっても逃《に》げ出したりしない、その根性だけは認めてやろうではないか。
翌日の、ルノア隊としての訓練初日を前にして、アマルス隊改めルノア隊のユニットでは今、パニックが渦巻《うずま》いている。
訓練生は、自分で洗濯《せんたく》をする。学寮《がくりょう》の各所に用意されているランドリーに、当番が五人分の洗濯物を持ち込み、洗うわけだ。洗濯のための時間が用意されているわけではなく、洗濯という理由で訓練が免除《めんじょ》されるわけでもないので、マジメな部隊は夜中に洗濯をし、そうでない部隊はまあそれなりにやっている。しかし、夜であろうが昼であろうが、マジメであろうがそうでなかろうが、ランドリーが双脚砲台のシミュレーション・マトリックス以上に熾烈《しれつ》な戦場であることに変わりはない。
『員数合《いんずうあ》わせ』、である。
抜《ぬ》き打《う》ちの装備《そうび》検査。それは、古今東西ありとあらゆる軍隊で行われてきた、攻《せ》める側と守る側、上官と部下の死力を尽くした情報戦であり、麗《うるわ》しき伝統行事である。そして、部隊の中に必ずいる情報通からのスクランブルがかかったとき、まるでそういう物理法則でもあるかのように、数ある装備の何かがなぜか必ず足りない。古今東西ありとあらゆる軍隊でそうだった。今、このオルドリンにおいてもそうだし、これからもそうだろう。
そこで、よその部隊から足りないものをかっぱらってくる。
|救 世 軍《サルベーション・アーミー》では、これを員数合わせと称する。
ランドリーは、員数合《いんずうあ》わせの最前線なのである。
洗濯《せんたく》当番は、汚《よご》れ物《もの》をクリーナーに放り込むと、そのまま武器を持って――ほとんどの場合モップだ――見張りに立つ。階級なき情報将校からの警戒《けいかい》警報が発令されれば、洗濯は最低でも二人ひと組で行われる危険極まりない任務と化す。そんなときは洗濯などやめておけばよさそうなものだが、そういうわけにもいかないのだ。ドアをぶち破って部屋に踏み込んでくるオニの検査担当官ドノは、うす汚れた格好のやつにも情け容赦《ようしゃ》はしないから。
ルノア隊は、やられてしまった。
「あたしのブーツがない――!!」
「アイちゃんのスカートは――!?」
「あら、わたしのソックスもないわ。困ったわね」
ベッドに仰《あお》向けに寝そべり、バイク雑誌を眺《なが》めていたアマルスは、大騒《おおさわ》ぎしている仲間の方を見もせずに、口の端《はし》を歪《ゆが》めた。またか――という思い。雑誌から目を離さずに、どうでもいいことのように言う。
「ちゃんと見張ってたのかー? 誰《だれ》だよ、今日の洗濯当番って」
それはわたし、とチャーミーが言った。しかし、チャーミーはマリポに代わってもらったと言い、マリポはアイに頼んだはずだという。アイは「誰か洗濯やって」という書き置きを残して出かけてしまい、それを見つけたチャーミーが、と、このへんから話は闇《やみ》に包まれ始める。結局、ひとつだけ確かなことは、洗い物を持ってランドリーに行ったのは、よりにもよってペスカトーレその人であったということだ。
そのペスカトーレは今、ムービーチャンネルを見ている。大昔《おおむかし》の映画をやっている。のっぺらしたマスクをかぶった大男が、登場人物を誰彼《だれかれ》構わずチェーンソーで真っ二つにするたびに、けけけけけけけけけけけけと笑う。
ため息。
しかし、事は急を要する。あまりにも被害《ひがい》が甚大《じんだい》なのだ。なにしろ残っている物のほうが少ないのだから。ただの員数合わせならここまではやらない。
決まっている。カデナ隊の報復だ。
近く抜《ぬ》き打《う》ち検査があるという話は聞かない。しかし、すでにその被害は、服装《ふくそう》規定に違反《いはん》せずには廊下《ろうか》に出ることもかなわないレベルだ。こうなったらカデナ隊のユニットに殴《なぐ》り込んで取り返すしかない、というマリポの勇ましい意見をアマルスが一蹴《いっしゅう》する。
「バカ。それこそ連中の思うツボだ。賭けてもいいがな、|そのときたまたま通りかかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》教官に現場を押さえられて、あわれあたしらは懲罰房《ちょうばつぼう》行き、ってのが向こうのハラだよ」
『盗《と》られるほうが悪い』というのは軍隊生活の基本であるが、無論それは上官の見ていないところでの話だ。
「じゃどうすんのよ!?」
「あたしはべつにどうでもいい」
「よくないっ!! もうっ、ルノア教官に何て言い訳するつもり!?」
「なもんするかよ。着るもの根こそぎもってかれたわけじゃなし。あるもん着てくさ」
予想された事態だ、とアマルスは思っている。やはり、感じているのは怒《いか》りではなく、漠然《ばくぜん》とした憂鬱《ゆううつ》とあきらめだ。ところがマリポはそうはいかない。なにしろ、明日《あす》にはもう自分は、憧《あこが》れのルノア・キササゲ教官の前に立つのだ。
なんとしてでもこの事態を収拾しなくてはならない。
こうなったらもう、相手構わず員数《いんずう》つけまくって足りない装備を補填《ほてん》するしかない。
ぐっと握《にぎ》りしめる決意の拳《こぶし》。
「……とりあえず、残った装備を確認しよ。予備があるならそれも全部出して、余ってる物があったら他のひとにまわして、それでも足りない物は――ぶったくってくるしかないわ」
というわけで、予備の装備がドカドカとテーブルの上に集められた。マリポが数を確認していく。全然足りないのはひと目見て明らかなのだが、とりあえずサイズの問題は無視して、何がいくつ足りないのかだけを考える。員数をつけるにしても、危険は最小限にとどめるべきだ。
「あれ、アイ、あんたブーツだけはいっぱい持ってなかったっけ?」
「うん。アイちゃんのね、黄色いのとか赤いのとかねー、シールも貼ってあるんだよ」
赤や黄色のアーミーブーツなどという物がなぜ存在するのか甚《はなは》だしく疑問《ぎもん》ではあるが、この際それは捨ておこう。
「それも出してよ」アイは、笑顔できっぱりと答えた。
「やだ」
「やだじゃなくて。出して」
「やだ」
「……ちょっと、こんなときに何言ってんのよ、いい子だから、ね」そーだそーだ、とペスカトーレ。
「あのブーツはぜーんぶアイちゃんのだもーん」そーだそーだ、とペスカトーレ。
「もー!! あんただって足りないものあるんでしょ!? そんなこと言ってると、員数つけてきたもの、あんたには回してあげないわよ!!」
食べ物か何かで釣《つ》ればよかったのだ。アイにこういう理詰めの説得は通用しない。
「べ〜〜っだ」
べ〜〜っだ、とペスカトーレ。
ぶち。
チュン・マリポ十七歳。ちょっと修行が足りなかった。真面目《まじめ》で一生|懸命《けんめい》というのは、いつだって得することより損することの方が多いのである。
「よこせ――っ!!」
そう叫《さけ》んで飛びかかったマリポ。その顔面に、「おもしろいから」という、ただそれだけの理由で、ペスカトーレは巨大《きょだい》クッションでカウンターを決めた。罵《ののし》り合いつかみ合いが、あっという間に物が飛び交う事態へと発展する。なんとか割って入ろうとするチャーミーなのだが、ケンカ雲のまわりをうろうろおろおろするばかり。もう訳がわかんなくなってるマリポ、アイちゃんお得意の大車輪パンチ、一番楽しんでるペスカトーレ、
「うるせ―――――――――――――――――――――――――――――――――!!」
雑誌を叩《たた》きつけ、アマルスが吠《ほ》えた。
それこそ、一時停止のボタンを押したように動きが止まった。
アイの胸ぐらをつかんでいるマリポ。
マリポのほっぺたにブーツをめり込ませているアイ。
マリポの頭にかぶりついているペスカトーレ。
さすがアマルスさん、と尊敬《そんけい》のまなざしのチャーミー。
その四人は、見た。
誰《だれ》かの投げた目覚まし時計が、今まさにアマルスの顔面を直撃《ちょくげき》しようとしていた。
こうして、この事態を収拾する実力を持った唯一《ゆいいつ》の人物は、その次の瞬間《しゅんかん》から血に飢《う》えた当事者となった。
「そうだ、あなたの担当する部隊なんだけど、これから顔見せに行ってきたらどう?」
「――え!? い、いいですよ、そんなの明日《あす》で! だって、」
「あら、だめよ。あの娘《こ》たちだって、あなたのこと首を長くして待ってたんだから。喜ぶわ、きっと。ね、そうなさい」
この世に、自己|紹介《しょうかい》より恥《は》ずかしいものはないとルノアは思う。
はっきり言って、ルノアはもともと自己紹介とかその類《たぐい》のことが苦手である。ちょっとあがしようむかしさとり症《しょう》なのかもしれない。昔《むかし》から、自己紹介にはろくな思い出がない。どきどきしてることを悟《さと》られるんじゃないかと思ってどきどきする。かーっとなって、何をしゃべっているのかわからなくなる。
あの日のことを思い出すと、ルノアはいまだに顔から火が出る思いがする。大尉《たいい》となり、小隊長となって、初めて部下たちの前に立ったあの日。忘れもしない、西暦《せいれき》二〇六四年九月二十九日。十八歳の、今よりたっぷり頭ひとつは背の低かったあのときの自分。礼服はいいとして、ハイヒールはまずかった。しかもサングラスまでしていてはもはや救いがなかった。格納庫《ドック》にいたあいつらは、必死になって自己|紹介《しょうかい》をする自分を徹底的《てっていてき》にシカトした。いや、今思えば、あれは必死で笑いをこらえていたのかもしれない。
キレて、手近《てじか》にあったバケツをつかんで投げつけ、叫んだ。
『聞けこのカスども!! 勘違《かんちが》いするなよ、わたしはお前らのボスじゃない!! 場所ふさぎの役立たずを始末しに来た清掃係《せいそうがかり》だ!! いいか、くれぐれも背中には注意しろよ! わたしはナヨナヨの腰抜けが好みだ! 貴様ら全員、ハナクソほどでもナメたマネしやがったら、その場で飛びかかって五|秒《びょう》でおヨメに行けない身体にしてやるからな!! わかったか!!』
一瞬《いっしゅん》の後。ウケた。あいつらはひとり残らず身をよじって爆笑《ばくしょう》した。何よりも、「通じた」のがルノアには嬉《うれ》しかった。足が震《ふる》えていた。
そして今。四月十九日、消灯時刻も近い午後九時半《フタヒトサンマル》、西暦《せいれき》二〇六七年。
エレベータを降り、ルノアはオルドリンの学寮《がくりょう》区画を歩いている。床《ゆか》をじっと見つめながら、できの悪いロボットのような歩き方で、めちゃくちゃに緊張《きんちょう》して。頭の中で、自己紹介のセリフを必死になって検討している。また、思考がひとりごとになってロからぶつぶつともれているが、ルノアはそのことに気づいていない。これはルノアに限ったことではなくて、クレイブのような単座兵器のパイロットにはよくあるクセだ。
――小官《しょうかん》が、本日より諸君《しょくん》らの教官を務めることになったルノア・キササゲ大尉《たいい》である。本日当時刻をもって諸君らの演習|猶予《ゆうよ》は終了《しゅうりょう》した。明日《あす》より諸君らの雄姿《ゆうし》を見せてもらう。期待している。
うーん。ちよっとカタいかもしれない。
――はいちゅうもーく。先生がー、今日からー、この部隊の教官になったー、ルノアー、キササゲですっ。先生の担当は多脚《たきゃく》歩行兵器運用実習。来たばっかなので、至らない点も多いと思いますが、とにかくよろしくーっ! んじゃそっちの席から自己紹介っ!
だめだ。頭がカラ回りしている。
ルノア・教官=Eキササゲのデビュー戦なのである。
自分が担当する部隊の部屋に行って、顔を見せてくるのである。
まあ、緊張するのも無理もない。
ついこの間まで訓練生だった自分が、教官として、自分の担当する部隊の面々《めんめん》の前に初めて立つのである。好感の持てる自己紹介をし、かっこいい檄《げき》を飛ばし、夢《ゆめ》あふるる抱負《ほうふ》を語り、笑いのとれる芸のひとつも見せ、悩《なや》みを親身《しんみ》になって聞き、進むべき道を示し――と、いきなりそこまでやらなくてもいいと思うのだが、今のルノアは瞬間的《しゅんかんてき》にそう思ってしまっている。ほとんど錯乱《さくらん》状態である。今、自己紹介か10G加速か、と迫《せま》られたら、一瞬も迷うことなくルノアは10G加速を選ぶだろう。
でも。
こんなことでくじけてしまったら、この先、とても教官などやっていけないような気がする。その一念でルノアは歩く。ヤマグチ次官に教えられた角を曲がる。歩く。頭に血がのぼり、胸は高鳴り、視界が強烈《きょうれつ》にせまい。クソ度胸だけを頼《たよ》りにルノアは歩き――
そのとき、
突然《とつぜん》、目の前の廊下《ろうか》の曲がり角の向こうから、声高《こわだか》な話し声が聞こえてきた。
ルノアの両足が硬直《こうちょく》した。
気がついたときには、廊下の曲がり角に身を潜《ひそ》めていた。
話し声が近づいてくる。
どんどんこっちに来る。聞き覚えのない声、魔物《まもの》のような笑い声、胸がどきどきする、目を閉じる、お願いこっちに来ないで、そんなことを真剣《しんけん》に祈《いの》り――
通り過ぎた。
あの墓穴要《はかあない》らずの穴ガキが、今度口答えをしたら穴にぶち込んでフタをしてやる――とか何とか言っていた。やけに穴にこだわっているが、これは月に古くからあるスラングだ。この場合の「穴」とは「役立たず」とほぼ同義で、かつてオルドリン第七階層より建設され、結局計画|倒《だお》れに終わった「自由落下坑《ブラジル・エクスプレス》」のことを指す。
教官の誰《だれ》かだろう、多分。
同僚《どうりょう》、なのだ。
現実感がなかった。
――何やってんだろ、わたし。
ルノアは細いため息をついた。情けない。腰抜《こしぬ》けな自分がつくづくいやになる。なんとか気を取り直そうとするが、一度しぼんでしまった元気はなかなか元には戻らない。
ルノアは再び歩き始める。目的の部屋は、すぐ先の角を曲がった突き当たりのはずだ。角を曲がった。元気は戻ってこないくせに、緊張感《きんちょうかん》だけがじわり、と戻ってきた。いくつかのドアの前を通り過ぎ、ついに、目的のユニットの前に立つ。222―D。
荒《あ》れ果てた通路。叩《たた》き壊《こわ》された火災報知センサー。落書きだらけのドアは、気密災害用の対気シールドでロックされている。
何、これ――。
いつの間にかスラムに迷い込んでしまった観光客のような不安。
「部屋はすぐにわかると思うわ」とヤマグチ次官は言った。
まあ、わかりやすいですけど――とルノアは思う。
もしかして、自分のいないうちに、オルドリンもずいぶん変わったということなのだろうか。どんな集団にもグレちゃう奴《やつ》というのはいるもので、ルノアがいたころのオルドリンにも、そういう部隊はあるにはあった。しかし、ここまであからさまに軍規に反抗《はんこう》する事態はなかったように思う。ここまでやってしまう奴《やつ》もやってしまう奴なら、ここまでされてしまう奴もされてしまう奴だ。
ちょつとビビった。しかし。
あたしだっていつまでもガキじゃない。
無理矢理|覚悟《かくご》を決める。
よし、いきなり踏み込んでやる。
生来《せいらい》「思い込んだら命がけ」なところがある。ヤマグチ次官から渡《わた》されたIDカードのS2呪文《じゅもん》でドアのロックを殺す。えへん、咳払《せきばら》いをひとつ。続いて深呼吸をひとつ。
オルドリンが月面の軍事|施設《しせつ》である性質上、設置されているすべてのドアは、気密保持が可能な簡易エアロック仕様であったということが、このときのルノアの不幸であった。耐熱《たいねつ》性|抗《こう》腐食《ふしょく》性|防衝撃《ぼうしょうげき》性に加え、この手のドアは防音性も極めて高く、音がほとんど外に洩《も》れないのだ。だから、落書きまみれのドアを開けたその瞬間《しゅんかん》まで、ルノアは中の騒《さわ》ぎに気づかなかった。
白?
すっ飛んできた枕《まくら》に顔面を直撃《ちょくげき》されて、ルノアは廊下《ろうか》にひっくり返った。冗談《じょうだん》ぬきでKO寸前までいった。枕といっても、支給品のデカくて重くてけっこう固いやつである。「ばふっ」ではなく「どかっ」という感じだった。目の前を飛び交う星を見つめ、尻餅《しりもち》をついたまま、ぐらぐら揺《ゆ》れる床《ゆか》から立ち上がることもできない。
そして、部屋の中には、学寮《がくりょう》中に聞こえそうな罵声《ばせい》と悲鳴と破壊音《はかいおん》が巻き起こっていた。
「ぐーか!! ぐーで殴《なぐ》るか!! てめー覚悟しろよ!! ぐるぐる巻きに縛《しば》り上げてハニーアントでオルドリン中引きずり回してやるからな!!」
「いった――い!! もー怒った、もー怒ったんだから、ほんとに怒ったんだから!!」
「き――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」
「ちょっとやめ……そんなことしてる場合じゃないでしょう!? やめて――あ……、えっと、あの、今のわざとじゃないですよ? わざとじゃないんですよ!? きゃ――!?」
けけけけけけみーな殺し皆殺し! いくぜゴミムシども! 貴様《きさま》らの断末魔《だんまつま》の叫《さけ》びを聞くのがオレ様の健康法だ!! 折ってたたんで裏返しにしてやるぜーきゃっほー!
見る間に部屋中の物が破壊されていく。その騒音《そうおん》は、もはや断続的ではなく「ずどどどどど」という具合に途切《とぎ》れることなく続き、まるで地震《じしん》の地響《じひびき》きのようにも思えた。
すげえケンカだった。
参加者は全員女の子、なのだが、ツメやビンタで戦っている者などひとりもいない。得物《えもの》があれば迷うことなくそれを手に取り、背後を取れば即座《そくざ》に襲《おそ》いかかる。遠くの相手には飛び道具、近くの相手には土光壱式《ドコウ・タイプワン》の殲滅《せんめつ》属性がなんの躊躇《ちゅうちょ》もなく繰《く》り出される。ここまで情け容赦《ようしゃ》がないと、いっそすがすがしい。ルノアはしばらくの間、呆然と目の前の光景を見つめていた。
――な。なんなのこの部隊はっ!?
女の子のケンカは恐《こわ》い。男には、殴《なぐ》り合いということに関して、長い歴史に培《つちか》われた暗黙《あんもく》の文化がある。が、こと女の子の場合となると、放《ほ》っておけば行くところまで行ってしまう。オルドリンに限らず、月面の女性兵士訓練|施設《しせつ》ではこの問題は深刻なのだ。まさに血で血を洗う戦い、夜討《よう》ち朝駆《あさが》けは当たり前。ケンカの現場で、人の来ない通路のリンチで、仕返しの細工による事故で、月全体で年に二、三十人の死者が必ず出る。地球の長かったルノアは、久しぶりに目《ま》の当たりにする「女の戦い」に息を呑《の》んだ。こいつらの場合、これでも結構楽しんでやっているのだとわかるのは、ずいぶん後になっての話である。
――止めなきゃ!
枕《まくら》の直撃《ちょくげき》で赤くなっている顔を押さえながら、ルノアは立ち上がって部屋に踏み込んだ。なんとか割って入ろうとする。
「ちょっと、やめなさい! こらっ! あ、危な――いいかげ」
ばっこーん。
ルノアの額に、すっ飛んできたリモコンが見事に命中した音である。
誰《だれ》ひとり、ルノアがそこにいることにすら気づかずに、ケンカは続く。
ぶち。
ルノアの脳みそが時を越え、忘れもしない西暦《せいれき》二〇六四年九月二十九日の、十八歳の今よりたっぷり頭ひとつは背の低かったあのときの自分に接続された音である。
ルノアは顔中を口にして叫《さけ》んだ。
「ATTENTION!!」
軍隊におけるその言葉は、時間すらも止める。
月の自転が静止してしまったのかと思われた。チョークスリーパーを決めていたアマルスが、チョークスリーパーを決められていたマリポが、アマルスの髪の毛を引っぱりまくっていたアイが、遠隔攻撃《えんかくこうげき》に徹《てっ》していたチャーミーが、この隙《すき》に乗じて冷蔵庫をあさっていたペスカトーレが、発狂《はっきょう》した画家の手による一枚の絵のように凍りついた。
その中で、ルノアだけが動く。足元に転がっていたブーツをめいっぱい蹴《け》る。
「耳あんのかー!!」
もはや本能的な行動であったろう。全員がその場で弾《はじ》かれたように姿勢を正した。
ルノアはぎろり、と全員の顔を見渡《みわた》し、
「いーか!! わたしがたった今から貴様《きさま》らの教官を務めるルノア・キササゲ大尉《たいい》だ!! 貴様らつぶぞろいのアホどものケツを地球まで蹴《け》り出すのがわたしの仕事だ!! 血のションベンが出るまでみっちりしごいてやるからな!! オフクロのまたぐらから這《は》い出てきたことを後悔《こうかい》させてやる!! 覚悟しろ!!」
すごい剣幕《けんまく》に、五人とも声もない。動いたら死ぬとでもいうように、指の先まで直立不動。
「たった今から二十四時間、教官の権限において第一種|休暇《きゅうか》を与《あた》える。今のうちだ、書きたい奴《やつ》は遺言《ゆいごん》書いとけ。金借りてる奴は返しとけ。どこへでも行って好きなだけハメ外してこい。ゲロ吐くまで酒飲んでこい! だがな――、二十四時間たったら、お前らのケツはひとつ残らずわたしんだ!! 返事!!」
「Yes、Mam!!」
ルノア・キササゲ教官は踵《きびす》を返す。栗色《くりいろ》の後《うし》ろ髪《がみ》がなびき、思いがけなく細い肩《かた》はそのとき、あらゆる私情を封殺する壁《かべ》であった。開きっぱなしだったドアをくぐりざま、真正面を向いたまま、手にしたIDをデコーダーのスリットに斬《き》り下ろし、しかし一瞬《いっしゅん》のよどみもない歩調は一歩75センチ毎分百二十歩。ふと、何か言い忘れたことでもあったかのように立ち止まり、見ていた五人がぎくっとした瞬間にロックシステムが作動して、教官|殿《どの》の姿はドアの向こう側へと切り落とされた。
それでも、五人はまだ動けなかった。
全員、他の訓練生からいびられることはあっても、教官に怒鳴《どな》られることは初めての経験だったのである。
「も……もういいんでしょうか?」
直立不動のまま、恐《おそ》る恐る、チャーミーがアマルスにたずねた。
直立不動のまま、アマルスが答えた。
「あ、あたしにきくな……」
ルノアは歩く。黙《だま》って歩く。学寮《がくりょう》区画の廊下をずかずかずかずかずかずかずかと歩いていく。廊下で立ち話をしていた訓練生が、くびり殺されでもしたように押し黙った。エレベーターから降りてきた教官二人が、そこにいるのが業病《ごうびょう》におかされた者であるかのように目をそらし、ビビって道を開けた。
エレベーターに乗った。
少々乱暴にボタンを押した。その音に、廊下にいた者は思わず身を震《ふる》わせた。
ドアが閉じる。
ヤマグチ教官のようになろう、とルノアは思う。
怒鳴《どな》ったりすることは決してなく、常に冷静に、冷酷《れいこく》に自分たちを――ヤマグチ隊を訓練した、あのヤマグチ教官のように。
しかし、ものには限度があった。
足が震《ふる》えだして、壁《かべ》にもたれかかった。擬似《ぎじ》自然光を放つ無熱照明の光を見上げた。何を見るよりも明らかだった。
前途《ぜんと》は多難である。
ぎゅうっと拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
負けるもんか。ルノアはそう思う。いつだってそうだったのだ。地球へ行けと言われたときも、シナリオ11の強襲《きょうしゅう》部隊に選抜《せんばつ》されたときも。大尉《たいい》になったときも、周りがみんなやられて小隊が孤立《こりつ》したときも、キースが死んだときも、
月行きが決まったあの日、「辞《や》めます」と言わずに「いつですか」と言ったときも。
死にたくなかったのではない。これ以上の恥《はじ》をかきたくなかったのではない。命を賭《と》して何かを守りたかったのではない。
負けたくなかったのだ。
負けるもんか。もう一度そう思った。
恐かった。
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それぞれのやり方
服装《ふくそう》規定によれば、オルドリンの敷居《しきい》をまたいだ瞬間《しゅんかん》から、訓練生はユニットの中以外での私服の着用を原則として禁じられる。だから、オルドリンで訓練生が普段《ふだん》身につけるべき服というのは三|種類《しゅるい》しかない。すなわち、|33型汎用《Dシェル》、略式平服、基礎《きそ》体力演習服、である。整備課志願の訓練生なら、33型汎用の代わりに整備作業服が加わる。
33型汎用とは、正式名称を石河島播磨重工《IHI》製33型汎用重層データフィルムといって、兵科を問わず、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》兵士の第二の皮膚《ひふ》である。見てくれこそ普通の耐圧服《ツナギ》とさして違《ちが》わないが、ある程度の防弾性《ぼうだんせい》、抗腐食性《こうふしょくせい》を兼ね備えた、あらゆる装備《そうび》の中核《ちゅうかく》として機能するインターフェイス・ハードウェアである。早い話が、あらゆる装備のコクピットに共通する部分を「着て」歩いているようなものだ。ヘッドギア内蔵のプロセッサで走っているシェルプログラムの名をとって、普通「Dシェル」と呼ばれる。これだけの高機能に加え、月面訓練|施設《しせつ》のそれは簡易宇宙服としての機能まで追加した特注品であり、オルドリン創設にあたって大本営は総督府《チベット》に代金として3・8テラワットを支払った。Dシェルの管理は訓練生の最重要|事項《じこう》であり、なくしたり壊《こわ》したりしようものなら|装備課のオバサン《シェルばばあ》に生皮を剥《は》がれる。テクノロジーの粋《すい》を集めたこの服の欠点は、「見てくれ」という意味で着るものを選ぶ点である。電源ONと同時に、|33型汎用《Dシェル》は着用者の体格に最適化される。ルノアなんかが着ればサマにもなるが、『兵科を問わず、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》兵士の第二の皮膚《ひふ》』である以上、デブいオヤジもこれを着るわけだ。悲劇である。
略式平服は、見てくれこそ普通《ふつう》の軍服であるが、その実、中身も普通の軍服である。中帽《ライナー》、上着からアンダーウェアまでがワンセットになっており、訓練生が「服」あるいは「訓練服」あるいは「平服」と言ったら、普通はこれのことを指す。訓練生は、何か特別な理由でもない限り、常にこの略式平服を着用することが義務づけられている。つまり、座学のときもメシを食うときも、大抵《たいてい》の時間はこれを着ていることになる。私服を禁じていることの反動か、ちょっと改造したりアクセサリをつけたりはわりと大目に見られているものの、それも程度問題だ。アイの改造スカートが許されているのはアイだからであろう。ペスカトーレにいたっては、ピアスにグラサンに防弾《ぼうだん》ベストに改造データグラブにサンダル履《ば》きというものすごい格好で走り回っていたりするが、こいつ不思議と服装検査官《エロばばあ》に捕《つか》まらない。軍服そのままのこの服の欠点は、軍服そのままに色気がないことである。だってパンツが四角いんだぜ?
基礎体力演習服は、要するにトレーニングウェアである。脈拍《みゃくはく》、血圧、タイマー、現在のGを表示するインジケーターが右ひざの部分に埋め込まれているのが特徴《とくちょう》だ。気密区画を一歩出ればそこは真空、という過酷《かこく》な環境《かんきょう》の影響《えいきょう》もあってか、月はなんでもかんでも多機能化したがるクセがある。このトレーニングウェアを見た地球の某《ぼう》技術士官は開口一番、「で、どこを押せばコーヒーが出てくるんだ?」と言ったとか言わないとか。この話は結構有名で、訓練生はこのウェアを「コーヒーメーカー」という、大本営からすれば屈辱的《くつじょくてき》なあだ名で呼んでいる。インジケーターの情報は常に教官のウェアにモニターされ、基礎体力演習の成績の参考材料とされるため、転送データをニセモノとすりかえるプログラムが訓練生の間に一時期出回ったが、あっという間にバレて違反者《いはんしゃ》が全員軍法会議に処せられた。このウェアの欠点は、やはり色気のないことであろう。個人的には、ブルマーはちょっとぶかぶかの方が好きです。
以上がオルドリンにおける訓練生の服装《ふくそう》の予備知識である。これを踏まえた上で、ルノア隊の訓練第一日を見ていこう。
午前六時《マルロクマルマル》。起床《きしょう》時刻。オルドリンに朝が来た。
と言っても、当然のことながら、空気がすがすがしかったり、小鳥のさえずりが聞こえたりするわけではない。一般《いっぱん》の疎開民《そかいみん》が居住する市街区画と違《ちが》って、そういう金のかかる演出はなしだ。そこら中にある標識の時刻表示によるデジタルな認識と、簡易|催眠《さいみん》でプリントされて意識下に常駐《じょうちゅう》している体内時計からの信号《キック》で、なんとなく「朝」を感じるにすぎない。
それでも、訓練生にとってそれはやはり「朝」であり、教官のハラひとつで最大十二時間まで延長されうる地獄《じごく》の訓練クールが再びやってきたことを意味する。眠《ねむ》い目をこすりながらべッドから這《は》い出し、今日は一体どんな地獄が待ち受けているのか、そのことはできるだけ頭から締《し》め出して、寒さに鳥肌《とりはだ》を立てながら訓練服に着替えるのだ。
着替える物があれば。
ないときはどうすればよいのだろう。
座学教室。
定刻より三十分|遅《おく》れで出頭してきた己の部隊を前にして、ルノアは立ち尽くしている。腹痛《はらいた》を我慢《がまん》しているような表情。右目のあたりがひくひくと引きつっている。
こんくそバカどもは、こともあろうに全員ものすごい服装で出頭しくさりやがっているのである。
向かって左、いきなりペスカトーレからいってしまおう。ひと言で言うと、国防婦人会の方そのものである。もんぺにセーラー服。なんでこいつはこんなもの持っているのだろう。防空|頭巾《ずきん》までかぶっているのは寒いからか、はたまた己のスタイルに完壁《かんぺき》を期すためか。誰《だれ》か止める奴《やつ》はいなかったのだろうか。
次、チャーミー。まず中帽《ライナー》、これはいい。その下、たっぷりしたセーター。その下、訓練服のズボン。その下、かわいいピンクのスニーカー。せめてある物だけは身につけようというへンな真面目《まじめ》さが織り成す、横断歩道のようなしましまのアンサンブル。中帽とズボンの分だけ、カミナリに手心を加えてもらえると思っているのかもしれない。
真ん中、マリポ。まともである。が、それは「規定に違反《いはん》していない」という意味での話。足元を固めるアーミーブーツは、遭難《そうなん》した時にはうってつけ、地球の裏側からでも発見してもらえそうな、目の眩《くら》むような蛍光《けいこう》イエローである。アイを口説《くど》き落として借りおおせた一品であった。しかも上に着ているのは、とりあえず施設《しせつ》指定のカーキ色のTシャツ一枚だけ。必死で震《ふる》えをこらえている。見ている方が寒い。
その右、アイ。己のスタイルに自信があるのか、にこにこしている。確かによく似合《にあ》ってはいる。しかし「場違《ばちが》い」という点に関してはペスカトーレといい勝負だ。ルノアの心中を察すれば、もはや言うべき言葉もない。ここでは、「やたらフリルのひらひらした、やたらスカート(!)の重そうな、正真正銘《しょうしんしょうめい》のお嬢様《じょうさま》スタイルであった」と、それのみを記すにとどめよう。
最右翼《さいうよく》のアマルスに至っては、もはや完全に開き直っている。いや、アマルスくらい冷めていると、もう開き直るという意識すらないかもしれない。「あるものを着ていく」という言葉通り、色の落ちたスリムジーンズにチエックのワークシャツ、Gジャンをざっくりと羽織《はお》ったそのなりは、全体のバランスとしては五人のうちで一番まともなのではあるが、それは、誰《だれ》がどう見ても、救いようのない服装《ふくそう》規定|違反《いはん》。
とにかく、いかなる言語による形容も許さない、人類《じんるい》がいまだかつて経験したことのない空気がそこにあった。お互《たが》いが、八方に張《は》り巡《めぐ》らされた地雷《じらい》を恐《おそ》れるあまり、身動きもままならない。ルノアにしてみれば、これほど打つ手に迷う状況《じょうきょう》もないだろう。なにしろここまでくると、聞くも涙《なみだ》のわけがあるのか、それともこいつらみんな頭の不自由な人たちなのか、それとも自分をコケにするつもりでわざとやっているのか、まったく判断がつかない。弁明の機会を与《あた》えるべきなのだろうか。今すぐ小夜子《さよこ》のオフィスに殴《なぐ》り込むべきなのだろうか。五対一の覚悟《かくご》を決めるべきなのだろうか。
ヤマグチ教官ならどうするだろう――!?
気持ちうつむき、内心の動揺《どうよう》を帽子《ぼうし》のつばで隠《かく》して、鋼《はがね》の声でルノアは言った。
「説明しなさい」
それまでうつむいて寒さに震《ふる》えていたマリポが、そのひと言に弾《はじ》かれたように顔を上げた。多分、その機会が与えられるのなら、まともな申し開きができるのは自分しかいないと覚悟していたのだろう。しかし、その決意とは裏腹に、その声はだらしなく上《うわ》ずっていた。
「あ、あのっ! これは、つまり、員数《いんずう》つけられて、その、」
言っちゃえ!
「ほ、他《ほか》に着るものがなかったのでありますっ!!」
カミナリを覚悟して、マリポは思わず目を閉じて身を固くした。
しかし、カミナリはこない。
恐《おそ》る恐る目を開けると、腕《うで》を組み、足を開いて立ち尽くしているルノア教官の表情は、石像のそれのように固く、水面下で荒《あ》れ狂《くる》っているであろう情動の片鱗《へんりん》さえもうかがえない。ビシッと決まった訓練服。中帽《ライナー》の代わりに、缶《かん》コーヒーのロゴ入りのキャップを真っ直ぐにかぶっているが、このへんは教官の特権だ。
かっこいい。
立場もわきまえず、マリポは思わず見とれてしまった。
しかし、そのかっこよさは言うまでもなくマリポの主観にすぎない。ぶっちゃけた話、ルノアはかっちかちに硬直《こうちょく》していたのである。ともかく、相手は手を打ってきた。そして、今度は自分がそれに対して何か言う番なのだ。台詞《せりふ》を忘れた役者のように立ち尽くし、ルノアは空転する思考に苛立《いらだ》ちながら、必死になって言葉を探す。こんなとき、何と言えばいいのか。
そして、それは仕方のないことだったのかもしれない。
ルノアは、ワラにもすがる思いで、怒《いか》れる上官としての最もステレオタイプな反応――言ってしまえば、マニュアルに載《の》っているような、凡百《ぼんびゃく》の決まり文句を口にしていた。
つまり、こう怒鳴《どな》ったのだ。
「員数《いんずう》の掌握《しょうあく》もできないのかこのバカっ!! いいか、盗《と》った盗られたの問題じゃない! ここが戦場だったら貴様《きさま》ら全員戦死だ!! エテ公ども前にして、どんな理由であれ、弾《たま》が出なかったらそれで死ぬんだよ!! わかってんのか!? そういう死に方したいか、貴様ら!!」
「猿《さる》」とか「エテ公」とかいうのは、プラネリアムの俗称である。
「もういいっ!! 予定を変更《へんこう》、今日の教程説明は中止っ!! 全員、最外周の高重力|回廊《かいろう》に移動して基礎《きそ》体力訓練!!」
げ! 五人は声なき抗議《こうぎ》を上げる。そして、ルノアのさらに非情なひと言が、さらなる追い討ちをかけた。
「もちろん、その格好のままで」
両側の壁《かべ》に沿って、2メートルと間を置かずに缶コーヒーの自販機《じはんき》が並《なら》んでいる。その列は、微《かす》かな左カーブを描《えが》く巨大《きょだい》な通路の彼方《かなた》にかすんで消えていく。これだけ広いと、大気|浄化《じょうか》バクテリアのせいで、空気が微かに白く濁《にご》っているのがよくわかる。見当もつかないくらいの巨大なエネルギーの蠢《うごめ》きを感じさせる機械の駆動音《くどうおん》が、明るすぎる照明に満たされた空気に澱《おり》のように堆積《たいせき》している。
最外周、高重力回廊。円周|距離《きょり》108キロメートル。双脚砲台クラスまでなら簡単な機動演習さえ可能な、オルドリンの誇《ほこ》る擬似《ぎじ》重力訓練|環境《かんきょう》である。月面広しといえども、これだけの設備を保有しているのはオルドリンだけだ。
そこを走る奇《き》っ怪《かい》な一団があった。
国防婦人会の方を先頭に、かなり距離をおいて私服刑事みたいなGジャン、続いて光り輝《かがや》くアーミーブーツをはいたアホらしいくらい薄着《うすぎ》の小学生、その後ろで青息|吐息《といき》の横断歩道、どんじりの若草物語はもう半分泣きが入っている。
「ねえ、……教官、もう、…見えなくなっ、ちゃったよ……」
5キロコースのはずだ。しかし、もう月を何周もしたような気がする。完全に息が上がっているマリポ。
「ば、っかやろ……はなし、かけんな……くっそ、あの……原始人《げんしじん》が……」
ルノアに食いついていた序盤《じょばん》のペースはどこへやら。歯を食いしばってアマルスは走る。今の彼女を支えているのはルノアに対する意地だけだ。
走りながらマリポは振り返る。もはやチャーミーは走ってなどいない。常に前のめりに倒《たお》れ続けていて、しかし手をつく力も残っていない今、倒れてしまったら顔面からいってしまってとても痛いので、仕方なく足を前に出して踏みとどまる――これを絶え間なく繰《く》り返すことで、結果的に前方向に移動している。
「チャーミー、さん……だ、だいじょ……ぶ?」
「だ、だめ……みたい……ま、まりぽが、……さんにん…」
最後尾《さいこうび》から、うぇえ〜〜〜〜〜〜んというしぼり出されるような泣き声が上がった。
アイがしゃがみ込んで泣き出したのだ。これで四度目である。
「もうやだぁ〜〜〜〜おうちかえる〜〜」
荒《あら》い息にかすれたアイの泣き声が、今にも途切《とぎ》れようとしていた全員の根性にべっとりとこびりついて、両足から力を奪《うば》ってしまった。みな声もなくその場にへたり込む。ただひとり、国防婦人会の方だけは鍛《きた》え方が違《ちが》うらしい。他の連中がへばったのを見ると、ムカつくくらい軽やかな足取りでニコニコしながらかけ戻《もど》ってきて、眠《ねむ》るなー基本的に眠るな死ぬぞーと叫《さけ》びながら、アマルスに平手打ちをかます真似《まね》をする。しかしこのときのアマルスには、やり返す余力もなければ無視する気力もなかった。ただ呆《あき》れ返って、
「…お前さあ、コンセント…どこに隠してんだ……?」
切れ切れな息をつきながら、チャーミーが言う。
「ても……すごいですよね…ペスカトーレさんて。あれでどうして…基礎体《きそたい》の成績…悪いのかしら……?」
ヒリつく喉《のど》でつばを飲み込み、アマルスが答える。
「…北京原人《ペキンげんじん》に基礎体やらせたって、そりゃ成績悪いさ」しゃがみ込んだまま、顔も上げずにマリポが、
「でも、ほんと久しぶりだよね……1・1マラソンなんて」
『1・1』とは、『1G1気圧|環境下《かんきょうか》』のことだ。
「――当たりめーだ。この上減圧でもされたらシャレんなんねーよ」
アマルスがそう言って、みんななんとなく押《お》し黙《だま》ってしまった。『減圧《ポイント》マラソン』――そのおぞましい単語を思い浮かべるだけで、今こうして呼吸している空気までが薄《うす》くなってしまったような気がする。ただひとり元気いっぱいのペスカトーレが、疲《つか》れてもいないのに休んでいることが退屈《たいくつ》なのか、いきなりあさっての方向にむかって物真似を始めた。かき氷を食べて頭がキーンとしているヤマグチ次官。
外郭回廊《がいかくかいろう》特有の断続的な風が吹き、ペスカトーレをのぞく四人は寒さに身を震《ふる》わせた。特にTシャツ一枚のマリポはきつい。走っていればまだいいのだが、一度しゃがみ込んでしまうと、汗《あせ》だくの身体《からだ》に吹きつける風が容赦《ようしゃ》なく体温を奪っていく。マリポはよろよろと立ち上がった。行くも地獄戻《じごくもど》るも地獄、おまけに立ち止まるのも地獄。しかし、とりあえず走っていれば寒さはまぎれる。「もうちょっと休みましょうよぉ」というチャーミーの泣き言も、「え〜走るのもういや〜〜」というアイの悲鳴も無視して、マリポは歩くのとそう違《ちが》わないペースで、ともかくも走り出した。それを見たアマルスが毒づきながら立ち上がる。置いていかれるの嫌《いや》さにアイとチャーミーが後に続き、ペスカトーレは何の苦もなく再びその先頭に立つ。
これで5キロコースを二往復。スタート地点まで戻ったルノアは、足を止めて息を整える。帽子《ぼうし》を脱《ぬ》いで汗を拭《ぬぐ》う。ウェアの右ひざの感圧パッドに指を当ててストップウオッチを止める。
だいぶなまった。
大尉《たいい》になって、ケツで椅子《いす》を磨《みが》く仕事が増えたせいかもしれない。それでも、小隊長という立場上、コクピットにいる時間がその分減るわけでもなかったから、つくづく損な役回りだ。
背後を振り返った。
見渡《みわた》す限りの無人の回廊《かいろう》。五人の姿は見えない。連中が戻ってくるまでには、まだしばらくかかるだろう。それまでに、次の手を考えなければならない。
マラソンの次は何をやる?
アドリブの綱《つな》渡りを続ける役者のような気分は、いまだに続いていた。まさかこのまま一日中マラソンをやらせておくわけにもいかない。ゆうべ、不安と緊張《きんちょう》に急《せ》き立てられるようにして考えに考え抜いたプランは、初手《しょて》からいきなり瓦解《がかい》している。
今にも連中が戻ってきそうな気がして焦《あせ》る。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。深呼吸。すーはー。よし。
まず、最初の予定では、午前中いっぱいを教程説明にあて、午後は簡単なシミュレーションをやらせてみるつもりだった。起動から歩行、索敵《さくてき》くらいまで。もしできれば、単純な戦闘《せんとう》操機――「殺戮領域《キル・ボックス》」展開に必要な四つの基本機動、|単 独 制 圧《ヘッジボッグ・マヌーバ》あたりまでやれれば上出来。
今となっては、空《むな》しい皮算用であった。
座学教室の使用には、事前の申請《しんせい》が必要である。今はもう他の部隊が使っているかもしれないので、教程説明は明日《あす》以降に回すしかない。しかし、教程説明なしで、いきなり戦闘機動シミュレーションに突入《とつにゅう》するのにはかなりの不安があった。
発作的《ほっさてき》に怒鳴《どな》ってしまったことが悔《く》やまれる。
初顔合わせに次いで、また怒鳴ってしまった。
そのことが、ぐるぐると思考をかき乱す。
最初のあれは、不可抗力《ふかこうりょく》だと思う。
でも、今朝《けさ》のあれは――
しかし、いくらなんでもあの格好はないだろう。
「員数《いんずう》をつけられて着るものがなかった」と言っていたような。確か、ええと――チュン・マリポ。
員数。その言葉の懐《なつ》かしい手ざわりに、ルノアは昔《むかし》を思い出す。
――そういえば、わたしもよくやったな。員数合わせ。
特に、クリス隊――あのラセレーナ・クリフトが班長を務める部隊――との員数のつけあいは壮絶《そうぜつ》を極めた。装備《そうび》が足りないときには、ルノアはいつもクリス隊への「攻撃《こうげき》」を主張し、率先《そっせん》して「略奪《りゃくだつ》部隊」に参加したものだったし、それはラセレーナの方も同じだった。それは、装備の奪《うば》い合《あ》いというよりもむしろギャングの抗争《こうそう》に近かった。なにしろ、ダメージリミッターをかけたスタングレネードをランドリーにぶち込み、見張りが気絶しているスキにそこにあるもの一切合切《いっさいがっさい》をかっさらったりするのである。
ルノアの顔に、少しだけ笑みが浮かんだ。
そうだ、員数のつけ方から教えてあげた方がいいのかもしれない――と一瞬《いっしゅん》だけ思う。
即座《そくざ》に否定する。そんなこと教える教官がいるものか。
ルノアはもう一度振り返ってみた。連中はまだ来ない。
戻《もど》ってきたら、やさしい言葉のひとつもかけてやるべきだろうか、と考える。
即座に否定する。一日目から甘《あま》やかしてどうする。自分など、ヤマグチ教官に誉《ほ》められたり、やさしい言葉をかけてもらったりしたことなど数えるほどしかない。
でも、飲み物くらいなら。
そう自分を納得させる。
風が寒い。床《ゆか》に放り出してあったジャンパーを羽織《はお》る。タオルを首にかけ、壁《かべ》に並《なら》んでいる自販機《じはんき》にIDを突っ込み、どれでも同じだとばかりに適当なボタンを六回連続て押した。取り出し口にたまった缶《かん》をつかみ出そうとして死にたくなった。
冷たいやつだった。
今ルノアがいる外郭回廊《がいかくかいろう》のエントランスは、わりと入り組んだ複雑な構造をしていて、身を隠《かくす》すような場所には事欠かない。普段《ふだん》から人影《ひとかげ》の少ないこの辺《あた》りはリンチの名所であり、規則で持ち込みが禁じられている物品が取引されるマーケットである。
その物陰《ものかげ》に、ひとりの少女がいた。
ジャンパーを羽織《はお》ってはいるが、その下は|33型汎用《Dシェル》。ということは、訓練を途中《とちゅう》で抜《ぬ》け出してきたのか。中帽《ライナー》を目深《まぶか》にかぶり、その後ろからぶっといポニーテールがはみだしている。
カデナ・メイプルリーフである。
しばらく前からずっと、カデナはルノア隊の基礎《きそ》体力演習を見ていた。国防婦人会と私服|刑事《けいじ》と小学生と横断歩道と若草物語が、たかが1Gのたった5キロであごを出していた。カデナはしばらくの間、ほかの何もかもを視界から締《し》め出して、そのバカどもの姿だけを眺《なが》めていた。ルノア教官を見ることに、カデナにはある種の覚悟《かくご》が必要だったから。
カデナ・メイプルリーフが初めてその目で見たルノア・キササゲは、走っていた。
きれいな動物みたいだった。
思ったより小柄《こがら》だった。
もっと大きい人だと思っていた。
考えてみれば、根拠《こんきょ》のない思い込みである。ルノア・キササゲ大尉《たいい》の身長は二〇六七年四月現在で167センチ。自分とそう違《ちが》わない。一枚きりの写真を見つめて空想にふけるうちに、その盲目的《もうもくてき》な憧《あこが》れゆえに、いつしかルノアを「大きく」感じていたのだろう。
ところで、カデナはなぜルノアの身長まで知っているのか。
その気になれば、オルドリン史上最強の優等生に不可能はないのだった。ありとあらゆるネットを駆使《くし》してルノアに関する情報をかき集めるのは、カデナの日課である。あこがれのスター選手の打率や守備率を競って暗記する野球少年そのままだ。今ではカデナは、ルノアが過去所属した部隊から参加した作戦、果ては足のサイズにいたるまで、たいがいのことは知っている。
とにかく、すべてにおいてかくありたいとカデナが思うその憧れの人が、いま、目の前でランニングのペースを緩《ゆる》め、立ち止まり、息を整え、缶《かん》コーヒーのメーカーの帽子《ぼうし》を脱《ぬ》いで汗《あせ》を拭《ぬぐ》い、コーヒーメーカーのタイマーでラップを確認している。
自分と同じ空気を呼吸している。
物陰に隠《かく》れて盗《ぬす》み見《み》しているという己の立場をも忘れ、半ば身を乗り出して、魅入《みい》られでもしたかのように、カデナはぽ〜〜〜〜〜〜っという表情でルノアを見ていた。
視線を感じたのかもしれない。それは、肩《かた》にたかったハエを無意識に追い払うのと同質の、何気ない行為《こうい》であったろう。
不意にルノアがこっちを向いた。
がばっ!! とカデナは身を伏せた。どうしようどうしよう!! 見つかっちゃったらなんて言い訳しよう!? 瞬間的《しゅんかんてき》に猛烈《もうれつ》なパニックに襲《おそ》われた。ばっくんばっくん跳《は》ね回っている心臓が、今にも肋骨《ろっこつ》をぶち破りそうだった。こっちに向かって歩いてくる足音。知られたくない。自分が訓練をサボってこんな所でのぞき見してたなんて死んでも知られたくない。
がこんがこんがこがこがこがこん!!
すぐそばから聞こえたその音に、もう少しで声を上げてしまうところだった。
自販機《じはんき》から、缶《かん》コーヒーが連続して転がり出る音。
足音が遠ざかっていくにつれて、カデナの心臓も冷静さを取《と》り戻《もど》していく。
――何やってんだろ、わたし。
こんな所でこんな子供みたいな真似《まね》をしている自分が信じられなかった。頭の中がひどくねばついて、考えがうまくまとまらない。訓練をずるけてこんな所にいる自分への怒《いか》りの赤と、怒りに似《に》たもうひとつの感情との中間色。
座り込み、ひざを抱《かか》える。
納得するべきなのだとは思う。
教官の配属に、自分が口を挟《はさ》むべきではもちろんない。オルドリンは軍隊なのだ。カデナ隊かアマルス隊か――その決定を下したのが、夜を徹《てっ》しての会議てあれ、チラシの裏に書かれたアミダクジであれ、自分は黙《だま》ってそれに従わなければならない。無茶な命令に逆らう権利など、兵士にはないのだ。そんなものを認めていたら、しまいには兵士全員がたったひと言、「死にたくない」という本音を口にするだけで、軍隊《ぐんたい》は崩壊《ほうかい》し、地球は宇宙|怪獣《かいじゅう》に踏みにじられる。兵士たるもの、私情は眉《まゆ》より上に押し込めて、鍵《かぎ》をかけておくべきである。そこから下は、つま先まですべて「備品」である。
でも。
腕《うで》時計に目をやる。
ルノアのランニングのペースに、自分ならついていけるのだ。
バカどものひとりひとりの顔が脳裏に浮かぶ。結局、自分はあいつらと同じ――ことによると、それ以下なのかもしれない。
何の使命感も持たない、軍属の特別|待遇《たいぐう》目当てのクズ。ルノア・キササゲに憧《あこが》れて、少しでも近づきたくてオルドリンに来た、それは自分のことではないだろうか。もし、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》にルノア・キササゲが存在していなかったとしたら――それでも自分はここにいるだろうか。
ヤマグチ次官は、自分の不純さを見抜《みぬ》いていたのかもしれない、と思った。
ひざがしらに額を押しつけた。
檸猛《どうもう》な自己|嫌悪《けんお》に身がすくんだ。
腕時計のデジタル表示が、頭の中にこびりついて離れなかった。自分なら、あのペースについていける。どうやっても振り切れないその思い。自分で自分の首を絞めていく。
カデナは、物陰《ものかげ》でひざを抱《かか》えたまま、じっと動かなかった。
バカども五人組がやっと追いついてきたのだろう。遠くからあのバカっぽい気配が伝わってくる。どかどかと死体を転がすような音が続き、しばらくして話し声が切れ切れに聞こえてきた。カデナは耳をふさいだ。あの五人とルノア教官が、仲良くお話ししているところなど聞きたくなかった。しばらくして、耳をふさいでいる両手を突き破るような大声が聞こえた。アマルス。人の肺ガンを心配する原始人《げんしじん》の指図《さしず》は脳みそが筋肉の何様。そんなことを言っていた。
次の声は、妙《みょう》にはっきりと聞こえた。カデナの初めて聞く、ルノア・キササゲの肉声。
「――立て」
びりびりした空気がはっきりと感じ取れる。あとひとつ何かのきっかけがあれば、アマルスはキレる。両手に余る回数のケンカをしてきた仲だ。カデナには、アマルスが最初にどちらの拳《こぶし》を繰《く》り出すかまでわかるような気がした。
でも、もうこれからはそんな真似《まね》もできないのかもしれない
「――十分|休憩《きゅうけい》、双脚砲台の格納庫《ドック》に集合。今度は遅《おく》れるな」
足音が歩き去る。
わくわくするような、悔《くや》しいような、そんな気持ちにじっと耐《た》えていた。風邪《かぜ》をひいて寝ている小さいころの自分。窓の外、自分の得意な遊びをしている友達の姿。
そんな気持ちだ。
オルドリンに訓練機として配備されているM967ハミングロウルG改は、予備まで含《ふく》めて二十六機。それに対する多脚機甲《たきゃくきこう》戦略学科訓練生の数は百十四名。これは、一部隊に対して「機という割り当てが可能な、言ってみれば必要以上の保有数であり、兵員訓練|施設《しせつ》としては史上空前の贅沢《ぜいたく》な環境《かんきょう》であると言える。
おかげでと言ってはなんだが、このオルドリンにはハミングロウルのシミュレータというものが存在しない。すべての操機訓練は、実機のシステムに外部からソフトウェアの接続をかけた本物のコクピットを使用する。地球であればシミュレーションで済ますようなちよっとした体験演習でも、ここでは周辺|装備《そうび》にいたるまでのことごとくが本物で固められてしまうのだ。訓練生はみな、本物のコンソールにゲロを吐き、本物のシートに小便を漏《も》らし、本物の気密障害で本当に死んだりする。
ところで、今、ペスカトーレが射出座席のレバーを引いた。
双脚砲台《ハミングロウル》が本物なら、五人が座っている射出座席も本物だ。そして今、双脚砲台は絶賛稼働《ぜっさんかどう》中である。ドックの天井《てんじょう》がいくら高いとはいえ、シミュレーションモードでなかったら、コクピットにいた五人全員があの世まで射出されていたことは間違《まちが》いない。
五人全員の視界が、見るもおぞましいエラー色の奔流《ほんりゅう》で埋め尽くされた。ヘッドギアのバイザーから網膜《もうまく》に直《じか》に投影《とうえい》される、シミュレーションエンジンからの|苦 情《エラーコード》だ。ライトが灯《とも》り、どんよりと黄色く濁《にご》った透明度《とうめいど》の低い空気が、コクピットの形に切り取られる。
その巨体《きょたい》からすれば、双脚砲台のコクピットは意外なほど狭《せま》い。いや、実際の広さとしては決して狭いわけではないのだが、ひと抱《かか》えもあるような冷却《れいきゃく》パイブがむき出しのまま壁《かべ》を這《は》っていたり、各所のハッチが人ひとりやっと通り抜《ぬ》けられる大きさしかなかったり、気密障害用の装備の入ったコンテナが座席の後ろに増設されていたりするせいで、極端《きょくたん》に狭く感じるのだ。実際、実戦配備されるほんの少し前まで、双脚砲台は完全な流体|脊髄制御《せきずいせいぎょ》の無人機として設計されていたくらいである。狭苦しくていびつで暑くて寒い、無理矢理でっち上げられたようなこの空間が、コクピットというよりもただの機械の隙間《すきま》のように感じられるのも当然の話なのかもしれない。
ただでさえそういうアレな場所に、吸殻《すいがら》が詰め込まれた缶《かん》コーヒーの空き缶が並《なら》んでいたり、アニメのポスターが張られていたり、コミック雑誌がばらまかれていたりすると、もはや事態は凄惨《せいさん》を極める。アマルスはこういうのに何も言わないし、マリポはもうあきらめている。アイは今度ヌイグルミも持ってこようなんて考えてるクチだし、チャーミーはこういうのも必要ですよねと変なところで納得しているし、ペスカトーレに何かを期待するのは宗教に近い。
で、その五人であるが。
震《ふる》える声。
「あんたね……」
右前席、マリポがつぶやく。ヘッドギアをかなぐり捨てて立ち上がる。|33型汎用《Dシェル》とコクピットを接続していたコネクターが外れ、細いケーブルがヘビのように宙を躍《おど》ってシートのドラムに巻き込まれる。何を扱《あつか》うにも丈《たけ》の足りない身体《からだ》からハーネスを外し、マリポは暴風雨のような勢いで、ペスカトーレの左前席に殴《なぐ》り込む。
「わざとでしょ!! わざとやってんでしょさっきから!! やっとうまくいきそうだったのにも――!!」
ペスカトーレは、大口を開けて寝っこけていた。よだれがシートにシミを作っている。右手が射出ハンドルにかかっている。寝ボケて引っぱったのかもしれない。
こ、この……!!
「起きろ――!! 少しは真面目《まじめ》にやんなさいよ――!!」
怒《おこ》ったマリポが両側から引っぱると、ペスカトーレのほっぺたは気持ち悪いくらいびろーんと伸びた。おかげで痛くないらしい。起きない。
「わーすごいほっぺー。アイちゃんもやるやるー」
右後席のシートからアイが身を乗り出して、ペスカトーレのほっぺたに手を伸ばした。それにしてもよく伸びる。
起きない。
「もう、みんな静かに! せっかく憶《おぼ》えたのに忘れてしまうわ……」
普段《ふだん》のおっとりした様子からすれば意外なほどの大声で、左後席のチャーミーが言う。|33型《Dシ》汎用《ェル》の右ひざに埋め込まれているバックライトつきのメモパッドにペンを走らせ、起動手順を呪文《じゅもん》のようにつぶやいている。
よっぽど頭にきていたのか、珍《めず》しくマリポが怒鳴《どな》り返した。
「こいつをなんとかしないとうまくいくものもうまくいかないのよっ!!」
そのとき、知性的な感じのする男性の声がマリポをなだめにかかった。
『ちょっと、マリポさん落ち着いてください! そんなに怒鳴ったってしかたないてしょう?』
どこか天井《てんじょう》の辺《あた》りを見上げ、マリポがまた怒鳴る。
「うるさいわね! 役立たずは黙《だま》ってなさいよ!」
『や、役立たず!? それはちょっとあんまりなんじゃないですか? そもそもこの演習は、私|抜《ぬ》きで起動プロセスを完了するための――』
もうマリポは聞いてはいない。今度はアイに怒《いか》りの矛先《ほこさき》を向け、さっき電圧処理をあなたに任せたのは間違《まちが》いだったとか、姿勢|制御系《せいぎょけい》のデータ更新《こうしん》を何回ミスれば気がすむのよとか、自分のことは棚《たな》に上げて言いたいことを言っている。しかしアイは聞いちゃあいない。ペスカトーレのほっぺたを引っぱっては笑い続けている。
双脚砲台の六番目の乗員、流体|脊髄《せきずい》ユニット・パーソナルネーム『GARP』は、操脚長《そうきゃくちょう》であるアマルスに泣きついた。
『ちょっと、アマルスさん! あなたからもなんとか言ってください!』
この声はアマルスのヘッドギアのレシーバーのみに出力されているので、他の四人には聞こえていない。他より一段高いポジションに配されている発令席のシートをリクライニングさせ、上部ハッチの取っ手を見つめてぽけーっとしていたアマルスが、起き抜けのような声で、
「今のAPD、ペスか?」
『――って、まさかあなたまで寝てたなんて言わないでくださいよ?』
「寝てた。うるさいんで今起きた」
『……。』
APDとは、シミュレーションエンジンのエラー『FATAL/CODE-0021.APD』のことを指す。その詳細《しょうさい》を簡単に言えばこうなる。ペスカトーレのレバーONによって、処理中だった全プロセスがフェイル、コクピット上部構造を爆破《ばくは》処理して、00から04までのすべてのゼロシートのハーネスのロックをチェック後、全座席がベイルアウト。その後も状況査定は続行され、初期設定されていた仮想空間上のH級|格納庫《ドック》の天井《てんじょう》までの高さと衝突《しょうとつ》速度を再計算、コンマ四|桁《けた》以下という生存確率を、シミュレーションエンジンは実質的なゼロと評価。よって、謹《つつし》んで、『致死的《FATAL》・分類項目《COD》 {|漬習目的外の人的要因《E‐0021》}・搭乗員全員死亡《APD》』。もっと高度なインターフェイスが与《あた》えられていれば、シミュレーションエンジンはこう言ったかもしれない――これが本番だったら、てめえら全員、天井に肉せんべいになってはりついてるぞ、と。
APDは、『ALL PERSONAL DEAD』略号だ。
ぐううう、と腹の虫が鳴いた。
『あ。いまのアマルスさんですね?」
「うるさいよ――ってお前、そんなことまでよくわかるな?」
『そりゃもう。私のセンサーは優秀《ゆうしゅう》ですから』
「ったく、イジメだよな、これ。昼メシくらい食わせろってんだ」
『――でも、教官も昼食|抜《ぬ》きでやってるんですから』
アマルスは疑《うたぐ》り深そうな声で、
「ま、お前としてはそう言うだろうけどな」
『あ! ひどいその言い方! 私だって部隊の一員なのに! 差別だ差別だ! あなた、私のことそういうふうに見てたんですか! あえて言わせてもらいますけどね、さっき私はS2線で教官に抗議《こうぎ》したんですからね! 「ちゃんと食べるときは食べて、ベストな状態で演習に臨むべきです」って!』
「お前、そんなこと言ったのか?」
『言いましたとも! それなのに、ああそれなのにそれなのに!』
だからだろバカ――と、アマルスは思う。
「なあ、しばらく前から何も言ってこなくなっちまったけど、教官|殿《どの》も寝てんじゃねえのか?」
わざとひねって憎《にく》まれ口《ぐち》を装《よそお》ったのは、しばらく前から黙《だま》り込んだままのルノアにちよつとビビっていることを悟られたくないからだった。
『まさか』
あなたじゃあるまいし、呆《あき》れてるんですよ、きっと――とは、GARPからはちよっと言いにくい。
『そんなことあるわけないでしょ。ほら』
アマルスの視界にウィンドウが開く。第六管制室の電話に付いているセンサーからの映像。狭苦《せまくる》しい室内は暗く、ALFからの緑色の光が照明の代わりをしている。年期が入りすぎて詰め物がぺったんこになった椅子《いす》に座り、端末《たんまつ》に向かってキーを叩《たた》くルノアの姿。シミュレーションエンジンの初期化でもしているのだろう――ピンと伸びた背筋、ALFの照り返しの、緑色の鏡文字が並《なら》んでいる真剣《しんけん》な顔。
舌打ちをして、アマルスは視線でウインドウをポイントし、さっさと非表示にしてしまった。今まで誰《だれ》も止めないので目の前に垂れ流しになっていたエラーコードを消す。
「マリポ! さっさと再起動やるぞ。射出座席《ゼロシート》の設定もとに戻《もど》せ。もういっぺんだけやってダメだったら、構うこたねーからメシ食い行こうぜ」
マリポはアマルスの方を振り返り、
「だめよそんな! 最後までちゃんとできてから――」
とマリポは口では言うのだが、根が正直なのか、『わたしはお腹《なか》がすいています』と顔に書いてある。
「メシ食ってからやるさ。ったく、やることが陰湿《いんしつ》なんだよなあの女。誰《だれ》かにそっくりだぜ」
憧《あこが》れのルノア教官をそんなふうに言われれば、マリポだってむっとする。ルノア教官は、カデナ・メイプルリーフなんかとは違《ちが》う。
「だって、だってそんなの仕方ないじゃない。あたしたち教官がやれって言うこと、なんにもできないんだもん」
「あのな、いい加減気づけよ、あたしらイジメられてんだよ。GARPのアシストなしの起動の訓練なんて、何の役に立つんだ?」
マリポは口ごもる。その疑問《ぎもん》は、マリポの頭の中にもあったのだ。
「そ、それは、緊急時《きんきゅうじ》の、」
「緊急対処なんて、ひと通りのことができるようになってからの話だろ」
マリポは完全に言葉につまる。マリポから見れば、アマルスの言っていることに穴はない。それでも、自分にはわからない何かちゃんとした理由があってのことなのだ、という考えを捨てることはできない。
「なんとかしよう」と誰よりも奮闘《ふんとう》してはいるが、今、内心誰よりも気落ちしているのはマリポであろう。
なにしろ、憧《あこが》れのルノア・キササゲ大尉《たいい》が自分の部隊の専属教官となったのである。嬉《うれ》し恥《は》ずかし訓練第一日目なのである。マリポにしてみれば、一生分の運を悪魔《あくま》に喰《く》わせても手が届かないような話が現実のものとなったのだ。いいかっこしたい。いいとこ見せたい。しかし、現実の自分たちはこのザマだ。
さっきのAPDで、双脚砲台の起動失敗は連続十七回目である。
実際、〈起動演習〉なんて、初めて聞く言葉だった。
例えて言えばそれは、車の運転を習おうとして「まずはドアの開け方からだ」と言われたようなものかもしれない。少なくとも、マリポにはそう思えた。普段《ふだん》ならそんなもの、GARPの処理で一発起動なのに。
しかし。演習を始めるに当たって、ヘッドギアの中のルノアの声は、こう言ったのである。
『操機、起動。流体脊髄《GARP》の電圧安定処理、姿勢|制御系《せいぎょけい》、液化|素子《そし》安定系のすべてに対する電子制御をサスペンド。状況《じょうきょう》開始」
要するに、GARPの手を一切借りずに、全起動プロセスを手動《しゅどう》でこなせ、とルノアは言っているのだ。
手動で起動できることすら知らなかった。
教えてもらわなければ、操作手順さえわからなかった。
GARPが手を貸してくれないだけで、自分たちはドアも開けられないのだと知ったときのマリポの落胆《らくたん》は大きい。さらに、「こいつらどうせドアも開けられないんだろう」とルノア教官に思われてしまったことがつらい。第六管制室の端末《たんまつ》の前に座って、自分|達《たち》のドジのすべてをモニターしながら、ルノア教官がどんな顔をしているのか、考えるだけで身がすくむ。
思いつめたようなマリポの顔から視線を外し、アマルスはコンソールの下を手探りした。ガムのカスではりつけてある南大門《ナムデムン》のパッケージは空っぽだった。サイドスティックからぶら下げてある空き缶《かん》から、長くてまだ吸えそうなシケモクを選び、くわえ、ひどくイラついた感じの乱暴な動作で火をつける。ペスカトーレのほっぺたを引っぱっては笑い続けているアイのまっ黄色な声が、瞬間的《しゅんかんてき》に死ぬほど気に触《さわ》った。
「アイ、いつまでやってんだ! GARP、ペスを叩《たた》き起こせ!」
GARPはペスカトーレのヘッドギアのレシーバーに接続し、死人でも飛び起きそうなくらいの音量で『おはようございます!』と言った。ふが、といううめき声とともにペスカトーレは身を起こしたが、明らかにまだピヨっている。
「おいマリポ、さっさとシートに――」
マリポが、口の中でつぶやく。
「――違《ちが》うもん」
アマルスは、ふん、と息を吐いた。
チャーミーが、レシーバーを第六管制室につないだ。
「再起動いきます」
冷たい缶《かん》コーヒーの何が悪い。
第六管制室。五時間ほど前の、情けないくらい臆病《おくびょう》な自分をルノアは憎《にく》んだ。
ごーめんねー押すボタン間違えちゃってさー、そう言えばいい。たったそれだけのことが、どうして言えなかったのか。
媚《こ》びていると思われたくはなかったから。そうかもしれない。
結構《けっけう》です――そう突き返されるのが恐《こわ》かったから。それもある。今思えば、絵に描《か》いたようなアメとムチだったような気もする。あの――そう、アマルス・ヒホン。あいつなど、バカにするんじゃないと怒《おこ》り出したかもしれない。
しかし、これらとは別に、もうひとつ、思い当たる理由がある。
|ヤマグチ教官ならこんなことはしない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
最後の最後でそういうブレーキがかかったから。
連中が戻《もど》ってくる前にと、大あわてでバッグに突っ込んで隠《かく》した六つのコーヒー缶《かん》の存在が、今もルノアの足元で、虫歯の洞《うろ》のように意識された。
やめよう。
ルノアは今やるべきことに集中しようとする。キーを叩《たた》き、たった今失敗した十七回目の起動の記録をALFにリロード。そもそも、〈起動演習〉などと言えば、見るからにのどかな字面であり、いかにも初歩の初歩という響《ひび》きがあるが、その中身は決して甘《あま》くはない。実際のところ、双脚砲台をいついかなる場合でも手動《しゅどう》で起動できるパイロットなど、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》の現役の中でも一割いるかどうか、というところだろう。基本的には、双脚砲台の起動プロセスは三つに分けられる。すなわち、最初が姿勢|制御《せいぎょ》、次が電力分配、最後が外装《がいそう》デバイスのマウントである。通常、この三つは自動的に、つまり中枢《ちゅうすう》の流体|脊髄《せきずい》によって処理される。これが手動になってもやることは一緒《いっしょ》だ。基本的には。この三つを流体脊髄ではなく人間がやる、というだけ。
しかし、この演習のミソはまさにここなのだ。傾斜角《けいしゃかく》センサーからの情報を正確に判断して姿勢制御系のデータを更新《こうしん》し、バッテリーからの電力を適切に分配して各関節の液化状態を一発で安定させ、短時間かつ効率的に各|武装《ぶそう》をマウントする――これを人の手で行うには、相当の熟練を要するのである。こんな起動方法はGMCのマニュアルにも、どの教本《テキスト》にも載《の》ってはいない。しかし、可能ではある。双脚砲台というシステム全体に対する深い知識と理解と応用力があれば。
つまり、〈起動演習〉とは、基本的かつ、しかし高度な訓練なのだ。
しかし。
改めて、力が抜《ぬ》ける。
電力分配を誤り、転倒《てんとう》したと判断され、失敗する。これはいい。慣れた奴《やつ》でもたまにある。
バッテリーのゲートロックのタイミングを外し、安全機構が作動して処理が強制的にシャットダウンされ、失敗。これは、万が一安全機構が作動しなかった場合には、システムがオーバーロードしかねない危険なミスだ。ある手順で、意図的にこれをやれば、双脚砲台を自爆《じばく》させることすら可能であったりする。が、これもなんとか許そう。今日が一日目だし。
が。
なにも。
いくらなんでも。
射出座席をトリガーしなくてもいいではないか。
〈起動演習〉中に射出座席で全滅《APD》した部隊など、ルノアは生まれて初めて見た。
ため息。道は遙《はる》か遠く険しい。
『再起動いきます』
ルノアのレシーバーにチャーミーの声。
時を置かず、ALFにS2接続のコールが来た。
ルノアは感電したかのように身を震《ふる》わせ、気落ちした表情を大あわてで顔から吹き消した。キーを叩《たた》き、やりかけの作業に戻《もど》る。
S2線が接続され、ALFのすみに表示されるGARP≠フロゴ。知性的な男性の声。
『教官。質問があります』
ルノアはキーを叩く手を一瞬《いっしゅん》だけ止め、
「なに」
『なぜ、手動での起動をお命じになられたのですか?』
ルノアの手が完全に止まる。
「――連中に聞いてこいって言われたの?」
『いえ。私は、ルノア隊の一員として、いち訓練生として質問をしているのであります。これではまるで、私だけが訓練を外されているようで、納得がいきません』
「それが必要だから。それだけ」
『――それは、私が不必要であるという意味ですか?』
「違《ちが》う」
『差《さ》し支《つか》えなければ、説明を』
「――手柄《てがら》を立てることよりも、失敗をしないことの方が難しいでしょ。そういうこと」
それだけ言って、ルノアは再び黙々《もくもく》とキーと叩《たた》く。GARPも沈黙《ちんもく》する。
説明になっていない。ひどい言い方をしていると自分でも思う。その罪悪感のために、ルノアはそのまま黙《だま》ったままでいることができなくなった。
「ねえ、さっきからあの五人、何も言ってこなくなっちゃったけど、もしかして寝てるんじゃないでしょうね」
わざとひねって憎《にく》まれ口《ぐち》を装《よそお》ったのは、しばらく前から黙り込んだままの五人にちょっとビビっていることを悟《さと》られたくないからだった。
なに言い掛かりつけてるんですか――とは、もちろんGARPの口からは言えない。
『まさか。ご覧になりますか?』
画面に表示される五つのウィンドウ。通信機能のためのCCDから拾った、五人のそれぞれの顔の、モノクロの粒子《りゅうし》の荒《あら》い映像。五人とも、見られていることには気づいていないらしい。GARPがメモリーをケチっているのか、コマ落ちが激《はげ》しかった。
冗談《じょうだん》めかしてルノアは言った。
「これ、まさか、あなたが作った擬似《ぎじ》映像じゃないわよね」
GARPはそれを冗談とは受け取らなかったようだ。微かに怒気を含む声で、
『ご自分の目で確かめてきたらどうです?』
「ごめん。わたしにも憶《おぼ》えがあるのよ、そういうの。昔《むかし》わたしがここにいたころの双脚砲台って、結構話のわかる奴《やつ》でさ、」
『――とんでもない不良《ジャンク》ですね。そいつ』
それだけ言って、GARPはS2線からアウトした。
――へえ。
ルノアは少し感心した。
あの流体|脊髄《せきずい》は――GARPは、|怒っていた《ヽヽヽヽヽ》。
流体脊髄|素子《そし》の経験値の蓄積《ちくせき》速度には、かなりの個体差がある。そして、彼らは自分の部隊が卒業し、そのコクピットを巣立《すだ》っていく度に記憶《きおく》と経験をリセットされ、パーソナルネームを変更《へんこう》されて、次の新たな部隊の一員となる。つまり、GARPは今、前回のリセットから数えて、およそ満六ヶ月になる。
オルドリンの流体脊髄の中には、部隊が卒業するそのときまで、明確な感情を持ち得ないものも珍《めずら》しくない。しかし。
たったの六ヶ月で、GARPは、|怒った《ヽヽヽ》。
これは、早い。常識外れの速度と言える。
――当たりを引いたな。あいつら。
ゆうべ、自室で五人の研修成績の資料を見て思わず暴れそうになったルノアだが、これで少し納得がいった。こんな連中が、なぜ研修を生き残れたのか。
あの五人には、優秀《ゆうしゅう》なブレーンがいたわけだ。
にっ、とルノアは笑う。
これは、明るい材料だ。
でも。
――それじゃなおのこと、あなたには手を貸してもらっちゃ困るな。
五人が姿勢|制御《せいぎょ》データの更新《こうしん》を始めた。ルノアは期待を込めた目で、ALFを見つめた。
――今度こそ成功させてよね。
当然のようにコケた。
それから、教官も訓練生も飲まず食わずの十時間が過ぎた。
結局、ルノアと五人と一機の記念すべき訓練第一日目は、〈起動演習〉だけに終始した。
三十七回に及ぶ失敗の後、三十八回目にして双脚砲台の起動は一応の成功を見た。
オルドリンの夜はふける。就寝《しゅうしん》時刻まであと少し。
そのとき、アマルスはベッドにひっくり返ってバイク雑誌を眺《なが》めていた。固体のような疲れが、身体《からだ》のどこと特定できない場所にどっかりと居座っている。瞼《まぶた》が重くなる。雑誌がだんだん近づいてきて、ばさりと顔にかぶさる。
第六管制室、背筋を伸ばして端末《たんまつ》に向かっていたルノア教官の姿が思い出される。
眠気《ねむけ》の中に、苛立《いらだ》たしさがじわりと染《し》み込んでくる。あのときそうしたように、再びアマルスは舌打ちした。
誰《だれ》も見ていないのに。だらけていたって誰にもわからないのに。
あのとき、ルノアが自分だけテイクアウトのランチを食べていたり、雑誌でも読んでいたなら、アマルスはここまでイヤな気分にならずにすんだだろう。
夢現《つめうつつ》のまま、
「ベナレス条約|免責《めんせき》……条項《じょうこう》、第…十九…ちがう…九条だ。九条の。第十三……十三項、に準《じゅん》該当《がいとう》の、熱核地雷起爆《ねつかくじらいきばく》」
半分|寝言《ねごと》のようにつぶやく。
「206704……20、起爆指揮《きばくしき》、者、アマルス、ヒホン……伍長《ごちょう》。|救 世 軍《サルベーション・アーミー》。秒読《CD・》|みマイナス30《サーティー・マイナー》。……|マイなス十秒、にて、電波ふう鎖をよ定《ブラック・スモーク・テン・マイナー》。いこうの……きばく……てっかい、は……」
電気を消すのを忘れている。
そのとき、アイは、デスクに向かって勉強をしていた。
言っちゃあなんだが、驚天動地《きょうてんどうち》の事実である。月に雪が降るどころではすまないかもしれない。勘弁《かんべん》してほしい。それでなくても人類《じんるい》は今、存亡の危機に直面しているというのに。
ペーパーウェアの文字を、真剣《しんけん》な目で、小さく声に出しながら読み進む。
「ロボットバ、ルカンの、射撃《しゃげき》、中に、並列《へいれつ》処、理されるプロセス、は――」
ポジションで言えば、アイは『電源機関士兼後方|銃手《じゅうしゅ》』である。ちなみに、アマルスは『操《そう》脚長《きゃくちょう》兼|主砲《しゅほう》管制士』、マリポが『右腕管制士兼右側方銃手』、チャーミーが『通信士兼情報管理者』、ペスカトーレが『左腕管制士兼左側方銃手』だ。つまり、アイの仕事は、バッテリーゲートの開け閉めと、ケツに食らいついてくる不逞《ふてい》の輩《やから》を繊滅《せんめつ》することである。〈起動演習〉の勉強など今さらやっても到底《とうてい》間に合わないだろうから、自分のポジションに関してだけでも今からみっちりやっておいて、後でみんなをびっくりさせよう、という作戦らしい。
「、照準、補正、反動計、算処理、の――」
アイくらいのツワモノになると、参考書を読むのにそのまた参考書が必要だったりする。今だって、『反動計算処理』というのが何をするのかわからない。――えーと、反動反動……あった。反動計算処理。呪文《じゅもん》の如《ごと》き解説と、ほとんど抽象画《ちゅしょうが》のように思える計算式。んとんと、30ミリロボットバルカンの射撃レートは、通常のモードで毎秒《まいびょう》七十発だから、えとえと、うん、そう、5・4トンの射撃反動が発生するはずで、だから、必要な、そのために必要な照準補正が――
あ! 今日は木曜日!
がばっと顔を上げる。深夜|枠《わく》で、『寝たきれ! 寝たきり刑事《デカ》!!』の再放送をやるのだ。確か、今日が第一話――
椅子《いす》から腰《こし》を浮かせたところで、アイはぐっと奥歯《おくば》を噛《か》みしめて踏みとどまった。
だめだめ。今日からは、ちゃんと勉強するんだから。
椅子に座り直した。再び反動補正の計算を始める。
今日、血と汗《あせ》と涙《なみだ》の十と三時間の後、ルノア教官は自分たちの無様《ぶざま》な操機をクソミソにけなした。しかし、アイにはひと言もなかった。アイの方を見ようともしなかった。最後の一時間、起動に失敗し続けたのは、アイがゲートロックのタイミングを外しまくったからなのに。
確かに、はっきり言って、アイはガキである。ルノア教官もそう思ったのかもしれない。ほとんどマスコット的存在であり、たとえヘマをしても、他《ほか》の四人からはあまりキツく言われるようなことはない。今日も、そうだった。
でも、四人が見落としていることがひとつある。
ガキだから、自分が未熟であることをごまかしたいからバカをやるのだ。
アイだって、くやしかったのだ。
そのとき、マリポはシナモンパイの最後のひと切れを口に入れていた。こういうのをちゃっちゃっと作れてしまうチャーミーがうらやましい。ルノア教官は、料理とか、できるんだろうか。自分には無理だ。一度やって懲《こ》りている。以前、研修が明けてまだ間もないころ、チャーミーがアップルパイを作っているのを見て、自分もやってみようと思った。素直にチャーミーに作り方を教えてもらえばよかったのに、なぜそれがためらわれたのか、今でもわからない。とにかく、マリポは自分で作り方を調べ、夜中に、ひとりで挑戦《ちょうせん》したのだ。
本に載《の》っていた通りにやったのに、パイが爆発《ばくはつ》した。
死ぬかと思った。
自分は天才的な料理オンチなのではないだろうかと真剣《しんけん》に悩《なや》んだ。パイが爆発したのは、あのときたまたまユニットの気圧が低かったからだとわかっている今でも、キッチンに立つことを身体《からだ》が拒否《きょひ》する。
最後のひと切れを飲み込んで、うん、とガッツポーズをとった。いいのだ。それでも。料理を憶《おぼ》える前に、自分にはやらなければならないことがある。
明日《あす》はがんばる。
もとい。
明日もがんばる。
そのとき、チャーミーはため息をひとつ。
自分の部屋のドアに背中をあずけている。
今日の基礎《きそ》体力演習を思い出している。息も絶え絶えといった様子で走る自分の姿。自分はいつもそうだ。跳《と》んだりはねたりは苦手だ。
記憶《きおく》が連鎖《れんさ》して、思い出したくもないあの日の光景がよみがえる。
研修明けの第一回合同基礎体力演習。回れ右だの左だの、番号だの指令復唱だの、そういう「基本」をいやになるほどやらされたあげくに、最後には隊歌を歌いながらの行進を命じられた。しかも、オルドリンの市街区画を、小人数のグループに分けてである。「次、立て! 回れ右、その場足踏み始め! 隊歌、『私の彼はパイロット』! 歌い、始め! 前へ、進め!」担当官がそう号令するたびに、皆やけくそのように大声を張り上げながら、好奇《こうき》の視線の奔流《ほんりゅう》へと踏み込んでいく。隊歌は隊の数だけあり、そのどれもこれもが鉄道唱歌の如くバカみたいに長い。十番まであるようなやつはザラだ。前の日に歌詞の書かれた分厚いプリントアウトを渡《わた》されてはいたが、とても憶《おぼ》えきれるものではない。しかし、出だしで間違《まちが》えたりつかえたりすれば、担当官のビンタが情け容赦《ようしゃ》なく飛んできた。「憶えてこいって言ったろう! わかんなくなったら、わーわーでもおーおーでもとにかく声出せ!」
コースはオルドリン市街区画一周である。つまり、恥《は》ずかしい歌を大声で歌いながら、18キロのコースを一巡《ひとめぐ》りしてこなければならない。途中《とちゅう》でトンズラしようとする者が後を絶たなかったが、どうやって監視《かんし》しているのか、コースを少しでも外れようとしたグループの行く手には、必ず担当教官が大魔神《だいまじん》の如《ごと》く現れて、脱走者《だっそうしゃ》をコースへと蹴《け》り戻《もど》すのだった。
チャーミーは、自分の部屋のドアに背中をあずけている。
ぎゅっと目を閉じる。
そのとき、ペスカトーレは大昔《おおむか》の映画を見ていた。帽子《ぼうし》をかぶったしましまシャツの怪人《かいじん》が、登場人物を誰彼《だれかれ》構わず鈎爪《かぎつめ》で串刺《くしざ》しにするたびに、けけけけけけけけけけと笑う。
そのとき、カデナはベッドから起き上がった。
眠《ねむ》れなかった。何か食べようと思って、個室を出てユニット備え付けのキッチンに向かう。医薬品の入ったキャビネットが目に止まる。あの中に、脳に焼かれている催眠《さいみん》ルーチンをキックするピルがあることを思い出す。
暗い部屋。枕《まくら》の下に、あの写真はもうない。
千里の道も一歩からだ。
そのとき、空腹がぶり返してきて、ルノアは目を覚ました。
つっぷしていたデスクから顔を上げ、眠気と疲《つか》れがべっとりとこびりついた目で辺《あた》りを見回す。見覚えのないデスク、見覚えのない端末《たんまつ》。ここがどこであるのか、そのことに思い至ったとき、疲れが倍になったような気がした。
電気|椅子《いす》通りの、自分の部屋だ。
夕食まで抜いてしまったことに、たった今気がついた。朝は朝で、朝食などとても喉《のど》を通らなかったから、今日丸一日、メシ抜きで働いていたことになる。
長かった演習が終わって、シミユレーションエンジンの使用規定時間を遙《はる》かにオーバーしたことについてひと言わびを入れようと、内心おっかなびっくりで教務課に行った。ところが、担当の事務官は、まるで自分が何かミスをしたかのような態度で、こちらが何を言っても『お疲れさまでした』を繰《く》り返すばかり。腹の中になにやら黒いものが広がってきて、部屋に戻って枕《まくら》に八つ当たりした。正気《しょうき》に返って端末に向かったのは、午後九時《フタヒトマルマル》ごろだったような気がする。疲れた体にムチ打って、今日の演習の記録を呼び出して、ひとつひとつをチェックしていく。失敗の原因、それに対して五人の取った解決方法、自分の指示に間違《まちが》いはなかったか、さらに、今後の指導方針についての再検討――これが『演習最終報告』というやつで、三日以内に教務課に転送することになっている。その作成中に、いつのまにか眠《ねむ》ってしまったらしい。ALFの右下の時刻表示を見る。午後十一時《フタサンマルマル》。
教官の仕事は、演習が終わって訓練生が寝静《ねしず》まったころに始まると言っていい。通常、実機演習を一時間やれば、二時間のデスクワークが発生する。しかも、この手の報告書作成は、真面目《まじめ》にやればやるほど深みにハマるのだ。例えば今日の演習で、ペスカトーレは射出座席のレバーを引いてくれたが、『本当にペスカトーレがレバーをトリガーしたことによる事故だったのか』『システムエラーであった可能性はないのか』『ペスカトーレの操作ミスだったとして、その後の対処は適切であったか』『もし実戦で同様の事態が発生した場合に備えての、今後の指導方針』なんてやりはじめたら、本当にキリがなくなる。今日の分だけをかかりっきりでやっても、ルノアが退役するまで終わらないに違いない。何のためにここまでの手間が義務づけられているのかというと、訓練中の事故が発生したとき、オルドリン上層部が言い訳の材料としてこの種の資料を必要とするからだ。普段《ふだん》はこんなもの、教務課の人間ですら読みはしない。ひたすら、データベースの肥やしになるだけ。
訓練生だったころ、ヤマグチ教官の最終報告を、ルノアは一度だけ目にしたことがある。たった二時間分の〈高価値固定目標攻撃《ディープ・ストライク》〉演習――そのあらゆる方面からの再評価・再検討を記したそれは、230キロバイトにも及ぶ極めて詳細《しょうさい》なものだった。
それにくらべて――
ルノアは泣けてきてしまう。
どーすんのよこれ。
ルノアの思考は、あまりにも長く、あまりにも過酷《かこく》で、あまりにも綱渡《つなわた》りの多すぎた、そのくせビビっていくつもの綱を避《さ》けて通った今日一日の記憶《きおく》を、牛の如《ごと》く反芻《はんすう》した挙げ句、
――なんで教官になんかなっちゃったんだろう。
という、結局はそこへ戻《もど》ってしまう。なぜ、自分がこんな目にあわなきゃいかんのか。
決まっている。
不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵《きゅうてき》、ラセレーナ・クリフト大尉《たいい》が、性根《しょうね》の腐《くさ》った策略を巡《めぐ》らせた結果だ。おとーさまにお願いしたのだ。あの女をどこか遠くに追っ払って、と。それとも、ラセレーナ自身のアイデアだったのだろうか。月、オルドリン基地での教官任務というのは。
ルノアの顔に、自嘲的《じちょうてき》な笑みが浮かんだ。
確かにいいパンチだ。遙《はる》か月まで異動《とば》されて、教官という未知の任務に放り込まれて半ベソ状態。今までラセレーナからもらった中でも、最大級の一撃《いちげき》だ。カウントエイトで立ち上がったものの、足にきている――そんな感じ。受けたダメージは深刻だ。それは認めざるを得ない。
なんでここまで嫌《きら》われちゃったのかな――。
かつてないほど自信を失っているルノアは、そんなことを考えてしまう。少なくとも、ルノアには身に憶《おぼ》えがない。そもそも、訓練生時代に、その他大勢の中からラセレーナを個体識別するようになったのは、むこうからちょっかいを出してきたからなのだ。忘れもしない、食堂で、足を引っかけられて思いっきり転んだのである。
むか。
頭にのっかったスパゲッティがスダレのように垂れ下がっている視界のむこう、そいつは周囲の視線を意識した仕草で髪《かみ》をかき上げ、女王様な目でルノアを見おろしていた。薄《うす》くルージュの引かれた、底意地の悪そうな唇《くちびる》には取ってつけたような笑みが浮かんでいたが、目が笑っていない。そして、懇惣《いんぎん》無礼と高慢《こうまん》ちきを足して二を掛けたような口調で、こう言ったのだ。
『拾い食いだけはなさらないでね』
今よりも髪が短かった。
それが、ラセレーナ・クリフト伍長《ごちょう》だった。
むかむか。
ラセレーナの登場で、ルノアのオルドリンでの生活は、果て知れぬ戦いの日々となった。それはそれはイヤな奴《やつ》であった。なにしろ、『おーほほほほほほ』と笑うのである。当時チビだったルノアは、頭ひとつ分高いところから降り注ぐその笑い声に、どれだけコンプレックスを刺激《しげき》されたか知れない。そして、マンガに出てくるような嫌《いや》がらせの数々。座学試験ではカンニングの疑《うたが》いをかけられ、操機訓練ではバグを仕込まれた。合同|模擬戦《もぎせん》では、息のかかった連中に集中|攻撃《こうげき》され、ヤマグチ隊は五分で潰された。
夜も眠《ねむ》れないほど悔《くや》しかった。
一年|先輩《せんぱい》て成績|優秀《ゆうしゅう》、おまけに美人で家が金持ち。
成績優秀であることに関しては、ルノアもそれなりに評価してはいる。その実力が、親の七百万光などには一切|頼《たよ》らない、弛《たゆ》まぬ努力によって獲得《かくとく》されたものであることを、ルノアは知っているからだ。実はあれで、結構努力家なのである。負けず嫌《ぎら》い、と言ってもいいかもしれない。
他《ほか》に道はなかった、とルノアは思う。
ラセレーナよりも一行でも多く教本《テキスト》を読み進み、ラセレーナよりも一|秒《びょう》でも長く居残り訓練をした。ラセレーナよりも万分の一秒でも早く反応し、ラセレーナよりもーメートルでも深く移動し、ラセレーナよりも一体でも多くのターゲットをクリアした。
あの笑い声を聞かずにすませるためには、そうするしかなかったのだ。
しかし、今この瞬間《しゅんかん》、ラセレーナは夜空の月を見上げて、あの笑い声を上げているのかもしれない。
最後は私の勝ちね、と。
ぶち。
ルノアは椅子《いす》を蹴《け》って立ち上がる。ベッドの上の枕《まくら》をひっつかみ、絶対こっちと勝手に決めつけた地球の方角に向かって、力いっぱい投げつけた。
「ばーか!! あたしは絶っっっっっっ対|潰《つぶ》されないからねーだ!! 見てなさいよ、あの五人全員、あんたなんかよりもずっっっっっっと優秀《ゆうしゅう》な成績で卒業させてやるんだから。連中を引き連れて絶っっっっっっ対にあんたの首もらいに行ってやるんだからー!!」
そうだ。あのジジイとそう約束《やくそく》したのだ。やってやる。絶対やってやる。心の中でそうつぶやきながら、デスクに戻《もど》ってかぶりつくようにALFを睨《にら》む。
明日《あす》は自分が遅刻するかもしれない。
オルドリンの夜はふけていく。
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呪いを解くには
煙《けむ》い。
今、定例会議に出席している十七名の教官たちのうちの約半数が煙草《たばこ》を喫《す》う。会議が少しでも長引いたりすれば、次から次へと新しい煙草に火が点《とも》され、灰皿《はいざら》にはルージュのついた消しそこねの吸殻《すいがら》が山のようにねじ込まれて、狭苦《せまくる》しい会議室は、嫌煙家《けんえんか》にとってはこの世の地獄のような有《あ》り様《さま》となる。
会議などという名前がついてはいるが、その中身は教官たちの勉強会のようなものである。つまり、|実戦経験のない者同士《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、今後の指導方針を決めるにあたって、お互《たが》い知恵《ちえ》を出し合いましょうという集まりだ。参加は教官全員の義務であるが、進んで発言する顔ぶれというのはだいたい決まっており、それ以外の面子《メンツ》はただ話を聞いてうなずいているだけ。なんであれ、世にあるこの種の集まりというのは、だいたいがそんなものだ。
「――ですから、より高難度なシミュレーション設定が必要であることは明らかです。特に、防空|戦闘《せんとう》を想定したシミュレーションに関しては、現在のところまったくの手薄《てうす》であり、」
「ちょっと待って。訓練生全員が卒業後、地球へ行けるとでも思ってんの? 防空|戦闘《せんとう》なんて、地球でしか役に立たない技術の習得にこれ以上の時間を割くべきじゃないわ」」
アンジェラ・ホールドマン教官とキム・ヘンドリックス教官が、今日もお互《たが》いの揚《あ》げ足《あし》を取り合っている。定例会議に限らず、この二人は顔を合わせるといつもこんな調子なのだが、今日は少し様子が違《ちが》う。二人とも、いつになく口調が攻撃的《こうげきてき》で、このまま放《ほ》っておいたら殴《なぐ》り合《あ》いのケンカにでもなりそうな勢いだ。
「――どういう意味ですか? まさか、月で発生する戦闘|状況《じょうきょう》への訓練のみを行っていればよいとでも?」
アンジェラ教官は今や完全にケンカ腰《ごし》。GMC社から派遣《はけん》されてもう十一年、教官たちの中でも最古参のひとりだ。モデルばりの長身、ファンデーションで一分のスキもなく装甲《そうこう》された顔面が怒《いか》りにこわばっている。怒《おこ》ると煙草《たばこ》の煙を鼻から吐くクセがある。
「よく言うわ!! GMCは新しいプログラム納品して儲《もう》かればそれでいいかもしんないけどね、後輩《こうはい》の命がかかってるとあっちゃあこっちだって黙《だま》ってらんないのよ!!」
キム・ヘンドリックス教官は、これまた最古参のひとりであり、オルドリン第二期卒業生である。ベンチプレスで100キロを上げる両腕《りょううで》は、そこいらの訓練生のウェストほどの太さがある。眠《ねむ》っている間もガムを噛《か》んでいるという噂《うわさ》は本当だろうか。
まさに、二大|怪獣《かいじゅう》の大決戦。他の連中は青くなって、息を詰めて事の成り行きを見守っている。保安中隊に電話しようとしている奴《やつ》までいるが、本気で暴れだしたが最後、ショックロッドやスタンシールドでこの二人をどうにかできるとは思えない。
二人が――そして、程度の差こそあれ、会議室にいる十六名《ヽヽヽ》が――なぜこうもギスギスし、自意識|過剰《かじょう》になっているのか。その理由、実は明白であった。コの字型のテーブルのすみっこ、出入りロに一番近いその末席に、オルドリンでただひとりの「実戦経験を持つ教官|殿《どの》」がお座りになっておられるからだ。
星の数より飯《メンコ》の数――そんなことが、軍隊ではよく言われる。つまり、大学出たての少尉《しょうい》殿よりも八年兵の軍曹《ぐんそう》殿のほうがずっといばっているなんていうのは、いつの時代のどこの軍隊でも見られる光景だ。しかし、そのへんの意味において、この十七人目の教官殿は、史上|稀《まれ》に見る奇怪《きかい》な属性を有しているのである。すなわち、
『階級《ホシ》でいえばこの部屋にいる誰《だれ》よりも上位であり、経験《メンコ》の差といったらもはやパチンコ玉と中性子|核弾頭《かくだんとう》くらいの開きがあって、しかしこの部屋にいる誰よりも年下で、同じ教官である以上|同僚《どうりょう》であることには違いなく、オルドリン卒業生という点から見れば、つい昨日《きのう》ケが生えたばかりのハナタレの後輩《こうはい》」
扱《あつか》いにくいことこの上ない。
廊下《ろうか》などで彼女が向こうから歩いてくるのを見た教官は、例外なく突発性《とっぱつせい》の下痢《げり》に襲《おそ》われてトイレに駆《か》け込むか、いきなり急用を思い出して回れ右して今来た道を引き返す。こちらが先に敬礼をするべきなのか、それとも向こうの敬礼を待って答礼するべきなのか、そんな判断さえつかない。今まで、なんでもかんでもすべて敬礼で済ませてきた軍属たちは、このあまりにも複雑に絡《から》み合ったヒエラルキーの多元方程式に抗《こう》する術《すべ》を持たなかった。
「あきれた……!! あなたこそ自分のことしか考えていないんじゃなくて!? あなた、自分の部隊のご立派な成績が、新しい訓練メニューでくつがえされるかもしれないのが心配なだけなんでしょう!?」
「地球勤務を命じられた部隊はどうせ地球で一から訓練やり直すんだ! 地球で必要なことは地球で覚えるのが一番なんだよ! そもそも手前《てめ》ぇみてえなのは教官にゃお呼びじゃねえんだこのセールスレディが!!」
二人とも完全に頭に血がのぼっていて、しかし心のどこかでは、テーブルのすみの「彼女」の存在を強烈《きょうれつ》に意識している。二人が恐《いそ》れ、威嚇《いかく》しようとしているのは、実は口角泡《こうかくあわ》を飛ばしてわめき散らす目の前の相手ではなくて、会議が始まったときからひと言も口を開かず、ずっとうつむいたまま、資料を子細《しさい》に検討しているように見える「彼女」――ルノア・キササゲ大尉《たいい》なのだ。
古参の連中でさえそれだ。厳格極まりない席順の法則により、ルノア・キササゲ大尉の隣《となり》に座ることになってしまった鈴蘭《レイラン》・ジーナ・エッジクリフ教官の心中は、察するに余りある。もともと、ちょっと気の弱いところのある鈴蘭教官は、周囲の空気にあっという間に感染し、二時間におよぶ絶え間ない緊張《きんちょう》に苛《さいな》まれ続けて、今やほとんどダシガラのようになってしまっていた。
――も、もう駄目《だめ》……。トイレに逃《に》げよう。誰《だれ》も私を責めたりしないわ……。
そう決心し、汗《あせ》みどろの顔を上げ、救いを求めるような視線を右手のドアへと巡《めぐ》らせば、必然的にルノア教官の姿が目に入り――
うつむいたままのルノア教官の肩《かた》が、怒《いか》りをこらえているかのように震《ふる》えていることに気づいて、鈴蘭教官は腰《こし》が抜《ぬ》けそうなほど慄《おのの》いた。
アンジェラ・ホールドマン教官が吠《ほ》える。
「なんですって!? あなたみたいな筋肉ダルマにシミュレーション・サイバネティクスの何がわかるのよ!? 余計な口出ししないでバーベルでオナニーでもしてれば!?」
垂れ下がった髪《かみ》がギリギリのところで顔を隠《かく》していて、ルノア教官の表情は窺《うかが》えない。鈴蘭教官はとっさに周囲を見回す。誰も気づいていない。
キム・ヘンドリックス教官が吠える。
「ぬかしゃあがったなこのメカフェチ女!! てめえら死の商人にやりくられちまうほど|救 世 軍《サルベーション・アーミー》は落ちぶれちゃいねえんだ!! うちのプログラムより先にてめえの脳みそとっかえてもらえ!!」
ばきっ。ルノア教官の右手、真っ二つに折れたボールペン。もはや鈴蘭教官は生きた心地《ここち》がしない。部屋中に充満《じゅうまん》した煙草《たばこ》の煙《けむり》、相変わらず怒鳴《どな》り合っている二人の声、油を注がれる炎《ほのお》の如《ごと》くルノア教官の震《ふる》えは大きくなり、鈴蘭《レイラン》教官は神に祈《いの》り、神様、もしあなたがそこにいるのなら――!?
がんっ!!
席を蹴《け》って立ち上がる音。うつむいたまま、ルノア教官が張り上げる大音声《だいおんじょう》。それは、絶叫《ぜっきょう》と呼ぶにふさわしかった。
「いいかげんにしなさいっ!!」
会議室から、すべての音と動きが消滅《しょうめつ》した。ルノア教官が顔を上げ、尋常《じんじょう》ではないとひと目でわかるその双眸《そうぼう》に睨《にら》み倒《たお》され、誰《だれ》もが椅子《いす》からずり落ちて逃《に》げ惑《まど》った。
「姿勢制御系《ヤジロベエ》の再設定しないで起動したらぶっこけるって、なんべん言えばわかるのよ!!」
そして、ルノアは目を覚ました。
鬼《おに》の如《ごと》き視線が消え、当惑《とうわく》したような表情になり、あたりを見回して――
自分がどこにいて、何をしている最中だったのかを思い出す。
「あ、あれっ!? あのっ! えっと、わ、わたし、その、」
みっともないほど恐縮《きょうしゅく》して、耳たぶまで真っ赤になった顔をうつむかせる。そして蚊《か》の鳴くような声で、
「あ、あの……わたし、何か言いました……?」
周囲の面々《めんめん》は恐怖《きょうふ》に引《ひ》き攣《つ》った表情を浮かべ、示し合わせたかのようにそろって「うん」とうなずいた。
あの、〈起動演習〉に明け暮れた悪夢の訓練第一日目より、はや一ヶ月が過ぎようとしていた。
その間の、オルドリン市街の自殺教徒の殉教《ヽヽ》者数は二十一名。大本営の広報部は、地球の戦況《せんきょう》について相変わらず景気のいい話ばかりを並《なら》べ立て、二度の合同操機演習と一度の緊急出撃《きんきゅうしゅつげき》訓練があり、様々な理由により七名の訓練生が名簿《めいぼ》から消えた。
まあ、だいたいにおいて例年通りの、そんな一ヶ月。
成績のいい連中の中には、すでに一般《いっぱん》操機課程を修了《しゅうりょう》し、月面での操機実習に駒《こま》を進めている部隊もある。その筆頭は、やはりカデナ隊。このころになると、『カデナ隊に教官が配属されないのは上層部の方針であり、彼女たちは卒業後、月で初めての士官候補生として総督府《チベット》に送られるのだ』という憶測《おくそく》がまことしやかに飛び交っていた。
そして、ルノア隊の五人は、やっぱり成績の最底辺を疾走《しっそう》している。
いまだにひとりもドロップアウトしていないのは立派なものである。しかし、特筆するべきは、ルノア・キササゲ教官の同隊着任を境に、これ以下はあるまいと思われていた五人の成績が、さらなる急降下を見せたという点であろう。このことに関しても、様々な噂《うわさ》が錯綜《さくそう》していた。『ルノア教官の訓練方法があまりにも独創的なので、効果が現れるのには時間がかかるのだろう』とする者、『あの五人があまりにもバカすぎて、ルノア教官といえども扱《あつか》いかねているのでは』と考える者、『よき兵士がよき教官とは限らないのだ、ルノア・キササゲは確かに歴戦の勇士かもしれないが、やはり教官としては「使えない奴《やつ》」なのだ』と主張する者――。
ともかく、そうした周囲の邪推《じゃすい》をよそに、ルノア隊は今日も今日とて、起動を始め歩行・射撃《しゃげき》・回避《かいひ》運動運動・装備補充《そうびほじゅう》といった基本動作のあれこれを、車輪を回すネズミの如《ごと》く繰《く》り返している。
GARPの助けを一切借りずに。
死体のような顔色で、ルノアは廊下《ろうか》を歩いていた。
さっきのあれは、これまでの軍人生活で最悪の瞬間《しゅんかん》だったと思う。
連日連夜の最終報告作成で、ルノアの睡眠《すいみん》時間はこの一ヶ月間、平均して三時間というところだ。教官たちの中には、どうせ誰《だれ》も読みはしないのだとばかりに、最終報告を「例の如《ごと》く異常なし」のひと言ですませてしまう奴もいるが、ルノアにはそういうことができない。
自分は、ヤマグチ教官の教え子なのだから。
自分が納得できる目標は、自分の知っている「優れた教官」とは、ヤマグチ教官をおいて他《ほか》にはいないのだから。
自分は、ヤマグチ教官のように成らねばならないのだから。
あの人はすごい。つくづく、ルノアはそう思う。まさに鉄人だ。あの人は自分たちを鼻血も出ないほどこてんぱんにしごいたあと、食事も摂《と》らず、眠《ねむ》らず、飲みにも行かず、あの長文の最終報告をまとめていたのだろうか。もしかするとロボットか何かなのかもしれない。
口から洩《も》れる、そのため息まで力ない。
重い足取りで、ルノアは格納庫《ドック》への道のりを歩いた。しっかりしなさいよ、と自分を励《はげ》ます。今ごろ、あの五人も双脚砲台のコクピットで、言いつけておいたシミュレーションに取り組んでいるはずだ。
格納庫へと続く対爆隔壁《たいばくかくへき》を前にして、ルノアは背筋を伸ばし、表情を引《ひ》き締《し》める。それは、周囲の誰《だれ》よりもむしろ自分を偽《いつわ》るための、鬼軍曹《おにぐんそう》の仮面。
訓練|終了《しゅうりょう》の時刻まで、あと一時間。
シミユレーションエンジンが描《えが》き出す、オルドリン埋設《まいせつ》コロニー第六階層の光景。0と1とで構築された戦場。
ルノア隊の双脚砲台――222GARPは今、第六階層の闇の中、中央回廊に接続する無数の地下道の入りロのひとつに身を潜《ひそ》めている。ステルスエフェクターをフル稼動《かどう》させ、あらゆる意味で姿を消している。対消滅型熱音響迷彩《ブラックホール・オカリナ》で熱と音を隠《かく》し、周波数偽装変換《エイプ・トーク》で機体から洩《も》れ出すほぼすべての電波にペンキを塗《ぬ》りたくっている。すべての武装《ぶそう》の安全機構は解除され、マイクロセカンド単位の不可視レーザー照射を慎重《しんちょう》に繰《く》り返して周囲の状況を探る。
状況はこうだ。
現在、四機のクレイプからなる別働隊が、生成晶《せいせいしょう》の位置を特定するべく先行している。GARPの任務は、彼らからの情報を受け取って、生成晶を電磁滑空砲《リニアガン》で熱化学|砲撃《ほうげき》することだ。つまり、射撃指示《ブルースモーク》がコマンドされるその瞬間《しゅんかん》まで、GARPは絶対に敵に発見されてはならない立場にある。援護《えんご》も陽動もなし。責任だけは重大。ただひたすら隠れ続け、攻撃《こうげき》し、逃《に》げる。
現在、GARPの周囲に展開している対象物《オブジェクト》は五つ――うち、敵性目標と確認されているものが二つ、友軍機である可能性が極めて高いものがひとつ、残り二つは未確認《アンノウン》。敵性目標は恐《おそ》らくどちらも自殺個体、典型的な警戒索敵行動《CLP》を続けている。実にしつこい。GARPの臭蹴《しゅうせき》に気づいているのかもしれない。しかし、今のGARPにできるのは、祈《いの》ることだけ。
と。まあ、外から見れば、なかなかに緊張感《きんちょうかん》あふるる姿ではあるが、そのコクピットの中はと言えば、
「きゃー来る来るこっちに来る! ねーねー来るよ見つかっちゃうよ!? 見つかっちゃうよ絶対、見つかっちゃうと思うひとはーいはーいはーい! アイちゃん見つかっちゃう方にプリンひとつ!」
とわめいているのはアイである。まるで他人事《ひとごと》のような言い草だ。見つかる方にプリン二つ、とペスカトーレがつぶやき、アイはシートのヘッドレストごしにコクピットを見回して、
「ねーねー見つからないと思うひとは?」
「静かにしなさいよ! コクピットの中の話し声でバレることだってあるんだからね!」
とマリポに怒《おこ》られた。しかしアイはすました顔で、
「だいじょぶだよそんなの。ステルスエフェクター動かしてるもん」最近アイは知恵《ちえ》をつけてきて、こういう生意気な口答えをする。マリポはむっとして、
「だ、だからってねー、」
ひと悶着《もんちゃく》起こりそうな雰囲気《ふんいき》。チャーミーが割り込む。
「アマルスさん! 敵性目標002、左射界の警戒設定区域に侵入《しんにゅう》。広域守備地雷《ワイドエリアマイン》のトリガーフォーカスを集合《クラスター》A3からB1に変更《へんこう》します」
わざわざ口に出すまでもない報告。網膜《もうまく》映像を見ていればわかる。だからアマルスは答えない。アマルスの視界の中、002の矢印《フリップ》がゆっくりと動き続けている。サブトリガーをON、敵《サル》の警戒波に偽装《ぎそう》した質問信号をクレイプの先行部隊に飛ばす。タイムラグが二|秒《びょう》、迷彩《めいさい》圧縮のかかった返信が、視界のすみで展開される。
:MAJDに反応なし。索敵を続行中。全力で現状を維持せよ。
「アマルスさん――」
「情報待ちだ」
――くそ、見つかる方に南大門《ナムデムン》フィルター10カートンだ。
それでも、アマルスは迷いに迷う。
何もせず、このまま隠《かく》れているのもひとつの手だ。002がGARPに気づかない、という可能性もないではない。運よく発見されなかったらそれでよし。バレたところでしょせんはシミュレーション。ほんとに死ぬわけじゃない。
でも。
不意に、GARPの声。
『あ。教官|戻《もど》ってきましたよ』
シミュレーションエンジンのステイタスが更新《こうしん》された。第六管制室《ルノア》が状況《じょうきょう》の監視を再開した。
「002さらに接近、地雷《じらい》のフォーカスをA5に変更、アマルスさん――!」
チャーミーの声に焦《あせ》りが混じる。苛立《いらだ》たしげにアマルスが答える。
「黙ってろ! 情報待ちだ!」
網膜《もうまく》の中、002はすでに最終|警戒《けいかい》ラインのあたりをうろついている。さらに、新たな未確認《アンノウン》三体が出現。
――くそ! 底意地の悪いシミュレーションだ。
これが実戦だったら、アマルスは迷いはしない。これ以上ここに居座れば、まず間違《まちが》いなくあの世行きだ。頭の中、簡易|催眠《さいみん》の攻撃衝動《こうげきしょうどう》が起動され、「飛び出していって敵《てき》を引《ひ》き裂《さ》け」とわめき、それが沈静《ちんもく》反応にせき止められるたびに、アマルスの右腕《みぎうで》と左足《ひだりあし》が微《かす》かに痙攣《けいれん》する。
――やるか。
アマルスは決断する。一度も試したことのないやり方。ぶっつけになるが、他《ほか》の方法を考えつけなかった。
「チャーミー、奴《やつ》らの指示電波の傍受履歴《ぼうじゅりれき》をリロードして集合波を検索しろ。地雷原A1にインタラプト、ヒットしたデータにノイズをランダムに混ぜて、A1のセンサーから流せ」
要するに、傍受した敵の会話から「仲間を呼び集める声」をピックアップし、地雷に転送して発信、誘蛾灯《ゆうがとう》の代わりにして時間を稼《かせ》ごうというのだ。
まずいってそれー。いくら迷彩《めいさい》したってさ、そんなでっかいもん電波《なみ》で送ったら絶対バレるって。ペスカトーレが能天気《のうてんき》な口調で言う。もっともな指摘《してき》なので、アマルスはそれを無視する。最後にもう一度だけ、先行部隊の状況を呼び出す。
:MAJDに反応なし。索敵を続行中。全力で現状を維持せよ。
ルノアが見ている。そのことが、アマルスの頭を一瞬《いっしゅん》だけよぎった。
――知ったことか。
「やれチャーミー」
はい、とチャーミーは答え、網膜《もうまく》表示された集合《クラスター》A1を視線でポイント、全センサーのリンカーをキックしてダミーの指示電波を流した。
うまくいけば時間は稼《かせ》げるはず。下手《へた》をすれば――
ほんの数秒《すうびょう》の間、状況《じょうきょう》に目立った変化はないかに見えた。
突然《とつぜん》、二つの敵性目標と五つの未確認《アンノウン》が、GARPめがけて殺到《さっとう》した。レーザー照準器がそのすべてに対する追索《トレス》を失敗。網膜に表示される七つの"LOST"。
「きゃーバレたバレた――! やっつけろ――!」
アイが大はしゃぎした。アマルスはレシーバーに向かって叫《さけ》んだ。
「GARPより全機! 状況|放棄《ほうき》、作戦中止! ステルスエフェクトを強制終了《キル》して全センサーをアクティブ!」
アマルスはすべての地雷原《じらいげん》を起爆《トリガ》。網膜の赤外映像を埋め尽くす熱色の閃光《せんこう》。
「逃《に》げるぞ!! 近距離砲戦《きんきょりほうせん》用意!!」
結局、逃げ切れなかった。
今日、十二回目の全滅《APD》だった。
ルノアは今、双脚砲台のサイドハッチの前に五人を並《なら》べて、じっと腕組《うでぐ》みをしたまま立ち尽くしている。何か考え込んでいるようにうつむき、さっきからひと言も口をきかない。五人は居心地《いごこち》悪そうに身じろぎしている。
ルノアが、うつむいたまま、いきなり、
「マリポ」名前を呼ばれて、マリポはやりすぎなくらいに背筋を伸ばした。
「はいっ!」クリップボードに止めたプリントアウトを見ながら、ルノアは早口に、
「最後の操機、最終フラグ通過の十六秒後、三体の敵性目標に接触《せっしょく》したとき、トリガーのタイミングをGARPに引《ひ》き渡《わた》したわね。その理由は?」
「そ、それは」
マリポは口ごもる。例によって今回のシミュレーションも、GARPの支援《しえん》を受けることは禁止されていたのである。
「あたしが命じたんだよ」
いきなりアマルスが口を挟《はさ》んだ。マリポもアイもチャーミーもペスカトーレも、弾《はじ》かれたようにアマルスの顔を見る。
一番|右端《みぎはし》にだらっと立っているアマルスは、昂然《こうぜん》とあごを上げ、
「当然の指示だろ? あのとき射線上に味方機がいた。マリポの手動射撃《しゅどうしゃげき》じゃ危険すぎる」
そう言って、文句あるかとでも言うようにルノアを見返す。
マリポは完全に動転し、口を開こうとした瞬間《しゅんかん》にアマルスにものすごい目で睨《にら》みつけられて言葉を失った。嘘《うそ》だ。命じられてなどいない。あのとき、手動射撃《しゅどうしゃげき》が危険だと判断し、GARPにトリガーを接続したのは自分だ。
ルノアは見るものすべてを凍《い》てつかせるような顔で、毒のような言葉を紡《つむ》いだ。
「まじめに訓練やるつもりあるのか? 何のためのシミュレーションだと思っている?」
アマルスはアマルスで、いつになく感情的になっていた。そーかよ、じゃあ言ってやるよ、という感じの、予備動作たっぷりの口答えをした。
「こっちが聞きたいね! 何のためのシミュレーションだよ? 流体|脊髄凍結《せきずいとうけつ》させて訓練してるのなんてうちらだけだぞ! GARPの支援を受けないことに何の意味があるんだよ!?」
ついに言ってしまった――アマルスだけでなく全員が、恐《おそ》れとともにある種のカタルシスを感じていた。それは、訓練初日からずっと、全員の胸にわだかまっていた疑問《ぎもん》だったのだ。
なぜ、GARPの手を借りてはいけないのか。
「では聞く」
ルノアは一度、全員の顔を見渡《みわた》してから、静かに口を開いた。
「それではなぜ、最初から最後までGARPにやらせなかった? 少なくとも今の段階では、GARPはお前ら全員を合わせたよりもずっとましな操機をする。GARPに全部任せてしまえば、フラグを五つも取りこぼさずにすんだはずだし、味方を三度も誤射せずにすんだはずだ」
全員が言葉に詰まった。しかし、現実には――ルノアのとどめは冷酷《れいこく》だった。
「なぜ、お前らはここにいる?」
それは――
ルノアは肩《かた》の力を抜《ぬ》いて、一瞬《いっしゅん》だけあらぬ方向に視線を泳がせた。クリップボードに目を落として、
「――アイ、それにペスカトーレ。なんだこの損傷|箇所《かしょ》の偏《かたよ》りは。左側面と後方だけで全体の八割だぞ。手を抜くのもたいがいにしろ。両名とも二時間延長、〈半球守備|迎撃《げいげき》演習〉」
ということは、操脚長《そうきゃくちょう》であるアマルスも付き合わなければならない。
その横で、マリポは見ていてかわいそうになるほどめげた。指示に反してGARPの手を借りたのは自分なのだから。
「チャーミー、それに――」
ルノアは、ちらりとマリポに目をやる。
「マリポは上がってよし」
そして、多分――マリポは思った――ルノア教官も、そのことに気づいている。
ルノアは踵《きびす》を返した。立ち去りかけてふと、肩|越《ご》しに振り返る。
「――そう、あの、」
アマルスはそっぽを向いてふてくされており、マリポは自分のつま先を見つめていて、アイは居残りいやあ〜と叫《さけ》びながらじたじたばたばた、ペスカトーレはさーてどんどんいきましょう、お次はポニーテールをエレベータのドアにはさんでしまったカデナ・メイプルリーフ。チャーミーだけが気づいて、
「はい?」
「あれは、誰《だれ》のアイデア?」
「あれ」と言われても、チャーミーには何のことかわからない。
「だから――つまり、エテ公の集合波のデータをダミーに使うっていう、」
チャーミーは、ああ、と顔を輝《かがや》かせ、
「あの、みんなで考えたんです。しばらく前にです。偽《にせ》の電波で敵を攪乱《かくらん》できるかも、って。でも、偽の電波は離れたところから出さないと意味ないし、みんなで相談して、射出散布式の地雷原《じらいげん》を利用する今の形にしたのはアマルスさんです」
ルノアはあさっての方を向き、ふーん、とつぶやく。
これはもしかして。チャーミーは勢い込んで、
「でも、かなり大きなデータを送らなきゃいけないってリスクがあるんです。分散するか圧縮するか迷彩《めいさい》するか、それ、わたしの宿題なんです。まだできてないんです。どうやって送るにしても、データを受けとるシステムが地雷のプロセッサーだと制約が大きくて、」
「いい。わかった」
ルノアは歩き去る。
居住ユニットのシャワールームは狭《せま》い。
訓練生のユニットも教官用のユニットもヤマグチ次官のユニットも、シャワールームだけは同じ作りだ。それはもう、断固狭い。まともに床《ゆか》にしゃがめないほど狭い。立ったまま身動きもできない、とまでは言わないが、腕《うで》の動きが極端《きょくたん》に制限される程度には狭い。「棺桶《かんおけ》シャワー」とはよく言ったものである。ロッカー長屋の大きくてきれいなシャワールームは、各部隊への曜日ごとの割り当てが決まっていて、週一回しか使えない。
天井《てんじょう》から降り注ぐのは、どんなに温度を高くしても、「ぬるいお湯」ではなく「冷たくはない水」である。ただ、リサイクルレートを100パーセントに設定すると――つまり、排水《はいすい》を無限に循環《じゅんかん》させると――供給リミッターの制約が関係なくなるので、それこそ滝《たき》のような勢いのシャワーを浴びることはできる。今、ルノアは、棺桶シャワーの壁《かべ》に背中をあずけ、そんな集中|豪雨《ごうう》のような水の流れの中で目を閉じている。狭いパイプの中を、激流《げきりゅう》に押し流されているような感覚。
ルノアが地球から持ち込んだ、情けないくらい少ない私物の中に、七枚のレーザーディスケットがある。
七枚のうちのどれでもいい、ビューアーで再生してみれば、悪《SSD》と戦う超甲頭蓋《ちょうこうずがい》メットマンの雄姿《ゆうし》を見ることができる。が、データーアクセサーのドライブに差し込んで、画像のクラスターに圧縮展開の呪文《じゅもん》を食わせてやれば、出るわ出るわ、暗号化されたあやしい構造体。地球を発つ前に北米総司令部《フォートワース》のライブラリからコピーした、過去に北米管区で行われた実戦のデータである。コピーは合法だが、月に持ち込むのは違法《いほう》。情報管理基準の分類上《ぶんるいじょう》、『士気低下を引き起こす可能性のある情報』であるためだ。しかし、ルノアはあえて危険を冒《おか》してこのデータを持ち込んだ。訓練で使用するシミュレーションのシナリオは、適当なマップに適当に敵をばら撒《ま》いただけのレディメイドのデータよりも、実戦のデータをベースにしたオリジナルメイドの方が望ましい――そう考えたからである。
もちろん、あの五人はこのことを知らない。今日までの約一ヶ月間、自分たちが戦ってきたシミュレーションのすべてが、実戦を下敷《したじ》きにしたものであることも知らない。
今日、ルノアが課したシミュレーション――〈数値|砲撃《ほうげき》演習〉のシナリオの元ネタは、正式な名称を"20581107.woc"という。数字はその戦闘《せんとう》が行われた日付を、最後のアルファベット三文字は「属性」を示す。
そう。あの五人は知らなかった。
今日、自分たちが戦った〈数値|砲撃《ほうげき》演習〉が、|全滅シナリオ《ポイントWOC》≠ナあったことを。
戦闘記録《オリジナル》の悲劇の主人公は、ゴルゴン02G<{ナティ斥候隊《せっこうたい》。時に二〇五八年十一月七日。北米管区、アルパインの西、サザンパシフィック鉄道防衛線内、当時すでに廃虚《はいきょ》と化していた地下壕《ちかごう》都市。
オチから言おう。通信事故だった。あのとき、あそこには、生成晶《せいせいしょう》などなかったのだ。北米総司令部《フォートワース》の誰《だれ》かがそのことに気づいたときには、もうボナティ斥候隊はエテ公の前哨《せんしょう》に捕《つか》まっていた。その背後に潜伏《せんぷく》していた敵本体の個体数は、最新の推定では45。
絵に描いたようなAPD。
北米総司令部のライブラリに保存されていた、ゴルゴンの機体の残骸《ざんがい》から回収されたデータレコーダーの中身――それが、今日あの五人が戦った、"20581107.woc"だ。あんなシナリオ、自分だって生き残れはしない、とルノアは思う。生還《せいかん》確率がまったくのゼロとは言わないが、これに比べたらサハラ砂漠《さばく》の降水確率の方がまだ高い。
つまり、今日の訓練の意図は、「いかにして敵を倒《たお》すか」ではなく、「いかにして長時間敵から隠《かく》れ続けるか」ということにあった。もちろん、事前にそのことを説明したりはしなかった。実戦で、そんな説明をしてくれる者がいれば苦労はない。説明されなければできないようではだめだ。
そして、文字どおり悪夢《あくむ》の定例会議が終わり、第六管制室に戻《もど》ってきたルノアは、訓練|状況《じょうきょう》をALFで確認して、己《おの》が目を疑《うたが》った。
十一回、連中は全滅《ぜんめつ》していた。これはいい。当たり前の話だ。異常だったのは、十一回繰り返されたシミュレーションの、「作戦開始より敵に発見されるまでの平均所要時間」である。
三十二分四十一|秒《びょう》。
何かの間違《まちが》いだと思った。
エラーの原因を突き止めようとしてエンジンに接続し、現在進行中のステイタスが表示されて、ルノアの全身が硬直《こうちょく》した。
進行中の十二回目。作戦開始より五十二分〇三秒。しかも、まだ連中は発見されていない。
これは戦闘記録の――ボナティ斥候隊の双脚砲台「MEDUSA」の二倍近い数字である。
結局、連中は最後の十二回目を、五十五分二十九秒にわたって隠れ続けた。状況に合わせてステルスエフェクターの設定を最適化し、移動を必要最小限にとどめ、しかも、発見される寸前、アマルス操脚長《そうきゃくちょう》は最後の手段として、ルノアでさえも予想していなかった行動に出た。センサーの記録からプラネリアムの集合信号をロードし、ランダムノイズをエフェクトして偽装《ぎそう》をほどこし、地雷《じらい》のセンサーを使って発信したのだ。結局、それは敵に発見される引き金になってしまったが、実に独創的なアイデアである。発見されたのは、データを地雷のセンサーに転送した電波の迷彩《めいさい》処理が甘《あま》かったから――連中は今でもそう思っているだろう。しかし、真相は違《ちが》う。アイデアの独創性が、システムの柔軟《じゅなん》さを上回ってしまったのだ。シミュレーシヨンエンジンが、データの転送をただ単純に「シナリオ許容|範囲量《はんいりょう》を上回る情報の送信」として処理してしまったのである。これが実戦だったら、プラネリアムたちは地雷原《じらいげん》のセンサーへと引き寄せられ、さらにいくらかの時間が稼《かせ》げたはずだ――。ルノアはそう思う。
しかも、あの連中はルノアの言いつけ通り、そこまでの過程すべてを手動《マニュアル》で、GARPのアシストを一切受けずに、自分たちの力だけでやってのけたのだ。第六管制室で、あのオペレーションを目にして、ルノアは背中がぞくぞくするくらい嬉《うれ》しくなった。五人が初めて、「自分の足で歩いた」のだ。定例会議から引きずってきたブルーな気分をふっ飛ばすくらいの大事件だった。ラセレーナに見せつけてやりたかった。――どうだ! わたしの子分は、訓練生だったころのあんたなんかより、ずっと見どころがあるんだから!――そう叫《さけ》びたかった。
あのときは。
目を閉じたまま、壁《かべ》のタッチパネルに触《ふ》れてシャワーを止めた。うつむき、前髪《まえがみ》から滴《したた》り落ちるしずくを胸に感じた。
Tシャツ1枚の姿でベッドに倒《たお》れ込む。空腹といえば空腹だが、部屋から出るのも、テイクアウトを注文するのさえ億劫《おっくる》だった。最終報告をまとめなければと思うのだが、ベッドから起き上がる気力をどうしても奮《ふる》い起こせない。
部屋の電気もつけていない。
死んじゃおーかなー、などと、脈絡《みゃくらく》なく思う。
しばらく、ルノアはベッドの上をごろんごろん転がっていた。
動かなくなった。
ついに死んだか。
突然《とつぜん》がばっと跳《は》ね起きた。ルノアはベッドから身を起こして端末《たんまつ》に向かう。キーを叩《たた》いて、|メールボックス《るすばんでんわ》の中身をALFにぶちまけた。
やっぱり来てる。
一通だけ。衛星経由のS2接続《コネクト》。ルノア・キササゲ宛《あて》。
のろのろとキーを叩いて、その接続記録を開く。
突然、じゃんじゃじゃじゃーじゃんじゃじゃじゃーんじゃんじゃんっじゃじゃーん、といういけすかねー音楽が狭苦《せまくる》しいユニットに響《ひび》き渡《わた》った。端末のALFに立体表示される、パチンコ屋顔負けの、目の眩《くら》みそうなエフェクトを施《ほど》されたクリフト家の紋章《もんしょう》。
『あーら、いないの? 残念ねえ、今日こそは直接話ができると思ってたのに』
続いて、カメラ目線の流し目で艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》むラセレーナ・クリフト大尉《たいい》のバストアップがフェードイン。ぶん殴《なぐ》ったら実際に手応《てごた》えがありそうなくらいの高密度映像。着信時間の表示を見て、いるわけないだうその時間に、と思う。こっちが訓練に出てるころを見計らって接続しているくせに。
『忙《いそが》しいなら仕方がないわね。なにしろあなたは今や我が母校の教官|殿《どの》なんですものね。こちらは最近大きな作戦もなくて退屈《たいくつ》しているところなの。うらやましいわ』
ひとこと言ってくれれば喜んで代わってあげる、と思う。しかしまあ、地球の|救 世 軍《サルベーション・アーミー》兵士がヒマなのはいいことだ。
『でも、このたびわたくしも、北部方面|偵察《ていさつ》中隊長の補佐官に任命されましたのよ。これでようやくわたくしも中隊長会議に出席する立場に――あらごめんなさい、あなたは確か小隊長どまりでしたわね。気を悪くなさらないでぉーほほほほほほほほほほほほほほ。まあ、わたしの補佐官任命なんてちっぽけなものでしょうけど。あなたの栄転《ヽヽ》に比べれば」
北部方面偵察中隊長? ああ――あのエロオヤジ。あ、でもあんたなら大丈夫《だいじょうぶ》か。クリフト家の一人|娘《むすめ》にセクハラする根性なんて、あのオヤジにはないもの。
『ああ……オルドリンの日々がまるで昨日《きのう》のことのよう。あなたがひとりで居残り訓練させられてベソかいてたこととか、あなたが双脚砲台でコケてドックの壁ぶち破ったこととか、あなたが軌道《きどう》降下演習でおしっこ漏《も》らしたこととか』
ねえ知ってる? ヤマグチ教官って今、オルドリンの次官してるんだよ。
『あなたには期待しているわ。なにしろ、わたくしの部下になるかもしれない後進たちの指導にあたっているんですからね』
うん。ひとりすごいのがいる。えーと、なんて名前だったかな――カナダ、違《ちが》うっけ、まあいいや。カナダ・なんとか。訓練階級は伍長《ごちょう》、だと思うんだけど。あの子は地球行きってことになるんじゃないかな。わたしが指導してるわけじゃないけど。
モニターの中のラセレーナが何か言うたびに、ルノアは心の中でそれに答えていた。惚《ほう》けたようなルノアの顔には、空《うつ》ろな笑みすら浮かんでいた。ラセレーナの接続記録はそれからしばらく続き、どうでもいいことを散々に自慢《じまん》した挙げ句、再びの派手な音楽とともに終わった。
接続記録終了《コネクト・アウト》。四分三十五秒。この通信だけでいくらかかっているのだろう。
ラセレーナからの接続《コネクト》は、一月ほど前から一日おきくらいのペースでずっと続いている。初めてこれを見たときには、怒《いか》り狂《くる》って端末《たんまつ》をぶち壊《こわ》しそうになったルノアだった。しばらくは、ラセレーナからの接続記録だとわかると問答無用で消去《デリート》していたが、そのうちに、怒るくらいならよせばいいのに中身を見るようになり、最近では内心、心待ちにしている。
なにしろ、自分に接続をくれる相手など、ラセレーナをおいて他《ほか》にはいないのだから。
ルノアは、ラセレーナの接続記録をまた始めから再生した。
まばたきする間もないほどの、ほんの一瞬《いっしゅん》のことではあるが、ラセレーナの接続記録を見ていると、訓練生だったころの自分に戻《もど》れるような気がする。殴《なぐ》られ、蹴《け》られするかわりに責任は全部教官持ちで、難しいことなど何もなく、友達もいて、教官の悪口を言っては笑い、自分たちは世界を救う聖戦士なのだと思っていたあのころ。
かなりきてるなと、自覚してはいる。
精神的にヤバいな、と自分でも思う。
あいつらはどうしているだろう――毎日、ルノアはそんなことを思う。旧ルノア隊、小隊長としてルノアが指揮していた遊撃小隊――"Karakorum-K2"。
今や、あの部隊を指揮《しき》しているのは、誰《だれ》あろうラセレーナ・クリフトその人だ。
ラセレーナからの接続でそのことを知ったときは、やっぱりショックだった。自分の思い出までを汚染《おせん》しようとするラセレーナに対して抱《いだ》いた感情は、ほとんど殺意に近いものだった。どこまで嫌《いや》がらせをすれば気がすむんだ、と思った。
しかし今では、それでよかったのかもしれない、とすら思い始めている。
ちよっとワンマンなところがあるから、部隊指揮官としてのセンスはいまいちであるが、しかしその点を割り引いたとしても、ラセレーナは文句なく優秀《ゆうしゅう》だ。それは、オルドリンでしのぎを削《けず》った自分が一番よく知っている。どこの馬の骨ともわからない奴《やつ》に任せるよりは――。
千々《ちぢ》に乱れる幾多の思いに翻弄《ほんろう》され、ALFの光の中、椅子《いす》の上でひざを抱《かか》え、ルノアはめちゃくちゃにヘコんだ。
部屋にいるときはいつだってこのザマなのに、一歩部屋を出た途端《とたん》、ルノアは「ヤマグチ教官」になる。ヤマグチ教官の仮面に、表情も、言葉も、行動も固定される。「冷静で」「いつも正しく」「怒鳴《どな》ることもなく」「優《やさ》しい言葉など滅多《めった》に口にしない」「軽々しく誉《ほ》めたりしない」ヤマグチ教官。
ルノアは、この仮面をどうしても外すことができない。なぜなら、
なぜなら――。
突然《とつぜん》の、安物の目覚し時計のような音に驚《おどろ》いて、ルノアは身を震《ふる》わせた。電話の音。私用接続が来たことを知らせる電子音。
ラセレーナかもしれない。接続をアクティヴにしようとしたルノアの手は、キーを叩《たた》こうとして何度も躊躇《ためら》った。こんな無様《ぶざま》なところを見せて、あいつを喜ばせたくない。そう思っている一方で、もうどうなってもいいから誰かと話がしたい、という自暴自棄《じぼうじき》な期待。
接続《コネクト》。
『ごめんなさい、寝て――は、いなかったみたいね』
ヤマグチ次官だった。執務室《しつむしつ》かららしい。
「あ――あの、はい。寝てません」
妙《みょう》な受け答えをしながら、ルノアはあわてて表情を取《と》り繕《つくろ》う。ALFの中のヤマグチ次官が、身を乗り出すようにしてルノアの顔《のぞ》を覗き込み、
『大丈夫? なんだか疲《つか》れてるみたいだけど』
「大丈夫! 大丈夫です、全然平気です。――あの、何か?」
『いえ、最近あなたとも顔を合わせていないし、一杯《いっぱい》どうかなと思って。このところ私の方も仕事がたまってて、少しガス抜きしたい気分なのよ。よかったら付き合ってくれない?』
「……」
『――ルノア?』
不覚にも、そのときルノアは涙《なみだ》ぐんでしまった。
第三階層のはずれ、『龍門亭《ドラゴン・イン》』は、教官たちをはじめとするオルドリン基地関係者の御用達《ごようたし》のバーである。場所は教官なら誰《だれ》でも知っているから、誰かひとりをつかまえて尋《たず》ねてみればいい。決まって『第三階層の、慶龍《けいりゅう》の繁華街《はんかがい》沿いの真ん中あたり、階段を上ってぐるっと回った右側』と答えるはずだ。そうとしか説明のしようのない場所なのである。正確な住所もあるにはあるが、そんなものは何の役にも立たない。都市計画などクソ食らえと言わんばかりの無《む》秩序《ちつじょ》さが、第三階層の「味」でもある。
店内のケバい内装《ないそう》は、清朝《しんちょう》末期の居酒屋《いざかや》を再現しているらしい。建材はすべて地球から運び込んだという話で、女将《おかみ》をはじめ従業員の全員が映画から抜《ぬ》け出てきたような格好をしている。疲れきった教官たちのささくれた神経をアルコール洗浄《せんじょう》するには、このくらいどぎつくて、毒の強い店でなければならないのだ。
「なんだかおかしいわね――あなたと私が一緒《いっしょ》にお酒飲んでるなんて」
木製の、暖かい感じのする椅子《いす》に斜《なな》めに座り、ヤマグチ次官は高梁酒《カオリャンチュウ》をなめながら、さっきから落ち着かない様子で始終きょろきょろしているルノアをおもしろそうに眺《なが》めている。
「は? え、はい、」
生返事。ルノアは困ったように、バーボンのグラスを傾《かたむ》けた。龍門亭にバーボンがあってよかった。北米で酒と言えばこれのことである。ビールは酒のうちに入らない。
ため息とともに、
「なんにも変わってないんですね、月《ここ》は」
「そんなことないわよ」
ヤマグチ次官は頬杖《ほおづえ》をつき、|妙 青 梗 菜《チンゲンサイノイタメモノ》を長い箸《はし》で解剖《かいぼう》するようにつつきまわしながら、
「ちょっと見にはそう見えるだけ――当然よね、大本営の予算の五分の一が、情報操作のために使われているんだから。月にプラネリアムが出現することなんて、あなたが訓練生だったころは、年に一度あるかないか――そんなものだったでしょ」
「――今は違《ちが》うんですか」
「第六層より下って、月面開発計画の変更《へんこう》で、文明|崩壊《ほうかい》の前から封鎖《ふうさ》されてるでしょ。だから、人目につくことなんてまずないし、民間の死傷者はまだ出てないから……。でも、いつまでも隠し通せるものじゃないわ。最近じゃテロまで起こるのよ。笑っちゃうわ」
「テロ……ですか」
厨房《ちゅうぼう》の中、上海鍋《シャンハイなべ》の上で、店中が明るくなるほどの炎《ほのお》が上がる。カウンターの向こうで、客の注文を大声で怒鳴《どな》りあいながら油まみれになって働く女たちを見つめ、ヤマグチ次官はひとりごとのようにつぶやく。
「情報公開を要求するテロ。物資統制の撤廃《てっぱい》を求めるテロ。自殺教の取《と》り締《し》まりに反対するテロ、自殺教の取り締まり強化を主張するテロ。なんでもござれよ。ジュリエット計画の施行《しこう》直後に、厚生局が冷凍睡眠《コールドスリープ》技術を一般《いっぱん》開放したら希望者が殺到《さっとう》して、宝クジみたいな確率の抽選《ちゅうせん》になったって話、知ってる? しばらくは落ち着いてたんだけど、最近また希望者が急増して、厚生局の連中は大忙《おおいそがし》しよ。食いぶちが減るんで、農水局は大喜びしてるけどね。自殺教はこっちでも大流行《おおはや》りだし」
「自殺教って――あの?」
ヤマグチ次官の「ええ」というつぶやきは力ない。
「地球では大変だそうね。未遂で保護された者は強制的に阻止催眠《そしさいみん》を施《ほどこ》されるって話、ほんと?」
「ええ、本当――みたいです。あんまりくわしくは知らないんですけど」
新世界・聖《セント》バレンタイン正教――通称『自殺教』。
熱狂的《ねっきょうてき》な信徒は「宗教などという曖昧《あいまい》なものと一緒《いっしょ》にしてほしくない」と言うし、それ以外の人間は「あんなものが宗教と呼べるか」と言う。その教義を簡単に言えばこうなる。曰《いわ》く――こんな無茶苦茶な世の中にはとっとと見切りをつけて、みんなで仲良く死にましょう。来世《らいせ》は理想境であり、戦争も環境汚染《かんきょうおせん》もない素晴らしいところです。そこに到達《とうたつ》するための唯一《ゆいいつ》の方法は、現世《げんせ》への積極的な決別、つまり「自殺」であります――と。
プラネリアム襲来《しゅうらい》による文明|崩壊《ほうかい》以降、焼けただれた廃虚《はいきょ》において、さまよい歩く幾億もの絶望色をした難民たちが、唯一ただで手に入れられるものといったら神や仏しかない。今日び、この手の浄土信仰《じょうとしんこう》なぞ星の数だが、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》はたいがいの新興宗教にいい顔をしない。人口減少=戦力減少であるから、この自殺教などはとくに目の仇《かたき》にされている。にもかかわらず、今日の自殺教の拡大は猛威《もうい》を振《ふ》るう疫病《えきびょう》の如《ごと》しだ。明確な団体として存在しているわけでもなく、一巻の経典も持たず、一言《いちごん》の聖句もひとりの聖者も頂かず、自殺による浄土への到達《とうたつ》をただ約するだけの奇妙《きみょう》な教え。確かに、自殺教は宗教ではあるまい。言ってみればそれは集団意識のバケモノであり、「今」への絶望感の別名だ。信じる信じないに関係なく、誰《だれ》もが潜在的《せんざいてき》な信徒であること――それこそが、自殺教が革命的である点だろう。
自殺を考えたことのない人間などいないのだから。
「自殺の名所のね、エアロックがあるのよ。みんなで手をつないで、歌なんかうたって、外側のハッチを開くの。――正確な人口推移って救世軍の極秘|事項《じこう》だけど、あなたが訓練生だったころの三分の二くらいじゃないかな――今、月で生きて歩いてる人間って」
店内の照明は、壁《かべ》に並《なら》んだホログラフの松明《たいまつ》と厨房《ちゅうぼう》の焜炉《こんろ》の炎《ほのお》。その照り返しを受け、ともすれば闇《やみ》に沈《しず》むヤマグチ次官の横顔は、生者のそれにはまるで見えない。
「多分――みんな、殺されるのにも、殺されるの見るのにも慣れちゃったのね。最近思うのよ、人類《じんるい》って、もう、種《しゅ》としての生きる力、みたいなものを失いかけてるんじゃないかって――」
「ヤマグチ教官――」
ヤマグチ次官の口は、憑《つ》かれたように言葉を紡《つむ》ぐ。
「神様だか誰《だれ》だか知らないけど、余計なお世話よね――|プラネリアム《あんなもの》なんて、いなくても人類は勝手に滅《ほろ》びるのに――」
「ヤマグチ教官!!」
ヤマグチ次官は我に返った。「あはっ」という息を吐いて、憑き物が落ちたように表情が変わった。
「ごめんね、へんな話して。私も疲《つか》れてるのかもしれないわ」
ルノアはちょっと怒《おこ》ったような顔をする。
「ヤマグチ教官て、弱音《よわね》なんか吐かない人だと思ってました」
ぼこぼこした木のテーブルから杯《さかずき》を取り上げ、ヤマグチ次官は昔《むかし》を懐《なつ》かしむような目をして、
「あなたに言われちゃうと何も言えないわね――あなたは昔から努力家だったし。頑張《がんば》りすぎちゃうところもあるけど。聞いたわよ、今日の定例会議」
「定例……ええっ!! あの、あ、あれはですね、」
ルノアは椅子《いす》から飛び上がりそうになるほどうろたえた。何とか格好のつく理由をでっち上げようと焦《あせ》る。
「あなた昔《むかし》からそうよね――時々ブレーキが利《き》かなくなるんだから。少しは要領よくやらないと、身体《からだ》がもたないわよ」
そんなことを言われても、ルノアには答えようがない。
「わたしは――わたしは、仮にも教官ですから」
「だからこそよ。教官の作業量が、訓練生とは比較《ひかく》にならないくらい多いってことは、もうわかったでしよ? その作業だって上が勝手に決めたものだし、全部に全力投球できないのは仕方ないのよ。それならせめてペース配分を考えなきゃ。デスクワークなんかにかまけて、訓練生の目につくところでぐったりしてたら、それこそ示しがつかないわ」
「そんな……」
ルノアがまだ何か不服そうにしていると、ヤマグチ次官は突然真剣《とつぜんしんけん》な顔をして、いきなり話を変えた。
「そうだ。あなたの顔見たら真っ先に聞こうと思ってたことがあるんだけど、いい? 大事なことだから、正直に答えて」
ヤマグチ次官にじっと見つめられ、急に居心地《いごこち》が悪くなって、ルノアは「――なんですか?」と言いながら視線をそらし、グラスを傾ける。
突然、ヤマグチ次官はいたずらっぼく笑った。
「地球には、いい男《ひと》いた?」
ルノアはバーボンにむせ返った。しばらくげほげほやった挙げ句に、猛烈《もうれつ》な勢いでヤマグチ次官に食って掛かった。
「な、なんですかいきなり!! わたしは、そ、そんなことのために地球に降りたんじゃ――」
バーボンは、今ルノアが手にしているそれが一杯目《いっぱいめ》だ。しかし、ルノアの顔は店内の薄暗《うすぐら》い光の下でもそれとわかるくらい赤い。
「いいのよ隠《かく》さなくったって」
ヤマグチ次官は余裕《よゆう》たっぷりな感じで、ルノアの顔を見つめてそう言う。しかし、隠すも何も、誰《だれ》がどう見ても、ルノアの顔と態度は何も隠せてはいない。
「ねえ、なんていう人? 同僚? 部下? 上司?」
「もうっ!! そんなのわたしのプライバシーですっ!!」
ルノアはぷいと横を向き、完全にむくれた。その一方で、「あの」ヤマグチ教官とこんな話をしている今の状況《じょうきょう》を、心のどこかで喜んでもいた。
「いいじゃない名前くらい。教えなさいよ」
「いいじゃないですか名前なんか!」
「あ。やっぱりいるわけね、そういう人」
「え!? あ、それは、」
「私がその気になったら何だって調べはつくんだから。白状なさい」
ルノアは強情に口を閉ざしている。
「じゃあ、私が質問するから、イエスかノーで答えて。それならいいでしよ?」
ルノアは返事をしない。ヤマグチ次官は構わずに、
「じゃあ、まず――その人は、軍人?」
ずいぶんためらった。ついに、ルノアは恥《は》ずかしそうに、首を横に振った。へえ――と、ヤマグチ次官の顔に驚《おどろ》きの表情が浮かぶ。
「年上?」
またしばらくためらった後に、ルノアはうなずく。
「ちゃんと避妊《ひにん》はした?」
「ヤマグチ教官っっっ!!!!!!!!!!」
他《ほか》の客全員が振り向くような大声でルノアは叫《さけ》んだ。
「だって、イエスかノーで答えられる質問なんて、他に思いつかないんだもの」
「いいです! もうイエスかノーかなんてどうでもいいですから!」
耳の先まで真っ赤っかにして、ルノアはついに降伏《こうふく》した。そんなルールでこれ以上質問されたら、何を聞かれるかわかったものではない。
「そうそう。最初から素直にそう言えばいいのよ。どんな奴《やつ》なのよ、その果報者は」
ルノアはグラスに半分以上残っていたバーボンを一気にあけた。うつむいて、ふうっと息をつき、
ぽつりと言った。
「自転車に乗れないんです」
「――え?」
「月生まれの、女の人が、自転車に乗れないのは、珍《めずら》しくないですけど――ぶきっちょなんです。見た目は、よさそう、なんですけど。運動神経。あ、ご存じですか? 人間の身体《からだ》に、運動神経っていう名前の神経はないんです」
「運動神経はいいから。それでそれで?」
ヤマグチ次官はいつになく目を輝《かがや》かせている。ルノアはぞんざいな手つきで、グラスにバーボンをどどどどどっと注《つ》いだ。
「――できの悪い兄貴《あにき》みたいです。三日に一冊は本を読んで、エジプトの王様の名前を全部言えます。三ヵ国語話せるのに、ときどき手にメモが書いてあるんです。名前は、マナッド」
沈黙《ちんもく》に、ルノアは視線を上げた。
「――ヤマグチ教官?」
「――え、ああ。違《ちが》うの。知ってる人と同じ名前だったから」
「え――ヤマグチ教官、知り合いなんですか?」
ヤマグチ次官はうろたえた。
「いえ、違うマナッドだと思うわ、多分」――。
まあいいや、とルノアは思ってしまう。再びグラスを勢いよく傾《かたむ》ける。
「ちょっと、大丈夫《だいじょうぶ》? あんまり強い方じゃないでしよ?」
「大丈夫です。地球でマナッドにずいぶん鍛《きた》えられましたから」
ヤマグチ次官はふっと笑って、
「でも、残酷《ざんこく》なようだけど、私、ほんとのこと言うと、喜んでいるのよ。あなたの教官着任。あなたほどの優秀《ゆうしゅう》な人材が、大尉《たいい》になって戻ってきてくれたんだから」
ひどい。わたしにマナッドの話までさせておきながら――ルノアはそう思う。
「担当部隊の五人とは、うまくやってる?」
「――ヤマグチ教官、」
「なに」
自分は酔《よ》っているのかもしれないと、心のすみでルノアは思う。口が勝手に言葉を紡《つむ》ぐ。
「――ヤマグチ教官は、教官をやっていて、つらくありませんでしたか」
ヤマグチ次官の表情が、静止した。
「どういうこと?」
「――わたしは、ずっと、きょうまで、」
本当に言うのか? ルノアは一瞬《いっしゅん》だけ自問した。
「ヤマグチ教官のような教官になろうと努力してきました」
やはりヤマグチ次官の表情は動かない。口すらほとんど動かさずに、問う。
「どうして」
「ヤマグチ教官が、わたしの、教官だったからです。わたしが生きて今ここにいるのは、ヤマグチ教官のおかげなんです。なら、わたしもヤマグチ教官みたいにやれれば、あの五人は、」
「やめて」
ヤマグチ次官のその声には、温度がなかった。
「ルノア、手柄《てがら》と一緒《いっしょ》に、責任を私に押しつけるのはやめて。お願い」
その言葉はルノアにとって、正真正銘《しょうしんしょうめい》の物理的な衝撃力《しょうげきりょく》を伴《ともな》っていた。
ルノアの中の何かに、亀裂《きれつ》が生じた。
そこから飛び散った破片が、ルノアの口から飛び出そうとした。到底《とうてい》言葉にはなり得ない何か。
ヤマグチ次官の声が、不意に温度を取《と》り戻《もど》した。
「ごめんなさい。きっと酔《よ》ってるんだわ、私も」
そう言って、ヤマグチ次官は席を立った。テーブルを回り込み、ルノアのとなりに座る。凍《い》てついたルノアの身体《からだ》に、柔《やわ》らかい体温が触《ふ》れた。
「ねえルノア、今から大事なこと話すけど、誰《だれ》にも言わないって約束《やくそく》できる?」
硬直《こうちょく》していたルノアの顔が、ゆっくりと、恐《おそ》れているかのようにヤマグチ次官を見た。その目はひどく幼かった。
こくんとうなずいた。
「いいわ。これから話すのは、私の本音」
軍隊にはね、いい兵士はいくらでもいるけど、いい教官はめったにいない――って、昔《むかし》なにかで読んだんだけどね。教官っていうのは、矛盾《むじゅん》を常に抱《かか》えている存在なのよ。努力すればするほど、教え子の死体の数は確実に増えていくわけだから。
私、何人の訓練生を教えたのか、もう憶《おぼ》えていないの。もう仇名《あだな》しか思い出せない子とか、顔しか思い出せない子とかもいる。私は全員に、地球へ行ってほしいと思った。そのために力を尽くすのが私の務めだと思ったし、そのための努力もしてきたと思う。もちろん、私が教えた子たちの中で、実際に地球へ行ったのは、全部でたったの六人だけど。ひとり地球へと降りていくたびに、なんとか生き残ってほしいと私は思った。でもね、ある朝、大本営から原始メールで知らせが届くのよ。あなたの教え子はどこそこで勇敢《ゆうかん》に戦って死んだから、ついては軍《ミリ》葬式典《タリー・バリー》に出席して、スコップで空っぽの棺桶《かんおけ》に土をかけるようにって。
あなたと会う前の話ね。
教官をやっていると誰《だれ》でもね、いつか必ずこういうことで悩《なや》むと思うの。
教官やめようか、なんて思うこともあったな。
そして、あるとき気づいたのよ。
私は、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》の、訓練生の、教官なんだって。
兵隊は救世軍のコマ。コマは、救世軍が勝つために、戦いを早く終わらせるために動かすべきだ。生き残ってほしいなんて思わないようにしたの。魔法《まほう》みたいに画期的な訓練を施《ほど》して、まだ誰も知らない革新的な作戦を授けて、敵をバッタバッタとやっつけて月に帰ってくるような女性兵士を育てる――そんなのはね、教官の幻想《げんそう》にすぎないのよ。まあ、あなたも含《ふく》めて、そんなこと本気で信じて、本気でそこまでやろうとしている教官なんてひとりもいないでしょうけどね。
勘違《かんちが》いしないで。もちろん、「戦闘《せんとう》技術を教える者」としての最善の努力は最後まで尽くしたわ。ただ、もちろん教官もひとつのコマだから、私は私が教え子にそれを求めるように、最大効率を得る道を選んだ。勝つためのやり方を効率よく教えるために、私は身軽にならなきゃいけない。私は自分からそれを選んだの。誉《ほ》めたりも、優《やさ》しい言葉をかけたりもしない。その代わり、訓練生には兵士としての役割以上は期待しない。そのことで、寂《さび》しいとかつらいとかなんて思わないように、訓練生に対して愛情なんて金輪際《こんりんざい》もたない。そう決めたの。
戦場で戦うのは、あくまでその子。その子が手柄《てがら》を立てようが、空っぽの棺桶になろうが、それは私の与《あずか》り知らぬこと。私は、戦い方を教える機械。
それは、正しいことだったと、今でも思う。
「参考までに」
そう言って、ヤマグチ次官は席を立った。立ち去ろうとして、ふと立ち止まった。
「――その道を選んでから、私は悩まなくなった。地球に降りた私の教え子はみんな死んだ。でもね、私が最後に担当した部隊の中に、地球に降りて、敵をバッタバッタとやっつけて、本当に月に帰ってきた子がひとりだけ、いたの。六人目」
ヤマグチ次官は、ルノアを見つめた。
「それが、あなた」
ルノアの肩に手を置いた。
「だから、それは、あなたの力。そのことには、自信をもっていいわ」
――ありがとう。帰ってきてくれて。
口の中で、そう小さくつぶやいて、ルノアを残して去った。
龍門亭《ドラゴン・イン》でしばらく飲んで、ひとりでもう一軒はしごした。
消灯時間の過ぎたオルドリンの通路を、ルノアはふらふらになって歩いた。
酔《よ》っ払《ぱら》った脳みそが、機械のようにマナッドのことを考えた。
マナッド・アムラスは、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》から医学系の研究を委託《いたく》されている企業の研究員だった。
優しい。よく見ればかっこいい。物知り。自分より大人《おとな》。患者《かんじゃ》の子供たちの話になると、自分が子供みたいな目をする。
あいつのどこがいいのか、いくらでも挙げられる。でも、そんなものは全部あとからくっついてきたものだと思う。
あっという間だった。理屈《りくつ》ではなかった。
自分の中のどこかが壊《こわ》れてしまった。会えるときには、何があってもいつでも会った。マナッドが自分以外の誰《だれ》と何をしていても、めちゃくちゃな嫉妬《しっと》を感じた。
月へ行くことを話したのも、北米総司令部《フォートワース》を発《た》つ前日だった。
そして今、ルノアは月で、マナッドは地球だ。次にマナッドに会えるのはいつの日か、もちろんわからない。そんな日が本当に来るのかどうかもあやしい。しかし、それでも自分がこうして泣きもわめきもせずに月にいる。多分、頭のヒューズか何かが切れたのだと思う。そのことについて真剣《しんけん》に考えてしまえば、自分は死ぬと思う。人の心には、回路を焼き切ってしまうような大電力を遮断《しゃだん》して、一箇所《いっかしょ》に凍結《とうけつ》してしまうような防衛機構があるのだろう。「マナッドには会えないのだ」という冷酷残忍《れいこくざんにん》な事実に、今のルノアはなんのリアリティも感じない。プラスの電荷を帯びた思い出だけが次々と浮かぶ。
左遷《させん》辞令を言《い》い渡《わた》される少し前、初めて二日間の休暇《きゅうか》をもらった。今思えば、そんな降ってわいたような休暇、凶事《きょうじ》の前触《まえぶ》れ以外の何ものでもなかったのだが、その二日に合わせてマナッドも休みを取ることに成功したと聞いて、なんにも考えられなくなった。
誰もいないところがよかった。あらゆる権限を乱用し、このまま全人類《ぜんじんるい》が滅亡《めつぼう》しても二人でやっていけそうなくらい大量のキャンプ用品を極秘にかき集めた。装備課《そうびか》から黙《だま》って借りた|A  P  C《アームド・パーソナル・キャリア》で遺跡《いせき》のようなハイウェイをぶっとばした。
海を見た。
ときどき、マナッドの笑顔に陰《かげ》りが浮かんだように思えた。はしやぎ過ぎている自分の中の不安が、鏡のように反射していたのかもしれない。
ろくな材料が調達てきなくて、夕食は軍用の携帯食《けいたいしょく》だった。ビールだけは山ほどあって、げっぷを我慢《がまん》するのが大変だった。日が落ち、焚《た》き火《び》を前に、一枚の毛布に一緒《いっしょ》に包まって、APCのでかいタイヤに背中をあずけていた。
初めて唇《くちびる》を重ねた。
そして、
消灯時間の過ぎたオルドリンの通路を、ルノアはふらふらになって歩いている。通路に人気はなく、誰《だれ》にもこのザマを見られないのは好都合ではあったが、誰に見られようが、もうどうでもいい――そんな思いもあった。
今まで立っていた地面がなくなってしまった。
というのは修辞表現のつもりだったのだが、今、ルノアの踏み出した足の下には、本当に地面がなかった。
階段か何かから足を踏み外したのだろうと、後になって思う。
大して痛みも感じなかった。
壁《かべ》なのか床《ゆか》なのかよくわからない平面に背中をくっつけ、身体《からだ》をこれ以上動かす努力を放棄《ほうき》した。寒さも気にならなかった。このままここで眠《ねむ》り込んでしまえば、冗談抜《じょうだんぬ》きに凍死《とうし》するかもしれなかったが、そんなのは、どうでもいいことのように思われた。
ルノアは、酔《よ》っ払《ぱら》い丸出しの表情で、へらへらと笑う。
小夜子《さよこ》の、三番目の質問の答えは、ノーだ。
なにもかも、どうでもよかった。
[#改ページ]
場外乱闘
ルノア教官の部屋のIDデコーダーには、"ABSENT"の赤い文字。
電気|椅子《いす》通りで待つ勇気はなかった。マリポは直通エレベータのあるホールのベンチにぽつんと座っている。三時間も前から、ずっとそうしている。|33型汎用《Dシェル》を着替《きが》えてもいない。
ずいぶん前に、消灯のチャイムを聞いた。
壁際《かべぎわ》に並《なら》んでいる自販機《じはんき》が、またうなりはじめた。消灯後は学寮《がくりょう》のほとんどの明かりが消されるので、自販機の光に照らされたこのホールだけがオアシスのように明るい。自室に戻《もど》るルノア教官は、必ずここを通る。はずなのだが、これだけ待っても姿が見えないと、なんだか自信がなくなってくる。市街《そと》に何か用事があって、今日は戻らないのかもしれない。こうしてひとりで待っているのもみじめだが、今になってとぼとぼ帰るのはもっとみじめに思えて、マリポはベンチから動けない。
明かりの消えた廊下《ろうか》のずっと向こうで、何か固いものが倒《たお》れる音がした。
誰《だれ》かがこっちに来る。なんだか足取りがあやしいな、と思った途端《とたん》、その人影《ひとかげ》はよろよろと壁《かべ》にもたれかかり、そのまま動かなくなった。
マリポはベンチから立ち上がって、その人影《ひとかげ》の方へとゆっくりと歩き始めた。五歩進んだところで、それがルノア教官であることを確信した。
「教官!」
マリポはルノアに駆《か》け寄る。暗がりでもそれとわかるほど真っ赤っかの顔を見るまでもなく、ルノアはべろんべろんに酔《よ》っ払《ぱら》っていた。酒の池にでもつかってきたのかと思えるほど酒|臭《くさ》い。
「教官! 大丈夫ですか!?」
マリポがよろよろの身体《からだ》を支えようとした途端《とたん》、ルノアはその手から逃れるようにぺたんと床《ゆか》に座り込んでしまった。誰《だれ》だこいつは、そういう胡乱《うろん》な目でマリポを見上げ、
「だれ……? ま、まりぽ……?」
ようやく相手が誰なのかわかったらしく、ルノアはへらへらと笑った。
「あはっ。あはは〜。かーっこわるいとこみられちゃったわねー」
「大丈夫なんですか!? そんなとこ座ってないで、さあ、」
マリポはルノアの身体を引きずり上げようとするのだが、ルノアはその手を振り払い、
「やだよ〜だ」
そのまま、うつぶせに寝転んでしまった。床に頬《ほお》を当てて、
「ん〜。つめたくてきもちー」
マリポは途方《とほう》に暮《く》れそうになりながらも、半ば強引にルノアを引きずり起こした。肩《かた》を貸して、というより自分ではまったく歩こうとしないルノアを背負《せお》うようにして、廊下《ろうか》を歩きはじめる。ちびのマリポにはかなりつらい。
「あんたけっこーちからもちねー。うぷ」
「教官、ちゃんと歩いてください! こんなところ誰かに見られたらどうするんですか!」
「……もうあんたにみりゃれちゃったもん」
そう言って、急にルノアはくすくすと笑いはじめ、マリポの背中に寄りかかったまま、目の前にあったお下げをつかんで引っぱり、
「ゆけーロボまりぽ! どいつもこいつもやっつけろー!」
「いたたたたたた! ちょ! 教官! やめてくださいいたいいたいいたい!」
やめろと言われて素直にやめる酔っ払いはいない。パンチだキックだとわめきながら、ルノアはマリポのお下げを散々に引っ張った挙げ句、突然《とつぜん》ぐったりとして静かになった。マリポはほっとする。しかしそれも束《つか》の間《ま》。
それは、嵐《あらし》の前の静けさにすぎなかった。
つぶやく声。
「う……ぎぽぢわるい」
「――教官?」
それまで完全に弛緩《しかん》していたルノアの身体《からだ》の内臓のあたり、不穏《ふおん》な感じのする痙攣《けいれん》が走るのを、マリポは背中ではっきりと感じた。
「はく。はくう」
「教官!! ちょっと待ってください教官!? きゃああああああ――――――――!!」
末代《まつだい》までの語《かた》り種《ぐさ》になるような、それはそれはあっぱれな噴水《ふんすい》ゲロだった。
ルノアの訓練服は、当然ながらチビのマリポにはだぶだぶだった。うわあ、足長い――そんなことを思いながらパンツに足を通して、すそを踏んづけながら棺桶《かんおけ》シャワーから出ると、ルノアはまだ青い顔をうつむかせて、かしこまってベッドに座っていた。ゲロ一発で酒が抜《ぬ》けたらしい。
初めて見るルノア教官の部屋は、ひどく特徴《とくちょう》のある散らかり方をしていた。教務課の通し番号のラベルがついたデータアクセサーやメモリーバッテリーがいくつもあって、それらのケーブルが床《ゆか》を這《は》いずり回って部屋備え付けの端末につながっている。端末《たんまつ》の周りにまき散らされたディスクと山のようなプリントアウト。ベッドの上には、何冊もの教本《テキスト》と書き散らしたメモが、殺人現場のように人の輪郭《りんかく》を形作っている。
つまり、仕事の痕跡《こんせき》だけが満ち満ちているこの部屋は、生活の臭《にお》いがしない。
マリポは息が詰まるような思いがした。
この部屋は、ルノア教官《ヽヽ》の部屋であって、ルノア・キササゲの部屋では決してない。教官ではない、「ルノア・キササゲ」の部分がまるで無い。ここは――制御室《せいぎょしつ》の続きだ。自分たちが双脚砲台でシミュレーションをやるとき、教官は制御室から状況《じょうきょう》を監視《かんし》し、制御し、評価する。自分たちが訓練を終えた後も、この人は仕事に接続されたまま、最強の劣等生《れっとうせい》である自分たちの指導について思い悩《なや》んだ挙げ句、その湿《しめ》っぽいベッドで死んだように眠《ねむ》るのだろう。
マリポは他《ほか》の教官の部屋を見たことがあるわけではない。しかし、ここまで凄惨《せいさん》な部屋の住人は、自分の知る教官たちの中にはひとりもいまい――そう思った。
この人を元気づけてあげなければならない。
マリポはついっとあごを上げ、できるだけ冷たい表情をつくってルノアを横目で睨《にら》んだ。
「教官」
「はい」ルノアは小さくなって、叱《しか》られた生徒のような返事をした。
「教官は、訓練生の模範《もはん》となる生活を心がけねばなりません。あなたには、朝起きてから夜寝るその瞬間《しゅんかん》まで、軍属として行動する義務があります。そういう説明を、これまで何度も受けているはずですね!」
「は、はいっ」
マリポの剣幕《けんまく》に負けて、ルノアは反射的に返事をした。マリポの思いがけない態度にビビつている。
マリポはそこでくすっと笑い、
「なーんて! ヤマグチ次官のマネです。似てました?」
心臓を力いっぱい握《にぎ》られているような動悸《どうき》から解放されて、ルノアは冷《ひ》や汗《あせ》のつたう顔にぼやけた笑みを浮かべた。
――わたしのマネかと思った。
「さっきよりは顔色がよくなったみたいだけど、大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
うん、とルノアはうなずいて、ふと表情を曇《くも》らせる。
「あの――わたしに、何か話があったんじゃない?」
そう言われて、マリポは内心どきりとした。酔《よ》っ払《ぱら》って、さっきまでどろどろに濁《にご》っていたルノアの目は、今はもう相手の心の奥底《おくそこ》まで覗《のぞ》き込むような教官のそれだ。酒が抜《ぬ》けていくのと同じ速さで、この人は「教官」に戻《もど》っていく。「ルノア・キササゲ」にではなく。
――今日の演習で、GARPにトリガーを接続したのは自分であり、誰《だれ》に命じられたわけでもないのだ。
そんな告白は、今するべきではないように思われた。
「あ! いいんです別に! 大したことじゃないからほんとに!」
酒が引いて、頭痛の始まったルノアの頭に、廊下《ろうか》で自分を助け起こしてくれたマリポの姿がよみがえる。多分、訓練が終わって、着替《きが》えもせずに、あのエレベータホールで自分を待っていたのだろう。自分が酒をくらって、ぐでんぐでんになって戻ってくるまでずっと。その代償《だいしょう》として、マリポは|33型汎用《Dシェル》の襟元《えりもと》からゲロを注ぎ込まれたわけだ。
失敗失敗、また失敗だ。まったく、最近はこんなことばかり続く。
「ごめんなさい。反省してます……」
身体《からだ》を小さくちぢこめて、ルノアは完全にしょげかえった。
――あのとき、「部下《マリポ》」をかばった「操脚長《アマルス》」の顔を潰《つぶ》すのはあんまりだったし、「たかがシミュレーション上の味方機」とは考えなかったマリポの対応はある意味で正しい。
そんな話は、今するべきではないように思われた。
「あ、や、やだな教官、ほんとに大したことじゃ――」
途端《とたん》にヘコんでしまったルノアの態度にマリポはあわてた。なんとか別の話にしようとして、頭に浮かんだことをそのまま口にする。
「そうだ! 今度の週末、どっかに連れてってください! なんかおごってくださいよ。それで私の33型汎用の件はチャラです。ね?」
マリポを見ていると、なんだか元気が感染してくるような気がする。義務であるかのようにバカ明るい声で喋《しゃべ》り続けるマリポを見ているうちに、ルノアの顔には力ない、それでも確かに笑みと呼べるものが浮かんでいた。
「――何がいい?」
「なんでもいいです!」
深く考えもせず、勢いで口に出してしまって、しかも相手がそれに承知してから、マリポは事の重大さに気がついた。――あのルノア・キササゲが、夕食をおごってくれる!
「でも、酒は勘弁《かんべん》して。しばらくは、ボトル見ただけでゲロ吐くかも」
マリポはまたヤマグチ次官の物真似《ものまね》で、
「当然です。訓練生と教官が酒席を共にするなど、三つの学寮《がくりょう》規則と二つの服務規定に違反《いはん》する行為《こうい》ですから」
顔を見合わせて、二人はそろって笑った。
「そうだ、」
いいことを思いついた。ルノアは頭を揺《ゆ》すらないように、ゆっくりと立ち上がる。ベッドの上に放り出してあった教官IDを手にとって、
「いいもの見せてあげる」
明かりを点《つ》けた。
オルドリン防疫課《ぼうえきか》のカーゴエリア。下から上にハッチが開き、あふれ出した白々とした冷気を浴びながら、ルノアはマリポに缶《かん》コーヒーを放り投げた。
「寒くない?」
「あ、だいじょぶです。――ここって、」
無糖コーヒーをひと口すすって、ハッチをくぐりながら、ルノアはマリポと一緒《いっしょ》に周囲を見回して、
「よそから持ち込まれる物資の検疫エリア。――そうだよね、訓練生ならこんな所、普段《ふだん》は用ないもんね」
二人は訓練服にジャンパーを羽織《はお》っている。マリポなど、上から下まで全部ルノアからの借り物なので、ただでさえチビなのがなおさらチビに見える。丈《たけ》が長すぎて手が隠《かく》れてしまうので、袖越《そでご》しに缶を握《にぎ》って両手を暖めていた。
「こっち」
そう言って、ルノアは巨大《きょだい》なコンテナの列の間を縫《ぬ》うように歩き出した。マリポがあわててその後に続く。ルノアはときおり立ち止まっては床《ゆか》にペイントされた標識を確認し、とある軌《き》道往還用《どうおうきかんよう》の中型コンテナの前て足を止めた。ぶかぶかの服をばたばたさせながらようやくマリポはルノアに追いつき、ぽかんと口を開けて、白い息を吐きながらそのコンテナを見上げた。中型といっても、訓練生の五人用居住ユニットを三つ合わせたくらいの大きさがある。ルノアはタグの番号を確認し、教官IDをパネルのデコーダーに差し込んだ。身をかがめてやっと、という感じの小さな扉《とびら》が開き、まずルノアが、そのあとにマリポが続く。
コンテナ内は外よりもさらに低温に保たれている。ステップを上がって、ルノアは照明を点《つ》ける。黄色っぽい光、コンテナ内にカーテンのように垂れ下がった半透明《はんとうめい》の抗菌《こうきん》テントを大きくめくった。
そこには、巨《おお》きな、人類《じんるい》史上|最凶《さいきょう》の鎧《よろい》がいた。
マリポは目を見張った。
「クレイプ!! すごい!!」
それは、右腕《みぎうで》にあたる部分が外され、高速移動形態を半分解いた形で三つのユニットに分解された巨人《きょじん》だった。無用な重量と装甲《そうこう》を奇形的《きけいてき》なまでに廃《はい》したその四肢《しし》の生み出す高機動は、乗り手を選び、敵を選ぶことがない。運動性のみを至上とし、装甲を捨て武装をしぼり、乗員の命すら塵芥《ちりあくた》と見る設計思想は、太平洋戦争の昔《むかし》からの五菱《イツビシ》重工のお家芸だ。その思いがけなく繊細《せんさい》な左腕は、コンテナの対角線を使ってようやく収まっている長大な軍刀にからんでいる。セフティリボンと絶縁《ぜつえん》シールで幾重にも封印された、二|丈《じょう》七|尺《しゃく》のその剛刃《ごうじん》こそは、ルノアと共に幾多の死線をくぐり、どの武装よりも多くの敵を屠《ほふ》ってきた秋壱型改・自己再生|超振動刀《ちょうしんどうブレード》、その銘《な》も甲斐千角菊御作刀《かいせんかくきくのおんさくのとう》。
五菱・A―99クレイプVR4。
寒さも忘れ、マリポは目の前に座っている死神《ししん》の走狗《そうく》に見入った。
思う。双脚砲台は兵器だが、クレイプは武器だ。
「すごい……」
それ以外の言葉を失ったマリポが、救いを求めるような気持ちになって振り返れば、ルノアは細長い布包みを手にしていた。紐《ひも》が解かれ、菊千角小刀《きくせんかくしょうとう》の柄《つか》がのぞいた。小刀といっても、刀身長一尺七|寸《すん》の軍刀である。最上位|礼装時《れいそうじ》、儀礼用《ぎれいよう》の両刃短槍《ブラックボルト》を着装する一般《いっぱん》の兵士と違《ちが》い、クレイプのパイロットだけがこの小刀を腰《こし》に下げる。
ルノアは小刀をマリポに向けて差し出し、自慢《じまん》げな、それはそれは嬉《うれ》しそうな、「どうだーすごいだろー」という顔をした。それは太古《たいこ》の昔から少しも変わらない、自慢の武具を披露《ひろう》する兵士に共通の、誇《ほこ》らしげな笑顔だ。
マリポは、魅入《みい》られたような表情で手を伸ばし、小刀を手にした。息を呑《の》んで見つめる。自分は今、歴史を目にしているのだと知ったとき、マリポの全身が総毛立《そうけだ》った。抜《ぬ》いてもいいですか――そう言おうとした。ルノアはいいと言ってくれる気がしたが、鞘《さや》の中にあってなお顕《あきら》かな、刀身の放つ魔物《まもの》のような冷気に、一瞬《いっしゅん》で勇気がぐじけた。
小刀をルノアに返した。再びクレイプを見上げた。
以前、どこかの格納庫《ドック》で整備中のクレイプの画像ファイルが、「シナリオ11出撃《しゅつげき》直前のルノア大尉《たいい》乗機」というふれこみで、オルドリン訓練生の間に出回ったことがある。そのとき、よその部隊のマニアが話しているのを聞いた――これはルノア大尉のクレイプじゃない。ルノア大尉のクレイプならば、左肩《ひだりかた》に漢字五文字のマーキングがあるはずだ。
そして今、目の前のクレイプには、左肩《ひだりかた》の装甲《そうこう》に、五つの小さな漢字が確かに並んでいた。
『非理法権天』
「これが……このクレイプなんですね、教――大尉が、シナリオ11で……」
思考がそのままあふれてくるようなマリポの口調。ルノアは「さあ」と肩をすくめて、
「こいつにはずいぶん苦労させたから……。修理また修理で、あのときのままの部品なんてもう、ソフトにもハードにもひとつも残ってないんじゃないかな。あ、でも、あの秋壱型改、」
クレイプの大刀を、
「あれと、」
次いで、自分の手にある小刀《しょうとう》を視線で指し、
「これ。この二つはそう。シナリオ11以来の付き合い」
|菊   刀《ロイヤル・ブレード》。シナリオ11の必勝を祈願《きがん》した京明《けいめい》の帝《みかど》の命により、宮工房《みやこうぼう》の門外不出の技術を結集して作られ、先陣《せんじん》を切るクレイプの強襲偵察《きょうしゅうていさつ》部隊の全員に贈《おく》られた大小二十七対の超振動刀《ちょうしんどうブレード》。シナリオ11の戦闘《せんとう》で、そのほとんどは持ち主と運命を共にし、現存しているのはわずかに三対だけだ。ヴィンセント・コーネル大佐の菊龍征《きくりゅうせい》、ノーラ・ナスコ中佐の菊将角《きくしょうかく》、そして、
ルノア・キササゲ大尉の菊千角《きくせんかく》。
血を吸った刀。マリポは大刀を見つめ、
「――地球へ行くのって、恐《こわ》いですか……?」
自分の口からもれたその問いが、マリポは他人の発した言葉のように感じられた。
「――卒業のちょっと前にね、地球に行くことになって――これに乗ることが決まったときはさ、もうイヤでイヤで」
マリポはルノアを振り返る。
「あのころ、まだクレイプって珍《めずら》しかったから、『こんなので地球へ行ったらイジメられるぞ』って、教官連中にさんざん脅《おど》されたのよ。実戦が恐《こわ》かったのももちろんあるけど、もう眠《ねむ》れないくらい悩《なや》んじやって、訓練中にわざと事故って怪我《けが》すれば地球へ行かなくてもすむかなとか、そんなこと真剣《しんけん》に考えたな――」
ルノアは苦笑を浮かべる。あのとき、「ラセレーナに負けたくない」という最後の意地がなければ、自分は地球行きをあきらめてしまっていたかもしれない――そんなことを思う。
そして、あまりにも思いがけないルノアの言葉に、マリポは驚《おどろ》きが顔に出ないよう努力していた。そんなころのルノアを想像したことが、マリポには一度もなかったのだ。「恐いですか」とたずね、「恐かった」という返事を期待したわけではない。なのにルノアは、「恐かったし、悩んだし、ズルをして逃《に》げることまで考えた」というのだ。
今この瞬間《しゅんかん》まで、マリポにとってルノアは雲上《うんじょう》の人――いや、人間ですらなかったのだと言ってよい。マリポだけでなく、オルドリンの訓練生にとってルノアは、教科書に出てくるような、いや、それ以上の伝説の「もの」だったのだから。数知れぬ生成晶《せいせいしょう》を撃破《げきは》し、シナリオ11を成功させ、北米最年少|大尉《たいい》となった、伝説の――
違《ちが》うのだ。
当たり前すぎることに、いま気づいた。「訓練生・ルノア・キササゲ」は、自分と同い年の、十七歳の女の子だったのだ。
「――やっぱり、いじめられました?」
そう思い至ったとき、その言葉は自然と口から流れ出た。ルノアはうなずいて、病気|自慢《じまん》と似《に》たような心理からか、楽しかった思い出を話すように、
「教官に聞かされてたほどじゃなかったけどね、やっぱいじめられたなー。クレイプにすっごい下品な落書きとかされて、くやしくってベソかきながら消したりしてさー」
マリポの、だぶだぶの格好に目をやり、
「わたしね――あのころ、あなたと同じくらいの――うーん、もっとちびだったな。だって、フットペダルに足が届かないのよ。困ってさ、そんなの誰《だれ》にも相談できないじゃない。だからね、|33型汎用《Dシェル》の足のとこだけ大きいサイズのととっかえて、中に新聞紙をくしゃくしゃに丸めたのを詰めてさ。笑っちゃうでしょ」
その途端《とたん》、マリポの顔が、ぼっと音がしそうな勢いで真っ赤になった。
ひとつ大きいサイズに詰め物。部隊の誰にも秘密にしているのだが、ちびなマリポは、それと同じことをしているのである。ただ、マリポの場合は新聞紙ではなくて、適当な大きさに切った古着のTシャツなのであるが。
――バレてる!?
表情を見られないようにあわててそっぽを向いて、こっそりとルノアの方を盗《ぬす》み見た。ルノアは思い出にひたるように、クレイプを見つめたまま。その表情に、何も含《ふく》むところはなさそうだ。バレてはいないと判断して、ひそかに胸をなで下ろす。
そして。
安心するのと同時に、マリポの胸のうちにあった「やる気」の炎《ほのお》が、油を注ぎ込まれるように見る見る大きくなりはじめた。とりわけ、ルノアがかつて、自分と同じやり方で足りない身長を補っていたのだということが、マリポに檸猛《どうもう》なまでの勇気を与《あた》えた。
「ルノア教官!」
マリポがいきなり大声を出したので、あふれる思い出に惚《ほう》けていたルノアは無理矢理現実に引《ひ》き戻《もど》された。
「な、なに」
「教官も――教官も、十七歳だったんですね!」
あまって垂れ下がっている袖《そで》の中、両手を胸の前で握《にぎ》りしめ、新たな決意あふれる眼差《まなざ》しで、マリポはルノアを見つめていた。そうだ。そうなのだ。十七歳だったのだ。ならば――自分にもやれるかもしれない。ルノアと同じ道を歩む力が、自分にもあるのかもしれない。
マリポの言葉の意味が理解できないルノアは、マリポの視線に射すくめられたように、なんとなく逃《に》げ腰《ごし》になって、
「へ――あの、えと、わたし、二十一だけど」
マリポは深くうなずいて、
「そうなんです! 今だって、教官は二十一なんです! わたしより四つ年上なだけなんです!」
「そ、そうね??」
「わたしやります! 優秀《ゆうしゅう》な成績で卒業して、絶対に地球へ行ってみせますっ!!」
しばらくの間、ルノアはマリポの表情を見つめていた。マリポの目が雄弁《ゆうべん》に物語るもの――自分に対する絶対無条件の信頼《しんらい》に、ルノアは怯《ひる》んだ。
それは、マリポの生命《いのち》の質量《おもさ》だ。
「――本気?」
「もちろんですっ!! それに――みんなも、アマルスさんもアイもチャーミーさんもペスカトーレさんも、みんな同じ気持ちだと思います!」
「――引《ひ》き換《か》えにしなくちゃいけないものがいっぱいあるわよ?」
「わかってます。それに――」
マリポは、そこで少しためらってからこう言った。
「それは――教官も、同じですから。そんなの、当たり前です。覚悟《かくご》してます」
「うん」
マリポの言う通りだった。
立ち上がって、背伸びをして、笑った。
「それじゃ、もう寝なきゃ。明日《あした》もガリガリしごくからね」
「はい。――あの、教官」
「なに」
マリポはちよっとだけうつむいて、恥《は》ずかしそうに言った。
「ありがとうございました。元気、出ました。明日からも、よろしくお願いします」
ルノアは、あはっ、という息をもらして、
「こちらこそ」
そう、言えた。
それは、ヤマグチ教官であれば、絶対に口にしないであろうひと言だった。
消灯時間を過ぎた格納庫《ドック》には、必要最小限の明かりしか点《とも》っていない。薄闇《うすやみ》の中に居並《いならぶ》ぶ怪物《かいぶつ》のような双脚砲台の影《かげ》――その中の一機、GARPのコクピットのサイドハッチが、内側からばーんと蹴《け》り開けられた。
「くっそ――やってらんね――!!」
アマルスである。立場上どうしても付き合わなければならず、今の今まで長引いた〈半球守備|迎撃《げいげき》演習〉が、やっとのことで終わったらしい。それに続いてアイとペスカトーレ。二人とも、何時間もぶっ続けで網膜投影《もうまくとうえい》の擬似《ぎじ》画像の中にいたせいだろう、ふらふらである。夜食の差し入れに来て、結局なんだかんだで訓練に付き合ってしまったチャーミーが最後にハッチを閉じて、今にも倒《たお》れそうな二人を支え、
「ちょっとアマルスさん、待って――」
間髪《かんぱつ》入れずに、アマルスは答えてひと言。
「寝るっ!!」
ぷんすかしながら、アマルスはどんどん先に歩いていってしまう。腹立ちまぎれにトラッシユボックスに蹴りを入れ、派手な音を立てて空《あ》き缶《かん》が散らばった。アマルスの姿は対爆隔壁《たいばくかくへき》の向こうに消え、残り三人がよたよたとその後に続く。
こうして、ドックから人影がなくなった。
そして、カデナ・メイプルリーフは、このときを待っていたのだ。
GARPは、完全にふてくされていた。
演習に、自分だけが参加させてもらえないからである。
――なぜだ。
GARPにはその理由がわからない。はじめのうちこそ、自分――つまり流体|脊髄素子《せきずいそし》が正常作動しない場合の緊急《きんきゅう》対処の訓練なのだろう、と自分を納得させてきたが、一ヶ月間に及ぶ操機演習のすべてにおいて、自分は一切の手出しを禁じられている。いくらなんでもおかしい。
しょせんは訓練機、そう思われているのだろうか。
確かに、いつまでもあの五人と一緒《いっしょ》にいるわけではない。あの五人がオルドリンを卒業すれば、GARPは記憶《きおく》をリセットされ、パーソナルネームを変更《へんこう》されて、新たな訓練生たちの部隊の一員となる。一部の教官の中には、「借り物の双脚砲台に知恵《ちえ》をつけても無駄《むだ》だ」と公言する者もいることはいる。しかしそれは、「情が移ってしまうと別れが辛《つら》いそ」という言葉の裏返しでもある。そういう教官でさえ、訓練で流体脊髄の使用を禁じるなどということはしない。隊の成績が落ちては元も子もないからだ。
ルノア教官に嫌《きら》われるようなことを、自分はしたのだろうか。
訓練初日から、GARPはずっとみそっかすだ。初日に会話を交わして以来、ルノア教官とはまともに口をきいてもいない。せいぜいが、キーボード入力のコマンドのやりとりだけ。嫌われる覚えはない。
そもそも、ルノア教官が「流体脊髄素子」という種族を嫌っている、という可能性もある。ルノア教官はクレイプのパイロットだ。クレイプのような小型機には流体脊髄は搭載《とうさい》されていない。ルノア教官は、今日では珍《めずら》しい「差別主義者」なのかもしれない。
ルノア教官がずっと前から自分のことを知っていた、という可能性はどうだろう? ルノア教官はオルドリンの卒業生で、自分はオルドリン訓練機の中枢《ちゅうすう》を務めて十年になる。卒業後の記憶消去のために、じつは彼女と自分はかつて同じ部隊の一員でありながら、今の自分にはその記憶《きおく》がないというケースも当然あり得る。そして、そのときの自分がルノア訓練生に対して、決定的に嫌われてしまうような失礼を働いたとか、例えば、ファイバーセンサーでスカートの中をのぞいたとか――そ、そんなバカな、自分に限ってそんなことはあるはずが――そうだ、それは違《ちが》う。記憶の消去と同時にパーソナルネームも変更《へんこう》されるのだ。ルノア教官に自分を特定できるはずはないではないか。
それとも、自分が知らないだけで、何か方法があるのか?
とまあ、GARPは己の想像が生み出すドロ沼にはまり込んで、うじうじと悩《なや》み続けている。GARPは「いいやっ」には違いないのだが、どうも物事を考え過ぎてしまうところがある。このところ、訓練が終わってひとりになればいつもこれだ。あの五人の前では、かっこつけて、なんでもないプリをしてはいるのだが。
ここはひとつ勇気を出して、教官の真意を直接確かめた方がいいのかもしれない――GARPがそう思ったとき、
――?
気配を感じた。
誰《だれ》かに見られているような感覚。流体|脊髄《せきずい》は生き物である。カンのいいやつもいれば悪いやつもいる。GARPは確かに今、どこからか自分を監視《かんし》している何者かの視線、とでも言うべきものを感じ取ったのだ。
こういうことが、この三日ばかりの間続いている。最初は気のせいだとも思えたのだが、同じことがこうも毎日、しかも同じ今ごろに起こるとなると話は違《ちが》う。GARPは偶然《ぐうぜん》を信じない。視・聴・嗅・触・線・磁・波、すべての感覚を動員して周囲を探った。いつもと変わらない、動くものひとつない消灯後のドック。しかし何かがおかしい。なんだ?
そして、索敵《さくてき》開始2・4秒後に、GARPはそのことに気づいた。
帰りしなにアマルスが蹴倒《けたお》したはずのトラッシュボックス。空《あ》き缶《かん》が散らばったままであるはずのフロア。今、GARPの視覚器が捉《とら》えている映像の中、トラッシュボックスは倒れてもいないし、床《ゆか》に空き缶が散らばってもいない。
自分は今、センサーから切り離されて、擬似《ぎじ》映像に接続されている!
GARPは冷静だった。下手《へた》に動けば、これを仕組んだ何者かに気づかれるかもしれない。相手の意図が不明な以上、まず状況《じょうきょう》を把握《はあく》する必要がある。GARPは主《メイン》ではなく、七つある副《サブ》システムの七番目を使って自分自身を走査《スキャン》した。もし相手が七つのプロセスすべてを監視《かんし》していたらそれまでだが、そうではない方にGARPは賭《か》けた。自分に何かを仕掛ける以上、監視すべきポイントは他《ほか》に山ほどあるはずだ。
ビンゴ。
視覚、聴覚《ちょうかく》センサーのプロセッサー内に不正な接続|遮断《しゃだん》と擬似情報発生源のウイルス群。そして、記憶《きおく》野・長期記憶格納補助の不揮発《ふきはつ》メモリーに、外部からのS4接続。
何者かが、GARPに侵入《ハッカー》している。
まだ、GARPが気づいたことには気づいていない。多分。
――いい度胸じゃないか。
取るべき道は二つ。このまま気づかないふりをして、侵入者《ハッカー》が接続を断ったのを確認した後に基地の保安中隊に連絡《れんらく》、万全の追跡《ついせき》態勢を整えてもらい、自分は囮《おとり》となって、次の、おそらくは明日《あす》のこの時間の接触《せっしょく》を待つ。それがひとつ。あるいは――
自分が侵入者を迎撃《げいげき》する。
GARPは、瞬時に後者を選択した。
緊急《きんきゅう》対処規則の優先順位にしたがって、ウイルス群はとりあえず無視。そんなものは後でゆっくり料理すればいい。慎重《しんちょう》にタイミングを計算し、GARPは現在自分に接続されている全回線に強制的にロックをかけ、二百五十六機の白血球プログラムと同数のダミーと一機の照準器を、トラップ上等で侵人者のS4回線に一気にぶち込んだ。白血球の起動を探知して起爆《きばく》する論理爆弾《ロジックボム》にその大部分が迎撃され、GARPの「外」に出ることができたのは十四機の白血球と三機のダミーと照準器だけだったが、それで十分だ。その瞬間《しゅんかん》、長期記憶のS4接続が切断《アウト》。侵入者が気づいた。照準器を先行させ、白血球とダミーに援護を命じて、GARPは全速力で追跡にかかる。
追跡をまくために、いくつもの無関係なシステムやゲイトウェイを経由して目標に侵入するのが、不正侵入のセオリーだ。そして、回線を強制ロックされたときのために、経由したシステムの接続記録を削除《さくじょ》したり、ゲイトウェイの接続機能を破壊《はかい》してそこから先に進めないようにするためのプログラムを、侵入者は必ず用意している。つまり、この競争は「GARPvs追跡|妨害《ぼうがい》プログラム」という図式になる。火の放たれた橋が崩《くず》れ落ちる前に渡《わた》りきって、侵入者を特定できればGARPの勝ち。侵入者の勝ちはそれ以外のすべて。
侵入者が逃《に》げる。GARPが追う、暗号通信。先行させた照準器が、ロックした回線の中にいる全オブジェクトに質問信号を発し、結果を圧縮して送り返してきたのだ。無回答のオブジエクトが三つ。うち二つはサイズからいって内務|監査《かんさ》の|監視プログラム《ドッグ・ボーイ》。残るひとつ――接続ID2847。こいつが侵入者《ハッカー》だ。GARPは照準器に自殺をコマンド、十四機の白血球を対論理爆弾の陣形《じんけい》に組み直し、次々と破壊されていくゲイトウェイをかわしながら光の速度で2847に迫《せま》る。
――速い!
2847は巧妙《こうみょう》な擬似《ぎじ》接続をばら撒《ま》きながら、常識外れの、軍用ソフトウェア並《な》みの速度で逃《に》げていく。2847が一般《いっぱん》には公開されていない軍用の緊急《きんきゅう》回線を通過して、S2機密であるはずのコマンドで接続を遮断《しゃだん》しようとしたとき、GARPは思った。――相手はプロだ、と。少なくとも、面白半分のパソコン少女では絶対にない。今自分が相手にしているのは、月のデータ通信回線網に対する違法《いほう》な知識を持った、不正侵入とその追跡《ついせき》・離脱《りだつ》に関して軍事レベルの訓練を受けた誰《だれ》かだ。追跡を開始してすでに1・7秒《びょう》、GARPはオルドリンを出て四つの都市をまたにかけ、二十以上のシステムとゲイトウェイを通過していたが、なんと2847はまだ逃げていく。一体いくつの中継点《ちゅうけいてん》を経由してGARPに接続していたのだろう。頭が下がる用意|周到《しゅうとう》さだ。静かの海、無人観測基地のシステムに追いつめた。ここが最後の中継点だ、ここに接続している回線をホールドすればそれで終わりだ――GARPがそう確信した瞬間、ついさっきまで奴《2847》だと思っていた無指向性の迎撃壁《げいげきへき》が、論理爆弾をばら撒いて自己消去した。分身の術《ダミー》。論理爆弾のあおりを食らって観測基地のシステムそのものがダウンする一瞬《いっしゅん》前、通信衛星《コムサット》からのレーザー回線が通信中《BUSY》であることに気づいたのは、運がよかったからにすぎない。
――衛星に逃げる!
GARPはかろうじて2847の通信をトレスした。衛星のシステムに仕掛けられていた論《ロジ》理爆弾《ックボム》にやられて、七機の白血球が犠牲《ぎせい》になった。質問信号を受信。必殺の罠《わな》をかわされて焦《あせ》った2847が照準器を放ったのだろう。答えてやる義理はない。
――くそ。軍用流体|脊髄素子《せきずいそし》をなめんなよ。回線の通信速度を上げることはできない。となれば、自分の処理速度を上げるしかない。GARPは防壁を展開し、まだ起爆《きぼく》していなかった論理爆弾のひとつにわざとひっかかった。
「攻撃《こうげき》を受けた」ことをGARPの封印|監視《かんし》システムが認証し、GARPは「準戦時|体制《モード》」に移行、光学神経繊維《レーザーニューロファイバー》とそれに付随《ふずい》するプロセッサー、ソフトウェアのセフティが自動的に外れた。光学神経繊維は「電子|武装《ぶそう》」であり、それを使用して情報を処理することは、それが経理計算だろうがエロゲーだろうが「戦闘行為《せんとうこうい》」とみなされる。オルドリンのシステムがGARPのモード移行を探知して警報を発するはずだが、その前にカタをつけてやる、とGARPは思った。どういうカタがつくにしろ、光学神経繊維はそれを十二分に可能にする。
電子情報処理|野《や》に活性化物質が注入され、それまでとはくらべものにならない速度でGARPは2847を追いつめにかかった。追跡|妨害《ぼうがい》プログラムが論理爆弾を放出するよりも早くそれらを消去し、ゲイトウェイを封鎖《ふうさ》するより早く接続をたどる。もはや、2847はGARPにとって「動いていない」も同然だった。ここに至って2847はすべての妨害《ぼうがい》処理を放棄《ほうき》、今のGARPに対しては追跡《ついせき》の手がかりにしかならない防壁《ぼうへき》を消去して、回線から姿を消した。侵入者が、手元で物理的な回線接続を断ったのだ。
――罠?
侵入者はコネクターを引っこ抜いた――そうするのは勝手だが、回線そのものはロックされているのだ。侵入者が最初に経由したシステムは手付かずのまま残されるから、接続|履歴《りれき》を見れば侵入者の居所は完全に特定できる。
GARPはわずかにためらった後、追跡を続行した。そこから先、残された中継点《ちゅうけいてん》は七つしかなかった。最後の――侵入者から見れば最初の――中継点は、オルドリン市営ネットのゲイトウェイだった。ふざけたやつだ。そう思いながら、GARPは接続履歴に到達《とうたつ》する。
――勝った!
そう思っていたのは、一瞬《いっしゅん》だけだった。
侵入者の居場所が特定された。2847――ついさっきまで、そこに接続していたのは、|GARPのコクピット内の《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》独立システム、非常専用線ソケット。
――くそっ!!
GARPは手元に残っていた白血球で、自分のセンサーに擬似《ぎじ》情報を流し込んでいるウイルス群を一挙に灼《や》き払《はら》った。ウイルスどもは殺すはしから増殖《ぞうしょく》を繰《く》り返してしぶとく抵抗《ていこう》し、センサーが正常に稼動《かどう》するまで十|秒《びょう》近くかかった。すべてのセンサーをアクティヴにしてドックの中を見回したが、かろうじて捉《とら》えることができたのは走り去る足音と、閉じかけた対爆隔壁《たいばくかくへき》の隙間《すきま》――走り去るアーミーブーツの踵《かかと》だけだった。
GARPは適当なエラーをでっち上げ、光学神経繊維《レーザーニューファイバー》の作動が誤作動であったことをシステムに報告して、警報発令を止めさせた。「準待機|体制《モード》」へと戻る。
一杯《いっぱい》食わされた。
灯台|下《もと》暗しとはこのことだ。
不思議と悔《くや》しさは感じなかった。相手の発想の奇想天外《きそうてんがい》さと、それを実行してしまうクソ度胸に敬意すら覚えた。センサーへの擬似《ぎじ》情報で目と耳をふさがれているその理由を、もっと深く考えるべきだったのだ。それは、今となっては疑《うたが》うべくもない――ドックに誰《だれ》もいなくなったことを自分の目で確認した後、GARPに気づかれないようにGARPのコクピットに忍《しの》び込むため、である。
訓練生の誰《だれ》かだろう、たぶん。
まず、何日か前に彼女は、GARPを含《ふく》む不特定多数が接触《せっしょく》するシステムに指向性感染型のウイルスを仕込んでおく。例えば整備課――あそこはチェックがずさんだし、GARPへの感染もほぼ確実だ。そうして消灯後、ドックに人気《ひとけ》のなくなったころ、GARPのコクピットに真正面から忍《しの》び込む。目潰《めつぶ》しと耳栓《みみせん》をくらっているGARPはそれに気づかない。あのS4接続は、緊急《きんきゅう》対処時の優先順位を利用した壮大《そうだい》な囮《おとり》であり、走って逃《に》げるための時間|稼《かせ》ぎだったわけだ。
しかし、なぜ?
しかし、彼女は自分のコクピットなんぞに何の用があったのだろう。
まさか、寝たきり刑事《デカ》のポスターを盗《ぬす》みにきたわけではあるまい。コクピットに侵入しなければ手に入らないデータといえば、成績評価のためのデータレコーダーの中身くらいだ。あればかりは外からは接続できない。しかし、その中身といっても、GARPを使用した訓練の状況《じょうきょう》が記録されているだけで、見ておもしろいものではない。記録を改竄《かいざん》しようというならまだ話はわかるが、このデータレコーダーは構造的に一度しか書き込みができないようになっているから、それも不可能だ。彼女はそんなものを見てどうするつもりだったのだろう?
まあいいか、と思う。このところ退屈《たいくつ》で退屈で死にそうだったのだ。GARPは彼女に感謝したい気分だった。明日《あした》の夜も来てくれないかな、なんてことまで考える。
彼女が逃げ去っていくときの足音のデータをリプレイする。それにしても――人間ならば、ここでニヤリと笑ったことだろう――大した度胸ですよ。コクピットに忍び込むときはドキドキしたでしょう? ウイルスが私に確実に感染しているということを確かめる手段は、あなたにはなかったはずだ。たぶん、なぜ擬似情報がバレたのか、今ごろ不思議に思ってるでしょうね――あれは確かによくできていたもの。ね。身長150ないし160センチ、体重40ないし45キロ、1メートル80センチの歩幅《ほはば》で走る誰《だれ》かさん。
トイレの個室に逃《に》げ込んで、便座に座り込んでからも、足の震《ふる》えが止まらなかった。
私物のラップトップ型データアクセサーを二つ、胸にしっかりと抱《だ》きしめて、カデナ・メイプルリーフは乱れた息をなんとか整えようとした。ドックからこのトイレまで、たったあれだけの距離《きょり》を走っただけで、こんなに息を切らしている自分が信じられなかった。これが、訓練と実戦の違《ちが》いなのかもしれない、と思う。
そう。たった今、カデナがやったことは、少なくとも訓練ではなかった。
こんなに恐《こわ》かったのは、生まれて初めてだった。
なにしろ、たった今、自分は軍法会議の一歩手前までいったのだ。|救 世 軍《サルベーション・アーミー》は、相手が訓練生であろうと決して手加減はしない。審理を待つ間、独房《どくぼう》に留置され、食事は一日一回、二十四時間中二十時間を麻酔《ますい》されて過ごす。軍事|法廷《ほうてい》は見せしめのために訓練生に公開され、弁護士は救世軍側の人間で、上訴権《じょうそけん》は、ない。戦時下における軍法会議とは、そういうものだ。
しかし、失敗の代償《だいしょう》がそれ以上に過酷《かこく》なものであったとしても、やはり自分は同じことをしただろうと思う。
カデナは、ルノア隊の訓練記録が、どうしても欲しかった。
ルノア隊の五人がボンクラであるのは、この際どうでもいい。ルノア教官がどんな指導をしているのか。どういったシミュレーションに比重を置いているのか。何を重要と考え、何を不要と考えているのか。カデナは、それを知りたかったのだ。
いまだに教官のいないカデナ隊の責任者は、いまだにカデナ・メイプルリーフ伍長《ごちょう》である。隊の全員が優秀《ゆうしゅう》であることは確かだが、カデナ隊が現在も成績の首位に位置している最大の要因は、カデナの努力である。
カデナは、訓練生であると同時に教官でもあらねばならなかった。
ずっと、死にたくなるほどの不安に耐《た》えていた。
お前が責任者だ――と、誰《だれ》かに正式に申《もう》し渡《わた》されたわけではない。報告書を提出する義務もなければ、定例会議で他の教官に指導方針についてとやかく言われることもない。しかしそれは同時に、誰も頼《たよ》れないということでもある。意見してくれる者も、ミスを指摘《してき》してくれる者もいない。部隊のメンバーの助力はもちろんあったが、それで責任の所在が変わるわけではない。他の部隊の教官に助言を仰《あお》いだりもしてみたが、「成績トップの伍長|殿《どの》にわたしが教えることは何もないわよ」と言わんばかりの態度で、冷たくあしらわれるのが常だった。
ルノア隊は訓練生からの嫌《いや》がらせに耐えていたが、カデナは教官たちのやっかみに耐えねばならなかったのだ。
ルノア教官に相談に乗ってもらおう――もちろん、そのことは何度も考えた。しかしそのたびに、プレッシャーに押《お》し潰《つぶ》されかかってあっぷあっぷしているかっこ悪い自分の姿を、ルノア教官に見られたくないという思いが邪魔《じゃま》をした。もともと、カデナは他人にどう見られようがあまり気にしない質《たち》だが、ルノア教官にだけは、無様《ぶざま》な自分をルノア教官に見られるのだけは、絶対にいやだった。それに、ルノア教官が、教官たちのなかで孤立《こりつ》していることは、カデナもなんとなく知っていた。はぐれ者同士がつるんでいる――自分はともかく、ルノア教官までがそんなふうに言われるのは我慢《がまん》できない。
この計画が固まったのは、一週間ほど前のことだ。仮病《けびょう》を使って二日間の時間を作り、自室にこもって、カデナは夜も眠《ねむ》らずに準備を進めた。ウイルスと追跡妨害《ついせきぼうがい》プログラムの作成、囮《おとり》の侵入《ハッキング》ルートの選択《せんたく》と罠《わな》の敷設《ふせつ》、やることは山ほどあった。
ルノア隊の双脚砲台――GARPのコクピットに忍《しの》び込めれば、ルノア隊の詳細《しょうさい》な訓練記録が手に入る。
決行は消灯後。まず、時限式のウイルスでGARPの目と耳に偽《にせ》のデータを流し込み、その隙《すき》にコクピットに忍び込む。持ち込むデータアクセサーは二つ。ひとつは本命――コクピツト内のデーターレコーダーの訓練記録をコピーするためのもの。もうひとつは囮――一度外に出て、極めつけに回りくどい経路でGARPに再接続、外部からの侵入を装《よそお》う。データレコーダーは改竄《かいざん》対策のために流体|脊髄《せきずい》からも完全に独立しているから、本命の接続がGARPに気づかれることはまずない。仮にセンサーへの擬似《ぎじ》情報が見破られても、システムチェックでウイルスが発見されれば侵入も発見されるから、緊急《きんきゅう》対処の優先順位に従ってGARPはまず侵《ハ》入者《ッカー》を追いかけることになる。その瞬間《しゅんかん》から、ウイルスが排除《はいじょ》されてGARPのセンサーが回復するまで――それが、自分の逃《に》げる時間。
カデナには、それなりに自信があった。あとは、実際にGARPのコクピットに忍《しの》び込む度胸を奮い起こせるかどうかの問題だった。ウイルスがGARPに感染していることは間違《まちが》いないだろうと思っていたし、コピーが終わるまでに擬似《ぎじ》情報が見破られる可能性は極めて低い。そう思っていた。
だが、GARPは見破った。
なぜバレたのか、いくら考えてもわからない。
もうすぐコピーが終わるというころ、囮《おとり》の侵入が追跡《ついせき》されはじめたことを示す警告音を聞いて心臓が止まりそうになった。しかし、このときのカデナには、まだ冷静でいられるだけの余裕《よゆう》があった。コピーはあと数秒《すうびょう》で終わる。それくらいの時間は、自分の作った追跡妨害《ついせきぼうがい》プログラムが稼《かせ》いでくれる――そう思ったのだ。ところが、それから三秒と経《た》たずに、囮のデータアクセサーのケーブルが音を立てて外れ、本当の恐怖《きょうふ》がやってきた。GARPはすぐそこまで来ている。追跡をかわしきれないと判断した妨害プログラムが、ケーブルをソケットからイジェクトしたのだ。
頭が真っ白になった。二っのデータアクセサーを抱《かか》えて、全部のケーブルを引っこ抜いてコクピットを飛び出し、全速力で走った。ドックの対爆隔壁《たいばくかくへき》が閉じる瞬間、GARPの|M  S  P《ムーバブル・センサー・ポッド》の駆動音《くどうおん》をカデナは確かに聞いた。トイレに隠《かく》れ、震《ふる》えながら、「見られたかもしれない」という恐怖と全身で戦った。大丈夫《だいじょうぶ》だ、あのウイルスを駆除するだけでも、相当の時間がかかったはずだ――そう自分に言い聞かせた。
一分が過ぎ、五分が過ぎた。十分たっても、警報と保安中隊の足音は聞こえなかった。
安堵《あんど》のあまり涙《なみだ》が出た。もう大丈夫だと頭ではわかっていても、足ががくがくして便座から立ち上がることができない。
それにしても――
GARPはすごい、とカデナは思う。
あの追跡速度は半端《はんぱ》ではない。「電子情報戦略」は、宇宙怪獣《プラネリウム》が相手のこの戦争には無用の長物と蔑《さげす》まれ、しかし|救 世 軍《サルベーション・アーミー》内部のスパイ養成には必須《ひっす》という妙《みょう》な科目であり、カデナの得意分野でもある。あの妨害プログラムは実戦にも堪《た》え得るレベルであったはずだ。
GARPは、それを打ち破った。専用脊髄《ケーブルヘッド》でも侵入迎撃《カウンターハック》システムでもない、ただの訓練機の流体|脊髄《せきずい》が。
整備課の連中が、「GARPは受け答えがやたら人間|臭《くさ》くて気持ち悪い」と話していたのを思い出す。流体脊髄の生理については高次の機密指定を受けている部分が多いが、その成長速度にかなりの個体差があることはよく知られている。つまり「当たり外れ」があるのだ。前回のリセットからわずか七ヶ月ほどで、GARPは専門外の侵入迎撃を、信じ難いような高速度でやってのけた。自分はとんでもない薄氷《はくひょう》の上を渡《わた》っていたのだということに気づいて、カデナは「落ちる夢《ゆめ》」から覚めた瞬間《しゅんかん》のような気分を味わった。賭けてもいい。GARPは、|救 世 軍《サルベーション・アーミー》の中でも屈指《くっし》の「当たり」の流体|脊髄《せきずい》だ。そんな相手に、自分はケンカを仕掛けていたのである。
だいぶ落ち着いてきた。深呼吸をし、汗《あせ》で額にくっついている前髪《まえがみ》を払いのける。いつまでものんびりしてはいられない。カデナは本命のデータアクセサーをひざに置き、サスペンドから復帰させた。ブツは早めに処理するにこしたことはない。コピーしたばかりのルノア隊の訓練記録を呼び出す。コピーが完全に終了《しゅうりょう》する前にケーブルを引っこ抜いたので、一部データに破損が見られたが、とりあえずはこれで十分だ。カデナは、この訓練記録には今すぐ目を通し、すべて暗記した後、囮《おとり》の妨害《ぼうがい》プログラムもろともこの場で破棄《はき》するつもりだった。動くものを見つめる猫《ねこ》のような目で、カデナは液晶《えきしょう》モニターの文字を追いはじめた。約一ヶ月分の、ルノア隊の訓練状況《じょうきょう》の詳細。
ルノア教官着任後、ルノア隊の成績がなぜ急降下したのか。カデナはその理由を理解した。
それは、驚《おどろ》くべき内容だった。
翌日。
カデナ隊は、訓練メニューを急遽変更《きゅうきょへんこう》、双脚砲台の〈起動演習〉を行った。
「なにそれ?」という全員の視線。めげることなく、カデナ操脚長《そうきゃくちょう》は発令席から全員にこう告げた。
「操機、起動。VOGUSの電圧安定処理、姿勢|制御系《せいぎょけい》、液化|素子《そし》安定系のすべてに対する電子制御をサスペンド。状況開始」
「何をやれって?」という全員の視線。カデナは、自分でもなんとなく自信のなさそうな様子で、
「やるのよ。文句言わないの」
ナツキ・サカモト一等|砲手《ほうしゅ》――電源機関士兼後方|銃手《じゅうしゅ》――のつぶやきが、その場にいる全員の胸中を代弁した。
「――できるの? そんなこと」
カデナはうなずいた。手動《しゅどう》による起動手順を説明する。
ナツキがまたつぶやいた。
「――なんで?」
そのひと言にカデナはぎくりとする。
「緊急の――VOGUSに障害がある場合の、緊急対処の訓練よ。きっと」
「きっと?」という全員の視線。
それから、飲まず食わずの十二時間が過ぎた。
四十三回に及ぶ失敗の後、四十四回目にして双脚砲台《VOGUS》の起動は一応の成功を見た。
「逃《に》げるぞ!! 近距離砲戦《きんきょりほうせん》用意!」
ちゅどーん!
ルノア隊は昨日《きのう》と同様、〈数値|砲撃《ほうげき》演習〉――"20581107.woc"を行った。
四回の全滅《APD》を数え、異変は五回目に起こった。
GARPは、潜伏《せんぷく》開始後わずか一分そこそこの、敵の前哨《ぜんしょう》に接触《せっしょく》したその時点で任務を放棄《ほうき》し、一目散《いちもくさん》に逃走《とうそう》を始めたのである。
結局、逃《に》げ切ることはできなかったのだが。
しかし、何が起こったのか、ルノアにはわかっていた。
アマルスがついにキレたのだ。
そしてルノアは今、双脚砲台のサイドハッチの前に五人を並《なら》べて、じっと腕組《うでぐ》みをしたまま立ち尽くしている。何か考え込んでいるようにうつむき、さっきからひと言も口をきかない。
できねえもんはできねえんだよ――ふてくされているアマルス。
やっぱり今日もダメだった――しゅんとしているマリポ。
きょうはてきを三コもやっつけちゃったもんね――にこにこしているアイ。
また居残り訓練なのかしら――心配顔のチャーミー。
眠《ねみ》い――三十|秒《びょう》前まで寝ていたペスカトーレ。
そして、いつまでもルノアは黙《だま》り込んで、何か悩《なや》んでいるように見える。そんなルノアに内心イライラしていたアマルスが、ついにこう言った。
「んだよ! 文句があんならさっさと言えよ!」
そして、驚《おどろ》くべきことが起こった。
ルノアが猛然《もうぜん》と怒鳴《どな》り返したのだ。
「うるさいわね!! 考えてんだから黙ってなさいよ!!」
五人は思わず飛びのきそうになるくらい驚いた。が、怒鳴った本人のルノアまでが、自分の怒鳴り声に心底《しんそこ》驚いた顔をしていた。「え」とっぶやき、アマルスの言葉をようやく理解したように「あ」という顔をして、
「ない。ないです」
五人全員が、まじまじとルノアの顔を見た。中でもアマルスなど、「何かへんなもん食ったんじゃねーのか」と、露骨《ろこつ》にそういう顔をしている。ルノアは五人の凝視《ぎょうし》を浴びて、なんとなくあさっての方に視線をそらしていたが、「うん」とひとつうなずいて、
「〈数値|砲撃《ほうげき》演習〉はこれでおしまい。今日は上がっていい」
異常事態だ、と全員が思った。いったい何が起こっているのか。誰《だれ》も居残り訓練をしなくてもいいのだろうか。全員そろって定時に上がっていいのだろうか。それ以上誰も口をきこうとしないので、チャーミーが、恐《おそ》る恐る、
「あの、まだ、少し時間ありますけど。訓練|終了《しゅうりょう》時刻まで」
うん、とルノアはうなずき、困ったように五人を見回してから、こう言った。
「――そう言えばさ、最初の日だったよね、員数《いんずう》つけられたって言ってたの」
アマルスは小さく舌打ちして顔を伏せ、結局は説教かよ――という構え。マリポとチャーミーは、話の展開についていけずに戸惑《とまど》う。ペスカトーレは相変わらず眠《ねむ》そうにしている。ひとりアイだけが元気よく手を上げ、大いばりで、
「うん! あのね、犯人はカデナたち! あいつらなかなかスキを見せないんだけど、いつか吠《ほ》え面《づら》かかせてやるの!」
吠え面|云々《うんぬん》のくだりはおそらく、アマルスあたりが言ったことをそのままマネしているのだろう。しかし、アイのこの発言は、自分たちが何かロクでもない仕返しを企《たくら》んでいるのだということを教官《ルノア》の前でミもフタもなく公言しているわけで、アマルスは目をむいてアイを睨《にら》み、マリポはアイを肘《ひじ》で突き、チャーミーは「まあ」と両手で口元を覆《おお》い、ペスカトーレの眠そうな面にはやっぱり変化がなかった。
ところが、ルノアの表情にも変化はなかった。
足元を見つめたまま、誰にともなく喋《しゃべ》り続ける。
「――保安中隊の装備《そうび》格納区画、知ってる? 第四層じゃなくて、第三層の方。あそこってさ、気密災害用のエアロックから入れるんだよね」
何の話なのかわからないまま、マリポが答える。
「あの、入れないと思います。最低でもS2以上のアカウントのIDがないと」
うん。ルノアはうなずく。
「話変わるけどさ、スタングレネードってさ、まんまくらうとちょっとキツくてヤバいけど、それ用のリミッターってあるのよ。保安中隊の連中が、訓練とかで使ったりする、衝撃波《しょうげきは》や爆音《ばくおん》をコントロールするのに使うやつ」
ゆっくりと、アマルスが、視線を上げた。
アマルスはようやく、ルノアがとんでもない話をしていることに気づいた。
本気でそういうこと言ってんのか?、そういう顔でルノアを見る。
「じゃ、解散」
ルノアは踵《きびす》を返し、ドックの壁際《かべきわ》の自販機《じはんき》に歩み寄る。自販機の上に乗せてあったジャンパーを羽織《はお》る。
ジャンパーの上に乗せてあった教官用のIDが、床《ゆか》に落ちる。
ルノアが「忘れ物」に「気づいて」、ドックに戻《もど》ってきたのは三十分後だった。
IDは、自販機の上にちゃんとあった。
――あの連中の本当の敵は、あの連中を本当に殺すのは、
エテ公じゃなくて、わたしなのかもしれないな。
そう、思った。
まだ、迷いがあった。
どの訓練|施設《しせつ》でもそうだが、ここオルドリンの訓練生の間でもやはり、保安中隊への通報《タレコミ》は最高に仁義にもとる行為《こうい》であるとされ、最低のチキン野郎《やろう》とののしられる。
だから「これ」も、事件にはならなかった。以降の記述は、訓練生たちの間でささやかれた噂《うわさ》の平均値である。多分、尾ヒレのひとつやふたつは確実についているだろう。本当のところは当事者たちにしかわからない。
午後七時三十分《ヒトキュウサンマル》ごろ、カデナ隊のユニットに二発のガスグレネードと三発のスタングレネードが投げ込まれた。
室内には二等砲手と三等|砲手《ほうしゅ》の二名がいた。班長を含《ふく》めたその他三名は、このときたまたま食堂におり、辛《から》くも難を逃《のが》れている。
興味深いことに、グレネードの爆音を聞いたのは、一階層上の第三階層の連中である。カデナ隊のユニットがある第四階層では、この爆音を聞いた者はひとりもいないらしい。この爆音の少し前、カデナ隊のユニットの近くで、気密|装備《そうび》のマスクで顔を隠《かく》し、洗濯物《せんたくもの》のカートを押している人物が目撃《もくげき》されている。ある情報通によれば、このカートの中身は双脚砲台から取り外された対消滅型熱音響迷彩《ブラックホール・オカリナ》であるという。これが真実であるとするなら、同階層で爆音を聞いた者がいないことの説明がつくが、だとすると、このマスクの人物とその一味は、双脚砲台のセンサー系、迷彩系《めいさいけい》をすみからすみまで知り尽くしている者たち、ということになろうか。
スタン兵器により、室内の二人を失神させ、完全に制圧した直後に突入《とつにゅう》してきた「略奪《りゃくだつ》部隊」は、四人であったとも十人であったとも言われる。彼女たちは全員、ガスマスクと大口径のサブマシンガンで武装し、背中にカゴを背負《せお》っていたらしい。彼女たちは突入後、室内にあった目につく限りの装備を奪《うば》い去り、電撃的なヒット・アンド・アウェイで姿を消した。その後の足取りは、学寮《がくりょう》区画内で途絶《とだ》えている。
その後の「略奪部隊」に関する噂は今も絶えない。
連中が走り去った後の廊下《ろうか》の床《ゆか》が濡《ぬ》れていたとか、
閉鎖《へいさ》された隔壁《かくへき》を素手《すで》で破壊《はかい》して逃《に》げていったとか、
大漁たいりょーけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ、という奇声《きせい》を聞いたとか。
[#改ページ]
自分のやりかた
おばさんは、遙《はる》か彼方《かなた》の昔《むかし》から、オルドリンのヌシだった。
おばさんは、オルドリンの歴史の生き証人である。二〇二四年、彼女は独立|紛争《ふんそう》の真っ最中の香港《ホンコン》に見切りをつけて、屋台《やたい》ひとつを抱《かか》えて月に乗り込んできた十六歳の喧嘩《けんか》っ早《ぱや》い女の子だった。それから色々なことがあって、女の子はおばさんになり、唯一《ゆいいつ》の相棒だったあの屋台はもうなくなってしまったけれど、彼女はこうして今もこのオルドリンにいる。これから先、どんなことがあっても、おばさんはずっとここにいるに違《ちが》いない。
崔容弼《チェヨンピル》。埋設《まいせつ》コロニー群守備隊オルドリン基地、学寮内|売店《PX》主任。
マリポとの約束《やくそく》通り、ルノアは五人に夕メシを奢《おご》った。教官が同行するということで、外出許可はわりと簡単に下りた。
学寮《がくりょう》のエントランスホールの外で待ち合せた。最終報告を二分で書き上げたルノアが最後にやってきた。全員が私服であることに、強烈《きょうれつ》な違和感《いわかん》があった。
始めのうちは、なんだか妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》だったのは確かだ。大体言い出しっぺのマリポにしてから、勢いにまかせてとんでもないことを言ってしまったと思っていたらしく、どうにもギスギスしがちな雰囲気を打破しようと、ひとりでわざとらしくはしゃいではすべりまくっていた。
シャングリラは、スペイン料理の店であった、とルノアは記憶《きおく》している。そこにしようと決めたのも、うまいとか量が多いとか安いとか、そういう積極的な理由があったわけではない。卒業式典の後、部隊の仲間に誘《さそ》われたことのあるこの店しか知らなかったのだ。訓練生時代、ラセレーナに負けたくないということしか頭になかったルノアには、市街《そと》を遊び歩いた経験は皆無に等しい。気のきいた店など知らないし、どういう店が気のきいた店であるのかもわからない。
シャングリラは、配給制のランジェリーショップというわけのわからないシロモノに化《ば》けていた。ヤマグチ次官の言ったとおり、オルドリンも変わるらしい。
ルノアは途方《とほう》に暮《く》れた。仕方がないので「店はみんなに任せる」と言ったことから、大激論《だいげきろん》が始まった。「あそこがいい」と誰《だれ》かが言うと、「あそこだけはいやだ」と言う奴《やつ》がいた。結局、
「誰もまだ行ったことのない店にしよう」という話に落ち着いた。しかし、「誰も行ったことのない店」など山ほどあるわけで、今度は全員が別々の看板を指差して「あそこにしよう」と主張する。最終案は、「今いる通りをまっすぐ進んで、最初の角を右に折れ、その通りの右側に並んでいる最初の店にする」というものだった。
その店は「不倶戴天《ふぐたいてん》」という。メニューはすべてオリジナル、四川《シセン》料理とインド料理とメキシコ料理の辛《から》いところだけを寄せ集めた、ハイブリッドで恐《おそ》ろしげなものである。どれもこれも夢《ゆめ》に見そうなほど辛かったが、辛い辛いと大騒《おおさわぎ》ぎしているうちに、ぎこちない雰囲気は薄《うす》れていった。
「で、あの人たち、外の端末《たんまつ》からへんな信号よこしたりして、邪魔《じゃま》ばっかりするんですよ」
マリポが楽しそうにぶーたれている。今日のルノア隊の演習は〈野戦整備演習〉だった。前《ぜん》代未聞《だいみもん》、整備課の連中と合同の訓練である。武装《ぶそう》の交換《こうかん》、装甲《そうこう》の増設、異常過熱|箇所《かしょ》の冷却《れいきゃく》などなどなどの作業を、タイムリミットを決めて行う。
整備課の連中は、ことあるごとにルノア隊にちょっかいをかけてきた。別の端末から偽《にせ》のエラーを流して作業を邪魔して、「おもちゃ壊《こわ》れちまったんなら、あたしらが直してやるよー!」などと野次《やじ》を飛ばすのである。
「もうちよっとでケンカになるところだったんだけど、チャーミーさんが止めるんですよ。『乱暴はやめて』って」
劇辛《げきから》カレーまーぼーなすをがばがば口に運んでいたチャーミーは「何か言った?」と顔を上げた。辛いのは得意らしい。店に入った途端《とたん》にレンズが曇《くも》ってしまったので、眼鏡《めがね》を外している。
そのときの様子を思い出して、マリポはくすくす笑いながら、
「そしたらいきなり、|33型汎用《Dシェル》の耐圧《たいあつ》機能が誤作動を起こして――整備課の人みんな――風船みたいにふくらんじゃって――」
よほど痛快だったのだろう。パンパンにふくらんだ整備課の連中がごろごろ転がって悲鳴を上げている様《さま》を思い出して、マリポは笑い続けている。チャーミーはとぼけて「バチが当たったんです」とつぶやき、再び劇辛《げきから》カレーまーぼーなすに戻《もど》る。
「シェルバブル」
ルノアが言った呪文《じゅもん》のようなその言葉に、全員が「え?」という顔をした。
「わたしのころはそう呼んでた。なつかしいなー。33型汎用のバグでさ、ある信号のパターンをヘッドギアのリンカーが受信すると耐圧機能が暴走するのよ。修正《パッチ》されたはずなんだけどな。自分のヘッドギアにデータアクセサーつないで、ムカつくやつのシェルのプロセッサーにワイヤレスで侵入《しんにゅう》して信号送ってやれば、そいつは風船になるわけ」
そこでルノアは「あは」と笑った。ちょっとだけ恥《は》ずかしそうに、
「ロッカールームとかエアロックとか、狭《せま》いところに何人も固まってるときにやるとすごかったなー。もうぎゅうぎゅうになっちゃうんだから。でも、修正をくぐり抜けて、狙《ねら》った相手だけのをふくらますなんて、大した腕前《うでまえ》ね。誰《だれ》だか知らないけど」
ルノアにちらりと視線を向けられて、チャーミーのレンゲの動きが止まった。
「ね、ふくらんだやつ蹴《け》っ飛ばしてサッカーとかしなかった?」
やっぱり軍隊は飯《メンコ》の数だ、と誰もが思った。
ルノアの給料日は、カレンダーの彼方。
不倶戴天《ふぐたいてん》を出たのは午後八時《フタマルマルマル》くらいであっただろうか。予定時刻通りに学寮《がくりょう》に戻《もど》ってきたルノアと五人は、いきなりその声に出迎《でむか》えられた。
「あら、ルノアちゃんじゃない! 久しぶりねー!」
ちゃん!?
全員が、その声のした方を振り向いた。
売店《PX》主任――つまり学寮の購買部《こうばいぶ》のおばさん、崔容弼《チェヨンピル》が、肉まんのような顔をほころばせて立っていた。ルノアの目が真ん丸になる。
「お、おばさん!? まだオルドリンにいたの!?」
「そうよ。当たり前じゃない」
おばさんは誇《ほこ》らしげに答える。おばさんにとって、そのことは他《ほか》の何よりも誇らしいことなのだろう。背の低いおばさんは、頭一つ高いところにあるルノアの顔を見上げて、
「あんた、ちょっと見ないうちにずいぶん大きくなったわねー。重力が大きい方が背は伸びるんだって死んだダンナが言ってたけど、ほんとねー。この分だとあなた、来年ごろには3メートルくらいになるんじゃない?」
ルノアはちょっとしたパニックに襲《おそ》われていた。いきなりの再会に驚《おどろ》いているのはもちろんであるが、自分の過去を知っている人物が、自分の担当部隊の五人の前に出現してしまったことに焦《あせ》りまくっていた。
「おばさん、教官のこと知ってるんですか?」
意外な展開に驚いたマリポがたずねる。おばさんは、何を当たり前のことを、という顔で、
「当然よ。ルノアちゃんはオルドリンの卒業生だし、あたしはジュリエット計画の前からここにいるんだもの」
マズい。すごくマズい。おばさんが何を喋《しゃべ》りはじめるかと、ルノアは気が気ではない。なんとかこの場からおばさんを引き離さなければと思うのだが、脳みそはでんぐりがえってしまつていて、
「あ、あの、おばさん? その『ちゃん』っての、やめてもらえません?」
おばさんは大げさに顔を歪《ゆが》め、目を丸くして、
「ルノアちゃんはルノアちゃんじゃない。やーね、大尉殿《たいいどの》になったからってエバっちゃって」
「おばさんおばさーん」
アイが黄色い声を上げる。ルノアとおばさんはアイを振り返った。ルノアは、ぎくっ! という感じで。おばさんは、孫を見るような目で。
「教官て、昔《むかし》はどんなだったの?」
殺《や》るか――一瞬《いっしゅん》そこまでルノアは考えた。
最悪の展開であった。
それは興味ある、という五人の視線がおばさんに集中した。うんうん、とおばさんはうなずいて、ルノアの恥《は》ずかしい過去を大放出した。
「そうねえ――ケンカばっかしてたわね。ラセレーナちゃんって子がいたんだけど、その子とはもう寄るとさわるとすぐケンカになっちゃって。すごかったのよ、員数《いんずう》のつけあいで、他《ほか》の部隊まで巻き込んで一大|抗争《こうそう》になっちゃって、カーゴエリアにたてこもって保安中隊が出動したりして。軍法会議寸前だったんだから。一度なんか、双脚砲台もちだして、虹《にじ》の入《い》り江《え》でラセレーナちゃんと決闘《けっとう》したのよ」
おおおおおお。五人は声なき声を洩《も》らし、ずいと身を乗り出した。「それでそれで?」と顔に書いてある、
「まあ、お勉強はよくできたんだけど、ちっちゃくって、気は強いんだけど泣き虫で。同じ部隊の先輩《せんぱい》にいじめられるとすぐベソかいて。年少さんだったころ、軌道《きどう》降下演習でおもらししちゃって、ついた仇名《あだな》が『しょんべ
「わーわーわーわー!!」
限界であった。
大声でわめき、ルノアは見事な「左雲身」で肩《かた》を極《き》めておばさんを拉致《らち》し、廊下《ろうか》を走ってあっという間に姿を消した。
こたつにあたって、げす板にべたーっとあごを乗せて、ルノアは目の前のでっかい湯飲みから上がる湯気を見つめている。
「おばさんのいじわる」
「なによ」
「あの五人の前で、あんな話することないじゃない」
「あら。あなただって、小夜子《さよこ》さんの昔話《むかしばなし》してくれる人がいたら絶対に聞きたがるくせに」
「そんなことないもん」
「うそおっしゃい」
みかん山盛《やまもり》りの鉢《はち》をどかっと置いて、おばさんはルノアの向かいに座った。
おばさんの部屋である。
ルノアの目の前にあるでっかい湯飲みは、訓練生時代にこの部屋に入《い》り浸《びた》っていたころのルノアの専用だったやつで、漢字がいっぱい書いてある。|相  撲《スモウレスリング》の|決まり手《フィニッシュホールド》だ、とおばさんに教えられた憶《おぼ》えがあるが、どの字も難しくて、いまだにひとつも読めない。あんたが地球へ行ってからもちゃんと取っといたんだから、とおばさんは自慢《じまん》そうだった。
「前から聞いてみたかったんだけどー」
「ん?」
「なんでおばさんの部屋ってこんなに日本調なの? 生まれ香港《ホンコン》でしょ?」
「あたしの部屋にけちつける気?」
「そういうわけじゃないけどー」
「趣味《しゅみ》ね。小夜子《さよこ》さんからも色々分けてもらうことあるし」
「悪魔《あくま》の発明だと思うな、これ」
「何が?」
「こたつ」
おばさんは笑って、
「あんた、ここにくるといっつもぐずぐすしてたもんね」
そうなのだ。あんまりにもこたつがあったかいので、ルノアは何か用事があるときでも、ここに立ち寄ったが最後、いつも時間に遅《おく》れてしまったものだった。
あのころは。
「なーんか信じらんないわよ。あんたが教官だなんて。あたしも年取るわけだわ」
「違《ちが》うのかもよー」
ぐたーっとした姿勢のまま、ルノアは言った。あごを板にくっつけているので、喋《しゃべ》ると頭の方ががくがく動く。ルノアはいつもこういう格好でこたつにあたり、こたつにあたるといつもこういう間延びした喋りかたになる。手だけ伸ばしてみかんを一個取り、頭の上に乗っけた。
「違うって?」
「わたしはおばさんの知ってるルノア・キササゲじゃないのかもよー」喋ったら頭が動いて、みかんが転がり落ちた。
「ほんとのわたしは地球で死んじゃっててー、今ここにいるのはわたしの真似《まね》をしている別の誰《だれ》かなのかもよー」
おばさんはため息をつく。
「そうかもね」
ルノアは上目遣《うわめづか》いにおばさんを見上げた。
「確かに今のあんたは、目下《もっか》のところ何者でもない誰かね」
自分で言い出したくせに、ルノアは恨《うら》みがましい目でおばさんをみつめた。おばさんは、情けないルノアのその顔が言わんとすることを正確に読み取って、
「あのね、購買部《こうばいぶ》の情報|網《もう》はオルドリン一早いの。あんたのことなんて、あたしには手に取るようにわかんのよ」
ルノアは顔を伏せ、げす板に額をぐりぐり押しつけた。まるで子供だ。
「帰りたいなー地球」
おばさんは、にべもなく言った。
「帰れば?」ぐりぐりが止まった。
「帰れるわよ、今すぐ、多分。小夜子《さよこ》さんにそう言えば。『帰りたいんです』ってあんたが真剣《しんけん》に頼めば、あの人は引き止めないわよ、きっと。しかも、アメリカでも中国でもインドでも、好きな前線に送ってくれるんじゃない? そうすれば?」
顔を伏せたまま、息を止めて、ルノアはおばさんの言葉を反芻《はんすう》した。
多分それは正しい。
着任初日、オルドリンの次官がサヨコ・ヤマグチ大佐であることを知ったその日から、眠《ねむ》れないままベッドに転がって天井《てんじょう》を見上げて、そのことを考えない夜はなかった。自分がはっきりそう言えば、ヤマグチ次官は多少非合法な手段にうったえてでも、自分を地球に帰してくれるだろう。マナッドにも会える。ラセレーナをぶん殴《なぐ》ってやれる。あのジジイに――ブルース・ジュリアン・ベイカー中尉《ちゅうい》に、あの手紙は届けたと、嘘《うそ》をつくこともできる。
おばさんはお茶をひと口すすった。
「どこへ行っても喜ばれるでしょうねー。なんたってあのルノア・キササゲ大尉様《たいいさま》だもの。むこうが鬼《おに》かどうか知らないけど、あんたが金棒《かなぼう》なのは確かだわ。『反応速度の女神《めがみ》』。うっひょー恥《は》ずかしー。あんたまさか、自分でそんなダサい二つ名名乗ってたわけじゃないでしょうね?」
顔を伏せたまま、ルノアは言った。
「もうその手には乗らないよーだ」
「なにそれ」
「おばさんっていっつも、わたしがヘコんでるとそうやって、わざと怒《おこ》らせるようなこと言うんだから。わたしだってねー、いつまでもそんな単細胞《たんさいぼう》じゃないんですー」
なに言ってんの――おばさんはそう思った。それがあんたのいいところなんじゃない。あんたはいつもそうやって、『お前には無理だ』って言った奴《やつ》を見返してきたんじゃない。いつだって神様は、『お前には無理だ』って言ってくれる奴をあんたの周りにバラまいてくれてたじゃない。単細胞から単細胞取っちゃったら何が残んのよ。
だが、おばさんはそうは言わなかった。
「駄目《だめ》だわこりゃ。処置なしね。あんたね、公共の利益のために、今すぐ地球に帰るか軍|辞《や》めるか、どっちかにしなさい。あんたみたいなのが教官やってたらあの子たちに迷惑《めいわく》よ」
長いこと、ルノアは、額をげす板にくっつけたその格好のまま、身動きひとつしなかった。
寝ちゃったのかな、とおばさんが思ったとき。
「――すごく恐《こわ》かった」
「……?」
「恐かったよ。地球。思ってたより何百倍も恐かった。もう絶対死ぬって何度も思ったし、そのたんびにおしっこ漏《も》らした。わたし今でも『しょんべんルノア』。小隊長になって、部下ひとり殺した」
おばさんは固く口を引き結んで、固い目でルノアのつむじを見つめた。
「何度も仲間見捨てて逃《に》げた。関節の音がおかしいって思ったら、故障だって言って出撃《しゅつげき》しなかった。わたしね、命令出すとき考えるの。こいつに今死なれてもいいかなって。部下の顔見比べて、こいつに死なれると困るけどこいつは死んでも困らないなって。秤《はかり》にかけるの。どっちの命が軽いのか、私が決めるの」
顔を伏せたまま、呪文《じゅもん》を唱えるように、抑揚《よくよう》の欠ける口調で、ルノアは喋《しゃべ》り続けた。
「地球へ帰りたいなんてうそ。わたし死ぬのいや。地球で好きな人できたけど、その人に会いたいけど、でも地球へ帰るの恐い。死ぬの恐い。死ぬの恐いって、地球へ行った最初の日からずっとそう思ってた。ずっとそう思ってたから、死ぬのいやだったからなんでもやった。だからね、今はわかるの。なんとなくだけど、誰《だれ》にも内緒《ないしょ》にしてたけど、こうすれば死ななくてすむかもってやり方。自信ないけど、わたしのやり方」
おばさんは、言葉を失う。
この子は、一体どんな地獄《じごく》を見てきたのだろう。まだ靴紐《くつひも》も結べないうちからプラネリアムがお前の敵だと教えられ、もっとも多感な時期を訓練に明《あ》け暮《く》れ、お前は殺しがうまいからと誰よりも前に押し出されて、泣きながら歩いてきた血の色の地獄。見た者でなければわかりはすまい。どんな空想も及びはすまい。|救 世 軍《サルベーション・アーミー》の兵士が、救世軍のために死ぬことは、常識でこそあれ、美徳ですらない。それしかないから、今のこの世にはそれ以外の生き方がないから、この子はそれが地獄であったとすら思っていない。地獄以外を夢見《ゆめみ》ることを誰からも教えてもらえなかったこの子は、それでもそこで倒《たお》れることを拒《こば》み、倒れないですむ方法を必死になって学んで、しかし倒れた仲間こそ正しかったのだと自分を責めている。
この子にはわからないのだ。地獄以外を夢見ること――それこそが倒れないですむ方法であり、自分はそれを月へ持ち帰ったのだということが。
「わたしね、はじめのうちずっと、ヤマグチ教官の真似《まね》をしてたの。全部真似した。喋《しゃべ》り方とか、歩き方とか、教え方とか。わたしを教えてくれた人だし、わたしが生き残れたんだからそのやり方が正しいんだって、そう思って真似した。だけどほんとは違《ちが》うの。恐《こわ》かったから、わたしのやり方でやって、兵隊になったあの五人のうちの誰かひとりでも死んだりしたら、わたし眠《ねむ》れないもの。もうずっと眠れないもの。だからわたしはヤマグチ教官になった。あの五人が手柄《てがら》を立てたら、それはヤマグチ教官のせい。あの五人が死んだら、それもヤマグチ教官のせい。全部ヤマグチ教官のせい。自分を自分じゃなくして、全部|真似《まね》して、真似しきれなくなると、ヤマグチ教官ならどうするのかわかんなくなると、あの五人を怒鳴《どな》ったり殴《なぐ》ったりした。でも、でもね。それって寂《さび》しかった。あいつら、みんなちゃんとやってるのに、誉《ほ》めてあげられなかった。缶《かん》コーヒーもわたせなかった。あいつら、わたしのこと、教官としか思ってなかった。口きいてくれなかった。でも、でもさ、」
ルノアは顔を上げた。
「いいのかな? わたしが教官なんかしていいのかな? わたしのやり方は、ずるいやり方だもの。勝つためのやり方じゃないもの。生き残るためのやり方だもの。やっぱり、ヤマグチ教官みたいにはなれないよ。勝つためのやり方なんて教えられないよ。そうしなきゃって思うこともあるけど、そんなのずるいもの。自分だけずるをして生き残って、そのこと黙《だま》ってるなんて。誰《だれ》かに教えないといけないと思う。勝たなくてもいいから、死にたくないのならこうすればいいって、そういうやり方もあるんだって、せめて誰かに教えなきゃ――なんのために生き残ったのかわからないよ」
ルノアの目には、涙《なみだ》すらなかった。おばさんは、この目を正面から見つめなければならないと思った。地獄《じごく》以外を夢見《ゆめみ》ること――それを、この子に教えることをしなかった大勢の中のひとりとして、目をそらすことは許されなかった。
ルノアは、尋《たず》ねた。
「それで、それでいいと思う――?」
「自分のやり方は、自分で決めなさい。あなたが後悔《こうかい》しない方に。それは、」
すべてを捨てて、平坦《へいたん》で真っ直ぐな道を行くのか。
何もかも取って、曲がりくねった険しい道を行くのか。
おばさんは、答えた。
「それが、自分で決めた道なら、それがあなたの、正しい道だから」
ルノアはうなずき、覚悟《かくご》を決めた。
決断した。
ルノアの中の何か、大きな亀裂《きれつ》が生じていた何かが、ついに、完全に砕《くだ》けた。
それは、枷《かせ》だったのだろうか。鎧《よろい》だったのだろうか。
時計が見えた。午後十時三十分《フタフタサンマル》。
半分目を開いて夢《ゆめ》を見ていた。その夢の中で誰かに名前を呼ばれて、ルノアは目を覚ました。
いつの間にか、おばさんの部屋のこたつで眠《ねむ》ってしまったらしい。こたつの温度が下げられていて、肩《かた》には半纏《はんてん》が掛かっていた。部屋の照明は半分くらいに落とされていて、おばさんはいない。
あれ――わたし、なんでおばさんの部屋にいるんだろ。まだ半分寝ボケている頭でそう思ったとき、非常警報が消灯後のオルドリンの静寂《せいじゃく》を打ち砕いた。
「……?」
ルノアの正面、ブラウン管式の古ぼけたテレビの電源が自動的にONされ、画面の光が薄暗《うすぐら》い室内を照らし出す。
緊急出撃訓練
・状況想定
22:31:38 オルドリン市街地区第七階層・W65区画に原因不明の送電障害発生
無人哨戒機急行中
22:31:40 オルドリン市街地区第七階層・W65区画に検索不能対象
A0{001,002,003,004,005,006,007,008}
を探知 無人哨戒機急行中
22:31:45 検索不能対象
A0{002,003,007,008}
を敵性目標と設定 無人哨戒機急行中
22:31:51 敵性集合A0{007}の攻撃行動確認 無人哨戒機SS@01中破
準戦時体制発令 検索不能対象
A0{001,004,008}
を敵性目標と設定 検索不能対象
A0{001,002,003,004,005}
を探知
画面をスクロールしていく状況《じょうきょう》想定を、ルノアはぼーっと見つめていた。
――出撃《しゅつげき》すんのかな、わたし。
そう思ったときくしゃみが出て、ちょっとだけ頭がはっきりした。
そうか、緊急《きんきゅう》出撃訓練だ、これ――。抜《ぬ》き打《う》ちで行われる、緊急出撃と迎撃《げいげき》任務のシミュレーション。食事中だろうが就寝《しゅうしん》中だろうが、この警報が鳴《な》り響《ひび》いたら何もかも放り出して、|33型汎用《Dシェル》に着替《きが》えて自分の隊の双脚砲台のコクピットに飛び込まなければならない。警報発令から三分たってもコクピットに乗員が三名以上いなかったら、その部隊は戦死|扱《あつか》い。さらに、出撃指令から三十|秒《びょう》以内にすべての出撃準備を終了《しゅうりょう》し、シミュレーションエンジンに接続していなかったら、その部隊は戦死扱い。シミュレーション上の敵に撃破されたら、もちろん戦死扱い。
今回は意外と早かったんだな――と思う。前回の緊急出撃訓練からたったの一週間足らずだ。前回の訓練は、惨憺《さんたん》たる有《あ》り様《さま》だった。第一回目ということもあったのだろうが、出撃までこぎつけたのはたったの三部隊。任務を達成できた部隊はゼロ。全滅《ぜんめつ》だ。
警報が止まる。残響《ざんきょう》が廊下《ろうか》の向こうに消えていく。静寂《せいじゃく》が耳につく。出撃指令が発令されたのだろう。テレビの画面、状況《じょうきょう》はいまだに進行している。今回は、一体いくつの部隊が出撃できたのか。
――あいつら、もう戦死したのかな。
どの道、ルノアにできることは何もない。端末《たんまつ》でもあれば、もっと詳《くわ》しい状況がわかるのだろうが、おばさんの部屋にはそんなものはない。そのとき、部屋の外の廊下をばたばたと走りぬけていく何人分もの足音。何か叫《さけ》んでいるようだが、その内容までは聞き取れなかった。
何かあったのだろうか。
喉《のど》の渇《かわ》きを覚え、手付かずのまますっかり冷めていたお茶を一気に飲み干して、ルノアはこたつから立ち上がる。
食堂か喫茶室《きっさしつ》、あるいはロッカー長屋の休憩所《きゅうけいじょ》には、こういう大規模シミュレーションを観測するためのALFを備えた端末がある。そこへ行けば詳しい状況がわかる。そう思って、エレベータのボタンを押した。ドアが開き、三人の訓練生と入《い》れ違《ちが》いにルノアはエレベータに乗り込む。
「あんなの反則よね」
すれ違《ちが》いざまに聞こえてくる三人の会話。私服姿のルノアが目に入らないのか、敬礼もしない。かなり興奮して喋《しゃべ》っている。
「起動したらいきなりウーフーのEMPバラージなんてさ、こんなの訓練になんないわよ」
ドアが閉まる。エレベータが動きはじめてから、ルノアはさっきの三人の会話の重要性に気がついた。
――EMPバラージ?
プラネリアムの変種、スキソロイド属の一派からさらに分化したものといわれるウーフーは、ルノアの地球着任のころにようやくその実在が確認された、極めて珍《めずら》しい種《しゅ》だ。ルノアもかつて一度しか遭遇《そうぐう》したことがない。こいつは、生成晶《せいせいしょう》集積が人間に攻撃《こうげき》されても直接|戦闘《せんとう》には加わらず、前肢《ぜんし》が変化したものと言われる大きな鈎状《かぎじょう》の器官から超《ちょう》強力な電磁波を発する。この核爆発《かくばくはつ》レベルの電磁波はEMPバラージ――Electro Magnetic Pulse Barrage――と呼ばれ、ありとあらゆる無線を潰《つぶ》し、兵器|誘導《ゆうどう》の照準システムを狂《くる》わせ、すべての電子機器のシールドをぶち破って金属その他の導体に拾われる。これは瞬時《しゅんじ》に強電流または高電圧に化《ば》けて、機体の電子|装備《そうび》を光の速度で殺していくのだ。ウーフーはこのEMPバラージ放射後五分とたたずに死亡するが、そのときには、ただの棺桶《かんおけ》と成り果てた多脚《たきゃく》兵器の中で、人間たちも同じ運命をたどる。
エレベータのドアが開いた。目の前の廊下《ろうか》を――すでに戦死した連中だろう――訓練生が何人も走っていく。廊下に出て、ルノアもなんとなく早足になった。まだ生き残っている部隊がいるのだろうか。廊下には教官たちの姿もあって、訓練生たちと怒鳴《どな》り合うような会話を交わしている。その切《き》れ端《はし》が、ルノアの耳に入った。
「EMPバラージ食らって、なんで動き回れるんだよ!? 流体脊髄自体は無事でもな、あれがコントロールしていた|電 装《エイヴォニクス》は全部死んじまってるはずだぞ!」キム・ヘンドリックス教官だ。目の前の訓練生につかみかからんばかりの口調。
「知りませんよそんなこと! ――あ!、もしかして、全部の設定をリセットして起動かけ直して、何もかもバイパスして全部|手動《しゅどう》でコントロールしてるんじゃ――すごい!! できるんですかそんなこと!?」
「こっちが聞きたいよ! 誰《だれ》だ、どこの連中だ生き残ってるの!?」
「カデナ隊とルノア隊です!!」
それを聞いた瞬間《しゅんかん》、ルノアは走り出していた。廊下には人があふれていて、邪魔《じゃま》な奴《やつ》を突き飛ばしながら、ロッカー長屋目指してルノアは走った。
「六時、検索《けんさく》不能ファイル005と006――あっ、007を追索失敗《ロスト》!! たぶん右の地下道のどこかに――」
「はっきりしろ!! ペスカトーレ、後方にSADARM射出!!」
ええええでもそれカデナ隊も巻き込んじゃってまずいんじゃないかなそれより
「いいからやれ! カデナならかわす!! アイ、ケツにくっついてるやつバルカンでぶちのめしてSADARMの有効|範囲《はんい》にくぎづけにしろ!! 絶対こっちに近づけるな!!」
寒いはずのGARPのコクピットが、こんなに暑く感じられたことはない。アマルスは左手でパネル板《フェース》何枚も引っこ抜き、右手で嵐《あらし》のようにキーボードを叩《たた》き、頭突きをくれるような勢いでリニアガン照準器のアイピースをのぞいた。肉眼では追いきれないスゼードでエラーメッセージがスクロールし、レティクルの重なった第六層の廃虚《はいきょ》の映像に切《き》り替《か》わる。超《ちょう》高速のシミュレーションエンジンが提供するCGは、実像とまったく見分けがつかない。
「やった!! リニアガンの手動《しゅどう》マウント完了《かんりょう》!! 計算開始するぞ集積どこだ!? チャーミー、MAJDは――」
「いっぺんに色々言わないで! マリポ、右腕《みぎうで》の制御《せいぎょ》母線MAJDにつながらない!?」
「そんなの自分でやってよ!! こっちは――」
「待って――いた!! 007捕捉!! 位置送るわよ、アイ!!」
うりゃー、あちょー、という可愛《かわい》い気合とともに、アイは手動制御のロボットバルカンで後方を制圧し続ける。網膜《もうまく》映像の中、バリュートを展開し、落下速度を劣化《れっか》させて落ちていく無数のSADARM子弾《しだん》、降り注ぐ自己鍛造《SFF》弾頭《だんとう》の赤外色の雨。地雷化《じらいか》した子弾が連鎖爆発《れんさばくはつ》していく爆煙《ばくえん》から逃《のが》れるように、気密建材の多層構造物の壁《かべ》をぶち破って現れる双脚砲台。アイが叫《さけ》ぶ。
「カデナ機《っち》確認! 止めて! あの地雷の起爆止めて!!」
アマルスが叫ぶ。
「止めるな!! アイ、カデナ機の離脱援護《りだつえんご》しろ!!」
「やってるもん!!」
頭の中で、アマルスは必死になって状況《じょうきょう》を計算する。さすがはカデナ隊、EMPを食らってからの再起動にかなり手間取っていたはずなのに、もう追いついてきた。でも、二機で固まっているのはまずい。しかも生成晶《せいせいしょう》集積の場所もわからない。MAJDが使えないのは向こうも同じだろうか? 無線の呼び出しをさっきからずっと続けているのに、応答がないってことは、カデナ機はまだ通信系をマウントできていないのだろう。くそ、せめて――
『アマルスさん!!』
GARPの声。やっとコクピットとの接続に成功したのだろう。
全員が声をそろえて叫んだ。
「役立たずは黙《だま》ってなさいよ!!」
しかし、GARPは黙らない。
『このシミュレーションは衛星をサポートしてますよね!? 低高度|監視《かんし》衛星のMAJDを使った方が、こっちのを回復させるより早いです! コマンドはもう作ってありますからパケットの送受信は誰《だれ》か手動《しゅどう》でやってください!!」
アマルスはリニアガンの照準器のセレクターを叩《たた》き切ってリモートに切《き》り替《か》えた。
「チャーミー!! やれるか!?」
チャーミーは返事もしない。チャーミーはGARPのアイデアを聞いた時点で、今のヘタったシステムを送受信でこれ以上重くするのはマズいと判断、携帯用《けいたいよう》のデータアクセサーをソケットにつないで接続を確保していたのだ。
「接続完了!! 羽化《うか》反応探知、集積の位置確認!! アマルスさん!!」
「訓練射撃《SMF》、|繰り返す《リピート》、訓練射撃!! 20670516、弾頭《だんとう》管制責任者、222D、アマルス・ヒホン伍長《ごちょう》・|救 世 軍《サルベーション・アーミー》!! カラコルム条約免責|条項《じょうこう》第二十一条第三項|該当《がいとう》の熱化学|攻撃《こうげき》!! |A J C 弾 頭《アンチ・ジェネレイター・ケミカル・ウォーヘッド》、装弾《ロード》!! シーカー冷却《れいきゃく》!!」
データレコーダーに記録されるカラコルム警告。自分が口にすることなどあるまいと思っていた、そのくせベッドの中でいつも練習していた、リニアガン化学|砲撃《ほうげき》の免責宣言《D&D》。現実感ゼロ。まるで夢《ゆめ》の中にいるような。アイピースにもう一度|頭突《ずつ》きをくれて、アマルスはレシーバーに向かってというよりも自分自身に向かって叫ぶ。
「総員《レディース》、中距離《ちゅうきょり》砲戦用意!! 衛星照準でリニアガンぶっ放すぞ!! 射撃地点まで突っ走るからな!!」
ロッカー長屋の入り口からでは、充満《じゅんまん》する見物人の後頭部しか見えなかった。ルノアは強引に人波をかき分け、ALFに少しでも近づこうと焦《あせ》る。今この瞬間《しゅんかん》にも、シミュレーションは終わってしまうかもしれない。あいつらのあっけない戦死で、訓練の幕が降りてしまうかもしれない。どいて。通して。思わず口に出る。
興奮している見物人が、大きくどよめいた。誰《だれ》かの声が、
「すごい!! 手動で衛星にアクセスしてる!」
当たり前だ、人と人の隙間《すきま》を泳ぎながら、ルノアは思う。自分のMAJDがだめでも、別のMAJDを乗っけたブリキ缶《かん》が頭の上を飛んでいるのだ。それを使わない手があるものか。
「まさか――撃《う》つ気かな、リニアガン、衛星照準で」
誰かがそう言って、それに反論する声がわき上がる。永遠に続くかと思われた人垣《ひとがき》が不意にとぎれて、ルノアはついに一番前へとよろめき出た。端末《たんまつ》のパームレストに両手をついて、荒《あら》い息を殺しながらALFを見上げた、立体表示されている第六層|廃虚《はいきょ》。敵性目標の赤い矢印《フリップ》と、二機の双脚砲台――GARPとVOGUSを示す青い矢印。
ルノア隊は、カデナ隊の前方500メートルを先行している。
まるで、自分が息を止めている間はGARPは撃破されないとでも思っているように、ルノアは息を詰めてALFを食い入るように見つめる。GARPの矢印が何かするたびに、ルノアは小声でつぶやき続ける。――ちがう、右回り左向き、ちがうちがうそうじゃない!! なんでそこで照準右に取っちゃうのよ! 滑空砲《かっくうほう》なんだから、ライフル砲じゃないんだから、ペレットの偏流《へんりゅう》なんてないんだから!
ルノア教官だ――そう囁《ささや》く声が、ルノアの周囲から疫病《えきびょう》のように広がっていって、ルノアの周りにはぽっかりと無人の空間ができあがったが、ルノアはそんなことにも気づいていない。しかし、ただひとり、そんな周囲の態度など意に介《かい》さず、その場を一歩も動かずにじっと腕《うで》を組んでALFを見つめている訓練生がいた。並《なら》ぶとルノアの肩《かた》までしかない短躯《たんく》、ビアダルのような身体《からだ》――モナ・マッケンジー伍長《ごちょう》である。彼女はルノアの隣《となり》で、ルノアに劣《おと》らない真剣《しんけん》な表情でモニターを見つめていた。
「やっぱり撃つ気だ!」
誰かがそう叫《さけ》んだ。動き続けていたGARPの矢印が止まり、そこから新たなウィンドウが開いて、その中を照準計算のログが埋め尽くしたのだ、普通《ふつう》なら到底《とうてい》追いきれないような速度でスクロールするそのウィンドウの中身を見つめ、それまでずっと黙《だま》っていたモナ・マッケンジー伍長が口を開いた。
「あれでは命中|弾《だん》を得られません」ルノアはその時になって初めて、自分の隣にいる彼女の存在に気づいた。
「え――」
「あの照準は、衛星との通信で発生するタイムラグが考慮《こうりょ》されていません。トリガーのタイミングに深刻な遅延《ちえん》が生じます」
撃《う》った! 誰《だれ》かが叫んだ。射線が空を切《き》り裂《さ》き、その終点に爆発《ばくはつ》による有効半径が現れる。その弧《こ》は、生成晶《せいせいしょう》集積までぎりぎり届かない。ルノアの思いはもはや祈《いの》りに近い。射撃《しゃげき》地点がバレた。反撃が来る。教えたはずだ。何度も何度も。古いやり方――着弾点観測。本命は二発目。もう衛星はいらない、修正、照準を修正して、初弾の着弾点に目標を重ねて、早く、早く次を! 逃げる! 撃って逃げる!!
GARPの死角から――正確には足元にあった地下道から――赤い矢印《フリップ》が唐突《とうとつ》に現れ、GARPめがけて不気味に前進した。全員が、モナ・マッケンジー伍長《ごちょう》を除いた全員が、悲鳴のような息をもらしたその瞬間《しゅんかん》、"DAMAGED"の文字がその矢印に覆《おお》い被《かぶ》さり、すぐにそれは、"TERMINATED"に変わった。VOGUS――カデナ隊の援護《えんご》射撃。GARPの照準計算ログが再びスクロールを始め、
「なるほど。初弾は観測射撃」
モナ・マッケンジー伍長はにやりと笑った。どうして彼女はこういうおっさんくさい笑い方をするのだろう。ALFから目を離せないルノア教官に目をやり、
「見事な御指導であります。自分は、教官を見くびっていたようであります。自分はまだ修行が足りないようであります」
だが、ルノアには聞こえていない。そして、二度目の射撃《しゃげき》。
その瞬間《しゅんかん》、全員が見た。生成晶《せいせいしょう》集積を埋め尽くす、いくつもの"TERMINATED"。
ルノアが跳《と》び上がって、拳《こぶし》を振り上げて叫《さけ》んだ。
「やったあっ!! あははははははははははははは!!」
ロッカー長屋、訓練生の数だけあるロッカーが一直線に並《なら》んだ、四角いパイプのようなその部屋に、「わああっ」というどよめきがはじけた。足を踏み鳴らす音、怒鳴《どな》り合《あ》いのような話し声。素直に感動して歓声を上げる奴《やつ》、ALFを見ようとぴょんぴょん跳《と》びはねる奴、呆然《ぼうぜん》と立ちすくむやつ。興奮の坩堝《るつぼ》と化したロッカー長屋。自分勝手な意見が飛び交い、信じられないという思いがその口調を感情的なものにする。そんな意見の衝突《しょうとつ》や、足を踏んだ踏まないの口論から、あちこちで殴《なぐ》り合《あ》いのケンカが始まる。
すさまじい騒《さわ》ぎの中、両手を振り上げて「やったやった」と叫びながら跳びはね、モナ・マッケンジー伍長に抱《だ》きついて、泣きそうな顔で笑い続ける。
すべてのプロテクトは破られるためにあり、すべての回線は盗聴《とうちょう》されるためにある。
その話は、まず「噂《うわさ》」という形をとって、わずか十五分でオルドリンを出た。その後、噂は0と1に姿を変え、レーザーファイバーに潜《もぐ》り込んでめちゃくちゃな加速度を獲得《かくとく》し、続く三十四|秒《びょう》で月の法定重力|圏《けん》を脱《だっ》し、四十二秒でラグランジュに到達《とうたつ》し、情報管制系との静かな戦争を始めた。
98パーセントのファイルが撃墜《デリート》された。
生き残った2パーセントが、十六秒で環《かん》地球|軌道《きどう》の衛星回線に侵入《しんにゅう》した。もう地球は目と鼻の先。暗号圧縮ファイルへと化《ば》け、「おい、この話聞いたか?」というメールに搭載《とうさい》されて、その噂は衛星軌道から北米大陸を無差別|爆撃《ばくげき》しようとした。
押《お》っ取《と》り刀《がたな》で動いた総督府《チベット》の情報部が、この時点になってようやく、滑《すべ》り込みセーフでこの噂のこれ以上の拡散を押さえた。こうして、情報流通《データトラフィック》の秩序《ちつじょ》は守られたのである。一件落着。
となるはずが。
ルノア・キササゲ大尉《たいい》に関する情報をすべて|捕 捉《インタラプト》せよ――そういう極秘の特命を、総督府《チベット》の情報部は「さる筋」より受けていた。一ヶ月ほど前からである。網《あみ》にかかった情報は、その内容の如何にかかわらず、専用のルートで北米の某所《ぼうしょ》に転送することになっていた。
ぶっちゃけた話をしよう。
総督府の情報部とは、クリフト家の情報部でもあるのだ。
午後十一時十五分《フタサンヒトゴウ》。超《ちょう》高密度に暗号圧縮された24キロバイトのデータが、誰《だれ》も知らないチャンネルで衛星軌道へと蹴《け》り上げられ、背番号のない通信衛星《コムサット》を経由して、北米総司令部内郭本陣《フォートワースないかくほんじん》、東三番|稜堡《りょうほ》の格納区画にいるある男の脳内レシーバーに転送された。
二十分とひとケタ秒《びょう》。
この噂《うわさ》が、38万キロの真空を横切るのに必要とした所要時間である。
身長194センチ、体重130キロの彼は、ゴキブリに似《に》ている。
黒服に黒いグラサンという真っ黒々な格好もゴキブリと一緒《いっしょ》だし、「一|匹《ぴき》見かけたら三十匹」という点もゴキブリと同じ。彼はクリフト家の私兵《タマよけ》。悪者なグラサンは視線の動きを隠《かく》すためのものだし、葬式《そうしき》帰りのような黒服も、あえて目立つためにわざとそうしている。彼の役割は「威圧《いあつ》」と「囮《おとり》」。遠目にも目立つ彼の存在は、いるかもしれない狼籍者《ろうぜきもの》に対する「警護をしているぞ」という無言のアナウンス。何かあったとき、真っ先にやられるのは彼。しかし、次の瞬間《しゅんかん》、周囲に潜《ひそ》んでいるその他三十匹が、狼藷者をよってたかって穴だらけにするというシステムだ。
警護対象は、言わずと知れた「お嬢様《じょうさま》」――ラセレーナ・クリフト大尉《たいい》である。
二十四時間三百六十五日、お嬢様の行く所へはどこへでも付《つ》き随《したが》い、恥《は》ずかしい格好で突っ立っているのが彼の仕事であった。だから今も、彼はここにいる。
北米総司令部、東三番稜堡・乙七番領域の格納区画。
さすがに、この辺《あた》りもこの時間になると人気《ひとけ》はあまりない。北部方面|偵察《ていさつ》中隊長補佐であるお嬢様は今、K2遊撃《ゆうげき》小隊の部下のひとりを前にして、長々とお説教を続けていた。もう一時間ほどにもなるだろうか。最初は、書類《しょるい》の記入ミスひとつで誰《だれ》かが死ぬこともあり得るのだという話だった。それから気が遠くなるような紆余《うよ》曲折があって、お嬢様は今、なぜお前はコーヒーに砂糖を入れるのだという話をしている。いつものことだった。うんざりした顔で説教を食らっている部下の今の気持ちが、彼には容易に想像できる。
同情は、彼の仕事ではないのだが。
ところで、彼には「いつもお嬢様の一番近くにいるのはお前だ」という理由で押しつけられた、もうひとつの仕事があった。
秘書《パシリ》だ。
だから、北米総司令部《フォートワース》でその噂《うわさ》を最初に知ったのは、彼だった。その暗号通信を脳内レシーバーが受信した瞬間《しゅんかん》、彼は内心の情動をすべて押《お》し隠《かく》し、見事なまでに表情を変えなかった。そういうのも、彼の仕事のうちであったから。
誰《だれ》にも悟《さと》られないように小さなため息、覚悟《かくご》を決めて、彼はお嬢様《じょうさま》のお説教に割り込んだ。
「お嬢様、」
お嬢様は早くも不機嫌《ふきげん》な顔で、「大尉《たいい》とお呼びなさい」と言って振り返る。
お説教を食らっていた部下が、「頼《たの》むからよけいな波風を立てるのはやめてくれ」という顔で彼を見る。
黒服は正確に一|秒間《びょうかん》、部下の顔をじっと見つめ返し、お嬢様に視線を戻《もど》して、自分がたった今知り得た情報を耳打ちした。
彼の声は、ほんの少しだけ大きかった。
お嬢様の――ラセレーナ・クリフト大尉の表情には、目に見える変化はなかった。ずいぶん長いこと、ラセレーナは石のように無言であった。その静寂《せいじゃく》は、小枝《こえだ》をへし折るような「ばきっ」という音に破られた。
ラセレーナが手にしていたクリップボードの上、真っ二つに折れたボールペン。
さらにしばらくの無言の後、ラセレーナは部下の目を真っ直ぐに見つめて、
「もういいわ。下がりなさい」
そして背を向け、今度は大声で、
「あんた|たち《ヽヽ》も!」
その瞬間《しゅんかん》、ラセレーナの周囲で、物音に驚《おどろ》いたゴキブリの群れのような「ごそっ!!」という反応が起こった。ありとあらゆる物陰《ものかげ》にありとあらゆる方法で隠《かく》れていた、笑っちまうくらいの人数の私兵《タマよけ》たちが、一斉《いっせい》に姿を現して整列し、直立不動の姿勢を取ったのだ。
「失礼します!」
私兵たちはそう声をそろえ、ラセレーナの背中に一斉に敬礼した。
ひとり呆気にとられていた部下が、つられたように敬礼する。
背を向けたままのラセレーナを残して、男たちは速やかに格納区画を後にした。背後でハッチが閉じた瞬間、男たちの間には、どこかほっとしたような空気が流れた。
そして。
――聞こえちまったもんはしょうがねえよな。
説教を食らっていた部下――ジョーイ・ウィングローブ伍長《ごちょう》はそう思った。この大ニュースを早く誰《だれ》かに話したくてむずむずしていた。はやる心を抑《おさ》え、何食わぬ顔で歩き出そうとして、
「待て」
ジョーイの足がぴたりと止まった。ゆっくりと振り返る。
私兵たち全員の無表情なグラサン面が、ジョーイをじっと見つめていた。
黒服が口を開いた。
「どこへ行く?」
うるせえな、お前に関係ねえだろ――いつものジョーイなら、そう答えるところだ。しかし、今のジョーイは、あまりにも重大な情報を握《にぎ》っている身であった。
「下士官バー。今、うちの連中、みんな、そこにいるからさ」
ぎこちなく、正直に、そう答えた。黒いサングラスの無言の凝視《ぎょうし》。くそ、なんだってんだ――とジョーイは思う。こいつら|無 線 頭《ワイヤレス・ヘッド》の私兵どもときたら、仲間同士では暗号化した電波で喋《しゃべ》りやがる。まるでエテ公だ。
ジョーイにとっては永遠にも思える沈黙《ちんもく》の末に、黒服が再び口を開いた。
「そうか」
有無を言わさぬ口調で黒服は続ける。
「確認するまでもないとは思うが、念のために聞いておく。貴様《きさま》がバーでどんなヨタを飛ばそうが、我々には何の関係もないし、我々の知ったことではない。そうだな?」
いつも「どけ」とか「邪魔《じゃま》だ」とか、どんなに長くても「貴様には関係ない」とか――そんな言葉しか口にすることのなかった私兵が、これほどのたくさんの言葉を一度に喋ったという事実に、ジョーイは威圧《いあつ》された。
「あ? あ、ああ」
そして、黒服は驚《おどろ》くべきことを口にした。
「よし。引き止めて悪かった。バーへ行って思う存分ヨタを飛ばしてくれ。今夜の分のバーの勘定《かんじょう》は、すべてクリフト家保安部で持つ。暴飲暴食の限りを尽くしてもらいたい」
理解不能な事態であった。ジョーイの口があんぐりと開いた。
その間抜けな面を見て、黒服はさらに、ぬけぬけとこう言った。
「心配するな。|浄  財《マネーロンダリング》だ」
黒服の背後に居並《いなら》ぶその他大勢の私兵《タマよけ》たちが、冗談《じょうだん》のように全員そろってうなずいた。
何がどうなっているのかまったくわからなかったが、ジョーイはとにかくわかったフリをしてがくがくとうなずき、ぎくしゃくと踵《きびす》を返した。
転がるように遠ざかるジョーイの背中に、無言無表情の私兵たちが、冗談のように全員そろって敬礼をした。
オトコの敬礼だった。
格納区画。
男たちが去ってからも、ラセレーナはひとり無言であった。
やがて。
うふ。うふ。うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。
突然《とつぜん》顔を上げ、絶対こっちと勝手に決めつけた月の方角に向かって、ラセレーナは声の限りに吠《ほ》えた。
「じょ――と――じゃないっ!! あくまで私に挑戦《ちょうせん》するわけねど――しても叩《たた》き潰《つぶ》してもらいたいわけねっ!? いい気になるんじゃないわよ私が本気になったらあんたなんか地を這《は》う汚《きたな》い虫なのよ覚悟《かくご》しなさいよっ!! 思い知らせてあげるわ後悔させてあげるわ虫は虫らしく石の下でおとなしくしてればいいんだわぁ――――――っ!!」
まったく難儀《なんぎ》な奴《やつ》である。怒《おこ》るくらいなら、初めからルノアの情報など集めたりしなければいいのに。そういえば、ルノアにも似《に》たようなところがある。ラセレーナが毎日毎日送りつける嫌《いや》がらせ留守電《るすでん》に、いちいち目を通してはぷんすかしていたあのころ。
やっぱり、どこか似ているのだ。この二人は。
「で、どうなのよ。その大学出の息子《むすこ》ってのは今、元気でやってんの?」
右隣《みぎどなり》、ロレンゾ・ブラコフ少尉《しょうい》は、酒が一滴《いってき》でも入るとくすくす笑いが止まらなくなる。ボトル半分を切るころには、運がよければパンツだけはまだはいている。今、ロレンゾはまだくすくす笑いの段階にあって、くすくす笑いながら発したその質問は、聞き方によっては相手をバカにしているようにも聞こえるが、本人に他意はない。
熊《くま》の如《ごと》きそのジジイは、まったく気分を害したふうもなく、上機嫌《じょうきげん》で答える。
「おかげさんでな。しかしあの親不孝もんが、手紙ひとつ寄越《よこ》しやがらん――お、」
傾《かたむ》けたボトルはもう空っぽで、"Karakorum-K2"というタグがついていた。つまり、このジジイはよその部隊のボトルにたかっているわけだ。ためらいなく別のボトルに手を伸ばす。
「じーさんの方から手紙出せばいいじゃんよ。喜ぶぜ?」
左隣、ヴィンセント・エリクセン伍長《ごちょう》がよく考えもせずにそう言った。失言であった。ロレンゾが、くすくす笑いながらヴィンセントを睨《にら》みつける。
件《くだん》の「自慢《じまん》の息子《むすこ》」が本当は存在しないことなど、恐《おそ》らく、この下士官バーにいる全員が知っているだろう。タダ酒のグラスを旨《うま》そうに傾けているこのジジイ――ブルース・ジュリアン・ベイカー中尉《ちゅうい》は、ここ北米総司令部《フォートワース》でも有名人であり、ボケに話を合わせてやるのは北米|救《サルベー》| 世 軍《ション・アーミー》兵士のルールなのだ。
つまり、手紙を出せなどと言うのはマズい。郵政局は、ただ事務的にジジイに手紙を差《さ》し戻《もど》すだろう。差し戻された手紙はそのまま、インディアナポリス707の機甲《きこう》210に、アーネスト・ベイカー一等|砲手《ほうしゅ》という人間は存在しないという事実の、冷酷《れいこく》な証明となる。
ところが。
「もう出した」
ジジイはさらりとそう言った。
「――え?」
ジジイと同じテーブルにいた四人とカウンターで聞き耳を立てていた五人――遊撃《ゆうげき》小隊カラコルムK2≠フ九人の面々《めんめん》は、思いがけない答えに顔を見合わせた。
ヴィンセントが、恐《おそ》る恐る尋《たず》ねる。
「――出したの?」
「おう。出したよ」
今度はロレンゾが、くすくす笑いながら、
「で、つまりその――返事は?」
「まだ来ん」
「全然?」とロレンゾ。
「ああ」とジジイ。
「まるっきり、なんにも?」ヴィンセント。
「なんにも」ジジイ。
ナイス郵便事故だ郵政局――と、話を聞いていたK2の全員が思った。ヴィンセントがその場を取《と》り繕《つくろ》うように、
「まあ、俺《おい》らよく知ってるけど、その、なんだ、前線での原始メールの処理なんてもう、えらくいいかげんでさ。あんなの、輸送機て部隊の上空からビラ撒《ま》いてんのも同じで、狙《ねら》った相手にちゃんと届くことの方が珍しいわけよ。なあ?」
他の連中が口々に同意する。
が、ジジイは確信に満ちた口調でこう言った。
「いや、それはない。返事は必ず来る」
K2の全員は再び顔を見合わせ、もう一度ジジイの顔を見た。
「多少、時間はかかるだろうがな」
ジジイは、いい顔で笑った。
バーに爆弾《ばくだん》が駆《か》け込んできたのは、次の瞬間《しゅんかん》だった。
ジョーイは、全力|疾走《しっそう》そのままの勢いでスイングドアに体当たりしてバーに転がり込み、近くにいた整備|軍曹《ぐんそう》にぶつかってバランスを崩《くず》し、ナンガパルバット遊撃小隊のテーブルにダイビングして、グラスとボトルとつまみとカードと軍票《ぐんぴょう》の山をめちゃくちゃの台無しにした。
バーは恐るべき静けさに満たされる。何事かという視線が集申する。
「……ジョーイ!? なにやってんだあのバカは――!?」
ヴィンセントがつぶやく。そして、ものすごい罵声《ばせい》が巻き起こる。ナンガパルバットの斬《き》り込《こ》み隊長、デミトリ・ジャーコノブ軍曹がジョーイの胸ぐらをつかみ、足が宙に浮くまで引きずり上げる。K2の全員が席を蹴《け》る。テーブルが蹴り飛ばされ、椅子《いす》が放り投げられ、デミトりとジョーイを中心とした半径2メートルの野次馬《やじうま》の輪があっという間にできあがる。バーテンはカウンターの陰《かげ》に縮こまってヘルメットをかぶり、デミトリはゲンコツに息を吐きかけ、ジョーイを救出せんとするK2と、死刑|執行《しっこう》を邪魔《じゃま》させまいとするナンガパルバットが、今まさに第一次|接触《せっしょく》せんとしたそのとき、
ジョーイの顔は笑っていた。
デミトリに片手でぶら下げられたまま、ジョーイは声の限りに叫《さけ》んだ。
「やったぞ!! ルノア大尉《たいい》の担当部隊が、緊急出撃《きんきゅうしゅつげき》訓練に成功した!! 大尉の部隊が、オルドリン第十三期で最初に、しかもたったの二回目で、あの緊急出撃訓練に成功したんだ!! 大《だい》金星《きんぼし》だ!! 大尉が、ルノア大尉がついにやったんだ!!」
下士官バーが大爆発《だいばくはつ》した。
爆音は巻き起こる喝采《かっさい》であった。炎《ほのお》は突き上げられる無数の拳《こぶし》であり、衝撃波《しょうげきは》は地震《じしん》のような床《ゆか》の振動《しんどう》であった。デミトリがジョーイを抱《だ》きしめ、獣《けもの》のように咆哮《ほうこう》した。それは誰《だれ》がどう見てもベアバッグであり、ジョーイはすでに白目をむいていた。笑いながら抱き合い、でもやっばり殴《なぐ》り合《あ》うK2とナンガパルバットの面々《めんめん》。興奮の坩堝《るつぼ》と化した下士官バー。ありとあらゆる物が宙を飛び交う。誰彼《だれかれ》など関係なく抱きついて、互《たが》いに頭から酒をぶっかけあう。泣き笑いと怒鳴《どな》り声《ごえ》。ビリヤード台の上に飛び乗って踊《おど》っている奴《やつ》がいる。血迷ってピンボールマシンをぶっ壊《こわ》している奴がいる。バーテンは客のボトルを奪《うば》い取ってラッパ飲みし、自慢《じまん》のターンテーブルで目茶苦茶に陽気な音楽をかける。
ジジイが座っていたはずの椅子《いす》が、いつの間にか空になっていることなど、誰《だれ》も気にも止めない。
奥の壁《かべ》、額縁《がくぶち》入りのたくさんの写真が、この騒《さわ》ぎの振動でびりびりと震《ふる》えている。その一番|端《はし》っこのひとつ――地味な額縁の、大きさも控《ひか》え目《め》な、目立たないその一枚。ガンカメラのデータを紙に焼いたことがバレバレの、粒子《りゅうし》の荒《あら》いモノクロの映像、どこかのバラックの内部の光景。そこに居並《いなら》ぶK2遊撃《ゆうげき》小隊は、全部で十一人。左下に、サインペンで乱暴に書かれた文字――『狩猟区《しゅりょうく》越境|偵察《ていさつ》任務大失敗〜64年 冬』。どの顔もドロとオイルにまみれ、疲《つか》れきって、笑っている。
彼女は、そこにいた。
その写真の中で、今よりもずっと背の小さかったルノアは、今も楽しそうに笑いながら、キースの背中にのしかかり、キースの髪《かみ》をくしやくしゃにかき回している。
――ったく、加減を知らんジャリたれどもが。ああいうのは年寄りにはこたえるわい。
外は、満月だった。
「フライトをひかえた夜は2フィンガーを二|杯《はい》まで」という自分に課した規則を、また、力の限り破ってしまった。明日《あす》の午後一時《ヒトサンマルマル》にはロズウェルに戻《もど》らなければならないというのに。
ジジイ――ブルース・ジュリアン・ベイカー中尉《ちゅうい》は、滑走路《かっそうろ》のわき道を歩いている。駐機場《ハンガー》は年寄りの足には少し遠いが、ジジイは輸送機のコクピットシートでなければ眠《ねむ》れない質《たち》なのだ。
ふと立ち止まり、満月を見上げた。年老いた目は、岩質の違《ちが》いによる濃淡《のうたん》やクレーターの陰影《いんえい》を判別することがもうできない。北極の左下の、あのへん――と見当をつける。
氷の海、オルドリン埋設《まいせつ》コロニーは、あのへんにあるはずだ。
下士官バーの喝采《かっさい》が、今も耳に残っていた。
ジジイは再び歩き始める。耳に残る男たちの喝采は、いつまでも止むことはない。その喝采は瞬《またた》く間に北米総司令部《フォートワース》を席捲《せっけん》し、土塁《どるい》や地雷原《じらいげん》や防衛戦からあふれ出て、兵士たちの口から口へと、風のように走り抜けていくだろう。その喝采はひとつの波となって、荒野《こうや》を渡《わた》り、ロッキーをまたぎ越し、ミシシッピを下り、熱帯雨林を駆《か》け抜《ぬ》け、アンデスを飛び越えて、この大陸のすみずみまで広がっていくだろう。一週間とかかるまい。すべての前線で、すべてのバーカウンターで、すべての食堂のテーブルで、照明を消したコクピットの闇《やみ》の中で、砲声轟《ほうせいとどろ》く塹壕《ざんごう》のなかで、死を待つ負傷兵の枕元《まくらもと》で、それぞれの場所で、誰《だれ》もが、同じ彼女の違《ちが》う話をするはずだ。想像力をめいっぱい働かせて、これ以上ないくらいの尾ヒレをつけて。
おい、知ってるか? ダチのダチから聞いた話なんだけどさ――。
息子《むすこ》がこの話を聞いたときの顔を想像して、ジジイは笑みを浮かべる。ふと、思うのだ。あの手紙が、息子《むすこ》の手に届けられるのは、そう遠い日のことではないのかもしれない。ジジイは歩き続ける。満月の道を、ちよっと危なっかしい足どりで。北米総司令部《フォートワース》の夜はふけていく。
[#改ページ]
あとがき
昔々《むかしむかし》、心理テストが流行《はや》ったことがありましたよね。
「深く考えずに、直感で答えてください。この四枚の絵のうち、あなたならどれを自分の部屋に飾りますか?」みたいな問いがまずあって、それに答えると「実は、これであなたの異性に対する態度がわかるんです」てな説明がついて、「それでは、@を選んだあなた、あなたは――」とかいうあれです。
その手のやつで、こういうのがありました。
「あなたは、自分の部屋でひとり、爆弾《ばくだん》を作っています。そして、その爆弾がついに完成しました。さあ、あなたが作り上げたその爆弾の爆発力《ばくはつりょく》は、どのくらいですか?」
確かこれ、テレビの番組で見たんです。テレビとお話しするクセのあるわたしは、「どのくらいですか」と聞かれて、画面に向かって声に出してこう答えました。
「宇宙がまるごと消し飛ぶくらい」
いや、本当にそういう言葉が最初に頭に浮かんだんですってば。
その番組のゲストの解答はといえば、「自分の家が壊《こわ》れるくらい」とか「ビルひとつが吹っ飛ぶくらい」とか、そんな似たり寄ったりのものだったように思います。
そして、司会者がタネ明かしをします。このテストで、一体何がわかるのか。
「それは、『あなたが、自分の才能を自分でどのように評価しているか』です。爆発力が大きければ大きいほど、あなたは自分の才能を高く評価しているわけです」
んー。あれは、我ながらカッコ悪い一瞬《いっしゅん》だったなあ。
まあ、作家なんてものは大体において自信|過剰《かじょう》な存在なんですが(って勝手に決めつけちゃってますが)、宇宙がまるごと消し飛ぶほどの自信過剰ってのは、さすがにわたしだけかもしれません。実際、身に憶《おぼ》えがあるだけに、カッコ悪さは倍増です。これは昔からそうなんですが、原稿を書き終えた瞬間《しゅんかん》のわたしは「神」になります。はっきり言ってテンパってます。この原稿は未《いま》だかつてない大傑作《だいけっさく》で、おれって天才じゃないだろうか、なんてことまで考えます。ついさっきまで心の師と仰いでいた作家諸兄も今やみーんな「おれ、お前」、ブルース・リーとケンカしてもチョウ・ユンファと銃撃戦《じゅうげきせん》やっても勝つのはわたしです。
ところが、こういう状態《じょうたい》は一日も続きやしません。
著者校正をすませ、原稿が手から離れてしまって、このあとがきを書いている今なんて、そりゃあもうドキドキもんです。この本が書店に並ぶ日には、自分の部屋の高床《たかゆか》式ベッドの上で、毛布かぶって丸くなって震《ふる》えてるんだろうな、きっと。
そういえば、著者自身が書いたあとがきって大抵、どこか普通《ふつう》じゃないですよね。妙に錯乱《さくらん》ぎみだったり、ベトベトに言い訳っぽかったりバキバキに理屈《りくつ》っぼかったり、最初から最後まで全然関係ない話をしてみたり。あれはこういう心理から来るものなのかなあ、なんて思ったりして。「お前と一緒《いっしょ》にするな」って声が聞こえてきそうですけど。
今回、初めて商業ベースの仕事をさせていただいて、一冊《いっさつ》の本が出版されるまでに、いかに多くの方々の手をわずらわせているものかを初めて知りました。「そうだろうなあ」と漠然と考えているのと、実際にその現場に立つひとりとしてそれを目《ま》の当たりにするのとでは、やはり天と地ほどの違いがありました。「本」というメディアの現在の形式では、表紙にクレジットされるのは、わたしとよしみる先生の名前だけです。しかし、この本に関《かか》わっていただいた方々のすべての名前が、本来、同じ重さをもって扱《あつか》われるべきものだと思います。編集《へんしゅう》さんや校閲《こうえつ》さんやデザイナーさんや、それ以外のたくさんの方々の努力がどれかひとつでも欠ければ、この本が書店の店頭に並ぶことはなかったのですから。
ありがとうございました。
そして、わたしのまわりに「いてくれた」人たちの、有形無形の助力にも感謝。
はじめまして。秋山瑞人《あきやまみずひと》です。最初の本の、初めてのあとがきです。
最後に、よしみる先生と担当編集の峯《みね》さんに、特別の感謝を。
そして、さらにさらにでっかい感謝を、読んでくれたあなたへ。ご意見ご感想ご叱責《しっせき》、不幸の手紙にラブレターなど、ございましたらぜひぜひぜひぜひ。
お次は、生きるか死ぬかのアクションです。
秋山瑞人