辛夷の花――父 小泉信三の思い出――
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年五月二十五日刊
(C) Kayo Akiyama 2000
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目  次
父 の 周 囲
父 の 周 囲
松 本 一 家
父のいる風景
正  月
黄色い水瓜
お 会 式
御殿山の桜
バ  ス
台 風 の 夜
夜 の 父 娘
幼 い 妹
幼 い 兄
食 卓 で
父の娯しみ
空 気 銃
二・二六事件
注  意
ある卒業式
眼  鏡
ひ と え 帯
地  震
父 と 野 球
父 と 私
登  校
失  敗
勉  強
祝 い の 日
塾 長 の 子
父 の 記 事
兄 の 戦 死
兄の死と私
結  納
亜細亜研究所
傷ついた父
半夜詩を読む
老翁の独語
皇 室 と 父
キャット・システム
父 の 死
新しい娘たちのこと
戦後の交友
父と芸の人々
杵屋勘次師
古今亭志ん生師
徳子さんと里春さん
田之助さん
あ と が き
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|辛夷《こぶし》の花――父 小泉信三の思い出――
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父 の 周 囲

父 の 周 囲
父はさっぱりした女の人を好いた。女の人が、女らしい容姿を持ち、やさしい心ばえを持っていることを、理想の上では好いていたけれども、実際には「男らしい女」という珍しい表現で女の人を賞めた。私たち女の感じる「女のいやみ」を、父は同じ感覚で持っていたように思う。
父の一生を通じて、父の周囲にいた女たち、母親、姉、妹、妻、みんな女として「思いきりのよい」人たちである。
父は、小泉家の長男ということになっている。実際の戸籍上もそうなっているが、本当は私の祖父母、即ち父の両親、小泉|信吉《のぶきち》、|千賀《ちか》の長子は「七三」といい、赤ん坊のうちに亡くなっている。家にも小型のロケットに入れた写真がたった一葉残っている。その赤ん坊の写真が親類の者から母の手に入ったとき、父が七十何歳の大きな身体で、
「ああ、僕の兄さんだね」
といったので、私たち家族は滑稽を感じた。
思うに、信吉、千賀は結婚したてであり、和歌山から上京して日も浅く、若い夫婦は届けのことをうかつにしていたのではないか。父の誕生日の五月四日が、戸籍上は十日になっているのを見ても、夫婦がまだ「のんき」だった気がしてならない。
七三という名を第一子につけたのは、十という数から逆行していこう、という祖父の考えだったことは、誰かから聞いた。
その七三が亡くなり、次に生まれた長女の「|千《せん》」は、千賀の千からとったのであろう。そして、三番目に生まれた父は、信吉の三人目の子供という意味で「信三」となったのではないか。普通なら、家を継ぐべき子ではあるし、また、次男だったから、一か二がついてもよいところを、三とした点に、祖父の外国帰りらしいところや、明治の御代の新しさ、福澤先生直伝の男女平等の考えかたがあるように思われる。
次の女児は「|勝《かつ》」で、これは信吉の母、私たちの曾祖母「勝代」からとったのだろう。平和な健全な家庭に、つぎつぎ生まれてくる子供たちを思わせる名のつけかただ。
しかし、その幸福もそこまでで終わって、三女の「|信《のぶ》」は、祖父が四十五歳で亡くなって、一週間後に生まれた。福澤先生が悲しみの中でつけて下さった「|於信《おのぶ》」は、信吉の「信」である。加えていえば、先生が、信吉の死の直後、お書き下さった「小泉信吉君云々」の弔詞の中には、「一男二女あり、男信三家を継ぐ」とあって、四人目の子供には何もふれていらっしゃらない。
当時、父は満六歳、横浜桜木町の家でその父親をうしない、二歳年長の千、二歳下の勝、生まれたばかりの信とともに、母親に伴われて、東京三田四国町の小さい家に移り住んだ。やがて、同じ三田の福澤先生の膝下に移って二十年、姉、妹がつぎつぎ|嫁《とつ》ぎ、最後に父が結婚して家を出るまで、まったく女手によって成長したのである。これは、父の一生を考えるとき、忘れることのできない事柄である。
父の最後の著書『福沢諭吉』に、父がその一生を通じて、精神的に強い影響を受けた福澤先生のことを、自らも老境に入って理解を深めて書いているが、先生ご自身が父君を早く亡くされたという点、また、女ばかりの中で育たれたという点に、ひとしお理解と親近感を感じたことと思う。
福澤先生は、その父君の「肉身を見ず、肉声をきかず」ということであるが、父も六歳で父親をうしなったから、記憶としてもまことに断片的なもののようである。
父は横浜が好きだった。夏の夕方など、
「オイ、ドライブに行かないか」
と、家族を連れて山下公園にゆき、港に出入りする船を眺めたり、ニューグランドホテルで食事をしたり、元町で買物をしたりした。
そういうとき、父の顔には嬉しそうな、のびやかな満ち足りたものがあった。
年末年始を一人でニューグランドホテルで過ごす、ということもよくあった。父が亡くなってから、私もその味がためしてみたくて、ある年末にニューグランドに泊まったが、港に停泊して、静かに灯をまたたかせている船々から、除夜の汽笛が、突然、よそごとのように鳴り出して、日本にいるとは思われなかった。父の中にある「ふるさと横浜」は、こういうところかと思った。
父の生まれたのは東京芝三田であるが、父がものごころついた最初の記憶は横浜桜木町にある、と書いている。今、そのあたりは何一つ当時のおもかげはない由であるが、桜木町の駅を左へ出て、弁天橋を渡らずに、すぐ小舟のゴタゴタしている海に沿った場所が、もとの桜木町一丁目、当時、正金銀行(現在の東京銀行)の社宅、役宅のあったところだという。海に沿って桜の並木があったので、桜木町と呼ばれたのだそうだが、その一丁目一番地の家は正金銀行の支配人であった祖父信吉の役宅で、黒塀の立派なものであったという。
そのころ、桜木町に近い、南仲通り、北仲通りには生糸問屋があって、仲買いが多く住んでいた。正金銀行はその中央にあり、当時の生糸貿易の八割を扱っていた。
祖父信吉は、ロンドンで|為替《かわせ》のことを勉強し、帰国の後、正金銀行の創立に力を貸したのであった。支配人として桜木町に移ったのは明治二十四年四月、慶應義塾の塾長をやめた一年あとで、日本銀行から派遣された形であった。
父は、そのかなり裕福な家の坊ちゃんとしての幼児期を過ごした。しかし、父親の死という境遇の激変は、三田の小さな家で母親を中心として暮らさせることになった。
三十一歳の若さで未亡人となった祖母千賀は、父親のない子供を、いかにして男らしく育てようかと、相撲を一緒にとったり、空気銃を与えて自分で撃ちかたを教えたり、また、いうことを聞かなければ枕を背負わせて、幼い息子を夜の|戸外《おもて》へつき出したり、「父親がいないから」と他人にいわれまいという気負った心を、濶達らしい外見で包んで暮らしていた。
祖母は、福澤先生のお書きになったものが時事新報に載ると、それを自分で筆写して子供たちに読ませた。あまり「福澤先生、福澤先生」というので、父は子供の心で反撥したくらいであった。一人になった祖母には、唯一の守護神のごとき先生であったろう。
こうして気負って子供に対していた祖母も、夜半、父が目を覚まして見れば、枕にひじをついて長い|煙管《きせる》で一服つけながら、暗い部屋の隅に|眸《ひとみ》を凝らしていた時もあったというから、夫亡きあとの財政上、精神上のさまざまの悩みを、子供たちの寝静まった夜なかに思いあぐねていたのではあるまいか。
父は、自分の母親をハキハキした性質と書いているが、ただ表面のハキハキしたところだけを見ていたわけではない。祖母には非常に神経質な面もあり、潔癖も人並みより強かった。そのため、父を男らしく、男らしく育てようとする反面に、一人息子の病気や怪我に対する用心深さと|懼《おそ》れは、やはり父を大勢の兄弟の中で育った子供のように、放任しておくことがむつかしかったようだ。
父の性質も、ある時期には、その母親の複雑な感情を反射して、気むつかしく、わがままで、反抗的でもあった。
「父母の故郷」という文章の中で、父は十五、六の頃、和歌山にあった祖母の里方に遊びに行って、父親のない孫を不憫がる、そこのじじ、ばばからすっかりスポイルされて帰り、祖母に手ひどく叱られたことを書いているが、そのころの父に、祖母はずいぶん手を焼いたらしい。父をお蔵にとじこめるために、父より年長の従兄津山英吉に手伝わせたこともあった。
父は片親育ちながら、周囲の人には恵まれていた。
従兄津山英吉もその一人であった。豪酒のためか、五十代で亡くなってしまったけれど、父にとって、ほとんど四十年、身近にすごした人である。
津山は、父の父小泉信吉の姉が嫁いだ家であり、英吉はそこの四男であった。祖母にとって夫方の甥に当たる。祖父の亡くなったあと、父の入学や進学、その他事あるたびに、祖母は英吉に相談した。
父の話では、祖父信吉は若い頃から分別のある人だったそうで、あるとき、その姉、つまり津山英吉の母織江が何か婚家に不満があって家に戻って来たのを、まだ十四、五の少年の身で、婚家先ヘ送って行ったという。姉と弟が歩いているうち、ふりつづいていた雨がやんで空に虹がかかった。弟は、
「姉はん見なはれ」
と姉をふり返って、雨がふっても晴れればあのようにきれいな虹がかかる、人間の一生でもそんな時があるものだ、と|諭《さと》したという。姉の身にすれば、それをどう感じたかわからないが、ともかく事はおさまって、津山家に何人かの子女が生まれた。
その一人の英吉が、上京して、小泉の家で多くの時を過ごすようになったのは当然のことである。
父は十五、六の頃から、テニスに熱中した。朝から晩までひまさえあれば、家の隣の慶應義塾のテニスコートに行き、タドンといわれるほど黒くなっていた。もっとも、このタドンというのは、球をうつとき眼を丸くするからというのが|渾名《あだな》のもとらしいが、色が黒いという意味にいつの間にか変わったらしい。そんなわけで、一日中運動して御飯をたくさんたべ、くたびれ果てて、柱にもたれて口をあいて寝ているのを、津山英吉が見て、
「おばはん、信さんにあんなことさせといちゃいかん」
といい出したのがもとで、父はテニスをやめて勉強の方へ身を入れ出したのであった。
津山は、父が勉強しているかどうか、いつも案じて、後に近所に住んでいても、夜、父の部屋に燈火がついていないと、怠けているといって怒ったそうである。
父は、実生活の上で、津山に何かと世話になっている。麻布本村町の時も近所にいたが、品川御殿山の家にも津山の隣に津山の骨折りで移った。
お酒をのんで帰ると、そのまま池にとび込み、
「金魚が驚いとる」
というような豪傑で、銀行の重役だったから、お酒をのむ機会も多かったのであろうが、長年、隣同士に住んで、父の力になっていてくれたのに、胃を患って五十代で亡くなった。
その長男英夫は、私の兄の|信吉《しんきち》の終生の親友であった。|宿痾《しゆくあ》の腎臓病で床についている方が多かったが、男らしい考え深い気質で、父は英吉の生前も死後も、よく訪ねて話し合っていた。英吉は豪放磊落というタイプの人で、自分の娘たちにあまり細かい心づかいをしない。父は、親類の娘たちに人気がある、というのが好きで、また気持を察することが上手だった。津山の子供たちの結婚その他も、父は相談に与った。
「君たち、何か欲しいものあるか」
これは親類の娘に対する父の得意の言葉だが、英吉の生前、津山の家でそれをいったら、
「理解ある父がほしいです」
という返事で、父は驚いて笑った。
英夫は兄の出征中も床についていたが、兄の死後、一時期たいへん元気になり、結婚し、四児を得、そして亡くなった。ロンドンにいる私に「哀悼云ふべき言葉なし」と、父は知らせて来た。
前に述べたように、父には祖母に手を焼かせるところがあったので、なるべくたくましく健康な少年になることを願ってか、夏になると父は、津山英吉の姉夫婦に当たる美澤進氏の家にあずけられた。
美澤氏は横浜商業専門学校(現在横浜市立大学)の創立者である。美澤夫人「よねえ」は、祖父信吉の姉、津山織江の長女で、父の従姉に当たり「よねはん」と呼ばれていた。少女期を小泉の家にあずけられ、信吉にもたいそう可愛がられて、その世話で美澤に嫁いだのだった。そこの長男義雄氏は「よっちゃん」と呼ばれ、父と同じ年だったから、「よねえ」は従姉といっても叔母のようなものであった。
父と美澤先生とは四十も年のひらきがあったが、祖父信吉に私淑されていた先生は、祖父亡き後も、父に見どころを認めて、若年の者に対するようでなく「小泉さん」と呼び、学者になりたてのころの父にもへりくだって、新しい学問のことを聞かれたという。
父も、いつまでも尊敬の念をうしなわず、父親のように大切にした。父と母との結婚の際、公式の仲人はこの夫妻であった。いかめしい、真面目な、しかし、巧まざるユーモアをもつお人柄で、仲人の挨拶の中で、母のことを「とみ子の嬢は」といちいちいわれたそうである。
美澤の家は当時から横浜にあり、海に近く、父と義雄氏は毎朝小舟を出し、|櫓《ろ》を漕いで海へ出て泳いだ。あるとき、遠くの岸に着物を脱いで泳いでいる間に、父の着物を盗まれてしまった。どういう場所なのか、ともかく舟より速い、ということで、義雄氏が一里半の道を走って着替えを取りに行き、父はだんだん日の落ちてゆく海岸に裸でとり残されて、わずかに日の|温《ぬく》みの残っている岩肌で暖をとるため、転々と岩にしがみつきながら、その帰りを待ったこともあった。
美澤夫妻は子福者で、大家内なので、味噌汁でもなんでも、早いもの勝ちであった。朝は早く起きてお膳に坐って、おいしいところを食べなければならない。早起きをしたものが、味噌汁をかきまわして、浮かんだ|実《み》をあつめて、大急ぎで食べてしまう、というようなこともあった。
静かな、女ばかりの家族の中で、食卓に坐れば、間違いなく実のある味噌汁を食べさせられる家に育っていた父にとって、この夏ごとの賑やかさは忘れ難いものであったに違いない。美澤夫人死去の際、父の義雄氏に送った手紙を次に掲げる。
拝啓
御母上様御他界まことに残念に存じます。小生は少年の頃より一方ならぬ御世話に相成り、貴家に御厄介になりて送りし月日の記憶は数へ難きほどで御座います。その上吾々の結婚の御媒酌をもしていたゞき、御恩情忘れ難く存じます。
今日は御葬送にぜひとも参列致すべきところで御座いますが、御承知の如く未だ以て汽車の乗降不安心につき、愚妻のみを差出します段、|何卒《なにとぞ》不悪御ゆるし下さい。
御温容|髣髴《ほうふつ》として眼前にあり、謹みて御冥福を祈ります。
昭和二十四年三月十五日
[#地付き]小泉信三 
美澤義雄様
父は後年、私たちを横浜へ連れてゆくと、「あれが何、この川が……」といろいろ説明してくれた。ぼんやり聞いていたのか、今はそれらがどこであったのか思い出せない。しかし、父にとっては本当になつかしい土地であったろう。
堅パンを一缶まるごと食べてしまった父、今川焼をよっちゃんと三十二個ずつ食べて、下を向くと出てきそうなので、二人で手であごを持ち上げながら歩いた、という父の話もある。また、聞けば、少年時代の父には「弱いものいじめ」をするところもあった。同級のおとなしい友達の首を手拭いでしめて、鼻水を出すと緩めたといういやな話もある。犬に竹の皮をはかせて、坂をすべらせたというのもある。家がきびしかったので、それからの解放感がさせたといえるかどうか。
壮年期の父は、そういう話をするとき、まださほど後悔している様子はなく、むしろ、私が「いやだな」と思うくらい愉快そうに見えたが、子をうしない、孫をうしない、人生の悲苦を味わった後半生には、そんな昔話も出なくなってきたし、弱いものいじめをすること、する人が嫌いで、特別敏感にその気配を感じとり、その上をゆくような行動に出た。おそらく、幼いときの自分の行動を苦い気持で思い出したのであろう。
いじわる、いたずらもひどかったが、一方、親分かたぎで、女の子たちからは尊敬のまとであり、その行動すべてが注目された。本を読むのも非常に速く、テニスに熱中すれば、年少でキャプテンになり、なにごとも人に抜きんでていたため、ある時期は、鼻もちならぬ高慢ちきで、友人や身内からも嫌われたという。
「僕がえらいの知ってるかい」
というようなせりふで、人々の反感を買った。そんなことで嫌われていたという話は父から聞かなかったから、本人はちっとも気がつかなかったのかも知れない。
しかし、父より二つ年上の姉、松本|烝治《じようじ》に嫁いだ千は、父のそうした欠点に気がついていて、義雄氏にはよく、
「よっちゃん、信さんのことでいろいろお困りでしょう」
といった。
「そんなことありません」
といっても、
「いいえ、信三はわがままだから、あなたにご迷惑をかけますね」
といったというから、父が一生押さえられて頼っていたというこの姉は、父のために、蔭で人をとりなすことにも、若いうちから気を配っていたらしい。祖母千賀も気の強さを他人に見せるようなところがあったから、千は母親のこともとりなしていた。
父は「姉妹」という文章の中に、
「姉は子供のときから大人びた風があり、私が諸事勝手に、利己的にふるまうのに対し、何事も弟や妹にゆずるというたちなので、自然家の中で立てられていた」
と書いているが、伯母千は、父にとって母親がわりのような人で、一生、父を見守っていた。祖母は父にきびしかったから、父は母性的なものを姉に求めたのであろう。
祖父信吉が亡くなったとき、伯母はわずか八歳で、父親が病気に苦しむと、自分の才覚で医者を呼びに走ったり、甲斐甲斐しく母親を|援《たす》けたという。遊びざかりの年頃から、父親をうしなった伯母は、弟妹たちにただならぬ保護の責任と義務を感じていたようだ。
もともと、伯母の性格は相当茶目気があり、年とってからも、おばけの真似などして見せるところもあった。長身の伯母の「豊志賀のおばけ」は、ずいぶん真に迫って恐ろしかったものだが、幼友達の話によれば、小さいときは棒きれをふりまわして、よその町内の子供たちとわたり合ったこともあるそうだ。だから、その長女としての義務感は、多くの自己犠牲の上にあったのだろう。
十六歳で、農商務省につとめていた松本烝治との縁談がきまり、父にはじめて「兄」とよべる人ができた。この義兄は、一生、父が尊敬し、何事にも指示を仰ぐことの出来た大切な人であった。父はこのとき十四歳、婚約した姉と、そのいいなずけの散歩のお伴をしたり、ラケットを買ってもらったりした。
伯母は友達に、
「私は父がないから、両親の揃ったお家に|嫁《ゆ》くのは嬉しい」
といったという。しかし、嫁入る前、母校香蘭女学校にいとまごいにいったとき、どこかへ見えなくなってしまって、皆が捜しまわったら、お振袖でブランコに乗っていたという。そんな幼げのところも残したまま嫁いだ姉を、父は少年のあこがれ心をもってなつかしんでいた。
祖母や伯母を手こずらせた父の反抗期も、二十代からは学問の方に打ち込むようになって、次第におさまっていった。
父の二十代の悩みは、自分を頼りにする家族、とりわけ、父にすべての望みをかけている祖母の気持からの重圧にあったと思う。祖母の気持を理解はできたらしいが、その保護の下で型にはめられ、自由な冒険を試みることのできない自分の立場、母親にそむくことのできない自分の性質、濶達さの中に秘められた母親のはかり知れない神経質は、父をしばしば煩悶におとし入れたようである。
たとえば、結核の親友の病篤く、見舞いに出かけようとしている父に、
「そんな病人を見舞うことは、神経を痛めるからいけない」
と涙を流してとめるようなところが祖母にはあった。それは、私がものごころついてからもあり、祖母の「病気」に対する神経は、通りいっぺんのものではなかった。
いま考えれば、初児をうしない、また妊娠中の身で、一週間ほどのわずらいの夫をうしなった祖母にとって、病気の恐ろしさは骨身にしみていたであろうが、身内の誰かが病気になったとき、祖母にどのように|報《し》らせたらよいか、ということはなかなかむつかしかった。私の母も叔母たちも、そのことで苦心した。母と叔母が、よく電話で「お母様に申し上げないで」と相談をしていたのを覚えている。ところが、叔母のつれあいたちは、およそ、そんなことに無頓着で、せっかく苦心して、秘し隠しにしたものを「アッ」という間に祖母の前で公開して、大さわぎを起こしたこともあった。
さて、その親友の危篤というような場合、父はやはり友情を重んじて、母親の反対を押し切って見舞いに出かけながらも、「母親の気持」を心の中にもちあつかって、強いて出かけたあと味の悪さと後悔に似た気持を、はらいのけることのできない性質であった。それが、若い日の父を、思いのままにふるまうことに制約を感じさせ、憂愁にとじこめる|原因《もと》となるのであった。
父は、
「一体、東京の子供は“立志”ということがない」
といい、「自分が立志的でないことはなはだしい」と書いているが、父の青年時代はすべて祖母の目のとどく範囲内の行動であった。それは、小泉家程度の、東京の同時代の人々も同じようであったかも知れないが、女ばかりの家庭で育った父は、表向きは男まさりといわれ、事実、テキパキしたところもある母親の、外に見せない心のひだの照りかげりが作用して、その母親の願望にそむくことの結果のわずらわしさが、父を外の冒険におもむかせなかったようだ。
そのせいか、二十代の父は、想像の世界、情緒の世界にあこがれ、感性の鋭敏な、多感の青年に育っていった。
自尊心は人一倍強かったけれども、姉妹の中に育って、母親の期待を担っていたから、自分がその家族を見届けなくてはならぬ責任感を抱いて、家長的な、姉妹思いの、人を傷つけることを恐れる人間になった。
姉千が嫁いで後も、父は大森にあった姉の家をよく訪れて、その姑と芝居の話をしたりして、姑を喜ばせたり、姉の夫松本烝治が西洋留学の留守には、たびたび見舞って、松本の家の皆から歓迎されていた。伯母は、そのような弟が自慢で、のちのちまで話の種になった。
松本家の幼い姪、甥も、独身時代の父にとって愛情の対象であった。「あんな叔父さんがあったら、さぞよかったろう」と、娘時代から私は従姉兄たちをうらやましく思っていた。従姉が父から外国のみやげにもらったという着せかえ人形の話、父の送った絵葉書、それに書かれた優しい文章、すべて若い、感じやすい、デリケートな叔父の愛があって、「青春の日の父の姿を見たかった」と、私の心をいつも動かす。
そういう家族的な制約は、また一面、外の世界にあこがれる心を育てたと思う。
詩歌、文学に対する父の感性は、この二十代に花の咲くように目覚め、歌舞伎、新劇、娘義太夫とともに、むさぼるように吸収していったようである。好悪の感情もはっきりしていた。永井荷風、森外、小山内薫への傾倒ぶりは純情といってよいものだった。
歌舞伎では、羽左衛門や、後に松蔦といった莚若、また、宗之助という女形が好きだった。その人々の美しさを讃歎していた。いま、昔のブロマイドを見ると、宗之助は偶然にも、若い日の私の母に似ている。当時「ドウスル、ドウスル」で有名だった娘義太夫の呂昇にも、父は感激している。その肉声の美しさには、節廻しの巧拙などどうでもいいと思うようなものがあったそうである。後年になっても、父は美声が好きで、渋さ、|巧《うま》さ、というものより、発散的な、健康な、しかし修練された「のど」を愛した。
父には、どんな種類のことを質問しても、必ず返事をしてくれる、なんでも知らないことはないという感じが、私にはいつもあった。それは、この時代に、感覚的に知り、実証的に見きわめる父の性質が躍動して、あらゆるものに興味を持ち、吸収した結果なのであったろうか。
私の母の兄、父にとっては後に義兄となった水上瀧太郎(本名、阿部章藏)や、その他の友人との友情を深めたのもこの時期で、水上とは、小学校も一緒、父親同士も福澤門下、家も近いという条件の下で、幼いときからよく会っていたが、この時期がいちばん友情にとりのぼせていて、毎日会わずにはいられなかったという。
水上が「山の手の子」という小説を世に問うたのもこのころで、父たちは、自分の仲間の輝かしい出発に、ワクワクするような、心ときめく日々を過ごした。
父と伯父とは、若い日の悩みも喜びも、なんでも話し合った。初めて芸者を見たのも一緒だった。
若い婦人への関心も大いにあったが、父も伯父も、未知の世界へのあこがれは強くても、正義感と物固さは二人に共通していたから、意味なく婦人を傷つけることはしなかった。
感動しやすい二人の青年は、その頃から、ものに感じては涙を流していたようだ。父は終生、涙もろかった。
西洋に留学したのは、もっとも感じやすい年頃だった。大正元年から五年まで、ロンドン、ベルリン、パリをめぐって帰国した。故国を離れて、いっそう感じやすくなっていた父は、青年の常として、不眠症にもなり、胸の病気になったのでは、と案じたりしながらも、初めて見る欧洲文明の、あらゆるものに感じ、吸いとって、日本趣味の上に、さらに後年の性格の一部となった西欧的合理主義も取り入れた。
私は、父が芸術家的であったかどうかという疑問を、人からも投げかけられ、自分も繰り返し考えてみるのだが、父はその豊かな感性で、あらゆる芸術の美を味わい得た人であったと思う。けれども、芸術家的である以上に、学問的な実証の精神を持ち、感じとめたものを理論的に並べかえてみる傾きがあった。
イギリス留学中、父は水上瀧太郎とともにフランス語を習った。その女教師が、水上を芸術家といい、父を全く芸術家的でないといったということが、伯父をたいそう喜ばせ、父を口惜しがらせたようだが、ものを覚えようとするときに、感覚よりも理屈で覚えていくのが父のやり方だった。しかし、それと同時に、若い頃から、心は常にあふれる感受性がさざなみ立っていたようだ。
伯父がその後、明治生命保険会社に勤めるかたわら、文学への情熱を捨てず、実作に志しているのを眺めながら、父はやはり学問の道へ入って行ったのであった。しかし、文学を好み、芸術を愛する心は、終生、若々しく持ちつづけていた。晩年、自ら称する「ライター」となって、父は本当に楽しそうだった。そのとき、若い日からの蓄積が役に立ったことと思う。
祖母千賀はものごとを割り切って考える力があり、それは生得のものらしかったが、人にいわせれば「英才的」な「切れる頭」を持っていた。
父は祖母のことを、
「船長ならば、十三日の金曜日に平気で船を出せる人」
と書いているが、迷信的なことは、福澤先生の影響と南国生まれのこだわらなさからか、決して信じなかった。
ただ、怪我や病気、その他の不幸を用心する気持は強かった。いったい、祖母は濶達、勝気、男まさり、という評判で、女の世帯としては、結構、世間からたてられ、頼りにされて暮らしていた。他家の結婚の世話、もめごとの仲裁も頼まれた。
三十一歳で未亡人になってから、すぐ財産を親類縁者に|頒《わ》け、自分もその一部をもって、三田四国町のかどの小家に移り住んだのだから、その決断は並みたいていのことではなく、その故にこそ、世間からもしっかりしていると思われたのであろう。
しかし、いくらしっかりしていても、どんなに淋しく、つらい時もあったであろうことは、いまの私に想像しつくせない。
故郷の和歌山では、祖父信吉の生まれた足軽、十三石二人扶持の家より、だいぶ身分の高い御典医の長女として生まれ、おてんばでわがままなお嬢さん育ちから、十八歳で東京に嫁いで来た。これも和歌山が南国で、人々に進取の気持が強く、こだわりのないところだったせいもあろうか。祖父信吉は、藩の留学生として選ばれたくらいであるから、頭はよかったのだろうが、縁談としては少し不釣り合いのものではなかったのか。
私は、祖母がお嬢さん|気質《かたぎ》で、祖父に威張っていたのではないかと想像していたが、祖父は古武士的な性格の人で、主人としての権威を持ち、決してそんなことはなかったそうである。明治二十一年、慶應義塾の塾長をしているとき、ストライキの問題で、福澤先生と意見が合わなくなれば、家族をひき連れて、故郷の和歌山へ帰ってしまうような強さがあった。
福澤先生は、中上川彦次郎氏を和歌山へ送って、祖父の説得に当たらせた。しかし、それも不成功に終わると、自ら関西まで出向いてこられた。それで、祖父も仕方なく大阪へ出かけて、先生にお目にかかった。このことは、父も「師弟」という文章の中でくわしく書いている。そういう強さがあったくらいだから、祖母は祖父に従順であった、という近親者の話は本当であろう。
ただ、祖父は非常な豪酒で、身体に障るほど飲むので、祖母は酒の瓶をかくしてしまうようなことをしたそうだが、祖父は夜なかに必ず捜し出してしまって、翌朝までに空瓶をわざわざ枕もとに立てて置いたという。結局は酒のために早死にしたといえるかも知れないが、その祖父も、
「剛毅にして寡慾」
と福澤先生に弔詞を書いていただいているから、その人につれ添っていた十数年は、祖母にとっても、幸福な歳月であったろう。晩年の祖母に付いていた人の話では、祖父のことを折にふれて、
「ええ人やったえ(いい人だったよ)」
といっていたという。
女の子は父親に似ると世にいうが、父の姉妹三人は、たしかに普通一般の婦人より寡欲であり、また、芯にしっかりしたものを持っていた。
姉千についてはすでにふれたが、父のすぐ下の妹勝は、|洒脱《しやだつ》な滑稽味のある人だった。その下の妹信も同じだが、ベタベタしたところがなく、自分の母親をもゆとりをもって眺め、私の母に対する祖母のやり方を案じては、
「まだまだ、おっ|母《か》さん、あんなじゃだめよ」
と批評するような人だった。
夫の横山長次郎は、父の従兄津山英吉の友人で、津山と一緒に下宿していたことから小泉の家を知り、英吉を通じて勝を伴侶に求めた。
横山の叔父は、現代にはもう見当たらない封建主人だが、強烈な個性の中にやさしい人柄を蔵していた。釜石から出て来て、自分の力で参松工業という飴の会社をおこした。
父にとっては年長の義弟だったが、歯に|衣《きぬ》を着せない人で、父の得意のとき、平気でピシャリとやっつけ、一度も父に負けなかった。父も、議論しても結局やっつけられるというか、笑い話になってしまう。父には、苦手というべき義弟であった。
たとえば、あるとき、父がどこで聞いて来たのか、うなぎの産卵は地中海のある一カ所に限られていて、世界中のうなぎが必ずそこに戻って卵を産む、それが|孵《かえ》って諸国に散らばるのだ、という説を、自信あり気に披露した。叔父はたちまち反撃し、
「それでは山中湖のうなぎはどうなのだ。籠坂峠をえっちらおっちら登って来るのか」
といった。父は分水嶺とか川の水とか、一生懸命いい脱れようとしたが、叔父の籠坂峠に遂に反駁出来なかった。
叔父は、父を子供時代から知っており、父を愛していたが、父の世間知らずや、学者一流の高踏的なところを心配していた。自分の力で飴の会社を千葉につくった叔父は、すべて現実的で、父が身内の者をあつめて、中心になっていい気持で皆を見廻しながら一席やっていると、必ずせせら笑うようにして、痛いことをいう。叔父は、父よりずっと独裁的で、端的ないい方をした。
父が空襲の時、家にたくさん落ちた焼夷弾を消そうとして大火傷を負い、入院した後、見舞いに来た叔父は、まず一言、
「焼夷弾にまでうぬぼれてやがら」
といった。そのとき、叔父のもてなしに吸物を出すと、
「まずい汁だね。味の素がねえんだろ」
という。そんなことをいいながら、戦中戦後に手に入れにくかった飴や葡萄糖をどんどんわけてくれるのだった。
母が|瘠《や》せているといって、
「おとみ公は長くあんめえよ」
という言葉で祖母のむつかしさを案じた。私たち姉妹も御殿場で、叔父に始終手きびしくやられた。
御殿場の家は日本式の古い家だが、廊下に二つだけ、粗末なデッキチェアが置いてあった。そこの窓から富士が見え、腰かけて本を読むのにも気持のよい場所だった。家族が五人で、椅子が二つきりなので、この二つの椅子は、私と妹にはいつでも坐りたいものであった。昼間は、勉強や外の遊びで、椅子にゆっくりかけているひまはないが、夕飯がすむと、私と妹は、椅子とりのような勢いでその二つの椅子を占領した。父や母はそんなとき、どけとはいわないので、二人はいい気持になって腰かけている。そのうち、御殿場の夜のならいで、四軒の親類の誰かが、家へあらわれ、次第に皆が集まってくる。皆はたたみに坐ってしゃべり出す。ところが、横山の叔父は入ってくると、
「どきな」
の一言で、私か妹を立ち上がらせてしまうのであった。その上、妹が立ったあとに腰かけて、
「あついお尻だ」
と平気でいった。
この勝手な叔父が、一夏に必ず一度、自動車を何台か仕立てて、御殿場四軒中の子供をどこか見物に連れて行ってくれた。ひどい毒舌を口にのぼせながら、山中湖、河口湖、沼津などに、自分はつまらなそうな顔をしながら、連れて行ってくれるのであった。
御殿場に、私たちの家がない時分は、毎年泊めてくれた。夜九時になると、
「寝るだ、寝るだ」
と宵っぱりの小泉家をおびやかした。父は、私たちを連れて家をしのび出たが、帰って見ると「ここから入らないで下さい」と玄関に張紙があったりした。
この叔父が自分の土地を割いてくれ、松本の伯父が古い家を移してくれて、私たちは御殿場に家をもつようになったのであった。御殿場では、父の姉妹四家族が一部落をなしていて、現在に至っているが、戦争が始まるまでも、毎年楽しい夏を過ごした。そのころは一族で「御殿場」という雑誌も出していた。その「御殿場」の私の兄の追悼号に叔父が書いた文章は、短いながら、叔父の性質をよく表わしていると思うので、ここに掲げる。
海軍大尉小泉信吉君
[#地付き]横山長次郎 
御殿場住居の当初より信公と呼び馴らし、又三、四年以前富浦へボートの練習時、余り無精の動作をしたもので、ぶしょ信と名づけた小泉信吉君、最後の航海に出発する際、暇乞いに来宅した時、中尉の海軍服に、着剣した姿は|悉《ことごと》く板に付き堂々たるものであった。小供が一本立ちとなり、成熟すると|斯《か》くも立派になるものかと、己れが弱退するのと対比し三歎した。今其人既になし、是れを天命或は宿世の因縁と諦め得れば兎に角、唯々いまいましいと絶叫し筆を置く。
父が兄のために書いた本は『海軍主計大尉小泉信吉』である。父は、この題以外にないと思ってつけたものだが、叔父はあの本が書かれる以前にこの文章を書いてくれた。四十人近い人が「思い出」とか、「信ちゃんの思い出」という題で書いた中で、この題をつけた叔父は、やはり毒舌の中に、父の心をよくわかっていてくれた人だと思う。
勝子叔母は、そのような叔父と平和な家庭を持ち、子供はできなかったが、大勢の若い人を世話した。
この叔母が幼いとき、まだ祖父が生きていて横浜に住んでいたころ、毎日明けがたになると、
「おまんじゅうが食べたい」
と泣き出した。両親がいかに叱ってもおさまらない。しまいには庭に土下座して、両親を拝むので、祖父はとうとう仕方なく、柳川仁太郎という車夫に|提灯《ちようちん》をもたせ、「つる」という女中に勝を背負わせて、まんじゅう屋に行かせた。まんじゅう屋では、翌日売り出すまんじゅうを蒸している最中であった。叔母は意気揚々とそれを持って帰り、祖父も祖母も、また寝かされていた父も起き出して、家中で、できたてのまんじゅうを食べた。そういうことがしばらくつづいた。
あきれていた祖父母も、食べればおいしいので、
「おいしいね」
というし、父も思わぬご馳走にありついて、
「お勝ちゃんのおかげで得をした」
と思ったという。
私たちの小さいとき、この話は、父が何度もしてくれた。そのたびに私の頭には、夜明けのまんじゅう屋の|燈《あか》りと湯気、家中でにこにこして、夜なかにまんじゅうを食べている光景を、自分が見たように思われて、着物を着た祖父の、写真で見た姿、顔が、その光景の中に現実性をもって現われるので、大好きな話の一つであった。
父が祖父の話をすることはあまりなかった。覚えていることが少なかったからだと思うが、私が祖父というものを想像でき、親しみを覚えるのは、この話のときだけといってもよかった。
このまんじゅうの話では、勝子叔母が寡欲というわけにはいかないが、長じての叔母は寡欲であり、あっさりした東京の人らしい滑稽味をもって、父に愛されていた。
叔母は長いこと胸をわずらい、四十二歳の若さで亡くなったが、私の覚えているときも、看護婦さんを連れて、御殿場で夏を過ごしていた。看護婦さんにものをいうときなど、実にさらりと、親しみのあるいいかただった。療養のために秋まで御殿場にいたが、私たちが帰京するとき、地蔵堂のうす暗い木蔭で看護婦さんと一緒に、自動車に向かってほほえんで手を振っていたことを思い出す。子供がいなかったせいか、子供好きで、いつもおもちゃをくれたけれど、大人に面白いおもちゃで、子供はあまり嬉しくなかった。
昭和六年七月に、叔母は、祖母や父にも看とられて|逝《い》った。叔母の美しい臨終に、父は柱にもたれて、静かに涙を流していたという。
ちなみに、勝子叔母が亡くなってのち、叔父は再び結婚したが、相手は、先にふれた美澤家の三女「はな」、父の幼友達で、今も元気でいる。叔父は戦後しばらくして亡くなった。
末妹の信は、父と最も長い間、一緒に暮らした。家族一同から父親が亡くなってから生まれた子としての不憫をかけられて、大切に育った。父も特別の愛をそそいでいたようだ。
戦争中、ダイヤや宝石類の供出ということがあった。当時、私どもと隣り合って住んでいた信子叔母が、ある朝、出勤前の父を訪ねて来た。
「これはどうしようかしら」
という。父が、昔、ロンドンのみやげに、叔母のために買ってきた小さなダイヤの指輪である。箱の中に手紙が入っていて、
「愛する妹よ、このダイヤはいと小さけれど、兄が|汝《なんじ》のために……」
というような言葉が書いてあった。
「愛する妹よ」というハイカラな表現は、父の一面の西洋人めいた好みとともに、父なき家庭の兄として、妹を思う真情が表われているように思った。真面目で、思いきりのよい叔母が、この指輪の供出だけためらったのは、乏しい留学生活の間に、これを|購《もと》めた兄の心を惜しんだのであろう。
平常の信子叔母は、淡泊な、清潔な人だった。こだわるということがなく、上等な丸帯でも無造作に半分に切って「二本できた」と惜しげもなく人に与えた。病みがちだったためもあるが、ことをすべて合理的に、簡単に運んだので、私の母にとっても、ありがたい人であった。
母とは小学校からの親友として、終生を送った。長女である伯母千のように、何もかも一身に引き受けてとりしきるたちではなく、できることは「できる」、できないことは「できない」、とあっさりいえた。しかし、底には温かいものが流れていた。信子叔母は自分をふくめて、ものごとを客観的に見られる|性質《たち》で、
「松本の姉さんの神のお告げ」
と笑ったり、
「兄さんの負けん気」
をからかったりした。
「困難になればなるほど、力の出る強情我慢」
と父を評したのも、信子叔母である。
夫佐々木修二郎は銀行家で、東京生まれ、東京育ちで、静かなあっさりした、几帳面な人だった。
叔母は病みがちなところへ、叔父が晩年失明したので、さぞ大変だったろうと思うが、愚痴はひとつもいわなかった。
私の兄信吉の戦死の報が来たとき、松本の伯母は私を見据えるようにして、
「これからは、お前さんがこの家の柱だよ」
といって、私をふるい立たせたが、佐々木の叔母は私を物蔭に呼んで、葡萄酒の瓶を手渡し、
「お母さんに夜、飲ませてあげるのよ」
といった。その静かな言葉は、私の胸にしみた。叔母にも、兄と同じ年の男の子があった。
空襲で父が負傷したときも、私たちは、隣同士に住んでいながら、はぐれて別々のところへ逃げた。翌朝、私は、叔母が避難させていただいた崖の上の澁澤敬三氏のお宅へ、叔母を訪ねた。
叔母はあたたかい紅茶を持ってきて、私に飲ませた。昨夜からの、かずかずの出来事を思い返して、私は縁そとに立って紅茶を飲みながら、涙を流した。叔母は黙って、私の気持をいたわってくれていた。
私の両親は、長い間、この信子叔母に、祖母の家の近くに住んで、世話をしてもらっていたが、兄が戦死してのち、偶然、祖母と叔母の間の家があいたので、私たち家族は、品川御殿山からそこへ移って、空襲にもそこで遭ったのであった。
叔母は、祖母の気質をよく知っていたから、祖母のときどきの行き過ぎを|矯《た》める役を、いつも勤めていた。言葉が端的で、ユーモラスな皮肉を含んでいたから、祖母にはいちばんこたえた。しかし、最愛の末娘だったし、祖母の後半生の大部分は、この叔母の傍で過ごしたので、祖母は何とも|抗《あらが》うことはできなかった。ときどき、
「お|信《のぶ》にこんなにいわれた」
と父にいいつけた。
「今度やっつけてやりますよ」
と父はなぐさめた。
叔母はそういうふうにしながら、祖母と母との間の、防波堤の役もしてくれた。
他の二人の伯叔母も、母にとって、もののわかった義姉妹であり、母が小泉家に嫁したことが成功であったとしたら、三人の義姉妹の親切を忘れることはできないであろう。
松本の伯母千は、癌に冒されて長い苦しいときに耐えながら、最後まで父に「謙虚にね」と心配して、昭和三十五年七月に亡くなった。
佐々木の叔母信は、長らく病身ではあったが、最期は短い時間の臥床で、あっ気なく亡くなってしまった。昭和三十六年二月であった。
父は、信子叔母の追悼のために書いた文章の中で、
「常に心に爽やかなもの、澄んだものを失わなかった女のように、この兄の目には見えておりました」
と書いている。
こうして、父は三人の姉妹に先立たれたのであった。
この三人の姉妹の性格は、私には、たぐい稀にすぐれたものと思われる。その無欲さ、そのあたたかさ、思いやり、率直さ、それはどこからきたのか。また兄妹の仲のよさの原因はどこにあったのか。
もちろん、その両親の持った性格に負うところが多いのは確かである。あとは、福澤先生の精神的庇護、亡き父を思いながら、母を援けて、福澤先生の力強い精神に沿ってゆこうとした長女千の無私の愛情、ことに、それは幼いといってよいくらいの若いうちから、その立場にたたなければならなかった千の若さゆえの純粋さが大きな原動力となったと思う。その上に、母親である千賀の気力、負けん気が、父なき一家をささえて、かえって父親のある家庭の子供たちより、緊張と充実、それに、お互いにいたわりあう気持を持たせたのではないか。
そしてまた、姉妹の卒業した香蘭女学校の当時の雰囲気が、イギリスの教育方法を思うさま、無垢な日本の少女たちに与えられる状態であったので、西欧の合理性も身につけ、一方において、キリスト教の愛を知った。
伯叔母たちは、それぞれ後に洗礼を受け、それぞれの性格通りのやりかたで、よい信者としての一生を終わった。
信子叔母が亡くなって後、この三人の姉妹を記念するミサが行なわれたが、ミサのあとでそれぞれの伯叔母から影響を受けた方が、どの伯叔母がいちばん偉かったともいえないほど、三人は精神的にすぐれていたと、つぎつぎに語られて、私たちの感動をさそった。
この姉妹は、姿、形も美しかった。
千伯母は品位があり、勝叔母は少し|粋《いき》でしゃれており、信叔母はふっくらと豊頬で愛くるしかった。
よく私は父に、
「伯母様たちのなかで、誰がいちばん綺麗だった?」
と聞いた。父はちょっと考える。そして、
「やはり、上から順だろうかね」
という。断言はできないほど、それぞれの「美」を持っていた。答えはいつもそうなのに、また聞いてみたくなるほど、父の姉妹は見事だった。
私の母とみ子は、祖父|信吉《のぶきち》とともに、福澤先生の下に学んだ阿部泰藏の三女で、十二人兄妹の七番目である。父と母が結婚したのは、父が、母の兄水上瀧太郎と親友であったこと、母が、父の妹佐々木信と親友であったこと、そしてまた、祖母の言葉によれば、祖母が阿部家の大勢の兄妹の中で、特別に母を気に入っていたことが理由で、海外にいた父との結婚の話は持ち上がったのであった。
日本とイギリスの間で、今のように通信の速い時代でないから、手紙のゆきちがいや紆余曲折はあったらしいが、ごく自然のなりゆきともいえるこの結婚は、大正五年の十二月七日に行なわれた。そして、父と母は四十九年半、ともに暮らした。
松本の伯母千は、
「おとみさんは紐のような人」
と、なぞめいた微笑とともによく私にいった。
これは母をほめた言葉かどうかいまだによくわからないが、伯母や父にくらべると、母は物を見きわめない、見きわめたくない性質を持っている。伯母や父は物の実体を|掴《つか》んで、それに対処せずにいられない人たちで、それが一つの不幸な面でもあった。それに反して、母は逃げたいときは逃げた。伯母から見れば、芯のない、しかし、不思議に人を|惹《ひ》きつける柔軟性をいったのであろう。
佐々木の叔母信子は母に、
「あなただからお母さんとうまくいったのよ。あんまり利口な人では駄目よ」
と、これも歯に|衣《きぬ》着せぬ、さばさばしたものいいで、母を笑わせた。母がまた、自分はまったくその通りだと本心思える人なので、なごやかな親戚関係ができたのであろう。
母は素直な子供っぽいところと正義感、のんきと正直が魅力であるが、苦労した祖母からみたら、他愛のない、もののできないお嬢さん育ちは歯がゆかったこともあろう。こう思うのは、祖母とも母とも、血のつながっている私の、率直な感想である。
しかしまた、母以外に、父の妻、祖母の嫁となれる人は考えられない。
母とみ子の母、阿部優子は、山形県鶴岡の人で、数え年十六歳のとき、望まれて、先妻の六歳になる遺児をもつ阿部泰藏に嫁した。
優子は、一言にしていえば、包容力が大きく、武家風のゆたかな教養を持ち、維新の際は徳川方のさむらいの娘として、自害の仕方も教わったというような経歴からくる、度胸の坐ったところのある人物であった。
英語などひとつもできなくても、堂々と西洋人を接待し、
「もう、ノーサンキューよ」
というようないい方をしながら、相手を感服させ、「グランドレディーだ」といわれるような人だった。
夫が社会的に地位を得ていたし、その愛情を身に受けて、大らかに、のびやかであった。「武士の娘」という矜持があって、どんなときもどっしりと落ち着き、同じ武士の出でも少々臆病なところのあった祖父泰藏を守るようなところもあった。
母の話では、ある年、祖父と祖母と母のすぐ下の妹八重子とで伊香保に遊んだとき、谷川に吊り橋がかかっていた。それは、ゆらゆらしていてこわそうだった。しかも、橋の向う側にいた工夫が大勢ではやし立てるので、母も叔母(八重子)もおびえた。
元気のよい少女であった八重子叔母は、
「渡るわ」
といさぎよくいって、黒髪を風になびかせて渡ってしまった。
母は臆して、どうしても足がすすまない。それを、祖母は後からこうもり傘の先でつついて、
「ショイ、ショイ」「ショイ、ショイ」
といいながら、渡らせてしまった。
最後に祖父は、しばらくためらったが、下駄を脱いでふところに入れ、四つん這いになって渡った。
この祖父も、小泉の祖父とともに福澤先生の弟子であった。祖父信吉がロンドンで銀行制度を学んだように、アメリカに留学し、保険制度を研究して、明治十四年、明治生命保険会社をおこした人である。
祖父も祖母も、娘婿である父を気に入っていた。祖父は非常に学識のある人で、父が、祖父にとっては、あまりにわかりきったようなことを質問すると、吐き捨てるように返事をすることもあって、そんな目にあまり遭ったことのない父を面白がらせもし、驚かせもしたようだ。父がよく私たちに「お父っつぁんが」といいながら話すのは、この祖父のことだった。女ばかりの家に育った父には、父親の手ざわりは、この、妻の父にあった。
歯の治療をしていた祖父に、
「お父っつぁん、歯の具合はいかがですか」
とたずねると、
「全治はした。根治はせぬ」
と、正確な返事が戻ってきて、父をいつまでも面白がらせた。
祖父泰藏は、私の二歳のときに亡くなった。臨終に、祖母優子は大声で、
「皆いますから安心していらっしゃい」
と、死んでゆく祖父をはげましたそうである。
祖母優子は、父を学者として尊敬していた。父も祖母が好きで大切にしていた。祖母は十二人の子供の家を、順々によく訪問したが、私どもの品川御殿山の家にもよく来た。
父は、家にいれば、必ずていねいに相手をしていた。祖母はいつも「時事解説」のようなことを父に求める。
「あれはどういうことなんですかねえ」
と、いつも黒い紋付の羽織ばかり着ていた祖母がゆったりと茶の間に坐って、父に質問していた姿を私は思い出す。
阿部の祖母は、国のこと、世界情勢が気になるたちで「正義派」だった。気性はやはり、女ばなれがしていた。
大家内を統率してゆくので、自然、小事にこだわらなかったのかも知れないが、鎌倉に夫泰藏が別荘をつくると、そこに、夫泰藏の母と、自分の母親とを一緒に住まわせ、子供も四、五人、そちらへ置いた。祖父の母が主人役、祖母の母が女房役となり、孫たちは「大ばあさん」「小ばあさん」と呼んでいたという。今の世の中で考えてみると、ずいぶんめずらしい形式ではないかと思う。私の母の話によれば、そのおばあさんたちは、夜になると、二人でトランプをしていたというから、まったくの他人同士で、うまく暮らしていたのだろう。もっとも、幼かった母は、二人が狐か狸ではないかと、心配だったそうだ。
祖母優子は自分のことに質素だったが、気前がよくて、気にいったものがあると、五十も六十も同じものを買って、子や孫、親戚知人に頒け与えた。|柄《がら》が気にいれば、当時、人が軽蔑した人絹でもさっさと買った。私に最後につくってくれた着物は綺麗な色彩で、大きな麻の葉の模様の、人絹と絹の混紡であった。今でこそ、ウールの着物というものがゆきわたって、冬でも|単衣《ひとえ》でかまわなくなったが、昭和の初めから、優子祖母はセルの単衣を、洗濯が便利ということで、冬中ふだん着にしていた。
その点は、小泉の祖母千賀の方が上等のものを好み、身のまわりを贅沢にして、孫がはね廻って遊べるという空気はつくらなかった。
阿部の家は、十二人の子、五十人の孫がその友だちを連れて、いつも大勢集まっていた。家の中の廊下で駈けっこをしたり、ドッジボールをしたりしても、祖母は何もいわなかった。嫁に来たての若い叔母たちまで入れて、私たちはよく廊下で騒いでいた。
食糧も豊富で、菓子などは、店で仕入れのときに使う大きな木箱に入っていた。広い庭で駈けまわって、おやつを食べ放題に食べて、眠るときは祖母に「青小僧」とか「運さがし」とかいう「お話」をしてもらいながら寝る。お風呂に入るときも、祖母は湯舟の中で、みかんを食べさせてくれたりするのだった。
何もかもあたたかくて、ゆたかであった。ケチなことの嫌いな父にとっても、気持のよいことだったらしい。白金三光町にあった阿部の家へ行くと、父は特別たくさん食べて、祖母を喜ばせた。
「三光町のおっ母さん」
という言葉をも、父は親しみをこめていった。
父の文章に、この祖母はときどき登場している。『十日十話』の中に、
打ち向ふ鏡の影ぞはづかしきせめて心に塵はとどめじ
という歌を、姑の歌とはいわずにのせている。この祖母は、詩藻豊かで和歌をよくし、長歌も作った。いま琴唄として、節付けされているのもある。
祖母優子は、七十歳すぎてから、故郷鶴岡に遊び、そこで脳溢血で倒れ、しばらく療養して東京へ帰り、長らく床についたまま逝った。
鶴岡で寝ているとき、私の母が見舞いに行き、帰京しようとすると、
別れゆく人をし見れば侘しきを雨の音きくこころくみてよ
という歌を示した。気丈な祖母も病いに心弱りつつ、やはりみやびな歌に、自分の気持をいいあらわす「武士の娘」であった。
自分のことにはかまわずに、困っている人たち、恵まれない人たちに厚くした、心暖かいこの祖母も、父に大きな影響を与えた一人であろう。
この祖母優子は、明治の文明開化のころ、人となり、日本が悲惨な敗戦を迎えることも知らずに、十二人の子に見守られて亡くなって、いわば日本の興隆期に恵まれた一生を送った人であったから、同じ時代に生きたとはいえ、若くして夫を亡くした小泉の祖母千賀とは、気持のゆとりの上で、大きな|懸隔《へだたり》があった。
小泉の祖母は、昭和七年、女婿松本烝冶に、|瀟洒《しようしや》な隠居所を三田綱町にたててもらい、手伝いを二人置いて、静かな朝夕をすごしていた。几帳面な祖母は、朝起きるから寝るまでの行事がきちんときまっていて、私には近づき難く思われた。阿部の祖母優子が山形で倒れ、母がそちらへ出かけたとき、私と妹は、小泉の祖母にあずけられた。祖母の家の塵ひとつない座敷も、整った小庭も、子供にとっては窮屈だった。
しかし、祖母は七十すぎて脳軟化症となり、長年の張りつめた気持のゆるみのように他愛のない、幼児のような晩年を送った。
私の兄信吉は祖母をよく訪問して、祖母の昔話のよい聞き手だった。先祖のことも、祖母から聞いて、書きとめたりしていたが、戦争で亡くなった。
祖母はそれから四年後に亡くなったが、とうとう兄の死は聞かせなかった。祖母が本当に、それを知らなかったかどうかは、今もってわからない。
祖母に兄の死を聞かせてくれるな、といったのは、祖母の妹鈴木菊枝である。
祖母には二人の妹があって、一人は若くして死んだが、十歳違いの菊枝を、祖母は東京に呼び寄せ、祖父信吉の世話で結婚させた。夫は鈴木嶋吉といい、銀行家として名を成した。
菊枝は気がやさしくて、すぐ涙をこぼした。父を大のひいきで、母や私たち子供にも、始終何かと心をつかってくれた。
父も、祖母には見せたことのないような甘えた面を見せた。この人は、たいそう美声だったそうで、三味線も上手で、父はこの人から長唄の「勧進帳」や、端唄の「春雨」を教えてもらったという。父の音曲趣味の手ほどきは、ここにもあった。
菊枝は気が弱くて、繰り言めいた述懐が多いので、人の愚痴を聞くのが嫌いな祖母千賀は、十歳年長の故もあって、叱ったり、干渉したりすることが多かった。菊枝も圧倒的な千賀に臆し、姉妹の性格は対照的であった。そんなふうなので、二人にとっての母親であった林|仲《なか》が、鈴木の横浜の家で亡くなったとき、菊枝は何の落ち度もないのに、千賀に叱られるかと怖れて、落ち着かなかったそうだが、祖母は、報らせを聞いて鈴木の家に駈けつけると、鈴木夫妻の前に両手をついて、長年の世話を感謝し、大往生を遂げさせてもらった礼をいった。大叔母菊枝は大いに|安堵《あんど》したという。
祖母は、手きびしいところはあったけれども、決して大筋を間違えず、大切にする人だった。こういう性質は、父にも伝わっていたと思う。
父にとって、母親千賀は甘えられる人ではなかったが、この菊枝は「甘えられる叔母さん」であったようだ。菊枝は千賀より、十数年遅れて逝った。父は、神奈川県二ノ宮の、その叔母の家をときどき見舞った。そういうときは、昔そうだったように、くつろいで、時には寝そべったりして、わざわざ和歌山弁を使った。
「そうかいし(そうですか)」とか、「おまはん(お前さん)」「行きよし(行った方がいい)」「ななえ(ちがうよ)」
というような言葉は、父が使うと、アクセントも確かで、祖母や大叔母が賑やかに集まっていたときのことを、私に思い出させるのであった。
若いころ、この叔母夫妻と父は方々に旅行もしているし、父を物心両面から支えてくれた人であった。菊枝大叔母は、音曲にすぐれていたということからもわかるように、芸術家的な、感情の豊富な人であった。晩年、八十歳すぎてから、ドストエフスキイなどを読んでいた。ロシア語の覚えにくい名前を紙きれに書き出して、それを傍において、ときどき見ながら読んでいた。
父の周囲にいた婦人の中で、この人と、この家の二人の娘がいちばん女らしい性格だったように思う。その二人の娘、つまり父の従姉たちも、父が逝いて、一、二年の間に世を去った。この人々からも、父は「兄さん」と呼ばれ、父も「ちいちゃん」「しまちゃん」と呼び、親密な間柄であった。
父は世間からフェミニストといわれ、自らも認めたが、父の性質の中にある「女の人を憐れと思う気持」は、未亡人の母親を持ったこと、女ばかりの家族の中にいたこと、姉妹のためをいつも考えていたことから、知らず知らずに|培《つちか》われたものと思う。その上、イギリスで騎士道精神に感銘したことも原因のひとつといえよう。
祖母千賀は若くして未亡人となって、四人の子女を育て上げたが、当時の社会としては、それは仕方のないこととされて、再婚の話などは起こらなかったようである。
父とても、むろん、母親の再婚など考えてもみなかったであろうし、また、母親とともに父亡き生活を二十年つづけている間に、母親の性質の中に反撥を感じるものをも、多く見つけていた。しかし、一人で子供たちを見守る母親の、女としての犠牲的な生活が、母親の性格に及ぼした影響という点には、当時は考え及ばなかったであろう。
けれども、福澤先生は、そのことに気をつけて下さった、たった一人の方であった。
祖父信吉は、明治二十七年十二月八日に亡くなったが、明治二十九年九月、福澤先生が、祖父信吉の親友、日原昌造氏にあてた書簡に、
小泉氏相替事|無之《これなく》、朝夕子供の往来、賑やかに致し居候。唯憐む可きは寡居の婦人なり。仮りに信吉氏と地を|易《か》へ、三年前に氏が内君を|喪《うしの》ふたらんには、其後久しからずして再婚の談を催して、今ごろは|疾《と》く既に第二の妻を|娶《めと》りたらんに、おちかさんが女性なればとて|之《これ》を捨てゝ顧る者なし、誠に|不相済《あいすまざる》事と存候。尚折りもあらば此辺の義に付御話し|致度《いたしたく》存候。
と書かれている。
福澤先生はやはり、貞女両夫に|見《まみ》えず、などという考えは、持たれなかった方だったのであろう。
父は、私が気がつくようになってから見ていると、未亡人というものを大切にし、いたわり、そして、折があればよい再婚を、願う人であった。
若いときの私は、父のその考え方にちょっと納得がゆきかねた。しかし、後年、誰か未亡人に関する話の折に、父が「不自然」という言葉を使って、
「いつまでも一人でいなければならない、ということはない」
といったとき、長い年月を経た、父の考えがよくわかった。
そういう考えを持つに至った父の頭の中には、濶達と人にもいわれ、自分もその評判にそむかないところもありながら、夜半、枕に|肱《ひじ》をついて、闇に眼を凝らしていた母親の姿を、深い同情をもって、思い返すことができるようになったからだと思う。
今になってみると、明るい、強い、濶達だといわれながら、はかり知れない恐怖と、心配をもちつつ、一人の男の子を育てた祖母に、私は深い同情の念を抱かずにはいられない。
そのことを裏書きするような話を、私は最近、年長の従姉から聞いた。
松本の伯母千が、祖母にキリスト教の洗礼を受けさせようと努力して、祖母は信者になったが、そのすぐあとで、伯母が、聖母マリアがキリストを抱いた聖画を祖母に贈って、部屋に飾らせようとした。そのとき祖母は、
「そんなつらいもの、見ているのは悲しい」
といって断ったという。
祖母が洗礼を受けたのは、六十歳すぎてからのことなのに、聖母子像を見て、まだ「つらい」と感じる祖母の哀れを、私は思うのである。
父にも、そういうふうに、悲しいことや、つらいことに、何としても直面できない、痛みやすいものがあって、親一人、子一人の家族の話や、嫁姑のいさかい、子供をうしなった母、母をうしなった幼子の話など聞いていられなくて、手を振ってさえぎることがよくあった。
激しい感情の持ち主であった。
この異常ともいえる激しい感受性をもつ母親と息子の間にあって、嫁である私の母の、おっとりしたのびやかさは、たしかに配役の妙を得ていたといえる。
母は、大家族の中に育って、幼い日から、あまり自己主張をするような、また、できるような立場でなかった。二歳年下の妹八重子叔母は、はっきりした性質で、したいこと、ほしいものがいつもちゃんときまっていて、食べるものでも着るものでも、自分の好みを皆にわからせていたが、少女時代の母は、まだ自分というものがはっきりつかめず、たいていの返事は「どうでも」とか「|中《ちゆう》くらい」とかあいまいで、十二人兄妹の中ではおよそ目立たない存在であったらしい。八重子叔母がいつも笑ったが、娘時代、
「とみ子さん、富士山に登りたいわね。登らない?」
といえば、
「わたくし、いや」
とおっとり答え、
「外国行ってみたいわね」
といえば、
「わたくし、いや」
という。そんなふうだったのに、六十過ぎて、さっさと父と外国へも出かけるし、富士山にも「五合目まで、お先に登りました」と叔母に手紙を出したというのである。
「柔よく剛を制す」という言葉を、私は母について考えるときに思い出す。
母は、そのおだやかさと、消極性で、あるときは父にいらだたしい思いもさせながら、静かな存在の間に、着々と自己形成をしていった。持ち前の、のんびりした滑稽味の上に、自分の両親や父から植えつけられた正義感と、正直さを、いつの間にか、はっきりした形で出してきて、自分がしたいことを、ちゃんとしてしまうようになった。七十歳を過ぎ、父を見送った今、自分のペースで、しかし世の中の事象に、父が感じたように喜び、憂いながらも、静かな晩年を送っている母を見ると、夫婦というものが与え与えられる長い人生、ということをつくづく考えさせられる。
母が、その発言権を次第にのばしていった様子は、父が『思うこと 憶い出すこと』の中に、
「家の建築について、よそから嫁に来た妻というものが、年とともに発言権を増して行く過程」
などといういいかたで、面白がって書いている。
父は、晩年の松本の伯母から、福澤先生のいちばん偉かったところは「愛」と教えられて、たいへん感動した。その感動を、父はたびたび書いた。しかし、父もまた「愛」の人だったということは、はっきりいえると思う。
祖父信吉について考えても、四十五歳の短命でありながら、義妹菊枝、姪美澤よねえ、その他、教え子たちからも、その親切さ、愛情深さをなつかしまれている。父も、「父と子」という随筆や『私の履歴書』の中で、正金銀行に貨幣鑑別のために雇われたペンサンという清国人を、日清戦争の最中に、|敵愾心《てきがいしん》に燃えた民衆の迫害からかばった祖父のこと、またその祖父の葬儀に、ペンサンから供えられた赤いまんじゅうが幼心に印象づけた自分の父親の「侠気と愛」を書いている。
父が祖父から受けついだと思われる資質は、寡欲、新知識に対する興味、受け入れる力、実証性、そして愛、侠気であり、祖母から受けついだと思われるものは、感受性のするどさ、決断、思い切りのよさ、激しさ、神経質、緻密、用意周到さなどであった。
祖母も、祖父とともに暮らした影響か、もともとのものか、侠気があった。ついでにいえば、父は体質的には、祖父の側から胸部の弱さ、祖母から胃腸の弱さをもらっている。どちらにしても、もともとあまりよい体質ではなく、食生活も|偏《かたよ》っていたが、母の影響で食事が変わり、後天的に丈夫になったといえよう。身体があまり丈夫でなかった時代があったため、健康には神経質だったし、人の病気を非常に案じた。
父の性格は、このように祖父と祖母から受けついだものが、いろいろな形で入っていた。晩年には、これが溶け合って豊かなものになってきたが、バランスのとれていない時代には、あらゆる面を人に見せて、さまざまの角度から取り沙汰された。
ことに、四十代の父は激しさがいちばん強く出ていたので、人を愛することも、その反動で嫌うことも、よそ目には倍の力に感じられたのではないか。
老年になって、予供をうしない、大火傷を負い、さまざまの試練ののち、父は大きく変わった。激しさがおもてに出なくなって、柔らか味をもち、思いやりのある心で、昔の、自分の身のまわりにいた人々を思い返して、改めて感慨にふけっていた様子を、私はよく知っているが、心に去来するものは、さだめて複雑であったことと思う。
父は、いわば模範生の人生のように、世間からはいわれているけれども、父の内的一生のつくり上げられてゆく過程には、いつも人々の期待に応じてゆかなければならない宿命のようなものがあって、それにこたえながら、その中に自己の安定を見出すまでには、ずいぶん大きな努力があったことと察せられる。
父は自分の両親、姉妹、母の姉弟、姪、甥、そして家族、教え子、家で働いてくれている人たちすべてを愛して、自分が大きな手をひろげて、かばっているようだった。誰にも、寂しい思いをさせたくないと思う人だった。誰かが幸福でないと、それが気にかかってならないのだ。
父の姉妹が皆それぞれ、人の不幸を見過ごしにできなかったところを見ると、福澤先生の大愛が、祖父信吉を通し、祖母千賀を通し、父の姉妹にも及ぼしたものであろう。
私たちは、父が一度として家のお手伝いの人々を叱ったのを見たことはないし、声を荒げたのを聞いたことはない。
「俺は|え《ヽ》ばる奴、きらい」
という父の気持は、若いときから一度も変わらなかった。
遠いところから来た若いお手伝いは、一年中、
「もう慣れたかね。さびしくないかい」
といわれ、父のところへ、夕方お酒を運んでゆく役のお手伝いは、
「君のお父さんもお酒のむかい」
と聞かれる。
何度でも同じ質問をするのが父の特徴で、それは忘れるからではなく、何か話しかけてやりたくて、とっさに出るのが同じ質問になってしまうのだろう。
その人たちは、
「旦那様がまたお聞きになった」
と、台所に戻っては面白がったが、いまだに父をなつかしむ思い出話に語られる。
大勢の人が集まったとき、父の顔はサーチライトのように部屋中を見廻し、さびしそうにしている人に、必ず話しかけた。
私も、父の家に遊びに行って、夕方、父の帰宅のベルに、玄関へ出迎えるときっと、
「Can you stay for dinner ?」
と聞く。
「いいえ」
といえば、
「Why ?」
とたずね、
「はい」
と答えると、
「Good !」
と機嫌がよかった。
といっても、特別なことがあるわけではない。何がなし賑やかなのが父は好きだった。そういうとき、やはり父から温かいものが流れてくるのだった。
こういう父の豊かさは、父の姑阿部優子にも似るところがあった。母が父に嫁いで、小泉家の人々を尊敬し、同化してゆきながら、一方に大家族の整頓されない生活からくる賑やかさを加えたことは、父の資質の中のあるものと合流して、「客好き」の家庭をつくった。
それは、小泉の祖母の人づきあいとは違ったものである。小泉の祖母も人をそらさぬ人ではあったけれども、長い間のやもめ暮らしで、自分のペースができ上がっていたから、すべての点で、突発的なことが嫌いだった。
父は、この母親に育てられたにしては、生活が変化に富んでいて、突発的な行動が多かった。急に家中揃って食事に出かけようなどと提案するのはいつも父だった。母もむろんそういうことになれていた。幼い頃、夕方お風呂に入っていると、風呂場と塀との間の細い露地に父の大きな影が動いて、
「オイ、食事に出かけようよ」
と大きな声がきこえる。急によそゆきの洋服を着せられて、銀座に出かけたことなどよくあった。従姉たちがそういうことを羨ましいといったので、割りに珍しいことなのだな、と後には思った。
お客様をするときも、いつも父がいい出した。次々にお招きしたい方をさがし出す。少年時代、寂しい環境にあったので、特別賑やかなことが好きになったのかとも思うし、外国生活でホスピタリティーというものを身につけたせいもあろう。そして、もう一つは、母が持ってきた習慣ともいえるであろう。
晩年の父母の生活は、母の個性がだんだんはっきりして、「家のふう」というものをつくっていた。母は、紐のようなといわれた性格の中の、どこにあったのかと思う割り切った、男らしいところを出してきた。もちろん、その中に、好い意味の女らしさがあったから、父に保護本能を持たせつづけたと思うけれども、ベタベタしたものがないことは、父に快い思いをさせたことであろう。
それは母のかくれた資質だったかも知れないが、五十年をともに暮らした父と、父の姉妹から受けたものが大きかった、と私は思う。
そういう幸福な朝夕を送っている母を見るにつけて、父の頭の中には、若いうちに一人になって、子供を立派に育てあげたとはいえ、神経をすりへらし、最後は幼子のように老いほうけてしまった自分の母親、私たちの祖母のあわれが、いっそう強く思い起こされていたにちがいない。
松 本 一 家

父の姉松本千とその家族は、「父の周囲」の人々の中でもふれたことであるが、特に父と強い結びつきがあった。
千の夫松本烝治は、父の義兄として、また父の尊敬する人物の一人として、父にとって大切な人であった。
「|義兄《にい》さんくらい頭のよい人はない。何かあったら、にいさんに相談する」
といつもいっていた。
戦後、コメット機で母と二人で欧米旅行に出かけるとき、万一の事故に備えて、遺言状を書いて置こうと、相談に出かけたのも、その|義兄《あに》のところであった。そのときは、
「そんなこと」
と、笑ってとり合わなかったそうだ。
戦争直後、父が追放されるかも知れないと案じたのは、憲法制定などで占領軍と交渉のあった伯父で、もし追放になって、塾長の役宅を出るようなことになったら、と案じて、
「家の隠居所にいらっしゃい」
と、母と私を呼んでいってくれた。別荘をもつ余裕のない父に、御殿場の家屋を与えてくれたのも伯父だ。伯父のさがした御殿場の地に、父と三人の姉妹が並んで家を建て、いまだに親類の誰かれが、質朴な土地の古い家で、夏の日を過ごす。
伯父は頭がいつも透明な感じで、物をあるがままに見ることの出来る人だった。父や伯母千より、自由な考え方に見えた。
「僕にはお千さん(伯母)や信さん(父)のような、信念というものがない」
といっていたそうだ。
父は、自分の姉が夫に対して、独断的なこともいうのを案じたが、伯父から見れば、父も世間知らずに見えたと思う。伯父はその長女峯子の夫田中耕太郎をも簡単に「頭が悪い」というように、人を自分の水準から眺めていた。しかし、やわらかい物腰の人であった。
伯父は、その子供たちや、姪、甥に、江戸旗本の血すじの、淡泊なさりげなさをもって臨み、伯母や父は、南国和歌山の血をもって、娘、息子、姪、甥に対したように見えた。
伯母千も父も、世間並みの伯母、叔父より、濃厚な愛情があったと思う。
私は小学校の時、
「自転車を買って上げるから、指圧にお行き」
と伯母にいわれた。丈夫にしてやりたいという熱意であった。私の結婚が近づくと、箪笥その他、「持たざる国」という名のもとに、数々のものが届けられた。
戦死した兄が、生後間もなく消化不艮で死にかけたとき、その枕許にひざまずいて、祈りを捧げながら、茶わんに入れた乳を一しずくずつスポイトで兄の口に滴らしてくれたのも伯母であった。兄の戦死に、
よびつづけ今日も暮しぬ美しき紅葉を見ても青空を見ても
と歌を作った。
父もまた、松本家の三人の子たちに、若いころから心を傾けて接していた。上の娘、田中耕太郎の妻峯子は「峯ちゃん」、下の娘、三邊謙の妻文子は「ふうちゃん」と呼んだ。日によっては「ふうちゃちゃん」といっていた。いちばん父を困らせなかったのは「ふうちゃん」で、よく御馳走してもらっていた。
「ふみ子はにいさんに似て頭がいい」
と父はいっていた。文子と父の間は、父から外国の絵葉書をもらった幼い日から、一貫して穏やかな叔父、姪の間柄であった。
峯子は父の最初の姪で、「My dearest Minie」と父にいわれ、父の若いころの愛情の対象であった。その愛情は、生意気な年ごろになっていった峯子を心配して、|牽制《けんせい》するような形も示した。峯子は、父の死後「怖かった」という感想を、たびたびいいもし書きもした。これは、その母親に対しても同じようであったという。父が物を書くことを奨励してくれたが、「その批判がこわくて、筆が重かったのも事実だ」といっている。父は、
「峯子は勉強が足りない」
とか、
「どうして、ああ簡単に書くのか」
といった。そのくせ、峯子を水上瀧太郎の所に連れて行き「三田文学」の仲間に入れたり、峯子の書いたものをけなされると怒った。父の「身びいき」の対象であった。峯子がある時、少年のための旅行記を書いたところ、中谷宇吉郎氏が、
「半分くらい間違っている」
といわれた。父はその旅行記について、自分も気に入らないでいながら、
「半分くらいとは、どことどこだ」
といって怒り、中谷氏に激しい手紙を書いた。今でも中谷宇吉郎という活字に、私が恐縮するくらい、驚くほど理不尽な父の一面であった。
夫の田中耕太郎は、父と二歳きり違わなかったが、父のことを「叔父さん」と呼んだ。母より年上なのに、母をも「叔母さん」と呼び、母に居心地のわるい思いをさせた。
東大の教授から、最高裁の長官となり、ヘーグの国際裁判所の判事を九年勤めた。東大時代から、頑固をもって名の通った耕太郎も、父には事あるごとに相談をもちかけた。父と世の中のこと、学問の話をして共鳴しているときは「可愛らしい」といいたいくらい、人の好い「コウタロサン」であった。もっとも、その笑顔と、やや苦虫を噛みつぶした顔との間に、中間地帯が少なくて、テニスに夢中になっているときでも怖い顔をした。御殿場で、親類が順番にテニスをしていても、「コウタロサン」は交替することなど忘れている。親類の間では「不死身の耕太」といわれた。
父と同じで、主張は|枉《ま》げぬ人であったが、ヘーグに住んでいるとき、ロンドンにいた私がたびたび訪ねて、起居を共にした印象では、家庭にあっては、父のようながっしりした父権を持たされていなかった。私は、妻子の攻撃に、
「だって、ぼかあ(僕は)」
といっている耕太郎に同情し、味方をした。
田中夫妻がヘーグに|発《た》つとき、羽田に見送った父は、峯子の様子を見ていたが、
「峯ちゃん、そのコートは抜き衣紋というかたちだぞ」
といった。
「安ものだからねえ」
と峯子は笑ったが、父としては、国家を代表してゆく夫に従う姪が気づかわれてならないのである。
「あいつ、大丈夫かねえ」
とよく父は言葉に出した。
長男の松本正夫は、父と最も関係の深い身内であった。この叔父、甥は、珍しいほどお互いのことを気づかいながら、その愛情がプリズムのように屈折して、よそ目には理解出来ない、さまざまなかたちを現出した。
正夫は、はじめての甥である。父はその入学にもついて行き、さらに、弱い子だったのを心配して「ケンクワノシカタ(喧嘩の仕方)」というものを書いて渡した。ハンカチに石を包んで振りまわすという方法も書いてあったそうである。大学予科に入るころには、「議論の仕方」を教えた。
その結果として、父と正夫は、終生議論して暮らすようになってしまった。相手になった父が疲れ果てて、
「哲学辞書を買ってやるから打ち切りにしよう」
と提案したこともあったというが、正夫が来ると議論が始まる、というのはきまっていた。
正夫は卒業して、慶應義塾で哲学を教えることになり、父と職場を共にした。正夫と父は、そうなってからもひきつづいて、会えば学校でも家でも議論をしていた。世界情勢、国のこと、学校のこと、思想のこと、議論の内容はいろいろだった。なんでも議論の種となった。二人ともしつこい上に負けん気で、議論に終わりがない、というように私には見えた。
「やめて」
と頼んだこともあったが、やめる二人ではない。戦争中のある日など、私が朝八時すぎ家を出るころ正夫が来て、議論がはじまり、昼に戻ってみると、二人とも朝と同じに、食堂のテーブルの周囲を、一定の距離を置いて、ぐるぐる歩き廻りながら、高声でやり合っているのであった。
戦争が始まってから、それまで二人がある意味では楽しんでいた議論が、だんだん重苦しいものになって来た。「自分で生活も出来ないくせに、社会主義的なことをいう世間知らずの正夫」「学校で独裁的、愛国的、保守的でありすぎる叔父」。二人の心の底には、この心配が絶えずあって、純粋な議論になり切れなかった。
正夫はときどき、職員室における父の評判を私に洩らした。父はまた人から正夫の父への批判を告げ口のように聞かされた。叔父、甥の噂は、もめごとを好む人の好餌であった。
正夫と父の議論は、国家や思想の問題の場合、二人だけのものであったが、父の塾長としての行政に及ぶとき、父は正夫を公平に扱うことは出来なかったろう。
「僕は、君を甥とすることを恥しく思うよ」
と父はいい、
「僕も、叔父さんを叔父としてもつことを恥しく思います」
とやり返した。
父が塾長をやめたとき、二人は仲が悪いとか、父にとって、正夫は獅子身中の虫であるかのように人にいわれた。
しかし、それは間違いで、人の知らない家庭内のつきあいでは、二人は全く別の、信頼し合った叔父と甥であった。父が負傷で動けない間、何ごとも、
「正夫に頼もう」
といった。わが家の冠婚葬祭、ことに葬祭には正夫夫婦はなくてはならぬ人であった。孫のない父は、正夫の子供たちを愛し、妻清子は、
「お清ちゃん」
というよび方で、本当の姪のように扱った。
伯母千の遺言で、正夫の四人の娘と一人の息子は、父が相談に与り、その結婚を見届けた。
正夫は小さいときから、大病、大怪我の多い人だった。父はそのたびに、ひどく心配して「馬鹿なやつ」という表現を使った。
「どうも、あいつは心配だ」
といっていたが、峯子のときと同じ身びいきが、男同士のため、かばうことも出来ず、正夫もまた、父を悪くいわれまいために、進んで悪口をいってみたりして、この二人はどちらかがいなくなったとき、嘆かねばならぬ運命にあった。
正夫は、父の死後、よく愚痴をいう。自分もまた、めぐりめぐって今では甥の議論に悩まされていて、いまさらながら、叔父さんに悪かったという。そして、母に、
「叔母さんは、ミイラになるまで生きていてね」
と頼んで、
「いやよ、気味がわるい」
と笑われている。初七日とお七夜を間違えて、父にいつも「言葉を知らない」とからかわれていた正夫らしい表現である。
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父のいる風景

正  月
父が教職にあったから、私の子供のころのお正月は、まわりの家に比べてごく質素なものだったと思う。
それでも、暮からお正月にかけて子供たちは、たのしい期待で、わくわくする日を過ごしていた。大人になったら、お正月のたのしみは何もなくなってしまったが、子供のころは、年賀状を少し書くだけが仕事で、あとは町内の|かしら《ヽヽヽ》という人が来て、家やお隣に門松を立てるのを見物したり、母がお重詰を作っている傍へ行って、二色たまごのきれはじをもらったり、きんとんのおしゃもじを洗う前になめさせてもらったりした。
庭には子供の走り廻れるように、毎年霜よけのむしろが敷かれた。子供のための庭だったから、庭に凝って眺める人があきれるくらい、縁側の前の広いところにびっしり敷きつめられた。お正月はそこで羽根つきをするのである。むしろを敷いた日はうれしくて、靴下のまま縁側からとび降りて、妹とはねまわった。
元日の朝、目がさめると、枕もとにお年玉が置いてあった。羽根と羽子板、まり、新しいトランプ、手帳などであった。家は、物をねだってはいけない規則で、おねだりは絶対に成功しない。誕生日、クリスマス以外にほとんど物を買ってくれない。しかし、クリスマスは、父母が子供の好きなものをたくさんととのえてくれる日であった。クリスマスに大よろこびしたあとなので、お年玉は期待していないが、やはり枕もとに何かあるのは嬉しかった。
父はお雑煮が好きでなくて、二日からはパンだったが、元旦は皆につき合った。女中さんたちが日本髪に結って、一人一人挨拶すると、父は大きな声で、
「おめでとう、今年もよろしく願います」
といった。
食事がすむと羽根つきだった。女中さんたちも一緒に家中で遊んだ。父はテニスの選手だったので、羽根つきも大きなモーションで高くとばす。高くとばすために羽根も小さいのをえらび、時には羽根を切ったりもした。私たちも押絵の羽子板など使わず、板の軽いのをふりまわして、およそ優美というものではない。父のつき上げた羽根が二階のひさしに上って、ころころと|樋《とよ》におち込んだ。
夜は銀貨まわし、百人一首、坊主めくり、福笑いなどした。母も遊ぶのが大好きなのでいろいろな遊びを教えてくれた。
こしひもを輪にして、その両端を二人で持っているその輪の前に坐り、輪の向こうに置いたみかんをすばやくとる遊びもした。「こんこんちきやこんちきや……」と家中で唄いながらはやす。父の大きな腕がさっとのびて、ぱっとみかんを取った。手をしめようとするひもは、空しく宙でこぶになる。子供と遊ぶ父は自分も夢中で、なんでも勝つのが大好きだった。
黄色い水瓜

私が九つぐらいのころ、たぶん昭和六、七年ころのことと思う。夏の夕方だった。御殿山の家の茶の間で、母と兄信吉と妹タエと夕食後の賑やかなときを過ごしていた。
母は常のように、長火鉢の置いてある一隅に坐り、私たちはその夜留守だった父の席をあけて、それぞれの場所に坐っていた。
「おにいがどうした」「タエが……」「カヨが……」という、いつもの他愛のないさわぎの中で、その日は、ラグビーの球のような楕円形の水瓜が切られて、食卓の上に出してあった。その水瓜は黄水瓜だった。当時、黄色い水瓜は珍しくて、それだけでも皆興奮しているところへ、それがまた甘くて、おいしかった。
「今日の水瓜はほんとにおいしい」
と母もいい、私たちもおいしいと思って、ひどく幸福な気分だった。兄も生意気になるまえのいたずらっ児の時代で、絶えず妹たちを刺戟して、キャアキャアいわせるのが生き甲斐のような年ごろだったから、その日の賑やかさは、黄色い水瓜の興奮を加えて相当のものだった。
そこへ突然、父が帰って来た。私たちははしゃぎ切っていて、それぞれ「お帰りなさい」「お父様お帰りなさい」といいながら、まだじゃれ合っているような気分から抜けないでいた。
父が急に怒り出した。なんといって怒ったのか、今はっきりと言葉は思い出せない。
しかし、その怖かったことは忘れない。母もあわて、私たちもオドオドした。なんでこんなに叱られるのか、おかしなお父様だと心の中で反撥していたが、皆黙っていた。そんなときに口答えするのがいけないのは、皆知っていたし、第一とても口答えなど出来る空気ではなかった。皆黙って叱られた。
父の怒りの原因はあとでわかった。父はその日お悔みに行って来たのだった。そしてお父様を亡くされた小さいお子さんたちを見て、帰って来たのだった。幼いときに父親を亡くした父は、感じやすい人だった。帰る道々、父の心はその不幸なお子さんや未亡人のことでいっぱいになっていたのだろう。
そして、わが家へ帰って、のんきに水瓜を食べながら笑い興じているわが家族を見たとき、父の心は、不幸な人々のことも考えず、自分たちの幸福なこともわきまえず、罰当りどもが、という怒りで、ふくれ上がったにちがいない。
母からあとで、その話を聞いて、そうなのかと納得がいったけれども、父の突然の怒りは、その後もときどきあった。
お 会 式

十月十二日は池上本門寺のお会式である。
お会式、万燈、十月初めの肌寒さ、家の門前の暗がりに立つ背の高い父、電燈の光も暖かそうな茶の間に坐っている母――この連想の形は、私の中でいつも変わらない。
聞くところによれば、お会式は日蓮上人の寂滅(死去)の地、池上本門寺で、その祥月命日に行なわれる供養であり、万燈をかかげるのは、それに火を点じて衆人の罪障を|懺悔《ざんげ》する法会だという。
万燈は、|纏《まとい》のような長太い柄のついた紙張りの枠の中に火を点じ、その|周囲《まわり》に、それぞれ趣向をこらして、白や桃色の紙の花を房のように糸でつないでさげたものである。
灯をともした万燈をかついだ人がくるりとまわると、紙の花房はぱっとひらいて、闇の中に白や桃色のぼたんの花を|撒《ま》くように見えた。
御殿山の私たちの家は、五反田から品川へ抜ける通りに面していた。東京近在の日蓮宗の信徒は、それぞれの講中の万燈をかついで、きそい合いながら万燈をふりふり、家の前を通った。
お会式は、小学生の私たちには特別の日だった。いつもは九時ごろまでには寝かされてしまうのに、その日は十時すぎまで見物していていいのだった。
もう火鉢には火の入っている時候で、私も妹も紺の厚地のレインコートを着せられる。三人の女中さんも、何となくうきうきして出入りしているし、父も兄も外へ出ている。
母だけはいつも家にいて、万燈も見ずに、茶の間の長火鉢の横で手紙を書いたり、ひとりトランプをしていたりする。
うちわ太鼓の音と、「南無妙法蓮華経」と叫ぶように唱える声とが入りまじって、ざわざわした人声は強まったり弱まったりしながら、家の前を絶えず通った。
しばらく万燈の灯が見えないと思うと、また、かたまって五つ六つ通り、
「今のは綺麗だった」
といったりする。
行列の真ん中の万燈かつぎは、万燈を立てたり傾けたり、くるりとまわしたり、うちわ太鼓にはやし立てられながら、浮かれ切ったように踊ってゆく。お酒を飲んでいる人もある。けんかもあったり、筋向いの交番ではふところの刃物をとりあげられる人もあって、交番に近い私の家の前が、いちばん人がうずまいているようだった。
私も妹もはしゃいで、父のそばにいたり、父が近所の人たちと話している言葉をふと小耳にはさんだりしては、またばたばたと家に走り入って、茶の間の母に報告し、
「万燈がいくつ通った」
といったりする。母は長火鉢の火で私たちの手を暖めさせたり、くびにマフラーをまいてくれたりする。
その安らかな安心しきった空気とつめたい夜気の中を、私たちは何度も行ったりきたりした。そして、遠ざかる万燈のざわめきの中で床についた。
翌日から妹の、
「ドガドガツノ、ドガツッツ、コリャナムミョウホウレンゲーキョウ」
と家の中を踊りまわるお会式が、二、三日あとまでつづくのだった。
御殿山の桜

御殿山は江戸時代、桜の名所であった。長唄「吾妻八景」の中に「目もと美し御所桜、御殿山なす一群の香りに酔ひし園の蝶」とあって、そのむかしが|偲《しの》ばれるが、たしかに私どもの住んでいたそのあたりは、品川の旧街道から見れば、かなり急な坂の上にあって、桜と松の大木が何本か残っていた。どの家も、庭に松か桜を抱えているのであった。私の家にも、不相応に立派な松の木があった。松のある所は小山をなしていて、その根は小さな山いっぱいにひろがっていた。たぶん家を建てるために、そのほかの部分は平らにしたのだろう。隣の津山家には松と桜があり、向かいの杉山家には桜の大樹が五、六本あって、お花見には近所の人々を招かれた。
日が長くなって、私たち子供はいつまでも庭で遊んでいると、夕方、勉強のくぎりのついた父が庭下駄をはいて出て来る。
「散歩に行こうか、桜を見よう」
と庭木戸から外に出ると、隣もお向かいも、一抱えもある桜の老樹から、塀をこえてさかんに枝が道にひろがっている。桜のつぼみは赤らんで、どの枝にもふくらみきっている。
もう寒くない、少し土ぼこりの匂う夕方、桜を見まわって|蕾《つぼみ》をしらべていると、楽しい期待でわくわくするような気持がした。
「もう二、三日で咲くね」
と父がいう。
夕もやがかかってくると、桜の蕾はいっそう色濃くなってくるのだ。
花が咲き出すと、たいていひどい風が吹く。咲いたと思っているうちに、ちらちらと散る。
「|誰《た》が家の梢はなれて今日もまた花なき庭に花の散るらむ、その通りじゃないか」
毎年、父は同じことをいった。
桜吹雪は、桜の木のない私の家の庭に散り、椿や木蓮の花びらでままごとをしている私たちのござの上にも散った。春の匂いと私が決めているのは、そういうころの庭の匂いだ。
花吹雪は家の庭の向こうの道にも盛んに降って、どぶの中にも散った。いつもあまりきれいでないどぶの中に花びらが散りつもって、ふわふわしていた。そのふわっとしたところに乗ってみようと、足を入れて、靴下までびちゃびちゃにしたこともあった。気持のわるい感触が忘れられない。父と兄が、その道でキャッチボールをしていた。球もたびたび花びらのどぶに落ちた。
バ  ス

私たちが麻布本村町から移り住んだ頃の御殿山は、府下荏原郡御殿山宿で、道を隔てた向かいの岩崎邸は、市内の高輪南町であった。今、品川から五反田へのその道は広くて、車が音をたてて往来しているが、私の幼い頃は泥道で、幅もせまく、雨あがりには荷馬車が道にはまり込んで、ぬかるみにから廻りする荷車を引こうともがく哀れな馬をたたく荷馬車ひきの大声が、子供心にものかなしい風物であった。家の門から出たり入ったりして、道の様子を見ていた私も、小さい日和下駄をぬかるみの中にとられてしまうことがよくあった。春になって道がかわけば、家の中がザラザラして、当時はどこの家でも、朝夕二回掃除をした。着物にたすきをかけ、雑巾を両手で押しながら、腰をたてて廊下をすべるように走っている女中さんの姿も見なれたものだった。
小学校へ入りたての頃、白金三光町の学校へゆく交通機関といえば、品川と目黒をむすぶバスと、品川から四谷塩町へ行く市電だった。御殿山の交番のわきを通って、高輪の新坂上に出てバスをまつ。家から十分くらいの距離だった。そして日吉坂上で降りた。
小学校四年頃、品川と荏原中延の間のバスが出来た。バスは今のように大型でない。今でいうマイクロバスをもう少し大きくしたくらいで、道がでこぼこしていたからよく揺れた。女車掌さんは、揺れる車の中で足を踏んばって切符を切って廻った。毎日、朝夕乗るし、台数も少なかったせいか、車掌さんも運転手さんも皆覚えた。山羊ひげの人には山羊さんと名づけ、|馬子《うまこ》さんという車掌さんもいた。家でいつも噂しているので、誰のに乗るか毎日興味があった。卯木実という人の運転が乱暴で、
「今日は卯木実だった」
と運のわるいことのようにいったりした。車掌さんは私と妹のあこがれで、妹はいつも床の間に片足かけては車掌さんの真似をした。父は斎藤水子というのがごひいきで、
「あのおでこがいい」
といった。父はおでこの人が好きだった。
バスの中に忘れ物をしても、次に中延から折り返してくる頃を見はからって、停留場で待っていると、持ってきてもらえることもあった。そんなことも食卓の話題になっていた。車掌さんたちもこちらの噂をしていたかも知れない。
台 風 の 夜

幼い頃、台風は突然おそってくるようであった。雨がさっと降り、風が吹き出し、木がざわめいてくると、もう嵐は来ているのである。
ざあっと降る雨が、庭の築山の前で風ともみ合い、木を揺らし、しぶきになって池の上を渡ってゆく。庭は雨水があふれて池とつづいてしまい、風はその水の面をまき上げながら吹く。
風と雨は、ときどき息をつくように間をおいて、強まりながら夜になってゆく。
御殿山の木造の二階は、雨と風をまともに受けているとき、すさまじい音がした。ゴーッと鳴る風と一緒にバラバラとごみが落ちた。雨がひどくなると、天井のどこからか雨もりの音が始まる。私はとても寝ているどころではない。妹はそんな騒ぎの中でも、平気で寝ていた。父に、
「だいじょうぶ?」
と聞くと必ず、
「大丈夫、大丈夫」
といってくれたが、私は枕をもって、家の中で一番静かなところをさがし歩いた。
嵐がいよいよひどくなると、父は司令長官のようになる。二階の雨戸がとばされたら困るというので、女中さんたちに手わけして押さえさせた。自分も方々しらべながら、押さえた。
「もうすぐだ。もうすぐすむぞ」「むかし鎌倉で、僕が屋根に出て雨戸を押さえたことがあるよ。お母様がこわがってね」
と、皆の気をひきたてた。
そうして、だんだん外の音は静かになってゆき、雨戸のすき間から夜が白み始める頃、私たちは床に入る。床の中で、まだ時々思い出したように最後の力をふりしぼって吹く風をききながら私はやっと眠りに入るのであった。
その頃は台風に名前も番号もついていなかったから、本当に嵐とか、野分という感じであった。
朝起きてみると、思わぬ木が倒れてその辺が明るくなっていたり、萩の一むれが、しどけなく乱れて、葉が地面にこびりついていたりした。
近所の家の塀が倒れて、家の中が見え、その塀に、大きな犬たでやしおんの花が重なって倒れかかっていたりした。
朝の食卓は、父が昨夜の奮闘をつぶさに物語る自慢話で始まり、私の怖がりかたが必ず話題に上った。妹は平気だったことが得意そうで、私の面目はいつもつぶれていたけれども、怖いものはどうしても怖いのだし、父や母の言葉の中に怖がることをとがめる調子は一つもなかったので安心していた。

雷もおそろしいものだった。暑かった一日が終わるころ、遠くの方でごろごろいっていると思うと、稲妻がだんだんあかるく光り出し、音と光の間がどんどん迫ってくる。かわききった庭土の上に大つぶの雨が落ち始め、冷たい風がほこりの匂いと一緒に、ぱっと家の中に入ってくる。
「ガラス戸をしめて」
と大声を出しているうちに、ざあっと音をたてて降る雨が、庭の土の上で玉を作ってはね出す。雨足は土まではっきり届いて、庭中がたちまち大きな水たまりになってしまう。
うす暗い茶の間に、父を中心に家中集まる。こういう日はたいてい停電で、茶の間の柱には非常用のガス燈がボンヤリ|灯《とも》った。暗いからなおさら稲妻ははっきり光って、そのたびに「光った」といっては、私は耳を押さえてうずくまった。
「今のやつは光ってから鳴るまでだいぶあったぞ。落ちるときは一瞬だ。だからまだ遠い」
と、父は安心させるようにいう。
「また光った」
「まだ遠い。雨が強くなってくれば大丈夫だ」
「怖い、また光った」
「この辺は原さんの避雷針があるから大丈夫だ」
こんな問答を繰り返している。稲妻と雷鳴の中で、家族の中央に坐って、父は快活にしゃべっている。昔から伝わる雷の話、寺田寅彦等の本で仕入れた知識とつぎつぎ繰り出しては、私が安心出来るようにしてくれた。私は、父の言葉を頼りに稲妻と雷鳴におびえながら、雷がだんだん遠ざかってゆくのを待つ。
涼しい風が吹いて、もう怖くないと思うころ、パッと電燈がつく。皆にっこりして顔を見合わせ、大いそぎでガス燈を消し、ろうそくを吹き消す。急に活気づいた部屋で、あわただしく食事の用意がされたり、途中だった食事のつづきを始めたりする。
「停電すると、電気のありがたみがわかるね」
父の話には、学校の先生らしい教えのようなものがちょっと入っている。けれども、父のように頼もしい父親は今あるだろうか。
大人になれば、父の安心させてくれた言葉が、必ずしも正しくなかったこともわかったが、父が皆を励ましてくれた家長的な心づかいは、私のもう二度と再びもつことの出来ぬ、絶対的な信頼感であった。
父がオールマイティーのように思えた少女期、私の心も油断していて、家には何の不幸も起こらないように思っていた。心配性だったくせに、それは火事とか泥棒とか台風などで、あのように破壊的な不幸がつぎつぎ襲ってくることになるとは考えてもいなかった。父は誰かもいったように、いかなる不幸もその前を避けて通るように見えたが、それは間違いで、父は不幸な思いをして来たから、幸福な家庭を作り、それを維持していくために、いつも努力していたのだ。そして、父はめげることが嫌いだったから、他人の眼からは昂然と見えたであろう。ともかく子供の眼からは「頼もしい父」であった。
夜 の 父 娘

夜、寝に行く前、少女の私にはたくさんの気がかりがあった。ガラス戸の鍵、雨戸の桟がちゃんとかかっているかを一つ一つしらべる。それから二階の六畳の、隣家に面した東の窓を開ける。品川の海に向かったその窓は、夏は海からの風が涼しかった。戦死した兄が、品川のお台場近くを通る船を見るために、望遠鏡を置いた窓である。その窓は、汐の匂いや外の匂いを運んだ。
私は、こげ臭い匂いはしないかと犬のように鼻をひくひくさせて、夜気を嗅ぐ。窓から身をのり出して、隣近所を見廻す。夜の闇の中に家々の瓦は黒々と静まりかえり、物音は、八つ山の陸橋の下を通る夜汽車の遠いきしりである。
闇に目を凝らしていると、隣家の石井さんの風呂のえんとつから小さい火の粉が舞い出てきて、一、二尺、闇の中に舞い上がり、そして、闇の中に消える。私は不安の心で、何分間か、それを見ている。
階下に降りると、父をさがして、
「お父様、お隣から火の粉が出てる」
と告げる。父は私と一緒に来て、隣の火の粉を見てくれる。
「まあ大丈夫だろう」
というときもあるし、
「お隣に電話してみよう」
といって、火の粉が出ていると知らせることもあった。たいてい「大丈夫です」という返事だったが、父は、
「えんとつをもう少し長くした方がいい」
といった。母はトラブル嫌いなので、
「たぶん大丈夫でしょう。大丈夫よ」
という。私は母の「大丈夫」とか「まあいいでしょう」とかいう言葉に、いつも不安を感じたが、父は私の心配を相当わかってくれたように思う。
一度床に入ってから、またいろいろな不安がきざしてくる。眠れなくなると、下に行って、足音をしのばせて、火の気が残っていないかしらべる。
火鉢は、母が火をとってから灰をならしておくのだが、闇の中で灰をかくと、中に小さい赤い火が残っていて、それがいつまでも気になった。火消壺の温かみも下の床板にうつるのではないかと、わざわざ流しに持ってきてしらべた。そんなことで足を冷たくしながらごとごとしていると、父が、
「どうしたんだい」
といって出てくることもあった。父は茶の間に電気をつけて、戸棚から洋酒を出し、ちょっとのんだりした。
父や母が起きているとき、眠れなくなった私が二階から降りてくると、障子の中から父が、
「加代かい」
ということが多かった。
「眠れないの」
というと、
「百まで何度もかぞえてごらん。目の中にうず巻きを描いてごらん」
といってくれるのは父で、
「今に寝られます。タエはすぐ寝るじゃありませんか」
というのは母だった。妹が憎らしいほどすぐ眠りに入るので、私はなおさら眠れないのだ。兄も妹も夜中にあばれて、真ん中に寝ている私の方へ攻めてくる。兄の足をやっとどけると、妹がころがってくる。二人をかわるがわる押し返していると、なお目がさめて寝床の上に坐っていることもあった。足も冷たくて、寝られなかった。父は若いときから不眠症で、私のことをわかってくれるようではあったが、いつもかまってくれるわけでもなく、私は毎晩、寝るのがいやで、二階へ上がる前に母についてきてほしいとぐずぐずしていた。そんなとき、
「タエは一人で寝る」
といいながら、熊の縫いぐるみをかかえてさっさと二階へ上がる妹を見るのが、私には屈辱であった。
幼 い 妹

妹は負けん気のかたまりのような子であった。怖がりを皆にからかわれている私を見て育ったので、弱虫といわれるのを恥辱と思い、皆に笑われるのが大嫌いであった。ちょっと皆が笑っても、「わらった」と泣き声を出した。一寸の虫に一寸五分のたましいが入っているような子であった。
私は詩や歌を作って、父と母にいつもほめてもらっていた。今見れば、なんのことはない詩なのだが、母が大事そうにノートに書きつけてくれるので得意だった。
「出来た」というと、母がノートを出して待ちかまえる。
「ささがさらさら鳴ってます
月の出るのを待ってます」
「月が出た、桜の花がきれいだな」
こんな調子である。この二つの詩は、父か母が自慢に話したらしい。たちまち口のわるい叔父から絵入りの葉書をもらった。叔父は、そのとき初月給で、私たち母子を御馳走してくれたあとだったが、
「お腹がぐうぐうなってます
つぎの出るのを待ってます」
「皿が出た、えびのしっぽがきれいだな」
こういうようにひやかされながらも、私の詩作は家中の話題となった。
負けん気の妹は、私が一つ作るごとに、自分も何とかしようとした。
「出来た」と私がいうと、「タエも出来た」と妹がいう。母は公平に両方書きとめた。妹のは後で大笑いになるくらい苦心の作である。その辺を見まわして、
「手拭いが下がってる」
などという。
私は、同じ年くらいの従姉が四人もあって、遊び相手に事欠かない。妹は相手が一人もないので、どうしても背のびして私たちと遊ぶ。無理についてくるので自分もくたびれて不機嫌になり、従姉たちから敬遠された。
遊んでいる時、妹がじぶくり出すと、従姉たちは、
「また、はじまった」
というので、私はそれにも気をかねて、妹なしで遊びたいとよく思った。それで、或る時妹がぐずり出したのをきっかけに、従姉たち三人と逃げ出してかくれてしまった。妹は大泣きに泣き、父はひどく怒って、安徳天皇をかかえた平知盛といった形で、妹を抱き、庭のすみに私どもを追いつめた。その怖さといったらなかった。
三人謝罪して、どうやら事はおさまったが、祖母や叔母、大きい従姉たちが来ている日だったので、皆少なからず驚き、「タエちゃんはごひいき」という説が固定した。妹にとって、それは必ずしも得な話ではなかったのだが、私には、あれほどひいきされるということが羨ましくて、父をうらめしく思った。
幼 い 兄

兄が幼稚舎の三年くらいのとき、女中さんの部屋で針を踏んでしまった。縫いものをしている三人の女中さんの間を歩きまわって、ふざけているうちに針を踏んでしまった、というのだ。兄が、
「針を踏んだ」
といってきたので、母は兄の足をしらべたが痕跡もない。女中さんたちに聞いても、みんな覚えがないといった。父も出てきて二人で兄を問いただした。
「本当に踏んだのか」
と父がこわい声で聞くと、気弱な兄は自信がなくなったらしくて、
「踏まないかもしれない」
といい出し、
「あいまいなことをいう」
と父にひどく叱られ、女中さんたちにあやまらされた。
ところが、一カ月近くたった日、ふとい木綿針が兄の膝のうしろ側から、不意に出てきたのであった。この事件は、私には父母の話と混ざってしまっているが、六畳の部屋で父に問いつめられていた兄の姿は、妙にはっきりおぼえている。
家では、父母が女中さんたちを叱ったのを見たことはない。私たちがその人たちに何か不満があって、いいつけても、決してとりあげてくれなかった。兄はいたずらをして、よく女中さんたちから叱られていた。母が自分の|実家《さと》に行っている留守に、兄がわるいことをすると、女中さんはすぐ、
「三光町にお電話します」
といって、電話をかけ、
「奥様、信吉様がいけません」
といった。私は兄を可哀そうに思った。私は長いこと、本当に電話をかけたのだとばかり思っていた。兄はどうだったのだろう。
兄はいたずらを思いつくと、どうしてもやめられないたちだった。十四、五の頃、一人の女中さんが宿下がりで木更津の家へ行き、帰って来て、お祭りの雑踏の中で帯のおたいこのところを刃物で切られた話をした。兄は非常に興味をもち、とうとうある日、母の留守にその女中さんの帯に実行してしまった。女中さんたち三人は、玄関で母を出迎えるなり、ロ々にいいつけた。母は驚いてあやまり、早速三越で三人に富士絹の帯地を買った。切られたのは一人だが、三本買ったのは、日ごろの兄の所業へのおわびのしるしであろう。私もそのときは女中さんの味方で、兄を非難した。
父は母から聞いて、たいして兄を叱らなかったように思う。
兄は、私が人形遊びをするころ、自分も欲しい、と母に頼んで買ってもらった。私のがピンクの洋服で、兄のは青みがかったブルーだった。十歳くらいの兄はその人形のために、自分でマントを縫った。ひどい作品であったが、満足していた。縫物をしている兄は、夢中になるときのくせで、ちょっと出した舌に力を入れて、上くちびるを押さえつけるようにしていた。
兄は、私や妹と一緒に小さな縫いぐるみの熊を買ってもらい、私たちの人形の乳母車を軍艦に仕立てて遊んだ。兄の熊は私たちのよりちょっと大きくて、かねのしっぽを動かすと、首が上下左右に動く仕掛けだった。海軍が好きだった兄は、その熊に手製の紙の軍帽をかぶせ、割箸で作った剣をつらせて艦長にした。私と妹の熊たちは、いつも部下にきまっていた。軍艦マーチを歌いながら、二階の長い廊下に足をなげ出して、横から乳母車を少しずつ押して、兄は一人で楽しんでいた。
食 卓 で

食卓で父はよくお話をしてくれた。シャーロック・ホームズの話もあった。暗い部屋の隅から誰かに吹矢でねらわれる話が怖かった。何という話だったのか、後年ホームズ物が好きでずいぶん読んだがわからない。
むかしばなしも聞かされた。父も、その祖父から聞いたのであろう。先祖に鉄砲の名人がいた話、その人が妖怪変化を退治した話もあった。生首が塀の上に乗っていて、それを退治したというようなことだったが、私は生首と聞いただけで部屋を逃げ出して、先は聞かなかった。その後よく父は、
「今日は妖怪変化の話をしようか」
と皆の顔、ことに私を見ながらいった。私はそのころ、いいようのない怖がりで、「妖怪変化」という言葉だけでおびえて、「いや、いや」と叫んだ。兄や妹は平気で、むしろ聞きたそうであった。私は、目がひきつるくらい真剣に父をにらんで「いや」をいっていたが、そういう時の父は、いたずら気が充分で、
「面白い話だぞ、妖怪変化が……」
と始める。私はたいていそこで泣いて、部屋をとび出す。そうなると、やっと父は、
「やめよう、やめよう。タエ子、おねえを呼んで来なさい」
といって、妹が、
「お父さんがやめるって」
といいに来た。
この騒ぎはたびたびくり返され、私は話もきかずに席を立ち、すぐ誰かが呼びに来て、父はニヤニヤしているが、また懲りずに始まるのであった。
父はこんなとき、ずいぶんくどかった。
英語をためされることもあった。花の名を英語で一つずついってみろとか、そこにあるものを英語でなんというか、兄妹順に試されるのであった。これは、兄が不得手でいじめられる番だった。
父は物知りで、話のつきるところがない。
「こ|の《(このしろ)》城に、居|る《(いるか)》か|いな《(いな)》|いか《(いか)》、|早や《(はや)》|会い《(あい)》|たい《(たい)》。これはみんな魚の名だぞ」
とか、さかさまから読んでも同じ言葉とか教えた。同じ発音で違うものの名をいい合う競技もした。
「橋と箸」「鮭と酒」「目と芽」
というように、母まで入れて、皆でいう。父は落ち着いて、自信ありげにつぎつぎと繰り出したが、貯えの少ない妹や私は一つ考えつくと、誰にもいわれないように、自分の番までわくわくしていて、叫ぶように、
「炉と艫」
などという。しまいには、
「桜とさくら」
とか、
「朝顔とあさがお」
などといって、
「もう一つのあさがおってなんだ」
「御不浄の……」
というと、父が笑いながら、
「まあ、よろしかろう」
というときもあった。しりとりもよくやった。
父が負けることはなかった。妹は口惜しがりで、怖いことでは泣かないが、負けると涙が出た。私と泣くところが違っていた。妹が口惜し泣きをすると、妹の頭ごしに、父母や兄と私は、なんとなくニヤニヤする。その気配で、妹はまた怒った。
妹は双葉山がひいきで、双葉山の勝負が始まると、実況のラジオをきいていられずに、兄の部屋にあるピアノの下にもぐった。
「勝ったよ」
と呼びに行ってやると、ピアノの下から這い出してきた。
年二場所で六十九連勝していたのだから、相当長いあいだ無事だったが、運悪く、安藝海に負けた歴史的な日に、私と妹だけで、伯父水上瀧太郎の桟敷に招かれていた。
信じられないように双葉山が土俵にころがると、ふとんやいろいろなものが降ってきて、何がなんだかわからないような騒ぎになった。
帰り途、両国橋を渡って、車のある所まで歩き、車に乗って御殿山の家まで帰る間、私がきげんをとろうと話しかけても、妹は何一つ返事をしなかった。家に帰って茶の間に入ると、「ワーン」と泣いた。
父の|娯《たの》しみ

父は、一生の間、歌舞音曲に特別の関心と親近感を持っていた。
幼い頃、近所に長唄の稽古所があったこと、姉妹が福澤先生のお宅で花柳流の踊りを習わせていただいていたこと、母親が芝居好きであったことなどからだろうか。
青年時代は歌舞伎に凝り、十五世羽左衛門、先代梅幸、宗之助等に熱中した。
欧洲留学中には、オペラ、バレエ、劇などずいぶん見て廻ったらしい。昔、御殿山の家の戸棚の中には、父が|蒐《あつ》めた美しいバレリーナ、オペラの歌手たち、俳優たちのブロマイドをたくさん貼ったアルバムが何冊かあった。
父と同時代にアメリカに留学していた伯父水上瀧太郎は、父が送ったロンドンの有名な俳優ロバートソン扮するハムレットの写真に魅せられて、ロバートソンがボストンに一世一代の公演をした時、連夜見物し、「ロバートソン一世一代」という文章を書いた。
父は伯父の死後『旅情』という本を編集し、その文章も載せた。
父の中には、この欧米の見聞と、幼い日から培われた日本の芝居、音曲の趣味が、晩年まで適当に混り合っていた。
一方でカルメンの闘牛士の歌をきき、ベエトーベンを娯しみながら、同じ手廻しの蓄音機から、|常磐《ときわ》|津《ず》、清元、歌舞伎のせりふが流れていた。十五世羽左衛門の|源氏店《げんやだな》、桐一葉など、私たちは、小さい時からそれらのレコードと父の声色で、歌舞伎に特別の興味をひかれた。
源氏店の|蝙蝠安《こうもりやす》が、与三郎に向かって、「|生《なま》(生意気)いうねえ、生いうねえ」というせりふは、幼かった兄が覚えて「ナマヌネ、ナマヌネ」といったという。私と妹は、父が羽左ばりで「いやさお富、久しぶりだなあ」という時の相手役だった。母の名が富(とみ)なので、父はそれが大変都合よく、愉快なことに思われるらしくて、茶の間の長火鉢の向う側に坐って、おおきに|粋《いき》なつもりで、「いやさお富、久しぶりだなあ」といい、母に「そういう、おまえは」というように頼むのだが、母は頑として乗らない。私と妹は、食卓の一辺に並んで坐って、声を揃えて、「そういう、おまえは」と母に代わってお富を勤めるのである。父は、ちょっと|反《そ》り身になって、「与三郎だ、おぬしゃあ俺を見わすれ、た、か」といい、「しがねえ恋の情けが仇……」とつづける。
まだ源氏店を見もしない時から、このいささか非教育的な歌舞伎教室はあった。私は小学校の同クラスに湯浅さんという方がいたので「いやさお富」のわけはわからずに「ユアサおとみ」というものだと、かなり久しいあいだ思っていた。
私たちが歌舞伎を見せてもらったのは、十四歳頃からだが、行き始めたら病みついて、ほとんど毎月出かけるようになってしまった。父は、私たちがこれから見る芝居を、日頃の|薀蓄《うんちく》を傾けて解説してくれた。「勧進帳」などは、弁慶と富樫の問答をすっかり実演した。私たちも聞き覚えで相当な知識を持って出かけた。ところが、舞台ではだいぶせりふが違う。帰宅後「お父様のと違っていた」というと、負け惜しみの強い父は、「むこうが変えたのだ」といった。
父は歌舞伎に関する本をたくさん持っていたが、あこがれる心の中にも、必ず学究的な面を残している人だった。黙阿弥全集、南北全集、その他の戯曲集、演芸画報、新演芸等の雑誌も、冷えびえした父の書庫の中に坐り込んで、読んだ思い出がある。
邦楽では常磐津が一番好きで、中でも「戻橋」と「将門」を好んだ。夕食後、ちょっとご機嫌で「嵯峨や御室の花ざかり……」と首をふりふり唄っていたことがあったが、ある時、面白半分にテープに入れてきかせたら、自分ながら恐縮してしまったようだ。
いつも見たいもの、聞きたいものがはっきりとあって、好きなものに無条件に涙を流し、若い日のこと、ともにその曲を聞いた人々の上、移り行く世の中のことに、つぎつぎ感慨をひろめていった父の折々の姿は、父とともに見たり聞いたりしたものに再び接するごとに、なつかしく思い出される。
空 気 銃

父はよく、庭の木にブリキの缶のふたをぶら下げて、縁側から射撃の練習をしていた。距離が比較的近かったせいかよく当たって、ブリキにたくさん穴があいていた。空気銃は兄のものだった。
母は、空気銃を嫌って、買うときもひどく反対した。父は幼いとき、空気銃を持って遊んだので、兄が欲しがるとき止めることはできなかったのだろう。けれども、生きものを撃つことは禁じたし、空気銃の扱いはやかましかった。
兄が空気銃を買ってもらったころのある夏の夜だった。御殿山の家に、小泉の祖母が、自分の隣に住む孫たち、つまり私どもの従妹弟を四人連れて遊びに来た。そのころ、家の近所には野良犬がたくさんいた。犬ぎらいの従弟の一人がそれを怖がったので、兄はその子のために犬を追い払おうとして、おもちゃの汽車の車輪を投げつけた。私たちは皆縁側に立っていた。その動作は私たちも見ていたはずなのだが、突然、妹が立ったまま泣き出し、白地に菊菱の模様の妹の浴衣の背中に、大きく血の色がひろがった。私たちの声で、母も祖母も叔母も飛び出して来た。縁側には空気銃があった。
兄は母に、「空気銃を撃ったの?」と問いただされ、「知らない」「空気銃は撃たない」といいながら泣きじゃくった。
父も出て来てよくしらべると、妹の背中の血は髪の間からしたたり落ちていた。すぐお医者が|招《よ》ばれ、妹は寝かされた。兄は縁側に手をついて泣いていた。
妹の頭の傷はほんのかすり傷で、ちょうど汐時だったので、出血が多かったとわかった。兄がいう通り、傷は車輪を投げたとき、妹の頭をかすめたためだということもわかった。妹は頭に包帯をされ、大した痛みもない上に、祖母や父や、皆からお見舞いをもらって、たいへんとくをした。兄も近所の駄菓子とかおもちゃを売っている店に行って、キューピーを買って来た。人の好い兄は、誤解されたことを怒らないで、妹に一生懸命詫びた。
私は妹がとくをしたと思い、兄を可哀そうだと思った。
妹の頭の傷は、ほとんど痕跡もとどめなかった。
そののち、隣家に泥棒が入り、家の庭先にあった茶室で一服するという事件があった。闇にたばこの火が見えて、父は茶の間から、それを撃つ、といったが、母に猛反対されて、思い止まった。
この話は、私たち子供には当分秘密にされていた。
小泉家には、代々鉄砲の名人がいたという話だが、父もその血筋をひいていたようだ。
二・二六事件

昭和十一年二月二十六日、いわゆる二・二六事件の日は雪が降っていた。その年は雪が多かった。女学校の二年と小学校の五年の私と妹は、久しぶりの大雪が嬉しくて、時々雪の深さをはかりに庭に出たり、雪に卵とミルクと砂糖を入れて即席のアイスクリームを作ったり、みかんを雪の中に入れて凍らせたりしていた。三十センチ以上つもった日が、二十六日の前にあったように思う。
二十六日の朝、学校へ行くと、教室がざわめいていた。一年下のクラスに高橋是清氏のお孫さんがおられ、おじい様が暗殺されてお気の毒だという話がもう流れていた。学校はすぐ生徒を家に帰したので、私と妹は朝のうちに家に帰った。
家に帰ると、母がきびしい顔をして待っていた。母は子供を坐らせると、
「もうこれからは、お女中さんも使わなくなります。倹約して暮らさなければいけません」
といった。私たちはなんのことかわからなかった。
「今、朝日の有竹さんからお電話で、『革命が起こりました』とおっしゃったのよ」
と、母は眼をみひらいて私たちを見た。本当は厳粛なはずなのであるが、なんだかわけがわからなくて、母のように緊張出来ない。母はお米を買わせ、預金をおろしたそうである。
父が帰って来ると、一家はいつもそうなのだが、解説をもとめて、父のまわりをかこんだ。
「どうなるんでしょう。革命が起こったって有竹さんはおっしゃったのですけど」
「まあ、物価が上がるくらいだろう」
と父は母のものものしい有様をからかい気味にいった。
ラジオや新聞で次々に様子がわかり、岡田啓介首相が殺され、高橋是清氏が殺され、鈴木貫太郎氏が撃たれたと告げた。
父は「天子さまがお気の毒だ」というようなことをいい、軍人の暴虐をののしっていた。大学生の兄は様子を見に、永田町付近まで行き、銃弾の|薬莢《やつきよう》をひろって帰って来た。兄は興奮していた。
有名な「兵に告ぐ」という放送があって、叛乱軍に従った兵士たちに「今からでも遅くはないから元の隊に帰れ」と繰り返しいっていた。一日中ラジオをつけはなしにしていた翌日の夕方、岡田首相は実は助かり、亡くなったのは首相の従弟の松尾大佐だというニュースに皆驚いた。首相の命の無事を喜び、その劇的な救出の模様を新聞で一生懸命読んだ。叛乱軍のいる中で首相をかくまった女中さんたちの勇気、親類の老人に化けさせて、首相を外へ出してしまった小気味のよさ、父は繰り返し繰り返し首相の無事を喜んだ。また、鈴木貫太郎夫人がとどめをささせなかったため、御主人を助けられた話も好きだった。
学校は二、三日お休みとなり、私たちは父母や兄ほど興奮はせずに、大人の話をききかじって暮らした。
注  意

戦争中のある日、ゲートルを巻いた父と、もんぺをはいた私と妹と従姉は、麻布古川橋から三の橋に向かって歩いていた。たぶん、それは麻布本村町に住んでいた父の叔母鈴木菊枝を訪ねての帰りだったと思う。その前年の暮に、叔母の夫鈴木嶋吉が亡くなっていた。父はその叔母夫妻に可愛がられ、いわば恩人だったその叔父の死後、よく叔母をたずねたのであった。
もう自動車も燃料の関係で少なくなり、空襲の多くなった東京は人も少なくなっていた。今はまるで様子が変わってしまったが、古川橋から三の橋にかけて、小さな店が売るものもなく並び、色彩の乏しい戦争中の街は狭い横町のような感じであった。
その沈んだような街を、私たち四人は並んで歩いて、父は大きな声で何か話をしていた。父は背が高く、目立つ人だったから、静かな街を高声でしゃべりながら歩いているのは、もしかすると、戦時にふさわしくない姿に見えたのかも知れない。突然後から自転車に乗った人が来て、
「横隊にならんようにな」
といった。低い声で、瞬間的には何をいっているのかわからない。当時幅をきかしていた町内の自警団の人らしい。父は大きな声で「なんですか」と訊ねた。父の調子にはすでにムッとしたものが含まれていた。
「道を歩くときは横隊にならんように、といっているのだ」
そういって、自転車はゆっくり走り去った。
「何がいけねえんだ。かまわねえじゃないか」
急に、仕方なく縦に並んで歩き出した私たちの様子がしゃくにさわったものか、父は怒気をふくんだ声でいいながら、一番先を歩いていた。私もひどくいやな気持をしながら、しかし、そんなことでけんかをしても始まらないと思い、「いやないい方ねえ」といい合った。父は人に命令しても、命令されるのが嫌いだから、いつまでも口惜しがりながら歩いて行った。時々はわざと、
「横隊になろうぜ」
といったりした。
父の死後、三田評論の追悼号に、多くの人々が父の思い出を綴っているが、その中に、戦前父が塾長をしていたころのことが書かれていた。初冬のうすら寒い日、二、三人の塾生が綱町のグランドの横を談笑しながら歩いていた。その中の一人は上衣のポケットに手を入れて、やや背をまげた恰好だった。その時、父が後から大またで歩いて来て、学生たちを追いぬきながら、その塾生の肩をポンとたたいて、「君、両手を出して元気に歩き給え。では失敬」といって行ってしまった。その学生さんは素直に父のいう通りにし、そして父の態度に感激し、塾に学んでよかったと思った、というのだ。
これを読んで、私は同じ戦争中の「横隊にならんようにな」をなんとなく思い出した。
ある卒業式

戦時中の学徒出陣のために卒業式もせず、多くの学友を失った人々が、昭和四十四年三月二十一日、二十五年ぶりに母校慶應義塾の卒業式に出席して卒業証書を受けたという。
新聞の見出しには「塾長名は小泉信三」とあり、テレビにはその人々が戦場にたずさえた日の丸の旗も写された。あのころ毎日、父が塾の一室で「|征《ゆ》け、何々君」と一筆一筆に感慨をこめて書いていた中の一枚であろう。すでに昭和十七年の海戦で息子を失い、多くの前途ある人々を失いつつある日々であった。食糧不足もあったが、そのころ、父はにわかにやつれたようであった。
空襲は日ごとに烈しくなり、夜の眠りはしばしば妨げられた。家族がそろって行動しやすいように、親子四人が八畳にぎっしりつまって寝ていた。ある夜、私は工場の機械におしつぶされた夢を見て、悲鳴を上げながら目を覚ました。父が暗闇の中で部屋を出ようとして、私の顔を踏みつけたのである。
目が覚めても、私は夢のつづきで泣いていた。父は「ご免、ご免」「すまん、すまん」とあやまりながら|可笑《おか》しくなったらしくて、その騒ぎに起き出した母や妹と笑った。そんな日もあった。
私は慶應の亜細亜研究所に勤めていた。毎月「大詔奉戴日」というのがあって、講堂で父が詔書を読み、訓示をした。学生も職員も少なくなり、そんな時はいっそう、残ったものの数を思い知らされるようであった。家ではよろけて私の顔を踏んでしまうような父の厳粛な表情を、私は一職員としてながめていた。
戦争に行かなかった学生たちは、授業もなかったのか、研究所の仕事を手伝った。毎日「またあした、命があったら」というのが私たちの別れのあいさつだった。人との別れが、おろそかに思えぬ日々であった。
父も学生を壮行会で見送り、その人々のあとを追って福澤先生のお墓の前でもう一度別れを告げ、そしてまたそのうちのいくたりかが名残りを惜しんで三田の山の上に戻って来ると、遠い旅から帰って来た人に再会したような気がしたと書いている。生きて|還《かえ》れ、と願いつづけた学生さんたちは、もう四十七歳になって証書を受けとっている。父がいたらどんなに喜ぶだろうと思った。
眼  鏡

父は学校の先生だったから、習慣になったのか、一段上から人に説き聞かせるようなところがあって、なんとなく近寄りにくい気をおこさせたようだが、反面、子供っぽい負けん気も、だらしのないところもたくさんあって、それで家族も助かっていた。
世間からは、気むつかしい、寄りつきにくい人に見えたらしいが、日常の不潔さやだらしのなさをみた人は、そんなに恐れることはないとすぐわかるだろう。
お風呂は「烏の行水」で五分とかからなかったが、洗ってもいない。ことに火傷してからは立居が不自由になって、洗い場での動作が困難になり、なおひどくなった。背中を流してもらうようなたちではない。
あるとき、
「眼鏡がずり落ちて、どうも困る」
というから、
「顔をシャボンで洗ってみたら」
「そうかね。じゃ洗ってみよう」
といい、しばらくすると、
「どうも、君のお蔭で眼鏡が落ちなくなったよ。シャボンで|脂《あぶら》がとれたんだね。感謝するよ」
といった。
「まさか、今までシャボンでお洗いになったこと……」
というと、
「ああ、初めて洗ったが、気持のいいもんだ」
とおそろしいことをいった。
父のあとお風呂に入ると、湯ぶねに大きなふけのような垢がいっぱいに浮いていた。手ぬぐいはいつでもぬるぬるで、娘のころ、私はひまがあるとシャボンでごしごし洗っておいた。
洗いたてのシャツはきゅうくつがって、お風呂の時こそ着替えさせようとする母の期待は、なかなかかなえられない。さんざん着て、のび切ったシャツが好きで、お風呂から出ると、さっき脱いだのを着てしまう。
鼻が高く、整った顔の父がまさかそんなだとは誰も思わないらしくて、世間では勝手に、イギリス紳士とか、貴族だとか、気取っているとかいう。
お風呂のあと、腹巻きをだぶだぶさせて家の中を歩きまわっている父は、何が貴族的かというところだった。
机の上はごちゃごちゃで、何がどこにあるのかわからない。始終、さがし物をしていた。
「僕のはさみ、知らんかねえ」
とかいいながら、部屋を出て来る。はさみならいいが、大事な原稿や手紙がないというときは、自分の乱雑を棚に上げて、人を非難する口調だった。
母はさすがに慣れていて、すぐさがし出す。すると、
「サンキュウ サンキュウ、おっ母ちゃんはえらい」
と御機嫌で部屋にもどる。
広い机なのに、物を書く場所は原稿紙一枚分の広さで、お茶やコップのお酒を運んでゆくと、置く場所がなかった。
「ここに置いてくれ」
というのが、斜めになった雑誌の上だったりした。
きたなくしていても順序があるので、むやみに片付けると怒った。
乱雑の中にいて、整頓にはあこがれていたから、ときどきは志をたてて、整理しようとしていたが、なかなかそのひまはない。私が女学生のときは、雑誌を片づける役で、五十銭もらっていた。
晩年に妹と二人で、よく父の心持を考えながら整理してあげると、よろこんで廊下にひざまずいて、大声で、
「主に感謝し奉る」
と歌った。
ひ と え 帯

祖母は早起きで、三田三丁目(今の慶應義塾の正門から百メートルばかりのところ)から当時の市電に品川駅まで乗って、八時前には品川御殿山の私たちの家にやって来た。来たといえばいいのだが、私にはやって来たという感じがした。
黒っぽい着物に黒い羽織で、黒いこうもり傘を肩にかついで、
「お早う。皆まだごぜんかい」
などといいながら玄関に入ると、もう茶の間の長火鉢の横に坐っている。子供の私には、黒い風が家の中を吹きぬけて来たように感じられるのだ。和歌山弁を大きな声でしゃべりながら廊下を歩いて来るので、何かしず心のないような気持になって、私はいつでもおそろしくて祖母に慣れなかった。父と母の顔を見ながら、ただでさえ食べたくない食事をつづけていると、
「おまはんら(お前さんたち)早く食べよし(食べなさい)」
という声がとんで来る。そして、たちまちまた父に向かって、
「○○がこういうのやして」「わたい(私)はこう思うけど、おまはん(お前)はどうする」
と相談をしかける。母は黙ってお茶を入れて、火鉢の猫板の上に置く。
父は決してうるさそうにはせず、ていねいに返事をしていたが、私はなんとなく祖母が家に来るのを好きでなかった。母も決して、私たちに祖母のことでこぼしたりはしない。けれども、子供は案外敏感で、母のことが気がかりになるのであった。登校時間が来ると私はなんとなく助かるような、母が心配のような気持で学校へ出かける。そのあとがどうなったかなどということはすぐ忘れてしまったけれども……。
祖母は三十一で後家となって、父たち姉弟四人を育てた。末の叔母は、祖父が亡くなった時、まだ生まれていなかった。それからの祖母の日々を考えると、きつくならなかったら不思議だと今は思う。しかし、子供の頃は、母がおびえているような気がして心配でならなかった。
少女時代、祖母の家に行くと、きちんとしてちりひとつ落ちていない座敷は坐り心地がわるかった。祖母が何かしようとして立ち上がると、母が、
「お手伝いしなさい」
という。すると、
「おまはんらにしてもらっても、きたないから」
と祖母はずんずん一人でやってしまう。とりつき端のない気持で、早く隣の従姉の家に行きたいと考えていた。
芝居に連れて行ってもらったこともあった。大きな声で、
「あれは誰それの子供やして」
といったりするので恥しかった。
ある日、祖母と歌舞伎に行くとき、オールドローズに白あがりの藤の花が縞のように染めてある|袷《あわせ》の着物に、母が色のうつりが好いからと、たまご色のひとえ帯をおたて矢の字に結んだ。母は、自分の母親の合理主義と持ち前の色彩感覚で、それが似合えば袷の着物にひとえ帯でもいいと思える人だった。
私はちょっとした完全主義者だったので、心の中に一抹の不安を持っていた。
幕間に歌舞伎座の弁松でお弁当を食べて、食堂を出たら帯がほどけてしまった。母は来ていないので、祖母に直してもらうしかない。
「ひとえ帯か。お前のお母さんはのんきやして」
そんなことをいって、ぐいぐいと帯を直す祖母に恐縮しながら、私も、おびえているわりに、母が呑気だと思った。
地  震

母の母、私の祖母は女傑といわれるような人で、歩いているとき自転車に突き当たられると、ハンドルをぐっとにぎり、
「オイ、うっかりもん」
といった、という話もある。
その祖母が、地震となると、大勢の子供に、
「おいおい、みんな降りておいで」
と叫ぶので、子供たちは二階にいても、どやどやと母親のまわりに集まったそうだ。その教育だけが悪くて、母は大の地震きらいになったのだそうである。母の妹も、地震になると、大声で于供たちを呼び立て、
「おっ母さんの教育が悪かったのよね」
と母といっていた。
だから、母は自分が子供を持つと、なんとかして、子供には地震を怖がらせないようにしたいと思ったのだそうだ。それで、兄の小さいときには、地震があると、
「風よ」
といって、自分の怖いのを我慢していたという。ところが、関東大震災があって、兄は地震を覚えてしまうし、私はそのときは平気だったそうだが、物心がついたら怖がりなので、すぐ地震と風の見分けがついた。
私が怖がると、母はもう我慢することはなくなり、
「地震」
というと、私が走りまわるのにつれて、母も走った。私は成長してからも、何かで読んだ羽左衛門の、「地震の時は、自分もはねまわっているに限る」という説や、谷崎潤一郎の「大震災の最初の衝撃を知らないですんだ幸福」について書いた文章などに共感して、まずどこかの戸をあけに走り、ガスの元栓を締めに走り、じっとなどしていたことはない。母も、加代が心配という名目で、地震が来ると、
「加代、加代」
といいながら走ってくる。父は、
「大丈夫、大丈夫。今日のは横揺れだから震源地はきっと遠い」
とか、
「下からずしんと来たが、大きくはないよ」
と、雷の時と同じように、母と私を安心させてくれた。大震災のとき、父は病気だった母を抱えて、揺れ動く二階から縁側につれ出し、
「子供、子供」
という母を庭につき落として、子供をさがしに屋内にひき返したという。母はその時、妊娠していて、そのせいでもなかったようだが、流産した。もしその子供が生まれていたら、私よりひどい地震ぎらいになったかも知れないが、次に生まれた妹は、地震をちっとも怖がらず、寝ているときでも、めったに起き上がることもなかった。私と母は夜でも必ず飛び起きて、父と妹を残して廊下まで走り出て、そこで手をとり合った。そうしているうちに、たいていすむのである。父は、母が私のためのようにいうのを、からかうような顔をしていた。
私に子供が生まれて、父母の家に同居しているとき、二階にいたら、大きな地震があった。とっさに階下にかけおり、父母のところまで行ってから、娘を忘れてきたことに気づいた。
「だれかエリを連れてきて」
と悲鳴をあげて、皆に非難された。
私はロンドンで東京の地震を知るたびに父母に手紙を出したが、その一つ。
新聞で地震があった事知りまして、地震秋山として、早速おうかがい申上げます。
|御台《みだい》様には、いずこまでお走り遊ばされましたか。手をとり合うべき娘が居ずに、さぞお心細かりしならんと、不孝のほどをかこっております。
[#地付き]かしこ  
別に住むようになってからは、地震のたびに電話をかけた。今もそうだ。母のところには、地震のたびにかけて下さる常連が二、三人ある。その方たちと競争のように、私もかける。そのときは、
「もしもし、加藤でございます」
ということにしている。太閤秀吉のところへ一番に地震見舞いに駈けつけた「地震加藤」の加藤清正というわけだ。

母は虫がきらいで、とりわけ、みみずとかやもりのようなものをいやがる。尺取虫、毛虫ももちろんである。母の肩などに、ちょっと、小さな虫がいて、
「あ、お母さま、ちょっと」
と手を出して取ってあげようとすると、
「ウェー、ウェー」
というような声を出して、手ではねのけて大騒ぎする。
虫でなくて、糸くずがついていても、よほど気をつけていい出さないと、おびえる。
三田の家は、木が多かったせいか、やもりが多くて、私など、朝、枕の上に、夫が腕時計をぽとりと落としたと思って起きて見たら、やもりだったこともあった。母が二階の自分の部屋の窓をしめようとすると、何かやわらかいものがはさまっていて、それもやもりであった。どうやって階下に降りたかわからないというが、父や妹と見に行ってみると、ベッドに膝をついて窓をしめていて、あわてて逃げたので、上草履が一メートルぐらいはなれて飛んでいた。
父は、こういうとき嬉しがって、こわがる母を面白げに見ている。母は、そのやもりがどうなったか、とうてい自分では見とどけられないので、父に見てもらおうとする。そんなとき、父が動かないと、母は、
「カモン、ボーイ」
と、父を誘う。父は、
「奥方の御命令だ」
と、笑いながら従った。
一度、母が、勇気を出して、壁にいる虫を叩くことになった。雑誌を丸めたのを持って、父につきそわれて実行しようとするが、なかなか手が動かない。父は「それ」とか「もうちょっとだ」とかいってはげましたが、結局母は後をふり返って、
「カモン、ボーイ」
といい、父が笑いながら虫を叩き、母はすましてスタスタ行ってしまって、そのあと父が無言でお腹を両手でたたいて、私たちと笑った。
今、多磨墓地の父の墓所には、まわりに芝をうえている。芝の中に草が生えるのを気にして、母は行くたびに草むしりをする。草むしりの最中、母が、
「ウェー」
と叫ぶのはみみずで、みみずがいたら、母は立ち上がって、もうそこに近づかない。
墓の中から父が見て、お腹を叩いて笑っているのではないか、ということもある。
父の十年が来るので、母は墓地の芝をやめて、砂利を敷くことにした。これでみみずに会わないですむ。
父 と 野 球

亡くなって十年たった父が、「野球殿堂」というものに入れていただいた。
今年八十一になった母から電話で、
「ちょっと。いま、なんだかよくわからないことがあったんだけど……。あなたに聞いてみようと思って。あのね、お父様がなんだか不思議なところに入れられるんだって。野球殿堂とかいうの」
という。
「あら、結構なことじゃありませんか。お父様、きっとおよろこびよ」
というと、
「ああ、好いことなのね、それ。私よくわからなくて、変なお返事しちゃったけど……。まあいいや。新聞に出ますってよ。あした新聞見てごらん」
翌日の新聞のスポーツ欄に、「故小泉信三氏野球殿堂入り」という記事が出た。戦時中、軍部の反対を押しきって、出陣学生のために早慶戦をしたことなど、表彰の理由が書いてあった。次の日には、それが近ごろ明るいニュースだと、父のスポーツ好き、ことに野球見物に熱心だったこと、父が晩年、六大学野球の始球式にストライクを投げて自慢だったことが、あたたかい筆で、毎日新聞の「余録」に書かれた。
慶應の野球部や知人から、お祝いの電報をいただき、電話もかかった。
「文化勲章より、先生およろこびではないでしょうか」
という人もいた。母に、
「どうしていいことなのに浮かない返事をしちゃったの」
と聞くと、
「だって、お父様、勲一等だって御辞退する方でしょ。だから、なんでも、むかしからの習慣で、すぐ受けていいのかどうか、考えちゃうのよ」
といった。母はだんだん嬉しくなってきたようだ。
父はテニスの選手だったし、テニスも大好きというより、庭球部の連中は身内のようだったが、野球も本当に好きだった。
私たち家族も、その影響で、戦前のある時期は、慶應の野球の勝敗が家の気分を支配していた、といってもいい過ぎではなかった。
父は、慶應の出る試合には、たいてい神宮球場へ行った。「敵状視察」といって、慶應の出ないときも行った。私も娘時代よく行った。父は貴賓席で、私は三塁側か、たまに伯父水上瀧太郎と一緒に指定席で見た。
野球が終わると、出口で父を待って、一緒に帰った。敗けた日は、車の中で二人ともほとんど口をきかなかった。
その代わり、勝つと、父はおしゃべりで、
「オイ、○○のプレーは凄かったね。あの身体のやわらかいこと」
とか、
「よくあのフライを取った。感心なやつだ」
という。
早慶戦がすむと、監督、部長を家へお招きした。森田監督という方が少しお酒が入ると、
「あの球がちょんとセカンドの頭をこえていれば……」
と球をバットに当てる形をしながら、いつもかえらぬ繰り言をいわれた。そのころ、慶應はあまり強くなかった。
「次のシーズンがありますよ」
と、父は自分にもいい聞かせるようにいった。
私がロンドンに暮らした三年間、父はよく手紙をくれたが、またかと思うほど、野球のことが書いてあった。私はむかしよりだいぶ冷めていたので、父の変わらぬ情熱に少しあきれた。
慶應の野球は好調で、すでに東大と強敵法政を破り、昨日また第三回戦で明治を破つた。母上は外出、妙子と二人でラジオをきく。慶応のエース投手渡辺不調で、第一回ウラに一挙三点を奪はれる。オヤオヤと思つてゐると、第三回の表てヒット、ヒット、四球、満塁ノーアウトのところへ、主将の西岡といふ左利打者が立つ。2ストライク、2ボールのあと、カーンといふ快音。アナウンサー、「ア、ライト頭上、抜きます抜きます。ア、入りました、ホームラン! 満塁ホームランでした」といふ。妙子と僕と握手。「満塁ホームランとはあくどいわね」と妙子。「だから俺れケーオーの奴キライなんだよ」と僕ゴキゲンの態!
「野球殿堂」に入れられて、父はゴキゲンの態であろう。
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父 と 私

登  校
兄が幼稚舎に通い出してから、私はいつも一人遊びをしていた。母が庭に敷いてくれるござの上で人形を寝かしたり、庭の草花でままごとをした。妹が少しわかるようになると、一緒にままごとをしたが、小学校へ入るころまでは、ほとんど一人遊びだった。
怖がりで、猿まわしとが獅子舞いが来ると、泣いて逃げた。お正月に万才が玄関に来た。父が、
「いって見て来てごらん。怖くないよ」
といったので、出てみると、急に、
「エァー」
というような大声を出して唄いはじめた。
「やっぱり怖いや」
といって、茶の間にかけ戻ったので、父は大きくなるまでからかう種に使った。
そういう子供だったので、幼稚園にも行かずに学校へ上がったら、すっかり興奮してしまった。
そのころは、今と違って入学試験というものもなく、母と叔母に連れられて、同じ年の従姉と聖心に行き、英人の院長様と平田先生という方にお目見えをしたら、それで入れた。従姉は幼稚園も聖心だった。
ほとんど学校へ上がるという覚悟なしで、一年生になった。入学の日に、祖母、父母、兄妹と制服で写真を|撮《うつ》しているから、家では記念すべき日であったのだろう。妹の入学の時は、姉妹二人で撮している。
大勢の仲間を見たのが初めて、椅子に坐るのが初めて、手をつないで歩くのが初めて。すべて驚きの連続で、神経を使いすぎたのか、頭がかしいだきりになってしまった。頸に、カンフルチンキという、スースーするものを塗られた。初めは母に、それから女中さんに連れられて通った。頸は一週間くらい、かしいでいた。
「加代子ちゃんは、リボンをつけて、首をかしげて」
と、後年、皆さんが、可愛らしそうにいったが、かしげたくてかしいだのではなかった。
母が参観に来てみると、自分の席に坐っていない。授業中でも、前の方まで行って、後をむいて見廻したりしていたそうである。母はゾッとしたようだ。
幼稚園に行っていた人が多かったから、そんなぼんやりした子は、たちまちいじめられた。いろいろな意地悪をされたが、初めのうちは、いじめられていることさえわからなくて、皆が不意にいなくなってしまい、校舎の端から端まで歩いてさがしているうち、急に悲しくなったこともある。毎日泣いた。泣き虫番付の三役のうちのたぶん横綱だった。
「あなたのお父様、しんぞうって名前でしょ。だから心臓病よ」
遊動円木の上に立ちはだかって、大きくはずみをつけて揺すりながら、下に立っている私に向かって、一年上級生がいった。そんなことでもすぐ泣いた。
学校へ行くのがいやで、朝、目が覚めると、ああ学校へ行くのかと思っているうち、胸が悪くなった。
「気持がわるい」
というと、本当に吐きそうになって、学校は休めた。「車で送るから行っていらっしゃい」といわれることもあったが、たいてい休んだ。十時ごろになると元気が出て起きたくなるのだが、それは許してもらえず、一日床にいた。だから、毎日休んだわけではないが、よく休んだ。現代ならば、問題児である。
父はなんにもいわなかった。母は「困った人だ」とか、時には「いい加減にしなさい」とかいった。それでも、ぜひ行け、とはいわないので助かった。大人になって聞けば、父も母も小さいころ学校へ行くのがいやで、父などは学校へ行こうとするとお腹が痛くなったそうだから案外内心で昔を思い出していたのだろう。
二年生になるまで、女中さんが送り迎えした。二年生のある日から、隣家のひろ子さんという同じ聖心の上級生が、連れて帰って下さることになった。
お昼のお弁当の時、今日からお伴なしだと思ったら、涙が出て、お弁当の上にこぼれ、先生にみつかった。
「加代子さんが、今日からお迎えが来ない、といって泣いていらっしゃいますから、お迎えにいらして下さい」
と、先生が電話をかけて下さって、母は妹を連れて迎えに来た。妹も一緒なので困ったが、仕方がなかった。
妹は強い子で、私の五年生のとき、一年に上がると、翌日からお伴を断った。私とも一緒に帰らず、しゃんしゃん歩いている姿は、私にとってひどい圧迫であった。
失  敗

学校に入りたては、一時間ごとに手洗いに行った。不安で行かずにいられないのだった。四年生くらいになると、今度は学校の手洗いが汚なくて、一度も行かずに、朝から夕方までがまんするようになった。そのために、教室でしくじり、電車の中でしくじり、母にそれが知られたくなくて、苦労した。電車の中でしくじって、泣きながら品川駅をおりると、妹が女中さんと迎えに来ているのに行き会った。目が赤いといわれて困った。
そういうことで、ますます神経質になった。母と出かけると、私が必ず手洗いに行きたがるので、面倒くさがられた。父はその点、ありがたかった。
「はばかりか? この廊下の右にあるよ」
はばかりという言葉を使わなくなってからも、
「手洗いは、あそこだ」
と、父がはじめに教えてくれた。自分もよく行く人であった。父と私が組で、母と妹は反対組だった。
十歳くらいのころのある日、父と兄と三人で箱根の富士屋へ行った。ホテルの好きな父が、なんということなしに二人を連れて出たのであろう。この三人連れは珍しいことだった。新調の黄色い絹の服を着せてもらって、御殿山の広い道を品川駅の方へ歩いて行く後姿は、見送っている母には、小さい奥さんのように見えたという。
ホテルで父は、私たちを屋外プールのところへ連れて行き、自分はそこの|日向《ひなた》で本を読んでいた。兄と私は、その辺を探険し、退屈しては父のところに戻った。父はそのたびに、「今度はあっちの方へ行ってごらん」といって、また追い払った。食事がすむと、滝の見える中庭に面したロビーで休んだ。
例によって、父に連れられて手洗いに行った。父はロビーに戻っていた。手洗いから出ようとすると、どうしても扉があかない。ガタガタやっても、何の|手応《てごた》えもない。私はワアワア泣いた。叩いても、泣いても、滝の音に消されて、誰も気がつかないのだった。
恐怖と絶望で、泣き叫んでいるのを、あまり時間がたつので気にして見に来た兄が聞きつけて、ボーイさんに頼んであけてもらった。泣きながら出たら、父が笑って立っていた。ペンキが新しくて、くっついてしまったのだった。
奥さんのように気取って出かけた私は、父の大笑いにひどい侮辱を感じて、しょげきって家に帰った。「|雪隠《せつちん》づめ」という言葉を父は使った。父は、そういうことがあると、いつまでもいつまでも、からかうのであった。
その後、学校で昼休みに手洗いに行ったら、また出られなくなった。英語の時間が始まっているのに席に戻らない私を、皆がさがして、またもや、手洗いで泣いているのを発見され、小使さんが窓から救いに来てくれた。「お猿さん」という仇名の、赤いほっぺたの小使さんが、外から窓を引き下げながら現われたときの顔は忘れられない。
これは、父にはしゃべらなかった。父の放送がこわいのであった。
勉  強

私は勉強しない子供であった。数学とかそろばんは、とうとうわからずじまいである。足し算と引き算だけで、暮らしたようなものだ。
父は、
「女の子は勉強しなくてよろしい」
といって、成績が悪くても何もいわなかった。先生に成績のことを、
「お父様もおじい様もあんなによくお出来になるのに。あなたもやれば出来ますよ」
といわれるのがいちばんいやであった。
先生は、父も祖父も数学が出来たといわれたが、祖父は福澤先生が、
「殊に数学は師によらずして高尚の点に達し、その最もよろこぶ所なり」
と書いておられるから確かだが、父は私が宿題を聞きに行くと、困って代数で答えを出して、私が、
「そんなのわからない」
というと、
「ともかく、答えはこうなのだ」
といって、あまりかかり合いになりたくない様子をした。
私は、父はなんでも知っていると思っていたが、数学を聞くときにはちょっと心配だった。
その頃、京大を出た従兄が、
「君のお父さんは数学が駄目だから、経済学者として困るんだよ」
といわれてびっくりし、心の中ではそうかも知れないと思いながら、父をけなされた、という気持は消えなかった。
兄も数学は駄目で、週に一度、先生に来ていただいた。それでもあまり成績が上がったとはきかなかった。
英語と国語は、父にきけばよくわかった。ただ、聞いていること以外に、いろいろ博学ぶりを示すので、本題がわからなくなることがあった。
父は「女の子は勉強は出来なくてよい」という考え方だったので、私たちの成績にはほとんど無関心だった。しかし、一度、私の成績順位を聞いて、
「オイ、そんなに出来ないのかい」
とびっくりして私の顔をのぞきこむように見た。
それでも、「芝居に行く方が有益だ」などと思ってくれる人なので、早退して歌舞伎に行った。
新年も、「学校の式には出る必要がない。家で祝えばよい」といって、学校の式に出なくて済んだ。
私の女学生時代から、修学旅行というものが行なわれるようになった。それまでは、遠足もない学校であった。
女学校五年生になって、京都へ旅行というとき、父は許してくれなかった。
「四十人もの生徒を、三、四人の先生で、まちがいなく見られるわけがない。安心がならない」
という理由である。学校の先生の父がいう言葉だった。その時は、いいつけに従って、何人かの不参加の人たちと学校に行った。
専門学校に入ると、今まで十一年間、同じ顔ぶれで、子供のころの恥まで知られている仲間から離れて、一人だけ他校の人々にまじった。何もかも珍しくて、学校へ行くのが楽しかった。専門学校での修学旅行のときも、父は前の通りの理由で反対した。私はどうしても行きたくて、毎日、話を持ち出し、しまいには泣いた。父はとうとう、うやむやのうちに許した。
行ってみれば、咳は出るし、物は食べられないし、疲れ果てて帰って来て、父のいう通りにすればよかったと思った。
妹のときは、父は何も反対せず、平気で出した。私は長い間、それが不満だったが、私の身体や神経のことを、父がよくわかっていて、不安を感じてくれたのだと、このごろ思うようになった。
祝 い の 日

子供のころの思い出として、なんとなく目覚ましかったのは、父が塾長になったときと、塾長として、アメリカ、ハーヴァード大学の創立三百年祭に行って帰った日のことである。
昭和八年、四十六歳で塾長に選ばれた父は、前の塾長林毅陸先生は六十代であられたし、当時の他校の総長より若かったせいか、新聞に大きく報道された。祖父と二代塾長になったことも、人々の興味を呼んだようであった。
自由な教授の生活から、責任のある地位についた父は、いろいろ考えたことであろうが、兄が「きゅうくつだ」といやがったほかは、十二だった私と九つの妹は家の中が賑やかで嬉しかった。
電報や電話がつづけさまに来て、花やお酒や鮮魚が届いた。
三田に住んでいた祖母が来て、いくつもの盤台に入れられた鮮魚をわけた。台所でしゃがんだり立ったりして、魚をしらべては、「これとこれはどこ」「これはあそこ」という祖母の指図で、使いの者が出て行った。男まさりと評判の祖母が、いきおいづいて気前を見せ、ぱっぱっとさばく様子は、とても母の出る幕でなくて、子供の私はふっと心配になったりもした。祖母にとっては、生涯のうちの「|佳《よ》い日」だったのだろう。
私たちは、お魚を見るだけでも、物珍しくて嬉しかった。えびがゴソゴソ動いていたり、あわびを押すとちゅうと縮んだり、邪魔にされながら、台所をのぞいた。夕食はどんなことになるのかと思ったら、祖母が勢いにのってわけてしまったので、家には、魚はほとんどなくなっていた。
親類中が父のために喜び、伯父や伯母の出入りも多かった。父を可愛がっていた大叔母は泣いて喜び、その夫の鈴木のおじさんや父の亡妹の夫横山も、
「なんでも助けるから、困ったらいって来なさい」
と母にいってくれたそうである。
ハーヴァード大学の創立三百年祭に招かれて、アメリカへ行った父が帰って来る日は、家中で横浜の岸壁に迎えに出かけた。父は夏出発して、秋に帰って来たのだが、横浜で私と妹を見たときのことを、
「十五歳及び十二歳なる長女及び次女の三月の間における成長の著しさに驚く」
と著書『アメリカ紀行』にしるした。
父の留守中、母は応接間を増築した。古い小さい玄関もこわして、大勢学生さんが来ても入れるような、簡素だが広い玄関も出来た。市浦さんという方の設計で、応接間は濃紺に白い小さな四角の模様のある、四角い椅子が並べられ、木地を生かした棚に、母は|枇杷《びわ》とえび茶の菊を|活《い》けた。皆、新しい部屋に満足で、父の驚くのが楽しみだった。父は横浜からそのまま学校へ行き、私たちは祖母や叔父、叔母たちと、家へ帰って父を待った。
母はそれまで、家の増築に関してはすべて、父の義弟、横山の叔父にまかせていた。父が後に書いているように、嫁に来てから次第に発言権を増していった母が、今度は叔父に相談せずに、実家の弟を相談相手にして、増築を敢行したのであった。
その日、初めて家を見た横山の叔父は、父を待っている間、新しい部屋をしらべるように歩き廻っていた。そして、傍に私のいるのを知ってかどうか、
「換気孔がないね」
とにべもない口調でいった。叔父は親切な人だが、ワンマンであった。
私は浮き立っていた心がにわかに冷えて、祖母と二人で台所で用意をしている母のところへ行った。
「叔父さんが換気孔がないって」
忙しそうな母に、つきまとうようにしていうと、母が何かいう前に祖母が、
「こんな日に余計なこというもんやない。黙っていよし」
といった。
父が賑やかに帰って来て、新しい玄関で「ああ驚いた」という顔をしてみせた。
「おみやげがあるぞ」
という言葉で、私と妹ははしゃいだ。ニューヨークのシュワルツという人形店で買ったという上等な、大きな人形は、大人も皆声をあげるほどだった。
「こっちのほうは橘屋(十五代羽左衛門)やね」
と祖母がいった。妹の分はおさげで細面のいきな顔をしていた。叔母と従姉たちも、手袋やハンドバッグをもらった。
「明るくていい部屋だ。お母様はえらい」
大げさなほめ言葉で、新しい部屋は父の気に人った。私は心の底で、換気孔のことを気にしていたが、二度と口にはしなかった。
父のお土産は、私と妹に驚くほどたくさんあって、何一つもらわなかった兄に気がねしながら、私たちはホクホクしていた。
母は家のことはほめられたが、一度もアメリカに手紙を出さなかったことを、父からたいへん叱られたそうである。
「だって、手紙書けば、家のことがわかっちゃうでしょ。それに工事は大変だったし、そのあいだに、三光町のおばあ様(母の母)が病気になったんですもの」
母は今でもいいわけをしている。このいいわけをそのときしたので、なおさら、父に叱られたのだろうと思う。
塾 長 の 子

父が塾長になって、迷惑したのは兄であった。数えの十六は気むつかしい年頃である。「きゅうくつだ」とか「不自由だ」とか、よくいった。何かにつけて、大勢の学生や先生たちからも注目されることになる。兄はそれに対して、いつも反撥していた。
就任の翌年、普通部の兄のクラスで「総ズベ」(授業拒否)の計画があった。兄はその総ズベに参加するつもりだと家で表明した。父は別に兄をとめない。むしろ興味を持っているように見えた。
隣家の津山英夫さんは、兄の親友で、若いときから病身だったせいか、曾我十郎、五郎でいえば兄の五郎に対して十郎であった。
兄と二人、御殿山の縁側に腰かけて、長い時間話し合っていた。
「伯父様の立場を考えろよ」
「おやじはおやじ、俺は俺だ」
兄はじれて、地団駄をふむようにしていった。いつまでも二人の意見は合わず、
「放っといてくれよ。おやじとは関係ないよ」
と兄は|苛立《いらだ》ったり、ふてくされたりしていた。結局、「総ズベ」は大したことなく終わった。
兄はそのころ母にもよくぶつかっていた。「おにいはわがままだ」と私は内心怒っていた。
アメリカ旅行のおみやげがないことも、兄はぶつぶついっていた。
「お母様に、代わりに電蓄でも買ってもらえ」
と父はいったが、兄はそれでは気がおさまらないらしかった。父の男の子教育は、その頃、兄を圧倒していた。
兄の、むつかしい年がすんだのは、予科に入ってからで、父が塾長であることの苦情もいわず、父に傾倒し、勉強が好きになった。
兄は日吉の予科へ通う電車の中で、兄がそこにいるとも知らない学生たちが、
「塾長の娘は勉強が出来ないんだってさ」
といっているのを聞いて、喜んで帰って私にいった。出来ないのは確かなことだから、私は口惜しがりながら、いっていた人の様子をきいた。
兄が戦死してから、私は慶應に勤めるようになり、父の子として、皆から見られなければならなくなったとき、むかし、兄がぶつぶついっていた気持がよくわかるようになった。
父 の 記 事

父が塾長になってから、私たちは、雑誌のグラビアなどに載ることが多くなった。父は、あまりそういうことを好まなかったから、断ることも多かったのだろうが、ときどき父と一緒に写された。父は、
「お笑い下さい」
といわれるのが嫌いで、
「笑えといったっておかしくなければ笑えない。自然のところを写して下さい」
と、気にさわると、ちょっと切り口上にいった。
昔、母の父阿部泰藏が、ニコニコとかいう雑誌で、「笑え」といわれても絶対笑わなかったのに、本が出て見ると、破顔一笑している写真が出来ていた。
「わしは笑わんのです」
と、たいへん怒ったということを、父はよくいった。「笑えない」といった父も、私と庭で笑っているところを写された。
私と妹は、あるとき少女雑誌に載せられた。いろいろポーズをとらされたが、本に出たのは、机に向かって二人で勉強をしている形のものだった。夏のことで、麻の洋服を着ていた。
ところが、雑誌は九月号か何かで、本文には「『涼しいからお窓をしめましょうね』というお姉さまの加代子さんとうなずいた妹の妙子さん云々で、庭には赤とんぼがとんでいる」とあった。
このうそには、ずいぶんびっくりした。友達が皆そのからくりを知らないで、本当に私が妹にそんなやさしいことをいっているのかと思っているのも面白くなかった。記事があてにならぬ、と思った最初である。
戦争中、父のことが出た新聞記事で、
「小泉さんの顔に、白いものが光った」
というのがあって、父は、
「白いものって何だ。|洟《はな》か」
と笑った。
父は、談話筆記のときなど、やかましくて、必ず見せてもらっていた。
「我が家の家風」という題で、祖母と皆で写したのもある。「家風というものがない」という「我が家の家風」であった。
父に関する切り抜きは、スクラップブックに母があつめていたが、昔からずいぶんいろいろ取り上げられ、美男子とか、艶福家とか書かれていたり、父が女子大で教えたとき、女生徒が夢中になり、その中の一人に母がいたとまことしやかに書かれたのもあった。
私は、父が批評されるのがいつも怖くて、父のことが書かれた記事は、まずざっと読み、ほめてあると、それからゆっくり読んだ。
父は話題にされることの多かった人だと思うが、伝説めいたものがたくさんあって、それがどんどんひろがってゆくと思うと、ある時期の私は、父のことをいわれると、ムキになって訂正したこともあった。
兄 の 戦 死

昭和十七年十二月四日、父は朝から出かけ、母は祖母の家の来客を手伝ってから、当時何年ぶりかで再び習い始めた琴の稽古に越野榮松師のお宅へ伺っていた。
御殿山の家の茶の間で、私と妙子は、午前中から遊びに来ていた従姉と昼食をして、食後のとりとめない雑談がそのまま続き、三時のお茶も終わっていた。テーブルの上に泉屋のビスケットが出してあったのを覚えている。
玄関のベルが鳴った。女中さんは三人いたが、どうして私が手に電報を持ちながら、茶の間に入っていったのだろうか。兄からちっとも手紙が来ない、とそれまで話をしていた不安が、父母の留守にためらいつつ、電報を開けさせてしまっていた。
コイズミカイグンシユケイチウイ一○ツキ二二ヒミナミタイヘイヨウホウメンニオイテメイヨノセンシヲトゲラレタリ……
読んだ瞬間、自分がどうしたかは覚えていない。ただ、妙子が畳の上に倒れて、頭をふり、手足を動かしながら、「いやだ、いやだ、お兄ちゃんが死んじゃいやだ」と叫んでいたことだけがはっきり焼きついている。
父が交詢社に行っていたのを、どうして捜したのだったか。たぶん初めに、塾に電話をしたのだろう。父が書いているように「お兄ちゃんが戦死なさいました」といったのだろう。すべて夢中のことだったが、父が電話口に出るまでの長さと緊張、自分に課せられた、今までと違うという重みを感じたことは、今もはっきり覚えている。
続いて母に報らせようとした。越野師のお宅の電話が鳴りつづけ、誰も出ぬうちに、玄関に音がして母が帰って来た。母は呆然とした様子だったが、涙は見せなかった。母にまつわりつきながら、茶の間に入って皆泣いた。女中さんと私たちの泣き声で、隣家から「どうなさったか」とたずねられた。
従姉がいつ帰ったか、父がいつ戻って来たのか覚えていない。
夕食が始まって、父が皆を見廻しながら、「さあ、これから四人で楽しくやりましょう」といった。食事の間に父の作った笑顔は、未熟な私を少し安心させる力があった。今、父の文章や、書簡を見ていると、父の隠した痛みをまざまざと感じて辛い。
弔問の来客が続いて切れ目がないので、皆のはからいで、父母と私と妹は箱根へ行った。その前年の暮には、兄と遊んだ箱根であった。
自動車が小田原から山を登り始めたとき、なんとも知れぬ沈黙が皆を襲った。父の沈黙は、それまでの何か、|他人《ひと》の前では決して見せなかった悲しみの赤裸な姿であった。
ホテルへ着くと、父母は一間にこもって、また沈黙の時間が来た。私は堪えられなくなって、従姉に電話し、来てほしいといった。皆が来たとき、父は賑やかに談笑していた。
箱根にいる間に、父は兄のための本を書くことを考えはじめたようだった。口を開けば私たちに兄のことをきき、どんな些細なことも心にとめていた。東京に帰って、また塾長としての生活に戻った父が、箱根にいる間だけ自分の悲しみにひたっていた姿を、いま痛ましく思い出す。
兄の死と私

兄の戦死は、私にとって不意に足をすくわれて、まっ暗な穴の中に落とされたようなものだった。幼いころから泣き虫のこわがりだった私は、十七、八から急にこんなことをしてはいられないと思い出して、意識的に自分を変えていった。今考えても、目覚ましいほど、学校でも家でも、自分の考えをいうようになった。そうしてみると、急に目の前がひらけたようになって、ますます積極的になった。小さいときは、兄の横暴にも妹のわがままにもがまんする子で、父母の同情がよせられていたのに、平気で父にいい返すようになり、
「オイ、オシャベリ」
とか、
「オシャ」
とかいわれるようになっていった。
和歌や長唄をはじめて、父以外に尊敬する方たちを見つけた。専門学校へ入って、それまで十一年間、幼いときからのことを知られている友達と別れて、一人で新しい友を得た。これらのことが、私をいよいよいきおいづけた。
そのころの私は、家の誰をも批判していた。ことに父に、何かというと反撥していた。「家を出て寄宿舎に入りたい」といっていたこともあった。
妹と兄は仲よしで、フクチャンという横山隆一の漫画に凝り、二人でフクチャン言葉でしゃべった。
「ニイチャン、オイデ」
と十七歳の妹が手先をうしろにはね上げて、片足を蹴上げ、特別な声で兄を誘うと、兄は他愛なく笑って立ち上がる。
私は仲間に入り切れなかった。兄は海軍経理学校に入って、週末に家に帰ってくるときも、出征して二度帰宅したときも、妹とこうして過ごしていた。私は、最後に兄が戦地へ出かける日も、見送りに行かず、家で本を読んでいた。
兄が戦地へ行ったあと、母はときどき放心したように何かの手を休めて、
「おにい、大丈夫かしら、戦死しないかしら」
といった。私は、
「おにいみたいな人は死なないわ。早死にするのはあんなたちの人じゃないわ」
と押さえつけるようにいっていた。
実際、私はそのころ、自己中心で、父や母の心配から遠いところにいた。兄が望みどおり海軍軍人となったことを、単純に「よかった」と思っていて、それが死につながることを、つきつめては考えなかったのだ。
「手紙が来なくて心配だ」と父母がいうとき、一緒に気にした。けれども、死というものが、あんなに大変なことだということは、何もわかっていなかったのだった。
戦死の電報が来て、父母に知らせなくてはと思ったときから、私の立場は変わった。私以外にする人はいないのだった。
急に親類や周囲の人が、私めがけてものをいうようになった。
「お父さま、お母さまは夜よく寝ていらっしゃるかしら」「ちゃんと、物を召し上がりますか」「あなたもこれから大変ね」「今晩のお食事はどうなさるの」
ことに、父の姉、松本の伯母が電報の来た夜、
「お前さんがこれからこの家の柱だよ」
といった言葉はおそろしかった。私は、やたらに働き、気ばかりあせった。合間、合間に、父母の顔を見、話をしていると安心し、黙っていると、どうしようと思った。子を失った親の悲しみがどんなものか、察しても察し切れないのが、もどかしかった。ただ泣いている妹が羨ましかった。
大勢いた人たちが帰ってしまうと、毎晩、がらんとした部屋の兄の写真の前に、父母と妹と集まって、兄のことを話した。皆の純粋な兄への追慕の中で、私は、後悔とこれからの不安で、兄に一生懸命、「お守り下さい」と祈った。
結  納

父は、物心つくとすぐ父親を亡くしたから、父親の見本を知らない。だから、父の父ぶりは、世の大勢の父親の姿を見て、研究したと思われる。母の父、つまり舅の阿部泰藏からも、父は見習うものがあったようだ。
父はふだんはルーズで、あまり型にはまった父親ではなかったが、ここぞというときはまじめに|父親らしい《ヽヽヽヽヽ》と思うやり方をした。
私と秋山正との結婚がきまったとき、父は初めてのことであり、ことさら落ち度のないやり方に心がけたようである。
結納の日、父は紋付、羽織袴で、私と並んで応接間に立ち、仲人の日頃は「秀ちゃん」と呼んで、のんきな無駄話ばかりしている母の末弟、叔父阿部秀助から結納を受けとると、いつもと違った声で、
「ふつつかな娘ですが、幾久しく、よろしくお願い致します」
といった。叔父も紋服で、真面目な顔をしていた。こちらからの結納の品は、叔父がちょっとふだんに戻って、母に、
「じゃ、お願いしますよ」
といわれて、持って出かけたが、その中の親族書は、前の晩、父が母にいわれて、間違えては直し、奉書を何枚も無駄にして、書いたものであった。
母は父のところに嫁ぐとき、祖父が、
「ふつつかな娘ですが……」
といったので、「急に悲しくなって部屋に入って泣いた」とよく話していた。父は初めて娘を嫁がせるので、この「ふつつかな娘」を採用したのであろう。
叔父は結納を持って行ったきり、秋山の家でひきとめられて、なかなか帰って来なかった。私たちはお赤飯の祝膳につきながら、三人の子供を私の家へあずけて、秋山の家で昼食をとっているらしい叔父を「のんきだ」と笑った。
その午後、父は私を連れて、祖母や父の叔母など、年寄りのところへ挨拶に出かけた。
「加代子も婚約がきまって、今日、結納がすみました」
年寄りたちは、
「それは、おめでとう」
といったり、
「何だか惜しいね」
といったりした。
夕方帰ってくると、父のテニスの若い仲間「泉会」の宴会であった。
食卓について、挨拶の時、父は話の終わりに、
「ここにいる加代子も、三菱銀行にいる秋山君と婚約がととのい、今日、結納をとり交しました。秋山も体育会の柔道部ですから、御存じの方もあると思います」
といった。
「秋山も連れて来りゃよかったな」
と三菱の先輩がいわれた。賑やかな、皆のおめでとうの声の中で、父に晴れがましく扱ってもらったことで、私はのぼせた。
亜細亜研究所

婚約、結納と、皆に祝福されていた私は、正の応召で、また|崖《がけ》からつき落とされたような気持になった。父も言葉には出さなかったが、気を落としたようだった。正は眼が悪いので、なんとか出征しなくてすむのではないかとたのむところがあったようだが、すべてむなしかった。正は北満洲(現中国東北部)に送られた。
兄の戦死後、すべてを新しくやり直そうとしていた父母にとって、私の婚約はこういう形で、また心配の種を作った。祖母は、脳軟化症がだんだん進んで、人の判別がつきにくくなっていた。父母は、兄の思い出の多い御殿山の家を売って、三田綱町の祖母の隣に越すことにした。私が三田綱町の慶應の亜細亜研究所へつとめるようになったのも、そのころであった。家にいる娘たちまで、徴用される世の中になったのだった。
自分の娘を、自分が長をしている研究所に入れるなどということは、それまでの父ならしないことだと思うが、そのときの父は、公私の別より心配の方が大きかったのだろう。御殿山から三田へ越す前の、ある晩秋の朝、私は迎えに来た従兄の松本正夫に連れられて、電車に乗って研究所へ行った。車で学校へ行く父は、まだ長火鉢の傍にいて、正夫に、
「じゃあ、よろしく頼むよ」
といった。
研究所は田安徳川家のものだったそうで、古風な、立派な日本家屋であった。至るところに|葵《あおい》の紋が入っていた。私の入れられた総務部は、奥方様のお部屋だと聞いた。風雅に作られた|襖《ふすま》をあけて、ゲートル巻きの教授たちが出入りした。そこに働いている女子はそれぞれ、教授たちに縁故の人々で、下町娘もまじっていた。仕事より人手の方が多いのであった。
庭は芝生で、初冬の日ざしの中にひよどりが赤い実に群れていたり、日向ぼっこをして戦時を忘れるのどかな日もあった。
塾長の視察という日もあった。皆、机の上のものを片付けたり、目ざわりなものを隠して、父を迎えた。家では乱雑の中にいる父なのに、まじめな顔をしてゲートルをつけて見て歩いていた。勤め出してから、家で考えていた父の立場と、学校で見る父の立場との違いがわかった。父の娘であることで、私に対する皆の扱いに意識が入ることは、仕方がないのかも知れなかったが、いつも気になった。小さいときから遊んで下さった人が、今まで通りにして下さる時だけほっとしたが、「親しみすぎてはいけない」と思いもした。
「どうぞ加代子にも仕事をおさせ下さい」
家に見える教授たちに、母は頼んだ。しかし、やはり自然にはいかないのであった。
そうしているうち、私は、佐原六郎教授の「民族学資質研究」の中の「慶應の一貫教育」をしらべる仕事を与えられた。私は外に出ることが多いこの仕事に熱中し、佐原先生に傾倒した。
この配置換えに、父の意思が入っていようとは、当時の私は夢にも思わなかったが、最近、先生からうかがうと、人選しているとき父が、
「この仕事は、四谷や日吉に行って調べなければならない。男の学生は使えない。幸い家の娘は自転車に乗れるから、ぜひ使って下さい」
といったのだという。父はそれまでの私を気にしていたのであろうか。その後、私は充実した日を送り、資料作りに励んだ。作った記録は、研究所の一部が空襲で焼けた夜、焼けてしまったが、その仕事に打ち込んでいた何カ月かは、戦争中の楽しい思い出の一つである。
記録を焼いてしまったことを、佐原先生におわびに行った日の夜、家は焼夷弾に焼かれた。
傷ついた父

空襲で父が火傷をした夜、私たちは傷ついた父を連れて、亜細亜研究所に逃げた。三度というひどい火傷だったことは後になって聞いたが、私の足で十分くらいの距離を、爆撃に伏せをしたりしながら、父はよくも歩いたものと思う。研究所の防空壕に入って、夜の明けるのが待ち遠しかった。
いのちの危ぶまれるような火傷と赤痢で、半年入院している間に、戦争は終わった。
兄を死なせてしまった戦争であり、多くの学生の命をつぎ込んだ戦争であった。
「戦争に至るまでの時局の推移については、無論私として無限の不平があり、憂慮もありましたが、一たび開戦の後は、思い定めて、愚痴はいわず、ヤミもせず、終始愛国的に行動したつもりです」
と父も書いているが、父は|憑《つ》かれたもののように、士気を鼓舞するために愛国的なパンフレットを書いて、知人に配ったりした。父は自分でも、
「気が立っていたから、教授たちにずいぶん手きびしいことをいった」
といっている。
学生はどんどん戦場に征き、父はその人たちのために日章旗に|揮毫《きごう》し、心をこめて送った。「征け○○君」とか「忠孝不二」と書いた。「忠孝不二」は、兄を亡くした父の「国のために戦え、しかし親を悲しませるな」という思いがこめられているように、私には感じられた。
こうして、空襲にも傷ついて、迎えた終戦の直後、父は一部の教授たちの辞職勧告をうけた。自分でも十数年ののちに、
「やめ方が不手際であった」
と書いているが、半年間の入院の末、塾長の役宅となった三田の家に帰って来た父は、戦争中の愛国的な行動やその独裁を、非難される立場になった。十二月一日に帰宅し、帰宅と同時に祖母が丹毒になり、妹がジフテリアになり、三つの病室を往来して、母と私の多忙な日々だった。
敗戦によって、今までの指導者は代わるべきだという、教授方の考え方も当時の社会情勢では当然だったかも知れず、病人がそのまま重職に止まっていたことは、今考えれば不都合な話だが、火傷によるビタミン欠乏のため、動かぬ足を湯たんぽで温めながら、寝室で教授方にとりかこまれている父を見るのが辛かった。研究所でいつも見馴れた方たちである。とり換えの湯たんぽを父の足の下に入れながら、みじめな気持になった。
教授たちと父との対立はつづいた。
ある日は、研究所にいた学生さんの訪問をうけた。話があるというので、家の周囲を歩いた。父の『アダム・スミス マルサス リカアドオ』の本をほめ、あとはいろいろ父への不満をいわれた。詳しいことは忘れたが、最後に、
「慶應が小泉さんを塾長にしたことは、われわれの不幸だった」
といった。父を非難されたと思った私は、
「わたしは父を尊敬しています。さよなら」
と切り口上でいって、家に入った。
父の姉、松本の伯母も、
「お父さんは評判が悪いよ。塾長をやめさせなさい。お前さんがおいい」
といった。父が独裁的といわれる中に、私が研究所に勤めていたことも含まれるのかしらと、私はそのころ晴れない気持で過ごしていた。一月には祖母も亡くなった。
父はあくまでも、自分を四選して下さろうとする評議員、ことに議長の池田成彬氏の御意思を尊重していたのであったが、二十二年の一月に退任した。それから何年か父は塾とはなれていたが、昭和四十一年亡くなったときの父は、塾の評議員会議長であった。
半夜詩を読む

父が病院を出てから入った家は、慶應の先輩名取和作氏のお宅で、その御好意により、拝借したのであった。
イギリス風の、リビングルーム、スタディールーム、三つの寝室、二つのバスルームと日本式の風呂があった。暖房もバスルームも使えなかったが、結構すぎるような家であった。
広い窓から焦土の東京が見え、あるときは渡り鳥の群れも見えた。夕やみがひたひたと迫ってくるとき、広い家は逃げ場のない寂しさを漂わせた。兄を失い、父は傷つき、婚約の夫は捕虜となり、脳軟化症の祖母は幼児のようになっていた。私はそのころ、夕暮になるといたたまれないような心持になったものだった。
父は塾長としての進退をせまられ、戦争中の行動を批判されながら、自分の内部をみつめる生活を送っていた。二階の寝室に机をおいて、広い空を眺めながら、考えごとをしたり、本を読んだりしていた。
その頃、父が塾長になったときから、その片腕として理事をしていらした槇智雄氏がたずねて来られて、父を慰める気持で、
「われわれは敗れたが、よく戦って義務をつくしたのではないでしょうか」
といわれたところ、父は静かに、
「そうだったろうかね。僕はいま、米国の本を読んで、戦時中、強硬に堂々と戦争に反対した人々に感心している」
と答えたという。
すべて不如意の中にあって、今までの公人としての父から、家庭の父となったあの頃は、父に寄りそう心が、特別強かったように思う。
父は相貌が変わってしまい、身体もすっかりやせたので、知人が見てもわからなくなり、子供から怖がられた。それまで特別に整った顔をしていたので、傷を負ったとき、人はさまざまなことをいった。
「親しみやすくなった」
といわれたとき、私は人間とはむごい心をもつものと思った。整った顔に生まれたことは、父のせいでもないのに、人は勝手に劣等感を感じ、あのようにひどい火傷で顔が変わると、自分勝手に親しみやすいという。私は父とよく近くの芝園館に映画を見に行ったが、人々の好奇と同情の視線に、いどむような気持であった。
私は気にかかることが多くて、そのころ不眠がちであった。兄が戦死したころ、御殿山の家の父母の寝室の戸が、烈しく鳴ったことがあった。そういう不思議は、兄と同じ船で亡くなった人々の家にも、同じ日に起こっていた。私は三田の家のがっしりしたベランダのドアが鳴るたびに、もしか正が、と思って、夜中に幾度となく起きて外に出てみた。
父や母は、
「今のは風だから、大丈夫」
といってくれたが、そのころ父母は、正の病死の噂を聞かされて、私にかくしていたのであった。
正が無事帰還した日の父の興奮は、父の「わが住居」にくわしい。
私は二十三年に、この家で結婚して家を出たが、娘エリの生まれるとき、またしばらく父と一緒に暮らした。
夜半、泣く子を抱いて、正の影を見に出たそのベランダの前の廊下を往復した。父は、孫の泣く声に眠れぬままに「半夜詩を読む」という文章を書いた。
父のゼミナールの方たちが、外に出ない父のために、「白水会」という勉強会をつくって下さったのもこの家だったし、皇太子御教育参与の役をお引きうけしたのも、この家でのことだった。父はだんだん外へ出て行くようになり、エリが二歳のころ、広尾の家に移った。
老翁の独語

正帰還の翌年、二十三年の四月に、私たちは三田の父の家で結婚式を拳げた。次に掲げるのは、新婚当時父からもらった手紙である。
老翁の独語( Andante. 岡山、広島ナマリにて)
加代子は正とお互に感心しあひ、ほめ合ふてばかりをるやうぢやが、結構なことぢや。
あれがまだ里にをつた頃には、このわしと庭球部の選手等とが、互にえゝ事ばかり云ひ合ふてをつたんでは進歩がないいふて、えらい親の身を案じてくれ、わしも孝行者ぢやと喜んでゐたものであつたが、やはりこの頃になつて見て、さう案じたことでもなかつたいふことが分かつたらう。ええ家へは嫁入りさせたいものぢや、フヽヽヽヽヽヽ。
手紙の封筒には、富士見町 秋山下野介殿御簾中と名宛てし、裏には、三田奉行所 小泉紀伊守と墨筆で書いてある。秋山の家は栃木だから下野介、自分は和歌山で紀伊守というわけだ。
だいたい、父はふざけるのが好きで、ふざけた手紙を書くのが好きだ。
「小生今後一切慢心|仕《つかまつ》らず、|若《も》し慢心邪道に陥り候節は、きびしく御訓戒賜はり度く云々」
というのもあった。昔は三田山下春月低という名を使ったという。「三田山上の秋月高く」という塾の応援歌をもじったのである。
さて、この手紙の意味だが、父は、慶應の教授の時に、庭球部長を十年間していた。もともと自分も選手であって、学問に打ち込むようになって中断したとはいえ、テニスは大好きだったから、部長の仕事に熱中した。慶應が弱かった時代から黄金時代にさしかかる頃で、父は部員たちと、ほとんど一緒にすごした。毎日午後四時まで勉強して、四時になると、執筆の途中でも筆をおいて、大森のテニスコートへ出かけた。家にはいつも庭球部の人たちが遊びに来ていた。
部長をやめても、庭球部の人たちとは特別の関係にあり、父を囲んで、庭球部出身者の「泉会」という会まであった。父の追悼の部報には、百五十八人が執筆している。柩を家から教会、教会から火葬場へ担って下さったのも、泉会の人々である。
父は、これらの人々にかこまれているとき楽しそうで、もう何十年も前の試合まで生き生きと眼前によみがえらせ、
「あのときの○○のサーヴ」
とか、
「ヴォレエが」
とか、たちどころに昔にもどった。「泉会」の人々も、教祖のように大切にして下さるので、私はよく、
「庭球部はお父様をスポイルする。も少しわるいことはわるいといってもらわなくちゃ」
と父をからかった。
父は口惜しがりだから、どこか隙を見つけると仕返しする。
結婚したての私が、父よりこわくない夫を「正さんが、正さんが」というし、正は、父が私の悪口をいっても、
「いいえ、加代は」
とかばうので、長年の心配の解消した喜びの照れかくしで、わざわざこんな手紙をくれたのであろう。結婚してから、ずいぶん父に手紙をもらった。ロンドンに三年間住んだとき、着いて最初に受けとった手紙も父からのだし、最後に「これがお終いになるでしょう」と帰国寸前の私に書いてくれたのも父であった。
皇 室 と 父

昭和三十三年、私たちの大阪転任と前後して、父は皇太子妃決定のため奔走していた。七月二十三日には、ひどい台風をついて御殿場から葉山の御用邸に伺候している。それは負傷後の父の体力としては、ほとんど無理に近い、いささか超人的な行動であった。
八月も、私が発ったあと、二十四日に、母と妹を連れて御殿場に行くことになっていたが、これを不意にとりやめ、一人東京に残った。
二十三日の午前、切符を買うまでは、父が「朝の汽車で行って、御殿場でゆっくりしよう」といっていたのに、夜になると、家が「|鹿ヶ谷《ヽヽヽ》」となり、何人かの方が現われて、ヒソヒソ相談が行なわれ、その翌日には、
「慶應の用で急に行かれなくなった」
と父はいったという。妹の手紙のしまいには、
「変、変、絶対変ダゾ」
とある。
父は大石良雄のように秘密を固く守りながら、皇太子妃御決定の瞬間までの努力を重ねていった。候補のとしごろの方たちが傷つかぬよう、新聞社や報道関係を廻って取材協定を頼んだということも、後になって新聞を見て知った。家族は何かあると感じつつも、何一つ知らずに過ごしていた。
私も父の家で、父が侍従さんと対談しているとき、お茶を運んだことがあるが、ドアをあけたとたんに二人がぴたりと口を閉ざし、お茶を配り終えるまで完全に沈黙して、手許を見守るばかりなので、空気に圧されて、逃げるように部屋を出た。母に「ああ怖かった」といって、二人でそっと笑った。
父はそういうとき、こわい人であった。公事と私事の区別が厳格で、日頃は隙だらけなのに、そういうことになると、大げさなくらい慎重であった。私たちもそうなると、叱られないかとピリピリして、好奇の心など起こらないし起こせない。父の神経を刺戟しないように用心して、日を暮らすのであった。
九月に母から来た手紙には、父は疲れて少し肝臓に故障が出たが、もうよくなってビールをのむようになった、とあり、
「あまりヒソヒソ話や、秘密厳守などが、|肝《きも》にさわったのでしょうね」
と書いている。
十一月に入ってから、いよいよ忙しく、また|ぬけがけ《ヽヽヽヽ》をする週刊誌があったりして、父は苛立ち、母が関西に逃げて来たこともあった。
こうして十一月二十七日に、御婚約成立の発表があった。
私はそれを関西で知り、出来るかぎり新聞を買って、父に関する記事を読んだ。父の今までの苦労を考えて、父のために喜んだ。
父にはお祝いのはがきを出した。その返事。
御端書ありがたう。妙が明日から御厄介になります。近況は彼女にきいて下さい。
正田美智子さんを会ふ人ごとにほめるので、大分好い気持になつてゐます。しかし謙虚に身をつつしみ、お役大事と心がけてゐます。
旦那にどうぞよろしく。
このころ、父は七十一歳であった。その年の七月に二歳ちがいの姉を亡くした。姉の臨終に「謙虚にね」といわれたことを、父はそのころよく口にしていた。
父は、もともと皇室には一切御縁のない、一介の学者であった。けれども、明治人の常として、「天子さま」はいつも父の心の中にあった。むかし御殿山に住んでいたころ、昼の食卓で、御飯の上に塩鮭をのせて食べていた父が、突然、泣き出して、
「天子さまは、こんなうまいものは御存じないだろう。食べさして差し上げたいものだ」
といったことがある。はじめ私はあっけにとられていた。そういうことは、その後もよくあった。自分の好物を食べていると泣き出すのである。|鰯《いわし》のときもあった。だいたい食事中、涙もろい人であったが、そのころは、父は皇室とははるかに隔っていたから、その突然の発想がどこから来るのか私にはわからなかった。「肩をたたいてお慰めしたい」といったこともあるから、きっと日中戦争や軍人の横暴にお心を悩ませていらっしゃるであろう陛下のことが、自分が幸福な瞬間に思いやられたのだろう。さらに後年、父の書いたものに、母親、つまり私の祖母が、
「鰯を食べながら、『こんなおいしいものを陛下にさし上げたい』と云った」
という個所を発見し、父の発想が母親ゆずりのものであったことに驚いた。
父は一介の庶民であることを誇りとしていた。肩書きを嫌う人であった。その父が、戦後、田島道治宮内庁長官の十数度にわたる御来訪に、ついに動かされて、皇太子の御教育に参与することになってしまった。父は父らしいやり方で、全力をそそいだ。
野人の父が御所に上がるようになってから、日ごろ平気で使っていた言葉も、気の毒なことに、なんとなくあらあらしく思われた。私たち家族も、初めて耳にする侍従さんがたの言葉が上等に聞こえて、気になった。
父ははじめて天皇陛下の御誕生日に御挨拶をするとき、大声で、
「陛下、おめでとうございます」
と申し上げたら、大きなお声で、
「ありがとう」
とおっしゃったと、よろこんで帰ってきた。
次の年からは、父らしく勉強して、正式な言上の形式をとったというが、この最初の御祝いの言葉の方が、御殿山時代からの父の陛下に対する気持が現われていて、よかったのではないかと思う。
御成婚の日のために、私たちはそれまで買わずに頑張っていたテレビを買い、関西にいながら、父の姿を見ることが出来た。
キャット・システム

私の結婚がきまったのは、昭和十八年の二月で、兄の遺骨の還るころであった。前年の十二月四日に戦死の報を受けて、悲しみの日々を送っていたが、父や母の姉妹たちの心づかいで、新しいページをめくるために、私の婚約がすすめられたのだ。
兄がいなくなってから、御殿山の茶の間では、兄のことを思い出しながら、親子四人が、それぞれテーブルの一辺によりかかって夜を更かすことが多かった。そんなとき私が婚約したことは、父母にも私や妹にも、新鮮な事件であった。
父は、私たちと茶の間のテーブルによりかかって、今度は私のことを話題にしはじめた。ある日、私の寝坊や議論好き、片付け下手などが問題になり、父は、
「いったい、嫁に行ったら、どうするつもりだ」
とからかうように、私の顔を見た。
「猫をかぶる」
と私は答えた。
「一生かぶりきれるか」
「一生かぶっちゃう」
「一生かぶれば、そりゃ美徳だ。一生かぶれば猫じゃない」
と父は笑って承認した。父はこれを、
「加代子のキャット・システム」
と名づけた。
父はある文章の中で、私の婚約にふれて、
「肝心の加代は、|頗《すこぶ》る『好い児』になり、温良貞淑そのもののような一面を示した。吾々がその温良振りを冷かしても取り合わない。吾々もその態度を是認した」
と書いている。父は秋山の人々に対して、私の「キャット・システム」推進に協力した。
夫の父秋山孝之輔は、父と全く違うタイプの実業家で、私に、小泉の父と角度のちがうところから、ものを見ることを教えてくれた。父とは、お互いにその持っていないもので尊敬し合っていた。
父は、秋山のことに関して、私の頼みごとを一つ残らず聞いてくれた。姑が早く亡くなったので、三人の妹の結婚は私がさせなければならなかったが、そういうとき、父はずいぶん協力してくれたものである。母が父の姉妹と、実の姉妹のようにしていたので、私はそれが普通のことだと思い、義妹たちともそうしていた。父が、私の結婚するとき、
「……秋山家の柱となつて下さい。また必ずなる事を信じます」
と書いてくれたので、それを守ろうと思い込んでいた。もちろん長い年月猫をかぶってはいられなかったが、皆と同居しないのが幸いであった。
晩年近いある日、秋山の父が風邪をひいて長く寝込んでいるとき、小泉の父が鎌倉の家まで見舞いに来たことがあった。父を迎えた私は茶菓を運び、そして、寝ている舅にさじでババロアをすくって食べさせていた。日ごろ病気のときにしていることなので、舅も平気で口をあけ、私にやしなってもらっていたが、初めて見た父はよほど驚いたらしい。
家に帰って母に、
「加代はまるで自分の家みたいにしている。どっちの子かわからない」
と、不平そうにいったという。
自分は照れ屋で、娘に介抱させなかった父だから、キャット・システムも、ここまで来ては行きすぎだと思ったのかも知れない。
父 の 死

昭和四十一年五月十一日、父の急を聞いて駈けつけた朝、前夜から降っていた雨は上がって、空気はしめり気をおび、若葉があざやかであった。
「旦那さまが大変です。早くいらして下さい」
というだけで、あわてて聞き返すこちらの言葉はきこえないように切れてしまった電話口で、すぐ感じたのは、「父は死んだ」ということだった。
前日元気な姿を見ているから、ふだんなら「まさか」と思うはずなのに、それは確信となって私に覚悟をうながしていた。
二十歳まで、私はほとんど平穏無事に育った。兄が死んでから後は、何か事が起こり出すと、つづいて起こるようだった。親類から不思議がられるほど、いろいろなことがあった。
前々夜まで、妹タエの夫準藏は生死の境にいた。命はとりとめたらしいというものの、まだ安心というわけではない。
夜、眠りに入る前、たかまってくる不安をうち消して、祈りつつ眠るのであった。朝は早く目覚めた。その緊張の連続に父母が堪えていることは、私にもう一つの不安を絶えず抱かせていた。
急いで髪をまとめ、着物を出すとき、黒地の帯を手にとったが、不吉な思いをはねのけるように一番はでな帯にした。夫と二人、ものもいわずに、青山の通りに車をさがしに走った。二人で別々に一台ずつとめ、急いでそのひとつに乗り込んだ。
広尾の家の門を駈け入るとき、赤いさつきを眼のはしに捉えていた。五月の雨あがりの朝の空気に、さつきの蜜が匂っていたようにさえ、今は感じる。
玄関に入ると、四十年いるおしんさんと若い喜代子さんが、こわい顔をして手をふり廻しながら、
「早く、早く」
といった。
父の寝室には、母が自分のベッドに浅く腰かけていて、黙って私の顔を見た。父はベッドの上に片足を軽くまげたゆるやかな姿勢で睡っていて、お医者さまは烈しい力で、父の上に馬乗りになって、人工呼吸をしていられた。
父の顔は、うすく眼をあけていながらも静かで、烈しい動きに揺すられていても、もう全く別の世界にいることを感じさせた。
「どなたか、舌を押さえて下さい」
といわれて、夫はベッドのわきに中腰で立って、指図どおりに|さじ《ヽヽ》で父の舌を押さえた。
先生の動きは烈しさを増したが、父の顔にはなんの変化もなかった。
「もう駄目なの?」
私は母に小声で言った。
「そうらしいの。ゆうべ、ちょっとお苦しくて先生に来ていただいたけど、お薬いただいて、よくおねむりになったのよ。先生は泊まって下さって、知らぬ間にお帰りになったの。私はなんだか心配で、着替えてここで見ていたら、大きな息をして、変になったの。それでまた、先生をおよびしたんだけど」
母と私がささやき合っていると、先生が突然、
「どうぞ、あちらでお待ち下さい」
といわれた。母と私たち夫婦は食堂に入った。母は昨夜からのことを、また話し出した。
「呼んで下さればよかったのに」
「でも、せっかく久しぶりに唄のおけいこしているのに、と思って」
「そんなこと問題じゃないわ」
「だけど、どうしてこっちの部屋で待つのかしら」
「まだ望みがあるのかしら」
「大丈夫なのかしら」
押しかぶさるような思いの中で、私たちは話していた。父の死という非常の時としては、不思議な、手持ちぶさたな時間であった。
「どうぞ」
という先生の大きな声がきこえた。それは希望を持たす大きさであった。三人は先を争うようにして部屋に入った。
しかし、そこには衣服の乱れを直し、真直に、しずかに寝かされた父があるだけであった。
「七時三十分の御臨終です」
母と私は目を見合わせた。女中さんたちが声をあげて泣いた。「父が死んだ」私の頭の中に、その言葉がふつふつと沸きたつように、繰り返し、繰り返しきこえていた。これが長いこと怖れていた瞬間なのだ。
母はどうかと思った。母は静かだった。夫も黙って、三人はじっとしていた。
沈黙をやぶって、母と私がほとんど同時に、
「タエが可哀そう」
といった。そして急に涙があふれた。母はほそい指で目のふちをかわるがわるそっと拭いていた。妹は、胃穿孔という重病の夫について病院に泊まっているのだ。
もの心ついてから、ずっと怖れていた父との別れは、こんな形で来たのであった。
しかし、私たちは物を考えるひまもなく、方々の連絡その他に立ち働かねばならなかった。
妹は従兄に連れられて、家へ帰ってきた。廊下の暗がりで顔を見合って黙って泣いた。父の顔を見て、妹はすぐまた病院へ戻った。父の身体を居間に移して、母と私は父の傍に坐った。家の中はざわめいていて、しかし、何がどうとり行なわれているのかはわからない。時間の観念をなくした日であった。
父の顔は美しかった。急を聞いてつぎつぎ見える弔問客の途絶えるわずかな隙に、母と私は死に顔をながめ、
「いい顔でよかった」
と繰り返していった。父は、火傷で目と口が閉じられないのを気にしていたのであった。
幼い時は、いつか父がいなくなるという漠然とした不安があった。兄が亡くなったころは、父も死んだらどうしようと思った。そのころは、父が、
「俺が死んだら」
というと、妹と私は、
「いや。その話いや」
とはげしく遮ったものだった。
自分が家をもち、父や母の老いてゆく姿をだんだんはっきり知るようになると、「どうぞ長生きして」と祈る心であった。
私たちが外国に三年いる間に、父は胆石を|患《わずら》った。その時の心配さ、「どうぞもう一度会いたい」と毎日考えていた。父のことを考えると、すぐ帰りたくなるのであった。
帰国して、父が亡くなるまでの日々は、二年に少し足りない。父は頑固になったところもあり、涙もろくもなっていたが、豊かな思いやりの心をもって、楽々と人生を楽しんでいるようであった。
このころから、私は父の終わりということを、考えるようになった。自分の淋しさは別に、父として一番完全な人生を終わらせたかった。もうろくしたと人にいわせたくない。よぼよぼさせたくない。誰もがまん出来ないだろうと思われるひどい火傷を痛がりもせず、愚痴もいわなかった父。母を愛しぬいた父。私たち娘を、完全に幸福にしたいと思ってくれた父。その父がもし祖母のように老いほうけてしまったら、とても可哀そうで、辛くて、私は見ていられないだろう。
父は、
「人間は、『あいつ、まだ生きているのか』といわれるほど長生きして、『ああ、あいつ、やっと死んだ』といってもらうのが、まわりの人にいちばんいいことなんだよ」
とか、
「俺、いつでも死ねるよ。ちっとも怖くないよ」
といったりした。
「君たちが心配かけなくなると、俺はすぐ死ぬよ」
ともいった。
父は空襲で火傷し、煙にまかれて失神したが、倒れている間、いい気持で、私たちの呼ぶ声で気がついて、
「やれやれ起きるのかと思った」
というから、死の直前の気持は、ちっとも怖くないものだったようだ。
負傷後、父は、うぬぼれも気負いもなくなって、生きるも死ぬも神のまにまに、と思えるような心境にいたようである。
私が、父の終わりを完全に、などと思っていたと知れば、
「生意気なやつだ。すべて天命だ」
といったであろう。でも、やはりあの二十貫もある大きな身体で外出先で倒れたり、長わずらいをして母を疲れさすことは、父の最ものぞまないことだっただろう。
死の前夜、義弟が命をとりとめたことを喜んで、大きな声で、
「主に感謝し奉る」
と唱っていたという母の言葉は、遺骸の傍にいる私にとって、父の死を悲しむより、ああよかった、喜びの中で死んだ、と心からほっとした気持にさせた。
お悔みの方が、あまりにも不意な死に、
「御看病もなさらず、お心残りでしょう」
といわれたが、
「でも、苦しまずに亡くなりましたから」
と、母と私は答えていた。
こんな大事件のとき、ほっとした気持をもっている自分を、ときどき不思議に思った。
納棺の時が来て、父の柩の中にめがね、ステッキ、祈祷書、その他のものを入れた。そして、毎日のようにキャッチボールをしていた父の、愛用のボールを入れたとき、不意に悲しみがおそって来た。今までの悟ったような心持が不意にくずれて、涙はふき出るようにあふれた。
新しい娘たちのこと

私ども夫婦は、昭和二十七年に一人娘エリを満三歳で心臓病で亡くしてから、二人きりの生活をつづけていた。孫を可愛がった父はひどいショックをうけたが、日がたつと、母を通して、また子供を生むべきだ、とたびたびいってきた。
「人間の義務である」
とか、
「人間として一人前でない」
といった。
私たちが弱かった子にこりて、子なしの生活に甘んじているのが可哀そうでもあり、心配にもなったようだ。
しかし、私たちは本当にこりていて、このままでいいように思っていた。ロンドンで、家に働きにきていたスコットランド人の女中が、
「あなたの生活は静かすぎる。これは老人の生活だ」
といったときは、そうかなと思って考えたが、それほど静かすぎるとも思わなかった。そして年が過ぎた。
ただ、妹にも子がなく、父の血をうけついだものが世の中に一人もないとなると、淋しいというか、とり返しのつかないことのような気がしてきて、ことに父の亡くなったあと、母がそれをいい出すと、うしろめたい気持もした。
その私たち夫婦が、急に二人の娘をもらうことになった。
主人の弟が四十四歳で急死していたのである。六年前のことで、十一と九つの子が|遣《のこ》された。
弟は生まれてすぐ実母を失い、乳をもらうためにあずけられた家でそのまま成長し、そこの養子となった。私たちと姓もちがう。親にも兄妹にも、縁のうすい人であった。晩年の十数年はよき妻子を得て、兄妹とも往来してこの世の幸福を得ていたのに、会社の運動会で転んだのが不運だった。
主人も早く母を失っていたが、父のもとでずっと成長して、この異母弟に久しく会うことがなかった。二十年ぶりで再会した時、
「俺に似たやつが来た」
と思ったそうである。弟の方も一度に親しみ寄ってきた。亡くなったエリの写真をうつしに家に来てくれたこともあった。
「これが、自分の本当の姪だ」
と可愛く思ったという。
弟もエリも死んでしまったいま、私たちは「父のない子と子のない父」の合同家族となった。
義妹は弟の死後、静岡県岩淵の社宅をたたんで上京し、校正の仕事などを始めた。女手で二人の娘をそだてるのは、大変なことであった。私たちは義妹と相談し、子供たちにも考えをきいて養女の話をすすめた。
二人もらうということは、皆に珍しがられたが、私は、
「一人だけもらうと、どうしても不公平が起こるような気がする。二人ならば、困ったとき、また養父母の意見に反対のとき、二人で相談もできる」
と思い、夫にも頼んだのだった。義妹も快く承知した。何も家の名を残すという意味はない。二人がそれぞれ幸福な結婚をするまで、義妹と共同で育てて行こうという趣旨であった。
子供たちは秋山姓となったが、従来どおり、その母の手許から学校へ行き、私たちのところに、週に一度は必ず来る。休みは一緒に過ごす。というような形で、この私のいう「合同家族」は、もう三年以上たった。
私たちは今までどおり、娘たちに「おじちゃま」「おばちゃま」と呼ばせている。無理に「お父さま」と呼ばせることもないと思う。実母は今まで通り「ママ」である。
養女縁組を機に、上の娘を静岡の学校の寄宿舎から呼び戻し、中学に入る下の娘と一緒に、私の母の母校、香蘭女学校に入れた。
新しい学校で、二人は「アキ」と呼ばれている。名簿の順が早くなったことだけが不便で、なんでも先にやらされるといっている。
友達と家の話をするとき、以前の学校では父親の亡くなったことを知られているので、同情されるのが上の娘はことにいやだったらしいが、今は安心して、父の話が出来るという。これだけでも、娘たちのためによかったと思う。母親の方は二人いるので、そのときによって、使いわけているようだ。二人ともきびしい方なので、合成人物としても、通用するらしい。PTAや学校の行事はたいてい「ママ」の方が出かける。二人いるとピンチヒッターもあって便利である。
「『アキ』のママはやかましい」
という評判だと娘たちはいうが、二人の母は、
「ああ、やかましくて結構」
とすましている。
娘たちは、性格がずいぶん違う。長女は昔の私のように、ぐずぐずして小さい時から妹に圧迫を感じていたが、このごろとみに成長して来た。妹の方が、
「お姉ちゃま、このごろ人の前でもよくしゃべるの。駄目かなと思ってると、ちゃんとやるから驚いちゃう」
というので、私は、
「こら、失礼なこというな」
と笑いながら、昔の妹と私を思い出す。
妹娘は律儀で、学校の規則をよく守り、人が規則を守らなかったりすると、気になって仕方がないらしい。
話が念入りで、いそがしいママはときどき、
「結局どうしたのよ」
といっているが、私の母はその長話を面白がって、聞くのを楽しみにしている。
この娘たちは生まれたときから縁があって、私が名を付けている。小さいときから可愛がっていたので、もらってから無理が少ない。叱ってお尻をぶったこともあるので、養女にしたからといって、特別なことはない。しかし、互いのふれあいはふえたから、叱ることも可愛いと思うこともふえた。反面、叱っておとなしいと心配で、抵抗すると、それをまた叱りながらも安心する。その辺がまだ自然でないところかも知れない。
子供と接していると、長女と次女への対し方が自然と違い、父の気持がよくわかってくる。父が心配したこと、怖がったことを、なるほど、といまは思う。
姿勢とか、目の近さ、鉛筆の持ち方に口やかましかった父と同じように、
「有子、目が近すぎるよ」
「朋子、も少していねいに書きなさい」
といっていると、父が見たら笑うだろうと思う。
子供たちと御殿場で自転車に乗ったり、ピンポンをしたりするとき、五十をすぎているのにいまだに無益の競争心を出す。
「ほら、おばちゃんが勝った」
といいかけて、五十代の父が御殿場の駅から自転車で帰って来て、家の玄関の前をまた一周し、
「御殿場の駅から帰って、まだこれだけ余力があるのはえらいだろう」
と私たち子供にいった顔を思い出している。
父が、女の子は勉強しなくてもいい、といったように、私も遊べ、遊べと奨励する。
「そんなこといったって、落ちたら大変なんだもん」
と娘がいうと、
「落ちたらお祝いに着物を買う」
といったりしてしまう。娘は、
「それもほしいけど」
とにやにやしている。
「落第してよ、頼むから」
などといってみるが、二人も「中間だ」「期末だ」と、テストの心配をしている。
このごろの学校は遅くて、暗くなって帰ってくるので、私はいつも遅すぎると怒っている。二人のせいではないのだが。やはり、私は父のやり方にだんだん似てくるらしい。
母は、私に活気が出たとよろこび、また、「お墓まいりしてくれる人が出来た」と喜んでいる。
「お父様がいらしたら、なんておっしゃるだろう。きっとおよろこびになるわね、加代が子供をもらったって」
といい、妹は、
「二人ももらうから困りますね」
といいながら、二人の娘にヴェストを編んでくれたりする。クリスマスの行事も、またむかしに戻った。
「定年になってから、初めて子供の学費を払うとは」
といいながら、主人も元気づいている。
エリが生きていれば、もう二十七歳である。二十五年前、御殿場にいた私たちのところに、父が持ってきてくれた母の手紙。
エリチャンゴキゲンヨウ エリノヂイチャント エリノバチャントゴテンバヘオデカケデス エリノバアバハ トウキョウデオルスバンデス イイコデ。
ジュンジャンモオルスバンデス。イイコデ。
エリチャン サンリンシャニノリマスカ、ヂイチャンニオミセシテクダサイ、
バアバハゴビョウキデ センセイニオトナシクミテイタダキマシタ オクスリヲ イイコデノミマシタ  マタネ バイバイ
[#地付き]エリノバアバ 
エリチャン
今までときどきとり出して、涙ぐんで読んでいたこの手紙を、このごろ、平静に読めるようになった。
[#改ページ]
戦後の交友

父は慶應の塾長を退任して、父のいわゆる「ライター」の生活に入ってから、新たにたくさんの友人が出来た。雑誌「心」の筆者たち、志賀直哉、長與善郎、安倍能成、小宮豊隆、梅原龍三郎氏等、それから、毎月文藝春秋に「読書雑記」を書き出したことによって、文春を通して知った文士の方たち、劇評家。これらの人々とのつきあいは、父の生活に活気をもたらした。
長年、学者として、学校の長として、身についた固くるしいところを、だんだん楽なものにもした。
安倍能成氏から、父は「流露するものに乏しい」といわれた。これはまことにいい得ている。父は一本参って、何かにつけて、私たちから「流露するものに乏しい」といわれると、赤黒くなって笑った。
父には、本能のままに押し流されたり、無防備のままでいるところがない。家庭内では隙だらけだったけれど、対世間には一つの|かまえ《ヽヽヽ》があったようだ。それが、父のもののいい方に、意識的ではなかったにしても、習い性となった|用意《ヽヽ》を感じさせ、安倍さんのような、時には八方破れてしまう方には、流露するものに乏しいと思わせたのであろう。
安倍さんは若い日、日本新聞社の運動記者として、十六歳で慶應のテニス部の主将であった父の試合ぶりを観戦し、記事にされた。
父が眉目秀麗で、体格が大きく、態度は確かで強く、実に堂々たる貫禄の所有者だったといっておられる。
その後、安倍さんは慶應義塾のドイツ語の教師をしておられたこともあり、父親の代から慶應生えぬきの、老舗の若旦那のような立場の父を、通いの手代のような気持で見ていられた時代もあったそうだ。しかし、その頃の父の言動にも、心を惹かれるものを感じていられたという。
父と本当に親しくなられたのは、父が皇太子の御教育にたずさわるようになってからで、学習院長であった安倍先生として、また、毎月一回、吉右衛門の芝居を見る仲間に父も入れていただいて、そのグループとしてもお目にかかっていた。
父は元来は、羽左衛門、菊五郎が好きだったが、小宮豊隆氏を団長格とする「吉右衛門を見る会」に、安井曾太郎さんの亡くなられたあと、|後任《ヽヽ》としてお誘いを受けた。
小宮、安倍、柏木、小泉の四組の夫婦が、吉右衛門の芝居を見て、幕間に食事をする。その席に吉右衛門夫人、幸四郎夫妻やそのお子たちが挨拶に見えることもある。父や母が行かれない時は、私と妹が代役であった。
小宮先生は、吉右衛門を身内のように扱っておられ、安倍先生は、歌右衛門に「|魅力《チヤーム》を感じ」夢中になっておられた。
安倍先生もお忙しいので、いつも歌舞伎座に遅れていらしたように思い出される。先生が、長い美しい白髪をいただいた立派な風貌の上半身に比して、やや貧弱な足もとをそろりそろりと動かしながら、不安定な形で席に入って行かれる姿が印象的であった。幕間には「愛する歌右衛門」とか「膝にのせたい」などと大げさないい方や、案外本気のようなご様子で、私たちを笑わせていらっしゃるが、いざ肝腎のところになると、日頃のお疲れか、白髪をがくりと落として眠られる。あとで、
「さっき先生が眠っていらっしゃるのを、歌右衛門が見ていましたよ」
というと、
「本当ですか」
と真面目な顔をされ、そしてにやっとして、
「歌右衛門を見ていて眠ったはずはない」
といわれる。
安倍先生はお酔いになると、握手握手でたいへんだ。内輪の足許をいっそう内輪にして立って、帰りぎわの玄関で握手を求められたら、なかなかきりがつかない。
家にお招きすれば、鉄道唱歌を初めからしまいまで……あれは汽笛一声新橋を出てから、終わりまで実に長い。それを明瞭正確に歌われる。そうかと思うと、急に立って、私たちの坐っている横に来られ、膝と膝とを接するように坐って、首をふりながら「撞木町から来やんした」と常磐津「関ノ扉」の墨染になる。さらに、朗々たる美声で、能の「山伏摂待」を|謡《うた》われる。
その自由自在の賑やかさは、私たちを楽しくした。私たちは甘えて、
「先生のお誕生日に|招《よ》んで下さい」
といって、目白の学習院の官舎に招んでいただいた。先生のお誕生日は十二月二十三日で、皇太子様と同じなので覚えやすい。いつもお寿司屋さんをよんであって、おいしいお寿司をいただいた。最初の時、帰りがけに握手し、安井曾太郎氏の描いた「安倍能成像」の絵葉書の裏に、
「秋山加代子様   辱知 安倍能成」
と書いて下さった。左に掲げるのは、父のお礼状に対するお返事であろう。文中に田島とあるのは、父を皇太子御教育係とするために、十三回も、辞退する父を説得して、遂に父を承諾させた、当時の宮内庁長官田島道治氏である。
あの晩、田島が小生を仕合せな男だ、と云ひました。田島の心持は分りますが、小生は、カヨ子さん達が誕生日によんでくれといはれ、小生がそれを快く受けて一夜を快く送り得ることに大いなる幸福を感じます。小泉先生たらふく食つて飲んで下さい。
[#地付き]十二月二十六日  安倍能成 
十二月二十三日は、皇太子さまにお祝いを申し上げる日でもあるが、安倍先生は、いつでも少し酔われると皇太子さまに、
「ユアージャストフィフティーイヤーズヤンガーザンミー」
といわれるそうで、父はおかしそうに話した。
「ヤンガーザンミー」というところが、安倍先生らしい英語で、父にとっては面白くてたまらなかったようだ。
軽井沢でも、父は安倍さんを山荘にお訪ねした。二組の老夫婦が、杖をついて庭にたたずむ写真が残っている。私も一度、父母とお訪ねするつもりで一緒に出かけたけれども、そのときは、もう帰京されたあとだった。涼しい木陰に車をとめて、地図をひろげ、道をたしかめていた父を思い出す。
安倍さんは、父のように用意周到の方ではなく、手ぬかりや欠点だらけのところを魅力に転じ、蛮カラとはにかみの入り混じった、父とは違う意味での照れ屋であられた。父は事に当たって、注意深く、細心だったが、安倍さんは、父には思いもよらぬ荒いところがありながら、一面において、父より痛みやすい、案外女性的な面もあられたようだ。男性的、女性的の分子をわければ、父の方が男性が多かったように思う。どちらがいいというのではないが……。
安倍さんは酔ったまぎれにいろいろ面白いことをされたが、父は酔っても、自分と周囲を忘れきれる人ではなかった。そして父は、たぶん、大しくじりもなさるが、巧まずに人をひきつけ、愛嬌のある安倍さんを、羨ましく思っていたと思う。
父が五月十日、病院に見舞った安倍先生は、翌朝父の死に驚かれたが、一月の後にはこの世を去られた。
小宮豊隆氏と父とは、お互いに若い頃から知り合ってはいたらしいが、ごく親しく交わるようになったのは、やはり「心」を通してと思われる。
小宮豊隆というお名前は、さかんな感じがして、私は、赤ら顔の太った、眼鏡をかけた人物を、長いあいだ想像していた。
安井曾太郎描く、黒の透いた夏羽織に、浅黄の着物姿の肖像は、後に知った小宮先生をよく写してはいたが、長い間の想像と、あまりにかけはなれていたので驚いた。私の名前によってする想像の、いちばんひどくはずれた例だ。
小宮さんと安倍さんは、東京生まれの東京育ちで慶應出の父とは、全く異質のところがあった。父は書生っぽで、慶應より他の世界を知らなかったし、女ばかりの家庭で、父親代りの男としての責任を負わされていた。その母親からの束縛は、暗黙の中に父を支配していたから、勝手に遊びまわった青春はない。意思もなかったと父はいっている。
小宮さんたちは、地方の素封家の御子息で東京に遊学されて、あらゆる意味で、父より自由な青春を過ごされたようだ。
志賀直哉作『暗夜行路』に出て来る「登喜子」という芸者のモデルである吉原の徳子さんを、父は知人の宴席で知ったが、私たちも、一度会うとひどくなつかしい人柄なので、すぐ親しくなった。私の唄の師匠の相三味線だった関係もあって、家に来て小唄や薗八節を聞かせてくれたりした。
母の誕生日は、そういう方たちに来ていただいて、賑やかに過ごすことがよくあったが、安倍、小宮両先生をお招きしたこともあった。
徳子さんは、若いときから小宮先生にあこがれていたらしくて、そんな席でも、小宮先生が、
「おい、徳子」
と呼ばれると、いそいそという感じですぐ傍に来て、まめまめしくお世話をした。小宮先生は、細面の整ったお顔で悠然として、殿様のように気持よさそうにしておられた。
安倍先生は徳子さんの三味線で、吉右衛門直伝の「系図」という小唄を唱われた。
ひいじいさん ひいばあさん おじいさんにおばあさん おとっさんにおっかさん……
「系図」というのは仮の名かも知れないが、自分を中心とした四親等までを|詠《よ》み集めた面白い小唄だ。安倍先生は、徳子さんの手をひいて、床の間の前に坐ったり、唄いながら突然他のことをおっしゃったり、その行動は自由で、野人風であった。
小宮さんは何も芸をされない。専ら批評をし、安倍さんをやっきにさせたり、冷笑させたりし、二人の舌戦は、寮とか下宿、|朴歯《ほおば》の下駄という明治の書生の匂いをただよわせた。夏目漱石の家の「木曜会」の名残りが、お二人の中に残っているような感じがした。そして私は、父がお二人よりフェミニストだという感じを強く持った。
父は漱石が大好きで、私は、父がその人間形成と人生態度をきめる上で、いちばん共感し、かつ影響をうけた人は漱石だったといってよいと思っている。今、父の全集の書簡集を見ても、その文章も思想も、若い友人に対する態度も似ているのに驚かされる。
だから、安倍、小宮先生とのおつき合いが繁くなったことは、父を豊かにした。お二人によって、漱石に対する父の思考は、深みと複雑さを増したといってよいと思う。
小宮さんにとって、漱石は神に近い存在であった。小宮さんは自分の一生を漱石にうち込み、すべてを知りつくしている様子であった。
吉右衛門も、小宮さんの「係」であった。見物していらっしゃるときはもちろん、ふだんも、父たちと食事をしている席に、よく夜更けてからも吉右衛門を呼ばれたという。吉右衛門夫人を、徳子さんを呼ばれるときと同じに、
「おい、お千代」
といっていらっしゃった。小宮さんは、完全占領の好きな方だったようだ。吉右衛門の死を聞くと、すぐ父は小宮先生にお悔み状を出している。
今放送局の友人からの知らせで吉右衛門が亡くなつたことをきゝ深くお悔み申します。お淋しいことでせう。
僕も吉右衛門を見て来た四十余年のことを憶ひ一つの時代が終わつたといふ感を深くします。
千代子夫人に貴兄からよろしく弔意を御伝へ下さい。
私は漱石について、たった一度しか、小宮さんとお話ししたことはない。それは先に書いた「吉右衛門を見る会」で歌舞伎座に行ったときのことであった。幕間に、茶色の外套を着て、寒そうに坐っていらっしゃる小宮さんと私は並んでいた。その数日前、初めて雑司ガ谷墓地という所に行って、漱石のお墓を見て来た私は、そのお墓が、あまりにも私の持っている東京人としての漱石の感じから遠かったので、そのことを口に出していた。
「あれはどなたが設計されたのですか」
という私の問いに、言下に、
「未亡人の趣味です。漱石はあんな悪趣味じゃありません。いやな墓ですよ」
といわれる。
「安楽椅子のような珍しい形ですね」
というと、
「いやな墓です」
と吐きすてるようにいわれた。
私は次の言葉を失い、未亡人に同情の心をちらと持った。小宮さんは自分が漱石の「係」であることに、なんの疑いも持っていられぬようであった。父が小宮先生の追悼文――それは父の絶筆に近いものであるが――の中で書いているように、
「漱石の偉大そのものは、小宮の有無によって左右されないが、その偉大を世に知らしめる上において、小宮の功績は没すべくもない」
というのは事実であろうし、その一生をささげきった熱情は、大したものであったが、小宮さんは、少年のように無邪気なところがおありだったから、その評論家としての眼は、時にさまたげられたのではないか。「漱石夫人悪妻説」はそれである。しかし、漱石研究家として小宮さんは世間に名を成されたのだから、世の中への影響力は大きい。私の家でも、父は、
「漱石は悪妻だったから偉くなったんだよ。家ではお|母《かあ》が偉いから、俺は偉くなれないのだ」
と私たちに疑いもなさそうにいい、私もごく簡単に、漱石夫人は悪妻と覚えたが、お子さんの夏目伸六さんの文章を読むと、家族の方たちにとって、これはずいぶんやり切れないことのようだ。
父は漱石が好きであった。会ったことがあるわけではないが、漱石に共感するものをたくさん持っていた。
父と漱石の共通点は、東京人であること、|倫敦《ロンドン》に留学したこと、学校の先生だったことなどである。そして、父が共鳴することは、人生に対する態度が真面目で、嘘を憎み、虚偽を憎み、偽善を憎み、常に真実を語ることにつとめ、自分に忠実であろうとすること、勲章や博士号を嫌い、私生活の清潔であったこと、などであった。
父は、自分も東京人であったので、東京の人間が、すぐ人に|渾名《あだな》をつけたり、駄じゃれをいったりする傾向のあることを認め、漱石の中のそういう部分をひどく面白がっていた。そして一面、小宮さんたちが、それに深く意味をつけようとすることを批判する気持があった。ことに、小宮さんと父の交遊が深くなって行くにつれ、在来の漱石研究に対する疑問も出て来たようだ。父には東京人として漱石を理解している自信が相当あったと思う。
父は父として一見識を持った漱石論を発表している。父の漱石論の重要なポイントは、漱石の、若くして逝った|嫂《あによめ》に対する気持が尋常一様でないことを指摘したもので、その当時、漱石が友人正岡子規に宛てた手紙から類推している。父は、漱石のその気持が『それから』『こころ』『行人』『門』のテーマとなっているのではないか、と想像した。現在漱石の研究は、この嫂への思慕というものが、大きく取りあげられていて、父も本望であろうが、
「その想像説を、漱石の権威者である小宮豊隆君にも話してみましたけれど、いい説だと云って取り上げてくれようとはしないのです」
と、晩年、慶應の学生に特別に講義した文芸談の中で愚痴をいっている。
小宮さんはきっと父に、
「こんな考え方は出来ないだろうかね」
とでもいわれて、
「そんなことはない」
とおっしゃったのだろう。小宮さんの長年固く守られた崇拝を基礎とする漱石研究には、もはや何ものも加えることは許されなかったであろう。
父はひいき強い人だったが、学者として、なるべく冷静に客観的に物を見ようと心がけるところがあった。福澤先生のことも、伯父水上瀧太郎のことも、そうであった。
けれども、ひいき強さを真正面にふりかざして、人生を歩まれた小宮さんを、羨ましく思う反面があったのは確かなことである。だから、小宮、安倍両先生といるときの父は、「ダアとなる」といっていいような顔をしばしばしていた。
長與善郎氏は、戦後のある日、三田の家へ母の弟がお連れして来て、それから家族ぐるみのおつき合いに発展した。
この方の毒舌は、全くあっけにとられるように小気味がよくて、|内裏雛《だいりびな》のように高貴な美しいお顔で、事もなげに、片端から人のことをけなし始められると、不思議な魅力に見とれてしまう。青白いお顔は繊細で、神経質そうなのに、とび出す言葉は、人の思惑などひとつも考えていないという風であった。
父はなかば口を開けた、笑いを用意した顔をして、誘い出すように、
「じゃ、誰それはどうだ?」
と質問するが、たちまち一刀両断のようなご返事が戻ると、一座を見廻して、たまらないというように笑うのだった。私たちにも「ほらおかしいだろ、面白いだろ」と口にはいわないが表情で念を押しては、また笑っている。
長與さんは、まだあまり物の豊かでないときに、私たちには大御馳走の野田岩のうなぎ重箱を差し上げたら、蓋をあけて、その真ん中をお箸で何度もつきさしながらお酒を呑み、そのまま一口も召し上がらずにしまった。お箸を持って重箱に手をつけられるたびに、召し上がるかと思いながら見ていると、またそのお箸は空中でふり廻され、そしてまた重箱の真ん中につきさされ、それを繰り返されるのを見ていて、私は気疲れがしてしまった。
「あれは馬鹿だ」
「あいつは低能だ」
という言葉が、やんちゃな駄々っ子のようで、一つも憎らしくない。そして毒舌の合間には、恥しそうな、人のよさそうな笑顔をされる。
長與さんの「銀河に対す」という小説は、疎開先で娘婿の悲報をきかれたことを、さり気なく書いておられるのだが、家に来られた当時の長興さんには、心の中に淋しい風が吹いている部分があったのだろう。父も戦争で息子を失い、婿はシベリヤで生死の知れない頃であった。
未亡人になられたお嬢さんの将来を心配して、真面目な相談に来られた日もあった。その時、私のことも訊ねられたという。長與家もお嬢さん二人で、お孫さんはおられたが、家族構成、それに|下剋上《げこくじよう》の父親批判、またすべてのことに批評精神が旺盛であるという点で、共通していることがわかって、ある時、どちらの家の娘がひどいかを決めることになった。親たちは謙遜か自慢か、しきりに、
「家の娘の方がひどい」
といい合ったが、一度比較する会をしようということになって、広尾の小泉の家に集まった。お互いに父親の悪口をいったが、横暴だとか、勝手だとかいうことは共通していても、その表わし方が違うので、結局両方の資料を交換し合うような形になったが、お互いに思いもよらない父なので大笑いになった。
そのとき、私が父のことを批評したら、
「これは相当手きびしいぞ」
と長與さんが私の坐っている列の上座から、御家族の肩ごしに首をのばして、こちらを御覧になった。そのひきこまれそうな人なつかしい笑顔は忘れ難い。
長與さんの絵は素晴しい。展覧会で一堂に集められてみると、どれも器用でない。しかし、深い、鋭い、胸にしみ入る美しさがある。
長與さんは、全然まやかしもののない感じの方であったように、絵にも不純な分子がひとつもない。戸隠神社の杉の絵は、展覧会で拝見して家中で感心したが、ことに母が欲しい欲しいと夢中になった。父が長與さんにそのことをお話しすると、すでに人に贈ってあったものを、とり戻してこちらへ下さった。長與さんは、父と違って、そういうことを無造作に無邪気に、さっとしてしまわれる方であった。父も母もびっくりしたり恐縮しながら、大喜びで、家の宝物にした。
長與さんは、母のことを、
「あれはいい」
とほめて下さったそうである。母をほめられることの大好きな父は、喜んで私たちに吹聴した。
長與さんは、父についても、日頃の毒舌に似合わない賞め言葉に終始した文章を残して下さっている。
「俗に『よく出来た人』といふことをいふが、小泉君は正にその『よく出来た人』の中の最も優なる、又は模範的な見本といへよう……」
という言葉で始まるこの文は、ちょっと気恥しいほどであるが、あれほどの毒舌家にほめていただいたのだから、私としては嬉しい気がする。長與さんの普段の毒舌も、気のやさしい、傷つきやすい方の、照れかくしだったのかと思う。
昭和三十三年に父が、皇太子妃決定のあと長與さんにお出しした手紙に、
妻と二番目の娘を連れて宮の下に来ました。(長女は夫と共に大阪転任)始めて手紙を書く閑が出来ました。
先日の長文の御手紙、また神戸新聞への好意に溢れる御寄稿、|何《いず》れもありがたく、くり返し拝見しました。殊に神戸新聞の方はホメすぎで赤面の至りです。
何れにしても正田美智子さんが世にも立派なお嬢さんであることは、実にありがたい次第です。この頃はたびたびお目にかかりますが、話をするのが、五十も年のちがふ僕にとつても、実に楽しいので、点のからい貴兄が会はれてもキット褒めるだらうと思ひます。
と書き、さらに、珍しく内幕話を書いている。父も毒舌の長與さんにほめていただくのは、よほど嬉しかったのだろう。
|連翹《れんぎよう》が茂り咲いて、庭の土の黒々とした目黒のお宅で、お嬢さん方のおいしいお手料理をいただいた頃は、長與さんもまだ勢い盛んでいらしたが、私がロンドンに行っている間に亡くなられた。
拝啓 突然手紙を差上げますことをお許し下さい。
別便を以て、前年戦死せる|悴《せがれ》の事を記しました一冊子を差上げたく、御送り申上げました。到着の上若し御一読下さることを得ましたら此上なき仕合せに存じます。書中にも記してありますやう、伜は生前常に御作品を愛読して随分多く拝見してゐたやうであり、また遺族たる小生夫婦及び二人の娘も共に殆ど欠かさず御作品を拝見して居りますところから、此冊子も一部差上げて読んでいたゞく事が出来れば仕合せだと一同も申しますので御迷惑を顧みず御送り申しました次第、何卒御諒承下されたく存じます。
|猶《な》ほ右の書は一家内の私事に終始し、殊に戦歿士官の事を記したもので時節柄世間に憚るところもあり、親戚の外は極く少数の友人に示すに止めて居ります。其辺もどうかお含み置き下されたく存じます。
十二月十日〔昭和二十一年〕
[#地付き]敬具  
志賀直哉様
[#地付き]小泉信三 
父は昭和十七年、長男で一人息子の信吉を海戦で失い、大きな打撃を受けた。幼い頃は何度も死にかけるほどひ弱くて心配し、少年時代は意気地なしが心配できびしくしつけ、成人してすべての点で父の好みに合って来たとき、その突然の死が訪れたのであった。
父は人前には出さなかったが、悔恨と愛惜の心は、日を経るにつれてやり切れないものになっていった。家族の会話の途中でふと、
「おにいは……」
という言葉が口をつく。私たちから兄の日常のことを聞き出すのである。
姿が見えないと思っていると、兄の部屋に入ってレコードを聞いている。兄の机の前に腰をかけて、兄の本棚を見ている。せまい兄の部屋に、父は一杯になっているように見えた。父の心が、兄の部屋を埋めつくしていたのであろう。
突然に私に向かって、
「僕はおにいに何もしてやらなかった。女の子は連れて出かけたが、男の子は一人でやれ、といった。可哀そうなことをした」
といったこともあった。
そして、兄への心づくしとして、私家版の『海軍主計大尉小泉信吉』を書き出したのであった。空襲で印刷所が焼けたりして、出来上がったのは、平和が訪れてからであった。
父が自分で読んでいただきたい方をきめたが、志賀さんは、父が長年ひそかに尊敬していた方であり、文章のお手本にしていたし、私たちも愛読者であったので、父が、
「志賀さんにお送りしようか」
といった時、大賛成したのであった。
本は最初から多くの人にほめられ、父のところにはたくさんの御礼状が集まった。
父の姉、松本の伯母は、
「いやな本だよ。泣き通しにさせられるじゃないか」
とさびしい微笑で私にいった。
本を編集して下さった長尾雄さんは、父の文章を一カ所だけ気になるといわれた。それは、
「……南を受けて、冬、障子の内で書き物をしていると、紙が乾いてインキが走るので、時々原稿紙に霧を吹いて使用したほど、それほど日当りの好い家であった」
の個所で、「霧を吹いて使用した」ということだけで、日当たりのよいことはわかるから、「それほど日当りの好い家であった」という部分だけは余計な記述だというのであった,
父もこれは、
「そうだね。その通りだ」
と素直に認めた。
そのように、本についての感想や意見が毎日の話題となって、戦争であらゆる意味で打撃を受けた私の家に活気をつけていた。
志賀さんに本と手紙をお送りしたあと、私たちは、どういうことになるのか、御返事が来るかしら、と毎日なんとなく期待していた。
拝啓、暫く伊豆の方に行つてゐまして一昨日帰宅 御手紙と御本ありがたく拝受致しました、御礼申上げます 古いものばかりですが「豊年虫」といふ本御送り致します 何卒御霊前に御供へ頂きます
御怪我すつかりよくおなりになりましたか 当時田中〔耕太郎〕君大変心配してゐられよく御噂伺つて居りました、
御本は早速拝見致すつもりで居ります。敬具
十二月十七日〔昭和二十一年〕
[#地付き]志賀直哉 
小泉信三様
拝啓 御手紙、続いて御作品集二冊有り難く拝受致しました「豊年虫」「革文函」へ態悴の為めにと御署名下され誠に替へ難きものと存じます |宛《あたか》も本日は同人の命日にて多分親しき朋友等も来る筈に付き、見せてその人々をも喜ばせたいと思つて居ります。厚く御礼申上げます。御作品の二三のものを重ねて拝見しました 今の時節にこれ丈けの装幀紙質の本を手にすることを楽しく思ひました。
マルクシズム批評の拙著一部、御読みにもなるまいと思ひますが、御礼の印までに御送り申上げます(数日後発送)。何卒御納め下さい 敬具
十二月二十二日〔昭和二十一年〕
[#地付き]小泉信三 
志賀直哉様
前略 四五日前に御手紙それから一昨日マルクスの御本頂きました 厚く御礼申上げます 前の御本未だ終りまで拝読して居りませんが明るく淡々と書いてあつて|却《かえ》つて深い感動を受けました、後の御本もそのうち分るところだけ拝見したいと思つて居ります 御礼早々
一月二日〔昭和二十二年〕
[#地付き]志賀直哉 
お手紙は来た。父はすぐお礼状を書いた。そしてまた、葉書をいただいた。
葉書の方を私は父からもらいうけた。
「明るく淡々と書いてあつて却つて深い感動を受けました」
というところが嬉しくて、お葉書の男らしいさっぱりした字くばりが目に焼きついた。
父にとって、志賀さんの文章は理想であったから、ほめていただいたことは最高であった。
私が女学校一、二年の頃、夏休みの宿題に、小説を読んでその感想を書くものがあった。父に「本をえらんで」と頼むと、志賀直哉の『小僧の神様』、野上彌生子の『海神丸』、泉鏡花の『歌行燈』を渡してくれた。三冊とも岩波文庫で、『小僧の神様』の二ヵ所が三角に分厚く折り曲げられ、
「ここは読まなくていい」
といわれた。後で見ると「范の犯罪」と「好人物の夫婦」である。私は都新聞の身の上相談欄を、いけないといわれても読んでしまうような娘で、父としては考えがあってのことだったろう。折りまげられた所はおごそかな力があって、さすがの私もしばらくは読まないでいた。
その「小僧の神様」は、私が志賀文学を読んだ最初であり、それから次々と|惹《ひ》きつけられていった。その時の宿題はほめられ、「いい選択である」といわれた。鏡花もその後、全集を読んでしまった。
父は、志賀さんの文章は「特別の活字が使ってあるような気がする」といったが、その言葉は私にもいちばんぴったりする。
私はどんどん志賀ファンになった。父がまた、食卓の話題に志賀文学を語った。「城の崎にて」の蜂の死骸の描写、いもりのいる沢の夕暮の景色。
戦争中、父は家を楽しく楽しくと心がけていた。それは兄を失った家族の気持をひき立てるつもりだったのだろう。家の焼ける日まで長唄の稽古はつづけていたし、空襲の合間を防空頭巾をかぶって親子で芝居を見に行った。小説作りの競争もした。題は、最初が「朝・昼・晩」、次は「瑣事」、いずれも志賀さんのを拝借した。私たち娘は、経験も見聞も乏しいのが、かえって幸いして、単純に書いて、母たちの審査に一位、二位をかわるがわるもらったが、父はあまり材料を欲ばりすぎて、二度ともビリであった。
こうして、私たちは志賀さんを尊敬し、小説の中に出て来る奥様、お子様たちにいいようのないほど親しみを感じていながら、お見かけしたこともなく、一生お目にかかることはなさそうな気がしていた。私はたいへん熱心なファンであったが、それだけに、かえってお目にかかりたいと思っていなかった。
戦争が終わる頃、父は負傷で入院していたが、私は祖母に付いて田園調布にいた。伯父松本烝治の家の一部で、おも家といわれる部分には、松本とその女婿の田中耕太郎がいた。志賀さんも「鈴木貫太郎」その他の中に書いておられるが、松本の家には、伯父の立場上、方々から情報が入るので、志賀さんや児島喜久雄さんは田中たちと集まって、情報を交換したり、終戦について話し合ったりしていられた。志賀さんの見える日、従姉は私に、
「お目にかかりにいらっしゃいよ」
といったが、
「あんまり尊敬してるから、お目にかからない方がいいの」
といって、そのままになった。
志賀さんの「鈴木貫太郎」の中に、八月十二日に谷川徹三さんが「『いよいよ終戦に決つた』と、知らせに来られたのに、その晩、空襲があり、話が全く引繰り返つた……」とあるが、私もその時、田中から戦争が終わるといわれて、気早にも、もんぺもはかずに入院中の父を見舞いに行き、夕方になって警戒警報となり、見動き出来ぬ父を皆でかついで病院の地下室に入った。もう戦争は終わる、夫は還って来る、と浮わついていた心がすっかりあわてて、いちばん怖い空襲だった。ポツダム宣言のビラを病院の傍で拾ったのもその頃だった。
戦争は終わり、父は二十二年に塾長をやめて物を書き始めた。外出するようになった父は、先に書いた「心」の生成会に入り、志賀さんや梅原さんその他の方々とお目にかかる機会がふえた。志賀さんは、父の考えていた通りの方であったようだ。兄の本をお送りした時の御返事から、私たちはことさら志賀さんに親しみを感じた。「未だ終りまで拝読して居りませんが」とか、マルクスの本を「そのうち分るところだけ拝見したいと思つて居ります」というところが、とても|らしい《ヽヽヽ》と思った。
志賀さんの全集には、父宛のお手紙も載せられたが、日記の中にも、また「東宮御所の山菜」にも父の名が散見される。戦後のことばかりである。長與家と親しい志賀さんは、長與御夫妻から父母のことを聞かれて、親しみを持って下さったようである。父母も志賀家へお招きをうけたし、志賀さんも私どもへ遊びにいらした。あいにく、私はその日、いなかったけれども……。
志賀さんのお宅にお招きをうけた時、父は興奮して、一人のファンの青年となった。志賀さんが、食卓で気軽に立って、棚の物をとったり、お酒の瓶を持ってきて栓を抜いたりされるのを、父はたいへん感心して帰ってきた。父にはロンドン仕込みの、婦人をたすける精神はあるのだが、家庭の食卓では、ローストチキンを切るときだけしか働かない、坐ったきりの主人であった。
志賀さんのこだわりなさと気軽さは、父に目をみはらせるものがあったようだ。
父は、そのころよく、
「どうも、文士とか作家の方がつき合いやすいね。うちは作家のつきあいがらくだね」
といったが、母が比較的自由な家庭で育ち、その兄が水上瀧太郎だったせいか、家の風は、祖母が亡くなり父が塾長をやめたころから、次第に気らくなものになって行った。
志賀さんの日記、昭和三十五年の一月二十九日の欄外に、
(小泉夫人娘さんと来て康に帯留、神戸のチョコレートを持参玄関にて帰る。午後「新文明」小泉よりとどけてくれる。好意をもつて書いた文章あり)
翌三十日
午前康と共に銀行、帰途東横に|で《ママ》電気スタンドとラクダシャツヅボン二組を求む。のれん街の入口にて康の買物を待つてゐる。小泉君の娘に会ふ 神戸のチョコレートの優秀なる事を云つて礼を云ふ……
とある。
母と二人で渋谷のお宅に伺うとき、長年の尊敬で、私は緊張して、門から玄関までの細長い石だたみを歩いた。すべてよく知っている感じであったが、玄関におひげの志賀さんが出ていらして、
「おあがりなさい。おあがりなさい」
といって下さるお声だけは意外だった。鼻にかかった、かん高いお声はお顔と合わない気がした。あとで、学習院の声というものかと思った。
母は、あんなにおっしゃるのだから、ちょっと上げていただいたらと思うのに、真赤になって、汗をかきかき、御辞退した。その翌日、私は東横の入口に立っていらっしゃる志賀さんとパッと目が合い、
「昨日はありがとう。あのチョコレートはおいしいですね」
といっていただいたのである。
私は長年、志賀さんのものは残らずといっていいほど読み、そして、噂をうかがうだけで満足し、お会いしたくはないなどといっていたが、お目にかかると、不思議なことに二日ずつ続いた。
やはり三十五年の二月二十日、
東、足煖炉を持つて誕生祝ひに来る 瀧井来る 米山夫人田村泰次郎夫人祝物を持つて来る 小泉信三氏より花を届けてくれる 中村未亡人もシクラメンの鉢を祝ひに持参 六時半より四川飯店、小泉三人 安倍 梅原 長與各二人 嘉治君一人及び余等二人九時頃まで愉快に話、安倍高麗焼の小さい油壺を祝ひにくれる。
この「小泉三人」とは、父母と私なのだ。二日つづきでお目にかかった印象が新しかったのか、大人ばかりの中に一人入れて下さった。その時の記念写真は、今私の宝ものである。
志賀さんは主人役として、実によく気のつく方だった。皆に食べさせ、御自身も料理の一つ一つに関心と心づかいを見せていられた。四川飯店の主人にも、その間に「おいしい」と大声でいわれたりした。奥様はその志賀さんの御命令で動かれて、ごく自然に皆をもてなして下さる。志賀家の食卓では、志賀さんがコンダクターなのだった。家の父は母まかせで、お客のときも何が出てくるか知らなかった。志賀さんの作品に出てくる「妻」が、私は大好きだったが、思った通りの方だった。父は志賀さんと、かなりくだけた言葉でお話ししていた。一人だけあとからお友達になったが、そのころにはだいぶ慣れていた。ただ、皆さんの歯にきぬをきせない話し合いを楽しんで眺めているところがあった。
この誕生日の日記は、志賀全集の日記のいちばん終わりなのである。これ以後、日記は書いていらっしゃらない。
その翌日、私が家の近くの青山南町の停留場で電車を待っていると、一台のタクシーがすっと寄って来た。何かと思ってよけるようにすると、車の窓をあけて、
「小泉さん、小泉さん」
と呼ばれるので見ると、志賀さんだった。
「どこ行くの? のっていらっしゃい」
そしてドアをあけ、のせて下さった。私が秋山ということは忘れて、ともかく、のせてやろうという御親切で「小泉さん」と大声で呼んで下さったのだろう。久しく「小泉さん」と呼ばれたことがなかったので、私は事態のよくのみこめない気持のまま、虎ノ門までのせていただいた。何かお話ししなければと思い、「『池の縁』が大好きだ」というようなことを、とりとめなくお話しした。どんな質問をしても、ご返事はうかがわなくてもわかっているような気がして、でも何かうかがってみたく、あせっているうち虎ノ門に来てしまった。車を降りて、いつまでもお辞儀をしていた。急にわれに返ると、父に話さなくちゃあ、と足がはずんだ。
昭和三十五年の一月と二月は、私にとって、凝縮した志賀さんの思い出のある二カ月であった。
父も死に、志賀さんも亡くなられた。全集が出て、また改めて読んで、父が志賀さんを好きだったことが、本当によくわかる。
志賀さんと父を比較して考えることは、志賀さんの周囲の方々には、|冒涜《ぼうとく》と思われるであろう。思想の自由さからいえば比べものにならず、まことに申しわけないのだが、志賀さんのご本を読んでいるとき、私はいつの間にか、父と二重写しにしていることがある。父の文章を読むときより、さらに父を感じるといってもいいだろう。
ことに、私に感傷に似た気持を持たせるのは、御子息直吉さんとの対話である。
幼かった兄に、
「信吉、一分間無言」
といった父と、直吉さんに、
「雄弁は銀、沈黙は金」
といわれた志賀さん。
男っぽい、父親らしい父と、女の子の中の一人息子でやさしいが、父親から見れば意気地がなく、「もう少し男は男らしくしたらどうだ」と思われている息子のシチュエーションが、どうも似ているように思われ、兄を亡くしてしまったあと、「朝・昼・晩」でも「日曜日」でも、そこに出てこられる直吉さんと志賀さんを、幼い日の兄と父に重ねて読んでしまう。
それは、志賀さんが直吉さんと旅行されたことを書かれた「早春の旅」へとつづいてゆく。旅の前半は、志賀さん御自身のためで直吉さんがお伴、後半は、
「これからは俺の方がお供だよ」
「それぢやあ、これから自分の鞄は自分で持つ事にしませうか」
私は今までの旅も楽しかつたが、直吉が喜ぶだらう、これからの旅も楽しい気がした。
ということになる。私はこの本を時々出して読む。そして読む部分は、この志賀さんがお伴になられた宇奈月のところからだ。そして、父と兄の旅行のようになつかしみながら読む。
しかし実際には、父は兄と二人きりの旅行をしたことがない。女の子はどんな家に嫁ぐかわからないから、若いうちにいろいろ見聞させておきたい。男の子は自分の力でどんな運命もきりひらいていかれるから、どこへも連れて行かない。この父の考え方は、理由がはっきりしているようだが、父の中に、遊ぶこと、楽しいことの好きな兄を、押さえる気持が働いていなかったとはいえないと思う。それは兄の死後、父に|癒《いや》しがたい心の痛みを与えることになったのだった。
志賀さんも「日曜日」の中で、魚捕りに行きたがる直吉さんに、
「お前の為めに出かけるのぢやないからね」
と、九つの子に厭がらせをいった、といっておられるが、父もだいたい同じような意地悪のところがあった。
しかし、意気地なしだと思っていた兄が、どんどん大人になり、父の好みの、大げさにものをいわない青年になって、本当に心が通い出したとき、兄は死んでしまった。
「早春の旅」は、大人になりかかったころの、父に対してていねいな言葉づかいだが、一方にだんだん自分の考え方がはっきりして、父と友達づきあいのところもあった兄を思い出させる個所が、至るところにある。
「何かお書きになつたら」
「さう簡単に云ふなよ」
この問答など、涙ぐましくなるほど兄を思わせる。
父は『海軍主計大尉小泉信吉』を書くころ、この「早春の旅」を何度も読んだのではなかろうか。父が一番したかったことは、兄とのこういう旅行ではなかったか。
志賀さんは自由な作家でいらしたし、父は、兄のいるころは窮屈な塾長だったから、当時はこんな旅は出来なかったかも知れないが、戦後の身軽なライターとなってからの姿を考えるとき、兄との日々にも、あの自由さがあったらと切に思う。
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父と芸の人々

杵屋勘次師
父は日本の芸能を愛し、一芸にひいでた人々を尊敬した。「天賦と修練」は父の好んだ言葉であった。学校の先生だった父に、芸道にたずさわる方々とのおつきあいがだんだんふえた。父の追悼録は、そういう意味でなかなか華やかである。それらの方々とのことを書きたいと思う。
今年(昭和五十年)三月二十三日、私の長唄の師匠、杵屋勘次師が急逝された。享年八十四。
父がえらんでつけてくれた和歌の岡麓先生、長唄の勘次師匠。若くて感受性の強い時に、心から傾倒した先生は、遂に二人とも世を去られ、父もすでに亡い。一つの時代が過ぎてしまったように思う。
私が田園調布の勘次師のもとに、母に連れられて入門したのは、昭和十四年の春、専門学校へ入った年であった。それまで習っていたピアノがいやで、父母に頼んで転向したのである。父母は伯母(父の姉)松本千に相談して、勘次師匠に決めた。伯母は何事によらず一級品の好きな人で、その選択はきびしく、的を射ていた。
勘次師は名人・五世勘五郎の愛弟子で、十八歳で勘五郎の名取りとなられた。勘五郎作曲の「新曲浦島」「多摩川」「|賤《しづ》の|苧環《をだまき》」などがお得意で、その天衣無縫の芸は、大正時代、有楽座の名人会の花形であった。母は福澤邸で演奏も伺ったといっている。もちろん、先生歿後のことである。
福澤家も、先生が芸好きで、名人上手を家に集められ、福澤門下の家々は、その影響か芸を好むものが多い。父も多分にそのかたむきがある。伯母が福澤家のお嬢さん方とご一緒に、花柳流の踊りを習っていて「かっぽれを踊った」といって、父は伯母のお通夜のとき、その孫たちに、
寝ろてばよう 寝ろてばよう 寝ろてば寝ないのかこの子はよう
と背の子を揺する振りを真似して見せた。
父は記憶がよくて、言葉に対する興味が強かったせいか、長唄でも常磐津でも、むかし聴いた歌詞をよく覚えていた。宴席で聴いた唄でも、気に入ると書いてもらった。
幼いとき、近所のお師匠さんの家から聞こえてきたという長唄はしみ込んでいて、すぐ口をついて出た。母の機嫌のかんばしくないとき、大きな背中を前かがみにし、首をちぢめて、
|繻子《しゆす》の袴のひだとるよりも ぬしの心はとりにくい さりとは……
と身体を揺すって、いたずららしい顔をした。
勘次師は父の長唄好きを知り、父母や祖母を喜ばせようと、私に唄を一つ教えこまれるたびに、祖母の家で私に唄わせた。家中みな照れ屋で、親が子の唄を改まって聴くなどという空気ではなく、親子ともども、ありがたくない話であったが、前座の私がすむと、お師匠さんの芸を聴かせていただけるので、父も我慢して私の唄を聴いた。
父は「杵屋勘次さんと私たち」という文章の中で、
「私はただ無暗に聴くのが好きというだけの人間で、伎芸のことなど何もいえないが、しかしこの十年あまりの間、聴くたび毎に勘次師匠の長唄を結構なものだと思わないことはない」
と書いている。
師匠は、女性の芸として珍しく強い、はりのある唄という定評であったが、天性の稀にみる量のある美声で、強い反面に繊細優婉な節まわしを持っておられた。「勧進帳」のあと「秋の|色種《いろくさ》」などを聴かせて下さると、
「剛球投手がカーヴを投げるようで、こてえられねえ」
と父は喜んだ。
私の兄の死後、父は「賤の苧環」を必ず注文しては唄っていただいた。全く毎度のことであきれるくらいだったが、
昔を今になすよしもがな
の、父のいう「哀切きわまりない師匠の節まわし」が、父の心のひだの中のあらゆる悲しみを洗い流す役をしていたようである。
師匠は鶯亭金升氏きわめつきの江戸言葉で、東京下町のこだわりなさと、はりと意気地を持っていられた。
月謝は、初めに母に持たされたものを、多すぎる、と半分お返しになった。
「|頸《くび》の|瘤《こぶ》を取りますから一週間お休み致します  勘次」
とだけ書いた葉書をいただいたこともある。
「私は三つで里子に出されて、そのまま里流れになりましてね」
とさらりと語られる。質流れというのは知っていたが、里流れは初めてだった。実に気前のよい方で、弟子にいろいろ下さった。初めの頃、いただくばかりなので、大人の真似をして、
「いつもいただくばかりで」
といってみたら、
「月並みなことおっしゃるもんじゃござんせん」
といわれた。名取りの人たちの稽古はすさまじくて、聴いているものがふるえてしまう。
「お前さんの頭はざるかい」
「いつまで待ったら覚えるんだい」
というような言葉が歯切れよく出てきた。ああいう怖いお師匠さんは、もうこののち見られないだろう。そしてそんなに怖いのに、実に慕わしいという先生にも、いまどきの子供たちは、めぐり逢えないだろうと思う。
私は月水金の稽古ではまだ足りず、火木土も笄町の稽古所へ出かけた。家族ほどにお目にかかっていたわけだ。父は田園調布のテニスコートにときどき来たので、私を迎えに来てくれたこともある。一風変わった女中さんがいて、父は玄関の中にも入れてもらえず、門の植込みのところに立って待っていて、お師匠さんを恐縮させた。
「いや、外できく三味線もいいものです」
と父はいった。
師匠と父とは「うまが合う」というものだったろう。最後までおつむのはっきりした方だったが、お答えに|澱《よど》みがなくて、父のお聞きすることに的確なお返事がかえってくる。父の好きな「イエス、ノーのはっきりした」方であった。演奏後は必ずご一緒に食事をしたが、父とお師匠さんの話題は豊富で、勘五郎師匠の話、團菊の話、芝居の下座についての父の質問、と賑やかだった。
「お|師匠《つしよ》さん、のどに悪い食い物ありますか」
「いいえ、ござんせん」
という問答はたびたびあった。
兄の死後は、演奏のほかに、母を笑わせて下さるため、惜し気なく、大滑稽の踊り「惚れて通う」「シャベリ」を見せて下さるのが例だった。「シャベリ」は寄席で覚えられたそうだが、本当に気どりのないもので、父は畳を叩いて笑った。そのあと二、三日、
「ダンナ土手までまいりましょう」
というのが、家中に|流行《はや》った。
師匠もまた六人のお子のうち、三人を失われているのだった。
父は師匠の天賦と修練をたたえ、妻であり母であるご苦労とその立場もたたえ、
「そのすがすがしい胸懐は、ただ達人のひとり能く到る境地であろう」
という。そして、師匠を「男らしい」とほめている。自分の母にも姉にも、男らしいよさを見ていた父の、好みに合った方だったといえる。
勘次師の唄は、人によっては間がのびすぎるという見方もあり、たしかに三味線は完全に制圧されていたが、それを考えるいとまもない天衣無縫の芸風に加えて、圧倒的な声量と気力があった。豊かで滞ることの嫌いな父の好むものである。父は何かの折、令息の雄二郎(東明柳舟)師に、
「おどかすのも芸のうち」
といったそうだが、これもまた、勘次師にも父にも共通する気質であったろう。
父の亡くなった日は、勘次師のおさらいの会で、私も出ることになっていた。勘次師は私の出られない理由を、義弟の病気のため、とのみ思っていらしたが、それが洩れると凝然とされたという。翌日弔問に見えたが、にわかに衰えられて、足もともおぼつかなかった。
いつお目にかかっても父の話ばかり出たが、「うらやましい」とおっしゃった父の死と同じように、その日まで稽古もつけ、お風呂に入り、誰にも迷惑をかけず、やはり誕生日の翌日亡くなられた。
古今亭志ん生師

父と一緒に、初めて志ん生さんの落語を聴いたのは、師匠が有名な十六回の改名のあげくに志ん生になった頃だったと思う。
東宝劇場のようにおぼえているが、親子四人、椅子に並んで聴いた。このごろ聞けば、慶應義塾の職員の慰安会だったそうである。
何人かの|噺《はなし》を聴いたが、志ん生だけ面白かった。といっても、噺はなんであったか思い出せない。まくらのなかで、
「甘くて、臭くて、怖いものは?」
「鬼が便所の中で煮豆食ってる」
というのがあって、今でも時々思い出しては笑う。甘いと思うのは鬼で、怖いのはこっちで、鬼とこっちから見ている人がめちゃくちゃなのに、もっともらしくいって笑わせる。
志ん生さんは晩年のように明るい感じではなく、黒ずんだ印象なのに、にこりともしないでおかしなことをいうのが、叔父横山長次郎に似ていた。
その日は、新作落語のくすぐりだくさんのものもあったが、生まれて初めて落語というものを実際に聴いた妹は、椅子からころげ落ちそうに笑った。母と私は、笑っている妹があまり面白そうなので、それを見て笑っていたが、父は、
「笑いすぎる」
といって怒った。父は押しつけがましいくすぐりを嫌った。安っぽい新作落語の、これでもかというようなくすぐりにのせられて、わが娘が笑うのは趣旨に反するのであった。
父は、若い時から|寄席《よせ》通いをしていた。夏の夕方、
「十番倶楽部へ行って来る」
とふらりと出かけることもあった。
戦争でいろいろな目に遭った父は、戦後しばらくの間、あまり外に出なかったので、皆様が父のために珍しいお客様を連れて来て、父に外の風を吹き入れてくださった。
志ん生、馬生の父子を連れて、林彦三郎氏が、当時名取家から拝借していた三田の家に見えたのは、昭和二十五年頃であった。洋風の家は坐るところがないので、広いリビングルームのテーブルの上にちりめんの座ぶとんをのせ、まず馬生さんが這い上がって何か|廓《くるわ》ばなしをした。「明烏」だったように思う。まだ若くて可哀そうな気がした。代わって志ん生さんが「らくだ」をはなした。一時間以上の熱演で、皆ひき入れられて聴いた。私は赤ん坊がいたので、仕方なく部屋の入口に子を抱いて、立って聴いた。林さんは、
「私もたびたび聴きましたが、こんな丁寧な『らくだ』は初めてです。珍しいことです。よっぽど気が乗ったんだな」
といわれた。芸のあと食事をした。お酒の好きな師匠はいいご機嫌であった。
この日から、父と志ん生さんとは仲よしになった。それから何回、こういう集まりがあっただろう。次の時から、洋間の床に座ぶとんを敷いて高座にした。そのうち、家も三田から広尾に移った。時には柳橋の「朝くら」の大広間のこともあった。志ん生さんが主で、文楽、円生、三木助、小さん、それに三味線の西川たつさんの俗曲、曲弾き、式多津さんとしての常磐津もあったし、吉原のおさだ|姐《ねえ》さんの木ヤリもあった。
聴かせていただいた落語の数は数えきれない。文楽さんは「芝浜の財布」を父に聴かせてから、高座にかける、といわれた。聴く方も緊張したものであった。その後、志ん生さんも「芝浜」をはなした。「元犬」「火焔太鼓」「ふたなり」「王子の狐」など、ずいぶん笑わせてもらった。聴き手も、家族の他に時々のゲストがあった。今はほとんど故人である。
馬生さんが語るところによれば、志ん生さんは寄席ではこわがって、ウケる噺しかしなかったという。独演会では俺の客だというので、いい噺をしたそうである。芸にずいぶん落差があって、真剣勝負なら強い芸だという。私たちは幸いにも、その真剣勝負の芸ばかり聴かせていただいたようである。
まくらなどでも、きりなくおかしい話をした。調子づいてくると、どんどん頭が働いて、おかしなことがつぎつぎ出てくるらしい。父は独得の八重歯をむき出しにして、無防備に笑った。私と妹は顔を見合っては笑ったが、妹は笑いすぎて、たいてい泣き顔になっていた。
志ん生さんはよく江戸の|小咄《こばなし》を読んでいたそうだ。ズボラなようで芸が好きで、貧乏をしても、出鱈目をしても、芸のことは忘れなかった。だから、十六回名を変え、講釈師にもなる転変の後に、ゆたかに花が開いたのであろう。
父が志ん生さんを好きだったのは、苦心談も何もしないで、貧乏も大げさにいわないし、わざとらしさや人にこびるものがない、あっさりした点だったろう。もしかすると、徳川直参の士族同士の血が共鳴したのかも知れない。
志ん生さんも本当に父が好きで、食事がはじまり、お酒がいい加減まわってくると、なかば口を開いて、嬉しそうに大きな父を見上げているポーズが目に残る。文楽さんは、志ん生さんと芸風も違うように、勝手放題にはなり切れない律儀さがあって、「愛宕山」の一八のように、席をとりもつ習性が顔を出した。いわゆる芸人らしい人だった。文楽さんは志ん生さんのことを「美濃部さん」と呼びかけた。美濃部孝藏は志ん生師の本名である。父と文楽さんの間にはさまれて、お風呂に入れてもらっている赤ん坊のように、いい気持そうな顔をしている志ん生さんは、「美濃部さん」と呼びかけられて、何かいわれると、おもむろに首を廻して、文楽さんの顔を見上げるようにした。甘ったれているような顔だった。まだ「みのべさん」という名が東京都に出廻っていない頃だ。
文楽さんと父にひき出されて、志ん生さんは断片的に面白い話をする。業平橋一丁目の家賃のいらない「なめくじ長屋」のこと、当時の吉原のこと。私に向かって、吉原の朝の風景を描写し、房楊子の使い方を教えてくれたので、
「学者の家も乱れたものだ」
と父は笑った。その頃、志ん生さんと道で会ったりするとにこにこして、
「どこい行くんです」
と親しみを見せてくれたものだ。
さて、もてなすことの好きな父は、なるべく志ん生さんの面白い話が聴きたくて、自分もいろいろしゃべる。
「皇太子様の小金井の御殿が、お留守の間に焼けたとき、お知らせすると、まず、『怪我人はありませんでしたか』とおたずねになったんですよ、|厩《うまや》火事ですよ」
師匠は嬉しそうに笑う。父はまた、私から仕入れたフランス小咄も披露する。「スコットランド人のけち話」「あまりいい夜なので、若妻を待たせてしまって、歩いて家に帰った鳩のご亭主の話」など……。
志ん生さんは、ねずみのお嫁さんが、お舅ねずみの猫なで声をいやがる話をする。師匠は「元犬」など、なんともいえない|可笑《おかし》味のあった、動物と人間のさかいめのないような話が好きだったようだ。
食事が終わるころから、文楽さんが「深川」を踊ったり、馬生さんが「夜桜」を踊らされたりして、そして毎回きまりとなった志ん生さんの「大津絵」が始まる。
冬の夜に風が吹く 知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ これさ女房 わらじ出せ 刺子|襦袢《じゆばん》に火事頭巾 四十八組おいおいと お掛り衆の下知をうけて、出て行きゃ女房はそのあとで うがい|手洗《ちようず》に身をきよめ
今宵ウチの人になア 怪我のないように
南無妙法蓮華経 清正公菩薩
ありゃりゃんりゅうのかけ声で 勇みゆく ほんにお前はまゝならぬ
もしも生れたこの子が男の子なら お前の商売させはせぬぞえ 罪じゃもの
父はこれで泣く。志ん生さんも、幕に「大津絵」を唄って、父が泣いて、それで毎年お正月になるという気持だったらしい。
父は楽しみというより、おごそかな顔をして、あらたまって食卓からはなれて坐る。ハンカチはもうふところから出して畳の上に置いてある。
志ん生さんはぐにゃっとした身体を、ちょっと立てなおし、ななめ前につき出す。身をひねった勢いで声を押し出すというように、つき出した上半身から、低く最初の一声がしいんとした一座の中にしぼり出される。
「冬の夜ォに、風が吹ゥくゥ」
初めて聴いたときは、聴いているうちに涙が出てきた父だが、だんだん「冬の夜に」だけで、以前の思い出と重ねて泣くようになった。
「うがい手洗に身をきよめ」と志ん生さんの顔が次第に赤みをおび、そして最後のくだりとなる。
「もしも」と一声、空中に投げつけるように切ると、「生れたこの子が男の子なら、お前の商売させはせぬぞえ」と一気に唄って「罪じゃもの」に無量の思いをこめて終わる。ここまでくると、父は堪えかねて|嗚咽《おえつ》を洩らした。
志ん生さんののどは、そのはかり知れぬ人生経験が味をつけ、色をつけた、渋いとか、しゃれたとか、一言に片づけられぬ深い滋味があった。唄い手の唄でなく、人生を語る「思いそのもの」である。
そのしぼり出す一言一句は、|纏持《まといも》ちの女房の切実な悲しみを、不思議なほどありありと、こちらの胸にきざみつける。
七歳から片親となった父は、みごもったまま夫に死に別れた母親の哀れを、年をとるにつれて、痛みのように胸の中に持っていたので、この唄はひとの倍も、父にはひびくものがあったようだ。よい唄を聴き、|美味《おい》しいものを食べると、不幸なひとのことや過去のさまざまなことを思って泣く父だったから、条件は完全に揃っていた。
父が亡くなって、志ん生さんは週刊誌などに、父を|偲《しの》んだ思いのたけを語ってくれた。また、父のために「小泉信三先生を偲ぶ、大津絵を唄う会」もしたと聞いた。
私たちは、父の三周忌に、新喜楽で久しぶりに師匠を見た。私はあいにく、秋山の父が、宴会の始まる前に気分が悪くなったので、席をはずさなくてはならなかったが、しばらくして戻ってみると、志ん生さんは噺のサゲがつかなくなって、どうどうめぐりの最中だった。とうとう幕をしめ、皆に抱えられて引っ込んだが、父が見たら淋しがるだろうと思った。
志ん生さんが、いつもこの時だけは真面目な顔になって、自分がお酒をのみたいばかりに、終戦の前に満洲に行ってしまった間、
「こいつが一人で、落語で一家を養っていてくれたんです。こればっかしゃ本当に感心してんです」
といっていた長男の馬生さんが、いつの間にか白髪の、古典を守る噺家になり、父の前に「出るのが怖い」といって泣いたという当時の朝太の志ん朝さんが、もうじき志ん生さんの名を継ぐという。
あのもったいないほど贅沢な小泉寄席を催してくださった林さんは、八十六歳で鎌倉にご健在であるが、もうあれからおよそ二十年の月日がたっている。
徳子さんと里春さん

日本の芸能を愛した父は、新橋、柳橋、また祗園にも、友達はかなりあった。
宴席でその人々の芸を見たり聴いたりするとき、父は食事がすでに始まっていても、完全に食卓から向きを変えて、演じる人々に見入った。
その態度は、一緒に卓をかこんでいる人々に、いま眼の前に運ばれてきてしまった熱い吸物を|啜《すす》ることさえはばからせるような雰囲気をつくっていた。
父は、その世界の友達の中に、相当な数のファンを持っていたようだ。
この父の友達とは、父が学校の先生をやめて、自由なライターになってから、前よりずっと気らくなおつきあいをした。
横浜、関内のその|友達《ヽヽ》たちが、三田の家に遊びに見えたこともあった。平沼亮三氏をリーダーとする野球のお仲間と一緒だった。だんだんお酒がまわってくると、父の膝に気軽に腰をかけてしまう人もいて、カーテンの向う側から見物していた私と妹を珍しがらせた。
もっとも、居心地はあまりよくなかったらしくて、すぐ次の膝に移動した。父は負傷後の、まだほとんど外に出ないころだったが、いつもよりくだけていて、声も一調子高かった。
父の膝に腰かけた人は玄関で、
「先生さよなら、奥様さよなら」
と歌うようにいって帰った。
志賀直哉氏の『暗夜行路』で、主人公の時任謙作があるイリュージョンを抱く、吉原の芸者「登喜子」のモデル徳子さんも、家のお客様の一人だった。
はじめて会ったのは、林彦三郎氏のお招きの、清元壽國太夫(今の美月太夫)を聴く席で、柳橋のどこか料亭であった。父母と私が早めに着いて、二階の一間に待っていると、音もなく徳子さんが階段を上がって来て、静かに長身をかがめて、ていねいに挨拶し、腰障子をあけたり、その辺に心くばりしながら、私どもの持ちものを片隅の乱れ箱の中にきちんとおさめ、私に何かお愛想をいってわらった。もうかなりのとしと思わせる顔に、志賀さんの書かれた笑くぼがあった。
その時の壽國太夫の清元「筆幸」はすてきで、父は、
「六代目の芝居を見ているようだね」
といい、徳子さんも、
「本当に結構な」
としみじみしたようにいった。
その頃は徳子さんに会う機会が多かった。お母さんのおさださんの木ヤリを聴いたときもあった。おさださんははきはきとさっぱりしたしっかり者で、徳子さんは吉原の芸者として、お母さんに芸も行儀もきびしくしつけられたといった。ずっとお母さんと一緒にいるので、六十近くなっても、初々しい箱入りのようなところがあることがわかった。
実際、自分でも世間知らずのようにいっていたが、一人だと、何かたよりなげな、気にかかるような人であった。
私の師匠、東明柳舟の薗八節での姉弟子で、宮薗千〆という名だった。その関係で、師匠の唄に三味線を弾いて、広尾の家で聴かせていただいた。
「雲の上に、ふわっとのせて運ばれるような」
と師匠はいわれたが、薗八の三味線のしみ入るような静かな音は、唄を誘ってゆくのか、唄に誘われてついてゆくのか、あやになって、聴く者を情緒の世界にひき入れた。
その日は、小宮豊隆、安倍能成両先生と、師匠の母君の杵屋勘次師もお招きしてあった。
小宮先生はしきりに、
「オイ、徳子」
と呼んで、お魚をむしることまで命じられた。
「お前」
と呼ばれて、何かにつけて用をさせられていたが、徳子さんは若いときからのならいか、いそいそとこまめに仕えた。小宮先生は、それが世にも満足という顔をしておられた。
安倍先生は、
「唄おう」
といって、徳子さんの膝をつかむと、ご自分の膝を至近距離に並べて、三味線を弾かせ、
ひいじいさん ひいばあさん おじいさんにおばあさん、……
と、吉右衛門から直伝の小唄「系図」を唄われた。
徳子さんについて、志賀さんは、「プラトニック・ラブ」という短篇の中で、
「数少い芸者の知合の中でも此芸者だけは特に通り一遍でない気持があつた。……」
「忘れてゐれば一年でも二年でも忘れてゐる。憶ひ出せば恋人だ」
と書いていられるが、当時の豊隆、能成、万太郎というような人たちも、志賀さんと同じようなイリュージョンを抱いたのではないか。
父は、
「僕は吉原というところを知らない」
といっていたし、徳子さんとは戦後のつきあいだが、志賀文学尊敬だったから、私と同じように“『暗夜行路』のころの世界”と徳子さんに特別の興味をもって、眺めていたようであった。
おさださんが病気になったことを聞くと、父は電話の前をしばらく往ったり来たりしてから、志賀さんにかけて、ふとんを送ってあげる相談をまとめた。
お母さんを亡くして、
「どうしたろう」
といっていたが、そのうち、三味線の手を忘れたり、同じとこを弾いてしまう徳子さんの噂を聞いた。薗八の会でも見かけなくなり、年月はたっていったが、亡くなったということも、聞くとはなしに聞いた。
私がロンドンにいたとき、父から来た手紙に、
「万太郎の、『わが胸に住む|女《ひと》一人冬の梅』は徳子のことださうだ」
とあった。
父の晩年、今までに感心した踊りのことを父と語り合うとき
「あんないいのはないな」
と父が必ずいったのは、祗園の里千代、里春姉妹の舞った「千代の友」であった。
それは昭和三十四年の五月で、大正十三年に慶應を卒業した方々が、父母を招いて、京都の野村別邸で見せて下さったものである。その頃、関西に住んでいた私たち夫婦も御相伴にあずかった。
新緑の晴れた日であった。野村別邸は南禅寺に近く、東山を借景したみごとな林泉、がっしりした日本家屋と、庭に面した座敷に並んで、中庭をへだてて能舞台がある。
私たちは、水を打った小砂利が光る野村別邸で車を降りると、まず、生け垣の新芽と赤松の美しさに歎声をあげた。庭では同級会が始まっていた。皆様にお辞儀をしながら、御案内をうけて、若葉の木洩日のちらちらする小みちを通り、池の中に浮かんだ舟型のお茶室で、お点前をいただいた。
お座敷での宴会となり、父も立って御挨拶をした。卒業三十五年のつどいである。二十人くらいの人たちの座が乱れかけたころ、幹事の注意で、一同、能舞台の見える縁の方へ集まった。三段ほどの|階《きざはし》があり、足のわるい父はそれに腰かけた。
能舞台は、磨かれた|床《ゆか》がにぶい光を放っている。外は明るい五月で、芝生も木々も、後に見える東山も、それぞれ微妙にかげりのちがう緑である。
白昼のしじまのうちに、三味線が鳴り出した。
するすると、二人の舞手は橋がかりから舞台にすすみ出てきた。渋い藤色と藍ねずみの衣裳、日本髪のたぼが、美しい長い衿あしに綺麗な線を見せている。
あし|曳《びき》の山も千とせをよばふなる 春の初風吹きしより 氷はとけてぬるみたる……
背中がすっと寒く、身ぶるいの出るような緊張が、見ている私を襲った。感動といえばいいのだろうか。あとで父と話し合ったら、父もそんな気持になったようである。
いつもかはらぬ松竹の |常磐《ときわ》の色の千代の友 これや千秋万歳と うたひ舞ふこそ楽しけれ
いのちのあるもののように、二人の間をゆき交うていた扇がとじられ、二人はしとやかに手をついて、終わった。三十五年の友情を祝って、つつましく、のびやかに舞い納め、人びとはわれに返って拍手を送った。
「すごいもんだ。大したもんだ」
父はハンカチで鼻をかみながらいった。京都、新緑、素晴しい芸、美しい姉妹。父の感激の種は揃っている。
私の記憶には、二人とも裾を|曳《ひ》いてと思われたのだが、先日、里春さんにうかがうと、
「姉ちゃんは曳いて、わたしはからげて」
ということであった。
父はそれ以来、里千代、里春のファンとなり、折があれば見せていただくようになった。残念ながら、姉ちゃんの方は宿屋を開業して「引かはった」ので、その後は里春さんの一人舞いとなった。
父は死ぬ十日ほど前にも、やはり大正十三年会の方々のお招きで、京都の新緑を見、野村別邸で里春さんの「七つ子」を見せていただいた。この世で最後の歓楽であった。
父の死後数年たってから、里春さんはテープをたずさえて上京し、父の霊前に「袖香炉」を手向けて下さった。見物は、家族と数人のゆかりの方々であった。
父の生前、幾人かの芸の方たちをお招きした二階の十畳と六畳のつづいた部屋で、息を呑む静寂のうちに唄声は流れた。
春の夜の闇はあやなしそれかとよ |香《か》やはかくるる梅の花 散れど香りはなほ残る……
水色に秋草を描いたひとえ姿の里春さんは、清艶な眼づかいに思いをこめて|気配《けわい》しずかに舞った。
舞い終わって畳に手をつかえると、眼を凝らしていた一同は、瞬時黙していたが、母がすっと涙をふき、笑顔になると、
「どうもありがとうございました」
と頭をさげた。
それから一同階下に降りて、一番のほめ手を失った食卓についた。
田之助さん

歌舞伎は、父の趣味の中で大きな場所をとっていた。父が若いときから見た役者の数は、相当なものになるだろう。ほとんど五十年間、父は芝居に興味をもっていた。東京が爆撃され始めても、空襲に挑戦するような気持で、ゲートルを巻いて、私たちと芝居に行ったことがあった。負傷ののち、四年ばかりは遠ざかっていたが、見始めると、また癖がついていった。
ひいき役者は、私が知ってからは、十五世羽左衛門、先代梅幸、六代目菊五郎。先代の左團次も好きだったし、昔は宗之助という人がひいきだったようだ。羽左衛門の盛綱、梅幸とコンビのかさね、源氏店、六代目の判官、仁木、父の感激した芸もかぞえきれない。
しかし、戦前の父は役者とのつき合いはなかった。若いころ、一夏、沼津の宿屋で橘屋一家と同じ屋根の下にいたことくらいで、そのときは一人のファンとして、その動静にだいぶ興味をもったようだ。
戦争の末期に、国民をはげます気持で、父の考えを小冊子にまとめて知人に配ったが、そのとき
「六代目は愛国者らしいから、送ってみようか」
と私たちに相談して、手紙と共に送ったことがあった。このときは、家中で毎日返事を待ったが、遂に来なかった。
私の友人のおばあ様が、
「小泉さんは、お若いときは羽左衛門に似ていられたけれど、だんだんふとって六代目になってしまって」
といわれたというが、怪我をする前は六代目に似ているとよくいわれた。六代目の方がずっと柔かい、線の美しい顔だと思うが。私の師匠が、六代目夫人から聞いた話によれば、あるとき銀座で、父と六代目がすれ違ったことがあるそうだ。
「いい男だなあ」
と六代目がいったという。父は六代目に気がつかなかったのだろうか。この話を父の在世中に聞かせたら、きっと、
「おい、もう一度あの話をしてみろ」
と何度も催促したことだろう。
そんなわけで、家に歌舞伎役者の訪問を受けるということなど、全くなかった。
戦後、父は安倍、小宮両氏と親しくなり、「吉右衛門を見る会」に入った。そこで、吉右衛門をはじめ、幸四郎、歌右衛門などの人々とつきあいが出来た。先代幸四郎追善芝居のプログラムにその子息たちのことを書いたり、歌右衛門の「|莟《つぼみ》会」のプログラムにも、言葉を寄せた。
歌右衛門氏が初めて家に見えたあと、父は、
「なんだか、保護したくなるんだよ。なんといったらいいか、大事にいたわって、保護してやりたくなるんだ。不思議な魅力だよ。その髪の黒いこと、えりあしの美しいこと……」
と感に堪えていた。私も一度見送りに出て、そのやさしい物腰に、自分がひどくがさつに思えた。
いまの梅幸氏も、父の応接間を訪れた一人であった。松緑、梅幸両夫妻の銀婚式に、父も招待されたのに、胆石で行かれなかったので、その見舞いに来られた。父は早速、そのことをロンドンにいる私に知らせた。父は梅幸氏に、六代目の話を持ち出し、
「お父さんに、ほめられたことがありますか」
と質問した。
「イエ、一度もございません。ただ母に、今度はいいよ、といってくれたことは、あったそうでございます」
という返事だったと書いている。梅幸氏は、慶應商工部を出られたので、父はいつでも会えば気軽に話し、同じ女形でも歌右衛門氏のときのような、特別の感じは持たなかったようだ。
父の晩年のひいきは田之助さんであった。父は、田之助さんの由次郎時代から、有望な若手として眼をつけ、身体がやわらかいといってほめた。その演技に心があるのも気に入っていたようだ。父は宴席などで芝居の話をするとき、
「由次郎はいい」
といったらしく、「小泉先生の由次郎びいき」という話は、ご本人の耳にも入るようになった。笛の福原英次さん(現百之助氏)も父は好きで、宴席でそういったら、
「アラ、英ちゃんよろこぶわ」
といわれたといっていた。話はそれたが、父が由次郎さんにはじめて会ったのは、私がロンドンにいる間のことで、早速父は手紙を寄こした。その日は久保田万太郎記念芸能会があったそうで、その模様を書き、
さて演芸終り、一人で帝国ホテルのグリルでサンドウッチを食べてゐると、一寸津山英夫といふ顔の逞ましき青年が来てお辞儀をする。「由次郎でございます」といふ。かねてアコガレの紀国屋の若旦那である。小生欣然答礼して「君が由次郎さんですか、あゝ強よさうだ」と云つたものである。
ちなみに津山英夫は親戚で、亡き兄の親友であった。
母がその後、戸板康二、日下令光の両劇評家を家にお招きするため、「芝居を見て置かなければならぬ」と、妹と二人で歌舞伎座に出かけたことを報じた手紙には、
「道成寺の所化の一人由次郎は手拭を|蒔《ま》くのにセンターからホームへ届くかと思はれるフォームで立派に投げた由。宜しい、宜しい」
と書いている。野球も好きの父に、報告した妹の感じがわかる。そして、田之助襲名となった。
前にも書いたかな? 澤村由次郎が田之助に改名するといふので文春の澤村三木男に頼まれ、色紙に「六代目田之助丈に大に期待してゐます 小泉信三」と書いたら、文春が贈る引幕に、それを拡大して出す由。まだ見ないが、見ない前から赤面、赤面、赤面だ。信三。
父は、田之助さんの叔父に当たられる澤村三木男氏に、色紙を書けといわれたとき、案外あっさりお引き受けしてしまったらしい。しかし、襲名興行見物に姪まで誘って、家中で出かけた歌舞伎座で、ピンクの地色の上にひきのばされた大きな色紙を見たとたん、父は下を向いて、そのまま幕があくまで顔を上げなかったという。まさか色紙がそんなに大きくなろうとは想像しなかったそうだ。
幕があいて、「神霊矢口渡」の田之助のお舟がよい出来だったので、やっと元気になったという。
私が帰国してから、父はいよいよ「田之助びいき」を励行した。田之助さんから御案内がくると、日を都合して出かけた。日生劇場の廊下で、「土蜘」の胡蝶の役だった田之助さんに会ったこともある。男衆に案内されて連れて行かれた、客席の横の絨緞をしいた廊下で、胡蝶の扮装をした田之助さんに会ったのだった。新式の劇場の壁の色と、洋服の背の高い父と、白粉の濃い女形姿の田之助さんは、ちょっとつじつまの合わない感じであった。
父は家でテレビを見ていても、たとえば「乗合船」のように、若手が一くさりずつ踊るとき、田之助さんの番がくると、膝をつかんで前かがみになってテレビに見入り、踊り終わると、
「よろしい、よろしい」
といった。
父は田之助さんの人柄も好きになった。家に招いて、食事をしたこともあった。慶應出の猿之助さんも一緒だった。父は猿之助さんもひいきした。若い二人と話している父は、いつも得意の、運動部の後輩と話しているような気分だった。
「君がなげた手拭は、センターからホームへ届くくらいだっていうじゃありませんか」
と父は幾度も同じ話をした。田之助さんは、ハワイ巡業で、猿之助さんとお軽勘平を演じたら、暑さのために、鼻の下の白粉がポコリと取れてしまって、
「猿之助さんに悪くて」
というような話をした。
父はその日、相客としてお招きしていた戸板康二氏に、何か有益な批評や苦言を、若い二人にいってやってほしいという気持らしくて、ときどき話を芸の修練ということに持っていった。若い人を育てることに興味があり、また義務を感じているような人だった。父にはどこまでも教育者的な気分があった。
父の死後、ひきつづいて母は田之助さんの役々を気にし、私たちを連れて見物に行く。先日「阿国御前化粧鏡」を見た。廊下で田之助夫人に会って、
「田之助さん少し|瘠《や》せられたけど、あなたの食事制限は相変わらずおやかましいの?」
とたずねると、
「いま主人は、成駒屋のお兄さん(歌右衛門)のところへ毎日うかがっているんですよ。お兄さんが『ふとっちゃ駄目』って、とてもきびしいんで、私、ありがたくて……」
と笑った。父に聞かせたら、興味をもつ話だと思った。
父は修練ということが好きで、精神的肉体的修練で、持って生まれた素質をみがき上げてゆくことが、なんの世界でも欠かせないと思っていた。日本の芸能には特にそれを求めた。歌右衛門氏が稽古にきびしく、何一つおろそかにしないことを、若い常磐津の人が、なかばおそろしげに語ったとき、たいそう感心していた。
「大事なことだ。非常にいいことだ」
と父はいった。やさしい挙措で、父に保護本能を起こさせた歌右衛門氏のその一面を、父は「えらい」といった。
歌右衛門氏にきびしく仕込まれる田之助さんを、父が見たらよろこぶだろう。よき指導者をもつということは、父の最も望むところであったろうから。
[#地付き]〈了〉

あ と が き
父の死後二年ほどして、毎日新聞社から『父 小泉信三』という本を、妹と二人で出した。出版後、多くの方から「父の意外の面を見た」といっていただいた。父は正しい、剛い、人生の教師という印象が強くて、近よりにくい人と思われていたらしい。父について、折があればもう少し書きたい、とそのとき思った。
文藝春秋で、父の全集が完成するころ、最後の別巻に、私と妹に書けといって下さった。そのとき書いたのが「父の周囲」で、それをもとにして、一冊の本にまとめるお話があった。私はそれをお受けしたのに、いざとなると、二冊目の本ということで急に恐ろしくなり、そんなおこがましいことをしていいのか、と自問する日が続いた。
父はいつも「俺を踏み台にしろ」といってくれていたが、「もう一冊書く」といったら、「いい気になるな」という声が、どこかから聞こえてくる気がした。
ためらっている間に、つぎつぎ筆のとれない事情も起こり、ついに五年たってしまった。今年は父の死後、満十年である。この辺で決心をつけないと、いつまでも駄目だと思って、まとめにかかった。宿題を怠けて、急にあわてていた昔と同じ状態であった。心細くなって、もう一度妹を誘ったが、妹は別に書くという。心を決めて書き上げたが、どう見ても練り不足で、今はただ目をつぶって崖からとび降りる心境である。
『辛夷の花』という題にしたのは、広尾の庭に辛夷の木があって、父の手紙にも書かれていたし、何となく父の感じだからだ。母に表紙の絵を頼むと、八十一歳の母が心配なくらい一生懸命に描いてくれた。
こういう一家の私事に終始した本を出していただくことに、いまだにためらいを感じるが、ここまでにしていただいたのは、いつも「早く書きなさい」といって下さった小林勇氏の御親切と、文藝春秋の皆さまの御寛容による。
「父と芸の人々」は季刊誌「泉」に連載したものである。「父の周囲」も少し加筆した。
この本で、父が怖い人ではなかったということを書いたつもりなのに、いよいよ本を出すとなると、父の怖さ、きびしさばかりを感じるのである。もうこういう怖い思いはしたくない。
昭和五十一年三月
[#改ページ]
単行本
昭和五十一年五月文藝春秋刊
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文春ウェブ文庫版
辛 夷 の 花
――父 小泉信三の思い出――
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 秋山加代
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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