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着信アリ2
秋元 康
[#改ページ]
Prologue
明け方から降り出した雨は、午後になって雪に変わっていた。
ビニール傘に落ちると、すぐ、溶けてしまう霙《みぞれ》に近い雪だった。
世田谷《せたがや》署捜査一係の刑事、本宮勇作《もとみやゆうさく》は、底冷えのする12月の舗道を歩きながら、20年間着ているよれよれのコートの衿を合わせ、背中を丸めた。
東京都とはいえ、郊外にあるこのK市と都心では、5℃くらい温度差があるように思えた。
砂糖をまぶしたような木立の向こうに、近代的な建物があった。
「都立藤沢病院」
その一角に閉鎖病棟がある。
殺人などの重大犯罪に問われた人間が、精神鑑定の結果、責任能力無し≠ニされ不起訴になり自傷他害の恐れが高いと判断された場合、精神保健福祉法に従って強制的にここに措置入院させられる。
顔見知りになった警備員に来訪の意を伝え規定の手続きを終えると、本宮はかじかんだ両手に息を吹きかけながら暖房の効いたロビーを進んだ。
コの字型の廊下に人気《ひとけ》はなく、自分の足音だけが響き渡っているような気がした。
この突き当たりに目指している部屋がある。
要所要所に設置された監視カメラが、じっと、息を殺して平静を保っている。
本宮は辺りに気を遣いながら、部屋のドアを軽く数回ノックした。
「どうぞ」
聞き覚えのある声が聞こえて来た。
遠慮がちにドアを開けると、机で何か書き物をしていた中村|由美《ゆみ》が顔を上げた。
「お久しぶりです」
「元気かい?」
本宮はコートを脱ぎながら部屋の椅子を引き寄せた。
「ええ。
夜も眠れるようになりました」
由美は屈託のない笑顔で本宮にそう報告した。
部屋は、ちょっとしたホテルのようにこざっぱりとしていて、テレビも冷蔵庫も電話もある。
鉄格子に遮られた牢獄のような個室をイメージしている人間は、そのギャップに驚くだろう。
ましてや、深い緑のセーターにタータンチェックのスカートを合わせた由美を見る限り、ここがどこかの大学の寮だと言っても通じるに違いない。
「また、少し、聞いていいかな?」
本宮はそう言いながら背広のポケットをまさぐり煙草を探しているうちに、ここが病室だったことを思い出した。
由美の前に座ると、知らぬ間に緊張している自分に気づく。
あれから何度かこうして2人きりで話しているが、その度に、言葉や表情とは裏腹な由美の心の闇を垣間見《かいまみ》ることになるのだ。
その深い闇の中に何が潜んでいるのか、本宮にもわからなかった。
「どうして、美々子《みみこ》は君に危害を加えなかったんだろう?」
前置きを飛ばして、いきなり、本題から入った。
由美は少し困ったような顔をして言った。
「前にもお話しした通り、あの事件のことはよく覚えていないんです」
そう由美が答えることは本宮も予想していた。
警察の取り調べにも検事の尋問にも弁護士の問い掛けにも、一貫してそう主張している。
その言葉を無視して、本宮は話を続けた。
「死の予告電話≠ェかかって来て助かったのは、君だけだ。
あの夜、君の部屋で何があったんだ?」
由美は目を閉じながら記憶を呼び起こすように答えた。
「警察の車でアパートまで送ってもらって……シャワーを浴びて……。
ドライヤーで髪を乾かして……暫《しば》らくして、山下さんが来たんです」
「山下は、君が美々子に襲われると心配していた」
「でも、予告時刻はとっくに過ぎていたんですよ」
由美が本宮の目をじっと見て言った。
実際、山下が養護施設「夢の木学園」を出たのは午後10時を回っていた。
由美の携帯の留守電に残された死の予告時刻20時26分を過ぎていたことは、確かだ。
「美々子は、部屋に現れなかったんだね?」
「ええ、山下さんもそう言っていたでしょう?」
本宮は同じ話を蒸し返している自分に腹が立った。
いつも同じ所で袋小路に突き当たってしまう。
刑事の仕事は、地味で単調だ。
何度も何度も同じ現場へ行き同じ人間と話をする。
無駄骨とわかっていても見逃していた何かを見つけようと這いずり回る。
それは、少しでも真実に近づこうとする刑事の習性だ。
「林檎《りんご》、剥きましょうか?」
由美が立ち上がった。
一瞬、山下の腹に深々と刺さった果物ナイフが本宮の脳裏を過《よ》ぎった。
そんな本宮の動揺を見透かしたように、
「これ……」と、由美が林檎の皮剥き器を見せた。
さすがに、この閉鎖病棟への刃物の持ち込みは禁止らしい。
本宮は、外を歩いている時、冷気が入らないように一番上まで留めていたシャツのボタンが苦しくなって、ひとつ外した。
「暖房、効き過ぎでしょう?」
林檎を剥きながら由美が言うので、白いカーテンの向こう側の窓を少し開けた。
水分を含んだ冷たい風が鉄格子の間を抜け、部屋の澱んだ空気を掻き混ぜた。
本宮は、話題を変えた。
「君たちは、愛し合っていたんじゃないのか?」
「それに近い感情は、あったと思います」
由美は、背中を向けたまま、少し、照れたように答えた。
傍から見ても、似合いのカップルだった。
「プラスチックのフォークしかなくて……」
振り向いた由美が、丸ごと剥いた林檎をごろんと皿に載せ、病院から支給されたフォークと一緒にテーブルに置いた。
「それなのに、君は、なぜ……?」
「わかりません。
気づいたら、山下さんのお腹に果物ナイフが刺さっていたんです」
その時点で、警察は由美を拘束すべきだったと、本宮は今さらながら悔やんだ。
しかし、あの夜、由美の部屋に遅れて駆け付けた本宮に、山下は言ったのだ。
「自分で刺した」と。
山下は、薄れ行く意識の中で最後の力を振り絞って、果物ナイフについた由美の指紋を拭き取り、改めて自分の手で握り締めたのだ。
幸い、山下の下腹部の傷は急所から外れていたために、一命を取り留めた。
その場で茫然自失としていた由美は、警察で形式ばかりの取り調べを受け、翌日、釈放された。
それから、山下が入院する病院へ行き、意識が回復するまでの数日間、由美は、甲斐甲斐《かいがい》しく看病していたのだ。
それが……。
本宮は、熟れたざくろのようにぱっくりと開いた山下の喉の傷口と、ベッドのまわりの血だまりを思い出した。
退院予定日の前日、由美は、髭剃り用の剃刀《かみそり》で山下の喉を掻き切って殺害した。
「彼の病室で起こったことは覚えてる?」
「いいえ、何も……。
私は、山下さんの無精髭を剃ってあげようと……」
そこまで言うと、由美は俯《うつむ》いて、言葉にならなかった。
細い肩が震え、鼻をすすった。
落ち着いて来たとはいえ、あの時のことを思い出させるのは、刺激が強すぎたかもしれない。
由美の病名は、『解離症状を主体とする反応性精神病』。
ここでいう『解離症状』とは、『解離性同一性障害』、所謂《いわゆる》、『多重人格』のことであり、『反応性精神病』とは、過去の精神的なダメージに起因する精神障害のことである。
つまり、過去の精神的なダメージによって、由美の中に、中村由美と、もうひとつ別の人格が存在しているというのが、専門家たちの精神鑑定の結果だった。
母親の愛に飢えていた由美が、同じような境遇の美々子に共鳴し、ふたつの人格を持ってしまったと言う。
事件後、テレビや雑誌が特集を組んで騒いだように美々子が憑依した≠フではなく、由美の中に、元々潜んでいた美々子的な人格≠ェ顕在化したと分析されたのだ。
「すまなかった。
嫌なことを思い出させたね」
しゃくりあげるように泣いているその華奢《きやしや》な肩に、本宮が手を置くと、俯いていた由美が顔を上げた。
その顔を見て、本宮は言葉を失った。
由美は、笑っていた。
嗚咽《おえつ》ではなく、由美は、笑いを堪えていたのだ。
少しだけ開けていた窓から吹き込んだ雪が、本宮のシャツの背中を滑り落ちたような気がした。
由美は、ぞっとするほど冷たい目で本宮を見ながら、思い出し笑いをしていた。
(君は、誰なんだ?)
部屋の壁に掛けられた鏡に、本宮と対峙する美々子の姿が映っていた。
静岡県の浜松市は、戦後、繊維・楽器・オートバイの三大産業の成長とともに発展し、今や人口60万人を有する『中核市』である。
東海道新幹線の浜松駅で降りると、ホテル、ショッピングモール、浜松市楽器博物館などが入ったアクトシティ浜松のシンボルである地上212・77メートル、45階建てのアクトタワーが、まず、目を引き、駅前のロータリーを中心に、人と車の喧騒が空に向かってスパイラル状に広がっているのがわかる。
その市街地から、バスで30分ほど北へ行くと、窓の向こうに田園となだらかな丘陵が続き、やがて、新興の住宅街が見えて来る。
フリージャーナリストの野添孝子《のぞえたかこ》は、取り寄せた戸籍謄本を手に、降りるべき停留所を確認した。
富城2―1―3。
それが、中村由美の本籍だった。
世間を賑わした今回の連続殺人事件は、美々子の祟り≠セとか、携帯電話を使った復讐≠セとか言われているが、孝子はジャーナリストとして、科学的な裏付けを探していた。
人間は、自分の知識を超えた出来事に遭遇すると、すべて、霊や宇宙人の仕業といった超常現象で解決したがる傾向にある。
孝子は、本来、福祉関係の取材を専門としていたが、犯人を霊扱いして迷宮入りしようとしていたこの事件に興味を持ったのだ。
それは、孝子が幼い頃に遭遇したある事件のせいかもしれない。
事件は、決して超常現象なんかではなく、人間が起こしている。
そこに関わった人間たちの背景を調べれば真相がわかるはずだと、孝子は信じていた。
目指していたバス停で降りて、山道を暫らく行った造成地の一角に、中村由美の実家がある。
いや、正確に言えば、かつて、そこにあった≠ニいうことになるだろう。
由美が逮捕された夜、この実家は不審火を出して、焼けてしまったのだ。
その模様は、当時、詰め掛けていたテレビクルーによって、全国に生放送された。
ゆらゆらと揺れながら、オレンジ色の炎が古い日本家屋を焼き尽くす様は、美々子の祟り≠セと騒がれた。
実際は、由美の母親が火を放ったとも、人殺しの家≠ノ誰かが放火したとも言われているが、その出火原因に対して、警察も消防もコメントを出していない。
不思議なのは、そこで暮らしていたはずの母親の姿が忽然と消えてしまったことである。
その直前、母親が家を抜け出した形跡はなく、また、焼け跡からも、誰の焼死体も発見されなかった。
原形をとどめないほど焼けてしまい炭の山となった家の跡には、立ち入り禁止のロープが、警察によって張られていた。
「どこの記者だい?」
ふいに、背後から声を掛けられた。
ジャージ姿の中年の女が、警戒するような目で孝子を見ていた。
「中村由美さんのお母さんは、どちらへ行かれたんでしょうか?」
「さあね。
娘にあんな大それた事件を起こされちゃ、雲隠れしたくもなるだろうよ」
「行き先をご存知ないですか?」
中年の女は、値踏みをするように孝子を見た。
謝礼を催促する目だった。
当時のテレビや雑誌が金品をばらまいたのだろう。
取材協力者に謝礼を払わないというのが、孝子のルールだった。
謝礼欲しさの情報には、おひれがついていることを、孝子は経験から学んでいた。
孝子の鞄から何も出て来そうもないのを見ると、中年の女は、
「この家と関わると、ろくなことはないよ」と言い残して行ってしまった。
いつのまにか、日が暮れようとしていた。
それから、孝子は付近の家を一軒一軒まわり、中村家についての話を取材した。
中には、玄関のドアさえも開けてくれなかったり、あからさまに迷惑だという顔で追い返された家もあったが、一時期の騒動が過ぎて、今だからこそ、重い口を開いてくれた家もあった。
孝子の取材メモには、いくつかの情報が書き込まれた。
『由美は大学に行くために上京してから、一度もここには帰って来ていないこと』
『父親は、由美が中学生の頃に、女を作り家族を捨てたこと』
『祖母は、由美が小学生の低学年の頃、自宅で首を吊って自殺したこと』
『一部のマスコミが報道したような、母親の由美に対する虐待はなかったと思われること』
それぞれの家を一通り回った頃には、すっかり、夜になっていた。
明日の昼には、事件を担当した世田谷署の刑事と会う予定が入っている。
それでも、浜松駅前のビジネスホテルに帰る前に、もう一カ所、行っておきたい場所があった。
光斉寺は、町のはずれの小高い丘の上にあった。
由美の祖母が眠っている。
神社・仏閣の類には、嫌な思い出があって、もう23年間、足を踏み入れていなかったのだが、そうも言っていられない。
孝子は、来る途中にコンビニで買った懐中電灯を手に、静まり返った境内を早足で歩いた。
吐く息が白い。
昨日、東京で雪が降ったわりには浜松は暖かいと思っていたが、さすがに、夜になって一気に冷え込んで来た。
耳や鼻に冷たい空気のナイフを突き付けられているようだった。
霊の存在など信じていない孝子にとっては、風に揺れる木々のざわめきも獣の遠吠えも怖くはなかったが、誰もいない夜の墓地を女一人で歩いていることの方が不安だった。
今にも、物陰から誰かが飛び出して来るような気がして、孝子は身構えながら前へ進んだ。
自分の息遣いと自分の足音だけが、すべてだった。
やがて、孝子が向ける光の輪の中に、探していた墓石が浮かんだ。
『中村家』
荒れ放題の墓石だった。
線香を立てる香台は土埃で埋まり、花を活ける穴は雨水と枯葉でいっぱいだった。
ここ数年、墓参りした者はいないようだ。
中村ふみは、由美にとって父方の祖母である。
由美を捨てた父親が生きているとしたら、自分の母親の命日くらいはお参りに来ているだろうと思ったのだが、孝子の勘が外れた。
「墓を見れば、その家族の今がわかる」と教えてくれたのは、ある多重債務者を追い込んだ切り取り屋≠セ。
少なくとも、中村家は、この数年、ばらばらだったのだろう。
手を合わせ、この不幸な因縁が断ち切られることを祈っていると、どこかで携帯の着メロが鳴った。
いきなり、心臓を鷲掴みされたような気がした。
夜の墓地に響く電子音楽は、不気味だった。
当然、自分の携帯が鳴っているのだと思って、バッグの中を覗いてみたが、違った。
携帯を持った誰かが、近くにいる気配はない。
誰かが、携帯を落としたのだろうか?
孝子は、あたりに懐中電灯を向けた。
着メロが鳴っている方へ耳を近づけると、目の前の墓石の下から聞こえて来るのがわかった。
どこかで聞いたことがあるようなメロディだ。
得体の知れない恐怖が、地面から湧いて来て、孝子の足にからみつくような気がした。
霊の存在は信じていなくても、今、取材中の事件が携帯電話がらみだけに、その偶然の一致に不吉な予感がしたのだ。
意思に反して足ががくがくと、震えて来る。
ふいに、着メロが鳴り止んだ。
この場所が、さっきまでより静かになった。
今更ながら、自分が死と一番近い場所にいることに気づかされる。
全身が強張った。
逃げ出したい衝動に駆られたが、ジャーナリストの本能と23年前のある出来事が孝子を踏み止まらせた。
何かを求めて、ここまで、足を運んだのだ。
その何かが起きているというのに、背中を向けるわけには行かない。
恐る恐る、前へ進むと、朽ちかけた墓石と地面の隙間に何かが挟まっているのが見えた。
しゃがみこんだ孝子の目に飛び込んで来たのは、色褪せた水玉の布切れだった。
自分を奮い立たせて、その古い墓石を両手で抱え込むようにずらしてみると、通常の墓よりもさらに深く掘られた穴の中に、ぼろぼろになった水玉のスカートがあった。
腐臭が鼻をつく。
孝子は、コートの袖口で鼻と口を塞ぎながら渾身の力を込め、右肩で体当たりするように墓石を押した。
穴に埋められていたスカートの裾から、細い枯れ木が伸びていた。
いや、枯れ木ではない。
腐敗して、肉が削げ落ちた人間の足の骨だ。
穴の底を懐中電灯で照らすと、水玉のスカートにノースリーブのサマーニットを着た腐乱死体が、膝を折り上半身を丸めて、これ以上人間が小さくなれないように畳まれていた。
光の陰影かと思っていたそれは、顔や手足や胴に群がる蛆虫《うじむし》だった。
孝子は、息を呑んだ。
そして、猛烈な嘔吐感がこみ上げて来た。
今の時代、普段着のまま、土葬されることはありえない。
何者かが、ここにこの女を埋めたのだ。
中村家の墓。
女性の腐乱死体。
行方不明の母親。
状況から言って、これが、由美の母親の幸子であることは間違いないだろう。
腐敗し、一部白骨化した手には泥にまみれた携帯電話が握られていた。
ふいに、その携帯の液晶画面にライトが点き、着メロが鳴った。
孝子は、思わず、「ぎゃっ!」と声を上げた。
由美の母親の遺体を発見したことを、まるで、誰かが見ていたようなタイミングだった。
遺体の腐敗具合からすれば、携帯のバッテリーは、とっくに切れているはずだ。
その時、この不気味な電子音楽こそが、死の予告電話≠フ着メロだったことに気づいた。
さらに、暗闇の中でぼんやりと発光する液晶画面に表示されている電話番号を見て、孝子は戦慄を覚えた。
――中村由美が措置入院している藤沢病院の電話番号だった。
由美の母親、中村幸子が遺体で見つかったことは、すぐに、世田谷署の本宮にも伝えられた。
パソコンに送られて来た検死結果を見ながら、妹尾《せのお》が言った。
「死後4カ月。
外傷はなく、直接の死因は……衰弱による心不全。
被害者《ガイシヤ》は、しばらくの間、少なくとも、数週間、墓の下で生きていたようです」
「ひでえことしやがる。
生き埋めか?」
本宮は、煙草に火をつけると、吐き捨てるように言った。
「それが……。
不思議なのは、墓石は小さかった上に、長年の雨風でぼろぼろで、軽かったそうです」
「言っている意味がわからねえよ」
「墓の下から、充分、墓石を動かせたってことになります。
逃げ出せるのに逃げ出さなかった……」
「どういうことだ?」
「自分で墓の中に入り、下から墓石を動かして、蓋をしたってことも考えられます」
「墓ん中で、衰弱死するのを待ってたってわけか?」
「可能性としては……自殺の線も捨てられません」
妹尾は、真面目な顔で、本宮を見た。
「誰が好き好んで、そんな気味悪い所で死ぬ?」
苛立ったように、本宮は煙草を灰皿の縁に押し付けた。
また、何かが起こりそうな悪い予感がした。
本宮が、指でこめかみを押していると、妹尾がキャスター付きの椅子を近づけ、小声で言った。
「被害者《ガイシヤ》の手には、携帯電話が握られていたそうです。
着信履歴の最後が……042×―××―××××、藤沢病院の閉鎖病棟の電話番号です。
由美が、母親にかけたんでしょう?」
本宮は、新しい煙草に火をつけながら、苦々しく言った。
「由美とは、……限らねえよ」
美々子だ。
本宮は、藤沢病院の閉鎖病棟の個室で、肩を震わせて笑っていた由美と、鏡に映った美々子を思い出して、自分の煙草のけむりにむせた。
(事件は、まだ、終わっちゃいねえんだ)
火をつけたばかりの煙草に紙コップのコーヒーを乱暴にかけて消しながら、本宮はつぶやいた。
孝子は、朝まで浜松北署で事情聴取を受け、そのまま、一睡もせずに東京に戻って来た。
眠いとも疲れたとも感じなかった。
興奮状態が続いているのだろう。
世田谷署では、あらかじめ連絡を取っておいた刑事が待っていた。
本当は、本宮という刑事の話を聞きたかったのだが、相当のマスコミ嫌いで、取材の申し込みは、けんもほろろに断られてしまった。
「あなたが、中村由美の母親の第一発見者だそうですね?」
刑事部屋の片隅にある安っぽいソファーで、出がらしのお茶を勧めながら、妹尾と名乗った若い刑事が言った。
「ええ。
偶然、そういうことになってしまいました。
……インタビュー、録音させていただいてもいいですか?」
孝子が、小型のテープレコーダーを用意しようとすると、
「いや、録音するのは、勘弁して下さい。
公式のコメントではありませんから」と、拒否した。
「わかりました。
じゃあ、メモだけ取らせて下さい」
妹尾は、黙って頷いた。
「妹尾さんは、一連の事件を、美々子の霊によるものだと思いますか?」
「正直言って、わかりません。
ただ、通常の事件のようには説明できないことが、いくつもありました」
「例えば?」
「小西なつみの件も、水沼|毬恵《まりえ》の件も……。
警察の発表では、いろいろ理屈をつけていますが、誰も納得はしていないでしょう?
だから、あなたもここにいる。
違いますか?」
孝子は、大ぶりの湯呑み茶碗のお茶で喉を湿らせながら、一番聞きたかった質問をぶつけた。
「中村由美は、なぜ、彼を殺したんでしょう?
彼は、由美を助けるために奔走したんですよね?
恋愛感情のようなものまで芽生えていた彼の喉を、髭剃り用の剃刀で……というのは?」
言葉を選びながら、妹尾が慎重に答えた。
「マスコミは、『美々子が憑依した』と面白|可笑《おか》しく書き立てましたが、僕は、やはり、由美の精神状態に問題があったように思います。
死への恐怖と、母親に虐待されたトラウマが、あの瞬間、美々子の思いと共鳴して……」
「でも、美々子は、母親の毬恵から虐待を受けたわけではありませんよね?
むしろ、美々子が、妹の菜々子《ななこ》を虐待していた……」
「美々子が、代理ミュンヒハウゼン症候群になったのも、毬恵の愛情を一身に受けたいという願望からだったようです。
それが、喘息の発作が起きていたにも拘らず、母親に見捨てられた。
美々子のその悲しみと憎しみが、自分の過去の記憶と重なって、パニック状態の由美を凶行に走らせたと、僕は、考えているんです。
長期間、拘束された人質が、犯人に対して、やがて、ある種のシンパシーを抱くのに似ています」
「それが、精神鑑定の解離症状を主体とする反応性精神病≠ニいうことですね?」
「専門的なことはわかりませんが、由美にふたつの人格が生まれてしまったとしても、不思議ではないでしょう?」
それから、しばらく、事件の事実確認をして、孝子は礼を言った。
刑事部屋から出る時、妹尾に聞いてみた。
「本宮さんは、どうお考えなんでしょう?」
「宮さんは、オカルト嫌い≠ナ有名でしたが、今回ばかりは……。
自分の中でも整理がつかないのでしょう。
今日も、面会に行きましたよ」
孝子も、この後、藤沢病院に中村由美を訪ねるつもりだった。
措置入院の患者に面会できる可能性は低いかもしれないが、それでも、当たってみるつもりだった。
ジャーナリストという仕事は、刑事と似ている。
膨大な無駄の中から、たったひとつの真実を見つける、気が遠くなるような作業のくり返しだ。
無駄足になることは、厭わなかった。
もしかしたら、そこで、本宮に会えるかもしれない。
「妹尾さんは、どうして、取材を受けて下さったんですか?」
「宮さんと同じように、僕の中にも、まだ、燻《くすぶ》っている何かがあるからじゃないですか?」
妹尾は、そう言って笑った。
地黒の顔にこぼれた白い歯が、妹尾の正直な性格を象徴していた。
孝子は、初めて会ったこの若い刑事に好感を持った。
「差し支えなかったら、携帯の電話番号を教えていただけませんか?
また、お伺いしたいこともあると思うので……」
「構いませんよ」
2人は、それぞれの携帯を取り出し、お互いの電話番号をメモリーし合った。
刑事は、いつも、拳銃を携行しているわけではない。
必要だと判断した時、所定の書類にサインして、保管庫から取り出す。
本宮が、脇腹のホルスターに拳銃を入れて署を出たのは、いつ以来だろう?
日本の場合、相手が凶悪犯であろうと発砲できる条件が厳しいので、拳銃を携行していても無駄だというのが、本宮の持論だった。
むしろ、拳銃を持っているという安心感が、心に油断を生む。
「丸腰が一番いい。
こちらも命がけだからな」
新人の刑事が着任するたびに、本宮は自分の経験から学んだ知恵を授けた。
しかし、今日は、特別だった。
「どうしたんですか、2日続けて……?」
由美が、病室のポインセチアの鉢に水をやる手を止めて、驚きの声を上げた。
「迷惑だったかな?」
「いえ、本宮さんなら、大歓迎です」
由美は、心から嬉しそうに、微笑んだ。
「ハーブティーでいいですか?」
「外は寒かったからね。
貰おう」
広口のガラス瓶からハーブの葉をスプーンで掬い、漉《こ》し器の中に入れると、カップの上に翳して電気ポットの湯を注いだ。
そんな由美のひとつひとつの所作を見ている限り、本宮は自分が何か、とんでもない妄想に取り憑かれているような気になって来る。
出会った頃の由美と何も変わっちゃいない。
本宮は、由美の心の中の深い闇に、言葉の小石を投げてみた。
「先生に叱られるかもしれんが、君にとって重要なことだから、伝えておく。
昨日、君のお袋さんが遺体で発見された」
一瞬、ハーブティーを入れる手が止まったような気もしたが、すぐに、由美がつぶやいた。
「いい香り……」
湯気が立つカップを、本宮の前に差し出して勧めた。
「残念だったね」
「もう、何年も会っていませんから……」
他人事のような言い方だった。
「浜松北署の方で、簡単な葬儀をしてくれるそうだが、立ち会うかい?」
自分のカップを慎重に口元に近づけながら、由美は首を振った。
「昨日、お母さんの携帯に電話した?」
本宮は、ごく普通の世間話のように聞いた。
「私が、ですか?」
由美は、質問の意味がわからないと言うように、聞き返した。
「だって、あの人、とっくに死んでいたんでしょう?」
流し込んだハーブティーが、本宮の喉を灼《や》いたような気がした。
とっくに、死んでいた?
『遺体で発見された』とは言ったが、とっくに≠ニは言っていない。
ニュースでも、まだ、流れていないはずだ。
本宮は、自分の心臓が早鐘を打つのがわかった。
「お祖母ちゃんのお墓には行ったことがある?」
「ええ。
東京に出て来るまでは、何度も……」
「その墓の下で、君のお袋さんの遺体が発見された。
死後4カ月くらい経っていたそうだ。
……4カ月前というと、事件があった頃だ」
「自業自得ですね」
由美の目が遠くを見ていた。
「お袋さんが握っていた携帯に、昨日の着信履歴が残ってた。
この病院の電話番号だ」
本宮は、由美の顔を見据えて、試すように言った。
由美は、首を傾げてからその言葉の意味に気づき、
「私じゃありません」と、改めて否定した。
嘘を言っているようには見えなかった。
「ここの先生の誰かじゃないですか?
診察の度に、あの人のことを聞かれましたから」
「さっき、君は言ったね?
『とっくに死んでいた』って……。
なぜ、そのことを知っているんだ?」
「私が逮捕されてから、あの人が、ずっと、行方不明だって聞きましたから」
「誰に聞いた?」
本宮は、つい、強い口調で言ってしまった。
由美は、手にしていたカップをテーブルに置くと、椅子の背に凭れながらつぶやいた。
「今日の本宮さん、恐い」
「教えてくれ。
誰に聞いたんだ?」
懇願するように、本宮は聞いた。
もう一度、カップに手を伸ばし残っていたハーブティーを飲み干すと、本宮の目をじっと覗き込みながら、由美が答えた。
「……美々子ちゃん」
その言葉に、本宮は凍った。
「美々子は……美々子は、どこにいるんだ?」
本宮は、テーブル越しに身を乗り出して、問い詰めた。
ゆっくりと伸ばした由美の右手の人差し指が、本宮の背後を指した。
本宮は、全身の血液が沸騰するような気がした。
左の脇腹の膨らみを意識しながら、思い切って本宮が振り返ると、壁の鏡の中に美々子がいた。
「由美のお母さん、ひどい人だよ」
目の前の由美が口を開いたのに、その声色は美々子のものに変わっていた。
「美々子が殺したのか?」
本宮は、腹の底から声を絞り出すようにして聞いた。
「由美をいじめるから」
「なんで、中村家の墓の中なんだ?」
「あそこなら、誰にも、気づかれないでしょう?」
美々子と由美が、同時に、くすくす笑った。
本宮は、鏡の中の美々子と目の前の由美を交互に見ながら、言った。
「まだ、復讐を続けるつもりなのか?」
「復讐≠チて?」
美々子があどけない表情で聞くと、由美が答えた。
「仕返しをすること」
美々子が、唇を尖らせて反論した。
「復讐じゃないよ、病院に連れて行ってあげるだけだよ。
美々子は、お姉さんだもん……」
「こんなことは、もう、やめるんだ。
由美の所から、離れろ!」
「由美ちゃん、いい子なんだよ。
お母さんの言うこと、ちゃんと聞いているんだよ。
ぶたれたり、髪を引っ張られたり、煙草の火を押し付けられても、ずっと、我慢してたんだよ。
だから、由美ちゃんがこんなにいい子だっていうことを、私がみんなに教えてあげるの」
本宮は、怒りに満ちた声で怒鳴った。
「由美は、そんなことを望んじゃいない」
美々子が由美を見た。
2人は、目を合わせて、笑いを堪えていた。
「もう、終わりにしよう」
本宮は、そう言いながら、背広の内側のホルスターから拳銃を抜いて、由美と美々子の間に立った。
「私を撃っても、意味がないよ」
鏡の中の美々子が挑発した。
「わかってるさ」
顔から表情が消えた本宮が、そうつぶやきながら発砲した。
パーンと乾いた音がして、鏡の中の美々子の額に当たった。
同時に、けたたましい音とともに鏡の破片が四方八方に散り、美々子が消えた。
部屋の外が騒がしくなった。
「君は、もう、君であって君ではない。
君の体は、美々子にコントロールされてしまっているんだ。
おそらく、あの夜からだろう。
君が、果物ナイフで山下を刺した夜からだ。
美々子は、乗り移る肉体を必要としてる。
その怨念を断ち切るためには、乗り移る肉体を滅ぼさなければいけない。
許してくれ。
こうするしかないんだ」
本宮は、由美に銃口を向けた。
由美が、驚いたように本宮を見た。
「本宮さん……私、由美よ。
目を覚まして……。
美々子なんていないわ。
幻想よ。
やめて……」
由美は後ずさりしながら、懇願した。
本宮の目はすわっていた。
鬼気迫る狂人の目だった。
ドアのノブをガチャガチャ開けようとする音がした。
銃声を聞いた警備員が中へ入ろうとしていたが、鍵が掛かっているわけではないのに、ドアは開かなかった。
「開けて下さい」
「どうしました?」
「本宮さん、何があったんですか?」
外から緊迫した声が聞こえた。
本宮は、一切、無視した。
(俺が、終わらせる)
心の中で、言葉を吐き捨てた。
「誰かぁ〜、助けてぇ〜!」
由美が、ドアの向こうの警備員や病院の関係者に大声で叫んだ。
そのうちの何人かが、ドアを蹴破ろうとしていた。
それでも、本宮は、何かが乗り移ったように拳銃を向けたまま、じわじわと由美に近づいて行った。
「撃たないで!
私は、由美よ、中村由美よ」
由美は、床に散らばった鏡の破片を両手で集めると、それを見せながら叫んだ。
「よく、見て!
私は、美々子じゃないわ」
力を入れた拍子に、由美の掌から血が流れた。
(騙されるものか、騙されるものか、騙されるものか、騙されるものか、騙されるものか……)
本宮は、お経のように唱えながら、自分に言い聞かせた。
由美の指先から流れ落ちる赤い血と鏡の破片が、万華鏡のように見えた。
「どうして、私を撃つの?」
由美が泣きながら、床にぺたりと座り込んだ。
(俺にできることは、それしかないんだ)
本宮が、右手に握った拳銃の狙いを定めた時だった。
頭を垂れていた由美が、長い髪をかき上げながら、顔を上げた。
寒気がするほど美しい顔で、声に出さずに唇を動かした。
「び・ょ・う・い・ん・に・つ・れ・て・っ・て・あ・げ・る」
そう言い終わると、由美の口は歪み、にやりと笑った。
掌を逆さにして、血にまみれた鏡の破片を床に落とす。
次の瞬間、本宮の右手に握られた拳銃が、見えない力でゆっくりと向きを変え始めた。
(そんな馬鹿な……)
思わず、言ってしまった。
それは、本宮の意思ではなかった。
まるで、見えない誰かの手と力比べをするかのように、本宮は拳銃を握る指に力を入れた。
それでも、腕の筋肉がぷるぷる震えながら、銃口は、次第に由美とは逆の向きに持っていかれる。
やがて、その銃口は、本宮自身に向けられていた。
病室のドアをなんとか壊そうとしている外のパニック状態とは裏腹に、由美は、静かにソファーに腰を下ろし、カップにハーブティーを注いだ。
本宮が渾身の力を込め、自分に向けられた銃口から逃れようとしていた。
テーブルの上の本宮の携帯が鳴った。
一連の事件で何度も聞いたあの不気味な着メロだった。
発光している液晶画面には、本宮の電話番号が表示されていた。
死の予告電話=H
「君は……誰なんだ?」
喘ぐように、本宮が聞いた。
「私は……みんな……。
見捨てられた者たち……」
そう言って、由美が本宮を凝視すると、右手の拳銃は、本宮の意思とは関係なく口の中に突っ込まれた。
本宮の目が恐怖で見開かれ、首を振っていやいやをした。
由美は、その様子を面白そうに眺めながら、「バイバイ」と手を振った。
ドアが蹴破られた。
その瞬間、由美は、「本宮さ〜ん、やめて〜!」と泣き叫んだ。
まるで、今まで、本宮の自殺を止めようとしていたかのように……。
警備員や病院の関係者が、部屋の中に飛び込んで来たと同時に、本宮は拳銃の引き金を引いた。
くぐもった音がして、本宮の後頭部が壁にぶつけたスイカのように吹っ飛んだ。
真っ赤な血や脳漿やミンチ状の肉のかけらが、部屋にいる者たちに降り注いだ。
即死だろう。
「私、止めたのに……。
本宮さん、思い詰めてて……。
責任は、全部、自分にあるって……」
由美は、こみあげる笑いを必死に堪えながら泣き叫び、責任能力のない解離症状を主体とする反応性精神病≠フ患者を演じていた。
ちょうど、その頃、世田谷署の『刑事組織犯罪対策課 強行犯捜査第一係』のデスクで、妹尾は、自分の携帯をスクロールし、さっき、取材に来た野添孝子の名前を探していた。
彼女が、大学の物理学の教授に聞いた『もし、この世に霊が存在するとしたら、それは、電磁波のようなものだろう』という話について、言い忘れたことがあったのだ。
それが、彼女の役に立つかどうかはわからないが、死の予告電話≠受けた被害者たちの携帯は、必ずしも、電源を必要としていなかったという点だ。
電源を切っていても、バッテリーを外していても、携帯を使えたのは、ある特別な電磁波をキャッチしたからではないか?
まるで、携帯が、霊の電磁波を受け、あっちの世界とこっちの世界を結ぶ唯一のツールであるかのように……。
(あれっ?)
妹尾の携帯に、さっきメモリーしたはずの野添孝子の名前はなかった。
新しい機種に替えたばかりの妹尾は、メモリーの操作を間違えたらしい。
(また、かかって来るだろう)
軽い気持ちで、妹尾は携帯と資料を持ち、管内で頻発する強盗事件の合同会議が行われる大会議室へ向かった。
薄暗い廊下を歩いていると、一係の新米女性刑事が追い掛けて来た。
「本宮さんが……」
取り乱した彼女の表情で、妹尾は嫌な予感がした。
「本宮さんが……自殺しました」
「宮さんが?」
いきなり、後ろから頭を殴られたような気がした。
「たった今……藤沢病院の中村由美の個室で……自分の拳銃で……」
「そんな……」
なぜだ?
自分で、命を絶つような男ではない。
事故なのか?
普段、拳銃を携行しない宮さんが、なぜ、由美に会うのに持って行った?
妹尾の思考がショートした。
そのまま、廊下を走り、署の前の警察車両に乗り込んだ時、ズボンの中の携帯が鳴った。
いや、携帯の電源は大会議室に向かう時に切ったはずだ。
ポケットの中で響く着メロに聞き覚えがあった。
警視庁科学捜査研究所の連中と何度も聞いたあの不気味なメロディ。
携帯を手に取って、妹尾は絶句した。
090―××××―××××。
そこには、自分の携帯番号が表示されていた。
7th
February
厚い雨雲が空を覆い、まだ、昼過ぎだというのに、辺りは薄暗かった。
消え入りそうな細い雨脚が、建物や木々や地面を背景にかろうじて見えた。
本降りになりそうな気配はなく、と言って、止みそうな気配もなかった。
ただ、陰気な雨が、まるで、誰かの独り言のように続いていた。
『さくら保育園』では、迎えに来た保護者と園児たちの色とりどりの傘が玄関を中心に交錯していた。
まだ、経験の浅い保育士、奥寺杏子《おくでらきようこ》は、この降園の時間が一番、緊張する。
最近は、物騒な事件ばかりで、大切にお預かりした園児たちを無事、保護者に引き渡す時に、その責任感がピークに達するからだろう。
「杏子先生、さようなら。まどか先生、さようなら」
同僚の保育士、内山まどかも、同じ気持ちらしい。
「さようなら。また、明日ね」
園児たちに手を振りながら、ほっとした表情で杏子に言った。
「ねえ、今日、御飯食べに行かない?」
「ごめん。
読んでおきたい資料があるんだ」
「杏子、根詰め過ぎ。
たまには、息抜きも必要でしょ?」
確かに、短大を出てから理想の保育士を目指して、杏子は頑張り過ぎているかもしれない。
教育の現場に出てみると、机上の理論では解決できない問題がいっぱいあって、大変なのだ。
「あんまり、遅くなれないけど……」
「決まり。
私、職員会議の後、ちょっと、用事があるから、駅で待ち合わせしよっ!」
まどかは、そう言い残して行ってしまった。
相変わらず、まどかは、マイペースだ。
(あんな風に生きられたら、楽だろうな)
高校時代からの親友の後ろ姿を見送りながら、玄関に脱ぎ散らかされた保護者用のスリッパを片付けていると、ふいに、杏子の背後で女児の声がした。
園児の川島リカだった。
「あれ、リカちゃん、お母さんと帰ったんじゃなかったの?」
そう言いながら園庭を見渡すと、門の所にリカの母親が傘をさして立っていた。
これまでに何回も会っているが、どこか陰気な感じの女性だ。
家庭内暴力の夫と別れて、一人でリカを育てていると聞いたことがある。
この年代の子供は母親がすべてであり、リカもそんな母親の陰気さが伝染《うつ》ったかのように無口で、友達と一緒に遊ぶことがなかった。
「忘れ物?」
杏子が、しゃがんで聞くと、リカがつぶやいた。
「雨が降ると、死んだ人が、お空の川から帰って来るんだって……」
「お母さんが教えてくれたの?」
リカは、首を横に振って廊下を指差した。
がらんとした廊下には、誰もいない。
さっき、園内に誰もいないことを確認したから、間違いない。
「誰?」
杏子の問いかけには答えず、リカは、し〜んと静まり返った廊下の片隅に向かって笑いながら手を振った。
まるで、杏子には見えない誰かがいるかのように……。
ぞっとした。
子供たちが、時々、こうして、大人になると見えなくなってしまう誰かと話しているのを何度か目撃したことがある。
杏子が、不安な気持ちで辺りを見回しているうちに、リカと母親の2人が1本の赤い傘に身を寄せ合いながら保育園の門を出て行くのが見えた。
新宿の西武新宿線のガードから大久保通りを少し行ったホテル街の奥は、一瞬、ここがどこだったか忘れてしまうくらい、様々な人種で溢れている。
この辺りは、1990年頃のバブル期に、強いYENを求めて東南アジアや中東の人間が集まった頃から、エスニック料理店が軒を連ね始めた。
当時は、母国の味に飢えた外国人のためのものだったのだが、グルメブームの追い風に乗って、日本人客も多く訪れるようになり、いつしか、国境のない飲食店街になったのだ。
世界の子供たちの写真を撮ろうと、大学を中退して放浪の旅に出た桜井尚人《さくらいなおと》が3年ぶりに日本に帰って来て、まず、この人種の坩堝《るつぼ》に惹かれたのも、自然の成り行きだろう。
今は、カメラマンの助手をしながら、この外国人街にある台湾料理屋「山平居《サンピンジユ》」でアルバイトをしている。
店内は、食材を調理する熱と人いきれで、暖房が要らないほど賑わっていた。
この店の名物料理「海鮮米粉《ハイシエンミフエン》」を手に迷路のような店内を進むと、レジ横に置いてあった携帯電話が鳴っていた。
「メイフォン、携帯!」
尚人が怒鳴った。
「彼氏から電話がかかって来るから」と、美鳳《メイフォン》が電波状態のいい入り口のレジ脇に置いて、心待ちにしていたのだ。
「メイフォン、携帯が鳴ってるぞ! メイフォン……」
辺りを見回してみたが、メイフォンの姿が見えなかった。
裏まで、ビールを取りに行ったのだろう。
「デンワ、ダレカラ?」
店主であり、メイフォンの父親である王健峰《ワンジエンフオン》が、厨房から顔を出した。
ワンは、メイフォンの彼氏が気にいらないらしく、ずっと、メイフォンにかかって来る電話をチェックしている。
尚人が、レジ横まで行って、発信者番号を見るフリをしようとするうちに、趣味の悪い着メロが切れた。
「切れちゃいました」
本当は、着信履歴を見れば、誰からの電話かわかるのだが、もうすぐ60歳に届くワンは、そこまで、携帯の機能に詳しくなかった。
他人の携帯をいじるのは、なんとなく、後味が悪いものだ。
火にかけたままの鍋が気になるらしく、
「ナオト、コンドナッタラ、キッチャッテイイカラ!」
ワンは、店内の喧騒に負けないくらいの大声で言ってから、厨房に戻って行った。
どこの国でも、父親が娘を心配する気持ちは同じだ。
もちろん、娘が父親のその気持ちをうざいと思うのも。
携帯に電話があったことを伝えようと思って、メイフォンを捜していると、
「真面目に、働いてる?」
馴れ馴れしい声がした。
店の入り口で、まどかが笑いながら手を振っている。
その後ろに遠慮がちな杏子もいた。
「最近、会ってないんでしょ、2人?」
尚人の前に杏子を押し出しながら、まどかが言った。
まどかの言葉を無視して、尚人は、杏子に聞いた。
「いいのかよ、勉強?」
「うん。
息抜きも大切かなと思って……」
杏子が、照れたように答えた。
「私が強引に連れて来てあげたってわけ。
あんたたち見てると、なんか、じれったくて……。
お礼に、いっぱい、サービスしてよね」
どこのテーブルも、いっぱいだったので、厨房へ続く通路の途中にある従業員用の休憩室に2人を案内した。
休憩室と言っても名ばかりで、以前は倉庫だった場所に粗末なテーブルと椅子を入れただけの殺風景な部屋である。
従業員は、ここで賄いを食べたり、煙草を吸ったりしている。
「忙しい時間帯に迷惑だったかな?」
杏子が尚人に気を遣うと、
「杏子が来るのに、迷惑なわけがないでしょ?」と、まどかが冷やかした。
尚人は、わざと乱暴にメニューを渡し、
「で、何にするの?」と聞いた。
まどかは、メニューは開かずに、
「こんなのがいいな」と言いながら、杏子の胸元で揺れるクロスのネックレスを手で揺らした。
尚人が誕生日に贈ってくれたものだと、杏子に聞いていた。
「贈った者と贈られた者が、未来永劫結ばれるっていう愛のお守りなんでしょ?」
「まどか!」
おしゃべりな友達に話してしまったことを後悔した様子で、杏子は尚人に手を合わせてあやまった。
尚人は、形だけ怒ったフリをしていたが、久しぶりに杏子と会えた嬉しさが顔から滲み出ていた。
「料理は、おまかせでいいね?」
ぶっきらぼうにそう言って、尚人は休憩室を出て行った。
レジの脇で、また、メイフォンの携帯が鳴っていた。
尚人が、急いで電話を取ろうとすると、たまたま通り掛かったワンがその携帯に出てしまった。
「ムスメハ、イナイヨ」
いきなり、そう怒鳴ったワンに、尚人が駆け寄りながら言った。
「まずいよ、ワンさん。
勝手に携帯に出たら、メイフォンが怒るよ」
ワンは、手で尚人を制しながら、難しい顔をしている。
「お父さん、どこ?」
携帯から聞こえて来たのが、メイフォンの声だったからだ。
そばで成り行きを見守っていた尚人が聞き返した。
「メイフォン?」
ワンは、それには答えずに携帯に向かって言った。
「メイフォン、オマエコソ、ドコニイル?
ナンデ、ジブンノケイタイニデンワスル?」
電波状態が悪いのだろう。
向こうにこちらの声が届いていないようだった。
「……ったく、また、油を火に掛けっぱなしにして……。
危ないって言ってるのに……」
「チュウボウニイルノカ?」
ワンはその携帯を手にしたまま、急いで、厨房に戻った。
そこでは、弟子の健福《ジエンフー》やスタッフが慌しく料理を作っていた。
メイフォンの姿はない。
「メイフォンは?」
ワンが聞くと、
「フロアじゃないんですか?」とジェンフーが答えた。
「メイフォン、ヒニカケッパナシノアブラッテ、ドコ?」
ワンが、雑音だらけの携帯のメイフォンに尋ねた。
次の瞬間、ジューッという油をひっくり返した音とメイフォンの悲鳴が聞こえた。
「美鳳!? 怎※[#「麻/(ノ+ム)」、unicode9ebd]了?(メイフォン!? どうした?)
美鳳、没事※[#「口+巴」、unicode5427]?(メイフォン、大丈夫か?)」
厨房のスタッフの手が止まる。
ただならぬワンの表情に、尚人が聞いた。
「どうしたの?」
悲鳴の途中でプツリと切れた携帯を、呆然と見つめながらワンが叫んだ。
「ナオト、メイフォンガ……」
その時、厨房の裏口の戸が嫌な音を軋ませて開いた。
振り返ったワンと尚人は、そこに、ビールのケースを抱えたメイフォンの姿を見る。
「メイフォン!」
2人は、同時に声を上げた。
メイフォンは、額の汗を拭いながら、
「裏の倉庫、少し片付けないと、だめね。
ビールを出すだけで、大騒ぎだもん」と唇を尖らせて言った。
ワンは、メイフォンに歩み寄り、体を触って確認した。
「ダイジョウブカ?
イマノデンワ、ナニヨ?」
「何? 電話って?
あ、ちょっと、私の携帯、勝手に触らないでよ!」
メイフォンは、ワンの手から携帯を取り上げ、怒って行ってしまった。
「是什※[#「麻/(ノ+ム)」、unicode9ebd]玩意儿、剛才美鳳打過来的電話……(何だったんだ、今のメイフォンからの電話は……)」
ワンは、わけがわからないという感じでつぶやいた。
「本当に、メイフォンだったんですか?」
「オヤガ、ジブンノムスメノコエヲ、マチガエルワケガナイダロウ?」
尚人には、さっきの電話が、どこか、想像もつかない場所と繋がっていたような気がした。
その夜。
電源を切った「山平居」の立て看板を雑巾で拭き、尚人が、店内に運んでいる。
台湾の梨山茶《リサンチヤ》でワンの特製デザート亀ゼリー≠食べながら、メイフォンとまどかと杏子は、長話に興じていた。
「チャイルドセラピスト?
杏子、保育士、辞めちゃうの?」
メイフォンが、2人の湯呑みに梨山茶を注ぎながら聞いた。
「ううん、辞めないよ。
チャイルドセラピストの講座を受けてるのは、少しでも、子供たちの力になれたらいいなと思って……」
「園児の中にもいるわけよ、やばそうな子。
虐待とかさ……」
まどかは、これまでに出会ったいくつかの例を思い出しながら言った。
「子供っていうのは、まっさらだからね。
大人の事情で、どんな色にも染まっちゃうのよ。
でも、そのほとんどが、近くにいる誰かが手を差し伸べてあげれば……ううん、話を聞いてあげるだけで、救われるの」
「それで、杏子は、猛勉強中なんだ」
「偉いでしょう?
彼氏に会うのも我慢して、勉強なんて、私には絶対にできない」
まどかの言い方が、オーバーだったので、メイフォンも杏子も笑った。
「ワンさんは?」
後片付けが終わった尚人が、モップとバケツを手に聞いた。
「奥じゃない?
杏子、待ってるんだから、こっちで一緒に、お茶しようよ」
「うん、明日の買い物だけ聞いて来るわ」
尚人が、ワンを探しに行った。
「あれ、メイフォン、携帯替えた?」
テーブルの上の真新しい携帯を指差しながら、まどかが聞いた。
「いいでしょ?
出たばっかりの新機種……。
あ、番号も変わったんだ。
送るね」
メイフォンは、まだ、ぎこちない要領で、赤外線を使い、まどかの携帯にデータを送った。
「私にも、送って……」
杏子は、バッグから携帯を出すと、同じようにメイフォンの携帯に向け、データを赤外線受信した。
「明日、必要なものは……」
尚人は、厨房の扉を開けながら言った。
天井の蛍光灯のうちの1本が切れかかっていた。
辺りをチカチカと稲妻のように浮かび上がらせていた。
ワンの姿は見えない。
仕込みの途中なのだろう。
何か、旨そうな匂いがした。
「ワンさん?」
尚人は、声を掛けながら、奥へと進んだ。
とらえどころのない胸騒ぎが、尚人を不安にさせる。
調理台のまな板の上には、大きな肉の塊と肉切り包丁があった。
コンロにかかったままの寸胴鍋《ずんどうなべ》の中で、ぐつぐつ煮えたぎるスープから牛か豚らしきあばら骨が浮かんだり、沈んだりしている。
作業の途中で、調理台を離れたらしい。
ふと、見ると、業務用の大型冷蔵庫のドアが、少し開き、人工的な光が漏れていた。
尚人が、その取っ手に手をかけた時――
メイフォンたちのテーブルで、まどかの携帯の着メロが鳴った。
「何、これ?
あたし、こんな着メロ、ダウンロードしてないよ」
まどかが、不思議そうに言った。
「間違って入れたんじゃない?」
メイフォンの言葉にも、首を傾げながら、まどかが携帯の液晶画面を覗いた。
「変なの……私の携帯番号が表示されてる……」
電話に出ようとしたら、着メロが切れた。
ずっと、黙っていた杏子が口を開いた。
「……ねえ、今の曲、聞いたことない?」
「うん、私も、どこかで聞いたような気がしてたんだけど……」
メイフォンが、頭の中の記憶の底をさらっていた。
「あ……あれじゃない?
半年くらい前に、あったじゃん。
携帯を通じて、霊が来ちゃうみたいな……」
まどかが、無理に明るく、冗談っぽく言った。
「あっ、そうそう。
テレビに出演した女子大生が死んじゃった奴」
メイフォンが、思い出して、すっきりしたように言った。
「あった、あった。
あれって、どうなったんだっけ?」
情報化時代の今、次々に、新しいニュースが発信されるせいで、人々の噂も75日どころか、1週間で薄れてしまう。
実際、あれだけ、世間を賑わした連続殺人事件も、友人の女子大生が逮捕された後、尻切れとんぼになった。
「どうして、その着メロが、まどかに?」
杏子は、独り言のように言った。
「剛だよ。
今、喧嘩してるんだ。
ほら、一時期、この死の予告電話≠フ着メロを入れるの、流行ったじゃない?
それで、剛の奴……マジでむかつくんだけど……」
まどかは、家に帰ったら、本気で剛に文句を言ってやろうと思った。
業務用の大型冷蔵庫は、蚊の羽音のようなブーンという音を立てていた。
尚人が思い切ってドアを開けてみると、中には、いつものような食材が並んでいるだけだった。
ワンの閉め方が悪かったのだろう。
尚人は、緊張して冷蔵庫を開けた自分に腹が立ち、乱暴にドアを閉めた。
ワンは、裏の倉庫に何かを取りに行ったのだろう。
相変わらず、チカチカしている蛍光灯の下で、尚人が厨房を出ようとすると、どこかでジューッと静かに爆《は》ぜている音が聞こえた。
中華のおこげ料理≠ナ、揚げた米に熱したスープを注いでいるような……。
しかも、その音は調理台の反対側から聞こえている。
尚人が、手探りで調理台の縁沿いに回り込むと、床を滑りそうになった。
その場でしゃがみ込み、床を見ると、まだ、高温の油が広がっていた。
ワンは、何かの理由で、高温に熱した油をこぼし、その片付けをするために倉庫までキッチンペーパーでも取りに行っているのだろう。
肉が焦げる匂いがして、尚人は調理台の上の換気扇を回そうと手を伸ばした。
ガラガラン。
尚人の足が、揚げ物用の中華鍋を蹴った。
体のバランスが崩れた時、足元で、肉の塊に躓いた。
闇の中、目を凝らすと、白いさらしに巻いた冷凍肉が転がっていた。
いや、さらしではない。
見慣れた調理師用の白衣だ。
今度こそ、本当に怯えながら、その白衣の正体を覗き込むと、そこには、高温の油を頭からかぶり、顔半分が爛れたワンの死体があった。
パチパチパチ……。
ワンの上半身は、充分に油を吸いながら、揚げられていた。
「うわ〜っ!」
尚人は、自分でも気づかないうちに、悲鳴を上げていた。
8th
February
数時間後、厨房は、警察の鑑識が焚くストロボのせいで、切れかかった蛍光灯以上に、チカチカしていた。
周囲には、黄色い警察のテープが張られ、深夜、呼び出された捜査員があくびを堪えながら、作業にあたっていた。
雑然としたその中で、一人の男が、搬出されようとしていたワンの遺体を止めた。
ストレッチャーに乗せたビニール袋のジッパーを開けさせると、男は、半分、炭素化した顔に怯むことなく、ワンの口に指を突っ込み、中を覗いた。
その異常な行動に気づいた新宿署の岡部《おかべ》が、慌てて、声を掛けた。
「おい、何をやっているんだ?」
振り返った男は、世田谷署の刑事だった。
世田谷署と、二、三度、合同捜査をしたことがある岡部は、この刑事とも面識があった。
「妹尾、どうしたんだ?
ここは、うちのシマだぜ?
世田谷署と合同って話も聞いてねえしな……」
岡部の問いかけに答えるわけでもなく、妹尾は、何かに取り憑かれたように聞いた。
「飴玉がありませんでしたか? 赤い……飴玉です……」
岡部は、自分を覗き込む妹尾の尋常ではない目に、ぞっとした。
「おまえ、まだ、あの事件《ヤマ》を……」
妹尾の頬は痩せこけ、髪はぼさぼさで、服もいたるところに染みがついていた。
まだ、30代前半のこの刑事に、岡部は、一瞬、死相を見たような気がした。
「ねえよ、そんなもの……」
本来なら、ここから、この世田谷署の若造を叩き出す所だ。
それでも、そうしなかったのは、岡部が、2カ月前に自殺した本宮に世話になったからだ。
宮さんところの若い衆《し》を無下にはできない。
「着信履歴を見せてください。
被害者《ガイシヤ》の携帯は?」
「それも、ねえよ」
「ない?」
「仏さんは、携帯を所有していなかった。
あの事件《ヤマ》とは、関係がねえよ。
それに、あっちは、犯人《ホシ》も塀の中に落ちてるんだろう?」
妹尾は、それには答えず、なぜか、安堵の表情を浮かべながら、頭を下げた。
「ありがとうございました」
まわりの人間にも頭を下げ、厨房を出て行く妹尾に、岡部は言った。
「こんなことがバレたら、首が飛ぶぞ!」
妹尾は、まるで、聞こえていないかのように、ドアを閉めた。
空は、まだ、暗かったが、煌々と照らされたテレビ局の照明に、妹尾は手を翳した。
マスコミと野次馬でごったがえす店の前から、裏通りへ抜けようとした時、誰かが、妹尾の腕を掴んだ。
野添孝子だった。
「あったんですか、飴玉?」
その言葉を無視して歩き出すと、孝子もついて来た。
人影のない路地で妹尾は足を止め、振り返って言った。
「飴玉は……ありませんでした。
被害者《ガイシヤ》は、携帯も持っていませんでした」
「でも……客の中に死の予告電話≠フ着メロを聞いたっていう人が……」
「あの事件以来、誰だって、あの着メロをダウンロードできるんです。
商魂たくましい連中がいて……。
奴らときたら、他人の不幸まで、商売のネタにしやがる。
店で客が聞いたのは、お遊びで死の着メロ≠入れてる奴がいたってことでしょう」
「事件の当事者でない限り、その痛みはわかりませんからね」
孝子の言葉に、何か、事情を察した妹尾が聞いた。
「あなたは、どうして、あの事件にこだわるんです?」
孝子は、まだ、2月だというのに、どこかから蝉の鳴き声が聞こえて来るような気がした。
23年も前の夏の日のことだ。
6歳の孝子と妹の4歳の順子は、夏休み、祖父の家に遊びに来ていた。
夕暮れだった。
近くの神社の境内で石蹴りをしていた2人は、どこかで、電話が鳴っていることに気づいた。
ジリジリジリジリ……。
電話のベルは、鬱蒼と茂った神社の木々から聞こえる蝉の鳴き声と競うように、響いていた。
ふと見ると、それは、社務所の公衆電話だった。
今思えば、なぜ、公衆電話が鳴っていたのか、不思議に思う。
「電話ですよ」
孝子が、社務所や本殿や住居棟に知らせに行った。
神主も巫女《みこ》もいなかった。
それでも、公衆電話のベルが切れることはなかった。
ジリジリジリジリ……。
孝子は、いたずら心を起こした。
「ねえ、じゃんけんで負けた方が、電話に出てみよう」
まだ、幼い妹の順子は、わけもわからないまま、頷いた。
「じゃんけーん、ぽーん!」
孝子は、後出しした。
順子がチョキを出したのを見てから、グーを出したのだ。
鳴っている公衆電話に、勝手に、子供が出て、後で大人たちに叱られるような気がしたからだ。
「順子の負けよ。
電話に出なさい」
順子の手を引き、社務所の公衆電話まで連れて行くと、
「さあ……」と促した。
順子は、急に、不安になったのだろう。
孝子に縋るような目をした。
「じゃんけんで負けたんだから。
約束を破るような子とは、遊ばないから」
そう脅かすと、順子は、渋々、公衆電話の受話器に手を伸ばした。
急に、風が通り抜け、境内を取り囲む木々を揺らした。
影が伸びて、そのまま、闇を作り始めた。
「もしもし……」
順子が送話口に向かって話し始めた時、孝子は、言い知れぬ恐怖に脱兎のごとく、その場から逃げた。
一度だけ、後ろを振り返って見ると、境内の端の社務所で、ぽつんと、小さな順子が両手で抱えるように赤い受話器と話していた。
それが、順子を見た最後だった。
その夜、警察や村の消防団が、辺りを必死に捜索したが、順子は見つからなかった。
唯一の手がかりは、順子が受けた電話だったが、電話局で調べたところ、不思議なことに、社務所の公衆電話には、通話記録が残っていなかった。
つまり、そんな電話はかかって来なかったことになる。
責任を感じていた孝子は、泣きながら、
「本当に、電話が鳴ってたの。
順子が、その電話に出て、話したの。
じゃんけんで負けたから」と、孝子の話を信用しない大人たちに抗議した。
なぜか、後ろめたく、後出し≠フことは話せなかった。
一時は、神隠し≠ニ騒がれたが、結局、よくある行方不明者のリストに、バレエの発表会でポーズを取る順子の写真が加わっただけだった。
あの電話は、誰からのものだったのか?
順子は、その相手と何を話したのか?
そして、その後、順子の身に何が起こったのか?
この23年間、孝子が一時も忘れたことがない問いかけだった。
自分のせいだ。
あの時、公衆電話に出ようなんて言わなければ……。
あの時、後出し≠ネんかしなければ……。
あの時、順子を連れて帰れば……。
孝子は、ずっと、自分を責め続けて生きている。
まるで、重い十字架を背負っているかのように……。
孝子が、ジャーナリストの道に進んだのも、真実を知りたい≠ニいう気持ちからかもしれない。
『どうして、あの事件にこだわるんです?』という妹尾の質問に、孝子は、心の中でそう答えた。
「この事件《ヤマ》は忘れた方がいいです」
妹尾が諭すようにそう言うと、孝子は、じっと目を見つめ、胸の内を搾り出すように言った。
「真実を知りたいの」
「真実を知って、どうなるんです?
いや、初めから、真実なんてないのかもしれない。
この事件《ヤマ》は、やばすぎるんです」
「じゃあ、妹尾さんは、どうして、追いかけているんですか?
捜査本部は、とっくに解散してるのに……」
妹尾は、言葉に詰まった。
孝子が、見る限り、妹尾は寝食も忘れて、その危険な獲物を追いかけている。
妹尾のやつれ方は、度を超えている。
「追いかけているんじゃありません。
追いかけられているんです」
妹尾の言葉の意味が、孝子には理解できなかった。
「じゃあ」
妹尾は、背を向け、疲れた足取りで歩き始めた。
「中村由美の行方は、本当にわからないんですか?」
「あれは、もう、中村由美なんかじゃありません」
そうつぶやく妹尾の背中越しに、白み始めた高層ビル群が見えた。
翌日、正確には、夜が明けた同日。
新宿警察署から、桜井尚人が、携帯で話しながら出て来た。
「杏子? 今、事情聴取が終わった。
そっちは、大丈夫か?」
その時、尚人の前に、一人の女性が現れた。
「ちょっと、話を聞かせて貰えませんか?」
「何なんですか?」
携帯の送話口を塞ぎながら、尚人が不審そうに聞いた。
その女性は、バッグから、『ジャーナリスト 野添孝子』と書かれた名刺を差し出しながら、
「あなたも、死の着メロ≠聞いたんですか?」と、唐突に聞いた。
「マスコミに話すようなことはありません」
孝子を避けるように歩き出した尚人に向かって、孝子が言った。
「もし、その噂が本当なら、あなたたちは、危険なのよ」
尚人が、振り返った。
「どういうことです?」
孝子は、尚人を近くの喫茶店に誘った。
他に客は、いなかった。
昔ながらの純喫茶風の作りのテーブルにつくと、コーヒーを2つ頼み、孝子は話し始めた。
黙って聞いていた尚人が、聞き返した。
「死の予告電話=H」
お世辞にもおいしいとは言えないコーヒーを流し込みながら、
「自分が死ぬ瞬間の声や画像が送られて来るの」と答えた。
「ああ……。
何かの雑誌で読んだことがありますよ。
携帯のメモリーの中から、次の犠牲者を選んで殺し続けるっていう都市伝説でしょ?」
「作り話なんかじゃないの。
おそらく、ワンさんも、その着信を受けて、殺されたのよ」
尚人は、変な女に捕まったことを後悔していた。
三流週刊誌のおどろおどろしい記事を書くルポライターなのだろう。
ワンさんが死んで、生まれて初めて、事情聴取を受けたから、頭が混乱していたのだ。
そこに、「あなたたちは、危険なのよ」というジャーナリストに声を掛けられたものだから、思わず、この喫茶店までついて来てしまった。
杏子たちが、心配しているだろう。
メイフォンの様子も気になる。
「じゃあ、行かなければいけないので……」
自分のコーヒー代をテーブルに置こうとすると、孝子が言った。
「去年の7月、女子大生、高島|里奈《りな》がダイビング中に水死し、その5日後、彼女の先輩、岡崎陽子が、電車に飛び込み、自殺。
そして、彼女とつき合っていた河合健二、彼と合コンで知り合った小西なつみ……、そう、小西なつみは、テレビの生放送中に殺されたのよ。
覚えてない?」
「俺、ずっと、世界を放浪してたから……」
尚人は、立ち上げかけた腰を、また、椅子に下ろした。
「みんな、その死の予告電話≠フ被害者ですか?」
孝子は、バッグの中から、ファイルを取り出し、1枚の写真を見せた。
「水沼美々子。
一昨年の12月に死んでいるの。
みんなを殺したのは、この美々子の霊だと言われているわ」
尚人は、冷め切ったコーヒーで喉を潤しながら、孝子の目を見て聞いた。
「……あの、マジで言ってます?」
「私も、最初は信じられなかったけど……。
そうとしか、考えられないの……」
「でも、なぜ、俺たちが危険なんですか?」
孝子は、ジャケットの内ポケットから、ICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
タンタンタンタン タンタンタンタン……
がらんとした店内に、不気味なメロディが流れた。
「お客さんの誰かが、この死の着メロ≠聞いたって言ってたけど、それは、誰の携帯から聞こえたの?」
「メイフォンの携帯です」
「メイフォン?」
「ワンさんの娘です。
もし、これが、本当に死の着メロ≠ネら、死ぬのはワンさんではなくて……」
尚人は、自分が言っていることの残酷さに、はっとした。
「ワンさんは、携帯を持っていなかったって、本当?」
「ええ、携帯が嫌いでしたから」
なぜ、ワンではなく、メイフォンの携帯に死の着メロ≠ェ流れたのか?
なぜ、メイフォンではなく、ワンが殺されたのか?
「メイフォンの携帯には、あなたの携帯番号もメモリーされてる?」
「たぶん……」
不安げに尚人が答えた。
「ねえ、メイフォンに電話してみて」
「ショックで寝込んでいると思うけど……」
そう言いながら、尚人が携帯のメモリーからメイフォンの番号を呼び出し、電話をかけた。
案の定、直留守だった。
その頃、メイフォンは、杏子の部屋のベッドで寝ていた。
半狂乱だったメイフォンは、医師によって強力な精神安定剤を注射され、病院で休んだ後、杏子がこの部屋に連れて来たのだ。
メイフォンの携帯は、枕元にあったが、杏子が電源を切っておいた。
今は、どんな慰めの言葉より、ぐっすり眠った方がいい。
隣の部屋で、尚人に電話しようと携帯を取った時、バイブが作動した。
着メロが嫌いな杏子は、ずっと、マナーモードに設定してある。
まどかからだった。
杏子とまどかの携帯は、ともに動画が送れ、顔を見ながら話ができるテレビ電話≠ェ売りの機種だ。
心配そうなまどかの顔が液晶画面に映っていた。
「メイフォンの具合、どう?」
「少し落ち着いた……うん、今は、眠ってる」
杏子は、無理に微笑みながら、言った。
「そりゃ、ショックだよね。
杏子は、大丈夫?
私もそっちへ行こうか?」
「もうすぐ、尚人が、こっちに来てくれるから」
「そう……でも、何かあったら、いつでも呼んで……」
そう話すまどかの背後で、何かが動いた。
「……まどか」
「え?」
「部屋に誰かいるの?」
「私、一人だけど……。
どうして?」
まどかの左の肩越しに小さな影が横切った。
「今、後ろで、何か動いた」
「何っ?」
まどかは、恐る恐る振り返るが、何もなかったらしく、
「やだ、脅かさないでよ!」と、わざと、明るく言った。
携帯の液晶画面では見えにくいが、杏子が目をこらすと、まどかの左肩に白い手がちょこんと乗った。
杏子の全身に鳥肌が立った。
「まどか!
今すぐ、部屋を出て!」
杏子は、強い口調で言った。
自分の肩に白い手が掛かっていることに気づいていないまどかは、
「どうしたの?」と、要領を得ない感じで聞き返した。
「まどかの左の肩に……」
言いかけた杏子の言葉を遮るかのように、その白い手が、ぬーっと、まどかの左肩から伸びて、
長い髪の少女が現れた。
その少女が、そのまま、まどかの体を乗り越え、杏子に向かって、にやっと笑ったので、杏子は思わず、自分の携帯を投げ捨てた。
今のは何?
いつのまにか、呼吸が乱れていた。
身近で恐ろしい事件が起きたために、杏子も精神が不安定になっているのだろう。
幻覚を見たのだと、杏子は自分に言い聞かせていた。
「杏子? どうしたの?
杏子?……」
突然、切れてしまった電話を、何度かリダイヤルしてみたが、通話中の音が流れるだけで、一向に繋がらなかった。
杏子は、何をわけのわからないことを言っていたのだろう?
今すぐ、部屋を出て!≠ニいうのは、どういう意味なのか?
杏子も、昨夜から、疲れているのだ。
リダイヤルをあきらめて、携帯をソファーの前のテーブルに置こうとした時、2月8日と表示された携帯の画面に、留守番電話のマークがあることに気づいた。
いつのまにか、着信していたらしい。
留守電を再生すると、人工音声が流れて来た。
「メッセージは1件です。
1番目のメッセージです。
8日、18時01分」
反射的に、まどかが壁の時計を見ると、5時56分を指していた。
壁の時計が5分も遅れている。
今朝はそんなことはなかったのに……。
留守電から、シャワーの音が聞こえて来た。
その音にかぶるように、若い女性の声。
「やめて!
お願い、助けて!」
まどかは、背中から冷水を浴びせられたような気がした。
逃げ惑うその若い女性の声は、まどか本人のものだった。
杏子は、タクシーでまどかのマンションに向かっていた。
「まどかの様子がおかしいの……」
杏子は、携帯で尚人に説明した。
「えっ? 着メロ?」
尚人が、唐突に、まどかが変な着メロを受けなかったかと聞いた。
「ワンさんの店で、ダウンロードした記憶もないのにって、まどかが言ってた。
うん……死の着メロ=c…剛の嫌がらせだろうって……」
尚人が、興奮して、「俺が行くまで、まどかの部屋に入るな」と言った。
警察で事情聴取を受けた尚人に何かあったのだろうか?
尚人のそばには、誰かがいた。
杏子は、自分が何か恐ろしいことに巻き込まれ始めた予感がした。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
まどかの部屋のチャイムを、何度、鳴らしても応答がなかった。
尚人は、自分が行くまで待ってろと言ったが、杏子はまどかが心配だった。
ノブを回すと、鍵がかかっておらず、すーっと、ドアが開いた。
灯りは点いているのに、まどかの姿は見えない。
「まどか!」
玄関から、奥に向かって声をかけてみたが、返事がなかった。
「まどか……いないの?」
仕方なく、杏子は靴を脱ぎ、部屋に上がった。
何度も遊びに来た部屋が、いつもとは、違って見える。
正面のベランダ向きの窓のカーテンが、不自然に膨らんでいた。
人一人分の丸みで。
杏子は、勇気を奮い起こし、近づいた。
呼吸を整え、一気に、カーテンを引くと、厚手のコートを掛けていたハンガーが落ちた。
ハンガーを拾い、カーテンレールに引っ掛けようとした時、バスルームから、シャワーの音がした。
(なんだ、シャワーを浴びてて、聞こえなかったのね?)
杏子は、ほっとした。
「まどか! まどか!」
大声で言いながら、バスルームに行くと、確かに、シャワーの音がした。
ただ、妙なのは、バスルームの灯りが点いていないことだった。
まどかは、真っ暗闇の中で、シャワーを浴びていることになる。
「電気点けるよ」
ガラス戸に向かって、声を掛けた。
スイッチを入れた瞬間、ガラス戸に、背が低く、髪が長い女の子のシルエットが映ったが、杏子は気づかずにいた。
「まどか、さっき、携帯で電話した時ね……」
杏子が、そう、話しかけながら、ガラス戸を開けると、バスタブにシャワーカーテンが引かれていた。
「誰かがいたように見えたの……」
相変わらず、シャワーの湯が出しっぱなしだった。
「まどかの左肩に……」
杏子がシャワーカーテンをめくると、そこに、手足を無理に折り曲げられたまどかの死体があった。
シャワーのホースが湯を吐き出しながら、意思を持った生き物のように、まどかの首に巻きついていた。
「きゃーっ!」
ありったけの声で悲鳴を上げながら、振り返ると、杏子の左肩に髪の長い女の子がしがみついていた。
「やだぁ〜!」
女の子を離そうと、必死に、右手で振り払っていると、玄関から声がした。
「杏子、大丈夫か!?」
尚人だった。
バスルームに飛び込んで来た尚人には、杏子が自分の左肩を意味もなく、振り払っているようにしか見えなかった。
極度の恐怖を味わったせいに違いないと、尚人は、ただ、黙って杏子の体を抱きしめた。
「まどかが……」
しゃくり上げながら、杏子が言った。
尚人は、バスタブに、昨日の洋服を着たままのまどかが小さく畳まれたように死んでいるのを見た。
「野添さん……」
リビングのテーブルで、まどかの携帯を見つけた孝子が、その携帯をハンカチで包みながらやって来た。
こんな展開を予測していたのだろう。
孝子は、さして、驚いた様子もなく、「警察に電話しましょう」と言った。
その時、室内に死の着メロ≠ェ響いた。
ぐったりしていた杏子が、恐怖で引きつった顔を上げ、叫んだ。
「これ……まどかにかかって来た着メロと同じ……」
尚人のジーンズの尻ポケットに入れられた携帯からではなかった。
孝子が手にしている携帯からでもなかった。
尚人は、あわてて玄関に行き、床に置かれた杏子のバッグの中をまさぐった。
死の着メロ≠ヘ、そこで鳴っていた。
尚人が、杏子の携帯を手にすると、死の着メロ≠ェ止み、液晶画面に『着信アリ』の文字だけが残った。
「そんな……」
尚人は、言葉が続かなかった。
孝子は、尚人と杏子を連れ、世田谷署の一室にいた。
「これ、見てください」
妹尾に、杏子の携帯を差し出した。
「死の予告電話≠フ着信がありました」
孝子の言葉に、妹尾はちらっと、杏子を見た。
その液晶画面には、電波塔のような建物を囲むフェンス越しに助けを求める杏子の姿が映っている。
動画だが、ノイズだらけで、俯《うつむ》いている杏子も、言葉を発しているのかいないのかわからない。
場所を限定するには、手がかりがなく、『DANGER』の看板の下に、何か、漢字が書かれているが、読み取れない。
「着信日時は?」
尚人が、杏子の携帯を手に取り、着信履歴を見せた。
2月11日 21時10分。
「3日後か……」
妹尾は、苦しげに言った。
「この場所を特定してください」
孝子が言うと、妹尾は頷き、
「この携帯、うちで預かっていいですか?」と聞いた。
孝子が、目で2人に確認した。
「杏子を、助けてもらえますよね?
大丈夫ですよね?」
堪らずに、尚人が聞いた。
「あまり時間が残されていないけど、できる限りのことはします」
妹尾が、冷静に答えた。
「時間が残されていないって、まだ、3日もあるじゃないですか?」
尚人が、興奮して言った。
「そうよ。
妹尾さんらしくないわ」
孝子も責めた。
すると、妹尾が力なく笑いながら、言った。
「杏子さんの時間がないんじゃない。
僕に残された時間がないってことです」
妹尾が、机の上の自分の携帯を開いて、見せた。
「2月10日 10時49分の着信履歴です」
その場にいる3人が絶句した。
「宮さんの携帯から、飛んで来たんですよ。
あれは、絶対に、自殺なんかじゃない。
宮さんは、由美に殺されたんです。
いや、由美の肉体に乗り移った美々子にね」
この数カ月の妹尾のやつれぶりの理由がわかった。
「中村由美は、その時のどさくさに紛れて、姿を消した後、どこへ行ったんでしょう?」
「わかりません。
でも、美々子にとって、由美の肉体は、もう、利用価値がないでしょう。
由美はあまりに有名人になりすぎましたから。
おそらく、違う誰かに乗り移っていますよ」
「……妹尾さん……」
孝子の表情を読んだ妹尾が言った。
「なぜ、僕だけが、2カ月も先の予告だったかってことですよね?
普通は、数時間後とか、数日後とか、長くても、数週間くらい先の予告でした。
おそらく、僕は、生かされているんです。
きっと、何か、理由があるに違いありません」
今、刑事としての本能を剥きだしに、妹尾が追いかけているものがわかったような気がした。
「あと3日、手がかりだけでも、見つけます」
「お願いします」
孝子が頭を下げると、妹尾は、杏子に向かって言った。
「君は生きるんだ」
放心状態の杏子は、自分もこんな風に目的を持てたら、もっと、強くなれるのに……と、他人事のように思った。
帰り際、妹尾が孝子に言った。
「ほら、あの時、携帯番号を交換したでしょう?」
言われて、思い出した。
胃が、きりりと痛んだ。
「でも、安心してください。
僕が、メモリーの操作を間違えて、入力されていません。
僕の携帯に、野添さんの番号は、メモリーされていないってことです」
なぜか、胸が詰まる思いがした。
「出口を探しましょう」
孝子には、そう言うのが、せいいっぱいだった。
9th
February
青い空は、混じり気のない冷たい空気でピンと張り詰めていた。
あと、数日もすれば、この冷たい空気の壁に小さな穴が空き、春が少しずつ、息を吹き込んでくれるのだろう。
陽射しは、まだ、弱く、冬の暦をめくれずにいる。
京浜東北線の「西川口」で降りた孝子は、今日、出掛けにコートの裏地を外して来たことを後悔していた。
足の裏から、寒さが伝わって来る。
林立するソープランド店の前には、客引きが両手をズボンのポケットに入れたまま、その場で足踏みをしながら体を温めていた。
こんな陽の高いうちから、こういう風俗店にやって来る人間がいるらしい。
そう言えば、覇気のない男たちが、所在なく、スポーツ新聞を眺めている。
その店は、このソープランド街のはずれにあった。
水沼毬恵の母親が経営する「スナック ひろこ」。
住居の一部を改築した店のドアに向かって、声を掛けていると、2階の窓が開いて、60歳くらいの女性が顔を出した。
「水沼浩子さんですね?」
女は、射るような視線で、孝子を見下ろすと、拒絶するようにぴしゃりと窓を閉めた。
水沼浩子に間違いない。
「お孫さんの……、美々子さんのお話を伺いたいんです」
2階に向かって、話し掛けたが、返事はなかった。
浩子が、買い物か何かで外出するまで、ここで待つしかないと思っていたら、ドアが開いた。
「そっとしておいておくれよ、もう、関わり合いたくないんだよ」
浩子に促されて、中に入った。
いきなり、暗い店内に入ったので、瞳孔の調節がつかずに、何も見えなかった。
「孫だなんて、思っちゃいないよ。
あの娘《こ》は、恐ろしい子だからね」
目が慣れるに連れて、シミーズ姿の浩子が、カウンターで煙草をくゆらせているのが見えて来た。
取材の基本を思い出した。
事件の関係者は、話したくない気持ちと話したい気持ちの狭間《はざま》で揺れている。
浩子も、そうだ。
「ビールをいただけますか?」
カウンターの冷蔵庫から、ビールを1本出すと、縁に口紅の跡が残ったコップと一緒に浩子が差し出した。
それには、手をつけずに、孝子が聞いた。
「どういうことですか?」
「あの娘《こ》は、呪われてる。
美々子のおかげで、家族はめちゃめちゃさ」
浩子は、そう言うと煙草を吸い、ため息のように長く煙を吐いた。
この家族に、何があったのだろう?
孝子は、目の前のビールとコップを浩子の前に置いた。
浩子は、そのビールをコップに注ぐと、一気に空けて、話し始めた。
「美々子は、望まれて生まれて来たわけじゃない。
毬恵と実の父親の間にできた子供さ」
「……実の父親?」
「一時期、ここで一緒に暮らしていたあたしの亭主だよ。
あたしは、見て見ぬふりをしていたんだ。
それで、あの男《ひと》がこの家にいてくれるならと思って……」
「そんな……
それじゃあ、毬恵さんの気持ちは……」
孝子は、あまりのおぞましさに絶句した。
「どうせ、そこらの男と寝てた尻軽女さ」
返す言葉が見つからなくて、孝子は、浩子のコップにビールを注いだ。
「堕胎《おろ》せなかったんですか?」
「その頃、毬恵は、宗教にハマっててね……この娘《こ》に罪はないって言い張って……だから、ここから、追い出してやった」
「……ご主人は、今、どちらに?」
「さあね、生きているのかさえ、わからないね。
美々子が生まれる前に、近所の中学生を強姦して刑務所に入ったきりさ……」
「出所してから、こちらには戻らなかったんですか?」
「刑務所《むしよ》にいる間に、頭がおかしくなったそうだ。
『あいつが殺しに来る』って、毎日、幻覚を見るようになって……。
弁護士の先生の話じゃ、国に帰ったらしいけど……」
「お国は、どちらですか?」
「台湾だよ」
「台湾でのお名前は?」
「チャンウェイ」
「住所はわかりますか?」
「あたしは、台湾なんか行ったこともないからね……。
炭鉱の町だって言ってたけど……。
弁護士の先生に聞けばわかるんじゃないかい?」
ちょうど、ビールを1本飲み干したところで、引き上げるタイミングだった。
孝子は、礼を言い、千円札を1枚、カウンターに置いた。
「……美々子ちゃんって、どういう女の子だったんですか?」
浩子は、背中を向け、ビールの空瓶とコップを片付けているところだった。
「どういう娘《こ》って……こういう娘《こ》だよ」
振り向いたのは――――――――美々子だった。
大人のシミーズをだぶだぶに着た美々子が、煙草の煙を吐きながら言った。
孝子は、声にならない悲鳴を上げ、後ずさりした。
震える足で逃げ出そうとした時、背後で、また、声がした。
「どうしたんだい?」
今度は、浩子だった。
床に這いつくばっている孝子を、心配そうに見ている。
今、一瞬、孝子が見た美々子は、何だったのか?
孝子は、こうして、死の予告電話≠フ謎を追いかけている自分が、どこかから、美々子に見られているような気がした。
杏子は、部屋の隅で、膝を抱えていた。
ショックだった。
警察に行くまで、死の予告電話≠ネんて、やっぱり、どこかで信じてはいなかった。
メイフォンの父親が、あんな死に方をしたから、気が動転していたけど、冷静になって考えてみれば、馬鹿馬鹿しい話だと思っていた。
きっと、最後は、「な〜んだ」という結末が待っているんだと楽観していた。
でも、あの刑事は、こんなあり得ない話を真剣に聞いていた。
そればかりか、真剣に怯えていた。
警察にも手に負えないとしたら、自分は、誰に助けて貰えばいいのだろう。
まるで、医者に見捨てられた不治の病の患者のような気持ちだった。
「腹、減ったね?」
尚人が、無理に、明るく言った。
尚人だって、食欲がないことくらいわかる。
杏子の気を紛らわせようとしてくれているのだ。
「ごめん、食欲ない。
何か、食べて来ていいよ」
杏子がそう言うと、尚人は大きく首を振った。
「杏子……心配するな。
絶対に、俺が守るから」
「ありがとう。
でも、どうやって?
何から、私を守ってくれるの?」
言っているうちに、杏子の目に涙が溢れて来た。
泣いても、尚人を困らせるだけだと思って、今まで、我慢して来たのに、もう、限界だ。
「わからない。
でも、約束する。
何があっても、俺は、杏子を守る」
杏子の体を両腕で包み込むようにしながら、尚人が言った。
「私……怖い」
「ずっと、俺がそばにいるから。
杏子の体に指一本触れさせないから」
尚人が、頬で杏子の涙を拭ってくれた。
「野添さんだって、あの刑事さんだって、動いてくれてるんだ。
こんな馬鹿なこと、きっと、裏があるさ」
「でも、ワンさんも、まどかも、実際に死んじゃったんだよ。
作り話じゃなくて、都市伝説なんかじゃなくて、本当に、あったことなんだよ」
「俺たちが、ホラー映画の主人公だと思えばいい。
主人公たちは、最後は、必ず、生き残るだろう?」
尚人が励ましてくれる言葉が、強引過ぎて、杏子は、なんだか、可笑《おか》しかった。
「こんなことで、殺されたら、私こそ、化けて出てやる」
尚人も笑った。
大丈夫、時間は、まだ、ある。
きっと、解決の糸口は見つかる。
杏子は、尚人の広い胸にしがみつきながら、そう自分に言い聞かせた。
「西川口」の駅のホームで、孝子は、反対側の耳を押さえながら、携帯に向かって大声を張り上げていた。
「飴玉は、出たんですか?」
「いや、飴玉は出ませんでした。
でも、興味深い、鑑識結果が出ました」
妹尾の声は、冷静だったが、手がかりを見つけた確信に満ちていた。
「どういうこと?」
「一昨日、殺害された台湾料理屋店主の胃の中からも、内山まどかの胃の中からも、微量の石炭が検出されました」
「石炭?」
「ええ、燃料で使われるあの石炭です。
しかも、鑑識の話では、日本の石炭じゃなくて……」
その時、孝子の脳裏に、さっき聞いたばかりの水沼毬恵の母親、浩子の言葉が思い浮かんだ。
『あたしは、台湾なんか行ったこともないからね……。
炭鉱の町だって言ってたけど……』
「台湾?」
「どうして、それを?」
「水沼毬恵の父親は、台湾の炭鉱の町の出身なのよ」
「そんな……」
妹尾が、絶句した。
その時、孝子の体を突風が吹き抜けた。
ホームに電車が滑り込んで来たのだ。
「妹尾さん、その石炭が、台湾のどこの炭鉱のものだか調べて!
すぐに、そっちに行くから」
線が繋がったと、孝子は思った。
渋谷駅から、世田谷署へ向かうタクシーの中で、孝子は、携帯のメモリーから、ある名前を呼び出していた。
|陳于※[#「女+亭」、unicode5a77]《チエンユーテイン》
「※[#「口+畏」、unicode5582]……(もしもし……)」
懐かしい男性の声が聞こえて来た。
「……ユーティン?」
男は、一瞬の沈黙の後、信じられないというように、聞き返して来た。
「タカコ?」
「好久不見了……(久しぶり……)。
突然打電話過来、不好意思了(突然、電話して、ごめんなさい)」
「電話貰えて、嬉しいよ。
元気かい?」
「ええ。
台湾にいるチャンウェイって人を捜して欲しいの。
昔、日本で服役していたことがあるらしいんだけど……」
ユーティンは、あきれたように、
「相変わらずだね」と言って笑った。
台湾でも、有数の弁護士事務所に所属するユーティンなら、そんなことを調べるくらい朝飯前だろう。
「わかった。
調べて、連絡する。
何の取材?」
「変な事件に巻き込まれてるの……。
死の予告電話≠ェあって……」
「ちょっと、待ってよ。
それって、携帯に自分の携帯からの着信を受けた人間が、次々に殺されて行く?」
どんな時も冷静なユーティンが、興奮気味に言った。
「知ってるの?」
「……台湾でも、起きてるんだ。
初めは、よくある噂話と思われていたんだけど、
もう、何人も被害者が出ていることが確認されている」
孝子の額に汗が浮かんだのは、効きすぎた暖房のせいだけではなかった。
世田谷署に着いて、妹尾を訪ねると、
「今、あわてて、どこかに出かけました」と、デスクの女性警官に教えられた。
妹尾は、孝子がここに来ることは知っていたはずだ。
しかも、妹尾は、孝子が毬恵の母親から聞いた話を今すぐにでも、聞きたかっただろう。
それを、後回しにしてまで、出かける理由とは何か?
おそらく、それは、たったひとつしかない。
もっと、有力な手がかりを見つけたのだ。
孝子は、世田谷署の受付から、妹尾の携帯に電話した。
『おかけになった電話番号は、電源を切っているか、電波の届かない場所にいます。
しばらくたってから、おかけ直しください』
無機質な人工音声に、嫌な予感がした。
どこにいても、電話が通じることが当たり前になっている現代人は、ちょっと、連絡が取れなくなるだけで、不安になってしまう。
なぜ、留守電になってないのだろう? と、孝子は思った。
30分ほど待ってみたが、連絡も取れず、帰って来る気配もないので、デスクの女性警官に至急、連絡を取りたい旨を伝え、世田谷署を後にした。
麻布十番の「ジョナサン」で、尚人と杏子と待ち合わせた。
孝子も、この一日、満足に食事を取る時間もなかったし、おそらく、杏子も、ショックで何も口にしていないと思ったからだ。
疲れているから、糖分を欲するのだろう。
孝子は、たっぷり、シロップをかけたパンケーキを頬張りながら言った。
「水沼美々子が死ぬずっと前から、台湾では、死の予告電話≠ェあったらしいの」
あっという間にカレーライスを平らげた尚人が聞いた。
「ずっと前って、どれくらい前からですか?」
「事件そのものが、非科学的なものだったから、長い間、否定され続けていて、詳しい資料は残っていないらしいんだけど、30年くらい前から噂はあったそうよ」
「でも、携帯電話が普及したのは、ここ数年のことですよね?」
「その前は、家の電話にかかって来たんですって……」
「留守電がない時代のことでしょう?」
「電話を取ると、自分が出たらしいわ。
そして、教えるの、
『おまえは、いつ、どこで、どんな風に死ぬ』って……」
ずっと、俯いて話を聞いていた杏子が、顔を上げた。
杏子の前のBLTサンドは、ほとんど、手がつけられていなかった。
「死の予告電話≠チて、台湾から来たものなんですか?」
「その可能性は高いわ。
水沼毬恵の父親は、台湾出身の人なの……」
孝子は、今日、毬恵の母親から聞いた美々子出生の秘密≠話した。
「そんな……」
尚人と杏子は、同時に声を上げた。
不幸な生い立ちだ。
今回の事件は、自分たちの知らないところで繋がっている。
いくつもの怨念が複雑に絡み合い、その負のエネルギーが増大していったのだろう。
自分たちは、たまたま、近くを歩いていて、邪悪な虎の尾を踏んでしまったということか?
尚人は、その不運を恨んだ。
「明日、台湾へ行ってみるわ」
口の中に残るくどい甘さをコーヒーで洗い流すようにして飲み込みながら、孝子が言った。
「妹尾さんも一緒ですか?」
尚人が聞くと、孝子は首を横に振った。
「連絡がつかないの。
彼は彼で、何か、手がかりをつかんだんだと思うわ」
その頃、妹尾は、中村由美の部屋にいた。
いや、正確に言えば、数カ月前、由美が住んでいた部屋だ。
由美が逮捕されてから、この部屋は解約され、今は誰も住んでいない。
大家から借りた鍵で、中に入り、家具のないがらんとした畳の上に、妹尾は座っている。
笠のない裸電球が、縁日の屋台のように眩しい。
ここにいることを孝子に伝えようと思うのだが、さっきから何度、電話をかけようとしても、携帯は、圏外≠セった。
あの事件の時、この部屋から、何度も携帯をかけた記憶があるから、ここが、特別に電波状況が悪いわけではない。
今日だけ、今だけ、圏外≠ネのだ。
やはり、由美から連絡があった時、孝子に伝えておけばよかったと、妹尾は悔やんだ。
1時間くらい前のことだ。
世田谷署の自分のデスクで、これまでの被害者の司法解剖の報告書を読んでいると、携帯が鳴った。
液晶画面に通知されたのは、記憶にない番号だった。
「もしもし、お久しぶりです」
受話口から聞こえて来たのは、中村由美の声だった。
携帯を当てた右耳から、熱い血液が循環し、頭の奥が沸騰するのを感じた。
「由美です。
中村由美です」
自分が全国的に捜索されている重要人物であることさえ忘れているように、由美は明るく言った。
人を小馬鹿にしたような慇懃《いんぎん》さに腹が立った。
妹尾は、怒りに満ちた声で言った。
「宮さんを……殺したのか?」
「まさか……。
私、本宮さんのこと、好きでしたから。
自殺です」
「自殺するような人じゃないんだ」
携帯を握り締める手に力が入って、わなわな震えているのに気づいた。
「妹尾さんは、本宮さんの何を知っていたというんですか?
人間の心の奥なんて、誰も覗けないでしょう?」
妹尾は、黙った。
そんな妹尾をテストするように聞いた。
「普段、拳銃なんて持たない本宮さんが、どうして、あの日に限って持って来たんでしょう?」
「君を……殺すためじゃなかったのか?」
胸の奥のもやもやをかき集めるようにして、妹尾は言葉にした。
「あんなに正義感のある刑事が?
尊敬していた人たちには、意外なことでしょうね」
「正義感があったからこそ、そうしようと思ったんだ」
由美が、けらけらと笑った。
後頭部を吹き飛ばされ、血まみれになって死んでいる本宮の遺体を見て笑われているような気がした。
「今、どこにいる?」
「会いたいですか?」
由美が、挑発した。
「妹尾さんの死の予告≠チて、いつでしたっけ?
もう、あんまり、時間がありませんよね。
いいわ、会ってあげる。
私のアパートに来て!」
それから、由美は、くすりと笑って、こう言った。
「拳銃、持って来た方がいいんじゃないですか?」
妹尾は、一方的に、携帯を切った。
カタをつけてやる。
ふと、気づくと、由美が目の前にいた。
妹尾は、あの日、携帯に死の予告電話≠ェかかって来た時、留守電に残されていた自分の声を、ふと、思い出した。
「……俺には、まだ、時間があるはずだ」
今日は、2月9日……死の予告≠ワでには、あと1日あるはずだ。
その日までは、時間があると思っていた妹尾も、突然、現れた由美の氷のように冷たい目を見て悟った。
最後の自分の言葉の意味を……。
「気づきました?
死の予告≠チて、時には、早まることもあるんですってね?」
そう話し掛けた由美の顔が、CGのモーフィングのように、美々子の顔に変化した。
「……化け物」
吐き捨てるようにつぶやくと、妹尾は背広の内側に吊るしたホルスターから拳銃を抜いた。
しかし、そこまでだった。
何か見えない鎖に縛られたように、妹尾の右手はそれ以上は動かなかった。
美々子は妹尾の耳元に近づき、そっと、囁いた。
「び・ょ・う・い・ん・に・つ・れ・て・っ・て・あ・げ・る」
孝子と別れた尚人と杏子は、麻布十番の商店街を歩いていた。
この時間になると、ピーコックやナニワヤの買い物袋を提げた地元の人間より、おいしい韓国料理やしゃれたバーを目当てに来るよその人間の方が多くなる。
おどろおどろしい話ばかり聞かされた杏子は、一歩、外に出たら、いつもと変わらずに街を歩く人たちがいて、少し、ほっとした。
今、自分の身の上に起きていることが信じられなかった。
「……ねえ、尚人!
私たちのまわりで、何が起きているの?」
杏子は、苛立ったように言った。
「わからない。
常識では、考えられないことだと思う」
尚人の前に回りこんで、目を見ながら聞いた。
「どうして、私なの?」
杏子の目から、言葉にできない感情がこぼれた。
尚人には、何も答えられなかった。
不運≠ニいう言葉を使うには、あまりに残酷な仕打ちだ。
同世代の若者数人が、下卑た冗談に笑いながら通り過ぎて行った。
なぜ、彼らではいけなかったのか?
尚人も、その理不尽さに天を仰いだ。
無力だった。
尚人にできることは、杏子の手を握り、引き寄せ、抱きしめることくらいだった。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
近くに、六本木ヒルズができて以来、道端で抱き合うくらいのカップルがいても、誰も注目しない。
2人の耳に、軽薄な甲高い声が飛び込んで来た。
「うっそ、マジで?
そんなこと言ってると、ミホも、携帯電話で殺されるよ」
杏子がはっとして顔を上げると、行き交う人、辺りにいる人、信号待ちの車の中の人、みんなが携帯で話していた。
携帯電話、携帯電話、携帯電話……。
声の主を探そうとするが、携帯で話している人が多すぎてわからない。
「え? 知らないの?
生きたまま、口縫われて殺される話……。
超有名じゃん!」
コンビニから出て来た女子高生が、携帯で話しながら、けたけた笑っていた。
「ある日、突然、携帯に、無言電話がかかって来るんだって。
そん時、『タイワン、タイワン、カエリナサイ』って、呪文を唱えないと、その携帯に電話をかけて来た霊が……」
杏子と尚人は、一瞬、聞き間違えたかと思った。
タイワン=H
何かに引き寄せられるかのように、杏子はその女子高生を追いかけた。
「背中の後ろに7歳くらいの女の子が立つんだけど、その女の子には口がないの。
だけど、よくよく見ると、あるんだよね、口。
口がないように見えたのは、上唇と下唇を縫われているからなんだってぇ〜!
マジヤバくない?」
その時、杏子が後ろから、携帯で話す女子高生の腕を掴んで、問い詰めるように言った。
「呪文って?」
驚いた女子高生が、後ずさりしながら、聞き返した。
「何っ?」
「無言電話がかかって来た時、何て答えればいいの?」
杏子は、何かに取り憑かれたように、女子高生に迫った。
女子高生は、警戒した目で、闖入者《ちんにゆうしや》を見定めている。
「何なの?
ただの噂話じゃん……」
女子高生は、気味悪そうに、杏子を見た。
「変な女に声掛けられた」
携帯の友達にそう言いながら逃げ出そうとする女子高生に、杏子が言った。
「お願い、教えて。
今、台湾≠チて言った?」
杏子の迫力に女子高生は、怯えながら頷いた。
「『タイワン、タイワン、カエリナサイ』だよ」
「杏子! もう、いいだろう?」
尚人に腕を取られて、杏子は我に返った。
「ごめんなさい……」
「悪かったね」
尚人が、杏子を庇うようにあやまると、女子高生も落ち着きを取り戻した。
その場から立ち去りながら、携帯の送話口に、
「うぜぇ……変なカップルにからまれたぁ!」と
小声で報告している。
「偶然だよ。
僕たちの事件とは、関係ない」
尚人が、興奮する杏子の肩に両手を乗せて、クールダウンさせた。
一度は納得した杏子だったが、もうひとつだけ聞いてみたかったことがあるらしく、数メートル、先を歩いている、さっきの女子高生の背中に声を掛けた。
「もし、無言電話に呪文を言えなかったら、どうなるの?」
振り向いた女子高生は、杏子を精神を病んだ人のように思ったのかもしれない。
憐れむように杏子を見て言った。
「そいつは、ぶっとい針で、生きたまま、口を縫われちゃうんだ」
見えない風が通り過ぎ、舗道の枯葉が舞い上がった。
「やめるんだ。
そんな噂話を聞いて、どうなる?」
尚人が強い口調で、杏子を制した。
「どうにもならないよ。
どうにもならないけど、何か、してないと、頭がおかしくなりそうなの」
そう言って、杏子は、早足で歩き始めた。
まるで、「ほっといてくれ」と言わんばかりに……。
尚人は、何も言わず、杏子の後を歩いた。
商店街を抜け、仙台坂を登り、杏子は、ただ歩いた。
ナイター用のカクテル光線が点いた区立麻布野球場で左折した時、杏子がどこへ向かっているかがわかった。
歩くことで、杏子の気持ちが晴れるなら、それでいいと思った。
ひたすら、杏子の後を歩いた。
有栖川宮記念《ありすがわのみやきねん》公園の池の前で立ち止まった時、杏子が振り返り、尚人に言った。
「……ねえ、ここ、覚えてる?」
「もちろん。
あの辺だったかな、杏子の携帯拾ったの。
拾ってすぐ、電話がかかって来て、
『それ、私の携帯なんです』って、すっげー焦ってたよな、杏子」
「だって、こんな所で落としたと思わなかったもの……」
「……あの時、俺が携帯を拾わなかったら、こんなことにはなってなかったのにな」
尚人が、池の柵に腰掛けながら、ぽつりとつぶやいた。
杏子が、静かに首を振った。
「……尚人のせいじゃないよ」
近くで猫が鳴いた。
杏子は、しゃがみ込んで、猫を誘いながら言った。
「だって、尚人が私の携帯を拾ってくれなかったら……尚人に会えなかったから」
猫は、警戒して近づかなかった。
「尚人の携帯のメモリーから、私の番号削除してね」
「何を言うんだよ?」
尚人は、口を尖らせて抗議した。
「だって、尚人には生きて欲しいもの」
「そんなのは、僕だって同じだ。
杏子に、生きて欲しい」
尚人の胸に額をつけて、杏子が言った。
「私も行こうと思うの。
台湾へ行けば、何かわかるかも知れないでしょ?」
「だから、野添さんが行ってくれるんじゃないか!」
「待っているのは、嫌っ!」
「杏子を危ない目に遭わせたくないんだ」
「これが、運命なら、自分の目でちゃんと見ておきたいの」
杏子の胸元でクロスのネックレスが揺れた。
2人の永遠の誓いだ。
「わかった。
一緒に行こう」
「ありがとう」
杏子は、自分でも不思議なくらい気持ちが落ち着いた。
尚人は、そんな運命なんて変えてやると心に誓った。
10th
February
翌日、孝子は尚人や杏子より3時間早い便で台湾へ向かった。
中正《ツウンツン》国際空港から、タクシーで45〜60分。
台北市の中心街に歌舞伎町のような歓楽街がある。
林森北路《リンスンベイルー》≠フ名で知られるこの歓楽街は、中山北路《ゾンサンベイルー》と新生北路《シンスンベイルー》の間、南京《ナンジン》東簡路《ドンルー》と長安東路《チヤンアンドンルー》の間の一角、縦横500メートルほどの区間に200軒以上の飲食店がひしめいている。
ユーティンから、今朝、メールで届いていた住所を手に孝子は、化粧を落とした娼婦の素顔のような、開店前の飲み屋街を歩いた。
途中で、生ごみを出している顔色の悪いバーテンダー風の男に北京語で聞いたが、言葉が通じなかった。
孝子は、腕時計を見た。
もうすぐ、尚人と杏子が、空港に着く頃だ。
日本で待っててと、出発間際、散々、説得したのだが、2人は聞き入れなかった。
はっきり言って、孝子としては、足手まといになるとわかっていたのだが、杏子の気持ちを考えると承諾せざるを得なかった。
空港には、ユーティンに迎えに行ってもらったから、心配ないだろう。
後で、ホテルで合流することになっている。
雑居ビルが林立する飲み屋街の裏手に、チャンウェイのアパートがあった。
その古いアパートの階段を上って、チャンウェイの部屋の前に立った時、孝子は佇まいの不気味さに気圧《けお》された。
ドアのいたる所に、魔除けの札が張られている。
「『あいつが殺しに来た』って、毎日、幻覚を見るようになって……」
毬恵の母親の言葉が、頭の中をよぎった。
あいつ≠ニは、誰だろう?
「有人在家※[#「口+馬」、unicode55ce]《ごめんください》」
孝子は、そう声をかけながら戸を開けた。
部屋の中は、黴臭い空気が澱んでいる。
「小張在※[#「口+馬」、unicode55ce]?(チャンさん、いらっしゃいますか?)」
雨戸を閉め切った室内は薄暗く、人が住んでいる気配はない。
孝子の背後から差し込んだ光が、あちこちに張られた蜘蛛の巣を浮かび上がらせた。
三和土《たたき》を進むと、埃が舞い上がり、その先の居間の卓袱台《ちやぶだい》に一人分の茶碗や皿が転がっているのが見えた。
まるで、食事の途中に、どこかに出かけたような散らかり方だ。
砥石が置かれた隅の壁には、錆びついた包丁や鋏が何本もぶらさがっている。
チャンは、腕のいい研師《とぎし》だったと毬恵の母親が言っていた。
隣の部屋の押入れで、ごそごそっと音がした。
孝子は、床の軋みに注意を払いながら、歩を進めた。
息を整え、力任せに押入れを開けると、破れた布団の中に夥しい数の鼠がいた。
思わず、後ろに飛びのいた。
孝子は気づかなかったが、チュウ、チュウ、チュウと鳴く鼠の大群の中に白い小さな手が動いていた。
背後から饐《す》えたような匂いがした。
振り返ると、そこに大きな箪笥《たんす》があった。
孝子の肩ほどの高さがある。
箪笥の下には、奇妙な文字や記号が並んでいた。
風水盤のような……。
何かから身を守るための魔方陣だろうか?
ぎぃぃぃ。
箪笥の観音扉が、ほんの少し開いた。
その真鍮の取っ手に手をかけた瞬間、観音扉が一気に開き、孝子に覆い被さるように何かが崩れ落ちてきた。
「うわっ!」
それは、白骨化した人間だった。
状況から考えて、チャンウェイのものに間違いない。
ぼろぼろの衣服を身にまとったその遺体の右手には、埃にまみれた携帯が握られている。
孝子は、一瞬、躊躇《ためら》うが、すぐに決心して、ハンカチで包むようにしながら、その携帯を引き抜いた。
その時、何か確信めいたものを感じた。
孝子は、指紋がつかないように用心しながら、携帯の電源を入れてみた。
液晶画面が明るくなった。
白骨化したこの遺体を見る限り、チャンウェイの死後、数カ月は経っているだろう。
携帯のバッテリーも切れているはずだ。
仮に、電源を切っていたとしても、充電をしなければ、バッテリーは放電し続け、やがて、emptyになる。
それでも、この携帯が生きているのは、これも、死の予告電話≠ェ関係しているからだろう。
孝子は、いくつかのボタンを操作し、着信履歴をチェックした。
ポケットの中から、あらかじめ入手していたチャンウェイの携帯番号と照らし合わせる。
「……やっぱり」
チャンも自分の携帯からの着信を受けていた。
ユーティンが運転する日本製の4WDは、空港から市内へ向かっていた。
助手席には、尚人、後部座席には、杏子が乗っている。
「すいません、お忙しいのに……」
尚人は、日本語で礼を言った。
「いえいえ……。
孝子に言われてますから」
「日本語がお上手ですね?」
「彼女に、教わりました。
僕が、彼女に北京語を教えました」
「仕事仲間だったんですよね?」
「ええ、仕事でもプライベートでもパートナーでした。
ほら……」
ユーティンは笑いながら、ハンドルを握っていた左手を上げた。
その薬指に、シルバーの指輪が光っている。
「もう、3年待ちの婚約指輪。
彼女の中のあること≠ェ片付かないと、結婚して貰えないんです」
「あること=H」
「聞いていませんか?
23年前に行方不明になった妹さんのこと……」
尚人は、後部座席の杏子をちらりと見てから、「いえ」と短く答えた。
「その原因が自分にあると思い込んでいるんです。
だから、自分だけがしあわせになっちゃいけないって……」
「妹さんの失踪に、どうして、孝子さんが責任を感じなきゃいけないんですか?」
「詳しくは話してくれないんですが。
23年前……取ってはいけない電話≠妹に取らせてしまったと……」
「取ってはいけない電話=H」
また、電話がらみ?
尚人と同じことを感じたらしく、後部座席の杏子が息を呑む気配が伝わった。
「なぜ、取ってはいけないのかはわかりません。
ただ、彼女は、その電話が、恐ろしいどこかに繋がっていたと信じているようです」
そう言いながら、ユーティンがウィンカーを倒し、車は高速の出口を降りて行った。
台北の市内でも、多くの人間が携帯で話しているのを見て、杏子は言い知れぬ不安を抱いた。
考えてみたら、電話は、見えているものと見えないものを繋ぐツールだ。
こっちの世界とあっちの世界が、電話で繋がっていてもおかしくないような気がして来た。
「あと5分くらいです。
決して、高級ホテルというわけではありませんが、清潔だし、交通の便もいいので、そこを選びました」
「ありがとうございます」
尚人の言葉に合わせて、頭を下げた杏子が言った。
「ユーティンさんは、死の予告電話≠フこと、どう思いますか?」
ルームミラーで、杏子と目を合わせてから、ユーティンが答えた。
「台湾では、だいぶ、前から、流れていた噂ですからね。
僕の友達のルポライターも、取材していました」
「取材していた=H
そのお友達は、どうして、取材をやめちゃったんですか?」
車が止まった。
フロントグラスの斜め左に、「華府大飯店」という小さなホテルの看板が見えた。
「自宅のマンションから転落して、死にました。
……彼自身が、死の予告電話≠受けてしまったんですよ」
ユーティンの言葉が、2人の胸を突き刺した。
車のアイドリングが、杏子の震えのように足元から響いていた。
その夜、孝子、尚人、杏子は、ユーティンの家に集まった。
「チャンウェイは、死んでいたわ」
孝子の言葉に、みんなが顔を見合わせた。
「部屋の箪笥の中でね。
遺体の第一発見者として、今まで、警察で事情を聞かれていたの」
「……チャンウェイ、つまり、水沼毬恵の父親も、死の予告電話≠受けていたということですか?」
尚人が聞いた。
「ええ、着信履歴に、彼自身の携帯番号が残っていたわ」
腕組みをしていたユーティンが、口を開いた。
「チャンウェイが死んだのは?」
「最後の着信は、12月21日。
おそらく、一昨年の……、美々子が死ぬ3日前よ」
恐る恐る、杏子が聞いた。
「……どういうことですか?」
「推測だけど……。
チャンウェイの携帯のメモリーから選ばれた次の犠牲者が、美々子だったのかもしれない」
その仮説に納得できないといった感じで、尚人が言った。
「美々子は、携帯を持っていなかったんじゃないですか?」
「毬恵の携帯を通じてやって来たんじゃないかしら?」
「でも、半年前、日本で女子大生たちを殺したのは、美々子なんですよね?」
「ええ」
孝子が頷いた。
「じゃあ、携帯を通じてやって来るのは、誰の霊なんです?」
「わからないわ。
おそらく……美々子以外に、もう一人いるのよ」
「もう一人?」
感情を押し殺した声で、杏子が聞き返した。
「美々子が手を下した死体の口には、赤い飴玉が残されていた。
でも、ワンさんやまどかさんの胃の中には、微量の石炭が残されていた」
「ちょっと、待ってくれ。
日本で死んだ2人の胃の中に、石炭があったのか?」
「科捜研で調べたら、台湾産の石炭だという所までわかったのよ」
ユーティンは、興奮して言った。
「死の予告電話≠ノついて取材していた僕の友人が、最近、通いつめていたのが炭鉱≠ネんだ」
「じゃあ、やっぱり、台湾と日本の事件は繋がっているということですか?」
杏子が、孝子に聞いた。
孝子は、目で頷きながら、ユーティンに言った。
「そのルポライターは、今、どこ?」
ユーティンは、俯《うつむ》いて首を振って答えた。
「事故で死んだ。1週間前にね。
空港から、ホテルへ向かう車の中で、尚人さんと杏子さんには話したんだけど、
彼は、死の予告電話≠受けていたんだ」
その場にいる全員が、胃の中に重たいものを感じた。
それでも、孝子は何かに立ち向かおうとしていた。
死んだ人間は帰って来ない。
大切なのは、生きている人間なのよ。
孝子は、心の中でそう叫びながら、現実的な質問をした。
「彼が、どこの炭鉱に目星をつけていたかわからない?」
「ちょっと、待って!」
ユーティンは、隣の部屋へ行くと、パソコンを操作しながら言った。
「……|侯※[#「石+同」、unicode7850]《ホウドン》だ。
彼が残したCD―Rの中に、侯※[#「石+同」、unicode7850]の地図や資料がいくつも入ってる!」
「……侯※[#「石+同」、unicode7850]?」
「台北の北東の山岳地帯、基隆《ジーロン》の近くの炭鉱だ」
「明日、その炭鉱に行ってみるわ」
孝子は、ユーティンの肩越しにパソコンの画面を操作して、ルポライターが残した資料をプリントアウトしながら言った。
「僕も行こう!」
そう言うと思ったが、ユーティンを頼る資格が自分にはないことがわかっていた。
申し分のない人との結婚を、もう、3年も待たせているのだ。
しかも、孝子の一方的な事情で……。
今回の台湾への出張に力を貸して貰うことさえ、孝子はためらっていたのだ。
かと言って、後は自分でやると言っても、納得して貰えないだろう。
「ユーティンは、台湾で起きた死の予告電話≠ノついて調べて貰えると嬉しいんだけど……」
案の定、ユーティンは、何か言いたげだったが、
「ユーティンの友達のルポライターが取材していたことすべてを、知りたいの」と、孝子が付け加えると、「わかった」と引き下がった。
今度は、杏子が真剣な眼差しで言った。
「私も連れて行ってください」
「杏子!」
尚人が、怒ったように言った。
「杏子が行ったって、何もできないだろう?
俺が行くよ」
「そうよ、私が行ったって、何もできないわ。
でも、ここにいたって、何もできないじゃない?
その炭鉱に何があるのか、少しでも、真相に近づいてみたいの」
「でも、杏子に、そんな危険な真似は……」
「大丈夫よ。
死の予告電話≠受けて、今でも、充分危険だから……」
そう言って、杏子は自嘲気味に笑った。
「いいわ。
杏子さんも尚人くんも、一緒に行きましょう」
孝子は、2人を見ながら言った。
真相に近づきたい。
理不尽な事件に巻き込まれた者は、もはや、自分の利害とは関係なく、真相解明への執念だけで燃えるようになるのだ。
妹をどこかに隠した23年前の事件も今回の事件も。
孝子は、杏子の気持ちが痛いほどわかった。
ユーティンが運転する車で、杏子と尚人をホテルまで送った。
「明日、私がレンタカーを借りて迎えに来るから」
2人は、丁寧に頭を下げ、手を振った。
「孝子は、どうする?」
ハンドルを握るユーティンが言った。
「私が予約したホテルに帰るわ」
「うちに泊まればいいのに。
僕たちは、まだ、婚約しているんだよ」
孝子は、ユーティンにそう言われて思い出した。
そうだ、私たちは、まだ、婚約破棄をしていない。
懐かしい台北の夜景が、フロントグラスに広がっていた。
3年前、置き手紙だけ残して、ユーティンの部屋を飛び出した時の風景だ。
妹は、まだ、見つからないのに、自分だけ幸せになってしまうことが恐かった。
しかも、妹の失踪は自分に責任がある。
あの電話さえ、取らせなければ……。
気づいたら、孝子は日本へ向かう飛行機に乗っていた。
「ごめんなさい」
「あやまることなんかないよ。
僕が勝手に待っているんだ。
君は悪くないさ」
「でも、結婚式の前日、逃げ出したのは私の方だし……」
「こうして、戻って来てくれたじゃないか?」
「今回は……」
「わかってるよ、事件のおかげだってね。
どんな理由であろうと、君から連絡があったことが嬉しいんだ。
僕のことを覚えていてくれたんだからね」
「……ユーティン」
「もう、自分を責めるのはやめなさい。
妹さんのことだって、不幸な事故だったんだ。
人は悲しみから逃れるために、忘れる≠ニいう手段を手にしたんだ」
ユーティンは、何も変わっていない。
いや、おそらく、これからも変わらないだろう。
「ちゃんと話し合わなければいけないわね、私たち……」
「この一件が解決したら、陳年紹興酒でも飲みながら、ゆっくり話そうよ」
ユーティンらしい、のんびりしたその独特の言い方に、孝子は思わず笑ってしまった。
隣を見ると、ユーティンもつられて微笑んでいる。
ずっと、張り詰めていた緊張の糸が、ほっと、緩んだような気がした。
やさしい人だ。
孝子の心の闇まで含めて愛してくれている。
事件が解決したら、しばらく、ここで暮らしてみるのもいいかなと思った。
杏子と尚人のために、ホテルの部屋は2つ用意されていた。
それぞれに、チェックインしたのだが、さっき、ユーティンの車で送って貰った時、ホテルの廊下で杏子が言った。
「尚人の部屋に行っていい?」
やはり、一人になるのは恐いのだろう。
「いいよ」
部屋には、暖房が効いているはずなのに、寒かった。
今夜は、特別に冷え込んでいるのだろう。
2人は、ひとつのベッドで毛布にくるまった。
静かだった。
「世の中には、信じられないことがあるんだね?」
杏子が天井を見ながらつぶやいた。
「荒唐無稽な話であればあるほど、そのことを体験したことがない人には、信じられない§bになってしまうものさ」
「自分が死ぬ日を携帯電話で知らされる話なんて、私が当事者じゃなかったら、絶対に信じないもん」
「俺は、今でも信じてないよ。
そういうオカルト的なことはあるのかもしれないけど、杏子の身に起きるなんて信じていない。
杏子は、絶対に助かって、いつか笑い話になるさ。
『昔、杏子の携帯に死の予告電話≠ェかかって来て、台湾まで行ったよね』って……。
由美っていう人だって、死の予告電話≠受けたのに、生き延びたって言ってたじゃないか?」
「でも、彼女は、恋人を剃刀《かみそり》で殺しちゃったんでしょ?」
「もし、杏子が生き延びるなら、俺、杏子に殺されてもいいよ」
隣の尚人を見ると、真剣な表情をしていた。
冗談で言っているわけではなかった。
「馬鹿なことを言わないで」
杏子は思わず、声を荒らげてしまった。
「いい過ぎた。
……ごめん。
俺、絶対に杏子を守るから」
「ありがとう」
杏子は、心の底から言った。
「明日、炭鉱に行ったら、何かわかるのかな?」
「ユーティンの友達のルポライターも、取材していたくらいだから、きっと、何かわかると思う」
「ねえ、尚人、約束して!
絶対に、無理しないで!
危ないことをしちゃだめよ」
「わかってる。
俺たちは、2人で日本に帰るんだ」
毛布の中で、杏子が手を伸ばすと、尚人がしっかりと握ってくれた。
杏子は安心した。
なかなか、寝付けずに、ただ、目を閉じていた。
尚人もそうだろう。
いろいろな場面が頭に浮かんだ。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
厨房で熱い油を被って死んでいたワンさん。
バスタブの中で不自然に体を曲げて死んでいたまどか。
箪笥《たんす》の中で白骨化していたという、水沼毬恵の父親、チャンウェイ。
[#ここで字下げ終わり]
急に、暖房が効いて来たのか、汗ばんで来た。
その時、誰かに見られているような気がした。
杏子は、目をつむったまま、気配を探った。
ベッドのすぐ脇だ。
誰かが、杏子をじっと見ている。
その瞬きすら、感じる。
尚人に助けを求めようとしたが、金縛りに遭ったように体が動かなかった。
今、尚人と繋いでいる指さえ、動かせない。
杏子は、ゆっくりと目を開けた。
部屋は薄暗く、尚人が点けたままにしておいてくれたベッドサイドの灯りだけが、眩しかった。
右の方から、誰かが見つめている。
顔を向けることができないので、目玉だけを少しずつ、右に動かした。
きょろり……きょろり……きょろり……。
黒い影が見える。
この黒い影って、何?
そう思った瞬間、杏子の首がぐるっと右に回った。
顔の正面に……長い髪で隠された少女の顔があった。
「きゃあっ!」
出せなかったはずの声が、出た。
「どうした?」
尚人が、あわてて、杏子の肩を抱いた。
もう、少女の顔はなかった。
夢を見ていたのだろうか?
「ここに、今、髪の長い女の子が……」
杏子が説明すると、尚人がシーツの上から何かをつまんだ。
1本の長い髪の毛だった。
杏子の髪よりも長い……。
その時、どこからか、あの死の着メロ≠ェ聞こえて来た。
「何だよ、この着メロ……」
音は、デスクの脇に置いたスーツケースの中から聞こえて来る。
シャツにしがみついていた杏子の手をやさしくほどいて、尚人がベッドを抜け出した。
「尚人……」
尚人が、スーツケースを開けると、確かに、着メロはそこから聞こえていた。
「嘘だろっ?」
そうつぶやきながら、尚人が手にしたのは、妹尾に預けたはずの……杏子の携帯だった。
「どうして、こんな所に……?」
着メロが止んだ杏子の携帯の液晶画面に、新しい画像が映し出されていた。
「ふざけんなよっ!」
尚人が杏子の携帯を壁に投げつけた。
壁に当たった携帯が、杏子の前の床に転がった。
その液晶画面には、前回と同様、フェンス越しに助けを求める杏子の姿が映っていた。
しかも、そこに映る杏子の背後には、長い髪の少女が迫っている。
さっき、ここで見た少女だ。
「嫌〜っ!」
その液晶画面の中で、助けを求める杏子の口は……
黒い糸で縫い合わされていた。
11th
February
どこかで、電話が鳴っている。
孝子は、目を閉じたまま、その規則的なベルを聞いていた。
さっきから、ずっと、鳴り続けているのに、誰も、その受話器を取ろうとしなかった。
「ねえ! 誰か! 電話!」
孝子が、大声で叫んだ。
返事はない。
仕方なく、孝子がその電話を取ろうと目を開けると、そこは神社の境内だった。
社務所の例の公衆電話が鳴っている。
順子の姿はなかった。
(順子がかけて来たのかもしれない)
そう思って、孝子は夢中で走った。
(このチャンスを失ったら、順子と二度と会えなくなる)
息を弾ませ、社務所に辿り着くと、孝子は、公衆電話に手を伸ばした。
陽射しが、一瞬、翳った。
「もしもし……」
受話器を耳に当て、そう話し始めた時、生暖かい液体が孝子の首筋に伝わり落ちた。
真っ赤な血だった。
驚いて、手を離すと、受話器がだらりとぶら下がった。
受話器の穴という穴から、夥しい血が溢れていた。
まるで、脈打つように……。
そこで、目が覚めた。
夢だった。
ホテルの部屋の電話が鳴っていた。
荒い呼吸のまま、ベッドの脇の電話を取ると、ユーティンだった。
「こんな時間に、ごめん」
怯えたように、かすれた声で言った。
サイドテーブルのデジタル時計を見ると、明け方の4時13分だった。
ベッドに入ってから、まだ、3時間くらいしか経っていない。
「どうしたの?」
「今日、炭鉱へ行く前に、近くの鬼口村《グイコウツン》に寄った方がいい。
生き残り≠ェいるんだ」
「生き残り=H」
「あいつのCD―Rを見ていたら、80年前の新聞記事があったんだ。
住人が、次々に謎の死を遂げた事件のね。
結局、その村は全滅してしまったんだが、隣の鬼口村には、逃げて生き延びた人がいるらしい」
「その生き残り≠ニ今回の事件が、何か関係があるの?」
「わからない」
「でも、80年前じゃ、まだ、電話はなかったでしょう?」
「もちろん。
しかし、なぜ、奴は鬼口村を調べていた?
そこに、この事件の鍵があるような気がするんだ」
孝子は、頬と肩に受話器を挟んで、バッグからメモ帳とペンを取り出した。
「鬼口村ね?」
「うん……」
「ユーティン、何かあった?」
「いや、別に……」
暗く、沈んだ声だ。
ユーティンらしくない。
「孝子、明日、鬼口村と侯※[#「石+同」、unicode7850]へ行って取材が終わったら、すぐに、日本に帰るんだ」
「……ユーティン」
「台湾にいると、きっと、よくないことが起きる。
いいね?」
孝子が、何か言おうとする前に、ユーティンは電話を切ってしまった。
友人のルポライターのCD―Rから、何を見つけたのだろう?
それは、あの冷静なユーティンまで、不安に駆られるものなのか?
明日、炭鉱から帰ったら、ユーティンの家に寄って、そのCD―Rをコピーさせて貰おうと孝子は思った。
台北の北東の山岳地帯、基隆の南東には、かつて、金鉱や炭鉱が点在していた。
当時、この地域で盛んだった鉱工業の原材料を運搬するために、1921年に開通した平溪線《ピンシイシエン》は、瑞芳《ルイフアン》から菁桐《チントン》まで、淡水河《ダンスウツアン》に流れ込む基隆河《ジロンホー》に寄り添うように走っている。
平溪線の瑞芳の次の駅が、基隆近辺の炭鉱のひとつ、侯※[#「石+同」、unicode7850]である。
最盛期には1500人の炭鉱員がいたこの炭鉱も、戦後は産量が減り続け、1981年に閉山した。
その手前に、息を潜めたように、ひっそりと暮らす鬼口村がある。
鬼口村が、寂れたのは、侯※[#「石+同」、unicode7850]の炭鉱が閉山したからではない。
この村だけは、1981年よりずっと前から、ゴーストタウン化していた。
古い橋を渡り、集落が見えて来たあたりの脇道で、孝子は車を止めた。
「こんな所に、人が住んでいるんですかね?」
助手席のドアを開けながら、尚人が言った。
周囲に人影はなかった。
「あそこ……」
後部座席から降りた杏子が、いくつか点在している家のひとつを指さした。
スレートの屋根の煙突から、頼りない煙が立ち上っていた。
3人は、その人が住む気配≠ノ向かって歩き始めた。
靴が踏みしめる伸びた雑草の隙間に、錆びたレールが見える。
引き込み線の跡だろうか?
「ユーティンの友達のルポライターは、俺たちと同じようにここを訪れたんでしょう?」
「ええ、間違いないわ」
「この村に何があるんです?」
「この村じゃないわ。
詳しいリポートは、ユーティンが彼のCD―Rの中をチェックしてくれているけど、この村の先に、呪われた村≠ェあるらしいの」
「呪われた村?」
杏子が、不安げに聞き返した。
「80年前に、住人が、次々に謎の死を遂げていったらしいの」
「何か、疫病が流行ったんじゃないですか?」
「そうかもしれないわ。
でも、なぜ、死の予告電話≠調べていたルポライターが、この村に興味を持ったのか?
そこに、何か、重大な秘密が隠されているような気がするの……」
「重大な秘密って……」
杏子が何か言いかけた時、廃屋の陰から真っ黒な犬が、突然、飛び出して来た。
ウウウ〜!
黒犬は、いつでも飛びかかれるように体を低くして、杏子を威嚇した。
目の中に、深い井戸のような暗さがあった。
まるで、杏子の背後にいる何者かを憎悪しているような唸り声だった。
尚人が、そばに落ちていた小石を拾い、黒犬に向けて投げてもたじろぐことはなかった。
「何だ、こいつ……」
3個目に投げた小石が、黒犬の眉間に当たった。
一瞬、低い鳴き声を上げたが、それでも、黒犬は杏子を凝視していた。
廃屋から探して来た廃材を手に、「おりゃあ〜!」と雄叫《おたけ》びを上げ追いかけると、黒犬はようやく、背中を向けた。
視線から消える寸前、もう一度、こちらを振り返り、睨むように一瞥したのが不気味だった。
黒犬の眉間からは、赤黒い血がしたたり落ちていた。
「昔は、この村の住人の飼い犬だったんでしょう。
村に人がいなくなって、野生化したのよ」
黒犬から、杏子を守るように、尚人とガードした孝子が言った。
「どうして、私だけ、目の敵にするのかしら?」
「杏子に似た飼い主に見捨てられたのかもな」
3人は、また、煙が上る家へと歩き始めた。
山間の小高い丘の上に、高淑梅《ガオスウメイ》の貧しい家があった。
ユーティンから、たった一人の生き残り≠ニ教えられた人間、高淑梅。
孝子が、玄関から声をかけようとした時、尚人が急に孝子の腕を掴んだ。
「足元……」
孝子の膝あたりに、糸が張られ、それに触れると、奥に吊るされた木の板がぶつかりあって侵入者の存在を知らせる仕組みになっていた。
「ガオさん!……ガオさん!……」
ピンと張られた糸の手前で立ったまま、孝子は声を掛けた。
返事がないので、ピンと張られた糸伝いに裏庭に回った。
猫の額ほどの小さな庭先で、木の椅子に座った老婆がこちらに背を向けて、何か手作業をしていた。
老婆は、糸に玉を通し数珠《じゆず》を作りながら、低くしゃがれた声で何か歌っていた。
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
♪ とおりゃんせ とおりゃんせ
ここは どこのほそみちじゃあ
てんじんさまのほそみちじゃあ
[#ここで字下げ終わり]
イントネーションはおかしい所もあったが、老婆が歌っていたのは、確かに、日本のわらべうただった。
「日本語?」
尚人が小声で聞いた。
「台湾のお年寄りは、日本語を話せる人が多いのよ」
孝子は、そう答えながら、老婆に近づいて行った。
「是高淑梅※[#「口+馬」、unicode55ce](高淑梅さんですか?)」
老婆は、わらべうたを歌うことを止めた。
「我是从日本来的(日本から来た者です)。
……日語、※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]※[#「りっしんべん+董」、unicode61c2]的※[#「口+巴」、unicode5427]?(……日本語、おわかりになりますよね?)」
老婆は、警戒した。
全身の神経を集中させているのがわかった。
「80年前、あの村で何があったんですか?」
孝子が、ストレートにそう聞くと、老婆は怯えたように立ち上がり、覚束ない足取りで家に入ろうとした。
「ガオさん、ガオさん……」
つまずきそうになった老婆の肩に手を掛けた時、老婆の顔が見えた。
老婆には、目がなかった。
正確には、目玉がなかった。
その場所から、かろうじて、そこが目だったであろうとわかる2つのくぼみがあるだけだった。
しわだらけの顔に穿たれた肉のくぼみが、孝子を見た。
孝子は、一瞬ひるんだが、すぐに気をとり直した。
「教えてください。
あの村で何があったんです?
80年前、あの村の人たちは、どうして次々に亡くなったんですか?」
老婆の顔が恐怖で歪んだ。
人間というのは、目で感情を表現するものかと思っていたが、目がなくても、老婆の恐怖は伝わって来た。
老婆は、孝子の手を振り払い、腰を曲げたまま、あわてて歩き始めた。
その拍子に、テーブルの上の数珠がざーっと雨のような音を立てて、こぼれた。
「あなたしか話を聞ける人がいないんです」
尚人が叫んだ。
それでも、老婆は頑なに拒み、家の中に入った。
「ガオさん……」
老婆の過剰な反応に3人は、呆然としていた。
何か、核心に近づいて来たのかもしれない。
「那老太、有点怪怪的
(あの婆さん、頭おかしいよ)」
子供の声がした。
振り返ると、隣の家との境にある塀から、7、8歳の男の子が顔を出していた。
「那眼晴、看見了※[#「口+馬」、unicode55ce]?
听説是小時候自己扎的!
(あの目、見た?
子供の頃、自分で刺したんだって!)」
その丸坊主の男の子は、自分だけが知っている秘密を暴露するように自慢げに言った。
「えっ?」
老婆のしわだらけの顔に穿たれた、2つの肉のくぼみを思い出して、孝子は聞き返した。
「用※[#「竹/快」、unicode7b77]子扎……(箸で、ぶすって……)」
自分の北京語が伝わらなかったと思ったのか、男の子は、箸を握り締めた両手で、勢いよく目を刺す真似をした。
そのジェスチャーで、男の子が言っていることの意味を理解した杏子が信じられないという表情でつぶやいた。
「……自分で目を?」
引き戸の向こうで、鉦《かね》を打ち鳴らす音が聞こえた。
同時に、お経を唱える老婆の低い声が聞こえて来る。
何かに縋るようなその声は、誰かと言い争いをしているようにさえ思えた。
孝子と、尚人の目が合った。
(ガオさんは、唯一の手がかりなんだから)
(どうしても、話を聞きたいですね)
2人は目で会話した。
尚人が力まかせに、引き戸を引いた。
それは、あっけなく開き、部屋の奥で仏壇に一心不乱に手を合わせている老婆の姿が見えた。
孝子たちが部屋の中に入って来る気配を察すると、老婆が取り乱した。
「※[#「口+阿」、unicode554a]、請多保佑。
李麗来了!
(ああ、どうかお守りください。
リリィがやって来る!)」
老婆は、悪魔でも見ているかのように、褪せた着物の裾をはだけながら後ずさりする。
「李麗、是誰?(リリィ≠チて、誰ですか?)」
孝子が、聞いた。
「李麗来了……李麗来了……李麗来了……(リリィがやって来る……リリィがやって来る……リリィがやって来る……)」
部屋の隅に追いやられた老婆は、震えていた。
目玉のない目が恐怖に見開かれていた。
「誰が来るんですか?」
孝子が、改めて、日本語で聞いた。
老婆は、「リリィが……」と日本語で叫びながら、突然、全身を痙攣させ、口から泡を吹いて倒れた。
「ガオさん! ガオさん! ガオさん……」
老婆は、気を失っていた。
80年の月日が流れても、まだ、人の気を失わせるほどの恐怖とは、どんな恐怖なのだろう?
その恐怖とは、この老婆が子供の頃、箸で自分の目を刺したことと何か、関係があるのだろうか?
暫らくして、老婆が目を覚ました。
孝子が敷いた蒲団の上だ。
孝子は、老婆の頭を左手でそっと支えながら、湯冷ましを飲ませた。
これで、少しは落ち着いただろう。
「ガオさん……私たちは、日本から来ました。
どうしても、知りたいんです。
80年前の出来事を……」
ゆっくりと、静かな口調で、孝子は話しかけた。
老婆は、緊張を解くためか、ひとつ大きな息を吐いた。
そして、言った。
「そこの若い女は、なぜ、震えている?」
目が見えなくても、杏子の怯えは伝わるのだろう。
杏子が力のない声で答えた。
「今日の夜の9時10分までに、真相をつきとめないと私は死ぬんです」
尚人が、杏子の肩を抱いた。
「死の予告≠ゥ?」
「そうです。
80年前に、ガオさんが生まれた村で何人もの人が死んだように……。
疫病のような呪いで、何人もの人が死んでいるんです。
彼女の所にも、それが……」
「……リリィだ」
絶望に満ちたような声で、一言つぶやいただけで、老婆は黙り込んでしまった。
「彼女は、僕の大切な人なんです。
教えてください。
リリィ≠チて、誰なんですか?」
尚人が、老婆の骨と皮だけの手を取り、懇願した。
老婆が、蒲団から起き上がろうとしたので、杏子が手を貸した。
「リリィは……化け物だ。
……村のみんなを、呪い殺してしまった」
正座した老婆は、ようやく、重い口を開き、封印していた悪夢を話し始めた。
「……あれは、私が、6歳の頃だ」
痰がからんだ、しゃがれた声は、喉の奥に張られた蜘蛛の巣をイメージさせた。
「村に、李麗《リリイ》という女の子がいた。
歳は、私より、ひとつかふたつ、上だったように思う。
美しい顔立ちだったが、どこか陰のある子供で、いつも一人でブツブツつぶやいていた。
まるで、見えない誰かと話してるみたいに……。
子供たちは、リリィを嫌った。
私は、彼女が嫌いではなかった。
2人で遊んでいる時は、普通の子供だったし、彼女はやさしかった。
それに、彼女がしてくれる話は面白かった。
まだ、子供なのに、年寄りがする昔話のようなものをいっぱい知っていた。
ただ、リリィと仲がいいとわかると、私までいじめられるので、みんなには秘密だった。
ある日、みんながリリィを取り囲んで、いじめていた。
『薄気味悪い』
『臭い』
『汚い』
『独り言ばかり言うな』
『生きている蛇を食べているのを見た』
初めは、言葉でいじめていたのだが、そのうち、男の子の一人がリリィに石炭を食べさせようとした。
他の男の子や、中には女の子も加勢して、嫌がるリリィの腕や足や顔を押さえた。
もちろん、石炭なんか食べられるわけがない。
男の子が、リリィに無理に石炭を食べさせようとするのを見ながら、まわりを取り囲んでいた子供たちは大笑いした。
子供の拳くらいの大きさの石炭が、リリィの歯に当たって、じゃりじゃりという音がした。
それでも、リリィは泣かなかった。
悲しそうな目で私をじっと見るだけだった。
私には、そのいじめを止める勇気がなかった。
いたたまれず、私がその場から離れようとすると、一瞬の隙を突いて、リリィが逃げ出した。
リリィがこちらを振り返って、私に何か言いかけた時、男の子が投げた石炭が、彼女の額に当たった。
それでも、リリィは泣かなかった。
リリィは、石炭を投げた男の子の方を指差してこう言った。
『……3日後に死ぬ』
リリィの額からは、真っ赤な血がしたたり落ちていた。
あの時の氷のように冷たい目を、私は死ぬまで忘れないだろう」
老婆の顔に穿たれた肉のくぼみの向こうに、孝子たちは、リリィの額から落ちる血が流れ込むその冷たい目を見たような気がした。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
死の予告電話≠フ被害者たちの胃の中に残されていた台湾産の石炭。
[#ここで字下げ終わり]
孝子は、リリィが80年前に味わった石炭との符合に、胸焼けがするような気がした。
老婆は、手探りで湯呑みを探し出し、喉を湿らせた。
痰がからんだ気管が、隙間風のようにひゅーひゅーと言っていた。
咳払いをひとつすると、老婆は、話を続けた。
「……リリィの言葉通り、その男の子は、3日後に血を吐いて死んだ」
話を聞いている3人が同時に息を呑んだのがわかった。
「その子だけじゃない。
リリィに『死ぬ』と言われた村の人たちは、予言通りに、次々に血を吐き、苦しみ、死んでいった」
「自分をいじめた者たちへの復讐?」
孝子が、重苦しい口調で聞くと、老婆はゆっくりと、頭を横に振った。
「リリィとは関わりがなかった者まで、みんな、死んだ。
私の弟も……隣のお姉さんも……村長さんも……見境なく……。
リリィに呪い殺されてしまった。
肉親や友人や大切な人を失った村の人たちは逆上して、リリィを捕らえ、坑道に連れて行った」
蠅が、飛んでいた。
ぶーんという羽音が、老婆の記憶と現実の間を行き来しているように、孝子には思えた。
長い間≠セった。
「リリィにあったのは、呪い殺す力≠ナはなく、誰が、どんな風に死ぬのかを知ることができる予知能力≠セったのではないでしょうか?」
「確かに、初めは、そうだったかもしれない。
しかし、みんながリリィを怒らせてしまったんだ」
蠅がどこかへいなくなると、再び、老婆は80年前に戻った。
「坑道の中で、リリィは、荒縄で椅子に縛りつけられ、大勢の村人たちに囲まれていた。
私は、父親の背に隠れながら、ことのなりゆきを見守っていた。
どこかで、まだ、自分がリリィを救えるような気がしていたのかもしれない。
澱んだ空気と興奮した男たちの汗の臭いが充満していた。
カンテラの灯りが黒光りする岩肌に、さらに、黒い影をつくっていた。
リリィは、ただ、正面を向いていた。
まるで、悪い事は何もしていないと無言で抗議しているかのように……。
その時、一人の酒に酔った男が現れた。
リリィの額に石炭をぶつけて、一番、初めに、『3日後に死ぬ』と予言され、その通りに死んだ男の子の父親だった。
『この化け物に、二度と予言させちゃならねえ』と叫びながら、男は手に持っていたものをみんなに見せた。
大きな太針と黒い糸だった。
『この口が悪いんだ』
男の血走った目には、憎しみから狂気が宿っていた。
狂気は伝染し、狭い坑道の中は、興奮の坩堝《るつぼ》と化した。
男たちは、リリィの顔を押さえつけた。
『やめて〜!』
私は、初めて、リリィを助けるために声を出した。
ところが、大きな太い針を持った男は、私の方をじろりと睨んだ。
『どこかに、もう一人、口を縫われたいガキがいるらしい』
離れた距離にいるのに、酒臭い息で言った。
父は、あわてて、私を抱え上げると、『この子は、関係ねえよ』と言いながら、坑道の出口に向かった。
遠くから、リリィのこの世のものとは思えない絶叫が聞こえて来た。
木霊のように、何度も、何度も……」
杏子は、昨日、自分がベッドの隣で見たあの少女を思い出していた。
あれは、リリィだったのだろうか?
「そして、リリィを椅子に縛り付けたまま、その坑道は封鎖された。
夜になると、炭鉱からリリィの呻き声がした。
私は恐ろしくて、蒲団を被って震えていた。
大人たちは、3日と生きてはいられないと言っていたが、その苦しげな声は、49日続いた。
やっと、その声が止み、すべてが終わったと思ったのに……今度は、あの手紙が……」
「手紙?」
孝子が聞いた。
「呪われた手紙≠ウ。
……リリィの口を縫った男……そう、リリィに『3日後に死ぬ』と言われて、その通りに死んだ男の子の父親だ……この男の所に、『5日後、斧で頭を割られて死ぬ』と書かれた手紙が届いた。
男は……その通りに……死んだ」
孝子と尚人と杏子は、お互いに顔を見合わせた。
老婆は、淡々と話を続けた。
「それから、村人たちは次々にその不気味な手紙を受け取り、その内容通りに死んで行った。
私の父親も母親も兄弟も友達も……。
村は大騒ぎになった。
いつ自分の所にあの手紙が来るか、村人は恐怖から次第に狂い始めた。
自分の家に火をつける者、娘を犯す者、山の吊り橋から身を投げる者……それは、地獄だった。
家族が死んでしまって、一人ぽっちの私は家に閉じこもったまま、次第に頭がおかしくなっていった。
『あの手紙さえ読まなければいいんだ』
『あの手紙さえ読まなければいいんだ』
『あの手紙さえ読まなければいいんだ』
そうつぶやきながら、私はそばにあった箸をつかみ、ためらうことなく、自分の目を突いた。
一瞬、真っ赤な太陽が飛び込んで来たような熱さを感じた後のことは、覚えていない。
気づいたら、この鬼口村にいた。
あの村の生き残りが私一人だけだと聞かされたのは、それから、ずっと、先のことだ。
もう、あの村で起きたことは、誰にも話すまいと決めた。
私が見たものは、目玉と一緒に葬ったのだ。
悪性の腫瘍《おでき》を刃物で抉り取るように……」
老婆は、遠くを見てつぶやいた。
「その手紙は……本当に、リリィからのものなのでしょうか?
例えば、村の誰かが手紙を書いて、その予告通りに実行したということはありませんか?」
孝子は、わざと、自分が思っていることとは、反対の質問をしてみた。
ジャーナリストとしての本能が、そういう質問をさせたのだろう。
「あれは、村の誰か≠ネんかじゃない」
老婆は、言い切った。
「手紙の字を見れば、誰からだかわかったんじゃないですか?」
孝子は、自分の胸のつかえをなくすために食い下がった。
今、孝子が知りたいのは、真相≠ヘもちろんのこと、そういう出来事があったという事実≠セ。
真相≠ェ解明されない時、人は、そういう出来事があったという事実≠ワで否定しようとするのだ。
妹の順子が失踪した事件のように……。
妹は、なぜ、忽然と姿を消したのか?
その真相≠ェ解明されないばかりに、社務所で鳴っていた公衆電話を妹が取った≠ニいう事実≠ワで、孝子のあやふやな記憶として処理されているのだ。
「……ありえない」
老婆は、80年前の自分の記憶と照らし合わせながら、首を横に振った。
「なぜですか?」
孝子が聞くと、老婆は、孝子に顔を近づけて言った。
「その手紙に書かれていた文字は、すべて……受け取った本人の筆跡だった」
3人が、思わず、同時に唸った。
そうだったのか。
やはり、死の予告電話≠フ発端はここにあったのだ。
孝子の前を塞いでいた大きな壁の隙間から、ほんの少しだけ光が射して来たような気がした。
「ガオさん、ありがとう」
杏子が、老婆の手を自分の手で包みながら言った。
杏子は、泣いていた。
「あなたも、生きなさい。
希望を捨ててはだめよ。
どんな絶望にも、例外≠ヘあるのだから。
この私が生き延びたようにね……」
老婆の顔のくぼみから、涙があふれていた。
80年間、開けることのなかった瞼を、今、開いたように……。
外は、すでに、日の入りが始まっていた。
夕陽に染まった鬼口村の集落が、色褪せて行く。
孝子の運転する車は、リリィが生きたまま閉じ込められた坑道へと向かっていた。
孝子は、ハンドルを握りながら、携帯のメモリーからユーティンを呼び出した。
呼び出し音が、5回以上、鳴っている。
ユーティンは、この電話を待ってくれているはずだ。
9回目の呼び出し音で、ようやく、ユーティンが電話に出た。
「やっぱり、すべての始まりは、あの村よ。
予知能力を持ったリリィという女の子が、村人たちに迫害され、口を縫われた上に生きたまま、坑道に閉じ込められたの。
そのリリィの怨念が、死の予告≠手紙にしていたのよ」
「そうだったのか……」
ユーティンのリアクションが変だった。
心ここにあらずという感じだった。
「ユーティン、何かあった?」
「その炭鉱へは、彼らだけで行って貰うんだ。
君は、すぐに、日本へ帰れ……」
やさしい口調だったが、有無を言わさぬ雰囲気だった。
一緒に乗っている尚人と杏子に気を遣いながら、携帯の送話口と口を手で覆って聞いた。
「どうしたの、突然?」
「この事件に関わらない方がいい。
僕の方で、今夜の日本へ帰る飛行機の手配をした」
「ちょっと、待ってよ、ユーティン!
そんな無責任なことを言うなんて、あなたらしくないわ。
彼女は、今夜の9時10分がリミットなのよ」
声を潜めて言ったつもりだが、杏子には聞こえてしまっただろう。
ルームミラーをちらりと見ると、杏子は窓の外を眺めて、聞こえていないふりをしていた。
「どうして、そんな……」
そう言い掛けて、孝子は、はっとした。
恐ろしい推測が、孝子の言葉を止めた。
「ユーティン! まさか、あなたも……」
電話の向こうのユーティンが、言葉を探しているのがわかった。
「あなたも、死の予告電話≠受けたのね?」
助手席の尚人が、びくんとしたように孝子の方を見た。
後部座席の杏子も、同じだろう。
「そうなんでしょう?」
ハンドルを握る孝子の手が汗ばんで来た。
「……そうだ。
僕の友人のルポライターの携帯から、飛んで来たんだ。
孝子……この事件は危険だ。
僕たちのすぐ近くまで、危険が迫っているんだ。
他人《ひと》のことは、もう、構うな」
「……予告時刻はいつなの?」
「……今夜の7時57分だ」
ユーティンが吐く深い息が聞こえた。
車のパネルの時計は、午後5時を指そうとしていた。
「待ってて!
絶対に助けるから」
孝子は、アクセルを強く踏み込んで叫んだ。
「孝子……」
「炭鉱に行って、リリィがちゃんと成仏できるようにするから」
「もう、間に合わない。
君だけでも生き延びるんだ」
「ユーティン、ずっと、待ってるって言ってくれたじゃない?
だから、指輪も外さないんだって……。
いつか、『孝子が戻って来るまで、一生待ってる』って言ったじゃない?
あと3時間くらい、待てるでしょう?」
フロントグラスの向こうが、滲んで来た。
それが、涙のせいだと、孝子が気づいたのは、ユーティンからの電話を切ってしばらくしてからだった。
「本当に戻らなくていいんですか?
7時57分って、私より1時間以上も早いし……」
杏子が、孝子を心配して聞いた。
「戻ったって、今の私がユーティンにしてあげられることなんて何もないわ。
それより、坑道のリリィが生き埋めにされた場所に行って、霊を慰めた方がチャンスはあるでしょう?」
孝子は、そう答えながら、今でも、ユーティンを愛していることを知った。
この3年間、ユーティンから離れていたのは、妹のせいなんかじゃない。
順子があんな目にあったのは自分のせいだ。
順子が見つかるまで、自分だけしあわせになるわけにはいかない。
そんなのは、詭弁だ。
自分にそう言い訳していただけで、本当は、不安だったのだ。
愛する者を失うことが恐かったのだ。
今、本当に、愛する者を失いそうになって、そのことがわかった。
「最後は、みんな、ハッピーエンドよ」
孝子は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
鬼口村から、山をひとつ越えたあたりが、あの村≠セった。
今では、廃屋のいくつかが、その面影をとどめているに過ぎない。
80年前、呪い≠ニいう疫病で、死んだ村。
時の流れに侵食されるように、人々の記憶からも消えていった村。
ガオさんの家は、どの辺にあったのだろう。
夜の帳《とばり》が降りると、どこの世界にも、平等な闇が広がった。
ここで眠る住人たちは、もう、すべてを許しているのだろうか?
静かだった。
時折、風にそよぐ木々のざわざわという音が、かつての住人たちの話し声のように聞こえるくらいだ。
煉瓦塀が連なる坂道を上がって行くと、ヘッドライトのビームの中にトタンで覆われた小屋が見えて来た。
坑道に入る炭鉱員たちの作業所だったのだろう。
「瑞成鑛業《ルイチエンコワンイエ》」と書かれたペンキが剥げている。
あたりに光源はなく、いつのまにか、太陽と入れ替わった月が青い光をぼんやりと落としているだけである。
孝子は、坑道に車の正面が来るように停めた。
車のエンジンをかけっぱなしにして、ヘッドライトで坑道を照らすつもりだ。
「野添さんの推測では、水沼美々子も、最初は着信を受けた被害者だったんですよね?
それが、どうして、殺す側に回ったんでしょう?」
車から降りるなり、尚人が聞いた。
ここに来るまでの車中、尚人は尚人で頭の中を整理していたのだろう。
「私にも、わからないわ。
中村由美が、なぜ、山下弘を殺害したのかも説明がつかないの」
孝子は、車のトランクルームから業務用の強力な懐中電灯を取り出し、2人に渡した。
その時、杏子が言った。
「水沼美々子が、同じ痛みを持つリリィに共鳴したとしたら……?」
「そして、自分の中に眠っていた悪魔のような人格を目覚めさせてしまったということね?」
杏子は、頷いた。
「中村由美も、置かれていた境遇は似ている……」
尚人も、興奮して口を挟んだ。
「確かに……。
この3人の共通項は、理不尽に痛めつけられ、どこにもぶつけようのない恨みや怒りを抱えていることだわ」
小屋の裏へ回ると階段があって、川に橋が架かっている。
坑道からトロッコで運び出した石炭を、この橋を通って精錬場まで運んだらしい。
孝子たちは、車のヘッドライトを背中に受けながら坑道の出入り口を探した。
「禁止入内《チンツールーネイ》(立ち入り禁止)」と書かれた、朽ちた木の板があちこちに打ち付けてある。
少し大きな坑道の出入り口は、煉瓦が積まれ、塞がれていた。
ここが、リリィを生き埋めにした坑道だろうか?
どこからか伸びた雑草に覆われた煉瓦の向こうから、少女の泣き叫ぶ声が聞こえて来るようだった。
「他の出入り口を探しましょう」
孝子は、懐中電灯で先を照らしながら言った。
80年前にこの坑道が塞がれたとしても、炭鉱は1981年まで操業していたのだ。
他の坑道と、どこかで繋がっているに違いない。
生い茂った草むらの中を、孝子を中心に進んだ。
「予告電話を受けて、助かった人はいないんですか?」
後方から、尚人が聞いた。
「中村由美……彼女が、なぜ、予告時刻を過ぎても生き延びることができたかは、謎なの。それさえわかれば……」
孝子が、目の前の背の高い草を払いながら答えると、杏子が口を開いた。
「共鳴したからじゃないですか?
美々子やリリィに……。
ということは……生き延びる代わりに、殺す側に回ってしまうってこと?
ドラキュラみたいに……。
それだったら、私……生き延びたくなんてない」
杏子が呻くように叫んだ。
「メイフォンがいるわ。
ワンさんの娘、メイフォンは、死の予告電話≠ェあったのに生きているじゃない?
共鳴することもなく……殺す側にも回らず……」
「助かる可能性はあるってことですよね?」
尚人が、無理に明るい声を出した。
「もちろん……」
それに応えながら、孝子が腕時計を見ると5時37分を指していた。
ユーティンの死の予告時刻≠ワで、あと2時間20分。
『六』と壁に記された坑道への出入り口は、数枚の板で塞がれているだけだった。
尚人が、近くにあった錆びたつるはしをてこ≠フ要領で使い、大人が屈んで通れるくらいの穴を作った。
3人が中に入ると、坑道はひんやりとしていた。
どこかで、ちょろちょろと水が流れている音がした。
すぐ近くのような気もするし、かなり離れた場所で流れている水の音が反響しているのかもしれない。
かび臭く、埃っぽかった。
饐《す》えた匂いもする。
何か小動物の屍骸でもあるのだろう。
呼吸に慣れるまで、少し時間がかかった。
懐中電灯で照らすと、ごつごつとした岩肌が黒光りしていた。
どうやら、ここは、トロッコで行くメインの坑道の側道らしい。
この側道を下って行けば、メインの坑道と交わるはずだ。
孝子、杏子、尚人の順番で歩き始めた。
しばらく進むと、杏子がびくっと体を震わせ、立ちすくんだ。
「どうした?」
尚人が駆け寄り、声をかけた。
「……いる。
誰か……いる」
尚人と孝子は、それぞれの懐中電灯をあたりに向けたが、それらしいものは何も見えなかった。
「大丈夫、何もいないよ」
尚人が杏子の肩を抱きながら言った。
「私たち以外に、誰かがいるの……。
じっと、私たちを見ているの……」
杏子は、その場に座り込んでしまった。
「俺がついているから、心配しないで」
尚人もしゃがんで、杏子と同じ高さの視線で話した。
杏子は、怯えていた。
ここまで、怯えてしまうと、岩肌のくぼみまで、人間の目に見えてしまうのだろう。
孝子は、坑道の中を見回しながら思った。
「先に行くわ。
お互いにはぐれたら、この坑道の出入り口で待ち合わせしましょう」
孝子は、そう2人に声を掛けて進んだ。
その時、人間の目のような岩肌のくぼみが、瞬きをしたことに誰も気づかなかった。
どれくらい歩いただろうか?
懐中電灯の灯りだけで照らされた世界は、果てしなく黒い岩が続くだけで、同じ場所をぐるぐる歩いているような錯覚に陥る。
体が汗ばみ、呼吸が荒くなって来た。
それでも、孝子は歩くことをやめなかった。
ユーティンが待っているから。
坑道の天井が、少し低くなって来た。
孝子が、少し屈もうとした時、突然、携帯の着メロが鳴った。
あの死の着メロ≠ヘ、狭い坑道の中をぐるぐると反響しながら、孝子の恐怖を煽った。
ここは、地上から何十メートルも降りて来たのだ。
携帯の電波が通じるわけがないのに……。
そう思ってから、今、孝子たちが闘っているのは、そんな理屈など通らない相手だと思い出した。
(死の着メロ≠ェ鳴っているということは、今度は、私が標的になったのか?)
孝子が、ジーンズのポケットから携帯を取り出し液晶画面を見るが、点滅しているのは孝子の携帯番号ではなく、妹尾の名前だった。
「……もしもし?」
恐る恐る電話に出ると、雑音の中から、男性の声が聞こえた。
「妹尾です」
孝子の緊張が緩んだ。
「妹尾さん……。
今、あの着メロが……」
孝子の言葉を遮るように、妹尾が言った。
「中村由美が死んだ」
「どういうことですか?
だって、彼女は、美々子に共鳴して……」
電話の雑音が激しくなった。
「……で、由美の遺体が……体に無数の傷が……山下の喉を……
……髭剃り用の剃刀《かみそり》を手に……自分で……」
途切れ途切れに聞こえる妹尾の声が、編集途中のビデオテープがスローで再生されたように、間延びしていた。
「電波状態が悪いみたい。
死の予告≠ノついて、わかって来たわ。
すべては、リリィという少女から……」
孝子は、大声で話していた。
それでも、孝子の声が届いていないらしく、妹尾は一方的に話し続けるだけだった。
「……由美の体は……美々子も……憑依ではなく……内なる悪魔が……目覚め……覚醒して……」
妹尾なのに、妹尾じゃない別人のようだった。
「何、聞こえない。
妹尾さん、もう一度……」
孝子は、ふと、思い出した。
前回、尚人や杏子と会った日、自分も死の予告電話≠受けていた妹尾は、杏子が受けた予告時刻まで生きられないと言っていた。
妹尾が受けた予告時刻は、すでに、過ぎているはずだ。
「大丈夫だったのね?
妹尾さんは、死の予告≠クリアできたのね?」
孝子が、絶叫するように言うと、一瞬の無音があった後、妹尾の声が、はっきりと聞こえた。
「空はひとつじゃなかった」
「どういう意味?」
「誰の心にも……悪魔が……」
そう言い掛けた妹尾の声は、再び、雑音に飲み込まれてしまった。
後は、ザーザーザーという雨音のような雑音が響き、しばらくすると、それすらもプツリと切れてしまった。
孝子は、急いでリダイヤルするが、孝子の携帯は圏外だった。
自分が話すのをやめると、また、このまま、永遠に続くかと思われるような静寂が坑道に広がった。
同じ頃、尚人と杏子は、孝子の数百メートル後方を歩いていた。
「リリィは、何で、村の人を次々に殺したんだろう?」
歩きながら、杏子がつぶやいた。
尚人に質問したというより、杏子自身に問いかけたつもりだったが、暗く静かなこの坑道の中では、独り言も会話のひとつのように聞こえるのだろう。
「復讐だろう?
自分をこんな目に遭わせた村人たちへの恨みを晴らしたんだ」
「……本当に、そうなのかな?」
今度は、尚人に聞いた。
「80年も前の話だからね、多少、誇張されている部分はあるにしても、リリィがいじめられたことも、村人たちの死ぬ日を予言できたのも、その特殊な能力に怯えた村人たちによってこの坑道に生き埋めにされたのも、事実だと思う」
「手紙は?」
「今となっては、その死の予告≠フ手紙が誰の手によって書かれたものかはわからない。
でも、それが、脅しのために使われたことは間違いないだろう」
「……脅し?」
「誰だって、『おまえは、何日後に死ぬ』って言われたら恐いからね。
それだけ、リリィの恨みが深いってことさ。
死の予告≠フ手紙が届いてから、実際に死ぬまでに恐怖を味わわせることができるんだ」
「リリィは……何かを伝えようとしていたんじゃないかな?」
「伝えるって、何を?
恐怖心?」
「ううん。
上手く言えないんだけど、リリィが、初めからそんなモンスター≠フような女の子だったとは思えないの」
「でも、明らかに、人とは違った能力を持っていたんだよ」
「だから、彼女には、何か別の使命があったような気がする。
それが、彼女の怒りによって、他の方向で爆発してしまったとか……。
見方によっては、彼女も、被害者じゃないかって思えてならないの」
「どうしたんだよ?
リリィさえいなければ、杏子だって、死の予告電話≠受けることもなかったんだぜ?」
尚人は、立ち止まって杏子に言った。
「あきらめるなよ。
まだ、時間はあるんだ」
尚人は、杏子が弱気になって、そんなことを言い出したのだと思っている。
しかし、杏子が考えていたことは違った。
リリィは、きっと、人間には限りがあることを伝えるために、予知能力≠持って生まれたのではないか?
人間の限りとは、死≠セ。
だから、リリィは、人が死ぬ日だけを予言できたのだ。
人間は本来、自分が死ぬ日がわかっていた方が、充実した毎日を送ることができる。
死≠ヘ恐いものではない。
なぜなら、万人に、訪れるものだから。
本来のリリィは、きっと、そう考えていたに違いない。
怒りが、リリィを変えてしまったのだろう。
予知能力≠ニ復讐心≠ェ、恐怖≠ニいうモンスターを生み出したのだ。
「今、何時?」
時計を持っていない杏子が聞くと、尚人は、正確な時刻を言わずに、
「大丈夫だ」と答えた。
孝子は、狭くなった坑道の中で這いつくばりながら、腕時計を見た。
6時49分。
あと1時間8分。
しばらく、この姿勢で進んで来たので、手足が痺れて来た。
もう、引き返すことはできない。
この坑道が地獄まで通じていようと、前へ進むしかなかった。
何十メートルか行くと、広い坑道に出た。
トロッコのレールが敷かれている。
おそらく、これが、塞がれていたメインの坑道だろう。
ようやく、坑内の天井が高くなり、立ち上がれるようになった所から、孝子は走り始めた。
この先に、リリィが眠っている場所があるはずだ。
坑道は、やがて、幾筋もの道に分かれた。
あたりには、ヘルメットやバケツが散らばっている。
ここから先が、採掘現場だったのだろう。
どの道を行こうか、肩で息を整えながら迷っていると、誰かの足音が聞こえた。
尚人と杏子だろうか?
それにしては、一人の足音しか聞こえない。
しかも、もっと、体重の軽い足音だ。
孝子は、反射的に、その足音を追いかけた。
黒い岩肌に小さな影がよぎる。
まるで、蟻の巣の中を走っているような気になって来る。
(捕まえなければ……)
そう思って、気持ちが急《せ》いたのか、足がもつれ何かに躓いた孝子は、そのまま転倒した。
膝をレールにしたたかに打ちつけ、痛みに息が止まった。
転倒した拍子に、懐中電灯が吹っ飛んで灯りが消えた。
真っ暗になった。
本当の闇とは、こういうものだろう。
骨が折れたかと思って、少しずつ動かしてみると、どうにか動いたので捻挫くらいですんだらしい。
手探りで、懐中電灯を探したが、指先に触れるものはなかった。
このまま、懐中電灯が見つからなかったら、終わりだ。
孝子は、この坑道から永遠に出ることはできない。
(落ち着け……落ち着け……落ち着け……)
そう念じているうちに、孝子は思いついた。
ジーンズのポケットに携帯がある。
孝子は、地べたに寝転んだまま、ジーンズのポケットをまさぐった。
慎重に携帯を取り出すと、液晶画面の灯りをオンにした。
ぼーっとした青白い灯りが、あたりを照らした。
携帯の向きをゆっくりと変えながら、懐中電灯を探していると、目の前の壁に孝子以外の誰かの影が浮かび上がった。
あわてて振り返ると、孝子の右肩の後ろに、髪の長い少女が俯《うつむ》いて立っていた。
「……リリィ?」
孝子が震える声で聞くと、少女は黙ったまま、顔を上げた。
孝子は、背中から羽交《はが》い絞《じ》めされたような恐怖に、あらん限りの悲鳴を上げた。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
少女には、口がなかった。
上唇と下唇を縫い合わされたそれ≠ヘ、かすかに笑っていた。
[#ここで字下げ終わり]
孝子は、神社の境内にいた。
ずいぶん前から、電話が鳴っている。
社務所の方を見ると、赤い公衆電話が鳴っていた。
妹の順子が、その前にいる。
「だめ〜!」
孝子は叫んだ。
「その電話を取らないで!」
孝子は走った。
順子は、そんな孝子を不思議そうに見ている。
「だって、じゃんけんで負けたもん」
順子がそう言いながら、公衆電話の受話器を持ち上げた瞬間、孝子の手がそれを取り上げた。
「お姉ちゃん……」
順子が、孝子を見上げながら言った。
孝子は、いつのまにか、順子よりずっと、背が高くなっている自分に気づいた。
社務所の窓ガラスに、29歳の孝子が映っていた。
孝子は、受話器をそっと、置きながら順子に言った。
「……ごめんなさい」
涙が溢れて、止まらなかった。
「何で、泣いているの?」
「ずっと、ずっと、順子に会いたかったから」
孝子は、自分の腰の高さくらいの順子をしゃがんで抱きしめた。
胸に強い衝撃を感じた。
肋骨の隙間がかーっと熱くなった。
今まで、心のどこかに引っ掛かっていた思いが、ぬるぬるとした液体となって、孝子の体から流れ出して行くような気がした。
意識が次第に遠のく。
順子は、穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「私なら、いつだって、お姉ちゃんのそばにいるから……」
そして、孝子の目の前から、ふっと、消えた。
一陣の風が吹きぬけ、境内を包んだ木漏れ日は、いつしか、赤く染まっていた。
「……順子」
そう叫びながら、孝子が目を覚ますと、そこは闇だった。
手探りで、携帯を探していると、何か金属に触れた。
果物ナイフだった。
なぜ、こんなものがここにあるのだろう。
足元に懐中電灯があった。
何回か、それを叩いているうちに、灯りがついた。
今にも、消え入りそうな灯りだった。
落とした衝撃で、接触が悪くなっているのだろう。
「ユーティン!」
はっとして、腕時計を見ると、文字盤がひび割れ、7時11分を指したまま、針が止まっていた。
携帯は、バッテリーが切れていた。
(今、何時なの?)
孝子は、懸命に立ち上がろうとしたが、捻挫した足では、誰かの支えがないと立てそうにもなかった。
尚人と杏子は、闇の向こうから孝子の悲鳴が上がるのを聞いた。
「野添さんの声だ」
「何か、あったのかしら!?」
「ここで、待ってろ!」
杏子が返事を返す間もなく、尚人は、走って行った。
残された杏子も、後を追いかけようと思ったが、足手まといになりそうな気がしたので、そこで待つことにした。
前方の闇の中に響く尚人の足音が聞こえなくなると、あたりは、し〜んと静まり返った。
自分が何かをしないかぎり、すべての音は、闇に吸い込まれて行くような気がした。
杏子は、立ったまま壁に寄りかかりながら、懐中電灯であたりの気配をうかがっていた。
「……杏子」
どこかで、囁くような女の声が聞こえた。
聞いたことのある声だ。
「……杏子」
かすれてはいるが、その声は、まどかの声だとわかった。
まどかは、あの日、自宅のバスルームで死んだはずだ。
不自然に手足が折れ曲がり、シャワーのホースを首に巻いていたまどかの姿を思い出して、背筋が寒くなった。
こんな場所に一人でいることの恐怖心から、幻聴を聞いているのだろうか?
「まどか?」
試しに、小さな声で言ってみた。
何も聞こえない。
「まどか?」
もう一度、声をかけてみたが、反応はなかった。
死んだ人間の名前を連呼している自分は、頭がおかしくなってしまったのだろうか?
やはり、幻聴だ。
ほっとして、目を閉じた。
その時、誰かの手が杏子の足首を掴んだ。
「きゃあっ!」
盛り上がった土の中から、2本の青白い腕が伸びていた。
さらに、土の中から、ずずずずずと、頭が出てきた。
泥だらけのまどかの顔が現れた。
「さっきから、呼んでいるのに……」
まどかが、恨めしそうに言った。
「嫌〜っ!」
杏子は、足首を握るまどかの手を振り払い、尚人が行った方向へ全力で走った。
「野添さん、大丈夫ですか?」
尚人に肩を借りながら、孝子は、やっと、地面から起き上がった。
左足は、まだ、痛むが、たいしたことはなさそうだ。
「私なら、平気よ。
杏子さんは?」
「手前で、待っています。
野添さんの悲鳴が聞こえたので、俺だけ、先に走って来ました」
「ありがとう。
今、何時?」
「……8時4分です」
尚人が、腕時計を見ながら言った。
「ユーティンの予告時刻は、過ぎています」
「尚人くん、携帯を貸して」
「こんな所じゃ、無理ですよ」
「さっき、妹尾さんからの電話は入ったのよ」
孝子が、尚人の携帯をあちこちに向けてみたが、圏外≠セった。
「尚人!」
杏子が懐中電灯を揺らしながら、走って来た。
「杏子!」
「土の中から、まどかが……」
がくがくと全身が震えている杏子が、尚人にしがみついた。
「リリィの仕業よ。
その人が持っている痛みを突いて、恐怖を味わわせようとしているの。
もう、時間がないわ。
このあたりに、リリィが縛りつけられた椅子があるはずよ。
手分けして探しましょう」
そう言うと、孝子は、右の坑道へ向かった。
尚人と杏子は、左の坑道へ向かった。
2人は、しっかりと手を繋ぎながら歩いた。
「尚人にとっての、痛み≠チて何?」
「痛み=H」
「リリィは、『その人が持っている痛みを突いて、恐怖を味わわせようとしている』って、孝子さんが言っていたでしょう?」
「そういう意味で言えば、俺にとっての痛み≠ヘ、杏子を失うことだ」
「……尚人!」
「俺が、絶対に守るから……」
杏子は、さらに力を込めて、尚人の手を握った。
「杏子、日本に帰ったら……」
尚人が、そう話しかけた時、杏子が少し苦しそうな声を出した。
まるで、猿ぐつわをかまされているような、「ん〜」「ん〜」「ん〜」という声で。
尚人が、隣を見ると、杏子には口がなかった。
いつのまにか、杏子の上唇と下唇は糸で縫い合わされていた。
縋るように尚人を見ていた杏子の目が、急に、嬉しそうな目になった。
次の瞬間、杏子の顔は、みるみるうちに、煤だらけの見知らぬ少女の顔に変わり、背丈も、尚人が繋いでいた手も小さくなった。
「……リリィ?」
口のない少女は、大笑いした。
「……しまった!」
尚人は、少女を突き飛ばすと、今来た道を全速力で引き返した。
杏子は、暗闇の中で目を覚ました。
さっき見た恐ろしいまどかは、やはり、夢だったのか……。
2本の腕が突き出た地面には、何もなかった。
杏子は、起き上がると、そばに転がっていた灯りがついたままの懐中電灯を手にした。
その時、ふと、壁の一部が崩れていることに気づいた。
煉瓦とセメントのようなもので埋められていた岩盤の裂け目が崩落したらしい。
懐中電灯の尻で叩いてみた。
ボロボロと岩がこぼれて、裂け目は広がった。
光を当てると、この裂け目の向こうに空間があるのが見えた。
(リリィが閉じ込められた場所?)
杏子は、必死に、壁の裂け目に懐中電灯の尻を打ちつけた。
長い年月の間に、風化した煉瓦のかけらは、砂時計のようにさらさらと落ちて行った。
体一つ分の穴が開くと、杏子は躊躇することなく、中に入った。
その時、屈んだ杏子の首のネックレスの鎖が切れ、尚人からプレゼントされたクロスが落ちた。
坑道を右に進んだ孝子は、どんどん進むうちに、『六』の壁に突き当たり、やがて、最初に入って来た坑道の出入り口に戻ってしまった。
孝子は、夜露を含んだ外の空気を一気に吸い込んだ。
頭の毛細血管に詰まった何かが、きれいに流れ始めたような気がした。
(ユーティン!)
孝子は尚人から借りた携帯を開いた。
20時42分を表示していた。
孝子は、ユーティンの携帯番号を押した。
メモリーからではなく、こうして番号を押すのは久しぶりなのに、孝子の指が暗記していた。
呼び出し音が鳴り始めた。
(ユーティン、出て……お願い……)
電話は繋がらなかった。
それから、何回か呼び出し音が続いて、留守電が作動した。
孝子は、ピーという発信音の後、送話口に向かって叫んだ。
「ユーティン、今、行くから!」
杏子のことは、尚人にまかせよう。
人は、愛する人を守るために生きてるんだ。
孝子は、今、素直にそう思えた。
さっき、車を停めた場所へと、孝子は走り始めた。
「杏子〜!」「杏子〜!」「杏子〜!」
尚人は、大声で叫びながら、走っていた。
杏子≠ニいう言葉が、壁のあちこちに反射して坑道内を駆け巡っていた。
それでも、杏子からの反応はない。
杏子の身に何かあったのか?
杏子に声が届いていないのか?
尚人は、苛立っていた。
なぜ、杏子のそばを離れてしまったのだろう。
一瞬たりとも、杏子のそばを離れるべきではなかった。
尚人は、悔やんだ。
額の汗を拭いながら、杏子を見つけたら、日本に帰るまで手を放すまいと誓った。
壁の裂け目から中に入った杏子は、懐中電灯を右端から順番に向けた。
朽ちた支柱に立てかけられた錆びたスコップ。
蜘蛛の巣が張ったカンテラ。
柄の折れたつるはし。
水の溜まったヘルメット。
底が抜けたバケツ。
壊れた台車。
地面に転がった鳥かご。
蝋燭《ろうそく》らしき塊。
寸断された荒縄。
そして……椅子。
ここだ。
リリィが閉じ込められたのは、この空間だ。
懐中電灯で、改めて、全体を見渡すと、床から壁から天井から、至る所にペンキで文字が書かれていた。
魔除けのための経文のようだった。
椅子の上には、何もなかった。
もし、ここにリリィが縛られていたとしたら、椅子の上には非業の死を遂げた彼女の遺骨があるはずだ。
椅子の足元に、鈍く光る何かが落ちていた。
杏子は、それを拾った時、心臓が止まるような気がした。
大きく、太い針だった。
おそらく……リリィが常軌を逸した村人たちの手によって、口を縫われたあの針だ。
残酷なリンチ。
リリィの恐怖が伝わって来た。
ぎゃあああああああああああ……。
耳をつんざくようなリリィの悲鳴が聞こえて来たと思ったら、その声は、杏子自身の口から発していた。
(どうして?)
気がつくと、杏子は、あの椅子に座らされていた。
手足は、荒縄で縛られている。
顔を上げると、煤だらけの鉱員が糸を通した大きな針を手に叫んだ。
「再不会讓※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]多嘴了(もう、余計なことを言わせねえ)」
頭でいやいやをして逃げようとすると、誰かの手が杏子の顎をしっかりと掴んだ。
「やめて〜!」
鉱員の骨ばった指が摘んだ針が、目の下に近づいて来る。
思わず、目をつむった。
その針の先端が、杏子の上唇に押し当てられた瞬間、どこかで「杏子!」という声が聞こえた。
尚人の声だった。
目を開けると、目の前に尚人がいた。
煤だらけの鉱員も糸を通した大きな針も手足を縛られていた荒縄も消えていた。
「杏子、ここを出よう!」
尚人が、杏子の手を取った。
椅子から立ち上がった杏子が、尚人の後に続いてこの空間から抜け出そうとした時、どこかで小鳥が鳴いた。
振り向くと、地面に転がっていた鳥かごの中で、カナリアが囀《さえず》っていた。
その昔、炭坑の中で、有害なガスを探知する目的で鳥かごに入れて持って行ったというカナリア。
次の瞬間、尚人が見えない力で投げ飛ばされたように壁に叩きつけられた。
「尚人!」
尚人は、壁からずるずると地面に落ちて、呻き声を上げた。
ひひひひひひ……。
少女が笑い転げる声がした。
「……リリィね?」
「おまえが死ぬまで、あと7分……」
カナリアが、人間の言葉を話した。
「リリィ、もうこんなことはやめなさい。
復讐なんて、意味のないことよ」
「……あと7分で死ぬという運命をどう思う?」
姿を見せないリリィは、カナリアの口を借りて、サディスティックな口調で聞いた。
「どうも思わないわ。
それが、私の運命なら仕方のないことでしょう?」
杏子は、自分でも不思議なくらい恐怖心がなかった。
「本当は恐いくせに、おまえは意地を張っている」
「確かに、意地を張っているのかもしれない。
でも、命ある者は、誰も、いつか死ぬのよ。
自分の死期を知っているか、知らないかの差でしょ?
恐怖なんて、自分の心が作り上げる幻なのよ」
「人間とは、愚かなものだ」
「リリィ!
あなたは、村の人に呪いをかけたわけじゃない。
死期を教えてあげようとしただけなんでしょう?
死ぬ日がわかっていれば、それまでの日々を大切にすると思ったからでしょう?
初めは、それが、あなたの使命だったはず」
鳥かごのカナリアは、言葉を忘れたように、じっと、杏子を見ていた。
「でも、村人たちは、死≠忌み嫌っていた。
リリィ、あなたのことを、災いを呼ぶ死神だと思ったのね?
そして、村人たちは、あなたに怯え、その恐怖心から、あなたの口を縫うという蛮行に出たんだわ。
さらに、村人たちは、自分たちの過ちを忘れ去るために、あなたを坑道に閉じ込めたのよ」
杏子は、頬に生暖かいものが伝うのを感じた。
涙だった。
リリィの怒り≠ヘ、悲しみ≠セった。
「真実は、いつも、死≠フ近くにあるものなのだ」
カナリアは、そうつぶやくと、数回、羽ばたきをして、動かなくなった。
一瞬のうちに、その屍《しかばね》は腐敗し風化し、鳥かごの中には何もなくなった。
いつのまにか点いていたカンテラの灯りが、鳥かごを照らしていた。
岩肌の影が立体的に膨らむと、それが長い黒髪になり、壁から少女が現れた。
「……かわいそうなリリィ……」
杏子は、口のない少女に近づき、その場に跪《ひざまず》くと両手で抱きしめた。
華奢《きやしや》な体だった。
人々の業を背負うには、華奢な体だった。
「……つらかったね」
少女の指が杏子の口をまさぐった。
少女が微笑んだ。
その時、何かがぶつかって来て、杏子の体が飛ばされた。
尚人だった。
「杏子、共鳴しちゃいけない!」
尚人の声に我に返って、少女を見ると、大きな針を手に邪悪な微笑を浮かべていた。
少女は無理に口を開きながら、言った。
「わかるでしょ、私の気持ち?」
口を縫った糸から、血が滲んだ。
「杏子、こっちだ」
尚人は、杏子の体を抱きかかえるようにしながら、壁の裂け目をくぐった。
孝子は、ユーティンの部屋の前で、何度もチャイムを鳴らしていた。
「ユーティン! ユーティン!」
扉を乱暴に叩いてみたが、返事がなかった。
尚人の携帯を開くと、20時55分を表示していた。
孝子は、裏口に回ると、そこにあった鉢植えを躊躇することなく、窓ガラスに投げた。
割れた窓ガラスから腕を入れ、鍵を開けると、
「ユーティン! ユーティン!」と叫びながら、部屋の中を捜し回った。
「うわーっ!!」
バスルームの方で、ユーティンの悲鳴が聞こえた。
「……ユーティン」
孝子は、バスルームの方へ走った。
扉を開けると、床にしゃがみこみ、ビデオカメラを構えながら後ずさりするユーティンの姿があった。
「ユーティン!」
孝子は駆け寄るが、怯えたユーティンはパニック状態だった。
自分を殺しに来た誰かと勘違いして、孝子にカメラを向けている。
「ユーティン、しっかりして!
私よ!」
恐怖に我を忘れていたユーティンも、孝子の声にはっと自分を取り戻す。
「……孝子」
「もう、大丈夫よ。
ユーティンの予告時刻は過ぎているわ」
ユーティンは、孝子の言葉を信じられないような表情で聞いている。
「よかった……」
孝子は、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、バスルームの床に膝から崩れ落ちた。
「恐かったの。
突然、妹を失ったように、あなたを失うことが恐かったのよ。
でも、やっと、わかった。
これから先のことより、今を大切にしようって……。
ユーティン、あなたとやり直したいの……」
「……孝子」
孝子の両手がユーティンを包んだ。
その時、洗面台の上の時計が孝子の目に入った。
「何、これ?」
針は、7時57分で止まっていた。
杏子と尚人は、坑道の出口に向かって走っていた。
途中で、朽ちた梯子《はしご》が架かっているのを見つけた。
「ここを登ろう。
このまま行くより、早く、地上に出られるかもしれない」
そう言いながら、杏子の手を取り、先に登らせた。
梯子の段を踏みしめる度に、みしみしと軋む音がする。
不安げに、後ろを振り返る杏子に、尚人が言った。
「俺が、ついているから……」
この垂直な穴は、鉱員たちの緊急の避難経路だったらしい。
頭上から、かすかな光が射してきた。
新鮮な空気が、舞い降りて来る。
「もう少しだ」
尚人がそう声を掛けると、
「もう少しよ」と真似をする声がした。
「リリィ!」
杏子の2メートルくらい上で、口のまわりを血で真っ赤にした少女が手を差し伸べている。
「杏子、動くな!」
尚人が杏子の脇から、上に登ろうとすると、シュッ! と空を切る音がした。
「うっ!」
尚人が呻き声を上げた。
梯子の段を掴んだ右腕が、かまいたち≠ノ遭ったように切られ、赤い血が滴り落ちていた。
「尚人!」
それでも、少女に近づこうとする尚人の顔のそばで、シュッ! という音がした。
「うっ!」
尚人の頬に赤い線が走った。
「尚人!」
「心配するな!」
尚人は、「くそぅ!」と叫びながら、梯子を一気に駆け登ろうとした。
シュッ! シュッ! シュッ!
少女の見えないナイフが、尚人を切り刻んだ。
「うっ!」「うっ!」「うっ!」
一瞬、梯子をつかむ尚人の指が滑り、十数メートル下へ落ちそうになった。
「尚人!」
杏子の声が絶叫に変わった。
尚人は、かろうじて、足を梯子の段にからめ、体勢を維持した。
シャツが鮮血で染まった。
「やめて! もう、やめて!」
杏子は、梯子の上に向かって泣き叫んだ。
「あなたの痛みはわかったから!
尚人を殺さないで!」
少女の攻撃が止んだ。
「もう、終わりにしましょう」
杏子は、少女に向かってそう話しかけた後、後ろを振り返って尚人に言った。
「……彼女と行くわ」
「何言ってんだよ!」
「リリィは、誰かと共鳴したいのよ。
私が行かないと、他の誰かが犠牲になるから……」
「杏子!」
「……尚人に会えてよかった」
「杏子、だめだ!」
尚人が、梯子の段をよじ登ろうとすると、また、シュッ! という音が聞こえて、尚人の肩がざっくりと切れた。
「お願い!
お願いだから、尚人は生きて!」
杏子の目は、おだやかだった。
死を覚悟した人間の目だった。
「嫌だぁ!」
駄々っ子のように泣き叫んだ尚人が、一気に駆け上がり、杏子の脇を抜け少女に掴みかかろうとすると、いとも簡単に弾き飛ばされた。
バランスを失った尚人は、そのまま宙に放り出され、闇の中を落下していった。
「尚人〜!」
放心状態の杏子に、真っ赤な血を滴らせた口で少女が言った。
「もう、時間よ」
少女に引っ張られるように、坑道から地上に出た杏子は、周囲をぐるりと金網が囲っていることに気づいた。
目の前には大きな電波塔があった。
おそらく、ここが閉山された後、携帯電話のために、最近になって建てられたものだろう。
リリィの怨念が、この電波塔を通して、広がったのかもしれない。
今となっては、どうでもいいことだと、杏子は思った。
杏子と少女は手を繋いで歩いていた。
「どこへ行くの?」
「……いい所」
「何をするの?」
少女は、口のまわりの真っ赤に染まった糸を引き抜きながら、楽しそうに言った。
「一緒に恨みましょう」
その時、大きな爆発音と地響きがした。
振り返ると、杏子とリリィが出て来た避難口から、白い煙が上がっていた。
中から、満身創痍の尚人が這い出て来た。
「尚人!」
杏子が尚人の方に駆け寄ろうとすると、リリィが繋いでいた手を少女とは思えない力で握った。
尚人は、ふらふらしながら、歩き出した。
「リリィ!
お前が閉じ込められていた坑道は、トロッコの中に残されていた爆薬で吹き飛ばしてやった。
もう、おまえが帰る場所はない。
おまえが怨念を抱く場所もな……」
尚人が、前に進んだ。
杏子が、リリィに負けないくらい強い力で手を振りほどき、尚人の元へ走った。
「尚人!」
「杏子!」
2人は、ただ、抱き合った。
それから、尚人が杏子に耳打ちし、いちにのさんで、金網の扉に向かって走り始めた。
少女は、そんな2人を面白そうに見ている。
金網の扉に辿り着いた尚人が、ガチャガチャ開けようとするが、鍵が掛かっていてびくともしない。
少女は、体を折り曲げ、笑った。
次の瞬間、金網をよじ登っていた尚人の体が、見えない力で持ち上げられ、そのまま放り出された。
尚人は、起き上がろうとするが、左足が不自然な角度に曲がっている。
骨折しているのだろう。
「尚人!」
杏子は、金網に縋りつきながら、叫んだ。
その時、強い風が吹き、杏子の髪が乱れて口元を覆った。
尚人は、金網越しに見たその光景にはっとした。
杏子の携帯に死の着メロ≠ェ鳴って送られて来た最初の画像と同じだった。
尚人は、思わず、腕時計を見た。
9時9分。
死の予告時刻≠ワで、あと1分だった。
少女が近づき、杏子の手を握った。
杏子は、一瞬、尚人の方を見て、微笑みながら「さようなら」と唇を動かした。
「やめろっ!
やめてくれっ!」
尚人は、地面を這いながら、金網に近づいた。
どこからか、あの死の着メロ≠ェ聞こえて来た。
タンタンタンタン タンタンタンタン タンタンタンタン……
この世のものとは思えないくらい、暗く、悲しげなメロディだ。
金網の向こう側の地面に、死の着メロ≠ェ鳴っている杏子の携帯が転がっていた。
その時、ふと、思った。
死の着メロ≠ェ鳴っている携帯に、持ち主以外の人間が出てしまったら?
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
メイフォンの携帯に出るワン。
「メイフォン、オマエコソ、ドコニイル?
ナンデ、ジブンノケイタイニデンワスル?」
油を被って死んでいるワン。
[#ここで字下げ終わり]
(身代わりになれる?)
自分の勘に賭けようと思った。
尚人は、金網の破れ目から腕を突っ込み、杏子の携帯を取ろうとした。
指先は触れるのだが、わずかに、届かない。
それでも、尚人は、強引に手を伸ばす。
肩に破けた金網の先端が食い込み、血が滴り落ちる。
尚人が何をしようとしているのか気づいた杏子が、叫んだ。
「尚人! だめっ!」
杏子の声には耳を貸さず、尚人は渾身の力を込めて、右半身を金網の破れ目に突っ込んだ。
尚人の右肩を何本もの針金が刺す。
「うぐぐぐ……」
声にならない声が出た。
「尚人、お願い、やめて!」
ついに、尚人の中指が杏子の携帯を捉えた。
「尚人!」
杏子の携帯の液晶画面が、杏子の携帯番号を表示していた。
尚人の腕時計が、9時10分を指そうとしている。
尚人は、何もためらうことなく、死の着メロ≠ェ鳴る杏子の携帯の通話ボタンを押した。
まわりから、一切の音が消えた。
そして、携帯の受話口から、杏子の切ない声が聞こえた。
「……尚人、きっと、また、めぐり会えるよね」
そのメッセージを聞き終えた時、尚人は、リリィと金網の中にいた。
杏子は、金網の外にいた。
自分の携帯に送られて来た死の予告≠フ画像と同じ光景が、目の前にあった。
ただひとつ異なっているのは、杏子が映っていた場所に尚人がいることだった。
2人の立場は入れ替わってしまった。
杏子が、血相を変えて金網に近寄った。
「尚人!」
尚人と杏子は、金網越しに手を重ね合った。
「こんなの、嫌だよ……」
杏子は、いやいやをしながら言った。
尚人は、何も言わず、ただ見守るように微笑んでいる。
「杏子……悲しまないで……。
君が、俺の立場だったら、同じことをしただろう?」
杏子は、一生分を使い果たすくらいの涙を流しながら頷いた。
「人を愛するって、そういうことだ」
「……私も、一緒に行きたい」
「だめだ。
さっき、俺に言ったよね。
『尚人は生きて』
今度は、俺が言う。
杏子は生きて欲しい」
杏子は、肩を震わせて、嗚咽《おえつ》した。
尚人の指が、金網から杏子の頬に伸びて涙を拭った。
「……また、めぐり会えるよ」
尚人の言葉に、杏子が初めて、微笑んだ。
「ありがとう」
「ありがとう」
その時、2人は人間の言葉の中で一番美しいのは、「ありがとう」という言葉だと思った。
次の瞬間、見えない力が、重ねた2人の手を引き離した。
尚人の体は邪悪な怨念に引きずられ、リリィの足元で止まった。
リリィは満足そうな顔で、杏子の方を見ると、あどけない少女のように手を振った。
電波塔の電線がスパークして、降り注ぐ火花の中、尚人とリリィはこの世ではないどこかへ姿を消した。
「尚人〜!」
一人取り残された杏子は、金網にしがみつきながら何度も、その名前を呼んだ。
掌の中に何かがあった。
月明かりの中で開いてみると、あのクロスのネックレスだった。
杏子が落としたものを、尚人がどこかで拾ってくれたのだろう。
杏子は、もう一度、大声で泣き始めた。
消毒薬の匂いがした。
ゆっくり、目を開くと、辺りは真っ白だった。
病院らしい。
「まだ、2時間くらいしか寝ていないわ。
もう少し眠って……」
ベッドの脇で心配そうに孝子が声をかけた。
鎮静剤を打たれているのだろうが、杏子には少しも効いていないような気がした。
「……尚人は?」
「……大丈夫よ」
孝子の表情で、ちっとも、大丈夫じゃないのがわかった。
尚人は、どういう状況で見つかったのだろう。
杏子は、掌のクロスのネックレスを握りしめながら、また泣いた。
孝子は、杏子の髪を指で梳《す》いた。
かける言葉が見つからなかった。
「ユーティンに電話してくるわ」
病院のロビーを出たところで、孝子は携帯を取り出した。
液晶画面を開くと、『着信アリ』の文字が表示されていて、どきっとした。
孝子は、妙な胸騒ぎを覚えながら、留守電を再生した。
聞こえて来たのは、知らない男性の声だった。
「世田谷署の紺野と申します。
ご報告します。
妹尾刑事が自殺しました」
(……美々子だ)
「中村由美と多摩川で入水心中しました。
昨日の夜のことです」
孝子は、背筋に何か冷たいものが走るのを感じた。
(昨日の夜?
じゃあ、今日、あの坑道で私が携帯で話したのは?)
「妹尾と彼女にどういう事情があったのか、野添さんがご存知のことがあればと思いましてお電話させていただいたのですが……」
孝子は、もう、その先を聞いていなかった。
孝子が病室を出て、しばらくすると、ノックが聞こえた。
「どうぞ」
弱々しい声で応えると、ドアが開き、2人の男が入って来た。
「こんな時にすみません。
私、台湾警察の林《リン》といいます。
彼は、黄《ホワン》です」
男たちは、形式的にIDを見せた。
「二、三質問させていただけますか?」
言葉は丁寧だったが、有無を言わせない口調だった。
ホワンと紹介された背の低い男が、杏子に聞いた。
「今晩、あの炭鉱で発見されたご遺体は、2人ともあなたのお知り合いなんですよね?」
杏子は、思わず、聞き返した。
「……2人?」
ユーティンの部屋は、鍵がかかっていなかった。
「いないの?」
孝子は、声をかけながら、中に入った。
リビングに、ユーティンの姿はなかった。
テーブルにビデオカメラが置かれていた。
ユーティンが、死の予告≠フ証拠として録画していたあのビデオカメラだ。
「ユーティン?」
奥にも、声をかけてみたが、いないようだ。
ユーティンを待っている間、ビデオでも見ていようと孝子は思った。
ビデオを再生すると、ユーティンの顔がまず、映った。
「このビデオが、死の連鎖を断ち切る証拠になることを祈ります」
このリビングが映し出された後、しばらくして、ガラスが割れる音が聞こえた。
「私だ」と孝子は思った。
チャイムを何度も鳴らしても返事がなかったので、裏に回って、窓ガラスに鉢植えを投げたのだ。
「ユーティン! ユーティン!」という孝子の声が聞こえるのに、ユーティンは、侵入者が孝子であることに気づいていない。
怯えたユーティンのカメラは、ソファーに隠れて侵入者を捉えようとするが、観葉植物が邪魔で映せない。
やがて、ユーティンは、カメラを持ったまま逃げ惑い、バスルームへ行く。
そこで、初めて、孝子の顔がアップで映った。
「ユーティン、しっかりして!
私よ!」
「……孝子」
カメラの手前で、はっと、我に返ったユーティンの声が聞こえた。
「もう、大丈夫よ。
ユーティンの予告時刻は過ぎているわ」
張り詰めていた緊張の糸が切れたように、「よかった……」とつぶやきながら、孝子がバスルームの床に崩れ落ちた。
「恐かったの。
突然、妹を失ったように、あなたを失うことが恐かったのよ。
でも、やっと、わかった。
これから先のことより、今を大切にしようって……。
ユーティン、あなたとやり直したいの……」
孝子が、カメラに向かって訴えかけていた。
すると、ビデオの中の孝子は、斜め右を見て、「何、これ?」と声を上げた。
今まで、気に留めなかったが、ビデオの日時は、2004年2月11日19時57分を表示していた。
孝子には、その先の記憶がなかった。
あの後、確か……杏子と尚人のことが心配になって、すぐにあの炭鉱に戻ったような気がするのだが……。
ビデオは、まだ、回っていた。
孝子がフレームアウトする。
ガシャン。
何かのはずみで、ユーティンがカメラを落としたらしく、映像はクリーム色の壁から動くものを狙った。
初めは、その被写体の動きを捉えることができず、ピンボケしていたが、ある瞬間、ぴたりとフォーカスが合った。
何者かが、カメラに向かってナイフを振り上げている。
孝子は、目を凝らしてその映像を覗き込んだ。
ナイフを振り上げているのは、孝子だった。
「どういうこと?」
震える声で、そうつぶやくと、孝子はリビングからバスルームへ走った。
バスルームのドアを開けると、浴槽の中でユーティンが倒れていた。
「……ユーティン」
孝子は、浴槽に入り、指をユーティンの顔に触れた。
冷たかった。
「そんな……」
ユーティンの脇腹には、ナイフが刺さっていた。
ぶるぶる震えながら、
「……私が、ユーティンを殺すわけがないわ。
……私は、ユーティンを愛して……」
そうつぶやいた時、孝子は、ふと、記憶の中で何かが癌細胞のように繁殖しているのがわかった。
あの時。
坑道で転倒した時。
携帯の液晶画面の灯りに照らされた髪の長い少女。
少女は、孝子に微笑みながら、何かを振り上げた。
どすんという衝撃。
胸が焼きゴテを押されたように熱くなった。
そこから、しゅーっと空気が洩れてしまったようで息苦しくなった。
あの時、自分の胸に突き刺さったものは……。
今、目の前に横たわるユーティンの脇腹に刺さっている果物ナイフに見覚えがあった。
我に返った孝子は、携帯を取り出し、震える手で着信履歴を開いた。
そこには、孝子の携帯番号が表示されていた。
着信時刻は、『19時11分』
孝子は、坑道で転倒した時に止まってしまった腕時計を見る。
―――――――――7時11分。
「あの時、私は……」
そう言葉を発した孝子は、口の中に違和感を覚えた。
孝子の顔に恐怖が浮かんだ。
口の中に指を入れ、孝子は恐る恐る中にあったものを取り出した。
それは、毒々しい赤色の飴玉だった。
孝子の顔に、絶望の色が浮かんだ。
どこからか、死の着メロ≠ェ聞こえて来た。
本作品はフィクションであり、文中に登場する人物、団体名などは実在するものと一切関係がありません。
また、風景や建造物など、現実と異なっている点がありますことをご了承下さい。
[#地付き]著者
角川ホラー文庫『着信アリ2』平成16年12月25日初版発行
平成17年9月20日4版発行