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着信アリ Final
秋元 康
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CHAPTER@「海の上の予兆」
下関《しものせき》〜釜山《プサン》を結ぶ国際定期便フェリー「かいきょう」は午後7時に下関を出港し、黒いビロードの布を広げたような夜の海を進んでいた。
航海速度16ノット。
16、187トンの船体は、対照物がない限り、さほどスピードが出ているようには見えない。
空と水平線の境が曖昧《あいまい》で、かすかに光る低い星がかろうじて、そこが空であることを示している。
「今、どの辺かな?」
オレンジ色の誘導灯に照らされた甲板で海を眺めながら、草間《くさま》えみりが聞いた。
「対馬《つしま》海峡を越えたくらいじゃない?」
隣で島崎真理が答えた。
東京の郊外N市にある私立安城高校の2年生137人が、3泊4日の修学旅行で釜山に向かっている。
「明日香も来ればよかったのにね」
えみりは伸びをしながら独り言のように言った。
「本人が来たくないんだから、しょうがないでしょ?」
長身の真理が欄干から身を乗り出すようにして下を覗《のぞ》き込んでいた。
「危ないよ、真理……」
「大丈夫よ。
えみりは心配症なんだから……」
言うことを聞かない子供のように、さらに身を乗り出して真理が笑った。
「それに、あの娘《こ》、浮いてるからさ、うちのクラスで……。
微妙に感じたんだと思うよ」
「もっと強引に誘ってあげればよかったな」
「家まで行ってあげたんでしょ、明日香の?」
「修学旅行をきっかけに、不登校が治ればいいと思って……」
「無理無理……。
新学期になっても、ほとんど、学校に来てないんだよ。
先生だって、ギブアップしてんだから。
それに、明日香が来ても、みんなが一緒の班になりたくないって言い出すでしょ?」
「でも……私と真理は、同じ中学だったんだし……」
「えみり、まだ、そんなこと言ってんの?
私たち、あの娘《こ》のこと、ずっと、庇《かば》って来たじゃない?
高校に入ってから、向こうが離れて行ったのよ」
そう言われると、えみりはもう返す言葉がなかった。
真理も少し興奮して言いすぎたと思ったのか、声のトーンを落としてつぶやいた。
「明日香のお母さんが変な宗教にハマってから、変わっちゃったんだよね」
6月の湿気を含んだ生暖かい風がえみりの首筋を撫《な》でるように通り過ぎて行った。
まるで、誰かのため息のように……。
えみりは、昨日、明日香の家を訪ねた時のことを思い出した。
古い木造の一軒家。
玄関の横にはコンクリート製の使っていない防火用水槽があった。
底には淀《よど》んだ雨水が溜《た》まっている。
苔生《こけむ》したその中を覗いてみたい衝動に駆られたが、得体の知れない何かが蠢《うごめ》いているようで、えみりは躊躇《ちゆうちよ》した。
呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばした時、ふいに背後から声を掛けられた。
「何か、御用?」
振り返ると、買い物|籠《かご》を提げた明日香の母親が立っていた。
生気のない顔からはみ出しそうな大きな白いマスクをしている。
中学校の卒業式で会った時とは別人に見えるくらい痩《や》せていた。
「ご無沙汰《ぶさた》しています。
明日香、いますか?」
「あら、草間さん……。
ごめんなさい。
いないのよ、明日香……」
玄関の引き戸を開けながら、母親は申し訳なさそうに言った。
「どこに行ってるんですか?」
「さあ……あの娘《こ》……△☆□○×……」
語尾が聞き取れなかった。
母親は、ふいに、下を向いた。
嗚咽《おえつ》しているのか、その華奢《きやしや》な肩が小刻みに震え始めた。
何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと思って、あわてて補足しようとすると、母親から鳩の鳴き声のような声が洩《も》れた。
「くっくっくっ……」
それが笑い声だと気づいた時、えみりは、背筋がぞっとするのを感じた。
何が可笑しいのだろう?
気まずくなって、えみりは弁解がましく言った。
「明日からの修学旅行、『行こうよ』って誘いに来たんですけど……」
顔を上げた母親が、突然、目を吊《つ》り上げて怒鳴った。
「うちの娘《こ》を殺すつもり?」
今まで笑っていたのに、口調が豹変《ひようへん》した。
一瞬、何が起こったのかわからずに呆然《ぼうぜん》としていると、えみりの胸ぐらに母親が掴《つか》みかかった。
「これ以上、あの娘《こ》に悪い電波をうつさないで頂戴《ちようだい》!
この間、明日香の血を調べたら、98万ゼジルも悪い電波が出て来たのよ」
悪い電波?
98万ゼジル?
意味がわからなかった。
「あなたもこういうマスクをしないと、悪い電波に空気感染して、脳に溜まるわよ」
そう言って、母親が指で少しだけ持ち上げたマスクの隙間から、今までに嗅《か》いだことのないような生臭く饐《す》えた匂いがした。
えみりは思わず後ずさりした。
その時、2階の窓のカーテンが揺れ、無表情にこちらを見ている明日香と目が合った。
いるじゃない?
なぜ、母親は『明日香はいない』と言ったのだろう?
ウウゥ〜。
防火用水槽から顔を出した黒猫が、えみりに向かって唸《うな》り声を上げた。
毛が濡《ぬ》れていて、雫《しずく》が落ちている。
何かの拍子に落ちてしまったのかもしれない。
助けてあげようと手を伸ばすと、黒猫はえみりをじっと睨《にら》みながら、また、唸り声を上げた。
小さな牙《きば》を剥《む》いた黒猫の口から明日香の母親と同じような匂いがした。
「それに、明日香って……臭くない?」
船体の脇に立つ白い波を見下ろしながら、真理が言った。
「臭い?」
「口が臭いとかじゃなくて、体全体から何か匂わない?
生臭いっていうか、饐えた匂い……」
えみりはそんなことを感じたことはなかったが、クラスの男子が明日香にそう言っていたことを思い出した。
『お母さんが、お風呂《ふろ》に入ると、悪い電波が毛穴から浸《し》み込んで体によくない≠チて言うの……』
確か、明日香がそんなようなことを言っていたような気がする。
明日香がみんなにいじめられ始めたのはいつのことだろう?
中学の頃は、クラスのみんなにえみりがいじめられていた。
自習の時間に、たまたま、えみりだけがノートの整理をしていて、遊んでいた他の生徒全員が教師にこっぴどく叱られ、その罰に校庭を走らされることになったのがきっかけだった。
「裏切り者」
「密告者」
「偽善者」
みんなが教室に戻ってきた時には、もう、えみりへのいじめが始まった。
罵声《ばせい》を浴びせられ、無視され、体操着を隠された。
えみりは何度も泣いた。
そんな時、明日香だけがいつもえみりを慰めてくれた。
「えみりは、何も悪くない」
そう励まされる度に、えみりは明日香だけが大切な友達≠セと思った。
ところが、高校に入ってから、父母会にやって来た母親の奇行がきっかけで、明日香がいじめられるようになったのだ。
父母会の途中で、いきなり、バッグから出した真っ黒な炭を齧《かじ》りはじめ、教師にも食べろと勧めたらしい。
立場が逆転して、えみりが明日香を慰める側に回った。
「明日香は、何も悪くないんだから」と……。
クラスのみんながいない時を見計らって、声を掛けただけだった。
いじめの矛先が自分に向くのが怖かった。
うしろめたさを感じながらも、普段は、傍観者のままで居ようと思った。
いじめ≠ニいうのは、トランプのババ抜き≠フようなものだ。
今、JOKER≠持たされている人間が、次の順番が回って来た時、何とかそのJOKER≠違う誰かに押し付けようとするゲーム。
中学の時にJOKER≠持たされていた自分も、高校になって、明日香にそのJOKER≠押し付けただけだ。
ゲームが終わらない限り、JOKER≠ヘ、必ず、誰かに回って来る。
もう、JOKER≠ヘ引きたくない。
それが、えみりの本音だった。
「だから、修学旅行に明日香が来なかったのは、お互いにとってよかったのよ」
真理は勝手に納得したように頷《うなず》きながら言った。
「でも、何か可哀想。
だって、高校のアルバムから修学旅行の写真が1枚もなくなるってことでしょ?」
「ってか、修学旅行に限らず、ほとんどないんじゃない、みんなと写ってる写真……」
今、明日香はどんな気持ちでいるのだろうか?
あの古い木造の家の2階の部屋にいる明日香を思った。
夜の海の向こうで防火用水槽にいた黒猫の鳴き声が聞こえたような気がした。
船室に戻ると、学校側からレンタルの携帯がそれぞれに配られていた。
「これでお互いに連絡を取り合って、ゴールを目指すんだってさ」
2段ベッドの上に腰掛けた矢澤《やざわ》みのりが唇にグロスを塗りながら、うんざりしたように言った。
「何カ所、チェックポイントがあるの?」
自分の髪を天井の蛍光灯に翳《かざ》して枝毛を探していた高梨奈津子《たかなしなつこ》が聞いた。
「12カ所か、13カ所だったと思うけど……」
部屋の隅でスナック菓子のじゃがりこ≠食べていた深堀夕紀《ふかぼりゆき》が答えた。
今回の修学旅行には、オリエンテーリング≠ェ組み込まれている。
携帯に送られて来たヒントを基に韓国の人たちとコミュニケーションを取りながら、いくつものチェックポイントの写真を撮り、最終目的地を目指すのだ。
1クラス6班に分けられ、そのタイムを競い合う。
えみりたちは、『1班』だった。
「いいよね〜、向こうに彼氏がいて」
奈津子がえみりの手元を覗《のぞ》き込んで言った。
「だから、まだ、そんなんじゃないって」
えみりは、レンタルの携帯に日本の携帯で呼び出した彼の電話番号を登録しながら背中を向けた。
―――――――アン・ジヌ。
去年の夏、えみりが参加した『日韓手話ボランティア交流会』で知り合った韓国の大学生だ。
子供の頃にインフルエンザをこじらせて高熱を出し、聴力を失ったという。
手話を教えている時のアン・ジヌの澄んだ瞳《ひとみ》に、えみりは、自分でも驚くくらいはっとした。
恋のずっと手前の好意≠フような淡いときめきを感じた。
小学校から勉強し始めた手話で「来年、修学旅行で韓国へ行く」という話をしたら、メールアドレスを教えてくれた。
それ以来、ほとんど、毎日のようにメールを交換している。
今は、好意と恋の中間あたりかなと、えみりは思う。
「ね、写真見せて、写真!」
何事にも強引なみのりがえみりの日本の携帯を取り上げようとした。
「ないない」
えみりは笑って否定する。
本当は、1枚だけ、交流会の時に撮ったアン・ジヌの写真が保存してあったのだが、それを見せてしまったら、また、あれこれ詮索《せんさく》されるだろう。
「韓国にいる間に会いに来てくれるんでしょう?」
夕紀がじゃがりこ≠フ先でえみりを指しながら聞いた。
「どうかな? ボランティアで忙しいみたいだし……」
えみりがそう答えると、みんなが一斉に囃《はや》し立てた。
「ジヌ様〜!」
「韓国の男の子って、やさしいんでしょう?」
「うらやまスィ〜、国境を越えた恋か……」
「友達、紹介してくれ〜!」
みんな、口々に勝手なことを叫んでいる。
床に置いた旅行バッグからビデオカメラを出しながら、真理が言った。
「じゃあ、そんなえみりの韓流≠烽ィ祝いして、修学旅行の記念すべき初日に一言!
いい?」
真理がスイッチを入れたビデオカメラの前に、みんなが身を乗り出した。
「今、時刻は20時47分。
釜山へ向かうフェリーの中です。
『1班』のメンバーは、私、島崎真理と、将来は女優志望で、自分はイケテルと自惚《うぬぼ》れている矢澤みのり……」
「アンニョンハセヨ!」
みのりは真理の皮肉など全く無視して、覚えたての韓国語で挨拶《あいさつ》した。
何があったのか、真理とみのりの関係は、ここのところ、ずっと、こんな感じだ。
「それから、電車の中で痴漢を捕まえた高梨奈津子……」
奈津子がレンズぎりぎりまで近づき、おどけて叫ぶ。
「修学旅行イン韓国!」
「ダイエットのリバウンド中、深堀夕紀……」
じゃがりこ≠銜《くわ》えたまま、夕紀が横Vサインでポーズする。
「イェーイ!」
「そして、今、恋人のいる釜山へ向かう草間えみり……」
真理のビデオカメラがえみりに向いた。
「だから、そんなんじゃないってば……」
えみりは、まるで、芸能人がワイドショーのインタビューを拒むように、ビデオカメラのレンズを手で遮りながら言った。
それでも、真理はしつこくビデオを撮り続けている。
みんながそれを見て手を叩《たた》いて笑っている。
この部屋の誰もがこれから楽しい修学旅行になると信じて疑わなかった。
午前2時。
真理とえみりは、廊下の向かい側の『3班』の船室に遊びに来ていた。
2段ベッドが2つある狭い部屋に、男子が5人も乱入し、定員オーバーの状態だ。
『3班』の楠木あずさ、川中瑞江、真鍋友香。
及川美保と佐々木恭子がいないのは、同じようにどこかの部屋で盛り上がっているのだろう。
それに、『2班』の男子、三上輝也、武井耕平、今原信一、小泉丈弘、久本健介。
学校指定のジャージ姿の男女10人がまるで密航者のように、ここにひしめき合っている。
消灯時間はとっくに過ぎていたが、みんな興奮して眠れないのだ。
そのうちの何人かでトランプのババ抜き≠やっているうちに、修学旅行のお約束≠フ怖い話が始まった。
輪の中心に耕平がいた。
「姉貴がうちの高校の卒業生なんだけど、『修学旅行に行く』って言ったら、
『まさか、釜山?』って聞くんだよ。
『そうだよ。毎年、修学旅行は釜山だろう?』って答えると、姉貴の顔が急に曇ってさ、『じゃあ、あのフェリーなんだ』って……」
「どういう意味?」
トランプのカードを切っていた瑞江が口を挟む。
「出るらしいんだよ、このフェリー……」
「武井くん、また、私たちを怖がらせようと思って、そういう……」
怖がりな友香が冗談にしようとしても、耕平は乗って来なかった。
「俺もさ、初めは姉貴の作り話だと思ったんだけど……」
「苦手なんだよな、こういう話……」
信一が耳を塞《ふさ》ぎながらそう言うのを聞いて、「黙って聞いてろよ、信一!」と丈|弘《ひろ》が首に下げていたタオルを投げた。
シャワーで使ったのか、水分を含んだタオルは信一の顔にもろに当たった。
それでも、信一は卑屈にへらへらと笑いながら、そのタオルを丈弘に手渡しで返した。
「邪魔なんだよ」
健介が組んでいた足で、信一の背中を蹴《け》っ飛ばした。
前につんのめった信一が瑞江に覆い被《かぶ》さるかたちになった。
「キモイ!」
瑞江は蔑《さげす》んだ目で、信一を睨《にら》んだ。
「ほっときなよ。
それより、出る≠チて、何が出るの?」
あずさが興味津々という表情で聞いた。
「……女の子」
いつもの軽いノリとは全く違う重苦しい口調で、耕平が答えた。
一瞬、みんなが息を呑《の》んだ。
「女の子の幽霊か?」
そう真顔で聞いた柔道部の輝也の体が、小さく見えた。
「6、7歳の子で…母親が目を離した隙に甲板から海に落ちて行方不明になったらしいんだ。
その女の子がまるで海から上がって来たようにびしょ濡《ぬ》れの体で、船室に現れるんだってさ」
えみりはどこかから水滴が落ちる音が聞こえたような気がして、ジャージの袖をまくっていた腕に鳥肌が立った。
「夜中、船室で寝ていて、ふと目を開けると、びしょ濡れの女の子が覗《のぞ》き込んで、こう言うんだ。
『そこ、私のベッド……』」
誰もが黙ったままだった。
何か見えないものに縛られたようで、身じろぎひとつできなかった。
ようやく、丈弘が口を歪《ゆが》めて、無理に笑いながら言った。
「耕平、下手なんだよ。
最後のセリフは、急に、大きな声で『そこ、私のベッド……』って言わなきゃ、落ちねえだろう?」
「そうだよ。
修学旅行のお約束≠フ怖い話は、最後は、必ず、『見たなあ!』とか『おまえだあ!』とか『そこにいる!』とか、叫ばないと……」
健介が加勢した。
それでも、耕平は真剣な表情で話を続けた。
「その船室っていうのが……27号室。
つまり、この部屋で……そのベッドが……」
耕平の右手の人差し指が、あずさが腰掛けているベッドに向けられた。
「きゃあ〜!」
友香が悲鳴を上げた。
「しっ!
静かにしろよ。
キヨシ≠ェ来るだろう?」
健介がドアの向こうを気にしながら、船内を夜回りしている体育教師のニックネームを挙げた。
その時、耕平が、友香ではなく、自分を見ていることにえみりは気づいた。
どうして、私を見ているのだろう?
言い知れぬ不安が広がる。
(何?)
目でそう訴えても、耕平は何も反応せずに目を逸《そ》らした。
「武井、最悪!」
あずさがベッドから立ち上がり、瑞江のベッドに腰掛けて言った。
「でも、それって、本当にあった話なんでしょう?」
真理が聞いた。
「たいてい、こういう話は、本当にあった≠チて言うんだよ」
耕平より先に、丈弘が答えた。
「なあ?」
「……まあな」
これ以上、怖がらせても仕方がないと思ったのか、耕平は曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
突然、携帯電話が鳴った。
聞いたこともない暗く不気味なメロディだった。
部屋の隅の旅行バッグから流れていた。
「あずさのじゃない?」
瑞江が言った。
「こんな陰気な着メロ入れた覚えないよ。
それに、まだ、この携帯番号、誰も知らないはずなのに……」
あずさが旅行バッグの中を探す。
ようやく見つけた韓国製の携帯電話を手にすると、着メロが止んだ。
「……つかねぇ」
あずさはわざと男っぽく言いながら、携帯の着信履歴を見た。
「 Azusa Kusunoki=c…って、何?
……自分から掛かって来てる……」
「間違い電話だろ?」
輝也が言った。
「たぶんね」
あずさは携帯の留守電を聞いた。
電波状態が悪く、はっきりと聞き取れなかったが、『どこだよ、ここ?』『た・す・け・て』という女の声と『ギャーッ!』という悲鳴が入っていた。
あずさは携帯を改めて見つめながら、「意味がわかんない」とつぶやいた。
隣から丈弘があずさの携帯を覗き込んだ。
「ってか、着信時刻もおかしくねえ?
6月7日の11時12分≠チて……明日じゃん」
「まじ、ムカつく。
あれっ、メールも届いてる!」
「添付画像があるぞ」
丈弘に言われて、あずさが添付画像を開くと、「ひぇ〜」と言葉にならない声を上げて、携帯を投げ捨てた。
床に転がったその携帯の液晶画面には、あずさが首を吊《つ》っている写真があった。
「最低!」
友香があずさの肩を抱きながら言った。
「『FW』ってあるから、誰かから転送されたってことでしょ?」
あずさの携帯を拾って、瑞江が聞いた。
「誰がこんな酷《ひど》いことをしたんだろう?」
えみりが思わずそうつぶやくと、「俺じゃねえよ」「俺がやるわけねえだろ?」「知らねえよ」と、男子が口々に否定した。
「あずさの携帯からあずさの携帯に電話が掛かって来たんだぜ?
しかも、未来の日時に留守電を残して…。
技術的にそんな小細工できないよ、俺たちには……」
健介が言った。
確かに、そうだ。
ここにいる男子がそんな手の込んだことをするとは思えない。
あの首を吊っている写真≠ェ何を意味しているのかは、この場にいる全員がわかっていた。
えみりは、心の中でその名前をつぶやいた。
―――――――――――パムだ。
去年の12月に、学校の体育館で首を吊って自殺したクラスメイト。
湯口公子。
明日香がJOKERを引かされる前に、JOKERを持っていた人間。
公子の公《ハム》≠ニ迷惑メールのスパム≠かけて、パム=B
いじめを苦にしての自殺だったが、学校側が事件をもみ消した。
学校のイメージダウンを恐れたのだろう。
それから、暫《しばら》くして、パムが首を吊っている写真≠ェネットに出回った。
当時は、その犯人捜しで盛り上がったが、やがて、パムが自殺したことも、湯口公子の名前も、ネットに流された首吊り写真の存在も忘れられて行った。
人は都合の悪い事は、記憶の中から早く風化させようとするのだろう。
この部屋にいる誰ひとり、パムの名前を口にしない不自然さが、何かを封印しようとしているようだった。
それにしても、そんなパムの首吊りの写真にあずさの顔を合成させるなんて、趣味が悪すぎる。
『おまえが彼女にしたことはわかっているんだぞ』というメッセージのようにも受け取れる。
パムいじめ≠フ急先鋒《きゆうせんぽう》は、他ならぬあずさだったからだ。
「そこ!」
ふいに、あずさが恐怖に慄《おのの》いた顔で叫んだ。
その視線は、さっきまであずさが座っていたベッドに注がれていた。
「……女の子」
あずさの体が小刻みに震えていた。
みんなには何も見えなかった。
場の空気が一気に重くなった。
「耕平!
おまえがくだらねえ作り話をするから、こういうことになるんだぞ」
丈弘が耕平を非難した。
「これとあの話は関係ねえよ。
それに……作り話なんかじゃないんだ」
何気なく見たそのベッドの下のカーペットが、ほんの少し濡《ぬ》れていることにえみりは気づいた。
(何か、こぼした?)
それをみんなに言ってしまうと本当に恐ろしいことが起きるような気がして、えみりは左足を伸ばし、その裏で濡れていた部分をさりげなく拭《ふ》き取った。
靴下に浸み込んだ水分が、えみりの背筋をひんやりと上って来るような気がした。
「何だったんだろ、あれ?」
『3班』の船室のドアを閉めながら、真理が言った。
「よくわからない」
えみりは沈んだ声で言った。
左足の靴下は、まだ、濡れていて気持ちが悪かった。
「あれって、一時期、ネットに流出したパムの写真だよね?」
「私も、そう思った。
でも、今になって、何でそんなことをするんだろう?」
「意外に……パムのことを密かに好きだった男子が、あずさに復讐《ふくしゆう》しようとしてたりして……」
無責任な話を、真理は面白そうに言った。
「鍵《かぎ》、どうしたっけ?」
「えみりが持って出たじゃない?」
船室の鍵を探していると、ちょうど、廊下の向こうから、みのりと塚本|浩之《ひろゆき》がやって来た。
真理の顔が、急に強張る。
『浩之が、最近、おかしい』と真理が愚痴を言っていたのは、こういうことだったのか。
気まずい空気が流れる。
みのりは悪びれた様子もなく言った。
「ねえ、部屋に戻るんでしょ?
ちょっと、彼と風に当たって来るから、先生が見回りに来たら上手《うま》く誤魔化しといて」
むっとして、真理が、咎《とが》めるように呼んだ。
「浩之!」
「……また、メールするよ」
浩之は真理のきつい視線から逃れるように言った。
端整な顔立ちがずるく見えた。
「行こう!」
みのりが浩之の腕を取って、見せ付けるように自分の腕にからませた。
「みのり!」
真理の声に振り返ったみのりは、何も答えずに手を振って行ってしまった。
「信じられない。
絶対に、みのりの方から誘ったんだよ。
私と浩之が付き合っていること、知ってて……」
興奮気味に真理が言った。
「ちゃんと聞いた方がいいよ、彼に……。
ただ、話していただけかもしれないし……」
えみりの言葉など耳に入らないかのように、真理は2人が消えた廊下の向こうを睨《にら》んでいた。
「親友の彼氏、盗《と》る?
普通、しないよね?」
「……真理」
えみりは、もう、何も言えなかった。
せっかくの修学旅行なのに、友達同士がもめるのは避けたい。
後で、みのりと浩之に話を聞いてみようと思った。
フェリーはエンジンを停止させたようだった。
ぶーんという機械音が聞こえなくなった。
関釜《かんぷ》フェリーは韓国の入国審査官が出勤して来るまで沖で停泊しているとガイドブックに書いてあったから、もう、釜山沖なのだろう。
静かだった。
目を閉じると、時折、感じる揺れで、ようやくここが船の上だとわかるくらいだ。
ベッドに入っても、えみりは、なかなか、寝付けなかった。
修学旅行のまだ初日だというのに、刺激的なことがありすぎたせいだろう。
耕平の姉の話。
あずさの携帯に届いた不愉快な添付画像。
自殺したパムの後味の悪い思い出。
みのりと浩之。
思い浮かぶ1時間前の記憶が、小さな渦となって暗い気持ちの底に沈んで行った。
同じように、自分の体も硬いベッドの下に沈んで行く。
えみりは、夢を見ていた。
高校の校舎だ。
雨が降っている。
下校の時刻が過ぎているのか、校庭に生徒の姿は見えない。
夢の中のえみりは折り畳み傘を差しているから、突然の雨だったのだろう。
ぬかるみ始めた校庭を歩くと、裏門の近くの鶏小屋に誰かが屈んでいるのが見えた。
本降りになったというのに、その誰かは傘を差していなかった。
女生徒だ。
傘がないのなら、バス停まで一緒に入れて行ってあげよう。
あと数メートルという所まで近づいて、その華奢《きやしや》な後姿で松田明日香だとわかった。
「……明日香」
声を掛けてみたが、聞こえていないようだった。
あるいは、振り向きたくないのかもしれない。
えみりはそのまま隣に並んで、傘を差しかけた。
「あんなの気にすることないよ。
明日香は、何も悪いことをしていないんだし……」
いつものように、明日香がみんなにいじめられていることを気に病んでいると思ったのだ。
いや、今、やさしい言葉を掛けたのは、さっき教室で明日香がいじめられていた時に、何もできなかった自分への良心の呵責《かしやく》かもしれない。
なぜ、みんなの前で明日香を庇《かば》ってあげなかったのだろう?
本当はわかっていた。
それが、学校というサバイバルゲームで弱者が生き残るための術だからだ。
「ごめんね。
みんなを止められなくて……」
何も答えないまま、明日香は鶏小屋の金網の中をじっと覗《のぞ》き込んでいた。
その思いつめた表情を見ていると、彼女が自殺でもするんではないかと思えて来る。
「明日香……」
「見て……」
明日香が声を出した。
促されて鶏小屋の金網を覗くと、一羽の鶏が数羽の鶏に突《つつ》かれて血だらけになっていた。
えみりは、思わず、目を覆った。
「可哀想……」
えみりがそう言うと、明日香がぽつりとつぶやいた。
「いじめられる方がいけないのよ」
「えっ?」
「もっと、強くなればいいのに……」
それは、まるで、明日香が自分に言い聞かせているような言葉だった。
夢の中の場面が、急に変わった。
雨は止み、校庭の地面も乾いていたから翌日のことなのだろう。
鶏小屋の外で、血だらけだったあの一羽の鶏だけが元気に跳ね回っていた。
扉が開けっ放しだ。
他の鶏は逃げてしまったのだろうか?
鶏小屋を覗き込むと、金網の中に首をへし折られた鶏たちの屍骸《しがい》が散乱していた。
明日香の仕業だと思った。
いじめられていた者の逆襲。
一陣の風に舞い上がった数枚の羽根が、勝ち誇った顔をした明日香の吐息に吹かれたように見えた。
後味の悪い夢だ。
いや、夢だったのか、記憶の断片だったのか、よくわからない。
今、何時なのだろうか?
外がまだ静かだから、夜明け前に違いない。
目を閉じたまま、まどろんでいると、顔の前に何か、気配を感じた。
誰かに顔を覗き込まれているような……。
心臓が早鐘を打った。
声を上げたいのに、体が金縛りにあったように動けなかった。
(誰?)
頬を冷たい指先で撫《な》でられた。
まるで、夜の海にずっと浸《つ》かっていたような……。
血液が全身を逆流し、えみりの頭の中が恐怖で真っ白になった。
(誰なの?)
今すぐにも、何者かが飛び掛って来るような不安に駆られた。
闇と静寂に耐えられずに、ついに目を開けてしまった。
5センチくらいの所に、誰かの顔があった。
6、7歳の女の子の青白い顔だった。
びしょ濡《ぬ》れの髪から、えみりの額に水の雫《しずく》が落ちている。
女の子が言った。
「そこ、私のベッド……」
えみりはそこで気を失った。
遠くで非常ベルが鳴っていた。
これも、まだ、あの恐ろしい夢の続きなのだろうか?
えみりはベッドの毛布を頭から被《かぶ》って震えていた。
もう絶対に朝が来るまで、目を開けない。
心でそう誓った。
泣き声のような非常ベルは鳴り止まなかった。
いや、むしろ、非常ベルそのものが近づいているような錯覚に陥った。
「えみり……えみり……」
誰かの声がした。
(いや、やめて!)
それでも瞼《まぶた》に力を入れて開けずにいると、誰かに肩を揺り動かされた。
「携帯、鳴ってるよ」
奈津子の声だとわかった。
そっと目を開けると、2段ベッドの下で寝ていた奈津子がえみりのベッドの手すりから顔を出していた。
「えみりの……」
奈津子が床に置いてあったバックパックを取ってくれた。
確かに、そのバックパックの中から携帯が鳴る音が聞こえている。
アン・ジヌからだろうか?
「ごめん。
奈津子まで起こしちゃった?」
「どうせ、もう起きなきゃでしょ?」
奈津子は、両手を伸ばしながら言った。
『非通知』からの電話だった。
アン・ジヌの電話番号は登録したので、『非通知』と表示されることはない。
『1班』のメンバーとアン・ジヌ以外は、まだ、誰もこの携帯番号を知らないはずなのに……。
えみりは一抹の不安を覚えた。
「もしもし……」
「……」
「もしもし……」
「……」
確かに電話の向こうから息遣いが聞こえるのに、何も答えなかった。
「誰?」
えみりの問いかけを無視して、か細い声が聞こえて来た。
「……テンソウスレバ、シナナイ」
何かの呪文のようだった。
その言葉が頭の中で変換されるまで、少し時間がかかった。
転送すれば、死なない=H
「何のこと?」
「ふふふ……」
笑っている。
その声に、聞き覚えがあった。
「明日香?」
えみりがそう聞くと、電話は一方的に切られた。
携帯を持つ手に汗をかいていた。
今の声は、絶対に明日香だ。
ふざけているのだろうか?
どうして、この携帯番号がわかったのだろう?
転送すれば、死なない≠チて、どういう意味?
えみりの頭の中は混乱していた。
「韓国の彼氏?」
2段ベッドの下から奈津子の声がした。
「ううん、間違い電話。
前にこの携帯をレンタルした人宛てに掛かって来たみたい。
韓国語だったもん」
えみりは嘘を言った。
まるで、何か悪い予感を打ち消そうとするかのように……。
安城高校の生徒たち137人を乗せたフェリーは、大きな運命の波に運ばれようとしていた。
同時刻の東京。
古い木造の家の2階では携帯電話を切った明日香がほくそ笑んでいた。
薄暗く湿った感じの部屋は、窓が厚いカーテンで遮られ、天井から吊《つ》るされたペンダント型の電灯が揺れていた。
走馬灯のように、まわりの壁に影ができては消えている。
カタカタカタカタカタ………。
一心不乱にパソコンのキーボードを叩《たた》き始めた明日香の顔には鬼気迫るものがあった。
「偽善的な女……。
『私は、あなたの親友よ』というような顔をして……。
同情なんてまっぴらよ、えみり……」
缶詰の食べ残しや夥《おびただ》しい数の精神安定剤や丸められたメモ用紙などが散乱した中で、明日香は、ぶつぶつと独り言をつぶやいた。
「この修学旅行でわからせてあげるわ。
人間なんて、みんな、一人だっていうことを……」
明日香の目には憎悪が漲《みなぎ》っていた。
自分をいじめたクラスメイトたち。
それを止めることもなく、保身のために、ただ見ていた傍観者たち。
許せない。
部屋のドアをノックする音が聞こえた。
ドアのノブをガチャガチャ回しながら、母親が何か言っている。
新たに5個の新しい鍵《かぎ》をつけておいてよかった。
「明日香……また、パソコンをいじっているの?
悪い電波がうつるわよ。
ほら、お母さんのテスターには、273ゼジルって表示されてる。
ちゃんと頭をアルミ箔《はく》で覆いなさい。
脳に侵食するから。
それから、炭は食べてる?
いい?
炭を食べれば、悪い電波を体内から排出できるわ。
今日は、カレーライスを作ったの。
あなたの体調が早くよくなるように、炭をいっぱい入れておいたから」
白い皿に盛られた真っ黒なカレーを思い浮かべて、明日香は気持ちが悪くなった。
母親は、何の迷いもなく、その真っ黒なカレーを頬張るのだろう。
ドスーン。
部屋のドアを蹴《け》る音がした。
ドスーン、ドスーン、ドスーン…。
何度も何度も……。
別の人格が出て来たらしい。
「あんた、もう、悪い電波に支配されてるのね?
誤魔化そうたって、無理よ。
お母さんにはわかるんだから。
あんたの脳も体も、汚れてるんだよ。
いやらしいことを想像するから、悪い電波が充満するのさ。
この淫乱《いんらん》女!」
さっきまで猫なで声を出していた母親が、何かに取《と》り憑《つ》かれたように汚い言葉を言い始めた。
「……可哀想な人」
明日香は、うんざりして、机の上のデジタル時計に目をやった。
7時37分。
「あと1時間くらいで、フェリーが釜山に入港するわ。
いよいよね。
さあ、始めるわよ、パム……」
そう言いながら、明日香はパソコンのマウスを動かし始めた。
液晶画面には首を吊っているパムの写真と制服姿のあずさの写真がある。
「いじめ≠フ餌食なんて、誰だっていいのよ。
そう、パム、あなたじゃなくて、あずさでもよかったってことなの。
だからそれを証明するために、これを送ってやったわ」
明日香が送信済みのメールの添付ファイルを開くと、パムの顔をあずさの顔にすげ替えた首吊り写真が出て来た。
「パム、あなた、馬鹿よ、自殺なんかするなんて……。
死んだ方がいいのは、あいつらじゃない?」
明日香は目を閉じながら語り掛けた。
「あの日、体育館でパムが首を吊っているのを見つけた時、なぜか、驚かなかったの。
怖いとも思わなかったわ。
すごく冷静だった。
申し訳ないけど、涙なんて出なかった。
正直言って、ほっとしたのよ。
これで、あいつらのいじめ≠ェ終わるって……。
警察に取調べられて……学校で問題になって……パムの親から責められれば、普通、悔い改めるでしょ?
少なからず、反省すると思った。
だって、あれは、命と引き換えにしたパムの抗議でしょ?
あいつらに対する……。
でも……次第に猜疑心《さいぎしん》が膨らんで来たの。
もし、通り一遍の調査をした後、学校側が『いじめの事実はなかった』というコメントを発表したら?
ぶらんと宙に浮いている二本の足の下で、暫く、いろいろなことを考えたわ。
きっと、あいつらは反省なんかしない。
そう思ったら、怒りが込み上げて来たわ。
死に損≠カゃない?
だから、首を吊っているあなたの写真を携帯のカメラで撮ったのよ。
証拠としてね。
そう、ネットに流したのは私よ。
あいつらのせいで、パムはこうなってしまったっていう事実をみんなに見せつけたかったのよ。
事件をうやむやにさせないために……。
そうすれば、うちの学校から、いじめ≠ェなくなると思ったから」
まるで、本当にそこにパムがいるかのように、明日香は話していた。
「でも、いじめ≠ヘなくなりなんかしなかった。
人間って、誰かを攻撃したくなる本能があるのかもしれない。
その矛先は、どこに向いたと思う?
私よ。
あいつら、パムの次は、この私をいじめ≠フターゲットにしたのよ。
そうしたら、昨日まで、親友ヅラ≠オていたみんなまで、私を無視し始めたの。
わかるでしょ?
『私たちは高校を卒業しても、ずっと、親友でいようね』って言ってた子までがよ。
信じられない。
私は、いつのまにか、汚いもの≠フように扱われるようになったわ。
初めは、泣いた。
それから、怯《おび》え、怒り、絶望し……そのうちにそんな人間関係が馬鹿馬鹿しくなって、学校に行くのも嫌になったの。
でも、家にも居場所はなかった。
ほら、うちのお母さん、ちょっと、アレでしょ?
だから、お母さんが起きている間は、部屋に鍵を掛けて閉じこもるようになったの。
そう、この部屋だけが、私の世界。
誰にも邪魔をされない……。
考える時間がいっぱいあったからね。
改めて思った。
『あいつらを許せない』って……。
パム、私は自殺なんかしないわ。
………………………。
あいつらに復讐《ふくしゆう》してやるのよ」
机の上のペットボトルの水をラッパ飲みして激しい怒りを静めながら、明日香は、再び、パソコンのキーボードを操作し始めた。
「インターネットでね、復讐≠チて言葉を検索しているうちに、こんなサイトに辿《たど》り着いたの」
パソコンの画面には、アスファルトの地面に本物らしい血溜《ちだ》まりが広がった写真に、オドロオドロシイ墨字で『あなたの恨みはらします』と書かれたサイトが立ち上がっていた。
「初めは、興味本位で見ていたの。
掲示板には『どこの誰にこんなことをされた』とか『だから、こんな仕返しをしてやった』とか、具体的な自殺の方法とか、人の殺し方なんていう書き込みもあったわ。
どこかのボランティアの心の相談室≠ネんていうリンクも張ってあった。
だから、私も冗談半分に掲示板に書き込んだのよ。
『友達なんか信じられない』って……。
そしたら、すぐに、レスがあった。
今までの友達の誰より早く……。
『私が助けてあげる』って。
mimiko≠チて、ハンドルネームの人から……」
明日香は、そこで初めて、本当に嬉《うれ》しそうに笑った。
午前8時32分。
えみりたちを乗せた関釜フェリー「かいきょう」は、釜山港に入港した。
空は厚い雲に覆われ、海は鉛色をしている。
接岸の瞬間を見ようと、多くの生徒たちがすでに甲板に出ていた。
「やだ、雨……」
遅れてやって来た真理が、空を見上げながら言った。
船室の窓からは気がつかなかったが、絹糸のように細い雨が降っている。
夏は、まだ、近くで足踏みをしているようだ。
「眠れた?」
えみりがそう聞くと、「浩之のことが気になって……」と言いながら、真理は憂鬱《ゆううつ》そうに首を横に振った。
その視線は、えみりの右肩越しの後ろに注がれている。
えみりが振り返ると、少し離れた場所で、みのりが浩之に顔を近づけて何か耳打ちしていた。
真理の視界に入っていることを知っていて、わざとそうしているのだろう。
「病気だよね、あの子……」
苛立《いらだ》ったように、真理が言った。
「ほっといた方がいいと思う」
みのりのことだ。
暫く、大騒ぎして、それから、浩之のことなどどうでもよくなるに違いない。
単に恋愛ゲームが好きなのだ。
その対象は友達の彼氏の方が面白いとさえ思っているフシがある。
誰かの嫉妬《しつと》は、みのりの恋愛ゲームをより盛り上げるものらしい。
武井耕平が隣に割り込んで来た。
「おはよ」
「どうだった?」
霧雨に煙った桟橋を眺めながら、耕平がえみりに聞く。
「どうだったって?」
「何もなかった?」
「耕平が変な話するから、怖い夢を見た。
びしょ濡《ぬ》れの女の子……」
責めるような口調でそう言うと、耕平が顔をこちらに向けた。
「………」
何も言わずに、えみりを見つめている。
気になる視線だった。
「耕平の作り話のせいよ。
びしょ濡れの女の子が、『そこ、私のベッド』って……」
耕平の罠《わな》にまんまとはまったというように、えみりは苦笑いしながら言った。
えみりが怖がったことに満足するのかと思ったら、逆に、耕平は青ざめた顔で言った。
「27号室って言ったけど、本当は向かいの34号室のことだったんだ。
右奥の上のベッド……」
蒸し暑いはずの甲板でえみりの背筋をひんやりとした何かが通り過ぎたような気がした。
「私が寝ていたベッドだ……」
フェリーが接岸する、軽い衝撃があった。
安城高校の生徒たちから歓声が上がった。
「冗談だよ、冗談……」
耕平が顔を引き攣《つ》らせながら言った。
あわててフォローしたように見えた。
「ひどいなあ」
これ以上、突っ込んで話を聞くことがためらわれた。
耕平はその場から逃げるように、甲板の人混みの中に消えて行った。
(あれは、夢?
それとも……)
頭の中に燻《くすぶ》っているもやもやした気持ちを追い払うように、えみりも歓声の輪に加わった。
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CHAPTERA 「予告された神隠し」
入国審査を終え外に出ると、フェリーターミナルの待合室は安城高校の生徒たちで埋め尽くされていた。
そのほぼ全員が配られた携帯電話を手にしている。
これから始まるオリエンテーリングの準備をしているのだ。
優勝したからといって何があるというわけではないのだが、みんな、燃えていた。
若い体育教師の松本一郎が拡声器のスイッチを入れた。
キヨシ≠ニいうのは、生徒たちが勝手につけたニックネームだ。
ハウリングを起こしながら、応援団出身の松本のしゃがれた声が響く。
「これより、オリエンテーリングを始める。
すでに、説明しているように、チェックポイントは13カ所。
各班、メンバー同士、協力し合い、できるだけ早く探し出して、指定されたアイテムを携帯のカメラで撮り、ゴールを目指す。
言葉の通じない韓国の人たちと、いかにボディランゲージ、ジェスチャーでコミュニケーションを図るかが、重要だ。
決して、失礼のないように……。
我々、教師はバスで巡回後、一足早く、ホテルに入り、本部で待機する。
何か問題が生じた場合は、速やかに報告すること。
いいな?」
拡声器の声が止むと、生徒たちは一斉にざわめき始めた。
雑然と座っていた2年C組の生徒たちが、いつのまにか、綺麗《きれい》に6つの班に分かれている。
『1班』も、えみり、真理、奈津子、夕紀、みのりがかたまっていた。
真理とみのりは、昨日の一件以来、口をきいていないようだ。
奈津子と夕紀は、二人の確執に気づいていないらしい。
「私、方向音痴だから、よろしくね」
まとまりのなさそうな『1班』のメンバーに、わざと、明るく、えみりが言った。
「他の班について行けばいいんじゃないの?」
みのりは面倒そうに言った。
「だって、各班、チェックポイントの順番が違うんでしょ?」
夕紀が聞いた。
「そうそう。
他の班にくっついて行かないようにしてあるんだって」
奈津子が答えた。
「適当にやってるフリしてりゃ、ばれないよ」
真理が、みのり以外の人を見ながら言った。
「だめよ。
メールで指示されたアイテムの写真を送らないと、前に進めないんだもん」
夕紀が口を挟んだ。
「去年、最終組って、夜中の12時にゴールだったらしいよ」
みのりがあくびをしながら言った。
明け方まで帰って来なかったから寝不足なのだろう。
「だからさ、そうならない程度に頑張ろうよ」
えみりは釜山の地図を広げながら、みんなの尻《しり》を叩《たた》くように言った。
その時、えみりの携帯がメールを受信した。
あずさに届いたいたずらメールを思い出して、えみりは、びくっとした。
おそるおそる受信メールを開いてみると、アルファベットが並んだ一行があった。
「USHIRO MITE!(後ろ、見て!)」
振り返ると、後方の人垣の中にアン・ジヌが微笑みながら立っていた。
「あの人?」
みのりも振り返って、興味深そうに聞いた。
「そう」
えみりが手を振ると、アン・ジヌもそれに反応して小さく手を振った。
かん高いホイッスルが響いた。
体育教師の松本がいつも首からぶらさげているホイッスルだろう。
聾唖《ろうあ》者のアン・ジヌには聴こえていない。
アン・ジヌはこっちを見たまま、手を振っている。
オリエンテーリングのスタートの合図だ。
全員が立ち上がり、気の早い班はターミナルの外へ飛び出して行った。
えみりは、まっすぐに、アン・ジヌの所へ駆け寄った。
去年の夏に会った時より、男っぽく感じた。
この数カ月で上腕の筋肉が成長したような気がした。
「ヒサシブリ!」
えみりの両手がそう声を掛けた。
手話だった。
アン・ジヌの両手が感情を込めてゆっくり動いた。
「アエテ、ウレシイヨ。
ヨウコソ、カンコクヘ」
子供のような目をしていた。
一点の曇りもない澄んだ瞳《ひとみ》。
涙がすべての業を洗い流してしまったのかもしれない。
アン・ジヌの背後から、ふいに、6歳くらいの女の子が顔を出した。
えみりは、どきっとして、一瞬、身構えた。
耕平が昨夜、変な話をするからだ。
「シウ=B
コレカラ、ロウアガッコウニ、ツレテイクンダ」
アン・ジヌが紹介した。
「ハジメマシテ……」
えみりの両手は、そう動いたつもりだったのに、シウは反応しなかった。
手話が間違っていたのだろうか?
シウは警戒するようにえみりを見つめ、アン・ジヌの体の向こう側に隠れてしまった。
「テレテイルンダロウ」
アン・ジヌの両手が、そうフォローした。
「コレカラ、オリエンテーリングダカラ……。
マタ、メールスルネ」
手話を思い出しながら、えみりはアン・ジヌにそう伝えた。
『1班』の真理たちが、興味津々でこちらを見ている。
付き合っているわけじゃないのに……。
「ちょっとぉ……」
えみりは照れ隠しに怒ったフリをしながら、みんながいる場所に走って行った。
シウは、そんな彼女たちの方を、呆然《ぼうぜん》と眺めている。
そのシウのつぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていることに、誰も気づかなかった。
朝のチャガルチ市場は活気に満ちていた。
獲《と》れたての魚介類を所狭しと並べた屋台が雑然と軒を連ね、怒声のような韓国語が飛び交っている。
売る人間も買う人間も忙《せわ》しない。
もたもたしていると、売り物の鮮度が落ちてしまうので、会話のテンポまで速くなったのだろう。
ゴムのエプロンをした貝屋の親父も、くわえ煙草の海苔《のり》屋の老婆も、大きな魚を捌《さば》いている茶髪のお兄ちゃんもこの数時間に勝負を賭《か》けている。
発泡スチロールの箱を抱えた料理人風のおじさんも、子供を背負った近所の主婦も、この場所に似つかわしくないスーツを着た紳士も、目的の品を求めてその喧騒《けんそう》の中を迷うことなく歩いている。
人々の食欲が溢《あふ》れている。
こういう日常の逞《たくま》しさは、どこの国も同じだ。
安城高校の松野明彦たちの一団だけが、いかにも観光客という感じで浮いていた。
同じジャージを着た高校生が全員、携帯を手に持っている姿も、どこか異様に映っているのかもしれない。
明彦たち、『4班』は、それより、活《い》きたタコ≠フ写真を撮ることが先決だった。
「早く、早く、早く……」
掴《つか》んだ右手から体を仰け反らして逃げようとするタコを左手で押さえながら、明彦が叫んだ。
「タコの吸盤が掌《てのひら》に吸い付いて、気持ちが悪いんだよ」
「動くなっての」
茂呂《もろ》宗和が笑いながら、携帯をカメラモードにして液晶画面を覗《のぞ》いた。
タコ専門の屋台のおばさんは、日本人はタコが珍しいのかと不思議そうに見ている。
浩之と小林秀樹は、隣の魚介の串焼《くしや》きの屋台で海老の串焼きを頬張っていた。
「あれからどうした、みのりと?」
秀樹が聞いた。
「別に。
甲板に出て、海を見てた」
浩之がそう答えると、
「ざけんなよ。
おまえが、それだけで終わるわけないだろ?」と秀樹が海老の串焼きを振り回しながら言った。
「いい感じだったんだけどな。
意外に堅いんだよ、みのり……」
キスまでは簡単に許したくせに、それ以上のことは頑なに拒んだ昨夜のみのりのことを思い出して、浩之は苛立《いらだ》った。
「思わせぶりが巧《うま》いからな、あいつ……」
まるで、みのりに手痛い目に遭わされたことがあるかのように、秀樹が言った。
「確かに、俺の方が振り回されてる」
「真理は、どうすんだよ?」
「微妙だな」
「2人、一応、仲がいいからな。
まっ、女の友情なんて、男次第で、脆《もろ》く壊れるもんだけどな」
「おまえこそ、えみりだろ?
ありゃあ、大変だぜ、真面目だから……」
「こっちに、大学生の彼氏がいるらしいしな」
秀樹は、さっき、フェリーのターミナルまで迎えに来ていた若い男がそうだったのだろうと思った。
浩之の携帯電話が鳴った。
みのりからだった。
「うん、今、なんとか市場。
タコ、撮ってるところ。
そっちは? 釜山タワー?」
釜山タワーの展望フロアから広がる街を見下ろしながら、みのりは浩之と携帯電話で話していた。
「こっちは、タワーから見える港の写真をゲットした」
霧雨は、いつのまにか晴れて、海の向こうはうっすら陽が差し始めている。
「送れた?」
奈津子が真理の携帯を覗き込みながら、聞いた。
今、携帯のカメラで撮ったばかりの港の写真を本部にいる、2年C組の担任の木部センの携帯に送信するのだ。
真理は、その操作に手間取っていた。
みのりが浩之と電話で話しているのが気になっているのだ。
「貸して。
私がやるから」
夕紀が真理の携帯電話を取り上げた。
「あっちの景色、観ようよ」
えみりがその場から、真理を連れ出した。
「あの子、わざとやってない?」
真理がえみりに怒りをぶつける。
「いつものことじゃない?
ここで、真理が何か言ったりしない方がいいよ。
みのり、そういう揉《も》め事、好きだから」
「うん。
みのりの手に乗らない方がいいね。
それにあんな女にふらふら行く浩之にも、何か、醒《さ》めちゃった」
真理の本心ではないことはわかっていた。
こういう時、女は、親友にもプライドを保とうとする。
「せっかくの修学旅行なんだからさ、楽しくやろうよ」
えみりはそう言って、真理を慰めた。
その頃、『3班』の川中瑞江、及川美保、佐々木恭子たちは、梵魚寺《ポモサ》の山門近くにある饅頭屋《まんじゆうや》にいた。
梵魚寺の四天王像の写真を携帯のカメラに収め、本部に送信したところだった。
「チェックポイントって、あといくつあるの?」
瑞江が2個目の饅頭に手を伸ばしながら聞いた。
「あといくつ? って、まだ、四天王像≠オかゲットしてないじゃない?」
美保があきれたように言う。
「残り12個ってことよ」
使い切りカメラで、瑞江と美保のスナップ写真を撮っていた恭子が言った。
境内を探索していた友香が戻って来た。
「あれ、あずさは?」
「友香と一緒じゃないの?」
美保が半分食べかけの饅頭を友香に差し出す。
「サンキュー!
先にみんなのところに戻るって言ってたけど……」
あずさは裏通りで道に迷っていた。
同じような風景が続き、どこを歩いても、さっき歩いていた場所に戻るような気がした。
僧侶《そうりよ》があずさの前を通り過ぎる。
道を尋ねたかったのだが、韓国語がわからないし、荘厳な姿に声を掛けるのが憚《はばか》られた。
僧侶は、一瞬、振り返って、あずさの顔を凝視した。
「何?」
あずさが戸惑っていると、僧侶はひどく悲しい目で両手を合わせ、頭を下げた。
まるで、憐《あわ》れまれているようだった。
(何で?)
異国の地で面識もない僧侶が私の何を知っているのだろうと、あずさは訝《いぶか》しく思った。
「みんな、どこへ行っちゃったの?」
早足で裏通りを抜けると、路地の行き止まりだった。
どこからか、読経が聞こえて来る。
少し陽が差し始めていた空に急に暗雲が立ち込めて、辺りが薄暗くなった。
言い知れぬ不安があずさに広がる。
携帯電話で瑞江たちに連絡を取ろうとするのだが、いつのまにか、圏外になっている。
『3班』のメンバーたちも、あずさの携帯に電話を掛けていた。
「直留守だよ」
美保が言った。
「次のチェックポイント、行けないじゃん」
恭子が不満げに声を上げた。
「あずさって、昔から、そういうとこ、あるんだよね。
勝手っていうかさ、団体行動の和を乱すっていうかさ……」
地図を見ながら、次のチェックポイントの海雲台《ヘウンデ》の場所を確認していた瑞江がじれたように言った。
「先に行ってようよ。
こんな所で、足止め食ってると、日が暮れちゃうし……。
ビリは、勘弁だよね」
あずさのことなど、まるで、心配していない口調だった。
「でも、そのうち、電話が掛かって来ると思うから、もう少し、待ってみようよ」
おっとりした性格の友香の言葉に、3人は渋々|頷《うなず》いた。
あずさは、今来た道を戻ろうとしていた。
不思議なことに、さっきまで、あれほどあった人影が嘘のように消えていた。
入り組んだ路地は、ゴーストタウンのようだ。
「どこだよ、ここ?」
ふと洩《も》らした自分の言葉に、あずさは、はっとした。
フェリーで聞いた気味の悪いあの留守電に残されていたのも、「どこだよ、ここ?」ではなかったか?
そう言えば、あのいたずら電話の着信の日時が明日の昼頃≠セった。
つまり、今日の今くらいの時刻。
その時、あずさは初めて気づいた。
フェリーの上では電波状態が悪くてよく聞き取れなかったが、あの「どこだよ、ここ?」という女の声は、自分の声に似ていた。
言い知れぬ不安は、確かな恐怖に変わった。
居ても立ってもいられなくなり、あずさはその場から走り出した。
路地の角を曲がろうとした時、誰もいない家の物干し台から洗濯物が落ちてきた。
白いシーツがあずさの頭を覆った。
「わっ!」
そのシーツから抜け出そうともがいていると、物干し台から1本のロープがするすると下りて来た。
そして、そのロープは、まるで意思を持った生き物のように、ゆっくりと、あずさの首に巻きついた。
「ぐっ……」
ロープがあずさの首に食い込む。
あずさの指が首に食い込んだロープを剥《は》がそうとするが、ロープは次第にあずさの体を引き上げて行く。
「た……た……た・す・け・て……」
くぐもった声が洩れた。
ばたばたさせていたあずさの足も、地面から10センチほど上がった所でぐったりとした。
辺りから、音が消えたようだった。
大きなテルテルボウズが吊《つ》るされた。
次の瞬間、あずさの体が大きく仰《の》け反り、痙攣《けいれん》した。
テルテルボウズが揺れる。
ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら……。
ぴたりと動かなくなって、また、静寂が戻った。
シーツが風に煽《あお》られ、あずさの顔から飛んで行った。
赤黒くうっ血したあずさの顔は、見開いた目から眼球が飛び出し、半開きの口からは十数センチもたらこのような舌がはみ出していた。
よだれと一緒に、だらんとした舌の上から赤い飴玉《あめだま》が落ちた。
生臭い匂いがした。
ころころと転がった赤い飴玉は、そのままどこかへ行ってしまった。
まるで、あずさの肉体から魂が抜け出したみたいに……。
物干し台からぶら下がっているあずさの姿は、昨日の夜、受信した添付映像の写真と同じだった。
東京の明日香の部屋のパソコンには、その模様が映し出されていた。
ロープで首を吊られたあずさ。
「あずさ……パムが首を吊った次の日、
笑いながら、みんなに言ってたよね?
『意外としぶとかったね』って……。
あなたもしぶとかったわよ」
そう独り言を言いながら、明日香は満足気に微笑んだ。
「次、誰にする?」
誰も座っていない右隣の椅子に聞いた。
「そうだね。
あいつは、パムに何度も、『死ね』って言ってたもんね。
そう、私にも……」
氷のように冷たい表情でそう言うと、パソコンの画面を体育祭で撮ったクラスの集合写真に切り替え、三上輝也の顔の上にマウスポインターを移動させた。
海岸沿いの食堂にえみりたち『1班』が入って行くと、輝也たち『2班』が先にブデチゲ定食を食べているところだった。
「あずさが迷子なんだってさ。
聞いた?」
耕平が自分たちのテーブルに手招きしながら言った。
「子供じゃないんだからさ」
夕紀がコップに水を汲《く》みながら言った。
「『3班』の連中、参ってたよ。
一応、次のチェックポイントへ向かっているらしいんだけどね」
健介は、ブデチゲにお代わりしたインスタントラーメンを入れながら言った。
「携帯は?」
えみりが隣のテーブルに座り、携帯を掛けてみようとすると、「直留守」と信一が首を横に振った。
「あの子のことだからさ、そのうち、『ごめん、ごめん、お土産買っててさ』とか言いながら、途中で顔を出すんじゃないの?」
メニューを見ていたみのりが言った。
「間違いないね」
その場にいたみんなが納得した。
えみりは、何か胸騒ぎがした。
いくらマイペースなあずさでも、異国の地でそんなに勝手な行動をするだろうか?
「先生には、連絡したの?」
「してると思うよ。
それよかさ、昨夜、あいつの携帯に変な電話あったじゃん?
自分の携帯から着信あったやつ。
あずさが首を吊ってるいたずら写真が添付されて来た……。
あれを受信した時刻と同じくらいなんだってさ、あずさがいなくなったの……。
予告したみたいに、神隠し≠ノ遭ったんだぜ?
その方が気にならねえ?」
丈弘はステンレス製の器の白い飯を掻《か》き込みながら言った。
「気になるって?」
真理が聞いた。
「頭のおかしいストーカーとかが日本から追いかけて来たとか……」
「『釜山女子高生殺人事件』って、感じ?
なんだか、2時間ドラマみたい……」
みのりが茶化した。
「だったら、『釜山美人女子高生キムチ殺人事件』だろう?」
健介の突っ込みにみんなが笑った。
えみりは心の奥に何か引っかかるものがあって、笑えなかった。
韓国料理特有のにんにくの匂いが、ことさら強く感じた。
その時、昨夜と同じあの不気味な着メロが鳴った。
「誰?」
真理が不安気に聞いた。
まわりを見回すと、テーブルの下のスポーツバッグから聞こえて来る。
「……俺だ」
強張《こわば》った表情で、輝也が携帯を取り出す。
着メロが止んだ。
みんなが注目している中、
「まただよ、あずさの時と同じ……。
着信履歴が、俺の携帯番号だもん。
どこのどいつだよ?」
輝也が、怒りを顕《あらわ》にする。
「6月7日 12時36分。
2分後だ。
未来からメッセージが入っているぞ!」
留守電を聞くと、はっきりと輝也の声で「助けてくれ!」と入っていた。
「何だ、これ?」
輝也は物心ついてから助けてくれ≠ネんて、言ったことはなかった。
自分が絶対に口にしなそうな言葉が、こんな風に留守電に残されているのが気持ち悪かった。
「輝也も神隠し≠ノ遭っちゃうんじゃないの?」
丈弘がからかうように言った。
「その時は、悪いけど、俺たちは先へ行くからな」
「後でどんな風に神隠し≠ノ遭ったか、教えてくれ!」
「第2弾『釜山イケメン男子高生ブデチゲ殺人事件』てか……」
丈弘と健介と耕平が囃《はや》した。
「くだらねえいたずらしやがって!」
輝也が腹立ち紛れに、信一の椅子を蹴《け》った。
「僕じゃないよ」
信一は、へらへら笑いながら逃げた。
腹が立った時は、信一に当たるのがいい。
メールも送られている。
ローマ字だ。
『tensousureba shinanai』
テンソウスレバ シナナイ?
転送すれば死なない?
口の中で、もごもご声に出して読んでみた。
「何?」
えみりが聞いた。
それには答えずに、輝也は店の壁に貼ってあった釜山観光局のポスターを、じっと、眺めた。
「マジになるなよ?」
耕平が言った。
その言葉も無視して、輝也はポスターの下に書かれていた釜山観光局のメールアドレスを携帯に打ち込んだ。
今まで、送信を気にしたことはなかったが、この電話は気味が悪かった。
とりあえず、転送しておこう。
ところが、送信ボタンを押しても送信できなかった。
「何だよ?
転送できねえじゃん」
イラつきながら、そうつぶやく輝也に丈弘が言った。
「早く、逃げた方がいいぜ」
みんなが笑った。
「頭に来た」
輝也は、携帯を手に席を立った。
「このメール送った奴、絶対にぶっとばしてやる」
みんなにいじられて、むかついた輝也はトイレに向かった。
いつも、誰かをいじっているタイプは、自分がいじられる立場になると、どうすればいいのかわからなくなるのだ。
従業員に身振り手振りでトイレ≠フ場所を聞くと、裏口を指さされた。
厨房《ちゆうぼう》の手前の大きな冷凍庫の脇を抜けると薄暗い廊下の突き当たりに『ファジャンシル(化粧室)』とハングルで書かれたドアがあった。
強いアンモニア臭がする。
コンクリの打ちっ放しの壁に向かって便器で用を足しながら、「どうなってんだよ?」と独り言をつぶやいた。
水垢《みずあか》で汚れた洗面台には、隅が割れた鏡がある。
手を洗っていると、大便用の個室のドアの隙間から誰かが覗《のぞ》いているのが映った。
子供か?
「誰?」
振り向いたが、個室のドアは、もう閉まっていた。
いや、鏡で見た時は、確かにドアの隙間から誰かが覗いていた。
輝也は恐る恐る個室に近寄り、ノックしてみる。
何も反応はない。
そっとドアのノブに手を掛ける。
ギィイイ〜。
木製のドアが軋《きし》みながら開いた。
誰もいなかった。
「どうかしてるな、俺……」
その時、洗面台に置いた携帯から、また、あの着メロが鳴った。
タンタンタンタン・タンタンタンタン・タンタンタンタン……。
携帯の液晶画面には、誰かの背中が映っていた。
それが、このトイレにいる自分の背中だと気づいて、輝也は心臓を鷲掴みされたように、ぞっとした。
携帯の中のその背中が振り返った。
「俺?」
思わず、輝也も振り返った。
誰もいない。
もちろん、カメラもない。
携帯の中のその背中があわてて、トイレを飛び出す。
釣られるように、輝也もトイレを飛び出した。
嘘だろう?
携帯の液晶画面に映っている映像通りに、輝也は行動している。
先を読まれているのか?
数秒後の未来が映し出されていると知った時、携帯の画面にトラックが突っ込んで来る映像が映った。
思わず、輝也は口走った。
「助けてくれ!」
さっきの電話に残されていたのと同じ言葉を口にしたことに、輝也は気づく間もなく、ガシャーン、バリバリととてつもなく大きな音を立て、壁を突き破って来たトラックと冷凍庫の間に挟まれた。
絶命する寸前、輝也は口の中が甘く感じた。
まるで、飴玉《あめだま》でも頬張っているかのように……。
緑に囲まれたなだらかな丘の上に、その聾唖《ろうあ》学校はある。
『フィマン聾唖学校』。
フィマン≠ニは希望≠ニいう意味の韓国語で、生まれつきの聾唖者から、成長の途中で聴覚を失った者まで、話したり、聴いたりできない小学生がここで授業を受けている。
校庭の一角で、ボランティアのアン・ジヌが子供たちのドッジボールの審判をしていた。
元気にボールを投げる子供たちに目を細めていたアン・ジヌだったが、ドッジボールに参加せずに、1人、ブランコに腰掛けているシウの姿に気づいた。
シウの両親は共働きで、全寮制のこの聾唖学校に面会に来る機会が少ない。
そのせいか、シウはひどく内向的で、友達を作ろうとしなかった。
アン・ジヌのことも初めは受け入れようとはしなかったが、長い時間をかけて心を開かせたのだ。
「どうした、シウ?
授業中だぞ」
アン・ジヌは手話で聞いた。
「勉強しても、無駄でしょう?
話せないんだから」
シウが手話で答えた。
「変だな。
シウは、今、僕と話してるぞ」
「だって、手話じゃない?
声に出しているわけじゃないもん」
「そうかな?
僕は、そう思わないな」
アン・ジヌは、隣のブランコに座った。
「手話は、立派な言葉だよ。
大切なのは、言いたいことをきちんと伝えられるか、だ。
声を出せたって、言いたいことをきちんと伝えられなきゃだめだ。
朝、会ったお姉ちゃん、
日本の人とだって、手話で話せただろう?
シウは、ゆっくり、ブランコを漕《こ》ぎ出した。
「アン・ジヌ、好きなんでしょう、あのお姉ちゃんのこと?」
「そうだね。
どんな言葉で伝えようか、考えてる」
アン・ジヌがそう手話で話した時、携帯がメールを受信した。
えみりからだった。
『事故で生徒が亡くなり、修学旅行が中止になりました』
ローマ字で打ち出されたその文字を読みながら、アン・ジヌはえみりの身を案じた。
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CHAPTERB 「連鎖する呪い」
ホテル「シグナス」は港からバスで30分ほどの山間《やまあい》にあった。
シグナス≠ニは、白鳥≠フことだが、もちろん、あたりに白鳥などいないし、その外観もイメージとは程遠い。
観光客のためのホテルというより海産物の仕入れなどでこの地を訪れた人たちが使うビジネスホテルという風情だ。
白い壁は長い間風雪に晒《さら》され、くすんだ灰色をしていた。
午前中の霧雨のせいか、所々、濡《ぬ》れた部分が黒い染みのように広がっている。
老朽化した門灯の一部が壊れ、配線が剥《む》き出《だ》しになっているのも、このホテルを余計にみすぼらしいものにしていた。
その手前の手入れがされていない樹木の近くに、赤色灯を点滅させた警察車両が数台、停まっていた。
『歓迎 安城高校御一行様』と下手な日本語で書かれた紙が貼り出されたアクリルの自動ドアを抜けると、小さなフロントがあり、その右奥に安っぽい合成皮革製のソファーセットがいくつか置かれたロビーがあった。
今は、学校と旅行会社と警察の関係者でごった返している。
ある者は携帯で電話をしながら日本語で怒鳴り、ある者はテーブルの上で地図を広げながら韓国語で叫び、ある者はパソコンを広げて、必死にメールを打っていた。
それ以外にも、生徒の写真を見ながら、警察官と小声で話す者、FAXの紙を持って走る者、腕を組んだまま、じっと考え事をしている者、様々だった。
あちこちで、携帯の着メロやら警察無線やらホテルの固定電話のベルやら、いろいろな音が交錯している。
楽しいはずの修学旅行が一転して、悪夢のような災難に見舞われたのだ。
パニックになるなという方が難しい。
中2階のラウンジから下のロビーの様子を、ぼーっと眺めていた夕紀が振り返って言った。
「何か、信じられない」
「そりゃあ、そうだよ。
……輝也が死ぬなんてさ」
奈津子が椅子に座ったまま、力なく言った。
健介が缶コーヒーを飲み干しながら、「あんなところにトラックが突っ込んで来るなんて……」と神妙に言った。
誰もが落ち込んでいた。
様子を聞きに行っていたみのりと浩之が一気に、階段を上って来た。
「あずさも死体で見つかったって!」
息を弾ませながら、みのりが言った。
そこにいた全員が絶句した。
えみりは胃の奥から苦いものがこみ上げて来て、あやうく戻しそうになった。
健介が怒りを吐き出すように言った。
「何で?」
「物干し台で首を吊《つ》ってたそうだ」
浩之が声を震わせながら言った。
「自殺ってこと?」
奈津子は耳を塞《ふさ》いだまま、聞いた。
その答えなんか聞きたくないのだろう。
「釜山まで来て、人ん家《ち》の物干し台で自殺するか?」
興奮した耕平が椅子から立ち上がった。
「自殺する理由なんかないじゃない?」
夕紀が泣きじゃくった。
えみりは、夕紀の肩を抱いて聞いた。
「……あずさの携帯に届いたあの映像と同じってこと?」
みんなが押し黙った。
誰もが、あの時の妙なメールを思い出した。
「確かに、あれ、あずさが首吊ってたよ。
パムと同じだったもん」
信一がおどおどしながら言った。
「あんなのただのいたずらメールだろ?
くだらねえこと言ってんじゃねえよ、信一!」
丈弘が缶コーヒーの空き缶を信一にぶつけた。
信一が一瞬、両手で頭を庇《かば》ったせいで、動いた分、僅《わず》かに外れた。
カンカンカンカン……。
空き缶がリノリウムの床を転がる音が響いた。
隅の壁で膝《ひざ》を抱えて俯《うつむ》いていた真理がビデオカメラを差し出した。
「これ……」
嗚咽《おえつ》まじりの声だった。
「なんだよ?」
浩之が受け取り、再生ボタンを押すと、液晶画面に昨日のフェリーの船室が映し出された。
瑞江たちの部屋で耕平が姉の話をしている時の映像だ。
「こんなの撮ってた?」
えみりが聞いた。
真理が蹲《うずくま》ったまま、首を横に振った。
「あの時、カメラ、瑞江たちの部屋に持って行かなかったもん」
「じゃあ、なんで……」
「知らないうちに、録画されてた」
消え入りそうな声で真理が言った。
「やめてよ。
もう、そんな話、聞きたくない」
奈津子がビデオカメラを奪おうとした時、浩之がその手を払って言った。
「ちょっと、待てよ」
液晶画面では、「まじ、ムカつく。あれっ、メールも届いてる!」とあずさが言っている映像が流れていた。
確かに、昨日の27号室だ。
隣からあずさの携帯を覗《のぞ》き込んでいた丈弘が「添付画像があるぞ」と言っている。
ラウンジのソファーにへたり込んだ浩之が「なんだよ、これ?」と震える声を漏らした。
半信半疑のみんなが、浩之のビデオカメラの周りに集まる。
そこには、あずさの首に女の白い手が伸びている様子が、はっきりと映っていた。
「……嘘」
何人かが、同時につぶやいた。
そして、その白い手はゆっくり、あずさの首を絞め始める。
「こ、こ、こんな手、見えなかったぞ」
耕平が後ずさりしながら言った。
「見ろよ、この手の火傷《やけど》の痕《あと》」
健介が言うように、液晶画面に映る女の右手の甲には、引き攣《つ》れたケロイド状の火傷の痕があった。
「これって……パムの右手にも……あったよね?」
恐怖で歯をカチカチ鳴らしながら、信一が言った。
一瞬、その場にいる全員が凍った。
冷水を浴びせられたように、ぞっとした。
「だから、おめえは黙ってろって言っただろ?」
丈弘のつま先が信一の鳩尾《みぞおち》あたりを蹴《け》った。
恐怖は、人を苛立《いらだ》たせるものだ。
「うっ!」と言いながら、信一は仰《の》け反った。
みのりが宙を見ながら茫然《ぼうぜん》自失といった表情で、「パムの呪いってこと?」と聞いた。
「馬鹿馬鹿しい。
どうかしてるぞ、みんな!
輝也とあずさが事故で死んだから、みんな、動揺してるんだよ。
パムの呪い≠ネんかあるわけないだろう?」
健介が大声で喚《わめ》いた。
まるで、自分の中の恐怖を追い払うように……。
「じゃあ、その白い手は?」
真理は、何かに縋《すが》るように聞いた。
ちゃんとした説明が欲しかった。
「嵌《は》めようとしてるんだよ、誰かが俺たちのことを……」
誰かが嵌めようとしている?
その時、えみりは、なぜか、明日香の顔が思い浮かんだ。
パムの呪い≠フ噂は、あっという間に、ホテルの生徒たちに広まった。
瑞江たち『3班』の部屋でも、その話題で持ちきりだった。
「つーかさ、みんな、本当に信じちゃってんの?」
ベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせていた瑞江が、学校側が夕食として用意したおにぎりを食べながら言った。
「ありえないし……」
隣でキムチをつまんでいた美保が言った。
「100パー、事故に決まってんじゃん」
ティーバッグの日本茶にポットの湯を注ぎながら、恭子が言った。
「でも……やっぱり、さっきまで一緒にいたクラスメイトが死んだっていうのは、ショックだよね?」
1人、デスクの椅子に座っている友香は、食欲がなかった。
「まあね。
人の運命なんてわかんないもんだなとは思うけどさ。
別に、あずさがこの世からいなくなってもねえ……」
瑞江が意地悪そうに言葉を濁した。
「要するに、それほど、ショックじゃないってのが本音ってことでしょ?」
美保はキムチの辛さに顔を歪《ゆが》めながら、何でもないことのように言った。
「そんなあ……」
友香が「言いすぎだ」と抗議しようとすると、美保が紙コップに淹《い》れた日本茶をみんなに手渡しながら、
「天罰じゃない?
あずさって、嫌な奴だったもん」と言った。
「友香だって、散々、意地悪されたでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど……」
「『こんな奴、死んじゃえばいいのに……』って思ったことない?」
瑞江の言葉に、友香は返す言葉がなかった。
確かに、自分勝手なあずさに振り回されて、腹が立ったことはある。
だからと言って、こんな時に、死んだ人間の悪口を言うのはどうだろう?
私は偽善者なのだろうか?
友香は、自問自答した。
「まあ、あずさのお葬式とかでは、一応、泣こうと思ってるけどさ」
「テレビのニュースとかでインタビューされるのかな?」
「別に有名人じゃないし、来ないでしょ。
よくある事故のひとつで片付けられちゃうんじゃない?」
「輝也は、ちょっと、ショックだよね?
頭悪いけど、結構、いい奴だったもんね」
パムが自殺した時と同じだと友香は思った。
所詮《しよせん》、自分以外の死なんて他人事《ひとごと》なのだ。
いや、この人たちにとっては、親友が死んでも、『運が悪かったね』で済ませてしまうかもしれない。
人間とは、本来、それくらい薄情なものなのだ。
自分が友達に何かを期待しすぎているだけなのだろう。
「明日、帰るんだよね?」
「フェリーの予約が取れ次第、順番に帰るらしいよ」
「よかったじゃん。
修学旅行なんか、かったるいもんね」
「今回の件、学校側の過失になるのかな?」
「そりゃあ、そうでしょ?
オリエンテーリングなんかやらせるから、こういうことになったんだし……」
「誰の責任?」
「やっぱ、校長でしょ?
一番偉いんだから…。
それに、木部セン…セクハラキヨシ=c…大澤《おおさわ》もね……」
「あいつら、うざいし……。
いい気味……」
瑞江、美保、恭子は、何事もなかったようにおしゃべりしていた。
同じ班のあずさが死んだことも、4人部屋にエキストラベッドを入れる必要がなくなってラッキーというくらいにしか感じていないらしい。
「暗いよ、友香!
大丈夫だって。
あんたの所には、パムの呪い≠ネんか来ないよ。
もし来たら、私の所に送りな。
転送すれば死なない≠でしょ?」
瑞江の言葉に、美保と恭子が笑った。
「私にも送って。
パムの呪い≠転送してやりたい奴がいるんだ」
「まさか、私じゃないでしょうね?」
「何言ってんのよ。
美保は、親友じゃない?」
突然、どこかであの不気味な着メロが鳴った。
4人は、はっとして、自分の携帯を探した。
着メロが鳴っていたのは、友香の携帯電話だった。
「昨夜、あずさに掛かって来たのと同じ着メロ……」
3人が信じられないという表情で、友香を見た。
「パムの呪い≠フ電話だ」
瑞江が叫んだ。
すぐに、着メロが止んだ。
友香が震える手で携帯を見ると、自分の携帯番号の着信履歴が残っていた。
しかも、メールの受信時刻は、19時53分。
「あと5分しかない」
添付画像には、ベッドの下から伸びた女の白い手に引きずり込まれる友香の映像があった。
「いやぁ〜!」
友香は絶叫した。
「落ち着きなよ、友香!
そんなの誰かのいたずらだって……」
瑞江がなだめるように言った。
「電源、切っちゃえば……」
美保の言葉に携帯の電源を切ろうとするが、何度、試みても切れなかった。
「バッテリーよ、バッテリーを外しちゃえば、強制的に切れるわよ」
恭子の言葉に、携帯のバッテリーを外してみたが、信じられないことに、それでも、電源は落ちなかった。
友香以外の3人は、「嘘でしょ?」と言ったきり、言葉に詰まった。
1対3の構造が生まれた。
当事者と傍観者たち。
『転送すれば死なない』
ハングルかアルファベットしか表示されないはずの液晶画面に、日本語が表示されていた。
どういうこと?
友香がじっと、その文字を見ている。
3人は、ふと、不安になった。
「友香……私に転送しないよね?」
美保が縋《すが》るような目をして聞いた。
「えっ?」
意味がわからずに顔を上げると、今度は、恭子が近づいて来て、「友香、私には転送しないで」と言った。
「何、言ってるの、2人とも?」
美保も恭子も、友香と同じくらい怯《おび》えていた。
「美保や恭子に転送すると思ってるの?」
友香は怒ったように言った。
「そうだよ、友香が私たちに送るわけないじゃん、
私たちは親友だよ」
瑞江の親友≠ニいう言葉が薄っぺらく聞こえた。
「だよね?」
恭子が、作り笑いを浮かべながら、念を押そうとする。
「早く、誰かに送っちゃおうよ」
美保が、媚《こ》びたような目で訴えかける。
友香は、次第に冷静さを取り戻して行った。
「誰に送ればいい?」
「誰って……」
美保と恭子は顔を見合わせながら、言いよどんだ。
「信一は?」
瑞江がサディスティックな目で言った。
「でも、転送したら、死んじゃうのよ」
「あいつなら、いいんじゃない?
馬鹿でのろまでダサいから……」
瑞江が冷たく言い放った。
美保と恭子は、しきりに頷《うなず》いている。
「そんなこと決められない。
私が殺すようなものでしょ?」
「何、きれい事言ってんのよ?
あんたの所に来たパムの呪い≠ナしょ?
じゃあ、友香、あんたが死ねばいいじゃん」
「……ひどいよ、瑞江」
腕時計を見ながら、瑞江が急かした。
「ほら、時間がないんでしょ?」
「わかった」
友香は携帯の電話帳をスクロールさせながら、転送の操作をする。
きつい言い方をしてしまったことに不安を覚えた瑞江が猫なで声で聞いた。
「誰に送るの?」
友香はそれには答えずに、笑みを浮かべた。
「ちょっと、マジでうちらには送らないでよ。
私たちは、親友≠ネん……」
携帯の送信ボタンに指を掛けたまま、友香が瑞江の言葉を遮った。
「じゃあ、私の代わりに死んでくれる?
親友≠ネんだから……ねえ、瑞江?」
友香が体を捻《ひね》らせて、笑い始めた。
誰に転送しようとしているのか気づいた瑞江の顔が恐怖に歪《ゆが》んだ。
「お願い……友香……やめて……」
それでも、友香は携帯の送信ボタンに指を掛けたまま、大笑いしている。
ふいに、瑞江が友香に飛び掛かった。
携帯を持っている友香の右手首を瑞江が押さえた。
「携帯を取って!」
瑞江が美保と恭子に叫んだ。
2人が友香の右手から携帯を奪おうとした瞬間、送信ボタンが押された。
「止めてぇ〜!」
友香の右手から無理に剥《は》ぎ取ろうとした携帯は、勢い余って、ベッドの下に転がって行った。
瑞江が必死にベッドの下に手を伸ばしている時に、また、あの不気味な着メロが鳴った。
今度は、ベッドの上に置いてあった瑞江の携帯からだった。
瑞江が半信半疑で携帯を取ると、その液晶画面には、新着メールがあることが表示されていた。
今、届いたはずなのに、受信時刻は、未来のものだった。
友香の時と同じ19時53分。
時間は、まだ、1分以上あった。
「あんたに、もう一度、転送し直してやるわ」
恐ろしい形相で睨《にら》みながら、携帯のメモリーをスクロールさせ友香のアドレスを入れる。
「死ね!」
そう叫びながら瑞江が送信ボタンを押すが、携帯は何も反応しなかった。
「どういうこと?」
焦って、何度も、何度も送信ボタンを押すが送れない。
瑞江は髪を振り乱し、何か呻《うめ》きながら、同じ動作を繰り返していた。
「1回しか、転送できないってこと?」
部屋の隅で震えている美保が聞いた。
「もう、時間がないわ」
恭子が叫んだ。
携帯の数字が19:53を表示した。
その瞬間、まるで、スローモーションで見ているかのように、ベッドの下から女の白い手がゆっくりと伸びて来た。
そして、逃げ惑う瑞江の足をがっちり掴《つか》み、ずるずると引き入れて行く。
「ぎゃあぁ〜!」
その右手の甲には、はっきりと、ケロイド状の火傷の痕《あと》が確認できた。
3人とも、腰が抜けたように、その場から動けなかった。
全力で抵抗していた瑞江の体も、やがて、ベッドの下に消えて行く。
骨が砕ける音と瑞江の断末魔の悲鳴が聞こえた。
やがて、この世から、すべての音がなくなった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
静寂の中で、3人のすすり泣きだけが甦《よみがえ》って来た。
騒ぎを聞きつけたえみりたちが、中に入ると、焦点の合わない目をした友香、美保、恭子がいた。
「何があったの?」
えみりが聞いても、誰も答えられる状態ではなかった。
床のカーペットには、何かを引きずったように毛羽立った太い線がベッドの下に続いていた。
這《は》い蹲《つくば》って覗《のぞ》こうと、えみりが膝《ひざ》をついた時、ベッドの下から何かが転がって来た。
赤い飴玉《あめだま》だった。
まるで、今、誰かが舐《な》めていたかのように、表面が濡《ぬ》れていた。
ベッドの下に、瑞江の姿はなかった。
タクシーを降りたアン・ジヌは、ホテルの中へ入ろうとすると、釜山の警察官に止められた。
やはり、大事になっているらしい。
「僕の友人が宿泊しているんです。
日本から来た安城高校の生徒で、草間えみり≠ニ言います」
アン・ジヌは必死にそう説明したのだが、警察官には手話が理解できなかった。
両手でバッテンを示して、追い返されそうになった時、顔見知りの支配人が事情を説明してくれた。
彼の息子も聾唖《ろうあ》学校の生徒だった。
アン・ジヌと支配人は、手話で話した。
「何があったんですか?」
「日本から来た修学旅行生たちの2人が死に、1人が行方不明だ」
「3人も?」
「1人はトラックの事故、1人は自殺、もう1人は、さっき部屋から忽然《こつぜん》といなくなった。
たった1日の出来事の上、3人とも同じ高校の生徒だからね。
今、警察が調べている」
「草間えみり≠ニいう女生徒は?」
「わからない。
その3人の中にいないとすると、おそらく、事情を聴くために順番に3階の会議室に呼ばれているはずだ」
アン・ジヌは、えみりのことが心配で、このまま帰る気になれなかった。
「待たせて貰《もら》っていいですか?」
「部外者は、誰も入れるなと言われているんだ」
「僕は大学で日本について学んでいるので、日本語がわかります。
きっと、何かのお役に立てると思いますよ」
渋る支配人に無理に頼み込み、ホテル側の臨時スタッフということでアン・ジヌは中へ入れて貰った。
ホテルの会議室は、生徒たちから事情を聞くための部屋になっていた。
生徒は1人ずつ呼ばれている。
えみりがドアをノックし中に入ると、向かいの細長いテーブルに地元の警察関係者と通訳、その脇に、学年主任の大澤と2年C組の担任の木部がいた。
「今日、起きたことを、てきるたけ詳しく話してくたさい」
通訳が、濁音のない妙な日本語で言った。
「昨日のフェリーでのお話からした方がいいと思うんですけど……」
えみりは、緊張しながら言った。
通訳が警察関係者に韓国語で説明している間に、
大澤を見ると、「何を余計なことを言い出すんだ?」という渋い表情だったが、木部は、黙って頷《うなず》いた。
「それては、とうそ」
えみりは、話し始めた。
耕平のお姉さんのフェリーの話。
フェリーで支給されたばかりで、まだ、誰一人、電話番号もメールアドレスも知らないはずのあずさの携帯電話に、入れた覚えのない不気味な着メロが鳴った話。
その着信があずさ自身の携帯番号からだった話。
その時のメールにあずさが首を吊《つ》っている写真≠ェ添付されていた話。
メールの受信時刻が翌日の昼頃になっていた話。
去年、パム≠ニいうあだ名の女生徒が高校の体育館で首を吊って自殺した話。
パム≠フ話をし始めると、すぐに、大澤が「それは、関係ないだろう?」と止めさせようとしたが、通訳を通して、「関係があるか、ないかは、私たちが判断します」と警察関係者に言われ、えみりは、パム≠フ右手の甲にケロイド状の火傷があることまで話した。
あずさが梵《ぼん》魚寺の近くでいなくなった話。
港の食堂で輝也の携帯に、あずさの時と同じ着メロが鳴った話。
やはり、輝也自身の携帯番号の着信があった話。
メールの受信時刻が数分後になっていた話。
その後、輝也は怯《おび》えたように、トイレに行った話。
しばらくして、大きな音と揺れを感じた話。
ホテルでビデオカメラをチェックしてみると、撮っていないはずのフェリーの船室の模様が残されていた話。
そこには、あずさの首を絞めている女の白い手が映っていた話。
その女の右手の甲には、ケロイド状の火傷の痕があった話。
ホテルの『3班』の部屋から悲鳴が聞こえたので、みんなで行ってみると、瑞江がいなくなっていた話。
部屋で呆然《ぼうぜん》としていた3人から話を聞いてみると、友香の携帯に自分の携帯番号からの着信があった話。
そのメールの受信時刻が、それから5分後の表示になっていた話。
そこに、ベッドの下から伸びた女性の白い手が友香の足を引きずり込もうとする映像が添付されていた話。
韓国の携帯なのに転送すれば死なない≠ニ日本語で表示されていた話。
それは、パムの呪い≠ナはないかと怯えた話。
やむなく友香が瑞江の携帯に転送した話。
メールの着信時刻になった時、本当に、ベッドの下から女の白い手が伸びて、メールを転送された瑞江を引きずり込んで行った話。
その女の右手の甲にも、ケロイド状の火傷《やけど》の痕《あと》があった話。
ベッドの下に引きずり込まれたはずの瑞江の姿が見えなくなっていた話。
誰かが今まで舐めていたような赤い飴玉が転がっていた話。
他の生徒たちが事情聴取に費やした時間の何倍かを使って、えみりは、すべてを正直に話した。
大澤と木部は信じられないといった表情で聞いていたが、警察関係者は、時折、ペンでメモを取りながら、真剣に聞いていた。
通訳を通して、いくつか質問もされた。
『最近、あずさに何か、悩んでいた様子はあったか?』
『あずさに特定の彼氏はいたのか?』
『あずさに恨みを持つ者に心当たりは?』
『輝也が行った食堂は、誰が行こうと言い出したのか?』
『キム・ギチョル≠ニいうトラックの運転手と面識はあるか?』
『輝也に恨みを持つ者に心当たりは?』
『瑞江に変わった所はなかったか?』
『家出をしたいというようなことは言っていなかったか?』
『同室の者たちとの人間関係は?』
『瑞江に恨みを持つ者に心当たりは?』
えみりは自分の知っていることは正直にすべて話し、知らないことは臆測《おくそく》で話すことを止めた。
じっと聞いていた年配の刑事らしき男が、最後に韓国語で通訳に言った。
「あなたのまわりで、いつも、赤い飴玉《あめだま》を舐《な》めている人はいませんか?」
通訳が日本語で聞いた。
「いません」
それで、えみりの事情聴取が終わった。
廊下に出ると、アン・ジヌが待っていた。
それだけで、涙がこぼれそうだった。
「えみり、大丈夫かい?」
アン・ジヌが手話で聞いた。
「うん。
でも、まだ、今日、起きたことが信じられなくて……」
えみりが手話で答えた。
「支配人に頼んで、僕は、今夜、ずっと、ここにいることにした。
君が無事、明日、日本に帰るまでね」
「ありがとう」
アン・ジヌの厚意が嬉《うれ》しかった。
「心配しないで、早く、休むんだ」
「たぶん、寝付けないと思うけど……。
部屋に戻るわ」
本当は、朝までアン・ジヌのそばにいたかった。
部屋の前まで送って貰《もら》った時、アン・ジヌが悲しそうな目をして手話で言った。
「韓国のことを嫌いにならないで欲しい。
また、来て欲しいんだ」
えみりは黙って頷いた。
真実が見えない時、人は臆測でものを語る。
臆測と尾ひれのついた噂話は、ホテルの館内をものすごいスピードで駆け巡った。
安っぽい内装のレストランを埋め尽くした安城高校の生徒たちは、それぞれのテーブルで、重苦しい空気の中、ひそひそ話をしていた。
「あずさって、前にも自殺未遂の経験があるんだってね」
「リストカットの痕があったって……」
「ストーカーされてたんでしょ?」
「妊娠してたって、本当?」
「遺書は?」
「輝也のは、事故なの?」
「事故に見せかけた殺人事件らしいよ。
だから、韓国の警察が捜査してるんだって……」
「トラックの運転手がブレーキを掛けた痕跡《こんせき》がないんだってさ」
「3日前にそのトラックの運転手が日本に来てたんだろう?」
「しかも、運転手の家の天井には家族も知らない大金が隠されてたんだって」
「瑞江も殺されてるのかなあ?」
「そりゃあ、そうだろう?
これだけ、大騒ぎになってるんだから、生きてたら出て来るよ」
「このホテルのどこかで、死んでるってこと?」
「このテーブルの下にあったりして、瑞江の死体……」
「きゃあ!」
女生徒の1人が声を上げた。
一瞬、他のテーブルにいる者たちがこちらを見たが、すぐに、また、それぞれの話に戻って行った。
女生徒が冗談を言った男子生徒を叩《たた》いた。
その不安を隠すために、みんな、饒舌《じようぜつ》になっていた。
誰もが得体の知れない何かに怯《おび》えていた。
「友香たちは?」
「病院に連れて行かれた。
口も利けないほど、ショックを受けてるんだって……」
「何を見たのかな?」
「話せないほど怖いものだろ?」
その場にいる全員が沈黙した。
それぞれが想像をめぐらせた。
自分の中の恐怖をかたちにしようとしているのだろう。
何が怖いのかがわからない恐怖ほど怖いものはない。
「あずさはパムの呪い≠フメールを誰かに転送されて、死んだんでしょ?」
「輝也はそれを転送しなかったから死んだんだって……」
「『転送すれば死なない』の?」
「友香は、瑞江に転送したんでしょ?」
「よくできたよね?
友達に……」
「だって、転送しなかったら、自分が死んじゃうんだよ」
「でも、転送して誰かが死んだら、嫌じゃない?」
「おまえんとこにパムの呪い≠ェ来たら、誰に送る?」
軽いノリで言ったつもりの男子生徒の問いかけに、お互いの顔を見合いながら、
誰もが真剣に想像していた。
教師たちの控え室になっている部屋で、えみりは学年主任の大澤に訴えていた。
部屋で眠ろうとしたのだが、さっきの取調べで話したいことの半分も話せなかったような気がして、ベッドを抜け出して来たのだ。
「常識では説明できない何かが起こっているんです」
「これは、事故だ。
そもそも、今回のこととパム≠フ……湯口公子≠フ自殺とは関係はない」
「昨夜、あずさの携帯に送られてきたメールには、パム≠フ顔をあずさの顔にした写真が添付されていました」
「いたずらだ」
頭の禿《は》げ上がった大澤は、ハンカチで額から頭の天辺《てつぺん》まで汗を拭《ぬぐ》いながら、苛立《いらだ》ったように言い切った。
「それに、ビデオカメラには、パム≠ニ同じ、ケロイド状の火傷《やけど》の痕《あと》がある手が映っていました」
「幽霊のせいだというのか?」
「わかりません。
ただ、いじめを苦に自殺したパム≠フ怨念《おんねん》のようなものが……」
「馬鹿馬鹿しい。
第一、学校側の調査でも発表したように、彼女がいじめを受けていたという事実はない。
多感な思春期の生徒によくある発作的な自殺だ」
「この修学旅行での出来事も、そうやって隠蔽《いんぺい》してしまうんですね?」
「草間!」
そばで聞いていた木部が、えみりを部屋の外に連れ出した。
天井の蛍光灯の1本が切れ掛かって点滅している廊下で、木部は言った。
「おまえたちが動揺するのはわかるが、俺は、呪い≠セの幽霊≠セの心霊現象≠セのといった類《たぐい》のものを信じない。
そんなものは、人間の弱さにつけこんだ詭弁《きべん》だ。
都合のいいように、でっち上げた妄想だ」
「妄想なんかじゃありません。
本当に、携帯電話にパムの呪い≠ェ……」
「草間!
いい加減しろ!
おまえたちがそんなに携帯電話のことで怯えるんだったら、俺がみんなの携帯を回収する」
「それは、やめてください。
みんなは、今、パムの呪い≠ェ自分の携帯に掛かって来ても、『転送すれば死なない』という噂を信じて、平静を保っているんです。
もし、先生に携帯を取り上げられてしまったら、自分の携帯にパムの呪い≠ェ掛かって来ても、どうすることもできないと思って、余計に、パニックになってしまいますよ」
「ある種の集団催眠だな。
目を覚ますんだ、草間!
今、韓国の警察が捜査しているから、3つの悲しい出来事が、ただ、不幸にも続いてしまっただけだと明らかにされるだろう。
明日の午後一番には、フェリーの手配もつきそうだ。
あと半日、頑張るんだ。
くだらない噂話に、耳を塞《ふさ》げ!」
これ以上何を言っても無駄だと、えみりは思った。
確かに、自分の話は荒唐無稽《こうとうむけい》だ。
耳を傾けて貰《もら》おうと思ったのが、そもそも、間違いだったのだ。
えみりは、絶望の底に突き落とされた。
その時、えみりが手にしていた携帯が鳴った。
切れ掛かった蛍光灯の点滅が心臓の鼓動のリズムに合わせて速くなったような気がした。
(誰?)
木部も、一瞬のうちに顔から血の気が引いたえみりを心配そうに見ている。
震える手で、携帯を見た。
アン・ジヌからのメールだった。
『6班』は7階の浴場に集まって、こっそり、煙草を吸っていた。
今夜は閉鎖されているのだが、この騒動で教師たちもここまでは目が行き届かないだろうというという読みからだった。
実際、誰も来なかった。
がらんとした浴場は、なぜか、死体の解剖室のように見えた。
極度の緊張から、みんな、立て続けに何本か煙草を吸っている。
言葉の代わりに吐き出した煙が充満していた。
突然、そばに置いてあった赤池徹の携帯が鳴った。
例の着メロが浴場に反響して、余計に不気味に聞こえる。
「こんな着メロ、入れた覚えはないよ」
徹が怯えたように言った。
「もしかして、パムの呪い=H」
宮木速人がおどおどしながら、浴槽の縁で煙草をもみ消して聞いた。
「通知番号、見てみろよ」
村井孝治が強張《こわば》った顔で言った。
「嘘だろう?
……この携帯の電話番号だ」
本当にあせったのだろう、声を裏返させて、徹が叫んだ。
石川重明が、興奮して言った。
「さっき、みんなが噂してたじゃないか!
自分の携帯に自分の携帯番号が通知されるって……」
そばで、孝治が言った。
「メールが来てるぞ!
徹! 開いてみろよ」
「何かの間違いだよ。
俺が、パムに恨まれることなんかないし……」
「他人の足を踏んでても、気づかないもんだからな」
重明が徹の携帯を取り上げた。
「返せよ!」
無視して、今、受信したメールを開く。
「勝手にいじるなよ!」
メールには『転送すれば死なない』と書かれていた。
「そんなことすると……転送するぞ」
徹のその言葉で、重明たちは、どきっとした。
そうだ。
もし、これが、本当にパムの呪い≠ネら、徹は誰かに転送するだろう。
そして、転送された誰かは、代わりに死ぬ。
「やばいな、それ……」
アカスリ用の台に寝転んでやりとりを聞いていたクラス委員の川崎行雄が、ぼそっとつぶやいて、徹を見た。
狡猾《こうかつ》そうな目に残酷な光が走った。
徹は、警戒した。
「何だよ?」
「着信時刻は、22時17分。
あと10分後だ。
悪いけど……」
行雄が重明に目で合図した。
大柄な重明が徹を羽交い締めにした。
「何すんだよ?」
身の危険を感じた徹が、あわてて、重明の腕から逃れようとする。
「万が一のためだよ。
暫《しばら》く、君を隔離させて貰う」
行雄の言葉に促されて、3人は抵抗する徹の体を押さえつけながら、少人数用のサウナの中に押し込んだ。
木製のドアを閉めると、中で徹が暴れ始めた。
ドン、ドン、ドン……。
内側からドアを蹴破《けやぶ》ろうとしている。
重明、速人、孝治が脱衣所の机を運び、サウナのドアが開かないように置いた。
「開けろよ!
くだらないことするなよ」
心細そうな徹の声がする。
「10分過ぎたら、開けてやるよ」
「死ぬなよ」
「頑張れ!」
「しょうがないよ、君がパムの呪い≠受けちゃったんだから……」
行雄たちはドアの窓から中を覗《のぞ》きながら、そう声を掛けた。
パムの呪い≠受けたこの携帯を取り上げ、徹をサウナに閉じ込めてしまえば問題ない。
誰かに転送しようにも、できないのだから。
「腹、減ったな?」
「夜食用のおにぎりが用意されているらしいぜ」
「学校側も、たまには、気の利いたことをするじゃん」
「徹の分も、持って来てやるよ。
生きてたらな」
4人の声が木製のドア越しに聞こえた。
あいつら、本当に浴場を出て行くつもりか? と、徹は不安におののいた。
「助けて!」
徹はサウナの中から叫んだ。
遠ざかる足音を聞いて、徹は全身の力が抜けたようにその場に座り込んだ。
ミストサウナは、暑い上に霧のような水蒸気で息苦しかった。
鼻から息を吸えずに、犬のようにはあはあと口を開けていないといられない。
あっという間に全身から汗が噴き出して来た。
早く、誰かに転送しなくちゃ……。
あの携帯がないと……。
徹はあせった。
「誰かぁ!」
ありったけの声で助けを呼んでみたが、まさか、ここからそんな声が届くはずもない。
閉所恐怖症の人間には、1分も持たないだろう。
汗が噴き出して来る。
ジャージの上着を脱いだ。
その時、徹は気づいた。
この霧の中にいるのは、自分だけではないことに……。
気配がするのだ。
すぐ近くで、じっと息を殺し、こちらを見ている誰かがいる。
振り向こうとした時、徹の指先が何かに触れた。
それが、人間の長い髪の毛だと知って、徹は絶叫した。
「あとどれくらい?」
部屋の前の廊下で、重明が手にした携帯の時刻を見た。
「あと……2分……」
「どうなるのかな?」
速人が浴場のガラス戸を開けながら聞いた。
「どうにもならないよ。
サウナのドアを開けたら、失禁した徹が『ひどいよ』って半べそかきながら出て来るだけさ」
壁に凭《もた》れた行雄が、冷静に答えた。
「じゃあ、あの噂が本当だったら?」
孝治が聞いた。
「それは、それでラッキーだろう?
俺たちに転送されることはないんだから。
ここに徹の携帯がある限りな」
「あと1分切ったぞ」
重明が持っている徹の携帯が、突然、鳴った。
また、あの不気味な着メロだ。
通知番号を見ようとすると、なぜか、液晶画面には動画が映っている。
光の調整が悪く、真っ白で何も見えない。
よく見ると、その白い霧の中で何かが動いている。
「徹だ!」
速人が驚愕《きようがく》の声を上げた。
立ち上がって、携帯画面を覗き込んだ孝治が唸《うな》るように言った。
「サウナの中が映ってる」
「何で、これに映るんだよ?」
重明は液晶画面を凝視したまま、聞いた。
「……パムの呪い=v
行雄は、うわ言のようにつぶやいた。
ふいに背後から伸びた誰かの手に、徹は頭と顎《あご》をがっちりと掴《つか》まれた。
「ひぇ〜っ!」
上半身をひねって、その手から抜け出そうとするが、びくとも動かなかった。
万力に挟まれたようだった。
誰かの手がゆっくり、徹の顔を右回りに回転させようとする。
「あああああ……」
その手が動かそうするのと逆の方向に抵抗しようとするが、信じられないくらい強い力で、ねじられて行く。
額から汗が滝のように流れた。
口を金魚のようにパクパク開いて息をした。
次第に、徹の顔が右に傾く。
首の筋がどうにかなりそうだ。
「やめへ……」
徹の口からよだれが垂れる。
それでも、その手の力は緩まることはなかった。
プツン!
首筋に電流が走ったような衝撃があった。
頭を支える細かい筋肉が切れたのか?
徹の顔は首から直角に曲がり、すべての世界が真横に見えた。
さらに、視界が下に来る。
耳の奥で何かが軋《きし》む音が聞こえた。
顎が外れた。
バチッ!
皮膚が裂ける強烈な痛みが襲った。
錆《さび》くさい液体が噴き出した。
脈が猛スピードで打ち始めている。
次第に酸素が欠乏し始め、意識が遠のいて行く。
バキッ!
徹は頸椎《けいつい》が折れるこの世で最後の音を聞いた。
その模様を携帯の画面の中で一部始終見ていた行雄たちに、声はなかった。
放心状態のまま、脱衣所に立ち尽くしていた。
「そんな馬鹿な……」
行雄がそうつぶやいてから、浴場に入り、みんながそれに続いた。
膝《ひざ》ががくがくして歩きにくかった。
どうにかサウナの前に行くと、机を動かしながら速人が確かめるように言った。
「嘘だよな?」
その上ずった声に、反応できる者はいなかった。
ドアの窓を覗《のぞ》いてみたが、白い湯気で何も見えなかった。
「徹!……徹!……徹!」
4人がサウナの中に向かって呼んでみたが、返事はなかった。
さっきの映像は何なんだ?
無意識のうちに首を少し回して、行雄はサウナのドアに手を掛けた。
みんなが注視している。
勇気を出してドアを開けると、胴体から引きちぎられた徹の生首がごろんと転がって来た。
「うわ〜っ」
行雄たちは、腰を抜かし、浴場のタイルの床に尻餅《しりもち》をついた。
木の壁や床やすのこの上に敷かれたタオルに夥《おびただ》しい量の鮮血が撒《ま》き散らされていた。
「うっ!」
重明が吐瀉《としや》した。
白い霧の向こうに、誰かが座っている。
瑞江の死体だった。
顔と胴体、両手、両足のすべてが、不自然な角度で逆方向に向けられていた。
「わわわわ……」
速人と孝治が這《は》い蹲《つくば》りながら、その場から逃げ出そうとする。
※[#歌記号、unicode303d] 光に包まれ 学びし丘で
友と語らう 夢の道
行雄が、突然、大声で校歌を歌い始めた。
「行雄?」
速人と孝治が振り返ると、行雄が直立不動の姿勢で焦点の合わない目をしていた。
表情のない顔に鼻水が垂れている。
精神のどこかに変調をきたしたのだ。
「ぎゃあっ〜!」
速人と孝治に続いて、重明も床を這いずり始めた。
その時、床に転がっていた徹の生首の口から赤い飴玉《あめだま》が零《こぼ》れ落ちたことに気づく者はいなかった。
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CHAPTERC 「殺意の向こう側」
えみりとアン・ジヌは2階のレストランにいた。
「君が部屋を抜け出して先生たちの部屋に行ったっていうのを聞いたから……。
大丈夫?」
アン・ジヌが手話で聞いた。
「よくわからないの、何が起こっているか……」
えみりも手話で答えた。
「不幸が起きた時って、一瞬、何が自分の身に起こったのか、わからなくなるんだ。
気が動転してるんだろうね」
「それもあるんだろうけど……」
暗い表情のえみりが言葉をためらった。
「何でも言ってごらん?」
「ジヌは、呪い≠チて信じる?」
「どうだろう。
それは、そう感じた人間の過去に何かうしろめたいことがあるからじゃないかな?
ちょっとした不幸があっても、そのことに対する呪い≠セと思うでしょ?」
「思い違いならいいんだけど……」
「何かあったの?」
「信じられないようなことが続いていて、それを、呪い≠ニ考えると、
辻褄《つじつま》が合うの」
「今、君の精神状態が普通じゃないからだと思うけど……」
「先生も、そう言ったわ」
えみりが落胆するのを見て、アン・ジヌが手話で慰めた。
「こういう状況なら、誰でもパニックになるさ。
でも、確かに、長い間、人間は呪い≠ノついての文献を書き残しているくらいだから、それに近い何かはあるんじゃないかな?
僕たちの世界は、いつも誰かが恨んだり、妬《ねた》んだりしているからね。
死んでも死に切れない怨念《おんねん》を持った人間が、呪い≠フようなものを現世に残したとしても不思議ではないかもしれない」
アン・ジヌの手話が、普通の会話のように理解できる自分に驚いた。
必要に迫られると、人は潜在能力を発揮するのだろう。
えみりは、じっと、アン・ジヌの目を見つめてから、両手を動かし始めた。
「私たちの同級生にパム≠ニいうあだ名の子がいたの。
みんなにいじめられていた女の子で……」
テーブルの上のえみりの携帯が鳴った。
息が止まった。
ちょうど、パム≠フ話をし始めた時だったので、金縛りに遭ったように、手を伸ばせなかった。
「えみり!」
アン・ジヌが声にならない気持ちを目で訴えている。
着信音は、普通のものだった。
あの不気味な着メロではなかったが、表示された番号に心当たりはなかった。
ようやく、えみりは携帯に出た。
「もしもし……」
不安気に、そう声を絞り出すと、「……私」という声が返って来た。
明日香だった。
「どうしたの?」
「どうしたって、私が電話しちゃいけない?」
「そういうんじゃなくて……韓国のレンタル携帯の電話番号がよくわかったと思って……」
「ふふふ……私には、何でもわかるのよ」
受話口の中の明日香が面白そうに言った。
「ごめん、明日香。
今、いろいろ大変なの……、また、明日、電話を……」
えみりの言葉を遮って言った。
「楠木あずさ、三上輝也、川中瑞江のことでしょう?」
「誰に聞いたの?」
日本では、もう、ニュースになっているのだろうか?
「だから、言ったじゃない?
『私には、何でもわかる』って……。
そうそう、えみりにも、教えといてあげるね。
『転送すれば死なない』から」
「明日香!
どういう意味なの?」
「じゃあね」
一方的に電話を切られた。
えみりは携帯を耳に押し当てたまま、呆然《ぼうぜん》としていた。
「誰から?」
「クラスメイト、修学旅行に来なかった……」
明日香は知っていた。
『転送すれば死なない』ってメールのことを……。
朝、えみりの携帯に掛かって来たあの電話は、やはり、明日香だったのか?
アン・ジヌが手話で何かを話していたが、えみりの目には何も入らなかった。
明日香は何かを隠している。
明日香が隠しているその何かが、ただ、漠然と怖かった。
「みんな、冷静になって欲しい。
呪い≠ェどうのこうのという噂が飛び交っているようだが、こういう状況の時は、まず、そういう根拠のない流言飛語の類に耳を貸さないことだ」
浩之たち、『4班』の部屋で、木部が今回の事件について説明をしていた。
生徒たちの部屋をひとつひとつ回って、不安を取り除こうとしているのだろう。
その隣には、竹刀を持った体育教師の松本もいる。
竹刀で悪霊を退治しようというのだろうか?
「常識で考えろ、常識で!
呪い≠ネんかで、人が殺せるか?
ホラー映画じゃあるまいし……。
俺は、そういうオカルトチックなものが大嫌いなんだ。
気合いを入れろ、気合いを!」
松本は、まるで、試合に負けた運動部の部室に説教に来ているかのように言った。
「でも、これは、人間の仕業じゃないですよ」
浩之が言った。
「じゃあ、幽霊の仕業か?」
ふんと鼻で笑ってから「だいたい、おまえらが……」と、松本が言い始めたのを制して、木部が言った。
「確かに、そう考えた方が辻褄が合うのはわかる。
でも、真実というのは、いつだって、ひとつだ。
どんなに見えにくい真実でも、だ。
ありえないことのように見えて、よく調べてみれば、意外に単純なことだったりするんだ。
今、地元の警察も調べている。
心配することはない。
みんなは、明日の帰国の準備をして、早く、寝るんだ」
木部は生徒たちを諭すように言った。
「パムの呪い≠セよ、絶対に……」
小林秀樹は、すでに、そう結論づけているかのようにつぶやいた。
「同級生の死≠ェ、おまえらの心に相当のダメージを与えているのはわかる。
しかし、湯口の自殺とは、一切、関係ない」と、木部は言い切った。
「じゃあ、携帯電話の件は、どう説明するんです?」
銀縁の眼鏡の縁を指で触りながら、春に、大手出版社が主催する『日本ホラー小説大賞』で新人賞を獲った小説家志望の松野明彦が挑発するように聞いた。
「ただのいたずらだ」
松本が言った。
「彼らが死ぬことを予告するかのような留守電やメールがあったんですよ。
死んだ時刻より前に……。
そんなことができるのは……」
「くだらん。
技術的なことはわからんが、誰かの悪質ないたずらだ。
おまえたちが、興味本位で話を面白くしているだけだ」
不愉快そうに松本が言った。
それでも納得できないといった感じで、秀樹が食い下がった。
「『転送すれば死なない』っていうのは?」
松本が秀樹に竹刀の先を向けながら、怒鳴った。
「何でもかんでも、今回のことと結びつけるな。
いたずらメールと今回のことは、別のことだ。
恐怖心というのは、弱い心が生み出す幻想だ。
おまえらが、そんな風に怯《おび》えているから……」
「まあまあ、松本先生……」
教師たちの説明と浩之たちが信じているものには、大きな隔たりがあった。
どれだけ話し合っても、平行線だろう。
「もし、俺の携帯にパムの呪い≠ェ着信したら?」
ずっと、黙っていた浩之が、ぽつりと聞いた。
松本が竹刀を床に叩《たた》きつけて言った。
「俺の携帯に転送しろ!
『転送すれば死なない』んだろう?
俺が受けてやるよ、予告だろうが、呪いだろうが、幽霊だろうが……」
応援団出身の松本には、呪い≠ノ怯える男子生徒たちの弱さが許せないのだろう。
「そんなことを言っちゃって、先生は……」
浩之は、何かを言いかけて止めた。
ノックもせずに、ドアが開き、学年主任の大澤が顔を見せた。
「木部くん、松本くん、ちょっと……」
大澤の顔から血の気が失せている。
自分の手には負えないトラブルが発生したのだろう。
大澤が木部と松本に何か耳打ちした。
「いつですか?」
木部が大声を上げた。
「警察は?」
松本も大声を上げた。
浩之たちは息を呑《の》んだ。
また、何かよくないことが起きたのだろう。
木部は、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、「行こう」と松本を促した。
瑞江と徹が死体で見つかったという報《しら》せだった。
「前にも聞いたことがある。
死の予告電話≠フ話」
アン・ジヌが手話で言った。
「どこで?」
「日本」
「えっ?」
「君と会った日韓手話ボランティア交流会に、聴力を失ったヴァイオリニストがいたの、覚えてない?」
「うん、なんとなく……」
微笑んでいるのに、暗い目をした、三十歳前後の男性だ。
誰も寄せ付けない孤独感のようなものを持っていたから、えみりも覚えていた。
「彼に聞いたんだ。
3年前に、恋人を死の予告電話≠ナ失ったって……」
「死の予告電話=H」
「その時に聞いた話と、今、君に聞いた話は、すごく似ているんだ」
「それも、何かの呪い≠ネのかしら?」
「とにかく、調べてみよう。
今回の件と何か関係があるかもしれない」
アン・ジヌに釣られて、えみりも立ち上がった。
ホテルの4階に『ビジネスセンター』とは名ばかりのPCルームがあった。
数坪の狭い部屋に埃《ほこり》の被った2つの机と旧式のデスクトップのパソコンが2台、置かれている。
そのうちの1台は、液晶画面が割れ、おそらく、使用不可能だろう。
「ひどいな」
アン・ジヌがあきれたように手話で言った。
もう1台のパソコンの電源を入れると、どうにか起動した。
えみりが『Google』で死の予告電話≠検索すると、いくつかのサイトが出た。
そのうちのひとつのサイトに『都市伝説? 死の予告電話≠ナ次々に怪死』という日本の新聞や雑誌の記事が表示された。
2人は顔を見合わせた。
「……自分の携帯に自分の携帯番号が着信し……
その着信時刻に、留守電に残された予告通りに死ぬという噂が流れた。
その発端は、美々子≠ニいう母親に虐待されていた少女の怨念《おんねん》があるとされ……」
震えるえみりの肩にアン・ジヌがそっと手を置いた。
さらに、えみりがスクロールする。
「……美々子同様に、虐待された過去を持つ人間がその怨念に共鳴し、第二の美々子≠ニなった」
腕組みをしながら、苦渋に満ちた顔でアン・ジヌが言った。
「学校でのいじめも、ある意味、虐待と言っていいだろう」
えみりは、すぐに、美々子≠検索した。
パソコンが古いせいか、ヒットしたホームページを開こうとしたが、なかなか画面が切り替わらない。
ようやく、画面が開いたと思ったら、『NOT FOUND』、すでに閉鎖されていた。
脇からアン・ジヌの手が伸びて、FUKUSHUU≠ニ打ち込んだ。
「復讐《ふくしゆう》?」
えみりが手話でアン・ジヌに聞いた。
「怨念の出口は、復讐だろう?」
やがて、検索されたサイトが開いた。
容量が重いのか、画面が少しずつ現れる。
……アスファルトだ。
その上に、夥《おびただ》しい量の血溜《ちだ》まりが広がっている。
オドロオドロシイ墨字が見えて来た。
『あなたの恨みはらします』
2人は、画面に引き寄せられた。
「何、これ?」
「ネットは、今、無法地帯なんだ。
仮想と現実が入り乱れている」
「でも、こんな恐ろしい……」
「無記名だからね。
こういう危険なサイトは、いくらでもあるよ。
それに、人目を気にしない分、人間の本能をそのまま、曝《さら》け出しているんだ」
声のない静かな部屋で、旧式のパソコンが作動する音だけが聞こえていた。
えみりは、その復讐≠フサイトの掲示板を開いた。
『松田、一生かけて、おまえを追い詰める』
『どうせ、おまえ、口ばっかりだろ?』
『誰か、一番、楽な自殺方法を教えてください』
『失敗さえしなければ、どれも一瞬です』
『そういう本が出ているぞ』
『俺は、松田を道連れにする』
『シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ……』
『復讐するは我にあり』
『友達なんかいらない』
『欲しくても、できねえんだろ?』
『るり子の猫をマンションの窓から捨ててやりました』
『写真オクレ』
『人前でこんなに恥をかいたことはない。
悔しい』
『逆探知されない無言電話の方法教えるよ』
『野口誠一、逝《い》ってよし』
『1人だけは殺してもいい≠チていう法律ができればいいのに……』
『復讐は正当防衛だ』
そこに並ぶ悪意を見ただけで、えみりは気持ち悪くなった。
過去のログを開くと、探していた文字が目に飛び込んで来た。
『恨みをはらしたい。
パムのために……』
パム=H
これを書き込んだのは、きっと、明日香だ。
その書き込みに誰かのレスが残っていた。
『本気?』
『もちろん。
だって、パムは私、私はパム……』
『じゃあ、待ってれば……。
美々子が来るから……』
美々子?
さっきの『死の予告電話』の記事に書かれていた、あの美々子?
やはり、日本のあの事件と韓国の今回の事件は関係があったのだ。
明日香はこのサイトで、美々子と繋《つな》がったということか?
えみりは、この掲示板に書かれていたことを掻《か》い摘んで、アン・ジヌに手話で説明した。
何かを考え込んでいたアン・ジヌの手が動いた。
「信じがたいことだけど、明日香に聞いてみるんだ。
美々子のことを……」
えみりは頷《うなず》き、すぐに携帯で明日香に電話した。
呼び出し音が鳴っている。
その第一声を緊張しながら待ち構えていると、ふいに、このビジネスセンターのドアが開いた。
どきっとした。
今は、どんなことに対しても、過敏になってしまう。
反射的に振り返ると、真理が入って来た。
「えみり、ここにいたんだ。
探したんだよ」
「ごめん。
ジヌとパムの呪い≠ノついて調べてたの」
真理はアン・ジヌに会釈しながら言った。
「瑞江が死体で発見されたわ。
徹と一緒に……」
「徹も?」
えみりは携帯を耳に当てながら、聞き返した。
「パムの呪い≠フ電話、受けたらしいの」
真理が鎮痛な面持ちで言った。
その時、明日香への電話が繋がった。
「明日香?」
傍らで、真理が『どうして、明日香に電話を掛けているの?』という顔をした。
声を出さないように、とアン・ジヌが唇に人差し指を当てた。
「明日香?」
えみりが聞いたが、反応はなかった。
「あずさや輝|也《なり》や瑞江が死んだこと、どうして知ってたの?」
「……徹もね」
受話口の中の明日香がはっきりと言った。
徹のことは、えみりたちも今、知ったばかりなのに……。
「どういうこと?」
「みんなわかってるくせに……」
「わからない。
わからないから聞いているのよ。
何が起きているの?」
「パムの呪い≠ナしょ?」
「………」
やはり、明日香は何かを知っている。
携帯を持つえみりの掌が汗ばんだ。
「美々子≠チて、誰?」
まさか、えみりの口からその名前が出るとは思わなかったのだろう。
明日香は、一瞬、黙った。
それから、明日香は、秘密を打ち明けるように小声で言った。
「友達よ、私の……」
「明日香、あなた、何をしようとしているの?」
「そのうちにわかるわ。
それより、真理に代わって!
そこにいるでしょ?」
「知っていることを教えて!」
「いいから、真理を出して!」
明日香が、声を荒らげた。
仕方なく、えみりは携帯の送話口を手で押さえながら聞いた。
「明日香が真理に代わってって……」
真理はためらっていたが、えみりに言われて携帯を受け取った。
「……真理だけど」
急に、電波状態が悪くなった。
「もしもし……もしもし……」
真理は、不安そうな目で、えみりを見た。
えみりに携帯を戻そうとすると、受話口の中の明日香が言った。
「…『転送すれば死なない』」
同時に、どこからかあの不気味な着メロが鳴った。
真理のジャージのポケットの中からだった。
「いやぁ〜」
真理は叫んだ。
「ほら、携帯が鳴ってるわよ。
ちゃんと、出てあげて。
友達からの電話を無視するのはよくないよ」
受話口の中の明日香が叱るように言った。
真理がもたもたしているうちに、携帯の不気味な着メロが止んだ。
結果的に、誰かからの電話を無視する形になってしまった。
「あ〜あ、また、無視したね?」
「どうして……?
どうして、私なの?
中学時代からの友達でしょ?
私、パム≠フことも、明日香のこともいじめてないじゃない?
それなのに、どうして、私の携帯に掛かって来たの?」
真理は、泣きじゃくりながら訴えた。
「誰かがいじめられている時、それをただ見ている傍観者も同罪なのよ」
明日香がそう冷たく言い放つと、電話はぷつりと切れた。
「……切れちゃった」
心ここにあらずといった感じで、真理がつぶやいた。
えみりが心配して近づくと、今まで話していた携帯を押し付けて言った。
「来ないで!」
「どうしちゃったの?」
「えみりのせいよ」
今までの真理とは違う形相で、えみりを睨《にら》んだ。
「……真理」
「あんたが明日香に電話したりするから……。
私に電話を代わったりするから……」
真理はパニックになっていた。
「落ち着かせるんだ。
彼女の携帯に、残された留守電のメッセージやメールを調べてみよう」
アン・ジヌがえみりに手話で言った。
「落ち着いて!
『真理の携帯に、残された留守電のメッセージやメールを調べてみよう』って……」
えみりが、アン・ジヌの言葉を通訳した。
「ほっといて!」
そう言い残して、真理はビジネスセンターを出て行った。
その後姿を悲しげに見送るえみりの肩を、アン・ジヌがそっと抱いた。
「クラスの友達がばらばらになって行く」
鼻水をすすりながら、えみりが泣き声で言った。
「それが、狙いなのかもしれない」
アン・ジヌは、手話でそうつぶやいた。
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CHAPTERD 「復讐の代償」
真理は廊下を歩きながら、ジャージのポケットから携帯を取り出した。
ハングルのメッセージが表示されている。
『着信アリ』ということなのだろう。
知らず知らずのうちに、早足になっている。
誰かが追いかけて来るような恐怖感に苛《さいな》まれて、真理は何度も後ろを振り返った。
迷路のような廊下の角を曲がった時、突然、蛍光灯が消え、真っ暗になった。
電力室のブレーカーが落ちたのだろうか?
手探りで前に進もうとしているうちに、何かに躓《つまず》いた真理は持っていた携帯を落としてしまった。
落ちたショックで、折りたたみ式の携帯が開いてしまったらしく、数メートル先の床で仄白《ほのじろ》く光っている。
ゆっくりと歩いて携帯を拾うと、仄白く光る液晶画面にメッセージが届いていた。
『転送すれば死なない』
日本語だった。
真理はその場にしゃがみ込んだまま動けなかった。
その時、今来た方から、足音が近づいて来るのが聞こえた。
「来ないで!」
自分ではそう叫んだつもりだったが、声にならなかった。
ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん……。
水溜《みずたま》りを歩くような、水を跳ねる音が聞こえた。
「ひぃ……」
真理は、自分の口に掌を押し当て、声が洩《も》れないようにしながら、廊下の突き当たりの非常ドアまで膝《ひざ》を突いて這《は》い蹲《つくば》ばった。
ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん……。
ムカデより遅かった。
もう追いつかれてしまう。
真理は、震える手で携帯に手を伸ばした。
懐中電灯の輪の中に子猫のように丸まった白髪の老婆がいた。
真理だった。
光の当たり具合のせいではなかった。
人は、過度の恐怖を体験すると、一瞬のうちに黒髪が真っ白になると言う。
17歳の真理の黒い髪も、一瞬にして白髪になってしまったのだ。
何が、真理をここまで追い込んだのだろう?
えみりは真理の頬に自分の頬をつけながら頭を撫《な》で聞いた。
「怪我はない?」
真理は過呼吸になるほど震えていた。
えみりは真理の肩を揺すって言った。
「真理!
しっかりして!」
「死んでいるの……私が……乾燥機の中で……」
嗚咽《おえつ》しながら真理が言った。
アン・ジヌが近くに落ちていた真理の携帯を拾うと、乾燥機の中で白目を剥《む》いている真理の姿が映っていた。
「えみり、見て!」
アン・ジヌが手話でえみりに伝えた。
そのメールは転送されていた。
相手は、『矢澤みのり』だった。
ホテルの中で乾燥機がある場所。
えみりたちは、暗い階段を進み、地下の『リネン室』に向かった。
建物の中は停電の際に作動する補助電力で赤い非常灯が点いていた。
『リネン室』の鉄の扉を開けると、中は、むっとするほど暑かった。
洗濯物が蒸されている匂いがした。
クリーニング屋のあの匂いだ。
ここにも非常灯が点いていたが、機械から洩れる水蒸気で辺りが見えにくい。
アン・ジヌが翳《かざ》す懐中電灯がもやの中を進む車のヘッドライトのように、白いビームを作っている。
「みのり!」
えみりが奥に向かって呼んだ。
普段は、駆動音がうるさいであろうこの部屋がし〜んと静まり返っていた。
「わっ!」
えみりの足が何かに躓《つまず》いて転びそうになった。
あわててアン・ジヌが懐中電灯を向けると、えみりの足元に誰かが蹲《うずくま》っていた。
体を丸め、膝《ひざ》を抱えている。
浩之だった。
「浩之!
何があったの?」
えみりが聞いても、浩之はガタガタ震えながら虚ろな目をしているだけだった。
「みのりは?」
浩之の眼球が、ゆっくり、業務用の乾燥機の方に動いた。
丸いガラスの窓からリネンとは思えない何かが見えていた。
「………」
何だろう?
近寄って見ようとした時、電力が復活するガタンという音が聞こえて、リネン室の蛍光灯が明滅しながら点いた。
コンクリの打ち放しの壁にえみりたちの影が浮かび上がった。
同時に、ゴーという機械音が聞こえ始めた。
乾燥機が動きだしたのだ。
停電が終わったのだろうか?
丸いガラス窓に逆立ちする誰かの足が見えた。
前に行ったえみりは、口を手で覆った。
「ひぃ〜」
くぐもった悲鳴が洩れた。
白目を剥いたみのりの顔が回っていた。
異変に気づいたアン・ジヌが乾燥機の電源を切った。
キューン、モーターの回転が落ちる音が聞こえた。
次第に減速する乾燥機の中で、みのりの顔が何枚かのタオルと一緒に丸いガラス窓に押し付けられていた。
「いやぁ〜」
いつのまにか、ドアの脇に立っていた真理が耳を劈《つんざ》くような悲鳴を上げた。
えみりとアン・ジヌの後を追いかけて来たのだろう。
浩之が血走った目で見上げた。
「……まさか、おまえが?」
真理は、その場に立っているのがやっとだった。
全身がわなわなと震えている。
「おまえが転送したのか、みのりに……?」
腹の底から絞り出すように、低い声で浩之が聞いた。
転送≠ニいう言葉にびくっと反応した真理が、泣きじゃくりながら言った。
「だって……だって……私に……」
浩之の目の中の怒りが蔑《さげす》みに変わった。
「最低だな、おまえ……」
吐き捨てるように、浩之が言った。
その時、携帯が鳴った。
そこにいる全員の動きが止まった。
えみりのだ。
耳を澄まして、普通の着信音だとわかった。
ほっとした安心感が、えみりの張り詰めた緊張の糸を切った。
「もう、嫌。
こんな携帯があるから……」
携帯を投げ捨てようとしたえみりの手をアン・ジヌがやさしく掴《つか》む。
「負けちゃいけない」
アン・ジヌは、強い意志を宿した目で言った。
時に、手話は言葉以上の力を持つ。
まるで、テレパシーのようだった。
正気に戻ったえみりが、一度、アン・ジヌの目を見てから電話に出た。
明日香だった。
「真理がみのりに転送するとはね」
えみりはどこかで明日香が見ているのではないかという気になって、辺りを見回した。
「どこにいるの、明日香?」
「もちろん、東京よ。
自分の部屋。
引きこもりだもん」
そう言って、明日香は笑った。
明日香は笑いが止まらなかった。
東京の自分の部屋で、向こうの様子が手に取るようにわかることに優越感を感じていた。
目の前のパソコンの画面に映し出されたリストから、矢澤みのり≠フ名前を削除しながら言った。
「ねえ、えみりだったら、誰に転送する?」
受話口のえみりは言葉に詰まった。
「転送なんかしないか……。
えみりは、友達想いだもんね」
明日香は意地悪な目で皮肉を言った。
「お願い、明日香、もうやめて……」
えみりが懇願する声が聞こえた。
「やめるって、何を?」
明日香は、ゲームを楽しむようにわざと聞いた。
「復讐《ふくしゆう》よ」
「復讐?
私は、東京にいるんだよ。
いつものように、自分の部屋に引きこもって、パソコンの前に座っているだけ……」
パソコンの液晶画面には、2年C組の集合写真があった。
その日、学校を欠席していた明日香は写っていない。
「じゃあ、誰が?
パム≠ネの?」
「えみり、頭がおかしくなっちゃったんじゃない?
パム≠ヘ死んだのよ。
一緒にお葬式に出たでしょ?」
「パムの呪い≠カゃないの?」
「そりゃあ、呪ってると思うよ。
あんな風に、死に追いやられたんだから。
いじめられて死んだパム≠ェ、あなたたちを許すわけがない」
明日香は次第に興奮して、そう言った後、二重人格者のように、急に、冷静になった。
「でもね、パム≠カゃないわ。
パム≠ヘ恨んでるだけ……」
「じゃあ、誰が?」
「誰だっていいじゃない?」
「美々子ね?」
問い詰めるように、えみりが聞いた。
「さあね。
誰かがパソコンで話しかけて来るのよ。
『次は誰にする?』って……。
美々子かもしれないし、美々子じゃないかもしれない。
恨みを持って死んだ人たちの怨念《おんねん》がそうしているのかも……。
どっちにしろ、私には関係のないことだわ。
いい、えみり?
死の予告メール≠ェ来たら、誰かに転送するのよ」
そう言って、明日香は携帯を切った。
体育教師の松本が『5班』の部屋で、パムの呪い≠フ噂を必死に打ち消していた。
楠木あずさ、三上輝也、川中瑞江、赤池徹、矢澤みのり、すでに、5名の生徒が死んだ。
状況は、どんどん悪化している。
偶然≠ナ済ますには、多すぎるかもしれない。
だからと言って、呪い≠ネんかのせいであるものか!
馬鹿馬鹿しい。
松本は竹刀を振り回しながら、力強い声を意識して言った。
「おまえら、おかしいぞ!
携帯に呪いの電話≠ェかかって来ると、本当に思ってるのか?
そんな非科学的なことを、本当に信用してるのか?
一部の先生からは、『生徒の携帯電話を回収した方がいい』という意見も出たが、俺は、そうは思わない。
今、おまえらが感じているのは、自分が作り出している恐怖だ。
それを乗り越えなければ、おまえたちは、窮地に陥った時、また、何とかの呪い≠ニ言って、都合のいい恐怖を作り出すだろう。
自分に勝て!」
『5班』の遠山めぐみが、不安そうに聞いた。
「じゃあ、誰が次々に生徒を?」
「専門的なことはわからんが、俺は、みんなが集団催眠のようなものにかかっているのではないか?
と思う。
パニックが連鎖してるんだろう。
いいか?
明日の午後には、日本に帰れるんだ。
それに、このホテルは、釜山の警察が総出で警備している。
安心しろ。
くだらん噂に惑わされるな!」
泣《な》き腫《は》らした顔の綿谷ユリが、おずおずと手を上げた。
「もし……もし……呪いの電話≠ェ来たら?」
松本は、この部屋のみんなを見回しながら言った。
「俺に転送しろ!」
生徒たちの部屋を回りながら、松本は、ずっと、そう言い続けている。
奥のドアに鍵を掛けた浴室の中で、立花|楓《かえで》は嗚咽《おえつ》を堪えながら松本の話を聞いていた。
震える手には、『転送すれば死なない』というメールが表示された携帯が握られている。
みんなには知られたくなかった。
転送の準備は出来た。
楓は、心の中でつぶやいた。
「いいんですか、本当に?」
鼻水をすすりながら、楓は松本≠ノ送信した。
建物の外にある非常階段で、えみりは風に当たっていた。
精神状態が少し落ち着いて来た。
「君は、もう、部屋で休んだ方がいい」
アン・ジヌが手話で言った。
「でも、この復讐≠何とか止めないと……」
自分が無力であることは、えみりにもわかっていた。
だからと言って、このままにしておくわけにはいかない。
これ以上、クラスメイトを失うわけには……。
明日香の話のニュアンスでは、まだまだ、被害者が出そうだ。
「彼女はそんなにいじめられていたの?」
「確かに、疎まれてはいたけど……」
『無視されてるくらいだった』と言いかけて、えみりは手話を止めた。
この世代にとって、無視されること≠ヘ、一番のいじめかもしれない。
かつて自分がそうされていた時のことを考えると、えみりは、そう思った。
「彼女とは仲がよかった?」
「昔は……」
「今は?」
「……普通」
いや、嘘だ。
みんなが明日香を毛嫌いするようになってから、敬遠していたはずだ。
みんながいる前では、距離を置いていたからこそ、一昨日、明日香の家まで訪ねたのだと思う。
「今、彼女と電話で話していて、何か変わったことはあった?」
「……傍観者みたいだった。
ここで起きていることを、他人事《ひとごと》みたいに楽しんでた」
「復讐《ふくしゆう》しているという感じではなかったんだね?」
「本人も言ってたわ。
『誰かがパソコンで話しかけて来る』って……」
アン・ジヌは腕組みをして、何かを考えている。
「彼女は、利用されているのかもしれない。
復讐するターゲットを選ばされているだけのような気がするんだ」
「でも、特定の誰かに恨みを抱いているから、復讐するんでしょう?」
「世の中すべてに恨みを持っている奴もいる」
「明日香は、なぜ、利用されることになったの?」
利用されただけであって欲しいという願いを込めて、えみりは聞いた。
アン・ジヌは、手すりに凭《もた》れ、空を見上げた。
必死に糸口を探しているようだった。
「引きこもりだったんだよね、彼女は?」
「ええ」
「じゃあ、彼女と接触できた人は?」
「お母さんとも、うまくいっていなかったみたいだし……。
母一人、子一人だったから……」
「携帯でよく話していた友達は?」
えみりは首を横に振りながら、胸が痛んだ。
「話し相手がいなかったんだと思う、パソコンしか……」
アン・ジヌが、何かを確信したように言った。
「やはり、彼女にとって、インターネットだけが世の中との接点だったんだろう。
パンドラの箱≠開けてしまったのかもしれない」
「じゃあ?」
「彼女は、仮想と現実の間を彷徨《さまよ》っているんだ」
「どうすればいいの?」
「わからない。
ただ、彼女がインターネットにアクセスするのを止めさせれば……」
アン・ジヌが、かすかな風音を聞いているかのように目を細めた。
「説得してみる」
今度は、えみりが先に立ち上がった。
松本がエレベーターに乗り込もうとした時、大澤《おおさわ》が走り込んで来た。
「今まで、また、警察にあれこれ聞かれたよ。
私には、何がなんだかわからない」
大澤は頭を抱えた。
「先生まで……、しっかりして下さいよ。
あんな荒唐無稽《こうとうむけい》な話に振り回されないでください。
俺たちには、生徒を守らなきゃいけない義務があるんですから」
「そうだ。
日本の保護者から、問い合わせが殺到しているそうだ。
今は、木部先生と園田先生が応対しているが、松本先生も……」
突然、不気味な着メロが鳴った。
松本が腰に付けていた携帯からだった。
同時にエレベーターががたんと揺れて停止した。
「松本先生!」
大澤が怯《おび》えた声で叫んだ。
「呪いの電話≠ナすか?」
松本が無理に笑い飛ばしながら言った。
携帯の画面には、自分の携帯番号が表示されていた。
「本当だ。
自分の携帯番号が通知されてる」
松本は、思わず、つぶやいた。
着信したメールの添付画像を開くと、このエレベーターの天井の隅からの映像が映っていた。
見上げてみたが、エレベーターの壁や天井には、防犯カメラが設置されていなかった。
「どういうことだ?」
松本は思わず、つぶやいた。
次の瞬間、全身に錐《きり》を刺されたような痛みを感じた。
と、同時に、松本の灰色のジャージのあちこちに小さな染みが広がった。
「くそっ!」
松本が見えない何かに向かって、竹刀を振り下ろす。
「幻覚だ!」
大声で叫びながら、気を確かに持とうとしていた。
「俺に近寄るな!」
何度も何度も、竹刀を振り下ろす。
まるで、何かが取り憑《つ》いたようだった。
大澤が震える声で呼んだ。
「松本先生!」
何も聞こえていないようだった。
「うっ!」
激痛に松本が膝《ひざ》を突いた。
ジャージの染みはどんどん広がり、エレベーターの床に落ちた時、それが血であることがわかった。
ぽたぽたと落ち始めた血は、松本の体を真っ赤に染めた。
松本より先に大澤が悲鳴を上げた。
「助けてくれぇ〜!」
大澤は腰が抜け、その場に座り込んだ。
失禁した液体が、床に広がって行く。
全身からスプリンクラーのように血を噴出させた松本の体が倒れた。
手にしていた松本の携帯が大澤の目の前に転がった。
件名には『FW』の表示、差出人には『立花楓』の名前があった。
4階でえみりとアン・ジヌはエレベーターを待っていた。
こういう風に急いでいる時に限って、エレベーターが来るのが遅い。
2人は、階数表示パネルを見ながら話していた。
「このことは、先生には報告しておいた方がいい」
「でも、信じて貰《もら》えないんじゃないかな?」
「少なくとも、生徒たちに配られた携帯は回収した方がいい」
チンという音がして、エレベーターの扉が開いた。
床は血の海だった。
その中に、血だらけの松本と生気を失った大澤が倒れていた。
「きゃ〜!」
えみりは、悲鳴を上げながら目を覆った。
アン・ジヌが抱き起こそうとしたが、松本は絶命していた。
大澤が放心状態で何かつぶやいている。
「呪いだ。呪いだ。呪いだ……」
松本の口の中に何かが詰まっているのを、アン・ジヌが見つけた。
飴玉《あめだま》だった。
血だらけでわからなかったが、エレベーターの天井の蛍光灯に翳《かざ》すと、
赤い飴玉だった。
「パム≠ヘ、飴が好きだった?」
エレベーターに背を向けているえみりにアン・ジヌが手話で聞いた。
えみりは、いやいやをするように「わからない」と首を振った。
廊下の先から、全力で走って来る一団がいた。
紙袋を持った信一を先頭に、十数人の生徒たちが追いかけて来る。
「信一!」
「待って!」
「逃がすな!」
「捕まえろ!」
「向こうに回れ!」
追いかける者たちは、口々に叫んでいる。
えみりとアン・ジヌの前を信一が通り過ぎる。
もはや、松本の死体など目に入らないようだった。
自分が生き残ることで精一杯なのだろう。
もはや、みんな、正常ではいられなかった。
狂っている。
修羅場だ。
信一は廊下の先が行き止まりと知って、近くの客室に逃げ込んだ。
鍵《かぎ》とドアチェーンを掛ける音が聞こえる。
殺気立った十数人の生徒たちがその部屋の前に集まる。
「ざけんなよ、信一!」
「そんなことしてて、ただで済むと思ってるのか?」
「どういうつもりだよ」
「自分だけ助かればいいと思ってるの?」
「私のだけ返して!
お願い!」
生徒たちは、中に向かってそう怒鳴りながら、ドアを叩《たた》いたり、蹴《け》ったりしていた。
人間の浅ましさを見ているようで、えみりは、思わず叫んだ。
「みんな、もう、やめて!」
その中の一人の丈弘が振り向いて言った。
「信一の奴、こっそり、俺たちの携帯を盗んだんだ」
「どういうこと?」
「呪いの電話≠ェ掛かって来ても、その携帯を持っていれば、自分に転送されずに済むだろう?」
耕平が答えた。
その時、部屋の中から、あの不気味な着メロが聞こえた。
生徒たちがざわめく。
誰もが恐怖に顔を引き攣《つ》らせていた。
「誰の携帯に来たの?」
不安に駆られためぐみが聞いた。
ドアの向こうからは返答がない。
着メロが鳴り止むと、信一はチェーンを掛けたまま、少しだけドアを開けた。
「さあね。
それより、さて、これを誰に転送しようかな?」
「てめえ、なめんなよ」
耕平がドアの隙間から信一の腕を掴《つか》んだ。
「そんなことしていいわけ?
転送しちゃうよ、耕平に……」
「えっ?」
信一の腕を掴んでいた耕平の手が緩んだ。
「冗談だろ?」
怯《おび》えたように、耕平が言った。
「この携帯から、耕平の番号に送るだけでいいんだからね。
簡単なものさ」
にやにやと信一は笑っている。
「許してくれ、信一……。
頼む。
俺に送らないでくれ!」
「土下座しろよ」
急に強気になった信一が言った。
耕平は、あわてて、土下座した。
それを見て、信一は手を叩いて喜んだ。
「情けないなあ。
そんなに、命が惜しいのかねえ。
こうしてみると、呪いの電話≠チてのも悪くないよ。
JOKERを手にしたように気持ちがいい。
ババ抜き≠カゃ、厄介ものだけど、七並べ≠ナは、切り札って、やつ?」
次の瞬間、陰から消火器を持った丈弘が、信一に向かって噴射した。
「うわあ〜」
信一が怯《ひる》んだ。
「今だ。
みんな、せぇ〜ので、ドアを引っ張って、チェーンを引きちぎるんだ」
丈弘が消火器を投げ、ドアの隙間に手を入れた。
が、他の生徒たちは動かなかった。
「何、やってんだよ。
みんな、早く、手を貸せよ!」
それでも、誰も動こうとはしなかった。
「耕平!」
苛立《いらだ》ったように、丈弘が叫ぶ。
耕平は土下座したまま言った。
「俺たちの命は、信一に握られているんだぜ」
「何言ってんだよ?
このチェーンさえ、みんなで引きちぎれば、あんな奴、一発で……」
その場にいる誰もがそんな丈弘を遠巻きに見ていた。
「おまえら、どういうことだよ?」
丈弘がまわりのみんなの考えに気づいた時、顔を消火剤で真っ白にした信一がドアの隙間から顔を出した。
「そういうことさ。
丈弘みたいな馬鹿にはついて行けないって……」
信一は、狡猾《こうかつ》な小動物のような目で丈弘を見た。
「土下座しろよ」
「この野郎!」
丈弘が、ドアを引っ張り、チェーンを引きちぎろうとしたが、びくともしなかった。
「くそっ!」
それでも、丈弘はあきらめない。
「丈弘はどうやって、死ぬんだろう?」
信一は、冷酷に言った。
丈弘の顔色が真っ青になった。
「ゆ、ゆ、許してくれ!
信一、そんなつもりじゃなかったんだよ」
いきなり、丈弘が床に土下座した。
「あらら…丈弘まで、命乞《いのちご》い?」
「頼む!
転送しないでくれ!
こうやって、土下座したんだから……」
2度目の着メロが鳴った。
「あれ……間に合わなかったみたい。
ごめんね、丈弘……」
信一は、そう言って大笑いした。
呪いのメール≠ヘ丈弘の携帯に転送されたのだろう。
その場にいる生徒たちが、丈弘のまわりから引いた。
「何だよ、みんな?
仲間だろ?
助けてくれよ」
「丈弘のそばにいない方がいいよ。
呪い≠ェうつるから」
「耕平!……健介!……浩之!……秀樹!……」
みんなの足に縋《すが》り付いて、助けを求めた。
誰も汚いものを見るように、目を逸《そ》らした。
みんなが丈弘から距離を置いた。
「死にたくないよ……」
丈弘の目から、ぽろぽろと涙が溢《あふ》れた。
えみりが「丈弘!」と叫びながら近づいた時、丈弘が大きく咳《せ》き込んだ。
その拍子に、口から何かを吐き出した。
羽根だ。
鶏の羽根。
丈弘は、激しく噎《む》せ返りながら、何枚もの鶏の羽根を吐き出した。
「ひえっ〜!」
「うわっ!」
「きゃ〜!」
阿鼻叫喚《あびきようかん》の巷《ちまた》と化した。
地獄絵だ。
丈弘は、目を白黒させながら、苦しそうに羽根を吐き出し続けた。
「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!
僕の代わりに死ねばいいんだ」
信一がチェーンの掛かったドアの隙間から顔を出し、興奮した声で叫んでいる。
丈弘の頬が膨れた。
なおも膨れて行く。
やがて、口の中がいっぱいになったのか、丈弘の頬がぴりぴりと痙攣《けいれん》し始めた。
細かな血管が浮き出す。
ぐしゃ。
丈弘の頬が破けて、大量の血と肉片と鶏の羽根が辺りに舞い散った。
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CHAPTERE 「愛の力」
ビジネスセンターの机の前で、えみりはぐったりとしていた。
他の生徒たちとの疑心暗鬼の中にいるのは、もう、耐えられなかった。
長い悪夢を見ていると思った。
「電話をするんだ」
アン・ジヌが手話で言った。
「もう……疲れた」
えみりは椅子の背に凭《もた》れながら手話で言った。
「彼女が、今、どういう状態なのかはわからない。
だけど、彼女から話を聞きだせるのは、君しかいないと思う。
もしかしたら、彼女は君に助けを求めているのかもしれない」
「違う。
そんなことは、絶対にない。
あるはずがないわ」
「どうして?」
「明日香は私に心を開いたりはしない。
助けを求めることもないわ。
だって、明日香は……」
えみりは、言いよどんだように、手話の動きをためらった。
アン・ジヌは、無理に聞こうとせずに、じっと待っている。
えみりは続けた。
「明日香は私を恨んでいるから……」
「なぜ?」
「中学の時に、私がいじめられてた話はしたよね?
高校に入ってからも、初めの頃は、同じようにいじめられてたの。
きっと、自分の中に、みんなを怖がってしまう習性みたいなものができてしまっていたのね。
いじめる人間は、そういう心の弱さを目ざとく見つけるの。
サメが流れた血を遠くから嗅ぎ付けるように……
せっかく、地獄のような日々から抜け出せると思っていたのに、また、いじめられるのかと思ったら、生きて行くのがつらくなった。
もう、死んじゃおうと決心した時、明日香が、声を掛けてくれたの。
『気にすることない』って……。
そして、私をいじめるみんなにも言ってくれた。
『クラスメイトでしょ?』って……」
その時のことを思い出して、えみりは鼻の奥がつ〜んとするのを感じた。
目がうるうるして来る。
「でも、今度は、私を庇《かば》ってくれた明日香を、みんなが無視するようになって……。
私の代わりにいじめられ始めたの……」
えみりの頬を熱い涙が零《こぼ》れ落ちた。
「私は……明日香を助けなかった。
助けられなかった。
また、いじめられるのが怖くて……どうしようもなく怖くて……
私のせいなのに……私は……私は……」
頭を抱え、えみりは泣き崩れた。
暫くの間、アン・ジヌは、えみりの背中をただ、さすっていた。
「……つらかったね」
アン・ジヌは手話で言った。
「つらかったのは、私じゃない、明日香……」
「君だって、苦しんだんだ。
自分だけを責めなくていいよ」
えみりの手をアン・ジヌの手がやさしく包んだ。
「えみり、彼女に君の気持ちをちゃんと伝えるんだ」
「そんなことをしても、明日香は許してくれない」
「そうかもしれない。
でも、伝えようとしなければ、君の思いは永遠に届かないよ」
えみりは、もう一度、声を上げて泣いた。
「手話交流会で会ったヴァイオリニスト、どうして、突然、聴力を失ってしまったんだと思う?」
「……恋人を奪ったあの着メロを聴くのが怖かったから?」
「違うんだ。
恋人が死ぬ瞬間、悲しい目で彼の名前を呼んだからだ」
「どうして?」
「彼女を見殺しにしたから……」
「見殺し?」
アン・ジヌは、頷《うなず》いた。
「恋人に掛かって来た死の予告電話≠ノ出れば、身代わりになれるという噂があったそうだ。
彼は、それを知っていた。
なのに、そうしなかった。
土壇場で怖くなったんだろう。
彼は、そのことを悔やみ、今でも、自分を責め続けているんだ。
罰しているんだ。
彼にとっては、命の次に大事な聴力を失うことで……」
「そんな……」
「人は、みんな、そういう過ちを十字架のように背負って生きているんだ。
えみり、君は彼女を助けなかったことを、ずっと、後悔して来た。
もう、逃げるのをやめよう」
アン・ジヌの言葉が今日までささくれ立っていた心に染みた。
今度こそ、明日香を助けようと、えみりは思った。
こんなに不幸がいっぱいあったのに、釜山の夜空には美しい星が輝いていた。
えみりは、ホテルの屋上で携帯を掛けた。
電話の向こうに明日香が出た。
「えみり、何の用?
『私に送らないで!』って、泣きの電話?」
挑発するように、明日香が言った。
風がさっきまでの涙を拭《ぬぐ》ってくれた。
えみりは、毅然《きぜん》と言った。
「明日香に代わって!」
意味がわからないというように明日香が言った。
「何、言ってるの?」
「明日香と話がしたいって言ってるのよ」
「恐怖心で、頭がどうにかなっちゃったんじゃない?」
私は、明日香よ」
「違うわ。
あなたは……美々子」
一瞬、強い電磁波を受けたように、携帯にノイズが走った。
「ううん、美々子だけじゃない。
パムも……これまで、いろいろな人たちに恨みを持って死んで行った怨念《おんねん》の集まり。
あなたたちは、明日香の肉体だけ借りているんでしょ?」
風が急に強くなった。
「明日香!
聴こえる?
私の声、届いている?」
電話の向こうからは、もう、何も言って来なかった。
構わない。
一方的に電話を切られても、明日香にはこの声が届くような気がした。
「明日香、ごめんね。
私、ずっと、明日香を助けられなかった。
本当なら、日本に残って、復讐《ふくしゆう》≠考えていたのは、私だったわ。
明日香、私が間違ってた。
友達を見捨てて……。
ごめん、ごめんね……。
全部、私のせいなの」
東京の明日香の部屋では、天井から吊《つ》るされた電球が明滅していた。
付けっ放しのパソコンも電圧が安定しないのか、チカチカしている。
明日香は、椅子に凭《もた》れたまま、携帯を聞いていた。
「私の知っている明日香は、こんなことができる子じゃない。
だから、今、すごく苦しいんじゃないかと思うの。
違う明日香?」
明滅する灯《あか》りで、一瞬、隣の椅子に座っている6、7歳の少女の影が、壁に映った。
明日香はそれに気づいていない。
「明日香、もう、終わりにしよう。
呪いの電話≠ヘ、私の携帯に掛けて!
私は、誰にも転送しないから。
今度は、逃げないから。
だから、それで、最後にして。
明日香、お願い!
明日香!」
電話の向こうで、えみりが懇願していた。
明日香は魂が抜けたように、パソコンの中の2年C組の集合写真を眺めていた。
自分の目から、大粒の涙が零《こぼ》れ落ちていることさえわからなかった。
いつのまにか、そばにアン・ジヌがいた。
「……よく頑張ったね」
えみりを抱きしめようとするアン・ジヌの腕から体をすり抜けた。
「今まで、ありがとう。
ジヌのおかげで、大切なことに気づいたわ。
でも、もう帰って」
「えみり……」
「ここにいると、あなたまで巻き込んでしまうかもしれない。
それに、私はあなたにやさしくして貰《もら》う資格なんかない」
じっと、アン・ジヌの目を見つめながら、えみりは手話で言った。
アン・ジヌも、えみりの目を、じっと、見つめながら言った。
「追い返されても、僕は、君のそばにいるよ。
この先も、ずっと……」
そして、アン・ジヌは、この世のどんなものより、やさしく、微笑んだ。
「ジヌ……」
今まで、えみりの心の中で堰《せ》きとめていた何かが決壊した。
目から涙が溢《あふ》れて止まらない。
アン・ジヌの手がえみりの顔に伸びた。
その指が頬の涙を拭った。
「泣かないで……。
僕たちには、まだ、やらなきゃいけないことがあるはずだ」
アン・ジヌの手話に、えみりは、ただ黙って頷《うなず》いた。
えみりとアン・ジヌは、すぐに、ビジネスセンターに戻った。
パソコンの前に座ったアン・ジヌが、手話で聞いた。
「明日香は、パム≠ェパソコンで、次の犠牲者を選んでるって言ったんだよね?」
「『次は誰にする?』って聞かれるって……」
えみりが手話で答えた。
「もし、美々子なり、恨みを持つものたちの怨念がインターネットを通じて、この世に送られて来ているとしたら?」
えみりは、少し考えてから、手話で言った。
「そのインターネットの回線を切ればいいのね?」
「そう、回線をパンクさせるんだ。
やってみる価値はあると思う」
アン・ジヌは、早速、パソコンを操作し始めた。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
『親愛なるみなさんへ協力のお願い
私たちは、今、危機に陥っています。
インターネットから発信されている呪い≠フ連鎖を止めるために、
怨念が集まるパソコンのサーバーをダウンさせたいのです。
午前2時に、下のアドレスにできるだけ多くのメールを送ってください。
asuka_matsuda@XXXne.jp』
[#ここで字下げ終わり]
このメッセージをアン・ジヌは韓国語で、えみりは日本語で書いた。
「決められた時刻に、一斉に大量のメール送れば……」
アン・ジヌは頷《うなず》いた。
「……スパム≠ェ、君たちを救ってくれる」
そう言ったアン・ジヌの手話は、力強かった。
それから、えみりは客室を回り、生徒たちに、スパムメール≠一斉に送って、
明日香のパソコンの回線をパンクさせる計画を話した。
初めは、ただ怯《おび》えているだけで、話を聞こうともしなかった生徒たちが、必死の説得に次第に、えみりの方を向き始めた。
「でも、そんなことをしても……」
懐疑的な生徒に、えみりは言った。
「今、私たちにできることは、あきらめないこと≠オかないのよ」
何人かが、日本語と韓国語で書かれたメッセージをえみりから受け取って、部屋を飛び出して行った。
こうして、スパムメール≠ナ明日香のパソコンの回線をパンクさせようという狙いは、安城高校の生徒たちに広がって行った。
幸い、日本と韓国に時差はない。
釜山の街に出た生徒たちは、ハングルで書かれたメッセージを見せながら、身振り手振りで「午前2時に、このアドレスにメールを送って欲しい」と頼んだ。
えみりは、左手で日本の携帯のアドレスをスクロールさせながら、右手は韓国の携帯で電話を掛けまくった。
「寝ているとこ、ごめん。
紙とペンを用意して。
パソコンのメールアドレスを書き取って欲しいの。
詳しく説明している時間がないのよ。
午前2時に、何でもいいから、みんなで一斉にメールを送りたいの。
いい?
メールアドレスは、asuka_matsuda@XXX……」
えみりのまわりでも、同じように、みんなが家族や友達や思いつく限りの知り合いに電話を掛けていた。
どこかのテレフォンセンターのような騒々しさだった。
こうして、今、みんなが掛けている家族や友達や知り合いが、また、他の誰かに電話を掛けたり、メールを送ってくれるだろう。
仲間がねずみ算式に増えて行っている。
ただ、インターネットのサーバーをダウンさせるためには、どれくらいの量のメールが届けばいいのか、えみりにも予想がつかなかった。
何本目かの電話を終え、えみりは腕時計を見た。
午前1時13分。
時間がなかった。
みんなのメールは、同時に送られなければ意味がない。
午前2時という時刻を逃してしまったら、この計画は無駄に終わる。
失敗したら……。
その先のことを考えないように、えみりは、また、日本の携帯のアドレスをスクロールし始めた。
釜山の街に出た秀樹や楓たちは、灯《あか》りが点《つ》いている店やパソコンを置いてありそうな場所を片っ端からドアを叩《たた》き、ハングルで書かれたメッセージを見せた。
その多くは、突然、日本人が何を言い出すんだという戸惑いの表情を見せた。
「お願いします」
秀樹や楓たちは、ただ、そう日本語で繰り返した。
中には、早口の韓国語で怒鳴られもしたが、秀樹や楓たちは、その場に土下座して頭を下げた。
必死だった。
どこまで意図が伝わっているかはわからない。
それでも、また、次の灯りに向かって走るしかなかった。
釜山のホテルの旧式のパソコンからアン・ジヌが発信したメッセージは、次第に、世界に広がって行った。
えみりたちの親や友達や知り合いも参加してくれたのだろう。
秀樹や楓たちが訪ねた店の誰かが戸惑いながら、パソコンの前に座ってくれたのかもしれない。
「午前2時に送って欲しいんだって。
ネットの回線をパンクさせたいらしいよ」
「聞いた、スパム攻撃?
やるらしいよ、午前2時に……」
「いいから、午前2時に、このアドレスにメール送って……」
「日本の高校生がピンチなんだって……。
インターネットの呪いを止めたいらしいよ。
面白そうじゃん?」
「AM2:00
『asuka_matsuda@XXXne.jp』にメール送信せよ」
「お休みのところ、恐縮です。
お手数ですが、午前2時に、これから申し上げるアドレスに、
メールを送っていただきたいのですが……」
「死んじゃうんだって、ここにメールを送らないと……。
私も、詳しいことはわからないんだけどさ」
「すごいことになってますね?
何なんですか、このスパム……」
「さっき、ニュースでやってたけど、韓国に修学旅行中の日本の高校生が何人か事故で死んだっていうのと、このメール、何か、関係があるのかな?」
「同じメールが来た」
「スパムメールって、犯罪じゃないの?
みんな、加担するわけ?」
「アジアで何が起きているんですか?」
「パンクさせてやろうじゃん、そのアドレス……」
「要するに、人助けでしょ?」
膨大な量の電話やメールが、いくつもの言語で世界を飛び回っていた。
興味本位の人間も含めて、この件は、加速度を増して、広がって行く。
情報化社会の今だからこそ、これだけの短時間で伝わったのだろう。
釜山は午前1時47分になっていた。
東京の明日香の部屋には、灯りが点いていなかった。
パソコンの液晶画面の光で、かろうじて、部屋の隅で膝《ひざ》を抱えている明日香の輪郭が見える。
明日香は、さっきのえみりの言葉を思い出していた。
『明日香、ごめんね。
私、明日香を助けられなかった』
今さら、そんなことを言われたって……。
そう、心の中で思った後、「遅いわよ」とつぶやいた。
それに、あなたたちは、パム≠フ時だって反省しなかったじゃない?
どうせ、このことだって……。
許せない。
明日香は、改めて、そう思おうとした。
しかし、以前ほど、怒りが込み上げて来ないのは、なぜだろう?
えみりの泣き落としくらいで、復讐《ふくしゆう》≠ヘ終わってしまうのか?
人の怨念《おんねん》は、そんなに簡単に消えてしまうものなのか?
上唇に水滴が落ちて、はっとした。
自分でも気づかないうちに、明日香は泣いていた。
感情のサーモスタットが切れたように、涙が溢《あふ》れて止まらない。
私がして欲しかったことは、復讐≠ネんかじゃなくて、誰かと話すこと≠セったのだと明日香は知った。
午前2時まで、あと1分。
ホテルの4階にあるビジネスセンターには、生徒たちが溢れかえっていた。
その中心には、旧式のパソコンの前に座ったアン・ジヌとえみりがいる。
自分たちが世界に向けて発信したメッセージは、どの程度、届いたのだろうか?
どれくらいの人たちが、実際に行動を起こしてくれるのだろうか?
スパムメールで、明日香のパソコンのネット回線をパンクさせることができるのだろうか?
人いきれで狭い部屋の温度が上昇している。
誰もが、アン・ジヌが操作するパソコンの画面と自分の携帯と壁の時計を交互に見ていた。
「あと30秒……」
誰かが言った。
アン・ジヌもこのパソコンからメールを送信するために、明日香のアドレスを打ち込み始めた。
「大丈夫だよね?」
小声で聞く女生徒の声がした。
「大丈夫さ」
小声で答える男子生徒の声がした。
みんな、不安なのだ。
その分だけ、連帯感が生まれている。
あんなにいがみあっていた彼らが、今は、いつものクラスメイトに戻っていた。
「10秒……9秒……8秒……7秒……6秒……」
誰かがカウントダウンし、アン・ジヌに見えるように、みんなが指を折った。
えみりは、携帯の送信ボタンに手を掛けたまま、そっと、目を閉じて、心の中で祈った。
(お願い……明日香を止めて……)
全員が、固唾《かたず》を呑《の》んで見守る。
「3秒……2秒……1秒……時間だ!」
その瞬間、アン・ジヌの掛け声と同時に、その場にいる生徒全員がそれぞれの携帯の送信ボタンをクリックした。
午前2時少し前。
部屋の隅で明日香が泣いていると、パソコンにメールが届いた音がした。
知らない人からだった。
明日香がパソコンから離れている間に、何通ものメールが届いていた。
どれも、名前やアドレスに心当たりがないものばかりだった。
「どういうこと?」
そのうちのひとつを開こうとすると、また、メールが届いた。
すぐに、また、ひとつ。
また、ひとつ。
「スパムメール?」
明日香は、つぶやいた。
今まで、明日香のパソコンにこんなにメールが届いたことはなかった。
メールの受信ボックスに、雪崩のようにメールが届く。
「美々子なの?」
その時、机のデジタル時計が午前2時を表示した。
同時に、パソコンの電源が落ちた。
液晶画面が消え、光源のなくなった部屋は真っ暗になった。
午前2時を過ぎても、誰も声を上げなかった。
明日香のパソコン回線をパンクさせることができたのだろうか?
えみりたちには、それを知る術《すべ》がなかった。
この部屋にいる誰もが、じっと、耳をすまし、気配を窺《うかが》っていた。
「電話をしてみる」
えみりが、明日香に電話をした。
「えみり……」
その電話を待っていたように、明日香が出た。
「明日香、あなたのパソコンは?」
「知らない人から、沢山、メールが届いて……、
電源が落ちたわ」
「電源が落ちた?」
えみりの声に、歓声が上がった。
みんなの顔に安堵《あんど》の笑みが広がる。
「そばに誰かいるの?」
「みんなよ。
2年C組のみんな……」
「じゃあ、みんなが私のパソコンにメールを?」
「ううん、みんなだけじゃないわ。
世界中から、明日香のパソコンにメールが届いたはずよ。
美々子を止めるために、パソコン回線をパンクさせようと思ったの」
「私……みんなに……」
「明日香……
あなたは、美々子に利用されていたの」
「ごめんなさい……私……」
明日香の嗚咽《おえつ》が受話口から聞こえて来た。
真っ暗な部屋で、明日香は嗚咽を洩《も》らしていた。
何てことをしてしまったのだろう?
あの復讐サイト≠ゥら、美々子を呼び出してしまったのは私だと、明日香は、自分を責めた。
バーチャルと現実を混同させていた。
プン。
目の前のパソコンが再起動する音が聞こえた。
「パソコンが再起動した」
明日香は信じられないといった表情で、つぶやいた。
「再起動?」
携帯の受話口のえみりも声を上げた。
「明日香、すぐに、パソコンの電源を切って……」
えみりが悲痛な声で叫ぶ。
明日香は、パソコンの電源を切ろうと何度も試みるが、うまく行かない。
「だめよ。
コントロールできない」
クラスのみんなの集合写真が立ち上がった。
その上を浮遊していたポインターが、えみりの顔の上で止まる。
「だめ……だめ……
やめて……」
マウスを掴《つか》んでポインターを動かそうとするが、動かない。
マウスを持つ明日香の手に、少女の手が重なった。
えみりの顔をクリックさせようとする。
「うらみ晴らしましょう。
次は、彼女でしょ?」
後ろを振り返ると、美々子が立っていた。
少女とは思えない強い力で、明日香の手はマウスをクリックさせられた。
その瞬間、パソコンから火花が飛び散り、何か見えないものが炸裂《さくれつ》したような衝撃で、明日香は天井に吹き飛ばされ、気を失った。
ビジネスセンターのえみりの携帯に、あの不気味なメロディーが流れた。
次の瞬間、えみりの体は見えない力で持ち上げられ、壁に吹き飛ばされた。
「えみり!」
声にならない声を上げ、アン・ジヌがえみりを抱きかかえる。
えみりは意識を失っていた。
2人は、体育館にいた。
目の前に、首を吊《つ》ったパムが揺れている。
えみりと明日香でパムをロープから降ろそうとしていると、背後からあの不気味な着メロが鳴り響いた。
振り返ると、美々子が両手に2つの携帯を持って立っていた。
えみりと明日香の携帯だった。
「転送すれば死なない」
美々子は、いたずらを企《たくら》んだ子供のように言った。
両方の親指が送信ボタンに掛かっている。
2人のどちらかに転送させようとしているのだ。
「美々子、私に転送して……」
明日香がおだやかに言った。
えみりは、首を大きく振りながら、
「嫌。
もう、JOKERは、誰にも押し付けたくないの」と言った。
「私が、やってしまったことなのよ。
お願いだから、私に……」
明日香の言葉をえみりが遮った。
「明日香を助けなかった私のせいでもあるわ。
今度は、絶対に、明日香を助けたいの……。
美々子、私に転送して……」
2人は、見つめ合ったまま微笑んだ。
どんな恐怖も、今は、感じなかった。
不気味な着メロの音量が上がった。
この体育館に反響している。
「転送すれば死なない。
転送すれば死なない。
転送すれば死なない。
………」
それでも、その場を動こうとしない2人に怒ったように、美々子は次第に語気を強めて言った。
「えみり、ありがとう」
「明日香、ありがとう」
2人は、今度こそ、本当の友達になれたような気がした。
突然、不気味な着メロが鳴り止んだ。
美々子のポケットから、何かが落ちて転がった。
1個の赤い飴玉《あめだま》だった。
赤い飴玉は、体育館の床を転がり、2人に近づいて来る。
ころころころころ……。
えみりと明日香は手を繋《つな》いだ。
ころころころころ……。
2人の近くまで転がって来た赤い飴玉は、どちらに転がろうか、一瞬、止まったが、
また、すぐに転がり始めた。
ころころころころ……。
赤い飴玉は、二人の足の間を通り抜けて行った。
いつのまにか、美々子も消えていた。
「えみり! えみり! えみり!」
みんなの声で目が覚めた。
アン・ジヌの腕に抱かれていた。
「明日香は?」
えみりの言っている言葉の意味が、みんなには理解できなかったようだ。
「終わったんだよ」
アン・ジヌが手話で言った。
「でも……」
「君は、もう、心配しなくていいんだ」
えみりが意識を失っている間に、何があったのだろう?
アン・ジヌが、その説明の代わりにえみりを強く抱きしめた。
明日香も、部屋で目を覚ました。
配線がショートしたのか、パソコンが煙を上げていた。
「えみり!」
はっとして、明日香は、えみりに電話をした。
[#改ページ]
CHAPTERF 「永遠の声」
すべてが終わった朝。
生徒たちは、チェックアウトするために、ロビーに集合していた。
誰も、携帯で話している者はいなかった。
ホテルの玄関で、えみりがアン・ジヌを見送っていた。
「いろいろ、ありがとう」
「もう、大丈夫だね?
自分を責めちゃいけないよ」
えみりは、黙って頷《うなず》いてから、アン・ジヌにしがみついた。
アン・ジヌもえみりを抱きしめた。
「君に会えてよかった」
「私もよ、ジヌ。
あなたに会えてよかった」
言葉はなかったが、手話がそれ以上のものを伝えていた。
「また、会いたい」
えみりが手話でそう言うと、
アン・ジヌは、「言ったよね? 僕は、ずっと、君のそばにいるって……」と、手話で答えた。
「さよなら」
「さよなら」
二人は、そっと、体を離した。
アン・ジヌが背を向け歩き出す。
えみりは、その場に立ち尽くしたまま、アン・ジヌの後姿を見送っていた。
明日香から電話が掛かって来た。
「よかった、無事だったのね?」
「明日香も……」
「じゃあ、あれは誰に転送されたんだろう?」
明日香も同じ夢を見ていたのか?
はっとした。
震える手で自分の携帯の送信履歴を見ると、数分前に転送していた。
転送先は……。
「アン・ジヌ!」
えみりは、必死にアン・ジヌを追いかけた。
「あなたには、関係がない。
どうして、自分の携帯に転送したりしたの?
アン・ジヌ!」
えみりは、泣き喚きながら走った。
ようやく、追いついた所で、えみりの声が聴こえないはずのアン・ジヌが振り返った。
「今、君の声が聴こえた」
「いやっ、ジヌ!」
「君を死なせたくなかったんだ」
「だめ!
そんなことしちゃ……」
「愛してるよ」
アン・ジヌが、唇をそう動かした時、
えみりにも、初めて、アン・ジヌの声が聴こえたような気がした。
アン・ジヌの首に抱きついて、キスをすると、甘い味がした。
まるで、アン・ジヌが何か甘いものを舐《な》めていたかのように……。
アン・ジヌの胃の中には、吐き出さずに、自分の意思で飲み込んだ赤い飴玉があった。
[#地付き]了
この小説はすべてフィクションであり、登場する人物、団体名などはすべて、架空のものです。
角川ホラー文庫『着信アリ Final』平成18年5月25日初版発行
平成18年6月20日再版発行