〜ラベンダー書院物語〜
【その男、熱愛中につき】 樹生かなめ
「エロは男のファンタジー」
英国紳士のような上司が深夜番組の中でぶちかました。
更《さら》に重ねてもう一発。
「男のファンタジーはエロ」
上品な顔立ち、若者にはない落ち着いたムード、若いナルシストに歳をとるのも悪くないなと思わせる四十八歳の紳士は他の出演者を圧倒《あっとう》していた。
いや、圧倒されているのはクセのある出演者だけではない。
広々としたリビングルームでテレビを見ていた八木沢英典《やぎさわひでのり》も、英国紳士をかなぐり捨てている上司に度肝《どぎも》を抜かれていた。かけていた銀縁《ぎんぶち》のメガネがずり落ちそうだ。
名刺を出してもなかなか信じてもらえない……と、苦笑を漏《も》らしていた英国紳士ぶりはどこにいったのだろう。
今の彼は名刺に記されている肩書きに相応《ふさわ》しい男だった。
彼はただの男ではない。彼には男なら誰でも知っているラベンダー書院の編集長という肩書きがついている。
ラベンダー書院、名前はとても綺麗だが内容はエロ。
貞淑《ていしゅく》な人妻が何人もの男に犯《おか》されて牝奴隷《めすどれい》に堕《お》ちる。真面目な美人教師が素っ裸で教壇に立ち、生徒たちに犯されまくる。辣腕《らつわん》を振るっている美貌の女社長は部下の性奴と化し、勤労意欲に燃えている白衣の天使も淫《みだ》らな天使に堕ち、傲慢《ごうまん》な女医も患者に犯されて激しく悶《もだ》えまくる。母親ですら息子に犯されて歓喜《かんき》の声をあげる。どのような女性でもラベンダー書院の中ではただの牝《めす》となり、いやらしく喘《あえ》いでいる。
ラベンダー書院の出版物はえっちな小説なんていう言葉ではおさまらない。官能小説と呼ばれているけれども、それだけでは済ませられないものもある。
ラベンダー書院はエロだ。
というより、エロ本しか出していない。
立ち上げ以来、エロ一本でやってきた官能小説の最大手だ。
ラベンダー色の本で占《し》められた一角がある書店も多い。もちろん、そこで出版物を物色しているのは男しかいない。
普段の貴志《きし》はそこに近寄ることも想像できないような紳士である。誰も、貴志があの淫猥《いんわい》な本を精力的に出版しているラベンダー書院の編集長だとは思わないだろう。
それなのに、貴志は全国ネットの深夜番組の中で官能小説について熱弁を振るっている。
エロといえばラベンダー書院。
ラベンダー書院といえばエロ。
男なら誰でも知っているラベンダー。
ラベンダーを知らずして男を名乗るな。
貴志は凄《すご》かった。
熱かった。
エロかった。
貴志が心臓を患《わずら》っているなど誰にもわからないだろう。
まさしく、今の彼は官能小説最大手であるラベンダー書院の編集長だった。いや、エロ編集以外の何者でもない。
仕事とはいえ、ここまでする貴志を密《ひそ》かに尊敬してしまった。
英典は仕事だと割りきっても、ここまではできないだろう。
「編集長、凄い……」
英典は独り言のようにポツリと呟《つぶや》いた。
「英典さん…この…この……この……このエロオヤジが上司?」
英典の隣で番組を見ていた遠藤一誠《えんどういっせい》は、貴志のラベンダーぶりに固まっていた。今、やっと我に返ったのか、その甘い顔立ちが悪鬼と化している。
ヤバイ……英典は一誠のそばから離れようとした。
だが、固い筋肉に覆《おお》われている一誠の腕のほうが素早い。
「英典さん、こんなエロオヤジのところで働くのはヤバイです。強姦《ごうかん》されますっ」
年下の幼馴染《おさななじ》みにずっと前から恋情を抱かれていたなんて、夢にも思わなかった。
ラベンダー書院で輪姦《りんかん》されている……と、思い込んだ一誠にバイブレーター持参で乗り込まれてからどれくらいたっただろう。
まだ、そんなに月日はたっていない。
だが、もう長い年月を過ごしているような錯覚がある。何せ、一誠に襲いかかられた日から、非常に濃い日々を送っているから。
「いつもはあんな人じゃない、仕事なんだ」
「あんなエロオヤジ、見たことない」
エロオヤジよりエロオヤジらしいことをした男が何を言っているんだ……と、怒鳴りたくなったがぐっと堪《こら》える。
貴志は仕事に関してはやり手との名前をほしいままにしているし、若い時は締め切りがとっくに過ぎても上がらない原稿でも発売日にはちゃんと書店に並んでいるということで『瀬戸際《せとぎわ》の魔術師』という異名《いみょう》もとっていた。
だが、決してエロオヤジではない。
もちろん、セクハラオヤジでもない。
正真正銘《しょうしんしょうめい》の紳士だ。
英典は辣腕を振るう貴志を尊敬している。
「エロオヤジじゃない、心臓病の英国紳士だ」
「英国紳士ってなんですか?」
隣同士に住んでいた二人は、同じ公立の中学校に通った。
出身中学で『開校以来最高の秀才』と名高かったのが英典で、『開校以来最高の馬鹿』と名高かったのが一誠だ。
一誠の運動神経は信じられないほどよかったが、頭は信じられないほど悪かった。今も頭の中身はさっぱりだ。
おまけに、常識も綺麗に抜け落ちている。本能の赴《おもむ》くままに生きているとしか思えない男だ。成人しているというのに。
つけくわえると、己《おのれ》の立場も把握していない。
私生活を暴《あば》かれて当然のスター選手、男と同棲《どうせい》しているなどと発覚したら、選手生命は絶《た》たれるかもしれない。それなのに、一誠は英典と一緒に暮らすために青山のペントハウスを購入した。
拉致《らち》・監禁《かんきん》とまではいかなくても、拉致・軟禁《なんきん》の日々を英典は過ごし、今に至っている。
「英国といえば紳士で有名だ」
「紳士ってなんですか?」
今更、一誠の頭の悪さに驚いたりはしない。でも、この言葉は知っていると思っていたので驚く。
「東京シャークのモットーは『球界の紳士たれ』だろう。それもわからないのか? 球団の人に教えられているんじゃないのか?」
「あ? もういいです。とりあえず、あれのそばにいると危ないです」
九九もなかなか覚えられなかった一誠は野球だけで生きてきた。野球だけで高校に進学し、卒業し、人気球団である東京シャークにドラフト一位で入団している。
今では年俸一億、東京シャークのスター選手というだけでなく、球界の寵児《ちょうじ》として有名だ。ルックスも某アイドルに似ているということなのだが、場外での収入も多い。コマーシャルにもよく出ている。
その反面、神童《しんどう》と名高かった英典の今の勤め先はエロ出版社であるラベンダー書院で、年収は一誠の十分の一もない。
おまけに、勤務先を告げると必ずといっていいほど引かれてしまう。エロ出版社の編集者ということで。
非の打ち所のなかった優等生と特別教室に放り込まれる寸前だった大馬鹿、社会に出てから立場は変わっていた。
『勉強ができるだけでは世間は渡っていけない』
『社会に出たら成績がよいだけの男は負ける』
『優等生が人生の最後まで優等生を貫《つらぬ》くことは稀《まれ》だ』
……など、いろいろな説が囁《ささや》かれているけれども、英典と一誠にも当てはまるのかもしれない。
「『あれ』って、僕の上司になんてことを」
「エロオヤジに襲われるっ。英典さんは俺の尻奴隷《しりどれい》ですっ」
『尻奴隷』という自社出版物の中でしょっちゅう出てくる言葉が一誠の口から出たので、英典は目を吊り上げた。
「一誠、二度と言うんじゃない」
「英典さんは俺の肉奴隷なのに、あんなオヤジのところにいたら犯される」
「その心配はない」
「俺の英典さんがーっ」
一誠のボルテージが上がったので、英典は真っ青になった。
「一誠、落ち着け」
「俺の英典さん、美人だもんっ、犯されるーっ」
英典は一言で表現すれば文系の優男《やさおとこ》だが、単なる文系の優男ではない。文豪《ぶんごう》が魂を吹き込んだような容姿をしている。身長は一七五センチ、身体つきは華奢《きゃしゃ》だが弱々しい感じはない。
憂《うれ》いを含んだ端整《たんせい》な顔立ちとどこか近寄りがたいムードに、目を見開いた作家やライターも多かった。
「美人は女性に対する言葉だ。使い方を間違えるんじゃない」
「英典さん、綺麗だもんっ」
「一誠、僕は男なんだよ」
英典は今更ながらに一誠とともにテレビを見たことを後悔する。
いや、英典にしても、貴志があそこまでやるとは思わなかったのだが。
「エロ書院、やめてくださいっ」
「何度言わせるつもりだ。僕はこの仕事をやめるつもりはない」
「どうしてT大を卒業した英典さんがエロ書院なんかにっ」
「それも何度言わせるんだ。出版不況に負けたんだ。しょうがないだろう」
不況といえども、T大で優秀な成績を収めていた英典ならばいろいろな道が開けていただろう。最難関の国家試験T種を受けていても合格したはずだ。
でも、英典は迷うことなく、文芸誌を精力的に出版していた文芸平安社に就職した。
文学青年であった英典にとって、夢でもあった勤め先だ。
両親も渋々《しぶしぶ》ながら承知してくれた。
情熱のすべてを文芸平安社に捧げたといっても過言ではないほど働いた。だが、文芸平安社は倒産してしまった。
ここから、文句のつけようがなかった英典の人生は狂ってしまったようだ。
今では男としての道まで踏み外している。
何せ、ラベンダー書院の出版物に登場する女主人公のように日夜喘いでいるのだから。
「よりによってラベンダーなんてっ」
一誠が体重を乗せてきたので英典は焦った。だが、その重くて固い身体を引かせることはできない。
メガネが取られ、フローリングの床に積《つ》んでいた雑誌の上に置かれた。
「編集長も言っていただろう。エロは男のファンタジー、ラベンダー書院は男に夢を提供しているんだ。そう悪い職場じゃない」
出版物の内容がどうであれ、それらを楽しみに待っている多くの読者がいる。
英典たちは読者を楽しませているのだ。
一冊の本でストレスが発散できたら、一冊の本で一時でも楽しむことができたら、安いものだろう。
決して、人にあれこれ言われる職業ではない。
「提供って?」
一誠との会話には忍耐と包容力が必要だ。何せ、一誠は知らない言葉が多すぎる。英典は一誠の頭に合わせて言い直した。
「ラベンダー書院は男に夢をあげているんだ」
「英典さんは俺に夢をくれればいいんです」
身に着けていたパジャマ代わりのジャージが剥《は》ぎ取られる。英典は身体を捻《ねじ》りながら、一誠を諭《さと》そうとした。
「一誠、明日は集合だろう。もうお休み」
「キャンプについてきてくれないんですか」
一誠は明日からいない。
英典にすれば、首を長くして待っていたキャンプだ。
「当たり前だ」
「ボブの奥さんはキャンプについてくるって」
東京シャークの四番打者の名前をあげる一誠は、完璧に拗《す》ねていた。露《あら》わにした英典の白い胸に顔を摩《す》りつけている。
「一誠、僕には仕事がある」
「エロ書院は危ない。やめて」
「危なくない」
「危ないです」
胸の突起を口に含まれて、英典は身体を震わせた。
「あっ……」
「エロ書院をやめてキャンプについてきてください」
「無理だ」
「ついてきて」
左の乳首を下で弾《はじ》かれ、股間《こかん》の一物を手で握られ……敏感な英典の身体は段々おかしくなっていく。
もう、何も知らなかった身体ではない。
英典の身体は一誠によって変えられていた。
「あっ…もっ……」
「離れていると心配です。エロオヤジに襲われる」
「その心配はない。編集長は心臓病だ。そういうのは無理だ」
「エロオヤジはあのエロオヤジだけじゃないんでしょう。危ないですっ」
「危ない編集部だったらすぐに辞めている。そういう危険性はない」
左右の足を掴まれて、これ以上ないというくらい大きく開かされる。
波打つ叢《くさむら》から男性器、果ては奥の窄《すぼ》まりまで、頭に血が上っている若い男の目に貫かれた。
閉じたくても閉じることができない。
飛距離のあるホームランを大量生産するプロの腕力は、半端ではなかった。
「俺が働くのに」
「痛……」
足を胸につくほど折り曲げられて、英典は低い悲鳴をあげた。
「俺の金は全部英典さんにあげるって言っているのにっ」
「痛い」
英典は取らされた体勢に呻《うめ》いたが、一誠の耳には届いていないようだ。いや、興奮しきっているので聞こえていないのかもしれない。
「エロ書院なんて辞めてください」
「この世界が好きなんだ。どんな形でもいい。この世界に関わっていきたいんだ」
何度もしたやりとりを繰り返す。
ちなみに、この会話を交《か》わした相手は一誠だけではない。両親からも退職を勧められている。司法試験を受けろと言われたのは正月のこと。
どんなに嘆かれても編集者という職業から離れるつもりは毛頭ない。何があっても本の世界で生きていきたかった。
英典には確固たる信念がある。
「寂しいじゃん」
一誠は本心を吐露《とろ》した。
「子供じゃあるまいし」
言った後で思い直す。
一誠は大きな子供だ。
または大きな動物。
そうとでも思い込まなければ、今まで一誠と過ごしてこられなかった。
「英典さんは俺と離れて寂しくないの?」
「永遠の別れじゃないだろう」
あまりにも寂しそうな顔をするので英典は戸惑う。だが、一誠の願いを聞いてやるわけにはいかない。
「少しでも離れていたら寂しい」
「今からそんなことを言ってどうするんだ」
「英典さんっ」
秘孔にねっとりとしたものが触れた。
「あっ……」
「俺のお×んこ」
爽《さわ》やかさがウリの東京シャークのスター選手は、卑猥《ひわい》な言葉をあっさりと口にした。そして、男の身体の最奥を嬉々として舐《な》める。
「言うなっ」
「俺だけのお×んこ」
そのような四文字熟語はラベンダー・エロスの中だけで充分だ。いや、仕事でもその言葉を見るとたまに頭が痛くなってしまう。何せ、英典は純粋に文学というものを愛していた文学青年だったので。
「二度と言うな」
「俺のお×んこでしょう?」
「僕にお×んこはないっ」
頭に血が上っていなければ決して口にしなかった言葉を、英典は言った。
「ここは俺のためのお×んこですよね」
一誠が言いたいことはわかる。
だが、認めてやることはできない。
「一誠、僕は男なんだよ」
「知ってる」
双丘の割れ目を下から上へと舌で何度も舐められる。女性器として表現された秘孔も、こじ開けるように舌で突かれた。
「あっ…そんなに……」
「俺のなのに」
「もっ……だから……一誠、君以外にそんなことはさせない」
男は一誠だけで充分だ。
英典は、この気が遠くなるほど馬鹿で猪《いのしし》のように猛突進《もうとっしん》しかできない一誠が可愛い。
恋愛音痴と密かに自覚している英典にしてみれば、手を繋《つな》いで歩いてやりたいほど可愛いなんて者は今までに一人もいなかった。
一誠の思いを拒《こば》むつもりはない。
だが、暴れ馬より尚《なお》ひどい一誠に対しては思うところがたくさんある。
「当たり前、英典さんは俺のだ」
「そうだ…だから……無用な心配はしなくてもいい」
わざと音を立てて舐めているのか、ペチャペチャペチャペチャ……という湿《しめ》った音が局部から響いてくる。
不自然な体勢を強いられている英典は身体も辛《つら》いが、聞こえてくる卑猥な音も非常に辛い。一誠の荒い吐息はこれからのことが想像できるので恐ろしかった。
やはり、紙面で目にする性行為はフィクションに過ぎない。
「英典さん、綺麗だから」
「もう……舐めるな」
「やだ」
「汚いんだ、舐めるな」
他人の目に晒《さら》したくない場所を舐められる。英典は羞恥心と屈辱感に苛《さいな》まれていた。何度も行われた行為だが、慣れるものではない。
「汚くない」
「身体が資本のプロがそういうことをしてはいけない」
「さっき、一人で風呂に入ってたじゃん。一緒に入ろうって言ったのに」
「とりあえず、もう舐めるな」
「だって、気持ちよさそう」
一誠の言葉通り、身体は意思を裏切って舌の愛撫《あいぶ》に悦《よろこ》んでいる。快感が肌を走り、秘孔はズキズキと疼《うず》いていた。
「一誠、離れろ」
「いやです」
「も……舐めるな……」
昨夜も一昨日も精力絶倫の一誠に身体を開いた。
それでなくても仕事で体力と神経を消耗《しょうもう》しているというのに、帰宅してもハードな肉体労働がある。どんなに拒んでも無駄なこと。
英典は過労死寸前といったところだ。
いや、日々、一誠によって染め変えられていく自分の身体に参っているのかもしれない。
「気持ちいいでしょう。英典さんの身体はえっちだし」
「一誠っ」
無理な体勢で下半身は痺《しび》れているが、秘孔はピクピクと開閉を繰り返している。優しくて淫らな愛撫に焦《じ》れてもいた。
「入れてって言ってるみたいです」
「……入れて…いいから……」
「入れてって言って」
「……入れて」
英典の口から出たセリフに一誠の溜飲《りゅういん》が下がったのか、秘孔から唇が離れる。だが、すぐに潤滑剤とともに指が入ってきた。
「気持ちいい?」
「んっ……」
グチュグチュグチュ……という音が局部から響いてきた。身体の中を掻き回される感触に、英典は下半身を痙攣《けいれん》させた。
「綺麗」
「あっ…もっ……」
身悶えている英典をうっとりとした目つきで見つめている。
「誰より綺麗」
「あっ…そこはっ……」
ポイントを指で擦り上げられて、英典は嬌声《きょうせい》をあげてしまった。
今の英典には、自分の口から出た声に恥じる余裕がない。すでに股間の一物は熱を持ち、先走りの滴《しずく》を垂らしていた。
「ここ、英典さんのイイところ」
「あっ…駄目だ……んっ……」
「俺、ちゃんと覚えた」
九九もなかなか覚えられなかった頭なのに、そういうことはすぐに覚える。何か、無性に憎たらしい。
「あっ…ああっ……一誠……」
「俺の入れてって言って」
「一誠の入れて」
英典は一誠が望んでいる言葉を口にした。
そうでなければ、ラベンダー書院文庫顔負けの言葉責めに遭《あ》うだろう。もしかしたら、異物挿入もあるかもしれない。
一誠は英典の予想を遙《はる》かに超えた男だった。
「俺のこと、好き?」
「ああ……」
「俺、もう我慢できない」
一誠は片手でズボンの前を開くと、己の一物を取りだした。そこはもう既に固くなっている。
英典は目を閉じた。
一誠の馬並みの男根には、恐怖しか覚えない。
「英典さん、入れるよ」
「この体勢は辛い」
「これがいい」
この体位はなんていうんだっけな……と、体位の資料を頭から順番に思い出したが、それに行き着く前に一誠の男根が身体の中に入ってきた。
メリ……といういやな音が響く。
「んっ……」
「せっかく慣れてきたのに」
男根はまだ半分も入っていないが圧迫感は凄まじい。
何せ、一誠の持ち物の大きさは球界でも有名だ。
「うっ……」
「俺のデカチンはどうすることもできないけど、英典さんのお尻はなんとかなるんですよ。前に比べて楽になったでしょう」
ズ……と、男根が奥に進んでくる。
たしかに、以前に比べたら楽になったかもしれない。だが、常人の倍以上あるものを狭い器官に受け入れるのだ。
英典は激痛と圧迫感に苦しんでいる。
脂汗《あぶらあせ》が全身に吹き出ていたし、澄んだ瞳は潤んでいた。
「んんっ……」
「せっかく鍛えたのに」
「何が……鍛えただ……」
アナルストッパーなる卑猥なものを身体の中に埋められたまま放置されて、英典は生き地獄を味わった。
それだけではない、手を変え品を変え、一誠は挑《いど》んでくる。まるで、紙面で女を犯すことに並々ならぬ執念《しゅうねん》を燃やしている官能作家のように。
「やっと、英典さんが色っぽく喘いでくれるようになったのに」
「一誠っ」
「腰、振って」
「それどころじゃない」
「えっちに振って」
「あっ…待て……」
快感が激痛を上回ったようだ。一誠の男根で前立腺を擦り上げられると、英典のものはふたたび力を取り戻していた。
「英典さんのも勃《た》ってるけど」
「あっ…揺らすな……」
「動きたい」
一誠がゆっくりと動きだした。
「あっ……」
「英典さんの中、凄くイイ」
一誠は英典の身体に陶酔《とうすい》しているようだ。
英典は身体の中を自在に動き回る逞《たくま》しい一物に悶えていた。細い腰は年下の男の動きに合わせるように揺れ、知らず知らずのうちに逞しい男根を締めつけている。
「はっ…あっ……」
「きゅっと締まる」
「んんっ…あっ……もっ……」
「俺、イきそう」
一誠だけでなく、英典のほうも頂点を極める寸前だった。
「んっ……」
身体の中に飛沫《しぶき》を感じた時、英典も頂点を迎えていた。
生々しい匂いが漂っている。
「英典さん、よかった」
「も…離してくれ……」
英典の涙混じりの懇願《こんがん》がやっと届いたようだ。一誠はゆっくりと動き出す。
身体の中から男根が引き抜かれ、折り曲げられていた足が伸ばされた。
英典は指一本動かすことができない。
フローリングの床の上で身体を横たえたままだ。その上に一誠が甘えるように伸《の》しかかった。
「俺、どうしたらいいんですか?」
額《ひたい》に一誠のキスが落とされる。
「あっ……?」
「あんなに長い間、会えないなんて辛すぎる。キャンプの間、もしかしたら帰れるかもわからないけど…」
「無理をしてはいけない」
「会いにきてください」
鼻先や頬にも、触れるだけのキスが落とされた。
「待っているから」
「ちゃんと待っていてくれる?」
「あぁ……ちゃんと待っているから」
「辛いです」
「うっ……」
「辛くて堪らねぇ」
「あっ……もっ…………」
「英典さんっ」
凄まじい勢いで足を抱えられたので英典は叫んだ。
「もう終わりっ」
「まだ」
一回だけでは終わらなかった。
二回目に突入する。
「い……痛いっ」
「暴れないでください」
二回目の体位は松葉崩《まつばくず》し、英典はとても辛い。
三回目、四回目……一誠の精力は底が知れない。
英典の左右の足には、秘孔から溢《あふ》れた一誠の残留物がいくつもの筋《すじ》を作っている。床の上には小さな水溜りが点在していた。
換気は効《き》いているけれども、生々しい匂いを消すことはできない。
設定した暖房の温度が暑く感じられてくる。
二人とも、全身から汗が噴き出ていた。
「もう…許してくれ」
「やだ……」
「壊れる……」
「だって、明日からできないじゃん」
「もう……」
「英典さんをポケットの中に入れて持ち歩きたい」
冗談ではない、一誠は本気でそのように思っているのだろう。思わず、英典はポツリと漏らしてしまった。
「メルヘンだな」
「メルヘンって?」
「ああ…メルヘンはね……あっ……待てっ」
「英典さんっ」
今夜、僕は寝られるのだろうか……英典は恐怖に怯えながら一誠の情熱を一身に受けていた。
早くもバレンタインの広告が溢れかえっている街には、木枯しが吹いていた。行き交う人も着込んでいる。
その日、英典の身体はガタガタだった。
しかし、気分は晴れ晴れとしていた。
何せ、今夜から精力絶倫男はいないのだから。
英典は勤め先がある本の街に辿《たど》りついた。
大型書店に古書店、編集プロダクションにデザイン事務所、大手出版社から小さな出版社までひしめきあっている。バイク便が目につくのもこの街ならではだろう。
ちなみに、雑居ビルの中にはクイックマッサージの店もある。肩こりと腰痛に苦しんでいる英典も何度か世話になっていた。
戦前から日本の純文学を担ってきた文壇の良心ともいうべき文芸平安社は消えたが、男の下半身のために奮闘《ふんとう》してきたラベンダー書院はしぶとく生き残っている。
どこにでもあるビルの中の一般企業と変わらない受付を通った。
受付に人はいないし、ラベンダー書院色も漂《ただよ》っていない。何も知らない飛び込みのセールスマンがやってきて驚いたことが何度かある。
ラベンダー書院とは受付にバニーガール姿やセーラー服姿の若い女性が立っているものらしい。若い女性のヌードのポスターがいたるところに貼られ、床はスカートの中身が見えるようにツルツルの床、天井にはキラキラのミラーボール、社内に流れるBGMは女の喘ぎ声、女子トイレには隠しカメラ設置、編集者は妖《あや》しい男、これがラベンダーの名と出版物を知る者たちの思い描くラベンダー書院である。
世間の妄想は留《とど》まるところを知らない。
濃紺のビジネス・スーツに身を包んだ英典を、誰もラベンダー書院の編集だとは思わないだろう。
第一、ラベンダー書院の男性社員はスーツ着用を義務づけられている。妖しい衣装で出社することはできない。また、妖しい衣装を着たがる人物もいなかった。
茶髪が日本人の髪の毛の色となっている昨今、編集部には髪の毛を染めている者すらいないのだ。ちなみに、茶髪は禁止されている。
世間の期待を裏切るエロの総本山かもしれない。
英典は着ていたコートとマフラーをロッカールームに入れてから、編集部のドアを挨拶《あいさつ》とともに開けた。
「おはようございます」
「あ……少々お待ちください。八木沢くん、人妻から電話」
官能小説界ではその人ありと囁かれている『ラベンダーのお花』こと、本物のゲイである花崎達也から電話を回された。ここでは副編集長の肩書きがついている。
「はっ? 人妻?」
「熟女からです。興奮しているみたいなので早く出てください」
人妻?
熟女?
僕の担当作家には人妻もいなければ熟女もいない。
誰だ?
英典は首を傾《かし》げながら電話に出た。
相手を知った途端、絶句した。
たしかに、人妻。
またの名を、熟女。
ラベンダー・エロスの中ではそのように表現するだろう。
だが、この場合、人妻や熟女よりもっと相応しい名称がある。
花崎らしいといえばそれまでだが。
『英典くん、一日も早く、そんないかがわしいところは辞めてちょうだい』
母親の涙声が受話器の向こう側から聞こえてくる。
花崎は手を振りながら本棚に並んでいる自社出版物を見つめ、先輩社員の平田はマックを真剣な顔で見つめている。編集長はブースの向こう側にいるかいないか……英典は辺りを窺いながら母親に低い声で言葉を返した。
「悪い、忙しいんだ。またにして」
『昨夜、お父さんと一緒にラ…ラ……ラベンダー書院の編集長が出ている番組を見ました。なんですか、あのいやらしい人はっ。変態オヤジじゃないですかっ。いつか捕まります。いえ、もう悪いことをしているかもしれません。あんな方が英典くんの上司だなんて許せないわ。一刻も早く辞めてちょうだい』
貴志のラベンダー戦士ぶりに鬼と化したのは一誠だけではなかった。
昨夜さんざん一誠とやりあったことをまたやるのか、それも母親相手に……と、英典はうんざりしてしまう。
「いつもはああいう人じゃない。温厚《おんこう》な紳士だ。あれは仕事なんだよ」
『仕事って、あんなふしだらな本ばかり……あんな変質者と一緒にあのような本を作っているなんて、私は世間さまに顔向けができません。優秀な英典くんが変態オヤジの下で働いているなんて死んでも人に言えません。もうっ、本当になんですか、あの変な方はっ、どうして警察はあのような方を野放しにしているのですかっ』
「あのですね、編集長はラベンダー書院の編集長をオーバーに演じただけ、世間の期待に応えただけ。編集長はうちの経済力では絶対に行けなかった大宮学院大学を優秀な成績で卒業した秀才のお坊ちゃま、いつもは英国紳士っていうムードが漂っている。変態オヤジでも変質者でもない」
『何が英国紳士ですかっ、あの方が英国紳士なら、お父さんはアラン・ドロンも頭を下げる色男です』
英典の父親に色男という言葉は果てしなく遠い。
真面目だけが取《と》り柄《え》の公務員だ。
おとなしいはずの母親の口から出た凄まじい表現に、英典は感心してしまった。
「凄い表現ですね」
『あのいやらしい編集長に一刻も早く退職届を提出して。英典くんにできないなら、お母さんが掛け合います』
編集長、商売とはいえ、少しやりすぎたのかもしれません……と、英典は心の中で貴志に文句を言ってしまった。
「あのですね」
『退職して、国家試験を受けてちょうだい』
「正月に断っているだろう」
『国家試験を受けてくれないなら、この話を受けてちょうだい。お父さんの古いお友達の方にね、商社を経営している社長さんがいらっしゃるの。その人がね、経営を任せられる人を探しているんですって。英典くんに会社を任せたいって仰《おっしゃ》ってくださっているのよ。ううん、英典くんにしか任せられないって見込んでくださっているの』
抜群の記憶力を誇る英典は、一度聞いたら忘れない。
十年以上前、父と母が世間話の一つとして、楽しそうに商社の社長の話をしているのを聞いていた。
たしか、手堅い商売をしている商社の社長には一人娘がいて、今から後継者を血眼《ちまなこ》になって探しているということだった。
当時、娘はまだ九歳だったというのに。
「もしかして、それは婿養子《むこようし》ということですか?」
『英典くんはうちの大事な息子よ。何があっても婿養子にはあげないわ。あちらの娘さんがお嫁に来てくれるの。再来年、短大を卒業するんですって。結婚はそれからね』
「あのね……」
『優しいし女らしいし……もう、本当にいいお嬢さんなの。英典くんのお嫁さんに相応しい女性よ。会いましょうね』
そんな話を一誠が聞いたらどれだけ荒れるか……と、その場を想像した英典の背筋が凍った。
とりあえず、英典はただではすまない。
嫉妬《しっと》に狂った一誠ほど恐ろしいものはないと身に染みて知っている。今度こそ、ヤリ殺されてしまうかもしれない。いや、その前に相手を素手で殺してしまうだろう。
「当分の間、結婚するつもりはないし、会社を辞めるつもりもない。第一、こんなことで電話をかけてこないでくれ」
『英典くん、いつの間に引っ越したの? いくら電話しても駄目なの。携帯にも出てくれないし』
強姦されて意識を失っている間に青山の高級マンションに連れていかれて、そのままである。家族にも会社にも住所の変更を告げていない。
いや、告げようがないのだ。
どう考えても、英典の収入であのような場所に住むことはできないのだから。
「実は仕事で大きなミスをしまして、会社に多大な損害を与えてしまいました。僕はこの損害を埋めるまで退社できません」
母親を黙らせる必殺の理由を、英典は即席で作り口にする。
狙い通りの反応が返ってきた。
『え……?』
「誰にも迷惑はかけません。すべて僕が稼《かせ》いで損害を埋めてみせます。それでは……二度と会社に電話をしないでくださいね」
『ちょっ…ちょっと待って』
「会社には責任を取れなんて一言も言われていません。でも、僕が許せない。僕は僕の手で損害を埋めてみせます。僕の意地です。それじゃ、忙しいので」
受話器を置いた英典の額には汗が浮かんでいる。
母のことだから、今頃しくしくと泣いているだろう。だが、どうしてやることもできない。
「八木沢くん、人妻相手に萌《も》えたのか?」
密かに聞き耳を立てていたらしい花崎に声をかけられる。
「花崎さん、何が人妻ですか」
「人妻だろう」
ヨレヨレの編集部員の中で唯一男性フェロモンを放っている色男は、食えない男としても有名だ。いろいろな意味で最も注意しなければならない男だろう。仕事に関してもやり手で、『瀬戸際の魔術師』という貴志の異名も引き継いでいる。何があっても発売日には書店に本が並んでいた。花崎に発行延期の文字はない。
「母から電話があっても僕はいない、ということにしておいてください」
「八木沢くんはマザコンだと思っていたのに」
花崎は意味深な笑みを浮かべながら肩を竦《すく》めた。
「どういう根拠があってそうなったのですか?」
「なんとなく」
「いい加減な」
「そうそう、君もドーナツ型の座布団《ざぶとん》にしたら? 辛いでしょう」
ドーナツ型の座布団とは真ん中が空いている座布団のこと、痔で苦しむ人間が使うアイテムだ。何か気づいているらしい真性ゲイに英典は背筋を凍らせた。
「腰痛持ちなので」
「腰痛がひどくなってからかな、雰囲気が変わったよね」
「そうですか? 気のせいですよ。それより、編集長は?」
英典はポーカーフェイスで話題を変えた。
「今日はまだ」
「そうですか」
「昨日のテレビを見たの?」
「はい」
「編集長、熱演だったね。よく心臓がヤバくならなかったものだ」
「生番組じゃないですよね」
「収録の後、病院に運ばれたようだけど」
英典が一誠に派手にヤられて、休んでいた日のことだ。
編集長、仕事にカラダを張っている。
「はぁ……」
「ま、編集長には敢闘賞《かんとうしょう》を捧げたい」
あの番組がなければ、昨夜と先ほどの苦労はなかっただろう。思わず、英典はポツリと漏らしてしまった。
「花崎さんはラベンダーに勤めていることについて、ご両親に何も言われてないんですか?」
花崎にしても、私立の雄として名高い清水谷学園大学を卒業している秀才だ。ルックスも際立《きわだ》っているのでいろいろな道が開けていただろう。いや、今からでも別の道に進めるはず。
「僕の父は赤だったので」
思いがけないことを言われて、英典は聞き返してしまった。
「……は?」
「ラベンダーも赤でしょう」
「違いますよ……ま、ニュアンスはなんとなくわかりますが」
「父子二代の赤ということで、別に何も言われていない」
父親が派手に学生運動をしていたので息子にも何も言わない、というところなのだろうか。
自由に生きているとしか思えない花崎の生い立ちは、『赤』というその一言に凝縮《ぎょうしゅく》されているような気がした。
「うちの父、赤じゃないことだけはたしかです。でも、いったい、いつそんなことを知ったんですか?」
「小学校のお習字の時間、家から持ってきた僕の新聞だけ違ったんだ」
お習字の時間に新聞紙は必要不可欠、英典は納得してしまった。
「なるほど」
「タイトルは『運命のお習字』サブタイトルは『新聞は父を語る』だ」
「笑っていいんでしょうか」
「どうぞ。ちなみに、その時の教師も赤だったみたいだ。おかげで、僕は教師には目をかけてもらった」
「な……」
「小学校の時の担任教師なんて神さまに等しいから助かったよ」
「そうなんですか」
英典が苦笑を漏らすと、花崎は本棚の端に飾られている大神ジャガースのロゴが入った缶ビールやジュースの缶を指した。
「知ってる?」
「え……?」
「じゃあ、編集長が来ないうちに言っておこう」
「はい?」
「二月一日、プロは一斉にキャンプイン、勝負はこれからだよ」
いきなり何を言いだすのか、英典は花崎の整った顔立ちをまじまじと見つめてしまう。
「……え?」
「編集長が大神ジャガースの熱烈なファンだってことは知っているだろう」
大神ジャガースは関西に本拠地を置く人気球団で、ジャガキチと呼ばれる熱烈なファンが多い。関東では東京シャーク一色といっても過言ではないほど東京シャークがハバをきかせているが、それでも大神ジャガースファンはちゃんといる。反面、関西では大神ジャガース一色だ。
貴志は和歌山県出身なので、大神ジャガースファンというのもわかるような気がする。
自社出版物を並べた壁一面の本棚には、大神ジャガースのロゴが入った缶ビールやつぶつぶオレンジのジュース、コーヒーなどが堂々と飾られている。
十八年前、これらを飾っていたら優勝したから……ということで、貴志は飾り続けているのだ。
しかし、大神ジャガースは悲願の日本一以後、関西の恥と罵《ののし》られるような成績を取り続けている。
もちろん、本棚に飾られている飲料水は昔話より遠いのではないかと思うくらい前に賞味期限が切れ、時代を感じさせるものと化していた。
「それは知っています」
「大神ジャガース、いいのは五月まで、せいぜい六月まで、それ以後は一気に成績が落ちる。今年はどこか違う、今年こそは……と言い続けて何年経っていると思う。十六年、いや十七年だぞ」
今年はどこか違う、と騒がれたものの最下位。
名監督を迎えた、今年こそは、と期待されたものの最下位。
大型トレード、戦力アップ、今年はやるぞ、と期待されたものの最下位。
勝つ時は大きな点差をつけて勝つが、負ける時は一点差で負ける。いや、小差で負け続ける。いい加減、そろそろ勝ってもいいんじゃないかと期待されても、サヨナラ負け。
大神ジャガースはいろいろな意味で稀有《けう》な球団だった。いや、滅茶苦茶《めちゃくちゃ》といったほうが正しいのかもしれない。
金にあかせて他の球団から四番打者を引き抜いてくる東京シャークとは、また一風変わっている。
イメージも東京シャークがスマート、大神ジャガースは泥臭《どろくさ》い。
ちなみに、ファンも大神ジャガースファンはマナーが悪いとの評判だった。
「はい、それが?」
「やりたいことがあったら六月までにカタをつけろ。いや、オープン戦のうちに予算をもぎ取っておいたほうがいいかもしれない。今年も大神はどこまでもつかわからない」
「つまり、大神ジャガースの成績で編集長は変わると?」
英典が知る限り、貴志は懐《ふところ》の広い上司で、野球ごときに左右される気分屋ではない。何か、信じられなかった。
後ろを振り返ると、平田も神妙《しんみょう》な顔つきで頷いている。
事実らしい。
英典は貴志の知らなかった一面を知る。
「何せ、あの人はジャガキチ、東京ビッグ球場が近いのにわざわざ関西の大神園球場まで観に行くんだ。東京ビッグは東京シャークの本拠地、球場全体がシャークファンでムードが悪いとかでね」
「は……わざわざ大阪まで」
英典は新幹線に乗ってまで野球を観にいく貴志の気持ちが理解できない。それでこそ、ジャガキチと呼ばれる所以なのかもと思えるのだが。
「大神園球場があるのは兵庫だ。大阪より更に遠い」
「そうなんですか」
「編集長が観に行くと大神ジャガースは必ず負ける。観にいかなきゃいいのに」
「は……」
「入社して一年未満の八木沢くんに、ラベンダー書院で上手く生き抜くコツを伝授しておく。編集長は懐が広い、大神ジャガースの成績がいいと更に懐が広くなるし度量も大きくなる。予算を使えるのも大きなミスしてもOKなのも六月までだ。創刊でやりたい装丁《そうてい》があるんだろう?」
若者向けとして新しいシリーズを創刊することになり、部内で一番若い英典が責任者に指名された。
今、英典はとてもはりきっている。たとえ、英典の趣味から遠く離れたエロ小説でも無性に楽しい。
やはり、英典にとって編集という仕事は天職だろう。
「あります」
「早めに編集長に話を通しておいたほうがいい」
「わかりました」
「おそらく、今年もこの大神ジャガースグッズが撤収《てっしゅう》されることはないだろうから」
今年も大神ジャガースは駄目だろう、と花崎は楽しそうに笑った。野球に詳しい平田も深く頷いている。
「そうですか」
「それに、もし、大神ジャガースが優勝したら編集長の心臓が止まるかもしれない」
「興奮したら危ないんですよね」
「そうだ」
「ペナントレースが始まったら、編集長はどうなるんですか?」
英典が入社した時、昨シーズンのペナントレースはどうなっていたか。記憶にある限り、貴志が野球に夢中になっていたという覚えはない。尤《もっと》も、昨シーズンの日本一は東京シャーク、大神ジャガースは最下位は免れたもののそれと変わりない成績だったと記憶している。
「それはこれからのお楽しみ。とりあえず、大神ジャガースの調子がいい開幕直後は編集長から目を離さないほうがいい。楽しいものが見られるから」
花崎の言葉に、英典は苦笑を漏らすしかなかった。
「ところで、野球はどこのファン?」
今まで英典にはお気に入りの球団はなかった。だが、やはり、今では自然と一誠が所属している球団名が出る。
「東京シャークです」
「編集長はアンチ・東京シャークだ。気をつけたほうがいい」
十七年間、大神ジャガースは東京シャークに負け越している。
「はい……」
「特に、ガキのくせに大神ジャガースからホームランを打ちまくっている遠藤一誠と、大神ジャガースキラーの皆川俊介は死ぬほど嫌いだ。口には出さないけどね」
花崎の先輩としての重みのある含蓄《がんちく》に英典は頷くと自分のデスクについた。
メールをチェックしていると、平田から電話が回される。
担当している官能作家から、税理士を紹介してくれという依頼だ。そこで初めて確定申告の季節だと気づいた。英典には縁《えん》のないことだ。
『毎年、無料の税理士相談とかいうところで見てもらっていたんだけど、いい加減辛くてね』
「そうですか、大変ですね」
『何せ、みんなタイトルを見ると態度が変わるんだ』
無理もない、タイトルは赤面ものの文字が並んでいる。しかし、読者の購買欲を煽《あお》るためには仕方がないのだ。
「そうですか」
『担当編集者がつけたことを知らないから』
「女教師は生徒の牝奴隷」「性奴は義母と義妹」「美人三姉妹陵辱地獄」「美人社長は社員の玩具《おもちゃ》」……これらのタイトルは英典が考えた。もちろん、内容からつけたものだ。「隣のお姉さん」というタイトルは少し弱いが、わかる者にはわかるだろう。隣に住んでいる綺麗なお姉さんに焦がれた高校生が主人公だ。少年は部屋を覗《のぞ》くだけでは我慢できず、隣のお姉さんをレイプしてしまう。初々しい少年が獰猛《どうもう》な雄になり、清楚な女子大生を悶えさせるシーンはなかなかのものだった。
「は……」
『出版社を見ると納得するんだけどね』
ラベンダー書院はエロの代名詞と化している。
そうでなければ、不渡りを出していただろう。
「そうですか」
『しかし、こうやって改めて見ると印税減ったよね』
一作ずつ、営業から発行部数減を言い渡されている。再版もない。返品率も高い。深刻な出版不況を感じてしまう。
「本自体、売れなくなっているんです。うちの営業も頑張っていますので」
『あぁ、こんなことを言うつもりじゃなかった。すまない、エロ作家でも構わないという税理士を紹介してくれ』
好奇の視線に耐えられなかったのだろう、ふてぶてしく生きていけない官能作家は他にもいる。
税理士には心当たりがあるので英典は快《こころよ》く引き受けた。
「わかりました、あたってみます」
『ありがとう』
電話を切った後、お返事メールを出す。
それから、何種類もの紙見本を穴が開くほど見つめた。
「八木沢くん、如月満月《きさらぎまんげつ》さんから電話です」
平田から電話を回される。
担当している人気作家の如月満月からだった。
なんでも、必死になって隠していたペンネームがバレた途端、婚約者に破談を言い渡されたそうだ。
式の日取りも決まっているというのに。
『僕はSMが好きだ。Mの女は無茶苦茶好きだ。はっきりいって何より好きだ。でも、私生活にSMを持ち込もうとは思わない。何かね、ああいうものを書いている人間はああいうものをするのが好きだと思われているらしいんだ。僕の私生活なんて本当に真面目なのに誤解している。僕は彼女を妻として大事にするつもりだ。決して、性奴にするつもりはない。第一、今まで中学生に馬鹿にされるぐらいの清い交際を続けてきたんだ。三年間だぞ、三年間』
「彼女もわかってくれますよ」
『結納《ゆいのう》の三倍返しが来た』
婚約者に結婚の意志はない。無理やり結婚しても幸せになれるとは思えない。そちらがそうならばもう仕方ないでしょう。女性はその婚約者だけではない。他にいくらでもいる……と、英典は淡々《たんたん》としていた。
「この世の半分は女性です。また、いい彼女が見つかりますよ。いえ、もっと素晴らしい女性と巡《めぐ》り会えます」
『八木沢さん、クールだね。いや、他人事だものね。いいよね、エロを書いているのはエロ作家であって編集ではない。編集は「仕事だ」で終わるからね。編集にエロをもっとハードにしろ、ちゃんとヌけるエロを書け、とか言われているなんてカタギの人は知らないだろうし。ああ、こんなことを言うつもりじゃなかったんだ、すまない』
英典は恋愛音痴をいかんなく発揮《はっき》してしまったようだ。
慌てて、詫《わ》びを入れた。
「いえ…こちらこそ、申し訳ございません」
『彼女にストーカーよりしつこく食い下がった結果、結婚の条件を言い渡された。僕、エロ作家を引退します。入っている仕事はすべて白紙に戻してください。今までお世話になりました』
予想だにしていなかったことを言われて、英典はひたすら驚いた。
「困ります」
『本当に今までお世話になりました』
ここで電話は切れる。
慌てて、電話をかけ直したが、留守番電話のメッセージ。
「困った……」
如月満月は出せば売れるという数少ない人気作家の一人だ。
エロサイトの興隆も一因だろうが、出版不況の波は官能小説のほうにもやってきていて、昔に比べるとやはり厳しい。
ここで、如月満月にすべての仕事を白紙に戻されるなど冗談ではない。第一、再来月刊行予定の文庫がある。新シリーズ創刊のラインナップにも刊行を予定している。
こんなことはしていられない……と、英典は如月満月が好きそうなSM小説を持って編集部を後にした。
途中、洒落《しゃれ》た洋菓子の店に寄って生ケーキをたくさん買う。
「ありがとうございました」
英典はケーキの箱を持って、閑静《かんせい》な住宅街を歩いた。
如月満月、SM執筆に寿命を縮めているとまで言われている官能作家だが、素顔は驚くほど真面目、おまけに良家の子息だ。父親は大手企業の重役、母親は旧家出身のお嬢さま、兄は外交官だという。
両親にはエンタテインメント系の小説家と偽《いつわ》っているらしい。必死になって嘘の上に嘘を塗り固めている。
そうでなければ、如月満月はとっくの昔に消えているだろう。
英典のほうも社名の入っていない封筒を使用するとか、電話では決して社名を名乗らないとか、いろいろと気を使っている。
瀟洒《しょうしゃ》な如月の自宅が視界に入った時、英典はケーキの箱しか持っていないことに気づいた。
「あ……」
選りすぐりのSM小説を二十冊ほど詰め込んだ紙袋を、あの綺麗な洋菓子店に忘れてきたのだ。
少女の永遠のバイブルである『赤毛のアン』の世界を表現しているという店内には、フリル付のエプロンをつけた若い女の子ばかり。
戻りたくない。
だが、戻らないわけにはいかない。
何せ、あの紙袋の中には再来月刊行予定のチェック済み原稿も入っている。
英典は真っ青な顔で洋菓子店に戻った。
タイトルは『八木沢英典、生き恥をかきに行く』だ。
案の定、店に一歩足を踏み入れた瞬間、従業員たちの視線が英典に集中する。
忘れ物の中身をたしかめた後なのだろう。
嫌悪感を剥《む》きだしにしている女の子もいるし、不思議そうに見つめる女の子もいる。英典の綺麗な顔立ちとエロ小説が結びつかないのだろう。
「紙袋を忘れたんですが」
「はい…これですね?」
特選・エロセット入りの紙袋を英典に差し出した女の子の手は震えていた。別に何もしていないのに。
今のタイトルは『八木沢英典、生き恥をかく』だ。
店から出た時、英典の脳裏には一誠の顔が浮かんでいた。
おかしい。以前ならこんなミスはしなかった。一誠とつき合い出してから確実に僕はおかしくなっている。馬鹿は感染するのか?
英典は馬鹿一誠の数々の馬鹿ぶりを反芻《はんすう》しながら如月満月のもとへ。
門前払いを食らったが負けたりしない。
英典もまたラベンダー戦士である。
如月満月に『YES』と言わせるまで帰らなかった。
九時過ぎ、仕事から帰っても顔を見た瞬間飛びついてくる一誠はいない。
食事は駅前にあるカフェで済ませてきた。
後は風呂に入って寝るだけだ。
開放感のあるスタイルサンルームやインナーガーデンまでついたペントハウスは7LDK、廊下や柱など、いろいろなところに天然の大理石が使われている。外観だけでなく内装までゴージャスの一言に尽きる。
だが、東京シャーク関連のグッズがゴージャス感を落としていた。英典が持ち込んだスライド式の本棚もゴージャス感には遠いかもしれない。
「落ち着く」
広々とした部屋で一人でいると孤独を感じて寂しいなんてことはなかった。
一誠の先輩に当たる宇都宮《うつのみや》から送られた丸いベッドもやけに広く感じるが、寂寥感《せきりょうかん》などまったく湧《わ》かない。一誠を思い出して苦しいということもまったくなかった。
一誠から電話が入る。
『英典さん、来てください』
キャンプ地がある宮崎は軽々しく行けるところではない。
「何を言っているんだ」
『寂しい』
「そんなこと言っている場合じゃないだろう。生き馬の目を抜く東京シャークのレギュラー争いに遅れを取るな」
どんなに監督やコーチ陣が綺麗ごとを並べても、春のキャンプとオープン戦は選手同士の競争期間だ。それが、優勝して当たり前と囁かれている球界一の東京シャークなら尚更《なおさら》のこと。
呑気《のんき》というのか、マイペースというのか、そんな一誠が心配になってくる。
『え?』
「東京シャークではレギュラーを取るのも難しいんだろう。がんばれ」
『はい』
「おやすみ」
『おやすみなさい』
当分の間、僕は無事だ……と、英典は安らかな眠りについた。
一誠がいないと仕事が捗《はかど》るのは気のせいではない。
何せ、一誠との生活は体力を消耗《しょうもう》した。情事のあった次の日など、腰が痛くて椅子に座っていられないなんてこともあった。密かに腰痛バンドなるものを締めて出社したこともある。
連日の情事で歩くことも座ることもままならなくなった時など、編集長が愛用しているドーナツ型の座布団を持ち込みそうになってしまった。
ペントハウス内では堂々とドーナツ型の座布団に座っている。そうでもしないと体調が悪化しそうで恐ろしいからだ。
しかし、編集部内には真性ゲイの花崎がいる。
ドーナツ型の座布団など持ち込んだらどう思われるか、すんでのところで思いとどまっていた。
ちなみに、ドーナツ型の座布団を使用しているのは貴志と花崎、ストレス太り爆進中で体重が二百キロを超えた緒形《おがた》の、計三人。
朝食は近所のカフェ、夕食は仕事帰りに定食屋に立ち寄る。一誠の『一緒にメシ食いましょう』攻撃がないので食生活のほうも楽だった。一人で食事をすることが寂しいとは思わない。
仕事から帰ると購入していた文庫を読む。
一誠がいないというだけで充実している。
ベッドに潜ると、携帯電話が鳴り響いた。
一誠からだ。
『英典さん、今、どこ?』
「家にいる」
『こっちに来てよ』
「無理だ、忙しいんだよ」
『じゃあ、明後日、そっちに帰れるかもしれない。遅くなるけど起きていて』
「無理はやめなさい。君の仕事はなんだ」
『そりゃ……だから、英典さんがこっちに来てくれたら会える』
「いい加減にしなさい」
毎晩、決まって一誠から電話が入った。
甘えている時もあれば、拗《す》ねている時もある。だが、所詮、遠く離れている。腕力に訴《うった》えられることがないので、英典はのほほんと聞き流していた。
何せ、英典は一人暮らしの快適さをしみじみと噛み締めている。
永遠にキャンプが続けばいいのに……なんてことを祈ってしまった。
でも、一誠のいないうちにどこかへ逃げようという気は起こらない。
いや、そんなことをしたらラベンダー書院へ乗り込んでくるに決まっている。それだけは何があっても避《さ》けたい。
生き恥をかく、なんてものではないだろう。
恐ろしすぎる。
「もう、眠いんだけど」
『もうちょっと』
「悪い」
『冷てぇ……』
「おやすみ」
『じゃあ、キスして』
チュ……という音を携帯に向かって立てた。
そうしないと、一誠は満足してくれない。
「おやすみ」
『おやすみなさい』
明日するべきことを考えながら、英典は深い眠りについた。
仕事は順調に進んでいる。
そうこうしているうちに、二月二十二日、東京シャークの春のキャンプが終わった。翌日からオープン戦が始まる。
以後、メディアでは頻繁《ひんぱん》にオープン戦の様子が流されるようになった。
東京シャークは不調、一誠も三振を連発している。その反面、大神ジャガースは好調だった。
新しいレーベルは従来の表紙カバーの紙ではなく、別のもっといい紙を使いたい。
帯もいい紙を使いたい。
一番やりたい装丁の見積もりは高い。
どうやってもこれ以上安くならない。
この見積もりだけを提出したら、さすがの貴志も唸《うな》るだろう。青白い顔で心臓を押さえられたら、英典は引くしかない。
だが、これ以上金のかかる見積もりを提出したらどうか。
一番やりたい装丁の見積もりより、更にグレードアップした見積もりを二種類ほど作っていた。
大神ジャガース絶好調、この分だと十八年ぶりの優勝も狙えるかもしれない……と、密かに舞い上がっている貴志に、三種類の見積もりを本日提出したらどう出るか。
姑息《こそく》な手段かもしれない。
だが、これ以外に術《すべ》はない。
決行の日、挨拶とともに編集部のドアを開けた。
「おはようございます」
すると、足元に何かあった。
運動神経が悪いわけでも反射神経が悪いわけでもないのだが、英典は一昔前のコントのように転倒してしまった。
「痛い……」
床に寝そべっていた障害物はバーバリーのトレンチコートに包まっている貴志、苦しそうに低く呻《うめ》いていた。
己がけつまずいて、伸《の》しかかっている人物に気づいた英典は真っ青意になる。そそくさと、貴志の身体の上から身を引いた。
「すみません、大丈夫ですか?」
「おはよう」
貴志の身体の下には茶色の毛布が敷かれている。暖房は効《き》いているけれども、他の編集者はまだ誰も出勤していないようだ。
「おはようございます……って、救急車を呼びましょうか?」
持病が悪化したのか、と英典は貴志の青白い顔を覗き込んだ。
「いい」
「編集長? どうしてこんなところに?」
「ここに泊まったんだ」
「はい?」
「飲んでいたら終電がなくなってね」
「編集長……」
英国紳士というムードを常に身に纏《まと》い、博識で温厚な男だが、意外にズ太いのかもしれない。
文芸平安社時代、校了で会社に泊まり込んだことは何度もあるけれども、床の上で寝たことはない。それも、寝袋なしで。
英典が呆気《あっけ》に取られていると、少し離れたところにあった茶色の毛布の塊《かたまり》がモゾモゾと動く。
毛布に包まっていた花崎が爆弾を落とした。
「八木沢くんが編集長を襲った」
「何を言っているんですか」
「綺麗な顔してヤるね」
「やめてください」
「編集長、綺麗な新入りに陵辱される。ラベンダー書院設立以来のヒットだ」
花崎は眠そうな目で床に横たわったままの貴志を見つめている。
不届きな部下に対する貴志のコメントはなかった。これくらいで動じたりする男ではない。
「冗談はそこまで。花崎さんと編集長、仕事で泊まり込んだのではなく、飲みすぎで泊まり込んだのですか?」
「そ……飲みすぎた」
言われてみれば、編集部内にはアルコールの匂いが漂っている。英典は苦笑を漏らすしかない。
「二日酔いですか?」
「僕は大丈夫」
日頃のシャープな動作は見る影もない。花崎はノロノロと立ち上がると、英典の顔を眺めた。
「八木沢くん、生徒の生贄《いけにえ》になる女教師みたいな顔に傷ができた」
「顔に傷ができたら迫力が出ていいかもしれません」
転倒した拍子にできた傷だろうが、そんなことに気を取られたりしない。
花崎がニヤニヤと笑いながら、英典の頬の傷を指した。
「彼氏が見たら怒るでしょうね」
「何が彼氏ですか」
ここでうろたえたらどうなるかわからない、英典はクセのある花崎に冷たい視線で答えた。
もちろん、花崎は英典の雪より冷たい視線なんぞに怯《ひる》む男ではない。
「彼氏、いるんでしょう。エロ本の編集者がホモなんて楽しい話だね」
「それは花崎さんでしょう」
「上にゲイ雑誌の創刊をかけあってみないか?」
花崎が密かにゲイ雑誌の創刊を狙っていることはみんな知っていた。しかし、当然ながら、誰も賛成しなかった。
「お断りします」
「君も官能小説よりゲイ雑誌のほうがやりやすいだろう」
エロ本の編集者というだけで、家族にはこの世の終わりのように嘆《なげ》かれている。ゲイ雑誌の編集者となればどれだけ嘆かれるかわからない。
一誠には問答無用で退職させられるだろう。
「いいえ」
「同志、僕には隠さなくてもいいんだよ」
花崎はやけに親しそうな笑みを浮かべている。
「ゲイ雑誌は花崎さんお一人でどうぞ」
「君も是非、参加してほしい」
「お断りします」
「君たち、そこら辺にしておきなさい」
貴志の仲裁が入ったので、英典と花崎は引いた。
だが、花崎のゲイ雑誌攻撃は貴志に向けられる。
「編集長、ゲイ雑誌を創刊しましょう」
「却下」
「編集長もゲイには詳しいでしょう」
花崎はニヤニヤ笑いながら、昨夜の酒に襲われている貴志に食い下がった。
英典は無言で二人のやりとりを眺める。こういう時は下手に口を挟まないほうがいい。
「ゲイ雑誌は読めない。見ることもできない」
「ゲイ雑誌は僕が責任を持ちます。八木沢くんと二人だけでやりますから任せてください。伝説を作ってみせます」
ゲイ雑誌は絶対いやです……と、英典が低く凄む前に、貴志がきっぱりと言いきった。
「ゲイ雑誌はボツ」
「大神ジャガースが優勝したらOKですか?」
「大神が優勝したら考えてみる」
大神が優勝したらいいぞ、と宣言しないところが貴志だろう。優勝すると固く信じているのだ。
「本当ですね?」
「ああ……顔でも洗ってくるか」
「そうですね」
貴志と花崎は仲良く顔を洗いにいく。
英典は仕事に入った。
そうこうしているうちに、平田や鈴木が出社してくる。
「来ない」
鈴木は五度目の締め切りを過ぎても届かない原稿に頭を抱えていた。
「うちのほうは連絡が取れない」
平田は原稿を上げずに行方をくらました担当作家に肩を落としている。創刊に名前を連ねている作家でもあるので、平田の顔色は土色、今にも予定表を手に倒れそうだ。
緒形も届くはずの原稿が届かない。すべてのストレスが食欲に向かっている緒形は、何かに縋《すが》るように机の引き出しの中から常備しているおやつを出していた。あの分だと、また太るだろう。
編集者は太るか痩《や》せるかどちらかだ、が定説になっているが、前者が緒形で後者が英典だ。ちなみに、平田と鈴木も痩せ型だった。
貴志は近所にある喫茶店でモーニングを食べてきた。手にはスポーツ新聞が握られている。
英典は虎視眈々《こしたんたん》とその時を待った。
今だ……と、創刊号の見積もりを、大神ジャガース絶好調というスポーツ新聞を読み終えた貴志に提出する。
「八木沢くん……」
「はい……あの、呼吸器ですか?」
見積もりを見た途端、患っている心臓を押さえた貴志を覗き込んだ。
「それはいい」
「はい」
「これ、やりたいの?」
貴志の弱い心臓を直撃する金額だろう。英典は貴志の机の引き出しの中に常時用意されている呼吸器に手を伸ばそうとしたがやめる。
堂々と返事をした。
「やりたいんです」
「そうか……」
貴志も編集者である。
編集者としてやりたいと主張しているものを、金の問題だけであっさりと却下することはない。
「あの、一番安いので」
一番安く見積もっている装丁が本命だ。
おそらく、貴志もそれに気づいているだろう。
「いいだろう」
「ありがとうございます」
貴志の英断に英典は頭を下げた。
それから、英典は猛スピードでことを進める。
その素早さには誰もが目を見張っていた。
だが、想像を絶するとんでもない噂が流れていた。
出版物の装丁をする製作部にいる、仲のよいデザイナーの勝田《かつた》から、神妙な顔つきで声をかけられ、初めて知ったのだが。
「勝田さん、もう一度言ってください」
「八木沢くん、編集長を襲ったんだろ?」
朝、貴志にけつまずいて伸しかかってしまったことを言われているのか、英典は言葉が出なかった。
「編集長を陵辱して、それであの馬鹿高い装丁をOKさせたんだって?」
そうでなけりゃ、あの予算は取れなかっただろう……と、腕を組んだ勝田はしみじみと呟いている。
「誰がそんなことを」
「編集部から流れてきた」
「花崎さんですか?」
そういうことをするのは編集部に一人しかいない。
「うん」
「まさか、本気にしていませんね?」
「違うの?」
「違います」
一つ年上の勝田に向かって、英典は思いきり凄んだ。
「そうか……」
「訂正しておいてください」
「面白いからいいじゃないか」
勝田は何かとても楽しそうだ。こんな男だとは知らなかった……と、英典は勝田に冷たい視線を向ける。
「勝田さん、やめてくださいね」
「基本的に編集部なんて変人の集まりなんだし」
「うちの変人は花崎さんだけです」
英典は強い口調で言い放った。
花崎以外、どこがラベンダーだ、というような男ばかり。女性社員の岡本にしてもラベンダーからは果てしなく遠い。
みんな、紙面から女の喘ぎ声が響いてきそうなラベンダー・エロスと真面目に向かい合っている。股間を熱くさせている者など一人もいない。
「言いきったね」
「はい」
「おとなしそうな顔して言うね」
どこか儚《はかな》そうな容姿をしているけれども中身はそうでもない。何かあったら、相手が上司であっても噛みつくだろう。それが英典だ。
「顔は関係ないでしょう」
「編集長の異名を知ってる?」
「え……? 何があっても間に合わせるということで『瀬戸際の魔術師』でしたよね? どこにでも一人はいると聞いています」
「統括から聞いたんだけど、編集長は『魔性の男』っていう異名も若い時は取っていたんだって」
編集統括とは貴志の上司に当たり、若い頃から一緒にやってきたという。ラベンダー書院の功労者である。
大手出版社が官能小説に乗りだしてきても、編集統括と貴志は独自の路線を貫いて立場を死守した。
「は……魔性の男?」
「編集長、やたらと男にモテるんだって」
貴志の顔に歳は刻まれているし、前髪にも白いものが混じっているけれども、ノーブルな顔立ちは崩れていない。今は哀愁《あいしゅう》とロマンが漂っているロマンスグレーだ。若い時は絶世の美男子だったと容易に想像できる。
「編集長が男に……」
「立っているだけで男が寄ってくるんだって」
「ホモ?」
英典の口から自然とその質問が出た。
「編集長が男もOKなのか知らないけど、魔性の男だって」
「魔性の女というフレーズはよく聞きますが」
今までまっとうに生きてきた英典には、魔性の男というものが浮かんでこない。もちろん、貴志に魔性の男というフレーズを当てはめることもできない。
「編集長にトチ狂った男が二人、深夜の繁華街で刃物を振り回したとか、編集長恋しさに婚約を解消した男もいたそうだし、長年連れ添った奥さんと離婚した男もいたそうだ。担当していた作家に惚れ込まれて、編集部で大暴れされたこともあるらしい。今でいうストーカーも常時何人か張りついていたみたいだぞ。ラベンダーの貴志は男にモテモテって知る人は知っている……らしい」
「そ…そんなことが……」
「編集長が『瀬戸際の魔術師』という異名を取ったのは魔性の男だったからだって。印刷所も編集長の魔性にヤられた男がミラクルを起こしていたとか。編集長が頼めば極道《ごくどう》スケジュールで原稿を上げる担当作家もいたそうだ。今でもいるんじゃないかな」
ラベンダー書院は創立以来、決まった期日にちゃんと本が本屋に並んでいる。密かに作家が変わったことはあるが、冊数が減ったことはない。
「は……」
「凄かったらしいぞ」
「事実なら凄いですね」
「信じられない?」
「自分の耳でたしかめたわけではないので」
英典は不確かな噂を鵜呑《うの》みにするようなことはしない。特に、この業界では無茶苦茶な噂が流れることがある。
「可愛くないな」
「そうですか?」
「ラベンダーの魔性の男は中年になっても若い編集を惑《まど》わす……とか、統括が笑っていたけど」
「まったく……勝田さん、お願いですからその変な噂を否定しておいてください。僕は編集長を押し倒したんじゃない。編集長につまずいて転んだだけです。あんなところで編集長が寝ているなんて夢にも思いませんでした」
製作部の面々は意味深な目で英典を見つめていた。廊下で営業部の社員からもいつもと違う視線を注がれる。
キャッチコピーは『四十八歳の編集長を陵辱した二十五歳の平編集』か。
花崎さん……と、英典は先輩社員を心の中で思いきり罵《ののし》った。ついでに、床の上で堂々と寝ていた貴志に対しても力の限り罵った。
かかなくてもいい恥ばかりかいているような気がする。
英典は頭が痛くなってしまった。
だが、腰は痛まないのでまだマシだろう。倦怠感《けんたいかん》もない。
そこで英典はがっくりと肩を落とす。
あらぬ噂を流されても腰が痛まないのでマシだという自分に呆れるしかない。
一誠とつき合いだしてから、感覚が少し鈍っているようだ。
その夜も日課となっている一誠から電話があった。
『英典さん、こっちに来てよ』
「馬鹿なことを言うんじゃない」
『バレンタインにチョコも贈ってくれなかったくせに』
「僕からそんなものを貰《もら》ってどうするんだ」
『英典さんからのだったら欲しい』
「そうか……」
『会いたい、ちょっとだけでもいいから』
「ここで待っているから……第一、そんなことを言っている場合じゃないだろう。オープン戦で三振連続記録を塗り替えたっていうじゃないか」
女子アナウンサーの板東久美子とつき合っている時は、天才打者の名をほしいままにしていた。
彼女があげまんだったのではないのか。
三振地獄から抜け出すためには、板東久美子とヨリを戻すしかないんじゃないか。
一誠はそんなことを書き立てられている。
野球しか取り柄のない一誠。
野球一筋で生きてきた一誠。
その一誠が野球に裏切られたらどうなるのだろう。
天才打者として騒がれた一誠の堕ちる姿など見たくない。
『英典さんが冷たいから』
「僕のせいにするんじゃありません」
『英典さんエロオヤジに何かされているんじゃないかって心配で堪《たま》らない』
「何度同じことを言わせるんだ。その心配はない。編集長なんて、今日も病院に行っている」
自分が提出した見積もりのせいで病院に行ったわけではないと信じている。いや、信じ込んでいた。そもそも、心臓が悪いのに酒を飲むのが間違っている。いくら人気作家とのつき合いといってもだ。
『英典さん、テレフォンセックスしよ』
思いがけないことを言われて、英典は聞き返した。
「は……? なんて言った?」
『脱いで』
「僕、もう眠いんだ」
『脱いで、あそこを触って』
「おやすみ」
英典は電話を切った。
でも、すぐに電話がかかってくる。
無視していると携帯電話が鳴った。
もちろん、一誠からだ。
今年はもう駄目かもしれない、タレントみたいなことをしているからだろう、調子に乗りすぎたな……と、派手に書きたてられている一誠の記事を読んでいるだけに、可哀相《かわいそう》になってしまった。
『英典さん、ひどい』
「悪い……」
『英典さんとえっちしたい』
「…………」
『したいっ』
「わかった……」
どうせ、体力は消耗しない。
英典は額を押さえながら了承する。
『脱いで、いつも俺がしてるみたいにお尻の穴を触って』
「もう……」
『脱いだ?』
「脱いだよ」
英典は身につけていたジャージを脱がなかったし、下着の中に手を入れることもしなかった。
『英典さんのお尻、どうなってる? また、無茶苦茶きつくなっているの?』
「……みたいだな」
『俺、帰ったらすぐにヤリたい』
「そうか……」
『ちゃんと鍛えておかないと大変ですよ』
「だから、野球じゃないんだ」
『お尻の穴に指入れて』
「入れた」
『嘘、本当に入れていたらもっとはぁはぁ言ってる』
気が遠くなるほど馬鹿のくせに、こういうことに関しては気が回るというのか。英典は筆で描いたような眉を顰《しか》めた。
「この……」
『お尻の穴にちゃんと指を入れて、掻き回して、俺に聞かせて』
英典はAV男優ならぬ声優と化した。
「んっ……」
『英典さん、もっとえっちな声を聞かせて』
「馬鹿……」
『指、お尻の中に入った』
「入らない」
『英典さんの指、細いのに』
「だから、僕は男だって」
『なんか塗ったら入る』
「ああ……」
『ベッドの下にあるのを塗って』
「わかった」
英典はベッドの下に置いていた潤滑剤を手に取る。これは一誠が用意したものだ。二人の情事で何度も使われた。
『ちゃんと塗って』
「ああ……」
そこに塗ったふり。
『指、入った?』
「ああ……」
指を入れたふり。
『どんな感じ?』
「きつい…かな……」
『俺のこと、好きって言って』
「好きだよ」
『ね、グチャグチャって掻き回している音を聞かせて』
「無理だ」
『聞かせて』
電話の向こう側で一誠は励《はげ》んでいるのだろう。
だが、英典のほうは冷静だった。
罪悪感はまったくない。
僕は元々淡泊だったんだ。もちろん、ゲイでもない。男にそういう感情を持ったことは一度もないんだ。でも、君は可愛いと思うよ。これくらいで許してくれ……と、英典は息の荒い一誠に心の中で呟いた。
如月満月がまたウダウダと言っている。
『彼女は僕が如月満月が引退すると思っているんだ。僕も彼女にそう約束してしまったしね。やっぱり、悪いけどすべて白紙に戻してほしい』
「妻に隠れて不倫《ふりん》することに比べたら可愛いものです。さっさと籍を入れたらどうです? 彼女も諦めるかもしれませんよ。何より、自分の夫がどれだけ読者に指示されているかわかったら、理解してくれるかもしれません」
『ポルノ作家の妻なんていやだって』
滅多《めった》にお目にかかれない上流夫人や傲慢な女社長を、凄まじい手法で調教しているSM作家とは思えない。
如月満月の素顔は呆れるほど気弱なお坊ちゃまだ。いや、小心者のお坊ちゃまといったところだろうか。
「いつか、必ずわかってくれるでしょう」
『彼女も彼女の友達も本が好きでよく本屋に行くそうなんだが、エロ本コーナーのそばにも近寄ることができないんだって。あんなエロ本を書いている僕は犯罪者だって。いつか逮捕されるって。そんな汚れたお金で生活したくないって』
そこまで言うか……と、英典の表情が曇《くも》る。だが、母や妹の嘆きを思い出すと納得してしまう。
「その偏見もいつか払拭《ふっしょく》されます」
『彼女だけではない、彼女の弟や妹や姪っ子までポルノ作家の身内ということで世間から後ろ指を指されるって。弟と妹、親戚の将来を潰《つぶ》したくないっていうんだ。そこまで言われたら、もう……』
「官能作家はヤクザですか。違うでしょう。男に夢を与える職業です。いい職業じゃありませんか」
『本気で言っているの?』
「本気です。僕は読者に夢を与える仕事と考えています」
英典はラベンダー戦士に変身して、弱々しい如月を説得した。何せ、英典は『YES』と言うまで電話を切らない。
提出されたプロットに迷っていると、担当している御影瑠璃子《みかげるりこ》から電話が入った。なかなか折り合いがつかなくて、一時間以上話し込むことに。
貴志が背後から口を挟んだ。
「八木沢くん、もう会いなさい」
長電話だと気になるらしい。
やはり、顔の見えない電話ではいろいろな行き違いがあるからだろう。こちらがどんなに苛《いら》ついているか向こうはわからない。また、あちらがどんなに怒っているのかもわからない。実際に会って話し合えばすぐに解決するということもある。
貴志の言うことはよくわかる。
英典も電話の利点と難点はよく知ってる。
だが、御影瑠璃子と会いたくない。
仕事でなければ関わることもなかっただろう。いや、何があっても関わりたくない人物だ。
しかし、貴志直々の指示だ。
逆らうわけにもいかない。
英典は御影と会う約束をした。
場所はグルメマップでも頻繁に紹介されているレストラン、店内に流れる曲はモーツァルト、いたるところに匂いのきつくない生花が飾られている。臙脂色《えんじいろ》のタイを締めている従業員も洗練されていた。
御影が指定した店である。
「ここに一度来てみたかったの」
メニューの価格を確認した英典は眩暈《めまい》を起こしそうになった。それでも、一応は常識の範囲内か、貴志の渋面が目に浮かぶ。
「そうですか」
「コースにしましょうよ」
「そうですね」
「ワインも頼んでいい?」
「軽いのでお願いします」
一見すると、濃紺のスーツ姿の英典と黒のシャネルスーツに身を包んだ御影は絵になるカップルであった。
御影の金色に染めた髪の毛は腰まで、おまけに縦ロール、手の込んだ髪型だ。長く伸ばした爪には赤を基調にしたネイルアート、耳には金のシャネルマークのピアス、胸にはカメリア、ブレスレットと指輪はブルガリ、靴はフェラガモ、鞄はエルメスのケリー、高級ブランド見本市のように高級品で飾りたくっている。
後姿はゴージャスな美女だろう。
ハイヒールを履《は》いているとはいえ、身長も一七五センチある英典より遙かに高い。
前からでも、遠くから見ればゴージャスな美女かもしれない。何せ、遠目では性別が判断できないだろうから。
御影瑠璃子、本名は下山源太《しもやまげんた》、前職業は自衛官という女性だ。
どんなに厚い化粧を施《ほどこ》しても、髭剃《ひげそ》り跡《あと》がわかる。手も足もとても大きい。肩幅も無茶苦茶広い。もちろん、喉仏《のどぼとけ》は健在、声も非常に野太かった。
御影は女に生まれそこなった男である。
決して、男扱いしてはいけない……と、貴志から注意されていた。
小振りにアレンジメントされた白い薔薇が飾られたテーブルの上にはクラムチャウダー、背の高いウエイターが離れてから話し合う。
「前作、書評サイトでさんざん叩かれているの」
「有名税です。書評を見てひどく落ち込む作家さんがいますが、落ち込むようなら見ないでください」
「つい、見てしまうのよ。書評を書いた奴はアタシを泣かそうとしているのかしら。それとも、ケンカを売っているのかしら。いっそケンカを売るなら、アタシの目の前で堂々とやりなさいっていうの。もう、どんな奴があの見当外れの書評を書いているのか純粋な興味で会ってみたいわ」
「小説も一種の商品、仕方がないんです。出る杭《くい》は打たれます。でも、打たれるような杭にならなければなりません」
「ド素人が批評家ぶってボロクソに叩いているのよ。そんなに文句があるなら自分で書けっていうの。どうして自分で書かないのかしら。不思議だわ……あぁ、あの書評のサイトを教えるわ。八木沢さんも見てちょうだいっ。この業界のことなんか何も知らないド素人が書いたって一発でわかるから」
ボロクソに叩かれている書評を思い出したのか、ワイングラスを握る御影の手が震えている。今にもグラスが割れそうだ。
荒れるなら書評は見るな。
落ち込むなら書評は見るな。
英典は切に思う。
「ネットの書評は見ないほうがいいです。いえ、見ないでください」
「わかってるわよ。ねぇ……」
「はい?」
「次はスカトロを書かせて」
「それは…」
「何よぅ、ホモは書いちゃ駄目、娼婦《しょうふ》と夫婦も書いちゃ駄目、ラベンダーの基本は守っているでしょう」
ラベンダー・エロスにおいてセックスが職業となる娼婦もNG、セックスして当然の夫婦もNG、ホモは問題外のNG。
娼婦が男に陵辱されても読者は喜ばないだろう。夫婦間でのセックスを読んでも読者は萌えない。女が喘ぐものを読みたがっている読者に男の悶える姿など無用だろう。萌えるどころか萎《な》えるかもしれない。ヌかせてなんぼの官能小説が萎えさせるなどもっての他《ほか》。
何より、まず、三大NGは売れない。
売れないとわかっているものを出版するわけにはいかない。
御影はホモや夫婦をやたらと書きたがる官能作家だが、話せば基本はちゃんと守ってくれる。
「気持ちよく書いていただこうとは思ってますが、読者の意見は無視できません」
「気持ちよく書いていただこうなんて言っておいて、これはちょっとなんていうリテイクがやたらと多いのよね」
英典は基本的にあまりクレームをつける編集ではない。こちらがクレームをつけて売れなかったら責任が取れないからだ。これは文芸平安社時代からの編集者としてのスタイルである。
だが、これはいくらなんでもという時は思いきりクレームをつけた。やはり、出版社としては売れなければ非常に困る。
「基本ですから」
官能小説界において、ラベンダー・エロスは王道路線を走っている。
「基本ねぇ」
「基本中の基本です」
「基本に縛られているといつか痛い目に遭うわよ」
「痛い目に遭わないように基本中の基本を守るのです」
食べ終えたクラムチャウダーが下げられると、本日の魚料理が運ばれてきた。白い皿に盛られている穴子のパイ包みは芸術品のようだ。
若いウエイターがうやうやしく下がると、英典は御影の厚塗りの顔をじっと見つめながら語った。
「読者の意見に耳を傾けてください。その、体位のバリエーションはいいと思います。ただ、その……女性には男のための女性器があります。わかりますよね」
「アタシ、女のあそこって苦手なのよね」
「御影さんが苦手でも読者は好きです」
「尻派の読者にはウケているんでしょう」
「五回に一度は前のほうを」
絶品の穴子料理を食べながら交わす会話ではないだろう。
だが、英典は真剣だった。
もちろん、御影も真剣だった。
「アナルのほうが萌えるわ」
「何も、アナルを書くなとは申しておりません。ただ、五回に一度は前のほうでお願いします」
最初から最後までアナル責め、グリセリンもたっぷり注入、御影瑠璃子の本はいつもそうだ。
いい加減、アナルオンリーから卒業してほしい。
「アナルのほうがいいわよぅ。女のあそこなんてもう気持ち悪くて、グロテスクなんてものじゃないわ。あんなところからアタシが生まれてきたなんてぞっとする」
「男は好きなんです」
どうして僕がこんなことを……と、腐《くさ》っていては始まらない。これも仕事だ。ラベンダー書院の編集者はエロ戦士と化す。
「女のあそこからはね、血が出るのよ。どばどばどばどば〜と血が出るのよ。スプラッタなのよ」
「でも、男は好きなんです。読者は男です」
「八木沢さんもアナルよりあそこのほうが好きなの?」
「はい」
「八木沢さん、そんなに綺麗なのに」
「男ですから」
それ以外、言いようがない。
「男なの?」
「はい」
僕は男以外の何者でもない……と、目の前にいる御影と脳裏に浮かんだ不届きな年下の男に呟く。
あの年下の男は英典を女のように扱ったから。
いや、女のように扱っているから。
「男はアナルよりお×んこのほうが好きなの?」
御影が興奮してきた。
そろそろヤバイかな……と、思いつつも英典は低い声で返事をした。
「はい」
「もうっ、どうしてそんなにお×んこが好きなのーっ?」
御影の絶叫が響き渡った。
もちろん、店内の視線が集中する。
英典は俯《うつむ》くしかない。
「どうしてそんなにアナルが嫌いなの?」
だから、会いたくなかったんだ……と、英典は心の中で思いきり貴志を罵った。
御影は興奮すると見境がなくなり、周りの視線お構いなしに騒ぎまくる。
話の内容といえばエロ。
だが、誰も仕事だとは思ってくれない。
「御影さん、落ち着いて」
「お×んこなんかよりアナルのほうがずっといいわよぅ」
英典は神にも祈る気持ちで御影に頼んだ。
「御影さん、静かに」
「アナルもいいわよぅ、食わず嫌いは駄目よぅ、やってみましょう」
「……え?」
「八木沢さんには亀甲縛《きっこうしば》りが似合うわね」
いまだかつて、そのようなことを言われたことはない。
英典は人形のように硬直した。
「アタシに縛らせてね」
「…………」
「全部、任せてくれたらいいの。恐がらないで」
やっとのことで自分を取り戻した英典は低く凄んだ。
「やめてください」
「縛らせてーっ」
紺色のワンピースに身を包んだ若い女性とインテリエリートという風情《ふぜい》を漂わせているカップル、上品な中年の紳士と妻らしき女性、金と暇《ひま》を持て余しているような有閑《ゆうかん》マダムたち、店内の客も教育されているはずのスタッフも、御影と英典のやりとりを呆然とした表情で見つめている。
「出ましょうか」
「今まで三十五年生きてきて、一度もアタシの男心をくすぐった人はいなかったわ。八木沢さんが初めてよ、アタシの男心をくすぐったのは」
若作りの御影が三十五歳だとは今まで知らなかった。だが、驚いたのは歳ではない。その後に続いたセリフの意味が理解できなかったのだ。
「はっ……?」
「このアタシにも男の部分があったのね。初めて知ったわ」
「…………」
「アタシ、まだ工事前なの。八木沢さんのために残しておいたようなものだわ。アタシの童貞、八木沢さんに捧げるわ」
御影が性転換手術前だということはなんとなくわかっていた。いっそ女に化けるなら極《きわ》めておけ……と、思わず心の中で罵ってしまう。
何より、男は一誠一人で充分だ。
女の心を持つ男にまで押し倒されるなど冗談ではない。
「いりませんっ」
「アタシの童貞を捧げるから、縛らせてね」
縛られたいと思ったことなど一度もない。
誰かを縛りたいと思ったこともない。
僕にそういう趣味はまったくない。
「帰りましょう」
「アナルのよさを教えてあげる」
それはもう知っている。
いや、無理やり教え込まされたというのだろうか。
知りたくなかった快感だ。
「帰りましょう」
「アタシも初めての時は痛くて泣いちゃったけど、慣れるとそうでもないのよぅ。初めての時は優しくしてあげるから、安心してね」
初めての時、痛くて泣いたなんてものではなかった。
死ぬかと思った。
死ななかったのが不思議なぐらいだ。
「帰りますよ」
「アタシを拒むの?」
拒むに決まっているだろう。
御影瑠璃子が担当している作家、それも売れている作家でなければ、思いきり怒鳴っていたかもしれない。とりあえず、辛辣な嫌味は食らわしていただろう。
「帰りましょう」
「まだ、肉料理も食べていないわよぅ」
これだけ騒いで何が肉料理だ。
いや、このままここにいたら追い出されるかもしれない。
「帰りましょう」
「このまますぐにホテルに? それならいいわよ」
「帰りますよ」
「いろんな玩具《おもちゃ》が揃っているホテルがあるの。そこでいいわね」
「帰りますから」
英典は生き恥をかいた。
ラベンダー書院に就職していなければ、このような生き恥はかかなくてもよかっただろう。
いや、やはり電話で済ませていればこういう事態にはならなかったはずだ。
編集長、恨みます。
いや、編集長より一誠か。
一誠とつき合いだしてから絶対におかしい。
運気というのだろうか、なんというのかわからないが、確実に何かが下がっている。
英典は子供のようにだだをこねるオカマを必死になって店から連れだし、タクシーの中に放り込んだ。
「八木沢さん、ひどいわ」
後に続いて乗り込まない英典に、御影は涙を浮かべながら詰《なじ》った。
「さようなら、原稿はお待ちしております」
「冷たい」
「運転手さん、行ってください」
英典は顔を引きつらせている中年の運転手に一万円札を握らせると、頭をペコリと下げた。
御影を乗せたタクシーが走り出す。
後は野となれ山となれ。
御影は数少ない人気のある官能作家だが、御影の代わりはいくらでもいる。英典の代わりがいくらでもいるように。
六時過ぎ、編集部に戻らず直帰する。
とりあえず、疲れ果てていた。
その夜、一誠の声を聞く気力がなくて、英典は電話線を引っこ抜く。もちろん、携帯電話の電源も切った。
おそらく、今夜も一誠から電話があっただろう。
翌日、出社すると、いつもより男性フェロモンを発散させている花崎にきっちりと捕まってしまった。
「御影瑠璃子から電話がありましたよ」
「そうですか」
「編集は一種のサービス業、お相手してさしあげたら?」
御影は花崎に何を言ったのだろう、英典は整った顔を派手に歪《ゆが》めた。
「お断りします」
「生まれつきないと思われていた御影瑠璃子の男を奮《ふる》い立たせるとは素晴らしい。八木沢くんにそのような特技があるとは知りませんでした。『魔性の男』という名を捧げさせていただく」
「いい加減にしてください」
「編集長の『瀬戸際の魔術師』の異名は僕が、『魔性の男』は八木沢くんがそれぞれ引き継ぐことになりそうですね」
魔性の男などという異名は何があっても引き継ぎたくない。
「花崎さんの冗談はきつくて笑えません」
「とりあえず、上手くやるように。御影瑠璃子を怒らせてはいけません」
「ビジネスライクでいかせていただきます」
「男心だけでなく、オカマ心もわからない男だったんだね」
英典としてはオカマ心などわかりたくもない。
「花崎さん、この話はここまで」
「創刊ラインナップに御影瑠璃子が入っているんだろう。拗ねられると困るんじゃないか?」
あれだけの予算をかけて売れなかったらどうなるのだろう。
しかし、英典は何があっても御影瑠璃子のお相手などするつもりはまったくない。
「その時はその時です」
「減るもんじゃあるまいし、縛られてきたらいいじゃないか。何も、写真を撮らせろとまでは言われていないんだろう。文芸平安社からエロ雑誌に流れた編集はAV女優とよく絡んでいるじゃん」
なんの気なしに他社のエロ雑誌を捲《めく》り、そのページを見てのけぞったのは先日のこと。
真面目で潔癖《けっぺき》だった先輩編集者がグラビアページで若いAV女優と絡んでいた。
AV女優と絡めるなどなんて美味《おい》しいんだ、とは思えない。仕事に身体を張っているかつての先輩に目頭を熱くしてしまった。
彼もまた、文学というものを純粋に愛していた文学青年だったから。
「じゃあ、花崎さんが行ってください」
「指名は君だ」
「僕は花崎さんを推薦《すいせん》します」
「亀甲縛り、君に似合うだろう」
「花崎さんのほうが似合うと思います」
「僕は縛るほうが好きだ」
「それで、いつも彼氏に逃げられているんですか」
花崎の相手はよく変わっている。いつも、フラれるのは花崎のほうらしい。失恋直後の花崎は異常なのですぐにわかった。
「君、先輩に対する礼儀を忘れているようだね」
「また、失恋したんですか?」
「失敬な」
英典と花崎のいつ終わるかわからない陰険な言い合いに、苦笑を浮かべている貴志の仲裁が入った。
「君たち、不毛な話はそこら辺で」
「編集長、御影瑠璃子さんから何か?」
英典はいつもより哀愁を漂わせている貴志に尋ねた。
「君が冷たいと泣き喚いていた」
「ビジネスライクでいかせていただきます。僕は担当編集者として御影瑠璃子さんとつき合っていますから」
「編集部で暴れられないように気をつけてください。彼女は陸上自衛隊に所属していた方です」
御影瑠璃子が暴れても、英典の細腕では押さえこめないだろう。部内にも体育会系の御影に対抗できるような男はいない。
もしかしたら、花崎は腕力で張り合えるかもしれないが、御影を煽ることはあっても宥《なだ》めることはすまい。
英典は生贄として差し出されるだろう。
「ここ、入ろうと思えば誰でも入れますからね。警備員でも……」
「まず、警備員の予算は下りないだろう。とにかく、ここで暴れられないように」
勝田から聞いた貴志の昔話を思い出した英典は、探るように尋ねた。
「誰かに編集部で暴れられたことがあるんですか?」
ぷっ……と、英典のツッコミに吹き出したのは花崎だった。
魔性の男という貴志の異名の所以を花崎は知っているのだろうか。
英典は意味深な笑みを浮かべている花崎と貴志を交互に見つめた。
貴志の眉間には深い皺《しわ》が刻まれている。背後に背負っていた哀愁には悲哀が込められていた。
「八木沢くん、うちでは担当を替えない。御影瑠璃子のことは君に任せる」
「はい」
それから、英典は仕事に入った。
回りもそれぞれに励んでいる。
「奈良まで行ってくるから」
平田は連絡の取れない担当作家のもとへ向かうという。今にも倒れそうなほどやつれ果てていた。
「鹿がいますよ。見てきたらどうです」
英典は慰めたつもりだったが、滑ってしまったようだ。
「生駒《いこま》なんだ」
「鹿はいませんか」
「ああ……」
「いってらっしゃい」
英典は平田を見送った。
鈴木は担当作家から前借りを頼まれたのだろう、貴志にかけあっている。緒方は営業から何やらしつこく言われていた。
遅い昼食は一人で牛丼。
昼食を終えて編集部に戻ると、花崎から電話を回される。
またもや、如月満月からだ。
用件は同じ。
『今まで世話になっておきながら申し訳ない。だが、やはり、駄目なんだ。今入っている仕事はすべてキャンセルさせてくれ。このままだとどうなるかわからない。こんな気分じゃ、執筆することもできない』
「如月満月が何を言っているのですかっ」
『この仕事、やっぱり頭というのか精神というのか、そういうものでする仕事だろう。もう、こんな状態でパソコンに向かっても駄目なんだ』
「それでは、言わせていただきます」
英典はラベンダーの鬼と化して、如月満月を説得した。
二時間近く話していただろうか。やっとのことで如月は納得してくれる。執筆にとりかかってくれるようだ。
電話を切ると、受付のほうから聞き覚えのある声が響いてきた。
「英典さんっ」
空耳ではない。
あれは一誠の声。
まだ帰ってくる日ではない……と、壁にかけているカレンダーを見つめた英典は絶句した。
一誠はオープン戦の合間をぬって帰ってくると力んでいた。
今日がその日だ。
生き恥をかきすぎて忘れていた。
御影瑠璃子より始末の悪い男が乗り込んでくるとは。
英典は心臓に杭《くい》を打ち込まれたような気がした。
「うち、頭の悪い方の入室はお断りしています」
よりによってというのか、応対しているのはアンチ・東京シャークの貴志だった。
大神ジャガースの熱烈なファンである貴志にしてみれば、東京シャークのスター選手など憎らしい小僧以外の何者でもないだろう。特に、貴志は大神のピッチャーと相性のいい遠藤一誠を目の敵《かたき》にしている。たしか、プロ入り初のホームランは大神のエースから打った。
「東京シャーク一の巨根がいじめられている」
花崎は楽しそうに影からその様《さま》を見つめている。
英典が出ていこうとすると腕を掴まれた。
「花崎さん?」
「こんなこと、滅多にないぞ」
花崎の綺麗な瞳は少年のようにキラキラと輝いていた。
「離してください」
「静かに」
衝立《ついたて》の後ろで英典と花崎が静かに揉《も》み合っていたが、受付では一誠と貴志が堂々とやりあっていた。
「英典さんは?」
「英典とは?」
「英典さんです」
「英典さんですとは?」
「八木沢英典さんっ」
「そんなに力まなくていいから」
「八木沢英典さんは?」
「どんな人?」
昨シーズン、大神ジャガースからホームランを打ちまくった憎《に》っくき一誠に対し、貴志はどんなに怒っても決して表に出さない英国紳士のように優しい微笑みを浮かべながら嫌味を連発している。
「美人の人」
もうちょっと他の表現があるだろう、と英典は顔を引きつらせる。
「美人の人? うちに美人社員はいないって言ったら女性社員に怒られるんだけど、美人社員だったらあの子だね、と理解しても他の女性社員に怒られるんだ。女性は難しくってね」
「美人の男」
「美人の男? うちにそんなのいたかな」
「ここに美人の男がいる」
「美人の男に心当りがない」
「いるっ」
「ラベンダーと聞くと何かいろいろと妄想を掻き立てられるらしいんだけど、うちには背広を着たヨレヨレの編集しかいません」
「英典さんはヨレヨレじゃない」
ヨレヨレにしている張本人が何を言っているんだ……なんて罵っている場合ではないだろう。
だが、優男に見える花崎の力は凄まじく、振りほどくことができない。
「自慢にもなりませんがうちはヨレヨレばかりです。今にも死にそうな男もいます。ついでにいうと、ぶよぶよもいます。おまけに、双子の片割れもいるんですよ」
「ヨレヨレじゃない男がここにいますっ」
「ヘロヘロのことかな?」
「ヘロヘロじゃない男がいますっ」
「ああ、一人だけヨレヨレでもヘロヘロでもない男がいるかな」
「その人」
「花崎達也くんのことだね? 球界でも『ラベンダーのお花』の名前が届いているとは知らなかった。彼はいろいろな意味で有名らしいから」
たしかに、編集部内でヨレヨレでもヘロヘロでもない編集者といえば花崎しかいない。
「違う、八木沢英典さん」
「大きな僕、暴れないでほしい。ここは運動場じゃないんだよ」
筋肉隆々の大柄な男がどんなに興奮しても、貴志は少しも慌てなかった。上品な笑みを浮かべながら、辛辣《しんらつ》な嫌味を言い続けている。
「八木沢英典さんを迎えにきたんだ」
「暴れないで、運動会じゃないんだから」
「八木沢英典さんを出せっ」
「ここは動物園じゃないんだけどね」
「英典さんを出せっ」
「飼育係はどこに行ったの?」
「英典さん、どこにいるんだっ」
「飼育係とはぐれちゃったの? いい子にしていないとご褒美《ほうび》の人参がもらえませんよ」
「英典さん、どこにいるのーっ」
一誠はフロア中に響いたのではないだろうかというぐらいの大声で叫んだ。
心臓に直撃したのか、貴志は心臓を押さえながらにっこりと笑った。
「騒がないで」
「英典さんっ、迎えにきたよーっ」
「君の飼育係は英典さんて言うの?」
「えっ? その飼育係ってなんですか?」
一誠の頭の中身に貴志は驚いているようだが、言葉に詰《つ》まったりしない。英国紳士は余裕の態度で飼育係なるものを説明した。
「君に人参をくれる人のことです」
「英典さんから人参なんて貰ってない」
「ご褒美はバナナなの?」
「バナナも貰ってない」
「桃カン?」
「もっ、どいてくださいっ」
興奮している一誠は腕を振り回していた。
貴志の高い鼻梁《びりょう》を掠《かす》める。
「ほら、暴れないで。ここは動物園じゃないんだから」
「エロオヤジ、どけっ」
「僕がエロオヤジ?」
「どけーっ、エロ書院のエロオヤジーっ」
「エロ書院のエロオヤジなんて叫ばれたのは初めてです。官能小説を手がけている者にしてみれば最高の賛辞《さんじ》かもしれませんが」
貴志は優雅《ゆうが》な仕草で肩を竦《すく》めてみせる。
「エロエロオヤジ、どけっ」
「暴れないでください」
「エロジジイ、どけーっ」
「僕、君のところの監督より若いんだけどね」
「ジジイっ、どけって言ってるだろっ」
一誠の腕が貴志の胸倉《むなぐら》に伸びてくる。
ヤバイと思ったのか、貴志はにっこりと微笑みながら身体を引いた。口では負けないが、腕力勝負になれば勝敗は明らかだ。
「お目当ての方の名前を書いてください」
一誠は差し出されたメモにペンを走らせた。
すべて平仮名で書いたのだろう、貴志のチェックが入った。
「漢字で書いてください」
「うちに八木尺英典なんて社員はおりません」
僕の名前すら漢字で書けないのか、とは思わない。
英典だけでも漢字で書けるなら、頑張ったねと褒めてやらなければならないだろう。
日本語の文法をまったく理解できなかったばかりか、小学校低学年の読み書きすらまともにできなかったあの馬鹿には。
「いますっ」
「困ります、うちは幼稚園ではありません。もう帰ってね」
たしかに、一誠には幼稚園児なみの知能しかないかもしれない。だが、本当に幼稚園児だったらこんなところまでやってはこないだろう。
いっそのこと一誠が幼稚園児だったらよかったのに……と、英典は低く唸ってしまった。
背後では花崎が楽しそうに笑っている。
「英典さんはどこにいるんですかっ」
「大きな僕、困るよ、うちは馬鹿入室禁止だから」
「英典さんを呼んでください」
「だからね、うちは馬鹿は入っちゃいけないことになっているんだ」
「俺、そりゃ、馬鹿だけど」
「そうでしょう、馬鹿はここに入れないの。馬鹿がここに入ると非常ベルが鳴って防犯シャッターが下りることになっているから」
馬鹿に反応する警報装置や防犯装置などがこの世に存在するはずがない。それなのに、一誠はあるのだと信じたようだ。
「どうしてラベンダー書院にそんなのがあるの?」
「うちがラベンダー書院だからです」
「どうして馬鹿は入っちゃ駄目なの?」
「うちがラベンダー書院だからです、としか言いようがありません」
「ラベンダー書院だからって……もっ、英典さんを呼んでくださいっ」
「じゃあ……五問以上正解したら入っていいよ」
貴志は即席で問題を作った。
「読めるかな?」
「う……」
一誠はバッターボックスに立っている時と同じように、真剣な顔で問題用紙を見つめていた。
だが、答えは出ない。
「問一、この漢字、なんて読むのかな?」
「読めない」
「大きな僕、この漢字が読めないの?」
「難しい漢字は読めない」
胸を張って答えるな……と、言いたくなったのは英典だけではないだろう。
「馬鹿も読めないのか」
球界の寵児《ちょうじ》の頭脳に、さすがの貴志も驚いているようだ。花崎も魂が抜けたような顔をしている。
名うての二人をも驚かせる一誠の頭、もしかしたら貴重なのかもしれない。
いや、感心している場合ではないのだろう。
「俺、頭は悪いから」
頭は気が遠くなるほど悪いが恥じていない。
卑屈《ひくつ》にもなっていない。
ルックスに自信があるからか、年俸一億のスター選手という肩書きがあるからなのか。
おそらく、持って生まれた性分《しょうぶん》だろう。
一誠は庭でバットを振り回していた野球少年の時からちっとも変わっていない。呆れるほどピュアだ。
貴志が口にした『大きな僕』という形容はピシャリと当てはまっている。
「そのようだね」
「うん」
「じゃあ、帰ってね。うちは頭の悪い方は入れないから」
貴志が帰れと手を振った。
だが、一誠は帰ったりしない。
大声で叫んだ。
「英典さんーっ」
「この漢字を読んでみなさい。読めたら入ってもいいよ」
貴志は慈愛《じあい》に満ちた笑みを浮かべながら、一誠の顔面に問題用紙を突き出した。
「わかんない」
「一つぐらいわかるだろう?」
「一つもわかんない」
「君、高卒だよね?」
「はい」
「それでどうして卒業できたの?」
「野球で卒業した」
「大きな僕、野球選手になれてよかったね。それ以外じゃ、とてもじゃないけど仕事はないと思うよ。やっぱり、君は野球でがんばるしかないね」
六本木の店で再会した時、英典が食らわした嫌味を貴志も口にした。
「はい」
「ああ、だから入っちゃ駄目だって」
「英典さんを呼んでくれないなら入ります」
一誠が強引に編集部に入ろうとした。
もちろん、貴志は手を広げて一誠の進行方向に立つ。
「馬鹿が入ると大変なことになるの。これはわかるね? 警察もやってくる。あ、警察はわかるよね? 漢字で書いたら読めないかもしれないけど、それくらいはわかるよね?」
「警察はわかる」
「そうですか。警察に捕まりたくないでしょう。野球ができなくなりますよ。帰ってね」
「馬鹿だってこと、隠すから」
「無理、君が馬鹿だってことは隠せない」
「大丈夫、隠すから」
「うちは馬鹿は入れないの、入っちゃ駄目です」
「俺は馬鹿じゃないーっ、て言いながら入るから大丈夫」
一誠は真剣だし、貴志も真面目な顔で応対している。
だが、二人のやりとりを聞いている英典は眩暈《めまい》を感じていた。筋肉でできている一誠の脳ミソを知っていたはずだが、やはり底が知れない。
花崎も途方もない一誠の言動には驚いている。しかし、英典を押さえ込む力は決して緩まない。
「俺は馬鹿だーっ、て言っているようなものですよ」
「入りますっ」
「馬鹿は駄目。おりこうさんになってから来なさい」
「俺はおりこうさんだーっ、て言いながら入る」
「ああ、駄目よ、大きな僕。君がおりこうさんじゃないってことはバレているんだからね。うちの設備はとてもよくできているの」
「おりこうさんだって言いながら入るから大丈夫」
「大丈夫じゃないの」
「大丈夫、ファンの子にはあんまり馬鹿だってバレていないんだ。馬鹿だってことはちゃんと隠すから入れて」
「ファンにもバレているような気がするけど」
これだけ騒いでいればフロアにいる社員も気づくだろう。編集部の鈴木や岡本も受付にやってきた。
「東京シャークの遠藤一誠だ」
「東京シャークのラッキーボーイね」
鈴木と岡本も一目見るなり、ユニフォームを着ていない一誠の素性を当てた。
「どうしてこんなところにいるんだ?」
「知らないわよ」
「編集長の知り合い?」
「だから、知らないって。私が聞きたいわ」
製作部にいるデザイナーもわらわらと集まってきている。
一誠はコマーシャルにもよく出ているので、野球に関心のない社員でも知っているようだ。
「東京シャークの遠藤一誠だ」
「デカイな」
女性社員は一誠のルックスにはしゃいでいた。
「かっこいい」
「一誠くんて、テレビで見るよりずっといい」
「サイン貰おうか?」
「私、三枚ほど欲しい」
「私は十枚。妹も従姉妹も友達も好きなの」
「アンチ・東京シャークの編集長の前でサインを貰ったらヤバイわよ」
「まだペナントレースは始まっていないんでしょう。大神ジャガースの成績はいいはずだから、大丈夫じゃない」
一誠のアイドルタレントのようなルックスに惑わされないのが男性社員である。神妙な顔でヒソヒソと言い合っていた。
「それより、遠藤一誠がどうしてここにいるんだ?」
「僕が聞きたい。どうしてこんなところにいるんだ? オープン戦の真っ最中じゃないのか?」
「オープン戦の間でもこっちに帰ってこようと思えば帰ってこれるんだよ。無茶苦茶大変みたいだけど」
「それで、どうして遠藤一誠がうちにいるんだ」
「ここに誰か知り合いでもいるのか?」
「そんな奴、いるのか? 聞いたことがないぞ」
彼が遠藤一誠だということは誰もが知っている。
だが、どうして球界の寵児がここにいるのか誰もわからない。
知っているのは英典だけだ。
「もしかしてうちの愛読者?」
「お目当ての作家に会わせろとか? 今、うちで一番売れている五月雨木蓮《さみだれもくれん》辺りかな?」
「如月満月のファンだったら凄いな」
社員たちはそれぞれ遠藤一誠来訪の理由を口にしている。
そんな中、勝田がとんでもないことを言った。
「編集長は魔性の男だったよな、まさか……遠藤一誠も編集長の魔性ぶりにヤられているのか?」
勝田の言葉に度肝を抜かれたのは英典だけではなかった。受付付近に密かに集まっている面々も驚いている。
「え? あの遠藤一誠が編集長にトチ狂っているのか?」
「遠藤一誠は巨乳好きだろう。あの女子アナとは別れたようだけど」
「編集長はその趣味のない男でも狂わせるって、だから魔性の男なんだって、凄いんだって、そう統括が言っていました」
何が嬉しいのか、勝田は喜々として統括から聞いた貴志の過去を語った。
「スクープだ。遠藤一誠、ホモ疑惑」
「待て、うちはそういうところじゃない。それに相手はうちの編集長だ。ラベンダー書院の編集長が息子より若い男に追いかけられているなんて洒落にならない」
「編集長はジャガキチ、東京シャークなんて死ぬほど嫌いだろう」
「遠藤一誠、失恋か? それで荒れているのか?」
「いや……なんか違うみたいだけどな……」
「何か、馬鹿とかおりこうさんとか……」
「入るとか入らないとか?」
「何を言い合っているんだ?」
「静かにしろよ、聞こえない」
これ以上、騒ぎが大きくなる前に手を打たなければ……と、英典は花崎を振りきって出ようとした。だが、花崎に羽交《はが》い締《じ》めにされる。
「花崎さん、お願いですから離してください」
「こんな楽しいこと、滅多にない」
花崎は純粋に楽しんでいるようだ。
憎たらしくてたまらない。
「頼みますから、離してください」
「あの子が君の彼氏?」
「違います」
「あの子が彼氏なんでしょう。東京シャーク一の巨根のお味はどうですか?」
「違います。離してください」
「黒人みたいにデカイの?」
「離してくださいって」
「タマもサオもグレイト? 誰にも言わないから教えて」
花崎の手が英典の股間を弄《いじ》った。
相手が相手だけに笑って済ませられない。
「離して…って、どこを触っているんですか」
「不可抗力だ、暴れるから」
「だから、離してください」
「これがあの遠藤一誠がヤリまくっている身体か」
「花崎さんっ」
そうこうしているうちに、とうとう一誠が腕力を駆使《くし》した。貴志の身体をその鍛え上げた腕で振り払う。
「痛……」
貴志が床の上に崩れ落ちたので、様子を窺《うかが》っていた社員たちが出てきた。
「編集長、大丈夫ですか?」
「呼吸器ですか?」
「救急車を呼びましょうか?」
一誠は衝立の後ろに英典がいるとも知らず、編集部の中にズカズカと入っていく。「俺はおりこうさん、おりこうさん、おりこうさんっ」と大声で叫びながら。
馬鹿に対する防犯設備があると一誠は信じているのだろうが、そのセリフは無性に物悲しい。
もちろん、途方もない馬鹿が入室しても何も起こらなかった。
おまけに、編集部には誰もいなかった。
一誠は部内をグルリと見回した後、ラベンダー・エロスが並んでいる本棚に視線を流す。
「うわっ……」
ラベンダー一色に染まっている本棚におたけびをあげた。
あの分だと妄想を逞しくかきたてているに違いない。何せ、ラベンダー書院で輪姦されているというデマを信じた男だったから。
このままでは本当に取り返しのつかないことになる、英典は花崎の顔に向かって腕を振り回した。
ヒットはしたが、花崎の腕の力は緩《ゆる》まない。
「見かけによらず乱暴だね」
「花崎さん、離してください」
「いや」
「お願いですから離してください」
「可愛いじゃん、こんなところまで乗り込んでくるなんて」
一誠はズラリと並んだラベンダーのタイトルを見つめながら、とうとう世にも恐ろしいセリフを口にした。
「俺の肉奴隷がーっ」
爽やかがモットーの遠藤一誠の口から出たセリフに花崎は驚いたようだ。口をポカンと開けている。
出るなら今だ……と、英典は花崎の腕から逃れた。
だが、続けられた一誠のセリフに英典は硬直した。
「俺の英典さんがレイプ地獄ーっ」
英典は一誠の頭の中に何が渦巻いているのかわからない。だが、自分がいることだけはわかった。
「俺の英典さんがーっ、エロ書院でーっ」
英典という名前に、編集部の入り口付近で集まっている社員たちはきっちりと反応している。「英典さんって、八木沢くんのことだよね」と。
「遠藤一誠、八木沢くんを訪ねてきたの?」
岡本が鈴木に尋ねている。
「僕に聞かないでくれ……」
「八木沢くんがレイプ地獄? どういうこと?」
「僕に聞かないでくれ」
英典の前では一誠が叫んでいる。
背後では社員がヒソヒソと喋っている。
八木沢英典、最高の生き恥をかく……だ。
「俺の隣のお姉さんがーっ」
隣のお姉さんに焦がれた高校生、ラベンダー書院の者ならばあれを想像するだろう。隣のお姉さんだけでなく隣の未亡人や隣の人妻、なんていうものもある。何より、英典は隣のお姉さんではなくお兄さんだ。
一誠の前に出たくない。
「俺のっ、俺の隣のお姉さんを返せーっ。レイプなんかさせるかーっ」
今すぐこの場から消えてしまいたい。
「俺のお×んこだーっ」
思わず、殺意を覚えてしまった。
「これこれ、大きな僕、いくらここがラベンダー書院だからって、そんなことを言っては駄目ですよ」
床にへたりこんでいたはずの貴志が編集部に入っていく。そして、出版物の前で我を失っている一誠の肩を軽く叩いた。
「英典さんはどこにいるんですかっ。エロオヤジ、俺の隣のお姉さんに何をしてるんだっ。どこに隠したっ」
「英典さんは君の隣のお姉さんだったのか。知らなかったよ」
「うちの隣に住んでいたっ」
目が据わっている一誠に凄まれても、貴志はにっこりと微笑んでいる。
「そう、うちには英典さんなんていうお姉さんはいないから。ああ、暴れないでください。ここには大切なものがいろいろとあるからね」
「ここにいるんだっ、八木沢英典さんをどこに隠したっ。俺の隣のお姉さんだっ。出せっ」
一誠は部内をウロウロとうろつきまわっている。貴志の机の下まで覗いているが、そんなところに英典がいると思っているのだろうか。
「あ、マックを壊さないで」
「俺の英典さんを出せーっ」
「馬鹿は八木沢英典さんを見ることができないんだよ」
「えっ?」
「ここではね、馬鹿は八木沢英典さんを見ることができないんだ。何せ、彼はT大卒の秀才だからね」
「そんな……」
「おりこうさんになってからいらっしゃい」
「俺、英典さん見える」
「ここでは見えないの」
露《つゆ》となって消えてしまいたい。
だが、消えることはできない。
これ以上、一誠をここには置いておけない。
英典は渾身《こんしん》の力を振り絞って、編集部に足を踏み入れた。
「英典さん、見える、見えるよっ」
英典の姿を見た一誠は、手を叩いて喜んでいる。
貴志は英典を優しい笑みで迎えた。その口から漏れたセリフは辛辣《しんらつ》だったが。
「八木沢くん、この子を動物園まで送ってあげてくれないか」
「英典さん、このオヤジが意地悪するっ」
大きな子供は子供じみたセリフを大声で叫んだ。
咄嗟《とっさ》に、英典は用意していたセリフが出なかった。
「このっ……」
「八木沢くん、うちは馬鹿は入室禁止です。せめて、一つぐらい読める方でないと入室は許可できません。早く、帰らせてください」
柔らかい笑みを浮かべた貴志から、問題を綴《つづ》ったメモを差し出される。
英典は即席で作ったその問題を見た。
問1・馬鹿
問2・鯛
問3・薔薇
問4・蜜柑
問5・和歌山県
問6・表紙
問7・残業
問8・返品率
問9・廃刊
問10・倒産
馬鹿一誠に読めるわけがないだろう……と、英典は呟いてしまった。
何せ、英典は一誠の家庭教師をしたことがある。勉強以前、消しゴムのかけ方から教えた。あまりの頭の悪さに英典のほうが熱を出してしまったものだ。
「八木沢くん、この子と知り合い?」
君、東京シャークファンなの?
貴志の瞳は雄弁にアンチ・東京シャークを語っている。
だが、幸か不幸か、貴志の視線に決して知られたくないことへの疑惑はまったく含まれていない。
英典は固唾《かたず》を呑んで見つめている社員にも聞こえるように、大きな声で切々と弟・一誠を語った。
「遠藤一誠、隣に住んでいた子です。弟みたいな子で…その、本当の弟みたいな子なんです。この子には兄がいないので僕のことを兄として慕《した》ってくれているようなんですが、その、昔から本当に馬鹿で、もう気が遠くなるほど馬鹿でして、野球しか知らない子供でして、言葉もまったく知りません。おそらく、自分でも何を言っているのかわかっていないでしょう。お騒がせしました」
「八木沢くん、この子の隣のお姉さん?」
「この子、本当に馬鹿なので、お姉さんとお兄さんの区別がつかないんです。オヤジとジジイの区別もできません」
いくら一誠でもそれくらいはわかるだろう。
だが、英典は一誠を問題外の馬鹿として称するしかなかった。
「そんなに馬鹿なのか」
「はい」
「まぁ、野球選手には途方もない馬鹿が他にもいるからね。お兄さんとお姉さんの言葉の意味の違いがわからない男がいても不思議ではない。それに、兄と慕っているのなら、その思い込みもいろいろと凄いだろう。体育会系は熱いからね」
貴志の目は慈愛に満ちていた。なんというのだろう、同志愛を注がれているような気がする。
そこで、英典は貴志に一誠との関係を感づかれていることに気づく。そして、貴志なりのフォローを入れていることにも気づいた。
明日からのことより今。
今、明日のことは考えない。
「そうです。実は今日、一緒に食事をしに行く約束をしていたんですが、この子は時間を間違えたようです。僕がいつまでたっても現れないので心配したのでしょう。申し訳ございません」
「早く動物園に連れてかえってください」
「はい、失礼しました」
英典は一誠の手を引いたまま、編集部を後にする。
入り口付近に集まっている社員たちには、頭をペコリと下げながら一言入れた。
「お騒がせして申し訳ございません。この子、本当に頭が悪いんです。自分で何を言っているのか理解できていません。いえ、自分の気持ちを言葉で言えない子なのです。お兄さんとお姉さんの区別もつかない子なので許してください」
それから、ロッカールームからコートを取り出すこともせず、エレベーターの中に飛び込んだ。他にも人が乗り合わせているというのにキスをしようとするので、英典は一誠の腕を思いきりつねった。
「痛い」
「黙れ」
ビルの中から木枯しが吹いている外に出た時、英典は低く罵った。
「馬鹿っ」
「だって、マンションに帰っても英典さんがいない。ひどい」
一誠には一誠なりの言い分があるらしい。唇を尖らせながら、迎えなかった英典を詰《なじ》っている。
「仕事だってわかっているだろう」
「待っているって言ったくせにいなかった」
「仕事が終われば帰ってくるってわかっているだろう。こんなところまで押しかけてくるなんて何を考えているんだ」
まさか、本当に乗り込んでくるとは思わなかった。
常識の欠片《かけら》もない子供だと知ってはいたけれども、あんなことを堂々と言うとは思わなかった。
もう編集長には気づかれていても仕方がない。編集長ならば囃《はや》し立てることはないだろう。
だが、他の者たちにはどこまで気づかれているのだろう。
明日からどのような顔をして出社すればいいのだろう。
何より、先ほどの一誠をスポーツ新聞などにリークされたらどうしよう。
英典の目の前は暗かった。
そんな英典とは裏腹に、一誠の表情は明るい。久しぶりに英典と会えたからだろう。本当に単純な男だ。
「エロ書院でヤられているのかと思ったんだ。英典さんは俺が助けないと」
「ああ……もう、黙りなさい」
向こう側から同業者とおぼしき若い男がやってくるので、英典は一誠を黙らせようとした。
「英典さん」
「黙りなさい、ここにはマスコミ関係者が多い」
この通りには小さな出版社と編集プロダクションがいくつかある。どこで誰に見られているかわからない。どのような記事を書かれるかわからないのだ。
いくら東京シャークが大きな力を持っているとはいえ、メディアをどこまで黙らせることができるのか、定かではない。
今はネットでもあらぬことを書き立てられるようになっている。どこから尾ひれがついて大きくなっていくかわからないのだ。
「英典さん」
黙れと言っているのに黙らない。
英典は無視を決め込んだ。
「英典さん」
「…………」
「英典さん」
返事をしなければ永遠に呼び続けるだろう。
根気負けした英典は低い声で返した。
「もう、なんだ?」
「鳥が二個いる」
一誠の指の先にはチャボがいる。
目の前にある古書店で飼われている二羽のチャボは名物ともなっていた。
「一誠、なんでも一個、二個と数えるんじゃない。鳥は一羽、二羽と数えるんだ」
「めんどりだったらそのうちおんどりになるんだよね」
動物好きの大きな子供は、二羽のチャボに向かって手を振っていた。
「はっ?」
「めんどりって大きくなるとトサカが生えておんどりになるんでしょう。コケコッコって鳴くんですよね」
英典は呆然としてしまった。
一誠が馬鹿だということはいやというほど知っている。だが、これは馬鹿なんていうものではない。いったいこの子の頭はどうなっているんだ。もしかしたら、本当にお姉さんとお兄さんという言葉の区別がつかないのかもしれない。オヤジとジジイの区別もつかないだろう。僕がこの子の面倒を見てあげないとどうなるんだ。悪い奴に騙《だま》されないように守ってあげないと……と、思わず、英典は愛を誓《ちか》ってしまった。
「一誠……」
「はい?」
「それ、今までに誰かに言ったか?」
「高校の時の監督」
「監督はなんて?」
「プロに行けって」
監督も一誠の頭の中に呆然としただろう。正さなかったのは、正す自信がなかったからだろうか。
英典もめんどりは生涯《しょうがい》めんどりだと一誠に理解させる自信がなかった。
「そうだな」
「俺、プロになるって子供の時から決めていたし」
思い込んだら一直線、そのスタイルは子供の時から変わっていない。猛突進された英典はその激しさに嘆《なげ》いた。
「一誠……あ、地下鉄は危ない。タクシーに乗ろう」
「はい」
中年に差しかかっているタクシーの運転手に一誠の素性がバレた。だが、純粋に東京シャークのファンらしい。ペナントレースへの叱咤激励《しったげきれい》を受けるだけで済んだ。
どう見繕《みつくろ》っても一億以上するペントハウスの中に入った時、英典は疲れ果てていた。リビングの床の上に座り込んでしまう。
「死ぬかと思った」
「英典さん」
すぐに、一誠が伸しかかってくる。
「うっ……」
「寂しかった」
久しぶりに感じる一誠の身体はとても大きく、無茶苦茶熱かった。乱暴な手つきでネクタイを外され、英典は身体を捻《ひね》る。
「ちょっと…離しなさい」
「好き」
ベルトに手が伸ばされたので、英典は真っ青な顔で凄んだ。
「僕は戻らないといけない」
「どうして?」
「脱がすな」
ベルトが引き抜かれ、ジッパーが下ろされる。大きな一誠の手を引かせようとしたが、反対に押さえ込まれてしまった。うつ伏せの状態でズボンと下着を膝まで下ろされてしまう。
「ヤる」
白い臀部《でんぶ》を見た一誠のボルテージが上がったようだ。
「一誠、僕はまだ勤務中」
「勤務中ってなんですか?」
「仕事中」
膝で引っかかっているズボンと下着で下半身が動かせない。英典は手を伸ばして、床の上にあったドーナツ型の座布団を取る。
でも、ドーナツ型の座布団を振り回してもなんの役にも立たない。おまけに、一誠は英典の細い腰に唇を這わせている。
「やだ、あんなところ辞めてください」
「同じことを何度も言わすんじゃない」
「あんな意地悪なオヤジが上司なんて」
一誠が東京シャークの選手でなければ対応は違っただろう。貴志はどんな相手にでも尊大な態度は取らない。
「大神ジャガースのファンなんだ。仕方がないだろう」
「エロオヤジの上に大神ジャガースのファンなんですか」
「だから、エロオヤジじゃない」
「エロオヤジだっ」
双丘の割れ目に顔を埋められ、英典は低い悲鳴をあげた。
「エロオヤジは君だ、やめなさいっ」
「英典さんのエロオヤジは俺だけ」
割れ目を舌で手繰《たぐ》られて、英典は下半身を痙攣させた。
「頼む、落ち着いてくれ」
「綺麗なお尻」
「舐めるなっ」
「いや」
上から下へ、下から上へ、一誠の舌は一切|躊躇《ちゅうちょ》することなく、英典の際《きわ》どいところを舐めまくっている。清らかな生活を送っていた英典の身体は、すぐにおかしくなってしまったようだ。
そこへの愛撫に悦んでいる。
それは紛《まぎ》れもない事実。
「やめろーっ」
「久しぶり…会いたかった……」
秘孔に息を吹きかけられて、英典は腹の底から怒鳴った。
「ど…どこに向かって言っているんだっ」
「英典さんのお×んこに」
その卑猥な言葉は仕事以外では聞きたくないし見たくもない。第一、性感帯となっている排泄穴をそのような名称で呼ばれたくない。
「一誠、二度と言うなと言っただろう」
「可愛い」
「一誠、頼むから離してくれ」
「毎晩、夢に見たんだ」
「一誠、せめて風呂に入ってから」
もう、仕方がない……と、英典は諦めた。ここまできたら身体を差し出すしかないのだ。でも、このままでことに及ぶには抵抗がある。
「やだ」
「もっ……舐めるなっ」
「俺の尻奴隷」
その言葉を口にする一誠はとても幸せそうだ。
尻奴隷を呼ばれたほうは潤んだ目を吊り上げた。
「一誠っ」
「俺だけの英典さん」
「一誠、それはもうわかったから」
「幸せにします」
「幸せにするというなら離してくれ」
「いや」
ペロペロペロ……クチャクチャクチャクチャ……という卑猥な音が局部からひっきりなしに響いてくる。
聞きたくなくても聞こえてしまう。
英典は唇を噛み締めた。
「可愛いです」
「もっ……」
「テレフォンセックスで英典さん自分で自分のお尻の穴に指を入れたんだよね」
「んっ……」
「それ、見たい」
「馬鹿っ」
「あ、でも、俺が入れたい」
一誠は上着のポケットの中からチューブのゼリーを取り出した。
「そんなものを持ち歩いていたのか」
「はい」
「…このっ……あっ……」
ゼリーが英典の秘孔にたっぷりと塗り込められた。当然のように、長い指が身体の中に入ってくる。
「狭い」
「んっ……」
「キツイです」
内部を探るように指が動かされる。
「もっ……」
「やっぱ、アナルストッパーをしておかないと駄目なのかな」
「それは絶対にいやだぞ」
「俺の入るかな」
馬並みの巨根、できるなら受け入れたくない。
「入れなくていい」
「ひでぇ、絶対に入れる」
「んっ……」
指が二本に増やされ、一段と激しく動かされる。粘膜《ねんまく》は長い指を拒むことなく、絡みついていた。
「英典さん、寂しかった」
「そうか……あっ……そんなに動かすな……」
「英典さんは寂しくなかったの?」
本心を明かせばこの年下の男は荒れるだろう。嘘も方便、英典は細い腰を奮わせながら嘘をついた。
「寂しかった」
「そうでしょ、離れていると寂しい」
「仕方がないだろう……あっ……」
「ペナントレースが始まったら、また寂しくなる」
「プロなんだから我慢しろ」
「英典さんがエロ書院を辞めてくれればそれで済む」
「エロ書院を辞めても僕は編集という職業を捨てない。また、別の出版社に就職する。一誠が野球を好きなように僕もこの仕事が好きなんだよ。前にも言っただろう」
「悔しい」
体内で蠢《うごめ》いていた指が三本に増やされた。
「悔しいって……あっ……」
「英典さんを監禁したい」
途方《とほう》もない馬鹿のくせに、ラベンダー・エロスの中に登場する言葉はやけに詳しい。腹立たしいのは英典のほうだ。
「馬鹿っ」
「俺だけの英典さんなのに」
「もっ……ああっ……」
束《たば》ねた三本の指で体内を派手に掻き回され、英典の身体は熱く火照《ほて》っていた。一誠がいなかった間、一度も処理する必要がなかった股間の一物も勃起《ぼっき》している。触られてもいないのに、左右の乳首も固くなっているようだ。
「感じてる?」
「あっ…そんなにするから……」
「英典さん、エロいのに」
指が四本に増やされ、凄まじい勢いで体内を抉《えぐ》られる。潤滑剤と纏《まと》わりついて、卑猥な音を奏《かな》でていた。
「もうっ……」
「仕事を辞めてくれればもっとエロいことができるのに」
「はっ…あっ……ああっ……」
「いつでも入れられるようになる」
「馬鹿……」
「もう、入れたい」
「あっ……」
背後でゴソゴソとしていたかと思うと、秘孔に亀頭を押しつけられる。
「英典さん、力を抜いて」
「んっ……」
「失礼します」
いやな音とともに固い肉塊が体内に入ってきた。
「うっ……」
「痛い?」
痛くないわけがない。
一誠の持ち物は巨大すぎる。
「うっ……う……」
「痛くないから」
苦しくて息もできない。
でも、ここで拒んだら何か別のものを入れられるかもしれない。
秘孔を拡げるために。
「あっ……」
「痛くないでしょう」
「んっ……」
英典は凶器の侵入に耐えた。
「俺、少し痛いかも」
「それは…こっちのセリフだ」
思わず、自分勝手な一誠に言い返してしまう。
「久しぶりだからなんかしたほうがいいのかな」
「え……?」
「アナルストッパーとバイブは捨てちゃったんだっけ?」
「一誠、これ……これでいい……これでいいから……」
「俺のがいい?」
「ああ、一誠のがいい」
「俺のが一番いい?」
「ああ、一誠のが一番いい」
英典の言葉を聞いた一誠はとても嬉しそうだった。
「そっか……」
「んっ……」
「そろそろ全部入れたい」
ズズ……という音とともに肉塊が押し込められた。
「ふっ……んっ……んんっ……」
「これで半分」
「もっ……」
「後もう少し」
「あっ……」
大きいことは身に染みて知っていた。だが、こんなに大きかったか……と、英典は呻いてしまう。
「全部入った」
「うっ……」
腹部がそれでいっぱいになっているような気がする。圧迫感と激痛が快感を遙かに凌駕《りょうが》していた。
「動いていいですか?」
「待て」
「英典さん、やっぱ鍛えないと」
臀部《でんぶ》を軽く叩かれて、英典は潤んだ瞳から大粒の涙をポロポロと零《こぼ》した。
「このっ……」
「やっぱり、なまると大変ですね」
「君は…本当に……」
「そろそろいい?」
「もっ……あっ……」
「優しくするから」
優しくするというなら抜いてくれ。
「あっ……うっ……あっ……」
「俺の千切れそう」
「はっ……あっ……」
顔は床の上、腰だけが高く上げられている。まるで、一誠の男根を受け入れるためだけの体勢だ。
今の英典に己を恥じる余裕はまったくない。
辛い波を過ごすだけで精一杯といったところだった。
「英典さん、腰を振ってくれないんですか」
「もっ……」
「まだ苦しいんですか? 前はそんなんじゃなかった」
「あっ…はっ……」
「また、一からやり直し?」
「くっ……」
「それも楽しいかもしれないけど」
「あっ……」
「せっかくお尻だけでイけるようになったのに」
一誠の手が英典の縮《ちぢ》こまっている男根に触れ、ゆるゆると扱《しご》きだした。同じ性を持つ男だけあって巧《たく》みな手淫《しゅいん》だ。
秘孔への激痛が相殺《そうさい》され、英典の肌に快感が走る。
「あっ……はっ……ああっ……はっ……」
「また、頑張りましょうね」
「はっ……」
「もっと、もっとって、ラベンダーの女みたいに言ってくれるようになるんだよね」
官能小説は男の幻想である。
そのことは、執筆している官能作家が一番よく知っているかもしれない。
婚約者と平行線を辿っている如月満月など、それを如実に表している。
「馬鹿…あれは……男の幻想だ……」
「俺、そろそろイきたい」
「あっ……」
「英典さんもイきましょう」
追い上げられて、英典は頂点を迎えた。
その拍子に、体内にいた一誠の男根を一際《ひときわ》強く締めつけてしまったらしい。
一誠も英典の身体の中で己を解放した。
「あ……」
久しぶりの感触に、英典は下半身を小刻みに痙攣させた。覚えのある生々しい匂いも漂っている。
何か、無性にいたたまれなくなって、英典は目を閉じた。
「英典さん、寝ちゃ駄目です」
「え……?」
「もう一回」
身体の中にいた一誠の分身は、脈を打ちながら膨張《ぼうちょう》していった。
「もう、やめてくれ」
「じゃ、ちょっとだけ休憩《きゅうけい》」
休憩と口では言っているけれども、体内から出ていこうとはしない。それどころか、膝に引っかかっていたズボンと下着を脱がせている。
「…………」
「俺、まだまだしたい」
「…………」
「英典さん、いいでしょう」
「いやだ」
「したい」
ワイシャツも脱がされて、英典の白い肌を覆うものはなくなった。いや、靴下だけが残されている。やけに卑猥だ。
「もうっ…あっ……」
「英典さんの中、熱い」
一誠に派手に腰を使われて、英典は身悶える。
「くっ……ああっ……」
「もっ…もうっ……」
「英典さん、凄くイイ」
前立腺を擦り上げられ、英典の身体にも火がついた。重い腰も一誠のためにくねくねといやらしくくねっている。
「はっ……ああっ……」
「英典さん、えっちな腰」
射精感がこみ上げてくる。
単なる排泄孔は一誠を感じる器官となっていた。
「もっ……」
「もっと大きく振って」
「ああっ……」
「あ、ヤバイ」
一誠は二回目の頂点を迎えた。
英典も少し遅れて飛沫を床の上に撒《ま》き散《ち》らす。
「じゃ、次は綺麗な顔を見ながら」
ズルリ……という音とともに一誠の肉塊が出ていった。そして、身体をひっくり返される。
興奮している一誠の顔が、目と鼻の先に迫《せま》った。
「もっ…辛い……一誠、僕を大事にしてくれるんだろう」
「大事にしています」
「もう休ませてくれ」
「いや」
英典は腹の底から精力絶倫の男を罵った。
「一誠、君がするべきことは他にあるだろう」
「ん?」
「君のオープン戦の成績、あれはなんだ? 三振連続記録をまた更新したんだろう。それでも東京シャークの三番か?」
東京シャークの監督も一誠にはきついコメントをしていた。当然だろう、一誠は守備のエラーも目立った。
「三振だけじゃない、ゴロもした」
「堂々と言うな」
「えっと、キャッチャーフライもした」
「だから、そういうことを堂々と言うんじゃない。オープン戦、ヒットどころか内野安打すら打っていないっていうじゃないか。一塁ベースをまだ一度も踏んでいないんだろう。僕にこんなことをしている場合じゃない」
『誰か、遠藤一誠にあげまんを紹介してやってくれ』
『遠藤一誠をこれ以上甘やかすな』
『オフで怠《なま》けていた選手ナンバーワン、遠藤一誠』
そんな見出しがついた記事もあった。
スポーツ選手は成績次第でどのようにも書き立てられる。一誠のように場外での収入が多い選手だと尚更だ。
「一塁、ちゃんと踏みましたよ」
「まさか、四球で出塁なんてことは言わないよな?」
英典の記憶にある限り、オープン戦で一誠が打ったという記事を見た覚えはない。三球三振の記事はいくつも読んだが。
「死球で出塁しました」
「なっ……」
「思いきり頭を狙われました」
ヤられちゃった……と、一誠は爽やかに笑っている。
英典にはその神経が理解できない。
「それでどうして笑っているんだ」
「しょうがない」
「何がしょうがないだ」
「打席に立つと、英典さんの白いお尻が目に浮かぶんです」
一誠は照れながら想像を絶することを言い放った。
英典は言葉を失ってしまう。
「マグロの刺身みたいなお×んこもちらついて…それで、つい……」
「君は…どこまで……どこまで……」
「それに、美人の英典さんがエロオヤジになんかされていたらどうしようって」
「それだけはない」
貴志に何かされるどころか、反対に英典が貴志に伸しかかってしまった。編集長を押し倒して予算をもぎ取ったという噂を聞かせてやりたくなる。
いや、それはそれでまた一誠の荒れる原因となるかもしれない。
「加藤《かとう》さん、謝ったけど、二度と近づかないって約束したけど。英典さんがあまりにも綺麗だからって、許してくれって」
「徹夜で校了をしていたわけでもないだろうに。プロは目が悪いようだな」
東京シャーク所属の加藤|百太《ももた》に一服《いっぷく》盛られて、犯されそうになったことは今でも鮮明に覚えている。
危機一髪、乗り込んできた一誠の恐ろしさもよく覚えていた。
二度とあのような一誠は見たくない。
「英典さん、美人だから心配で」
「つまり、僕の姿がちらついて、バッターボックスに立っても集中できないというんだな」
「英典さんが足をがばっと開いて、俺のを入れてって言っているんです。俺がいないから、英典さんは自分で自分のお尻の穴を弄《いじ》くって、それで懐中電灯を入れてグリグリやりながら俺の名前を呼んで……」
その時の淫らな英典の姿を想像しているのか、一誠は夢を見ているような顔で熱っぽく語った。
英典の中で何かがプツリと切れた。
「一誠、やはり、僕は君のマイナスになってもプラスになることはないようだ。これ以上、傷が深くならないうちに別れよう」
「いやだっ」
叫ぶやいなや、顔中にキスの嵐が降り注ぐ。
「あっ……」
「絶対に別れないっ」
半開きになっていた唇に、一誠の肉感的な唇が塞《ふさ》ぐように落ちてきた。舌で口腔内《こうこうない》を弄られる。情熱的なディープキスだ。
「ふっ……」
「いやだっ、死ぬまで一緒にいるーっ」
唇が離れたら絶叫。
英典は子供、いや獣じみた一誠に大きな溜め息をついてしまった。
「落ち着け」
「何があっても別れないっ」
「まず、落ち着け」
英典は一誠の赤く染まった頬を手で摩《さす》った。
「英典さん、ひどい」
「僕は君がプロとして大成することを望んでいる」
一誠がどんなに野球に打ち込んできたか知っている。
開校以来最高の馬鹿と笑われている時代も知っていた。嘲笑《あざわら》った者たちを見返してやれという気持ちも大きい。
また、今でも純粋さを失っていないことも知っている。
一誠が可愛い。
ゆえに、やはり、一誠にはプロの世界で名を上げてほしい。
「大成?」
「僕は君がプロとして成功することを願っている。僕は君の足を引っ張るようなことは決してしたくない。僕の存在で君の集中力が欠けるなら、僕は君の前から去る」
スキャンダル以前の問題が持ち上がるとは思わなかった。
だが、一誠のためならばいつでも身を引く。
「はっ?」
「僕の言っている意味がわからないのか?」
「えっと……」
「それに僕は『あげまん』というのか? そのそういう運は持っていないと思う。とりあえず、一誠の勝利の女神ではないだろう。何せ、僕が就職した老舗《しにせ》の出版社は潰れ、人気作家も僕が担当した途端、売り上げが下がるんだ。なんというのだろう……僕は人の運気を下げてしまう男なのかもしれない」
僕は人の運気を下げる男なのかもしれない……は、以前から密かに思っていたことだ。
何せ、文芸平安社時代から、英典が担当についた途端、その作家の売り上げは落ちていく。
不況の波をモロに受けた。
作家もいわゆる人気商売だ。波はあるし、月夜ばかりではない。年商一億の作家でも来年は年商一万に下がるかもしれない。
たまたま、そういう時期にあったんだ。
そう自分に言い聞かせていたのだが、昨年の日本シリーズでラッキーボーイという称号まで貰っていた強運の一誠まで不調となると、偶然の一言では済ませられない。
幸運の女神は一誠から離れてしまったようだ。
自分のせいかもしれない……と、英典は不安になっていた。
「英典さんは俺の『あげまん』です」
「僕とつき合い出してから、君の成績は悪い。三振にゴロだろう? 今の一誠には運もない。僕のせいかもしれない」
「別にいい」
ジンクスを非常に気にするというプロのスポーツ選手はあっさりと首を振った。
「別にいい、じゃない。プロの世界で生きていくためには実力だけじゃ駄目、やはり運も必要だ。それは僕の世界でも同じなんだ」
「大丈夫、英典さんが俺のそばにいてくれたら、また打てます」
「ついでに言うと、僕は君とつき合い出してから運気が下がっている。僕たちは相性が悪いんじゃないか?」
「相性って?」
「えっと……」
一誠の頭に合わせて言い直そうとした。
だが、一誠の自信満々の笑顔と言葉のほうが早かった。
「俺は大丈夫です。頭は悪いけど運は強い。でも、英典さんがそんなに俺の心配をしてくれていたなんて嬉しい」
「一誠……」
「俺、英典さんのためにいっぱいホームランを打ちます。バックスクリーンに叩き込みます」
言うだけなら誰にでもできる。
英典は呆気に取られてしまった。
「…………」
「これからの俺を見てください。オープン戦にホームランを打ったって、肝心のペナントレースで打てなきゃ、どうしようもないんですよ」
「ま…そりゃ……」
「俺は本番に強い男です」
「そうなのか?」
「お守りをください」
一誠は英典の身体の上から引くと、部屋の片隅に置いていた縦に長いスポーツバッグのほうへ駆け寄った。
中からバットを取り出すと、呆然としている英典のもとにやってくる。
「このバットで俺はホームランを打ちまくります」
英典に一誠の商売道具であるバットが向けられた。
「は……?」
「俺は英典さんと一緒にバッターボックスに立ちます」
一誠はどこまでも真剣だった。
背後に『闘魂《とうこん》』という文字が浮き出ているようだ。
「一誠?」
「失礼します」
ズブ……という音が濡れている秘孔から響いてきた。
視界が真っ白になる。
頭の中も真っ白になった。
「英典さんは俺の大事なカミさん、俺の勝利の女神、俺はこのバットでホームランいっぱい打つ」
「こ……の……」
先ほどまで一誠の巨根を受け入れていた秘孔に、バットが捻《ね》じ込まれる。
英典は息もできない。
「俺、英典さんのために頑張る」
「…………」
バットが奥に進められる。
英典は口から心臓が飛び出るかと思った。
「俺、野球じゃ誰にも負けない」
「…………」
「俺、英典さんに褒めてもらえるように頑張ります」
このバットでホームランを誰より多く打っても、決して褒めることはないだろう。
口に出して罵りたいのだが声が出ない。
「俺、英典さんに自慢してもらえるような男になる」
このバットで三球三振を連発しろと罵ってしまう。
「英典さん、このバット、大事にするから」
今すぐ捨てろ。
なんなら、僕が焼き払う。
英典の意識が朦朧《もうろう》としてくる。
ここで意識を手放したらどうなるかわからない。
朝までバットは挿入されたままだろう。
声が出せない英典は必死になって頭を働かせた。
何か考えていないと危ない。
ラベンダー・エロスの中で野球バットを突っ込まれた女主人公はいたかな?
僕が知らないだけであったのかな。
大人の玩具はいうまでもなく、サイコロやビー球、大根に茄子《なす》、いろいろと入れられているから。
「英典さん、好き」
それは知っている。
「すんげぇ、好き」
「…………」
「無茶苦茶、好き」
「…………」
「一生、大事にします」
大事にされていると思えないんだけど……と、英典の意識はそこまで。
とうとう、英典は夢の中へ旅立ってしまった。
翌朝、眠気覚ましのコーヒーが胃にシクシクと染みた。飲まなきゃよかったと後悔しても遅い。
「英典さん、行くの?」
「今日は何があっても行く」
腰が痛んで椅子《いす》に座ることもできない。立っていると下半身がガクガクして倒れそうになってしまう。
だが、行かなければならない。
一誠が乗り込んできた翌日に欠勤など、聡《さと》い花崎以外にも何か感づかれるかもしれない。
いや、社内でどんな噂が流れているのかわからないが、早いうちに手を打たないとヤバイ。
一瞬、ドーナツ型の座布団を持参しようと思ったが、それではなんのために出社するのかわからない。
出社して、我慢できなくなったら、打ち合わせと称して外に出ればいい。
時間でくくることのできない編集者という職業は融通《ゆうずう》も利《き》く。
「行かないでほしい」
「行く」
「やだ」
「行く」
「じゃ、キスして」
「屈《かが》みなさい」
一誠は腰を折って、唇を突き出した。
英典はその唇に触れるだけの優しいキスをする。
「ちゃんと帰ってきてね」
「そっちも遅れないように」
「うん……」
英典は根性だけで会社に向かった。
この根性は受験勉強でも発揮されたものである。椅子に座ると眠ってしまうので、立ったまま勉強した。伊達に現役でT大に合格しているわけではない。
神童と呼ばれていたが、天才だったわけではない。頭はたしかによかったが、努力もしているのだ。
だが、勉強は努力すれば報《むく》われる。
野球と本の売り上げはどんなに努力しても報われるとは限らない。
努力に比例しないからこそ、ここまで熱中してしまうのかもしれない……と、英典は冷静に分析してしまった。
もちろん、好きだということが最大の理由なのだが。
「痛い……」
さすがに、地下鉄を乗り継いで出勤することはできない。腰痛バンドでなんとか腰を立たせている英典はタクシーに乗った。
「お客さん、気分が悪いんですか?」
後部座席でぐったりとしている英典に、バーコード頭の運転手が心配そうに尋ねてきた。
「いえ、ちょっと眠いだけです」
「そうですか」
何がなんでも行かなければ。
意地と根性と気力で編集部に辿りついた。
「おはようございます」
編集部のドアは最高の作り笑いを浮かべながら開ける。
「おはよう。落とされるかもしれない、どうしよう……」
鈴木と緒方は締め切りをとっくに過ぎても届かない原稿に真っ青になっている。おとなしい緒方など、今にも泣きそうだ。
「やっと来た。いい出来だわ。これだけ見たらなんて純真なイラスト。ラベンダーに変身するのが可哀相に思えてくる。でも、ラベンダー色に染まってね」
岡本はやっとのことで届いたカバーイラストを手に製作部へ向かう。
「あ、そういえば昨日の遠藤一誠……」
鈴木に一誠のことを言われるが英典は淡々とした口調で答えた。すべて、弟のような子と馬鹿でごまかせ……だ。
「昨日はお騒がせしました。うちの隣に住んでいた子なんです。見ての通りの馬鹿でして、何を考えているのか見当《けんとう》もつきません」
「そうか……」
届かない原稿に意識を取られているのだろう、それ以上突っ込まれることはなかった。
英典は密かに肩の力を抜く。
だが、やはり椅子に座ると腰がズキズキと痛む。背中は何か背負っているのではないかと思うくらい重い。
しかし、英典はポーカーフェイスでマックを開いた。
メールをチェックすると如月満月から長いメールが入っている。内容はうんざりするほど繰り返したもの。
英典は痛む腰を摩りながら、受話器を取った。
メールなんかでは埒《らち》が明かないからだ。
お育ちがいいというのか、嘘をつけないというのか、如月の母親がそうなのか、如月が居留守を使うことはない。
「如月さん、読者を裏切るんですか。たくさんの読者が如月満月の作品を心待ちにしているんですよ」
『そりゃ……』
「もう、はっきり言わせていただきます。夫となる男の天職ともいうべき職業に文句を言う彼女とは別れたほうが賢明です。結婚しても上手くいかないでしょう。如月さんに相応しい女性はいくらでもいます」
『彼女、父親が公務員で、お堅い家の娘なんだ』
花崎と貴志が出社してきた。
英典は会釈《えしゃく》だけの挨拶をする。
「実は、僕も公務員の息子です」
『え……』
「うちもお堅いといえばお堅い。たしかに、退職しろと言われています。でも、退職するつもりはありません」
『そんなにエロが好きなのか』
「そういうことにしておいてください。それに、僕はこの仕事で生活しています。誰にも文句は言わせません」
二時間に及ぶ説得で、如月は執筆に入ってくれるようだ。
いい加減、このやりとりは終わりにしたい。一言もなく雲隠れ、にならないだけマシかもしれないが。
受話器を置いて大きな溜め息をつくと、待ってましたとばかりに、意味深な笑みを浮かべた花崎が近寄ってきた。
「八木沢くん、どうだった?」
如月満月とのことを尋ねているわけではない。
「何がですか?」
「わかっているくせに」
花崎は英典の前で肩を大げさに竦めている。
「なんのことでしょうか?」
「東京シャーク一の巨根はどうだったって聞いているんだよ」
何を言われても動じない、その場を見られたわけじゃないんだから堂々としていればバレない、バレていても肯定しなければいい……と、英典は淡々とした口調で返した。
「東京シャーク一の巨根? ああ、あの子のことですか。週刊誌でそんなことを書かれているみたいですね。あの子、体格がいいですからね。あちらのほうも立派なのでしょう」
「仲、とても濃《こ》そうだったね」
花崎特有の言い回しに、英典は優しく微笑みながら自分の立場を明確に表した。一誠は弟のようなものと。
「僕はあの子がランドセルを背負った頃から知っていますから」
「へぇ〜今までそんな話、聞いたことなかった」
「東京シャークの遠藤一誠と知り合いだってバレると、チケットを融通してくれとか言われるでしょう。困るんですよ。サインや写真を強請《ねだ》られるのもちょっと困ります。あの子も忙しいみたいですから」
「それだけ?」
「僕は『彼をよく知る関係者』として紙面に登場するつもりはありません。あの子の家とは家族ぐるみのつき合いをしています。あの子の記事で家族が泣くことがあるかもしれませんから」
「つまり、八木沢くんは遠藤一誠の秘密をいろいろと知っていると?」
「あの子がどれだけ頭が悪いかもうわかったでしょう。いくらなんでもあの頭の中身がバレたらヤバイんじゃないでしょうか。あの子、めんどりはおんどりになると思い込んでいるような頭ですよ。お兄さんとお姉さんの言葉の意味の違いもわからないんですよ」
爽やかなイメージが崩壊するかもしれない。とりあえず、コマーシャルの本数は減るだろう。
「野球選手に知性を感じたことはない」
「ものには限度がありますから」
「君、本当にふてぶてしいね」
「花崎さんほどではありません」
「東京シャーク一の巨根が板東久美子と別れた原因は新しい彼女の出現だって、番記者の間では評判らしいよ」
「そうなんですか」
「新しい彼女が誰なのかわからないって、ゴシップ誌のライターは血眼になって探っているらしい。何せ、あの板東久美子を捨てさせた彼女でしょう。どんな素晴らしい彼女なのかって知りたくてしょうがないらしい」
板東久美子は巨乳の才色兼備、人気絶頂の女子アナウンサーだ。ゴシップ誌にも頻繁に登場している。
英典は板東久美子を捨て自分に走った一誠が信じられない。
「プライバシーがないあの子も可哀相に」
英典は銀縁のメガネに手をかけながら、無駄にフェロモンを発散させている色男を見つめた。
「何か、君にラベンダー書院大賞を授けたくなってきた」
「どうも、賞金をいただいたら宝くじを買います」
「ま、いいでしょう。ここら辺で許してあげる。何せ、君にはこれからアンチ・東京シャークの陰険な嫌がらせが待っているんだから」
貴志から何かあるというのだろうか、英典は貴族的な顔立ちを派手に歪めた。ブースの向こう側に貴志がいる。
「大神ジャガースが十八年ぶりの快進撃を続けてくれたら、編集長の英国紳士風嫌味を聞かなくても済むかもしれない」
「じゃ、編集部は一丸となって大神ジャガースを応援しますか。会議で大神の応援歌を歌います? 花崎さんは大神ジャガースネクタイを締めてくださいね」
「僕は僕の美学に反することはしたくないな」
「花崎さんに似合いそうですよ」
電話が鳴ったので、英典は逃げるように受話器を取った。今にも泣きそうな平田の声が聞こえてくる。
『逃げられた』
「平田さん?」
『やっとコンタクトが取れた大家さんにも確認した。なんでも、ロワール地方の古城めぐりに行くということだ』
「そうですか」
『どうやったって間に合わない。とりあえず、僕は今から帰る。すまない、僕の担当している作家の中で代わりに上がりそうなのは誰もいない』
来月刊行を予定した作家は海外に逃亡したらしい。
これは売れるだろう、と貴志と平田が太鼓判《たいこばん》を押したハードな陵辱物は、当分の間読者のもとに姿を現さないだろう。
差し替えで誰の本を出すか。
もう、無理か。
英典が花崎に報告すると、編集部内は俄《にわ》かに慌《あわただ》しくなった。鈴木と緒方が担当している作家もそれぞれに落としそうなのだ。
ここまで重なることは珍しい。
呪《のろ》われたラベンダー書院か。
「再来月発行のラインナップに早書きはいない。それどころか、締め切り破り伝説を作った遅筆作家もいる」
再来月に発行を予定している作家陣を確認した花崎は肩を竦めた。
奇跡でも起こらない限り、発行を来月に早めることはできない。大神ジャガース十八年ぶりの優勝よりも難しいだろう。
「新人を使うか?」
鈴木の言葉に岡本が続いた。
「投稿作品は?」
「使えそうな投稿作品はありません」
どのような作品でも送られてきたものは最初から最後まですべて読め、と指導されている。
英典は緒方と一緒にすべての投稿作品に目を通したが、これといったものはなかった。
「八木沢くん、そっちはどこまで進んでいるんだ?」
「確認してみます」
「創刊のほうは? そっちにも影響が出るんじゃないのか?」
「当たってみます」
「八木沢くん、紙屋さんから電話」
「はい」
貴志も昨日の遠藤一誠乗り込み事件には一切触れなかった。
そんな場合ではないからだ。
「本当に三人も落としそうなのか?」
「はい」
「集まってください」
急遽《きゅうきょ》、編集会議が開かれた。
平田の穴はやり手の花崎が埋めることになった。
これで平田は花崎に一つ借りができる。
「八木沢くん、尻派がほしいと思わないか?」
花崎に肩を叩かれたが、英典は首を縦に振らなかった。
「このままだと、尻が誰もいない。人妻、妹、女教師、そのバランスは取れているんだけどね。尻も一つほしいところだ」
御影瑠璃子を指していることはたしかめなくてもわかる。英典は澄んだ瞳を細めながら、意味深な笑みを浮かべている花崎に言い返した。
「御影瑠璃子、今からではとてもじゃないけど間に合わないでしょう」
「尻派がほしいんだ」
貴志も花崎と同じ意見なのだろう。口を挟もうとしない。
英典にしてもラインナップを前にしたらそのように思う。
だが、首を縦に振るわけにはいかない。
「御影瑠璃子の発行予定は再来月、このままでお願いします。まだ、一行たりとも書いていないと思います」
「君次第じゃないのか?」
「御影瑠璃子、筆が荒れるようなことはしませんよ。ああ見えて、プロです。無理な仕事は引き受けない」
御影瑠璃子に扶養家族がいないこともあるのだろうが、生活のために無理な仕事を入れることはない。
「そこをなんとかするのが君の仕事だ」
「無理です」
「萌えたら、一気に書き上げるんじゃないか?」
「それはないでしょう」
「作家のやる気を起こさせてこそ編集ですよ」
「やる気を起こさせるですか、経費で彼女が好きそうなブランドものでも贈りますか?」
「花崎くんと八木沢くん、そこまで」
花崎と英典の言い合いを貴志が止める。
それから、デッドラインを彷徨《さまよ》っている緒方に言葉を向けた。
「来月の一冊、僕がなんとかしよう。緒方くんのほうは?」
「まず、無理だと思います。振り分けに失敗したかもしれません。すみません」
緒方は巨体を震わせながら詫びた。おとなしい男だけに、何か痛々しい。おそらく、これでまた太るだろう。
「再来月に回そう。鈴木くんのほうは?」
貴志に尋ねられた鈴木は首を左右に振った。
「わかりません。何せ、電話に出てくれませんから」
「大物は逃げないんだけどね。デビュー二年目だったかな?」
「デビュー三年目です。一人暮らしなんで、身体を壊して寝込んでいるっていう可能性もあるんですが」
今日中に連絡が取れなかったら、福岡まで行ってきますけど……と、鈴木は溜め息をついた。
「そうか、諦めたほうがいいかな」
「すみません。再来月には必ず間に合わせます」
貴志が岡本に視線を流した。
「潤奈亜紀《じゅんなあき》の陵辱物が進んでいます。ヒロインは女医です。印刷所次第でなんとかなるかもしれません」
印刷所に泣いてもらおう、という一致を見たようだ。
どこにでも『瀬戸際の魔術師』と『デッドラインの軽業師《かるわざし》』が必ず一人はいる。間に合わせてくれるだろう。
貴志はにっこりと微笑みながら結論を出した。
「それでいこう」
会議が終わると、ラベンダー戦士たちはそれぞれの仕事に入る。
花崎は外に出ていった。
岡本は電話口で派手に騒いでいる。
「無理を言って申し訳ございません。ありがとうございます。ええ…ええ……もう、これが終わったら飲みにいきましょう。ええ……もちろん、よろしくお願いします」
岡本は締め切りの前倒しに成功したようだ。見守っていた貴志に向かってガッツポーズを取っている。
「編集長、すみません。いいですか?」
緒方が丸々と太った肉体を小さくしながら、貴志の前に進んだ。
「どうしたの?」
「蒼埜鬼京《あおのききょう》さんが前借りさせてくれと言っています」
そのペンネームを聞いた貴志の瞳が曇る。
「蒼埜鬼京、再来月発行の分はもう前借り済みだったよね」
「その次の八月発行予定の本の前借りです」
「いくらぐらい欲しいって言っているんですか?」
「その……」
緒方の声がますます小さくなっていった。
同情したりしない、明日は我が身だ。
英典が担当している作家の中にも前借りの常連がいる。
ゴホッ……と、咳き込むと腰に激痛が走った。机の上に立てかけている資料に手を伸ばしても、腰がズキズキと痛んだ。
英典は椅子に座っているのが耐えられなくなっていた。
今日は早目に帰って、横たわりながら校正ゲラに目を通せばいい。
ボードには担当作家との打ち合わせ・直帰と記してから編集部を後にした。勘ぐる者は誰もいない。
タクシーに乗って青山のペントハウスに戻った。
青山・プラザ・カーライル、勝ち組しか住めないところだ。
スーツから部屋着であるジャージの上下に着替え、ベッドの中で校正ゲラを確認した。何度もチェックする。
これでいいだろう……と、校正ゲラを置いた時、携帯の着信音が鳴り響いた。
一誠からだ。
無視しようかと思ったのだが出てしまった。文句の一つも言いたかったのだ。しかし、一誠のほうが素早かった。
『英典さん、俺、やったよ』
「は?」
『三打席連続ホームラン、英典さんに捧げました』
「今日の試合で?」
『はい、やっぱり英典さんとたくさんえっちすると調子がいいみたいです。あ、やっぱ、英典さんのお守りが効いたのかもしれない。英典さんのお尻の穴の中に入れたバットで軽く打てました。英典さん、俺の勝利の女神じゃん。ありがとうございました』
よりによって、どうしてあんなバットでホームランを打つんだ。今日の試合ばかりは、不調でいてほしかった。二軍落ちするほど空振り三振をしても一向に構わない。なんなら、ケガで退場しても構わない。
一誠は調子に乗っているだろう。
これからの日々が思いやられる。
「一誠…………」
『俺、早く帰るから。英典さんも早く帰ってきてください』
「あのね」
『あのエロオヤジに意地悪されているんですか? 迎えにいきましょうか?』
「二度と来るな」
『今夜もいっぱいえっちさせてくださいね』
「僕を殺す気か」
一誠を呼ぶ宇都宮の声が聞こえてきた。
『英典さん、好きです。じゃあ』
携帯が切れた。
いざとなったら特製ジュースで眠らせてやる……と、英典は冷蔵庫の中に常備している睡眠薬入りのジュースを思い浮かべた。
トーストを食べていると携帯の着信音が鳴り響く。
如月満月からだ。
まだ、うだうだしているのか……と、うんざりするが無視するわけにはいかない。
「八木沢です」
『お世話になっております。如月満月です。今、よろしいですか?』
「はい、どうぞ」
『その…僕、青山・プラザ・カーライルの前にいます』
ここの前にいるのか?
どうして?
思いがけない如月の言葉に英典は驚愕した。
「え……?」
『ラベンダー書院に行ったら八木沢さんが丁度《ちょうど》出てきて、でも、声をかける前にタクシーの乗ってしまって…その……』
「もしかして、追いかけたんですか?」
『すみません、その、お話したいことがあったので』
あれから、何時間たっている?
英典は時間をたしかめようとしたが、時計が見当たらない。
「すぐに携帯にかけてくれればいいのに。下にいるんですね、行きます」
すべてを白紙に戻せと言うのか?
そうはさせない。
御影瑠璃子がどうなるかわからないのに、如月満月にまで逃げられてなるものか。
ラベンダーの鬼と化した英典は、携帯を切るとコートを羽織《はお》った。
建物の周囲に張り巡らされたグリーンゾーン、植えられている何本もの木々が風に揺れている。
季節は春とされている月だがまだ寒い。
敷地内にある見事な庭園の一角、芝生の上に座り込んでいる如月を見つけると駆け寄った。
如月が着ているクリーム色のカシミアのコートは一目見ただけでその価値がわかる。腕時計は銀のブルガリ、十七歳の誕生日に母親から贈られたものだという。良家の子息に相応しい姿だ。
青白い細面《ほそおもて》は可もなく不可もなく、これといって特徴がない。どこにでもいる平凡な男だ。
とてもじゃないが、官能小説を読み込んだ読者をも唸らせるSM作家には見えない。
「如月さん、お待たせしました」
「ここに住んでいるんですか?」
如月は海外でも活躍している建築家が手掛けた高級感溢れる建物を見上げた。洗練された街に相応しいマンションだ。裕福な環境で育っているので、マンションに対する感嘆はない。
「違います」
「そう……」
「喫茶店にでも……」
すぐ近辺では思い当たらないが、でも、ここから少し歩けばそれらしいところが広がっている。洒落たカフェやゆったりと寛《くつろ》げる喫茶店もあった。
「八木沢さんがいなければ彼女を諦めることができなかった」
如月は唐突に語りだした。
「は……?」
「いや、八木沢さんがいたから彼女を諦めた。僕は本当の僕を理解してくれる人と進もうと思う」
「はい?」
「いえ、八木沢さん、僕の最初で最後の結婚のチャンスを邪魔しましたね。責任を取ってください。こんな商売していると、女性と知り合う機会すらないんですよ。この商売を始めてからというもの、僕が喋った女性は母だけだったんです」
何を言っているのか瞬時に理解することができなくて、英典はなんともいえない返事を連発した。
「……はい?」
「僕、家を出る決心がつきました。これから、よろしくお願いします」
「えっと、仕事に熱中してくださるんですね? ありがとうございます」
「僕の結婚を阻《はば》んだんです。責任を持って僕を幸せにしてください」
ここにきて、やっと如月の言おうとしていることに気づく。一誠とのことがなければわからなかっただろうが。
「如月さん、それは……」
「僕、そういう趣味はなかったんだけど、八木沢さんならOKです。それどころか、インスピレーションが湧いてきます。貴族的な男を調教する、これぞSの真髄」
一誠にも調教なる言葉を向けられて頭に血が上った。
お坊ちゃまに言われても笑えない。
いや、調教するなど、誰からも向けられたくない言葉だ。
「僕にその趣味はありません」
「僕の結婚の邪魔をしておいて逃げるのは許さない。僕は家も出てきたんですよ。一緒に暮らしてくださいね。今夜から調教を開始します」
今まで、如月はこちらの話をちゃんと聞いた。会話のキャッチボールが成立しなかったことなどない。
だが、今の如月は英典の言葉を聞いていないようだ。
「如月さん、自分を見失っています。落ち着いてください」
「僕は進むべき道を見つけました。もう、家族に隠れてエロ原稿を執筆はしない。エロ作家がいやだという婚約者は忘れる。これからは堂々と如月満月と名乗り、本当の僕を隠さなくてもいい八木沢さんと一緒に人生を極めます」
「お断りします」
「僕の人生を狂わせておいて何を言うんだ。僕だって、人並みに結婚して夫になり、父になろうとした。如月満月の名前を捨てようとしたんだ。でも、八木沢さんは捨てさせてくれなかった。おまけに、僕の心まで奪った。責任を取ってください」
「僕は官能作家としての如月満月を望んでいます。プライベートまで求めていません。いえ、プライベートでのつき合いは一切求めません」
作家としての如月満月以外は無用です、という英典の気持ちは如月に届いていないようだ。
「八木沢さんは色が白いから首輪が映えるでしょう。拘束具も似合う。僕、今からゾクゾクしているんだ。八木沢さんをモデルにしたら何冊でも書けそうです。ありがとう、僕のミューズ」
勝利の女神になったり、芸術の女神になったり、英典はなかなか忙しい。
「ミューズって……」
「八木沢さんは僕の究極のMの女神です」
縛られて悦ぶような性癖は持ち合わせていない。
英典は腹の底から怒鳴った。
「違いますっ」
「僕はSです。最高のカップルになります」
「カップルになることはないでしょう」
「二人でSMを極めましょう」
「紙面で極めてください。自由に書いてくださって結構ですから」
小説の中でなら、何をどのように書かれても構わない。
「如月満月、最高傑作を書くと誓います」
「どうも」
「さ、八木沢さん」
「プライベートでのおつき合いはお断りさせていただきます」
「八木沢さんに僕を拒む権利はない。僕の人生を狂わせたのは八木沢さんなんですよ」
ガバっ……と、如月に抱きつかれて英典は驚いた。
「ちょっ……」
「僕より細い」
身長は英典のほうが少しだけ高いが、体重は如月のほうがどう考えても重い。おまけに、英典の身体はガタガタ、抵抗する腕力がなかった。
優雅な一人暮らしをしていた頃なら、五十メートル歩いただけで息が切れると公言している如月を引かせることもできただろうに。
「離してください」
「八木沢さんは僕を幸せにする義務があります」
「如月さん、落ち着いてください」
「僕、君となら世間から白い目を向けられてもいい。エロ作家の上にホモ、喜んで二重苦を背負います」
「如月さん、ちょっと……」
その時、背後から恐ろしい声が響いてきた。
「俺の英典さんに何をするーっ」
「一誠、やめ……」
止める間もなかった。
一誠は英典に抱きついていた如月を凄まじい勢いで引き離したと思うと、殴り飛ばす。
「うっ……」
一誠の右ストレートを食らった如月は五メートルほど吹っ飛んだ。
そして、芝生の上に倒れた。
ピクリとも動かない。
無理もない、如月も運動とは無縁の人生を送ってきた優男《やさおとこ》だ。体育祭の前夜、学校に火をつけたくて仕方がなかったと笑っていた。極めつけの運動音痴で自転車にも乗れないとか。
「この野郎、ぶっ殺してやる」
「一誠、やめなさい」
如月が失神《しっしん》しても、一誠の怒りは収まっていない。
英典は真っ青な顔で一誠にしがみついた。
「俺の英典さんなのにっ」
「一誠、君が本気で殴ったら死んでしまう」
一誠はプロとして鍛え上げている加藤でも殺しそうになった。ひ弱な如月など、簡単に殺してしまうだろう。
「こんな奴、殺してもいい」
「馬鹿、君は野球で身を立てるんだろう。殺人罪の罪は重いんだぞ」
「殺人罪ってなんですかっ」
英典には殺人罪なるものを今の一誠に理解させる自信がない。慌てて、言い回しを変えた。
「人を殺したら刑務所に何年も入るんだ」
「刑務所に入ったら、その間に英典さんを盗られる。犯されるっ」
自分が刑務所に入るより、英典のほうが心配らしい。
呆れている場合ではない、英典は必死になって一誠を宥《なだ》めようとした。細い腕を一誠の太い首に回し、顎先にキスをする。
「一誠、落ち着こうな、落ち着いて、落ち着いて、頼むから落ち着いてくれ」
「こいつ、誰?」
顎先へのキスで一誠の背後に背負っていた夜叉が消えるが、アイドルタレントのような顔は鬼のままだ。
「彼に近寄るな」
芝生の上で失神したままの如月も心配だが、一誠がここにいると何をするかわからない。英典は一誠の手を引いてマンションの中に入ろうとした。
だが、芝生の上に押し倒される。
「一誠、中に入ろう」
五メートル先では如月が伸びたまま、冷たい風の直撃を受けている。
「あいつ、誰?」
「婚約者にフラれてヤケになっている人だ。一誠が荒れる必要はない」
英典は一誠の身体の下から出ようとしたが無駄だった。何せ、少し動いただけでも腰が痛む。
英典は低い呻き声をあげた。
「う……」
「婚約者にフラれたからって、どうして英典さんに抱きつくの?」
「誰かの胸で泣きたくなる時もあるんだ」
「英典さんの胸で泣くのは俺だけっ」
胸に凄い勢いで顔を埋められると、腰に衝撃が走る。
「一誠、痛い……」
「俺のほうが痛い」
「本当に君が荒れるようなことはないんだよ」
「俺の英典さんなのに、ちょっと目を離したら」
ジャージの下に一誠の手が潜り込んできたので、英典は真っ青になった。
「一誠、中に入ろう」
「あいつ、許せねぇ」
如月は呻き声もあげない。
まだ、夢の中を彷徨《さまよ》っているのだろう。
「一誠、訴えられたらどうするんだ」
「殴り飛ばしてやる」
「あの、訴えられるっていう意味はわかるんだね? 選手生命も絶たれるかもしれないよ。いや、選手として終わるかもしれない」
「俺の英典さんに手を出す奴は誰であっても許さない」
頭に血が上っている一誠に英典の言葉は届かない。
ジャージの中で一誠の大きな手が乱暴に動いた。
「あっ……」
「俺の肉奴隷だっ」
「やめてくれ」
「俺の牝奴隷だっ」
ジャージの下と下着が引き摺り下ろされる。
英典は天にも祈る気分で懇願した。
「頼む、ここではやめてくれ」
「俺だけの英典さんだっ」
「わかってる、それはわかっているから」
一誠の手を掴んでも効力はない。
英典は動き回っている一誠の顔を両手で挟むと、その唇に触れるだけのキスをした。
「英典さん」
「僕は一誠だけの僕だ。落ち着いて」
「俺だけの英典さんなのにっ」
「そうだよ、僕は一誠だけの僕だ」
「あいつ、どこのどいつ?」
答えないとどうなるかわからない。正直に答えると煩《わずらわ》しいことになるだろう。英典は一誠との今までのやりとりを考慮した。
「大学時代の知人だ」
「T大の奴?」
「そう……単なる知り合い、一誠の誤解だ」
「誤解って?」
「一誠の思い違い、勘違い」
「こいつ、俺の英典さんを押し倒していた」
「一誠だって宇都宮さんと肩を組んだりするだろう。試合の時、ピッチャーのお尻をみんなで叩いているじゃないか」
「それとこれとは違う」
「それと一緒だよ」
「俺以外の奴が英典さんに触るのいやだっ」
「一誠、中に入ろう。僕を大事にしてくれるんだろう。このままだと僕は恐ろしい病気になる」
「恐ろしい病気?」
「ここは寒い。僕、それでなくても今日は体調が悪くて病院に行ったんだ。検査の結果はまだなんだけど、暖かいところでじっとしていないと駄目だって言われたんだ。このままここにいたら恐ろしい病気になって死んでしまうかもしれない。一誠は僕が死んでもいいの? 僕は一誠みたいに頑丈じゃないんだよ」
「わかった。暖かくしないと駄目なんだね」
一誠は自分が着ていた上着を脱ぐと、コートを羽織っている英典の上に。
「あっ……」
英典は一誠の腕に抱き上げられ、そのまま建物の中に入った。
あんな嘘で騙される。
馬鹿でよかった。
……と、胸を撫で下ろした英典は自分を罵った。
馬鹿だから苦労しているのだ。
大馬鹿だからこんなに困っているんだ。
この獣じみた大馬鹿、どうしたらいいんだろう。
エスカレーターはノンストップで二人だけしか住んでいない十三階へ。
「一誠、下ろして」
「いや」
如月はまだ芝生の上。
どうなっているのか、確認することもできない。
「一誠、こんなところでっ」
一誠は靴を脱ぐと、玄関口で英典を押し倒した。
「英典さんっ」
「痛いっ」
「英典さん、好きっ」
「それは知っているから……痛いっ」
「あ、暖かいところ」
英典は一誠にふたたび抱き上げられる。
大理石の廊下を走っても一誠は転んだりしない。
「一誠、僕は暖かいところでじっとしていないと駄目なんだ」
「英典さんはじっとしているだけでいい」
「一誠?」
「ドアを開けてください」
両手が英典の身体で塞がっているので、さすがの一誠もベッドルームのドアを開けることができない。
英典は手を伸ばして、ドアを開けた。
「よいしょっ」
英典は大きな丸いベッドの上に下ろされた。
「一誠、どうして脱ぐんだ?」
「俺、明日は帰ってこれない」
一誠は凄まじい速さで全裸になると、英典の衣類を脱がしだした。コートが床の上に落とされる。
「そうか、明日の試合のためにもう寝よう」
「やだ」
「一誠、今夜はキスだけだ」
ジャージの上がシーツの波間に、ジャージの下と下着が引き摺り下ろされた。現れた白い肌に一誠の鼻息が荒くなる。
「じっとしてるだけでいい」
「ちょっ……」
「お×んこに俺の入れないから」
胸の突起を口に含まれ、英典は身体をしならせた。もちろん、腰痛で苦しんでいる腰に響く。
「痛っ……」
「英典さん、綺麗」
瞳を潤ませている英典に一誠は見惚《みと》れていた。
「痛い」
「やっぱ、美人すぎる。みんな、押し倒したくなるよ」
「一誠、やめてくれ。僕は暖かいところでじっとしていないと恐い病気になってしまうんだ」
「舐めるぐらいならいいでしょう」
どこからともなく救急車のサイレンが響いてくる。
それはこの近くで止まった。
すぐに、またサイレンが鳴る。
もしかして、如月が救急車で運ばれたのだろうか。
如月のことを考えていられたのもここまで。
一誠の執拗な舌の愛撫に英典は身悶えることに。
「あっ……舐めるなっ」
「入れないから」
白い胸には数えきれないほどのキスマークがべったりとついた。腰も太股も舌が這い回っている。
「もうっ……」
「舐めるだけ」
昨夜、さんざんな目に遭った英典の秘孔は腫れている。だが、一誠の舌の愛撫を歓迎していた。
「あっ……はっ……」
「英典さんのお尻の穴、すっごいです」
男を誘うように開閉を繰り返している秘孔は一誠の唾液で濡れ、いやらしくテラテラと光っている。
一誠が興奮するのも無理はない。
「もっ、舐めるなっ」
「入れないから、いいでしょう。舐めるぐらい」
「駄目だっ」
力むと腰が痛む。
だが、それ以上に秘孔が疼いている。
英典は自分の身体を思いきり罵っていた。
いやがっても感じるなど、ラベンダー・エロスの女主人公と同じではないか。
「じゃ、ちょっとだけ指入れていい?」
「あっ……」
「ちょっとだけ」
一誠はそそくさとベッドの下からオイルの小瓶を取る。そして、自分の指と英典の秘孔に塗り込めた。
熱く疼いている秘孔に冷たい潤滑剤が指と一緒に入ってくる。
英典は下半身をガクガクと痙攣させた。
「ああっ……あっ……」
「これぐらいならいいよね?」
遠慮がちに体内で指が蠢いている。
何か、無性にじれったい。
「やめ…頼むから、やめてくれ……」
「じゃ、やっぱ、舐めるだけ」
「それもやめてくれ」
これ以上舐め回されたら、浅ましいことを口走ってしまいそうだ。それだけは、何があっても避けたい。
「俺、英典さんとえっちなことしないと打てないし」
「偶然だ」
「違う、英典さんとえっちしたからあんなに打てたんだ」
「チャンスになると打順が回ってくるのは運、そこで打つのは実力、と言ったのは君だぞ」
そう言いきった一誠は、たしかにプロでメシを食っている男だった。
「三打席連続は英典さんのおかげです」
「これからは、自分の実力だけでなんとかしなさい」
「俺、英典さんのためにホームランいっぱい打たなきゃ駄目だし」
「もっ……やめてくれ……」
「英典さん、俺の勝利の女神だし」
「僕はただの編集だ」
「じゃ、俺はただの野球選手」
「一誠、もう本当にやめてくれ」
「英典さん、無茶苦茶色っぽい」
「一誠っ」
「明日からまたしばらく会えなくなるし……ちょっとだけ」
「あっ……」
その夜、英典は生き地獄を味わった。
翌日、英典はとうとうドーナツ型の座布団を編集部に持ち込んだ。
椅子の上にドーナツ型の座布団を置く英典を、遅筆作家との攻防戦で疲れ果てた平田は虚ろな目で見つめている。
「僕もそれにしようかな」
「そうですね、座りっぱなしの仕事ですから」
メールをチェックすると、御影瑠璃子から添付ファイル付の長いメールが送られていた。
メール部分、冒頭から飛ばしている。
五行読んだだけで削除したくなってしまった。
だが、読まないわけにはいかないだろう。
英典への熱い思いがつらつらと綴られている。
おまけに、添付ファイルのほうでは、英典を主人公とした官能小説といっても差し支えない文面がどこまでも続いている。
もちろん、尻奴隷と化しているのは八木沢英典。
ご主人さまは御影瑠璃子。
八木沢英典は縛られて喘ぎ、鞭を振るわれて咽《むせ》び泣き、蝋燭を垂らされて悶え、アナルを責められて歓喜の声をあげている。
もちろん、御影瑠璃子のお約束であるグリセリンまでたっぷりと注入されていた。
アナルには巨根だけでなく、ありとあらゆるものが挿入されていた。しまいには、大型犬までアナルを舐める。猿や馬も登場した。
エロなんてものではない。
グロいなんてものでもない。
まさに、エログロ。
いや、これを最後まで読めた人には惜しみない拍手を送ろう。
英典は編集者魂だけで最初から最後まで読んだ。
削除したい。
だが、編集者として削除することを躊躇《ためら》っていた。
八木沢英典なる美貌の男の主人公を絶世の美女に変えたら、立派なラベンダー書院文庫となるのだ。
また、七回あるアナルファックを一度だけ女性器にしてくれたら、ハードな陵辱物として売れるかもしれない。
英典はあれだけの短い時間でこの長い陵辱物語を書き上げた御影瑠璃子を思い浮かべた。
危ない。
どう考えても危なすぎる。
結果、削除。
一応、フロッピーにすべてを保存したけれども。
「八木沢くん、如月さんから電話」
如月はどうなったのだろう、どう出るのか、出方次第では退職かな……と、さんざん悩んでいたが、当の本人から電話が入る。
『八木沢さん、昨夜はすみませんでした』
第一声は如月から謝罪、いつもの真面目なお坊ちゃまに戻ったようだ。
「はい、大丈夫ですか?」
『恐ろしい男にとりつかれているんですね。逃げたら殺されるでしょう。別れる時は周到な準備をしないと』
「は……」
『あの大きい男、ヤクザですか?』
如月満月、野球に興味がないのか、テレビも見ないのか、コマーシャルや週刊誌にさんざん出ている遠藤一誠を知らないらしい。
その狭い趣味を知った英典は愕然とした。
「その…そのですね……」
『立ち入ったことを聞いてすみません。僕、どうかしていたんです。あのヤクザみたいな人にもそう言っておいてください』
「は……」
『僕、とてもじゃないけど、あんな恐ろしい男と張り合えません』
如月は一誠に竦み上がっているようだ。
「は……」
『僕、見合いをすることになりました。父のコネでですが、就職先も見つけました。今までお世話になりました』
「如月さん、それは……」
『すみません、如月満月、すべてを白紙に戻させていただきます。今までありがとうございました』
官能作家としての如月に去られると困る。
英典は編集者として引きとめようとした。
「待ってください」
『八木沢さん、あの恐ろしい大男と別れて僕を幸せにすることはできないでしょう』
英典は即答で返した。
「すみません」
『そうでしょう。僕、八木沢さんが一緒になってくれたらすべてを捨てて、八木沢さんにどこまでもついていきます。八木沢さんがそばにいてくれたら何も恐くない。もちろん、八木沢さんがいやがるようなことはしません。生涯の伴侶として一生大事にします。天が僕の頭上に落ちてきても大地が僕を飲み込もうとしても、八木沢さんがいやなら私生活にSMは持ち込みません』
英典は謝るしかない。
「申し訳ございません」
『こちらこそ、困らせてすまない』
「いえ……」
『僕、実際の色恋は苦手で……』
実は僕もそうなんです……と、言いかけたがやめた。
「は……」
『僕、馬鹿だから、ちょっと優しくされると舞い上がってしまうんだ。いや、エロ作家としてしか求められていないのに誤解してしまった。困らせてごめんなさい。本当に悪かった。僕が馬鹿だった』
僕は本当の馬鹿を知っています。
馬鹿は自分を振り返ったりしません。
馬鹿は冷静になっても過去を的確に分析できません。
如月さん、馬鹿にはなりきれませんね。
英典は懺悔《ざんげ》を繰り返す如月に心の中でそっと呟いた。
「いえ……」
『如月満月もここら辺が潮時です。エロ作家だって家族にバラしたらさんざん泣かれて、母なんか救急車で運ばれることになってしまって。覚悟はしていたけど参りました。これ以上、家族を嘆かせることはできない。落ち着きます』
これ以上、英典は如月に食い下がることができなかった。
それでも、言うべきことは言っておく。
「如月満月、他に類を見ない官能作家でした。如月作品は読者だけでなく僕も楽しみにさせていただいておりました。如月満月は筆を断って生きられる男ではない。必ず、また、彗星のように現れてくださるでしょう。その時はラベンダーで復活してください。お待ちしております」
『ありがとう』
如月満月に締め切りを破られたことは一度もなかった。
今回のことがあるまで、わがままは一切言わなかった。
前借りの申請も一度もなかった。
出せば売れた。
担当編集者としては最高の作家だった。
その如月満月を失ってしまった。
大きい痛手だ。
英典はがっくりと肩を落とす。
すると、昨日と同じネクタイを締めている花崎に肩を叩かれた。
「八木沢くん、とうとうドーナツ?」
何を言うのかと思えばそれか……と、英典は凄絶なフェロモンを垂れ流している色男の顔をまじまじと見つめてしまった。
「何? そんな目で見られると、何かしないといけないような気になってくるんだけど。まさに、魔性の男だね」
「花崎さん、そんな笑えない冗談を言っている場合じゃありません。如月満月、断筆です」
「そう」
ラベンダー書院にとっても如月の断筆は痛い。
それなのに、花崎は飄々《ひょうひょう》としていた。
英典はふたたび花崎の顔を見つめてしまう。
「花崎さん、如月満月に断筆されると困るんですけど」
「如月満月の代わりはいくらでもいる。如月満月にとってかわろうっていう作家も腐るほどいるさ。言い換えれば、如月満月が断筆したら、他の作家が伸し上がってくるかもしれない。如月ファンも新しい作家の作品に手を伸ばすだろうし」
「それはわかっているんですけどね」
「作家は編集の駒、作家は使い捨て、と自分を嘲笑った作家がいたけど、どんな大作家にも代わりがいる。編集者に代わりがいるようにね。会社の歯車になるつもりはない、というサラリーマンのセリフをよく見かけるけども、わかっていない。本当に歯車がなくなったらその機械は動かない。だが、サラリーマンが一人ぐらいいなくなったって、会社はちゃんと動く。それと一緒だ。気にすることはないさ」
花崎は先輩として慰めているつもりなのか、英典は苦笑を漏らしながらこれからのことを口にした。
「再来月のラインナップ、新シリーズのラインナップ、どうしましょう?」
「如月満月に代わる奴を探そう。いなければ育てればいい」
「はい……」
「それより、ドーナツ四人目」
花崎の指の先は英典の腰……ではなく、ドーナツ型の座布団があった。
「は? ああ、座りっぱなしの仕事ですから」
「仕事じゃなくて、私生活のほうでドーナツが必要になったんじゃないの?」
「仕事です。座りっぱなしの仕事ですから、この座布団のほうがいいのかと。先輩方を見習いました」
貴志、花崎、緒方、この三人は英典が入社する前からドーナツ型座布団を使用している。
「君もドーナツ、僕もドーナツ、彼もドーナツ、ラベンダー書院書籍編集部に広がるドーナツの輪、ドーナツ書院編集部と改名しようか」
花崎は歌うようにとんでもないセリフを言った。
「反対します」
「ドーナツ書院、いい名前だと思わないか?」
「思いません」
「なら、新創刊、ドーナツ・シリーズにしないか?」
「やめましょう」
英典が首を大きく振った時、これ以上ないというぐらい哀愁を漂わせている貴志が編集部に入ってきた。
挨拶もそこそこ、社員が集められる。
「緒方くんが入院しました」
「……え?」
「昨日の夜、緒方くんと一緒に喫茶店で食事を取ったんです。その喫茶店の椅子は古かったらしく、壊れてしまってね。緒方くんは頭を強く打ってしまったんだ。場所が場所だけに病院に行ったんだけど」
喫茶店の椅子は緒方の重さに耐えられなかったらしい。
ここは笑うところではないだろう。
だが、編集部は爆笑の渦に巻き込まれた。
「笑うところではありません」
背後に枯れ葉が舞っている貴志に、英典は眉を顰《しか》めながら尋ねた。
「それで、異常が?」
「脳波に異常はなかったんですが糖尿病が……」
成人病世代の貴志が、若い緒方の高血圧・高脂血症・高コレステロールについて切々と語った。
糖尿病はひどくなると目にくるという。
笑える病気ではない。
「太りすぎだ」
花崎の言葉の後に鈴木が続いた。
「食べすぎです。緒方は毎日、大食らい選手権に出場中の選手より食べていました」
「そういうわけです。緒方くんがいない分、がんばってください」
貴志の締めくくりの言葉に、編集部の面々は顔色を変えた。
「よりによって、こんな時に」
「何か悪いことが重なりますね」
「運気を変えるため、名前を変えたほうがいいかもしれない」
花崎の言葉を聞いた英典の頭にドーナツが浮かんだ。
「ラベンダー書院からドーナツ書院に改名するのはどうでしょう」
「ボツ」
当然ながら、貴志は花崎の提案を却下する。
「ドーナツ一号が何を言っているんですか。マジにうちの運気が下がっているような気がします」
「ドーナツ二号、大丈夫です。来月発行の作品ではいろいろとありましたが、再来月は問題ないでしょう。作家陣が揃っています」
「編集長、ドーナツ四号から報告を受けてください」
花崎に背中を押されたドーナツ四号こと英典は、英国紳士然とした貴志の前に立った。
如月満月に逃げられました……と、英典は告げるのが辛い。だが、告げないわけにはいかない。
「如月満月が断筆宣言……」
貴志は弱い心臓を押さえている。
英典は頭を下げるしかなかった。
「如月満月のことです。また、書きたくなると思うのですが」
「そうですね」
「はい」
貴志は如月満月についてそれ以上何も言わなかった。
だが、大神ジャガースの大勝利が大見出しになっているスポーツ新聞に目を通した後、英典は聞きたくなかった名前を貴志から聞くことになる。
「東京シャークの遠藤一誠、三打席連続ホームランだって」
ブースで仕切られた編集長の席、他の面々は二人の会話を聞くことはできないだろう。
「そうですか」
「大神ジャガースも遠藤一誠を欲しがったんだけどね」
「そうですか」
嫌味なのか、世間話のようなものなのか、優しい笑みを浮かべている貴志からは感情が読めない。
とりあえず、下手なことは言えまい。
英典は神経を張り詰めさせていた。
「彼、弟みたいな子だったよね」
「家が隣同士なのです」
「遠藤一誠がわざわざ君を訪ねてここに来るなんて驚いてしまった」
「すみません。前にも言ったと思いますが、食事をする約束をしていたのです。あの子、馬鹿だから、時間を間違えていたようです。僕が遅れたので焦ったみたいで」
「そうなのか」
「はい……」
「遠藤一誠、ここがどういうところかちゃんとわかっているのかな」
貴志が誰に甘くなるかということを考えた。
ラベンダー書院の編集長、やはり読者には甘くなる。
英典は軽く笑いながら一誠を語った。
「あの子、うちの愛読者です。いろいろと読んでいますよ」
「あの子の頭でルビを振っていないうちの小説が読めるわけがない」
それは英典のほうが聞きたいくらいだ。
じっとしていることすらできない一誠はおたけびをあげながら、ラベンダー・エロスを読んでいる。
その中から情報を仕入れられ、さんざんな目に遭うのは英典だ。
言葉責めのオンパレードもひどい。
「それが読むんです」
「どうやって理解するのですか?」
「さぁ……でも、とりあえず、読んでいます」
「遠藤一誠、うちの本を読んでいる場合じゃないと思うけどね。何せ、今年の大神ジャガースはどこか違うから」
英国紳士が大神ジャガースファンの顔を見せた。
ここは賛成するところだろう。
「そうですね」
「今年の大神ジャガースは十八年前の大神ジャガースを彷彿《ほうふつ》とさせる勢いがある。もしかしたら、もしかすると、あるかもしれない」
貴志は心臓を押さえながら力説している。
呼吸器の用意をしたほうがいいのかもしれない。
「そうですね」
「十八年前のバックスクリーン三連発を知っていますか?」
「知りません」
「ああ、十八年前、君はまだ幼かったね」
貴志は大神ジャガースファンの間で伝説として語り継がれている日のことを、しみじみと語った。
「今年はどこか違うと思う」
「そうですね」
「ずっと待ち続けていたんだ」
「そうですね」
「十八年、長かった」
「そうですね」
「今年は東京シャークに一泡吹かせてやれそうだ」
「そうですね」
思わず、大神ジャガースの快進撃を祈ってしまった英典であった。
「君、東京シャークファンなんでしょう」
「いいえ、僕と僕の家族が応援しているのは遠藤一誠だけです」
「いいよ、隠さなくても」
「いえ……」
「これからが楽しみですね。大神ジャガースと東京シャーク、伝統の一戦です」
貴志の顔色が悪くなってきた。
これ以上、大神ジャガースについて語るのは心臓に悪いだろう。
「編集長、あまり興奮しないほうがいいですよ。これで編集長まで倒れたら、ラベンダー書院は本当にドーナツ書院に改名されてしまいます」
「花崎くんならやるだろうね」
「はい」
「ブラックジョークの男だから」
「そうですね」
「君もとうとうドーナツか」
「は……」
「遠藤一誠に御影瑠璃子、君もいろいろと大変だね」
何もかも知っているぞ……というような貴志に、英典は言葉を失ってしまった。
「やっぱり、如月満月もそうなの?」
肯定しなければそれで済むだろう。
英典は銀縁のメガネに手を添えながら平然と返した。
「何を仰っているのかわかりません」
「まぁ、二度と遠藤一誠に暴れられないようにしなさい。僕でなかったら、昨日のスポーツ新聞の第一面は遠藤一誠のホモ疑惑です」
「…………」
「自分からペラペラ喋りましたからね」
あの馬鹿、何を喋ったんだ……と、英典は怒りでどうにかなりそうだった。
そんな英典を見た貴志が酸素呼吸器を収めている引き出しに手をかけた。
「八木沢くん、呼吸器を貸そうか?」
「結構です」
「まぁ、がんばってください」
何に対してエールを送られているのかわからないが、返事をしないわけにもいかない。
「はい……」
あの馬鹿、いや馬鹿なんてものじゃない、あの巨大動物、いっそのこと人間の言葉を喋らない動物だったらよかったのに、そうしたら散歩だけで済むのに、餌代ぐらい稼いでやるのに……英典は痛む腰を手で押さえながら、日本国籍を持つ成人男性を思いきり罵っていた。
おそらく、一誠は英典に罵られているなど夢にも思っていないだろう。
そういう男だ。
そういう男だからこそ、嫌えないのかもしれない。
放っておけないというのだろうか。
やはり、可愛い。
誰かに食いつぶされないように守ってやらないといけないと思ってしまう。
今まで、このような感情を抱いた者はいなかった。
一誠が初めて。
一誠が最後になるかもしれない。
「魔性の男、御影瑠璃子から電話〜。留守にしとこうか?」
花崎から電話を回されるが、睨《にら》むことを忘れなかった。
変人にもオカマにも怯《おび》えることもない。
英典もラベンダーの男だから。
fin.